内村鑑三全集11、岩波書店、558頁、4500円、1981.4.24
 
目次
凡例
1903年(明治36年)
『如何にして基督信者たるを得ん乎』〔角筈パムフレット第一〕〔表紙〕…… 3
新年の新計画………………………………4
新年と新希望 他…………………………6
新年と新希望
我の富
勝利の生涯
神力の試験
無理の要求
完全の解
余と余の救主
偽はりの教師
無益の悲歎
離れ難き刺…………………………………11
新年の感……………………………………12
基督教的政治 他…………………………13
基督教的政治
福音宣伝の方法
余の社会改善策
日本国の最大要求物
基督と社会改良
神の裁判
労役後の感謝…………………………………17
約拿書講議……………………………………19
基督教と世界歴史……………………………35
革命の希望 他………………………………45
革命の希望
勇気と責任
慰藉と奨励
我儕の事業
大なる事業
天人の生涯
敵を愛するの結果
王公の態度
失望と希望(日本国の先途)………………49
善を為すの途 他……………………………60
善を為すの途
順逆の二途
神と悪魔
人の道と神の道
勇進
救拯の水
苦業と快事
忿怒と久耐
聖徒の完全
絶対的満足
神聖なる午後七時
聖書を学べよ
我の要求
大悪人
宥恕
信、不信の判別
信仰の意義……………………………………66
哥羅西書第一章―第三章……………………68
評判的基督教………………………………128
自由伝道と自由政治………………………131
無勢力の効力 他…………………………141
無勢力の効力
三位の神
我を憎む者
聖旨に近き生涯
我の忠孝
絶対的従順
交際の苦痛
恥辱の源因
弁と文
我の政治
我の改革法
事の先後
基督信徒相会する時………………………146
日本国の大困難……………………………147
『基督教は何である乎』〔角筈パムフレット第二〕〔表紙〕……157
原稿日 他…………………………………158
原稿日
奨励の声
永久の勝利者
成功の秘訣
万事の要求
過慮の愚
唯一の事業
悪魔の特性
廉価なる同情
神聖なる同情………………………………161
聖詩訳解……………………………………162
序文
鹿の渓水を慕ひ喘ぐが如く
ダビデの弓の歌
『我れ山に向ひて目を挙ぐ』
『ヱホバは我が光なり』
『諸の天は神の栄光を顕はし』
善悪の差別
モーゼの祈祷
『ヱホバを讃めまつれ』
基督教と社会主義…………………………193
家庭雑誌の発刊を祝して…………………199
信仰の鼎足 他……………………………201
信仰の鼎足
愛の利殖
愛の行為
無用の批評
最大の異端
我の欣び
有利なる取引
無益の文学
余の好む花…………………………………204
宗教の必要…………………………………208
聖書其物 他………………………………218
聖書其物
犬を慎めよ
直進
弁解の無効
浅薄の確証
公然の秘密
不信者
洗礼の迷信
一致の困難
家庭の建設…………………………………222
家庭の意義
労働の快楽
高尚なる目的
自由の承認
三条の金線(聖書の特質)………………231
花を見て感あり 他………………………241
花を見て感あり
キリストと武士
殖財の福音
神の事業
我の大敵
『気焔』
我の大希望
歓楽の極
招待
キリストと愛国心
寛容の模範(博士F、W、フハラー氏の信仰)
青年に告ぐ…………………………………246
晩春の黙考 他……………………………253
晩春の黙考
日本国の将来
教会と聖書
悲むべき実験
幸福の泉
損失と利得
思想の軽蔑
純伝道の必要………………………………257
饑饉の福音…………………………………259
誌上の夏期講談会開設に就て読者諸君に告ぐる所あり……267
薄信の表白 他……………………………270
我が拯救の希望
信仰の綱
信仰の書
最大の能力
至大の恩賜
天国の一瞥
正義実行の信仰
宗教と道徳と経済
天国の法律
利益なる取引
事実の福音(旧約書以士帖書)…………275
教役者の無情………………………………284
余の人生観…………………………………286
富と徳………………………………………287
戦争廃止論…………………………………296
余の見たる信州人…………………………298
人生問題解釈の方法………………………300
神は愛なり 他……………………………302
神は愛なり
我を識る者
敵を愛する理由
最大の賜物
完全なる宗教
絶対的宗教
我儕の問題
三年前の今日………………………………305
基督教問答 キリストの神性……………308
祈祷の精神と其目的物……………………338
社会は如何にして改良さるべき者なる乎……345
不敬事件と教科書事件……………………347
道徳と其種類………………………………349
文部省が不用となりし理由………………352
クリスチヤンたる事 他…………………354
クリスチヤンたる事
伝道師たること
クリスチヤンたるの確証
真個の理想
余の休息
休養の目的
神恩
斯世に於ける我儕
余の感謝と祈祷……………………………358
大工の子イエスキリスト…………………360
奮起を促がす………………………………366
見聞二三……………………………………369
最善と最悪…………………………………371
露国と日本…………………………………372
宗教時代の到来に就て……………………374
満州問題解決の精神………………………379
平和の実益…………………………………381
豊年と平和…………………………………383
“Where is my God?” …………………384
“Carlyle Chronology”……………………386
無辺の愛 他………………………………389
無辺の愛
我が救済の希望
キリストの奇跡力
神の教育法
天国の希望
裁判の神
恩恵と困難
幸福なる老境
祈祷の決心
不公平と来世の希望
神の「ことば」……………………………395
聖書と独立…………………………………397
雑誌発行の面倒……………………………403
平和の福音(絶対的非戦主義)…………404
救済以外の救済……………………………410
口と筆………………………………………417
近時雑感……………………………………419
平和主義の動機
君子国の外交
衝突の真義
平和と真勇
平和的勇気
平和主義者の対外策
危険の伏在
災害の種
殺す者は殺さる
容易なる開戦論
平和協会の設立を望む
平和主義の偉人
戦争の人
「義戦」の迷信
余の理想の国
正反対の人生観
露国兵卒の述懐
余をして若し外務大臣たらしめば
謹んで敬友黒岩涙香君に白す……………429
退社に際し涙香兄に贈りし覚書…………431
『国家禁酒論』〔角筈パムフレット第三〕〔序文のみ本巻収録〕……432
緒言
信仰と境遇 他……………………………434
信仰と境遇
斯世に王たるの途
福音の真髄
我の大野心
嗚呼神の愛!
教会と信仰
アルフハ(始)とオメガ(終)
一致の縄索
余の救ひ
来世は有耶無耶……………………………438
『小供の聖書』〔角筈パムフレット第四〕〔序文のみ収録〕……460
はしがき
風雲急なり 他……………………………462
風雲急なり
天国は近づけり
雷霆の声
戦争の意義
戦争の止む時
戦争を好む理由
余の求むるもの
最も幸福なる時
神の子たるの特徴
読書の目的
キリストの勝利
預言者哈巴谷の声…………………………467
永遠の刑罰と永生…………………………486
余の愛する秋の花…………………………492
信仰と健康…………………………………497
罪界の時事…………………………………505
聖誕節 他…………………………………507
聖誕節
ベツレヘムの夕
槽中の嬰児8
嬰児を護れよ
乱中の静謐
悲痛と歓喜
我の新宇宙
独立とキリスト
神の存在の確証
クリスマス述懐……………………………512
『基督教講演集 第一集』〔序文のみ本巻収録〕……518
はしがき
別篇
付言…………………………………………521
社告・通知…………………………………528
 
 
(3)     『如何にして基督信者たるを得ん乎』〔角筈パムフレット第一〕
                       明治36年1月1日
                       単行本
                       署名 内村鑑三 述
 
 第五版表紙 143×106mm
 
〔目次〕(本全集収録巻を示す〕
 如何にして基督信者たるを得ん乎……………9巻  附録 
 怕ろしい世の中……………8巻
 
(4)     新年の新計画
                      明治36年1月14日
                      『万朝報』
                      署名 内村鑑三
 
 日本国の腐敗は益す甚だしからんとす、余も其市民の一人として之を救済するの大なる責任を有す。
 依て余は今より更らに熱心に余の宗教なる耶蘇教の伝播に従事せんと欲す、そは余に取て、之に優るの有効なる事業あるなく、亦余の見る所を以てすれば日本人が目下要求するものにして、之よりも切なるものなしと信ずればなり。 耶蘇坊主の名は此国民の最も卑む所のものなり、然れども余は今より更らに甘んじて此汚名を受けんと欲す、而かも余は日本人に嫌はるゝも、余の年来の主義に則り、外国宣教師や教会なる者よりは一銭一厘の補助をも受けざらんと欲す、余は余を嫌ふ日本人をして余の耶蘇教のために余を養はしめんと欲す、而して余は信じて疑はず、日本人は其嫌ふ所の耶蘇坊主たる余をして餓死するに至らしめざることを。
 事情斯の如きが故に余は従来の如く屡ば朝報の紙面に於て其読者諸君と相見ることを得ざるべし、然れども余は依然として朝報社の客員たり、且友人たり、故に社会の腐敗今日よりも更らに甚だしきに至り、純坊主たる余さへも俗事のために喙を容れざるを得ざる場合に於ては余が社会に向て語る時の唯一の機関は余の敬愛する此万朝報なり、余は今後と雖も朝報社の門の出入を廃せず、唯だ今より更に一層坊主臭くならんと欲するが故に本(5)紙の読者とは稍疎遠となるやも計られず、謹で紙上の友人に告ぐ。
 
(6)     〔新年と新希望 他〕
                     明治36年1月15日
                     『聖書之研究』31号「所感」
                     署名なし
 
    新年と新希望
 
 新年と共に新希望を得よ、而うして新希望は之を基督教の聖書に於て得よ、是れ空漠無きに等しき希望に非ず、是れ過去二千年間文明人種を慰め来りし希望なり、旧き聖書に歳と共に益々新たなる真理存す、之を信じて人は悠久に青春の志を懐くを得るなり。
 
    我の富
 
 金と銀とは我に有るなし、然れども我は貧しき者に非ず。
 我は第一にヱホバの神を有す、我は昼となく夜となく彼に就て思ふ、彼の我を責むるあり、彼の我を宥むるあり、彼の我を教ふるあり、彼の我を鞭つあり、我は寸刻も彼と離れず、善を為す時も、愆て罪を犯す時も、学ぶ時も、教ふる時も、彼は我と偕にあり、我も亦彼を慕ふなり。
 我は第二に我が救主として、兄弟として、同情者として、友人としてイヱスキリストを有す、彼は見えざる神(7)の形像《かたち》にして、人類の理想の事實となりて顕はれし者なり、彼を識ることは人生を識ることなり、歴史は彼に於て中心し、人生の意義は彼に依て解せらる、イエスを識れるは最大智識を得しことなり、彼を友とし持て無意味なる日とては一日もなきなり、山なす富を以てするもイヱスが我等の心に供する寸時の快楽をも得る能はず。
 我は第三に聖書を有す、是れ亦た知識の無尽蔵なり、我れ艱める時には四福音書と黙示録とを読むなり、我れ喜ぶ時には雅歌を読むなり、国難に際する時にはイザヤ、ヱレミヤ等の予言書を読むなり、信仰の衰へし時には、保羅の書翰を読むなり、心静かなる時にはヨブの書を読むで人生哲学を稽へ、箴言を読んで処世の術を探るなり、怒る時も、泣く時も、喜ぶ時も、悲む時も我は此書に行くなり、我は此書を有たざる人を甚だ憐れむなり。
 我は第四に我天職と信ずる一つの事業を有す、是れ神が特別に我に与へ給ひし事業にして他の人が之を真似んと欲するも得ず、又我に代て之を為さんと欲するも得ざるなり、我が特殊の事業なるが故に之に世の所謂る競争なるものゝ附随するあるなし、我は之に拠て天下に闊歩し、或る特別の目的を以て此世に生存す、人の最大発見物は彼の天職なり、之を知らずして彼の生涯は無意味なり、我は幸にして之を発見したりと信ず(神の恩恵に依て) 故に我は非常に喜び、総ての苦痛を忘れて之に従事するなり、人は労働は苦労なりと云へども、我に取ては労働は快楽の長なり 我は金銭の報酬なくとも之に従事するを得るなり、我が今世に於ける最大の快楽は我が日毎の労働なり。
 我は第五に多くの善き友人を有す、彼等は利益の友に非ず、学問の友に非ず、亦た必しも主義の友に非ず、彼等は信仰の友にして神と救主と希望と艱難と歓喜とを偕にする者なり、我に若し我が属する教会ありと言はんには人或は我が誠実を疑ふものあらん、然れども無教会主義を執る我にも亦大なる教会あるなり、其会員としては(8)アウガスチンあり、ダンテあり、ルーテルあり、コロムウエルあり、是れ実に聖徒の交際にして基督の唯一の教会なり、我は独り此世に在て戦ふに非ず、我は五大洲に跨がるキリストの教会の一員として戦ふなり、我の真正の兄弟姉妹は我が声を知る、我も亦彼等の声を知る、而してキリストの愛の律法の外に何の信条も紀律も我等を縛るなく、我等は唯心霊の奥殿に於てキリストに在て互に相愛するなり、孤独なるが如くに見える我は天空の星よりも数多くの友人を有す、此他更らに神を信ずる家庭あるなり、饑餓を充たすに足るの糧あるなり、而して総てを冠するに永生の希望あるなり、我は実に「王の子」なり、世の富者にして我に勝るの富者あらんや。
 
    勝利の生涯
 
 患難を避けんとする勿れ、之に勝たんとせよ、独り自から之に勝たんとする勿れ、神に縁て勝たんとせよ、神が患難を下し給ふは我等に由て其能力と恩恵とを顕はさんためなり。
 
    神力の試験
 
 「憂き事の尚ほ此上に積れかし、窮りある身の力試めさん」とは山中鹿之助の歌なり、「憂き事の尚ほ此上に積れかし、窮りなき神の力試めさん」とは基督信徒の歌ならざるべからず、我儕終日爾の為に死に付《わた》され、屠られんとする羊の如くせらるゝ也、然れども我儕は我儕を愛《いつくし》める者に頼り総て此等の事に勝得て余りあり(羅馬書八章三六、三七節)とは基督信徒の実験なり。
 
(9)    無理の要求
 
 神とキリストとを知らざる者より愛と善との多量を要求するは貧者より金を要求するが如し、彼等は之を有せざるなり、故に之を与へ得ざるなり、彼等に迫て之を要求するは彼等に関する我等の無識に因る、我等は宜しく彼等にキリストに顕はれたる神を示し、然る後に彼等よりキリストの愛を要求すべきなり。
 
    完全の解
 
 我等を憎む者に善を為すを得て我等は始めて完全なる者の何たるかを知るなり、我等が歓んで此事を為し得るに至るまでは我等は未だ父なる神を知り得たりと言ふべからざるなり、世に我等を憎み、罵り、妬む者あるは我等が彼等に由て完全き者とならんがためなり、我等は彼等を厭ふて此完全に達するの好櫻を逸すべからざるなり。(馬太伝五章四十三節以下)。
 
    余と余の救主
 
 余は何んでも無い者である、然し余の内に寓り給ふキリストは万全の君である、故に人が余を憎む時には余を憎むのであつて、余の救主を憎むのではない、亦た余を愛する時には余の内に寓り給ふ余の救主を愛するのであつて、余を愛するのではない、彼は必ず盛んになり我は必ず衰ふべし(約翰伝三章三節) 彼が全く栄盛《さか》へて、我が全く衰死する時に、我は少しも憎まるゝことなくして全く愛せらるゝ者と成るのであらふと思ふ。
 
(10)    偽はりの教師
 
 偽はりの予言者とは浅く民の傷を医し、平康《やす》からざるに平康《やすし》、平康と言ふ者である、(耶利米亜記六章十四節)、偽はりの伝道師とは人に悔改の苦痛を供せずして善美ならざる性来《うまれつき》の彼等に向つて善美、善美と言ふ者である、聖書の明瞭なる教指《おしへ》に従へば性来のまゝなる人は天国に入ることは出来ない、(哥林多前書十五章五十節)再生の苦悶を経ざるも基督信徒たり得べしと教ふる者は偽はりの基督教を教ふる者である。
 
    無益の悲歎
 
 意志が薄弱なればとて欺く人が多くある、然し人は何人に限らず意志の薄弱なる者である、意志の堅固不抜なる者は神のみである、爾うして人は何人も神の意志を以て己が意志となすことが出来る、我が意志を棄て全く神に依り頼まば、我等は先づ弱き者となりて然る後に非常に強き者となることが出来る、此秘訣を知らずして、只徒らに意志の薄弱を歎く者は無理を己に要求して其成らざるを見て悲む者である。
 
(11)     離れ難き刺
                      明治36年1月15日
                      『聖書之研究』31号「家庭」                          署名なし
 
 神が我に賜ひし黙示の多きに過ぎて我が誇ること無からんために神は一つの刺を我が肉体に与へ給ふ、即ち我が誇ること無からんために我を撃つためのサタンの使者を予へ給ふ、我はその我より取除かれんことを三次《みたび》主に求《ねが》へり、其時彼れ我に言ひ給へり、我が恩恵汝に足る、そは我が強は弱に於て全ふせらるべければなりと、此故に我は最も欣んで我が懦弱《よわき》に誇らんとす、是れキリストの能力我に寓らんためなり、此故に我はキリストの為に懦弱と凌辱《はづかしめ》と空乏《ともしき》と迫害《せめ》と患難《なやみ》とを楽《たのしみ》とす、蓋は我れ弱き時に強ければ也。(哥林多後書十二章七節−十節鮮訳)
 
(12)     新年の感
                       明治36年1月25日
                       『警世』49号
                       著名 内村鑑三
 
 政治家をして競争せしめよ、犬をして噛合はしめよ、犬と政治家とが相互を噛殺して後に好き時は来るなり。余輩は彼等の競争の益々激しからんことを望む者也。
 
(13)     〔基督教的政治 他〕
                      明治36年1月25日
                      『聖書之研究』32号「所感」                          署名なし
 
    基督教的政治
 
 政界は逐鹿場裡に非ず、是れ同胞のために善を為すための所なり、汝基督を信じて政治に従事する者よ、此機を利用して汝の造主の栄光を顕はせよ。
       *     *     *     *
 基督教的政治は平民的政治なり、基督は平民なりし、故に平民に忠実なるは基督に忠実なるなり、基督を信ずると称して王にのみ忠実にして平民に不忠なるは褻涜なり、偽善なり、余輩は貴族的基督信徒なる者の存在を信ずる能はず。
       *     *     *     *
 公義を水の如くに、正義を尽きざる河の如くに流れしめよ(亜磨士書五章二四節) 正義をもて貧しき者を鞫き公平をもて国の中の卑しき者のために断定をなすべし(以賽亜書十一章四節) 王の栄えは民の多きにあり、牧伯の衰敗は民を失ふにあり(箴言第十四章二八節) 基督教の政治は総て民のためなり、貧者のためなり、卑人のた(14)めなり、聖書は政治を以て一大慈善事業と見做すなり。
       *     *     *     *
 シヤーレマンの政治も、仏国のカール第十一世の政治も、コロムウエルの政治も、リンコルンの政治も、世に基督教的政治と称せられしものは皆な、貧しき者、圧せられし者、社会最下層の者のための政治なりし、貴族のためにする政治は神の聖意に通はざる政治にして、亦貴族其物のための政治にもあらざるなり。
 
    福音宣伝の方法
 
 福音を説けよ、神学を説く勿れ、聖書を伝へよ、聖書論を伝ふる勿れ、基督と予言者と使徒とをして成るべく多く語らしめよ、我等をして多く語らしむる勿れ、成るべく丈け多く聖書の言其儘を伝へよ、然らば聖霊は聖霊に由て伝へられし聖書の言を用ひて罪に沈める多くの霊魂を救ひ給ふべし。
 
    余の社会改善策
 
 国家は腐敗せり、然れども余の力の微弱なる、余は余自身さへも救ふ能はず、況して国家をや、故に余は全能の神をして余と国家とを救はしめんと欲す 而うして余は神の言を伝へて此大事業を就さんと欲す、博士デリツチ曰く神の言は其性質と経歴とに於て正義を此世に行ふための神の使者なりと、而うして余は神の使者なる福音を世に送て余が望んで止まざる罪悪洗浄の大業を遂げんと欲す。
 
(15)    日本国の最大要求物
 
 鉄道を作れよ、然らば鉄道は国家を作らんとは十九世紀の中頃に於ける英国人の標語なりし、基督の福音を説けよ、然らば福音は国家を作らんとは二十世紀の今日吾人日本人の標語ならざるべからず、日本今日の最大要求物は実に純粋なる基督の福音なり。
 
    基督と社会改良
 
 余に基督を説かずして基督教的社会改良策を説けと要求する者あり、然れども斯かる人は余に無理を要求するなり、基督を離れて基督教的政治あるなし、基督教的社会改良策あるなし、然り、基督を説くことが基督教的政治なり、基督教的社会改良策なり、余は彼等の要求に応ぜんが為に彼等の要求せざる基督其人を説かんと欲す。
       ――――――――――
 
    神の裁判
 
〇誰が善人であつて誰が悪人であるかは神のみが知り給ふ所であつて、人の知る所ではない、人が視て以て善人となす所の者は神の目の前には多くの場合に於ては悪人である、故に我等は此世に在る間は決して人の善悪を判断してはならない(羅馬書十四章四節)。
〇聖書に神が人を義とし給ふといふ事がある(以賽書四十五章二十五節) 是には種々《いろ/\》の意味があるが、其一つは(16)確に神が此世に於ても終には善人を善人として顕はし給ふとの縡《こと》であるに相違ない、神は善人に悪人の死を賜ふ事はあるが、然し永久に善人に悪人の名を附けては置き給はない、神は終には善人の業を昌へしめ給ひて世をして終に善人を善人として認むるに至らしめ給ふ、故に我等は自から進んで己れを義とせんと努むべきではない、神は事実的に、又歴史的に義人を義とし給ふべければ、我等は謹んで神の命を守り、神が我等を義とし給ふの時を俟つべきである(詩篇第三十七篇七節)。
〇神は事実を以て我等を鞫き給ふ、彼は世の批評家の如くに言を以て我等の善悪を判断し給はない、人の言は「事の端《はし》」である、事実《こと》其ものではない、神の言のみが真理である、事実である、(約翰伝十七章十七節)神の言のみが事実となりて世に顕はるゝものであるから、我等が神の言を信じ之を行ひさへすれば神は終に事実を以て我等を義とし給ふに相違ない(馬太伝十二章三十三節)
 
(17)     労役後の感謝
                     明治36年1月25日
                     『聖書之研究』32号「所感」
                     署名 角筈生
 
〇最も苦しい事は書を作ることで、即ち思想を出すことである、之に反して最も楽しい事は書を読むことであつて、即ち思想を得ることである、然しながら此苦しみがあつて此楽みがあるのであるから、我は忍んで此苦しい業に当るのである。
〇我の此世に於ける極楽とは我れが神の業と信ずる事を終て後に来る、我は其時神が我に語り給ふを聞く、「あゝ善且つ忠なる僕よ、爾の主人の歓楽《よろこび》に入れよ」と(馬太伝廿五章廿三節) 其時新たに自由が我に与へられしやうな感があつて、野も小川も声を揚げて我を歓迎するやうに思はれる、斯る歓楽が毎月数回我に来る、我は神が我に下し給ふ賞賛の言葉を以て我の此世に於ける総ての艱苦を忘れる。
〇艱苦に蒔いて歓楽に穫《か》る、神に在て働いて収穫は播種に数十百倍する、我等の収穫《かりい》るゝものは人の霊魂である、感謝の心である、我等の名を口にして死に就て呉れる者がある、我等が教へし子供の改心を見て心を改むる親がある、夫は酒を廃める、妻は悦ぶ、其飼ふ所の犬と猫までが神の祝福に与かる、労働は凡て快楽のものであるが、神の福音を説く労働に優る快楽はない。
〇然し収穫の総額は此世で分かるものではない、我れ此世に於ける我が業を終へて聖国《みくに》に入るとき我を迎へに来(18)る者は詩人の想像に画かれし理想美人にあらずして、神が我を使役して救ひ給ひし人の霊魂であると思へば、我の歓喜は実に口にも筆にも述べ尽されぬ程である、噫、其時の嬉しさは如何許りであらふぞ、我に由りて救はれし霊魂とよ、我は此世に在ては最も微さき者、富なく位なく、塵埃《ちりあくた》に等しき者ではあるが、未だ見ぬ国に入る時には其処に我が語りし言葉に依て救はれし人を見るを得るとは、噫、我の特権も亦大なるものではない乎、斯る富の蓄積を為しつゝある我なれば少しの苦痛は決して厭ふべきではない、我は感謝して、然り感謝して、感謝して、感謝して我が日毎の業に従事すべきである。
 
(19)     約拿書講義
                  明治36年1月25日・2月10・25日
                  『聖書之研究』32・33・34号「註解」                 
    (上)(一月十一日分)
 
     毎日曜日に開かるゝ角筈聖書研究会に於ける内村主筆の聖書講義を本誌上に紹介するは有益にして読者諸君の熱望せらるゝ所なりと信ずるが故に、予は予の不文を眷みずして之が筆録の任に該れり、先づ其子始として本年劈頭に読まれたる旧約の約拿事より掲載しかゝらんとす。K.K.
 
 約拿書に就いては種々様々の異説がある、本書は或真理を示す為の喩話だと云ふものもあれば、また実際の歴史を書いた者だといふて居る者もある。仮りに後説に従うて見ると第一ヱホバが魚を使ふたといふ事が分明らぬ、此魚は鯨であつたらうとの説が有るが、併し鯨の咽喉は身躰に比べては極|細小《ちいさ》いもので、鰛や烏賊などは嚥むが生き乍ら人間を嚥む事は出来ない。咽喉を通つたとしても三日三夜|消化《こな》れずに腹の中にあつたといふのは可笑しいではないかといふ反問があるので、或人はこれを一種の鮫――鯨程の大きさで長さ一丈八尺許りもあるアブラ鮫のことだらうと説明を附けて居る。併し此魚は我が北海にも稀れに流れて来る極寒産の魚であるから、あの温かな地中海に泳いで居た筈がない。たとへ鮫の魚が約拿を嚥下したにしても三日三夜の説明は相変らず危ないに(20)決定つて居る。
 次にはニネベ市に就いての議論が喧しい、此市のことを書いたものは聖書以外にも種々あるが、それには約拿書《これ》に載つて居る様な譚は少しもない、所で約拿書は真実の談話を記したものでは有るまいといふ否定的の断案が下つてくる。
 所が一方には之は奇蹟だ、神の御業だから虚誕《つくりばなし》とは云はれぬ、殊にキリストが吾れは約拿が三日三夜魚の腹の中に在つた様に三日三夜墓の中に居るといはれた一言を見ると愈々益々この記事の真実なことが分明ると主張する一派もある。(馬太伝十二章を見よ)
 真実の出来事であつたか、或は全然の虚作であるか。真実であり得るとも云へれば、比喩談だと考察することも出来る様である。併し赤裸々に事実其儘を表白するを好んで小説稗史には縁の遠い猶太人が唯だ文学的に比喩談を書いたといふ事はいかにも受取り難い推論ではあるまいか。小説といへば直ぐに虚偽の書物と判じ去つたカーライルに小説戯作は書かれなかつたと同様、聖書記者の一人がこんな小説的作物をものしたといふ縡は頗る疑はしいから予は寧ろ事実として此書の内容を承認しておかうと思ふ。かくすれば約拿の話より出で来たる教訓其ものをも容易に取入れ得ると同時に純文学には重きを措かなかつた猶太人に就ての説明や、上に挙げたキリストの言とも衝突せずに済む事になる。但し約拿を嚥んだ魚に関する答弁は矢張りつくまいとの詰問は後日の説明を俟つとするも、敢て遅くはあるまい。元来聖書は約拿書にかいてある以上の大奇蹟を説くものであるから、独りこれのみを取りあげて喧しく論ふには当るまいと思ふ。
 偖てこれから本文に入つて少々語句の説明をする、二節の邑《まち《〇》》とは村ではない都会である、ニネベは不信仰の民(21)の住した世界の都であつた。タルシシは地中海の西端にある。地中海の東端なる猶太人が其西端に逃げんと為たのであるから、いはゞ日本人が亜米利加や壕太刺利亜辺へ走つたと同様である。〇『船夫恐れて各おのれの神をよび云々』(五節)『汝なんぞかく酣睡《うまい》するや、起て汝の神を呼べ云々』(六節) 多神教の迷信を見るべし、予が知つて居る信者によく地蔵廻りを遣る者がある、何故にと問へば、耶蘇教の神様が聴き入れて下さらぬ時には地蔵様が嘉納して下さるからと返答した、こんな両天秤的の信仰は全で話にならない。〇『罪なきの血を我等に帰し給ふなかれ』は約拿の罪の為に辜なき我等を罰し給ふ勿れといはんに同じ事なり。
 〇此第一章に何なる教訓が含まつて居るか、ヱホバの言ヨナに臨んだ時に彼は其面を避けてタルシヽへ逃んとした、併しこれは独り猶太人たるヨナにのみ限られし事では無い、神が大責任を下すと人は大抵逃げ出だすものである、種々様々の口実や理屈を見つけて切りにそれを免れ様とする、報酬が多くて他人から誉められる事業なら押しのけてゞも行るが、表面派手やかでない実のある事業には誰も手を出す者が無いといふのが日本人今日の状況である、今ま日本の君子国に小さい約拿が幾人有らうか、予も随分その種の人間を承知して居る。
 一旦我れに下された使命は何うしても免れ了ふす事はできないといふのが次に来る大教訓である。神は必ず逃げる者に追ひ着て猶予なく其者を捕へ給ふに定つて居る、会社や学校や政府の諸官省に逃げ込んで首尾克く隠れ了ふせたと、自分一人は思うても、大沸騰や大葛藤が必ず、其脚下から起つてくる、そこで他人は兎も角本人丈けはよく其原因を承知して居る、ヨナも嵐の原因を承知して居つた故に彼は度胸を定めて一命を無き物にして船側に眠つて居た。
 予にも同様の経験が有つた、高等中学に教鞭を把つたのもこれで予は唯だ知識的に日本の青年を教訓しやうと(22)試みたが果せる哉ヱホバの大嵐は※[噪+の口が風]然として吹き捲つてきた、之に飛ばされたものは啻《ひと》り予のみに非ず、予が家族も学校も、又た教育社会全躰も之れが為に振動した。一人が責任を免れたが為に他人迄をも困らしめねばならぬとすればこれは大に注意すべき事ではないか。
 船人に勧めて我身を投入れさせた約拿は全く海中の藻屑となつて了つたか、否々彼は神が設けし特別の方法を以て救助け出されたのである。魚、三日三夜なぞの文字上の解釈は一先づ腹中に葬つて置いて、一大福音が此章中に※[横目/卓]められてあることを熟考して見給へ。
 二三十万の不信仰な人民によりて組織されて居たニネベの市に単身直入して喝然其罪悪を責むるは未曾有の大任ではあるが、併しヨナの如き信仰確固の人がそれを免れ様としたのは奇躰ではないか、逃げても逃げられない事は疾くに承知して居た筈ではないかとの疑も有らうがそこが即ち人間全躰の弱点である。
 此節の流行の一つは亜米利加行であるが、中には随分怪しい人も交つて居る様に見受けられる。天を翔り地を潜つても行く処は皆同じく神の領分に相違ないから、貴任逃亡の結果は全然我を困しめ他を累するのみ、いはゞ尻尾に火の付いた狐の矢鱈に走り廻る様なものである。
 第二章は一種の讃美歌である、『ヨナ、ヱホバに祈祷て曰く』はヨナ、ヱホバを讃美して曰くといふと同じである。『山の根基』『地の門を支ふる関木』は美はしき喩にて、八節は勿論偶像信者の迷ひをいふたもの。
 かくて彼れヨナは感謝の祈祷を捧げて神のまにまに従うたが故に、彼は終に陸の上に吐出されて復び使命の途に上る事となつた。
 此の大任を貫き通さうとすれば父母や兄弟に迷惑をかけるからというて自ら引退する人がある、成程一寸道理(23)の口実ではあるが、併し経験は寧ろ其反対を承認せんとするではないか、早く神の前に降参して其大命に従へば大なる慰藉が我れ及び肉親の上にも及ぶべきを、妄りに東洋的の策略を用て取次筋斗《しどろもどろ》に切抜け様とするは自ら進んで衝突と抵牾とを買ふと一般であらう。成程大責任の我肩上に下るといふは最と恐ろしき不幸ではあるが、併しこんな名誉ある不幸が何処に在るか、神言我に下りては我れは直にニネベを指して走りゆくべきである、タルシヽ行の舟を求むるは苟くも信仰ある人間の為すべき事ではない、以賽亜は奮然として神の命ずる所に従つた、故に彼に約拿の如き艱難は来らなかつた。約拿は以賽亜よりも一層|怜悧《りかう》であつた、併し彼は自分の怜悧なりしが為に大変な大風に出会つたではないか。
 吾人の信仰が冷却し来るは必しも学術研究の結果に因るのではない、大抵は我身に下る神命を拒んで全くの暗黒に落込んだが為である。此種の人は啻に三日三夜許りではない、三年も四年も魚腹の中に葬られて居なければならぬ。若しせに幼児の如き心をもて信仰の道を辿る人が有るならば其人は則ち光明より光明に進むべき幸福なる同胞である。 〔以上、1・25〕
 
     (中)(【一月十八日角筈聖書研究会に於て】)第三章
 
  (一)ヱホバの言ふたゝびヨナに臨めり 曰く(二)起ちてかの大なる府《まち》ニネベに往き、わが汝に命ずるところを宣べよ(三)ヨナすなはちヱホバの言に循ひて起てニネベに往けり、ニネベは甚だ大なる邑《まち》にしてこれをめぐるに三日を経る程なり(四)ヨナ其邑に入りはじめ一日路を行きつゝ呼はり曰ひけるは四十日を経ばニネベは滅ぼさるべし(五)かゝりしかばニネベの人々神を信じ断食を宣《ふ》れ、大なる者より小さき者に至るまでみな(24)麻布を衣たり(六)この言ニネベの王に聞えければ彼位より起ち朝服を脱ぎ麻布を身に纏うて灰の中に座せり(七)また王大臣とともに命をくだしてニネベ中に宣れしめて曰く人も畜《けもの》も牛も羊もともに何をも味ふべからず、又物をくらひ水を飲むべからず(八)人も畜も麻布をまとひ、只啻神に呼はり、且つおの/\其悪き途および其手に作す邪悪を離るべし(九)或は神その聖旨をかへて悔ひ其烈しき怒を息てわれらを滅亡さゞらん、誰かその然らざるを知らんや(十)神かれらの為すところをかんがみ其あしき途を離るゝを見そなはし、彼等になさんといひし所の災禍を悔いてこれをなしたまはざりき
 ヨナ心を飜へして神に従ひしが故「ヱホバの言復たヨナに臨めり」 神の言の吾儕に臨むは吾儕が神に従ひし時に在る、吾儕にインスピレーシヨンなく信仰の光なきは吾儕が神に倚らずして唯だ吾儕にのみ従ふからである、吾儕能く心に神の姿を仰ぐ時大光明灼々として我が四肢五躰を照す、「ヱホバの言復びヨナに臨めり」の語は繰返し/\味うて置くの必要がある。
 神言汗の如し、一たび出でたる神言は何処迄も貰徽せられずには已まぬ、「起てかの大なる府ニネベにゆきわが汝に命ずるところを宣よ、」命令単簡、しかも前のと同一にして汝の意を陳べて俗的能弁を廻せよといふのではなかつた、たゞ我が言を伝へよ、取りつげよとの棒的命令であつた、於是乎魚の咽より吐出されしヨナは生れかはつた様に勇み進んでニネベの市へと乗込んだ。
 ニネベといへば言ふ迄もなくタイグリスの左岸に立ちしアッシリアの大都会即ち「大古時代の倫敦」である、所謂アツシリア学 Assyriology の研究に殆んど全力を費して居る学者が泰西には尠くない、抑もアツシリアといふは紀元前一千八百年頃に新起源を開きて紀元前六百二十六七年頃滅亡した吉代の王国であるから其文物制度(25)は一時全く後代に忘れはてられて居たのであるが、幸にも当時の文学は鉄のペンもて刻せられた瓦壁の上に遺留《のこ》って居た為、其宝物が土中より掘出さるゝと偕に吾々は二千五百年前――二千五百年といふ我紀元計算に六百年の勘定達ひありとすれば神武天皇即位より凡そ六百年以前に属する西方亜細亜の文明やニネベ市の古事を歴々として読み得る様になつたのは頻る快心の事であると言はねばならぬ。
 「ニネベは甚大なる邑にしてこれをめぐるに三日を経る程なり」、実にやテネベの市は二千五百年以前に於て業に已に驚くべき大都会であつた、古い東京は今の見附内即ち溝渠内に限られて居たが徳川三代将軍が浅草見附に大門を立てられた時其臣下に此如《こんな》野原に門などを建てゝ何になさると諌むる者が有つた時、将軍答へて自分は此処まで江戸の町を拡める考だと申されたそうだが明治の今日其歩は速く廓外に伸びて東京は今やかゝる四里四方の大都会と進歩した。
 ニネベ市といへば古き江戸と同様、城廓内であつて住民凡そ二十万許り即ち我東京の壕の内位の人口であつたと想像して置けば宜しい、廓内には図書館あり、兵営あり、天文台などありて周囲の土手といふも高く土を盛り上げしものではなく、泥土の障壁を築いた儘之を焼き付けた一枚の錬瓦であつて此の土墻の上には其当時二頭立の馬車六台を並べることの出来る程の厚さであつた、かゝる強勢な廓内にニネベの王は厳然として控へて居た、但しこゝでニネベの邑とあるは一口にいへば大ニネベ全躰を指したのであつて単に城廓内をいつたのではない、紐育市にたゞの古紐育と大紐育とがあると同じく、ニネベにも城廓以外に拡がれる村邑が有つた、大ニネベは即是等を総称したものなることを注意して置かねばならぬ、更に又た数字によりてニネベの大を測定することも出来ぬではない、今ま東京市の広袤は其周囲凡そ十二里であるから健脚ならぬ人も一日半を費して優に之を巡(26)ることができる して見れば「これをめぐるに三日を経る程なり」といふニネベ市の周囲は凡そ二十四五里位もあつたであらう。
 以上の説明によりて諸君は能くニネベ市のいかに広大なるやを想像して呉れるであらう、かゝる広大なる外国の市邑に豆小の男児がヱホバの神よりの命令を負うて唯一人乗込んで往つた、こは洵に畏縮るべき大事業であつて、若し之を行ふ者が普通の人間であつたならば皆な悉くヨナのやうに戦慄してひた走りにタルシヽ或は其他の地方へ遁れたであらう、諸君が田舎より出でゝ唯一人新橋の停車場に落されたと仮定して見給へ、其寂寥しさは仲々一通りではない、東京ならば会話も解り店々の看板なども見えるからまだ大に慰むる所があるが、今一歩進んでシカゴや費府や桑港に唯一人入り込んだと仮定して見給へ、其寂寥の大なる事は仲々新橋停車場どころの沙汰では無い、我衣服は貧しく、我が舌端は硬固く、而して見あぐる如き大建築は坐がらにして我を呑み尽さんとするかの感が起つてくる、是に至ては百万の銭力も我が寂寥と無聊とを打消すことに於て何の魔力をも有しないのである、斯く考へてから人口四五百万を有せし外国の一市邑に単兵独歩を以て進入したヨナ其人の勇気を推想して見給へ、此市邑に入て其住民を喝采し頌徳するのならまだ/\宜しいがヨナの責任は全で其直反対であつた「ヨナ其邑に入りはじめ一日路を行きつゝ呼はり曰けるは四十日を経ばニネベは滅亡さるべし」、ヨナは唯だかく叫んだ、別に収賄事件を取出して揚言したのでも無かつた、又た官吏政客の腐敗を罵倒したのでも無かつた、たゞニネベは滅亡さるべしと唱へたので有つた、見も知らぬ一人の男が突然飛出してきてニネベ滅亡論を放つたから、ニネベの或人民は気狂男がきたと言つて冷笑したであらう、成程狂気の沙汰であつた、併し此裏に不屈の熱情が有つた、神を信ずる正直が有つた、神の声は短しと雖其中に哲学博士の味ふ能はざる真理が(27)あるから、何時か人に伝はらぬことは無い。
 諸君も一つ狂人となつて東京市の亡滅を喝破して見給へ、諸君にヨナ的の気力が有るか、此責任を受けて諸君は必しも蘊蓄の大学理を誇説するに及ばない、徒らに雄弁を弄するに及ばない、長舌駄弁の多い世の中、吾儕は唯だ簡潔に神の声を蓄へたる喇叭を吹いて見様ではないか。
 扨てかゝる責任に立つたとして諸君は先づ如何なる人に吹込まんと仕給ふか、ヨナが最先に神言を伝へたる人、而して真先にこの神言を受取つた人を知るが為に進んで本章の第五節を読み給へ「かゝりしかばニネベの人々……」とある。人々はニネベの平民社会を指したので、ニネベ人全躰をいつたのではない、彼等平民の連中はヨナを以て真の予言者となし大小老弱皆挙つて断食を為し麻の衣を纏うた、これは彼国に在りて自己の愁傷と謹慎とを表はす儀式である、無学不文、特別の修養なき平民が主として神の声に傾聴する一事は吾曹が大に注意せねばならぬ点である、我曹は伝道の器となつて時に全く失望することが有る、教ふるも駄目、叫ぶも駄目、書くも駄目、天下の事はもう一切駄目だ、尽力しても悔改める人は一人も無い 已むを得ずんばそれたゞ徐々の改革かなどゝ自分勝手の慰安法を拈出して見ることもあるがこれは大に間違つて居る、牛は何処迄も牛、人は何処までも人だ、ニネベの偶像信者も本元を洗へば神の愛子なるが為に彼等はヨナの叫びに聴く所が有つたのである、我曹が神の使者となつて一心に真の道を説きさへすれば神の愛子たる日本人が悔改めぬといふことは無い、日本の無学の平民中には哲学の博士先生よりも神を知るに敏なるものがあるから我曹は決して失望するに及ばぬ、神に失望は無い、故に神の言を宜べる者に失望や歎息が有つてはならない、新年早々意気銷沈する様な基督教信者は実につまらぬ基督信者だといはなければならない。
(28) ニネベ平民社会の悔改の声は今や高き帝座にも聞こえ亘つた、彼は「位より起ち朝服を脱ぎ麻布を身に纏うて灰の中に座せり」とあるが如く真実の悔悟を以て左右の大臣と共に命令を英領内に下した。
 王が宣告した文章の謙遜なるに注意し給へ、改悔めさへすれば直に救はれると思ふ人は未だ洵に救はれた信者ではない、九節の一句は維れ実に真箇の悔改を表彰したものと云はねばならぬ。
 予は繰返していふが基督教伝道の順序は先づ小供の様な平民を感化して次に宮庭の諸官吏に及ぶ事である、言を換へていへば下より上、低きより高きに及ぼす事である、神の教を全国土に漲らす順法は之を措いて他には無い、之を顛倒した伝道は恒に失敗である。
 某々伯を説服して某政党を靡かせんとする伝道師があらば其人は当世の伝道師といふ事はできやうが基督教其ものを了解した伝道師といふことはできぬ。若し又た某々侯を感化して某々会の一味連中を信者に仕やうと企つる伝道師があらば支那的日本的の好人物といふ事はできやうが真実約拿の書を玩味した伝令者といふことはできぬ、予輩は遠き将来にクリスト信者の宮内吏を見るに至るを信ずる者なれども、さりとて予輩は先づ九重雲深き辺りに洗礼の儀式の行はれんことを冀ふ者ではない。
 「人も畜も牛も羊もともに何をも味ふ可らず」は変ではないかといふ人が有る、成程家畜の断食といふは珍説であるが併しこれはニネベ其他のアツシリア地方に於る一慣習であつたと見える、今日の亜刺此亜人が一つ天幕の内に其馬をも同居させると一般ニネベ人民も亦家畜其ものを家族の一員に数へたのではないか、人罪を犯せば家畜も汚れたる動物となり、人救はれて慈恵また家畜に及ぶが如く、畜類及び人間の間に深き関係の存せる事は已にノア洪水の篇に於て註解せし通りである。
(29) 神はニネベの人民や帝王や諸官僚の為す所に鑒み給うて彼等に下さんといひし災禍を取消された、こゝに神が悔いたと記してあるのは余りに人間的の書方であるやうに思はれるが併しこれは神が特に人間を愍み給ふ慈愛心を写し出したもので、神は厳重に国家の滅亡を宣告し給ふも其宣告たるや決して所謂運命ではない、運命は人間の免れんと欲して免る能はざる桎梏であるが自由意志を授かつて居る人間に滅亡といふ運命は無い、故に日本国の盛衰興亡は一に日本人民の悔改むると悔改めざるとに繋つて居るのである。
 是を以て吾儕は飽く迄も神に救はるゝ愛子とならねばならない、神の言其儘、キリストの教其儘を忌憚なく宣伝せねばならない、これを宜べねば東洋日出の日本帝国は必ず滅亡する、亡国論を唱ふる予言者の出ない國の生命はそんなに長く続くものではない、見よ切りに大予言者を輩出した猶太人の勢力は其国解けたりとはいへ今日尚ほ頗る強勢を示して居るではないか、彼等にして一朝相携へて郷土に帰らんか、前よりも二十倍大の国家を組繊することは敢て難い事ではなからうと思ふ、約拿書第三章僅々十節に過ぎずと雖其含む所は広且つ大、新約書の精神は已に此章に於て大に顕はれたりとすればいざや我等は進んで倶に其第四章の精神を探つて見やうではないか。 〔以上、2・10〕
 
     (下)(【一月二十五日角筈聖書研究会に於て】)第四章
 
  (一)ヨナこの事を甚だ悪しとて烈しく怒り(二)ヱホバに祈りて曰ひけるはヱホバよ我なほ本国にありし時斯あらんと曰ひしに非ずや、さればこそ前にタルシシへ逃たるなれ、其は我汝は矜恤ある神憐憫あり、怒ること遅く、慈悲深くして災禍を悔ひたまふものなりと知ればなり(三)ヱホバよ願くは今わが命を取りたまへ、(30)其は生くることよりも死ぬるかた我に善ければなり(四)ヱホバ曰ひたまひけるは汝の怒ることいかで宜しからんや(五)ヨナは邑より出てその東の方に居り己が為に其処に一の小屋をしつらひその蔭の下に座して府のいかに成行くかを見る(六)ヱホバ神瓢を備へこれをして発生てヨナの上を覆はしめたり、こはヨナの首の為に庇陰をまうけてその憂を慰めんが為なりき、ヨナはこの瓢の木によりて甚だ喜べり(七)されど神あくる日の夜明けに虫を具へて其ひさごを噛せたまひければ瓢は枯れたり(八)かくて日の出し時神暑き東風を備へたまひ又ヨナの首を照しければ彼よわりて心の中に死ぬることを願ひて言ふ生ることよりも死ぬるかた我に善し(九)神またヨナに曰ひたまひけるは瓢の為に汝のいかる事いかで宜しからんや、彼れ曰ひけるはわれ怒りて死ぬるともよろし(十)ヱホバ曰ひたまひけるは汝は労をくはへず生育ざる此の一夜に生じて一夜に亡びし瓢を惜めり、(十一)まして十二万余の右左を弁へざる者と許多の家畜とあるこの大なる府ニネベをわれ惜まざらんや。
 約拿がこの事を甚だ悪しとして烈しく怒つたのは不思議ではないか、予言者の挙動といふ側より見れば如何にも受取れぬ次第といはねばならぬ、されどよく/\思案して見れば別に珍らしい出来事でもない様である、元来改革者と称する者の中には真に世の中の改良されん事を望むものは至て少ない、彼等の中には先づ自ら義人たらんが為に神の名を掲げて正義を唱ふる野心家がある、ヨナの心底にもかゝる利己的の分子が蟠つて居た為に彼は他人の悔改めて神を崇むるを見、又た神の彼等を救済はんとなし給ふを聞きて大に不快を感じたのであつた。
 今日の学者等は専門/\の呼声の下に切りに他人の知らぬ専門学を探索しやうと念がけて居る、故に彼等は動物学者となるのにも牛馬や羊豚を研究するを好まずして他の学者の知らぬ虫類、例へば蛭なぞの研究に耽るとい(31)ふ有様である、蛭といふも彼等が研究せんとするは病人の血を吸ふそれではなうて魚類の顋や洋海の嘩に居るのをしらべて天下蛭に通ぜるもの唯だ吾輩のみと誇らんとするのである、然れば他の人々が同じ蛭研究に従事する様になれば彼は正面から一大打撃を受たるが如く周章狼狽して、ありと所有る不平を洩らし始めるのである、而してかゝる蛭学者は実際基督教会の内にも多く横はつて居るではないか、彼等は巧に特別の神恩を説いて自ら喜ぶと雖、同胞兄弟の多くが同一の信仰を得るに至れば彼等は次第に不機嫌の顔を呈するが常であつて、彼等は此一点に於て宛然小児と一般である、ヨナは則ち蛭学者の一人であつた、彼がヱホバの神を単に自分の神とのみ心得、ニネベの人民はたとへ富と政権とを保ち得るも神が与ふる特別の恩恵には与かることのできぬ者だと卑下んで居たは明瞭である、さはれ一歩を進めて考ふればこは確に各人の胸中に潜める一つの罪悪にして其程度の多少こそあれ人は皆なこれを自己の内面に発見せざるを得ぬであらうと思ふ。
 二節の文句は彼れがタルシシへ遁れんとしたる唯一の理由を自白したものであるか、但しは彼が故らに作り設けたる表面の口実であるか、予は彼を以て責任を恐怖るゝの余り逃去りし者と信ずるが故にこの文句が彼がいふが如くにタルシシ逃亡の理由を陳したものと見做すことは出来ない、三節は彼の僻み根性を写して余りありといふべきであるが、之に対するヱホバの答は至極簡単なものであつた、これは親が其子を宥和め賺す様な言葉で又たヨナの弱点に切込んだ強い言葉ともいふべきである。
 瓢はバビロン近傍にては気候の熱きが為め非常に早く生長するとぞ、「一夜に生じて一夜に亡びし瓢」とかけるは勿論其生亡の迅速なるを形容したものに過ぎない。
 瓢枯れてヨナは復た失望した、生くることよりも死ぬる方我によろしと繰返す彼れの頑白《わんぱく》を見よ、爾うして神(32)と彼れとの間の交通が如何程親密なりしかを見よ。
 扨て約拿書中の大福音否な旧約書中の大福音がこの末節に現はれて居る、「まして十二万余の右左を弁へざる者と許多の家畜とあるこの大なる府ニネベをわれ惜まざらんや」といふ一節を読んでこの旧約書が神の正義と憤怒とのみを記せるものに非ずしてこの裡には実に深き深きヒユーマニチーが含まれてある事を暁るであらう、今や世に動物虐待防止の声を揚ぐる者ありとはいへ未だ約拿書に於て学び得るだけの福音をきくことのできぬのは残念である。
 諸君試に上野公園や湯島天神の高台に立ちて夜の東京市を瞰下し給へ、幾多の魔窟は軒を並べて諸君に甚しき不快を呈するであらう、而して情火の熾なる人はかゝる汚穢市の頓に消滅し去て新たに清き市の起らん事を熱望するであらう、されど/\右と左とを弁へざる無垢の小児この中に幾人ありや、言語の自由を有せざる牛馬犬猫幾匹ありや、罪業深き親兄弟、相場師、収賄官吏を父と呼び母と崇めて何の気もなく笑ひ興ずる小児を想へば吾等は是非共天よりの救済をこの都市に竢たざるを得ないではないか。
 この腐敗せる東京、この腐敗せる日本帝国に於て吾曹が将来に望を属すべきは誰れであらうか、二十五歳以上となりて基督信者たるの難きを思へば三十四十の坂を超えたる人を善に遷さんは尚一層の難事であるといはなければならぬ、於是乎吾曹の希望は青年の上に在る、否な左右を弁へざる小児の上に在る、柔和なる小児よ、天国に居るものは皆な斯くの如き人である、ゼシユイツト一派の僧侶が五歳以下の小児を預つて天下を動かさんといふたのは大に意味ある言葉ではないか。小児を愛すると倶に吾曹は又た家畜を愛せねばならない、馬や牛に食物を与ふるとき轡を銜《ふく》ますなとはモーゼが猶太人のために作つた律法の精神であつた、羊の乳もて羊肉を煮るは同(33)じく猶太の禁法であつた、延髄を針にて刺し或は電力を脚部に通じて之を殺すは可成く畜類に苦痛を与へまいとの西洋人の博愛の結果であるが我国屠殺場の惨状は実に之を言ふに忍びざるものがある、予が以前京都に於て目撃した所によれば屠牛場に車を牽き行く牛は其の帰りには生命なき肉塊と化つて同じ車の中に投込まれてあるが常であつた、何んと恐ろしい人の心ではないか。
 故に吾曹は下婢や家畜に対する挙動よりして其人の基督信者であるか否かを判定することが出来る、下婢や家畜を手酷く取扱ふ人は決して真の基督信者ではない、基督信者とは神が造り給ひし万物に対して愛心を注ぐ人でなくてはならぬ。
 故にヨナはかゝる博愛的の教に接して一口も返す言辞が無かつた、今日の基督信者の中にも甚だ自分勝手の人がある、彼等はたゞ特別の恩恵の己れにのみ下らん事を願ひて、あへて他人の幸不幸を顧み様としない、憫れむべし彼等はモーセやパウロの祈祷が如何なる者なりしやを知らない、「若し己れにして救はれずんば」と吾曹はいふてはならぬ、「若し国家社会にして救はれずんば」と吾曹はいはねばならぬ、イスラエルの民にして救はるゝを得ばわが姓名は生命の文より削取らるゝもわが一身は詛はるゝとも可なりというたモーセやパウロは真実なる神の僕であつた、故に吾等今日の基督信者も一身を犠牲に供して日本国の為めに竭さねばならぬ、否な日本国を世界人類全躰の為に活動させねばならぬ、世界の為に尽す日本、日本の為めに尽す同胞ありて我等も亦特別に恩恵を受くる者となるのである、此の点に於てヨナは真に恵まれた人ではなかつた、此の点に於てパウロやモーセは量も多く恩恵に洛した人で有つた。
 以上は大躰の説明であるが、然し諸君は之に由りて約拿書が旧約書中の新約書なることを了解するであらう、(34)これは実にイザヤ、エレミヤ以上の予言であつて、読むこと愈々深ければ真理の念が愈々清く湧いて出るのである、予は諸君が区々たる鯨の一疑惑の為に此の貴き真理を逸し去らざらんことを希望せざるを得ないのである。 〔以上、2・25〕
 
(35)     基督教と世界歴史
                     明治36年1月25臼
                     『聖書之研究』32号「講演」
                     署名 内村鑑三
 
 基督教は其宣言する所に依りますれば之は是れ天下唯一の宗教であります、即ち之より他に宗教と称すべき宗教はないのでありまして、人も国民も若し救はれんと欲せば必ず此宗教に頼らなければならないと云ふのが、聖書が幾回か繰返して宜べる所であります、我は途なり、真理なり、生命なり、人もし我に由らざれば父(神)の所に往くこと能はずとキリストは仰せられました(約翰伝十四章六節) 使徒ペテロは亦彼の伝ふる福音に就て申しました、此ほか別に救ひあることなし、そは天下の人の中に我儕の依り頼みて救はるべき他の名を神より賜はざればなり、と(使徒行伝四章十二節)、即ちキリスト教は天の神が地の人に賜ひし唯一の黙示でありまして、之に依るにあらざれば人は真理に達することは出来ないと申すのであります、此言葉たる実に一寸と聞きますると自分勝手極まる言葉でありまして、若し世に自負と云ひ、狭隘と云ふものがあるならば、実に此言であると曰ふ人もありましよう。
 然し奇態なことには斯くも唯我独尊を唱へし基督教が世に始めて寛容なるものゝ何たるかを教へたものであります、「我は真理なり」と教へた基督教が「凡そ真実なること凡そ敬ふべき事凡そ義きこと凡そ善き称《きこ》えあること、総て如何なる徳、如何なる誉れにても爾曹之を念ふべし」と教へた宗教であります(腓立比書第四章八節)、(36)世に若し絶対的に拒絶的のものがありますればそれは真理でなくてはなりません、亦世に若し最も寛大なるものがあれば是れも亦た真理でなくてはなりません、基督教が自尊的で、単独的で、又或る意味に於ては全然拒絶的であると同時に、亦謙遜で、自捐的で、抱容的であるのが、其宣言に違はず神の真理であるの一つの明白なる証拠でなくてはなりません。
 然し宣言は如何でも宜う御座います、世に宣言する程容易いことはありません、誰も自己に就て悪いことを宣言する者はありません、如何に悪い政党でも其宜言書に依て見れば実に立派なる政党であります、自利自慾をのみ以て立つ商売人でも其広告(彼等の宣言書)に依りますれば国利民福を以て第一の主義とする者のやうに見えます、故に若し基督教が斯かる独断極まる宣言を為して置きましても、其宣言許りで是れは神の真理であると言ふことは出来ません、実に宗教なるものは孰れも絶対的の者でありまして、我より外に真理ありと唱ふる者は実は宗教ではないのであります、神は唯一にしてモハメツトは神の唯一の予言者なりとはモハメツト教の唱ふる所であります、天上天下唯我独尊とは亦仏教の宣言であります、故に若し基督教が独尊を宣言するから、それであるから其れが宇内唯一の宗教であるとは言ふことが出来ません、基督教に若し其宣言に伴ふ明白なる事実がなければ其宣言は無効であります。
 爾うして事実は如何でありますか、基督教に依らずして天の下に救ひなる者なしと其大胆極まる宣言は事実の証明する所であります乎、人は実に基督教に依らずば救はれません乎、国は実に基督教に頼らずしては立ちません乎、是れ実に歴史上の大問題でありまして、若し基督教に此証明がありませんければ、其宣言も亦他の宗教のそれと均しく唯だ自負自尊の発表に留まります。
(37) 或る哲学者は世界歴史を評して「大文字にて書かれたる真理」Truth Written Large と申しました、歴史は之を純粋科学として見ることは出来ません、之に多くの誤解があり、錯雑のあることは誰も承知して居ります、歴史学と称して之も学である以上は天文学、物理学と同一類の学であると思ふのは大なる間違であります、学でありまするけれども精密なる学ではありません、即ち天秤を以て量り、試験管を以て試めすことの出来る学ではありません。
 然しながら精密なる学でないとて、歴史は少しも頼るに足らない学であると言ふことは出来ません、歴史は少くとも世界の大勢を示す学問でありまして、即ち真理を大袈裟に書き綴つたものであります、誰々の死んだのは何年何月何日の何時であつた乎、其事は明細に知ることは出来ない乎も知れません、又或る人は必ず善人であつた乎、或は悪人であつた乎、歴史家の彼に就て評論する所は区々である乎も知れません、然しながら不義は永久に栄えず、正義は最終の勝利者であるとの事は是れは歴史が其大文字を以て人類に示す所の教訓でありまして、歴史は我等に此大福音を伝へて少しも誤りませんと思ひます。
 扨て大文字を以て真理を示す世界歴史は基督教に就て何を示しますか、昔し基督教の敵人が其宣伝者を迫害せんとしました時にガマリエルなる智者があつて、彼等迫害者に告げて斯う申しました、
  今我れ爾曹に語らん、此人々(基督教の宣伝者)を容《ゆる》して之に係はる勿れ、若し其謀る所、行ふ所人より出でば必ず亡ぶべし、若し神より出でば爾曹彼等を亡すこと能はず、恐くは爾曹神に逆ふ者とならん(使徒行伝五章三八、三九節)。
 世界に宗教の数は沢山ありまするが、其中で基督教程多くの迫害を受けた者はありません、今でこそ欧米諸国(38)を基督教国と称へまして、基督教は彼国の特産物であるやうに思ふ人もありますが、然し少しく世界歴史に通じた人は基督教が文明国の宗教となりまするまでに如何なる困苦、如何なる悲惨なる径路を過ぎて来た乎を能く知つて居る筈であります、何れの国民と雖も基督教を歓迎したものはありません、彼等は一時は必ず之を排斥しました、峻拒致しました、其伝道師を焼殺しました、其信者を虐待致しました、今こそは基督教を以て.誇る英国でも、独逸でを仏蘭西でも皆な同じ事であります、彼等は皆な一時は激烈なる基督教の反対者でありました、キリストが其国人に十字架に上げられたやうに基督教は世界到る所に憎まれ、卑しまれ、斥けられます、若し動物界に行はるゝ生存競争なるものが人類の間にも必然行はるべき者でありまするならば基督教は速くに此世より失せべき筈の者であります。
 然るにユダヤの一僻村の一小工に依て始められた此宗教は今は世界に於て如何なる地位を占めて居りますか、世に文明国と称せられる国で基督教を奉ぜない国がありまするか、若し北米合衆国から其基督教を取除いたら如何《どう》でありませう、何が残りませうか、政治家としてはリンコルンのやうな人、文学者としてはローエルのやうな、法律家としてはシオートのやうな人、其他彼国第一流の人々は異口同音に白します、「若し我が米国より其基督教を取除いたならば其最も高尚なるもの、其最も威厳あるもの、其最も聖きもの、其最も愛すべきものが取り去らるゝのである」と、英国に於ても同じ事であります、其自由なるものは全く基督教の賜物である事は英国史を読む者の誰も知る所であります、其政治、文学、慈善、然り、其科学より基督教を取り去つて御覧なさい、私は信じて疑ひません、英国も中古時代のバグダッド、コルドバ等の回々教国の如き者となつて、生命なき文明の花を僅か咲して後に遠からず亡びて了うに相違ありません、其他独逸でも伊太利でも、仏蘭西でも、西班牙でも、和(39)蘭でも、白耳義でも、露西亜でも、匈牙利でも同じ事であります、其文明と称すべきもの、即ち腕力以外、利慾以外の制度文物は皆な悉く基督教の恩化を蒙つたものでありまして、基督教を取除ひては後に残るものは動物的の、肉慾的の物許りであります。
 基督教を奉ぜざる文明国はないと申しますれば直に起る疑問はそれならば土耳古は何である乎、印度、波斯、支那は何うである乎、殊に東洋の旭日国なる日本国は文明国ではない乎との疑問であります、然しながら日本国の事は後廻しに致しまして、其他の国々の事に就きましては其国の名を挙げること、其事が消局的に基督教の最も有力なる証拠論であると思ひます、土耳古国  誰も人種として土耳古人の優れたることを疑ふ者はありません、正直で、従順で、忍耐強くして、若し世に高貴なる文明に耐ゆる国民があると致しますれば、実に此土耳古人であります、黄色人種は文明に耐えないなど云ふことは全く土台のない言でありまして、其証拠には土耳古人と同人種なる匈牙利人が欧洲の中央に割込んで其処に東欧第一等の文明国を形造つて居ります、亦露西亜帝国の一部分なる芬蘭土は黄色人種の占領する国でありまするが、其育て上げし文明たるや其円満なることに於ては世界第一と称せられて居ります、土耳古人が欧洲に国を成して居りながら今日に至るも未だ文明国の仲間入りを為すことが出来ず、ダニュープ河上流の彼等と同一の人種なる匈牙利人がコスート、バツチヤニの如き愛国者を出し、ムンカツキーの如き美術家を産し、ヨーカイの如き世界的の文学者を生みしに係はらず、ダニユーブ下流の土耳古人が今に尚ほ「東欧の病人」そ以て目せられて人類の進歩に何の貢献する所のないのは抑も何の理由に因るのでありませう、土耳古人と匈牙利人とは其信ずる宗教を除ては他に何の異なる所はありません、然るに基督教を信ぜし匈牙利は有力なる文明国であつて、之を斥け、之と戦ひ、今に尚ほアラビヤ人の回々教を信ずる土耳(40)古国は其民が剽悍にして能く戦ふの外に、何の取る所のない、縦し野蛮国とまでは下らざるも、未だ自覚的国民の名誉ある地位に達することの出来ない憐むべき国であります。
 波斯人も土耳古と同じであります、其人種として高貴なる者であることは昔時の波斯人の行為を見ても能く分ります、経綸あり、文才あり、勇気に富み、何れの点より見るも優等なる波斯人の今日の憐むべき状態は抑も何が因を為してるのでありませうか、其他印度と云ひ、支那と云ひ、私が茲に論ずるまでもありまん、基督教を信じない文明国は有りません、基督教を信じて貧弱取るに足らない国もありません、世界歴史は大書して申します、基督教を信ぜずして偉大なることなく、高貴なることなく、清浄なることなく、自由なることなしと、光明と暗黒との別は基督教を信ずると信ぜざるとの別であります、是れ世界歴史が大書して我々に示す所であります。
 「信ぜよ然らば救はん」と宣べました基督教は亦「爾曹若し信ぜずば詛はるべし」と告げました、若し爾曹信ぜずば必ず立つことを得じとは聖書の明白なる証言であります(以賽亜七章九節)、基督教は一の試験石でありまして、之に接して之を信ずる者は救はれ、之を信ぜざる者は詛はるとの事であります、ヱホバの道は凡て直し、義者は之を歩む、然れども罪人は之に躓かん(何西阿書十四〇九△)、キリストの福音は沈淪者の為には死の香ひにて彼等を死に至らしむ、救はるゝ者の為には生命の香ひにて彼等を生命に至らしむ、(哥林多後書二〇十六△)、此石(キリスト)信ずる者には貴き物となり、信ぜざる者には躓く石、礙ぐる岩となるなり(彼得前書二〇八△)、是れ亦た聖書の大胆なる、また或る点から見れば甚だ無慈悲に見える宣告であります、然しながら此宣告も前に述べた宣告と同じやうに矢張り世界歴史に事実となりて現はれたことであります、基督教に接して之を信ぜずして返て之を斥けた人の生涯を私共は見て能く知つて居ります、其人の堕落は世間普通の人の堕落に比べて更に一(41)層甚だしいものであります、世に謂ふ所の堕落牧師の生涯を御覧なさい、世に嘔吐を催すものがありとすれば、それは伝道の聖職を棄て、或は投機商となり、或は銀行員となり、市長とか、大臣の秘書官とか云ふ俗吏と成り下がつた者の生涯であります、彼等は救はれんとして其救済を放棄した者であります、彼等はキリストに就て躓い者であります、彼等は即ち予言者ホゼヤの曰ふ罪人でありましてエホバの直き道に躓いた者であります、斯かる族に就て使徒ペテロは強き言葉を以て曰ひました
  彼等若し義の道を識りて尚ほ其伝へられし所の聖き命《いましめ》を棄んよりは寧ろ義の道を知らざるを美《よし》とすべし、犬還り来りて其吐きたる物を食ひ、豚、洗ひ潔められて復た泥の中に臥すと云へる諺は真にして彼等に応へり(彼得後事二〇二一、二二△)、
 希望なき人とは堕落せる基督信者であります、殊に堕落せる基督教の牧師であります、其伝道師であります、彼等は実に地極の人口を作る者であります。 個人に於て爾うであります、国民に於ても同じ事であります、国民は基督教を信じて救はれ、之に由りて新しき生命を得ます、之に反して之を斥けし国民は堕落して終に滅びて了います、欧洲各国の歴史で其改宗時期と称せらるゝ者は其死生存亡の時期でありました、英国に於ては第六世紀の終りより七世紀に渉つて此国民的更生とも称せらるべきものが行はれました、有名なる羅馬法王グレゴリー七世に由て送られし宣教師アウガスチンを始めとしまして、聖《セント》コラムバ、聖アイダン等に由て基督教が到る所に伝播され、終にケント侯ヱセルベルト并にノーサムブリヤ侯エドウイン等が洗礼を受けまして、茲に始て英国が野蛮の境遇を脱して文明の域に入りました、同じ頃に仏蘭西人にしてエメラン(Emmeran)なる人が独逸の南方バヾリヤに伝道し、英人ウイリブロード(Willi(42)brord)なる者は今の自耳義に伝道し、殊に是れ亦英国人であつて欧洲の伝教事業に名高きボニフエス(Boniface)は今の独乙国の全躰に基督教を布きました、匈牙利人の如きは全く異人種として最も遅れ馳せに欧洲の競争場裡に入つた者でありまするが、紀元九百五十五年レクフエルトの血戦に一敗地に塗みれ、非基督教的制度の薄弱にして頼むに足らざるを悟りましてより、其王ゲイザなる者が斯の教を奉ずるに至り、レクフエルトの戦役後五十年にして敬虔なるステパノスが其王位に就きましてより、匈牙利国は最も忠実なる基督教国となり、今日に至るも「聖ステパノスの銕冠」と称へまして匈牙利人が信仰と愛国心との表号として世界に向て誇る所のものは、此王が此国人に伝へしものであります、斯の如くに今日文明国を以て称せらるゝ欧洲の各国民は早きは仏蘭西の如く五世紀に於て、遅きは匈牙利の如く十一世紀に於て皆な改宗時期を経過した者でありまして、此精神的大革命の時期を経ずして彼等孰れも今日あるに至つたのではありません、中には勿論ポーランドの如く基督教を信じても終に亡びた国もあります、然しポーランドの亡国なる者が印度埃及のそれの如き社会組織の全き壊崩ではなくして、只僅かに政権の移変であつたことは能く分つた事実であります、ポーランド人中露西亜に隷属せし者を除いては今は皆な立憲の民であることは誰も知つて居ります。
 今ポーランドに対して土耳古を御覧なさい、土耳古は生きて居るやうで実は既《は》や死んだ国であります、土耳古に今残て居る者は稍や強力なる軍隊と圧制政府とのみであります、彼等の中に国民的理想なる者はありません、彼等は詩歌なき、美術なき、自覚なき民であります、彼等を国民と称するのは其外形の情態を指して言ふのみであります、彼等の中に国民たるべき内容の特性はありません。波斯も爾うであります、印度諸邦も爾うであります、埃及も爾うであります、モロツコも爾うであります、西蔵も爾うであります、支那も爾うであります、朝鮮(43)も爾うであります、彼等の各々は文明国同様に国旗を有ちます、然し土耳古の弦月旗も、支那の青竜旗も是れは唯だ旗幟であるに止まつて或る一主義の記号ではありません、米国旗には自由が翻がへり、英国旗には秩序が翻がへるやうにモロッコ旗や波斯旗には人類的の主義は翻がへつて居りません。
 何故に基督教を信ずる国は興つて、之を信ぜざる国は亡ぶるのでありませうか是には種々の説明もありませうが、其最も明白なる理由の一は基督教のみが人と国とに自覚の感を起すからであるに相違ありません、「我は何なる乎」なる人生の最大問題に解決を与ふる者は基督教のみであります、是れは我と絶対者即ち神との関係が分つて後に始めて解ける問題でありまして、神の観念なくして、或は神に関する観念が至て薄くして、或は不完全であつて、判かる問題ではありません、基督教を信じて国民は始めて其天職を悟るのであります。即ち人は何人も己れ一個人のために生存する者に非ずして至上者と全人類のために生存する者であることが個人々々に分るやうに、国民も亦キリストに顕はれたる神を信じて始めて其神と宇宙とに対する其責任即ち其天職を覚るのであります、基督教を信ぜざる人は如何なる英雄豪傑でも自己中心主義の人でありまして、彼が基督教を信じて始めて自己を離れて世界の人となりまするやうに、国民も基督教を信じて始めて世界的国民となることが出来るのであります、爾うして己れを中心とする人は人であつて人でないやうに自国を中心とする国は国であつて国でありません、文明とは協同の意義であります、世界の万邦に対して同情を有ち、責任を感ずるに至るまでは国に如何に完備せる軍隊がありましても、亦た如何に完全なる法律が布かれて居りましても、其国は未だ文明国と称へることは出来ません、その生命を保全せんと欲する者は之を喪ひ我がために生命を喪ふ者は之を保全すべし(路可伝九〇二五△)、自己を中心とし、神と人類とをして悉く己を益せしめんと欲する個人(44)も国家も必ず亡びます、之に反して自己を捨て、万事を捧げて神と世界と人類全躰とのために尽さんと欲する人も国も必ず栄えます、最も進んだる国民とは此思想に最も富んだる国民であります、人類進歩の標準は総て此に在ります、キリストを信じて自捐的国民となりませうか、彼を捨て我慾的国民となりませうか、国の興るのも滅ぶるのも唯此決心一つに依るのであります。
 
(45)     〔革命の希望 他〕
                      明治36年2月10日
                      『聖書之研究』33号「所感」                          署名なし
 
    革命の希望
 
 日本人に依て日本国を救はんと欲ふ勿れ神に依て日本国を救はんと欲ふべし、日本人の多数は詐欺師なり、偽善者なり、収賄者なり、神の聖名を涜す者なり、我悽は彼等に依て何等の善事をも為すこと能はず、然れども神は日本人全躰よりも強し、而して神は日本国を愛し給ふ、故に我悽は神に頼て、日本人多数の意嚮に反して、我儕の愛する此日本国を救ふを得るなり、我儕は腐敗せる日本人に依て日本国を救はんとせしが故に失望せり、然れども今や我儕の目を日本人より転じ、宇宙の主宰にして日本国の造主なる神を望み瞻て、我儕は満腔の希望を以て此死滅に瀕せる我国の救済に従事するを得るなり、我が扶助は天地を造り給へるヱホバより来る(詩篇百廿一篇一節)、此扶助ありて我儕何事をか為し得ざらんや。
 
    勇気と責任
 
 神は必ず此国を救ひ給ふべし、而うして彼は之を為すに海軍を以てせず、陸軍を以てせず、政府を以てせず、(46)議会を以てせずして、我儕如き数ふるに足らざる、塵埃の如きものを以てし給ふべし、ヱホバは救ふに剣と槍を用ひ給はず、其は戦はヱホバに依ればなり(撒母耳後書十七章四七節)、多くの人をもて救ふも少き人をもて救ふもヱホバに於て妨げなし(同十四章六節)、神に依て事を為さんとす、我儕何んぞ力の強弱を問はんや。
 
    慰藉と奨励
 
 我儕神に依て事を為さんとするや、神は我儕各自を慰めて曰ひ給ふ、我れ汝を離れず、汝を棄てず、心を強くし且つ勇め、汝の凡て往く処に汝の神偕に在せば懼るゝ勿れ戦慄《おののく》なかれと(約書亜書一章)、此援助ありて戦陣に立つ、我儕何人をか懼れん、何事にか戦慄かん。
 
    我儕の事業
 
 我儕の事業に非ず、神の事業なり、神の事業なるが故に我儕に取りては最も容易なる事業なり、我儕は神をして我儕の手を執らしめ、我儕の口を啓かしめ、我儕の足を運ばしむれば足る、我儕は自から何事をも為すを要せず、我儕は唯神を信ずれば足る、而うして如斯くにして我儕は英雄偉人も企て及ばざる大事を為すを得るなり、微弱なる哉我儕、偉大なる哉我儕。
 
    大なる事業
 
 神に依て為す事業は総て大なる事業なり、神に依て為せしコロムウヱルの政治は大なる政治なりし、神に依て(47)画きしラフハエルの絵画は大なる絵画なりし、神に依て彫みしミケルアンジエローの彫刻は大なる彫刻なりし、神に依て作りしハイドン、ベートーベンの楽曲は大なる楽曲なりし、神に依て施しゝペスタロジー、フレーベルの教育は大なる教育なりし、神に依らずして大なる事あるなし、亦神に依らずして大なる事を解する能はず。
 
    天人の生涯
 
 我に我なる者なからしめよ、神をして我ならしめよ、我に人なる者なからしめよ、キリストをして我が総ての人ならしめよ、我に我あるなく人あるなく、唯神とキリストとのみありて、我に悲憤あるなく、歓喜のみあり、我に失望あるなく、希望のみ存し、我は此世に在て既に天の人たるを得るなり。
 
    敵を愛するの結果
 
 我を憎む人を愛するのは極めて辛らい事である、然し是れ主キリストの命じ給ふ所である故に我れ努めて此事を為せば、視よ、天の扉は我が心の中に開けて、我は其処に有々と主を其栄光に於て見ることが出来る、辛らいことの背後には最も歓ばしい事が隠れて居る、我等は何事に関はらず勇んで主の命に従ふべきである。
 
    王公の態度
 
 負けて勝ち、踏附けられて立ち、殺されて清くるのが基督信者の生涯である 主キリストは斯くせられて勝ち且つ復活し給ふた、我儕彼の弟子たる者には之より他に勝利と生命とに達する途は無い、我儕は天国の市民であ(48)つて、此世に籍を置く者ではないから、此世の人に款待せられやう筈はない、而かも我儕は此世の最終の主人公であるから、我儕は王公の態度を以て快く此身を世の嘲弄讒罵に任かすべきである。
 
(49)     失望と希望
       (日本国の先途)
                     明治36年2月10日
                     『聖書之研究』33号「講演」
                     署名 内村鑑三
 
 私共に取りましては愛すべき名とては天上天下唯二つあるのみであります、其一つはイヱスでありまして、其他の者は日本であります、是れを英語で白しますれば其第一は Jesus でありまして、其第二は Japan であります、二つともJの字を以て始まつて居りますから私は之れを称して Two J`s 即ち二つのジエーの字と申します、イエスキリストのためであります、日本国のためであります 私共は此二つの愛すべき名のために私共の生命を献げやうと欲ふ者であります。
 イヱスは私共の未来の生命の在る所でありまして、日本国は私共の現在の生命の在る所であります、爾うして神を信ずる者に取ては未来も現在も同一でありまする故に私共に取てはイヱスと日本国とは同一のものであります、即ち私共の信仰は国のためでありまして、私共の愛国心はキリストのためであります、私共はキリストを離れて真心を以て国を愛することが出来ないやうに、亦国を離れて熱心にキリストを愛することは出来ません、私共が基督教を信じた第一の理由はそれが私共の愛する此日本国を救ふの唯一の能力であると信じたからであります、私共と日本国との関係は父子の関係、夫婦の関係、君臣の関係よりも更に数層倍深い、堅い、篤い関係であ(50)りまするから、私共は私共の国を離れて独り自から救はれんとて、基督教を信じません、私共は若し詛はるゝならば私共の国と偕に詛はれんと欲する者であります、若し救はるゝならば私共の国と偕に救はれんと欲する者であります、私共は日本国と偕に私共の霊魂を救はれんためにキリストに往いたのであります、独り救はれんとて彼を求めたのではありません。
 事情斯くの如くでありますから日本国の運命は私共の最も心配する所のものであります、日本国は如何なりませう乎、此愛する父祖の国は終に滅びませう乎、或は之に救済の希望がありませう乎、若しありとすれば如何したらば救はれませう乎、此事は私共の脳裡を占領する最大問題であります、夜となく昼となく私共を駆り立て寸時も私共の心を離れない問題は実に此国家救済問題であります、『アヽ我が神よ、願くは此憐れなる我が国を救ひ給へ』とは英国の愛国者ハムプデンの臨終の時の祈祷でありました、『若し我が兄弟我が骨肉(彼の国人を指して云ふ)のためにならんには或はキリストより絶《はな》れ沈淪《ほろび》に至るも亦我が願ひなり』とは使徒パウロの熱誠なる表白でありました、(羅馬書九章三節)、若し我国にして救はれざらんには我が救済何にかあらんであります、私は独り天国へ往くことを望む者ではありません、私は私の生命よりも私が愛する此日本国の救はれんことを望む者であります、『アヽ我が神よ願くは此憐れなる我が国を救ひ給へ』とはハムプデンのみならで何れの国人でも総てキリストを信ずる者の絶叫の声であります、基督信者には愛国心なしと曰ふ人がありまするが、彼等は未だ父なる神を識らず、故に私共の心を識らない人達であります。
  嗚呼日本国よ、若し我れ汝を忘れなば我が右の手にその巧《たくみ》を忘れしめよ、
  若し我れ汝を思ひ出でず、若し我れ日本国を我が総ての歓喜《よろこび》の極《きはめ》となさずば我が舌を※[月+顎の左]《あぎ》に附着《つか》しめよ(詩篇(51)第百三十七篇)
 愛国心は世の所謂る『愛国者』の専有物ではなくして私共キリストを信ずる者の専有物であります 世にキリスト信者の愛国心に優る潔い、熱い、高い、深い愛心はありません、コロムウエルが英国を愛せし愛国心、ガステバスアドルフハスが瑞典国を愛せし愛国心、サボナローラが伊太利を愛せし愛国心、亦近時に至りてはクルーゲルやジユーベルトなどが彼等のトランスヴアールを愛せし愛国心は実に彼等がキリストに在て懐きし愛国心でありまして、斯かる聖き深き愛心はキリストを信ずる者にあらざれば到底持つことの出来ない愛心であります。
 此我等の日本国は如何なりませう乎。此切要なる問題に対して此国に於て発行される所の新聞紙の記事が与ふる所の答は唯一つであります、即ち滅亡であります、為政家の堕落、教育家の堕落、僧侶神官牧師の堕落、詐欺、収賄、姦淫、窃盗、強盗、殺人、黴毒、離間、陥※[手偏+齊]、裏切り、……是が我等が日々の新聞紙に依て読み聞かせられる所の事柄でありまして、是等の事柄を除いて別に新聞と云ふ新聞はないやうに見えます、聖書に記されたる罪悪の目録の中で今の日本人に依て犯されない罪は一つもないやうに見えます、苟合、汚穢、好色、偶像に事ふること、巫術、仇恨、※[女+戸]忌、忿怒、分争、結党、異端、※[女+冒]嫉、兇穀、酔酒、放蕩(加拉太書五章十九、二十節)、此中何れが今の日本人の中に欠けて居りますか、政治家は節操を売ることを何んとも思はず、彼等は相互に汚濁を語て少しも恥と致しません、忠君愛国を教ふる教育家が収賄の嫌疑を以て続々と獄舎に投ぜられます、数万の民が饑餓に泣いて居りますれば、彼等を饑餓に迫らしめたる人は朝廷の恩恵を身に浴びて奢侈淫逸に日を送つて居ります、偶々正義公平を絶叫する者があると思へば、是れは不平の声であつて義を愛するの声ではありません、同胞は相互ひの悪事を聞くを以て何よりの楽みとして居ります、※[女+戸]忌は父子の間にも兄弟の間にも、師弟の間に(52)も行はれ、今日の師弟は明日の讐敵となり、骨肉の兄弟さへ互に相困めることを以て正義国家のためであると思つて居ます、政府は其各部に於て腐敗を極め、内閣腐り、陸軍腐り、海軍腐り、内務腐り、外務腐り、文部までが腐敗の気に襲はれて、今は小学教師までが賄賂を取るのを以て当然の事であるやうに思ふに至りました、若し是れが亡国の徴でないならば何にが亡国の徴であります乎、若し罪悪のほか何の報ずる所のない国が千代に八千代に昌へ行くべきものでありまするならば正義とは何んと価値のない者ではありません乎、若し暗黒の社会がありとすれば是れは日本国今日の社会ではありません乎、不安心極まる社会、少しの信用をも置けない社会、儀式一片、全然虚偽の社会とは実に我国今日の社会ではありません乎、罪悪は日本のみに限らない、西洋各国にもあると言ひて自から慰めて居る人もありまするが、然し罪悪にも度合ひがあります、日本今日の社会は善事の至て少ない、殆んど罪悪のみの社会であります、即ち悪人が横行跋扈することの出来る社会であります、其貴族たる者が到る所に幾多の少女を汚すことあるも誰も怪まない社会であります、其学者たる者が頓でもない不道理を唱へましても却て国民多数の賞讃を博する社会であります、即ち真実とか無私とか云ふことは唯口に唱へられる許りでありまして、之れを真面目に信ずる者の殆んど一人も無いと言ふても能い社会であります、希望とか歓喜とか称すべきものは地を払つて無く、唯有るものは失望と悲憤慨慷とのみであります、此君子国と称へられし国の民にして、少しく世の中の経験を有つた者で、悲惨の歴史か堕落の経歴を有たない者とては殆んどありません、純正なる淑女はありません、純潔なる紳士はありません、日本人は皆な傷物であります、その花の如き顔《かんばせ》の裏面《うしろ》には熱き涙の経験を匿くして居ます、その柔和の如くに見ゆる態度の下には言ひ尽くされぬ程の仇恨《うらみ》の刃を蔵して居ります、芙蓉の峯は何時も美しくありまするが之を仰ぎ瞻る民の心は常暗《とこやみ》の暗を以て包まれて居ります、(53)其名こそ桜花国でありまするが其実は悲憤国であれます、絶望国であります、人々憂愁と怨恨とを懐いてイヤ/\ながらに世渡りを為して居る国であります。
 今少しく日本国今日の状態を聖書の言に照らして見まするならば実に寒心すべきものが多くあります、アヽ罪を犯せる国民、不義を以て充たされたる民、悪を行ふ者の裔《すえ》、道を乱す種族《やから》……全脳は病み、全心は困憊《つか》る、足の跖より首の頂に至るまで健全なる所なく、唯創痍と打傷と腫物と而已、而して之を合はす者なく包む者なく、亦膏にて軟らぐる者なし(以賽亜書一章四節、六節)、汝等の長輩《をさたち》(政治家、教育家の類を指して云ふ)は反きて盗人の伴侶《かたうど》となり、人各々賄賂を喜び、贓財《おくりもの》を追ひ求む(仝廿三節)、是れは実に日本国今日の状態有の儘を画いたものではありません乎、亦預言者ヱレミヤは亡国の前徴として社会の状態を述べて申しました
  彼等は皆な姦淫する者なり、彼等は此地に於て真実《まこと》のために強からず、悪より悪に進むなり、………汝等|各自《おの/\》其隣人に心せよ、何れの兄弟をも信ずる勿れ、兄弟は皆な欺きをなし、隣人は皆な讒り廻ればなり、汝等は各自其隣人を欺き、かつ真実を言はず、其舌に※[言+荒]《いつはり》を語ることを教へ悪を為すに労《つか》る、汝等の住居は詭譎《いつはり》の中にあり、
 何んと活画的の記事ではありません乎、火を見ては火事を思へ、人を見ては泥棒と思へと唱ふる我国今日の社会の丸写しではありません乎。
 若し亦貴族と金持との奢侈と無情とに就ては予言者亜麼士の言は非常に適切であります、
  汝等は災禍《わざはひ》の日をもて尚ほ遠しと為し、強暴の座を近づけ、自から象牙の牀に臥し、寝台の上に身を伸し群の中より羔羊を取り、圏の中より犢牛《こうし》を取りて食らひ、琴の音に合せて歌ひ噪ぎ、大杯をもて酒を飲み、最(54)も貴き香油を身に抹り、ヨセフ(国民)の艱難を憂ひざるなり(亜麼書六章三−六節)。
 若し滅亡前のイスラエル国と日本の今日とを比べて見んと欲するならば茲に最も適切なる対句があります。
  サマリヤの山(都城の在りし処)に居り弱者を虐げ貧者を圧し………汝等は義しき者を虐げ賄賂を取り、(裁判所)に於て貧しき者を推し枉げ、………彼等は義者を金のために売り、貧者を鞋一足のために売る、彼等は弱者の頭に地の塵のあらんには之をさへも喘ぎ求ひ(即ち毫未までも取らずば止まずとの意なり)(以上諸節亜麼士書に散見す)。
 是れは今より二千六百年前イスラエル王国滅亡前の実況でありましたが、今明治の三十六年私共の目前に預言者の言葉其儘が事実となつて現はれるのを見ます、耳を開いて能くお聞きなさい、是れは明治三十五年日本の帝都を距る遠からぬ所であつたことであります。
  去月(十二月)廿九日栃木県佐野税務署が安蘇郡植野村大字舟津川栗原長蔵の明治三十五年度地租三十七銭二厘滞納に対して執行したる財産差押の結果を聞くに、差押金品は茶縞小児物綿入一枚、双子縞男羽織一枚、無地紺縞一反、通貸金十八銭なるが、其衣類は鉱毒救済婦人会より恵まれたるもの、又其通貨は過般風水害の節天皇陛下より御下賜ありたる御救恤金を神棚に上げて日頃拝み居りしものなりと(万朝報所載)。
 イスラエル国もユダ国も其公吏の暴虐が其一つの原因となりて立派に滅びました、日本国も同じ罪悪を犯して亡びない理由は何処にありますか、足尾銅山鉱毒事件などゝ云へば今では我国の基督教の教師までが一笑に附して了いますが、然し此事件は是れ日本国全躰の疾病が此所に悪い腫物のやうなものに戌つて発したものでありまして、日本国が如何に危険の地位にあるかは鉱毒事件を見て最も良く察することが出来るのであります。滅亡で(55)す、滅亡です、日本国の滅亡は決して空想ではありません、大隈伯のやうな虚言吐が大政党の首領であり、其下には奸物が群を為して国政を弄んで居るのであります、政治的の日本に一縷の希望のないのは決して怪しむに足りません、故に真正の憂国者は預言者ヱレミヤの言を藉りて泣くのであります。
  あゝ我れ我が首を水となし、我が目を涙の泉となすことを得んものを、我が国民の燼滅を思うて我は昼夜哭かんものを(耶利米亜記九章一節)
 後は唯一撃であります、此海軍が無くなれば日本国は無くなるのであります、此陸軍が無くなれば遂には国家らしき国家はないのであります、国民的理想のあるのではなく、深い高い聖い希望と歓喜と生命とのあるのではありません、実に心細い極ではありませんか。
 斯く観じ来りますれば私共ははや既に亡国の民であるやうに思はれます、私共は唯僅に私共の霊魂丈けを救ひ、此扶桑の国は之を其運命の成行に任かし、其滅亡を傍観しなければならないやうに思はれます。
 然しながら斯くも真暗の中に亦大なる希望があります、我等は此暗黒の中に在て預言者イザヤの言を藉りて叫びて言ひます、今は困苦《くるしみ》を受くれども後には闇なかるべしと(以賽亜書九章一節)、成程暗黒は暗黒であります、然し其暗黒は外面の暗黒であつて、中心の暗黒ではありません、社会の暗黒、政治の暗黒、教育の暗黒、文壇の暗黒、官吏の暗黒、僧侶の暗黒、富者の暗黒でありまして神と国土と平民との暗黒ではありません、腐蝕は常に復活を意味するのでありまして、日本国現時の腐敗は其復活の兆候であります、今は其死すべきものが死しつゝあるのであります、其支那人より学び来りし忠孝道徳、其上に建設されし制度、文物、教育、………是等が今崩れつゝあるのであります、即ち東洋的の日本の秋が来たのでありまして、其葉と枝とが枯れつゝあるのでありま(56)す、然し其落ちたる葉の跡には既に春の新芽が出来て居ります、我等は決して失望してはなりません。
 我等の愛する此日本国に関する我等の希望は第一に神の本性に因ります、神は正義の神、仁愛の神でありますから其神の造られた此日本国は何時迄も不義の器となりて存《のこ》るべき筈のものではありません、日本国が藩閥政府の日本国、進歩党政友会の日本国であると思へばこそ失望するのであります、然しながら富士山は決して大隈伯の築き立てたるものではなく、琵琶湖は伊藤侯の鑿つたものではありません、此日本国は正義の神が正義を行ふために造られたものでありますから此国に於ても正義は必ず行はるゝに至ります、汝等鼻より気息の出入する人に倚ることを止めよ斯る者は何ぞ数ふるに足らんや(以賽亜書二章末節)、政治家や教育家はいくら腐つてもまだ失望するに足りません、我等は正義の神の造り給うた此国士に住居つて居る者でありますから、我等の理想の行はるゝ日は必ず来るに相違ありません、此事は余りに能く分かり切つたる事で特別に述べ立てる必要はないやうではありますが、然し私共の度々忘れる事でありまして、私共が度々記憶に惹起すの必要ある事であります、私共が人より、政治家より、上流社会と称して道徳的には実は人類の最下等の社会なる貴族より、清浄と潔白とを得んと欲するからこそ失望するのであります、若し人より望むを止めて神より望みますれば我等の心には希望は恒に満々たる筈であります。
 日本国に関する我等の希望の第二は其人民に在ります、日本国の政治は甚く腐りました、其宗教も教育も頼むには足りません、然し日本人なるものは著しい人民であります、私は国自慢から此事を云ふのではありません、其二千年の歴史が其優等なる民たるの最も明白なる証拠であります、日本国の歴史は名誉ある歴史であります、爾うして英名誉たるや今の多くの我国の歴史家がいふやうに二千年間一系の皇統を維持して来たからではありま(57)せん、日本歴史の名誉たる所以は其進歩的、自由的なるのに因ります、日本人は善を見れば終には之を採用せずには止みませんでした、彼等は自国の文字を捨て其時代には最も優れたる支那の文字を採用しました、彼等は多くの反対ありしにも係はらず、終に異国の仏教を採用しました、皇室に対しては甚だ忠艮なる民ではありましたが、然し時勢の必要とあれば北条氏のやうな有為なる政治家を戴きまして之に二百年間の国政を任したこともあります、日本人は島国の民ではありますけれども島国を以て満足する者ではありません、彼等の企図は常に大陸的であり世界的でありまして、機会の乗ずべきあれば彼等は常に世界に向て伸びんと致しました、故に彼等は新たに西洋文明に接しても少しも驚きませんでした、彼等は直に其吸収と消化とを始めました、彼等は幾年ならずして西洋人が幾百千年かゝつて発明した機械を独りで運転し始めました、彼等は亦た西洋の自由思想に向て非常の食望を表しました、故に保守的の政治家が出でまして種々の手段を用ゐて彼等の自由思想を抑へやうと致しましたけれども、然し彼等は到底之を抑へ切れませんでした、自由と進歩とは日本人の特性であります、彼等は時には欺かれて圧制に甘んじますけれども、然し是れは決して長いことではありません。
 聖徳太子を出し、空海上人を出し、日蓮上人を出し、北条泰時を出し、蓮如上人を出し、豊臣秀吉を出し、銭屋五兵衛を出し、渡辺華山を出した日本人は実にエライ人種であります、此人種は世界に大事業を為すの資格を備へた人種であります、此人種が何時までも今日のやうな圧抑に沈んで居やうとは如何しても思はれません、彼等は遠からずして圧制の縄を断ちます、彼等は終には世界の最善最美のものを我が有となさずには止みません。
 日本国に関する私共の希望は第三に其国土に因ります、其地位は其人種と共に其天職を示します、日本国は世界の一半を他の一半と結び付けるための偉大なる天職を帯びて居ます、日本国は亜細亜の門であります、日本国(58)に依らずしては支那も朝鮮も印度も波斯も土耳其も救はれません、人類の半数以上の運命は日本国の肩に懸つて居ます、此国は是れ少数の惰弱貴族や慾強商人の食慾を充たすために造られたものではありません、日本国は支邪の四億余万と印度の二億五千余万と其他大陸の億兆を救ふために造られたものであります、斯かる重大なる天職を帯びた国が今日のやうに実に醜猥極まる状態に何時までもあらうとは如何しても思はれません、日本国の希望は其天職に附着して居ります、富士や鳥海や浅間が空天に向て聳ゆる間は日本国の希望は確かであります、利根や千曲に水の流れる間は日本国の希望は溢れて尽きません、世界は日本国に向て革命を要求して居ます、爾うして藩閥の政治家や偽善華族は如何に有力なるも此要求を拒むことは出来ません、日本国は遠からずして世界の大光を迎へます、日本国も久しからずして匈牙利と同じく黄色人種の基督教国となります。
 爾うして今や此希望は充たされつゝあります、外部の圧制の甚だ強きにも係はらず、大光は此国土に臨みつゝあります、政府の人の見ざる所に於て、貴族輩の夢にも見ざる境遇の中に、其偽善的社会には嘲けられながらも、純潔の日本人は徐々として大光を迎へつゝあります、日本人は支那人とは違ひます、日本人は政府の勧誘に従つて宗教を信じません、又外国宣教師に尾従して其安心の基礎を定めません、日本人は自由に自由宗教を信じます、政府にも依らず、外国宣教師にも頼らず、日本人は自身勝手にナザレのイヱスを主として仰ぎつゝあります、北は宗谷の海に氷塊が群をなして寄せ来る辺より、南は安平恒春の郊に熱帯植物の繁茂する所に至るまで、此所の海辺、彼所の山里に正直にして国を愛する日本国の平民が自由の主なるイヱスキリストの名を※[龠+頁]びつゝあります、政府でいくら法令を出しても此教化を妨ぐることは出来ません、今や忠君愛国を唱へし教育家が数珠繋ぎとなりて獄舎に投ぜられつゝある間に純潔無垢の日本平民は聖潔《きよめ》の主を求めつゝあります。
(59) 今は微々たる少数であります、然しながら此少数の中に日本国の希望は存して居ります、既に彼等は日本国の精神となりつゝあります、其国民歌は将に彼等に依て歌はれんとしつゝあります、其政治さへも彼等に依てのみ多少の清潔を維持されつゝあります、其慈善は殆んど総てが彼等に傚ひつゝあります、然しながら未来の彼等の勢力たるや決して今日如きものではありません、此社会制度が腐れ尽きて後に、或は其外形的国家が一時其存在を失つて後に、雲となつて起り、竜となつて立ち、終に此国を永久の基礎の上に据ゑ、日本国をして、西洋と東洋とを繋ぐに至らしむる者は実に彼等であります。
 然かし多分私は私の肉眼もて此喜ばしき時を観ることは出来ますまいと思ひます、私は矢張り嘲笑罵詈の裡に私の一生を終るのでありませう、然しながら私は此短かき私の生涯を此日本国を永久に救ふ其準備のために費すことの出来たのを非常に有難く感じます、私は実に世の人が想ふやうに絶望の人ではありません、私は希望を以て種を蒔いて居る者であります、私は実に私の愛する此日本国と偕に救はれつゝある者であります、基督の為め、国の為め、私に若し千度びの生涯が与へられますならば、私は総て之を此二つの愛すべき名、即ちイエスキリストと日本との為めに費さうと欲ひます。
 
(60)     〔善を為すの途 他〕
                      明治36年2月25日
                      『聖書之研究』34号「所感」                          署名なし
 
    善を為すの途
 
 悪とは神を離れて存在することなり、神と偕に在りて万事万行一として善ならざるはなし、我儕は悪を避けんとするよりは寧ろ神と偕ならんことを努むべし、然れば我儕は自づから善を為すを得て悔改の苦痛を感ずること無きに至らん。
 
    順逆の二途
 
 道徳は人に善行を為さしめんとし、宗教は人を善人と成さんとす、善を為さしめて善人と成さんとするは逆なり、善人と成して善を為さしめんとするは順なり、而かも宗教を説く人にして逆なる前の途を取る者多くして順なる後の方法を講ずる者尠きは歎ずべきかな。
 
    神と悪魔
 
(61) 神は扶掖し、悪魔は挫折す、神は善を視るに敏くして悪魔は悪を探るに巧みなり、善を存して悪を蔽はんとし給ふは神なり、悪を曝らして善を逐はんとするは悪魔なり、神の前に出でて小善も幼芽の日光を受けしが如くに成長し、悪魔の気息に触れて小悪も大悪となりて顕はる、神は奨励する者にして悪魔は失望せしむる者なり 我儕は神を愛して悪魔を怖る。
 
    人の道と神の道
 
 人の道は雪の如し、白くして寒し、神の這は日光の如し、輝きて暖かなり、潔白なるは嘉すべし、然れども煌々たるに若かず、正義の温暖なる者、之を愛と云ふ、我儕は義人たるに止まらずしてクリスチヤンたるべきなり。
 
    勇進
 
 悪に染まざらんと欲して悪人にい遠かるは可し、然れども善を以て悪を拭はんと欲して彼に近くは更らに可し、我にキリストの愛なからん乎、我はたゞ我が潔白の穢されざらんことを努めんのみ、然れどもキリスト我と偕にありて、我は弱者に非ず強者なれば、我は進んで悪人と交はり、生命を腐蝕の中に投ぜんと欲す、希望を以て失望の闇夜を駆逐せんと欲す。
 
    救拯の水
 
 正義と言ふ勿れ、恩恵と言へ、清浄と云ふ勿れ、赦免と言へ、正義清浄は人にあるなし、之を彼より要求して(62)我儕は失望せざるを得ず、然れども神の恩恵は限なく存し、其清浄は尽くることなし、神に依て人を救はんと欲すべし、人に依て世を救はんと望むべからず、人を扶け世を救ふの途は単に神の救拯の水をして尽きざる河の如くに流れしむるにあり。
 
    苦業と快事
 
 罪を叫ぶの苦しさよ、巌に対て叫ぶが如し、罪を赦すの楽しさよ、恋婦の耳に囁くが如し、喜びの音信を伝へ平和を告げ、善き音信を伝へ救ひを告げ、シオンに向て爾の神は統べ治め給ふと曰ふ者の足は山の上にありて如何に美はしきかな(以賽亜書五十二章七節)、正義の絶叫者ならで赦罪の福音の宣伝者なる我の天職は楽しきかな、而かも我は幾回か自から好んで正義を叫んで福音を伝へず、乳香を棄てゝ茵※[草がんむり/陳]を撰む者なり。
 
    忿怒と久耐
 
 恚憾と忿怒とは罪悪にはあらざるべし、然れども是れ大なる危険なり、故に聖書は教へて言へり怒て罪を犯す勿れ、怒て日の入るまでに至ること勿れ 悪魔に処を得さすること勿れと(以弗所書四章二六節)、怒て日の入るまでに至る時は義憤も却て罪と化し、我儕は悪魔に処を得さしめて彼をして我儕を支配せしむるに至らん、我儕は寧ろ神の栄えの権威に循ひて賜ふ諸の能力を得て強くなり、凡ての事喜びて恒忍《しのび》且つ久耐《たゆ》べきなり(哥羅西書一章十一節)。
 
(63)    聖徒の完全
 
 忍耐は聖徒の特性なり、慈悲、衿恤、謙遜、柔和は皆な忍耐の形像なり、愛は軽々しく怒らずと云ふ(哥林多前書十三章五節)、我儕の口より很毒、喧※[口+襄]の言の全く跡を絶つに至て我儕は始めて天に在す我儕の父の完全きが如く完全しと云ふを得るなり。
 
    絶対的満足
 
 神と偕に在るは楽しきかな、此処に静止あり活動あり、正義あり仁愛あり思考あり感情あり、円満と完全とは神に在て存す、我にキリストに顕はれたる神の有るありて我は我が総ての冀慾を充たさんために天然を要せず、亦た人類の社会を要せず、我は我が神と偕にありて絶対的に満足の人なり。
 
