内村鑑三全集13、岩波書店、520頁、4500円、1981.8.24
 
目次
凡例
1905年(明治38年)
新年の誓ひ 他……………………………… 3
新年の誓ひ
声と人
基督信者の生涯
基督信者の不落
我儕の充実
寂静の歓喜
磐に頼らん
地的ならざる基督教
微なる非戦論
寡婦の声
慧き政治家
独立教会の建設
彼我の優劣
未だ隷属の民たり
金力を要せざる事業
獣力崇拝の民
新年の感……………………………………… 9
基督教とは何ぞや……………………………12
道徳以上の宗教………………………………17
『基督教問答』〔序文・目次のみ本巻収録〕……21
序言…………………………………………22
目次並に梗概………………………………23
雑誌記者の覚悟 他…………………………25
雑誌記者の覚悟
読者に問ふ
教師に非ず
智者安くにある
仰望の秘術
霊肉二様の世界
基督教の解釈
キリストと聖書(其一)
キリストと聖書(其二)
改心と変質
新生物学
思想の所在
現世の価値
養老の快楽
約百記註解 第八章―第一七章………………31
基督教の趨勢……………………………… 112
最大の賜物 他…………………………… 118
最大の賜物
永生の貴尊
道徳と信仰
内か外か
天才と聖霊
人生の最大事
平和の勝利
最後の勝利
ウエスレーとカント
奇異なる現象…………………………… 121
輿論と神意
偉人と聖書………………………………… 123
余は何故にキリストを愛する乎………… 124
欧人の歓迎 他…………………………… 129
欧人の歓迎
僧侶の鑑定
清涼剤を求む
不自由の身 他…………………………… 131
不自由の身
基督信者の過失
文字の欠乏
盗難に罹りて感あり
最大事件
残忍酷薄の極
神政の特質
聖書と科学の調和
『聖書之研究』の名と別る
花を見て感あり
世界最大の言辞 約翰伝第一章第一節の黙考…… 135
大なる罪と小なる信仰 路可伝十七章一節より十節まで…… 141
独立信者の活動…………………………… 144
在米国カリホルニヤ洲ロスアンゼルス市無名氏に告ぐ…… 148
貴顕紳士に福音を説くの愚……………… 149
葛巻星淵著『信仰余賦 小星』再版への序文…… 151
愛すべき三姉妹 他……………………… 153
愛すべき三姉妹
前誌と本誌
信と望
希望の宇宙
永生の解
キリストの再来
平民の書としての聖書
キリスト教の真意
事実の信仰
懐疑の所在
新生命と新事業
地上の天国
幸福のある所
神の発見法三則…………………………… 159
正当なる祈願……………………………… 161
銭魔を斥くるの辞………………………… 162
日米両国の組合教会……………………… 164
保羅の復活論(哥林多前書第十五章と其略註)…… 165
第一段 復活の事実(一六五)
第二段 復活の論理(一七八)
第三段 結論(一八五)
附言(一八八)
善行の報賞……………………………… 190
日本人の研究…………………………… 196
北越巡行日記…………………………… 200
キリストの道 他……………………… 202
キリストの道
神の愛
日露永久の平和
人道と福音
愛の波動
神を見る法
信の一字
聖徒の交際
最上の快楽
理想の発見
更に可なり
神の救済法
魔言の使用者
誰がためにか書かん
更らに善き方法 即ち戦争に代ふるに仲裁々判を以てすべし…… 208
雨中閑話…………………………………… 212
喜信捷報…………………………………… 218
キリストに到るの道 他………………… 222
キリストに到るの道
信仰と品性
幸福の秘訣
真個の基督信者
依頼と嫉妬
科学の嘲笑者
文明と基督教
基督教国
同盟の危険
国家間の戯嬉
支邦の破壊者
社会主義と基督教
信仰と智識と健康
深切の取戻し
平和主義の意義…………………………… 228
愛の賞讃(哥林多前書十三章と其考察)…… 230
トマス・デビツドソンの訓誡…………… 241
余の好む人物 附 友誼の神聖………… 244
緑蔭対話…………………………………… 252
平和彙報…………………………………… 256
人類の宗教分け…………………………… 258
我が唯一の武器 他……………………… 260
我が唯一の武器
光明の一閃
我の信頼
意志の刷新
善心の恩賜
平和克復の困難
主戦論者の論理
教育と平和
愛の順序
孤児の敵
禁酒と戦争
基督信者の本性
基督信者の善行
神人合体の事実
余の今日の祈願…………………………… 266
力と真理…………………………………… 268
親愛宥恕の途(羅馬書十二章十四節より廿一節まで)…… 270
基督教の来世観に関する明白なる事実… 277
無抵抗主義実行の実例…………………… 280
秋の到来…………………………………… 283
真正の宗教………………………………… 288
慾の上進…………………………………… 291
我書芬蘭土に入る………………………… 294
トルストイ伯の社会主義観……………… 298
イエスの友人……………………………… 300
釈放の霊 他……………………………… 302
釈放の霊
我意と神意との衝突
神の独立
信仰と労働
信仰の鑑識
神の歴史
活ける聖書
忍耐の業=伝道
外交の重責
国家と国家
二人の主
今日の為めにす…………………………… 307
以賽亜書私訳……………………………… 309
序言(三〇九)
第四十章(三一〇)
第四十一章(三一六)
第四十二章(三二二)
第四十三章(三二七)
第四十四章(三三三)
第四十五章(三四〇)
第四十六章(三四六)
第四十七章(三四九)
キリストは何の為に世に降りし乎……… 353
神をして代て戦はしむ【列王紀略下第十八、十九章。歴代志略下第三十二章。以賽亜書第三十六、三十七章。】…… 357
平和成る 特に平和的膨脹策に就て語る…… 360
秋冷雑話…………………………………… 368
平和の歓迎………………………………… 372
剣、剣、剣………………………………… 376
憤怒の無用………………………………… 378
教友会の設立……………………………… 380
秋酣なり 他……………………………… 382
秋酣なり
寂寥の快楽
孤立の種類
静かなる信仰
罪を犯さヾる途
正邪の岐
我が事業と正義
事業の選択
愛の長短
幸福なる家庭
恐るべき者
人類の二種
ヱホバの僕(理想の伝道師)…………… 388
余は如何にして信者を作りし乎………… 391
日露戦争より余が受けし利益…………… 399
時感三つ…………………………………… 408
晩秋雑感…………………………………… 410
新紀元の発刊を祝す……………………… 413
クリスマスの教訓 他…………………… 415
クリスマスの教訓
自己に勝つの法
聖霊を熄すこと勿れ
歳末の希望
希望の理由
漸々の進歩
戦争の善悪
沈黙と絶叫
クリスチヤンとは誰ぞ
クリスチヤンの無能
行ひと信仰
クリスマスの新決心……………………… 420
不法の貯蓄………………………………… 422
今年のクリスマス クリスマスの意味、平和の中心点…… 424
信仰双六…………………………………… 430
此世の宝…………………………………… 445
雑記………………………………………… 447
別篇
〔付言〕…………………………………… 449
〔社告・通知〕…………………………… 453
〔参考〕…………………………………… 457
人の智慧と神の智慧…………………… 457
角筈聴講録……………………………… 461
角筈談片………………………………… 474
 
(3)     〔新年の誓ひ 他〕
                     明治38年1月20日
                     『聖書之研究』60号「所感」
                     署名なし
 
    新年の誓ひ
 
 我れヱホバを大に喜び、我が霊魂は我が神を楽まん、そは彼れ我に拯救の衣を着せ義の外服《うはぎ》を纏はせ、新郎《にひむこ》が冠を戴き新婦《はなよめ》が玉と金との飾を着くるが如くなし給へばなり(以賽亜書六十一章十節)、我は今年《このとし》絶えず感謝の供物《さゝげもの》を我がヱホバの神に献げん。
 
    声と人
 
 悲哀の声を発せん乎、悲哀の人と成るべし、歓喜の声を揚げん乎、歓喜の人となるべし、人は大方は其発する声の如し、我等は勉めて歓喜の声を発して歓喜の人と成るべきなり。
 
    基督信者の生涯
 
 基督信者の生涯は計画の生涯にあらず、待命の生涯なり、彼に事業の計画あるなし、彼はたゞ神の命に従ふの(4)み、然れども神命一たび彼に降るや、之と共に之を行ふの力降り、彼は勇者となり、智者となりて、難なく大事を遂行す、常に無能なる彼は神命に接して偉人と成る、基督信者の異能怪力の秘訣は彼ならずして之れを知る人なし。
 
    基督信者の不落
 
 世の愚者等は世の手段を以てして基督信者を殪し得べしとなす、彼等は神の事を知らず、故に基督信者の何たる乎を知らざるなり、彼にして若し普通の人ならん乎、彼の名誉を傷け、彼の生命を奪ひて彼と彼の事業とを毀つを得べし、然れども己を薦めずして神を説き、既に己に死してキリスト彼に在て生きる彼は世の手段を以てして殪し得べき者に非ず、イエス言ひ給ひけるは爾曹この殿を毀ち見よ我れ三日にして之を建てんと(約翰伝二章十九節)、基督信者を毀ち見よ、三年ならずして彼は栄光を纏ひて再び地の上に立たむ。
 
    我儕の充実
 
 或者は車を恃み、或者は馬を恃む、或者は学問を恃み、或者は多数を恃む、然れども我は我がヱホバの神を恃まん(詩篇二十篇七節)、我れ神と偕にありて我れ一人は全世界よりも大なり、我は殊更らに孤立を愛せず、然れども単独を懼れて強ひて同志を天下に求めず、我は我が神に於て我が要する万物《すべてのもの》を有す。
 
    寂静の歓喜
 
(5) 雲晴れて喜び、雲閉ぢて悲む、是れ此地の住者の常態なり、天の星は晴雨を知らず、随て哀楽の変動を感ぜず、歓呼して又悲鳴を発し、激昂して又銷沈するは斯世の人なり、我等天に属ける者は神の清明に浴するが故に、高く惰界の上に座して、寂静の歓專に在るを感謝す。
 
    磐に頼らん
 
 情の海あり、道理の陸あり、而して海は常に動揺して陸は常に静かなり、人は海なり、神は陸なり、然り、磐なり、我等若し人と共に動かざらんと欲せば我よりも高き磐に頼らざるべからず(詩篇六十一の二)。
 
    地的ならざる基督教
 
 世に基督教的政治なるものあるなし、そは基督教に政治なるものなければなり、世に基督教的社会なるものあるなし、そは霊的団結たる教会の外に基督教は社会なるものを認めざればなり、基督信者は世を照らすなり、然れども世と混じて之を革めんとは為さず、神の子等人の女子と婚を結びし時に人類の堕落は始まれり(創世記六章二節)、余輩は天と地とを混同する近世流の基督教を排斥す。
 
    微なる非戦論
 
 非戦の声は微なり、然れども寡婦が其杖として頼む一人の男子を召集されし時に彼女の心底に微なる非戦の声揚る、今や戦争は天下の輿論なり、而して世の文士と論客とは筆を揃へて戦争を謳歌す、此時に方て我等キリス(6)トの福音を宣伝ふる者は天下幾多の寡婦に代つて微なりと雖も非戦の声を揚げざらんや。
 
    寡婦の声
 
 戦争は国家の利益ならん、然れども寡婦も亦国家の一部分なり、寡婦の声は勿論天下を動かすに足らず、然れども彼等も亦其憂愁を訴ふるの権利を有す、彼等の声は勿論国家の聴く所とならず、然れども若し彼等にして彼等刻下の真情を語るの自由を与へられんには、彼等は声を放つて言はん「戦争は我等に取ては非常の苦痛なり」と。
 
    慧《かしこ》き政治家
 
 寡婦の声は地に於ては聴かれず、然れども天に於ては神を動かすの力を有す、聖き住居にまします神は孤児の父|寡婦《やもめ》の審士《さばきびと》なり(詩篇六十八の五)、而して天は地を統るものなれば、天に達する寡婦の声は終に地に行はるゝに至る、世の論士の現に耳を傾けずして寡婦の声に聴いて政を執る政治家は福なるかな。
 
    独立教会の建設
 
 監督に由て建てられし教会あり、宣教師に由て立てられし教会あり、然れども我儕は神の聖書を学んで神に由て我儕の教会を建てられんと欲す、聖書は独逸にルーテル教会を生めり、英国にメソヂスト教会を生めり、同じ能力ある聖書は亦日本に純なる日本教会を生まざらんや、我儕は人の手を藉りずして強固なる独立教会を建て得(7)るなり。
 
    彼我の優劣
 
 我儕の軍人は我儕の武力に於て欧米人に劣る所なきを証明せり、我儕の宗教家も亦我儕の信念に於て欧米人に何の劣る所なきを確信す、彼等の知る所は我儕も知る、然り彼等の知らざる所は我儕に示されたり、我儕は我儕の基督教に於て欧米の宗教家に依頼するの要なし。
 
    未だ隷属の民たり
 
 武を以て勝つも若し霊を以て勝つにあらざれば我儕は未だ隷属の民たり 若し我儕の信仰にして独立せずんば我儕の独立は未だ虚偽の独立なり、誰か欧米人を戴いて我が海陸軍の将校たらしむる者あらんや、然れども我儕は我儕の霊魂を彼等欧米人の指導の下に置くにあらずや、耻ぢよ、日本国多数の基督信徒よ、汝等は未だ自立の民にあらざるなり。
 
    金力を要せざる事業
 
 世に金力を要せざる一大事業あり、是を基督教の伝道事業となす、手に一巻の聖書を携へ、心に一片の信仰を懐けば、天よりの能力は我儕に降り来りて我儕は此地に天国を持来たすを得るなり、言ふを休めよ、外国伝道会社に依るにあらざれば伝道成らずと、伝道は商業にあらず、工業にあらず、伝道は霊を以て霊を養ふことなり、(8)我儕キリストに在て我儕の同胞を救ふに方て外国人の資金を要せず。
 
    獣力崇拝の民
 
 我儕を侮蔑せし者は露西亜人に限らず、欧米人皆な悉く然り、彼等の軍人然り、政治家然り、美術家然り、宗教家然り、宣教師然り、然るに彼等今や我儕の武力に於て彼等に劣る所なきを見るや、我儕を凡ての才能に於て賞讃して止まず、憫むべし、彼等欧米人は獣力崇拝の民たるを失はず、我儕、霊に於て強からんと欲する者、豈、彼等を我儕の信仰の師父として仰がんや。
 
 
(9)     新年の感
                     明治38年1月20日
                     『聖書之研究』60号「所感」
                     署名 角筈生
 
 私は今年、取て満四十四歳であります。爾うして神の御恵みに由りまして、齢を重ねると同時に種々の新らしき智識を得ます、今茲に今年の始めに於きまして、私が特に感じましたことの二三を述べませう。
 一、私は益々神の存在の確実なることを感じます、私は基督教を信じて以来茲に二十有七年になりますが、然かし、今日までは神の存在が何やら朦朧として居りまして、理論上では充分に之を認めましたが、然かし実際の生涯に於て此信仰を基礎として万事を処理することは出来ませんでした、然るに幸ひにして近頃に至りまして、神の存在を私の実験に照らして信ずることが出来るやうになり、随て処世の恐怖なるものも追々と其跡を絶つに至りました、神の存在は凡ての宗教(仏教を除き)の信仰の初歩でありまするが、然かし之を確実に信ずるのは一生涯の事業であります、我儕に父を示し給へ、然らば足れりと使徒ピリポは言ひましたが、実に其通りでありまして、若し天に父の神の在して我儕を守り導き給ふことさへ確実に判分りますれば、それで人生の凡ての願望は叶ふのであります。
 二、次に私は益々神の裁判の確かなるを感じます、天道是耶非耶との歎声は私は今は殆んど発しなくなりました、天道は誠に是であります、神は罰すべき者をば必ず赦すことを為し給ひません(出埃及記三十四章七節)、(10)神は何処までも罪人を追窮《おひつ》め給ひまして其罪を糺し給ひます、私は神が私の罪を斯く糺し給ふのを実験しました、私は亦私に向つて罪を犯した人の罪を神が斯く糺し給ふのを目撃しました、又大にしては国民又は人類の罪をも斯く糺し給ふのを実見します、神は誠に恐るべき者であります、彼を欺くことは決して出来ません、神は己を盲人のやうに見せかけ給ひまして、実は太陽にr《ひと》しき眼を開いて我儕の行為と心思とを看《まも》り給ひます、虚言は何うしても立ちません、偽善は何うしても行はれません、世に愚かなる者とて策略を講ずる者の如きはありません、義者を悪き道に惑す者は自から自己の穿りし※[こざと+非]《あな》に陥らん、然れど質直《すなほ》なる者は福祉をつぐべし(箴言二十八章十節)、誠に此通りであります、此世界は是れ智者の欲ふ通りになる世界であると思ふ程、愚かなることはないと信じます。
 三、私は又信仰の生涯の最も安全なる生涯であることを感じます、私は昨年までは未だ全く此生涯を試みませんでした、私は心には信仰的生涯の美を認めましたが、然かし私の全身全家を挙げて之を神の御手に任かし奉るの勇気を有ちませんでした、私は何やら信仰の生涯に就て不安を懐きました、硬貨の我が手に在る乎、或ひは給金の我に約束せらるゝに非らざれば、進んで大胆に神の福音を唱ふるの勇気を有ちませんでした、故に昨年までの私の独立伝道なるものは実は半独立の伝道でありました、私は外国伝道会社には頼りませんでしたけれども、矢張り或る人に頼て、私の伝道を継けました、然るに昨年に至りまして、或る事情のために、全く世と関係を絶つに至りまして、私は純然たる独立伝道師となりました、私は私と私の家族とを全く神に任かし奉りまして、大胆に聖書の研究を継けました、然るに事実は全く予想の外でありました、世と絶ちてより神は私により近くなり給ひました、彼は私の信仰に準じて私に多くの物を賜ひました、私は何の欠乏をも感じませんのみならず、此世(11)に生れ来て以来、始めて余裕なるものを感じました、神に任かし奉るまでは神は私共の安全に就て責任を負ひ給ひません、然かし一旦彼に任かし奉れば彼は其約束を守り給ふに於て非常に忠実であり給ひます、彼は日に日に、月に月に、奇跡を以て私共を養ひ給ひます、ケリテ川の岸に於ける予言者エリヤの実験は遠き往昔のことではありません(列王紀略上十七章を見られよ)、是れは今日も尚ほ神に信頼する総ての人の実験であります、奇跡は決して昔し在て今ない事ではありません、奇跡は人の信仰に対する神の報賞であります、二十世紀の今日、私共は神に信頼して確かに奇跡を私共の身に於て実験することが出来ます。
 此他まだ私が新年に入つて感じた事は沢山あります、然かし以上の三つは私が殊に強く感じる所であります、信仰の進歩とは其拡がることではありません、其深くなることであります、私共は歳が邁むに随ひ、私共の幼時の信仰を益々深く感ずるのであります。
 
(12)     基督教とは何ぞや
        十二月十八日常陸土浦友会伝道所に於ける講演の草稿
                     明治38年1月20日
                     『聖書之研究』60号「講演」
                     署名 内村鑑三
 
 基督教とは何ぞや、是れ甚だ旧い問題であるが、然かし度々繰返すの必要ある問題である。
 基督教とは何ぞや、先づ其何んで無い乎に就て語らう。
 一、「基督教は儀式ではない、基督教は洗礼でもなければ、聖晩餐式でもない、基督教に坊主もなければ神主もない、其法王とか監督とか云ふ者は道を頒つ者であツて、式を主る者ではない、我儕は彼等を尊敬することがある、然かし彼等に済はれんとは為ない、若し宗教は儀式であるとならば、基督教は宗教ではない、儀式と縁の遠い宗教とて基督教の如きはない、基督教が出て、世に始めて儀式の無い宗教が出たのである。
 二、儀式でない基督教は勿論教会でない、基督教は教会として顕はれることがある、然かしながら基督教は教会ではない、基督教の実躰は教会以上である、恰かも霊魂は肉躰以上であるやうなものである、肉躰は死んでも霊魂は死なないやうに、教会は壊れても基督教は崩れない、基督教は教会なくして存在するものである、世の所謂基督教会なるものを見て、基督教を見たりと思ふは、人の面を見て、彼の心を見たりと思ふと同然である、基督教は監督や、牧師や、長老などの左右することの出来るものではない、基督教は天の事であつて、地の事で(13)はない、是れは政治家の技倆を以て、建てたり、壊したりすることの出来るものではない。基督教と基督教会との別を判然として置くことは基督教の何たる乎を解する上に於て非常に大切である。
 三、「基督教は理屈ではない、是れは哲学を研究して解かる事ではない、是れは書斎に籠つて万巻の書を繙かざれば探れないやうなものではない、基督教は教会でないやうに、亦教義でもない、監督、牧師、宣教師等が必ずしも基督信者ではないやうに、所謂る神学者なる者も亦必ずしも基督信者であるとは限らない、基督教の人生観と宇宙観とを悉く究めても其何たる乎は解らない、基督教は政治家の触ることの出来ない者であるやうに、亦哲学者の究むることの出来る者ではない、世の所謂る宗教道楽なる者は決して基督教の何たる乎を知ることは出来ない、基督教は時間空間の哲理を研究するの心を以てしては決して解かる者ではない。
 四、基督教は亦道徳ではない、基督教は道徳を生ずる者ではあるが、然かし道徳を教ふるのが其目的ではない、君に忠、親に孝は基督教が特に教へんと欲する所ではない、道徳は一種の法律に過ぎない、是は法律と同じく外より内を制せんとするものである、然るに基督教は内より外に向て働く者であつて、道徳とは其活動の方向を全く異にする者である、道徳は機械である、良心の桎梏《かせ》である、爾うして基督教は何であるとも、束縛の中に働く者ではない、儒教のより大なる者として基督教を観る者の如きは斯教の清新を全然誤解する者である。
 然らば基督教は何んである乎。
 基督教は第一に事実である、事実である故に実験である、それ我儕が聞き、また目に見、懇切に観、我が手捫りし所のもの、即ち元始より在りし生命の道を爾曹に伝ふ(約翰第壱書一章一節)、是れが基督教であつて、其伝道である、基督教の聖書とは教義の論述ではなくして、在つた事の実録である、基督教の伝道とは議論を以てす(14)る説伏ではなくして、事実の証明である、基督教は巧なる奇談ではない、(彼得後書一章十六節)、妄りなる談と老いたる婦の怪しき談ではない(提摩太前書四章七節)、去りとて亦智識と偽はり称ふる弁論(仝六章二十節)でもない、基督教は大なる事実である、是れは奔りながらも之を読むことの出来る事実である(吟巴谷書二章二節)、然かも是れ世界の一局部に隠れたる事実ではない、是れは人類の歴史の上に最も明白に鐫つけられたる事実である、基督教は世界歴史の中心である、過去に於て在つた事で、現今、尚ほ在ることである、基督教は天然物と同じやうに之を観察し、又実験するにあらざれば解らない者である、事実は其説明に依て変はるものではない、爾うして基督教は哲学ではなくして事実であるから、是れは哲学者が壊たんと欲して壊つことの出来る者ではない、誰もヒマラヤ山を壊たんとする人はない、其やうに人類最大の実験たる基督教を壊たんとする哲学者も政治家もない筈である、基督教が過去六千年間、数限りない反対を排して、今日まで其生気を持続けたる理由は全く茲に在るのである。
 基督教は第二に能力である、是れは単に事実であるのみではない、能力ある事実である、是れは霊魂を活き復へらしめ、愚かなる者を智からしむる能力ある事実である(詩篇十九篇)、是れはユダヤ人を始めギリシャ人凡て信ずる者を救はんとの神の大なる能力である(羅馬書一章十六節)、神の国は言に在るに非ず、能に在り(哥林多前書四章二十節)、是れは大能を以て我が衷に働く者である(哥羅西書一 廿九節)、基督教は即ち消極的事実ではなくして、積極的事実である、破壊力ではなくして建設力である、殺す力ではなくして、活かす力である、基督教を若し科学の一つに算ふるならば、是れは力学《ダイナミツクス》の一科である、即ち岩の如き心を砕き、其中に生命の樹を植付けて、之を生長せしむる力を備へたる者である。
(15) 基督教は能力である、然かしながら水のやうな、風のやうな、蒸気のやうな、電気のやうな、死したる機械的の能力ではない、基督教は生命である、爾うして生命は能力の中で最も強い且つ最も貴いものである、是は動く者であるのみならず、意志を以て動く者である、是れは動かす者であるのみならず、愛を以て動かす者である、キリストは我儕の生命である(哥羅西書三章四節)、福音は生命の道である(約翰第壱書一章一節)、神は窮りなき所の此生命を我儕に与へんために其独子を世に送り給ふたのである、爾うして此生命は誠に人の光である、此生命が我儕の心に降り来つて、万物は我儕に取て新らしくなるのである、基督教は世を救ふと称して、単に潔い道徳を世に供するものではない、亦人を済ふと称して、単に彼に善き感動を与ふるものではない、基督教が人を救ふといふのは、医者が病人を救ふやうに、否な、其れよりも優かに確実なる意味に於て、実際的に彼を救ふのである、即ち彼に新智識を供するに止まらず、彼に新境遇を供するに止まらず、彼の心の衷に新生命を送り、之に新活力を加へ、恰かも火に油を注ぐやうに、軍隊に増援軍を送るやうに、其生活力を増大して、彼を救ふのである、爾うして人を救ふの方法にして是よりも確かなる方法はない、即ち凡ての破壊力に打勝つ丈けの生活力を彼に供するより外に確かなる方法はない、爾うして基督教は此最も確かなる方法を以て、此最も学理に適ひたる方法を以て、人と社会とを救ふものである、爾うして此絶大なる能力はキリストを以て世に供せられた、我儕、彼に往て此能力を我儕の所有《もの》と為すことが出来る、我儕が信仰に由て救はるゝのは、我儕は信仰に由て此能力を我儕の能力とすることが出来るからである、死は生命の正反対である、生活力が欠乏して死が来るのである、故に基督教は此生活力を裕かに供給して、人を永久にまで救はんとするのである、基督教の救済は生物学の学則に能く合ふて居る、若し何かの方法を以て生活力《ヴアイタリチー》を充分に動物に注入することが出来るならば、其動物を永久に活か(16)して置くことが出来る、爾うして基督教はキリストなる神の生命を以て不朽の生命を人に供《あた》へんと計る者である、基督教、之を一言に約めて言へば是れ神の生命である。
 基督教は神の生命であるから、基督教の伝道は此生命の分配でなくてはならない、伝道とは信者を作ることでもなければ、亦教会を建つることでもない、将たまた、教勢拡張、教権扶植でないことは言ふまでもない、基督教会とは老人子供の預所ではない、信仰とは世の失望家を宥むるための麻睡剤ではない、伝道師とは世の閑人《ひまびと》の番人ではない、若し伝道師に善く似た者がありとすれば、其れは医者である、然かし医者は疾病を癒すに止まるなれども、伝道師は健者を更らに健康にする者である、永久不滅の生命を人に供するの職、是れが伝道師の職である、誰か之に堪え得んや、(哥林多後書二章十六節)、然かしながら之より以下の者は伝道師ではない、之より以下の者は霊魂の藪医者である、伝道師の資格を備へない者である、少しなりとも神の生命を人に注ぐの術と力とを備へざる者は直に伝道の職を廃すべきである。
 
(17)     道徳以上の宗教
        (明治三十七年十二月四日埼玉県杉戸清池教会に於ける説教の草稿)
                     明治38年1月20日
                     『聖書之研究』60号「講演」
                     署名 内村鑑三
 
       加拉太書第三章
 宗教に道徳以下のものと、道徳同様のものと、道徳以上のものとがあります、世間普通の宗教は道徳以下のものであります、是は道徳の代をなす宗教でありまして、極く下等の宗教であります、人が多く之に帰依しまするのは、之に厳格なる道徳の要求がないからであります、或ひは御祈祷であるとか、或ひは御呪であるとか云ひて、或る秘術に依て、道徳なしに天の恩恵を身に招ぶことが出来ると信ずるからであります、爾うして宗教なるものが、通常識者の間に賤められまするのは斯かる無道徳のものであると見做さるゝからであります、然かし言ふまでもなく、道徳のない宗教は宗教ではありません、寺院と魔窟との接近を許すやうな宗教は宗教ではありません、巡礼、法術、断食等は決して道徳の代用を為しません、道徳のない宗教は小供の玩弄物《おもちや》のやうに無害のものであるかも知れません、然しながら世を救ひ人を向上せしむるものでないことは何よりも瞭かであります。
 人が信仰に道徳(行ひ)を加ふるに至て彼の宗教は一段の進歩をなすのであります、宗儀に慈善を加へ、法会に善業を顕はして彼の宗教は稍や宗教らしくなるのであります、然しながら茲に又危険があります、今の時のやう(18)に、道徳が非常に要求さるゝ時に方ては、宗教は道徳と同視されます、人が世に道徳程貴いものはないと唱へまする時には、宗教是れ道徳なりと唱ふる者が起ります、爾うして世が我々より道徳を要求すること余りに切なるより、又、我々自身も亦完全無欠の聖人となりて世に立たんと欲するより、我々は何よりも先づ聖浄無垢の道徳に達せんと致しまする、茲に於てか我々はたゞ単《ひたす》らに清き道徳を求めんと致しまする、我等は祈祷の無用を唱へまする、教義の探究の如きは之を不問に附しまする、徳高き者是れ宗教家也との観念より、凡ての宗教の区別を撤し去りまして、孔孟釈基何れも択ぶ所なしなど唱ふるに至ります、爾うして宗教を道徳と同視するの結果は茲に止りません、道徳を追求するの余りに切なるより、人は己に顧みて自から安んずる能はず、常に自己に就て不快の念を懐き、潔からんと欲して潔からず、義しからんと欲して義しからず、常に憂愁不満の中に日月を送るに至ります、爾うして己に就て斯くも不満の念を懐くが故に他人に対しては寛容柔和なる乎と言ふに、決して爾うではありません、自己を責むるに厳なる人は他人を責むるに更らに一層酷でありまして、斯かる人の鋭き批評眼は他人の欠点とあれば、塵埃《ちり》ほどのものと雖も之を仮借しません、世に不快なることゝて「道徳家」の中に在るが如きはありません、労働者は労働の中に自他の欠点を忘れます、学者は学究の間に徳不徳の差別を問ひません、然れども世の「道徳家」に在ては批評譴責は其日常の職業であります、彼等は自己を責め、他人を責むる外に為すべきの業を有ちません、道徳を追求する彼等は道徳の餓鬼となりまして、自他の別なく、何人にも咬付く者であります。
 故に信仰の冷却は常に道徳の追求より来ります、宗教が道徳と同視さるゝ時に、教会より熱心は消え失せます、爾うして斯かる教会は裁判所の一種と化しまして、其会員は各自、小なる裁判官となり、其中に平和も一致も愛(19)情もなくなります、讃美の声は絶え、友愛の情は失せ、規則と法律とのみ残つて、冷たき、狭困しき所となります、厳格なるカルビン主義を奉ずる教会にして此悲むべき状態に落入つた例は沢山あります。
 宗教は道徳を離れてはなりません、然しながら道徳以上でなくてはなりません、道徳を生ずる者であつて、道徳の上に築き上げた者であつてはなりません、爾うして私の見る所を以てしますれば基督教は斯かる宗教であると思ひます、基督教は儒教又は猶太数とは違ひ、特に人倫を説き、律法を強ひません、たゞイエスキリストに在て人に神の霊を供しまして、道徳を守り易きものとなします、基督教は斯く為せ斯く為すなとは教へません、たゞ主イエスキリストを信ぜよ然らば爾及び爾の家族も救はるべしと教へます(行伝十六章卅一節)、キリストを称して神の義と云ひます(羅馬書一章十七節)、即ち神の正義はキリストに在て我等のために貯蔵へられてあるとのことであります、爾うして我等信者は彼に至り、彼の霊に充たされて此義を己れの有となすべしとの事であります、基督信者は正義を己れに於て求めません、彼は之を彼の教主なるイエスキリストに於て求めます、彼は必しも義人とならんと欲してキリストに到りません、然しながらキリストに受けられ、其霊を供《あた》へられて彼は義人たらざらんと欲するも得ません、彼は自から求めざる義人であります、神と偕なるを得て、それと同時に成るを得し義人であります、基督信者が牝鹿が渓水を慕ふが如くに慕ひ喘ぐものは正義道徳ではなくして神であります、正義は神の一面でしかありません、爾うして我等は神に近づき、其霊を賜はりまして、神に属する総ての善物と共に正義をも我等の有となすのであります、神より来る正義のみが最も円満なる正義であります、是は美なる能力ある温かき正義であります、此正義を心に得て、我等は邪慾の禁圧に日もまた足らざる隠遁者とはなりません、亦、兄弟の眼に塵を発見して、梁《うつばり》を得しとて欣ぶ批評家ともなりません、我等は自由なる天然的の義人とな(20)ります、信仰に由て義とせらるゝとは斯かる義人となるとのことであると思ひます。
 
(21)     『基督教問答』
                       明治38年2月17日
                       単行本
                       署名 内村鑑三 述
 
〔画像略〕初版表紙187×130mm
(22)〔中屏〕 内村宜之君の七十四歳の誕辰を祝し、謹んで此著を献ず
       明治三十八年一月二十三日     長男 内村鑑三
 
〔中屏裏〕 かぎりなき いのちおもへば 世中の
          稀なるとしも ゆめにぞありける
                        よし之
 
   序言
 
問、基督教を研究するの必要は何処にあります乎。
答、何処にでもあります、先づ第一に、人は若しパンのみを以て生きる者でありませんならば、彼は亦霊の糧なる神の道を学ぶの必要があります、基督教は人類に供せられし天よりのマナ(神饌)であります、此マナを食はずして人に霊的生命なるものはありません。基督教は亦世界の最大宗教であります、故に斯教を知らずして世界の事は判明りません、ラフハエルの絵画も、アンゼロの彫刻も、ダンテの詩集も、コロムウヱルの政治も、斯教を知らずしては判明りません、今の世に在て基督教を知らないことは大なる無学であります、吾人の智識増大のためにも基督教の研究は(23)非常に必要であります。私は勿論、斯大宗教の極く微少《わづか》を知る者であります、然しながら此微少を貴下にお話し申して、貴下を真の大光に導くことが出来ます、私は貴下が私の愚を利用せられて救ひを得んための智慧に達せられんことを望みます、サヨナラ。
  明治三十八年二月四日
             東京市外角筈村に於て 内村鑑三
 
     目次並に梗概
 第一席 来世は有耶無耶
      其一、基督信徒の来世観
      其二、来世存在に関する聖書の示顕
      其三、人類の本能に顕はれたる未来観念
      其四、来世存在に関する偉人の証言
      其五、生涯の実験より生ずる来世の希望
 第二席 キリストの神性
      其一、問題の性質
      其二、聖書の証明
      其三、世界の輿論
      其四、心霊の実験
      其五、推理の無効
 第三席 聖書は果して神の言なる乎
      其一、聖書の真価
      其二、聖書と科学
   .  其三、聖書と歴史
      其四、聖書と道徳
      其五、砂礫の福音
      其六、インスピレーシヨン
(24) 第四席 三位一体の教義巻
      其一、余は断じてユニテリアンに非ず
      其二、聖書に顕はれたる三位一体
      其三、三位一体の哲理的説明
      其四、実際的信仰としての三位一体
 第五席 教会問題
      無教会信者の弁護なり、聖書に頼り、論理に訴へ、実験に照らして基督の教会の何なる乎を論じ、終に我国に於て将来起るべき教会の性質に論究す、問ふ者は教会信者の一人なりと仮定す、
 第六席 予定の教義
      其一、予定の信仰
      其二、聖書と予定
      其三、予定の事実
      其四、予定の論理
      其五、予定と伝道
 第七席 人類の堕落
      宗教並に哲学上の大問題なり、而かも聖書は大胆に直白に此問題に断案を下す、人類の堕落は其不完全にあらず、亦霊の理想に映ずる肉の粗雑に非ず、亦進化の途にある道徳の程度に非ず、人情の存するあればとて人は罪人たるを失はず、嬰児亦罪なき者にあらず、然らば人類は如何にして堕落せし乎、其堕落の原因如何、之を論理的に説明するは難し、然れども基督教は其実際的解釈を供す。
 第八席 奇跡の信仰
      奇跡なくして宗教あるなし、奇跡の否定は宗教の否定に終る、然らば何をか奇跡と云ふ、其外形に於ては「奇しぎなる事」なり、然れども其内容は霊の活動なり、霊其物が奇跡の最も大なるものなり、故に奇跡は無私の人のみ能く之を行ふを得べし、基督の奇跡は総て愛の発顕なりし、神を信じて天然は総て奇跡的に解釈せらるゝに至る、而かも科学は是れが為めに其研究の精神を失はず、否な、天然を奇跡的に解釈してのみ科学に真正の興味生ず、奇跡の信仰は無益の信仰に非ず、此信仰ありて世に懼るべきもの全く無きに至る。
 
(25)     〔雑誌記者の覚悟 他〕
                     明治38年2月20日
                     『聖書之研究』61号「所感」
                     署名なし
 
    雑誌記者の覚悟
 
 今、我れ人の親みを得んことを要むるや、神の親みを得んことを要むるや、或ひは人の心を得んことを求ふや、若し我れ人の心を得んことを求はゞキリストの僕に非ざる也(加拉太書一章十節)、発兌部数の多きを競ふ今の時に方て余輩雑誌記者にも亦使徒保羅の此覚悟なかるべからず。
 
    読者に問ふ
 
 読むことの如何に易くして、書くことの如何に難きよ、読むことは食ふことにして費すことなり、書くことは作ることにして産することなり、百巻の書を読んで一巻を著はし得ず、一日を消費して一行を草し得ざることあり、借問す、誌を読むの士、句々皆な辛苦の情を知るや否や。
 
(26)    教師に非ず
 
 我れ若し我に就て語らんと欲する乎、我に悪の外、何の語る所あるなし、善なる者は我れ即ち我肉に居らざるを知る(羅馬書七章十八節)、我は天より降り給ひし神の子イエスに就て語らんと欲す、而して彼に就て語て我は自から語て自から教へられんと欲す、我は教師にあらず、福音士なり、喜ばしき音《おとづれ》を伝ふる者なり、我は幾回か此事を宣言するの必要あるを感ず。
 
    智者安くにある
 
 智者安くにある、学者安くにある、聖者安くにある、君子安くにある、我国にあるなし、彼国にあるなし、然り、全世界にあるなし、智者は天に在り、神の側にあり、彼は即ち神なり、イエスキリスト其人なり、彼は智慧なり、聡明なり、彼に到らずして光明あるなし、我儕何すれぞ眼を四方に放つて智者を求むるを須ゐん、彼は我儕の上にあり、然り、我儕の衷にあり、我儕は彼に依りて我と世界とを照さん。
 
    仰望の秘術
 
 世の教師は曰ふ「先づ己を浄めて然る後に世を浄めよ」と、然れども神は言ひ給ふ、爾曹我を仰ぎ望め然らば救はれんと(以賽亜書四十五章廿二節)、我れ己を浄めんと欲して終生此業に従事するも能はず、然れども神の羔なるイエスキリストを仰ぎ望んで我は我が霊魂の癩病の即座に潔めらるゝを覚ゆ、逝けよ、世の教師よ、汝は我(27)に自省を説いて、我に半年の苦悶を供せり、我は今より神に聴いて仰望の秘術に従て歩まん。
 
    霊肉二様の世界
 
 肉の世界あり、霊の世界あり、肉の世界は二億平方哩の此地球なり、十五億余の其人口なり、其金銀なり、宝石なり、政治なり、哲学なり、宗教なり、而して之に対して霊の世界は一位《ひとり》の眇たるイエスキリストに在て存す、肉の世界は大なり、然れども其中に霊を潤すに足る一滴の水あるなし、霊の世界は小なり、然れども其中に万人を飽かしめて尚ほ余りあるの食あり、イエス曰ひけるは我は生命のパンなり、我に就る者は餓えず、我を信ずる者は恒に渇くことなしと(約翰伝六章升五節)、我儕若し霊に於て生きんと欲せば此粗大なる肉の世界より離れて、彼の精細なる霊の世界に移されざるべからず。
 
