内村鑑三全集12、岩波書店、520頁、4500円、1981.8.24
 
目次
凡例
1904年(明治37年)
我の新年 他………………………………… 3
我の新年
新年の歓喜
神の霊
神に愛せらるゝ者
不信者に劣る
非難者に告ぐ
律法と福音
「教会信者」
愛国心と救霊
善行の忍耐
神の不公平
救拯の実
聖書は果して神の言なる乎………………… 8
其一、聖書の真価
其二、聖書と科学
其三、聖書と歴史
其四、聖書と道徳
其五、砂礫の福音
其六、インスピレーシヨン
「研究」読者の新年…………………………26
陸中花巻の十二月廿日………………………29
基督教と社会主義(再び)…………………31
伝道彙報………………………………………32
『日本国の大困難』〔角筈パムフレット第五〕……33
日本魚類図説を評す…………………………34
Thoughts on the War.………………………37
基督信者の春 他……………………………41
基督信者の春
昼夜の別
探梅
異端と真道
外を看よ
敵の前の筵
修養と祈祷
与ふるの福祉
最も恐るべき刑罰
三位一躰の教義………………………………45
其一、余は断じてユニテリアンに非ず
其二、聖書に顕はれたる三位一躰
其三、三位一躰の哲理的説明
其四、実際的信仰としての三位一躰
基督伝研究……………………………………70
イエス其居村を去る
イエス各様《さま/”\》の病を医す
イエス汚れたる鬼の霊を逐ふ
イエス其弟子に伝道成功の秘訣を伝ふ
国難に際して読者諸君に告ぐ………………89
逆境の恩寵に序す……………………………90
Foreign Policy of Japan Historically Considered.……92
半百号の感謝 他……………………………96
半百号の感謝
我の幸運
我が唯一の宝
完全なる職業
本誌の創設者
最終最善の事業
反応の理
沈黙の勝利
基督信徒の寛大
出征軍を送りて感あり
教会問題…………………………………… 101
無抵抗主義の真意………………………… 123
時感三則…………………………………… 124
戦時に於ける我儕
震動の効用
静なる歓喜
War in Nature.…………………………… 126
『聖書は如何なる書である乎』〔角筈パムフレット第六〕〔表紙〕…… 130
War in History. ………………………… 131
春と霊 他………………………………… 135
春と霊
今年の春
不朽の花
浩然の気
窮境を謝す
責任軽し
勝利の秘訣
文を得るの法
真理の贋売り
興亡の因果
成功に到るの大道
智慧に勝さるの勢力
天意の遂行
罪の発見
主戦論者に由て引用せらるゝ基督の言葉…… 140
戦時に於ける非戦主義者の態度………… 150
難問題の解釈 他………………………… 157
難問題の解釈…………………………… 157
信仰の試験石…………………………… 157
倫理学書を読んで……………………… 158
安息日…………………………………… 158
石婦の慰藉………………………………… 159
『余は如何にして基督信徒となりし乎』ドイツ語訳出づ 他…… 161
五月の感 他……………………………… 163
五月の感
平和の宣伝者
静謐の所在
戦闘の止む時
歴史の中枢
救霊の奇跡
キリスト信徒の生涯
驚くべき平凡の理
無抵抗主義の教訓………………………… 167
予定の教義………………………………… 175
基督教と基督信徒 他…………………… 195
基督教と基督信徒
懐疑
戦時の事業 他…………………………… 198
戦時の事業
擾乱に処するの途
歓喜の由来
吾人の非戦論
イエスキリストの御父
愛の十字軍
慕はしきキリスト
活けるキリスト
甦りしキリスト
信仰の基礎
聖書に於ける人…………………………… 203
人類の堕落………………………………… 209
負けるは勝つの記………………………… 229
Newspapers and the War. ……………… 233
予が見たる二宮尊徳翁…………………… 235
永久 他…………………………………… 240
永久
果樹を見て感あり
希望の満足
余の見たるイエスキリスト
我儕のプロテスタント主義
信仰の独立
最も悲むべき孤独
亜米利加的基督教
意志と境遇
軟弱なる信仰の養成
信仰の解
宗論の無益
所謂『基督教国』を信ぜず
聖書に所謂る希望………………………… 246
天地の花なる薔薇………………………… 254
奇跡の信仰………………………………… 255
『約百記』〔従第1章至第7章〕………… 271
『角筈聖書』の性質…………………… 273
約百記の性質…………………………… 275
約百記…………………………………… 277
第一章
第二章
第三章
第四章
第五章
第六章
第七章
時と心 他………………………………… 320
時と心
宗教と哲学
剣と鋤
人の怒と神の義
無抵抗主義の勝利
幸福なる基督信者
効果ある禁酒禁煙
宗教の領分
偽の預言者
満足なる地位
面白い仕事
パリサイの麪酵 偽善主義の排斥(路可伝十二章)…… 324
キリストの二大教訓……………………… 329
預言者小伝………………………………… 336
基督信徒処世の方針……………………… 339
近時に於ける非戦論……………………… 343
如何にして我が天職を知らん乎………… 347
日本人と基督教 他……………………… 349
日本人と基督教
完全なるキリスト
内外見地の差違…………………………… 351
殺人と活人 他…………………………… 353
殺人と活人
那翁と基督
最も無慈悲なる者
惟キリストに聴かんのみ
万事の始め
聖書とキリスト
生けるキリスト
平和の希望 詩篇第四十六篇…………… 356
帖撒羅尼迦前書の研究…………………… 361
緒言
註解 第一章
第一章概察
第二章
第二章概察
第三章
第三章概察
第四章
第四章概察
第五章
余が非戦論者となりし由来……………… 423
米国の堕落と其救済……………………… 427
雑信………………………………………… 431
収穫月 他………………………………… 434
収穫月
平和現実の手段
平和の所在
平和の長短
正義の信仰
必要なるもの二つ(信仰と常識)
信仰と行ひ 雅各書第二章十四より廿六節まで…… 438
基督教研究の方法………………………… 444
非戦主義者の戦死………………………… 447
第五年期に入る 他……………………… 450
第五年期に入る
恩寵の徴
実歴の福音
実験の宗教
玄妙ならざる宗教
聖書研究会の設立を促す
先づ聖書を学べよ
特別なる宗教
信仰復興の希望
悪魔に対する途
預言者西番雅の言………………………… 454
聖書の真髄………………………………… 463
母を葬りて後に誌す……………………… 473
ベツレヘムの夕 他……………………… 474
ベツレヘムの夕
聖誕節の意味
戦時のクリスマス
平和主義者の日
平和の基
歳を忘るゝの法
聖書と活けるキリスト
信仰と伝道
出陣の召命
新年の希望
宇宙の精算
恩恵と責任
自他の愛
意地と主義
事業の成敗
歳末の感謝と祈祷………………………… 480
信仰維持の困難…………………………… 482
平和の完成………………………………… 488
遠来の祝福………………………………… 489
別篇
付言………………………………………… 491
社告・通知………………………………… 494
参考………………………………………… 497
自明的真理……………………………… 497
 
(3)     〔我の新年 他〕
                     明治37年1月21日
                     『聖書之研究』48号「所感」
                     署名なし
 
    我の新年
 
 人は新裳に誇り、我は新生を悦ぶ、人は戦闘を劃し、我は伝道を企つ、人は暗澹の彼方に勝利の功名《こうめい》を望み、我は光明《くわうめい》の中に平和の春を楽む、我は我儕をして、我主イエスキリストに由りて勝を得しむる神に感謝す(哥林多前書十五章五六節)。
 
    新年の歓喜
 
 我に大なる歓喜あり、世は之を我より奪ふ能はず、我は亦好んで之を人に頒つ能はず、そは是れ神が我に下し給ひし特別の恩賜《たまもの》なればなり、世は勿論其何物たる乎を知らず、神より同一の恩賜に与かりし者のみ其何物たる乎を知る、是れ聖霊の恩賜なり、神が人類に賜ふ最善最美の恩賜なり、之に優りて貴きもの全宇宙にあるなし、之を賜はりて我儕は他に何の要求むるものなきに至る、是れありて我儕は足れり、是れを心に受けて我儕は凡の苦痛を忘る、此恩賜に接して我儕は神は全然愛なるを知る、此恩恵に与からんがためには我儕は如何なる困苦に(4)遭ふも可なり、今に至つて我は始めて知る、天にあるもの、地にあるもの、或は高き、或は深き、或は今ある者或は後にある者、其他何物も我儕を我主イエスキリストに頼《よ》れる神の愛より絶《はな》らすること能はざるを(羅馬書八章末節)。
 
    神の霊
 
 霊とは智識の霊に非ず、威圧の霊に非ず、之を受けて我儕を高ぶらするものは神の霊にあらざるなり、霊の結ぶ所の果は仁愛、喜楽、平和、忍耐、慈悲、良善、忠信、温柔、※[手偏+尊]節、是なり(加拉太書五章廿二節)直に斯る結果を生ずる者を神の霊とは称ふなり、之を接て我儕は我儕の萎縮せる霊の直に拡大せらるゝを覚ゆ、仇恨、妬忌、忿怒、※[女+望]嫉等の霊的疾病は直に跡を絶て我儕の本性の直に健全に復するを感ず、神の霊は罪に生れし我儕の本性に道徳的奇績を行ふの能力たるなり。
 
    神に愛せらるゝ者
 
 神は彼を愛する者に彼自身を与へ給ふ、彼に世界と其富を与へ給はず、世と其名誉を与へ給はず、聖霊を与へ給ふ、神に愛せらるゝ者は人に憎まれ、骨肉友人に疎まれ、世に汚穢物視《あくたし》せらる、而かも其|間《あひだ》に神に愛せられて聖霊の恩賜に与かる、故にイエス言ひ給はく「責めらるゝ者は福なり、天国は即ち其人の有なればなり」と。
 
    不信者に劣る
 
(5) 世に憐むべき者にして神の霊を接けざる基督信者の如きはあらず、彼は斯世の物を有たず、而して未だ天国のものに接せず、彼は実に宇宙無一物の者なり、世は彼を卑しむるも彼は世に勝つの能力を有せず、彼は清浄なるべきも而かも清浄なる能はず、天に昇る能はず、地に降る能はず、故に空間に在て苦悶す、彼は聖霊を接けざるべからず、然らざれば彼は不信者にも劣る者なり。
    非難者に告ぐ
 
 我は善を為さんと欲して之を為し得る者に非ず、神、我が裏に降りて我は善を為さしめらるゝのみ、我を責むるに善の不足を以てする勿れ、寧ろ我が上に神の霊の降らんことを祈れよ。
 
       *     *     *     *
 
 我は信を増さんと欲して之を増し得る者に非ず、神、我が心に降りて我が信を増し給ふのみ、我を貴むるに不信を以てするは無慈悲なり、寧ろ我が信の加へられんことを神に祈れよ。
 
       *     *     *     *
 
 基督教的道徳は祈祷の一事に存す、己を責めて自から善なる能はず、人を責むるも彼亦善なる能はず、自己のために祈らんのみ、他人のために祈らんのみ、而して自他両つながら善ならんのみ。
 
    律法と福音
 
 律法は殺し、福音は活かす、故に律法を以て福音を律するは圧制を以て自由を制するなり、律法に律法の法則(6)あり、福音に福音の法則あり、而して福音の法則は凡て自由にして凡て恩恵的なり、律法に由て福音を伝ふるは死に由て生を伝ふるなり、基督教に不似合なるものにして死せる冷たき機械的の規則条令の如きはあらず。
 
    「教会信者」
 
 昔のパリサイ人とは誰ぞ、今の「教会信者」とは誰ぞ、彼等は自由の福音を化して束縛の縄となす者に非ずや、彼等に活ける信仰なし、故に死せる信条を以て之に更へんとす、彼等は責むるを知て恵むを知らず、罰するを知て赦すを知らず、恩恵の和気に触れて心の堅氷を解かれし実験を有せざるが故に彼等はたゞ石を以て石を砕かんと欲す、冷たきかな彼等、堅きかな彼等、彼等は教会の城壁を築くための石たるに適す、神の聖殿を造るための「貴き活石《いけるいし》」たる能はず。
 
    愛国心と救霊
 
 余は日本国を救はんとした、然し之を救ひ得なんだ、然し国を救はんとする其心が余を神に逐ひやり、終に余の霊魂を救ふの動機となつた、愛国心は決して悪いものではない、是れは若し国を救ひ得ないならば自己を救ふ者である、故に我等何人も熱誠なる愛国心を懐《いだ》くべきである。
 
    善行の忍耐
 
 此宇宙は神の造り給ふた宇宙である、故に此宇宙に在て善を為して其報酬の我等に廻り来らない理由はない、(7)只宇宙の宏大なるが故に原因が結果となりて我等に還り来るまでに多くの日時《てま》を取るまでのことである、汝の糧食《くひもの》を水の上に投げよ 多くの日の後に汝、再び之を得ん(伝道之書十一章一節)、我等は只善を蒔いて置けば可い、善は人の無情に由て消えるものではない、蒔たる善を百倍にして其人に還すのが此宇宙の特性である、故に聖書は教へて曰ふ「兄弟よ善を行ひ倦むこと勿れ」と(テサロニカ後書三章十三節)。
 
    神の不公平
 
 神は不公平である、此世の朽ちる物、即ち金銀、土地、家屋の分配に於ては甚だ不公平である、然し神が人類に与へ給ふ最も書き賜物、即ち聖霊の灌漑《そゝぎ》に於ては公平である、否な、返て貧者に厚くして富者《ふうしや》に薄いやうに見える、我儕は決して憂ふべきではない、我儕、身は卑しく、位は無くも全能の神の王子となることが出来る、歓喜ぶべきではない乎。
 
    救拯の実
 
 救はれたと心に意ふのではない、亦、爾う頭脳《あたま》で信ずるのでもない、救はれるのである、悪しき心に更ふるに善き心を以てせられ、旧き人を脱却《ぬぎさつ》て新らしき人を着せられ、茲に救拯の実を全うせられるのである、基督教は神学でもなければ、行働《おこなひ》でもなければ、思想でもない、基督教は心霊上の事実である、霊魂《れいこん》の改造である、最も驚くべき奇績である。
 
(8)     聖書は果して神の言なる乎
                     明治37年1月21日
                     『聖書之研究』48号「問答」
                     署名 内村鑑三
 
    其一、聖書の真価
 
問、貴下は聖書は神の言であるとお信じなさります乎。
答、爾うであります、私は爾う信じます、私は三十年余り此書を読み続けまして益々その神の言でなくてはならないことを信じます。
問、然らば貴下は聖書は一言一句、誤謬なき神の言であるとお信じなさるのであります乎。
答、爾うであります、或る意味に於ては私は聖書の辞句的インスピレーシヨンを信ずる者であります。
問、或る意味にてと仰せらるゝのは如何いふ意味でありますか、貴下は聖書に記いてあることは何んでも動かすべからざる真理であるとお信じなさるのであります乎。
答、爾うであります、神に関すること、人に関すること、罪に関すること、救済に関することに就ては聖書は最終の憑典であると思ひます、此書に拠らずして人は何人も神の救済に与かることが出来ないと堅く信じます。
問、然らば貴下は聖書に記いてある科学上の事実や又は歴史上の事実は、之も亦悉く信ずるに足るものであ(9)るとお信じになるのであります乎。
答、或る意味に於ては爾うであります、或る他の意味に於ては爾うでありません、聖書は宗教の書であつて科学や歴史の書でありませんから、聖書の記事は宗教的には全く信憑すべきものであります。
問、宗教的には信ずべきであるとは如何いふことであります乎、宗教的に事実であることは必しも科学的には事実でないとの事であります乎。
答、爾うであります、物には総て宗教的の意味が存して居ります、爾うして事物の宗教的意義を示す上に於ては聖書は少しも誤りません、其意味に於ては聖書は誤謬なき神の言であります。
 
    其二、聖書と科学
 
問、今、試に創世記第一章にある世界創造の記録を取て見まして、貴下は其中の何れ丈けが信憑すべき神の言であるとお信じなさるのであります乎。
答、其全躰であります、即ち宇宙万物は決して独り自から生じたものではなくして、絶対的意志を有し給ふ全智全能の神が創造り給ふたものであるとの事であります、創世記の此記事は此肝要なる宗教的真理を伝ふるものでありまして、夫れが故に万世不朽の神の言であります。
問、然らば貴下は必しも聖書の此記事を取て近世科学の結論と調和しやうとは努められません乎、貴下は若し聖書の此記事が近世科学に由て爆撥せられても聖書に関する貴下の御信仰は動きません乎。
答、何にも聖書の此記事が近世科学に由て爆撥されやう筈はありません、若し聖書が古昔のプトレミーの天文(10)書や、プリニーの博物書のやうな者であつたならば日進の科学の発明に依て破壊される乎も知れませんが、然しながら霊なる神と物なる宇宙との関係を示した聖書の此記事が如何に科学が進歩すればとて破壊されやう筈はありません、「元始に神、天地を創造り給へり」、如何なる哲学者でも、如何なる科学者でも、聖書の此声言を拒むことは出来ません、ニユートンも斯く信じました、ダーウヰンも斯く信じました、スペンサーも或る意味に於ては斯く信じました、物質は其れ自身を造つた者であると信ずる大哲学者のあつたことを私は未だ曾て聞いたことはありません。
問、然らば科学的事実に就て聖書が如何に荒唐無稽を唱へやうと貴下はお気に掛けられません乎。
答、「荒唐無稽」とは甚だ不穏当な言であります、聖書は真面目な人に由て真面目に書かれたる書でありますから、科学的に正確なる書であるとは言はれませんが、然りとて支那、日本、埃及、バビロンの古書に記いてあるやうな事実と全く離れたる事を録して居りません、聖書の世界開闢説《コスモロジー》なるものは其始めて録された時代より考へて見ますれば実に驚くべき記事であります、聖書は天神が天の瓊矛を持ちて愴海を探り、鋒滴凝結して一島を成したと云ふやうな全く神話的の記事を掲げません、聖書の開闢説は合理的であります、其書かれし時代に在ては最も進歩したる科学説として目せられたものであつたに相違ありません、試に考へて御覧なさい、我神武天皇紀元前千年頃に既に己にラマーク、ダーウヰンの唱へし進化説を予表したる此宇宙開闢説が世に唱へられしことを、今の青年輩が少しく近世科学の片端を噛りたればとて聖書の記事に対して迷信呼はりの声を発するのは片腹痛いことではありませんか、若し彼等の父や祖父が宇宙に就て如何なる観念を懐いて居つたかを善く考へて見たならば彼等は此太古の荘厳なる開闢論に対して非常なる尊敬を表すべきであ(11)ります、私は信じて疑ひません、若し今より百年前に於て、日本国の東京に於て四千年前のモーゼの創造説が唱へられましたならば(其古説なることを表白することなしに)、日本国の学者達は是れは新説なりとか、又は異端なりとか称して之を迎へたであらふと思ひます、聖書は科学の憑典ではありません、然しながら其専門以外の事であればとてトンでもない荒唐無稽を伝へません、聖書に依て科学を学ばんとする者は誤ります、然りとて聖書を科学と全く関係のないものであると思ふ人は更らに誤ります、聖書は宇宙の創造られし目的と、其今日存在する理由とを示す者でありまして、科学攻究の精神を供する者であります。
問、然らば貴下は聖書に科学的誤謬のあるのを御認めになるのであります乎。答、認めるも認めないもあつたものではありません、爾んな事に心配して聖書の真理は探られるものではありません、貴下は山辺赤人の「田子の浦」の歌を誦まれる時に富士山の地質学的構造に就て考へられますか、貴下は藤田東湖の正気之歌を吟ぜられる時に児島高徳に関する歴史的考証に就て彼れ是れ非難せられますか、若し爾うなさるならば赤人も東湖も貴下に対しては何の貴い真理をも伝へません、富士山の地質学的構造を正確に伝ふる者にあらざれば富士山に関する総ての美しき思想を伝ふることは出来ないと信ずる者の如きは、それこそ偏狂学者でありまして、迷信家に劣らざるの愚かなる者であると思ひます、聖書とても爾うであります、神と世界との関係を示すのが其目的であります、爾うして若し此目的に違ひませんければ聖書の神の言たるは証明されるのであります。
問、甚だ失礼なる申分でありますが、貴下の御説明を聞きますると、貴下は何やら科学者の追窮する所となりて、止むを得ず種々の辞柄を設けられて、御自説を曖昧の中に隠さるゝやうに感ぜられます、それは如何な(12)るものであります乎。
答、イーエ、決して爾うではありません、聖書は雲の上に築かれた高楼のやうな者ではありません、聖書は或る毀つべからざる事実の石礎《いしづえ》の上に立つ者であります、顕微鏡と望遠鏡との観察の上に其基礎を置かざるとも、而かも之よりも更らに確かなる事実の上に其根底を定むる者であります、即ち吾人の自覚を根拠として立つものであります、その証拠には科学科学と云はれて何事も科学に由らなければ分らないやうに唱へられる貴下ですら、愛するとか、憎むとか、敬するとか、賤むとか称ふ情性を有たれまして、科学の証明以外の事を為されます、且つ又貴下は科学に由て世に勝つことは出来ません、利慾の念は科学よりも強くあります、為めに科学者にして其科学を善のために利用せずして悪と己の利益のために使用する者は今の世に在ては比々皆な然りではありません乎、而已ならず、科学者の多数は利欲は生物進化の唯一の源動力であると唱へまして、人に「利欲の神聖」を教ゆるのみならず、自己も此教義を身に体して恬として耻ぢないではありません乎、世に勝つの能力、慾念の罪悪、無私の神聖……是亦大なる事実ではありませんか、聖書は斯かる大事実に就て論ずる書であります、岩片の顕微鏡的攻究は之を礦物学者に委ねます、解剖刀を以てする死躰の分解は之を解剖学者に委ねます、古文の文字的考証は之を考古学者に任かします、然しながら人の性格に関し、神の愛に関し、罪の赦免と清き良心の新造に就ては是れ聖書の占有する特別の領分であります、爾うして私が聖書が誤謬なき神の言であると言ひまするのは、此広大無辺なる領分内に於て爾うであると言ふのであります。
問、御説明に依て稍々貴下の御論拠が分りました、亦、私に於ても大に発明する所がありまして真に有難う存(13)じます、聖書は世界並に人生に関する宗教観であると解しますれば、御説の通り聖書に関する多くの難問は解かれます、然るに今日までの所では宗教家といふ宗教家は皆な聖書は宗教以外に於ても最上の教権を握る者であるやうに説かれたものでありまするが故に、其反動として世の学者が之に対して痛き攻撃の鋒を向けたのでありませう、然し宗教は宗教、科学は科学と致しますれば、それで二者の平和は結ばれたのでありませう。
答、爾うであります、然しながら茲に一つ注意すべきことがあります、斯くて結ばれたる二者の間の平和は世に謂ふ所の敬して遠ける的の平和であつてはなりません、若し問題の高下より曰ひますれば宗教問題は何人に取りましても、然り、科学者に取りましても、遙かに科学問題の上に立つべき者であります、斯く云ひて勿論、宗教家は科学者以上の人物であると云ふのではありません、然しながら身躰は衣よりも優るやうに霊は身躰よりも優ります、随て宗教の科学に優る問題であることは明白であります、爾うして凡の大科学者は宗教に対して常に此態度を取りました、ニュートン始め、ハムフレー デビー、フハラデー、近くは先頃世を逝られましたスペンサーに至りますまで、皆な此態度を取りました、彼等の偉大なりし理由は彼等の学の蓄積の大なりしよりも彼等の品性の高かりしのに由るのであります、神を嘲けり、道徳を嘲けり、宗教を嘲ける科学者は極く小なる科学者であります、彼等は壁に延蔓《はびこ》る蘚の構造を知る乎も知りませんが、全宇宙が来て彼等に使事するの大快楽を感じ得る者ではありません、世界と人生とを聖書的に解して、即ち聖書が解するやうに之を解して、我等は神の小供となると同時に亦宇宙の主人公と成りまして、随て我等の究むる科学にも真正の興味が生じて来るのであると思ひます。
 
(14)    其三、聖書と歴史
 
間、聖書と科学との関係は御説の通りであると致しまして、聖書と歴史との関係は如何なるものであります乎、若し聖書は科学の書でないと致しまするも、之を歴史の書と見ることは出来ません乎。
答、是れ亦、至て面白い、且つ大切なる問題であります、永の間聖書の科学的正確を弁護せんとして返て失敗に終つた基督教学者は今に其歴史的正確を証明せんと努めつゝあります、然し是れ亦非常の難戦であることは私の茲に貴下に申上げて憚らない所であります、今や所謂「高等批評学者」なる者が出まして、聖書の記事を縦横微塵に批評し、始めにアブラハムを取去り、次にモーセを縮少し、今はパウロ、ヨハネまでを半殺になさんとしつゝあるのは事実であります、何れの時代に於ても聖書の荒乱者なる者があります、爾うして今の時代に在ては此荒乱者は自から「高等批評学者」と称ふる者であります、爾うして彼等が荒乱のために採る武器は歴史であります、彼等は歴史的に聖書を覆滅して其覆滅を完うせんとしつゝあります。
問、爾うして彼等は其覆滅の事業にドレ丈け成功致しました乎、彼等は実に聖書は歴史的には全然信憑するに足らざる書であることを証明致しましたか。
答、批評学の戦争尚ほ酣なる今日、勝敗は何方に帰する乎、未だ断言は出来ません、然しながら戦闘未だ終結を告げざるに、既に已に和解の曙光は天の一方より出来つたと思ひます、それはカントの智識論とそれを根拠として起つた近世の心理学であると思ひます、若し一切の智識が批評的解剖に由て得られるものでありまするならば、或は此戦争は批評学者の全勝に帰するでありませう、然しながら今や人の理性に理而上的機能(15)の存することが愈々明白となるに至りまして、批評学者も大分其鋒を収めねばならぬやうに成つて来ました、私の考へまするに高等批評なる者の聖書の分解も今日が其絶頂であらふと思ひます。
問、然らば聖書は何れ丈け歴史的に信憑するに足ります乎、イスラエル民族の出埃及の事蹟、キリストの奇蹟、復活、昇天等は今尚ほ事実として是認すべきであります乎。
答、勿論何れ丈けと限ることは出来ません、然しながら基督教が歴史的宗教でありまするが故に、基督教の根本的教義を壊はす丈けの実証が挙りました時には基督教は其存在の基礎を失つたと云はなければなりません。
問、爾うして貴下は未だ斯かる実証は挙らないと御信じなさるのであります乎。
答、爾うであります、批評学者が今日まで提出した論定の中に基督教の根本を毀つに足る丈けの者は未だ一つもないと思ひます。
問、然し批評学者の方から云へば爾うは云ふまいと思ひます、彼等は歴史としては聖書は微塵に毀れて了つたと言ひませう。
答、爾うかも知りません、然しながら聖書の歴史的事実に関しては証拠も反証も半々であります、イスラエル民族の紅海横断に関する奇跡的事蹟の如き、之を是とするの実証も未だ発見せられなければ、又非とするの実証も挙らないのであります、只、詰る所は事蹟の蓋然性《プロバビリチー》の問題であります、信者は斯かる事は有り得ることであると信じ、不信者は有り得べからざることであると信ずるのであります、爾うして有り得べしと信ずる者は有りしと云ふ証拠を求めんと欲し、有り得べからずと信ずる者は有らずと云ふ証拠を見附けんと欲するのであります、爾うして今日目下の事ですら人事に関する事実有の儘を究むることの甚だ難いことを知り(16)まする者は今より四千年前の事を細密に知ることの到底出来ないことを能く解します、若し基督教が歴史的宗教であると云ふ訳から歴史的証明を得るに非れば之を信ずることが出来ないと云ひますならば世に真面目に基督教を信ずる者は一人も無くなる訳であります、私は基督教を転覆するやうな歴史的事実の挙がる時は未来永劫決して来ないと思ひます、何故となれば基督教は過去の事実よりも寧ろ今の事実に由て立つ者でありますから、何か非常の能力が顕はれて今の事実を毀さない以上は歴史家の攻撃は如何に激しくとも基督信者は痛痒を感ずること至て尠くあります。
問、若し爾うならば批評家の攻撃なるものは至て詰らないものではありません乎、然るに之に遭ふて何故に基督信者は非常に狼狽致しました乎。
答、彼等の信仰の薄い余り、彼等が深い自己の実験に頼らずして、浅い、且つ危い過去の伝説に頼つたからであります、故に神は批評学者なる近世的の荒乱者を送り給いて是等偸安の教会信者の信仰を毀し給ふたのであります、是れは実に感謝すべきであります。
問、茲に至て問題は全く重心の地位を変へて来ます、若し基督教は主として今の宗教であつて過去の宗教でないとの事でありますならば、歴史的攻撃は全く其功を失ふに至りまするのは、尤のことであります、然らば貴下は聖書が万一歴史的に全然毀れやうと基督教は存在すると御信じなさります乎。
答、爾うではありません、亦前にも申上ました通り斯かる破壊の来りやう筈はありません、何故なれば今日私共基督信者が実験する事が事実であります以上は聖書に書いてある之に類したる事柄は少くとも其大躰に於ては必ず事実でなくてはならないからであります、私共は私共が見たこともない、聞いたこともない事柄を(17)聖書に於て読むのではありません、私共は今より推して古へを量るのであります、基督信者に取りましては聖書の記事の重要なる部分は総て爾う有るべきであつたらふと意はるゝことであります。
問、爾うすれば貴下は死者の復活を目撃せられたと仰せられるのでありますか、勿論爾うではありますまい。
答、爾うではありません、然し、死せる肉躰の復活よりも更に驚くべき復活を目撃したのであります。
問、それは何んな復活でありますか。
答、霊魂の復活であります。
問、然し霊魂と云ふやうなそんな漢たるものゝ変化を取て、それを現然たる肉躰の変化に応用することは出来ますまい、是れは論理学に所謂 Ab absurdo 即ち背理より道理に達せんとする論鋒ではありません乎。
答、其れは爾うではありません、霊魂の事は決して漠たることではありません、若し其事を御疑ひになりまするならば貴下御自身其事を御試験なさることが出来ます、若し貴下が貴下の年来の讐敵を今日直に快く赦すことが出来ますならば、又は貴下の最も愛するものを国のために又は人類のために、何の惜気もなく献ずることが出来ますならば、貴下は実に神の如き者であります、特に若し貴下の成育されし家庭が決して善良のものではなくして、貴下の若き心の中に凡ての悪念が注入されしにも関はらず、若し一朝に或る奇態なる感化力に由て、貴下の心より、豹の皮より其斑が取除らるゝやうに、罪念が根こそぎ取去られますならば、貴下は必ず是れ天然以上の力であると仰せられるに相違ありません、自己に此事を実験した者は誰でも申します、死んだ霊魂を甦へらする事は死んだ肉躰を甦へらする事に優るの大困難であると、爾うして私共は各自此奇蹟を実験して居りまする故に肉躰の復活を聞いても少しも驚かないのであります。
(18)問、爾う致しますれば其霊魂復活の実験なしには聖書の歴史的事蹟は之を事実として信ぜられないと仰せられるのであります乎。
答、爾うであります、歴史的証明は如何に強くとも私共は之に由て私共の経験以外の事はどうしても信ずる事は出来ません、己れ自から奇跡を施されたものでなければ如何なる大学者が如何なる重き証拠を挙げて私共を説服せんと致しましても、私共は之を信ずることは出来ません、信仰は我が全性の允許であります、より強き証拠に対して智識的承認を傾けることではありません。
問、茲に至て私共宗教門外漢と貴下方信者と到底推論を続けることの出来ないことが分かりました、然しながら貴下にも充分なる論拠のあることは私も充分に認めます、成程仰せの通り若し吾人の智識論が確定し、心霊的実験なるものは確かめ得べき心理学上の事実であることが解りますれば、それで聖書の歴史的証明なるものは殆んど用なきに至るのでありませう、且又斯く定つた以上は聖書の記載する事蹟に就て強大なる歴史的証拠が供せられまして、信者の信仰を一層強くするに至るかも知れません。
答、それ丈け御承認下されますれば私も大満足であります。
 
    其四、聖書と道徳
 
問、聖書は科学でもない、歴史でもないと致しますれば、之に科学上、又は歴史上の欠点があると致しましても、その信憑すべき書なる事の説明はつきまするが、然し宗教の書として之に道徳的の欠点のあることは許せまいと思ひます、然るに聖書を繙きますれば所々に此欠点があるのはドウいふ訳であります乎、即ち撒母(19)耳前書十五章の三節に神がサムエルを以てイスラヱルの民に命じ給ひし言辞に斯ういふ事があります。
  今、行きてアマレク人を撃ち、其有てる物を悉く滅し尽くし、彼等を憐れむ勿れ、男、女、童稚《をさなご》、哺乳児、牛、羊、駱駝、驢馬を皆な殺せ。
 其他之に類したる言辞は聖書の所々に見当ります、貴下は之をしも神の言として見らるゝのであります乎。
答、それは随分お強い御詰問であります、それに対する弁明は今日まで幾個も提供されました、私は今茲に二つの観察を呈しまして貴下の御参考に供しやうと思ひます。
 (一)、斯かる残酷なる宣言と同時に時代不相応の高潔なる道徳の旧約聖書に示さるゝこと、即ち利未記十九章丁十八節にある
  汝、仇を復《かへ》すべからず、汝の民の子孫に対ひて怨を懐くべからず、己の如く汝の隣を愛すべし
 是れ実にキリストの福音に多く劣らない者であります、殊にに同じ利未記の第十八章の如きは其当時の社会道徳として実に純潔なるものでありまして、日本国今日の社会道徳とても迚も之には及びません、其当時の道徳として考へて見ますれば旧約聖書の示す道徳は比較外に高潔なるものであります、其当時のバビロン、カナン、エジプトの道徳を知るにあらざれば旧約道徳の神聖は解りません。
 (二)、貴下は驚きなさる乎も知れませんが、聖書は道徳の書でもありません 即ち所謂る純正倫理を吾人に伝ふる書ではありません、聖書より道徳的組織を編出《あみいだ》すことは出来ます、然し聖書は道徳組織ではありません、聖書は人が道徳の本源なる神に到るの道を示す書であります 故に其人の道徳的程度に循つて神の真意を彼に伝ふる者であります、聖書に奴隷を廃止せよとは書いてありません、故に或人は聖書は奴隷制度を許(20)す者であると云ひます、然し決して爾うではありません、聖書は人の神の子たることを教へて奴隷制度の土台を致しました、聖書は戦争の廃止を強ひません、然り、或る所に於ては之を奨励して居るやうにも見えます、然しながら聖書は人命の貴重なる理由を教へて戦争をして在るべからざるものとなしつゝあります、聖書は道徳の原理を教へます、其形式を教へません、其事其れ自身が神の言たる証拠となるではありません乎。
 
    其五、砂礫の福音
 
問、其説明は其通りであると致しまして、茲に私が聖書の全躰を神の言として受取れない一つの事があります、それは聖書の或る部分は実に乾燥無味の記事でありまして、若し是が天よりの声であるとならば小川に転《まろ》ぶ礫も神の言でなくてはなりません、和は聖書の中に神の言のあることを信ずることは出来まするが、聖書全躰を爾う認めることはまだ出来ません。
答、御説御尤であります、利未記に於ける犠牲に関する精細の記事の如き、歴代史略に於ける十一章に渉る人名録の如き、以西結書に放ける聖殿構造に関する細目の如き、如何にも乾燥無意味の事項のやうに見えます、然しながら深く聖書を研究した者は是れあるが故に聖書の神の言たるを拒みません、否な、返て是れあるが故にその神の作たるを信じます。
問、それは何ういふものでありますか。
答、貴下は此地球が神の作り給ふたものであることを御信じなさります乎。
問、勿論信じます。
(21)答、若し爾うならば聖書も此地球と同じことであります、此地球は耶馬渓や松島ばかりではありません、其中には漠々たる沙漠もありますれば茫々たる大洋もあります、然し能く考へて見ますれば此地球の美は其全躰に存して居るのでありまして、其常に美を以て称せらるゝ小部分に存して居るのではないことが分ります、聖書も同じ事であります、其美と完全とは山上の垂訓や哥林多前書十三章の愛の賞讃の辞に於てばかり存して居るのではありません、馬太伝一章のイエスの系図も確かに福音の一部分であります、黙示録廿一章の天の石垣の描写も亦希望の新約の一部分であります、基督教の精神は犠牲と贖罪とにあります、是れを最も細密に教ふるものは旧約の利未記であります、又基督教の大切なる教義の一つは予定又は聖別であります、爾うして歴代史略の永々しき人名録は撰民の系図を委しく述べた者であります、小川の岸に転ぶ小石の天然の美を認め得ないのは見る人の無学に由るのであります、其様に聖書の乾燥と見ゆる記事の中に神の真理を発見し得ないのは是れ亦読む人の無学に由るのであります、之を神の霊に由て解釈して御覧なさい、石も花となりて咲いて来ます。
 
    其六、インスピレーション
 
問、抑々インスピレーションとは何ういふ事でありますか、是れは所謂る天来の思想に接するといふ事であります乎。
答、それもインスピレーシヨンの一種であるに相違ありません、然しながら聖書のインスピレーシヨンなるものはモツト、ズーット深いものであります。
(22)問、聖書のインスピレーシヨンとは何ういふ事でありますか、お聞かせ下さい。
答、聖書のインスピレーシヨンとは神の霊が人の霊に降て之を活溌《はたらか》せて事を為さしめると云ふ事であります、是れは単に思想を伝ふるといふに止まりません、亦機械的インスピレーシヨンと称して、之に接した者は自覚を失ひ、己れ知らざる間に神に依て語り、又は書いたと云ふやうな事でもありません、人間は神の機械ではありまするが、然し神は人間を吾人が機具を使ふやうには使ひ給ひません、インスピレーシヨン inspiration は即 in-spirit-ation でありまして、霊が入来るとか又は霊を吹入れる(in-breath-ing)とか云ふことであります、爾うして聖書は聖霊の斯かる発動に由て書かれたものであります、同一の聖霊が予言者ヱレミヤに降てヱレミヤ記が成つたのであります、イザヤに降つてイザヤ書がなつたのであります、同一の聖霊が異様の人に降て同じ精神を伝ふる異様の言が出たのであります、聖書の聖書たる所以は全く此一事に在ります、人が書いたものでありまするが、人が自分で書いたものではありません、然りとて他の者が来て手習師匠が子供の手を取て字を書かせるやうに、使徒や予言者の手を取て否諾《いやをゝ》なしに書かせたものではありません、神の霊が人の霊に降て、人をして自由に書かせたものであります。
問、爾ういふ事は出来るものでありますか。
答、出来るものであります、霊が霊に加はる時には火に油を加へたやうなものであります、同じ火が急に其光と熱とを高めます、霊は相互に合一することの出来るものであります、爾うして人の霊と神の霊とは其間に量の差と清濁の差とこそあれ、質の差はありません、故に神の霊が人の霊に臨みます時は人の霊は急に聖く成り、且つ非常に活力を増して来ます、爾うして其結果として彼の草する文も、彼の語る言も一種異様の能(23)力を帯ぶるに至ります、爾うして聖書の言は斯かる言であります、人の口と手とを通うして来た神の言であります、之に人間的の所があるのは人間を以て書かれたからであります、然し、活神的の所があるのは神が書かしめた言であるからであります、爾うして此特性は聖書を終始一貫して居ります。
問、然し同一の事は聖書以外の書に就ても云へるではありません乎、ダンテの神曲、ミルトンの失楽園、是れ又一種のインスピレーヨンではありません乎。答、爾うであります、然しダンテもミルトンも聖書に依て神の霊に接した者であります、今日と雖も我等とても直に聖霊の降臨に与かることが出来ます、故にインスピレーシヨンは聖書に限るとは勿論言へません、然しながら聖書は亦特別なる意味に於て神の書であります、即ち神がまだ広く異邦人に聖霊を注ぎ給はざる時に其降臨を受けた人の為した事を同じ恩恵に与かつた人達が書いたものでありまするから、電気学の語を以て云ひますれば、聖書に蓄電されたる霊気は甚だ濃厚であります、聖書は他に抜んでゝ特別に聖霊の書であります、故に後世、之に接触せずして聖霊の著しき降臨に与かつたものはありません、ムーデー氏は度々曰ひました、「余は聖書は聖霊の書なるを知る、そは之に由て聖霊余に降ればなり」と、爾うして是れ何人に限らず、近く聖書に接触した者の実験する所であります。
問、有難う厶います、大分善く分りました、尚ほ重ねて伺ひますが、聖霊は人に降て其感能を強くするのみでありますか、又はそれと同時に新たなる真理をも人に伝ふる者であります乎。
答、哥林多前書二章の十節以下に斯う書いてあります、
  聖霊《みたま》は万事を究知《たづねし》り、又神の深事をも究知るなり、それ人のことは其中にある霊の外に誰か之を知らんや、(24)此の如く神のことは神の霊の外に知る者なし、
神の事を知らんと欲せば、殊に神の心を知らんと欲せば、神の霊に由るより他の途はありません、聖書は神の精神をのみ伝ふるものではありません、人類の救済に関する神の大なる事業に就て示す者であります、目、未だ見ず、耳、未だ聞かず、人の心、未だ念はざる事を伝ふる者であります、是事を称して黙示と云ひます、黙示は事実的インスピレーシヨンであります。
問、聖書は神の真理を伝ふる書なるが故に神の書であると云ふ事は解りまするが、それが故に聖書の文字までが神の属であるとは如何しても受取れませんが、如何ですか。
答、貴下は文章を書かれたことがありませう、其時貴下は思想と文躰とを区別することが出来ますか、真正の文章は生物のやうなものであります、其生命と肉体とを別つことの出来るものではありません、思想は文章の生命でありまして、文躰は其肉体であります、二者同一物でありまして一は他を離れて存立する者ではありません、聖書は神の言であります、神の思想が神の文字を以て顕はれた者であります、成程文字其物は人の造つたものでありませう、然し其人間の造つた文字が聖霊の坩堝の中に溶解されて、新たなる鋳型の中に注込まれて出来た文字であります、私は勿論此神造の文字が今日まで何の欠損なしに伝はつたとは言ひません、然し今日尚ほ存して居る所の其形から推測して見ましても、其決して尋常普通の文字でないことは能く分ります、茲に於てか聖書を原語其儘に於て研究するの必要が起きて来るのであります、聖書は最も翻訳し易き書でありまするが、然し如何に善き翻訳でも原文に及ばないことは勿論であります、詩人カウパーの牧師なりしニュートンと云ふ人が希伯来語を称して「神の言語」なりと云ひましたのは決して迷信ではありま(25)せん、神の直接なる深き感化を受くるに非れば斯かる簡潔にして力強き言語は決して起らなかつたと思ひます、モーゼの十誡を原語の希伯来語に読んで実にそのシナイ山を轟かした言辞であつたことを覚ります。
問、爾う御説明になりまして聖書の如何に貴き書である乎が察せられます、然し、斯かる貴さは私の到底想像することの出来ない所であります。
答、爾うであります、聖書が神の言たるの実証は之を一つの古典として攻究した位ひで分かるものではありません、之を数十百回謹読するのは勿論、其教訓を自己の身に実行して見て始めて其神の言なることが分かるのであります、イエスは白されました、
  人、若し我を遺しゝ者の旨に従はゞ此教の神より出るか、又己(人)に由りて言ふなるかを知るべし(約翰伝七章十七節)、
詰る所、聖書が神の言たるを識るの途は唯是れ一つであります、聖書の言に貴下の良心を照らされて御覧なさい、其罪の詰責に遭ふて御覧なさい、爾うして終りに其救ひに与かつて御覧なさい、貴下は其、誠に実《まこと》に神の言であることをお信じなさるに至りませう、私が今日申上たい事は是丈けであります、サヨナラ。
 
(26)     「研究」読者の新年
                     明治37年1月21日
                     『聖書之研究』48号「雑録」                          署名なし
 
 去年の未より今年の始に懸けて本誌の読者諸君にして余輩に歳末歳始の祝詞を恵まれし仁は総て二百五十一名なり、其中二十一通は北海道より、七十九通は東山道より、八十四通は東海道より、九通は北陸道より、十六通は畿内より、二十通は山陰山陽の二道より、六通は南海道より、十二通は西海道より、四通は台湾、支那、并に米国より来れり、其中最も北なるは北見国稚内より、最も南なるは台湾安平より、最も東なるは米国桑港より、最も西なるは清国上海より来れり、世は暗膽たる戦雲に裹まれ悲憤にあらざれば慷慨ならざるはなきに、我儕は例に依て歓喜の声を挙ぐるの外、他に語るべきの言なきが如し、左に其最も注目すべき者を挙げんに、
 佐世保碇泊の軍艦〇〇より〇〇〇〇〇君は語を寄せて曰ふ
  三十七年に於て貴社御一統の御健闘を祈る
 手塚縫蔵君は信濃なる木曾山中より希望を伝へて曰く
  朝ぼらけほがらにわたる讃美歌や
    希望《のぞみ》の色は空に見えつゝ
 岩代の月館よりは菅野健三君又希望の声を伝へて曰く
(27) この新年も去る年の如く、多くの同人と共に忙はしく相迎へ候、新らしき太陽の光りは吾等の上にも輝き、狭い胸に多くの希望を宿し申候
 北海道札幌の逢阪信悪君は左の言を寄せらる、君に深く謝す、
  先生よ、余は先生を崇拝しません、この点に付ては安心して下さい。
 最とも嬉しかりしは大阪曾根崎なる水野いし君が老の身淋さに、唯独りの息子を失はれし後に左の如き歓喜の声を発せられしことにぞある、我儕は一同此姉の為めに祈らん、
  神さまは大なる御意みを御かけくだされ、是まで心に積み来たりし憂き悲しみもだん/\と忘れさしてくだされ、此度ははじめて希望と喜びとを以て老の新年を迎ふる事が出来申候
 最も懇切なりしは東京白山に同宿せる「角筈十二人組」と称する一騎当千の連中より連名にて紫竜胆を美事に画ける端書一葉を送られしことなり、其他北見国稚内よりはオクホック海に棲息せる鮭魚を生捕りして之を糟漬として贈られ、後志国小樽よりは香気馥郁たる林檎数百個を送られて我儕を慰められ、信濃よりは真綿を送られ、大阪よりは身と心とを潔めよとてロンドン製の香水石鹸を送られ、上州高崎よりは千柿を、上総鳴浜よりは九十九里にて大網に罹りし鯛と平目と鮫とを送らる、我儕勿論物其れ自身を悦ぶ者に非ず、精神上の関係が物を以て顕はるゝまでに深く成行きしを悦ぶのみ、密かに思ふ、斯かる幸福なる雑誌記者は日本国中余輩を除いて他になきことを。
 因に記す、祝詞二百五十余通の中、三十一通は信濃より来れり、次は東京の二十六通、次は石狩の十三通なり、此事勿論細事なりと雖も亦以て本誌分配の密度を示すに足らん乎。
(28) 茲に祝詞を送られしと、送られざりしとに関せず、本誌読者諸君全体の上に著しき神の恩恵の降らんことを祈る。
 
(29)     陸中花巻の十二月廿日
                     明治37年1月21日
                     『聖書之研究』48号「雑録」
                     署名 参会者の一人
 
   外には雪は二尺余り、
   寒気は膚《はだえ》を劈くばかり、
   北上の水は浩々と流れ、
   岩手の峰は遙々と聳ゆ、
   内には同志は四十余り、
   歓喜は胸に溢るゝばかり、
   讃美の歌は洋々と挙り、
   感謝の声は咽々と聞ゆ、
   嗚呼美はしき此集合、
   聖霊は奥羽の野に下れり、
(30)   我儕は深雪の中に在て、
   栄光《さかえ》の天国《みくに》に居る乎と想へり、
 
(31)     基督教と社会主義(再び)
                     明治37年1月21日
                     『聖書之研究』48号「雑録」
                     署名 内村生
                                    世には基督教を社会主義と混同する者が多くある、然しながら余輩が曾て本誌に於て述べし通り基督教は社会主義とは其根本の主義を異にする者である、爾うして二者同一の者でないことは社会主義者にして甚だしく基督教を嫌ふ者が多くあるので分かる、我国に於ける此主義の主動者の一人なる幸徳秋水氏が近頃発行になりし「直言」と云ふ雑誌に寄送されし短文の中に左の如き言がある、
  予は直言す、予は儒教を好む、仏教は少しく嫌ひ也、神道は甚だ嫌ひ也、耶蘇教に至りては尤も嫌ひ也、酒を飲むな、煙草を飲むな、借金をするなと云ふ人は極めて嫌ひ也、
 是を以て見ても社会主義が基督教の親友でない事は最も明白に分かる、二者の関係が社会主義者の方から斯くもハッキリと証明されて、余輩は返て喜ぶ者である。
 但し社会主義者に斯くも嫌はるゝ基督信者が今日まで社会主義并に幸徳氏に対し尠からざる同情を表し来りしことは氏に於ても承認せらるゝ所であらふ。改行
 
(32)     伝道彙報
                     明治37年1月21日
                     『聖書之研究』48号「雑録」
                     署名 内村生誌す
 
 去月廿日は陸中花巻に、本月三日は遠州堀の内に地方伝道を試みたり、花巻に於ては十数里の遠きより大雪を侵して来り会する者もありて、総勢四十余の兄弟姉妹相会して最も恵まれたる会合なりき、堀の内に於ては富士合資会社製茶所の二階に於て福音的会合を開き、掛川よりは日本メソヂスト教会牧師白石氏の来援ありて、是れ亦最も愉快なる「聖き新年宴会」なりき、『聖書之研究』は教会建設を目的として発行せる者にはあらざれども、此誌の読まるゝ所には一種異様の信仰的団躰の起りつゝあるは事実なり、成る者は成らん、若し神の聖旨に適はゞ、我儕は一団躰として世に立つを得ん、若し適はずば、単に惟りイエスを信じて止まんのみ、然れども我儕の霊交の日に月に濃厚を加へつゝあるは蔽ふべからざる事実なり。
 
(33)     『日本国の大困難』〔角筈パムフレット第五〕
                         明治37年2月5日
                         単行本
                         署名 内村鑑三 述
 
〔画像略〕第七版表紙143×106mm
 
(34)     日本魚類図説を評す
                        明治37年2月10日
                        『新公論』19年1号
                        署名 内村鑑三
 
 日本国に誇るべきもの尠しとせず、而かもそは其政治にあらず、法律にあらず、文学にあらず、貴族制度に非ず、是れ皆な耻づべきものにして、誇るべき者にあらず、人事的日本は世界の敬崇を惹くに足るの国に非ず。
 日本国の誇るべきものは主として其天然物の中に在り 其山に在り、河に在り、其林に巣を構ふ鳥にあり、其河海に泳ぐ魚にあり、即ち日本人の少しも干与せざる者の中に在り、日本国は天然的楽園にして人事的練獄なり、故に其美を探らんと欲する者は其天然に往て其社会に到るべからざるなり。
 殊に其魚類は美中の美なり、日本国は魚類学者の楽園なり、全世界の魚類の美は粋然として日本国の河海に鍾るが如し、之に印度産の者あり、北洋産のものあり、而して日本海は特に魚類学的一区域を形成す、魚類学的に視たる日本国は政治学的に視たるが如き偏僻固陋の国にあらず、魚類学的日本は宇宙的なり、之に支那印度の産あれば、亦米洲カムサッカの産あり、殊に其東海の産の欧洲地中海のそれに酷似するは斯学の泰斗アルベルトグンテルの驚駭を惹きし所なり、若し日本国の国是にして魚類学の指明に依て定められしならんには、其数育の如き決して今日の如く、狭隘にして局地的なる者ならざりしならん。 大滝圭之介君外二君の著に成り、裳華房主人の発行に成る『日本魚類図説』は我国の此美を世界に紹介せんと(35)して成りたるものなり、其図画の精美なる、之より以上の者を求むる難し、第一集四枚はスヾキ、アマダイ、マガツヲ、ブリの四種を載す、之に添ふるに精細なる解説あり、之を読んで一々実物に接して其説明を聞くの感あり、余は斯かる大著作に従事せられし著者の熱心と其発行を引受けられし裳華房主人の義気と大胆とに敬服せずんばあらず、斯かる事業は文明諸国の例として政府自から進んで之に当るを常とす、然かも議会操縦と汚吏産出の外、何の為す所なき明治政府は之をしも為す能はずして、民間の書肆が多くの危険を冒して之を為すに至ては政府の耻辱は書肆の名誉と相対して更らに一層判然たるを覚ゆ。
 余輩をして畏憚なく本著の欠点を言はしめよ、其説明の余りに乾燥無味なること其一なり、科学は文学的修飾を忌み嫌ふとは云ふなるべけれども、然りとて科学的(殊に魚類学的)智識の欠乏する今日の日本人に向て魚類学的術語を以て魚類の特質を述ぶると雖も、之に依て益せらるゝ者至て少数なるべし、民を教へんと欲する者は努めて民の言語に依らざるべからず、是れ勿論俗に媚びるが為めにあらず、天然物を天然の愛子なる平民に紹介せんがためなり、天然物を学者の専有物とするは国家を貴族閥族の私有物とせんとするに均しき過失なり、余は本書の著者三君に由て日本産の魚類が日本国平民の楽しむ所のものとならんことを欲す。
 其第二は各府県産額の統計を事実らしく掲げられしことなり、大阪府のスヾキの産額一八〇貫にして其価格二九四円なりしとのことの如き、秋田県のマガツヲの産額は七五貫にして其価格の八円なりしとのことの如きは児戯に類する計算にして、其大政府の統計年鑑に掲げありしを以て、是を事実として認むべしと云ふは科学的精神と相距る甚だ遠きものなりと信ず、世に虚偽の事多しと雖も日本国の府県庁の製作に成る統計表の如きはあらず、余は『真実なる虚偽』として之を思想外に撤去せんと欲す。改行
(36) 第三は価格の余りに高きに失することなり、其図画を収縮するも、紙質を更ふるも可なり、其価格の容易く平民の支出に合ふものたらんことを望む。 第四は英文に多くの謬あること是なり、世界に示すの目的を以て上梓せられし此好著に此欠点あるは甚だ惜むべし。
 然れども、其優点は其欠点を償ふて優に余りあり、余は日本国と其天然物を愛する者の何人も一集を坐右に置いて其天真にして偽善ならざる愛国心を養ひ、併せて著者並に発行人の其美挙を賛けられんことを望むものなり。
  大滝圭之介、藤田経信、日暮信三氏合著。
  東京日本橋区大伝馬町裳華房発行。
  彩色図画四枚、説明附、正価金弐円。
 
(41)     〔基督信者の春 他〕
                     明治37年2月18日
                     『聖書之研究』49号「所感」
                     署名なし
 
    基督信者の春
 
 心の春は既に到れり、今や天地の春は臨まんとす、鳥は囀りて我が衷なる歓に和し花は咲いて我が霊なる栄を彰さんとす、春陽将に内外より我に迫らんとす、我が跳躍の時は来れり。
 
    昼夜の別
 
 世の夜は我儕の昼なり、世の昼は我儕の夜なり、我儕は人の泣くべき時に歌ひ、人の歓ぶべき時に悲む、是れ我儕が人と哀楽を偕にせざるが故に非ず、我儕の望む天国は星界の如くに世の暗黒に遭遇するにあらざれば之を観ること能はざればなり。
 
    探梅
 
 君子何処に在る、義人、何処に在る、真心を以て神とキリストとを信ずる者は何処に在る、世は凋落を極め、(42)正義は利益と混ぜられ、キリストは僅かに隠密《いんみつ》の所に於て信ぜられて、我は我が信を語るの友を求めんと欲して得ず、世評の厳寒を怕れずして咲く花は何処にある、迫害の裡に在て香気馥郁たる信者は何処に在る、我は見んことを欲す、信仰の梅の花を、我は途の遠きを厭はず、坂の嶮しきを懼れず、梅花に遭ふて我が心中の慰藉《いせき》を談じ、堅氷の裡に清和の春を語らんと欲す。
 
    異端と真道
 
 悪を避けよ、然らば汝は神を信ずるを得んと云ふは異端なり、真正の基督教は曰ふ、神を信ぜよ然らば汝は善を為すを得べしと、心を潔くせよ、然らば汝は神の聖霊の恩賜《たまもの》に与かるを得んと云ふは異端なり 聖書は明かに我儕に教へて曰ふ、神の聖霊を受けて汝の心を潔められよと、行を先きにして信を後にするは異端なり、基督教は信を先きにして行を後にする者なり、而かも人その神の恩恵を信ずる薄きや、彼等は自己の行為の報賞《むくひ》として天の恩寵に与からんと欲す、天の地よりも高きが如く神の意《おもひ》は人の意よりも高し、神が我儕の不信を怒り給ふは我儕が我儕の行為を以て神の恩寵を買はんと欲すればなり。
 
    外を看よ
 
 外を看よ、内を省る勿れ、日に三たび神を仰ぎ瞻て己を省る勿れ、健康は蒼き空天にあり、清き空気にあり、広闊極りなき神の恩恵にあり、狭き室内に臭気多し、狭き胸裡に何の善きことあるなし、清風をして臭気を排はしめよ、聖霊をして邪慾を斥けしめよ、戸を開いて外気を入れよ、室内に蟄居して其処に無益の工風を凝らし(43)て、小君子たらんと努むる勿れ、之に神の正義を入れて聖き宇宙の人となれよ。
 
    敵《あだ》の前の筵
 
 神は我が敵の前に我がために筵を設け給へり(詩篇二十三篇) 彼は我がために言論を以て我を弁護し給はざりし、否な、我をして黙《もだ》す羊の如くに我が敵の前に口を噤《つむ》がしめ給へり、然れども神は我に恩恵を下して我が敵の前に我を義とし給へり、神の議論は言論にあらず、威力にあらず、静かにして永く続く恩恵なり、踏まれて後に栄を受くる者は神の人なり、挙げられて後に恥に沈む者は罪の人なり、神の裁判は期を待て来る、我儕は千百年の後に神の審判を待つべきなり。
 
    修養と祈祷
 
 修養は神に依らずして自から高く昇らんとするの法なり、祈祷は神に依て直に潔められんとするの途なり、修養は人の法にして、祈祷は神の途なり、我儕はプラトー、シセロ、孔子、王陽明に傚つて聖人君子と成らんと欲せずして、パウロ、アウガスチン、ルーテル、コロムウエルに傚つてクリスチャンたらんことを求ふべきなり。
 
    与ふるの福祉
 
 受くるよりも与ふるは福ひなり(行伝十章卅五節) そは人は与へんと欲して与ふること能はざればなり、与ふるに大なる神の能力を要す、神より物を受くるのみならず、神より聖き霊を賜はりて、吾儕の慾念を断絶せら(44)るゝに非れば、吾儕は与へんと欲して与へ得ざる者なり、吾儕が与ふるを得て喜ぶは吾儕が神より与ふるの心を得たればなり。
 
    最も恐るべき刑罰
 
 神に逆ひたればとて其刑罰として直に病に罹り、貧に迫り、又は社会の地位を失ふものではない、否な、多くの場合に於ては身の境遇の改善は神を捨去りし結果として来るものである、神に逆ひし覿面の刑罰は品性の堕落である、即ち聖きことゝ高きことゝが見えなくなつて卑きことゝ低きことゝを追求するやうになることである、然しながら是れ最も恐るべき刑罰であつて、人に取て実は是よりも重い刑罰はないのである、爾うして此刑罰の殊に重い訳は之を受けし者がその刑罰たるを解し得ないのにある、我儕は神に祈て如何なる他の刑罰を受くるも此恐るべき品性堕落の刑罰を受けざるやう勉むべきである。
 
(45)     三位一躰の教義
                      明治37年2月18日
                      『聖書之研究』49号「問答」                          署名 内村鑑三
 
    其一、余は断じてユニテリアンに非ず
 
問、基督教に三位一躰と云ふ事があるさうですが爾うであります乎。
答、有ります。
問、それは何う云ふ事であります乎。
答、それは神は一つである、然し単独(unit)ではない、彼は三つのベルソナ(persons)として存在する、然かし三つの異つた神があるのではない、父、子、聖霊、各神であつて、爾うして神とは此の三位の一致したる者(unity)であると、斯う云ふ事であります。(ペルソナの解釈は後で致します)
問、私には込入て少しも解りませんが、今日でも爾う云ふ事を信じて居る者があります乎。
答、有ります、私も爾う信ずる者の一人であります、私は確かに世に謂ふ唯一神教者即ちユニテリヤンではありません。
問、神は一つである、然かし三位である、然かし三つの神があるのではないと、夫れは全く解し難い事であり(46)まして、私には此点に於てはユニテリアンの信仰の方が優に単純で且つ理に合ふて居るやうに思はれますが、如何です乎。
答、左様であります、ユニテリヤンの信仰の方が単純で合理的である乎も知れません、現に近頃私の知つて居る或る有名なるユニテリヤンの教師先生が私共の前で「我等ユリテリアン教徒は三位一躰と云ふやうなそんな馬鹿気切つたる事を信じない」と申されました、又近頃では自からオルソドックス(正統派)であると称せられる人々の中でも、イエスの人格であるとか、社会救済であるとか云ふ事に重きを置かれまして三位一躰の教義の如きは全く度外視され、斯かる信仰は懐くも棄つるも基督教の信仰には何にも関係がないなど云ふ人が沢山居られます、然かし私は爾うは信じないのであります、私は三位一躰は基督教の教義の中で最も大切なるものゝ一つであると信ずるのであります、斯く信ずるのは勿論、或る外国宣教師を歓ばせんとするからではありません、斯く信ずるも信ぜざるも私の身に取ては何の利益も損害もないのであります、前にも曾て申上げました通り、私は私の信仰の絶対的自由を守らんがために世の教会なるものとは何の関係をも有たない者であります。
問、兼ねて爾う承け玉はりました故に私は殊更らに此点に関する貴下の御信仰に就て伺ひたく思ふのであります、只、私の如何しても解りませんことは、近世教育を受けられ、且つ理学の御嗜好ある貴下が三位一躰と云ふやうな、私供の眼から見ますれば全然不合理なる事を真面目に信ぜられると云ふ事であります。
答、御懐疑《おうたがひ》は御尤であります、私自身とて一朝一夕にして此信仰に達した者ではありません、私も事物の単純を愛する者でありますから、若し唯一神説が私の心をして満足せしむるに足る者でありますならば、私も速《と》(47)くに之を信じたであらふと思ひます、然し三位の神を信ずるにあらざれば私の理性も心情も平穏なる能はざるが故に竟に今日の信仰に至つたのであります、故に此大問題に関する御質問の廉々に対しては私の出来得る限りの力を以て之に応じたく欲ひます、然し問題は至て広闊《ひろく》ありますから御質問は成るべく簡潔に願ひます。
問、承知致しました、有難う厶います、それでは先づ伺ひますが、基督教の聖書は確かに三位一躰の教義を掲げて居ります乎、私はユニテリヤンの教師の口より聞きました、又其著書に由て読みました、聖書は斯かる事に就ては沈黙である、是れは後世の基督信者の迷信に成つた教条《どぐま》であるとのことでありますが、それは如何《どう》いふものでありますか。
 
    其二、聖書に顕はれたる三位一躰
 
答、御尤の御質問であります、私もユニテリヤンの人々より度々斯かる責問を受けました、 うして私も一時は非常に迷ひました、然し聖書の研究を継けるの結果、今は其迷誤は解けました、彼等の曰ふ所を貴下の御懐疑として一々述べて御覧なさい。
問、ユニテリヤンは申します、聖書中、三位一躰を明白に指示《さししめ》して居る所は唯一箇所しかない、それは英訳聖書の約翰第一書五章の七節であつて、それを和訳すれば
 天に在て証をなす者は三なり、父と道《ことば》と聖霊となり、而して此三つは一なり。
となるとのことであります、然かし三位一躰論者が金城鉄壁として頼りし此一節は近世批評学の解剖刀に由(48)て聖書中に存在すべからざるものとして切取られたさうであります、爾うして現に改正英訳聖書には此一節が刪つてあることは私の承知する所であります、貴下は其事を御承知であります乎。
答、承知であります、私は常に怪んで止みません、ユニテリアンの先生方が、今日に至るも尚ほ此事柄を取て三位一躰説の攻撃の材料に使はるゝ事を、爾うして是れは日本のユニテリアン教徒に限りません、学術進歩を以て誇る新英洲に於てすら、歴々のユニテリアン学者が此古き旧き材料を引いて三位一躰説を嘲けりつゝあります、是れは実に奇態な事であります。
問、然れば三位一躰の教義は此疑はしき一節の上に掛つて居るのでないと仰せられるのです乎。
答、勿論です、此一節の疑はしいものである事は早くより聖書学者の中に解つて居りました、故に近頃或人が或るユニテリアンの博士の攻撃に答へて申しました、「過ぐる百年間、名を知られたるオルソドックス派の神学者中、此一節に拠て三位一躰の信仰を唱へし者なし」と、私も爾う信じます、又ユニテリアンの中でも公平なる聖書学者ヱヅラ、アボツト氏の如きは明白に三位一躰の教義の此一節と浮沈を共にする者でない事を唱へて居ります。
問、若し爾うならば、聖書の何処に三位一躰が教へてあります乎。
答、聖書の何処にとの御質問であります乎、私は聖書到る処と申上げたい程であります、キリストの神性問題と三位一躰問題とは相関聯する問題であることは申上げるまでもありません、爾うして直接に又は間接にキリストの神性を表示して居る所の聖書の語は亦直接に又間接に三位一躰を表示するものであります。
問、例へば何ういふ処に三位一躰が表はしてあります乎。
(49)答、先づ誰にも能く解かる処から申上げませう、馬太伝第廿八章十九節に在るキリストの世界伝道命令の語に就て考へて御覧なさい。
 爾曹行きて万国の民にパブテスマを施し、之を父と子と聖霊の名に入れて弟子となし云々
此処に三位一躰の教義は最も明白に示されて居ります、若し此一節を希臘原文か又は英訳聖書に於て読まるゝならば更らに明白に御解かりになることゝ思ひます、茲に「名」とあるのは英訳では the Name とありまして、一つの名であります、若し父と子と聖霊とが三個別々の神でありますならば the Names 即ち一つ以上の名と記されなければなりません、日本語、支那語を除いては其他の国語には大抵名詞に単数のものと複数のものとがあるのは御承知の通りであります、爾うして茲にある「名」は単数名詞であります、単数名詞が三個、即ち複数名詞を受けて居るのであります、それ故に此一句を解しますれば、父と子と聖霊なる一つの神となるではありません乎、爾うして是れは確かに三位一躰の神を示して居るではありません乎。
問、其他に何処に三位一躰が顕はして有ります乎。
答、哥林多後書十三章十四節に有るパウロの祝福の辞を御覧なさい、
 願くは主イエスキリストの恩と神の愛と聖霊の交際《まじはり》、爾曹|衆《すべて》と偕にあらんことを、
恩《めぐみ》も愛も平和の交際も皆な神より出づる者なることは誰も知つて居ります、然るに茲処には此等の三つの恩賜《たまもの》が三つの実在者より下るものとして記してあります、此事も亦確かに三位の神を示すものではありません乎、此処に云ふ「神」は「父なる神」を指す者であることは謂ふまでもありません、
問、.念のためモウ一箇所、貴下が此教義の憑語《テキスト》とせらるゝ所を示して下さい。
(50)答、約翰伝十四章以下三章は父と子と聖霊との関係を説いて、最も懇切に三位の神を我儕に紹介する者であります、其中十四章の廿三節を御覧なさい、 イエス………曰けるは若し人(我を愛せば我言を守らん、且つ我が父は之を愛せん、我儕来りて彼と偕に住むべし。
「我儕」の二字に注意して下さい、イエスは自己を天の父と同一の者と見做されて居ます、彼は父と偕に信徒の心に宿らんと茲に言はれて居ます、爾うして二者が斯く宿らせ給ふに「慰むる者」又は「真理《まこと》の霊《みたま》」又は「訓慰師《なぐさむるもの》」即ち聖霊を以てせらるゝことは前後の関係から見て明かであります、即ち聖書の此語に由りますれば聖霊として我儕信者の心に宿らるゝ者は単独の神ではなくして彼は父、子、聖霊の神であるとのことであります、「我儕来りて彼と偕に住むべし」とはキリストの貴き語であります。
問、新約聖書には或は三位一躰の教義を醸すやうな斯かる語があるかも知れません、然しながら是れ或は当時の思想界の感化を受けた為であつて、基督教の本源たるユダ教は厳格なる惟一神教を唱へた者でありますから、ユダ教の聖典たる旧約聖書には三位一躰と云ふが如き教条は其痕迹だも留めないと思ひますが、爾うではありません乎。
答、大胆なる御質問であります、基督教は勿論ユダ教より出た者であります、故に新約の教義は皆な旧約に根ざして居るものであります、旧約聖書は厳格なる惟一神教を唱へる者であるから、其中には多神教に類したる三位一躰の教義の如き者は其痕迹だも留めて居るまいとは、御疑問としては至て痛快のやうに聞えますが、然かし失礼の申分ではありまするが、聖書御研究の程度を御示しになるためには少しく貴下の御不利益では(51)あるまい乎と思ひます。
問、御冷かしは御免蒙ります、只、私の疑ひの点を明かにして下さい。
答、先づ創世記の第一章第一節を読んで下さい、聖書の劈頭第一の此一節に三位一躰の教義が含まれてあると私が申しましたならば貴下は驚きなさるでありませう。
問、如何にも左様であります。
答、然し是は何にも私の牽強附会の説ではありません、若し少し深く聖書を究めて見ますれば此一節の中に実に容易ならぬ、而かも一見して不審に堪えぬ事実が示されて居ることが分かります。
問、それは何う云ふ事であります乎、伺ひたいものであります。
答、「元始に神、天地を創造り給へり」、茲に神とある名詞は単数名詞ではありません、希伯来語の Elohim でありまして、El とか、Eloah とか云ふ「神」と云ふ詞の複数であります、故に若し字義なりに此一節を解しますれば、元始《はじめ》に一つの神が天地を創造り給ふたのではなくして、一つ以上の神が之を創造り給ふたとのことであります、即ち宇宙万物の造主は God ではなくして Gods であつたとの事であります。
問、それでは聖書は始から多神教を教ゆる者であります乎。
答、爾うではありません、決して爾うではありません、其事は此一節を終りまで読んで見ますれば能く分かります、「神」を複数名詞に作つて居る此一節は「創造る」なる働詞を単数に作つて居ります、爾うして「働詞は其数に於ては之を支配する名詞に一致すべし」と云ふ文法の定則に従ひますれば此一節は確かに文理に叛いて居るものであります、之を英文法を以て言ひ顕はしますれば God makes は正当でありまして Gods(52) makes は間違ひであります、然かしながら茲に此明状《あからさま》なる文法上の間違ひが聖書の劈頭第一に行はれて居るのであります、或る批評家が聖書には文法上の間違が沢山あると云ひて此書を軽蔑《かろしめ》ますが、それは一理ある言であります、聖書は髪の大真理を顕はすためには人間の造つた文法上の規則には拘泥致しません、聖書は必要の場合には斯かる法則は自由に之を破ります、爾うして創世記第一章第一節が其一例であります。
問、然らば文法上の此違範は何を意味しますか。
答、一つ以上の神が相一致して一つの神として天地万物を創造り給ふたとの事を意味します。
問、それは実に奇態な事を伺ひます、然かし茲に云ふ「神」Elohim なる複数名詞は習慣上単数名詞として用ひられたものではありません乎、其一例には漢字の「朕」は国民全躰を代表する詞であつて、実は「我等」と訓むべき者であるさうです、希伯来語の Elohim(エロヒム)も其類ではありません乎。
答、或ひは爾うかも知れません、然かし更らに奇態なることは同じ創世記第一章の第廿六節に於て顕はれて居ります。
 神言ひ給ひけるは我儕に象りて我儕の像の如くに我儕人を造り云々
神は茲に三度まで自己を我儕と称びつゝあります、又同じ三章の廿二節には
 ヱホバ神曰ひけるは視よ、かの人(罪を犯せる人)我等の一《ひとり》の如くなりて云々
「我等の一《ひとり》」と言ひ給ふ神は決して単独ではありません、斯かる神は其中に自他相対の関係のある神でなければなりません、此事を哲理的に解するは困難であると致しまして、聖書の此記事の中に此解し難い事実の伏在して居ること丈けは明かであります。
(53)問、問題は愈々六ケ敷くなりました、旧約聖書は同一の事を他の所に於ても示して居ります乎。
答、居ります、然かし此事は和訳又は英訳聖書で読んでは分かりません、然かしながら旧約聖書の書かれたる希伯来語で読んで見ますれば明かに分かります。
問、其二三の例を挙げて下さい。
答、聖書中、神を Elohim(エロヒム)とか Adonim(アドニム)とか称して居る所は皆な此類であります、而うして旧約聖書は神を称び奉るに滅多に単数名詞を使つて居りません、其他左の例を御覧なさい。
 汝の少き日に汝の造主を記《おぼ》えよ(伝道之書十二章一節)。
茲にある造主とは英語に訳しますれば Creators と云ふべき者でありまして複数名詞であり升。又汝を造り給へる(Makers と訳すべきもの、複数名詞なり)は汝の夫なり(以賽亜書五十四章五節)。
其他枚挙するに遑ありません、旧約聖書の神が単独の神でない事丈けは疑ない事であると思ひます。
問、然かし其事を聖書の他の明言と如何して一致させる事が出来ますか、モーゼはイスラエルの民に告げて曰ふたではありません乎。
 イスラエルよ、聴け、我儕の神ヱホバは惟一のヱホバなり(申命記六章四節)
此一節は以て惟一神教の毀つべからざる基礎となすに足りるではありません乎。
答、左様でぁります、然し此所は其御質問に対して御答へ申すべき所ではありません、貴下の御質問の主旨が旧約聖書に一位以上の神の存在を認めて居る所がある乎との事でありましたから、私は其証拠を挙げたのでぁります、如何して惟一の神エホバが三位である乎、それは全く別問題であります。
(54)問、然れば其事は後で伺ふ事に致しませう、然かし只今伺つて置きたい事は旧約聖書の何処に此エロヒムなる者が三位であると云ふことが記してあります乎。
答、三位一躰の教義は新約聖書に於て明かに示された者でありまして、旧約聖書に於てはたゞ其徴候を見るまでゞあります、然かし徴候とは云ひますものゝ之を新約の黙示と善く較べて見ますれば誤るべからざるものであります。
問、それは何所にあります乎。
答、問題が余り長くなりまして、冗長に流るゝの虞れがありますから私は茲に之を聖句の摘指に止めて置きまして後は他の問題に移りたく思ひます、子なる神の存在は創世記廿二其十一、十二節、箴言八章廿二節より卅一節まで等に示されて居ります、聖霊の神の存在は創世記一章の二節、以賽亜書六十三章の十節、以西結書卅七章九節等に顕はれて居ります、御暇の節に是等の箇所を御照合せなさつて御覧なさい、多少御了解になることもあらふと思ひます、
問、然れば御説に従ひまして聖書には一位以上の神のあることが教へられてあると致しませう、然かし茲に至て他の大問題が起つて来るのであります、即ち是れ理性に合ふ教義である乎、何時《いつも》の御説の通り宗教は理論以上であると致しまするものゝ、然りとて理性に全く適はない事を私供は信ずる事の出来ないのは御承知の通りであります、貴下は三位一躰の教義は理性を以て近づくことの出来る問題であると御信じなさるのであります乎。
 
(55)    其三、三位一躰の哲理的説明
 
答、左様であります、私供は理性を以て、即ち哲理的に此高遠なる教義を説明し尽すことが出来るとは言ひません、然しながら神に関する真理である以上は哲理的には攻究し得ない真理であるとも言ひ得ません、人間の理性の届く所までは最も有益に攻究し得る問題であると思ひます。
問、然らば明状に伺ひますが、(ドウゾ褒涜の罪を以て私を責めないで下さい)、如何して三つの者が一つであり得ます乎、若し3=1であり、1=3であると言ひますならば数学の土台が崩れて了ひまして世に算数学なるものは其迹を絶つに至るではありません乎。
答、御質問は御尤であります、西洋にも斯かる質問を試みる者があります、バページ氏の三位一躰に対する数学的反対説なるものは貴下の御質問と同じものであります。
問、それに対して貴下は如何御答へになります乎。
答、私は斯う答へます、貴下は神の何たる乎を能く御考へにならない、貴下は神は石か木であるやうに考へられて居る、若し三個の石が一個の石であると云ふならば数理学の根本は崩れて了ひませう、然しながら意志と感能と惰性とを備へたペルソナが三つ合して一つであると云ふことは直に以て背理として排斥することはないと、斯う答へます。    問、其事は私にはドウしても分かりません、全躰ペルソナとはどういふ者であります乎。
答、其御質問は実に適当なるものであります、ペルソナの何たる乎が善く分らずして三位一躰は論ぜられませ(56)ん。
問、然らばベルソナの御説明に就て充分に伺ひませう。
答、ペルソナは拉典語でありまして、英語で Person とか Personality とか云ふ詞であります、此詞を和訳し又は漢訳するのは至て困難であります、英華字典には此字を「一個人」とか、「一位」とか、又は「為人」とかに訳してあります、是れは何れも人に属する性質を示した訳字でありまして、未だ以てペルソン又はペルソナの真意を尽したものとは言へません、勿論吾人は始めに人に由てベルソナの何たる乎を知るのでありますから、人の属性として之を考ふるのは左もあるべきでありまするが、然りとてベルソナは必ず人に属する性であると云ふのは大なる間違であります、ペルソナは霊の属性であります、さうして霊は人に限りません、然り、完全なるベルソナは人に於て顕はるゝものではありません、人は不完全なるベルソナであります、完全なるペルソナは神であります。
問、さう仰せられましてもペルソナの説明にはなりません。
答、承知致ました、ペルソナとは意志と智性と能力と愛心とを備へた実在物であります、さうして之等を完全に備へた者は神のみであります、人は神の象に像られて造られた者でありますから、矢張りペルソナではありまするが、然かし不完全なるペルソナであります、神の事を攻究する時の普通の誤謬は人を本位として立てゝ神の事を人の事より推断することで有ます、然かし完全は不完全より推して知る事の出来るものではありません、完全の標準は完全其物であります、神を知つて始めて人を知ることが出来るのであります、ベルソナの何たるも之を完全に知らんと欲すれば神に於て之を知るより外に途はありません。
(57)問、ペルソナの何なる乎は御説明に由て少しく分かりました、然かしそれがドウして三つ相集《あいよ》つて一つで在ることが出来ます乎。
答、ドウしてとの空理屈《からりくつ》を申上げることは出来ません、然かし其実例に近きものを申上げることは出来ます、聖書の教訓で我国の漢学者流が非常に嫌ふ一節があります、それは夫婦に関する聖書の教訓であります、
 是故に人は其父母を離れて其妻に好合《あ》ひ二人一躰となるべし(創世記二章十四節)
其通徳上の可否は別問題と致まして、此一節の中に深い心理学上の真理が含まつて居ることは確かであります、即ち夫婦たる者は二個別々のペルソナ性を有したる個人でありますけれども、若し其意気相投じ、熱望相合するの場合に於ては二人は実に一躰と成るとの事実、是れであります、二人が一躰、即ち一人となる、而かも一人ではない二人であるとは数理学から言へば背理の最も明かなる者ではありまするが、然かし愛情を有する人の特性として考ふれば決して怪しむに足りません。
亦近世に至りまして国家学なる者が起りまして、学者は国家を一個人躰として論ずるに至りました、而かも国家なる一個人があるのではありません、国家とは四千万とか五千万とかいふ、個々別々の個人が相集て造つた者であります、然らば国家なるものは無いかと云ふに有ります、一定の意志を有ち、目的を有ち、之を組織する個人の盛衰に関らず進歩発達する国家なる一個人躰があります。
其事は何を示します乎、人の心は或る場合に於ては融和投合して一つと成ると云ふ事を示すではありません乎、四千五百万個の石を蒐めた所が矢張り四千五百万個の石より他の物ではありません、然かし或る高貴なる目的のために四千五百万の人を結合して御覧なさい、是れは一個人躰となります、即ち一国家となりまし(58)て、泰山をも崩し、大陸をも呑む力となります、数理学の理を以て人事を量る者は大に誤ります、ペルソナ性を有する人は多くの場合に於ては数理学の法則の外に立つ者であります。
勿論、夫婦と云ひ、国民と云ひ、孰れも不完全なるペルソナでありますから其糾合一致も随がつて不完全であります、故に彼等が一躰となるの状を以て直ちに之を三位の神に適用することは出来ません、然かしながら三位が一躰となりて存在することが出来るとの事を推量するためには充分なる思料として用ゆることが出来ます、バベージ氏の三位一躰に対する数学的反対論は之を心理学的に攻究すれば跡形なきものとなりて消ゆると思ひます。
問、御説は大分明白に分りました、然し爾う致した所が三位一躰の教義は吾人が神に就て懐く所の思想を無益に複雑ならしめ、それがため吾人が思想的に得る所は少しも無いではありません乎、「神は一なり」と云へばそれで人生をも宇宙をも至て容易く解釈することが出来まして、思想上の便利は此上ないではありませんか、爾うして総て天然の法則は単純なる丈けそれ丈け真理に近いではありません乎。
答、私は爾うは思ひません、成程、思想上、単純は甚だ貴ぶべき者であります、然かしたゞに単純なればとて夫れで貴いのではありません、多くの懶惰《なまけ》書生はたゞ単に問題の容易ならんことを祈ります、若し宇宙が水か水晶のやうな単純透明の者でありましたならば哲学者が出て之を説明せんがために彼の頭脳を砕くの必要がなくして嘸ぞ宜しからふと云ふ人もありませう、然し宇宙の美は斯かる容易なる美でない事は誰も知て居ります、宇宙の造主なる神の美も同じものであります、或る意味から云へば神は単純であります、彼には欠《かけ》もなければ雑《まじり》もありません、然しながら彼は容易に解し得らるゝ者ではありません、彼は安易の意味に於て(59)は決して単純でありません、彼は深遠であります、高遠であります、彼は simple ではありますが grandly simple であります、profoundly simple であります。
問、然かし神は完全なる者ではありません乎、爾うして完全なる者は独り自身で完全なる者でなければならないではありません乎、二三相集るにあらざれば完全なる能はざる者は不完全なる者ではありません乎、故に三位一躰の教義は神を不完全なる者として世に顕はす者ではありません乎。
答、左様であります、完全であるから三位でなくてはならないと云ふのであります、貴下の御質問其物が三位一躰の有力なる証拠となるのであります。
問、夫れはドウいふ訳であります乎。
答、貴下は完全なる者は独り自身で完全でなくてはならないと仰せられます、私もそれには御同意であります、神は彼自身にて完全なる者でなければなりません、彼は彼の造りたる人類又は宇宙と共にするにあらざれば完全なる能はざるが如き者であつてはなりません、彼は宇宙万物の未だ曾てあらざりし先きより完全なる者でなくてはなりません。
問、其事は私にも分かります、然し其事が三位一躰の教義と何の関係があります乎。
答、大なる関係があります、若し神は単独の者であつたならば彼は宇宙の造られし前にはドンな者でありましたらふ、神は永遠より愛であると云ひますけれども未だ愛すべき受造物の無かりし時に単独の神は何を愛しましたらふ、貴下は其時彼は彼自身を愛し給ふたと云はれませうが、然し自身を愛することは愛ではありません、少くとも愛の最も劣等なるものであります、愛は言ふまでもなく交換的であります、愛する者があり、(60)愛せられる者があつて始めて完全なる愛があるのであります、然るに憐むべし、……私は此語を用ゆるに躊躇致しません……貴下の想像なさる単独の神は、彼が宇宙万物を造り給ひし前には、自己以外に愛すべき者を有たれませんでした、彼はデホーの小説にある南洋の孤島に孤独の生涯を送りしロビンソン、クルッソーのやうな者でありました、漠々たる虚空の中に彼自身の外に「汝よ」と呼懸くることの出来る者なく、又「然り」と応ふる者もありませんでした、貴下は斯かる虚空の単独者を称して完全なる愛を備へたる完全の神と言はれます乎、博士ベーコンの言に「単独なる者は神にあらざれば禽獣なり」とのことがありますが、然かし神とても絶対的に単独たることの出来る者ではありません。
問、それならば其時、神は誰を友とし給ふたと仰せられるのですか。
答、彼の中に三位があつて、彼は彼自身の中に聖なる社会を備へ給ふたと言ふのであります、「三位の社会」the Society of the Trinity とは米国第一の神学者ジヨナサン、エドワードの始めて用ひし熟語でありまして、「社会」なる詞の何人の口にも上る今日に至ては甚だ俗化され易き語句ではありますが、然かし此事に能く注意して用ひますれば其中に深い真理を含む辞句《ことば》であると思ひます。
問、それでは神は個人ではない、社会であると仰せられるのであります乎。
答、爾うであります、若し貴下が「個人」、「社会」なる詞を今の神を嫌ひ宗教を嘲ける世人が用ゆる意味に於て用ゐられませんならば爾うであります、単独の神を哲学的に思惟するの困難は深く此問題に就て考ふる人の常に感ずる所であります、ユニテリアン派の第一等の思想家と見做されしジエームス、マーチノー氏が曾て此問題に就て述べた言がありまするが、単独の神を信ずるユニテリアンの思想家でも若し公平に思惟の順(61)序を追ふて攻究しますれば竟に此論結に達しなければなりません、彼は単独の神を造化の成りし前に思惟するの困難なるを述べ、斯る神は可能的潜勢力を抱蔵せる「大なる沈黙」と見るより外なきを論じ、竟に言を続けて曰ひました
 彼は力《フオース》に非ず、そは其時未だ之に抵抗するものなければなり、彼は原因に非ず、そは未だ結果なければなり、正義なる能はず、其時未だ之を施すの霊的実在物の神を除いて他に無ければなり、愛なる能はず、そは其時未だ愛すべき者なければなり、吾人は視るべき物なき時の視覚、接触すべき物躰なき時の力、思惟其物の外、思惟すべき事物のなき時の思惟に就て思惟せんと欲するも能はざるなり、吾人は斯かる単独にして隔絶せる神に対し、之に附与すべき一の属性を有せず、吾人が彼に就て言ふは、恰かも黒暗又は空白の無極に就て言ふが如く、単に否定を以てするのみ、即ち彼に資質なし、限界なし、感情なしと言ふに過ぎざるなり、而して資質と云ひ、限界と云ひ、感情と云ふも、是れ皆な受造物ありて以来の言なるを如何せん。
実に公平なる断案であると思ひます、単独の神の永遠の存在は思惟せんと欲して能はざるものであります。
問、若し爾うならば多神教こそ最も思惟し易き教理ではありません乎、三位一躰説と多神教との間に何の差異があります乎。
答、有ります、大にあります、多神教とは神の数が多くあると云ふに止りません、多神教の原理は意志を異にする神々の存在を信ずるにあります、風の神は山の神と主義方針を異にし、火の神は水の神と正反対の意見を懐き、正反対の方針を取ります、彼等の間には多種多慾の人間の間に於けるが如き、衝突、競争、反対が(62)あります、彼等は統一なき神類であります、彼等の名が異なるが如く、彼等は各自の目的方針を異にする者であります、斯かる者の総躰を完全なる一致の裡に純聖なる目的に向て進み給ふ三位の神と同視するは誤錯の極と称はなければなりません、三位であるから多神であると云ふのは前に述べました、バベージ氏の数学的反対論と同一轍の浅見でありまして、斯かる小児らしき反駁を以てしましては基督教の此大教義を少しも動かすことは出来ません。
問、何やら分かつたやうで未だ充分に分かりません 然し是より後を伺ふの必要はないと思ひます、多分貴下の御信仰の中に、何にか私供の未だ透轍し難い深い真理があるのでありませう、然しそれは夫れと致しまして、茲に尚ほ一つ此問題に就て貴下に御尋ね申したい事があります、それは貴下は斯くも滔々と貴下の御信仰を御弁護になりますが、然かし斯かる込入つたる御信仰は実際上何の益になりまするか、神は単独であらふが、三位であらふが吾人が斯世に在て社会人類のために尽す時に方ては何の差違もないではありません乎、私は世の神学者なる者が何の益もない事項に就て無益の思考を凝すのを見て、その何のためなる乎を知るに甚だ苦む者であります、「神は愛なり」、吾人の信仰は是れで足りるではありません乎、吾人は何を苦んで幽邃、極なき所にまで吾人の研究を持て行くのであります乎。
 
    其四、実際的信仰としての三位一躰
 
答、何よりも実際を貴ぶ日本人としての貴下の御質問として誠に御尤であります、吾等は斯国に在ては何事に就ても其実利実益を述べなければなりません、日本人は自ら哲学的の民であると称ひて誇りまするが、然か(63)し彼等の最も貴びまするものは哲理ではなくして実利実益であります、「是れは金に成る乎」、是れが彼等の最大問題であります、彼等は基督教は果して真理である乎と問ひません、基督教は国家のために、然り、我が為に利益である乎、是れ日本国に於ては何人も基督教に就て問ふ所であります、「三位一躰の実益」、私は御質問に接して戦慄《みぶるい》が致します。
問、何にも爾う卑い思考《かんがへ》を以て御尋ね申したのではありません、只、実際的方面から見て此教義に亦た何にか憑るべき所があります乎、それを伺いたく欲ふのであります。
答、それは有ります、勿論あります、大なる真理で竟には大なる利益を供《あた》へないものはありません、三位一躰の教義を以て単に空論家の弁証術の一課であると思ふ人は大に誤ります、勿論、斯かる深遠なる教理は浅薄なる人には何の実益をも供しません、国家改造とか、国民教育とか、慈善事業とか其位ひの事を以て人生最大の目的と致しまする人に取りましては、神は単独であらふが、或は三位であらふが、或は全く無い者であらふが、別に何の差障にもなりません、彼等は信仰的楽天家であります、何でも易く信じて易く天国に行うとする人達であります。
問、彼等の事はドウでも宜う厶います、実際的方面から観た三位一躰に就て御聞かせ下さい。
答、先づ始に此点から観た単独の神の不完全なることに就て申上げませう、単独の神は之を思惟するには容易い乎も知れませんが、然し実際に私共を慰むるに足るの神ではありません、単独の神は自から孤独の神であります、爾うして孤独の神は世の独身者の性を帯びて決して同情推察の心に富んだ者ではありません、彼は世界と人類との造主である乎も知れません、然し彼は之を造つて後に之を彼の手より放し、之を彼の定めし(64)天然の法則に委ね、彼れ自身は高く天の宝位《みくら》に棲止《とま》り、彼の足下に彼の造りし宇宙と人類とを瞰下し、其悲哀の状を視て、転た哲学的憐憫の情に堪へずと雖も、而かも彼の栄燿の天位を棄て汚濁の世に降て之を救はんとするが如き慈悲的熱心を起す者ではありません、単独の神は哲学的隠遁者の如き者であります、世を卑み、嘲けり、遠ける者であります、彼に我等の悲痛を訴ふるも彼は応へません、彼は荘厳なる君主であります、神聖にして近くべからざる者であります、新田義貞が勾当の内侍に書き送りしと云ふ一首の歌は、憐むべき人類が此単独無情の神に対つて懐く感であると思ひます、
   我袖の涙にとまる影とだに知らで雲井の月やすむらん。
爾うして単独の神は斯かる神でなくてはならないことは三位の神を否む人の神に関する観念に照らして見て能く分かります、十七世紀の自然神教信者《デイスト》は其一例であります、彼等は勿論無神論者ではありませんでした、然し彼等の信ぜし神は人類を遠く離れたる神でありました、彼等は勿論基督教の 「神の受肉」の教義を拒みました、彼等は神とは此穢れたる人類に斯くも近づく者ではないと唱へました、彼等は神を父と呼び得ませんでした、詩人ゲーテの如きは基督教信者が天の神を「我儕の愛する父」と呼ぶのを見て頻りに彼等の不敬を嘲けりました、然かし、ゲーテ、トマス=ペイン、フランクリン等を以て代表されたる十七世紀の自然教信者が決して温かきクリスチヤンでなかつた事は誰でも知つて居ります、冷たい単独の神を信じた彼等は冷たい宇宙観と人生観とを懐きました、是れは免かるべからざる事であります。
第二の実例は今日のユニテリアンであります、ユニテリアンは冷淡なりと私が申しましたならばユニテリアンの人々は怒りませう、然かし事実は決して蔽ふことは出来ません、ユニテリアン教徒自身が三位一躰教信(65)者《ツリニテリヤン》の狂熱を嘲けります、熱し得ないのがユニテリアン信者の特質であります、ユニテリアン教に信仰復興なるものはありません、又、改信の歓喜とか、悔改の悲歎とかいふものもありません、ユニテリアン教は平静であります、感情を脱して居ります、人類を愛しまするが、キリストの愛のためには愛しません、爾うして三位の神を拒みまするユニテリアン教信者の或者は神の存在の信仰をさへも信徒たるの必要条件とは認めません、善を為せば彼等は足りるのであります、彼等に取りては何にも必しも眼に見えざる神を信ずるの必要はありません、人類を愛しさへすればそれで彼等の目的は達せられるのでありますから、彼等の或者は「神に対する信仰も是れ亦た信条的《ドグマチツク》なれば不用なり」と叫びまして一神教の信仰をさへ無用視します。
問、それは如何いふ理由であります乎、三位の神を拒みたればとて神其物を拒み或は其愛を感じないと云ふ理由《わけ》はないではありません乎。
答、三位の神を拒む者の神に対する愛心の薄いのは其裏に深い理由があると思ひます、前にも申上げました通り愛は単独で存在するものではありません、愛は相互的のものでありますから単独の神には実は愛なるものはないのであります、ユニテリアン教徒は人を愛するのが愛であると云ひまするが、然し善く聖書を研究して見ますると、愛の本源の決して斯かる者でないことが分ります、神が愛なのであります、我儕は神を離れて愛の何たる乎を知らないのであります、
 主は我儕のために生を捐たまへり、是に由りて愛と云ふ事を知りたり(約翰第一書三章十六節)。
即ち主が我儕のために生を捐て給はざりせば我儕は愛の何たる乎を知らざりしとの意であります、又
 それ神は共生みたまへる独子を賜ふほどに世の人を愛し給へり(ヨハネ伝三の十六)
(66)とありまして、愛とは元々人が人を愛するの愛でもなく、亦キリストが人を愛するの愛でもなくして、愛の最も高貴なるもの、最も純正なるものは神が其独子を愛するの愛であるとのことであります、故に我儕キリスト信徒たる者は愛を人と人との間の愛に於て学んとは致しません、神がキリストを愛するやうに、又キリストが父なる神を愛するやうに、我儕は相互を愛すべきであると云ふのが 督教の道徳であります。
 イエス曰ひけるは………我は爾に就《いた》る、聖父よ、爾の我に賜ひし者を爾の名に在らしめ、之を守りて我儕(三位の神)の如く彼等(弟子等)をも一になし給へ(ヨハネ伝十七の十一)。
 爾の我に賜ひし栄を我れ彼等に授けたり、此は我儕(三位の神)の一なるが如く彼等も互に一ならん為なり(仝廿二節)。
 又爾(聖父)我(聖子)を愛する如く彼等をも愛することを知らしめんと也(仝廿三節)。
是等の詔節に由て見ましてもキリスト信徒の一致と云ひ愛と云ひ、皆な三位の神の相互の間に存する一致と愛とに傚ふべきものであることは明かであります、我儕が神は愛であると云ふは彼の衷に三位が在て其間に完全にして純正なる愛が存在して居るから爾う言ふのであります、純愛は聖なる三位を繋ぐの絆であります、此聖なる結縄がありまする故に我儕は神は愛であると云ふのであります。
問、それは私が今日まで聞いて居りました基督教の愛とは大分違ひます、私は神の愛とは人の愛に由て始めて知ることの出来るものであると思つて居りました。
答、それは大なる間違であります、人の愛を以て神の愛を量るのは曲がれる定木を以て宇宙を量るの類であります、人の愛を以てしては到底神の愛を識ることは出来ません、
(67) ヱホバを畏るゝ者にヱホバの賜ふその憐憫は天の地よりも高きが如し(詩篇百三篇十一節)。
 婦その乳児を忘れて己が腹の子を憐まざることあらんや、縦ひ彼等忘るゝことありとも我は汝等を忘るゝことなし(以賽亜書四十九章十五節)。
神の愛は神の愛を知るにあらざれば知ることの出来るものではありません、人は父母の愛を称へますけれども是れ僅かに他人の愛に較べて見て深い丈けであります、父母の愛は決して完全なる愛ではありません、之に多くの自分勝手の所があるのは誰も知つて居ります、彼等は或時は孝道を楯に取て自己の非理を其子に強います、彼等は子の心中の悲痛を知りません、彼等は理なくして怒ります、己れの命に従はないとて不孝の名を蒙らして辜なき其子を責立てます、故に骨肉の父母の愛より推して霊の父なる天の神の愛を量り知ることは出来ません、若し天父とはたゞに肉躰の父母の無限大なる者でありますならば、我儕は時としては広大無辺の宇宙に在て我儕の悲痛を訴ふるに所ない者であります。
然しながら天の父は肉躰の父母とは異います、彼は絶対的に無私の者であります、彼は永久に其独子を愛する者であります、爾うして今や其子に由て其同じ永久の愛を以て我儕罪人を愛し給ふ者であります、神の愛の高さ深さ闊さは我儕の想像以外であります、之に接して我儕は人間の愛の如何に憐れなるものである乎を知るのであります、爾うして神は直に其愛を我儕に顕はし給ふのであります、人間の愛に顕はれたる神の愛は其極々小部分であります。
斯かる次第でありまするから、三位の神の愛を知るにあらざれば到底神の愛の何たる乎を知ることは出来ません、其独子を世のために捐給ふ神の愛を知て始めて父の愛の何たる乎が分かるのであります、父の命とあ(68)れば死にまで之に従ひし子の従順を見て始めて孝の何たる乎が分かるのであります、聖父と聖子とより出て自己に就ては少しも語らずして、聖なる二者の栄光をのみ是れ彰はさんとする聖霊の恩化を受けて我儕は無私の生涯の何たる乎を知るのであります、斯くて我儕の亀鑑は人間ではありません、孔子でもありません、鮑叔でもありません、重盛でもありません、正成でもありません、ルーテルでもありません、コロムウエルでもありません、我儕の亀鑑は神御自身であります、愛を以て働き給ふ三位の神であります、爾うして斯かる神を知らない者が高い深い聖い愛を知らないのは左もあるべき筈であります。
問、段々の御説明に由りまして少しく分りました、然らば貴下は三位の神にあらざれば実際人類を救ふに足るの神ではないと仰せられるのであります乎。
答、爾うであります、単独の神は地を速く離れて高く独り天に棲止る神であるのみならず、斯かる神は亦罪人とは全く関係のない神であります、単独の神は地球にまで達しない神であります、罪人にまで及ばない神であります、三位の神を待つて始めて救拯の神はあるのであります、罪の赦し、其贖ひ等は三位の神にあらざれば我儕のために成就ぐることの出来ない事であります、夫れ故に、御覧なさい、三位の神を拒むユニテリアン教徒は贖罪を拒みます、神が肉躰を取りて人類の中に降り給ひしとの事の如きは彼等が神に対して懐く観念から割出して見て決して有り得べき筈のものではありません、十字架上の罪の贖ひの如き貴き教義は三位の神を信じない者の到底解し得ないことであります。
爾うであります、三位一躰の教義は道徳的教義であります、之を信ずるに由て人の人生観は全く一変致します、之を拒みます時に彼の品性の変化は始まります、基督教の総ての教訓は此教義と大関係を有つて居りま(69)す、之を取ても捨ても可いと思ふ人は未だ基督教を了解しない人であります、爾うして基督教が世を救ふための実際的勢力であります以上は、三位の神を信ぜずして此勢力を維持することは出来ません、私は私の聖書に照らして見まして、亦私の理性に訴へて見まして、殊に亦私の実際的生涯に応用して見まして、ヱホバの神は三位一躰の神でなくてはならないことを信じて疑はないのであります、サヨナラ。
 序に申上げて置きますが、此答弁の大躰は私自身の思考の結果になるものでありますが、然し聖書の引照や、例証の撰択等に就ては私は R、M、ヱドガー氏が千九百〇二年十月の発行にかゝる the Presbyterian and Reformed Review 雑誌に寄贈されし「三位一躰論」に負ふ所が沢山あります。
 
(70)     基督伝研究
                    明治37年2月18日−4月21日
                    『聖書之研究』49−51号「研究」                        署名 内村鑑三
 