    〔神聖なる午後七時…〕
 
 神聖なる午後七時を忘るゝ勿れ、此時全国に在る同胞同志同信仰の者のために祈れ、殊に此崩れんとする日本国のために祈れ。
 
    聖書を学べよ
 
 聖書を学べよ、深く之を学べよ、博く之を学べよ、アポロの如く聖書に於て強くあれよ(行伝十八章廿四節)、(64)我等の武器は是れなり、是れなくして我儕は悪者の火箭を滅すること能はず(以弗所書六章十六節)、人の我儕の信仰の理由を問ふ者あらん乎、我儕は聖書を以て答へんのみ、聖書は我儕の代弁人なり、之をして我等に代て答へしめん乎、我等は如何なる駁論をも沈黙せしむるを得るなり。
 
    我の要求
 
 神よ、我に聖言を賜へ、人を活かすに足るの言辞を賜へ、我はたゞ紙を塞ぐに足るの言を以て満足せず、我は神の活ける言辞を要求するなり、たゞ一言にて足れり、人の霊魂を活かすに足る爾の活ける真理《まこと》の言辞を我に賜へ。
 
    大悪人
 
 衆人《すべてのひと》に悪人と見ゆる悪人は大悪人に非ず、大悪人の大悪人たる所以は彼が善人と見ゆるにあり、彼の言辞や婉なり、彼の風采や優なり、彼は紳士の如きに見ゆ、然り、彼は真個の基督信者の如くに見ゆ、彼は剣を翳さず、彼の婉言の中に之を蔵す、彼は多くの人に愛せらる、彼を悪魔なりと称ふ者あれば世は挙て斯く言ふ人を排斥す、彼を真性の悪人なりと認め得る者は聖霊の予ふる所の智惹と穎倍《さとり》とを有つ者のみ、世に発見し難き者にして大悪人の如きはあらず。
 
    宥恕
 
 慈悲、寛容、宥恕、恒忍………我儕のために天に蓄へある所の希望に満ち充ちて、我等は此等キリスト的の美(65)徳を以て充ち耻るゝを得るなり、恕し得ざるは我に空乏あればなり、我れ衷に充実して宥恕は易々の最も易々たる事なり、充たされよ、而かして容赦《ゆる》せよ。
 
    信、不信の判別
 
我に罪無しと言ふ者は罪人なり、真理彼に在るなし(約翰第一書一章九節)、我れ見ゆと言ふ者は瞽なり、光り彼の衷にあるなし(約翰伝九章末節)罪なき者は罪を認むる者なり、盲を覚る者が眼を開かれし者なり、我儕は此標準に循て信者と不信者とを判別するを得るなり。
 
(66)     信仰の意義
                      明治36年2月25日
                      『聖書之研究』34号「所感」                          著名 くぬぎ生
 
〇吾等基督信者であると云つて、何にも吾等の智力を以て基督は神である、救主であると信ずるから爾う云ふのではない。何にも亦吾等は吾等であつて基督は基督であり、爾うして吾等が基督に対して心からの敬崇を奉るが故に吾等は基督信者であると云ふのでもない、「信ずる」といふ動詞は自動詞である故に基督信者と云へば何にか我より進んで基督を信ずる者のやうに思ふのは大なる間違である。
〇基督信者とは勿論基督を信ずる者である、然し彼は実は自から信じて信者となつたのではなくして神に信ぜしめられて信者と成つたのである、彼の信仰は救済の結果であつて、信仰が救済の原因ではない、「爾曹の信ずるは神の大なる能の感動《はたらき》に由る」なりとは聖書が力を籠めて宣伝ふ所であつて、吾等は信仰に由て救はるゝとは云ふものゝ其信仰其物が神の特別なる恩賜であることを吾等は決して忘れてはならない(以弗所書二章八節)。
〇基督信者とは基督御自身の吾等に顕はれ給ふた者である、始めてアンテオケに於て彼等が異邦人よりキリステヤンの名を受けた時にも、彼等は此意味を以て喜んで此名を受領したのである、独逸語に於ては今でも基督信者の事を単にキリストと称ぶのは是れ彼の何たる乎を能く示したる言辞であると思ふ。
〇爾う云ふて我等が基督と成つたと云ふのではない、吾等は矢張り吾等である、然し基督の基督たる所以は彼は(67)吾等たるを得てそれと同時に亦御自身の神格(Divine Personality)を失はれない事である、彼が吾等に宿り給ふて吾等の生命となり給ふから吾等は救はれるのである、故に実際から云へば是れは神が神御自身を救ひ給ふのであると云ふ事も出来る、而かも神は爾うは欲召さない、神は矢張り吾等の功を以て吾等が救はれたやうに吾等を扱つて下さる、神は先づ吾等を小基督と化し、而して基督としてに非ずして矢張り吾等として吾等を救つて下さるのである、量るべからざる愛とは此事である、贖罪の教義も茲に至て確かむる事の出来る事実となりて吾等の目前に顕はれる、何と感謝すべきではない乎。
 
(68)     〔哥羅西書第一章−第三章〕
                    明治36年2月25日−37年1月21日
                    『聖書之研究』34−48号「註解」                        署名 内村鑑三述 黒木耕一記
 
    哥羅西書講義 第一章〔第一節・第二節〕
 
  (一)神の旨に由てイエスキリストの使徒となれるパウロ及び兄弟テモテ(二)書をキリストに在るコロサイにをる所の聖徒と忠信の兄弟等に贈る 願くば爾曹われらの父なる神および主イエスキリストより恩寵と平康を受よ
 旧約書は全躰に広く真理を蘊めるが故に終始一貫して之を読破せざれば善く其真意の存する所を酌む克はずと雖、新約書特にパウロの書翰に至りては一言一句中に深邃なる真理あり、旧約書は其或部分を刪除して却て妥当なる所ありと雖パウロの書翰に至りては半節半句だも之を減ず可らず、時としては其中の前置詞に於て已に業に福音を発見するなり、蓋し新約書は余りに凝聚せられたり、旧約若し尋常の砂糖ならば新約特にパウロの書翰の如きは精製サカリンにや比較す可からむ。
 斯く言へば或学者は嘲笑せん、曰く保羅の書翰何んぞ爾かく難ならんや、若し汝の言を仮らば新聞雄誌の広告文も人間一生の研究を値するに非ずやと、然り或意味よりすれば新聞雑誌の広告文も容易に之を解かんこと難し、(69)さはれ此れの難きと彼れの難きとは其質甚だ同じからず、彼れの難きは湖水の如し、透明清澄なるも其深測る可らず、見え透けるが如くにして其実太た達し難し、これ予が彼をもて難物なりといふ所以なり、或学者又た謂ふ、哥羅西書は其実保羅の作に非ずして基督後二百年に出でし一偽作に過ぎずと、されど其記す所皆悉く保羅の本領を表はせり、保羅ならざるか、然り若し保羅に非ずんば確に保羅以上の人の作なり、読者諸君善く熟慮して之を味へ、こは旧約書数篇を読むよりも容易ならねば。
 『恩寵と平康を受けよ』は已に数次解明したれば今茲に繰返さじ、第一節に於て先づ注目すべきは『神の旨に由てイエスキリストの使徒となれるパウロ』の一句なり、我れ大に感ずる所ありて使徒となれりなど記しあらんか、其は確に偽作なるべし、国を救はんとして教師となれりとは当世風の言方なり、されどパウロは之と異なり、神の意志によりて使徒となれりとは彼が全身に透徹せる信念なりき、吾曹よく両者を区別するを要す、而して此句中に於て吾曹の特に着眼すべきは『由りて』といふ文字なり、支那日本にてはこの字いと軽々に使用はるゝと雖、パウロに取りてはこの字頗る輕からず、所謂英語の Through にして、平たくいへば其のものによりて、その手段によりてなどいふ特別の深意を有せり、実にパウロが斯る文句を陳べ表はすに至りし迄には彼は何程深き黙思を重ねしぞや、彼は単に建築物より成るが如き今日の教会の権力とか制度儀式とかを標榜して其裏に神の信者たるを呼号せしに非ず、彼は大胆にして真面目なる信仰の下に神と直接の交通を拓き、全宇宙に捕捉へられて吾れ使徒たるが如くに陳べ以て自己の宣言に大権威と大光明とを添へぬ。
 かくも大胆に其信念を陳べしパウロは当時勢力最強盛なる羅馬帝国に捕虜となりて双脚――恐くは双腕も縛められて其自由を失ひ居たりし也、彼は如何にして此書翰を認めたりし、彼れ傍への一人に口授して筆を採らしめ(70)たりしか、事実或は然らん、善く想へ周囲には世界を呑みつくさんとする大羅馬帝国の堂々として其鵬翼を張り居し事を、復た想へ骨枯れ肉落ちたる一小外人の見る蔭もなくて薄暗き牢獄に禁ぜられし事を、斯く比照し来りて如何に其信仰の高崇なるかを想へ、而して更に其意気の殆んど当り難きを想へ。
 兄弟テモテとあるはパウロの弟子なり、コロサイは小亜細亜に在る人口凡そ二千を有せし町、否な寧ろ村邑なりき、ラオダキア、ヒエラポリといふも此邑の近きに在りしなり、コロサイにはパウロの所謂教会ありしもこは唯だヌンパスなる人の家をそれに充てしのみ、(四章十五節参考)其小集会なりしこと例へばこの角筈の如きものなりけん、神の旨に由りて神の使徒となれりと自称せる縲絏の一老人書をこの微々たる団躰に送る、当時に在りて誰れか之に注意する者あるべき、コロサイの万物雲の如くに去き羅馬帝国の大も亦亡び滅びたる今日、多くの学者が測り知る可らざる大真理の独り此書に赫灼たること豈に奇ならずや。
 偖説、『キリストに在るコロサイにをる所の聖徒』はキリストに在るコロサイに在る所の聖徒といふに同じ、コロサイに在ると同時にキリストに在りし也、これ真の基督信者なり、吾等今此の角筈の小屋に座するも尚ほ吾等が霊魂はこを聴き給ふ者の中に在るが如し、多数の信者には兎も角パウロ其人に取りて如斯きは毫も疑ふべからざる普通の考なりしなり。
 『聖徒』とは浄められたる、撰ばれたる、英語に謂ふ所 Separate せられたる人なり、彼は時として不信者よりも尚ほ多くの欠点を有すれども彼は自己の私欲を棄てゝ小我を神の意志中に没し、只啻に善を追ふの奴隷たらんとするが故に、彼は常に過去の罪悪を後悔し、掻きむしらるゝ程に煩悶苦悩し、終に神が下し給へる慈愛の手に縋りて漸々に慰藉の小児たる也、されば不信者いかに義を行ひ徳を樹つるも聖徒とは称す可らず、世の聖人君子(71)亦固より聖徒の中に列せず、鮒は何処迄も鮒なるに相違なし、鯉に非ず、約翰も義人なりけれどキリストは天国の最と小さき者も彼よりは大なりと答へられき、普通の人より見たる善人と神より見たる善人とは其差頗る大なりといはざる可らず。
 『忠信の兄弟』とは誠実にして真面目なる人の意なり、忠実なる兄弟姉妹、これパウロに取りて唯一の慰藉なりしなり、美術や文学は当時に盛なりしと雖忠信の士と称すべきは実に々々指を屈するに過ぎざりき、将軍、知事其他の官吏は陸続跋扈せりと雖是等の人は。パウロより観て一文だの価値もなかりしを如何せんや、此一二節、深く翫味すれば彼の人生観の躍如として現はれ居るを見ん。
 洵に如此きは一点の諂諛なき文章なり、彼れ政治を論じ社会改革を叫んで徒らに誇大の言を弄せず、情味津々の中に神を語り道を説きて其の清きこと今日降り積れる白雪に接するが如し、実に清し、あゝ実に清し、或人はエペソの書を評してこは天の使世に下りしが如し、時に地上の事を語るも翼忽ち蒼天に揚るといひしが哥羅西書亦然り、現世以上国家以外の事を知らんとして新聞雑誌を手にし論語や孟子のみを繙く者は憐むべき哉、凡そ人によりて書かれたるもの中保羅の書の如く美にして意深きはなし。
 
     哥羅西書講義 第一章〔第三節−第六節〕
 
  (三、四)われら爾曹がキリストイエスを信ずる事と諸《すべて》の聖徒を愛する事とを聞て爾曹の為に祈るとき恒に我儕の主イエスキリストの父なる神に感謝す、(五)爾曹が如此聖徒を愛するは爾曹の為に天に蓄へある所のもの即ち曩に福音の真理の道の中にて聞し所のものを望むが故なり(六)この福音は世界に※[行人偏+扁]きが如く爾曹にも(72)来れり 且つなんぢらが之を聞て神の恩を真実に暁りし日より爾曹の中に果を結び益大になれる如く世界にも実を結びて大になれり。
 哥林多前書、腓立比書及び以弗所書等に於てパウロは恒に信、望、愛、を説けり、此の三字はパウロが道徳の三位一躰とも称すべきか、注目せよ本書の三節以下またこの文字の現はれ居ることを、此三者は皆な相互に聯関して離す可らず、信愛は望に因り、望はまた信愛と接触す。
 『われら』は我れパゥロとテモテとをいふ、『われら爾曹がキリストイエスを信ずる事と諸《すべて》の聖徒を愛する事とを聞て…・』といふ三節劈頭の文句に於て如何に信と愛との相密着し居るかを観よ、愛あらば信仰は之れ無きも可なりとは彼の夢にだも想ふ所に非ざりき、信仰なくんば愛なし、愛なくんば信仰なしといふは明白なる事実なれどもこの反対は全然彼に取りて虚妄の言なりし也。
 夫れ信仰は寧ろ頭脳に在りて知識に存す、愛は寧ろ心に在りて情に存す、信仰なしには生活し能はざりしパウロは単へに感情の奴隷となることはなくしてよく理智の上に之を研究《きは》めぬ、彼れは勿論情熱の人なりしと雖亦た理性の人たるを失はざりき、彼れの裏に滾々と尽きざる健全の泉流れしは心に感じたる事を其頭脳もて之を抑ふる余裕ありたればなり、宇宙は誰れが造作になるも可し、キリストは人なるも神なるも不可なしとは彼が情の力之を允さゞりしのみならず又た彼が理智の然諾する所に非ざりき、愛と信とを同一物の両側面と観ぜしものは即ち彼れか。
 『恒に』は不断の意、『我儕の主イエスキ・リストの父なる神に感謝す』 その喃々《くど/\》と形容の長たらしきを注意せよ、彼はたゞに吾儕の神に感謝すといふをもて足れりとせず、吾儕信者が特別の神といふ意を的確に明晰に表は(73)したりき、或人は曰くたゞ神といへばそれにて可し、キリストの父なる神などいふ制限を附して態々窮屈にするの必要なしと、果して然るか、パウロより之を看れば神の特別に有り難く感ぜられしは主《むね》とキリストの父なりしが故也、宇宙万物を創造し給へる神にして又た人類の王なるキリストの父として顧はれ給へる神にあらずんばいかで彼の理智と感情とを満足せしむる値あらんや、キリスト教の神は他の所謂神と異なり、彼は飽く迄も清く、彼は飽く迄も高く、又た彼は飽く迄も慈愛に富めるなり、百匹の羊の中其一匹の失はるれば残れる九十九匹よりもその一つを憫れみ給ひてそを探しあて給ふ程に愛饒かなる神は、特に其の独子を下し給うて人類の罪を贖はしめ給ひぬ、之を我神道の神や希勞羅馬の神と比べよ其差豈に啻に霄壌のみならんや。(第三、四節)。
 爾曹が如此兄弟を愛するは何故ぞ、パウロはは之を説明して曰く、天に希望を有するが故なりと、(五節の後半は『曩に福音の真理の道の中にて聞し所の希望に因るなり』と改訳する方解し易し)然るに学者輩は日く愛は無欲無私なるものなり、其の間一片の私念あるを容さずと、パウロの説非にして学者の説是なるか、物品を得んとて他人を愛し、天皇陛下の御賞与に与らんとて忠義を励むは不善なるべし、されど人にして絶対的の望無き愛を有する者世界の何処に在るか、抑も人は何の望む所なくして同胞を愛する者なりや、何等の希望なくして万物を愛し得る者は之を試みよ、また然か行ひしものあらば茲に其実例を示せ、設《よ》しかゝる人ありといふも予は其の真の愛なりやを信ずる克はざるなり、欲求する所ありて人を愛し物を憐む、利欲といはゞ利欲なるべし、而かもキリスト信者には望まざるを得ざる大望あるを如何にせんや、これをしも望まざらんか我等は人と生れて人となり能はざるなり、この望我等を去りし暁には我等は枯木となり死灰となり終らん耳、角筈の夏期学校に教を聴てより以来今迄厭ひし其姉を愛すると共に貧人の手を執り得るに至りし者あるは何ぞや、或者を得たればなり、或者と(74)は何ぞや天の恵これなり、天よりの恵わが胸中に溢れざる迄は我等の愛は言ふに足らず、ワツトなる詩人はかゝる意味にて歌ひき曰く『若し我名の上天に録せらるゝあらば、我は恐怖の涙を拭うて死の途にゆかん』と、信ずる者よ、信ぜざる者よ進んで天国の希望を受けよ、之を受けて大貴族となり現世以上の大富豪となれよ。之に反対して我等を嘲る者はユニテリアンの中に在らん哲学者の中に在らん、彼等の君子的にして寛大なるは我等の驚歎する所なりと雖如此きは畢竟一の空想たるに過ぎざるなり、キリスト教は空想を説かず吾儕は空想を信ぜず、若し肉躰復活の教義を拒まば同時に慈愛心を斥くるに等し、世人は其余りに現世的ならざるに喫驚せん、されど人の弱点は無限の欲を現世のみに於て充たさんとするに存せずや、炎熱うちつゞく夏の最中、諸君は農民の水喧嘩なるものあるを知れりや、彼等皆な我田に水を引かんとて相鬩ぐこと数日、巡査出張して之を鏡撫するも佩剣徒に鳴りて喧騒容易に治まるべくもあらず、白雨会々一過し来れば村民皆な争を忘れて復た一人の敵者あるを見ざるの光景、われ之を京都に観たりき、人生今日の事また之と似たらずや、心常に乾ける者我不足を小区域内に補充せんとするも其得る所幾許ぞや、今日の政治界実業界教育界及至は宗教界皆其実例を目前に示し居るに非ずや、上天の白雨を望むこと克はずして眼前一掬の水を争ふ人の憐れなることよ、パウロはこを説くことに於て甚だ大胆なりき、之を読まんものよく彼の信仰を道理と実際とに味ひて愛の原動の天の望みに因ることを忘る可らず。
 『福音の真理の道』とは何ぞ、パウロは所謂純粋の抽象的真理を欲せざりき、血もなく肉もなき冷真理、水の清きが如き無味の真理は全く彼と関係なき真理なりき、彼の欲せしは福音的の真理なりき、人は原初に於て大罪を犯せりと雖愛の神は其死を喜び給はざるが故に其独子を下して人類救済の道を拓き給へりといふは彼が十二分(75)に満足を表したる唯一の真理なりしなり、されば唯だ盗む勿れ、公平なれといふ教をもて満足する2+2=4的の数理的道学家は決して。パウロの論に同感すること能はざらん。
 実に基督教は特別の真理と特別の正義とを有す、吾等が説く正義公道と普通演説家の述ぶる正義公道とは其内容大に相異なる、之を聴く者はたゞ英語の同一なるを耳にして自分勝手の拍手すること難有しといはんよりも我等にとりては寧ろ迷惑至極なり、演説家は正義公道といふ名目の下に立ちて財産の平分と貴族廃止を主張すれど我等が唱ふるは主として福音の正義公道なり、非福音的真理を唱ふる人夥しき世に方りては我等は福音の二字を其上に附加するの已むなきを感ず、『福音の真理の道の中にて聞し所の望』とは何ぞ、肉躰復活とキリスト再来の望とこれなり、かゝること無しといふ者あらばそれ迄なり、迷信を哂はゞ我等は唯だ其笑ふに任せん、但し我等が正直に真面目に聖書の文字を読む以上はいかにしてもこの解釈を拒むこと能はず、故に我等は飽迄も繰返していふ、我等の卑しき身躰は終には清き新しき躰もて栄光あるキリストの政治を受くるに至らんと、爾かして我等は是の信念あるが為め欣喜雀躍して天地一切を愛するに至ると。
 世界的宗教といへばキリスト教なること今日に於ては多くの不信者も尚ほ且つ之を許すに至れりりと雖、パウロ当時はこの教年を経ること纔に三十、信ずる者亦いと僅少にして教会といふもピリピ、エペソ、コリント及びコロサイ等に小団躰ありしに過ぎず、況んやパウロ自身は旭日瞠々たる羅馬大帝国の一牢獄に繋がれて手足の自由だも得能はざりしに拘はらず、彼は臆面もなく記して曰く『この福音は世界に※[行人偏+扁]きが如く爾曹にも来れり………爾曹の中に果を結び益大になれる如く世界にも果を結びて大になれり』と、大胆なる哉パウロ、パウロならずして誰れかかゝる言を放ち得んや、今日キリスト教の勢力は頗る大なるにも拘らず、なほ黄金力の万能を唱へて(76)キリスト教の衰徽を歎くものあるに非ずや、世にパウロ程大なる人なし、されど彼は徒に誇大の言を弄する者にあらざりき、聖書は今や世界の書となり、我等も小なるこの一室に於てアーメンの声と共に世界の書を読みつゝあるなり、此の世界の書によりて結ばるゝ果の如何に大になる可きぞ、我等も福音の真理を受けしに由り今や世界各国第一流の哲学者、宗教家、詩人、政治家と過現未の境界を外して同一様の心的経験をなし同一様に悲み同一様に慰められてありと思へばパウロが信仰の偉大なりしを感ずると同時に又た我等の幸福を喜ばざるを得ざるなり(第六節) 〔以上、2・25〕
 
     哥羅西書註解 第一章〔第七節−第一二節〕
 
  内村生白す、黒木君の鋭利の筆を以てしても充分に余の意を読者に通ずるの難きを覚りしが故に此編も亦余自身筆を取ることとなせり
 
  (七の上)かく福音は我儕の愛する同じ役者《つかへびと》ヱパフラスより爾曹が学べる所なり
 「かく」は「此の」なり、前節に言へる世界に※[行人偏+扁]くして果を結びて 益大になれる福音を云ふなり〇「役者」は労役者なり、福音宣伝のために神に使役せらるゝ労働者なり、神の被雇人なり、其名こそ卑しけれ、無上の特権と栄誉とを佩る者なり 〇「同じ役者」は彼れパウロと偕に同じ主に使役せられ同じ聖業を以て委ねられたる者なり、測ること能はざるキリストの富を異邦人の中に宣伝ふる事、(以弗所書三章八節)、是れパウロの任務にして亦ヱパフラスの聖職なりし、使徒パウロに同じ役者即ち同僚者を以て称ばれしヱパフラスの栄誉も亦大ならずや 〇「ヱパフラス」 エペソに於てパウロより福音を聞き、後、コロサイ、ラオダキヤ、ヒエラポリ等小亜細亜の各(77)地に伝道せる人なりしが如し、パウロの如き人を師とし仰ぎ、友として持ちしが故に彼の名は世界万民に永久唱へらるゝに至れり、持つべきは善き友にして敬ふべきは善き師なるかな、〇「学べる所なり」教へられし所なり、我が友ヱパフラスの伝へし福音は信頼すべき福音なり、是れ似て非なる異なる福音にあらずと、パウロは其友ヱパフラスの宣伝せし福音の真価を証明して暗々裡に彼れパフラスの人物を称揚せり。
  (七の下)ヱパフラスは爾曹のためにキリストの忠信なる僕なり。
 キリストの忠信なる下僕なり、而かもキリストに事へんとして爾曹に事ふる者なり、直接に爾曹に対して忠信なるに非ず、我も我儕と均しくキリストの僕なれば先づ直にキリストに対して忠信ならざるべからず、然れどもキリストは今は見えざる者となりて見えざる父と偕に在り給ふが故に、我儕此世に在て彼に忠信ならんと欲せば、彼の愛する者なる爾曹に忠信ならざるべからず、而かも知れ、世に此忠信に優る忠信なきことを、キリストに縁て、或はキリストの為めにする愛が無比最上極美の愛なり。
  (八)彼さきに爾曹が霊に感じて懐ける愛を我儕に告ぐ。
 「霊に感じて懐ける」は訳者の意訳に成りし言辞なり、原意の直訳に非ず、原語は単に霊に在る(en)愛と云ふに過ぎず、聖霊に在て有てる愛、聖霊に浸たされ、其中に身を投じて其結果として得たる愛と解すべし、即ち単に天然の至情を云ふに非ず、霊に因て神より賜ひし愛を云ふなり、愛の最も清潔にして最も濃厚なる者なり。
  (九の上)是故に我儕この事を聞きし日より爾曹の為めに断ず祈祷をし且つ求む。
 コロサイの信者が天来の愛に接せりと聞きし日よりパウロは未だ面のあたり彼等を知らざりしと雖も(二章五節参考)彼等の既に霊に於ける彼の真個の兄弟姉妹たるを知りたれば彼は其日より彼等のために祈祷て止まざり(78)しとなり、聖徒の交際は祈祷の交際なり、是に夷狄或はスクテヤ人或は隷或は自主の別あるなし(三章十一節)〇祈祷は祈願のみに非ず、讃美も祈祷なり、感謝も祈祷なり、心に恩恵を感ずること、是れキリスト信者の祈祷なり、故にパウロは云ふ、我れ爾曹のために祈祷をし且つ祈求すと。
  (九の下)爾曹霊の予ふる諸の智慧と穎悟《さとり》とを以て悉く神の旨を知り。
 コロサイ人に関するパウロの祈祷の一節なり、〇智慧(sophia)は智能なり、処世の上に顕はるべき智慧の実際的応用なり、キリスト信者は権謀を用ゐず、然れども彼は愚かなる者の如くに世を過すべからず、(以弗所書五章十五節)、彼は行じ得べき所は力を竭して人々と睦み親まざるべからず、(羅馬書十二章十八節)、彼も亦処世の技術を要するなり、茲に於てか彼は聖霊の予ふる応用的智能即ち茲に所謂智慧を要するなり、〇「穎悟」は智慧の更らに深き者なり、其依て来る泉源なり、キリスト信者が善を為すべきの理由、並に其動機に関する智識なり、是れ亦た聖霊の賜ふ所にして、キリスト信者の最も熱望すべき者なり、彼は浅薄なる哲理の上に彼の行為を築くべからず、彼は実践的道徳家たるに止まらず、亦た哲学者たるべきなり、深く解して高く行ふべきなり、或る深き理由あるが故に智《かしこ》く世を渡らんと欲する者たるべきなり〇「以て」、は在て(en)なり、(第八節註解参考)、霊《みたま》の予ふる諸の智慧と穎悟とに充たされて(其中に投ぜられて、或は浸たされて、或は之に繞囲《とりまか》れて)神の旨を知るに至らんことをとの祈祷なり、智慧と穎悟を以てするは勿論、全く之に包まれて云々、希勞語のen(英語のin、中にとか、又は於てとか訳す)に此深き博き意味存す、〇「神の旨」 神の意志、宇宙万物の中心の中心、哲学の目的点、宗教の極致…………パウロはコロサイの信者が智識の此終局点に達せんことを求《ねが》へり、彼の哲学的慾望も亦無疆ならずや〇「悉くヽヽヽヽ知り」、原語に於ては一字なり、知り悉くすの意なり、神の意志を知り悉くすと云ふ、(79)哲学者をして曰はしめば是れ無謀の慾望なりと云はん、然れども是れパウロの祈願なりし、亦た我儕総てキリストに託りて神を信ずる者の懐くことを許さるゝ慾望なりと云はざるべからず、〇霊《みたま》の予ふる諸の智慧を以て行ひ穎悟を以て探り、以て神の旨を知り悉さんことをと、神の深事《ふかきこと》を知るに唯此途あるのみ、神は神に依るにあらざれば到底知る能はず、聖霊は万事を知り、神の深事を究知るなり(哥林多前書二章十節)、最も深奥なる哲学は神の啓示を仰ぐの哲学なり。
  (十の上)凡ての事主を悦ばせんが為めにその意《みこころ》に循ひて日を送り、
 原文を直訳すれば左の如し
  凡て悦ばせんために主に符《かな》ひて行ひ
 主に符ふとは主の意に符ふ(循ふ)とも、亦た主の名に符ふ(恥ざるやうに)とも解するを得べし、即ち以弗所書四章一節に於て召されし召に符ひて行はんこと、又は腓立比書一章廿七節に於てキリストの福音に符ふ行をせんことをとあると同意義なり、キリスト信者は万事を行ふに方て彼の地位相応の事を為さざるべからず、即ち彼は「光の子輩《こども》」なれば光に在るが如くに歩むべきなり、亦彼の国は天に在れば彼は地に財を蓄ふることなくして、天に在るものを求むべきなり、「全能なる神の紳士」とはキリスト信者の尊称なり、彼に野卑なること、庸劣なること、汚穢なることのあるべからざる理由は彼の高貴なる職責に存するなり、〇彼は亦(主を)悦ばせんがために凡ての事を行さゞるべからず、僕たる者は万事に於て其主の意を迎へざるべからず、キリスト信者はキリストの心を以て其心となし、キリストを悦ばすことを以て其第一の喜悦となさゞるべからず、人は必ず其愛する者を悦ばせんと欲す、キリスト信者は神を悦ばせんとて其身を処す、彼も亦恋愛の人なり、而かも第一に宇宙の造主な(80)る神を愛し、彼を悦ばせんとて日を送るなり、(テサロニケ前書四章一節)、〇一には主の名に符《かな》はんがために、二には主の心を悦ばせんが為めに行ひ(日を送る)、此心を以てしてキリスト信者の生涯は高潔にして謙遜、柔和ならざらんと欲するも得ず。
  (十ノ中)凡の善事に因て果を結び
 「凡」 パウロ特愛の言辞なり、諸ての聖徒を愛し(三節)、諸ての智慧と穎悟とを予へられ(九節)、凡ての事主の名に符ひ、凡ての善事に因て果を結ばんことを祈る、彼の神は諸ての物を以て諸ての物を満たしむる者なれば(エペソ書一章廿三節)、彼も亦諸ての善き物を望んで歇まず、恰かも万事に充溢を望む小児の如し、〇「善事」は勿論善行なり、勿論今日の所謂慈善事業なるものを謂ふに非ず、「善事」は心より湧出する善業なり、其結果如何を念はずして、感恩の念に駆られて自然に為す善行なり、〇「因て」は在て(en)なり、前節に於けるが如し、善行に在ては善行の中に在てなり、即ち善行多くして恰かも彼の身は其中に在るが如き境遇を作りてとの意なり、単に僅少の善行を奨励するに非ず、饒多の善行を促すなり、パウロの宗教はナポレオンの戦争の如し、彼は軍需品の常に充実せんことを要求す 〇「果を結び」 聖霊の結ぶ所の果なり、即ち仁愛、喜楽、平和、忍耐の類、加拉太書第五章廿二、三に載せて審かなり、我儕が善事を為すは之に由て人を救はんが為めにもあらず、亦人に賞められ社会に崇められんがためにあらざるは勿論なり、我儕キリスト信者は善行を為して善の境遇(空気《アトモスヒヤ》)を作り、身を其中に置て聖霊の結ぶ所の果を結ばんと欲す、恰かも荊棘を拓き、空気を潔めて其中に佳良の穀類を穫んと欲するに等し、我儕に取ては善行は方法にして目的に非ず、我儕は善を行さんがために宗教を信ぜず、宗教を信ぜんがために善を行さんとするなり、而かして我儕は知る、此心を以て為すにあらざれば善行は真の善行にあら(81)ざることを。
  (十ノ下)且つ神を知るに因りて漸《やゝ》に徳を増し、
 原文を直訳すれば「神に関する深き智識に向て成長し」となる、成長は勿論霊の成長にして、其の霊に由りて結ぶ果の益々大且つ多からんことなり、而して成長の目的は神に関して益々深く知らんと欲するに在り、永生他なし、唯独の真神を知ること是なり(約翰伝十七章三節)、キリスト信徒の生涯の目的は我が知らるゝ如く神を知るに至らんことなり(コリント前書十四章十二節)、「神を知るに因りて漸に徳を増し」なる日本訳は手段と目的とを顛倒するが故に正格なるものにあらずと信ず。
 (十一ノ上)また神の栄の権威に循ひて賜ふ諸ての能力を得て強くなり
 「栄」は顕はれたる神の栄にして造化を指して云へる言辞なるべし、「諸《もろ/\》の天は其栄光を顕はし、穹蒼《おほそら》はその手の工《わざ》を示す」(詩篇第十九篇一節)、「権威」は今日科学者の称する力なり、故に神の栄の権威なる辞句は之を今日の科学の術語を以てすれば「宇宙の力」と訳するを得べし、即ち万有を支え、之を動かし、之を発育せしむる力なり、〇「循ひて」は相応してとか又は準じてとか解すべし 即ち神の実力相応の援助を得てとの意なり、〇「諸《もろ/\》」 又すべてと訓むべし、パウロ特愛のすべてなり、〇「能力を得て強くなり」「能力を得て能力附《ちからづ》けられて」と読むべし、万有に顕はれたる力に準じて神が我儕に賜ふ諸ての能力を得て強くなれとの意なり、怒濤逆巻く海に対しては神の力を念ひて之に準じたる能力を我が霊に得て強くならんことを求ひ、雷鳴に震ふ山に対しても亦神の力の大を念ひて之に準じたる能力を得て強くならんことを祈り、高きを仰ぐも低きに伏するも造化到る所に神の力を念ひて之に準じたる能力を我が衷に得て強くならんことを願ふ、キリスト信徒の神は宇宙万物の造(82)主なり、故に我がたすけは天地を造り給へるヱホバより来る(詩篇百廿一扁一節)、我儕の欲望は大なり、然れども之を充たすに足るの力は我儕の倚り頼むヱホバに在り、我等何んぞ多大の慾望を起さゞらんや。
  (十一ノ下)凡《すべて》の事よろこびて恒忍《しの》び且つ久耐《たへ》
 「凡」 パウロ特愛のすべて 〇「恒忍」は罵詈嘲笑虐遇の下に忍耐《たへしのぶ》ことなり、「久耐」は忍耐の特長なり「恒忍《しの》び且つ久耐《た》え」は強く忍び長く忍ぶことなり、〇「よろこびて」単に忍ぶに止まらず、歓びて忍ぶなり、忍耐より其苦痛を取り去ることなり、茲に於てか忍耐は忍耐にあらざるに至るなり。〇キリスト信者は万有に顕はれたる神の力に準じたる能力を獲るを得、然れども彼等は之を獲て彼等の威厳を世に張らんがために用ゐず、彼等は之を自己を制するために用ゆ、恰かも※[さんずい+氣]関車の全力を惹起して斜道を奔下する列車にブレーキ(制動機)を当つるが如し、自己を制し得る者は敵の砦を取る者よりも強し、人、その凡ての恚憾と忿怒とを制せんがためには、彼は万有を支ゆるに足るの力を要するなり。
  (十二)また我儕をして光にある聖徒の業《げふ》の分《わかち》を受くるに堪ふる者とならしめ給ふ父の恩《めぐみ》を感謝せんことを。
 「光にある聖徒」光の中に在りて(en)潔められたる者、即ち真性のキリスト信者なり、聖徒は勿論世の所謂る聖人に非ず、聖人は聖き人にして聖徒は聖められし者なり、義人一人もなき此世に聖人なる者はキリストを除いて他に一人もあるべき筈なし、救はれし罪人、是れパウロの謂ふ所の聖徒なり 〇「光」は神の光なり、即ちキリストなり、ヨハネ伝一章十節参考 〇キリストに在る者、是れ即ちキリスト信者なり、〇「業」は譲与せらるべき財産なり、而してキリスト信徒の承け継ぐべき財産は来らんとする天国の栄光なり 〇「分」は分配なり、〇「受(83)くるに堪ふる者」は神の国を承け継ぐ資格を賦与せられし者なり、〇「ならしめ給ふ」 我儕自から望んで天国の相続人となる能はず、之れたるを得さしめ給ひし者は父なる神なり、〇「恩」 天国の世嗣とならしめ給ふ、是れ大なる恩恵なり 〇「感謝せんことを」 是れ第九節に始まりしコロサイの信徒に関するパゥロの祈願の終りなり、パウロはコロサイ人が神に其恩を感謝せんことを祈りしなり、恩恵の最も大なる者は感謝の心なり、此恩恵の降らんこと、即ち感謝の心の彼の信仰の友の心の中に起らんことをパウロは祈りしなり、パウロの祈求は宜べなり、我儕も我儕の友人が我儕に就て斯く祈らんことみ欲ふ。
       ――――――――――
 深い哉パウロの言、神に教へられずして誰か斯の如き言を発するを得んや、哥羅西書も亦確かに神の言なり、之にあらずと曰ふ者は深く之を究めざる者なり、聖霊の予ふる智慧と穎悟とを以て之を究めて我儕は其正さに活ける神の活ける真理の言なるを知るなり。 〔以上、3・10〕
 
    保羅の基督観 哥羅西書第一章〔第一三節−第二〇節〕
 
  (十三)彼は暗の権威より我儕を救出して其愛子の国に還し給へり。
 「暗」は悪魔なり、前節に於ける「光」即ちキリストに対して言ふ、悪魔の全性は暗黒なり 故に彼を称して「斯世の幽暗を宰どる者また天の処にある悪の霊」と云ふ(エペソ書六ノ十二)、疑察、讒誣、陥※[手偏+齊]、很毒、是れ彼の特性なり、彼の権威の下にある者は善を識るに鈍くして悪を覚るに鋭く、社会の腐敗を歎ずると称して、実は光明の斯世に臨むを恐る、自身幽暗の子なるが故に、凡ての方法を竭くして光明を蔽はんと欲す、而かも彼等は(84)幽暗を以て己を装はず、自から貌を変じて光明の使の如くになりて世に顕はる。〇「救出し」 errusato 引き出すの意なり、我が本来の性は光明を憎み幽暗を愛するものなりしに関はらず、神は我を愛する余り、我の志望に反し、強ひて我を悪魔の手よりモギ取り給ひしとの意なり、我の救はれしは我れ自から望み、自から努めて救はれしにあらず、キリストの愛我を勉《はげま》し(余儀なくし)たれば、我は終に救はれざるを得ざるに至りしとの意なり。〇「愛子」 原文に循ひ愛の子と読むべし、勿論キリストなり、愛の結果たる子、キリストが神の愛子たる其理由を示す。〇「遷し給へり」 「救出し」と相対して解すべし、たゞに危険より引出し給ひしのみならず、亦安全の地位に遷し給へり、即ち我儕の救拯を全うし給へり、我儕の手を藉りずして、神の強き手を以て我儕が自から為す能はざることを我儕のために為し給へり。
  (十四) 我儕其子に由りて贖即ち罪の赦を得るなり。
 「由りて」(en)、其中に在て。〇「贖即ち罪の赦」、基督教の大教義なり、罪は赦されんためには贖はれざる可らず、血を流すこと有ざれば赦さるゝ事なし(ヘブライ書九ノ二二)、何故に然るかは余輩の茲に論究すべき事に非ず、然れども其然る事実は赦されし者の悉く実験する所なり、キリストの血に縁らずして罪の赦免あるなし、即ち赦免に伴ふ平和、歓喜、安心あるなし、是れ神が人類に供し給ひし唯一の客観的赦免なり、其他の赦免は総て主観的なり、即ち「我は救はれたり」と念はしむるのみにして赦免の実果を供せざる赦免なり。
  (十五)彼は人の見ることを得ざる神の状にして万の造られし物の先に生れし者なり。
 「状《かたち》」又は「像《かたち》」(コリント後書四ノ四)、人の目に見ゆる形像なり、人の見ることを得ざる神の見ることを得る状、是れ即ちイエスキリストなり、彼は神の栄の光輝其質の真像なり(ヘブライ書一の三)、神が肉体となりて(85)顯はれし者、拝崇の目的物として人類に供せられし者なり、故にイエスは其弟子に曰ひ給へり我を見し者は父を見しなりと(ヨハネ伝十四の九)、人、或は曰はん、如斯き事はあるべからず、宇宙を充たす神は五尺の躰を取りて此世に顕はるべきにあらずと、然れども我儕は曰はんと欲す、来り観よと、来て其神たるを試みよと、或る前提に束縛されて事実を拒むは学者の精神に戻る、先づ事実を確かめて、然る後に説を立つべし、先づイエスを試みて然る後に汝のキリスト観を作れよ、然らば汝は大工の子なりしナザレのイエスは実に誠に神の子なるを識らむと。〇万物は造られしものにしてイエスは其先きに生れし者なり、父の生み給へる独子、とはキリストの名称なり(ヨハネ伝一の一四)、神は其像の如くに人を創造り給ひしかども(創世記一の二七)、キリストは神の実質の真像其物なり、キリストが我儕人類と全く其素質を異にし給ふことは聖書記者の等しく唱ふる所なり。〇「生れし者なり」とあるはキリストが生れざりし時ありしを示すための言辞にあらず、生れしとは万物の先に生れしとの意なり、此辞句を以てキリストの存在に或る一定の時限ありしが如くに推断するは誤れり、キリスト永遠の存在の事実は聖書の他の記事の充分に証明する所なり。〇一説に先きに生れし者と訳されし原語 Prototokos は長子の意にして、万の造られし物の長子とは万物を譲受くべき嗣子の意なりと云ふ、或は然らん、若し Prototokos に此意義ありとすれば此一節を解すること至て易し。
  (十六の上) そは彼に由りて万物は造られたり。
 「そは」、キリストが万物の長たる理由は、或は、彼が世の創始より神と偕にあり、即ち神なる理由は(ヨハネ伝一の一)。〇「彼に由りて」 彼に在りて〇「万物は造られたり」 父は独り自から万物を造り給はず、彼は子に在りて、即ち子を以て、即ち子に其能力を移して、子をして之を造らしめ給へり、故に万物が神に対する関係は(86)(若し人間の言辞を藉りて言はんには)子に対しては直接にして、父に対しては間接なり、然れども子を通しての間接なるが故に、最も直接なる間接なり。〇父は子に在て万物を造り、万物は子に在りて父と連結す、我儕も亦た子に在りて造られたる者なれば我儕が神を離れて迷へる羊となりしや、父は子に在りて我儕のために救拯の途を開き、我儕は亦其子に在りて父に還るを得たり、キリストに在りてなり、神の愛も、我儕の救拯も、万物の創造も其復興も、皆なキリストに在りてなり、キリストは天と地とが相聯結する所なり。
  (十六の中) 天に在るもの、地上に在るもの。
 日と月と星とネビエラとエーテルと凡て無限の空間を充たすものと、人と動物と植物と鉱物と、直径八千哩の此驚くべき小豆大の地球に存在する有ると凡ゆる者是れ皆なイヱスキリストの造り給ひし所のものなりと言ふ、イエス大なる乎、宇宙小なる乎、ナザレの僻村に大工の業を執りし手は実に山岳を刻みし手なる乎、羅馬の兵卒に釘もて釘けられし手は実に大空に参宿昴宿を懸けし手なる乎、吾等の智識は完からず然れども吾等の信仰は此驚く可き事実を信ぜんことを欲《ねが》ふ、神よ、願くは我儕の信なきを助け給へ。
  (十六の中) 人の見ることを得るもの見ることを得ざるもの。
 五官を以て感じ得るもの、感じ得ざるもの、肉体も霊魂も、物質も之に顕はるゝ総てのエネルギー(力)も、人間も天使も、悪人も悪魔も、皆なキリストより其存在を受けし者なりと、唯彼に在る者は生き、彼を離れし者は死するの別あるのみ、故に我儕主に在る者は何をか怕れん、我儕何処に到るも主の在さゞる所に到る能はず、我儕何者に襲はるゝも主の統御せざる者に襲はるゝの患ひなし、悪魔も素とは主の造り給ひし者、勿論悪魔としては造り給はざりしと雖も、而かも彼と雖も今に尚ほ主の権威を承認す、宇宙何物をもキリストに救はれし我儕の(87)平安を擾す能はず、我儕はイエスが完全なる救主なるを知て彼が同時に万物の造主なるを覚るなり。
  (十六の下の一) 或は位ある者、或は主たる者、或は政を執る者、或は権威ある者。
 位と称する位、主と称する主、凡ての政府、凡ての権能、是れ亦た主の造り且つ立て給ひし者なりといふ、位に在る者は神に在て在るなり、神の許可なくして位に座する者は之を盗む者なり、又人の主たるは神に由りて主たるなり、即ち神に代はりて人を宰り且つ導くなり、然るを此明白なる一事を忘れて、己れ人なるに神なるが如くに行ひ、我は性来の君にして汝は性来の臣なるが故に汝は絶対的に我に服従するの義務ありと唱ふる者は神を涜し己を欺く者なり、政府何物ぞ、政権何物ぞ、是れ皆な神のために造られし者なり、君のために造られしに非ず、臣のために造られしに非ず、国家のために造られしにあらず、然り、人類のために造られしに非ず、父なる神が其子に由りて其子のために造りし者なり、汝此事を言ふパウロと我とを狂人と称ふか。汝の眼を開いて世界歴史を見よ、人の政治は徐々としてイエスの政治となりつゝあるに非ずや、イエスを十字架に釘けし羅馬政府を承継ぎし者は何者ぞ、カール大帝(シャーレマン)は何人の名に由りてイエスの生後八百年に新帝国を建てしぞ、英吉利皇帝は誰の名に由りて今や世界の六分の一に王たるぞ。露西亜皇帝は誰の名に由りてバルチック海より太平洋に到るまでの彼の領土を支配するぞ、イエスの名に由りてなり、然り、聖き貴きイエスの名に由りてなり、イエスの名に由りて今や千万の軍勢は立《たちどころ》に起つなり、イエスの名に由るにあらざれば今や文明国に在ては何人も皇帝たること能はず、大統領たること能はざるなり。
   子にくちづけせよ、おそらくは
   かれ怒をはなち、汝等|途《みち》にほろびん
(88)                  (詩篇二の十二)
  (十六下の二) 万物彼に由りて造られたり、且つ其造られたるは彼が為なり。
 「由りて」 dia 託りてなり、(ロマ書一の二参考)、英語に之を through と訳す、彼を通してとも訳するを得べし。前にありし en(由りて、又は在りて)とは異なる、dia は手段又は媒介を示す前置詞なり、言ふ意は神はキリストを用ゐて万物を造り給ひしとなり、或はキリストをして此業に当らしめ給ひしと解するも可なり、依て知る託りては在りての如く抱括的の言辞にあらざるを、然れども二者各に其独特の意義存するは明かなり。〇万物は彼に託りて彼の為めに(eis、英語のfor)造られたり、原文を直訳すれば左の如し。
  万物は彼に託りて彼の為めに造られたり。
 余は此直訳の普通の邦訳に優りて遙かに力強きを覚ゆ。〇神はキリストを以てキリストの為めに万物を造り給へり、神は彼れ自身にて完全なる者なれば彼に万物を造るの必要はなかりしなり、彼は即ち彼の本性に促がされて止むを得ず宇宙万物を造り給はざりしなり、彼は一つの明白なる目的を以て一つの明白なる手段に託りて之を造り給ひしなり、彼は即ちキリストに託りてキリストのために之を造り給ひしなり。〇山を築きし能力は己を虚うし僕の貌を取り、死に至るまで順ひ、十字架の死をさへ受けし忍耐力なりし、宇宙の存在する目的は槽《うまぶね》の中に生れし一貧児に栄の冠を捧げんが為めなり、貴きかな此教義、此教義に由りて宇宙を見る時は旧きは去りて万物みな新しくなるなり(コリント後書五の十七)。
  (十七) 彼は万物より先きに在り万物は彼に由りて存つことを得るなり。
 「万物より先きにあり(esti)」 「ありし」に非ず、即ち彼はアブラハムの有らざりし先きより在る者なり(ヨハ(89)ネ伝八の五八)、姶なき者、終なき者、永遠の実在者、常に現在して過去も未来もなき者なり。〇「存つ」sunesteike、「聯結」或は「相倚て立つ」の意なり、万物彼に由て(en 在りて)存つとは彼を中心とし、相聯結し相倚て立つの意なり、太陽系に属する諸遊星と其衛星とが太陽に由りて存つが如くに、宇宙万物は其大なると小なるとを問はず、其人の目に見ゆると見えざるとに係はらず、皆なキリストに由りて(在りて)存つなり、ライトフート氏曰く「彼(キリスト)は宇宙に於ける粘着性の本原なり、彼は造化の上に一致と共同の性を印し、之をして渾沌《ケオス》たらしめずして整躰《コズモス》たらしむ」と。
       ――――――――――
 以上はパウロの基督観にして亦た彼の宇宙観なり、其宏遠にして且つ大胆なる殆んど吾人の想像外に有り、而かも彼は是を述ぶるに方て少しも彼の常識を乱すが如き態度を示さず、平然として哲学者が明瞭なる哲理を講ずるが如くに、此非常の言を発す、而して科学の進歩を以て誇る近世の科学者はパウロの此言に接して如何ともする能はず、彼に抗する能はず、亦彼に賛する能はず、啻彼の大胆なる而かも平静なる陳述を聞て驚くのみ、然れども誰か知らん是れ宇宙存立の唯一の説明に非ざることを、科学も哲学も尚ほ未だ稚幼の時代にあり、其宇宙を完全に説明し得る時はパウロの此言其儘を採用する時なるやも未だ以て知るべからざるなり。
       ――――――――――
  (十八の上)教会は彼の身体にして彼は其首なり。
 訳文宜しからず、彼は亦(kai)彼の身体なる教会の首なりと訳すべし、教会と他の受造物との関係を示して云へるなり。〇「教会」、聖徒の心霊的団躰なり、「日本基督教会」とか又は「組合教会」とか称する一種の政治的又は(90)社交的団合を指して云ふに非ず、宇宙がキリストの権能の顕はるゝ所なるが如く教会は彼の恩恵の宿る所なり 恩恵の宇宙(Universe of Grace)、是れ即ち教会なり、而して神はキリストに託りて宇宙(物質的)を造り給ひしかども、教会は之を彼に託りて生み給へり、(ペテロ前書一の三 ヤコブ書一の十八、ヨハネ第一書五の十八等参考)、即ち宇宙はキリストの手を以て造られしものなれども教会はキリストを首《かしら》として成長せしものなり、二者の別は殆んど無機躰と有機躰との別なり。〇キリストは宇宙万物の造主なり、彼は亦(kai)彼の身体なる教会の首なり、教会は彼より生ぜし者なるが故に性を彼と偕にす 宇宙は彼に依て造られし者なるが故に、彼に従属するも彼と質を異にす、故に聖書は曰ふ、「性来《うまれつき》のまゝなる(天然的の)人は神の霊《みたま》の情《こと》を受けず………然れど我儕はキリストの心を有てり」と(コリント前書二の十四、十六)。
  (十八の下)彼は元始《はじめ》にして凡ての事につき長《をさ》とならん為に死の中より首《はじめ》に生れしものなり。
 少しく辞句の順序を転ずれば全節の意味は一層明瞭なるを得ん。
 彼は元始なり、死の中より首めに生れし者なり、是れ彼が凡ての事につき長たらんが為なり。
 「元始」 特に教会の元始なり、教会は彼を以て始まりし者なり。〇「死の中より首めに生れし者」 キリストの復活を言ふ、特に死して甦へりし者、即ち死に勝たんがためにキリスト死の中より生れて、死は勝に呑れ(コリント前書十五の五四)、茲に無死の生涯は此世に開始せられしなり。〇「是れ凡ての事につき長たらん為なり」最後《いやはて》に滅さるゝ敵は死なり(コリント前書十五の廿六)、キリスト死の中より生れて彼は最後の敵を滅して凡ての事につき(或は凡ての物の中にとも解するを得べし)長となれり、教会は万物を以て万物を満たしむる者の満てる所なり(エペソ書一の廿三)、キリストは死より生れしに由りて此教会の長となり給へり、斯くて彼は教会、宇宙、(91)総躰の長となり給へり、彼は永遠|頌美《ほむ》べき者也アーメン。
  (十九) そは父すべての徳を以て彼に満たしめ。
 訳者の意訳なり、能く原意を写せしものと称ふを得ず、余輩は此場合に於けるも原文の直訳の凡ての意訳に数層優ることを認めずんばあらず。
  そは彼に在て凡て全満の宿らんことは是れ(父の)聖旨に適へばなり。
 余輩が茲に全満と訳せし希臘語の Pleromo はパウロ独特の用語にして、約翰伝第一章十六節に於けるの外はパウロの使用せし意味に於て曾て此語の他の聖書記者に依て用ひられしを見ず、其何物を意味する語なる乎はパウロが此語を使用せし句節を悉く列挙するにあらざれば之を詳述する能はずと雖も、たゞ其徳の一事に限られたる言辞にあらざるは余輩の茲に断言するを憚からざる所なり 全満は凡ての頌美べきもの、敬慕《した》ふべき者、祈求《もとむ》べきものゝ全満ならざるべからず、之を真善美の満全と解して稍や真意に近からん乎。〇「宿らん云々」 永遠に宿りて終に彼を去ることなからんことをとの意なり(katoikeisai)、即ち凡ての善きものはキリストに在て充満し、彼に在て確在し、然る後に彼より流れ出て宇宙教会両つながらを恩恵せんこと、是れ父の聖旨に適へりとの意なるが如し。
  (二十の上) 其十字架の血に託りて平和を為し。
 人は神を離れ万物も亦人に託りて神より遠かりたれば、神はキリストの十字架の血に託りて再び彼と人併に万有との間に平和を快復し給へり、十字架上の贖ひたる単に人類のみの救済のためにあらずして、万有も亦た之に由りて復興の恩恵に与からんがためなりしとは聖書の所々に記述する所なり(行伝三の廿一、ロマ書八の廿二等(92)参考)、其何故に然るかは神学上の問題にして茲に論究すべきものに非ず。
  (二十の下) 万物即ち地上に在るもの天に在るものをして彼に由りて己に和《やわら》がしむる事………是れ其聖旨に適ふことなれば也。
 前半節の意を受けて更らに之を敷衍せしものなり、即ち平和は神と人との間に限らず、神と万物との間にまで及べりとの意なり、〇キリストは人類の救主なるのみならず、亦た万物の救主なり、彼に依りて草も木も鳥も獣も其終局の発育に達するを得るなり 受造者《つくられたるもの》自から敗壊の奴たることを脱がれ、神の諸子《こたち》の栄なる自由に入らんことを許されんとの希望を有たされたり(ロマ書八の廿一)、宇宙は実に其完全に達し、万物各其所を得て、狼は小羊と偕に宿り、豹は小山羊と共に臥し、犢、雄獅、肥たる家畜共に居りて、小さき童子《わらべ》に導かれ、乳児《ちのみご》は毒蛇の穴の辺に戯ふれるに至らん(イザヤ書十一の六、七、八)、是れ予言者の夢想なりし、而して今日と雖も未だ其夢想が実となりて顕れたりといふを得ず、然れども福音の輝き渉る所に剥がれし山は再び森林の衣を以て蔽はれ、獣畜の安全は人の顧慮する所となりて、到る処に動物虐待防止の声を聞くに至りしは是れ正さに贖罪の恩恵が山と林と下等動物とにまで※[しんにょう+台]びつゝあるの徴候にあらずや、キリストに縁りて息も獣も救はるべし、山も森も林も救はるべし、楽園は彼に縁りて再び此世に臨むべし、エホバ言ひ給はく、「其日には我れ我が民のために野の獣、空の鳥、及び地の昆虫《はふもの》と誓約を結び、………彼等をして安らかに居らしむべし」と(何西阿書二の十八)。〇前節並に本節を余輩の解釈に循て改訳すれば左の如し。
  そは彼に在て凡ての全満宿り、彼の十字架の血に託りて平和を為し、万物即ち地上に在るもの、天に在るものをして彼に託りて己に和がしむる事は是れ父の聖旨に通ふ所なればなり(或は父の善しと視給ふ所なれば(93)なり)
 キリストに託りて万物を造り給ひし神は亦たキリストに託りて再び之を己れに和らげしめ給ふ、キリストの救拯に合理的順序あり、基督教は前後矛盾せる救拯の途を伝へず。 〔以上、3・26〕
 
     栄光の希望 哥羅西書第一章〔第二節−第二九節〕
 
  (二十一) 夫れ爾曹はもと悪行を行ふに由りて神に遠かり心にて其敵となれる者なりしが
 原文を直訳すれば
  爾曹は曾て遠かりし者、又悪の行為の中に在て(en)心にて其敵なりしが、
 前には神と万物との調和を述べ、茲には特に神と彼等コロサイ人との関係に説き及ぶ 〇我儕は皆な一時は曾て神より遠かりし者、悪の行為の中に浸り、心より神なしと言ひ、善を行はず、憎むべき事をなして神の敵たりし者なり(詩篇十四篇一節参考)、「心にて其敵なりし」とは、全心の賛同を得て其敵たりしと.の意なり、即ち不信を以て敢て咎むべきことゝ思はず、単に穢れたる感情に駆られて悪を行ひしのみならず、亦意志と理性との賛同を得て神の反対に立てりとの意なり、キリストなく、望なく、又世に在て神なき者の真相を穿ちし言辞なり。
  (廿二の上) 神今キリストの肉の身体を以て其死により爾曹をして己と和がせ
 原文に、神、キリストの文字あるなし、たゞ彼今彼の肉の身体云々とあるのみ、保羅に取りては神とキリストとは交替し得べき名称にして、キリストと称すべき所に神と称するも彼の文意を解するに方て何等の陣礙あるなし、キリストの神格論なるものは聖書の斯かる語調に拠りて定むべきものなり。〇「以て」は「於て」又は「在り(94)て」(en)なり、調和はキリストの肉の身体に於て其死に託りて(dia)遂行せられたり、神が肉の身体を取りてキリストとなりて世に降り給ひしにあらざれば神と人との間の調和は成らざりしなり、彼れ亦た人となりて世に顕はれ給ひしと雖も、十字架上に死し給はざりせば調和の実は挙らざりしなり、成体《インカーネーシヨン》と贖罪《デムプシヨン》とありて完全なる
調和の途は開けしなり。〇「神……爾曹をして己と和がせ」、平和は神より出しものにして我儕より求めて来たりしものにあらず、キリストは我儕の尚ほ罪人たる時、我儕のために死たまへり、神は之によりて其愛を彰し給ふ(ロマ書五の八) 平和の提出者は神なり、我儕は此一事を忘るべからず。〇神、キリストに在て世を己に和がせ、我儕はキリストに行て(在りて)其処に神と相見る、キリストに在りて天は地に接し、キリストに在りて斯世の王国は神の王国となりつゝあり、キリストの生と死とに託りて神の恩寵と真理とは此世に来れり、之に託りて地はその一たび離れし天に繋がれたり。
  (廿二の下)潔く※[王+占]《かけ》なく咎なくして己の前に立しめんとす
 「潔く」は神の聖きが如く聖くなることなり、「※[王+占]なく」は道徳的の瑕瑾なきに至る なり、「咎なく」は神の審判に与かりて無罪を宣告せらるゝことなり、斯くも完全無欠の者たらしめんこと、是れ神がキリストに在りて世を己れに和がせ給ひし目的なり、我儕は勿論自ら努めて斯かる者たる能はず、而かも茲に完全に達するの途は我儕のために開かれたり、キリストに至り、其中に我儕の全身を投じ、其生と死とを我儕のものとなすを得て(聖霊のはたらきに由り)我儕は此完全の域に達するを得るなり、「天に在ます爾曹の父の完全《まつたき》が如く爾曹も完全《まつたく》すべし」とは聖書の教訓なり、而かも聖書は実践窮行して完全かれとは教へず、神の供へ給ひしキリストに拠りて完全かるべしと教ゆ、完全も共通を以てすれば達し得べからざるの域に非ず。
(95)  (廿三の上)若し爾曹信仰に止まり、其基礎を定め且つ堅くして福音の望より移らずば如此せらるゝことを得べし。
 「止まり」(epimenete)は、堅く止まり、或は止まりて動かずとの意 〇「基礎を定め」は土台を深くするの意 〇「堅くし」(hedraioi)は基礎の上に確立するの意、〇信仰の上に堅く止まり、其基礎を深くし、其上に確立せば云々、信仰の上に止て動かず、動かずして其根を深うし、其根を深うして而して後に其上に居住を定む、パウロが信仰建設の順序を説く、また周到綿密なりといふべし。〇「福音の望」 福音の供する望、即ち復活と天国と来らんとする凡の栄光の望なり、信仰は希望を生み、希望は愛心を生む、(本書一の五参考)、我儕が救ひを得るは望によれり(ロマ書八の廿四)、福音の望なくして我儕は神の聖旨に適ふ生涯を送る能はず、信仰の根を固うする第一の目的は希望を確実ならしむるに在り、然り、信仰は其仰の半面に於ては希望なり、〇「移らずば」、「転ぜずば」、爾曹の目を福音の供する希望より他のものに向けて転ずることなくば 〇「如此せらるゝことを得べし」 潔くして※[王+占]なく咎なくして神の前に立つ者たるを得せしめらるべし、我儕完全からんを欲せば、我儕の取るべき途はたゞ此一途あるのみ、即ち望む所の幸福と大なる神即ち我儕の救主イエスキリストの栄の顕はれん事を望み待つにあり(提多書二章十三節)、若し宗教は道徳に関係なしと云ひて、宗教的希望に依らずして徳を全うせんと欲する者あらば、其の人の徳たるや知るべきのみ。
  (廿三の下) 此福音は即ち爾曹が聞きし所なり、且つ既に天下の万人に伝はれり、我れパウロは其役者となれり。
 「此福音」 此希望を供する福音、〇我れパウロは斯かる希望を供し、斯くも有力なる福音を伝播する為めの神(96)の役者となれり、此福音は是れユダヤ人を始めギリシヤ人、凡て信ずる者を救はんとの神の大能なれば、我は神の役者として其伝播者たるを以て大なる名誉なりと信ず、此福音は即ち我が福音なり、万民を照らすための光、沈淪者《ほろぶるもの》を拯ふための生命、罪人の仰ぎ瞻て救はるゝもの、我れパウロは神の役者にして斯かる福音を以て委ねられたる者なりと、パウロは機会ある毎に彼の福音に就て誇ることを禁じ能はざりき、(コリント後書四の一等参考)。
  (廿四の上)今われ爾曹のために受くる苦を喜び
 「苦」Patheima 心痛なり、後半節に於る「患難」Thlipsia と異なる、前者は心に感ずる苦痛にして後者は身に受くる患苦なり、茲に云ふ「苦」とはコリント後書十一章廿八節に謂ふ所の「諸の教会の憂慮《おもんばかり》」といふと同じ、
〇今我れ爾曹のためにする(受くるの文字原文になし、取除くべし)心痛を喜ぶと、如何にとなればパウロは其心痛の無益ならざるを知ればなり、彼に此心痛あるは彼等に救済の希望あるの証なり、希望なき所に危険なし、危険なき所に憂慮なし、憂慮なき所に祈祷あるなし、コロサイの信者は救済の途に上れり、パウロはために新たに苦痛を感じて新たなる祈祷の題目を得たり、彼は殊更に其事に就て喜び且つ感謝すと。
  (廿四の下)又我が肉躰を以てキリストの体即ち教会のために其患難の欠たる所を補ふ。
 我が肉体を以てキリストの体の欠たる所を補ふと、キリストの体なる教会が其完全に達せんがためには尚ほ未だ多くの患難を経過せざる可らず、キリストの十字架は勿論教会の基礎を居えたり、其生命は凡て彼の割かれたる脇より流れ出づるものなり、然れども教会の完成は尚ほ更らに百千万の十字架の患難を待たざるべからず、キリスト信者は皆な悉く十字架を負ふべき者にして、彼等も亦た彼等の主と同じく贖罪の血を流さゞるべからず、(97)「彼の鞭打れしに因て爾曹医されたり」とはキリストのみに就て言ふべからず、我儕も亦た彼に傚ひて鞭打たれて我儕の兄弟を医さゞる可らず、キリストの教会は勿論キリストの患難の上に築かれたり、然れも是をして今日あるに至しめたるものはパウロの患難も、殉教者ポリカープの患難も、義人サボナローラの患難も、其他イエスのために証《あかし》せん為に火にて焚かれ刃にて殺されし幾十百万の忠実なる彼の弟子の患難も亦大に与りて力ありしなり 血を流すこと有らざれば赦さる\ことなし、生命を水の如くに灑ぐにあらざれば霊魂の救拯は望むべからず、キリストの教会は聖徒の血を以て建てらる、之に我儕の患難を加ふるにあらざれば其欠を補ふ能はず、我儕も進んでキリストの躰なる霊の教会を此地上に完成せんために喜んで不信者と偽善者と「基督教的の悪魔」との嘲罵と讒害と很毒とを此身に受けん、而して聊か教会の欠を補うて地上に於ける其成長を助けん。
  (廿五) 我れ爾曹のために神の我に賜ふ所の職に循ひ此教会の役者となりて※[行人偏+扁]く神の道を伝へんとす。
 神は我に伝道の栄職を賜へり、然ども是れ我のためにあらずして爾曹のためなり、死は我儕に動き生は爾曹に動《はたら》くなり、(コリント後書四章十二節) 我は斯かる条件の下に神が我に賜へる職に循ひて(準じて)キリストの教会の役者となれり、故に我の行為は凡て我の職に符《かな》はざる可らず、亦た我の此職に就きしは※[行人偏+扁]く神の道を伝(plerosai=to fulfill)へんためなり、即ち全人類を救はんとの神の聖旨を世に行はんためなり、〇原文の意を更らに明かならしめんために余は本節の字句を左の如くに配列するの必要を感ずるなり。
  我れ其(教会の)役者となれり、是れ※[行人偏+扁]ねく神の道を伝へんために、爾曹のために神の我に賜ひし所の職(分配)に循ひてなり。
 職は神の恩恵の分配なることに就てはコリント前書第十二章を見よ。
(98)  (廿六)この道は歴世歴代隠れたる奥義なりしが今その聖徒に顕はれたり。
 「世」は「代」の更に長きもの、〇神が特別に之を顕はし給ふにあらざれば、人が之を探るも求め得ざるもの、之を称して奥義といふ、奥義は之を受くるを得べし、受けて之を感ずるを得べし、然れども之を探求する能はず、之を哲学的に案出する能はず、又科学的に発見する能はず、奥義は特に示さるゝものなり、故に神が善《よし》と視給ふ間は人の目より隠さるゝものなり、故に造化も或点より看れば奥義なり、神にして若し之を人に示さゞらんと欲し給はゞ人は如何に欲《ねが》ふも之を知る能はず、奥義は秘密にあらず、今日迄隠されて今新たに示されし真理なり 〇奥義は亦之を知り悉くす能はず、我儕は神が我儕に賜ふ穎智《さとり》の量に循ひて之を知るを得べし、然れども我儕は之を会得する能はず、即ち一団となして之を我等の脳裡に収むる能はず、奥義は神の真理なれば神にあらざれば之を全然会得する能はず、奥義を以て人の解す可らざる秘密と見るは誤れり、然れども之を以て智能を以て知り悉し得べきものと見做すも亦当らず、我儕はパウロの常用語なる奥義の文字に就て正当の思想を懐くを要す。
  (廿七の上)神、聖徒をして異邦人の中に顕はれたる奥義の栄の如何に豊なるを知らしめんとし給へり。
 奥義の栄は大なり、然れども異邦人の中に顕はれたる其栄は更に大なり、即ち異邦人福音に由りキリストイエスに在りて同《とも》に嗣子《よつぎ》となり、同に一躰となり、共に約束に与かる事を得ること也(エペソ書三の六)、即ち律法に由ることなく、儀礼に由ることなくして万民等しく罪の赦免と霊魂の救拯に与かるとのこと也、是れ実に天の使等も知らんことを欲ひしことにして、今キリストに由りて世に顕はれし神の恩恵なりとす、而して神は聖徒をして此恩恵の奇跡を目撃するを得しめ給へり、看よ、今や地の果なる日東の日本国に於てすら此奥義は多くの人の心の中に顕はされ、彼等は権威に由らず、能力に由らず、神の霊に由りて權者も智者も見んと欲して見ること能(99)はざる赦免の奥義を認めつゝあるにあらずや、学者は之を聞て疑ひ、智者は之を見て驚く、只知る天に於ては大なる歓喜ありて、諸《もろ/\》の聖徒は之を視てたゞ父なる神を讃美することを。
  (廿七の中) 此奥義は爾曹の中に伝へられしキリストなり
 「中に伝へられし」とは曖昧なり、原文に此文字あるなし、単に「中に在る(en)」とあるのみ、〇此奥義とは何ぞ、爾曹の中に在るキリストなり、爾曹の心の中に寓り、爾曹の間に在て爾曹の心を繋ぎ給ふ者、是れ世々隠れたる奥義にして今聖徒に顕はれし者なり、爾曹は心の中に如何なる宝物を蔵すかを知る乎、神の独子にして人類の王、世界の希望、智識の極致、是れ来りて爾曹と偕に住み給ふ者なり(ヨハネ伝十四の廿三)、栄光の極、頌讃の極、我儕之を言ひ顕はすの言辞を有せず。
  (廿七の下) 彼は爾曹の望む所の栄の望なり
 訳文甚だ拙なり、原文の儘に訳すべし、栄えの希望なりと、〇キリストは栄光の希望なりと、之を文法的に解釈せんと欲して我儕は聖語の深意を逸し易し、然り人は希望たる能はざらん、然れども人類の希望はキリストに於て在りと言ふも我儕の言語の甚だ弱きを感ず、我儕の希望は凡てキリストに於て籠れり、キリストを離れ我儕に何等の希望あるなし。キリストは我が希望の倶躰なりと言はん乎、我は寧ろキリストは我が希望なりと言ふの更らに善く我が真意を言ひ悉くすものなるを感ず、我は生命なり、復活なりと云ひ給ひしキリストは亦た我の希望なり、希望てふ事はキリストてふ人となり、斯くて我が希望は活ける希望となりて我を活かし、我を救ひて、我をして此涙の谷に在て既に歓喜の園に在るの感あらしむ。〇キリストは我の希望なるのみならず亦我が栄光の希望なり、我の希望なるのみならず、希望と称すべき凡ての希望の蒐まる所なり、キリストは希望なり、人類の(100)希望なり、万物の希望なり、宇宙の希望なり、若しキリスト微りせば希望てふ文字は智能を有するものの字典の中に存すべからざるものなり。〇亦た栄光の希望なり、総ての栄光は彼より出で彼に帰るべきものなり、キリストなくして希望なきが如く、彼なくして栄光あるなし、彼は希望なり、亦た栄光なり、然り栄光の希望なり、無意味なるが如くに見ゆる程までに深遠なる意味を湛ゆる文字は此一句なり、神よ、穢れたる弱き我は爾の此|聖語《みことば》に対して註釈を加ふるの筆を有せず。
  (廿八)我儕、彼を伝へ、諸人を勧め、諸般の智慧を以て諸人を教へ、諸人をしてキリストの中に完全を得て神の前に立たしめんとす。
 パウロ特愛の「諸」に注意せよ。「彼を伝へ」 キリストの教義と言はず、彼の福音といふも足らざるの感あり、キリストの十字架上の死と言はん乎、彼の生を略するの虞れあり、彼自身といはんかな、キリスト其人を伝へんかな、彼の人格、否な、神格其物を伝へんかな 〇諸の人を勧め、諸の智慧を以て諸の人を教へ、諸人をしてキリストの中に完全を得しめんとすと、パウロの野心は無限なり、宇宙の智悪を蒐めて世界の人を教へ、彼等を諸て完全の人となして神の前に立たしめんとすと、少数者の予定を説くを止めよ、世の堕落を歎ずるを止めよ、我等は諸人を救ひ得るなり、彼等を諸て完全の者と為し得るなり、我儕神を信じて何事をか為し得ざらんや 〇「キリストの中に云々」 大能の秘訣此にあり、我儕の徳を以てしては人一人をも救ふ能はず然れどもキリストの中に在て我等何事をか為し得ざらん、キリストの血は万民の罪を洗ひ潔めて彼等をして雪の如く白くならしめて尚ほ余りあるなり、我儕キリストの中に在り、万人を彼の中に連れ来りて我儕は実に諸人をして完全を得て神の前に立たしむるを得るなり。
(101)  (廿九)我れこれが為に大能をもて我が衷に働く者の運用に循ひ力を竭して労する也。
 「これが為に」 此奇蹟的大事を遂げんがために 〇「大能を以て我が衷に働く者」 聖霊の神なり、彼は我が意志を圧し、我が感情を制し、総て我が思ふ所に超えて我が衷に働き給ふ、彼は斯くて我をして我の言ひ能はざることを言はしめ、為し能はざることを為さしめ給ふ、我は狂人に非ず、然れども我は我の属《もの》に非ず、機械に非ず、然れども我は或る他の者に使役せらるゝ者なり、奇異なる哉、我の生涯、我は神を讃美するの外、我に就て何を語らん乎を知らず 〇「力を竭して労する也」 希臘原文に於ては kopio の一語なり、苦闘の意なり、キリストの中に万人を完全ならしめんとて苦闘すと、而かも余義なくせられて苦闘するなり、キリストの愛に勉まされて、我衷に大能を以て働く聖霊の神の運用(活動)に循ひて(準じて)苦闘する也、即ち我が苦闘の状態たるや、弱者が強者に使役せらるゝ時の状態なり、有限者が無限者の理想を其肢躰に於て行はんとする時の状態なり、我の苦痛や実に名状す可らず、然れども縦し此身は張りさくるとも我は彼れ強者の用をなさんと欲す、彼は大能者なればまた弱き我を強くするの奇蹟力を有し給ふ、故に我はまた大能を与へられて、大能者の活動に応ずるを得るなり、斯くて罪人なる我は神の如きものとなりて苦闘の中に我主の言を以ていふなり、我父は今に至る迄働き給ふ、我もまた働くなりと(約翰伝五の十七)。 〔以上、4・9〕
 
    智識の宝蔵 哥羅西書第二章〔第一節−第七節〕
 
  (一)我、爾曹及びラオデキヤに居る人々、又肉躰に於て我が面を未だ見ざる人の為に我心を労すること何計りなるを爾曹が知らことを欲ふ。
(102)〇ラオデキヤはコロサイの北十二哩の処にあり、ヒエラポリ(三章十三節)は川を隔てラオデキヤの東にあり、三者を称してルカス(Lycus)河辺の三邑と云ふ。〇諸人《ひと/”\》を教へ諸人をしてキリストの中に完全を得しめんと力を竭して労せるパウロは(前章末節参考)殊に彼より福音を聴てキリストの救拯に入りし者のために心を労せし也、彼はその心労の何計なりし乎を彼の信者が知らんこと欲せり、而して我儕少しく彼に傚ひて伝道の業に従事する者は較々《やゝ》其心労の何計りなりし乎を推量し得るなり、世には残狼《あらきおほかみ》の如く、他人の業を毀つを以て其職とする教師多し、我儕も幾度か我儕の綿羊を奪はれたり、パウロも痛く彼の群羊の残害せられんことを恐れたり、伝道師の心労とは唯此一ツあるのみ、而かも時には其心労の如何に切にして其蒙る残害の如何に無慙なるよ。
  (二) 是れ彼等の心が慰められ愛に於て一になり、且つ確乎たる全き穎悟の富を得て父なる神の奥義、即ちキリストを知ることを得んがためなり。
〇パウロの心労たるや(是れ)彼等彼に依て道を聴きし者が神に依て、又相互に依て慰められ、信仰箇条に於てにあらず、又教会の儀式に於てにあらず、キリストに在る愛に於て一になり(聯結せられ)其結果として動かざる、確乎たる明瞭なる霊の穎悟《さとり》の富を得て愛なる父の神の奥義なるイエスキリストを知ることを得んこと是れなり、慰藉、愛心、智識、是れパウロが常に彼の信者に与へんと欲せし所のものにして、彼は最もその彼等より奪はれんこと懼れたり、彼は之がために彼の心を労し、言ひ難きの慨歎《なげき》を以て彼等の為めに祈りしならん、パウロの心労なりしものは重に祈祷の心労なりしとは註解者の一般に認むる所なり。〇「穎悟の富」 「智慧の富」と解するも可なり、金銭の富にあらず、位階勲章の富にあらず、友人交際の富に非ず、亦た必しも幸福なる家庭の富に非ず、神の奥義を悟るの富なり、聖霊に託りて賜はる智慧の富なり、我儕は切に此富を得んと欲す、「智慧は真珠よりも(103)貴し、汝の凡の財宝も之に比ぶるに足らず」との箴言の言は此智慧と其富とを指して言へるなり、我儕は世の貧者たるも此智慧の富者たらんことを希ふ。
  (三)智慧と知識との財宝は一切キリストの中に蔵れある也。
〇基督信者の智慧はキリストの中に在り、キリストは神の大能また神の智慧なり(コリント前書一の二四)、我儕の智識も亦たキリストの中に在り、彼を知るは神を知るなり、彼を知らずして宇宙を解する能はず、歴史の中心は彼に於て存す、「万物は彼に由て存つことを得るなり」(一章十七節)我儕賢からんと欲せば深くキリストを知るべきなり、我儕慧からんと欲せば深くキリストを究めざるべからず、我儕の財宝は凡てキリストに於て在す、我儕の希望も勇気も詩歌も歓喜も凡て彼に於て存す 〇智慧は世事に通ずるにあらず、キリストを信ずるにあり、智識は哲学を究むるにあらず、心霊的にキリストを認むるにあり、永く存つの智慧はキリストを信ずるの智慧なり、深く覚るの智識はキリストを知るの智識なり、過去二千年間の人類の歴史と我儕の短かき生涯の経験とは最も明かに此事を我儕に示すなり。
  (四)誰にても巧言を以て爾曹を欺くこと無からんために我是等の事を言へり。
〇「巧言」とは重に人の理性に訴ふると称して、キリスト以外の智慧と智識とを以て神と人生とを解釈せしめんとするものを云ふなり、悪魔がアダムトとエバとを誘ひしも斯かる巧言を以てせしなり、即ち神に依ることなくして人を智者となさんと称する者にして、人の生来の傲慢心に訴へ、我が理性を以て神を描出し、之を我が研究評論の材料となし、之に崇拝的服従をば奉らざらしめんとす、今日の所謂る哲学なるものは多くは此類なり、自由討究の名の下に神を讃し又は之を貶して自から智者を以て任ずる者の如きは皆なパウロの茲に所謂る巧言《たくみなることば》(104)を弄する者なり、〇パウロが彼の信者のために心労し、彼等に智慧と智識とを凡てキリストの中に求めんことを告げし理由は彼等が斯かる「哲学者」輩に欺かされざらんがためなり、人を直にキリストに連れ来らずして、カント又はフイヒテ又はヘーゲルに連れ行て神と人生とを教へんと欲する者、或はキリストの名の不信者国の社会に於て忌まるゝを見て、可成く丈け彼の名を言ひ表はさゞらんと努ひる者、即ち直接にキリストに到らず、直接にキリスト自身を説かずして、間接に、或は暗示的に、或は迂廻して、キリストに到りキリストを示さんと欲する者、是れ皆な「巧言」を弄する者にしてキリストの光輝を蔽ふ者なり、我儕は斯る者の言に耳を傾くべからず、我儕はキリストに向ふ誠実(単純の心)を以て直に彼に到るべきなり(コリント後書十一の三)。
  (五)夫れ我は肉に於ては離れ居ると雖も霊に於ては爾曹と共に居り、爾曹の秩序ある事とキリストに対する爾曹の信仰の堅固き事とを喜び見るなり。〇「霊に於て」とは我が霊に於てとも、又は聖霊に於て(在て)とも解するを得べし、後者或はパウロの原意に近からん乎 〇「秩序」「堅固」は軍隊的の言辞なり、「秩序」は羅馬歩騎兵の序列の乱れざる状をいふ、「堅固」は隊伍の堅実にして石火を以てするも之を破る能はざるの質を指す、パウロが遙かに喜んで見んと欲する者はルカス河岸に在る彼の信者が愛に在て相聯結し、キリストに在りて一団躰となり、秩序乱れず、序列斉々、進むも退くも相扶け相守り、悪魔の火箭を以てするも破る能はざるの堅固なる陣を張らんことなりき、まことに是れパウロの所謂る「救世軍」にして斯かる軍隊あつて始めてキリストの王国を此世に建設するを得るなり、〇然れども嗚呼、事実は実に然らざるなり、世に一致を欠く者にしてキリストの信者の如きはあらず、殊にプロテスタントと称する彼等の一派に在ては分離嫉視は殆んど其極に達し、兄弟相扶けざるのみならず、其堕落を見て歓声を揚げ、(105)其失錯を語るを喜び、之を其敵に付《わた》し、而して付たせし者を歓迎す、若しパウロにして日本今日の基督教界なるものゝ実況を目撃せしならば如何ばかり彼の心を労せしならん。嗚呼。
  (六)是故に爾曹既に主キリストイエスを受けたれば彼に在りて歩むべし。
 「是故に」 我れ斯く爾曹の一致と鞏固とを切望すれば 〇「既にキリストを受けたれば」 既にキリストの救主たることを認め、其救拯に与からんと欲したれば 〇「彼に在りて歩むべし」 爾曹の身を彼の中に投じて行ふべし、単に彼を教義的に救主として認むるに止まらず、単に彼の名を世に向て表白するに止まらず、進んで爾曹の全身を彼に献げ、爾曹は死してキリスト爾曹の衷に生き、爾曹は恰かも彼に吸収せられしが如くになりて彼の教誡《いましめ》を爾曹の身に於て全うすべし、〇キリストを受くると、キリストに在りて歩むとは別事なり、多くの人をキリストを受くるに止て、彼に在りて歩まざるなり、キリストを信じて後に兄弟を憎み、洗礼を受けて後に悪意嫉妬を心に蔵す、キリストを受くるとは瞬間的の行為なり、彼に在りて歩むとは信仰的生涯の連続なり、今日世に称する基督信者なる者の多くは纔かにキリストに一時接触せしに過ぎざる者なり、〇一度びキリストを受けし者の救はるゝにあらず、終りまで彼に在りて歩む者のみ救はるゝなり、キリストの名を言ひ顕はし洗礼を受けて或る教会に入りたればとて、基督信徒の名を担ふべからず、基督信徒とは常にキリストを信じ彼に在りて歩む者なり、聖書に曰く、若し神を愛すと言ひて其兄弟を憎む者は是れ※[言+荒]者《いつはりびと》なりと(ヨハネ第一書四の二十)。
  (七)爾曹根を彼に置き彼に在りて建てられ、教へられし如くに、信仰に於て堅うせられ、且つ感謝の中に在て益々彼に在て大となるべし。
〇根をキリストに置き、キリストに在りてキリストの上に建てられ、彼の信託せる教師に由て教へられし所に(106)循て信仰に於て堅うせられ、且つ絶えず感謝の中に在りてキリストに在りて大となるべし(其恩恵に於て溢れよ)と 〇「感謝の中に在る」とは感謝を以て習慣性となし、恰かも感謝の空気の中に棲息するが如く、感謝せざれば何事にも手を触れざるが如き心の状態を云ふ、而うして斯くなして我等の信仰の益々大になり、我等の心が神の恩恵を以て溢るゝに至るは我等日常の実験に照して明かなり、感謝の念は春陽の暖気の如きものなり、之に浴して物として成長せざるはなし、感謝は神に在て我等の感ずる歓喜なり、而うして歓喜と満足となき所に活動あるなし、成長あるなし、感謝の正反対は不平なり、愁訴なり、不平は人をして萎縮せしむ、不平の中に在る者は益々小となるなり、世に不幸なることゝて常に不平を懐くが如きことあるなし、不平は毒気なり、北氷洋の寒風の如し、之に当て物として枯死せざるはなし 〇「感謝の中に在てキリストに在て益々大となるべし」と 生長、膨張、拡大の秘訣は単に此一事に存す、「キリストに在て懐く楽天観」、是れ確実なる楽天観なり、エマソン其他のキリストを離れたる楽天観と異なり、実なる、基礎ある鞏固なる楽天観なり、エマソン曰く「余は胡瓜の日光に曝されて自づと成長するが如くに成長す」と、我儕キリストを信ずる者は感謝の空気の中に浸たされて、キリストに在て成長せんと欲す。
       ――――――――――
 真の神よ、願くは我儕の曲れる縮める心を癒し、我儕をしてキリストに在りて存在し、感謝の空気に浸り、聖霊の生気に接し、智慧と信仰と徳とを増し、単純にして快闊信じて疑はざるの人とならしめ給はんことを、我儕の心は暗し、我儕はキリストに在りて万物を見る能はざるが故に、我儕各自の哲学なる者を編み出して、神より出づる真《まこと》の智慧に代へんと努む、願くは我儕の愚を憫み、我等に誠実にして神に依り頼むの心を与へ、我儕の盲(107)せる眼を開て、明かに神の奥義を悟ることを得しめ給はんことを、アーメン。 〔以上、4・23〕
 
     万善の主 哥羅西書二章〔第八節−第一五節〕
 
  (八)キリストに循はず、人の伝説と世の元則に循ひ、哲学の空言を以て爾曹を奪ひ去らんとする者を慎むべし。
 我儕の人生観はキリストに由るものならざるべからず、人の伝説と世の元則とに循ひ、又所謂る哲学なるものゝ空言を以て爾曹を神の正道より奪ひ去らんと欲する偽哲学者、偽牧師、偽伝道師の類を慎むべしとなり、地上の教会の神聖を説いて法王監督役僧輩の権能を主張するが如きは是れ人の伝説に循ふなり、形式を重んじ宗教の実利を講じ、規則と方法と勢力とを以て人を救はんとするが如きは是れ世の元則に循ふなり、哲学者の空言とは言語のみ幽玄高調にして思想の至て卑近平凡なるものなり、而して是れ皆なキリストに対する質朴(哥林多後書十一の三)より人を奪ひ去るものなり、単純なるキリストの福音、是れ我儕の単へに追求すべきものなり、教条《ドグマ》、俗才、哲学と称する空理、是れ基督教の三大敵なり。
  (九)蓋神の充満る徳性は悉く像をなしてキリストに寓ればなり。
 我儕は僧侶輩の調成せし教条に依るの要なし、亦俗人の才能を藉るを須ゐず、我儕は亦哲学の迷路に入り、紆曲紛綜の間に救済の真理を探るを要せず、そは神の充ち満る徳性は悉く像をなしてキリストに寓ればなり、キリストの生涯、彼の生と働と死、是れ神の真理なり、彼を看、彼に習ひ、彼を信じて我儕は救はるゝなり、我儕の信条とは何ぞ、ナザレのイエスキリストの生涯其儘なり、我儕は如何にして救はるべき乎、我儕のために死して(108)甦りしキリストを信ずるに因りてなり、我儕の人生哲学は何乎、キリストに於て顕はれたる神の奥義是れなり、キリストは神が肉体をとり像をなして世に顕はれし者なり、彼の世に顕はれしは神を直に我儕に示さんがためなり、何者ぞ神と我儕との間に介し、神に到るための階段を設け、神を信ずるための方法を講じ、亦神の自顕を外にして、弁証推理の術を以て彼を我儕に示さんとする者は。
  (十)彼は諸の政と権威の首なり、爾曹彼に在りて全備す匂事を得る也。 政と称する政、権威と称する権威は諸て彼の為めに彼に由りて造られしものなり(第一章第十六節参考) 天に在る勢力、地にある勢力、天使も帝王も学者も僧侶も皆な彼に服従すべき者なり、彼は首なり、彼等は肢躰なり、彼は満全なり、彼等は片々なり、故に爾曹の充満さるゝは彼等に由るに非ずして彼に由りてなり、爾曹は彼の中に在りて始めて全備する事を得るなり、爾曹が父の完全きが如く完全くなるを得るは爾曹が人の智識と世の技術とを離れて全然身をキリストの中に投じ、其充満せる徳性を以て爾曹の空虚を充たさるゝ時にあり。
  (十一)爾曹はまた彼に在りて手をもて為ざる割礼を受けたり、即ち肉の躰を脱ぎ去るところのキリストの割礼を受けたり。
 割礼の何たる乎に就ては創世記十七章一節以下十四節迄を見よ、そのユダ人の聖潔《きよめ》の礼たりしは明瞭なり ○「手をもて為さゞる割礼」とは霊をもて為す心の割礼なり、汝等心に割礼を行へと(申命記十章十六節)、汝等自から割礼を行ひてヱホバに属き己の心の前の皮を去れと(耶利米亜記四章四節)、洗礼に水を以てするものと霊を以てするものとあるが如くに割礼にも刃物を以てするものと霊の剣を以てするものとありしなり、而して人の伝説と世の元則とに循ふ者は重きを手を以て為せる割礼に置いて肉の躰を脱ぎ去ることをば努めざりしなり、〇然(109)れどもパウロは曰ふ、爾曹キリストを信ずる者は彼に在りて既に手を以て為さゞる割礼を受けたり、即ち祭司、パリサイ人の施す陽の皮を去る割礼に非ずして、キリストの割礼なる罪の肉躰を脱ぎ去る割礼を受けたりと、割礼を受くるにあらざればユダ人たる事能はず、然れども爾曹は既にキリストの割礼なる心の聖潔を受けて真正なるユダ人、即ちアブラハムの子たるを得たり、故に爾曹は今は人の伝説、世の元則に循ひ、外形の儀式たる肉の割礼を受くるの要なしとなり。
  (十二)爾曹バプテスマを受けて彼と偕に葬られ亦彼を甦へらしゝ神の大能を信ずるに因りて彼と偕に死より甦へらされたり。
 割礼はユダ人の聖潔の式にしてバプテスマはキリスト信徒の悔改復生の表彰なり、初代のバプテスマの式は水に沈めしものなるが如し、其沈むは墓に葬らるゝを表し、其再び水より上《あが》り来るは復活更生を彰はせり、故にバプテスマの式たるや罪に死して霊に生きるを表彰する者たりしなり、今日普通信ぜらるゝが如く教会員となりたるを世に向て告白するが如きは洗礼式の原意に非ず。〇故にパウロは曰ふ、既にキリストの割礼を受けて罪の肉躰を脱ぎ去りたる爾曹は亦バプテスマを受けて彼と偕に葬られ、亦彼を甦へらせし神の大能を信ずるに因りて彼と偕に死より甦へらされたりと、バプテスマの式を受けし者は此心霊上の大実験を味ひし者ならざるべからず、式ありて実あるに非ず、実ありて式あるなり、既に此式に与かりし者は此実ありしを表彰せし者なり、既にバプテスマを受けたり、故に爾曹は斯世の属《もの》たるべからざるなりと。〇パウロが茲に曰ふ所のバプテスマなるものは実に今日世に称する所の水の洗礼なるや否やは大なる疑問也、そは前に手を以て為ざる割礼を説きし者が茲に手を以てする水の洗礼を主唱するの理由なければなり、パウロがバプテスマの儀式に重きを置かざりしは彼の言に(110)照して明かなり(哥林多前書一章十四−十七節)ユダ人が割礼の心霊的原意を忘却して之を一つの外形的宗式と化せしを憤慨せしパウロは亦たバプテスマの聖式が偽伝道師輩の濫用する所となりて、其深き聖き原意を失するに至らんことを先見せしが如し、故に彼はバプテスマの実を挙げんことを努めて其式を施すことを避けしが如し、常識に富める誠実なるパウロの深意は世の職業的伝道師輩の窺ひ知る所にあらざるなり、〇式あるも可なり、式なきも可なり、然れども悔改更生の実はなかるべからず、式は人を救はず、式の表彰する実のみ人を救ふなり、而して人が重きを実に置きて式を省みざる時には式は実を更に堅うするの益あれば我儕は感謝して之を受くべきなり、然れども式が重んぜられ、実が軽んぜらるゝ時は我儕の断然式を排斥すべき時なり、バプテスマの原意は全く忘却せられ、之を受けし者は罪を悔ひしにもあらず、悔ひざるにもあらず、唯僅に基督教の善き宗教たるを認めし位ゐにして、今日の所謂る基督教会なる者の会員とならんがために此尊厳なる式に与かるが如きは是れ神を涜し自己を欺くの行為と言はざるべからず、茲に至てバプテスマの聖式は昔時のユダ人の割礼と等く全く無意義のものとなり、之を受けざる事が却て神の聖意に適ふ事たるに至る、余輩は断言して憚らず、今は手を以て為せる水の洗礼式を排斥すべき時なりと、看よ、此無意義の式に与かりし者にして未だ復活更生の教義に就て疑惑を懐く者世に甚だ多きを、亦之を授くる教師にして之を教勢拡張の器具として利用する者甚だ多きを、未だ基督教の大教義の大意すらも解せざる者に洗礼の式を授けて会員帳簿に新名の加はりしを悦ぶ者あるに至てはキリストの聖なる教会は此式あるが為めに涜されつゝあるに非ずや、無意義の式は罪悪なり、之を廃して何の不可なる所あらんや。
  (十三)爾曹前には罪と肉の割礼なきとに由りて死たる者なりしが神、爾曹を彼と偕に生かしめ、且つ恩恵を(111)以て悉く我儕の罪を赦し給へり。
 「肉の割礼」とは勿論肉に施されたるキリストの割礼なり(第十一節参考)「罪」paraptoma とは堕落なり、即ち生来の罪悪なり、生れながらの罪人にして罪の聖潔を受けざりし爾曹は望なくキリストなくして死たる者なりしが云々(以弗所書二章十二節参考) 〇「神爾曹を彼と偕に生かしめ」 先づ始めに彼(イエス)を生かしめ、而して後に彼に在りて爾曹をして生かしめ給へり、彼の生命を爾曹に移せしにあらず、亦彼を生かせしが如くに爾曹を生かせしにあらず、爾曹彼と偕に在るを得て神は彼(キリスト)に在りて、彼(キリスト)の中に在る爾曹を生かしめ給へりと、「偕に」を相駢んでと解せざるやう注意せよ、〇「且つ恩恵を以て悉く我儕の罪を赦し給へり」 爾曹と言ひ亦我儕傍と云ふ、パウロはコロサイ人の実験を述べつゝありし間に彼自身の実歴を語りつ\あるなり、時に彼我の区別を為して論ずることあるも彼は恒にキリスト信徒共通の実験を語りつゝあるなり、而かも罪の赦免の事を述ぶるに方ては罪人の首なりと自から信ぜし彼は彼を措いて他人の実験をのみ語る能はざりしが如し、是れ彼が特別に茲に爾曹と云はずして我儕と云ひし理由なるが如し、〇「恩恵を以て」、「悉く」、我儕に赦免を値する行為なきにも関はらず神は其任意的恩恵を以て我儕の罪を赦し給へり、亦僅かに其一部分を赦し給ひしに非ず、悉く之を赦し給へり、亦爾曹の罪を悉く赦し給ひしのみにあらず、我儕彼を信ずるすべての者の罪を悉く赦し給へり、恩恵の上に恩恵を重ねらる、其程度に限りあるなし、我儕は深く聖書の語を味ひて其意味の無限なるを知るなり。
  (十四)且つ手にて録せる所の我儕を攻むる規条の書、即ち我儕に逆ふものを塗抹し之を中間より取り去り、釘を以て其十字架に釘け給へり。
(112) 「手にて録せる所の書」とは記名捺印の書の意なり、即ち我儕の責任を自証する我儕の証文なり、〇「我儕を攻むる規条《いましめ》の書」とは規条の下に約束履行の責任を以て我儕に迫まる書なり、心の肉碑に記されたる善悪を識別する良心の記名捺印の証文なり、規条は神の規条にして良心の声なり、而して是れ罪に在る我儕が正義として認むるものなり、故に我儕之に対して反抗の声を揚るの権利を有せず、而して我儕の心の肉碑に記されたる此書たる常に我儕の反対に立ちて「我儕に逆ふものなり」、神に叛きたる我儕は敵を外に有ち亦内に有ち、内外の攻撃を受けて常に苦みし者なり、然れども神は其限りなき恩恵の故を以て此証文を塗抹し、我儕を借債なき者となし、之を神と我儕との中間より取り去り、釘を以て之をキリストの十字架に打附け給へり、茲に於てか我儕は木の上に挙げられし我儕の贖罪者なる神の恙を望み瞻て、我儕の良心の呵責の念より脱がるゝを得、懼れ戦慄くことなくして直に神の膝下に到るを得たり、是れ恩恵の最も大なるもの、神の愛は我儕が未だ罪に沈める時に我儕のために其独子を罪の供物《そなへもの》として献げ給ひし時に顕はれたり、至大の恩恵、愛の奇績、之を見て以て迷信なりと做して嗤ふ者は其胸中に未だ遂げられざる大約束の存すすることを認めざる者なり、良心の呵責に遇ふにあらざれば十字架の恩恵を覚る能はず、而して記名捺印の此証文を以て規条の下に約束履行を以て天の神と宇宙とに責めらるゝ時に、十字架の慰藉は如何に大なるよ、然り我儕は贖罪を信ずるなり、自署の証文の塗抹を信ずるなり、神と我儕との中間に在て離隔の墻壁として存する義罰の念の刪除を信ずるなり、神がキリストに在て我儕の罪を十字架に釘け給ひしとは良心の深き実験に基く心霊上並に歴史上の大事実なり。
  (十五)また政事を執る者と権威ある者とを掠め彼等を公然衆人に示し、十字架に由りて凱歌を奏し給へり。
 「政事を執る者と権威ある者」とは悪魔と其従属となり、即ちキリストが以て此世の主(ヨハネ伝十四の三十)(113)又は黒暗の勢ひ(路可伝廿二の五三)と称せられし者なり、即ちパウロの所謂る政また権威また斯世の幽暗を宰る者また天の処にある悪の霊なり(以弗所書六の十二)、政事に善きものあり、悪しきものあり、然れども悪しき政事は多くして善きものは稀なり、而して政事家の最も好き標本は悪魔なり、権威を利用し民を欺くに巧なる者にして悪魔の如きはあらず、〇悪魔はキリストを其敵人に付たし彼を十字架に釘けしめたり、然れども其時キリストは却て悪魔を掠め給へり、悪魔の権威は其時に挫けたり、捕虜となりし者はキリストの如くに見えて実は悪魔なりし、勝ちしが如くに見えし悪魔はキリストの死に由て其主脳を衝かれ、敗れしが如くに見えしキリストは此時死と墓と諸《すべて》の敵とに勝ち給へり、十字架の逆説とは実に此事を云ふなり、而かも是れ争ふべからざる事実なり、〇大政治家悪魔と其従属とを掠め、彼等を擒にし、「彼等を公然衆人に示し十字架に由りて凱歌を奏し給へり」と、恰かも羅馬の帝王が敵国の王を擒にし之を羅馬の市街に曝露して其市民に示せしが如し、キリストは人類の大敵なる幽暗を宰る者の踵を砕き、傷を負ふて無能に帰せる彼を公然衆人に示し、茲に凱歌を挙げて神の新王国の建設を宣言し給へり、〇チヤールス、ウエスレーの作に成れるキリスト昇天の歌に曰く
 
   我等の主は死より甦へり給へり、
   我等のイヱスは天に昇り給へり、
   陰府《よみ》の権者は擒とせられ、
   天の門にまで引かれ行きぬ、
   其処には凱旋の車は待ち、
(114)   天使は清き節を奏せり、
   『汝の首を挙げよ、天の門よ、
   永久《とこしへ》の戸よ、主のために開け』
 
   今、金色の門閂《くわんのき》を除けよ、
   広く清空の宮を開けよ、
   主は今其殿に還り給へり、
   謹んで栄光の君を受けまつれ、
   此栄光の君を誰と做すか、
   諸て我等の敵を服へし主にして、
   世と罪と死と陰府《よみ》とに勝ち給ひし、
   イヱスと称へまつる勝利の君なり、
 
   看よ其凱旋の車は待ち、
   天使は清き節を奏す、
   『汝の首を挙げよ、天の門よ、
   永久の戸よ、主のために開け、』
(115)   此栄光の主を誰と做すか、
   栄光と権威を有ち給ふ主にして、
   聖徒の王亦天使の君なる、
   永久に頌むべき万物の神なり。
            (詩篇第二十四篇七−十に依る) 〔以上、5・14〕
 