    基督教の解釈
 
 キリストに於て在らん乎、我は悉く基督教を解するを得るなり、キリストを離れん乎、我は少しも基督教を解する能はず、キリストは原因にして、基督教は其結果なり、キリストは発光体にして、基督教は其陰影なり、我儕直に身を大光の中に投じて、其陰影を悉く解釈するを得るなり。
 
    キリストと聖書(其一)
 
 キリストに於て在らん乎、我は悉く聖書を解するを得べし、キリストを離れん乎、我は少しも聖書を解する能(28)はず、聖書に由りてキリストを解するにあらず、キリストに由りて聖書を解するなり、それ人の情《こゝろ》は其中にある霊の外に誰か之を知らんや 此の如く神の情は神の霊の外に知る者なし(哥前二の十一)、神の情(心)を記したる聖書は神の霊を以てするにあらざれば之を知る能はず、我儕は聖書に到らんよりは先づアバ父よと叫びて、其子イエスキリストに行くべきなり、然らば聖書は「我が書」となりて、我は己を解するが如くに明瞭に之を解するを得ん。
 
    キリストと聖書(其二)
 
 キリストありて聖書あるなり、聖書ありてキリストあるに非ず、キリストにして実在し給はざらん乎、聖書の繙読百万回に達するも我儕は彼を現実する能はざるべし、キリストは想像物に非ず、実在者なり、キリストは聖書を離れても尚ほ存在し給ふ者なり、我儕は聖書を貴むの余り、活ける救主を旧き文字の中に発見せんと計るべからざるなり。
 
    改心と変質
 
 キリストに傚はんと欲して傚ふ能はず、そは肉は霊に傚ふこと能はざればなり、恰かも石は木に傚ふこと能はざるが如し、我儕はキリストに化せられざるべからず、即ち我儕の実質を彼のそれの如くに変ぜられざるべからず、暗比的に更生するにあらずして、実験的に改造せられざるべからず、基督信者とは単に心にキリストを信ずる者にあらず、彼は新たに造られたる者にしてキリストの質を帯ぶる者なり、救済は改心にあらず、変質なり、(29)永生に耐ゆるの霊と体とを倶へらるゝことなり。
 
    新生物学
 
 基督教は道義学に非ず、生物学なり、道徳を伝へて人を教へんとは為さずして、生命を供して彼を活かさんとする者なり、キリストは教師にあらず、生命なり、イエス曰ひけるは誠に実に爾曹に告げん、若し人の子の肉を食はず、其血を飲まざれば爾曹に生命なし(約翰伝六章五三節)、キリストは道義の薬を投じて人を※[病垂/全]さんとは為し給はず、神の生命を供して彼の疾病を駆追し給ふ、基督教は罪悪の血清療法なり、生命を以て死に打勝つ者なり、而かも斯くの如くに斯教を解する者尠し。
 
    思想の所在
 
 余は思想を得んと欲して数巻の書を渉猟せり、而して何の得る所なかりき、余は小なる善事を為せり、而して新思想は※[さんずい+翁]然として湧き来れり、依て知る、思想は思想にあらざることを、思想は行為なり、然り、愛なり、愛することなくして思想あるなし、吾人は思想を探らんと欲して書籍に至らんよりは寧ろ労働に就くべきなり。
 
    現世の価値
 
 手段としては偉大の価値あり、目的としては塵埃の価値だにあるなし、現世は最良の学校なり、最善の練修場なり、然れども永住の居家にあらず、静粛の休息所にあらず、現世に苦痛多きは吾人が之に安堵せざらんがため(30)なり、神は人類を愛するの余り、吾人に多くの患苦を送りて吾人をして此地に恋着し能はざらしめ給ふ、天の希望を以て補ふにあらざれば此地の生涯は吾人の耐え得る所の者に非ず。
 
    養老の快楽
 
 養老は義務なり、而かも亦大なる快楽なり、養老の快楽は育児の快楽の如し、即ち弱を援くるの快楽なり、而かも養老は育児に優りて遙かに神聖なり、そは是れ将さに神の台前に現はれんとする人に奉仕することなればなり、老人の身を敬ひて汝の神を畏るべし(利未記十九章卅二節)、養老は神を敬ふの一途なり、即ち日の老ひたる者(他以理七章九節)に仕ふることなり。
 
(31)     〔約百記註解第八章――第一七章〕
                    明治38年2月20日−39年10月10日
                    『聖書之研究』61180号「研究」
                    署名 内村鑑三
 
   第八章
 
ビルダデ語る 〇彼れ神の公義を弁ず 〇ヨプに隠れたる愆《とが》あるを諷して彼の悔改を促す 〇言を古人に藉りてヨプを責む 〇人生を蘆葦の繁生に譬ふ 〇悪人の繁栄を藤※[草がんむり/儡の旁]《とうるゐ》の延蔓に喩ふ 〇悔故に伴ふ回運を予言す。
  時にシユヒ人ビルダデ答へて曰く、
  2何時まで汝かゝる事を言ふや、
   何時まで汝の口の言語は大風のごとくなるや、
  3神あに審判《さばき》を曲げたまはんや、
   全能者あに公義を曲げたまはんや、
  4汝の子等は彼に罪を獲たるにや、
   彼は之をその愆の手に付《わた》したまへり、
  5然れども汝にしてもし神に求め、
(32)   全能者に願ひ求め、
  6清くかつ正しうせんには、
   彼れは必ず今汝を顧み、
   汝の義き家を栄えしめたまはん、
  7然らば汝の始は小なるとも、
   汝の終は甚だ大ならん。
  8請ふ汝過にし代の人に問へ、
   彼等の父祖の尋究《たづねきは》めしところの事を学べ、
  9(我等は昨日より有しのみにて何をも知ず、
   我等が世にある日は影のごとし)、
  10彼等なんぢを教へ汝を諭し、
   言をその心より出さゞらんや、
  11蘆あに泥なくして長びんや、
   葦あに水なくしてそだゝんや、
  12是はその青くして未だ熟せざる時にも、
   他の一切《すべて》の草よりも早く槁る、
(33)  13神を忘るゝ者の道は凡て背のごとく、
   悖る者の望は空しくなる、
  14その恃む所は絶れ、
   その倚る所は蜘蛛網《くものす》のごとし、
  15その家に倚かゝらんとすれば家立ず、
   之に取りすがらんとすれば保たざるなり、
  16彼日の前に青緑《みどり》を呈はし、
   その枝を園に蔓延《はびこ》らせ、
  17その根を石堆《いしづか》に盤《から》みて、
   石の屋《いへ》を眺むれども、
  18若その処より取のぞかれなば
   その処これを認めずして「我は汝を見たる事なし」と言ん、
  19視よその道の喜楽《たのしみ》是のごとし、
   而してまた他《ほか》の者地より生《はえ》いでん、
  20それ神は完全《まつたき》人を棄たまはず、
   また悪き者の手を執りたまはず、
  21遂に喜笑《わらひ》をもて汝の口に充し、
(34)   歓喜《よろこび》を汝の唇に置きたまはん、
  22汝を悪む者は羞耻《はぢ》を着せられ、
   悪しき者の住所は無くなるべし。
 
     辞解
 
 (2)「大風」 声大にして意味なき言を大風といふ 〇(4)「罪を獲たるにや」 諷刺の言なり、必ず獲しとは言はず、獲し故にやと言ふ、ビルダデは勿論、ヨブの子等はヱホバに罪を獲しが故に罰せられたりと信ぜり、然れどもヨブの前を憚つて斯くは明言せざりしなり、然れども父の心を刺すの言にして之れに過ぐるはなかるべし、無慈悲なるヨブの友等よ 〇「愆の手」 愆を罰する者の手、或ひは愆の結果に委ね給へりと解するを得べし 〇(5)「然れども汝にして若し云々」 汝の子等は其愆のために罰せられたり、然れども未だ死に至らざる汝にして若し汝の子等に傚ふことなく、今、直に悔改めんには云々 〇(7)「始は小なるとも……終は大ならん」 小に始まりて大に終るは神に恵まれし者の特性なり 〇(9)古老に問へよ、父祖に尋ねよ、新説を弄する勿れと、ヨブの友等は守旧党なり 〇(9)「昨日より有しのみ云々」 昨日生れしが如き者のみ、歳少くして何事をも知らざる者なり、我等の生命は映りて消ゆる影の如しと、然らば彼等ヨブの友人は何故に沈黙を守らざる乎 〇(10)「彼等、汝を教へん」 我等に智慧なし、然れども彼等古老は汝を教へん、然り、我等は彼等に代りて語るのみ、彼等の智慧を以て汝を説服せんと※[冒+力]むるのみ 〇(11)「蘆、豈泥なくして云々」 古老の伝へし諺なるが如し、ビルダデは曰へり、諺に曰く蘆豈泥なくして云々 〇蘆は泥なくして長びず、葦《よし》は水なくして育たず、人は善行な(35)くして栄えず云々、「泥」を濁流、即ち不徳と解すべからず、此場合に於ては「泥」は生命の水を含みたる土なり 〇(12)其丈け人馬を没するに足る蘆葦も一朝にして其根より水を絶たれん乎、其の未だ熟せざる時と雖も、他の草よりも早く槁る、「早く」は「急」の意なり、水を絶たれし後の水草の枯死の急速なるを云ふ 〇「神を忘るゝ者の道は凡て是の如し」 水を絶たれて蘆葦の急速に枯死するが如し、瞬間《またゝくま》に衰ふ、汝ヨブの零落に之に類するものあり、我れ大に汝の心事を疑ふと 〇(14)「其倚る所は蜘蛛網の如し」 倚りかゝれば直ちに破る 〇(15)其家は即ち蜘蛛の網(巣)なり、之れに倚りかゝらんとすれば立たず、家は人の最後の隠場なるに之さへも彼を支えず 〇(16)「彼れ日の前に青緑を呈はし」 不義の人を蘆葦に譬へたり、今、彼を蔓草に此べん 〇(17)「石の屋を眺むれども」 比喩は茲に事実に変ず、富者が石造の高廈を眺めて誇るの状なり、希伯来文学に此種の変転尠からず 〇(18)不義の人、終に其造りし家より逐はれて、家其物すら彼を忘るゝに至ると云ふ、忘没の極なり 〇(19)「其道」 悪人の道なり、彼の取る生涯の方針なり、「其道の喜楽」とは斯かる方針に由りて達せし喜楽なり 〇「他の者地より生え出でん」 蔓草枯れて後に新草又地より生え出づ、富者衰へて後に貧者は身を起して彼に代はる、世は新陳代謝なり、神を畏るゝ人のみ能く長久に栄ふるを得るなり 〇(21)故に悔改めよ、我友ヨブよ、汝にして若し今神に求め、全能者に願ひ求め、清く且つ正うせん乎(五節)、神は「遂に喜笑《わらひ》を以て汝の口に充たし云々」、即ち小に始つて大に終り、悲に始て歓に終らんとの意なり 〇(22)「汝を悪む者は羞耻を着せられ」 栄光は汝に臨み、恥辱は汝の敵に臨むべし、仇を報ゐんと欲せば神に還るに若かず、然らば禅は我等に代りて我等の面目を立て給はんと 〇「羞を着る」は羞耻を人に示さるゝことなり、心の中に之を感ずるのみならず、衆人の前に之を認めざるを得ざるに至るなり 〇「悪き者の住所は無くなるべし」 義人の家は起るべ(36)し、悪人の住所は絶たるべし、希伯来人の思想に従へば、義人の振興は常に悪人の衰滅と同時に行はる、ヨブの友人がヨブに善行を勧むるに方て常に此の思想に則れり、是れ必しも復讐の動機に出でゝにあらず、神の公義の顕明を望んでなり。
 
     意解
 
〇其子の罪を諷して父に悔改を勧むるは無慈悲なり、ヨブが彼の友人を呼んで「煩はしき慰人」(十六章二節)なりと言ひしは宜べなり、慰藉に秘術あり、之を解せざる者は之を行ふべからず、年少のビルダデは未だ此術を知らず、彼の友愛は誠実なりしならんも、彼は未だ彼の友を慰むるに足るの人にあらざりし、好意必しも慰諭の特権を作らず、ビルダデの如きは霊魂の「藪医者」なり、彼は未だ傷める心を癒すの術を究めざりし者なり。(3−7)
〇ビルダデと彼の同輩とは回顧者なりし、彼等は支那人に類して古老尊拝者なりし、彼等の説く処は古人の説を繰返すに過ぎず、革新は彼等の堪えざる所なりし、「請ふ汝過にし代の人に問へ」と、彼等は神は直ちに今人の心に語り給ふものなるを信ぜざりし、彼等はヨブが大胆に新説を提出するを怪めり、幸ひなるかな、彼等古人の盲従者等よ、彼等に独創的意見を懐くの危険あるなし、彼等は唯古書を調べ、諺を伝へ、以て「忠臣愛国者」たれば足るなり、然れども神の人は常に今の人なり、彼は新たに神よりの黙示を受けし人なり、故に彼は世の忌む所となる、彼は傲慢なりとして人に迎へらる、彼は世の解せざる言を語る、彼は古人を排斥して、活ける今日の神に従はんとす、而してヨブは斯かる人なりしなり、彼は心に直に神の霊を受けたり、故に彼は独創の人となれ(37)り、彼の言語に粗雑なる所はあらん、然れども彼は祖先の神学を繰返す者にあらず、彼の友人が彼を解せざりしは主として茲に存す、即ち彼等は「神学者」たるに対して彼は信者たりしが故なり、彼等の宗教は耳にて聞きしものなるに対して彼の宗教は心に感ぜし者たりしなり、両者の間に誤解ありしは宜べなり、そは死は到底生を解し得ざればなり。(8−10)
〇然れども回顧者の言にも聞くに値ひする者なきに非ず、ビルダデの言ふが如く、不義の人は実に蘆の如し、其水絶たるれば速かに枯る、之に引替へて義人はレバノンの香柏の如し、旱魃数月に渉るも其青緑を失はず、丈高き者必しも強者に非ず、肥満なるもの必しも勇者にあらず、義を以て養はれし人のみ能く万難に耐ゆるを得るなり、吾人は神は義人を苦めずとは言はず、然れども義人は羞耻を以て終らず、彼の死に就くや夏の太陽の西山に没するが如し、戦闘終へて後に静息の墓に下る、小なりと雖も吾人何人も硬質の樹木たるべきなり、汁液多き蘆葦の類たるべからず、他物に依るにあらざれば己れ独り立つ能はざる葛※[草がんむり/儡の旁]の類たるべからざるなり。(11−20)
〇始めは小なるも可なり、終りの大ならんことを欲す、始めは悲むも可なり、終りに喜ばんことを欲す、姶めに羞耻あるも可なり、終りに名誉あらんことを欲す、始めに家なきも可なり、終りに住所なきを厭ふ、而して神は己を愛する者を、始めに苦しめ給ふと雖も、終には「喜笑を以て彼の口を充たし、歓喜を彼の唇に置き給ふ」べし、羞耻に姶つて栄光に終り、十字架に始つて復活昇天に終る、義者の途は旭日の如し、愈々光輝を増して昼の正午に至る(震源四章十八節)、願くは我もその恩恵に与からんことを。(21、22)
 
(38)   第九章
 
ヨブ、ビルダデに答ふ 〇彼も亦神の公義を認む 〇然れども神の行為に圧制家のそれに類する者あるは如何 〇神は独断者なり、故に人の彼と争ふも益なし 〇善悪の無差別 〇自修の無益 〇仲保者の希望
 ヨブこたへて言けるは
  2我まことに其事の然るを知れり、
   人いかでか神の前に義しかるべけん、
  3よし人は神と弁争《あらそ》はんとするとも、
   千の一も答ふること能はざるべし、
  4神は心慧く力強くましますなり、
   誰か神に逆らひてその身安からんや、
  5彼山を移したまふに山知らず、
   彼|震怒《いかり》をもて之を翻倒《くつがへ》したまふ、
  6彼地を震ひてその所を離れしめたまへば
   その柱ゆるぐ、
  7日に命じたまへば日いでず、
   又|星辰《ほし》を封じたまふ、
(39)  8唯彼のみ独り天を張り、
   海の濤を履みたまふ、
  9また北斗|参宿《しんしゆく》昴宿、
   および南方の密室を造りたまふ、
  10大いなる事を行ひたまふこと測られず、
   奇しき業を為したまふこと数知れず、
  11視よ、彼わが前を過たまふ、然るに我これを見ず、
   彼すゝみゆき給ふ、然るに我之を暁《さと》らず、
  12彼奪ひ去り給ふ、誰か能く之を阻まん、
   誰か之に汝何を為すやと言ふことを得為ん、
  13神其震怒を息め給はず、
   ラハブを助る者|等《ども》之が下に屈む、
  14然れば我|争《いかで》か彼に回答を為すことを得ん、
   争でわれ言を選びて彼と論らふ事を得んや、
  15仮令われ義かるとも彼に回答をせじ、
   彼は我を審判く者なれば我彼に哀き求めん、
  16仮令我彼を呼びて彼われに答へたまふとも、
(40)   わが言を聴いれ給ひしとは我信ぜざるなり、
  17彼は大風をもて我を撃砕き、
   故なくして我に衆多《おほく》の傷を負せ、
  18我に息をつかしめず、
   苦き事をもて我身に充せ給ふ、
  19『強き者の力量《ちから》を言はんか、視よ此にあり、
   審判の事ならんか、誰か我を喚出すことを得為ん』と、
  20仮令われ義かるとも我口われを悪しと為ん、
   仮令われ完全かるとも尚われを罪ありとせん、
  21我は全し、然れども我はわが心を知ず、
   我生命を賤む、
  22皆|同一《ひとつ》なり、故に我は言ふ、
   神は完全者と悪者とを等しく滅したまふと、
  23災禍の俄然に人を殺す如き事あれば、
   彼は辜なき者の苦難を見て笑ひたまふ、
  24世は悪き者の手に交《わた》されてあり、
   彼またその裁判人の面《かほ》を蔽ひたまふ、
(41)   若し彼ならずば、是誰の行為なるをや。
 
  25わが日は駅使《はゆまづかい》よりも迅く、
   徒に過去りて福祉を見ず、
  26其走ること葦舟のごとく、
   物を攫まんとて飛翔る鷲のごとし、
  27たとひ我わが愁を忘れ、
   面色《かほいろ》を改めて笑ひをらんと思ふとも、
  28尚この諸の苦痛のために戦《ふるひ》慄くなり、
   我思ふに汝われを釈し放ちたまはざらん、
  29我は罪ありとせらるゝなれば、
   何ぞ徒然に労すべけんや、
  30われ雪をもて身を洗ひ、
   灰汁をもて手を潔むるとも、
  31汝われを汚はしき穴の中に陥いれたまはん、
   而して我衣も我を厭ふにいたらん。
  32神は我のごとく人にあらざれば、我かれに答ふべからず、
(42)   我等|二箇《ふたり》して共に審判に臨むべからず、
  33また我等二箇の上に手を置くべき
   我等の間には仲保あらず、
  34願くは彼その杖を我より取はなし、
   その震怒《いかり》をもて我を懼れしめたまはざれ、
  35然らば我|言語《ものいひ》て彼を畏れざらん、
   其は我みづから斯る者と思はざればなり。
 
     辞解
 
〇(2)「我誠に其事の然るを知れり」 汝の言ふが如き平凡の真理は我れ夙くより既に之を知れり、今之に就て汝の説法を聞くの要なし 〇「人いかでか云々」 神の正義なるは我も亦善く之を知る、然れども人……罪の人……彼れいかでか神の前に義しかるべけんや、是れ難問題なり、汝等「煩はしき慰人」輩は此問題を我に解釈し呉れんとは為さゞるなり 〇(3)「弁争云々」 訴訟上の弁論なり、縦し神を相手に取て公平の審判を仰がんとするも云々 〇(4)「心、慧く、力、強く」 智慧と之を実行するに足るの力量とを備へ給ふ、斯かる者と争ふて敗訴は当然なり、誰か斯かる愚を演ずる者あらんやと 〇(5)「山知らず」 山の知らざる間に、即ち思ひよらぬ間に、之を移し給ふ(詩篇三十五篇八節参考)、神は独断なり、山に謀らずして不意に之を移し給ふと 〇「震怒をもて云々」 雷霆を似ての云ひならん 〇(6)「地を震ひ云々」 地震をいふならん 〇「柱」 古代の宇宙観に由れば(43)地は大廈の如き者、之に柱あり、亦天井ありたり、而して山岳は地上に天を支ゆる柱なりと信ぜられたり 〇(7)約書亜書十章十二、十三節参照 〇(8)「天を張り」 天を天井と見て云ふなり、ヱホバは蒼穹を薄絹の如く布き之を幕屋の如く張り給ふ(以賽亜書四十章廿二節) 〇「海の濤を履み給ふ」 大風、洪波を揚げながら洋面を走るの状を云ふなるか 〇(9)「北斗、参宿、昴宿」希伯来語のアーシユ、ケセール、ケーマーの三辞を訳せし語なり、星宿の名なり、共に著名なる星群にして、観星者の何人も能く知る所の者なり、『聖書之研究』第六十号「聖書に於ける星」の欄を参考すべし 〇「南方の密室」 赤道以南に羅列する星群を云ふなり、北半球に在る人の眼に映ぜざるものなり、故に之を密室と云ふ (10)「大なる事……奇きなること」 量るべからざること、探ぐるべからざること、其大に於て無限なり、其智に於ても亦無限なり 〇(11)「視よ、彼れ我が前を過ぎ給ふ云々」 神の道や量るべからず、亦、探るべからず、雷霆を以て地を撃ち給ふ乎と思へば、亦静なる細き声を以て人と語り給ふ(列王妃略上十九章十二節参照)、彼の形状《かたち》は之を宇宙に於て見るを得べし、然れども霊なる彼は風の如くに、我が前を過ぎ給ふも、我れ之を見る能はず、神の大能や驚くべし、其微妙や亦駭くべし 〇(12)「彼奪ひ去り給ふ云々」 神は専制家なり、独断者なり、暴君なり、彼は彼が欲ふが儀儘為し給ふ、而して人は彼の行為に対して喙を容るゝ能はず 〇(13)「ラハブを助くる者」 意義明瞭ならず、以賽亜書五十一章九節に由て観るに、ラハブは埃及国を指すなるが如し、詩篇七十四篇十三節に由ればラハブは「竜《たつ》」又は「〓《わに》」の謂ひなり、而して「海を分ち、水の中なる竜の首を挫き」とあれば水(海)とラハブとは相離るべからざる者なるが如し、故に「ラハブを助くる者」とは高ぶりたる埃及の従者の意なる乎、或ひは猛獣〓と其類となる乎、或ひは海と其濤となる乎、今に到て其意を定め難し、惟、其全体の意義の強者と其仲間とにあるは敢て疑を容るべからず、註(44)解上の此種の困難は考古学に関はるものにして、実際的信仰に何の影響あるものにあらず 〇(14)「然れば我れ争で彼に回答を為すを得ん」 神、其震怒を息め給はずば最大の勢力すら其下に屈む(前節)、然れば弱き我は彼と争ふともいかで彼に回答を為すを得んやと、古代の法庭に在ては強者是れ権者なりき、ヨブは其事を思ふて、彼の到底、正義の法庭に立て神の対等者にあらざるを信ぜり 〇(15)「仮令我れ義しかるとも云々」 混乱せるヨブは法律の本義を忘れ、彼れ正義の側に立つと雖も弱きが故に神と争ふ能はずと云ふ、斯く云ひて彼は神を侮辱せり、そは神は威力を以て義者を強圧し給ふ者にあらざればなり 〇「彼は我を審判く者云々」 神は我と対等の者に非ず、故に我は彼と争ふ能はず、彼は我を審判く者なり、我は争ふ者に非ず、彼に審判かるゝ者なり、故に我は裁判人なる彼に哀求せんのみ 〇(16)「彼を呼びて云々」 「呼びて」は裁判所に呼び出すなり、「答へ」は其召喚に応ずるなり、縦し我れ神を相手取りて訴訟を起し、而して神、我が起訴に応ずることあるも、我は彼が我が言を聞き入れて、之に耳を傾け給ふとは信ぜざるなりと 〇(17)彼は言を以て我に答へ給はず、威力を以て我を圧し給ふ 〇(18)我に言を出さしめず、唯、苦楚茵※[草がんむり/陳]を以て我が身に充たせ給ふ、外より圧し(前節)、内より悩まし給ふ 〇(19)神の言辞として解すべし、ヨブは曰ふ、神は我が争議を嘲りて曰ひ給はく「強き者の力量を言はんか云々」と 〇神は云ひ給へり「強者の何たるを知らんと欲する乎、我は即ち彼なり、審判を仰がんとする乎、我を召喚し得る裁判人は誰ぞや」と、故にヨブは曰ふ、「誰か斯かる強者に対し起訴する者あらん」と 〇(20)「我口我を悪しと為さん」 我れ神の前に出でん乎、我身は恐怖の襲ふ所となりて、仮令正義は我が側にあるとも、我は我に不利益なる言を発して、訴訟は我が敗訴となりて終らん 〇(21)「我は全し」 然り我れ己に省みて悪しき所あるなし、「然れども我は我が心を知らず」、斯く断言するも我は我自身をすら解せざる者なり、嗚(45)呼憐むべき我よ、我は我が衷に二個の我れあるを覚ゆ、一つの我は他の我の自信を保証せざるなり 〇「我は我が生命を賤む」 我は斯かる二元的の生命を賤む 〇(22)「皆な同一なり」 善悪皆な同一なり、其間に差別あるなし、神は完全き者と悪き者とを等しく滅し給ふ 〇(23)神は無辜の殄滅を見て喜び給ふ 〇(24)世は悪人の手に交《わた》され、神は亦悪人を庇保せんがために裁判人の目を蔽ひ給ふ 〇「若し彼ならずば云々」 若し神ならずば誰か此事を為し得んや、是れ神ならずば為すこと能はざることなり、故に我は言ふ、皆同一なり、世に善悪の差別あるなしと 〇(25)「我日は」 我が生涯は、我が此空気を吸呼する間は 〇「駅便」 当時の飛脚なり、疾走を以て有名なり、撒母耳後事十八章廿二、廿三節を見よ、はゆまづかひは早馬使なり、東方の駅使にして優に一日百二十五哩を走る者ありと云ふ 〇「徒に過去りて福祉を見ず」 たゞ路程を過ぐるのみにして、其間に何の快楽あるなし、使者の使命はたゞその目的地に達するにあり、其他にあらず 〇(26)「葦舟」 埃及国ナイル河に浮ぶパピラス草(葦の類)を以て造りたる小舟を称ふならん、嬰児モーゼの母が彼を匿したりしは蓋し此舟の更らに小なる者なりしならん(出埃及記二章三節参考)、急流を下るとき其早きこと矢の如し 〇「物を攫まんとて飛翔ける鷲の如し」 鷲の最も早きは此時なり、卒然下り来りて餌物を奪ひ去る 〇人生、之を何に譬へん、陸上を走る駅使の如し、水上を行く軽軻の如し、空中を翔ける飛鳥の如しと 〇(27)「笑ひをらんと思ふ」 嬉色を呈せんと欲す 〇(30)「雪を以て身を洗ひ」 雪水を以てにあらず、雪水は濁水なり(六章十六節)、雪を以てなり、其如く白くならんためなり(詩篇五十一章七節参考) 〇「灰汁」 亜爾加里《アルカリ》水なり、石鹸の用をなす 〇(31)「汚はしき穴」 泥坑なり 〇「我衣も我を厭ふ」 我身は汚穢を極め、我衣さへ之を厭ふに至れり、衣服を感覚ある者として言ふ 〇(33)「仲保」 権力を異にする者の間に介して二者の調和を計る者なり 〇(34)「杖」 笞杖《むち》なり、(46)罰を加へんために用ひらるゝものにして、此場合に於てはヨブに加へられし刑罰、即ち艱難をいふなり 〇(35)「我自から斯る者と思はざればなり」 我は斯かる刑罰を値ひする悪人なりとは思はざればなり、廿節の我は全しと云ふに同じ。
 
     意解
 
〇ヨブの失望今や将さに其極に達せんとす、故に彼の言は誠に大風の如し(八章二節)、之に制裁なし、規律なし、彼は今は暫時的無神論者たるなり、彼の苦悶の甚だしきを知らずして彼の失言を責むるは酷なり、彼が神に向つて暴言に類するの語を発するは、彼が神の慈眄を求めて息まざればなり、親密、時には礼を失し易し、ヨブの神に対する攻撃に子が愛を以て親に逼るの観あり、誡むべし、然れども悪むべからず。(1−24)
〇苦悶の余り、ヨブは神は人の近づくべからざる専制君主なりと惟へり、誰か神に逆らひ其身安からんと、其理と不理なるとを問はず、人の神に逆ふは危険なり、如何なる場合に在ても彼は彼に屈服すべし、彼と争ふべからず、神に智慧あり、能力あり、然れども慈愛は之を彼に於て認め難し、彼は威を以て下を圧する主人なり、彼は義を以て争ふべき者に非ずと。(2−4)
〇是を彼(神)が宇宙を統治するの途に於て見よ、山に謀らずして山を移し、雷霆を以て之を挫き、日を閉ぢ、星を封じ、天を張り、濤を履み給ふ、宇宙万物皆な彼の威力を示す、彼は怖るべき者なり、近づくべからざる者なり、大事をなし、亦怪事を為し給ふ、到底、弱き人類の友にあらずと。(5−10)
〇神の巧妙機智に亦驚くべき者あり、彼静かに我が前を過ぎ給ふも我是を知らず、彼れ進み行き給ふも我是を暁(47)らず、彼は死の如し、奪ひ去るも人之を阻む能はず、彼は怕るべきものなり、与みすべからざるものなり、到底拙き人類の友にあらずと。(10−12)
〇憐れむべきヨブは今は神に怖《おぢ》て彼を愛せず、宇宙に神の恐怖のみを見て、其中に彼の慈愛を発見する能はず、然れども是れ艱難が相次いで吾人に臨む時に吾人何人も取る心の態度なり、宇宙は畢竟心の反影に外ならず、恐怖を以て充たされたるヨブは宇宙に於て恐怖の外何物をも観る能はざりし、神は大風を以て我を撃砕き給ふと、然り、ヨブよ、彼は亦軟風を以て汝の頬を払ひ給ふにあらずや、残忍刻薄を以て神を誣ゆる勿れ、汝の心に春の臨む時に宇宙は挙て花鳥の絵画と化すべし。(13−20)
〇神を解せず、亦己を解せず、故に我は我が生命を賤むと言ふ、生命の貴きは其調和にあり、善なる神が善に見え、美なる宇宙が美に観ぜらるゝ時にあり、然るに今や神は虐王暴主として顕はれ、宇宙は恐怖としてのみ観ぜらるゝに至て、ヨブは己が生命を賤むに至れり、彼は既にわれ生命を厭ふ、我は永く生ることを願はず(七章十六節)と云へり、而して「人生の矛盾」を益々深く感ずるに至て、彼は生命其物を賤視するに至れり、彼は言へり、皆同一なりと、善悪皆同一なり、生死皆同一なり、悪者に臨むものは善者にも臨み、生は死の如きものにして、死は亦別に恐るべきものにあらずと、彼は神は猛力《ブルートフオース》なりと観ぜり、人の難苦を見て喜ぶ好嘲家の如き者なりと思へり、而して斯く神を観ぜしヨブ自身も亦富貴快楽を蔑視する厭世哲学者の一人となれり、絶望は人を駆て「冷静なる哲学者」たらしむ、ヨブ今や人生に絶望し、神を去り、宗教を棄て喜怒哀楽の上に立つ超然主義の哲学者たらんとせり、憐むべきヨブよ!(21−24)
〇神は猛力なりと了り、死生善悪の差別なしと解し、超然的哲学者と化して、ヨプは幸福の人とは成らざりし、(48)彼は今は生くるの何の甲斐なきことを感じたり、愛の神を離れて彼に取りては時(日)は意味なきものと成りたり、是れたゞ通過すべきものにして、其中に何の福祉なきものと化せり、無神論者の悲さは今日を楽み得ざるにあり、ロマの哲学者は喊んで曰へり、最も善きことは生れざりしことにして、其次ぎに善きことは一日も早く死することなりと、日本の西行法師は歎じて曰く、いしなごの玉のおちくるたへまより、はかなきものは命なりけりと、神を離れて生命は空虚となるなり、速かに経過すべき時間と化するなり、歓喜を以て充実するにあらざれば生命は生命に非ず、生命を厭ふに至るは神を忘るゝの直接の結果なり。(25、26)
〇哲学者は自から努めて憂愁を忘れて嬉色を呈せんと欲す、然れども如何せん、彼の心中の寂寥は彼をして穏かならざらしむ、彼に自から癒し難きの苦痛あり、彼れ之を思ふて、人に知られずして独り密かに戦慄く、彼は信ず、神は彼の罪を釈し給はざるを、平和は独り自から努めて得らるべきものにあらず、天より与へられて始めて吾が有となるものなり、平和は実物なり、之を想出する能はず、而して天の神のみ能く此宝物を吾人に与ふるを得るなり。(27、28)〇自から潔うせんと欲して潔うする能はざる哲学者は自己に就て失望して曰ふ、我れ自から潔うせんと努るも猶ほ罪ありとせらるゝなれば、何ぞ此上徒らに労すべけんや、飲食するに若かず我等明日死ぬべければ也と(哥林多前書十五章卅二節)、自正は自棄に終る、所謂る修養なるものは平安に達 の途に非ず。(29)
〇自から潔からんと欲して潔かる能はず、自から正しからんと欲して正しかる能はず、雪を以て身を洗ふも白かる能はず、灰汁を以て手を潔むるも潔められず、否な、自から潔からんと欲すれば欲する程、我身の汚穢は益々曝露されて、我は汚はしき泥の中に陥し入れらるゝの感あり、我は想へり、我れ独り修めて自から聖人たり得ざ(49)るの理あらんやと、然れども実際は予想と違へり、我は己を責め、己に省みて、罪悪の泥塊に過ぎざるを自覚せり、我身は実に之を蔽ふ衣よりも価値なき者なり、其実質の何たる乎を知らんには、無感の衣服もさぞかし之を厭ふならん、嗚呼、我は此身を如何せん。(31、32)
〇茲に於てか我は我に一大要求物あるを覚ゆるなり、即ち神と我との間に介して、我のために神を和げ、汚はしき我をして神の前に立つを得しむる仲保者是なり、純正の神は我を審判くには余りに厳正なり、生来の我は神の前に立つには余りに不浄なり、若し世に神と人との性を帯びて、人を神に紹介する者あらんには、我は彼に頼りて神に審判かれんものを、然れども今や斯かる仲保者の世に在るなし、神の震怒の杖は我に加へらる、故に我は彼を怖れて語る能はず、願くは此恐怖の厭迫の我より取去られんことを、そは我れ自から斯くも神の震怒に触るべき者なりとは思はざれば也。(32、35)
〇然り、ヨブよ、汝は仲保者を要求せり、而して汝の要求は実に人類の要求なり、而して神は終に斯かる仲保者を人類に供へ給へり、今や彼に頼りて罪の人も神に近づくを得るに至れり、神と人との間に一位の仲保あり、即ち人なるキリストイエスなり(提摩太前書二章五節)、彼に頼りてのみ人は神の前に義しきを得るなり、人生問題の解釈は彼れ一位の仲保者に在てのみ存す、ヨブにして彼を知るを得たりとせん乎、彼の苦悶は立ろに熄えしならん、然れども彼もキリスト降世以前の多くの人の如くに暗夜に神を探らざるを得ざりし、彼は遙かに希望の曙光を見留めしも、直に大光に接すること能はざりし、然れどもヨブの声はキリストに接触せざる凡ての真面目なる真理探究者の声なりし、約百記の高貴なる所以は、其、知らず識らずの間に、神の子にして人類の王なるイエスキリストの降世を予言するにあり。 〔以上、2・20〕
 
(50)   第十章
 
 ヨブ二たび死を願ふ 〇彼れ神は有限者ならん乎と疑ふ 〇胚胎当時よりの神の恩寵に就て念ふ 〇神の無慈悲を訴ふ 〇死と墓と蔭府とを望む
  1わが心我が生命を厭ふ、
   然れば我わが憂愁を包まず言ひあらはし、
   わが神魂《たましひ》の苦きによりて語《ものい》はん、
  2われ神に申さん、我を罪ありとしたまふ勿れ、
   何故に我と争ふかを我に示したまへ、
  3なんぢ虐遇《しへたげ》を為し、
   汝の手の作《わざ》を打棄て、
   悪しき者の謀計を照すことを善としたまふや、
  4汝は肉眼を有たまふや、
   汝の観たまふ所は人の観るが如くなるや、
  5汝の日は人間の日の如く、
   汝の年は人の日のごとくなるや、
  6何とて汝わが愆を尋ね、
(51)   わが罪を審査《しら》べたまふや、
  7されども汝はすでに我の罪なきを知りたまふ、
   また汝の手より救ひいだし得る者あるなし。
  8汝の手われを営み我を悉く作れり、
   然るに汝は今われを滅したまふなり、
  9請ふ記念《おぼ》えたまへ、汝は土魂《つちくれ》をもてするがごとくに我を作り給へり、
   然るに復われを塵に帰さんとしたまふや、
  10汝は我を乳のごとく斟《そゝ》ぎ、
   牛酪のごとくに凝しめたまひしに非ずや、
  11汝は皮と肉とを我に着せ、
   骨と筋とをもて我を編み、
  12生命と恩恵とをわれに授け、
   我を眷顧みてわが神魂を守りたまへり、
  13然はあれど汝これらの事を御心に蔵しおきたまへり、
   我この事の汝の心にありしを知る、
  14即ち、我もし小科を犯さば汝われをみとめて、
   わが罪を赦したまはじ、
(52)  15我もし大科を犯さば我は禍ひなるかな、
   仮令われ義しかるとも我頭を挙ぐる能はず、
   其は我は衷に差耻充ち、
   眼にわが患難《なやみ》を見ればなり、
  16若し頭を挙げなば獅子のごとくに汝われを追打ち、
   我身の上に復なんぢの奇《くす》しき能力をあらはしたまはん、
  17汝はしば/\証《あかし》する者を入れかへて我を攻め、
   我にむかひて汝の震怒を増し、
   新手に新手を加へて我を攻めたまふ事を。
  18何とて汝われを胎より出したまひしや、
   然らずば我は気《いき》絶え目に見らるゝこと無く
  19曾て有ざりし者の如くなりしならん、
   即ち我は胎より墓に持ゆかれん、
  20わが日は幾時《いくばく》も無きに非ずや、
   願くは彼姑らく息めて我を離れ、
   我をして少しく安んぜしめ給はんことを、
  21我が往きて復返ることなきその先に斯あらしめよ、
(53)   我は暗き地、死の蔭の地に往ん、
  22その地は暗くして晦冥《やみ》に等しく、
   死の蔭にして区分《わいだめ》なし、
   彼処にては光明《ひかり》も黒暗《くらやみ》のごとし。
 