     イエス其居村を去る 路可伝第四章
 
  十六 イエス其|成育《そだち》し所なるナザレに来り、常例《いつも》の如く安息日に会堂に入りて聖書を読まんとて立ちければ、十七 預言者イザヤの書を与へられしに、イエス其書を展きて斯く録されたる所を看出せり、十八 主の霊、我に在す、そは彼れ貧者に福音を宣伝へんがために我に膏を注ぎ給へばなり、囚人《めしうど》に赦免《ゆるし》を宣告げ、瞽者の眼を開き、圧制らるゝ者を縦ち、十九 主の禧年《よろこびのとし》を宣播めんがために、彼は我を遣し給へり(以賽亜六十一の一、二)。二十 イエス書を捲き之を役者《かゝりのもの》に渡して坐しければ会堂に在る者、皆な目を注ぎて彼を視たり、廿一 イエス彼等に曰ひけるは此に録されたる言は今日爾曹の前に応験《なれ》り、廿二 人々皆な彼のために証《あかし》し、其口より出る恩恵の言を奇み曰ひけるは、此はヨセフの子に非ずやと、廿三 イエス彼等に曰ひけるは爾曹必ず諺を引きて我に曰はん「医者よ、自身を医せ」と、又云はん我儕が聞きし所の汝がカペナウンにて行せし所の事を汝の家郷《ふるさと》なる此地に於て行すべしと、廿四 又曰ひけるは我れ誠に爾曹に告げん、預言者は其家郷に於て敬重るゝ者に非ず、廿五 我れ誠を以て爾曹に告げん、エリヤの時に三年と六ケ月間、天閉て全地に大なる饑饉ありし其時、イスラエルの中に数多の寡婦ありしと雖も 廿六 エリヤは其一人へだに遺されず、只シドンなるサレパタの一人の寡婦にのみ遺されたり、廿七 又預言者エリシヤの時にイスラエルの中に数多の癩病患者ありしと雖も(71)其一人だに潔められず、惟スリヤのナーマンのみ潔められたり、廿八 会堂に在りし者、此言を聞て皆な大に怒り、廿九 起つてイエスを邑の外に放逐《おひいだ》し、其邑の立たる山の崖にまで携行きて其処より彼を投落さんとせり、卅 然るにイエスは彼等の中を通過て去れり。
 
〇イエス、ヨルダンの岸にヨハネの洗礼を受け、曠野《あれの》に悪魔の試誘《こゝろみ》に勝ち、聖霊に充たされて故郷に帰り、暫らくガリラヤ湖畔に滞留し、今や救世主として世に顕はれんとするに方て、訣別を故旧に告げんために家郷に帰れり、今や大なる光明は此僻陬の地を出て全世界を照さんとす、三十年の久しき人類の救主に宿所を供せしナザレの小村も、一度びは其福音に接するの機会を与へられざらんや、然れども憐むべし、光明を宿せし者は返て光明を認めず、暗黒なりと称して之を斥けたり、不幸なるは英雄を生みし家なり、其成育の地たりし土地なり、彼等は其産出せし傑物の恩恵に与かる能はずして、却て其敵となりて之を排斥す、吁。(第十六節)。
〇安息日毎に会堂に入て聖書を読むはイエスの常例なりき、我儕も彼に傚ふて斯く為すべきなり、然れども彼は今や腐敗せるユダヤ人の会堂と絶縁すべき機会に遭遇せり、新らしき葡萄酒は永く古き革嚢の中にある能はず、旧は終に新に堪ゆる能はざるに至りぬ、故に新を其中より放出しぬ、語あり、曰く、物の精神を語る者は終に其物を破壊すと、イエスはユダヤ教の精神を語りて之を破壊せり、預言者イザヤの一節を心霊的に解釈して、ユダヤ人の斥くる所となれり。(第十六、十七節)。
〇「書」は巻物たりしなり、故に「展き」しとは巻物を伸展せしとの意なり、「観出せり」とは偶然に之に見当りしとの意にはあらざるべし、特に此聖語を引て語りしとの意に解するも難からず、或はイザヤ書の是等の数節は安息日当日の課業の一部分なりしやも知れず、何れにするもイエスの何たる乎を故旧に紹介するに方ては最も適(72)当なる聖語なりしなり(十七節)。
〇第十八、十九の二節は以賽亜書六十一章一、二節より引きしものなり、而かも文字通りに之を引きしに非ず、其意義を引きしなり、キリストは聖書の真義を重んじ給ふて其文字に拘泥し給はざりし、彼は聖語の文字其儘にあらざれば聖語にあらずとは見做し給はざりし、然かも聖語の真義以外の意味に於て之を濫用し給はざりしは言ふまでもなし(第十八、十九節)。
〇イザヤは自身に就て是等の語を発せり、然れども其語の真義はイエスキリストを待て始めて事実となりて顕はれたり、イエスキリストにのみ聖霊は充実せり、彼は真個の「膏を注がれし者」即ちキリスト(受膏者の意)なり、彼に由て始めて罪の赦免の福音は説かれ、瞽者の眼は開かれ、圧制の羈絆《きづな》は根本的に絶たれたり、「主の禧年」とは奴隷放免の年なり、債務抹殺の時なり、(利未記廿五章八−一〇節)神が彼を世に遣し給ひしは人類を罪の羈絆より脱して、彼等に心霊の自由を供せん為めなり、キリストは最大の放免者なり、預言者と云ひ、革命者と云ひ、僅かにキリストの片影たるに過ぎず(第十八、十九節)。
〇今は立て語り、昔は坐して語れり、立て威厳あり、坐して温容あり、福音宣伝は重に坐談に由るを可とす。(第廿節)。
〇イエスは座し給へり、而して衆目、皆な彼に注げり、如何なる容貌よ、「世の罪を任ふ神の羊《こひつじ》を観よ」、勇気あり、確信あり、慈悲あり、決心あり、宜べなり、人々皆な彼を愛せざりしも彼のために証《あかし》し、其口より出づる神の恩恵を伝ふる言を奇みしは、弁は言のみにあらず、容姿にあり、福音は口より出で、又眼より、又顔より出づ、イエスの説教に於ては恩恵は彼の全身より放射せり、(廿二節)。
(73)〇聴衆は驚けり、然れど彼の宣伝へし教訓に感ずること尠くして、彼の言の彼の身に不相応なりしに(彼等の俗眼より見て)愕けり、「此は工匠ヨセフの子に非ずや」と、若し同一の言をエルサレムに在る博士の口より聞きしならん乎、彼等は之を称讃して止まざりしならん、然れども今、之を彼等の同郷の者の一人より聞て、彼等は深く之を奇みたり。
 吁、盲者よ、俗漢よ、彼等は人を見て、真理を暁らず、光明に余りに近く在りしが故に眩目せられて光明を認むる能はざりし、彼等は曰へり、「彼も我等の一人なり、如何んぞ大真理を知るを得んや、彼の知る所は我等も知る、我等彼に聞くの要なし」と(廿二節)
〇イエス、未だ聞かざるに彼等の心を透察して曰く、「汝等は我が他郷に於いて為せしが如く故郷に於いて為すべしと我に対つて云ふならん、然れども我は汝等に告げんと欲す、預言者は其家郷に於て敬重まるゝ者に非ずと、汝等は我が肉に接せしがゆゑに我を識らず、而して我は我を識らざる者のために何事をも為すあたはず、骨肉何物ぞ、郷族何物ぞ、今は信仰に依て合すべき時なり、血縁に由て共同なるべき時は過ぎ去れり、我を識らざる者は我が兄弟に非ず、我が同郷の士に非ず、我は天国の建設者にして、天国の市民のみ我が兄弟たり、同胞たるなり、然り、医者は自身を医す能はず、予言者は自家の人を救ふ能はず、我れ汝等の中に大なることを為し能はざればとて、我の救世主たることを疑ふ勿れ、そは我れ我が業《わざ》を汝等の中に為し能はざるは我の無能に由るにあらずして汝等の不信に由ればなり」と、(廿三、廿四節)。
〇イエス又語を継げて曰く、汝等旧約聖書に於て読まざるか、預言者エリヤの時に三年と六ケ月に渉りて天閉ぢて全国に大饑饉ありし時に、イスラエルの中に数多の寡婦ありしと雖も、其一人も預言者の救済に与かることな(74)くして、却て異邦シドンの一市なるサレパタの一人の寡婦のみ其の恩恵を受けしことを、(列王紀略上十七章)、汝等は亦預言者ヱリシヤの時に於ける異邦シリヤの人なるナーマンのことを知る(列王紀略下五章)、視よ、往昔に於ても異邦の人は却て神の遺せし預言者の救済に与かりて約束の民なるイスラエルの民は返て之を逸せしに非ずや、今に於ても亦然らざらんや、汝等ナザレの村民は其一人なりし我の何たる乎を識る能はずして、我が万民に施さんとする大なる天の恩恵を逸せんとす、今より後、汝等が侮蔑して止まざるサマリヤ人は我が福音を聞いて神の休息《やすみ》に入らん、汝等の隣邦シリヤの人も我が救拯を聞いて速かに我に来るべし、然り、西より、東より、北より、南より未だ曾て我が名を耳にせしことなき者は多く来て其霊魂の救拯を全うすべし、然れども汝等は終に汝等の罪に死なん、汝等は我が同族たりしの幸運を棄て却て我を遠くるが故に竟に神の栄光を見ずして世を終らん、吁、憐むべき汝等よ、若し我にして汝等の中に成長せず、汝等にして遠く我を望むを得て、近く我に接せざりしならば、汝等も我が救拯に与かりしならん、そは霊は之を包む肉を距るにあらざれば之を認むること甚だ難ければなりと(廿三節より廿八節まで)。
〇之を聞きしナザレの村民は怒れり、非常に怒れり、彼等は今やイエスを村外に逐放するより他に余念あらざりし、否な、之に止まらざりしなり、彼等は彼を殺さんとせり、彼等は思へり、他郷他人のために善事を為すを得て、骨肉同族のために之を為し得ざるが如き者は是れ人倫を破る者にして、世に生存するの権利なき者なりと、故に彼等はイエスをナザレの邑の立たる山の崖にまで携行《つれゆ》きて其処より彼を投落して彼を殺さんとせり、嗚呼無情なる同郷の士、彼等は真理の主を殺さんとせり、然かも彼に何の罪ありしにあらず、彼は惟天国の福音を説きしのみ、彼は彼等を憎みしに非ず、否な、熱情を以て彼等を愛せり、彼等は三十年の久しき彼の無言の説教を聞(75)けり、彼等は彼に在て天使の如き生涯を見たり、然かも彼の目的が地方的ならざりしが故に、彼の福音が家族的ならざりしが故に、彼等は彼の才能を見て却て彼を斥けたり、人の罪悪は其利慾心に存す、彼等は自国又は自家の利益を計る者を愛す、世界又は人類の利益を計る者の貴重なる所以を知る能はず、故に神より世界的の人物を彼等の中に賜はりて、彼等は之がために感謝せずして、却て之を殺さんとす、然かも是れ人情なり、此故を以てナザレの村民をのみ責むべからざるなり。
〇然れどもイエスの生長せしナザレの村はイエスを放逐せしがために其高名を失はざりし、世に村は多しと雖どもガリラヤのナザレの村の如くに世界歴史に名高きはなし、羅馬何物ぞ、雅典《あでん》何物ぞ、倫動何物ぞ、巴里何物ぞ、ナザレの僻村はヨセフの子イエスの成育の地たりしが故に、其名は世界と共に消えず、ナザレ人はイエスを逐放せり、而かもイエスはナザレの名を世界万邦に※[行人偏+扁]からしめたり、イエスは他の英雄と等しく徳を以て恨に報ひたり、ナザレ人はイエスを殺さんとして、イエスはナザレの名をして神聖なる者とならしめたり。
〇村民はイエスの直言に激せられて彼を殺さんとせり、然れどもイエスは彼等の手より逃遁せんとはせざりし、「彼は彼等の中を通過て去れり」、悪しき者は逐ふ者なけれども逃げ、義しき者は獅子の如くに勇まし(箴言廿八章一節)、イエスは公然とナザレの村を去れり、そは彼の殺さるべき時、未だ到らざればなり、(廿節)。
〇「イエスは………去れり」、永久に去れり、再び還らざらんがために去れり、イエスはナザレの村民に彼の口より福音を聞くの最後の機会を供したり、然かも其受けられざるを見て永久に彼の故郷の地なるナザレを去れり、吁、不幸なるナザレよ、汝が世界に供せし世界最大の予言者は今は永久に汝に辞去《いとま》を告げて去れり、彼は今より万国の民に彼の福音を伝へんとす、然れども彼は再び汝に還り来らざるべし、汝は最終の好機を過せり、吁、ナ(76)ザレよ、ナザレよ(第三十節)。 〔以上2・18〕
 
     イエス汚れたる鬼の霊を逐ふ 路可伝第四章卅一より卅七節まで(馬可伝一章廿一より廿八節まで参考)
 
卅一 斯くて彼れガリラヤのカペナウンと云へる市に至り安息日毎に衆々《ひと/”\》を教へたり、卅二 衆人彼の教に驚けり、そは彼の言葉に権威ありたればなり、卅三 会堂に汚れたる鬼の霊に憑かれたる人あり、大声に喊叫びて言ひけるは 卅四 噫ナザレのイエスよ、我儕、爾と何の関係あらんや、爾来りて我儕を喪《ほろぼ》すか、我れ爾は誰なるかを知る、即ち紙の聖なる者なり 卅五 イエス之を責めて曰ひけるは、声を出すこと勿れ、其処を出でよと、悪鬼終に其人を衆人の中に仆し、彼を傷はずして出づ 卅六 衆人皆な駭き互に語り言ひけるは、権威と能力を有て汚れたる鬼に命ぜしかば彼れ出で去れり、是れ如何なる道《ことば》ぞやと、卅七 是に於てイエスの声名《きこえ》※[行人偏+扁]く此四方の地に揚《ひろ》がりぬ。
〇イエス、其故郷ナザレより逐はれて異郷カペナウンに来りて住めり、カペナウンはガリラヤ湖の西岸にあり、四通八達の地にして宇内に広く福音を伝播するに適せり、其繁昌なる商業地なりしは此所に税関ありしを以て知るを得べし、聖マタイは元、税吏にして此所にイエスに召されし者なり、(馬太伝九章九節、)キリストの福音は宇内的のものなり、之を宣伝するに成るべく丈け繁栄の地を択ぶべきなり、斯くするは勿論、伝道者の声名を揚げんがために非ず、一人も多くの人の救はれんがためなり(第卅一節)。
〇国民教育の機関として安息日制度の如く善きはなし、此日ありて衆人斉しく賢者の教訓に与かるを得るなり、イエスは此日を利用し給へり、我儕も亦彼に傚ひ、此日をして聖なる労働の日となすべき也(第卅一節)。
〇「衆人彼の教に驚けり」、之に敬服せしにあらず、之に就て驚愕せしのみ、其奇異なるに驚きしのみ、其常人の(77)それの如くならざりしを怪みしのみ、説教は多くは演劇視せらる、音調と態度とは注視せられて、生命の福音は聴取せられず、我儕今日の伝道者も弁士として迎へらるゝこと多くして、霊魂の医師として接《う》けらるゝこと稀なり、歎ずべきかな(第卅二節)。
〇イエスの言葉に権威ありたり、彼は学者の如くに教へ給はざりしと云ふ(馬太伝七章廿九節)、学者とは「書籍の人」の意なり、自己の意見を語らずして古人の言を引用する者なり、「有名なる誰々は何と曰へり」と曰ひて、「我は斯く信ず」と言ひ得ざる者なり、即ち言責を古人に嫁して自己は単に引用者の地位に立つ者なり、「学者」は腐儒なり、「雇はれたる伝道師」なり、書籍の背後に隠れて自己の人格を顕はさゞる者なり、「学者」はキリスト在世の時にのみ限らず、今の世にもあり、今の基督教界にもあり、学者ソフェリーム、書籍の人、能く彼に注意せよ、(第卅二節)。
〇然れどもイエスは学者には有らざりし、彼は労働者にして神の子たりしなり、彼は聖書を引ひて語り給へり、然れども是れを自己の語として用ひ給へり、彼の口より出し言葉は皆な神の言葉にして、彼の心の実験の堝炉《るつぼ》を経過して来りしものなり、故に之に権威ありたり、之に抗すべからざるの確信ありたり、而して人を感化するの言葉は凡て斯の如きものなり、古人の言語は如何に美なりと雖も之を我が言として語るにあらざれば之に権威あることなし、言ふを休めよ、ミルトンはかく言へり、ウエスレーは斯く言へりと、自から小ミルトン又は小ウエスレーと成らんことを努めよ、而してミルトン又はウエスレーに類すち事業を為せよ(第卅二節)。
〇会堂に汚れたる鬼の霊に憑かれたる人ありたり、彼れ然してイエスの説教を聞き居りしが、其聖貌と清音とに堪り兼ねて終に大声を発して曰へり、「噫ナザレのイエスよ、我れ爾は誰なる乎を知る、即ち神の聖なる者なり」(78)と、一見してイエスの誰なる乎を認むる者はシメオンの如き聖者にあらざれば、汚れたる鬼の霊なり(路可伝二章廿五節以下参考)、「悪魔も亦信じて戦慄けり」と雅各は言へり、イエスに邂逅して悪魔は大敵の彼の目前に迫り来るを知るなり、故に若し彼を滅し得ずんば彼の聖前を避けんと欲す、「悪者《あしきもの》は審判に堪えず」(詩篇第一篇五節)、イエスの顕はれざる所には魔類、形状を変へて跋扈す、然れども彼の顕出に遇ふて蝙蝠《かはほり》の日光に遇ひしが如くに逃去る、(以賽亜書二章廿節)、是れ彼等がイエスを嫌ふの所以(卅三、卅四節)。
〇「噫ナザレのイエスよ、我儕、爾と何の関係《かゝはり》あらんや」と、憐むべき魔族、彼等はイエスとは何の関係もなきなり、世の富者を姻戚として有ち、世の権者を友人の中に数へ得ると雖も、彼等はイエスに遇ふて彼と何の関係なきことを自白せざるべからず、イエスの降世、彼の受難、彼の昇天、彼の再来、是れ皆な人生の最大事実たるに関はらず、富の増殖と、名誉の掌握との他に余念なき魔族は之を歴史に読むも何の興味をも感ぜず、之を以て迷信なりと称し、不用文字なりと道ひて之に対して寸毫の注意だも払はざるなり、然れども彼等魔族も亦其心底にイエスの神の聖なる者なるを知るなり、彼等は彼が彼等の汚れたる社会又は家庭に臨む時に、彼等の蓄妾の罪悪は曝露され、彼等の強飲の悪習は攻撃せらるゝを知るなり、故に彼等は全力を尽してイエスを排斥せんと努むるなり、若し其子にイエスを信ずる者あれば彼を不孝の子なりと称してイエスより離さんとするなり。若し其臣に彼を信ずる者あれば彼を不忠の臣と称してイエスを国外に放逐せんとするなり、彼等魔族は勿論イエスの伝へし教理を知らず、然れども彼等は自から心に(本能的に)イエスの一切の悪事の大敵なるを知るなり、世の「耶蘇教嫌ひ」なるものゝ本源は重もに茲に存す、即ち魔族がイエスの神性を本能的に承認するに在り(卅四節)。
〇悪魔は一人ならず、万軍なり、故に「我」と言はずして「我儕」と言へり、イエス曾て鬼に憑かれたる者に爾(79)の名は何と問ひ給ひしに、「我儕多きが故に我名をレギヨン(軍団)と云ふ」と答へたり(馬可伝五の九)、以て魔族の大勢力なるを知るべし、彼は一人にあらず、万軍なり、而かもイエスは此万軍を滅さんがために世に来り給へり、貪婪の魔、※[女+冒]疾の魔、好色の魔、酔酒の魔、偽善の魔、褻涜の魔其他総べて有りと有らゆる魔を亡さんがために来り給へり、而して魔の種類は多しと雖ども其本質は一なり、故に貪婪魔はイエスに遇ふて魔族全躰の滅亡の近づきしを知るなり、好色の魔、酔酒の魔も亦然かり、一つの罪悪を攻撃する者は総ての罪悪を攻撃する者なり、故に酒造家は娼家を援けて廃娼運動に反対し、娼家、又酒造家に同情を寄せて、禁酒の「熱狂」を圧せんとす、血に渇するの軍人、権に饑ゆるの政治家、利に敏き実業家は皆な相合し、相援けてイエスと其弟子とに反対す、而して軍人、声を揚げてイエスを国賊なりと唱ふれば政治家、之に和し、文士、哲学者之に雷同し、以て彼を撲滅せんと計るなり、そは彼等総躰はイエスの彼等を喪す者なるを知ればなり、即ち利慾と虚名との上に建てられたる彼等の王国のイエスの顕出に遇ふて大なる危機に迫りしを知ればなり(卅四節)。
〇時にイエスは鬼の霊を斥《いまし》めて曰く「声を出す勿れ、其処を出でよ」と、「口を噤《つむ》げ」、「静まりて穏かに為れ」と、同一の声に由て湖上に風やみて大に和ぎたり(馬可伝四の卅九)後年ルーテル曾て斯かる声を讃へて曰く「一言以て彼(魔族)を殺すべし」と(『愛吟』を見よ)、神の聖なる者が悪魔を沈黙せしむるに議論を用ふるの要なし、一言にて足れり、権威なる詰責にて足れり、何ぞ飲酒の経済的害毒を説くを須ゐん、何ぞ蓄妾の生理的危害を述ぶるを須ゐん、神の権威を以て叱すれば足れり、此権威なくして悪魔は退去せざるなり、世に愚かなる事にして悪魔を説服せんとするが如きことあるなし(卅五節)。
〇単に沈黙を命じ給ひしのみならず退去を命じ給へり、「其処を出でよ」、「神の宿るべき人の心を出でよ」と、(80)然れども悪鬼は容易に彼が捕虜とせし人の心を立去らざるなり、而して彼れイエスの叱責に遇ふて此事を為さゞるを得ざるに至るや、其人の衷に大擾乱を生ぜずしては彼を放擲せざるなり、「悪魔終に其人を衆人の中に仆して出づ」と、人と偕に在る間は其人を害ひ、彼を去るに及んで彼を仆し去る、是れ悪鬼の所業なり、イエスの時に然り、今の時に然り、レギヨンと称ばれし悪鬼然り、「基督信徒」と称する悪鬼亦然り(卅五節)。
〇イエスの権威ある一言に悪鬼は憐れむべき斯人を離れたり、而して衆人の中に彼を仆し彼に大危害を加へんと欲せしと雖も、イエスの彼と偕に在り給ひしが故に、悪鬼は之を傷ふこと能はざりし、其人を殺さんことは悪鬼退去の際の願望なりしや敢て疑ふべきに非ず、彼は衆人の前に人の彼れ悪鬼と離るゝの如何に危険なる乎を示さんとせり、而してイエスの其人と偕に在すを知らざりし者は彼の彼等の目前に仆れしを見て、心、私かに言ひしならん、嗚呼、危険なるかな、悪鬼と直に絶縁することは、悪鬼は和《なだ》むべし、之を怒らすべからずと、然れどもイエスに由て悪鬼を逐ふに何の恐るゝことかあらん、我れ其ために一時は衆人の前に仆されて多少の耻辱を蒙ることあるも彼れ悪魔は我を傷ふ能はず、我は我が実験に由て此事を知れり(卅五節)。
〇衆人皆な駭けり、単に彼の説教を聞きし時の如くに其奇異なるに感ぜしのみにあらず、彼の行せし奇績を見て震駭せしなり、彼は腕力を揮ひしに非ず、世の権力を藉りしにあらず、唯一言を以て悪魔を駆逐し、人を本心に立返らしめ給へり、是れ如何なる道ぞや、是れ単に「言の葉」にあらざるなり、之に宇宙の能力の伴ひしが如くに見えたり、之に神の権威の含まれしが如くに聞えたり、神の言葉は実力なり、其一度び発せらるゝや何事をか為さずしては歇まざるなり、悪魔は之を聴いて是れ単に「声」なりとて之を賤むならん、然れども之を耳にして悪魔は終生之を忘れざるなり、神の言葉は悪魔の耳に存して何時か彼に大打撃を加ふるに至るべし、悪魔は勿論、(81)神と神の言葉とを憎む、然れども神の言葉は悪魔に附随して其心を離れず、言ふを休めよ、神の言葉は弱くして悪魔は強しと、終に悪魔を殺す者は弱きが如くに見ゆる神の言葉なり、汝、神の言葉を宣伝することを怠る勿れ(卅六節)。
〇「是に於てイエスの声名、※[行人偏+扁]く此四方の地に揚がりぬ、」イエスは勿論声名を求むる者にあらず、否な、彼は甚だしく之を嫌ひ給へり、然れども此大奇績ありて彼の名は揚らざるを得ず、此に一人の悪人のイエスの一言に由て其本心に復りしあり、彼が永年の友とせし汚れたる鬼の霊の此聖者の命令に由て彼の衷より逐はれしあり、誰か此事を聞いて駭かざらんや、水の葡萄酒に化せられしを見て駭きし者は之を目撃せしイエスの弟子のみなりき、イエスに手を按《つ》けられて其癩病を癒されし者のありしを聞いて癩病患者は総てイエスの名を口にせしならん、而かも悪鬼の霊に憑かるゝは心の疾病なり、人として多少之に侵されざるはなし、而して其難病たるや何人も能く知る所なり、而して今や茲に人類通有の疾病を一言を以て癒す者の顕はれしを聞いて何人か心に大感動を受けざらんや、イエスの声名の※[行人偏+扁]く四方に揚りしは彼が今や全人類の救主として顕はれ給ひしが故ならざるべからず、路可伝記者が此奇績をイエスの行し給ひし最始の奇績として記載せしは之に深意なくんばあらず(卅七節)。
〇鬼の霊とは何ぞ、之に憑かるゝとは何ぞ、是れ何人にも起る問題なるべし、是れ普通の神経病にして斯く人格的に叙述せられしはイエス在世当時のユダ人の迷信に基くものにあらざる乎、或は悪鬼なる実在物のあるありて聖霊が善人の心に宿るが如くに悪人の心を占領するにはあらざる乎、吾人勿論今日にありて二説孰れが真なる乎、知る能はず、唯知る新約聖書記者の殆んど総体は人格的悪鬼の実在を認め、彼を滅すを以て人類救済の一大要点と見做せしことを。
(82)〇悪の原理は深遠なり、容易に之を究むべからず、然れども只一事の明瞭なるあり、即ち人格(ペルソナ)を離れて悪(EVIL)なる者の存在せざること是なり、悪は道徳的なり、而して人格の無き所に道徳と其反対なる罪悪あるなし、悪を単に原理《プリンシプル》と見做して悪は悪ならざるに至る、而して聖書記者は悪に対して常に此の見解を懐けり、即ち悪の霊ありて悪の心生ずと。
〇悪鬼の実在を証明するは勿論天使の実在を証明するが如く難し、然れども人生の事実に悪鬼の実在を証明するに足るもの多からざる乎、悪は理と見て之を平ぐること難くして、霊と見て之を征服すること易きに非ずや、我儕は亦悪を木石又は動物に於て見るに非ずして人に於てのみ之を視るに非ずや、即ち悪人に於てのみ悪は表顕するに非ずや、「悪魔とは堕落せる天使なり」とは陳腐の言の如くに聞ゆるも、然れども未だ之に代つて人生の惨事を説明し尽す言の他に出でざるを如何せん、世に悪鬼学者《デモノロヂスト》なるものありて、魔鬼に関する宗教的の事実を悉く神経病理学的に解釈せんと努むる者ありと雖も、其解釈の未だ学者を満足するに足らざる者なるは心理学者の斉しく認むる所なり、心理学《サイコロジー》は未だ幼稚なる科学なり、吾人は容易く其声言を採用する能はず、悪魔を霊的実在物と解して未だ遽かに迷信家を以て、称せらるべきに非ず。 〔以上、3・17〕
 
     イエス各様《さま/”\》の病を医す 路可伝第四章卅八節より四十四節まで
 
卅八 イエス会堂を出でシモンの家に入りしにシモンの妻母《しうとめ》重き熱病を患ひ居たりき、卅九 衆人《ひと/”\》之が為にイエスに求《ねが》ひければ其傍に立ちて熟を斥《せ》めしに熱退けり、婦、直に起きて彼等に事へり、四十 日の入る時、各様の病を患ひたる者を有てる人々皆な其れをイエスに携来《つれきた》りければ彼れ一々其上に手を按《お》きて医せり、四一 悪鬼も亦多くの人々を出去り、喊(83)叫びて爾は神の子キリスト也と云へり、然るに之を斥めて言《ものい》ふことを容さざりき、悪鬼其キリストなるを識れば也、四二 明旦《あくるあさ》イエス出て人なき処に往きければ衆人尋来りて其|行去《さりゆ》くことを止む、四三 イエス曰ひけるは我れ亦他の村々にも神の国の福音を宣伝へざるを得ず、そは我れ之がために遣されたれば也と、四四 斯くてガリラヤの諸会堂にて道を宣伝へたり。
 
〇シモンは勿論使徒ペテロなり、而して彼に妻ありたりと録さる、彼は亦妻を携へて伝道に従事せりと云ふ(哥林多前書九章五節) 妻帯は悪事に非ず、教師に無妻を強ふるが如きは基督教の精神に反す。(卅八節)
〇病を斥むるとは之に勝つの謂ひなるべし、即ち病者に生命の過分を供して、疾病を駆逐するの意なるべし、世の医師は薬剤を以て疾病を消さんとし、キリストは新たに生命を注入して之を排除し給ふ、恰かも清水を多量に注いで汚物を排除するが如し、是れ彼の施せし治癒の即時に効を奏せし所以なるべし。(卅九節)
〇婦※[病垂/全]されて直に起きて人々に事へたり、其恢復の速かさよ、然れども怪む勿れ、神の施し給ふ治癒は常に斯の如きものなり、十二年血漏を患ひし婦もイエスの衣の裾に捫りて直に※[病垂/全]されたり、(八章四四節)、生来の瞽すら彼に目を啓かれて直に視るを得たり(約翰伝九章)、人は病源を語り、固疾を唱へ、経過を称ふも、神に在りて之を語るの要あるなし、「彼れ語りて事成る」、彼にして若し即時的治療を施し得ずんば彼は神にして神に非ず、吾人は奇跡の不可能を説いてキリストの神性を否むべからず、寧ろ奇跡の事実を知てキリストの神たることを認むべきなり(卅九節)。
〇今の時に在ては即時的治療は病める身体に於てよりも多く歪める霊魂に於て行はる、十二年間の血漏にはあらで十数年間に捗り薄志弱行のために悩みし人も聖書の一句に接して勇敢自重の人となるを得たり、肉眼の盲せる(84)にはあらで、霊眼閉ぢて真と偽とを区別つ能はざりし人も、一度びイエスの聖名を耳にしてより眼より鱗の脱しが如く感じて即時に光明の域に入りしあり、世の所謂る社会改良家なる者は習慣性の脱し難きを説き、罪の惰力の消し難きを道ふも、基督教の伝道師は罪悪の即時的改善を唱へて歇まず、キリストに由て重き熱病ならで、重き憂慮と辛らき悲痛とより※[病垂/全]されて、自己の苦悶を悉く忘却して、直に起て世の痛める人、悲む人に事へし婦人の如何に多かりしよ。(卅九節)
〇朝には会堂に汚れたる鬼の霊に憑れたる人を※[病垂/全]し、昼にはシモンの家に其妻の母の重き熱病を※[病垂/全]し、今やまた日の入らんとする時、人々、各様の病を患ひたる者をイエスの許に携来りければ彼れ一々其上に手を按きて彼等を医し給ひしと云ふ、イエスの善行の一日は如何に多忙なる一日なりしよ、彼れ善を行しつゝ邑々を経行り、到る処に善を施し給へり、神の人に虚日あるなし、彼の世に存ることは世の幸福なり、彼の蔭影に功徳あり、彼の言語に能力あり、彼は身に天の恩恵を運ぶ者なれば、到る所に之を撒布す。(四十節)
〇イエス、病者の上に手を按き給へば其病※[病垂/全]えたり、然れども悪鬼はイエスに逐はれざるに自からイエスの神の子キリストなるを知りて喊叫て多くの人々を出去りたりと云ふ、イエスの出現に遭ふて醜類は其置位に堪ゆる能はず、故に悲鳴を発して彼の面前を去る、神が其子を此世に遣し給ひしは善人を救はんがためのみにあらず、亦悪人を逐はんがためなり、イエスの巡行は勇者の凱旋の如くなりし、弱者は扶けられて強者は挫かる(四十一節)。
〇治癒の施行は延びて夜半を過ぎたり、而して東天将さに白まんとする頃群衆の彼の身を離れ去るに及んでイエスの休息の時は到れり、而して彼に取りては人なき時は父と交はる時にして祈祷の時なり、人を愛する切なる彼は人なき処に往きて独り父と偕に語るを好めり、彼も総ての偉人の如くに寂寥に新生気を得て熱閙に之を衆人に(85)分配ちしならん(四十二節)。
〇然れども慰藉に渇する里人は大なる訓慰師《なぐさめぬし》の跡を逐ふて止まず、彼を祈閙の山に求め、彼に永く彼等と偕に止まらんことを願へり、彼等は未だ大光の宇宙の共有物なるを覚らず、之を専有して惟り其|和煦《あたゝまり》に浴せんとせり、彼等の志や憐むべし、然れども彼等の要求や納るべからず、伝道師は天下の伝道師なり、一地方の伝道師にあらず、情実の羈絆に繋がれて、一隅に蟄居して大光を八紘に放ち得ざる者の如きは神の忠実なる伝道師に非ず(四十三、四十四節)。
〇故に光の在らん時、之に聞けよ、彼は長く汝と偕に留らざるべし、夜は速に来らん、其時汝、彼を求むれども遭はざるべし、彼は汝のためにのみ世に臨みしにあらず、汝は唯一回彼に遭遇するの好機会を与へられしのみ、彼の跡を逐ふ勿れ、彼は今より彼が汝に与へしと同一の機会を他の者にも与へんとて出去れり、イエス今は湖畔を去て広くガリラヤの諾会堂にて道を宣伝へ給へり(四四節)。
     ――――――――――
 
     イエス其弟子に伝道成功の秘訣を伝ふ 路可伝五章一節より十一節まで
 
一、衆人神の道を聴かんとて彼に擁《お》し逼りける時、イエス、ゲネサレの湖水《みづうみ》の浜《ほとり》に立ちて 二、磯に二艘の舟あるを見る、漁者《すなどるもの》は舟を離れて網を洗ひ居れり、三、其一艘はシモンの舟なりしが、イエス之に乗り、請ふて岸より少許《わづかばか》り離れ、坐して舟の中より衆人を教ふ、四、教へ畢りてシモンに曰ひけるは澳へ出で網を下ろして漁れ、五、シモン答へけるは、師よ、我儕終夜働らきて得る所なかりき、然れど爾の言に従ひて網を下さん、六、既に下ろして魚を囲めること甚だ多く、網裂(86)けかゝりければ、七、いま一艘なる舟の侶を招きて来り助けしめしに、彼等が来りし時、其魚二艘の舟に満ちて沈まんばかりなりし、八、シモン ペテロ之を見てイエスの足下に俯して主よ我を離り給へ我は罪人なりと曰へり、九、是れシモン及び偕に在りし者、皆な漁し所の魚の夥しきに驚ける也、十、シモンの侶なるゼベダイの子ヤコブとヨハネも亦然り、イエス、シモンに曰ひけるは懼るゝ勿れ、汝、今より人を漁るべし、彼等舟を岸に寄せ置き一切を捨てイエスに従へり。
〇天国の福音を説くに、何ぞ必しも教会の高壇よりするを要ゐん、山上の岩頭よりするも可なり、漁者の捨小舟よりするも可なり、風琴の歌に和するなきも、松籟の楽を奏するあり、麗人の声を供するなきも、漣波の岸に躍るあり、風をして真理《まこと》を送らしめ、水をして救済を運ばしむ、イエスの伝道に歌人の風雅なるが如きなり(一、二、三節)。
〇舟中の伝道終りて後にイエスは其弟子に伝道上の大教訓を下し給へり、而かも之を為すに言語を以てせずして事実を以てし給へり、天然物は神の暗示的言語なり、神は之を以て大なる真理を人に伝へ給ふ、而して眼に由りて伝へらるゝ真理は耳に由りて伝へらるゝ者に優りて有力なり、漁業の術を以て漁者に伝道の秘訣を教へ給ふ、イエスは確かに最上の教師なり(四節)。
〇「澳へ出で網を下して漁れ」と、大海に出て大漁を試みよとの意なり、何故に水浅くして、風静かなる所に於てのみ、小漁を営みて満足するや、何故に大能者の援助を得て、深所に大魚を探らざるやと、信なき者は小胆なり、彼等は隠所に在て小事をなすを以て足れりとす、故に神は時に彼等に大事を促して其信仰を試み給ふ(四節)。
〇漁夫シモンは終夜の業に失望せり、彼は再び之を為すの徒労なるを思へり、然れども師の命に逆ふを恐れて、無益なりとは知りながら命ぜられしが儘を為せり、シモンは半ばイエスの言を信ぜり、而して信じて之を行せり、(87)而して成功せり、信じて之を行へば半信も全信の功を奏す、我儕は多少の疑念を排して断じて主の命を行ひ、以て我儕の信を全うすべきなり(五節)。
〇終夜の失敗に次で明旦の大成功は来れり 魚を囲めること甚だ多くして網は張り裂けんとせり、主は収獲の主なり、亦豊漁の神なり、彼にして与へんと欲せば空倉に禾穀溢れ、空網に魚介満つ、神と偕に働らきて我儕は永久の失敗を歎つ要なきなり(六節)。
〇網満ちて独手之を引上ぐる能はず、侶を呼び来りて其援助を乞はざるを得ざるに至れり、主の命に従ひてより来りし成効は普通の成効に非ず、非常の成効なりし、一人の力と一艘の舟を以てしては当る能はざるの成効なりし、成効の大と小とは信仰の大と小とに由て分かる、而して芥種の如き信仰を以てするも、其効果は吾人予想の外にあり(七節)。
〇大成効に遭遇してシモンは自己の罪を覚れり、彼は大能者の彼の前に立てるを識れり、彼は今までイエスを以て単に道徳上の教師なりと思へり、然るに今はその宇宙の主宰なるを知て、自己の汚穢を恥ぢて其前に堪ふ能はざるに至れり、「我を離れ給へ我は罪人なり」と、彼れ遁がれんと欲して途なし、故に主の彼の汚れたる身辺を離れ給はんことを願へり、吾等主の恩恵を耳にするも、その実際に著しく吾儕の身上に顕はるゝを見て、今更らながらに、主の聖きに驚き吾儕の卑しきを耻づるなり、祝すべきかな、刑罰の厳しきを以てせずして、恩恵の著しきを以て吾儕の罪を顕はし給ふ主は(八、九節)。
〇直接に恩恵を蒙りし者はシモン ペテロ、之を目撃し、彼を援けて、同じ教訓に与かりし者は、彼の侶なるゼベダイの子、ヤコブとヨハネなりき、三人斉しく、カナの酒筵に水の葡萄酒に化せられしを見、ヤイロの女の死の(88)牀より起てるを見、又変貌の山にイエスがモーゼ、エリヤと偕に語るを見たり、イエスの奇跡に各深き意義在て存す、而して伝道成功の秘訣に就ては三人斉しく之をガリラヤ湖畔に於けるシモンに賜はりし大漁の奇跡に由て学べり(十節)。
〇「懼るゝ勿れ汝、今より人を獲べし」、汝、今より後、汝が今、魚を漁りしが如くに人を漁るべしとなり、而して其秘訣たるや、彼が今、茲に主より教へられたるが如くならざるべからず、即ち自己の智覚に頼ることなく、過去の失敗に懼《おづ》ることなく、只主が命じ給ふ儘を信じ、重ねて失敗ならんとは思ひつゝも、大胆に網を世の大海に投じ、以て大漁を計るにあり、イエスは此奇跡を以て伝道成功の単に信仰の一事に存るを教へ給へり、世を恐れ、自己に省み、業の難易を計算して、之に成効の希望あるなし、只信ぜんのみ、信じて行はんのみ、而して網の張り裂け、舟の沈まんとするの壮観を目撃せんのみ(十節)。
〇人を漁するの職を授けられて彼等は魚を漁するの業を棄てたり、彼等は網と舟とを棄て去れり、是れ勿論漁業の悪事なるが故に非ず、総ての職業は神聖なり、漁業豈惟り聖からざるの理由あらんや、彼等が之を棄てしは一つは主の命に従つてなり、二には彼等が世の煩累を絶ち、専心、伝道に従事せんがためなり、然れども忘るゝ勿れ、彼等はイエスが世を逝りし後、再び此業に復りしことを(約翰伝廿一章一節以下を見よ)、主の命に従つて世の職を棄て、主の許可を得て再び之に復る、より高き業のためにはより低き業を擲つ、而かも如何なる場合に於ても懶惰無職業の地位にまで下らず、我儕は血気に駈られて漫りに世の家業《なりはひ》を放棄せざるべし、然れども大なる使命を受けて世の万事を捨つるの勇気なかるべからず、吾儕は茲に三人の青年漁夫に学ぶ所あり、深く思ふて強く行ふべきなり(十節)。 〔以上、4・21〕
 
(89)     国難に際して読者諸君に告ぐ
                      明治37年2月18日
                      『聖書之研究』49号「雑録」                          署名なし
 
今や国難の時なり、我儕は殊更らに固く午後七時の祈閙の時を守るべきなり、我儕は此の時に心を一にし、意《おもひ》を一にして神に祈るべきなり、第一に国のために、第二に四千五百万の同胞のために、第三に家を背《うしろ》にして戦地に向ひし勇敢なる兵士のために、第四に其家族のために、第五に我儕の同志にして身を敵弾に曝らす者のために、而して亦我儕の敵人のために、我儕は熱き信仰を以て祈るべきなり、而して只に口と心とを以て祈るのみならず、我儕の総ての力を尽くして多くの悲しめる者に、慰藉と援助とを供し、彼等の悲痛をして寸毫たりとも軽からしむべきなり。
 戦争の悪事なると否とは今や論争すべき時に非ず、今は祈閙の時なり、同情、推察、援助、慰藉の時なり、今の時に方て我儕の非戦主義を主張して衿恤《あはれみ》の手を苦しめる同胞に藉さゞるが如きは我儕の断じて為すべからざることなり。我儕は各自、手に手にギレアデの乳香を取り、我が民の女《むすめ》の痛める傷を医さばや(耶利米亜記八の廿二)。
 
(90)     逆境の恩寵に序す
                     明治37年3月3日
                     徳永規矩『逆境の恩寵』
                     署名 内村鑑三 誌す
 
 人世の目的は神を識るに在り、忠臣として君に寵せらるゝに非ず、孝子として父母に愛せらるゝに非ず、愛国者として国人に崇めらるゝに非ず、神を知り、神に識られ、遂に永遠の栄光の冕冠を戴くに在り、是を除いて他に貴重なる人世の目的として追求するに足るべき者あるなし。
 茲に肥後の人あり、徳永規矩氏と云ふ、日本人通有の野心を懐き、日本人通有の径路に由て之に達せんと欲して能はず、返て意外の所に神の恩恵に接して遂に勝利を呼んで世を逝れり、君と同齢の肥後人にして君の如くに失敗せず、君の如くに挫折せずして、斯世に於て成功せし人尠しとせず、然るに君は悪虐を極めし藩閥政府の如きには何の恩恵にも与かる所なく、只天の神の祝福を受けて、斯世に於て貧者となりて心霊の天国に於て富者となれり、而して軽薄浮虚、影を追ふを知て実を探る事を識らざる今の日本人の多数は、君を世の失敗者として算へしも、若しダンテをして、或はリビングストンをして、或はグラツドストンをして君の一生を評せしめしならば、是等世界の偉人は君を大成功者の一人として算へしや敢て疑ふべきに非ず。
 逝けよ、功名、位階、勲賞、人望、声名、彼等は塵芥なり、糞土なり、名を愛国に籍り、社会改良、慈善事業に籍り、多くの望あるの青年を地獄の門に連れ行くなり、而して彼等に誑かされて心霊的に死滅せし日本人は枚(91)挙するに遑あらず、然れども神は其簡び給へる者を知り給ふ、彼は彼等に成功を与へずして、返つて疾病を与へ、失望を下して、以て彼等を神の成功に導き給ふ、徳永君は斯かる成功者の一人なり、我僻も君に傚ふて、此虚偽の日本の社会と絶縁して、活ける闊き温かき天国の市民とならんことを求ふ。
      肉に於て君を見ざりしも
      君の同情者の一人なる
                   内村鑑三誌す
  明治三十七年一月三十一日 東京市外角筈村寓居に於て、
 
(96)     〔半百号の感謝 他〕
                      明治37年3月17日
                      『聖書之研究』50号「所感」                          署名なし
 
    半百号の感謝
 
 感謝す、此小誌、本号を以て其第半百号に達せしを、長寿、勿論余輩の目的に非ず、余輩は唯生命のあらん限り善事を為さんと欲するのみ、過去に於ける神の指導を追想して、余輩は将来に於ける更らに大なる恩寵を信じて疑はず。
 
    我の幸運
 
 神は我に善き事業を与へ給へり、宜べ我れ善き嗣業《ゆづり》を得たるかな(詩篇十六篇六節) 我は喜ばしき神の救済の福音を伝ふるの業を授けられたり、泣く人の涙を拭ひ、乏しき人の心を充たし、喪ふて返て歓ぶの秘術を教ふるの職を委ねられたり、伝道の職を以て犠牲なりと称ふ者は誤れり、我は大王の位を継がんよりは現職に在て死なんことを求ふ。
 
(97)    我が唯一の宝
 
 我は政治家にあらず、故に時局を解せず、我は文学者にあらず、故に文章を知らず、然れども我も小なる基督の信者なれば、神に由て我が霊魂を救はれし確かなる実験を有す、我が世に供し得るものは唯是れのみ、此憐れなる者の救はれしが如くに世の総ての人の救はれんことを求ふのみ。
 
    完全なる職業
 
 完全なる職業とは他人を歓ばして我も亦た歓ぶの職業なりと云ふ、而うして詩歌と美術とは完全に最も近き業なりと称せらる 而かも人に頼らざる伝道に較ぶれば二者の完全も尚ほ甚だ不完全なるを認めずんばあらず、至大至極の歓喜は福音宣伝の業に存す、其|元始《はじめ》は歓喜にして其終局は歓喜なり、其方法は歓喜にして其目的は歓喜なり、歓んで蒔いて歓んで穫《か》る、而して業終へて後に自身も亦主の歓喜に入る、誰か我儕を羨まざる者ぞある。
 
    本誌の創設者
 
 本誌をして在らしめし最も有力なる人はアマスト大学前綜理故シーリー先生なり、余輩は先生に依りて始めて基督教の何たるを知り、先生亦余輩に嘱して日本国に帰て此福音を伝へしむ、先生既に新英洲の青山に眠り、而して本誌、今や絶東の島帝国に在て先生の意思の幾分を伝ふ、余輩は其欠点の総てを負ふべし、唯先生をして人として受くべき凡ての栄誉を担はしめよ。
 
(98)    最終最善の事業
 
 始めに国の富を増さんとし、次に民の智識を進めんとし、其次に社会を改めんとし、終に主イエスキリストに由りて貧しき人の霊魂を救はんとせり、伝道は我が従事せし最終の事業なり、我は之に優りて善且つ美なる事業あるを知る能はざるなり
 
    反応の理
 
 我は人の我を非難するあるを聞けり、我れ亦時には人を非難することあり、我は今我が主に託りて、我が心の奥底より我を非難せし人を赦すを得るなり、我が非難せし人も亦我が我を非難せし人に為せしが如く我に為すならん、我は他人よりも多くより善き人に非ず、他人も亦我よりも多くより悪しき人に非ず、我等は我等の審判くが如くに審判かるゝのみ、我は他人に対して善意を懐いて全世界を我が友となすを得るなり。
 
    沈黙の勝利
 
 若し世に勝たんと欲せば我より自から進んで敵に当るを須ゐず、唯、静かに働いて神の命を待てば足る、善は自助的にして悪は自殺的なり、瞑目三年の後、眼を開き見れば神の敵は四散して跡方なきを観ん。
 
    基督信徒の寛大
 
(99) 我を憎む者あり、彼は我を憎むに由て多少の愉快を感ず、我れ何ぞ歓んで彼の憎悪の目的物たらざらんや、偽はりて我が所有を掠めし者あり、彼れ之を獲て多少の便宜を感じたり、我れ何ぞ喜んで我が損失を忍ばざらんや、我は神の国に於て永久の冕を戴くべき者なり、今世に於て我が受けし多少の不義、損害、我は之を深く意とするに足らざるなり。
 
    出征軍を送りて感あり
 
 嗚呼、我れ如何にして戦争を廃むるを得んか、我は如何にして是等無辜の良民を敵弾に曝らすの惨事を止《や》むるを得ん乎、彼等を失ふて孤独に泣く老媼あるに非ずや、彼等に離れて饑寒に叫ぶ寡婦と孤児とあるに非ずや、之を見て泣かざる者は人にして人に非ず、我は人が万歳を歓呼するを聞いて其声に和すること能はざりき。
 我れにして若し王者ならん乎、我は無理にも戦争を圧止せんものを、我にして若し寵臣ならん乎、我は戦争を諌止して止まざるべし、然れども微弱なる我れ、我に唯、泣くに涙あり、祈るに言葉あるのみ、嗚呼、我れ如何にして戦争を廃むるを得んか。
 福音を説かんのみ、然り、キリストの平和の福音を説かんのみ、而して一日も早く天国を此世に来らせんのみ、是れ我の為し得ることにして、亦無効の業にあらず、今の時に方て不可能事を企てゝ直に戦争を廃せんとするも何の益かある、人々其心に神の霊を宿すに至るまでは戦争の声は歇まざるべし、キリストに在りて一人を救ふは戦争の危害を一人丈け減ずることなり、而して戦争は非戦論を唱へて止むべきものに非ずして、キリストの福音を伝へて廃すべきものなるべし、嗚呼、我は覚れり、我は千百年の将来を期して、我が目前に目撃する惨事を根(100)絶せんために我が世に在らん限り更らに熱心にキリストの福音の宣伝に従事せん。
 
(101)     教会問題
                      明治37年3月17日
                      『聖書之研究』50号「問答」                          署名 内村鑑三
 
 無教会信者の弁護なり、聖書に頼り、論理に訴へ、実験に照らして基督の教会の何なる乎を論じ、終に我国に於て将来起るべき教会の性質に論究す、問ふ者は教会信者の一人なりと仮定す。
 問、私は貴下が基督教の固い信者であらるゝことは兼ねてより承知して居りまするが、貴下が教会に就て如何お考へなさるか、今日は其事に就て伺ひたく存じます。
 答、承知致しました、私の今日まで邂逅した人で此事に就て私に問はない人は殆んどありません、殊に牧師、伝道師、外国宣教師と云ふやうな人達は先づ第一に此事に就て私に尋ねます、彼等は今日は私の全く異教徒でないことを認めて呉れます、而已ならず、彼等は或る場合に於ては私が彼等の信仰の善き弁護者であることを承認して居ります、然しながら教会問題の一段に至ては私が彼等と主義方針を全く異にする者でありまするから、それ故に彼等は私に近きません、亦、私も強ひて彼等と親まんとは致しません、或る宣教師が曾て米国に在る私の或る友人に書き贈て言ふたさうであります、「彼はイエスを愛する、然し我等宣教師と親まない」と、それは事実であります、然かし私は「彼はイエスを愛する」との其宣教師の一言を以て非常に満足する者であります、私は宣教師と教会を共にする者ではありませんが、然かし及ばずながら「イエスを愛す(102)る」者であります。
問、然らば貴下は何れの教会にもお属しにならないのでありますか。
答、爾うであります、私は今は無教会信者であります。
問、さういふ事は有り得ることでありますか。
答、有り得ることであると信じます、私自身が其一例であります。
問、それで貴下は聖書の指示に適ふとお信じなさるのであります乎。
答、私は別に此点に於て聖書の指命に違つて居るとは信じません、若し地上に於ける教会に対して私の取る態度が聖書の明かなる指命に逆つて居るとお考へになりまするならば、どうぞ其廉々を示して私を責めて下さい、私も二十年来此事に就ては随分考へた積りでありまするから、其思考の結果を貴下の前に陳述して貴下の御教訓に与かりたく存じます。
問、それでは先づ貴下に伺ひまするが、貴下は聖書は教会を認めて居らないとお信じになるのであります乎。
答、勿論爾うは信じません、旧新両約聖書とも幾度か「民の会合」又は「教会」の事に就て書き記して居ることは私も充分に承知して居ります。
問、貴下は亦イエスキリストが地上に於ける其数会の建設に就て語られたことをお認めになりませんか、彼は弟子ペテロに向つて
 爾はペテロ(磐)なり、我が教会をこの磐の上に建つべし(馬太伝十六の十八)
と言れたのを御承知でありませう、亦、使徒行伝廿章の廿八節には主の己が血をもて買ひ給ひし教会と書い(103)てあるではありません乎、其他新約聖書に教会のことに就て書き示してある所は沢山あるではありませんか、然るに聖書の教訓に非常の重きを置かるゝ貴下が、教会の事に就てのみ固く自説をお取りになりまして、無教会の地位に立たらるゝのは私には如何しても分りません、甚だ失礼の申分ではありまするが、此点に於ては貴下は意地を張らるゝの結果、常識の軌道を脱して居られはしません乎。
答、御説、誠に御尤であります、亦、御注意、誠に有難く存じます、然しながら貴下の御申分丈けでは今の所謂る教会なるものが聖書の示す教会である乎、其事は未だ定まりません、聖書は必ず今の羅馬天主教会、又は英国監督教会、又は米国組合教会、其他有りと有らゆる殆んど数へ切れぬ程の教会的団躰の救霊的必要を教へて居る乎、其事は全く別問題であります、爾うして私の研究と思考との結果に由りますれば(甚だ不束なる者であることは私も充分に自覚して居る積りではありまするが)私は我主イエスキリストも亦使徒パウロも決して斯かる団躰の必要を教へては居られないと思ふのであります。
問、其証拠は何所にありますか。
答、何所にと云ふて一言を以てお答へ申すことは出来ません、然しながら新約聖書に顕はれたる教会なる文字の意義を能く研究して見まして、亦、基督教の精神より能く考へて見まして、基督並に使徒等の唱へし教会なるものが、決して今日貴下方が非常に重きを置かるゝ教会でなかつたことは少しく聖書の研究の功を積んだ人の誰にでも分ることであらふと信じます。
問、少しく教会なる文字に就ての御講釈を聞かして下さい。
答、御承知のことかも存じませんが、新約聖書には教会なる文字は種々の意味に於て用ひられて居ります、文(104)字其物は EKKlLESIA《エクレージヤ》と言ひまして、「呼び出されし者」の意であります、故に総ての会合はヱクレージヤと称ばれました、使徒行伝十九章の卅九節にありまする、「律法に合ふ会」とは此種の会合であります、「律法に合ふ会」とは此場合に於ては希臘人の憲法に循つての会合といふことでありまして、純然たる政治的又は社交的の会合であります、故に文字其物より言ひますれば今の帝国議会もヱクレージヤ(教会)であります、県会も、郡会も、社会主義者の会合も矢張りヱクレージヤ(教会)であります、故に使徒行伝の同じ章の第四十一節に「如此語りて会を散せり」とありまするのは、今日の言葉を以て言ひますれば、集会が治安妨害の廉を以て解散されたとのことであります。
間、爾う致しますれば貴下は初代の教会なるものは只の集会に止まらなかつたと仰せられるのであります乎。
答、爾うであります、其集会の状に至てはたゞの会合と少しも違はなかつたと言ふのであります、然し其精神、動機に至ては如何であつたか、それは全く別問題であります。
問、初代の基督教会なるものが単に信徒の集合であつたといふことは何所に書いてありますか。
答、左様であります、腓利門書の第三節には「爾の家内《いへのうち》の教会」とありまして、キリストの言はれし「我が名のために二人或は三人集れる処には我も其中に在らん」と一の言葉に適ふたる教会が一信徒ピレモンの家庭の中に在つたことが示されて居ります、又パウロがコリントの信徒に告げて「爾曹の婦女等は教会の中に黙すべし」と言ひましたのは、其当時の習慣に従つて、多人集合の所に於て婦人の立つて語《ものかた》るは謹粛の美徳に反すと言ふたのでありまして、是れは今日の男女同権、婦人飛躍の権利を承認する英米両国の如き国柄に於て必しも適用すべき聖語でないことは私の教会論に正反対の意見を表せられる宣教師諸君の斉しく唱道せらる(105)ゝ所であります、又、哥林多前書十四章の十九節に於て使徒パウロが「教会の中に在り我れ方言をもて一万の言《こと》を語らんより、寧ろ人を教へんために我が心を以て五言を語るを善とす」と言ひましたのは、多人集会の所に於て人の解し難き駄弁を弄することの無益なるを示した言葉であります、教会とは礼拝あり、音楽あり、僧侶あり、焼香ある所と解しては聖書の此等の言葉は甚だ解し難くあります。
問、然らば基督の言はれた教会と普通の集合躰とは何所が違つて居ります乎。答、勿論其精神が違つて居ります。会員相互の心を結びつけ一致の縄の性質が違つて居ります、基督教会なるものは、利益のための集合でないことは勿論、亦、社会改良、慈善施行のための会合でもありません、基督教会は基督に託りて聖霊を以て新たに生れたる者の生活的団躰であります、故に是れは霊的団躰でありまして、会堂とか、会則とか、制度とかいふやうな形躰を以て顕はさるべき者ではありません、髪の国は顕はされて来るものに非ず、此所に見よ、彼所に見よと人の言ふべき者に非ず、夫れ神の国は爾曹の衷に在りとキリストの言はれたのは彼の教会に就て言れたのであります(路可伝十七章廿、廿一節)、如何なる地上の教会でもパウロが言ふた教会はキリストの身躰なり、万物を以て万物に満しむる者の満さる所なりとの言葉に適なふものはありません(以弗所書一章廿三節)、神の家は活ける神の教会なり、(提摩太前書三章十五節)とは書いてありまするけれども、斯かる教会は我が教会なりと言ふ組合教会の信者があると致しますれば、其人は大なる虚偽を言ふ者であります、バプチスト教会でも、「日本基督」でも、メソヂスト教会でも、然り日本独立教会でも、決して斯かる言葉に適ふた教会ではありません、活ける神の家は聖霊の宿る信徒の心であります、亦斯かる心を授けられた者の目に見えざる霊的交際であります、若しキリストの教会を霊的以外のも(106)のに解する者がありますれば、其人は未だ真面目に新約聖書を研究したことのない人であると思ひます。
問、教会なる文字の解釈より推論致しますれば或は貴下の仰せられるやうな結論に達する乎も知れません、然しながら若し基督教の歴史より考へますれば教会の必然性は最も明白に説明されるではありません乎、之を旧約の歴史に就て稽へて見ましても、神を拝するに適当の礼式あり、讃美あり、音楽あり、犠牲のありましたことは何よりも明白なる事ではありません乎、利未記とは何でありますか、重もに斯かる礼式に就て神の撰民を教へた書ではありません乎、歴代史略の如きは純潔なる礼拝式の如何に神に悦ばれしものである乎を歴史的に示した書ではありません乎、ダビデも亦其詩篇に於て斯かる礼拝の如何に美はしき亦慕はしきものなる乎を至る所に歌ふて居るではありません乎。
 我れ昔し群をなして祭日を守る衆人《おほくのひと》と共に往き、歓喜と讃美の声を揚げて彼等を神の家に伴へり、今、此等の事を追想して我が衷より霊魂を注ぎ出すなり(詩篇第四十二篇四節)
是れ貴下方、無教会信者の迚も味ふことの出来ない歓喜ではありませまん乎、貴下は何事に付ても霊的霊的と仰せられまするけれども、人に五感の供へられてある以上は人は霊を以てのみならず亦肉を以ても神を拝すべきではありません乎。
答、一応誠に御尤で厶います、安息日毎に鏘々たる鐘の音に導かれて会堂に至り、其処に洋々たる音楽に心を清められ、後は白衣を着けたる教師の口より蜂蜜の如き説教を聞かるゝ貴下方の御幸福を私も時には御羨み申上げないではありまん、然しながら、然り、然しながら聖書は寛大なる書であります、彼は私共無教会信者をも祝福《さいはひ》します、聖書は儀式の用をも説きます、亦、其無用をも説きます、爾うして私の見る所を以て(107)しますれば儀式の無用を説く聖書の言葉は其有用を説くそれよりも優かに荘厳で優かに遠大であると思ひます。
問、何処に聖書は儀式の無益を説いて居ります乎。
答、何処にとの御質問であります乎、貴下は聖書に預言者なる階級のありしことを示してある所を御承知ありません乎、預言者は或る意味から言へば儀式の破壊者ではありません乎、
 汝等ソドムの有司《つかさ》よ、汝等ゴモラの民よ、我等の神の律法《おきて》に耳を傾けよ、ヱホバ言ひ給はく、汝等が献ぐる多くの犠牲は我に何の益あらんや、我は羊の燔祭と肥えたる獣の膏とに飽けり、我は牡牛、或は小羊、或は牡山羊の血を喜ばず、汝等は我に見えんとて来る、此事を誰が汝等に要めしや、汝等は徒らに我が聖殿の庭を※[足+歩]むのみ、空しき祭物を再び携ふること勿れ、燻物は我の恵むところ、新月及び安息日また会衆を召集むることも我が恵む所なり、云々(以賽亜書一章十節より十四節まで)。
是れは所謂る教会破壊の声ではありません乎、是れが神が曾てモーゼに告げ給ひし「汝等世々常例としてこれを祝ふべし」と宣ひし聖なる礼式に対しての預言者の発憤の言葉であると致しますれば預言者とは実に神の聖業を破壊して其聖名を涜すの族ではありません乎、爾うして斯かる「暴言」を発したる者は預言者イザヤ一人に止りません、預言者と云ふ預言者は儀礼宗式に対しては大抵は此態度を取つた者であります、殊に預言者アモスの如きは殆んど聞くに忍びざる激越の言を発して、時の教会制度を攻撃しました、
 汝等の歌の声を我前に絶て、汝等の琴の音は我れ之を聴かじ(亜摩士書五章廿三節)
と、讃美の声と楽とを嘲罵した言葉で是より強いものはありません、爾うして預言の書が聖書の一大部分で(108)あることを承知して居る者は聖書が儀式一点張りの書でないことを充分に承認致します。
問、預言者の礼式攻撃は悪を兼ねたる礼式の攻撃であります、礼式其物の攻撃ではありません。
答、其事は私も承知して居ります、然かしながら其事是れ自身が礼式なる者の如何に価値の少ない者なる乎を示します、是れは誰にでも司る事の出来るものであります、如何なる売僧でも、如何なる妖僧でも、僧侶となり、祭司となりて、如何なる荘厳なる儀式と雖も之を司ることが出来ます、腐敗の附着し易いものとて宗教の儀式の如きはありまん、爾うして時には疫病を根絶するために病菌の附いた家屋を焼き払ふの必要があるやうに、人類進歩の歴史に於て腐敗の附着した教会制度を破壊するの必要が度々あるのであります、爾うして預言者は斯かる破壊者であるのであります。
問、若し教会とは左程に悪い者でありまするならば何故に神は其存在を許し給ひます乎、基督教在て以来教会の無かつた時は無いではありません乎。
答、仰せの通りであります、然し神は或る条件の下にのみ教会(目に見ゆる)の存在を許し給ひます、其れは教会が信者の評価に於て最上の地位に置かれないことであります、教会は結果でありまして源因ではありません、教会有つての信仰ではなくして信仰有つての教会であります、教会が信仰の発顕である間は神は其存在を許し給ひます、其れが信仰の鋳造者又は圧搾者となるに至りまして、教会は其存在の理由を失ひまして終に預言者の壊す所となります。
問、去らば貴下は現今の教会なる者は已に破壊の時期に達した者であつて、貴下は之を破壊する預言者の任を負はるゝ者であると御自信なさるのであります乎。
(109)答、随分過激なる御詰問であります、若し私は預言者であるから今の教会以上に立つて之を毀つの義務を保有する者であると言ひまするならば、誰か私の不遜を憤らない者がありませう、事物を総て其極端に於てのみ解釈して「我に組せざる者は我が敵なり」と言はるゝのは決して他人を正当に鞫くの道ではありません。
問、然らば何故に貴下は今の教会に御属しにならないのであります乎。
答、其事は少しく私の個人問題に立入りまして、教会問題を其大体に於て攻究せんとする此問答に於て述ぶべき性質の者ではありませんが、然し一般の問題を特別の実例に就て稽ふるのは返て利益ある場合もありまするから、私は茲に貴下の其質問に答ふることに致しませう。
御承知の通り地上の教会は天に在る理想の教会とは違ひ、歴史的の性質を有つものであります、世に所謂る理想的教会なるものの有るべき筈はありません、羅馬天主教会とは中古時代の欧羅巴の境遇に応じて起つた者であります、カルビン主義の長老教会なる者は十六世紀の思想并に社会の必要に強ひられて起つた者であります、英国に僧侶制度が其腐敗の極に達して、儀式宗制を全然否定したる友会派一名クヱーカー教会が起つたのであります、其他何れの教会の起原を尋ねて見ても同じことであります、世に永遠に続くべき教会なるものの有るべき筈はありません、若し有るとすればそれは活ける神の城なるヱルサレム、又千万の衆、即ち天使の聚集《あつまり》(希伯来書十二章廿二節)でありまして、斯かる教会は此移り変る世に建設せらるべき筈のものでありません、故に若し二十世紀の日本国に教会が有るとしますれば、それは千五六百年前に欧羅巴に起つた天主教会であつてはなりません、又四百年前に璃西国ゼネバで起つたカルビン教会であつてはなりません、又三百年前に英国に起つたメソヂスト教会であつてもなりません、それは今日の日本の信者が基督教の真理(110)を心に受けて、深く神の救済の恩恵を味ふて、其結果、外部より何の制せらるゝ所なくして自然に出来た教会でなくてはなりません、恰度我等が如何に望むとも英吉利人や亜米利加人の肉を取て我が肉とすることが出来ないやうなものでありまして、我等が如何に望むとも彼等が作つた教会を取って之を我が教会とすることは出来ません、若し出来ると思ふ人があればそれは爾う思ふ丈けでありまして其神より賜ふた実物でないことは其維持の非常に困難なるので分かります、恰かも外国産の植物を無理に我邦に移植せんとするやうなものでありまして、多くの費用と労力とを費すならば其生命を持続し得ないではありませんが、然し少しく之を世の風波に曝しますれば忽にして枯れて死んで了ふ者であります、爾うして斯かる教会に身を置きますれば我が信仰も自づと其不自然の性に侵され、竟に自由の発達を遂げ得ずして、死するとまでには至らずとも、その変形矮縮は到底免れ難いことであります、私は私の信仰の自由発達を計らんがために外来の既成教会に身を置かないのであります、教会は人の造つたものではなくして神の造り給ふたものであります、即ち時と場合とに応じて神が我儕の信仰を土台として其上に造り給ふものであります、然るを我儕の時と場合とに何の関係もなくして出来た教会を其儘我儕の中に植えやうとするのは是れ天然の法に叛くことでありまして、亦神の聖旨でないと思ひます、私は若しメソヂスト派の宣教師が来つて私にキリストの救済の道を伝へて呉れますならば感謝して之を受けます、然しながら若し私に三百年前に英国に起つたメソヂスト教会に入れと勧めますならば、私は断じて其勧誘を拒みます、メソヂスト教会は二十世紀の日本人なる私には何の用もないものであります、若し私が強ひてメソヂスト教会の会員とならんと欲しますれば私は多少私の本性を曲げなければなりません、爾うして斯かることは神が決して私より求め給ふことではありません。
(111)問、然らば貴下は人は教会なしに其信仰を守り又進めることが出来るとお信じなさります乎。
答、私は出来ると信じます、人の信仰は教会を作るべきものでありまして、教会は信仰を作るべきものではありません。
問、然しながら信仰の初期に方ては教会の保護並に奨励は信者に取ては非常に必要ではありません乎。
答、多くの人は爾う申します、爾うして私も永の間、さう信じ来りました、然しながら今に至て其懸念の全く不要であることが分りました、私は厚き教会の保護を蒙つた信者にして憐むべき堕落に了つた者を沢山知つて居ります、亦、教会よりは何の世話にもならずして立派に信仰を維持して居る者をも沢山知つて居ります、信仰は神の事であります、人の事ではありません、主は己に属ける者を知り給ふ(提摩太後書二章十九節)、監督より洗礼を受け、大監督より堅信礼を受けた者でも神に簡まれない者は終に堕落します、此事は余りに明白なることでありまして、私は弱信保護の理由を以て教会存立の必要を弁護する人に邂逅します度び毎に、其人の志を嘉しますると同時に、亦其信仰上の実験の未だ至て浅いことを認めます。
問、然らば貴下は今日の教会なるものは全く不要であると仰せられるのでありますか。
答、勿論爾うは申しません、好意を以て建てられたる今日の教会が悪の外、何をも為さないなどゝは常識のある者の言ひ得ることではありません、然しながら教会が教会として其発生地以外の国に於て曾て永久に成功したことのないのは歴史上著名の事実であります、布哇国の如き、一時は其国王は英国監督教会の会員であり、其国民の多数は米国組合教会の会員となりしに係はらず、其国は今は滅びて米国の領土となり、天下何人も布哇国の基督教を口にする者なきに至りし理由は何であります乎、又マダガスカー島の如き、一時は最(112)も熟信なる基督教的婦人を其女王として戴き、万邦に率先して禁酒令を国内に布きし国にして、今は仏国の領土として知らるゝの外、宇内に何の貢献する所なきに至りましたのを見て、誰がマダガスカー伝道は成功であつたと言ひ得ませう乎、米国宣教師ジヤドソンが其生命を投棄て救はんとせし緬甸国は今は何うなりましたか、英国監督教会は英領印度三億の民に如何なる感化を与へつゝあります乎、外国伝道会社の補助を絶たれて組合又は長老の諸教会が永久に支那に於て繁殖するならんと貴下はお信じなさります乎、爾うして他国のことはサテ措き、我国今日の教会なるものに就て貴下は如何なる御観察をお下しになります乎、「監督」と云ひ、メソヂストと云ひ、バプチストと云ひ、プレスビテリヤンと云ひ、或は三十年或は四十年の伝道的労働の結果、如何程の地歩を此国に於て得るに至りました乎、此事に就ては見識のある外国宣教師の方が日本の多くの信者に優さるの卓見を懐いて居ります、彼等宣教師の或者は日本伝道の結果に就て頗る悲観を懐いて居ります、数十年間に渉る外国伝道会社の保育を受けながら日本の基督信者の多数は今に尚は補給を外國に仰ぐの途を講じつゝありまして、自から立つて日本伝道の責任を負はんとは致しません、試に外国の伝道会社が今日直に日本より全く其手を引くと考へて御覧なさい、日本に幾干の基督教会が残りませう乎、四十余沢の伝道会社が七百余名の宣教師を派遣して二三十年間伝道に従事するも、是より以上の効績を挙ぐることが出来なかつたとは抑々何に由るのでありますか、然かも貴下は私に其教派の一に私の身を置いて日本国のためを計れと勧められるのであります乎、私は貴下が私に斯かる勧誘を試みられる前に我国今日の基督教会の現状に就て少しく調査を遂げられんことを望みます。
問、然らば貴下は今の教会は如何したらば好いと仰せらるのであります乎。
(113)答、基督の救済を説いて教会を説かないことであります、教会のことは之を神と信者とに任かし、我より進んで斯かる教会に入れとか、斯かる教会が最も聖書的なりとか唱へて、未だ信仰薄き信者に向て特別の教会制度を勧めないことであります、霊魂は神の属であります、人が其発育に干渉するにあらざれば霊魂は枯死するに至るべしとは古代の天主教徒の懐いた迷想でありまして、我等|新教徒《プロテスタント》の全然排斥する所であります、信徒を駆てメソヂスト教会又は其他の教会に入れんとするは之を天主教会に収めんとせし天主教徒の所為と其精神に於ては少しも異りません。福音と共に教会(教派)を説く者は福音其物を毀つ者であります、金剛石は之を入れる筐とは全く別物であります、然るを筐と金剛石とは同一物であるやうに説き、筐其儘を受くるにあらざれば其中にある金剛石をも受くること能はざるやうに伝へまするのは大なる誤謬であります、我儕伝道師は貧しき霊魂に福音の金剛石を与ふればそれで足りるのであります、之を受けし者が之を如何なる筐に入れて置かうが、是れ我儕の関する所ではありません、或は「独立」でも宜う厶います、或は「無教会」でも宜しう厶います、或は若し信者の好む所でありますならば、在来のメソヂストでも、クエーカーでも、監督でも、組合でも、何んでも宜しう厶います、私は卑むべきものとて我に由りて福音を聞きし者は我が教会に入らざるべからずと言ふ伝道師の心事の如きはないと思ひます。私自身は御承知の通り無教会信者であります、然ればとて私は曾て私に由て基督教を信じた者に向て教会の事に就ても「汝、我が如くなれ」と勧めたことは無いと思ひます、現に私に由て道を信じた人で英国監督教会の信者になつた者もあります。爾うして私は其人が私の許に来り、監督某より洗礼を受けんとすとの相談に与かりました時に、私は歓んで私の賛成を彼に表しました、又私に由てキリストを認めた人でメソヂスト(114)教会の忠実なる信者となつた者も決して尠くはありません、現に某地の或る有力なるメソヂスト教会の如きは私が其建設の栄誉に与かつた者でありまして、其メソヂスト教会へ加入の如きも全く私の勧誘に由つて成つたものであります、私の名誉と歓喜とはキリストの福音を説くことであります、爾うして無教会信者の一大利益は信徒を収容するための我が教会の無いことであります、是れがために我に宗派心の起る患がなくして、純正に最も近きキリストの福音を説き得ることであります、私の最も望む者はメソヂスト教会を全く忘却したるメソヂスト教会の伝道師であります、監督教会を念頭に置かざる監督教会の伝道師であります、爾うして私は信じて疑ひません、斯かる伝道師は霊魂を救ふ上に於て大なる成効を見るのみならず、亦、彼の属する教会の勢力の思はざる所に揚るを見るに至りますことを、教会は人の生命の如きものであります、之を惜む者は返て之を喪ひ、之を惜まざる者は返て之を存ちます(約翰伝十二章廿五節)、今の教会の失敗の大源因は全く教会を惜み其拡張を計るにあると思ひます。
問、御説、誠に御尤に聞えます、然かし教会なしの伝道は実際行はれ得るものであります乎。
答、行はれない理由はありません、若しキリストの福音が人間の製造した虚偽でありまするならば之を維持し、之を伝布するために世の勢力の必要がある乎も知れません、然しながら福音が神の真理である以上は、其伝播に団体の勢力と称するが如き世俗的勢力の必要は少しもない筈であります、政府の権能と学者の智識と多数の賛助とに由るにあらざれば拡張することの出来ない主義は是れ悪魔の主義であります、フランクリンは曾て申しました、「権力に由るにあらざれば立つこと能はざる宗教は神が立つことを欲し給はざる宗教なれば、斯かる宗教は一日も早く消滅するを可とす」と、実に爾うであります、ダンテの詩集や、シエークスピ(115)ヤの戯作ですら別に之を伝播するための団体なきに係はらず、世界到る所に歓迎敬読せらるゝを見ますれば、天の黙示なる聖書が其れ自身の真価にのみ頼つて世界に伝播されない理由はありません、実に此宝典が今日の如く世に多くの冷笑家、多くの憎悪者を有つ理由は、之に補助者が余りに多く有り過ぎるからではありますまい乎、私は或時は思ひます、若し聖書が今の教会より放逐されましたならば其時は其伝播が非常に捗取るであらふと、世の団体の勢力を有つことは聖書の如き書に取りましては大なる不幸であります、然り、キリスト教の伝播は今の教会なる者の破滅と共に決して減じません、否な、若し牧師や、宣教師が叫ぶを息めますれば路傍の石が彼等に代つて叫び出します。
問、爾うして貴下は貴下の述べられるやうな方法に従つて実際神の道は我国に拡まりつゝあるとお信じなさるのでありますか。
答、爾うであります、貴下方教会信者は御承知ない乎も知りませんが、然し、宣教師の目の届かない所に神の教は非常の勢力を以て進みつゝあると信じます、現に私が此雑誌を出しましても其読者の三分の二以上は教会信者の所謂る「未信者」であります、彼等は宣教師より何の勧誘をも受けずして自から銭を投じて聖書を購ひます、彼等は人に教へられずして自から祈祷の語を作つて神に祈ります、洗礼を受けず、聖餐式に連ならざるも彼等は直に基督教的事業を開始しまして、彼等の家庭と周囲とは彼等を通してナザレのイエスの感化力を感じ始めます、爾うして或る場合に於ては彼等同志相集つて、彼等自己流の教会を建設します、若し樹は其果を以て知らるゝ者ならば彼等も紛ふべきなきキリストの信者であります、爾うして自由撰択を以てキリストを信ぜし彼等は多くの教会信者のやうに年を経て信仰を放棄して俗人となり了るやうなことは滅多(116)にありません、彼等は直に神に導かれた信者でありますから、現時の教会の腐敗などに就ては少しも知らず、監督あるを知らず、竪信礼あるを知らず、随て教職を涜すとか、教友を其敵に売つて快哉を叫ぶとか云ふやうなことは少しも知りません、私共或る時は教会内の冷淡と不情と、然り、或る時は其残忍とを目撃しまして、若し斯かるものがキリストの教会であるならば我はキリストの教を棄てん乎との悪魔の試誘《いざなひ》に遇ふこともありまするが、斯かる時には教会を去つて斯かる無邪気なる天然的の信者の許を訪ひまして、真個の福音の未だ全く此地より跡を絶たざることを発見しまして、私共の将さに消えんとする信仰を回復することが幾度もあります、然り、大なる有力なる伝道は教会なしに行はれつゝあります、若し貴下が其事を御疑ひになりまするならば、私は何時でも貴下に無教会的伝道の結果の実物を御目に掛けることが出来ます、ドウゾ神の聖霊の活動を教会内にのみ限らないで下さい。
問、然し人間は古人も言ひました通り社交的動物ではありませんか、随つて彼は単独に生存すべき者ではないではありません乎、彼の霊性は同情の交換を以て成長発達する者ではありません乎、故に聖書は至る所に協同一致の必要を説き、「主一つ、信仰一つ、バプテスマ一つ」と唱へまして、信者の一体たるべきを示し、又希伯来書の記者は貴下のやうに教会より遠ざかる者を誡めて「会集《あつまり》を輟むる或人に傚ふことなく」と教へて居るではありません乎(十章廿五節)、ダビデは其京詣の歌に兄弟親睦の美を称へて「視よ、兄弟相睦みて共に居るは如何に善く、如何に楽きかな」と言ふて居るではありません乎(詩篇第百卅三篇一節)、私は無教会信者の最大欠点は此兄弟的和楽の欠乏にあると思ひますが、如何ですか。
答、貴下の其尋問は私が今日まで外国宣教師の口から度々聞いた所であります、爾うして一寸と伺つて如何に(117)も御尤のやうに聞えます、然し私は其質問を以て私を説服せんとする宣教師に向つて常に左のやうに答へます。
一、人間は勿論社交的動物であります、然し彼は羊や鹿とは違ひ社交的(集合的)ばかりではありません、哲学者カントの申しました通り、「人間は亦最も非社交的動物であります」、彼の裏には人の交際を以てしては如何しても満足することの出来ない所があります、是れは教会に入らふが、倶楽部に加はらふが、如何しても充たすことの出来ない所であります、人が神に近づきます時には他の人を通して近づくのではありません、彼は「アバ父よ」と呼びて直に神に近づくのであります、故に天父に近づくの一点に於ては教会信者も無教会信者も何の異なる所はありません、若し世に教会を利用して神に到らんと欲する人がありまするならば其人は必ず失望します、社交的団結の用は他の事にはある乎も知れませんが、然し神を父とし有つて其救済に与かるの一点に於ては何の用にも立ちません、神は信徒の心に臨み給ふ時は教会内に設けられたる祭壇の上より臨み給ひません、或は静かなる森の中に於て、或は激浪の往来する海の岸辺に於て、或は悔改の涙を以て枕を濡《うるほ》す床の中に於て、神は我儕の心に臨み給ひます、私は教会の絶対的不必要を説く者ではありませんが、然かし、世の教会論者が教会の為し能はざることを説いて教会の必要を説くのを見て常に怪訝しく思ふ者であります。
二、貴下方教会信者は頻りに協同一致の必要を御説きになります、私も勿論それには大賛成であります、然し私の茲に貴下方に伺ひたいことは貴下方御自身の中に果して和合一致がある耶、否や、其一事であります、若し私の見たり聞たりする事が全然|誤謬《あやまり》でありませんならば今日の所謂る基督教会なるものは決して兄弟相(118)睦む所ではないと思ひます、其内には教師相反目し、信徒相争ひ、讒誣あり、陥擠《かんさい》あり、結党ありて、見る人をして時には嘔吐の念を催さしむるではありません乎、私は近頃或る信者が私に告ぐるのを聞きました、「私は不信者の社会にありました時に未だ曾て教会の兄弟間に行はれるやうな執念深い争闘を見たことはありません」と、私自身の経験も同じことであります、私の生涯に於て私の出会つた最も悪い人は教会信者でありました、彼の譎計、彼の奸策は到底未信者社会に於ても見ることの出来ないものでありました、私は勿論、貴下方の理想の茲に無いことを知つて居ります、然しながら実際の教会なるものが決して和楽一致の郷《さと》でないこと丈けは甚だ明瞭であると思ひます。而已ならず、貴下方の一致は若しありとすれば、それは貴下方の教会内の一致に止まります、広く他教会に対してあるのではありません、日本国に代表されて居る教派ですら已に四十以上もあるとのことでありまして、其多数の教派の間に実に聞くに忍びざるの不和競争のあるのは貴下と雖も之を否むことは出来ません、「彼はキリストを説くも実はキリスト信者に非ず」とか、「正教会は我が教会のみ」とか、其他神の子として決して口にすべからざることを彼等教会信者は己れの教会以外の教会に対して発して居るではありませんか、「主一つ、信仰一つ、バプテスマ一つ」、然り、実に其通りであります、其れならば何故に監督教会はクエーカー教会を主の教会として認めません乎、何故に新教と旧教との間に犬猿も啻ならざる嫉妬争闘がありますか、「視よ、兄弟相睦むは如何に善く、如何に楽きかな」、然り、其通りであります、聖書の此語を心に懐いて組合教会と「日本基督教会」との間柄を観察して御覧なさい、貴下は此聖訓の最も善き反証を得られまして、涙と共に貴下の御確信を強められるであらふと思ひます。
(119)三、私共無教会信者に「聖徒の交際」が無いと云ふ人は誤ります、私共の間にも至て篤い交際があります、勿論、私共は会員証を携へませんから、相互に之を示して交際を求むるの便宜を有ちません、然しながら同一の主を信じて其救済に与かりし者は会員証を示されずとも終には深い霊の兄弟であることを互に認めます、爾うして斯く認めました後の我等の交際は之を味はざる者の到底知ることの出来ないものであります、是れは会則に服従して出来た一致ではありません、是れは聖書に謂ふ所の「霊の賜ふ所の一致」であります(以弗所書四章三節)、爾うして此一致は何にも必しも無教会信者の間にのみ限りません、教会に属する者、属せざる者の別なく、総て同一の霊を以て同一の主に救はれし者の間に存する一致であります、真心を以て主を信ずる者は皆な私共の兄弟であります、私共は「貴下は何時洗礼を御受けなさりましたか」と聞いて其人の信者である乎、ない乎を分ちません、其人の品性に顕はれたるナザレのイエスの感化力を認めて然る後に彼の基督教信者であるを覚り、彼に向つて私共の霊的交際を始めます。
問、貴下の仰せられるやうに、制度も要らない教則も要らないと致しまするならば、吾等は如何して教理の純潔を守ることが出来ます乎、斯かる場合には人々自分勝手の説を宣るに至りまして宗教界は宛がら混沌たる無政府の状態に陥りは致しません乎。
答、さやうであります、若し教会なるものが貴下の仰せられる此無政府の状態を妨止《とめ》ることが出来るものでありますならば、御説、或は御尤かも知れません、然しながら事実は全く御説の正反対であると思ひます、教会は決して教理の純潔を護るの用をなしません、現に御覧なさい、我国に於てすら、今や最も明状《あからさま》に基督教の教義を嘲笑し、之を迷信視して得々たる者は曾ては教会の寵児として目せられ其特別の保護を受けて斯世(120)の智識を修めた者ではありません乎、教会が必しも信仰の養成所ではなくして、或る場合に於ては返て其正反対で、最も有力なる無神論又はオベツカ主義の発育所であることは少しく眼を教会信者の実歴に注いだ者の疑ふことの出来ない所であります、亦、今尚ほ教会の中にある人でも、必しも教理の純潔を維持して居るとは限りません、今や立派の「正統派教会」の中に於てすら、我等少しく教理歴史を読んだ者の眼から見ますればトンでもない教義が行はれて居るではありませんか、爾うして教会員中誰れ一人として之を咎むる者なく、異端は恰かも無人の地を行くが如くに、傲然として教会内に横行して居るではありません乎、若し教会は異端を矯めるための必要機関であると仰せられますならば、之を日本国今日の教会の事実に徴して見まして、貴下の其御申分の全く立たない事が証明されるではありません乎。
夫れ而已ではありません、今や自由思想の行はれる時に方て、若し教会が人の自由思想を制限するが如きことを為しますれば、彼は直に教会を去て、教会外に於て彼の思想を述べるまでのことであります、此世界は基督教会の制御する所のものではありません、無神論も行はれて居りますれば不可思議論も行はれて居ります、亦、基督教会の種類にも数限りはありません、故に人が如何なる思想を懐かうが彼は必ず彼の同意者を何所かに求むることが出来ます、教会が信徒の信仰を支配することの出来たのは遠い過去のことであります、今は自由の時代であります、教会時代ではありません。
問、夫れならば我等は何を以て教理の純正を守ることが出来ますか。
答、神の聖霊を以てゞあります、外よりする会則とか制度とか称ふ絆の類を以てするのではなくして、内よりする愛の能力を以てするのであります、信仰を以て外より作り、又は変更し得るものと見做すのは大なる間(121)違であります、信仰は直に神より来るものでありまして、之は上と内とする断えざる愛の注入を以てのみ維持せらるゝものであります、教会を以て信徒の信仰を支へんとする人に向て私はパウロの言を籍りて言ひます、「我は神の恩みを徒然せず、若し義とせらるゝこと律法《おきて》(制度、法令の類)に由るならばキリストの死は徒然なる業なり」と(加拉太書二章廿一節)。
問、然らば貴下は何時までも無教会信者で通さるゝ御積りであります乎。
答、左様であります、此自由信仰を容るゝやうな教会が出来るまでは此儘で居る積りであります、然しながら前にも申上ました通り信仰は何時までも外に発表せられずして居るものではありません、教会は信仰を作りませんが、信仰は終に教会を作ります、信仰の一致があつて一致の教会が終には顕はれて来ない理由はありません、爾うして既に信仰の一致がある以上は遠からずして一致の教会は出来て来るだらふと思ひます。
問、爾うして斯かる教会の出来た例はありますか、又、将来に於て其起らんとする希望は何所にありますか。
答、日本国に於ては伝道の年月の未だ短いのと、外国宣教師が自国の教会の扶殖にのみ骨を折つて日本国自生の教会の発達を奨励しなかつたとの故を以て斯かる教会は今有りとするも、恰かも雨夜に於ける星の如く極く寥々たる者であります、然かし無いとは限りません、又将来に於てその起らんとしつゝある徴候は沢山にあります、現に何れの教会に於ても独立運動が非常に善きことゝして迎へられつゝあるのでも分かります、然し此事を細々しくお話し申すのは少しく私共無教会信者の手柄話しに渡るの嫌ひがありまするから、それは茲では御免を蒙ります。
問、種々御説を伺ひまして、私は勿論之に賛成することは出来ませんが、然かし、貴下は私が今日まで聞いて(122)居りましたやうな教会の破壊者でないこと丈けは分りました、多分貴下のやうな方の在るのは返て教会のための利益でありませう、爾うして神は斯かる目的を以て貴下を使はるゝのかも知れません。
答、貴下の御口より夫れ丈けの御言葉を頂戴するのは私の大に満足する所であります、私は勿論、宣教師や教会信者より何の援助をも受けんと欲する者ではありません、然しながら此異教国に在て随分多くの苦難を経まして今日まで福音の伝道に従事して来た積りでありまするのに、同じ福音を宣伝ふる宣教師等より、何の援助を受けないのみならず、或る場合に於ては多くの詰らない誤解を受けましたことは私の常に遺憾に思ふ所であります、今の教会とは何の関係もない私は只放任して置いて貰へばそれで満足するのであります、爾う申して、私は教会に向て何の同情をも表さないと云ふのではありません、前にも申上げました通り私は機会の許す限りは到る所に教会の事業を助けて居る積りであります、我が主義を確守することは必しも他人の主義を攻撃することではありません、我は我に反対する他人の主張を尊敬しながら我が主張を守ることが出来ます、私は勿論、私が教会に向て表する同情より以上の同情を私に向て要求することは出来ません、然しながら私の無教会の故を以て私の基督論や来世論までを無用視し、又は不問に置かるゝ宣教師並に教会信者の態度を少しく不愉快に感ずるのであります、斯く申して私は怨恨を述立つるのではありません、私も神を父として有ちキリストを兄弟として有つ者でありますから、他人の同情を藉りずとも満足歓喜の生涯を送り得る者であります、其御積りで今日の此話を御聴取り下さい、サヨナラ。
 
(123)     無抵抗主義の真意
                     明治37年3月17日
                     『聖書之研究』50号「研究」
                     署名 角筈生
 
 キリストの教訓《おしへ》は何う考へても無抵抗主義であります、「汝悪に抗する勿れ」とは其神髄であると思ひます、爾うして若し神にして存在し給はざる者でありますならば是れ或は実に不道理なる教訓であるかも知れません、然かし神が在す以上は是れ当然の真理であると思ひます、神はたゞ命令的にのみ悪に抗する勿れとは宣ひません、神は「喜んで悪人の申出を納れて我が爾に下さんとする大なる恩恵を受けよ」と宣はるゝのであります、私共が悪人より無理の要求に接する時に神より更らに大なる恩恵下賜の約束に接するのであります、然るに多くの人は此事を知らないで、悪に抗して善を逸するのは実に愚かなることではありません乎。
 
(124)     時感三則
                     明治37年3月17日
                     『聖書之研究』50号「雑録」
                     署名 角筈生
 
    戦時に於ける我儕
 
 我儕基督信者は戦時に於ては殆んど用の無い者であります、然し戦後に於ては多少役に立つ者であります、若し負ければ国民は非常に失望します、其時に我儕は彼等に多少の慰藉を供することが出来ます、勝てば彼等は非常に高ぶります、爾うして其結果として社会は今よりも一層堕落します、其時に我儕は其腐敗を多少止めることが出来ます、我儕は今は心を静かにして戦後の御用を待ちつゝあります。
 
    震動の効用
 
 天地の震はれるのは震はれざる者の存《のこら》んがためであります(希伯来書十二章廿一節)、偽善と真善とは斯かる時に判分るのであります、罪悪の充盈る世に時々斯かる震動が臨みませんならば、正義は竟には何うなりませう、震動其物は求むべきものではありませんが、然かし震動は神の正義が世に顕はるゝための機会となります、私共は神怒が炎々と燃る中に在ても其恩恵を讃美して歇まない者であります。
 
(125)    静なる歓喜
 
 我等は世の人のやうに歓びは致しません、去りとて亦世の人のやうに悲みも致しません、私共は永遠より永遠に渉る神の聖旨の活働を信ずる者でありまする故に一勝一敗に由て喜怒哀楽の激変を感じません、私共の歓喜は青空《せいくう》を通過して無極にまで及ぶ光線の如きものであります、静にして深く、神より出て尽くる所のない歓喜であります、地移り、海鳴り、山は動くも何でありませう、ヱホバは其聖殿なる宇宙に在します、我等は其前に在て静なるべきであります(吟巴谷書二章廿節)。
 
(130)     『聖書は如何なる書である乎』〔角筈パムフレット第六〕
                       明治37年4月11日
                       単行本
                       署名 内村鑑三述
 
〔画像省略〕第七版表紙143×106mm
 
〔目次〕
聖書は如何なる書である乎…………8巻 附録、二大英雄の伝道……………8巻
 
(135)     〔春と霊 他〕
                     明治37年4月21日
                     『聖書之研究』51号「所感」
                     書名なし
 
    春と霊
 
 春来るも霊臨まざれば我に於て何かあらん、我は花の美しきを歓ばず、我は花に於て我が主の美しきを観んと欲す、春の山野に臨むが如く、神の霊は我が心に降らざるべからず、然らざれば我は春に遭ふて徒に我が衷の悲痛を感ずるのみ、来れ聖き霊よ、来て我が衷なる歓喜をして外なる麗色に劣る所あらざらしめよ。
 
    今年の春
 
美なる哉天然、汝に間然する所あるなし、唯、我儕に悲痛の存るが故に、我儕は汝と共に歓び得ざるなり、野は董花を以て布きつめられて紫壇《しだん》の如し、丘は桜を以て彩られて白殿の如し、神の声に応じて春は故国の山野に臨めり、惟り悲む、同朋の此春を楽しみ得ざる者多きことを。
 
(136)    不朽の花
 
 春は来れり、花は開けり、花は開けり、花は散れり、一年の栄光は一日に鍾り一日の栄華は風前に失す、是れ現世の常道なり、我等は最早や是に頼らじ、「草は枯れ其花は失す、然れどもヱホバの言は変はることなし」、花は桜に非ず、聖書なり、万世不朽の聖書なり。
 
    浩然の気
 
 最も善きものは宇宙の神の聖き霊なり、其次に善きものは全地を払ふ清き風なり、小人閑居して不善を為すは此霊と此風とに触れざるが故なり、我儕は成るべく多く是二つの霊気に触れて常に歓んで常に働くべきなり。
 
    窮境を謝す
 
 神は或る時は我儕を窮境に追詰め、其処に我儕に大なる救済を下して、我儕の無能なると神の大能なるとを知らしめ給ふ、我儕、彼に造られし者なるに、時には我が運命の制定者なりと信じ、神に頻らずして、何事をか為さんと試む、神が時には我儕を棄て給ふは甚だ可し、然らざれば我儕は神の間断なき救済を忘れて、実際的無神論者と成り了らん。
 
    責任軽し
 
(137) 我れ我が神に依り頼みて我が責任の重きを思はず、そは我れ是を担ふにあらざればなり、我れ我が身を神に委ねて神は我がために我が総ての責任を担ひ給ふ、我れ時には全宇宙が我がために活動きて我が用を作すかの如くに思ふ。
 
    勝利の秘訣
 
 我に力なし、然れども我が全能の神は我がために活動き給ふ、我に智慧なし、然れども我が全智の神は我がために計策り給ふ、我が神我と偕に在して懦弱き拙劣き我も此世に勝ち得て余りあり、我は永久にヱホバの聖名に頼らん。
 
    文を得るの法
 
 文の無きを悲まず、之を以て表彰はすべき想のなきを悲む、想のなきを悲まず、想を産むための信なきを悲む、信あらん乎、文あらん、我は文を得んがために筆に到らずして祈祷の座に走らん。
 
    真理の贋売り
 
 語るための真理に非ず、信じて行ふための真理なり、記者たり、説教師たるの危険は語らんがために真理を求めて信ぜんがために之を探らざるにあり、真理は一たび心に沈み、手より出づるにあらざれば、語るも何の益なきものなり、世に純真理を供すると称して、脳に受けしものを直に口又は筆に出す者は真理を贋売する者なり、(138)真理の探求所は書斎に非ず、汗と涙との流るゝ活世界なり。
 
    興亡の因果
 
 経済の背後に政治あり、政治の背後に社会あり 社会の背後に道徳あり、道徳の背後に宗教あり、宗教は始にして経済は終なり、宗教の結果は真に経済に於て顕はる、隆興然り、敗滅亦然り、余輩は其末を見て其本を知る難からず、亦其源を知て其末を卜し得べし。
 
    成功に到るの大道
 
 真理は純理的にのみ真理なるに非ず、真理は亦実際的にも真理たるなり、真理が最後の勝利者たるは、真理は万物の必然的到達点なるが故なり、我等は真理と与みして我等の舟を成功の河流に浮べしなり、其河口に達するまでに多少の妨碍はあるならん、然れども其滔々として終に繁栄の大洋に臨むは水の低に就くが如く確かなり、我等奚んぞ成功の秘訣を探るを須ゐん、真理と与して真理をして我等を成功の楽園に導かしめんのみ。
 
    智慧に勝さるの勢力
 
 智は愚に勝さる、而かも心の聖なるに及ばず、聖、時には盲なるも而かも利害を判別するの本能を有す、而して人類の歴史に於て信仰は常に智識に勝さるの勢力なりし、歎ず今の時に於て信仰の国家的勢力として認められざるを。
 
(139)    天意の遂行
 
 神と天然とは終に欺くべからず、威を以てするも、術を以てするも、神は遂に其意志を曲げず、天然は遂に其法則を更めず、智者何処にある、暴人何事をかなさん、天意は遂に行はれて譎計は失敗に終らん、感謝すべきかな。
 
    罪の発見
 
 罪を犯すの一点に於ては信者も不信者も異なる所はない、然し罪を発見し之を革めるの点に於ては二者の間に天地の差違がある、不信者は罪を犯すも之を発見することが出来ず、随て之を革めることは出来ない、之に反して信者は罪に陥るもキリストに在て之を発見し、之を悪み、之を悔ひ、終に之を己が身より切離すことが出来る、基督信者たる幸福の一つは罪を犯して罪に死ないことである。
 
(140)     主戦論者に由て引用せらるゝ基督の言葉
                      明治37年4月21日
                      『聖書之研究』51号「研究」                          署名 内村鑑三
 