    自由宗教 哥羅西書二章〔第一六節−第二三節〕
 
  (十六) 此故に或は食物或は飲物或は祭日或は新月或は安息日の事に就て人をして爾曹を議せしむる勿れ。
 「此故に」 キリスト既に爾曹の罪を担ひて十字架に上り、爾曹は彼を信ずるに由て自由の者となりたれば 〇「食物」 或は豚は汚れたるものなるが故に食ふべからずと云ひ(利未記十一の七)、或は偶像に献げし物に手を触るべからずと云ふ。〇「飲物」 或は酒を飲むも可なりと云ひ、或は如何なる場合に於ても飲むべからずと云ふ、昔しレカブ人は生存ふ間は酒を飲まずと誓ひたり、(耶利米亜記三十五章)、而して今は宗教的に絶対的禁酒主義を唱ふる者あり、飲酒其物は盗むが如き、姦淫するが如き神と人とに対する罪悪なる乎 〇「祭日」 昔時《むかし》は逾越節《すぎこしのいはい》ありたり、構廬節《かりほすまいのいはひ》ありたり、週の祭ありたり、今は或る教会に於ては降誕祭あり、昇天祭あり、聖霊降臨祭あり、之れを悉く守るにあらざればユダ人たり、又は基督信徒たる能はざる乎、〇「新月」 以西結書四十六章十六節参考 〇「安息日の事」 ユダ人并に一般の基督信徒に取ては最もやかましき問題なり、〇「人をして爾曹を議せしむる勿れ、」 縦令法王たりとも、大監督たりとも、牧師たりとも、執事たりとも、何人たりとも是等の細事(116)に関してキリストに在て自由を得し爾曹を議せしむる勿れ、キリストに在て爾曹は律法以上なり、宗現教則の爾曹を束縛するものあるべからず、規則の厳守を以て信仰の必要条件と做す者はキリストの福音を無にする者なり、法則は爾曹自身の撰ぶ所のものに循ふべし、然れども忘る勿れ、自由はキリストを信ずるに由て来るものなる事を、キリストを信ぜざる自由は自由に非ずして放恣なり、子もし爾曹に自由を与へなば爾曹誠に自由を得べし(ヨハネ伝八の三六)。
  (十七)是等は皆な来らんとするものゝ影にして其躰はキリストなり
 飲食物の禁制たり、祭日安息日の制度たり、是れ皆なキリストの降臨を待て此世に臨らんとするものゝ影にして、其影の本体はキリストなり、而して今やキリスト既に世に降り給ひたれば影は全く用なきに至れり、実躰の既に世に臨める時に方て影像の跡を追ふの愚者は安くに在る乎。
  (十八の上)自から好んで謙遜る事と、天使を祭る事に因て爾曹の褒美を諞き奪はんとする者に爾曹の褒美を奪はるゝ莫れ
 「自から好んて謙遜る事」 謙遜は美徳なり、然れども自から努めて為すの謙遜なるべからず、是れ演劇的謙遜なり、外面を飾るための謙遜なり、或は謙譲と云ひ、或は謙退と云ふ、自己の卑しきを自覚して謙遜るに非ず、或は自己の欠点を蔽はんがため、或は其謙遜を誇らんがための謙遜なり、謙遜なる必しも尊きに非ず、神に在りて空虚なること、是れ尊むべき慕ふべき謙遜なり、所謂 Sublime unconsciouness なるもの、即ち己れは識らずして自《おのず》から高貴なること、是れ真個の謙遜なり、而して是れキリストに在て自己を空虚うする者のみ有し得るの謙遜なり 〇「天使を祭ること」 是れ亦偽はりの謙遜の一種なり、自己の卑賤を称へて直に聖なる神に近くべか(117)らずと做し、茲に天使を祭り、其紹介と援助とを借りて神の恩恵を仰がんと欲す、恰かも中古時代の天主教徒が死せる聖徒の霊に哀求して三位の神の祝福に与からんと欲せしが如し、然れども是れ神が定め給ひし人類救済の途に非ず、神と人との間に一位《ひとり》の中保《なかだち》あり、即ち人なるキリストイエスなり(提摩太前書二の五)、天使を祭るの要あるなし、聖徒の霊に頼るの要あるなし、我儕は直に大胆に神の定め給ひし保恵師《ほうけいし》なる義なるイエスキリストに至るべきなり(ヨハネ第一書二の一)、是れ僭越の如くに見えて実は最も誠実なる謙遜なり 〇「褒美」は生命の冕なり(ヤコブ書一の十二)我儕の信仰的生涯の目的物なり(ピリピ書三の十四)、而して謙遜を衒ひ、キリスト以外に中保者を提供して我儕より此生命の冕を諞き奪はんと欲する偽りの教師に注意せよと、彼はキリストを崇むと称して実は彼を貶する者なり、彼は人の卑しきを説て彼に貴尊に達するの途を示さゞる者なり、彼は人を徳に導くが如くに見えて実は彼を沈淪《ほろび》に導く者なり、罪悪の絶頂は淫縦にあらず、暴悪にあらずして、偽善なり即ち「自から好んで謙遜る事」なり、斯かる謙徳の中に蝮蛇の毒嚢の蔵さるゝあり、不幸一たび其螫す所となりて人は傲慢の悪魔と化し、神の独子の血を以てするも終に救はれざるに至る、慎むべくして恐るべきは実に此心霊的傲慢の毒素なりとす。
  (十八の中)、斯の如き人は未だ見ざる者を窺ひ、彼等未だ曾て天使を見ず、然かも天使に就て知ると称し、天使学(Angeelology)を講じ天使崇拝(Angelolatry)を唱ふ、基督教は事実に於て現はれたる歴史的宗教なるに、彼等秘法を弄するの徒は徒らに彼等の妄想の上に信仰の基礎を築かんと欲す、或は夢に聖徒の霊に接せりと云ひ、或は目にキリストの心臓を拝せりと称し、以て寺院を作り僧派を樹つ、彼等は神の自顕と自己の妄想とを混同し、想像の上に想像を築き、以て人を彼等の経営せる(118)迷宮に導かんと欲す、かの何をも見ずして己の心のまゝに行ふ所の愚かなる預言者は禍なるかな(エゼキル書十三の三)、動かすべからざる聖書の磐石の上に築かざる総ての信仰は詛ふべきかな。
  (十八の下)、其肉の意に従ひ妄りに誇り首に属くことを為ざる也。
 「其肉の意に従ひ」 謙遜と称するも実は肉の慾を充たすための傲慢なり、敬虔と称するも実は自己の名利を計るための譎詐なり、肉情も霊化すれば美徳の如くになりて現はる、而かも是れ罪悪の精巧を極めしものにして人を永久に淪《ほろぼ》すものなり 〇「妄りに誇り」 何の益する所なくして誇る、謙遜を以て誇る、傲慢なる謙遜、謙遜なる傲慢、傲慢の最も甚だしもの 〇「首に属くことを為ざる也」 万物の長にして教会の首なるイエスキリストに直に属隷せんとせざる也、彼等は躬から潔うし、躬から覚らんと欲して、キリストに属隷して其徳と穎智《さとり》とを授からんとせざる也、枝は幹を離れて何事をか為すを得ん、イエス曰ひ給はく人もし我に居らざれば離れたる枝の如く外に乗られて枯るなり(ヨハネ伝十五の六)、自脩すると称してキリストに属くことを為さず、穢れたる自己の衷より聖き或物を産出せんとする者は久しからずして枯死する者なり、而うして世に斯かる枯枝《かれえだ》の何ぞ多きや。
  (十九)、全体この首より節と維とに託りて助けられ且つ繋がれて神よりの養育を得て育つなり。
 「全体」 全教会 〇「この首より」 キリストより 〇「節と維に託りて」 経由して、恰かも血脉を経由して心臓より血を引くが如し、キリストの身体なる教会に在りては生命は直に其首なるキリストより来る、〇「助けられ」 或は養はれ 〇「繋がれ」 相聯結し 〇「神よりの養育を以て育つなり」 教会も会員も神に養育《そだて》られて育つなり、会員相依り相助けて育つにあらず、各員生命を直に教会の首長なるキリストより授けられ其育つる所となりて彼は亦知らず識らずの間に全教会の成長を助くるなり、是教会並に基督信徒の霊的成長の法則なり、教会員(119)に依て育てられんとする教会員、神に求めずして会員に求むる所の教会は、終には何の得る所なくして枯死する者なり、而かも偽りの教師と牧師とは此事を知らず、彼等はキリスト以外の勢力に頼り、或は自己の徳に頼り、或は天使、或は古の英雄の威力を藉りて彼等の教会を復興せんと図る、神よりの養育を以てせずして、人よりの養育《そだて》を以て育てんとする彼等の事業の栄えざるは敢て怪むに足らざるなり。
  (二十)爾曹若しキリストと偕に死して世の元則より離れたらんには
 キリストと偕に死せし者は世に死せし者にして亦世の元則より離れたる者なり、彼は今やキリストの法則に由て歩むべき者にして斯世の条規に由て支配せらるべき者に非ず、規則と云ひ、禁制と云ひ、法式と云ふも是れ皆な斯世の元別にして愛の王国に籍を転ぜし者を支配すべきものに非ず、法規の必要を感ずる者は未だ全く斯世に死せざる者なり、宗式と教条とに由るにあらざれば其信仰を維持し得ざる者は未だキリストと偕に死せざる者なり。
  (廿一)、何ぞ世に在て生ける者の如くに人の命と教に循ひ「捫はる勿れ、嘗ふ勿れ 触る勿れ」との律法の下にをるや。
 既にキリストと偕に斯世に死せし爾曹は何故に尚ほ未だ斯世の人の如くに人の定めし命《いましめ》と教とに循ひ「捫《さは》る勿れ、嘗《あぢは》ふ勿れ、触る勿れ」と云ふが如き消極的律法の下に居るや、神の命は主に積極的なり、「生きよ、潔かれ、進めよ、昇れ」と、神は新たに空虚を作て旧き空虚を充たさんとは為し給はず、神は生命を供して死を滅し、力を賜ふて弱を癒し給ふ、之に反して人の定むるところの法則は重に消極的なり、「捫はる勿れ 嘗ふ勿れ」と、「勿れ、勿れ、勿れ、」たゞ此検束的法則あるのみ、而して是れ政治に於てのみ然るに非ず、人の工夫せし宗教に於て(120)も亦然らざるはなし、曰く酒は如何なる場合に於ても一滴も飲む勿れ、安息日に車に乗る勿れ、此事を為す勿れ、彼事を為す勿れと、人は新生命を供する能はざるが故に法を設けて僅かに汚濁を排除せんと計るのみ、然れども天然は空虚を嫌ふ、世に消極的完全なるものあるなし、善を為さずして悪を排し得る者あらず、偶々社会改良家なる者ありて善事を教へずして、悪事を除かんとすれば、一度び除かれし悪事は人心の空虚に乗じ、更らに七倍の悪事を伴ひ来りて、前時に勝るの強勢を以て社会を毒す、キリストの福音の福音たる所以は其全然積極的たるに存す、キリストは光明を以て幽暗を排除し給ふ、生命を以て死と墓とに打勝ち給ふ、彼の命は「勿れ」に非ず、彼は「成れ」と教へ給ふ、世と彼との差は実に地と天との差なり。
  (廿二)、是れ皆な使用と同時に朽るものなり
 人の定めし規矩法式は斯世の器具の如し、使用と同時に朽るものなり、之に生命の無尽なるあるなし、是れ一時代に適することあるも他の時代には何の用をも為さず、或は一国の風儀に適するも他の国に施して何の益する所あるなし、一宗廃れて他宗興り、一派衰へて他派盛なり、割礼必要の時代と場合ありしも其無要の時代は来れり、水を以てする洗礼式に人の良心を潔めし時代ありしならんも、今や霊火の洗礼を以て水の洗礼に代ふべき時は来れり、祭日も安息日も教会制度も信仰箇条も皆な器具と衣服との如く使用と同時に朽るものなり、然れども主の道は窮りなく存つなり(ベテロ前書一の廿五)。
  (廿三)是等の規条は自から撰みたる礼拝と謙遜と身を懲すことに由りて知慧の外観あれども肉の縦肆を防ぐためには何の価値もなきものなり。
 「自から撰みたる」 神の命ぜざる 〇「身を懲すこと」 苦業艱難して慾を制し、情を殺して身の聖浄を計る事(121) 〇「智慧の外観あれども」 いかにも 者の行為の如くに見ゆれども 〇「肉の縦肆を防ぐためには何の価値もなきものなり」、然り、価値なきのみならず返て有害なり、慾を外より制せんとして、慾は制せられずして返て更に巧妙なる像を取て外に現はる、熱の化して電気と成るが如く利慾は化して色情となり、又は嫉妬と変ず、若し傲慢を外より刺すれば「自から選みたる謙遜」となりて復外に現はる、罪は之を根絶するにあらざれば永久に罪なり、規条は如何に厳格なるも罪を消して徳を生ずる能はず、〇然れども若し規条に由らずして霊に由りて身体の行為を滅さば生くべし、(ロマ書八の十三)。 〔以上、5・28〕
 
    地上に於ける天国の生涯 哥羅西書第三章〔第一節−第八節〕
 
  (一)、爾曹若し既にキリストと偕に甦りしならば、上に在るもの、即ちキリストが座して神の右に在り給ふ所のものを求め。
 「爾曹若し既にキリストと偕に甦りしならば」、爾曹若し既にキリストの十字架と復活とを爾曹の心に実験し、新生命の精気を受けて、新たに造られたる者となり、旧きは去て万物皆な新らしく作りしならば、(哥林多後書五の十七)、若し爾曹の此宣言と表白とにして事実なりとすれば、(而して我は其事実なるを信じて疑はず)爾曹地のものを捨て天のものを求めよと、更生は信徒の死を待て始まるものに非ず、キリストの霊を心に受けし時、其時既に我儕の更生は始まりしなり、我儕の更生の完成せらるゝ時に最後の更生、即ち死後の復活はあるなり、我儕は既に新たに生れたる者なれば、其意味に於ては我儕は既にキリストと偕に甦りし者なり 〇「上に在るもの」天のもの、即ちキリストの在し給ふ所のものなり、天のものとは勿論地のものに対して言ふ、而して地のものゝ(122)奸淫、汚穢、邪情、悪慾、貪婪(五節)なるを知らば、天のものゝ何たる乎は問はずして明かなり、キリストが座して神の右に在し給ふ所には邪姪あるなし、汚穢あるなし、而して未だ斯世に在るも既に籍を天国に移せし者は天国の市民の如くに行つて斯地の者の如くに歩むべからざるなり、基督信徒の生涯とは天国の律法を斯世に於て実行することなり。
  (二)、爾曹天に在るものを念ひ地に在るものを念ふ勿れ。
 「念ふ」Phroneo は常に念ふの意なり、以て心の常態となすの意なり、即ち天に在るものが吾人の思惟を専領して地に在るものをして之を侵すことなからしむる事なり、〇思惟は行働の母なり、思惟にして清からん乎、行働は努めずして潔かるべし、斯世に在て天国的生涯を送らんと欲せば先づ思惟を潔うせざるべからず、常に腐敗文学に眼を曝らし、或は邪詞婬話に耳を傾け、心に注入するに常に汚思穢想を以てする者が、如何に努むればとて高潔なる行為に出得べき筈なし 天に在るものを念ふ事が我儕の習慣となるに及んで、我儕は始めて天国の市民たるに恥ざる行為に出るを得るなり。
  (三)、そは爾曹は死にし者にして爾曹の生命はキリストと偕に神の中に蔵るればなり
 「死にし者」 未だ全く死にし者に非ず、死の途に就きし者なり、邪慾の蛇は未だ全く死せずして度々頭を擡げて我儕を呑まんとすると雖も、其踵は既に砕かれ其毒牙は既に除かれて我儕に大害を加ふる能はず、而して我儕のために永生を贏《か》ち得給ひし者は死して既に甦り給ひたれば、彼に在て生くる我儕は彼に在て既に「死にし者」なりと云ふを得べし、キリストの生命が日々我儕を聖化しつ\ある間に我儕は日々旧き我儕に死につゝあるなり 〇「爾曹の生命は云々」 爾曹の求めつゝある生命は(勿論爾曹の去りつゝある旧き生命を指して云ふに非ず、)即(123)ちキリスト信徒たる爾曹の生命は、是れキリストと偕にありて、今は神の中に蔵れあるなり、「キリストと偕にあるなり、」何となればキリストは爾曹の生命なればなり、彼は其復活せる肉躰に於て爾曹の生命を齎らして天に昇り給へり、而して彼は今は彼処に在りて神の右に座し給ひて、其処に爾曹の希望を繋ぎ、其処より爾曹に新生命を注ぎつゝあり、彼は今は神の中に蔵れて世も爾曹も彼を見る能はず、然れども憂ふる勿れ、彼は神の中に蔵れあるなり、何者も彼を害ふ能はず(ヨハネ伝十六章十六節参考)。
  (四)我儕の生命なるキリストの顕はれんとき其時爾曹も亦彼と偕に栄光の中に顕はるゝ也
 爾曹の生命は今はキリストと偕に(キリストに在りて)神の中に蔵れある也、然れども是れ永久に斯く蔵れあるべきものにあらず、之に顕はるべきの時あり、キリスト再び其栄光の体を以て世に臨み給はん時、其時爾曹も彼と偕に顕はるゝ也、爾曹は今は蟄伏の時期にあり、春雷一度動き蟄虫萌蘇する時、爾曹は末《をはり》の※[竹/孤]《らつぱ》の声に応じて栄光の主と偕に斯世を治めん、是れキリストを信ぜし爾曹のために定められたる運命なり。
  (五)、是故に爾曹の地にある肢躰、即ち奸婬、汚穢、邪情、悪慾、及び貪婪を殺すべし、貪婪は偶像を拝すること也。
 天の事を説いて地の事に及ぶはパウロの習慣なり、以下キリスト信徒の実践道徳に説き及ぶ 〇「是故に」 爾曹は斯くも栄光ある将来を有する者なれば、〇「地にある肢躰」とは手にあらず、足にあらず、悪の行為を幇助するものなり、即ち奸婬なり、邪情なり、悪欲なり、貪婪なり、是等は悪の本躰にはあらざるべし、然れども悪の手先にして之を増長せしむる者なり、故に爾曹は之を殺すべしとなり、而して如何にして之を殺さん乎に就てはパウロは曾て言へるあり曰く若し霊(聖霊)に由て身躰の行為を滅さば生くべしと(ロマ書八の十三)、世に肉慾を(124)殺すと称して艱難苦行する者あるも斯かる者は智慧あるが如くに見えて実は尊きものにあらざるはパウロの既に述べし所なり(二章末節)、〇「貪婪」 是れパウロの特に忌み嫌ひし罪なるが如し、貪婪の事に就ては互に語ることだになす勿れと(ヱペソ書五の三)、而して其常に奸婬又汚穢の罪と共に列記せらるゝを見ればパウロは之を以て奸婬罪の一種と見做せしが如し、彼の観察に由れば色と慾とは同一物の両面にして、彼が偶像崇拝を以て奸婬罪と認めし予言者の言と相対して貪婪の罪を以て偶像を拝することゝ見做せしは敢て怪むに足らざる也、〇貪婪は偶像崇拝なり、偶像崇拝は貪婪なり、偶像を拝する者は貪婪のために之を拝するなり、若し邦人の心より貪婪の念を絶たん乎、偶像崇拝は忽にして消滅すべし。
  (六)、是等の事に由りて神の怒は従はざる者の上に臨めり。
 「神の怒」 義憤なり、聖怒なり、神は愛なれば彼に憤怒あるなしと言ふ者は誤れり、神は愛なるが故に怒り給ふなり、彼にして若し利慾の神ならん乎、彼は決して怒り給はざるべし、今の人は神の情を説て其怒を説かず、故に彼等は深く神の愛を解する能はず、神は勿論道理なくしては怒り給はず、然れども怒るべき時に怒り給ふ、而して其忿恚や焼燼す火なり、之に触れて人も国家も其の烈熱に堪ふる能はず、奸婬の結果たる家庭の紊乱を看よ、汚穢の現罰たる肉躰の糜爛を看よ、悪慾の結果たる縲絏の恥辱を看よ、貪婪の責罰たる国運の衰退を看よ、羅馬を看よ、西班牙を看よ、然り日清戦争後の日本を看よ、誰か之れを看て神は怒り給はずと言ふ者かある、神の恩恵は之を知るに難かれども、其忿恚は印せられて人の額に顕はる、国土の面《おも》に記さる 神の憤怒を疑ふ者は歴史の大事実を疑ふ者なり、〇「従はざる者」 信ぜざる者の意なり、罪悪は凡て不信の結果なり。
  (七)、爾曹も曩に斯の如き人の中に日を送りし時は此等の悪事を常に行へり、
(125) 爾曹も曩に不信者の中に在て不信者たりし時は常に是等の悪事を行へり、然り、単に之を行ひしのみならず、之を以て差したる悪事なりとは思はず、自から之を行ひしのみならず、亦之を行ふ者を喜べり(ロマ書一の卅二)、爾曹いま此事を思ふて羞耻の念に堪へざるべし。
  (八)然れど爾曹今は凡て此等の悪事を去るべし恚憾、忿怒、怨恨を去るべし、爾曹の口より謗※[言+賣+言]と醜言とを去るべし。
 「然れど今は」 キリストと共に甦り、地に死して天の属となりし今は 〇「凡て此等の悪事を去るべし」 此等の卑賤なる肉慾上の悪事を去るべし、肉に死につゝある者が肉の慾に耽けるは最も応はしからぬことなり、〇然れども爾曹は此等の肉慾上の悪事を去るを以て満足すべからず、更らに進んで心霊上の悪事を去るべし、恚憾《いきどほり》 忿怒《いかり》 怨恨 謗※[言+賣+言]《ぼうとく》を去るべし、而して更らに進んで爾曹の口より醜言を去るべし、爾曹の口より出る語言までが潔めらるゝに至るまでは爾曹は全く潔められたりと惟ふ勿れ 〇怒気の一時に発するものを「恚憾」と云ひ、其永く続くものを「忿怒」と云ひ、其人の常性となりしものを「怨恨」と云ひ、其悪意となりて危害の人に及ばんことを願ふに至りしものを「謗※[言+賣+言]」と云ふ、愛の正反対は憎悪なり、而して怒気は憎悪の発動なり、而して怒気の窮極は謗※[言+賣+言]なり、呪詛なり、而して怒気が呪詛たるに至て其人の危険は其極に達したりと云たべし、(マカ伝三章廿八、廿九節参考、「褻涜」「謗※[言+賣+言]」 希臘原文に於ては同一の詞なり)。〇「醜言」 汚れたる言、淫話、心の腐蝕の唇に顕はれしもの、其未だ口を汚す間は死は未だ其人を去りたりと云ふを得ず、殊に之を常に其唇に登して以て羞耻を感ぜざるが如き者は既に地極の火の中に自己の身を置きし者と称すべし。 〔以上、6・11〕
 
(126)     忿怒と虚言 (哥羅西書三章)〔第七節−第九節〕
 
  (七)爾曹も曩に斯の如き人の中に日を送りし時は此等の悪を常に行へり。
 爾曹も曩に不信者の中に在て不信者たりし時は常に是等の悪事を行へり、然り、単に之を行ひしのみならず之を以て差したる悪事なりとは思はず、自から之を行ひしのみならず、亦之を行ふ者を喜べり(ロマ書一の卅二)、爾曹いま此事を思ふて羞耻の念に堪へざるべし。
  (八)然れど爾曹今は凡て此等の悪事を去るべし、恚憾 忿怒 怨恨を去るべし、爾曹の口より謗※[言+賣+言]と醜言とを去るべし。
 「然れど今は」 キリストと共に居り、地に死して天の属となりし今は 〇「凡て此等の悪事を去るべし」 此等の卑賤なる肉慾上の悪事を去るべし、肉に死つゝある者が肉の慾に耽けるは最も相応はしからぬことなり、〇然れども爾曹は此等の肉慾上の悪事を去るを以て満足すべからず、更に進んで心霊上の悪事を去るべし、恚憾忿怒怨恨を去るべし、而して更らに進んで爾曹の口より謗※[言+賣+言]醜言を去るべし、爾曹の口より出る言語までが潔めらるゝに至るまでは爾曹は全く潔められたりと惟ふ勿れ 〇怒気の一時に発するものを「恚憾」と云ひ、其永く続くものを「忿怒」と云ひ、其人の常性となるものを「怨恨」と云ひ、其悪意となりて危害を人に加へんことを願ふに至るを「謗※[言+賣+言]」と云ふ、愛の正反対は憎悪なり、而して怒気は憎悪の発動なり、而して怒気の窮極は謗※[言+賣+言]なり、呪詛なり、而して怒気が呪詛たるに至て其人の危険は其極に達したりと云ふべし、(マカ伝三章廿八、廿九節参考
 「褻涜」「謗※[言+賣+言]」 希臘原文に於ては同一の詞なり)。〇「醜言」 汚れたる言、婬話、心の腐蝕の唇に顕はれしもの(127)其未だ口を汚す間は死は未だ其人を去りしと云ふを得ず、殊に之を常に其唇に上して、以て羞耻の念を感ぜざるが如き者は既に地獄の火の中に自己の身を置きし者と称ふべし。
  (九)互に※[言+荒]《いつはり》を言ふ勿れ、そは爾曹は既に旧き人と其行とを脱ぎ新しき人を衣たればなり。
 「互に※[言+荒]を言ふ莫れ」、誠実なれ、有の儘なれ、如何なる象に於ても虚言を用ふる莫れ、虚言を語る者は其衷に幽暗あればなり、然れども爾曹は光の子なり、全身光なるに及んで虚を語るの要一つもあるなし、虚は暗を蔽はんが為めにのみ必要なり、蔽ふべきの暗なきに至て虚は全く要なきに至るなり、互に※[言+荒]を言ふ勿れ、然りキリストなる新き人を衣て爾曹※[言+荒]を言はんと欲するも能はざるなり 〇「そは」 ※[言+荒]言を全廃するの理由 〇「旧き人」性来の罪の人なり、朽つべき始のアダム、汚穢、邪情、悪欲の人、キリストと偕に十字架に釘けられしものなり 〇「新き人」 キリストなり、我儕は信仰に由て彼の生命を我が有となすを得るなり、之を「衣る」とは之を受けて我が有となすの意なり 〇虚言を全廃するは容易ならず、人の全性がキリストに由て革まらざる間は彼は虚言を語て止まざるなり、或は虚言は方便なりと称し、或は真実は恒に語るべきかと疑ひ、種々の理由を附して彼の虚言を継続するなり、虚を根より絶たんと欲せば実なるキリストと同躰となるより他に途なきなり。 〔以上、明治37・1・21〕
 
(128)     評判的基督教
                      明治36年2月25日
                      『聖書之研究』34号「時言」                          署名 角筈生
 
〇世に評判的基督教と称すべきものがある、是れは何にも別にキリストを信じて其救済に与かるといふことではなくして、宗教界の人物誰れ彼れを批評して、それで教会通、即ち今の所謂る基督信者であると思ふことである、爾うして斯かる信者は決して尠くはないのであつて、我儕は彼等に遭ふ度び毎に彼等のため、亦基督教のために常に慨歎に堪へないのである。
〇彼等の基督教に関する智識と云へば至て浅いものである、彼等の多くはキリストなる貴き名称の何の意味であるかさへも知らない、彼等はキリストに関し、救拯に関し、復活に関し、永生に関して一つの確固たる意見を有たない、彼等は未だ一回も聖書を通読したこともない、彼等に若し歴代志略なる書の特種の天啓であることを語る者あれば、彼等は驚いて曰ふ「余は斯かる書の聖書の中にありしを聞きしかども未だ是に特別の意味有りとは知らざりし、余は是れは唯猶太歴史の続編であるとのみ思へり」と、彼等は預言者の名さへも知らず、何西阿とか、約耳とか、哈巴谷とか云ふ名は彼等の聖書には有て無きが如きものである。
〇斯くも聖書には至て暗らい彼等は教理に就て云々することには甚だ巧者である、彼等は旧思想の何たる乎を知らないで、頻りに之を排斥する、聖書さへ碌に読みし事なき彼等のことなればカントやヘーゲルの書とては之を(129)覗きしこともなきに、頻りに其名を称へて総ての哲学と宗教とを批評する、然しながら若し人ありて「然らば君は何を信じ給ふや」と問ふ者あれば彼等は之に対して確固たる答弁を為すことが出来ない、彼等は実に未だ懐疑の中に迷ふ者であつて確信の域に達した者でない、故に彼等は他を批評することを知つて自己を表白することを知らない、彼等はたゞ慎んで自己を匿くし、他人の評判に自己の不信を蔽はんとする者である。
〇彼等は自から称して基督信者であると云ふ、彼等は出席すべき教会を有つて居る、彼等は洗礼を受けた、聖餐の式に列する、彼等は教勢拡張に就て多くの意見を有する、彼等は教勢の不振を以て凡て之を教役者の無能に帰する、然ればとて彼等は決して自身其任に当らんとは為ない、彼等は唯伝道の策士たらんとのみ欲する、確実なる信仰の萌芽だも有たない彼等は勿論不信の世と戦つてキリストの聖名を揚げんとする勇気の如きは毛頭持たない。
〇彼等の重なる宗教は教界人物の批評である、是を為すが故に彼等は基督信者であると思ふて居る、誰は弁は好いが思想が低いとか、誰は弁は悪いが筆が立つとか、誰れの基督教は儒教的であるとか、誰れのはカーライル的で過激であるとか、其他重なる信者の家事の細密に至るまで之を探り出し、之を評し之を語るを以て、是れが基督信者の能事であると思ふて居る、斯かる悪習に就て聖書が何んと教へてあるか、それは彼等の少しも意に留める所ではない、彼等は未だ以弗所書に天国の市民の憲法を索つたことなく、腓立比書に歓喜の福音を学ばず、哥羅西書に宏遠なる基督論を究めたことはないのであるから、恒忍とか久耐とか云ふことの基督教の肝要なる教訓であることなどには少しも目を注がない、彼等は安心して聖書の教訓に反いて兄弟の批評(審判)を為して居る、兄弟の批評は実に彼等の基督教であつて、是を取除いて実は彼等に基督教なる者はないのである。
(130)〇然しながら是れは彼等のために甚だ不幸なることである、彼等が此事を為しつゝある間は彼等は何時までも宗教の何たる乎を知ることは出来ない、彼等は聖書を手にして在りながら兄弟の批評にのみ彼等の舌と唇とを使用つて居る故に、聖書の中にある深い清い真理を覗くことが出来ずして、彼等の心は常に不安を以て満たされ、更らに兄弟の欠点でも探るにあらざれば、飢たる彼等の霊魂を養ふことが出来ない、彼等の批評の習慣なるものは実に破壊性を有する者であつて、是れは先づ彼等自身の信仰を破壊し、次に彼等が批評する彼等の兄弟の信仰を破壊し、終には彼等が組織する彼等の教会までも破壊する、我儕は実に評判的基督教の悲むべき結果として破潰《こわ》れた教会を幾箇も知つて居る。
〇宗教は真面目の事であつて冗談ではない、是れは沈思黙考すべきことであつて、空談笑語すべきことではない、評判的基督教が化して研究的基督教と成るにあらざれば其運命は至て短い者である、予は多くの基督信者に向つて曰ふ、「評判は全く無益なり、直に之を廃せよ、之に更ふるに感謝を以てせよ、深き聖書の研究を以てせよ、然らば益する者は諸君のみに止まらずして、キリストの教会は春陽の和気に接するを得ん」と。
       ――――――――――
〇ヘンリー、ワード、ビーチヤー曰く「余は余に関する記事は善きも悪しきも之に目を留めざるを恒とす、其は是れ甚だ不健全なる記事なればなり」と。
〇俗人が最も聞かんと欲することは個人に関する噂なり、聖徒が最も聞かんと欲することは神と人生とに関する事実なり、宗教家に最も不似合なるものは世間談《せけんばなし》なり、かゝる席にはキリストは決して在さず、我儕も亦嘲ける者の座にすわらずとの教訓に循ひ直にかゝる席をば立退くべきなり。
 
(131)     自由伝道と自由政治
                          明治36年2月25日
                          『聖書之研究』34号「講演」
                          署名 内村鑑三
 
  是れは自由投票同志会発起の演説会に於て述べんとて用意した者でありまして、其一部は去る二月七日の夜東京下谷山下町雁鍋に於て開かれし同会の演説会に於て述べたものであります。
 私は今日の演説会に出席すべからざる三ツの理由を有つ者であります、其第一は私は咽喉病を病む者でありまして、医師に冬の中は演説を禁ぜられて居りまする故に既に其事を新聞紙上に広告し、今日まで幾回か演説の依頼を謝絶しました、故に今日此演壇に上りまするのは私に取ては一には医師の言に反き、二には公衆を欺くことであります。第二に私は耶蘇教の伝道師でありまして、政治には一切関係しない者でありまするから斯かる政談演説会には私は決して臨んではならない者であります。第三に私は衆議院議員の選挙権を有たない者でありまして、政治的には一人前の人間として認められない者であります、故に投票が自由であらふが不自由であらふが私は其事に就ては少しも痛痒を感じない者であります、斯かる私が斯かる会合に出席すべき者でないのは勿論であります。
 斯くも重大なる理由を有つのに何故に今日此壇に現はれたとの詰問に対して、私の答へまする所は、第一に私の関係して居る理想団の発起に係る此演説会が弁士の欠乏を感ずると聞いては私は沈黙を守るに忍びません、第(132)二に耶蘇教の伝道師も人間である以上は少しは政治の事を弁へて居らねばなりまんから、彼も時に或は政治に就て論弁しても可いと思ひます、第三に縦し投票権は有たないと致しましても――私は投票権を有たない事を少しも苦に致しません、又耻とも思ひません、今日のやうな時に方ては投票権を有たないことは多くの点に於て幸福の事であります、私は生涯其煩累より免かれたく欲ふ者であります――私も日本人の一人である以上は投票の正、不正等に就ては喙を容るゝの権を有つて居ると思ひます。是等の三ツの抗弁的理由がありまする故に――少しコジツケのやうには聞へまするが――私は今日強ひて此所に出席致しました。
 然し耶蘇坊主の私の事でありまするから題も自づから坊主臭くあります、亦言ふ所も坊主臭くあらふと思ひます、然し是は仕方がありません、坊主が坊主臭くなければ真個の坊主ではありません、世には坊主臭くない坊主があります、彼は即ち俗僧であります、私は不肖なる者ではありまするが自ら坊主を以て任ずる以上は坊主の本性を失はない積りであります。
 「伝道と政治」、伝道は宗教の事であるから神聖である、然し政治は俗界の事であるから醜猥ですると言ふのが今日此国の常であります、成程我国今日の政治界を看まするならば人が爾う思ふのも決して無理ではありません、今や政治は真面目なる人の入る所ではありません、山師や、虚言家《うそつき》や、怠惰者《なまけもの》が争て入らふとする我国今日の政治界なる者が君子の入るべからざる所と見做さるゝのは当然の事であります。
 然し政治とは元々斯くあるべき者でないのは私が言ふまでもありません、政治の最も純正なる時は宗教と同じやうに神聖なる者であります、西洋に於ては仏国のルイ第十一世の政治、伊太利フローレンスのサボナローラの政治、英国のコロンウエルの政治等は神聖なる政治の実例であります、我国に於ても最も善き政治は皆敬神的の(133)政治でありまして、是も亦た神聖で宗教的でありました、政治と宗教とを一つに為すのは害多くして私の賛成する所ではありませんが、然し政治を全く宗教より離して、政治家たる者は俗才さへ有れば泥棒でも詐欺師でも酔漢でも放蕩児でも誰れでも成れる者であると思ふに至りましたのは、是れ政治のために最も慨歎すべきことであります。
 伝道も真面目なる業であれば政治も真面目なる業であります――真面目なる業であるべき筈であります――夫れ故に伝道も政治も其活動の区域こそ異なれ、其方法精神に至ては同一であると思ひます、凡て真面目なる事業は同一の精神より出づる者でありまして、其素質に於ては少しも違ひません、美術でも、文学でも、工業でも、商業でも、真面目なる事業は少しも異りません、真面目なる大工は真面目なる画家の心を知ります、真面目なる商人は真面目なる軍人の術を知ります、人は其の誠実に達すれば皆同一家の兄弟姉妹であります、宗教は神聖で政治は山師泥棒の従事すべき商売であると思ふ我国今日の政治家輩は自身未だ誠実の何たる乎を知らない者であります。
 然らば如何なる点に於て政治は伝道に似て居ります乎。
 第一、伝道も政治も信仰の事業であります、信仰とは勿論必しも神や仏を信ずる事許りではありません、是れも確かに信仰でありまするが、然し信仰とは Faith−又は Belief 即ち確信の意でありまして、其根本的確信とも称すべき者は即ち正義に関する信仰であります、即ち正義の神聖と勢力と必勝とを信ずることであります、信仰は懐疑の正反対であります、正義に味方する者は少数であつて、不義に味方する者は多数であるから、夫れ故に正義は或は負ける乎も知れぬなどと言ひて懼れ戦慄く者は是れ正義に就て疑惑を懐く者でありまして、之を信仰(134)する者ではありません、正義を信仰する者とは正義其物を信仰する者でありまして、世人の正義に関する輿論に動かされて、其信仰を動かす者ではありません、私が伝道に従事致しまするのも及ばずながら此信仰を有つて居るからであります、日本の如き國に於て基督教の伝道に従事することでありますもの、是れに社会の賛成のないのは勿論の事でありまして、若し目前の趨勢より打算すれば私の負けるのは知れ切つて居ります、然し私は信じて疑ひません、現今の私の逆境は私の取る主義の誤謬である証拠ではありません、若し私が正義に拠りますれば一人の私は四千五百万の国民より強い者であります、私に大博士の駁撃があらふが、全国民の反対があらふが、其事には私は少しも意を留めません、正義が正義である以上は其上に立つ私は金城鉄壁よりも堅い者であります、此信仰がなくして伝道は決して出来ません、基督も保羅も釈迦も日蓮も伝道師といふ伝道師は皆な此確信の上に立つた者であります。
 政治家も同じであります、政治とは政略を施すことではありません、正義を行ふことであります、爾うして正義は宇宙の正義でありますから、之に反抗する者の如きは終には滅亡すべ者でありまするから我等の歯牙に懸くるに足らない者であります、正義はキツト行はれます、縦令全国民が反対するとも行はれます、縦令全世界が反対するとも行はれます、私は人を信じません、正義を信じます、故に正義が幾度敗北するとも少しも失望致しません、私の最も心配すべき事は私に賛成者が多いか、尠いかではありません、私が正義に拠るか拠らい乎であります、爾うして一旦釈然として我は正義の上に立つと確信する以上は其後は何が来やうが少しも懼るゝに足りません。
 私の知る所に依りますれば偉大なる政治なる者は皆な此信仰の政治でありました、リンコルンの政治、マツヂ(135)ニの政治、グラツドストンの政治は皆な此信仰の政治でありました、世に彼等を動かすに足る勢力はありませんでした、彼等は磐石よりも堅い者でありました、彼等は彼等の失敗の故を以て少しも歎きませんでした、グラツドストーンの如き、彼の末路は政治的には至て憐れなるものでありましたが、然し彼は満々たる希望を抱いて死に就きました、彼は彼の意見の何時か実行せらるゝに至るを信じました、之を信じ之に則て彼の政見を立て、之を実行せんと努めました、故に彼の政治はルーテルの宗教と均しき者でありまして、其勇猛なることゝ其堅固なることに於ては両人共相互に能く似て居りました。
 第二、政治は伝道と同じく信仰の事業でありますから、それと同時に亦た公平の事業であります、正義を行はんと欲する政治家に地方的観念とか階級的偏頗心とか云ふ  なものゝ有りやう筈はありません、一視同仁は天の心であります、爾うして天の心は正義であります、爾うして伝道は天の心を伝ふる事業でありまして、政治は国家の上に之を行ふ事業であります、伝道と政治とは其事業の目的に於て全然相一致して居ります。
 真理を目的と為ない宗教に宗派なる者があります、正義を目的と為ない政治に政党なる者があります、此世に於て寺を建てんとする者、教会を作らんとする宗教家は宗派に頼ります、何か正義以外に勢力を求めて、之に依て事を為さんとする政治家は必ず政党に入ります、宗派に属する宗教家は恒に意志の弱い、確信の薄い宗教家であります、政党に入て世に所謂|大頭《おほあたま》なる者の勢力を藉りて己れの勢力を張らふとする政治家は恒に経綸も政見も有たない政治家であります、真理は人類全躰を包む者でありまするから之れは宗派とか学閥とか称ふるもの中に押籠める事の出来る者ではありません、其やうに正義は余りに厳格にして余りに公平なる者でありますから、之を一党内に在つて維持することは出来ません、世に謂ふ愛党の精神なるものは偏頗固陋の精神でありまして、斯(136)かる精神に駆られて国家の大事を調理することの出来ないのは分かり切つたることであります。
 第三に、伝道と政治とは素々自由なる者であります、夫れは何故であるかと云ふに真理も正義も素々自由であるからであります、自由とは意志の自由撰択の外何者にも訴へない者であります、真理は人に向て「我を受納れよ、然らざれば我れ汝を殺さん」とは申しません、又「我を信ぜよ、然らば我れ汝の欲するものを与へん」とも申しません、真理は唯申します、「我を我れ自身の為に信ぜよ、利害得失の念より全く離れて信ぜよ、汝、我を信ずればとて我は必しも汝の欲する世の善き物を以て汝に約束せず、否な、我を信ずるに依て汝は多くの艱難を受けん、然れども之に関はらず我を信ぜよ、其は我を信ずるは人類たる汝の義務なればなり」と、是れ丈けであります、夫れ故に忠実に真理を伝ふる其伝道師は真理以外の勢力には何にも頼りません、彼が威力、権力、暴力、金力を用ゐないのは勿論であります、彼は文の秀たるを以て、或は辞の婉《うるは》しきを以て殊更に之を飾らんとも致しません、真理には真理其物の美があります、真理其物の牽引力があります、何にも殊更に私共の美文や能弁術を以て之を飾るの必要はありません、単純、無垢の真理、真理有の儘、是れが最も美しい慕はしい者であります、金を鍍金する者は馬鹿者であります、真理を飾らんとする者は是れよりも更らに愚かなる者であります、夫れ故に真理の忠実なる伝道師は唯簡単明白なる真理を述べん事のみを努めて其他の方法手段は成るべく取らないやうに致します、彼が政府の力に頼らないのは勿論であります、政府が宗教を助けて呉れる程有難迷惑なる事はありません、博士の威力を藉らないのは勿論であります、博士なんどは――殊に日本今日の博士なんどは真理には――殊に私の信ずる基督教の真理には、――何の用も価値もない者であります、真理の伝播には金も至て不用であります、真理に金銭の価値《あたえ》の附く時は其直ちに腐る時であります、学問其物でさへも真理の伝播には時には邪魔物(137)であります、威なく、学なく、金なく、弁なくして、独り保ち、独り拡がり、独り人を惹き附くる者が真性の真理であります、故に伝道師たることは容易の事ではありません、彼は其の主人たる真理を非常に大切に取扱はなければなりません、彼は其れをして独り輝かしめ、独り人を感化せしめなければなりません。
 正義と其実行者たる政治家も同じ者であると思ひます、正義其物が最大の勢力であります、正義其物に絶大の利益が附着して居ります、正義は弱い者であるから我等は別に勢力を作つて之を維持しなければならないなどと言ふて、老婆が赤子を扱ふやうに正義を扱ふ者は正義に対して最も不忠実なる者であります、正義は幼主ではありません、彼はジヤイヤント(巨人)であります、宇宙の勢力を握る者であります、之をさへ説き、之をさへ叫べば終に黄金国は来るのであります、然るに此事を知らないで、正義を強うると称して威力を以て人を脅かし、或は金力を以て人を誘はんとするのは正義に対して不忠極まる所業でありまして、斯かる人が正義を行ふことの出来ないのは何よりも明かであります。
 正義を赤子扱ひにするのはまだしもであります、之を利用するに至ては褻涜の罪、到底赦すことは出来ません、正義を利益の下に置いて、正義を以て利慾の奴僕となし、其名を聞いては心の中に嘲弄し、政治とは利を己に収むる機関であるものゝやうに思ふ者に至ては、是れ国賊の長、逆臣の首《かしら》、政治界は勿論のこと、人間社会よりも全然排斥すべき者であります。
 斯う云ふと或人は申します、我国今日の多数の人は申します、夫れは理想ではあるけれども到底行はれる事ではない、世人の多数は愚人であるから是れに純正の真理や正義を説いた所が到底受納れられる者ではない、此世に於て事を為さんとするには其れ相応の手段がある 真理とか正義とかいふて、名のみで実のない者を唱へた所(138)が何の効能もないのは能く分つて居る、そんな詰らない理屈を唱へて居る間には国は終には亡びて了ふから、今の中に適当の方法を講じて、社会をして我が意見を採用せしめて、此国の安全を計らなければならないと。一応尤の説のやうに聞へます、然し斯かる人は信仰の人、主義の人、真理と正義とに忠実なる人ではありません、而已ならず、彼等は智略のある人のやうに見えて、実は至て浅慮の人であります、私は私の伝道的生涯に於て斯かる老婆心を懐ける多くの伝道師を見ました、彼等は信徒の信仰を固うするとか称へまして、望みもしない洗礼を彼等に授け、彼等を教会内に引き入れてそれで安心であると思ひました、其人は私に申しました、「君の為すやうでは伝道に少しも締がない、且つ人は弱い者であるから彼等に適当の保護を与へなければ到底其信仰を維持することは出来ない」と、斯う申しまして彼等は教会を作り教勢を張り、一時は真理の為に非常の効を奏したやうに見えました、然し蝮の子は何処までも蝮であります、縦令神聖なる教会内に収容せられても、真性の悪魔は天使とは化しません、自由意志に訴へないで、外部の圧迫や、誘惑で作り上げ、其上規則で縛り上げて信者と成した者は終には其真性を顕はしまして、不信者どころではない、世の俗人に更に黒塗りしたやうな人物となりました。
 権力や金力や其他の総ての方法を以て伝へた真理は何の用にも立ちません、それで真理が伝はつたと思ふのは、爾う思はれるのみでありまして、事実決して伝はつたのではありません、真理を伝ふるに最も書き方法、最も早き方法は、真理其物を自由撰択に任かして、我々人間は之に何の干渉をも試みない事であります。
 是れは私の伝道上の実験であります、夫れ故に私は今は努めて自身を無勢力の地位に置きまして、真理をして其物自身で拡張せしめんと努めて居ります、私に信徒を収容するための教会なる者はありません、私に金銭を寄(139)附して呉れる伝道会社はありません、私は官辺に何の縁故をも持ちません、私は何人にも馬鹿にされます、然し斯かる無力なる私は真理の伝播に就ては多くの便利を持つ者であります、私如き者に依て伝へられたる、真理は其物自身に於て効力を持つ外に、何の効力をも有ちません、私は人を感化し、社会を救ふの力を持ちません、然し私の説く単純なる真理、是れは世界を動かすに足る勢力であります、何の策略をも須ゐずして真理を伝播する者が真理に最も忠実なる其伝道師であります。
 政治家も同じ事であります、正義は我に在る故に我は如何なる手段を取ても之を行ひ見んなど云ふ人は未だ正義の何たるかを知らない者であります、正義とは政治家の世話にならなければ何も為すことの出来ないやうなそんな意気地無ではありません、正義が自由に人の心に入り、人が自由に正義を迎へし時には非常の大事を為す者であります、正義に依らずして、勧誘とか運動とか云ふものに依て成つた代議士とか政党とか云ふ者を御覧なさい、其の無力なること実に言語に断へた者であります、彼等は実際何事をも為し得ません、自由に撰まれない代議士は自身自由を有たない者でありますから自由に其身を措置することが出来ません、其結果正義と見ても正義に賛成することが出来ず、不義と見ても之に反対することは出来ません、人の自由を買て政治家と成りし者程無能力なる者はありません、斯くても自己の経綸を施さんとすなど言ふのは実に抱腹絶倒であります。
 私は私の伝道事業に就いて一ツ誇ることがあります、私は未だ一回も私の友人を私の宗教に引入れんとして勧誘を試みたことはない積りであります、其実例として私の家に一人の書生が居ります、彼は私の家に十四年間出入りをして居ります、彼は私の最も信任する者であります、然し私は誓て申します、私は此の永の十四年間未だ一回も彼に向て私の宗教を説き勧めた事はありません、私は彼に聖書を買つて与へた事はありません、私は彼が(140)私に傚ふて私の宗教を信じないとて彼に向て未だ一度も不信任の態度を示した事は無いと思ひます、斯くして彼と私とは十四年間睦まじく暮らして来ました、爾うして漸く此頃彼は稍や少しく私の宗教を信ずるやうに成つたやうであります、然し彼は今でも私の顔の前ではワザト不信者を気取つて居ります、然し私は彼が密かに信仰心を起したのを密かに喜んで居ます。
 私は政治に於ても同じ態度を取る者であります、私は政治を詈りました、然し私とても人間でありまして人間は希臘の哲学者アリストートルの説に従ひますれば政治的動物であります、政治に対しては慾も熱心も希望も何にも持たない私でも政治には如何なる場合に於ても決して顔を出さない乎と言ふに爾うは言へません、然らば如何なる場合に於て私は政治に顔を出すかといふにそれは次の如き場合です。
 私は当選とか議員の座席とか云ふ事に何の考へも有たない時に私の発表した事のある政見に依て、私の国人が私が頼みもせず、候補者にも立たず、私はたゞ通常の通り私の本職なる基督教の伝道に従事して居りまする時に、私には何んの交渉もなしに私を選んで衆議院の議員となしたとの通知を受けました時には、其時には止むを得ません、私は迷惑千万ではありまするが、然し是れ天の命、国の命でありまするから、止むを得ず私の所望を総て排斥して、人類と国家に対する義務としてイヤ々々ながらも政治界に入ります、然しながら其時の来るまでは縦令千年立たうが万年立たうが、私は決して政治などへ此身を投じません、自由は私の主義であり精神であり、手段でありますから、自由に依らずしては私は何事も為さない積りであります、爾うして最も幸いなる事には斯かる主義を採る間は私は当分の間日本の政治界に引出さるゝ心配はないと、其事のみ日々心の中に感謝して居ります。
 
(141)     〔無勢力の効力 他〕
                      明治36年3月10日
                      『聖書之研究』35号「所感」                          署名なし
 
    無勢力の効力
 
 我に勢力なきこそ幸なれ、我に勢力あらん乎、我が福音は勢力なきものとならん、福音の勢力は我の無力なるに由りて顕はる、この故に我は寧ろ欣びて自己の弱きに誇らん、是れキリストの能力我に寓らんためなり(哥林多後書十二章九節)。
 
    三位の神
 
 我が父は我儕の主イエスキリストの父なる神である、我が母は我が訓慰師《なぐさむるもの》なる聖霊の神である、我が兄弟は我が霊魂の贖主なるイエスキリストである、此父と母と兄弟とありて我は独り此世に在るも少しも淋しく感じない、我は三位の神に於て我の凡ての慰藉を持つ。
 
(142)    我を憎む者
 
 キリスト我に在り、我れキリストに在りて、我を憎む者はキリストを憎む者である(約翰伝十五章十八節)、爾うしてキリストを憎む者は今の世に於ても後の世に於ても決して栄昌ゆる者ではない、我は此世に於ける我の短かき生涯の経験に由て此事の甚だ確かなる事実であることを暁つた。
 
    聖旨に近き生涯
 
 キリスト教を信ぜよ、然れども外国宣教師のパンを食ふ勿れ、日本国を愛せよ、然れども藩閥政府の米を食ふ勿れ、パンの伴はざるキリスト教を信じ、米の伴はざる愛国心を懐きて我儕は稍やキリストの聖旨に近き生涯を送るを得ん。
 
    我の忠孝
 
 我を不忠なりとて罵りし者は我よりも忠ならず、我を不孝なりとて責めし者は我よりも孝ならず、我を偽善者なりとて苦めし者は我よりも誠実ならず、キリストに倚り頼む我は完全を距る未だ甚だ遠しと雖ども、而かも世の人よりも聊か忠且孝且善たるを得るなり、而かも是れ我の忠なるに非ず、キリスト我に在りて忠なるなり、我の孝なるにあらず、キリスト我に在りて孝なるなり、感謝すべきかな。
 
(143)    絶対的従順
 
 人、我を責むる時には神、我を扶け給ふ、人、我に無理を要求する時には神、我に之に応じて尚ほ余りあるの恩恵を下し給ふ、神が我に絶対的従順を命じ給ふは之に由て我に彼の大能を顕はし給はんがためなり、故に我は聖書の言辞其儘を服膺し、人、我が右の頬を批たば喜んで亦ほかの頬をも転らして之に向け、一里の公役を強ひなば感謝して之と偕に二里行くべきなり(マタイ伝五の四〇、四一)。
 
    交際の苦痛
 
 独り神と偕に在ることの楽しさよ、此時我は受くるのみにして与ふることあるなし、恵まるゝのみにして恵むことあるなし、此時我は恩恵の中に浴し、我が全身の毛孔より之を我が衷に吸収するが如き感あり、此時我は変貌の山に於けるペテロの言を藉りて曰ふ主よ我儕こゝに居るは善しと(マタイ伝十七の四)、然れども主は永く我儕をそこに留め給はず、我儕を世に送て我儕の受けし恩恵を世に頒たしむ、其時我儕に苦痛あり、心労あり、我儕は主に命ぜられて止むを得ず世と交はるなり、自から好んで交際を求めざるなり。
 
    恥辱の源因
 
 神に頼るべき者が人に頼る時に恥辱あり、神に頼るべき者は神の外、何者にも頼るべからざるなり 神に頼ると称して人に頼るは偽善なり、神は人を離れて存在し給ふ者なれば、彼は人を離れて依り頼むべき者なり、神に(144)頼れよ、天地を造り給ひし神に頼れよ、諸の権威と能力とを離れて神に頼れよ、聖書に彼を信ずる者は辱められじと云へり(ロマ書十の十一)。
 
    弁と文
 
 人は我の弁を称揚す、然れども彼等は其何処より来りしかを知らざるなり、我は鍛練して之を学び得ざりしなり、我が心に大慈の動くありて、我が口は啓かれ、我が舌は釈かれかれば、我は自由に我が感動を語り得るに至りしなり。 人は亦我が文を称揚す、然れども我は文を修めし者にあらざるなり、神の霊、我を激し、我をして筆を執らざるを得ざらしめ給ひしが故に我より多少の文は出しなり。我の弁と文とは神のものなり、神を離れて我は無学の徒なり、唖者の類なり。
 
    我の政治
 
 我に政治を語れと勧むる者あり、然れども我は政治を語る能はず、そは我は此世の属にあらざればなり、我が政治は天国の政治なり、即ち慈愛なり、和平なり、衿恤なり、忍耐なり、兵と慾と権と勢とを論ずる政治は我が政治にあらざるなり。
 
    我の改革法
 
(145) 我は政治を改むる能はず、故にイエスキリストの福音を説くなり、我は社会を革むる能はず、故にイエスキリストの福音を説くなり、両して我が説く福音は終に社会と国家とを其根底より改めん、我は新社会の地盤の最底の石を据えんとして努めつゝある者なり。
 
    事の先後
 
 難き事を先きに為し、易き事を後にせよ、易き事を先きに為して難き事は終に為す能はざらむ。
 深き事を先きに究めて博き事を後に求めよ、先きに博き者は終に深き者たること能はざらむ。
 博きは斃れ易し、永く保つ者は深きものなり、始より広闊を叫ぶ信仰に永く保つ者尠し。
 
(146)     〔基督信徒相会する時…〕
                     明治36年3月10日
                     『聖書之研究』35号「家庭」
                     署名なし
 
〇基督信徒相会する時に何をか語らん、聖書は聖徒の交際術を示して曰く詩と歌と霊に感じて作れる賦とを以て互に相教へ相勧め恩恵に感じて心の中に神を讃美すべしと(哥羅西書三章十六節)、若し斯く為すは余り真面目に過ぎて交際の道に適はずと云ふ者あらば、彼は未だキリストの心を知らざる者なることを自覚して、直に彼の基督信徒なる名称を撤回すべきなり。
〇爾曹すべての很毒、………喧※[口+襄]、謗※[言+賣+言]また諸ての悪意を己れより去るべし、互に仁慈と憐恤あるべし、キリストに在りて神爾曹を赦し給へる如く爾曹も互に相赦すべし(以弗所書四章三一、三二節)、是れ評判的基督教を絶対的に否認する聖語なり、若し是れあるも好んで兄弟の批評に耽ける者あらば、彼を教会外に放逐するも可なり、そは彼はすべて姦淫する者、汚穢れたる者、貪婪者と偕にキリストと神との国を嗣ぐを得ざればなり(同五章五節)。
 
(147)     日本国の大困難
                      明治36年3月10日
                      『聖書之研究』35号「講演」                          署名 内村鑑三
 
 日本国に一つの大困難があります、それは富の不足の困難ではありません、また学問の不足の困難でもありません、法律の不整頓の困難でもありません、農商工の不振の困難でもありません、それはモツト深い根本的の困難であります、其困難があるからこそ日本の社会は今日のやうな希代なる状態を呈はして居るのであります、然るに日本人の殆んど総躰は困難を其根本に於て探らずして、資本の欠乏を歎じ、道徳の衰退を悲み、政治家教育家の腐敗堕落を憤て居ります、其事それ自身が実に慨歎すべきことであります。
 日本国の大困難、其最大困難とは何でありますか、私は明白に申します、それは日本人が基督教を採用せずして基督教的文明を採用した事であります、是れが我国今日の凡ての困難の根本であります、此の大なるアノマリー即ち違式がある故に我国今日の言ふべからざる種々雑多の困難が出て来るのであります。
 基督教的文明とは読んで字の如く基督教に由て起つた文明であります、即ち基督教なくしては起らなかつた文明であります、故に基督教を学ぶにあらざれば解することの出来ない文明であります、然るに日本人は基督教的文明を採用して其根本たり、其起因たり、其精神たり、生命たる基督教其者を採用しないのであります、是は恰かも人より物を貰つて其人を知らず、其人に感謝しないと同じ事でありまして、斯る不道理なる且つ不人情なる(148)地位に自己《おのれ》を置いた日本人が窮りなき困難に際会しつゝあるのは最も当然の事であると思ひます。
 先づ其二三の例を挙げて見ませう、日本人は日新今日の学術なるものは、是れは基督教の賜物でない所ではない、常に基督教の反対を受けて今日に至つたものであるから、之を採用し之を応用するに何にも基督教に頼るの必要はないと言つて居ります、然し是れ西洋歴史を少しも知らない者の言ふことであります、私は今茲に大科学者なる者の多数が熱心なる基督信者であつたことに就ては語りません、近世科学の草昧時代に在つて万難を排して宇宙の現象の観察に従事したニュートン、ダルトン、ハーシェル、フハラデーの輩が謙遜なるキリストの僕であつた事に就ては語りません、然しながら能く考へて御覧なさい、何故に回々教全盛の時代に於て土耳其や埃及やモロツコや西班牙に於て培養された科学が其産出の地に於ては発育を全うすることが出来ずして、欧洲の基督教的社会に移されてより繁殖するに至つたのでありますか、何故に印度人の鋭き脳髄を以てして印度半島に科学が起りませんでしたか、科学なるものゝは他のものと同じやうに大科学者の顕出を以てのみ起る者ではありません、之を促がし、之を迎へ、之を奨励する社会があつて始めて起るものであります、殊に科学思想は政治思想と同じく思想の圧抑の有る所に起るものではありまん、偶像崇拝の国に科学の起らないのは人の心が受造物に圧せられ、それがために天然を凌駕し、之を究めんとの心が起らないからであります、一神教の信仰と科学の勃興との間には深い深い関係が存して居るのであります、此事を知らないで、智識に富みさへすれば何れの国民でも科学を以て世界に鳴ることが出来ると信ずるのは実に浅い考へであります。
 近世教育なる者が概ね基督教の賜物であることは少しく西洋の教育歴史を読んだ人の否むことの出来ない事実であります、誰もペスタロツヂの伝を読んだ人で彼が非常に熱心なる基督教の信者であつて、彼の新教育なるも(149)のは皆深き彼の宗教的観念の中に案出されたものであることを拒む者はない筈であります、フレーベルも同じ事であります、ヘルベルトも同じ事であります、彼等フレーベルやヘルベルトより基督教の信仰を取去つて御覧なさい、彼等の開始めた教育の精神は取り除かれるのであります、然るを今の日本人はペスタロツヂ、フレーベル、ヘルベルトの教育法を採用して其根本たり、源因たり、生命たる基督教は嫌つて是を採用しないのであります、日本国の教育が実に異常のものであつて、体あるも霊魂なく、四肢あるも脳髄がないやうな者であるのは全く是れが為めであります。
 又た我等日本人が世界に向て誇る其新憲法なる者は何処から来たものでありますか、伊藤博文侯はその憲法註解に於てこれは我国固有の制度を新たに制定したるものであると言つて居りまするが、然し爾うならば何故に明治の今日まで代議政躰が日本国に布かれませんでしたか、又もし爾うならば何故に基督教国なるバヾリヤやアウストリヤの憲法に深く学ぶ所の必要がありましたか、代議政躰なるものは元から此の日本国に在つたもので決して西洋から借りた者ではないなどいふのは余りに小児らしく聞えまして、日本憲法を一読した西洋の政治学者に斯る事を聞かしたならば、彼等はたゞ笑ふのみであります。
 今日文明国で唱へる所の自由であるとか民権であるとか云ふものは決して基督教なくして起つたものではありません、自由は世の創始めより有つたもので、人類のある所には必ず自由ありなど云ふ人は未だ自由歴史を究めたことのない人であります、ローマやギリシャに古人が唱へて以て自由と称せし者はありましたが、然しミルトンや、コロムウエルや、ワシントンや、リンコルンが唱へた自由なる者はありませんでした、是れは実に新自由であります、是れはプラトーもソクラテスもカトーもセネカもシセロも知らなかつた自由であります、是れは即(150)ち始めてナザレ人イエスキリストに由て始めて此世に於て唱へられた自由でありまして、彼と彼の弟子に由らざれば決して此世に顕はれなかつた自由であります、人権に於けるも同じであります、人に固有の権利ありとは、人は何人も其欲するが儘を行うても可いと云ふ事ではありません、又人は何人も其所有を己が欲する儘に使用することが出来ると云ふことでもありません、権利なる者は言ふまでもなく責任に附着したる能力でありまして、責任がなくなると同時に之に附着したる権利は消滅する者であります、爾うして人の責任なるものは神と万有と人とに対する彼の心霊上の関係より来るものであります、神を認めず、不滅の霊魂の実在を認めずして、責任の観念は其土台から崩され、其結果として人はたゞ智能を具へたる利欲の動物と成つて了います、責任の観念は実に宗教的観念であります、是れは科学的に説明することの出来るものではありません、是れは亦社会を組織するための必用上より人間が定めたものでもありません、責任の観念を固く維持せんと欲せば必ず強き宗教の力に頼らなければなりません。
 其他会社組織の原理と云ひ、信用組合の原則と云ひ、深く其本を探れば皆深い道徳的宗教的の原理が基底に在るのであつて、此根底の精神がなくしては会社も組合も決して成立つものではありません。
 然るに日本の今日は何うでありますか、日本人は西洋人に傚つて其憲法を制定し、西洋人に傚つて其法律を編制し、西洋人に傚つて其教育制度を定めました、然るに彼等は西洋文明の精神たり、根底たり、泉源たる基督教を嫌ひ、我には我が国固有の宗教あり、何んぞ之を外国より藉るの要あらんやなどゝ申して居ります、或は学は西洋に則り徳は東洋に取るなどいふ馬鹿を吐いて居ります、然し馬鹿は馬鹿としても国家は何時までも馬鹿で押通すことの出来るものではありません、天然には天然の法則なる者があります、日本人は如何に大なる国民であ(151)るにもせよ、天然の法則に勝つことは出来ません、基督教は自己を採用されないとて日本人を罰しは致しませんが、然し天然の法則は何の遠慮する所なく今や厳しく日本人の愚と無情と傲慢とを罰しつゝあります、之を日本今日の状態に於て御覧なさい。
 西洋科学は四十年間此国に於て攻究されました、爾うして其医術の如きは欧米のそれに此べて遜色なきものであると云はれます、然し退いて考へて御覧なさい、四十年間の攻究の結果として日本より何んな科学上の大発見が出ましたか、又哲学上何んな新学説が出ましたか、発明と云へば皆な小なる工業上又は薬物学上の発明位ひに止まり、なんの一つも世界の科学に貢献して恥かしくないやうなものは我国の科学社会よりりは出て来ないではありません乎、それは抑々何のためでありませうか、我国に天性の科学者がないからでありませうか、又は研究の資力が無いからでありませうか 私は爾うは思ひません、日本国の科学者や哲学者に真理に対する愛心が足らないからであります、利益のためにする科学に大発見はありません、名誉の為めにする科学に大進歩はありません、道楽のためにする科学は科学の名をさへ値しない者であります、真理は総ての利慾心を離れて真理其物を愛するにあらざれば深く探ることの出来る者ではありません、発明と云へば直に之に金銭上の利益と社会上の名誉が附随して居るものゝやうに思ふ科学者からは決して大なる発明は出て来りません、之をコペルニカスに聞いて御覧なさい、之をニュートンに糺して御覧なさい、之をダーウインに尋ねて御覧なさい、彼等は皆な一様に答へて申します、「科学は決して商買ではない、是は又た道楽でもない、是れは実に真面目なる仕事であつて、之に従事せんと欲する者は苛厳なる主人に事ふるの心を以て為さければならない」と、然るに日本人の科学なる者は如何なる者でありますか、幾多の大学生が工学を修めんとするのは何の目的でありまする乎、日本の工学技師ほど(152)卑しい者はないとは彼等を能く知る者の放つ歎声ではありせんか、日本人の医学なる者は如何なる者でありますか、是れは重もに病人を医して金を作るの術ではありません乎、日本の動物学や植物学は如何なる者でありますか、是れは学校の教員となる下拵でなければ天然界の奇物を探る道楽の一種ではありせん乎、日本の哲学なる者は如何なる者でありまする乎、是れは無理やりに忠君愛国主義を哲学的に弁護せんとするための方便でなければ、また欧米大家の学説を玩味せんとする是れまた道楽学問の一種ではありません乎、日本に科学はあります、即ち科学の利用はあります、其玩用はあります、然しながら未発の真理を発見して人類の智識の領土を拡めんとする宏遠なる希望の上に立つ科学は日本には殆んど無いと言ふても可い程であります、日本の科学は実に甚だツマラない者であります。
 其次ぎは日本の教育であります、之れは実に世界の見物《みもの》であります、之れ程奇妙なる者は世界にありません、其教育制度たるや外形上実に立派に見えます、是れは欧洲諸国に於てすら多く見ることの出来ない制度であるなど誇る我国の教育者もあります、然し如何でありますか、ヘルベルトが神と書きし所を之れは我が国体に通はずとて之を削り、其代りに 天皇陛下と加へしは如何にも誠忠らしくは見えまするが、然し是れは彼れ大教育家ヘルベルトに対して不忠実極まる所行でありまして、苟くも教育家の聖職に在る所の者の決して敢て為すべき事ではありません、然し堂々たる日本の文部省では斯かる非学者的の事をなすのを少しも咎めず、神の名を削りて天皇陛下の名を加へしものを真正のヘルベルト主義の教育学であるとて之を国民の上に強ひたのであります。
 故に天然は斯る欺騙の罪を赦しません、既に虚偽に始まつたる日本の教育の虚偽の結果を御覧なさい、教員は誰れも真面目に児童を教育せんとは為さず、教育を以て一種の職業と見做し、教育家が地位を探るに当て先づ第(153)一に探るるものは俸給の高であります、毎年三月下旬より四月上旬に掛けて、新学年の始まる頃に全国の師範学校又は中学校の校長達が教員雇入れのために上京する頃は日本の教育界は宛ながら一種の市場の状態を呈し、何県は何百円で格が安いとか、何府は何百で割が高いとか、実に教育とは最も縁の遠い事柄を是等教育商の口から聞くのではありません乎、それのみではありません、かの書肆の教科書運動を御覧なさい、世に謂ふ「腐敗屋」なる者は何んでありまするか、是れは学校長又は教授、教諭、さては視学官などを、或は金銭を以て、或は酒色を以て、買収せん為めに我国の書肆が使役する運動員の名称ではありませんか、「腐敗屋」!! 何んと怕ろしい名ではありませんか、彼れは「恭倹己れを持し、博愛衆に及ぼし………徳器を成就し、進んで公益を広め」等の皇帝陛下の勅語を国民に教ふるために著はされたる倫理教科書を売り弘めんために我国教育者の腑腸を腐らしむる為に特別に運動する者であります、爾うして日本の教育家は斯る腐腸漢を断然排斥するかといふに決して爾うではありません、悦んで彼等と結托し、彼等の供する利を食らひ、以て彼等書肆の利を計るではありません乎、此世界に児童の教育が始まつて以来百何十人と云ふ教育家が収賄の嫌疑のために一時に縛ばられて牢獄に投げ入れられたと云ふ例は何時の世、何れの国にありまするか、茲に於てか日本にはフレーベル、ヘルベルトの教育は勿論、教育といふ教育は一つもない事が証明されました、明治政府の施した教育は皆な悉く虚偽の教育であります、是れは西洋人が熱祷熟思の結果として得た所の教育を盗み来つて、之に勝手の添刪を加へて施した偽はりの教育であります、爾うして其結果は、即ち此偽虚の結果が、今日の所謂教科書事件であります、神の無い、キリストのない基督教的教育(日本今日の教育はそれであります)の終る所は教育家の入牢であります、知事、博士、学士の捕縛であります、虚偽は凡ての罪悪の源であります、ペスタロツジを欺き、ヘルベルトを欺いた日本の教育は茲(154)に前代未聞の醜態を呈するに至りました。若し世に基督教が無くとも自由は行はれると云ふ人があるならば其人は日本今日の政治界を見るべきであります、日本国には憲法が布かれてあります、其憲法には日本人の権利自由が保証されてあります、然しながら日本の政治界には自由は殆んど行はれて居ません、日本人は其代議士を撰むに方て自由を以てせずして余義なき情実を以てします、脅迫に非ざれば情実であります、誘惑であります、日本今日の政治なる者は此等三個の区域を脱しません、自由、自由意志、正義の外に何にも屈しない意志、神の外には何者をも恐れない勇気、利慾を卑しみ、名誉を糞土視し、人望を意に介しない独立心、手に一票を握るを以て我は天下の権者なりと信ずる自尊の心、そんな貴い者は日本今日の政治界には殆んど痕跡だもないと云はなければなりません、此国に於ては政治は教育の如く総て利益より算出されます、蒔かぬ種は生へぬと唱へられまして、何人も資本を下ろしてそれ相応の利益を収めんとして居ます、代議士に成るのも会社の株主に成るのも同じやうに思はれて居ます、世に情ない、詰らないものがあるとて日本今日の政治の如きものはありません、是れは総て十露盤を以て前以て計算する事の出来る事でありまして、自由意志を有つたる人間の事業であるとは少しも思はれません。
 公法学者として世界に有名なるサー、ヘンリー、サムナー、メイン氏は言ひました、「今日吾人が称して平民的政治となす者は其源因を英国に於て発せし者なり」と、爾うして何時何人に依て重もに之が英国に於て始められしかと云へば勿論十七世紀の始頃、コロムウエル、ミルトン、ハムプデン、ハリーベーン、ピム等に由て始められしものであります、爾うして是等は何う云ふ人であつたかと尋ねて見ますと、何よりも先きに先づ第一に熱心なる基督信者であつたのであります、基督教なしにかの大革命は始まりませんでした、爾うしてかの十七世紀の革(155)命なしには米国の独立戦争も千八百四十八年の欧洲諸邦の大革命もなかつたに相違ありません、十八世紀の終りの仏国事命は十七世紀の英国の革命の真似事でありました、ナポレオンはコロンウエルより其宗教を取り除いた者であります、故に今日の所謂代議政躰又は共和政躰(二者は其原理に於て同じ者であります、共和政治といへば何んでも君主の首を斬ることであると思ふのは歴史学の無学より起る誤謬であります)は皆な其源を十七世紀の英国に発して居る者であります、爾うして十七世紀の英国の革命なるものが宗教的革命でありしことは少しでも世界歴史を読んだものゝ疑ふことの出釆ない事実であります。
 基督教なしの代議政躰、自由制度、是れはアノマリーであります、異常であります、違式であります、霊魂のない※[骨+區]であります、機関を具へない汽船であります、世に持扱ひにくいものとてこんな者はありません、然るに日本の代議政躰は是れであります、実に困つたものであります。
 其他日本今日の商業に就いて、工業に就いて語る間暇《ひま》はありません、たゞ一事は日を睹るよりも明かであります、基督教なしの基督教的文明は是れは之れ終には日本国を滅すものであります、此点に就ては支那や土耳其やモロッコは日本よりも遙かに幸福であります、彼等の文物は彼等の宗教に適つて居ます、故に彼等は自己の反対より滅びる恐れはありません、然し日本国は彼等と異なり、其宗教は東洋的で其の文明は西洋的であるのであります、是れは非常の困難でありまして、若し今に於て直に此不合則を直すにあらざれば日本国は終に自己の反対より亡びて了います。
 故に我等の今日為すべきことは何んでありませうか、我等は西洋文明を棄てませうか、否な、そんな事は決して出来ません、故に今より直に進んで西洋文明の真髄なる基督教其物を採用するのみであります、是れ日本国の(156)取るべき最も明白なる方針であります、此事は実に難事であります、然し日本国の青年が釈然として茲に覚る所があり、憤然として起つて、純正の基督教を我国に伝ふるに至りますれば日本国の将来は少しも心配するに足りません、日本国の愛国者よ、今は基督のため、日本国のため、全身を基督教の伝播に注ぐべき時であります。
 
(157)     『基督教は何である乎』〔角筈パムフレット第二〕
                      明治36年3月22日
                      単行本
                      署名 内村鑑三 述
 第十一版表紙150×107mm
 
   〔目次〕
 
基督教は何である乎…………………9巻 附録 基督教の真髄……………8巻
 
(158)     〔原稿日 他〕
                      明治36年3月26日
                      『聖書之研究』36号「所感」                          署名なし
 
    原稿日
 
 原稿日は来れり、嗚呼幸ひなる哉、我は再び神の言の芳味を味はん、味ひて之を我が読者に頒たん、我は神の役者《つかへびと》なれども我の事業は労役に非ず、我は口に讃美を唱へながら躍り勇んで独り我が業に就くを得るなり。
 
    奨励の声
 
 我れ福音宣伝の業を執るも何人も我に向て祝意を表するなし、我が骨肉も、我が親友も、社会は勿論、国家も教会も、我が孤独の伝道に対しては反対ならざれば冷淡なるのみ、然れども何物か一物我が心中の底深き所に在て我が事業を支持するが如し、声あり曰く「汝は永遠の存在者と偕に立てり、世は悉く失するとも汝の事業は滅ぴざる可し、惟心を強くし勇み励め」と、我は其時独り答へて曰ふ「汝の恩恵に依りて我は其如く為さん」と。
 
    永久の勝利者
 
(159) 兵を以て敵を敗りし者はまた敵の敗る所とならん、智を以て世に覇たりし者は更にまた智者の仆す所とならん、たゞ福音を以て世に勝ちし者のみ永久に之に勝ち得たりといふべし、福音は進んで退かず、斯世の王国が化して神の王国となるまでは其進歩に止息あるなし。
 
    成功の秘訣
 
 我れ世に勝て神に来るべきに非ず、我は神に依て世に勝つべきなり、我れ義人となりて神に受けらるべきにあらず、我は神に依りて義人となるべきなり、神に依りて智者となり、神に依りて勇者となる、嗚呼我は今まで成効の秘訣を知らざりし、我は活ける水の源なる神を棄て壊れたる水溜《みずため》なる自己《おのれ》に頼りたり(耶利米亜記二の十三)。
 
    万事の要求
 
 我は今や我が万事《すべて》を神より要求するに至りしを感謝す、我が信仰のみならず、我が智識も健康も、我が思想も躰力も、我が処世の術も、衣食の料も、凡て之を我が神より要求するに至りしを感謝す、躰力は食にあらず、神にあり、健康は医術にあらず、神にあり、知覚は哲理にあらず神にあり、キリスト教の神を信ずると称して、彼より是れ以下の要求をなす者は未だ充分に彼を識りし者と云ふべからざるなり。
 
    過慮の愚
 
 思ひ過さゞれば足れり、余は神悉く之を我儕のために為し給はん、我儕は神の造り給ひし此完備せる宇宙に棲(160)息し、万物悉く我儕の善のために働らきつゝあるに関はらず、我儕は思ひ煩ひて悪の我儕に及ばんことを懼る、嗚呼我儕は信仰薄き者なる哉、信仰は神と宇宙とを真正に解するに在り、而して其真善真美なるを知らずして戦々競々として世を渡るが如きは是れ極端の無学なり、不信は罪悪と称せんより寧ろ恥辱なり、我儕は我儕の常識に照らしても神を信じ、心安く喜んで日を送るべきなり。
 
    唯一の事業
 
 我儕基督を信ずる者に取りては事業と称すべき事業は唯一つあるのみである、是れは即ち神の栄光を顕はす事で伝道である、其他の事業は我儕に取ては総て遊戯である、道楽である、政治でも、実業でも、文学でも、慈善でも、皆な事業と称すべきものではない、人の霊魂を救ふ事、霊魂を有つ人類には是れより外に事業は無い筈である、此事業を措いて、消ゆる此世の暫時的事業(所謂)に其生涯を浪費する者は実に憫むべき者である。
 
    悪魔の特性
 
 我は今にして悪魔の何人なる乎を知る、彼は讒誣者である、彼は罪なき者を罪ある者として神と社会とに訴ふる者である、彼は即ち人の為めに新たに罪を構造する者であつて、彼の讒誣に遭つて罪人は更に一層深き罪人となるのである、罪の構造者、罪の製作者、罪なき者を呼んで罪人と称し、彼を失望せしめて終に彼を真の罪人となす者、是れが悪魔である、爾うして余輩の視る所を以てすれば斯る悪魔は今の社会には沢山居る、基督教会の中に居る、牧師伝道師の中に居る、外国宣教師の中に居る、怕れても尚ほ怕るべきは此等「基督教的の悪魔」で(161)ある、彼等の讒誣、害毒に由て地極に落ちた者は沢山あると思ふ、神は必ず彼等に適当なる刑罰を加へ給ふと信ずる。
 
    廉価なる同情
 
 同情者を得たりとて喜ぶ者がある、然し同情者は何人にも得られる、人殺しにも得られる、泥棒にも得られる、娼婦偽善者、詐欺師にも得られる、此罪悪の世に在ては我儕は同情者を得たりとて少しも喜ぶべきではない、我儕はたゞ神の称讃を得たりとて喜ぶべきである、我が名が天国の生命の帳面に書き記されたといふことを心に確かめ得て喜ぶべきである。
 
    神聖なる同情
 
 我は人の同情を求めない、それと同時に我は亦た妄りに人に同情を寄せない、即ち神の命じ給はない同情を寄せない、そは我が同情も我が属ではなくして、神の属であるから我は我が欲するまゝに之を使用することは出来ない、神に代はつて神の同情を人に寄するに至て我は最も深き同情を其人に寄せることが出来るのである。改行
 
(162)     聖詩訳解
                    明治36年3月26曰−10月15日
                    『聖書之研究』36−45号「註解」                        署名 内村鑑三
 
  序文
 
註解に非ず訳解なり、成るべく丈け註解を加へずして聖語其儘の真意を読者に解せしめんとするにあり、註解の如く委しからず、而かも其労たるや註解のそれに劣らず、若し幾分たりとも聖書敬読の快を増すを得ば事甚。
 
  鹿の渓水を慕ひ喘ぐが如く 詩篇第四拾二 四拾三篇
 
     第一段
 
 第四十二篇
  一、アヽ神よ、※[鹿/匕]《めしか》の渓水《たにがは》を慕ひ喘ぐが如く
     我が霊魂は簡を慕ひ喘ぐなり
 二、我が霊魂は渇ける如くに神を慕ふ 活神をぞ慕ふ
(163) 三、彼等が終日我に向ひて爾の神は安にありやと罵る時に
     我が涙は昼夜灑ぎて我が糧なりき
 四、我れ昔し群をなして祭日《いはひのひ》をまもる衆人《おほくのひと》と偕に行き
     歓喜と讃美の声を揚げて彼等を神の家に伴へり、
      今是等の事を追想して我が衷より霊を注ぎ出すなり。
 五、アヽ我が霊魂よ、爾胡ぞ頂低《うなだ》るゝや
   胡ぞ我が衷に思乱るゝや
   爾神を待望め、我に聖顔の扶助ありて
   我尚ほ我が碑を讃称ふべければなり。
   第二段
 六、アヽ我が神よ、我が霊魂は我が衷に頂低る
    然れば我れヨルダンの地より、ヘルモンより、
    ミザルの地より爾を想ひ出づ
 七、爾の大瀧の音響《ひゞき》に因りて淵々呼応へ
    爾の波、爾の洪波悉く我が上を超へ行けり
 八、然かはあれど昼はヱホバその憐憫を施し給ひき
(164)   夜はその歌我と偕にありき
    此歌は我が生命の神に捧ぐる祈なりき
 九、故に我れ我が磐なる神に言はん 胡ぞ我を忘れ給ひしや
    胡ぞ我は仇の暴虐《しへたげ》に依りて泣き悲しむやと。
 十、我が骨も砕くる斗りに我が敵は我を罵れり
    彼等は終日《ひねもす》我に向ひて言へり汝の神は安にありやと。
 十一、アヽ我が霊魂よ爾胡ぞ頂低るや
    胡ぞ我が衷に思乱るや
    爾、神を待望め、そは我は我が顔の扶助なる
    我が神を尚ほ讃称ふべければなり。
     第三段
第四十三篇
 一、神よ願くは我を鞫き情を知らぬ民に対ひて我が訟を論ひ
    詭詐多き邪悪なる人より我を救ひ出し給へ
 二、爾は我が力の神なり、何ぞ我を棄て給ひしや
    何ぞ我は敵《あだ》の暴虐によりて泣き悲しむや
 三、願くは爾の光と爾の真理とを放ち我を導き
(165)   爾の聖山《みやま》と爾の帷幄《あげばり》とに行かしめ給へ
 四、然らば我れ神の祭壇に行き
   又我が歓喜の極なる神に行かん
    アヽ神よ、我が神よ、我れ琴をもて爾を讃たゝへん
 五、アヽ我が霊魂よ爾胡ぞ頭低《うなだる》るや
     何ぞ我が衷に思乱るゝや
     爾、神を待ち望め、そは我は我が面の救拯なる
     我が神を讃めたゝふべければなり。
    略註
 神の聖殿より逐はれ、其聖き会合に参する能はず、独り不信者の中に在りて其嘲弄罵詈に身を窘められ、遙かにジオンの彼方を望んで懐旧の情を述べし歌なり 〇(四十二篇の一)霊魂は女性なり、故に之を※[鹿/匕]に譬ふ 〇(三)「涙を糧とす」 悲痛の極なり 〇「霊を注ぎ出す」 抑へ切れずして感情を外に表はすの意 〇(六)「ヨルダンの地………ヘルモン………ミザル」、パレステナの東北隅なるヨルダン水源近き地の名称なり、此詩の作者は聖殿の所在地より逐はれて此処に在りしが如し 〇(七)衷心の艱苦を附近の大瀑に譬へて云ふ、驀布轟然として淵々を圧するが如く患難の洪波は我が霊を圧すとの意 〇第一段より第三段に至るまで信仰の進歩あり 始めは苦痛を訴ふること多くして終りは歓喜と讃美とを以て充ち溢る、神を信ずる者の艱難に遭遇する時の実験を写し得て余す所なし。 〔以上、3・26〕
 
(166)  ダビデの弓の歌 撒母耳後書一章
 一九、イスラヱルよ、汝の栄耀は汝の高き所に殺さる、
    嗚呼勇士は仆れたるかな。
 
 二十、ガテに此事を告ぐる莫れ、
    アシケロンの街に此事を伝ふる勿れ、
    恐くはペリシテ人の女等《むすめら》喜ばん、
    恐くは割礼を受けざる者の女等楽しみ祝はん。
 廿一、ギルポアの山よ、願くは汝の上に雨露|降《くだ》らざれ、
    亦供物の田園《はたけ》もあらざれ、
    そは彼処に勇士《ますらを》の干《たて》は汚されたればなり、
    膏を沃がれたるサウロの干は汚されたればなり。
 廿二、其殺せしものゝ血を飲まずして
     ヨナタンの弓は退かざりき、
    勇士の脂を食はずして
(167)   サウロの剣は空しく帰らざりき。
 
 廿三、サウルとヨナタンとは生きて偕に相愛し、相楽めり、
    而して彼等は死して相離れざりき、
    二人は鷲よりも捷かりき。
    彼等は獅子よりも強かりき、
 廿四、イスラエルの女等よサウルの為に泣けよ
    彼は絳き衣を以て汝等を華麗《はなやか》に粧ひたりしにあらずや、    彼は金の飾を以て汝等の衣に着けたりしにあらずや。
 
 廿五、嗚呼勇士は戦の中に仆れたるかな、
    汝の高き所に殺されたるかな、嗚呼ヨナタンよ。
 廿六、我は汝のために悲慟む、兄弟ヨナタンよ、汝は我に甚だ優しかりき。
    汝の我をいつくしめる愛は尋常ならず、
    是れ婦人《おんな》の愛にも優る愛なりき。
 
 廿七、嗚呼勇士は仆れたるかな、
(168)      戦の具《うつは》は失せたるかな。
    略註
 ダビデが其敵サウロ、其友ヨナタンの戦死を欺きし歌なり、ダビデの愛国心は今や彼の私怨に勝ちて彼は彼の敵人のために茲に悲歎の声を揚げざるを得ざるに至れり、神と国との為めに尽す時に私怨は化して友愛となる、此の詩一言の神に及ぶことなしと雖も、詩人の寛容大度を示すに於て確かに聖詩の一なるを自証す。
 (十九)国の勇士は其|栄耀《かゞやき》なり、ギルボヤ山上に殺されしが故に高き所に殺さるといふ、而かも是れ亦栄誉の戦死を祝するの語なり 〇(二十)ガテとアシケロンとはペリシテ人の城市也、我勇士の訃音の敵地に達せざらんことを望む、是れ愛国者の真情なり、「割礼を受けざるもの」とはイスラエル人より見たる異邦人の称なり 〇(廿一)次にギルボアの山を詛へり、汝何故に我勇士を防ぎ護らざりしやと、「干《たて》は汚さる」とは武士の最大耻辱也、「膏を沃がれたるもの」とはイスラエルの王の尊称なり 〇(廿二)サウロ父子の剛勇を頌讃せし句也 〇(廿三)父子の膠質も啻ならざる情を写せり、而かも父なる者は詩人の讎敵にして子なるものは彼の骨肉にも優る親友なりき 〇(廿四)父なる讎敵のために此声を発す、イスラエルの女子に訴へて彼の為めに哀歌を揚げしむ、曰ふ、「彼れサウロは特に汝等を思へり、彼は幾度か彼の命を賭して奪い来りし戦利品を以て汝等を粧ひたり」と 〇(廿五、廿六)而も詩人の悲哀は特に彼の親友のために発せらる、彼は繰返して曰ふ「勇士は戦の中に仆れたるかな」と、ヨナタンは優しかりし、彼の愛は婦人の愛に勝れりと、世の友情を歌ひし詩にして斯くも熱切なるものあるなし 〇(廿七)終尾の覆唱詞なり、勇士は「戦の具なり、」 干城なり、彼れありて国家は泰きなり、此節を拉典語に訳せしものは左の如し
(169)  Quomodo ceciderunt robusti,
  Et perierunt arma bellica.
是れ往々欧洲諸国に於て戦死者の墓標の上に見る聯句なりと云ふ。 〔以上、4・9〕
 
    『我れ山に向ひて目を挙ぐ』 詩篇第百廿一篇
 
 一、我れ山に向ひて目を挙ぐ
   我が扶助は何処より来るや、
 二、我が扶助はヱホバより来る、
   天地を創造り給へるヱホバより来る、
 
 三、ヱホバは爾の足を揺がせ給はざる乎、
   爾を守る者は微睡み給ふことなき乎。
 
 四、視よイスラエルを守る者は
   微睡むこともなし寝ることもなからん
 
 五、ヱホバは爾を守る者なり
(170)   ヱホバは爾の右手を蔽ふ蔭なり
 六、昼時《ひる》は日、南を撃たじ
   夜間《よる》は月、爾を害はざらむ、
 七、ヱホバは諸の禍害より爾を守り
   また爾の霊魂を守り給はん。
       略註
 詩人目を挙げてヱホバの基なる聖き山(詩篇八十七篇一節)を望み、自から心に問ふて曰ふ、「我が扶助は何処より来るや」と、彼は直に己に答へて曰ふ「我が扶助は天地を造り給へるヱホバより来る」と、神は高き所に在ます、然かも扶助は山より出づるに非ず、拝すべ仰ぐべきものは山にあらずして神なり。
 時に或人は詩人に問ふて曰へり、「ヱホバは確かに爾を守る者なる乎、彼の微陸み給ふ虞なき乎」と、詩人は直に彼に答へて曰く、「否な、イスラエルを守る者は微睡むことも寝ることもなし」と。ヱホバは他神《あだしかみ》の如くに非ず、彼は仮寝《ねぶり》て醒《おこ》さるべきが如き者に非ず(列王紀略上十八の廿七)、彼は亦世の番人の如きに非ず、彼の擁護は日夜絶ゆる間なしと。
 時に傍人挙て詩人の信仰を賛して曰く「ヱホバは爾を守る者なり、云々」と、此詩疑惑を以て始まり是認を以て起ち、堅信を以て終る、言を傍人の疑問と賛同とに託して能く詩人信仰の上進を示す、其秀美精妙は万世の等しく称揚する所なり。〇「右手を蔽ふ蔭」 右手は能力の存する所、蔭は之を蔽ふ楯なり、ヱホバは能力《ちから》を賜ひ又掩護を賜ふ 〇昼は日射病の患なし、夜は外気に侵されざるべし、古人は沼癘毒の如きは月より出づる者と思へ(171)り 〇「霊魂」は人の生命其物なり、テサロニカ前書五の廿三に於ける「全霊、全生、全身」の謂ひなり、人の中心的生命、死して死せざる者、ヱホバの特に守り給ふものは是れなり、彼、我が霊魂を守り給ふ、故に我れ死すとも怕れざるなり、〇「出ると入ると」とは外に於ける活動の生涯と内に在る静粛の生涯となり、外に在て敵人嘲罵の中に在るもヱホバは我を守り給ひ、内に在りて家庭親愛の中に臥する時もヱホバは我を護り給ふとなり、申命記々者は云へり「汝は入るにも福祉《さいはい》を得、出るにも福祉を得べし」と(廿八章六節)、ヱホバに依り頼む者は彼の従事する業の大と小とを問はず凡て其祝福に与かるなり。 〔以上、4・23〕
 
    『ヱホバは我が光なり』 詩篇第廿七篇
 
 一、ヱホバは我が光なり亦我が救なり、
     我れ誰をか恐れん
   ヱホバは我が生命《いのち》の砦なり
     我れ誰のためにか戦慄《おのゝ》かん。
 
 二、悪人襲ひ来りて我が肉を啖はんとせし時に
   我が敵、我が仇、我に近づきし時に
   彼等は蹶き且つ仆れたり。
 
(172) 三、縦令万軍我に対ひて陣を張るも
   我が心は怕れじ
 縦令戦争我がために起るも
   我に尚ほ悼む所あり。
 
 四、我はたゞ一事をヱホバに乞へり、我は之を求む、
   我は終生ヱホバの家に在りて
   其美を仰ぎ、其宮を窺はんことを。
 
 五、然れば艱難《なやみ》の日に仮廬の中に我を潜ませ
   其幕屋の奥に我を隠くし、
   我を高く巌の上に置き給はん。
 
 六、今我が首は我を繞れる我が敵の上に擡げられん、
   我はヱホバの宮に在て歓喜の供物を献げん
   我は謡はん、然り、ヱホバに讃美の歌を奉らん。
 
(173) 七、ヱホバよ、我れ声を揚げて叫ぶ時に我に聞き給へ。
   我が上に憐憫を垂れて我に応へ給へ、。
 
 八、「爾曹我が面を求めよ」と宣ひし時に
   「ヱホバよ我は爾の聖顔を求めん」と我が心に応へにき。
 
 九、爾の聖顔を我より背向け給ふ勿れ、
   怒りて爾の僕を遠け給ふ勿れ、
   爾は我が扶助なりし、我を去り給ふ勿れ、
   噫我が救済の神よ、我を捨て給ふ勿れ。
 
 十、我が父我が母我を捨て去りし時に
   ヱホバは我を拾ひ上げ給へり。
 
 十一、我に爾の途を教へよ、噫ヱホバよ、
   我が敵我を窺へば我を平かなる道に導けよ。
(174) 十二、我が仇の所望《のぞみ》に我を任かし給ふこと勿れ、
   そは讒人我に逆ひて起ち我がために狂暴を吐けばなり。
 
 十三、我若し生ける者の地に於て
   ヱホバの恩恵を享るの恃なからんには……
       *     *     *     *
 十四、ヱホバを俟望め
   心を強くせよ、彼は汝の心を堅くせん、
   我は重ねて曰ふ、汝、ヱホバを俟望めと。
       略註
 ダビデの作として一般に認めらる、彼の生涯に此詩に適合する境遇多かりし 〇(二)「悪人襲ひ来りて我が肉を啖はんとせし時云々」 ダビデがペリシテ人ゴリアテに対ひし時に彼れゴリアテが発せし言と其態度とを参考せょ(撒母耳前書十七章) 〇(四)終生ヱホバの家に在らんとは其|殿衛《とのもり》たらんとの意にあらず、「ヱホバの家に在る」とはヱホバと偕に在ることなり、「其美を仰ぐ」とは恒に其恩徳を思ふことなり、「其宮を窺はん」とはヱホバの真個の住家なる宇宙の妙美を探らんとの事なり、〇(五)「仮廬」は陰影のための庇《おほひ》なり、「昼は日汝を撃たじ」との言を対照せよ、「高く巌の上に置く」とは高くして堅き安全の地位に置くを言ふなり、〇第六節を以て安泰の感を述べ尽し第七節を以て哀訴に転ず、而して之を為すに方て過去の恩恵を回顧して目前の援助を求む、「我が父我が(175)母我を捨て去りし時」の一句に至て詩人の熱情は其絶頂に達せり、神の愛は父母の愛よりも大なり、父母は其生みし子を捨つる事あり、然れども神は世の父母が捨て去りし子を拾ひ上げ給ふ、而して詩人は云ふ、彼も捨てられて又拾ひ上げられし者の一人なりと 〇第十三節は感動の辞なり、故に完全なる文を成さず、而かも其文を成さざる所に言ひ尽されぬ情在て存す、噫若し我れヱホバの恩恵を知らざらんには、我は斯かる境遇に在りて奈何に成行きしぞと 〇第十四節に於て信仰の回復あり、詩人は己を励まして斯く言へり。 〔以上、5・14〕
 
    『諸の天は神の栄光を顕はし』 詩篇第十九篇
 
 一、諸の天は神の栄光を顕はし
   穹蒼《おほそら》はその手の工《わざ》を示す。
 二、此日言語を彼日に伝へ
   此夜智識を彼夜に送る。
 三、語らず言はず其声聞えざるに
 四、其音響は全地に遍く
   其言辞は地の極にまで及ぶ。
   神は彼処に帷幄《あげばり》を日のために設け給へり、
 五、日は新郎《にひむこ》が祝ひの殿を出るが如く、
   勇士が競ひ走るを悦ぶに似たり。
(176) 六、其出立つや天の涯よりし、
   其運り行くや天の極《はて》に至る、
   物としてその和煦《あたゝまり》を蒙らざるはなし。
       *     *     *     *
 七、ヱホバの法《のり》は完全くして霊魂を活き復らしむ。
   ヱホバの証詞《あかし》は確実くして愚者を智からしむ。
 八、ヱホバの訓諭《さとし》は直くして心を欣ばしむ。
   ヱホバの誡命《いましめ》は聖くして眼を快明《あきら》かならしむ。 九、ヱホバを惶み懼るゝ道は潔くして世々絶ることなし。
   ヱホバの審判《さばき》は真実《まこと》にして悉く正し。
 十、是を黄金に較ぶるにも、
   多くの純精金《まじりなきこがね》に較ぶるも、
   弥優りて慕ふべし。
   是を蜜に此ぶるも、
   蜂の巣の滴瀝《したゝり》に此ぶるも、
   弥優りて甘し。
(177) 十一、爾の僕は是等に由りて懲戒《いましめ》を受く、
   是等を守らば大なる報賞《むくひ》あらん。
 十二、誰か己の過失《あやまち》を知り得んや、
   願くは我を隠れたる愆《とが》より解放ち給へ、
 十三、願くは爾の僕を引止めて故意《ことさら》なる罪を犯さしめず、
   それを我が主たらしめ給ふ莫れ。
   然れば我は※[王+占]《きず》なき者となりて、
   大なる愆《とが》より免かるゝを得ん。
 十四、ヱホバよ、我が磐よ、我が購主よ、
   我が口の言、我が心の思念をして
   爾の前に悦ばるゝことを得しめ給へ。
       略註
 ダビデの歌として記さる、牧羊の業を執りし彼が独り曠野に在て天を仰ぎ己が心に鑑みて此歌を作りしとの伝説は甚だ受領し易きものなり 〇始めに造化に顕はれたる神の偉業を讃し(一節より六節まで)、次に其|法《のり》に示されたる其威徳を頌し、(第七節より第十節まで)、終りに其援助を得て心を聖うせんことを祈る(第十一節より第十四節迄)、其造化の偉業を讃するや神を※[龠+頁]《よ》びまつるに神(El《エル》)の名を以てし、其徳を頌めまつるやヱホバの聖名を以てす、エルは力の神にしてヱホバは恩恵の神なり、而してヱホバの律法は素と其恩恵に出でしものなり、〇哲学(178)者カント曰く「我が上の星の空天《そら》と我が衷の道徳の法とは是れ恒に新らしき且弥増さる敬虔の念を以て我が心を充たす二つのものなり」と 〇(一)「諸の天」は諸《すべて》の天躰を指して云ふなり、所謂「天の諸軍」なり、他の国民は拳て之を神として崇めし時にヒブライ人のみは之を神の工《わざ》と做し、神の栄光を顕はすものとなせり、〇(二)「言語《ことば》」は讃美なり、「智識」は説教なり、日は日に次ぎて讃美の言語を発し(伝へと訳せられし原語の意義は是れなり)、夜は夜に対して智識を演べ、以て神の威稜を永遠に伝ふ 〇(三、四)宇宙に声なし」而かも之に雷霆の音響《ひびき》の如きものありて其教訓を全地に伝達す。〇(四、五、六)天躰中特に日(太陽)の荘麗を歌ふ、彼れ(太陽)は神の愛子なり、神は彼のために惟幄を設け給へり、彼は新郎の如し、勇士の如し、天涯を走る走使の如し、到る処に和煦の恩恵を分施す、〇(七−十)然れども更に頌讃すべきは宇宙に顕はれたる神の機巧に非ずして聖書に示されたる彼の聖旨なり、神は此場合に於ては契約の神、即ちヱホバとして自身を顕はし給ふ、その聖旨の法として布かるゝや、完全にして霊魂を活かすの力あり、証詞として立つや、確実にして迷者の思意を確かむるに足る、訓諭として伝へらるゝや、之に服従して心に歓喜あり、誡命として示さるゝや、純清にして之をい仰いで眼光明かなり、云々、ヱホバの法を称へし言辞にして之に優りて荘麗なるはなし。
 〇(十一!十四)ヱホバの法に則りて大なる報賞あり、是れ「隠れたる愆」を顕はす者、之に由りて人は始めて己の過失を暁り得るなり、最も恐るべきは「故意の罪」なり、若し之をして「我が主たらしめ」ば、即ち我れ若し其支配する所とならば、我は終に「大なる愆」を犯すに至らん、「大なる愆」とは何ぞ、他なし、神を背き去ること是なり(イザヤ書一の三) 此罪を犯して我は沈淪の子と化するなり、故にヱホバよ、我が隠るべき磐よ、我が罪の贖主よ、我が全身を潔らかなる者となして、我が口も我が心も、爾の聖意に適ふものとならしめ給へ。
 
(179)   善悪の差別 詩篇第一篇
 
 一、幸福なるかな、
   悪しきものゝ謀略に歩まず、
   罪人の途に立たず、
   嘲ける者の座に坐らざる者は。
 二、彼はヱホバの法を悦び、
   日も夜も其法に就て念ふ。
 三、斯かる人は水流の辺に植ゑし樹の如し、
   期《とき》に至りて其実を結び、
   其葉も亦凋むことなし、
   其作すところ皆な栄えん。
 
 四、悪しき人は然らず、
   風の吹き去る粃糠《もみがら》の如し、
 五、然れば悪しき者は審判《さばき》に堪へず、
(180)  罪人は義人の会に立つことを得ず、
 六、ヱホバは義しき者の途を知り給ふ、
   されど悪しき者の途は滅びん。
     略註
 此詩何人の作とも知れず、蓋し詩第全編に附する序言として其巻頭に加へられしものならん。
 (一)「幸福なるかな」詩篇全編に渉る主音なり、詩篇百五十編中幾回となく此語の反覆せらるゝことあるも曾て一回も「禍なるかな」の文字の使用せらるゝことあるなし、詩篇は主として歓喜の譜なり、「幸福なる者」の揚げし声なり、〇始めに義人の何たる乎を述ぶ、詩人は曰ふ義人は悪人と与せざる者なりと、即ち彼は先づ消極的に義人なりと、彼は悪人の計画に干からず、罪人と途を偕にせず、神を嘲けり人を譏る者と席を同うせずと、斯くも悪に近づかざる彼はヱホバの法を以て彼の自由を束縛する枷なりとは思はず、返て之を悦び日も夜も之に就て念ふと、即ち彼は消極的に義人なるのみならず、亦積極的にも然りとなり、水辺に植えし樹の比喩は南方ユダヤの乾燥の地に在て何人も深く感ずる所なるべし。
 (四)義人は斯の如し、然れども悪人は然らず、彼に鞏固なる所あるなし、故に彼は粃糠の如く風と共に飛ぶ、希伯来語にて彼を rasha と称ふは「不定」の意なりと云ふ、悪人は実に主義なき、信仰なき、恒心なき者なり、即ち今日の謂ゆる俗人なり 〇(五)彼れ悪人は審判に堪へず、平和の日にありては彼は驕りて世を闊歩すと雖も、一朝審判の火の天より臨むあれば彼は草花の熱風に遭ふて枯るが如くに殪る、困難は善悪を識別するための火なり、義人の義や悪人の悪も試錬の火を以て顕色さる、〇悪人は逆境に堪ふる能はず、彼は亦義者の集会の中に立(181)つて長く其席に堪ふる能はず、彼の主張は如何に立派なるも、根本的に野卑醜猥なる彼は義者の会《つどひ》に入つて魚の水中を出しが如き感あり、彼は艱難に堪へず、又義者の禍祚に堪へず、そは彼は幽暗《くらき》を好む者なればなり、〇(六)義者の途はヱホバ之を知り給ふ、其作すところ皆な栄ゆるは之が為めなり、されど悪人の途は必ず滅びん、そは是れ悪人自身の命ずる所のものにしてヱホバの知り且つ撰び給ふ所のものにあらざればなり、 〔以上、6・11〕
 
   モーゼの祈祷
 
 一、主よ、汝は世々我儕の棲家なりき。
 二、山いまだ産出《いで》ず、
   地と土と未だ生れざりし先に、
   永遠より永遠にまで汝は神なり。
 三、汝は人を塵に帰らしめ給ふ、
   亦宣はく「人の子よ、汝等帰来れ」と、
 四、汝の目前には千年も今や過ぎんとする昨日の如し、
   また夜間の一時に同じ。
 五、汝|洪水《おほみづ》を以て彼等を掩ひ給へば、
   彼等は睡眠《ねぶり》と化して去る。
(182)   亦朝に発出《はゑいづ》る青草の如
 六、 朝には発出て栄え、
    夕には苅れて枯る。
 
 七、我儕は汝の怒に由りて消失せ、
   汝の恚《いきどほり》に由りて怖《おぢ》まどふ。
 八、汝、我儕の愆を汝の聖前に置き、
   我儕の隠れたる罪を聖顔の光の中に置き給へり。
 九、我儕のすべての日は汝の怒の中に過去り、
   我儕のすべての年は気息の如くに消失せり。
 十、我儕の生くる歳は七十に過ず、
   縦し壮健にして八十に達することあるも、
   されど其誇る所はたゞ勤労と悲哀とのみ、
   其去り逝くこと速にして我等も亦飛去る。
 十一、誰か汝の怒の力を知らんや、
   誰か汝の威厳に恰ふ汝の恚を知らんや。
 十二、 願くは我儕に己が日を算ふることを教へて、
(183)    智慧の心を得しめ給へ。
 