     辞解
 
 (1)「我が心、我が生命を厭ふ」 ヨブ既に一たび此声を発せり(七章十六節)、今又茲に之を繰返す 〇「我れ我が憂愁を包まず云々」 七章十一節の反覆なり、憂愁を外に発して衷心の苦悶を軽減せんと欲すとの意なるべし 〇「苦きによりて語らん」 苦痛に駆られて止むを得ず語らん 〇(2)「我を罪ありと為し給ふ勿れ」 罪の理由を示さずして圧制的に我を罰し給ふ勿れ 〇「何故に云々」 何故に我を罰し給ふ乎、其理由を我に示し給へ、我は心に辜なきを知ると雖も、汝は我身に苦痛を加へて我を罪ありと為し給ふが如し、我心甚だ惑ふと 〇(3)「虐遇」 意義なき待遇、暴君の行為なり 〇「汝の手の作」 汝の造り給ひし者、汝の生子を打棄て給ふや、婦《をんな》、其乳児を棄つることあるも汝は我儕を棄て給はずとは我が聞きし所ならずや 〇「悪しき者の謀計云々」 自己の生子を打棄て、悪人に与みし給ふ乎と問ふ、ヨブ、今は彼の父なる神を怨んで止まず 〇(4)「汝は肉眼云々」 汝、ヱホバの神は人なる乎、汝の眼は公平に宇宙を照らす霊眼にはあらずして、人を偏視する肉眼なる乎 〇「汝の日は云々」 汝は無限の神には非ずして、生命の短かきを歎つ人の如き者なる乎 〇(6)然らざるべし、然らば汝、何とて我に苛責を加へて我が愆を尋ね給ふや云々 〇(7)霊眼を以て人の心を鑒み給ふ汝は既に(54)我の罪なきを知り給ふ、然らば何故に汝は我を苦め給ふや、亦汝は永遠に在ます者なれば、急劇に我を苦めて、今日直に汝の怒を我が上に注ぎ給ふの要なかるべし、人の互に相争ふは其短時日の生存中に正邪の断定を見んことを欲してなり、然れども汝に於ては然らず、永遠に在します汝は永き忍容を以て我に対して可なり、そは歳は移り星は変るとも汝の手より我を奪ひ取る者なければなり 〇「汝の手我を営み云々」 我は汝の経営に成りし者なり、我は汝の手の作なり(3)、然るに汝は今、己が作りし者を滅し給ふ 〇(9)「土塊を以てする如く云々」 陶師《すえものし》が土塊を以て土器を作るが如くに汝は我を作り給へり、然るに汝は今再び之を元の土塊(塵)に還し給ふ 〇(10)「乳の如く……牛酪の如く」 古人の眼に映ぜし胎児形成の状なり、始めに乳の如くに注がれ、次ぎに牛酪の如くに凝結せらると、液体のもの化して固体と成ると 〇(11)「皮と肉と……=骨と筋と」 液体のもの凝結して固体となり、之を被ふに皮を以てし、之を実たすに肉を以てし、之を支ゆるに骨を以てし、之を繋ぐに筋を以てせり 〇(12)「生命と恩恵」 斯くて汝の経営惨憺になりし肉躰に授くるに生命と恩恵とを以てし、而して尚ほ之を定めなき運命に任かし給ふことなく、常に我を眷顧み、我が神魂を守りて今日に至り給へり、是れ抑々何の為めなるや 〇(13)「然かはあれど云々」 過去に於ける汝の恩恵に依て、我は現在并に未来に於ける汝の眷顧を予想せり、然かはあれど事実は全く我が予想と違へり、我は今にして知る、汝が我を経営し給ひしは我を苦痛の器となさんがためなりしを、是れ以下の事実(此等のこと、即ち以下十七節に至るまでの事実)に照らして明かならずや 〇(14、15)汝は我を汝の震怒の標的《まと》となさんがために造り給へり、故に我れ若し小科を犯さんか、汝は我を赦し給はじ、大科を犯さんか、汝の厳罰は我に臨み来りて我は禍ひなるかな、小科は赦されず、大科は罰せらる、無慈悲なる神よ 〇「仮令我れ義しかるとも云々」 神は暴君なり、唯、威を以て我を圧すと 〇「羞(55)耻」 は此場合に於ては、混乱、疑惑の意なり、良心に耻てにあらず、ヨブは今、尚ほ己は義人なりと信ぜり、挫敗に羞てなり 〇(16)「獅子の如くに……追打つ」 頭を挙ぐる能はず、然れども我れ若し僭越にも之を挙げん乎、汝は人が獅子を狩るが如くに我身の上に汝の怪力を顕はし我を追打ち給ふと 〇(17)我は汝の前に立て蟷螂の斧に触るゝが如し、然れども繊弱我の如き者を処するに方て汝は強敵を挫く時の法を用ゐ給ふ、即ち証人を交へ、新手を加へ、我をして屈服せざるを得ざるに至らしめ給ふ 〇(18)事実如此しとすれば、何とて汝、我を胎より出だし給ひしや、我に施されし汝の経営は我の竟に此に至らんためか、若し然らんには我は生れざるに如かざるに非ずや 〇(20)生命は短かし、其終る前に我に少しく休息あらしめよ 〇(21、22)「暗き地、死の蔭の地云々」 蔭府《よみ》の形容なり、人の言語を以て書かれたる下界に関する記事にして之に勝りて凄惨なるもの他にあるなし、之に説明を附するは難し、唯之を想像するのみ、死の蔭の地とあれば生命絶無の地にはあらざるべし、光明ありと云へば全然暗黒の処にはあらざるべし、然れども其処には生は死の蔭の蔽ふ所となり、光明は暗黒の如くなりと云ふ、詩人ミルトン此状を叙して曰く No light、but rather darkness visible.光明なし、然れども暗黒の看取すべきありと、蔭府の写実的記事はこれを以西結書三十二章十七節以下に於て見るべし 〇(22)は之を左の如く意訳するを得べし、
   是れ暗黒の地にして其暗きこと晦冥其物の如し、
   死の蔭にして秩序の其中にあるなし、
   彼処には光明あるも是れ暗黒の輝くが如きものなり。
 
(56)     意解
 
〇我れ己を潔くせんと欲して潔くする能はず、神に近かんと欲して近く能はず、進むも苦痛なり、退くも苦痛なり、我は斯かる苦痛の生涯を厭ふ、今や我に唯一事の為し得るあるのみ、即ち憂愁を語り、苦痛を述べ、涙を我の糧となすこと是れなり、我の慰藉は唯我が憂愁を訴ふるにあり、神よ、我が哀告を赦し給へと(1)。
〇神よ、我は汝が我に降し給ひし苦痛の説明を得んがために、先づ汝を有限有情の人の如き者と仮定せんか、汝に偏見あれば汝、罪なきに我を責め、汝に死期の逼るあれば、汝、我が罪を定むるに遑なくして、急劇に我を苦しめ給ふにあらざる乎、然れども斯かる仮説は我れ之を設けんと欲して能はざるなり、そは是れ神を無視するに等しければなり、汝は公平なり、又無限なり、汝が我を苦しめ給ふは何にか他に理由なくんばあらず、而かも我は今其何たる乎を知る能はず、我心為めに甚だ惑ふと(2−7)。
〇汝、何故に我を造り給ひしや、汝、何故に今日まで我を守り給ひしや、我れ知る我は畏るべく、奇《くす》しく造られたるを(詩篇百卅九篇十四節)、我れ知る汝は日毎に我を顧み、時毎に我を見舞ひ給ひしを、然るに汝今に至て我を懊まし給ふこと斯の如し、汝は壊たんがために我を造り給ひし乎、汝は悪戯を好む小児の如き者なる乎、生者の苦悶に快を貪る虐王の如き者なる乎、然るに、汝の今為し給ふ所を見るに彼のそれに類する所あるに非ずや、我が信仰の緒は絶えなんとす、吁嗟神よ、我は汝を信ぜざるを得ず、而かも今や汝を信ずる能はず、矛盾と混乱とは我が心に充つ、我は汝の何たる乎を解するに苦しむと(8−17)。
〇神は残忍なり、無慈悲なり、彼は我が小科だも赦し給はず、大科とあれば勿論、厳しく之を罰し給ふ、我れ若(57)し少しく頭を挙げんとすれば、彼は獅子の如くに我を狩り立て給ふ(15、16)。
〇故に我は言ふ、我は生を厭ふて死を望むと、願ふ神よ、我が蔭府に下る前に我に暫時の小康あらしめよ、我は幾時もなくして、往いて復返らざる所に赴かんとす、永久の晦冥は我を待てり、今少しく汝の聖顔《みかほ》の光を我に向けよ、我をして絶望の丘より直に死蔭の谷に往かしむる勿れと(18−22)。
〇待てよ、ヨブよ、汝の眼は今や全く閉されたり、今や神に関する汝の推測は以て一つも彼の真相を窺ふに足らず、汝は今は夜の真中《まなか》に在り、而して神を探て止まず、夜の明くるを待てよ、然らば万物悉く明瞭《あきらか》ならん、神は光明の中に在て信仰の眼を以てのみ能く仰ぎ瞻るを得べし、暗黒の中に在て理性の手を以て探ぐる能はず、汝は今や希望なき哲学者に傚ひ、神を想出せんと試みつゝあり、汝の揣摩臆説を廃めよ、唯単へに心を静かにして日の出づるを待てよ。
 
     第十一章
 
 ナアマ人ゾパル語る 〇ヨブの多言を責む 〇神の全能全智を説いてヨブに祈祷の態度を促がす 〇憂愁の消散と平安の回復とを約す。
  是においてナアマ人ゾパル答へて言ひけるは、
  2言語多からば豈之に答へざる可けんや、
   口多き人あに義しとせられんや、
  3汝の空しき言あに人をして口を閉ぢしめんや、
(58)   汝嘲けらば人なんぢをして羞しめざらんや。
  4汝は言ふ、我教は正し、
   我は汝の目の前に潔しと、
  5願はくは神言を出し、
   汝にむかひて口を開き、
  6智慧の秘密をなんぢに示して、
   その知識の相倍することを顕はしたまはんことを、
   汝識れ神は汝の罪よりも軽くなんぢを処置したまふことを、
  7なんぢ神の深きを窮むるを得んや、
   全能者の全きを急むるを得んや、
  8その高きことは天のごとし、汝なにを為し得んや、
   其深きことは蔭府のごとし、汝なにを知り得んや、
  9その量は地よりも長く、
   海よりも闊し。
  10彼もし行きめぐりて人を執へ、
   召集めたまふ時は誰か能くこれを阻まんや、
  11彼は偽る人を善く知りたまふ、
(59)   又悪事は顧ること無くして見知りたまふなり、
  12虚しき人は悟性なし、
   その生るゝよりして野驢馬の駒のごとし。
  13汝もし彼にむかひて汝の心を調へ、
   汝の手を舒べ、
  14手に罪のあらんにはこれを遠く去り、
   悪をなんぢの幕屋に留めざらんには、
  15然すれば汝面を挙げて※[王+占]《きず》なかるべく、
   堅く立て懼るゝ事なかるべし、
  16すなはち汝憂愁を忘れん、
   汝のこれを憶ゆることは流れ去し水のごとくならん、
  17汝の生涯は真昼よりも輝かん、
   仮令暗き事あるとも是は平旦《あした》のごとくならん、
  18なんぢは望あるに因りて安んじ、
   汝の周囲《まはり》を見めぐりて安然《やすらか》に寐《いぬ》るにいたらん、
  19汝偃休むとも何人も汝を懼れしめざるべし、
   必ず衆多《おほく》の者なんぢを悦ばせんと務むべし、
(60)  20然れど悪き者の目は曚《くら》み彼は逃遁処《のがれどころ》を失はん、
   其望は気の断ることなるべし。
 
     辞解
 
〇(2)「言語多からば云々」 言多ければ罪なきこと能はず(箴言十章十九節)、豈之を黙過するを得んや、汝の言語多きは汝が未だ真理に達せざるの証なり 〇「口おほき人」 「口唇《くちびる》の人」の意なり、言多くして実尠き人を云ふ、斯かる人豈義とせられんや、言語は如何に多きも以て不義を義となすに足らず 〇(3)「汝の空しき言云々」 空言は以て人を説服するに足らず、恰かも空砲は以て敵を沈黙するに足らざるが如し 〇「汝嘲けらば云々」 神に対する嘲弄の言なり、彼を圧制家、不義の友と称するの類なり 〇(4)「我教は正し」 汝は言ふ我が教義は正し、我が神と人とに関する所信は正しと 〇「汝の目の前に」 神の目の前に 〇(6)「智識の相倍すること云々」 神の智識の人の思ひに過ぐるを顕はし給はん云々、「相倍す」とは吾人の想像に相倍すとの意なるべし、或ひは言ふ原語に多方面の意ありと、即ち神の智識は多方面に渉りて、人智の以て到底探り得る所にあらずと 〇「汝の罪よりも軽く云々」 若し汝にして神の智識を悉く探るを得んか、汝は神が汝を処罰するに輕きに過ぎるを発見するなるべしと、苛酷なるかなゾパルの此言や 〇(7)「神の深……全能者の全」 両者共に量るべからず、神の深きは其智の深遠無量なるにあり、其全きは其愛の宏大無辺なるにあり 〇(8)「高きこと天の如し……深きこと蔭府の如し」 二者共に量るべからざる者、蔭府、一名之を「穴」と称す、(以西結書三十二章廿三節)、梵語の奈落と同意義ならん、最底の地下に在りしものと信ぜられたり 〇(10)斯かる全能全智の者が世(61)を行きめぐりて人を執へ、古老を召集めて、彼の罪を審判かしめ給ふことあるも、誰が能く神の此行為を阻むを得んやと、古老を召集して訴訟を判決せしむるの古例は之を路得記四章等に於て見るべし 〇(11)前節の理由を示す、神は其罪を定むることなくして、人を裁判に附すを得べし、そは心を鑒み給ふ彼は問はずして偽はる人の誰なるかを知り、審査することなくして(顧ることなくして)悪事を見知り給へばなりと 〇(12)此神と相対して人は如何なる物ぞ、彼は虚しき者ならずや、彼は生れながらにして暗愚なること野驢馬の駒の如き者ならずやと、西洋諸国に於て愚者を驢馬に譬ふるは今日も尚ほ然りとす、支那に於て暗子を豚児と称するの類なり 〇(13、14)神と相対して争ふ能はず、故に茲に彼に対する反抗の姿勢を更め、懇請の態度に出んか、即ち汝の心を調へ、汝の手を舒べ、汝の罪を悔ひ、汝の家より悪を排除せんか云々 〇(15)「然かすれば汝面を挙げて云々」 前章十五節に於ける我頭を挙ぐる能はずとのヨブの言に対して言ふ 〇「※[王+占]なかるべし」とは同節に於ける衷に羞耻充つとの言に対して言ふ、良心の詰責なかるべしとの謂ひなるべし 〇「堅く立て云々」 心思確立して、風の吹き去る粃糠《もみがら》の如きことなかるべし 〇(16)憂愁は去て流水の如くならん、去て復た還らざるべし 〇(17)汝の生涯は汝が冥想するが如くに晦冥に終らざるべし(前章末節)、否な、愈々|光輝《かがやき》を増して昼の正午《もなか》に至らん、(箴言四章十八節) 縦し之に暗き事あるも是は永久に続くべきものに非ず、晦冥は平旦《あした》となりて終らん、歓喜は朝と共に来るべし 〇(18)「汝は望あるに因りて安し」 神の恩寵と掩護との望あるに因りて心安し 〇「周囲を見めぐりて云々」 周囲を見めぐりて敵なきを知るが故に、或は敵あるも彼の汝に害を加ふる能はざるを知るが故に、汝は安然《やすらか》に寐るに至らんと、我れ臥して寐ね、又目醒めたり、エホバ我を支へ給へばなり(詩篇三篇五節) 〇(19)「汝を悦ばせんと務むべし」 汝を害はんと欲する者は絶えて、衆多の人は汝の意を迎ふるに至るべしと、繁栄(62)の兆なり 〇(20)「悪者の目は矇み」 利未記二十六章十六節を見よ 〇「気の断ゆること」 死なり、悪人に望ありとせん乎、是れ死のみ。
 
     意解
 
〇ゾパルの言は酷なり、然れども美なり、彼はエリパズ、ビルダデと等しくヨブの苦痛の真因を解せず、故に彼も亦彼の悩める友に対して酷ならざるを得ず、殊に「汝識れ神は汝の罪よりも軽く汝を処置し給ふことを」と言ふに至ては諷刺も又甚だしと謂ふべし、ヨブに欠点あるは彼も亦能く之を認む、彼は「我は神の目の前に潔し」とは言はず、彼は彼の身に臨みし総ての艱苦に値する罪を犯せ 覚えなしと言ひしのみ、ヨブの友人等は彼の言を以て自己の清浄潔白を弁ずるもの乎の如くに解せり、然れども是れ甚だしき誤解なり、此誤解ありて彼等がヨブを慰め得ざりしは宜べなり、語に曰く「其実に将順して其悪を匡救す」と、ヨブの友人等は彼の美を知らざりき、故に彼を救ふこと能はざりき。
〇然れどもゾパルの言に謹聴服膺すべき者多し、人は多言を以て義とせられず、空言は以て人を説服するに足らず、沈黙は最大の雄弁なり、ヨブに言語多かりしは確かに彼が未だ事物の真相に達せざりし証なり、故に彼れ神の黙示に接して、彼の疑惑の悉く氷解するに至りしや、彼は口を噤いで曰く「我は自から了解《さとら》ざる事を言ひ、自から知らざる測り難き事を述べたり……是を以て我れ自から恨み、塵灰の中にて悔ゆ」と(四十二章三、六節)、智慧の極は沈黙なり、ヨブ今や滔々として弁ず、彼に応答なかるべからずと(2、3)。〇ヨブはゾパルが想ひし如き罪人にはあらざりき、然れども彼も亦罪人たるを失はざりき、彼は「汝は既に我の(63)罪なきを知り給ふ」と言へり(前章七節)、然れども若し神にして其言を出し、彼に向ひて口を開き給はん乎、彼は必ず、彼が竟に為せし如く、己の罪に恥ぢて塵灰の中に悔ゆるに至らん、我等が無罪を弁ずるは勿論、人に対してのみ、神に対しては我等に一言の申訳あるべからず、ヨブは神を人の如くに解せり、故に未だ神の赦罪の恩恵に与かる能はざりき、彼の苦悶の真因は義人として神の前に立たんとして努むるにありき、即ち神に公平に鞫かれんと欲して、彼に赦されんと欲せざるにありき、此誤謬にして除かれざる間は論争は彼と彼の友人との間に絶えざるべし(4、5)。
〇神の智慧は大なり、天よりも高し、蔭府よりも深し、地よりも長し、海よりも闊し、誰か是を窮むるを得んや、吾儕は僅かに其皮相を知るのみ、其深奥秘密を知らず、学者の学説にして既に確定せし者あるなし、智者の計策にして永く成効せし者あるを知らず、吾儕は神の深きを知るのみ、其深さを知らず、神は論究すべき者に非ず、崇敬すべきものなり、讃美すべきものなり(6−9)。〇神は直覚的に人の善悪を知り給ふ、彼は悪事は審査すること無くして之を見知り給ふ、彼は悪人を罰するに方て其罪の証明を求むるの要なし、「否な、否な、然り、然り、」神の言語は是のみ、彼は善を知り給ふ、亦悪を知り給ふ、彼は善悪何れとも判明たざる中性あるを知らず、彼のみは実に人を裁判に附たして何人も彼の此専断を阻む能はず、然れども人は何人も神に代つて罪を定むる能はず、ヨブの友人の誤謬は己れ神ならざるにヨブの愆《あやまり》を推定せしにあり、ゾパルの此言は亦以て直に之を彼自身に適用すべきなり(10、11)。
〇神と争ふを止めよ、彼に乞ひ求めよ、神に対しては単へに祈祷の態度に出でよ、心を調へ、手を舒べ、以て彼の赦免を乞ひ、恩寵を仰げよ、人に対しては争ふも可なり、然れども神に対して争ふも益なし、総ての幸福は神(64)に服従してより来る(13、14)。
〇而して神に服従して後の快楽は如何、憂愁は流れ去て水の如し、往いて復た還らず、希望は生じ、恐怖は去り、身に威権の加はるありて衆人の崇敬を己に惹くに至る、我儕は神に降参して始めて勝利の人となるなり、神と対
抗して憂愁は終生我儕を離れず(15、19)。
〇悪き者の希望は死なり、彼に取りては生命は苦痛の連続に他ならず、彼はたゞ其絶たれんことを欲す、彼が死を望むはパウロの如くに往てキリストと偕にあらんがために非ず、彼は絶滅を欲す、故に死を望むなり、「悪き者の希望は死なり」、彼は死に由りて神と人とに対する総ての負債より免かれんと欲す、彼は死に由りて総ての羞恥《はぢ》を忘れんと欲す、彼は死に由りて殊に良心詰責の声を消さんと欲す、「悪き者の希望は死なり」、恐るべきかな!(20)。 〔以上、3・20〕
 
     第十二章
 
 ヨブ友人の智慧を罵る 〇造化に現はれたる神の大能を語る 〇人事に現はれたる神の権能を述ぶ。ヨブこたへて言う、
  2なんぢら而已まことに人なり、
   智慧は汝等とゝもに死ん、
  3然れど我にも亦なんぢらと同じく暁る心あり、
   我はなんぢらの下に立ず、
(65)   誰か汝等の言ひしごとき事を知らざらんや。
  4我は神に※[龠+頁]《よば》はりて聴れし者なるに、
   今その友に嘲けらるゝ者となれり、
   嗚呼正しくかつ完たき人あざけらる。
  5安逸《やすらか》なる者は思ふ、
   軽侮《あなどり》は不幸《ふしあはせ》なる者に伴ひ、
   足のよろめく者を俟と。
  6掠奪ふ者の天幕は繁栄え、
   神を怒らせる者は安泰《やすらか》なり、
   自己の手に神を携さふ。
  7今請ふ獣に問へ、然《さら》ば彼れ汝に教へん、
   天空《そら》の鳥に問へ、然ば彼れなんぢに語らん、
  8地に言へ、然ば彼れなんぢに教へん、
   海の魚《うを》もまた汝に述べし、
  9誰かこの一切《すべて》の物に依りて、
   ヱホバの手のこれを作りしなるを知ざらんや。
  10一切の生物の生気《いのち》彼の手の中にあり、
(66)   一切の人の霊魂も亦然り。
 
  11耳は説話《ことば》を弁へざらんや、
   あだかも口の食物《くひもの》を味ふがごとし、
  12老たる者の中には智慧あり、
   長寿者の中には穎悟あり。
  13智慧と権能とは神に在り、
   智謀と頴悟とは彼に属す、
  14視よ、彼毀てば再び建ること能はず、
   彼人を閉こむれば開き出すことを得ず、
  15視よ、彼水を止むれば則はち涸れ、
   水を出せば則はち地を滅ぼす、
  16権能と穎悟とは彼に在り、
   惑はさるゝ者も惑す者も共に彼に属す、
  17彼は策士を裸体にして※[手偏+虜]へゆき、
   審判人をして愚なる者とならしめ、
  18王等の権威を解き、
(67)   反て之が腰に縄をかけ、
  19祭司等を裸体にして※[手偏+虜]へゆき、
   権力ある者を滅ぼし、
  20言爽なる者の言語を取除き、
   老たる者の了知《さとり》を奪ひ、
  21侯伯《きみ》たる者等に恥辱《はぢ》を蒙らせ、
   強き者の帯を解き、
  22暗中より隠れたる事等を顕はし
   死の蔭を光明に出し、
  23国々を大にし、また之を滅ぼし、
   国々を広くし、また之を旧に帰し、
  24地の民の長《かしら》たる者等の了知を奪ひ、
   これを路なき荒野に吟行《さまよ》はしむ、
  25彼等は光明なき暗にたどる、
   彼また彼等を酔る人のごとくに蹣跚《よろめ》かしむ。
 
(68)     辞解
 
 〇(1)「答へて言ふ」 殊にゾパルに答へて曰ふ、彼れゾパルは神の智慧を述べて自己の智慧を衒へり(前章六節) 〇(2)激烈なる譏刺の辞なり、「爾曹のみ誠に人なり」、人と称すべき人は爾曹を除いて他に在らざるべし、人類の智慧は凡て汝等三人に在て存するが如し 〇「智慧は汝等と偕に死なん」 汝等失すると同時に全世界の智慧は失せん、偉大なるかな汝等! 〇(3)然れど我にも亦多少の暁る心(智慧)あり、若し汝等にして智者と称すべくんば、我も亦智者たらざるを得じ、我は汝等には劣らずと信ず(十三章六節) 〇「誰か汝等の言ひしこと云々」 誰か汝等が言ひし如き平凡の理を知らざる者あらんや、汝等にして若し智者なりとせば、世に智者ならざる者何処にある乎 〇(4)「神に※[龠+頁]はりて聴かれりし者」 神と交はり、彼と語りて、其黙示に与かりし者、神の事に関しては少なからざる智識を有せりと信ぜし者 〇「今、其友に嘲けらる」 身に不幸の臨みしが故に、我が信仰の事に関してまで我が友の嘲ける所となる 〇「嗚呼正しく且云々」 嗚呼辜なき、比較的完全の者(信仰のことに関しては)無智の者にまで嘲けらる、我に臨みし災害の結果は終に此に至りし乎 〇(5)安逸に居る者は患難の由て来る理由を知らず、彼等は不幸は単に侮るべきものなりと信ず、「足の蹣跚く者」とは信仰の立場を失ひ、懐疑に苦む者の謂ひなるべし、軽侮、追手の如くに斯かる者の後に随ひ、亦其前を遮ぎると、即ち到る処に人の侮蔑する所となると 〇(6)「掠奪者の天幕は栄え」 盗賊の家は繁昌す、正しく且つ完き人の嘲けらるゝに対して言ふ 〇「自己の手に神を携ふ」 神は自己の手に存す、之を自己以外に仰ぐの要なし、我が手即ち我神なり、我は我が意ふが儘を行ふと、斯かる不敬褻涜の言を発する者は安泰なり 〇(7)「今請ふ云々」 以下(69)十節に至るまで造化に現はれたる神の妙技を指明し、以て彼の智慧を暁るに智者の聡明を待つの要なきを示す、ヨブは曰く、神の智慧に就て語るを休めよ、造化は汝等の駄弁を待たずして能く此事を吾人に示す、汝等此事を語るが故に智者を以て自から任ずるか、然らば獣も鳥も魚も皆な智者ならざるを得ざるべしと、ヨブの譏刺反駁に当るべからざる者あり 〇(9)誰か造化の玄妙に入て神の大能を悟らざる者あらんや 〇(10)万物悉く神の手中に在り、殊に生物は彼の生気の吹入に由て支持せらる(創世記二章七節、行伝十七章廿八節参照) 〇(11)「耳は説話を弁へざらんや」 造化の微妙は眼を以て之を見るべし、人事の異跡は耳を以て之を弁ふべしと、以下二十五節に至るまで、古人の説話にかゝる人事の成行に就て語る 〇耳は人事に係はる説話の真偽を弁別す、恰かも口(舌)は食物の味を判別するが如し 〇(12)「老たる者の中には智慧あり云々」 汝等が曾て言へるが如し(八章八節)、今、古老の言に従ひ、少しく人事を閲し見ん乎云々 〇(13)「智慧と権能とは神に在り」 誠に古老の言の如しと、「権能」は「智慧」を決行するための実力なり、神に智慧あり、亦、之を行ふの能力あり、彼は言行の一致を欠く人の如き者に非ず 〇「智謀と頴悟」 智慧を実行するの方法と之を適用するの意識 〇(14)「彼毀てば云々」 彼れ毀てば人、再び之を建つること能はず、そは彼は永遠の智慧に由りて之を毀ち給へばなり 〇「人を閉ぢこむ」 禁個の意なり(十一章十節参照) 〇(15)旱魃は彼に由りて来り、洪水も亦彼に由りて臨む、彼は乾し亦潤し給ふ 〇(16)「権能と穎悟」 深き意識と之を行ふに足るの能力 〇「惑さるゝ者も惑す者も」 惑さるゝ衆愚も之を惑はす僧侶、政治家の輩も 〇(17)「策士」 奸策を以て愚者を惑はす者なり、而かも神の智慧は策士のそれに勝さる、彼は策略の豊富を以て誇る策士をも時には裸体にして※[手偏+虜]へ行き給ふと、感謝すべきかな 〇「審判人」 必しも法律上の裁判人に限らざるべし、今の批評家と称する者の如きも又此類なるべし、彼等も亦(70)惑さるゝ者を惑す者なり、而して神は亦彼等をも愚かなる者とならしめ給ふと、是れ亦感謝すべき事なり 〇(18)王者の権を解き反て之が腰に縄を掛け給ふと、神は王の王なり、彼は王者の権を剥ぎ(即ち民の圧制を解き)、亦彼を縛し給ふと、縛する者縛せらる、快なるかな 〇(19)「祭司等」 僧侶の階級なり、王等と結託して愚者を惑す、而かしてヱホバは亦彼等をも裸体にて※[手偏+虜]へ行き給ふと、僧侶の裸体とは蓋し其偽善の曝露せられて、衆人の前に其醜態を示さるゝことなるべし 〇「権力ある者」 今の所謂る貴族なり、神、又彼等をも滅し給ふと、感謝すべきかな 〇(20)「言爽かなる者」 能弁家なり、弁舌を以て人を惑す者なり、而して神は其言語を取除き給ふと、即ち彼を沈黙せしめ給ふと、或ひは其雄弁をして無効ならしめ給ふと、能弁は如何に大なるも虚偽を真理となすに足らず、能弁一名之を詭弁と称す、最も危険なる天才の一なり 〇「老ひたる者の了知を奪ひ」 年功に誇り、老練を楯に取りて民を惑はす者の了知を奪ひ給ふと、老ひたる者必しも智者ならず、世には老ひたる愚者尠からず 〇(21)「侯伯たる者」 貴族の一種なり、社会の上位に立つを以て誇る者なり、而して神は彼等に恥辱を蒙らせ給ふと、若し人の彼等に恥を加ふる者あらん乎、彼等は怒て之を獄に下すなり、然れども神の辱しむる所となりて、彼等は憤怒を発するに途なし、「侯伯の恥辱」、誰か此事あるを知らざる者あらんや 〇「強き者の帯を解き」 「強き者」とは前に言へる「権力ある者」に同じ、貴族富豪の類なり、「帯を解く」とは権を剥ぐとの意なり(以賽亜書五章廿七節参考)、神は豪族輩の権利を褫奪し給ふと、是れ亦感謝すべきの事 〇(22)「暗中より隠れたる事等を顕はし」 王侯、貴族、僧侶等、魔魅の族が隠密に附する多くの秘事を曝露し給ふとの意なるべし、貴族の荘屋は罪悪の巣窟なり、天地の神のみ能く之を撥きて世に顕し給ふ 〇「死の陰を光明にし」 死の伏在する所に光明を注射す、凡ての国家的并に社会的罪悪の計画せらるゝ所を曝露し給ふと、或は獰奸相互(71)の嫉視讒害に由て、或ひは天外より来る革命を以て 〇(23)「国々を大にして亦之を滅し」波斯、羅馬の如し、露国、英国、米国も亦遠からずして滅さるべし 〇「広くして亦旧に帰す」 今の西班牙は其好適例ならん 〇(24)「地の民の長」 万邦の主権を握る者、バビロン王ネブカドネザル、マセドン王アレキサンドルの如き者なり、自から王の王なりと称する者、而かも神は彼等をも滅亡に導き給ふ 〇「路なき荒野云々」 曠空の意なり(創世記一章二節)、曠空に彷徨ふとは迷霧の中に入りて進路を失ふことなり、大帝ナポレオンの末路に鑑みよ 〇(25)英雄の最後に酔客の蹣跚たるの状あり、彼等何んぞ懼るゝに足らん。
 
     意解
 
〇彼も人なり、我も人なり、彼の知る所は我も知る、彼は今は安逸の地位に在り、故に智者の如くに見ゆ、我は今は不幸に懊まさる、故に人の嘲ける所となる、人の智愚は彼の於て在る境遇に依るが如しと、ヨブの此観察に亦一片の真理なきに非ず(1−5)。
〇神に依る者は衰へ、自己に頼る者は栄ふ、「自己の手に神を携へ」、我が腕力是れ我神なりと称する者は安泰なり、是れ今も尚ほ吾人の目撃する所、所謂る優勝劣敗の理なる者はヨブの此観察に他ならず、吾人の観察を現世にのみ止めて吾人にも亦ヨブの此感慨なき能はず(6)。
〇吾人若し神の智慧を知らんと欲せば、智者哲人の教訓を待つに及ばず、天然其物が此事に関する吾人の最も善き説教者なり、野の獣と天空の鳥と、地と海と其中にある総ての物とは神の全智を伝へて剰す所なし、神の智慧にして若し吾人の特に知らんと欲する所ならん乎、吾人は所謂る「天然神学」を以て満足すべし、然れども吾人(72)は更らに神の愛に就て知らんと欲す、故に吾人は神の特種の黙示を要するなり、天然の研究は如何に深きに達するも以て吾人に臨む苦痛と死との説明を供するに足らざるなり(7−10)。
〇天然の研究然り、歴史の研究亦然り、神は凡て高ぶる者、誇る者、自己を崇むる者の上に臨みて之を低くし給ふとは歴史の明かに示す所なり(以賽亜書二章十二節)、然れども之を知りて以て我が心中の苦悶を※[病垂/全]す能はず、人事は人類全体の事にして我が良心の事にあらず、然り歴史は以て神と我との間に平和を結ぶ者に非ず、ヨブは既に天然を知れり、亦歴史を知れり、然れども彼は今や彼の衷心に天然も歴史も以て解説し能はざる大疑問を有せり、彼の友人は此事あるを知らず、故に頻りに駄弁を弄して彼を誹議せり、ヨブの懐疑は斯世の智識を以てしては到底氷解し得べきものにあらざるなり(11−25)。
〇科学よ、歴史よ、汝等の名は美にして大なり、人は汝等を知るを以て全学宙を知悉くせしが如くに信ず、然れども我れ我が良心に於て病み、暗夜に我が神を求むるに方て、汝等は我に於て何の要あるなし、海の魚は我に救拯の道を教へず、空天の鳥は我に赦免の歓喜を供せず、地を穿ちたればとて此処に神在さず、海を探りたればとて其処に天国なし、英雄の事跡は亦以て我に慰安を供する者に非ず、我れ我が霊魂に於て病まん乎、我は科学と歴史とを去て宗教に行かんのみ、然り神の黙示なるキリストの福音に行かんのみ。
 
     第十三章
 
  ヨブ再び彼の友人を罵る 〇虚言の製造者、無用の医師なりと 〇神に対する彼等の阿諛追従を責む 〇彼等に沈黙を命じ謹聴を促がす 〇彼れ直に神に迫る 〇然かも哀憐を乞ふの外、他に発するの言を有せず
(73)  1視よ、わが目尽くこれを観、
   わが耳これを聞て了知れり、
  2汝等が知るところは我もこれを知る、
   我は汝等に劣らず。
  3然りと雖ども我は全能者に物言ん、
   我は神と論ぜんことを望む、
  4汝等は只|※[言+荒]言《いつはり》を造り設くる者、
   汝等は皆無用の医師《くすし》なり、
  5願はくは汝等全く黙せよ、
   然するは汝等の智慧なるべし、
  6請ふわが論ずる所を聴け、
   我が唇にて弁争《いひあらそ》ふ所に耳を傾けよ、
  7神のために汝等悪き事を言ふや、
   又かれのために虚偽を述るや、
  8汝等神のために偏るや、
   またかれのために争はんとするや、
  9神もし汝等を鑒察《しら》べたまはゞ豈善らんや、
(74)   汝等人を欺くごとくに彼を欺き得んや、
  10汝等もし密に私しするあらば、
   彼かならず汝等を責ん、
  11その威光なんぢらを懼れしめざらんや、
   彼の畏懼なんぢらに臨まざらんや、
  12なんぢらの譬は灰の譬なり、
   なんぢらの城は土の城なり、
  13黙せよ、我にかゝはらざれ、
   我今言語んとす−何事にもあれ我に来らば来れ1
  14我なんぞ我肉をわが歯の間に置かんや、
   我はわが生命をわが手に置かん、
  15彼われを殺すとも我は彼に依頼《よりたの》まん、
   惟われは吾道を彼の前に明にせんとす、
  16此一事は我救拯とならん、
   即ち邪曲《よこしま》なる者は彼の前にいたること能はざること是なり、
  17なんぢら聴けよ、我言《わがことば》を聴け、
   我が述る所をなんぢらの耳に入らしめよ、
(75)  18視よ、我すでに吾事を言並べたり
   我は必らず義しとせられんと自ら知る、
  19誰か能われと弁論《いひあらそ》ふ者あらん、
   若あらば我は口を緘《とぢ》て死ん。
  20惟われに二の事を為したまはざれ、
   然らば我なんぢの面《かほ》をさけて隠れじ、
  21なんぢの手を我より離したまへ、
   汝の威厳をもて我を懼れしめたまはざれ、
  22而して汝われを召したまへ、我こたへん、
   又われにも言《ものい》はしめて汝われに答へたまへ、
  23我の愆われの罪いくばくなるや、
   我の背反《そむき》と罪とを我に知しめたまへ、
  24何とて御面《みかほ》を隠し、
   我をもて汝の敵となしたまふや、
  25なんぢは吹廻さる1木の葉を威し、
   干あがりたる切株を追ひたまふや、
(76)  26汝は我につきて苦き事等を書き記し、
   我をして我が幼時《いとけなきとき》の罪を身に負しめ、
  27わが足を足械《あしかせ》にはめ、我すべての道を窺がひ、
   我足の周囲《まはり》に限界《かぎり》をつけたまふ、
  28而かも我は朽行く腐れたる者のごとし、
   蠹に食るゝ衣服《ころも》に等し。
 