 四福音書の中に録されてある基督の言葉の中に彼が戦争を是認して居るかの如くに見ゆるものが二つか三つある、然しそれ以上はない、彼が総ての抵抗を明白に否認した言葉は数多ある、然かし彼が戦争を是認したるが如くに見ゆる彼の言葉は極く僅少であつて、其意味も至て曖昧である、吾等は此研究に入るに先立つて此明瞭なる一事を深く心に留めて置かなければならない。
 目にて目を償ひ、歯にて歯を償へと言へることあるは爾曹が聞し所なり、然れど我、爾曹に告げん、悪に敵すること勿れ、人、爾曹の右の頻を撃たば亦ほかの頬をも転らして之に向けよ、(馬太伝五章卅八節)、是れ確かに戦争を勧めるの声ではない、是れは勿論守るには実際、甚だ困難い教訓である、然し是れが基督の教訓であつて、天国の民の守るべきものである、吾等は此罪悪の世界に於て実際上其不可能事なるを唱へて、其最も明白なる基督教の教義であることを拒んではならない。
 イエスと偕に在りし者の一人、手を伸べ、剣を抜いて祭司の長の僕を撃ち、其耳を削おとせり、イエス彼に曰ひけるは爾の剣を故処《もと》に収めよ、凡て剣を執る者は剣にて亡ぶべし(馬太伝廿六章五一、五二節)。是れイエスが明状《あからさま》に剣を執ることを禁じ給ひし言葉である、如何なる主戦論者もイエスの口より此言の出しを知ては彼に戦争(141)是認の責任を負はせることは出来ない、イエスの此言たるや実に非戦主義者の標語として存するものであつて、此聖語を心に留めて、幾人の帝王や侯伯が戦はんと欲して戦を止めたか知れない、古代の基督教の弁護学者として名を知られたるターチユリアンと云ふ人はイエスの此言に就て曰ふた「主はペテロの手より剣を奪ひ給ひて全人類に廃剣を命じ給へり」と。
 イエス坐して其十二の弟子を召び、彼等に曰ひけるは若し首《かしら》たらんと欲ふ者は凡ての人の後となり、且つ凡ての人の使役《つかはれびと》となるべし、(馬可伝九章三五節)、是れは戦争とは直接、何の関係もない言葉ではあるが、然かし善くキリストの心を顕はしたものであつて、若し此語の精神が人類間に貫徹すれば戦争は根より絶たれて仕舞ふに相違ない、首たらんと欲するのが、総ての争闘の起因である、我が正当の権利を衛るためであるとか、人類の平和を計るためであるとか云ふのは、詮ずる所皆な此首たらんと欲する野心を蔽ふための託言に過ぎない。
 其他直接間接に争闘を誡しめたる聖書の言は実に数限りない、基督教其物が特別に負ける者を慰めるための宗教である、柔和なる者は福なり、其人は地を嗣ぐことを得べければなり(馬太伝五章六節)、是を今日の言葉を以て言へば「践附けらるゝ者は幸ひなり、其人は世界を其所有となすを得べければ也」となるのである、亦聖書に於ては「謙りたる心」といふ言葉が度々用ひられて居る、(腓立比書二章三節、哥羅西書三章十二節、以弗所書四章二節等参考)、是を希臘語で tapeinophrosune《テペイノフロスネー》と云ひて、之は甚だ稀態なる言葉である、「タペイノス」とは「打ち展げられる」の意であつて、恰度金が鉄槌《かなづち》にて薄紙のやうに打ち展げられると云ふやうな意を示す言葉である、「フロスネー」は心であつて、タペイノフロスネーと云へば他人に践つけられ、又は患苦に擲《たゝ》き伏せられて、頭の擡《もた》げやうの無くなつた時の心の状態を指示す言葉である、是れは支那語の謙遜ではない、殆んど屈辱と訳す(142)べき言葉である、然るに聖書は斯かる卑屈気味たる心の状態を以て神の心となし、基督信者の追求すべき心の状態と做すのである、斯かる事を教ゆる基督教は善き教である乎、又は悪い教である乎、其事は別問題として、是れが創始にキリスト、パウロ、ヨハネ等の人々に由て人類に伝へられた基督教なるものゝ根本的教義であつたこと丈けは何よりも明白なることである、然るを是事を知らずして、今時の英吉利人や亜米利加人が唱ふる所謂る基督教なるものを見て其れが基督の基督教であると思ひ、グラツドストンに聞いてキリストに聞かず、ルーズベルトに学んでパウロに学ばない者は、全然基督教を誤解する者である、国威宣揚とか、権利拡張とか云ふやうなことは基督教の聖書には一つも書いてない、基督教は現世に於ける凡ての権利の放棄を勧めるものである、(若し暴力を以て要求さるゝ場合には)、犠牲を教へる、宥恕を教へる、無限の譲退を教へる、夫れがために基督教は悪い教であると云ふならば其れは夫れまでゞある、基督教は斯く教へる者である、爾うして斯く教へて二千年間を経過し来つた者である、斯かる歴史を有つ基督教は勿論、政治家や軍人の便宜を計つて、今日、其根本的教義を曲げんとは為ない、「殺す勿れ」「剣を執る者は剣にて亡ぷべし」、然り天地は消え失するとも其通りである、全世界の国家が是がために悉く崩るゝとも其通りである。
 キリストの心の爰に在るを知てキリストの語られし凡ての言葉の真正の意味が解《わ》かるのである、吾等は河の流れの方向を量るに其渦や逆流の方向を以ては量らない、吾等は河水の全量の流るゝ方向を見て河の流れの何れの方角に向て流れるかを定むるのである、吾等が聖書の言葉を解釈するに方ても同じ方法を取らなければならない、聖書全躰の意嚮が日を睹るよりも明かに平和、寛容、受難にあるのを知て、我儕は其中に二三の之に反対するが如くに見ゆる言葉があればとて夫れを以て基督教は戦争を是認するものであるとの断案を下してはならない、其(143)れは恰かも詩篇第十四篇一節に在る「愚者は心の中に神なしといへり」との言葉の中より「神なし」との短語を引いて聖書に依て無神論を唱へるの類である。
 今、主戦論者に依て引用せらるゝ新約聖書中の言葉を検挙《しらべ》て見るに実は左の二より外は無いのである。
   其第一は
  地に泰平を出さん為めに我来れりと意ふ勿れ、泰平を出さんとに非ず、刃を出さん為なり、夫れ我が来るは人を其父に背むかせ、女《むすめ》を其母に背むかせ、※[女+息]を其姑に背かせんためなり、人の敵は其家の者なるべし(馬太伝十章卅四、五節)
 是れと同一の意義にて聖ルカに依て伝へられたる言葉は左の如きものである、
  我は安全を地に施《あた》へんとて来ると意ふや、我れ爾曹に告げん、然らず、反て分争《あらそ》はしむ、今より後、一家に五人あらば三人は二人に敵対し、二人は三人に敵対して分かるべし、父は子に、子は父に、母は女に、女は母に、姑は其|婦《よめ》に、婦は其姑に敵対して分かるべし(路可伝十二章五一、二、三節)
 二人の福音記者に由て斯の如くに伝へられたるイエスの言葉が今日の所謂る国際的戦争を弁護するために用ひられるとは奇も亦甚しと言ふべきである、茲処に吾等の心に留めて置くべき一つのことがある、其れは聖書に於ける自動、他動の二種の動詞の用法である、「我れ刃を出さん為めに来れり」と書いてあるのを見て、キリストの此世に降り給ひし一つの目的は彼が此世に戦争を起こすためであつたと解してはならない、恰度以賽亜書第四十五章七節にヱホバが「我れ平和を造り、また禍害《わざはひ》を創造す」と書いてあるのを見て神は禍害の創造者であると解してはならないと同様である、ヒブライ人の語法として他の国語に於ては他動的動詞を用ふべき場合に自受的(144)動詞が用ひられるのである、「我れ刃を出す」云々の場合に於ても自動的動詞は他動的に解釈されねばならない者である、地に黍平を出すのはイエス来世の目的であつた、然しながら世が罪悪を愛して正義を嫌ふの結果、平和の福音は却て分争を呼び起すに至らんとの歴史的預言をイエスは此処に宣べられたのである、刃は勿論キリストの出したものではなくして、其れはキリストの福音を忌嫌ふ彼の敵が彼と彼の弟子とに対して執る者である、イエス自身が斯かる刃に斃れ給ふたのである、其弟子なるヨハネの兄弟ヤコブも亦ヘロデ王の手に執らはれて斯かる毒刃に其身を亡したのである(行伝十二の一)、羅馬帝ネーロの時に信仰のために同じ刃に斃れし者蔑万、其他キリストの福音が真面目に信ぜられた所で、此迫害の臨まない所は殆んど無いのである、若し日本現時の基督教会の如くに何の刃も其信徒の上に臨まない場合には、是れ彼等の信仰の薄弱にして、取るに足らないものであることの何よりも好き証拠である、「十字架なくして冠冕《かんむり》あるなし」、刃は或る形に於ては基督教の附随物《つきもの》である。
 イエスの爰に曰はれし刃とは凡ての難困、凡ての迫害を意味するものであることは誰が見ても明瞭である、爾うして彼の教訓の大躰より推測して、是れ彼の信者が其敵に対つて執るべきものではなくして、其敵が信者を憎み、基督教を嫌ふの余り、信者に対つて取るものであるとのことは是れ又誰が見ても明白である、且つ此禍患たる全くキリストの福音を信ずるの結果として信者の身に及ぶ者であつて、彼が此世の権利を主張せんとするがために、或は財産領土を争ふがために、彼に迫り来るものではない、之を要するにイエスが爰に曰はれし刃なるものは此世の戦争なるものとは何の関係もないものである。
 分争は天国を得んための分争であつて、地を得んための分争ではない、地のことに就てはキリストは純然たる(145)無抵抗主義を教へたのである、天のことに就ては此身を殺して霊を救はんことを教へたのである、爾うして斯かる争闘は深くキリストの救済に与かつた者でなければ知ることの出来ないものである、爾曹悪を争ひ拒ぎて未だ血を流すに至らず(希伯来書十二の四)、とは此種の信仰の戦争を云ふたものであつて、信仰のために未だ己が血を流さるゝに至るまではキリストの苦難と之に伴ふ其歓喜とを識り尽す能はずとの意である。
 斯く解し来つて、イエスの此言葉がキリスト教の信仰とは何の関係もない今日の国際的戦争なるものと何の関係もない言葉であることは誰にでも善く分かる、キリストの何たるを知らず、彼が人類のために供へし救済の何たる乎を識らざる人達がイエスの此信仰上の言葉を拉へ来つて今時の戦争を弁護するとは奇怪千万と言はざるを得ない。
   其第二は
  又彼等に曰ひけるは、我れ財布、旅袋、履をも帯《も》たせで爾曹を遣はしゝ時、爾曹事の欠けたること有りしや、答へけるは無かりき、イエス彼等に曰ひけるは今は財布ある者は之を取れ、旅袋ある者も亦然り、此等を有たぬ者は衣服を売りて刃《つるぎ》を買ふべし、我れ爾曹に告げん、彼は罪人の中に算へられて有りと録されたる此言は我に於て遂げらるべし、蓋《そは》、我を指したる事は必ず成《と》げらる可れば也、彼等曰ひけるは主、見よ、爰に二つの刃あり、イエス彼等に曰ひけるは足れり(路可伝廿二章卅五−卅八節)。
 一目して如何にも剣の使用を是認した言葉のやうに見える、爾うして此言葉を解釈して己の身を衛るに剣戟を以てした者は奸悪を以て有名なる羅馬法王ボニフェス第八世である、爾うして斯かる人が斯くイエスの此言葉を解釈したのを見て其正解の那辺に存する乎は推して知るべきである。
(146) イエスが爰に鋼《かなえ》の刃を買ふことを其弟子に告げたのでないことは左の諸項に照らして見て分かる。
  一、イエスが此言葉を発し給ひし後、直に彼の敵が彼を捕へんとて来りし時、其弟子の一人が剣を抜いて逮捕者の一人の耳を削落《きりおと》しければ、イエスは弟子に命じて「爾の剣を故処に収めよ」云々の語を発し給ふた、(同章四十八節以下並に馬太伝廿六章五一、二節参考) 弟子は剣を買へとのイエスの言葉を字義なりに解釈して師と己との身を衛らんとせしも、彼はイエスの叱責に会ふて之を元の鞘に収めざるを得ざるに至つた、若しイエスにして前には刃を買ふことを命じて置きながら今は其使用を禁じたりとすれば、彼は自家撞着の譏を免かるゝことは出来ない。
  二、衣服を売てまで刃を買へよと令ぜられて、弟子はイエスの其声に応じて爰に二つの刃ありと云ひたれば、イエスは彼等に向つて「足れり」との一言を発して其他を言はなかつた、若し真に刃を要したならば、イエスの此言は甚だ解し難いものである、僅か二本の剣を以て師弟十二三人の生命を護るに足らなかつた事は言ふまでもない、然るに二本ありとの答へを聞いてイエスは何故に是にて足れりとの言を出したる乎、若し衣服を売りてまでも刃を買ふほどの必要がありたりとすれば、イエスは大に弟子の注意深きを誉め、更らに数本を購ひ来るべきを命ずべき筈ならずや。
  三、若し爰に謂ふ所の刃が実物の刃であるならば、其れと同時に賤布も旅袋も実物のものでなければならない、爾うして若し伝道師に刃を携ふるの必要があるとならば、彼は賤布(財産)を蓄ふるの必要もあると解釈しなければならない、然しながら是れ貪慾の伝道師を除くの外は何人も承認せざる解釈である、イエスの此言葉を伝道師に蓄財を奨励したものと解釈する者があれば、其人は単に世の嘲笑を其身に招くまでのことで(147)ある、但し(貪慾の伝道師は言ふであらふ)若し刃を字義なりに解釈するならば、何故に財布を字義なりに解しては悪い乎と。
 然らばイエスの此言葉は如何なる意味を運ぶものである乎。
 言ふまでもなく、困難の到来と同時に(そはイエスが其敵の手に附たさるべき時、近づきたればなり)是に対して弟子の心の結束を促がしたものである、即ち使徒パウロの言葉を以て言へば「是故に爾曹神の武具を取るべし、是れ悪しき日に遇ひて敵を禦ぎ、凡ての事を成就して立たん為なり」との意である(以弗所書六章十三節以下を見よ)、即ち暗黒の王の今や攻め来りて爾曹を索めて麦の如くに簸はんとする時到りたれば、爾曹心を堅くして爾曹の信仰の冠冕を奪はるゝ勿れとの痛切なる勧告である、爾うしてイエスの言葉に斯かる過激に瀕したる語調のあることは聖書の他の所を善く読んだものゝ斉しく見認《みと》める所である、イエスは或時は自己を強盗に譬へ給ふた(馬太伝十二章廿九節)、又不義なる裁判人に譬へ給ふた(路可伝十八章一節以下)、又己れ平和の君でありながら我は刃を出すために来れりと切言し給ふた、爾うして斯かる口調はイエス一人のそれでなくして聖書記者全躰の口調であることは旧約の予言を読んだものゝ誰でも知る所である、爾うして斯く切言して聖書記者は針小を棒大し、細事を誇張するのではない、霊のことを語る者は如何なる言語を使ふも意味の甚だ足らない事を感ずる者である、詩人ダンテの如きが其善き一例である、彼の文を過激なりと称する者は未だ彼の心の更らに数層之よりも激烈なるものであつて、彼の熱筆を以てしても、到底、彼が人類と彼の国人とに就て言はんと欲した万分の一も言ひ得んだことを知らない者である、キリストは実に或時は不義の裁判人の如くに感ぜらるゝ者である、キリストは実に或る場合には吾等の霊魂の強盗である、キリストの福音は実に或る家に取ては平和の冷泉ではなくし(148)て燃る焔《ほのう》の刃である、其やうに信仰の試錬の烈火の吾等の身に臨み来る時には吾等は実に総ての有りと有らゆる武器の必要を感ずるのである、是れ比喩の如くに聞えて実は比喩ではない、心の刃は鋼の刃に勝るの利刀である、信仰の剣は兵士の振り上ぐる剣に勝るの武具である、此底の信仰上の実験を有たない者はイエスの此等の意味深き言葉の解釈を試むべき権利を有たない者である、弟子輩がイエスの斯かる言葉を誤解した例は他に幾個もある、其中、爰に於ける場合と善く似た例でイエスの此言葉を正しく解釈するために大に吾等の参考となるべきものは左の言《もの》である。
  イエス彼等(弟子等)に曰ひけるは戒心《こゝろ》してパリサイとサドカイの人の麪酵《ぱんだね》を慎めよ、弟子互に論じて曰ひけるは是れパンを携へざりし故ならん、イエス是を知りて曰ひけるは信仰薄き者よ、何ぞ互にパンを携へざりしことを論ずるや云々(馬太伝十六章六節以下)。
 此場合に於ては弟子はイエスがパンと言ひしを言葉なりに解して胃の腑を充たすためのパンなりと思ふた、然るにイエスは彼等の短慮を責めて、其食物のパンにあらずして、主義のパンなることを示し給ふた、政治と経済との外に多く思念を配らざる者がイエスの言葉を解釈するのは大抵斯んなものである。
 余輩は勿論衣服を売りて刃を買へとのイエスの言は彼の発せられし言葉の中で最も激烈なるものであることを承認する、随つて其甚だ誤解され易い言葉であることをも承認する、然しながら吾等はイエスが此言を発せられし当時の境遇を善く考へて見なければならない、イエスは彼が渠の有名なる山上の垂訓を述べられし時のやうな静かなる平かなる場合に於て此言葉を発せられたのではない、イエスの此痛言を発せられし時は実に福音の危機であつた、彼の言に依れば是れ「黒暗《くらき》の勢」が来て神の聖業を其根本より挫かんとする時であつた、斯かる精神(149)昂進の時に発せられた彼の言葉は自づから過激ならざるを得なかつた、今や彼を敵人に附たさんと欲する者の足は彼の門に在り、彼の受くべき十字架の苦痛と恥辱とは有り/\と彼の想像に上つた時に、彼の言が殊更らに痛切であつたことは決して怪しむに足らない、然るに此事を忘れて、イエスの此言は彼の歴史哲学の一斑であるかの如くに思ひ、是を以て彼が戦争問題てふ人生の大問題に解案を下したやうに考へるのは大なる間違である、聖書の言葉は前後の関係、其語られし時の境遇等を善く照合はして見て解釈すべきものである、是れを一個《ひとつ》づゝ離して解釈するならば如何なる事でも聖書から引出すことが出来る、キリストの此言葉に由て戦争を弁護するが如きは誠実と敬虔と注意とを以て聖書を読んだ者の沙汰とは思はれない。            *     *     *     *
 余輩は繰返して曰ふ、戦争は悪い事ではない乎も知れない、若し政治家の眼より見れば、或は経済家の計算に従へば戦争は或ひは避くべからざること、又或る場合に於ては好ましきものである乎も知れない、然しながら己れ罪人の中に算へられ、十字架に釘けられて人類の罪を贖ひしイエスキリストの教訓に循へば戦争は決して聖徒が自から進んで従事すべきものでないことは何よりも明かである、余輩は人が戦争を主張すればとて、必しも其事を非難する者ではない、然しながら平和の主たるイエスキリストの聖名を引出して、彼をして戦争是認の責任を負はしむる人のあるのを見てヽヽヽヽ殊にキリストの弟子と称し、其福音の宣伝者と称する者が己れの聖職に在るを省ずして、主の名に由て戦争を人に勧めるのを見てヽヽヽヽ非常に心を痛めるが故に、茲に聊か彼等に由て濫用せらるゝと信ずる聖語の註解を試みて彼等の再考を煩はす次第である。
 
(150)     戦時に於ける非戦主義者の態度
                      明治37年4月21日
                      『聖書之研究』51号「演説」                          署名 内村鑑三
 
 私共は戦争が始まりたればとて私共の非戦主義を廃めません、否な、戦争其物が非戦主義の最も好き証明者でありますから、私共は面前《まのあたり》戦争を目撃するに方て、益々私共の確信を強めるのであります、国家経済に関することは私共の多く知らないことでありますから、私共はそれに就ては何にも申しません、然し其道徳上の悪影響は実に甚だしいものでありまして、私共の如く道徳を以て人類に取り最も大切なるものであると見做す者に取りましては、縦し戦争が大々的勝利を以て終ると致しまするも、其得る所は決して失ひし所を償ふに足りないと信じます。
 人は敵の悪事のみを語て我が悪事は悉く之を蔽ふを以て普通の人情であると信じ、之を為すを以て愛国心である、敵愾心であると唱へて居ります、然しながら彼等は此事を為して己の為めに如何に大なる災害を積みつゝある乎を知りません、仁慈といひ、寛容といふことは決して他人のためのみではなくして亦自己の為めであることは倫理学上、善く分つたことであります、敵を憎めば自づと人類全体を憎むに至り、其結果己が同胞を憎み、己が骨肉を憎み、終には己れ自身までを嫌ふに至ることは理論に訴へ実験に照らして極く明白なることであります、故に吾人の最も努むべきことは誰彼を憎む、憎まぬといふことではなくして、憎悪の念其物を心に蓄へない(151)ことであります、「他人《ひと》を咒詛《いの》らば穴二つ」との諺は此原理から出たものであります、敵を憎むの心は戦争《たゝかひ》終つて後は同胞兄弟を憎むの心と変じます、爾うして其心は終に人生其物を憎む心と変じまして、斯かる心を挑発して止まざれば人は終には自己の身を害はんとするの心を醸すまでに至ります、是れ実に恩恵に富める天然の法則でありまして、天然は斯く原因結果の大綱を以て全人類を繋ぎ合せて同類間の争闘殺伐を防ぐのであります。
 斯う申しますると多くの人々は申します、「夫れならば何故非戦主義を唱へて開戦後の今日と雖も開戦前の如くに戦争に反対しない乎」と、此詰問に対して私共は斯う答へます。
 一、私共は戦争の破裂するまでは私共の微力のあらん限り、之に向つて反対を唱へました、然しながら私共の切望が納れられずして、開戦となりました以上は、それで私共が戦争に対して取るべき手段が一段落を告げたのであります、言ふまでもなく、非戦主義とは平和主義の意でありまして之を非戦といふは平和の消局的一面をいふのであります、爾うして戦争を喰止めて平和を維持せんとの私共の希望が破れた以上は、私共は今度は如何にして一日も早く平和を恢復せん乎との思考を起すに至つたのであります、言ふまでもなく、主義は我がためのものではありません、国家、社会、人類のためのものであります、私共が主義を遂行せんとするは私共の名誉を博せんとするためでもなく、亦た、我が潔白を世に表して己が満足を買はんとするためでもありません、平和主義者の義務と責任と目的とは平和の維持又は其恢復にあります、爾うしそ之を維持し切れざる場合に於ては第二の手段として其快復の期を早め、且つ其機会を作るにあります、堰止んとして止め得ざりし水は第二の堰を作つて之を止めんとするのみであります、然るを第一の堰の破れしを憤り、水を叱り、堰守を罵るのは快は少しく快なるかも知れませんが、然かし是れ何の益にもならないことであります、国民の憤怒は今は既に放たれて大河の土(152)堤を決せしが如き勢力を以て敵国に向て注がれつゝあるのであります、是れは今は冷静なる忠告を以て留めることの出来るものではありません、私共平和主義者が全然事理を解せざる者でない以上は今の時に方て非戦を疾呼して戦闘を阻遏せんとするやうな、そんな愚かなることは致しません。
 二、平和を薦めるの時期は未だ当分来たらず、去ればとて戦争を止めることは出来ません、それならば私共平和主義者は今は茫然として手を束ねて居る乎といふに決して爾うではありません、爰に今日、私共に取りて最も相応しき一つの事業が具へられてあります、それは出征兵士の遺族の慰問であります、私共、金銭に乏しき者は勿論、世の宝を以て多く彼等可憐の民を慰めることは出来ません、然しながら慰藉は金銭の施与にのみ限りませんから、私共は力相応の援助を彼等に供することが出来ます、或は彼等の家事の相談相手となり、或は我が家の剰余品を以て彼等の不足を補ひ、又或る特別の場合に於ては彼等に心霊上の厭を供して彼等の寂寥の一部分を癒すことも出来ます、我等は斯うして軍人を慰めて別に戦争其物を是認するのではありません、是等無辜の民に取りましては戦争は天災の一種と見ても宜しいと思ひます、是れは彼等が招いて起つた事でもなく、又好んで迎へた事でもありません、故に私共は飢饉や海嘯の時に彼等を援けると同じ心を以て私共の満腔の同情を彼等に表することが出来ます、現に非戦論者として世界に有名なる露国のトルストイ伯の如きも、宣戦の布告に接するや、直に彼の著書一千組を寄附して其売上高を以て兵士遺族の救済に当てたとのことであります、此場合に於ける伯の此行為を評して伯を以てその平生の主義に背く者なりとなす者の如きは是れ伯の非戦主義を以て情もなき熱もなき、唯一片の偏屈主義と見做す者であります、非戦主義は我がための主義ではありません、是れは人を救ふための主義であります、召集されし兵士を励まし、其遺族を慰むるが如きは是れ決して非戦主義に反くことでは(153)ありません。
 三、戦争は勿論永久に継続くべきものではありません、一日に百万以上の出費を要する戦争が何年も続くものでありますならば之に堪ゆるの国家は何所にもありません、戦争は遊戯ではありません、是れは国家の大患難であります、故に国家に最も忠実なる者は戦争を勧める者ではなくして之を引止むる者であります、爾うして不幸、開戦に至りました場合には一日も早く平和の克復せんことを計る者であります、爾うして真個の平和は武力の圧迫に余儀なくせられて来るものではありません、剣を鞘に収めることが永久の平和ではありません、言ふまでもなく平和とは好意より出た者でなくてはなりません、軍人は勝利を説き、政治家は国威宣揚を唱へまするが、然し真個の平和はそんな低い卑い思念《かんがへ》より来るものではありません、永久に継ぐべき平和は敵を敬し、其適当の利益と権利とを認めてやるより来る者であります、若し人を殺して平和が来るものでありますならば盗んで富が来るに相違ありません、憎んで愛が来るに相違ありません、戦争は決して平和を作りません、爾う思ふのが日本国の政治家のみならず、世界万国の政治家の迷想であります、世に迷信があると言ひますが、戦争に関する文明人種の迷信に勝るの迷信はありません、戦争は人を殺します、産を破ります、総ての惨事、総ての悪事を惹起します、然しながら平和丈けは来たしません、平和の克復は戦争以外の事業であります、爾うして私共平和主義者は平和に達する常道を経て、之に達せんとする者であります、即ち総ての手段を尽して彼我の間に存する総ての敵意を排除し、彼をして我を信ぜしめ、我をして彼を敬せしむるの道を講ずる者であります、爾うして之を為すに種々の方法があります、今爰に其総てを述ぶることは出来ませんが、然し其一つを言ひますれば争闘は大抵は相互の誤解から来るものでありますから、私共平和主義者は彼我の間に立つて其間に存する総ての誤解を取除くや(154)うに努めます、かの欧米の新聞記者等が漫りに日露両国民の敵対心を増長せしめ、終に今回の此悲むべき破裂を見るに至らしめし一原因となりしが如きは、私共平和主義者の為さんと欲する所の正反対の所行であります、「平和を計る者は福《さいわい》なり、其人は神の子と称へらるべければなり」とは基督教の大教訓であります、然るに是等欧米人の如きは宣教師を他国に送つて其教化を計りながら、それと同時に国と国とを戦争に誘ひ、無辜き民の血を流さしめて、却て得意然たるのであります、神は平和を愛し給ひ、悪魔は争闘を愛します、欧米人今回の所行は純然たる悪魔の所行であります、私共以来は彼等を平和の友としては迎へない積りであります。
 勿論今の時は平和主義者の活動の時ではありません、平和主義者の戦時に於けるは軍人の平時に於けるが如きものであります、即ち用の至て尠い時であります、然しながら平和は人生の常態でありまして、戦争は其非常態でありますから、私共平和主義者の世に貢献すべき時は直に来ります、平和克復の時に私共の服役は必ず要求されます、平和持続、和親深厚のために私共の助言と勤労とは必ず受納れられます、私共は戦時の今日は、軍人の平時に於けるが如く私共の労役の要求さるゝ時を静かに待つて居れば宜いのであります、新聞記者が筆を揃へて挙国一致を叫ぶからとて、平和主義者までが直に武装して戦員に加はらんとするが如きは、是れ愚の極である計りでなく、国家に対しても尤も不忠実なることであります、若し国家は敵国の侵害を防ぐために軍人を要するとならば、其国土の発育のために、其富の増進のために、其社会の改善のために、其道徳の純正を守るために、更らに一層平和主義者の必要を感ずる者であります、若し国家を動物に譬へて見まするならば軍人は爪か牙のやうなものでありまして、是れは攻撃又は防禦の機関であります、是に反して平和主義者は胃の腑か腸のやうなものでありまして、是れは滋養補育の機関であります、爾うして虎や獅子の如き肉食獣に於きましては、爪と牙とは(155)甚だ肝要なる機関ではありまするが、然し彼等と雖も消化機の平和的作用なくしては一日も存在することの出来るものではありません、殊に羊、馬、牛の如き有用動物に於きましては、攻撃的機関は殆んど全く用なきに至りまして、消化機能は非常の発達を呈《あら》はして居ります、平和主義とは言ふまでもなく戦はないといふこと計りではありません、前にも述べました通り非戦は僅かに其消局的一面であります、平和主義の積局的半面は殖産であります、家庭の幸福、山林の栽培、鳥類の保護、河川の利用、土壌の増肥等、其他、総て平民の生涯を幸福ならしむることであります、斯かる事業を目的とする平和主義者が国に害があるとか、要が無いとか言はるべき筈はありません、主戦論者の言ふ処を聞きますれば戦争の目的は平和にあるとのことであります、私共は勿論斯かる背理は信じませんが、然し彼等の言に照らして見ましても私共平和主義者が国の根本であつて、軍人は僅かに其外壁丈けであることが分かります。
 平和主義者は戦時に在ては多くを為し得ません、然かし唯一つの事は決して之を為しません、即ち平和の主なるイエスキリストの言を引き来つて戦争を弁護するが如きことは決して為しません、是れ実にパウロの所謂る「恥づべき隠匿れたること」でありまして、神の道を混《みだ》すことであります、成程キリストの言として録されたるものゝ中に戦争を義とするが如くに見ゆる言がある乎も知れません、然しながら我儕キリストの心を知る者は戦争はキリストの心でないことは何よりも能く知つて居ります、キリスト教は真理《まこと》である乎、虚偽《いつはり》である乎、其事は全く別問題と致しまして、キリスト教が愛敵主義であり、無抵抗主義であることは何よりも明白であります、斯く云ひて勿論キリストは我儕に此罪悪の世に在て今日直に戦税を払ふ勿れ、兵役に服する勿れとは教へ給ひませんが、然しながら争闘《あらそひ》は其総ての種類に於て我が意に最も適はざる者なりとは彼が明々白々に教へ給ふた所で(156)あります、然るを此基督教の大根本を会得しないで、其二三の句を引き来て戦争を弁護するが如きはキリストに対し最も不忠実なることであります、独逸国伯林大学哲学教授博士パウルセンは其近著『倫理組織』に於て述べて曰ひました、
  初代の基督教的生命の復興する所には流血を見るの嫌悪の念は其原始の勢力を以て顕はる、
と、基督教の教師が聖書の言を引いて戦争を奨励するが如き教会堕落の徴候はありません、斯かる教会は確かに主に咒はれたる教会でありまして、其咒はれたる最も確かなる証拠は戦争終へて後に彼等が不信者までに非常に蔑視《かろしめ》らるゝので分ります、平和はキリスト教の専門であります、是れあるが故にキリスト教は世界の尊敬を惹くのであります、然るを其教師が世の普通の愛国心に引かされて、其根本的教義までを曲ぐるに至りましては、是れ塩が其味を失つたのでありまして、後は用なし、外に棄てられて人に践まるゝ而已であります、(馬太伝五章十三節)、平和主義を唱ふるがために戦時に於て我儕が買ふ所の世の暫時的不人望の如きは一顧の価値もないものであります、斯かる時に奮然平和を唱道するからこそ、基督教は平時に於て照世の用をなすのであります、国家の要求する者は主戦論者には限りません、又非戦主義者にも限りますまい、然しながら国家の要求しない唯一種の人物があります、是れ即ち不実の人であります、爾うして基督教の教師にして聖書の言を引いて戦争を奨励する者の如きは斯の如きものであります、彼等は教会が要求しないのみならず、俗世界が要求しません、彼等如き教師を有つたる教会は禍ひであります、我儕平和主義者は戦時に在て何を為さなくとも、彼等に傚つて聖書の言を引いて戦争の弁護は致しません。
 
(157)     〔難問超の解釈 他〕
                     明治37年4月21日
                     『聖書之研究』51号「演説」
                     署名なし
 
    難問題の解釈
 
 我等の身に附随して難問題が沢山あります、爾うして我等、自から之を解釈せんと欲して、時には非常に苦みます、然し是れ神を離れて解釈さるべきものではありません、是れ神の智慧と能力とを意識せんために我等に供へられた問題でありまする故に、私共はその私共に供せられし目的に適ひ、神に到り、神の智慧と能力を藉りて其解釈を試むべきであります、爾うすれば如何なる難問題でも容易しく解けまして、私共は困難より免かるゝと同時に神を識ること益々深きに至ります、人生の難問題は私共の信仰を増すために与へられるものであります、夫れ故に私共は独りで之を解釈しやうとしては成りません、爾曹我を離るゝ時は何事をも行す能はずとキリストは教へられました(ヨハネ伝十五の五)。
 
    信仰の試験石
 
 衣食を得るために労働を求むる、是れ罪悪の世の人の為ることであります、天の定めたる労働を求め、衣食の(158)之に伴ふのを知て感謝する、是れキリストに由て其霊魂を救はれた者の為ることであります、衣食は目的ではありません、亦、方法でもありません、衣食は天職の遂行に伴ふ必然の附随物であります、人の信仰と其人生観とは彼が衣食問題に就て懐く観念に由て判分ります。
 
    倫理学書を読んで
 
 世の倫理学なるものは頻りに善を為すための理由と動機とを示さんと致します、然しながら私共キリスト信者の信ずる天国の一瞥は万巻の倫理学書が私共に与ふることの出来ない善を為すための理由と動機とを供します、倫理学は完全に達するための極《ごく》の迂廻《まわりみち》であります、私共は神に霊魂の目を開かれて一躍して完全の域に達することが出来ます。
 
    安息日
 
 義務の日ではありません、感謝の日であります、感恩の日であります、神が今日まで我等のために為し給ひし総ての善きことを記憶するための日であります、我等は之を憶へて歓びます、我等は斯かる神が永久に我等を捨て給はざるを想ふて勇みます、安息日は止息の日ではありません、進歩のために新らしき活力を蓄ふるための日であります、歓喜と希望と祈祷との日であります。
 
(159)     石婦の慰藉
                     明治37年4月21日
                     『聖書之研究』51号「雑録」
                     署名なし
 
 読者なる或る姉妹より左の意味深き書面を寄せらる、
  此賤女は内村先生様へおり入つて御願ひ申上ます
  私は未だ子供はもちませぬが幸に神様と供に住つて居ります故無限の慰めを主より賜はりつゝありまする、去ながち世の多くの石婦は子無き故を以ちまして姑への務め、さては良人の機嫌取りに、時としては此世に生を保つのも浦耻敷き心地いたされ、其外言ふに云はれぬ悲哀の中に沈みつゝありまする、何卒内村先生よ、これ等の可愛の姉妹の上に御同情の涙を賜りまして、たとへ一言一行なりとも彼の子無き姉妹の為めに御慰めの御言葉を『研究誌』上へ御出しなされて下さるやう一重に/\御ねがひ申上まする
 内村生白す、是れ蓋し我等男子の知り得ざる苦痛なるべし、亦日本国以外の婦人の知らざる悲痛なるべし、余は深き同情を是等の姉妹に表す。
 此苦痛を慰むるに二途あるべし、一つは勿論神に依るにあり、神はサムエルの母ハンナに其夫エルカナが告げし語を以て是等不幸の姉妹を慰め給ふなるべし。
  ハンナよ何故に泣くや、何故に心かなしむや、我は汝のために十人の子よりも勝さるにあらずや(旧約聖書(160)撤母耳前書第一章八節)
 実にキリストは子なき婦人に取ては十人の子に優るの慰藉なり、彼を救主と戴きて痊しがたき悲痛あるなし、我等は世の人の如くに子孫を得たればとて、其れを以て安心する者に非ず、我等の名の天に録されたるを知て言ひ尽されぬ喜楽《よろこび》を感ずる者なり、キリストに救はれし石婦の歓喜は救はれずして十人の男子を生みし者の満足に十倍又は百倍するは言ふまでもなし。
 二には他人の子を養ふにあり、是れ何にも必しも他家より子を貰ひ受けて我家を継がしめ、以て老後の安楽を計らんが為めにあらず、東洋風の養子は私利を目的とするが故に失敗多し、然れども我が利を謀らずして、世に父母なくして、悲む子の益を計り、神の愛を施さんとする心を以て彼等を養はんには養子は返て実子に優るの愛を以て養父母を見るに至らん、神が或人に子を与へ給はざるは世に孤児多きが故なるべし、肉を割きし者必しも真正の親子ならず、霊を偕にする者のみ、是れ我が母たり、兄弟たるにあらずや(馬太伝十二章四八章を見られよ)、神の賜ひし天然の愛を他人の生みし子に与へ見られよ、彼は実子の愛に均しき、然り、多くの場合に於ては、之に優るの愛を以て卿等《おんみら》に報ゆる所あらん、卿等は子なきが故に孤児の保育を神より委ねられ給ひし者ならずや。
 
(161)     〔『余は如何にして基督信徒となりし乎』ドイツ語訳出づ 他〕
                     明治374月21日
                     『聖書之研究』51号「雑録」
                     署名なし
 
 〇内村生著英文『余は如何にして基督信徒となりし乎』は這般独逸文に訳され独逸国スツットガート市に於て出版せられたり。
 
〔画像承暦〕ドイツ語版『余は如何にして基督信徒となりし乎』初版表紙193×128mm
(162) 〇内村生が開戦後口を閉ぢて非戦を唱へざるとて文学博士井上哲次郎氏并に『福音新報』記者などは嘲弄し又は冷評し居らるれども、生は決して沈黙を守らず『神戸クロニクル』新聞の紙上を借り、開戦後今日まで四回、拙きながら生の英文を以て、其意見を識者に訴へたり、又之に対して海外新聞の批評もありたり、之を日本文を以て語らざるは日本国に今や日本人の筆に成る一個の非戦主義の有力なる新聞だもなきが故なり、『クロニクル』新聞記者ロバルト、ヤング氏は基督教には常に反対の態度を取らるゝ人なれども、哲学者スペンサーの流を汲み、常に戦争の害悪を唱へて止まざるの仁なり。
 
(163)     〔五月の感 他〕
                      明治37年5月19日
                      『聖書之研究』52号「所感」                          署名なし
 
    五月《さつき》の感
 
 夫れ人は草の如く、其栄えは凡ての草の花の如し、草は枯れ、その花は落つ、然れど主の道は窮なく存つなり(彼得前書二章廿四、廿五節)、庭前の※[耕の左+婁]斗菜《をだまき》然り、躑躅然り、史上の英雄然り、国家然り、我は我が全生を活ける真の神の道に委ねん。
 
    平和の宣伝者
 
 歓喜の音信を伝へ、平和を告げ、救済を宣べ、シオンに向ひて爾の神は統べ治め給ふと云ふ者の足は山の上にありて如何に美はしきかな(以賽亜書五十二章七節) 戦闘を語らず、平和を告げ、殺伐を勧めず、救済を宣べ、負けて勝ち、死して甦りしイエスキリストの福音を宣伝ふる者は幸福なるかな、彼の足は山の上にありて※[鹿/匕]《めじか》の足の如くに輕し、(詩篇十八篇卅三節)、彼の心は賤の伏屋を訪ふて、嬰児の心の如くに安し、彼は擾乱を知らず、静穏を識るのみ、死を促さず、生を勧むるのみ。
 
(164)    静謐の所在
 
静謐は天然にあり、神の造りし天然にあり、静謐は聖書にあり、神の伝へし聖書にあり、一輪の※[耕の左+婁]斗菜の露に浸されて其|首《かうべ》を低るゝあれば、一節の聖語の我が心中の苦悶を宥むるあり、怒濤四辺に暴るゝ時に、我は草花《さうくわ》に慰癒を求め、旧き聖書に世の供し得ざる安静を探る。
 
    戦闘の止む時
 
 勝つこと必しも勝つに非ず、負けること必しも負けるにあらず、愛すること是れ勝つことなり、憎むこと、是れ負けることなり、愛を以て勝つことのみ是れ永久の勝利なり、愛は嫉まず、誇らず、驕傲《たかぶ》らず、永久に忍ぶなり、而して永久に勝つて永久の平和を来たす、世に戦闘の止む時は愛が勝利を占めし時のみ。
 
    歴史の中枢
 
 我れ史を繙いて国は興きて又亡び、民は盛へて又衰ふるを読む、唯見る一物の時代の敗壊の中に在て巍然として天に向つて聳ゆるあるを、是れキリストの恥辱の十字架なり、世は移り人は変るとも、十字架は其|光輝《ひかり》を放つて止まず、万物悉く零砕に帰する時に是れのみは惟り残りて世を照らさん、十字架は歴史の中枢なり、人生の依て立つ磐石なり、之に依るにあらざれば鞏固あるなし、永生あるなし、余は皆な悉く蜉蝣あり、之れのみが窮りなく存《たも》つ者なり。
 
(165)    救霊の奇跡
 
 道を聴くこと数年又は数十年、基督教の真意は我れ悉く之を解せりと想ひし人の一日聖霊の閃光に接するや、彼れ地に伏して叫んで曰ふ、我は罪人なり、キリストの十字架のために我を救へと、而して後、彼の全身に始めて平穏あり、依て知る聖霊の伴はざる伝道の全く無効なることを、吾等は弾薬を供し、神は之に火を点じ給ふ、而して聖霊に点火せられずして、多量の聖書智識も一人の霊魂を神の救済に導くに足らず、救霊は神の施し給ふ現時の奇跡なり、之れなくして吾等救霊の業に従事する者は何事だも為す能はざるなり。
 
    キリスト信徒の生涯
 
 不孝と称せられながら出来得る丈けの孝を行し、不忠と呼ばれながら出来得る丈けの忠を尽し、国を愛し、異端と目せられながら出来得る丈け真理を愛し、而かも一言《いつごん》怨嗟の声を揚げずして、感謝に溢れて斯世を逝る、是れキリスト信徒の生涯なり、嗚呼、我れ人として生れ来りし以上は斯かる生涯を送らんかな。
 
    驚くべき平凡の理
 
 悪人の成功は彼を滅亡に導き、善人の失敗は彼を救済に連れ行く、是れは平凡の理であつて、今更ら之を繰返すの要はないと言ふ人もあらうが、而かし余輩は歳を重ぬる毎に此理の着々として余輩の生涯に事実となりて顕はれ来るを視て実に感謝に堪えないのである、成功、何ものぞ、是れ善心を懐くことである、失敗何ものぞ、是(166)れ悪意を蓄へながら、計策を以て僅かに表面の美を飾り、眼を人生の大局に注がずして其局部に於てのみ、暫時的の小勝利を制《おさ》めんとすることである、正義は実に誠に最終の勝利者である、駭くべきかな、感謝すべきかな。
 
(167)     無抵抗主義の教訓
                      明治37年5月19日
                      『聖書之研究』52号「研究」                          署名 内村鑑三
 
  目にて目を償ひ、歯にて歯を償へと言へることあるは爾曹が聞きし所なり、然れど我れ爾曹に告げん、悪に敵すること勿れ、人、爾の右の頬を批たば亦た他の頬をも転らして之に向けよ、爾を訴へて裏衣《したぎ》を取らんとする者には外服《いはぎ》をも亦た取らせよ、人、爾に一里の公役を強ひなば之と偕に二里行け、爾に求むる者には予へ、借らんとする者を卻くる勿れ(馬太伝五章三八−四二節)。
 是れは疑ひもなき基督の言葉である、如何に破壊的の批評家でも其の基督の真正の言葉であることを疑つたものはない、聖書の他の言葉に就ては随分、挾むべきの疑問がないではないが、然かし有名なる山上の垂訓の中に掲げられたる此言葉に至ては、吾等は之を基督の口より出たる純正の言葉として受け取るより他はない。
 其意味の如きも亦た至て単純である、吾等は之を解するに何にも殊更らに註解者の力を藉りるの必要はない、是れは奔りながらも読むことの出来る(哈巴谷書二章二節)ほど意味透明なる言葉である、是れは無抵抗を教へた言葉である、何人《たれ》にも判分るやうに明かに此事を教へた言葉である。
 故に基督の此聖語を解釈するの困難は決して文字的ではない、原文の希臘語に依るも、又、マイヤ、ペンゲル等の大家の註釈に頼るも其意味は其文字に顕はれたるものよりは別に深いことはない、此の基督の明白なる教訓(168)を解するに、別に考古学に深入するの必要はない、聖書の研究は重もに良心の鑑識に依るものであるが、然かし此言葉のやうに、意義明快にして、之を解釈するに良心以外の智識を要さないものは他に多くはないと思ふ。
 其文字上の意味は明白である、然しながら其解釈は決して容易くはない、爾うして其困難い理由は之を実際的に行ふに困難なるに在る、斯かる教訓は是れ実際に行はれ得るものなる乎、基督は之を文字通りに実行せよとて、之を弟子に伝へ給ひし乎、或は是れ単に理想として伝へられしものであつて、其、実際に於ては到底行はれないものであることは基督に於ても予め承認せられし乎、是れ聖書の此言葉に就て起る難問題である。
 今、此難問題の研究に入るに先立つて、吾等の心に留めて置くべき二三の事項がある、其第一は実際に行ひ難き基督の教訓は決して之れに止まらないとのことである、然かり、基督教全躰が最も高潔なる道徳を人より要求する者であつて、其、之を実際に行ふの困難なるは偶々以て基督教の超自然的なるを証明するに足る、人間の作つた宗教は人間が之れを守るに至て容易くある、之に反して神の定め給ふた宗教は人間が之を守るに非常に困難《かた》いことは左もあるべき筈である、若し基督教の要求する道徳が、人間の達し得る終局点以上であるに非れば、吾等は其神より出たる宗教なることを疑はざるを得ない、「七次ならず七次を七十倍するまで赦せ」(馬太伝十八章廿二節)、「己に施られんとする事は亦人にも其如く施よ」(路可伝六章卅一節)、其他守るに非常に難い基督の教訓は数限りない、故に若し行ふに難いとて無抵抗主義を教ゆる此言葉を棄つるならば、吾等は新約聖書の殆んど全躰を棄てなければならないに至るであらふと思ふ。
 第二に行ふに難いにも種類がある、信仰に由て山を移すことは是れ出来ないことではない乎も知れないが、然かし不可能事と見做しても善い事である、病を癒し、方言を語ることの如きは今の時に方ては行し難いことゝ見(169)做しても可いと思ふ、然しながらキリストが此教訓に於て述べられたことの如きは、是れは行し難いとは云ふものゝ行して行し能はざることではない、総て道徳的の事は吾人の意志の支配の下にあるものであるから、若し之を行ふの意志と勇気とさへあれば、吾人は之を断じて行ふことが出来る、若し難事と不可能事とを混同して基督の此言葉を軟弱的に解釈せんとすれば、其結果たるや、基督教全躰の教義を人間の便宜に応じて解釈するに至るの虞れがある。
 其第三は基督教の道徳は総て之を純正道徳と見てはならないことである、基督教は単《たゞ》に道徳を命じて、之に従はない者を罰せんとは為ない、基督教は高潔なる道徳を命ずると同時に亦、之を行ふための超自然的の能力と動機とを供給する、之を難事と見做すのは人間普通の能力より計算しての事である、然かし神の力を加へられて、是れ決して為し難い事ではない、山上の垂訓は天国の民の守るべき道徳を示した者である、是れは人間何人も、未だ基督の教に接せざる者も、亦た聖霊の恩化を受けざる者も、行し得べきものとして伝へられたものではない、基督の言葉を解釈するに方て、之を聖書の他の言葉より離して解釈せんとしてはならない、神の栄えの権威に循ひて賜ふ諸の能力を得て強くなり、(哥羅西書一章十一節)とはキリストの総て高き潔き教訓を実行せんとする時の吾等の用意でなくてはならない、爾うして此用意あつて此教訓に対すれば吾等は不可能事として之を避けんとは為ない。
 以上の注意を以てキリストの此教訓に対すれば、吾等は決して之を不可能事又は難事とは見做さない、吾等は之れは文字通りに解釈して少しも差支のない言葉であると信ずる、爾うして斯く解釈して、其通りに実行することが神の聖旨に最も善く適ふとであるのみならず、是れが吾等自身を護る上に於ても、亦、吾等の敵を遇する上(170)に於ても最も書き方法であると信ずる。
 斯く云へば直に下の如き問題が起つて来る、(一)若し全然悪に敵することなくば悪は終に増長して善は全く地上より断たるゝに至るであらふと。
 然しながら、是れ実際に於て決して爾うではない、悪の悪たるは抵抗を好むにある、抵抗の悪に於けるは油の火に於けるが如き者である、抵抗に遇ふて悪は減ぜざるのみならず、返て益々増長する、悪の最も懼るゝものは譲退である、之に遇ふて彼は其心胆を挫《ひし》がれるのである、其証拠には悪を矯めるための機関は今日は非常に完備して居るにも関はらず、悪は少しも減退の徴候を現はすことなく、却て所謂る世の進歩と同時に益々増長しつゝある、兵器は益々精良を加ふれども戦争の止む徴候は更らになく、法律と警察とは益々緻密を極むれども盗賊と詐偽師とは益々跋扈する、悪は或は抵抗を以て抑ゆることは出来る乎も知らない、然かし抵抗を以て悪を絶つことは出来ない、爾うして悪を絶つ方法としては悪に譲るより他に善き方法はない、爾うしてキリストは茲に悪を矯めるの方法ではなくして、之を断つの途を示し給ふたのである。
 悪に譲れば悪は自由を得て気儘に跋扈するならんとの懼れは一つは神の存在を認めないより、二には悪の性質を究めないより来る懼れである、成程、若し人間の外、広き宇宙間に人事を司る者がないとすれば、或は悪が竟に跋扈して全地を蔽ふに至るの懼れがある乎も知れない、然しながら「微睡むことなく、寝《ねぶ》ることなくしてイスラエルを守り給ふ者」(詩篇第百廿一篇四節)の存在を知る者は悪の拘束に就ては左程に心配しない、万物は総て彼の命に従ふものであれば、彼が善しと見做し給ふ時には彼は之に死を下すことも出来る、疫病を以て之を困しめることも出来る、飢饉を送ることも出来る、亦其れ等よりも遙かに善きことは之れに悔改の心を起さしむるこ(171)とも出来る、若し神の存在し給はない宇宙に居ることであるならば、吾等或は神に代り、悪に敵し、之に誅罰を加ふるの必要がある乎も知れない、然かし神の護り給ふ此宇宙に在つては、吾等は安心して悪を神の御子に任かして居て宜しい、是れ確かに聖書が吾等に無抵抗主義を勧むる理由である。
  我が愛する者よ、仇を報ゆるなかれ、退きて主の怒を待て、そは録るして主の曰ひ給ひけるは、仇を復《か》へすは我に在り、我れ必ず之を報いんとあれば也(羅馬書十二章十九節)
 謂ふ意は神が唯一の復讎者なれば、人は仇を悉く神に委ぬべきであるとのことである、宇宙に主宰なくば止む、然かし全能全智なる主宰の在ます以上は、吾等は悪は之を彼の手に委ねて置いて宜しい。
 二つには書等は惑の自亡的なることを忘れてはならない、善とは神と偕にあることであつて、悪とは神を離れることである、爾うして神を離れて生命はないから、悪は其れ自身にて自滅的のものである、悪は恰度、根を絶たれたる樹のやうなものである、是れはカマはんで置けば終には枯れて仕舞ふものである、爾うして悪の自滅に幾箇も方法がある、其、最も通常なるものは、悪人相互ひが争闘つて殺し合ふことである、悪人は義者に対しては相結托して抵抗するが、然し、義者が譲るを見れば、頻りに罵詈悪声を放つの後は、無為に困んで終に相互に対して争闘を開始める、爾うして其極、相互ひの供せし毒を飲み、相互ひの揮ひし剣を受けて斃れて仕舞ふ、悪は又、思想の涸渇を以て斃れる、悪意は悪想を生じ、悪想は終に彼を誤謬と失敗とに導く、悪は又多くの疾病を招き、家族、友人間の永久の不調を惹起し、心、労し、身、疲れて終に再び起つ能はざるに至る、善人にも苦痛は多くあれども然かし是れ慰藉の伴はない苦痛ではない、然しながら苦痛の一たび悪人に臨むや、是れ※[病垂/全]すべからざる苦痛であつて、彼は終に之に堪え切れずして斃れる。
(172) 吾等は勿論、茲に善悪の来世に於ける責罰に就て語るの必要はない、然しながら基督教の最も明白なる教義に照らして見て悪は寧ろ憐むべきものであつて、憎むべき(人の目より見て)ものでないことも能く心に留めて置かなければならない。
 無抵抗主義に就ての第二の疑問は若し之をして実行せしめば人は無気力の者となりて世に活動も勇気もなきに至らんとのことである。
 成程、若し無抵抗が利慾か、恐怖の念から出たものであるならば、其結果は無気力に終るに相違ない、所謂る支那人根性なるものが此種の卑しむべき無抵抗主義であることは誰も知つて居る、然しながら基督の教へられし無抵抗主義がそんな卑しいものでないことは明かである、吾等は愛のために、道理のために抵抗しないのである、爾うして斯く抵抗しないことは吾等に取りて抵抗するよりも多くの勇気を要することである、先づ自己の抑え難き憤怒を抑えなければならない、是れ非常の困苦である、怒を遅くする者は勇士に愈さり、己れの心を治むる者は城を攻取る者に愈さる(箴言十六章卅二節) 吾等は他人に向つて発する勇気を自分に向つて発するのである。次ぎに悪人を憎まないのみならず、之を愛さなければならない、是れ亦非常の勇気を要することである、無抵抗とは消極的行為ではない、是れは愛的行為となすにあらざれば完全に実行することの出来ないことである、敵の善を思ひ、其利益と権利とを我がものゝ如くに考へてやるのは非常の勇気と心の活動とを要する、善意的に無抵抗を試みて吾等は決して怯者とはならない、韓信は他人の股の下を潜つて、少しも其自重心を失はなかつた、否な、後日彼が漢の天下を振はした勇気と智謀とは実に其時に萌したものである。
 若し勇気の養成が吾等の希望であるならば、吾等は必しも之を敵人抵抗の所に於てのみ養ふの要はない、総て(173)の平和的事業が吾等の最大の勇気を要求する、勇気は学術研究の為に非常に必要である、勇気なくして船の船長にも、鉄道の※[さんずい+氣]関師にも成ることは出来ない、弱者を扶くるための勇気、貧者を救ふための勇気、殊に独り立つて正義の味方に立つの勇気、是れ皆な悪を斫り、敵を屠るに優さるの勇気である、吾等は悪に抵抗しないとて勇気減退を歎ずるの憂ひは少しもない。
 斯く弁ずるも茲に亦、第三の反対が出で来るのである、即ち無抵抗主義は縦し個人間には実行し得るとするも国家間には到底、之を応用することは出来ない、爾うして国家間の争闘なるものは是れ全く私怨より離れたるものであるから、抵抗は此場合に於ては反て美徳であると。
 是れ実に大問題であつて、今茲に其事を深く攻究するのは吾等の到底、企て及ばない所である、殊に目下の如く、我国が他国に向つて戦闘を開いて居る時に際して、無抵抗主義を国家に勧むるが如きは吾等の大に心困しく感ずる所である、然かしながら真理は真理であつて、動かすべからざる者である、爾うしてチヤーレス、サムナーが米国人に非戦を勧めしのも、トルストイ伯が露国人に無抵抗主義を勧めつゝあるのも、是れ言ふまでもなく彼等の愛国の至情より出たことであつて、無抵抗の反て抵抗に優るの勢力であることを彼等が認めたからである、基督教的無抵抗主義は之を国家に応用することが出来る乎、此大問題に対して余は今はたゞ英国の哲学的文士レ、ガリエン氏が彼の名著「文士の宗教」なる書に於て述べた言を引いて余の解答の一部分に代へやうと欲ふ。
  世は基督の福音を試みたれども、其効なきを認めたりとは吾人の屡々耳にする所なり、之に対しての吾人の答弁は甚だ簡単なり、世は未だ基督の福音を試みず、而して基督降世以後、第十九世紀の今日に於けるも未だ其試験の始まりしを聞かず。
(174) サムナー、トルストイの非戦論とは基督山上の垂訓を国家的に試みんことを其国家に勧むるに過ぎない、爾うして其、実際に試みられるまでは、其、実際に行はるべき教訓であるか、無い乎は判分らない、吾等個人としても、之れを実際に試みて見るまでは、其、実に最上の処世術であることは分からなかつた、然かし之を一二度、行つて見て始めて、其、確かに神の福音であることが分かつたのである、無抵抗主義を国家に応用して見て全世界を導くの名誉に与かるの国家は孰れであるか、サムナーは彼の米国をして此栄光の冠冕を載かしめんとした、トルストイは彼の露国に勧めて之に此冠冕を戴かしめんとして努めつゝあるのである。
 此研究を終る前に吾等は更らに二三、読者に注意して置きたい事がある、其一は「悪に敵する勿れ」とは言論を以て、或は道理に訴へて悪の悪たるを示すことを禁じたのではない、悪の吾等の身に臨む時に吾等は深切に、且つ静かなる言葉を以て悪の悪たる所以を述ぶるのは是れ悪事でないのみならず、返て義務である、悪に敵する勿れとは悪は之を放任して置けとの意ではない、只、道理の聞かれざる場合に於て、悪が暴力又は暴言を以ても非理を遂行せんとする時には、之れに抵抗する勿れとの訓誡である。
 其二は自から進んで悪を迎へ、之に降参しないこである、吾等は悪は終りまで之を悪と称ぶべきである、悪に抗せざるとは悪と和睦を結ぶとの意ではない、吾等は悪人を殺さんとはしないが、然かし悪を悪と認めて止まざるの結果、悪人に殺されることはある乎も知れない。
 其三は悪を遇するに智慧を以てすることである、「鴿の如く柔和にして蛇の如く智慧《かしこ》くあれ」とは特に悪に対する時の教訓である、吾等は悪に抗しない前に成るべき丈け悪を避くべきである、爾うして善を追求し、悪を避けて止まざれば悪との不幸なる衝突に出会ふことは至て稀であると思ふ。
 
(175)     予定の教義
                      明治37年5月19日
                      『聖書之研究』52号「問答」                          署名 内村鑑三
 
    其一、予定の信仰
 
問、基督教に予定と云ふことがあるさうですが爾うですか。
答、爾うです、之を英語で Predestination《プレデスチネーション》と云ひまして随分議論のある問題であります。
問、夫れは抑々如何いふ事でありますか。
答、夫れは読んで字の如く神に救はれし者は神に由て予め定められた者であると云ふことであります。
問、其やうの事を今でも信ずる者がありますか。
答、今は多くはありません、然し往昔は沢山ありました、予定はプロテスタント教徒の重要なる信仰箇条でありました、然し来世の存在、キリストの神性等が曖昧に附せらるゝ今日、予定を信ずる者は至つて尠くなつたのは事実であります。
問、貴下は之れに就て如何お信じになりますか。
答、私は頑固信者の一人でありまして、外国伝道会社の飯は食ひませんが、然かし三位一躰の教義を信ずると(176)同時に亦た予定の教義をも信じます、私は予定は基督教の最も大切なる教義の一つであると信じます、私は基督教の精神に訴へて見まして、予定は其免かるべからざる結論の一つであると信じます。
問、斯かる背理的の教義を貴下がお信じになることは私には如何しても分りません、私は今日、充分に貴下のその御信仰に就て伺ひたく思ひます。
答、ドウぞ出来る丈け厳しく御質問なさつてください、若し私の論城が貴下の御詰問に由て崩れるものでありまするならば、私は之を棄てるか、又は再び之を築き直すの必要があります、悪意を混へざる友人の攻撃は信仰上甚だ有益なるものであります。
問、夫れでは重ねて伺ひますが、貴下は人は何人も予め神に由て定められたものでなければ神の救済に与かることは出来ないと仰せられるのでありますか。答、爾うであります。
問、爾うして貴下は基督教は斯くも不公平なることを教ゆる者であつて、貴下の信ぜられる神は斯くも不公平なることを敢て為る者であるとお信じになるのであります乎。
答、爾うであります、然かし不公平云々の御言葉は一先づ御取消しを願ひます、其事は後で多少御説明申すことが出来やうと思ひます。
問、予定説なるものは基督教の何処に示してあります乎。
答、基督教の聖書に示してあります、然かも一ケ所や二ケ所ではありません、多くの処に示してあります。
問、聖書の何処に予定が顕著《あきらか》に示して有ります乎。
 
(177)    其二、聖書と予定
 
答、左様であります、羅馬書第八章であるとか、加拉太書第一章であるとか云ふやうな、殊更らに予定を論じた章は後廻しに致しまして、直接に予定を論じないでも、顕著に予定の精神を示して居る所の聖書の言葉を今、茲に貴下の前に陳列べましたならば、貴下は予定の理論は御判分りにならなくとも、其、聖書の伝へんとする一大教義であること丈けは御承知になるであらふと思ひます。
問、何卒充分に御指示を願ひます、私は聖書に予定のことが書いて在るとは聞きましたが、それが其大切なる教義であるとは今まで信じませんでした。
答、多くの人が爾う言ひます、然かし聖書を深く研究すれば為る程、予定は、贖罪と云ふが如き、又は復活と云ふが如きことゝ共に、其根本的教義の一つであることが判分ります、先づ聖書の大躰に渉つて、予定の示してある所を御目に懸けますれば、アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、サムエル等の事は措きまして、神が預言者ヱレミヤに言はれた言葉に斯ういふのがあります、
  我れ汝を腹に造らざりし先に汝を識り、汝が胎を出ざりし先に汝を聖め、汝を立て万国の預言者となせり(耶利米亜記一章五節)。
是れは最も顕著に予定を示した言葉であります、是れをユダ的思想なりとて観過しますれば、夫れまでゝありますが、然し顕著なる聖書の言葉として、是れも何んとか合理的に解釈せねばならぬものであります、爾うして斯かる観念を以て預言職に就いた者はヱレミヤに限りません、預言者といふ預言者はモーセを始めと(178)して、マラキ、バプテスマのヨハネに至りますまで、彼等は皆な神に預言者として特別に作られし者であると信じて預言の聖職に就いた者であります、ヤコブを再たぴ己に復へらしめ、イスラエルを己の許に集まらせんとて我を生れ出し時より立てゝ己の僕と為し給へるヱホバ言ひ給ふ(以賽亜書四十九章五節)とは預言者全躰の口調でありまして、彼等に此の確信があつたからこそ、彼等は全世界が彼等に逆つて立ちし時も、惟り己を信じて動かなかつたのであります、勿論茲に引きました耶利米亜記の言を除いては旧約聖書には新約聖書に於ての如く明状に予定を語つて居る言葉はありません、然し若し予定と言はなければ選択は確かに旧約の精神であつたことは何よりも明かであります、ノアであり、アブラハムであり、ヤコブであり、モーセであり、エリヤであり、アモスであり、皆な悉く自から進んで神の忠実なる僕となつたのではなくして、神の特別の選択を蒙つて、神に余儀なくせられて、神の聖業に就いた者であることは旧約聖書の尤も朋白に示す所であります、預言者アモスは彼に沈黙を命ぜしベテルの祭司アマジヤに告げて曰ひました
  我は(職業的)預言者にあらず、亦預言者の子に非ず、我は牧者なり、桑の樹を作る者なり、然るにヱホバ、羊に従ふ所より我を取り(強制的に)往きて我民イスラヘルに預言せよと我に宜べ給へり(亜磨士書七章十四、十五節)
選択と予定とは其精神に於ては一つであります、予定は選択の時間を更らに生前にまで延べたものであります、旧約聖書全躰は選択を至る所に述べて新約の予定説の基礎を置きました。
問、新約聖書に於ける予定説なるものは是れパウロ特有の説ではありませんか。
答、爾うではないと思ひます、勿論、是れは使徒パウロに由て最も明かに唱へられた教義であります、然しな(179)がら是れが基督御自身の教訓の精神でない以上はパウロが斯くも力を※[横目/卓]めて之を唱へやう筈はありません、予定は贖罪と同じやうに基督教全躰の精神であると思ひます。
問、基督の言葉として何処に予定が録してありますか。
答、約翰伝の十五章の十六節に基督がその弟子等に告げて汝等我を選まず、我れ汝等を選らべりと言はれましたのは選択であつて亦た予定であります、又イエスがナタニエルの問に答へて我れピリポが爾を召ばざる前に無花果樹の下に爾の居るを見たり(仝一章四八節)と言はれましたのは、先知を意味して、亦た予定をも示して居ります、約翰第一書四章の十九節に有りまする我儕神を愛するは彼れ先づ我儕を愛せしに因れりとの言葉は実に基督教の真髄でありまして、斯かる観念の上に立てられたる宗教が予定を以て人の救済の原理と見做しましたのは決して無理ではありません。
 然しながら予定の何たるかを知らんと欲せば勿論保羅の書翰に行かなければなりません、爾うして其処には予定が最も顕著に示されて在ることは誰も疑はない所であります、今時の人は往々にしてパウロの言葉であればとて、是れは基督の教ではないやうに思ひます、然しながらパウロの書翰が新約聖書の大部分であつて、亦た今日我儕の信ずる基督教なるものは多くはパウロに由て伝へられたものであることを知る者は、パウロの言であればとて之を賤価《けな》さないのは勿論、反てパウロの言であればとて之に非常の重きを置きます、基督の心を識りし者でパウロの如くに善く之を穿つた者はありません、若しパウロが基督教の大家《オーソリテー》でありませんならば、私共は誰に依て之を研究しませう乎、選択は聖書全躰の精神であります、爾うして選択の意義を其推理的結論にまで持運んだ者は使徒パウロであります、予定はパウロが発明した教義ではありません、是(180)れは彼れに依て最も明かに開明されたノア、アブラハム以来の信仰の原理であります。
問、兼ねてよりパウロの予定説に就ては聞いて居りましたが、茲に再び其要点に就て貴下より伺ひたく存じます。
答、羅馬書第一章の第一節にイエスキリストの僕パウロ召されて使徒となり、神の福音のために選まると書いてあるのを見まして予定選択はパウロに取りては根本的信仰箇条の一つであつたことが分ります、爾うして羅馬書を段々と読んで行きますると予定の教義は罪の贖ひ、信仰に由て義とせらるゝことゝ共に基督の福音の土台石であることが、種々の方面から論究されて居るのを見ます、羅馬書は一名之れは任意的恩恵の福音と称せられます、是れは即ち人の救はるゝのは彼の行績に由るに非ずして全く神の聖意の任より出づる恩恵に由ることを殊に論述した書であります、爾うして其三章廿八節に於て故に我れ思ふに人の義とせらるゝは信仰に由りて律法の行ひに由らずと言ひて救済は道徳以上であることを述べ、其五章八節に於てキリストは我儕の尚ほ罪人なる時、我儕の為めに死に給へり、神は之に由りて其愛を彰はし給ふと言いて神の愛は人の愛を待つて始めて来るものにあらざるを説き、竟に第八章及び第九章に於て予定の大議論に入るのであります、
  凡ての事は神の旨に依りて召《まねか》れたる神を愛する者(基督信者のことなり)の為めに悉く働きて益をなすを我儕は知る、それ神は予め知り給ふ所の者を其子(イエスキリスト)の状《かたち》に效はせんと予め之を定め給へり、此は其子(イエスキリスト)を多くの兄弟(キリスチヤン)の中に長子たらせんが為めなり、又予め定めたる所の者は之を召き、召きたる者は之を義とし、義としたる者は之に栄を賜へり(八章廿八、(181)廿九、卅節)、
誤解せんと欲して誤解すべからざる予定の定義であります、又、
  リベカ我儕の先祖の一人なるイサクに由りて二人の子を孕みしとき、即ち其子等未だ生れず、善をも悪をも行さゞりしとき、神の選び給ひし聖旨は変ることなく、(人の救はるゝは彼の)行に由るに非ずして(神の)召に由るものなることを彰さんとて、長子《あに》は幼子に服《つか》へんと(神)リベカに言ひ給へり、録して我はヤコブを愛しエサウを悪むとあるが如し、(九章十−十三節)。
是れも顕著《あきらか》なる予定であります、神の聖旨の中にはヤコブは業《すで》に既に、彼が生れざる先きより、彼の兄なるエサウに代はるべき者なりと予め定められてあつたとの事であります。今、羅馬書を去り、加拉太書に到りますれば同じ予定の意義と精神とは明かに示されて居ります、人よりに非ず、亦人に由らず、イエスキリストと彼を死より甦らせし父なる神に由りて立てられたる使徒パウロ(一章一節)と云ひ、我が母の胎の中に在りし時より(「胎を出し時より」とあるは誤訳なり)我を簡び置き恩恵をもて我を召し給ひし神(一章十五節)と云ふは前に引きし耶利米亜書の言と均しく予定を示すの言葉であることは何人が見ても明著であります。若し又、次ぎの以弗所書に至りますればそれ神、我儕をして其前に聖く且つ疵なき者たらしめんがために世の基礎を置かざりし先より我儕を簡び、その聖意のまゝにイエスキリストに由りて我儕を己の子と為さんことを愛を以て予め定め給へり(一章四、五節)とありまして予定は謬解し難き言葉を以て顕著に示されて居ります、又降て帖撒羅尼迦書に至りますれば主に愛せらるゝ兄弟よ、爾曹の為めに我儕常に神に謝すべき也、そは神、始めより爾曹を簡び、真理を信ずることゝ霊の潔めを蒙ることに因りて救ひを得しめ給へば也(182)(後書二章十三節)とありまして、予定選択は当時の基督信徒の普通の信仰箇条であつたやうに書いてあります、今、此教義に関するパウロの言葉を悉く茲に貴下の前に引証することは出来ませんが、然し私が茲に陳述した丈けを以ても予定がパウロに取り如何に大切なる信仰箇条であつたかゞ分かります、予定は決して聖書の其処此処に散在して居るやうな曖昧なる教義ではありません、予定は聖書を姶より終まで貫徹する精神であります、故に若し之を不道理なりとして聖書より切抜きまするならば、是れ贖罪を拒み、キリストの神性を否むやうなものでありまして、聖書なる建築物より枢要なる梁を取除くやうなものであります。
問、聖書の引証は夫れまでにして置いて戴きまして、私は今より予定は信仰上の事実である乎、其事に就て伺いたく存じます。
 
    其三、予定の事実
 
答、私は貴下が予定の論理よりは先づ其事実に就て御尋ねになりました事を甚だ喜びます、何故となれば予定は基督教の他の教義と均しく、其事実を示すことは其論理を述ぶるよりも容易いからであります、基督教は科学と同じやうに先づ第一に事実でありまして、然る後に論理であります、然るに兎角論理好きの日本人は事実を探らないで先づ論理を究めんと欲します、是れ彼等の宗教研究なるものが常に堕胎に終る原因であると思ひます。
問、私は殊に貴下御自身の御実験に照らして予定の事実を示して戴きたく存じます。
答、畏参りました、私の心霊上の実験と云へば微少いながら使徒パウロの実験であります、私が少しなりとキ(183)リストを見ることが出来、又、少しなりと神の清潔を心に感ずることが出来るに至つたのは、私は是れ単に神の任意的恩恵に因るのであると堅く信じます、爾うして斯く申すのは決して私の謙遜からではありません、私は最も確実なる心霊的事実として此事を表白するのであります、私は決して世に謂ふ所の聖人ではありません、私の心に在るものはたゞ悪ばかりであります、若し私の生涯が私の計画した通りのものでありましたならば私は決して基督教信者とは成りませんでした、私は神の摂理に余儀なくせられて、無理やりに基督信者と為さしめられた者であります、殊に福音の宣伝者と成りしが如きに到ては是れ私の幾度びか拒んで避けんと欲したことでありまして、私は何者になりてもヤソ教の伝道師には成るまじと幾度びか決心した者であります、故に生前の予定は別問題として、私が自身選らんで基督信者と成つたのではなく、殊に基督教の伝道者となつたのでないことは是れ私に取ては何よりも明かな事でありまして、此事を知る者は私自身ばかりではありません、私の親友が皆な此事に就ての私の証人であります、私は私自身の改信に就ては使徒パウロの言を藉りて白します、キリストは我儕の尚ほ罪人たる時我儕のために死に給へり、神は之に由りて其愛を彰し給ふ、又、オリバー、コロムウエルの言を藉りて白します、
  貴婦は知る、余の生涯の如何なるものなりし乎を、嗚呼、余は幽暗《くらき》に在りて幽暗を愛し、光明を憎めり、余は罪人の主なる者なりし、然り其首なりし、此事は事実なり、即ち余は聖なることを憎めり、然れども神は余を顧み給へり、嗚呼、神の恩恵は大なる哉、願くは余の為めに神を讃美せられよ、願ふ、余のために祈られよ、余の衷に善き業を始め給ひし神がキリストの日に於て之を完成うせられんことを。(彼の従妹セントジョン夫人に贈りし書翰の一節なり、カーライル著「コロムウエル伝」より写し且つ(184)訳す)。
若し私に何にか善き所があるに由て、私が神を信ずるに至つたのでありますならば私は第一に何故に世には私に優つて遙かに善い人がありまするのに、其人が神のことを聞くも神を信ずるに至らない乎、其事が分かりません、第二に、神が私の心に顕はれ給ふ時は私の愛国心が最も高く、私の公義心が最も旺なるときではなくして、私の失望落胆の時、私の心の中が殆んど百鬼夜行と称すべき時であります、此事はドウ云ふ理由である乎、其事が分かりません、畢竟するに神に関する事は私の実験に由りますれば唯「意外」と云ふより外はありません、私の左せんとする時に神は右せよと命じ給ひ、私の昇らんとする時に私は下り、私の下らんとする時に神は私を引上げ給ひます、私は夫れ故に今は神に向つては唯斯う曰ふのみであります、即ち父よ、然かり、それ是の如きは聖意に適へるなり(路可伝十章廿一節)と。
私自身に就て爾うであります、亦、私が主に導かんと欲した他の人に就ても同じ事であります、此人は必ずキリストに来らんと思ふた人が必ず来るとは定まつて居りません、否な、爾う思ふた人は大抵はキリストに来りません、此人は事物の分かつた人である故に必ず基督教が解るであらふと思ふた人は大抵は半途にして基督を棄去つた人であります、之に反して斯かる人が如何して聖き神の子なるイエスキリストを信ずるに至るであらふと思つた人が思ひ掛けなくも堅固なる信者となりました、キリストの言はれし、
  工匠《いへつくり》の棄てたる石は家の隅の首石《おやいし》となれり、是れ主の行し給へることにして我儕の目に奇とする所なり(馬太伝廿一章四十二節)
との言葉は誠実を以て福音の宣伝に従事した者の誰でも深く感ずる所であります、遺伝も境遇も教育も基督(185)信徒となるには何の関係もないやうであります、其れは神の特別の事業でありまして、此事ばかりは天然の法則を以ては律し難い事であると思ひます、世に基督教の「感化力」を説く者が多くありまするが、然し「感化力」は外部の感化に止まります、如何に善良なる家庭でも学校でも其感化力は霊魂の中心にまでは到着きません、聖楽と型式と聖語との中に浸されて居てもキリストを解からない者は終に解かりません、神は人類に善を為すの自由を与へ給ひしも霊魂を活かすの一事は之を御自身の手に保留し置き給ひしと思はれます、爾うして其事の実証は神に救はれた者の実験であります。
御覧なさい、基督教の歴史を、キリスト御自身が境遇の子ではありませんでした、「ナザレより何の善き者いでん乎」とは其当時の諺でありしにも関はらず、キリストは此ナザレより出て学者パリサイの人に代つて、神の選民の教導者と成つたではありません乎、又キリストより直接に教を受けし十二弟子の在りしにも関はらず、彼を最も広く且つ深く世界に紹介した者はペテロ、ヤコブ、ヨハネと言はんよりは寧ろタルソのパウロと言ふべきではありません乎、羅馬天主教会に多くの高識なる神学博士の在りしにも関はらず、福音を其初代の純潔に帰へらしめし者は礦夫の子なりしマルチンルーテルではありません乎、英国の端から端にまで逐はれ、教を演ぶる為めの一の高壇さへも有たざりしジヨン、ウエスレーが近世の宗教的新紀元を開いた者ではありませんか、之に由て之を観ますれば神は常に教会を賤め、神学校を軽蔑め給ふではありません乎、ヒレル、ガマリエルの神学を排してガリラヤ湖畔に無智の漁夫を起して世界を教化せしめ、アンセルム、アクイナスの半希臘的神学を斥けて礦夫の子に単純なる罪の赦しの福音を唱へしめ給ひました、爾うして此事は過去の歴史にのみ限りません、今日でも其通りであります、最も純粋なる基督教が神学校から出て来る乎(186)と思ふと決して爾うではありません、西洋に於てはムーデーのやうな、ヘンリー、ドラモンドのやうな神学者でもなく、牧師でもない者が最も善くキリストの心を知りたる者として顕はれて、神学者千万人|集《よ》るも成し難き宗教的の事業を為しました、神学校の中に大切に育てられ、宣教師に可愛がられて、此人こそは第二のルーテルならんと望を嘱せられし人は、教職を去り、次に宗教を棄て、終にはキリストの聖名までを嘲ける者と成りしに代へて、神学校などへは一度も足を踏み入れし事なく、宣教師などよりて一顧の愛をも受けしことなき「粗野の人」が返て福音の大宣伝者となり、教会に由らず、教職を授からずして、神と偕に其恩恵の福音を熱心に説く者となるではありません乎、実に基督教の歴史は教法師、神学者、職業的伝道師に取ては常に失望の歴史でありました、彼等の事業は常に門外漢の取て代はる所となりました、彼等は神の事業を人の手に取て、之を機械的に、又は組織的に継続せんと試みて、常に神の敗る所となりました、霊魂復活の事業は到底人間の事業ではありません。
斯の如くに、我れ自身の実験に照らして見ましても、又他の人の実験に就て考へて見ましても、又、基督教全躰の歴史より推して見ましても、霊魂救済の事は、是れは天然以上、人力以上の事業であります、即ち神の特別の事業であります、是れは神が企て、神が成し遂げ給ふ事業であります、我等人間は此事の前に立ては只口を噤いで驚くのみであります、私共は勿論予定の論理を充分に追究することは出来ません、然しながら茲に述べしやうな自他の実験に由て、其決して拠る所のない教義ではないことを悟るのであります。
問、其御説明は面白く拝聴致しました、然しながら、若し此事が事実であると致しまするならば茲に大疑問が起つて来ます、即ち若し神の予定とか選択とか云ふことが人類が救はれる、救はれないの原因でありますな(187)らば、人は己れの救済に関しては如何することも出来ないこと、是れが第一であります、第二は、斯くも或者を救つて、或者を救はざる神は甚だ偏頗なる神でありまして、斯かる神を公平の神、公義の神と称することは出来ない、是の事であります、是等の事に就て貴下は如何御説明になります乎。
問、御尤なる御質問であります、私は貴下の第二の御質問より答へませう。
 
    第四、予定の論理
 
答、予定は神に取ての不公平なる所為であるとの疑問は今の人に由て始めて唱へられたものではありません、是れは予定説が始めて世に出た時に、其時に直に提出された疑問であります、予定にして若し真理なりとすれば神何ぞ尚ほ人を責むるや、誰か其旨に逆ふことを為さんとはパウロが自身に間ふて自身に答へた質問であります、爾うして彼は之に答へて曰ひました、
  嗟人よ、爾何人なれば神に言ひ逆ふや、造られし者は造りし者に向つて爾、何故に我を斯く造りしと云ふべけんや、陶人《すえものし》は同じ土魂を以て一つの器を貴く、一つの器を賤く造るの権あるに非ずや(羅馬書九章十九、廿、廿一節)
と、パウロの此答弁が満足のものであるや、なきやは別問題としまして、神は不公平なりとの疑問は彼れパウロが予定を唱ふるや否や、直に彼の心の中に湧いた疑問であつたこと丈けは彼の此問答に由ても明かであります。
然し予定に就て「神は不公平なり」との疑問を出す人は未だ神の何たるかを知らない者であると思ひます、(188)若し不公平を以て神を責めますならば同じやうに天然を責めなければなりません、天然は一目して非常に公平であるやうで実は非常に不公平であります、何故に獅子は林の王であつて山羊や、羚羊は其餌食とならねばならぬか、何故に或る婦人は美人として生れて、他の婦人は醜婦として生れて来た乎、生来何の罪ありて蛇は人に嫌はれて鳩は人に愛せられる乎、是を思へば天然の不公平も亦た甚だしいではありませんか、爾うして此疑問に対して我等はパウロの言葉に似たる言葉を以て己に答へ、若し己が不幸の地位に立つ者でありますならば其れを以て己を慰めんとするではありません乎、即ち「是れ吾人の知る所に非ず、吾人は天然は斯く為せりと知るのみ、其他を識らず」と、神に対しても同じことであります、神が或人を貴き器として造り、他の人を賤き器として造りたればとて、吾人憐むべき人間は之に対して何んとも言ふことは出来ません、吾人は「神は斯く為し給へり、其他を識らず」と云ふのみであります。次に予定に就て神の不公平を唱ふる人は予定の歓ばしき半面のみを見て、辛らき困しき半面を見ない者であります、神に簡まれて天国に入ると云へば如何にも幸福のみであるやうに聞えまするが、然し此幸福に伴ふ辛苦と申しましたならば是れ亦実に普通の人の想像以外であります、基督信徒の歓喜に伴ふ基督信徒の苦痛があります、二者共に世の知らない所でありまして、若し予定に伴ふ苦痛のみを示されましたならば世の人は総て之に与からざらんことを望むに相違ありません、迫害、飢餓、裸※[衣+呈]、危険、刀剣、其他言ふに言はれぬ苦痛、教会よりは放逐され、父母兄弟よりは悪人として侮辱され、殆んど唾きされ、然れども担ふべきの義務は総て担はせられ、国人よりは国賊として斥けられ、友人には偽善者として敵に付され、然かも之に対して一言の怨恨を述べることは出来ず、只羔の如くに忍ばなければなりません、其屈辱、其悲痛、到底常(189)人の忍び得る所ではありません、然しながら是れ亦確かに予定の半分であります、吾等基督信徒は予定に由て基督と共に栄に入るの特権のみならず、亦基督と共に十字架に上げられるの苦痛を授けられた者であります。爾うして苦痛は前きに来て栄光は後に来るものでありますから、若し予定が私供に前以て告げ知らせられたと致しますれば、私供は普通の人情から予定に与からざらんことを神に切願するに相違ありません、実にキリストですら十字架の苦痛を目前に見られました時には「吾父よ、若し聖意に適はゞ此杯を我より離ち給へ」と三次《みたび》祈られまして、人類の救主たるの予定の特権より免かれんと致されました、亦、私供の如き最と微少き者と雖も幾度び「予定の苦痛」に堪えずして、基督信徒たるの特権を放棄せんとしたか知れません、予定の不公平を唱ふる人は未だ神を知らないのみならず、亦予定の何物なる乎を知らない者であります、予定は楽園であります、然し遠き針の山を越へて後の楽園であります、爾うして楽園に達するまでの苦痛の遠且つ大なるを知る者は、神が或人を予定したればとて神をも恨まず、又其人をも羨みません。
爾うして実際に於て神に予定された人は大なる不幸者として世に認められます、
  我儕が見るべき美はしき容なく、美くしき貌はなく、我儕が慕ふべき艶色《みばえ》なし、彼は侮られて人に棄てられ、悲哀の人にして病患《なやみ》を知れり、亦、面を蔽ひて避くることをせらるゝ者の如く侮られたり、我儕も彼を貴まざりき(以賽亜書五十三章一、二、三節)
とは昔より今に至るまで神に予定されたる者の特性でありました、即ち世は未だ曾て予定された者を見て其人を羨んだことはありません、従つて彼を予定した神の不公平を唱へたこともありません、否な、反て神に予定されざることを以て大なる幸福と信じて居ります、或は大政府の補助を受けて居るとか、或は教会又は(190)宣教師の人望を悉く身に浴びて、高徳熱信を以て称せられて居るとか云ひて、神に特別に簡まれて、政府と社会と教会とに蛇蝎の如くに嫌はれない事を以て、大に神に感謝して居ります、予定は神の不公平を示すとの言は理屈一片の言であつて、実際は決して人の口より出づる言ではありません。
問、其事は夫れで大分判分りました、然らば私の第一の疑問に就ては如何お答へになります乎、即ち若し予定にして真理なりとすれば、人は自己の救済を求めても無益ではありません乎、亦他人の救済を計るの動機も全く無くなつて仕舞ふではありません乎。
答、貴下の其御質問は茲に有益なる問題を開きます、即ち予定説と伝道との関係であります。
 
    其五、予定と伝道
 
問、御説の通りであります、私は若し予定にして真理なりとすれば伝道の必要は全く無くならふと思ひます、何故ならば神は彼が救はんと欲する者は人の手を藉らずとも如何かして必ず救ひ給ふに相違ないからであります。
答、左様であります、若し基督教の伝道なるものが普通、世に謂ふ所の伝道なるものでありますならば、其れは予定の信仰に由りて根から絶たれて仕舞ふに定つて居ります、然しながら基督教の伝道とは世に謂ふ所の伝道ではありません、是れは我れ智者にして彼れ愚者なるが故に、我れ彼の※[目+蒙]を開き呉れんと云ふやうな高ぶりたる考から来るものではありません、又、我れ救はれて彼れ堕落するが故に我れ彼を済度し呉れんと云ふやうな高ぶりたる慈悲心より出るものでもありません、詮ずる所、基督教の伝道なる者は人を目的とする(191)伝道ではありません、人を救はんとするのが基督教伝道の最大目的ではありません、私共は世の教師として伝道界に臨むのではありません、此点に於ては基督教の伝道と他の宗教の伝道との間に根本的の差異があります、爾うして此根本的の差異を認めずして幾人《いくたり》の基督教の伝道師が失望落胆に終つた乎、数知れないと思ひます。
問、是れは近頃にない奇態なことを伺ひます、基督教の伝道は人を教化せんとするのではないと仰せられるのでありますか。
答、爾うであります、実に爾うであります、其事を知るのが伝道成効の第一着であると信じます。
問、其事に就て充分の御説明を願ひます。
答、基督教の伝道は一つは表白であります、是れは「汝、罪を悔ひ改めよ」と云ふのではなくして、「我れ我が神の恩恵に由りて斯く成るを得たり、余は汝に此事を知らせんと欲す」と云ふ事であります、爾うして有力なる伝道とは常に斯かる伝道であります、パウロの伝道が斯かる伝道であつたことは彼が幾回となく彼の改信の実歴を彼の聴衆の前に述べたことが聖書に録るしてあるので分かります、爾うして此事は亦彼の書翰が、訓誡的でなくして、自己発表的であるのでも能く分かります、基督教は理屈ではなくして実験でありますから、是を宣べ伝ふるための最も有力なる方法は自己を標本として之を世に示すにあります、神学研究は如何に其蘊奥に達するとも基督教の伝道師を作りません、世に示すべき心霊的実験の事実を有たない者は伝道師として世に出てはならないと思ひます。
基督教の伝道は第二に感謝の祭事であります、我等は世の罪悪を憤つて伝道界に出陣するのではありません、(192)又其堕落を憐んで救済の業に就くのでもありません、若し憐むべき者があれば、其れは罪人の首なる我れ自身であります、若し憤るべきものがありまするならば、其れは我が裏にありて我を神より離さんとする我が罪であります、我等の伝道はキリストの愛に励まされてゞあります、我等は沈黙を守らんと欲して守り切れないからであります、我が如き罪人を救ひ給ふ神の恩恵を考へて、居ても起つても居られなくなるからであります、「嬰児《をさなご》乳哺者の口に讃美を備へ給へる」神が我が口をも啓き給ふたからであります、是れは外側より社会の義務に強ひられて従事する伝道ではありません、心の奥底に働く神の愛に刺激せられて自発的に着手する事業であります、基督教の伝道は義務ではありません、特権であります、快楽であります、敵人の口調を藉りて云へば「道楽」であります、若し我れ福音を宣伝へずば実に禍なるかな(哥林多前書九章十六節)、是れパウロの言でありまして、総て言ひ尽されぬ歓喜を以て基督教の福音の宣伝に従事する者の声であります、此歓喜がなく此圧へ切れぬ感謝がなくして基督教の伝道は必ず失敗であります。
斯く観し来つて予定は伝道の妨害である所ではなく、反て伝道の精神であります、予定は人に対してゞはなく神に対して私共の義務の観念を非常に高むるものであります、亦た予定は限りなき感謝の念を私共の心に起すものであります、「斯かる者をさへ救ひ給ふのみならず、我れ幾度か彼を捨てんとせしに彼は永遠の愛を以て我を愛せりとは是れ何事ぞ、斯かる無限の愛は我れ信ぜんと欲して信じ難し、然れども聖霊は我が心に耳語いて言ふ、是れ事実なりと、嗚呼我れ如何にして此恩に報ひんや」とは伝道心発動の原動力であります、爾うして斯かる愛に励まされて、迫害も、飢餓も、視※[衣+呈]も、刀剣も何の懼るゝ所なきに至るのであります、総ての大なる伝道師に就て尋ねて御覧なさい、是れが彼等の伝道の精神であつたのであります。
(193)世には人の愛国心に訴へて伝道心を起さんと努むる者があります、是れに多少の効力のあることは私も疑ひません、然しながらリビングストンは彼の愛国心に励まされて、英国のために新領土を得んとて暗黒大陸に伝道に従事しませんでした、モレビヤ派の宣教師は愛国心に励まされてグリンランドの氷山の中にエスキモー人種に福音を伝へませんでした、愛国心は強大なる勢力であります、然かし伝道の精神となすには足りません。
又、或人は社会改良の手段として伝道を奨励致します、爾うして基督教の伝道が第一等の社会改良のための勢力であることは何人も疑ひません、然しながら我等キリストを信ずる者は社会改良を目的として伝道に従事することは出来ません、社会は改まらふが、改まるまいが、其れ等の事は福音宣伝者の眼中には余り重きをなしません、キリストの愛、永遠の愛を以て我を救ひ給ひし神の愛、是れが我等伝道者の心を支配する唯一の勢力であります、爾うして此愛に逐ひ立てられて我等は世の嘲笑も何も忘れて伝道に従事するのであります。
問、夫れは爾うと致しまして、救はれるもの、救はれない者が始めから定つて居ると致しますれば伝道の張合ひが至て尠いではありませんか。
答、夫れは決して爾うではありません、私共予定を信ずる者は信者を作くるために伝道は致しませんが、然かし信者を発見するためには熱心を以て之に従事致します、爾うして伝道は信者を作ることではなくして既に予め作られたる信者を発見することであることは永く此聖業に徒事した者の疑はない所であります、主は救はるべき者を日々教会に加へ給へり(使徒行伝二章末節)、是れが伝道成功の徴候であります、キリストは(194)亦た其弟子等に告げて我れ爾曹の労せざりし所を穫らせんとして爾曹を遣はすなり、他の人々労せしに由り爾曹は其労したる果を受くるなりと言はれました、此場合に於ては「他の人々」とは神を指して云ふのでありまして、我等伝道師は神の播き給ふた田に其|熟《いろつ》いた時に収穫《かりいれ》に行くばかりであるとのことであります(約翰伝四章三五−三八節参考)、爾うして此収穫の業に優さるの愉快なる業はありません、伝道師の謳ふ歌は農夫の秋の収穫歌であります、即ち「禾束《たば》を携へ喜びて帰り来る」時の歌であります(詩篇百二十六篇六節)。
問、有難う厶います、大分基督教に就て新思想を懐くに至りました、勿論、未だ貴下の御説明に由て疑問が総べて解けたとは云へません、然しながら基督教を全く新方面より覗ふことを得て甚だ喜ばしく存じます。
答、私とても勿論、此簡単なるお話しに由て私が今日まで予定のことに就いて考へたことを悉く貴下の前に述べ尽したとは申されません、私は殊に今日私が曾て非常の興味を以て研究しました、ヴァイスマン進化哲学と予定説との関係に就てユックリと貴下に御話し申すことの出来ないのを甚だ残念に思ひます、然しながら予定は全然荒唐無稽のことではない、是れは基督信徒の深い経験に基く教義であり、又、天然界に於て多くの比類を見ることの出来る真理であること丈けを今日貴下の前に述ぶるを得て非常に愉快に存じます、願くは他日また座を改めて此深遠なる問題に就て再び御質問に応じたく存じます、サヨナラ。
 
(195)     〔基督教と基督信徒 他〕
                     明治37年5月19日
                     『聖書之研究』52号「雑記」
                     署名なし
 
    基督教と基督信徒
 
 基督教は基督の教へ給ふた道徳ではない、亦基督の建て給ふた教会でもない、亦基督教の聖書の中に含まれて在る所の人生哲学でもない、基督教は亦慈善事業ではない、社会改良ではない、伝道、政治、教育ではない、是等は皆な外面に顕はれたる基督教の諸方面ではあるが、然かし基督教其物ではない。
 基督教は基督である、父の右に座して宇宙を統べ給ふ活きたる基督である、彼の神性、彼の神能、彼の神智其物である、基督は霊的宇宙である、彼れ御自身が基督教の本源であつて亦其終局である、其外面であつて亦其内容である、其祭司であつて、亦其|礼物《さゝげもの》である、其|律法《おきて》であつて、亦其実行である、彼に在て完全なる宗教は在る、彼れ御自身が神であつて、亦神を拝するための唯一の神殿である。
 基督教は基督である、故に基督教的道徳を守る者必しも基督信徒ではない、基督教会の会員、是れ亦必しも基督信徒ではない、慈善家、教育家、世の所謂る教役者《きやうえきしや》、彼等も亦必しも基督信徒であるとは限らない、基督を外より視る者、彼を行為的に真似る者、彼を遠方より拝する者、彼を理想する者、努力して彼の模範に傚(196)はんとする者、是等は未だ基督信徒と称するに足らない。
 基督に同化されし者、基督の活ける体の一部分となりし者、其|困苦《くるしみ》と歓喜と、其|恥辱《はづかしめ》と栄光《さかへ》と、其死と復活とを、彼の中に在て彼と偕に父なる神より分与せられし者、是れが基督信徒である、「信ずる」とは此場合に於ては智識的に是認することではない、亦感情的に信頼することでもない、基督を信ずるとは彼の神格の中に我が人格を投入することである、爾うして我を無き者として彼をして我に代つて我が裏にあらしむることである、是れきりが即ち信の極であつて、基督は我儕より斯かる信仰を要求し給ふのである、基督が神であり、霊の宇宙であり、我儕が其霊界の一部分《いつぶぶん》となるを得て、始めて我儕の聖化も満足に行はれ、亦基督の光は我儕を透して世に顕はれ、亦我儕彼の中に在る者は、何等の条令に縛らるゝことなしに、真の兄弟たり、姉妹たり得るに至るのである。
 
    懐疑
 
〇基督信者に懐疑なるものがある、彼は是れがために時には非常に苦しむ、然しながら是れあるがために彼は基督信者であるのである、不信者には懐疑なるものはない、懐疑は神が見えなくなつた時の苦痛である、爾うして神を見たことのない者、又は神を見んと欲せざる者に此苦痛の有りやう筈はない、懐疑は幽暗《くらき》に光明を求むる赤児の声である、現世に神の存在の実証を探ぐる信者の叫号である。
〇懐疑は難問題を解釈し得ない時の智性の困苦ではない、神を感得し得ない時の霊性の苦痛である、正義が失敗して不義が成効する時、誠実なる祈祷が聴かれざる時、神の聖名が涜される時、我儕の霊性に於て感ずる言ひ尽されぬ不調である、視よ、彼等は悪しき者なるに常に平安にしてその富増し加はれり、誠に我は徒らに心を潔め(197)罪を犯さずして手を洗ひたり(詩篇七十三篇十二、十三節)とは懐疑の声である、懐疑は智識的ではない、道徳的である、宇宙と人性とを道徳的に解し得ないより起る心霊の苦悶である、故に是れは智者の説明を待て解ける者ではない、聖徒の霊化に接して初めて散ずる者である、懐疑は霊性の懦弱《よわき》より来るものであつて、智能の足らざるより来るものではない。
〇懐疑は人生の謎ではない、故に之れは智識を磨いて解けるものではない、懐疑は心霊の疾病《やまい》である、故に之れは新生命を心に注がれて始めて※[病垂/全]ゆるものである、爾うしてキリストは懐疑の最良の治療者である、彼は生命の理由を説かざるも、生命其物を供して懐疑を消散する者である、我儕はキリストに由て哲学者とはならない、然れども神を信ずる者となる、即ち神の摂理を疑はざる者となる、キリストは苦痛に勝の能力を供して、我儕をして苦痛に就て思はざらしめ給ふ。
 
(198)     〔戦時の事業 他〕
                     明治37年6月16日
                     『聖書之研究』53号「所感」
                     署名なし
 
    戦時の事業
 
 今や世に燃木を投ずる者は多し、静粛を供する者は尠し、争闘を勧むる者は多し、和親を促す者は尠し、此時に方て我儕は主の静粛に居らんかな、而して茲処に居《おつ》て熱せる同胞に主の清涼を頒たんかな、敵愾の渇を癒すに修好の清水《せいすい》を以てせんかな、戦争の噪音を静むるに福音の美楽を以てせんかな、平和は地より出ず、天より来る、天の神を紹介して地は始めて平穏に帰せん。
 
    擾乱に処するの途
 
 擾乱は斯世の常態なり、恰かも波動は海の常態なるが如し、斯世に在て擾乱を避けんとするは海上に淨んで波に揺られざらんとするが如し、若し夫れ世と共に乱れざらんと欲せば磐に頼らんのみ、「千代経し磐」に頼らんのみ、世は世に在て救ふ能はず、世を離れ、身を「永遠の静粛」に置いて上と外《そと》とより之を救はんのみ、故に聖書は言ふ爾曹、彼等の中より出で来れと(哥林多後書六章十七節)。
 
(199)    歓喜の由来
 
 歓喜は勝て来ちず、亦負けて来らず、歓喜は神の遣はし給ひし其独子を信じてより来る、キリストの福音は戦時に必要なり、亦平時に必要なり、世に死と涙との在る間は其必要の失する時なし、故に我儕は道を宣伝ふべし、時を得るも時を得ざるも励みて之を務め、さま/”\の忍耐と教誨を以て人を督し戒め勧むべし(提摩太後書四章二節)。
 
    吾人の非戦論
 
 非戦の理を説くは難し、然れどもイエスキリストを信じて争闘は其総ての種類に於て吾人の忌み嫌ふ所のものとはなれり、吾人の理性の説服せらるゝ前に吾人の情性は感化せられたり、吾人は何故か未だ其理由を解する能はず、然れども吾人、一たび心にイエスキリストを宿してより、憤怒の角は悉く折れて、柔和を愛するの人とはなれり、吾人の非戦論なるものは此情性の大変化の結果に外ならず。
 
    イエスキリストの御父
 
 神は往昔は万軍のエホバとして顕はれ給へり、然れども今は十字架上のキリストとして世を悔改《くわいかい》に導き給ふ、往昔は正義の剣を以て不軌の民を懲し給へり、今は愛の和煦《わかう》を以て頑硬《かたくな》なる心を融き給ふ、前《さき》には外より責め給ひし神は今は内より説き勧め給ふ、前には厳格なる主たりし神は今は柔和なる夫として顕はれ給へり、我が神は(200)剣を抜いて異教徒を屠りしヨシユア、ギデオン、バラクの神に非ず、世の罪を担ふて十字架に釘けられしイエスキリストの父なる御神なり。
 
    愛の十字軍
 
 我は何を以て此世界を救済はん乎、鋼の剣を以てせず、正義の言葉を以てせず、天国の歓喜を供して之を救済はんかな、即ち「新らしき愛心の駆逐力」を以て、世の総ての低き卑しき情慾を排除し、之に代ふるに天の高き情性を以てせんかな、異端を撲滅するための十字軍を起さずして、痛める者を※[病垂/全]すためのギレアデの乳香を供せんかな、我は愛と歓と望とを以て世を征服せんと欲す、我は炎熱と洌凍とを避けて、春陽の和気に世を緩和せんと欲す。
    慕はしきキリスト
 
 基督を道徳上の教師と見て基督教は甚だ厭ふべきものとなる、何故となれば彼の教ゆる処は余りに理想的にして肉なる弱き我儕の到底及ぶ所でないことを覚るからである、然しながら基督を罪人の救主と見て基督教は非常に慕はしきものとなる、何故となれば斯かる救拯は我儕の何よりも要求する所のものであつて、是れあらば汚《けが》れたる我儕も多少聖き生涯を送り得べしとの希望が我儕の心に湧き出づるからである、我は誠に教師としてイエスを仰ぐのではない、罪人の救主として彼に縋がるのである。
 
(201)    活けるキリスト
 
 基督は過去の人物ではない、彼は今時《いま》の救主である、彼は史上の聖人ではない、常に在す権力《ちから》の神である、ナザレのイエスは今は在天のキリストである、キリストにして若し今、在さゞる者ならば彼は我儕の救主ではない、我儕は死せし過去の人物を我儕の救主として仰ぐ者ではない、我儕は死して甦り、今は父の右に坐して宇宙を統べ給ふ活ける真《まこと》の神に事ふる者である。
 