 十三、ヱホバよ、帰り給へ、何時まで待たせ給ふや、
   汝の僕等に係はれる汝の聖意を変へ給へ。
 十四、願くは朝に汝の衿恤を以て我等を飽かしめ、
   日の終りまで我儕をして歓喜の声を揚げしめ給へ。
 十五、汝が我儕を苦しめ給ひし日に循ひて、
   又我儕が禍害《わざはひ》を見し年に応ふて、
   我儕の心を楽ましめ給へ。
 十六、汝の作為《みわざ》を汝の僕等に示し、
   汝の威光をその子孫《こどもら》に顕はし、
 十七、我儕の神なるヱホバの恩恵を我儕の上に宿らしめ給へ。
    我儕の上に我儕の手の作為《わざ》を確立《かたく》し給へ、
   願くは我儕の手の作為を確立し給へ。
        略註
 神の人モーセの祈祷として伝へらる、老預言者晩年の心事を吐露して余す所なきが如し、彼をして此祈祷を唱へしめし境遇は之を申命記の記事に徴すべし、此篇を以て申命記を短縮して詩に歌ひし者と称ふも可なり、其用(184)語に於て、其精神に於て、此詩は誤なき申命記の余韻なり。
 (一)「主よ」 神を威厳ある宇宙万物の統治者として称《よび》奉りし尊称なり、第十三節に於ける「ヱホバ」の名称と相対し看よ〇全能の主権者は世々我儕の棲家なりしと云ふ、神の犯すべからざる神聖を唱ふると同時に彼の愛すべく亦親むべき者なるを忘れず、詩人は茲に神を怖れて彼より遁れんとするに非ず、神の親むべきを知るが故に彼に罪の赦免を乞ふて彼の懐に帰らんと欲するなり、神の神聖を歌ふに最も厳なる此詩は其発端に於て既に此信頼の語を漏せり、宇宙の主権者は亦契約の神なり、彼は世々我儕、彼を畏るゝ者の息ひ且つ隠るべき棲家なりと。
 (二)山は地を支ゆる柱なり、其生れざる先きとは地の基礎をも未だ定められざりし時なり、「地」は地球にして「土」は沃土なり、嬰児の未だ母の胎内を出ざりしが如くに山も陸も未だ造主の聖図の中に存せし時より、然り、其前より、未来永劫に至るまで汝は神なりと、「なりし」にあらず、又「ならん」に非ず「なり」也、過去もなく、未来もなく、永久に現在する者なり、聖書を学ぶに深く意を動詞の時《テンス》に留めよ。
 (三)「塵に帰らしむ」は塵より出し者を塵に帰らしむるの意なり(創世記三の十九)「帰来れ」は新たに人を地上に呼起すための令詞なり、神は人類の生死を司り給ふ、彼は死を命じ亦生を命じ給ふ、人は逝り亦来るに、神のみは惟り永遠に生きて人類の変現を支配し給ふ。
 (四)千年も今や過ぎんとする昨日の如し、時なる観念を有し給はざる永遠の実在者に取て斯くあるべきは勿論なり、年と云ひ、月と云ふは蜉蝣の如き我儕人類に取てのみ意味あるなり、彼れ神に取ては千年も今や昨日となりて過ぎんとする今日の如し、我儕は其一瞬時期なるを知る、千歳の長期も神に在りては我儕の一日の如し 〇否な、一日よりも更らに短かし、寧ろ我儕が知らずして過す夜間《よのま》の一時と称せん、地に在ては国民興り国民亡ぶ(185)るも天に在ては春夢結ばれて未だ醒めず、希望の朝暾の尚ほ早きを歎ずるの感あらん、短気なるは短命なる人間のみ、生ありて死あるを知らざる神は時なきが故に其忍耐は無限なり。
 (五)(六)弱くして傲慢なる人間を見よ、神、若し一朝洪水を起して彼等を掩ひ給へば彼等は睡眠《ねぶり》と化して消失す、亦人を何にか譬へん、彼はユダヤの山地を飾る春雨に遭ふて忽ち萌出る青草なり、朝には発出て栄え、夕には苅られて枯る、神の永存に較べて、人生のはかなきこと実に言語に絶ゆ。
 (七)斯くも蜉蝣の如き我儕は汝の怒に由りて消失す、(八)汝は汝の正義を以て我儕を照らし、我儕をして我儕の罪と汚穢とに堪えざらしめ給ふ(九)我儕恐怖の中に我儕の生命を終らんとす 我儕は汝の聖顔を拝し得ずして、我儕の年は歓喜の生命なくして、唯僅かに気息の如くにして消失せんとす (十)汝我儕の何なるを知り給ふや、歳七十に過ぎざる現世の旅客なり、縦し壮健にして八十に達するを得るも我儕の誇りとする所のものはたゞ勤労と悲哀の元たるのみ、年月の去り逝くこと速にして我等も亦鳥の如くに飛去る、我儕は汝と強弱を競ひ得る汝の同輩に非ざるなり、(十一)誰か人として汝の怒の力を知る者あらんや、汝にして若し汝の威厳に相応する恚を発し給はんか、我儕は直に粉砕されんのみ、(十二)アヽ神よ、汝は斯も強くして我儕は斯くも弱き者なれば、願くは我儕に己が日の如何に短かきかを覚らしめ、我儕心に誇り、神に抗し、更らに其怒を招くことなく、謙遜て其聖旨に服するの智慧の心を得しめ給へ。
 
 (十三)契約の神なるヱホバよ、宇宙の主権者とのみして我儕に顕はれ給ふことなく、ヱホバとして、即ち我儕(186)の罪を赦す者として、我儕の中に帰り給へ、汝は一度は我儕の中に在せり、然ども我儕の罪の故を以て汝は我儕の中を去り給へり、嗚呼ヱホバよ、帰り給へ、何時まで汝は我儕を俟こがらしめ給ふや、汝は宿命の神に非ず、我儕の懺悔の声に応じて我儕に係はれる汝の聖意を変へ給ひて我儕を再び汝の恩恵の中に受け給へ、(十四)願くは朝に汝の衿恤を以て我儕の饑ゆる心を飽かしめ、我儕が世(日)を終るまで我儕をして歓喜の声を揚げしめ給へ、(十五)我儕の懲罰《こらしめ》の日は長かりき、我儕の鞭撻の年は久しかりき、願くは我儕の受けし苦痛と禍害とに循ひて(其割合に)之を癒すに足るの享楽を我儕の心に下し給へ、(十六)斯くて汝の恩恵の作為を我儕に示し、我儕をして之を我儕の子孫に伝へしめ、彼等をも永く汝の威光を仰ぐに至らしめ給ひて、汝ヱホバの恩恵の記臆を永く我儕イスラエルの中に止めしめ給へ、(十七)我儕は切に願ふ、我儕の上に我儕が手に取りし汝の聖業を確立し給はんことを、我儕は重ねて願ふ、我儕を救ひ給ひて我儕が汝のためになせし我等の事業を固め給はんことを、汝が我儕に委ね給ひし汝の事業のために汝の衿恤を再び我儕の上に下し給へ。
       ――――――――――
 詩篇の註解者マクラレン氏曰く、「是れ朽つべからざる言辞を以て朽つべき人に就て説きし歌なり」と、神に撻たれて神を恨まず、神の絶大を知て神より離れんとはせずして返て之に近かんとす、怨言の如くに見えて然らず、神の憤怒を語るも是れ神の無慈悲を訴へんがために非ずして、人の罪深くして神の神聖を涜せしを告げんがためなり、此篇の作者は神に在て神を疑へり、彼は神の愛を信じて之を得んがために神に迫りしなり、彼は信神的懐疑者なりき、故に彼は大なる慰藉の中に彼の大なる苦痛を訴ふるを得たり、願くは我儕此篇を愛誦する者も常に此心を以て我儕の心となさんことを。 〔以上、9・17〕
 
(187)     『ヱホバを讃めまつれ』 詩篇第百三篇
 
 一、我が霊魂よ、ヱホバを讃めまつれ、
   我が衷なる凡のものよ、ヱホバを讃めまつれ。
 二、我が霊魂よ、ヱホバを讃めまつれ、
   その凡の恩恵を忘る勿れ。
 三、彼は汝の凡の不義を赦し給ふ、
   彼は汝の凡の疾病を癒し給ふ、
 四、彼は汝の生命を滅亡より贖ひ出し給ふ、
   彼は仁慈《いつくしみ》と憐憫とを以て汝の首を飾り給ふ。
 五、彼は汝の口を嘉物にて飽かしめ給ふ。
   斯くて彼は汝を鷲の如くに汝の壮時に復らしめ給ふ、
 六、ヱホバは凡て虐げらるゝ者のために
   公義と審判とを行ひ給ふ。
 七、彼はその途をモーゼに知らしめ給へり、
   その作為をイスラエルの子輩に知らしめ給へり。
(188) 八、ヱホバは憐憫と恩恵とにて充ち給ふ、
   怒ること遅くして仁慈に富み給ふ、
 九、恒に抗争ひ給はず、
   永遠に怒を懐き給はざるなり。
 十、我等の罪に循ひて我等を待遇《あしら》ひ給はず、
   我等の不義に循ひて我等に報ひ給はざりき。
 十一、天の地よりも高きが如く、
   彼を畏るゝ者に彼の賜ふ恩恵は大なり。
 十二、東の西より遠きが如く、
   彼は我等の愆を遠け給へり。
 十三、父が其子を憐憫むが如く、
   ヱホバは己を畏るゝ者を憐憫み給ふ。
 十四、彼は我等の何たる乎を知り給ふ、
   彼は我等の塵なることを忘れ給はず。
 十五、脆弱き人は………彼の齢は革の如し、
   その栄ゆるや野の花の如し、
 十六、風、其上を経過れば失せて迹なし、
(189)   その生出し処も早や已に彼を知らざるなり。
 十七、然れどヱホバの憐憫は永遠より永遠に捗りて彼を畏るゝ者の上に在り、
   其|公義《たゞしき》は子々孫々にまで至る。
 十八、その契約を守り、
   その訓諭《みさとし》を心に留めて行ふ者の上に在り。
 十九、ヱホバは其|宝座《みくら》を諸の天の上に置ゑ給へり、
   その政権《まつりごと》は万物の上にあり。
 廿、ヱホバを讃めまつれ、汝等その天使等《みつかひら》よ
   汝等力猛き者よ、その聖言を行ひ、
   その聖言の声に耳を傾くる者よ。
 廿一、ヱホバを讃めまつれ、天の万軍よ、
   その聖旨を行ふ汝等その僕等よ、
 廿二、ヱホバを讃めまつれ、その造り給へる万物よ
   その政権の行渉る凡の所に於て。
   嗚呼我が霊魂よ、ヱホバを讃めまつれ。
        略註
(190) 徽頭徹尾讃美の歌なり、其中に悲哀と不平とは痕迹だも留めず、詩人の心は感謝を以て充ち溢れ、彼は今は讃美するを知て求願し、又は愁訴するを知らざりき。
 (一)、彼は先づ自己の霊魂を督促して曰ふ「ヱホバを讃めまつれ」と、霊魂は人の感情の在る所なり、詩人の意識は已に充分にヱホバの仁慈と憐憫とを識認せり、然れども彼は彼の感情的半面の彼の意識に伴ふて充分に之を感ぜざらんことを懼れたり、故に彼は自己の霊魂に向て曰へり「我れ自身よ、ヱホバの恩恵を覚りしのみならず、之を感じて、之に動かされよ」と 〇「衷なる凡のもの」とは凡ての機能と機関とを指して云ふなり、彼は感恩の念の彼の全身に行渡らんことを欲へり、彼は彼の五臓六腑四肢五官までが悉くヱホバの恩恵を感ずるに至らんことを求めたり 〇(三−五)神が吾等を救ひ給ふ其順序を示して明かなり、神は先づ吾等の罪(不義)を赦し、其結果として吾等の凡ての疾病(重に霊魂の)を癒し、以て吾等の生命を完うし給ふ、而して吾等の生命の安全なるに及んで神はその仁慈と憐憫とを以て吾等の首を飾り(冕を戴かしむるの意)、吾等に被らしむるに所謂る「聖なる美はしき衣」(詩篇第百十篇三節)を以てし、以て神と人との前に歓喜の生涯を送らしめ給ふ、彼は亦美はしき義の衣を以て吾等の身を装ひ給ふ而已ならず、嘉物を以て吾等の口を飽かしめ給ふ、吾等は飾られ、亦養はる、不義の赦免を以て始まりし神の恩恵は霊魂の修飾と営養とに及べり、而して此恩恵に与かる者は身に老ひて心に老ひず、寓話に所謂る驚の羽翼を脱落してその壮時に復るが如く、彼は永久に其青春の活力を失はず、走れども疲れず、歩めども倦まざるべし(以賽亜書四十章廿八節以下参考)。
 以上は詩人が自己の心に於て実験せし奇《くす》しき神の聖業《みしごと》なりとす、然れども神は一人の神のみに非らずして亦万民の神なり、隠れたるに行らき給ふ心霊の神にのみ非ずして、亦|顕明《あらは》なる所に動き給ふ歴史の神なり、以下第六(191)節より第十四節に渉りて詩人は神の公義を頌め、其公徳を称へまつれり。
 (六)「虐げらるゝ者」は不正の待遇を受くる者なり、罪なきに罰せらるゝ者、愆なきに責めらるゝ者は凡て人に「虐げらるゝ者」なり、其強者なると弱者なるとに係はらず、其大国民なると小国民なるとの別なく、凡て権利を侵害せられ、受くべきの賞を受けず、受くべからざるの罰を受くる者を神は公平に審判き給ふと、公義は神の特性なれば彼は万民に公義を施し給はざれば休み給はざるべし、水の低きに就くが如く、神は公義を行ひ給ふべし、是れ神の特性なり、神の存在する間は公義は行はれずしては止まざるべし、而して人類の歴史は公義現実の途程なり、感謝すべきかな。〇(七)出埃及記第三十三章十三節を見よ。〇(八)同第三十四章六、七節を見よ、「ヱホバ、憐憫あり、恩恵あり、怒ること遅く、恩恵と真実の大なる神」なり、イスラヱルの神は如斯き者なり、人の想ふ所に過ぎ、赦すことを好んで、罰することを憎み給ふ者なり。(九)「恒に抗争ひ給はず」、抗争ひ給はざるに非ず、彼の愛子にして彼の途に戻り、活ける生命の水を捨て死に就かんとするか、彼は彼の愛のために彼等と抗争ざるを得ず、然れども争闘は神の好み給ふ所のものに非ず、彼は恒に愛し給ふ、然れども稀には止むなく抗争ひ給ふ。〇彼は亦怒り給ふ、然れども永遠に怒り給はず、彼は誠実なるが故に怒り給ふなり、然れども仁慈なるが故に速に赦し給ふなり、彼は怒ること遅くして、赦すこと速かなり。〇(十)我等を罰し給ふも我等の罪に循ひて罰し給はず、我等を困め給ふも我等の不義に循ひて困め給はず、神の加へ給ふ刑罰は我等が犯せし罪に較べて恒に甚だ軽し。〇(十一)我れ神の恩恵を何に譬へんか、天の地よりも高きが如く其高きこと大にして限なし。〇(十二)彼は東の西より遠きが如くに、我等の愆を遠け給へり、彼の宥恕の徳に依て我等の愆は天涯の遠きにまで取り去られたり、「その不法を免され、其罪を蔽はるゝ者は福ひなり」(羅馬書四章七節)。〇(十三)然れども神の(192)愛は単に高きに止まらず、亦広きに止まらず、其深きこと亦量るべからず、天の高きが如き愛を以て我等を愛し、地の広きが如き仁慈《いつくしみ》を以て我等を恵み給ふヱホバは父が其子を憐むの憐憫を以て我等彼を畏るゝ者を憐み給ふ、宇宙の広大に父の愛を加へし者是れヱホバの神なり、我等が彼を頌めまつるも亦宜べならずや。〇(十四)、宏大無辺の神は我等を待遇《あしら》ひ給ふに方て我等の何なる乎を忘れ給はず、我等は塵にて造られて復た塵に皈る者なり(創世記二章七節)。〇(十五、十六)我等はまた野の花の如き者なり、熱風一たび其上を吹けば消えて其迹を留めず、我等の居住の地すらも速に我等を忘る。〇(十七)、我等の斯くもはかなきに反して永遠より永遠に渉る者はヱホバと其憐憫と公義となり。〇(十八)而して彼は之を彼の契約を守り、彼の訓諭を行ふ者の上に下し給ふ、我等何んぞ我等の弱きを歎ずるを須ゐん、「我れ生くれば爾曹も生きん」と主は曰ひ給へり(約翰伝十四章十九節)。
 (十九)ヱホバは公義を以て世を審判き給ひて其|宝座《みくら》を諸天の上に置き給へり、「天」は能力の在る所なり、故に宝座を諸天の上に置き給へる者は万物の上に政権《まつりごと》を握る者なり、即ち「諸の政と権威と能力と宰治《きみ》と」(以弗所書一章二十節)の上に立つ者なり、ヱホバは凡て虐げらるゝ者のために公義と審判とを行ひ給ふて後に(第六節)此最高の位に即き給ふ。〇(廿−廿二)茲に於てか詩人は更らに天の諸族並に宇宙の万物より讃美を徴して曰ふ「汝等ヱホバを讃めまつれ」と、主の道を行ふに力猛き天使等《みつかひら》に対つて言ふ「ヱホバを讃めまつれ」と、ヱホバの聖旨を行て其途を愆たざる天の万軍に叫んで曰ふ「ヱホバを讃めまつれ」と、凡ての造化を喚起して曰ふ「ヱホバを讃めまつれ」と。
 終りに彼は再び自己の霊魂を責督して曰ふ、「ヱホバを讃めまつれ」と。 〔以上、10・15〕
 
(193)     基督教と社会主義
                      明治36年3月26日
                      『聖書之研究』36号「講演」                          署名 内村鑑三
 
 基督教と社会主義との関係に就ては多くの誤謬が世に伝へられて居ます、社会の一部面に於ては基督教は社会主義の一派であるかの様に思はれて居ます、爾う思ふ人達は重もに貴族や富豪の類でありまして、彼等の無学なると貪慾なるとは彼等をして、何主義に限らず、彼等の有する特別の権利に対して打撃を加ふる者に社会主義なる忌まはしき(彼等の眼より見たる時は)名を加へて之を排斥せしめます、無学文盲なる日本の貴族輩に取りましては基督教も社会主義も共和政治も同一の者でありまして、彼等は外に頼る所がありませんから唯一途に忠君愛国を楯に取り、是等の主義に対しては目くら滅法に反対を唱へます。
 斯のやうに貴族や富豪輩には社会主義の一派である乎と思はれて居る乎と思ひますれば、基督教は或る他の部面の人々よりは社会主義とは正反対のもの、即ち其妨害者、其敵であるかのやうに思はれて居ます、爾うして斯う思ふ人達は重もに社会主義を抱く人々の中に在りまして、彼等は基督教は神の存在を唱へて一種の神権説を主張し、又社会の現状維持を唱へて革命の精神に乏しい者であるから、是れは社会主義とは到底両立することの出来ない者であると思うて居ます。
 社会主義の一派であると云ひ、社会主義の敵であると云ひます、世人は基督教と社会主義との関係に就ては西(194)と東とが相距て居る程異なつたる思考を懐いて居ます。
 然らば真実二者の関係は如何いふ者でありませう乎、之を今日究めて置くのは決して無用の事ではないと思ひます。
 先づ第一に私共の注目すべきことは基督教と社会主義とは両々能く相似たる所があるの一事であります、或る一人の大に富める者がありまして、イエスの所へ来り、善き師よ、永生を嗣ぐために我れ何を行すべき乎と問ひました時に、イエスは彼に種々の要求をなされた後に答へられました、爾の所有を悉く售りて貧者に施せ、然らば天に於て財あらんと(ルカ伝十八章)、是れ勿論今日の社会主義者が全然同意する所の誡誨ではありませんが、然しイエスの此精神たるや、社会主義者の大に称讃する所のものであるのは確かであります、又有名なるペンタコステ後の教会に於て財産の共有が実際に行はれ、「信者は皆な一処に集まりて諸物を共にし、産業と其所有を鬻りて各人の用に従ひ之を分け与へぬ」(行伝二章四八節)とあるを見て、是れ社会主義其儘の実行であるかのやうに思はれます、其他基督教の本義が実際に行はれたる所に於て財産共有の制度が之に準じて行はれた例の尠くないのを見ても、基督教と社会主義とは何やら縁の近いものゝやうに思はれます。
 爾うして亦基督教の方から見ましても社会主義の主張する所には多くの賛成を表すべき所があります、協同一致は矢張り基督教の精神でありまして、「多く斂めし者にも余る所なく、少なく斂めし者にも足らぬ所なし」(出エジプト埃及記十六章十八節)との聖書の精神は亦社会主義の精神であると聞きますれば、多くの場合に於て基督教が社会主義に接近するのは決して無理ではありません、貧者の救済が基督教の此世に於ける最大目的の一であるに対して、貧困の絶滅が社会主義の最大眼目であると云ひますれば、二者は此世に於てその達せんとする目的に於て(195)も互に相一致して居る者であるに相違ありません。
 然し斯う云ふて基督教は社会主義であると云ふことは出来ません、否な決して出来ません、基督教と社会主義との間には大に異なりたる点があります、爾うして二者決して同一の者でない最も明かなる証拠には前にも述べました通り社会主義者の中に基督教に対する激烈なる反対者があります、此主義の泰斗として仰がるゝ独逸のマールクス氏は極端なる唯物論者であります、ノルダウは常に基督教的社会制度を嘲弄して止まざる者であります、又若し基督教に対する反対が斯くまで極端に渉らないと致しました所が、社会主義者の宗教観は至て緩慢なる者でありまして、我はキリストと其十字架の外は何をも語らじと心を決定めたりと云ひしパウロの宗教に対しては社会主義者は概ね余り多くの讃辞を寄することの出来ない人達であります、基督教は絶対的宗教でありまして、「我れに依らざれば救拯ひあることなし」と曰ふに対して、社会主義は宗教の異同を問はず、単へに社会組織の完備に重きを置いて、之を以て社会を済度せんとする者であります。
 今茲に基督教と社会主義との相異なる点に就て少し申上げませう。
 第一に基督教は天国の教へでありまして社会主義は此世を改良するための主義であります、此点に於ては基督教は社会主義のみならず、帝国主義、共和主義、帝王主義等総て此世の経綸を目的として立てられたる主義とは全く違ひます、「我国は此世の国に非ず」とキリストは申されました、「我儕の国は天に在り」とパウロは唱へました、基督教は此世を改良するに至りまするが、然し此世の改良が其存在の理由ではありません、人を幽暗の権威より救出し、之を神の愛子の国に遷すことが基督教が此世に臨みし理由であります、基督教は此世の所有に対しては一種の無頓着主義を取る者であります、婚する者も婚せざるが如く、婚せざる者も婚する者の如くならん(196)とパウロは白しました、基督教の立場より見まする時には帝国主義でも、社会主義でも、其他如何なる社会政策でも、是れ皆な瞬間的のものでありまして、我儕人類も我儕の棲息する此地球も遠からずして消え失するものでありまするから、我儕は此世の事に就ては左程に心配するに及ばないといふのが其大躰の教義であります、故に使徒達は其時代の奴隷に向ても肉躰の自由を得よとは教へませんでした、又奴隷の持主に向ても必ず彼等を放免せよと云うて迫りませんでした、只奴隷たるも、其持主たるも只一時の事であるから、互に真義を尽し、柏歎き相騙る勿れと勧めました、基督教は愛隣主義であるから社会主義に組すべきであるとか、上帝を戴く者であるから帝王政治を奉ずべきであるとか云ふのは全く基督教の何たる乎を少しも知らないから起る言であります、基督教は此世の主義ではありません、爾う云ふて、世人から隠遯主義であるとか、或は仙人主義であるとか評せられましても真正の基督教は少しも意に留めません、基督に依て唱へられ、使徒達に依て伝へられ、今は新約聖書の中に我儕に示さるゝ基督教は確かに世外主義でありまして、私共は基督教が消滅するまでは、之を以て一種の社会政策と見做すことは如何しても出来ません。
 第二に基督教は必しも財産の共有又は国有を唱へません、基督教の教ゆる所に依りますれば財産なる者は少数の富者又は貴族の専有すべきものでないのは勿論であります、去りとて是れは亦た貧者に悉く分与さるべき者でもなく、亦国民共同して所有すべきものでもありません、基督教は財産を以て人の所有であると認めません、万物は皆な神のものであります、人は勿論、国も民も、其総ての富も、是れ皆な万物を造り給ひし神のものであります、
    林のもろ/\の獣、山の上の千々の牲畜《けだもの》は皆な我が有なり、(197)世界とそのなかに充つるものとは我がものなり、  (詩篇五十篇)
 是れヱホパの神の宣言でありまして、此神を信ずる基督教信者に「我が所有」と称すべきものとてはない筈であります、爾うして我の所有でないのみならず、社会のものでもありません、富者のものでもないのみならず、貧者のものでもありません、是れは皆人類が神より委ねられたものでありまして、神聖に使用して神の用に供すべきものであります、故に基督教の目的とする所は財産の共有又は国有ではなくして、其聖化であります、即ち人類が財産を目して「是れ我が所有なり」と云ふを廃めて「是れ神の所有なり」と云ふに至らんことであります、基督教の示す所に由りますれば人類進歩終局の到達点は予言者撤加利亜が述べた通りであります、即ち、
  その日には馬の鈴にまでヱホバに聖としるさん、又ヱホバの室《いへ》の鍋は壇の前の鉢と等しかるべし、ヱルサレム及びユダの鍋は都て万軍のヱホバの聖物となるべし(撒加利亜書十四章二十、二十一節)
 台所道具なる鍋までが神の聖物となるのであります、況して其他の物に於てをやです、田も畑も、家も、船も、鉄道も、製造場も、国家のものではなく、又社会のものでもなく、皆な神の聖物となるに及んで基督教の理想は達せられるのであります。
 第三に基督教と社会主義とは其働らきの方法を異にします、基督教は或る一定の社会制度を定めて人をして之を採用せしめんとは致しません、基督教はたゞ神の何たると人の何たるとを説いて、其他は総て之を天然の成行きに任かします、基督教は申します、「帝国主義可なり、たゞ公平なれ、慈悲深かれ、万人の権利を重んぜよ、若し然かせざらんには神汝を滅し給はん」と、又申します、「社会主義甚だ可し、たゞ敬虔なれ、貧者を弁護するの(198)余り富者に対して不実なる勿れ、非礼なる勿れ、粗暴なる勿れ、平和と謙遜とを旨として汝の正理と信ずる所をなせ」と、郎ち基督教は中より外に向て働くものでありまして、社会主義其他総て此世の主義が外より中に向て働くのとは全く其行動の方法を異にします、基督教の見る所を以てしますれば、社会の不公平は皆な人が神を棄て去りしより起りしものでありまして、社会組織の不完全より来たものではありませんから、之を癒すの方法は人を其父なる神に連れ還るにあつて、之に社会的新組織を供するにありません、故に基督教は制度とか組織とか云ふものには至て重きを置かないものであります。
 
(199)     家庭雑誌の発刊を祝して
                        明治36年4月3日
                        『家庭雑誌』1号
                        署名 内村鑑三
 
      (我輩は内村先生の祝辞を得て、且つは喜び且つは恐れた。此祝辞を此紙上に載せるのは、一面においては我輩の極めて光栄とする所であると同時に、他の一面においては、殆んど背水の陣を布くようなもので、一歩も退く事はならず、寸分の懈怠の念をも許さぬ事になるのである、然し我輩は終に之を載せる事に決心した。それは決して我輩が自分の自惚心に満足を与へんが為では無く、実に自ら誓ひ人に誓ふ証文とせんが為である。読者諸君の此意を諒とせられんことを願ふ。枯川生記す。)
 
 若し日本国に家庭雑誌を出す権利と義務と責任とを有つて居る人がありとすれば其人は余の友人堺枯川君であると思ふ、君は性質が温和で、友誼に篤く、善を視る眼を有つて居て、悪を視る眼を有つて居らない、君は即ち此怨恨、毒嫉を以て満ち充ちて居る日本国には極く々々稀れなる人であつて、君の如き人がまだ此社会に存つて居るのはまだ之に一縷の希望が存つて居る理由であらふ。
 余は君に望む、君が大費任に当るの心を以て此雑誌の編輯に従事せられんことを、即ち之を以て、日本国は愚か、支那、朝鮮、印度、少くとも人類の半数に新幸福を与へんとの大希望を以て此小事に当られんことを、何故《なにゆゑ》なれば家庭は伊藤侯其他の東洋の英雄碓が言ふやうな決して小事ではない、言ふまでもなく国家の基礎も社会の根(200)本も共に此にあるのであつて、国家を顧みて家庭を顧みない国家は必ず滅亡すると定つて居る、爾うして今日の日本国は今や此危険なる地位に居るのである。
 「婦を愛する者は己を愛する也」とは基督教の聖書の中にある言辞である、是れは東洋人の耳には甚だ気障りのする言辞であつて、彼等が甚だしく基督教を嫌ふのも其中に斯かる教訓があるからである、然し西洋今日の富強なるものは実は斯かる教訓が永の間彼等の中に伝へられたからであると歴史哲学者は言ふ、若し日本国の経綸家が如何程《どれほど》深い意味が此言辞の中に含まつてあるかを解し、ホームを涜す者は人類を涜す者であるの考へを以て世に臨まば、社会の改良は全く希望のない事ではあるまいと思ふ。枯川君たる者は宜しく此態度を以て我国今日の東洋的社会を其根底より改造すべきであると信ずる。
  明治卅六年三月十九日 東京市外角筈村聖書研究社に於て 内村鑑三
 
(201)     〔信仰の鼎足 他〕
                     明治36年4月9日
                     『聖書之研究』37号「所感」
                     署名なし
 
    信仰の鼎足
 
 我は聖書と天然と歴史とを究めんかな、而かして是等三者の上に我が信仰の基礎を定めんかな、神の奥義と天然の事実と人類の実験、……我が信仰を是等三足の上に築いて我に誤謬なからん乎、科学を以て聖書の上に蒐まる迷信を排し、聖書を以て科学の僭越を矯め、歴史の供する常識を以て二者の平衡を保つ、三者は智識の三位なり、其一を欠いて我等の智識は円満ならず、我等の信仰は健全ならず。
 
    愛の利殖
 
 我れ若し人に愛せられんと欲せば我は人を愛するに若かず、そは我が与へし愛より以上の愛を我は人より受くること能はざればなり、斯くて我は人より我自身の愛を受くるに過ぎず、而かも我より出でし愛の一たび人を通過して我に還り来るや、我はその我より出でし元の愛にあらざるを知るなり、愛は貨幣の如し、人の手に渡りて利殖す、愛に乏しき者は之を与へざる者なり、人より之を要求するに止て之を人に分与せざる者は、終に愛の守(202)銭奴となりて愛の欠乏を以て滅びん。
 
    愛の行為
 
 愛を以てするにあらざれば何事をも為すべからず、愛を以てするにあらざれば怒るべからず、愛を以てするに非ざれば施与を拒むべからず、愛は勇気の基底なり、人の善を念ふて後に我等は其人に対して大胆に何事をも為すを得るなり。
 
    無用の批評
 
 人は我が欠点に就て語るを悦ぶ、而かも彼等はキリストに憑る我れが我れ自身に就て知る凡の欠点を知らず、キリストに在りて我はパウロと偕に罪人の首《かしら》なり、彼等批評家は我の欠点三四を挙げて我をより小なる罪人となすべからざるなり。
 
    最大の異端
 
 最大の異端は兄弟を憎むことなり、其失敗と堕落とを專ぷことなり、此異端ありてオルソドックスあるなし、ヘテロドックスあるなし、吾人は先づ第一にゼントルマンたるべきなり、而かして後に吾人の神学説を定むべきなり。
 
(203)    我の欣び
 
 我れ死を忘れて斯世の人と化せざらんがために神は我に病を賜ふて我をして常に死と墓とに就て念はしめ給ふ、我れ人を愛して神を捨つるに至らざらんがために神は我に敵人を賜ふて我をして常に人世に就て嫌悪の念を懐かしめ給ふ、我が患難と苦痛とは凡て我が霊魂のためなり、この故に我は寧ろ欣びて自己の弱きに誇らん是れキリストの能《ちから》我に寓らん為なり(コリント後書十二の九)。
 
    有利なる取引
 
 受くるに吝なれ、与ふるに寛なれ、而うして汝の不足を補ふに神の霊の賜物を以てせよ、若し朽ちる斯世の物を以て朽ちざる人の心を喜ばすを得ば何ものか之に優るの有利なる取引あらんや、キリストが宣へる爾曹不義の財を以て己が友を得よ(ルカ伝十六の九)との言は此事を我儕に教へんが為めならざるべからず。
 
    無益の文学
 
 第一に貴きものは精神なり、其次に貴きものは智識なり、我儕執筆の業に従事する者は、若し精神を伝へ得ずんば智識を供すべきなり、然るに精神をも伝へ得ず、智識をも供し得ずして、たゞ徒らに人物評又は世間談に筆を弄するが如きは、是れ無益の文学なり、斯かる文学は之を印刷に附する紙の価値をさへ有せざるものなり。
 
(204)     余の好む花
                      明治36年4月9日
                      『聖書之研究』37号「家庭」                          署名 内村生
 
 人は誰も花を好む、花を好まない者は人にして人でない、花は天然の言辞である、花に由て我等は天然の心を解することが出来る、爾うして我等人類も天然の一部分であるから、我等の心も花に於て顕はれる、花は無言の言辞である、天使の国に於ては多分花を以て思想の交換をなして居るであらふ、言語は銀であつて、沈黙は金であると言へば、花は沈黙の言語、即ち金の言語であるであらふ。
 余も花を愛する、余も花を以て余の心の諸ての思念を語ることが出来る、希望の花もあれば失望の花もある、歓喜の花もあれば悲哀の花もある、傲慢の花もあれば謙遜の花もある、人の心の様々なるやうに花の色香も種々である、故に人の心は其愛する友を見て知ることが出来るやうに、其人成は略々其愛する花に由て見分くることが出来る。
 余の愛する花とよ梅?、否な梅ではない、余は梅を敬する、余は雪の中に始めて其香に接する時に予言者ヱゼキエルの前に出たやうな心地がする、余は其前に端座して平伏したくなる、其花片は硬く、其香は鋭く、葉なく、潤滋《しめりけ》なく、花にして花でないやうに思はれる、梅=厳師=野に呼べる声、然かも愛し難し、是れ余が未だ全く肉の情を脱することが出来ないのに由るのかも知れない。
(205) 桜? 否なよ、否なよ、余は誓つて言ふ、余の愛する花は桜ではないと、桜は華奢である、外形を張る、人に媚びる、其彼岸桜は娼妓《あそびめ》である、其牡丹桜は御殿女中である、彼女は余りに人に馴易くある、且つ彼女の栄華は短かくある、彼女は実を結ばない、余は桜は嫌ひではないが、然し彼女は余の愛する者ではない、彼女は不信者的の才姫である。
 董菜《すみれ》? 彼女は謙徳の表彰である、梅の未だ散らない先きに既に道端又は畝に咲いて春の到来を確かめて呉れる、余は董菜を好む、余は今年も始めて或る鉄道線路の土手の上に彼女に際会せし時に「姑らく、お機嫌よう」と言ひて彼女を迎へた、然しながら彼女も未だ「余の花」と言ふことは出来ない、彼女は品格に於て少しく足りない所がある、彼女の少しく上品なるものが余の理想であるであらふ。
 薇薔は西洋人的である、彼女は日本婦人ではない、菊は帝王的である、故に神聖にして平民の近くべからざる所がある、梅の如く厳粛ではないが、人為的の威風があつて平民の愛心を寄するには余りに懸離れて居る、桃や菖蒲は俗人である、山吹は田舎漢である、水仙は名の通りに仙人的である。
 余の好む花とよ、余の好む花は二つある、其一つは春晩く来る、其他のものは冬に入りて咲く、春の者は何んであるか、余は表白して曰ふ彼女はをだまき(※[耕の左+婁]斗菜)である。
 をだまき 我等が今日此国に於て愛づる者は内地産のものではない乎も知れない、然かし今や到る処の園に培養され、土産のものと見ても可いやうになつた、彼女は春晩く来る、藤や山吹と同時に来る、五月の空の沾やかな頃、青葉は茂く、影涼しく、躑躅は既に散り果てゝ杜鵑花《さつき》に名残を留むる頃、余のをだまきは首《かうべ》を低れ最《いと》もしなやかに咲き初むるのである、董菜の如くに謙遜で、日向よりも日影を愛し、桜の如くに出しやばらず、牡丹の(206)如くに華美《はで》ならず、藤の如くに気高からず、然かも品あり主張あり、弱きが如くに見えや永く保ち、死に似寄りたり濃藍色に淑女の節操を添へたる状、余は彼女に於て花らしき花、女らしき女を認むる、彼女は近くべし、馴るべからず、彼女は弱し、然れども柔和の威力を存す、キリストはシヤロンの薇薔と称して毛莨科の植物の一なる翁草《をきなさう》の一種に譬へられたが、我がをだまきも毛莨科の一種であつて、善くキリストを代表する者であると思ふ、余はイザヤの予言の書に左の言辞を読む時に常にキリストと余のをだまきとを思ひ出さない事はない。
  彼は侮られて人に棄てられ、悲哀の人にして病患を知れり…………………彼は苦しめらるれども自づから謙だりて口を啓かず、屠場に引かるゝ羊羔の如く、毛を斫る者の前に黙す羊の如くしてその口を啓かざりき (以賽書五十三章)
 彼女は喬木でもない、潅木でもない、彼女は僅かに多年生の本草である、然し彼女の如きが花の真正の栄誉ではあるまいか、ベン、ジョンソンの歌ひし「短命」の歌は実に彼女に当箝るものではあるまいか。
   木の嵩を増すが如く
   伸びて必ず好き人ならず
   橿は三百年を経て
   枯れて仆れて丸太たるのみ
    其日限りの百合の花は
    五月の園にはるか魔はし
   たとへ其夜仆ふれて死すも
(207)   美は精細の器に現はれ
   生は短期の命に全し
 余の晩秋より初冬に掛けての友人なる紫竜胆に就ては秋に入つてから語ることゝ為やう。
 
(208)     宗教の必要
                     明治36年4月9日
                     『聖書之研究』37号「講演」
                     署名 内村鑑三
 
 私が茲に言はんと欲する宗教の必要は、宗教を信ずるものゝ眼から見たる必要ではありません、宗教を信ずるものゝ眼より視ますれば宗教は人生第一の必要物でありまして、是なくては人は生れて生れ甲斐のない者であります、曾て或詩人の曰ひしやうに
   Religion is man's chiefest concern.
   宗教は人の第一に心配すべき事である、
 宗教は処世術以上、道徳以上の必要物であります、此は生命の湧き出る所であります、人を心霊的実在物として考ふる時は、彼に取りて宗教の必要は水の必要と同日に談ずべきものであります、水なくては彼は一日も存在する事の出来ないやうに、宗教なくては寸刻も生きて居らるべき筈の者ではありません。 然しながら世人の多数は爾うは思ひません、彼等は宗教は贅沢物にあらざれば、厄介物のやうに思ふて居ります、彼等が宗教を要する場合は彼等が死んだ時であります、彼等は彼等の躯《むくろ姫を片付けて貰ふ時の外、宗教に就ては何の必要をも感じません、それのみではありません、彼等は多くの場合に於ては、宗教を邪魔物と致します、彼等が利慾を縦にせんとする時、彼等が安楽に耽らんとする時、彼等が子か臣《けらい》の上に圧制を施さんとする時、(209)彼等は甚く宗教の妨害を感じます、彼等は申します、宗教は人情を篤くするものであつて、人情が篤くなれば自然と金が儲からなくなる、故に金を儲ける間は、余は宗教は要らない、年を取て金を儲ける必要がなくなつた時分に之を信じやうと、斯ふ云ひます、其他良心の声であるとか、民の声であるとかいふものに耳を傾ける事を嫌ふ者は皆宗教を嫌います、彼等は頻りに「宗教の束縛」を唱へまして、神もない、未来も要らない自由を唱へます。
 若し又斯くまで強く宗教に反対しないと致しました所が、宗教を一種の美術品のやうに見做し、之れ有れば甚だ結構、然し無くとも別に苦慮するに足らないと思ふ人は、日本今日の社会には沢山居ります、彼等は身を修め家を斉ふるには普通道徳で足れりとなし、神の、未来のと云ふ事を唱ふる事の何の必要もないことゝ信じて居ります、故に小供を教育するに当ても彼等は第一に彼等に職業を授け、之に普通智識を加へ、然る後に盗まず、浪費せざるの道を教へさへすれば夫で親たる者の義務は了れりと思ひ、我子は品行方正なりとて自分の心にも安心し、又世間に向つても誇ります、実に日本支那朝鮮などの東洋諸国に於ては、宗教は極く廉価に見られまして、宗教を信ずるも、別に国の栄誉とも家の宝とも思はれません、宗教に不熱心なる者とて実に東洋人の如きはありません、彼等は実に商売人にあらざれば政治家でありまして、彼等が宗教を見るには常に実務家の眼を以てし、「之に何の実益ありや」と問ひまして、若し之に金銭上の利益がなく、政略上の便宜がないと見て取りますれば、彼等は是を以て瓦礫又は玩弄物同様のものと思ひます、実に浅ましく且つ憫むべきは是等東洋人の心掛であります。
 然しながら私は今茲に純真理であるの、不朽の栄光であるのといふ高い潔い事を曰ふのを止めまして……曰ふ(210)ても東洋人の多くには少しも分りませんから 少しく東洋人自身の実益上の観察点から見て宗教の必要に就て考へて見たいと思ひます、宗教は実に日本人の多数が日ふやうな贅沢品にあらざれば、厄介物でありますか、是は実に人生の必要物ではありませんか、人は実に宗教を信じなくも何の不都合なく、此世を渡る事が出来ますか、国家は実に宗教を要しませんか、家庭は実に宗教なくとも立行きますか、方正なる品行は実に宗教なくても維持する事の出来る者でありますか、私は少しく是等の点に就て稽へて見度く思ひます、然し是を為す前に私は重ねて述べて置きます、宗教は決して現世のためのものではありませんと、世には「現世的宗教」なるものを唱ふる人がありまするが、そんなものは実は此広い宇宙に一つもないと思ひます、現世的なれば宗教ではありません、それは政治であります、倫理であります、宗教ではありません、決してありません。
 「現世は現世にて足れり」とは此世の人の常に言ふ所であります、然しながら是は極く浅い考でありまして、現世とは決して現世丈で支配する事の出来るものではありません、斯ふ云ふのは「日本は日本にて足れり」と云ふのと同じ狭い拙い考であります、日本は日本にて決して足りません、日本の上を吹く風は日本以外から来るのであります、日本の海浜を洗ふ潮流は日本以外から来るものであります、日本を実に善い国となし、之を幸福の国と成さうと思へば世界の一部分として之を考へなければなりません、現世とても同じ事であります、若し現世とは現世限りのものでありまするならば、之を現世以外に渉りて考ふるの必要はないかも知れません、然しながら現世とは永遠の唯の一部分でありまする故に、之を正当に解するには是非宇宙全躰から考へなくてはなりません、是は宗教が現世に於て必要なる理由であります、然しながら前にも申しましたやうに東洋人は理論は空論であると称してそれには別に意を留めません。(211) 「宗教の実益如何」、是れ彼等に取りては宗教に関する唯一の問題であります、爾うして私共は彼等俗人の提供する問題なればとて一途に之を斥けません、私共は俗人に対しても心切でなくてはなりません、彼等も神によりて造られしもの、今こそは神を棄て自己の胃の腑を以て神として居りまするが、然かし彼等の中にも或は其大なる罪を悔ひて神に還り来るものがあるかも知れません。
 「宗教の実益如何」、爾うです、宗教にても実益があります、今茲に其二三に就て述べませう。
 宗教の実益の第一は人に正義の習慣を付けることであります、人は正義を愛するものではありませんが、去りとて世に正義の必要を感じないものは一人もありません、正義なくしては政治も行はれず商業も出来ません、己れ一人こそ不義を行ひ度く思ふなれ、社会や他人が不義を行はんことを望むものは此世には一人もありません、己れ一人に取つた所が、若し出来るならば、殊に容易く出来るならば、何人も正義を行ひ度く思はないものはありません、唯悲しい事には正義は正義とは知り乍ら之を行なうの勇気がなく、又慾心がないから已むを得ず自己の望みに反して不義を行ふのであります、然しながら若し何等かの方法を以て正義が慕はしくなり、又之を行ふの勇気をタツプリ持つ事が出来まするならば、誰とても自ら択んで正義を棄てゝ不義を行なうものはありません、爾うして宗教は此正義を慕ふの慾を起すものであり升、正義とは唯苦がきもの恐る可きものとのみ思ひし者に正義の美を顕はしまして之を愛すべきもの慕はしきものとなすものであります、爾うして其結果たるや永く宗教に養はれますれば正義は自づと我の天然性となりまして、私共は飢へたる時に自づと食を求むるやうに、別に何の強いらるゝこともなきに自づと正義を追求するやうになります、正義が我等の天然性となりますまでは、我等は安全なる正義の味方と称する事は出来ません、正義が苦痛である間は、社会の制裁の下にある故に正義を行なふ(212)ものである間は、私共は何時不義に組するに至るかも知れません、爾うして正義を習慣性となし、私共をして正義と結婚してこれと同一躰のものとならしむる者は宗教を除いて他にないと思ひます。
 宗教は第二に正義を行なふの力を与へます、正義を歓迎するのと之を実行するのとは全く別物であります、世には正義を歓迎する者は幾干《いくら》でもありますが、之を行ない得る者は実に寥々であります、と云ふのは之を行なふ力を持つ者が尠ないからであります、正義を愛する者は之を行ふ者であるといふのは事実大なる間違であります、人は何人も正義を行ふ可きではありまするが、何人も之を行なふ事は出来ません、之を行ふには特別の力と習練とが要ります、小児が自ら好んで大人の力業を行す事が出来ないやうに、常に利益と名誉との事にのみ奔走する人が、如何に心は弥武《やたけ》に思ふとも進んで大なる正義を実行する事は出来ません、正義は之を叫ぶ計りで其実行を世に見る事は出来ません、私共は正義を叫ぶと共に之を行ふに足る力を世に供へなければなりません、爾うして此力は宗教にあるのであります、正義を慕はしくなす者は正義を実行するの力を下すものでありまして、人は如何に自ら望むも力を自己以上の者に仰がずして大なる正義を実行する事は出来ません、其証拠には我国目下の無数の政治家又は文学者を御覧なさい、若し彼等の声が彼等の実質の表彰でありまするならば、彼等程の聖人君子は又と再び此世にない筈であります、然しながら彼等が正義の事に関しては如何程の弱武者であるかは誰も知つて居ります、誰も日本今日の政治家の中に一人のコロムウエル一人のダニエルウエブスターがあらふとは思ひません、又誰も日本今日の文学者と称せらるゝ者の中に一人のミルトン、一人のゾラがあらふとは思ひません、爾うして其理由は最も明白であります、彼等は唯正義を理想とするのでありまして之を行ふの力を有つものではありません、彼等は僅かに支那の聖人や日本の英雄などから正義忠愛の何たる乎位ひを聞いたに止まるものであり(213)まして、正義の大本なる神に達し、其力を仰いだ事のない者でありますから、己れ聖人となり、義人となり度くないではありますまいが、然し残念至極にも彼等は成らんと欲して成ることは出来ません、正義を為すの力は神にありまして之を得るの方法は祈祷にあります、神を知らず祈祷をなさい者に大なる義人の勇気のありやう筈はありません、コロムウエルやリンコルンの事跡を聞まして彼も人なり我も人なりと云ふて威張るも何の甲斐もありません、コロムウエルは幼時より神を畏れた人でありました、彼は亦終生祈祷の人でありました、故に彼は人の為し得ない事をなし得たのであります、宗教に依らずして社会の根本的改革を為さんとし、人心を其根底より潔めんとすなど曰ふのは丁度常には座食して安逸に耽つて居る我国今日の貴族の子弟が、一躍して競争場裡に競技の戦士《チヤンピオン》とならんと欲すると同一であります、競技も正義も習練と涵養とを要します、宗教を以て涵養せざれば人は遂に道徳的の不具者となつて了います。
 宗教は第三に人の希望の区域を拡げて彼に大志を懐かせ大事を企てさせます、現世丈けの者は現世以外に渉る事を企てませむ、現世たる勿論今日には限りません、然し現世主義の人が今日主義の人となるのは理の最も睹易い事であります、人の活動の範囲は彼の視力の範囲に依て支配せらるゝものであります、天下に主たらむと欲する者が能く一隅に雄たるを得るのでありまして、一国に主たらむと祈るものゝ如きは其為す所知るべきのみとは有名なる毛利元就の言でありまするが、其やうに現世以外に眼の達せざる者が此世に於て為し得る事は実に知る可きのみであります、此世が極く小さいものとなつて見ゆるに至つて我等は之を自由に為る事が出来るのであります、現世主義の人は実は現世の奴隷でありまして、斯かる人は現世を薫陶改造することの出来る人ではありません、それ故に現世主義の人には現世其物をも能く調理することは出来ません、彼等は余りに今日に逐はれて(214)子孫百代の後の事までを計画する心の余裕を有ちません、之を歴史に照して見ましても此事は極く明かであります、大美術であるとか大発見であるとか大制度であるとか云ふものは皆今日と現世とよりは多く望むの必要のない人等の生み出したものでありまして、曰はゞ彼等偉人は間暇《ひま》仕事として此世が称して以て大事業となす者を成し遂げたのであります、共和政治であるとか自治制度であるとか云ふやうなものは現時の必要に迫られて止むを得ず作つたものではありません、是れは古代の偉人が人類の永遠の性を考へ、利害の考へより全く脱して、正義公道を此世に施かんが為めに案出したものであります、西洋の諺に
   Unless above himslf man can raise himself,
   How mean a thing is man.
   自己以上に昇る事能はざるものならば
   人とは如何に卑しむ可きものなる哉
と云ふ言がありまするが、実に其通りで現世以外に脱するにあらざれば人間とは至つて至つて卑しいものであります。
 何故に借金政策のみが行はれて興産政策が行はれませんか、何故に山林は濫伐せらるゝのみであつて殖林の法は講ぜられませんか、何故に奢侈は月に年に増進して蓄財の精神は日々に衰へます乎、何故に人は現代目下の事にのみ急にして子孫千百代の後の事を謀りませんか、是等の理由は探るに決して難くはありません、即ち人に宗教心がないからであります、人の活動の範囲が余りに狭隘であつて、それが為に闊い気の永い心が起らないからであります、爾うして其結果たるや、現世主義を主張する人の手の中にある此現世までが衰滅に帰して、此世に(215)現世主義をも唱へる事が出来なくなるのであります。
 正義と云ひ大事業と云へば俗人輩は皆笑つて曰ひませう、それは英雄偉人に関する事であつて普通の人に取りては何も関係のない事である、普通の商人、普通の銀行家、普通の官吏などは、普通の人でさへあれば夫れで充分であると。
 然し彼等が斯ふ思ふのが彼等が真正無垢の俗人である何よりも善い証拠であり升、併しながら奇態な事には俗人ほど世俗の事を知らない者はありません、俗人、国を亡ぼすとは実に此事を云ふのであります。
 正義は実に俗人がいふやうに日常普通の事ではありませんか、何故に企業家があつても業を起すことが出来ませんか、金利が高くして資本が得られないからであります、何故に金利が高くありまするか、人が正直でなくして貸金損失の危険が多いからであります、銀行には金が積んであつて、之を使ふ人がないと云ふ状態の其源因は何処にあるのでありますか、国に正義が乏しければ其国の商買殖産が衰へるのは何よりも明白な事でありまして、此火を睹るよりも明かなる事が見えずに、たゞ無暗に不景気を嘆ずる俗人即ち商売人の多い事、其事が第一に嘆ずべき事であります。
 正義の念に欠乏するが故に家は治まらず、主人と息子とは放蕩を始め、番頭は騙り、小僧は盗む、正義は実に国家の事でも、人類の事でもありません、家の事であります、店の事であります、英国の碩学マツシユー、アーノルドと云ふ人が申しました「人生の十分の九は正義なり」と、正義の奨励者にして其涵養者なる宗教を軽んじて農家なり商家なりの事業が挙らないのは、当然の事であります。
 子孫百代の計をなすといふ事も是れ決して経済家のみの職とすべきことではありません、此心がなくては我等(216)日常の事は成功しないのであります、我等が信用を重んずるのは目の前の店の繁昌を目的にしてゞはありません、斯かる人は決して信用を重んじません、信用を重んずるのは我主義として、即ち義務として之を重んずるのであります、爾うして之を為すのは、一には我自身が己れを欺かざらむが為めであります、二には店を一代限りのものと思はず永遠に継続せらるべきものと思ふてゞあります、三には我子に信義の実例を示し彼をも正義の人と成さんとするからであります、私共に永久の希望なくして私共は信義を重んずるの人たることは出来ません。
 殊に永久の希望のない結果として地主は小作人を冷遇又は虐待するの結果、小作人は地主の所有たる土地の将来に就ては少しも顧みる事なく、土地の痩せるに任せて収穫の多からむ事をのみ望むが故に、其土地は遠からずして枯死同様の有様に陥入ります、山林を伐るものゝみあつて、之を植ふる人がありませんから、出水の害は甚だしく、其結果、我田圍も隣家の田園も荒廃に帰して飢餓は我門前に迄迫つて来ます、後も先も見えざる結果として祖先伝来の家産を擲て撰挙運動を始め自ら産を潰し、近隣の道徳を腐敗せしめ、我も得る所なく、人も益する所なからしめます、宗教心のない事は決して細事ではありません、宗教のないが為に多くの家は破産致します、多くの家庭は涙の中に沈んで居ります、多くの疾病も多くの心痛も多くの憤怒も、其他数知れぬ程の世の不幸は全く宗教のない結果であります。
 宗教の要はないと、何故に医術の要はないと云ひません乎、何故に水の要、食物の要はないといひません乎、貴下方の身躰を御覧なさい、其処に何にか貴下方が宗教を信じない罪の徽候《しるし》が刻まれては居りません乎、貴下方の家の中を御覧なさい、其処に誰かゞ貴下方の無宗教の罰を担ふて独り窃かに涙に咽んで居りません乎、最後に貴下方の心の中を探つて御覧なさい、何故に其処に雄大なる希望がありません乎、何故に常に外面に英雄を装ふ(217)て居る貴下方の心の中に癒す可からざる憂愁《うれい》がありまして、貴下方は隠退を思ひ、允許を計画しますか、貴下方の心の中は実は閤ではありませんか、貴下方は歓喜のない希望のない讃美歌の口に湧いて来ない、不平漢失望漢ではありませんか、貴下方が宗教は無要であるなどと言ふのは虚偽であります、貴下方は心の寂寥の余り無頓着を気取るのであります、貴下方も実は之を得たいのであります、併し得られないから不要を口に唱へるのであります。
 嗚呼宗教の無要を唱へるのをお廃めなさい、之を今よりお求めなさい、宗教は日光や空気と同じであります、貴下方は得んと欲すれば何人に乞はずとも之を得られるのであります、之を得て幸福なる人にお成りなさい、之を得て歓喜を以て張り裂けるやうな人となりて現世をも来世をも十分に利用することの出来る人とおなりなさい。
 
(218)     〔聖書其物 他〕
                      明治36年4月23日
                      『聖書之研究』38号「所感」                          署名なし
 
    聖書其物
 
 聖書其物を読むべし、聖書に就て多く読むべからず、生命は聖書其物に在て聖書論に存せず、聖書に就て多く疑義を懐く者は、多くは聖書其物を読むこと少くして、聖書に就て聞き且つ読むこと多き者なり。
 
    犬を慎めよ
 
 爾曹犬を慎めよ(腓立比書三の二)、当代の所謂る批評家なる者を慎めよ、声ありて実なき者を慎めよ、毀つのみにして建て得ざる者を慎めよ、螫すのみにして癒し得ざる者を慎めよ、爾曹彼等たる勿れ、爾曹彼等に聞く勿れ、其文に目を曝す勿れ、恐くは彼等爾曹の霊魂を殺し、爾曹は餓ゆるのみにして飽くことの何たるを知らざる者とならん。
 
    直進
 
(219) 我は人に審判かるゝ事を尤も細事《ちいさきこと》となす、我は自己をさへ審判かず(コリント前書四の三)、人は何人も我を識る能はず、我は我れ自身に就てさへも識らず、我を審判く者は我を造り給ひし主なり(同四節)、我儕は世の批評に意を留めて左省し又右顧すべからず、たゞ前に在るものを望み、神がキリストイエスに由りて賜ふ所の褒美を得んと標準《めあて》に向ひて進むべきなり(腓立比書三の十四)。
 
    弁解の無効
 
 世の我儕に関する誤解を解かんと努むる勿れ、彼等は我儕を誤解せんと欲す、故に之を解くは彼等の意志に反するなり、我儕は我儕の善を念ふ我儕の友人に対して誤解を解くべきなり、彼等は我儕を正解せんと欲す、故に彼等は我儕の弁解を聞いて喜んで之を受くるなり、ピラトと祭司の長の前に於けるキリストの沈黙は敵人の前に於ける弁解の不要と無効とを我儕に教へ給はんがためならざるべからず。
 
    浅薄の確証
 
 深く学べよ、然らば爾曹批評家たらざらん、深く感ぜよ、然らば爾曹不平家たらざらん、真理は謙遜なり、沈黙を愛す、宇宙は調和なり、喧噪を憎む、深く真理の泉に飲み、近く宇宙の琴線と触れて、我儕軽佻たらんと欲するも能はざるなり、批評家たり不平家たるは其人の浅薄なる確証なり。
 
(220)    公然の秘密
 
 我等普通の邦文を以て基督の福音を説く、而かも之を解し得る者は邦人にして仏文又は独逸文を解し得る者よりも多からず、我儕の説くキリストは多くは釈迦又は孔子の更らに大なる者として解せられ、我儕の論ずる正義は山陽 東湖の論ぜしものゝ稍や少しく高尚なるものとして解せらる、世はキリストを知らず、故にキリストの福音を解するに方ても世の標準を以てしてクリスチャンの立場より為さず、茲に於てか我儕は知る、我儕は隠語を語る者なることを、我等の使用する言語は簡易なり、然れども我等の語る事実は秘密なり、我等の簡易なる文章に籠る事実を悟り得る者は我等と偕にキリストの赦罪の恩恵に与かりし少数者のみ。
 
    不信者
 
 世に不信者なる者あり、彼は神と自己とを知らざる者なり、彼は神を知らず、故に彼に悲憤ありて希望なし、彼は自己を知らず、故に自から高ぶりて浄き者と做す、高ぶりて平かなる能はず、たゞ他を害ふを以て快となす、不信者の特徴は不平と傲慢となり、而うして彼は社会到る処にあり、亦基督教会内に充満す。
 
    洗礼の迷信
 
 水の洗礼を受けよ、然らば聖霊汝の上に降りて汝は救はれんと教ゆる宣教師多し、然れども看よ、水の洗礼を受けし者にしてキリストの聖名を涜して世に降る者続々あるを、水の洗礼は人を救はず、神の霊のみ能く之を為(221)すを得るなり、余は水の洗礼を受けずして救はれし人の多くを視たり、亦之を受けて未だ救拯に入らざる人の多くを看たり、斯くて余の実験と常識と余の心に寓り給ふ神の霊とは余に告げて曰ふ「水の洗礼を以て救拯の必要条件となすは迷信なり」と。
 
    一致の困難
 
 若し日本今日の基督信徒にして一致せん乎、天下何者も之に当り得る者あるなし、然れども教派分裂の弊を極むる欧米諸国の宣教師に由て道を伝へられし我国今日の基督信徒の一致は熊と獅子との一致よりも難し、若し幸にして神の霊強く我儕の中に動らき、我儕固有の情性を聖化し、我儕をして基督を思ふが如くに我儕の国を思はしめ、外に頼るの愚と耻と罪とを覚らしめ給はゞ、一致は芙蓉の巓に臨み、琵琶の湖面に降りて、東洋の天地に心霊的一生面の開かることもあらん、然れども其時の到るまでは我儕は今日の分裂孤立に満足せざるべからず、是れ或は我儕が人に頼ることなくして神にのみ頼ることを学ばんがための神の聖旨ならん、我儕は慎んで一致の到来を俟たん、神よ、願くは其日を早め給へ。
 
(222)     家庭の建設
                  明治36年4月23日−6月11日
                  『聖書之研究』38−41号「家庭」
                  署名 くぬぎ生
 
     家庭の意義
 
 世に欲しきものとて幸福なる家庭の如きはありません、是れは地上の楽園であります、是のない者は此世に在て既に地獄に在る者であります、此世は工場であります、競争場であります、戦場であります、爾うして家庭のない者は戦場に在て休息所を有たない者であります、たゞ戦つてばかり居て休む事を知らない者であります、ホ−ムの大切なるは斯世の何たる乎が能く判つて然る後に始めて能く知ることが出来るものであります。
 家庭とは勿論家屋のことではありません、勿論家庭を作るには家屋は必要であります、然しながら家屋があればそれで家庭が出来たとは言はれません、家屋は物でありまして家庭は精神であります、此事を知る事が家庭を作る上に最も必要であります。
 家庭はまた家族ではありません、勿論家庭は家族と共に作るものであります、然しながら家族の有る処には必ず家庭は有るとは言はれません、家族は肉体でありまして、家庭は霊魂であります、此事をも能く心に弁へないで真個の家庭を作る事は出来ません。
(223) 家屋があつても家庭はない、家族があつても家庭はないと言ひましたならば、多くの人々は家庭の何たる乎を知るに甚だ困りませう、其故は世に謂ふ多くの家庭なるものは実は家庭ではなくして、家屋又は家族に過ぎないからであります、
 世間一般に「我が家」と云へば、我の寝る所、我の食ふ所、即ち宿賃を払はずして寐食《しんしよく》の出来る旅店《はたごや》であるかのやうに思はれて居ます、又「我の家族」と云へば我が娶りし妻と我が生みし子を称ふものゝやうに思はれて居ます、爾うして若し西洋に幸福なる家庭の有るのを耳にしますれば、是れ此家屋の華麗にして、此家族の安楽なるものであるやうに思はれて居ます、然しながら是れ家庭の何たる乎を判らないより起る想像であります、先づ家庭の何たる乎を究めないで其建設を計るも無益であります。
 抑々ホームなるものは世界何れの国にもあるものではありません、是れは支那や朝鮮や其他東洋諸邦にあるものではありません、亦ホームなるものは世界何れの時代にもあつたものではありません、西洋諸邦に於ても、ローマ時代や、ギリシヤ時代に在てはホームなるものは未だ有りませんでした、私は断言して白します、ホームなるものは基督教の顕出を俟つて始めて此世に顕はれた者であります、亦今日に至るも基督教の行き渉らない国にはホームなる者はありません、ホームは確かに基督教の特産物であります、印度の仏教や支那の儒教を以てしては到底家庭なるものは出来ません、爾うしてそれには深い深い理由が在るのであります。
 前にも申しました通り家庭は精神であつて、物ではありません、霊魂であつて肉体ではありません、之れは精神の和合に由て成るものであります、爾うして精神の和合は霊魂の同感より来るものであります、支那の忠孝道徳が家庭を作ることの出来ないのは、之に霊魂を活かし、之を改造《つくりかへ》るの力がないからであります、親の命を以て(224)孝を其子に強うる所に幸福なる家庭はありません、自由のない所には道徳はないと申しますが、自由なる愛のない所に幸福なる家庭はありません、愛は発動的のものでありまして、之は外から打込むことの出来るものでなく、又命令を以て引き出すことの出来るものではありません、故に忠孝道徳の作つた家庭は(若し之を家庭と称する事が出来るならば)礼儀的、即ち機械的であります、是れは無理に作つた家庭であります、其家族なるものは戦々競々薄氷を践むが如きの感を以て偏に恭謙己を持せんとする者であります、爾うして斯かる窮屈なる家庭を以て世の戦場の中に建てられたる休息所と見做す事は出来ません。
 家庭とは神より愛を受けた者が其愛を相互に交換する所であります、是は其れ故に教会(真個の)の一種であります、たゞ家庭に在ては愛が小数者の間に限られるのと、霊魂の愛に加ふるに肉体の天然自然の愛を以てするの差違があるまでゞあります、教会を縮めたものが家庭でありまして、是を拡げたものが国家であります、家庭は国家の基本であると云ひまするのは是れは国家の単位である、亦縮画であり、亦小模範であるからであります。
 話が少し六ケ敷くなりましたが、然し此事を能くお判りになりませんければ後の話を為る事は出来ません。 〔以上、4・23〕
 
     労働の快楽
 
 家庭建設の第一の要素は職業と之に伴ふ労働とであります、職業は何にも衣食の料を得るためにばかり必要なるのではありません、職業は人生に味を附けるために最も必要であるのであります、職業のない所には希望も歓喜も平和もありません、無職の人は無味の人でありまして、彼は人生の臭味を知らない人であります、如何程金(225)があり、如何程位が高くとも日毎の労働を為さない者は人生最上の快楽を感じ得ない人でありまして、斯かる人に由て幸福なる家庭の組織されやう筈は迚ありません。
 然るに神をもキリストをも知らない人達は此事に就ては全く誤つて居ります、彼等は労働は苦労であると思ひ、楽をする事が人生最大の幸福であると思ふて居ます、故に親に孝行と云へば親に労働させずに楽をさせる事であると思ひ、妻を愛すると云へば下婢を多く使つて妻の労働を省き彼女に多く楽をさせることであると思つて居ます、然しながら之は最も大なる間違であります、労働は決して苦労ではありません、労働は快楽の最も大なるものであります、神の事業をなすことであります、世界の富を増すことであります、(仮令一銭なりとも)、我に従属する者を養ふことであります、斯んな楽しい喜ばしい事は外にはない筈であります、然るに此快楽を与へずして他に飲酒の快楽であるとか、観劇の快楽であるとか、懶惰の快楽であるとか、何んの益にもならぬ快楽を供するを以て是れが孝であり、愛であると云ふのであります、世に誤謬は沢山にありますが労働に関する誤謬の如くに大なるものはありません。
 労働は憂苦を忘れさせます、労働に依て貧者は貧の憂苦を忘れ、老人は老の憂苦を忘れるのであります、然るに此最大の忘憂剤を有たない者は他に憂苦を打消すの途を有たない者でありますから、何んでも自分の不平の原因を他に嫁さうと致します、私の考へまするには東洋流の家庭に不愉快の多いのは全く此労働に関する間違つたる思想に因るのであると思ひます、働くことが苦しい事であると思ひ、損んであると思ひ、其結果成るべく労働を避けやうとするものでありますから、家計は不足を告げる、一人が多人数の厄介を担はなければならなくなる、働かない者は働く者に向て不平を述べる、働く者は怒る、彼さへも働くのが厭になる、それから言ふに言はれな(226)い苦しい事が沢山起つて来るのであります、之に反して労働は最大の快楽であると知りますれば、家内の者は争つて働くやうになる、労働は労働を生む、家計は求めないでも豊かになる、幸福は幸福の上に重なる、誰も不平を言ふ者はなくなる、讃美歌は絶へない、夜が来れば労働の疲労に感謝して眠に就くと云ふ次第……労働は実に平和の天使であります、一致の女神であります、大なる説教であります、宝の山であります、是れがなくして金も錦も学も才も決して幸福なる家庭を作ることは出来ません。
 総て幸福なる人とは死ぬまで働いた人であります、世に楽隠居と云つて、労働を廃した楽な人が有ると云ひまするが、然しそんな人は決して有りやう筈はありません、隠居其物が既に苦痛であります、日が出ても労働の希望がなく、日が入つても労働の収得なく、只目的なしに日を送る位ゐそんな辛い事はありません、労働は人世の塩であり、胡椒であり、芥でありまして、是れなくしては人生は淡味で迚ても堪えられるものではありません、私共はそれ故に死ぬまで働くやうに神に祈らなければなりません、亦働くことの出来るのを神より賜ふた最大幸福であると信じ、朝より晩まで歓んで、笑つて、感謝して、神の賜ふた労働に従事すべきであると思ひます。 〔以上、5・14〕
 
     高尚なる目的
 
 家庭建設第二の要素は高尚なる目的であります、是れがなくては如何に好き職業があつても、如何に多く金があつても、其他家内息災で何一つとして不足なものがなくても、幸福なる家庭を作ることは到底出来ません、家庭は家庭のために作ることの出来る者ではありません、丁度美術のための美術なく、学術のための学術のないや(227)うに、家庭のための家庭なるものはありません、若し幸福なる家庭意外に何にも目的がなく、只好き家庭欲しさに家庭を作らんと欲する人がありまするならば其人の希望は全く画餅に属します。
 言ふまでもなく家庭も亦神の恩賜の一つであります、之れは作らんと欲して作ることの出来るものではありません、之は私共が善を為さんと努むる時に自然と出来るものであります、良き家庭があつて良き行働《はたらき》があるのではありません、良き行働があつて良き家庭があるのであります、快楽をのみ要求むる者が集合《よりあ》つて好き家庭の出来やう筈は決してありません、真正なる幸福は犠牲に在ります、犠牲のない所には幸福はありません、爾うして犠牲の精神を起すものは高尚なる人生の目的であります。
 何故に昔時《むかし》の武士の家庭は比較的に清潔で且つ幸福でありましたか、言ふまでもなく武士には利益以上、快楽以上の目的があつたからであります、生命を自己のものでないと思ひ、何時でも之を君の為めに献げんとの心掛があつたからであります、それがために利慾の念は自づと減がれ、節倹は努めずして行はれ、貧するも卑しからず、家内礼あり、隣人信義ありと云ふ状態であつたのであります、今の人は主義は富を致すの妨害であると云ひまするが、主義のない所に幸福なる家庭はありません。
 高尚なる人生の目的は利慾の念を減殺するものであります、之れあるが故に家族の者は孰れも寡慾になります、それがために僅少の収入を以てしても家族に大満足を与へることが出来るやうになります、世俗の人の家にあるやうな女子が美服を強請るとか、男子が遊蕩に耽けるとか云ふことは斯かる家には滅多にありません、夫の高尚なる精神は妻に感染し、子も亦親の思想を受けまして、一家自づから神の聖殿のやうな所となります、そうして斯くなりてこそ真正の心よりする平和もあり、一致もあるのでありまして、其精神上の幸福たるや金銀積んで山(228)を為しても到底得ることの出来ないものであります。
 家内に平和を欠くの最も大なる原因は家族|相互《あいたがい》の間に尊敬の念がないことであります、若し父なる者は利益一方の商売に従事して居ると致しますれば、縦令子たりと雖も斯かる父に対つて真正の心よりする尊敬の念を抱くことは出来ません、敬することの出来ない夫に向つて妻は貞節を尽すことは出来ません、尊敬を以て繋がれない愛は虚偽の愛であります、そうして高尚なる目的のみが此尊敬の念を喚起すものであります、西洋の諺に Familiarity begets contempt と云ふ事があります、即ち「狎々しきは軽蔑の念を生ず」と云ふ事であります、そうして高尚なる目的の無い所には愛は狎々しき親密に流れ終には輕蔑の念を生ずるに至ります。
 幸福なる家庭、是れ今日何人も欲しがる者であります、然しながら之れは地位あり、名望あり、金銭あり、学識あり、才能あり、音楽ありて得らるゝものではありません、之は実に神と人類とのために自己《おのれ》を忘れて始めて天より授けらるゝものであります、家庭を以て世に謂ふ所の愉快なる所と見做すのは大なる間違であります、家庭は愉快なるべき所でありません、神聖なるべき所であります、そうして神聖なるを得て始めて真個に愉快なるを得るのであります、 〔以上、5・28〕
 
     自由の承認
 
 家庭建設の第三の要素は自由であります、自由とは勿論気儘勝手の事ではありません、自由は神が各々に賜ふた職責を何の妨害を受けずして尽すことであります、此職責を完成うするのが各人の天職でありまして、各人に於て此天職を認め、之を専重し、其成功を扶けるのが其人の自由を重んずることで亦其人に対する私共の大なる(229)義務であります、然るを家族は其家の主人の属であるやうに思ひ、妻も子も悉く主人の勝手に成るべき者であるやうに考へ、子に強ふるに其好まざる学問と職業とを以てし、妻に図らずして家の万事を決するやうでありましては、家庭は一個の圧制国となりまして其中に自由の伸張と称すべきものはありません、其結果終に親子の愛は失せ、夫妻の情は薄らぎ、家庭は其根底より破壊するに至ります。
 言ふ迄もなく人は何人も人の属ではありません、人は何人も直接に神の属であります、「夫れ凡ての霊魂は我に属す、父の霊魂も子の霊魂も我に属するなり」と神は曰ひ給ひました(以西結書十八章四節)、私共に私共の子なるものはありません、私共に任かされたる子があるのみであります、彼が何に成らうが何を為すべきであらふが、私共の与かり知る所ではありません、たゞ私共は彼の保護者でありまするから慎んで神の彼に関する聖旨を探り、彼をして其聖旨に遵はしむるやう努むるのみであります、妻に於ても爾うであります、下女、下男に於ても爾うであります、私共は彼等より適当の服従は要求致しまするが、然し自由の人としての服従を要求するのでありまして、奴隷としての服従を要求致しません。
 「衆ての人を敬へ」とは又聖書の教訓(ペテロ前書二の十七)であります、父と母と君とばかりではありません、衆の人を敬へとの事であります、子や妻は勿論、如何に卑しい人でも人は人として、神の像に象つて造られし者として敬はなければなりません、其尊敬がありて始めて家庭も国家も神聖なるものとなるのであります、其尊敬がありて、婦女子を快楽の要に供し、畜妾の醜行に出づるが如きことは何うしても出来ません、其尊敬がありて、自己は無為の遊楽に居つて他をして自己を養はしむるが如きことは何うしても出来ません、其尊敬があつて子を罵り、妻を使役し、以て自己のみを惟我独尊《ゐがどくそん》の地位に置くことは出来ません、東洋道徳が忠孝を唱へて、子と臣《けらい》(230)とをして親と君とを敬まはしめて、親と君とをして子と臣とを敬はしめなかつたのか、是れが抑々東洋にホームなる者がなく又何れの大家にも必ず御家騒動なるものがある主なる理由であります、忠孝道徳は素々不具道徳であります、是れが為めに大害を被る者は下に立つ子と臣とばかりではありません、上に立つ親も君も此不具道徳より大損害を蒙る者であります、愛は屈従ではありません、自由のない所には愛なるものはありません、私共は止むを得ず服従する乎も知れません、然しながら止むを得ずして愛することは出来ません、爾うして人の最も要むるものは愛でありまするが、東洋流の道徳を以てしては愛なるものは起りません、其結果君も親も家来や子供を充分に信ずる事が出来なくなり、上に立てば立つほど寂漠の念を感じ、十人の男子を持ても何やらまだ不安心を感じ、名臣堂に満ちても不安措く能はずと云ふ有様であります、自由と気儘とを混同し、若し自由を供したならば君を蔑にし親を軽んずるに至ると思ひ、妄りに君権、親権を張らんとするのは愚の極であります、是れは神の聖旨に戻り、人生の根義に逆らひ、不幸を国と家とに招く根原であります。
 罪の大なるものとて人の霊魂を殺すが如き罪はありません、爾うして霊魂の生命とは其自由であります、故に人の自由を奪ふ者は其人の霊魂を殺す者であります、我が安楽を計らんがために人の自由を奪ふ者は其人の霊魂を殺すものであります、縦令其人が子であらふが、家来であらうが、神の眼の前には少しも変りません、爾うして自由圧抑の罰は愛心の消滅であります、是れは天罰の最も重い者であります、爾うして愛心が失せて家庭も天国も無いものとなります、努むべきは人の自由の承認であります。 〔以上、6・11〕
 
(231)     三条の金線
         (聖書の特質)
                      明治36年4月23日
                      『聖書之研究』38号「講演」                          署名 内村鑑三
 
 三条《みすじ》の金の線《いと》が聖書を其始めより終りまで貰いて居ります、それは信と望と愛とであります、此三条の線に由て旧約三十九巻と新約二十七巻とは一つに繋がれて居るのであります。
 之を極く簡潔に述べたものがコリント前書十三章の十三節であります、それ信仰と望と愛と此三つの者は常に在るなりと書いてあります、之を称して基督教の三徳と申します、此三つの者は美徳の姉妹でありまして其孰れが他に優れて最も麗はしい乎は誰にも見分くることは出来ません。
 然し三姉妹を一所に述べたものは聖書の此一節に限りません、斯く明白には述べて居りませんでも、聖書の何処を開いて見ましても此三人の美はしき姉妹の面影を留めて居らない所はありません、試にコロサイ書一章三節以下を少し読んで御覧なさい、
 我靜、爾曹がキリストイエスを信ずる事と諸ての聖徒を愛する事とを聞て爾曹のために祈る時…………爾曹が斯く聖徒を愛するは爾曹のために天に蓄へある所のもの、即ち曩に福音の真理の道《ことば》の中にて聞きし所のものを望むが故なり、
(232)  信は望を生み、望は愛を生ずとは此数節に於て示されたる信仰的生涯の順序であります、又テモテ後書四章七節を以て始まる有名なるパウロ最後の言辞を読んで御覧なさい、
  我れ既に善き戦を戦ひ、………既に信仰の道を守れり、今より後義の冕我が為に備へあり………独《たゞ》我れに予ふるのみならず凡て彼の顕著《あらはるゝこと》を慕ふ者にも予ふべし。
 此場合に於ては望は「義の冕」を以て代表され、愛は慕ふなる言辞の中に含まれて居ます(英訳聖書にては Love なる文字が使はれて居ます)、
 斯のやうに聖書何処に到るも我々は信、望、愛の三姉妹に出会ひます、聖書は彼女等が棲息《すまつ》て居る家屋と称ふても可い程でありまして、彼女等が其温雅を加へず、優美を供へない所は聖書でないと云ふても可からふと思ひます。
 今少しく聖書全躰に渉りて彼女等の跡を究めませう。
 創世記の始めにあるアダムとエバの話は其の歴史的なるか想像的なる乎は全く別問題と致しまして、之は確かに信仰試練の話でありし事丈けは明かであります、蛇が婦に向て「汝此樹の果実を食ふも必ず死ぬる事あらじ」と言ひましたのは確に彼女の信仰を試みたのであります、今日の多くの批評家は聖書の人類堕落に関する此記事を評して、是れ神たる者の決して為すべからざる事であると申します、何故となれば、人類の始祖が神の禁じた樹の果実を食ふた位ひの罪のために、其子孫代々までを楽園逐放の罰に処したのは実に苛酷極まる刑罰であつて、斯かる残忍無慈悲の神は到底我等の戴くことの出来る神ではないと云ひます、然しながら是れ始祖等が犯したる罪の種類を能く了解しないより起る神に対しての不平であります、アダムとエバとは自己の智憲に頼つて神の言(233)を信じなかつたのであります、爾うして其不信の結果が楽園逐放となつたのであります、事は甚だ小でありました、然し其小事の背後《うしろ》には重大なる罪の源因が潜んで居りました、即ち彼等は神の命に背いて神を疑ひ、神を離れたのであります、爾うして人生の諸ての悲痛なるものは皆な人が神より離れしより来たものであることは充分に証明することの出来ることであります。
 信が人の心より失せて彼等は楽園より逐ひ払はれました、然し信の去りし後に愛と望とは入り来りました、人類は未だ全く失望すべきではありません、義罰の神は亦恩恵の神であります、神は人類を罰し給ふと同時に救済の途を約束し給ひました、
  ヱホバ神、蛇に言ひ給ひけるは汝、是を為したるに因りて汝は諸々の家畜と野の諸々の獣よりも勝りて詛はる………又我汝と婦の間、及び汝の苗裔と婦の苗裔の間に怨恨《うらみ》を置かん、彼は汝の頭を砕き汝は彼の踵《きびす》を砕かん(創世記三の十四、十五)、
 茲に確かに新たらしき希望は人類に供へられました、蛇の踵が砕かるゝ時の到来が約束されました、楽園は永久に人類に対して其門戸を閉すものではありません、信の去りし後に、愛に由て送られし望が入り来りまして、茲に失楽園の活劇が段落を終へました。
 次に亦アブラハムに関する記事に就て稽へて御覧なさい、是れ又徹頭徹尾信、望、愛の生涯に就ての記事であります、信は彼が神の約束を信じ、奮て彼の故郷を去り、子なくして天下に流浪するも曾て一回の神の約束に就て疑義を懐きし事のないのに於て顧はれて居ます、望は彼が家なき時に国土の彼に与へられんことを望み、子なき時に浜の真砂にも勝るほどの子孫の彼の腰より出んことを望みし事に於て顕はれて居ります、勿論旧約時代の(234)彼のことでありますれば、新約聖書に於て示されてあるやうな愛は左程明白に彼に於て顕はれて居りません、然しながら神の愛は彼の全生涯に於て顕はれ、是れは彼自身の定めた生涯ではなくして、神に由て企てられ、神に由て行はれた生涯でありました、又彼が全く平和を好む人であり、其庶子イシマエルに対して涙脆く、其嗣子イサクに対して柔和なりしことは後世の人をしてアブラハムを「信仰の父」と称ばしめしのみならず、亦彼に於て父なる神の代表者を認めしめました、信仰堅く、希望に充ち、慈愛に富みし人とは神の義人アブラハムの事でありました、信、望、愛、を鍵とするにあらざればアブラハムの生涯を解くことは到底出来ません。
 然し前にも述べました通り旧約聖書は信の特別の領分であります、信の一事を教へ込まれんが為に撰民二千年間の歴史が演ぜられたのであります、ユダ人の英雄とは皆な信仰的の英雄でありました、剣を以て強き者ではなく、智を以て優れた者でもなく、信仰に於て強い者が旧約時代の英雄でありました、ヨシアであるとか、サムソンであるとか、ヱフテであるとか、ギデオンであるとか云ふ人は、レオニダスであるとか、エパミノンダスであるとか云ふ人とは全く別種の英雄でありまして、彼等の英雄たるは単に彼等が神を信じたからであります、ヨシユアがヱリコの城市《まち》を略取したのは兵力に依てゞはなくして信仰に依てゞあります、サムソンは通常は極く無気地のない男でありましたが、彼の頭の毛が生えると同時に彼の信仰が彼に還り来りました時には彼は非常の怪力を出すに至りました、ギデオンは神を信ずる僅かの兵を以てミデアン人の大軍を破りました、約書亜記、土師記等に書いてあるユダ人の英雄は一人も残らず総て此種の英雄でありました、此一事を心に留めないで聖書の此部分は少しも解りません。
 今若し聖書がドレ程までに信仰に重きを置く乎を知らふと欲へばヤコブとダビデとの生涯を研究して見るに若(235)くはありません、先づヤコブの事から申しますならば、彼が何故に神の特別の恩恵に与かつたか、それを知るのは普通の眼識を以てしては頗る困難であります、彼に勇気のあるでなく、又紳士の情性として今日世に貴ばるゝ正直真率なる所も彼にはありませんでした、彼は一度びは彼の兄エサウを欺いて其相続権を奪ひました、彼は又奸策を施して、彼の叔父を騙り、其羊を窃取しました、彼は婦人に対する情に於て脆くして、困難に際しては至て臆病でありました、私共は聖書に記されたる彼に関する記事を読んで其中に一つとして彼を頌讃するに足るの事跡を発見することが出来ません、爾うして彼と相対して彼に欺かれし彼の兄エサウを見まするに彼は至て正直者でありまして、木羈独立の性に富み、独り自から産を作して至て潔白なる生涯を送つた者であります、然るに聖書は此二人の兄弟に就て何んと言つて居りますか、「我(神)はヤコブを愛し、エサウを悪めり」と書いてあります(ロマ書九の十三)、是は抑々如何いふ理由でありますか、ヤコプに何の択ぶ所があつて神は彼を愛し給ひましたか、エサウに何の排すべき所があつて神は彼を悪み給ひました乎、是れ普通の倫理学から評しますれば之を解するに甚だ困難なる問題であります、然しながら聖書は繰返して申します、神の約束はヤコブに降てエサウには降らなかつたと、神の択民と称ばれしユダ民族は此憶病漢、此詐欺師、此柔弱漢の子孫でありました、爾うして万民の救主なるイヱスは終に彼の家に生れました、ヤコプは何が故に斯くも神に愛せられましたか。
 此問ひに対して聖書が答ふる所は唯一つであります、即ち彼に凡ての欠点、凡ての失敗、凡ての汚点ありしにも関はらず、ヤコブは神を追ひ求め、神に鎚らんとし、神を信ぜんとしたとの事であります、実にヤコプの信仰は彼の多くの罪を掩ひました、彼は実に信仰に由て義とせられた者でありまして、信仰なくしては彼は何の取り所もない人間でありました、彼は即ち詩人が歌ひし「その愆を赦され、その罪を掩はれし者は福ひな」(詩篇三十(236)二の一)る者でありました、爾うしで彼に神に依り頼むの心がありました故に彼は此福祉に与かつたのであります。
 之に反してエサウは世の所謂る義人でありました、即ち自己を義とする者でありました、彼は自から心に一点の疾しき所なしと云ひて誇り、神に依り頼まずとも自から義人たり得べしと信じました、故に彼の行為に於ては大に称讃すべき所がありました、然しながら彼は其心の奥底に於て高慢の人でありました、爾うして何よりも謙りたる砕けたる心を愛し給ふ神は「義人」エサウよりも罪人ヤコブを愛し給ひました、ヱサウは即ち斯世の義人でありまして、ヤコブは神の義人でありました、即ち神に由て義とせられた義人でありました。
 信仰の特功を更らに著しく顕はして居るものはダビデの生涯であります、若し世に瑕瑾の多い生涯があると致しますれば、それは此ダビデの生涯であります、俗語を以て申しますれば彼の生涯は失錯だらけの生涯でありました、彼はナバルなる者を威嚇し、己に多くの物を貢がしめ、且つ其死せる後には其妻アビガルを娶て己の妻となしました、殊に彼がヘテ人ウリヤになしたる罪は天人共に赦すべからざるものでありまして、其妻を姦し、罪悪の露顕を怕れて其夫を殺せしとの一事に至ては縦令事の未開時代に属するとは云へ、到底容赦することの出来ない大罪悪であります、単に彼の行為より評しますれば彼は東方の一暴主たるに過ぎませんでした。
 然るに聖書は此姦婬せし者、人を殺せし者、信を破りし者に就て何んと言ひて居りますか、「我が(神の)心に合《かな》ふ牧者」、「ダビデに約せし変らざる恵」「彼(イエス)は肉体に由ればダビデの裔より生れ」、其他聖書はダビデに関する称讃の辞に充ち満ちて居ります、是は抑々何の理由に依るのですか、ダビデに何の潔き所、何の貴き所がありて、彼はユダ国の理想の王として仰がれ、キリストの先駆者として貴ばるゝのでありまするか、是れ最も解(237)し難い事でありまして、ダビデの名に耳慣れたキリスト信者を除くの外は此王に向て何の尊敬をも表する者のないのは、尤千万の事と思はれます。
 然しながら聖書の標準から評しますれば、ダビデもヤコプと同じやうに神に特別に恵まるゝの特性を有つた者であります、彼も亦信仰の人でありました、彼は罪を犯したと同時に強く罪を悔ひた人であります、「我は我が愆を知る、我が罪は常に我が前にあり」、「汝ヒソプをもて我を清め給へ、さらば我れ浄まらん、我を洗ひ給へ、さらば我れ雪よりも白からん」、又彼が神を追求むる心は実に切なる者でありました、「※[鹿/匕]《めじか》の渓水《たにがは》を慕ひ喘ぐが如く、我が霊魂も汝を慕ひ喘ぐなる」、斯くてダビデも亦ヤコブの如くに徹頭徹尾信仰の人でありました、彼も亦神なくしては存在することの出来ない人でありました、故に神は彼の信仰のために彼の愆を赦し、彼を愛して、彼に栄光の王位を賜ふたのであります、ダビデより彼の信仰を取除いて彼の生涯は無意義のものとなり、彼も亦歴史に彼の名を留むる何の権利をも有たない者となります。
 信仰なる者が実に凡ての罪悪を打消すほどの美徳なるや否やは別問題と致しまして、聖書が信仰に非常に重きを置き、之を以て人生と歴史とを解釈せんとなしつゝある事丈けは明かであります、若し信仰は左程貴きものではない、循て普通道徳を軽んじて信仰に斯かる重きを置く聖書は返て徳義を害する者であると云ふ人がありまするならば、それは夫れまでゞあります、然し聖書は信仰を徳の絶頂にまで引上げて決して矛盾的行為に出ては居りません、聖書は一には信仰の書でありまして、信仰のない者は聖書が救はんとする人ではありません。
 「汝の信仰汝を癒せり」「人の義とせらるゝは信仰に由りて律法《おきて》の行に由らず」、「今われ肉体に在りて生けるは我を愛して我が為に己を捨てし者、即ち神の子を信ずるに由りて生けるなり」、「神の誠とイエスを信ずる信仰を(238)保つ聖徒の忍耐茲に在り」斯のやうに創世記の始めより四福音書と使徒の書翰とを経て黙視録の終りに至るまで、信仰の金線は全聖書を一貫し、聖書の一主義を奉ずるの書であることを示し、其自家撞着の書でない事を証明して居ります。
 今信の姉妹なる望に就て言ふも同じ事が言はれます、望は信の欠を補ひ、其弱きを扶け、其消えなんとする生命を引留めて居ます、信が「汝の神エホバは※[火+毀]き尽す火、嫉妬の神なり」と云ひますれば、望は「汝の神ヱホバは慈悲《ああれみ》ある神なれば汝を棄てず汝を滅さず」と応へます、(申命記八章二四と三一節)アブラハムは善き国と正子とを望みつゝ其生踵を送りました、モーゼは乳と蜜との流がるゝ善き広き地を望みて終に之に入る能はずしてヨルダンの此方に於て失せました、予言者は皆なメシヤの王国を望みながら其栄光に就て歌ひ、其到来を待ち望みながら之を見ること能はずして死にました、使徒はキリストの再来を期し、遙かに新たらしきヱルサレムの備へ整ひて神の所を出て天より降るを望み見て之に達し得ずして此世を去りました、聖書は信仰の書であると同時に亦充たされぬ希望の書であります、「然れど望を見ば亦望なし」でありまして、其充たされぬ所が希望の永久に存する所であります、聖書に通達して失望の人と成る筈はありません、聖書は無限の希望を人に供する書であります、未来を望ませ、開発を望ませ、不死不朽を望ませ、宇宙の改造を望ませるのが聖書の聖書たる所以であります、古い聖書が時勢の進歩と共に少しも其青春の新鮮なる所を失はない理由は全く之を始終一貫する其尽きざる希望に因るのであると思ひます。
 聖書が愛の書であることは余りに多く説かるゝことでありまするから、私は茲に長く述べません、正義と云ひ、厳罰と云ひ、共に是れ愛の表顕であることは私が茲に云ふまでもありません、但茲に聖書を一貫する愛は如何な(239)る愛であるか、其事に就て一言して置かなければなりません。
 聖書の示す愛は世の人の謂ふ愛ではありません、即ち人が人に対して有つ愛ではありません、又人が神に対して有つ愛でもありません、聖書の示す愛は神が人に向つて有ち給ふ愛であります、是れが聖書の記す愛が他の愛と全く異なる点であります。
  ヱホバ言ひ給はく………我は恵まんと欲す者を恵み、憐まんと欲する者を憐むなりと(出埃及記三三の一九)。
  ヱホバの汝等を愛し、汝等を択び給ひしは汝等が万づの民よりも数多かりしに因るに非ず、………但エホバ汝等を愛するに因り………強き手をもて汝等を導き出し、汝等を其奴隷たりし家より贖ひ出し給へり(申命記七の七、八)。
  我儕神を愛するは彼先づ我儕を愛するに因れり
 其他愛に関する聖書の記事は数限りはありません、只其愛たる今日の世人の称するヒユーマニタリアン的でない事、其全然神来の愛でありまして、是は神より進んで我儕に与へ給ふにあらざれば、我儕より望んでも努めても得ることの出来ない愛である事丈けは最も明かであります、
  キリストは我儕の尚ほ罪人たる時我儕のために死たまへり、神は之によりて其愛を彰はし給ふ(ロマ書五の八)、
 是れが聖書の彰はす愛でありまして、此愛の彰はれて居る所に私共は必ず聖書の真理が彰はれて居るのを知るのであります、予定の教義と云へば甚だ六ケ敷い事のやうに見えますが、然し是れは神の自由なる愛の適用にしか過ぎません、聖書の示す愛の何たる乎を知て予定説は遅くべからざる結論であります。
(240) 斯くて聖書は世の倫理学者の目から視た時には甚だ奇態なる書であります、是れは諸々の徳の上に信仰を称揚し、現在に眼を留めしめずして、之を遠き未来の上に注がしめ、而かして愛を説くに至ても人の愛を説かずして神の愛を説きます、世の人が聖書に就て躓くのは決して無理ではありません、亦所謂る人道の主道者が聖書を人道の経典と見做さんと欲して大なる困難を感ずるのも全く茲にあるのであります、然し更らに奇態なることは此非倫理的に見ゆる聖書が最も高遠なる倫理を生むものでありまして、亦此人道に逆ふが如くに見ゆる聖書が人道唯一の基であることであります、今日までの人類の経験に依りますれば聖書に依らない倫理と人道とは極く薄弱なる倫理と人道とでありまして、斯かる倫理と人道とは遠からずして実利主義の便宜道徳と化し、其極、道徳は私慾の別名たるに至ります。私共が聖書を精究するの必要は此辺の奥義に深く達せんがためであります。
 
(241)     〔花を見て感あり 他〕
                      明治36年5月14日
                      『聖書之研究』39号「所感」                          署名なし
 
    花を見て感あり
 
 花に歓喜あり、亦悲哀あり、其艶麗なるや歓ぶべし、其片時的なるや悲むべし、夢幻に等しき斯の世に在ては美其物に悲哀の色あり、然れども主の道は窮りなく存つなり(彼得前書二の廿五)。
 
    キリストと武士
 
 人類の理想はキリストである、日本人の理想は武士である、而して武士が其魂を失はずして直にキリストを信ぜし者が余輩の理想である、キリストを信ぜざる武士は野蛮人である、町人根性を去らずしてキリストを信ぜし者は偽の信者である、而かも得難きは此武士的の基督信者である。
 
    殖財の福音
 
 我は独り富まんと欲《おも》はない、我は全国民と偕に富まんと欲ふ、然り、全人類と共に富まんと欲ふ、他人の富を(242)取て我が所有《もの》となすともそれは富貴ではない、他国の富を奪て我が国の所有となすともそれは富国ではない、新たに富を作つて之を人類の用に供して我は始めて富むのである、我は信ず、是れが富の増殖に関するキリストの心であることを。
 
    神の事業
 
 人の補助を仰ぐにあらざれば成立たない事業は神の命じ給ふた事業ではない、人に少しも頼ることなくして、神にのみ頼つて為すことの出来る事業のみが神の命じ給ふた事業である、斯かる事業に従事するを得て我等は始めて独立の人と成るのである、それまでは我等は乞丐《こつじき》である、奴隷である、浮虚と耻辱とを収獲《かりと》りつゝある者である。
 
    我の大敵
 
 我を神の如くに敬する者、予言者の如くに貴ぶ者は終に我に叛き、我が面に唾し、我を我が敵人に付《わ》たし、我を十字架に釘ける者である、世に忌むべき、憎むべき、卑むべき、避くべき者の中に崇拝家の如きはない、彼の面にはイスカリオテのユダの相がある、彼が我に近づく毎に我は戦慄する、其時我は独り心の中に祈つて云ふ「神よ願くは我を我が崇拝家の手より救ひ給へ」と。
 
    『気焔』
 
 今の人は頻りに気焔なるものを要求す、然れども気焔は毒気なり、之を吐く者を毒し、之を受くる者を毒す、(243)吾人は寧ろ神の真理を語るべきなり、神の真埋は清爽にして健全なり、之を語る者も益せられ、之を聴くものも益せらる、我儕は不平の小火山となりて妖氛を吐いて同胞と社会とを毒すべからざるなり。
 
    我の大希望
 
 我は罪を犯すものである、神のみが聖き者である、我が我である間は我は何時までも罪を犯すであらふ、然し神が我となり給ふ時には我は全く罪を犯さないやうに成るのであらふ、爾うして我は信じて疑はない、我の心の中に善き工《わざ》を始め給ひし神は主イエスキリストの日に於て之を完うし給ふことを(ピリピ書一の六)。
 
    歓楽の極
 
 キリストが我が心の中に寓り給ふて、感謝が我の生命となる時に、我の為し得ない善とては一つも無くなる、我は其時如何なる敵の如何なる愆をも自由に赦すことが出来る、如何なる辛苦にも堪ゆるこ上が出来る、如何なる犠牲をも為すことが出来る、其時我は善の勇者であり愛の富者であつて、穢れたる我が身が到る処に香気を放つやうに感ずる、若し是れが救済でなく、復活でなく、昇天でないならば我は救済、復活、昇天、の何である乎を知らない、其時我は詩人の言を藉りて歌ふ
   神は我が足を※[鹿/匕]の足の如くし
   我を我が高処にたゝせたまふ
                (詩篇十八の三三)
 
(244)    招待
 
 オヽ来れよ、来てキリストの僕と成れよ、何故に世の罪悪を罵て 死せんとするぞ、何故に社会の無情を怒て切歯するぞ、汝は汝自身に就て憤りつゝあるなり、汝自身の中に調和なきが故に汝は汝の不安を木と岩と世と人とに向て発しつゝあるなり、来て主の平安を味ひ見よ、是れ凡ての思念《おもひ》に過る平安なり、是を汝の心に迎へて木は汝に向て手を拍て歓び、人は凡て来て汝の志を賛くる者とならん。
 
    キリストと愛国心
 
 日本人を日本人のために愛さうとするから失望する、人は原来愛らしき者ではない、苦きものに甘きものを加味するにあらざれば之を食ふことは出来ない、愛すべきキリストに由て愛すべからざる同胞を愛するにあらざれば到底永く彼等を愛することは出来ない、キリスト無しの愛国心は砂漠の迷景の如きものである、即ち雲霽れて後炎熱の到ると同時に消え失するものである。
       ――――――――――
    寛容の模範(博士F、W、フハラー氏の信仰)
 
  近頃此世を逝りし英国監督教会の大教師F、W、フハラー氏は説の広量寛大を以て名高き人なりし、余輩も青年時代に於て氏の著書に由て涵養せられし事尠からざりき、今や氏の訃音に接し、旧師を失ひしが如き感な(245)くんばあらず、人あり曾て氏に宗教上の意見を質す、氏は儀式の厳粛を以て称せらるゝ監督教会の教師たりしにも関はらず、左の如く氏の寛大にして温爽なる信仰を表白せりと云ふ、以て氏の如何に慕はしかりし人物なりし乎を知るに足らん。
 噫、否な、宗教は決して教会に行くことではありません、基督教は形式ではありません、我儕の主キリストの愛は単純極まるものであります、「信ぜよ然らば爾曹救はれん」と、全能の神は真理であります、爾うして真理は単純なるものであります、単純なる基督信者が真正の基督信者であります、私自身は教会を信じます、亦儀式を信じます、然し教会と儀式とは基督教の万事ではありません、否な、其十分の一でもありません、真理は大なる者で終に勝利《かち》を占むる者であります、真理は高壇から僧服を着けたる僧侶に由て説かれても勝ちます、砂漠に独り在る信者に由て説かれても勝ちます、冬の風に由て山の巓に吹奏されても勝ちます、春の最も窈窕《たをやか》なる小さき野の花に由て谷間に吹込れても勝ちます、「我を信ぜよ、然らば爾曹救はるべし」と、真理、真理、真理、……誰がそれを語つて誰がそれを聞ても、それが雄弁の喇叭を以て風聴されるとも又は隠れたる所に於て窃かに口に私語かるゝとも、終に勝つものは此真実であります。
 
(246)     青年に告ぐ
                     明治36年5月14日
                     『聖書之研究』39号「講演」
                     署名 内村鑑三
 