     辞解
 
〇(1)「我目尽く之を観」 前章七節より十節まで 〇「我耳之を聞て云々」 仝十一節より二十五節まで、天然に神の智慧を観たり、歴史に神の権能を聞けり 〇(2)「汝等が知る所云々」 我は汝等が知る所を知る、然れども斯かる智識は以て我が今日の窮境を説明するに足らず 〇(3)「然りと雖も」 我に汝等に劣らざるの智識ありと雖も 〇「我は全能者に物言はん」 我は特に神に間ふて神の説明に与からん 〇「神と論ぜんことを望む」 汝等と語るも詮なし、直に神と論ぜんことを望むと、人は直接に神より教へらるゝにあらざれば竟に慰安に達する能はず 〇(4)「汝等は只※[言+荒]言を造り設くる者」 虚偽の製造者なり、汝等に悪意はなかるべしと雖も、汝等の言ふ所は※[言+荒]言に等し 〇「無用の医師なり」 価値なき医師なり、我が苦痛を※[病垂/全]さんと欲して癒す能はざる者、霊魂の薮医者なり 〇(5)故に口を噤げよ、沈黙は反て汝等の智慧なるべし、汝等頻りに智慧を口にす、我、汝等に告げんと欲す、汝等の智慧は沈黙を守るに在るべしと(箴言十七章廿八節を見よ) 〇(6)汝等沈黙を守り、(77)我が神と論ずる所を謹聴せよ云々 〇(7)「神のために……言ふや」 神のために駄弁を弄するや 虚偽を以て神を弁護せんとするや 〇(8)神を弁護せんとて偏頗たる勿れ、神を庇保せんとて公平を欠く勿れ、強者の弁護士たるは易し、汝等は苦痛に悩む我に対して、神の穎悟と権能とを弁じ返て神の怒に触れざらんことを努めよ 〇(9)「神若し汝等を鑒察べ給はゞ云々」 神若し汝等が我に対して発する苦言の動機を鑒察し給はんには「豈善らんや」、豈汝等の利益ならんや 〇「汝等人を欺く云々」 汝等は人を欺くを得べし、然れども神を欺くを得ず、詭弁を弄して人の歓心を買ふを得べし、然れども公平なる神は虚偽を以て自己(神)を歓ばせんと欲する者をも怒り給ふ、汝等此事を知るや 〇(10)神は公平なり、故に神は神のために計る者なりと雖も其依怙偏頗を赦し給はざるべしと 〇(11)「その威光云々」 神のために弁ずる時に神の威光を畏れよ、神に就て偽はりの証拠を立つる勿れ、神の為し給はざることを神の行為なりと称して之を人に教ふる勿れ、神は凡ての真人の如くに甚く諂諛、追従を憎み給ふ、神を呼びて主よ主よと曰ふ者尽く神の忠実なる僕に非ず(馬太伝七章廿一節)、然り、多くの神学者は神の追従者たるに過ぎず、ヨブの友人も亦敬神を装ふて阿諛追従の罪に落りし形跡なきに非ず 〇(12)「汝等の譬は灰の譬なり」 「譬」は此場合に於ては説教の意なり、聖書に嘲弄、諷刺の言を「譬」と称ひし例尠からず(哈巴谷書二章六節参照)、「灰の譬なり」、生気なき、意味なき、無効の説法なり 〇「土の城」 土を以て築きたるが如き論城なり、是に拠りて以て我を攻むるに足らず 〇(13)「我に関係らざれ」 我が事に容喙する勿れ 〇「我言語はんとす」 然して我が神に言はんと欲する所を聴け 〇「何事にもあれ我に来らば来れ」 決心の辞なり、ヨブ今や大胆に神と争はんとす、彼は其結果として更らに大なる災厄の彼の身に加へられんことを予期せるが如し、然れども彼は独語して曰ふ、我身は如何に成果てんも我は言はんと欲する所を言はざれば止まずと、(78)ヨブの勇気は今や絶望に變り 〇(14)「我肉を我が歯の間に置」 意義明瞭ならず、我れ豈我肉(生命)を保存せんと欲する者ならんやとの意ならん乎(耶利米亜記三十八章二節参照) 〇「我は我が生命を我が手に置かん」 我は如何なる危険をも敢て冒さんとす(土師記十二章三節を見よ) 〇(15)「彼我を殺すとも云々」 多くの殉教者は此聖語を口に唱へながら悠々死に就けり、有名の聖句なり、然れども其原意はヨブの神に対する信頼の厚きを述べしものにはあらざるが如し、「依頼まん」は放任の意にして、第十三節に於て言へるが如き自暴自棄の意を含むの辞なるが如し、神我を殺さん乎、我は喜んで其意に任かせんと、或る註解者は「依頼ん」を俟たんと解す、即ち我は心を静めて我が殺さるゝを俟たんと、ヨブは飽くまで決死の態度を示せり 〇「我道を彼の前に云々」我行為を彼の前に述べて我が無辜《つみなき》を弁ぜん、我は死すとも此事を為さざるを得ずと 〇(16)「此一事は……即ち云々」 「救拯」は此場合に於ては義とせらるゝことなり(十八節)、ヨブは神の前に彼の無辜を弁じて義人として放釈せらるゝの希望を有せり、そは彼に神に近かんとするの勇気あればなり、邪曲なる者は神の前に至らんと欲するも能はず、然れども彼に今、神の聖前に出て、彼の潔白を争はんとするの勇気あり、是れ彼が竟に神に義とせらるゝ(救はるゝ)の前兆にあらずして何ぞやと、ヨブの自信も茲に至て其極に達せりと謂ふべし 〇(17)ヨブは今より神に対して大に自己の義を弁ぜんとす、故に彼は彼の友人に厳粛なる傍聴を促せり 〇(18)「既に吾事を言並べたり」 既に我が訴訟の手続を定めたり、今や言語を整へて堂々我が義を弁ぜんとす 〇「我は必ず義しとせられん」 控訴は必ず我が無罪放免に終らん 〇(19)「誰か能く云々」 誰か能く我に対して論駁を試る者あらんや、我が胸中に築きし論城は金城鉄壁なり、天下能く之を抜くに足るの論者あらんや、若し有らん乎、「我は口を緘て死なん」、我が弁明にして敗れん乎、我は死せんのみ、我は我が生命を賭して此論争に臨む者なりと 〇(79)(20)「惟我に二つの事を為し給はざれ」 ヨブの弁論は此節を以て始まる、而かも彼の大言壮語に似ず、彼の論争なるものは其始めより懇求なり、彼の愛すべきは此に存す、彼に此心ありしが故に彼は真に神に受けられしなり 〇(21)前節に言へる「二つの事」を縷述して言ふ、其一は神が其手を離し給はんことなり、即ち圧抑の手を離して彼(ヨブ)の身より災害を除き給はんことなり、其二は神の威光を以て彼を懼れしめ給はざらんことなり、彼れ神と論争はんとするも此二つの事に妨げられて、言語を整へて静かに彼の主張を述ぶる能はず、故に彼は彼の審判人にして被告人なる神が先づ其圧力を去り、威厳を撤し給はんことを要めたり、奇異なる要求なるかな 〇(22)「而して汝、我を召し給へ云々」 強圧を去り、威風を撤し、我と親むべき者となり給へ、而して汝、我を呼び(召し)給へ、然らば我も亦汝に応へんと(九章卅四、卅五節参照) 〇(23)「我の愆、我の罪……我の背反と罪と」 「愆」は故意を以て犯す罪なり、故に意志の罪なり、「罪」は過失にして情の罪なり、十章十四、十五節に言へる大科と小科となり、「背反」は大科の一にして其最も重きものなり、神に背反くことは凡ての罪の原因なり、ヨブは明かに彼の罪科を示されんことを求めたり 〇(24)「御面を隠くし……汝の敵となし給ふや」 何故に先づ汝の恩寵を撤回し、然る後に我が敵となり給ひしや 〇(25)「吹廻さるゝ木の葉……干上りたる切株」 価値なき倚処《よるべ》なき者の称なり、運命の風に吹廻さるゝも之に抗するの能《ちから》なく、地上に放棄せられて只焼かるゝの外、用なき者なりと、是れヨブの自白なり、然かも彼は神と対抗して争はんと言へり、正直なる彼は彼の矛盾を包まんとして、彼の真情を隠さゞりき 〇(26)「苦き事等を書記し」 神は彼の罪科を一々記録に止め給へり、之を忘却に附し給はずとの意なるべし(詩篇百四十九篇九節を見よ) 〇「我が幼時の罪」 青年時代の過失なり(詩篇廿五の七に若き時の罪とあり)、熱情に駆られて犯せし罪なり、罪は罪なりと雖も、仮借し難き罪にはあらざるべ(80)し、而かも汝は今之を我が前に列挙して我を責め給ふと 〇(27)「我が足を足械にはめ」 我が自由を束縛し給ふ、或ひは疾病を以て、或ひは良心の苦悶を以て 〇「我が凡ての道を窺ひ」 我が凡ての行為を監視し給ふ、即ち罪囚の如くに我を扱ひ給ふ 〇「我が足の週囲に限界を附け給ふ」 或ひは「輪を画き給ふ」と、即ち我が運動の区域を狭ばめ、我をして動くこと能はざらしめ給ふと 〇(28)「而かも我は朽行く云々」 而かも斯く厳しく監視せらるゝ我は抑も如何なる物ぞ、朽行く腐れたる者の如き者ならずや、蠹に食はるゝ衣服に等しき者ならずや、斯かる者を苦しめて何の益あらんや、神よ、汝は脆弱我の如き者を苦め給ひて汝の威権を害ひ給ふの恐れなき乎と、且つ求め、且訴ふ。
 
     意解
 
〇視よ、我が目は既に天然を見たり、我が耳は既に人事に就て聞けり、我は其点に於て世の所謂る智者に劣る所なし、而かも此智識あるが故に我が心は安からず、我は目未だ見ず、耳未だ聞かず、人の心未だ念はざる神の深事を究知《たづねし》らんと欲す(哥前二〇九)、然らざれば我に我が求むる慰安あるなし、而して世の理学者も哲学者も此智識を我に供する能はず、神と天国との事に関しては彼等は誠に虚偽の製造者なり、無用の医師なり、我は単へに彼等に沈黙を乞はんと欲す(1−6)。
〇世の理学者哲学者然り、神学者も亦然り、彼等は神に就て語り神のために弁ずると揚言す、而かも彼等の言ふ所を聞くに多くは神に対する諂諛の言に他ならず、曰く神は愛なり、曰く神は公義なりと、彼等は惟ふ神は完全なる者なれば、神に就て何事を述ぶるも悪事をだに述べざれば誤謬に陥るの虞れあるなしと、然れども神は単《たゞ》に(81)完全なる者にあらず、彼は或る特別なる意味に於て完全なる者なり、神は単純なる理想に非ず、彼はペルソナなり、彼に特性あるは人に特性あるが如し、漠たる概論は以て神の何たる乎を吾人に示すに足らず、神を知らんと欲せば深く神を究めざるべからざるのみならず、亦面と面と相対して実験的に彼の聖霊に接せざるべからず、多くの神学者は神を識らず、彼等は神に諛言を奉つるのみ、恰かも多くの政治家が帝王の何たる乎を知らざるに、只、諛辞を羅列するを以て忠愛を迷想するが如し、斯かる神学者の説教(譬)は実に灰の説教なり、彼等の論城は実に土の城なり、実験の一撃を以て直に之を破砕するを得べし(8−12)。
〇理学者と哲学者とは虚偽の製造者なり、神学者は佞臣の類なり、吾人神に就て知らんと欲せば直に神の足下に迫り、其処に神の祝福に与からざるべからず、縦し神聖を犯かすの罪は我が身に滅亡を招くに至らんも、死は我の意とする所にあらず、我は既に我が生命を厭ふ者なり、我は何事を措いても先づ神に義とせられんと欲すと、ヨブ今や猛士の勇を以て神の台前に迫らんとす、励みて天国を奪取らんとす(馬太伝十一章十二節)、彼は勿論斯の如くにして神に近づくこと能はざりき、然れども此決死の覚悟なくして、竟に神の光明に接せし者あるなし、天国に入るは誠に虎穴に入るが如し、其宝貨は同じく勇者に属す、安逸に居り、書籍と説論とに頼り、沈思黙考の結果天国に入らんと欲する者の如きは未だ天国の真価を知らざる者なり、イエス曰ひ給はく、天国は畑に蔵れたる宝の如し、人看出さば之を秘し、喜び帰り、其所有を尽く売りてその畑を買ふなりと(馬太伝十三章四十四節)、吾人、此宝の山を得んと欲す、決死の覚悟なくして争で之を我有となすを得んや(13−15)。
〇神と争ふは易きが如くに見ゆ、吾人は惟ふ、我は言語を整へ、威儀堂々、神前に自己の正義を弁ぜんと、然れども一たび神の前に出ん乎、我は自己に恥ぢて我が頭を擡げ能はざるなり、神に対して争論は懇求を以て始まら(82)ざるべからず、然り争論は哀求と化せざるべからず、我を赦せよ、神よ罪人なる我を憐み給へ、汝、吹廻さるゝ木の葉を威す勿れ、干あがりたる切株を追ふ勿れと、吾人は神に訴ふるのみ、神に叫ぶのみ、密かに心に斉へし議論は全然之を撤去せんのみ、友人に対するヨブは大胆なり、独立なり、神に対する彼は細心なり、柔順なり、ヨブに此心ありたり、故に彼は竟に神に受けられたり、神の前に立つも自己に恥ず、堂々己の義を唱ふる者の如きは神を見ること能はざる者なり、「我は朽行く腐れたる者、蠹に食はるゝ衣服に等し」と、是れ罪人の適当なる表白なり、ヨブよ、光明は今や汝に近づきつゝあり、汝の友人の圏視の中に、彼等の嘲笑譏刺の間に、汝は頭に恥辱の灰を蒙りながら、光の冕を戴かんとしつゝあり、猶ほ少しく忍べよ、幽暗は昼となりて終らん(16−28)。 〔以上、4・20〕
 
     約百記第十四章
 
  ヨブ自己の弱きを訴ふ 〇清浄を彼より要求するの無慈悲なるを述ぶ 〇煩悶に倦みて休息を請求す 〇木を羨む 〇人生を水に譬ふ 〇再生を望む 〇罪悪の密封 〇希望の減殺を悲む 〇陰府を想像す。
  1 婦の産む人は、
   その日少なくして艱難多し、
  2 花のごとくに来りて剪除《かりと》られ、
   影のごとくに馳せて止まらず、
  3 なんぢ是のごとき者に汝の目を啓きたまふや、
(83)   汝われを汝の前にひきて審判したまふや。
  4 誰か清き物を汚れたる物の中より出し得る者あらん、
   一人も無し、
  5 その日既に定まり、その月の数なんぢに知らる、
   汝これが区域《さかひ》を立て越ざらしめたまふ。
  6 然れば彼より目を離し彼をして安息《やすみ》を得させ、
   傭人のその日を楽しむがごとくならしめたまへ。
  7 それ木には望あり、
   仮令|※[石+欠]《きら》るゝとも復芽を出してその枝絶ず、
  8 たとひ其根地の中に老い、
   其幹土の中に枯るとも、
  9 水の潤霑《うるほし》にあへば即はち芽を萌《ふ》き、
   枝を出して若樹に異ならず、
  10 然ど人は死れば消失す、
   人気絶なば安くに在んや。
  11 水は海より竭き、
   河は涸れてかわく、
(84)  12 是のごとく人も寝臥《いねふ》してまた興きず、
   天の尽くるまで目覚めず、睡眠を醒さゞるなり。
  13 願はくは汝われを陰府に蔵《かく》し、
   汝の震怒の息むまで我を掩ひ、
   我がために期を定め而して我を記念《おぼ》へ給はんことを……
  14 人もし死ばまた生きんや……
   我は我に定められし日の間望みをりて、
   我が変化《かはり》の来るを待たん、
  15 なんぢ我を呼び給はん、而して我こたへん、
   汝かならず汝の手の作を顧みたまはん。
  16 今なんぢは我の歩履《あゆみ》を数へたまふ、
   我が罪を汝窺ひたまふにあらずや、
  17 わが愆は凡て嚢の中に封じてあり、
   汝わが罪を縫ひこめたまふ。
  18 それで山も崩れて終に失す、
   巌石も移りてその処を離る、
  19 水は石を鑿ち、浪は地の塵を押流す、
(85)   汝はその如く人の望を絶たまふ、
  20 なんぢ常に彼を攻め給へば彼|逝行《さりゆ》く、
   彼の面容《かほかたち》を変らせ給ひて彼を逐やりたまふ、
  21 その子貴くなるも彼はこれを知ず、
   賤くなるもまた之を暁《さと》らざるなり、
  22 只己みづからその肉に痛苦《いたみ》を覚え、
   己みづからその心に哀《なげ》く而已。
 
     辞解
 
 (1)「婦の産む人」 婦は弱き者なり、其産む所の人も弱からざるを得ず 〇「其日少くして」 百年に満たず、七十は古来稀なり(詩篇九十篇十節) 〇(2)「花の如くに云々」 花の如くに世に顕はれ、開くや否や人(神)に剪除らる 〇「影の如く云々」 風に逐はるゝ浮雲の影の如し、走ること迅速なり 〇(3)「目を啓き給ふや」 活目して人の罪を見張り給ふや、偉大なる神は弱き人類の瑕瑾を容赦すべきにあらずや 〇(4)「清き物を汚れたる物の中より云々」 人は皆な汚れたる物なれば誰か清浄潔白の者を彼等の中に発見するを得んや、汚濁は人の特性なり、清浄は彼より望むべからず 〇「一人もなし」 是れ不可能事なり、之を為し得る者一人もなし、而かも神は清浄をヨブより求め給ふが如し 〇(5)「其日既に定まり云々」 其命数の既に定まり云々 〇「之が区域を立て云々」 其命数に限有り、英治動は制限せらる、斯かる者は憫むべき者なり、責むべき者に非ず 〇(6)「彼よ(86)り目を離し」 彼の監視を解き 〇「安息を得させ、傭人の云々」 独り閑日月を楽ましめ給へ、傭人の其業を終へし後に身を休むるが如く為さしめ給へ 〇(7)「それ木には望みあり」 人の運命を草木に此べていふ 〇「水の潤霑にあへば云々」 熱帯地方の草木の状態を云ふ、旱魃一たび到れば、緑葉|倏《たちまち》失せて万木枯死の状を呈す、然れども潤湿の再び其根に達するあれば、翠光梢に復りて若樹に異ならず 〇(10)然れど人は然らず、彼は死して復た帰らず 〇(11)「海」 海洋にあらず、砂漠に散在する鹹水湖なり、夏時は水なきを常とす 〇「河」 砂漠の渓流なり、wady と称する者、常時は乾燥し、雨期にのみ流水あり 〇(12)「是の如く云々」 木の如くならず、流水の如し、逝て復た帰らず 〇(13)「陰府に蔵し」 陰府をして永久の墓たらしむる勿れ、暫時の隠場たらしめよ、暴風吹き去るまでの一時の避難所たらしめよ 〇(14)「定められし日」 陰府にありて待望む時期 〇「変化」身の変化か、又はヨブに対する神の態度の変化か、蓋し前者ならん 〇(15)「呼び給はん……我応へん」 昵近の徴なり 〇「手の作」 手にて造りし者、己が子と言ふと同じ 〇(16)「今」 然れど今は然らず 〇「歩履を数ふ」 目を我が一言一行に注いで厳密に我を看守し給ふ、我はまことに汝に禁錮せられし囚人なり 〇(17)「愆は嚢の中に封じてあり」「罪を縫ひこめ給ふ」 我が罪と愆とは大小漏さず、我が罪状の証拠物件として保存せられてあり、(エフライムの不義は包まれてあり、その罪は収め蓄へられたり。何西亜書十三章十二節。又羅馬書二章五節を参照すべし) 〇(18)「山も崩れ……巌石も移り」 地質の変化を云ふ、寒暑雨雪の動作に由りて山も終には崩れて平地となり、巌石も片々相離れて、終に其形を失ふに至る 〇(19)「水は石を鑿ち」 滴々の水、終には鑿を以てするが如くに石を穿つ 〇「浪は地の塵を押流す」 激流泥土を押流し、高きを削り、低きを填む 〇(20)「汝はその如く云々」 汝、我神は雨水が山を砕く如く、滴々の水が岩を穿つ如く、「常に」休む時なく(次節)人の望(87)を絶ち給ふ 〇(21)死ぬる者は何事をも知らず(伝道之書九章五節) 〇(22)ヒブライ人の思想に罹る陰府に於ける死者の状態をいふ、以賽亜書末章末節を参照すべし、生命は全く消滅せず、肉に苦痛を覚え、心に悲哀を感ず、而かも過去を記憶ず、未来を望まず、幽暗陰沈の生涯なり。
 
     意解
 
〇人は弱き者なり、弱きは彼の特性なり、彼は弱き婦の産みし者なり、咲いて直ぐ散る花の如き者、風に逐はるゝ浮雲の如き者なり、彼はまことに憐むべき者なり、責むべき者にあらず、彼を責るは赤子を責るが如し、無慈悲の業なり(1−3)。
〇有は無より求むべからず、清は濁より望むべからず、純潔は人より望むべからず、之を望むは荊棘より葡萄を望み、※[草がんむり/疾]※[草がんむり/黎]《あざみ》より無花果を望むが如くならずや(馬太伝七章十六節)、而かも汝ヱホバは我より清浄を要め給ふ、汝は我より無理を要求し給ふ者にあらずや(4、5)。
〇人は人として扱ひ給へ、彼を窮《かぎり》なく窘め給ふ勿れ、断えず彼を責め給ふ勿れ、彼を虐待し給ふ勿れ、時には彼に休息を与へ給へ、我は煩悶に疲る、我は汝の要求に応じて自己を潔うして汝の前に立たんとせり、而かも能はざるなり、我は今は人生の解釈を要めず、休息を求む(6)。
〇樹には望あり、人には無し、樹にして百年の生を存つ者は尠からず、人にして七十に達する者は稀れなり、樹は枯れて再たび芽を萌くの望あり、人は死してまた帰らず、有情の人は無覺の樹に対して誇る能はず、否な彼は老幹巨材の前に立て、自己の脆弱短命に耻ぢざるを得ず(7−10)。
(88)〇願くは死は生命の休止にとゞまらんことを、願くは我に死して復たヱホバに見ゆるの機会あらんことを、願くは或る一定の時期を経過して後に我は再たび知覚を備へて顕はるゝを得んことを、「我は我が変化の来るを待たん」、我は我が体質に変化の来るを待たん、再生か復活かは我(ヨブ)は未だ知らず、然れども我はたゞ此血此肉を以てしては神の前に立つ能はざるを識る(13−15)。
〇再生は我が希望なり、然れども「人若し死なばまた生きんや」、我に此大疑問在て存す、我が智識は我が希望に添はず、我は知らざることを望む、我は我が希望の空望ならんことを懼る、嗚呼我に再生を確かむる者は誰ぞ(14)。
〇我は再生を未来に望む、然れども現在の我は窮困苦痛の我なり、神に我が罪を糺され、一日として寧日あるなし、彼は我が善は悉く之を忘れ給ふが如し、而して我が悪は悉く之を記憶に留め、之を一々我が前に列挙して我を責め給ふ、裁判の神の心は善を留むるに粗にして悪を保つに密なるが如し(16、17)。〇神が人の希望を絶ち給ふや、水が巌を鑿つが如し、刻々息まず、時々休まず、全然之を破砕せざれば止まず、人は希望を以て生れ、絶望を以て死に就かしめらる、希望の蓄積を以て世に顕はれ、之を消費し尽して世を逝る、生命何物ぞ、希望の減殺時期に非ずや(18、19)。
〇希望悉く失せて後に陰府に下る、其処に生命は絶滅せず、然れども其趣味は存せず、歓喜なし、又恐怖なし、只痛苦と悲哀とあるのみ、山も終には崩れて平地となり、地は平々坦々となりて何の趣味をも留めざるに至るが如く、人も終には全く其希望を殺がれて、陰府の趣味なき生涯に入らざるべからず(20−22)。
――――――――――
(89)〇憐むべきヨブは自己の荏弱を神に訴へて其宥恕に与からんとせり、然れども神は人の弱きの故を以て其罪を赦し能はざるなり、罪は意志の行為なり、荏弱の結果にあらず、神は正義に則りて人の罪を赦し給ふ、其弱きを愍みて濫りに彼を放免し給はず。
〇煩悶の間にヨブは再生復活の曙光を認めたり、言あり曰く「来世の希望は地獄の縁《へり》に咲く花なり」と、困難の極に迫らざれば来世は吾人の眼に映ぜず、困難の用は吾人に新希望を供するにあり、ヨブは困しみつゝ彼の来世の希望を増しつゝあり、彼の患難は無益にあらざるなり、神は試錬の鞭を以て彼を天国に追遣りつゝあり。
〇然れどもヨブに取りては希望は万緑叢中紅一点なりき、彼の希望は未だ彼を繞囲する真闇を破るに足らず、曙光は一度び彼に臨みしと雖ども幽陰は再び彼を裹めり、彼は頭上に再生を望めり、然れども足下に陰府を認めざるを得ざりき、「人もし死なばまた生きんや」と、彼は来世を望みながらも、此懐疑より脱する能はざりき。
〇ヨブ然り、我等も亦然り、懐疑と憂懼とは我等の習慣性なり、我等は疑ひ易くして望み難し、我等若し上に一光を認むれば下に万難の蟠まるを見る、我等は到底疑懼の子なり、神よ願くは我が信なきを助け給へ(馬可伝九章廿四節)。 〔以上、.明治39・6・10〕
 
     約百記第十五章
 
  エリパズ再たび語る 〇ヨブの不敬と傲慢とを責む 〇大に悪人の挙動運命に就て誨ゆる所あり。
  1 テマン人エリパズ答へて曰く、
  2 智者あに虚しき知慧をもて答へんや、
(90)   豈東風をその腹に充さんや、
  3 豈用なき談を以て争はんや、
   益なき詞をもて弁論はんや、
  4 まことに汝は神を畏るゝ事を棄て、
   その前に祷ることを止《とゞ》む、
  5 なんぢの罪なんぢの口を教ふ、
   汝はみづから択びて狡猾人《さかしらびと》の舌を用ふ、
  6 なんぢの口みづから汝の罪を定む、我には非ず、
   汝の唇なんぢの悪きを証《あか》す。
  7 汝あに最初に世に生れたる人ならんや、
   山よりも前に出来しならんや、
  8 神の御謀議《みはかり》を聞しならんや、
   智慧を独にて蔵《をさ》めをらんや、
  9 なんぢが知る所は我等も知ざらんや、
   汝が暁るところは我等の心にも在らざらんや、
  10 我等の中には白髪《しらが》の人および老たる人あり、
   汝の父よりも年高き人あり、
(91)  11 神の慰藉を汝小なりとするや、
   夫の柔かき言詞を汝無視せんとするや、
  12 なんぢ何ぞかく心狂ふや、
   何ぞかく目をしばたゝくや、
  13 なんぢ何ぞ是のごとく神に対ひて気をいらだつるや、
   何ぞ斯る言詞をなんぢの口よりいだすや、
  14 人は如何なる者ぞ、如何《いかに》してか潔からん、
   婦の産し者は如何なる者ぞ、如何してか義からん、
  15 それ神はその聖者《きよきもの》にすら信を置きたまはず、
   諸の天もその目の前には潔からざるなり、
  16 況んや罪を取ること水を飲がごとくする、
   憎むべき穢れたる人をや。
 
  17 我なんぢに語る所あらん、聴よ、
   我見たる所を述ん、
  18 是すなはち智者等が父祖より受て、
   隠すところ無く伝へ来し者なり、
(92)  19 彼等に而已この地は授けられて、
   外国人は彼等の中に往来せしこと無りき。
  20 悪き人はその生る日の間つねに悶え苦しむ、
   強暴《あら》き人の年は数へて定めおかる、
  21 その耳には常に懼怖しき音きこえ、
   平安の時にも滅ぼす者これに臨む、
  22 彼は幽暗《くらやみ》を出得《いでう》るとは信ぜず、
   目ざゝれて剣に付《わた》さる、
  23 彼食物は何処にありやと言ひつゝ尋ねあるき、
   黒暗き日の備へられて己の側にあるを知る、
  24 患難《なやみ》と苦痛《くるしみ》とはかれを懼れしめ、
   戦闘《たゝかひ》の準備《そなへ》をなせる王のごとくして彼に打勝ん、
  25 彼は手を伸て神に敵し、
   傲りて全能者に悖り、
  26 頸《うなじ》を強《こは》くし、
   厚き楯の面を向て之に馳せかゝり、
(93)  27 面に肉を満せ、
   腰に脂を凝し、
  28 荒されたる邑々に住居を設けて、
   人の住べからざる家、石堆《いしづか》となるべき所に居る、
  29 是故に彼は富ず、その貨物《たから》は永く保たず、
   その所有物《もちもの》は地に蔓延ず、
  30 また自己は黒暗を出づるに至らず、
   火焔《ほのほ》その枝葉を枯さん、
   而してその身は神の口の気吹によりて失せゆかん、
  31 彼は虚妄《むなしきこと》を恃みて自ら欺むくべからず、
   其|報《むくい》は虚妄なるべければなり、
  32 彼の日の来らざる先に其事成るべし、
   彼の枝は緑ならじ、
  33 彼は葡萄の樹のその熟せざる果を振落すがごとく、
   橄欖の樹のその花を落すがごとくなるべし、
  34 邪曲《よこしま》なる者の宗族《やから》は零落れ、
   賄賂《まひなひ》の家は火に焚《やけ》ん、
(94)  35 彼等は残害《そこなひ》を孕み、艱苦を生み、
   その腹にて詭計《いつはり》を調ふ。
 
     辞解
 
 (2)「虚しき智慧」 声のみにして実なき智慧、風の如き智慧、大言壮語なり 〇「東風云々」 暴風を腹に充たして之を吐く、暴言なり 〇(7)「山よりも前に云々」 汝は神智其物なるや、山未だ定められず、陵《をか》未だ有らざりし前に既に生れたる者なるや(箴言八章廿五節) 〇(8)「神の御謀議云々」 汝は三位の神の一位《ひとり》にして、造化の謀議に与かりし者なるや、即ち「我儕に象りて我儕の像の如くに我儕人を造り」と言給へる神の一位なるや(創世記一章廿六節) 〇「智慧を独にて蔵め居らんや」 智慧と智識の蓄積は一切キリストに蔵れある也(哥羅西書二章三節)、汝は実に彼の如き者なるや 〇(9)汝若し人なれば我等も人なり 〇(11)「神の慰藉……柔かき言詞」 我等(ヨブの友人等)に由て伝へられし慰藉と言詞、汝は之を軽視するや 〇(12)「目をしばたゝく」 ※[目+匡]《まぶた》を繁く開閉《あけたて》す、内心煩悶の表顕なり 〇(15)「神の聖者」 天使なり 〇「天」 星辰を列ねたる穹蒼なり、透明なる青玉をもて作れる如き輝ける天空なり(出埃及記二十四章十節) 〇(16)「罪を取ること水を飲むが如き云々」 饑渇く如く義を慕ふにあらで、罪を追求むる者、是れ憎むべき穢れたる性来《うまれつき》の人なり。
 (19)「彼等にのみ此地は授けられて云々」 我等の此|美国《うましぐに》は神が我等の先祖に授け給ひし者、外国人の曾て之を侵したることなし、故に真理は純粋に先祖より我等の中なる智者に伝へられたり、我れ今之を汝に伝へんとすと、 ヱリパズの国自慢なり 〇(20−24)「悪き人は常に悶え苦む云々」 「掠奪《かすめうば》ふ者の天幕は栄え」といひしヨブの言(95)葉に対して云ふ 〇(25−28) 衷に平安なし、故に外に強暴なり、神は衷に彼を攻む、故に彼は外に神に逆ふ 〇(27)悪人の相貌なり 〇(28)荒邱《あれあと》再建は神の禁じ給ひし所なるに(申命記十三章十六節参考)、彼等悪人は故らに択んで住居を斯かる所に設く 〇(30)虚妄《むなしき》を恃むは自らを欺くなり、そは彼が報として獲る所は彼が恃みし虚妄其物なればなり、不義を耕やし悪を播く者はその獲る所も亦是の如し(四章八節) 〇(32)「彼の日の来らざる先に云々」 彼の終の日(死)の来らざる先きに彼は虚妄に恃みし報として己れ自から虚妄を受くべし 〇(35)「残害を孕み艱苦を生み」 他人に残害を加へんと企図んで返て艱苦を自己に招く 〇「其の腹にて詭計を調ふ」 彼の腹中は詭計の製造所たり、彼は之を他人のために調へて己れ自から之を食ふ。
 
     意解
 
〇老義人ヱリパズ猶ほ未だヨブの煩悶の理由を解せず、故に彼の言を以て狂暴不遜不敬の言なりと云ふ、彼れヱリパズは年老ひたりと雖も未だ曾て神の聖霊に其心を擾されしことなし、故に彼は霊魂の「産の労劬《くるしみ》」を知らず、彼はヨブを責めて「彼の口みづから彼の罪を定む」、即ち彼の信仰の如何に浅薄にして如何に機械的なる乎を自白す。(1−6)。
〇彼れヱリパズの恃む所は彼の高齢にあり、彼の永き生涯の経験に在り、彼は智慧は齢にありと信ず、彼は神より直接に来る深き智慧のあることを知らず、故にヨブを戒むるに傲慢無礼を以てす、憐むべしヱリパズは白髪の故を以て神の深事《ふかきこと》に関する自己の無識を掩はんとす、白髪豈必しも信仰の徴ならんや、神に導かれし者のみ能く神の事を知るなり、古老豈必しも信仰の先導者ならんや。(7−11)。
(96)〇ヨブの言ひし所の事をヱリパズも云ふ、「婦の産し者は如何にして潔からん」と、ヨブは此言を神に対つて言へり、然るにヱリパズは之を人に対つて言ふ、ヨブは己れ神の赦免に与からんと欲して此言を発せり、然るにヱリパズは其友を誡めんとて同じ言を放てり、同一の言も話し掛けらるゝ者の如何に由て其意義を異にす、前者は自己の汚穢に堪えずして神の清浄を求むる声なり、後者は自己の清浄に足りて他人の汚穢を責むる言なり、神に対つて発する叫号《さけび》の声は狂者の言として人に解せらる。(12−16)。
〇ヱリパズ又大にヨブを諭す所あらんとす、而して彼の言はんと欲する所は父祖より受けし遺伝《いひつたへ》に過ぎず、父祖は斯く言へり、古老は斯く言へりと、自己の確信を語るに非ず、独創の意見を述ぶるに非ず、唯古人の背後に隠れて其威厳を藉りて言ふのみ。(17−19)。
〇古老に頼る者は又故国に頼る、国自慢は又彼等の特性なり、「外国人は彼等の中に往来せしことなし」と、我国は曾て外国の侵略に遭ひしことなし、故に真理は粋然として我国に存すと、彼等の誇りとする所は祖先と祖国となり、神にあらず、神より直接に受けし光にあらず。(19)。
〇悪人は短命なり、悪人に恐怖絶えず、悪人は常に幽暗の裡に彷徨す、悪人は終に饑死すべし、悪人に患難と苦痛多しと、是れヱリパズが称して祖先伝来の大真理となす所のものなり、而してその真理の一面なることは何人も能く之を知る、然れども吾人はまた義者に患難多きを知る(詩篇三十五篇十九節)、神の僕の傷けられ、砕かれ、鞭撻るゝを知る、ヱリパズの父祖伝来の教訓は真理の半面に過ぎず、而かも其浅薄なる半面に過ぎず、彼は之を知るの故を以て智者を以て自から任ずべからざるなり。(20−24)。
〇悪人は神に敵す、悪人は頑硬なり、悪人は酒肉に飽く、悪人は好んで人の住ざる所に居るとヱリパズは言ふ、(97)然れども或時は善人も神を涜す者として十字架に釘けられ、彼の確信は頑迷なりとして世に嫌はれ、彼若し食ふことを為し、飲むことを為れば食を嗜《たし》み酒を好む人、税吏《みつぎとり》、罪ある者の友として世の義人の排斥する所となる(馬太伝十一章十九節)、彼は孤独にして世に枕する所なし、善人と悪人とは之を其外部の境遇に由て区別する難し、ヱリパズの誇りとする所謂る祖先伝来の真理なるものは此点に於ても亦大に欠くる所あり。(25−28)。
〇悪人は富まず、悪人の子孫(枝葉)は絶たるべし、彼れ自身も神の口の気吹に由りて失すべし、彼は虚妄を恃むが故に自からを欺く者なり、彼は存命中必ず其報を受くべし、彼の事業は葡萄の樹のその熟せざる果を振落すが如く中途にして敗るべしと、而してヱリパズは年老ひたりと雖も是れ以上の真理を知らず、彼は「失敗の成効」を知らず、彼は「貧困の神聖」を知らず、彼は「十字架の福音」を知らず。(29−33)。
〇「邪曲なる者の宗族は零落れ、賄賂の家は火に焚けん」と、然り、吾人も然か信ず、然れども現世に於て目前に然かあるべしと信ぜず、実に多くの邪曲なる者の宗族と多くの賄賂の家とは栄えつゝあり、而して多くの義人と其家族とは饑餓に苦みつゝあり、吾人もヱリパズの如くに神の厳罰を信ず、然れども彼が信ずるが如くに信ぜず、吾人は未来に於ける神の正罰を信ず、而して現世は至て不公平なる世なるを認む。(34)。
〇「悪人は残害を孕み、艱苦を生み、其腹にて詭計を調ふ」と、老人ヱリパズの観察茲に至て其当を得たりと云ふべし、悪人は其心に於て悪人たるなり、其外形を以て彼の悪人たるを見分くる能はず、悪人の特質は心に残害を孕むにあり、腹に詭計を料理(調ふ)するにあり、彼等の内部はすべて闇黒なり、其中に善の歓喜の踊るあるなし、愛の光りの輝くあるなし、怨恨の大蛇は其中に蟠り、憎悪の蠍は其中に隠る、彼等は嫉妬に嫁して詭計を孕む。(35)。
(98)〇然り、白髪老人ヱリパズの言ふ所は多くは平々凡々なり、彼は人を審判くに其外観を以てす、彼は「衷なる人」に就て知る所尠し、彼がヨブを慰め能はざるは是れがためなり、彼はヨブの困難に陥りしを見て彼れヨブも亦悪人なりと推測せり、彼は人生を半解せり、故に彼に此悲むべき誤解ありたり、彼の高齢は以て神を求むる少者を導くに足らざるなり。 〔以上、明治39・7・10〕
 
     約百記第十六章
 
  ヨブ再び友人に沈黙を促す 〇言辞の慰藉を退く 〇神を恨み人を責む 〇地に向て叫ぶ 〇神なる中保者を要求す 〇朋友を離れて神に向ふ。
  1 ヨブ答へて曰く、
  2 斯る事は我おほく聞り、
   汝等は皆な煩はしき慰人なり、
  3 虚しき言語あに終極あらんや、
   汝なにに励まされて応答《こたへ》をなすや、
  4 我もまた汝等の如くに言ふことを得、
   若し汝等の身わが身と処を換なば、
   我も言語を聯て汝等を攻め、
   汝等にむかひて首《かしら》を揺ることを得、
(99)  5 また口をもて汝等を強くし、
脣の慰藉をもて汝等の憂愁を解くことを得るなり。
 
  6 たとひ我れ言を出すとも我|憂愁《うれへ》は解ず、
   黙するとても我身は安らかならず、
  7 彼いま已に我を疲らしむ、
   汝わが宗族をこと/”\く荒し給へり、
  8 なんぢ皺を以て我が身を蔽ひ給へり、
   是われに向ひて見証《あかし》をなすなり、
   又わが痩おとろへたる状貌我が面《かを》の前に我罪を証《あかし》す、
  9 かれ怒てわれを※[手偏+斯]裂《かきさ》きかつ窘しめ、
   我にむかひて歯を噛鳴し、
   我敵となり目を鋭《とく》して我を看る、
  10 彼等我にむかひて口を張り、
   我を賤しめてわが頬を打ち、
   相集まりて我を攻む、
  11 神われを邪曲なる者に交《わた》し、
(100)   悪き者の手に擲ちたまへり。
  12 我は安穏《やすらか》なる身なりしに彼いたく我を打悩まし、
   頸を執へて我をうちくだき、
   遂に我を立《たて》て鵠《まと》となしたまひ、
  13 その矢我が週囲《まはり》に飛び、
   やがて情もなく我腰を射透し、
   わが胆を地に流れ出しめ給へり、
  14 彼はわれを打敗りて破壊《やぶれ》に破壊を加へ、
   勇士《ますらを》のごとく我に奔《はせ》かゝりたまふ、
  15 われ麻布をわが肌に縫つけ、
   我角を塵にて汚せり、
  16 わが面《かほ》は泣て※[赤+頁]《あか》くなり、
   我|目縁《まぶち》には死の蔭あり、
  17 然れども我手には不義あること無く、
   わが祈祷は清し。
 
  18 地よ我血を掩ふなかれ、
(101)   我号呼は休む処を得ざれ、
  19 視よ今にても我|証《あかし》となる者天にあり、
   わが真実《まこと》を表明《あらは》す者高き処にあり、
  20 わが朋友は我を嘲ける、
   然れど我目は神にむかひて涙を注ぐ、
  21 願くは彼人のために神と論弁し、
   人の子のためにこれが朋友と論弁せんことを、
  22 数年《すねん》すぎさらば、
   我は還らぬ旅路に往べし。
 
     辞解
 
 (2)「斯る事」 エリパズが云へる如き平々凡々の世の倫理道徳
〇「煩はしき慰人」 慰人ならん、而かも煩悶を除くに非ずして、返て之を増す慰人なり、即ち偽はりの慰人なり、前章十一節に於けるエリパズの言に答へて曰ふ 〇(3)「虚しき言語云云」 空言にはてしなし、沈黙を守るに若かず 〇「何に励されて云云」 何が刺激となりて我に答ふるや、憎悪か、憐愍か、将又己の智慧を衒ふ虚栄心か、我れ既に汝等に沈黙を乞ひしに非ずや、十三章五節 〇(4)「言語を聯ねて」 エリパズが為せし如く古諺格言を陳列して 〇「首を揺る」 嘲けるの意なり、詩篇第廿二篇七、八節参考 〇(5)「唇の慰藉」 空言を以てする慰藉、実物と誠実との伴はざる口のみの(102)慰藉。
 (7)「彼」 神なり、神と人とは今やヨブの敵となれり、神先づ彼を疲らし、人は彼の疲労に乗じて彼を窘しむと 〇「汝」 同じく神を指していふ 〇「宗族を…處荒せり」 我が家族、友人、郷党の者を駆つて悉く我が敵となし給へり、我に大患難を下し給ひて我が宗族中に大離反を起し給へり 〇(8)「皺」 心配、苦痛、煩悶の皺 〇(9)「彼」 神なり、彼は今はヨブの首敵なり、彼先づ獅子の如くにヨブに向ひ来る 〇(10)「彼等」 彼より離反せる彼の宗族なり、神先づ獅子の如くに彼を攻め、宗族狐狸の如くに其後に従ふて彼を窘む 〇(11)「邪曲なる者」、「悪しき者」 前節に言へる宗族を指して云ふにはあらざるべし、世の賤民、暴徒をいふなるべし、第三十章を見よ 〇(12)「彼」 尚ほ神を敵魁と見て言ふなり、彼れ不意に我を襲ひ給へりと 〇(13)「矢」 疾病、貧苦、讒誣、嘲弄等 〇「胆を地に流れ出す」 胆は胆汁なり、胆汁を流れ出さしむとは血を流れ出さしむと言ふに同じ、我を傷けしめ給へりと云ふに同じ、勿論災難艱苦を加へ給へりとの意なり 〇(14)「破壊に破壊を加へ」 城塞を奪取する時の状に譬へていふ、先づ第一塞を陥れ、次に第二塞を抜き、終に全塁を毀ち給へり、我は神の攻むる所となりて今は大敗北の地位に立てり 〇(15)「麻布を肌に縫ひつけ」 麻布を纏ふは愁傷の兆なり、之を肌に縫ひつくるとは膚ちかく之を着るとの意なるべし、或ひは永く之を纏ひしが故に皮膚に糊着せりとの意なるべし 〇「角を塵にて汚がせり」 角は栄光の表号なり、角を塵にて汚がすとは名誉地に落ちたりと云ふに同じ、詩篇八十九篇十七節参考 〇(16)「面は泣て※[赤+頁]し」 我れ知らずに涙の流るゝは象皮腫症の徴候の一なりと云ふ、第二章七節を見よ 〇「我目縁には死の蔭あり」 我目憂愁に由りて衰へ、諸の仇ゆえに老いぬ、詩篇六篇七節 〇(17)然れども我に不義あることなし、我の神に対する態度は清し、前章四節エリパズの言に答へていふ。
(103) (18)「地よ云々」 神と人とは我が敵となれり、我れ彼等に訴ふるも益なし、今は地に向て訴へん 〇「血を掩ふなかれ」 我が無辜《つみなき》を証しせよ、我が血をして声を揚げて叫ばしめよ、創世記四章十節参考 〇「我が号呼は云々」 我声の天地に聴かるゝまでは我をして絶叫せしめよ 〇(19)「今にても」 今既に、神の最後の裁判を俟たずして 〇「証となる者」 ヨブの無罪を証する者、又同時に彼の正義を弁護する者 〇(20)「我が朋友は我を嘲ける」 我が朋友は我が証人として立たずして返て我を嘲ける 〇(21)「彼」 天にありて証となる者、父の前の保恵師なり。約翰第一書二章一節参照 〇「人」、「人の子」己を指して言ふ、保恵師が神と人(朋友)とに対して己のために論弁せんことを願ふ 〇(22)我が死期の到るは遠きにあらず。
 