    甦りしキリスト
 
 キリスト若し甦らざりしならば、我儕の宣る所は空し、亦爾曹の信仰も空しからん、(哥林多前書十五章十四節)、そは若し然りとすれば我儕は死せるキリストを説く者となり、爾曹は僅かに歴史的人物の事績を聞く者となるからである、若しキリストにして甦へらざりしならば、基督教は死せる宗教である、我儕の霊魂を救ふ為の活ける救主は無い、キリストにして若し今、在さゞる者ならば我儕は誰に向つて救拯を喊叫ばん耶、我儕は墓中に葬られし者の歴史的感化力に由て救はるゝのではない、我儕は今|活動《はたら》き給ふ権力の救主を要するのである、誠にキリストの復活は基督教の要石である、是れありて基督教は実力の宗教と化するのである、歴史的宗教たるに止まらず、現在的宗教となるのである、キリストが甦り給ひし故に、我儕も今日サイロピニケの婦の如くに直に彼の足下に迫りて彼の援助《たすけ》を仰ぐことが出来るのである、我儕は実に二千年以前の人を信じ且つ之を今人《こんじん》に勧めんとする者ではない。改行
 
(202)    信仰の基礎
 
 基督教は真理なる乎、将た又、虚偽なる乎、是れ人生の最大問題なり、我儕如何にして其真偽を糺すを得ん。
 之を哲学に問へば、或る者は云ふ是れ真理なりと、或る他の者は云ふ是れ虚偽なりと、哲学は終に我儕のために基督教の真偽を判断つ能はざるなり。
 之を歴史に問へば、或ひは是れ事実なりと云ひ、或ひは是れ戯作《ぎさく》なりと云ふ、歴史も終に我儕のために基督教の真偽を定む能はざるなり。
 嗚呼然らば我儕は何に依て其真偽を知らん耶、是を解すべからざる問題として放棄せん乎。
 嗚呼、否な、我儕は直に進んで其能力を試し見ん、而かして我儕の実験の.上に、哲学も歴史も動かす能はざる我儕の信仰を築かんかな。
 
(203)     聖書に於ける人
                      明治37年6月16日
                      『聖書之研究』53号「研究」                          署名 内村鑑三
 
 人よりに非ず、又人に由らず、イエスキリスト云々(加拉太書一章一節) 聖書は人を甚だ軽く見る者である、人?、彼れ何物ぞ、彼は生息なり(創世記六章十七節)、亡び失する獣の如し(詩篇四十九篇十二節)、彼の齢は草の如く其栄は野の花の如し、風過ぐるれば失せて迹なく、其生ひ出し処に問へど尚ほ識らざるなり(詩篇百三篇十五、十六節)、爾曹鼻より気息の出入する人に倚ることを止めよ、斯る者は何んぞ算ふるに足らんと(以賽亜書二章廿二節)、是れ聖書が人に就て語る所である。
 聖書に六十六書あるが、其中に著者の判然たる書は幾個もない、否な、一つも無いと云ふても可い、旧約聖書の初の五書を『モーセの五書』と称ふが、然かし是れは後世の人の附けた名であつて、其果してモーセの作である乎無い乎は大なる疑問である、約百記は誰の作である乎、或人はモーセの作であると云ひ、或人はエレミヤの作であると云ひ、又或人はソロモン王の作であると云ひて是れ亦た不明の問題である、『ソロモンの雅歌』とは云ふものゝ今日『雅歌』を以て彼れ大王の直作なりと信ずる学者は一人もないと思ふ、下つて新約聖書に至れば、馬太伝とは云ふものゝ其果して使徒マタイの作である乎、無い乎、其れ又一大疑問である、其れはマタイが書いたものであると言ふ者がある乎と思へば、否な、是れマタイに由て成りし者であつて、即ちマタイの指揮の下に、(204)或はマタイの口伝を筆記して成つたものであると云ふ、吾人が約翰伝と称する書は必ずキリストの愛弟子ヨハネの作つたものであると信じて疑はない者は、近世の聖書文学を読んで失望するに相違ない、多くの有名なる学者は約翰伝のヨハネ的起原を否定する、是れは新約聖書中最も後に出来た書の一つであつて、恐らく十二弟子の一人の手に成つたものではあるまいとは、多くの人の信ずる所である。
 又近頃に至つてはパウロの書翰さへ、其果して使徒パウロに依て書かれしものなるや否やが疑はるるに至つた、其明白にパゥロの名が録るされてあるにも係はらず、或る批評家は其パウロの自作たるを否定する、希伯来書の著者の不明なることは今日《いま》判分つたことでない、彼得後所の使徒ペテロに関係ないことも、是れ亦昔より唱へられた所である、実に聖書研究に従事する者に取て、聖書各書の著者問題ほど錯雑なる問題はない、是れは究めて極りなき問題である、聖書は誰に由て書かれし乎と問ふて見て、我儕は聖書は神が人を以て書かれたる書なりと答ふる他に言葉はないのである。
 然らば著者の判然せざる聖書は信頼するに足らないかと云ふに、決して爾うではない、聖書は聖書其物のために貴いのであつて、其著者のために貴いのではない、真理は其物自身の証明者であるから、自身を人に紹介するに当つて、人の証明を待たない、何にもモーセの言であるからとて貴いのではない、神の真理であるが故に貴いのである、我儕はダビデやソロモンに教へられんとは欲しない、神の聖霊に導かれたく欲ふ、預言者ヱレミヤは我儕の如き懦き人であつた、然し彼の口より神の言葉が出た、我儕は預言者自身をば尊まない、彼を以て我儕を教へ給ふ神に感謝する。
 聖書著者の不明なるは神が之を顕明にするの要を認め給はなかつたからである、然り、之を顕明にするの結果、(205)人が神を崇拝するを止めて人を崇拝するに至らん事を虞れ給ふたからである、亦、著者自身も努めて其名を隠さんとしたのは全く是れがためである、約百書の記者は詩人ミルトンの如くに神の公義を弁明せんとした、爾うして此目的の達せられんがためには彼は彼の総ての智識と精力とを注ぎ出した、彼は実に彼の沸騰せる心の鼎より鎔けたる鉄の如きものを注ぎ出した、彼は余りに強く神の公義に就て思ふた故に自己の存在をさへ忘れて仕舞ふた、彼は終に彼の著作に彼の名を記すことさへ忘れた、爾うして彼の読者も亦、彼の精神に化せられて、彼の著作に由て神に就て思ふの切なるより終に彼の名を忘却に附するに至つた。
 約百書が爾うである、以賽亜書も、但以理書も皆な爾うである、聖書は神の書であるから、著者の名を問はない、其著者の名は失せて仕舞ふて、神と聖書とのみが存つて居る、人よりに非ず、又人に由らず、神より直に人類に賜はりし書、是れが聖書である、其著者の不明なるは当然のことである。
 神の人モーセは紀元前何年何月何日に生れし人なる乎、彼は又何時何処に死せし乎、彼の墓は何処に在る乎、是れ考古学者と頑迷信者とが知らんと欲して止まざる事柄である、然しながら聖書は是等の事柄に就ては沈黙を守つて語らない、
 斯の如くヱホバの僕モーセはヱホバの言の如くモアブの地に死ねり、ヱホバ、ベテペオルに対するモアブの地の谷に之を葬り給へり、今日までその墓を知る人なし(申命記三十四章五、六節)
 猶太国の建国者モーセは人の手を借りずして、神御自身の葬る所となりて、今日に至るまで其墓の所在を知る人なしと云ふ、神は斯くしてモーセ崇拝の途を絶ち給ふた、モーセは偉人たりしに相違なしと雖も彼は他の国の建設者の如くに民の崇敬を仰ぐべき者ではない、彼はヱホバの僕である、爾うして僕は其主の用を為せば足りる(206)のである、彼の墓を存し置けば人の之に参詣し、之に向て崇拝を払ふに至るの虞れがある、彼の死所を明かにすれば人の其跡に寺院院を建てるの危険がある、イスラエルの民をして神の聖名の外何者をも新崇めざらしめんがために、神は偉人モーセの遺跡を悉く穏し給ふたのである。
 モーセに次いでの旧約時代の人物はエリヤである、彼は預言者中の首であつて、亦彼の国人より異様の敬崇を招いた者である、故に彼の遺跡にして存せん乎、急忽にしてユダヤ人中にヱリヤ崇拝の起らんとする危険があつた、然しながらエリヤの奇跡的終焉に由て此危険は全く取除かれた、
 彼等(エリヤとエリシヤ)進みながら語れる時、火の車と火の馬顕はれて二人を隔てたり、エリヤは大風に乗りて天に昇れり、エリシヤ見て、我が父、我が父、イスラエルの兵車よ、その騎兵よと叫びしが再び彼を見ざりき(列王紀略下二章十一、十二節)。
斯くてエリヤは其預言者の外套《うはぎ》をエリシヤに遺せし外、他に何物を遺さずして、彼の躰躯は天に移されしと云ふ、其終焉の状に就ては種々の説明もあらんが、彼の国人が彼の遺骸を求めんと欲して得ざりしことは事実である、彼等は亦預言者エリヤを祭ることをも許されなかつた。
 モーセが爾うである、エリヤが爾うである、亦イエスキリストさへも爾うである、婦の産みし者の中に彼のみは人類の崇拝を受くるに足る者であるが、然し彼とても偶像的崇拝を受くべき者ではない、キリストの遺骨、キリストの遺物、其れは若し存つたとした所が何の価値もないものである、キリストはナザレのイエスとし拝されんとは欲し給はなかつた、故に神は彼に関しても個人的遺物としては何一つをも存し給はなかつた、彼の生れしベツレヘムの馬厩《うまや》は何処に在る、彼の生育《おひたち》しナザレの村の小屋は何処に在る、彼の葬られしアリマテアのヨセフ(207)の墓は何処に在ると、是れ探らんと欲して索るべからざるものである、実にキリストの在世中、彼が確かに地を践み給ひしと思はるる所はサマリヤ街道のヤコブの井戸の側を除いては他に一ケ所もない、此井戸は今尚ほ存して彼が異邦の婦人に彼の新宗教の奥義を語られし所として最も神聖視さるゝ所である、然かし之を除きては其他キリストの地上の生涯に関して地理学的に我儕の確かめ得る所は殆んどない、彼が此世に在り給ひしことは事実なれども、彼は此地に多くの足跡を残し給はなかつた。
 爾うして其理由は之を知るに難くない、キリストは新偶像教を建てんがために此世に降り給ふたのではない、彼の宗教は全然心霊的である、彼の示せし神はゲリジムの山に於て、又はヱルサレムの山に於て拝すべき者に非ずして、霊と真《まこと》とを以て拝すべき者である、彼は又ユダヤ人のみの救主ではなくして宇内万民の世々窮りなき救主である、故に彼に地理学的制限があつてはならない、又肉躰的束縛があつてもならない、彼は万世に渉る万民の霊の救主であるから、彼は必要上心霊的でなくてはならない、イエスの古跡を尋ね、彼を史学的に究めんと欲する者は真に彼を識り得ざる者である。
 故に後年に至てイエスを其肉躰に於て見たりとて誇る者あるや、パウロは彼の基督観に就て述べて曰ふた、
  是故に今より後、我儕肉体に依りて人を識るまじ、我儕、肉体に依りてキリストを識りしかども今より後は此の如く之を識るまじ(哥林多後書五章十六節)。
と、パウロはキリストを崇拝した、然かし其人物を崇拝したのではない、彼は霊なる神に事ふる其心を以てキリストを尊崇《あがめ》奉つたのである。
 後世に至て基督教会の中に聖徒崇拝なるものが始つた、羅馬に聖ペテロの遺骨なる者が発見されて、之に詣ず(208)る者は跡を絶たざるに至つた、之に触るれば病は癒さるゝと称はれた、其一小片は数万金を以て購はるゝに至つた、肉は霊を離れて功徳あるものと信ぜられた、偶像崇拝は新たなる勢力を以て基督教会内に復興した。
 曰く聖ペテロは聖パウロと同時に基督降世後六十七年六月廿九日、羅馬府の西三哩の所なるオスシヤ街道のアクアザルバと云ふ所に於て、パウロは首を刎られ、ペテロは逆礫刑に処せられたりと、或は然らん、多分然らざらん、神の人モーセの墓を隠して之を人に識しめず、預言者エリヤを火車を以て天に迎へし神は、ペテロ、パウロをも無名の所に無名の死を遂げしめ給ひしならん、二者共にキリストの忠実なる僕、彼等の最も諱み嫌ひし所のものは人に崇拝せらるゝことであつた、曾てルカオニヤのルステラに於て人々パウロとバルナバとに犢と花飾とを献げて彼等を祭らんとせし時に、衣を裂いて「人々よ、何故に此事を行すや、我儕も亦爾曹と同じ情を有つ所の人なり」と喊叫んで将さに献げんとせし犠牲を却けしパウロは死後に人が彼を祭らんことを思ひては死ぬるばかりに戦慄《みぶるひ》せしならん、実にパウロを拝する者の如きは神を涜すと同時にパウロ其人を侮辱する者である。
 神は万有であつて、人は皆無である、神の充実なるに此ぶれば人は空の空なる者である、我儕神を追求むる者の眼には人が大きく見えてはならない。
  諸の〓伯《きみ》に依頼《よりたの》むことなく、人の子に恃む勿れ、彼等に援助《たすけ》あることなし(詩篇百四十六篇三節)。
  エホバ斯く言ひ給ふ、凡そ人を恃み、肉を其|臂《ちから》とし、心にエホバを離るゝ人は詛はるべし(耶利米亜記十七章五節)。
 
(209)     人類の堕落
                      明治37年6月16日
                      『聖書之研究』53号「問答」                          署名 内村鑑三
 
 宗教並に哲学上の大問題なり、而かも聖書は大胆に直白に此問題に断案を下す、人類の堕落は其不完全にあらず、亦霊の理想に映ずる肉の粗雑に非ず、亦進化の途にある道徳の程度に非ず、人情の存するあればとて人は罪人たるを失はず、嬰児、亦、罪なき者にあらず、然らば人類は如何にして堕落せし乎、其堕落の原因如何、之を論理的に説明するは難し、然れども基督教は其実際的解釈を供す。
問、旧派の基督教では人類の堕落と云ふことを唱へるさうですが爾うであります乎。
答、旧派に限りません、基督教と云ふ基督教で人類を其良心の根底より救ひ得るものは必ず之を唱へます、大胆に、直白に人類の堕落を唱へ得ない基督教は常に微弱なる基督教であります。
間、人類の堕落とは短かく言へば何う云ふ事であります乎。
答、之を聖書の言葉を以て言ひますれば義人なし、一人も有るなし(羅馬書三章十節)、善を作す者なし、一人も有るなし(同十二節)、人は皆な既に罪を犯したれば神より栄を受るに足らず(同廿三節)、斯う云ふことであります。問、其れは随分過激なる言葉ではありません乎、且又深く考へて見ますれば人類を痛く侮辱したる言葉ではあ(210)りません乎、世に悪人は多くして善人は尠しと云ふのではなくして、義人なし、善人なし、一人もあるなしと云ふのでありますれば、是れ厭世の極でありまして、歓喜の宗教を以て自から任ずる基督教が人生を斯くも悲観するとは私には如何しても受取れません。
答、爾うであります、若し人類の堕落が事実でありませんならば、是れは確かに過激の言であります、又斯く唱へる基督教は人類を侮辱する者でありませう、然しながら堕落が事実である以上は、是れは過言でも亦た侮辱でもありません、疾病を知て疾病と称せざる医師は不深切なる医師であります、爾うして基督教は人類の最も善き医師でありますから、彼は明状《あからさま》に其堕落を唱へます、彼は又、此堕落を癒すに足るの充分の能力を有つて居りますから、之を唱ふるに係はらず、矢張り歓喜の宗教であります。
問、人類の堕落が事実であるとならば止むを得ません、然しながら是れ果して事実である乎、其れが第一の問題であります、又、基督教は果して斯かる事を教へる宗教である乎、其れが第二の問題であります、爾うして世に楽天家の多いのを見ましても、又基督教全躰が希望歓喜の宗教であることから考へて見ましても、人類の堕落と云ふが如きは是れ基督教の何等かの誤解より来た教義ではありません乎。
答、御尤なる御推察であります、人は誰でも己れの堕落を聞いて喜びません、随て彼は容易に人類の堕落を信じません、然しながら信じ難い此義を信ぜしむるのが聖書であります、偽の宗教は偽の預言者と同じく常に浅く民の傷を医し、平康《やす》からざるに平康、平康と云ふ者であります(耶利米亜記六章十四節) 人類堕落の教義は確かに神の黙示の一であります、神に依るにあらざれば我儕は我儕の堕落をさへ充分に知ることの出来ない者であります、爾うして我儕の全然的堕落を示されて我儕は始めて救済の途に就くのであります。
(211)問、私にはドウも其事が能く判分かりません、聖書は実に斯くも堕落したる者として人類を示して居ります乎。
答、居ります、人は脆い者、墓ない者であるのみならず、亦悪しき者であるとは聖書が其姶より終に至るまで唱ふる所であります、人類の根本的堕落に就て聖書が示す所の言葉を今、一々貴下の前に陳べることは出来ませんが、然かし聖書全躰の精神から推して見まして、人性の堕落は其独特の教義の一つであることが判分ると思ひます。
問、先づ聖書の如何いふ所に人類の堕落が最も明かに示してあります乎。
答(詩篇第五十一篇にダビデの言として視よ我れ邪曲の中に生れ、罪にありて我が母、我を胎みたりと録されてあります(五節)、是れ縦令詩人の言なりとは言へ、彼の深き実験を示した者であります、人は如何なる者ぞ、如何にして潔からん、婦の産し者は如何なる者ぞ、如何にして義しからん、とは古人の諺としてイスラエル人の中に伝へられた言葉であります(約百記十五の十四)、預言者イザヤは神の前に立つて、自己の汚穢に堪へ得ずして叫んで曰ひました、禍ひなるかな、我れ滅びなん、我は汚れたる唇の民の中に住みて穢れたる唇の者なるに我が眼、万軍のエホバに在します王を視たりと(以賽亜書六章五節)、人の心は万物よりも偽はる者にして甚だ悪し、誰か之を知るを得んやとは予言者ヱレミヤの人生観であります(耶利米亜記十七章九節)、主イエスの前に立てば「聖」ペテロでさへもイエスの足下に俯して主よ我を離り給へ我は罪人なりと曰はざるを得ませんでした、イエスは其弟子等を教へらるゝに方ても爾曹悪しき者ながら云々と言はれまして、彼が選み給ひし十二弟子すら此「悪しきもの」の階級の外に立つ者でないことを示されました(路可伝五章八節)、聖パウロは自己を指して罪人のうち我は首なりと曰ひました、(提摩太前書一章十五節)、彼は又(212)基督信者となりし前の彼の生涯に就て弟子テトスに書き贈つて、我儕も前には愚かなる者、順はざる者、迷へる者、諸般の慾と楽の奴隷と為れる者、恨み媚みて日を送りし者、悪むべき者、又互に悪みあへる者なりし也と曰ひました(提多書三章三節)。斯の如くに聖書人物の中で聖と称ばれ、預言者として崇めらるゝ者が、皆な悉く罪人であり、汚れたる唇の者であつたとのことでありますれば、其他は推して知るべきであります、聖書は万人を罪の下に拘幽《とじこ》めたり(加拉太書三章廿二節)とのパウロの言は聖書の充分に証明する所であります、義人なし一人も有るなし(羅馬書三章十節)、善を作す者なし、一人も有るなし(同十二節)、人は皆な既に罪を犯したれば神より栄を受くるに足らず(同廿三節)、聖書に依りますれば義人、善人と称すべき者は人類ありてより以来、唯一人ありしのみとのことであります、其人は義なるイエスキリストであります(約翰第一書二章一節)、其他は皆な悪しき者であります、(路可伝五章八節)、蝮の裔であります(馬太伝十二章卅四節)、滅亡に備へられたる器であります(羅馬書九章廿二節)、世に生れながらにして神の栄を受くるに足る人ありとは聖書の何処にも示してありません、人若し新たに生れずば神の国を見ること能はず(約翰伝三章三節)、とは総ての人に就て言はれた言葉であります。
問、或は御説の通りである乎も知れません、然しながら同じ聖書が亦、世に善人、義人のありしことを示して居るではありません乎、エノクは神と偕に歩めりとありまして、洪水前既に生来の義人のありしことを録して居るではありません乎(創世記五章廿四節)、又ノアは義人にして其世の完全き者なりきと書いてあるではありません乎(同六章九節)、殊にキリストが非常に小児を愛し給ひしことに照らして見ましても人類の全然堕落説を聖書に由て維持するのは非常に困難ではありません乎。
(213)答、爾うではないと思ひます、エノクのことは記事が余りに簡短で善く分かりません、然しノアが完全の人でなかつたことは創世記の他の記事で善く分かります、(九章廿節以下)、小児の罪悪のことに就ては後でお話し致しませう、其他、聖書に其名を録された人物の中で、聖い、※[王+占]《きづ》なき人物とては一人もありません、「ヱホバの聖旨に適ひし王」と称ばれしダビデは御承知の通りの大欠点の人でありました、其人となり温柔なること世の中の諸の人に勝れりと録るされたるモーセも亦其憤怒の故を以て約束の地に入るの名誉を褫がれた者であります、天より降り来りしイエスキリストを除くの外は一人の理想的人物を認めない聖書は実に奇態なる書ではありません乎、然しながら是れが聖書の聖書たる所以であります、若し聖書が何処かに其ソロモンなり、イザヤなりを指して、是れ完全無欠の理想的人物なりと録して居りますならば、それこそ聖書が聖書でない最も善き証拠となります、然しながら神の聖書であります故に、斯かる矛盾の記事は其中の何処にも発見することは出来ません。
問、聖書の言葉は御指明の通りであると致しまして、夫れには其れ相応の説明がつくではありませんか、爾うして其一は是れは神より見たる人生の状態であると云ふことは出来ません乎、聖き神より人生を観れば或は斯かる汚れたる者である乎も知れません、恰度私供人間の眼から見たる動物界の状態のやうなものでありまして、神の眼より視たる人類は実に憐むべき愚かなる不完全なるものであるに相違ありません、現に先程、貴下が御引きになりました、約百記の言葉の直ぐ後にもそれ神は聖者にすら信を置き給はず、諸の天もその目の前には潔からざるなり、況んや罪を取ること水を飲むが如くする憎むべき穢れたる人をや(約百記十五章十五、十六節)、
(214)と書いてありまして、神より観たる人間の如何に卑しむべき者であるかゞ示してあるではありません乎。
答、其れは一理ある御説明であります、然しながら以て聖書の人生観を説明し尽すものではないと思ひます、神は勿論我儕人間を神と同等の者とは見給ひません、父が其子を憫むが如くヱホバは己を畏るゝ者を憫み給ふ(詩篇百三篇十三節)とは神が我儕に対して取らるゝ対度であります、神は我儕が土塊なることを忘れ給ひません、神の忿怒は我儕が弱き人間なるが故に我儕の上に宿るのではありません、神が我儕に就て恚り給ふのは我儕に何にか道徳的の大欠点があるからであります、我儕は未だ曾て馬や犬の罪悪に就て怒つたことはありません、然かし神は我儕の罪悪に就て怒り給ふのであります、堕落は品性の堕落であります、力量の不足ではありません。
問、若し神の人生観として視ることが出来ませんならば、之を霊なる人の人生観と視ることは出来ません乎、御承知の通り人の霊には理想なるものがありまして、此理想を以て見ますれば、彼れ自身が最も不完全なる者であります、肉は到底霊の理想に適ふものではありません、下等動物より徐々と進化し来りし人類が、自己を自己の理想に照らして見ましたならば、自己は実に聖書に示してあるやうな不完全極まる者であるに相違ありません、基督教の謂ゆる人類の堕落なるものは、霊の眼に映ずる肉の状態ではありません乎。
答、面白い御質問であります、多くの場合に於て、人類の罪悪なるものは其肉情として解せられました、パウロの曰ひしそは肉の慾は霊に逆らひ、霊の慾は肉に逆らひ、此二つのもの互に相敵るとの言葉は斯かる意味に於て解釈されました(加拉太書五章十七章)、人間の罪悪といふ罪悪は其多分は肉慾に依て顕はれるものでありまする故に、終には肉慾其物が罪悪として認められるに至りました、然しながら深く考へて見ますれば、(215)肉慾是れ罪慾ではないことが分かります、食ふこと是れ罪悪ではありません、その飽食貪食となるに及んで始めて罪悪となるのであります、飲むこと是れ罪悪ではありません、其酔酒放蕩となるに及んで始めて罪悪となるのであります、淫慾亦必しも罪悪ではありません、其汚穢、苟合となるに及んで、姦淫となりて罪悪となるのであります、若し肉慾其物が罪悪であるとならば、人生其物が罪悪であります、爾うして若し然かりとすれば罪より免かるゝの途は自殺より他にありません、然かし聖書は決して斯かる背理を唱へません、基督教は何んであるとも、決して殺慾主義の宗教ではありません、家庭の神聖を貴び、感謝の生涯を勧むる基督教は、肉慾其物を以て罪悪とは認めません。
問、肉慾其物は罪悪でないと致しました所が、人には下等動物より譲り受けた多くの情性があるではありませんか、即ち獅子の如き兇猛、狼の如き貪慾、狐の如き奸智が彼にも遺伝性として存つて居るではありませんか、爾うして是れ皆な彼の霊性に逆らふものでありまして、彼の堕落なるものは実に此動物的遺伝性の存在を言ふに過ぎないのではありません乎。
答、斯かる惰性の人に在ることは能く分つて居ります、然しながら是れあるが故に彼は堕落して居ると云ふのではありません、人の心は善と悪との競争場裡でありまして、堕落とは善が悪に負けたと云ふことであります、獅子の如き兇猛はありまするが、然し人は羊の如く柔和なるべき者であります、狐の如き奸智はありまするが、彼は詭計を弄せずして公明正大なるべき者であります、然るを彼は罪をして彼の主たらしめ、自から好んで獅子の如くに又狐の如くになりました、彼は即ち服従すべき情性に征服されました、即ち捕虜となすべき者に生擒られました、人類の堕落とは斯う云ふことであります。
(216)問、然かし人は未だ尚ほ悪しき情性の征服の途に在る者ではありません乎、爾うして彼の進化と同時に悪は段々と其勢力を減じて、彼は終には其主人公となるべき者ではありません乎、然るを戦闘中の彼を目して既に敗北した者のやうに見做しますのは彼に対して甚だ無慈悲なる措置ではありません乎。
答、実際爾うでありますか、人類は確かに神に依らずして、独り自然的に悪を征服しつゝあります乎、私は貴下に予め御承知置きを願ひます、悪とは無智のことではありません、悪とは申すまでもなく心の状態でありまして、是れは知識の上達を以て除くことの出来るものではありません、爾うして人類に知識的の進化はある乎も知れませんが、然かし彼の霊性は、其れは進化の法則の外に立つ者のやうに思はれます、其最も明白なる証拠は是を文明と道徳との関係に於て見ることが出来ます、人類の歴史に於て芸術の最も旺なりし時は必しも道念の最も盛なる時ではありませんでした、否な、事実は是れとは正反対でありまして、罪悪が微妙清細を極めし時はイツでも文明が其高度に達した時でありました、文学復興時代と云へば大抵は道心敗頽時代であります、希臘、羅馬の文学旺盛時代、欧洲の文芸再興時代、日本国明治の新文明輸入時代、是れ孰れも著しき道徳敗頽の時代ではありません乎、今の人はよく道徳の進化を説きますが、然かし彼等は未だ道徳は実に進化すべきものであるか、無いかを深く究めません、道徳は礼儀ではありません、又は習慣(独逸語の Sitte)でもありません、是等には進化はありませう、然かし心の固有性なる道徳には進化はありません、是れは改造さるべき者であります、進化する者ではありません、此事に就て予言者エレミヤは白しました、
  エテオピヤ人(黒人)その膚を変へ得る乎、豹その斑駁《まだら》を化へ得る乎、若し之を為し得ば悪に慣れたる汝等も善を為し得べし(耶利米亜記十三章廿三節)
(217)と、基督教の謂ふ善なるものは、是れは悪が進化して終に善と成つたものではありません、又、人類が努力の結果、終に到達した終局点でもありません、基督教で謂ふ善とは神の性であります、是れは人類が一度失つたものでありまして、神の特別の恩恵に由て其中の或る者が再び得たものであります、今の人の所謂る道徳の進化なるものは、是れ人類の歴史と吾人の実験とが全然否定するものであると思ひます。
問、然しながら茲に更らに判分らない事は人類が皆な総て悉く堕落したと云ふことであります、若し是れが堕落でありますならば、人類の中に堕落しない者がある筈ではありません乎、然るに義人なし一人もあるなしと云ひますれば、是れ取りも直さず堕落なるものは天然性であると云ふのと同じでありまして、貴下の仰せらるゝ堕落なるものは是れ人類が自から選んで受けた災で無いことを示すではありません乎。
答、其れは強い御反駁であります、若し全般的なることが、天然的なることを証明しまするならば、御説の通り人類の堕落は之を其天然性と見做すより外はありますまい、随て堕落は堕落たらざるに至りまして、人類は堕落を以て責められざるに至りますかも知れません、然しながら全般的なること必しも天然的なるとは限りません、全然無病息災の人とては広き世界に一人もありませんが、然かし、完全なる健康は全然達し得られないものであると思ふ医者は、是れ亦広き世界に一人もありません、否な天然其物が決して完全のものではありません、故に或る物が天然的であればとて其物が完全であるとは言へません、人の霊性には事物の標準とも称すべきものがありまして、彼は万物を測るに総て此尺度を以てします、完全の美人はありませんが、然かし彼は醜婦を美人なりとは称へません、蛇は天然物ではありまするが、彼は蛇は鴿の如くに愛すべきものであるとは信じません、全世界に義人は一人もなくとも、彼は悪人を義人とは称へません、縦し又詭弁を(218)以て善悪の差別を塗抹せんとするも、彼の本性は欺くべからずして、彼は知らず識らずの中に善は之を善と称び、悪は之を悪と呼ぶに至ります、如何して人類が悉く堕落したか、其れは非常に困難い問題であります、然しながら彼が堕落して居る事、其事実は誰も拒むことは出来ません、吾人の本性が其事を示します、人類の歴史が其事を証明します、爾うして聖書は神の権威を以て此事を吾人に告知らすものであります。
問、人類の不完全は之を認めると致しましても、之を堕落と称するのは酷ではありません乎、殊に之を全然の堕落と言ひまするのは過酷ではありません乎、人は其完全を去りましたが、然かし未だ全然堕落は致しませんと思ひます、彼に今尚ほ善を追求するの心が存つて居ります、彼は又善を識別するの能力を失ひません、又その親子間の愛情に於て、其朋友間の真誼に於て、其夫妻間の深情に於て、其愛国心に於て、其公義心に於て、彼は多くの美徳を備へて居ります、人類の全然的堕落を唱へます者は其美的半面を観過する者でありまして、斯かる者は万物の長たる人間を侮辱する者と外、私には如何しても思はれません。
答、貴下の人情のための御熱心(Enthusiasm for Humanity)は感服の外ありません、人情は確かに天然の美性であります、亜拉此亜の預言者モハメットは其弟子に告げて曰ひました、「汝等に相憐むの心を与へ給ひし神に感謝せよ」と、『人情』、『相憐むの心』、是れあればこそ、此憂き世も少しは凌ぎ易いのであります、人情絶へて後は此世は真の地極であります。
然しながら少しく人情の何ものたる乎を究めて御覧なさい、其ドレ程深いものであつて、ドレほど頼みになるものである乎を探つて御覧なさい、先づ第一に人情は人生の美事であるに相違ありませんが、然かし、是れは人類に限つたものではありません、是れを人情とは称しますものゝ、是れ実は動物性であります、子を(219)愛するの情は馬にもあります、犬にもあります、雌雄相慕ふの情は禽にもあります、獣にもあります、同類相群り、相援くるの本能は鹿にもあります、猿にもあります、勿論是等の情性が禽獣にもあるからとて、是れは貴くないとは言ひません、然しながら人類に動物性が存つて居ればとて、夫れ故に彼は堕落して居らないとは言はれません、最も奸悪なる強盗は其妻子に向つては至つて優さしくあるとのことであります、他人を欺くに最も巧なる商人で其家人に向つては最も懇切なる者は沢山在ります、深き濃かなる人情は罪悪の毒勢を緩和するものなるに相違ありません、然しながら人情は亦多くの場合に於ては罪悪の被覆として用ひられます、圧制家が虐政を行ふのも民の人情に訴へてゞあります、不平家が民を煽動するのも其人情を刺激してゞあります、人情は貴いものであります、然し甚だ危険なるものであります、人情は道徳の所在ではありません、是れは道徳以外のものでありまして其支配を受くべきものであります、人の善悪を判ずるに彼の人情の厚薄を以てする者は大に誤ります、獰人奸物は人情の甚だ厚い者であります、爾うして人情の厚薄を以て善悪の差別を立てる間は世は悪漢の詐術より免かるゝことは出来ません。
女子と小人とが讃美して措かざる人情なるものを深く其根底まで探つて見ますれば其何んと頼なき、何んと薄弱なるものなるかゞ分かります、青年男女の恋愛の中には山をも溶かすの熱心があるやうに思はれますが、然し其一朝、冷却する時に方つては、アルプス山頂の氷塊も之に優つて冷たくはありません、死をも約せる恋愛が瑣細の誤解の結果よりして嫉妬の刃に終つた例は数限りありません、恋愛《ラブ》は盲目《ブラインド》であると云ひまするが、盲目なるのみならず、亦片時的であります、菫花の放つ香と均しく、在るかと思へば消ゆるものであります、恋愛が爾うであります、愛国心も亦多く之と異なりません、其燃え立つや海をも煮、陸をも鎔かすか(220)と疑はれます、詩歌は之に伴ひ、美術は其後に従ひます、其励ます所となりては隋夫も勇者の死を遂げます、然かし斯くも貴き愛国心も其根元を究めて見ますれば、党派心の一種たるに過ぎません、哲学者スペンサーは愛国心に定義を下して、「私慾を国家大に為せしもの」と言ひました、愛国心は恋愛と均しく盲目であります、愛国心に駆られて人は自国の短所と敵国の長所とが見えなくなります、随て自国の利益となることならば、罪行も美徳として之を迎へ、敵国の利益となることならば美徳も罪悪として之を斥けます、若し愛国心の標準を以て度りまするならば自国の滅亡を予言して歇まざりしエレミヤは義人ではありませんでした、愛国者の目より見たる使徒パウロは何の価値もない者でありました、世の多くの愛国家が光の主イエスキリストを嫌ひまするのも、彼れキリストに此愛国の偏熱がないからであります、愛国心存在の故を以て人類の堕落を否む者は愛国心を其真価以上に評価する者であります。
実に多くの場合に於ては人情其物が罪悪であります、理に依て歩まずして情に由て動き、確信に依て決せずして感情に依て定む、人情は勿論食慾飲慾以上の情性であるに相違ありません、然しながら人情は聖き霊性ではありません、人情は地より出しものでありまして、地に属くものであります、人は堕落の底に在て尚ほ能く彼の人情を維持することが出来ます、少く共其幾部分を保存することが出来ます。
実に爾うであります、神を知らざる者の此世に於ける唯一の依頼《たのみ》は人情であります、是れが彼等を此世に繋ぐ唯一の縄であります、彼等は先輩の人情に頼んで其弟子とならんと欲します、彼等は上官の人情に頼んで官職に就かんと致します、妻の夫に於て頼る所は唯其人情であります、爾うして斯くも人情にのみ頼る彼等は甚だ嫉妬深き者であります、弟子たる者は師の唯一の弟子たらざれば満足しません、臣たる者は君の寵愛(221)を己が一身にのみ収めんとて凡ての手段を尽します、姑が※[女+息]を憎みますのは我が子の情愛を他の婦人に奪はれんことを妬んでゞあります、神を知らざる斯世は実に人情の奪ひあひであります、之を取りたりとて喜ぶ人、之を取られたればとて泣く人、憤る人、之を得て膠質も啻ならざる情誼があるかと思へば、之を失つて怒髪冠を突くの憤怒があります、彼等は之を得んがために死し、之を失へば殺します、人情は疑ひもなく、世人唯一の宝であります。
然るに此人情たるや、決して鉄の如き、磐の如き堅きものではありません、世人が見て以て人生の精華と做す此人情は砂漠の蜃気楼よりも失せ易きものであります、是れは人生実在の外面を蔽ふ薄妙に過ぎません、触はれば消ゆるとは実に此人情であります、故に東洋の厭世詩人は歌ふて曰ひました、「行路難し、水にあらず、山にあらず、祇《たゞ》人情反覆の間に在り」と、人情にのみ頼て此世を渡らんとする者の憐さは実に斯の通りであります、貴下は是れでも人情在るが故に人類は堕落しないと仰せられます乎。
問、去らば貴下は辜なき小児も罪人であると仰せられるのであります乎。
答、爾うであります、嬰児に罪の芽生のあることは其保育の任に当る者の誰でも知る所であります、生れたての赤児でも、望むが儘に乳を与へられないとて怒ります、或る時は其不満を表するために口に含まされし母の乳首《ちゝくび》を吐出します、彼は威嚇《おど》します、強請《ねだ》ります、彼に罪がないのではありません、彼は未だ罪を犯すの能力を有たないのであります、彼の所謂る無邪気なるものは、彼の無智と無能とに由るのであります、故に彼の智能の発達するに循ひ、彼は段々と罪を犯し始めます、狼の子は普通の狗仔《いぬころ》と少しも違ひませんで、いとも可愛きものであります、然かし彼の生長するや彼は直に狼たるの特性を顕はして血を好むの獣となりま(222)す、人の子も同じであります、其天使の如くに見ゆるのは其幼稚の時だけであります、彼の本性は悪であるのであります、只、其発揚の機会が与へられないまでのことであります。
斯く申して私は小児を愛さないと云ふのではありません 世に愛すべきものにして嬰児の如きはありません、彼は力なき者であります、故に我霽は彼を憐みます、彼は既に悪の萌芽を備へた者であります、然かし萌芽なるが故に之を摘み取るのは喬木を折るが如くに難くありません、彼には何やら罪に穢されざる前の原始の人に似た所があります、然かし斯かる愛らしき者なればとて罪なき者であるとは言へません、私は勿論古代の或る神学者に傚ふて「地獄の市街は赤児の頭蓋骨を以て布き詰められて居る」とは言ひません、然しながら無辜の小児であればとて、聖浄無垢の者であるとは言ひません、小児の罪悪説は多くの老婆的慈善家を躓かします、然しながら之を証明するものは基督教の聖書ばかりではありません、吾人の実験も近世の心理学も此事を拒むことは出来ません。
問、然らば人は如何して堕落するに至りました乎、彼の母は罪にありて彼を孕みたりとのことでありますれば彼の堕落は彼れ一人が招いたものではないやうに思はれます、又、世に義人なし、一人も有るなしとありますれば、人といふ人にして誰れ一人として堕落に打勝つことの出来る者はないやうにも見えます、之に由て之を観ますれば堕落は彼が避けんとして避くることの出来ないことでありまして、縦し堕落の事実はあると致しまするも、其故を以て人を責むるのは無慈悲ではありません乎。
答、御尤なる御質問であります、堕落の路筋を示さずして堕落を責めるのは無理を責めるやうに見えます、古代の神学は此難問題を解釈するに始祖アダム、エバの堕落の事績を以てしました、其説明に依りますれば人(223)類は一致共同的の団躰であるから、一人の罪は之を全躰して負はなければならぬ、爾うしてアダムは人類の始祖であつて、其代表者であるから彼の罪は特別に人類の罪であつて人類総躰の負ふべきものであると、然しながら此説は一理あるやうに見えて而かも倫理学上甚だ不完全なるものであることは聖書の言葉に照らして見ても明かであります、エホバの神は予言者エゼキエルを以て宣ひました、
  夫れ凡ての霊魂は我に属す、父の霊魂も子の霊魂も我に属するなり、罪を犯せる霊魂は死ぬべし(以西結書十八章丁四節)
  罪を犯せる霊魂は死ぬべし、子は父の悪を負はず、父は子の悪を負はざるなり、義人の義はその人に帰し、悪人の悪は其人に帰すべし(同廿節)
明白にして欺くべからざる此言葉に触れて所謂る「アダム的原罪説」なるものは其土台より崩れて仕舞ふと思ひます。
依て近世に到りまして、独逸の有名なる神学者ジユリウス、ムレル氏は彼の名著『基督教的罪悪論』に於て「前世存在説」Pre-existential theory なるものを提出するに至りました、此説に依りますれば、人は各、此世に生を有つ前に、或る他の所に於て生を有つた者である、爾うして彼は既に其所に於て罪を犯した者であつて、彼が此世に生れしは罪より救はるゝの機会を与へられんか為めであるとのことであります、爾うしてムレル氏は此説を維持するに方て多くの先哲の説を引かれし中に、現に英国詩人ヲルヅヲスの前世的観念を引照せられ、前世存在の決して架空の思想でないことを弁明されました、(此事に関して最も明晰にヲルヅオスの思想を顕はしたものは彼の作 Ode on Immortality であります)、然しながらムレル氏の此説には多く(224)の有力なる反対がありまして、氏の『罪悪論』が基督教界近世の最大著述の中に算へられるに関はらず、此説丈けは未だ識者多数の中に快諾を発見するに至りません。
原罪説の説明は実に哲学上の最大問題であります、是を棄てることは最も容易くあります、然しながら強健なる思想を以て世界第一と称せられる詩人ブラウニングをして
   I still,to suppose it true,for my part,
   See reasons and reasons;this,to begin;
  ‘Tis the faith thatlaunched point-blank her dart
   At the head of a lie;taught original Sin,
  The Corruption of Man's Heart.
の一句を発せしめし此教義は容易に棄てられるものではありません、実に詩人の言の如くに心の腐敗を摘指せる原罪説は凡ての虚偽の首《かしら》を毀つものであります、此説にして仆れん乎、人類の強健なる道義的観念は其枢軸を失ふに至りまして、人類の損失にして之に勝さるものはありません。
人類に罪戻(guilt)の自覚があります、是れは打消すべからざる事実であります、此自覚は何から来た乎、是れ彼が自身此世で犯した罪の結果が茲に出たものである乎、然かしながら彼は何故に生れながらにして罪人なる乎、アヽ是れ深遠より深遠に響き渡る問題であります、私は白状致します、私にも此事は判明りません、茲に人生問題のスフインクスがあります、是を解かなければなりません、然しながら解き得ません、此問題に対して吾等は堅き岩に向つて吾等の頭蓋骨を突当てるの感が致します。
然しながら多くの難解の問題は其解答を与へられて、稍や解釈の緒に就くものであります、罪悪問題の哲理(225)的説明は未だ供せられません、或は是れ永久の未決問題として存るのであるかも知れません、然しながら其実際的解釈は供せられました、是れ罪を識らざる神の独子の十字架上の受難であります、茲処に人類の罪は打消されました、茲処に贖罪の犠牲は献げられました、聖なるものゝ「エリエリラマサバクタニ」の声と共に罪の赦免の途は人類のために開かれました(馬太伝廿七章四六節)、是故に(今より後)イエスキリストに在る者は罪せらるゝ事なし(羅馬書八章一節)、是れが罪悪問題の実際的解釈であります、爾うして此解釈を得て後は吾等は哲学的説明のなきのを意に介せざるに至るのであります、恰かも疾病を癒されて後に病人は薬剤の生理的作用の説明を問はざるに至るやうなものであります、是れは何にも貴下の困難い御質問に対しての私の逃げ口上ではありません、無智の人類が此難問に対して供し得る解釈としては唯此実際的解釈があるのみであります、此問題の場合に於ては私共は結果に因て原因を察するのであります、神の聖子の犠牲を要する人類の罪悪の皮想的に非ずして、根本的なること、局部的にあらずして全般的なることを知るのであります。
問、貴下の御精神は能く判明りました、爾うして是れより後の事を貴下に御尋ね申しても無益であらうと思ひます、人生問題は物理問題とは違ひ、或る点まで達すれば其処に「止まれ」の号令を受けなければならないかも知れません。答、実に爾うであります、人生問題の特徴は之を解するに方て、頭脳の明晰のみならず、亦心の健全なる状態を要することであります、罪のこと、贖罪のこと、救済のことは、是れは是れを解するための或る適当なる状態にまで心を持来たさるゝにあらざれば解することの出来るものではありません、罪に責めらるゝにあら(226)ざれば罪のことは判分りません、罪の抽象的解釈ほど味のないものはありません、罪の包囲攻撃を受けて、苦悶の余り天の一方に十字架の血路を見出して、時ならぬ其救済に与つて始めて罪のことが少し判分るのであります。
問、尚ほ一つ伺つて置きますが、何故此事を堕落と云ふて腐敗と云はないのであります乎。
答、夫れには深い理由があります、腐敗は堕落の結果でありまして、二者は同一のものではありません、腐敗した為めに堕落したのではありません、堕落した為めに腐敗したのであります。
問、爾うして人類は何から堕落したのであります乎。
答、神から堕落したのであります、彼が天の処(以弗所書二章三節)に於て神の側に於て神と偕に有つべき地位から堕落したのであります、彼に臨みし総ての悲痛は此堕落に原因して居るのであります、罪の中の罪とは神を捨て去ることであります、盗むことも、欺くことも、殺すことも、姦淫することも、之に勝さるの罪ではありません、否な、是等の罪は総て神を捨て去りし罪の結果として人の行為に顕はれて来たものであります、随て救済の何んであるかゞ御判分りになりませう、救済は先づ第一に人を神に連れ還ることであります、爾うして基督の十字架は神と人との間に立つて此独特の用をなすものであります、基督は道徳を説いて僅かに人心の改善を計り給ひませんでした、彼は罪其物を滅し給ひました、即基督に依て神と人との間に在りし離隔は取去られました、爾うして人が再び神に還り得るに至つて罪は其根元より取去られるに至りました、堕落は清潔を以て癒さるべきものではありません、堕落を癒すものは帰順であります、父よ我れ天と爾の前に罪を犯したれば爾の子と称ふるに足らずとの言を以て天の父の許に昇り還ることであります、爾う(227)して此帰順を決行して後は、罪は我儕の上に再び勢力無きに至ります、基督の供し給ふ救拯は是より以下のものではありません、即ち罪の全滅より以下のものではありません、基督は人を再び神の懐に連れ還り給ひて我儕の堕落を癒し給ひます、彼を中保者又は保恵師(約翰第一書二の一)と称し奉るのは全く是れがためであります。
       *     *    *     *
  義人なし、一人もあるなし、
  人は皆な既に罪を犯したれば神より栄を受くるに足らず、
  聖書は万人を罪の下に拘幽《とぢこ》めたり、
是れは人類の実験であります、其説明は如何あらうとも、我を始めとして、我が周囲の凡の人にして、又我が知る凡ての人にして、又我が聞きし又は読みし凡ての人にして、此暗らき凄き記事に当らない者とては一人もありません、然しながら此暗黒に対して此光明があります、即ち、
  それ神は其生み給へる独子を賜ふほどに世の人を愛し給へり、此は凡て彼を信ずる者に亡ぶること無くして窮なき生命を受けしめんがため也(約翰伝三章十六節)
  キリストの愛我儕を勉《はげ》ませり、我儕思ふに一人、衆の人に代りて死たれば衆の人、既に死たる也、その衆の人に代りて死しは生ける者をして以後、己がためならで己に代りて死して 甦りし者のために世を過さしめんとて也(哥林多後書五章十四、十五章)
是れは基督信徒の実験であります、其説明は如何であるとも、是れパウロ、ペテロ、ヨハネを始めとして、(228)アウガスチン、アンブロース、ベルナードを経て、ルーテル、ウエスレー、グラツドストンに至るまで、凡てキリストの十字架の血に其罪を洗はれし者の確き深き実験であります、私は今日の貴下の御質問に対して私の解答の殊に不完全なるを感じます、然しながら基督教に関する多くの疑問は是れは地に在ては説明することの出来るものではありません、是れはパウロと偕に第三の天の高きにまで挈《たづさ》へ行かれて、其処に内身の眼を開かれて神に直に示されて会得し得るものであります、其黙示の大部分は言ふべからざる言即ち人の語るまじき言であります(哥林多後書十二章一−四節)、私の御答弁の少しく謎的なるは全く是れがためであります。
問、承知致しました、ナマジカの哲理的御説明よりも其正直なる御表白と御感話とが返て私の眼を開くに足ります。
答、爾う御受け取り下されば誠に有難う厶ります、余は又他日申上げることに致しませう。
                           サヨナラ
 
(229)     負けるは勝つの記
        (談話筆記)
                     明治37年6月16日
                     『聖書之研究』53号「雑録」
                     署名 内村生
 
 余の目下の本職は基督教の伝道である、爾うして基督教は主として来世に於ける霊魂の救済に就て説く者であるから、其伝道に従事する余は現世とは今は関係の至て薄い者である。
 然し余とても未だ現世に存在して居る者であるから、伝道の余暇には少しは現世の事に就て聞きもする、亦、読みもする、之を読んだとて勿論之を此地に応用しやうとするのではない、余が現世の事に就て究むるのは恰かも月界か金星界の事柄を研究するの心を以て之を究むるに過ぎないのである。
 然し現世にも少しは面白い事がある、此地に於ても正義は多少行はれる、腕力と金力とのみが此地の主動力ではない、義人と云へば悉く十字架に上げるのが、白色人種、黄色人種、其他総ての人種の通弊ではあるが、而かし天には神が在すと見えて、政治家と新聞記者との意見は幸ひにも悉くは此地に於ても行はれない、余は重ねて言ふ、人類の歴史にも多少の福音は在ると、勿論聖書に在るが如くには無い、然かし少しはある、之を正当に読んで世界歴史は活ける福音であると思ふ。
 然し余は今の時に方て悪い事を語るのを嫌う、悲しい事、傷ましい事、心を張裂くばかりの悲痛事は吾等の毎(230)日聞かされつゝある所であるから、余は今は重に嬉しい事、喜ばしいこと、楽しい事にのみ就て語りたく思ふ、依て悲憤慷慨は之を他日に譲り、今日は余が現世の事に就て近頃聞きし楽い事に就て二三語りたく思ふ。
 其一つは確かに米西戦争以後の西域牙国の状態である、人は思ふであらう、敗衂後の西班牙の状態は実に惨澹たるものであらうと、而かし余の聞く所を以てすれば、事実は予想と正反対である、西班牙国政府昨年度の剰余金は実に一億二千万円に達したとの事である、是れ彼国の過去四百年間の歴史に於て曾て無きことであつて、西班牙人自身が実に意外に感ずる所である、キユーバを失ひ、ポルトリコを奪はれ、フィリッピン群島を売棄てしめられて、西班牙は始めて隆盛の域に入つたのである、今より後、トレード、アンダリユーシヤの豊富なる鉱山は再び開鑿せられ、ムルシヤの葡萄園は前時に優る豊熟を来たし、欧洲の西端に自己を以て足れりとする一楽園は起りつゝある、之を以て見るも棄つべきは帝国主義である、他邦を侵略する者は自国を放棄する者である、帝国主義に心配と労力と失費のみ多くして、平和と安心と満足とはない、回復しつゝある西班牙の隆盛は帝国主義の愚と害とを教ゆるものであると思ふ。
 喜ぶべき第二の事項は波蘭土近時の殖産的勃興である、波蘭土と云へば世界亡国史上最も著明なる国であつて波蘭土と亡国とは殆んど同意味の辞であるやうに思はるゝに至つた、然しながら運命は国を他国に奪はれし波蘭土人に左程に苛酷ではない、兵に敗れし彼等は今や殖産工業を以て彼等の敵人に仇を報ひつゝある、波蘭土は今や露国製造業の中心点となりつゝある、其ヲルソーとルプリンの市は砲煙ならぬ製造所の黒煙を以て天を漲しつゝあるとの事である、而已ならず露国到る処に波蘭土人は此業を拡張し、ウラル山の麓にまで其平和的|征服《コンケスト》を運びつつあるとの事である、「踏み附けらるゝ者は福ひなり、其人は地を嗣ぐことを得べければなり」と基督教の聖(231)書は言ふて居るが、実に波蘭土人近来の勃興は此金言を証明するものであると思ふ。 第三に歓ばしき近来の事実は伊太利人の西大陸に於ける移住である、今を去る二十年前、伊太利の政治家は其国土の狭隘なるに対し、其人口の多大なるを歎き、是非共、国外に人口の流出所を発見するの必要を感じ、殖民地占領に心思を練りしと雖も、是れぞと云ふ善き地域を発見する能はざりしが故に、已むなく紅海の西岸エリトリヤに地を卜し、之を本拠としてアビシニヤの旧国を侵略し、茲に新伊太利を建設せんと計画した、然るに政治家の夢想は摂理の破る所となつた、アビシニヤ王大に怒りて伊太利軍を迎ふるや、精鋭を以て誇りし伊国兵は見事に失敗して、其五千人がメネリクの首府にまで捕虜となりて連れ行かるゝの悲運に遭遇した、茲に於てか紅海西岸に於ける新伊太利の建設は伊国政治家の夢となりて消えた、伊太利は終に国外に新殖民地を獲し得なんだ、其当時の伊太利人は実に憐むべき者であつた。
 然しながら政治家失敗の後を受けて、天は伊太利人のために拡張のための新門戸を開いた、政府の手を藉らずして、伊太利人は争つて天の此召命に応じた、即ち曾て其同国人たりしコロムブスが発見せし西大陸の広原を其住居の地と定めんとした、爾うして彼等は西に向つて大移住を始めた、北米合衆国、南米ブラジルとアルゼンチン、其他正直なる労働の要求せらるゝ所へは彼等は勇んで移住した、其結果として今や伊太利人は西大陸に於ける一大勢力となりつゝある、千九百二年度に於て本国を去つて西大陸に新郷土を求めた伊太利人は実に六十万人の多きに達したとの事である、故にマルコニ出て遠距離無線電信を発明するや、之を以てせし最初の音信は伊国皇帝陛下ビクトル、イマンユエル第二世より南米アルゼンチンに在る其臣下の民に送られしとのことである。
 斯くて伊太利人は戦はずして世界に膨脹しつゝある、政略を用ひずして、剣を抜かずして、鋤と斧と勤勉なる(232)腕と正直なる心とを以て新伊太利を建設しつゝある、何にも伊太利の三色旗が彼等を伴はないとて、彼等は別に意に懸けない、彼等は伊太利を去つても伊太利を忘れない、否な、彼等は伊太利を去つてより、返て一層忠実なる伊太利人となつた、アビシニヤ王メネリツクに敗ぶられし伊太利人は西大陸の自由の民に歓迎せられた、世に頼り少きものにして政治家の計策の如きはない、之に対して世に頼むべきものにして平民の常識の如きはない。
 
(235)     予が見たる二宮尊徳翁
         袋井学術講話会席上
                      明治376月25−30日
                      『静岡民友新聞』
                      署名 内村鑑三
 
      此一篇は去十九日磐田郡袋井に於ける学術講話会に於て内村鑑三氏の講演されし大要を記せしもの 文責筆者にあり(見付生)
 予は嘗て「日本及日本人」なる一書を英文にて著し之を世に示したり、録する処西郷隆盛、日蓮上人、上杉鷹山公等なりしが之を読んで英米人の尤も驚嘆せしは二宮尊徳先生なりしと云ふ、彼等が異教国と称する此国に此の如き高潔偉大の聖人あらんとは彼等の意外とせしところなりしと見ゆ、若し欧米人が詳かに先生の性行閲歴を知りえたらんには恐く先生を以て世界に於ける最高最大の人物に数ふるならん 英人は世界の宝庫と云はるゝ印度を有するよりもシエクスピーア全集を有するを誇りとなす 否 シエクスピーヤ全集を有するは誇にあらずシエクスピーヤ其人を生じたるを以て光栄となすと云ふ 然らば我日本は満洲を獲るよりも露国に勝つよりも此の二宮先生を有すると云ふに於て至大の光栄となすべきか 予は※[さんずい+氣]車に乗りて国府津松田間を過ぐる毎に先生を思ふて止まざるなり 予の理想に近き人を求むれば先生は即ち其れなり
 近年日本に産出せられたる書物の中にて尤も大なる感化力あるものは二宮先生の報徳記に若くものなし 予は(236)予が小児等に先づ読ましめたきものは即ち此書なり 予が雑誌「聖書の研究」の読者に推薦して熟読を勧め居るものは実に此書也 此書は聖書的の書籍にして現今博文館より出版する幾百冊の書を読むも此の報徳記の百分一の益をも感化をも受くること能はざる可し
 何故に此書がしかく偉大なる感化力を有するや 他なし之れ真正の経済なるものは道徳の基礎に立たざる可らざることを先生の事業生涯を以て説明したるものなればなり 即ち身を以て此問題の解決を為したるなり 先生は経済と道徳の間に橋をかけたり 先生の一生は経済道徳問題の福音なり 此意味に於て報徳記は一部の「クラツスツク」也 経書也 〔以上、6・25〕
 抑も現今経済を論ずるものは大抵倫理道徳と関係もなきものと為すものゝ如し 倫理と経済と分離して秋毫の関係なきものなるや否やは至難の問題に属すと雖も恐らく倫理道徳の要素なしに経済の成立すべき筈なからん アダムスミスの「富国論」は著名なり 邦人皆之を読みて経済学上の大著となす 然れども彼れは之れを其倫理学の一篇として書きたるものなり 彼れは両者密接の関係を認めたるなり 然るに現今英米の学者輩経済学を以て単に利慾の学問とせり 此に於てか経済学は武士の子孫が学ぶべきものにあらずなどゝ思惟したる者ありき、福沢氏の如きは道徳は畢竟経済なりと道破し現今の社会主義者は道徳は単に胃腑の問題なりなどゝ云ふに至れり 此の如きは果て真正の経済学なるべきか 先生は否らず道徳は原因にて経済は結果なりと断じたり 至誠勤勉正直にして初めて経済の成立するものなりとせり 此の如き高尚なる経済論は仮令英のオツクスフオード大学に行くも決して聴ことを得ず 勤倹貯蓄のみが先生の報徳なりとなすものあらば先生を誣ゆるも亦甚しからずや 若し此の如き人あらば予は先生に代りて云はん諸君は誤れり諸君先づ善人となる可し至誠の人となる可し予の根本(237)とするところは道徳なるが故に諸君も先づ之を心掛けざる可らずと 故に先生の報徳説盛んに行はるゝ所には必らず先づ道徳的大変化大復興起らざる可らざるなり 若し否らずして只勤倹貯蓄経済上の変化のみならば聊か之を怪まざるを得ず
 先生が事業の為す処には往々反対家出でたり、※[開の門なし]《そ》は其地の料理店貸座敷、或は一部の偽善者輩なりしが之れを以て見るも先生の事業方針の正に道徳上の改革より初まれるを想見すべきなり、嘗て大磯の川崎屋孫右衛門なるもの先生に就きて廃家再復の途を聞かん欲せし時先生浴室より飛び出し夜中二里余を隔てたる処に逃げ行けり 何故ぞやと云へば彼の如き難物は容易に道に入る可き人間にあらず仕法を教ゆるも益なしと考へたればなりと云ふ 家政困難を救ふは先生の喜ぶところなりと雖も其人物を改善せしむるを先となしたること之れを以て明かなり 〔以上、6・26〕
 先生の自信の強きことは亦之によりて知らる可し 今日の基督教の伝道者などが説教聴聞に来るものあらばよくこそ来れりとて礼を述ぶるが如く卑屈ならず 教を乞ふものあるも先づ自ら教を受くるに足る者となりて来るに非ざれば決して之を授けずして斥くるが如き自信力は先生の有せし処にして此の如き確信こそ吾人の得んと欲する所也 而して其与ふる再興の法は何ぞや 云はゞ汝は非を飾り他を苦めんとす誠に悪人なり速かに善に帰し家産を尽くして人命を救助し一人も助命の多きを願ふべし 之れ汝の家の再興の法なりと教訓せしが如き実に高尚なる工夫なり
 先生が破産家の整理法は実に此の如し、今日の社会決して之を見出すこと能はざる也、予嘗て某地の人某の二万円計の負債の為めに整理の相談を受けしことありたり、予は翁の教を以て之に勧めたり、即ち財産を陰蔽する(238)勿れ至誠を以て各債主の事情を告白せよ 無一|物《もつ》貧措大となをも恐るゝ勿れ 有るを有るとし無きを無しとして一毫の私心を挟まず返却の途を講ぜよと云ひしに後某来り謝して債主等の好意能く予の至誠他意なきを憐み満足なる整理を遂げたりとのことを以てせり
 又先生の印旛沼堀割見分の命を受け其復命を為したる如き実に現時の人々に見ること能はざる処なり 先生具さに種々の調査を遂げ確かに印旛沼堀割より生ずる大益を認めたれども其地方人民の道徳腐敗の故を以て直に之に着手するも其功なきを認め先づ儒者を遣はして其民を教導し然る後に事業の挙がる可きを以てしたり
 先生は此の沼の開墾事業を以て道徳問題となしたり 今日の教師等に此見識ありや 測量や水利や只之を以て土木事業は成就すべしと思ふは非なり 先生は百五十年以前已に日本ありて以来の卓抜の識高潔の徳を以て此の如き復命を為したり 今日の経済学者は先づ算盤を手にす 先生は先づ至誠の有無を質す 吾人先生に学ぶ所なきか。 〔以上、6・29〕
 今や不景気の声高し 此の救済策を以て先生に問はば先生必ず云はん人民腐敗せり先づ之を救はざる可らず不景気の救済は不道徳の救済ならざる可らずと 今時の人動もすれば挽回策を以て農工銀行や商業銀行の設立によるとなす 然れども人心腐敗すれば此の如きものは却つて之れ不景気の前駆となり破産の機関となり了せん 予聞けるに越後の人にして所有地を抵当になし農工銀行より金を引き出し放蕩して遂に破産せるものありき 畢竟経済の本は金にあらずして人の心にあるなり 此点に於て先生の経済論は実に敬服の外なきなり 今の経済学者は只之れを以て金銭利慾の問題となして人の意志に関する無形の倫理道徳の問題なるを知らず真に憐れむべきにあらずや
(239) 予は農学士なり 今や基督教の伝道者となりて東奔西走すれば友人輩或は怪み或は笑へり 然れども予思へらく牛の改良や種子の改良は其事甚だ容易なり 只人心を改良し罪あるものを悔ひ改めしめ悲める者に慰藉を与ふること之れ尤も難きことにして又甚だ尊貴なることなりと 此の如き事業こそ万事の根本となるにあらずや之れ予の喜んで執る処の事業たるなり 予の伝ふる福音を信じて破産をなし若くは放蕩するが如き人は未だ甞て一人も之あらざるなり
 凡ての財産は天の賜なり至誠勤勉の結果なりとは二宮先生の教訓なり 基督教に於ても亦然り人往々基督教の信仰の如き絶えて経済などには関係もなきものゝ如く思惟するは甚だ謂れなきことなり 〔以上、6・30〕
 
(240)     〔永久 他〕
                      明治37年7月21日
                      『聖書之研究』54号「所感」                          署名なし
 
    永久
 
 永久の個人あるなし、亦永久の国家あるなし 然れども永久の霊魂あり、亦霊魂を救ふに足る永久の真理あり、我儕永久に築かんと欲する者、豈亦永久のために竭す所なくして可ならんや。
 
    果樹を見て感あり
 
 咲く花は多し、実となるは尠し、実となるは多し、熟するは尠し。
 慰めよ、我が霊、汝の伝道も亦斯の如し、聞く者は多し、信ずる者は尠し、信ずる者は多し、救はるゝ者は尠し、天然の法則は又神の聖旨なり、汝は「伝道の失敗」を唱へて汝の心を懊ますべからざるなり。
 
    希望の満足
 
 世に理想の人なし、又理想の社会なし、我れ是を思ふて、我心、時に我が裏《うち》に沈む。
(241) 然れども是れ当然の不平なり、又無益の不平なり、吾等は現世を以て満足すべからず、又現世に於て満足を索むべからず、吾等の国は天に在り、吾等は救主即ちイエスキリストの其処より来るを待つ(腓三の廿)、吾等は今、斯世に在て理想を待つ者なり 而して之を待つに因て稍や少しく之を実にするを得る者なり、吾等の今の満足は希望の満足なり、実現の満足は吾等は之を後の日に於て見ん。
 
    余の見たるイエスキリスト
 
 彼は党派の人にあらず、故に教会の人にあらざりし、彼は平民にして神の子たり、故に彼は神と直接の関係を有ちし外に、世と何等の関係をも有ち給はざりし、キリストの一視同仁主義《コスモポリタニズム》は彼の無党派主義に因る、我儕、若し彼と偕ならんと欲せば彼に傚ふて一たびは先づ此世の総の関係を絶たざるべからず。
 
    我儕のプロテスタント主義
                                    紙の外、何者にも依らざる、是れプロテスタント主義なり、若し教会に依るの必要あらん乎、我儕は復たび羅馬天主教会に還るべきなり、蓋《そは》其組織の完全にして其系統の確実なる、此旧教会に優るものゝ他に存せざればなり、然れどもルーテル一たび信仰の自由を唱へてより地上の教会は不必要物と成れり、我儕プロテスタント主義者は信仰養成のために教会を利用することあるべし、然れども其指導を受くるにあらざれば我儕の救済《すくひ》を全うする能はずと信ずるが如きは我儕本来の主義にあらず、我儕は忠実なるプロテスタント主義者として飽くまで教会の主権に反対す。
 
(242)    信仰の独立
 
 我儕は我儕に賦与せられし自由を濫用せざらんことを努むべし、然れども自由の濫用を懼れて我儕は之を他人何者の手にも委ねざるべし、我儕の自由を監視する者は唯一なり、即ち天に在す我儕の父なり、彼の之を監視し給ふありて、我儕に人なる監督の要あるなし、自治は神護の意なり、神護の厚きを信ずる者は独り立て恐れざるなり。
 
    最も悲むべき孤独
 
 孤独必しも好《よみ》すべきものにあらず、然れども世には孤独に勝さるの悲境あるなり 即ち人と交はるを知て神と偕なるを知らざる者の境遇なり、独り神と偕に在るは全世界の人を友とし有つに勝さるの幸福なり、而かも今代の人は神の不在より生ずる心の寂寥を覆はんがために頻りに衆多の交際を求む、彼等は一人の大なる友に代ふるに夥多の小なる仲間を以てせんとす、喧騒の中の孤独あり、静寂の中の交際あり、而して我儕は前者に勝さりて寧ろ後者を択む者なり。
 
    亜米利加的基督教
 
 成効を統計に徴す、是れ亜米利加主義なり、而して此主義を基督教に応用せしもの是れ余輩の称して以て亜米利加的基督教と做すものなり、亜米利加人は意を真理の探求に注ずして偏に其応用を努む、而して偶々其大建築(243)物又は多数の帰依者となりて現はるゝあれば、成功を歓呼して神に感謝す、彼等は物に顕はれざる純真理の美を認めず、亦、統計を以て表はす能はざる霊的事業の成功を知らず、彼等は現実を愛すると称して万事の機械的なるを欲す、余輩は多くの他の点に於て深く亜米利加人を尊敬す、然れども宗教の一事に於ては彼等と趣好を同《とも》にする能はず。
 
    意志と境遇
 
 善き意志を作るは善き境遇を造るに勝さるの事業なり、※[開の門なし]は善き意志は独り自から神に依て善き境遇を作り得べければなり、之に反して善き境遇は必しも善き意志を作らず、且つ弱き意志を作り易し、而かも境遇を作るの意志を作るよりも優かに容易なるが故に、今代の人は慈悲善意の名の下に境遇を作るに汲々として、意志を作らんとは為さず、今の伝道なるものに老媼の育児法に類するもの多きは其着眼点の人の週囲に留りて其中心に達せざるに由らずんはあらず。
 
    軟弱なる信仰の養成
 
 今の宣教師は頻りに信徒の懦弱を説て教会の必要を唱ふ、故に彼等に依て養はれし信徒は数年を経るも猶ほ襁褓の境遇を脱する能はずして、何時までも懦弱き信仰の嬰児たり、信仰の養成、亦我等の自信自任を要する甚だ大なり、我儕の信仰の懦弱を唱へて止まざる今の宣教師は最も慈悲深き信仰の師父と称するを得ず。
 
(244)    信仰の解
 
 信仰の弱きを説く者は信仰の何たる乎を知らざる者なり、※[開の門なし]は信仰は依り頼むことにして、弱き者が強き者に対して懐く心の態度なればなり、強き者に信仰の要あるなし。我儕弱くあればこそ我儕に信仰の要あるなれ、然るに我儕の弱きを教へて亦我儕の信仰の弱きを説く、宜べなり、斯かる教訓に与かりし信徒の弱きが上に更らに弱くなりて、終生、独り立つこと能はざるは。
 
    宗論の無益
 
 宗教を異にする者と共に宗教を語るは誤解分争を招くの虞多し、我儕斯かる場合に於ては宗教を語るを止めて、慈善、公益、労働を談ずべきなり、善行の対較すべきなき宗教は取るに足らざる宗教なり、教義の外、他に討議すべきことなき信仰は偽の信仰なり、宗論者に向ては我儕に唯使徒ヤコブの辞あるのみ、即ち汝信仰を我に示せ、我は我が行に由りて我が信仰を爾に示さんと(雅二〇十八)。
 
    所謂『基督教国』を信ぜず
 
 世に基督教国なる者あるなし、彼《か》の自から称して以て『基督教国』なりと做す者は、其露国なると、英国なると、北米合衆国なるとに係はらず、皆な偽善国にして罪悪の巣窟たり、彼等の愛するものにして流血の報知の如きはあらず、彼等の同情なる者の多くは利益分配の希望に外ならず、彼等相互に嫉視し、又陥擠す、我儕勿論、(245)自国の純聖を唱へず、然れども斯かる偽善国を摸範として我儕の救を全うせんとは欲せず、我儕は今に至て更らに一層所謂『基督教国』なるものゝ事実的非基督教国なるを認めずんばあらず。
 
(246)     聖書に所謂る希望
                     明治37年7月21日
                     『聖書之研究』54号「研究」
                     書名 内村鑑三
 
聖書に希望という辞が沢山使つてある、是れは希臘語の elpidos《エルピドス》伊太利語の speranza《スペランザ》英語の hope《ホープ》独逸語の Hpffnung《ホフヌング》であつて、人類の有つ言葉の中で最も美はしきものゝ一つである、希望の無い宗教は宗教ではない、宗教の優劣は其供する希望の多寡高低を以て決定めらる、基督教の聖書に希望の文字の多きは確かに其最優等の宗教である証拠の一つである。
 神の約束し給ひし其望(徒廿六〇六)、信仰と望と愛と此三つの者は常に在るなり(哥前十三〇十三) 我儕が救を得るは望によれり(羅八〇廿四)、体は一つ霊は一つなり、爾曹の召されて有つ所の望の一つなるが如し(弗四〇四)、福音の真理の道の中にて聞きし所の希望(西一〇五)、福音の望(同廿三)、彼(キリスト)は栄の望なり(同廿七)、我儕の望なるイエスキリスト(提前一〇一)、前に立つ所の望(来七〇十八)、活ける望(彼前一〇三)、其他、数限りない、基督教は一名、之を殊に「希望の宗教」と称ふことが出来る、新約聖書とは新たなる約束の示されてある書であつて、其約束の履行を待ち望むための希望を供する書であると云ふことが出来る、其信、望、愛とは三つであつて、実は一つである、信なくして望は出ないが、然かし望なくして信を維持することは出来ない、愛は亦望より其活動の動機を仰ぐ者であつて、望、絶えし後の愛は油の絶えし燈火《ともしび》の如くに熱と光とを失な(247)つて、終に又素の暗黒に復へるものである、望を供せずして愛を強ゆるは無慈悲である、望の足らざる信は頑固であつて冷酷である、望は三人の姉妹の中で最も女らしき者である、彼女の側に侍べるが故に愛は義務の羈絆を脱して自由なるものとなる、彼女の優しき感化を受けて信は頑強たるを竭めて温雅なるものとなる、望は天の和気を呼んで地の渋苦を融く、望に温かき涙がある、彼女は天の扉を開いて、其中に居る我等の慕ふ聖き姿を顕出すものである。
 望とは斯くも美はしきものである、然かし我等の爰に究めんと欲することは、聖書に所謂る望とは如何なる望である乎、是れ単に未来に善きものを望むと云ふ漠然たる抽象的の望である乎、今見ずして、之を未来に望む凡ての善きものは望であるに相違ない、善き妻を迎ふるの望、善き家庭を作るの望、善き社会に住むの望 国家を改造するの望、富を積んで富者となるの望、功を立てゝ貴人と成るの望、是れ皆、望であるに相違ない、爾うして望である以上は是れ皆な多少之を追求する者を自己に引付け、辛酸の中に彼等を慰め、困難の中に彼等を励ますものであるに相違ない、望は総ての勤労の奨励者である、望なくして人に努力は無い、望は実に勤労の生命である。
 然らば基督教は如何なる希望を其信者に供して彼等を慰め且つ励ます乎、其一面に於ては其信者に迫害と艱難《なやみ》と裸※[衣+呈]とを約束する基督教は他の一面に於ては如何なる善きものを彼等に約束する乎、基督教は僅かに「或る善きもの」を未来に於て約束し、其何物たる乎を示さずして、其信者に潔き、辛らき、高き生涯を強ゆる者なる乎、言を換へて言へば、基督教の供する希望は形像《かたち》なき実質なき所謂る類名的の希望である乎。
 爾うして多くの人は基督教の供する希望とは斯かる希望であると道ふ、彼等は基督教の精神的であることを唱(248)へて、其供する希望に、眼を以て視、手を以て触ることの出来るやうな判然たる所があつてはならないと道ふ、神、理想、公義、是れが基督教信者の望む希望であると云ふ、彼等は純理以外に希望の目的物を探らんとは為ない、彼等は言ふ、神は霊であるから、神の霊光の充実以外に吾人の追求すべきものがあつてはならないと。
 然しながら是れ果して基督教の聖書が其信者に供する希望である乎、基督教は聖き理想を供するの外に、之を享有するための境遇と特殊の方法とを其信者に約束せざる乎、即ち基督教の供する希望に純乎たるの外に、確然たる捕捉し得べき所はない乎、即ち一言以て之を言へば、基督教の供する希望は主観的なる乎、将た又客観的なる乎と。
 爾うして基督教の、世に所謂る純理的宗教でないことを知る者は、其供する希望の亦自から主観的でないことを認めるであらふ、商うして其供する希望は主観的でなくして客観的であると云ふならば、去らば基督教は偶像教の一種である乎と反問する人もあらふが、然し其、爾うでないことは今、爰に弁明するまでもない、基督教は客観的宗教ではあるが、然かし物質的ではない、霊的宗教ではあるが、然かし主観的宗教ではない、爾うして霊的なると主観的なるとの間には自から判然たる区別がある。
 然り、我等基督教信者は或る明白なるものを望まずして、此世に於ける我等の戦闘を継けるものではない、漠たる理想は我等の眠れる眼を醒まし、我等の沈める心を振ひ起すに足らない、我等は或る確実なる目的物に向けずして我等の信仰の箭を放つ者ではない、形像もない実質もない希望は希望にして希望でない、斯かる希望は実物を以て伴はない言の約束のやうなものであつて、是に頼つて我等は何事をも為すことは出来ない、我等の信仰の冷へる時は我等の希望の朦朧となる時である、爾うして形像なき、実質なき、取留なき希望は直に信仰の冷却(249)を来すものである、物質的ならんことを懼れて、我等の希望を理想化し去らんとする時に常に此信仰の冷却が来る、基督教が世を醇化するに非常の能力を有つ理由は其供する未来の希望の明瞭確然たるに在あると思ふ。
 聖書の供する希望、其れは何んである乎。
 其第一はキリスト再臨の希望である、基督教が其信者に供する総ての希望は此希望に中心して居る、此希望が充たされて後に彼が待ち望む総ての他の希望は応充《みた》されるのである、爾曹を離れて天に挙げられし此イエスは爾曹が彼の天に昇るを見たる其如く亦来らんとの、天使が使徒等に告げし言葉は総ての基督信者の希望を繋ぐ最大の約束である(行伝一〇十一)、キリストを称して我儕の望なるイエスキリスト(提前一〇一)と云ふは此意味のキリストを指してゞある、基督信者とは特に彼(キリスト)の顕著《あら》はるゝを慕ふ者(提後四〇八)である、我儕の主イエスキリストの顕はれんことを待てり(哥前一〇七)とは初代の基督信者の常態であつた、爾曹の牧者の長(キリスト)の顕はれん時に壊ることなき栄の冠冕を得ん(彼前五〇四)とは総ての艱難の中に基督信者を慰むる最大の希望である、我儕基督信者の実際の歓喜はキリストの再来を以て始まるものである、キリストを離れて我儕に何の菩きこともない、キリストの来るまでの此世の改革なるものは僅かに暫時的又は準備的のものである、彼が顕はれて後に我儕は始めて栄光の何たる乎を実際に目撃することが出来るのである、今の時に於ける我儕の勤労なるものは「栄の王」を迎へるための準備に過ぎない、我儕は今は窘迫《くるし》めらる、然かし其時は神我儕の目の涕を悉く拭ひ取り給ふ(黙廿一〇四)、我儕は今は飢餓と裸※[衣+呈]》とに泣く、然かし其時は我儕は裸体の恥を掩はんがために白き衣を以て着せらる(同三〇十八)、キリストは栄光と権威とを以て再び顕はれ給ふ、其時に我儕の総ての希望は充たさるゝのである、其時までは我儕は敵の重囲の中にある孤軍の如き者である、其時の到来するま(250)では我儕の「得意の時代」は来らない、即ち水が大洋を掩ふが如く、神の正義が世に充満するの時は来らない、基督信者の実際的自由なるものは其君にして其救主なるイエスキリストの降臨と同時に来るものである、我儕の忍耐は其時までゝある。
 聖書の供する希望の第二は肉体復活の希望である、是れはキリストの再来に次いで事実となりて顕はるべき希望である、我儕皆な末《おはり》の※[竹/孤]のならん時忽ち瞬息《またゝく》間に化せん、蓋※[竹/孤]ならん時死し人甦りて壊ちず、我儕も亦化すべければ也(哥前十五〇五十二)、夫れ主、号令と天使の長の声と神の※[竹/孤]を以て自から天より降らん、其時キリストに在りて死し者先づ甦るべし(撒前四〇十六)、復活の何んである乎は爰で論ずべきことではない、然かし其、キリストの再来と同時に起るべきことであるは聖書の明白に示す所である、再臨に由りて光と栄は此世に臨み、復活に由りて我儕は其光と栄とを自身に享有するに至るのである、復活は主の栄光を享くるに適するの体を以て着せらるゝ事である、血気の体を以てしては到底此栄に与かる事は出来ない、所謂る霊体なるものは新たに生れたる霊に適したる体であつて、亦、新らしきエルサレムなる霊の王国に入て其市民権を享有するに足るの体である、故にキリストの再来は全世界全人類の希望であつて、復活は我儕キリストを信ずる者の各自の希望である、我儕は勿論自分独り救はれんと欲する者ではない、然し亦、甦りて全人類の救済の栄誉に与からんと望む者である、爾うして神は我儕の此希望を毀ち給はない、彼は我儕に復活の希望を供して、試練奮闘の今の世に在る我儕にも結局の勝利と栄光とに与かるの名誉と特権とを附与し給ふ。
 聖書の供する第三の希望は万物復興の希望である、神の古より聖き預言者の口に託りて言ひ給ひし万物復興の時まで天は必ず彼(キリスト)を受け置くべし(徒三〇廿一)、万物の復興とは神の救済の天然界に臨むことであ(251)る、夫れ受造物(天然物)の切望は神の諸子の顕はれんこと(人の新らしき霊体を着せられて天国の民として顕はれんこと)を俟てるなり、そは受造物の虚空に帰らせらるゝは其願ふ所に非ず(羅八〇十九、二十)、キリストの救済は人の霊魂の救済、并に其肉躰の復活霊化に止まるものではない、是れは凡ての天然物にまで及ぶものであつて、キリストの再来、肉躰の復活に次いで、生ある物、生なき物に係はらず、有りと有らゆる受造物の上に臨むべきものである、我儕キリストと偕に再び此世に来る時は、此|敗壊《やぶ》れたる、濫用されたる地に来るのではない、悪人の貪慾を充たすために褫がれたる山の林は再び初代の鬱蒼に帰り、貴人の狂想を満たすために狩り尽されたる禽と獣とは再び原始の繁栄に復し、梢には数限りなき小鳥は猟師の銃声に驚かされずして囀づり、流には群なす小魚は漁夫の網目を懼れずして躍る、万草路傍に色を競ひ、喬木、森に高きを争ひ、河水は増すも岸を越へて民を悩まさず、池水は乾くことあるも、渓水常に絶ゆることなくして地は旱魃を忘る、我儕は斯の如き地に再び臨み来るのである、博物学者ルイ アガシの待望せし「完全せる天然界」は聖書の約束する希望である、真個の楽園とは前に在つたものではなくして後に来るべきものである、預言者イザヤの夢想せし山と岡とは声を放ちて前に歌ひ、野にある木は皆な手を拍たん(賽五五〇十二)との喜ばしき天地は我儕が事実として待ち望むものである。
 聖書が供する第四の希望は地上に於ける天国の建設である、是れは勿論前に述べたる総ての希望を総括したものである、然しながら完成されたる地上の天国は亦一個特別の希望として我儕の心思を牽くものである、「爾国《みくに》を臨らせ給へ」とは我儕日毎の祈祷であつて、此世の諸の国は我儕の主及び其キリストの国となり、キリスト世々窮りなく之を治め給はん(黙十一〇十五)とは我儕の希望の総である、地は改造され、救はれて潔められたる民、其上に住み、キリスト之を統治し給ふて、然る後に万物は始めて其創造の目的に達するのである、其燿と栄と(252)歓とは如何なるものである乎、勿論、此粗雑なる肉躰に在る我儕の到度想像することの出来るものではない、大詩人の筆も茲に至て之を投ずる外はない、
 十二の門は十二の真珠なり、一つの真珠にて一つの門を造れり、城の衢は澄徽る玻璃の如き純金なり(黙廿一〇廿一)、
物理学的に此記事を考ふれば奇怪なる所ありと雖も、而かも是れより以上の言葉を以て其栄燿を書記すことは出来ない、「一つの真珠にて一つの門を造れり」、「澄徹る玻璃の如き純金」、実の極、麗の極、斯かる栄光を常に彼の眼の前に置きたればこそパウロは艱難《なやみ》の時も声を揚げて叫んだのである、
  我れ意ふに今時の苦は我儕に顕はれん栄に此ぶべきに非ず(羅八〇十八)と。
 此外にも基督信者の享くべき福ある耶、神の王国なるものは改造されたる此地球に止まらずして、空間に瑤光を放つ他の世界にまで及ぶものなる乎、未来の王国に於ても今の此世に於けるが如く献身犠牲の快楽ある乎、是れ我儕の知らんと欲する所なれども我儕に黙示されざる事項であつて、問ふも無益なる問題である、然しながら既に我儕の眼の涙の悉く拭はるゝ国と(黙廿〇四)、万国の民を医すための樹の生ずる園(同廿二〇二)とを示されて、我儕に今、是れより以上を望むの必要はない、既に我儕に黙示れしものが我儕の凡ての悲痛を癒して尚ほ余りあるものである。我儕基督信者は斯かる希望を以て此世に棲息する者である、世の才子学者は我儕が斯かる希望を懐くを聞いて頑愚迷信を以て我儕を嘲けるであらふ、然かしながら是れ我儕に取ては生命の動機、困苦の慰藉、忍耐の泉源、善行の奨励である、之あるが故に我儕は歓び歌ひつゝ涙の谷なる此世を過行き、恐怖れずして独り静かに我儕の墓に下ることが出来るのである、爾うして我儕のみではない、此希望を懐きし故に今日まで幾(253)千万の基督信者が、或は嬉笑《あざけり》を受け、鞭打たれ、縲絏と囹圄の苦を受け、石にて撃たれ、鋸にてひかれ、火にて焚かれ、刃にて殺され、綿羊と山羊の皮を衣て経あるき、窮乏して苦みしも、人を恨むことなく、人世に失望することなく、故郷に還るが如き歓喜を以て従容ではなく、歓呼して、感謝して、死に就いたのである。
 前にも述べた通り健全にして明瞭なる希望がなくして、健全にして強固なる信仰はない、聖書の供する明白なる希望を否み、之を迷信なり、夢想なりと嘲けりて、聖書が要求するやうな信仰的生涯を送ることは出来ない、若し聖書の供する希望が迷想であるならば聖書の教ゆる道徳も亦迷想でなければならない、※[開の門なし]は何故となれば聖書は始終一貫せる書であつて、誤りたる目的のために正しき方法を教ゆるの書ではないからである、キリストの再来、肉躰の復活、万物の復興、地上に於ける天国の建設は、聖書が聖き生涯の目的物として信徒の眼の前に置くものである、此報賞を得んこと、此目的に達せんことが基督信者の勤労の第一の動機である、即ち使徒パウロの言ひしが如し、  兄弟よ、我、唯此一事を務む、即ち後に在るものを忘れ、前に在るものを望み、神、キリストイエスに由りて上へ召し給ふ所の褒美を得んと標準《めあて》に向ひて進むなり(腓三〇十三、十四)。
 爾うして之を以て「来世的実利主義」なりと言ひて嘲ける者の如きは未だ自身に此聖き希望の感化力を実験したことのない者である。
 
(254)     天地の花なる薔薇
                    明治37年7月21日
                    『聖書之研究』54号「研究」
                    署名なし
 
   其花に伴ふて刺あるは
     其、地の産なるの証なり、
   其刺に伴ふて花あるは
     天の之に宿るの徴なり。
 
(255)     奇跡の信仰
                     明治37年7月21日
                     『聖書之研究』54号「問答」
                     署名 内村鑑三
 
問、私は貴下が奇跡を信ぜらるゝことは兼て承知して居ります故に、今日は奇跡は何んである乎、貴下が之を信ぜらるゝの理由、之を信ずるも近世科学と衝突することはなき乎、其等の点に就て貴下に伺いたく欲ひます。
答、承知致しました、私は実に奇跡を信じます、奇跡を信ぜずして基督教は信ぜられません、否な、奇跡を信ぜずして如何なる宗教も信ぜられません、私は未だ世に奇跡の無い宗教のあるのを知りません、然るに今の人は奇跡を信ずるの困難なるよりして、或は理学宗とか、或は倫理宗とか称へて奇跡の無い宗教を造らんと致しまするが、然し斯かるものが宗教の用をなさいことは誰でも知つて居ります、私の考へまするに奇跡を排斥しまするならば其れと同時に宗教を排斥すべきであると思ひます、奇跡を否定しながら宗教の必要を説くのは、飲食の不要を唱へながら健康の幸福を説くの類であると思ひます、奇跡は宗教の滋養であります、此|養汁《バビユラム》ありてこそ、宗教なる生物は存在し且つ繁殖するのでありきす、奇跡を取除いて御覧なさい、宗教といふ宗教は皆な死んで仕舞ひます。
問、私も爾う思ひます、私も奇跡を嬉《あざけ》つて得々たる今日の宗教家なる者を信じません、然し困難なるは今の時(256)に方て奇跡を信ずることであります、私も人生に取り宗教の必要、欠くべからざるものであることを信ずる者の一人であります、然るに奇跡を信ずるの困難なるよりして今日まで宗教を信ぜんと欲して信ぜざりし次第であります、若し少しにても奇跡に関する私の疑念が晴れますならば、私は夫れ丈け宗教に近いて来るのであります。
答、御困難の程は充分に御察し申します、私も此問題に就ては十数年間の苦悩を経た者であります、宗教を棄つる能はず、然りとて奇跡を信ずる能はずとは近世人士の特別の困難であると思ひます、往昔の人には此困難はありませんでした、若し有つても私共のそれに比べて見ますれば僅少でありました、実に奇跡を信ずると言ふのは容易くあります、然し之を科学の原理と共に信ずるのは非常に困難い事であります、私は愛なる神は私共の感ずる此非常の困難を認め給ひまして、私共が容易に奇跡を信じないとて殊更らに私共に就て怒り給はないと信じます。
問、其御同情は誠に有難く感じます、然らば伺ひますが、奇跡とは抑々何であります乎。
答、左様であります、先づ其問題から定めて行かなければなりません、之を奇跡と云ひ霊跡と云ひ、異跡又は神跡などゝ云ひまするのは、皆な奇跡の外形を云ふたのであります、即ち尋常ならざる事跡、眼を驚かし魂を奪ふ底の事跡、天然の法則と称へて人類が日常目撃しつゝある事物の順序を外づれたる事跡、是れが奇跡であります、爾うして斯かることは通常、有るべきことでなく、又若し有るとしても、其事実を糺すの非常に困難なるより是を信ずることが非常に困難なるのであります、私は少しく逆説《パラドツクス》に走りまするが、奇跡を奇跡と書きまする故に、之を信ずるのが非常に困難なるのであると思ひます、即ち人が奇跡の外形にのみ眼(257)を留めて其内容に注意しません故に、容易に之を信じないのであると思ひます。
問、奇跡の内容とは何んであります乎。
答、奇跡の内容とは霊の活動《はたらき》であります、若し霊なるものゝ実在を認めますならば、奇跡は厭でも信じなければならなくなります、霊其物が天然以上のものであります、又若し霊も天然の一部分であると曰ふ人がありまするならば、然らば奇跡も天然的顕象の一種でありまして、之に就て何の疑を挾むの必要もなくなります、然かし吾人が通常天然と称するものは霊以下のものであります、爾うして天然以外に霊が有ると致しますれば、奇跡は既に有るのでありまして、其活動が奇異なる事跡となりて現はれ、時に人目を驚かしますることは決して怪しむに足りません。
問、尚ほ其事に就て更らに精しく御説明を願ひます。
答、勿論、此事は哲学上の大問題であります、自由意志を有する霊なるものありや、否や、此問題を充分に討究せんとすれば、スピノザ、ライブニッツ、カント、ヘーゲル、ショッペンハウエル、其他の大哲学者を悉く呼び来らなければなりません、然しながら是れ必しも大哲学者の判断を俟たなければ解決の出来ない問題ではないと思ひます、自由意志とは自由意志であります、即ち外界何物の束縛をも受けずして、其上に超然たるものであります、人はパンのみを以て生くる者ではない、正義、真理、神、愛、是れは全世界よりも尊いものである、人が身を処するに方て、彼は風の方向や世の潮流に眼を注いではならない、霊には霊界の法則があつて、人は此「自由の律法」に循てのみ鞫かるゝ者であると、是れが自由の精神であります、自由意志を哲学的にドウ説明しませうとも、自由とは斯かるものであります、爾うして自由のある所には奇跡を行し(258)得るの力があります、人が人たるの特権を揮ふ時に彼は奇跡の可能力《ポシビリチー》を疑ひません、彼が神の子たることを忘れて、単に天然の子であるとのみ思ふ時に、彼は奇跡の有無に就て彼の心思《こゝろ》を非常に悩ますのであります。
問、其事は判分りました、然かし若し霊の活動が奇跡の内容でありますならば何故に奇跡がモット普通に行はれません乎、人、彼自身が奇跡であるとならば彼の居る所には奇跡は必ず行はるべきではありません乎。
答、左様であります、或る意味から云へば人の在る所には必ず奇跡が行はれております、然かし其事は今爰では申上げません、私は貴下の称はるゝ奇跡、即ち聖書に記いてあるやうな奇跡、其れが何故、普通に行はれない乎、其事に就て申上げませう。
爾うして其|理由《わけ》は探るに難くありません、或る時、弟子がキリストに向ひ、何故、彼等も其師の如くに奇跡を行ふ事が出来ない乎と聞きました時に、キリストは斯う答へられました、
  爾曹信なきが故なり、我まことに爾曹に告げん、若し芥種の如き信あらば此山に此処より彼処に移れと命ふとも必ず移らん、亦、爾曹に能はざること無るべし(太十七〇廿)。
信とは此場合に於ては霊の能力であります、是れは人が万物の霊長として神より授かるの特権を与へられたものでありまして、此能力を以てして彼が天然界の上に施さんと欲して施し得ざることはないとのことであります、然るに人類は神を離ると同時に此能力を失つたのであります、彼は今は天然の奴隷となりまして、斯かる能力の彼の掌握の中にあることを聞きましても、之を荒唐無稽と称して全然排斥するに至りました、彼は今は天然を支配する者ではなくして其束縛の中に苦む者であります、然かし斯かる境遇は彼が自から作つたものでありまして、彼は素々斯かる奴隷であるべき筈の者ではありません、爾うしてキリストの降世の(259)一つの大なる目的は人類に此最初の特権を再び附与せんがためであります、即ちキリスト御自身が常に天然の上に超越して其束縛を受けられなかつたやうに、我儕彼を信じ彼を愛する者にも此同じ能力(世人をして言はしむれば、奇跡力)を与へんがためであります、人間とは斯くも貴い者であります、彼は五尺の身体の中に近頃発見になりましたラヂユムも及ばない程の怪力を供へた者であります、キリストが人類に就て信ぜられたことは我儕人類の想像以外であります。
問、奇跡の内容は御説の通りであると致しましても、其外形は矢張り奇跡即ち「奇ぎなる事」であります、爾うして若し夫れが信ずべき事実であると致しますならば世に事実として信じ難い事は全く無きに至るではありせん乎。
答、其れは爾うではありません、物に真偽のあるのは御承知の通りであります、真正の愛国があります、虚偽の愛国があります、国の利益を計ると云ふて、其事が総て愛国であるとは限りません、奇跡も亦共通りであります、真正の奇跡があります、虚偽の奇跡があります、其外形が奇跡であればとて、其れは名のみの奇跡でありまして、私共キリスト信徒が称ふ奇跡ではありません。
問、然らば如何して奇跡の真偽を判分つことが出来ます乎。
答、其精神に入つてゞあります、恰度愛国の真偽を判分つと同じことであります、名誉利達を目的とする愛国は縦令、身を君国のために殺しましても、其れは実は虚偽の愛国であります、真正の愛国に自己《おのれ》てふ観念は全く無い筈であります、己れ国賊の名を蒙りて死すとも国のために尽さんとするのが真正の愛国であります、其通りに奇しぎなる事を為すことが必しも我儕の称する奇跡ではありまん、パロの魔術師はモーゼに劣ら(260)ぬ奇跡を演じました、然し其奇異なる業なるが故に我儕は之を奇跡とは称しません(出埃及記第七章以下参考)、真正の奇跡には真正の愛国に於けるが如く「自己れ」てふ観念は全く有りません、爾うして私共キリスト信徒が信ずる奇跡は「愛の休徴《しるし》」なる奇跡であります。
問、然らば貴下は奇跡は神か、又は神に潔められた者に非ざれば行ひ得ない事であると仰せられるのであります乎。
答、爾うであります、世人の奇跡に関する思考は此点に於て大に誤ります、彼等は奇跡は若し行へるものであるならば誰にも行へるものであると思ひます、然かし其れは決して爾うでありません、奇跡は無私無慾、自己のためには何の求むる所なき人に非ざれば決して行へるものではありません、是れは前にも申上げました通り、霊の能力の発顕でありまして斯かる能力は若し与へられるものであると致しますれば、斯かる人にのみ与へられるものであります、利慾一方の相場師が如何に望むとも一獲千金の利を貪らんために一つの奇跡をも行ふことは出来ません、又、縦令、宗教家たりと雖も、自己の勢力の扶植を謀り、自己の教会の拡張を欲して、此能力の敏塵だも得ることは出来ません、奇跡を行ふの能力は是れは献身犠牲、自己を忘れて神の栄と人の善とを計らんとする者にのみ与へられるものであります、奇跡は愛と之れに伴ふ威権との休徴であります、世に愛に優るの権能はありません、爾うして其 実《まこと》に宇宙をも動かすの能力なることを示さんために、神は、愛を以て充満する人に特に此能力を賜ふのであります。
問、然らば貴下は聖書に記るしてある、キリスト并に使徒等に由て行されたる奇跡は皆な貴下の仰せらるゝ愛に伴ふたる奇跡であると仰せられるのであります乎。
(261)答、勿論です、善くキリストの行された奇跡に就て考へて御覧なさい 其中に自己のために為された奇跡とては一つもありません、彼は瞽者《めしひ》の目を開かれました、跛者《あしなへ》の足を立せられました、一時に四千、又は五千の人を養はれました、然かしながら曾て自己の飢餓を癒さんがために一回の奇跡をも施されませんでした、彼の敵は彼を十字架の上にあげて彼を嘲りて曰ひました、人を救ひて自己を救ひ能はず(可十五〇卅一)と、キリストは実に人を救ふためには奇跡を行ひ得ましたが、自己を救ふためには之を行ひ得ませんでした、自己を殺さんがために来りし敵の傷は奇跡を以て直に之を癒すことが出来ましたが、然かし自己の脇より流れ出づる血潮を留めることは出来ませんでした、人を援けるための異能を具備へしイエスキリストは自己を救ふためには全然無能でありました、弱者を救はんがためには風をも叱咤して之を止め給ひし彼は自己の敵の前に立ては之に抗せんとて小指一本をさへも挙げ給ひませんでした、キリストの奇跡よりも更らに数層倍奇しぎなるものはキリストの無私の心であります、然しながらこの奇しぎ心があつてこそ、始めて彼の奇しぎなる業が行はれたのであります、業は心の発顧で外ありません、然るに世の人は外形《そとがわ》の業にのみ眼を留めて、其、之を発《おこ》せし心に念ひ及びません。
問、キリストの奇跡の精神は御説明で善く判分りました、然らば若し其精神が有れば何人にも奇跡が行はれると仰せられるのであります乎。
答、爾うであります、然かし茲に注意すべきことは、奇跡を行はんと欲する、其心の既にキリストの心でないことであります、キリストは彼が奇跡を行ひ得たればとて、其れが故に聖なる者であるとは自覚せられませんでした、否な、之に反して、キリストは人が彼の奇跡以外に於て彼の神子たることを認めんことを欲せら(262)れました、キリストが奇跡を行はれましたのは恰度名医が劇薬を用ひまするやうに、止むを得ざる場合に於てのみ之を行はれたのであります、爾うして之を行ひ給ひし後には其決して恃むべきものでなきことを示し、亦広く之を世に吹聴して、世人の好奇心を喚起さゞるやうに深く注意せられました、ヘロデ王がイエスを見るや、直に其奇異なる業を見んと望みしやうに(路二十三〇八)世人がイエスに就て第一に知らんと欲することは其奇跡如何であります、然しイエスは不信のヘロデに奇跡を示し給はざりしやうに不信の世人にも之を示し給ひません、奇跡を望む者は之を行ふことも出来ず、見ることも出来ず、又、見ても其神の奇跡なることを信ずることは出来ません、奇跡のための信仰ではありません、信仰の結果たる奇跡であります、奇跡を目的の信仰は信仰でありません故に、其れが奇跡を行ひ得ないのは勿論であります。
然しながら、其れは其れとして、無私の信仰が奇異なる業を為し得ることは疑を納れません、「爾曹の信仰に循ひて」とはキリストの約束でありまして、我儕の為し得る事業の大小は我儕の有ち得る信仰の厚薄に由るとは聖書の明白に示す所であります、爾うして我儕の信仰にして若しパウロ、ベテロのそれに等しきものでありまするならば、何故に我儕も彼等に劣らざる事を行し得ない乎、私にはどうしても分りません。
問、然らば若し貴下にペテロの信仰があれば貴下もペテロのやうに「ナザレのイエスキリストの名により起て行め」との一声を以て跛者を其足の上に起たしむることが出来ると御信じになるのであります乎。
答、稀態なる御質問であります、然し単に奇を好まるゝ心より出た御質問ではないと信じましてお答へ申しませう、左様であります、其場合には私にもペテロ丈けの事業が出来やうと思ひます、然かし之れを成就《なしとぐ》るの方法に至ては二十世紀に生れし私が一世紀に存在せしベテロに傚ふや否やは全く別問題であります、跛者を(263)癒すの法、必しも大喝一声を以てするに止まりません、神は時代に循ひ種々の方法を以て病者を※[病垂/全]し給ひます、爾うして若し私にもベテロの場合に於けるが如く、私が或る跛者を※[病垂/全]すに由て神の栄光が非常に顕はれ、夫れが為に全世界がキリストの救済の能力を認むるに至りまするやうな場合が起りまするならば、私にも何にかの方法を以て此病者を※[病垂/全]すの能力が与へられやうと思ひます、或は近頃此種の病者を※[病垂/全]すを以て有名なる襖国の某医師が有つやうな秘訣が私にも示さるゝかも知れません、或は成る神経作用に依て、ペテロの奇跡にも優るの奇跡が私に由て行はるゝかも知れません、然かしながら私は斯かる仮定を設くるの何の必要がある乎、其事を解しませんと同時に、又斯かる推測を以て之に応じまする私も潜妄の譏を免れまいと思ひます。
問、御注意の段は承知致しました、然し私の特に伺ひたいのは若し貴下の御説明にして間違なくば、天然と奇跡との区別が全く消えて仕舞ひまして、何にが天然であつて、何にが奇跡であるか、全く判分らなくなるではあるまい乎と思ひます、若し医術に由るも奇跡であると致しますれば夫れで奇跡問題は消滅して仕舞ふではありません乎。
答、興味ある御質問であります、実に天然と奇跡とは其外形に於ては少しも違ひませんと思ひます、曾て博士ハクスレーが曰ひました通り、奇跡が若し有りとしますれば是れ亦天然的現象として攻究すべきものでありませう、天然を透うして現はれる奇跡は天然的現象として現はれる外はありません、ベサイダの野に於て魚とパンとを以てキリストに奇跡的に養はれし五千の男女は、そのパンと魚との由来に就ては何の知る所もなかつたらうふと私は思ひます、彼等は唯、パンと魚とが何等かの方法を以て彼等の前に置かれしを見ました、(264)然れども如何にして一尾の魚が五千尾となりし乎、其秘密に就ては吾人近世の動物学者が、如何にして一尾の鮮魚が四百万粒の卵子を生み得るか其秘密を知らざるが如くに知らなかつたらふと思ひます、唯其奇跡なりし事は是れを行ひしイエスと彼を信ぜし彼の弟子のみが知つて居りました、今若しキリストが世に現はれ給ひまして、死者を甦らせ給ひしと致しますれば、之を目撃せし医学者等は其奇跡なることは認めずして、直に其天然的理由の発見に着手するに相違ありません、即ち神を信ぜざる者の眼には奇跡なるものはありません、若し又有るとするも彼は其奇跡なることを識り得ません、奇跡は矢張り天然的現象として現はれるものでありますから、之を識別するためには信仰の眼を要します、何が奇跡であつて、何が奇跡でない乎、是れは真正の信者のみが見分くることの出来ることであります。
問、爾う仰せられますれば止むを得ません、然かし若し信仰の眼を以て見ますれば凡の事が奇跡として見ゆるに至りません乎。
答、爾うであります、奇跡とは神の能力の発顕でありますから、神の存在と活動とを信ずる者の眼には奇跡天然の別はありません、彼に取りては実に天然と称して、神より全く離れ、惟り活動いて惟り生ずる者はないのであります、彼には唯二種の奇跡があるのであります、尋常的奇跡、是れが天然であります、非常的奇跡、是れが聖書に示してあるやうな奇跡であります、今日まで万物を天然的に解し来りし彼は今は意志的に、即ち奇跡的に之を解するに至りました、彼の宇宙観は神を信ずるに由りて一変致しました。
問、多分爾うであらうと思ひます、然かし其結果として万事万物は気儘なる意志の遂行と化し、天然に法則と順序とは絶えて科学は其研究の精神を失ひ、又、人は労働の無用を感じて、たゞ密室に寵つて偏に祈祷に由(265)てのみ神の援助に与からんと欲するには至りませんか。
答、其御心配は全く御無用であります、神を信じて天然は決して揮沌とは化りません、随て科学は其研究の精神を失ひません、否な、神を信ずるに由て、科学の精神が始めて起るのであると思ひます、科学の精神は天然の統御並に征服にあります、爾うして天然を懼れ、其奴隷と成りし者に此精神の起りやう筈はありません、人は先づ天然の主人公とならなくてはなりません、爾うして彼が神を信ずるに由てのみ此権能は彼に賦与せらるゝのであります、霊が物に勝つまでは物の科学的研究は始まりません、爾うして宗教は人に霊の自由を供し、彼に天然に打勝ち、之を治めんとするの意志を起します、科学研究第一の要素は此自由の意志であることは深く之に従事した者の誰でも認むる所であります。而已ならず、神の意志とは気儘なる意志ではありません、意志とは気儘なるものなりとは之を不完全なる人に於てのみ見た者の言ふことであります、世に信頼すべきものにして、義者の意志の如きはありません、天然は其期節を誤りて五穀実らず、民、為めに飢餓に泣くことが有りましても、義者は決して其約束を違へません、泰山は崩れて海と成りましても、義者は決して其志を曲げません、変り易きものは意志ではありません、病める意志であります、健全なる意志は天然の成行よりも信頼するに足る者であります。
人の意志でさへも爾うでありますものを、神の意志は尚更らのことであります、世に恒久不易のものにして神の意志の如きはありません、天と地とは癈《すた》らん、然れど我言は癈らじとは神の声であります(太廿四〇卅五)、若し神の意志が変幻恒なきものでありまするならば、世に信顧なるものは全く迹を絶つに至ります、神を信ずるとは恒久を信ずることであります、爾うして天然は神の此恒久性の一面を現はすものであります(266)る故に、我儕は非常の興味を以て之を研究するのであります、恒久と称ふても勿論神の如く恒久なるのではありません、山の恒久なるも勿論神の恒久なるには及びません、然しながら人事の董花一朝の栄の如くなるに較べて山岳の千秋に其姿を変へざるを見て、我儕は神を我儕の「磐」と称んで彼の恒久を讃へまつるのであります、天然を神の意志の発顕と見て、我儕は始めて天然の真相を悟り、随て虔んで之を研究せんと欲するの念が我儕の心に起るのであると思ひます、然かし意志である以上は神の意志であるにもせよ之は永久不易の規則ではありません、爾うして規則でない以上は、時に其変更せらるゝのは決して怪むに足りません、天然の法則を規則と解して、天然は我を縛る桎梏となります、然かしながら愛の神の意志の発顕であります以上は是は虔んで服従すべきものでありまして強ひて其束縛を受くべきものではありません、神を信ずると同時に天然が我儕の敵たるを歇めて、我儕の友、又はホームたるに至りまするのは全く是れがためであります。
意志は其中に愛を含みます、夫れ故に神の意志の発顕たる天然は亦神の愛の発顕として我儕の眼に現はれます、爾うして愛は熱心の唯一の発動者でありますから、天然に神の意志を認めて我儕は熱心を以て之に対し、愛を以て其奥義を究めんと致します、キリスト信者の天然の研究なるものは不信者のそれとは全く違ひ、彼は面白半分に之に従事するのではありません、我儕は父の造りし庭園に其奇石珍草を探ぐるの心を以て嬉しく之に従事するのであります、天然を奇跡と解して天然の研究は歇むと云ふ人は未だ之を爾う解したことのない人であると思ひます、驚嘆は確かに科学研究のための一大刺激であります、爾うして信仰は天然の研究に此健全なる刺激を供するものであります。
(267)奇跡を信じて私共が労働を癈めるに至るであらふとの御心配も亦拠る所なき無益の御心配であります、我儕は万物を奇跡的に解してのみ始めて労働の何たる乎が解かるのであります、労働は飢寒を怖れて止むを得ず厭々ながら我儕が従事すべき筈のものではありません、労働とは其真正の意味に於ては、神と偕に働らくことであります、或は神をして我に在て働らかしむることであります、我が父は今に至るまで働き給ふ、我もまた働くなり(約五〇十七)とのキリストの言葉は能く労働の真意を尽したものであります、我が裏に存る僅少ばかりの力に由て我が職務を尽さんとすればこそ、私共は非常に労働の苦痛を感ずるのであります、然しながら神は我が要する能力は総て之を我に下し給ふと信じて私共は能力の不足を全く感ぜざるに至り、随て労働の苦痛なるものは私共の念頭より全く迹を絶つに至るものであります、神の奇跡を信ぜざる労働者の生涯は此点より考へて見て実に気の毒なるものであります、私共は労働者を助けんと欲して、彼の賃銀の増加を求ひ、彼の労働時間の減少を計るのみでは足りません、彼に奇跡の神を紹介し、彼をして上より新たなる能力の供給を受け、走れども疲れず、歩めども倦まざる者たらしむるのも亦、彼を慈むの一つの方法であると思ひます、奇跡の神が在せばとて、唯口を開いて呆然として神の自己を養はんことを待つ者の如きは未だ真の神を発見したことのない者であります。
困窮は発明の母であると云ひまするが、然し真正の発明の母は困窮ではなくして感謝の心であります、人類が危急に迫りて已むを得ず絞り出す智慧は以て到底、宇宙の深奥に達し、其処に其秘密を探出すに足るの智慧ではありません、大なる発明は神の恩恵を悦び、天然と和して造主の指導の下に其宝庫の中に入て、欣然、解鑰を得て、探り得た発明であります、天然を大なる謎と解し、奇才を以て其秘訣を窃出すを以て発明とは(268)称へられません、天然を奇跡と見るならば学術上の発明が止むであらふとの心配も全然杞憂に過ぎません。
問、種々の御説明に依て奇跡の哲理は大分判分りました、然かしながら之を信じたればとて何の実益があります乎、奇跡を信ぜずして宗教は信じられますまい、然しながら貴下とても往昔の聖人の奇跡を其儘繰返さんと御欲召さるゝのではありませんから、其れをお信じになりたればとて夫れで貴下の御生涯に何にも直接の実益があらふと仰せられるのではありますまいと思ひます、如何です乎。
答、奇跡信仰の実益、是れは近頃珍らしい御質問であります、然し全く益のない御質問ではありますまい、信仰が信仰でありまする以上は、現生涯に全く関係のない信仰とては無い筈であります、爾うして若し奇跡が真に有ると致しますれば、之を信じて私共の生涯に何にかの利益が無いとも限りません、私は未だ曾て宗教上の信仰なる者を一の気休として解釈したことはありません、信仰は人の主義確信でありまして彼の生命の真髄であります、奇跡の信仰も亦其中心的重要の地位を動かさるべきものではありません。
奇跡を信仰して私共は大胆に大事に当ることが出来ます、之に由て私共は自己の能力を計らず、若し正義であり、大道であると信じますれば、天の大能に頼つて、憶せず懼れず、其実行を以て自から任ずることが出来ます、奇跡の神を信じて不可能事は私共の念頭に全くなくなります、私共は先づ神意の在る所を探ぐればそれで問題は尽きるのであります、後は能力の問題であります、爾うして能力は私共は之を奇跡の神に仰ぎます、斯く申上げて貴下は私の無謀を御笑ひになりませうが、然し世界の大なる偉人とは皆な此一種の「迷信」を有つた者であります、ルーテルでも、コロムウエルでも、ウエスレーでも皆な自己の能力を計つて彼等の眼前に横はりし大事に当つた者ではありません、彼等は皆な、「神、若し我と偕に在らば我れ何をか為し(269)得ざらんや」との奇跡の信仰を以て彼等の大任を担ふた者であります、奇跡を信ぜる者は此世に在て憶病者たらざるを得ません、斯かる人は先づ自己に省み、周囲に鑑み、時勢を計りて然る後に動く者でありますから注意深くあるやうで実は何にも大なる事は之れを為し得ない者であります、勿論奇跡を信ずることに大なる危険があります、奇跡を信ぜずして、十字架に懸けらるゝの心配はありません、然しながらカーライルの申しますやうな、「火の車に駕して天に昇るの生涯」は奇跡を信ぜざるものの遂ぐることの出来る生涯ではありません、又、奇跡を信じまして私共に永久の忍耐が生じます、我が裏を省みますれば実に軟弱汚穢、取るに足らざる者ではありまするが、然かし上を見ますれば昴宿参宿をさへ自己の掌の中に自由に動かし給ふ神が在ると信じまする故に、私共は此神を仰ぎ瞻て自己を潔め且つ強め、以て如何なる難事業にも当ることが出来ます、かの世に多く存在する、他人の欠点を摘指するの外、自己の可能力を自覚し能はざる批評家と称する人士の如きは、皆な此信仰を有たない者であると思ひます、無限の能力の所在を知り、亦之を獲るの途を知る者は他人の欠点を発見して、自己に満足を買ふの必要はありません、斯かる人は直に大能力に至り、其処に新たなる能力を得て自己の欠を補ふと同時に、亦他人の欠までを補ひ呉れんと欲するの慈悲心を起します、実に奇跡の信仰は私共を積局的の人物と作します、私共は能力の不足を感ずる痩犬の如き不平家たるを歇めて、糧食足りて膏油滴るばかりの肥馬の如き者となりまして、険に際して躍り、難に遭ふて勇む者となります。
其れのみではありません、奇跡の信仰は私共をして希望の人たらしめます、死に勝つの希望は奇跡の信仰に由ります、天に昇るの希望も亦奇跡の信仰に由ります、奇跡の信仰なくして墓の彼方は真暗であります、又(270)奇跡の信仰なくして世界の未来も真暗であります、若し数字を列べて人類の将来を考へますれば私共はマルタスの人口論の結論に達するより外はありません、然しながら人の霊の自由を信じ、霊に由て顕はるゝ神の異能を信じまして、私共は此地の将来に就て少しも疑懼を懐かざるに至ります、私共は只天国と其義とを求むれば足ります、其他の事は神が何にかの方法を以て私共に加へらるゝと私共は堅く信じます。
奇跡の信仰なくして高潔なる詩歌も美術もありません、奇跡の信仰なくして人は皆な算術《そろばん》一方の商人と化ります、人の人たる所以は彼に天然に凌駕するの能力があるからであります、或る詩人の言ひました通り
   人にして若し人以上たり得ずば、
   人とは如何に憐むべき者なるぞ。
と、我が財嚢の底にある金と、我が筋骨に在る力とが我が所有の総てゞあるあらば、我は如何に憐むべき者ぞと、何人も喊ばざるを得ません、私は貴下が奇跡の信仰を以て僅かに宗教家の贅沢品であるやうに見做れざらんことを望みます。サヨナラ
 