  是れは東京基督教育年会第十年期祝賀会の席上に於て述べんと欲して用意したものであるが、都合によりて之に出席することが出来なかつた故に之を筆にして茲に掲げる事となした。
  汝の少かき日に汝の造主を記へよ(伝道之書第十二章一節)。
  子を其道に従ひて教へよ、然らば老ひたる時も之れを離れじ(震源廿二章六節)。
 神を識りキリストを信ずる時は青年時代である、勿論老年に入りたればとて之を信ずることは出来ないと云ふのではない、神は万民の神であるから彼を信ずるに老幼の区別は無い、然しながら老年時代に起つた信仰は多くは偏つた不完全なる信仰である、神は永久に青春なる者である、彼は或る意味に於ては潔白無垢の小女の如き者である、彼の心を知り、彼の愛を味ふには、温かき、軟かき、しなひ易き青年時代の心を要する、神は正義の外何にも知らない法律一方の老爺ではない、彼に青年の熱情がある、
  汝は他の神を拝むべからず、其はヱホバはその名を嫉妬《ねたみ》と言ひて嫉妬む神なればなり(出埃及記三十四の十四)。
 嫉妬の悪しき半面は嫉怨であるが、其善き半面は熱愛である、故にヱホバの神は曰ひ給ふた、
(247)  其日には汝は我を再びバアリ(我主)と称ばずしでイシ(吾夫《わがつま》)と呼ばん(何西阿書二の十六)。
と、神を我が恋慕の夫《つま》と解し彼に我が全愛を奉らんとするが如き熱情は青年時代に於てゞなければ起るものではない、老年時代に起つた信仰は多くは堅い、硬《こわ》い信仰である、即ち神の公義の一面にのみ注意して唯義を以て他を鞫かんとのみする信仰である、之に武侠的の所がない、之に伝道の精神が乏しい、爾うして基督教は素々膨脹的の宗教であるから旧い革嚢の老人輩の到底永く持切れるものではない、基督教を保存し、之を成長させるには必ず新らしき革嚢なる青年の活気が要る、基督教と青年とは天然に定められたる配合者である、仏教は老媼に迎へられると云ひ、儒教は老翁に適すると云ふが、基督教は特別に青年の宗教である、故に之を青年時代に於て信ぜずして、之を信ずるの最上の好機会を失するのである。
 事情斯の如くなれば我儕は尚ほ未だ歳少かき時に神と其独子イエスキリストを信ずべきである、爾うして之を信じ之に我儕の身を捧ぐるに方て我儕は其使ひからしを捧げてはならない、神の要求し給ふ者は初子である、初穂である、疵なき当歳の羔羊である、我儕も我儕の身に疵の附かざる間《うち》に之を主の祭壇の上に捧ぐべきである、キリストを信じて其がために家より勘当さるゝのは可いけれども、悪事を為して家から勘当されて止を得ず教会に入て信者となつたのでは神は余り歓び給はない、斯世に在ては無用無能の者と認められ、学なく、才なく、智なく、意志なき者にして、止むを得ず職を伝道に求めし者の如きも亦神の余り悦び給ふものではない、神は最上等の人物を要し給ふ、神は老物よりも血気壮なる者を要し給ふ、神の教会は不用人物の収容所ではない、万物の神に献ぐるに他に用なきの人物を献ぐるより不敬なる事はない、然しながら是れ世間に甚だ多くある事である、有為の青年は政治に入る、法律に入る、文学に入る、実業に入る、然しながら滅多に宗教に入つて来ない、彼等(248)は宗教界は不用人物の捨場所であると思ふて居る、爾うして亦不用人物のみが続々として之に入つて来る、是れ実に慨歎すべき事であつて、之を怒り給ふ者は神ばかりではない、国家も社会も、教会は勿論、之がために大損害を蒙る、有為の青年は之を見て黙つて居られる乎。
 第一等の教育を受けた者が宗教に入て来るにあらざれば宗教が駄目であるのみならず、国家も社会も、亦其青年等彼等自身も駄目である、国民中第一等の人物が伝道に干与し亦従事するに至るにあらざれば其国民の運命は甚だ覚束ないものである、然るに我国今日の状態は如何である乎、正当の大学教育を終へた者でキリストの福音の伝播に身を委ねて居る者は何処に居る乎、任意的に総ての野心と慾望とを投捨てパウロ、ルーテルの迹を践まんとした学士博士は何処に居る乎、余は大学の落第生にして教役事業に入つた者を知つて居る、余は亦大学は勿論高等学校にすら入るの資格を供へない者で鉄面皮に真理を絶叫して居る伝道師を沢山知つて居る、日本人は決して其最も善き者を神に捧げなかつた、今日まで、然り今日も尚ほ、神の御用を為しつゝある者は大抵は不具者である、跛者である、片眼者である、実に恐れ入つたる次第ではない乎。
 爾うして遇々有為の信者の青年があると思へば彼等は如何成り行くか、彼等の多くは或は文を以て或は富を以て、神と国家とに貢献すると称して、段々と宗教を離れ、終には宗教を愚弄し、今は立派なる俗人と化し去つたではないか、何故に我等の中に若きビーチヤーが起つて来ない乎、何故に聖きアムビシヨンを以て充ち満ちたるへンリー、マーチンやデビド、リビングストンのやうな青年が起つて来ない乎、今や宗教界も政治界と等しく老朽人物の退場を要する時代である、所謂る教界の元老なる者の威光を恐れて伝道の学士たるを懼《おぢ》る者の如きはキリストに対して甚だ不忠なる者と云はなければならない。(249) 何も必しも専任の伝道師と成るには限らない、青年時代を神に捧げずして、失敗に失敗を重ね、失望の淵に陥入りてから止むを得ず、神の懐に還つて来るやうでは不可ない、我儕は身体も脳髄も精神も其|壮《さかん》を極むる時に之を神に捧げて其御用を為すべきである、爾うして之を為すことは其青年の大名誉であつて、亦大幸福である、キリストを捨て世に降参する者は世が之に酬ゆる辛惨の大なるを知らない、幸福と栄誉とは斯世に在て、困難と耻辱とはキリストに在ると思ふのは大なる間違である、是れは丁度其正反対である、幸福なる、平和なる、勇ましき生涯はキリストに在てのみ得られるものである、今の時に方てキリストに来らな青年は甚だ愚かなる者であると云はなければならない。
 基督教を信ずべきである、然しながら浅薄なる基督教を信じないやうに注意すべきである、信仰の堕落なるものは其多くの場合に於ては、浅薄なる宗教を信じたるに原因して居る、誰か嘗ひて主を仁《めぐみ》ある者と知りし者にして主を捨て去る者あらんや、基督教の真意を探らざるが故に、多くの人は之に来らず、亦多くの愚かなる人は之を捨て去るのである、而かも世に浅薄なる基督教が沢山提出されて居る、今注意までに其三四を述べやう。
 一、浅薄なる基督教の第一は政治的に国家を済ふの宗教であるやうに思はれて居る基督教である、日本人の東洋的愛国心に富める、彼等は此種の宗教を要求して止まない、故に彼等は基督教に於て国家救済の原動力を求めんとする、爾うして基督教に此原動力の存するは吾等も信じて疑はない、然しながら基督教は彼等が思ふやうな方法を以て国家を済はない、基督教は直に政治家を作らない、亦社会改良家をも作らない、基督教は先づ第一に霊魂の疾病を癒すの宗教である、其第一に各人に向つて教へんと欲することは「汝は罪人の首である」と云ふことである、真正の基督教は活かさんとするに先つて殺す、先づ人を功主臭くなす、隠遁者と做す、国家よりも自(250)己《おのれ》の心霊に就て心配する者と做す、然しながら是れ東洋的愛国者の甚だ厭ふ所である、彼等は先づ第一に国政を料理したがる、彼等は制度の改良を急ぐ、爾うして基督教を以て直に之を為し得ずして失望する、彼等は終に疑問を提して曰ふ「基督教は実に国家を救ふ者なる乎」と、斯く云ひて彼等は之を捨てる、或は幸にして捨つるまでに至らざるとも、自から一種の国家的基督教なるものを案出して、元来国家的ならざる基督教を以て政治的に国家を済度せんと努むる、然しながら其浅薄なる基督教であることは其結ぶ果を見て知ることが出来る、是れは Te Deum のやうな大なる讃美歌を唱へることの出来る宗教ではない、之は制度、文物、法律の宗教であつて、霊魂、赦罪、復活の宗教ではない、かゝる基督教を信じて我儕は永久に我儕の信仰的生涯を継けることは出来ない。
 二、浅薄なる基督教の第二は慈善的又は社会改良的の基督教である、是れは第一のに能く似て居るが亦た少し異なる点がある、言ふまでもなく基督教は慈善、社会改良を主張する者である、基督教の行はれる所に善事の行はれない所はない、而已ならず、基督教のみが永久尽きざる善の源である、然しながら善行を以て基督教の主なる特徴と見做し、善行是れ基督教と云ふが如きは是れ確かに浅薄なる基督教である、基督教は信仰であつて、行働《おこない》ではない、行働を以て基督教と見做すのは結果と原因とを混ずるのである、キリストは主として罪の贖主であつて、肉体の医師でも慈善家でもなかつた、パウロやペテロは伝道師であつて、社会改良家ではなかつた、基督教は人情的宗教であると云ふのは僅かに唯其一面を云つたのみである、基督教は神の宗教であつて人の宗教ではない、是は天国建設のための宗教であつて、地上の社会の改良のための宗教ではない、神の聖旨の成らんが為には人をも国家をも犠牲に供することを敢てするのが基督教である、神は人のために世界と其中にあるすべての物を造つたのではない、彼れ自身の栄光を顕はさんために、彼は之を作り給ふたのである、人情的宗教と称する者(251)は人を第一位に置いて神をも真理をも人の幸福のために使用せんとするものである、然しながら是れ神の何たる乎と人の何たる乎を解しないより来る誤信である。
 神の愛は貧者の空腹を充たすこともある、充たさないこともある、然しながら充たしても、充たさないでも神の愛に変る所はない、神の愛を判断するに方て常に現世の幸福にのみ注意する者は終に基督教の神を捨つるに至る者である、其実例は社会主義者である、ユニテリヤン教徒である、「新神学者」である、彼等は余りに人情的なるより終にヱホバの神と十字架上のキリストに於て真箇の神と教主とを認め難きに至つた、慈善的基督教の行先きは大抵判然して居る。
 三、浅薄なる基督教の第三は哲学的基督教である、基督教が背理的の宗教でないのは云ふまでもない、然しながら神より示されし宗教の人の智慧を以て解し得べきでないのは分かり切つて居る、ケスネルなる人が云つた「全然神的なる智識を全然人的なる基礎の上に建てんとするは愚の極である 而かも是れ信仰の縡《こと》を哲学の原理を以て判断せんと努めつゝある所の人が為しつゝある縡である」と、哲学を以て探ることの出来た宗教は人の考へ出した宗教であつて、神より示された宗教ではない 若し基督教が哲学的に解釈することの出来るものならば左程に貴い宗教ではない、爾うして哲学的に信仰を起した基督教信者が彼の哲学的思想の変遷と共に基督教を捨て去つた者は此日本国にも沢山居る、哲学的信者なる者は決して当になる信者ではない。
 四、浅薄なる基督教の第三は教会的又は儀式的基督教である。其浅薄なる理由は余輩の弁明を待たずして明かである、教会は基督教の外形である、其ために尽すのは死せる躯《むくろ》のために尽すのと同然である、而かも斯かる空事に従事して居る者も今の世に沢山居る。
(252) 然らば深淵なる基督教とは何である乎。
 余輩は答へて曰ふ「聖書其儘、殊に新約聖書其儘の基督教である」と、之に無理の註解を加へずして、聖書を其始めより終りまで心の中に調和し得た者が、是れが深い基督教である、是れは主として政治的又は国家的ならずして個人的の宗教である、是は人情的ならずして神意的である、是は哲学的ならずして直覚的、黙示的、信仰的である、教会的でなくして、心霊的である、是れは奇跡を認め復活を認め、来世と万物の復興とを認る、是れは多くの疑問を提せずして聖書全躰を神の言辞として認める、是れは疑ふよりも信ずる方が多い、求むるよりも感謝する方が多い、憤るよりも歓ぶ方が多い、是れは感情の宗教でもなく、亦た反省考案の宗教でもなくして実験の宗教である、是れは人の心の深いものであるやうに深い宗教である、宗教がこゝに入り来りて人がそれを捨てやう筈はない、其時には宗教が真の生命となる、故に生命を失ふまでは之を失ふことが出来なくなる、否な、それのみではない、斯の宗教を信じて、生命は永久に朽ないものとなる、爾うして少かき時に斯かる宗教を信じて其人の生涯は実に幸福なるものである、かゝる人は水流のほとりに植えし樹の期に至りて実を結び葉もまた凋まざる如く、その作す所皆な栄えん(詩篇一篇三節)。
(253)     〔晩春の黙考 他〕
                      明治36年5月28日
                      『聖書之研究』40号「所感」                          署名なし
 
    晩春の黙考
 
 今日の所では純粋の基督教は英国に於てあるのではない、独逸に於てあるのではない、米国に於てあるのではない、余輩の識り且つ聴く所に依れば今日西洋諸国に於て行はれる所の基督教なるものは多くは儀式的、習慣的、経文的のものにあらざれば、批評的、破壊的、冷理的のものである、其中に勿論温かき、活きたる心霊的のものがないではないが、然し古い習慣と新らしい学説とに圧せられて充分の発達を為すことが出来ないで居る、茲に於てか余輩は私かに思ふ、最後に召されつゝある所の日本国が終には人類の最も要求する所の純粋に最も近き基督教を世界に供するの置位に立つ者ではあるまい乎と、即ち日本国は武を以て世界に鳴るのではなくして、又は制度文物を以て人類の進歩を扶けるのではなくして、純粋なる宗教を以て世を化するの天職を授けられたる者ではあるまい乎、義家泰時のやうな武士と成つて咲き、親鸞、日蓮、蓮如のやうな高僧となつて開きし大和魂はルーテル、ウエスレー、ビーチヤーに優るの大宗教家を出すに適するの精神ではあるまい乎、神と人類とは日本人より宗教的大革命を俟ちつゝあるのではあるまい乎、日本国の二千年間の歴史は我等に此大責任を委ねんための(254)用意であつたのではあるまい乎、余輩は晩春の今日此頃、朧月の下に独り躑躅花《つつじ》咲く庭園を静かに歩みながら此事を黙考する時に何やら全宇宙が余輩の肩上に置かれしやうな心地がする。
 
    日本国の将来
 
 今や日本国を政治的に救ふの希望は全く無い、社会的に救ふの希望も殆んど無い、然し宗教的に救ふの希望は充分に有る、爾うして宗教的に救へる希望のある国は終には社会的にも政治的にも救へる希望の有る国である、宗教家の立場より見て日本国の将来は甚だ多望なるものである。
 
    教会と聖書
 
 教会が聖書を保存し来つたので、若し教会がなかつたならば聖書は早くに消えて了つたであらふと云ふ者がある、然し爾んな事のありやう筈はない、聖書は教会を保存するものであつて、教会は聖書を保存するものではない、看よ、プラトーの哲学を、ダンテの詩を、何の教会の之を保存することなかりしにも関はらず、今日まで立派に保存され来つたではない乎、真理は其物自身にて存在する者である、教会に依らなければ存在することの出来ない書であるならば聖書は至て詰らない書であると言はなければならない。
 
    悲むべき実験
 
 余輩より金を受けし者は余輩を怨み、余輩に叛き、余輩を侮り、余輩を悪人として、偽善者として、社会に向(255)て風聴《ふいちやう》する者である、余輩より福音を聴き、其福音に循いて他に行て金銭を稼ぎ得た者が永久に余輩を恩人として認めて呉れる者である、余輩に取りては金銭を以て人を助けしことは余輩の為せし最も大なる失敗の一つであつた 金銭の伴はざるキリストの福音、是れのみが真個に人を扶け人を救ふの力であるやうに思はれる。
 
    幸福の泉
 
 満足の人とは独立の人である、不平の人とは依頼の人である、神と自己とに頼つて生存する人には此世は甚だ愉快なる所である、然るに此明白なる原理を知らないで、他人に恩恵を求めて其与へられざるを怒り、常に世の無情を憤りながら憂き日月を送る者は実に愚かなる者である、幸福は常に我が腕と心とに在る、之を他人の手に求めて我等に来るものはたゞ失望と恥辱と不平とのみである。
 
    損失と利得
 
 我の此世に於ける損失は大である、我は之を想ふて失望せざるを得ない、然れども我の利得は更に大である、我はキリストと天国とを発見した、我は之を思ふて感謝せざるを得ない 我れ我が主キリストイエスを識るを以て最も益《まさ》れる事とするが故に凡ての事を損となす、我れ彼の為に既に此等の凡てのものを損せしかど之を糞土の如く意へり(ピリピ書三の八)。
 
(256)    思想の軽蔑
 
 純潔なる思想は書を読んだのみで得られるものではない、心に多くの辛らい実験を経て、凡ての乞食的根性を去つて、多く祈つて、多く戦つて、然る後に神より与へられるものである、之を天才の出産物と見做すのは大なる誤謬である、天才は名文を作る、然かも人の霊魂を活かすの思想を出さない、斯かる思想は血の涙の凝結躰《かたまり》である、心臓の肉の断片である、故に刀を以て之を断てば其中より生血《いきち》の流れ出るものである、故に未だ血を以て争つたことのない者の到底判分することの出来るものではない、文は文字ではない、思想である、爾うして思想は血である、生命である、之を軽く見る者は生命其物を軽蔑する者である、
 
(257)     純伝道の必要
                      明治36年5月28日
                      『聖書之研究』40号「所感」                          署名 角筈生
 
 基督信徒は政治に干与せざるべからずと説く者あり、余輩も深く其説を賛す、然れども聖書に暗く、信仰薄き者が政治に干与せん乎、彼は政治の呑む所とならむ、而うして既に政治の呑む所となりし基督信者多し、後進の徒は前者の覆轍を践まざるやう用心すべし。
       *     *     *     *
 政治に呑まれし者、慈善に呑まれし者、実業に呑まれし者、文学、哲学、科学、に呑まれし者、即ち世を済度せんと欲して返て世に済度されし者、今日の所謂る教界の名士なる者は概ね皆な是ならざるはなし、未だ天国に基礎を置くこしと甚だ浅きが故に、地に降り来れば忽にして再び地の人となる、基督教徒の俗了は多くは基督教の応用を急ぐより来る、豈慎まざるべけんや。
       *     *     *     *
 百年を全く純伝道のために消費するも未だ以て永しと称すべからず、欧州に於て基督教が社会的大勢力と成りて顕はるゝまでには千四百年間の伝播と涵養と成長とを要せり、三十年の時日、能く日本に健全強固なる基督教を培養し得んや、然るに既に其応用を絶叫して止まず、其既に枯死の状態を示すに至りしは敢て怪むに足らざる(258)也。
       *     *     *     *
 伝道師たる者は主として福音の宣伝に従事すべし、彼は多く慈善、又は教育、又は政治等の副業に彼の精力を奪はるべからず、世の彼より最も要求する所のものは彼の蒐め得る金銀にあらずして、彼の伝ふべきキリストの福音なりとす、然るに彼はこれを伝へずしてかれを頒たんと欲す、彼の伝道事業の栄えざる豈宜べならずや。
       *     *     *     *
 日本国の今日最も要する者は純伝道師なり、即ちパウロの如く、ペテロの如く、アポロの如く、バルナバの如く、伝道の外殆んど何事をも為さゞる者なり、伝道を以て最も大なる事業と見做す能はずして、伝道以外に他に世道感化の途を講ずる者は未だ伝道師の資格を供へざる者なり、彼は半伝道師なり、即ち福音をも伝へ得ず、国家をも済ひ得ず、終に何事をも為し得ずして一生を終る者なり。
 
(259)     饑饉の福音
                     明治36年5月28日
                     『聖書之研究』40号「講演」
                     署名 内村鑑三
 
  是は私が先輩本多庸一君に強ひられで止むを得ず本月十一日東京市神田区青年会に於て開かれし東北地方凶歉救済演説会の高壇に於て述べし主旨を敷衍したものであります。
 饑饉は或る意味から云へば神の下し姶ふ刑罰であります、之れは民の懶惰を懲らさんが為めか、又は為政家の怠慢を責めんが為めに、神が人に加へ給ふ鞭であります、夫れ故に饑饉其物は決して喜ぶべき幸福なる事ではありません。  ヱホバ斯く曰ふ、此預言者等(偽りの頭言者なり、平和なき時に平和、平和と呼んで民を欺く者なり)は剣《つるぎ》と饑饉に滅さるべし、また彼等の預言を受けし民は饑饉と剣によりてエルサレムの街に擲棄られん(ヱレミヤ書十四の十五、十六)。
  主ヱホバ斯く言ひ給ふ、嗚呼凡てイスラエルの家の悪しき憎むべき者は禍なるかな、皆な刀と饑饉と疫病に仆るべし(エゼキル書六の十一)。
 我々基督信者の信ずる所に由りますれば宇宙の根底は神の意志でありまして、宇宙の現象は一つとして神の命に依らずして起るものではありません、故に我々は饑饉の災害に遭遇して単に之を天然自然の現象としてのみ解(260)することなく、其中に含まるゝ深き道徳上の意味を解釈し、神の声に聴き其正当の懲罰を受け、以て我々の愆の赦されんことを祈るべきであります。
 然しながら凡の災害を其正当の意味に於て解釈しますれば災害は返て我々に多くの福音を伝ふるものであります、素々神の意志より出たる災害でありますから其苦き杯の中に甘き訓誡《いましめ》が有るべき筈であります、饑饉を単の災害として受くべき乎、或は之を変じて幸福の泉となすべきかは単へに我々の之に加ふる註解如何に由ります。
 一、饑饉に依て我等は我等の平常の用意の足らないのを覚るのであります、  惰者《おこたるもの》よ蟻に行き其為す所を観て智慧を得よ、蟻は首領《かしら》なく有司《つかさ》なく君王《きみ》なけれども夏の間《うち》に食を備へ収獲の時に糧《かて》を斂《おさ》む、(箴言六の六、七、八、)
 爾うして我等が糧を貯ふべきは冬のために許りではありません、饑饉は大抵は年を限つて来るものでありますから、我等は又其ための準備をもなして置くべきであります、そうして又慈恵深き神は決して頻々饑饉を降し給ひません、彼は僅かに三十年に一度か、四十年に一度之を降し給ふのであります、爾うして其間に神は幾度《いくたび》か豊年を降し給ひます、幾度か有り余る程の食物を我等に賜ひます、然るに我等は今日の事にのみ気を奪はれて明日の事を思はず、神の恩賜の糧を浪費し、或は酒を造つて之を飲み、暴飲し暴食し、以て幾度か此身を害ひました、此世に在て最も貧しき人と雖も其一生の収得を平均致しますれば一生一度や二度の饑饉で決して餓死すべき筈の者ではありません、懶惰の罪であります、浪費の罪であります、後を慮らない罪であります、神の恩恵を無視する罪であります、是れがために饑饉に遭遇して我等は周章狼狽《あはてふため》くのであります、其罰として我等は餓死の危険に迫るのであります、若し我等にして我等の為すべきことを為しましたならば、我等は饑饉に対して曰ふべきで(261)あります、「饑饉よ、汝の刺《はり》は安くに在る乎」と。
 二、饑饉に由て我等は政治家の無能怠慢と社会組織の不完全を覚るのであります。
 縦し個人として食物の不足を告ぐることあるとするも、国家として饑饉に迫るの理由は決して無い筈であります、若し政治家が政治家であり、社会が社会でありますれば饑饉が万一全国に三年続くとしても一人の餓死する者を出さずして済む筈であります、日本国の米の産出高は一ケ年に四千万石であります、其外に雑穀が二千万石程上ります、其外我国の輸出物に対して輸入する食料品を合しますれば日本国民の食物は優に余りあるべき筈であります、爾うして時には豊年相続き、夫れがため米穀国内に溢れて七八百万石の輸出をなした歳もありました、然るに日本国民は斯かる過分の食糧を何う使用して居ますか、彼等は此貴重なる米穀を潰して毎年何百万石と云ふ害有て益なき酒を造つて居るではありません乎、又之を給して何の善事をも国家に貢献しない数万の懶惰貴族を養つて居るではありませんか、又重き税を此民に課して何の判然したる目的なきに用もなき益もなき大いなる軍艦を幾艘も造つたではありません乎、若し全国民が禁酒を決行するとすればそれがために毎年何百万人と云ふ窮民を優に養つて行くことが出来るではありません乎、貴族の一家を支ゆるためには数千の農夫は汗を滴《たら》して年中働らいて居らなければなりません、一人の兵卒を養ふためには六人の壮丁が地を耕さなければならないとの事であります、斯かる不平均極まる政治が行はれて居て国に餓死する者の出づるのは決して怪むに足らないではありません乎。
 汝等は災禍《わざはい》の日を尚ほ遠しと為し、自ら象牙の牀に臥し寝台の上に身を伸し、群の中より羔羊を取り、圏《をり》の中より犢牛を取て食ひ、琴の音に合せて唄ひ噪ぎ、大杯をもて酒を飲み、最も貴き膏を身に抹りヨセフ(国(262)民)の艱難を憂へざるなり(アモス書六の三−六)。
 斯かる政治家が国を治め斯かる社会が成立つて居る問は饑饉は国民の上に臨むべき神よりの適当の刑罰であります、旧い支那の教誡に循ひましても国に三年の貯蓄なき時は其国危しとのことであります、然るに文明の今日此日本国に三年の貯蓄がないどころではありません、一年半年の貯蓄がありません、東北一部の地方が凶歉に罹りたればとて之を救ふことの出来ない状態であります、斯かる国家は累卵の危きに居ると云ひても決して過言ではありません。
 三、饑饉は人に取つては災害でありますが、土地に取つては幸福であります。
 利慾に耽ける民は土地より得られる丈けを得んと欲して之に少しも休養を与へません、彼等は毎年之を使用して止まざるのみならず、若し気候の許すあれば一年に或は二回或は三回の収穫を為さんと致しまする、爾うして彼等は斯くも土地を責め付けるにも関はらず之れに肥料を施すこと至て僅少で、夫れが為めに土地は年々と痩せ衰へて行きます、土地とは決して永久無尽の生産力を具備へたものではありません、之れは或る意味から云へば生物のやうのものでありまして、若し之を殺さんと欲すれば殺すことの出来るものであります、故に賢い農夫は能く其土地を庇護ひ、決して之を強迫致しません、即ち土地の生産力以上の収穫を之より得んとは致しません、然るに暴慾の民は其土地を省みず、只之より多く取らんことをのみ計つて之を肥さんことを計りません、茲に於てか土地の安息の必要が生じて来るのであります。
  ヱホバシナイ山にてモーセに告げて言ひ給はく、イスラエルの子孫に告げて之に言ふべし、我が汝等に与ふる地に汝等至らん時はその地にもヱホバにむかひて安息を守らしむべし、六年の間汝その田野に種播き、ま(263)た六年の間汝その菜園の物を剪伐《かりこみ》てその果を斂むべし、然れど第七年には地に安息をなさしむべし、是れエホバに向ひてする安息なり、汝その田野に種播くべからず、また其菜園の物を剪伐むべからず、汝の穀物の自然生えたる者は穫るべからず、また汝の葡萄樹の修理《ていれ》なしに結べる葡萄は斂むべからず、是れ地の安息の年なればなり、(利未記二十五章一−五節)。
 是れは実に賢い法律でありまして、此点に於ては四千年前のモーセの法律は今日の開明国の法律に遙かに優つて居りました。
 神は其造り給ふた土地を愛し給ひます、爾うして其永久に人類に濫用さるゝを許し給ひません、爾うして若し人が進んで神の命を奉じて土地に安息を与へませんければ神は自ら之に安息に与へ給ひます、爾うして饑饉年は土地の安息の年であります、是は神が其造り給ひし土地の為に強制的に施行し給ふ安息の年であります、此年には人は泣きまするが土地は喜びます、土地は三四十年のあひだ間断なしに其職責を尽しましたから此年に限り久振りにて休息致します、爾うして若し人が神に対して従順であり、土地に対して忠実でありましたならば此年と雖も彼は決して泣くの必要はないのであります、若し彼が七年目には一度づゝ必ず任意的に土地を休ませる途を立てゝ置きまするならば、彼は饑饉に遭ふても少しも狼狽へません、人は七年に一度づゝ任意的に饑饉の稽古を為して居りますから、時偶天然の饑饉に際会致しましても能く之に堪ゆるの途を知つて居ます。
 四、言ふまでもなく凡ての災害は人の冷却せし同情推察の情を起すものであります、爾うして茲に特に注意すべきことは災害なるものは多くは悪人其者の上に直に来らずして、真個の悪人以外の者の上に来ることであります、今年の我邦の饑饉の如き若し其民の罪悪の度合から申しましたならば、之れは西南の薩摩か長州に来るべき(264)筈のものであります、日本人を今日の偽善と堕落に導いた者は重に薩州人と長州人とであります、又彼等の罪悪を助けた者は肥後の教育家と文人とであります、故に若し罪悪応報が饑饉の目的でありますならば之れは重に西南地方を襲ふべき筈のものであるやうに見えます、然るに実際は全く之に反して比較的に罪少き東北人の上に臨み来つたのは如何にも惨酷であるやうに見えます。
 然しながら此惨酷無慈悲の中に深い意味が籠つて居ることが分ります、何にも惟り饑饉に限りません、災害は凡て斯くあるものであります。
  イヱス答へて彼等に曰ひけるは………シロアムの塔仆れて圧死されし者十八人はエルサレムに住める凡ての人々よりも益りて罪ある者と意ふや、我爾曹に告げん、然らず、爾曹悔改めずば皆な同じく亡さるべし(路可伝十三章四、五節)。
 放蕩の結果黴毒に躍る者がありますれば其結果を最も甚しく受くる者は放蕩者彼自身ではなくして彼の生みし子供であります、若し教育界に大腐敗が来りますれば縲紲の恥辱を受くる者は此較的に罪の軽き者であつて、実際の大罪人は無事平穏であるとのことであります、最も罪の少い者が最も罪の多い者の罰を担ふて苦しむとは甚だ不公平のやうには見えまするが、然し是れが斯世の元則と称しても可いものであります、爾うして私の信じまするに斯くして始めて罪の罪たることが判るのであります、頑是なき小児が放蕩無頼の父の罪を負ふのを見て婬縦の罪悪の如何に恐るべきかゞ分かり、それと同時に之を避くるの心が之を目撃する人の心に起るのであります、それと同じやうに明治政府の犯した罪悪に最も関係の少ない東北の民が或は海嘯に罹り、或は饑饉に苦んで此政府の如何に思慮なき、如何に無慈悲なる、如何に不公平なる、如何に頼むに足らざる政府である事が能く判るの(265)であります、爾うして斯く観じ来つて我々は一層明白に此等罹災民に対する我々の責任が分かるのであります、即ち彼等は重に彼等の罪のためではなくして日本全国民、特に薩長の偽善政治家のために苦みつゝあるのであるのを見まして、我等は殊更に深い同情を是等の窮民に向つて表さなければならないことが判ります。
 以上が苦しい饑饉の経験が我等に伝へんとする福音の三つ四つであります、爾うして我等が其数訓を学び尽した時に饑饉は我等の中を逝るのであります。  我が忿恚溢れて暫らく我が面を汝に隠したれど永遠《とこしえ》の恩恵を以て汝を憐まんと、こは汝を贖ひ給ふヱホバの聖言なり(イザヤ書五十四の八)。
 国民が勤倹貯蓄の美風を養ひ、飲酒放縦の愚と罪とを覚り、政府が外に対つて虚勢を張るも、内を養ふの途に出ずば是れ国家を内より破壊するの手段なるを覚り、貴族は其懶惰と無能と無智無学とに耻ぢ、土地は国民の愛護する所となりて、之に安息を給するの途を講ずるに至り、殊に今日の如き同胞相離叛し、人は其隣人を掠めるを以て大なる手柄と信ずる時に方て、相憐推察の神聖なる情を回復するに至りますれば、其時は饑饉が其訓誡の功を奏した時でありまして、其後に来るべき者は災害にあらずして幸福であります、饑饉にあらずして豊年であります、其時には神は我等に対いて言ひ給ひます
  我を試みよ、我が天の窓を開らきて容るべき所なきまでに恩沢を汝等に注ぐや否やを(馬拉基書三の十)。
 然しながら今年の饑饉が更らに其訓誡の功を奏せず、軍備は更らに拡張せられ、国債は更らに増加せられ、政治家は其愚と迷とを去らず、貴族は其空しき栄華を継け、国民挙つて其偽善に甘んじ、飲酒と賭博と詐欺の生涯を続けまするならば、私は信じて疑ひません、此次ぎに来りまするものは更らに大なる饑饉、之に加へて大なる(266)剣、或は火、或は水、国家を其土台より覆へす者であります
  今日若し其声を聴かば爾曹心を剛愎《かたくな》にする勿れ(ヒブライ書四の七)。
 今年の此小饑饉を以て国民の目を醒ますことが出来ますれば是れ全国民に取て大幸福であります。
 
(267)     誌上の夏期講談会開設に就て読者諸君に告ぐる所あり
                     明治36年5月28日
                     『聖書之研究』40号「謹告」
                     署名 内村鑑三
 
 今年は※[木+國]林樹下に夏期講談会を設けず、而かも吾人は過去三年間『研究』誌上に於て講談会を継け来れり、而して今や清爽の夏の再び吾人を見舞はんとするに際して、吾人は線蔭風涼しき所に全国の読者諸君と膝を接して相語るの快を思ひ出さずんばあらず、然れども吾人霊に在て相繋がる者、何ぞ必しも語るに面と面とを接するを須ゐん、幸にして此誌の吾人の心霊的交通機関として神より吾人に委ねられしあり、吾人は今年は此機具を利用して全国に散在する読者諸君と共に最も愉快なる夏期講談会を本誌の紙上に於て守らんと欲す。
 而して其方法たるや敢て難きに非ず、講者は例に由り筆を以て彼の思想を述ぶるなるべし、然れども茲に吾人が特に読者諸君に乞はんと欲する所のものは、諸君が各自構廬の地より諸君の清想を角筈※[木+國]林樹下の編輯室に送られんこと是なり、感想可なり、実験譚可なり、凡て清き事、凡て正しき事、凡て真面目なること、凡て歓ばしき事、凡て天の父より直に諸君の心に受けし事を、余輩は諸君より聞かんことを欲す、今や国民少しく長き迷夢より醒めて、誠実なることを聞かんと欲する時に際して、吾人神と其キリストを信ずる者の心の状態を聞くを得て彼等の暁碍する所決して尠少ならざるべし、今や実に主が我等の霊魂に向つて為し給ひし大なる工《わざ》を世に向て示すべき時なり、是を為すは傲慢にあらず、吾等の徳を誇るに非ず、主の栄光を顕はすことなり、我等の霊魂に(268)顕はれたる主の大能を世に示すことなり、主は言ひ給はく「凡そ人の前に我を識ると言はん者を我も亦天に在す我が父の前に之を識ると言はん」と(馬太伝十章卅二節)、信仰の表白は或る場合に於ては義務なり、然り、最も有効なる伝道なり、然り、主の恩恵を心に深く味ひし者に取りては最も大なる快楽なり。
 故に来れ、信仰を偕にする全国の兄弟姉妹よ、来て諸君の声を揚げて主を讃美し、合せて主の御工を世と同志とに示せよ、而して之を為して諸君も大に益する所あらん、我等は今年は全国数千の読者諸君と偕に心霊の奥殿に於て聖き夏期講談会を守らんと欲す、其概則を大略左の如く定む。
  一、読者中有志の諸君は其感想録を七月五日までに本社に送り届けらるゝ事。
  一、感想録は一人千文字(仮名共)より多からざる事。(三行にても可なり、十行にても尠からず)。
  一、文の巧拙を問はず、簡潔にして心の有の儘なるを貴ぶ事。
  一、別に原稿料を呈せず、之を保存して年末窮民補助の料に加ふる事。
  一、必ず姓名、宿所、年齢、職業を記載すること、之を記載することを悍からざること、之を記載せざるものは掲載せざる事。
  一、夏期適当の講演と読者諸君の感想録とは之を七、八両月各一回づゝ発行する本誌に掲ぐること(両月の休刊を廃し、第四木曜日に発兌す)。
  一、寄送文の取捨並に多少の添刪の権を編者に附与せらるゝ事。
 余輩は信じて疑はず、斯かる紙上の夏期講談会は※[木+國]林樹下のそれに優りて諸君と同胞とを益する事遙かに多大なる事を、余輩は切に諸君に望む、北は北見の宗谷岬より、南は台湾の鳳山 打狗に至るまで、太平洋に瀕する者(269)も、日本海に臨む者も、山間に在る者も、平原に住む者も、不幸にして獄舎に坤吟する者も、幸ひにして清風に安臥する者も、病む者も、健全なる者も、聖霊の声に応じて感謝の声を揚げ、以て一大伝道を本誌の紙上に於て試みられんことを、謹んで告ぐ。
  明治三十六年五月   東京市外角筈村聖書研究社に於て 内村鑑三
 
(270)     〔薄信の表白 他〕
                      明治36年6月11日
                      『聖書之研究』41号「所感」                          署名なし
 
    薄信の表白
 
 是れは我が雑誌ではない、是れは我れ以外、我れ以上の或者の雑誌である、彼が我を透うして之を作り給ふにあらざれば之れは成立つ者ではない、然るに我は度々此事を忘れて其製作に就て苦心する、我は実に信仰薄きものである。
    我が拯救の希望
 
 我が衷を省みて渠処に何んの善きものもない、其処にあるものは汚穢、悪慾、邪情、貪婪のみである、若し我れ自から之を取払ふにあらざれば我は神に近づく能はずとなれば我は到底神に近くことの出来ない者である、然しながら神は我が罪よりも大である、彼は我の罪あるに関はらず我を救ひ給ふ、即ち彼は我がために我が罪を殺して我を彼の属となし給ふ、我の拯救の希望は単に神の恩恵に存してをる、彼にして我を恵み給ふにあらざれば我の救はるゝ希望は一つもない。
 
(271)    信仰の綱
 
 我は聖人でもない、義人でもない、我はたゞ神の義を慕ふ者である、其援助を哀求する者である、我の為し得る事はたゞ一つである、即ち神の恩恵深きことを信ずる事である、爾うして若し此信仰が我を凡《すべて》の罪より潔め得ないならば、我の潔まる途は他に一つもない、信仰、キリストに於て顕はれたる神の恩恵を信ずること、是れが我が凡の徳であつて、我が凡ての自満《ほこり》である、若し此信仰の綱が斬れるならば我は奈落の底にまで落行くべき者である。
 
    信仰の書
 
 我れが聖書に頼る理由はそれが徹頭徹尾信仰の書であるからである、我儕をして世に勝たしむる者は我儕の信なり(ヨハネ第一書五の四)、若し之れが聖書が依て立つ隅の首石《おやいし》でないならば聖書は我に取ては要の至て少ない書である、然しながら信を首石として其上に望と愛とを築き上げたる書であるから是れは我れの如き罪人の依て立つべき唯一の巌である、世の道徳は凡て皆な徳を強ふるに聖書のみは我儕より先づ第一に信を要求する、信なるかな、信なるかな、是れ罪人の首《かしら》をして天使たるを得せしむる奇蹟力である。
 
    最大の能力
 
 確信と称する活動力ではない、信仰と称する一種の依頼心である、是れが世界を動かした力である、先づ我の(272)無能を覚つて、然る後に神の大能に頼る、斯くて自己は死して、神我に在て生くるに及んで、我は真個の勇者となるのである、我の修養鍛錬が足らないのではない、我の裏に未だ自己が絶えないのである、自己に死すること、是れが道徳の絶頂である、而かも座禅して自殺するのではない、祈つて神の愛に殺されるのである、我の弱きは未だ我が強きに過ぎるからである。
 
    至大の恩賜
 
 信仰の力と天国の希望、是れは神がその恵まんと欲する者に与へ給ふ最善最美の賜物である、神は此賜物を授けんがためには多くの痛き切断術を吾人に施し給ふ、神はそれがためには或時は吾人の企図を悉く覆へし給ふ、或時は亦吾人を独り孤島に遺し給ふ、亦或時は吾人をして神に詛はれし者の如くに思はしめ給ふ、然れども試練其効を奏して天国の門が吾人の眼の前に開かるゝ時には、吾人は既に斯世の者にあらずして、天国に移されし者であることを暁るのである、天国に入るとは此肉躰が天堂に遊ぶと云ふことではない、是れは至明至静の歓喜であつて、之を知つて之を口にすることの出来ないものである、吾人は此恩賜に接して世の成功なるものゝ糞土に等しきものであるのを知る、此宝物を心に獲て吾人は至大の富貴を感じ、世の瑣々たる数十百万の富に誇る者を見て、心窃かに憐憫の情を懐くに至るのである。
 
    天国の一瞥
 
 我等の見んことを欲するものは竜動でも巴里でもない、我等は天国を見んことを欲する、天国は容易に見るこ(273)との出来る者ではない、然し是れが見えた時には吾等の宇宙観と人生観とは一変する、其時には路傍の草までが我等の為に讃美歌を唱へるやうになる、其時には我等の涙はすべて拭はれる、我等の疑問はすべて解ける 斯世は直に楽園と化する、勇気は湧き出づる、怨恨は失する、天国の一瞥は実に魔術者の呪杖である、是れに由て煩混錯雑を極むる此宇宙も瞬間にして整斉完備せる整躰《コズモス》と化する、爾うして我等は此汚濁の地に在て、神に祈つて此恩恵に与かる事が出来る。
 
    正義実行の信仰
 
 世の人は正義は善い事であるとは知つてをるが、是れは到底行はれないことであると信じてをる、我等キリストを信ずる者は正義は善いことであると知つてをるのみならず、是は実際に行はれ得ることであると信じてをる、爾うして我等が世の人の信ずることの出来ない此事を信ずることの出来るのは我等は自己の力に頼まずして、宇宙を造り、之を支持する者の力に頼むからである、社会の改良と云ひ、国家の改造と云ひ、天地の造主を信ぜずして成就《なしとぐ》ることの出来る事ではない。
 
    宗教と道徳と経済
 
 宗教は道徳以上である、経済は道徳以下である、而かも以上であり、以下であつて、二者同じく道徳を扶ける者である、道徳は自身独りで立つことの出来るものではない、宗教に由て上へ引かれ、経済に由て下より支えられて、始めて其完全に達することの出来るものである。
 
(274)    天国の法律
 
 聖書の道徳は天国の法律である、故に是れは天国の希望を懐かない者の守ることの出来るものではない、天国の希望を与へないで聖書の道徳を強ふる者は無理を強ふる者である、是れは恰かも貧者に課するに富者に課するの税を以てするの類である、而かも斯かる圧制家は今の宗教家の中に尠くはない。
 
    利益なる取引
 
 神は仁者である、故に彼は要むるよりも多く与ふる者である、彼は一を賜ふて十を要求し給はない、彼は十を約束して一を要め給ふ、赦免、復活、天国、永生、是等が神の約束し給ふもので、是等に対して神は纔かに短かき斯世に於ける忍耐と克己と仁愛とを我等より要求し給ふものである、誰か斯かる利益ある取引に応ぜざる者あらんや。
 
(275)     事実の福音
        (旧約書以士帖書)
                      明治36年6月11日
                      『聖書之研究』41号「講演」                          署名 内村鑑三
 
  (此編を読む前に必ず一回以士帖書を注意して通読せらるべし、然らざれば此講演の意を解するに難かるべし)
 以士帖書、此書が聖書の中に有らふとは何うしても思はれません、先づ第一に聖書は神の書でありまするに、此以士帖の書には神とかヱホバとか云ふ詞は一つも見えません、第二に神の事業を頌めまつるのが聖書の目的であるのに此書は人の業を記載するのみで、一言の神の聖業に及びません、而已ならず、此以士帖書の記事は至て世俗的でありまして、或は東洋風の宮庭の内幕であるとか、或は嫉妬復讐の実歴であるとか云ふやうな事ばかりを以て満ちて居りまして、何処から見ても此書が聖書の一部分であるとは受領難《うけとりがた》うあります。
 然るに最も稀態な事には此書を今日まで伝へたる猶太人自身は此書に非常の重きを置きます、彼等は白します、「縦令律法と予言者は失することあるとも以士帖書は消ゆることなし」と、彼等は毎年アダルの月(十二月)の十四日と十五日とにプリムの節なるものを設けまするが(九章廿一節)其日には彼等の会堂に於て教師は必ず此書を通読するのを以て例式と致します、尤も此書の神聖に就て疑を懐いた者は今日まで幾人もありました、有名なる(276)ルーテルの如きも其一人でありまして、彼は白しました、「余は此以士帖の書に反対す、余はその存在せざらんことを欲す、此書は余りに猶太人的にして其中に多くの異教的非行を記載す」と、然しながら斯かる有力なる反対ありしにも係はらず此書が今日まで聖書の中に儼然たる地位を占め来り、今日に至ては何人も之を聖書の一部分として認むるに至りましたのは実に奇態な事であります。
 然しながら、聖書問題から全く離れて此書を見ますれば、是れは最も興味ある歴史的の記録であることが分ります、抑々アハシユエロス王とは何人であるかと歴史を索ねて見ますると、是れは希臘人がゼルキゼス(Xerxes)と称へし波斯国の大王でありまして、二百万の大兵を提げ、ヘレスボントの海峡を渡り、セルモペリーの嶮路にスパルタ王レオニダスの率ひし小軍の勇猛なる反抗を受け、纔かに之を鏖にするを得て雅典《あでん》の城市に入り、火にて之を燼《つ》くし、後、コリント スパルタへと其兵力を及さんとして、セミストークルスの智略に抗し難く、サラミスの海戦に一敗地に塗れ、這々の態にて波斯本国にまで逃げ帰りしと云ふ古代史上に於ける有名なる人物であります、彼が歴史の舞台に於て演じたる事蹟は歴史の始祖と称へらるゝヘロドータスに由て最活人的に画かれましたが、然し歴史家のためには最も幸にして、爾うして大王自身のためには最も不幸なる事には、彼の裏面の生涯、即ち宮廷内に於ける彼の情性、彼の下賤なる品格、彼の薄弱なる意思等はヒブライ人の中の或る記者に依て、是れも最も活人的に、此以士帖の書に於て画かれました、私共は此以士帖の書を読みまして、後、ヘロドータスの大著述に大王ゼルキゼスの事績を探りまする時に、大王の人物が内外相照らして躍如として私共の眼前に現はれ来るのを覚えます、爾うして斯かる品性を以て斯かる大失敗を招きし理由を明白に解し得まして、私共は一層深く歴史の趣味を感ずるに至ります。
(277) 波斯王ゼルキゼスは古代史に於ける最も著名なる人物の一人であります、彼ありしが故にセルモペリーサラミス、プラテヤ等の世界有数の大戦争は戦はれたのでありまして、彼に対して希臘方に在てはセミストークルス、アリスタイデス等の愛国者、レオニダス、パウサニアス等の勇将が起つたのであります、爾うして時の文明世界に斯かる大擾乱を惹起《ひきおこ》せし大王ゼルキゼスは歴史上では印度よりヱテオピアまでの百七十二州を治め、一呼の下に二百万の大兵を召集するを得しといふ大王ではありましたが、然しながら此以士帖の記事に由て彼れ大王の宮廷の裏面を覗きますれば彼は一個の白痴が金の冕を戴きしに過ぎない人物であることが判りまして、史上の大王は忽にして家庭の小人と変じ、私共之を読む者をして転た悲歎の念に堪えざらしめます、私自身に取りましては此以士帖書が他の事を教へて呉れませんでも東洋君主となる者の家庭的生涯を明白地に示して呉れた丈けでも大なる福音であります、是れを追従的歴史家の書いた歴史に於て読みますれば東洋的君主の生涯とては「芙蓉帳暖(ニシテ)度(タル)2春宵(ヲ)1。春宵苦(ダ)短(シテ)日高(ケテ)起(ク)」など申しまして、如何にも優美であるやうに思はれまするが、然しながら之をヒブライ人の飾りなき文章に綴りますれば「アハシエロス酒のために心楽み」(一章十節)とか、又は「王怒り酒宴の席をたち」(七章七節)などゝありまして、彼れ大王も酒の奴隷となりましては普通の酔漢と何の異なる所なく、酔に乗じて無理の要求を持出し、終に后を辱かしむるに至りしと云ふ状態は実に事実其儘であります、爾うして百七十二州を統治せし大王の生涯を画きまするに、(而かも大王の治世に程遠からぬ後に)斯くも自在に筆を運ばした以士帖書の著者は決して今日普通世に称する文学者の類ではありません。大王自身は斯くも「史上の大王で家庭の小人」であると致しまして、大王を繞囲《とりまい》て居つた人等は何んな人物でありましたらふ、「王の前に事ふる七人の侍従メホマン、ビスタ、ハルボナ、ビグタ、アバグタ、セタル及びカル(278)カス」など称へし人等は(一章十節)其当時に在ては大王の寵臣でありまして、忠臣である、愛国者であると云はれて世に持噺された人物でありましたらふ、然るに彼等が王に勤めし事柄に由て彼等を評しますれば、彼等は王に対し少しも誠実の念を懐かない人等でありまして、彼等は自己の怨恨を晴さんが為めには廃后の沙汰をさい王に献言するに躊躇しない人等でありました、殊に時の総理大臣とも称すべきハマンに至りましては心に名利の外一物を蓄へない人物でありまして、君寵一たび衰へし暁には何の取所もない極く詰らない人物でありました、爾うして斯かる価値《ねうち》なき無能漢が国務枢要の地位に立ち億兆の生命与奪の権を握つて居つた事を思ひまする時に、東洋風の政治なるものは如何に危険極まるものであるかゞ面前に示されまして、私共之を読んで荘厳を飾る宮廷の生涯は神の前とは云はずとも、史家の裁判にかけては何んと卑しいものであるかを覚るのであります、以士帖書は其一面に於て東洋的政治の裏面の曝露であります、之に由て波斯大帝国の基礎ですら虚の虚なる者である事が示されたのであります、サラミス、ブラテヤの戦場で大敗を取りし所以のものは波斯軍を指揮せしアルタバザス、マルドニアス等の将官の無能に在つたのではなくして、遠くシユシヤン城内九重雲深き辺の奢侈婬縦懦弱に於て在つた事が判かります、斯くて旧約聖書中の以士帖書は之を史学の太祖ヘロドータスの著に成る希臘史と併び読んで一つの大なる福音書となるのであります。
 今東洋人の模範たる波斯人を離れて常に自由の空気を呼吸し来りし希伯来人の事績を稽へて御覧なさい、両者の間には殆んど天壌も啻ならぬ差別があることが分ります、即ち阿諛、佞奸、追従、諂媚の術の外、何事をも知らざりし波斯国の朝臣等に対して希伯来人たりしモルデカイを較べて御覧なさい、私共は彼れモルデカイに於て今より二千四百年前の往昔《むかし》に一人の自由の人を見止むるのであります、満朝挙つて権に阿り威に屈服する時に方(279)つて、茲処に一人の腰を曲げない人が居りました.
  王の門にある王の諸臣みな飽きてハマンを拝せり、是は王斯く彼になす事を命じたればなり、然れどもモルデカイは跪かず又これを拝せざりき…………………ハマン、モルデカイの跪かず、また己れを拝せざるを見たればハマン愈怒に堪へざりし、(第三章二−五節)。
 時の文明世界の半分以上に君主たりし大王の寵臣の忿怒を買ふも自己の人たるの威権を涜さないといふモルデカイは確かに太古時代に於ける自由の主唱家でありまして、英のハムプデン、米のワシントン、リンコルン等の先駆でありました、然れば彼れモルデカイが王に対して不忠不実の人でありしかと云ふに決して爾うではありませんでした、彼は王を暗殺せんとする隠謀あるを聞知しまして、直に之を王に密告するの途を取りました、(六章一、二、三節)、彼は佞入ハマンに対しては少しも屈しませんでしたが、王に対しては少しも非礼の行為に出でませんでした、殊に其従妹なるエステルを養育し、常に彼女の庇保人の地位に立つて、少しも自己のために求むる所なかりしが如きは彼が今日所謂るゼントルマンでありしことを証するに足ります、(一章七節、仝十一節等参考)敵としてゼルキゼス王を迎へし雅典、スパルタの勇士等が反抗独立の態度に出でたのは敢て賞するに足りません、モルデカイは宮廷に在て、而かも東洋風の跪服諂従の渦中に在て独り儼然として人たるの彼の威権を維持したのであります、彼は確かに主義の勇者であります、此点に於ては、エリヤ、ダニエルにも劣らない信仰の戦士であります、爾うして自由の微塵だも解しない二千四百年前の波斯朝庭に在て、自由のために斯くも大胆なる抗立を為したるモルデカイを産出したものはイザヤ、エレミヤの説いたヱホバの宗教を除いて他のものではありません。
(280) 以士帖書の女主人公は勿論エステル女であります、彼女はもとハダッサと称びまして彼女の従兄に当るモルデカイに養育られた者であります(二章七節)、エステルの名は彼女がアハシユエロス王の后となつた後で与へられたものでありまして、是はバビロン人の崇拝した女神イスター(Istar)の名を取て附けたものであります(『興国史談』バビロニアの章参考)、其顔貌の美を頼んで縦令大王なればとて異教信者の妻妾の一人に挙げられたとは猶太人の理想から云へば大に非難すべき所はありまするが、然し既に百余年の間他国の捕虜となり居りし国民中の婦女子の為した事として見れば、是れ亦左程に責むべき事ではないと思ひます、「没薬を用ふること六ケ月、また各様《さま/”\》の薫物《かほりもの》及び婦人の潔浄事《きよめごと》にあつる物などを用ふること六ケ月」(二章十二節)とは嬋妍たる彼女の姿を面前に見るやうでありまして、彼女に別に何にか冒かすべからざる所があらふとは少しも思はれません、彼女はたゞ顔貌《かほかたち》いとも麗はしき従順なる愛らしき猶太婦人であつたのでありましたらふ、然しながら彼女も猶太婦人で有ましたから波斯朝廷の後宮佳麗三千人とは自づから質を異にしました、メリアム、デボラ、ヤエル等の賢婦人を出した猶太民族の中に生れしエステルは身は錦繍に纏はれて君主の側に侍べるに至りましても彼女にドコにかしシツリとした所があります、猶太人は凡て愛国者であります、爾うして国のためとあれば其婦女も身命の危きを省みません、繊弱なるエステルも彼女の同胞を救はんが為には彼女に取ては最大の危険を冒しました、以士帖書の美はエステル女が猶太民族救援の請願を齎らしてアハシユエロス王の前に出でし時の記事に於て中集して居ます、(五章一、二、三節)、此時に於ける彼女の心の中の苦しさは如何ばかりでありましたらふ。
  王の諸臣及び諸州の民みな知る、男にもあれ、女にもあれ、凡て召されずして内庭に入て王に到る者は必ず殺さるべき一の律法あり、されど王これに金圭を伸れば生くるを得べし(四章十一節)
(281) 圧制国の法律として今日から見れば実に笑ふに堪へたるものでありますが、然し其下に立ちしエステルに取ては之を犯かすは死生の問題でありまして、非常の決心を為すにあらざればアハシユロス王の忿怒を冒して彼に近くことは出来ませんでした、モルデカイが猶太民族の危急を告げて彼女の決心を促がせし言辞は聖書中有名なる言辞の一つであります。
  汝若し此時に方りて黙して言はずば他の処よりして助援と拯救ユダヤ人に興らん、然れど汝と汝の父の家は亡ぶべし、汝が后の位を得たるは此の時のためなりしやも知るべからず(四章十四節)
 遠慮深きは女の常性であります、殊に独り異教信者の中に在て特種の宗教を信ずる事でありますれば一歩を誤てば同輩の嘲を招るのみならず、彼女の場合に於ては位を失ひ耻辱の最後を遂げなければなりません、上《かみ》の者は下の者の心を知りませんが、亦下の者も上の者の心を知りません、斯かる場合に於ける大宮人の心は大宮人ならでは判りますまい、若しエステルが普通の婦人でありましたならば彼女は独り自己の心に言ふたでありませう
  妾は繊弱き婦人の身であれば独り自己を慎みて婦女たるの道を尽せば足る、何んぞ進んで国事に干与し、我が国民のために竭すを須ゐん、是れ男子の為すべき事にして、女子の関する所にあらず
と、然しながらそこが猶太婦人であります、神の民のためとなれば彼女は身命を捨てなければなりません、彼女は猶太教の主旨に循つて爾う教育されました、「汝にして今黙して言はずば他の処よりして助援と拯救ユダヤ人に興らん」と、或は天の星を以てしてか、或は路傍の石を以てしてか、神は其撰民を救ひ給はん、「汝が后の位を得たるは此の時のためなりしやも知るべからず」、是れエステルに取ては実に強い勧告の言辞でありました、「汝が后となりしは綺羅粉黛に身を飾らんがために非ず、亦瑤車に乗りて万人の崇拝を受けんが為めにあらず、皇后(282)たるも宮女たるも猶太婦人に取りては神と同胞とに対して尽すべきの職責を尽さんためなり」と、此天職の観念がありまして、以士帖書も確かに聖書の中に入るべきの価値ある書であることが判ります、神の撰民ならでは皇后たるを以て身を同胞のために献ずるための大なる責任の地位であるとは思ひません。
 故に皇后エステル終に意を決し返辞をモルデカイに送りました
  エステルまたモルデカイに答へしめて曰く、汝往きてシユシヤンにをるユダヤ人を悉く集めて我がために断食せよ、三日の間夜昼とも食ふことも飲むこともする勿れ、我と我が侍女等も同じく断食せん、而かして我律法に背く事なれども王に到らん、我もし死ぬべくば死ぬべし(四章十五、十六節)
 優しくもあり、健気にもあります、彼女に祈祷の精神があります、亦た彼女に死を決したる死心があります、
   勿v謂裙釵料v事危 陽気向処山可v摧
   勿v謂妙齢不v堪v才 至誠固有2鬼神知1
 此至誠と決心とがありて何事も成らんことはありません、繊弱なるエステルも断食と決心とに依つて勇者となりました、彼女は終に王に近づきました、爾うして彼女のなすべき事を為し遂げました。
 勿論モルデカイと彼女とが王の権威を藉りて為した事柄に就ては我々キリストを信ずる者の眼より見て少しも賛同を表する事は出来ません。
  エステルいひけるは王もし之を善とし給はゞ願くはシユシヤンにあるユダヤ人に允《ゆる》して明日 今日の詔旨《みことのり》のごとくなさしめ、且ハマンの十人の子を木に懸けしめ給へ、王かく為せと命じシユシヤンにおいて詔旨を出せり、ハマンの十人の子は木に懸けらる、アダルの月の十四日にシユシヤンのユダヤ人また集まりシユシヤ(283)ンの内にて三百人をころせり、然れども其所有物には手をかけざりき、王の諸州にあるその余のユダヤ人もまた相集まり、立ておのれの生命を保護し、その敵に勝て安んじ、おのれを悪む者七万五千人をころせり、然れどもその所有物には手をかけざりき(九章十三−十六節)
 是れは勿論キリストの精神ではありません、是れは目にて目を償ひ歯にて歯を償ひ、爾の隣を愛みて其敵を憾《にく》むべしと言ふ旧約時代の古い精神であります、我等は勿論是を学ぶの必要はありません、然しながら其時代に在ては最も危険なる場合より、ユダヤ人が、皇后の地位に上げられし此一婦人エステルの英断に由て救はれしと云て一事に至ては、是れ其中に深い摂理の籠つて居る事でありまして、我々は能く此記事を翫味して深き真理に接することが出来ます。
 私は此講演を終るに方つて教授アデネー氏が以士帖書の註解に於て述べし一言を訳して諸君に献じやうと思ひます。
  神に関する智識に次いで最も肝要なる者は人に関する智識なるが故に、吾人は此第二の名誉の地位を何れの神学書よりも寧ろシエークスピヤの作に献ぜざらんや、而して若し然りとすればシエクスピヤに類する筆法を以て人を示現せし或る一つの記録が聖書の或る一書の中に含まれをる事を感謝せざらんや
 以士帖書は実にシエクスピヤの著作に類して人情の示現、亦其大なる福音書であります。
 
(284)     教役者の無情
                     明治36年6月11日
                     『聖書之研究』41号「雑記」
                     署名 角筈生
 
 今の宗教界の教役者と称する人達は伝道と云ひ活働と云へば必ず高壇の上に現はれ弁舌を以て人を動かす事であると思ひ、静かに筆を執り、詩を作り、文を綴り、以て人の心を根本的に訓化せんとする者の労働の如何に困難なるものである乎を知らない、彼等は矢張り世の俗人と同様に文人と云ひ詩人と云へば月を眺めながら悠々と閑日月を送る紫式部や大伴の黒主の如き者であると思ふて居る、それ故に彼等教役者と称する人達の我等筆を執る者に対して有つ同情は至て薄いものであつて、彼等は我等を高壇の上に引き出して彼等を扶けしむる事は幾度でもあるが、彼等が筆を執て我等の事業を扶けて呉れることの如きは滅多にない、然しながら彼等は能く考ふ可きである、若し我等が筆を執らなくなつたならば如何であらふ、若し我等が文を以て社会の根底にまで基督教の真理を注入して置かないならば彼等の口を以てする伝道は如何なるであらふ、我等文を以て道を伝ふる者は彼等の説教に新たなる聴衆を供給し、又彼等の導きし信者の信仰を養い行く者ではあるまい乎、然るを我等文士は何をも為ない楽隠居の如き者であるやうに思ふのは大なる間違ではあるまい乎、言ふまでもなく我等執筆者には彼等弁舌者の知らない苦闘がある、我等には彼等が有つやうな教会の同情も補助もない、我等は唯だ頭の上に神を戴き、心の中に勇気を蔵め、惟り神にのみ縋りながら寂漠しき道を独り勇んで進み行く者である、若し扶助を要(285)する者があるならば実は彼等ではなくして我等であると思ふ、我等は切に望む、世の教役者諸氏が若し自から進んで我等如き労働者を助くることが出来ないならば、我等を引出して我等の好まざる弁舌を以て諸氏の事業を扶けしめ給はざらんことを、是れ我等が諸氏に対して偏に望む所である。
 
(286)     余の人生観
                     明治36年6月15日
                     『万朝報』
                     著名 内村鑑三
 
 余の人生観と宇宙観とは一字にて足る「愛」是なり、星の輝くも愛なり、風の吹くも愛なり、海の鳴るも愛なり、生《うまれ》しも愛なり、死なざるを得ざるも愛なり、愛は宇宙を造り、且之を支持す、此愛の宇宙に棲息して余は歓喜極りなきなり。
 余は生を愛す、此世に在て愛の事業に従事し得ればなり、余は死を懼れず、無限の愛の余を繞囲するを知ればなり、愛より出て愛に帰る、生死の別、余に於て何かあらん。
 哲学はせを厭はしめ、政治は生を忌ましむ、惟り愛の福音のみ吾人に新生命を供す、諸人何ぞ速に来て生命の水を此愛の泉源に於て汲取らざる。
 
(287)     富と徳
        (明治三十五年六月十三日第五回講演会第三席)
                    明治36年6月29日
                   『朝報社有志講演集 第壱輯』                          署名 内村鑑三述 黒木耕一筆記
                 〔欄外の小見出しは省略した、入力者〕
 
 「富と徳」と一口に申しますれば何でもない様なものゝ、是は実は至つて六ケ敷い問題であります、之を哲学的歴史的に解釈することは出来ません、のみならず斯る問題を捉へて一時間足らずの講演に諸君の満足を買はんとするは到底出来難い注文でありますから、私は唯だ茲に一二の諷示《サヂエスシヨン》を与へて本題研究の方面を諸君に示さうと思ふのであります、如上《この》目的にして達しますれば私が今夕講壇上の責任は全く尽されたことゝ考へます。
 先づ談話の順序として富の定義、徳の定義を一通り陳べて置くの必要があります、第一に富は金銭ではありません、富は金なりと合点して居る世の俗人から観ますれば幾万の貨幣《かね》を所有《もつ》て居る人は洵に羨むべき分限者であります、則ち円銭厘は富を測る唯一の標準になつて居るのでありますが、併しこれは正鵠《まとを》外れた俗見たるに過ぎません、金銭の無い所にも富は有ります、富そのものが必ず金銭に伴ふものとは限りません、世には金持ちの貧乏人が沢山生活して居ることを私共は知て居ります。
(288) 経済学者に倣うて富の定義を下して見ますれば富は使用し得る力であります、即ち富は力《フオース》の代表者であります、一円札と雖もたゞの紙片ではありません、これは労働の代表即ち一種の力が紙の姿を取つて現れ出でたものであります、今富なるものを分析して見ると力と使用者との二つに分れますが、この二つなしには富は決して生じて来るものではありません、力なくんば富がないと同時に使用者其人を得ずんば富は有て毫も其効なきものであります、此の二者が具はらない間は何時まで経つても富の好結果を見ることは出来ません、一万の金を使つて堂々たる国会議員を買収し去る者もあれば、買収することの出来ない者もあります、併しこれは買収も得ない方が真実の人で有りませうが、兎に角之を使用ふ人が無ければ富にはなりません、富は常に不正不義と手を携へて居るものであるから道徳と富とは一致するものでないとは勿論今日の俗論であります、成程平沼や古川等が大に懐を肥やして居る所から見ますればいかにも此論が真理らしくは聞えますが、併しこれ等の富は所謂銅臭紛紛で其不潔終に国家を腐敗せしむるに至らねば已まぬものであります、悪人に用ゐられては富は究竟富にあらずであります、私は嘗て新潟市に出張《まゐつ》たことがありました、所が旅籠屋の老爺《ぢい》さんが遣つてきまして、「旦那、あなたが新潟に御出でになつては困ります、あなたのやうな方に居られては此土地の金は皆んな無くなつて了いまする マー取つた給料は何に御使ひなさる」と質ねますから、「宿料も払ふし、家内ではこれで米も買う書物も買うのさ」と答へますと、「それツきしでせう」と問返しますから、「マー然んなものだね」と申しますと「サーそれだから旦那は不可ないと云うんだ、少し放蕩をなさい、何でも放蕩する(289)なら、あの大橋から金札を一つ一つ川の中に流した方が善い」と返答したことが有ります、こんな思想を有てるものが新潟老人ばかりなら宜しいが或は諸君の中にも全く無いとは限りません、若し然うでありますればそんな不健全な思想は早速何処にか投げやつて了ふべきであります、河中に投じますれば十円百円の力は底の藻屑と消えて了ふかも知《わか》りませんが一内村に存して居る力其ものは依然として残るのであります、正義の為に用ゐてこそ金銭も即ち力たるに相違ありませんが、一旦正義と縁を絶ちますれば金銭は忽ち富たるの本性を失ふに至ります、徳の無い所に決して富の有りやう筈はありません、私共が有る丈の金銭を道徳的に用ゐますれば余計に幸福が得られまするのみならず、正義の力も又た愈々加はつて来ることは疑ふ可らざる事実であります。
 徳とは何でありますか、金銭を同胞に与へる事でありますか、親に徳利を捧げることでありますか、天子様に忠義を尽すことでありますか、成程夫等も徳の目録の中に入るべきものでありませう、併し夫等が徳の全体ではありません、今日謂ふ所の徳はただ外面ばかりでありまして、切りに忠孝々々と呼はりますけれどもそれは至つて浅薄なものであります、行為の中には外面に現れたる動作以外に動機《モーチブ》といふものがあります、私共は動機を忘れてはなりません、動機と一口に申しましても其種類は色々でありまして、例へば忠義といひましても人によりて、其動機なるものは一様でありません、自分の利益を獲んと欲して忠義顔する者もあれば、忠義でなければ社会から追出されると申して一生懸命に忠義を励まうとする者もあります、天子様の為めと申してど(290)んな者の前にでも俯臥《ひれふ》すといふ人も今の世に敢て珍らしくはありません、貴むべき忠の字も今日では大辺に不潔くなつてまゐりました、孝と申しましても穴勝ち親を愛する心から之を行すとは限りません、不孝は日本での禁物だから仕方なしにやるのだと申して居る者もあります、早く両親に左団扇を使はせて楽をさせ様とする息男《むすこ》や娘も有りますが、然し是等が真実の孝行ではありません、社会が誉めやうと誉めまいと、自分が斬られ様と殺され様と其んなことには少しも頓着なく遣り通すといふ所まで行かねば真の孝行ではありません、真の忠義も亦た同じことであります、行為の善悪を観るには深く其人の心中を調べて見なくてはなりません。
 斯く富と徳とを説明して見ますれば両者の関係は自ら分明であります、先づ個人の場合より両者の関係を話して見ませうか、正義を断行すれば金銭は溜らぬとは善く俗人の口に上る言葉であります、成程富といふものは道徳に伴はない感じも致します、併し富は正義の為めに用ふべき武器であつて肉慾の為に使ふべき筈のものではありません、これによりて心の独立を得、心の改革を得ますれば富は即ち富でありますが、富の為に徳を奪ひ去られては富は却て我を貧にする障魔と判定する外は有りません、富と徳とは一致せぬとの論は確に/\大間違であります、我が使用すべき筈の富に使はれて富は全く我の物でありません、かゝる時我は全く無力無能の一器械たるに過ぎません、又た或人はあれ丈の金が手元に在つたなら嘸ぞ愉快だらうなんと申しますが、然し意志の強い時に金の必要はありません、若し必要がありますれば臨機応変に何処からでも入り込んで来るものであります 金銭持は凡て快楽の多い人だといふも俗人の空言たるに過ぎません、(291)今日で面白い例は古川市兵衝と田中正造翁であります、御承知の通り翁は無一文の素寒貧でありますから、あの人は愉快の愉の字も知らぬ人だらうなどと諸君は御考へになるかも知れませんが事実仲々然うではありません、私は預じめ断言して置きますが田中翁程愉快に充ち溢れて居る人は滅多に在りません、前の日曜日にも私宅で五時間程談合しましたが民を思ふの一念は凝りて国家山林の談に及び滾々として尽くる所が無い様であります、而して彼れの顔には一種言ふべからざる快色がありまして誰れも之に引付けられぬ訳にはまゐりません、貧乏は不平の根本なりと思ふ人は先づ行いて翁を訪問なさい、私は常に考へます、古川は田中翁の有せる快楽の十分一も持つては居なかつたであらうと、実に田中翁は一個の活噴泉であります、青春花の如き紅顔の少年も恐らく翁の楽には及びますまい、翁の楽の洋々たることは渡良瀬川の如く又た坂東太郎の如きものでありませう、而して翁は飽迄も無慾恬淡の人であります、例の紋付の羽織は相変らず翁を飾ては居りますが、近頃は糊が剥げて大紋が落ちさうになつて居りますけれども、翁の口から未だ嘗て染込んだ紋の附いてる羽織を着やうといふ言葉の出たことは聞きません、況んや飲食物についての不平などは勿論有りません、細君のことすらも全く忘れて居られる様であります、座敷に上り込むが否や大きな矢立と懐中半紙を取出して直ぐに渡良瀬沿岸の図面書きが始まります、彼は金に於ても亦た甚だ富める人であります、先日も紙入から二円許り取出して御集りの書生さんに夏蜜柑でも振舞つて下されとの事ですから、何うしてそんなに金を有て居ますかと質ねますと、ナニ他人の為めに善を為せば金銭位ゐは転つてまゐりますといふ様な返答でありました、善(292)人なる彼は実に不善なる古川の幾十倍の富を所有して居る者であります、有名なる慈善家ヂヨーヂ、ミユラーが独逸から英吉利に参つて或会堂の牧師になりました時、金子《かね》を貰つて伝道するのは宜しうないといふて月給は一文も取らないことに決しました、或朝一生懸命に説教を致しまして非常な疲れを以て寓宅《やど》に帰りましたが嚢中皆無でありますから※[麥+面]麭一片食べることもなりません、其儘ヂツト観念して居りますと、丁度正午頃に一人の老媼が何処からか訪ねて参りまして今日の御説教で大に救かりました、御礼に何かと思ひましたが取り敢へずこれをと申して御馳走を幾皿も差出したと云ふことであります、実に之は奇蹟と申して宜しくありますか、摂理と称して宜しくありますか、唯々不思議といふの外はありません、又た、彼の有名なるムーデーは世界第一の富者でありました、彼が指の間に一本のペンさへ挾まれば百万弗といふ大金が直に飛んで来たといふはなしであります、岩崎弥之助男の前には日本知名の政治家大隈伯もペコ/\頭を下げらるゝ相でありますが併し岩崎の富は今建つて居る銀行や会社の外には存して居りません、今の銀行や会社が一向《ひた》潰れて了へば岩崎の栄華も其れ迄であります、尚ほ少壮時のムーデーを語《はな》して見ませうが、肉屋や洗濯星が夫れ/”\品物を持て参りましても手下には金銭が有りませんからこの土曜日迄支払を猶予して呉れと頼むのが彼の定りでありました、所で日ならずして金銭《かね》は何処其処からチヤン々々々集つてまゐります、彼はそれをポツケツトに入れ乍ら自分で支払に出懸けました、支払つた残金は何うするかといふにそれは皆な貧乏人に投じて遣つたと申すことであります、富も此に於て已に理想に達せりではありませんか、ムーデーの富と此べますれば岩崎の(293)富ななどは塵一本にも当りません、私はムーデーの如き大胆と果断とを有しません故に若い折には斯ういふ人生観を立てゝ見た事がありました、それは何うかと申しますに、先づ銀行に一万か二万かの金を預けて其利子を以て大きな善行を為ることができる、だから十年間は精々貯金を仕て其後に出来る丈の慈善を為やうと稽へたのでありますがこれは今日から見ると随分馬鹿気切つた計画でありまして、只々一笑に附する外はありません 成程日本で二万円と申せば朝鮮で百円有ってる人と富豪《かねもち》に数へらるるが如く大したものでありませう、併しこの金がいつ迄安全に保存せられますか、日露戦争の暁には日本政府は何時瓦解するか分りません、其時若し私に預金なるものがありますれば、私は其金子を元の儘に預けて置かうとは致しません、三井三菱と今では意張て居りますが彼等とても何時倒れて了ふか分りません、それでありますから其んな心配や気苦労をして金を貯たり預けたりして貴き生涯を費やすのは大馬鹿の骨頂でありまして左様いふ生活に立つて慈善事業も学問も自由に出来やう筈はありません、それでは如何致しますか、左様、宇宙の神様と和合して金銭も身心も何もかも一切を其の御方に委せて了ふのであります、小なる我を忘れて只啻《ひたすら》他人を愛しますれば岩崎以上の富が皆な我に集つてまゐります、然かも此の富たるや一朝一夕に雲散霧消し去るものでは有りません。
 以上は個人に対しての富でありますが国家に対する富又は家族に対する富も同様に推知することが出来ませう、家族について申しますれば金が弗函を埋めたからといつてもそれで家族の富ができ上つたとは申されません、何々商会の女が男俳優を買つて巫戯け廻つたといふ様な顛末を見(294)ましても一家の富がどれ程徳と関係して居るかゞ分明りませう、唯だ金を溜めやうとするよりも今|所有《もつ》て居る金を善く用《つか》ふことを心得なければなりません、而してつまらぬ欲望と戦つて大に克己の徳を琢くことが肝要であります、それを永久に実践致しますれば僅か月に三十円の生活が百円の生活にも優つて愉快に感ぜられます、之によりて主人は目的を高尚にして清純なる生涯を続ける様になつてまゐります、然して其感化は細君や子女に迄も及びまして一家族全体が美しい幸福を享くる様になつてまゐります、一家眼前の安心は多くは一定の収入から起つて来るものでありますが私は茲に独立の生涯を人々に勧告しなければなりません、一定収入の安心は亭主が自堕落となり続いて細君が繻珍の丸帯息子が流行《はやり》の自転車といふことになつてまゐります、金に徳が副ひません時には一家の不快は明白《わかり》切つたことでありますが若し斯様な家にも高尚な精神が入つてきまして主人の心が上品になりますれば其効果の及ぶ所どれ丈の幸福が富の上に発はれて来るか知れません、家内がうまく治まらぬ為に財産の亡くなつた実例はいくらもあると思ひます、日本国に富の増さぬ源因は一つは家庭《ホーム》の無いといふ事ではありますまいか美しい家庭が成就《でき》さへ致しまするなら必しも土地の開拓や鉱山の採掘に齷齪するには及びません、日本国には所謂忠孝徳が大分盛ではありますが之が為に国民はどれ丈の平和を得て居りますか、働く者少くして遊ぶ者多き処には何時迄経ても平和の春風に吹かるゝことはできません、のみならず唯得る所は不平と小言許りであります、忠孝道徳に依りて着任を家族の一部分にのみ与へますれば兎ても円滑に父子や兄弟の間が纏つて行ものでは有りません、一家族凡てが責任を負て精を出すといふことに定(295)りますれば幸福は限りなく続いてくるのであります。
 これは個人より又た家庭より論を立てゝ見ての事であります、然し国家の上から見ましても徳が富を産み徳が富を殖すに至るは疑ふ可らざる事実であります、而してこれは独り我国にのみ限りません、太平洋を隔つる亜米利加に於ても同じ事であります 亜米利加の富は土地の鉱山に在りと主張する人も有りますが左様ではありません、之は矢張り道徳から起つた健全なる社会組織に存して居るのであります、之を疑ふ人は和蘭国を見るが宜しう御座います、※[草がんむり/最]爾たる此の小国が新道徳の興立によりていくら其富の力を増加したか分りません、金を作るといふ事と富を獲《う》るといふ事とを全く同一に考へる人は深く反省して其非を悟る必要が有るので御座います。
 内村生日ふ、此日時間足らずして余の思想の大体をさへ述べ得ざりしを憾む。
 
(296)     戦争廃止論
                       明治36年6月30日
                       『万朝報』
                       署名 内村鑑三
 
 余は日露非開戦論者である許りでない、戦争絶対的廃止論者である、戦争は人を殺すことである、爾うして人を殺すことは大罪悪である、爾うして大罪悪を犯して個人も国家も永久に利益を収め得やう筈はない。
       *     *     *     *
 世には戦争の利益を説く者がある、然り、余も一時は斯かる愚を唱へた者である、然しながら今に至て其愚の極なりしを表白する、戦争の利益は其害毒を贖ふに足りない、戦争の利益は強盗の利益である、是れは盗みし者の一時の利益であつて、(若し之れをしも利益と称するを得ば)、彼と盗まれし者との永久の不利益である、盗みし者の道徳は之が為に堕落し、其結果として彼は終に彼が剣を抜て盗み得しものよりも数層倍のものを以て彼の罪悪を償はざるを得ざるに至る、若し世に大愚の極と称すべきものがあれば、それは剣を以て国運の進歩を計らんとすることである。
       *     *     *     *
 近くは其実例を二十七八年の日清戦争に於て見ることが出来る、二億の富と一万の生命を消費して日本国が此戦争より得しものは何である乎、僅少の名誉と伊藤博文伯が侯となりて彼の妻妾の数《すう》を増したることの外に日本(297)国は此戦争より何の利益を得たか、其目的たりし朝鮮の独立は之がために強められずして却て弱められ、支那分割の端緒は開かれ、日本国民の分担は非常に増加され、其道徳は非常に堕落し、東洋全体を危殆の地位にまで持ち来つたではない乎、此大害毒大損耗を目前に視ながら尚ほも開戦論を主張するが如きは正気の沙汰とは迚も思はれない。
       *     *     *     *
 勿論サーベルが政権を握る今日の日本に於て余の戦争廃止論が直に行はれやうとは余と雖も望まない、然しながら戦争廃止論は今や文明国の識者の輿論となりつゝある、爾うして戦争廃止論の声の揚らない国は未開国である、然り、野蛮国である、余は不肖なりと雖も今の時に方て此声を揚げて一人なりとも多くの賛成者を此大慈善主義のために得たく欲ふ、世の正義と人道と国家とを愛する者よ、来て大胆に此主義に賛成せよ。
 
(298)     余の見たる信州人
                       明治36年7月6日
                       『信濃毎日新聞』
                       署名 内村鑑三
 
◎「人国論」の著者に拠れば信州人の特性は「愚にして頑」なるに在りと云ふ、余の見たる所を以てすれば彼等は今日に至るも此特性を変へざるが如し、
◎「愚にして頑」とは馬鹿正気の意なり、即ち人に騙され易く、而かも騙さるゝと知れば直に惑を解くの謂なり、余の見る所を以てすれば信州人は能く此性を帯ぶるが如し
◎余は幸にして未だ曾て信州人中に奸物を見ず、芸州人の如き、長州人の如き奸物にあらざる者は稀なるに此べて信州人にしては奸物なるは稀なるが如し、是れ余が此明治の偽善政府の治下に在て望を信州人に属する所以なり、
◎而かも信州人が伊藤侯を戴き、大隈伯を仰ぐに至ては言語同断なり、余は信じて疑はず、浅間山麓は狐狸族の繁殖すべき処にあらずと、
◎山国人《さんこくじん》なるが故に信州人は堅くして狭し、上田人は松本人を排し、小諸人は上田人を信ぜず、千曲と筑摩の水域の異るが如く、北信と南信とは異郷の感あり、彼等は信州全国のために謀らず、故に西南狐狸の輩の乗ずる所となる、是最も歎ずべきこと也、
(299)◎何にも信州人に元始的善性ありと云ふにあらず、人は皆な悉く罪人なれば信州人とて天使族にあらざるは勿論なり、然れども愚なる者は正に入り易し、救済の希望絶無なる者は智慧のある者なり、中国人の如き名古屋人の如き、殆ど此絶望の淵に瀕する者なり、
◎愚者が智者と成り、然る後に義者と成るに非ず、愚者は直に義者と成るべきなり、愚者、智者となれば、義者とならずして奸物となる、近世教育の危険はこゝにあり、
◎信州人は永久に「愚にして頑」たるべきなり、「智にして軟」なる者は信州人にして信州人に非ず、而かも斯かる信州人を時に信州に於て見るは歎ずべきことなり、殊に諏訪湖辺、並に天竜河畔に此種の信州人多しと聞く、
◎信州人は日本に於ける世界道徳の先覚者、支那道徳の撲滅者、新日本徳流の泉源たるべきなり
 
(300)     人生問題解釈の方法
                         明治36年7月9日
                         『万朝報』
                         署名 内村鑑三
 
 人生は謎ではない、故に是は書を読んだり、或は頭脳で考へたりして理会るものではない、人生は事実であるから、之を判らふと欲へば之を実行はなければならない、実行に由らずして、ホレーシオーの哲学や、ニーチエ、シヨツペンハウエルの著書に由て之を解釈せんとするからこそ、失望落胆に終るのである。
       *     *     *     *
 人生は不可解と言ふか、然り、幾何学の問題を解するやうに人生を解することは出来ない、然し人の心を解するやうに之れを解することが出来る、爾うして人の心を解する唯一の方法は人を愛するにある、其人を愛するに非ざれば其人を解することは出来ない、人生を愛せざる者が人生を解し得やう筈はない。       *     *     *     *
 失望者よ、失恋者よ、厭世家よ、汝の脳中の煩悶を廃めて、渡良瀬河沿岸に或は東北饑饉の地に無辜の民を見舞ひ見よ、行て彼等に同情の冷水一杯を与へ見よ、彼等が汝に呈する感謝の辞の中に汝が大哲学者の書に於て獲ること能はざる深き人生の真理を発見するを得ん、国に四千万の民の薩長政府てふ古今未曾有の偽善政府の下に苦みつつあるにあらずや、汝は何を択んで飛漠の下に、或は静池の底に汝の生命を沈めんとはするぞ、同一の生(301)命を人類のために消費し見よ、人生の快味は其時に汝の心の中に生じ来り、汝は永遠に生んことを欲して、暫時たりとも死なんことを欲せざるに至らん。
 
(302)     〔神は愛なり 他〕
                     明治36年7月23日
                     『聖書之研究』42号「所感」
                     署名なし
    神は愛なり
 
 我儕は一度は死ぬと定つてをる、然し神は愛である、我儕の愛する此日本国も亡ぶることがあるかも知れない、然し神は愛である、天は焚毀《やけくづ》れ地と其中にある物はみな焚尽るであらふ、然し神は愛である、神は愛であるから我儕は何が来ても懼くはない、我儕は唯知る凡の事は神を愛する者の為に悉く働きて益をなすことを(ロマ書八の廿八)。
 
    我を識る者
 
 我を識る者は神と神を識る者とのみである、神を識らない者は我を識らない、其我が父母たると兄弟たると姉妹たると妻たると子たるとを問はない、凡て神を識らない者は我を識らない者である、彼等は我に取りては他人である、我が霊魂と何の関係もない者である。(マタイ伝十二章四人節以下)
 
(303)    敵を愛する理由
 
 我れ神に在り、神、我に在りて我を憎む者は神を憎む者である、爾うして神を憎み、彼を敵として有つ者は憐れむべき者であつて憎むべき者ではない、我儕が我儕の敵を愛するのは我儕の勢力が余りに偉大であるからである(ヨハネ伝十五の十八)。
 
    最大の賜物
 
 神が人類に下し給ふ最大の賜物は神御自身である、爾うして神は其聖霊を以て之を我儕に下し給ふ、我儕此恩恵に与からんがために如何なる困難に遇ふても可い 飢餓も裸※[衣+呈]《はだか》も危険《あやうき》も刀剣《つるぎ》も之を得るためには決して辞すべきではない、人若し全世界を得るとも其生命を失はゞ何の益あらん乎、人若し万物を失ふとも若し神を得んには何の悔ゆる所かある、我儕は神が我儕より何物を取り去り給ふとも必ず聖霊を以て神御自身を我儕に下し給はんことを単《ひたす》らに祈るべきである。
 
    完全なる宗教
 
 基督教は完全なる道徳であると云ふ者がある、基督教は勿論それである、然しそれのみではない、基督教は完全なる道徳と同時に之に達するの途を示し之を行ふの力を供する者である、若し基督教が完全なる道徳だけであるならば、それは最も無慈悲なる宗教である、そは道徳は完全なるだけそれだけ守るに難い者であるからである。(304)然しながら基督教は完全なる道徳に添へて完全なる力を供する者である、基督教の実力は其宣言に相応して居る、故に我儕は基督教は完全なる宗教であると云ふのである。
 
    絶対的宗教
 
 基督教は絶対的宗教である、故に宇宙と人生とは基督教を以て解釈さるべきものであつて、基督教は宇宙と人生とを以て解釈さるべきものではない、基督教を以て真理の一面と見做し、或は之を宗教の一つと算へる者は未だその何たる乎を知らない者である、基督教は絶対的宗教でなければ何んでもない者である。
 
    我儕の問題
 
 我儕の講究しつゝある問題は事態の変遷とは少しも関係のない問題である、是れは満洲が露西亜の属《もの》とならふが、或は日本の属とならふが、或は露西亜が亡びやうが、英国が亡びやうが、其事には何等の関係を有たない問題である、是れは神と基督と永遠と霊魂とに関する問題であつて、是れは天上に輝く星が地上の変遷と同時《とも》に少しも其色と光とを変へないやうに、世と共に移らず、時と偕に変らない問題である、我儕は朽つる斯世に在て朽ざる国の事を研究しつゝある者である。
 
(305)     三年前の今日
                      明治36年7月23日
                      『聖書之研究』42号「所感」                          署名 内村生
 
 明治三十三年七月十二日、此日は是れ余に取ては終生忘るべからざる日である、此日旧東京独立雑誌は潰れた、此日余が友人は袖を連ねて余を独り遺し去つた、余は其時に余の心血を絞つて泣いた 然し余を去りし余の友人は余の心の苦痛を見て悦んだ。
 然しながら今に至りて之を思へば、是れ余に取りての大なる恩恵の日であつた、此日に余は労多くして益少き社会改良事業なるものに暇を告げた、爾うしてそれと同時に余の伝道事業は始まつた、此日に「聖書之研究」は生れた、余は或意味から曰へば此日に於て更らに新たに救はれたる者である、而かも火より脱出《のがれいづ》る如くに救はれたる者である(コリント前書三の十五)。
 爾うして神の恩恵に由て「研究」雑誌の誕生は多くの霊魂が神にまで新たに生れ来るの櫻会となつた、神は此小さき器械を用ひ給ひて多くの人に天国の福音を伝へ給ふた、若し未来の裁判の日に於て「研究」誌を機械に永遠の救拯に入りし者があるならば、其人は必ず此誌と七月十二日とも記憶するであらふ。 記憶すべき七月十二日よ、汝に関する総ての辛らき記憶は今は忘れ去て、汝より出し総ての喜悦と恩恵とは我儕に存れり、余は永久に汝を記憶せん、而かも些少の怨恨と忿怒なくして汝を記憶せん 願くは恩寵永へに其日(306)に痛く余を泣かしめし旧友諸氏の上にあらんことを。
  明治三十六年七月十二日、角筈の古巣に於て誌す。
 
〔英文の詩、省略〕
 
(307)
   歓喜は来り、悲哀は去る、何故か我等は知らず、
    万事は今は喜悦なり、
    万事は今は向上なり、
   今や誠実ならんとするは
   草と空とが青からんよりも易し、
    是れ人生の常道なり、
   誰か雲の行路を知らんや、
   霽れし空に其迹なし。
   眼は其流せし涙を忘れ、
   身は其痛みと悲みとを忘る、
   心は春の壮時に還り、
   忿怒と仇恨《うらみ》の瘡痍は深く、
   雪もて蔽はれし火山の如くに、
   静けき過去の下に葬らる。
     (ラッセル、ローエル作『ラウンフウル公の夢』の一節、意訳)。
 
(308)     〔基督教問答 キリストの神性〕
                    明治36年7月23日・12月17日
                    『聖書之研究』42・47号「問答」                        署名 内村鑑三
 
    基督教問答
 
       其一 キリストの神性
問、貴下は実にキリストの神なる事をお信じになりますか。
答、左様です、実に爾う信じます。
問、何に依て商うお信じになりますか。
答、第一は聖書に依て、第二は私の最も確かなる実験に依て、第三は歴史に依て爾う信じます、私の考へまするにキリストを神と信じて人類の歴史は最も明瞭に解釈することが出来るものであると思ひます。
問、先づ聖書の証明から伺ひませう、聖書は実にキリストは神であると申して居ります乎
答、聖書は最も明白に爾う申して居ります、私は或人達が聖書にキリストは神であると云ふことを一つも載せてないと言はるゝのを聞て、其人達は真に聖書を研究した人達である乎を疑ふ者であります。
問、何処に聖書はキリストは神であると言ふて居ります乎、
(309)答、何処にとのお問ひでありますか、聖書を開いて御覧なさい、約翰伝の第一章の第一節を読んで御覧なさい、道は即ち神なりと書いてあります。
問、其「道」とは確にキリストを指して言ふたのでありますか、「道」とは真理とか道理とか言ふ義ではありません乎。
答、「道」とは此処では確かに或るペルソナリチー(性格)を具へたる者を指して言ふて居る事は其前後の関係を見て明かであります、若し「道」が無生の物であつて有生の実在者でありませぬならば、道は即ち神なりと云へば神は抽象的の物又は理であると云ふことになりまして、聖書の大趣意に背くことになります。
問、尚ほ他にもキリストは神であると云ふ事が聖書に書いてありまするか。
答、有りますとも、約翰伝の十章の三十節にキリストの言はれた言辞として我と父とは一なりと書いてあります。
問、それはキリストと父なる神とは其目的、思念、愛情に於て同一なりとの意味ではありません乎。
答、私は爾うは思ひません、是を希臘文で読みますると、尚ほ一層能く其意味が分ります、之を直訳しますれば
  我と爾うして父は我等はある、一である
となります、「我等」と言はれましたキリストは神を彼と同等の者と見て此言を発せられたのであります、目的、思念の同一なるは言ふまでもありません、キリストと父は、彼等は其実体に於て一つであるのであります。
(310)問、更らに善く此点を説明して下さい。
答、此事を説明するために腓立比書二章の六節を読んで御覧なさい、「彼(キリスト)は神の体にて居りしかど」云々と書いてあります、此処に「体」と訳されたる原語は morphe と云ひまして之れは実質又は精要と訳すべき詞であります、キリストが神(父なる)と実在を同にせらるゝことは新約聖書全躰の示す所であります。
問、尚ほ其他にモツト明白にキリストは神であると言ふて居る所がありますか答、哥羅西書の一章の十六節を開いて御覧なさい、哥羅西書は全躰にキリストの神性を主張する書でありまするが、殊に此一節に注意して御覧なさい、万物彼(キリスト)に由りて造られたり、且つ其造られたるは彼が為なりと書いてあります、キリストは万物の造主であると云ふのであります、之れより明白に彼が神なることを言ひ顕はすための言辞はありません。
問、然し私の或る先生より聞きましたに哥羅西書は実際使徒パウロの書いた書であるか、疑はしいとの事であります、それは如何でありますか。
答、其事は全く別問題であります、私の申上げまするのは聖書を聖書と見た上の事であります。
問、モーそれ丈でありますか。
答、未だ幾干《いくら》でも有ります、約翰伝八章五十八節の我はアブラハムの有らざりし先きより在る者なりとのキリストの発言、同廿章の廿八節にある、弟子トマスがキリストに対つて我主よ我神よと言ひて崇拝の言辞を彼に奉りしに彼は之を拒み給はざりし事等はキリストが御自身の神性を表せられた事であると思ひます。
問、尚ほ参考のため洩れなく此点に関する聖書の聖句を示して下さい。
(311)答、羅馬書九章五節は確かにキリストの神格を証明するに足るものである乎、学者の間に議論はありまするが、然し普通訳されたる所では確かに其事を示して居ります、キリスト 万物の上に在りて世々讃美を得べき神なり、是に類して提多書二章の十三節はモツト明白に同一の事を言表して居ります、大なる神即ち我儕の救主イエスキリストと書いてあります、又希伯来書一章の八節にキリストに対して言はれたる言辞に神よ爾の位云々とあります、是皆な人に対つて神の号を奉ることを決して為さゞりし猶太人の書き記せし言辞として我性の大に注意すべきものであると思ひます。
問、然し聖書の或所に於てはキリスト自身が彼は父なる神に劣りたる者であるやうに曰はれて居るではありませんか。即ち約翰伝十四章の廿八節にキリストは蓋わが父は我より大なれば也と言はれて居るではありません乎。
答、それは活動の順序より爾う言はれたのであります、キリストの此言辞が彼の神格に関して何の関係もない言辞であることは同じ約翰伝の五章の十八節を見れば明瞭に判かります、此に因りてユダヤ人いよ/\イエスを殺さんと謀る、そは安息日を犯すのみならず、神を己が父といひ、己を神と斉しくすればなりと。
問、然しながら父は矢張り子よりも大なる者ではありません乎。
答、或る意味に於ては勿論爾うであります、子の子たる所以は其従順の性に因ります、父の父たる所以は其の統治の権に因ります、完全なる父と、完全なる子、此二つが備はつて完全なる神性があるのであります、子の完全は父の完全と異《ことなり》ます、キリストは言ふまでもなく子なる神であります、此事に関しては腓立比書二章五節より十一節までを御覧なさい。
(312)問、問題が余り深くなつて私には能く分かりません、キリストが神なる証拠は何にか他の点からも立てられません乎。
答、左様であります、彼に罪なるものがなかつた事が、是れ亦確かに彼が神であるとの一つの証拠となります、少くとも彼が人でないとの最も確実なる証拠となります。
問、聖書の何処にキリストの絶対的清浄潔白が示してありますか。
答、約翰伝八章の四十六節にキリストが彼の敵人并に批評家に向つて爾曹の中誰か我を罪に定むる者ある乎と言はれしのは人としての言辞としては余りに大胆でありまして、若し此言を発し得る者がありとしますれば其人は神でなければ狂人であります、爾うして茲処にキリストが言はれた罪とは今日我儕の謂ふ所の法律上の罪ではありません、ユダヤ人に取つては罪に法律上又は道徳上の区別はありませんでした、彼等に取ては凡ての罪は神に対しての宗教上の罪でありました、爾うしてキリストは彼は曾て神に対つて罪を犯したことは無いと言はれたのであります、夫れ故にパウロはキリストのことを罪を識らざる者と云ひました(哥林多後書五章廿一節)。
問、キリストの神格は聖書の証明する所であるとしまして、之を信ずることが実際の信仰上何の実益があります乎、我儕はキリストの命令さへ守ればそれで彼の弟子たるの義務は足りるのではありません乎。
答、私は爾うは信じません、キリストの神格を信じるのは信仰上の最大要件であると思ひます、私共はキリストは罪の贖主であると信ずるのであります 爾うして神にあらずして罪を贖ひ得る者は広き宇宙の中に何にも無い筈であります 若し宇宙間に贖罪の事実がありとしますれば其事其れ自身が神なる教主の実在を証拠(313)立てます、爾うしてキリストは私の罪の贖主であります、故に彼は私の救主私の神であります、(約翰伝廿八章の廿八節)。
問、それと実際上の生涯との間に何の関係がありますか。
答、最も深い最も緻密なる関係があります、私共人類は聖い行を行つて罪を贖はれるのではありません、罪を贖れてから神の聖旨に適ふ行為が成就《なしとげ》られるのであります、神なる贖主を有たずして、我儕既に罪に沈淪せる人間がキリストのやうな聖い生涯を送れやう筈はありません。
問、爾う致しますると貴下は贖罪は前にして行為は後であるとお信じなさるのでありますか。
答、爾うであります、それが基督教の示す生涯であります。
問、然し私は如何しても爾うは信じられません、私はヱマソン、カーライル、トルストイ等に従ひ、人は自から努めて完全なる生涯に達することが出来ると思ひます。
答、其根本的の間違がある故に貴下にはキリストの神性がお分りにならないのであります、キリストの神性を宗教問題とのみ見做しては成りません、是れは実に道徳問題であります、斯う申したらば貴下はお怒りになる乎も知れませんが然し此事の分らない者は未だ罪に居る者であります。
問、それは如何いふものでありますか。
答、※[言+荒]者《いつはりびと》とは誰ぞ、イエスを言ひてキリストとせざるものならずや、父と子とを拒む(否む)者は即ちキリストに敵する者なり(約翰第一書二章廿二節)、神の子を有つ者は生を有ち、其子を有たざる者は生を有たず(同五章十二節)、イエスを言ひて神のキリスト、即ち生命其物とせざる者は彼に敵する者であつて、未だ死と罪(314)とに居る者であるとのことであります、貴下は此事に就て深くお考へになつたことがありますか。
問、それは教義を生命の前に置くことであつて、人の自由を妨げることではありません乎。
答、爾うではありません、真正の自由は茲処にあるのであります、子(キリスト)もし爾曹に自由を賜へなば爾曹誠に自由を得べし(約翰伝八章卅六節)、自由なるものは我儕人類に自然に備はつて居るものではありません、これは矢張りキリストより賜《あた》へられるものであります。
問、それならば如何うしたらばキリストの神なることが分かるのでありませう。
答、哲学的に此問題を攻究したればとて分かるものではありません、神学者に就て神学を修めたればとて分かるものでもありません、聖書は此事に就て明白に教訓を下して居ります、人は聖霊に由らざればイエスを主(即ちヱホバ)と謂ふ能はずと(哥林多前書十二章の三節)、此事は直に神に教へられざれば分かることではありません、故に心を謙遜にしてお祈りなさい、恩恵の神は必ず貴下に此大なる奥義を現はし給ひませう。 〔以上、7・23〕
 
     キリストの神性(再び)
 
       其一、問題の性質
問、或人はキリストは神であると申します、亦或人は彼は人であると申します、貴下は執れをお信じになるのであります乎。
答、キリストの性格に就ての御質問でありますか、私は之に応じまする前に一言、此問題の性質に就て貴下に(315)申上げて置かなければなりません、失礼ながら貴下は如何いふお考へから此問題に就て私にお尋ねになるのでありますか、其事を先づ伺つて置きたいものであります。
問、別に如何いふ考へと云ふのではありませんが、是れは宗教上の大問題であるやうに見受けまする故に、それに就て御意見を伺ふと致した次第であります。
答、御説の通り是れは宗教上の大問題であることは申すまでもありません、然しながら是れは単に世に所謂る宗教問題ではありません、即ち是れは単に私共の理性に訴へて、面白半分に哲学的に講究すべき性質の問題ではありません、キリストの性格問題は実に道徳問題であります、人類の攻究すべき問題の中で実は是れ程、大切なる問題は無いのであります、私は貴下が予め此事を御承知置きあらんことを願ひます。
問、御注意は真に有難く存じます、然しながら私にはまだキリストの性格問題が道徳問題であるといふ事が分りません、キリストの何たる乎を知るのは吾人の品性に直接の関係があると仰せられるのでありますか。
答、左様であります、貴下は聞いて驚きになる乎も知れませんが、然かし人の品性と彼の永久の運命とは彼がキリストに就て如何信ずる乎に由て定まるのであると私は信じます、キリストは実に品性の試験者であります、彼を知るは永生であります、私は今、貴下が直に此事をお分りにならふとは望みませんが、然し貴下が此心を以て此深遠窮りなき問題を考究せられんことを望みます、多くの人が此問題に就て議論を闘はした揚句、何等の光明にも達し得ませんのは、彼等が此畏敬の心を以て為ないからであると思ひます、即ち自己の心に鑑みないで、之を自己以外の問題と見做し、哲学者が時間空間の問題を研究する時のやうに、単に智識にのみ由て之を解釈せんと致しまするが故に彼等は何時も満足なる結論に達しないのであります。
(316)問、御注意に循ひまして、謹んで空想に趨らないやうに努めませう、只私の不審の廉々に就ては幾重にも御説明を願ひたく存じます。
答、勿論私の知つて居ること丈けは喜んで御答へ申します。但し私の薄信浅学は予め御承知置き願ひます。
 