     意解
 
〇汝等は智者ならん、汝等は長者ならん、汝等の経験は広からん、汝等の頭髪は白からん、汝等に多くの古き諺と祖先の遺訓とあらん、然れども我は汝等に向つて曰はざるを得ず、汝等の言は以て今日の我を慰むるに足らずと、汝等はまことに我に取りては煩はしき慰人なり、我は汝等が我が側に在らざらんことを欲す、汝等は我が苦痛の理由を解せず、故に汝等の言は返て我が煩悶を増すに過ぎず、我に既に汝等に沈黙を乞へるに非ずや、汝等何を目的に汝等の空しき言を続くるや、願くは終極《はてし》なき汝等の言を廃めて我をして少しく衷に息む所あらしめよ。(1、2)
〇嗚呼慰藉の術何ぞ易きや、我も若し汝等の地位に立たば汝等の如くに能く古人の諺を聯ねて慰藉の言を綴るを得ん、汝等、口の慈善を止めよ、我は汝等の唇の慰藉に堪ゆる能はざるなり。(4、5)
(104)〇我が衷に大なる苦痛あり、深遠にして語り難し、我れ之を語らん乎、我が憂は解けず、黙せん乎、我が身は安からず、語るも苦痛なり、語らざるも苦痛なり、我は今苦痛の中に彷徨す、慰安の途、我にあるなし。(6)
〇そは神、今我が敵となり給ひたればなり、彼れ我を責め我を疲らせ、我が宗族までを我より離反せしめ給ひたればなり、神我を去り、宗族我より離れ去りて我は天にも地にも身を安ずる所なきに至れり、嗚呼、我れ安くに適帰せん。(7)
〇我れ鏡に対して我が顔を見れば憂愁の皺、其処に現はれ、我に向ひて我が罪を責むるが如し、我憔悴の状は我が科の証跡なるが如し、我は己の影を見て驚くなり、神の呪詛は今や我身を纏ふが如し。(8)
〇我が神は今や狂獣の如し、我を※[手偏+斯]裂《かきさ》き且つ窘め、我が敵となりて我を攻む、而して世の陋徒は其後に従ひ、我を詛ひ、我を賤しめ、相集まりて我を攻む、獅子先づ我を傷け、狐狸其後に従ひ、我が弱きに乗じて我を悩ます、神我を棄て、我を悪人の手に交し給へり。(9、10、11)
〇我は安全の身なりしに神は我を毀ち給へり、我は高貴の者なりしに神は我が角を折りて、我を耻辱の淵に沈め給へり、我が面は泣て※[赤+頁]く、我が目縁には死の蔭あり。(12−16)
〇然れども我れ己に省みて不義あることを発見する能はず、我は未だ曾て身の利益を神より求めしことなし、我が祈祷は今尚ほ清し、我は神が斯くも我を苦しめ給ふ其理由を知るに困しむ。(17)
〇神に訴ふるも彼れ聴き給はず、人は勿論我が叫号の声に耳を傾けず、然れば我は地に向つて叫ばんかな、地よ、汝我が無辜の血を掩ふ勿れ、神と人とは我を忘るとも、地よ、我を産みし地よ、汝は慈母の如くなりて我が不幸を記憶せよ、一人のヨブなる不幸児ありて、神に事へんとして返て神に棄てられ、人を愛せんとして返て人に憎(105)まれし者あるを記憶せよ、嗚呼、地よ、天然よ、土よ、墓よ、神に呪はれ、人に棄てられし者は汝を慕ふこと益々切なり。(18)
〇然り、我に同情を寄する者は無心の天然のみにあらざるなり、視よ、今にても我が証となる者天に在り、彼は神ならざるべし、勿論人に非ず、然れども神の如きの公平を以て人の如くに我が真実を表明する者、我は斯の如き者の高き処に在すを信ず、我は我が弁護を彼に委ねん、彼は神と我との間に立つ中保者なるべし、彼に由りて我は我が神に近くを得べし、嗚呼、救主! 保恵師! 義者の弁護者、罪人の庇保者! 我は信ず、困苦に迫りて今始めて信ず、我が証となる者天に在り、我が真実を表明する者高き処に在るを。(19)
〇我が朋友は我を嘲ける、彼等は我が不幸に在るを見て、我を以て神に詛はれし者なりと做す、故に彼等に向つて我が義を弁ずるも益なし、彼等をして我に就て彼等が思ふ儘に思はしめよ、然れども我目は神に向ひて涙を注ぐなり、我は朋友の同情を求めんとせず、求むるも益なければなり、然れども神の憐愍を要めんと欲す、我は今は旧来の朋友より離れて孤独の者となれり、然れども同時に神を求むる者となれり、我れ今、神と語るに言なし、唯涙を流して我が憂を訴ふるのみ。(20)
〇我は一たびは神は我が敵と成り給へりと云へり、而して今は神の憐愍を要むと云ふ、神は新らしき状を以て我に現はれ給ひたればなり、我が今憂愁を訴ふる神は高き処に在りて我が真実を表明する者なり、彼は神なる証明者ならざるべからず、神にして神の前に人の真実を表明し給ふと云ふ、神は同時に裁判官にして又弁護者たるを得る乎、我れ深く其所以を解せず、然れども我が霊魂は斯かる神と斯かる神なる弁護者とを要求す。(21)
〇願くは彼れ神なる弁護者、我のために神なる裁判人と論弁し、我が義を其前に立て給はんことを、又我のため(106)に我を嘲ける我が朋友と論弁し之を諭し給はんこと、是れ我が切なる祈願なり、我は己を神の前にも人の前にも弁ずる能はず、我は我が弁護を他者に委ねざるべからず、而して天に在りて我が証となる者、彼れ必ず我がために此事を為し給はん。(21)
〇是れ我が祈願なり、然れども我が歳は已に数へられたり、我の還らぬ旅路に往くは遠きにあらざるべし、我は此世に在りて我の義とせらるゝを見る能はざるべし、此事を思ふて我が心は再たび悲痛に沈むなり。(22) 〔以上、明治39・9・15〕
 
     約百記第十七章
 
 ヨブまだ死と墓とを慕ふ 〇痛く友人と其子を呪ふ 〇神を恨み又神に頼む 〇義者の堅信を述ぶ
  1 わが気息は已にくさり、
   我日すでに尽なんとし、
   墳墓われを待つ。
  2 まことに嘲弄者等わが傍に在り、
   我目は彼等の弁争ふを常に見ざるを得ず。
  3 願くは今|質《ものしろ》を我に賜へ、汝に対する我の保証となりたまへ、
   誰か他《ほか》にわが手を拍つ者あらんや、
  4 汝彼等の心を閉て悟るところ無らしめたまへり、
(107)   必らず彼等をして愈《まさ》らしめたまはじ。
  5 朋友を交付して掠奪《かすめ》に遭しむる者は、
   其子等の目潰るべし。
  6 彼われを世の民の笑柄《わらひぐさ》とならしめたまへり、
   我は面《かほ》に唾せらるべき者となれり。
  7 我目は憂愁によりて昏み、
   肢体は凡て影のごとし、
  8 義き者は之に驚き、
   無辜者は邪曲なる者を見て憤ほる、
  9 然りながら義しき者はその道を堅く持ち、
   手の潔《いさぎよ》き者はますます力を得るなり。
 
  10 請ふ汝等皆ふたゝび来れ、
   我は汝等の中に一人も智《かしこ》き者あるを見ざるなり。
  11 わが日は已に過ぎ、
   わが計る所わが心に冀ふ所は已に敗れたり。
  12 彼等夜を昼に変ふ、
(108)   黒暗の前に光明ちかづくと云ふ。
  13 我もし俟ところ有らば是わが家たるべき陰府なるのみ、
   我は黒暗にわが牀を展ぶ、
  14 われ朽腐に向ひては汝はわが父なりと言ひ、
   蛆に向ひては汝は我母わが姉妹なりと言ふ、
  15 然ばわが望はいづくにかある、
   我望は誰かこれを見る者あらん、
  16 是は下りて陰府の関《くわん》に到らん、
   之と斉しく我身は塵の中に静臥すべし。
 
     辞解
 
(1)「気息は腐り」 生気は衰へ。気息は生命なり 〇(3)「願くは云々」天に在る保証者に対つて願求す。前章十九節 〇「質を賜へ」 未来の裁判に於て鞫く神と鞫かるゝ我との間に立て我が保恵師たるを約する証拠物を我に賜へ 〇「汝に対する我の保証」 鞫く神に対て保証者(弁護者)たらんことを求む、神は同時に裁判人にして又弁護者なり、父にして又子なり、正義の神にして又罪の贖主なり、三位一体の教義は往々にして旧約聖書の中に現はる 〇「手を拍つ者」 保証人の意なり、ユダヤ人の旧慣に由る。箴言十七章十八節、同廿二章廿六節参照 〇(4)「彼等」嘲弄者等なり、三人の友人を云ふ、彼等は心閉ぢて我の証人となる能はずと 〇「彼等(109)をして愈らしめ給はじ」 彼等の我に対する弁争をして勝利に帰せしめ給はじ 〇(5)「朋友を交付して云々」 三人の友を罵て言ふ、彼等は艱難にある朋友を敵に交付して其掠奪に遭はしむ、是れ無情の極なり、其罰として其子等の目潰るべしと 〇(6)「彼」 神をいふ、朋友は我を敵に交付し、神は我を世の笑柄となし給へり 〇(8)義人の世に苦むを見て義者は疑ひ、聖者は惑ふ 〇(9)然れど義者は患難のために義を棄てず、彼は苦められて益々力を得るなり 〇(10)「再び来れ」 還て復た来れ、我は今汝等に聴くを好まず 〇(11)我は已に失望の人なり 〇(12)「夜を昼に変ふ云々」 我に来るべき夜を昼なりと云ふ、又暗黒の前に光明ありと云ふ、智者を以て自から任ずる我朋友等は物の黒白すらをも弁ずる能はず 〇(14)朽腐は父、蛆は母と姉妹、死は我に最も親しき者なり 〇(16)「是れ」 我が希望は 〇我身は我が希望と斉しく陰府に下るべし、而して其処に塵の中に静臥すべし、希望先づ失せ、身其後に従て消ゆと。
 
     意解
 
〇幽暗未だヨブの身を去らず、故に彼は人生を消極的に解して之を積極的に解する能はず、彼は時には暗夜に星光を認むるを得たり、然れども義の太陽は未だ彼の上に昇らず、故に彼に悲歎の言多くして歓喜の声尠し、彼は尚ほ苦痛を感ずること鋭くして恩恵を感ずること鈍し、神は彼を鍛錬せんために一時其聖霊を彼より取り上げ給へり、而してヨブは其再送を求めて歇まざるなり、是れ彼の悲鳴の益々高き所以。
〇ヨブは幾回か死を望めり、而して今や之を慕ふに至れり、「墳墓我を待つ」、「腐朽は我が父、蛆は我が母、我が姉妹」と、彼の妻は彼を棄去り、彼の親友は彼を解せず、而して彼の神も亦其|聖顔《みかほ》を彼より隠し給へり、彼れ(110)今誰と親しみ、誰と語らん、然り、彼の妻は墳墓なり、彼女は草の褥を展べて彼の帰るを待ちつゝあり、彼の父は腐朽なり、彼は寂滅の休息を以て彼の勤労に報ゆる所あらん、而して彼の母と姉妹とは蛆なり、彼等は彼の病躯を蠹みて彼を慰むる所あらんと。(1、14、15、16)
〇同情の友は今は嘲弄者として感ぜらる、彼を慰めんとする者は彼と弁争ふ者の如くに思はる、否な、逆境に在るヨブは其友を称して「朋友を敵に交附して掠奪に遭はしむる者」となせり、彼は其子等までを呪ひて彼等の目は潰るべしと言へり、聖霊を取去られしヨブは峻厳にして冷酷なり、春風未だ彼の心を吹かず、故に宥恕の温暖未だ彼に有るなし、温かりしヨブは肉に病み霊に餓えて偏僻狭隘の人となれり。(2、5)
〇神を恨み奉り、又神を頼み奉る、裁判の神として恨み奉り、仲裁の神として頼み奉る、神を恨みて亦神に訴ふ、是れ人が神に対して取る必然の態度なり、神は絶対者なれば一位としてのみ考ふべからず、或ひは父として、或ひは母として、或ひは又兄弟として考ふるを得るなり、ヨブの神に二位あるは善く神の神たるを示すものなり。(3、4、6)
〇消極的のヨブは今や温愛の人たる能はず、然れども善く困難の中に処して正義の人たるを得たり、善人の此世に苦しめらるゝを見て義者は驚き聖者は憤ることありと雖も、彼れ自身は堅く道を守り、心に詐譎《いつはり》なきが故に益々力を得んと言へり、神の人は勿論義人以上なり、然れども前者たり得ずと雖も何人も勉めて後者たるを得べし、世には神を信ぜざる義人なきに非ず、而して神は又斯かる義人を愛し且つ恵み給ふ、手の潔き者は信者たるも不信者たるも益々力を得るなり、ヨブ今は前の如くに神を視る能はず、故に讃美と感謝の生涯を送る能はず、然れども不義を悪む義人となりて人たるの正道を践むを得たり、ヨブの高貴なるは此に存せり、彼は如何に堕落せる(111)も義人以下には堕落せざりしなり、彼れが終に義人以上の人たるを得しは彼に此堅心ありしが故なり。(8、9) 〔以上、明治39・10・10〕
 
(112)     基督教の趨勢
                     明治38年2月20日
                     『聖書之研究』61号「雑録」
                     署名 角筈生
 
  凡ての事は神の旨に依りて召かれたる神を愛する者のために悉く働きて益を為すを我儕は知れり(羅馬書八章廿八篇)。
 戦争は如何なる戦争でも、道徳的には悪事である、経世的には劣策であるとは、余輩が今日まで唱へ来つた所であつて、又今日と雖も尚ほ唱へて憚からない所である、勿論、戦争の如き大事件に至ては其如何に大なる悪事であるか如何に大なる損害である乎は一年や二年で判分るものではない、独逸国は『三十年戦争』終結後二百五十年の今日、尚ほ著しく其害毒を感じつゝあるとの事である、普仏戦争の戦勝の悪結果は戦後七八年を経て、始めて独逸国の経済界に顕はれたとのことである、誰も知る通り日露戦争は日清戦争の結果であつて、日露戦争は又如何なる戦争を産み出すか判明らない、四海皆な兄弟であり、宇宙皆一躰である以上は他人を殺すことは終には自己を殺すの結果を生じ、他人の産を尽すことは終には自己の産を倒すに至るに相違ない、敵人とて神の目から見れば矢張り同胞兄弟である、敵国とて同じ世界の一部分である、若し人類は一個団躰である、世界は一家同族であるとの科学上の提議が真理であるとすれば、戦争其物を以て善である、美である、利である、益であるとは如何しても思へない。
(113) 然しながら、全能全智の神の支配し給ふ此世界は最も奇《ふし》ぎなる所である。此奇ぎなる世界に在ては悪は必しも悪結果を生じない、否な、多くの場合に於ては悪は善なる神の利用する所となりて善き結果を生ずるに至る、斯く云ひて、悪は、夫れ故に善であると云ふのではない、悪はドコまでも悪である、然しながら世に善なる神が悪を超制し給ひて(overrule)悪の中より善を呼出し給ふことがある、例へばイスカリオテのユダがキリストを其敵に付《わた》したやうなことである、然しながら驚くべき神の摂理の下に此極悪の罪悪は世に神の最大の恩恵を招くの手段となつた、ユダの叛逆に由りて十字架上の罪の贖ひなるものが行はれた、悪が善に終り、罪が恩恵に終るとは斯う云ふやうな事である、我等は斯かる事実に接して、たゞ聖書の言葉を藉りて叫ぶまでゞある、
  是れヱホバの成し給へる事にして我儕の目に奇しとする所なり(詩篇百十八篇廿三節)。
 今度の日露戦争の結果も同じ事である、其近代史に於ける最も歎かはしき事件の一つであることは識者の等しく認むる所である、然しながら此悲むべき戦争も亦、或る種の善事を胚胎しつゝある、爾うして、日露両国孰れが最大の善果を此戦争より収むる乎と云ふに、それは言ふまでもなく、戦敗国たる露西亜であることは、是れ亦、早くより識者の認めた所である、戦敗に由て自由の光明はヴォルガ、ドンの河辺にまで臨んだ、ウラル山麓に自由の声の揚るのも又決して遠き未来のことではあるまいと思ふ、西より入らんと欲して入ること能はざりし勇敢なる処女『自由』は今や日本人の手を藉りて、太陽の光線と均しく、東より『ルスの地』に入りつゝある、太平洋よりボルチツク海まで自由の旌旗が翻るに至ることは此悲むべき戦争の奇異なる結果として今より予想することが出来る。      然しながら勝戦国たる我儕の日本は此戦争より善果を収むることはあるまい乎、我儕は敵国に利益を供するた(114)めにのみ我儕の鮮血を濺ぎつゝあるのであらふ乎、我儕が若し新たに領土を得ることが出来、新たに商権を握ることが出来れば、それで此戦争の損害は凡て償はれるであらふ乎、余輩は爾うは思はない、政治家輩の目的は多分、此辺に在るであらう、然しながら日本国を愛し給ふ天の神は、斯かる小なる、且つ下等なる、結果を以てしては満足し給はない、貴き人の血を濺いで、其結果が僅かに富国強兵位ひであるならば、人命とは余りに安価いものである、愛の神は政治家輩の思ひに過ぎて不朽の結果を此戦争より日本に持来し給ふに相違ない。
       *     *     *     *
  ヱホバ宜給はく、我が思念は汝等の思念と異なる、我が道は汝等の道と異なれり、天の地より高きが如く我が道は汝等の道よりも高く我が思念は汝等の思念よりも高し(以賽亜書五十五章八、九節)。
 日露戦争は非基督教国と認められたる日本国が基督教国と認められたる露国に対して開いた戦争である、爾うして此戦争に於て非基督教国の日本国が開戦以来連戦連勝をしたと云ふ有様であるから、此状態を目撃した人は誰でも、此戦争の結果として、基督教は日本国に於ては不人望の極に達し、遠からずして蜻※[虫頁廷]洲より其跡を絶つに至るであらふと思ふた、現に常に基督教を敵視する我国の宗教家にして、此思念を懐き、開戦当時に方て大に旧宗教の快復を計つた者もあつたとの事である、又外国、殊に英米両国の宗教家で、此結果の日本国に臨まんことを懼れ、心密かに日本のために心配したものもあつたと聞いた、然しながら事実は実際何うであるか、連戦連勝一年後の今日基督教は果して非基督教国と認められたる日本に於て不人望の極に陥つた乎、否な、決して爾うではない、事実は全く其正反対である、余輩の見る所を以てすれば、明治三十八年首途の今日ほど基督教が日本人に由て要求されたことはない、総ての政治雑誌や文学雑誌が殆んど不振の極に達せんとしつゝある今日今頃、(115)余輩の宗教文学は戦争の進捗と同時に益々世に要求されつゝある、今や我国の有力者にして、基督教を求むる者は日々に其数を増しつゝある、今日、最も売行きの善き書籍は基督教の聖書である、今日は何れの基督教会でも、常識に適ふ基督教の説かるゝ所は聴衆を以て充満する、基督教は今や憶面なく、大胆に日本国孰れの所に於ても説かれつゝある、満韓の地に屍を曝らせし我が同胞は多くは基督教以外の人士であつた、然るに此の悲むべき戦争の恩沢に最も多く与かつた者は基教督信者である、世に意外なる事とて斯の如きはない、然しながら是れは事実である、是れは亦何にも基督信者が斯く巧らんで成つた事ではない、是れは自然の成行である、故に此事に就て基督信者は誇つてはならない、否な、思ひもよらざる斯の境遇に置かれて彼等は非常の謙遜を以て更らに進んで国家同胞のために尽さなければならない。
 日露戦争の直接の結果は勿論、愛国心の勃興である、爾うして愛国心の此勃興が日本人の基督教の信仰の上に及ぼした結果は亦非常なものである、愛国心は勿論、何れの方面に於ても国民的独立を要求する、政治的独立ばかりではない、思想的独立、并に信仰的独立を要求する、爾うして露国に対つて剣を抜いた日本人は今や何れの方面に於ても欧米人に対つて独立を宣言しつゝある、今日まで欧米人と言へば数等優つた人種であるとのみ思ひ、彼等の言行と言へば一も二もなく、只、敬服し来つた日本人は、今や露人の怯懦と不信と陋劣とに由て、欧米人の鬼神にあらざるを覚り、戦争に於てのみならず、文事に於て、然り、宗教に於て、我等の決して彼等に劣らざる民なるを自覚し、彼等の課せし軛より脱せんと為しつゝある、爾うして独立の此勃興は先づ第一に日本の基督教界に於て現はれた、卅年間一日の如く外国伝道会社の補助金に依食して何の羞耻をも感ぜざりし日本国の基督信者は日露戦争の結果として、依頼服従の最も恥づべきことであることを悟り亜米利加人より補助を受くるのは(116)露西亜人に補助を仰ぐと僅かに五十歩百歩の差であるやうに思ふに至つた、是れ実に喜ぶべき現象であつて、此趨勢にして此儘に進むならば、遠からずして、此国に於ても、他の独立国に於て見るやうな、独立の基督教会を見るに至るであらふと思ふ、実に今日となりて外国人より補助金を受けて教会を維持して行くが如きは恥辱の絶頂である、独逸でも、英国でも、米国でも、然り、露国でも、其監督、牧師、教法師に外国人を戴かない、試みに考へて見られよ、若し英国の基督教会の監督が仏蘭西人であつたとしたならば如何であらふ、又は若し仏蘭西人が独逸人の補助金を仰いで其教会を維持して居るとしたならば如何であらふ、是れ彼等の一日も耐え得ない所であつて、彼等は何を措いても先づ第一に斯かる恥かしき外国の補助を絶ち、其支配を斥くるに相違ない、然しながら是れ戦勝国の日本国が、其基督教会に於て今日尚ほ甘んじて受けつゝある恥辱である、我等は勿論、敵国露西亜に対するの憤怒を以て外国宣教師の補助を斥けてはならない、然しながら我等自身の自尊心に訴へ、より多く神の恩恵と援助とを信じて此機会を利用して、一日も早く外国人の補助を離れ、日本人は日本人の金と信仰とを以て其教会を維持し、其伝道を継けなければならない、爾うして斯く為してこそ外国宣教師が今日まで此国に於て布教した其目的も達するのである、我等の永久の隷属を希望する宣教師は極く劣等なる宣教師である、最も好く事理を解したる宣教師は日本人の斯かる奮発を見て大いに神に感謝する者である。
 日露戦争は今日まだ其初期に於て在る、縦し遠からずして露国が屈服するとした所が、それで此戦争は其局を結んだとは言へない、日露戦争は支那分割の第二幕であるとは多くの歴史家の唱ふる所である、故に支那の運命の定まるまでは此戦争は終るまいとのことである、故に今日只今、日露戦争の総ての結果に就て語るのは大早計と言はざるを得ない、次に来らんとする戦争は今、目前に戦はれつゝある戦争よりも更らに数層倍悲惨なるもの(117)である乎も知れない、支那四百余州が安堵するまでには幾十百万の人が生命を投棄てねばならぬか、如何なる変事が全世界に臨むか、其等の事は神ならでは知る者は一人もない、然しながら此戦争の結果として何が来らふが、
我儕基督教信者が信じて寸毫疑はない唯一つの事がある、それは即ち総ての戦争、総ての騒擾、総ての動乱は皆な神の栄光に終るとのことである、若しヱホバの神は実に宇宙の主宰であり給ひて、キリストは人類の王、聖書は神の言であるならば、世界人類の総ての変動は斯神、斯救主、斯書の貴尊栄光に終るべき筈である、爾うして若し過去の世界歴史が全然誤謬でないならば、総ての歴史的大事件は此結果を生じた、即ち善は勿論、悪も、真理は勿論、誤謬も、平和は勿論、戦争も、皆な悉くヱホバの神の聖名を揚ぐるに至つた、余輩は日本国今日の基督教の趨勢に鑑みて神の摂理を敬嘆して止まない。
 
(118)     〔最大の賜物 他〕
                     明治38年3月20日
                     『聖書之研究』62号「所感」
                     署名なし
 
    最大の賜物
 
 全世界に非ず、善智識に非ず、聖徳に非ず、長寿に非ず、聖霊なり、神を知るの智慧なり、死に勝つの能力なり、而して神は此最大の賜物を基督に託りて我儕に下し給ふ。
 
    永生の貴尊
 
 永生の尊きは其永きが故に非ず、其聖きが故なり、其永きを欲して之を求むる者は竟に之を獲る能はず、永生は神の生命なり、而して神の生命なるが故に永からざるを得ざるなり、之を永生と称せしは不幸なり、そは其貴きは其量に於てよりは寧ろ其質に於て存すれば也。
 
    道徳と信仰
 
 道徳は外を謹むにあり、信仰は内を充たすにあり、内部の欠之を補ふに外部の修飾を以てする、之を道徳と云(119)ひ、内容の充実を以て外部に光沢を加ふ、之を信仰と云ふ、道徳は美ならざるにあらず、然れども信仰の生采あるに如かず、道徳は抑圧なり、信仰は放射なり、道徳は機械なり、信仰は生命なり、道徳は信仰の真似にして其一時的代用たるに過ぎず。
 
    内か外か
 
 幸福を得るに二途あり、勢力を張り、眼界を闊し、宇宙を我が有となさんと欲する、是れ其一なり、慾心を絶ち、目を瞭《あきらか》にし、神を我が有となして、我が衷に天国を造る、是れ其二なり、前者は人と共ならざれば之を為す能はず、後者は独り之を遂ぐるを得べし、前者は時代的にして、後者は永遠的なり、共同一致の必要を説く者は外に伸びんと欲する者にして、内に穿たんと欲する者にあらず、天下に覇たるの快楽もあらん、然れども己に勝つて神を視るの幸福に此すれば其及ばざるや遠し。
 
    天才と聖霊
 
 天才は慕ふべし、然れども聖霊の至美《すぐれ》たるに如かず、天才は一時賜金の如し、吾人之を消尽するの危険あり、聖霊は終身年金の如し、汝の能力は汝が日々需むる所に循はんと(申命記三十三章廿五節)、天才は少数者にのみ与へられ、聖霊は何人も之を受くるを得べし、天才は神を否む者にも与へられ、聖霊は父の愛に沐浴してのみ之を享くるを得べし、天才は貴族的なり、聖霊は平民的なり、我儕は心を卑うして、万民と共に天の此恩賜に与からんと欲す。
 
(120)    人生の最大事
 
 我儕は此世界は竟に如何《どう》なる乎を知らない、然かし我儕は神は彼を愛する者に聖霊を給ふて之を其子と成し給ふことを知る、人生の最大事は政治ではない、亦軍事でもない、人生の最大事は宗教である、即ち此移変り行く世に在る間に移変らざる世に入るの準備を為すことである、我儕は此世界が滅びつゝある間に神の子となりて永生を承継ぐことが出来る。
 
    平和の勝利
 
 東亜に在ては、余輩の同胞は剣と銃と砲とを以て欧人に圧迫を加へつゝある今日余輩はペンとインキと紙とを以て余輩の友人を欧大陸に作りつゝあり、余輩の小著の独逸国に現はれてより以来、アルプス山中より、ダニユ−ブ河辺より、「北海」の浜より、余輩に書を寄せて好意を通じ来る者頻々として絶へず、由て知るペンは誠に剣に優るの武器なることを、東亜の戦闘酣なる頃、余輩は既に大陸の西に於て永久の平和を結びつゝあり、栄光必しも之を軍人に※[言+委]《よ》すべからず、平和の勝利は戦争のそれに優さる。
 
    最後の勝利
 
 戦に勝つて勝つのではない、真理に従つて勝つのである、戦に負けて負けるのではない、真理に反いて負けるのである、真理を究むるは剣を磨くよりも大切である、真理は永久に勝つための武器であつて、剣は僅かに一時(121)の利を制するための機械に過ぎない、我儕は最後に宇宙に王たらんがために剣を以てよりは、寧ろペンを以て戦はんと欲す。
 
    ウエスレーとカント
 
 十八世紀の最大偉人はジヨン=ウエスレーにあらずしてイマヌヱル=カントなり、ウエスレーは地上に神の教会を建てんとせり、カントは人の良心に宇宙の大道を植えんとせり、我が上に星天の輝くあり、我が衷に道義の蟠まるありと、ウエスレーは東奔西走して、広く道を伝へんとせり、カントは曾て彼の居住の地より三十哩以外に出でしことなしと云ふ、ウエスレーは人類の愛すべきを示し、カントは個人の貴むべきを教へたり、ウエスレーは広くして浅かりし、カントは狭くして深かりし、人、各々其私淑する所あらん、然れども余輩はウエスレ−に対するよりも、カントに対し、より大なる敬崇を払ふ者なり。
 
    奇異なる現象
 
 今や非戦論者は無神論者の中に多くして、基督教信者は概して主戦論者なり、神は無しと称ふ者は平和を唱へ、神は愛なりと叫ぶ者は戦争を謳歌す、基督教、既に陳腐に属せしか、基督教信者、堕落を極めし乎、基督教を棄てん乎、基督教信者を斥けん乎、余輩は基督教を棄つる能はず、故に止むを得ず、今日世に称する基督教信者なる者を排斥せんと欲す。
 
(122)    輿論と神意
 
 輿論は神の声なりと意ふは非なり、神の声は常に輿論に反対す、昔時の予言者は皆な悉く輿論の反抗者なりき、人類何者ぞ、聖書に曰くヱホバ天より人の子を望みて悟る者、神を究ぬる者ありやと見給ひしに皆な逆き出て悉く腐れたり、善を為す者なし、一人もなしと(詩篇十四篇二、三節)、神を反き去りし人類の輿論は神意を伝ふるものにあらず、吾人は神の言たる聖書に聴くべし、悪人が多数を占むる社会の輿論なるものに従ふべからず。
 
(123)     偉人と聖書
                     明治38年3月20日
                     『聖書之研究』62号「所感」
                     署名 角筈生 編
 
 カルビン曰く、神学は総ての学問の女王にして其他の学問は総て彼女の侍婢《こしもと》なり。
 フレデリッキ、フホン、マイヤル曰く、神は二《ふたつ》の巨《おほい》なる光を造り給へり、昼を司るための黙示《レベレーシヨン》なる大なる光と、夜を司るための道理《リーズン》なる小なる光と、是なり(創世記第一章十六節参照、黙示は聖書にして神学の基礎なり、道理は智識にして科学の根底なり)。
 ルーテル日く、人は学んで聖書を究むる能はず、又智能を以て之を探る能はず、故に祈祷を以て汝の聖書の研究を始めよ、是れ汝に神が彼の道《ことば》の真正の意味を示さんがためなり、聖書の作者なる神御自身を除いて、此書を正当に解釈し得る者他にあるなし。
 ルーテル又曰く、何の註解をも附せざる聖書其儘が総ての学者を照らす太陽なり。
 アウガスチン曰く、吾人の目が斯世に対して盲する丈けそれ丈け聖書は瞭かに之に映ずるなり、斯世の事に明かなる眼は聖書の中に何物をも見る能はず。 ベンゲル曰く、我儕の頭の髪を悉く数へ給へる神は、疑もなく亦新約聖書に在る文字をも総て悉く数へ給ひしならん(其一言一句総て皆な神の作なりとの意なり)。改行
 
(124)     余は何故にキリストを愛する乎
                     明治38年3月20日
                     『聖書之研究』62号「談話」
                     署名 内村生
 
 余はキリストを愛する、余は余の父よりも、余の母よりも、余の妻よりも、余の子よりも、キリストを愛する、余は何故に未見の、而かも異邦の人なる、而かも二千年前に此世に現はれたる此人を愛するのである乎。
 キリストの品性の高くして清潔なりしことは余がキリストを愛する一大理由であるに相違ない、余は殊に聖ルカに由て記されたる貧者の友、弱者の友としてのキリストを愛する、余はキリストに於て余の理想の平民を発見する、余は如何してもキリストを以て階級の人、又は教会の人と見ることは出来ない、米国詩人ホイチヤーの理想は王なき政治と監督なき教会であつたとのことがあるが、余はキリストの理想も亦茲に在つたであらふと思ふ、キリストを称して教会の首長と云ふ人があるが、余は彼を以て今の天主教会や、監督教会の首長であるとは如何しても思へない、余の敬慕するキリストは大工の子なるナザレのイエスである、彼に比べてはリンコルンもグラッドストンも平民としては遙かに劣る、労働を愛し、天然を愛し、嬰児を愛し、学校に学ばずして常識に富み、帝王の宮殿に招かれんよりは税吏と罪人との招待に与かるを悦ばれし彼は実に余の理想の平民である。
 然しながら余がキリストを愛するのは特に彼の純正なる平民性に由るのではない、亦彼が伝へし多くの驚くべき高き清き教訓に由るのではない、是等は勿論尊いものであるに相違ない、余はキリストを或る他の理由に依て(125)愛すると云ふて、彼の道徳と訓誡とを蔑視《みさ》げない、余は勿論彼の伝へし道徳の宇宙第一であることを充分に認める、然しながら余がキリストを特に愛する理由をよく/\究めて見ると、其決して人を愛するの愛でないことを発見する、余は或る意味から言へば詩人ヲルズヲスを非常に愛する、余の幼年時代に於て余が此「湖水詩人」の感化に与かつたことは決して尠くはない、「低き生活と高き理想」とは余が彼に教へられたことである、「天然を通して天然の神に達する」とは是れ又余が彼に由りて学んだ所である、余の生涯より詩人ヲルズヲスの感化を取去るならば余の衷にある最も貴い或るものを取去るのである、多くの意味に於て詩人ヲルズヲスは余の恩人である、而かもキリストが余の恩人である特別の意味に於ては彼れ「湖水詩人」は少しも余の恩人ではない。
 其|理由《わけ》は最も明白である、ヲルズヲスは偉人であつたが人である、彼に天才はあり、清き良心と高き理想とはあつたが、然かし彼も亦「壊《く》つべき憐むべき罪に枯死する人の子」であつて(彼自身の語を藉りて云ふ)、彼とても亦如何に願ふても人以上のことは為し得なかつた、彼は彼の高き潔き句を以て余の心を多少引上げることが出来た、然しながら彼の瑤音麗句を以てしても彼は余の最も要求する一つのことを為し得なかつた、彼は罪の縄索《なわめ》より余を救出すことは出来なかつた、彼の詩も彼の生涯もたゞ余をして高きを慕はしむるに止まつて、余を罪の桎梏より解放することは出来なかつた、彼の詩集を幾回繙読するとも、余は矢張り余の心の根底に於て、憂愁の人、傲慢の人、恐怖の人であつた、余はヲルズヲスを学んで余が人に卓越して高潔なる人となつたやうに感じた、余は世の罪人を憐むに至つた、然しながらキリストに由らずして余は余自身が罪人の首《かしら》であることを知ることは出来なかつた、余がキリストに余の心を照らされた時は、恰かも電気燈を以て暗所を探られるやうな心地がした、余はキリストに殆んど驚殺された、爾うして驚殺されて後に始めて新らしき生涯に入ることが出来た。改行
(126) 余は何故にキリストを愛する乎、余は瞭かに聖書の言を以て此問ひに答へて曰ふ、キリストは我儕の尚ほ罪人たる時、我儕の為めに死に給へり、神は之に由りて其愛を彰はし給ふ(羅馬書五章八節) 其れ故に余は彼を愛すと、又、キリストの愛我儕を勉《はげま》せり、我儕思ふに一人、衆の人に代つて死たれば衆の人既に死たる也(哥後五の十四)、其れ故に余は彼を愛すと、又、我儕神を愛するに非ず、神、我儕を愛し、我儕の罪の為めに其子を遺して挽回の祭物とせり、是れ即ち愛なり(約壱四の十) 其れ故に余は彼を愛すと、人、或ひは言ふであらふ、贖罪とか、挽回《なだめ》の祭物《しなへもの》とかいふは是れユダヤ思想発表のための語式であつて、何にも特別の事実を言ひ表はした言葉ではないと、然かしそれは決して爾うではない、贖罪とは心霊の特別なる実験を言ひ表はした言辞である、挽回の祭物とは是れ亦、罪に沈める人類が切に懇求する神の聖業の一段を言表すための最も適切なる言辞である、別言すれば、キリストは神と罪人との間に交通の道を開き給ふた、彼れ以前に此特種の交通なく、彼れ以外に亦此特種の交通はない、天然を通して天然の神に達することは出来る、然かしながら天然を通して罪の赦免の神に達することは出来ない、キリストは孔子も釈迦もソクラテスも顕はすことの出来ない神の愛の奥義を我儕彼を信ずる者に顕はし給ふた、キリストは其為し給へる事業の性質から考へても人以上であつて、特別の実在者である、故に、余がキリストを愛するのも又特別であつて、此愛は人的ではなくして神的である、即ち余はキリストを愛すると曰はんよりは寧ろ彼を崇拝すると言ふ、彼は余の友であるよりは寧ろ余の主である、余は彼の弟子であるよりは寧ろ彼の僕である、然かり、使徒パウロの言を藉りて言へば、余はキリストの doulos 即ち奴僕である。
 余はキリストを愛する、何故なれば、彼は今は余の生命であつて、彼を愛することは余自身を愛することであるからである、今や我れ生けるに非ず、キリスト我に在りて生けるなり、今、我れ肉体に在りて生けるは我を愛(127)して我がために己を捨てし者、即ち神の子を信ずるに由りて生けるなり(加拉太書二章廿節)、キリストが我に在りて生けるとは是れ比喩的の言辞ではない、彼は誠に彼より出で来る聖霊を以て我が衷に宿り給ふのである、是の事は是れ信仰の奥義である、爾うして此事を実験しない者は此事を聞いて嘲けり笑ふ、然しながら此事を実験する者は此事の事実中の最大事実であることを知る、我、爾曹を捨て孤子とせず、再び爾曹に就《きた》らんとはキリストが我儕に約束し給へる言辞である(約翰伝十四章十八節)、爾うして彼が感化力としてゞはなく、活ける真実《まこと》の霊として彼を愛する者の衷に宿り給ふとは基督信者が懐く信仰の中で最も貴いものである、即ち我儕クリスチヤンはキリストを最早歴史的人物としては見ないのである、我儕は彼を生ける現存し給ふ者として見るのである、我儕は即ち、我は世の未まで常に爾曹と偕に在るなりとのキリストの言を字義なりに解するのである、過去に存在せし歴史的人物を愛すると云ふのは、其記憶を愛し、其事跡を愛するのであつて、其人自身を愛するのではない、然しながら我儕がキリストを愛するのは、今、面前に存在し給ふ生者を愛するのである、即ち我が偕老の妻を愛するが如き、我が同僚の友を愛するが如き、愛情交換的の愛を以て愛するのである、故に我儕クリスチヤンはキリストと語り、キリストに祈り、キリストを悦ばせんとする、彼は我儕が食する時に我儕と偕に在り、我儕が歎げき悲む時に我儕の側に在りて、然かり、我儕の衷に在りて、我儕を慰め給ふ、I love Jesus、余はイエスを愛する、小児が母を愛する心を以て彼を愛する、彼に縋がる、彼に余の凡ての苦痛を訴へる、余の取るべき歩一歩に就いて彼の指導を仰ぐ、
  How sweet the name of Jesus sounds,  如何に美はしくイエスの名は響くよ、
      In a believer's ear!       信徒の耳の中に、
(128)  It sooths his sorrows,heals his wounds,  是れ彼の悲痛を和らげ、彼の傷を癒し、
      And drives away his fear.   又彼の恐怖《おそれ》を駆逐る。
       *     *     *     *     *     *
  Jesus!my Shepherd,Guardian,Friend, イエスよ、我が牧者よ、我が守護者よ、友よ、
      My Prophet,Priest,and King;    我が予言者よ、祭司よ、王よ、
  My Lord,my Light,my Way,my End, 我が主よ、生命よ、道よ、目的よ、
      Accept the praise I bring.       我が汝に奉る讃美を納《う》けよ。
 
(129)     〔欧人の歓迎 他〕
                     明治38年3月20日
                     『聖書之研究』62号「雑録」
                     署名なし
 
    欧人の歓迎
 
内村生著英文「余は如何にして基督信徒となりし乎」は独逸文に訳されて以来、広く北欧諸邦に行渡りしが、
 
〔画像略〕スウェーデン語版『余は如何にして基督信徒となりし乎』初版扉
 
(130)今や又、瑞典国首府ストツクホルムに於て瑞典語に訳されて出版されんとしつゝあり、余輩は欧洲大陸新教諸国に於てキリストに於ける多くの愛深き兄弟姉妹を発見しつゝあるを感謝す、殊に北方|瑞西《スヰツルランド》国に於て多くの歓迎を受けつゝあるが如し、謹んで此快事を誌友諸君に報ず。
 
    僧侶の鑑定
 
 伊豆某地の或る仏教僧侶にして海老名君主筆の雑誌「新人」を愛読しつゝある者あり、知人某彼に就て「聖書の研究」の購読を勧む、彼れ僧侶答へて曰く、「否な」と、知人其理由を問ふ、彼れ答へて曰く「余は耶蘇信者と為られんことを恐る」と、「新人」万歳!「聖書之研究」万歳!
 