(271)     『約百記』〔従弟一章至第七章〕
                      明治37年8月5日
                      単行本
                      署名 内村鑑三編
 
〔画像略〕初版表紙186×128mm
 
(272)     約百記
 
       余は独り約百記を以て(之に関する百家の説を離れ)古来人間の筆に成る最大著述の随一と為す。人洵に此書を読まば其|希伯来《ヘブリユー》人の製作に非ざるを感ず可し。高貴なる愛国心や、或は宗派(273)心等と異りて、別に一種の高崇なる抱世界的博通主義の其間に貫くを見む。嗚呼高貴の書なる哉、世界万民の書とは夫れ実に之を謂ふ乎! 是永劫已むこと無き千載不朽の大問題−即ち人間の運命及び上帝の摂理に関せる最古最元の記録也。而して其之を記すや、文辞流暢簡潔にして大に誠渾飄逸を極め翻紙一番読過すれば、恰も神韵を聞くが如く、大珠小珠の宛転として、宛がら玉盤に落るが如し。裡に霊慧なる活眼有り、温和なる知性有り、要之書中何れの所を見るも徹頭徹尾誠実にして万事万物に通貫せる真の達眼達識有る也。此事や独り無形上の物のみならず、有形上の物に於けるも亦実に此の如し。其馬を叙するに曰、「汝其鬣に雷霆を纏へり乎?−馬は鎗の閃くを見て唖然として哄笑す」と!。生民在てより以来、此の如き霊活なる真に逼るの形容有る無し、荘美の悲哀、荘美の慰藉、正に是人心の和調にして最古瀏朗の和調也−何ぞ其典雅にして爾かく高荘偉大なるや。蘊藉深情宛がら夏の夜半の如く又其海と星とを有する宇宙の状に髣髴たり。惟ふに之と匹儔して能く文功を競ふもの、聖書の内、聖書の外亦他に存するを認めざる也。
          《住谷天来氏訳『英雄崇拝論』より写す》
 
    『角筈聖書』の性質
 
角筈聖書の目的は読者をして、註解者の註釈に依ること成るべく少くして、聖書を其本文に於て解せしむるにあり、故に編者は力を専ら本文の訂正并に配列に注ぎ、評註は簡潔を主として必要と認むるもの而已を加へたり。
 訳文は普通日本訳聖書に依れり、而して其辞句の難渋なるもの、或は意義の透明を欠くものに対しては、自由(274)に編者の改竄を加へたり、然れども編者の改竄なるものゝ果して改善なるや否やは之を読者の判断に任かすより他に途なきなり。
 読者に聖書の独創的見解を促がさんと欲する編者は自身亦、各章に彼の評註を附するに方て、彼の独創的解釈を主とし、多く先哲の意見に依らざりき、然れども彼の見解の多く誤謬に陥らざらんがために、彼も亦普通の註解書は之を渉猟するに怠らざりしと信ず、殊に約百記の本旨の在る所を探るに方ては彼は米国アマスト大学教授 J.F.ジナング氏の著 Epic of the Soul に負ふ所甚だ大なりき、亦、本文の意義を究むるに方て、彼は多く英国聖書学者A.B.デビッドソン氏の約百記註釈に学ぶ所ありたり、而して探究の遺漏なからんがために彼は常に独逸神学者博士 F.デリッチ氏の大著を参照せり、簡潔は彼の目的なれども、浅薄は彼の欲する所にあらず、彼は彼の力量以内に於て及ぶべき丈け該博ならんことを努めたり。
 然れども神の聖書を研究するに方て、依るべきは人の説にあらずして、聖霊の光なり、考証、如何に該博を極むるとも、研鑽如何に深遠に渉るとも、若し天よりの此光なかりせば、聖書は我儕に取りて一大謎語たるに過ぎず、此光なくして、独逸哲学も英国神学も聖書の真義に就て我儕に何等の伝ふる所あるなし、聖書の聖書たる所以は人の智慧を以てしては之を解し得ざるにあり、聖書研究に就ては約百記に於けるブジ人バラケルの子エリフ能く其秘訣を語れり、彼は曰く
  我は年少く、汝等は年老ひたり、是をもて我、憚りて我意見を汝等に陳ることを敢てせざりき、……然れども人の裏には霊のあるあり、全能者の気息(Inspiration《インスピレーシヨン》)人に聡明を与ふ、大なる人すべて智慧あるに非ず、老いたる者すべて道理に明かなるに非ず(卅二章六−九節)。
(275) 聖書研究に就ては博学畏るゝに足らず、老練頼むに足らず、只直接に神に教へられし者のみ、真正の智識を有す、我儕は勿論、博識、錬磨を侮らざるべし、然れども聖書に隠れたる神の聖旨を探ぐるに方ては我儕何人と雖も、上よりの独創的見解に接するの特権を有す、此書最と微きものなりと雖も亦多少此恩恵の跡を留めざるに非ずと信ず。
  明治三十七年七月廿五日   東京市外角筈村に於て 内村鑑三
 
     “I am firmly resolved to die in the study of the Scriptures;in them are all my joy and all my peace.”−Erasmus.
     余は堅く聖書の研究を以て余の一生涯を終らんと決心せり、余の総ての歓喜と余の総ての平和とは其中に存す。         エラスマス
 
    約百記の性質
 
義人ヨブの生涯を以て苦痛の理由を解釈せんと試みしもの、是を約百記と做す、其思想の遠大にして其文字の莊美なる、世界文学中其儔あるなし。
 約百記は哲学書に非ず、実験録なり、故に苦痛の理由を攻究するに方て組織的に之を為さずして、実話的に之を為せり、約百記に苦痛の哲学的説明あるなし、然れども能く之を究めて其中に苦痛の摂理的作用を発見するを(276)得べし、約百記解釈の困難は此一事を忘却するより来る、即ち其中に苦痛の哲理を求めて、苦痛が人の霊魂に及ぼす練磨的作用を探らざるに因る、而して此一事を心に留めて、此書の解釈は決して困難ならず。
 此書の文躰の主に詩的なるは、必しも其美文的著作なるの証に非ず、凡て深遠なるものは詩的なり、心の深所より湧出でし此書は自から詩的ならざるを得ざりしならん、作詩を以て閑人の業なりと見做すは今人の思考に属す、散文的なるは俗人の証なり、人は何人と雖も誠実にして詩的ならざるを得ず、約百記は実に熱誠の人の当然の実験録なりと信ず、幽暗の中に無限の神を探りて吾人何人にも此音楽なかるべからず。
 約百記は何人の著なるや、之を知る者なし、或はヨブなる人の自伝なりと云ひ、或ひは神の人モーゼの心霊的実験録なりと云ひ、或ひは大王ソロモンの作なりと云ひ、或ひは預言者ヱレミヤの自白なりと云ふ、然れども著者の名を明記せざる此旧記の著者に就て吾人の推測を弄するは全く無益の業に属す、霊に名なし、彼は宇宙の実在物なり、約百記は永遠に渉る霊の声なり、其著者の名の如きは知るも全く用なきなり。
 著者の名を知らず、故に著作の時代を明にする能はず、或ひは聖書中最も旧き書なりと云ひ、或ひは猶太民族バビロン移植以後の作なりと云ふ、而して学者各々鏑を削りて其説を維持す、然れども是れ真理問題とは関係の至て遠き問題なりと信ず、※[開の門なし]は永遠の真理は其顕出の時代を以て其真価を増減するものにあらざればなり、真理に空間なし、亦時間なし、其何時代の作たるに係らず、茲に時と共に古びざる書の人類に供せられしあり、吾人は其中に含まれたる不易の真理を探れば足れり。
 約百記は真理を供す、然れども聖書の一部分なるが故に特別なる真理を供す、聖書の供する真理は罪の贖主なるイエスキリストに中心す、故に直接又は間接に彼を世に紹介せざる者は聖書に非ず 吾人は須らく約百記に於(277)て此特種の真理を探るべきなり、之を普通の大文学と見て其真価を知る難し、之を「福音以前の福音」の一と見て、其真意義は解せらるゝなり、イエスキリストを其中に発見し得ざる者は未だ以て約百記を解し得る者と称すべかざるなり。
 其真髄は基督教的真理なり、然れども其外装は古代に於ける西方亜細亜の智識、風俗、人情なり、吾人は全注意を外装の研究に奪はれざるべし、然れども能く外皮を知るは能く中心に達するの途なり、考古学的智識の約百記研究に必要なるは全く是れがためたり、吾人は往古の埃及、巴比倫の文明に徴しながら基督教的真理を其中に探らざるべからず、是れ難事なり、然れども亦快事なり、能く約百記を究めて、吾人は信仰を増すと同時に三千年前の大古に溯て、其文物に接するを得るなり。
 
   約百記
                         内村鑑三 註
 
    第一章
 
 義人の繁栄 〇彼の敬神 〇天上の会議 〇地上の変災
1ウヅの地に人あり、其名をヨブと称へり、其人完全にして正義く、神を畏れ悪を遠けたり、2彼に七男三女生れたり、3彼の財産は羊七千、駱駝三千、牛五百|※[藕の草がんむり無し]《くびき》、牝驢馬五百なりき、彼に亦|夥多《おほく》の僕ありき、彼は実《まこと》に東方の中に在て最も大なる者なりき、4其子等互に相往来し、各自、其日に至れば宴《ふるまひ》をその家に設け、その三人の(278)姉妹をも招きて彼等と飲食を共にせしめたりき、5而して饗宴《ふるまひ》の果つる毎にヨブ必ず彼等を招きて之を潔め、即ち朝早く起きて彼等の数に循ひて燔祭を献げたりき、是はヨブ我子等罪を犯して心に神を忘れたらんも知るべからずと謂ひてなり、ヨブの為す所常に此の如し。
 6一日、神の子等来りてヱホバの前に立てり、サタンも亦来りてその中に在りき、7ヱホバ、サタンに言ひ給ひけるは、汝、何処より来りしやと、サタン、ヱホバに応へて言ひけるは、地を行きめぐり、此処彼処を経あるきて来れりと、8ヱホバ、サタンに言ひ給ひけるは、汝、心を用ひて我が僕ヨブを観しや、彼の如く完全にして且つ正しく、神を畏れ悪を遠ざくる者は世に非ざるなり、9サタン、ヱホバに応へて言ひけるは、ヨプ豈得る所なくして神を畏れんや、10汝、彼と彼の家と彼の一切の所有物の周囲に藩屏《まがき》を設け給ひしに非ずや、汝は亦彼の手の為す所を悉く祝福み、其産を地に増殖《ふや》し給ひしに非ずや、11然れば今汝の手を伸ばし、彼の一切の所有を撃ち給へ、彼必ず汝の面に対ひて汝を詛はんと、12ヱホバ、サタンに言ひ給はく、視よ彼の一切の所有を汝の手に任かす、唯彼の身に汝の手を接くる勿れと、サタン即ちヱホバの前より出行けり。
 13一日ヨブの子供等、その第一の兄の家にて物食ひ、酒飲み居たりし時、14使者あり、ヨブの許に来りて言ふ、牛は耕耘に従ひ、牝驢馬はその傍に草食ひ居りしに、15シバ人襲ひて之を奪ひ刃をもて少者《わかきもの》を打殺せり、我れ唯一人逃れて汝に告げんとて来れりと、16彼なほ語《ものい》ひ居る中に又一人あり、来りて言ふ、神の火天より落ちて羊及び少者を焚きて之を滅せり、我れ唯一人遁れて汝に告げんとて来れりと、17彼なほ語ひ居る中に又一人あり、来りて言ふ、カルデヤ人三隊に分れ駱駝を襲ひ之を奪ひ去れり、然かり、之に止まらずして刃を以て少者を殺したり、而して我唯一人汝に告げんとて遁れ来れりと、18彼尚ほ語ひつゝありし中に又一人あり、来て言ふ、汝の(279)子女等、その第一の兄の家にて物食ひ酒を飲み居りしに、19荒野の方より大風吹き来りて家の四隅を撃ちければ夫《か》の若き人々の上に落ち来りて彼等は皆な死ねり、而して我れ唯一人汝に告げ知らせんとて逃れ来れりと。
 20是に於てヨブ起上り、外衣《うはぎ》を裂き、髪を薙《き》り、地に伏して拝し、言ひけるは
 21我れ裸にて母の胎より出来れり、
  亦裸にて彼処《かしこ》に帰往かん、
  ヱホバは与へ、ヱホバは亦取り給ふ、
  ヱホバの聖名は讃美すべきかな、
と、22総て此事に関してヨブは罪を犯さず、神に対ひて愚かなる言を発せざりき。
 
       辞解
(1)「ウヅの地」其何地なるや確かに定め難し、然れども本書全躰の記事より推して其砂漠に瀕せしこと、亦、其ユダ国の東方に位ひせしことは明かなり、之を亜拉此亜砂漠がヨルダン窪地の東方に於てシリヤの沃原と接する或る地点に位ひせしものと見て誤謬《あやまり》なかるべし 〇「ヨブ」原語の Iyyob は種々の意義に於て解せらる、或は「迫害されし者」、或は「還りし者(悔ひて神に)」、或は「反対を招き易き者」の意なりと云ふ、其孰れか真なるや今に於て定め難し、但しヨブの戯作的人物に非ずして歴史的人物なりしは但以理十四章十四節、雅各書五章十一節等に由りて明かなり 〇「完全にして且つ正義」 勿論人間の眼より見ての完全正義なり 〇(3)「東方」 著者の居住の地より東を指して云ふなり、ヨルダン河以東一帯の地を称ふならん 〇(4)「其日」 誕生日なり、(280)三章一節 〇(5)「燔祭を献げたり」 古代に於ける潔清《きよめ》の式なり(創世記八章廿節参考) 〇(6)「神の子」 或は「能力の子」「能力ある者」と解するを得べし、人間以上の実在物にして天使の称なり、書中此詞を用ゆること多し 〇「サタン」、敵又は反対者の意なり、後世に至て敵なる悪魔と称せらる(彼前五〇八) 彼は天使の堕落せし者なり、(路十〇十八)人の罪を神に訴ふる者なり 〇(10)「藩屏を設け」 擁護するなり 〇(15)「シバ人」 亜拉比亜人の一種族なり、掠奪を以て名あり、今のベドーウヰン人種の如きものなりしならん 〇(16)「神の火」 雷なり 〇(17)「カルデヤ人」 ユフラテ河の東方に住ひし民なり、シバ人と同じく掠奪に従事せしと見ゆ 〇(19) 「荒野の方より大風吹来り」 今の所謂る Simoom の類なり、沙漠より吹来る疾風なり 〇(20)「外衣を裂き、髪を薙り」 愁傷の徴表《しるし》なり 〇(21)「彼処《かしこ》に皈往かん」 再び母の胎に入らんとの意にはあらざるべし、来りし所に帰らんとの意ならん、汝は塵なれば塵に皈るべしの語を参照すべし(創三〇廿)。
 
       意解
〇義人斯世に在て富貴の報賞に与かる、其時彼に懐疑あるなし、苦悶あるなし、裏は外と和し、地は天と合し、万物麗色を帯びて歳月の流るゝこと、水の大洋に臨むが如し、此時人は言ふ、天道は是なりと、然れども斯の如くにして神の奥義は終に識る能はず(1−5)。
〇羊七千、駱駝三千、牛一千、牝驢馬五百、大なるかなヨブの産や、是れ今、彼が神の恩恵の徴表として、誇り且つ感謝する所のものなり、彼の神は今は野の神なり、山の神なり、牢《をり》に牡山羊《をやぎ》の息《いか》ふを見て、山に牝驢馬の逍遥《あそぶ》を見て、彼は天地の神を讃美せり、斯くて東方の人の中に在て最も大なるヨブはいまだ猶ほ信仰の嬰児なりし、(281)彼は牛と羊と駱駝とに富むが故に宇宙の神の寵児なりと信ぜり、然れども神はヨブが神に愛せられんと欲するよりも、より深くヨブを愛せり、是れ茲に本書の悲劇の開かるゝ所以(1−5)。
〇繁栄は彼の身を纏へり、然れども繁栄の中に彼は一種の恐怖を懐けり、彼は彼と彼の子女とが富貴を楽むの結果、終に神を忘れ去るに至らんことを恐れたり、故に彼は饗宴の果《かつ》る毎に必ず彼の一家のために潔清《きよめ》の式を司れり、彼は斯くして神の怒を宥めんとせり、而して彼の家に其恩恵の絶えざらんことを祈れり、之を敬神と称すべくば称すべし、然れども是れ恐怖と利慾とを雑へざる敬神に非ず、信仰の嬰児たるヨブに更らに純正なる敬神を学ぶの要ありたり(5)。
〇一日天上に会議開かる、天使等神の前に立て人事を奏す、人の罪を訴ふる者あり、其名をサタンと称ふ、彼亦人の暗黒的方面に就て神に告ぐる所あらんとせり、ヱホバ神彼に問ひ言ひ給ひけるは、我、特に我が僕ヨブに就て問はん、汝は彼に就て何の悪事の訴ふる所ある耶と、サタン、ヱホバに答へて曰く、彼れヨブの信仰なるものは実利的なり、今、彼の産を奪ひ給へ、彼は必ず面の当り汝を詛はんと、サタンの眼に映ずる善事は凡て悪に基ゐする者なり、敬神は利益のためなり、熱心は名誉のためなり、世に純正なる善人あるなし、神は義者の崇拝を受けつゝあるも、実は彼は彼に下せし物質的利益に報ゆるための瑣々たる返礼を受けつゝあるに過ぎず、サタンは此言を以て神に答へて、ヨブを侮辱すると同時に神を冒涜《けが》せり(6−11)。
〇然かもヱホバは忍容に富み給ふ、彼、サタンに答へて宣はく、汝の想ふ如くなれよかし、汝若し義者の誠実を疑はゞ汝が思ふ儘に彼を試みよかし、世に利慾を離れたる信仰ありや、否や、我れ今、ヨブの場合に於て此事を汝に示さんと欲すと(12)。
(282)〇天上の会議は終れり、而して之に応ぜんがために地上に変災は起れり、始めにヨブの牛と牝驢馬とはシバ人の掠むる所となれり、其次に彼の僕は雷に撃れて死せり、其次に彼の駱駝はカルデヤ人に奪ひ去られたり、其次に彼の子女は大風のために変死せり、災難は箇々に来らず、必ず踵を接して来る、彼の斯世の産は滅されて、東方第一の富豪ヨブは一日にして裸体《はだか》の人となれり、彼れ今、面の当り神を詛はん乎、サタンは爾か思へり、然れども彼れヨブは爾かせざりき、彼の信仰は利慾以上なりき、彼は壊敗の中に立てヱホバの聖名を讃美せり、斯くてサタンの推定は敗れてヱホバは栄を得給へり(13−22)。
〇泣く者よ、試練らるゝ者よ、識れよ、地上の患苦は天上の摂理に応じて来るものなることを、神は我儕の誠実を知り給へり、神は我儕を「我が僕」と呼び給ふ、彼に或る聖図のあればこそ、我儕は苦めらるゝなれ、憐れむべき我儕は地上に在て天上の会議に与かる能はず、然れども信仰の眼は神の聖座を囲む帷幕を透うして見る、大災害の我儕の身に臨む前に大恩命の我儕に就て我儕を悩ます者に伝へられしことを。
 
    第二章
 
  天上の会議 〇災禍ヨプの身に及ぶ 〇彼の妻彼を去る 〇慰藉の天使来る。
 其後復た一日神の子等来りてヱホバの前に出し時、サタンも亦来りヱホバの前に出たり、2ヱホバ、サタンに言ひ給ひけるは、汝、何処より来りしやと、サタン、ヱホバに応へて言ひけるは、地を行きめぐり此処彼処を経あるきて来れりと、3ヱホバ、サタンに言ひ給ひけるは、汝、心を用ひて我僕ヨブを見しや、彼の如く完全にして且つ正しく、神を畏れ、悪を遠くる者は世にあらざるなり、汝、我を勧めて故なきに彼を打悩さしめしかども、(283)彼、尚は其完全を維持す、4サタン、ヱホバに応へて言ひけるは、皮を以て皮に換ふるなれば人はその一切の所有物をもて己の生命に換ふるなるべし、5然れど今、汝の手を伸べて彼の骨と肉とを撃たまへ、然らば彼れ必ず汝の面に対ひて汝を詛ふべしと、6ヱホバ、サタンに言ひ給ひけるは、彼を汝の手に任かす、只、彼の生命を害ふ勿れと、7サタン軈てヱホバの前より去り行き、悪しき腫物を以てヨプをその足の跖《うら》より頭の頂まで撃てり、8ヨブ土瓦《やきもの》の砕片《かけ》を取り、其をもて身を掻き灰の中に坐りぬ、9時に彼の妻、彼に言ひけるは、汝は尚も汝の完全を維持せんとする乎、神を詛ひて死せよと、10然るに彼、彼女に応へて曰く、汝の言は愚婦の言の如し、我等神より福祉《さいはひ》を受けて亦|災禍《わざはひ》をも受けざらんやと、総て此事に関してヨブはその唇を以て罪を犯さゞりき。
 11時にヨブの三人の友、この一切の災禍の彼に臨みしを聞き、各々其処より来れり、即ちエリバズはテマンより、ビルダデはシユヒより、ゾパルはナアマより来れり、彼等はヨブを傷《いたは》り且つ慰めんとて互に相約して来りしなり、12而して来つて目を挙げて遙かに観しに、其ヨブなるを見識り難き程なりければ、各々その外衣を裂き、天に向ひて塵を撒きてその頭に散布《ふりかけ》たり、13斯くて彼等七日七夜、彼と偕に地に座し、彼等の中何人も彼に向つて一言をも発せざりき、そは彼の苦悩の甚だ大なるを見たればなり。
 
       辞解
 (1)「其後複た」 暫らく過ぎて後復た、即ち第一回の試誘失敗に終りて後、時を経て復た 〇(4)「皮を以て皮に換ふ」 骨肉近親を似て我身に換ふの意なるべし、皮又は膚を肉身の意に解するの例は之を十八章十三篇、十九章廿六節に於て見るべし、人の利己心の甚だしき、彼はその最近の骨肉をさへ犠牲に供しても己が生命を救(284)はんとする者なればとの意なるべし 〇(5)「骨と肉」 骨肉近親の意に非ず、ヨブの身躰其物を指して謂ふなり 〇(6)「彼の生命を害ふ勿れ」 身躰を害ふも生命其物を害ふて之をして死に至らしむる勿れとの意なり 〇(7)「悪しき腫物を以てヨブをその足の跖より頭の頂まで撃てり」 癩病なりしなり、医学上象皮腫 Elephantiasis と称するものにして皮膚の状態、変じて象皮の如くに化するものなり、後篇に至てヨプが其病苦を訴ふるに方て能く此病症の徴侯を表はすと云ふ、依て知る此書の著者自身が此難症を身に試みし者なることを 〇(9)「神を詛ひて死せよ」 神を棄て自棄せよ、無神論者となりて自殺せよ、絶望の極の辞なり 〇「愚婦」 事理を解せざる婦人、神を識らざる婦人、愚者は心の中に神なしと云へり(詩十四〇一)、聖書に謂ゆる愚者は不信者なり 〇(10)ヱリパズはテマン人なり、テマンはエドムの一地方にして智者の産出を以て名あり(耶四十九〇七等参考)、ビルダデはシユヒ人なり、ゾパルはナアマ人なり、シユヒ、ナアマは其、何地なりしや今に至て知り難し、蓋しウヅ、テマンと均しくヨルダン河以東の高原のアラビヤ砂漠に接する辺にありしならん、三人共にヨブと社会上の地位を等うし、智識と信仰とに富み、其産に於ても、亦其徳に於てもヨブと対等の者たりしが如し 〇(12)「塵を撒き」 愁傷の徴表なり、灰を蒙ると云ふに均し(太十一〇廿一)。
 
       意解
〇サタンはヨブを試誘みて失敗せり、ヨブはサタンが疑察せしが如き営利的信者にはあらざりき、困苦に処するヨブの態度はサタンをして一時は口を噤ぐの止むを得ざるに至らしめたり、世に真正の善人の存するあり、サタンは之を信ぜらんと欲せしも能はざりき、善を行ふを以て愚かなる人の無智の言を止むるは神の旨なり(彼前二(285)〇十五)、試練に堪へしヨブの勇行はサタンをして言なからしめたり、然れども彼れサタンの再び口を開くべき時は来れり(1)。
〇サタンは神の前に其人生観を述べて曰く、信仰の目的素是れ身命を保存するにあり、身命にして全からん乎、人は其最愛の眷属と雖も之を犠牲に供するを辞せず、人生の最大目的は自存にあり、ヨブ如何に完全なればとて此目的以外に神を認めんや、彼の身命を脅迫し給へ、彼必ず面の当り神を詛ひ汝を棄てんと(4)。
〇ヱホバ、サタンに答へて曰ひ給はく、或は然らん、汝、此事をヨブに於て試み見よ、彼の生命を脅かし見よ、然れども全く之れを絶つなかれ、彼に死の恐怖を生じ見よ、若し自存にして彼が神を畏るゝの最大動機ならん乎、彼は生命の危きを見て直に我を棄てん、然れども若し彼に自存以上の追求物あらば彼は死すとも我に縋らん、我は汝サタンと共に視んと欲す、自存果して人生存在の最大目的なる乎を、我が愛する僕ヨブは此事を天使と人類とに示さんがための試験物に供せらるべし(6)。
〇憐むべきかなヨブ、福なるかなヨブ、汝は其理由を知らずして人の知らざる困苦に遭遇せんとす、汝は今は真理の証人として雲の如くに汝を囲む許多の見証人《ものみびと》の前に立たんとす(来十二〇一)、汝、腰ひきからげ、丈夫の如くせよ(四十〇七)、汝の失敗は人類の失敗なり、然かり、神の失敗なり、汝は身に大なる責任を負ふて今より独り闇黒に入らんとす、入りて『闇黒の宝』を我儕に持来れよ、而して我儕に健全なる『患難の哲理』を教へよ、我は汝に関する神の命のサタンに降るを見て、汝の為めに同情推察の涙に堪ゆる能はず。
〇打撃は下れり、神の手は義人ヨブの身に触れり、彼は不治の病に罹れり、天刑病と称せらるゝ癩病に罹かれり、彼は今は神に詛はれし者として人の前に立てり、彼の産は奪はれたり、彼の子は殺されたり、而して彼れ自身は(286)今亦不治の病に罹れり、斯くて此世のヨブは既に死せり、彼の財産も彼の名誉も彼の健康も悉く奪ひ去られて、彼は既に此世に在て無きに等しき者と成れり、人生の目的物は裏にある乎、外にある乎、所有物なる乎、信なる乎、世にある乎、神にある乎、ヨブは此難問題を解釈するに最も適当なる地位に置かれたり(7−8)。
〇不幸なるヨブの患難は肉身の苦痛に止まらざりき、彼は更らに心情の劇痛を加へられたり、彼の妻も終に彼に背けり、彼女の心は終に動きたり、彼女は面のあたり彼を譏謗するに至れり、「神を詛ひて死せよ、汝神に棄てられし者よ」と、彼女の信仰はヨブのそれとは異れり、富豪に嫁せし彼女も素、富豪の息女たりしならん、而して敬神家の家庭に生長して彼女は習慣的に神を畏れしならん、然るに今や忽にして貧者の妻となるに及んで彼女の信仰の基礎は全く破砕されしが如し、彼女は信ぜり、神の恩寵の徴表は繁栄にあり、健康にありと、然るに貧苦と廃疾とのヨブの身に臨むを見て、彼女は終に彼女の夫に於て神に棄てられし者を認めざるを得ざるに至れり、憐むべき彼女は境遇的信者たりしなり、彼女は主義の婦人にはあらざりしなり、彼女は能く歌を謡ひ得しならん、彼女は能く琴を弾じ得しならん、彼女は能く富者の家庭を整理し「貴婦人」として恥る所なき者なりしならん、然れども苦痛の秘密を識らざりし彼女はヨブの真正の妻たるには適せざりし、故に蔭雲の彼の身を掩ふに及んで彼女は終に彼を捨て去れり、嗚呼ヨブの妻よ、製造的基督教婦人よ!(9)。
〇然れども大なるヨブは其妻の背信にも堪へたり、彼は曰へり「汝の言ふ所は不信者の婦人の言の如し」と、彼は彼女は信者なりと思へり、然れども今や患難に遭遇して彼女の不信者なるを知れり、彼女は恩恵亦時には災禍なることを知らざりき、逝けよ価値なき婦人よ、汝は災害の中に汝の良夫の真価を認め能はざるなり(10)。
〇彼の子は死せり、彼の妻は去れり、彼の兄弟と姉妹とは若しありしとするも同じく彼を侮蔑せしならん、然れ(287)ども彼に尚ほ友ありたり、彼等は彼の災禍を聞いて悲めり、彼等は相互に距離を隔てゝ住めり、然れど相通じ相約して列を同うして来れり、美はしきは患難に際する時の友人なり、地上に於ける神の賜物にして之に優るもの他にあるなし、想ひ見る、バシヤンの高原、砂漠の風にギレアデの乳香を薫《くゆ》らせ、ヨブを傷《いたは》らんための贈物を携へて三人の友人が駱駝の轡を駢べて相走るの状を、是れ雲上を翔ける天使の状なり、彼等は慰藉を齎らしつゝ来る、彼等は勿論完全なる慰藉者に非ず、然かり、彼等はヨブの苦痛を解する能はざりし、然れども友は友にして敵に非ず、友の見解の足らざるために彼を斥くる勿れ、唯、彼の好意のために彼を接《う》けよ(11−14)。
〇エリパズは三人の中、年長者にして最も智識と経験とに富めり、ビルダデ之に次ぎ、ゾパル最も少かし、彼等齢を異にして心を同《とも》にせり、彼等は彼等の財を以て、亦、彼等の智識と信仰とを以て悩めるヨブを扶けんとて来れり、聖書は或意味に於ては友徳の福音なり、而して近親の離叛の後に、友人の来援を画きし約百記は確かに友徳の讃美者たるなり(11−12)。
〇然れども来り見ればソモ如何に、彼等砂漠の朦気を透うしてヨブの状を窺ひ見れば、今の彼は昔日の彼に非ず、富者の尊厳は跡を絶ち、身は悪疾の汚気を放ち、彼に誠実の容姿は存せしも、懐疑の皺は彼の額に波立ち、一目して大災難の彼の身と心とに臨みしを見たり、知るべし、彼等、彼に会して七日七夜一言を発する能はざりしを、沈黙は最も雄弁なる説教なり、ヨブの苦悩は余りに大にして、言語の以て癒すべくもあらざりき、癒す能はず、故に之を分有《わか》たんのみ、ヨブの友人は斯かる場合に於ける慰藉者の取るべき唯一の方法を取れり(12−13)。
 
(288)    第三章
 
 ヨブ其誕生の日と胚胎の夜とを詛ふ 〇ヨプ其死して生れざりしを恨む 〇生れて直に死せざりしを悲む 〇墳墓の幸福 〇死蔭の安静 〇絶滅の恩恵 〇絶望の今日
1この後ヨブ口を啓きて自己の日を詛へり、2ヨブ即ち言詞を出して云はく、
3我が生れし日は亡びうせよ、
 男子胎にやどれりと言ひし夜も亦然かあれ、
4その日は暗黒なれ、
 神上よりこれを顧み給はざれ、
 光、其上に照る勿れ、
5暗黒および死蔭これを取もどせ、
 雲其上に宿れ、
 日を暗くする者これを懼れしめよ。
6その夜《よ》は! 暗黒の執ふる所たらしめよ、
 年の日の中に加はらざらしめよ、
 月の数に入らざらしめよ。
7その夜は孕むこと有ざれ、
(289) 歓喜の声この中に興らざれ、
8日を詛ふ者これを詛へ、
 レビヤタンを激発《ふりおこ》すに巧なる者之を詛へ、
9その夜の晨星《あけのほし》は暗かれ、
 その夜には光明を望むも得ざらしめよ、
 又東雲の眼蓋を見ざらしめよ、
10是は我母の胎の戸を闔《とぢ》ず、
 また我目に憂を見ること無らしめざりしによる。
11何とて我は死て胎より出ざりしや、
 何とて胎より出し時に気息《いき》たえざりしや、
12如何なれば膝ありてわれを接けしや、
 如何なれば乳房ありてわれを養ひしや。
13否らずば今は我偃て安かりしものを、
 我は寝ねてこの身は休息《やすら》ひ居りしならん、
14かの荒墟《あれつか》を自己のために築きたりし、
 世の君等臣等と偕にあり、
15かの黄金を有ち白銀を家に充したりし、
(290) 牧伯等《つかさたち》と偕に在りしならん、
16又人しれずして産れし堕胎児のごとく、
 また光を見ざる赤子のごとくにして今は世に在らざりしならん。
17彼処にては悪き者|虐遇《しへたげ》を息め、
 倦憊《うみつかれ》たる者|安息《やすみ》を得《う》、
18彼処にては俘囚人みな共に安静に居り、
 駆使者《おひつかふもの》の声を聞かず、
19小き者も大なる者も同じく彼処にあり、
 僕も主の手を離る。
20如何なれば艱難《なやみ》にをる者に光を賜ひ、
 心苦む者に生命を賜ふや、
21斯る者は死を望むなれどもきたらず、
 これを索むること蔵れたる宝を掘るよりも甚はだし、
22もし墳墓を尋ねて獲ば、
 彼は大に喜ぶなり、然り、踴り歓ぶなり。
23その道かくれ神に取籠られをる人に、
 如何なれば光明を賜ふや。
(291)24わが歎息はわが食物に代り、
 我呻吟は水の如くに流る。
25我が戦慄き懼れし者我に臨み、
 我が怖懼《をぢおそ》れし者この身に及べり。
26我は安然ならず、穏ならず、安息を得ず、
 惟艱難のみきたる。
 
       辞解
 (1)「この後」 七月七夜の沈黙を経て後 〇「自己の日」 誕生日なり、一章四節参照 〇(5)「暗黒およぴ死蔭これを取もどせ」 当時の科学思想たる二元論の教ゆる所に由る、之に随へば昼夜、生死の別は光明と暗黒と、生と死との競争取合より来るものなりと信ぜられたり、即ち其日に限り暗黒をして光明に勝たしめよ、死をして生を敗らしめよとの意なり 〇(5)「日を暗くする者」 日蝕の時の月ならん乎、或は曇天の時の雲ならん乎、或は当時の天文思想に由り、天を翔けて日光を蔽ふ或る想像的奇獣ならん乎、今日に至り之を知るに由なし 〇(8)「レビヤタンを激発《ふりおこ》す者云々」 レビヤタンは或は 〓《わに》なりと云ひ(四十一章一節参照)、或は鯨なりと云ふ、此場合に於ては前節に謂ゆる或る一種の奇獣と見做すを以て適当なりと信ず、「レビアタンを激発す者」は此怪獣を招致する魔術師なり、若し出来得べくんば彼をして其秘術を施さしめ暗黒を起して此不幸なる日を詛はしめよとの意なり 〇「東雲の眼蓋」 東雲を美人の眼瞼に准へし古代の神話《ミソロヂー》に拠る 〇(12)「膝」「乳房」 父の膝と母の乳房
(292)〇(14)「かの荒墟を自己のために築きたりし世の君等云々」 荘大なる古墳を築きし世の貴人の謂ひなるべし、エジプトの尖塔《ビラミツト》を築きしチユーフー王の如き者 〇(15)世に在る時は栄えて今は墳墓の下に休息《やすら》ふ者、貧者も死しては富者と所を同《とも》にす 〇(17)当時の奴隷制度を表す 〇(18)当時の捕虜制度を示す、捕虜は必ず戦勝者の奴僕となりて使役せられたり 〇(23)「其道かくれ云々」 前《さき》の見えざる者、望なき者、暗黒を以て取籠められて身動きの出来ぬ者。
 
       意解
○艱難は遭遇当時に於ては能く之に堪ふるを得べし、然れども時を経て後に其劇痛は感ぜらるゝなり、殊に友人の同情に遇ふて其深痛は感ぜらるゝなり、難難は寒気の如し、涙源之が為めに氷結す、然れども友人の温情に接して、其融解して熱涙の一時に迸るを見る、七日七夜の沈黙の後にヨブの胸間は張裂けんばかりになりぬ、是れ彼が終に口を啓きし所以(1)。
〇神を詛はん乎、能はず、人を恨まん乎、益なし、然らば存在其物を詛はん、然かり、存在の始原たる出生の日を詛はん、然かり、出生に至らしめし胚胎の時を詛はん、生命は今は苦痛なり、生命微りせば苦痛なかりしものを、出生微りせば生命なかりしものを、胚胎なかりせば出生なかりしものを、言ふを休めよ、人の誕生日は祝日なりと、是れ実に災禍の日たるなり、我がために此日を祝せし者は誰ぞ、我は恨む此日の在りしことを、我は恨む此日ありしとするも何者か出て此日を滅せざりしことを、我の不幸は此日より始まれり、我は此日と此時とを詛ふと(1−10)。
(293)〇縦し我れ胎まれたりとするも、縦し我れ生れたりとするも、何故に我は死して生れざりしや、何故に我は闇より出て闇に行かざりしや、或は若し我れ生きて生れしとするも何故に我を撫育する者ありしや、我は今我が父母を恨むなり、我は今、彼等が我を死に委ねざりしを恨む(11−12)。
〇嗚呼、若し然らんには我は既に墓の休息《いこひ》に在りしものを、王侯貴族と所を偕にし、土に枕して眠り、草に蔽はれて休ひしものを、誰か死蔭の安静《やすき》を知る者あらん乎、彼処に王者の虐政あるなし、戦争は歇みて捕虜あることなし、彼処に大小、貧富、主従の別あるなし、彼処は総て静粛にして総て平穏なり、死者の幸福は遙かに生者のそれに優る(13−19)。
〇斯かる休息の供へらるゝあるに神は何故に艱難に居る者に光を賜ひ、心苦む者に生命を賜ふや、彼は死を望むこと蔵れたる宝を索るよりも切なり、彼の今欲する唯一のものは墓なり、生命の快楽は希望にあり、希望にして絶たれん乎、生命は無きに若かざるなり、斯かる者に生命を賜ふは苛酷なり、無慈悲なり、人を憐み給ふ者よ、我に絶滅の恩恵を賜へよ(20−23)。
〇我が食物《くひもの》は歎息なり、我が飲物は水の流れて止まざるが如き我が呻吟なり、我の厭ひし者は我に臨《きた》り、我の怖れし者は我が身に及べり、我の今日は我が希望と正反対なり、我が全身に安息あるなし、擾乱我に臨みて、我に今在るものは唯艱難のみと(24−26)。
〇同情を寄す我が友ヨブよ、汝の悲歎は実に深し、汝は宇宙間に汝の立場を失へり、地は汝を去れり、而して地の去りしと同時に汝は汝の神を見失へり、我は汝のために弁ぜんと欲す、汝は財を失ひしために歎く者にあらざることを、妻子の離散亦何ぞ深く悲むを須ゐん、神に棄てられしの感、是れ今汝を苦しますものなり、汝は今、(294)単独り無限の宇宙に漂流す、汝は今「無限の死」を実験しつゝあり、即ち死せんと欲して死する能はざるの苦、神を万有に探り求めて彼に会合し能はざるの痛を感じつゝあり、然れども待てよ、黒暗淵《やみわた》の面《おも》にありし時に之を裹みし神の霊は、終に再び汝を発見し、汝を懐抱上げ、汝を接吻し、汝を闊き処に歩ませ給ふべし。
 
    第四章
 
 エリパズ語る 〇諭せし者諭さる 〇不義の急速なる消滅 〇之を獅子巣窟の離散に譬ふ 〇深更の異象と其教訓
1時にテマン人エリパズ答へて曰く、
2人もし汝にむかひて言詞を出さば汝これを厭ふや、
 然ながら誰か言で忍ぶことを得んや。
3さきに汝は衆多《おほく》の人を誨へ諭せり、
 垂たる手をば強くせり、
4言をもて躓者をば扶け起せり、
 弱りたる膝を強くせり、
5然るに今この事汝に臨めば汝悶え、
 この事汝に加はれば汝怖惑ふ、
6神を畏むこと是なんぢの信頼《たより》ならずや、
 道を全うすること是なんぢの望ならずや。
(295)7請ふ想ひ見よ、誰か罪なくして亡びし者あらん、
 義き者の絶れし事いづくに在りや。
8我の観る所によれば、不義を耕《たが》へし、
 悪を播く者はその穫《か》る所も亦是のごとし、
9彼等は神の気吹によりて滅び、
 その鼻の息によりて消うす。
10獅子の吼、猛き御子の声ともに止み、
 少き獅子の牙折れ、
11大獅子獲物なくして亡び、
 牝獅子離散す。
12前に言の密に我に臨めるあり、
 我その細声《さゝやき》を耳にするを得たり、
13即ち人の熟睡《うまい》する頃、
 我夜の異象《まぼろし》によりて想ひ煩ひをりける時、
14身に恐懼を催して戦慄きたり、
 我が骨節《ほねぶし》こと/”\く振ひたり、
(296)15時に霊あり、我|面《かほ》の前を過たり、
 我が身の毛よだちたり、
16その物たちとまれり、然れど我はその形を見分つこと能はざりき、
 唯或る象《かたち》のわが目の前に立てるあり、
 時に我しづかなる声を聞けり、云く、
17 人いかで神の前に正義からんや、
  人いかでその造主の前に潔からんや、
18 彼はその僕さへに恃みたまはず、
  其使者をも足ぬ者と見做したまふ、
19 況んや土の家に住をりて塵を基《もとゐ》とし、
  蜉蝣のごとくに亡ぶる者をや、
20 是は朝より夕までの間に亡び、
  かへりみる者なくして永く失逝《うせさ》る、
21 その魂の緒あに絶ざらんや、
  皆悟ること無して死うす。
(297) (1)「厭ふや」耐ふるや、艱難の時に反駁に類する言を聞くは難し、故にエリパズは予めヨブの忍耐を喚起しおくなり 〇(3)「垂れたる手」失望落胆の徴表なり 〇(6)信頼他なし、神を畏るゝことなり、希望他なし、神の道を守ることなり、実際的信仰は此他にあるなし 〇(8)人は其播く者を穫る、(太七〇十六) 〇(9)「気吹」「鼻の息」 砂漠より来る熱風の野の草を枯らすが如く、神の憤怒は悪人を滅す(賽四十〇七参考) 〇(10−11)「獅子」、「狂き獅子」、「少き轡子」、「大獅子」、「牝獅子」 洞穴に巣窟を作る獅子の一団を称ふ、雌雄あり、老ひたる獅子あり、少き獅子あり、而して一朝変災に遭遇すれば彼等と雖も四散せざるを得ず、古代に在て獅子の未だ多く人家に近く棲息しをりし頃は其常性習慣等は人の善く究めし所なるが如し、本書并に詩篇に於て多く獅子に就て述ぶる所あるは、是れ当時の人の日常の話柄なりしが故ならざるべからず、〇(12−21)之をヱリパズの幽霊談と称し、世界文学に有名なり、或人曰く、沙翁のマクベス劇に於ける幽霊も斯の如くに凄然からずと 〇(13)夜の具象」 夢魔ならん 〇(15)「霊」 幽霊なり、形ありて無きが如き者 〇(16)「或る象」 奇異なる或者、物か霊か我れ知らず、然れども声は「或者」より出で来れり 〇(18)「僕」「使者」 天使なり、神に直接に仕事《しゞ》するもの、肉なる人間以上の者なり 〇(21)「その魂の緒あに絶えざらんや」 蜉蝣の如き人の失せざる理由あらん(?)、原文の意義不明にして解し難し。
 
       意解
〇言ふを好まず、然れども言はざるを得ず、言へば友の心を傷むるの虞れあり、然れども言はざれば彼れ癒えざるならん、苦める友に対する吾人の義務は難し、能く之を果たさんとするに神の特別なる指導を要す(1)。
(298)〇諭すは易し、諭さるゝは難し、諭す時の快楽、諭さるゝ時の苦痛、而してヨブは今諭さるゝ者の地位に立てり、慈善家にして慰藉者たりし彼が此地位に立ちしことの苦しさよ、是れ亦彼に取り確かに一つの試練たりしなり、能く慰むる者必しも能く慰めらるゝ者に非ず、ヨブは信仰を以て人を勧めたり、而して今は同じ信仰を以て自己を勧むること能はざりき、患難が吾人の信仰に及ぼすの結果斯の如し、吾人、平生吾人の信仰に就ても誇るべからざるなり(2−6)。
〇エリパズは半ば人生を解して半ば之を解せざりし、罪なくして亡びし者なきに非ず、亦、義くして絶たれし者あり、是れ無しと断言し、是れ有りと確言するは人生の半解と云はざるを得ず、然り、義人の絶たれしことあり、然れども彼が死を以て唱導せし正義の絶たれしことなし、然り、義人の此虚偽の世に於て絶たれしことあり、然れども彼は永久に絶たれしに非ず、義人は死して活く、是れキリストが吾人に教へ給ひし所なり、ヱリパズ未だキリストを知らず、故に未だ此事を解せざりし、亦ヱリパズの如くにキリストを知らざる者が人生を解すること概ね皆な斯の如し(7)。
〇ヱリパズの義人観は半ば誤れり、然れども彼の悪人観は正鵠を失はざりし、悪人は不義を耕し、悪を播いて而して之を穫る、其滅亡ぶるや急速なり、恰かも虚木《うろのき》の仆るゝが如し、繁茂せしかと見る間に倒る、神の憤怒の気吹に遭へば彼等は熱風に触れし野の青草の如くに枯る、御子巣窟に在て吼え、綿羊山羊の類は其声を聞いて戦慄す、曰く獅子族の猛威延びて千万歳に及ばんと、然れども看よ、神の一撃を其上に加へ給ふあれば、洞穴に猛獣は絶え、其一族悉く離散す、其牙は折れ、其声は息み、雌雄所を異にし、老若路頭に迷ふ。……………叢林の獅子族然り、罪界の豪族然り、彼等の安固なるが如くに見ゆるは暫時のみ、或は二十年或は三十年、永くして百年に(299)満たず、而かして彼等は一朝にして滅ぶ、而かして後世の人は彼等の迹を尋ねて曰ふ、閥族の余〓《よげつ》は何処に在るかと(8−11)。
〇細き声は之を深き静粛の裡に於てのみ聞くを得べし、預言者ヱリヤは「静かなる細微《ほそ》き声」を聞かんがためにはホレブ山の寂漠に赴かざるを得ざりき(王上十九〇十二)、エリパズも亦是を深更粛々として万籟声を潜むる時に於て聞けり、異象前にあり、夜色凄然たり、恐怖全身を襲ひ、感能過敏を極むる時に、彼は平凡の如くに聞えて而かも真理中の真理たる此事を聞けり、即ち「人いかでか神の前に潔からんや」と、世の擾々たるが故に吾等は日々に此声を聞けども之を心に留めず、常に清浄を以て自から許し、蜉蝣の如き者なることを覚らず、然れども時に或ひは山頂に立て青空と独り相対する時、或は洋面に浮んで独り洪波に揺らるゝ時、吾等は吾等の微と小とを感ずる甚だし、思ふ実に我は空間の一点、蒼海の一滴、我れ神の前に何かあらんと、ヱリパズも亦曾て斯かる経験に由りて神の大に対する彼の小と、其聖に対する彼の不浄とを覚りしならん、彼れ今此実験を開陳してヨブを誨へんとす、其想の荘、其辞の美、文界の珠玉と称すべし(12−21)。
 
    第五章
 
 エリパズ更らにヨブを諭す 〇災禍は地より起らず人より生ず 〇智者は其智に仆る故に弱者慰む 〇神に医されし者の平安
1請ふなんぢ※[龠+頁]《よ》びて看よ、誰か汝に応ふる者ありや、
 聖者の中にて誰に汝むかはんとするや。
(300)2夫愚なる者は憤恨《いきどほり》のために身を殺し、
 癡《つたな》き者は嫉※[女+冒]《ねたみ》のために己を死しむ。
3我みづから愚なる者のその根を張るを見たり、
 然れども忽にしてその家は詛はれたり、
4その子等は助援を獲ることなく、
 門にて屈辱《はづかしめ》を受くれども人の之を救ふあるなし、
5その穡《かり》とれる物は飢たる人これを食ひ、
 荊棘の籬の中より之を奪ひいだし、
 羂その所有物にむかひて口を張る。
6 災禍は塵より起らず、
  艱難《なやみ》は土より出ず、
7 人の生れて艱難をうくるは、
  火の子の上《かみ》に飛がごとし。
8もし我ならんには我は必らず神に告求め、
 我事を神に任せん、
9神は大にして測りがたき事を成したまふ、
 其不思議なる事を為たまふこと数しれず、
(301)10雨を地の上に降し、
 水を野の面に遣《おく》り、
11卑き者を高く挙げ、
 憂ふる者を引興して幸福ならしめたまふ、
12神は狡《さか》しき者の謀計《はかりごと》を敗《やぶ》り、
 その手業を成就ること能はざらしむ、
13神は慧き者をその自分の詭計《たくみ》によりて執へ、
 邪なる者の謀計をして敗れしむ、
14彼等は昼も暗黒《くらき》に遇ひ、
 卓午《まひる》にも夜の如くに摸《さぐ》り惑ふ、
15神は悩める者を救ひたまふ、
 口の剣《つるぎ》と強き者の手とを免かれしめたまふ、
16 是をもて弱き者に望あり、
  悪《あし》き者口を閑づ。
17神の懲したまふ人は幸福なるかな、
 然《され》ば汝全能者の※[人偏+敬]責《いましめ》を軽んずる勿れ、
18神は傷け又裹み、
(302) 撃て痛め又その手をもて善く医したまふ、
19彼はなんぢを六の艱難の中にて救ひたまふ、
 七の中にても災禍なんぢにのぞまじ、
20饑饉の時にはなんぢを救ひて死を免かれしめ、
 戦争の時には剣の手を免れしめたまふ、
21汝は舌にて鞭たるゝ時にも隠るゝことを得、
 壊滅《ほろび》の来る時にも懼るゝこと有じ、
22汝は壊滅と饑饉を笑ひ、
 地の獣をも懼るゝこと無るべし、
23田野の石なんぢと相結び、
 野の獣なんぢと和がん、
24汝はおのが幕屋の安然《やすらか》なるを知ん、
 汝の住処を見まはるに欠たる物なからん、
25汝また汝の子等《こども》の多くなり、
 汝の裔の地の草の如くになるを知ん、
26汝は遐齢《よきよはひ》におよびて墓にいらん、
 宛然麦束の其時にいたりて倉に運ばるゝ如くならん。
(303)27視よ我等が尋ね明めし所かくのごとし、
 汝これを聴て自ら知れよ。
 
       辞解
 (1)「※[龠+頁]びて看よ」 喊叫びて扶助を乞ひ看よ、神に逆ふて誰も汝に応ふる者はあらじ、罪を天に得て訴ふる所なし 〇「聖者」 天使なり、汝に応ふるの人あるなし、亦、天使あるなし 〇「向はんとするや」 面を向けて援助を仰がんとするや 〇(2)「愚者」 頑愚者なり、己れを以て智《さと》しと做し、他者の訓誨を納れざる者なり(箴言一〇七) 〇「憤怒の為に身を殺す」 愚者非理を行はんとして神の強硬なる抵抗に遇ひ、激憤を発して自から敗滅を招く 〇「癖き者」 計策に富むも真実に欠乏して返て失敗を招く者 〇「嫉※[女+冒]」 情火なり、熱憤と訳するを得ん乎 〇(3)「根を張る」 勢力を張り、繁栄を致すなり 〇「忽にして」 不意に、急速に、何人も敗減を預期せざりし時に 〇(4)「門」 邑《まち》の門はパレスチナ地方に於ては公判の行はるゝ所なり、或は之を「街衢《ちまた》の座」とも云ふ(廿九〇七) 〇「門にて屈辱を受く」 衆人注視の前にて辱めらる 〇(5)「荊棘の籬の中より云々」 富者|籬《かき》を以て家を繞《めぐ》るも何の用なし、時到れば其産は他人の奪ふ所となる 〇「羂其所有物に向ひ口を張る」 敗亡の羂は悪人の産の其中に落来らんことを待ちつゝあり、彼が安然を叫ぶ時に羂は既に彼の面前に在り、是れ或は自身の設けしものならん(十三節参照)、或は神が彼のために設けしものなりとも云ふを得べし 〇(6)「災禍は塵より起らず」 植物の如くに天然的に土地より生ずるものに非ず 〇「火の子の上に飛ぶが如し」 人として必然(304)のことなり 〇(15)「口の剣」 悪人の讒誣なり、剣の中最も怕るべきものなり 〇(19)「六の艱難」「七の中」 多数の災禍の中よりとの意なり。義者に患難多し、然れどヱホパは彼を其中より救出し給ふ(詩篇三十五〇十九)
〇(21)「舌にて鞭たる」 如何なる鞭撻よ、而かも偽善国の社会に此種の鞭撻の盛に行はれざる所あるなし 〇(22)「壊滅と饑饉を笑ふ」 其彼に害なきを知ればなり、之を恐れざるのみならず、之を笑ふ、心中の慰安を示す
(23)「石と結び、獣と和す」 人と和するのみならず、亦天然と和す、是れ最終最大の平和なり(賽五五〇十二、十三参照)。
 
       意解
○神は愚者(頑抗者)を滅さず、彼は頑抗に由りて自己を亡すなり、神は癡者(計策者)を殺さず、彼は計略を以て自己を死なしむ、敗滅は神に因らず、自己に因る、滅亡を以て神を恨むべからず、只、自己の責むべきあるのみ(2)。
〇濠を深くし、塀を高くして賊を守るも何の用かある、衷にして正しからざらんか、倒産の患目前に在り、賊は外に在らず、中にあり、富んで義からざれば荊棘の籬以て財貨を守るに足らず、正義は確かに財産保全のための最良策なり、而かも世に此策を講ずるの富者甚だ尠し(5)。
〇災禍と云ひ、艱難と云ひ、素是れ草木の如くに地より生ぜしものにあらず、是れ人ありて以来始めて此地に臨みしものなり、災禍は人の作りしものにして罪の結果なり、人は生れて罪を犯し艱難を招く、恰かも火の子の上に飛ぶが如し、艱難は人の附着性なり、憐むべきかな彼れ、故に慈愛の神は永久の喜楽に入るの途を彼のために(305)供へ給へり(6、7)。
〇人生に煩悶錯雑多し、吾等自から之を処理せんと欲して能はず、故に吾等は之を神に任せんかな、神は大にして測り難きことを行ひ給ふ、彼が人生を識り給ふは医師が身躰を知るよりも密なり、彼は縺れたる糸を解き給ふ、彼に処し難きの艱難あるなし、煩悶は家庭の不和なるか、之を神に任せよ、錯雑は社会の混乱なる乎、之を神に任せよ、雨を地の上に降らし、水を野の面に遣り給ふ神は恩恵の普きを以て不和を其根底に於て絶つを得べし、卑き者を高く挙げ、憂ふる者を引興して幸福ならしめ給ふ神は公平を此世に致して混乱を其原因より治するを得べし、神を識ること是れ智慧の姶なり、神に任かすこと、是れ安静に入るの初歩なり(8−12)。
〇世の才士(慧き者)は自分の智慧に依りて亡び、其策士(邪なる者)の謀計は敗らる、彼等は成効(昼)の中に失敗(暗黒)に遇ひ、全盛の時(卓午)にも惑乱周章することあり(夜の如くに摸り惑ふ)、是を以て弱き者に望あり、悪き者口を閉づ、成効は才能に因らず、神の指導に因る、弱者の希望は信頼に在り、世は計策と信仰との競争場たり、而して前者は恒に先きに成効して後に失敗するものなり、弱者成効の希望は此天則に基ゐす(13−16)。
〇神の懲し給ふ者は幸福なり、然れば汝、全能者の※[人偏+敬]責を輕んずる勿れ、神は傷け給ふのみならず、亦癒し給ふ、然り、永久に癒し給はんがために一時、傷け給ふなり、六難の汝に臨むことあらん、然れども汝能く之に耐えよ、然れば第七難の汝に臨む時に汝は凡ての艱難より救出さるべし、汝に臨む艱難の多きが故を以て神を恨む勿れ、終まで忍ぶ者は救はるべし、汝の忍耐をして神の忍耐に応はしめよ、然らば彼は恩恵を以て竟に汝に譲らざるを得ざるに至るべし(17−19)。
〇神の懲治の結果は是れなり、即ち汝は人の悲む時に悲まざるに至るべし、汝は饑饉の中に在て飢えず、戦争の(306)時に際して平然たるべし、而已ならず、誹謗者の舌も汝を傷くる能はざるべし、壊滅の汝の週囲に臨むことあるも、全能者に頼る汝のみは懼るゝことあらじ、然り、汝は壊滅と饑饉を見て笑ひ、暴虐の人(地の獣)をも懼るること無かるべし、是れ皆な神を識る歓ばしき結果なり、而して神を識らんと欲せば神に懲らしめらるゝを要す、恰かも一度びは悪疫に犯さるゝの利益なるが如し、一度び其犯す所となりて、万病も犯すこと能はざるに至るべし、然らば撃たれよ、神に撃たれて強き者となれよ(20−22)。
〇汝の安然は之に止まらざるべし、汝は万物と和するに至るべし、敵は汝を傷くる能はず、而して木石禽獣は汝の友となるべし、神と和らぎて汝は宇宙と和らぐに至るべし、而して平穏再び汝の幕屋に臨み、子女、汝の膝下に繁え、汝は老境の悲痛を覚らずして、果殺の熟して地に落るが如く、苦痛なくして汝の墓に入るを得べし、視よ、是れ我等が生涯の経験として尋ね得し所なり、今、之を汝の前に述ぶ、汝、之を聴て大に悟る所あれ(23−27)。
〇然り、ヱリパズよ、汝の経験は深くして汝の言辞は美なり、然れども汝は未だ我友ヨブの苦痛の真髄に入らざるなり、汝の人生観は未だ浅し、故に汝の言は未だ以て痛めるヨブを慰むるに足らず、我、汝の誠実と老熟とを愛す、然れども汝の信仰の未だ世の平凡宗より速く離れたる者にあらざることを認めずんばあらず。
 
    第六章
 
 ヨブ其苦痛の真因を語る 〇其友の無情を責む 〇彼等の再考と同情とを促がす。
1ヨブ応へて曰く
2願はくは我|憤恨《いきどほり》の善く権《はか》られ、(307)わが懊悩《なやみ》の之に対して天秤《はかり》に懸られんことを
3然すれば是は海の沙よりも重からん、
 斯ればこそ我言|躁妄《みだり》なりけれ、
4それ全能者の箭わが身に入り、
 わが霊魂その毒を飲り、
 神の畏怖我を襲ひ攻む。
5野驢馬あに青草あるに鳴んや、
 牛あに食物あるに吽《うな》らんや、
6淡き物あに塩なくして食ふを得んや、
 蛋《たまご》の白《しろみ》あに味あらんや、
7わが心は之に触《ふる》ることを厭ふ、
 是れ恰かも我が厭ふ所の食物のごとし。
8願はくは我求むる所のものを得んことを、
9願はくは神わが希ふ所の物を我に賜はらんことを、
 願はくは神われを滅ぼすを善《よし》とし、
 御手を伸て我を絶《たち》たまはんことを、
10然るとも我は尚みづから慰むる所あり、
(308) 我は烈しき苦痛の中にありて喜こばん、
 是は我|聖者《きよきもの》の言に悖りしことなければなり。
11我何の気力ありてか尚俟ん、
 我の終いかなれば我なほ耐へ忍ばんや、
12わが気力あに石の気力のごとくならんや、
 我肉あに銅のごとくならんや、
13わが助われの中に無にあらずや、
 救拯我より逐はなされしにあらずや。
14憂患《うれへ》にしづむ者はその友これを憐れむべし、
 然らずは彼は全能者を畏るることを廃ん、
15わが兄弟はわが望を充さゞること渓川のごとし、
 消失する渓川の流のごとし、
16是は氷のために濁り、
 雪その中に蔵る、
17然れど温暖《あたゝか》になる時は消ゆき、
 熱くなるに及てはその処に絶え果つ、
(309)18隊旅客《くみたびびと》身をめぐらして去り、
 空曠《むなし》き処にいたりて亡ぷ、
19テマの隊旅客これを望み、
 シバの旅客これを慕ふ、
20彼等これを望みしによりて愧恥《はぢ》を取り、
 彼処に至りてその面《かほ》を赧くす、
21かく汝等も今は虚しき者となりたり、
 汝等は怖ろしき事を見れば則はち懼る。
22我あに嘗て汝等に我に予へよと言ひしこと有んや、
 汝等の所有物《もちもの》の中より物を取て我ために※[食+貴]《おく》れと言ひしこと有んや、
23また敵人《あだびと》の手より我を救ひ出《いだ》せ、
 虐《しへた》ぐる者の手より我を贖へと言ひしことあらんや。
24我を教へよ、然らば我黙せん、
 請ふ我の過てる所を知せよ、
25正しき言は如何に力あるものぞ、
 然《さり》ながら汝等の規諌《いましめ》は何の規諌る所あるなし、
26汝等は言を規正《いましめ》んと想ふや、
(310) 望の絶たる者の語る所は風のごときなり、
27汝等は孤子のために籤を引き、
 汝等の友をも商貸《あきなひもの》にするならん、
28今ねがはくは面を我に向けよ、
 我は汝等の面《かほ》の前に偽はらず、
29請ふ再びせよ、不義あらしむる勿れ、
 請ふ再びせよ、此事においては我正義し、
30我舌に豈不義あらんや、
 我口あに悪を弁へざらんや。
 
       辞解
(1)「憤恨」 五章二節のものと同じ、神と争ふが故に発する熱情 〇「懊悩」 或は災禍と訳す、災禍を感ずるより来る懊悩 〇(3)「海の砂よりも重からん」 重きもの海の砂に較べらる、箴言廿七〇三を見よ 〇「躁妄なりけれ」 混乱するなれ、先後背馳するなれ 〇(4)「箭我が身に入る」 災禍を野獣を狩るために用ゆる毒矢に譬ふ、懊悩は肉躰的ならず、心霊的なり、故に我が霊魂その毒を飲めりと云ふ、其毒は神の畏怖なり、霊魂の中心に達すと 〇(5)野驢馬の鳴くに故あり、彼に青草なければなり、我の懊悩んで悲鳴を発するに故あり、我に神の慰藉絶へたればなり 〇(6)蛋の白に味あるなし、之に塩を加へざれば食ふこと能はず、我の生命も今は全(311)く味なきものとなれり、希望絶え、慰藉失せて、淡味、食ふに堪へざる者となれり、然かも尚ほ之を食はしめらる、故に我は泣き喊ぶなり 〇(8)「願はくは我が求むる所を得んことを」 是れ我が失ひし財貨に非ず、亦我を去りし不実の妻に非ず、其何物たる乎は汝等知らざるべし、然れども我は是れなきが故に泣き悲むなり 〇(9)「我が希ふ所の物」 勿論死なり、静かなる墓なり 〇(10)「聖者の言」 神の言なり、ヨブ之れに悖りしことなしと云ふ、彼れ時には自己を義とし、時には自己の弱きを表白す、彼の言は実に混乱れたり、〇(13)「我が助、我が中に無」 ヱホバよ、我れ知る、人の途は自己に由らず、且つ歩行む人は自から其|歩履《あゆみ》を定むること能はざる
なり(耶十○廿三) 〇「全能者を畏るゝことを廃めん」 友人の同情なきがために神に対する信仰を廃するに至らん、懊める者の言としては聴くべし、心の確実なる者の言としては聴くべからず 〇(15)「渓川の如し」 砂漠の渓川なり、所謂 wady と称し潤滑常ならざる者なり、降雨又は融雪の時に水あり、乾燥の時に無し、旅人水を望んで是に至つて失望すること多し 〇(16)「氷のために濁り」 融雪の時に濁流滾々たり 〇「雪其中に蔵《かく》る」 雪の変じて斯くなりしもの、或は雪花其上に落ちて消ゆ 〇(18)「隊旅客」 所謂 Caravan なり、隊を組みて砂漠を旅行《たび》する者 〇「身を回らして去る云々」 水を尋ねて渓川に至り、之れなくして去り、空曠の処に至り渇の癒え難きに由りて死す 〇(19)「テマ」 ヱリパズの本国なり、隊旅客の貿易を以て有名なりし 〇「シバ」 一章十五節を見よ 〇(20)彼等涸渇せる渓川に水を望んで失望せり 〇(21)「汝等も今は虚しき者となりたり」 汝等三人の友人も今は涸れたる渓川の如き者となりたり 〇「怖ろしき事を見れば即ち懼る」 渓川の乾燥せる地に達すれば其吸収する所となるが如し、我が患苦を視て之を慰むる能はず、患苦に接すれば苦言を発す、頼むに足らざる慰藉者なるかな(十六〇二) 〇(22)我嘗て汝等より何物をも求めしことなし、我は汝等の知るが如く独立(312)の人なり、我は唯、汝等の同情と友誼とを要求するのみ、然るに汝等は今、此同情をも与ふる能はず、我は実に汝等に就て失望す 〇(23)「敵人の手より救ひ出せ」「贖へ」 人、若し敵人又は草寇の捕ふる所となれば、金を払ふて之を救ひ出すは友人の義務たりしなり、亜拉比亜地方に於ては此制度今に至りても行はる、ヨプは曰ふ、彼は嘗て斯かる貴任を彼の友人に負はしめしことなしと 〇(24)「我を教へよ」 我が苦痛を※[病垂/全]すに足るの智識を供せよ 〇(26)「言を規正めんと想ふや」 我を規定めずして我が言を規正めんと欲ふや、言語の上に我を諌言めんとするや 〇汝等知らずや望の絶たる者の語る所は風の如きものなることを、之に秩序なく、聯結なきは当然なり、然るに汝等は斯かる者の言を提へて、彼を責む、汝等の無情も亦大ならずや 〇(27)「孤子のために籤を掣《ひ》く」、昔時の習慣として人、若し負債を遺して死することあれば、彼の債権者は彼の孤子を遺産の中に算し、籤を以て之を取り、之を奴隷として鬻ぎ、以て其損失の一部分を償ふを得たり 然れども其、之れを為すことの無慈悲の所行たりしことは当時の人と雖も之を認めたり、〇「友を商貨にする」 孤子を売るに均しき不仁の動作なり、然れども残忍の人は此事をも敢て為したりき 〇(28)「面を我に向けよ」 我が同情者となれ、我に利益あることを語れ、面を人に向けるとは彼に好意を表すとの熟語なり 〇(29)「再びせよ」 再考せよ、又は、汝の言ふ所を改
めて、我に臨みし災禍に就て更らに新たなる見解を懐けよ 〇「此事においては我正義し」 此災禍の一事においては我に不義あることなし、我は我が犯せし罪悪のために神に責められつゝある者に非ず 〇(30)「我舌に豈不義あらんや云々」 我が舌、豈、殊更らに不義を構造せんや、我が口、豈、悪を善より判別し得ざらんや、我言を信ぜよ、我を狂者と做す勿れ、我は未だ智覚を失はず、汝等は前の日に於けるが如く我が言を信じて可なり。
 
(313)       意解
〇我に憤恨あり、我は此事を識認す、然れども我が友は我が憤恨の如何に深きかを知らず、若し彼等にして之を知らんには彼等は其海辺の砂よりも重きを覚らん、彼等は我が懊悩の所以を知らず、彼等は之れ我が身に臨みし災禍のためなりと思へり、然れども是れ我を識らざるの甚だしきものなり、彼等の言の以て我を慰むるに足らざるは宜べなり(2、3)。
〇我れ我が苦痛の所以を汝等に告げん、我は神の傷くる所となりたり、我の愛し、敬し、縋り来りし我が神は我が心の奥底にまで其毒矢を送り給へり、我は為めに彼の聖顔を見失ひたり、慈愛の神たる彼は今は忍残の神として我が眼に映ずるなり、是れ我が懊悩の真因なり、汝等此事を知らずして、我を慰めんとするも無益なり、我は今は尋常の人の味はざる苦痛を味ひつゝあるなり(4)。
〇神の聖顔、我が信仰の眼より絶へて、我が生涯は無味無意義のものとなりたり、我が呻くは全く之がためなり、恰かも野驢馬が青草なくして鳴くが如し、牛が食物なくして吽るが如し、我が存在の目的物絶えて、我は生きんことを欲せざるに至れり(5、6)。
〇故に我は静かに眠らんことを求ふ、我は忘却の墓に降らんことを祈る、我は我が為し得る丈けの事を為せり、然かも神は我を悪しゝと認め給へり、我、今より更らに努めて何の益あらんや、我に石の気力あるなし、銅の堅固《かたき》なるなし、人力尽きて後に我れ何をか為さん、今や我れ自分を助くる能はず、而して神の救ひ我に臨らず、是れ我が死と墓とを希ふ所以なり(8−13)。
〇我れ汝等友人を何に譬へん、然り、砂漠の渓川に譬へん、我、慰藉に渇きて、之を求めんと欲して、汝等に到(314)れば汝等既に衷に涸れて同情の一滴を留むるなし、否な、是に止まらずして、返て苦言を発して我を諷す、願ふ、再び汝等の我に対する態度を更めよ、我が昔日のヨブなることを忘るゝ勿れ、今、我が富、我より飛び去り、汚穢《けがれ》我が身に臨みしと雖も、我が霊魂に正義の念絶えず、我に慰藉の水を供せよ、而して友たるの本分を尽せよ、我は懼る、汝等の此事を為さゞるが故に、我は終に絶対的無神論者となりて、全能者を畏るゝことを廃するに至らんことを(14以下)。
〇嗚呼、我友ヨブよ、汝も亦誤れり、汝の友は汝の苦痛の真因を識らず、故に汝を慰むる能はず、然れども汝も亦汝の友を識らず、故に彼等を責むる、亦、酷に過ぎたり、汝の曰へるが如く、汝を傷けし者は神なり、而して神の傷けし者は神のみ之を癒すを得べし、汝の友、豈神ならん乎、彼等如何でか、心の傷を※[病垂/全]すを得んや、汝も世の多くの悲痛者と等しく、人より神の慰藉を求めつゝあるなり、患苦に処しても、人に対して寛大なれ、最も好き友なりと雖、其為し得る所は知るべきのみ、友を恨むに神の能力の欠乏の故を以てする勿れ。
 
    第七章
 
  ヨブ神に向て叫ぶ 〇彼の生命の旦夕に迫りしを述べて神の憐憫を仰ぐ 〇苦痛に堪え得ずして神の暫時彼を離れ給はんことを願ふ。
1それ人の世にあるは戦闘にあるがごとくならずや、
 又其日は傭人の日のごとくなるにあらずや、
2奴僕《しもべ》の夕暮《ゆうくれ》を冀ふが如く、
(315) 傭人のその価を望むがごとく、
3我は苦しき月を得させられ、
 憂はしき夜をあたへらる、
4我臥せば乃ち言ふ、
 何時夜あけて我おきいでんかと、
 曙まで頻に輾転《まろ》ぶ、
5わが肉は虫と土塊とを衣服となし、
 我皮は愈てまた腐る、
6わが日は機の梭よりも迅速《すみやか》なり、
 我望む所なくして之を送る、
7想ひ見よ、わが生命は気息《いき》なる而已、
 我目は再び福祉《さひはい》を見ること有らじ、
8我を見し者の眼《まなこ》かさねて我を見ざらん、
 汝目を我にむくるも我は已に在ざるべし、
9雲の消て逝《さる》がごとく、
 陰府《よみ》に下れる者は重ねて上りきたらじ、
10彼は再びその家に帰らず、
(316) 彼の郷里も最早かれを認めじ。
 
11是故に我はわが口を禁《とゞ》めず、
 我心の痛によりて語《ものい》ひ、
 わが霊魂の苦しきによりて歎かん、
12我あに海ならんや、〓《わに》ならんや、
 汝なにとて我を守らせおきたまふぞ、
13わが牀《とこ》われを慰め、
 わが寝床わが愁を解んと思ひをる時に、
14汝夢をもて我を驚かし、
 異象をもて我を懼れしめたまふ、
15是をもて我心は気息の閉んことを願ひ、
 我この骨よりも死を冀がふ、
16われ生命を厭ふ、我は永く生ることを願はず、
 我を捨おきたまへ、我日は気息のごときなり、
17人は如何なる者なればとて汝これを大なる者と見做し、
 之を汝の聖心に留め置き、
(317)18朝ごとに之を看そなはし、
 時わかず之を試みたまふや、
19何時まで汝われに目を離さず、
 我が津を咽む間も我を捨おきたまはざるや、
20人を鑒みたまふ者よ、我罪を犯したりとて汝に何をか為ん、
 何ぞ我を汝の的となして我にこの身を厭はしめたまふや、
21汝なんぞ我の愆を赦さず、
 我罪を除きたまはざるや、
 我いま土の中に睡らん、
 汝我を尋ねたまふとも我は在《あら》ざるべし。
 
       辞解
 (1)「戦闘」 強者に強ひられて已むを得ず従事する戦闘 〇「其日は傭人の日」 其一生は傭人の一日の如くならずや 〇(2)「夕暮」 暮の休息 〇「価」 労働息んで後の其賃銀 〇(3)「得させられ」「与へらる」 自から求めて得しにあらず、強圧者のあるありて強ひられて得させられしなり 〇(4、5)能く象皮症患者の苦痛を写す辞なりと云ふ(二章七、八節を見よ) 夜、眠る能はず、皮膚は癒てはまた腐る、膿は虫を生じ、塵埃、之に附着して皮を為す、故に曰ふ「虫と土塊とを衣服となす」と 〇(6)「我が日」 我が一生、〇其迅きこと梭の如し、(318)其短きこと風(気息)の如し、其はかなきこと雲の如し 〇(9)「蔭府」 死者の往くべき所、謂ゆる地獄にあらず
〇(10)「彼は再び其家に帰らず」 往く者は流水の如し、復た帰らず、死者、時に其故郷を訪ふとは埃及人の迷信なりし、ヨブは曰ふ、我れこを信ぜずと 〇(11)「口を禁めず」「語ひ」「歎かん」 思ふ存分に苦痛を外に発して少しく慰まんと 〇(12)「海」 大水の意なり、埃及のナイル河を指して云ひしなるべし 〇「〓」 多くナイル河に産せり、河は汎濫を防がんために土塊を以て之を守るの必要あり、〓は人に危害を加へざらんが為めに羂を以て、或ひは釣《はり》を以て之を捕ふるの必要あり、二者、共に監視を要す、ヨブ神に叫んで曰く、我は果して危険物なる乎、汝、何故に我を束縛し、我を圧迫し給ふやと 〇(14、15)夢魔、厭息、亦、象皮症の徴候なりと云ふ、著者は此種の癩病患者の実験を画きつゝあるなり 〇「この骨」 この体、即ち生命 〇(16)「我を棄置き給へ」 我を放任し給へ、我を汝の敵とも友とも思ひ給ふ勿れ、失望の極の辞なり 〇(17、18)詩篇第八篇参考 〇(19)「津を咽む間」 瞬間、〇(20)「人を鑒み給ふ者」 勿論神なり、彼の愛する者を看護し、彼の悪む者を監視する者、ヨブは今は神に監視せらるゝ者なりと想へり 〇「我れ罪を犯したりとて云々」 我は我たり、汝は汝たり、我が罪は我れ惟り之を負はん、汝、是れがために我を苦むるに及ばずと、ヨブの思想錯乱して罪の何たる乎さへを忘却す 〇「我を汝の的となし」 前章四節参考 〇(21)我れ夕に死して墓に下らん、汝、朝に尋ぬるも見たまはざるべし、ヨブ、神を怨む、而かも神を棄てず、彼の声は父の援助を※[龠+頁]求むる子の声なり。
 
       意解
〇艱苦に際して我れ我が友に語るも益なし、我は寧ろ我が神に語らん、否な、神、或ひは我が愁訴《うつたへ》を聴き給はざ(319)らん、然らば我は独り語らんと、ヨブは友に対して語る時は費め、神に対して語る時は訴へ、独り語る時は歎き且つ悔ゆ、而かも進歩は其中に在り。
〇人生は戦闘なり、人の斯世にあるは徴発されし兵士の強ひられて戦場に臨むが如し、彼は一日も早く服役を終へて温き彼の故郷に還らんことを希ふ、人生は亦労苦なり、傭人の貧に責められて止むを得ず貴人の田畝に働くが如し、彼は一刻も早く鋤犂を棄て涼しき夕影に疲れし彼の躰躯を休めんことを望む、人は自から好んで斯世に来りしにあらず、彼は試みられんために 「或る他の者」に遣されしなり、然れば彼の試練の日の一日も短からんことを求ふ(1−3)。
〇神の試練に遭ふて其恩恵は屡々圧迫として感ぜらる、我が計画は悉く毀たれ、我が希望は悉く絶たれて、我は神が我を殺さんと為しつゝあり給ふかの如くに感ず、神怒、我が頭上に迫り、墳墓、我が足下に開いて、我は今にも粉砕されんかの如くに感ず、ヨブは今、斯境遇にあり、故に悲鳴動哭して神の憐憫を乞へり、彼は未だ撃つ手の癒す手なるを知らず、永生の希望の死の仮面を蒙りて彼に臨みつゝあるを認めず、彼は今、神に駆逐されつゝあり、然れども光明に向て駆逐されつゝあることを知らざるなり。(1−10)
〇ヨブは彼の苦悶を口に発して少しく之を癒さんとせり、煩悶者の言辞は辞義なりに之を解すべからず、そは是れ彼れの心の状態の発表に過ぎざればなり、ヨブの言辞は彼の真意にあらず、其乱調のみ能く彼の心情の状態を示せり、彼の友人は此事を悟らずして、ヨブを彼の発せし言辞の儘に解して大に彼を誤解したり、慰藉の術、決して容易ならず、此|情《つれ》なき誤謬に陥りし者、豈、惟り、ヨブの友人のみならんや。(11−12)
 
(320)     〔時と心 他〕
                     明治37年8月18日
                     『聖書之研究』55号「所感」
                     署名なし
 
    時と心
 
 信は十字架上のキリストを信ずることにして過去に属す、愛は今の人を愛することにして現世に属す、而して望は天国を望むことにして未来に属す、信、望、愛は『時』に対する基督教徒の心の態度なり、我儕、永久にヱホバの神を崇めん。
 
    宗教と哲学
 
 神を神自身に於て観る、是れ宗教なり、神を物と人とに於て観る、是れ哲学なり、仰いでは宗教あり、伏しては哲学あり、神を天に見、亦、地に索む、我儕、何れの処にもヱホバの神を見ん。
 
    剣と鋤
 
 我儕は奇運《チヤンス》を信ぜず、故に信を剣戟の結果に措かず、我儕は道理を信ず、故に正直なる平和的労働の結果を信(321)じて疑はず、剣は確かに鋤に優さるの征服器にあらざるなり。
 
    人の怒と神の義
 
 人は利のために争ふ、而かも神は人をして神の正義を世に行はしめ給ふ、歴史は利益の衝突なり、而かも之と同時に亦正義の遂行なり、神の指導の許に人の怒も終に神の義を行ふに至る、争闘は凡ての手段を以て之を避けざるべからず、然れども人の強ひて之を開くに及んで我儕神を信ずる者は其結果を懼れず。
 
    無抵抗主義の勝利
 
 我儕は悪人の侵害に抵抗せず、故に彼等は我儕を侮つて曰ふ、与かり易きは基督信者なりと。
 然れども彼等は未だ神の我儕のために戦ふを知らざるなり、神は先づ悪人の品性を更らに一層堕落せしめ、而して彼等をして竟に躬から身をも霊をも失はしめ給ふ、怕るべきことにして神と其受膏者とに反くが如きことはあらず、故に詩人は訓誡を述べて曰く、子にくちつけせよ、恐らくは、彼れ怒を放ち、汝等途に滅びんと(詩篇第二篇十二節)。
 
    幸福なる基督信者
 
 要なき時は侮蔑、擯斥せられ、要ある時は呼出されて重荷を負はせらる、幸福なるは基督信者なり、彼は余りに多く神に恵まるゝ者なるが故に、世は彼の幸運を妬んで寸刻も彼に休息を与へんと欲せず、凡ての手段を尽し(322)て彼の生涯を辛惨ならしむ 而かも彼には世の知らざる休息のあるあり、故に彼は羊の如くに黙して世の為すが儘に従ふ、幸福なるは実に基督信者なり。
 
    効果ある禁酒禁煙
 
 力の不足を感ずる者にのみ刺激物の必要あり、或ひは煙草の如き、或ひは酒精の如き、多くは是れ人世の激闘に倦怠疲労を感ずる者に由て用ひらる。然れども力の源なるヱホバの神に接して刺激物は我儕に全く要なきに至る、我儕は「神に酔ふ」の快楽を知てより、酒に酔ふの快楽を忘るゝなり、我儕の禁酒禁煙なる者は義務に強ひられてにはあらずして、不必要に出し者ならざるべからず。而して全く其要を感ぜざるに至つてのみ、我儕は能く禁酒禁煙を持続し得るなり。
 
    宗教の領分
 
 宗教は斯世のために有益なり、然れども宗教は斯世のためにあらず、宗教は霊の事なり、亦天の事なり、斯世の改良を以て宗教の目的となす者の如きは未だ宗教の何たるかを知らざる者なり。
 
    偽の預言者
 
 蘇国有名の聖書学者故A、B、デビツドソン氏曾て其預言論に於て述べて曰く、「偽の預言者とは他なし、当時の愛国論者なり」と、即ち民の徳を称へて其罪を鳴らさず、国の栄光を謳ふて其汚辱を責めざりし者、是れ当(323)時の愛国者にして今日吾人の称する偽の預言者なりと、依て知る真の預言者の当時の乱臣国賊なりしことを、此言、以て何れの時代に於けるも、預言者の真偽を判分つための信憑すべき標準として用ふるを得べし。
 
    満足なる地位
 
 我は教会を作らざるべし、然れども基督の罪の赦免の福音は之を宣べ伝へて怠らざるべし、我は終生『メソヂスト』又は『監督』又は『バブチスト』又は『長老』又は『組合』たらざるべし、然れども慈悲深き神の恩恵に由りてクリスチヤンとして世を逝らんと欲す、我は福音宣伝以外に我が注意を奪ふ事業を取らず、亦、クリスチヤン以外に我名を冠するための名称を求めず、若し神の認諾は之を我が良心の満足に於て求むべしとならば、我は我が今日の地位に於て何物も我が衷心の平和を乱すに足るあるを発見する能はず。
 
    面白い仕事
 
 仕事に面白いと詰らないとの別はない、神に依て為す正直なる仕事は総て面白くある、神を知らずして、大臣たるも、大将軍たるも、又は大銀行の総裁たるも少しも面白くはない、慾に引かされ、名誉に励まされ、或は義務に逐立てられて為す仕事は総て奴隷の仕事であつて、最も詰らない仕事である、之に反して神を知り、彼と偕に働らいて田に稲苗を植ゆるも、小学校に児童を教ゆるも、郵便局に手紙を受取るも、最も興味ある仕事である、楽園は仕事の種類には由らない、其性質に由る、我儕は今日直に我儕の仕事を変ふることなしに歓喜満足の楽園に入ることが出来る。
 
(324)     パリサイの麪酵《ぱんだね》
         偽善主義の排斥(路可伝十二章)
                      明治37年8月18日
                      『聖書之研究』55号「研究」                          署名 内村鑑三
 