       其二 聖書の証明
問、聖書は実にキリストの神性を示して居ります乎。
答、私は居ると思ひます、私は充分に示して居ると思ひます、私は聖書を公平に研究して、此事を認めない訳には行かないと思ひます。
問、然し聖書の或処ではキリストは人であると言ふて居るではありません乎、乃ち提摩太前書第二章の五節に「人なるキリストイエス」なる言辞があるではありません乎、是に対してキリストは神であると明言してある所は聖書に見当らないやうに思はれます、福音書全躰の記事から考へて見まして、キリストの人でありしことは何人も疑はない所でありまして、彼を神とする者があるからこそ彼の性格問題が起るのではありません乎。
答、左様であります、然しながら聖書の記事全躰から推測しましてキリストを人なりと断定する事の至て難い事は、是れ亦何人も認むる所であると思ひます、若し貴下がキリストは人であるとの聖書の証明を一つ御引出しになりまするならば、私は彼は神でなくてはならないといふ同じ証明を十も二十も引出すことが出来ると思ひます。
(317)問、聖書の如何いふ所にキリストの神性が示してありますか。
答、殆んど聖書到る所にあると思ひます、先づ試に馬太伝の第一章を開いて御覧なさい、若し其記事が誤謬でないと致しますれば、其中にキリストの性格が明々《あり/\》と示してあると思ひます。
問、其れはどういふ所に示してありますか。
答、其十六節にキリストと称へるイエス生れ給ひきとありまして、イエスの何たる乎が明かに示してあります、キリストとはメシヤ即ち神の受膏者の意でありまして、若しイエスがキリストであり、即ちユダヤ人の待望みし彼等の教主なるメシヤであると致しますれば、彼が人間以上の者であつたことはユダヤ人たる者の何人も疑はない所でありました、只彼等に取ての大問題はナザレのイエスが実に此メシヤであつた乎、否やでありました、然るに茲に馬太伝の記者が、其書の首に於てイエスをキリストなりと称へて居るのであります、是れ此章に於てイエスの神性が私共に示されて居る其第一であります。
又其第廿節に於てマリヤの孕める所の者は聖霊に由るなりとありまして、イエスが尋常一様の人でないことを示して居ります、此記事が迷信に由て成りしものであると致しますれば夫れまでゞありまするが、然し是れが聖書の明白なる記事でありまするが故に、若し聖書は其大躰に於て信ずるに足るべき書であると致しますれば、イエスの奇跡的出生の事実に就て疑を抱くことは出来ません。
又其廿三節に処女孕みて子を産まん其名をインマヌエルと称ふべし……其名を訳けば神我儕と偕に在るとの義なりとあります、イエスの場合に於ては名は実を示すものであります、後世に至てインマヌエルの名を帯びし人は沢山ありました、有名なる独逸の哲学者カントはインマヌエル、カントと称ひました、又伊太利国の(318)前々皇帝をビクトル、インマヌエルと称びました、然しながら哲学者カントも皇帝インマヌエルも自分は神の独子で人類唯一の救主であるとは信じませんでした、イエスのみが真実のインマヌエル、即ち「神、我儕と偕に在る」者であると自覚しました、爾うして又彼の生涯が彼の此自覚の決して彼の妄想に出たものでないことを示して居ります、又ユダヤ人として馬太伝の記者が此聖名を真実のインマヌエル以外の者に適用しやう筈はありません、インマヌエルは人類の中に住はれし神であります、爾うしてイエスは此インマヌエルであるとの事であります。
斯の如くに新約聖書は其巻首からイエスの神性を明かに示して居ると思ひます、イエスの神性を否定して新約聖書は煩混、錯雑、自家撞着、実に読むに堪へざる書となると思ひます。
問、御説、或は御尤かも知れません、然しながら聖書中所々にイエスが神より劣つたる者であるやうに記示《かきしめ》してあるのは如何いふ訳でありますか、前に申上げました提摩太前書二章五節の外に、約翰伝十四章廿八節に、イエスは自身を天の父に較べて「我が父は我より大なれば也」と言はれたと書いてあります、又イエスが自分を神の忠実なる僕として世に紹介されたことは御承知の事でありませう、斯かるイエスの証言より推量致しまして、イエスを神なりと断定致しますれば、終にイエスは自己の僕なりとか、或は彼は自己より大なる者なりとか云ふやうな背理に達するに至るではありますまい乎、此辺の御説明は如何がであります乎。
答、其御質問に応へまする前に、私は聖書はそれと同時に何んと言ふて居る乎、其事に御注意を仰がなければなりません、「我が父は我より大なれば也」と云ひ、亦「我が父は万有《すべてのもの》よりも大なり」(約翰伝十章廿九節)とイエスが言はれたと書いて居る聖書は、それと同時にイエスは「我と父とは一なり」と言はれたと書いて居(319)ります、爾うしてイエスの此言が決して曖昧の言でなかつたことは彼の此言を聴きしユダヤ人が彼に就て非常に怒つたといふ事で分ります、爾うしてイエスが彼等に何故に怒るやと問はれし時に彼等は彼に答へて「爾、人なるに己を神となすに因る」と言ひました(十章卅三節)、イエスが彼の国人に神と同位同等の者なりと誤解せられんことを少しも憚かり給はなかつたことは新約聖書の明白に記す所であります、又聖書全躰の記事から推測致しまして、父なる神と子なるキリストとの優劣は職務上の優劣であつて品位上の優劣でないことは能く解ると思ひます、恰かも内閣諸大臣は其品位に於ては孰れも同等であつた、唯其職務の上に於てのみ総理大臣は他の大臣の上に立つ者であるやうな理由であると思ひます。
問、如何にも巧なる御例証であります、然しながら聖書の記事は実際御説の通りでありますか。
答、私は爾うであると思ひます、今聖書全躰に渉つて私の所信を御説明致す訳には到底参りませんが、然しながら其中の二三の箇所を御|指示《しめ》し申して私の信仰の立場を貴下の前に弁明しやうと思ひます。
テサロニカ前書の二章の十六、十七の二節に斯う書いてあります。
 願くは我儕の主イエスキリスト及び我儕の父の神、即ち我儕を愛し且つ恩《めぐみ》に因りて永遠の安慰と善望《よきのぞみ》を予ふる者、爾曹の心を慰め、凡の善行と善言に爾曹を堅固くせんことを。
此両節を通読致しまして、誰にも気の附くことはキリストと父の神との間に何の区別をも立てないことであります、両者孰れも「我儕を愛する者」、「恩に因りて永遠の安慰と善望を予ふる者」「凡ての善行と善言に爾曹を堅固く」する者であります、斯かる恩恵を我儕に下す者は主イエスキリストである乎、或は父の神であるか、或はキリストと父の神との二人であるか、パウロの此言辞を読んでは何の判別もつきません、亦此両(320)節を原語の希臘文にて調べて見ますると実に著しい事が分るのであります、即ち「主イエスキリスト及び我儕の父の神」とありまして名詞は二つで文章の主格に立つ者は二人でありまするが、「愛し」とか、「予ふる」とか、「堅固くせん」とか云ふ動詞は複数の者ではなくして単数の者が使つてあります、少しなりと英語なり独逸語なりの文法を知つて居る者は誰でも動詞は其数に於ては之を支配する主格の数に一致しなければならないことを知つて居りまするが、然るに茲に立派なる希臘文で書かれたパウロの言辞の中に複数の名詞に対して、即ち「キリスト及び父の神」に対して単数の動詞が使用つてあるのであります、是れは甚だ奇態なる事でありまして、斯かることには非常に注意したパウロの書いた者としては之を彼の文法上の誤錯に成つたものとは認められません、爾うして此事は何を示すのでありませう、即ち主イ土ス及び父の神は同一の者であつて、其間に何の懸隔あるなく、父の為す所を子は為し、子の為す所を父は為し、二者は同一躰であつて、二者は一者として視るを得べき者なることを示すのではありません乎、今、同じ事が人と神とに就て言へると考へて御覧なさい、今、孔子が聖人であると言つて、「孔子及び父の神」云々と言つて御覧なさい、此等の二つの名を斯く駢る事、其事自身が褻涜的に聞えまして、誰も斯かる言辞に耳を傾ける者はありません、殊に孔子が我儕に「永遠の安慰と善望を予ふる」とか、「神と偕に我儕を導く」とか言ひますれば、我儕はたゞ狂人として世に迎へられるまでゞあります。
問、興味ある御研究の結果を伺ひまして実に有難く存じます、尚ほ不審の廉もありまするが、それは後廻しに致しまして、更らに此問題に関する御考察の結果を拝聴致したいものであります。
答、聖書が私にキリストの神性を証明する事実の中でキリストが人の崇拝を受けられたとの事は其最も力ある(321)者であります「御承知の通りユダヤ人は激烈なる一神教の信者でありましで、神以外の者に崇拝を奉るが如きは真正のユダヤ人の死すとも為す能ざる所でありました、「汝我面の前に我の外、何物をも神とすべからず」とはヱホバの十誡の第一条でありまして、ユダヤ人たる者は人は勿論のこと、縦令天使であるとも決して之に対つて神に対するの敬崇を払つてはならない者でありました、故に若し異邦の人がありまして其偶像に事へし心根を絶ち得ずして、誤つてキリストの使徒等に向つて崇拝めきたる行為に出んとしました時には、使徒等は戦慄《みぶるひ》して斯かる接待を退けました、コルネリヲと云ふ人が使徒ペテロを其家に迎へて其足下に伏して拝みました時にペテロは之を扶起《ひきおこ》して「起てよ、我も人なり」と言ひてコルネリヲの己に対する崇拝を却けました(行伝十章廿六節)、又パウロとバルナバとがルステラと云ふ所に伝道しました時に、其土地の人が彼等両人を以て神が人の形を取りて降りし者なりと信じ、彼等の前に犢と花飾とを献じて彼等を祭らんと致しました時に、彼等は驚駭くこと甚だしく使徒バルナバとパウロ、之を聞きて己が衣を裂き走り出て大衆の中に入り、喊叫びて言ひけるは人々よ何故に此事を行すや、我儕も亦爾曹と同じ情性を有つ所の人なり(行伝十四章十四、十五節)と言つて此祭礼を拒絶致しました、以て彼等が神以外の者に自身崇拝を奉ることを非常に嫌つたのみならず、又自身も人に神として崇拝せられんことを非常に忌み嫌つたことが分ります、然るにイエスに於ては少しも此|諱憚《いみきらひ》がありませんでした、彼は彼の何たる乎を知つて彼を崇拝せんと欲する者の崇拝は歓んで之を受けられました、彼は生来なる瞽の目を開き給ひて、其来て彼を拝せし時に其崇拝を却け給ひませんでした、「主よ我信ずと曰ひて彼を拝せり」(ヨハネ伝九の卅八)、是れは其一例であります、又イエスの復活後の事ではあり(322)ましたが彼の弟子の一人なるトマスが彼の前に跪きて「我主よ我神よ」と云ひて彼を拝しました時に、彼は彼の弟子に由て彼に与へられし此神なる尊称を拒み給ひませんでした、イエスは実に其出生の時より人の崇拝の目的物でありました、彼れ始めて呱々の声を揚げ給ひしや、東の方の博士輩は来て彼の前に平伏して嬰児を拝し宝の盒《はこ》を開いて礼物を献げたとのことであります、(馬太伝二章)、人に礼拝を献ぐることを厳禁したユダヤ人の中に茲に一人の崇拝を受くるに足る者なりと自信し歓んで人の崇拝を受けた者がありました、私共とても嘗てコロムウエルなりワシントンなりを崇拝したことはありません、若し「英雄崇拝」なるものがあると致しますればそれは尊敬とか敬慕とか云ふ意味の崇拝でありまして、決して宝の盒を開いて礼物を献げる底の拝崇ではありません、女の胎内より出し者の中でナザレのイエスのみが人類の崇拝を受くるに価あるものであります、彼を神として拝するも我儕の良心は少しも品性の堕落を感じません、而已ならず帝王を東拝して自由を失ひ、富豪を崇拝して威権を隕せし国民もイエスを神とし崇め奉りて其失ひし自由と独立を回復した例は人類の歴史に幾度もあります、イエスは実に栄光の君主でありまして、人類の崇拝を要求する者であります。
其外聖書の左の言に御注意を願ひます。
イエス曰ひけるは我はアブラハムの有らざりし先より在者なり(ヨハネ伝八の五八)、父よ今我をして創世《そのはじめ》より先に爾と偕に有ちし所の栄を得させ給へ(仝十七章の五節)、大なる神即ち我儕の救主イエスキリスト(テトス二章十三節)等(此言詞の順序に就ては稍や疑あり)其他数限りありません、爾うして最後に前《さき》に御質問になりました提摩太前書二章五節の「人なるキリストイエス」に就て御答へ申しませうならば、其説明は(323)至て容易い者であると思ひます、今其全節を茲に引いて見ますれば其意味は明白になります。
  それ神は一位《ひとり》なり、又神と人との間に一位の中保《なかだち》あり、即ち人なるキリストイヱスなり、
 MAN Christ Jesus であります A man Christ Jesus ではありません、即ち人なる、理想の人なる、人類が標目として仰ぐべき者なるキリストイエスであります、弱き罪ある人の子の一人なるキリストイエスではありません、即ち敵人ピラトが指して「観よ、これ其人なり」Ecce Homo!(ヨハネ伝十九章九節)と言ひし其人であります、是れは即ち人類が神として崇むべき人であります、人の形を取て我儕の中に臨《きた》りし神であります。
問、御説の大躰に於ては誤謬がないと致しまして、私の重ねて伺ひたきことは、若しイエスは神であつて、彼の神性を信ずることが我儕人類に取て左程に大切な事でありまするならば、何故に聖書はモツト明白にイエスは神であると繰り返し/\、力を込めて言つて居りません乎 御説明に依りまするとイエスは大なる神なりと明状《あからさま》に言ふて居る所はテトス書の二章十三節の一ケ所でありまして、夫れも御説明に由りますれば、其辞句の順序に稍や疑があるとのことであります、私は神が斯かる大切なる教義を不明に附して置き給ふとはどうしても信じられません。
答、実に御尤なる御質問であります、然しながら夫れには夫れ相応の理由があると信じます、先づ第一に聖書はイエスは神なりと明状に言ふては居らないと致しまして、イエスはキリストなりとは最も明白に言ふて居ります、キリストの神性問題を攻究致しますに方て、キリストなる名称に就て正格の了解を心に持つことは最も肝要であると思ひます、御承知の通りキリストとは人名ではありません、「キリスト、ソクラテス、孔子」などゝ言ひまして、三人物を比較する世の所謂る批評家なる者がある者でありまする故に多くの人はキリス(324)トとは人の名であると思ふて居ます、然し少し注意して聖書を究めた者はソンナ浅薄なる思考を有ちません、前にも申上げました通りキリストとは希臘語でありまして、希伯来語のメシヤ即ち受膏者を訳した言辞であります、故にキリストとは人名ではなくして職名であります、恰かも帝王とか、予言者とか言ふやうなものでありまして、栄誉と職責との附随して居る所の聖職の名であります、故に世に真正のキリストがあり、偽のキリストがあると聖書の所々に書いてあります、斯かる次第でありまする故に、「キリストの神性を論ず」と云ひますのは実は自明の理を語るやうなものでありまして、恰かも、「神の神性を論ず」と云ふやうなものであります、メシヤは人でない、直に神より出で来て神と同位の者であるとは旧約聖書の充分に証明して居る所でありまして、又イエス在世当時のユダヤ人の毛頭疑はない所でありました、唯問題中の最大問題とも申すべきことは工匠ヨセフの子と称ばれしナザレ村のイエス、彼は実にキリストでありし乎、是れであります、爾うして若しイエスがキリストであると致しますれば時のユダヤ人はイエスの神性に就て少しも疑を挿まなかつたのであります、然し彼等は此事が信ぜられなかつたのであります、キリストは神なりと信ぜられなかつたのではありません、イエスはキリストなりと信ぜられなかつたのであります、爾うして此疑団に対して新約聖書は繰返し/\イエスはキリストなりと証言して居るのであります、所謂るペテロの大表白とは此事でありました、即ちイエスはキリストなりとの表白でありました。
 イエス、カイザリヤ ピリポの方に到りし時、其弟子に問ふて曰ひけるは、人々は人の子を誰と言ふや、彼等曰けるは或人はバプテスマのヨハネ、或人はエリヤ、或人はエレミヤ、また預言者の一人なりと言へり、彼等に曰ひけるは爾曹は我を言ひて誰とするか、シモン ペテロ答へけるは爾はキリスト活神《いけるかみ》の子なり(325)(馬太伝十六章十三−十六節)。
是れで問題は解けたのであります、ベテロはイエスはキリストであると判分つて、福音の深い奥義に達したのであります、爾うして聖書は其始より終まで私共に此了解と信仰とを促がして居るのであります、聖書はイエスは神であると明状には言ひませんが、キリストは神であるとの打消すべからざる印象を遺して、然る後にイエスはキリストであると証明して居ります。
又一見して不明の如くに見ゆるイエスの性格に関する聖書の記事の中に深き神の智慧と摂理とが籠つて居るのではありますまい乎、「慎で人に告る勿れ」とはイエスが度々彼に由て病を癒されし人に告げ給ひし所の言辞でありまして、是れ一つは彼の謙遜より発せし言辞なる乎も知れませんが、亦二には是れ神が其真理を人に伝へ給ふ時に取り給ふ方法として見るべきではありますまい乎、イエスの神性の如きは是れ我儕自身で発見すべき真理であつて他より告げ知らせらるべきことではないと思ひます、否な、是れは我儕が縦令目を以て之を見、耳を以て之を聞きたればとて、それで心に信ずることの出来る真理ではありません、人は聖霊に因るにあらざればイエスを主なりと謂ふ能はず、我儕はイエスが神たるの事実を示さるれば足ります、イエスは神なりとの言を千万言繰返へさるゝとも若し其事実が示されなければ其言は我儕の霊魂を感化する上には全く無効であります、世には是れとは正反対の方法に出る者が沢山あります、偽善政治家が出でまして、民心を己の一手に収攬せんと欲し、勅令を発し、法律を編み、帝王の神聖を宣言して、威力を以て圧制的に之を民衆の上に強ひんと致しましても、悲ひかな、神聖の事実を供しませんが故に、彼の製造せる帝王神聖説は遠からずして民の忌諱する所となり、終には歴史家の嘲弄物と成つて後世に伝へられるに至ります、羅馬(326)皇帝を神として民に拝ましめし羅馬の政治家の愚と陋とは之を羅馬史上に於て御覧なさい、爾うして斯る愚を演ずる者は二十世紀の今日に於ても在ると思へば、政治家なる者の浅見薄智は実に憐むべきではありません乎、然し神は政治家ではありません、神はイエスの神性を世界に向て宣言し給ふに方て世の政治家輩が政略的に帝王の神聖を布告するやうな、ソンナ浅墓なる方法を取り給ひません、神は我儕人類に向つて「イヱスは神なり、若し彼を神として拝せざれば、我は国賊として爾を罰せん」とは宜はりません、神はイエスなる性格を我儕の前に供せられました、爾うして我儕をして彼を我儕の主として拝せざるを得ざらしめ給ひます、イエスの神性なるものは我儕が自由意志の撰択を以て、何の強ひらるゝ所なく、何の命ぜらるゝ所なく、唯我儕がイエスを愛するより我儕が自らイエスに帰し奉つた性格であります、爾うして我儕が斯かる方法を以てイエスの真性を知るに至らんことは確かに神の聖旨であるに相違ありません、爾うして聖書は斯かる方法を以て我儕を真理に導く者ではありますまい乎、聖書の所々に謎的の所があるのは、是れ全く賢き教師が其学生の智能を開発せんとする時に取る方法に類して居るではありませんか、単に聞かされたものが我儕の智識となるのでありません、我儕が自から発見したもの、即ち神の聖霊に由て直に我儕の心に伝へられたもの、それが我儕の永久離すことの出来ない智識となるのでありまして、斯かる智識を持つてこそ我儕は永生に入ることが出来るのではありません乎、イエスは神なりとの智識は実に貴き智識であります、世に是に優るの智識はありません、爾うして貴い丈けそれ丈け之を発見することが困難くあります、故にイエスは前に述べましたペテロの大表白に対して曰はれました、
 ヨナの子シモン、爾は福なり、そは血肉、爾に此事を示せるにあらず、天に在す吾父、此事を爾に示せる(327)なり(馬太伝十六章十七節)
と、私共も亦イエスの神性に関する私共の信仰に就て曰はんと欲します、「是れ我儕が教師の口より聞きし所に非ず、又教権を握ると自称する教会の信条に於て学びし所にあらず、又必しも研究の結果、聖書の文字の中より拾ひ集めし真理に非ず、否な、是れ血肉を透うして我儕が識認するに至りし真理に非ず、此事を我儕に示せし者は天に在す我儕の父のみ」と。
問、段々の御説明に由り私に於ても大分発明する所がありまして誠に有難く存じます、尚ほ伺ひたい事もありまするが、今日は聖書のキリスト観に就ての御解釈はこれにてお止めを願ひまして、余は聖書以外の証明に就て伺ふやうに致したく存じます。
答、承知致しました、聖書に由てキリストの神性を論じまするのは聖書に由て聖書を証明するやうな心地が致しまして、其六ケ敷い丈け、それ丈け愉快なる事ではありません、多くの人は自己は聖書を充分に信じないのに、聖書に訴へて私共の信仰を覆さんと致しまする、是れは敵の武器を取て彼を斃す方法かも知れませんが、然りとて甚だ不心切なる方法であります、キリストを信ずる者は聖書を信じます、聖書を信ずる者はキリストを信じます、然るに聖書によつてキリストに対する信仰を毀たんとするのは親に由て子を殺さんとするが如き措置であります、爾うして私共が彼等の質問を真面目に受けて一生懸命に成つて之に応へますれば、彼等は終に言ひます、「然しキリストは神であると云ふ其聖書は信ずるに足る者である乎」と、実に世の懐疑者程狡猾なる者はありません、彼等は信者を困しめることを以て第一の楽みとして居ます。
問、私に対してならば其御怨恨は御無用であります、私は斯かる邪念を以て今日貴下の御答弁を煩はしたので(328)はありません、然し彼やうなる論者の世に在ることは私も承知して居ります、貴下に於ても充分に御注意なさつたが宜う厶います。
答、御同情は誠に有難く存じます、私は彼等には大抵門前払ひを食はして居ります、博士ジヨンソンは彼等如き者を、「嘗て真理の乳を供せしことなき牡牛なり」と称ふて居ります、爾うして斯かる牡牛輩が宗教界に大分侵入して居りますることは誠に歎かはしい事であります。
問、それは爾うと致しまして、私は先づイエスの神性が世界の輿論と成つて居ります乎、其事を伺ひたく存じます。
 
       其三 世界の輿論
答、善き問題を出して下さりました、斯かる質問に対しては之に答ふるの充分の張合があります、イエスの神性は之を世界的に攻究して最も興味ある問題となると思ひます。
問、キリストは確かに神として一般に認められて居ります乎。
答、私は居ると思ひます、少くとも文明世界がキリストに就て懐く観念は他の偉人英雄に就て懐くそれとは全く異つて居ると思ひます、文明諸国に於てはイエスキリストの名は異様の敬崇の念を以て迎へられます、キリスト教を信ずる者と信ぜざる者とを問はず、キリストと言へば是れ神に最も近い者であると信じて居ます、有識の士にしてキリストを罵る者の如きは紳士淑女の社会には迎へられません、若し彼等の中の或者がキリストは人であつて神でないと云はふと欲へば特別なる意味に於ての人としてのみ彼の人格を主張するに止ま(329)ります、「イエスは万民の君主」なりとは文明人種の斉しく唱ふる所でありまして、斯かる尊称を受くるに足るの歴史的人物はイエスを除いては他に誰もありません、若し釈迦が亜細亜の光であるならばイエスは世界の光であります、若し孔子は東洋の大聖人でありますならば、イエスは人類の教導師であります、イエスの傍に立ちてはソクラテスもプラトーもモハメツトもゾロアスターも太陽の前に出た月や星のやうな者であります。
問、然し西洋にも基督教を信じない者はあるではありません乎。
答、有ります、然しながら有識の士にして信ずる者は信じない者よりも多くして且又有力であります、而已ならず其不信者と称する者も能く其不信の理由を調べて見ますれば彼等は基督教会と称する一種の圧制的制度の不信者でありまして、自由の主なるナザレのイエスの不信者でないことが分かります、詩人シエリーの如きが其一例であります、彼は自から称して無神論者なりと唱へました、然し彼の詩を読んだ者で彼を無神論者の階級の中に組入れる者はありません、彼は無教会信者であつたまでゞあります、キリストの謀叛人では断じて有りません、彼が如き者を不信者扱ひを為した英国監督教会の罪は実に大なる者であると信じます。
問、去らば世界第一流の人物はイエスの神格を認めたと貴下は御信じなさりますか。
答、私は爾う信じます、勿論私の世界歴史の智識は至て狭いものでありますから、私の知らない世界人物の中に絶対的にイエスを憎み且嫌つた者があるかも知れません、然しながら私の知つて居る限りは偉人と云ふ偉人でイエスを聖ならざる者と認めた者は一人もないと思ひます。
問、例に依て貴下の偉人のキリスト観に就て少しく伺ひたい者であります。
(330)答、何処から御話し申して宜いか分かりません、唯、今、私の記憶に登る儘を御話し申しますれば第一は大帝ナポレオンであります、彼は自己はシーザー以上、アレキサンドル以上の軍人であり、政治家であると信じて居ましたが、然しセントヘレナ流竄中、曾て談、偶々古昔の偉人の批評に渉りました時に彼はイエスキリストに就て曰ひました、「我が全盛の時に方ては我がために生命を捨んとせし仏国の青年は幾万もありしも、今や我れ流竄の身となりてより我を省る者一人もあるなし、況して我が死後に於ておや、然るにイエスキリストは彼の死後千八百年の今日、世界各国到る処に彼のために生命を献げんと欲する幾千万の忠実なる兵卒を有す、我の彼に及ばざるや実に遠し云々」と、斯くて彼れナポレオンはイエスに対しては無上の尊敬を表はしたとの事であります。
次ぎは丁瑪の彫刻師トル※[ワに濁点]ルドセンであります、彼の有名なる作は「キリストと其十二弟子」でありますが、キリストの像を彫むに方て彼は他に批判人を求んとはせず、彫像成りし後に九歳になりし彼の少女を呼び来りまして、像を指して是れは誰なりやと問ひました、其時少女は其無垢の幼心《おさなごゝろ》に正に清浄の主イエスキリストを認めました故に、直に其像の前に跪き楓の如き彼女の手を合せて、「我儕の主イエスキリストです」と云ひしとのことであります、此大美術家の心に彫まれしキリストは拝すべき神でありました故に其彫みし像が斯くも無邪気なる少女の崇拝を惹いたのであります。其次は英国の大詩人テニソンであります、彼が余りに思考に富みし故に彼の詩篇は理論に失し易く、為めに其美を害しましたが、然し天よりの霊想に接して彼が自己を忘れました時には彼は真個のキリスチヤンでありました、有名なる In Memoriam の最始の一句は実に聖書の言にも劣らない天よりの声でありました。
(331)   Thou Inmortal love.
  能《ちから》ある神の子
  汝不朽の愛よ
 キリストの何なる乎を短かき二行に顧はした言辞で之に優つて荘美なるものは又と再び世に出でまいと思ひます、テニソンは此一句に於て英民族のキリスト観を知らず識らずの間に歌つたのであると思ひます。
其他例を挙げますれば数限りありません、世界の最大人物の最大多数はイエスに異様の敬崇を払つた者であります、若し此事を御疑ひになるならば試みにイエスを主として仰ひだ者を世界歴史の中から引き去つて御覧なさい、歴史は実に淋しい所となります、アウガスチン、シヤーレマン、アルフレッド大王、アンセルム、ベルナード、ルーテル、サボナローラ、ラフハエル、ミケルアンゼロー、レムブラント、オレンジ公ウイルリヤム、コロムウエル、ワシントン、カント、シュライエルマヘル、ネアンデル、メンドルゾーン…………イエスキリストの兵卒は大軍であります、彼の配下には世界第一流の詩人も、神学者も、画家も、音楽者も、軍人も、政治家も、慈善家も、教育家も居ります、爾うして彼等は異口同音に「イエスは栄光の主なり、我儕の霊魂の救主なり、我儕は身も霊も之を彼に献げて彼の意に適ふことを為さん」と言ひます、若し真理は世界有識者の多数の投票に由て決せられるものでありますならばヽ イエスの神性は確かに動かすべからざる真理であります。
問、夫れは多分仰せの通りでありませう、西洋諸国に於てのキリストに対する敬崇は非常のものであると兼ね(332)て聞き及びました、然し私が茲に特に伺ひたいことは貴下御自身も同一の敬崇をキリストに捧げらるゝのであります乎。
答、勿論です、私が基督信者であると言つて世に立つ以上は私に此敬崇の念がなくてはなりません、私はキリストを崇拝し得ないものを基督信徒としては認めません。
 
       其四 心霊の実験
問、貴下は何に由て斯かる信仰を御懐きになるのでありますか、私の今日まで遭ひました基督信者で貴下のやうにハッキリと此事に就て告白した者は未だありません、ドウゾ貴下がキリストを神として崇拝なさるゝに至つた其理由と経路とを御聞かせ下さい。
答、私は何にも古代の英雄の信仰に圧伏されて、止むなく此信仰を懐くに至つたのではありません、若し爾うならばソレは私の信仰ではなくして他人の信仰であります、私は亦此信仰が或る有名なる教会の信仰箇条であるからとて其条規に縛られて此信仰を懐くのではありません、御承知かも知れませんが、私は私の信仰の絶対的自由を得んがために教会なる者とは孰れの教会を問はず、何の関係をも持ちません、亦私は必しも聖書が此信仰を伝ふればとて其威権に伏して私の理性に背いて此信仰を懐くのではありません、圧制は何れの方面より来るも吾人の断じて受くべからざる者であります、偉人も英雄も聖書も、自由意志を有する吾人の霊魂に如何なる信仰をも強ゆることは出来ません、信仰は内より外に向て発する者でありまして、外より内に向て詰込まるべき者ではありません。
(333)問、其点は私も至極御同感であります、斯かゝる信仰を抱かるゝ貴下より信仰談を受給はることは私の殊に望む所であります。
答、私はモウ一つ貴下に申上げて置かなければならない事があります、夫れは即ち私のキリストに対する信仰は私が推理的捜索に由て得たものではないとの事であります、真理は凡て思惟の稽査に由てのみ得らるゝ者であると思ふのは大なる間違であります、勿論往昔より今日に至るまでキリストの神性に就て幾多の哲理的説明なる者が与へられました、然しながら斯かる説明は孰れも不完全極まるものでありまして、誰も之に由てキリストの神性に就て確信に達した者はありません、若しキリストの神性が推理的捜索に由て発見することの出来る者でありますならば、それは僅かに吾人の理性を満足させるに足る丈けの真理でありまして、吾人の全性を感化するに足るの真理ではありません、神の真理は背理的ではありませんが、然し超推理的であります、理性以上の機能《フエカルチー》に由て知ることの出来る真理でなければ、之を神に関する真理と云ふことは出来ません。
問、去らば何に由て貴下はキリストの神性を御認めになつたのでありますか。答、私の全有 whole being に由てゞす、即ち私の実在其物に省みて終に彼を私の救主、即ち神と認めざるを得ざるに至つたのであります。
問、それはドウいふ事でありますか、私には能く分りません。
答、それは私は罪人であるといふことを発見したからであります、私が生来の罪人であることが解つた時に、私は私の理性までを信じなくなりました、罪は人の体と心とを汚すに止まりません、彼の理性までを狂はし(334)ます、生来の儘の人の心を以てしては到底神を見ることは出来ません、彼が神の事を解らふと欲へば全く自己を捨て神の光明を仰がなければなりません。
問、其事は解りました、然しそれでドウして貴下はキリストが神であることを御認めになつたのでありますか。
答、自己の罪を耻ぢ、良心の平安を宇宙に求めて得ず、煩悶の極、援助を天に向つて求めました時に、十字架上のキリストが心の眼に映り、其結果として罪の重荷は全く私の心より取去られました、其時に私は始めて自分らしき者となりました、其れから後と云ふものは私の全体に調和が来りまして、私は其時始めて神の救済《すくひ》とはどんなものであるかゞ分りました。
問、然ればキリストに関する貴下の御信仰は学理に基かずして実験に依て得られたと仰せられるのでありますか。
答、爾うであります、然し実験とは申すものゝ、是れは化学や物理学の実験とは全く性質を異にするものであります、是れは道徳的実験であります、即ち良心の必然的命令に由て自己を糺して見ました結果、自己の神に叛き、幽暗《くらき》を好むものであることを発見し、此罪人を救ふに足るの救主を求めて、終に茲にキリストに接して、此痛める良心を癒すに足る或者を看出すに至つたのであります。爾うして私は罪とは人に対して犯した者ではなくして、神に対して犯した者であることを知りまする故に、此罪の苦悶を取去て呉れた者は必ず神でなくてはならないことを知つたのであります。
問、御説明に由て問題が益々六ケ敷くなります、去らば罪の観念が貴下をキリストにまで駆り遣つたと申しても宜しいのであります乎。
(335)答、爾う申しても宜しからふと思ひます、罪悪問題とキリストの神性問題とは其間に極く緻密なる関係を有つものであります、実に罪の何たる乎を知らずしてキリストの誰なる乎は到底分らないと信じます。
問、ソレで私には少し分かりました、左すれば貴下は罪とは神に叛くことであると御信じになるのでありますか。
答、爾うであります、其最も確実なる証拠には神の赦免に与かるまでは罪を根本的に絶つことは出来ません、キリストに憑らずして罪を覆ふことも出来ますし、罪を隠すことも飾ることも、宥めることも出来ます、然しながら、之を殺すこと、根から断つことは出来ません、故に罪を発見することはキリストを発見するに至るの途であります、罪に関する浅薄なる思想はキリストに関する浅薄なる思想に導きます。私共はキリストに救はれんがためには神に自己の罪を曝露されて消え入るばかりの恥辱の淵に臨まなければなりません。
問、然らば人がキリトを神なる救主として仰ぎ得ませんのは彼等が自己の罪を覚り得ないからであると申さるゝのであります乎。
答、爾うであります、彼の傲慢の心であります、我は義人なり、清士なりと称して自己を欺く心であります、此心があります間は其人の智能は如何に発達して居りましても、イエスのキリストたることを知ることは出来ません、恰かも栄華が彼の身を纏ふ間は人生の深味を覚り得ないと同然であります、人は先づ謙虚の暗夜に入るにあらざれば「輝く曙《あけ》の明星」なるキリストを其真正の栄光に於て仰ぎ見ることは出来ません、其謙虚の井戸の底にまで降つて御覧なさい、貴下も今日只今、彼を主として仰がれ、トマスの如くに「我が主よ、我が神よ」と言はれて彼の足下に平伏されるでありませう。
(336)問、貴下の論拠を其所にお据えになりまして、私はモウ貴下に何とも申上げる事は出来ません、茲に至て私は貴下が此問答の始めに於てキリストの神性問題は道徳問題であると云はれた其訳が解ります、私は今日まで、是れは全く宗教問題であつて、若し論理に循て探究すれば必ず解かるものであるとのみ思つて居りました、然し其れは全く私の誤解であつたことは今に至つて解りました、然し理論でない、道徳であると致しますれば、ドウしたならばキリストを知るに足るやうな道徳の念を私共の心に起すことが出来ませう乎。
答、其御質問に対しましては私は使徒パウロの言を以て御答へ申すより外はありません、
  人は聖霊に依るにあらざればイエスを主と謂ふ能はず(コリント前書十二の四)。
問、モウ一つ伺つてソレで今日はモウ御邪魔を致しますまい、貴下の御実験に由て得られた其御信仰は普通の道理と背馳するではありません乎、若し天父も神であり、キリストも神であると致しますれば、茲に二つの神が出来てくる訳でありまして、それではキリスト教の第一の教理が崩れて了うではありません乎。
 
       其五 推理の無効
答、左様であります、然しながら人は死に瀕して彼に供せられた薬品の治療学上の説明を聞かんとは致しません、彼は直に之を飲みます、爾うして飲んで救はれて其薬品の効能を称へます、彼は或は病癒えて後に、彼に回生の恩恵を供せし薬品の生理学的作用を究めて彼の心を楽しますことがあるかも知れません、然しながら彼の其薬品に対する信仰は其作用の学理的説明に由て立つのではありません、彼は死より救はれて生に回へりました故に、其効能の事実に由て其薬品を信ずるのであります。
(337)罪を知覚せし者がキリストに対して抱く信仰も之と同じであります、勿論キリストの場合に於ては聖書の如き大著述の証明もあります、文明世界の輿論もあります、此点に就てはキリストは今の世に有勝ちなる新薬とは違ひます、然しながら是等の説明を綜合致しました所が、彼が実際に人の罪を救ふの能力は、私共が之を自身の心に験すまでは充分に覚ることは出来ません、爾うしてイエスのキリストたるは「彼の血を飲み彼の肉を食つて」(ヨハネ伝六章五五節)而して後始めて覚ることが出来るのであります、此実験を経過せずして如何に大なる神学者と雖も、キリストの神性を了解した者はないと思ひます、パウロも、アウガスチンも、ルーテルも、ウエスレーも、皆起死回生の実験に由てイエスの主たることを知るに至つたのであります。爾うして斯様にしてイエスを神なりと認めた以上は如何して一つの神が二つである乎、或は三つである乎、何故子なる神が父なる神に祈つたか、爾ういふ問題は全く度外視されるに至るのであります、即ちカント哲学の術語を藉りて言ひますれば、此場合に於ても、多くの他の場合に於ての如く、実際的真理(Practical Reason)が論理的真理(Theoretical Reason)に勝つたのであります、何故かは私共には分りません、然しながら若し爾うでなければ私共の霊魂は――爾うして霊魂と共に私共の理性も――死なければなりません、両理相反(antinomy)の疑問は其儘に存して居ります、然しながら斯かる場合に於ては私共は事実を取て論理を棄つるのであります、爾うして斯かる場合に於て斯くするは亦私共の理性が私共に命ずる所であります。然しながら是より以後は三位一躰論に入るのでありますから今日は之れで御免を蒙ります、サヨナラ。 〔以上、12・17〕
 
(338)     祈祷の精神と其目的物
        (六月廿八日角筈聖書研究会に於て)
                    明治36年7月23日
                    『聖書之研究』42号「講談」
                    署名 内村鑑三述 向井耕一筆記
 
 今日は路加伝十一章を開いて其一節より十三節までを読みませう、最初の主の祈祷のことは既に雑誌にも掲げて出したことがありますから其事は別に申上げんで今は祈祷をするときの精神と其目的物とに就いて談しませう、本章第五節以下十三節迄を精読しますと私共が祈る時には如何なる決心を以てせねばならぬかゞよく分明つてまゐります、先づキリストの申された譬喩を仔細に稽へて見なければなりません、或人が夜半不意に我が門を叩いて俄かの客来で何も振舞ふ物がないから何うかパン三つ借して下さい云々といふ譬へであります、私が小供の時に郷里に居りました頃俄に客が来たといふので、よく御飯借りに隣家へ丼を持つて走つたことを記憶して居りますが、こんなことはナザレの村にも有り勝のことであつたらうかと思はれます、基督の譬喩はよく天然や日用の件《こと》から引かれますので粉磨きとか、婚礼の席とか何れも/\分り易い例ばかりであります、路加伝《こゝ》に書いてありますのも其一つでありましてかく隣の人が門を叩いて切りに借せ/\と頼みますから内に居る者も其切なる願の声に耐へかねて眠つて居る児曹の側を離れ〆切てある門を開けて家にあるパンを予へてやるといふ極々卑近な寓話《はなし》であります、然し基督は教へてこれは頼んだ人が朋友であるから起きて予へたのではない、是非借して呉れ(339)といふ其声が余りに高かつたからそれについ引かされて与ふる様になつたのであると申して居られるのであります。
 一寸考へて見ますと願ひ方が余り切であつたから已むを得ず与へたといふのは如何にも不人情の様に聞えますが、併しキリストは尚ほ他の章に於てこれと類似した譬喩を出して居られます、それは寡婦《やもめ》が、已に休眠んで居る代言人の宅へ来て弁護をして下されと頼みましたら代言人はもう寝て了つたから帰つて呉れと返答しました、けれども寡婦は一生懸命になつて頼みますから代言人は其女を追払ふ為め終に其依頻を聴いてやつたと云ふ喩であります(路加伝十八章一より八まで)、キリストはかゝる卑近な譬喩を提出れてこれは汝等の常に経験する事実である、頼まれ人がたとへ一面識もない悪人であつても一心に頼まれてみれば素気無く追払ふやうなことはない、況して頼まるゝ者が友誼あり愛心あるものであるならば其所有物を予へてやるは当然であると其教訓の意を強めんため態とかゝる譬喩を持出されたのであります、かくて基督は御自身を盗賊に例へられたこともあります(馬太伝十二章廿九節)、キリストは勿論強盗ではありません、けれどもキリストが愛の縄を以て私共を縛り私共の霊魂を俘囚《とりこ》にさるれば其|残余《のこり》は一切基督の物であります、これは丁度強盗が先づ第一に其家の力の強い奴を縛つてさへ了へば後は何でも欲しい物が盗られるのと同じ理合ひであります、私共は路加伝の此節を読みまして愛深き神の切なる祈願を聴容れ給ふことを信じますと同時に、パン三つの為にすら願うてみる私共であつてみれば況んや生命の根源たるべきものゝ為には寸刻も祈ることを廃してはならぬと呉れ/”\も思ふのであります、願の切なるといふこと、それが大に力のあることであります、祈祷に於て私共は根気よく余程執念深くならねばなりません。(340) 然らば何を祈るのでありますか、之れは同章の十一節以下を読んで行けば直に分ります、(蠍とは英語のスコーピオンで毒虫であります、)爾曹は悪に沈淪める者ながらなほ善き賜をその児供に予へることを知つて居る、況して天に在す爾曹の父は求むる者に聖霊を与へざらんやとあります、茲に至りてキリスト信者の祈りの目的の何たるやは明々白々であります、(馬太伝第七章に同じ文がありますが其処には聖霊といふ字はありません)、多くの人の中には息子が放蕩を止めます様にと祈つて居る者もありきす、又た父が早く酒を止めるやうにと祈つて居る者もあります、沢山金の儲かるやうにと願うて居る者もあります、而して其祈祷が聴かれません時には神も当てにはならぬと申して祈祷無効論を吹聴するのでありますが、併しそれは大辺間違つた考へであります、神は一番書いものを与へてやらうとて私共の来るのを待焦れて居られるのであります、「天に在す爾曹の父は求むる者に聖霊を与へざらん乎」といふ此一句を忘れてはなりません、息子が放蕩をやめるのも父が酒をやめるのも、試験に及第するのも良友を得るのも決して悪いことではありませんが併し神の眼から見ますれば聖霊といふ結構な賜が其手下に存在して居るのであります、この賜を貰ふことを忘れて外の小さな物を貰はふとするのは余りに謙遜過ぎた行為ではありませんか、然らば何故に聖霊がかくも難有いのでありますか、第一私共は之を受けて我の罪深きを知り、神の恵のいかに大なるかを知り、凡て神が人類の為に具へ給ひし恩寵の中の恩寵、即キリスト降世の意味の何たるかを知るに至ります、斯くして人生問題も分りますれば宇宙の問題も解けてまゐります、子に対する関係父母朋友に対する義務は勿論刃を迎へずに分つてまゐります、若し聖霊の賜が私共に下りまして至深至高の大問題が解釈せられますれば衣食、健康、家庭等の諸問題は特別に教へられずとも自ら明白になつてくるものであります、夫れ故に第一の恵なるこの聖霊を受けますれば私共は一切の賜を受けたと同然であります、この(341)第一の恵を戴きますには前にも申しました通り誠心誠意を以て一生懸命に祈るばかりであります、無理にもパンを貰はふといふ心を以て祈りますれば神は必ず聖霊を下し給ふに相違ありません、一家の葛藤が無事に治まつたとか商売が繁昌し始めたからとて我は最も神に愛せらるゝ者だと思つてはなりません、或種類の信者はそれ位で満足するかも知れませんが、併し神の愛は確に夫れ以上、夫れ以上の夫れ以上であります、薄情なる神は我子を殺し我家を滅し給ふと不平を鳴して居ります時に聖霊は忽然として何れよりか注いでまゐります、「風は己が任《まゝ》に吹く 汝ぢ其声を聞けども何処より来り何処へ往くを知らず 凡て霊に由りて生るゝ者も此の如し」(約翰伝三章八節)であります、私共が失敗に失敗を重ね失望に失望を加へて茫然自失して居まする時に聖霊風の如く我に入りて心眼茲に開けますればこれ程愉快を感ずることはありません、それですから私共の祈願は世人のそれに傚つて社会改良とか国家富強とかいふこと位ひに停止つてはなりません、これらは紛失物を見出さうとして本願寺やお稲荷様に参詣する老男老女の祈願と五十歩百歩の違ひであります、私共の希望は「父を示せ、然らば足れり」であります、即私共は何うかして神其ものを心中に宿したいのであります、この目的にして達せられませんければ私共は生きて生き甲斐のない動物であります、家庭の平和、国家の富強位は之に比べて見ますれば数ふるに足らぬものでありまして、いはゞ糞土に比すべきものであります、キリストは何の為めに現世に降られたのでありますか、キリストは何の為に十字架に上り給ひしのでありますか、彼は神自身を我儕に示さん為め、永劫の生命−即神自身を与へん為めに現世に於て苦しまれたのであります、若しキリストの賜は何ぞと問ふ者あらば神自身が我が有となり神自身が我に下るといふ其賜なりと答ふるの外はありません、之を得ざる信仰は信仰といふべき程の者では無いと思ひます、この賜を得ました暁には何に失敗致しませうが何を他人に盗まれませうが又は世の(342)中の第一の不幸者と笑はれませうが関係《かまつ》たことではありません、又た或人は聖霊を指して漠然たる風の如きものだと申すかも知れません、成程風の様なものでありませう、之を手に取て見ることも出来ねば又た算盤に弾いて勘定することも出来ません、併し我に於て最も確実なる者は心より外にはありません、而して其我が心よりも確実なるは即ち神の心であります、神の心我に宿りてこれ程気丈夫な確固なことは有りません。
 日本第一の英雄といはるゝ秀吉も老齢霜を戴くに及びましては「難波の事は夢の世の中」と歎じ、「世の中 我れにも似たる人もがな生きて効なきことを語らん」と歌ひました、いかにも情けない歌ではありませんか、私共は小なりと雖神の聖霊の私共の上に下つてくることを信じます、神の聖霊にして下りますれば難波の事は決して夢の世の中ではありません、聖霊を享けざる人こそ起きて居ても実は寝て居る人であります、真の自覚といふものは仏教などでいふ悟道では有りません、世界が破壊しましても我れ独り存するといふ自覚は座禅を組めば一切が消滅して愉快になるといふ境涯とは全く違ひます、座禅するか又は華厳の滝に落つる時の平和は平和といはゞ平和とも云へませうが、然しこれは寧ろ一種の酔ひと言ふべきであります、死に酔ふといふは即ちこれらを指した言葉であります。
 私共も聖霊など云ふ漠然として風の如き物よりは実物たる一杯の飯が欲いなど申して見た時代が御座いました、又た聖霊の霊の字は死霊生霊などゝ申してお化などに縁の近い文字でありますから日本人に余り好ましく思はれぬも尤でありませうが、然し聖霊のことは聖書の屡々繰返す所でありまして、之に依りて神とキリストが私共の衷に宿るに至るのであります、キリストを理想的人物として崇拝すれば自然とキリストの如き人になると云ふ者もあります、成程人類の王なるキリストを崇拝して其感化を受くるも一良策には違ひありますまいが、但し私(343)共がキリストの肉と血とを我が有となさうとするにはキリストを一個の英雄として崇拝する位では足りません、直に聖霊其ものを以てキリストを私共の心に焼付けられねばなりません、天然や文学や哲学其他万般の思想も貴いには相違ありませんが、併し神自身と比べて見ますれば零たるに過ぎません、聖霊にして得られずんば私共の末路は「生きて効なきことを語らん」といふ情けない哀歌と消えて了うのであります、何と果敢ない次第では有りませんか。
 多くの人は我には熱心がない、どうも信仰が足らぬと歎息ばかり致して居ります、それは当然であります、元来私共は無力の者であります、無力の者ではありますが併し無理にもパン三つを借らんとする其熱心、無理にも代言人に泣付かんとする其勇気を以て頼みますれば愛の愛なる神は必ず其頼みを聴容れ給ふに相違ありません、
 之れをしても疑ふ者は生涯無力の者となつて土に帰るの外はありません、私共にしてキリストの道徳を喝采して居ります間は実に小なるものであります、聖書を一つの大文学として之に道楽半分の批評を加へて居ります間は実につまらない者であります、私も今迄は伝道とは読んで字の如く道を伝ふる為のものとばかり考へて居りましたが、これは実に大なる謬見であつたことを近頃覚りました、約翰伝第一章の十二節十三節に「彼を接《う》け其名を信ぜしものには権《ちから》を賜ひて此を神の子と為せり、斯る人は血脈《ちすぢ》に由るに非ず情慾に由に非ず人の意に由るに非ず唯神に由て生れし也」と書いてあります、基督信者とはキリストを接け其名を信じ其力を授かりし者であります、元々神に造られし者なるが故に私共は神の子と称せらるゝのではありません、キリストを信じて神の力を受けし者が真正の神の子なのであります、血脈を引いて生れしに非ず、神に由りて生れしものが神の子なのであります、故に若し伝道を以て或は聖書知識を授け、或は道徳的感化を及ぼすに在りと致しますれば是れ実に根本的誤謬で(344)あります、キリストの伝道とは福音です、道といはゞこれ聖霊を賜はる道のことであります、この道を示すを得て私共の所謂伝道の目的は達せられたのであります、この希望ありて私共は大なる勢力となることが出来ます、私共は此点に於て卑怯であつてはなりません、大胆でなければなりません、私如き者がと卑下するのは大間違です、私如き者こそと自重しなければなりません、私共が心掛くべき祈祷の精神、祈祷の目的物とは即ち以上の如きものであります。
 
(345)     社会は如何にして改良さるべき者なる乎
         (土浦演説の骨子)
                        明治36年7月27日
                        『万朝報』
                        署名 内村鑑三
 
 社会とは他の者ではない、是れは人間の集合躰である、爾うして其人間の標本は我自身である、故に社会を改良する法は我自身を改良する法である、我自身を改良し得ない者は社会改良を口にするの権利を有たないのみならず、斯かる人は必ず社会を改良し得ない者である。
 然し自己を改良することは決して易い事ではない、如何にして己に克たん乎、是れ人類在て以来の最大問題である、己で己が改良し得ないとは如何にも意気地のないやうではあるが、然し人間とは斯くも墓なき、斯くも力弱い者である。
 自己を改良するに二つの方法がある、其第一は自己の力に頻り、努力奮励、以て己に克つことである、是れ即ち道徳の方法であつて、此方法を以て高潔の君子となつた者は古より尠くはない。其第二は自己以上、天然以上の力に頼りて己に克つことである、是れは即ち宗教の方法であつて、此方法を以て聖徒となつた者も是れ亦決して少くはない。
 二者何れの方法に依るも各人の自由である 余自身は勿論第二の方法に依る者なれども余は他人を強ひて必ず(346)しも余の採る方法に依らしめんとは為ない。
 二者何れに依るも宜しい、然しながら己に克ち得ずして社会に改良を促し得ないのは明白である、曾て或人が風俗改良の途に在りながら、醜猥の遊楽に耽り、人に其理由を問はれて、「余は社会を改良せんとする者にして自己を改良せんとする者に非ず」と答へし由なれども、斯る人は勿論社会改良の権利と能力とを身に備ない者である。
 悪しゝと知りつゝ自身の悪弊を絶ち得ない者が社会に向つて改良を迫るも、其人と同じ弱点と同じ悪癖を有つたる社会は彼の声には耳を傾けないに相違ない、自身情実に克ち得ない者は藩閥政府に向て情弊を絶つべしと叫ぶの権利を有たない、藩閥政府は世の革命を絶叫する者が悪しゝと知りつゝ酒を飲み、煙草を喫ひ、些細の家事の情実に克ち得ないと同一の理由を以て其情弊を絶ち得ないのである。
 己に克ち得て吾人は社会に克つの方法を発見するのである、雪山《せつざん》の苦業十二年を経て己に克つの道を発見せりと信ぜし釈迦牟尼は衆生を済度するに足るの途を発見せりと信じた、「我れ既に世に勝てり」と曰ひし人が世界人類の救主である、天下を済ふと言ふ人が天下を済ふのではない、我は己に克つを得たりと曰ふ其人は既に天下を済ふの秘訣を授けられたのである。
 斯の如くに社会改良とは至て難いやうで至て易い事である、至て易いやうで至て難い事である、社会の一部分にして、人間の標本なる我自身に克つことが出来て、人は何人も社会を改良することが出来るのである
 
(347)     不敬事件と教科書事件
                        明治36年8月2日
                        『万朝報』
                        署名 内村鑑三
 
 今を去ること十四年前、余は其頃発布されし教育勅語に向つて低頭しないとて酷く余の国人より責られた者である、其時の余と余の国人との争点は下の如き者であつた、即ち余は勅語は行ふべき者であつて、拝むべき者ではないと言ひしに、文学博士井上哲次郎氏を以て代表されし日本人の大多数は之を拝せざる者は国賊である、不敬漢である、と言ひて余の言ふ所には少しも耳を傾けなかつた、爾うして彼等は多数であり、且つ其言ふ所は日本人の輿論である故に彼等は余を社会的に殺して了ふことが出来た(縦令暫時たりしとは雖も)。
 余は今に至て過去の傷を吹き立て、茲に余の当時の地位を弁護せんとは為ない、然しながら文部省が勅語を拝がましむるに努めて、之を行はしむるに努めない結果として教科書事件と云ふ、文明世界に向て日本国の体面を非常に傷けし此大事件を惹起すに至りしを悲まざるを得ない、勅語に向つて低頭しないのは罪である乎も知れない、然しながら其明文に反き、然かも勅語教育を国民に強ふる其倫理教科書を採用するに方て、書肆より黄白を貪りしに至ては是れ勅語を拝まざるに勝さる数百千倍の罪悪であると思ふ、日本国の文部省は弱き余一人を不敬漢として排し得て、数十百人の余に勝るの大不敬漢を其部下の中に養成し、以て国辱を世界に向て曝らせしの責任より免かるゝことは出来ない。
(348) 又奇怪千万なるは日本国民である、彼等は勅語に向て礼拝せざる者あれば国民一体となりて起つて之を責むるとは雖も、勅語の明文に背き、其神聖を漬すの視学官、又は師範学校長、其他直接に教育の任に当る者あると雖も、私かに之に対して侮蔑の意を表するに止つて、誰一人として之に対て公憤を発する者はない、彼等は形式を破る者には厳にして内容に反く者には寛である、彼等の道徳念なるものは儀礼的であつて実行的でない、是れ何にも責められし余の不幸ではなくして、斯かる浅薄なる通念を懐く国民の最大不幸である。
 
(349)     道徳と其種類
                         明治36年8月6日
                         『万朝報』
                         署名 内村鑑三
 
 国に最も必要なる者は道徳である、道徳は富よりも、兵力よりも、知識よりも必要である、道徳は国家の生命である、道徳なくして、富、豊かなるも、兵強きも、知多きも国家は決して永続しない。
       *     *     *     *
 余輩は宗教家の立場からばかり斯う云ふのではない、死後に天国へ昇らふが、地獄へ落ちやうが夫れは全く別問題として、道徳は地上に於ける国民の生存上、何よりも最も大切なるものである、商業のため、工業のため、農業のため、道徳は一日もなくてならぬものである、道徳を第一位に置かずして、政治、又は殖産、又は美術を道徳の上に置く国は早晩滅亡に終るべきものである。
       *     *     *     *
 道徳とは必しも仁義忠孝等の外面的行為に止まらない、道徳にも多くの種類がある、何のために善を為すか、此問題に由て道徳の種類が定められるのである、君のために為す道徳、親のためになす道徳等は道徳ではあるが、然し最巷最上の道徳ではない、忠孝道徳は従順の民を造るが、進歩的の民を造らない、道徳も他の者と同じく進歩的で向上的でなければならない。
(350)       *     *     *     *
 誰のために善を行すか、勿論自分のためではない、又天子のためでもない、又肉体の父母のためでもない、実理其物のためである、或は真理の淵源なる神のためである、人の目の着かない良心の奥底を見ることの出来る実在者のためである、道徳が先其基礎を茲処に定むるに非れば、高貴なる世界的の行為となりて顕はるゝことは出来ない。
       *     *     *     *
 世界的の道徳は平民的である、即ち忠孝道徳のやうに上を仰ぐ道徳でなくして、下を瞰《み》る道徳である、即ち平民のため、殊に貧者弱者のためを思ふ道徳である、道徳は他の事とは正反対である、即ち上を仰ぐ道徳は退歩的陳腐的道徳であつて下を瞰る道徳が進歩的日新的道徳である、上なる貴族を仰がんか、下なる平民を省みん乎、二者孰れの道徳に依らん乎、此問題を決するに由て国民の運命は定まるのである。
       *     *     *     *
 東洋が退歩的なる最大理由は其上仰的道徳即ち忠孝道徳に於て存して居る、西洋が進歩的なる最大理由は其下瞰的道徳即ち平民的道徳に存して居る、ルーテル、コロムウエル、ワシントン等の剛《えら》かつたのは彼等が輿論を排して断乎として此平民的道徳を取つたからである、西洋とて素めから此道徳を取つたのではない、彼等とても元は支那人、朝鮮人と同じやうに忠孝道徳を奉じた者である、然るに幸にして彼等の中に多くの偉人が起て新道徳を吹入《すいにふ》した故に今日の進歩的社会を作ることが出来たのである。
       *     *     *     *
(351) 忠孝道徳を以て富国強兵を致さんとするは漢法医の草根木皮を以て重病を癒さんとするよりも難い、又馬車を以て汽車と競争せんとするが如くに難い、日本国の運命も其孰れの道徳を採用する乎に由て定まるものである。
 
(352)     文部省が不用となりし理由
                       明治36年8月10曰
                       『万朝報』
                       署名 内村鑑三
 
 今や文部省の不用は認められて、其廃止論さへ唱へられるに至つた、是れ抑も何の理由に由るのであらう乎、
       *     *     *     *
 此文部省も一時は非常に有用なるものであつた、西洋の新知識を我国に輸入する時に方て、文部省が鋭意此事に尽くしたのは事実である、余輩は今の文部省を信ぜざると同時に其過去の功労を忘れんと欲する者ではない、
       *     *     *     *
 然しながら日本の文部省は既に其為し得べきの業を為し終へた、国民は既に此文部省に導かるゝの必要なきに至つた、新知識の必要が国民全体に認められるに至つて、今の文部省の存在の理由は消滅したと云はなければならない、今や日本国民の要求するものは理化、動植、工芸、美術等の新知識ではない、日本人の今日最も多く要求する所の者は高き潔き清神である、爾うして是れは今日の文部省の到底国民に供給することの出来るものではない、
       *     *     *     *
 支那風の忠孝道徳を国民に吹入して其道徳の敗頽を喰止めんとせし時に今の文部省は其衰滅時期に入つたので(353)ある、西洋知識と東洋道徳とを鍛接せんとの不可能事を試みんとせし其時に文部省は自己のために埋葬の鐘を鳴らしたのである、爾うして斯かる頓機翁的《ドンキホテーてき》不可能事を試むること十有五年、終に教科書事件てふ国家的大耻辱を其胎内より産出するに至つて、文部省は其自滅を実にしたのである、余輩は事の茲に至りしがために文部省に就て怒らない、是れ何人が国民教育の衝に当るも日本国の此過渡時代に方ては必ず一度は落入り易き過失であつたであらう。
       *     *     *     *
 然し過失は過失であつて成功ではない、故に今の文部の当局者たる者は大に自己に鑑み、其今日の日本人を導くための資格を備へざる者たるを自覚し、茲に勇ましく自から其職を退き、二十世紀の日本国を薫陶するに足るべき人を挙げて、之に新文部省の設置を委ぬべきである。
 
(354)     〔クリスチャンたる事 他〕
                    明治36年8月13日
                    『聖書之研究』43号「所感」
                    署名なし
 
    クリスチヤンたる事
 
 クリスチヤンとなることは我儕が好んで成れることではない、クリスチヤンは神の特別の創造である、故に之になるを得て我儕はたゞ神に感謝するのみである、我儕は自から勉めて世の謂ふ義人となることは出来る、然しながら神の義人たるクリスチヤンとなることは是れ人間の力量以上の事である、爾うして此事はクリスチヤンと成つた者のみが知ることの出来る事である。
 
    伝道師たること
 
 余は好んで政治家と成ることが出来る、科学者、詩人、社会改良家と成ることが出来る、然しながら余は好んで基督教の伝道師と成ることは出来ない、是れになるためには余は大奇蹟を事実として信じなければならない、爾うして此事は余に大奇蹟の施さるゝにあらざれば余の為し得ることではない、神の特別の使命に由るにあらざれば何人も福音の役者と成ることは出来ない、爾うして此使命を蒙りし者は人の中に最も恵まれし者である。
 
(355)    クリスチヤンたるの確証
 
 敵を愛するるとは勉めて敵のために善を謀ると云ふことではない、敵を愛するとは読んで字の如く敵を愛することである、即ち些少《わづか》の悪意をも挾《さしはさ》むことなしに、混なき好意を以て其人の善を念ひ且つ之を謀ることである、爾うして是れ罪に死せる我儕人間が為さんと欲して為すことの出来ることではない、是れは聖霊を身に受けてキリストの救ひに与かるを得て始めて我儕のなし得ることである、敵に対して好意を懐くことが出来るに及んで我儕は始めて自分のクリスチヤンであることを覚るのである。
 
    真個の理想
 
 基督教は理想ではない、事実である、理想が事実となつて顕はれたるものである、即ち真個の理想である、「為すべき」は基督教ではない、「為し得る」が基督教である、キリストは道徳的最大事実である、我儕は彼に在りて、善を為すこと梃を以て※[さんずい+氣]関車を動かすが如くに易くなることが出来る。
 
    余の休息
 
 余の休息はイエスキリストに於て在る、キリストを離れて余に休息なるものはない、山の静かなるも海の平らかなるも、キリストを離れては余に休養を与へない、死の恐怖が全く去り、罪の詰貴が全く失せて、此地は始めて楽園と化するのである、キリストと偕に在りて存すること其事が休息である、縦令獄舎の中に在るも、縦令|市(356)街《ちまた》の隅に住むも、キリストと偕に在て世は讃美の里である、此快楽を有つ我儕は実に幸福なるものである。
 
    休養の目的
 
 休養は第一に肉体を休めることである、爾うして是れ或る場合に於ては神と肉体とに対して吾儕の尽すべき大なる義務である。
 休養は第二に過去の恩恵を想ひ起し、新たに之を記臆に留める事である、吾儕は絶へず新らしき恩恵をのみ要求して居つてはならない、吾儕は度々旧き恩恵を回想し、吾儕の記臆の中に喜ばしき恩恵の財産目録を作るやう努めなければならない、旧きを回想するのは新らしきを惹起すための最も良き方法の一つである、神は旧きを忘るゝ者に限りなく新らしきものを加へ給はない。
 休養は第三に直接に神の援助に与かることである、絶へず働いて(実は働かさしめられて)神の恩恵に与かる者は終には労働其物が吾儕の神ではあるまい乎と疑ふやうに成る場合がある、故に吾儕は度々労働を廃して、神御自身が吾儕を授け給ふ者であつて、労働が吾儕を援けるのでない事を学ばなければならない、蓄積《たくわへ》あつての休養ではない、神の無量の恩寵を実験するための安息である、聞く神は安息日の前には二倍のマナをイスラエルの民の上に降らし給へりと(出埃及記十六章廿二−卅一節)、吾儕も今日吾儕の業を廃して神の此恩恵を実験すべきである。
       *     *     *     *
 労働も神の賜物である、休養も神の賜物である、吾儕は感謝と信仰とを以て二者孰れをも受くべきである。
 
(357)    神恩
 
 神は或者には富と位とを与へ給ふ、又或者には智慧と知識とを与へ給ふ、又或者には幸福なる家庭と無異の生涯とを与へ給ふ、又或る他の者には艱難と迫害と貧苦と裸※[衣+呈]《はだか》と窮困とを聖霊の歓喜と偕に与へ給ふ、其栄の富に循ひ各人に其善と視給ふ所のものを下し給ふ、我儕此世に在て不幸と称せらるゝ者も亦深く神に感謝すべきである。
 
    斯世に於ける我儕
 
 我儕は斯世に在ては客旅また寄寓者である、(利未記廿五の廿三)故に我儕は斯世に於て満足を得ようとは欲はない、我儕の国は天に在る(腓立比書三の廿)我儕の希望は其処に於て充たさるべきものである、我儕此幕屋に居りて歎き天より賜ふ我儕が屋を衣の如く着んことを深く欲へり(哥林多後書五の二)我儕今に至るまで世の汚穢また万の物の塵垢の如し(仝前書四の十三)故に我儕或時は世を逝りてキリストと共に在んことを願ふ也(腓立比書一の廿三)我儕は世に寄れる日を懼れて過す者なり(彼得前書一の十七)我儕は斯世より何物をも求めんとする者に非ず、我儕は貸すことあるも借ることあるなし(申命記十五の六)憂ふるに似たれども常に喜び貧しきに似たれども多の人を富し何も有ざるに似たれども凡ての者を有つ者なり(哥林多後書六の十)斯世に在て最も不幸なるが如くに見えて最も幸なるは我儕なり。
 
(358)     余の感謝と祈祷
                      明治36年8月13日
                      『聖書之研究』43号「所感」                          署名 編輯生
 
 神様、アナタは今日まで私の身体の事に就ては甚だ冷淡であり給ひました 私は度々貧に迫りましたが、アナタは其時に金を以て私を助け給ひませんでした、私は或時思ひました、若し斯かる時にアナタが何かの方法を以て私に正しき金を賜ひましたならば私は確かにアナタの実在と恩恵とを信ずることが出来て私の信仰は嘸かし堅くなるであらふと、然しながらアナタは斯かる恩恵を私に下し給ひませんで 私をして失望せしめ給ひました アナタは亦私に斯世の善き友を賜はず、私は至る所に嫌はれ、為めに私は此世に在て常に不利益の地位に立ちました、又或時は私の国人を駆て私に逆はしめ、又或時は私の友や弟子をして私を私の敵に渡たさしめ給ひました、それのみではありません、アナタは私の肉骨までを起し給ひて私の敵と与して私を責めしめ給ひました、私は実に或る時は思ひました、アナタは実は在さないのではあるまい乎、若し在すとすれば人の祈祷を聞かれない者ではあるまい乎と、私は或時はアナタに祈祷が出来なくなりました、私は口を噤みました、私はアナタを信じた事に就て恥るに至りました、然しながら神様、私の身躰の事に就ては斯くも冷淡なるが如くに見え給ひしアナタは私の霊魂の事に就ては特別に聖慮を垂れられました、私が世の困難失敗のために度々アナタを離れんと致しました時にアナタは思掛なき時に私の霊魂にアナタの声を吹入れ給ひまして、アナタの深き御心を私に示し給ひまし(359)た、アナタは私の身の境遇をば善くしては下さりませんでしたが、然し私の霊魂をば艱難を経る毎に強く且つ健かになして下さいました、身の夜は常に心の朝となりて明けました、貧も孤独も裸※[衣+呈]も私の霊魂を殺すことは出来ませんでした、私は外より責めらるゝと同時に段々と中に富める者となりました、嗚呼、神様、私が始めて母の胎内を出し時よりアナタは私の霊魂にアナタの眼を注いで居つて下さつたのであります、アナタは今日私にアナタの聖霊を注いでアナタ御自身を私に顕はし、アナタの深き奥義を示さんがために今日まで私の身躰の事に就ては冷淡であり給ふたのであります、爾うして今、稍や明かにアナタの聖顔を拝するを得るに至て私はアナタに対つて唯感謝の辞があるのみであります、私は今は確かにキリストが私の救主であることを信ずることが出来ます、私は聖書が少しづゝ段々と分つて来ました、爾うして之れ決して血肉が私に教へたのではありません、アナタ御自身が直接に私を教へ給ひつゝあり給ふのであります、
 嗚呼、無限の愛、私は自分で自分を信ずる事が出来ません、何の価値もない私、而かも罪に沈み、アナタの正と義とを見るの力を失ひし私、………若しアナタがアナタの聖意の儘に特別の愛を以て私を択び給ひませんでしたならば、私に此事が少しなりとも判りやう筈はありません、此事を思ふ時には私の心には唯だ感謝があるのみでありまして、私は唯私の力あらんかぎりアナタを讃美しやうと欲ふのみであります。
 私の身躰を敵人に付《わた》して私の霊魂を悪魔の手より奪ひ給ひし神様、ドーゾ此末とも私の身の境遇を安楽になし給ふ事なく、又私の霊魂の痩せ衰へないやうにアナタの御恩恵を続けられんことを、偏に救主イエスキリストの聖名に由りて願上奉る、アーメン。
 
(360)     大工の子イエスキリスト
                     明治36年8月13日
                     『聖書之研究』43号「講演」
                     署名なし
 
   これ木匠《たくみ》の子に非ずや(マタイ伝十三の五五)
   彼は木匠に非ずや(マコ伝六の三)
 是れは実に著い言辞であります、此言辞をキリスト信者の信仰の立場から考へて見まして其なんと驚くべき言辞であるかゞ分ります、抑々我等はキリストは誰であると信ずるのですか、聖書の示す所に依りますれば「彼は神の栄の光輝、其質の真像《かた》にて己が権能《ちから》の言を以て万物を扶持ち、我儕の罪の浄《きよめ》をなして上天に在す威光の右に坐し給ふ」者であります、(希伯来書一の三)、彼は神の独子であります、人類の光、其生命、希望と称へられる者であります、然るに斯かる者が、然り、斯かる神が、肉体を取て斯世に在り給ひし間は工匠の子であられて、卑しき大工の職に従事して居られたと云ふことは是れ何たる天よりの音信であります乎、若し斯事実の中に何にか極く深い真理が籠つて居りませんならば、是れ一つの夢物語と見る外はありません。
 然し此事は事実でありました、ナザレのイエスは予言者エレミヤのやうに祭司の家に生れませんでした、彼は亦彼の弟子パウルのやうに博い神学教育を受けませんでした、イエスはダビデ王の裔でありましたが、ソロモンのやうに栄華の極に生れ来りませんでした、イエスは僻陬《いなか》のナザレの職工の一人でありました、此一事に就ては(361)如何なる歴史家も疑問《うたがひ》を抱く者はありません。
 「彼は木匠にあらずや」、アブラハムの在りし先に在る者なりと自白せし者が其この世に於て執りし職は木匠であつたとの事であります、其事其れ自身が奇跡であつて、亦大なる福音ではありません乎、
 此事たる勿論我儕人類に労働の神聖を教へるための事実的教訓であつた事は誰にでも能く判ります、労働を侮蔑するのが罪に沈める人類全体の謬見であります、斯世の貴顕と称ひ淑女と称ふ者は皆労働を為ない者であります、書を読み、国事を談じ、謀を帷幕の中に運らす者が社会の上に立つ者でありまして、斧を振上げ、鋤を肩にし、額に汗して食を得る者は下層劣等の者と見做さるゝのが此世の常であります、故にキリスト降世二千年後の今日に至りましても、人は何人も学者と成らんと欲し、農家の子弟にして都に出て学を修め得ない者は斯世の最も不幸なる者であると思ひ、文を綴り、説を立て、名を天下に揚げる者を見ては頻りに其幸運を羨みます、又婦女子に至るまで田家通常の労働を以て最も無味のものと思ひ、斯世に生れ来りし甲斐には少しく宇宙の幽理を探り、社会の表面に立つて其美と善とを嘗ひ見んなど云ふ希望を起しまして争つて近世教育の利沢に与からんと致します、然るに驚くべき事には茲処に人類の理想として此世に下されし者の生涯を見ますれば彼は僻陬の大工でありまして、曾て其職に就て不満を懐きしことはなく、彼の労働を以て能く貧家を支持へ、其間に天地の奥義を探つて終に人類の教導師となつたとのことであります、キリストが大工の職に従事されたといふことに依て人類の労働に関する思想は一変しました、此事に由て貴賤は其社会上の地位を顛倒し、貴い者が賤くなり、賤き者が貴くなりました、神は其独子を大工の家に降し給ひまして、労働者全体に対する神の特愛を示されました、労働は最上の教育であります、是れに依らずして人生の奥義を知ることは出来ません、労働は最も力ある伝道であり(362)ます、口を以てし、或は筆を以てする伝道に偽善は甚だ入易くありまするが、労働のみは人を欺くことの出来ないものであります、労働は諸の幸福の基礎であります、人生の快味は労働を離れて得ることは出来ません、国民の貢に依て衣食する人は最も不幸なる人であります、糧を他人の寄贈に仰ぐ者は危険の位地に居る者であります、基督教は労働宗であります、懶ける者は天国に入ることは出来ません、基督教の道徳より見ますれば懶惰は確かに重い罪の一つであります、人若し工を作すことを好まずば食すべからず(テサロニカ後書三の十)、是れは聖書の中に示されたる神の命令の最も肝要なるものゝ一つであります。
 然し、私の考へまするに、労働の神聖を教ゆるのみがキリストが木匠として此世を過し給ひし目的ではなかつたと思ひます、キリストは特別に此卑しき職を択び給ひて我儕に斯世の真の価値を教へ給ふたのであると思ひます、斯世は勿論神の造り給ふたもので神聖なるものであります、我儕神を信ずる者は斯世は悪魔の属であつて、天国のみが神の属であるとは信じません、「林の諸の獣《けもの》、山の上の千々の牲畜《けだもの》は皆な我がものなり」と神は申されました、我儕は決して斯世を以て汚らはしき所と見てはなりません、然しながら斯世は最も美い所ではありません、神は之れよりもモット美い所を我儕のために備へ給ひました、斯世はまだ進化の段階に於て在るものであります、故に斯世を以て最善最美の所と見做すのは大なる誤謬であります、斯世に於て王たる者は必しも人類の王たるべき者ではありません、斯世に於て悪人の取扱を受くる者は必しも神に詛はれたる者ではありません、斯世は試練の世であります、神を信ずる者の永久の棲家ではありません。
 故にキリストは斯世に降られた時に殊更らに其職業の撰択に就て心を砕かれませんでした、彼は勿論不正の業を執らふとはなさりませんでした、亦彼は彼の特性として人類多数の従事する職に就かんことを求められて、帝(363)王とか貴族とかいふ多くの特権を持つたる階級の中に加はらんことを望まれなかつたに相違ありません、然しながらそれが平民の業で正直の職である以上はキリストは彼の執らんとする職業の種類に就ては多く心を配られなかつたやうに見えます、キリストに取ては斯世は斯世限りの俗人の思ふやうな左程に大切なる所ではありませんでした、大理石の家に住まふが、木造の家に住ふがそれは彼に取ては問題ではありませんでした、肉を食ふが、野菜を食ふが、絹を衣やうが、木綿を纏ふが、其様なことに彼は意を用ひ給ひませんでした、且又世に所謂成功なるものに就てもキリストは少しも思考を運らし給はなんだと思ひます、キリストに取りては人生の目的は食ふに非ず、衣るに非ず、又必ずしも世に所謂大事を為すにもありませんでした、斯世は是れ我儕が神の光を其身に受け、其恩化に浴して次ぎに来るべき更らに栄《さかえ》ある世に移されんための所でありますから、我儕は斯世の成功に就ては世の神を知らざる人が為すやうに左程に苦心すべきではありません、「それ衣食あらば之をもて足れりとすべし」(テモテ前書六の八)、それで沢山なのであります、如何にして「成功」せんかとて心を砕く人は未だキリストの心を有つた者ではありません。
 故にキリストは大工の職を以て満足されたのであります、彼は救世主たるの天職を充たさんがためにはエルサレムに上りて文学、神学、哲学を研究するの必要を感ぜられませんでした、彼は亦彼が人類の模範たるの目的を達せんがためには特に教師たるの特許を人より受け、ラビと称はれ、先生として崇められるの必要を感じ給ひませんでした、彼は羅馬政府の保護を藉りるの必要も感ぜず、又富を作つて大に慈善を行ふの必要をも感じ給ひませんでした、若し彼と殆んど同時代のユダヤ人たりしヨセファスのやうに猶太亜歴史を編纂するのがキリストの目的でありましたならば、彼は羅馬の首都《みやこ》に出で大歴史家の友誼を求め、皇帝陛下の恩寵に与かるの必要もあつ(364)た乎も知れません、然しながら人類の模範とならんとのキリストの目的は、それは大工の職に居つても充分に成遂ぐることの出来るものでありました、それ故にイエスは三十歳に至るまで曾て一度もナザレなる彼の炉辺を去つて遠く智識と名誉とをローマ、又はエルサレム、又は希臘のアテンス、埃及のアレキサンドリア等に於て探り給ひませんでした、ナザレの僻村に在て、星は矢張り彼の頭上に燦然として輝きました、野花は矢張春毎に路傍に神の栄光を示しました、爾うして彼の父母より学びし聖書は神の奥義を彼に伝へました、天然あり、聖書あり、労働ありて、彼は人類の模範となるに充分の機会を与へられました、故に彼は其外に何をも求め給ひませんでした、キリストの人生観を以て人生を見ますれば、是れは至て単純なるものとなります、世に所謂る処世の策なるものは彼に取ては決して難問題ではありませんでした。
 イエスは大工でありました、爾うして人類の模範となりました、然らば今日の我儕も我儕に与へられし地位に在つてキリストのやうな人になることが出来ます、大政治家になることが出来ず、大文学者になることが出来ず、大伝道師になることが出来ませんでも、キリスチヤン、即ち小キリストとなることは出来ます、即ち人間らしき人間となることは出来ます、爾うして小キリストとなる事は名誉の一点から云ふても日本帝国の総理大臣となるよりも大なる名誉であります、富を天国に蓄ふるのは快楽の一点から言ひましても、億万の富を作るに優るの快楽であります、人生の最大名誉は大工、左官、百姓の地位に居つても博することの出来るものであります、人生の最大快楽は鋤一挺と聖書一冊とを以て得られるものであります、何にも之を得んがために競争場裡に身を投じて、無益の争闘に身血を絞るの必要はありません。
 「彼は木匠に非ずや」、我儕の模範は木匠でありました、我儕の理想は貧しき正直なる勤勉なる職工でありまし(365)た、天国は何れの職業に在ても(不正なるものを除いては)達することの出来る所であります、それ故に職業選択問題は左程に大切なる問題ではありません、最も大切なる問題は人生問題であります、赦罪問題であります、天国問題であります、我儕が斯世に在て何の事業を為さう乎、それは我儕に取ては至て小なる問題であります。
 
(366)     奮起を促がす
                      明治36年8月13日
                      『聖書之研究』43号「講演」                          署名 内村鑑三
 
  我儕のうち己の為めに生き、己のために死ぬる者なし、そは我儕生くるも主のために生き、死ぬるも主のために死ぬ、この故に或は生き或は死ぬるも我儕は皆な主のものなり。(羅馬書十四章七、八節)。
  我れ観しに一疋の白馬を見たり、之に乗れるもの弓を携ふ、且冕を与へられたり、彼れ常に勝てり、又勝を得んとて出行けり。(黙示録六章二節)。
 諸君、救済の第一期は自己を救ふことであります、其第二期は世を救ふことであります、自己を救はずして他人を救はんとするは無益の労であることは言ふまでもありません、然しながら何時までも自己の救済の事にのみ心配して他人を救はんとせざる者は終には自己の救済までをも危くするものであります、救済は永久の事業であります、是れは万民が救はれるまでは止むべきものではありません、我は救はれたれば安心なりとて万民の救済に心を配らざる者は、其人の救済は半ばにして尽き、彼は矢張り救はれざりし時と同じやうに沈淪《ほろび》に行く者であります。私は微力であるから、他人の救済にまで迚も与かることが出来ないと云ふ人は誰でありますか、神は其様な人は一人も造り給はない筈であります、私は固く信じて疑ひません、神は私共丈けを救はんがために私共に其救済を垂れ給はざりしことを、神は私共を以て世を救はんがために私共を救ひ給ふたのであります、神の恩恵(367)を独占せんとするものよりは神はその曾て下し給ひし恩恵をも取返し給ひます。
 諸君は諸君が神より賜ひし恩恵に就て包み隠すことなく之を世の人に向て告白することが出来ます、多くの人は是れだけの事をさへ為《なし》ません、彼等は沈黙を守りて謙遜を飾らんとします、彼等は宗教を以て己自身の事なりとし、之を他人に頒け与へんとは為ません、斯かる人の信仰が日々に衰へ行きて、終には有る乎、無き乎、判らないやうになるのは理の最も睹易い事であります。
 多くの人は、然り、多くの基督信者は、金は誘惑であると言ひます、実に金は誘惑であります、然しながら其誘惑なる理由は之を広く自由に神のために使はないからであります、金は腐敗物であります、是は肉や野菜と同じく使用ずして永く溜め置けば直に霊魂を腐らせるものであります、或は災の身に来らんことを懼れ、或は事業の無限の拡張を謀つて、神の賜ひし金を伝道又は慈善のために使はない者は再び金の滅す所となります、私共は富豪《かねもち》となるまで待つてはなりません、私共何人も今日、今より、神が私共各人に賜ひし富に応じて金を以ても亦他人の救済に与からなければなりません。
 勿論、善行は金のみに止りません、智識も、権力も、健康も、男子の腕力も、婦人の美貌も、是れ皆な神のために世の人の救済のために使ふべきものであります、亦私共自身の幸福から考へて見ましても、神と人類のために此身と所有を使ふこと位愉快なことはありません、たゞ蓄へる許りで消費ない人は最も不幸なる人であります、彼等が常に憂鬱に沈み易く、除かんと欲しても除くことの出来ない心の苦痛を感ずるのは彼等が他人の救済に与からないからであります。
 今や我日本国は伝道上又と復たび得難き好時機に際して居ります、「田《はた》は熟《いろづ》きて穫時《かりいれどき》になれり」とは実に日本の(368)今日の如きを云ふのであらふと思ひます、私共何の幸福か此時此国に生れ来りまして、たゞ私共自身の安全をのみ計画《はか》つて此国を神に捧げんための大事業に干与ずに居られませう乎、全国の同志諸君、今、若し諸君と共に働きますれば私共は確かに日本は勿論東洋全躰の救済のために茲に新期限を開くことが出来ます、私共は既に長過ぎる程|思考《おもひ》と時と金とを私共自身の安全のために費ひました、今よりは「世界の人」(世俗の人にあらず)となり、小は小なる丈けに其全力を尽して此国と同胞とを神に導かうではありません乎、其方法等に就ては再び誌上に於て申上げやうと思ひます。
 
(369)     見聞二三
                    明治36年8月13日
                    『聖書之研究』43号「緑蔭会話」                        署名 角筈生
 
〇曾て米国に在りし時に彼国の或る友人が余に向つて「君は夏休課を利用し資金募集に従事しては如何」と云ひて余に注意して呉れたことがある、其時余は「否な、余は其やうな事を為さゞるべし」と答へた、すると其友人は「君の国人なる新島襄君は此国に在りし時は此事に従事せり、君奚んぞ彼に傚はざる」と言ふた、其時余は亦た答へて「新島君は為したりしならんも余は為さゞるべし、新島君は新島君にして余は余なり」と言ふた、それより其友人は決して余に資金募集を勧めなくなつた。
〇亦た或時の事であつた、彼地の或る組合教会の牧師が余に向つて「君は米国に在る間によく我等の教会を視察し、国に帰つて後には之に類する教会の設立を謀られよ」と言つて余に勧告した、余は其時彼に答へて「否な、余は米国人の教会を真似ざるべし、余は国に帰つてより米国人の模範となるべき真個の独立教会を建てんと欲す」と言ふた、すると其牧師先生は非常に驚いて傍らに在りし彼の妻君に向つて「汝は今此日本の青年が何んと言ひしかを聞きしか」と言ひて暫らく余の面を見詰めて居つた、此事に関しては余は今と雖も少しも其時の思考《かんがへ》を変へない積りである。
〇近頃或る書店の主人が余に告げて言ふた、「近頃聖書の売れることは非常なり、然るに其割合に教会員は少しも(370)増加せず」と、余は其時彼に答へて言ふた、「是れ確かに神が教会以外に於て日本国を救ひつゝある証拠なり」と、基督教は確かに教会以外に於て非常の速力を以て此国に勢力を増しつゝある、我儕が教会と云ふ一種の藩閥政府に目を注ぐことを廃めて、日本全国を神に導かんとすれば、我儕の事業の成功は最も確実である、今より後は実に無教会信者の世の中である。
 
(371)     最善と最悪
                    明治36年8月13日
                    『聖書之研究』43号「緑蔭会話」                        署名なし
 
 最も善きことはキリストを信じ、彼に在りて善を為すことなり、即ち彼に善を為さしめらるゝことなり、其次に善きことはキリストに傚ひ、彼を真似て善を為すことなり、其次に善きことはキリストを知らざるも天然の声に聴きて善を為すことなり、更らに恕すべきは無智無識の結果、善を為し得ずして恒に神の聖旨に戻ることなり、然れども最も悪しきことにして全然恕すべからざることはキリストを識り、聖書を研究し、神学を講じ、キリストの神格を論じながら、兄弟を憎み、其陥擠を計画し、彼等の墜落するを見て心に喜楽を感ずることなり、神が最も憎み給ふ者の中に信仰篤くして(篤しと称して)罪を犯す者の如きはあらず。
 
(372)     露国と日本
                         明治36年8月17日
                         『万朝報』
                         署名 内村鑑三
 
〇露国の財政は紊乱《ぶんらん》して居ると云ふ、然し日本の財政とて整頓しては居らない、日本政府は過る十年間、借金に借金を重ねて漸くヤツト其経済を維持し来つたのである、貧困の点に於ては日本は露国に少しも譲らない。
〇露国の陸海軍は盗賊の巣であると云ふが然し、日本の陸海軍とて潔白君子の巣窟でないことは何人る能く知る処である、某伯爵が海軍大臣たりし時に軍艦製造を機会に莫大のコムミツションを取つて暴富を致した事は今や公然の秘密である、陸軍部内の腐敗も近頃教科書事件と同時に曝露されて人をして其腐敗の程度を知るに困ましめたではない乎、陸海軍整理の点に於ても日本国は露国の模範として立つことは出来ない。
〇霧国にキシネフに於ける猶太人《ぢうじん》虐殺ありたればとて露国を以て人道の敵に擬する者がある、然し我儕日本人は日本にも足尾鉱毒事件と云ふ大惨事が存在して居ることを忘れてはならない、爾うして露国に在ては加害者五百余名を獄に下して今や其犯罪の審判中なるに対して、我日本に在ては加害者の張本人たる故古川市兵衛氏は朝廷の御覚え殊に篤く、身は五位の栄位に在て淫逸に耽りながら栄誉を以て彼《か》の墓に下つた、余はキシネフ事件と足尾鉱葦事件とを対比し見て後者の前者に勝る数十百倍の残酷なることを信ぜざるを得ない。
〇露国の慕ふべき、敬ふべき国でないのは言ふまでもない、然しながら其野蛮的行為を数へ上げて之に向つて人(373)道のために戦を宣すべしと言ふ者あらば、余輩は先づ我日本国の行為に省みて然る後征蛮の途に上りたく欲ふ者である、然らずして我自身が彼に劣らざる大罪悪を犯しつゝある間に、彼《か》の罪を責むるが如きは、是れ「他人の目にある物屑《ちり》を視て己が目にある梁木《うつばり》を知らざる」誤謬に陥るのではあるまいかと思ふ。
 
(374)     宗教時代の到来に就て
         (本集のために特演)
                 明治36年8月24日
                 『朝報社有志講演集第参輯・第四輯』
                 署名 内村鑑三 講演
                   〔欄外の小見出しは省略した、入力者〕
 
 宗教時代が到来したとて悦ぶ宗教家があります、然しながら之は何にも別に悦ぶべきことではないと思ひます、斯くなるのは当然の事であります、永の間浮気文学に眼を曝らせし日本人が心に浮気の倦怠を感じて稍や真面目なる問題に耳を傾くるに至りましたのは、是れ自然の順序でありまして、是れがために日本の思想界が真面目になつたと思ふて悦ぶやうでは、迚も此国民を真個の真理に導くことは出来ないと思ひます、今の日本人の宗教熱なるものは恰度人が放蕩を為し尽した後で大に身の不行跡を感じ真面目を気取ると同然でありまして斯かる者が真正に宗教を解し得やう筈のないのは判り切つたることであります。
 宗教を信ずるに最も善き時は社会が宗教を虐待する時であります、此時に信じた宗教は終生、身を去りません、宗教の真理は血を以て争ふにあらざれば解かることの出来ない者であります 此世に在つても歓迎され、次ぎの世に行ても楽園に遊ばんなど夢想する者は宗教を語るに足らない人であります、此世に在ては厳冬の苦寒を感じ、次ぎの世に於て春風の和平を得んと欲する者(375)でなければ到底宗教の真意は解りません、迫害が天国に入るの門であるのであります、賞讃歓迎は地獄に入るの門であると思ふて差支はありません、宗教家の深き心の実験から見まして、今日の所謂「宗教時代の到来」なるものは寧ろ歎ずべきことでありまして、悦ぶべきことではありません。
 此事は過去の経歴に照し見て最も明白に判かります、明治の十六七年頃、今の井上伯が外務大臣たりし頃、西洋の交際熱が一時に高まり来り、何事も西洋でなければならないと云ふ点から西洋の宗教なる基督教が非常に歓迎され鹿鳴館に舞踏に赴く者にして基督教を信じない者は、時勢後れであるやうに思はれた時がありました、爾うして其時に交際上の必要から基督教を信じた者が沢山にありました、然しながら我国に於ける基督教会の堕落なる者は実は此時に於て始まつた者であります、此時に多くの偽信者が出来ました、此時に腐敗分子がタッブリと基督教会内に入つて来ました、基督教会に取つて最も不幸なる時は実に此時でありました。
 夫れのみではありません、斯かる時に宗教を信じた者は反動時代の到来と同時に第一に之を捨た者であります、西洋熱に次で来た者は国粋保存論であります、之に伴ふて来たものが支那流の忠孝道徳であります、爾うして何事に依らず世の潮流に従つて其所信を変ずるの徒は、西洋の宗教を捨てゝ東洋の陳腐道徳に還るのを何んとも思ひませんでした、彼等は、古草鞋を捨るよりも容易く基督教を捨てました、而已ならず彼等は基督教徒の迫害者と変じました、社会の流行に促されて受納れし彼等の宗教は社会の流行に依て取り去られました。
(376) 斯かる次第でありますれば、私は今日の宗教歓迎なるものを見て少しも悦びません、私は是も一時の流行であることを信じて疑ひません、其証拠には彼等が称して以て宗教と看做す者は決して宗教ではありません、人生問題の攻究など称へますものは其名こそ宗教に縁があるやうに聞へまするものゝ、実は宗教とは縁の甚だ遠いものであります、イヤ天がどうだの、人間がどうだの、宇宙がどうだのと申しまするのは畢竟是れ宗教道楽に過ぎません、是れは頭脳の中で宗教を批議するのでありまして、心の中で宗教を信ずるのではありません、即ち評論の題目が異つたまでのことであります、今日まで美を論じ恋を論じた日本の思想家が、此等の問題を論じ尽して、今は大に之に厭《あき》を感じたる結果、人生とか未来とか云ふ問題を論じ始めたのであります、彼等が何にも心に前非を悔ひ、罪の怕るべきを覚り、神の前に自己を裸にして、其宥恕を乞ひ始めたのではありません、彼等はたゞ宗教的言語を以て彼等の穢れたる生涯の上塗を為さんとするのであります、彼等は何にも心の根本に於て宗教を求むるのではありません、彼等は宗教の衣を着けて、ソレで昇天せんと試むるのであります。
 人は宗教時代が到来したと曰ひます、然し私は宗教時代は既に過ぎ去つたと言なければなりません、宗教時代とは何時でありましたらう乎、私は申します、是れは馬鹿気切つたる支那風の忠孝道徳が大政府の威力を以て吹入され、宗教を信ずることが逆臣国賊の行為であると見做された、其時でありました、即ち宗教を信ずるに依て国人には国賊として斥けられ友人には偽善者として罵詈され兄弟骨肉にまで悪人よ、不孝者よと謂はれて責められし其時が宗教時代でありました、(377)其時には宗教は道楽半分に研究されませんでした、其時には宗教は心の事でありまして、頭脳《あたま》の事ではありませんでした、其時には週囲が暗黒でありました故に内部に光明が輝り渡りました 其時には神が事実として眼に映じました、其時には哲理に依らずして実験に由りて人生の深き真理が解りました、其時に始めて天国の門が開けて我等は信仰の眼を以て其処に確かに我等の活ける真《まこと》の神を認めました。
 宗教時代の到来! 是れは確かに宗教家の警戒を加ふべき時代であります、此時に乗じて宗教の延蔓を計らんとするが如き愚を演じますれば私共は取返しのつかない失敗に陥ります、或る意味から首へば宗教時代は何時でも到来して居ます、人間に霊魂の存在する間は宗教の必要の感ぜらるゝ時代であります、霊魂の要求を充たすのが宗教の任務であります、爾うして此要求は食物の要求と同じやうに何時と云つて之に高下のあるものではありません、此要求は之れ何時でもあるものではあります、殊に前にも述べました通り、宗教が社会に虐待さるゝ時にあるものであります、然るを、此要求が今日に始つたやうに思ひ、今が之を充たす時であると思ふのは大なる間違であります、斯く信ずるのが抑々宗教心のない証拠であります、宗教は決して流行物ではありません。
 宗教時代の到来! 嗚呼、私共はそんな事には少しも耳を傾けまいと思ひます、世が迎へやうが迎へまいがそんな事には少しも頓着することなく私共の信念有の儘を述べやうと欲ひます、私共は今日まで私共を非常に窘《くるし》めた社会に歓迎されやうとは欲ひません、彼等は相も変らぬ浮気の(378)社会であります、瓢箪の川流であります、社会の潮流と共に進退する者であります、世と共に恋愛小説に耽け、世と共に忠孝道徳を唱へ、今は又世と共に宗教問題を研究せんとするのであります、実に卑むべくして憎むべきは此社会ではありませんか、斯んな社会の歓迎を受けたればとて悦ぶやうでは迚も宗教の真味は判りません、私共はドコまでも斯かる社会に向かつては反抗的態度を取り、此方より彼等に向つて絶交を申渡し、全然彼等の毀誉褒貶以外に立ちたく欲ひます。
 
(379)     満州問題解決の精神
                       明治36年8月25日
                       『万朝報』
                       署名 内村鑑三
 
 満州問題を解決せんとするに当て我等の先づ第一に決定め置くべき問題は「如何するのが満州並に満州人のために最も利益である乎」是れである、我等は勿論此事に関して露西亜人の利益を謀るに及ばない、又日本人の利益をも謀つてはならない、満州は先づ第一に満州人のものであるから、我等は満州問題を決せんとするに方ては先づ第一に満州人の利益を謀るべきである。
       *     *     *     *
 満州は之を団匪蜂起以前の状態に帰復せしむるのが満州人の最大利益である乎、或は之を露西亜人の手より奪つて日本人の手に委ぬるのが、夫れが彼等満州人のために謀るに彼等の最大利益である乎、或は今日の処、之を露西亜人の手に委ぬるのが、満州開発のための最良策である乎、此問題が定まつた以上でなければ満州問題を決することは出来ない。
       *     *     *     *
 斯う曰ふたならば我国の自称愛国者は曰ふであらう、今日は各国生存競争の時代であるから、我等は決して他国の利益を考ふるに及ばない、我等は先づ第一に我国の利益を考へて然る後に我等の凡ての方針を定むべきであ(380)ると、然しながら是れは愛国者の言であるやうで実は盲者の言である。
 国は到底剣や政略を以て取ることの出来るものでないことは世界歴史の充分に証明する所である、其国を愛する者が終には其国の主人公となるのである、最も多く満州を愛する者が終には満州の持主となるのである、此事は是れ宇宙を支配する法則であつて、適当の時間を経過した後に此事が事実となつて現はれない例はない。
       *     *     *     *
 国には夫れ/”\其運命とか天職とか称すべきものがある、我等は深く各国の地理と歴史とを究めて其天職を知るこ上が出来る、日本人も深く其天職を究め、為し得べからざる事を無理に決行せんとせずして、其為し得る範囲内に於て大に其膨脹を計るべきである。
 
(381)     平和の実益
                       明治36年9月1日
                       『万朝報』
                       署名 内村鑑三
 
 戦争にも多少の利益はあるであらふ、然し平和の利益は戦争の利益よりも多くある、試に満州問題に就て日本が露国に向て戦争を宣告すると仮定せよ、其結果として日本が消費せねばならぬ金額は少くとも四億円に達するであらふ、爾うして日清戦争とは異ひ日露戦争の場合に於ては仮令日本が勝つとするも露国より償金を取るの見込がないから、此四億円は丸損と見做さなければならない。
 今、若し戦争を為たと思ひ、茲に四億円の金を平和の事業に消費すると仮定せよ、其効果たるや実に計る可らざるものである、先づ其内の五千万円を以て朝鮮を経営し、一方には京城より平壌を経て義州まで、他の一方には京城より元山を経て豆満江河口まで鉄道を建設することが出来る、更らに五千万円を使つて慶尚道忠清道等の人口稀薄の所に日本農民の移住を計り、半島内到る処に日本人の社会を作ることが出来る、朝鮮国内に露国の侵入を拒ぐ方法として之に優るものはない。
 一億円で朝鮮を実際的に日本の有《もの》となし、更らに一億円を投じて北清地方到る処に日本の商権を拡張し、製造所を建設し、直隷湾を以て日本湖となすの基を開くことが出来る、尚ほ残りの二億円の中より、其一億円は広く之れを日本国内の農事改良に消費し、盛んに肥料の製造を行ひ、今日の農産物の産出額を二倍又は三倍にするこ(382)とが出来る、爾うして最後の一億円を以てテキサス、メキシコ并に南米に我国民の大移住を謀り、終には太平洋までを日本湖となすの大計画を立つることが出来る、四億の金、若し之を硝煙弾雨として満州の野に消費するならば、少しの虚栄は日本に入り来るであらふが、然しながら其結果として残るものは九段坂上招魂社内の遊就館に於て分捕品の少々と血だらけの軍服位とが陳列さるるの外、国民を永久に益する者は何もあるまいと思ふ。
 
(383)     豊年と平和
                        明治36年9月7日
                        『万朝報』
                        署名 内村鑑三
 
〇世に最も貴いものは憲法でもなければ議会でも政治家でもない、世に最も貴いものは太陽の光線である、政治家がいくら「憲法に循つて」凝議すればとて米一粒をも作ることは出来ない、然しながら太陽が其光線を一ケ月間続いて送つて呉《くる》れば禾穀は十二分に成熟して民に平和と歓喜と一致とが来る、感謝すべきは実に天然であつて政治家ではない、我等は茲に天に謝するを学んで、人に信頼するの心を根から絶つべきである。
〇豊年は来た、吾等は軍人と政治家とに欺されて豊年を濫用して戦争を起してはならない、天は民を休めるために豊年を賜ふのである、軍人の虚栄心を満足せしめ、政治家の破財を繕はんために此恩恵を下すのではない、豊年を濫用して師を起す者は天と人とに逆つて大罪悪を犯す者である、吾等は天の声に聞いて、豊年を祝して平和を求むべきである。
〇師を起すべきではない、亦奢侈懦弱に陥るべきでない、我靜は豊年を利用して大に社会人心の改良を謀るべきである、自由を拡張すべきである、新理想を養ふべきである、日本国を世界第一の幸福なる国となすべきである、天は豊年を賜ふて大に平民を益し給ふた、今年は平民が起つべき年である。
 
(389)     〔無辺の愛 他〕
 
                     明治36年9月17日
                      『聖書之研究』44号「所感」                           署名なし
 
    無辺の愛
 
 我が罪は大なり、然れども我が神は我が罪よりも大なり、彼は我が罪の大なるに係はらず我を救ひ給ふ、我れ何処に行きて汝の聖霊を離れんや、我れ何処に往きて汝の聖前を逃れんや、我れ天に昇るとも汝は彼処に在まし、我れ我が榻《とこ》を陰府に設くるとも見よ、汝、彼処に在ます(詩篇第百卅九篇七、八節)我は逃れんと欲して我が神の恩恵の手より逃るゝ能はず、彼は奈落の底にまで彼の手を拡げて我を支え我を救ひ給ふ。
 
    我が救済の希望
 
 我にして若し滅さるべき者ならば我が滅亡の機会は甚だ多かりき、然れども神は総の危険より我を救上げ給へり、而して我が過去に於て斯くも我に恩恵深かりし我が神は我が将来に於ても亦我が罪のために我を我が敵《あだ》に附し給はざるべし、我が希望は単へに我が神の深き恩恵に於て存す、我が心の中に善工を始めし者これをイエスキリストの日までに全うすべしと我深く信ず(腓立比書一の六)。
 
(390)    キリストの奇跡力
 
 我は我に力を予ふるキリストに因り諸の事を為し得るなり(腓立此書四章十三節)我はキリストに因りて我が未来永劫赦すこと能はずと信ぜし我が讐敵をも容易く赦し得るなり、我はキリストに因りて我が蒙りし侮辱を忘れ、痴者の如くになりて我が敵人をも我が恩人の如くに愛し得るなり、我はキリストに因りて怨恨なるものを我が心の根底より絶滅し得るなり、我は我が心に此大奇跡の施さるゝを見てキリストの神性を疑はんと欲するも得ず。
 
    神の教育法
 
 神は我に敵人を送り給ひて我が身に危害を加へしめ給へり、神は亦我にキリストの義と愛とを示し給ひて我に此危害に勝つの途を教へ給へり、危害の我が身に加へられざりしならん乎、我は我が神の愛を識ること能はざりしならん、敵人の悪意は神の好意を招くの機会となれり、神は実験的に其聖旨を我等に伝へ給ふ、敵人の奸計 憤怒憎悪を透うして我は我が神の愛を味ひ得たり、感謝すべきかな。
 
    天国の希望
 
 心の貧き者は福ひなり、天国は即ち其人の有なれば也、義きことの為に責めらるゝ者は福ひなり、天国は即ち其人の有なれば也、天国!天国!我等の理想は是れなり、我等の目的は是なり、我等は其市民たるの特権に与(391)からんと欲す、吾等は其処に冕を戴くの栄誉に与からんと欲す、而して是に入るの契約の我がために設けられしを信ずるを得て、我は短かき斯世に在て如何なる辛苦をも忍び得るなり、此希望の我等に供せられて、嘲笑何物ぞ、饑餓何物ぞ、裸※[衣+呈]何物ぞ、天国を我が有となさんがためには剣も逐放も絶交も死刑も我は喜んで之を受けん、愛の神は報賞なしに我等に困苦を強ひ給はず、終まで忍ぶ者は救はるべし、歓んで現せの侮辱に耐ゆる者はキリストと偕に永遠に治むるを得ん、我等の忍耐の理由は偏に天国の希望に存す。
 
    裁判の神
 
 我が霊魂の教主は亦世の裁判人である、彼はその口より出る両刃の利剣《ときつるぎ》を以て万民を鞫き給ふ、(黙示録一の十六)、彼の前には掩はれて露はれざる者なく、隠れて知られざる者はない(馬太伝十の廿六)、彼は悪人を善人として永久に隠し給はない、亦善人を悪人として永久に曝露し給はない、冤罪なるものはキリストに於てはない、キリストは斯世の父母、兄弟、君主とは異ひ、我等の心を視給ひて、我等の外形に因て我等を鞫き給はない、爾うして彼の裁判たるや、僅に良心の賞讃詰責に止まらない、是れは終には事実となりて顕はるゝものである、即ち牧者がその綿羊と山羊とを別つが如くキリストは終には善人と悪人とを別ち給ふ、是れ総て神を信ずる者に取ては最も喜ばしき日である、我等は単に其日に於て疵なき者として顕はれんことを欲《ねが》ふ、斯せに在て不忠と称はれやうが、不孝と称はれやうが我等は少しも苦慮するに及ばない。
 
(392)    恩恵と困難
 
 恩恵は直に来るものではない、困難を透うして来るものである、困難は恩恵を身に呼ぶための中間物である、燃料なくしては火がないやうに困難がなくしては信仰も歓喜もない、火に先立つものは煙である、信仰に先立つものは疑懼である、煩悶である、是れありて、是れに天よりの火が点りて始めて天よりの平安と喜楽とが我儕の心に臨《きた》るのである、困難を経ずして深き信仰を得んとするは先づ煙を見ずして光と煖とを得んとするが如くに難い。
       *     *     *     *
 夫れ故に我儕神の心を識るものは困難の到来を見て決して驚いてはならない、是れは恩恵の先馳《さきがけ》である、然り、恩恵の初期である、今や光明が潮の如くに心に充ち溢れんとするに先立つて茲に暗らく見ゆる天使が来て我儕の頑固なる心の水門を打破るのである、我儕の無智なる、時に或は此天使を拒んで、彼の持来れる恩恵をも斥けんとする、憫むべきは実に神の心を識らざる人である。
       *     *     *     *
 「神は砕けたる心を嘉し給ふ」と、蓋《そは》先づ砕かるゝにあらざれば種を受くること能はざればなり、農夫は知る硬土の粉砕深ければ深き程、果穀の生長の好良なることを、神も亦知り給ふ、心の粉砕、深ければ深き程、神の道の生長の宜しきことを。
 