    清涼剤を求む
 
 或る人余輩に問ふて日く、君、雑誌「焔の舌」を読む乎と、余輩は答へて曰く「否な」と、彼れ其理由を問ふ、余輩は答へて曰く、「焔の舌」は熱きに過ぎて余輩の耐ゆる所にあらず、若し「シロアムの泉」なる雑誌あらん乎、余輩は喜んで之を読まんと。
 
(131)     〔不自由の身 他〕
                      明治38年4月20日
                      『聖書之研究』63号「所感」                      署名なし
 
    不自由の身
 
 我が計画は総て失敗なりし、然れども我に関はる神の計画は総て成効なりし、今に至りて我は愈々知る、自由なる者は我に有るが如くに見えて実は無きことを、イエス、ペテロに曰ひ給ひけるは、誠に実に爾に告げん、爾、幼き時は自から帯びし、意に任せて遊行《ある》きぬ、然れども老ては手を伸べて人、爾を束《くゝ》り、意に適はざる所に爾を曳き至らんと(約翰伝廿一章十八節)、我も人なるイエスに曳廻はさるゝに至りて我が信仰の稍々老熟せるを覚ゆ。
 
    基督信者の過失
 
 基督信者に過失多し、然れども非基督信者の過失の如くに多からず、過失多きの故を以て基督信者を鞫く非基督信者は自から更らに大なる過失に陥りて神の鞫く所となる、我儕は彼等の誹謗に心を悩ますべからず、そは世の暗黒の益々深き時に我儕の陰影は光明を放つて輝くべければなり。
 
(132)    文字の欠乏
 
 我れ時々文字に窮す、心密かに惟ふ、我は何故に深く文字を究めざりしやと、然れども退ひて再び思ふ、我にして若し文字の人ならん乎、我は脩飾に意を用ふるの余り、神の誠実《ムプリシチー》を語り得ざるべしと、文字の豊かなるは真理を隠蔽するの虞れあり、赤裸々の真理を語るにあらざれば、何事をも語り得ざる者も亦全く用なきの人にあらざるべし、我は文字に貧なるの故を以て我が執筆の職を辞せざるべし。
 
    盗難に罹りて感あり
 
 盗あり、我が虚に乗じ、我が貧家に忍入りて我所有の或物を奪去れり、人は我の不幸を傷はり、我も亦我が損失を歎けり、然れども我れ自己に省みて神の摂理を感謝して止まざりき、我の霊、塵に就《つき》し時に神は盗賊を送りて我が思念をして地を離れしめ給へり、賊は我が所有を獲たり、而して我は再び天国を獲たり、神に依癩みて盗賊も我をして貧ならしむる能はず。
 
    最大事件
 
 陸の絶東に満洲事件あり、其絶西にモロツコ事件あり、而して二者の中間にクリート島事件あり、而して人は言ふ、是れ目下の最大事件なりと、然れども是れ斯世の事件にして斯世の失すると共に消え失する事件なり、然り、人生の最大事件は外にあり、永遠の裁判是なり、是れ斯世と共に消えざる事件なり、而かも人の此事件に注(133)意する尠し。
 
    残忍酷薄の極
 
 同胞の生命を犠牲に供し、戦に勝ちたればとて商権の拡張を云為す、商権果して人命に優りて貴重なる者なる乎、世に残忍酷薄なる者にして主戦論者の如きはあらず、彼等は同胞の鮮血の未だ乾かざる先きに、既に利益の獲得を公言す、彼等は敵を愛せざるのみならず、亦同胞を敬せざる者なり。
 
    神政の特質
 
 基督教は王政に非ず、故に王侯貴族に依らず、基督教は共和政治に非ず、故に多数を頼まず、基督教は神政なり、故に無形の神に信頼す、基督教は真個の独立を奨励す、即ち独り神と偕に全世界を相手として立つ底の人物を造る。
 
    聖書と科学の調和
 
 聖書は今日の科学に反対す、そは聖書は奇跡の書なるに今日の科学は奇跡を否定すれば也、今日の科学に全然信頼する者は聖書に全然信頼する能はず、聖書の見解を更へん乎、或は科学の見解を改めん乎、吾人は二者其一を選まざるべからず、而して吾人は科学の屡々其仮説を変更するを見て、万世不易の聖書に由て科学の見解を定めんと欲す、吾人は聖書を科学の上に置いて二者の調和を計る者なり。
 
(134)    『聖書之研究』の名と別る
 
 今を去る五年前、余の始めて汝を此誌の題目として選むや、汝の我邦人に取り最も不人望なる名の故を以て余の成効を危まざる者はなかりき、然れども神の祝福は汝と余との上にありて、我等は星霜五年を重ぬるも能く我等の地位を守るを得たり、而已ならず、変り易き此世は今や漸く汝の名の忌むべからざる者なるを知り、却て汝を迎へ汝の指導を仰がんとするに至れり、是れ又汝の勝利にして、余の汝のために深く喜ぶ所なり。
 而かも余は今汝と別れ、汝の指導に由て得し新光明に向て更らに進まんと欲す、即ち後に在るものを忘れ前に在るものを望み、神、キリストイエスに由て上へ召して賜ふ所の褒美を得んとて目的に向ひて進まんとす(腓立此書三章十三、十四節)、余は汝の名を愛するも汝の光輝の下に永く安静を貪るを好まず、余は今より更らに暗中に入りて暗中の物を探り来らんと欲す。
 余や今汝の名を去るべし、然れども余は終生汝の実を離れざるべし、『新希望』は汝の変名なり、即ち汝の粋を歌ふ者なり、誰か汝の実を去りて其身安からん、聖書の研究は余が余の墓に下る時まで続けらるべし、余は再び俗文学に帰らざるべし、余は今汝と別かるゝに及んで神の聖前に此事を汝に誓ふ。
 
    花を見て感あり
 
   寒風に蕾綻びかぬるとき
     花も見頃の花にぞありける
 
(135)     世界最大の言辞《ことば》
         約翰伝第章孝第一節の黙考
                     明治38年4月20日
                     『聖書之研究』63号「説話」
                     署名 内村鑑三
 
 世界最大の言辞は新約聖書約翰伝第一章の第一節に於て在る、此言辞より大なる言辞は論語にも、孟子にも、古事記にも、法華経にも、プラトーにも、アリストートルにも、ダンテにも、シエークスピヤにも、ゲーテにもない、是は実に世界、否な、宇宙最大の言辞であつて、此言辞こそ実に世に戴尽すこと能はざるものである(約翰伝末章末節)。
 太初に道在り、這は神と偕に在り、道は即ち神なり、希臘原語では十七文字であつて、日本訳では仮名共に廿一文字である、然し能く其意味を噛別《はみわく》れば一字千金は愚か、其一字毎に深遠無量の一大真理が籠て居る、此廿一文字を完全に註解し得る聖書学者は全世界に居らない、余輩は茲に余輩が知り得し唯極く僅少の真理を読者の前に陳ぶるまでゝある。
 太初に、是れは創世記第一章第一節に元始にとある言辞である、「太初に」とは宇宙万物の未だあらざる前にとの意である、人未だ在らず、獣未だ在らず、禽未だ在らず、魚未だ在らず、海未だ在らず、陸未だ在らず、星未だ在らず、星雲さへ未だ其微光だも放たず、光さへ未だ暗黒の中に輝かざる時に、道《ことば》は既に神と偕に在りとの(136)意《こと》である、何んと旧い古いことではないか、歴史以前は勿論、造化以前、未だ空間も時間もなかつた時に云々との意である、支那が古い、日本が古い、埃及が古い、バビロンが古いとて、決して是ほど古くはない、聖書の記事は、特に約翰伝の記事は其発端を此太古では、此太初を以て起して居るのである、我儕は聖書を研究するに方て此一事を忘れてはならない、即ち聖書は「時」の制限のない書である、是は永遠に始まつて永遠に終るものである。 道在り、道とは何んである乎、道は読んで字の如く道理ではない、道理は理であつて死んだものである、然し茲に言ふ道とは神と偕に在りて神であるといへば、活きたる、而かも性格を備へたる者である、然らば「ことば」とは何んである乎、「ことば」は英語のエキスプレッションである、即ち思想の表顕である、見えざる霊の外に現はれたるものである、言語(ことば)は音響を以てする思想の表顕である、然しながら音響のみが思想表顕の手段ではない、我儕は手真似を以て、或ひは絵画を以て、或ひは彫刻を以て我儕の思想を外に顕はすことが出来る、爾うして心の中に隠れたる思想を外に顕はす総ての手段を、之を称して「ことば」といふのである、ミルトンの思想を顕はしたものは彼の作つた詩と文とである、ミケルアンゼローの思想を顕はしたものは彼の刻んだ彫刻物である、ラフハエルの思想を顕はしたものは彼の画いた絵画である、爾うして詩文はミルトンの「ことば」であつて、彫刻物はミケルアンゼロの「ことば」、絵画はラフハエルの「ことば」である、「ことば」は言語に限らない、心を外に顕はすもの、是れが即ち「ことば」である。
 爾うして神にも「ことば」がある、彼にも亦思想があり、愛があり、智慧があり、権能があるから、彼も亦之を顕はすために「ことば」を要する、然かし是れ如何なる「ことば」でなくてはならない乎、言語か?、言語も(137)勿論必要である、聖書の如きは実に其意味に於て神の「ことば」である、然かし言語だけでは足りない、言語に添ふに何にか実物が要る、爾うして天然が斯かる実物であつて、又実物を以て神の心を顕はす彼の「ことば」である、岩も木も、動物も、人類も、皆な神の心を伝ふるための「ことば」である、我儕は謹んで之を読んで神の聖意《みこゝろ》を悟らなければならない。
 然しながら神の深遠限りない思想を顕はすためには聖書と天然とでは猶ほ不足である、神を表出する者は言語以上、天然以上のものでなくてはならない、神は自己を顕はすために自己に似た、而かも自己を離れたる、或る実在者を要する、是れ即ち聖書に謂ふ所の神の栄の光輝、その質の真像(希伯来書一章三節)でなくてはならない、即ち我を見し者は父を見しなりと言ひ得る者でなければならない(約翰伝十四章九節)、神の「ことば」は是れでなくてはならない、是れ以下のものは神を完全に顕はすに足りない者である、此「ことば」は言語以上、即ち言語を発する者、天然以上、即ち天然を造つた者でなくてはならない(哥羅西書一章十二節)。
 故に茲に言ふ「道」とは道理でもなければ、亦言語でもなければ、亦言語を説明するための実物でもない、「道」は少くとも性格(personality)を備へた者であつて、人に似、又神に似たる者でなければならない。
 道は神と偕に在り、此ペルソナ性を有したる「道」は神と偕に在りたりとのことである、神の何者である乎は聖書は決して之を説明しない、そは神は何よりも最も知り易い者であるからである、創世記第一章第一節に、「元始に神天地を造り給へり」とありて、神は既に在る者として記されてある、宇宙在ての神ではなくして、神あつての宇宙であるから、万有何物を以てしても神の何たる乎を説明することは出来ない、神は実に実在の原理(the First principl of Existence)である、神は在つて在る者の中で最も確実なる者である。
(138) 爾うして「道」は此神と偕に在りたりと言ふ、「偕に在り」とは抑々何う云ふ事であらふ乎、原語の聖書には四つの異つたる詞が「偕に」といふ意味に於て使つてある、其第一は sun《スーン》といふ詞であつて、馬太伝廿六章三十五節にあるベテロの言辞に、「我は主と偕に死ぬるとも云々」とあるは此詞である、此場合に於ては「偕に」は行動を偕にするの意である、生涯の方針を偕にすると云ふ時には必ず此詞が用いてある、爾うして約翰伝第一章の此所に用いてある「偕に」とは行動を借にする意味の「偕に」との詞ではない。 其二は之を meta《メータ》と云ふ、馬太伝一章二十三節にインマヌエル……其名を訳けば神、我儕と偕に在るとの義なりとあるは此詞である、此場合に於ては「偕に」とは所を同くするとの意であつて、居住の地を偕にするとの義《こゝろ》である、然しながら「道、神と偕に在り」との「偕に」は此「偕に」でもない。
 其第三は para《パラ》である、約翰伝十四章十七節に彼(聖霊)爾曹と偕に在り云々とあるは此詞である、此場合に於ては「偕に」とは側に在り又は附添ふの意味である、然しながら「道、神と偕に在り」との「偕に」は此「偕に」でもない。
 其第四は茲に用ひてある詞であつて、之を pros《プロス》と云ふ、此詞は極く稀れに「偕に」と訳してある、馬太伝十三章五十六節に其(イエスの)妹等は皆な我儕と偕に在るに非ずやとあるのは此詞である、然し同じ詞が路可伝一章十九節に於ては僅かに「に」と訳してある、即ち天使答へて曰ひけるは我はガブリエルとて神の前に立つ者なり、爾に(対して)語りてこの喜びの音云々と、此場合に於ては人に対して語るの意であつて、亦彼と偕に語るとも云ふことが出来る、哥林多前書十三章十二節に言へる彼の時には面を対(あは)せて相見んとあるのも亦此詞である。
(139) 之に由て此を観れば、「道、神と偕に在り」とは何う云ふ事であらふ乎、単に神と行動を偕にしたと云ふことではない、其意味に於ては我儕普通の信者も亦神と偕に労《はたら》く所の者である(哥後六〇一)、又神と同所に在ると云ふことでもない、其意味に於ては神は在さゞる所なき者なれば彼は何人とも偕に在まし給ふ者である、又神の側に在ると云ふことでもない、其意味に於ては神は其聖霊を以て世の終まで我儕信徒と偕に在り給ふと約束し給ふた、「道が神と偕に(pros)在りたり」とは最も深い、且つ威権ある意味に於て偕に在りたりとの意味であると思ふ、即ち天使ガブリエルが処女マリヤと相対して語りしやうに、道は神と同等の態度を以て交際せりとの意でなくてはならない、面と面と相対して見るといふのが此詞の意味であつて、「道は神と偕に(pros)在り」とは彼は神と対して相語り、相交はり、相計り給ひたりとの意でなければならない。
 「道は神と偕に在り」、イエス、父に言ひ給ひけるは世の基を置かざりし先きに爾、我を愛し給へり(約十七〇廿四)、宇宙創造以前よりの神との交際、是事を為したる者が「道」である、ナザレのイエスである、如何なる人ぞ、如何なる神ぞ、深遠にして又深遠、玄妙にして又玄妙、量り知るべからず、而かも驚ぅべき事実、驚かんのみ、讃美せんのみ……
 「道は即ち神なり」斯かる実在者は神ならざるを得ない、彼を人と称すべからざるは勿論、彼は天使とも称するを得ず、政とも権威とも能力とも宰治とも称するを得ず(以弗所書一章廿一節)、アブラハムの在らざりし時に既に在りたる者は之を神と称し奉るより他に適当の称なし、神の「ことば」は神性を備へたもので神である、彼は神の独子である、神の生みし者であつて、彼の造りし者ではない、神在ると同時に在りし者であつて、神の無限なるが如くに無限なる者である、神は先づ神と其|道《ことば》とである、即ち父と子とである、爾うして父あり子ある(140)以上は二者の中に聖霊のあるのは必然である、神は三位である、余輩が曾て論述せしが如し、爾うして三位の神のみが其れ自身を以て完全する神である、斯かる神に由てのみ万物は造られ、罪は贖はる、願くは栄光長久に父、子、聖霊にあれ、アーメン。
 
(141)     大なる罪と小なる信仰
         路可伝十七章一節より十節まで(明治三十八年四月九日)                     明治38年4月20日
                     『聖書之研究』63号「説話」
                     署名 内村鑑三
 
  (毎週日曜日、余の家に於て家族のために聖書研究会を開く、之に列する友人常に二三十名、世に或ひは其講義の大要を知らんと欲するものもあらん、依て以後毎号其要旨を本誌に掲載することゝなすべし)。
 「躓かさるゝ事」とは信仰を害はるゝことなり、神とキリストとに対し疑念を懐き、世俗の言に耳を傾くるに至ることなり、世に懼るべきことにして此の如きはあるなし 〇「必ず来らん」 悪魔が勢力を有する此世に於て信仰の堕落は免かるべからざる事なり、余輩は其何故に然る乎を知らず、然れどもキリストは其事の悲むべき事実なることを茲に予め告げ給へり 〇「小人《ちいさきもの》」 キリストの弟子を指して言ふなり、真正の基督信者は実に「小さき者」なり、彼等は彼等の父なる大なる神に対して小さき者なり、彼等は又、世に倚辺《よるべ》なき者なるが故に小さき弱き者なり、彼等は殊に無抵抗主義を採るが故に殊更らに弱き小さき者なり、斯かる者より神に対する信仰を奪ひ去るは是れ罪悪の至極なり 〇「磨石《ひきうす》」は驢馬に由て挽かるゝ者にして通常我邦に於て使用せらるゝ物よりも優かに大なり、之を頸に懸けられて何人も身を動かす能はず 〇「海に投入れられんこと」 海に投入れられて居らんことゝ改訳すべし、斯かる者は地上に在らんよりは寧ろ海の底に居らんこと、優かに其人のために宜か(142)るべしとの意なり 〇「自己を謹慎めよ」 躓かさるゝの危険ある弟子に対つて曰ふ、躓かせられざるやう謹慎めとの意なるべし 〇若し兄弟爾に罪を犯さば先づ之を諌めよ、而して彼若し悔ひなば之を免すべし、若し一日に七たび罪を爾に犯して一日に七たび爾に対ひ我悔ゆと言はゞ免すべしと、基督信者たりと雖も理由なくして人を免す能はず、然れども罪人にして悔ひん乎、彼は幾回たりとも之を免すべきなり、基督信者の最も謹慎むべきことは罪人に対する復讎無慈悲の精神なり、此精神あらん乎、彼は甚だ躓かされ易し、彼は常に信と愛との胸当を以て彼の心を護らざるべからず(撒前五〇八を見よ)、自己の信仰を固く持つに最も善き法は常に兄弟を愛することなり。
 〇「使徒主に曰ひけるは我儕に信を益せよ」と、主曰ひけるは爾曹若し芥種《からしだね》ほどの信あらば云々と、使徒は信仰の益されんことを願へり、然れども主は信仰の増減に就ては語り給はずして信仰の有無に就て彼等に答へ給へり、主は曰ひ給へり、爾曹は信仰の益されんことを求ふや、我爾曹に告げん、先づ信仰を得んことを求めよ、其一粒だに有たんか云々と、信仰は大勢力なり、其最も小なる者と雖も能く大事を為すを得べし、我儕が大事を為し得ざるは信仰尠きが故に非ずして信仰と称すべき信仰無きが故なり 〇「桑樹」 シカモールと称するパレスチナ産の桑樹の一種にして大木なり、我邦に於て楠又は欅と称するの類なり、斯かる大木に命じて抜けて海に植れと云はんには其如くなるべしと、馬太伝十七章廿節には「此山に此処より彼処に移れと云ふとも必ず移らん」とあり、山を移すと云ふも、桑樹を抜くと云ふも同じく難事を為すとの謂ひなり、人が以て為し得べからずと見做すことを為すを得べしとなり、イエス在世当時に難事を為す者を「山を動かす者」と称ひしと云ふ、イエスは俗諺を応用して茲に此教を下し給ひしなるべし 〇信仰は実に山を動かすの能力なり、大木を抜くの勢力なり、(143)神を信ぜざる全国民が挙つて為さんと欲して為し能はざることを、一信徒の能く其独力を以て為すことあり、信仰は能く大木の如き社会の弊害をも其根底より抜き去るを得べし、世の政治家は之を見て驚き、世の社会改良家等は之を聞いて怪む、然れども是れ敢て怪むに足らざるなり、基督信者は神に依りて此大事を為すなり、信仰は地上に於ける神力の応用なり。
 
(144)     独立信者の活動
                     明治38年4月20日
                     『聖書之研究』63号「雑記」
                     署名 角筈生
 
 独立信者には集ふべき教会堂はない、信奉すべき信仰箇条もない、祝福を仰ぐべき法王も、監督も、宣教師もない、独立信者の教会堂は碧の天空を天井とし、青き地面を床板とする宇宙其儘である、彼等の信仰箇条は聖書其物である、彼等の監督は主イエスキリストであつて、彼等の交はる教会員なる者は真心を以てキリストを愛する万邦の基督信者である、独立信者には制度も規則も礼式(普通のゼントルマンとして守るべき礼式の外は)もない、彼等は神の直接の信者を以て自から任ずる者であつて、自由にして而かも厳粛を貴び、質素にして而かも天上に金剛石の宮殿を我が有として持つ者である。
 故に独立信者に世に所謂る「運動」なるものはない、彼等に年会もなければ部会もない、彼等は一監督の命令の下に動くやうな御し易い者ではない、彼等は年会の議決に由て進退を決するやうな、不自由なる者ではない、彼等は直接に神に使役され、キリストの命に従て動く者である、彼等の行動に軍隊的秩序はない、然し詩人的自由はある、彼等は予言者エリヤのやうに何処より来り、何処に去るか知れない者である。
 故に独立信者は何処に居る乎、幾人あるか、少しも分らない、教会内にもあらふ、教会外にもあらふ、彼等は信者の服装を着けて居らない、故に彼等の基督信者たるを見分くるのは甚だ難い、神のみが彼等の神の子である(145)ことを知つて居る、彼等は重もに労働者である、懶惰者は独立信者となることは出来ない、故に彼等は神学校の内には居らない乎も知れないが、職工場には居る、彼等は田に耕し、店に働く、彼等が世の普通の人と異なる点は彼等が劇働に従事しつゝある間に心に讃美歌を唱へつゝあるのみである。
 今、茲に斯かる独立信者より余輩の手許に達する其活動の報告書(実は愛の書翰なり)の二三を掲げて見やう、伝道会社の報告書よりは優かに興味が多いと思ふ、彼等は重もに一騎打の武者である、一騎当千の基督的武士である。
    長門山中より左の報告来る
  先生、世の中には教師、牧師、伝道師、準伝道師等仰山あるに関はらず、奇妙なるかな彼等に聞くことをせず、この賤しき土方に主を聴かんとて日夜寄せ来り居候、昨今〇〇高等学校生一群寄せ来り激戦二昼夜、宏大の光明に浴してこゝに至高者を讃め分れ申候云々
    満州奉天の北十里の所より左の報告来る、其処に余輩の理想に近き非戦論者は居る。
  拝呈仕儀、陳者御恩寵の御下益々御牡康、道の御為に御奮戦あらせらるゝ事と推察たてまつり大賀たてまつり候、降て私事も昨年七月上陸以来一日の如く無事主の御下に相勤め申居候間御安神被下度候、さて在郷中は戦争は偽善なり虚偽なりと叫びし者なれ共、召集後の勤務上には決して人後に相立たざる事と自信仕居候間御安神被下度候
    米国カリホルニヤ洲某地より左の感想録来る。
   仁ある人は見捨てじ道のべの
(146)   目に無く咲けるいちゞくの花
  〇今日の働きの終りし時吾喜べり、今日の働きは苦しかりしも、了へし後は余りに短かく感ぜらる、人生の働きの了へし時幾層倍の喜び其時に吾人の上にあるらん、其時吾人の生涯の殊に短かゝりし事と働きの少なかりしを思ふべし、其時吾人悲む者となるを願はず。
  〇ベスト(最善)を吾為せども世と人とは吾人を苦め失望を与ふ、其理を吾不知、唯だ苦と難とに戦つてベストを為すのみ、主の御さばきいと聖し。
  〇日々の糧を今日も与へ給へと常に祈る、而して日々の一語吾最も愛す、余は一日も霊の糧なくして生くる不能。
  〇黄白二大人種を一個の鶏卵の内容と仮定せば如何なるべきや。
  〇余や全世界中最も罪深き者なり、而して己れの罪悪の為に自から地平線上より堕落して其井底に苦める時、井底に入りてこそ初めて白昼真の星光を仰ぐを得たりしを喜ぶ。
  〇吾人をして己れのみ天国に入る者とならしむることなく、行路に悩む者を伴ひ相携へて歩みを等ふして入るものとならしめよ。
 是等は僅かに其二三の例である、日本国到る処に、支那に、朝鮮に、布哇に、米国に、メキシコに、余輩の兄弟姉妹は数多、潜み居りて、各々其持場を忠実に守り、其れ相応の信仰の戦争を戦ひつゝある、彼等の伝道なるものは勿論フロックコートを着けて高壇より叫ぶ伝道ではない、然かし、鋤を取り、槌を手にしながら為る彼等の密かなる平民的伝道は竟には全世界を醇化するに至るものである、余輩は集まるに教会堂の無いのを歎かない、(147)又制度を以て成る団結一致のないのを患へない、我儕は皆な主イエスキリストに在て兄弟姉妹である、我儕は祈祷の座に於て(成るべくは午後の七時に)霊交を結ぶ一家族である、多分、世に親密なる者にして我儕独立信者の如きはあるまい、水の洗礼もない、葡萄酒の晩餐式もない我儕は強固なる無形の教会を作る者である、主は長久《とこしへ》に我儕隠れたる、而して散乱せる、多くの孤独の独立信者を守り給はん。
 
(148)     〔在米国カリホルニヤ洲ロスアンゼルス市無名氏に告ぐ〕
                     明治38年4月20日
                     『聖書之研究』63号「雑記」
                     署名 編輯生
 
 在米圍カリホルニヤ洲ロスアンゼルス市無名氏に告ぐ、真愛に溢るゝ君の手紙と其中に含まれたる或物は確かに余の許に達せり、其時余の両眼は熟き涙の泉となりしを察せられよ、余は太平洋の此方に在て君の如くに戦ひつゝあり、又君の如くに、又君のために祈りつゝあり、「或物」は君の命令に従ひ使用せり、君安んぜよ、更らに祈祷の座に於て余を忘るゝ勿れ。
  明治三十八年四月某日
                 日本ツノハズに於て 編輯生
 
(149)     貴顕紳士に福音を説くの愚
                     明治38年4月20日
                     『聖書之研究』63号「雑記」
                     署名 内村生
 
 貴顕紳士とて人間である、罪に沈める人間である、故に彼等とてもキリストの救拯に与かることの出来る者であるから余輩とても亦機を得るならば彼等に天の福音を分与するに吝ならざる者である。
 然しながら我儕は貴顕紳士……殊に日本今日の貴顕紳士なる者の如何なる人物である乎を能く知らなければならない、彼等は階級として決して自己の罪を悔ひ、キリストの王国を迎ふる者でないことは能く分つて居る、彼等が時には基督教を賛成すると云ふのは自身キリストの救拯に与からんと欲するからではなくして、基督教を政治上又は社交上に利用せんとするからである、使徒ヤコブの言ふ、爾曹貧者を藐視《かろし》め、爾曹を凌虐《しひた》げ、また裁判所に曳く者は富者に非ずや、彼等は爾曹が称へらるゝ所の美名を※[言+賣+言]《けが》す者に非ずや(雅各書二章六、七節)とは実に日本今日の貴顕紳士に適用すべき言辞である、彼等の如くに神に向つて心を剛愎《かたくな》にする者はない、斯かる者に特に基督教を紹介せんとするは、唯、一層彼等の侮蔑を招くまでのことである、余輩は信じて疑はない、我儕の主イエスキリストは決して今日の貴顕紳士なる者を愛し給はざることを、斯かる高ぶりたる、策略の外、何物をも知らない者はキリストの天国に入るに最も不適当なる者である、豚の前に真珠を投与ふるとは実に彼等の前に貴きキリストの福音を述べんとすることであると思ふ。
(150) 余輩は斯く言ひて彼等を憎む者ではない、又彼等に対して社会的大運動を起さうとは決して為ない、余輩は彼等に於て何の羨むべきものをも発見しない、余輩は寧ろ彼等を非常に気の毒に思ふ者である、然しながら余輩は彼等にキリストの福音を聞かするの全然徒労の業であることを信ずる者である、飢え渇く如くにキリストの福音を求めつゝある者は今や日本全国に満ち溢れて居る、彼等は主を求め、亦主に招かれつゝある者である、我儕は今日直に彼等貧しき平民に主の福音を説くべきである、然るに特に貴顕紳士を招いて彼等に道を説かんとするに至ては、是れ余輩の何んとも評しやうのない愚策劣策であると思ふ。
 今を去ること六七年前、日本基督信徒の貴顕招待会なる者が東京なる帝国ホテルに於て開かれた、爾うして其全然恥辱と失敗とに終つたことは誰でも能く知つて居る、然るに近頃又同様の会合を開かんとする計画のあるを耳にして、余輩は痛歎の至りに耐えない、貴顕を社会上の貴顧として敬するのは余輩と雖も為す所である(聖書の明白なる教訓に従つて)、然しながら常に基督教を蔑視して止まざる彼等に、福音を聞かするのは、是は実に彼等に之を聞いて貰ふのである、余輩は基督教の威権を維持するために余輩の信仰の友人が今日の貴顕紳士輩に主の貴き福音を聞かせざらんことを望む、恐くは彼等足にて践み、ふりかへりて爾曹を噬み破らん(馬太伝七章六節)。
 
(151)     〔葛巻星淵著『【信仰余賦】小星《いさゝぼし》』再版への序文〕
                 明治38年5月8日
                 葛巻星淵著『信仰余賦 小星』(再版)
                 署名 内村鑑三
 
 拝啓。陳ば先般は知人若林君を以て貴著「小星」を御贈り被下、且巻首に於て之を小生に献ぜられ候段、小生に取り非常の歓喜且光栄に御座候、小生の微衷が斯る者となりて世に顕はれしを思ひ、主に於て為せる労働の全く無益ならぬを知り、大に志を強め候。
 扨、早速拝読致し候処、大体の御精神に至ては勿論徹頭徹尾御同感に御座候、殊に始めの二篇が最も善く貴兄の御気質を表し居り候ことゝ存候、巻中最も善きものは御短歌と存じ候、「登り来て仰げば高し神路山」は信仰歌として第一位に居るべきものと存候、其他概ね短きものは長きものよりも善きやうに思はれ候。
 且又御注意申上たきは、弱をのみ慰めんとせられずして、大に大を賛せられたきことに御座候、貧者を慰むるの術は、時には亦、大と偉とを思はしめて貧を忘れしむるにありと存候、其点に於ては、日本の詩人大体が誤り居り候ことゝ存候、我等は時には路傍の「ひな菊」たるべし、然れども、亦時にはヒマラヤ、ガンジスたるべしと存候、アムビションなくしては大詩想は出で申さず候、而して是れ亦神を信ずる者の懐くべき正当なる精神の一つと存候。
 何れにしろ、成るべく丈多く英語力を養はれ、ホイツトマン、ブライアント、ウオルヅオス等の詩作を御研究(152)なさるべく候、日本的小詩人を以て御満足なされぬやう呉れ/\も御注意申上候。
 右申上度早々頓首
  十二月二十九日             内村鑑三
 
    葛巻君
 
(153)     〔愛すべき三姉妹 他〕
                       明治38年6月10日
                       『新希望』64号「精神」
                       署名なし
 
    愛すべき三姉妹
 
 三人の愛すべき姉妹あり、長女を信《しん》といひ、二女を望《ばう》といひ、三女を愛《あい》といふ、長女は堅にして忍、次女は快にして活、三女は優にして美なり、而して余輩は茲におもに二女望に裁て語らんと欲す、然れども彼女に就いて語らんと欲して、余輩は単に彼女一人に就て語る能はず、彼女に父あり、余輩は彼の徳を頌へざるべからず、彼女に母あり、聖霊となりて我儕の心に宿り給ふ、彼女の姉と彼女の妹とは彼女と相対して常に余輩の敬崇を惹かざるべからず、余輩は茲に謹んで此誌を「天の聖家族」に献ず。
 
    前誌と本誌
 
 『聖書之研究』は信の景慕者なりき、彼は嘲笑讒侮の中に生れて、能く堅忍の生を保てり、今や『新希望』は彼の後を承け、望を彼の極美として仰ぎ、彼女の鼓動の下に、歓喜、満足、平和、勤勉の生涯を継けんと欲す、望は信の如くに高荘ならず、而かも能く下界に止まつて天上の純美を維持す、而して望の謳歌者たらんと欲する(154)本誌は、能く天上の歓喜を持来りて、地上の憂苦を拭ふ者たらざるべからず。
 厳冬の後に春陽来る、『聖書之研究』に次いで『新希望』生る、是れ時の正当の順序ならずや、若し夫れ花既に落ち、夏既に過ぎ、金風涼を送りて収穫の秋を告ぐるに至らば、望は彼女の位地を愛に譲り、余輩をして更らに実成されし希望に就て歌はざらしめん乎、余輩は今より其時の至らんことを願ひ、収穫を望んで、喜んで茲に余輩の新事業に入らんと欲す。
 
    信と望
 
 我霊地を離れて天に昇り、地を眼下に見て、其上に屹立する時、我に信あり、我霊、再び地に降り来り、悲哀に接し、天の歓喜を以て之を慰めんとする時、我に望あり、信は高くして潔し、望は低くして優さし、同じく是れ神の子なり、而して吾人、時には望に傚はざるべからず。
 
    希望の宇宙
 
 是れ希望の宇宙たるなり、何ぞ泣き悲み憤ふるを須ゐん、神の聖旨は成りつゝあり、世界の人皆な悦ぶべし、失望はたゞ悪人にのみ存す、一たび罪を悔ひて神に還り来らん乎、我儕は直に希望の宇宙に生れ出づるなり、是故に人キリストに在るときは新たに造られたる者なり、旧きは去りて皆な新らしくなるなり、宇宙の悪しきが故にあらず、之を観る眼の悪しきに由るなり、若し爾の目瞭かならば全宇宙も亦明なるべし(馬太伝六章廿二節参考)、希望の生命を受けよ、而して此宇宙の希望の宇宙たるを覚れよ、既に希望の宇宙に在りながら、之を呪ひ(155)て憤死する勿れ。
 
    永生の解
 
 永生は後に来るものにあらず、今既に有るものなり、永生は神の生命にして時の関係なきものなり、即ち前にありしものにして、今あるもの、而して未来永劫にまであるものなり、今既に永生を有たざる者は未来に至るも之を得るの理なし、余輩が来世の存在を唱ふるは、キリストに顕はれたる神の生命の不死無窮なるを信ずるが故なり、余輩は人に不定の来世を説いて彼に善行を勧めんとは為さず、余輩は彼に確定の永生を伝へて、彼をして今より不朽の人たらしめんと努む、永生の獲得は之を現世に於て為すべし、来世に於て之を為さんとするも蓋し為し得ざるべし。
 
    キリストの再来
 
 再来は再顕の意なり、希臘語の「アポカリプシス」も英語の「レベレーション」も共に此意を示す、キリスト今は天の高きに在して後の日に天の万軍を率ひて再び我儕の間に降り来り給ふにあらず、キリストは今既に我儕と偕に在り給ひて後の日に至り其体を顕はし給ふのみ、我は世の未まで常に爾曹と偕に在るなりと彼は言ひ給へり、キリストの再臨は世の終局の出来事なり、而して万事万物はすべて悉く此喜ぶべき最終の出来事に向て進みつゝあるなり、我儕が日々キリストの再顕を待望むは其時々刻々と我儕に迫り来りつゝあるを知ればなり、我儕既にキリストの属となりて、全世界の出来事は挙て我儕を希望の域に向け進めつゝあるなり、我儕キリストの(156)再来を望んで日々天上を望むを要せず、正当に人生を解して、日々の新聞紙は我儕に此快事を告ぐるものなり、主曰ひ給はく耳あるものは聴くべしと。
 
    平民の書としての聖書
 
 聖書を教会の書と解して其興味は全く失するなり、聖書は神の書にして平民の書なり、或る意味に於てはダンテの詩集、カーライルの論文の如き者なり、即ち農夫に由て茅屋に読まれ、商人に由て店頭に繙かるべき書なり、聖書は神が直接に人類に賜ひし書なり、先づ之を僧侶に授け給ひて、彼等をして之を平民に伝へしめ給ひし書に非ず、我儕神の子たる者は之に接するに天然に接するが如き自由を以てし、臆することなく、懼るゝことなく、「我が書」として之を読み、其光に浴すべきなり。
 
    キリスト教の真意
 
 活動思索のすべての方面に於てヱホバの神を尊崇め奉る、是をキリスト教の真意となす、或ひは天体に神の栄光を探り、或ひは地層にその手《みて》の工《わざ》を求む、或ひは詩歌にその無限の愛をたゝへ、或ひは美術にその美妙の理想を現はす、農は神と偕に神の地を耕すことなり、工は神と偕に造化の上に更らに造化を加ふることなり、商は神と偕に神の物産を広く四方に分つことなり、神は其聖業を遂げ給ふに方て我儕すべての者の労働を要し給ふ、我儕は各自其今日の地位に在て最優等の基督信徒たるを得るなり、世に所謂「教役者」の班に加はつて、「特に」神を悦ばし奉らんとするの要なし。
 
(157)    事実の信仰
 
 事実の子たれよ、理論の奴隷たる勿れ、事実は悉く之を信ぜよ、その時には相衝突するが如くに観ゆることあるとも、敢て心を痛ましむる勿れ、事実は終に相調和すべし、其宗教的なると科学的なると、哲学的なると実際的なるとに関はらず、すべての事実は終に一大事実となりて現はるべし、我等理論の奴隷たるが故に屡々懐疑の魔鬼の犯す所となるなり、神の言なる事実にのみ頼て、我等の信仰は磐石の上に立て動かざるべし。
 
    懐疑の所在
 
 農夫、樵犬、職工、正直なる商人等に懐疑あるなし、懐疑は学生、僧侶、文人等の中にあり、即ち手を以て直に天然物に接することなく、多く室内に安坐して、宇宙と人生とに関し、沈思黙考を凝らす者の中にあり、懐疑は思想の過食より来る脳髄の不消化症なり、故に之を癒すの方法は疑問の解釈を供するにあらずして、是等憐むべき座食者をして沈思黙考するを止めしめて、手を以て働かしむるに在り、余輩は机に寄凭りて宗教問題に煩悶する所謂る懐疑者なる者に対し些少の同情をも有せず。
 