  (一)イエス其弟子に曰ひけるは爾曹パリサイの人の麪酵を謹めよ。
 人の麪酵は其主義なり、少量の麪酵が其中に多量の麦粉を※[酉+發]酵せしむるの力を具ふるが如く、人の主義は其行為の総を支配す、人は其行為行動に於て凡て其主義の如し、彼は実に其抱懐する主義の化身なり 〇「偽善」はパリサイ人の主義たりしなり、パリサイ人とは偽善の化身たりしなり、彼の言ふ所、行す所は凡て皆な此主義の発動せしものなりし、偽善とは勿論、表裏の別あることなり、外なる装飾を以て内なる腐蝕を覆ふことなり、即ちキリストの言ひ給ひし、白く塗りたる墓なり(太二十三〇二十七)、剣を懐に蔵《かく》して口に甘露を供することなり、殊に宗教の善美を以て政治家の野心を覆ふことなり、小児の無邪気を切愛せしイエスはパリサイ人の偽善を憎んで止み給はざりし。
  (二)それ掩はれて露れざる者はなく、隠れて知れざる者はなし。
 是れ恩恵深き天然の法則なり、世に永久の隠蔽なるものあるなし、隠蔽は凡て暫時的なり、或は三年、或は五年、或は十年、或は二十年、其の長きは時に或ひは三百年に達することあり、然れども真相の必ず顕はるゝは水(325)の低きに就き、火の子の上に飛ぶが如く確かなり、真人は真人として顕はれ、偽人は偽人として顕はる、是れ僅かに時間の問題なり、誤解は暫時的なり、神の造り給ひし此宇宙に在て永久の誤解なる者あるなし。
  (三)是故に爾曹|幽暗《くらき》に語りしことは光明《あかるき》に聞こゆべし、密かなる室にて耳に附言ひしことは屋上《やねのうへ》に播《ひろ》まるべし。
 幽暗に語りしことは言辞其儘に蓄音器を以て伝へらるゝが如くには伝へられざるべし、然れどもそれよりも遙かに明瞭なる言辞を以て、或は言辞に優りて遙かに確実なる事跡を以て衆人の眼に触れ、万人の耳に響くべし、主義は言辞を出し、亦、品性を作る、故に言辞としては伝はらざる主義も品性としては人の認識とする所となる、主義は終に之を包むべからず、言辞を以て伝はらざるも行為を以て終に八絃に播まるべし。
 現世に於て然かり、来世に於ては更らに然かり、千年も一日の如くに見ゆる神の眼中に隠蔽内密の秘事あるなし、来世は現世を更に延長せし者なり、而して現世、既に明確なる神の裁判あり、来世、亦之に優さるの明断なくして可ならんや、故にキリストは曰ひ給はく、偽善主義に則る勿れ、蓋《そは》、是れ其目的を達すること能はざればなりと、神の本性と宇宙の構造とを知る者は其良心に訴ふるまでもなく、其常識に照らして、偽善の無益なるを知るが故に、是を其生涯の主義と為さゞるべし。
  (四)我友よ、我、爾曹に告げん、身体を殺して後に何をも為し能はざる者を懼るゝ勿れ。
 「我友よ」、敵なるパリサイ人と相対して言ふ、我と主義を同うする者よ、偽善主義を奉ぜざる者よ 〇懼るべからざる者は身体を殺すの外、何事をも為し能はざる者なり、即ち、世の残虐者の如き者なり、彼等は猛獣の類なり、人の産を掠め、其生命を奪ふの外、其れ以上の事を為す能はず、彼等は生命与奪の権を握るを以て人間至(326)大の権能なりと思惟す、然れども彼等は吾人の最も懼るべき者に非ず、世には彼等よりも更らに懼るべき者在て存す。
 (五)我れ懼るべき者を爾曹に示さん、殺したる後に地獄に投入る権威を有てる者を懼れよ、我誠に爾曹に告げん之を懼るべし。
 懼るべき者は悪しき人に非ず、悪しき主義なり、悪虐の王も其為し得る所は民の生命を奪ふに過ぎず、然れども陋悪の主義に至ては其為す所永遠に至るも滅えず、悪しき主義は霊魂を毒して未来永劫に及ぶ、故にキリストは語を重ねて言ひ給へり、「我、誠に爾曹に告げん、之を懼るべし」と。
  (六、七、)五の雀は二銭にて售るに非ずや、然るに神に於ては其一だも忘れ給はず、爾曹の首の髪また皆な算へらる、故に懼るゝ勿れ、爾曹は多の雀よりも貴《まさ》れり。
 懼るべき者を懼れ、懼るべからざる者を懼るゝ勿れ、人あり、若し我が名のために爾の生命を奪はんとする者あらば、之を懼るゝ勿れ、一羽の雀さへ神の許可なくして地に墜ることなし、況して爾をや、神の允許なくして何人も爾の生命に手を触るゝ能はず、神は爾の首の毛髪の数さへも悉く知り、且つ之を護り給ふ、況して爾の全身をや、神は非常なる理由なくして、之を爾の敵の手に附たし給はざるべし、爾の生命は神の属なり、神が之を爾の手より要求し給ふまでは何人も之を爾より奪ふ能はず、爾、此事を深く心に留め、懼るべからざる人の手より免かれんために、懼るべき偽善の罪を犯し、汝の信仰を人の前に蔽ふて神と自己とを欺き、以て地獄に投入れらるゝの不幸に陥る勿れと。
  (八、九、)又我、爾曹に告げん、我を人の前に識ると言はん者をば人の子も亦神の使者の前に之を識ると言は(327)ん、我を人の前に識らずと言はん者は神の使者の前に彼も識らずと言はるべし。
 キリストに識ると言はるゝは神の休息《いこひ》に入ることなり、之に反して彼に識らずと言はるゝことは神の聖前より逐はれて、外の幽暗に投入れらるゝことなり、(十三章廿八節)、而して斯世に在て、キリストを識るも、世の迫害※[口+喜]笑を懼れて、偽善の罪を犯して、彼を識らずと言ふ者は、末の裁判の日に於て、彼も亦キリストに識らずと言はるべしとなり、必要なる場合に於ける信仰の表白は偽書主義の非認なり、之を為さゞるは我儕に未だ尚ほパリサイの麪酵の存するあるが故なり、世俗の方便主義に則り我が衷心の信仰を隠蔽するの結果、終に之を失ふて神の聖前より逐はれざるやう慎むべきなり。
  (十)凡そ人の子を謗る者は赦さる可し、然れど聖霊を罵る者は赦さるべからず。
 「人の子」は勿論人類の王たるイエスキリストなり、彼を謗るとは彼を識らずして誹るなり、未信者の誹謗なるものは多くは此類なり、而してキリストは此種の誹謗者に就て言ひ給ふ、「我れ之を赦すべし」と、然れども聖霊を罵る(褻すに非ず)者は全く之と異なる、「聖霊を罵る」とは其声を圧迫し、其命に抵抗し、其光明を遮断することなり、而して之を為して止まざれば聖霊は終に之を為す者の心を去るに至る、聖霊は神が人に賜ふ最善最美の恩賜なり、而して其撤回は生命の褫奪に均し、「赦さるべからず」とは救はれざるべしと云ふと同じ、崇むべき聖霊を罵詈し、其声を熄《け》して、我意を張らんとするものは、終に聖霊の棄る所となる、赦免の希望の斯かる者に在ることなし、聖霊の全く彼を去りし当時に彼は既に彼の罪を判定められしなり。
 寛大なるイエスは自由に、且つ快く、彼を識らずして彼を誇る者を赦し給ふ、故に我儕も亦彼に傚ひ我が信仰の何たるを解せずして我儕を謗る者は、自由に、且つ快く、之を赦すべきなり、然れども最も憐むべき者はキリ(328)ストの何たる乎を智覚して(即ち聖霊の光明を得て)而して後に彼を謗り、又は彼を棄つる者なり、斯かる者に就て使徒ペテロの曰ひし言は過激にあらず、即ち左の如し。
  彼等義の道を識りて尚ほその伝へられし所の聖き命《いましめ》を棄てんよりは寧ろ義の道を識らざるを美とすべし、犬、還へり来りて其吐きたる物を食ひ、豕《ぶた》、洗ひ潔められて復た泥の中に臥すと云へる諺は真にして彼等に応《かな》へり(彼後二〇廿一、廿二)。
  (十一、十二、)人、爾曹を会堂、又|執政《つかさ》、又権ある者の前に曳携《ひきつ》れなば如何に応へ何をか言はんと思ひ煩ふ勿れ、其時に説《い》ふべき言は聖霊爾曹に示すべし。
 キリスト信者は会堂、又は執政又は権ある者の前に曳携れ行かるべしと云ふ、彼は即ち彼の信仰のために宗教家并に政治家の詰問迫害を受くべしとなり、而して斯かる場合に処して彼は前以て答辞の言辞を作り置くの必要なし、そは聖霊に反かざる彼は其時に貴き此霊の援助を受くべければなりと。
       *     *     *     *
 パリサイの偽善主義を排し、是を是とし、非を非とし、人を懼れず、罪を懼れ、奮然、キリストのために立たんには、我儕何物をも懼るゝに足らず、神は我儕の身を護り、其霊を以て我儕に智慧の言辞を授け、我儕をして死すべからざる所に於て死なざらしめ、理に窮して敗を取るが如きことなからしめ給ふ、失敗は恒に弐心なるより来る、単心を以て神に事へて恐怖あるなし、敗北あるなし。
 
(329)     キリストの二大教訓
                      明治37年8月18日
                      『聖書之研究』55号「研究」                          署名 内村鑑三
 
 キリストは教師であるよりは寧ろ救主である、人であるよりは寧ろ神である、故に我儕は孔子やソクラテスに到る時の心組を以てキリストに近かんとしてはならない、人なる教師の教ゆる所は重に処世の方法である、然かし神なるキリストの授けんと欲し給ふ所は罪の赦免である、キリストに罪を贖はれんとは欲せずして彼より惟、処世の方法に就て聞かんと欲する者は竟に彼より何物をも教へられない者である。
 基督教的道徳なるものはキリストに由て罪より救はれし者の守るべき道徳である、是れは誰にでも守ることの出来る道徳ではない、キリストの救済の恩恵を説かずして、彼の宣べ給ひし道徳を強ひる者は無理を強ひる者である、人は何人も、勿論キリストの救済に与かるの特權を有つ者である、併しながら人は何人も基督信者ではない、さうしてキリストを信ぜずして、基督の命じ給ひし命令を守ることは出来ない、基督教道徳を称して「万人の道徳」と云ふは、是れキリストなくして守ることの出来る万人の道徳であると云ふのではない、かのトルストイ伯などがキリスト山上の垂訓を以て、直に之を人類全体の道徳となさんとするは、是れ到底為し難い事である。
 併しながらキリストを我儕の救主と仰いで、彼に由て我儕の罪を贖はれて、我儕基督信者にもキリストの我儕に伝へられし処世の方法、即ち教訓なるものがある、所謂るキリストの律法(加六〇二)とは即ち是れである、(330)是は世が見て以て不可能事と做すものである、或ひは理想として心に之を懐くことあるも、実際に之を行はんとは欲せざるものである、或ひは彼等、是を行はんと欲するも之を行ふの能力なき故に行ひ得ざるものである、是はキリストに由て其罪を救はれし者のみ能く行ふことの出来る律法である。
 キリストが其弟子に与へられし教訓の第一は敵に対しての無抵抗主義である。キリストは言葉を以て、又は実行を以て、繰返し、繰返し、此主義の遂行を教へ給ふた、悪に敵する勿れ(太五〇卅九)、其仇を愛し、爾曹を憎む者を善くし、詛ふ者を祝し、虐過者の為めに祈祷せよ(路六〇廿七、廿八)、
此邑にて人、爾曹を責めなば他の邑に逃れよ(太十○廿三)、爾の剣を元に収めよ、凡て剣を取る者は剣にて亡ぶべし(太廿六〇五二)、爾うして彼はその聖業を成就げ給ふに方て全く此法に則り給ふた、我れ既に世に勝てりと宣べ給ひし彼は、敵を圧してではなく、身を其毒手に附《わた》して世に勝ち給ふたのである、若し我に従はんと欲ふ者は己を棄て、其十字架を負ひて我に従へ(太十六〇廿四)とは彼が彼の弟子たらんと欲する者の覚悟を述べられたる言葉である、十字架は耻辱、圧服、虐遇の表彰《しるし》である、爾うして之を負ふの覚悟なくして基督信者と成ることは出来ない、十字架は我儕が世に勝つための唯一の武器である、爾うして十字架に由て世に勝つとは十字架の旗章のために剣を抜くことではない、又は基督教弁護のために異教徒を罵ることではない、又、教会防禦のために異端論者を誹謗陥擠することでもない、十字架を負ふとは負けることである、全然敵に譲ることである、敵の善を思ふことである、彼に愚弄せらるゝことである、爾うして竟に神に由て勝利を獲ることである、キリストは斯かる方法を以て世に勝ち給ふた、爾うして我儕、彼の弟子たる者も亦、同一の方法を以て世に勝たなければならない、十字架以外の武器を以て得たる勝利は凡て偽虚の勝利である、斯かる勝利は勝利ではなくして、敗北である、利益ではなくして損失である、(331)隆興ではなくして滅亡である、基督教に若し何にか意味があるならば、其れは十字架上に於けるキリストの勝利である、而かも今の基督国なるものも、亦基督教会なるものも、此事を知ると雖も之を実行せんとはしない。
 キリストの教訓の第二は生活問題に関する無頓着主義である、何を食ひ何を衣ん乎とは不信者社会の最大最要問題である、彼等の政治なるものは多くは此問題に外ならない、彼等の道徳なるものも亦此問題に基因してをる、如何にして最も容易に、最も多く、最も好きものを食ふを得ん乎、是れ所謂る社会問題なるものゝ吉粋である、爾うして実際的に此問題を解釈せんがためには国は国に対して戦争を起し、党は党と相鬩ぎ、法律は定められ、裁判所は設けられ、倫理学は授けらる、衣食問題は実に人生の最大問題である。
 然るにキリストは人生の此最大問題に就て教へて曰ひ給ふた、爾曹思ひ煩ふ勿れと(太六〇廿五)、彼は是れ皆な異邦人の求むる所なり(同卅二)と曰ひて其不信者の憂慮する問題なるを述べ給ふた、鴉を思ひ見よ、稼かず、穡《か》らず、倉をも納屋をも有たず、然れども神は尚ほ此等を養ひ給ふ、爾曹は烏よりも貴きこと幾何ぞや(路十二〇廿四)と曰ひて食物に就て苦慮することの鳥にも劣るの心立なることを教へ給ふた、衣食の人生に必要なるは言ふまでもない、然しながら是を我儕の苦慮を値《あたへ》する問題となしてはならない、人は衣食のために戦ふの必要なく、之がために脳醤を絞り、之がために煩悶苦悩するの必要はない、キリストの教ゆる所に依れば人の苦悶すべき問題は唯一つである、即ち神の国と其義とを求むることである(太六〇卅三)、爾うして若し之を求め得ば衣食は凡て神より我儕に加へらるべし(同)とのことである、爾うしてキリストの此意を受けて使徒パウロは彼が建てし教会に書き贈つて曰ふた、何事をも思ひ煩ふ勿れ、唯毎事に祈祷をし、懇求をし且つ感謝して己が求むる所を神に告げよと(腓四〇六)。改行
(332) 是れがキリストと其使徒輩が明かに我儕に教ゆる所である、併しながら是れ実際に於て、基督教国に由て、亦、基督教会に由て、懐かるゝ主義ではない、否な、是れとは正反対であつて、衣食問題に就て心配するもので、所謂る「基督信者」の如く甚だしき者はない、彼等の最も懼るゝことは餓死の危険である、英国民が世界最強の海軍を具ふるのは国家的餓死を懼れてゞある、彼等は飢えざらんがためには殆んど如何なる罪悪にも与みする、彼等はアルメニヤ人の虐殺を傍観して少しも国家的良心の苦痛を感じない、彼等は金鉱と金剛石鉱を得んがためには世界最良の二共和国を撲滅するに躊躇しない、彼等は自から基督教国であると称ふ、然かし餓死しても基督教を信じやうとは為ない、然かり、神の国と其義とは英国民に取ては決して最大問題ではない、彼等は衣食のために国を作して居る、基督教のために国家の全力を挙げて尽さんとはしない、若し其国家的行為を以て評すれば英国は立派なる非基督教国である。
 若し夫れ英国の兄弟国なる北米合衆国に至れば、是れ英国に優るの実際的非基督教国である、米国人多数の尊拝するものはヱホバの神ではなくして、彼等の称する「全能なる弗《ダラー》」である、裕かなる衣食を得んことは米国人第一の志願である、彼等は勿論、公義、道徳、宗教に就て唱へないではない、然しながら神の国と其義とが米国人の最大要求物でないことは米国人自身と雖も能く知つて居る、往昔は和蘭に於て、独逸に於て、宗教は政治的最大問題であつたが、然かし今の米国に於ては基督教が公的問題として顕はるゝが如きことは滅多にない、「富者の剰余のパンを取て我等に与へよ」とは其貧者の声である、「我等にも尚ほ餓死の危険あり、故に我儕は之を放つ能はず」とは其富者の声である、「金を作る」ことは基督教国を以て自称する米国に於ては最も高尚なる事業である、米国人は衣食の安心を得るまでは神に事へんとはしない、彼等は決して衣食問題に就ては無頓着主義を採ら(333)ない、否な、是れとは正反対であつて、彼等の大多数は基督教に就ては至て無頓着であるが、併かし衣食問題に就ては非常に心配する、彼等の数多き教会堂と神学校と伝道師とは彼等の基督教国なるを証明するかの如くに見ゆれども、然れども生活問題に対する彼等の態度は彼等の立派なる「異邦人」なることを証明して尚ほ余りある、キリストの宣べ給へし明白なる言葉に徴して、北米合衆国は決して、否な、決して基督教国ではない。
 英米二国でさへ斯の如くであるとすれば其他の諸国は推して知るべきである、爾うして処世の方法を主に英米人に学びし日本人も今や彼等に傚ふて餓死の恐怖の奴隷となりつゝある、空腹の危険を避けんがためには今や我儕日本人も、或ひは友を売り、或ひは節を曲げ、或ひは主義と信仰とを抛つて少しも耻ぢざるの陋態に陥りつゝある、道徳問題は今や吾等の中に在ても、衣食問題と化せられつゝある、爾うして此悲むべき感化を蒙りし者は日本人全体に限らない、主もに英米両国の宣教師より基督教を学びし日本今日の基督信者は生活問題の一事に於ては是等英米の宣教師に傚ふて、主イエスキリストに学ばんとはしない、我儕も今は英米の基督信徒に傚ふて、衣食問題を先にして、天国問題を後にする、我儕も今は英米の宣教師の如くに衣食の途を確かめられるにあらざれば進んで伝道の難局に当らんとはしない、爾曹金または銀、または銭を貯へ帯る勿れ、行嚢、二つの裏衣、履、杖も亦然り、※[開の門なし]は労働者の其食物を得るは宜べなればなり(太十〇九、十)とのキリストの言葉の如きは今の英米の宣教師等には実際的不可能事として一笑に附せられつゝある、彼等は故に凡ての独立運動に反対する、爾うして彼等が反対の理由として宣ぶる所は我儕の糧の絶たれて餓死せんことである、彼等は神のみに頼る伝道の成巧を信じない、彼等は我儕に勧むるに先づ衣食問題を攻究し置いて然る後に伝道に従事すべきことを以てする、彼等は主イエスキリストを以て霊魂の救主としては信ずるかなれども、肉体の必要物の供給者としては全く信ぜざ(334)るやうに見える。
 然しながら宣教師は宣教師であつて、キリストはキリストである、我儕はキリストに由て宣教師に由るべからざるである、我儕は大胆にキリストの言葉に頼り、唯、彼の聖意の在る所を究め、衣食問題は全く之を彼の聖手に委ね、働くを知て怠るを識らず、神の国と其義とをのみ、惟れ我が事とし、懼れず倦まず進むべきである。
 無頓着主義は放埒主義でなく、又、懶怠主義でなく、亦、無分別主義でないことは言ふまでもない、我儕労働の主なるイエスキリストを信じて、無為にして神の恩寵を待つが如き者となりやう筈はない、我儕の称ふ無頓着主義とは無心配主義である、万物の霊長なる人として衣食問題に就ては憂慮せざることである、即ち、此問題に就ては常に王侯貴族の態度を取り、若し必要とあれば神は全宇宙をも我儕の用に供し給ふことを信じ、我儕の伝道の計画を立つるに方ても、先づ之を伝道会社の会計に謀るが如きことを為すことなく、之を時勢の必要に鑑み、我れ自身の力量に考へ、特に静粛なる祈祷の座に於て神の聖旨の在る所を確かめ、然る後には、自己れ、大帝国の国王であるかの如き観念を以て、大胆に、高尚に、神が我儕に任かし給ひし聖職に就くべきである、此時に於ける我儕の確信は或る米国の婦人が謳ひし歌の言葉でなくてはならない、其言葉に曰く
   我が父は家と土地とに富み給ふ
    彼は其手に全世界の富を握り給ふ
   緑玉と金剛石と、金と銀とを以て
    彼の金庫は溢る、彼の富に限あるなし。
(335)   我は王の子なり、王の子なり、
   イエスを救主とし有つて我は王の子なり。
 
(336)     預言者小伝
        (聖書の言に由る)
                     明治37年8月18日
                     『聖書之研究』55号「研究」
                     署名 角筈生 選
 
    イムラの子ミカヤ
 
 ユダの王ヨシヤパテは富と貴とを極めイスラエルの王アハブと縁を結べり、彼れ数年の後サマリアに下りてアハブを訪ひければ、アハブ彼およびその従者のために牛羊を多く宰《はふ》りて饗せり、時にアハブ、ヨシヤパテに勧めてスリヤの王の都なるギレアデのラモテに倶に攻上らんことを彼に勧む、即ちイスラエルの王アハブ、ユダの王ヨシヤパテに言ひけるは、汝、我と共にギレアデのラモテに攻めゆくやと、ヨシヤパテこれに答へけるは、「我は汝のごとく、我民は汝の民のごとし、汝と共に戦門《たゝかひ》に臨まん」と、ヨシヤパテまたイスラエルの王に言ひけるは、「請ふ今日エホバの言を問へ」と、是においてイスラエルの王預言者四百人を集めて之に言ひけるは、「我等ギレアデのラモテに往て戦ふべきや、又は罷むべきや」、彼等言ひけるは「攻上り給へ、神これを王の手に付《わた》し給ふべし」と、ヨシヤパテ言ひけるは、「此外に我等の由りて問ふべきヱホバの預言者此に在らざるや」と、イスラエルの王答へてヨシヤパテに言ひけるは、「外に尚ほ一人あり、我等之に由りてヱホバに問ふことを得ん、(337)然れど彼は今まで我につきて善事を預言せず、恒に悪き事のみを預言すれば我れ彼を悪むなり、其者は即ちイムラの子ミカヤなり」と、然るにヨシヤパテ答へて「王、爾か宣ふ勿れ」と言ければ、イスラエルの王一人の官吏を呼びて「イムラの子ミカヤを急ぎ来らしめよ」と言へり、イスラエルの王およびユダの王ヨシヤパテは朝衣を纏ひサマリアの門の入口の広場にて各々その位に坐し居り、預言者は皆その前に預言せり、時にケナアナの子ゼデキヤ鉄の角を造り之を王併に衆人に示して言ひけるは「ヱホバかく言ひ給ふ、汝、是等をもてスリア人を衝きて滅し尽すべし」と、預言者皆な斯く預言して云ふ「ギレアデのラモテに攻上りて勝利を得たまへ、ヱホバこれを王の手に付し給ふべし」と、茲にミカヤを召さんとて往きたる使者これに語りて言ひけるは、「預言者等の言は一の口より出るが如くにして王に善し、請ふ汝の言をも彼等の一人の如くなして善事を言へ」と、ミカヤ言ひけるは「ヱホバは活く、我神の宣ふ所を我は陳べん」と、斯くて彼れ王に至るに、王、彼に言ひけるは、「ミカヤよ、我等ギレアデのラモテに往きて戦ふべきや、又は罷むべきや」と、彼れ殊更らに命ぜられしまゝに言ひけるは、「上り往きて利を得たまへ、彼等は汝の手に付されん」と、王悦び且つ怪んで彼に言ひけるは「我幾度び汝を誓はせたらば汝ヱホバの名をもて唯真実のみを我に告ぐるや」と、彼言ひけるは、「我れイスラエルが皆な牧者なき羊のごとく山に散り居るを見たるが、ヱホバ是等の者は主なし各々やすらかに其家に帰るべしと言たまへり」と、イスラヱルの王是においてヨシヤパテに言ひけるは、「我れ汝に告げて彼は善事を我に預言せず、只悪しき事のみを預言せんと言ひしに非ずや」と、ミカヤまた言ひけるは、「然れば汝等ヱホバの言を聴くべし、我れ視しにヱホバその位に坐し居たまいて天の万軍その傍に右左に立ち居りしが、ヱホバ言ひ給ひけるは、誰かイスラエルの王アハブを誘ひて彼をしてギレアデのラモテに上り往きて彼処に斃れしめんかと、即ち一は此の如くせん(338)と言ひ、一は彼の如くせんと言ひければ、遂に一の霊進み出てヱホバの前に立ち、我れ彼を誘はんと言ひたれば、ヱホバ何をもてするかと之に問ひたまふに、我れ出て虚言《いつはり》を言ふ霊となりてその諸の預言者の口に在らんと言へり、ヱホバ言ひ給ひけるは、汝は誘なひ且これを成就げん、出て然すべしと、故に視よ、ヱホバ虚言を言ふ霊を汝のこの預言者等の口に入れ給へり、而かしてヱホバ汝に災禍を降さんと定め給ふ」と、時にケナアナの子ゼデキヤ近かよりてミカヤの頬を批て言ひけるは「ヱホバの霊何の途より我を離れゆきて汝と言ふや」と、ミカヤ言ひけるは「汝奥の室に逃入りて身を匿す日に此事を見るべし」と、イスラエルの王言ひけるは、「ミカヤを取りてこれを邑の宰アモンおよび王の子ヨアシに曳きかへりて言ふべし、王かく言ふ、我が安然に帰るまで此者を牢《ひとや》に入れて苦悩《なやみ》のパンを食せ苦悩の水を飲せよ」と、ミカヤ言ひけるは、「汝もし真に平安に帰るならばヱホバ我によりて斯く宣ひし事あらず」と、而してまた言へり、「汝等民よ、皆な聴くべし」と、斯くてイスラエルの王およびユダの王ヨシヤパテはギレアデのラモテに上りゆけり、………………………………………………此日戦争烈しくなりぬ、イスラエルの王は車の中に自ら扶持て立ち、薄暮までスリア人を支へをりしが、日の没る頃にいたりて死ねり。
                     (歴代史略下第十八章)
 
(339)     基督信徒処世の方針
         (八月一日夜相州横須賀某所に於ける談話の大要)
                     明治37年8月18日
                     『聖書之研究』55号「談話」
                     署名 内村鑑三
 
 基督信者の処世の方針とは外ではない、神の聖旨に従て歩むことである、爾うして神の聖旨とは多くの人が考ふるやうに、時々刻々と変はるものではない、神の聖旨とは人類の歴史を一貫する深き意志である、故に之は新聞紙を読んで判分かるものではない、是は時勢の潮流に徴して知れるものではない、是は深く神の聖書を研究し、深く自己の心に問ひ、深く歴史全体の趨勢に鑑み、上よりの指示を得て、略ぼ其何たる乎を感得することの出来るものである。
 神の聖旨を探るのは困難しくある、併かし我儕は是非共之を探らなければならない、基督教を信ずるの目的も、聖書を研究するの目的も、実は之より外にないのである、爾うして一たび是を探り得た以上は我儕の生涯を全く神の聖旨なる此深き意志に委ね、後は再び決して此意志以外に逸せざるやう努めなければならぬ。
 神の聖旨とは所謂る時勢の下層流である、地文学者の言ふ所に従へば、海流に表面流《サーフエースカレント》と下層流《アンダーカレント》との二流があつて、表面流には常に変化があるが、下層流には曾て是れがないとのことである、激浪如何に高くとも、黒潮『湾流』の類の如何に早くとも、是れ海洋の表面流に過ぎない、其一哩の下には常に変はらぬ、下層流があつ(340)て、是れは四期を通して、静かに、荘厳めしく、表面の擾乱に何の頓着する所なく、北半球に於ては北より南に向つて、南半球に於ては南より北に向つて、堂々として進むとのことである、神の聖旨が時勢を通じて進むのは恰度此大洋の大下層流のやうなものである、是れには唯一定の法則がある外、別に日々、月々の変動はない、是れは政治の変動、経済の擾乱に由て、其進歩の方向をも速度をも変ふるものではない、是れは進みはするが、然かし人間の力を以てしては変更し能はざる堅き法則を以て遠大の目的に向つて進むものである、爾うして我儕基督信者が神の聖旨に従つて身を処すると云ふのは、此深き、遠く流れる歴史の大下層流に従て、其方向に、其速度に循じて身を処すると云ふのである。
 故に神の聖旨に従つて身を処する者は世の変動を見て驚かない、今日、明日、如何なる大変動が此世に起らふが、旅順が落ちやうが、遼陽が取れやうが、或ひは万々一不測の大災害が我儕の上に臨み来つて、我儕の希望を全然破砕するに足るの大悲報が我儕の耳に達しやうが、我儕は少しも驚きはしない、我儕は斯かる報知を得てもイツモの如くに我儕の業を続け、伝道師は其伝道を続け、農夫は其耕耘を続け、職工は其槌と梃とを手放さない、深き神の聖旨に由て身を処する者に激変なるものは決してない筈である、彼が若し伝道師であるならば、彼は戦争が始まりたればとて戦時伝道を企てない、彼が若し雑誌記者であるならば彼は戦時に臨みたればとて平和を説くを止めて軍事を語らない、彼が若し商人であるとするも、農家であるとするも、彼は戦争に際会したればとて彼が神の聖旨に由て定めし彼の全生涯に渉る大計画を変へない、彼は如何なる大戦争も、是れ時勢の表面流の一現象に過ぎないことを知つて居る、彼は其、或る時期を経過すれば夢の如くに去り、泡の如くに消ゆるものであることを知つて居る、此世は畢竟、道理の世に外ならない、たとへ千軍万馬を動かすとも不道理を以て道理とな(341)すことは出来ない、神の聖旨は人の怒るに関はらず、静々と成就れつゝある、爾うして此聖旨を以て事業の法則となしつゝある者は亦、大暴風の我儕の週囲に荒れ廻りつゝあるにも関はらず、静々と彼の仕事を続けつゝある。
 余は近頃最も有益なる一つの話を聞いた、或る実直なる農夫が其実験を述べて曰ふたに、彼は数十年間曾て一回も農業上の失敗を招いたことはないとのことである、爾うして其理由とする所を聞くに、彼は彼の圃地《はたけ》を耕すに曾て年々に変はる世の需要に応じて種を下ろしたことなく、恒に土地の必要に鑑み、天然の法則に従つて土壌の産出力を害はざらんことのみ、惟れ勉めたとのことである、故に彼は世の奇運に乗じて一獲千金の利を博したことはないが、併かし彼の土地は徐々として其沃饒を増し来り、彼は為めに年を経るも曾て一回の不作を歎じたこともなければ、亦、将来に対して何の憂慮の懐くべきもないとのことである。
 是れ実に多くの教訓を含む話であると思ふ、此農夫は基督信者ではないであらふが、然かし基督教的に彼の農業を続けた者であると思ふ、彼は即ち神の聖旨なる天然の法則に従て彼の土地を処理して、変幻窮りなき世の需要に循つて彼の耕作の方針を変へなんだ、故に天然は永久に彼を恵み、彼は世の泣く時に泣かず、世の恐るゝ時に恐れなんだ、彼は静かなる道理に循つて彼の農業を実行した、故に不変の成功は常に彼に伴ふた。
 我儕も実に此農夫に習はなければならないと思ふ、我儕も我儕の本来の性に省み、我儕の力量を測り、神の聖旨に則り、擾々たる世の声には少しも耳を傾むくることなく、我儕各自の「田圃」の智慧ある耕作に従事しなければならない、然るを此事を為さずして、「境遇は神の声なり」と云ふが如き浅薄なる宗教家の言を信じ、たゞ週囲の変化にのみ目を注ぎ、新聞の号外を見ては駭き、時勢の変遷に就て憂慮し、投機に類する生涯を送つて、巧(342)みに勝利を博せんとするが如きは、我儕の決して為すべきことでない、今や激変の甚だしき此時に際して、余は一言、此事に就て諸君に語り置くの必要があると思ふ。
 
(343)     近時に於ける非戦論
          七月十五日甲州日下部教会に於ける談話の大要
                     明治37年8月18日
                     『聖書之研究』55号「談話」
                     署名 内村鑑三
 
 近時に至て戦争は道徳問題を脱したと思ひます、今や何人でも、少しく近世の人類的観念に入つた者は戦争の罪悪なることは能く之を知つて居ります、併しながら只、世には戦争に勝さるの罪悪があると云ふて、其必要を弁護して居るまでゞあります、基督教の聖書を引いて戦争を弁護するの困難は弁護者自身が最も能く知つて居らふと思ひます。
 併しながら戦争は今は道徳問題ではありません、世界第一等の思想家は今は倫理宗教の方面より戦争の害毒を説きません、戦争は今は道徳問題を離れて実益問題となりつゝあります、即ち学者の究めつゝある問題は『戦争は果して其目的を達する乎』と云ふ事であります。
 夫れで近頃スペンサー流の哲学者に由て唱へられつゝある所を聞きますれば、戦争は其目的の如何に高尚なるに関はらず、之を達し得るものでない、故に之を廃めるに若かずとのことであります、彼等は即ち戦争は不道徳なるのみならず、不要である故に、之を廃めるのが第一の智慧であると唱へつゝあるのであります、爾うして此種の学者は今や過去の歴史を探り、其中に彼等の提説の証明を尋ねつゝあります、爾うして私の見る所に由りま(344)すれば彼等の此提説は歴史的事実を以て立派に証明されつゝあると思ひます。
 「義戦」の実例として常に引かるゝものはワシントンの独立戦争とリンコルンの奴隷廃止のための戦争であります、之に私利私慾の伴つて居らなかつたことは誰でも承知して居ります、然しながら最も有益なる問題は是等の二大義戦は果して其目的を達したるか、是れであります。
 成程ワシントンの独立戦争に由て米国は一度びは英国より独立したに相違ありません、かの独立戦争なかりせば過去百年に渉る北米合衆国の政治的独立はなかつたでありませう、然しながら百年後の今日の米国は如何であります乎、米国に於ける近頃著しき現象は英米合体の傾向であります、米国がフイリッピン群島を取て、自由の民が不自由の民を支配するの奇観を呈して以来、米国民の英国に対する態度は全く一変し、其後、英国が南阿に於ける二共和国を狡殺するを面前に目撃しても、米国は此事に関しては多大の同情を返て虐殺者なる英国に向て表し自由の戦士なる二共和国を扶けんがためには小指一本をも揚げませんでした、爾うして、其後と言ふものは英米両国の民は頻りにアングロサクソン民族の協同的運動を主張し、共に相携へて全世界を英民族化せんとなしつゝあります、若し個人の自由、平和の勝利が大将ワシントンの目的でありましたならば、今の米国人は確かにワシントンの目的に反きつゝあります、米国人は今や英国人に傚ふて強大なる海軍を備へて世界征服の途に上らんとしつゝあります、爾うして是れ亦英国旧来の目的でありますから、英米二国が相合して世界征服の途に就くに至らんとは多くの識者が懐く説であります、而已ならず、米国の富豪は今や多く土地家屋を英国に求め、其娘を英国の貴族に嫁せしめ、以て彼等の祖先が曾て非常に卑しみし英国の貴族と血縁を結ぶを以て此上なき名誉と信じつゝあります、血を流して得し米国の自由独立なるものがイツまで続くものである乎、此事に就て非常に心(345)を配ばるものは私共日本の非戦論者ではなくして、未だ祖先の自由の精神を失はざる小数の米国人自身であります。
 リンコルンの奴隷廃止戦争の無効に皈したことに就ては更らに著しい事実があります、此「義戦」は奴隷の黒人に政治的自由を供しました、併かし彼等に精神的自由を与へませんでした故に、彼等は今は実際に彼等に供せられし政治的自由をも失ひつゝあります、北米合衆国の市民なる数百万の黒人を如何せんとは米国刻下の最大問題であります、黒人の或者は米国に在ては到底自由の得らないことを認めまして、今や同胞を引連れて故の亜非利加大陸に大移住を企てつゝあります、彼等の一人なる黒人メソヂスト教会の監督某は近頃米国の国歌なる『美はしき自由の国』を歌ふことを拒みました、爾うして彼が此拒絶の理由とする所を聞きまするに、米国は今は実際に自由の郷土ではないから之を「美はしき自由の国」と称ふることは出来ないとのことであります、近頃大博覧会開設中に在る聖ルイ市に於て旅店の持主は相共同して黒人を其旅舘に止めざることを決議しました、亦、ルイジヤナ州の知事が其就職演説に於て彼の施政の方針を述べて是れ、黒白二人種の区画を判然ならしむるにありと曰ひました、其他「自由の米国」に於ける黒人擯斥并に虐待の事実は挙げて数へ切れません、リンコルンの公義心と米人五十万人の鮮血を以て購ひ得し黒人の自由なるものは今や三十年を出ずして終に消滅しつゝあります。
 此等二大義戦に於てすら斯の通りであると致しますれば、其他の戦争に於ては推して知るべしであります、日清戦争が全く其目的を失つたことは誰でも能く知つて居ります、英国は南阿戦争に於て自国の鉱業者に利益ある新活動地を供せんとしまして、其目的は全く敗れて、終には彼等が最も忌み嫌ふ支那人を南阿に輸入せざるを得(346)ざるに至りました、曾ては二千五百年前の昔し哲学者ピサゴラスが、自己れ真理の探究者であることを忘れ、普通の愛国心に駆られ、クロートンの市民をして隣国シバリスの市に向つて戦を宣せしめて終に敵味方両方の滅亡を招きし以来、第二十世紀の今日に至るまでの、戦争と云ふ戦争を悉く其結果に於て調べて見まするならば、其目的を達したものとては一つも無かつたことが判明するに至るかも知れません。
 畢竟するに人間は道徳的動物であります、故に彼に勝たんとすれば道徳を以てするより他に途はありません、暴を以て彼を圧するのは唯の一時でありまして、彼の霊は決して斯かる圧迫に服するものでありません、戦争は不道理である、故に愚である、不必要であるとは今代の識者の達しつゝある結論であると思ひます、世の実際家は斯かる提説を以て大なる迂論なりと言ひて嘲けりませうが、併かし天然の法則は如何にしても欺くべからずでありまして、如何にアレキサンドルでも、シーザルでも、コロムウエルでも、ナポレオンでも、此法則に勝つことは出来ません、人に勝つの武器は永久の忍耐と無限の愛とを措いて他に有るなしとは決して惟り理想家の言のみではありません、是れは人類が二十世紀に入つてより、其惨憺たる過去の経歴を顧みて、始めて心附いた「智慧の言葉」であると思ひます、私共はドウゾ此日露戦争を以て人類最終の戦争と為したいと思ひます。
 
(347)     如何にして我が天職を知らん乎
        (或る青年婦人に告げし言葉)
                     明治37年8月18日
                     『聖書之研究』55号「談話」
                     署名なし
 
 人に各々其天職のあるのは能く判分つて居ります、然かし之を発見するのは非常に困難かしくあります、「如何にして我が天職を知るを得ん乎」、是れ実際の大問題であります。
 天職とは読んで字の通り天職であります、即ち天或は神が我等各自に授け給ふた職であります、故に之れは天又は神を識らずして識ることの出来るものでないことは明かであります、多くの人は天をも神をも知らんとは欲せずして頻りに自己の天職を識らんと欲します、然かし斯かる者に天職の示されないのは能く判分つて居ります、天に事へ、自己の職分を全ふし、恭謙以て命を終へんと欲する者にのみ天職は示さるゝものであります、世の無神論者、随意家、自己のために此生を楽まんと欲する者 斯かる者がイクラ尋ねても天職の見附からないのは何よりも明白であります。
 天職は又、考へて見附かるものではありません、我は何のために此世に遣されたる者なる乎、是れはイクラ書を読んでも、如何なる大先生に就て問ふても如何に沈思黙考を凝しても、見附かるものではありません、多くの人は自己の天職を発見せんとて非常に苦悶します、爾うして之に見当らないとて非常に心配します、併しながら(348)是は無益の苦悶であります、無益の心配であります、天職は斯かる方法を以て発見さるべきものではありません。
 天職を発見するの法は今日目前の義務を忠実に守ることであります、左すれば神は段々と我等各自を神の定め給ひし天職に導き給ひます、要するに天職は之に従事するまでは発見することの出来るものではありません、予め天職を見附け置いて然る後に之に従事せんと思ふ人は終生、其天職に入ることの出来ない人であります、凡て汝の手に堪ふることは力を尽して之を為せ(伝道之書九章十節)との聖書の教訓が、之が天職に入るための唯一の途であります、我等は時々刻々と我等の天職に向つて導かれて行く者であります、或る一時の黙示に接して活然として天職を覚る者ではありません。
 天職は高尚なる程、之を発見するに困難であります、女官であるとか、政治家であるとか云ふやうな天職は之を発見するのは至て容易であります、然かしながら貧家の良妻たらん乎とか、又は平民の伝道師たらん乎とか云ふやうな高貴なる神に似たる天職を探し出すのは非常に困難であります、是には多くの時と経験とを要します、是れは幾度となく私供に示されても私供の斥くる天職でありまして、私供が終に感謝して之を受くるに至りますまでには多くの失敗にも陥らなければなりません、然しながら神の定め給ひし天職は到底之を私供より斥くることは出来ません、神は其択み給ひし者を無理にも其天職に押込み給ひます、私供は只|単《ひたす》らに神に事へんとの心を持つて居れば足ります、左れば神は遅かれ早かれ必ず私供を彼の定め給ひし天職にまで連行き給ひまして、其処に私供に大満足を与へ、私共をして此世に生れ来りし甲斐のありしことを充分に覚らしめ給ひます。
 
(349)     〔日本人と基督教 他〕
                     明治37年8月18日
                     『聖書之研究』55号「談話」
                     署名なし
 
    日本人と基督教
 
 日本人が基督教を信ずるのは容易ではない、何故なれば日本人は凡て愛国者であつて、多少は凡て政治家であるからである、日本人に取ては日本国を離れては宗教もなければ哲学もない、日本人は惟ひたすらに真理を以て日本国を利益しやうとのみ欲ふ、然るに基督教は日本国のものでないのみならず、亦斯世の属でない、基督教は此世に使はれんと欲する者でなくして、此世を其用に供せんとする者である、我儕若し基督教に行かざれば基督教は我儕の所へ来らない、基督教は日本が其属となるまでは、日本国を益せんとはしない、茲に至て所謂る「宗教と教育との衝突」なるものが起つて来るのである、爾うして日本人にして此衝突に耐え得るものは滅多にない。
 故に最も多くの場合に於ては日本人は基督教を日本化せんと努めて、日本を基督教化せんとはしない、爾うして日本化したる基督教を受けて、自から基督教徒なりと称する、而かも其純粋の基督教でないことは直に判分かる、日本化されたる基督教は俗化したる基督教と成りて終はる、爾うして其信者は遠からずして基督信者としてゞはなくして、普通の日本人として世に立つに至る、爾うして斯かる変体《メタモーフホーシス》を経た日本の基督信者は沢山ある。
(350) 然しながら此事は基督教の不幸ではなくして、日本の不幸である、斯かる愛国的老婆心を以てしては到底基督教を以て日本を救ふことは出来ない、我儕は思切つて我儕固有の愛国心を脱却し、政治家の根性を断絶し、全く天の属となつて、神の聖徳を此国に持来さなければならない。
 
    完全なるキリスト
 
 キリストは基督教の中心である許りではない、彼は其総体である、キリストは基督教の始めであつて亦其終である、故に我儕基督信者としてはキリスト以外に何の要むる所があつてはならない、キリストは実に基督信者が其れに頼りて生きまた動きまた存ることを得るものである、(行伝十七〇廿八)。
 然るに基督教を斯く解せずして、是も亦他のものと均しく進歩発達する者であると思ひ、人類と天然との発育を完うして然る後に始めて完全なる基督教は顕はるゝものであるやうに思ふのは基督教に対して甚だ忠実であるやうに見えて、実は其誤解であると思ふ、少しく逆説に渉るやうではあるが、然かし一つの完全は或る他の完全に由るにあらざれば之に達することの出来るものではない、其れ自身にて完全なる基督教があつて、始めて不完全なる此世が其完全に向て進むことが出来るのである、我儕は未だ自身充分に救はれずして他人を救ふことは出来ない、我儕は他人と同時に自身救はるゝことは出来ない、我儕がキリストに於て充分なる救済を発見するまでは我儕は勢力《ちから》ある伝道師となることは出来ない。
 
(351)     内外見地の差違
                     明治37年8月18日
                     『聖書之研究』55号「雑録」
                     署名 内村某
                                   〇日本に在ては余輩が非戦論を唱へたればとて其学者を始めとし、基督教の教師までが、余輩を罵りもし、且つ嘲けりもしたが、然かし外国の或る新聞では余輩の綴りし英文の非戦論を読んで、日本人の道徳的観念はトルストイ伯を有する露西亜人のそれに少しも劣る所はないとて、余輩のために日本国を頻りに賞讃して居るのを余輩は見た、余輩は勿論、トルストイ伯に此ぶべきもなき取るに足らざる微少さき者であつて、非戦論に於ては伯の最も小なる弟子であるが、然かし多くの辛らき情実を排して、此論を唱へて、少しなりと我国の好評を外国人より招くに至りしことを非常に喜ぶ者である、何にが愛国的行為であつて、何にが非愛国的であるか、それは広き世界と永き将来との見地より見なければ分らない事である、余輩は只真理と信ずることのみを唱へて居れば、直接、間接に何時か何物かを我国の名誉の上にも貢献することが出来る。
〇又近頃独逸国スツットガート市に於て発刊になりし内村生英文原著、独逸訳「余は如何にして基督信徒となりし乎」は欧洲大陸の宗教界に於て非常の好評を博し、初版数千部は忽にして売切れ、今や再版なりて、同じ歓迎を継けられつゝある、爾うして独逸、墺太利、瑞西等の読者より態々書を著者に寄せ、彼に同情を表すると同時に、亦此戦争に際して彼の生国なる日本に同情を表し来る者もある、又独墺両国の宗教新聞の或者は長文の評(352)論を掲げ、著者の教会論には反対を表する向きもあれども、彼の信仰の大体に向ては多大の同意を表しつゝある、「日本国は武を以て世界勢力となりつゝあるのみならず、亦、地上に於けるキリストの王国の建設にも大に貢献する所ならんとす」とは彼等多数の言ふ所であるやうに見える、此著が此時に方て、然かも露国贔屓を以て目せられる独逸国に於て顕はれ、少しなりとも日本人の意思を発表しつゝあることは、余輩に取りては神の特別の摂理とほかドウしても思はれない、斯く言ひて余輩は此事に就て日本人に誉めて貰ひたいと云ふのではない、只一言、此事を余輩の同志に告げ置くことは多少諸士の慰藉となることであらふと思ふ故に、少しく自讃に渉るの嫌ひはあるけれども、茲に之を書き記したる次第である。
 
(353)     〔殺人と活人 他〕
                     明治37年9月22日
                     『聖書之研究』56号「所感」
                     署名なし
 
     殺人と活人
 
 人を殺すの快楽もあらん、然れども人を活かすの快楽は遙かに人を殺すの快楽に優さる、敵人数万を屠りしと聴いて歓ぶ者あるも、其快楽は数日にして失す、然れども乞丐一人を助けて其快楽は終生滅えず、我儕は人を穀す者とならんよりは寧ろ人を助け且つ活かす者とならんかな。
 
    邪翁と基督
 
 言あり曰く「ナポレオンは仏国の青年五十万の生命を犠牲に供して僅々数年の問独り仏国の帝冠を戴けり、之に反してキリストは独り己の生命を犠牲に供して世界億兆の人を救へり」と、帝冠の高価なる、神恩の低廉なる、其間に天地雲泥の差ありと謂ふべし、而して我儕基督信者はナポレオンを崇むる者に非ずして、十字架上のイエスキリストを我儕の模範として仰ぐ者なり。
 
(354)    最も無慈悲なる者
 
 敵の堅塁一箇を陥れんがためには数千の生命惜むに足らずと云ふ者あり、然れども試に其生命の一が我が子或ひは我が夫なりと思へ、果して之を是れ惜むに足らずと言ふ乎、世に無慈悲なる者にして、筆を弄して戦事を議する論士文客の如きはあらず。
 
    惟キリストに聴かんのみ
 
 トルストイ一人は露国一億三千万の民よりも大なり、キリスト一人は世界十三億の人よりも大なり、米のルーズベルトと英のチヤムバレーンとは戦争の宏益を説くも我儕は彼等に聴くの要なし、全世界の新聞記者は筆を揃へて殺伐を賛するも我儕は彼等に従ふの要なし、我儕は惟主イエスキリストの言に聴けば足る、世が挙つて争闘を謳歌する時に、我儕は天より降り給ひし神の子の声に聴いて我儕の心を鎮むべきなり。
 
      ――――――――――
 
    万事の始め
 
 総ての事はキリストが解つての後である、政治も実業も、文学も哲学も、然かり、宗教其物も、キリストが解かつて後のことである、乃ち、此の悪しき世より免かれ、死の恐怖は絶え、来世の希望が確められて後のことである、人もし全世界を得るとも其生命を喪はゞ何の益あらんや、また人何をもて其生命に易へんや(可八〇卅六、(355)七)、キリストは生命である、真理である、キリストを解らずして此世の事業は総て無意味である、キリストが解かつて後に吾儕の生涯に始めて解釈が附くのである。
 
    聖書とキリスト
 
 聖書は其姶より終に至るまでキリストに就て語る書である、然しながらキリストが解かるまでは聖書は解らない、キリストは聖書の精神であつて、聖書以上である、我儕、生きたるキリストに接するまでは我儕に取つては聖書は死んだ書である、我儕は聖書以外に於て生きたるキリストに接し、然る後に聖書に於て彼に関はる充分の証明を求むべきである。
 
    生けるキリスト
 
 キリストは歴史的人物ではあるが、然かし其れと同時に亦今尚存在し給ふ者である、我儕がキリストに対するは他の歴史的人物に対するとは全く違う、我儕は偉人として彼を慕はない、救主として彼を拝する、彼は我儕に取りては難める時の今際の助けである(詩四十六〇一)、キリストを過去の人とのみ見て我儕が彼より受くる恩恵は至て僅少である。
 
(356)     平和の希望
          詩篇第四十六篇
                     明治37年9月22日
                     『聖書之研究』56号「所感」
                     署名 内村鑑三
 
1、神は我儕の避所、また城砦なり
  困難める時の最近き助なり、
2、然れば我儕は懼れじ縦令地は変はり、
  山は海の中央に移さるとも、
3、縦令其水は鳴轟きて騒ぐとも、
 山は其溢れ来るに由りて揺《ゆる》ぐとも、
  万軍のヱホバは我儕と偕なり、
  ヤコブの神は我儕の高櫓なり。
 
4、河あり、其|支流《ながれ》は神の都城を喜ばしむ、
 至上者《いとたかきもの》の住み給ふ聖所《きよきところ》を喜ばしむ、
(357)5、神、其中に在せば都城は動かじ、
 神は朝夙に之を助け給はん、
6、諸の民は騒ぎたち、諸の国は動きたり、
 神その声を出し給へば地はやがて鎔けぬ、
7、 万軍のヱホバは我儕と偕なり、
  ヤコブの神は我儕の高櫓なり、
 
8、来りてヱホバの事跡《みわざ》を見よ、
 ヱホバは多くの駭くべきことを地に為し給へり、
9、ヱホバは地の極までも戦闘を廃めしめ給ふ、
 弓を折り、戈を断ち、火にて戦車《いくさくるま》を燬《や》き給ふ、
10、彼は言ひ給ふ『静かにして我が神たるを知れよ、
 我は全地に万国の民の中に崇めらるべし』と。
11、 万軍のヱホバは我儕と偕なり、
   ヤコプの神は我儕の高櫓なり。
 
(358)       意解
〇我儕にも城塁あり、我儕にも要塞あり、然れども是れ山に拠り、石を以て築かれしものに非らず、我儕の城塞は活ける真の神なり、彼は天地の造主にして我儕の父なり、我儕は彼の中に難を避くるを得、彼に拠て総ての敵を防ぐを得るなり(1)。
〇我儕の城塞は軍人が依て以て頼るそれとは異なり、難める時の最と近き助なり、我儕は之に入らんと欲して海を渡り、大陸を横ぎるを須ゐず、彼は我儕の最と近き助けなれば、我儕は今、直に彼の中に隠るゝを得るなり、彼は我儕の周囲に在り、亦、我儕の裏に在し給ふ、我、彼を※[龠+頁]び奉れば彼は直に我に答へ給ふ(1)。
〇故に我儕は懼れざるなり、縦令、地は変りて淵となり、山は海の中央に移さることあるとも、縦令海の水は鳴り轟き、且つ泡立ちて(騒ぐの原意)其岸に溢れて、山は其れがために動くことあるとも。然り、我儕は懼れず、縦令国民は起り、或ひは亡び、擾乱絶ゆることなくして、世界は沸騰するとも。乱世何かあらん、敗壊何かあらん、我には全地が崩るとも崩れざるの城砦あるあり、嗚呼、我れ何をか懼れん(2、3)。
〇万軍我に逼り来るも我は懼れじ、そは万軍を支配するの神は我と偕に在せばなり、「彼れ一たび命じて波に声なし、彼れ三たぴ令して万軍潰ゆ」、勝敗は将官の作戦計画の巧拙に由らず、普国大帝フレデレッキ曰く「大戦争は常に雲上の彼方に於て決せらる」と、神に頼りてのみ永久の勝利はあるなり。
〇万軍のヱホバはヤコブの神なり、即ち宇内を統御し給ふ神は亦契約の神なり、山を平らげ、海を干し給ふ神はイエスキリストに在て我儕の霊魂を救ひ給ふ神なり、我儕の高櫓として依頼《たの》む者は裁判の神にして、亦赦免の神なり、偉大にして且つ優しき神なり。
(359)〇世は大海の乱す所となり、其山は動き、其陸は崩れんとす、然れども、我儕には河ありて、我儕の中に流れ、我儕の渇を癒し、我儕に生命を供す、河は至上者の所より出づる聖霊なり、神の住み給ふ聖徒の心を喜ばしむ、其支流は信徒各自の心を潤す、同じく一つの聖霊なれども彼れ其心のまゝに各人に頒け与ふるなり(哥前十二〇十一)、世は洪水の掩ふ所となりて返て渇を感ずる時に、我儕は静かに神の命に聴いて清水の滋す所となる(4)。
〇此生命の水の絶えざるあり、神の城砦は如何でか陥落ん、神、時には我儕を敵の重囲の中に置き給ふことありとも、彼は其時に至れば我儕を助け給はん、我儕が意はざる時に急に我を援け給はん(朝つとにとの意義は蓋し是れなるべし)(5)。
〇諸の民は騒ぎたち、諸の国は動きたり、総ての国民は武装せり、世界的大戦争の起らんとする徴候あり、然れども、我儕何をか懼れん、神、其一声を発し給へば全地はやがて溶けんのみ(6)。
〇故に我儕は再び歌て言ふ、万軍のヱホバは我儕と偕なり、ヤコブの神は我儕の高櫓なりと、即ち勢力の神は亦恩恵の神なりと(7)。
〇来りてヱホバの事跡(奇跡)を見よ、彼は多くの駭くべきことを為し給へり、彼は弱者をして強者を挫かしめ給へり、小児をして獅子と熊とを導かしめ給へり、剣を用ひずして強敵を仆し給へり、即ち人の思ひ及ばざる大なる奇跡を成し給へり、何ぞ兵数を以て国の強弱を計るや、何ぞ政略を以て民の振興を画するや、ヱホバは嬰児をベツレヘムの僻邑に下して全世界を改造しつゝあり給ふにあらずや、嗚呼盲者よ、策略家よ、来て汝等の眼を開いてヱホバの為し給ひし事跡を見よ(8)。
〇ヱホバは地の極までも戦闘を廃めしめ給ふ、彼は絶対的に非戦主義を実行し給ふべし、彼は旧時の武具なりし
 
       (360)弓を折り、戈を絶ち、火にて戦車を焼き給しが如くに今亦、銃を折り、剣を絶ち、砲車を燬き尽し給ふべし、而してイエスキリストの父なる神は剣を以ては剣を絶ち給はざるべきも、然かも諸民諸王諸族の心の中に彼の霊を下し、戦争の罪と愚とを知らしめ、彼等をして終に彼等の狂猛に恥ぢて、武器を排棄して、平和の神に事ふるに至らしめ給ふべし、人は平和会議幾回を重ぬるとも兵を廃むることは能はざるべし、然れども神が再びキリストに在て栄光の主として斯世に顕はれ給ふ時に、彼は地の極までも戦闘を廃めしめ給ふべし(9)。
〇声を潜め、静かにヱホバの神たるを知れよ、神として金銀を拝する勿れ、力として武に頼む勿れ、武は平和を来たさず、金銀を愛するは総ての罪悪の始なり、ヱホバの神のみ真の神たるなり、彼のみは終に世の帝王が挙て為さんと欲して為し能はざる戦争全廃を実行し給ふべし、我儕は其時に彼の実に神なるを知らん、其時にヱホバの名は全地に万国の民の中に崇めらるべし、我儕は今、平和を唱へて、其喜ばしき時の至るを待たん、主は必ず我儕の中に臨み給ふべし、我儕は其時に戦争を賛せし者として、彼の怒に触れざらんことを努むべし(10)。
〇我儕は三たび重ねて言はん、万軍のヱホバは我儕と偕なれば、我儕の最後の勝利は確かなり、ヤコブの神は我儕の高櫓なれば、天下何者も我儕の事業を害し、之を失敗に終らしむる者なしと(11)。
〇荒れよ、世の嵐、荒れて汝の猛威を逞くせよ、汝が敗壊を了へし後に、主の十字架は世の唯一の勢力として存らん、而して、其時にヱホバの栄光は水の大洋を蓋ふが如くに全地を蓋ひ、其平和は地の四方に及ばん、其時ヱホバは諸の国の間を鞫き、多くの民を責め給はん、斯くて彼等は其剣をうちかへて鋤となし、其鎗をうちかへて鎌となし、国は国に対ひて剣を揚げず、戦闘のことを再び学ばざるべし(以賽亜書二章四節)。
 
(361)     帖撒羅尼迦前書の研究
                  明治37年9月22日−38年4月20日
                  『聖書之研究』56−63号「研究」
                  署名 内村鑑三
 
     緒言
 
  帖撒羅尼迦前書は保羅の書簡として存するものゝ中に最も古きものなり、而已ならず、亦新約聖書中最も始め書かれしものなり、馬太伝の未だ世に出ざりし前に、馬可伝の未だ成らざりし前に、此単純にして情濃かなる書簡はマケドニヤの一都市なるテサロニケに於ける初代の信徒の一小団躰に向けて贈られたり、故に我儕は此書に於て保羅の処女作とも称すべきものに接するのみならず、亦之に由て基督教会の最始の信仰を覗ふを得べし、彼等の信仰、愛心、希望の何なる乎は最も簡明に此書に於て顕はされたり、基督教会創設時代の作なるが故に、其中に新鮮生気の掬すべきもの多し、之に神学なし、異端の駁撃なし、有るものは真情のみ、熱愛のみ、熱切なる希望のみ。
  パウロ并にシラス(シルワノと云ふと同じ)のテサロニケに於ける伝道の状態に就ては之を使徒行伝第十七章一より九節までに於て見るべし、此書簡は多分紀元五十三年、即ちキリスト昇天より二十三年の後頃希臘国コリントより贈られしものならんと云ふ。改行
 
(362)     註解 第一章
 
  一、パウロとシルワノとテモテ、書を父なる神及び主イエスキリストに在るテサロニケ人の教会に贈る、願くは我儕の父なる神及び主イエスキリストより恩恵と平康《やすき》とを爾曹に賜はらんことを。
  二、我儕祈祷の中に爾曹の事を陳べて常に爾曹衆人のために神に感謝す。三、是れ爾曹が我儕の父なる神の前に在て信仰に由りて行ひ、愛に由りて労し、我儕の主イエスキリストを望むに由りて忍ぶことを我儕断えず念ふが故なり。四、神に愛せらるゝ者よ、是れ亦爾曹の撰まれたることを知るに由りてなり。五、※[開の門なし]は我儕の福音は言を以てのみならず、亦能力を以て、聖霊を以て、又多くの確信を以て爾曹に臨みたればなり、即ち我儕爾曹の中に在て爾曹のために如何に行ひし乎は爾曹の知る所の如し。
 一、パウロとシルワノとテモテ 書簡は主にパウロ一人の書きし所、而かも三人の名を署して贈る、パウロは彼の弟子二人と共に責任を頒ち、又名誉を共にす、深厚なる師弟の関係は斯かる細事を以て養はるゝものなり 〇父なる神及主イエスキリストに在るテサロニケ人の教会 テサロニケ人の教会なり、而かもマケドニア国の一都市なるテサロニケに在る教会に非ず、父なる神及主イエスキリストに在る教会なり、即ち地上の教会にあらずして天に在る教会なり、マケドニヤ人を以て組織する天上の教会の一部分なり、パウロは始より教会を以て地上のものなりとは信ぜざりしなり 〇父なる神及主イエスキリスト 二位同等の地位に在るを示す、教会は神に在るもの、亦キリストに在るもの、神に在るが故に異邦人の教会とは異なり、キリストに在るが故にユダ人の会堂とは異なれり、基督教会は父なる神に在て、亦主イエスキリストに在るものなり、地上の交際を目的とする不信者の(363)集会にあらず、亦単に天の神を拝するための有神論者の団躰に非ず、イエスキリストを主とし仰ぎ、彼に在て父なる神に在る者の兄弟的結合躰なり 〇神に在る とは神の中に於て生命を有つことなり、又は神を離れて何事をも為さゞることなり、或ひは神の中に存在すとも言ふを得べく、或ひは神の霊に覆はるゝ(包まるゝ)とも称ふを得べし(創一〇二)、魚が水の中に棲むが如く、禽と獣とが空気に包囲せらるゝが如く、我儕基督信者は父なる神と主イスキストの中に在て我儕の存在を有つ者なり 〇恩恵 は神より賜はる総ての善き賜物なり、殊にキリストに託りて賜はる聖霊の恩賜なり、神は聖霊を以て総ての善き思念《おもひ》と大なる能力とを我儕に下し給ふ 〇平康は神の恩恵が我儕の心に及ぼす結果なり、之ありて我儕に始めて満足あり、人の凡て思ふ所に過ぐる平安(腓四〇七)あり、恩恵は平康の源因にして、平康は恩恵の結果なり、恰も信仰と行との干係の如し、二者共に存して神は完全に認めらるゝなり 〇教会は父なる神及び主イエスキリストに於て在る如く、恩恵と平康とは亦、同じく父なる神及び主イエスキリストより来る、基督教の特質は恩恵を父なる神よりのみならず、亦之をイエスキリストより仰ぐに在り、キリストが人ならざるの証拠は聖書の斯かる言葉の中に存す 〇イエスキリスト の称号に注意せよ、イエスは人名にしてユダ国ナザレの工匠ヨセフの子の通称なり、キリストは職名にして世の始めより備へられし人類の救主の担ふべき尊号なり、二名連続して歴史的人物なりしナザレのイエスの永久的実在者なる神のキリストなるを示す。
 二、パウロは祈祷を以て彼の書簡を始むるを常とす(他の書簡を参考すべし)、是れ彼の常性を示すものなるべし、彼の心に常に存せしものは溢るゝばかりの感謝なりし、彼は感謝せずして何事をも為す能はざりしが如し、彼の伝道も神学も労働も、皆な感謝の中のことなりしが如し 〇我儕祈祷の中に云々 パウロの祈祷は長かりし(364)ならん、※[開の門なし]は彼は多くの祈るべきことを有ちたればなり、彼は勿論、祈祷のみの人にはあらざりし、彼は亦労働と苦闘の人たりしなり、然れ共彼は普通の人が費すよりは遙かにより多くの時間を祈祷の為に費せしならん、一日一時間を祈祷の為に費すも長きに過ぐとは言ふべからず、我儕時には数時間を冗談のために空費するに非ずや、友と語て夜の更くるを知らざる我儕は神と語て暁に及びしことありや 〇祈祷の中に 多くの祈祷の中に、諸教会の事に就て祈る中に、万人のために※[龠+頁]告、祈祷 懇求 感謝する中に(提前二〇一)、パウロはテサロニケ人のために祈つて止まざりしとなり、狭隘なる愛心は斯かる博愛の中に熱愛を発見するに苦むならん、然りと雖も能く愛の本源を探ぐる者は偏愛の真愛にあらざるを発見するならん、万人のために祈祷る中に我がために祈り呉れる者のみ、真誠に我がために祈る者なり、パウロは彼の多くの祈祷の中にテサロニケ人を記憶して彼等に対して彼の真愛を表示せり、「特に」汝のために祈ると言ふ者の愛は蓋し多く頼むに足らざるの愛なるべし。〇常に爾曹衆人のために神に感謝す 「常に」、「衆人」、「感謝す」、爾曹を祈祷の中に記憶するを以て常習とすと言ひ、爾曹誰彼の為めにあらずして、爾曹衆人のために祈ると言ひ、殊に祈祷(懇求)するよりは寧ろ感謝すと云ふ、如何なる祈祷ぞ、信徒に対する不易不偏の愛と信任とを含むもの、斯かる祈祷の我儕のために捧げらるゝありて我儕は必ず神の我儕を恵み給ふを知るなり、我儕の欠点の矯められんことを祈る者はあらん、我儕の正教(彼等が目して以て正教と做すもの)に入らんことを求むるの教師もあらん、然れども、我儕の善意を信任し、我儕の為せし小なる事業のために、我儕の抱く薄き信仰のために、常に我等のために感謝し呉るゝ友人と教師とは何処に在るや、パウロは実にテサロニケ人の教師なりしのみならず、亦其信仰の父たりしなり、欲しき者は実に肉躰の父のみならず、亦霊魂の父にぞある。
(365) 三 是れ 前節に於て言へる感謝の理由を示す 〇信仰に由りて行ひ 原文は単に信仰の行と記す、信仰の結果として出る行ひの意なり、果を結ばざる空想的の信仰に非ず、然ればとて、仁慈を衒ふ機械的律法的の行ひにあらず、善行を生ずる信仰なり、信仰を源として出る善行なり、即ち基督信者の懐くべき信仰と行すべき行為となり 〇愛に由りて労し、愛の勤労(原文) 労するとは他人のために心を配ばることなり、或ひは無益ならんとは知りながらも彼のために益を謀ることなり、他人に表する好意は常に感恩の念を以ては報ひられず、否な、最も多くの場合に於ては好意は返て悪意を以て酬ひらるゝなり、我れ彼のために念ひしが故に彼は我を目するに奸物偽善者を以てし、社会に向つて我が名誉を毀損し、我に総ての苦痛を感ぜしめて以て快哉を叫ぶ、是れ実に苦労たるなり、然れども愛は欺かるゝも其勤労を廃せず、※[開の門なし]は愛は報酬なきも其物自身にて快楽なればなり、特にキリストの愛を受けて我儕は人のために尽さゞらんと欲するも能はず、蹴られ、唾《つばき》せられても、尚ほ懲りずして、他人のために善を為さんと欲す、然かり、愛に勤労あり、勤労なきは愛にあらざるなり、キリストを信じて我儕は世が見て以て無益の苦労と做すものを我儕の身に引受けしなり、我儕愛の為に多くの苦痛を身に招きしと雖も、是れがために呟くことなくして、却てパウロに傚つて、其ために神に感謝すべきなり 〇我儕の主イエスキリストを望むに由りて忍ぶこと イエスキリストの希望の忍耐(原文) イエスキリストに関する希望を抱くより生ずる忍耐の意なり、キリストを望むとはキリスト再来の希望なり、則ち彼が栄光の王として此世に降来て正義の裁判を行ひ給ふの希望なり、此希望あるが故に我儕は総ての不正、圧制、無慈悲、迫害を耐へ忍ぶなり、輿論の裁判なるものゝ不公平極まる、之に由りて我儕の心を安んずる能はず、法律の保護なるものも亦以て我儕の身命を之に託するに足らず、骨肉の双親兄弟すらも我儕を誤解することある此世に在て我儕何を目的に其総ての苦痛を忍ぶ(366)を得んや、キリスト再来の希望なり、是れあるが故に、我儕は耐え忍ぶなり、キリスト信徒の忍耐は「我慢」に非ず、即ち理由なき忍耐にあらず、我儕は最後の公平なる裁判を信ずるが故に耐え忍ぶなり、帖撒羅尼迦前後書、一名之を希望の書簡と称す、而して希望の書なるが故にキリストの再来に就て語ること多し、希望と忍耐とキリストの再来とは聖書に於ては密接に相関連する事項なり 〇信、望、愛は基督教の三柱なり、此所、其結果行動を語る、哥林多前書十五章、愛の賞讃の辞の摘要と称すべし。
 四 神に愛せらるゝ者 基督信者の一名なり、彼は神を愛する者といはんよりは寧ろ神に愛せらるゝ者と称すべき者なり、我儕神を愛するに非ず、神我儕を愛し、我儕の罪のために其子を遺して挽回《なだめ》の祭物《そなへもの》とせり、是れ即ち愛なり(約壱、四〇十) 〇愛せらるゝ者なり、故に撰まれたる者なり、予定は愛の表彰なり、キリストは、我儕の尚ほ罪人たる時、我儕のために死に給へり、神は之に由りて其愛を彰し給ふ(羅五〇八)、而して撰まれたるの証跡は他に在らず、前に述べし信仰の行ひ、愛の労、希望の忍耐に存す、パウロがテサロニケに在る彼の信者のために感謝して止まざりしは、彼等に於て是等の誤るべからざる神の撰択の証跡の歴然として顕はれたるを見たればなり、予定は神学的提議にあらず、実験的証明なり、信、望、愛の効果の顕はるゝを見て、我儕は之を人の功績と見做さずして神の恩恵に帰し奉るなり、パウロが其徳のためにテサロニケ人を賞めずして神に感謝する所以のものは全く此に存す、即ち彼は人の徳を以て神の下し給ひし恩恵と見做したればなり。
 五、※[開の門なし]は テサロニケ人が神に択まれたる者なりとのパウロの認定の理由を示す 〇我儕の福音 勿論神の福音なり、然れども我儕に委ねられし福音なるが故に亦「我儕の福音」なり、殊に十字架と其救の能力を説くが故に、パウロ独特の福音なり、或者は割礼を説き或者は学術を説きしと雖も、彼は特別にイエスキリストと彼の十(367)字架の事を説けり(哥前二〇二)、十字架の福音とは蓋しパウロが特別に我儕の福音と称せし者なるべし 〇言を以てのみならず、能力を以て 福音は言を以て伝へらる、然れども言のみを以てに非ず、福音は力ある言なり、異能の伴ふ言なり、「言は声に非ず、実物なり」との語は殊にキリストの福音に応用して最も適切なるものなり、之を説くに方て或る他の物の之に伴ふを見る、伝道を以て「言語の施与」なりと想ふは非なり、言語プラス(+)能力なり、能力あるが故に言語は人の霊魂を活かすの奇跡を奏するなり 〇聖霊を以て 聖霊は能力の原因なり、神は伝道師の言に聖霊を添へ給ふて死せる霊魂を復活《いきかへ》らしめ給ふなり、能力は聖霊に由りて与へらるゝを常とす、イエスの言に聖霊爾曹に臨みて後、爾曹能力を受くべしとあり(行伝一〇八)、又パウロは曰く我が宣べし所の言は人の智慧の娩言に由らず我は唯聖霊と能力の証明を用ゐたり(哥前二〇八)、伝道の成功と其神の事業なるとの証は単へに之に聖霊と能力との伴ふあるを以て識るを得べし 〇多くの確信 パウロの言を聴きしテサロニケ人の中に起りし確信を云ふなり、或ひは之を改信(発心)といふも可なるべし、聖霊に充たされて意思の根本的革命を起したりとのことなり、即ち神よりは聖霊と能力とを添へられたればパウロの言はテサロニケ人の中に在て多くの確信を起し、確実なる改悔の果を結びたりとの意なり、此能力と此成功ありしが故に彼は彼の伝道事業の神の事業なることを疑はざりしなり 〇パウロはテサロニケに於ける彼の信者の神に撰まれし者なるを知れり、※[開の門なし]は神が彼を彼等の中に送り、異能を以て彼の伝道を助け、亦多くの篤き信仰を起して之に応ぜしめ給ひたればなり、神よりは聖霊と能力との豊かなる供給あり、人の中には篤き信仰の起るあり、是れ神が特にテサロニケ人を択み、彼等を彼に召さんがためにパウロを彼等の中に送り給ひしが故に非ずして何ぞや、結果は源因を証明す、伝道の成功は伝道されし者の撰択を示すものなりと 〇我儕爾曹の中に在て云々 爾曹の中に在りし間の我儕の(368)行動、我儕の態度は爾曹の能く知る所なり、我儕は即ち人に頼ることなく、自から労して我儕の食を求め(二章九節)、人の智慧に由らず、権威を藉りず、我儕自身を爾曹に薦めんとはせずして我儕の父なる神及び主イエスキリストを薦めんとせり、我れ若し我が能弁を以てし、我が才能を以てし、政府と教会との権威を藉りて爾曹の中に道を伝へしならんには、爾曹我の神の使者なりしと爾曹の神に択まれし者なるとを疑ひて可なり、然れども我ならざるものゝ弱き我を使ひて爾曹の中に働きしを見たれば爾曹は爾曹に関する神の撰択を信じて可なりと、パウロはテサロニケ人の予定を証明せんとして努めたりと謂ふべし。 〔以上、9・22〕
 六、而して爾曹は大なる艱難の中に聖霊の歓喜をもて道を受け、我儕及び主に傚ふ者となりたり。「而して云々」 テサロニケに於ける信徒が神に択まれたる者なりとの証明を更らに述べて言ふ、使徒の側に在ては、異能は言語に伴ひ、聖霊は確信を起して、福音は彼等に因りてテサロニケ人の中に臨みたり、而して亦テサロニケ人の側に在ては、彼等は大なる艱難ありしに関はらず、忍耐を以てのみならず、歓喜を以て、然り、聖霊の供する歓喜を以て、使徒等に由て伝へられし道を受けたり、伝ふる者に聖霊の伴ひしあり、亦、受くる者にも同一の能力の顕れしあり、之れ神の命じ給ひし伝道にあらずして何ぞや、神の撰択の区域内に於てのみ伝道の成効は存す、神の択み給はざる者の中に臨む時に聖霊は伝道師に伴ひ給はず、亦、神に択まれし者のみ能く神の道を受くるを得るなり、神に由て送られ、神に由て受く、而して斯かる精神的配遇の行はるゝ所に於てのみ我儕は誤認りなき神の撰択(予定)を発見するなり。
 「難難」 迫害なり、福音の斯世に臨む時に必ず迫害あり、そは人その行の悪きに因りて光を愛せず反りて暗を愛すればなり(約三〇十九)、迫害なきは福音なきの証なり、罪は病と均しく苦痛なくして癒さるゝものに非ず、(369)艱難の伴はざる福音は偽の福音なり、世に嘉納せらるゝ福音はキリストの福音に非ず、其始めてテサロニケに臨みし時に大なる迫害ありたり(行伝十章五より九節迄を見よ)、其今日世界何れの処に臨む時にも亦同じ迫害なかるべからず、我は実に迫害を蒙らざる基督教信者なる者を見たり、而して我は彼のキリストの心を有たざる者なるを識れり、迫害は信徒が其身に佩びるイエスの印記なり(加六〇十七)、是なきものはイエスの弟子にはあらざるなり。
 「聖霊の歓喜」 福音を信ずるに方て必ず世の迫害あり、然れども其れと同時に亦聖霊の歓喜あり、世が外より責むる時に神は内より慰め給ふ、我儕が外なる人は壊るゝとも内なる人は日々に新たなり(哥後四〇十六)、迫害なきは福音なきの証なり、其れと同時に、歓喜なきも亦福音なきの証なり、而も其歓喜たる、産財蓄積の歓喜にあらず、亦位階進昇の歓喜にもあらず、聖霊降臨の歓喜なり、人の思念に過ぐる聖き深き歓喜なり、世の迫害と共に天よりの此歓喜を受けて我儕は神の撰択に与かりし者なるを知るなり 〇「道を受け」「道《ことば》」は福音なり、「受け」は歓迎せしなり、父の慈音に接せし感を以て之を歓受せしなり、喜ばしき音れなり、故に之を歓迎せざるべからず、天の命なればとて厭々ながら之を受る者は之を受くる者にあらず 〇「我儕及び主に傚ふ者となれり」 パウロはキリストに做へり、故に彼は人の彼に傚はんことを要めたり(哥前四章十二節)、キリストも世の迫害と共に神よりの歓喜を受けたり、パウロも亦キリストに傚ふて苦き杯と共に美《うま》き慰藉を得たり、而して今やテサロニケにある信者は迫害と歓喜とを同時に受けて主キリストとパウロとに傚ふ者となれり、キリストと偕ならんと欲せば此艱苦と慰藉とを味はざるべからず、世に迫害せられず、亦聖霊の歓喜をも受けざる者はキリストを主としパウロを兄弟として有つ能はず、「傚ふ」とは此場合に於ては同一の心を懐くことなり、同情推察に入(370)ることなり。
  七、マケドニヤとアカヤに在る総ての信者の模範となれり。
 マケドニヤは今の土耳其領マケドニアなり アカヤは今の希臘なり、二国併せてバルカン半島の西南部を形成す、テサロニケの信者は此地方に於ける模範的信者と成りしとなり、キリストは使徒の模範となり、使徒はテサロニケ人の模範となり、テサロニケ人は其地方全躰に散在せる信徒の模範となりたり、斯くの如くに模範を無限に続けて基督教は伝播せらるゝなり、福音は言葉にあらず、品性なり、而して品性は模範を以てのみ伝へらるゝ者なり。
  八、蓋し主の道、爾曹より第《たゞ》にマケドニヤ及びアカヤに響きしのみならず、爾曹が神に向へる信仰は総ての処に広まれり、是故に我儕何事をも言ふに及ばざるなり。
 「蓋云々」 テサロニケの信徒が他所の信徒の模範となりしとの事に更らに説明を附して言ふ 〇「響く」 鐘の響くが如くに響き渉るをいふ、福音は隠密に臨《きた》る 然れども燈は終に斗《ます》の下に隠るゝ能はず、語らず、言はず其声聞えざるに、其音響は全地に遍く、其言辞は地の極にまで及ぶ(詩篇十九篇三、四節)福音の此世に臨むや、異象の人に顕はるゝに似たり、之を聞く者は駭き、之を見る者は怪しむ、其信徒の団躰は小なるも其評判は鐘の音よりも高し、テサロニケに信徒の一小群起りて、其音響はバルカン半島の半部に鳴り渉れり 〇「神に向へる信仰」 神に向つて懐く信仰、即ち次節に於て言へる如く、偶像を棄て神に帰し活ける真の神に事へる底の信仰を意ふなるべし、人、何人にも信仰あり、之を物に向つて懐きて迷信あり、之を人に向つて懐て恐怖と隷属とあり、之を自己に向つて懐きて自負自尊あり、信仰を活ける真の神に向つて懐くに至て始めて確心あり、自由あり、謙(371)遜あるなり、改信を英語にて(Coversion《コンバーシヨン》)と言ふは回転の意なり、即ち信仰の眼を神以外のものより転じて之を神御自身に向けることなり、而してテサロニケの信徒は神に向つて信仰を懐くに至て新生涯に入るを得しなり。〇「総ての処に広まれり」 主の道は彼等より(彼等を中心点として)バルカン半島に響き捗り、彼等の新信仰は天下到る処にまで広まれり、音響の達せざる所にまで光明は達す、近きは彼等の改信を聞いて駭き、遠きは之を伝へて怪めり、世界の最大事件は大帝国の勃興に非ず、泰山の崩解に非ず、天の光明が人類の心に臨みしことなり、而してマケドニヤ洲テサロニケの一市に、而かも其少数の市民の中に、天の福音の臨みしが故に、バルカン半島は動き、羅馬帝国は振へりと言ふ、パウロの此言は或ひは散文的に、文字其儘に、解釈すべきものにはあらざるべし、然れども其中に常人が未だ以て予想せしことなき深意の在て存するなるべし、テサロニケに臨みし「主の道」とテサロニケ人の信仰とは確かに天下到る処に広まれり、二十世紀の今日、極東の我儕日本人ですら之を聞いて動き、之を学んで之に傚はんとしつゝあるに非ずや、テサロニケに於て説かれし単純なる福音はバルカン半島のみならず、今や五大洲に響き渉りつゝあり、パウロの此言は文字其儘よりも遙かに広き意味に於て事実となりて顕れつゝあり 〇「是政に我儕何事をも言ふに及ばざるなり」 事実既に斯の如くなれば、我儕伝道者は爾曹に臨みし福音に就て、又爾曹の懐きし信仰に就て、殊更らに言を加へて之れを弁明するの必要を感ぜざるなり、弁明を要する福音は真個の福音にあらず、「樹は其果を以て識らる」、一度び真個の福音を植え置かんか、福音は「終に其れ自身を証明するに至るべし。
  九、十、蓋彼等は我儕が如何なる状にて爾曹の中に入り来りし乎、又爾曹は如何にして偶像より神に回りて活ける真の神に事へ、其子の天より臨るを待つ乎に就て公言すればなり、其子は即ち神の死より甦らしゝ所(372)のイエスにして我儕を来らんとする怒より拯ふ者なり。
 「彼等は」 世界各国の人は、パウロに取りては彼が伝道のために到りし各所の民は 〇「我儕は如何なる状云々」 能力と聖霊とを以てテサロニケ人の中に臨みし状をいふ(第五節参照) 〇「偶像より神に回へりて云々」 前節の「神に向へる信仰」の意義を敷衍して言ふ、偶像に向ひし者は踵を回して神に向ひ、死せる偽の神を崇めし者は活ける真の神に事ふるに至れり、言あり曰く、人は其拝する神の如しと、人の崇拝物を更ふるまでは其本性を改むる能はず、死せる神に事ふる者は死し、活ける神に事ふる者は活く、而して世は真神の活けるを知らざるも、之に事ふる者に活気あるを見て、其まことに活ける真の神なるを識るなり 〇「其子の天より臨るを待つ」 神の子の再臨は基督教独特の教義なり、我儕は独一無二の神を知るを得て未だ基督教の真義に達せりと云ふを得ず、神の子イエスキリストを信じ、其死と復活とを信じ、終に又其再び世を鞫かんがため天より臨み給ふことを信ずるを得て、我儕は基督信徒たるを得たりと称ふを得るなり、テサロニケの信者は初めに先づ偶像より神に回へり、次に其まことに活ける真の神なるを覚り、終に神の子キリストの再び天より臨り給ふを待てり、彼等の信仰は該博ならざりしも、能く基督教の要点に渉れり、キリストの再臨を信ずるを得て彼等はユダ人以上の一神教信者となれり 〇「公言すればなり」 世人の公言なり、彼等未だ主の道を信ぜざる者も能くパウロの伝道の如何なるものなりし乎、其、政府の権に依らず、教会の力を藉らず、天の使命に由りしものなるを証明せり、我儕の敵をして我儕の証明者たらしめよ、我儕を忌み嫌ふ者も終に我儕の事業の浮虚華飾の事業にあらざるを公言するに至るべし、パウロは彼の福音の弁証を天下の公論に委ねたり、我儕福音宣伝に従事する者、亦、彼に傚ふ所なくして可ならんや。
(373) 「其子は即ち神の死より甦らしゝ所云々」 キリストの復活は福音の心髄なり、故にパウロは機会ある毎に必ず此事に就て述べたり、神の子何人ぞ、彼は紙の死より甦らしゝ所のイエスなりと、キリストの復活なくして福音あるなし、希望あるなし、爾曹の信仰はむなし(哥前十五〇十七)殊に再臨のキリストは復活のキリストに外ならず、キリストに二人あるなし、再び降り臨る者は一度び昇りし者なり、世の罪を担ひて汚辱の死を遂げし者は栄光の君として再び世に臨む者なり、即ち我儕の罪を贖はんために死せしものは我儕を神の天国にまで救はんために再び来り給ふ、キリストの復活と再臨とは古人の迷想に出でし虚談にあらず、是れ我儕の本性の要求する所なり、是なからんか、我儕の罪を如何にせん、我儕の救拯を如何にせん。
 「我儕を来らんとする怒より救ふ者なり」 来らんとする怒は神の未来の裁判なり、而してキリストの再臨は此裁判を行はんためなり、彼の救拯なるものは今の世に於ける苦悶疾病よりの救拯に止まらず、然り、キリストの救済の力は最も顕著に終末の裁判の日に於て表はるゝものなり、其時、人の此世に於て為せし悪事は悉く露出せられ、彼の心の秘密は鞫かるべし、その日人々おのが拝せんとて造れる白銀の偶像と黄金の偶像とを※[鼠+晏]鼠《うごろもち》の穴、蝙蝠の穴に投棄て、岩々の隙《はざま》、険しき山峡《やまあい》に入り、エホバの起ちて地を振ひ動かし給ふその畏るべき容貌と稜威の輝きとを避けん(以賽亜書二章廿、廿一節)、其時、曾て羔の血にて其衣を滌ひ、之を白くなせるもの(黙示録七章十四節)のみ神の休息《やすみ》に入るを得ん、キリストの救済を此世に於てのみ求めんと欲する者は未だ其救済の広さ、深さ、高さを知らざるものなり、キリストは我儕を全く(終局まで)救はんために(希伯来書七章二十五節)に十字架上の耻辱を我儕のために受け給ひしなり、キリストの再臨と、其時に於ける怖るべき神の裁判とを認めずして、十字架上のキリストの効績を充分に解する能はず、主の大なる顕赫日(行伝二章二十節)の我儕の目前(374)に横はるを見てのみ十字架の恩恵は充分に感ぜらるゝなり、故にパウロは言へり、我儕主の畏るべきを知るが故に人に勧むと、(哥後五章十一節)。 主の日は恐怖《おそれ》の日なり、然れども我儕救はれんがためにイエスに遁れ行きし者に取りては此日は是れ救済の日にして希望の日たるなり、故にテサロニケの信徒が「神の子の天より臨るを待ち」しが如くに、我儕も亦其審判の日の来らんことを待ち望むなり、裁判の日の恐しさは我儕に鞫かるべきの罪あるに由るなり、鞫かるべきの罪なからんか、或ひは罪あるも赦さるべき途の備へられん乎、我儕は楽んで其日の到来を待ち望むを得るなり、基督教何物ぞ、素是れ此日のための準備にあらずや、嗚呼、基督教に由て幸福なる家庭を望む者よ、隆盛なる国家を望む者よ、汝等は基督教より其特に汝等に与へんとする恩恵と特権とを要めざる者なり。
     ――――――――――
 
    第一章概察
 
 信、愛、望を説き、恩寵を説き、平康を説き、聖霊を説き、信仰を説き、伝道を説き、改信を説き、終にキリストの復活と再臨とに説き及ぶ、一章十節の少数文字の中に基督教の精要を悉《つく》せりといふべし、是れ蓋し記者パウロが殊に思考を凝らして之を書きしものなるが故にはあらざるべし、彼は唯霊に充ち、彼の堪へ難きを記せしが故に、此「聖霊の文字」は出しなるべし、神は人の手を取て彼をして無意識の間に神の言葉を写さしめず、彼は先づ其人の中に神の霊を降し、熱愛を以て彼の心情を鎔解し、耀光を放つて彼の悟性を照らし、彼をして真理の心髄にまで透徹せしめて其極意を世に宣べしめ給ふ、斯る言葉は皆な悉く純金にして其中に些少の滓渣を雑(375)へず、人の衷心より出る聖霊の言辞は簡潔にして其中に大真理を蔵す、帖撤羅尼迦前書第一章十節の中に 基督教の大教理の悉く籠り在るは敢て怪むに足らざるなり。
〇福音宣伝の如何なる事業なるかは最も明白に此章に於て顕はる、是れ能弁術の応用に非ず、勢力の扶植に非ず、新道徳の注入に非ず、単に是れ霊を以て霊を伝ふることなり、我れ霊の導く所となりて彼に至り、彼れ亦、霊に導かれて我を迎ふ、而して霊、霊に接して茲に新たなる霊を生ず、恰かも男女両性の合躰の如し、之を伝道と称して能く其意を通ずる難し、是を心霊的増殖と称して少しく其真義を表すに足らん乎、伝道は実に聖なる結婚の一種なり、而して神の合せ給へる者は人之を離す能はざるなり、然り、神の合せ給へる者にあらざれば人之を結ぶ能はざるなり、霊の媒介に由らずして伝道の成効あるなし、教会の命ずる伝道、会社の企つる伝道、是を野合的伝道と称するより他に言なきなり。
〇我れキリストより其霊を受くればキリストの如きものとなり(傚ひ)、我れ亦、之を他に伝ふれば彼は我の如きものとなりて亦キリストの如き者となる、伝道は伝染なり、霊火の延焼なり、其燃附く所となりて基督信徒は世に起るなり、願くは我も亦其点火の栄に与からんことを。
〇而して其点火の現象たるや如何、迫害来り、歓喜生じ、警鐘となりて近隣に響き、燈台となりて四方を照らす、是を教へられしが故に之を為すに非ず、之を為さゞるを得ざるに至りしなり、是れ所謂霊の結ぶ果なり、是ありて我儕はキリストの霊の我儕の衷に植附けられしを知るなり。
〇基督信徒の成熟は之をキリストの日に於て待たざるべからず、彼は身にキリストの霊を受けて彼れの国籍を天に移したり、彼は今は特に神の子の天より臨るを待ち望む者なり、此世に野心を蓄へし者、此世に得て此世に費(376)し、此世に生れて此世に熟し、此世に富者として貴まれ、此世に義人として崇められんとのみ求めし彼は、今は彼の総ての希望を此世以外に移すに至れり、彼は今や日の暮るゝを待つ者となれり、勿論無為にして之を待つには非れども、而かも喜楽を今日に繋がずして之を明日に繋ぐ者となれり、福音受領の結果は現世との絶縁なり、而して此絶縁の行はれざる所に福音の要求する信の行と愛の労と望の忍とはあらざるなり(第三節参照)。
〇最初の福音は斯くも単純にして斯くも美はしきものたりしなり、パウロ未だコリント教会の堕落を聞かず、ガラタヤ人の背信を耳にせず、故に彼は処女が始めて人生に臨む時の心を以て彼の伝道の途程に就けり、而かも世は彼が想ひしよりも不実なりし、彼も終には神学を講ぜざるを得ざるに至れり、教会を建てざるを得ざるに至れり、悪魔の存せざる所に神学教会の要あるなし、之を要するの理由は人を誘ふ者の跋扈に在り、彼の譎計、奸策、詐術に存す、我儕パウロが始めてテサロニケに於て伝へし福音を聞き、之を今日の錯雑なる、嫉妬深き、死せる、冷たき、教会的基督教に較べ見て、〔万斛の涙なき能はず。 〔以上、10・20〕
 