(393)    幸福なる老境
 
 幸福なる者は七人の男子を持つて其孝養を受くる者ではない、幸福なる者はキリストを信じて其慰藉に与かる者である、若かき獅は乏しくして饑ることあり、然れどヱホバをたづぬる者は嘉物に欠くることあらじ(詩篇三十四の十)汝の能力は汝が日々に需むる所に循はん(申命記卅三の廿五)、我れキリストに在りて独り老境に入るも何をか恐れん、我は汝のためには十人の子よりもまさるにあらずやと主は曰ひ給ふ(撒母耳前書一の八)。
       ――――――――――
 
    祈祷の決心
 
 神様、私共は荏弱《よわ》き罪人であります、私共は自身に何の価値もない者であります、然しながら私共にも祈祷の心があります、爾うして此心の存する間は私共はアナタに一つの事を祈て止みません、即ち此日本国の救はれん事であります、此国民は今や殆んど堕落の極に達して居ります、之を人間の眼から見まして其滅亡は確かであります、然しながらアナタの御能力《おんちから》を以てしますれば此国民と雖も救へない理由はありません、イエスキリストに於て現はれたるアナタの御功徳《おんいさほし》は此国民をさへ救ふて尚ほ余りあります、夫れ故に神様、私共はアナタが必ず此日本国を救ひ給ふと固く信じて私共の事業に就きます、私共はモハヤ此国の滅亡に就ては考へまいと決心致しました、勿論私共アナタを信ずる者は此国が先天的に滅びない特権を有つて居るとは信じません、然しながらアナタが私共に「求めよ然らば与へられん」と告げられましたから、私共はアナタの御約束を信じ、私共に生命のあ(394)らん限り、此日本国の救済をアナタに求めまして終にアナタに是非共此国を救ふていたゞく決心であります、祈祷は天地を動かすに足るの力であると私共は聞きました、故に此力を以てアナタの御座《みくら》に迫らんと致しまする、私共はヤコブの如くにアナタに縋つて申します「汝、日本国を祝せずば去らしめず」と(創世記卅二の廿六)私共は私共の祈祷の切なると煩はしきとを以てアナタを動かし、アナタをして終に日本国を救はざるを得ざらしめんとする決心であります。
 アヽ天の父様、アナタはアナタの子輩《こどもたち》の切なる懇求《ねがひ》に抗することは出来ません、アナタ御自身が私共にアナタを動かすの秘訣を教へ給ひました、アナタはキツト私共の祈祷に応へて此国を救ふて下さります、故に私共は今茲に此決心をアナタの前に表白すると同時に、アナタが既に私共の切願を聞上げられましたと信じ、前以てアナタに御礼申上ます、只ドーゾ此祈祷の決心の私共の心より消えざるやう聖霊の力を私共に添へ給はんことを偏に願上奉ます。アーメン。
       ――――――――――
 
    不公平と来世の希望
 
 斯世は不公平なる世である、然し斯世が不公平であればこそ、我儕は来らんとする公平なる世を望むのである、若し斯世が全然公平なる世であるならば、斯世に在ては常に不如意の地位に立つ我儕には望むべき世が無いのである、我儕の来世の希望なるものは斯世の不公平に基くものである、故に我儕は斯世の不公平に遭遇して返て我儕の希望を固うする者である。
 
(395)     神の「ことば」
                      明治36年9月17日
                      『聖書之研究』44号「註解」                          署名 内村鑑三
 
  太初に道あり道は神と偕にあり道は即ち神なり(約翰伝一章一節)
 「太初に」 造化の太初に、即ち宇宙万物の未だ造られざりし前きに、即ち未だ物質なるものなかりしが故に、空間並に時間の観念さへもあらざりし時に、即ち時の太初に、其第一期に入らざりし時に 〇「道」 キリストを指して云ふなり、後に審なり 〇「あり」 ありなり、造られしにあらず、キリストは其時既に在せしなり、アブラハムの有らざりし先きより在る者なる彼は時の太初に於て既に「在る者」なりし 〇「神」 此場合に於ては父なる神なり、即ち造化の主動者なり、造化は父の意志を以て始まり、子を以て聖霊に依りて実行されたり 〇「偕にあり」 父と偕に存在し給へり、父在て子のあらざりし時なし、父と子と聖霊とは神の実在の様式(mode)なり、神は斯くあらざれば実在せざる者なり、三位一體の神のみが唯一の神にして真個の神なり、〇「道は即ち神なり」 父と偕に在りしキリストは即ち神なり、神のみが神と偕に在るを得るなり、而かも二神ありしに非らず、神は一なり、而かも神は三位として実在し給ふ、是れ神の奥義なり、論理を以て解すべからず、是を知るに黙示と霊の実験に由る外なし 〇「道」 希臘語の Logos なり、或は Versum 即ち「言葉」と訳し、或は Ratio 即ち「道理」と解す、蓋し Logos は言語として外に顕はれし道理の意なるべし、或は約翰伝の著者は此語を埃及アレキサン(396)ドリヤ府に於て行はれしフイロー(Philo)の希臘哲学より藉り来りしと言ふもあり、或はアラマイク語(Alamaic希伯来語の変種)の Memra の訳字にして、人類と意を通ずる神を示すために使用せられし言辞なりと言ふもあり、其語原に就ては異説紛々として其孰れを択むべきや知る能はず、然れども其キリストを指して言へる言辞なるは明かなり、Logos 即ち道《ことば》は非人格名詞なれども此場合に於ては神格を具へたる実在者を指す者なり、斯く解せずして全章の意を解する能はず、キリストは神の Logos なり、彼は其 Ratio(道理)なり、我は真理なりと彼は言ひ給へり(ヨハネ伝十四の六)、彼は殊更らに其 Versum(言葉)なり、即ち神の真理が形体を取りて世に顕はれし者なり、故に彼を見し者は形躰的に神を見し者なり、故に使徒ヨハネは他の所にて言へり、
  我儕が聞き、また見、懇切《ねんごろ》に観、我が手捫《さは》りし所のもの、即ち元始より在りし生命の道を爾曹に伝ふ(ヨハネ一書一の一)
と、神の形躰に顕はれしもの、是れ「コトバ」なり、道の字、之を「ミチ」と読めば能く Logos の意を示し、之を「コトバ」と読めば能く其外形を表はす、道の言葉となりて顕はれしもの、是れ Logos の原意に最も庶幾からんか。
 
(397)     聖書と独立
                      明治36年9月17日
                      『聖書之研究』44号「質問」                          署名 独立生
 
問、貴下は常々独立、独立と仰せられますが、全躰独立と云ふ言辞は聖書の何処に有りますか、私は聖書を始から終まで見まして独立なる言辞を発見することは出来ません。
答、貴下は近頃は大分聖書を御研究であると見えます、夫れは先づ何よりも結構なことであります、聖書の中に独立なる文字の見えないことは私も承知して居ります。
問、然らば何故に貴下は独立、独立と云つて五月蝿程に之を唱へられます乎。答、左様であります、私は先づ独立即ち independence なる文字の起原からお話し申さなければなりません、貴下は独立なる文字は何時、何人に因て鋳造《つくら》れたるものであるか御承知でありますか。
問、別に深く調べた事はありません。
答、夫れなれば私の知つて居る所をお話し申しませう、独立即ち independence なる文字は基督教の聖書の中に見えないばかりではなく、希臘文学の中にも羅馬文学の中にも一回も使用されたことのない文字であります、独立なる事実は人類と其起源を偕にするものでありまするが、奇態なことには独立なる文字は実に極く近頃の発明に係るものであります。(398)問、夫れは真実でありますか。
答、夫れは真実であります、独立の文字は基督降世より千六百年の後、英国に於て基督教徒に由て始めて使はられた文字であります。
問、私は始めて其事を承玉はります、其起原の歴史を少し聞かして下さい。
答、左様であります、十五世紀の未頃より英国に清教徒《ピユーリタン》なるものが起りまして、天主教会とか監督教会とか総て人の口碑や組立に由て成る教会に強く反対しました時に、彼等が自身の立場を明かにするために何にか良き名称を発見せんと努めまして、終にこのインデペンデンス、即ち私共が今日独立と訳する原語を新たに造つたのであります、是れは拉典《ラテン》語のデペンデンシヤ(依頼する)なる言辞の上にイン(非)なる接頭字を附けたものでありまして、依頼せずとか、依頼を非認するとか云ふ意味を言表すための言辞であります。
問、爾う致しますれば独立なる文字は矢張り人の造つた文字でありまして、神の聖書には無い文字ではありません乎。
答、左様で厶います、人の造つた文字ではありまするが、然し聖書の真理に最も深く暁達した人の造つた文字であります、英国の清教徒は神の聖霊に動かされずしては此貴き文字を造りませんでした。
問、然し、若し爾うならば独立、即ち貴下の申さるゝ「依頼を非認す」と云ふ文字は歴史的には至て貴いものと致しまするも是を聖書的に神聖なるものと見做すことは出来ないではありません乎。
答、私は爾うは思ひません、文字は思想を顕はすものであります、インデペンデンスの文字は能く聖書の思想を顕はすものであります。
(399)答、聖書の何処との御質問であります乎、私は別に御質問の必要はないと思ひます、然し私の知つて居る所の二三を申上げませう、先づ羅馬書十三章八節を見て下さい。
 爾曹互に愛を負ふのほか何物をも人に負ふ勿れ、
是は確かに独立を勧めた言葉であります、又帖撒羅尼迦後書三章の八節以下に斯う書いてあります、
 我儕また人のパンを価なしに食することなく、唯人を累はせざらん為に労と苦をして昼夜|工《わざ》を作せり………我儕爾曹の中に在りし時に「人もし工を作すことを欲《この》まずば食すべからず」と爾曹に命じたり。
是は確かに基督信徒全躰に衣食上の 立を教へた言辞でありまして、其真意を言表はすに独立と称ふより他に好い言辞はありません。
問、今、貴下が御引合せになりました聖書の言葉は重に生計上の独立に関しての教訓のやうに見えます、然し是は至て低い意味の独立ではありません乎。
答、私は爾うは思ひません、生計上の独立は最も多くの場合に於て信仰上の独立を意味します、使徒保羅が重きを生計上の独立に置いたのは信仰上の独立を維持せんがためでありました。
問、夫れは爾うと致しまして、聖書は生計以外に、思想並に信仰上の独立を唱道して居りますか。
答、居りますとも、先づ信仰独立の経典とも称すべき加拉太書の第一章を読んで御覧なさい。
 人よりに非ず、又人に由らず、イエスキリストと彼を死より甦へらしゝ父なる神に由て立られし使徒パウロ(第一節)
(400)是は信仰上の絶対的独立を言ふたものではありません乎、又
 兄弟よ、我、爾曹に示す、我、曾て爾曹に伝へし所の福音は人より出るに非ず、蓋は我之を人より受けず、亦教へられず、惟イエスキリストの黙示に由りて受けたれば也(第十一、十六節)。
信仰上の独立を唱へた言辞で之より強い言辞は無いと思ひます。
問、去らば貴下の御考へでは何人も保羅のやうに直にキリストより黙示を受けなければならないのです乎。
答、私は爾う信じます、宗教は神と人との直接の関係でありまするから、其間に法王、監督、牧師、執事長老等の外来物は決して立入つてはならないと思ひます。
問、貴下の申さるゝのが真理であると致しますれば独立信者でない者は信者でないやうに思はれますが、夫れは爾うでありますか。
答、勿論爾うであります、依頼信者即ち人に依頼して神に依頼しない者は信者とは見做されません、斯かる信者は遅かれ早かれ神とキリストとを捨去て再び元の俗人と化する者であります、爾うして斯かる還俗信者の実例を私は沢山目撃致しました。
問、然らば貴下は凡の外来の教会を御排斥なさるのでありますか。
答、爾うではありません、何人《だれ》が真個の信者である乎は神様のみ知り給ひます、名は私共の関する所ではありません、私共の貴ぶ所の者は独立の実であります。
間、夫れなれば貴下は何故在来の教会に御属しになりません乎。
答、夫れは私の勝手であります、恰度貴下方にも貴下方の御簡《おんえらみ》の教会がありまする通りに私共にも亦私共の撰(401)択んだ教会があります、其事に関しては私共が貴方方に関渉しないやうに貴方方も私共に関渉されないやうに願ひます。
問、然し私が特別に貴下に御質問致したいのは既に多くの好い教会が在るのに何故貴下は殊更らに独立を御唱へなさるのでありますか。
答、左様であります、其御質問に対して御答へ申す前に私は貴下に一つ私の質問を試みたく存じます、欧米諸国より派遣されたる外国伝道師に由て国家的に救はれた非基督教国は何処に在りますか、印度でも、マダガスカーでも、布哇でも、緬甸でも、宣教師的基督教を受けながら皆な亡びて了つたではありません乎、爾うして日本国のみが宣教師の基督教に依て救はれるだらふとの希望は何処にあります乎、夫れのみならず、宣教師は此国に於て既に許多の依頼的信者を作つたではありません乎、今日若し宣教師が皆な此国を引払つて其本国に帰ると仮定《かりさだ》めて御覧なさい、日本にはドレ丈けの基督教が残りませう乎、此事を歎ずる者は独立主義に重きを置く私共ばかりではありません、私共は宣教師自身の口より度々此歎声を聞くのであります、是れ即ち国も個人も直に神より黙示に与からなければ救はれないと云ふ事の実証ではありません乎、私共は貴下方のやうに常に私共の唱へる独立主義を嘲けらるゝ方の真意を知るに甚だ困しむ者であります、独立主義とは私共の主義ではありません、是れは聖書の主義であります、神を真正に信じた者で独立しない者はありません、御覧なさい、イツまでも外国人の世話になつて居る教会や信者を、多くは皆な俗化し去り行くではありません乎、一人の独立信者は千万人の依頼信者よりも強くあります、モウ言葉の上の議論は歇めませう、此上は実行を以て神の裁判を待つまでゞあります、私共は外国人に依頼する我国の学校や教会の運命に鑑み(402)ましてドコまでも非依瀬主義即ち independence を唱へざるを得ません。
 
(403)     雑誌発行の面倒
                  明治36年9月17日
                  『聖書之研究』44号「質問」「講演」                       署名なし
 
 先づ原稿の下書を為さねばならぬ、之を一読して訂正せねばならぬ、是を浄著してもらはねばならぬ、浄書した者を一読せねばならぬ、出来上つた原稿を活版に送らねばならぬ、印刷成つて初校再校の校正を為さねばならぬ、斯くて自分の書いたものを少くとも五回は読まねばならぬ。 〔以上、「質問」欄〕
 製本并に配布の世話を為さねばならぬ、代価を取立てねばならぬ、支払を為さねばならぬ、勿論新思想を得んがためには新著述の精読を続けねばならぬ、読者より問来る種々の質問に答へねばならぬ、時には地方伝道に出掛けねばならぬ、総ての投書を熟読して其採非を定めねばならぬ、本誌を発行するの面倒は少くとも是丈けである、爾うして責任を重ぜざるを得ざる本誌の如きに在ては是れ大抵は主筆一人の仕事である、故に其月二回の発行を一回に改めたればとて読者諸君には余り強く余輩を責め給はざるべし。 〔以上、「講演」欄〕
 
(404)     平和の福音
         (絶対的非戦主義)
                     明治36年9月17日
                     『聖書之研究』44号「講演」
                     署名 内村鑑三
 
  平和を求むる者は福なり、其人は神の子と称へらるべければなり(馬太伝五章九節)。
  イエス彼に曰ひけるは爾の剣を故処《もと》に収めよ、凡て剣を取る者は剣にて亡ぶべし(仝廿六章五十二節)。
 今や戦雲、東亜の空を蔽ふに方りまして、茲に刻下の最大問題に対して私共キリストを信ずる者の態度を明かにして置くの必要があると思ひます、斯かる時にこそ私共は世の変現極りなき所説に耳を傾くることなく、単に毀つべからざる聖書の確言に頼りまして私共の進退を定むべきであると思ひます。
 爾うして問題は如何に混雑して居りまして、亦其間に如何なる情実が纏綿して居りましても、聖書の、殊に新約聖書の、此事に関して私共に命ずる所は唯一つであります、即ち絶対的の平和であります、如何なる場合に於ても剣を以て争はないことであります、万止むを得ずんば敵に譲り、後は神の怒を待つことであります、此態度を取るの難易は私共の問ふべき所ではありません、絶対の平和は聖書の明白なる訓誡でありまして、私共、若し神と良心とに対して忠実ならんと欲すれば此態度を取るより他に途はありません。
  行得《なしう》べき所は力を竭して人々と陸親《むつみしたし》むべし、我が愛する者よ、其仇を報るなかれ、退きて主の怒を待て、そ(405)は録して主の曰給ひけるは仇を復《かへ》すは我に在り、我れ必ず之を報ひんとあれば也、是故に爾の敵若し飢なば之に食らはせ、若し渇かば之に飲ませよ、爾、如此するは熱炭《あつきひ》を彼の首《かうべ》に積むなり、爾、悪に勝たるゝ勿れ、善をもて悪に勝つべし(羅馬書十二章十八−廿一節)
 是れは何にも個人と個人との間に関してばかりの教訓ではありません、人と人との間の関係は凡て斯くあるべき筈のものでありまして、人の集合躰なる国民と国民との間に関しても通用すべき神の教訓であります、キリストが世に顕はれ給ひしより千九百年後の今日、戦争なる野蛮人の遺風はモハヤ世に存在の理由を有たない者であります、戦争は人を殺すことでありまして、「人を殺す者は窮なき生命その衷に存ることなし」との使徒ヨハネの言は火を睹るよりも明かなる真理であります、世に「義戦」ありといふ説は今や平和の主を仰ぐキリスト信者の口に上すべからざるものであります、私自身は今は絶対的非戦論者であります。
 然し世には未だ斯くまでに断言することの出来ないキリスト信者があります、彼等は戦争は悪事であるとは知りながら、時には神が戦争を是認し給ふ場合があると信じて居ります、彼等は其所信を強めるために旧約聖書の記事を引き来ります、又コロムウエル、ワシントン等の事蹟を引照します、又戦争に勝さる悪事の在ることを説きまして、戦争はより小なる悪事であると曰ひて其決行を迫まります、然しながら是れ皆な取るに足らざる議論であります。
 一、旧約聖書が戦争を是認する故に今も尚ほ之を継続すべしとの見解は全く聖書の精神を誤解するより来る謬見であります、聖書は神の開発的自顕を録した書でありまして、其姶より絶対的に神の聖意を顕はした者ではありません、神は戦争を是認して、之を旧約時代の勇者に許し給ふたのではありません、「彼等の心の頑硬《かたくな》なるた(406)め」に彼等が其罪悪なるを覚り得るまで、曰はゞ之を黙許し給ふたのであります、故に時到りて彼の愛子を世に送り、彼に平和の福音を宣べさせ給ふに方て、
  目にて目を償ひ歯にて歯を償へと言へることあるは爾曹が聞きし所なり、然れど我、爾曹に告げん、悪に敵すること勿れ、人、爾の右の頻を批《うた》ば亦他の頬をも転《めぐらし》して之に向けよ、爾を訴へて裏衣《したぎ》を取らんとする者には外服《うはぎ》をも亦とらせよ、人、爾に一里の公役を強ひなば之と偕に二里ゆけ、爾に求むる者には予へ、借らんとする者を卻くる勿れ(馬太伝五章三十八−四十二節)。
斯う云ふ福音を宜べさせ給ひました時に復讐の精神と之に伴ふ戦争とは絶対的に非認されたのであります、此宣言ありて以来は戦争は絶対的に悪事として認められたのであります、我儕は今や信仰や忠実に就ては旧約時代のヨシユアやギデオンに学ぶべきでありますが、然し戦争に就ては少しも彼等に傚ふてはなりません、戦争を絶対的悪事と見做すの一点に於ても我儕今日のキリスト信者は遙かにアブラハムやダビデの上に立つ者であります。
 二、キリスト信者にして剣を抜いた者も数限りありません、有名なるチヤーレマン大王、三十年戦争の勇者瑞典国王ガスタバス、アドルハス、和蘭のオレンヂ公※[ヰに濁点]ルヘルム、英国のコロムウエル、米国のワシントン等、枚挙に追ありません、夫れ故に或る信者は申します、(私は茲に表白致します、私も一度は斯かる信者の一人でありました、日清戦争の時に日本の「義」を英文に綴つて世界に訴へた者は私でありました、私は今は其時の私の愚と不信を耻て歇みません、私は此事に関して単へに神の赦免を祈ります)、斯かる篤信のキリスト信者さへ戦争に従事した故に、我等も時と場合とに由ては剣を抜いても宜しいと、爾うして是れ一見して甚だ尤らしく見ゆる申分であります。(407) 然しながら私共は更らに再び深く考へなければなりません、コロムウエルは確かにエライ人でありました、然しながら彼はキリストではありませんでした、コロムウエルは彼の場合に於て剣に※[血+刃]《ちぬ》るのが彼の神に対する義務であると信じたのでありませう、然しながら若しキリストがコロムウエルであつたならば彼は戦ひ給はなかつたに相違ありません、国のために戦つたコロムウエルはヱライ人でありましたが、戦はずして自己の身を敵人に附たし、之を十字架に釘けしめ給ひしキリストは更らにヱライ人でありました、爾うして私共キリスト信者はコロムウエルを学ばずしてキリストを学ぶべきであります。
 斯う申しましたならば或人は申しませう、若しあの時にコロムウエルが剣を抜かなかつたならば英国人の自由は如何成つたであらふと、然し私は此問に答ふるに他の問ひを以てします、若しキリストがパリサイ人や祭司の長等に襲はれ給ひました時に其自衛の策を取られ、彼の弟子の一人に命じて其剣を抜いて敵を殪《たふ》さしめ給ひしならば人類の自由は如何なりましたらふ、キリストは彼の身を護らんとて剣を抜いて祭司の長の僕を撃てその耳を削ぎおとせし者に向つて何んと申されましたか、
  イエス彼に曰ひけるは爾の剣を故処《もと》に収めよ、凡て剣をとる者は剣にて亡ぶべし、我いま十二軍余の天使を我父に請ふて之を受ること能はずと爾曹思ふ乎、もし然かせば如此あるべき事を録せし聖書に如何で応はん乎(馬太伝廿六の五二、五三節)。
 自由は自由の敵を殪して得らるゝものではありません、其敵に擒にせられ、彼の侮辱する所となり、終に彼に殺されて而かして後に自由は復活するものであります、是れが基督教の根本的教義であります、此教義はコロムウエルが何んと言はふと、ワシントンが何う弁じやうと決して斃るゝ者ではありません、世の人の目には見えま(408)せんけれども基督信者の目には瞭然たるべきことは此事であります、人の自由は剣を以て得られた者であると思ふのは大なる間違であります、自由は生命の犠牲を以て得られたものであります、キリストを始めとしてヤコブ、パウロ、ペテロ等、凡てキリストの生涯に傚ひし者の無抵抗の流血を以て買はれたものであります、コロムウヱルやワシントンのエライのを彼等の抜いた剣に置いて彼等の流した血の涙に於て求めない者は両雄の心事を覚らない者であります。
 戦争はコロムウエルの場合に於ても決して無害ではありませんでした、コロムウエルの理想は彼が血を流した故に彼の死後四百年後の今日に至るも未だ世に行はれません、而已ならず近頃ありし南阿戦争の如きに於てすら、英国の主戦論者は例をコロムウエルに引いてかの二十世紀の大耻辱と称せられる残忍を極めし南阿戦争を続けました、戦争は正義に達するための捷径のやうで実は極《ごく》の迂廻道であります、自由と平和と独立と一致とに達する最捷径はキリスト御自身の取られた途で、即ち無抵抗主義であります、是れは聖書が最も明白に示す主義でありまして、自称基督数国なるものが、此理想と相距る甚だ遼遠なるは実に歎ずべき事であります。
 武装せる基督教国? そんな怪物の世に存在しやう筈はありません、武装せるものは基督教国ではありません、武装せる者は強盗であります、基督教国とは預言者イザヤの言に従ひ「剣をうちかへて鋤となし、その鎗をうちかへて鎌となし、国は国にむかひて剣をあげず、戦争のことを再び学ばざる」国でなければなりません、(以賽亜書二の四)、聖書に照らして見て英国も米国も露国も仏国も基督教国ではありません、彼等は金箔附きの偽善国であります。
 三、若し戦争はより小なる悪事であつて世には戦争に勝る悪事があると称へる人がありまするならば其人は自(409)分で何を曰ふて居るのかを知らない人であると思ひます、戦争よりも大なる悪事は何でありますか、怨恨、嫉妬、忿怒、兇穀、酔酒、放蕩等の有りとあらゆる凡ての罪悪を一結したる戦争よりも大なる悪事が世にあるとならば其悪事は何んでありまするか、若し無辜の人を殺さなければ達しられない善事があるとならば其善事は何んでありますか、「人の怒は神の義を行ふ能はず」と聖書に録してあります、(雅各書一の廿)悪しき手段を以て善き目的に達することは出来ません、殺人術を施して東洋永久の平和を計らんなど云ふことは以ての外の事であります、平和は決して否な決して戦争を透うして来りません、平和は戦争を廃して来ります、武器を擱くこと、是れが平和の始まりであります。
 斯かる明白なる理由のあることでありますれば私共平和の主なるイエスキリストを主として戴く者は絶対的に戦争に反対しなければなりません、私共の額に印せられたるキリスト信徒の名称が私共を平和の唱導者として世に紹介するものであります、私共は我国人の良心に訴へ、亦我国の将来を思ひ、亦我国と反対の地位に立ち基督教を標榜する露西亜人の偽善を責め、何処までも非戦を主張しなければなりません、今や若し日本と露国とが開戦するに至りますれば是れ世界の大事であります、其ために苦しむ者は日本人と霧西亜人と許りではありません、それがために全世界の戦争を惹起すに至つて五大陸を修羅の街と化するに至るかも知れません、斯かる大危険に臨むことでありますれば私共は断然意を決し、神に頼り其能力を仰いで茲に是非共開戦を喰止めなければなりません。           (明治卅六年九月二日記す)
 
(410)     救済以外の救済
                  明治36年9月20日
                  『蚕業新報』125号「農民救済意見」
                  署名 内村鑑三
 
     社会改良家として又宗教家としての内村氏は世能く之を知らん 而るに氏は唯り社会、宗教二界のみの人にあらず 夙に札幌に農学を修めて農学士となり又米国に之を修めて米国理学士たることは知らざるものあらん 本社は今回本問題を披露するに際し農学者にして社会学者また宗教家たる氏の意見を聞くことの甚だ趣味あり有益なるを感じ切に氏に請ふ所ありしに百忙の中壱篇を恵まる 茲に掲ぐるもの之なり
 農民の救済に就て語れとの事である、爾うして此国に於ては救済と云へば直に経済上の救済のことを意《い》ふのである、如何して農民の懐を肥さん乎、如何して彼等の借財を弁償し呉れん乎、如何して彼等に肉体的の快楽を供せん乎、是れが此国に於ける農民救済の問題である、然かし若し是れが農民救済の万事であるならば余の如き者は此事に就て一言も喙を容れるの権利を有たない者である。
 然しながら農民とても人間である、爾うして人間である以上は其所有を豊かにしたからとて、夫れで其救済を全うしたと言ふことは出来ない、「人はパンのみを以て生くる者にあらず」と古哲も言ふた、農民の救済を其経済的救済にのみ限る者は農民を非常に賤しく見る者であると思ふ。
 夫れのみではない、縦令経済的の救済が唯一の目的であるとしても、是れを経済的方面からばかり求めても得(411)られるものではない、人は肉体ばかりではないから、彼の肉体を満足した所で夫れで彼は満足する者ではない 彼に精神とか霊性とか称ふものが存する以上は彼は亦其方面の救済をも要求する者である、亦其方面に於て健全ならざれば彼は彼の欲する此世の宝をも得ることは出来ない、亦若し得たとした所が是を有益に使用することが出来ない、故に農民救済を経済的の一方面にのみ限る人は経済的にも彼等を救ふことの出来ない人であると思ふ、経済は道徳と全く分離して論ずることの出来るものゝやうに思ふた時代は既に過ぎ去つたと思ふ、有名なるアダムスミスさへ経済は之を道徳の一部分として論じた、今の世の人が、殊に今日の日本人が、道徳の経済的能力に深く意を留めないのは彼等の大欠点であると思ふ。
 救済なる語辞に此広き意味を附して、即ち之を人間全体の救済と云ふ意味に取て、余も此問題に関して説を述ぶるの権利を有つに至るのである、農民の救済、如何にして農民を歓喜、平和、一致、満足の生涯に導かん乎是れ刻下の大問題である。
 爾うして吾等の先づ第一に注意すべきことは農民救済の方策は人類全体の救済方と多く異なることなきことである、同一の方法を以て商人をも職工をも官吏をも救ふことが出来る、失望せる、落胆せる、堕落せる人に、幾干金銭を供した所が少しも救済にはならない、殊に外より援助を供することは危険多くして益が甚だ尠ない 最も健全なる救助は其人の意志を強め彼に新希望を供し彼をして自から振つて彼の地位を高めしむることである、是れが最も完全なる救済法であつて、此方策を以て救はれた者は終生再び死地に陥るの危険より免かるゝ者である、爾うして斯かる救済は決して為し難い事ではない、精神一たび発して万事を成就げた人は沢山ある 亦之を世界歴史に徴するも新理想の注入に由て忽にして富強に達した国民の例も決して尠くはない、十五世紀の和蘭の如き(412)は其一例である、英国の如き、北米合衆国の如きですら其民の富強は其国の生産力に由るにあらずして、其民の採る主義精神に由るのであるとは今日の第一流の社会学者の唱ふる所である、富は力に因りて、力は精神に由る、精神とは風の如きものであつて、之と富とは何の関係もないやうに思ふ人は未だ精神の何たる乎を知らない人である、精神とは世に謂ふ所の「元気」ではない、大言壮語、是れ亦精神でないことは言ふまでもない、精神とは其真正の意味に於て人の真体に加へられし能力である、即ち霊能である、是をして発動せしむれば動となり、物となりて人類を其最も高尚なる且最も確実なる意味に於て富ます者である。
 爾うして余の見る所を以てすれば日本国民の最大欠点は此霊能の欠乏に存して居る、農と言はず、商と言はず工と言はず、官吏も政治家も文人も学者も、日本人と云ふ日本人は皆な此能力に於て欠けて居る、彼等は人の霊魂なる者は大能力の受器であることを知らない、彼等は能力と云へば金であつて、「金是れ力なり」と思ふて居る、然しながらそれは此国に於ては誰れも云ふことであるが、それは大なる誤謬である、人の力は彼の裏に存する霊能である、米国の金銀がコロムプスを駆つて彼の大発見の途に上らしめたのではない、コロムブスの霊能が彼をして数十年に渉る困難に打勝たしめて終に世界の黄金国を発見せしめたのである、霊能を有つ者は既に宝の山を持つ者である、斯く云ふは寝言ではない、人類の永い間の経験に由て証明されたる事実である。
 誰か日本人に霊能を供する者ぞ、独逸国今日の強大を致した者は其政治家と経済学者とばかりではない、独逸人の閉されたる心の門を開いて其中に霊能を注込んだるマルチン、ルーテル其人が独逸人今日の富強の基を居えたのである、英米両国に於て近頃ジヨン、ウエスレーと云ふ宗教革命者の出生二百年紀が祝された、爾うして彼国に於ける経済学者は異口同音にウエスレーの宗教革命が英米両国の産業の進歩に偉大なる効果を奏した事を述(413)べた、人の心を開く者は新不言富源を開く者である、富を国土に於てのみ求めて、之を人の心に於て求めんと欲せざる者は天が人に賜ひし大富源を捨て之を省ざる者である 故に余の如き経済には甚だ暗き者と雖も、此事を知る以上は、経済以外に於て、我が国の農民を救ふことが出来る、農民の心を拓き、之に人生の新興味を供し、慈善と労働の快楽を教へ、地を愛し、之を天然の法則に従つて耕さしむることが出来る、爾うして是れ亦偉大なる救済なることを誰も疑ふ者はない。 今、之を実際問題に照らして考ふるに、日本農民の大に苦痛を感ずる所のものは其家庭組織である、是れ日本人たるものは何人も深く感ずる所のものであるなれども、農民の如く永く其土地に土着《いつ》いて居る者は一層深く之を感ずるのであらふと思ふ、親類との関係、家督制度、分家分財の習慣、仏事の施行等、田舎住ひをなさゞる者の到底推測し能はざる是等の繁雑が如何に日本農民を苦めつゝあるか、亦其ために如何に彼等の産業が妨げられ、彼等が如何程其産を無益に消費しつゝある乎は、実に農民以外の者の推測し能はざる所である、今の日本の農民に其産を増して与へた所が、彼等がそれがために益する所は至て僅少である、否な、多くの場合に於ては彼等は富が増した為めに返て多くの困難を招くに至る、彼等は何事を為すにも親類会議なるものを開かなければならない、爾うして其親類たるや多くは旧弊保守の人であるから凡ての革新には必ず反対する、彼等は祖先伝来の財産を大事に保存するより外に家資増殖の道を講ずることは出来ない、海外移住も出来ない、農事の根本的改良も出来ない、仏事祭礼等の有害無益なる儀式習慣の廃止も出来ない、彼等は愚と知つても愚を続けなければならない、智と知つても智を実行することが出来ない、日本農民の家族制度を改良するまでは日本農業の改良は始まらない。
 日本の豪農の家に放蕩息子の多いことは実に著しい事実である、父と祖父とが一銭一厘を吝んで溜めた身代(414)を一夜に消費する者が農家の子弟の中に多きことは是れ大に世の経世家の意を注ぐべき問題である、爾うして中心より日本の農民を救済せんと欲する者は大に農家の子弟感化策を講ずべきである、余は一年足らずにして三千円を田舎芸妓のために消費した豪農の息子を知つて居る、余は亦息子が飲酒放埒のために全然、身体の健康を害ひ、其結果として彼を廃嫡し、他家より養子を迎へざるを得ざるに至り、終に家庭に大悶着を起し、為めに家運を傾けた日本の農家を知つて居る、爾うして斯かる例は日本国に於ては決して尠くはない、地方を遊歴して日本農家の子弟の堕落を看るに勝さる悲いことはない。
 農家の救済を言ふか、嗚呼農家の子弟を救へよ、嗚呼彼等を道徳的に救へよ、彼等に智恵と徳とを授けよ、彼等をして真面目なる者とならしめよ、農家の懐を肥すに先立つて農家の子弟の濫費を止むるの策を講ぜよ、是れ実に救済ならざる乎、誰か道徳は農家に不必要であると言ふ乎、農業銀行の設立を主張する者は之れと同時に田舎料理店の開店を主張すべきである、一放蕩児は農家百年の辛苦を一夜の夢として失せしむ、そのために父は怒り、母と妻とは泣き、弟と妹と子とは迷ふ、夫れのみではない、彼の悪感化は全村に及び、青年ために浮薄に流れ、労働ために揚らず、収獲ために尠し、余は日本農民救済を絶叫する者の中に眼を此辺に配る者の甚だ少きを常に怪しとする者である。
 日本国の農業に取て最大問題とも称ふべきものは地主と小作人との関係である、此関係の滑かならざるために農家の苦痛の十分の八は生ずるのであると思ふ、如何したならば地主と小作人とを親睦せしむるを得る乎、是れ経世家の頭脳を絞る大問題である、小作条令の発布は恒に政治家の口に上る、地主取締の必要は社会主義者の常に唱道する所である、此問題にして解決せられずんば日本国の田畝《でんばた》は終には荒廃に帰し、一大争乱は全国を通し(415)て起り、為めに死屍累々として全国の山野を掩ふに至るであらふとの心配は必しも杞憂であると云ふことは出来ない。
 爾うして此危険を避けるために余と雖も勿論完全なる小作条令の必要を感ずる者である、然しながら法律のみを以て地主と小作人との間の関係を円滑に纏めんとするは望むべからざることである、地主たる者は全体小作人を何う思ふ乎、小作人は鋤や鎌の如き機器ではない、亦牛や馬の如き動力ではない、小作人は人である、同胞である、多くの意味に於て尊敬すべき者である、地主に此事が充分に判るまでは如何に完全なる小作条令が発布されても小作問題は解決されない、亦小作人に於ても同じ事である、地主を見ることたゞ小作米の強求者とのみ思ひ、己れの天と地と人とに対する義務を悟らず、たゞ不平を唱へて可成丈け地主の権利を縮め呉れんとのみ思ふやうでは、地主より如何に寛大なる待遇を受けても少しも之を有難いとは思はない、慈悲と公平とは地主に於てのみ必要ではない、
 亦小作人に於ても大に必要である、地主をして小作人を慈《おも》はしめ、小作人をして地主の心を推量《おしはから》しむるに至て始めて此最も困難なる小作問題は解決されるのである。
 茲に至て伝道なるものゝ農業改良にも非常に必要なることが感ぜられるのである、爾うして吾等伝道師は世の政治家や経済学者には常に無用物視さるゝに係はらず、或る場合に於ては彼等政治家輩が夢想だもせざる所に於て有力なる農事改良を実行しつゝあるのである、吾等の説教に由りて、一家が全く其面目を革め、小作人は喜び、土地は前時《まへ》に勝つて大切に取扱はれ、収獲は増し、其恩恵が延びて彼等が飼育する猫や犬にまで及んだ例は尠くはない、吾等は法律の力を借りず、亦学者の威権を用ひずして、世の腐敗に沈淪める農家の中に希望の光明を送(416)り、彼等に一厘の富を増加へずして、豊穣の秋に遭ひし時のやうな歓喜を彼等に供することが出来る、吾等は斯く云ひて何にも吾等の理想を語りつゝあるのではない、吾等は吾等の実験を語りつゝあるのである、吾等は実際に天より降る慰藉を以て我国の農民を救ひつゝある、前にも言ふた通り、吾等には金もなければ銀もない、然し吾等の有つ或物を以て吾等は大政府の威力を以てしても到底為すことの出来ない或事を我が農民の中になしつゝあると思ふ。
 
(417)     口と筆
         (本集のために特演)
                  明治36年9月24日
                  『朝報社有志講演集第五輯・第六輯』                       署名 内村鑑三講演
 
 口と筆、演説と論文と何れが最も効があると問ふ者がある、余は先づ是れに答へて二者何れよりも更らに効がある者があると言はなければならない、それは即ち実行である、実行は最も有力なる演説であつて、又最も有力なる論文である、実行を以てせずして、演説を以て、或は論文を以て世を導かんとする者は実に不幸なる地位に立つ者であると思ふ、演説は確かに演劇の一種である、論文と小説とは相距る甚だ遠からざる者である、然るに世には雄弁を羨み、能文を貴ぶ者のあるのは実に怪しむべきである。
 斯くて演説、論文、二者共に農業工業等の実行に較べては甚だ賤むべきものではあるが、然し二者孰れが最も有力なる乎と云へば余は筆の方が口よりも遙かに力ある者であると言はなければならない、其故は演説は声であり、気息《いき》であるに較べて、論文は紙であり、墨であるからである、紙と墨とは至て薄い消え易いものではあるが、然し声や気息ほど墓ないものではない、声は一瞬間である、然し紙は能く保存すれば数百年に至る、声は数十尺を隔つれば聞えないが、紙と(418)墨とは世界中に行渡ることが出来る、文は稍々少しく実行に似て居るが、演説に至ては実に寝言の如きものである。
 殊に弁士は言はうと思へば何んでも言へる、亦いくらでも長く諜舌り続けることも出来る 然しながら文士は意味のないことを何処までも永々しく書くことは出来ない、言《げん》は重に感情であるが、文は重に思想である、言は誰にも発することが出来る、驢馬の嘶くのも或る意味に於ては言である、演説である、然し文は人でなくては綴ることは出来ない、思想は労働の一種である、額に汗せずして思想を得ることは出来ない。
 故に余は演説を嫌ふ、余は俳優のやうに見物人の前に引出されて言を発せしめらるゝのを忌み嫌う、余は思想も何もない聴衆にヒヤとかノーとか言はれて冷かさるゝのを、恰かも処女が軽薄男子に嬲らるゝことを嫌ふやうに嫌う、世には演説を以て人心を収攬するの方法であると言ふ人もあるが、それは爾ういふ野心を有つた人の言ふことで、斯世の人より何にも望まない者にはそのために演壇に顕はるゝの必要はない、故に余は茲に重ねて言ふ、余を憎む者にあらざれば余に演説を強ひられざらんことを望むと。
 
(419)     近時雑感
                      明治36年9月24−30日
                      『万朝報』
                      著名 内村生
 
    △平和主義の動機
 
 近頃理想団の晩餐会の席上に於て目下の大問題なる開戦非開戦に就て余にも余の意見を述べよとのことであつたから余は下の如くに答へた、「余は基督教の信者である、而かも其伝道師である、爾うして基督教は殺す勿れ、爾の敵を愛せよと教ふる者である、然るに若し斯かる教を信ずる余にして開戦論を主張するが如きことあれば、是れ余が自己を欺き世を欺くことであれば余は団員諸君が即座に余を理想団より除名せられんことを望む」と。
 
    △君子国の外交
 
 若し他人が余を殴打つた時に余が彼を殴打り返したならば余は其時既に彼に負けたのである、然し若し余が其時忍んで彼をして余を殴打らしめ後喜んで彼を余の心より赦したならば余は其時彼の上に大なる勝利を得たのである、余は此事を余の生涯の実験に由て知つた、爾うして余は国民と国民との間に於ても此事の真理であることを信じて疑はない、君子国の外交とは斯の如きものでなくてはならないと思ふ。
 
(420)    △衝突の真義
 
 若し日本と露西亜とが衝突するに至るならば、それは日本に在て平和を唱へる吾人と、露西亜に在て同一の平和を唱へる文豪トルストイ、美術衆フエレスチヤギン等とが衝突するのではない、それは日本の海軍大臣山本権兵衛氏と露国の極東総督アレキシーフ大将とが衝突するのである、又日本の陸軍大臣寺内中将と霧国の陸軍大臣クロパトキンとが衝突するのである、又日本の児玉文部大臣と霧西亜の教務大臣ポベドノステフが衝突するのである、即ち日本に在て剣を帯ぶる者が露国に在て剣を帯ぶる者と衝突するのである、又日本に在て忠君愛国道徳と世界併呑主義を唱ふる者と露国に在て同一の主義道徳を唱ふる者とが衝突するのである、即ち名は日露の衝突であれ、実は両国の帝国主義者の衝突である、爾うして此衝突の為めに最も多く迷惑を感ずる者は平和を追求して歇ざる両国の良民である。 〔以上、9・24〕
 
    △平和と真勇
 
 平和を以て臆病と見做すのは大なる間違である、平和は臆病ではない、勇気である、平和は外《ほか》に敵を撃んとせずして内なる敵を矯めんとする、往昔ソロモンと云ふ賢人は言ふた、「怒を遅くする者は勇士に愈り、己の心を治むる者は城を攻取る者に愈る」と、最大の勇気は敵を斃すことではなくして、己を治むることである、爾うして平和とは斯かる勇気を指して言ふものである。
 
(421)    △平和的勇気
 
 忍耐の勇気、寛容の勇気、労働勤勉の勇気、是れ皆な平和的の勇気である、他物の妨害に遭ふて怒て直に之を螫し又は之に噛附く者は蝮である、狂犬である、人の人たる所以は己に勝つて敵を赦すにある、平和は人類の勇気である、戦争を以て勇気と見做すは人を禽獣と見ての上である、人類を侮辱する者にして主戦論者の如きはあるまいと思ふ。
 
    △平和主義者の対外策
 
 敵は国外に於て在らず、我儕の中に在る、総て労働を憎んで懶惰を愛するもの、総て民の膏血を啜つて自己は錦褥の上にあつて無為の生涯を送る者、総て虚言を吐いて民を迷はし、労は之を他人に負はしめて自身は其利益を収めんとする者、是等が我儕の真個の敵である、我儕若し外敵を撃つに先つて我儕の中にある総ての敵を平ぐるならば、外なる敵は撃たずして自から退くに極つて居る、爾うして我儕平和を唱ふる者は内なる敵を矯めて外を治むるの策を講ずる者である。 〔以上、9・25〕
 
    △危険の伏在
 
 「若し露西亜が満州を取るならば日本国の存在が危い」と言ふ者がある、然しながら日本国の存在を危くする者は露西亜の満州占領に限らない、二十世紀の今日に方て、支那風の忠孝道徳を国家道徳として国民に強ふるが(422)如き、其事其れ自身が日本国の存在を最も危くするものである、今や詐欺と収賄とは忠孝道徳と併立して社会何れの方面に於ても行はれ、人は仮面を被るにあらざれば何事をも為し能はざるに至つた、夫れで国家の存在は危くないと言ふ者は何処に在る乎、若し今の儘にして置くならば日本国の存在は露西亜の満州占領を待たずして甚だ危いものである、余は世の経世家が危険の源因を外に於てのみ見て、内に於て之を沢山に発見せざるのを甚だ怪しむ者である。
 
    △災害の種
 
 「二十万噸と十三師団、是れ何のためぞ」と問ふ者がある、余輩は之に答へて曰ふ、「是れ災害の種なり」と、是れあればこそ戦争の心も萌すなれ、是微りせば我儕の中に戦争を口にする者さへないに相違ない、凶器を持つが故に兇行に出でよと迫る政治家があるのである、危険極まることは常に凶器を備ふることである。
 
    △殺す者は殺さる
 
 軍人を刺激して外敵を撃たしむる者は終に躬から其軍人の撃つ所となる、軍人をして支那を撃たしめし日本人は過去十年間軍人の困める所となり、其富の殆ど全部を捧げて軍人保育の料に奉つた、今若し同じ軍人をして露西亜人を撃たしめたならば彼等が更に我儕より要求する所はドレ丈であらうぞ、其時こそ今尚ほ我儕の中に残る所の僅少の自由も憲法も煙となつて消えて了ひ、日本国はさながら一大兵営と化し、国民は米の代りに煙硝を食ひ、麦の代りにサーベルを獲《か》るに至るであらう。 〔以上、9・26〕
 
(423)    △容易なる開戦論
 
 忠君と云ひ、愛国と云へば必ず外国と戦ふことのやうに教へられ来つた今日の日本人に向つて開戦を勧めるほど容易いことはない、是れは国民の歓心を買ふに定つて居る事であるから、何人も争つて為さんと欲することである、故に斯かる時に開戦論を唱ふる者は必ず愛国者とは極つて居らない、カーライルが曰ふた「真理は大抵は輿論と正反対の所に在る」との言辞は殊に日本の今日のやうな時に通用すべきものであると思ふ。
 
    △平和協会の設立を望む
 
 文明国何れの国にもあつて日本国に未だない一つの者がある、赤十字社もあり、動物虐待防止会もある日本国には平和協会なるものがない、平和協会とは単に平和を主張するための協会ではない、是は軍備全廃、戦争絶対的廃止を目的とする志士仁人の会合である、斯かる目的を以てユートビヤ的の夢想であると信ずるものは未だ平和協会が今日まで為し来つた事業の範囲を知らない者である、和蘭の公法学者グローシヤスに由て始めて唱道せられし戦争廃止主義は日に月に勢力を増しつゝある主義である、近くはブロツホの大著述の如きは、諾強国を駆つてヘーグの平和会議を開かしむるまでに至つた、理想を説くことは決して無益ではない、説かれざる理想の事実となつて顕はるゝ時はない、日本人が兵を欧米に学んで亦平和を之に習はないのは我儕の大欠点であると思ふ。
 
(424)    △平和主義の偉人
 
 英のグラツドストン死して後、世界の大偉人は仏国の現大統領ルーペーであると思ふ 彼は徹頭徹尾平和主義の政治家である、彼は好戦的の仏蘭西人を率ゐて好誼を万国に求めつゝある、彼は近頃仏国民三年の兵役年限を縮めて二年となした、爾うして彼を能く識る者の言に依れば彼れルーベーは之を更らに減縮して一年となさんとしつゝあると云ふ、彼は仏国人をして其讐敵なる独逸人に対してさへ過去の怨恨を忘れしめんと努めつゝある、常に欧洲争乱の培養地として目せられし仏国にして斯かる好良なる大統領を戴くに至りしは人類の幸福の為めに最も賀すべきことである。
 
    △戦争の人
 
 人類の敵は人類である、日本人の敵は日本人である、心に平和なき者は凡ての人を敵として立つ者である、斯かる人には戦はざれば平和なるものはない、彼は外国と戦つて始めて国人と和する者である、反対党と戦つて始めて自党の者と一致する者である 敵なくしては平和と一致とを味ひ得ない彼は斯世に在て実に不幸なる人である。
 
    △「義戦」の迷信
 
 余も一時は世に「義戦」なる者があると思つた、然し今は斯かる迷信を全く余の心より排除し去た、「義戦!」(425)何故「義罪」と曰はない乎、若し世に義しき罪があるならば義しき戦争もあるであらう、然し正義の罪悪の無い間は(爾うして斯かるものゝありやう筈はない)正義の戦争のありやう筈はない、余は今に至て曾て「日清戦争の義」なるものを拙き英文に綴つて我国の義を世界に向つて訴へしを深く心に恥る者である。
 
    △余の理想の国
 
 若し余の理想に近い国を言へとならば余は答へて曰ふ「瑞西《すゐつる》である、白耳義である、和蘭である、那威である、帝国主義を唱へざる北米合衆国である」と、是等は皆な剣を須ひずして農と工と商とを以て世界に覇たるの国である、軍艦の擁護するなきに那威の商船は世界到る処に運輸の業を営んで居る 強兵の威嚇することなくして瑞西は其懐中時計を世界の人に使用せしめつゝある、三億万噸の小麦の輸出は米国人に取ては二十万噸の軍艦に愈るの勢力である、国は兵を減ずる丈け、それ丈け、幸福になるのであるやうに見える、日本国を世界の黄金国と為すのは左程六ケ敷はあるまいと思ふ。〔以上、9・27〕
 
    △正反対の人生観
 
 曾て牛込薬王寺前町に住居し頃、近所の陸軍将校の一人にして頗る有望の少壮士官某が度々余の寓居を訪ふて余に種々の人生上の質問を試みた、余は別に遠慮する所なく、通常《いつも》の通り余の採る所の主義信仰に就て述べた、然るに彼れ一日また余を訪ふて曰ふた、「先生の言ふ所は我等の言ふ所とは正反対である、我等軍人は毎日殺す事のみを考へ居るに先生は生すことのみを考へて居る、余は到底永く先生の教を受くる能はず」と、彼は此言を(426)放つた後、未だ一回も余の家を訪ふたことがない、余は想ふ、愛すべき彼は今日今頃は盛んに開戦論を唱へつゝあるであらうと。
 
    △露国兵卒の述懐
 
 露国兵卒の一人、曾て露士戦争に出で、土国兵卒の一人を銃殺し、彼れ亦傷を負ふて其傍に仆る、幾干もなくして彼、看護卒の発見する所となり、担はれて味方の陣に帰り、終に聖彼得堡の病院に輸送さる、病床に在て彼れ感覚を回復するや、頻りに彼の殺せし土国の兵卒の事を思ふて歇まず、彼の傍に在りし人々に告げて曰く「余は余が銃剣を以て刺殺せしかの土国の青年に対して何の怨恨をも抱かず、彼れ亦余に対して何の怨恨あるなし、然るに余は露国人にして彼は土耳古人なりしが故に、我等徴せられて戦場に出で、剣を以て相争ひ、彼は余に傷け、余は彼を殺したり、想へば何の理由ありて余はかの好個の青年を殺せし乎を知らず、若し戦場以外に於て余れ彼と遭遇せん乎、我等両人は最も好き友人となりしならん、嗚呼忌むべきは戦争なるかな、余の傷平癒する後は余は終生戦争の廃止を唱へて歇まざるべし」と、知らず同一の感を懐く者は遼東の野に支那人を刺殺せし我が兵卒の中にも有るや無きやを。
 
    △余をして若し外務大臣たらしめば
 
 若し余をして日本国の外務大臣たらしめば(勿論こゝ三四百年間は斯かることのあり得べき筈なしと雖も)、余は先づ内閣会議に於て軍備全廃を議決し置き、然る後に露国政府に通牒して言はん、「貴国の満州、朝鮮に於け(427)る行為は横暴を極む、余は日本国政府を代表し、茲に貴国の反省を望む」と、然れども露国政府は勿論斯かる忠告には少しも耳を傾けざるべし、彼は心に笑て曰はん、「日本又忠告を試む、我れ更らに満州の兵備を増して彼を威嚇せん」と、然れども余は弛まず更らに忠告を続けて曰はん「余は重ねて貴政府に忠告す、貴国は非紳士的行為を続けつゝあり、余は人道の名に由りて、貴国に改悛を勧告す、若し夫れ軍備に至つては弊国は之を大罪悪を行ふための凶器と認めたれば既に之を全廃せり、故に若し貴国にして暴力を以て弊国と争はんとせらるゝならば、弊国は人道の明訓に循ひ、然り、貴国民が信じて以て世界に誇らるゝ基督教の教訓に循ひ、暴を以て暴に報いざるべし、余は日本国民に代て曰ふ、イエスキリストの聖名に由り貴国の非行を改められよ」と、彼れ露国は勿論容易に斯かる君子的の言を信ぜざるべし、然るに彼の日本国駐在の公使より日本国に於ける軍備全廃の報を聞き亦世界各国の新聞紙が筆を極めて日本国の行動を讃称するを見て頑冥なる露人も稍や其の蒙を啓かるゝの感ありて、或は間者を放つて日本の真意を探らしめ、或は其使臣を簇《ぞく》して更に日本人の新決心を確めしめ、而《しかう》して事実の終に否む可らざるを悟りて、全朝の大臣は大に心に恥る所あり、新たに日本に事牒して曰はん、「我儕は誤れり、貴国願くは今日までの弊国の非行を赦せよ、弊国は喜んで貴国の勧告を納れん、弊国は先づ絶東に派遣せし弊国の軍艦を召還し、以て貴国の疑惑を解くべし、満州撤兵に就ても勿論謹んで貴意に従ふべし、只願くは貴国に於ても大連湾并に旅順港の西此利亜開発に欠べからざるものなるを諒せられ、弊国の特に之を使用するを許されよ、若し夫れ満州に就ては貴国も願くは其良民を送られ、弊国の民と偕に其開発を援けられよ、日露両国は多くの点に於て其目的と利益とを共にす、我等は争ふべき者に非ずして、相授けて亜細亜の億兆を開明に導くの天職を有する者なり、貴国願くは今日までの弊国の非礼を赦せよ」と、茲に於てか真個の平和は太平洋よりバ(428)ルチツク海に渉り、松江《すんがりー》鴨緑《やーるー》の水は何の故障なくして静かに海に注ぐに至り、満州の平原は禾穀の黄金波を揚げて、富士とウラルとはバイカル湖辺に握手し、ヒマラヤ山上又遠からずして平和の旗の翻へるを見ん。 〔以上、9・30〕
 
(429)     謹んで敬友黒岩涙香君に白す
                    明治36年10月11日執筆
                    昭和七年版『内村鑑三全集』14巻                        署名 内村鑑三
 
 余は二回まで君に招かれて日本国の文壇なる者に登れり、故に余にして若し其上に立て善を為せしならば其功は悉く君に帰すべし、然れども若し悪を為せしならば君は余と偕に其責任の幾分を頒たざるべからず、今、君の認諾を得て茲に一書となして世に公にする是等『万朝報』所載の短篇は君の全く干与を拒ひ能はざる者なりと信ず。
 余は戦争問題に就て君と少しく信を異にするが故に君と別れざるを得ざるに至れり、然れども退て深く君と余との間に存する不同の点を探るに是れ区々たる国家間題に於て在るにあらずして、世の創始より定められたる我等の天職問題に於て存するを知るなり、即ち天は君を新聞記者として造りしに対して余を坊主として造りたり、而して坊主たる者は喙を世間の事に容るべからざる定則に従ひ、余は文壇を退くと同時に君と事業上の関係を絶たざるを得ざるに至りしなり。
 然れども人は単に事業的動物に非ず、彼に霊精の存するありて、彼は事業以外、然り、信仰以外に於て亦親密なる友人たり得るなり、「凡ての真面目なる人は一致す」、余が余の坊主の職務に誠実なる丈けそれ丈け、余は君の最も深き所に於て君の最も深き友人たり得るなり、故に余は君と事業上の提携を絶て後に、深き悲痛の底に又(430)深き歓喜を蔵す。
 君に招かれて文壇に昇りし余は今や此著を余の最後の遺物として時事問題に別を告げんと欲す、今より後、余の筆は来世に就て語て現世に就て語らざるべし、天国に就て述べて日本国に就て述べざるべし、余の始めて朝報社入社の託を君より受くるや、余は太平記所載の二条中将為明卿の一首を藉りて余の志を君に述べたりき、而して今や七年の後、時事文壇を退くに方て余は又同じ太平記所載の万里小路藤房卿遁世の辞を藉りて余の大希望の存する所を宣べんと欲す。
   住み捨つる山を憂世の人とはゞ
     あらしや庭の松に答へん
 終に臨みて余は君の健康と『万朝報』の万歳とを祈る。
  明治三十六年十月十一日           内村鑑三
 
(431)     退社に際し涙香兄に贈りし覚書
                       明治36年10月12日
                       『万朝報』
                       署名 内村鑑三
 
 小生は日露開戦に同意することを以て日本国の滅亡に同意することゝ確信致し候
 然りとて国民拳て開戦と決する以上は之に反対するは情として小生の忍ぶ能はざる所に御坐候。
 然とて又論者として世に立つ以上は確信を語らざるは志士の本分に反くことと存候。
 殊に又た朝報にして開戦に同意する以上は(其意は小生の充分に諒とする所なれども)其紙上に於て反対の気味を帯ぶる論文を掲ぐるは之れ亦小生の為すに忍びざる所にして、又朝報が世に信用を失ふに至るの途と存候。
 茲に至て小生は止むを得ず、多くの辛らき情実を忍び、当分の間論壇より退くことに決心致し候間、小生の微意御諒察被下度候。
 朝報に対する小生の好誼は今日も前日と毫も異なる所無之候。
  明治卅六年十月九日                内村鑑三
   黒岩涙香兄
 
(432)     『国家禁酒論』〔角筈パムフレット第三〕
                       明治36年10月15日
                       単行本
                       署名 内村鑑三 述
〔画像省略〕第七版表紙146×108mm
 
   緒言
 
 之れは是れ曾て万朝報に掲げし禁酒に関する余の論文を蒐めて一小冊子となせし者なり、其始めて世に現はる(433)ゝや、多くの人をして禁酒の決心を為さしめたり、その更らに多くの人を駆て禁酒軍に投ぜしめんが為に茲に再び之を世に公にすることとなせり、自ら禁酒せんとする者も、他人をして禁酒せしめんとする者も、進んで此片編を使用せられんことを望む。
  明治卅六年九月廿九日
                  東京市外角筈村に於て 内村鑑三
 
   目次
 
一、国家禁酒論
一、国家禁酒論に対する反対説
一、酒と腐敗
一、酒を飲まざる利益
一、日本国の二大敵
一、禁酒小言
一、禁酒の三傑
 
(434)     〔信仰と境遇 他〕
                      明治36年10月15日
                      『聖書之研究』45号「所感」                          署名なし
 
    信仰と境遇
 
 我に在ては境遇は信仰を作らず、信仰は境遇を作れり、神は凡の佳きものを信仰の報賞《むくひ》として我に下し給へり、爾曹の信ずる如く爾曹に成るべしと主は曰ひ給へり(馬太伝九章廿九節)、我は我が信仰を大にして我が境遇を改良め得るなり。
 
    斯世に王たるの途
 
 我れ斯世より何の望む所なきに至つて、斯世は凡て我が有となるなり、我れ我が籍を天国に移して、同時に斯世の王となるなり、現世は之を来世より求むるにあらざれば我靜の享有し能はざるものなるが如し、キリストの言ひ給へる夫れ有つ者は予へられ、有たざる者は其有てるものまでも取らるべしとの言(路可伝第十九章廿六節)は蓋し来世と現世との此関係を述べしものならん。
 
(435)    福音の真髄
 
 イエスキリストの血すべての罪より我儕を潔む(約翰第一書一章七節)、福音の真髄は此に在り、是れなからん乎、福音は福音に非ず、東の西より遠きが如く、ヱホバは我儕の愆を我儕より遠ざけ給へり(詩篇第百三篇十二節)、我は其説明を知らず、然れども其事実なるを信ず、我が救済《すくひ》は我が罪の赦免を以て始まれり、而して罪の赦免の理由は十字架上の神の独子の犠牲に存す、之を仰瞻て我は始めて新らしき人と成れり。
 
    我の大野心
 
 聖なる父よ、我をして伝道師たらしめよ、我をして汝の福音宣伝の他に我が終生の事業を求めしむる勿れ、我をして人を其枝葉に於て救ふ小慈善家たらしめずして、其根本に於て彼を助くる大慈善家たらしめよ、我をして我が生命を同胞の為に献ぐるに方て、彼等の国家、又は社会、又は肉躰のために之を献げずして、彼等の霊魂のために献げしめよ、父よ、汝の福音を以て罪人を汝の懐に召還らしむるより小なる事業を以て我が終生の事業となさしめ給ふ勿れ。
 
    嗚呼神の愛!
 
 キリストは我儕のなほ罪人たる時、我儕の為めに死たまへり、神は之にょりて其愛を彰はし給ふ(羅馬書五章八節)、神の愛とは実に如斯きものなり、義人たり、善人たる者を救ふは神の愛に非ず、神を憎み、神に叛きし者(436)を救ふの途を設け給ふて神は其愛を彰はし給へり、天の地よりも高きが如く神の愛は人の愛よりも大なり、人はキリストに顕はれたる神の愛を知らずして愛の何たるを知る能はず、神は愛にして愛は神なり、天空が地上の総ての汚気を吸収消尽するが如くに、我等の罪悪を愛の無限の大気の中に吸収し、消滅するものは神の愛なり、嗚呼、神の愛!
 
    教会と信仰
 
 教会は信仰を作らず、信仰は教会を作る、教会を作らんと焦心る者の教会は衰へ、信仰を説くの熱心より教会の事を省るの暇なき者の教会は盛かゆ、是れ真理なり、亦事実なり、門前に雀羅を張る多くの衰微せる教会は、其数師の教会の事に余りに熱心なるより其衰微を招きしなり、慎まざるべけんや。
 
    アルフハ(始)とオメガ(終)
 
 第一に信仰、第二に善行、第三に智識、第四に礼節、第五に、或は第六に、或は第七に、或は第八に、即ち最終に信徒を統治するための制度なり、基督教の如き心霊的宗教に在ては制度は最終最尾のものならざるべからず、宗教のことと云へば必ず教会の事を語る者の如きは未だ基督教の精神を知らざる者なり。
 
    一致の縄索
 
 一致はキリストに於てのみ存す、信仰箇条に於て存せず、教会制度に於て存せず、人の霊魂を縛るものはキリ(437)ストの愛を除いて他にあるなし、愛心以外のものを以て信徒の統一を計るが如き之を無謀の極と言はずして何とか言はん。
 
    余の救ひ
 
 余は余が好んで救はれたのではない、余は余の意に逆つて救はれたのである、余は現世を愛した、然るに神は現世に於ける余の凡のの企図《くわだて》を破棄し給ひて余をして来世を望まざるを得ざらしめ給ふた、余は人に愛せられんことを希ふた、然るに神は多くの敵人を余に送つて、余をして人類に就て失望せしめて、神に頼らざるを得ざらしめ給ふた、若し余の生涯が余の望みし通りのものであつたならば、余は今は神もなき来世もなき、普通の俗人であつたであらふ、余は神に余義なくせられて神の救済に与つたものである、故に余は余の救はれしことに関して何の誇る所のない者である。
 
(438)     来世は有耶無耶
                     明治36年10月15日
                     『聖書之研究』45号「問答」
                     署名 内村鑑三
 
     其一 基督信者の来世観
 
問、貴下は来世の在ることをお信じになりますか。
答、勿論信じます。
問、何う云ふ意味に於て之をお信じになるのですか、或る意味に於ては私も之を信じて疑ひません。
答、私が基督信者として信ずる来世は或る特別の意味に於ての来世であります、即ち聖書が明白に示して居る意味に於ての来世であります。
問、それは何う云ふ来世であります乎。
答、それは勿論たゞの未来の意味に於ての来世ではありません、斯世に未来のあるのは之に過去があつたと同じやうに何にも別に考究するの必要のないことであります。
問、然らば貴下の信ぜらるゝ来世は今世とは何の関係もないもので厶います乎。
答、左様、関係がないとは云はれません、然しながら或る特別の危機を経過せずしては来るべきものではあり(439)ません、私の言ふ来世は斯世が此儘にして漸々と進化して終に来るものではありません、是れは斯世以外より来る勢力に依りて建設せらるゝ世であります。
問、それは私の考へて居る来世とは大分違つて居ります、それならば貴下の子孫ではなくして貴下御自身が直に之と関係を有たるゝやうな来世を御信じになるのでありますか。
答、仰せの通りであります、私の信ずる来世は単に「後世」との縡《こと》ではありません、私は勿論後世のあることを信じます、亦それと同時に来世のあることをも信じます。
問、然らば何に依て貴下は爾う云ふ来世を御信じになります乎、失礼ながら貴下の御信仰は少しく善男善女のそれに似て迷信のやうに思はれます、甚だ失礼なる申分ではありますが。
答、爾う仰せらるゝのも御尤であります、然しながら私は私の頼る聖書の訓示と、私の短いながら今日までの生涯の実験と、亦私の常に尊敬して歇まざる世界の偉人の証言とに由て来世の存在を信じて疑はないのであります。
問、是れは近頃珍しい御信仰であります、往昔は斯様な信仰を有つた者の在りましたことを聞きましたが、学術日進の今日斯かる来世の信仰を懐かるゝ方に私は今日まで未だ曾て一回も会つたことはありません、甚だ御迷惑ではありませうが、少々貴下の来世に係はる信仰の理由を聞かして下さい。
答、御質問は御尤で厶います、聖書にも「爾曹の衷にある望の縁由《ゆえよし》を問ふ人には柔和と畏懼を以て答をなさんことを常に備へよ」と書いてありますから(彼得前書三の十五)、私も此御質問に対しては出来得る丈け明白に御答へ申す義務を有つて居ります。
 
(440)     其二 来世存在に関する聖書の示顕
 
問、夫れは真に有難う厶います、然れば伺ひますが、聖書は果して貴下の申さるゝやうな来世の在ることを示して居ります乎。
答、私は居りますと信じます、旧約聖書は先づ措いて新約聖書の此事に関する示顕は明晰《あきらか》であります、約翰伝の十八草卅六節にイエスは我国はこの世の国に非ずと曰はれたと書いてあります、或人はイエスが茲にこの世と曰はれたのはこの時代との意であつてこの世の国に非ずと云はれたのは後世を指して意はれたのであると申しまするが、然しそれは甚だ無理な註解であると思ひます、原語の Kosmos の普通の意味は世界又は現世であります、この世の国に非ずとは現世とは全く其性質を異にしたるものとの意であると思ひます。問、其他に来世の存在を証明する聖書の語辞を示して下さい。
答、それは聖書到る所にあります、人々の多く注意しないことでありまするが、有名なるキリストの山上の垂訓は来世の存在を事実として説かれたものであると思ひます、「天国は即ち其人の有なれば也」と曰はれ、「地を嗣ぐことを得べければ也」と曰はれ、「天に於ては爾曹の報賞多ければ也」と曰はれたのは現世以外、別に神の聖国《みくに》のあるありて、其処に義者仁人は適当の報賞に与からんとの意味を以て此語を発せられたのであると思ひます、来世の報賞を説いて善行を勧むるのは善行其物に重きを置かない所置であつて、聖人の所置とは曰はれないと云ふ人もありませうが、然しそれは爾うとして、イエスが茲に天国の報賞を以て人に善行を勧められた事は掩ふべからざる事実であります。
(441)問、尚ほ聖書の説明を続けて下さい。
答、馬可伝十章三十節に有るイエスが其弟子輩に迫害と共に報賞を約束された語辞の中に又後の世には窮なき生を受けんと曰れたと書いてあります、茲に書いてある「後の世」は今日世に謂ふ所の「後世」でないことは其処に「窮なき生を受けん」と書いてあるので分ります、イエスは其弟子輩が現世の後に窮なき生命を受くる所の世のあることを茲に明白に証言されたのであります。
 其他来世の存在に関する聖書の証言は数限りありません、約翰伝十四章以下にありまする有名なるイエス訣別の辞の如き、来世の存在を否定しては到底解かるものではありません、又哥林多前書十五章の保羅の復活に関する大議論の如きも、来世を無いものと認めては痴人の夢とほか解することは出来ません、又有名なる希伯来書第十一章の信仰称讃の辞の如き、若し来世の希望を有たない者が書いたとすれば何の意味も無いものであると思ひます。
  彼等は皆信仰に由りて美名を得たれども約束の所を得ざりき、そは彼等も我儕と偕ならざれば成全《まつたう》すること能はざる為めに更に愈れる者(所)を神、予め我儕に備へ給へり(卅九、四十節)
それ信仰は望む所を疑はず、未だ見ざる所を憑拠とするもの也(仝第一節)、基督信者の希望とは他のものではありません、それはキリストが全権を握り給ひて罪悪が其根を絶つに至る未来の神の王国であります、爾うして是れはキリストの再来を待つてのみ建設せらるゝ王国であります、使徒パウロ自身も熱心に来世を望み、之に入るの特権を望んで、それがために彼の全生涯を伝道のために捧げたのであります、兎にも角にも死たる者の甦へることを得んがためなりとは彼の終生の祈願でありました(腓立比書三章十一節)、それ故に(442)彼は死に臨んで此希望に達するを得しと信じましたから彼の有名なる凱旋の声を揚げたのであります。
  我れ既に善き戦をたゝかひ、既に馳るべき途程《みちのり》を尽くし、既に信仰の道を守れり、今より後、義の冕、我が為めに備へあり、主は審判の日に至りて之を我に予ふ(提摩太事四章七、八節)
パウロの来世観を否定して彼の書翰を読んで興味は甚だ尠いと思ひます。
若しまた黙示録に至りましては、来世の存在は其記事の主なる題目でありまして、之を否定して此書は何の面白味もない者となります、主は来世の栄光を約束し給ひて彼と偕に患難を忍ぶ者に告げて曰ひ給ひました、我れ速かに来らん、爾が有つ所のものを堅く保ちて爾の冕を人に奪はるゝこと勿れと(三章十一節)、聖徒が斯世に於て遭遇する凡ての患難は彼が来世に於て受くる凡ての特権と栄光とを以て慰められるのであります、地に在ては彼の受くるものは火であります、剣であります、饑餓であります、疫病であります、然し天に在ては能力、尊敬、栄光、讃美であります(五章十二節)、地に在ては悪魔と称へサタンと称ふる竜(二十章二節)が勢力を握るに対しまして、天に在ては羔が皎く輝ける細布を衣、白馬に乗りたる諸軍を率ひて万民を統治し給ふのであります(十九章十四節)、天国とは聖城《きよきまち》なる新らしきエルサレム、神が彼等の目の涙を悉く拭ひ給ふ所、死の無き所、哀み、哭き、痛み有ることなき所、万国の民を医すための樹の実の繋げる所であります、(廿一、廿二章)、火と戦争とのみを書記《かきしる》せし書のやうに見える此書の中に婦人の心にあるやうな優しい、涙多い所のあるのは、其中に来世の希望が満溢れて居るからであります、黙示録を何う註解しやうと若し其中より来世の希望を取除きますれば其れは、何の慰めもない書となります、黙示録が吾等基督信徒に無限の歓喜と勇気とを供しまする主なる理由は、此書に来世の存在と其栄光とが最もハッキリと記載してあるから(443)であると思ひます。
問、新約聖書の来世観は実に御説の如くでありませう、然し私が常に不審に堪えませんのは、若し来世の希望が人の生涯を司る上に於て左程大切なものでありまするならば何故に旧約聖書が此事に就て沈黙を守るのでありませう乎、貴下はモーゼや、ダビデや、イザヤや、エレミヤは来世の希望を抱いて死んだと思ひなさります乎。
答、旧約聖書と来世観との関係は至て六敷い問題であります、今、茲に此事に関して充分にお話し申したならば他の事を申上ぐるの暇がなくならふと思ひます、然しながら一つ何よりも明白なることは旧約時代の聖徒と雖も或る希望を抱かずしては死なかつたとのことであります、神は永遠より永遠にまで生きて在す者であることは彼等も充分に信じて居りました、(詩篇九十篇等参考)、爾うして此神と常に離れざらんことは亦彼等の希望でありました、「我れ陰府に降るとも 爾、彼処に在す」とは彼等の信仰でありました(詩篇百三十九篇八節)、斯のやうに旧約時代の聖徒は我儕今日の基督信徒のやうにハツキリと天国を望むことは出来ませんでしたが、然しながら彼等は神に由る生涯の永遠死するものでないことは知つて居りました、故に旧約書中往々来世の希望に近き言を発見するのであります、有名なる約百書十九章廿五節以下の言は此類であります。
  我、知る、我を贖ふ者は活く、後の日に彼、必ず地の上に立たん、我がこの皮この身の朽はてん後、我れ肉を離れて神を見ん。
実に壮厳なる語辞ではありません乎、又予言者の理想せしメシヤの王国なるものに関する彼等の予言に就て(444)考へて見ましても、是れ現世の将来に就て言ふて居るやうで、実は現世を終へて後に来るべき新郷土の状態を謳歌して居るものであることが判ります、例へば以賽亜書の十一章六節にある「狼は羊と偕に宿り、豹は小山羊と共に臥し、犢、雄獅、肥たる家畜《けだもの》は共にをりて小さき童子に導かれん」との語辞の如きは是れ使徒行伝三章廿一節にある「万物の復興」の成つた後に実行されることであると思ひます、又予言者の理想なるものゝ性質を能く考へて見ますれば其凡てがメシヤの降世を待つて始めて実顕するものであることが判ります、旧約聖書の予言者は此世が進化して(今の人の謂ふ意味に於て)彼等が理想せし王国とならふとは決して思ひませんでした 彼等はそのためには神の特別の行働のあることを信じました、彼等は此事を自覚して居つたか居らなかつたかは別問題と致しまして、彼等がメシヤの王国、即ち我儕が今日望む所のキリストの王国を現世とは全く其基礎を異にした者として画いたことは明かであります、旧約聖書の来世観に就ては今日は先づ是位ひにして御免を蒙りたくあります。
 
     其三 人類の本能に顕はれたる未来観念
 
問、其れならばモウ聖書の来世観に就ての御質問は歇めに致しませう、然し私の更めて伺ひたいのは貴下は聖書の外にも何か論拠があつて来世の存在を御信じになるのであります乎。
答、我々基督信者に取りましては我々の主として頼る所のものは聖書の証言であります、然しながら我々は聖書以外にも来世存在の証明を有つと思ひます。問、夫れは大略何でありますか。
(445)答、第一は人類の宗教的本能とも称すべきものであります、第二は偉人の証言であります、第三は私共自身の生涯の実験であります。
問、人類の宗教的本能は如何様に来世の存在を証拠立てますか。
答、其れは極く古い議論でありまするが、然し今日と雖もまだ勢力を失はない議論であります、即ち基督降世前四百年程前に世に出たる希臘の歴史家ヘロドータスの言ふた語辞に「我は広く世界を遊歴して、憲法なく、文字なく、政治なき人民を見しことありと雖ども未だ曾て宗教なき人民あるを見しことなし」と謂ふことがあります、今日の人類学者はヘロドータスの此言を打消しまして、阿弗利加の内部或は南米大陸の南端に於て宗教の全く無い種族の二三あるを発見したと云ひまするが、然しながら例外は定則を証明すとの言に漏れず、全世界を通じて二三の全く宗教のない種族があると云ふことは(縦し其事を事実と見做すも)返て人類は宗教的なりとの定則を証明するに足ると思ひます。
問、貴下は頻りに人類が宗教的なるを証明されんとなさりますが、其事は来世の存在と何の関係がありますか。
答、然ればです、宗教は即ち来世の存在を唱ふるものではありません乎、来世を教へない宗教は何処にありますか、来世を教へない者は宗教ではないと云ふも決して過言ではありません、埃及の宗教でも、バビロン、アツシリヤの宗教でも、印度の比※[田+它]《ビダ》教でも、波斯のゾロアストル教でも宗教と云ふ宗教は、殊に文明人種の宗教は、総て皆な来世の存在と其処に於ける裁判とを教へます、若し亦た下つて往昔のメキシコ人、ペルー人等の宗教に至りましても、来世の存在は宗教とは相離るべからざるものであります、斯う申したならば、貴下は、それならば仏教と儒教とは如何であると申されませうが、然し仏儒両教でさへ来世観を他より輸入(446)するの必要があつたのを見て、如何に此観念が人の心の中に強い者であるかゞ判ります、仏教の如き虚無、即ち凡ての物の実在を否定するのを以て其教理の基礎と定めたる教に於てすら、広く衆生を済度せんとするに方ては弥陀仏の慈悲と極楽浄土の存在とを教へざるを得ざるに至つたではありません乎、若し亦儒教に至りましては現世に於ける治国平天下を以て其唯一の目的となし、仏を笑ひ耶を嘲けるとは雖も、然かも其唯一の目的たる治国乎天下を実行するに方ては甚《いた》く自己の不足を感じ、或は仏教を利用し、或は神道を利用するの必要を感ずるではありません乎、宗教より其来世観を奪ひ去つて其心髄を取去るのであります、近くは我国に於て一時唱道されました「現世的基督教」なるものゝ運命を御覧なさい、其唱道者は早く既に去つて基督教界の人に非ず、其教義は化して社会改良策の一種となり、熱もなき、情もなき、たゞの政治論と成り了つたではありません乎、来世観を供せざる宗教程無力なるものはありません、来世のない宗教を説く者は無益の業に従事する者であります。問、随分お強いお語辞であります、私も其中に或る真理の在ることを認めます、然しながら人類全躰が来世の存在を要求する理由は彼等の無学に由るのではありません乎、所謂る未来観念なるものは智識の増進と共に消滅するものではありません乎。
答、日本人にして少しく近世の教育を受けた者は大抵貴下の仰せられるやうな事を申します、然しながら私は爾うは信じません、来世存在の希望は野蛮人のみの希望ではありません、而已ならず此観念も他の観念と同じく智識の進歩と同時に進歩するものであります。
問、然しそれは何人にも迷信の元素が多少遺つて居るからではありません乎、迷信の元素が全く智識の光明に(447)由て取り去られた後に始めて来世観を要求するの必要がなくなるのではありません乎。
答、随分深い御観察であります、来世の希望を堅く抱いて死んだニユートンもフハラデーも、オルヅオスもグラッドストンも彼等の心の中に存する迷信を脱却し得ずして来世を希望したとの御疑問であります、爾うして斯かる希望を抱かれない貴下御自身は新智識の光明に由つて斯かる「迷信」を全然脱却されたのだと申さるゝのでありませう、それは随分大胆なる御断定であります。
問、御賞讃であるか、お冷かしであるか分りません、然し何れにしろ私の心の疑問を少しなりと解いて下さい。
答、失礼ながら貴下の根本的の誤謬は、智識を道徳と全く離れて見らるゝことであると思ひます、然しながら智識は道徳と一躰であります、徳のない智識は事物の真相を覗ふことの出来ないものであります、若しニユートンが来世の存在を信じたと云へば、彼は彼の智徳両性を以て、彼の生命其物を賭して信じたと云ふのであります、彼の智識は彼の信仰を以て清められ、彼の信仰は彼の智識を以て明かにせられ、斯くて完全に最も近き、即ち最も信ずるに足る智識を以て彼は来世の存在を認めたと云ふのであります、然るを彼は既に二百年前の人であつて、]《エツキス》光線をも無線電信をも知らない人であつたから、其人の来世に関する智識は取るに足らないとの御言辞は抑々真正の智識の何たる乎を御認めないより発せられるものではありません乎。
問、智識論はそれまでと致しまして、智者、学者其他の偉人にして来世の存在を堅く信じた者は誰でありますか。
答、「偉人の来世観」、是れは大問題であります、是れは以て一書を著はすに足るの問題であります。
 
(448)     其四 来世存在に関する偉人の証言
 
問、長いことは願ひません、僅少なりともお聞かせ下さい。
答、私が偉人と思ふ人は大抵は深い篤い未来感念を持つた人であります、私は健全なる来世観程、人を偉大になすものはないと思ひます。
問、先づ貴下が偉大なりとお欲召す人は誰々でありますか。
答、私は喜んで赤穂義士の銘々伝を読む者でありまするが、其臨終の歌の中で原元辰の歌を非常に讃称致します、私は日本人が君と親とを慕ふて詠んだ歌の中で斯んな清い美はしいものゝ他にあるのを知りません。
    兼ねてより君と母とに知らせんと
      人より急ぐ死出の山路
彼れ義士の来世観は決して完全なるものではないと致しまして、斯かる無私無慾の日本武士の雪の如き潔き心の中に斯くも優しき、而かも美はしき思想の湧出《わきいで》しのを見て、来世の希望なるものゝ決して愚人の夢でないことが能く分ると思ひます。
問、御説、誠に御尤で厶います、私も此歌には深く動かされます。
答、私は亦近頃東海道の侠客次郎長の辞世の歌に目を触れました、博徒の長《かしら》の作つたものでありますから歌人の目から見ましたならば何の価値もない者でありませうが、然し若しオルヅオスのやうな大詩人に之を見せましたならば、実に天真有の儘の歌であると曰つて大に賞讃するであらふと思ひます。
(449)    六でなき四五とも今は飽きはてゝ
      先だつさいに逢ふぞ嬉しき
 多くの貴顕方の辞世の歌でも文字こそ立派であれ、其希望に溢れたる思想に至ては迚も此博徒の述懐に及ばないと思ひます、彼れ次郎長は侠客の名に恥ません、彼は斯世に在て多少の善事を為した報酬として死に臨んで此美はしき死後の希望を懐くことが出来たと見えます。
問、貴下は案外にも我が国人中、人の多く知らない人の中に貴下の同意者を持たれます、然し貴下は彼等を以て世界の偉人とは見做されないでせう、如何ですか。
答、勿論です、然しながら来世の存在を証明するためには彼等の心事は日本人の所謂る英雄豪傑なるものゝそれに比べて優かに価値《ねうち》のある者であると思ひます、太閤秀吉の如き、西郷隆盛の如きは、其野心の大なりし割合に彼等の心の清からざりしがために、彼等は大にして返て小なる者でありました、心の清き者でなければ神と来世とを見ることは出来ません。
問、然らば斯世に於て大なる人で来世を明瞭に認めた人はありません乎。
答、ありますとも、只然し「大」の種類が達ひます、アレキサンダーや、シーザーや、ナポレオンのやうなる偉人は(若し偉人の称を彼等に附することが出来るとしますれば)来世を望み得る偉人ではありません、彼等は現世限りの偉人でありまして、宇宙とか永遠とかいふものを己の有となさんと欲ふた者ではありません、来世の存在を認めた偉人は彼等とは全く別種類の偉人であります。
問、それは例へて見れは何ういふ人物でありますか。
(450)答、政治家で言へばアルフレッド大王のやうな、グラッドストンのやうな、軍人で云へばコロムウエルのやうな、ゴルドン将軍のやうな人物であります、即ち同胞を援けんとの単純なる心より或は政権を握り、或は剣を抜いた人物であります、爾う云ふ人は多少明白なる来世の希望を懐いて死に臨んだと思ひます。
問、それは御尤の御説であります、それで貴下の指名されし人等は実に来世の希望を懐いて死に就きましたか。
答、左様であります、若し歴史に大なる誤謬がないと致しますれば其事は否むべからざる事実であると思ひます。
問、グラッドストンの臨終の状に就て伺ひたいのであります。
答、彼は御承知かも知れませんが、死する二年前より有名なる監督バトラーの著はした Analogy《アナロヂー》 と云ふ書の註解に従事致しました、爾うして彼の重なる目的は之に依て来世実在の証明を世に供せんとするにあつたとのことであります、彼はその第二巻までを世に公にし、第三巻を半ば終つて死にました、ヴィクトリヤ女王の下に四回まで大英国の総理大臣となつた彼れグラッドストンに取りましては来世の存在に優るの大問題はありませんでした、是れ彼に取りましては印度帝国を保存し阿弗利加大陸を経営するに勝るの大問題でありました。
問、爾うして彼はその来世の希望を彼の臨終の時まで持続けましたか。
答、勿論です、彼が病床に在りし間に彼の最大の慰藉は彼の孫女某と共に有名なるトプラデー作の「千代経し岩よ」の讃美歌を歌ふことであつたとのことであります、爾うして其讃美歌が基督教徒の来世の希望を歌つたものであることは誰も知つて居ります、そればかりではありません、彼が斯世に在て発せし最終の言辞は(451) Our father(我儕の父よ)の一言であつたそうであります、彼は in heaven(天に在す)の語を発し得ずして彼の唇は鎖されたと見えます、六十余年間世界を震動せしめし彼の唇は「天に在す我靜の父」の名を※[(竹/龠)+頁]《よ》んで鎖されました、実に偉大ではありません乎。
問、偉大であります、いかにも太陽が粛然として西山に没するが如き観があります。
答、私はグラッドストンの死状を聞いて私の先師故シーリー先生の事を想出さゞるを得ません、御承知かも知れませんが、彼は十余年間米国アマスト大学の総長でありまして、日本人にして彼の薫陶に与つた者は私の外にも幾人もあります、私は目にグラッドストンを見たことはありませんが、然しシーリー先生に接して、グラッドストンとは斯う云ふ質の人であらふと度々思ひました 学者で、実務家で、信仰家で、其円満偉大なること到底日本などに於ては見ることの出来ない人物であります、私は一夜少しく先生に求むる所がありまして、突然先生の書斎に侵入致しました、先生は其時丁度或る書を読んで居られましたが、何時になく喜んで私を迎へられ、その読みつゝありし書を卓上に置かれ、金縁の眼鏡を取外して其塵を払はれ、静かに私の云はんと欲する所を聞かれ、後は話頭を現世の事より神と来世の事とに転ぜられ、書斎の壁上に掛けてありし一老婦人の絵画を指され、小児のやうな余念なき口調にて云はれました、「内村君よ、あれは私の妻であります、彼女は二年前に私共を逝りまして、今は天国に在て私共を待つて居ます」と、曰ひ終て先生の温顔を仰ぎ見ますれば眼鏡の中なる先生の大なる眼球は一杯に涙を以て涵《ひた》されたのを見ました、私は実に其時ほど明白に来世の実在を証明されたことはありません、先生の大智識を以てして、斯くも有々と墓の彼方に美国《うるはしきくに》の在るのを認められしのを見まして、私は自己の小なる頭脳《あたま》を以て度々其存在に就て疑を抱ひた事を(452)深く心に耻ぢました、私は今日まで幾度となく来世存在の信仰を嘲ける人に出会ひました、然しながら其人は皆な人物から言ても、学識から言てもシーリー先生に遠く及ばない人たちでありました、先生の言はれし事とて必しも一から十まで真理であるとは言へません、然しながら斯かる人物が斯かる確信を懐いて居つたことを思ひまして私の来世存在に関する信仰は非常に強められます。
問、多分爾うでありませう、私如きは不幸にして斯かる人物に遭遇したことがありません、従つて斯かる問題に就ては今日まで至て冷淡でありました、実に興味の多い御実験談を受玉はりまして誠に有難う厶います。
答、其他コロムウエルやビスマークなどの偉人来世観に就て御話し申すことは至て面白い事でありまするが、それは他日に譲りまして、私は世界の大詩人が来世存在に就て何う思つて居つたか其事に就て少し聞いていたゞきたく思ひます、御承知の通り我邦では詩人と申しますればたゞ文字を玩ぶ閑人《ひまびと》のやうに思はれまするが、然し世界の大詩人とは決して爾んな物ではありません、詩人は偉人中の偉人であります、希臘国の産した偉人の中で詩人ホーマーほどの偉人はありませんでした、伊太利国の最大人物は勿論ダンテであります、英国に在てはシェークスピアはコロムウエルに優るの人物でありました、又政治家としても詩人の性を備へない者は偉人とは云はれません、所謂る「散文的人物」なる者は平凡の方に近い人物であります、それ故に来世存在に関する偉人の言を聞かんと欲へば世界の大詩人の言を聞かなければなりません、爾うして大詩人は一様に来世の大希望者であります、否な、それに止まりません、来世を観る能はずして大詩人たることは出来ません、詩人の天職は殊に朦眼の世人に来世の実在を明かに示すにあるのであると信じます。
問、詩人の御解釈は御説の通りでありませう、ドーゾ大詩人の来世観に就て少し御話し下さい。
(453)答、先づ詩人オルヅオスから申上ませうならば、私は彼の詩集の中から何れを先きに引きてお話し申して宜しか甚だ惑ひます、有名なる「霊魂不朽の歌」「我等は七人なり」等は人の多く賞讃する所の作であります、然し来世存在に関する彼の最後の証明とも称すべき者は彼の老年の作なる「夕暮の歌」(Evening Ode)であると思ひます、彼は夕陽の西山に春くのを見まして彼の感慨を述べて申しました。
   Wings on my shoulder seem to play:
   But,rooted here,I stand and gaze,
   On those brightsteps that heavenward raise
   Their practicable way.
   我が肩上の羽翼の動くを感ず、然れども我れ尚ほ此処に止て遠く望めば、玲瓏たる階段の天にまで達して、之に到るの途を示すを見る。
如何でありますか、今や老詩人は彼の羽翼を張つて天に昇らんとするばかりではありませんか。詩人臨終の歌として最も勇壮なるものは米国の平民詩人ホヰットマンの「死に臨んで余の霊魂に告ぐ」るの歌であります。
   Joy!shipmate−Joy!
   (Pleas'd to my soul at death I cry;)
   Our life is closed,Our life begins;
   The long,long anchorage we leave.
(454)   The ship is clear at last−she leaps,
   She swiftly courses from the shore;
   Joy!shipmate−Joy!
   歓べよ、同船の侶伴《とも》よ、歓べよ、
   (余は喜んで死に臨んで余の霊魂に斯く告げぬ)
   我等の生命は終りぬ、我等の生命は始まりぬ、
   永の、永の間の碇泊地を我等は去らんとす、
   船は終に纜を断り、我心が飛立つなり、
   彼女は岸を離れて速かに進むなり、
   歓べよ、同船の侶伴よ、歓べよ。
或人が此歌を評して曰ひました、「余は近世の人にして斯かる凱旋の声を揚げて彼世に入りし人の他にありしを知らず」と、是れは死の声ではありません、栄転の祝賀の声であります、貴下は斯かる希望を懐きたくはありません乎。
問、実に羨しう厶います、詩人は酔ふて居るのか、醒めて居るの乎、私には判断がつきません。
答、又詩人ブラィアントを御紹介致しませう乎。「死」は彼の特愛の話題でありました、彼は時には死の威権に圧せられまして、死後の生命に就ては歌ひ得ませんでした、然しながら詩人たる彼は死の呑む所とはなりませんでした、彼も亦死に打勝つて墓を破るの信仰を持つて居りました、彼は「二基の墓」と題して或る無名(455)の老夫婦の死後を弔ひし歌に於て、人生のはかなきを述べた後で死は万事を終ると云ふ世間普通の信仰を排斥して言ひました。
   'Tis a cruel creed,believe it not;
   Death to the good is a milderlot.
   They are here,tbey are here−that harmless pair,
       *     *     *     *
   Patient,and peaceful,and passionless;
   As seasons on seasons swiftly pass,
   They watch and wait and linger around
   Till the day when their bodies leave the ground.
   是れ惨酷なる信仰なり、之を信ずる莫れ、
   死は善人に取つては安き境遇なり、
   彼等は此処にあり、かの辜なき夫妻は此処を離れず、
   静かに、忍んで、憤恚と怨恨《うらみ》なく、
   年月、駒の如くに速《と》く走る間に、
   彼等は且つ祈り且つ俟つて此辺を去らず、
(456)   彼等の肉躰が地を離れて出で来るまで。
 大詩人の心に小児の有つやうな斯かる信仰の有るのを見て来世、復活の信仰の決して痴人の夢でないことが愈々明白になると思ひます。
問、大詩人の来世観に就て尚ほ充分に承玉はりたくは存じまするが、然し大分御高説も拝聴致しましたから、アトは少々貴下の御実験上から来た御信仰に就て承玉はりまして、それで今日はもう御面倒を掛けまいと欲います。
 
   其五 生涯の実験より生ずる来世の希望
 
答、私の実験とて決して私一人の実験ではありません、人類全躰の実験であります、誠実を追求する者の凡の人の実験であります、真面目に同胞のためを思ふて人生を送らんと欲せし人にして此希望を懐かない者はないと思ひます、現世は我等の理想を行ふには、余りに不完全なる所であります、若し斯世が万事を終るものでありまするならば、人として此処に生れ来りましたのは最大不幸であると思ひます、世に辛らいことゝて理想を持つて理想を行へない位ひ辛らいことはありません、然るに総て高尚なる人の生涯は皆な此「充たされざる理想」の生涯であります、理想に応ふ実物の存在するのが此宇宙の法則でありまするのに、現世には吾人の理想に応ふための実物が在りません、是事が来世の存在の最も確かなる証拠ではありません乎、故に詩人ゲーテは来世を望んで言ひました。
    凡て変り易きものは、単に比喩に過ぎず、
(457)   達すべからざるものは此処に事実と成る、
   口に言ふべからざるものは此処に行はる、
   限なく女らしきものは我等を此処に引附く。
斯世に誤解といふことがあります、是れは人生の最も怕ろしい事であります、悲劇と云ひ惨事といふは皆な此誤解が事実と成つて顕はれたものであります、天目山の悲劇も之でありました、源義経に腰越状を書かしめたのも是でありました、暗主が有つて奸物を忠臣と誤解し、忠臣を乱臣賊子と誤解した為めに多くの家は滅びました、亦人生の最大苦痛の一なる家庭の紛争もその大抵は此誤解より来るものであります、父母に子の真偽を見分くるの明なく、孝は孝として受けられずして、僅かに外面の愛相を以て孝なりと信ずるより、家庭に誠実は迹を絶つて、只僅かに形式的の礼儀のみ存するに至ります、誠実は必ず世に認めらるべしとの私共の幼時の信仰は歳月を経るに従つて全く破壊されて了います、誠実は斯世に在ては国人にも、君にも、父母にも、兄弟にも、友人にも、必ず認められるとは限りません、否な多くの場合に於ては其正反対が事実であります、ソクラチスが雅典人に殺されしが如き、ダンテがフローレンスの市《まち》より逐はれしが如き、ラマルチンが仏固より逐放されしが如きは決して珍らしい事柄ではありません、人は国を愛する丈けそれ丈け其国人に憎まれるやうに見えます、世に辛らい事とて人の善を思ふて其人に憎まれる事ほど辛らい事はありません、然しながら是れ人生の常でありまして、少しく真面目に世を渡らんと欲せし者は大抵は此辛らき実験を経過致します。
此時に方て何にが私共の慰藉となりまするか、誰が私共の心を真正《ほんとう》に見て呉れるのでありますか、父母です(458)か、兄弟ですか、友人ですか、嗚呼、情けない者は人間であります、人類総躰が其智慧を一所に集めましても多くの場合に於ては人の真偽を判別することが出来ません、然し若し斯世が私共の有つ唯一の世でありますものならば、生命とは何んと詰らない者ではありません乎、此時に方て誰かヨプと偕に叫びません乎、
  我れ知る我を贖ふ者は活く、後の日に彼れ必ず地の上に立たん、我がこの皮、この身の朽はてん後、我れ肉を離れて神を見ん(約百記二十章廿五、廿六節)。
私は世に誤解された時に最も明白に来世の存在を認めました、私は骨肉友人の誤解を最も辛らく身に感じた者であります、私は其誤解を取り去らんために私の知る総ての方法を竭しました、然し其全く無効なるを知りまして、一時は非常に失望致しました、然しながら聖書を読み、殊に黙示録を読みまして、斯かる誤解の生涯が基督信徒の生涯であることを悟り、それと同時に神が私共により善き国を備へ給ひしを知りまして、私の涙は始めて拭はれました、私は眼に涙を湛えずして未だ曾て黙示録の第廿一章を読んだことはありません、
  神、彼等の目の涕を悉く拭ひとり、復た死あらず、哀み痛み有ることなし、蓋《そは》前事すでに過去ればなり(第四節)。
嗚呼、是れ有れば足りるのであります、是れ有れば何んと思はれても宜う厶います、国賊として窘められませうが、乱臣として斥けられませうが、不孝者として疑はれませうが、偽善者として遠ざけられませうが、是れあれば私に痛み哀みはありません、来世の希望が私に供せられた時に私は始めて気息《いき》を吐《つ》いたのであります、此時に始めて私は人らしき人と成つたのであります、其時から宇宙も人世も私には楽しきものとなり(459)ました、其時に私は詩人ホヰッチヤーの句を借りて謡ひました。
  我れ最早懼れず、曇りし自然の面影も今は笑を含みけり、限りあるもの、朽るもの、眼に見ゆるものすべて皆な、触るゝ聖霊の羽音して、希望の讃歌唱へけり、
私より来世の希望を奪ふ者は私の生命を奪ふ者であります、是れなくして人生は私には無味のものとなります、私の「存在の理由」は確かに「来世の存在」に在ります。
問、爾う御説明になりまして、私はまう何んとも御質問の致しやうはありません、たゞ私はまだ充分に貴下のやうに来世を望むことの出来ないのを残念に思ふまでゞあります。
答、それは貴下の御生涯が全躰に平坦であつたからでありませう、夜が来らなければ森羅万象が眼に映らないやうに、辛らい生涯の経験に遭はざれば来世は瞭かに見ゆるものではないと思ひます、然し貴下にも何時か其辛らい嬉しい時が到来するであらうと思ひます。
問、有難う厶います、今日の御説明に依て他日大に心に悟ることがあらうと思ひます。
答、私も爾う望みます、ロングフェローの詩に、「昼間月を見て其要を認めざりしが、夜に入つてより其光明の有難さを知つた」といふ事が書いてありまするが、私の不束なる来世に関する此説明も後日に至て何にか御役に立つことがあるかも知れません、サヨナラ。
 
(460)     『小供の聖書』
                       明治36年11月8日
                       単行本
                       署名 内村鑑三述
 
〔画像省略〕第十版表紙148×107mm
 
     はしがき
 
 此小冊子は撰者が自家の小児に暗誦せしめんとて選択し且つ編纂せる聖書の言を集めしものなり。
(461) 小供の聖書は亦大人の聖書なり、凡て神の小児等《せうにら》はその大哲学者なると老政治家なるとに係はらず、小児の如き心を以て是等の聖語を記憶に留めなば其利益蓋し宏大無辺なるべし。
  明治三十六年十月廿二日             内村鑑三
 
     目次
 
  一、十誠      一、美訓
  一、善悪の差別   一、主の祈祷
  一、神の栄光の歌  一、天空の鳥と野の百合花
  一、ダビデの牧羊歌 一、二箇の基礎
  一、智慧の言    一、愛の称讃
 
(462)     〔風雲急なり 他〕
                     明治36年11月19日
                     『聖書之研究』46号「所感」
                     署名なし
 
    風雲急なり
 
 国民の動揺なるものあり、世の牧伯は之を聞て駭く、曰く、是れ亡国の兆なりと、然れども我儕は其声に耳を傾けて曰ふ、神の救済は臨めりと、一羽の雀も父の許なくして地に隕ることなし、況や国民の動揺をや、是れ神の声なり、ヱホバの道は旋風にあり、大風にあり、雲はその足の塵なり(拿翁書一章三節)、風雲暗澹たる中に恩恵の宝座は裹まるゝなり。
 
    天国は近づけり
 
 福音は路傍の草にあり、野の小川にあり、大洋の怒涛にあり、重巒の巓を払ふ砂漠の風にあり、民の移動にあり 国の衝突にあり、神は世の風雲に乗じて進み給ふ、我儕は活劇の順路を知らず、然れども其終局の必ず神の勝利に帰するを知る、人の怒も終に神の義を行ふに至る、我儕は艨艟の鯨波を衝くを見て、天国の此地に臨むこと更らに一層急なるを党ゆ。
 
(463)    雷霆の声
 
 細き声に聴かざれば耳を裂くに足るの雷霆の声に聞かざるべからず、若し良心の声にして威厳を欠くに至れば、神は万軍を起して教訓を宜べ給ふ、正義は真に必ず此世に行はれざるべからず、戦闘の声を聞くにあらざれば眼を醒さゞる国民は禍なるかな。
 
    戦争の意義
 
 人は利のために戦ふ、然れども神は罰せんがために戦はしむ、国民は戦場に臨んで神の刑場に臨むなり、彼等は自国の罪を贖はんがために屠らるゝなり、同類相対して流血淋漓たる所は是れ貴族の淫縦と平民の偽善とが万邦注視の前に於て公義の判決に服する所なり。
 
    戦争の止む時
 
 戦争を止むるに二途あり、進んで敵意を霽すにあり、退いて自己を正すにあり、而して神は常に第二途を択び給ふ、然れども人は常に罪を他人に帰して自身は義名を帯びて死せんと欲す、是れ戦争の有る所以なり、名誉心なり、傲慢心の遂行なり、流血をあらしむる者は是なり、人類が自己を省みるに敏にして他を責むるに鈍くなる時に至て戦争は全く廃止せらるゝに至るなり。
 
(464)    戦争を好む理由
 
 生命を惜まざるを以て勇気なりと称す、而かも人類の多数は生命を愛せざる者なり、人世に絶望して常に死を思ふ、故に他人を殺して自からも死せんと欲す、是れ此世に在て戦争が常に多数の賛同を博する所以なり、若し生命の真価にして知られんか、人類は直に戦争を廃するに至るべし、絶望家の世に多数を占むる間は開戦の声は常に高かるべし。
       ――――――――――
 
    余の求むるもの
 
 余は神より嘉き「物」よりも良き「心」を得たく欲ふ、爾うして神は祈て嘉き物を賜はないことはあるが、希ふて良き「心」を下し給はないことはない、清き心、柔和なる心、衿恤《あわれみ》ある心、饑渇く如く義を慕ふ心、是等は皆な金銀、宝石、土地、家屋に優さる数層倍の嘉き賜物である、爾うして我等は幾度となく神より斯かる嘉き賜物を獲て彼の存在を疑はんと欲するも得ない。
 