    新生命と新事業
 
 新事業を求めんと欲せざれ、新生命を求めよ、新事業は必しも新生命を生まず、然れども新生命は多くの場合に於ては新事業を作る、成功の秘訣は之を外に於て求むべからず、衷に於て求むべし、而して衷より出たる新事(158)業は常に健全にして常に永続す、余輩が人に新生命を勧むるは豈惟り宗教道徳のためのみならんや。
 
    地上の天国
 
 神と、天然と、幸福なる家庭と、少数の友人と、是れがあれば沢山である、其他は要らない、政党も要らない、教会も要らない、長官も監督も牧師も要らない、我がすべての幸福はこの四つのものゝ中にある、官職何ものぞ、教職何ものぞ、人望何ものぞ、この四つのものがあつて此世は既に天国である、爾うして謙遜と誠実と勤勉とを以てこの四つのものを得るは難くない、感謝すべきかな。
 
    幸福のある所
 
 幸福は政治の外にある、政治に野心がある、奸策がある、結党がある、政治は清浄を愛し、潔白を求むる者の入らんと欲する所ではない。
 幸福は教会の外にある、教会に競争がある、嫉妬がある、陥※[手偏+齊]がある、教会は神の自由を愛する者の長く止まるべき所ではない。
 幸福は神の天然に於てある、茲に自由がある、誠実がある、真率がある、アヽ我が愛する友よ、来て我等と偕に天然を通《と》うして天然の神と交はれよ。
 
(159)     神の発見法三則
                       明治38年6月10日
                       『新希望』64号「精神」
                       著名 信仰生
 
〇我等は神を上天の至高所《いとたかきところ》に探て、其処に彼を求め得ずして悲む、然れども神を求むるに天の高きに昇るの必要はない、神は地上にも在し給ふ、彼は我が庭にも在し給ふ、我が近隣の森にも在し給ふ、我が逍※[行人偏+羊]する野にも在し給ふ、我が膝に纏ふ小児にも在し給ふ、然り、彼は我が心の衷にも在し給ふ、我等は神を遠きに求めずして、之を近きに探て容易に彼に接することが出来る。
〇我等は神は偉人であると思ふて彼より遠る、然り神は偉人である、偉人であるからこそ彼は嬰児の我に来ることを禁ずる勿れと言ひ給ふたのである、若し神は小人であるならば、我等は彼の倨傲猛威を懼れて彼より遠かるべきである、然れども彼は偉人である故に我等は其恩恵を受けんために憚らずして恩寵の座に来るべきである(希伯来書四章末節)。
〇神は思想であると解して我等は神の解釈を哲学者に譲る、然り神は思想である、然れど息想であるよりは寧ろ実行である、実行であつて愛である、故に聖書は愛なき者は神を識らずと云ひ(約翰第壱書四章八節)、又世の人は己の智慧を恃みて神を識らずと教へて居る(コリント前書一章廿一節)、神は哲学者の識認すべき者ではない、善人の発見すべき者である、我等神を識らんと欲せば哲学書を渉猟せずして、小なる隠れたる善を為すべきで(160)ある。
 
(161)     正当なる祈願
                       明治38年6月10日
                       『新希望』64号「精神」
                       署名 祈祷生
 
 
 オー神よ、奇跡の神よ、天然力以上のことを我に為し能ふ神よ、願くは我が衷に存せざる能力を我に与へ給へ、我が学びしことなき智識を我に下し給へ、我に於て原因以上の結果を現はし給へ、我をして数理的計算に束縛せらるゝことなくして、数理以外の大なる事を爾より求めしめ給へ、天然的の我は此無辺の宇宙に在りて塵埃よりも小なる者なり、然れども信仰的の我は天地をも動かすに足る能力を附与せらるゝの資格を有する者なり、オー奇跡の神よ、我をして天然に超越せしめ給へ、我が衷になき智慧と力とを爾より※[龠+頁]《よ》び求めしめ給へ、我は罪人なれども我をして美徳の人たらしめよ、我は暗愚なれども聡明ならしめよ、我は微弱なれども天使の力を揮はしめよ、而して全能全智の爾は此奇跡を我が上に施すを得るなり、爾万物の造主に取りては天然の法則あるなし、世の帝王に国法なきが如く、帝王の帝王なる爾に何等の法則あるなし、我等人類は爾より離れて天然の子供となりて其法則の縛る所となりたり、故に我は今、爾に還り、再び神の子の自由に入らんことを希ふ、オー父よ、我も汝の如くになりて、天然の法則以外に立て之を支配する者たらしめよアーメン。
 
(162)     銭魔《ぜんま》を斥《しりぞ》くるの辞《ことば》
                       明治38年6月10日
                       『新希望』64号「精神」
                       署名 独立生
 
 銭魔よ、銭魔よ、汝に金銀あり、土地あり、家屋あり、銀行あり、政党あり、教会あり、宣教師あり、伝道会社あり、而してまた幸福なる家庭も、子女の教育も汝の手に存すると称す、汝は此世に於て多くの臣下を有す、政治家は皆な汝に事へ、宗教家の多くも亦汝の頤使する所たり、而して文士も学者も博士も今や汝に膝を屈せざる者は甚だ稀なりと云ふ、而して此世に於ける存在上多少の金銭の必要なるより汝は屡々我にも迫り来り、我に利害を説き、子女の将来を説き、我をもして汝に事へしめんと計る、爾は爾の父なるサタンの言を藉りて我に言ふ、爾若し俯伏《ひれふ》して我を拝せば此等を悉く爾に与ふべしと(馬太伝四章九節)。
 爾は商人の口を以て、官吏の口を以て、時に或ひは宗教家の口を以て、我を脅して曰ふ、爾若し我に事へずば爾の妻子は餓死すべし、汝の信仰すらも危殆に迫ることあらんと、我、時には汝の声を聞いて戦慄《ふる》へ、時に或ひは一歩なりとも汝に譲らんとすることあり。
 然れども銭魔よ、爾は確かに悪魔の族なり、時には慈善の名を藉りて天使の形を装ふと雖も爾は爾の真性に於て純然たる地獄の子たるなり、汝、何故に我を詐はるぞ、汝、何故に正義と宗教と道徳の名を藉りて我を誑かさんとするぞ、我は爾の誰なるを知る、即ち底なき坑の使者なるアポリオン(黙示録九章十一節)、サタンと呼ばる(163)ゝ者、全世界を惑はす老蛇(同十二章九節)なり、汝に由て地獄に落ちし政治家は挙げて数ふべからざるにあらずや、汝に誘はれて天才を消尽し、廃人となりて了りし文士は数多きに非ずや、而して汝は神の教会をも侵し、其宣教師を毒し、其監督、牧師、役僧輩を害なひ、神の都城《しろ》なる新エルサレムをして幾度びかソドムとゴモラたらしめしに非ずや、故に聖なる使徒パウロは其弟子テモテを誡めて曰く、銭を愛するは諸の悪事の根なり、或人之を慕ひて迷ひて信仰の道を離れ、多くの苦痛を以て自から己を刺せりと(提摩太前書六章十節)、是れまことに神の言なり、以て汝を斥くるに足る、汝を愛し、汝を慕ひて祉辱の淵に沈み、身と霊と両つながらを失ひし者は挙げて数ふべからず。
 アヽ銭魔よ、我は汝を恐れ、汝を憎む、我は汝に近づかざるべし、我は爾が何人の口を藉りて我に近づかんとするも、汝を斥くべし、若し爾の使者にして商人ならん乎、余は其商人と絶つべし、若し大臣又は富者ならん乎、我は其大臣、富者と絶つべし、若し宣教師其他の人々ならん乎、我は彼等の面の前に我家の門戸を閉づべし、我は爾と爾の使者との我が門内に入るを許さゞるべし、我は我が主の言を以て汝を斥くべし、サタンよ我が後に退けと。
 願くは、我主イエスよ、爾の能《ちから》に由り我をして此『二十世紀の悪魔』に勝つを得しめ給へ、願くは我をして、縦令、我が愛する家族と共に餓死せざるを得ざることあるとも、爾の許さゞる銭とては一分一厘たりとも之を受くることなく、以て終生爾の忠実なる僕たるを得て、憎むべき、賤むべき此銭魔の奴隷たらざらしめ給へ、アーメン。
 
(164)     日米両国の組合教会
                       明治38年6月10日
                       『新希望』64号「精神」
                       署名なし
 
 日本の組合教会に在ては其会員中に鉱毒王故古河市兵衛氏より寄附金を受けし者ありしと雖も、一人の起て之を非難する者なかりき、然るに米国の組合教会に在ては其伝道会社が石油王ロックフェラー氏より十万弗の寄附を受けたりとて非難攻撃の声四方に揚て今尚ほ止まず、依て知る米国の組合教会も今や甚だ腐敗せりと雖も、日本の組合教会の如くに腐敗せざるを、余輩は米国のために深く此事あるを悦び、日本のために深く此事なかりしを悲む。
 
(165)     保羅の復活論
        (哥林多前書第十五章と其略註)
                     明治38年6月10日・7月10日
                     『新希望』64・65号「智識」
                     署名 内村鑑三
 
    第一段 復活の事実
 
       其一、福音の要旨
  (一)兄弟よ、我が前に汝等に伝へし福音を、我が曾て汝等に伝へし言を以て、我、今更めて之を汝等に告ぐ、是は汝等が受けし所、亦之に因て立つて今日に至りし所、(二)亦、汝等若し固く守り、徒らに信ずることなくば、之に因て救はるゝ所のものなり、(三)我が汝等に授けしは我が受けし所の事にして、其第一は聖書に応ひてキリスト我等の罪のために死し、(四)また聖書に応ひて葬られ、第三日に甦らされ、(五)ケパに現はれ、後、十二の弟子に現はれ給ひしこと也。
〇パウロは今やコリントに於ける彼の同志に彼の単純なる福音を再び伝ふるの必要を感じたり、そは彼等の中或者は復活なき基督教を唱導するに至りたれば也、彼等は曰へり、基督教は其高潔なる倫理にあり、其愛神愛人主義にあり、復活の信仰の如き、是れ基督教の要義にあらずと、然れども斯かる基督教は(若し之をしも基督教と(166)称するを得べくんば)是れパウロが伝へし基督教に非ず、故に彼は曰ふ、我は今更めて我が曾て汝等に伝へし単純なる、復活を基礎とする基督教を汝等に伝ふと(第一節)。
〇パウロは又曰ふ、此単純なる基督教は是れ我が発見に係る者にあらず、我は之を我主に受けて之を汝等に授けしに過ぎずと(第三節)、依て知るべし、復活はパウロ独特の教義にあらざることを、真個の伝道師は伝達者たるに過ぎず、即ち神と人との間に介して神の聖旨を受けて之を人に授くる者たるに過ぎず、伝道の職、敢て難事にあらず、善く此伝達の任を尽せば足る。
〇基督の福音は簡短なり、数言を以て之を悉すを得べし、それ神は其生み給へる独子を賜ふほどに世の人を愛し給へり、是れ其一なり、キリスト我等の罪のために死し、葬られ第三日に甦らされ給へり、是れ其二なり、其他に之に類する二三の大教義あり、而して之を列挙して福音の大要を悉せりといふべし、然れども之を除いて基督教あるなし、復活を否定するは基督教を否認するに等し、そは復活は基督教の依て立つ柱石なれば也、パウロの福音なる者は此簡単明瞭なる福音に他ならざりし。
〇初代の基督信者が受けし所、亦之に因て立ちし所、亦之に因て救はれんと欲せし所の福音は復活を基礎とせるものなりし、復活の真偽は別問題として、復活の信仰なくして基督教の起らざりしは公平なる歴史家の斉しく認めざるを得ざる所なり、基督教を非認するも可なり、然れども復活を非認せんか、同時に基督教を非認すべきなり、是れ公平を貴ぶ者の何人も執るべき唯一の途なり、然れども是れパウロの時より今の時に至るまで人の執らんと欲する途に非ず、彼等は復活を非認するも、基督教を是認せんと欲す、即ち其本を絶て其末を保たんと欲す、斯かる基督教が明瞭を欠き、生気に乏しきは宜なり、そは是れ土台なき基督教なれば也。
 
(167)     其二、復活の証拠
  (六)如此現はれ給ひし後、五百以上の兄弟に同時に現はれ給へり、其兄弟のうち多くは今尚ほ世に在り、然れど既に来りたる者もあり、(七)其後ヤコブに現はれ又すべての弟子に現はれ給へり、(八)最後に月たらぬ者の如き者なる我にも現はれ給へり、(九)《我は実に使徒の中に至微者《いとちいさき》にして使徒と称へらるゝに足らざる者なり、そは我れ神の教会を迫害したれば也、(十)然れど神の恩によりて我は今日あるを得たり、我に賜ひし彼の恩《めぐみ》は空しからず、返て我はすべての使徒よりも多く労したり、然れども此は我に非ず、我と共にある神の恩なり》、(十一)是故に我と雖も亦彼等と雖も、我等斯く宣伝ふ、而して汝等は斯く信じたりき。
〇復活は哲学的提説に非ず、亦科学的仮説に非ず、復活は歴史的事実なり、即ち正直なる人が、目を以て視、手を以て触れし事なり、言あり曰く、世に事実ほど頑固なるものあるなしと、学説は失せ、論理は消ゆることあるも、事実は永久渝はることなし、世に事実を破壊するに足る議論あるなし、復活にして事実ならん乎、(而して我等はその事実なるを知る)、智者の駁撃も識者の嘲笑も以て之を毀つに足らず、使徒が復活を唱導するに躊躇せざりしは彼等が、その巧なる奇談にあらずして、彼等が聞、また目に見、懇切に観、手※[手偏+門]りし所のもの(ヨハネ第一書一章一節)なるを知りしに由る(六、七節)。
〇キリストは死して後、ケパに顕はれ、十二使徒に顧はれ、五百以上の弟子等に同時に現はれ、其兄弟ヤコブに現はれ、マグダリヤのマリヤ、ヨハンナ、ヤコブの母なるマリヤ、又他に偕に在りし婦等に現はれ(路可伝廿四章十節)、最後にパウロに現はれ給へりと云ふ、斯くも異なりたる時に異なりたる人に由て目撃せられしキリス(168)トの復活は之を歴史的事実として認めざるを得ず、其学理的説明の如何は余輩の茲に問はんと欲する所に非ず、説明の難きは以て事実の真偽を定むるに足らず、我等は先づ事実を信ぜんのみ、然る後に説明を試みんのみ、パウロは先づ事実を示して、然る後に説明に及びたり、是れすべての場合に於ける研究の正当なる順序といふべし。
〇パウロは己を称して月たらぬ者の如き者なりと云へり、彼は正当の順路を経ずしてキリストに来りし者、故に彼は斯く己を呼びしならん、人よりに非ず、又人に由らず、イエスキリストと彼を死より甦らしゝ父なる神に由て立られたる使徒パウロと(ガラタヤ書一章一節)、教会に由らず、他の使徒等に由らず、直に神に由て立られたる彼は時には自から月たらずして生れ出たる畸形児の如くに感ぜしと見ゆ、是れ彼に取ては謙遜の辞にして亦感謝の言なり、或ひは言ふ、月たらぬ児とは当時の教会信者が彼を嘲りて彼に附与せし綽名ならんと、或ひは然らん、而して彼れパウロは教会信者の悪意に出たる、而かも意味深き此綽名を喜んで己に受けしならん、月たらぬ者、畸形児、門外漢……然り、敵の言も之を好意的に解すればまた神の言なり、パウロは殊更らに此綽名を択んで彼の別名となせしならん(八節)。
〇キリストは我にも現はれ給へり、然りいと微さき、神の教会を迫害したる罪人の首《かしら》なる我にも現はれ給へり、我は此特権に与かりし此賤しき我に就て一言せざるを得ず、我は使徒なり、然れども神の恩恵によりて今日あるを得たる者なり、我は多く神のために労せり、然れども此は我が労せしにあらず、我と共にある神の恩恵の然らしめし所なりと、恩恵と特権とは人を傲慢に逐ひやり易し、パウロは常に彼の心に此危険あるを感じたり、故に彼がキリストの復活を目撃せし特権に与かりしを述ぶるに方て、彼は茲に彼の真に何者なりし乎に就て一言せざるを得ざりき、此こと、勿論本論の主題なる復活問題と何等の関係あるなし、然れども善く論者の之に対する態(169)度を示し、彼の弁明をして一層謹厳なるものたらしむ(九、十節)。
〇復活はパウロ独特の教義に非ず、使徒と称する使徒は皆な、一様に此事を宣伝へたり、我と雖も彼等と雖も、我等は斯く宣伝ふと、即ちキリストは我等の罪のために死し、葬られ、第三日に甦らされ給へりと宣教ふと、然り、ヨハネもペテロも、ヤコブもバルナバも、アポロもシラスも、此事を宣伝ふるに於ては何の異なる所なかりき、ヨハネは愛を説いて復活に及ばざりしと曰ふ者はヨハネを知らざる者なり、アポロは救拯の哲理を説て復活に重きを置かざりしと唱ふる者はアポロを知らざる者なり、初代の基督教に復活を其根本的教義となさゞる者はなかりき、是れ又掩ふべからざる歴史的事実なり(十一節)。
〇「汝等は斯く信じたりき」、伝道師は斯く伝へたり、信者も斯く信じたり、此信仰起つて後に人は始めて基督信者として認められたりき、其時未だ「復活を信ぜざる基督信徒」なる者はなかりき、其時未だ「倫理的基督信徒」なる者はなかりき、其時使徒とは主としてキリストの復活の証明者なりき(行伝一章廿二節)、而して信徒とは此証明の肯諾者なりき、吾人今に至つて此一事を忘るべからざるなり。
 
     其三、不信の結果
  (十二)死より甦らされたる者として、キリストを宣伝ふるに汝等のうち死者の復活あるなしといふ者あるは何ぞや、(十三)若し死者の復活なくばキリストは甦らされざりしなり、(十四)キリスト若し甦らされざりしならば我等の伝道は空し、汝等の信仰も亦空し、(十五)且我等は神のために偽証を為す者と認めらるべし、そは若し死し者の甦らさるゝことなくば神はキリストを甦らせ給はざりしならんに、我等は神に就て彼はキ(170)リストを甦らせ給へりと証したれば也、(十六)若し死し者の甦らさるゝことなくばキリストも亦甦らされざりしなり、(十七)而して若しキリスト甦らされざりしならば汝等の信仰は徒し、汝等は尚ほ罪の中に在り、(十八)又キリストに在りて寐りたる者は既に滅びたり、(十九)我等若し此世に於て唯キリストに在て望む者ならん乎、我等はすべての人の中にて最も憐むべき者なり。
〇復活否定の結果は如何、伝道の無効、信仰の破壊、使徒等品性の毀損、死者の絶望、是なり、若し死者の復活なくばキリストの復活は虚偽なりしなり、而して若しキリストの復活にして虚偽なりしとすれば、使徒の伝道は虚偽の伝道なりしなり、復活は福音の実体なり、之を福音と称するは之に此大事実と大希望とが伴ふが故なり、キリストの福音は新道徳の唱道に非ず、新哲学の宣言にあらず、キリストの福音は永生獲得の権理の附与なり、実体を備へざる福音は福音にあらず、爾、我がために体を備へ給ふ(希伯来書十章五節)とは神の福音に就ての言なり、然るに或者は復活は無しと云ふ、是れ福音より其実体を取去ること也、復活を無視する福音の宣伝に従事するは、是れ与ふるに実物なきに慈善の宣伝に従事するの類ならずや(第十四節)。
〇復活なき伝道は虚なり、復活なき信仰も亦虚ならざるを得ず、復活の希望なき信仰は空理の信仰たるに過ず、純道徳と称し其名は甚だ美なるに似れども而かも能なき生《いのち》なき信仰なり、真宗教の貴きは其高潔なるが故のみにあらずして、又其力強きが故なり、復活の希望を刪除して基督教は無能の宗教と化するなり(第十四節)。
〇使徒とはキリストの甦りし事の証人の別名なり(行伝一章廿二節)、然るに今や復活なしといふ、然らば使徒は偽証者たるなり、そはキリストの復活は彼等が唱道して止まざりし所なればなり(行伝廿六章廿三節等参照)、偽証者! 汝、虚偽の証拠をたつる勿れとは十誡の一なるに非ずや、然るに使徒等は復活否定の結果としてキリス(171)トの偽証者として神と人との前に立たざるべからず、復活否定の結果も亦恐るべきに非ずや(十五節)。
〇人或ひは曰はん、此場合に於ける使徒の偽証は偽証と知らずして為せし偽証なれば痛く責むべき罪にあらずと、夫れ或ひは然らん、然れども虚偽を基として多くの希望を人に供し、偽りの救主を世に伝へし罪は決して免かるべからず、若し基督教にして小事なりとせば止まん、然れども永遠の運命を賭するにあらざれば、信ずる能はざる此宗教にして虚偽迷信の上に建つ者なりとせん乎、其宣伝者の罪は決して軽からざるなり、迷信の罪は恕すべしとせん、然れども虚偽の結果は依然として存す、而して使徒は虚偽を伝へて、之によりて彼等が流せし害毒の責より免かるゝを得ず。
〇復活否定の結果は茲に止まらず、是れキリストの贖罪を否認するに至る、基督教の贖罪は空言にあらず、罪を贖はるゝとは罪を取消さるゝことにして、其結果たる死より免かるゝことなり、復活なき贖罪は無効の贖罪なり、名のみにして実なき贖罪なり、復活なしと云ふは贖罪なしといふに等し、而して贖罪なしといふは基督教なしといふに等し、復活を否《いな》んで基督教は信ずべからざる者となるなり(第十七節)。
〇若し復活なしとせん乎、世に憐むべき者にして基督信者の如きはあらじ、彼は此世に於て唯キリストを望むのみ、而して此望たるや、たゞに空望に止まるといふ、然らば彼は欺かれし者なり、その生命を賭して夢迷の後を逐ふ者なり、彼は理想郷を望む、而かも死しては之に達する能はずと云ふ、彼何んぞ直に基督信者たるを廃めて、世に所謂る純正倫理学者とならざる、何故に来世を講ずるぞ、何故に天国を望むと云ふぞ、希望に達するの途なきに唯キリストに在て望む者は是れすべての人の中にて最も憐むべき者ならずや(第十九節)。
 
(172)     其四、復活の普及
 (二十)然れどもキリストは誠に死より甦らされて寝《ねぶ》りし者の初穂となれり、(二十)人に由りて死ぬること出しが故に亦人に由りて死より甦ること出でたり、(廿二)アダムにありてすべての人の死ぬる如くキリストにありてすべての人は生くべし、(廿三)然れども各其順序に循ふ、初にキリスト、次にキリストの現はれん 時に彼に属ける者なり、(廿四)然る後に終至らん、其時、彼、諸の政、及び諸の権と能とを滅して国を父なる神に付《わた》し給ふべし、(廿五)彼は諸の敵を其足下に置くまでは統べ給はざるを得ず、(廿六)最後《いやはて》に滅さるゝ敵は死なり、(廿七)そは「彼は万物を其足下に置き給へばなり」、然れども「万物を其下に置き給へり」と云ひ給ひし時、万物を其下に置き給ひし者の其内にあらざるは明かなり、(廿八)然れども万物彼に服《したが》ふときは子も亦万物を己に服はしゝ者に服ふべし、是れ神すべての物の上に主たらんためなり。
〇復活を否定するの結果斯の如し、然れども事実は全く之に反し、キリストは誠に死より甦らされて寝りし者の(復活の)初穂となれり、復活はキリストを以て始まり、而して我等彼を信ずる者に及べり、復活は事実なり、始めにキリストに於て事実となり、次に我儕彼を信ずる者に於て事実とならんとすと(二十節)。
〇キリストの復活を以て新生命は此世に臨めり、人アダムに由りて死ぬること出しが如く、人なるキリストイエス(提摩太前書二章五節)に由りて死より甦ること出たり、アダムにありて、即ち其性慾を以て己が性となし、其道を以て己が道となして、すべての人の死ぬるが如く、キリストにありて、即ちキリストの霊性を己に受け、全身を彼の手中に委ねて、すべての人は生くるなり、神を離れしアダムに存《のこ》りし生命は死すべき生命なりし、然れどもキリストの死と復活とに依りて人類に供せられし生命は死すべからざる生命なり、死の遺伝するが如く、生(173)も亦普及す、贖罪と云ひ、救済と云ふは、死すべき生命に交ふるに死すべからざる生命を以てすることなり(廿一、廿二節)。
〇キリストは誠に死より甦らされたり、而して彼の生命を受くる者は彼の如くに甦らさるべし、然れども物に各其順序あり、軍士に各其等級あるが如し、初めに大将軍キリスト死に勝ちて甦らされ、次に彼の現はれん時、彼の軍隊に属する者彼に傚ふて甦らさるべしと、こゝに順序と訳されし原語は軍事的術語にして、等級の意なり。
〇キリストは既に甦らされて父の側に在り、而して彼の再び顕はれん時、我儕彼に属する彼の兵卒は死より甦らされて彼と偕に現はるべし、而して此事ありて然る後に世の終りは至るべし、其時キリストはすべての政権、すべての権能を悉く滅して全宇宙(国と訳されし原語の意義は蓋し是れなるべし)を父なる神に付たし給ふべし、此事を宇宙の終局とは称ふなり(廿四節)。
〇善は終に悪に勝たざるべからず、神の「ことば」にして、其権能の受託者なるキリストは神に逆ふすべての敵を其足下に置くまでは万物の統治権を握らざるべからず、神の聖旨を妨碍する一物の尚は世に存する間は、キリストは王として万物を統御せざるべからず、神の子がキリストとして顕はれしは、神より戻りし宇宙を其元状に帰復せしめんがためなり、この偉業の成るまでは彼は救世主たるの権能を揮はざるべからず(廿五節)。
〇キリストは政権を滅し給ふべし、そは是れ神と称ふる者、また人の拝む所の者……神の殿に坐して自から神なりとする者なればなり(テサロニケ後書二章四節)、彼は哲学を滅し給ふべし、そは是れ己の智慧を恃みて神を知らざる者なれば也(コリント前書一章廿一節)、而して最後に滅さるゝ敵は死なり、彼れ滅びて神に敵する者全く無きに至るなり、世のすべての罪悪の滅さるゝことあるも、死にして尚ほ死せざる限りは神は未だ世に勝てりと(174)云ふを得ず、然り、死にして死せざる限りは罪悪は未だ滅びざるなり、前節に云へる若しキリスト甦らされざりしならば汝等は尚ほ罪の中に在りとは斯の事を言ふなり(廿六節)。
〇詩篇八章六節に曰く「主エホバは……万物をその足下に置き給へり」と、是れ其子即ち我等の主イエスキリストに就て言ひ給ひしなり、然れども斯く言ひ給ひし父の神は万物以上のものにして、万物の内に算へらるべきものにあらざるは明かなり、父は万物を子に委ね給ひ、子は万物を己に服はせ、終に万物と共に万物を己の支配の下に置き給ひし者即ち父の神に服ふべし、是れ父の神すべての物の上に主たらんためなり、そは万物は爾曹のもの……爾曹はキリストのもの、キリストは神のものなればなり(コリント前書三章末節)−(廿七、廿八節)。
〇「甦らされたり」と云ひて「甦れり」と言はず、そは復活の能力は直に神より出るものなればなり、人に自から甦るの能力あるなし、彼は神に甦らされざるべからず、而してキリストすらも更生の能力は之を父なる神より受け給ひしが如し、蓋し生命の能力は三位の共有に属するものにして、一位の擅にすること能はざる所のものなるが如し、事、神性の奥義に属し、人の窺ひ知る所にあらず。
〇子も亦万物を己に服はしゝ者に服ふべしとあると雖も、是れ必しも子は父の下位に立つものなるを示すの言にあらず、父の尊きは統ぶるにあり、子の貴きは服ふにあり、子は万物を己に服はせ、万物と共に父に服ふに至つて、子たるの栄光を顕はし給ふなり、屈従は恥辱なり、意思の自動になれる服従は栄光なり、而してキリストの栄光は此名誉の服従に存するなり(廿八節)。
 
     其五、復活と道徳
 
(175)  (廿九)若し死し者全く甦らされざるならば死し者のためにバプテスマを受くる者は何を為さんとする乎、彼等何故に死し者のためにバプテスマを受くる乎、(三十)また何のために我等常に危険に居るや、(卅一)我等の主キリストイエスに在りて汝等に就き我が抱く誇負《ほこり》を指して誓ふ我日々死すと、(卅二)若し我人の如くエペソに於て獣と共に闘ひしならば我に何の益あらん乎、若し死し者甦らされずば「我儕飲み且つ食ふべし、そは我等明日死ぬべければ也」、(卅三)汝等欺かるゝ勿れ、「悪き交際は善き慣例を害ふなり」、(卅四)汝等義に因て覚めよ而して罪を犯す勿れ、(卅五)汝等の或者は神を知らず、我、汝等を愧めんとて之を言ふなり。
〇「死《しに》し者のためにバプテスマを受くる」とは使徒在世当時の慣例に従ひ生者が死者に代りてバプテスマを受くることなりとも云ひ、又は死者の遺言に由り、或ひはその信仰に促されて悔改のバプテスマを受くることなりとも云ふ、二者孰れに解するも、死して消滅せし者のためにバプテスマを受くるの愚は言はずして瞭かなり、死者の死せざるを知ればこそ、是に対して生者に対するが如きの義務を尽すなれと(廿九節)。
〇又若し死にし者全く甦らされざるならば何のために我等常に危険に居るや、キリスト信者の生涯は実に危険極まる生涯なり、彼は政府に嫌はれ、社会に賤められ、屡々教会其物にすら窘めらる、我儕が家あるひは父母、あるひは兄弟、あるひは妻、あるひは児女を捨てキリストに来りしは何の為めぞ(路可伝十八章廿九節)、永生を受けて神の国に入らんがためならずや、キリスト信者の生涯はまことに危険の生涯なり、是を安逸の生涯なりと云ふ者は未だ基督教の何たるを知らざるか者なり、安逸にある今日の多くの教会信者を見よ、彼等は危険に居らず、故に来世を望まず、又復活を信ぜざるなり(三十節)。
〇「誇負を指して誓ふ」とは誇負する所の事物を賭して誓ふの意なり、パウロは彼の信徒を以て誇れり、我儕の(176)望みまた喜び、また誇りの冕は何ぞや、我儕の主イエスキリストの来らん時、その前にて爾曹も此ものとなるにあらずや(テサロニケ前書二章廿九節)、物を指して誓ふとはユダ人の語風にして、其言の確実無謬なるを示さんとする時に用ひられたり、而して誓言はイエスの禁じ給ひしものなるに関はらず(馬太伝五章卅四節以下)ユダ人の国風として使徒等の中にも存せしが如し、パウロの熱誠なる、彼は時に或ひは此激越の言を発するにあらざれば、彼の真意の通じ難きを感ぜしが如し、彼は言はんと欲す、我は我等常に危険に居ると言へり、実に然り、我が此言は過言にあらず、否な、我は更らに進んで言はんと欲す、若し我が此言にして誤謬なりとすれば、我は我が此世に在りて最も貴重なりとする我が誇の冕なる汝等を賭して誓はんとす……而して汝等を賭することの我に取りて不可能事なることは爾曹能く之を知る……然り、我は言はんと欲す、我日々死すと(三十一節)。
〇パウロは実に日々死するの思念を以て彼の伝道に従事せり、彼は曾て言へり我儕心中に必死を定むと(コリント後書一章九節)、而して必死を期して泰然たるはあり、然れどもパウロの如くに必死を期しながら歓喜に満ちて活動するはなし、復活の希望ありて死は始めて生命に到るの門となるなり(卅一節)。〇パウロはエペソに在りて獣と共に闘ひしと云ふ、是れ円闘場に於て野獣と闘ひしとの意なる乎、或ひは野獣に類する野卑の人と争ひしとの意なる乎、審かならず、初代の基督信者が多く円闘場裡に野獣の餌食となりしは事実なり、パウロも亦或ひは此種の迫害に遭遇せしならん、然れども其何れの野獣なりし乎は措て問ふを要せず、たゞ彼がエペソに於て屡々死の危険に落入りしは事実なり、而して彼は言へり、若し此時我に更生の希望なかりしならば、此苦闘は我に取り何の益あらん乎と(卅二節)。
〇若し死にし者甦らされずば、我儕は絶望せる古人に傲ひ「我儕飲み且つ食ふべし云々」と言ひて肉山酒池の間(177)に此生命を終るに如かず(以賽亜書廿二章十三節)、何を択んで身をすべての危険に曝らし、空望に希望を繋ぎ、以て益なきの生涯を送らんやと、確実の生涯を送らんと欲せば確実の希望なかるべからず、而して浮浪の生涯を確固ならしむる者にして復活の希望の如きはあらず(卅二節)。
〇汝等復活を否定する者に欺かるゝ勿れ、古詩に曰はずや、「悪しき交際は善き慣例を害ふ」と(或ひは言ふ、希隴詩人メナンデルの言なりと)、汝等復活を否む者と交はりて害を蒙らざらんと欲するも得ず、復活の信仰は彼等が唱ふが如く信仰上の細事に非ず、我等使徒等に由て伝へられし福音は実に復活を基礎として存立するものなり、基督教の道徳も亦之に由て立つものなり、復活なくして基督教的道徳あるなし、是れ真なり、復活を否定するも基督教の道徳は滅びずと云ふ者の如きは未だ我儕使徒等に由て伝へられし福音の真髄に入らざる者なり(卅三節)。
〇汝等義に囲て覚めよ、自己の冷淡に就て義憤する所あれ、そは復活の否定は爾曹の微弱なる道念より出づればなり、高き道徳は高き信仰を生む、爾曹の道念の衰へしが故に此信仰の衰弱は来りしなり、罪を犯す勿れ、復活を信ずるに至らしむる聖き生涯に入れよ、汝等が復活を否認するは汝等の微温《ぬる》き信仰を覆はんがためなり(卅四節)。
〇汝等の或者は神を知らず、故に復活は無しと言ふなり、神の何たるを知る者にして復活を否む者はあるべからず、神すでに死し者を甦らせ給へりと云ふとも爾曹なんぞ信じ難しとする乎(行伝廿六章八節)、神を知る者に復活を疑ふ者はあるべからず、復活を疑ふ者よ、爾は知らざる乎、汝は神を知らざる者なることを、汝は神を知ると称しながら復活は無しと言ふ、汝は斯く言ひて己に耻ぢざる乎、我が斯く言ふは汝等を愧かしめて、汝等をして正に還らしめんためなり(卅五節)。 〔以上、6・10〕
 
(178)   第二段 復活の論理
 
     其一、天然に於ける復活
  (卅五)然れども成人は云ふ、死者如何にして甦らさるゝや、如何なる身体にて彼等来るやと、(卅六)無智なる者よ、爾が播く所のものは先づ死なざれば活きざるに非ずや、(卅升七)又爾が播く所のものは、後に至て生ゆる所の体を播くにあらずして、たゞ裸体の種子のみにあらずや、麦にても又他の穀類にても然り、(卅八)然るを神は己の意に随ひて之に体を予へ給ふ、種子ごとに其各自の体を予へ給ふ、(卅九)すべての肉は同一の肉に非ず、人の肉あり、獣の肉あり、鳥の肉あり、魚の肉あり、(四十)天に属する体あり、地に属する体あり、天に属する者の栄は地に属する者の栄に異なり、(四一)日の栄あり、月の栄あり、星の栄あり、此星と彼星とは各其栄を異にす。
〇キリストの復活は歴史的事実なり、是れ福音の拠て立つ根底なり、復活なくして基督教あるなし、復活なくして我等の信仰は無なり、復活を否定するの.結果は基督教全部を破毀するに至る。
〇然れども或人は云ふ、縦し復活は事実なりとするも死者如何にして甦らさるゝや、彼は如何なる身体にて再び世に来るや、復活の事実は之を認むるとするも、其学理的説明は如何、復活の論理を示さるゝにあらざれば、その事実を信ずる能はずと(卅五節)。
〇保羅は此質疑に答へて曰ふ、爾、無智なる者よ、事理を解せざる者よ、爾が播く所のものは先づ死なざれば活きざるに非ずや、爾は復活の真理を疑ふと雖も、然れど是れ爾が日常爾の田園に於て目撃する所の事実ならずや、(179)復活の原理は植生の原理なり、汝は植物の如何にして成長《そだ》つかを知る、然るに人の如何にして甦らさるゝを知らずと云ふ、我、爾を「無智なる者」と称ぶは是れがためなり、そは爾は植生に就て知る所ありて、人生に就て知る所なければ也(卅七節)。
〇種子は種子として生ずるに非ず、種子は地に下て崩壊し、其中に存する生命は新たに体衣を形成し再び地上に出来て花を開き果を結ぶ、人の甦るも亦之れに異ならず、復活は読んで字の如く旧体の復たび活きかへることにあらず、復活は新体の形成なり、旧体の崩壊と同時に消滅せざる生命が新たに成分を収容して新体を形成して現はるゝことなり、是れ爾が麦に於ても亦他の穀物に於ても目撃する所にして、敢て怪とせざる所なり、而して我が唱ふる人の復活なるものも此原理の活動に過ぎず、同一の原理は全宇宙を一貫す、能く植生を知る者は能く人生を知る、春陽の来復に遇ふて植生の萌芽を楽む者は復活の福音を耳にして、歓喜雀躍して之を迎ふべきにあらずや(卅七節)。
〇麦は麦なり、粟は粟なり、稗は稗なり、その地に落ちて腐蝕するや、麦の種子は粟の種子に異ならず、然れども種子の腐蝕と同時に植物は其固有の性を失はず、麦は麦として生じ来り、稗は稗として生じ来る、人は人なり、獣は獣なり、禽は禽なり、その墓に下りて塵に還るや人の体は獣の体に異ならず、人と獣と異なるは二者の肉体を形成する成分の異なるが故にあらず、人は人として造られしが故に人たるなり、獣は獣として造られしが故に獣たるなり、神の聖旨に随ひて生物各自に其特有の形体あるなり、神は己の聖旨に随ひて生物ごとに其各自独特の体を予へ給ふ、是れ聖書の生物観なり、世の生物学者は是に対して多く異議を挿むならん、然れども我は斯く教へられ亦斯く信ず、而して学者も亦終に聖書の此見解に服従せざるを得ざるに至らん(卅八節)。
(180)〇肉なるが故にすべての肉は同一の肉にあらず、人の肉あり、獣の肉あり、鳥の肉あり、魚の肉あり、同じく是れ窒質物なりと云ふを得ん、同じく是れ筋と脂肪と軟骨との混成物なりと云ふを得ん、然れども成分を同うする肉類は之を組成する動物の種類に随ひて全く其性を異にするにあらずや、言ふ勿れ、同一の成分は同一物を形成するに止まると、生命は機械的動力にあらず、其活動の結果は数理を以て算出し得べきものにあらず、生命其物が已に学理以上たるなり、生命は同一の物を以て異種の物を造る、爾、霊体あるを聞いて怪む乎、然らば何故に同一の成分を以て成れる異種の肉体あるを見て怪まざる、奇跡は人の復活にのみ限らざるなり、能く動物を知る者は人の復活を聴いて駭かざるべし(卅九節)。
〇地上の物体は千姿万態なり、然れども不同異別は之れに止まらざるなり、物体に天のものと地のものとあり、而して天のものは地のものと異る、又天体各自其性其質を異にす、日に日の光輝あり、月に月の光輝あり、星の光彩あり、此星と彼星とは其光彩を異にす、星は星なればとて同一の光と彩《いろ》と光度とを以て輝く者にあらず、金星は水星と異り、アンドロメダ星はヴィガ星と異なる、天に億万の星ありと雖も、是れ同型の中に成りし鋳物《いもの》の如きものにあらず、能く之を究むれば穹蒼は恰かも春の山野の如し、百花色を競ひ、千林錦を織る、我儕之を望み看て、神の意匠の無窮なるに驚かざらんや(四十、四一節)。
〇「如何にして甦さるゝや」と問ふや、之を植物発生の現象に於て見よ、人の復活の方法は種子萌芽の方法に異ならず、旧体は地中に腐蝕し、生命は其存在を継けて、新体を組成して再び地上に現はる、「如何なる身体にて来るや」と問ふや、即ち復活の体質に就て知らんと欲する乎、之を造化の千姿万態なるに就て考へよ、魚の肉は其成分に於ては人の肉に異ならず、而かも魚の肉は是れが故に人の肉にあらず、星なればとてすべての星は同一(181)の星にあらず、神は意匠に富み給ふ、彼は壊つる肉の体以上に亦壊ちざる体をも造るを得べし、我儕、今神の子たり、後、如何、未だ露はれず其現はれん時には必ず神に肖んことを知る(約翰第一書三章二節)、我未だ復活体の体質に就て知る所なし、然れども斯かる身体のあり得べきことを知り、また其、我儕の今の肉体に優りて遙かに聖(神に肖る)なるものなるを知る、我儕は既に我儕の衷に血気以上の生命あるを知る、然して斯生命を容るるに足るの器は此肉体以上のものならざるべからず、獣の肉は人の霊を宿すに足らず、人の肉は天使の霊を宿すに足らず、然るに我儕に既に天使の霊に肖たる霊の宿るあり、人の霊を宿すために人の肉を造りし神は天使に肖たる霊を宿すために特殊の体を造り給はざらんや、我、霊体と称ばんと欲する所のものは是なり、是れ天に属ける者なれば、地に属ける者とは異なるべし、然れども霊体にも亦千差万別あるはすべての星が其光彩を異にするが如くなるべし、天使マイケルは天使ガブリエルと其栄光を異にするが如く、聖徒は霊体を被《き》せられて天に入りて後も各々其栄光を異にするなるべし、金剛石の光を以て輝く者もあらん、瑪瑙《めなう》、翡翠《みどりたま》、真珠の光を以て輝く者もあらん、而して穹蒼を飾るに春の山野の異彩を以てし給ひし神は、神の都城なる新ヱルサレムを飾るに祥光燦爛たる彼の聖徒を以てし給ふならん、而して今在る此天地を造りし神は後あらんとする新天地を完成し給はざらんや。
 