    第二章
 
  一、兄弟よ、爾曹自からも亦知る、我儕が爾曹の中に入りしことの徒然ならざりしことを。
〇「爾曹自からも亦知る」 世人は我儕の福音に就て証明を為す、故に我儕之れに就て何事も言ふに及ばず(前章八節)、然れども我儕何んぞ世人の弁証を待つを須ゐんや、爾曹自身が其最も確実なる証明者なり、世人千万人の証言は爾曹少数の兄弟の自証に若かず、真理の神を信ずる者の一人の証明は信ぜざる者の千万人の証明に優つて力あり、我儕は不信者の証明を重んず、然れども我儕の頼る所は主として信者の自証にあり、若し我儕に由て(377)神を信ぜし者の証明なからん乎、世の賞讃の辞は我儕に取て何の益する所あるなし 〇「爾曹の中に入りしこと」 聖霊に由り、キリストの福音を齎らして大胆にテサロニケの市に入りしこと(前章五節)、是れ容易の事にはあらざりし、是を敢てするに多くの勇気と信仰とを要せり、福音の宣伝者はあり、亦、之を聴かんと欲するの人と社会とはあり、然れども之に入るの困難は刀を揮つて独り敵陣に入るよりも大なり、パウロは彼が神より託ねられし福音を齎らしてテサロニケの市に入るに先つて幾回か躊躇せしならん、然れども聖霊に励まされて断然意を決して一度テサロニケ人の中にいりりしや、成効は成効に続いて、彼の入国の徒然ならざりしを証明せり、入りしこと(entrance,eisodon)とはパウロ独特の用語の一にして、彼の伝道の精神の一斑を示すものなり 〇「徒然ならざりしことを」 謙遜の言辞なり、徒然ならざりしは勿論、大成効なりし、彼の大胆なる入国は多くの預想外の果を結べり、之れに由て多くのテサロニケ人は偶像を棄て、神に帰して活ける真の神に事へたり(前章九節)、彼の伝へし福音は彼等を通うしてバルカン半島に響き渉れり、パウロ自身も亦彼の伝へし福音の斯くまで有力なるものなりとは想はざりしならん、彼の伝道は実に徒然ならざりし、其影響は二千年後の今日にまで及んで、極東の我儕をさへ慰めつゝあり。
  二、乃ち爾曹が知れる如く、我儕曩きにピリピにて苦みを受け、又辱めを受けし後、爾曹に至り、我儕の神に頼りて大なる紛争の中に神の福音を憚る所なく爾曹に語れり。
 ビリピに於ける迫害に就ては使徒行伝十六章十一節以下を見よ 〇「辱めを受け」 虐待せられしの意、杖《むちう》たれ、獄《ひとや》に投ぜられたり(同章廿三節) 〇「爾曹に至り云々」 ピリピにて苦められ、辱められし後、テサロニケに至れり、乃ち屈辱の身を以てテサロニケ人の中に臨み、大なる反抗ありしに関はらず、自己に頼ることなく、神に頼(378)り、自家の学説を唱ふるにはあらで、神の福音を宣べたり、又、耻ぢて密かに之を宣べしにはあらで、幅る所なく、大胆に、公然と、之を爾曹に語れり、若し我儕の伝へし福音にして、神の福音にあらずとせん乎、我儕如何で此悲むべき境遇に在て、此大胆の措置に出るを得んや、逆境中の公明と成効とは我が福音の真実を証明するものならずや。
  三、蓋我儕の勧諭は惑より出るに非ず、汚より出るに非ず、亦、詐を以てするにあらざればなり
〇「勧諭《すゝめ》」 此場合に於ては教義の意なり、パウロがテサロニケ人に勧め且つ諭せし基督教の教旨なり 〇「惑よりに非ず」迷信に非ず、妄なる談と老たる婦の奇しき談(捉摩太前書四章七節)に非ず、亦、巧なる奇しき談(彼得後書一章十六節)に非ず、キリストの復活と昇天と再臨とを説くも、是れ端厳なる合理的の教義なり、迷信に熱心に類するものありと雖も、之に逆境に処するの勇気あるなし、公明を尊ぶの確信あるなし、我儕の伝道の正大なるは其迷信ならざる証拠の一つなり 〇「汚より出るに非ず」 利慾のための宗教あり、人の劣情に訴ふるの宗教あり、バビロン人の宗教の如き、女神アルテミスを拝する希臘人の宗教の如きは皆な此類なり、然れども我れパウロの宣ぶる福音は如斯き肉情に基する宗教に非ず、是れ聖なる神の福音なれば之に汚穢なる分子の存ぜざるは勿論なり、汚より出る宗教は惑より出る宗教と均しく秘密を貴び、暗黒を愛す、然れども義なる聖なる福音なるが故に人の侮辱に遭ふて、返て益々其光輝を放つなり、聖潔は真理と併行す、基督信者は真理に循ひて霊魂を潔むる者なり(彼得前書一章廿二節)、而して此等二者の無き所に勇気と確信とあるなし、而して我儕がピリピにて虐待を受けし後に、大胆に、公然と、爾曹テサロニケ人の中に臨みし所以は、我儕の齎せし福音が聖且つ真なるに存ぜずんばあらず 〇「詐を以てするにあらざればなり」 我が福音の素質は聖なり、真なり、故に我は(379)之を説くに方て詐術を用ゐるの要なきなり、純金は之に鍍金を施すの要なし、真理は之を伝ふるに不義の諸ての詭譎(帖撤羅尼迦後書二章十節)に由るを要せず、唯、公然之を唱ふれば足る、之に美文の装飾を施すが如き、又は教権或ひは政権に藉るが如き必要、一つもあるなし、我儕はピリピにて杖たれ且つ獄に投ぜられし後に、爾曹の中に臨み、唯、福音の真価にのみ頼りて之を爾曹に伝へたり、若し我儕にして詐術を弄する者ならん乎、如何で我儕に此大胆と確信とあらんや 〇「詐」 は希臘語にては餌《えば》(dolos)の意なり、故に詐を以て道を伝ふるとは餌を以て信者を釣込むことなり、斯かる卑劣なる伝道はパウロの切に忌諱せし所なり、然れどもパウロならざる今日の宣教師は往々にして此嫌ふべき伝道法に由ることあり、世の智識を餌に供して、新たなる信徒を得んとするが如き、立身栄達の希望を提して福音受領を促すが如き、是れ均しく「詐を以てする」伝道にして、其、神の福音を宣べ伝ふるの途にあらざるは言ふまでもなし、キリストの福音其物の真価を識る者は之を人に勧むるに方て、之に伴ふ損失迫害を語るに躊躇せず、然かり、光明は暗黒の中に在て始めて其光輝を認めらるゝものなれば、真個の伝道師は返て之を暗黒(不利益の境遇)の中に其赤裸々の状を具して伝へんことを欲す、パウロとシラスとは大なる紛争の中に神の福音をテサロニケ人の中に語れり、而して是れ福音発育のためには返て佳境なりしなり、名誉、利益、栄達の餌を供するにあらざれば行ふ能はざる伝道は之を断然廃止するに若かざるなり。
  四、我儕、神に試みられ福音を託ねらるゝに足る者とせられしが故に語るなり、人を喜ばせんがために非ず、我儕の心を鑒み給ふ神を喜ばせんがためなり。
〇「神に試みられ云々」 神に試みられ、福音を託ねらるゝに足る者とせられたりと、人類が神より受くる栄誉にして是れ以上のものはなかるべし、神の眼より視て、位、人臣を極むとは蓋し此謂ひなるべし、然れども、是れ(380)此栄誉に与かりし者に高徳の賞すべきものありしが故に非ず、神は必しも世の所謂る聖徳の士を以て其使者とはなし給はざるなり、若し其徳を以て称せん乎、ダビデ王は決して清浄の人にはあらざりしなり、而かも神は彼を呼んで「我が心に合ふ僕」なりと言ひ給へり、ベテロ、ヨハネ、亦、其時代の最も高徳の士にはあらざりしなり、而かも彼等は殊更らにキリストの証人として世に立てられたり、神の見る所は人の見る所と異なる、神は彼が視て以て善と見給ふ者を其使者として簡び給ふなり、タルソのパウロに福音を託ねらるゝに足るの資格ありたり、是れ其一部は神が彼に在て特別に作り給ひし資格にして、亦、一部は、彼が生来、神に由て備へられし資格なりしなり、信頼の心、罪に泣くの心、自己の無力を認むるの心、神意のまに/\自己を使用せられんと欲するの心、自説なるものは全く絶えて、自己を通うして神の福音を世に鳴り渉らしめんとするの心、是等が蓋し彼れパウロが神に試みられ、福音を託ねらるゝに足る者とせられし彼の資格の重なるものなるべし、伝道師とは世に所謂る聖人なり君子なりと思ふが如き誤謬は他にあるなし、パウロは此所に彼に託ねられし職分の高且大なるを語つて、自己の高徳を誇りつゝあるにあらず、否な、彼は此事を述べて実は彼の不徳を表白しつゝあるなり、彼は言へり、キリストイエス罪人を救はんために世に臨れり、是れ信ずべく亦疑はずして受くべき話なり、罪人の中、我は首なり、然れども我が衿恤を受けしはキリストイエスいやさきに我に寛容を悉く顕はし、後、彼を信じて永生を受くる者の我を模楷となし給へる也(提摩太前書一章十五、十六節) 〇「語るなり」 我れ語るに理由あり、我は我が信者を作らんために語らず、我が教会の勢力を扶殖せんがために語らず、又、我に自説ありて、我は世人が之を採用せんことを欲するが故に語らず、我の語るは我に天より託ねられし聖職あればなり、我れ価値なき者なるに、神は我を福音を託ぬるに足る者となし給ひたれば、其知己の恩に感じて語るなり、我が福音を語るは我(381)の職分にして亦我が義務なり、我儕キリストの愛に励まされて語るなり、我儕が爾曹の中に彰はせし勇気の説明を求むる者あらば我儕はたゞ此一事を以て答へんのみ 〇「人を喜ばせん為めに非ず」 人のための伝道に非ず、我れ自身のためにあらざるは勿論、亦、爾曹のためにもあらず、神のための伝道なり、神の命に循ひ、神を喜ばせんための伝道なり、故に我は爾曹の招きに応じて爾曹の中に入りしに非ず、神に遺されて、神の命を奉じて爾曹の中に到りしなり、我儕が爾曹の中に表はせし大胆勇気の説明は一つは亦茲に存す。
  五、爾曹知るが如く、我儕はいつも諂ふ言を用ゐず、亦、事に藉せて貪ることをせず、神、之が証をなす。 〇「我儕諂ふ言を用ゐず」 我儕、言葉に於て諂ふ者とならず、人の智慧の婉はしき言を用ゐず(哥林多前書二章四節)、率直、赤裸々の言を以てせり 〇「亦、事に藉せて貪ることをせず」 貪慾の仮装を着ず、福音を利用して我が利益を計らんとはせず、価なしに受けたれば亦価なしに施したり(馬太伝十章八節) 〇「神、之が証をなす」 爾曹が之を知るのみならず、我儕の心を鑒み給ふ神も亦此事の証人なり 〇誠実の人が誠実を語るに方て、之を人と神との誠実に訴ふるより他に途あるなし、「爾儕之を知る」、「神、之を証す」とはパウロが度々繰返す語句なり、世の法律家は之に一つも証拠となすに足るものなしと言ふならんも、而かもパウロの如き人に在ては、之を除いて他に彼の誠実を立証するの途なきなり パウロをして幾度となく此宣誓の語を発せしめし世の疑察者の罪は重いかな。
  六、我儕キリストの使徒として人に重んぜらるべしと雖も、或ひは爾曹にも、或ひは他人にも、人に栄誉を求めず。
 我儕にキリストの使徒たるの特権備はれり、然れども我儕はこの特権を自己のために使用せざりし、或ひは爾(382)曹よりも、或ひは他人よりも、人といふ人より我儕は栄誉を求めんとはせざりき、我儕は爾曹の中に臨んで、我儕自身に対して爾曹より何の義務をも要求せざりし。
  七、乳母その赤子を育ふ如く、我儕、爾曹の中にありて柔和なりき。
 我儕に与へられし使徒たるの特権を使用せざりしのみならず、我儕は与ふるを知つて受くるを知らざる乳母の如くに爾曹を哺育せり 〇「柔和なりき」 神に由て救はれし爾曹の霊魂が要求する儘を行へり、譲る、服従するの意なり。
  八、如此く爾曹を恋ひ慕ひて第に神の福音のみならず、我儕の生命をも爾曹に与へんことを喜べり、是れ爾曹は我が愛する者となりたれば也。
 人の愛に惹かれしに非ずして、神の命を奉じてテサロニケ人の中に伝道せしパウロは後は彼等に対して恋慕の熱情を懐くに至れり、神の愛が人の愛と化してのみ永劫白熱の愛は生ずるなり、之に反して「人情の宣伝者」なりと称して、人の愛のために人を愛せんとするも、其愛は忽ちに消滅して跡形なきに至るなり、神愛を説く者のみ能く永久不易の人情の宣伝者たるなり 〇「第に神の福音のみならず云々」 福音は「おとづれ」なり、之れ神の愛を人に伝ふるの音信なり、而して伝道師の第一の職分は此音信を誤謬なく、忠実に伝ふるにあり、然れども福音の真理の道(哥羅西書一章五節)は之を宣ぶるに唇のみを以てすべからず、人の生命たる福音の道《ことば》を伝へんためには亦伝道師の生命を以てするを要す、キリストは天国の道を人に伝へ給ひしのみならず、亦、之を証明するに彼の血を以てし給へり、彼は己が霊魂をかたぶけて死に至らしめたり(以賽亜書五十三章十二節)、是れ最大最高の伝道なり、此伝道なくして、他の伝道の成効すべき理なし、而してパウロは終に福音宣伝のために彼の生(383)命を終へて、彼が茲にテサロニケ人に書き贈りし言を実にせり、彼れ曾てピリピ人に書き贈りて曰く爾曹の信仰を供物として(神に)献げんためにはたとひ我が血を流して(其上に)灌ぐとも我れ之を喜ばん(腓立比書二章十七節)と、舌と筆とを以て福音を全世界に伝へ得て、伝道師の事業は了れりと言ふべからず、彼の生命を其ために灌いで彼は始めて「我が事成れり」と言ふを得るなり、嗚呼、重いかな、伝道師の責任、願くは神よ、我をもして終まで忍ぶ者と成らしめ給へ 〇「是れ爾曹は我が愛する者となりたれば也」 斯く爾曹を恋ひ慕ふに至りしは爾曹が我が主の福音を信ずるを得て、我が愛する者となりたれば也、家を棄て、骨肉の兄弟を棄て、キリストの福音の宣伝に従事する者は此世に在ても之に百倍するの兄弟を迫害と共に獲るを得るなり(馬可伝十章廿八節以下)、キリストの愛に励まされて、一切を棄て、異邦に其福音を伝へしパウロはテサロニケ人の中にも多くの「愛する者」を得たり、世に愛すべき者は我が肉体の子なりと言ふと雖も、而かも、彼と雖も、我がキリストに在て生みし霊の子供の如くには愛らしからず、新約聖書に在ては愛する者(agapetos)とは実子の別名なり(馬太伝三章十七節等参考)、故にパウロの此言を「爾曹は我が愛子となりたれば也」と訳するも、その本旨を害ふことなし、パウロに彼の腰より出し肉の実子はなかりしと雖も、彼には優かに之に勝さりて愛すべき多くの「愛すべき者」ありたり、而して彼は此等の愛児のためには彼の生命をも与へんと欲《ねが》へり。
  九、兄弟よ、爾曹、我儕の労と苦とを記憶す、我儕、爾曹の中誰をも累はさゞらんため夜昼工を作して神の福音を爾曹に伝へたり。
 彼が彼等の中に在りて如何に柔和なりし乎を更らに叙述して言ふ 〇「労と苦」 労働の労と苦なり、後に言ふ所の昼夜の工に就て言ふ 〇「爾曹の中誰をも累はさゞらんため」 衣食の事に就て言ふなり、パウロは自給的伝(384)道師たりしなり、彼は工人の其工銭を獲るは宜べなる(路可伝十章十七節)を知りしと雖も、殊更らに其工銭を拒みたり、彼は子は親のために蓄ふべき者に非ず、親は子のために蓄ふべき者なり(哥林多後書十二章十四節)と言ひて、彼の霊魂の子供をして彼の肉体を養はざらしめたり、彼は斯くなすを以て時には不義なりと做せり(仝十三節)、然れども彼の敵人が彼に帰するに貪慾の罪を以てせんことを忌んで勉めて彼の独立を維持せり、彼は勿論感恩の念よりする友誼的寄贈を拒まざりし、彼はピリピ人に謝して曰へり、爾曹は我がテサロニケに在りし時、一度ならず、二度までも人を遣はして我が乏しきを助けたり(腓立比書四章十六節)と、然れども彼は人が彼を以て伝道に由て衣食する者なりと言ふを許さゞりき、斯かる者に対しては彼は言を励まして曰へり主は福音を宣伝ふる者は福音に由て生活せんことを定め給へり、然れど我れ此等の事は一つをも用ゐず、…………そは我が誇る所を人に虚しくせられんよりは寧ろ死ぬるは我に善き事なれば也(哥林多前書九章十四、十五節)と、彼は乃ち人に依食せんと言はれんよりは寧ろ餓死せんことを願へり、パウロの「独立狂」も亦甚しからずや 〇「夜昼|工《わざ》を作し」 衣食の料を獲んがために労働に従事せり、パウロの業は幕屋《てんまく》を製ることなりき(行伝十八章三節)、彼は彼の青年時代に於て神学研究と同時に此業を授けられたり、而して彼は後年此業に従事しつゝ伝道に従事したり、彼は曾て彼の手を挙げて、ヱペソの長老|輩《たち》に彼の潔白を語て曰く、我れ人の金銀衣服を貪りしことなし、我が此手は我れ及び我と偕に在りし者の需用に供へし事は爾曹が知る所なり(行伝二十章卅三、卅四節)と、自給伝道の美はパウロに於て其極に達せり、最も大なる伝道師は最も多く自給独立を愛するの人なりき、想ひ見よ、アクラと其妻プリスキラの家に在て老教師の口に天国と其義を語りつゝある間に、手に山羊の毛布を縫ひ合せて天幕を製造するの状を、世界を改造せし自由の福音は此神聖なる工場より出たり、ナザレの僻村に匠を業とせしヨセフ(385)の子イエスと、エペソ、テサロニケ、コリントの市に於て天幕製造に従事せしタルソのパウロとは宣教に労働を兼ねたる模範的伝道師なり、世の伝道師にして皆な悉く是等二人の如くならんには全世界の救済は期して待つべきなり。
  十、我儕、爾曹信ずる者に対ひて如何ばかり潔く、義しく、欠くることなく行ひし乎、爾曹も神も其証をなす。
 「潔く」は清廉を意ふなるべし、「義し」は公平無私を意味するなるべし、「欠くることなく」は人として間然する所なきを指すなるべし、是れ倨傲の言の如くに見えて然らず、パウロは茲に彼の完全に就て吐露しつゝあるに非ず、彼は彼の霊的愛子に向つて彼の誠実を伝へつゝあるなり、彼は彼等に対して人として為し得る丈けの事を為せり、而して彼の此言の誇張の言にあらざることは彼等と神との証明する所なりと。
  十一、十二、爾曹知る、父が其子を待ふ如く、我儕、爾曹各自を勧め、慰め、亦教へたり、是れ爾曹が爾曹を其国と栄とに召し給ふ神に合ひて行はんためなり。
〇「父が其子を待《あつか》ふ如く」 前には自己を乳母に譬へ、今は父に擬す、乳母の如くに柔和に育みたり、亦、父の如く、厳格に教へ導きたり、「勧め」は忠告するなり、其子の過失を正すなり、「慰め」は宥《なだ》むなり、其悲痛を癒すなり、「教へ」は警誡を加ふるなり、彼等を導いて危険に陥らざらしむるなり、斯く為すは彼等が神の聖旨に合《かな》いて歩まんがためなり、天国と其栄光に彼等を召《まね》き給ひし神の子たるに応はしき行為に出でんためなり。完全なる天国の市民を作るは伝道師たる者の第一の目的なり、彼が其子に望む所は之れ以外に在るべからず、而して彼等今猶ほ此世に存ると雖も其為す所は既に天国に入りし者の如くならざるべからず、我儕の承け継ぐべき栄光の大(386)を知て、之を我儕に与へんとする恩恵の父の意に合《かな》はんとするは易し。 〔以上、11・17〕
  十三、是故に我儕も亦た神に向ひて断えず感謝す、そは爾曹が我儕より聞きし道を受けて之れを人の道とせず神の道として納れたればなり、此の道は誠に神の道にして爾曹信ずる者の中に働くなり。
 ○「是故に我儕も亦云々」 我儕、爾曹に神の福音を伝へんとして勉めたり、而して是れがために神に感謝する者は之を伝へられし爾曹のみに止らず、大なる紛争と多くの勤労の中に之を爾曹に伝へし我儕も亦た是れがために神に向ひて断えず感謝する者なり、与ふるは受くるよりも福なり、我儕伝道の労と苦とを爾曹に語るは爾曹に我儕の憂苦を訴へんがためにあらずして、我が感謝の理由を述べんためなりと、パウロは茲に彼の従事せし労働に就て感謝し、次に其労働の徒労《いたづら》ならざりしことに就て感謝す、彼が労苦に就て語るは之に就て誇らんためなり(哥林多後書十二章九節)、神の福音を大なる紛争の中にて爾曹に語れり(二節)と云ひて後に是故に我儕も亦た断えず神に感謝すと云ふ、吾人も亦たパウロに傚ふて感謝するためにあらざれば吾人の労苦に就て語る可らざるなり。〇「そは爾曹が我儕より聞きし道を受けて云々」 伝道の労苦に就て感謝す、亦伝道の結果に就て感謝す、そは伝道師の言は彼の目的に合ひて伝道師(人)の言としてにはあらずして、彼を遣はせし神の言として受納れられたればなり、彼れ伝道師の望む所にして是れ以上のことあるべからず、彼は彼が神として、又は理想の人として受けられんことを懼る、彼は彼の語りし言なるが故にその真理として重んぜられんことを恐る、彼は道を伝ふる者なり、道其物に非ず、彼は真理伝播の機械に過ぎず、故に彼を神として迎へ、彼の言なるが故に之を真理として受くる者は彼と彼の使命とを両つながら誤る者なり、ルステラの人はパウロとバルナバとを迎ふるに神に対するの礼を以てし、犠牲《いけにへ》を献げて彼等を祭らんとせり(使徒行伝十四章)、人物崇拝の外に神を拝するの途を知らざる東(387)洋人にして神の遣せし伝道師を迎ふるに方てルステラの人に傚ふ者多し、豈謹まざるべけんや 〇「受け……納れ」 「受け」は耳にて聞き受くるなり、「納れ」は心に受け納るゝなり、人の言を耳に聞き受けて、之を神の言として心に受け納る、人の凡の言は之を耳にて聞き受くるも可なり、然れども神の真理のみ之れを心に受け納るべきなり、凡の霊を信ずる勿れ、その霊神より出るや否を試むべし(約翰第一書四章一節)人の凡ての言を信ずる勿れ、その言の神の言なる乎否を試むべし、而して人の言と神の言とを咀噛し得る人は福ひなるかな 〇「此道は誠に神の道にして爾曹信ずる者の中に働くなり」 我が爾曹に語りし道は誠に我が道にあらずして神の道たりしなり、而して其爾りしは其今爾曹之れを信ずる者の中にありて実効を奏しつゝある(働くの意)に由りて明かなり、是れ若し我が言にして人の言ならん乎、之に信の行と愛の労と望の忍(一章三節)とを爾曹の中に生ずるの能力なかるべし、樹は其果を以て識らる、我が伝へし道の我が道にあらずして神の道なるは其結果に由て証明さると 〇「爾曹信ずる者の中に働くなり」 我が語りし道は神の道なり、然れども信ぜざる者は其然る所以を知る能はず、亦、信ぜざる者の中に実効を奏せず、人、或ひは其、単に之を聞きし者の中に効を奏せざるを見て、其、神の道なるを疑ふ者もあらん、然れども神の道は之を心に受納(信)れざる者の中に働くものにあらず、然れども之を信ずる者の中にありては其ユダヤ人たるとギリシヤ人たるとを問はず、彼を救はんとの神の大能なり(羅馬書一章十六節)と、パウロは福音の無差別的効果を唱へず、必ず其の効験を之れを信ずる者の内に制限す。
  十四、蓋《そは》兄弟よ、爾曹はユダヤの中なるキリストイエスに在る神の教会に傚へる者となれり、彼等がユダヤ人に苦められし如く爾曹も己が国人に苦められたれば也。
 「蓋」 神の道は爾曹信ずる者の中に在て実効を奏せり、而して其顕著なる証明は爾曹が己が国人より受けし(388)迫害にあり、迫害は信仰行動の実証なり、信仰のなき所に迫害なし、又キリストに於ける真正の信仰ありて迫害なきはなし、迫害は信仰の反影なり、内に確乎たる信仰ありて外より強固なる迫害の来らざるはなし、我が爾曹に伝へし道の誠に神の道なるを知らんと欲する乎、之を爾曹が爾曹の国人より受けし迫害に於て見よ、此迫害は是れ誠に爾曹が受けし道の神の道たるを証するものなり 〇「ユダヤ人の中なるキリストイエスに在る神の教会」 神の教会なり、而かも単に独一無二の神を信ずる教会に非ず、ナザレの人キリストイエスを信ずる教会なり、ユダヤ国に在りユダヤ人の中にある教会なり、而かも此世の教会にあらずして、キリストイエスに於て在る教会なり、教会は地上のものなり、而かも其基礎を地に置くものにあらず、キリストイエスに在て地上に存在するものなり、是れ世が教会を迫害する主なる理由なり、即ちその地以外のものたるに関はらず、地上に存在すればなり、恰かも僻陬の人が異国の人を厭ひて之れを彼等の中より逐放せんとするが如し。
〇「彼等がユダヤ人に苦められし如く云々」ユダヤ人の中に在るキリストの教会はユダヤ人に苦められて其誠に神の教会たるを自証せり、而して爾曹テサロニケの信者も爾曹の国人の苦める所となりて、凡の教会の模範たるユダヤ教会に傚ふ者となれり、迫害はキリスト教会の特性なり、是なき者はキリストの教会に非ず、十二使徒に託りて建てられしユダヤに在る教会は此特性を呈して其誠にキリストの教会なるを証明せり、而して爾曹も亦同じ特性を呈して、同じ特権を有する者たるを証明せり、神の道の在る所に迫害行はる、ユダヤ人の中にある最初の信者は之を心に受納れて其国人の苦める所となりたり、而して爾曹も亦之を信じて爾曹の国人の苦める所となりたり、同一の結果は同一の原因を証明す、国人の迫害ありて信仰の確立なきはなし、神の道は爾曹の中に在りて働きつゝあり、是れ爾曹が己が国人より受けつゝある迫害に由りて瞭かなりと。
(389)  十五、ユダヤ人は主イエスと己が預言者等を殺し、又我儕を窘めて逐出せり、彼等は神を悦ばせず、且つ凡の人に逆ひ、
 〇人の敵は其家の者なるべし(馬太伝十章卅五節)、パウロ第一の敵は彼の国人なるユダヤ人なりし、故に彼はユダヤ人の名を口にして心に深痛を感ぜざるはなかりし、ユダヤ人、何人ぞ、彼等は主イエスを殺したり、亦、彼等に送られし預言者を殺したり、而して主イエスの僕にして預言者に傚はんと欲する我儕使徒を窘めて国外に放遂せり、斯くて彼等は神を悦ばせず、凡の人に逆へり、神に敵対して人類の敵となれり。
  十六、我儕が救を得させんとて異邦人に語るを阻めり、是れ彼等の罪の常に盈たされんためなり 神の終局の怒彼等に臨《いた》れり。
〇「我儕が救を得させんとて云々」 神を悦ばせず、人に逆ひ、己れ自から救はれんと欲せざるのみならず、亦た他人の救はれんことをも欲せず、人の前に天国を閉ぢて自から入らず、且つ入らんとする者の入るをも許さず(馬太伝二十三章十三節)、我儕を彼等の中より逐放せしのみならず、亦、異邦人の中にまで我儕を逐窮せり、彼等は頑強に嫉妬を兼ね、従順の性と共に仁慈の質を棄斥せり、神に恵まるべき者が神を棄つるに至りし結果は如此し
〇「是れ彼等の罪の云々」 預言者を殺し、主イエスを殺し、其僕等を逐窮し、今は使徒等が道を異邦人に伝ふるを阻めり、彼等ユダヤ人は斯くて罪に罪を重ね、己に敗滅を招きつゝあり、罪は盈たされざれば罰せられず、異邦人の中に福音の伝播を阻害して彼等は先祖の罪の量《ますめ》を充たしつゝあり(馬太伝廿三章卅二節)。
〇「神の終局の怒彼等に臨めり」 ユダヤ人と其拠て頼みし制度とに臨むべき神の最終の裁判は既に彼等に対て宣告せられたり、彼等がキリストを殺して後四十年、パウロが此帖撒羅尼迦前書を書贈りて後二十年、国民とし(390)てのユダヤ人は羅馬人の剿滅する所となりて、西方亜細亜に再び猶太国を見ざるに至れり、愛の神に憤怒なしと言ふ勿れ、愛なるが故に彼は時には怒らざるを得ざるなり、神の忍耐は大なり、然れども無限ならず、人の罪の盈たされん時には、、即ち頑強は進んで無慈悲と化し、己れ真理を拒むのみならず、進んで他人の之れを納《うく》るを阻むに至れば、神怒は終に彼の上に臨まざるべからず、忍べよ、爾曹国人の迫害する所となる者よ、之れをユダヤ人の実例に鑑みょ、彼等、聖徒を迫害して終に神怒を彼等の身に招けり、爾曹を迫害して息まざる爾曹の国人も亦永く神の憤怒に触れずして止むべけんや、神の道は誠に爾曹の中に在て働くなり、爾曹之を信ずる者は之に由て救はれ、爾曹の国人にして之れを信ぜざる者は之れに逆ふて亡ぼさる、迫害は真理根着の実証なり、真理の臨まざる所に迫害あるなし、循つて救拯あるなし、又滅亡あるなし。
  十七、兄弟よ我儕今暫時爾曹より離れ居る、然れども是れ面のみなり、心に非ず、我儕切りに願ひて急ぎ爾曹の面を見んとせり。
〇兄弟よ、我儕は真理の朋なり、亦た迫害の友なり、迫害は我儕をして益々親密の朋友たらしめたり、故に我儕急ぎ、直に爾曹の面を見んとせり、是れ我等の切なる願なりし、我等は同志なり、同遇の友なり、同じ真理を受けて同じ迫害を忍ぶ者なり、我儕、今、所を異にす、然れども心は同じ主に在て一なり、而して心の一なる者は亦た面に於ても相見んと欲す、我儕は多数の勢力の何たる乎を知る、多数の不信者に繞囲せられて彼等の嘲笑罵詈する所となることの如何に苦しきよ、而して爾曹は今此苦しき攻囲の中に在り、我儕も亦幾回か敵地に在て独り信仰の孤城を守れり、我儕今爾曹の悲境に在るを聞て爾曹の救援に赴かんと欲するの心、甚だ切なり。
  十八、是故に我儕、爾曹に至らんと願へり、殊に我パウロ之れを願ふこと一次のみならず、再次なりし、而(391)してサタン我儕を妨げたり。
〇我儕パウロとシルワノとテモテ(一章一節)は爾曹の救援に赴かんと欲せり、殊に我パウロは之れを願へり、然れどもサタンは我儕を妨げて此望を遂げしめざりき、我儕、遠隔の地に在て、爾曹の艱苦にあるを聞いて、手を束ねて之を傍観するに忍びざりき 〇「サタン云々」 善事の妨害は総てサタンの手を通うして来るものなりとはパウロ在世当時の一般の信仰にして、彼も亦爾か信じたりしが如し(哥林多後書十二章七節参考)。
  十九、二十、そは我儕の望、喜、また誇の冕は誰ぞや、我儕の主イエスキリストの臨らん時、その前に於ける爾曹ならずや、そは爾曹は我儕の栄、又喜なればなり。
 我儕が斯くも爾曹を慕ふは宜べなり、そは主イエスキリストが世を鞫かんがために再び臨り給ふ時に、我儕の望みとし又喜びとし、また誇るべき冕となすべきものは爾曹を除いて他にあらざればなり、我儕主の前に出て何をか望まん、爾曹をしてキリストの中に完全を得て神の前に立たしめし(哥羅西書一章廿八節)の故を以て主の称讃に与かることならずや、我儕其時また何をか喜ばん、爾曹を潔き女としてキリストに献げしことならずや(哥林多後書十一章二節)、而して我儕が天使の前に誇りて戴くべき冕とは何ぞや、是れ金銀宝石を鏤めたる朽る冕に非ずして、神の活ける霊を得て死より甦りし爾曹ならずや、我儕の勤労の結果は主に在て救はれし爾曹なり、我儕は斯世に財貨を蓄へず、又斯世に在て王冠を戴かず、然れども我儕は絶対的貧者に非ず、我等は爾曹を以て天に財を蓄へたり、爾曹は誠に我儕の財産なり、我儕が由て以て誇り且つ楽しむ富なり、栄なり、冕なり 〇「我儕の栄又喜なればなり」 爾曹は主の再臨の時に於ける我儕の栄又喜なるのみならず、今日、既に我儕が栄且つ喜となす所のものなり、来世の栄え又喜びなるのみならず、今世現時の栄華又歓喜なりと、伝道師唯一の財宝は彼が(392)神に導くを得し信徒なり、彼が未来に於て頼るべき者は是なり、彼が現時に於て依るべき者も亦是なり、苦しき時の慰藉者、楽しき時の同感者は是なり、パウロが今直にテサロケに在る信者を見んと欲せしは此情理に基けり、即ち彼に取りても彼等に取りても相互を慰むる者は全宇宙に於て彼等相互を除いて他にあらざればなり。
 
     第二章概察
 
〇此章、初代に於ける伝道の状況を示す、迫害は到る処に伝道師を待てり、猶太人に逐はれ、異邦人に窘められ、到る処に世の汚穢また万の物の塵垢として迎へられたり、彼が新伝道地に入ることは非常の困難なりし、而して入て後も亦た大なる紛争の中に於てにあらざれば神の福音を伝ふること能はざりし、此時未だ今日所謂る「伝道の快楽」なるものあらざりし、伝道師は彼の生命を手にするにあらざれば彼の聖職に従事すること能はざりし、其時伝道は実に戦闘の一種なりし(一、二節)。
〇初代の伝道は戦争なりし、然れども伝道師の武器と掩護とは彼の誠実を除いて他にあらざりし、彼が身に寸鉄を携へざりしは勿論、彼を守るに自国の公使なく、又た領事なく、彼は只、万事を心を察し給ふ神に委ねて進めり、彼は何人よりも尊重と栄耀とを求めず、甘んじて侮辱を受け、世に何の権利なきが如き者と成りて道を伝へたり、教会は貧しき時に最も清し、伝道師は弱き時に最も強し、国旗と軍艦とに護られて異邦に伝道する今の宣教師に何の異能の伴ふなきは宜べなり、言あり曰く、亡国の民は最も力ある外国宣教師を作ると、今の英国又は米国の民が最も力なき宣教師を作るは同一の理由に基因せずんばあらず(三、四、五節)。
〇初代の伝道師は自給なりし、彼は教会又は伝道会社より既定の俸給を仰がざりし、彼は信者一人をも累はせざ(393)る為めに夜昼工を作して神の福音を宣べ伝へたり、彼は非常に身の潔白を重んじたり 彼は彼の宣べ伝ふる福音の汚(利慾)より出るに非ざることを示すに努めたり、彼の時代は或ひは我等の今日の時代よりも此自給的生涯を送るに適せしならん、然れども彼の成効の一大原因の茲に在りしことは敢て疑を挟むべきに非ず、俸給的伝道と自給的伝道、軟弱と強健、睡眠と覚醒、二者の分かるゝ所は一に茲に存するが如し(第九節)。
〇迫害は初代の基督信徒の必要的随伴物なりし、彼等は迫害なきの基督教なるものを知らざりしが如し、彼等は国人の迫害を蒙りて始めて己れの基督信者たるを覚りしが如し、今の「信者」は水の洗礼を受けて教会に入りしを以て信者なりと称し、初代の信者は世の迫害を受くるを以て信者たるの兆候なりと做せり、而して誰か前者の虚にして後者の実なるを判分し得ざる者あらんや(十四、十五節)。
〇初代の基督信徒に取りては迫害は真個のパブテスマなりし、彼等は是に由りてキリストの心に入り、亦相互の心に入れり、迫害は彼等相互をして真個の兄弟姉妹たらしめたり、水の洗礼式は兄弟的関係を起すに足らず、迫害の水に覆はれてのみ、我等は始めて血肉も啻ならざる兄弟姉妹となるを得るなり、追ひ求むべきは実に信仰のために被るべき国人又は骨肉よりの迫害なり、是れありて真教会は興り、真兄弟と真姉妹とは成る、我等に真個の温かき頼るべき、慕はしき教会あるなし、そは我等に迫害なければなり、或ひは有るも我等は之を避ればなり、或ひは迫害を惹起《よびおこ》すに足るの信仰我等になければなり、基督信者の不幸にして迫害なきに若くものなし、而かも今の宣教師的基督教は迫害を惹起さゞるを以て誇りとなす、其パウロ時代の基督教と大に異なる所あるは其結果に由りて明かなり(十七、十八、十九節)。 〔以上、12・22〕
 
(394)     第三章
 
  一、二、是故に我れ最早や忍ぶこと能はずなりければ独りアテンスに残留されて、我儕の兄弟にしてキリストの福音に在て神と偕に働く者なるテモテを爾曹に遣さんと意を定めたり。
〇「忍ぶこと能はず」 愛は凡そ事忍ぶと云ふ(哥前十三の七)、然れども愛は愛のために忍ぶ能はず、同志の患難に在るを聞いてパウロは之を看過せんと欲して能はざりき、彼れ親から往く能はず、故に独り異郷に残留《のこ》されて、彼の唯一の共働者にして慰藉者なるテモテを彼等に遣さんと決せり、パウロは動かし難き人なりし、然れども彼は愛を以てしては最も動かし易き人なりし、自己の患難に対しては最も冷静なりし彼は、他人の患難に対しては最も熱烈なりし、冷静慎重の必要を説く者は亦たパウロの此の激動に鑑みざるべからず 〇「独りアテンスに残留されて」 使徒行伝十七章十六節以下を見るべし 〇「我儕の兄弟云々」 テモテ何人ぞ、彼はキリストに於ける我儕の兄弟なり、彼はキリストの福音に在り神と偕に働く者なり、基督信者は其何れの業に従事する者たるに係はらず、皆な神と偕に労く者なり(哥後六の一)、而かもテモテはキリストの福音に在りて、即ち身を其宣伝に委ねて、特に神と偕に働く者なり、福音に在るとは福音に身を浸たすことなり、即ち其中に在て生きまた動きまた存ることなり(行伝十七の廿八)、勿論信者は悉くテモテの如くある能はず、然れども世は亦パウロ、テモテの如く、キリストの福音宣伝以外に何の活動をも需めざる専心専意の伝道師を要するなり。
  二、三、是れ彼をして爾曹を堅固《かたく》し、爾曹の信仰に関して爾曹を慰め一人もこの患難の中に立て揺かされざらんため也、そは爾曹自から知る如く、我儕は此ために定められたれば也。
(395)〇「堅固し」信仰の基礎を堅固にすることなり、之を為すに信仰的智識の注入を要す、信仰は勿論智識に非ず、然れども神に関する智識を以て其根を深うし且つ堅くする者なり、感情を刺戟する者は眠れる信仰を覚すを得べし、然れども智識を供する者にあらざれば、信仰の根を堅くする能はず、我儕は信仰復興のみならず、亦信仰建立を要す 〇「信仰に関して爾曹を慰め」 基督信者は偉大なる信仰を懐く者なり、亦世人の眼より見れば奇怪なる信仰を懐く者なり、而して此信仰を懐くが故に彼は世の迫害する所となる、故に彼は時々此信仰に関して慰めらるゝを要す、即ち世の迫害を喚起する此信仰の、偽りの信仰にあらずして、返て真の信仰なるを示さるゝを要す、迫害は信仰の半面たるに過ぎず、其他の半面は希望なり、救拯なり、而かも我儕は迫害に遭遇して、其の苦き一面にのみ意を留めて、其の甘き方面を忘るゝに至る、我儕が信仰の苦味をのみ感ずる時に際して其の甘味を我儕に想ひ起さしむる者は我儕の信仰に関して我儕を慰むる者なり、テモテは此任を帯びてテサロニケに遺されしなり 〇「一人もこの患難の中に立て揺かされざらんためなり」 茲に謂ふ所の患難は勿論、テサロニケの信徒が不信者より受けし迫害なり、其如何に激甚なりし乎は、我儕非基督教国に在て斯教を信ずる者の善く知る所なり、迫害、勿論政府の迫害に止まらず、政治的迫害は実に最も耐え易き迫害なり、最も耐え難き迫害は社交的迫害なり、即ち迫害と称へられざる迫害なり、骨肉の反逆なり、社会より受くる善意の誤解なり、主を知らざる者より偽善者視し悪人視しせらるゝことなり、即ち鉄火を以て責めらるゝにあらずして、針尖を以て刺さるゝことなり、誰か能く永く悪虫の螫傷に耐ゆる者あらん也、而かも基督信者は絶えず此刺傷に苦む者なり、政府の威権を以てする大なる迫害は到ること甚だ稀なり、然れども彼がキリストを嫌ふ者より蒙る小なる迫害は常に在り、而して耐え難きは寧ろ此の小なる迫害なり、大迫害は多くの殉教者を生ず、然れども小迫害に遭ふて殪るゝ信者(396)甚だ多し、而してテサロニケ人が遭遇せし患難は主として此種の迫害なりしなるべし 〇然れども、パウロはテサロニケに於ける彼の信者が一人も此迫害の中に立て揺かされざらんことを欲へり、「揺かされる」とは弱くせらるゝとの意を含む、即ち信仰の根拠を弱めらるゝことなり、迫害は我儕をキリストの愛より絶《はな》らすべからざるは勿論、少しなりとも我儕の信仰の根拠を揺がすべからざるなりと、若し迫害の真意にして知られん乎、是れ信仰を弱むべきものにあらずして、返て之を強むべき者なり、迫害に遭ふて信仰を棄つる者は薬を呑んで返て死に就く者なり、信仰的智識の必要は迫害の時に方て最も大なりとす 〇「爾曹自から知る如く」 我が今更ら此事を爾曹に告ぐるを要せず、爾曹自から既に善く之を知る 〇「我儕は此ために定められたれば也」 我儕基督信者は迫害のために 予め定められたる者なり、迫害は我儕に臨らざるべからざるものなり、是れなからん乎、我儕は基督信者にあらざるなり、我儕世に愛せられん乎、我儕はキリストの属にあらざるなり、世に憎まるゝが基督信者の特性なり、彼は栄光と凌辱とに定められし者なり、故に若し爾曹各様の試誘(患難、迫害)に遇はゞ之を喜ぶべき事とすべし(雅各一の二)、之を怪《あやし》とする勿れ、基督信者の艱難をうくるは火の子の上に飛ぶが如し(約百記五の七)、基督信者は救済と同時に患難に予定せられし者なり。
  四、また我儕爾曹と偕に在りし時に、我儕の患難に遇はんことを爾曹に告げたればなり、今果して此如く成れり、爾曹が知る所の如し。
〇「我儕」 パウロ、テモテ、シラス 〇「我儕の」 基督信者全躰の 〇迫害は我等に予定せられしものなるのみならず、其到来は亦我儕伝道師の予言せし所なり、爾曹初めて主を信ずるや、爾曹の初めの熱心に駆られて、信仰に迫害の伴ふことを想はざりき、然れども我儕、爾曹と偕に在りし時に、基督信者たる者の必ず迫害と称する(397)特種の患難に遭遇すべきことを爾曹に告げて止まざりき、而して今果して其如く成れり、依て知るべし、爾曹の身に及びしことの我儕の予期せざりしことにあらざることを、我儕は信仰に伴ふ患難を秘して之れを爾曹に伝へざりし 〇「爾曹が知る所の如し」 爾曹が今知る所の如し、爾曹は今日まで迫害に就て聞くも之を信ぜざりし、然れども今に至て我儕の言の真なるを知る。
  五、是故に我忍ぶこと能はずなりければ爾曹の信仰を確めんために人を遣したり、是れ試むる者の爾曹を試み、我儕の勤労の徒しくならんことを恐れたれば也。
〇「是故に云々」 第一節以下を繰返して云ふ、「確かめん」は「堅固うせん」に非ず、パウロの心に於てテサロニケ人の信仰の確実なるを確知せんためなり、「人」は勿論テモテなり 〇「試むる者」 試誘者にして悪魔なり(馬太四の三を見よ)、悪魔は迫害を利用して、信者より其信仰を奪はんと欲す、彼は信仰の損害と不信の利益とを説いて信者をキリストの愛より離絶せんと計る、迫害の恐るべきは茲に在り、即ち乗ずべきの機会を悪魔に供するにあり 〇「我儕の勤労の徒しくならんこと云々」 悪魔は破壊者なり、彼は毀つに巧にして亦毀つを以て快となす者なり、建設は神の事業にして破壊は悪魔の事業なり、我儕は悪魔自身を恐れず、「一言以て彼を殺すを得べし」、我儕は彼の巧妙なる詐術を恐る、即ち正義と人道とを口にし、然り時には基督教其物を唱へ、之に利害の念を加味して、人を単純なるキリストの愛より絶らする彼の異能を恐る、蛇の詭詐にエバの惑されし如く、爾曹の心|壊《そこな》はれてキリストに向ふ誠実を離れん事を我儕は懼る(哥後十一の二)、而かも、噫、彼れ幾回か我儕の子を奪ひ去りしよ、而して我儕を罵詈しながら我儕と我儕の主イエスキリストを去り往く彼等を目撃することの如何に辛らきよ、世に残酷なることとて人の信仰を毀つが如きはあらず、而かも此惨事は我儕伝道師の日々目撃(398)する所なり、我儕の勤労は屡々徒くせらる、信仰の子供は日々俗了しつゝあり、而かも俗了するとは知らずに、否な向上すと自から信じつゝ!
  六、然れども今テモテ爾曹より我儕に帰り来りて爾曹の信仰と愛との嘉き音を聞かせ、又爾曹常に我儕に善意を表し、我儕が爾曹に遭ふことを欲ふが如く、我儕に遭ふことを切りに願ふと告げたり
〇然れどもテモテ今使命を全うして帰り来り、爾曹の信仰と愛とに関する福音(嘉き音れ)を我儕に聞かせ、又爾曹が我儕の敵が我儕に就て爾曹に語る誹謗の言に耳を傾くることなくして、今尚ほ我儕に対して好意を表し、我儕が爾曹を見んと欲するが如く、爾曹も亦我儕を見んと欲することを告げたりと、偉大なるパウロも亦情の人なりし、彼も亦彼の弟子に善く意はれんことを欲せり、而して彼等の場合に於ては彼パウロを善く意ふはキリストを善く意ふことなりき、二者の関係の非常に親密なる、パウロを棄て去りし者は必ずキリストを棄て去れり、故にパウロはテサロニケ人の彼に忠実なるを聞いて、彼等が亦キリストに忠実なるを知れり、是れ彼が此事を聞いて特に喜びし所以なり。
  七、是故に兄弟よ、我儕さま/”\の患難と禍害との中に爾曹の信仰に因りて爾曹に就て安慰を得たり
〇「患難」は此場合に於ては衷なる懊悩《なやみ》なり、之に対して「禍害」は外なる苦痛にして迫害なり、パウロはテモテが齎らせし報知に依て彼の内外の苦痛の中に、安慰を得たりとなり 〇「爾曹に就て」 パウロに一大憂慮ありたり、即ち諸の教会の憂慮是れなり(哥後十一の廿八)、而してテサロニケ教会に関する憂慮に就てはテモテの持帰りしテサロニケ信徒の報知に由て安慰を得たりとなり、父が其子の安否を知らんと欲する如く、パウロは彼の弟子の霊魂の安否を知らんと欲せり、面して其健全なりしを聞いて彼は一大重荷の彼の肩より落しを感じた(399)り、彼等は彼がキリストに在て福音を以て生みし愛子なり(哥前四の十五)、彼が彼等を想ふは宜べなり、そは肉躰の父子の関係も霊魂のそれに及ばざればなり。
  八、蓋爾曹若し主に在りて堅く立たん乎、我儕は今之に因て生くるなり
〇「蓋」 我儕が爾曹の信仰に就て安慰を得たりし理由は又此に在り 〇爾曹若し主キリストに在りて堅く立たん乎、是れ我儕の安慰なるのみならず、亦生命なり、我儕の生くるは爾曹の信仰に由るなり、我儕生きて何を望まん乎、爾曹をして我儕の神なる父の前に潔くして責むべき所なからしめん事ならずや(十三節)、我儕の生命は爾曹の信仰に繋るゝなり、爾曹の信仰にして毀たれん乎、我に生くるの詮《かひ》なきなりと 〇是れ激語の如くに聞えて激語に非ず、母の生命が其児のそれに繋がるが如く、伝道師の生命は信者の信仰(霊的生命)に繋がるなり、母が己れよりも其児を愛するが如く、霊の師父なる伝道師は己れよりも彼がキリストに在て生みし信者を愛するなり、是れ事実なり、此事実を知らざる者は未だ曾て伝道師たりしことなき者なり。
  九、我儕が爾曹に因りて神の前に歓ぶ所の喜びに就て爾曹のために如何なる感謝を以て神に報ゐんや
〇感謝の内容と性質とは茲にあり、其内容は歓喜なり、其性質は報恩なり、而かも我に関する歓喜に非ずして我に託りて救はれし者に関する歓喜なり、我に対する信者の報恩にあらずして、我より神に対する我が報恩なり、我儕が神に報ゆるに只感謝の一途あるのみ、而かも如何にして感謝せん乎、其途さへも我儕は知らざるなり、言ふ勿れ、基督信者の生涯に喜悦なしと、喜悦の最も高くして最も潔きものは彼に在り、彼の信仰の健全なる時に彼は喜悦の最高度に在る者なり。
  十、我儕は夜昼爾曹の面を見、爾曹の信仰の足らざる所を補はんとて切りに神に願求むる也
(400)〇又師父の情を叙して言ふ、彼等の信仰に尚ほ不足なる所あり、彼は彼等に会して面と面とを合せて此不足を補はんと欲すと、筆を以てする伝道に靴を隔て痒きに達せんとするが如きの感あり、パウロの熱誠なる、彼は度々筆を以てしては甚だ緩浸《まだる》しく感じたりしが如し。
  十一、又我儕の父なる神、及び我靜の主イエスは親から我儕を導きて爾曹に至らしめ
〇「又」 我儕の切りに願ひ求むる所は又是れなり、以下二節は前節の祈願に加へて言ふ 〇「父なる神及び主イエス」 同位同一の者たり、故に以下の働詞は皆な単数働詞なり 〇「親から云々」 我儕は切りに望むもサタンに妨げられて爾曹の許に到る能はず、然れども神は其聖旨に適ふ時に、親から我儕のために道を開きて我儕を爾曹の所に導き給はんと。
  十二、又主が爾曹の相互に対し、又衆の人に対する愛を増し且つ満たし、我儕が爾曹に対する愛の如くならしめんことなり。
〇信者の愛に二種あり、信者相互に対する愛、是れ其一なり、世界万民に対する愛、是れ其の二なり、而して是等二種の愛は共源に於ては一なり、而してパウロはテサロニケ人の此愛の、主イエスに依て増し且つ満されんことを願求へり、人は神に在て愛の受器なれば彼は其量の日々に増し、又彼の容量に準じて其常に満ち居らんことを願求はざるべからず 〇「我儕が爾曹に対する愛」 パウロは彼の愛に就て誇て憚らず、そは是れ彼れの愛に非らずして、彼がキリストより授かりし愛なればなり、彼の愛は模範的なり、キリストの愛なるが故に彼は彼の信徒の愛が彼の彼等に対する愛の如くならんことを欲《ねが》へり。
  十三、是れ爾曹の心をして我儕の主イエスが其諸の聖徒と共に来らん時、吾儕の父なる神の前に潔くして責(401)むべき所なからしめんため也。
〇「是れ」 我が斯く願求ふは他なし爾曹の心をして云々 〇「主イエスが其諸の聖徒と共に来らん時云々」 キリストの再来を言ふ、次章に於て審かなり、我儕の信仰の不足を補はれんことも、亦た我儕の愛の増し且つ満ちんことも、其の目的とする所は他にあるなし、即ち我儕がキリストの再来の時に方て神の前に恥辱を取らざらんがためなり、基督教は社会道徳のために聖潔を説かず、又徳其物のために徳を勧めず、基督教は恐るべき神の終末の審判の日に対する準備として身の聖潔と愛の充実を促がすなり、是れを迷信なりと称ふ者は称ふべし、然れども聖書が斯く教ふるは事実なり、道徳の目的は終末の審判の日に対する準備にありと、初代の基督教徒は斯く唱へたり、而して今の基督教徒も亦斯く唱へざるべからず、曰く「社会道徳」、曰く「純道徳」と、基督教に在ては是れ何の意義をも存せざる語句なり、我儕は古き聖書の道徳に還らん。
 
    第三章概察
 
〇此章又よくパウロの真情を彰して剰す所なし、彼れは彼の感情を発露して耻となさず、彼は彼の信徒に愛せられんことを欲せり、彼は彼等と共に居らんことを願へり、彼は意志の人、道徳の人なりしと同時に亦感情の人なりし、感情は人の弱点に非らず、否な、或る場合に於ては畏縮なく感情を発表するは返て其人の偉大なるを示す、我儕をして情愛に於ては小児の如くならしめよ、即ち潔くして切ならしめよ。
〇迫害は之れを初めより秘すべからず、そは是れ信仰の必要的附随物なればなり、基督教は苦味を混ぜざる甘味にあらず、是れを雑《まじり》なき蜂の蜜なりと称して人に薦むる者は虚偽を彼に薦むる者なり、迫害を冒してキリストに(402)至らんと欲する者のみ、誠にキリストに依て救はれんと欲する者なり(路可伝十四章廿五節以下参考)、而かも甘露的基督教を供して、返て人を殄滅に導く伝道師は世に乏しからず(三、四節)。
〇伝道師の歓喜は其の信徒の堅信にあり、何物か此の歓喜に此すべきものあらんや、何物か此失望に較ぶべきものあらんや、彼は信徒の堅信を聞いて生き、其堕落を聞いて死す、彼の生命は信徒のそれに繋がる、彼は独り救はれて天国に往かんとは欲せず、彼は彼等と共に主の台前に出でんと欲す、霊的団躰是を教会と称す、而して教会の生命は軍隊のそれと同じく団躰的なり、我儕は個人としてのみ救はるゝ者に非ず(第八節)。 〔以上、明治38・1・20〕
 
    第四章
 
  一、然れば兄弟よ、我儕終りに主イエスに在りて爾曹に求め且つ勧む、爾曹如何に歩みて神を悦ばすべきかを我儕より受けし如く、益々之に進まんことを。
〇「然れば……終りに」 帖撤羅尼迦前書の目的は迫害に遭遇せる基督信徒を慰めんとするにありき、而して慰藉の言を書き終て後に、パウロは茲に更らに彼が重要なりと信ずる余事に就て述べんと欲す、前三章は本書の本文にして、後二章は其附録なり、「然れば」は継承の詞にして前三章を承けて云ふ、「終りに」は論結の辞にして後二章を紹介して云ふ 〇「主イエスに在りて」 基督信者は主イエスに在りて兄弟たるなり、彼等は彼に在りて相愛し、相|役《つか》ふ、パウロは直接にテサロニケ人に語らんとは為さず、イエスに在りて、即ちイエスなる神の聖殿に於て、聖霊の恩化の中に彼等に告ぐる所あらんとす 〇「求め且つ勧む」 我儕のために求め、爾曹のために勧(403)む、「求め」は願求なり、パウロは彼の信徒の信仰の進歩に就て彼等に懇願して止まざりしなり 〇「神を悦ばすべきかを云々」 基督信徒の道徳は神を悦ばすの途なり、是れ社会道徳と称して人に対するの道にあらず、又、天道と称して、天の命ずる法則にあらず、基督信徒の道徳は孝道の最も高尚なるものなり、即ち聖なる愛の父を悦ばせんための行為なり、義務は其一部分なるも其大部分は愛なり、如何にして我が在天の父を悦ばせん乎、此配慮ありて彼に聖なる道徳はあるなり 〇「益々之に進まんことを」 我儕伝道師は神を悦ばすの途(基督教的道徳)を爾曹に授けたり、而して爾曹は之を受けて既に其実行を努めつゝあり、我儕今更めて爾曹に求め且つ勧む、更らに力を尽して益々之に進まんことをと、徳行に進歩なかるべからず、新たなる教訓を受くるを要せず、旧き教訓の実行を励まざるべからず。
  二、我儕主イエスに託りて如何なる訓誠を爾曹に授けしかを爾曹知ればなり。
〇前節の重複なり、然れども必要なる重複なり、テサロニケ信徒はパウロの訓誡の足らざりしを楯に取りて、其実行を怠るの懼れありたり、然れども彼等の授かりし訓誡は明白にして欺くべからず、其、如何なる訓誡なりし乎は、彼等善く之を知れり、彼等は今は訓誡の不足又は不明の故を以て聖徳実践の責任を免る能はずと 〇「イエスに託りて」といふは「イエスに在りて」と言ふと意義を異にせず、只「在りて」と云ふは師弟同等の態度を示し、「託りて」と云ふは「代りて」の意を含みて、師たる者の威権を示す、「主に在りて」懇求し且つ勧諭し、「主に託りて」訓誡を授けたりと云ふ。
  三、神の旨は爾曹の潔められんことなり、即ち爾曹が姦淫より速かり
〇爾曹は神を悦ばすべきなり、而して神の聖旨は爾曹の潔められんことなれば、爾曹神を悦ばせんと欲せば彼の(404)旨に従ひて自己を潔め姦淫より遠からざるべからずと 〇「潔め」の意義は広し、清廉、潔白、公義、仁愛、皆な聖潔ならざるに非ず、然れども「潔め」の特別の意義は姦淫より遠かることなり、即ち不潔なる男女の交際を避くることなり、姦淫は霊魂を殺すの罪なり、人の凡て行ふ罪は身の外にあり、然れど淫を行ふ者は己が身を犯すなり(哥前六の十八)、神の嫌ひ給ふ罪にして姦淫の如きはなし、聖潔とは特に貞潔の意なり。
  四、各自の器を聖く貴く用ゐることを知り、
〇「器」 肉躰なり、是れ聖と善とを為さんために吾人に供《あた》へられし器械なり、我儕は聖く、貴く之を用ひざるべからず 〇「聖く」は神の為めになり、「貴く」は己のためになり、神の栄えを顕はさんために、又己の救拯を全うせんために我儕は之を善用せざるべからず 〇「用ゐる」に統御の意あり、邪慾の人は情念の支配する所の者たり、然れども我儕は肉躰を支配し、之を統御せざるべからず、肉躰は或る意味に於ては野獣の如きものなり、我儕、自から進んで之を統御するにあらざれば、其使役する所となる、故にパウロはコロサイ人に書き贈て言へり、爾曹の地にある肢躰を殺すべしと(哥羅西書三章五節)。
  五、神を知らざる異邦人の如く邪慾の熱情を以て(支配され)ざるを知り、
〇「神を知らざる異邦人」 不信者なり、パウロの眼より見て最も憫むべき者なり、キリスト無く、望なく、又世に在りて神なき者なり(以弗所書二章十六節) 〇「邪慾の熱情云々」 神を知らざる不信者の中に学者は有り、政治家は有り、才子は有り、英雄はあり、然れども聖なるヱホバの神を識らざる彼等の中に能く己の邪慾の熱情を統御し得る者はあらず、政治家ペリクリスは希臘聯邦を統治し得て、己は一婦人アスパシヤの支配を受けたり、我が豊太閤は天下の諸侯を率ひながら、己は一才姫淀君の率ふる所となりたり、神を知らずして哲学者たるを得(405)ん、政治家、軍人、経世家たるを得ん、然れども神を知らずして、「邪慾の熱情」の支配より脱する能はず。
  六、且つ此事に就て其兄弟を苦め且つ害はざらんこと是なり、凡て是等の事に関して主は審判き給へばなり、即ち我儕が曩に爾曹に告げ且つ厳に証せしが如し。
〇「且つ此事云々」 如何なる種類の姦姪がパウロ在生当時の羅馬帝国内に於て行はれつゝありし乎は、之を羅馬書一章廿六、廿七節、哥林多前書五章一節、以弗所書五章三節等の供する暗示に由りて稍々推測するを得べし、「汝、姦淫する勿れ」、「汝、その隣人の妻を貪る勿れ」とは神の訓誡なりと雖も、神を識らざる人は「隣人の妻を貪る」を以て、特に功名手柄と做すが如し、彼等は簡易なる罪悪を以て飽足らず、其、之を犯すに困難なるを以て返て娯楽多しとなす、姦淫に窃盗を兼ねて彼等は罪悪の興味を感ずること愈々多きが如し、而してパウロが今、茲に特に誠めんと欲することはテサロニケに在る彼の信徒が、特に此極悪の罪に携はらざらんことなり、姦淫は一人に対しての罪にあらず、其係はる所、甚だ広し、姦淫は愛情の奪取なり、即ち「兄弟を苦め且つ害」ふことなり 〇「是等の事に関して主は審判き給へばなり」神を知らざる不信者は言ふ、姦淫は細事なり、以て深く顧るに足らず、克く忠、克く孝にして、閨門の私事の如きは之を不問に委ねて可なりと、然れどもパウロは言ふ「姦淫は細事に非ず、大事なり、私事に非ず、公事なり、此事に関して主は審判き給ふ」と、又、神は苟合また姦淫する者を審判き給はんと(希伯来書十三章四節)、姦淫は人に対する罪なるのみならず、亦殊に神に対する罪なり、神の殊に憎み給ふ罪なり、聖なるヱホバの神は殊に情性の聖潔を要求し給ふ 〇「厳かに証す」 単に此事を爾曹に告げしのみならず、力を込めて其|実《まこと》に神の旨なることを証明せり、神の前に爾曹の良心に訴へて(厳かに)証明せりと、始めて基督を信ぜし人に向て姦淫の重大なる罪悪なることを示すの困難は今も昔も渝ることな(406)し。
  七、夫れ神の我儕を招き給ひしは汚穢に於てにあらず、聖潔を以てなり。〇「汚穢に於てにあらず」 我儕は情性の聖潔を勉むべきなり、夫れ神が我儕を召き給ひし時に、彼は我儕に聖潔を施さずして、即ち我儕の汚穢の状態に於て、我儕を召き給はざりし、聖潔は聖召《まねき》と同時に行はれたり、汚穢の儘なる聖召なるものは神の行働の中に有ることなしと 〇「聖潔を以て」 聖召は聖潔を以て行はれたり、即ち我儕の心に聖霊の能力を以てする聖潔を自覚して、我儕は神の聖召に与かりしを識れり、斯くて我儕は既に(少くとも一次《ひとたび》は)聖潔められたる者なり、今にして再び汚穢の元状に復るべからずと。
  八、是故に慢る者は人を慢るに非ず、其聖霊を我儕に賜ひし神を慢るなり。
〇「慢る」 排斥し、又は蔑視するの意なり、而して「慢る者」とはパウロの此訓誡を慢りて不義を行ふ者なり、斯かる者は人なる彼れパウロを慢る者にあらず、彼を以て此命を伝へしめし神を慢る者なり 〇「其聖霊を我儕に賜ひし云々」 単に在天の神を慢るに止まらず、曾て彼等を其愛子の国に召き給ひし時に其聖霊を彼等の心に注ぎて彼等を潔め給ひし神を慢るなり、斯かる者は神の一たび潔め給ひし聖殿を再たび穢す者にして、神の子を再び十字架に釘けて顕辱《さらしもの》とする(希伯来書六章六節)に等しき罪を犯かす者なり、人を慢るは易し、神を慢るは易からず、殊に其聖霊を我儕に給ひし神を慢るは易からず、斯かる罪悪を放任し置かんか、終に赦さるべからざる罪に陥るの危険なきに非ず(馬太伝十二章卅一節参照)。
  九、兄弟を愛する事に就ては我、爾曹に書贈るに及ばず、そは爾曹互に相愛せんが為めに親しく神より教へられたれば也。
(407)〇「兄弟を愛する事」 パウロが終りに言はんと欲する事(第一節)の第一は姦淫より遠からんことなりき、其第二は兄弟を愛せんことなりき、姦淫を遠けて兄弟を愛すべし、消極的に自己を潔うして積極的に兄弟を愛すべしと〇「親しく神より教へられたり」 姦淫を避くることに就ては我は厳かに爾曹に証せり、然りと雖も兄弟を愛することに就ては爾曹親しく神より教へられたり、神は愛なれば、彼を識りて愛を知らざるを得ず、神は自己を人に顕はし給ひて彼に親しく愛を教へ給ふ、然り、愛は之を人より学ぶを得ず、神を愛してのみ、或ひは神に愛せられてのみ、我儕は愛の何たる乎を知るなり、彼れ使徒パウロと雖も愛を人に伝ふるに足るの器にあらざりき。
  十、爾曹マケドニヤの全地に在る凡ての兄弟に此の如く行へり、然れども兄弟よ、我儕、爾曹が益々此事に進まんことを勧む。
〇「マケドニヤ全地に在る凡ての兄弟云々」 テサロニケ信徒の愛に就てはパウロは多言を要せざりき、そは彼等は直に之を神より受けて、是を彼等の小団躰(教会)の中に於てのみならず、広く之をマケドニヤ全地にまで及したればなり、地方的観念を排除する者にして神の愛の如きはあらず、テサロニケ信徒の愛は小なりと雖も既にバルカン半島の半部を包懐せり 〇「然れど兄弟よ云々」 彼等の愛は既に顕著なり、然れどもパウロは彼等が茲に止まらずして、益々其区域と濃度とを増さんことを求へり、〇「益々此事に進まんことを勧む」 第一節に於て言へるが如し、パウロ独特の語調なり、彼は進んで息まざるの人なりき、常に増大を望むの人なりき、此点に於てはパウロは小児の如し、神の恩恵を求むるに於て多慾なることパウロの如きはあらざるなり
  十一、且つ安静《しづか》ならんことを追求めよ、又己の業を行ひ、己の手を以て働かんことを勧む、即ち我儕が曩に訓へしが如し。
(408)〇「安静ならんことを追求めよ」 活溌なるパウロは安静を愛せり、彼は好んで喧噪の地を択まざりき、群衆の中に立て其喝采に与からんとするが如きは甚く彼の本性に戻れり、行し得べき限りは力を竭して人々と睦み親むべしと(羅馬書十二章十八節)、安静ならずして労働あるなし、労働を愛する者は行し得べき限り衆庶の交際を避けて独り神と偕に歩まんことを期す、活動と称して、漫りに集会を催し他人の信仰に立入るが如きは彼の断じて為さゞる所なり 〇「追求めよ」 野心を起せよとの意なり(Philotimeisthai=be ambitious)、独り自から静かならんと欲するの野心を起せよとなり、奇異なる野心なるかな、野心は人が世の名誉を博せんと欲して起すものなるに、パウロは茲に独り退いて静かに己の業務に励むの野心を起すべしと勧む、而かも此謎語の中に万斛の意義在て存す 〇「又己の業を行ひ」 他人の事に関はることなく、其風評に心を奪はるゝことなく、静かに己の業務に就くべしと、衣食を得るための業なりとて之を卑むべからず、そは是れ天の命ぜし業にして、之に聖なる天職の存すればなり、懶惰は罪悪の母なり、而して労働は彼女の接近を避くるための唯一の途なり(提摩太前書五章十三節参照) 〇「己の手を以て働かんことを勧む」 己は安座して他人を指示することなく、自から手を下して働かんことを勧むと、業務に口を以てする者と手を以てする者との二種あり、而して最も健全なる者は後者なり、真理は耳目を通うしてよりは、寧ろ指先を通うして善く心裡に達する者なり、天然は之に触るゝにあらざれば其秘訣を供せず、憐むべきは代言人説教師の類にして、福ひなるは農夫職工の族《やから》なり 〇「即ち我儕が曩に訓へしが如し」 パウロはキリストの福音と同時に労働の福音を伝へたり、然り、キリストの福音は労働の福音なりき、主御自身が労働者なりき、故に愛せざる者は神を知らざるが如くに、労せざる者はキリストを知る能はざるなり、最も価値なき神学は書斎のみの神学なり、アクラとプリスキラの家に天幕を製作りしパウロは茲にラビ、ガマリエ(409)ルの膝下に於てよりも善き神学を学びたり、基督教は僧侶の宗教にあらず、平人の宗教なり、手を以てする労働を解せざる者の探究し得ざる宗教なり。
  十二、是れ爾曹が外の者に対し相当に歩み、且つ自身も乏しき事無らんためなり。
〇「外の者」 信仰以外の者にして神を知らざる不信者なり、〇「相当に歩み」 社会普通の要求に応ずるを云ふ、基督信徒は世と絶ちて其相当の要求を斥くべき者にあらず、行し得べき限りは力を竭して人々と睦み親まんと欲する彼は、亦、常識以外の態度に出て、世の感情を害ふべからず、彼は信仰以外の人に対して鄙吝なるべからず、彼は公司の要求は歓んで之に応ぜざるべからず、而して之を為さんがために労す、労働は先づ第一に我が在住する社会国家のためなり 〇「自身乏しき事なからんためなり」 労働は第一に社会のためなり、第二に自身のためなり、自身乏しきに遭ふて他人の救助に与からざらんがためなり、人、或ひは言はん、是れ平凡の理なり、使徒パウロの言に似ずと 而かも信仰の依頼に流れ易く、宗教の懶惰を促し易きを知る者にして此言の彼の言なるを疑ふ者はあらじ、世に依頼根性に富む者にして宗教専門家の如きはあらず、而して彼に自尊自重の念を生ぜしめんためには彼に労働の義務を説き、生産の途を授くるの必要あり、言あり曰く Laborare est orare、「労働《はたら》くは崇拝むなり」と、高尚に神を拝せんと欲せば健全に労せざるべからず。 〔以上、明治38・2・20〕
  十三、兄弟よ、我儕、爾曹が既に寝れる者に就て知らざるを好まず、又爾曹がかの希望を有たざる他人の如く憂へざらんことを欲す。
〇「寝れる者」 死者なり、死を就眠と見るは基督教を以て始まれり、イエスは会堂の宰《つかさ》ヤイロの女に就て言ひ給へり、死たるに非ず、寝りたる耳と(路可八の五二)、又死たるラザロに就て言ひ給へり、我儕の友ラザロ寝ねた(410)り、我、彼を醒さんために往くべしと(ヨハネ十一の十一)、死は生命の絶息なり、然れども基督信者の死は生命の中止に過ぎず、彼は再び醒めて墓より出で来る者なり、彼は死して纔かに寝るのみ、英語に墓地を cemetely《シメテリー》と云ふは、寝所の意なり、我儕が青山に寝ると言ふは啻に休息を意味してにあらず、醒覚の時期あるを信じてなり、死は就眠なりと解し得るに至るまでは、基督教の真義を了し得たりと云ふを得ず 〇「希望を有たざる他人」 「他人」は前節に所謂る「外の者」にしてキリストを知らざる世の人なり、即ち望なく又世に在て神なき者なり(以弗所書二章十二節)、人生僅かに五十年、七十は古来稀なりとは彼等の生涯なり、彼等に獲利の希望はあり、栄達の希望はあり、然れども彼等に復活、昇天の希望はあらざるなり、即ち、彼等の希望は希望と称するに足らざるものなり 〇「憂へざらんことを欲す」 痛哭せざらんことを欲す、死者に就て不信者が為すが如くに断腸の念を懐かざらんことを欲すと、其理由は次節に 審かなり。
  十四、そは我儕若しイエスの死て甦りし事を信ずるならば、其如くにイエスに託りて氏に寝りし所の者を神、彼と共に携へ来り給ふべければ也。
○「イエスの死して甦りし事を信ず」 基督信徒の信仰の大要は是なり、蓋若し爾、口にて主イエスを認はし、又爾心にて神の彼を死より甦らしゝ事を信ぜば救はるべし(羅馬書十章九節)、基督教の道徳の基礎も、教義の本源も斉しく此信仰に存す、若しキリストにして甦らざりしならば、我儕の信仰は無益にして、我儕は尚ほ罪に在るなり(哥林多前書十五章十七節)、基督教は其潔き道徳に於て在らずして、其死者を復活せしむるに足る能力に於て存す 〇「イエスに託りて既に寝りし所の者」 イエスの能力に託りて寝るを得し者、彼に託るにあらざれば常人の如くに死すべかりし者の、彼を信ずるに由て死せしにあらずして寝りし者云々、人は何人も生れながらに(411)して死して墓に寝るを得る者にあらず、死して甦りしイエスより生命を受けてのみ、彼に在て寝るを得る者なり、イエス曰ひけるは我は復生なり、生命なり、我を信ずる者は死るとも生くべしと(約翰伝十一章廿五節)、死は就眠なりとはイエスに託りてのみ事実たるなり 〇「神、彼と共に携へ来り給ふ」 イエスの再び世に顕はれ給ふ時に、神は彼(イエス)に託りて寝りし者に彼(イエス)に等しき体を与へ、之を彼と共に携へ来り給ふとなり、イエスの再臨と聖徒の復活とは同時に行はるべし、イエスは死て甦り給へり、我儕は此事を信ず、其如くに我儕(信徒)の中既にイエスに託りて寝りし者は彼の再来の日に甦るを得て、彼と共に再び世に臨むを得べしとなり、神ヱホバ来り給はん、諸の聖者彼と偕なるべし(撒加利書十四の五)〇イエス曰ひけるは我れ生くれば爾曹も生きんと(約翰伝十四章十九節)、生は生を生ず、而して信仰は生命の接取なり、十二年間血漏を患ひたる婦がイエスの衣に捫《さは》りて能力を得て※[病垂/全]されしが如くに、我儕も亦信仰に由りて身にイエスの生命を受けて、此|壊《くち》る者を壊ざる者となすを得べし、是れ信仰の奥義なり、理を以て推究する能はず、然れども我儕は神の黙示と信仰の実験とに由りて其事の然かるを知るなり。
  十五、我儕主の言を以て爾曹に告げん、我儕主の臨らん時に至るまで活きて存れる者は既に寝れる者に先立たず。
〇「主の言を以て」 我儕、言ふにあらず、主は我儕を以て爾曹に告げ給ふ、此奥義は是れ人の究めんと欲して能はざる所の者なり、我儕は主の黙示に由りて爾曹に此事を告ぐと、是れ人の道に非ず、神の道なりと(二章十三節参考) 〇「我儕……活きて存れる者」 主の再臨の時まで此世に存在する者なり、彼に託りて既に寝りし者と相対して云ふ 〇「寝れる者に先立たず」 生者は死者に先立たず、生者先づ再臨の主を迎ふるに非ず、再臨当時(412)に存在すること必しも特別の恩恵に非ず、我儕信徒は総て再臨の主の栄光に与かる者なりと雖も、而かも此場合に於ては、後の者は前に為らず、然り、聖徒の復活は其殉教の順序に従ふべし、始めに主に託りて主のために寝りし者先づ甦へり、終りに終まで忍ぶ者甦るべし、主は公平なり、彼は前後の差別を乱し給はずと。
  十六、それ主自から号令と天使の長の声と神の※[竹/孤]を以て天より降り給はん、其時キリストに在りて死し者先づ甦るべし。
〇「主自から」 他者に促されてに非ず、外界の事物に誘はれてに非ず、自から其聖旨の儘に其聖旨を遂行せんがために 〇「号令」 権威の言なり、以て死者を活かすに足る(約翰伝五章廿八節)、ラザロよ出よとの如き命令の声なるべし、(同十一章四三節) 〇「天使の長の声と神の※[竹/孤]」 勿論形容の言辞なり、肉の鼓膜に響く声にあらず、又祭司が吹き鳴らせし銀の※[竹/孤]に非ず、良心に響き渡る声なり、神の命令を伝ふる恐るべき音なり、神の国は顕はれて来る者に非ず(路可伝十七章廿節)とあれば、キリストの再臨の肉の耳目を惹くが如き者にあらざるは明かなり、再来は顕象的たるに相違なしと雖も、其顕象たるや主として霊的ならざるべからず、主の懼るべきは其声の大なるがためにあらずして、其旨の聖きがためならざるべからず、天使の長の声は巨漢《ジヤイアント》の声にあらず、神の※[竹/孤]は軍楽隊の※[竹/孤]に非ず、聖き声と能力ある音となり、吾人は聖書の此言を以てイエスの観物的再臨を示すものなりと解する能はず 〇「キリストに在りて死し者先づ甦るべし」 前に死し者先づ甦るべし、恰かも前に蒔かれし種の先づ発生するが如し。
  十七、然る後、我儕活きて残れる者は空中に於て主に遇はんために彼等と偕に雲の中に取上げられん、而して斯の如くにして我儕何時までも主と共に居らん。
(413)〇「然る後」 死者先づ甦りて然る後に、我儕再臨当時に存在する者は、エノクの如くに死せずして移さるべし(希伯来書十一章五節) 〇「空中に於て主に遇はん」 主は天より降り来り、我儕は地より昇り往て、天と地との中間なる空中に於て主に遇はんと、是れ聖書の言なり、是を物理的に如何に解釈すべきやは吾人の敢て知る所にあらず 〇「雲の中に取上げられん」 イエス昇天の後に雲之を接けて見えざらしめたりとあり(行伝一章四節)、又天より大なる声ありて………彼等雲に乗りて天に昇れりとあり(黙示録十一章十二節)、茲に言ふ雲とは果して水蒸気の凝結せるものなるか、将た亦、霊体の棲息すべき新天地の成分を意ふなるか、事、新境遇に関するを以て、之に就て推測を下すも何の益あるなし、吾人は唯、霊化と昇天との事実なるを知るのみ、如何にして此肉体が化して霊体となる乎、其生理的順序如何、天国は宇宙何処に建設さるべきものなるや、其空間的地位如何とは問ふも全く益なき問題なり、復活は吾人の希望として存するのみ、吾人は未だ其科学的説明を有せず、パウロ又曰く我儕が救を得るは望に由るなり、然れども望を見ば(其科学的説明を得ば)亦望なし、既に見る所の者は(科学的証明に由て確められし者は)何ぞ尚ほ之を望まんや(羅馬書八章廿四節)、復活、再臨の事実は純粋科学を以てしては到底探究し能はざる也 〇「我儕何時までも主と共にあらん」 我儕、今や主と離れ居り、汚れたる口唇《くちびる》の人の中に在りて、欺き且つ苦む、然れども、此世は既に過ぎ去り、新らしきヱルサレムの新婦《はなよめ》の如くに装ひて天より降り来る後は、我儕は何時までも主と共に居りて、何者も我儕を誘ふなく、又懼れしむることなかるべし、今は暗黒の時なり、悪人が勢力を揮ふ時なり、然れども其時は我儕の時なるべし、即ち我儕の愛する正義の主イエスキリストの治め給ふ時なり。
  十八、是故に此等の言を以て爾曹互に相慰むべし。
(414)〇事実斯の如くなるべければ、即ち主に在りて死せし者は死せしにはあらずして、寝りしなれば、而して斯の如くにして寝りし者は主の臨り給ふ時に甦りて、彼と共に再び顕はるべければ、而して我儕主に在りて死せし者も生くる者も再び相会して主と共に何時までも居るべければ、爾曹、我儕基督信徒に賜はりし是等の神の約束の言を以て互に相慰むべしとなり、若し死者にして永久に死すべき者ならば「他人」の如くに憂ふるも宜べなり、死は永遠の離別とならば世に之に勝りて懼るべき者なきは当然なり、然れどもキリスト死を廃《ほろぼ》し、福音を以て生命と壊ざる事とを明著にせり(提摩太後書一章十節)、而して彼は今既に我儕に霊の貿を賜ひて、永生を信ずべきものとならしめ給へり、基督信徒の希望とは此希望なり、彼の慰藉とは此慰藉なり、宇宙何物か此恩賜に優さるものあらんや。
 
     第四章概察
 
〇第一に淫を避けよ、淫は神の最も憎み給ふ罪なり、而して基督に託りて淫を避くるは易し、淫は情の狂ひなり、而して情は理を以て之を統御する能はず、情はより強き情を以てのみ能く之を支配するを得べし、基督教の能力を待てのみ情を根本的に潔むるを得べし、情の洗滌は基督教の専門なり、神は聖潔の中に在て我儕を召き給へり、神の信仰に入るとは理性を以て神を了解することにあらずして、神の霊を以て全身全性を潔めらる1ことなり(1−8)。
〇第二に兄弟を愛せよ、そは愛なくして信仰なければなり、邪淫を排除する信仰は愛心を誘導す、情、狂ひて淫を起し、順正に帰して愛を生ず、情性を潔むるに特効ある基督教は淫を化して愛となす者なり(9−10)。
(415)〇淫去り愛起りで、心、安静に帰して労働成る、心緒乱れて事業挙らず、平安は効果多き労働の母なり、かの「運動者」と称して安座して静業に就く能はざる者は未だ心に主の平安を接けざる者なり、人の思ひに過ぐる平和は我儕をして自己を以て満足せしめ、自己以外に興奮の快楽を求めざらしむ、健全なる信仰は必ず安静《しづか》なる労働を促がす者なり、人の信仰の程度は労働に対する彼の態度に由て最も善く之を察するを得べし(11、12)。
〇終りに来世存在の希望を懐けよ、基督信者は此世限りの者に非ず、彼は永生を授けられし者なり、故に彼に死者に対して耐え難きの痛哭あるべからず、彼は死者と楽しき再会を期する者なり、是政に爾曹此等の言を以て互に相慰むべしと、基督信者の慰藉とは漠たる実質なき詩人的の慰藉にあらず、彼は確乎たる明瞭なる実物的の希望を有す、壊ざる新らしき体を授けらるゝことなり、主と共に何時までも在ることなり、我儕の愛する者と主の台前に於て再び手を握ることなり、此希望ありて何事か我儕に苦痛ならんや、我れ意ふに今の時の苦みは我儕に顕はれんとする栄えに此ぶべきに非ず(羅馬書八章十八節)、此希望を懐いて邪淫の情は失せ、熱愛は起る、此慰藉を得て我儕は現世に於ける我儕の地位の如何に就ては全く苦慮せざるに至る。
   小屋なり、仮星なり、我れ何をか懸念《かま》はん、
   我が為めに宮殿はかしこに造られつゝあり、
   今は家より逐はれて独り彷徨ふとも、
   神に感謝す、我は今既に「王の子」なり。 〔以上、明治38・3・20〕
 
(416)    第五章
 
  一、然れど時と期とに就ては兄弟よ、爾曹は書示さるゝの要なし
〇「時と期とに就ては」 主は必ず再び臨り給ふべし、其事は確かなり、然れども其再臨の時期に就ては是れ人の知る所にあらず、イエス言ひ給ひけるはその日其時を知る者は唯我父のみ、天の使者も誰も知る者なし(馬太伝廿四章卅六節)、永遠に在ます神に取ては千年も一日の如し、亦永遠の神を信ずる我儕に取ても時期の長短は我儕の意に介する所に非ず、我儕は神の正義を信ず、故に神の裁判の必然を信ず、其他を知らず、之を知るの要なし、之を知らんと欲するは好奇心より出づ、是れ知るも全く要なき事なり、否な、知つて反て害ある事なり、信仰は美術の如し、是に数字的区劃あるべからず、時期を判然と示さるゝ如きは信仰を破棄さるゝに均し、信仰の美は約束を待望むにあり、其体成を精算して之に備ふるが如きは信仰の意義に反す 〇「時」は時代なり、「期」は時日なり、再臨の時と期とは予め来るべき時と必ず来るべき期となり、期(kairon)は時(chronon)の更らに精細なるものなり、而して我儕クリスチャンは二者孰れをも知るの要なしと云ふ。
  二、そは主の日の来ること盗人の夜来るが如くなることは爾曹詳細に知ればなり
〇「主の日」 審判の日なり(馬太伝十一章廿二節)、又之を其日(仝七章廿二節)、又はイエスキリストの日といふ(腓立比書一章六節)、ヱホバの栄光顕はれ 人、皆、之を見るの日なり(以賽亜書四十章五節)、信者に取ては歓喜雀躍の日なり、不信者に取ては恐怖戦慄の日なり、義人は其一日も早く到らんことを欲ひ、悪人は其永久に来らざらんことを願ふ 〇「盗人の夜来るが如」 主の日は其恐るべき裁判を齎らして来る、然れども其来ること不(417)意にして盗人の夜来るが如しと云ふ、主言ひ給ひけるは我、盗賊の如くに到らん、爾、我が何れの時、爾に至るかを知らざる也と(黙示録三章三節)、神の裁判の恐るべきは其我儕の不意に乗ずるにあり、死を覚悟する時に死は来らず、心平かにして百年の計を立てつゝある時に来る、革命に備ふる時に革命は来らず、上下挙て勝利繁盛に安眠しつゝある時に来る、主は誠に不意に来り給ふ、人が彼の再臨を批議討論しつゝある間に来り給ふ、主の再臨を嘲ける者あり、然かり、仏国革命の到来を嘲ける者ありたり、徳川幕府の倒滅を嘲ける者多かりし、而かも仏国革命は臨みて腐敗せる王統は忽にして其跡を絶ちたり、徳川幕府は倒れて今は過去の夢と化しぬ、世の最終の裁判は臨まざらんや、而かも其臨むや暴風の地を襲ふが如くなるべし、碧空に鳥翔り、花弁に蝶遊び、人は清風に安臥する時に、颶風急ち天の一方より来る、主は何故に不意に来り給ふや、我儕は知らず、然れど我儕は総ての破壊の必ず不意に地に臨むを知る、主の最終の裁判も亦如斯にして来るべし 〇「爾曹詳細に知ればなり」 キリストは明かに此事を告げ給へり(馬太伝廿五〇十三、路可伝十二〇卅九、四十)、使徒等は重複して此事を宣伝へたり、而してテサロニケの信徒自身も亦心にイエスの自顕の意外なることを実験せしならん、信仰に進める基督信徒がキリスト再臨の時期に就て尋問するの理由あるなし、彼等が此事を為すは彼等の信仰が冷却せし時にあり、既に再臨の事実を確認する者、豈其出現の時期を問はんや。
  三、人々平和無事なりと言はん時、不意の滅亡忽に彼等に臨まん、恰かも姙める婦に其劬労の来る如くなるべし、人々絶えて避ることを得じ
〇「平和無事云々」 平安あらざるに平安を唱へつある時に(以西結書十三〇十)、即ち偽はりの平和に安臥しつゝある時に 〇「不意の滅亡」 路可伝十二章十五節以下廿一節まで参照 〇「不意の滅亡忽に臨まん」 不意なる(418)が上に不意なるべし、其日には人、屋上に在らば其器具、室に在るとも之を取らんとて下る勿れ(路可伝十七〇卅一)、そは其|間《ひま》さへもなければなり、主の裁判の既に臨るありて、其時、改悔の間あるなし、其時、唯、哀哭切歯あるのみ 〇「姙める婦に云々」 姙婦は分娩の必ず来るべきを知る、然れども其何時来るやを知らず、而して其来るや、彼女は之を妨止せんと欲するも得ず、主の日の来るも又斯の如し、其忽焉として来るや、其猶予を乞ふも詮なし、裁判は必ず来るべし、而して来て必ず不意に罰すべし、恰かも死の臨むが如し(死は実に大なる裁判なり)、人、其到来の時期を知らずと雖も然かも其到るや、厳酷なること彼の如きはあらず、産期満ちて分娩は必然なり、罪悪熟して滅亡は必然なり、而して分娩も裁判も不意に臨んで正当の順路を経過せざれば止まず 〇「人々絶えて避くることを得じ」 其時に及んで裁判を避けんと欲して避ることを得じ、其未だ及ばざる時に、即ち今日、今、之を避けんと欲して避るを得べし、今日と称ふ今日、爾曹若し其声を聴かば爾曹の心を剛愎にする勿れ(希伯来書三章十三、十五節)、今は救拯の時なり、今は避難の時なり、主の再び顕はれ給はん其時、人々哀哭切歯するも絶えて避くることを得じ。
  四、然れど兄弟よ、爾曹は幽暗に居らず、是れ其日盗人の如くに爾曹に襲来らざらんが為めなり。
〇「然れど」 主の恐るべき日は来るべし、然れど其恐るべきは是れ幽暗に在る者に取てなり、爾曹に取ては然からず、恐怖の日は主に由て歓喜の白と成れり、言あり曰く But is a big word.「然れどは大なる文字なり」と、此場合に於ける「然れど」は幽暗と光明と、滅亡と救拯とを区別するための大なる文字なり 〇「幽暗に居らず」 鞫かるべき此世の属に非ず、是故にイエスキリストに在る者は罪せらるゝ事なし(羅馬書八〇一)、幽暗とは罪に沈める罪せらるべき此世なり、而も此世に居る者、即ち希望を此世に繋ぎ、此世の国家、此世の社会を以て、其(419)居住の処と定むる者はキリストの降臨を聴て戦慄かざるを得ず、然れども既に此世に死し、其政治、教会、学位、等に全く望を絶ちし者は主の再来を聞いて恐れず 〇「是れ其日云々」 我儕何故に此世に死せし乎、是れ光の主が幽暗を鞫かんがために再び来り給ふ時に、我儕の不意を襲はれざらんが為めなり、即ち主が盗人の如くに我儕を襲ひ給はずして、新郎《はなむこ》の如くに我儕に臨み給はんがためなり、盗人の如くに彼を憎む者に来り給ふ主は、新郎の如くに彼を愛する者に臨み給ふべし、幽暗に居らざる我儕クリスチヤンは審判の主を我儕の新郎として歓迎するの特権を有す。
  五、爾曹は皆光の子輩《こども》なり、昼の子輩なり、我儕は夜に属ける者に非ず、幽暗に属ける者に非ず
〇「光の子輩」 幽暗に居らず、光の子輩なり、光を以て其特性となす者なり、或ひは光(神)の生む所となりし者なり、或ひは幽暗(罪の世)より光の国(天国)に移されし者なり、或ひは希望の光の中に歩む者なり、爾曹は選れたる族《やから》、王なる祭司 聖民、神に属ける者なり、此は爾曹をして召して幽暗より出だし、其|異《たへなる》光に入れ給ひし者、己の徳を顕さしめんために爾曹を此の如き者となし給へる也(彼得前書二章九節) 〇「昼の子輩」 光の子輩なり、故に昼の子輩なり、酔ひて寐るべき者に非ず、醒めて働くべき者なり(次節に明かなり)〇「夜に属ける者……幽暗に属ける者」 光の子輩なり、幽暗に属ける者に非ず、昼の子輩なり、夜に属ける者にあらず、神の子輩なり、悪魔の奴隷に非ず、天国の民なり、此世の市民に非ず、キリストは世の光にして(約翰伝八章十二)悪魔は幽暗の権威なり(哥羅西書一章十三)、我儕は今は悪魔を去てキリストに就《きた》りし者なり。
  六、然れば我儕他人の如く寐るべからず、否な、醒めて慎むべきなり
〇「他人」 世の人なり、四章五節に於ける「異邦人」、同十二節に於ける「外人」と言ふに同じ 〇「寝るべから(420)ず……醒めて慎むべし」 睡眠的生涯を送るべからず、活働すべし、夜すでに央《ふ》けて日近けり、故に我儕幽暗の行ひを去て光の甲を衣るべし、行を端正くして昼歩むが如くすべし、饕餮《たうてつ》酔酒また奸淫好色また争闘嫉妬に歩むこと勿れ(羅馬書十三章十二、十三節)、「慎む」は端厳の意なり、真面目なることなり、虚に築かざることなり、浮薄を追はざることなり、カーライルの所謂|誠実《シンセリチー》の更らに確実なるものなり。
  七、そは寝る者は夜、寝り、酒に酔ふ者は夜酔へば也
〇「寝る者は夜云々」 我儕光の子輩は夜なりと雖も寝るべからず、否な、惑ひに入らぬやう目を醒し且つ祈るべきなり(馬太伝廿六〇四十一)、寝る者は夜に入れば寝るなり、彼等は幽暗の子輩にして亦夜の子輩なればなり、酒に酔ふ者も亦同じ、彼等は燈火の暗影に対しては酔はざらんと欲するも能はざるなり、今は暗黒の勢力なり(路可伝廿二の五十三)、然れども我儕光を望み、之に属ける者は暗黒の世に在るも、昼に在るが如くに醒めて慎むべきなり、イエス曰ひ給ひけるは爾曹みづからを慎めよ、恐くは飲食に耽けり、世事に累《まと》はれ、爾曹の心鈍くなりて慮はからざる時に此日(審判の日)爾曹に臨まん(路可伝廿一の三十四)。
  八、昼に属ける我儕は信と愛との胸当を着、救の望を冑として慎むべきなり
〇「昼に属ける我儕云々」 夜に属ける者は夜なればとて寝るなり、然れども我儕昼に属ける者は世は夜なればとて寝るべからず、否な、夜暗くて、爾曹の敵なる悪魔、吼ゆる獅子の如く※[行人偏+扁]行《へめぐ》りて呑むべき者を尋ね居れば(彼得後書五の八)、爾曹特に警戒を加へて防禦の策を講ずべしとなり 〇「信と愛との胸当……救の望の冑」 信と愛とを以て心を護り、望を以て智識を堅むべしとの意なるべし、邪念の心を襲ふことある乎、信と愛とを以て之を排すべし、疑惑の智覚を乱だすことある乎、望を以て之を斥くべしと、未来に於けるキリストの救拯の希望は誠(421)に思想の大なる統一者なり、此希望を以てしてのみ人生を最も円満に解するを得べし、救の望の冑は実に平静なる頭脳の支持者なり 〇「慎むべきなり」 正気たるべきなり、酔酒の反対なり。
  九、そは神、我儕を怒に定め給はず、我儕の主イエスキリストに由りて救を得しめんと定めたれば也
〇「そは」 我儕、警醒、謹慎、以て主の来るを待つべきなり、そは神、我儕を怒に定め給はず云々 〇「怒に定め給はず」 怒に定めらるゝとは神怒の結果たる滅亡に定めらるゝことなり、救拯の予定あり、又滅亡の予定あり、而して救拯の予定に与かりし我儕は目を醒まして主の来臨を待つべきなりと(羅馬書九章廿二節参照) 〇「救を得しめんと云々」 滅亡に定め給はず、其正反対なるキリストに由る救ひに定め給へり、救を得るとはキリストの栄光を我が有と為すことなり(後書二章十四節)、此特権に与かりし者争で半酔半覚の中に夢寐に類する生涯を送るを得んや。
  十、彼、我儕のために死に給へり、是れ我儕をして醒めたるも寝れるも彼と偕に生活《いか》しめんとて也
〇「彼、我儕のために云々」 彼、我儕のために死に給へり、是れ我儕をして生活しんため也、イエスの死は我儕の生のためなりし、其奥義は今茲に之を究むべからず、然れども是れ福音の真髄たるは我儕の堅く信ずる所なり
〇「醒めたるも寝れも」 此場合に於ては生くるも死るもとの意なるべし(羅馬書十四章八節)、イエスの我儕のために死に給へるは、我儕をして生くるも死るも、彼と偕に生かしめんとて也、キリストは其身に於て死を滅し給へり、故に我儕、彼に在る者に死あることなし、我儕は生くるも彼と偕に在りて生き、死するも彼と偕に在りて生くるなり、光の子輩は又生命の子輩なり、彼等は幽暗に属ける滅亡の子輩の如くに酔酒の中に睡眠的生涯を送るべからざるなり。
(422)  十一、是故に爾曹互に相慰め、又各自、互に其徳を建つべし、即ち爾曹が常に行ふが如くすべし。
〇「徳を建つ」 信仰の基礎を堅くすることなり、前章十八節を見よ 〇「爾曹常に行ふが如し」 前章一節、十節参照。 〔以上、明治38・4・20〕
 
(423)     余が非戦論者となりし由来
                      明治37年9月22日
                      『聖書之研究』56号「談話」                          署名 内村鑑三
 
 私も武士の家に生れた者でありまして、戦争は私に取りましては祖先伝来の職業であります、夫れでありますから私が幼少の時より聞いたり、読んだりしたことは大抵は戦争に関することでありました、源平盛衰記、平家物語、太家記、さては川中島軍記と云ふやうに戦争に関はる書を多く読んだ結果として、私も終ひ此頃まで、戦争の悪いと云ふことが如何しても分らず、基督教を信じて以来茲に二十三四年に渉りしも、私も可戦論者の一人でありました、現に日清戦争の時に於ては、今とは違ひ、欧文を取て日本の正義を世界に向つて訴へんとするが如きものは極々少数でありました故に、ヨセば宜しいのに、私は私の廻らぬ鉄筆を揮ひまして、「日清戦争の義」を草して之を世に公にした次第であります、カーライルの『コロムウエル伝』を聖書に次ぐの書と見做しました私は正義は此世に於ては剣を以て決行すべきものであるとのみ思ひました。 然るに近頃に至りまして、戦争に関する私の考へは全く一変しました、私は永の間、米国に在るクエーカル派の私の友人の言に逆ひて可戦説を維持して来ました、然るに此二三年前頃より終に彼等に降参を申込まねばならなくなりました、或人は是れが為めに「変説」を以て私を責めますが、ドーモ致し方がありません、私は戦争問題に関しては実に変説致しました、西洋の諺にも「智者は変ずる」と云ふことがありますから、私の如き愚かな(424)る者も、若し充分なる適当の理由がありますれば、斯かる問題に関しては説を変じても宜しからふと思ひます。
 扨、何が私を終に非戦論者となした乎と云ふに、夫れには大分理由があります、私は今茲では其主なる者丈けを述べやうと思ひます。
 一、私を非戦論者にした者の中で最も有力なる者は申すまでもなく聖書であります、殊に新約聖書であります、私は段々と其研究を継けて終に争闘なる者の其総ての種類に於て避くべきもの、嫌ふべきものであることを覚るに至りました、新約聖書の此句彼語を箇々に捉へないで、其全躰の精神を汲取りまして、戦争は縦令国際間のものでありとするも、之を正しいものとしては見ることが出来なくなりました、十字架の福音が或る場合に於ては戦争を可しとするとは私には如何しても思はれなくなりました。
 二、私をして殆んど極端なる非戦論者とならしめし第二の源因は私の生涯の実験であります、私は三四年前に或る人達の激烈なる攻撃に遭ひました、其時或友人の勧告に従ひまして、私は我慢して無抵抗主義を取りました結果、私は大に心に平和を得、私の事業は其人達の攻撃に由り、差したる損害を被ることなく、夫れと同時に多くの新らしい友人の起り来りて私を助け呉れるのを実験しました、私は其時に争闘の如何に愚にして如何に醜きものであるかを浸々《しみじみ》と実験しました、私は確かに信じて疑ひません、私が若し其時に怨を以て怨に報ひ、暴を以て暴に応じましたならば、多少の愉快を感じましたらふが、私の事業は全く廃れ、今の私は最も憐れな者であつたらふと思ひます、羅馬書十二章にある保羅の教訓を充分に覚りましたのは実に其時でありました、此事は勿論私事ではありまするが、併し私は其れに由て総ての争闘の愚にして且つ醜なることを覚りました、何人でも己れ自から無抵抗主義の利益を実験したる者は必ず彼の国に向つても同一の主義の実行を勧めるであらふと思ひます。
(425) 三、私をして非戦論者とならしめし第三の動力は過去十年間の世界歴史であります、日清戦争の結果は私にツク/”\と戦争の害あつて利のないことを教へました、其目的たる朝鮮の独立は返て危くせられ、戦勝国たる日本の道徳は非常に腐敗し、敵国を征服し得しも故古川市兵衛氏の如き国内の荒乱者は少しも之を制御することが出来ずなりました、是は私が私の生国なる日本に於て見た戦争(而かも戦勝)の結果であります、若し其れ米国に於ける米西戦争の結果を想ひますれば是よりも更らに甚だしいものがあります、米西戦争に由て米国の国是は全く一変しました、自由国の米国は今や明白なる圧制国とならんとしつゝあります、現役兵僅かに二万を以て足れりとし来りし米国は今や世界第一の武装国とならんと企てつゝあります、爾うして米国人の此思想の変化に連れて来た彼等の社会の腐敗堕落と云ふものは実に言語に堪えない程であります、私は私の第二の故国と思ひ来りし米国の今日の堕落を見て言ひ尽されぬ悲歎を感ずる者であります、爾うして此堕落を来たしました、最も直接なる原因は言ふまでもなく米西戦争であります、其他英杜戦争の結果に就ても多く言ひたいことがありまするが夫れは他日に譲ります。
 四、私を非戦論者になした第四の機関は米国マッサチユーセット州スプリングフィールド市に於て発行せらるゝ The Springfield Republican と云ふ新聞であります、私は白状します、私は過去二十年間の此新聞の愛読者であります、斯くも永く私が読み継けた新聞は勿論日本にもありません、私の世界智識の大部分は此新聞の紙面から来たものであります、此新聞は私の見た最も清い最も公平なる新聞であります、之を読んで頭脳《あたま》が転倒するやうな患ひは少しもありません、常に平静で常に道理的で、実に世界稀有の思想の清涼剤であると思ひます、爾うして此新聞は平和主義者であります、絶対的非戦論者といふではありませんが、併かし常に疑ひの眼を以て総て(426)の戦争を見る者であります、彼は彼の国人の輿論に反対して痛たく菲律賓群島占領に反対しました、彼は常に英国帝国主義の主道者なるチヤムバーレン氏の反対者であります、爾うして此新聞を二十年間読み継けまして、私も終に其平和主義に化せられました、其紙上に於て世界有名の平和主義者の名論卓説を読みまして、私の好戦的論城は終に全く壊されました、或人が此新聞を評して「其感化力に新約聖書のそれに似たるものあり」と言ひましたが、実に爾うであります、『スプリングフィールド共和新聞』は其二十年間の説教の結果、終に私をも其信者の中に加へました。
 此外にもまだ私を非戦論者になした勢力はありませう、然し是の四つのものが其重なる者であります、殊に近頃私をして非戦論に関する私の確信を固めしめましたものは哲学者故スペンサー氏の戦争に関する意見であります、氏の戦争論に就ては他日別に御話しいたしたく思ひます。
 私は終に非戦論者となりました、然かし非戦論とはたゞ戦争を非とし、之に反対すると云ふこと計りではありません、非戦論の積極的半面は言ふまでもなく平和の克復並に其耕脩であります、私は神に祈り、神若し許し給はゞ、国民の輿論に逆つて、此時に際して非戦論を唱へた賠償として、微力ながらも、出来得る丈けの力を尽して、平和克復の期を早め、敵国との好意交換の基を作りたく思ひます、ドウゾ本誌読者諸君に於ても此ために御祈り下さらんことを願ひます。
 
(427)     米国の堕落と其救済
                     明治37年9月22日
                     『聖書之研究』56号「雑録」
                     署名 内村生
 
〇若し来る十一月八日の大統領選挙に於てレパブリカン党が勝を占め、ルーズベルト氏が再選せらるゝならば北米合衆国は一年間に六億円の金を投じて英国にも優る世界第一等の海軍を作り、以て『自由のために、平等のために』大に世界の政治に干渉するとのことである、一年問に酒のために二十億円を費し、軍艦のために六億円を費さんとする合衆国は実に立派なる『基督教国』である、斯かる国が一年に六七百万の金を投じて外国伝道を行ふとて其罪悪の万分の一をも償ふ事は出来ない、日本国は如何に腐敗するとも北米合衆国ほどは腐敗して居らない、我儕は国としては今日の北米合衆国より伝道を受くべきの理由は一つもない。
〇実に米西戦争以後の合衆国の堕落といふものは甚だしいものである、其政治家、新聞記者、牧師、伝道師等の言ふ所を聞けば、之がワシントン、リンコルンを生みし米国の人士の言である乎と驚く計りである、彼等は今はたゞ単へに「鉄と腕力」とを以て彼等の国威を張らんとして居る、米国人は今は全く現世教信者と化した、彼等の宗教に来世的なる所は殆んど無きに至つた、彼等の教会は社会改良のためである、彼等の青年会は体力養成のため、又は智識増進のためである、米国の宗教家に天国のことを聞かんと欲しても、之を確と語るものは殆んどない、浅薄にして現世界的なる宗教にして米国人今日の基督教の如きはない。
(428)〇聞く独逸の如きに於ては米国人の近世思想を嫌ふこと甚だしく、若し米国流の青年会又は共励会の輸入されんとするあれば力を極めて其排斥を努むると云ふ、余輩も我邦の基督教の弊害の其大部分は米国人の輸入に係るものなるを知るが故に、我儕日本の基督信者も独逸人に傚つて努めて米国流の宗教思想の輸入を防ぐべきであると思ふ。
〇斯く言ひて余輩は米国其物を憎むのではない、純粋の米国思想なるものは実に世界最良の思想であると信ずる、金を拝するのは今の米国人の宗教であつて、米国人固有の宗教ではない、爾うして幸にも此固有の精神は今尚ほ米国の地に跡を絶たない、帝国主義は今は堕落せる米国人多数の賛成する所なれども、然かも、今や其大党派の一つは排帝国主義を標榜して立つに至つた、彼れの政治的技倆は如何であるとするも、デモクラット党前大統領候補者ブライアンの如きは、歳は若けれども、確かにワシントン、ジェファソンの流を汲んだる古代流の純乎たる米国的政治家である、彼が近頃セントルイに於て開かれたるデモクラット党の大会に於て述べし言の如きは実に米国の堕落救済の希望を表彰するに足るものである、彼は其時言ふた、
  二千七百年前に予言者は『平和の君』と称せらるゝ者の世に出でんことを予言せり、二千年前に此君は世に顕はれ給へり、而して彼の生れ給はんとするや、天使は歌ふて曰へり「地には平和、人には恩《めぐみ》あれ」と、其後二千年間、此平和の福音は世に説かれて大に人の心を占むるに至れり、此平和の福音のために数百万の人は其生命を犠牲に供せり、此平和の福音のために数万の人は大洋を横断し、野蛮人の中に彼等の生命を棄て、異邦の人の中に伝教に従事せり、此平和の主義は基督教文明の基礎にして亦此世界の希望なりし。
と、斯く述べて後に彼は彼の国人にして「鉄と腕力」とに依りて戦争を以て国民の運命を支配せんとする者のあ(429)るを慨嘆し、大に彼等の背理を攻撃した、腐敗せる米国の政治家中に此声を揚ぐるものあるを見て、余輩は余輩の愛する米国に就て未だ全く望を絶たない。
〇又こたびデモクラット党の大統領候補者として選ばれたる判士バーカー氏の候補承諾演説中に左の一節がある、彼は米国合衆国も武力を大にして世界的勢力となるべしとの彼の反対党の主張に答へて曰ふた、
  我が国は既に業に世界的勢力たり、而して我等は世界的勢力として之を維持せざるべからず、然れども、余は我国が近頃に至て、始めて其世界的勢力たるの地位を得るに至れりと言ふ説に反対す、我国は百年前、既に業に世界的勢力となれり、其時外国の羈絆を脱し、人民は自由政府を建設し、其主権は人民の意志に基くものなれば常に之に由て立つべきものなりと定めたり、我国が世界的勢力として成長せしは、其強健なる人民が、其本国に於ては自由と繁栄とを得る能はずして、之を我国に於て求めんと欲して茲に移住し来りし外国の民の協同を得て、陸の面に拡がり、草原と森林とを拓き、市《まち》を建て、道路を開き、鉄道を布きしに由れり、而うして其建設当時に方ては三百万に充たざりし民は今は増加して八千万と成り、大洋より大洋まで、大湖より大湾まで、国の縦横に拡がり、茲に文明の智識と芸術との最高度に達せる自由にして栄ゆる民の棲息する国を作れり、依て知る此国の世界的勢力となりしは其自由、其市民の進歩と繁栄とに由りて、其外国征服の方針に由らざることを、吾人が此地位を得るに至りしは、神の恩恵の豊かなるに由れり、即ち我国の多大なる天然的富源の開発、其憲法に於て顕はれたる吾人の祖先の聡明、而して之に加ふるに人民自身の精力、勤勉、道徳及び法律を重んずるの精神に由れり。
斯くも穏健なる思想を有せる政治家を大統領候補者に挙げたる大政党の米国にあるを知つて、余輩は密かに米国(430)のために賀せざるを得ない。
〇来る十一月八日は実に世界分目の大勝敗の決せられる日である、世界最大最強の共和国が共和国として存する乎、将た又実際的圧制国と化する乎、此人類の大戦争は来らんとする北米合衆国の選挙場裡に於て決せられるのである、我儕若し米国の市民ならば、神聖に我儕の投票権を使用し、平和のために、排帝国主義のために我儕の微力を添へたく思へども、然れども如何せん大洋の此方に在て其勝敗に与かること能はざるが故に、我儕は茲に我儕の声を揚げ、薄弱ながらも我儕の信仰を以て、祈祷を以て大洋の彼方に在る我等の同主義者の運動を助けやうと欲ふ。(九月十日誌す)
 
(431)     雑信
                     明治37年9月22日
                     『聖書之研究』56号「雑録」
                     署名 くぬぎ生
 
〇独逸よりは同情者の書簡、尚ほ続々として来る、さすがにルーテルの生国だけありて、信仰の自由と独立とを愛する者は英国や米国に於てよりも多く有ると見える、且つ贈り来る書簡の文躰の謙遜なのには驚き入る、然り恥入る、立派な大学出の博士が余輩に対し礼を厚くして言ひ来る、余輩は同情の新境域のアルプス山麓に開かれしを神に感謝せざるを得ない。
〇其れにつけても望ましきは此国に在る我等同志の結合一致である、今や基督教会の腐敗堕落に由て基督信者たることは交際上何の実益もなき時に方て、我等誠実に主を愛し、教会の帳簿の上に於て名を列ぬるに非ずして、霊と真に於て主イエスキリストに在て一なる者の相愛し、相扶け、相一致せんことは主の最も欲せらるゝ事であると信ずる、余輩の年来の誌友諸君が今の時に方り、特別に此事に就て考へられんことは余輩の特に願ふ所である。
〇午後七時は今に尚ほ誠実に記憶されてをる、北は北見の北端より南は台湾の南端に至るまで、東は太平洋の彼岸より西は楊子江流域の奥深き所に於まで此聖なる時間は守られて居る、我儕同志は此時を期して霊的結合を計るべきである、我儕の中に信仰のために種々の迫害に遭遇して居る者は夥多ある、我儕は特別に彼等の為に祈る(432)べきである、実に貴きは信仰上の兄弟姉妹である、我儕は毎夕の祈祷を以て彼等の困苦を頒たねばならない。
〇近頃悲しき事は余輩の信仰上の益友なりし丹波国何鹿郡志賀郷村の林万之助氏の過る日、遼陽の劇戦に於て戦死せられしことである、氏は第二回夏期講談会来会者の一人であつて、労働的基督信者の模範として強く余輩の注意を惹かれし人である、氏が出征の途に就くや余輩に書を寄せて曰く、以弗所書六章十一節以下を身に帯びて往くと、余輩は君が神の武具を以て装ふて戦場に仆れ給ひしを信じて疑はない、曩には初瀕艦と共に岡崎喜代彦氏逝き、今又此兄弟を失ふ、而して彼等主に由て潔められし者が血を流して得し勝利が俗人輩に由て如何に利用せらるゝかを思へば、余輩は彼等失せにし友に対しても更らに一層声を高くして戦争全廃の大義を唱へたく欲ふ。
〇余輩の拙き文字が如何に戦地に於て迎へられつゝある乎は左の書面に由ても分かる、之を書き贈りし者は某艦に任務を執らるゝ某青年士官である。
  貴家御一統御健全と存じ候、神は総ての境遇に於て我等をして希望を以て信仰の道を辿らしめらるゝ事感謝し候、我等彼に頼る者は暗雲は天日を遮りかくすとも雲の彼方何物かのあるを信じて現在の有様に満足する者にて御座候、貴著『約百記』は多大の光を紹介致し候、友人より送られて郵便船によりて本船に送られ、生がそれを受取りたる夜、生は待ちに待ちたることゝて一夜にて読み尽くし、本日迄暇あるごとに読み申條、少なくとも三四回は読み申し候、次の巻が来る迄幾度となく繰り反す積りに御座候、信仰薄弱なる生は大なる慰藉を覚ゆると共に生の今迄の態度を変ぜずし何処までも男子らしく進まんとの決心を固め候
  九月三日  内村先生侍史        〇〇
(433)何やら今世と来世との境より来りし音信の如くに思はれて、之を読んで人生が一層真面目に感ぜられる。(九月十九日夜誌す)
 