    最も幸福なる時
 
 神は物を賜ふて智識を賜はない時がある、又物と智識とを賜ふて、信仰を賜はない時がある、而かも余の最も幸福なる時は物と智識とに欠乏して信仰に充ち溢れる時である、余は今は天上の栄光を眺めて希望の喜楽に居ら(465)んがために境遇の暗夜を愛する者である。
 
    神の子たるの特徴
 
 基督教の禅は是(yea)である、否(nay)ではない(哥林多後書一章十九節)、彼は建る者であつて壊す者ではない、奨励する者であつて批難するものではない、悪魔を称して「大なる否定者」といふは彼が神と正反対の者であるからである、凡て否定する者は悪魔である、冷笑する者、嘲罵する者、人の堕落を聞て喜ぶ者は凡て悪魔の霊に由て働く者である、吾等創造し得る者となるまでは未だ自から神の子なりと称することは出来ない。
 
    読書の目的
 
 我の書を読むは我れが之に由て智者学者とならんがためではない、我の書を読むは我れが之に由て人生の秘義に通じ、詈らるゝも祝し、窘めらるゝも忍び、※[言偏+肖]《そし》らるゝも勧むるの神の如き心の状態に達せんがためである、若し我が読む書にして我に永久に忍ぶの術を教へずば彼は我に何の嘉きことをも教へない者である。
 
    キリストの勝利
 
 凡の嘉きものは主イエスキリストより来る、愛と望と信とは勿論、智識も、美術も、労働も、労働の結果たる真正の富も、凡て主イエスキリストより来る、今や彼に由らずして人も国家も永久に善く且つ強くなることは出来ない、「若し爾曹信ぜずば必ず立つことを得じ」との預言者の宣言は今や着々と歴史上の事実となりて顕はれ(466)つゝある、世界歴史は地上に於ける主イエスキリストの勝利の記録である。
 
(467)     予言者哈巴谷の声
                 明治36年11月19日−37年1月21日
                 『聖書之研究』46・47・48号「註釈」
                 署名 内村鑑三
 
    (哈巴谷書第一章)
 
  預言者ハバククが啓示《しめし》を蒙りし預言の重荷(第一節)
 ハバククは紀元前六百年頃の人なり、預言者ヱレミヤと時代を同うし、カルデヤ人侵入の時に際し共にユダ国人を警醒せり、〇預言者は神の聖霊を接けし愛国者なり、彼れは多く個人の救済に就て説かず、主として国民の運命に就て語る、彼の題目は世界の歴史なり、国民の上に顕はるゝ神の裁判なり、而かも彼は希望なくして語らず、彼は暗黒の彼方に常に大なる光明を認む、彼の憤怒の激烈なるは彼に燃るの愛心あればなり、彼は推理せず、直に神の霊に触れて語たる、彼に哲学的説明あるなし、直感的確信あり、彼が伝ふる真理の証明は単に彼の焼くが如き熱心に存す〇「重荷」 神の黙示なり、国民に伝ふべき神の使命なり、之に重き責任存す、故に之れを受けし者に取りては大なる重荷ならざるべからず、彼は独り之を心の底に蔵むる能はず、彼は全国民の反抗を覚悟して之を彼等の前に述べざるべからず、神の黙示に接するは大なる名誉なり、然れども名誉に伴ふに大なる責任あり、預言者は之を受けて重荷の其肩上に置かれしを感ずるなり。改行
(468)  ヱホバよ、我叫ぶに汝の我に聴き給はざること何時までぞや、我汝に向ひて強暴を訴ふれども汝は助け給はざるなり、汝、何とて我に害悪を見せ給ふや、何とて艱難を瞻望め居たまふや、掠奪及び強暴、我が前に行はる、争論あり、且つ闘諍起る、是に由りて法律弛み公義正しく行はれず、悪人、義人を囲むが故に公義曲りて行はる。(第二節より四節まで)。
 預言者ハバクク在世当時のユダ国内治紊乱の状を示せる言辞なり、彼れ預言者は幾度か官吏の強暴、富豪の専恣、貴族の淫縦、僧侶、文人、論客の堕落に就て神に訴ふる所ありたり、而かも神は沈黙を守り給ひて、義罰は更らに悪人の上に加へられず、掠奪は強暴に次ぎ、詐欺収賄の罪は至る所に挙り、同胞の間に争論怨隙絶ゆる間なし、是に於てか、法律に明文はあれども民の権利は重ぜられず、公義は高く唱導さるれども兇暴白昼に行はる、多数の悪人は少数の義人を繞囲して後者の供提する公義はたゞ曲りて行はるゝのみ、貧者は僅かに富者の淫を助くるために労し、道徳は僅かに弱者を圧するためにのみ唱へらる、茲に於てか預言者の忍耐の緒は絶へんとし、彼は声を揚げて叫べり曰く「神よ、汝は眠り給ふ乎、公義は実に世を去りしか、腕力は実に是れ権力なる乎 富貴是れ実に公義なる乎」と。
 時に声あり天より聞こゆ、預言者の胸中に響き渡りて曰ふ
  汝等国々の民の中を視よ、之を観て駭けよ、汝の時に於て我れ一つの事を為さん、之を汝等に告ぐる者あるも汝等は信ぜざるべし、視よ、我れカルデヤ人を興さんとす、是れ即ち猛くまた荒き国民にして、天下を※[行人偏+扁]行し、己の有ならざる土地を奪ふ、彼は懼るべし、又畏るべし、彼は自から断じて自から行ふ、其馬は豹よりも迅く、夜求食する豺狼《おほかみ》よりも疾《と》し、其騎兵は驕り且つ躍る、然り、其騎兵は遠方より来る、其飛ぶこと(469)は物を食はんと急ぐ鷲の如し、彼等は全く掠奪のために来る、彼等は其面を前に向けて進む、その俘虜を集むること砂の如し、彼等は帝王を侮り、侯伯を嘲り、諸の城塁を見て笑ひ、土を積上げて之を攻取るなり、斯くて彼等は風の如くに進行て罪を得ん、彼等は己の力を神とす。(第五節より十一節まで)。
 国内の擾乱に対しては神は沈黙を守りて恰も眠り給ふが如し、故に国民は其哲学者に傚ふて曰ふ「天に神あるなし、在る者は実利のみ」と、然るに神は預言者に告げ給ふて曰く、「汝、我が存在を疑ふ勿れ、汝、地上の裁判に就て疑懼を挟む勿れ、公義は世に臨まんとす、汝、眼を揚げて北の方を望み観よ、我、新たに国民を興し、彼をして公義を執行せしめんとす、彼は勿論義人に非ず、彼は豺狼の類なり、豹の族なり、飽くことを知らざる鷲の如き者なり、彼に騎兵あり、剽悍を以て聞こゆ、善く乗り、善く走り、善く進む、残忍にして暴戻、王者を譏り、侯伯を嘲けり、城市を攻取り、風の如くに天下を横行し、力、是れ神なりと称す、領土を奪ひ、今や進んで汝の邦国に迫らんとす、我、ヱホバは今や彼を用ひて民の積悪を罰せんと欲す、汝、行て此事を汝の民に告げよ、彼等或は己に省みて我れ罰せざるに先んじて自から罪を悔ゆるに至るやも知るべからずと。〇カルデヤ人は波斯湾東北の岸に住みし民なり、バビロニヤ人を征服し、アツシリヤ人に代て西亜の天下に覇たりし者なり。
 此声に接して預言者は悲哀措く能はずなりぬ、彼は始めは彼の国内に行はるゝ掠奪と強暴とを視て堪ふる能はず、之を神に訴へて其公判を求ひたり、然るに今や義罰の国外より彼の国民の上に臨むを示されて彼の義憤は哀訴に変じ、彼は彼の国人を訴ふるを止めて其敵国たるカルデヤの罪を神前に列挙するに至れり。
  ヱホバ我が神、我が聖者よ、汝は永遠より在すに非ずや、……我儕は死なじ、……ヱホバよ、汝は是を審判《さばき》のために設け給へり、磐よ、汝は是を懲戒《こらしめ》のために立て給へり。(第十二節)。
(470)  ヱホバは永遠より存す、故に大国我に逆つて起つも危害の我儕に及ぶ恐怖あるなし、彼が之を興し給ひしは我儕の罪を審判かんがためのみ、ヱホバは我儕の隠るべき磐なり、故に勁敵の我儕の国疆に臨みしは我儕を此地より断んがために非ずして、我儕に懲戒を加へんがためのみ、審判と懲戒とは恩恵より出づ、父が其子を鞭撻つの心を以て神は此強敵を我儕に送り給ひしなりと。
  汝は目清くして定て悪を観たまはざる者、肯て不義を視たまはざる者なるに、何故に邪曲《よこしま》の者を見捨て置き給ふや、悪人の己に優りて義き者を呑噬ふに何故に汝黙し居たまふや、汝は人をして海の魚の如くならしめ、統一なき昆虫の如くならしめ給ふ、彼、鉤をもて尽く之を釣上げ、網をもて之を寄せ集め、引網をもて之を捕ふるなり、是に因りて彼れ歓び楽む、この故に彼れ其の網に犠牲を献げ、その引網に香を焚く、そは之がために其産増し其食饒になりたればなり、然れど彼はその網を傾けて惜なく万邦を屠て止む時なからんか(第十三節より十七節まで)。
 預言者はカルデヤ人の侵入の神の恩恵に出しを知る、然るに茲に彼の胸中に大なる疑問の存するあり、神は何故に斯かる残忍暴戻の国民を使ひ給ふて地の諸民を懲らし給ふか、若し懲戒を加ふるの必要あらば何故に神の聖旨に適ふ天の万軍の如き者を用ひ給はざるか、神の目は清くして彼の前には天の星さへも耻ぢて其面を隠くすといへり(約百記廿五章五節)、然るに彼は何故に邪曲、カルデヤ人の如き者を用ひ、之に優るの義しき民を罰し給ふや、汝は彼れ豺狼の前に人をして海の魚の如くならしめ、亦地の昆虫の如くならしめ給ふ、彼は鉤を以て之を釣り、網を以て之を捕ふ、而して之を捕へて其功を彼の使用せし器具(武器)に帰し、之れを崇め之を祭る、そは彼は想へばなり、彼をして敵に勝たしめし者は天の神に非ずして彼が万邦征服のために使用せし彼の武力なりと、(471)斯くて彼は武力崇拝者となり、益々之を拡張し、之に由て万邦の覆滅を継けんとす、汝、聖者の目より観たまふて如斯きは有り得べきことなるか、是れ我の解明に苦しむ人世の大疑問なりと。
       *     *     *     *
 然り、大疑問なり、然れども亦歴史的大事実なり、西班牙王第二世フイリツプの如き悪虐の為政家興きしが故に和蘭自由国の如き者は起りしなり、新英国を造りし者はハムプデン、コロムウエル等の愛国者のみにあらずして、暗主第二世チヤーレス王も亦此事に与て力ありしなり、悪人は神の造りし者に非ず、然れども彼は悪人を使用し給ふ、カルデヤ人、又開明進歩のための機具たりしなり、我儕若し目前に暴戻の民の起るを見ば、之に神の指導の杖を見て死刑の刃を認むべからざるなり。 〔以上、11・19〕
 
    (哈巴谷書第二章)
 
 預言者曰く我が心に大疑問存す、我は其解説を求めて得ず、我れ智者に就て之を聞かんと欲するも彼れ我が疑惑を解く能はず、我れ亦之を古哲の書に探ぐるも其我が曚を啓く能はざるを如何せん、そは是れ人生の最大問題なればなり、何故に強き悪人は栄えて、弱き善人は衰ふるや、何故に仁義を省ざる国は興て、樸直勤勉の民は亡ぶや、見よ貪婪厭くこと無き世の富家と称する者が大廈を築きて富裕に誇るを、見よ、富強の外、他に何の求むる所なき国が、艨艟を連ねて宇内に飛雄するを、是れ人世の最大疑問なり、何者ぞ我に光明を供して、我が心中の此疑団を氷解するものぞと。
 我れ我が観望台《ものみだい》に立ち、戍楼《やぐら》に我が身を置かん、而して我れ天上を仰てその我に何と宣まふ乎を見、我が疑(472)問に対して其何と答へ給ふ乎を我れ自から見ん。(二章一節)。
 懐疑の極、彼れ己に顧みて曰く、我は我が疑問を懐いて祈祷の台に昇り、其処に直に上天の黙示に与からんと、預言者は人世の観望者なり、彼は人の未だ覚らざる時に覚り、未だ醒めざる時に醒む、彼が観望台の上に立つは番兵が戍楼に立つが如し、彼れ其処に立ちて新天地の到来を預知し、之を民衆に告げて彼等を導く、預言者にして時々彼の観望台に昇らざらん乎、世に天よりの光明は絶えて、民は常暗の街《ちまた》に迷はん。
 時にヱホバ預言者に答へて宣はく
  我れ黙示を汝に伝ふ、之を書記《かきしる》して板の上に明白に鐫つけ、奔りながらも之を読むべからしめよ、此黙示は時を定めて到る、速かに到るべし、偽ならず、若し到ること遅くば忍んで待つべし、必ず臨むべし、渋滞りはせじ、其黙示とは是れなり、即ち
   高ぶる者の心は其衷に在りて平かならず、
   然れども義者は信仰に由りて生活《いき》む(二−四節)
 神の黙示は簡にして深し、之を大書して板に彫めば、走卒も奔りながら容易に之を読むを得べし、或は之を心の肉に印せば座ながら之を我が銘となすを得べし、此黙示は時を定めて必ず到るべし、其到ること吾人の予想するよりも速かならん、之に偽あるなし、そは是れ神の黙示にして造化の原理なればなり、若し其到来を遅しとする者あれば、是れ之を待望む者の忍耐足らざるに由る、神の黙示は必ず就るべし、其到来に渋滞あるなし、其黙示とは何ぞ、他なし、曰く「高ぶる者に平康あるなし、神を信ずるの義者のみ永久に存せん」と、人、或は言はん、之れ平凡の理なり、神の黙示として取るに足らず、と、然れども是れ未だ人世の事実を知らざる者の言なり、(473)世は概ね高ぷる者の平康を信じて、義者の安全を信ぜざるなり、「高ぶる者」とは誰ぞ、原語の意義は「膨脹《ふくれ》る者」なり、即ち実なくして外に膨脹する者の意なり、天爵なきに人爵に誇る者、天の賦与せざる富を得て、自から富者なりと信ずる者、是れ皆な浮虚の徒にして「膨脹れる者」即ち「高ぶる者」なり、然るに曚昧なる世は彼等を指して曰ふ、「幸運なるかな、彼等よ、彼等は昌へて子々孫々、万代に至らん」と、彼等は国の強固を量るに其兵力の強弱を以てし、人の真価を定むるに其財産の多少を以てす、彼等は真個の平安の義者の信仰に在るを知らず、故に兵を増して国を護らんとし、富を積んで家を起さんとす、国民最大多数の人世観なるものは之より以外に渉ることなし、故に神は預言者に託り大義を再び世に伝へしめて宣はく
  義者は信仰に由りて生活ん
と、信仰は神の不変の正義を信ずることなり、腕力、時に正義を圧することあるも、義者は腕力を信ぜずして神の正義を信ずるが故に、暴者の暫時的成功を見て迷はず、貪婪、時に亦功を奏し、残虐、時に財を積むことあるも、義者は神の公義を信ずるが故に、陋徒の繁栄を聞いて驚かず、義者は信仰に由りて生活く、故に彼は世の褒貶の浪に漂はず、其栄枯の夢に欺かれず、彼れ「心に高ぶる者」は誰ぞ、
  彼は酒に耽ける者なり、邪曲なる者なり、驕傲者《ほこるもの》にして、安慰なき者なり、故に彼は其情慾を墓の如くに、又死の如くに闊くし、自から足ることを知らずして万国を集へて己に帰せしめ、万民を聚めて己に就かしむ(第五節)。
 覇者とは誰ぞ、財奴とは誰ぞ、衷に頼るべき物なきが故に、外に膨脹して身の空乏を掩はんとする者ならずや、彼が酒に耽けるは彼の不安の苦痛を忘れんが為めなり、彼が驕傲るは彼の小を隠さんが為めなり、彼が慾心を墓(474)の如くに闊くし万国と万民とを呑まんとするは、彼が彼の心底に存する無限の空乏を充たすに全世界を以てせんがためなり、彼は心に神を有せず、故に彼に重目《おもみ》なし、慰安なし、満足なし、彼は故に宇宙を呑んで泡沫の如き彼の身に少しく重量を加へんとす、彼が弱国を併せて世界に覇たらんとするも之が為めなり、彼が貧者の田園を合して世に闊歩せんとするも之が為めなり、神を信ずる義者の眼より視て、覇者と財奴との如く憐むべき者あるなしと。
 此黙示に接して預言者の疑団は朝暾の前に横はる雲霧の如くに散じ、深思は変じて放歌となり、彼は今は掠奪を被りし弱国と弱者とに代り、茲に数篇の諷刺の歌を作り、暴虐の国と君と人とを嘲りて曰く
 
       諷刺歌第一
   己に属せざる物を積累ぬる者は禍なるかな、
   斯くて汝は何れの時にまで及ばんと欲ふや、
   嗟、負債を己が身に累ぬる者よ、
   汝より之を要求むる者興らざらんや、
   汝を悩ます者出でざらんや、
   汝は彼等に掠められざらんや、
   汝衆多の民を掠めたり、
   残余の民は汝を掠めん、
(475)   汝が人の血を流し、地を荒らし、
   邑と其|住人《すめるひと》とを掠めし故に因て。
                    (六節より十節迄)
 「復讐の法」は人の道にあらずと雖も天が自から悪人を罰し給ふ時の道なり、掠めし者は掠めらる、其強国なると寵臣なるとに関はらず、〇不義を行ふは己が身に負債を累ぬるなり、斯かる者は何時か、何人かに由て其返済を要求さるべし、カルデヤもアッシリヤも、ロマも此要求に会へり、英国も露国も亦之に会はん、如何なる国も如何なる人も此天則の支配の外に立つ能はず、感謝すべきかな。
 預言者は亦彼の信仰より出たる責罵嘲弄の歌を継けて曰く
 
      諷刺歌第二
   災禍の手を免れんがために高処に巣を構へ、
   己の家に不義の利を取る者は裾なるかな、
   汝は利益を計りて返て己が家に恥辱《はぢ》を来らせ、
   衆多の民を滅して自から罪を取れり、
                      (九、十節)
 不義の利を取りながら災禍の己が身に及ばざらんことを慮り墻を堅くし、楼を築き、以て自から安全なりと信ず、然れども彼等は自己に利益を計りて返て其家に耻辱と滅亡とを積みたり、人の目より見て彼等は幸福なり、(476)成功なり、然れども神と彼を信ずる者との目より視て彼等は不幸なり、大失敗なり、壊敗は既に其門前に迫り来れり。
 
       諷刺歌第三
   血を以て邑《まち》を建て、悪を以て城を築く者は禍なるかな、
   諸民は火のために労し諸族は空事のために疲かる、
   是れ万軍のヱホバより出るにあらずや、
   然れどもヱホバの栄光を認むるの知識は地上に充ち、
   宛然水の海底を掩ふが如くなるに至らん。
               (十二、十三、十四節)
 世の残虐の主は諸民を使役し、諸族を徴発し、其血を以て邑を建て、威圧を以て城を築く、然れども彼等は彼等の経営のヱホバの憤怒に触れ火を以て焼かれて終に空乏に帰するものなるを知らず、悪人の事業の敗滅に終るは是れヱホバの聖旨より出るなり、ヱホバに一つの聖なる目的在て存す 彼は終に其正義の王国を地上に建設し給ふべし、其時ヱホバの栄光を認むるの知識は全地に充ちて宛然水が海底を掩ふが如きに至るべし、其時醜類を留むるの余地、全地にあるなし、彼等と彼等の事業とは煙と化して地上より絶たるべし。
 
       諷刺歌第四
(477)   其隣人に酒を勧め、
   己が悪意を和《まじ》へて之に酔はしめ、
   其陋態を見て喜ぶ者は禍なるかな、
   汝は栄誉に飽かずして羞耻に飽けり、
   汝もまた酔ふて陋態を露はせよ、
   ヱホバの右の手の杯、汝に巡り来るべし、
   汝は汚なき物を吐て栄誉を掩はん、
   レバノンに為せし汝の強暴は汝に報ひ来り、
   其獣類の殲滅は汝を懼れしめん、
    汝が人の血を流し、地を荒らし、
    邑と其住人とを掠めし故を以て。
                (十五、十六、十七節)
 残虐の人は英国王なると富豪なるとに係はらず悪魔なり、酒は彼が愚民翻弄の時に用ゆる唯一の玩具なり、酒なくして彼は民を欺く能はず、彼は好意と称し実は悪意を酒杯に混和して之を人に勧む、而して彼等が之を飲んで酔ふて陋態を露はすを見て甚だ喜ぶ、彼は斯くして羞耻の上に羞恥を累ね、栄誉に飽かずして羞恥に飽けり、然れども酒を以て人を誘ひし者は酒を以て滅ぶべし、彼の得意時代の祝杯は失意時代の自暴酒となりて終るべし、「ヱホバの右の手の杯」は忿怒の杯なり、彼れ誘惑者は竟に之を飲まざるを得ざるに至らん、之を飲んで酔ひ、(478)酔ふて豚の如くに其食ひしものを吐いて彼の身に残りし些少の栄誉を掩はん、彼は戯れにレバノンの香柏を倒し、天然の美を害ふて快を取れり、亦其獣を殲滅して功に誇れり、故に彼は亦山林濫伐と動物虐待のためにも罰せらるべし。
 
       諷刺歌第五
   彫刻師の刻たる雕像は何の益にあらずや、
   鋳像《しゆざう》及び虚を告ぐる者は、之を作りし者の依り頼む所たるも、
   何の益あらんや、彼等は語《ものい》はぬ偶像にあらむや、
   木にむかひて興きませと言ひ、
   語はぬ石に向ひて起ち給へと云ふ者は禍なるかな、
   是れ豈に教誨《おしへ》をなさんや、
   是れは金銀を着せたる者にして気息其中にあるなし、
   然りと雖もヱホバは其聖殿に在せり、
   全地は其前に静粛《しづか》にすべし。
 偶像を卑めてヱホバの神を崇めし言辞なり、預言者当時の偶像は凡て此の如き者なりしならん、然れども偶像とは必しも金銀木石を以て作りし物のみを謂ふに非ず、凡て神なちざる者にして神の特性を帰せられし者は偶像なり、富も偶像たり得べし、功名も偶像たり得べし、カルデヤ王ネブカドネザルは己れ人なるに神なりと称して(479)民の敬崇を要めしが故に、自から偶像となりてヱホバの忿怒を身に招けり、羅馬に帝王崇拝は行はれて生きたる偶像は世に顕はれたり、然れども偶像は偶像にして神にあらず、彼の身は金色燦爛たるも彼は朽つべき罪の人にして神にあらず、威力は人を神となす能はず、人の是を拝すると拝せざるとは我儕の関する所に非ず、神は一なり、彼は其聖殿に在す、彼は聖徒の心に宿り給ふ、亦地を其足台となし天を其|座位《みくら》となし給ふ、世界の人は其前に端座して彼をのみ神として崇め奉るべし。
       *     *     *     *
 大なる信仰の歌なるかな、我儕は之を聞て喜ばん、そは是れ神の言辞にして事実となりて速かに世に顕はるべければ也。 〔以上、12・17〕
 
    (哈巴谷書第三章)
 
 預言者は人生に関する大疑惑を懐いて彼の祈祷台に昇れり、而して其処に神よりの解答を得て、歓喜の余り、彼は嘲笑を以て世に対せり、彼は富者の愚を笑へり、権者の陋を憫みたり、彼は神の公義の必ず世に行はるべきを知て、富貴の決して恐るに足る者ならざるを識れり、彼は冷眼以て世の変動を静視し得るに至れり。
 然れども預言者は感情の人なり、彼れ惟り祈祷台の上に立ち、神と偕に在りて世を下瞰しつゝありし間は、神怒の之に臨むを視て返て欣然たりしと雖も、然れども再び凡界に降り来り、身を塵寰に置くに及んで、彼は世の風雲を冷視せんと欲するも得ず、衆と共に惶れ、世と共に憂ふるに至れり、哲学的静思は今は人情的恐懼と変じ、彼は神の裁判に接せんとしつゝある彼の国人に代り神に一篇の祈祷の歌を捧げざるを得ざるに至れり 「シギヨ(480)ノテの譜に合せて歌へる預言者ハヾククの歌」(第三章一節)なるもの即ち是なり、其楽譜の如何なるものなりしか今日之を知るに由なし。
   ヱホバよ、我れ汝の宣ふ所を聞て懼る、
   ヱホバよ、此諸の年の間に汝の聖業を活動かせ給へ、
   此諸の年の間に汝の聖業を顕現《あらは》し給へ、
   汝の震怒の時にも憐憫を忘れ給ふ勿れ。
                (第三章第一節)
 神の裁判は近づけり、我は之を聞て懼る、然れども神よ、此無意味なるが如くに見ゆる今の時に方て(「諸の年」の意義は蓋し是ならん)汝の聖業を活働かせ給へ、人は皆な宇宙に神なしと云ひ、万物は皆な物質の法則に循ふものなりと称して、時事の変動の中に一定の意志の働くあるを認めざれば、茲処に再び昔時に於けるが如き汝の奇しき偉業を顕現はし給ひて人類に天に神在ることを知らしめ給へ、然れども汝、地上に汝の裁判を行ひ給ふ時に、悪人に対する汝の震怒の故を以て無辜の良民に対する汝の憐憫を忘れ給ふ勿れ、汝、悪を憎み給ふ熱心の余り、悪と共に善を殄《つく》し給ふ勿れ。
   三、神、テマンより来り、聖者《きよきもの》バランの山より臨み給ふ、
   四、其栄光諸方を蔽ひ、其讃美、世界に※[行人偏+扁]し、
     其光輝は日の如く、光線其側より出づ、
      彼処《かしこ》はその権能の隠るゝ所なり。
(481)   五、疫病其前に行き、熱病其足下より出づ、
   六、彼れ立ちて地震ひ、環視《みまは》して万国戦慄く、
     永久の山は崩れ、常盤の丘は陥いる、
      是れ昔より彼の取り給ふ道なり。
   七、我観るにクシヤンの天幕は艱難《なやみ》に罹り、ミデアンの地の幃幕は震ふ、
   八、ヱホバよ、汝は馬を駆り、勝利の車に乗り給ふ、
     是れ丘に向ひ怒り給ふなるか、河に向ひて汝の忿怒を発し給ふなるか。
     或は海に向ひて汝の憤恨《いきどほり》を洩し給ふなるか。
   九、汝の弓は全く嚢を出たり、……………………………
     汝は地を裂きて河となし給ふ、(十) 山々汝を見て震ふ、
     洪水溢れ渉り、深淵声を出して其手を高く拳ぐ、
  十一、汝の奔る矢の光の為に、汝の電光《いなびかり》の如く閃く鎗のために、
     日月その住処《すまひどころ》に立止《たちとゞ》まる。
  十二、汝は憤りて地を行巡り、怒りて国民を踏みつけ給ふ、
  十三、汝は汝の民を救はんとて出来り、汝の受膏者《あぶらうけるもの》を救はんとて臨み給ふ、
     汝は悪者《あしきもの》の家の頭を砕き、其石礎を頸《うなじ》まで露はし給へり、
  十四、汝は汝の鎗を以て其勇者の首《かしら》を刺し給へり、
(482)     彼等は我等を砕かんとて大風の如くに来れり、
      彼等は貧者を密かに呑滅すを以て楽《たのしみ》とす、
  十五、汝は汝の馬に乗りて海を通り給へり、大海ために泡立り。
             (第三章第三節ヨリ第十五節マデ)
 神は来り給へり、地を鞫かんがために臨み給へり、彼の来るやユダヤ国の南方、テマン、バランの沙漠の地に起る旋風の如し、砂塵は挙つて雲を作し、雷霆時に亦之に伴ふ(三節) 其栄光は諸方を蔽ひ、其讃美は世界に※[行人偏+扁]し、其光輝は太陽にr《ひと》し、光線は其傍より出づ、然かも其形像を顕はし給はず、只知る、其権能の風雲の中に隠るゝを(第四節) 〇彼、世の罪悪を憤りて地に臨み給ふや、疫病其前に行き、熱病其足下に出づ、陣営に在て瘴熱に死する者幾千、露営に在て疫癘に斃るゝ者幾万、剣に死するのみならず、疾病《やまひ》に斃る、天然は人類の敵となりて、同胞相屠る者を殺す、(第五節) 〇彼れ立ち給へば全地震ひ、彼れ環視し給へば万国戦慄く、突喊の声に永久の山は崩れ、剣戟の響に常盤の丘は陥る、人は曰ふ、是れ神の怒るに非ず、人の怒るなりと、然れども我は曰ふ、万国の平和の破るゝは神が人心より其平和を奪ひ給ふ時にありと、神を畏れ彼を敬みて人に寛容の心存し、宥恕の念厚し、神は其聖霊を以て人の心を制しつゝあり、彼れ其霊を取り去り給ふ時に良心の羈束は絶へて人は直に人の敵となり、魔鬼の如き者となりて、戦を宣し、砲火を交へ、人々相屠て堪へ難き心中憤怒の焔を熄さんとす、故にダビデは神に祈て言へり、「汝の聖霊を我より取り給ふ勿れ」と(詩篇五十一篇十一節)(第六節)〇「是れ古昔より彼の取り給ふ道なり」、是れ古昔より今日に至るまで神が国民の罪悪を罰し給ふの途なり、神は罰すべき者をば必ず赦すことをせず(民数紀略十四章十八節)、民衆、罪を犯して永く之を改めずんば神は之を処決するに一定(483)の方法を以てし給ふ、「是れ古昔より神の取り給ふ途ならずや、」歴史は大文字を以て書かれたる倫理書なりと云ふ、耳ありて聞く者は聴くべし(第六節)。
 旋風南方に起り、神怒黒雲の中に顕はる、忽ち観るクシヤンの天幕は襲はれミデアンの地の幃幕は震ふと、クシヤン、ミデアン共にシナイ半島遊牧の民なり、災禍の彼等に及ぶと云ふは旋風の南方に起りしと云ふより聯想して起りし仮想にして、必しも歴史的事実として見るべからざる乎、(第七節)。〇第八節より十五節に至るまではヱホバを戦士に譬へて言ふなり、旋風を駆り砂雲に乗りて臨み給ひし神は弓を灣き剣を揮ふて起ち給へり、而して彼の起ち給ふは彼の民を救はんためなり、彼の撰択を蒙りし者(受膏者)を助けんためなり、(第十三節)貪欲の富者に呑滅せられんとする貧者を扶けんがためなり(第十四節)、擾乱の真義は常に茲に在り、公義の平衡を失ひし社会を其原状に復さんためなり、神は人に非ず、而かも彼に烈士の義憤あり、潔士の熱情あり、彼は無辜の良民の永遠に踏みつけらるゝを允し給はず、彼は怒ること遅し、然れども彼れ怒る時には深淵は声を出して其手を挙げ(九節)、大海ために泡立つ(第十五節)、是れ勿論形容の辞なり、然れども其意義は解し難からず。〇篇中、所々に難解の句あり、第九節の一部の如き、第十三節の「石礎《いしずえ》を頸《うなじ》まで露はす」云々の如き、今日其何を意味するの言なるやを識る能はず、然れども全篇大躰の意義は誤認すべきに非ず。
  十六、我れ聞きて腸を絶つ、我が唇其声に由て震ふ、
     腐朽《くされ》、我骨に入り、我下体|慄《わなゝ》く、
     そは我れ患難の日の来るを待てばなり、
     其時には即ち此民に攻寄る者ありて之に押逼らん。
(484)  十七、其時には無花果樹は花咲かず、葡萄樹には果ならず、橄欖樹の産は空くなり、田圃は食糧を出さず、圏《おり》には羊絶え、小屋には牛なかるべし、
  十八、然りながら我はヱホバに由りて楽み、我が拯救の神に由りて喜ばん  十九、主ヱホバは我力なり、我が足を鹿の如くならしめ、我をして我が高き処を歩ましめ給ふべし。
 災変は到らんとす、擾乱は臨まんとす、神の大なる裁判は国民の上に落来らんとす、我れ其前兆を見て懼る、其預言を聞て震ふ、恐怖我が身に入て我が骨は溶けんとす、震動我体を襲ふて我下躰は慄く、我は我が国民の罪悪を知る、故に大なる患難の日の必ず我等の上に来るを知る、我は災変切迫の日の遠からざるを知る、(第十六節)。
 其時には我の果園は荒されて無花果樹は花咲かず、葡萄樹は実らず、橄欖樹の産たる膏油は空しかるべし、田圃は穀を出さず、牧場に畜類絶えて、我は空乏の瀕に迫らん、然れども万物我が手より総て取去らるゝ時に我に尚ほ頼むべき者存す、ヱホバは我歓喜なり、我拯救なり、我が力なり、彼れ我と偕にあり給へば、産を失ひ貧に逼るも我は失望の重荷の下に圧せられずして、我が足は軽くして鹿の如くになり、高きを望み貴きを想ひ、鹿の自由に山間絶壁の高所を飛行するが如く、我も希望の翼に乗じて歓喜の空中に翔飛せんと。(十七、十八、十九節)。
 大疑惑を以て始りし此書は大満足を以て終れり、預言者は暗雲の彼の国民の上に迫り来るを観たり、彼は国民のために之を歎ぜり、彼は来るべき災変の危害を予想して全身為めに朽果てんとするの感を起せり、彼は為に彼の蒙るべき損害を覚悟せり、然れども彼は為めに落胆せざりし、彼はヱホバの神を頼めり、故に彼は世の希望な(485)き他の人の如く(テサロニカ前書四章十三節)憂戚《なげ》かざりき、彼には世の奪ふこと能はざる或者在て存せり、田園の産は彼より奪ひ去らるゝことあるも、彼の産業なるヱホバの神を彼より奪ひ去る者あるなし、否、彼は災害に遭ふて返て彼の福祉を認むるに至らん、彼の衷に在る光明は世の暗黒に遭て益々其光耀を増さん。
 然り、災害は罪を悔ひざる者に取てのみ禍なり、静かに神に頼る者は永久の山は崩るとも、常盤の岡は陥るとも何の虞るゝ所なし、世は其時に泣き喊ばん、然れども、其時我儕は新しき歌を作り「伶長《うたのかみ》をして之を琴に合はして歌はしめん」(第十九節)。 〔以上、明治37・1・21〕
 
(486)     永遠の刑罰と永生
                     明治36年11月19日
                     『聖書之研究』46号「問答」
                     署名 内村鑑三
 
問、来世は在ると致しまして、人は何人も之に入ることの出来る者であります乎。
答、夫れは至て困難い問題でありまして、私も未だ其事に就て確信に達したとは申上げられません、聖書にも此事はハツキリとは示して無いやうであります、以西結書十八章の四節に罪を犯せる霊魂は死ぬべしとあるのを見ますれば、聖書は悪人の絶滅を示すやうにも見えますが、又馬太伝廿五章の四十六節にあるキリストの言に此等の者(即ち不義を行ふ者)は窮なき刑罰に入り、義者は窮りなき生命に入るべしとあるのを見ますれば、義者も不義者も其永存の一事に於ては同じことであるやうにも見えます。
問、然れば人が来世の恩恵を受くると受けないとは何に由て別れるのでありますか。
答、其事に就ては基督教は明白なる答案を有て居ります、悪人は死すると同時に空亡に皈する者である乎、或は其存在を続けて永久の刑罰を受くる者である乎、其解決に就ては私共は聖書の明白なる証明を有たないと致しました所が、悪人が来世に入ても生命らしき生命を享くる事の出来ないこと、義人には必ず来世の報賞《むくひ》があつて、彼が現世に於て享くることの出未なかつた勝利の冕を神の天国に於て戴くことの出来る事に就ては聖書の証言に少しも曖昧なる所はありません、悪人の望み得べきものは絶滅でなければ永久の刑罰であり(487)ます、二者孰れに致しましても、彼の最後は闇黒であります、絶望であります、神の道に従はない者には未来永劫まで待つても好き事の来りやう筈はありません。
間、然かし若し悪人に来世がないと致しますれば彼は返て幸福なる者ではありません乎、滅絶は返て彼の望む所でありまして、彼に此希望、即ち滅絶の希望があるが故に彼は彼の罪悪を継けるのではありません乎。
答、爾うであります、爾うでありまするから悪人の死後の状態に就ては之を不明に附してあるのであるかも知れません、滅絶か、永久の刑罰か、恩恵に富み給ふ在天の父の心より推し量りますれば彼は如何なる悪人と雖も之に永久の刑罰を加ふるに忍び給はない乎も知れません、実に「悪人滅絶」の信仰は神を愛と見て起つた信仰であります、然しながら神は愛のみではありません、彼は亦正義であります、然かり、神の愛は正義の上に建つ愛であります、爾うして若し正義が正義である以上は、神が若し悪人を永久に罰し給ふと致しましても、彼は決して或る人の言ふやうな不人情の神ではありません、人は生れながらにして彼の衷に永久に継続すべき霊性のあることを知つて居ります、爾うして彼が罪を犯す時に彼は彼が己の本性に戻ることを為しつゝあることを知つて居ります、罪は決して小事ではありません、罪は単に不利益ではありません、亦弱点でもありません、罪は人に取ての最大事件であります、神の威厳を犯すことであります、自己《おのれ》の霊性を汚して之に致命傷を負はせることであります、吾等が悪事と知りつゝ悪事を就す時に、かの一種言ふべからざる恥辱と絶望の念とを感ずるのは何が故でありませう乎、是れ即ち吾等が其時に吾等の受くべき大特権を放棄したことを自覚するからではありません乎、悪人の最後は滅絶であるかも知れません、然しながら是れ多くの人が希ふやうな苦痛なき眠るが如き滅絶でないこと丈けは吾等の良心に問ふて見ましても、亦神の聖書(488)に照して見ましても(馬太伝十三章四十一、二節等参考)明白であると信じます、滅絶と云ひ、永久の刑罰と云ひ詰る所は同じであります、神の聖前より遂はれることであります、達し得べき天国の栄光を示されて之に達し得ない非常の苦痛を感ずることであります、若し罪に此刑罰が附随して居りませんならば罪は罪でなくして神は神でありません、罪の義罰を思考《かんがへ》の外に置いて神の愛を悟らんと欲ふ者は終に神の愛を悟り得ない者であります。問、爾うなれば貴下も矢張り来世に於ける悪人の滅絶《アナイヒレーション》を信じられるのであります乎。
答、爾うであります、若し私が悪人の滅絶を信じますれば、夫れは刑罰としての滅絶を信ずるのであります、爾うして刑罰としての滅絶は滅絶の苦痛を感じない滅絶ではありません、即ち仏教で言ふ涅槃の如きものではありません、神の聖憤の顕実であります、即ち永久に存在すべき性を備へられたる者が神の義罰を申渡されて死刑に処せられることであります。
問、私は如何しても恩恵ある神が縦令罪人なればとて彼に斯かる厳罰を当て給ふとは信ぜられません。
答、左様、若し神が斯かる厳罰より免かるゝの途を吾等のために備へて置いて下さらなかつたならば、吾等は神の愛を信ずる事が出来ないかも知れません、然しながら罪とは斯くも怕るべきものでありますればこそ、神はキリストに於て非常の恩恵を顕はし給ふたのであります。如此我靜主の畏るべきを知るが故に人に勧むとパウロは曰ひました(哥林多後書五の十一)、福音の福音たる所以は我儕を斯かる厳罰より救ふて呉れるからであります、罪の罪たること、即ち其生ける霊魂より永久の生命を奪ふて之を神の厳罰に附《わた》す者であることを知らない者にはキリストの福音は左程に有難い福音ではありません、福音の有難さは罪の怕しさと同比(489)例に増すものであります。
問、私にはドウモ貴下のやうに罪をサウ痛酷に考へることは出来ません、貴下は人に神の恩恵を成るべく深く悟らせんがために罪なるものを出来る丈け黒く画かんと努められるやうに思はれますが、いかゞですか。
答、私は爾うは思ひません、斯う云ふ私さへ罪の怕しさを感じやうが足りないと思ひます、爾うして罪の怕しさを充分に知らふと欲へば正義の美しさを充分に悟らなければなりません、闇黒は光明に対してのみ充分に智覚することの出来るものであります、吾等罪悪の中に成長したる者には罪悪が習慣性となつて居まして、其実に実に憎むべきもの、怕るべきものなることが分りません、生命の何たる乎を知つて御覧なさい、死の怕さが分ります、爾うして生命の神のみが充分に生命の何たるかを御承知でありますから、彼は非常手段を尽して、即ち其愛子をまで此世に送つて、吾等を死より救ふの途を設けられたのであります。
問、然かし貴下はドウして神が基督に由て賜ふ生命の永久不滅のものであることを知りますか、聖書が其事に就て何と言はふとそれ丈けでは私共を満足させることは出来ません。
答、生命は生命の証明者であります、死物は生物の何たる乎を知りません、基督に於て顕はれたる永生に接して御覧なさい、貴下にも其永生なることが分かります、神の子を信ずる者は其裏に此証あり………神は窮なき生を以て我儕に賜ふ、此生は乃ち其子に在り、是れ其証なり(約翰第一書第五章十、十一節) 私が斯う白しますならば貴下は多分「独断」を以て私をお責めになりませう、然しながら若し此事に就て貴下が私より哲学的証明を御要求になりまするならば、私は貴下をカントの哲学書に御紹介申より他に途はありません、カントの系統を引いて居る独逸の神学者ボベルミンと云ふ人が其近頃著したる「基督教信仰論」に於て述べ(490)た言は此問題に対する私共の最終の答弁であります。
  信仰は科学的又は哲学的証明の上に立つ者に非ず、信仰の基礎は神の自顕にあり、信仰はたゞ信ぜざるを得ざるのみ。
信仰は迷信ではありません、然しながら科学的証明を要するものではありません、宗教的信仰は神より賜はる霊的生命の活動でありまして、之ありて其主動者なる生命の在るのを吾等は確認するのであります。
問、爾う致しますると此生命を身に受けない者は之に就て何にも知ることが出来ないのでありますか。
答、爾うとは限りません、神の子をもつ者は生を有ち、その子を有たざる者は生を有たずと聖書に書いてあります通り、キリストを心の中に有たない者は永生の何たる乎に就て自から実験することは出来ません、然しながら若し其人に公平なる観察眼がありますれば彼は此新生命の他人に於て働く其結果を目撃することが出来ます、樹は其実を以て知らると申します、樹の生命其物を知ることは出来ませんが、其結ぶ果に由て、其樹が生きて居るのであつて、死んで居るのでなく、亦善い樹である乎、悪い樹であるかゞ分かります、永生も亦之を受けし者の行動《はたらき》に由て、其在る耶、無き耶、又如何なるものである乎を稍や判断することが出来ます。
問、其永生の実とは何んなものでありますか。
答、是を実と称ふ乎、又は近世の生物学の術語を藉りて「生命の兆候」と云うても宜からふと思ひます、爾うして其何たる乎は加拉太書六章廿二節以下に記してありまするパウロの言に能く尽してあると思ひます。
  霊の結ぶ所の果は仁愛、喜楽、平和、忍耐、慈悲、良善、忠信、温柔、遵節。
(491)是であります、爾うして是れは何にも信者が努めて為すものではありません、若し爾うならば、それは生命ではなくして、世に謂ふ所の道徳であります、生命の結ぶ果でありますから、是れは自然と努めざるに出て来べきものであります、爾うして是等の諸徳が水の泉より湧き出づるやうに信者より流れ出でまする時に私共は英人の中に神より来る生命が宿つたことを覚るのであります、此大問題に関する其余の御質問は他日に譲て戴きたいものでござります、今日は之にて御免を蒙ります、サヨナラ
 
(492)     余の愛する秋の花
                     明治36年11月19日
                     『聖書之研究』46号「家庭」
                     署名 内村生
 
 余は余の愛する春の花としてをだまきを紹介した、余は今茲に余の愛する秋の花を紹介しやうと欲ふ。
 春の花は推並て女性的である、其全体に露気多きこと、其色の変り易きこと、其構造の凡て繊弱《たをやか》にして触《さは》れば消えんとする風情あることは春の花の特質であつて、彼等が女性界の代表者たる訳である、爾うして余のをだまきは斯かる婦人である、謙遜で、柔和で、質素で、日向を避けて露けき蔭を好み、下方《した》を向いて自己の不足を耻るの状態がある、詩人バーンスの「ハイランド、メリー」は多分をだまきのやうな婦人であつたであらう。
 春の花に引き比べて秋の花は推並て男性的である、秋の先駆なる桔梗を始めとして、菊、薊に至るまで、其色の容易に衰へざること、其花に一種の鉱物的光沢ありて、其香の峻厳なること、其葉の概ね硬くして粗色なること、一つとして男性的ならざるはない、爾うして秋の花に於て尊い所は此男性の発顕であるから、余の理想の秋の花は善く此特性を発揮した者でなくてはならない。
 勿論その桔梗や、かるかやは余の理想ではない、薄も薊も野人であつて、其平民的である所だけは敬すべきであるが、然りとて余りに平凡的で、他の花がまだ咲いて居る間に我れ見よがしに咲き乱れて居る所は別に貴ぶべきではない。然らば山茶花かと云ふに、彼は秋の桜であつて、余りに華美で浮気である、然らば必らず菊ならん(493)と言ふであらうが、然かし余が菊を畏れて彼を親愛せざることは春の時に於て既に述べた通りである、菊に威厳がある、彼は金にあらざれば銀である、彼は錦を衣て強き香気を放つ、彼に手を触るれば罰せらるゝの恐怖がある、余は菊は之を遠くより見るを好む、彼は禁廷の裏に培養されて雲上の人達に賞でられる花であれば、我等貧者は我等の友を菊以外の花に於て択ばうと欲ふ。
 其他近頃は秋の花として舶来のコズモスがある、然し是れも余の愛する花といふことは出来ない、余は実に極く近頃までは余の親愛する秋の花を有たなんだ。
 然し近頃に至て余は幸にも之に見当つた、爾うして之を余に示して呉れた者は米国の天然詩人プライアントである、余は或日のこと彼の詩集を愛誦しつゝあつた時に余の眼はフト「紫竜胆に贈る」“To the Fringed Gentian”なる彼の短篇に触れた、余は之を一読した、再読した、三唱した、終には之を暗誦に附した、余は実に神が斯かる花を此世に送り給ふたことを感謝した、今茲に拙いながらプ氏の「紫竜胆」の余の意訳を掲げやう。
 
   汝、秋の露を以て輝く花よ、
   空天の色を以て彩飾れて、
   汝は皮膚にしみわたる寒き夜に、
   静かなる日が次いで来る時に開く。
   汝は菫菜花が小川と泉の辺に、
(494)   首を垂れる時に来らず、
   又|※[耕の井が婁]斗菜《おだまき》が紫衣《むらさき》を着て、
   巣烏の床に凭りかゝる時に開かず。
   汝は待つこと遅くして独り来る、
   林は枯れて鳥は飛び去り、
   霜と短き秋の日とが、
   冬の近きを告ぐる時に来る。
 
   其時汝の優さしき静かなる眼は、
   紫の袖を翳して空天を望む、
   其蒼きこと、恰かも蒼き空天が、
   其天井より花を落せしが如し。
 
   余は望む余も汝の如くに、
   死の期が余に近づく時に、
   希望は余の心の中に咲いて
(495)   世を逝りつゝも天を望まんことを。
 
 余が此詩を読んでから一ケ年の後であつた、晩秋の頃、平常の如く、筆硯の業を終へて後に野外の散歩を取りし時、甲武鉄道中野ステーションに近き楢林の中に於て余は計らずも枯葉の中に余の兼ねてより敬慕せる余の秋の友人なる紫竜胆に遭遇した、余は暫時の間、彼の成育の地に於て彼を見詰めた、余は余りに慕はしくして彼に手を触れ得なんだ、余は即坐にプライアントの言辞を原語のまゝにて唱へた、
   Blue−blue−as if that sky let fall,
   A flower from its cerulean wall.
   其蒼きこと恰かも蒼き空天が
   其天井より花を落せしが如し。
 余は彼と別るゝに忍び得なんだ、然し亦来ん秋を楽んで彼を林中に遺し去つた。
 其翌年の初冬の頃であつた、余は友人と共に伊豆の伊東に伝道に行いた、爾うして其帰途に海辺を添うて山路を熱海まで辿りし時に、大輪の紫竜胆が鮮かなる野薊と共に到る所に路傍に添うて咲いて居るのを見た、余は恰かも其時プライアントの小冊子を余のポケツトの中に運び居たれば、余は彼を手に取て幾度となく彼を賞讃せし詩人の金玉の辞を唱へた、伊豆の地は冬寒きも花の迹を絶たないとのことであるが、殊に紫竜胆の此繁栄は彼地の大名誉であると思ふ。
 紫竜胆! 彼が余の愛する秋の花である、山茶花ではない、菊ではない、彼等は余の死ぬ時には何の慰藉にも(496)ならない、彼等は現世の栄誉たるに止まる、彼等は天国の希望を供する者ではない、謙遜にして柔和なる春の花なるをだまきに対する堅忍不抜なる希望を伝ふる秋の花なる紫竜胆である、此雌雄ありて人生は悲哀ばかりではない、我等は彼等を友として喜びながら此涙の谷を通過《とほ》ることが出来る。
 
(497)     信仰と健康
                     明治36年11月19日
                     『聖書之研究』46号「講演」
                     署名 内村鑑三
 
 宗教は素々心の事でありますから之れを信じたればとて薬が利くやうに直に身体に利くべき筈のものではありません、勿論身体も霊魂と同じく神の造り給ふたものでありますから、霊魂を癒し給ふ神に身体を癒すことが出来ないといふ理由はありません、神は若し其御意に適へば如何なる疾病《やまひ》でも直に之を癒し給ふのは聖書の所々に記す所であります。
 然しながら今の時に方て神が直に身体の病気を医t給はないのは事実であります、是れは何にも神が此事を為し得ないからではありません、是れは神が是より以上の事を為し給はんがためであります、一時肉体の疾病を医されたればとて人間は必ず一度は死なゝくてはなりません、然し其霊魂を医さるれば彼は永久に生ることが出来ます、神は永久に人を救はんがために今の時に方ては滅多に奇跡を以て肉体の疾病を医し給ひません、肉体の医さるゝのを見るまでは神の存在を信じないなど云ふ人は其医さるゝのを見ても信じない人であります、神は心を以て見るにあらざれば信ずることの出来るものではありません、神は霊なれば之を拝する者は霊と真《まこと》を以てせざるべかちずと聖書に書いてあります。
 然れば宗教上の信仰は肉体の健康に何の関係もない乎と云ふに、それは決して爾うではありません、肉体と精(498)神との関係は極く緻密なる者でありますから、二者孰かゞ健康に復して他の者が其利益を受けない理由はありません、殊に精神は内であつて肉体は外でありますから、内が平癒つて外が健全なる感化を受けない筈はありません、今の時に方ては神が若し私共の肉体を医し給はんとすれば此方法を取らるゝに相違ありません、即ち直に外なる肉体を医し給はずして先づ内なる霊魂を医し、然る後に内より外を医し給ふに相違ありません、是れ実に根本的の平癒でありまして、斯く医されてこそ、疾病は返て私共の永久の利益となるのであります。
 夫れのみではありません、能く人間の疾病の源因を調べて見ますれば、之れは素々精神の不調和より出た者であります、人類全体が堕落に沈める今日と雖も若し茲に精神的に健全なる人があるとしますれば其人が身に受くる疾病は至て僅少であります、誰も黴毒病が道徳的疾病である事を疑ふ者はありません、爾うして黴毒より来る疾病の多いことは実に非常であります、種々なる神経病、眼病、皮膚病、胃病、虚弱症より来る肺病の多くは直接又は間接に黴毒病より来る者であります、若し黴毒の根を絶やすことが出来れば、文明人種の疾病の半分以上を絶やすことが出来ます、爾うして国民の精神を医さずして黴毒病を根絶することの艱難は誰でも能く知つて居ります、基督教が肉体の清潔を唱へる結果として黴毒病の蔓延を拒ぐ許りでも其衛生上の利益は実に非常なるものであると思ひます。
 然しながら何にも此道徳病にのみ限りません、心の治まらないために起る疾病は他にも沢山あります、何人も身体に対する憤怒の害を知つて居ります、憤怒は直に神経を突き、心臓を刺激し、血液循環の不同を来たし、消化作用を害し、それがために身体全部を不調に陥《おとしい》らしむるものであることは誰でも能く知る所であります、或る心理学者は申します、憤怒は身体に或る一種の毒素を分泌せしめ、それが為に斯る害毒を全身に及ぼすのであると、(499)多分爾うでありませう、何れにしろ憤怒の健康に害のあることは能く解つて居ります、虚弱なる人には憤怒は直に発熱を生じ、それがために既発の疾病の増進を促がすことは度々あります、肉体の健康のために平静なる精神の如くに有益なる者はありません、怨恨なく不平なく、常に歓喜の念に溢るゝ者は其肉体は病むと雖も、病苦を多く感じない者であります、欲しきものは心の平和であります、是れがあれば健康の第一の要素を得たのであります、心の快楽は良薬なり、霊魂の憂愁は骨を枯らす(箴言十七の廿二)、是れは何人も経験する事実であります。
 又生活の心配が幾多の疾病の源因と成つて居る事、其事も能く分つて居ます、餓死するの心配、競争に負けて破産するの心配、災難に遭ふて路頭に迷ふの心配、是等の心配が幾多の神経病と胃病と心臓病との原因と成つて居る事は医者の診察を待たずして明かであります。
 大抵の人は憂世に捨られたる棄児のやうな心持をして渡世して居ります、彼等は天に愛なる父様が在《お》られて、一羽の雀さへ其許可なくして地に陥ちない事を知りません、彼等は衣食の事は人たる者の苦慮すべき問題でないことを知りません、彼等は人類は「王の子」であつて、衣食以上の問題に彼等の全力を注ぐべき特権を有つ者であることを覚りません、衣食のために思ひ煩ふことは万物の霊長たる人たる者の本能に戻ることでありまして、其結果として彼の肉体にも大なる錯乱を生じ、多くの疾病を惹起すに至ります。
 信仰は直ちに身体の疾病を癒しません、然しながら直に心の錯乱を治す者でありますから、それがために竟には身体までが健康になるのであります。信仰は第一に心の統一を来たします、神を信ぜざる者は自家撞着の人であります、彼の右と左とは一致しません、彼の情と道理とは常に相争つて居ます、彼は為してはならないと信ずる事を為して居ます、為すべきことを為し得ません、彼は主義を持ても之を実行し得ません、彼は常に薄志弱行(500)を以て自身《みづから》を責めて居ます、彼は聖書に所謂る「相争ふ家」であります、彼の敵は実は他人ではありません、彼自身であります、斯くも内心に於て相離乖する彼の身に真個の健康なるものゝありやう筈はありません、彼は内心の分離のために日夜苦悶する者であります。
 然るに信仰に由て此分離は癒され、調和は人の心に臨みます、彼の目的は今は一つになります、今は主義と利益とは彼の衷に在て相鬩ぎません、彼に彼の理想を断行するの勇気が与へられまして、彼は今は実行の人となります、彼の情は潔められまして、彼は今は想ふべからざることを想はないやうになります、信仰は直に財産を作りません、又身体を丈夫に致しません、然し信仰は心の諸《すべて》の機能を統一します、爾うして内心の統一は新希望を生じ、果断勇行となつて外に彰はれます、憂鬱の人が神を信ずるに由て快闊の人となるのは全く是がためであります、因循姑息の人が基督教を信ずるに由て直に開発主義の人となりまするのも全く是がためであります、宇宙的観念を抱くとか、天然と交はるとか云ふことは心の中に苦悶を懐いて常に不平に堪へない者の到底為すことの出来ることではありません、衷に縛られ、心の中に常に内乱を宿して、進取も開発もあつたものではありません、信仰のない志士とか論客とかいふ者は不平家であります、心に平和なきが故に常に生血に欠乏して、室内に蟄居して蒼白《あをざめ》たる顔色と窪みたる眼球とを以て世界の万事に就て常に不懣を述立る者であります。
 信仰は第二に神に頼る心であります、爾うして頼る心は受くる心であります、我等は人と社会に対しては主動的でなければなりませんが、絶対的実在者なる神に対しては受動的たるより外の態度に出ることは出来ません、然るに信仰のない人は此受動的態度に立つことを知らない人であります、彼等はたゞ社会より要求さるゝのみでありまして、之に応ずるための能力を得る途を知りません、神を知らない者は彼が自己《おのれ》の裡に蓄へたる僅少《わづか》許り(501)の能力の外、同胞に頒つための慰藉の材料を有ちません、爾うして社会の要求は日々に益々多きを加へますが故に、彼は終に之に応じ得なくなりまして、其結果厭世猜忌の人となります、実力以上の責任を要求せられること程辛らい事はありません、然しながら神を知らない人の生涯は凡て此辛らい生涯であります、彼は義務責任の要求を以て彼の国家に責められます、彼の父母兄弟に責められます、爾うして彼は之に応ずるために弱き彼の衷に貯へたる僅少許りの能力を有つのみであります、無限の要求に応ぜんがために有限の能力を以てすることでありますれば彼は厭世家たらんと欲せざるも得ません。
 然るに信仰は我等に新たなる宝物の山を開いて呉れます、人の人たる特権は直に宇宙の主宰なる神に接して、彼より直に能力を獲ることの出来ることであります、人といふ人は其国人なると、骨肉なるとに係はらず、只獲るを知て与ふることを知らない者でありまするが、神は之とは正反対で、与ふるを知て獲ることを知らない者であります、神は我儕に万物を賜ふ者でありまして、我儕は神に何物をも捧ぐることは出来ません、神の好み給ふものはたゞ我儕の砕けたる、小児の如き神に依り頼む心であります、爾うして若し此心を以で神に近づきますれば神は我儕の願求する総の佳き物を我儕に与へて下さります、爾うして父なる神の此恩寵に浴して我儕は人より如何ほど無慈悲の要求を受けましても、喜んで凡て之に応ずることが出来ます、茲に於てか私共は無尽蔵を背後《うしろ》に控へたる富豪《かねもち》の子輩《こども》のやうな者となりまして、或は滾々として湧出て歇まざる泉を水源として有つ鉄管の如き者となりまして、人に汲まるれば汲まれるほど愛と好意と同情との清水を何の苦情をも唱へずして悦んで供給することが出来るやうになります、神に頼らずして此無慈悲なる世を渡ることは実に辛らいことでありますが、然かし神を信じて之に対しますれば此世は左程に辛らい所ではありません。
(502) 「基督信徒とは全智全能なる神を信ずる紳士である」(The Christian is God Almighty's gentleman)と云ふ言がありまするが、神を真誠に信ずるの結果が人に紳士的態度を供しますることは事実であります、彼は信仰に由て狡猾《せちがしこ》い性質を脱します、彼れは人を疑はなくなります、人の悪を思はずして、善を信ずるやうになります、彼は迫らない、憤らない人となりまして、煩雑を極むる此社会に立て平静の心を持続ることが出来るやうになります。
 爾うして斯かる心の状態《ありさま》は実に身躰の薬ではありません乎、如何なる医師でも彼の患者の総てが斯かる心の状態に居らん事を望まない者はありますまい、平康と云ひ、安寧と云ひ、総て長寿健全の源因となるものは此平かなる足りたる心の中に生ずるものであります、全智全能の神と交通を開かずして、此日々に進み行く複雑なる世に処せんとする者は終に世の忙殺し且つ冷殺する所となりまするのは分り切たることであります。
 信仰は第三に精神の活動でありまするから、之れを得て人は其の身の中心に於て新生命を得るに至ります、肉躰と精神とは名こそ違ひまするが、実は同一物の両面でほかありません、同一の生命が外に顕はれたるものが肉躰でありまして、内に凝つたるものが精神であります、爾うして神は生命の粋の粋なる者でありますから、人の上に働らき給ふ時に方ては直に人の精神に働らき給ひます、我儕人類は今は神を物質的の奇跡に於て認めんとは致しません、我儕は我儕の神に似たる所に於て、即ち我儕の精神に於て神に接し、彼より新なる生命と能力とを得んと致たしまする、爾うして神を此の所に求めまして、彼は決して有名無実のものでないことが分かります、彼は実に「我が顔の助」(詩篇四十二篇十一節)であります、彼は即ち我が衰へたる顔色に健康の血紅を漲らせる者であります、基督信者は神を単に霊魂の救主としてのみ認めません、神は亦肉躰の救主であります、神は霊魂を活かして終に死せる肉躰をも活かし給ふと云ふのが所謂る復活の教義であります、爾うして我儕は今此世に於て(503)肉躰を不朽ならしむる丈けの霊の能力を受けませんが、然し之に健康を与へ、其諸機官を活動せしむるに足る位ひの能力は確かに之を神より受けます、是れが乃ちパウロの所謂る「霊の資《かた》」(哥林多後書一の廿二)でありまして、我儕信者は此能力の少量を現世に於て感じまするが故に、来世に於て同一の能力の大量を受けて死せる肉躰をまで更生せしめられんことを望むのであります。
 此理由から考へて見まして、所謂る信仰治療なるものゝ決して理由のない事でないことが分かります、信仰治療も確かに疾病療法の一つであります、人の生命には肉躰的と霊的との両面がありますから、肉の病を治すに方ても肉的方面からばかり治療を加へたのでは足りません、人は霊である以上は霊に新生命を供することは肉を癒すの一つの方法であることは言を待ちません、近世医学の一大欠点は確かに此霊的方面を無視する事であります、
若し信仰のみを以て何れの疾病をも癒すことが出来ると言ひましたならばそれは確かに過言でありませうが、然し、空気と食物と薬と手術と丈けで霊的動物なる人間の疾病は総て直るものであると言ふ近世医学の前提も亦過言の譏を免かれません、現に医者が匙を投げた病人で精神の持ちやうで直つた者は幾人もあります、又西洋諸国に於いて不治患者と見做さるゝ者を信仰治療病院に収容して全癒に至たらしめた実例も沢山あります、医者も薬も勿論神が造られた者でありますから、之れを用ひたとて決して罪悪ではありませんが、然かし信仰の治療的効能を認めない者は未だ人間の構造を充分に究めた者とは云はれません。
 それでありますから私共伝道師は霊魂のためにのみ基督の救済の道を人に勧めません、私共は又彼の肉躰の健全に達せんがためにも之を勧めます、キリストの世に顕はれ給ふた後の今日に方ては人は何人も心の憂慮《うれい》を以て身躰を苦しめるの必要はありません、彼は先づ心の平安丈けなりとも充分に得ることが出来ます、彼は亦必しも(504)近世の医術にのみ依つて彼の身躰の健康を計るの要はありません、彼は高価なる診察料と薬価とを払ふことなしに天の霊気に接して新たなるエネルギーを心と身とに受くることが出来ます、往昔の予言者が叫んで曰ひし言辞は今に至るも真理であります。
  噫、汝等渇ける者よ、悉く水に来れ、金なきものも来るべし、汝等来りて買ひ、求めて食らへ、来れ、金なく価なくして葡萄酒と乳とを買へ、何故に糧にもあらぬ者のために金を出だし、飽くことを得ざる者のために労するや、我に聴従へ、然らば汝等|美物《よきもの》を食ふを得、脂をもて英|霊魂《たましい》を楽まするを得ん、耳を傾け我に来りて聞け、汝等の霊魂は活くべし(以賽亜書五十五章一節)
 キリストは又申されました。
  我が爾曹に日ひし言は霊なり、生命なり(ヨハネ伝六の六三)
 キリストの言は確かに肉躰をも活かすに足るの能力であります。
 
(505)     罪界の時事
                     明治36年11月19日
                     『聖書之研究』46号「雑録」
                     署名 角筈生
 
〇戦争は始まる乎も知れない、始まらない乎も知れない、然り、戦争は既に姶つて居る、今姶つたのではない、カインがアベルを殺した時に姶つたのである、人類は同胞相互を妬んで居る、憎んで居る、商うして兄弟を憎む者は兄弟を殺す者であると聖書に書いてある、神を畏れざる人類は剣を以て戦はざる前に其心に於ては業に既に相互を屠りつゝある、彼等が剣を抜いて同類を穀し、砲を放つて隣人を屠るのは此内心百鬼夜行の状態を外に顕はすまでのことである。
〇剣を以て捜しものは獲しものに非ずして盗みしものなり、而して盗みしものは終に亦他の奪ふ所となる、戦争は罪悪なるのみならず、愚策なり、若し物を得んと欲せば正直なる労働を以てすべし、剣と銃とを以てして強盗の所業に傚ふべからず、過去六千年間の人類の歴史は最も明白に此一事を示すにあらずや、然るに二十世紀の今日、尚ほ此歴史の教訓を覚る能はずして血を流してまでも、我意を張らんと欲す、嗚呼愚なるかな人類、彼等は未だ地を嗣ぐの術を知らざるなり。
〇世に基督教国なるものありと信ずる勿れ、地上未だ斯かる国あるなし、兵を蓄ふる国は基督教国にあらず、海に兵艦を浮べ、陸に砲車を引きながら我は基督教国なりと云ふ者は偽善国なり、而して斯かる国は英国なり、露(506)国なり、米国なり、独逸国なり、彼等何の面目ありて異教徒を教化せんとて宣教師を外国に送るや、「医者よ、自身《みづから》を医せ。」
〇「蝮の裔」とは学者とパリサイ人とのみにあらず、今の世に在て開戦論を唱へて耻とせざる基督教の教師、伝道師、牧師も亦是類なり、キリストは斯かる教法師に必らず告げて曰ひ給はん「斯かる者は磨石《ひきうす》をその頸に懸けられて海の深に沈められん方、なほ益なるべし」と(馬太伝十八章六節)。
(507)     〔聖誕節 他〕
                     明治36年12月17日
                     『聖書之研究』47号「所感」
                     署名なし
 
    聖誕節
 
 花は消え、鳥は去り、森は其衣を褫《は》がれて天然は裸躰となれり、唯見る夜毎に昴宿の剣を帯びて粛然として頭上に輝くを、是れ神の子が世に臨むの期節なり、世は冷淡を極め、心に虚飾絶え、只威力の我儕の頭上に剣を揮ふの時、キリストは我儕の心に臨み給ふ、今は救拯の時期なり、世界の人、心を静かにして彼を迎へよ。
 
    ベツレヘムの夕
 
 百万の貔貅辺塞を戍り、シーザーの宮殿に絃声高くして驍勇恩賞に誇りし時、神は其子をベツレヘムの丘上、牛羊、槽中に其食を探ぐる所に下し給ひて人類救済の途を開き給へり、革新の世に臨むや常に此の如し、世は挙て之を帝王と軍隊とに待ち望む時に、神は貧児を茅屋の下に降して、世に新紀元を開き給ふ、今や復たび革新の声高し、我儕をして東方の博士に傚ひ、我儕の救主を求めんが為めにロマに行かずしてベツレヘムに詣らしめよ。
 
(508)    槽中の嬰児
 
 千九百年前の往昔に在ては基督教の一切は槽中の嬰児に存せり、其時未だダンテの神曲あるなく、コロムウエルの英国あるなし、之を守るに唯マリヤの繊手とヨセフの堅忍とありしのみ、而かも神の植え給ひし木は成育ちてレバノンの香柏よりも高きに至れり、我儕、今の時に方り其一枝を此地に植えんと欲して何をか懼れん、今や全宇宙の我等の業を援くるあり、亦幾万の聖徒の我等の言を証するあり、我等にして若し此小暗塊を酵化し得ずんば後世は我等を評して何と言はん。
 
    嬰児を護れよ
 
 嬰児を護れよ、然り、ベツレヘムの嬰児を護れよ、彼を護るは自由を護るなり、彼れ斃れて自由あるなし、文士は筆を以て、富者は富を以て、智者は智を以て、勇者は勇を以て、此嬰児を護れよ、自由を憎む者は皆な彼を殺さんと欲す、暴虐の君主は剣を以て、阿世の学者は学を以て、貪婪の富者は富を以て幾度か彼を殺さんとせり、而して嬰児の生命を索る者は(馬太伝二章廿節)今尚ほ存す、嬰児を護れよ、然り、ベツレヘムの嬰児を護れよ。
 
    乱中の静謐
 
 国民は興り、国民は亡ぶ、戦闘の声は地の極にまで響きて其動揺甚太し、然れども我が霊は主に在て謐なり、我は聖書に由て世の始を知り、亦其終を識る、主は己れに属ける者を知り給ふ(提摩太後書二章十九節) 神が時(509)に天と地とを震ひ給ふは是れ震はるべき者の棄られて、震はれざる者の存らんため也(希伯来書十二章廿七節) 擾乱は撰抜なり、我儕は神に頼て動かざるべし。
 
    悲痛と歓喜
 
 我儕に悲痛あり、亦歓喜あり、悲痛は身の悲痛にして歓喜は霊の歓喜なり、.而して霊の歓喜の身の悲痛に較べて優かに広且大なるが故に我儕は歓喜の人にして悲痛の人にあらざるなり、キリストに在る我儕の歓喜は一切の悲痛を呑み得て余りあり、神は我儕の悲痛を減じ給はず、然れども我儕の歓喜を増して悲痛を無きが如きものと為さしめ給ふ。
 
    我の新宇宙
 
 キリストは我が諸凡《すべて》なり、彼は我が友人なり、我が兄弟なり、我が教会なり、我が国家なり、彼に在て我に何の不足あるなし、キリストは我が霊の宇宙なり、我れ彼と偕に十字架に釘けられて、我は斯世に死して彼に移されたり、我の思惟、我の企画、我の事業、我の生命は今や総て彼に在て存す、世は今日消失するとも、彼在すが故に我は失せじ、我れ彼に在て永生は我が有なるを識る。
 
    独立とキリスト
 
 独立を説く勿れ、キリストを説くべし、独立は惟り之を己の身に行て之を人に勧むる勿れ、重きを独立に置て(510)キリストに置かざれば独立も終に一派を樹つるに至らん、而して如斯くにして成りし独立教会は「日本基督」と称するが如き、「組合」、「美以」「監督」等と称するが如き教会と何の異なる所なきに至らん、我は真個の独立教会を建てんがために独立と教会とを説かずしてキリストを説かんかな。
       ――――――――――
 
    神の存在の確証
〇余は神は在ると信ずる、其最も確かなる証拠は余自身が存在することである、余は余の父母を透うして世に生れ来つた者であるが、然し余には余の父母が生むことの出来ないものがある、即ち余には余の霊魂がある、即ち独り断じて独り行ふ所の者がある、是れは余の父母とは何の関係もない者であつて、是れは直に神より出で来つた者である、是が即ち余自身であつて、余の人格である、余の肉躰の変遷と同時に変遷せざるもの、余の責任の存する所、余の不朽の部分、自我の中心点、余は斯かる玄妙なる者の余の衷に在るを知るが故に神の存在を信じて疑はないのである。
〇余は勿論神を会得することは出来ない、即ち神の全躰を窺ひ知ることは出来ない、然しながら此宇宙に在て余の知る最も高貴なる者は人間であつて、人間の中で最も高貴なる部分は彼の霊魂であるが故に、神は少くとも人間の霊魂の如き者でなくてはならない………………………、神は霊以上であるかも知れない、然しながら神は霊以下のものでない事丈けは明瞭である、結果は源因より大なることは出来ない、我が霊は宇宙万物の上に立つ者であるから、万物の綜合が如何に微妙を極むるとも我が霊を生むことは出来ない、霊のみが霊を生むことが出来(511)る、神のみが我が霊の父である、星雲も、大陽系も、直径八千哩の此地球も我が霊を生むためには何の能力をも有たない、我は我が霊に於ては宇宙以上であつて霊なる神の子供である。
○余は亦余の霊に鑑みて余の神の聖書に示すが如き神であることを知る、余の霊の性質の中で最も貴きものは愛である、余が余のために何の求むる所なきに至て余は始めて余の世界以上の者であることを覚るのである、爾うして五尺の体躯に宿る余ですら愛を以て其生命を為るならば、全宇宙に宿る神にして愛ならざるの理由はない、余は余の生みし子を愛するの心より推量りて、余の霊魂の父なる神の必ず愛以下の者でないことを信ずる、余は悪の裡に生育ちし者なれども余の子のために書物を与ふるを知る、然るに若し余の霊の出所にして其父なる者に此愛の心がないとすれば、罪人なる余は世界以上であると同時に亦神以上の者でなくてはならない、然し斯かる背理は勿論余が信ぜんと欲して信ずることの出来るものではない。
〇神は霊である、亦愛である、爾うして霊であり、愛である余の父なる神が余が彼を愛するよりもより深き、且つより大なる愛を以て余を愛し給ふとの聖書の告示に接して、余は満腔の認諾を以て之を信ずることが出来る、是れは爾うあるべき筈である、神は愛でなくてはならない、爾うして其愛は神の大に応《かな》ふたる愛でなくてはならない、余は余の小に較べて見て神の愛は少くとも宇宙大でなくてはならないことを知る。
〇余の自覚以外に在る神の存在の証拠の廃る時はある乎も知れない、然しながら余の実在を基礎として立つ神の信仰は余の絶滅せざる限りは廃たらざるものである、人は神を知らずして自己を知ることの出来ないやうに、自己を深く知れば知る程、神を識るに至る者であると思ふ。
 
(512)     クリスマス述懐
                     明治36年12月17日
                     『聖書之研究』47号「霊交」
                     署名 内村鑑三
 
 クリスマスは復た来りました、悲しくもあります、喜しくもあります。
 先づ悲しいことから申しませうならば、過る年のクリスマスに私共と面を合せて、偕に志を語りし私共の友人にして今は斯世に其影を留めない者は幾人もあります、私共は彼等の事を想ひ出しまして時には断腸の念に堪へません、友人とは私共に数限なく与へられる者ではありません、私共は一人の友人を失ひまして、一本の指を失つたやうなものであります、之は取返の附く者ではありません、私共は友を失つて永久に彼を失つたのであります、爾うして世には何億万といふ人が居りましても、其中の極の少数のみが私共の友人であるのでありまして、此世界が私共に貴いのは其幾億万の人口のためではなくして、其中の十か二十の私共の友人のためであります、然るに此貴重なる僅少の友人が歳と共に追々と減り行くのを見まして、此世は追々と私共には価値の無い者となります、年毎のクリスマスの辛らい事の第一は此佳節に巡り会ひまして友誼を交すべき友人の歳と共に少くなることであります。
 然し世を逝つた友人は諦めることが出来ます、諦めんと欲して諦めることの出来ない者は未だ世に存するも、一時の僅少《わずか》の誤解のために我等を叛き去つた友人であります、同じ地球の空気を呼吸して居ながら、前の友人が(513)今の讐敵であり、前には我等を友と呼び、師と仰ぎし者が、今は我等に就て総ての悪しき念を抱く者であると思へば世に人程恐しいものは無いことが感ぜられまして、花は咲き、鳥の囀づる此美はしき世界も何んとなく住み甲斐の無い処となります、平和の君が世に臨み給ひしと云ふ此時に私共は旧怨は総て之を私共の心より焼き払はんとは努めまするが、去りとて、又此世は矢張り涙の谷でありまして、悲哀を混へない歓喜とては無い所であると思ひますれば、クリスマスの喜楽の中にも亦た言ひ尽されぬ深い悲歎があります。
 勿論キリスト信者として私共は齢の加はるのは余り深く気に懸けません、然しながら齢の加はると同時に事業の挙らないことは是れ亦|悲歌《かなしみ》の種であります、過る歳に我等は何を為した乎と考へて見ますれば実に其零屑なるに駭かざるを得ません、学び得しこと尠く、頒ち得し事更らに尠く、唯無益に地上に棲息《すまつ》て居て無益に呼吸し、無益に衣食したのではない乎と思ひますれば、私共は心に一種、言ふべからざるの悲痛を感じまして、「主よ、此益なき僕を赦し給へ」との祈祷を思はず口より発するに至ります、殊に私共の信仰の進歩の遅々たりしことは我れながら驚く許であります、或は私共の理想は前年に優つて高くなつたかも知れません、然しながら理想は信仰の標準ではありません、我等の信仰の誤謬なき指針《しるし》は我等の日常の行状であります、爾うして理想に由らずして行為に由て私共の信仰の進歩を量りますれば、私共は此永の月日、同じ所を彷徨《うろつ》て居つたのではない乎との疑を抱かざるを得ません、若し聖書が示す如く、人世は実に非常に大切なるものであつて、私共が斯世に於て為したことで私共の永遠の運命が定まるのでありますならば、無益に歳月を消費したことは無益に貯蓄金を消費したるに勝ること数層倍の厄難であります、真面目に過去《すぎこしかた》を顧まして、クリスマスは実に喜悦の時ではなくして悲歎後悔の期であります。
(514) 以上《これ》は悲哀の半面であります、然し私共の歓喜の半面を言ひますならば、夫れは言ひ尽されるものではありません、キリストの降世と生涯と死とに依りまして死とは私共には無きものとなりました、死は私共には辛らい嬉しい事であります、私共は世の望なき人のやうに永眠《ねむ》れる私共の友人に就て憂戚《なげ》きません、何故なれば私共はイエスの死て甦りし事を信じまする故に、イエスに由る所の既に寝れる者を神、彼と偕に携へ来り給ふ事を信ずるからであります(テサロニカ前書四章十三、十四節)、世は此信仰を迷信であると曰ひます、然し此「迷信」を懐く私共は世の人が死者に就て懐く断腸の念を懐きません、私共の涙はイエスの奇跡力に依て真珠と化せられました、私共は死者に就て思ふて涙をこぼしますが、然し其涙は希望と感謝の涙であります。
 涙にも温い涙と冷い涙との二つの種類があります、爾うして私共は温い涙を流す者であります、世の冷刻なる政治家は笑ひますが、然し私共は時には自から求めて涙を食とする者であります、即ち失せし友のことを念ふて神の約束せられし希望を以て私共の心を歓ばす者であります。
 世の人は私共の交際の至て狭きを見て私共を憐れみます、然しながら彼等は私共の交際の無限大なることを知りません、縦令私共は此世に在て単独となりましても、其れで寂寞を感ずる者ではありません、私共は世の人のやうに寂寞に堪えずして友を外に求むる者ではありません、私共はキリストに依て独りで居ることが出来る者となりました、爾うして此神を知らざる世に在て私共は社会の中に在るとは申しまするものゝ、実は独りで沙漠の中に居るが如き者であります、然しながら私共は其れがために少しも寂寞を感じません、米国の詩人ホイトマンの言ひました「大なる友人」(Great Comrade)は私共の友人であります、彼は私共が独り杖を曳いて散歩する時の唯一の談話相手であります、凋林に葉絶えて、丘陵為めに粗色を呈する時に、寒月梢の上に懸りて、氷の如き(515)光を送りまする時に、私共は独り小川の辺に立て「我が父よ」と呼び、「我が友よ」と喊びます、爾うして暮色蒼然として独り我が家に近づきます頃は、私共の心の中は燦爛きばかりになりまして、空天に輝く星までが私共のために讃美歌を唱へて呉れます、世に斯んな友を持つ者は他に何処に在りますか、世の英雄と云ひ交際家と云ふ者は皆な独りでは居られずして、衆に接し、或は衆を圧して、心の中の堪え難き寂寞の念を滅《け》さんとする者ではありませんか、独りで在て悦ぶことが出来るとは是れ大なる幸福であります、是れは幾多の英雄輩が得んと欲して得ることの出来なかつた快楽であります、然るにキリストに依つて此快楽が私共のものとなつたのであります、私共は実に世の中で最も幸福なるものであります。
 勿論私共にも人なる友人のあることは言ふまでもありません、私共に霊なる友人があります、即ち同国の民でもなく、同教会の会員でもなく、又は同政党の党員でもなく、只同じ救主に由て霊魂を救はれた真個の深い友人があります、其様な友人は世の人には一人も有りません、利益を追ふて集りし友人や、不平を以て結びし友人は名は友人ではありまするが、然し実は「同所《とも》に立つ」丈けの人でありまして、葡萄の枝が其幹に由て繋がるやうな、そんな深い生きたる友人ではありません、如何ですか、午後の七時が鳴りまする時に、北は北見の稚内より南は台湾の極《はて》に至りまするまで、数千の霊の兄弟が父の前に跪いて相互のために祈つて居るその状態を世の人は想像することが出来ますか、世は日々に冷酷に赴くなどと言ひて歎つ者は此快楽を知りません、五人や十人の旧き友人が私共を去つたとて何んでもありません、神が私共に与へ給ふた友人は私共が自分で作つた友人とは全く違つて、如何なる事があつても私共を叛き去るやうな友人ではありません、神は永久の生命を私共に与へ給ひしと同時に亦永久の友人を私共に賜ひました。(516) 過去《すぎこしかた》を顧みて歎くのは人情の常であります、然し神は私共に命じて「過去を視る勿れ」と宣ひました(ルカ伝九の六十二、ピリピ書三の十三)、之に引換へて神は私共に「我を仰ぎ瞻よ、然らば救はれん」と宣ひました、(イザヤ書四十五の廿三)、「日に三たび自己を省る」とは儒教の教訓です、「汝自己を見る勿れ、我を見よ」とはキリストの教訓であります、私共はイクラ自己の衷を探つて見ましても其中に何の善い事をも発見致しません、若し自省《じせう》が人類救済の唯一の方法でありまするならば、人類に救済の希望は無いと思ひます、爾うして世の道徳家の憐さの一つは此自省の辛くして益なきことであると思ひます、彼等は日々に破れたる自己に省みて只歎声を発してのみ居ります、歳の終りが来ります度毎に彼等は此歎声を発しまして、然らば歳が新たになつたならば其穢れたる心を清めることが出来るかと言ふに決して出来ません、彼等は毎年同じ事を繰返して居ります、彼等は穢き自己に省みて穢き生涯を継けて居ります。
 然しながら私共には私共を潔むる者が与へられました、それは自省の心ではありません、キリストの十字架であります、是れを看れば真正に罪が潔まるのであります、之を仰げば新たなる心が私共に与へられるのであります、之に縋つて私共に新たなる希望が生ずるのであります、私共の功は凡て此十字架に在るのであります、是れが基督信者の最大の宝であります、キリストの十字架が私共の所有となりました時に、私共は世と全く離れて神の属となつたのであります。
 夫れでありますから過去は最早私共を責めません、私共は私共が此世に於て為せし事業を楯に取て神の聖前に出でんとする者ではありませんから、事業の足りないことを以て良心を苦しめません、私共の基督教は「現世的基督教」でもなければ亦「事業的基督教」でもありません、若し一言にして私共の基督教の何たる乎を述べんと(517)しますれば之を「十字架的基督教」と称ふのが最も適当であると思ひます。
 爾うして斯かる奇なる、斯かる広大なる幸福を私共に与へて下さりました者はキリストであります、キリストなくして私共は世に生れて来た甲斐のない者であります、若し「生命あつての物種」との諺が真理でありまするならば「キリストあつての生命」とは之に優るの真理であります、キリストを識らずして実に活きて活き甲斐のない者であります。
 全国に在る兄弟姉妹よ、私共は今日特別に喜ぶべきであります、私共は今は全国に散在して面と面とを会《あは》することは出来ませんが、然し、此特別の神の恩恵に由て心の奥の聖殿に於て、手を取て同情を交はす者であります、茲に諸君が永遠にまで主より離れざらんことを祈り、諸君と共に感謝を以て旧き歳を送りて、希望と歓喜と勇気とを以て新き歳を迎へやうと欲ひます。
 
(518)     『基督教講演集 第一集』
                       明治36年12月30日
                       単行本
                       署名 内村鑑三述
〔画像略〕  初版表紙150×110mm
 
(519)    はしがき
 
  此小冊子は嘗て『聖書之研究』雑誌に掲げました私の講演の中より未信者の方に基督教の何たる乎を知らしむるに最も適当なりと思はるゝもの七篇を簡んで之を一書となした者であります、若も此小さな者が暗澹たる今の世に於て微光なりと放つことが出来まするならば、それで其用は足りたのであります。  明治三十六年クリスマス前              著者
 
     〔目次〕
 一、基督信碇の謙遜
 一、他人を議するの罪悪
 一、基督信徒の勇気
  〔原題「キリスト信徒の勇気」〕
 一、真理の攻究と其特性
  〔原題「信州東穂高講談会講演大意」〕
 一、基督信徒の修養
  〔原題「基督教の修養」〕
 一、真正の基督教
 一、基督信徒の患難
 
(521)   別篇
 
  〔付言〕
 
  黒岩周六「霊魂の不滅なるを論ず(承前)」への付言
        明治36年1月15日『聖書之研究』31号「思想」
 
 内村生白す、黒岩先生の説く所は余輩の信ずる所と半ば同じくして半ば異なる、余輩は人は神の造りし者なりと信じて神より出し者なりと信ぜず、故に人は死して神と偕に在るべき者にして、神に帰りて神と一躰となるに非ず、我等人類は神の形像に象られて造られし者にして、神の一部分が人となりて現はれし者にあらず、人には永久他(神をも含む)と混和すべからざる単個性《インヂビヂユアリチー》在て存す、ペルソナリチー(人格)是れなり、先生と余輩と全く説を異にする点は此ベルソナリチーの大問題にあるが如し、余輩は更らに先生の教を乞はんと欲す。
 
 「田中正造翁の書簡」への付言
        明治36年1月15日『聖書之研究』31号「雑録」
 
 内村生白す、左に鉱毒被害地より到来せる書翰三通を揚げ、寄贈の処分に関する報告に代ふ。
 
  桜井清次郎の安藤太郎、根本正宛書簡への付言
        明治36年1月24日『国の光』115号「雑録」
 
 内村鑑三白す、安藤君は余に此書翰に対し何にか讃辞を附せよと命ぜらる、余は亦何をか曰はんや、賀すべし、賀すべし、酒に関する総ての器具は之を廃すべし、飲酒は之を罪悪と認め、其器具は之を其媒介者と認めよ、罪悪に近かざる心得を以て酒と杯と酒壜とに近づく勿れ
 
(522)     永島与八「獄裡の嬰児(一)」への付言
          明治36年2月10日『聖書之研究』33号「実験」
 
 内村生白す、余は茲に一平民詩人の真実なる実験譚を本誌の読者に紹介するの栄誉を有す。神は我等に一人のバンヤンを下し給へり、彼は欧文を読まず、神学を解せず、然れども往々にして聖書の深き真意に達す、「聖霊は万事を究知り、亦神の深き事をも究知るなり、智者安くにある、学者安くにある、この世の論者安くにある」、「神は智者を愧かしめんとて世の愚かなる者を選び、強き者を愧かしめんとて世の弱き者を選び給へり」、或人曰く、「我に聖書あり、亦祈祷の精神あり 我をして祈らしめよ、而かして神の深事を究ねしめよ」と、祈て能く聖書を読む者は註解書なくして能く之を解し得べし、然り、多くの場合に於て註解書は書物なり、是れ神の言辞に人の言辞を加へたる者なり、ベツドフホードの監獄署内に於てジョン バンヤンは博士の援助を藉らずして聖書の深き意味を探ぐれり、我友永島君も前橋監獄署内に於て同一の恩恵に与かれり、聖書は神の書なれば神に教へられずして之を解するを得ず、永島君の見解の独特なるは君が神より直に之を受けしに由る、永島君たる者は茲に一層の謙遜を感じ、隠れたる所に於て大に神の栄光を顕はすべきなり。
 
     羽後 梅木達治「勝利の歌」への付言
            明治36年2月10日『聖書之研究』33号「家庭」
 
 内村生白す、此信仰ありて東奥の凶作何にかある、我儕はたゞ信なき者を憐むのみ。
 
     倉橋惣三「感謝の日記」への付言
            明治36年2月10日『聖書之研究』33号「雑録」
 
 内村生白す、感謝、感謝、我儕は読者諸君と共に善きクリスマスを守りたり、「貧しき者と共にする食こそ実にや聖餐なれ」(求安録)、洗礼も須ゐず、教会の儀式的聖餐にも与からざる我儕無教会信者にも尚ほ此聖餐と渡良瀬河岸の寒風の洗礼とあるあり、余は信じて疑はず、主イヱスキリストは斯かる礼拝を甚だ嘉し給ふを、二荒山頂白雲皚々として関東原野(523)を瞰下する処に、『研究』読者の感謝の供物《さゝげもの》は多くの冷たき膚を暖めつゝあり、感謝、感謝。
 
     播磨明石 高橋卯三郎
     「予言者以賽亜(一)」への付言
            明治36年3月10日『聖書之研究』35号「史伝」
 
 内村生白す、此編を読むに方て読者諸君が常に聖書を手にし、其引証せる聖語を参照し、且つ出来得べくんば拙著『興国史談』に於て歴史上の関係を更らに明かにせられんことを希望す
 
     博士コルニール述・ミ ミ訳
     「摩西の宗教(上)」への付言
            明治36年4月9日『聖書之研究』37号「研究」
 
 内村生白す、余は近世の所謂「高等批評」なるものに多くの信を置く者に非ず、然れども其精細なる研究の結果として聖書の記事に関し多くの有益なる事実の吾人に供せられし事は敢て疑ふべきにあらず、此篇の原著者なる独逸フランクフォートの宗教学者博士コルニール氏は斯派の学者中学と信との兼備を以て世に仰がるゝ士なり、余輩は曩に「予言の意義」に就て氏に学ぶ所ありしが(本誌第三十、三十一号に於て)今又更らに此趣味ある問題に於て氏の研究の結果を聞かんと欲す。
 
     博士ヘンリー、マルチン「傚法的日本」への付言
            明治36年4月23日『聖書之研究』38号「思想」
 
 記者日ふ、此編は有名なる『天道溯源』の著者なる北京大学校長へンリー、マルチン氏が曾て我邦某所に於て演べられし言を筆記翻訳せしものなりとて友人津田次郎氏より特に寄送せられしもの也。
 
 内村生白す、文物に於て然り、基督教に於ても亦然らざらんや、我等は基督教を西洋人より伝受せり、然れども之に改進を加ふにあらざれば我等の義務を果たせりと称すべからず、宣教師の宗教を猿猴的に傚法し、其儀式と古習を模擬するを以て満足する者の如きは基督教其物に対し最も不忠なるものなり。
 
(524)     ライナス「霊魂不滅と聖書」への付言
            明治36年5月加日『聖書之研究』40号「研究」
 
 編者曰ふ、聖書に霊魂不滅の文字あるなし、是れ希臘哲学の唱へし所にして、聖書の与かり知らざる所なり、聖書は永生を説き不朽を唱ふ、而かも人の生来の性として之を説かず、神の賜物として之を示す、永生は神に存す、神にのみ存す、神を離れて永生あるなし、而して神の生命はイエスキリストに於て人に与へられたり、之をキリストに於て求めて我儕は腐壊を脱がれて不朽に入るを得るなり、此事に関する聖書の指示は明著にして誤るべからず、余輩はライナスと署名せる米人某が此事に関する聖書の章句を例拳せるものを手にするを得たれば茲に其一部分を訳して読者の参考に供せんと欲す。
 
     高橋卯三郎「予言者以賽亜(六)」への付言
            明治36年5月28日『聖書之研究』40号「史伝」
 
 編者曰ふ、是れ二千五百年前の異国に関する記事のみにあらざるなり、是れ亦吾人目下に関する記事なり、耳ありて聞く者は聴くべし。
 
     シドニー ギユリツク「進化論と宗教」への付言
            明治36年7月23日『聖書之研究』42号「研究」
 
 内村生白す、此篇の著者シドニー、ギユリツキ氏は米国コングリゲーシヨナル(組合)教会派遣の宣教師にして永く我邦に在留せられ、今は伊予国松山に滞在せらるゝ仁なり、君は伝道の傍ら深く意を哲学社会学の上に注がれ、君の著書にして欧米人の嘆賞する所となるもの尠しとせず、君は今余輩の乞を納れて此編を贈られたり、君の脳漿の如何に明截なる乎は之を読む者の直に諒とする所ならん。
 因に記す、君の叔父君に当るジヨン、ギユリツキ氏は余の最も尊敬する先輩の一人にして、氏はダーウヰン以来進化を解するに最も深遠なる学者として数へられし世界の三大学者の一人なり、氏は永く大坂に滞在せられ、余は彼地に在て氏と相識るの栄を得たり。
 
(525)     「誌上の講談会実験録」の「序言」
            明治36年7月23日『聖書之研究』42号「雑録」
 
    序言
 是は皆な真面目なる人の真面目なる実験録なり、故に之を読む者は適当なる尊敬の念を以てせられんことを望む。
 今年は例年の例に傚ひ、各篇に就き編者の評註を加へず、之に代ふるに彼が見て以て其精神を現はすに足ると信ずる聖書の章節を以てせり、且つ各篇の標題は概ね編者が特に案出せし者なり。
 寄贈文中、個人的不平を述べしもの、家事の細密に渉りしもの等は載録せざることゝなせり、然れども斯の如きは寄贈文中の極く小部分なりしは事実なり。
 其大躰より曰へば余は信じて疑はず、茲処に収むるが如き大胆にして然かも誠実なる表白文は未だ曾て我国の思想界に投ぜられしことなきを、世の人は基督教を信ぜざらん、然れども其健全なる結果は今は彼等の前にあり、此傲慢にして而かも絶望に瀕する社会に在て誰か我儕が発するが如き謙遜にして而かも喜ばしき声を発し得る者あらんや、栄光は主イエス、キリストに在り、我儕は彼に由りて凡《すべて》の事に勝ち得て余りあり、世界の人、何ぞ来りて我儕と偕に彼を讃美せざる。
                   内村鑑三
 
     倉橋惣三「約書亜記を学びて」への付言
            明治36年8月13日『聖書之研究』43号「研究」
 
 内村生白す、余は余の約書亜記の講義の構神が最も明瞭に且つ最も美しく倉橋君の筆を以て茲処に本誌の読者に供せられしを感謝せずんばあらず、君が過去三年間君の学友と偕に晴となく雨となく日曜日毎に此※[木+國]林樹下に集いて聖書を学ばれし甲斐ありて、神学生にあらざる君にして基督教の根本的教義を斯くも明白に旧記の中に探り得るに至られしは余の深く神に感謝し、且つ窃に誇る所なり、余は君の此文に励まされて尚ほ余の講義を継けんと欲す。
 
(526)     「誌上の講談会実験録(第二回)」の「序言」
            明治36年8月13日『聖書之研究』43号「雑録」
 
     序言
 是は之れ真面目なる人の真面目なる実験録なり、之を読む者は適当なる尊敬の念を以てせられんことを望む。
 奸悪なる世は誠実を語るを以て偽善なりとす、彼等はキリストを識らず、故に誠実を口にするも其現実を信ぜず、彼等は偽善あるを知て真善あるを識らず、彼等は性来《うまれつき》の偽善者なればなり。
 然れども世に真善は存するなり、イエスキリスト是れなり、彼に在て人は始めて真善たるを得るなり、彼を識らずして人は真善たるを得ざるのみならず、亦他人の真善をも信ずる能はず。
 夫れ我儕が聞きまた目にて見、懇切に観、我が手捫《さは》りし所のものを爾曹に伝ふ、此|生命《いのち》既に顕はれたれば我儕之を見て証をなす、即ちもと父と偕に在りし者にて我儕に顕はれたる窮なき所の此生命を爾曹に伝ふ、我儕見しところ聞きし所を爾曹に伝ふるは爾曹を我儕と同心ならしめん為なり、我儕は父及び其子イエスキリストと同心たり、我儕この文を書きて爾曹の喜楽《よろこび》を充たしめんとす、神は光なり、少の暗処なし、若し我儕神と同心《とも》なりと言ひて暗を行《ある》かば我儕が言ふ所は※[言+荒]にして真理《まこと》を行ふに非ず、若し神の光に在るが如く光の中を行かば我儕互に同心となるを得、且つ其子イエスキリストの血すべて罪より我儕を潔む。(約翰第一書一章一−七節)。
             寄贈者に代て 内村鑑三
 
     「誌上の講談会実験録(第三回)」の「編者の祈祷」および付言
            明治36年9月17日『聖書之研究』44号「雑録」
 
    編者の祈祷
 真の神様、私はアナタの前に至てツマラナイ者であります、然るに斯かる者を使ひ給ひて私を是等の真面目なる人達にアナタの福音を伝ふるの器となし給ひしを感謝致します、ドーゾ神様私を恵み給ひて私が人を救ふの機械となつて私自身が地獄に落ちないやうになさせ給へ、私は実に神様、最も幸福(527)なる者であります、私は世の権力ある者の中には一人も朋友を持ちませんが、然し、斯くも熱信にアナタを信ずる者を斯くも多く私の兄弟姉妹として有つことを許し給ひしことを偏にアナタに御礼申上げます、ドーゾ更らに一層アナタの聖霊を私の上に注ぎ給ひて、私がアナタの福音を宣べることが厭になることなく、ドーゾ短かき此生涯を全く此喜ばしき仕事のために費すことが出来き、此涙の世を終りました後には是等の霊の兄弟姉妹と共にアナタの聖前に於て限りなくアナタの栄光を仰ぐことを得しめ給へ。
 此感謝と祈祷を万事に叶ふ主イエスキリストの御名に由りて聞き上げ給へ、アーメン。
 
 内村生白す、読者諸君より送られし感想録の今尚ほ余の手中に存する者は六十余通に達す、之を一々本誌に掲げんとするは余の最も望む所なれども、誌面に限あるを以て之を如何ともする能はず、依て止むを得ず寄贈者諸君の姓名を左に列記し、茲に深く諸君が余輩の招待に応ぜられしを謝すると同時諸君が此貴き姓名の記録に循て諸君の霊交の区域を拡められんことを希望す。
 
(528)  〔社告・通知〕
 
 【明治36年1月15日『聖書之研究』31号】
   社告
 
 我社前きに例に依りて渡良瀬河沿岸に於て其窮民と共にクリスマスを祝せんことを檄するや、敬愛する読者諸嬢諸君は之に応じて涙と共に物品と金員とを寄贈せらるゝこと夥だしく、実に昨年に勝る数倍に到達し(昨年は二百八十金品七百品と広告せしは誤り)大包十三個を荷作り運搬会社に托して被害地に発送せしは第一に諸君を有する我社の歓呼する所にして亦た涙を以て謹んで茲に諸君に感謝の意を表す、若し夫れ彼地鉱毒被害民の感謝に至りては其声高く天に聴こへて余りあらむ、寄贈者人名の如きは聖書の示によりて我儕は隠れたるに鑒たまふ天父の報賞を得んが為に特に一々列記することを避けて唯だ僅に左に其総高と人員とを報告するに止めたり、
   クリスマス寄贈品及金員
 総金高  金弐拾八円二十一銭
  右寄贈者人員 二拾六名
 物品総数大凡 二千有余品
 右寄贈者人員 六十六名
   (但し其名を知らせられたるもの耳)
 斯くして我儕は泣き悲しむ者と共に歓呼しつゝ明治卅五年のクリスマスを了へたるを感謝す、其明細なることは黒木氏の報道と荒居 田中両氏の書簡にょりて知悉せられんことを請ふ。
 
   予告
 
 編輯印刷の都合あり次号即ち第三十二号も発行日より尚ほ二三日遅るべし此旨予め御承知を乞ふ   主幹謹白
 
   祝賀
 
 左の読者諸君より歳末歳始の祝賀を賜はりたり、茲に諸君の好意を謝し、併せて愛なる神の恩恵の豊かに諸君の上にあらんことを祈る
  明治卅六年一月                内村鑑三
                         聖書研究社
                           〔以下、略〕
 
(529) 【明治36年3月26日『聖書之研究』36号】
   緊要なる広告
 
 本誌発行義此れまで毎月十日廿五日の所、以来は毎月第二、併に第四木曜日と相改め候間左様御承知被下度候
                         聖書研究社
   ――――――――――
 一家一同休養の必要有之候に付き本年は夏期講談会を休会致し候に付き左様御承知被下度候
  明治三十六年三月               内村鑑三
 
 【明治36年4月23日『聖書之研究』38号】
   無慈悲なる友人に告ぐ
 
 余に最も不心切なる人は余に演説を強ゆる人である、余は演説を嫌ふ、演説は強く余の健康を害する、余に取りては余は多く演説をなすか雑誌を廃刊するか、二つの中一つを為すまでである、然るに多くの人々は此事を知らないで、或は強請を以て、或は哀求を以て、時に或は譎計を以て余を演壇に引出す、余は実に彼等の無慈悲を悲む、彼等何人も此事を再びせざらんことを願ふ。                    内村鑑三
 
 【明治36年7月23日『聖書之研究』42号】
   報告
 
 感想録募集期限を更らに来る八月五日迄延長す 心に感得したる神の恩寵を述べ、歓喜を他人に頒ち、併せて友を天下に求められよ。
 心の状態有の儘を語れよ、之を語り得んやう神に祈れよ、「文」を作らんと欲する勿れ、文は「カザリ」なり、真意にあらず、独り神の前に語るが如くに書けよ、然らば人を動かすの文を作るを得ん。
 
 【明治36年9月17月『聖書之研究』44号】
   発行度数改正に付き読者諸君に告ぐ
 
 量多ければ質悪しきを免かれず、毎月二回の雑誌発行は余(530)一人の為し難き事に非ず、然れども量多きが故に粗漏に流れ易きは事実なり、依て今月より再び元の月一回に改めんと欲す、若し夫れ力の余裕より生ずる結果に至ては本誌并に万朝報の紙上に於て徴せられんことを乞ふ、謹告。
 定価は従前の通り一冊に付き金拾銭、且つ七、八両月の休刊を廃す、発行は毎月第三木曜日と定む。
 明治卅六年九月                  内村鑑三
 
 【明治36年10月15日『聖書之研究』45号】
   社告
 
 兼て読者諸君より御寄贈になりし夏期感想録に対し甚だ軽少ながら原稿料として金弐拾円を備え置き候処、先般当淀橋附近暴風雨にて小学校破壊のため数十名の死傷者を出し候に付き、遺族見舞金の中へ其中より金五円丈け差出置候間左様御承知被下度侯
                          聖書研究社
 
 【明治36年12月17日『聖書之研究』47号】
   祝詞
 
 楽しきクリスマスと喜ばしき新年との読者諸君の上にあらんことを祈る
  明治三十六、七年                内村鑑三
               〔2021年9月14日(火)午後4時57分、入力終了〕