(434)     〔収穫月 他〕
                     明治37年10月20日
                     『聖書之研究』57号「所感」
                     署名なし
 
    収穫月《かりいれづき》
 
  目を挙げて観よ、既《は》や田は熟きて収穫時になれり(約翰伝四章三十五節)。
 
  穡時の節筵《いはひ》を守るべし、是れ即ち汝が労苦《ほねをり》て田野《はたけ》に播ける者の初めの実を祝ふなり、又収蔵の節筵を守るべし、是れ即ち汝の労苦に由りて成れる者を年の終りに田野より収蔵《とりいれ》る者なり(出埃及記二十三章十六節)。
 
  涙と共に播く者は歓喜と共に穫らん、其人は種を携へ涙を流して出行けど、禾束《たば》を携へ喜びて帰り来らん(詩篇第百二十六篇五、六節)。
       ――――――――――
 
    平和現実の手段
 
(435) 平和を地に来たさんとする乎、キリストの平和の福音を説くべし、平和現実の手段として之に勝さるの方法、他にあるなし、今や戦闘の声尚ほ喧しき時に際して、我儕は益々福音宣伝の声を高うすべきなり。
 
    平和の所在
 
 平和は地に於て在らず、天に於て在り、天の門戸を人の前に開き見よ、彼は其内の平和を窺ふを得て地に在て自から平和を行ふ者とならん、平和の利益を説くも之に耳を傾けざる彼は平和の美を一瞥して其熱心なる景慕者となるべし、要は天上の美を人に示すにあり、然らば争闘は自から地に於て絶えん。
 
    平和の長短
 
 武力を以て来たせし平和は瞬間的平和のみ、政治を以て来せし平和は暫時的平和のみ、而してキリストの福音を以て来たせし平和のみ永久的平和なり、平和は其長短に関はらず貴きものなるに相違なし、然れども其長きは短きに勝さるが故に、我は軍人、政治家たらんよりは寧ろ伝道師たらんことを望む者なり。
 
    正義の信仰
 
 神は正義である、彼は必ず之を此世に行ひ給ふ、然しながら、何時、如何して之を行ひ給ふ乎、是れ我儕人間の知る所ではない、正義遂行の時と方法とは偏へに神の意中に存して居る、我儕之を知らんと欲して知る能はず、亦、知らんと焦思りてたゞ僅かに己を懊悩ますのみである、それ信仰は望む所を疑はず、未だ見ざる所を憑拠と(436)するもの也(希伯来書十一章一節)、篤く神の正義を信じて静かに其遂行を待つのが基督信者たる者の宜しきに合ふ生涯である。
 
    必要なるもの二つ(信仰と常識)
 
 其第一は信仰である、信仰のない者には鞏固なる所がない、信仰は霊魂の生命である、是ありて詩もあれば熱望もあるのである、信仰なくして人世は一つの機械に過ぎない、詰らない、味のない、意味のない者とて、信仰のない生涯の如きはない。
 必要なるものの第二は常識である、常識なくしては折角の信仰も迷信と成り易くある、若し信仰は吾人の頭脳《あたま》を雲の上にまで引き上ぐる者であるならば、常識は吾人の歩程を地上に確かならしむるものである、信仰は吾人をして卑しき思想を懐かざらしめ、常識は吾人をして常道以外の事を信ぜらしむ、熱せしむるは信仰であつて、静かならしむるは常識である、信仰は善き心を生じ、常識は慧《かしこ》き思考《かんがへ》を起す、信仰は精神であつて、常識は方法である、爾うして常識は信仰を実行するための唯一の方法である、世に恐るべき事とて常識に由らずして信仰を実行せんとするが如きはない。 信仰に入るに最も善き方法は聖書の研究である、聖書は殊に信仰の書である、アブラハムより使徒等に至るまで彼等は皆な特別に信仰の人であつた、故に、人に信仰の必要のある間は聖書は決して廃らない、基督教の聖書は健全なる信仰を教ふるための最上の教科書である。
 常識を養成するに最も善き途は天然の研究である、天然は神が事を為し給ふ時の方法である、之に順序がある、(437)之は亦、時間を要する、之に技術がある、亦優美を欠かない、天然は単に正直一方ではない、亦理想のみではない、天然は奸策をば弄しないが、然し適当なる方法を講ずる、天然は理想的なると同時に亦甚だ実際的である、天然は極端に走らない、聖くして慧《さと》くある、天然は刺激するのみならず訓導する、彼は若し予言者でないならば忍耐強き教師である、我儕は完全に神に事へんと欲して霊のバプテスマのみならず、亦天然を以てする実物的教育を要する。
 聖書のみを研究して狂人に成つた者がある、天然のみに眼を注いで、俗人に成了つた者がある、然れども聖書と天然とを研究して我儕は高き慧き者となることが出来る、余輩は特に聖書の研究に従事する者であるが、然かし其れと同時に天然の研究を怠らない、宗教家であればとて、信仰のみを養なつて、天然に由て常識、即ち神の智慧を学ばざれば、彼は終に理性喪失に成り了るの懼れがある。
 
(438)     信仰と行ひ
         雅各書第二章十四より廿六節まで(八月廿八日埼玉県杉戸町滑池教会に於ける講演の大意)
                     明治37年10月20日
                     『聖書之研究』57号「研究」
                     署名 内村鑑三
 
 真理は二元的なり、信仰と善行との合体なり、信仰のみなるもの真理に非ず、善行のみなるもの亦真理に非ず、信仰にして善行なるもの、是れ即ち真理なり、世に信仰のみの宗教あり、亦善行のみの道徳あり、基督教は前者にあらず、亦後者に非ず、基督教は善行の伴はざる信仰を否定し、亦、信仰に基かざる善行を非認す、信仰にして善行なるもの、是れ即ち基督教なり、信仰と善行とを同一物視するものにして、基督教の如き宗教は他にあるなし。
  (十四)我が兄弟よ、人、自から信仰ありと言ひて行なくば何の益あらん乎、その信仰、いかで彼を救ひ得んや。
 行なき信仰の有るべき理なし、斯かる信仰は虚偽の信仰なるが故に無益の信仰なり、行なき信仰は無信仰なり、斯かる信仰の人を救ひ得ざるは勿論なり、信仰、人を救はざるに非ず、然れども「その信仰」、即ち善行に顕はれざる信仰、是れ全然無能の信仰たるなり、而かも多くの人は脳裡に或る特種の教義を収めしが故に、其数義(彼等は是を信仰と称す)に由て救はるべしと惟ふ、斯かる人は未だ信仰の実物なることを知らざるなり、果実を結ば(439)ざる樹は樹にして樹にあらず、善行に顕はれざる信仰は信仰にして信仰にあらず、教義、信条、或は信仰の種子ならん、然れども是等は未だ信仰と称するに足らざるものなり、信仰とはパウロの謂ゆる「果を結ぶべきもの」(西一〇六)なり、「果を結んで益々大に成」らざるものを我儕は信仰とは称せざるなり。
  (十五、十六)若し兄弟或は姉妹裸躰にて日用の糧に乏しからんに、爾曹の中、或人、之に曰ひて安然にして往け、願くは爾曹温かにして飽くことを得よと、而かして其身躰に無くてならぬ物を之に予へずば何の益あらん乎。
 是れ必しも言辞の伝道を排して衣食の施与を勧めし聖語にあらず、其然らざるは其前後の関係に照らし見て明かなり、ユニテリアン教徒と慈善専門家とは此語を捉へ来りて、彼等の善行宗を弁護せんとす、然れども、是れ使徒ヤコブが茲に教へんと欲する所にあらず、ヤコブの此言は慈善を奨励するためにあらずして、実なき信仰の実例を挙げんためなり、彼の此語を斯く解せざるが故に良心の無益の疑懼に陥る者多し。
 安然にして往けと言ひしのみにして其言に伴ふ実物を供するにあらざれば、好意は好意にあらざるが如く、善行の伴はざる信仰は信仰にあらず、世に言の上のみの慈善あるが如く、亦言の上のみの信仰あり、前者は何人も真正の慈善にあらざるを知る、而かも後者の真正の信仰にあらざるを知る者尠し、真正の信仰は真正の慈善の如し、善行なき信仰は虚偽の信仰にして実は無信仰なりと。
  (十七)此の如く信仰若し行を兼ざるときは乃ち死ぬるなり。
 実物の伴はざる慈善の如く、行を兼ねざる信仰は死せる信仰なり、即ち無きに均しき信仰なり、之を有りと惟ふは迷信なり、之に由て救はれしと思ふは憶断なり、兄弟を愛し得ざるも洗礼式に与かりしが故に信者なりと思(440)ひ、姉妹を誹謗して得々たるも、伝道学校に学びしが故に教師なりと信ずるが如きは皆な此類なり。
  (十八)或人問はん、爾信仰あり、我行あり、請ふ、爾が行を兼ざる信仰を我に示せ、我は我が行に由りて我が信仰を爾に示さん。
 人は曰ふ、我に信仰あり、我れ之を爾に示さんと、而して其箇条を羅列して、之を他に示さんとす 然れども如何せん、言辞に形なきが故に我れ之を耳にするも其実躰を認むる能はず、而かも信仰は実物なるが故に之を他に示すを得べし、即ち眼に見ゆる実行を以て之を他に示すを得べし、信仰は神の造りし天然の如く、眼を以て視るべきものにして耳を以て聞くべきものに非ず、其告白を聞いて確認すべきものにあらずして、其実行を見て判分すべきものなり、而かも是れ世に所謂る教会なるものが其信徒(?)の信仰(?)を判分するの方法に非ず、彼等は新信徒の信仰の告白なるものを聞いて満足す、彼等は其信仰の真偽を判定するに方て彼等の耳にのみ頼て彼等の眼を利用せず、是れ蓋し彼等が夥多の偽信者を作るに成効せし所以なるべし。
  (十九)爾、神は唯一なりと信ず、如此信ずるは善し、悪魔も亦(斯く)信じて戦慄けり。
 哲学的に、又は神学的に、又は教条的に神は唯一なりと信ず、如此信ずるは善し、そは神は確かに一なればなり、然れども哲学的に又は神学的に一神説を信じ得るは爾曹のみに限らざるなり、悪魔も亦能く之を信じ、且つ彼は爾曹とは異なり、之を信ずると称して平然たらずして、深く之を信ずるが故に戦慄けり、其信念の深遠なる点に於ては悪魔は遙かに爾曹に優さる所あり、然れども信ずると云ふは未だ信ずるにあらず、信ずるは実は行ふなり、而うして行ふとは兄弟を愛するなり、悪魔は世界第一の哲学的一神論者なるべし、然れども彼は神を信仰する者にあらず、亦、彼の如くに神の存在の理を究め、其大を知り、其智を探りし者も神を信仰する者といふ(441)を得ず、神は愛なれば愛するにあらざれば神を識る能はず、神の真相は実行的にのみ之を窺ふを得べし、神学校に博士の講筵に侍りたればとて、教会に幾度か其聖式に身を浄めたればとて、人を愛せずして神を識る能はず、世に愚かなることとて智識的に神を探らんとするが如きことはあらず、是れ悪魔も為す所にして亦彼の大に成功せし所なり、神は善行を以て之を探るべし、即ち愛の行為を以て之を発見すべし、是れ悪魔の従事し得ざる神の発見法なり、神の神たる特性は彼が哲学を以てしては発見され得ざるに存す、一神教信者必しも基督教信者にあらず、然かり、三一教信者亦必しも基督教信者にあらず、基督に由りて兄弟柿妹を愛し得る者のみ、是れ即ち基督信者なり。
  (二十)噫、愚かなる人よ、行を兼ねざる信仰の死ぬることを爾、知らんと欲ふや、我儕の先祖アブラハムその子イサクを壇の上に献げて義とせられたるは行に由るに非ずや、その信仰行と共に働き、且つ行に由りて信仰|全備《まつたき》を得たるを爾見るべし、これ聖書に録してアブラハム神を信ず、其信仰を義とせられたりと有るに応へり、彼また神の友と称ばれたり、爾曹人の義とせらるゝは信仰にのみ由るに非ず、亦行に由ることを知るなるべし、また妓婦ラハブ使者を受け之を他の途より去らしめて義とせられたるは行に由るに非ずや。
 愚かなる者よ、無智の者よ、知て識らざるものよ、爾は行なき信仰の無きに均しき(死ぬる)ものなることを今更ら新たに知らんと欲するや、噫何んぞ其要あらんや、爾曹が知悉せるアブラハムの行為が能く此事を爾曹に示すに非ずや、亦妓婦ラハブの行蹟も同一の教訓を我儕に伝ふるものならずや、爾曹は今日まで古昔の信徒の事蹟を読み来つて、其真意を悟らざりしが如し、爾曹はアブラハムは其信仰に由りて義とせられたりと聞いて、彼の智識的の信念が彼を救ひし如くに信ぜしが如し、然れども是れ決して然らざるなり、アブラハムは誠に彼の信仰(442)に由りて義とせられたり、即ち断じて彼の独子を神の祭壇の上に献げし其活ける真の信仰に由りて義とせられたり、彼は只僅かに彼の心の中に神を念じたればとて神に義とせられざりしなり、彼の信仰は斯かる装飾的、感情的の信仰にはあらざりしなり、アブラハムの信仰は実際的の信仰なりし、即ち己の慾心を征服し、神の約束を信じて万事を其聖手に委ぬる底の信仰なりし、斯かる信仰なりしが故に彼は之に由て義とせられたるなり、かの理屈を以て築き上げし哲学者の信仰の如き、又は夢の如き感情以外に小指一本をも高尚なる事業のために挙げ得ざる信仰の如き、是れ信仰の始祖たるアブラハムはさて措き、最《いと》も微さき神の小児の一人すらをも義とするに足らざるの信仰なり、爾曹アブヲハムやラハブの「信念」に就て語るを休めよ、此辞、恐らくは爾曹を迷路に導かん、祭壇の上に献げられしイサクを見よ、ヱリコの城壁より垂下《つりおろ》されし使者を見よ、而して之に二聖の信仰を認めよ、念ずるは心のことなり、行ふは手のことなり、而して信仰は念じて行ふことなり、而して行ふに至るまでは信念は進んで信仰とは化せざるなり、アブラハムとラハブとは信仰に由りて義とせられたり、然り、果を結べる信念に由りて救はれたり。 「彼(アブラハム)また神の友と称《よば》れたり」、蓋《そは》神は信仰と実行となればなり、神に意志あり、愛心あり、計画あり、而かも神は心のみにはあらざるなり、神は思惟する者なると同時に亦働く者也、彼の最も欣び給ふことは為すことなり、彼が驚くべき此宇宙を造り給ひしは蓋し全く之がためなるべし、神は隠者にあらず、静座して愛に就て黙想する者にあらず、彼は作者なり、造物主なり、働くにあらざれば生命を感ぜざる者なり、故に神の友と称ばれん者は神と偕に働く者ならざるべからず、即ち其主義信仰を実行する者ならざるべからず、書斎に在て「天人の合体」を計る者にはあらずして、或は田圃に出て、或は工場に在て、遣物的に彼と交はる者ならざるべ(443)からず、然り神は実行なり、彼は人類の罪を赦すと言ふに止らずして、十字架の上に其独子を罪の犠牲に供して、実際的に罪の赦免の途を開き給へり、彼は贖罪の理由を示し給はざりしも其実を挙げ給へり、彼は人とは正反対なり、人は言を先にして実を後にす、然れども神は実を前にして言を後にし給ふ、然り、多くの場合に於ては彼は全く沈黙を守り給ふ、而して斯かる神聖なる行為なくしては我儕は神の友と称ばるゝを得ず、語る者は悪魔の友なるや、未だ以て知るべからず、静かに信じて静かに行ふ者は確かに神の友たるなり、謹めよ説教師、省みよ、言辞の配布者!。
  (二十六)身若し霊魂離るれば死ぬる如く信仰も行離るれば死ぬるなり。 身(肉体)と霊魂とありて生ける一個の身鉢はあるなり、肉体のみにて身体はあらず、亦、霊魂のみにても人身はあらず、二者の合体は一個身躰の存在に必要なり、其如く真理は信仰と行とありて存するなり、信仰のみは真理に非ず、行のみも亦真理にあらず、二者の合体は真理存在のために必要なり。
 善行なき信仰は霊魂なき肉体の如きものなり、是れ死物なり、無きに均しき者なり、善行は信仰の霊魂なり、其生命なり、信仰に善行を加へざる者は像を彫んで眼に点ぜざるが如き者なり、機関車を製造して、之に蒸※[さんずい+氣]を起さゞるが如き者なり、善行なき信仰は無用の長物なり、社会の装飾品なり、或ひは見るに美ならんも、使ふに用なきものなり、我儕は神より賜ひし信仰に善行を加へて、之をして宇宙を改造するための大勢力たらしむべきなり。
 
(444)     基督教研究の方法
         (或る婦人の質問に答へて)
                     明治37年10月20曰
                     『聖書之研究』57号「談話」
                     署名 内村鑑三
 
 神の大なる事と人の小なる事とを知るのは余り難くありません、是れは少しく科学と哲学とを究むれば判分ることであります、最も難いことは神の聖いことゝ人の穢いことを覚ることであります、是れは如何程哲学の蘊奥を究めても知ることの出来ることではありません、爾うして此事を明瞭かに告知するのが基督教であります、天然教は神の偉大なること、其造化の巧なることを教へます、然かしながら神の黙示なる基督教のみが神の絶対的に聖くして、人間の罪悪に沈淪するものなることを伝へます、我儕は神の大なるを知りたればとてそれで基督教の聖い神を識つたとは言へません。聖なる哉、聖なる哉、聖なる哉、ヱホバ(賽六〇三)、是れが基督教の神であります、其前に立つて我儕何人も口を噤《つむ》ぎ、頭に灰を被り、麻衣を着けて、我が汚穢を恥づるより他はありません、爾うして自己に就て此汚辱を感ずるまでは基督教の神は判分つたのではありません、世には一神教の合理的なるを唱へ、宇宙の構造の巧妙なるを説ひて基督教を理解せりと想ふ人があります、然しながら是は誤想の最も甚だしいものであります。
 基督教は良心問題であります、哲学問題ではありません、随て其教義は総て良心の実験に照らして解釈さる(445)べきものでありまして、論理に由つて判解るものではありません、先づ聖き神の正義を以て己の良心を撃たれずして、如何に思考を凝らすとも基督教の一方面だも解することは出来ません、神の存在を始めとして、基督の受肉、其死、其復活、其昇天に至りますまで、基督教の教義は総て皆な良心問題としてのみ解かるものであります、復活は肉躰に関することであるから、生物学を以て解釈すべきものであると思ふのが抑々誤謬に入るの発端であります。
 教会問題である、神学問題である、社会改良問題であると曰ひて悪魔は人を神の福音より除けんとし、種々なる良心以外の問題を提供して、彼の思念を他に奪ひ去らんと致しまする、然しながら神が我儕に提供し給ふ第一の問題は人よ爾神の審判を如何にして免かれんと意ふ乎(羅二〇三)、是れであります、真実に基督教に入つた者で、此問題以外より入つた者はありません、使徒パウロを始めとして、聖アウガスチン、ルーテル、ロック、グラッドストーンに至るまで、如何ほど大なる思想家と雖も、彼等が基督教に入るに方ては此悔改の門を通つたのでありまして、純思想を以て、悔改の苦痛と汚辱とを感ぜずして、此佳境に入来つたのではありません。
 基督教とは何んな教である乎、とは多くの人の知らんと欲する所であります、爾うして私供は一言以て其如何なる教である乎を示すことが出来ます、基督教は貴下が、貴下御自身が、罪人の首であると云ふことを教へる宗教であります、先づ神の存在の論理を究むる前に、先づ社会の堕落と其救済法を講ずる前に、貴下御自身が世界第一の罪人であるとの事実と理由とを御究めなさい、然らば他の問題は余り深く究めずして判解るに至りませう、信仰問題の研究は自己を基として始めなければなりません、自己の罪悪を識認して始めなければなりません、然るに之を為さずして、詩人オルヅオスを気取つて「天然を通して天然の神に達せんとし」、或ひは哲学者の誰彼を(446)学んで「天人合体」を計らんとしても、基督教は到底判分るものではありません。
 斯う申したら貴下は多分仰せられませう、基督教は至つて詰らない宗教である、是れは公事を後にして私事を先にし、智識に訴へずして感情にのみ由る宗教であると、爾うであります、何人に取つても己の良心を撃たるゝことは甚だ辛らいことであります、人は誰も他人の良心を撃たんと欲します、亦、心の苦痛を感ぜずして、頭脳《あたま》の修練にのみ由て神と真理とに達せんと欲します、然しながら、斯かる方法を以てしては彼の欲する人類最大の幸福なる心の平和に達することは出来ません、随つて斯かる方法を以てしては彼の欲する世を改良するに足るの信仰を己に懐くことも出来ず、亦宇宙を一思想の中に籠めるやうな大哲理に到達することも出来ません、宇宙の中心点は意志でありますから、之に達するには意志の改造なる良心の改悔を以て始めなければなりません、砕けたる心、是が基督教研究のための端緒であり、亦根本であります。
 
(447)     非戦主義者の戦死
                      明治37年10月20日
                      『聖書之研究』57号「談話」                          署名なし
 
 世は我儕非戦主義者の勧告を納れず、冷静の思想は熱情の支配する所となりて、終に戦争を開始するに至り、爾うして其定めし制度に由り、国民の義務として我儕にも兵役を命ずるに至らん乎、其時には我儕は涙を飲み、誤れる兄弟の難に赴くの思念を以て其命に従ふべきである、斯くするのが此悲惨なる場合に於ては戦争を廃止するに至らしむる最も穏健にして、且つ最も適当なる途であると思ふ、若し此時に当て兵役を拒まんか、疑察を以て満ち充ちたる此世は我儕を目するに卑怯者を以てし、我儕の非戦論なるものは生命愛惜のためであると信じ、我儕の説を聞くも之に耳を傾けざるに至るであらふ、且又我儕にして兵役を拒まんか、或る他の者が我儕に代て召集されて、結局我儕の拒絶は他人の犠牲に終ることゝなれば、我儕は其人等のためにも自身進んで此苦役に服従すべきである、殊に又た総ての罪悪は善行を以てのみ消滅することの出来るものであれば、戦争も多くの非戦主義者の無残なる戦死を以てのみ終に廃止することの出来るものである、可戦論者の戦死は戦争廃止のためには何んの役にも立たない、然れども戦争を忌み嫌らい、之に対して何の趣味をも持たざる者が、其唱ふる仁慈の説は聴かれずして、世は修羅の街と化して、彼も亦敵愾心と称する罪念の犠牲となりて、敵弾の的となりて戦場に彼の平和の生涯を終るに及んで、茲に始めて人類の罪悪の一部分は贖はれ、終局の世界の平和は其れ丈け此世に(448)近けられるのである、是れ即ちカルバリー山に於ける十字架の所罰の一種であつて、若し世に「戦争美」なるものがあるとすれば、其れは生命の価値を知らざる戦争好きの猛者の死ではなくして、生命の貴さと平和の楽さとを充分に知悉《しりつく》せる平和主義者の死であると思ふ、博愛を唱ふる平和主義者は此国彼国のために死なんとはしない、然れども戦争其物の犠牲になつて彼の血を以て人類の罪悪を一部分なりと贖はんがためには、彼は欣んで、然り神に感謝して、死に就かんとする、此心を以て出陣せる平和主義者は死せんことを欲して、生きんことを願はない、彼は彼の殉死に由て彼の国人を諌めんと欲し、亦、同胞の殺伐に快を取る、罪に沈める人類に悔改を促がさんとする。 逝けよ両国の平和主義者よ、行いて他人の冒さゞる危険を冒せよ、行いて汝等の忌み嫌ふ所の戦争の犠牲となりて殪れよ、戦ふも敵を憎む勿れ、蓋は敵なるものは今は汝に無ければなり、只汝の命ぜられし職分を尽し、汝の死の贖罪の死たらんことを願へよ、人は汝を死に逐ひ遣りしも神は天に在て汝を待ちつゝあり、其処に敵人と手を握れよ、只死に至るまで平和の祈願を汝の口より絶つ勿れ。
 日露戦争開けて以来、余輩は今日まで幾度となく此言葉を以て余輩の友人の出陣を送つた、爾うして彼等は欣んで之を承け、銃を肩にするのみならず、立つに誠実を帯として腰に結び、義を胸甲《むねあて》として胸に当て、平和なる福音の備へを鞋となして足に穿ち、信仰の盾を取り、救ひの冑及び聖霊の剣を取て快く戦場に臨んだ、(以弗所書六章十四節以下)、爾うして密かに彼等が戦場に於て為したる所を聞くに、彼等の勇気に於て、活動に於て、殊に優しき彼等の大和心に於て、彼等は少しも他人の背後に出ないとの事である、彼等の或る者は既に弾丸に当て殪れた、或者は海底の藻屑と化した、併し彼等は終りまで神を信じ、平和を愛し、死に臨んで心を深き人生問題に(449)注ぎ、希望と平和と感謝の中に身を戦争の犠牲として献げた、非戦論者が最も善き戦士を作るとは大なる逆説のやうには聞ゆれども然しながら是は否認し難き著明なる事実である、彼等は基督的紳士《クリスチヤンゼントルメン》として戦場に殪れて戦争全廃のために闊き道を開いた、世に非戦主義が実行せらるゝ暁に至て、其栄光を担ふ者は余輩の如く家に在て筆を揮ふて非戦論を唱ふる者ではなくして戦場に出て生血を濺いで戦争の犠牲と成りし是等の非戦主義者である、願くは永久の光栄彼等の上にあれ。
 
(450)     〔第五年期に入る 他〕
                     明治37年11月17日
                     『聖書之研究』58号「所感」
                     署名なし
 
    第五年期に入る
 
 幾度か終刊ならんとし、幾度か発刊せり。而して今やまた其第五年期に入る、此誌は是れ吾人の業にあらず、『或者』が吾人の手を採て作り給ふなり、吾人は謹んで更らに其聖旨に従はんと欲す。
 
    恩寵の徴
 
 苦痛の中に生れ、苦痛の中に持続す、幾度か殪れんとして未だ殪れず、内より外より扶けられて其使命を全ふす、斯かる場合に在ては成効は確かに天祐の徴なり、吾人は本誌の経歴に鑑みて神の恩寵を疑はんと欲するも得ず。
 
    実歴の福音
 
 非基督教国に於て純然たる基督教的雑誌を発刊す、而かも世の勢力の何の頼むべきなし、奇跡の是に伴ふなか(451)らん乎、如何にして其存在を持続するを得んや、本誌が伝へし最も善き福音は本誌の存在其物なり、多くの艱難《なやみ》の中に道を伝へし此誌の実歴は此誌が失せて後も永く多くの人を励まさん。
 
    実験の宗教
 
 不可能事の一は神に託らずして基督信徒となること也、基督教は学理に非ず、故に智識を以て之を探るを得ず、制度に非ず、故に法式に由て之に入るを得ず、基督教は基督に顕はれたる神の自顕なれば、神が其聖霊を以て自己《おのれ》を顕はし給ひし者のみ能く之を信ずるを得るなり、信仰は実験なり、神の自顕の実験を味はざる者は万巻の書を読むとも、基督に顕はれたる神の真理を受くる能はず。
 
    玄妙ならざる宗教
 
 キリストは神なりといふは彼は人なりといふよりも基督教の真義に庶幾し、肉体の復活ありといふは、復活なしといふよりも基督教の真義に庶幾し、基督教は其外観に於ては学理よりも寧ろ迷信に類似す、而かも実験に基く宗教なるが故に、迷信に非ずして、合理的なり、玄妙ならざる宗教は宗教にして宗教に非ず、吾人は神秘的元素を刪除せんと努むる近世の『新基督教』なるものに信を置くこと至て尠し。
 
    聖書研究会の設立を促す
 
 基督教は聖書なりと言ふは蓋し過言なるべし、然れども聖書を離れて基督教なきは否むべからざる事実なり、(452)聖書の研究は必しも人を基督信者と成さゞるべし、然れども聖書を学ばずして基督信者となり得べからざるは事実なり、聖書の研究は基督教に到る必要的径路なり、之に宗派の異同あるべからず、之に信、不信の差別あるべからず、吾人は伝道の最良手段として、亦、世界知識最善の注入策として、教会を離れたる聖書研究会の設立を促がす者なり、最も確実なる信仰は是より起らん、基督教に対する思慮なき反対は之に由て絶つを得ん、公平なる聖書の研究は有益なる公的事業の一なり、吾人は単に之を教勢拡張の用に供して、其伸長を阻むべからざるなり。
 
    先づ聖書を学べよ
 
 先づ聖書に由て基督教の何たる乎を探れよ、然る後に其真偽を糺せよ、其何たる乎を探らずして、其真偽を評価す、無稽之より大なるはなし、而かも世の基督教を論づる者は多くは基督教に就て聞き且つ読みし者にして、聖書其物に於て深く基督教を究めし者に非ず、其撰択は各人の自由に存す、然れども之を知らずして之を論ずるは志士の為すべきことに非ず、而して基督教は聖書を学ばずして其何たる乎を知る能はず。
 
    特別なる宗教
 
 神ありと信ずるは必しも基督教に非ず、基督教は特別の神を伝ふ、正義を貴ぶは必しも基督教に非ず、基督教は特別の正義を唱道す、永生を説くは必しも基督教に非ず、基督教は特別の永生と之に入るの特別の方法とを教ふ、基督教は理想の宗教なりと称して、未だ其真相を言ひ悉せりと云ふを得ず、基督教は漠たる理想の宗教に非(453)ず、特別の教義を伝へ、特別の義務を要求する宗教なり、而して其特別に何たる乎を教ふるものを聖書なりとす、基督教は聖書に由らずして、其何たる乎を知る能はず。
 
    信仰復興の希望
 
 来れよ霊の風、来て我等の冷たき心の上を吹けよ、我等の霊は塵に著けり、故に我等は斯国斯民斯胃斯脳の事を思ふの外、天の事、神の事、霊の事を思はざるに至れり、我等をして人たらしめよ、単に食ふ者、計劃る者たらしむる勿れ、我等をして晨星《あけのほし》と相共に歌ふ者とならしめよ(約百記三十八章七節)、敵に勝たざるも欣び、地を獲ざるも祝し、霊其物に新たなる能力を加へられて、貧を恐れず死を怖れざる者とならしめよ、熱切なる愛国心は我等をして「現世の人」とならしめたり、我等今や現世以上に翔※[行人偏+羊]するを要す、而して聖き霊の風のみ能く我等を現世以上に拳ぐるを得るなり、来れよ霊の風、来て我等の冷たき心の上を吹けよ。
 
    悪魔に対する途
 
 悪魔は之を説服する能はず、そは彼は彼れ以外に真理あるを信ぜざればなり、之を改むる能はず、そは彼は彼以外に善なる者あるを信ぜざればなり、悪魔は否定者なり、拒み否むの外、何事をも為し得ざる者なり、故に彼に対するの途は唯放任あるのみ、彼をして思ふ存分に悪を行はしめ、而して自身躬から悪の結果を味はしむるにあるのみ、然れども世に吾人の憐憫を惹く者にして此状態に陥入りし者の如きはあらず、吾人は特に彼等のために祈り、吾人が彼等に善を為し得べき時機の到来を俟つべきなり。
 
(454)     預言者西番雅の言
         西番雅書第一章
                     明治37年11月17日
                     『聖書之研究』58号「研究」
                     署名 内村鑑三
 
 一、アモンの子ユダの王ヨシヤの治世にゼパニヤに臨みしヱホバの言は是れなり、ゼパニヤはクシの子、クシはゲダリヤの子、ゲダリヤはアマリヤの子、アマリヤはヒゼキヤの子なり。ヱホバ言ひ給ふ、
 二、我れ地の面よりすべての物を払ひ除かん、
 三、我れ人と獣畜とを滅さん、
   空の鳥と海の魚とを殲《つく》さん、
   悪人と共に躓礙《つまづき》となる者を亡さん、
   我れ必ず地の面より人を絶たんとヱホバ言ひ給ふ。
 四、我れユダの上に我が手を伸べん、
   ヱルサレムの諸ての居民の上に我が手を伸べん、
   我れ此処よりバアルの残徒を絶たん、
   ケマリムの名と与に祭司を絶たん、
(455) 五、又|屋上《やねのうへ》にて天の衆軍を拝し、
   ヱホバに誓ひを立て拝みながらマルカムを指して誓ふ者、
 六、ヱホバに悖り離るゝ者、
   ヱホバを求めず、彼に就て尋ねざる者を絶たん。
 七、汝、主ヱホバの前に黙せよ、
   ヱホバの日は近し、
   ヱホパは既に犠牲を備へ給へり、
   その招くべき者を定め給へり、
 八、ヱホバの犠牲の日には此事あらん、即ち、
   我れ諸の牧伯《つかさ》と王の子等を罰すべし、
   凡て異邦《ことくに》の衣服《ころも》を着けたる者を罰すべし。
 九、其日には我れ亦凡ての閾《しきみ》を飛越え、
   強暴と詭譎をもて獲たる物をもつて其主の家を満たす者を罰せん、
 十、ヱホバ曰ひ給はく、其日には魚の門より号呼《さけび》の声起り、
   下市《しもまち》より喚く声起り、
   山々より大なる敗壊《ほろび》始まらん。
(456) 十一、叫べよ、汝等マクテシの民よ、
   そは商売《あきなひ》する民は悉く亡び、
   銀を担ふ者は悉く絶たるればなり。
 十二、其時此事あらん、即ち、
   我れ燈をもてヱルサレムの中を尋ねん
   而して滓《をり》の上に居着ける人を罰せん、
   心の中にヱホバは福をもなさず災をもなさずと言ふ者を罰すべし
 十三、彼等の財宝は掠められ、彼等の家は荒果てん、
   彼等家を造るとも其中に住むことを得ず、
   葡萄を植るともその葡萄酒を飲むことを得ざるべし、
 十四、ヱホバの大なる日は近づけり、
   近づけり、速かに来るべし、
   聴けよ、是れヱホバの日なり、
   彼処に勇士《ますらを》のいたく叫ぶあり、
 十五、其日は忿怒《いかり》の日なり、
   患難《なやみ》と痛苦《くるしみ》の日なり、
(457)   荒亡と敗壊の日なり、
   暗黒と陰鬱の日なり、
   濃き雲と黒き雲の日なり、
 十六、喇叭と喊声の日なり、
   堅き城を攻め高き櫓を取るの日なり、
 十七、我れ人々に患難を来たさせて彼等をして盲者の如く迷はしめん、
   そは彼等ヱホバに向ひて罪を犯したればなり、
   彼等の血は流れて塵の如くになり、
   彼等の肉は捨られて糞土の如くになるべし、
 十八、彼等の銀も金もヱホバの烈しき忿怒の日には彼等を救ふ能はず、
   全地はその嫉妬の火に呑まるべし、
   ヱホバは全地の民を速かに悉く滅し給ふべし。
 
       意訳
〇ユダの王ヨシアの治世は紀元前六百三十九年より同六百八年に渉れり、其の時ユダ国は東アツシリヤと西エジブトの間に介し、強に従ひしも之れに阿らず、能く其の内を治めて其独立と尊厳とを維持したり、其の時断乎たる宗教改革は行はれ、社会の弊習は除かれ、新期限のユダ全土に臨みし観ありたり、人は想へり、ダビデの王国(458)は今より栄えて千万歳に至らんと、然れども改革は単に外部の改革に過ぎざりし、今やユダ国民に心霊的大革新の臨むべき時期は迫れり 而して斯かる革新は常に社会の一時的壊乱を経て来る、偶像を毀ち、弊政を除きしを以て足れりと信ぜしヨシヤ王治下のユダ人は今や大剿滅大破壊に遭遇せんとしつゝありたり、此時に当り能く将来を洞察し、民を警誡し、濃き雲と黒き雲の彼方に光と栄を指示せしものを預言者ヱレミヤとゼパニヤの二人なりとす、彼等は空、静かなるときに大荒乱の到来を預言せり、人は彼等を狂と呼び、賊と罵りしならん、然れども彼等は否定するの外、何事をも為し得ざる無慈悲なる誹謗者にはあらざりしなり、彼等の声は正義の声なるのみならず、亦愛の声なりしなり、彼等の如く激烈に忿怒を語りし者はあらず、然れども彼等の如く明確に希望を伝へ、柔和に傷を癒せし者はあらず、民繁盛に安ずる時に預言者の声は聞ゆ、ヨシヤ王の治世に預言者ゼパニヤの言は響き渡りて、荒乱の後に来る不朽の平和は伝へられたり(第一節)。
〇ゼパニヤの父クシ、其の祖父ゲダリヤ、其曾祖父アマリヤに就ては吾人の知る所なし、然れども其曾々祖父なるヒゼキアの、ユダ王ヒゼキアなりしとは疑なきが如し、而して若し爾からんには預言者ゼパニヤは王族の一人なりしなり、彼が貴族を罵るに特に激烈なりしを見ても、吾人の此想像の事実に近きものなるを知るを得べし(一章八節参考)、民の友なる者必しも平民に限らず、身は王族の班に在て衆庶の味方に立ちし者は古今東西其例に乏しからず、ヒゼキヤ王の血統を身に受けながら諸の牧侶と王の子等との強暴詭譎を責めしゼパニヤの言は貴いかな(第二節)。
〇ノアの大洪水に類する大剿滅は再び地上に臨まんとす、人も獣畜も鳥も魚も地の面より絶たれんとす、是れ特に辜なき禽獣を滅さんがために非ず、悪人と共に善人の躓礙となる者を亡さんためなり、万の受造物(天然物)は(459)今に至るまで共に歎き共に労苦むことあるを我儕は知る(羅馬書八章二十二節)、天然は人と運命を共にす、人をして罪の罪たることを知らしめんがために、神は罪なき天然をして罪ある人の罪を担はしめ給ふ(第二、三節)。
〇剿滅は全般に渉るべし、然れどもヱホバは特に其手をユダとヱルサレムの諸の民の上に伸べんとす、彼は其処より異神バアルを拝する者の残類を絶ち給ふべし、偶像ケマリムの名と之を祭つて憚からざるヱホバの祭司とを絶ち給ふべし、ユダとヱルサレムの上に臨まんとするヱホバの忿怒は諸《すべて》の罪人の上に臨まんとする其審判の一斑たるに過ぎず、然ども多く予へられたる者よりは多く求めらるゝが故に(路可伝十二章四十八節)ユダとヱルサレムとに臨む刑罰は特に激烈ならざるべからず、殊にヱホバを拝すると称しながらバアル、ケマリムの類《たぐひ》を拝する者に至つては其責罰は特に重かるべし(第四節)。
〇又夜毎に屋上に天の星を拝し、聖殿に詣てヱホバに誓を立てながら、心に異神マルカムを指して誓ひ、たゞ手と口とを以てヱホバに事へ、心は彼に悖り、彼を求めず、彼に就て其指導を求めざる偽信者の輩を絶たんと。バアル、ケマリム、マルカム、異神は多神なり、一位のヱホバに対し、彼等の数は衆軍なり(第五、六節)。
〇大審判は到らんとす、是れ特にヱホバの日なり、其恐るべき日は近かし、汝、其到来を聞て黙せよ、其日、ヱホバは彼に悖り離るゝ者、即ち罪人と共に躓礙となる者を祭壇の上に献げらるゝ犠牲の如くに屠らんとす、而して彼は既に屠殺の職に当るべき者を定め給へり、彼等或は北より来るスキト人ならん、或ひはチグリス河畔のアツシリヤ人ならん、彼等はヱホバの命に循ひ、犠牲供養の任に当るべじ、神に口なし、預言者をして言はしむ、彼に手なし、征服者をして屠らしむ、裁判の日は既に近づけり、而して罰せらるべき者と罰を加ふべき者とは既に定まれり、大荒乱今や将さに大偽善国と其民との上に臨まんとす(第七節)。
(460)〇ヱホバの日はヱホバの犠牲の日なり、其日に先づ此事あらん、即ち先づ諸《すべて》の貴族(牧伯)と王族(王の子等)とは罰せらるべし、即ち彼等凡て異邦の衣服を着けたる者は罰せらるべし、即ち彼等、身はユダ人でありながら、衣は之をツロ、サイドンの市場に仰ぎ、ギリシヤの羊毛を染むるにペニケの紫を以てせしめ、エジプトの織維を紡ぐにバビロンの職工を以てせしめ、而して之を被りて、襤褸を纏ふ民の上に長たり、ヱホバの忿怒、何ぞ是等「洋服着用者」の上に臨まざらんや(第八節)。
〇先づ第一に罰せらるべき者は舶来品使用者たる王侯貴族なり、其次ぎに罰せらるべき者は民の資産の掠奪者なり、即ち民家に闖入し(閾を飛び越え)強暴と詭譎とを以て彼等の些少の産を奪収し以て其主家を富ます者なり、君は玉殿に在て錦繍を纏ひ、臣は民家に下つて苛欽を行ふ、然れどもヱホバの前には君臣の別あるなし、民の膏血を啜る者と之を絞る者とは共にヱホバの日に罰せらるべしとなり(第九節)。
〇此驕奢と強暴とあるあり、ヱホバの大審判の強圧の座たる首府ヱルサレムに臨まざるの理あらんや、聞けよ、災禍の日を以て尚ほ遠しとなし、自から象牙の牀に臥し寝台の上に身を伸ばし、国民の艱難を憂へざる者よ、(亜麼士書六章三節以下)、号呼の声は都城の東北隅なる「魚の門」の辺より起らんとす、商家甍を連ねたる「下市」より喚く声起らん、敵は都城を周る山々に拠り、其処より大なる敗壊は始まらん、叫べよ、汝等マクテシ区(市の北方に位せしならん)の民よ、そは商賈は亡び、銀を扱ふ者は悉く絶たるべければなり、全国民の富の注集に由つて成りし、首府の富は先づ奪はるべし、奪ひし者は奪はる、敗滅は先づ第一に首都と其豪富との上に臨むべし(第十、十一節)。
〇先づ王侯貴族は滅ぶべし、其次ぎに其手先となりて民の膏血を絞りし官吏は亡ぶべし、其次に政府の御用商人(461)となりて不義の財を積みし者は絶たるべし、而して尚ほ其他にも罰せらるべき者あり、是は冷淡遅覚の徒なり、彼等は酒槽《さかぶね》の底に澱みし滓の如き者なり、彼等は隠れて身を顕はさず、唯心の中に密かに其|思念《おもひ》を述べて曰ふ、ヱホバは福をもなさず、災をもなさずと、彼等はヱホバを以て無能の隠遁者と見做せり、故に彼等はヱホバを崇めもせず、亦恐れもせず、彼等は神は無きに等しき者として彼等の生涯を送れり、然れどもヱホバは彼等を見遁し給はざるべし、彼は燈を照らしてヱルサレムの隅々までを探し、彼等を其隠所より引出して罰し給ふべし、最も憎むべき不信は冷淡の不信なり、熱からず、冷かならず、神に無能を帰し奉りて、己れ無為の生涯を送る者なり、ヱホバの裁判の日には斯かる蝙蝠族も其穴より引出されて白昼に於て罰せらるべし(第十二節)。
〇斯くて彼等総ての階級の罪人は罰せらるべし、彼等の不義の財宝は掠めらるべし、彼等の積不善の家は荒果つべし、彼等家を造るとも、他人の住む所となり、自己は其中に住むことを得ざるべし、葡萄を植るともその果は他人の収むる所となりて自己は之より生ずる葡萄酒を飲むことを得ざるべし、彼等民の産を掠めし者は今やヱホバの送り給ふ掠奪者の掠むる所となるべし(第十三節)。
〇ヱホバの日は近かし、然り、爾曹が悔改めざるに由りて其大なる日は既に目前に迫れり、近づけり、然り不意に(速かに)来るべし、耳を傾けて聴けよ、是れ実にヱホバの日なり、勇士すらも泣き叫ぶの日なり(第十四節)。
〇其日は如何なる日ぞ、是れ忿怒の日なり、患難と痛苦の日なり、荒亡と敗壊の日なり、暗黒と陰鬱の日なり、濃き雲と黒き雲の日なり、喇叭と突喊の日なり、城郭攻取の日なり、ヱルサレム滅亡の日なり、罪人責罰の日なり、正義表顕の日なり、黒白判別の日なり、火にて万物を試みらるゝ曰なり、悪人の恐怖の日なり、善人の歓喜の日なり 震はるべき者は悉く棄られて震はれざる者は悉く在《のこ》る日なり(希伯来書十二章廿七節)、特に世の最(462)終の裁判の日なり、神の子供が義とせられて、悪魔と其の従者とが火と硫※[石+黄]の燃ゆる池にて其の報を受くる日なり(黙示録二十一章八節)、(第十五、十六節)。
〇其時大なる混乱あるべし、其時智者に智慧なかるべし、策者は策に窮すべし、彼等は術の施すべきなくして盲者の如くに彷徨せん、そは他なし、彼等はヱホバに向ひて罪を犯したればなり、罪を天に得たり、故に天上天下彼等を助くる者なきに至るべし、神無くして世を渡らんとせし彼等は世の頼むべきなきに至りて、全宇宙間に何の頼るべきものなきに至るべし、ヱホバに向つて罪を犯すことを以て小事なりと見做せし彼等はヱホバの忿怒の日に遭ふて、盲者の如く迷ふに至るべし(第十七節)。
〇彼等は金と銀とに頼めり、彼等は思へり、是ありせば艱苦何ぞ怖るゝに足らんと、然れどもヱホバの忿怒の顕はるゝ時に金銀我儕に何の要あるなし、ヱホバは其の時我儕の良心を探り給ふなり、而してヱホバに向ひて犯せし罪は金銀積んで山を為すとも、之を以て之を償ふ能はず、贖罪は金銀以外の或物を要す、世が今日嘲つて止まざる我儕の「罪の代《しろ》」なる者のみ、其時我儕を救ふに足るなり(第十八節)。
〇熱心の極を「嫉妬」といふ、「嫉妬の火」とは破邪顕正の火なり、而して全地は終に斯かる火に呑まるべし、即ち全地と其民とは正義の火の鎔解する所となるべしと云ふ 此事を聞いて神の残虐を責むる者は誰ぞ、我儕は寧ろ神の公義を讃美すべきに非ずや、正義の呑む所となるは恩恵の懐く所となるなり、ヱホバが全地の民を速かに(不意に)悉く滅し給ふ時に、不義を以て満ち溢れたる此地は神の浄土と化するにあらずや(第十八節)。
 
(463)     聖書の真髄
        (十一月六日東京青年会館に於ける講演の草稿)
                     明治37年11月17日
                     『聖書之研究』58号「講演」
                     署名 内村鑑三
 
  爾曹聖書に永生《かぎりなきいのち》ありと意ひて之を探索ぶ、この聖書は我に就て証する者なり(約翰伝五章卅九節)。
 聖書は一つの書物ではありません、是れは文集でありまして文学であります、創世記より黙示録までの六十有六の書を寄せ集めたものであります、其書かれし年代より言へば其最も旧き者は遅くとも紀元前八百年頃に書かれしものでありまして、其最も新しき者は基督降世後百年頃に成りしものであります、故に二者の間には少くとも八九百年の相差《あいさ》があります、亦、其、是を書きし人に就て言ひますれば、政治家モーゼも之に筆を取りましたらふし、大王ソロモンも其著者の一人でありませう、其中には預言者イザヤもあり、ヱレミヤもあり、農夫アモスもあり、漁夫ペテロもあります、エズラのやうな書吏《かきやく》もあり、パウロのやうな詩的神学者もあります、若し亦六十六書の題目に就て言ひますれば、民数紀略のやうな統計録もありますれば、歴代志略のやうな編年史もあります、約百記は心霊的叙事詩であります、詩篇百五十篇は信仰的抒情詩であります、羅馬書は高遠なる神学論であり、黙示録は奥妙なる未来記であります、韻文もありますれば散文もあります、法文もありますれば箴言もあります、戯言《たはむれ》もありますれば警誡《いましめ》もあります、日毎に聖書を読んで倦怠を感ぜざる一つの理由は其数多き文躰の(464)変化に在ります。
 斯くも年代を異にし、著者を異にし、題目を異にし、文躰を異にする夥多《あまた》の書より成る聖書は之を一書として見做すことが出来る耶、是れ聖書を解する上に於て最も大切なる問題であります、聖書に之を一貫するの精神ありとは私共が度々耳にする所でありまするが、然かし其精神の何たる乎は明かに示されません、或る学者は斯かる精神を明かに指摘するの困難なるより、聖書は単に猶太的文学であると云ひます、是は即ち猶太人の思想を表はした文書を綜合したものでありまして、猶太思想研究の材料としてのみ最も価値あるものであると云ひます、然しながら、若し爾うであるとしますれば聖書は人類の書ではなくなりまして、聖書ではなくなるのであります、聖書が聖書である以上は、是は一国民、一人種の書であつてはなりません、聖書を単に猶太文学と見做して私共が特に之を研究せんとするの動機は消滅て了ひます。
 聖書は特に之を信仰の書として見ることが出来ます、学術の書ではなく、政治の書でないことは善く判分つて居りますが、之を信仰の書と見て、其真価と特性とを発見することが出来ると言ふ人があります、爾うして私共も亦、聖書が信仰の書であることを疑ひません、聖書は信仰の最も良き教科書であるとは私共が度々言ふたことであります、然しながら信仰と言ふたのみでは能く其意を尽すことが出来ません、信仰にも色々種類があります、何を信ずるのである乎、宇宙の主宰なる神を信ずるのである乎、人道の基礎たる正義を信ずるのである乎、或ひは未来の裁判を信ずるのである乎、是れ更らに攻究を要する問題であります、故に単に信仰の書であると言つた計りでは聖書の何たる乎はよく分りません、聖書は何を信ぜしむる書である乎、如何なる神を紹介し、如何なる信仰を人類より要求する書である乎、是れ私共が更らに知らんと欲する事柄であります。
(465) 其他聖書の精神、又は真髄に就ては種々の説が提出されます、或る人は斯かる真髄は決して無いと曰ひます、乃ち、聖者は聯結を欠くの書であると曰ひます、ソロモンの雅歌とルカの使徒行伝との間には何の関係もないと曰ひます、否な、多くの場合に於ては聖書は相互に反目し、矛盾する書であると曰ひます、列王紀略と歴代志略とは同じユダ歴史を記す者であつても、二者全く別方面より視た歴史であると言ひます、雅各書はパウロの書簡に顕はれたる誤謬を正すために書かれたものであると言ひます、斯かる論者は聖書を一貫する構神ありなどいふ説は之を一笑に附します、彼等は申します、聖書の真髄とよ、雑貨の真髄に就て語るに若かず、一室に夥多の物を積んで之を貫徹する精神を発見せんとす、無稽も亦甚だしいかなと。
 然しながら聖書が若し一書でないならば、若し是れが多くの区別をなし、多くの方をもて(希伯来書一章一節)同一の一大事実を人類に伝ふる書でないならば、是は私共の全生涯を研究に委ぬるに足るの書ではありません、或ひは若し新約聖書丈けが斯かる大事実を我儕に伝ふる者であつて、其他は此大事実に無関係である乎、又は遠い関係を有つに止まるものであるとしますれば、聖書は其一部分のみ聖書でありまして、全躰としては聖書でありません、問題を約めて言ひますれば是れであります、即ち、聖書は補綴細工である乎、或ひは有機体である乎、只偶然に一書として綴られた書である乎、或ひは或る一つの真髄を中心として、其周囲に生長した書である乎、是れであります。
 私は今、此|僅少《わづか》の時の間に帰納的に此困難い問題を解決することが出来やうとは思ひません、然しながら、恰度天然学者が或る一つの仮説を提出して、之を以て天然の諸現象を解釈せんとし、爾うして、能く其功を奏したものを以て之を天然を支配する法則と見做しますやうに、私共も亦或る一つの仮説を提出して、之を以て聖書の(466)総ての記事を悉く解釈せんと試みます、爾うして、或ひは信仰を以て、或ひは正義を以て、或ひは愛を以て聖書を解釈し去らんと試みまして、其或る程度まで成功して、其れ以上を解釈し得ざるを知りまして、茲に其他の解鑰《キー》を索めんと致します、聖書は何を其真髄として仮定しましたならば、最も穏当に、最も満足に、最も合理的に解釈し得られませう乎、是れ実に聖書研究上、最大最要の問題であります。
 然しながら幸にして此事に就てはキリスト御自身が私共に此解鑰を授けられたと思ひます、即ち茲に引きましたる約翰伝五章三十九節の言葉が、聖書解釈の唯一の鑰ではあるまい乎と思ひます、
  爾曹聖書に永生ありと意ひて之を探索ぶ、この聖書は我に就て証する者なり
と、多くの有益なる問題は此一節の中に籠つて居ります、然しながら其事は今、問はざることゝしまして、唯一事は最も明白に其中に私共の前に示されました、即ち聖書はイエスキリストに就て証する者なることであります、即ち、キリストの示されし所に由りますれば、聖書の目的は茲に在て、其真髄とは亦、是より他のものではありません、聖書は創世記より黙示録に至りますまでキリストに就て証する者であるとのことであります、爾うして若し爾うであると致しますれば、キリストを聖書到る所に索めて其意味は始めて明白になる筈であります、是れは恰かもニュートンが引力説を全宇宙に応用して、其麼現象の解釈を得ましたやうに、私共もキリストの此|提説《サツゼツシヨン》を全聖書に応用して、其総ての記事を最も円滑に解釈し得られるのではあるまい乎と思ひます。
 聖書の真髄はキリストであるとの提説を新約聖書に応用しまして、之に対して誰も反対を唱ふる者はありません、新約聖書は特にキリストの書でありますから、之にキリストが充ち満ちて居ります事は誰でも承知して居ります、然しながら新約聖書は僅かに全聖書の五分の一であります、爾うして若しキリストが聖書の精神であり、(467)真髄であると致しまするならば、それは創世記に於ても、利未記に於ても、申命記に於ても、約百記に於ても爾うでなくてはなりません、キリストは果して亦、旧約の精神でありませう乎。
 旧約に所謂るメシア的文字なるものゝあることは聖書を少しく注意して読んだ者の誰でも知つて居る所であります、詩篇第二篇であるとか、以賽亜書第五十三章であると乎、約百記第十九章であると乎云ふものゝ皆な暗に又は明にキリストを指したものであることは言ふまでもありません、然しながら私が茲に主張せんと欲することはキリストは旧約全躰の精神である、真髄であるとのことであります、即ち、キリストを模楷とし、キリストを予表する者と見てのみ旧約全躰は最も円滑に解釈することが出来るとの事であります、新約聖書に顕はされたるキリストを真髄と見做して、聖書全躰は相関聯し、相補足し、相説明するの書となるとのことであります、即ち聖書は正義の書、信仰の書、愛の書と言はんよりは、キリストの書と称するのが最も適当であると言ふのであります。
 是れからは私の此主張の説明であります、爾うして是を充分になすのは迚も今日此一回の演説で出来ることではありません、聖書全躰に於てキリストを発見することが聖書研究の第一の事業でありますから、是れは私共一生涯の事業であります、然しながら私は今日茲に此仮説の適用に就て其一二の実例を述べることが出来ます、若し私が茲に聖書の中でキリストとは何の関係もないと常に見做さるゝ或る部分を取て、それを私の此主張に由て解釈して見まして、爾うして其意味が更らに透明になるのを覚えますならば、夫れで私の申分は少しは立つのであると思ひます。
 先づ試に旧約聖書中の雅歌の書を取つて見ませう、是れは通常、大王ソロモンの作として受取らるゝものであ(468)りして、昔往《むかし》の神学者は明かにキリストと教会との関係を示したものであると言ひました、然るに近世批評学の発達に連れまして、昔しの其考へは地にまで毀たれ、此書は今は全く猶太国昔時の恋愛文学の一標本として見做さるゝに至りました、成程、其文躰は芝居の脚本的でありまして、其中には多くの脂粉を薫らすやうな文字があります、「汝の香膏《にほいあぶら》の馨《かほり》は一切の香物よりもすぐれたり、新婦よ汝の唇は蜜を滴らす、汝の舌の底には蜜と乳とあり」(四章十、十一節)、其他、青年男女の前には声を高うして読むを憚かるやうな文字も尠くはありません、故に雅歌を猶太人の恋愛文学と見做すのは決して無理ではありません、是れは確かに恋愛文学であります、然しながら問題は如何なる恋愛文学である乎、夫れであります、雅歌は果して青年男女の痴情を述べたるに過ぎない情話である乎、それ共聖書の中に収められてある以上は或る特種の主義と教訓とを伝ふる書である乎、是れが研究の要点であります。
 誰が懦夫ソロモンの婬話を聞かんと欲します乎、誰が聖書に於て伊太利の恋愛文学者ボツカチオの「デカメロン」に類する痴話艶聞を読まんと欲しまする乎、若し雅歌は神を離れ異邦の酒色に溺れしソロモン王の情話でありますならば、是れは直に聖書の中より刪除せらるべきものであります、然しながら其今日まで聖書の中に留置かれしを見ますれば、其中に何にか聖書の価値《ねうち》に応《かな》ふたものがなければなりません。
 爾うして私は其中に明かに聖書的の所があると思ひます、爾うして其事を私に知らして呉れた者は独逸国の聖書学者F、デリツチであります、彼の見る所に由りますれば雅歌は確かに基督信徒の実験の一面を示すものであるとのことであります、雅歌の戯曲中の人物とも称すべき者は重もに三人であります、其女主人公はシユラミの婦(六章十三節)でありまして、彼女を恋ひ慕ひし者に大王ソロモンと、彼女の真正《ほんとう》の聘定《いひなづけ》の夫なる牧羊者との二(469)人がありました、爾うして一方よりは大王は権威と富貴とを以て彼女の心を奪はんと致しましたけれども、彼女の心は固く貧にして清き彼女の「愛する者」を慕ひて止みませんでした、一方よりは彼女を誘ふ者は言ひました、
  視よ、ソロモンの乗輿《のりもの》にして、勇士六十人その周囲にあり、イスラエルの勇士なり、皆な刀剣《つるぎ》を執り、戦闘《たゝかひ》を善くす、各人《おの/\》腰に刀剣を帯びて夜の響誡に備ふ、ソロモン王レバノンの木をもて己のために輿をつくれり、その柱は白銀、その欄杆は黄金、その座は紫色《むらさき》にて作り、その内部にはイスラエルの女子等が愛を以て繍ひたる物を張りつく、シオンの女子等よ、出で来りてソロモン王を見よ、(三章七節以下)。
 此声を聞いてシユラミの婦の処女心は動きました、斯かる大王の妃嬪《おむなめ》の一人とならんことは彼女の弱き女心に訴へて時に或ひは強く彼女の心を動かしたのでありましたらう、然しながら大王の誘惑は彼女の貞節を曲ぐるに足りませんでした、彼女は心を取りなほして己の心に答へて言ひました、
  我は我が愛する者に就き、彼は我を恋ひ慕ふ、我が愛する者よ、我等田舎にくだり、村里に宿らん、我等夙に興きて、葡萄や芽《めざ》しゝ、莟や出でし、柘榴の花や咲きし、いざ葡萄園に行きて見ん、彼所《かしこ》にて我れ我が愛を汝に与へん(七草十節以下)。
 シユラミの婦は玉殿に綺羅を装ふ大王よりも百合花の中にてその群を牧ふ(二章十六節)彼女の愛する者を慕ひました、彼女は誘惑に勝ちました、エルサレムの都城に連れ行かれて大王の側《かたはら》に侍らんよりは、田舎に下り、村里に宿りて、彼女の夫と共に清き自由の天然を楽まんと決心しました。
 然かし此誘惑の中に苦しみし彼女は未だ直に彼女の恋夫《こひびと》の側に行くことは出来ませんでした、彼はたゞ度び/\彼女を見舞ひ、彼女の心の変らざるを喜び、彼女を慰め且つ励ましました後は亦、彼の姿を隠しました、
(470)  (シユラミの婦は日ふ)我は睡りたれども我が心は醒め居たり、時に我が愛する者の声あり、即ち門を叩きて曰ふ云々………………我が愛する者戸の穴より手をさし入れしかば我が心、彼のために動きたり、やがて起出て我が愛する者のために開かんとせしとき没薬我が手より、没薬の汁我が指より流れて関木《くわんぬき》の把柄《とりで》の上にしたゝれり、我れ我が愛する者のために開きしに我が愛する者は已に退き去りぬ、前きにその語《ものい》ひしときは我が心騒ぎたり、我、彼を尋ねたれども遇はず、呼びたれども答応《こたへ》なかりき(五章十二節以下)。
 是れは確かに神を信じ霊魂の夫なるキリストを恋慕ふ者の此世に於ける実験を語つたものであります、我儕を誘ふに世の富者と権者とがあります、彼等は神が我儕に賜ひし天才と真心とを奪ひ去つて之を彼等のために使用せんと欲します、彼等は或ひは威嚇し或ひは誘ひます、爾うして或時は我儕の心も動きます、我儕も勲章を帯びんとの望みを起します、位階に誇らんとの慾を醸します、我儕、時に思ひます、我儕何ぞ神と此世とに併せ事へ得ざるの理あらんやと、然しながら、我儕にして若し自己に忠実ならば、我儕は斯かる誘惑の中にも天に我儕の真正の王、真正の夫《つま》の在ることを忘れません、其時には我儕もシユラミの婦の如く、ソロモンの側に侍らんとするよりは田舎に下り、村里に宿り、我等の愛する者なる百合花の中に群を牧ふ、霊魂の牧者の下に走らんと致しまする、爾うして此心を起しまする時にはキリストは来り給ひて我儕の心の門を叩き、「善き忠実なる僕よ」との声を以て我儕を慰め且つ励まし給ひます、然かし彼は今はまだ永久に我儕と共に止まり給ひません、彼は我儕を慰め給ひました後は亦た退きて其の姿を隠し給ひます、其の時我、彼を尋ぬれども遇はず、呼べども答応へ給ひません(五章六節)、即ち我等基督信者に取りては此世は、試錬、誘惑、待望の世であります、我儕は此世に在らん限りは誘はれます、然しながら誘はれたればとて我儕の愛心をキリスト以外の者に与へてはなりません、既儕(471)は宜しく終りまで堪え忍び終りまで我儕の霊魂の正当なる夫に、我儕の誠忠を表はすべきであります、左すれば彼は、時々孤独の中に彼の聖霊を以て我儕を見舞ひ、我儕に力附け、我儕に彼の笑面《えがほ》を示し給ひまして、終に我儕を其永久の住家に伴ひ給ひます。
 雅歌を斯う見て御覧なさい、是れは懦弱なる書である所ではない、最も勇壮なる書となります、是れは信仰的戦闘の状を書いた書であります、「終まで忍ぶ者は救はるべし」との訓誠を情詩的に述べたものであります、故に其文躰こそ全く異なれ、是れは其著述の主眼に至てはヨハネの黙示録と多く異なつたものではありません、雅歌は確かに聖書中に存在する値価を有つたものであります、私は此書が聖書の中より取り除かるゝことを決して望みません。
 今茲で聖書の其他の書に就て私の此主張を弁明することは到底出来ません、然しながらキリストを聖書何れの所に於ても発見して、始めて其意味が活きて来ることは明瞭なる事実であります、古い書ではありますが、Fairbairn's Typology(フェヤベーン氏著表示論)といふ本があります、是れはモーゼ律、殊に其祭式に顕れたる、キリストの精神と事業とを発見せんと試みたる者でありまして、実に興味ある、有益なる書であります、是れは今日と雖も再読し三読するの価値ある者であると思ひます、創世記、出埃及記、利未記、民数紀略等に於てまで我儕の心に宿り給ふ我儕の主イエスキリストの面影を発見するに至て、此等の書が古い死んだる書でなくして、今日の活きたる書と成るのであります、聖書研究の快楽は茲に在るのであります、聖書研究が古物調査又は古書探究ではなくして、活きたる生命の探究であるのは、聖書到る処に活きたるキリストの霊が充ち満ちて居るからであります。
(472) 聖書を一書として見ることは宇宙を一物として見ることの如く必要であります、宇宙に大砂漠があり、大氷山がありたればとて、それで宇宙に欠点があるとは言へません、否な、宇宙の美は却て其欠点と見ゆるが如き所に存して居るのであります、松島も美しくあります、耶馬渓も美しくあります、然かし、宇宙全躰は松島、耶馬渓より更らに数層倍美しくあります、其やうに馬太伝も美しくあります 約翰伝も美しくあります、約百記、詩篇も実に美しくありまするが、然かし聖書全躰は約翰伝、約百記よりも遙かに美しくあります、聖書全躰に於てキリストの美を窺ふまでは彼の美を知り得たとは言へません、福音書は実は四福音書ではなくして、聖書には六十六の福音書があります、否な、爾うではありません聖書六十六書が一大福音でありまして、之れに由てのみ私供は最も明かにキリストを暁ることが出来るのであります、ヨハネは其福音書の終りに附記して言ひました、イエスの為し事は此等の外に尚ほ許多あり、若しこれを一々記しなば其書この世に載尽すこと能はじと意ふ也、
と、イエスに関する事は勿論約翰伝一巻で言ひ尽れるものではありません、世の始より殺され給ひし羔(黙示録十三章八節)の事跡は之を記すに特別の世界歴史を要します、爾うして聖書は旧新六十六巻を通して、キリストを世に顕はさんために書かれたる世界歴史であります。
 
(473)     母を葬りて後に誌す
                     明治37年11月17日
                     『聖書之研究』58号「講演」
                     署名 内村鑑三
 
 去る十一日私の母は永の苦しき病気の後に終に死にました、其前後に私にも非常の苦みがありました、それがために此号は碌な号ではありません、諸君免して下ださい、然かし其間に私はまた多くの貴き恵みを実験しました、諸君悦んで下さい、爾うして其苦みと恵みとに就ては今茲に之を諸君に語ることは出来ません、然し若し三年の後、又は五年の後に、之を諸君に告ぐるを得るならば、多少諸君を慰めることが出来やうと思ひます、「余は如何にして余の母を葬りし乎」、是れ私に取りては非常に意味深き問題であります、私は併せて茲に私の不幸を知りし本誌読者諸君が今日まで私に表されました深き同情を感謝します、私共キリストを信ずる者は単独で私供の艱難を担ふのではありません、私供は数百千人と共に之を担ふのであります、故に艱難は重くとも私供に取ては至て軽くあります、是事は実に大なる恵みであります、然し濃き雲は既に去りました、これからが亦大発展でありませう、茲に重ねて神と年来の誌友諸君とに謝します。
  十一月十六日夜城西雑司ケ谷に母の遺骨を納めし後に誌す
 
(474)     〔ベツレヘムの夕 他〕
                     明治37年12月22日
                     『聖書之研究』59号「所感」
                     署名なし
 
    ベツレヘムの夕
 
 ベツレヘムの夕は千九百年前のことなりき、而かも活けるキリストは今日尚ほ我儕の心に生れ給ふ、我儕此日を祝するも若し此の恵みに与からざれば此日は我儕に取て何の要なきなり、願くば此日此夕、多くのベツレヘムの我国中にあらんことを。
 
    聖誕節の意味
 
 夫れ神は其生み給へる独子を賜ふほどに世の人を愛し給へり(約翰伝三章十六節) 聖夜節の意味は是なり、我儕此日を聖く守らんと欲せば我儕を愛して其独子を賜ひし神に傚いて博く深く世の人を愛すべきなり、そは愛なき者は神を識らず、神は即ち愛なれば也(約翰第壱書四章八節)。
 
    戦時のクリスマス
 
(475) 天使は聖子の降誕を祝して曰く、天上には栄光神にあれ、地には平安、人には恩恵あれと、而かも今や地に平安あるなく、殺気空に充ち、恚忿天下に遍し、故に人は曰ふ、神の恩恵は終に平安を地に来す能はずと。
 然れども恩恵は既に世に降れり、人の之を受けざるのみ、平和の基礎は已に定められたり、人の之に拠らざるのみ、神は平和を降せり、然るに人は自から好んで戦闘を開けり、神は平和をも人に強ひ給はず、人の自から進んで神の平和に入らざる限りは、平和は海の如く地を掩ふと雖ども戦闘の音は絶えざるなり、我等戦時に此聖節を守りて、更らに声を大にして、平和を同胞に勧む。
 
    平和主義者の日
 
 クリスマスは平和主義者の日なり、誰か此日に際して戦を唱ふる者あらんや、主戦論者は此日を守るの資格を有せず、天使讃美を唱ふるの間、彼等は声を潜めて沈黙を守るべきなり、一年一回天使は降り来りて我等の平和の声に和す、而して地に戦闘の絶ゆるまでは、我等の此声は絶えざるべし、世にクリスマスが祝視はるゝ間は平和主義者は其勢力を失はざるべし。
 
    平和の基
 
 平和のために戦ふと言ふ、何ぞ潤すために火を放たざる、若し火を以て潤すを得ば戦ふて平和を来たすを得べし、然れども西が東より遠かる間は、氷炭相容れざる間は、平和は戦争に由りて来らざるべし、平和は平和より来る、人類の罪を自己《おのれ》に担ふてキリストは世界平和の基を据え給へり、平和を世に来たさんと欲する者は総てキ(476)リストに傚はざるべからず。
 
    歳を忘るゝの法
 
 宴を張りて歳を忘れんと欲する者多し、然れども是れ歳を忘るゝの法に非ず、歳を忘れんと欲すれば宜しく善を為すべし、富者は宜しく其財を捐つべし、智者は宜く其智を頒つべし、強者は宜しく其力を供すべし、而して一年の憂苦を忘るべし、憂苦は酒を以て之を散ずる能はず、善行を以てのみ能く之を消滅するを得べし、慈善は無二の忘憂剤なり、我等は年末に際して多量に之を服用して可なり。
 
    聖書と活けるキリスト
 
 聖書は大なり、然れども活けるキリストは聖書よりも大なり、我儕若し聖書を学んで彼に接せざれば、我儕の目的を達せりと言ふ能はず、聖書は過去に於ける活けるキリストの行動の記録なり、而して我儕は今日彼の霊を接けて、新たに聖書を作らざるべからず、古き聖書を読んで新らしき聖書を作らざる者は聖書を正当に解釈せし者にあらず、聖書は尚ほ未完の書なり、而して我儕は之に其末章の材料を供せざるべからず。
 
    信仰と伝道
 
 信仰は生命なり、故に其維持の方法は其増殖を計るに在り、増殖を止めて生命は死す、伝道を廃して信仰は滅す、独り自から潔うせんと欲して増殖を努めざる信仰は既に死せる信仰なり、伝道は信仰持続のために必要なり、(477)我儕伝道を廃して我儕も亦亡ぶべし、而して感謝す、伝道の区域の未だ尚ほ甚だ広きことを、我儕は拡張の地を得ずして内に窒死するの要なきなり、我儕新年と共に益々伝道に従事せん。
 
    出陣の召命
 
 何故に信仰の微弱を歎ずる乎、何故に室内に蟄居して身心の憔悴を歎ずる乎、出で来れよ、出で来て神と偕に働けよ、目を挙げて観よ、はや田は熟きて収穫時になれり、世界を神の王国とせよ、其聖化の偉業に参与せよ、而して爾の工銭《あたひ》を受けて永生に至るべき実を積《あつ》めよ、我儕の田は広き世界なり、而して活動を全世界に求めて我儕の信仰は強からざらんと欲するも得ざるなり、出で来て世界教化の業に加はれよ、而して他人を救ふと同時に爾の信仰を強くせよ。
 
    新年の希望
 
 人は皆な問ふて曰ふ、新年の希望如何と、我儕は答へて曰ふ、希望満々たりと、
  縦し其時には無花果の樹は花咲かず、葡萄の樹には果ならず、橄欖の樹の産は空しくなり、田圃《たはた》は食糧《くひもの》を出さず、圏《をり》には羊絶え、小屋には牛なかるべし、然りながら、我はヱホバによりて楽み、我が救拯の神に由りて喜ばん(吟巴谷書三章十七、十八節)。
 我儕に今年も亦為すべきの事業あり、而して其神の事業なるが故に我儕の希望は年と共に革まらず、我儕は永久の春に神の宮殿を築く者なり。
 
(478)    宇宙の精算
 
 宇宙は正義活動のための精密なる機関なり、故に此宇宙に在て善を為して其報賞を受けざるはなし、又悪を為して其の刑罰を蒙らざるはなし、宇宙の宏大なる、善悪の反応は直に其之を施せし方面より来らず、然れども東に向て為せし善は西より報ひられ、北に向て為せし悪は南より罰せらる、宇宙は大銀行の如し、甲に払ふべきものを乙に払ひ、乙より受くべきものを丙より請求す、而かも年を経て後に厘毫の貸借あるなし、吾人此信用すべき宇宙に在て惜むことなく出来得る丈けの善を凡の人に向て為すべきなり。
 
    恩恵と責任
 
 神の恩恵は責任に伴ふて来る、重き責任に大なる恩恵伴ひ、軽き責任に小なる恩恵伴ふ、大なる恩恵に接せんとする乎、大なる責任を担へよ、責任を免かれて恩恵に接せんとするは神を欺かんとするなり、自から欺く勿れ、神は慢るべきものにあらず(加拉太書六章七節)、如何なる智者と雖も責任を棄斥して神より恩恵を窃取する能はず。
 
    自他の愛
 
 世に他人を苦めて己れ自から苦しめられざる者あるなし、多く他獣を苦むる獅子は多くの寄生虫の苦むる所となる、而して寄生虫に亦寄生虫ありて、其寄生的生活をして不安ならしむ、他を苦しむるは己れを苦むるなり、(479)四海皆な兄弟なるのみならず、宇宙皆な一躰なり、宇宙の保全、是を愛と称す、吾人は自己を愛する如く吾人の隣人を愛すべきなり。
 
    意地と主義
 
 意地と主義とは其外形に於て相類す、而かも其内容に於て相反す、意地は我意の固執なり、主義は真理の奉戴なり、意地は自己のためにして、主義は神のためなり、故に意地は罪悪にして主義は美徳なり、吾人意地を張るを称して主義を守ると唱ふべからざるなり。
 
    事業の成敗
 
 歓喜に由て成りし事業は成効し、悲憤に由りて成りし事業は失敗す、歓喜は積局的なり、故に其中に或物の存するありて必ず果を結ぶなり、然れども悲憤は消極的なり、故に空虚にして何物のその中より出で来るなし、悲慣に激せられて事を為さんとするは風を播かんとするに均し、声を発することあるも、効を奏することあるなし。
 
(480)     歳末の感謝と祈祷
                    明治37年12月22日
                    『聖書之研究』59号「所感」
                    署名 角筈生
 
 神様、歳将に暮れんとしまする、私は感謝に堪えません、此歳も亦た恩恵の一年でありました、然り、私に曾て在りし最も顕著しき恩恵の一年でありました、貴神《あなた》は今年も亦た多くの苦難を私に降し給ひました、然しながら苦難を降し給ふ前に預め恩恵を降し置き給ひまして、私をして容易しく苦難を通過ぎることを得さしめ給ひました、私は信じます、貴神が私を導き給ふに常に此法に由り給ふことを、貴神は私が負ひ切れぬ程の重荷を負はしめ給はざるのみならず、亦た必ず重荷を負はしめ給ふ前に預め之れに耐えて尚ほ余りあるの能力を降し置き給ふことを、貴神は誠に恩恵の神であります。
 神様、私は何を恐るべきでありませう、私は只貴神に勝つて戴けば宜いのであります、私が勝つのではありません、貴神が私に在て勝ち給ふのであります、私は只、貴神が勝ち給ふのを傍より拝見して居れば宜いのであります、オヽ、勝ち給へ、我が手を以て、或ひは我が心を以て、或ひは我を以てゞはなく、然り、我が敵を以て勝ち給へ、私は今日まで、屡次私の力の不足を歎じました、然しながら、今に至て知りました、私の失敗の多くは私の力の足過ぎたるより来りましたことを、私は度々勝たんと欲して負けました、然しながら今に至て稍々少しく勝利の秘訣を知りました、即ち私の力を潜めて貴神に私に代つて勝つて戴くことであります。
(481) 私は私の将来を知りません、亦私の愛する国の将来を知りません、然しながら唯一つのことを知つて居ります、即ち悪しきことの貴神を信ずる者の上に決して来らざることを、私共は私共の将来に就て心配するの必要はありません、私共は唯貴神を信じて居れば宜いのであります、願くは常に此安心を我に降し給へ。
 私は殊に此卑しき貴神の僕に由て貴神を信ずるに至りし人等のために祈ります、貴神の知食《しろしめ》す如く私に取りて最も辛らきことは彼等が貴神を棄去るに至ることであります、貴神は此国に在て貴神を信ずることの如何に困難なる乎を知食します、願くは貴神の大能を以て彼等を貴神に引留め給へ、願くは私の彼等に対する誠実の足らないことが彼等が貴神を棄去るの原因とならざるやう彼等と私とを助け給へ、ドウゾ、我等が肉に於て一致せずして、貴神に在て霊に於て一致するやう我等を導き給へ、ドウゾ、我等をしてキリストの血に縁る血縁の者たらしめ給へ、爾うして肉の血縁に優さる深き親しき血縁の者たらしめ給へ。
 殊に我等一同をして活きたるキリストに接する者たらしめ給へ、我等をして過去のキリストを省ることなくして、今のキリストを仰ぐことを得しめ給へ、ドウゾ私共をして宗教を楽む者たらしめ給はずして、貴神の真理のために闘ふ者たらしめ給へ、愛の神様を己れ一人にて専用せんと欲することなく、世界の人と共に之に事へんと欲するの心を我等の衷に起し給へ、ドウゾ私共に、貴神は全世界の人と共に拝するにあらざれば完全に拝することの出来ない神様であることを悟らしめ給へ、爾うして此心を以て私共をして新年と共に一層の熱心を以て喜ばしき伝道に従事することを得しめ給へ。
 此感謝と祈祷をキリストの聖名に託りて受け給へ、アーメン。
 
(482)     信仰維持の困難
                     明治37年12月22日
                     『聖書之研究』59号「説話」
                     署名 内村鑑三
 
 日本の如き非基督教国に於て基督教の信仰を持続けるのは容易のことではありません、日本国は文明国ではありまするが、然かし其社会組織は全く東洋的であります、爾うして東洋の精神は其多くの点に於ては基督教を以て築き上げられたる西洋の精神とは正反対でありますから、随て西洋の精神なる基督教の理想を此日本に於て行はんとするのは実に難中の難であります、何にも必しも我等日本人に基督教の教義を信ずるの信仰がないと云ふのではありません、仏教や神道の中には基督教の教義よりも信ずるに遙かに難い教義があります、殊に神秘的なる我等東洋人は神秘的教義を信ずる点に於ては遙かに現実的なる西洋人に勝つて居ると思ひます、夫れ故に我等日本人が基督教を信ずるの困難は、決して或る人たちが云ふやうに、我等の科学的傾向に由るのではありません、否な、我等日本人は国民として決して科学的ではありません、事実は其正反対でありまして、我等は科学的であるよりは寧ろ感情的で詩的であります、爾うして其詩的である事が我等が基督教を信ずるの非常に困難なる主なる原因であると思ひます。
 一面から見れば非常に温かいやうに見える基督教は他の一面から見れば亦非常に冷たい宗教であります、イエス云ひけるは凡そ我に来て其父母妻子兄弟姉妹をも憎む者に非れば我が弟子と為ることを得ず(路可伝十四章廿(483)六節)若し之が冷酷でないならば何が冷酷でありますか、若し之が不人情でないならば何が不人情であります乎、而かも基督教は或る場合に於ては殆んど字義なりに此主義の実行を其信者より要求する者であります、若し人ありて主よ先づ行きて父を葬る事を我に容るせと曰ふ者がありますれば、イエスは之に答へて死たる者に其死し者を葬らせよ、而して爾は往きて神の国を宜べよ(路可伝九章五八、六〇節)と言ひました、またパウロは神に召されて福音の宣伝者となるや其時直に血肉と謀ることをせず、其命に従ふたとのことであります、是れ東洋人の眼から見て実に不実の極でありまして、若し斯かることを今日直に彼等の中に実行せんとする者がありますれば彼等は総掛りとなりて斯かる背倫の徒を撲滅せんと致しまする、東洋の社会は人倫と称する情実的道徳に由て成立つ者であります、然るに基督教は多くの場合に於ては此種の道徳を顧ない者でありますから、茲に此社会と此宗教との間に非常の衝突が起るのであります。 爾うして此衝突は止むを得ません、世に若し基督教と情実的道徳とを調和せんと計る者がありますれば其人は無理を企つる者であります、基督教は神の教でありまして、是れは純正義であります、是れは或る範囲内には父母君臣兄弟の別を認めますが其範囲外には断然之を認めません、神の子たる基督教信者に取りましては君もなければ親もなければ妻子も兄弟もありません、神の前に独り立たる霊魂は実に不人情なる者であります、彼は清空の中に天を覗く天文学者のやうな者でありまして、天あるの外、地のことを全く忘れて了ふ者であります。
 然しながら基督信者も情の動物なる人であります、彼とても肉に於て在る間は常に天にのみ独り翔※[行人偏+羊]することの出来る者ではありません、爾うして彼が地に降り来る時には地は凡て彼の敵であります、彼の父母は彼の心を解せず、彼の兄弟は彼は大偽善者なりと信じ、彼の国人は乱臣賊子として彼を迎へます、情を絶ちし彼は血肉の(484)絶つ所となりました、彼れ直に世を去てキリストの許に往かんか、是れ彼の時には望む所なれども、彼が為さんと欲して為す能はざる所、而かも此地は既に彼に取りては敵地と化しました、昇らんと欲して昇る能はず、止まらんと欲して止まる能はず、十字架の生涯とは実に斯かる生涯を指して云ふたのであらふと思ひます、爾うして基督教を真面目に信ずる者は遅かれ早かれ此境遇に立至らねばなりません。
 此時悪魔は我等の耳に囁いて言ひます、「爾其高潔の精神を以て何を好んで此悲境に立つや、汝の家の者と汝の社会とが汝より要求する所のものは単に普通の人情のみ、世に人情に優て美なるものはなし、而かも汝は之を棄て、之れに逆ふを以て義務なりと信ず、爾は恐くは基督教を誤解せしならん、大聖人基督の伝へし宗教に斯かる教訓のあるべき理なし、父母の声是れ神の声ならずや、君の命是れ天の命ならずや、我れ汝に基督教を棄てよと言はず、たゞ少しく其硬きを曲げよと言ふのみ、而して神を信ずると同時に此世と和して此の地に安んぜよ」と。
 爾うして是れが堕落の初歩であります、基督教のやうな絶対的宗教は之を総躰信ずるにあらざれば全たく信ずることの出来ないものであります、我等、若し其大部分を信じまするとも其一部分を信じませぬならば遠からずして其全部を棄つるに至ります、譲るべからざる所の一歩を譲つて、終に信仰の全部に於て譲らざるを得ざるに至ります、私の見た所に由りますれば日本人中の多くの基督教信者は人情の絆を絶ち切れないで終に元の不信者に立還りました、彼等の情実は実に察すべきであります、然かし彼等は基督教を信ずるに由て獲得し得べき褒実の価値《ねうち》を算へませんでした、彼等は城を築かんとして、其の余りに難工事なるを知て中途にして、建築を廃止しました、彼等は敵国と戦を開いて、其の余りに強きを見て取て中途にして和睦を申込みました、斯くて彼等は(485)世の嘲けり笑ふ所となり、又、自から己に就て信用を失ひ、味を失ひたる塩の如きものとなりて、田にも糞《こえ》にも益なき者となりました(路可伝十四章廿五節以下を見られよ)。
 爾うして我等日本の基督教信者が斯くも人情に負けるのは何にも必ずしもその社会が人情の社会であるばかりではありません、我等自身がまた強い人情の子供であるからであります、我等は理性を貴びますが、然かし、生来、感情の高い人種であります、忠と言ひ、孝と言ひ、是れは道理であるよりは寧ろ情であります、或ひは情が化して道理となつたものであります、我等の情は我等の道理に比べて見ますれば、発達の未だ至つて足らないものであります、故に我等は情を感ずること至つて早くして理を見ること至つて遅いものであります、否な、多くの場合に於ては情に感ずること余りに烈しきよりして、理を見ることが出来ない者であります、我等日本人に取て最も辛らいことは理に反くことではなくして、情に逆ふことであります、実に日本人の最大多数に取ては情と道理とは一つであります、我等は理の無い処に居ることは出来ますが、然し、情の無い所には居られません、「不人情者」、是れ日本人に取ては大悪人の代名詞であります。
 斯くも熱情を追求する日本人は基督教のやうな肉情以外に立つ宗教には永く耐えられません、肉の兄弟の外、兄弟の何たるを知らない我等は、霊の兄弟を以てしては終には何んとなく、物足らなくなります、師弟の関係と云へば親子も啻ならざるものと思ひし我等日本人に取りて、霊なるキリストの外に師を認めずなどゝ教ふる宗教は何んとなく頼み尠くなります、日本人の多数が基督教に入り来る主なる動機は之に信実なる、人情に篤い、日本的の団合を得んがためであります、然るに基督教会なるものの情の団躰ではなくして、信と(神に対する)理と(主義)の結合躰であるのを知りまして、彼等は失望して、終に基督教以外に於て、何にか彼等が要求する人情的(486)団躰を発見せんと致しまする、彼等の多くが基督教を去るの後、社会主義などに投ずるのも全く之がためであると思ひます、彼等は基督教の余りに精霊的であるのを見て取るや、之よりも稍や少しく血肉的なる社会主義に由て、彼等の情の饑渇を癒さんと致しまする、情の社会は理を疎んじます、肉の慾は霊に逆ひ、霊の慾は肉に逆ひ此二つのものは互に相敵る(加拉太書五章十七節)。
 日本の社会は其の上から下まで情を以て成立つものであります、其政府も、政党も、会社も、学校も、皆な情を以てのみ成立つものであります、爾うして斯かる社会に入つて生存せんとすれば、情を作り、之に依るより他に途はありません、日本の社会に理を以て入らんとするは火を点じて水に入らんとすると同様であります、其熄す所となるにあらざれば其弾き出す所となります、故に基督教を信じて日本の社会に立たんとするは火を点じて水の中に立たんとするが如く困難であります、是れは到底人間の力で成遂ぐることではありません、シヤデラク、メシヤク、及びアベネゴノの三人を火の中に守りしエホバの神のみ能く我等をして此事を成遂げしめ給ひます(但以理書三章)。
 日本に於て基督教を信ずるのは非常に困難であります、然しながら、此国に於て之を信ずるのは亦非常の名誉であります、欧米諸国のやうに、其社会組織が既に基督教に依て改造せられし国柄に在ては、之を信ずるのは誰にでも出来ることであります、然しながら神の奇跡は人の能力を以てしては為すことの出来ない所に於て顕はれます、若し我等の能力に由るに非らずして神の能力を知らんと欲するならば、日本のやうな国に立て基督教を信ずるに若くはありません、駱駝をして針の孔をも穿たしめ給ふ神は我等をして基督教の信仰を懐いて此今日の日本の社会を通らしめ給ひます、只呉れ/\も忘れてはならないことは、神に依らずして、独力で、即ち人間の力(487)を以てして、此国に立て基督教の信仰を持続けんと欲はないことであります、それは到底出来ることではありません、基督教は人を人情以上の関係に連行かんとするものであります、爾うして此目的を達せんがために人をして一時は人情を毀ち之に逆ふやうな行為に出でしむる者であります、其目的を見ずして其手段にのみ眼を注ぐ者は必ず此宗教に就て躓きます、智慧ある人は此事を心に留めて、他人の之を信ずるのを妨げてもならず、亦自から其信仰を妨げられてはなりません。
  イエス十二の弟子に曰ひけるは爾曹も亦去らんと意ふや、シモンペテロ答へけるは主よ我儕は誰に往かんや、永生の言を有てる者は爾なり(約翰伝六章六七、六八節)。
 
(488)     平和の完成
                     明治37年12月22日
                     『聖書之研究』59号「説話」
                     署名なし
 
 人と人との平和は神と総ての人との平和成りてより来る、神なくして平和あるなし、神と或る人との平和成りて未だ全き平和あるなし、神と総ての人との平和成りて始めて人と人との完き平和は世に臨むなり、平和の完成は之を世界透通の伝道に待たざるべからず、地球の表面に真理不通の一隅を残すは平和撹乱の一因を存すなり、軍人が剣を抜いて争ふ前に伝道師は先づ往いて暗黒の荊棘を掃ふべきなり。
 
(489)     遠来の祝福
                     明治37年12月22日
                     『聖書之研究』59号「霊交」
                     署名 内村生
 
  編輯まさに終らんとする頃左の如き万国郵便端書独逸国より来る、彼はバルチツク艦隊が取りつゝあると云ふ径路を通りて来りし者也、即アルプス山を貫きし後は地中海を渡り、蘇士運河を過ぎ、紅海、印度洋、支那海を横断して終に東京市外なる角筈丘上の吾人の手に来りし者也、其齎す所は露人の怨恨に非ずして独逸青年の満腔の同情なり、汚れなき彼等の祝福の辞なり、先づ原文其儘を掲ぐ
  Sehr geehrter Herr!
 Wir,die unterzeichneten,Schuler des Gymnasiums zu Stendal,fuhlen uns beim Lesen Ihres Bucbes“Wieich ein Christ wurde”im Herzen gedrungen,Ihnen einen berzlichen Gruss zu senden und warme Segenswunsche auszusprecben fur Ihre Bestrebungen pro Christo et patria, welche auch die unsrlgen sind und immermehr werdem sollen.Gott gebe,dass Engelwort“Friede auf Erden”auch in ihrem Vaterlande wahr werde.
  Grossmoringen,Altmark,Deutscbland,den 6ten November,1904.
 Gottfried und Helmut Schapper.  〔ウムラウトはすべて省略、入力者〕
(490) 之を邦文に訳すれば左の如くならん
  甚だ敬愛する君よ、
  我等下名のステンダール市に於けるギムナジウム(中学)の学生は貴下の著「余は如何にして基督信徒となりし乎」を読み、茲に貴下に心中の祝意を伝へ、「基督の為め国の為め」に尽さるゝ貴下の奮努に対して熱き祝福の希願を表せざらんと欲するも得ず、是れ亦我等の努むる所、亦、終生努めんとする所なり、神願くは「地には平安」なる天使の辞をして貴下の祖国に於ても事実とならしめ給はんことを。
   独逸国アルトマルク州グロスメーリンゲンに於て千九百〇四年十一月六日
            ゴートフリード及びへルムート シヤペル
 ゴートフリード及びヘルムートの二君は蓋し二人の兄弟ならん、彼等、独逸国ザクセン王国、エルブ河が漫々として北に進む辺より、此同情と平和の希望とを余輩に寄せて、此戦時のクリスマスに於ける余輩の寂寥を慰めんとせり、余輩も亦彼等と彼等の祖国とのために熱き祝福の希願を表せざらんと欲するも得んや、然り平和は今や万邦を恵みつゝあり、独逸の青年既に平和の希望を表す、余輩此点に於て彼等の背後に出ず可けんや、然り基督の為めなり国の為めなり、独逸人も然り、日本人も然り、今然り、終生然り、我等万国と相和して、来る新年に際して更らに一層此ために奮努せんと欲す。
 
(491)   別篇
 
  〔付言〕
 
  「信仰歌 第一集」への付言
      明治37年2月18日『聖書之研究』49号「雑録」
 
〔冒頭に〕
 編者曰ふ、歌人の歌にあらず、キリスト信徒の真情なり、其心して読まれたし。
 順序は到着の順なり、優劣の順に非ず。
〔末尾に〕
 (以下次号、尚ほ続々御投稿を望む。)
 
  「信仰歌 第五集」への付言
      明治37年6月16日『聖書之研究』53号「雑録」
 
〔「帝国軍艦『初瀬』乗込、兵曹長故岡崎喜代彦」の「信仰歌四首」の末尾に〕
 内村生白す、岡崎君は本誌初号よりの愛読者なり、甲板上、常に午後七時の祈等を捧るを以て無上の快とせられたりと聞く、過る一月の頃かと思ふ、横須賀軍港を抜錨するに際し余に勇ましき端書一葉を寄せられ、奮然遠征の途に就かれたり、今にして君の訃音に接す歎惜措く能はず、茲に掲ぐる四首は君が戦死の二ケ月程前に、佐世保なる君の友人某に贈られしものなり。
 
  「信仰歌」への付言
       明治37年8月18日『聖書之研究』55号「雑録」
〔「戦地愛読者の一人」の歌の末尾に〕
 内村生謹で評して曰ふ、君は源義家以上の日本武士なり。
 
(492)  E・J・ヂロン原記 倉橋生 纂訳
  「パシコフ大佐の改信」への付言
       明治37年10月20日『聖書之研究』57号「研究」
 
 編者曰ふ、キリストの純福音は一なり、到る処に同一の結果を生じ、類似の反抗と迫害とを招く 茲に一露人の我儕の愛する福音の自由を信じて、彼の同胞を黒暗の中に救ひ、終に暗黒政府の忌憚逐放する所となるを見る、光明は暗黒の中に在て益々顕かなり、暗黒は亦光明の現出を待て其真暗を証明せらる、パシコフ大佐の改信は能く露国の光暗両面を示すに足るものなりと信ず。
 
  エム生「偽福音書の処女マリア」への付言
       明治37年12月22日『聖書之研究』59号「研究」
 
 編者曰ふ、真福音と偽福音との別はマリアに関する此記事を見ても一目瞭然たり、二者同じく奇跡を記す、然れども真福音の奇跡の簡明率直なるに此べて、偽福音のそれの如何に複雑奇怪なるよ、恰かも釈迦一代記に於て麻耶夫人に関する記事を読むが如し、事実の奇跡あり、想像の奇跡あり、而して吾人一読して二者を判別するを得べし、偽福音の価値は真福音の真価を知らしむるにあり。
 
  宍戸元平「東西南洋の秋」への付言
       明治37年12月22日『聖書之研究』59号「霊交」
 
 内村生白す、宍戸兄は幸福の人なり、独逸の山中より帰り来りて直に日本の山中に入る、水を友とし、林を家とす、余は深く君を羨む、余も時には思ふ、余は何を択んで余の今日の業に就きしやと、余の固有の友人も亦天然なりき、石狩川の鮭魚と、札幌附近の沼沢の刺魚(Sticklebacks)、春は達摩草の臭芬に辟易し、秋は野葡萄に唇を赤くせり、教派の軋轢を聞かず、兄弟の陥擠を耳にせず、鹿の如くに山野を飛行して天然を通して天然の神と交はりたり、嗚呼悔ゆ、天然を去て筆を取るに至りしことを、天然に嫉妬なし、悲憤なし、梗概なし、天然は凡て歓喜にして凡て希望なり、君よ、君の山間の廬を出来る勿れ、都城には百鬼横行す、君よ君の純樸を犀川の辺に守れよ、君は恵まれし人なり、余は深く君を羨む。
 
  普賢寺轍吉の「弁護士広告」への付言
       明治37年12月22日『聖書之研究』59号広告欄
 
 内村生白す、基督信者は基督信者の弁護士を要す、而して(493)普賢寺君は余の信顧する基督信者の弁護士なり、余は茲に君を本誌の読者諸君に紹介するの名誉を有す。
 
(494)   〔社告・通知〕
 
 【明治37年1月21日『聖書之研究』48号】
   本誌読者諸君の信仰歌を募る
 新躰詩に非ず、三十一文字の大和歌《やまとうた》なり、基督信者の信仰と希望と歓喜とを五七文字に顕はせし者なり。
 辞句の巧みなるよりは寧ろ想の深きを貴しとす、故に霊と真《まこと》とを以て神を信ずる者は何人も一首を試られよ。
 本誌の事故別に賞品を呈せず、唯慰藉を同志に頒つを以て充分なる報酬と認められたし。
  一月              内村鑑三
 
 【明治37年2月18日『聖書之研究』49号】
 本号六二頁止とす、不足は次号にて補ふべし。
 
 【明治37年3月17日『聖書之研究』50号】
 引続き信仰歌の寄贈を祈る、又一枚のはがきに書き記される丈けの簡単なる信仰実験談を送られんことを願ふ
                     編者白
 
 【明治37年5月19日『聖書之研究』52号】
   謹告 『角筈聖書』発刊に就て
 
 霊力に少しく余りあるを感ず、依て本誌編輯の余暇を以て兼ねての志望に従ひ更らに順序的に聖書の解釈に着手せんと欲す、之を『角筈聖書』と命名し、大凡そ二ヶ月毎に一回発行せんと欲す、毎巻、四六版にて百頁以内とし、其躰裁は拙著「路得記」に傚はんとす、第一巻は之を六月下旬に発行し、約百記を以て始めんとす、余は此事業の完うせらるゝまで霊力の余に絶ゑざらんことを祈る。
  一冊定価弐拾銭とし外に一冊に付き郵税として二銭を請求せんとす、六冊分金壱円弐拾銭(大凡一ヶ年分)を前以て送らるゝ方へは郵税は当方にて負担仕るべし、茲に謹んで年来の誌友諸君の賛助を乞ふ。 内村鑑三
   ――――――――――
 又白す。拙著独通訳『余は如何にして基督信徒となりし乎』Wie ich ein Christ wundeを求められんと欲せらるゝ方は之を横浜市本町八十番 マクス、ネスラー商会 に注文して得らるべしとの事なり、実価上製金八拾五銭、並製五拾五銭なりと聞く、外に一冊に付郵税六銭を要すべく候。
 
(495) 【明治37年6月16日『聖書之研究』53号】
   謹告
 
 前号を以て広告仕候『角筈聖書』巻之一発行期日は種々の故障生じ暫時延引仕るべく候間左様御承知願上候。
                   内村鑑三
 
 【明治37年7月21日『聖書之研究』54号】
   謹告
 
 角筈聖書巻一約百記初の七章、簡明なる本文に附するに短註と短評を以てす。
 八月五日までには必ず発行の筈、一冊に付き金弐拾銭、外に郵税弐銭を要す、六冊分前金郵税共金壱円弐拾銭。
  七月           聖書研究社
 
 
 【明治37年10月20日『聖書之研究』57号】
 
 角筈聖書第二巻早速発刊すべき所、家に病人あり、且つ編輯室改築等にて混雑を極め、思ふやうに捗り不申、偏へに諸君の宥恕を乞ひ申候
  十月廿日           内村鑑三
 
 【明治37年12月22日『聖書之研究』59号】
   祝詞
 
 楽しきクリスマスと喜ばしき新年との読者諸君の上にあらんことを祈る
                 内村鑑三
 
   『角筈聖書』前金に就き謹告
 
 種々差支のため『角筈聖書』続篇出版の義少しも捗り不申、前金御払込の諸君に対し申訳無之候、尤も万事略ぼ旧に復し候に付き遠からずして第二巻を発行するの運びに至らんことを望み候ゑ共、それとても確とは御約束致し兼ね候に付き、御払込の前金は之を雑誌前金に御廻しに相成り候とも、又は現金払戻を御請求に相成り候とも、聊か差支無之候間、御都合何れなりと御遠慮なく御申遺はし被下度此段申上置候、早々敬具
  十二月            内村鑑三
 家事混雑の後とて本号発行、定日より一週問を遅れ候段読者諸君の御宥恕を願上候
 母死去に就ては読者諸君の中より多くの御慰問状に接し、御厚意幾重にも有難奉存候、一々御返状差出すべきは当然に候ゑ共、万事混雑の折柄、茲に誌上に於て御厚礼申上候間、
(496)  右不悪御諒承願上候          内村鑑三
   ――――――――――
 
 本誌発行期日、来る一月より、従前の通り毎月二十日と相改め 間左様御承知被下度候
 
(497)   〔参考〕
 
  自明的真理
                明治37年7月21日
                『聖書之研究』54号「問答」
                署名なし
 
 余は此事を以て自明的真理なりと認む、即ち世界の大事件は其産ぜし人物に存し、其最大事件は其最大人物に存し、其至高の事件は其至高の人物に存する事を、而して此至高の人物たるやイエスキリストを除いて他にあらざることは敢て疑を挟むべきにあらざる也(オバーリン大学綜理博士H.C.キング氏の言)。
〔2021年11月1日(月)午前11時、入力終了〕