     其二、始のアダムと終のアダム
  (四二)死者の甦るもまた斯の如し、壊《くつ》る者にて播かれ、壊ざる者にて甦らされ、(四三)尊からざる者にて播かれ、栄ある者にて甦らされ、弱き者にて播かれ、強き者にて甦らされ、(四四)血気の体として播かれ、霊の体として甦らさる、血気の体あり、霊の体あり、(四五)録《しる》して『始の人アダムは血気の人となれり』とあ(182)るが如し、而して終のアダムは生命を与ふる霊となれり、(四六)霊なるものは先にあらず、先づ血気のものありて、然る後に霊なるものあるなり、(四七)第一の人は地より出でゝ塵なり、第二の人は天より出でたる主なり、(四八)塵なる者にすべて塵なる者は似るなり、天より出し者にすべて天より生れし者は似るなり、(四九)而して我儕塵なる者の形状を有つ如く、また天より出し者の形状を有つべきなり。
〇死者の甦るもまた斯の如し、植物の種子の発生するが如し、幼芽は種子と其成分、形体を異にす、壊る者にて播かれ、壊ざる者にて甦らされ、卑しき者にて播かれ、栄ある者にて甦らされ、血気の体として播かれ、霊の体として甦らさる、※[木+解]果一粒の中に老樹千年の翠影存す、古墳一基の下に聖徒永遠の栄光存せざらんや(四二−四四節)。
〇血気は天然の生気なり、霊はキリストに由りて神より来る生命なり、而して血気を宿すに足るの体を血気の体または肉体といひ、霊を宿すに足るの体を霊の体または霊体といふ、肉体も亦神の造り給ひし者にして其尊きは言ふまでもなし、我、爾に感謝す、我は畏るべく奇《くす》しく造られたりと(詩篇百三十九篇十四節)、然れども之を霊体に此して其卑しきこと弱きことは明かなり、魚の肉尊からざるにあらず、獣の肉に比して卑しきなり、獣の肉尊からざるにあらず、人の肉に比して卑しきなり、肉体尊からざるに非ず、霊体に此して卑しきなり、肉体は感能智能を備へたる血気の生命を宿すに足る、然れども血と肉とは神の国を嗣ぐべき霊の生命を宿すに足らず、血気の生命(psychic life)ありて血気の体なる肉体あり、神より出し霊の生命(spiritual life)ありて塞の体なる霊体なからざらんや(四四節)。
〇『始の人アダムは血気の人となれり』 創世記二章七節に曰くヱホバ神、土の塵を以て人を造り、生気を其鼻(183)に吹入れ給へり、人即ち生霊となりぬと、「血気の人」と云へるは「生霊《いけるもの》」と云へると同じ、即ち天然の人(natural man)を云ふなり、禽獣に類して而かも禽獣以上の者、感能あり、智能ありて、能く文を綴り、能く楽を奏し、能く政治を談じ、能く財を蓄ふる者なり、即ち智能的動物にして物質的造化の首位に立つ者なり、始祖アダムは実に斯る人なりしなり、彼は完全なる天然の人なりしなり、然れども彼はクリスチヤンにはあらざりしなり、アダムの完全とクリスチヤンの完全とは全然其素質を異にす(四五節)。
〇始の人アダムは天然の人なりし、故に彼は子を挙げ、遺伝的に其性を之に伝ふるの外に彼の生命を他に伝ふるの途を有せざりき、然れども終のアダムは聖霊の人なりしが故に遺伝の法則に依ることなくして、英霊的生命を人に与へ之を神の子となすの能力を保有し給へり、始の人アダムは天性の人なりし、終の人キリストは自由の人なりし、血気は遺伝し、霊は直伝す、アダム百三十歳に及びて其像に循ひ己に象りて子を生み、其名をセツと名づけたりと(創世記五章三節)、血気は斯くの如くにして増殖す、風は己がまゝに吹く、爾、其声を聞けども何処より来り、何処へ往くを知らず、凡て霊に由りて生まるゝ者は此の如し(約翰伝三章八節)、霊は斯の如くにして其子を設く(四五節)。
〇霊は血気よりも高く且つ妙《たへ》なる者なり、故に霊は血気の後に来るべき者なり、恰かも人は獣の後に来り、獣は禽の後に来り、禽は魚の後に来りしが如し、先づ血気のものありて然る後に霊なるものありと、近世の生物学者と雖も是より以上の言を発する能はず(四六節)。
〇「第一の人は地より出て塵なり」 ヱホバ神、土の塵を以て人を造り生気を其鼻に吹入れ給へり、人、即ち生ける霊となりぬ(創世記二章七節) ヱホバ神、アダムに言ひ給ひけるは、汝は……終に土に帰らん、そは其中より(184)汝は取られたればなり、汝は塵なれば塵に皈るべきなりと(仝三章十九節)、塵なるが故に壊る者なり、卑しき者なり、弱き者なり、一夜の寝《ねむり》の如き、朝に生え出づる青草の如き者なり、朝に生え出て栄え、夕には苅られて枯るゝなり(詩篇九十篇)、斯かる者に復活あるなし、永生あるなし、彼は死して墓に下り、其処に消滅す、然れども幸なるかな神は第二の人を送り給へり、彼は地より出し者にあらずして、天より出たる主なり、即ち自主の王なり、生死の変化なきものなり、唯一の死なざる者(提摩太前書六章十六節)なり、地より出し者に永生あるなし、天より来りし主キリスト死を減し、福音を以て生命と壊ちざる事とを明かにせり(仝後書一章十節)、復活は塵なるアダムに就て語るべきことにあらず、主なるキリストに就てのみ談ずべきことなり(四七節)。
〇「塵なる者にすべて塵なる者は肖るなり」 其子孫増殖の方法に於て、其憐むべき人生観に於て、其蜉蝣の如き生涯に於て、アダムの子孫はよくアダムに肖るなり、其属する人種の如何に関はらず、其生れ出でし時代の如何に係はらず、アダムの子孫はすべてアダム的なり、即ち利慾の人、野心の人、恋愛の人、失望の人、死の人なり、その富者たると貧者たるとに関はらず、その治者たると被治者たるとの論なく、その智者なると愚者なるとの別なく、アダムの子孫はすべてアダムの性を帯びて、暗を愛して光を憎み、自己の聡明に頼みて、神の指導を斥けんと欲す、俗諺に曰く「蛙の子は蛙なり」と、アダムの子はアダム的なり、土の塵を以て造られ、塵世に在りて塵埃に類する生涯を送り、終に墓に入りて塵埃となりて消失す、然れども「天より出し者にすべて天より生れし者は似るなり」、クリスチヤンは小なるキリストなり、キリストは上より来りし者なるが如くに、クリスチヤンは上より生れし者なり、彼に未だアダムの性の存するありと雖も、是れ已にキリストと共に十字架に釘けられしものなり、クリスチヤンはアダムの子孫にあらず、彼は父なる神が聖霊を以て其聖子に由りて新たに創造り給ひ(185)し者なり、死はアダムに属するものなり、故に既にアダムに属せざるクリスチヤンに死は臨むべからざるなり、復活はクリスチヤンの希望なり、アダムの子孫に此希望あるなし(四八節)。
〇我儕クリスチヤンは心にキリストの霊を受けて、既に「天より生れし者」となれり、然れども今尚ほ現世に在りて、「塵なる者」の形状を存す、然れども「天より生れし者」は永久に土より出し「塵なる者」の形状を存すべからず、彼は竟に彼の新たに受けし本性に基きて「天上より出し者」の形状を受けざるべからず、而して霊体または復活体とは斯かる形体を指していふなり、変貌の山に於てキリストが其弟子等に示し給ひしが如き体(馬太伝十七章二節以下参照)又は昇天当時の彼の栄光の姿、是なん「天より出し者の形状」と称するものならん、物体にして物質的ならず、霊象にして無形ならず、穢れたる人間の言語を以てしては叙述し得ざる者なり、而してアバ父よと呼ぶ子たる者の霊(羅馬書八章十五節)を受けし我儕は此壊つべき塵の形状を去りし後は壊つべからざる、手にて造られざる窮なく保つ所の天の幕屋なる霊の体を被るべきなり(哥林多後書五章一節以下参照)(四九節)。
 
   第三段 結論
 
     最終の勝利=死の殲滅
  (五十)兄弟よ、我此事を言ふ、即ち血と肉とは神の国を嗣ぐ能はず、また壊る者は壊ざる者を嗣ぐ能はずと、(五一)視よ、我、爾曹に奥義を告ぐ、我儕悉く寝るに非ず、(五二)我儕皆な終の喇叭の鳴らん時、忽ち、瞬間に化すべし、そは喇叭鳴りて死たる者壊ざる者となりて甦らされ、而して我儕もまた化すべければな(186)り、(五三)そは壊つべき者は壊つべからざるものを着、また此死すべき者は死すべからざるものを着ざるべからざればなり、(五四)而して此壊つべき者壊つべからざるものを着、此死すべき者、死すべからざるものを着ん時、聖書に録されし此言は遂げらるべし、即ち『死は勝利に呑まれたり』と、(五五)アヽ死よ爾の刺《はり》は安くに在るや、アヽ陰府《よみ》よ、爾の勝利は安くに在るや、(五六)死の刺は罪なり、罪の権力は律法なり、(五七)感謝は之を我主イエスキリストに由りて我儕に勝利を下し給ひし神に奉らん、(五八)是故に我が愛する兄弟よ、堅く立ちて揺《うご》くことなく、常に主の業《わざ》に富むべし、そは爾曹の労は主に在りて徒労ならざるを知ればなり。
〇「兄弟よ、我、此事を言ふ云々」 我、特に語勢を加へて此事を言ふ、即ち「血と肉とは云々」と、保羅は特に此事に裁てコリント人に語るの必要を感じたり、そは彼等の中或者は人は生れながらにして、アダムの性其儘を以て、特に聖霊の恩賜に与かることなくして、又復活の変化を経ることなくして、神の国を嗣ぐを得べしと信じたればなり、恰も現時に於ける多くの所謂る「進歩的基督信者」が悔改の必要を否み、「復活の迷信」を嘲けり、人は生れながらにして道徳の力を以てのみ能く天国の民たり得べしと信ずるが如くなりしならん、故に保羅は力を罩めて言へり、血と肉とは神の国を嗣ぐ能はずと(五十節)。
〇「血と肉」 前節に言へる血気なり、血気は如何に偉大なるも、如何に高荘なるも、如何に美麗なるも神の国を嗣ぐ能はずとなり、アレキサンドル、シーザーの雄大を以てするも、プラトー、ソクラテスの高潔を以てするも、サッフホー。イゥリピデスの優美を以てするも、キリストの王国に入りて其市民権を獲るに足らずと、使徒保羅は明白に「偉人是れクリスチヤンなり」との近世流の定言に反対せり、保羅の意見に従へば、偉人は偉人にして(187)クリスチヤンはクリスチヤンなり、クリスチヤン必ずしも英雄豪傑に非ず、然かも彼は神の国を嗣ぐの資格を有す、横井小楠は英雄なりしなり、然れどもヒーゼン(非基督信者)なりしなり、藤田東湖、吉田松蔭亦然かり、我儕は彼等の雄大を慕ふの余り、彼等を天国の市民として解すべからざるなり(五十節)。
〇然らば何者か神の国を嗣ぐを得ん? 壊ざるものなり、霊によりて上より新たに生れし者なり、永生は唯一の死なざる者なるイエスキリストに在つてのみ存す、彼以外に永生あるなし、彼に因らずして神の国を嗣ぐ能はず、生命のみ能く生命を生み得べし、肉に由りて生まるゝ者は肉なり、霊に由りて生まるゝ者は霊なり、生物学上の此原理は動かすべからず(五十節)。
〇以下はすべて「奥義」なり、説明を供し難きことなり、「我儕悉く採るに非ず」、我儕キリスト再顕の日に存在する者は悉く死の関門を過ぐるに非ず、我儕キリストの霊を受けて神の子となりし者は、終の喇叭の鳴らん時、即ち現世は其の終を告げて神の国の地上に臨む時に、忽ち、瞬間にして化すべし、即ち死の関門を経過せずして直に復活状態に入るべし、喇叭鳴りて電光の東より西にまで輝き渡るが如く、栄光の主が再び世に顕はれ給ふ時に、キリストに依りて死たる者は壊ざる者となりて甦され、而して我儕其時に於て此世に存立する彼の弟子は肉体を去りて直に霊体を着せらるべしと(五一−五三節)。
〇而して此大変化ありて、此変容と変質と聖化とありて、以賽亜書二十五章八節に録されし「死は勝利に呑まれたり」との言は事実となりて現はるべし、「アヽ死よ爾の刺は安くにありや、アヽ陰府よ、爾の勝利は安くにありや」、人の敵は人にあらず、死なり、死にして平げられん乎、宇宙の無辺なるも其中に我儕の敵と称すべき者の一つをも留めざるに至らん、而して此勝利を我儕に下し給ひし我主イエスキリストに感謝す(五四、五五節)。
(188)〇死をして恐るべき者たらしむる者は罪なり、而して罪をして我儕を死の刑罰に付さしむる者は律法なり、律法なくして罪は罪とならず、罪なきに至て死は其恐怖を脱す、而してキリストは血気以上の生命を我儕に供し、我儕をして律法以外に神の恩恵に与からしむるの途を開き給へり、此意味に於てキリストは律法を無効となし、罪を除き(赦し)、死より其刺を去りて死をして恐るべからざる者たらしめ給へり、キリストは死の苦痛と恐怖とを其根本に於て絶ち給へり、彼の供せし救済の完全なる理由は其根治的にして、皮癒的ならざるに由る(五七節)。
〇「是故に我が愛する兄弟よ」 事実斯の如くなれば、即ち、我儕は肉体の腐蝕と共に壊つべき者にあらざれば、即ち大なる栄光の我儕を待つあるを知れば、「我儕堅く立ちて揺くことなく」、世の風説に迷さるゝことなく、我儕の事業の表面的失敗を見て失望することなく、「常に主の業に富むべし」、溢るゝまでに主の業を為すべし、善を為すに吝なる勿れ、量を好して推しつけ、撼《ゆす》り入れ溢るゝまでに人に予へよ(路可伝六章三十八節)、「そは爾曹の労は主に在りて徒労ならざるを知ればなり」、爾曹が主に在りて為す善行の無効に帰することなきを知ればなり、善行或ひは現世に於ては徒労の如くに見ゆることあらん、然れども世は現世を以て終るものにあらず、更らに善き世はキリストの再顕と共に来らんとす、善行は其の果を結ぶに永き時間を要す、今の世に於て涙とともに播きし者は後の世に於て歓喜と共に穫《かりと》らん(詩篇百二十六篇五節)、故に爾の事業を主に委ねよ、主は爾のために之を保存し、主の日に於て百倍して之を爾に還し給ふべし(五八節)。
 
     附言
 
〇「甦り」の文字甚だ悪し、「よみがへり」は勿論「陰府(黄泉)より還る」の意にして死にし者が其肉体を以て復(189)活することなり、即ち約翰伝十一章に於けるラザロの復活の如きを云ふなり、甦り、勿論復活の一種たるに相違なし、然れども保羅の茲に論ずる復活なる者は全く之と異なる、「よみがへり」を原語にて egersis と云ふ、起きる、又は起こすの意なり、寐りし者の起きるを云ふ、又刺戟、興奮、振起等の意を存す、新たに生命を吹入して生気なき者を活かすを云ふ、種子は生命の斯かる活動に由りて発生す、人の復活もまた同一の活動に由るものならざるべからず、基督教の唱ふる復活をよみがへりと解して多くの誤謬に落入り易し、甦りの文字は之を廃す能はずとするも、其意義を能く心に留め、誤解せざるやう努めざるべからず。
〇「霊体」と云へるは霊的身体の意にあらず、そは霊は気にして体となりて形を於て現はれ得べきものにあらざればなり、霊体とは前にも云へる如く神より賜ふ霊を宿すに足るの体なり、蓋しキリスト昇天当時の体の如きものを云ふなるべし、即ち目を以て見、手を以て触れ得べき体なり、斯かる体は霊にあらず、気にあらず、確実なる体なり、而かも其如何なる体なる乎、是れ吾人の知らざる所なり。
〇生命は天より来る、即ち地球以外より来る、而して此地に臨みて、或ひは蚕をして銀線に等しき糸を績《つむ》がしめ、或ひは百合花をして触るれば消ゆる色を呈せしむ、糞土は桑葉となり、桑実は糸となり、糸は薄紗となりて美人の膚を蔽ふ、同一の生命はまた同一の土塊よりして天使の体を組成し得ざらんや、生物学は未だ其最終の言を発せず、保羅の復活論は生物学の到達すべき最後の結論ならずとせんや。 〔以上、7・10〕
 
(190)     善行の報賞
        (北越巡行の感想として家人に語りし所)
                       明治38年6月10日
                       『新希望』64号「談話」
                       署名 内村鑑三
 
 善を行ふに倦むこと勿れ、そは若し弛むことなくば我儕時に至りて穫取るべければ也(加拉太書六章九節)。
 善は神の聖旨であります、爾うして神の聖旨は必ず成るものであります、その何時なる乎は我儕人間には解《わ》かりません、然しながら何時か、神の聖旨に叶ふ時に必ず事実となりて此世に現はれて来ることは何よりも明かであります。
 茲にいふ「善を行ふ」とは本章の第六節にある「道を教ふる」といふ言を受けていふて居るのであります、伝道は善行の中で最も大なる者であります、人に永生を与ふること、是れが善行の至極であります。
 爾うして我儕は善行、殊に生命の這を人に附与するに倦みてはならないとのことであります、而かも世に倦み易きことゝて此事業の如きはありません、人は容易に善を受けません、否な、多くの場合に於ては嘲笑罵詈を以て之を斥けます、縦しまた受けるとした所が滅多に感謝の念を以て之を受けません、彼等は神の聖言の如きは有つても無くつても可いものであると思つて居ります。
 医師を優待し、政治家を歓迎する彼等は神の聖言を齎す伝道師を迎ふるには至つて冷淡であります、爾うして(191)此事を思ふて我儕は幾たびか失望し、幾たびか落胆するのであります、我儕は或時は思ひます、善を成す何の益かある、道を伝ふる何の用かある、我に実益のなきは我れ能く忍ぶを得ん、然れども人も我が勤労に由て何の益をも得ざるにあらずや、我は神の道を説て無益に我が生涯を消費せり、我は水中に種を蒔けり、砂上に苗を植えたりと、爾うして斯く歎声を発して、伝道を廃し、商業又は政治に入つた伝道師は決して尠くはありません。
 然しながら是れ無益な歎声であります、是れ無智の失望であります、故に使徒パウロはつゞいて曰ひました。
  そは若し弛《たゆ》むことなくば我儕時に至りて穫取るべければ也
と、如何なる事業と雖も其成効を見るまでには多くの忍耐を要することは言ふまでもありません、殊に人の霊魂を救ふを目的とする伝道事業が其効を奏するまでに多くの時日を要するは勿論であります、一つの銀行を起し、一つの政党を樹つるでさへ多くの歳月を要します、爾うして其得る所は何であるかといふに、僅かに数十百万の敗産か、或ひは一国の政権であります、然るに我儕は伝道を以て人の霊魂を永遠にまで救はんと欲するのであります、即ち人に無窮の生命を授くるのみならず、我も神の前に立つて我が戴く冠冕に貴重の宝石を加へんとするのであります、我儕が伝道に就て失望するのは我儕が伝道は何を目的としてするものであるかを知らないからであります、若し一箇の金剛石を得んがためには、縦令其|小豆大《あづきだい》のものなりと雖も、之を得んがために数年間労いても決して厭はないではありませんか、況してや永久に輝く人の霊魂を得んがためには、我等其一を得んがために、一生涯を消《ついや》しても決して厭ふべきではないではありませんか、我儕は死んで我儕の財産や勲章を持行くことは出来ません、然しながら死ぬる時の慰藉にして、亦死後の唯一の宝は我儕がキリストに在りて神の言を以て生みし霊魂であります、此財産を有たないものは神の国に於ては無一物の貧乏人であります、我儕は永久の子を産(192)まんがために伝道を賛《たす》け、之に従事するのであります。
 我儕は倦んではなりません、何故なれば我儕時に至れば必ず我儕の労働の結果を穫取ることが出来るからであります、此事に関する聖書の他の言葉を御覧なさい、
  汝の糧食《くひもの》(麦種の意ならん)を水の上に投げよ、多くの日の後に汝ふたゝび之を得ん(伝道書十一章一節)。
  天より雨降り雪落ちて復た還らず、地を湿して物を生えしめ芽を出さしめて播く者に種を与へ、食ふ者に糧を与ふ、此く我が口より出る言も空しくは我に還らず、我が喜ぶ所をなし、我が命じ遣《おく》りし事を果たさん(以賽亜書五十五章十、十一節)。
  兄弟よ忍びて主の臨《きた》るを待つべし、視よ、農夫地の貴き産を得るを望みて前と後との雨を得るまで永く忍び之を待てり、汝等も忍べ、汝等の心を堅ふせよ、そは主の臨り給ふこと近づけば也(雅各書五章七、八節)。
 此他にも同じ慰藉を与へて居る聖書の言は沢山あります、兄弟よ、恒に励みて主の工《わざ》を務めよ、そは汝等主に在りて其為す所の労の徒労ならざるを知れば也(コリント前書十五章末節)とはパウロの此事に関する剴切なる言であります。
 神の言は他《ほか》の物とは異います、文学であるとか哲学であるとかいふものは之に耳を傾くる者は多くありまするが、然し一度之を聞けば又直に忘れて了います、然しながら神の言葉は一度之を耳にすれば両刃《もろは》の剣の如くに人の心に入り、之を除《のけ》んとするも除くることが出来ません、神の言は活きたる種子の如きものでありますれば時さへ来ればキツト生えます、今目前に直ぐ生えないのは未だ時が至らないからであります、未だ之を聞いた人の歳が足りないからである乎も知れません、或ひは未だ其人の人生の経験が浅くあつて、之を充分に解かるに至らな(193)いからであるかも知れません、或ひは其他の理由のために神の聖霊が未だ其人の上に降らないで種子が未だ芽を出して地を裂いて発生《はえいづ》るに至らないのでありませう、然しながら何れにしろ蒔いた聖言の種子は決して死にません、若し万一此世に発生ないとしても来世で発生ないと何人が知つて居ります乎、播かない種は生えません、然し播いた聖言の種は必ず生えます、若し不幸にして之を受けし者を永生に導かないならば、之は神が彼を鞫き給ふ時に彼に対して彼の罪の証拠となりて現はれます、神の聖言は実に雨の如きものであります、地を湿さずしては復たび天に還りません、神の聖言はまた撰手の放つ矢の如き者であります、冗矢《むだや》とては一本もありません、斯かる有効物を委ねられし我儕は其使用に就て決して失望してはなりません。勿論、我儕の収穫《かりいれ》なるものは此世に於て行はれる者ではありません、我儕は我儕の倉庫を充たすには主の臨り給ふ日を待たなければなりません、永生の収穫期《かりいれどき》は神の裁判の日であります、爾うして其日の決して遠くないことは聖書の明かに示す所であります、爾うして人は老後のために準備をなすのみならず、亦、この主の恐るべき日のために準備をなさなくてはなりません、「来世のための準備」なればとて之を忽諸《ゆるがせ》にしてはなりません、若し人生の意義が那所《いづこ》にある乎を深く調べて見ますならば、其、此恐るべき主の裁判の日のために準備を為ることであることが解かるべき筈であります。
 然しながら此喜ばしき収穫の前兆は之を此世に於ても見ることが出来ます、我儕は我儕の収穫るべき禾穀の味を前以て、此世に於て味ふことが出来ます、神の報賞《むくひ》は充分に来世に於て来りまするが、然かし其一部は現世に於ても来ります、我儕が我儕の播種《たねまき》の事業に於て失望せざらんがために、我儕が終末《おはり》の収穫の如何に喜ばしきものなる乎を知らんがために、神は此世に於ても我儕の労働の結果を与へ給ひて我儕の絶なんとする望みを復活《いきかへ》らしめ給ひます、世に歓ばしきこととて霊の結びし果を目撃するが如きはありません、或ひは十年、或ひは二十年、(194)血と涙とを灑いで播いた結果として一人の真個《ほんとう》のクリスチヤンの出来しを見ては我が霊魂は天にも昇らん乎と思ふばかりに喜ばしくあります、一人の同胞が宇宙万物の造主なる父なる神を発見したのであります、爾うして我れが此発見を促すための機関となつたとのことであります、世の帝王が其臣下に下す栄誉の中にも之に優るの栄誉はありません、世の富豪が万金を投じて得んとする快楽も此快楽には較ぶべくもありません、歓喜の極、満足の極とは人を其造主に導いたことを知つた時の感であります、此歓喜を得んがためには十年身を労するも決して惜むべきではありません、此昇天の快楽を味はんがためには二十年に渉る世の嘲弄、罵詈讒謗も決して悲むべきではありません、伝道の報酬は金銭となりて現はれ来るものは極く々々|僅少《わづか》であります、否な、或る時は皆無であります、又世の名誉として現はれ来るものとても算ふるに足りません、否な、真正の伝道には名誉は皆無であります、世に愚弄せらるゝに止まりません、教会にまで嫌はれます、然しながら伝道には伝道相応の報酬があります、即ち活ける霊魂の報酬があります、若し人生の宝の中に己が生みし子に優る者なしとすれば、肉体の子以上の宝は実にキリストに在りて生みし霊魂の子であります、斯かる子供を一人持つことは全世界を持つに優るの富みであります、伝道の効果は実に偉大なるものであります。
 爾うして神は我儕が思はざる所に我儕に由て生み給ひし子を隠し置き給ひて我濟を驚かし給ひます、此処の山奥、彼処の海辺に我儕の播きし種を吹送り給ひて、そこに我儕の知らざる間に我儕の霊魂の子を生育て置き給ひます、爾うして或る機会を得て、我儕がそれに邂逅《かいごう》した時の、我儕の歓喜と驚愕《おどろき》とは之を言ひ現はすに足るの言はありません、我が師父よと、我が兄弟よ、我が霊子よと、肉体の父子よりも優かに親しい者は霊魂の親子であります、此快楽を一度味ふて伝道は終生止められません。
(195)  善を行ふに倦むこと勿れ、そは若し弛むことなくば我儕時に至りて穫取るべければ也、
この通りであります、是は実験の言であります、我儕は善行に倦んではなりません、殊に伝道に倦ではなりません、教会より正式に授かりし伝道の職を持つと持たないとに関はりません、否な、多くの場合に於ては斯かる無益な「職」は持たない方が善う厶います、何人もイエスキリストを信ずる者はキリストのために善を為して其偉大の報賞に与かるべきであります。
 
(196)     日本人の研究
        (四月廿八日新潟市白山公園偕楽館に於ける演説の要領なり、『新潟日報』記者の報道に依る)
                       明治38年6月10日
                       『新希望』64号「談話」
                       署名 内村鑑三
 
    新潟県との因縁
 
 回顧すれば明治十七年我の農商務省に職を奉ぜるの際新潟県の物産増殖の為め、佐渡に北海道の鰊卵を放流せんとし関沢局長の賛成を得て、小樽より鰊卵の箱を送つて来県したりしが之我と新潟県との最初の因縁を結たるものなりき。而も此の成績は他人の監督の下に研覈せらるべく我は委任して同年外遊を試みたり。而して明治二十二年本国へ帰るや否北越学館に来りて青年薫化の大任に膺れよとの勧告頻りに至りたり。
 抑も身万里の外に在りて燦然たる異邦の文明に接触するに於ては誰か本国に対する愛情の汪然たらざるものあるべき、我も亦た愛国の真情胸奥に燃え日本の発展、進歩の為め夥多の計画を脳裡に収めて帰国したるが、北越学館に対する勧奨を受るに及んで先づ思考する所あり。越後一の木戸は旧藩高崎の領地にして厳父は茲所の山河を観賞し、因縁既に浅しとせざるに、尚ほ新潟県は曾て義将上杉霜台公を出したる所にして其民人は一種の気骨あるを以て或は我事業遂行の好位置たらざるなきにあらずやと思念せり、否な天が我の理想を実現せしむべく北(197)越の天地を与へたるものならんと断信し二週間の後来任するに至りたり。
 
    失敗の原因
 
 希望は破壊されたり 事業は失敗に終りたり 哀れ北越学館に於けるの生涯は四ケ月にして断絶し、同年十二月十八日霙乱るゝ寒風に送られて東京へ逃行くの已むを得ざるに至らしめられ、残念骨に徴し世人の欺瞞、我の買被を侮ること深甚なるものありし 而して之を始めとし帰国以来十六年間の今日に至るまで日本の事業に従事したるもの誠意日本の進運を開き其民人を救済せんとするにありて、偶々北越に計画する所ありたるは以て日本全体に対する計画の基礎作成を目的としたるに依れりしが他国に於ても同じく功を奏せず、夫より行く処事業を発起し幸福を増進せんことを期図し彼処に困難し此処に失敗しつゝありし、併しながら我は又た国運の発展に対し尚ほ一滴の微少と雖も寄与する所ありたるを確信し失望することなく寧ろ衷心愉慰する所あり 而して此の事業上の失敗の原因は畢竟日本人の気質を学ばざりしに依ることを発見したり、斯の如き観察は外国人らしゝと雖も日本人を弁知せざる日本人決して尠少ならずして日本人も亦日本人を研究するの大必要ありて存するなり、先づ日本人の欠点二三を述べん。
 
    建設的結合力の欠乏
 
余が日本人結合力の脆弱を実験したる者を北越学館事件なりとす、当時我同志は五十に上り其対手は漸く十一人の宣教師なりしも我五十人は五十の意見を各別に保有し甲乙間の注文相殺されて一定の決議を為す能はざる(198)に反し彼宣教師は十一人にして一個の主張に団結せるため実際の勢力に於ては我が一或は無と彼の十一との衝突となりき、我が失敗は殆ど当然と云はざる可からず。次で東京の万朝報に英文欄を担当し居留地の悪弊を指摘するや不思議にも又十一の数ある日本全体の外字新聞は同意見、同筆法を以て当時唯一なる我英文欄を攻撃し英、独、仏等平素の不和を顧みず強力なる団結として迫り来るに係はらず日本の新聞は遂に一行も我が後援を為さゞりき、我は再び苦き経験を為して日本人結合力の欠乏に驚嘆せり、併し乍ら喧嘩、ストライキ、戦争等の破壊的結合力は至て強盛にして実に世界無比たるなり、千葉の海岸百間の無価値の砂地を争ひて両村各々三四年の歳月と三四万の大金を消費したることを聞きしが、而かも建設的に三四千円を以て溝渠を作るの案は賛成を得ざるなり、今や日露戦争に際し恐る可き此の破壊的結合力は偉大の効果を拳示しつゝあるが更に此の欠乏せる建設的、積極的、進取的結合力を養成して国家の発展を計画せざる可からず。
 
    頭寒心熱
 
 漢法医は人間健康の状態を頭寒足熱と云ふ。我は更に精神的に観察して頭寒心熟と云はんと欲す、感情に支配さるゝは熱頭にして残忍酷薄なるは冷心なり、共に之れ中正を得たるものにあらざるが就中日本人は冷静なる態度に拠て判断することを為さず多くは情熱の為めに妄動せんとし、愛に溺るゝ母親、情実に纏綿さるゝ代議士、輿論に盲従する経世家等比々皆然り、我は日露戦争を悪なりと云はず、但し三四年前軍備縮少論の盛に起りたる事を記憶するものは、今日一人の非戦論を唱導する者なきを怪しむなるべし、我は今日非戦論を唱へて一人の味方を発見せざるのみならず以前の愛読者より露探と叫ばるゝに至れり、而して今日の戦争論者が戦争後非戦論者(199)たらずんば幸なり、只願ふ所は理性をして感情、情実を支配せしめんことにあるなり。
 
    寛容の精神
 
 善を愛するの精神、即ち自己の主義に忠実なる者は縦令対敵なりと雖も専敬する寛容の精神の特に我国に欠如たるを覚識するなり。此の如き傾向は偉大なる国民を作り、紳士、武士を作ること能ざれば大に改善に奮励せざる可からず、我は武田信玄の菩提寺慧林寺の維持法に就て参画せり、禅宗の托鉢僧の慈善事業に努力するを約束せり、然りと雖も是等に寄附金を為したりとて仏教に降伏したるにあらず、只だ誠実を以て自己の信仰を実にせんとするものには敵と雖も賛成を惜まざるが為たるなり、善は敵の行施する所なりと雖も実現を助くるに躇躇せざるなり、夫の滔々甲に行きたるに依り彼は敵なり、乙に赴きたるが故に悪魔なりとし相排※[手偏+齊]せんとするが如きは決して進歩に貫献すること能はざるものたり、日本人今や露国の罪悪のみを※[言+干]《あば》きて人間以下となす、若し突然平和来らば如何に条約を定むべき、蓋し人間以下の者は人間と条約を定むる資格なき者なればなり、国民は尚進んで露国の全部を解釈せざる可からず。
 過去十六年間に認識せる日本人の欠点の二三は此の如し、若し今に於て改善する所なくんば戦勝の効果を善用する大国民となる可からず、以て切に茲に猛省を請はんと欲するなり、若し夫れ日本人の優秀なる点に至つては敢て弁ずるまでもなく我又大に感謝に堪えざるなり。
 
(200)     北越巡行日記
                       明治38年6月10日
                       『新希望』64号「雑記」
                       署名 内村生
 
 明治三十八年四月廿五日午前五時角筈を発す、乗慣れし西北鉄道に由り、関東の野を走り、碓氷峠を越へ、北信を通過し、越後に入り、午後五時四十分直江津に着す、腹痛の故を以て友人を訪ふ能はず、故に旅店に在て茫然として独り安臥す。
 仝二十六日午前六時北越鉄道に由り、新潟へ向け直江津駅を発す、米山沿岸の隧道殊に美観なり、正午信濃川の東岸なる新潟駅に達す、駅に数名の旧友の迎へられしあり、七丁に余る太平橋を渡り、余の古戦場なる新潟に入る、友人大橋正吉氏の客となる。
 昼餐後直に散策を取る、先づ白山公園に遊ぶ、昔を思ひ、今に鑑み、夢を辿るの心地せり、後、旧北越学館の跡を求めて得ず、独り松林の中に黙祷す、夜雨降り、友人と談ず。
 仝二十七日午前市外松林の間を散歩す、午後四時有志のために聖書研究会を開く、仝七時より旧北越学館同窓会に臨む、会する者三十余名、感充ち情溢る。
 仝二十八日午前新津在大鹿に友人を訪ふ、午後新潟に帰り、午後四時二たび聖書研究会を開く、午後七時白山公園内偕楽館に於て演説会を開く、来会者二百余名。
(201) 仝二十九日、午前九時友人に送られて新潟を発す、途中三条に下車し、友人三四名と会談す、再び汽車に乗じ、午後四時柏崎に達す、友人の歓迎を受け、宮川文平氏の客となる。
 仝三十日、午前近郊の山林並に海辺に散歩す、午後二時柏崎ホテルに於ける有志懇話会に臨む、後、諸氏と夕飯を共にす、此処また友人多し。
 五月一日。午前日本石油会社製油所を見る、仝十時柏崎駅を発し、春日新田に下車し、旧友伊藤一隆氏の客となる、午後スタンダード石油会社に到り、其規模宏大なる製油所を見る、夜、旧友と共に過去と現在と未来とに就て語る。 五月二日、午前六時直江津駅を発し、十一時信州小諸駅に着す、友人に伴はれ千曲河畔の小亭に至り、昼飯を饗せらる、此夜小山太郎氏に客たり、近隣の婦人を招き談話会を開く。
 五月三日午前八時小諸駅を発し、午後四時角筈に帰る、行程八日、得る所甚だ多し、余の歓喜と満足とは父なる神のみ知り給ふ、但し疲労もまた頗る大なりき、家に帰りて後一旬、何事も手に附かざりき、然れども遠く信越の山野を想望して救の神を讃美して止まざりき、誰か曰ふ、伝道は無益の業なりと、誰か曰ふ無教会主義は無能の主義なりと、若し樹の善悪は其果を以て知らるとならば、余が今回目撃せし果は神が余に由て植え給ひし小なる樹の全然悪樹にあらざるを証して余りあり。
 余は明治二十二年、米国より帰朝早々、新潟に到れり、而してそこに止まること僅かに四ケ月、余の教育事業に失敗して行李匆々東京に逃れ還れり、而して十六年後の今日二たび北越の地に到り見れば、余は異郷に入るの感を為さずして到る処に友の優遇を受けたり、余は北越巡行より還り来りて大勝利者たるの感を脱する能はず。
 
(202)     〔キリストの道 他〕
                       明治38年7月10日
                       『新希望』65号「精神」
                       署名なし
 
    キリストの道
 
 責むべき人を責むるは正義の道ならん、然れども人の責を己に負ふはキリストの道なり、キリスト信者は義人以上なり、即ち他人の罪のために罪人として神に罰せらるゝ者なり。
 
    神の愛
 
 神の愛は海の如し、広くして深し、井戸の如くに深からず、沼の如くに広からず、我儕は神の愛の深さを量らんとする時に其広さを忘れ、其広さを量らんとする時に其深さを忘る、我儕は神の如くに深く万人を愛する能はず、広く霊魂を愛する能はず、愛の神よ、願くは我儕の愛の容器を大にして我儕をして爾の如くに深く且つ広く愛することを得せしめ給へ。
 
    日露永久の平和
 
(203) 露西亜人は云ふ、憎むべきかな日本人と、日本人はいふ、憎むべきかな露西亜人と、然れども神は云ひ給ふ、愛すべきかな日本人、愛すべきかな露西亜人と、神の心を以て見て露西亜人は日本人に取り愛すべき者となり、日本人は露西亜人に取り愛すべき者となる、日本人と露西亜人とは神に依りて今日直に永久の平和を結ぶを得べし。
 
    人道と福音
 
 人の愛すべき点はその憎むべき点よりも尠し、故に人を人のために愛せんと欲して、我儕の愛は冷却せざらんと欲するも得ず、人は神のためにのみ真正に人を愛するを得べし、人道は人を愛するの這にあらず、深く永く人を愛せんと欲せば神の道なるキリストの福音に依らざるべからず。
 
    愛の波動
 
 或人神の愛に感じ、之に励まされて我を愛せり、我其人の愛に感じ、之に励まされて或る他の人を愛せり、彼また我愛に感じ、之に励まされて更らに或る他の人を愛せり、愛は波及す、延びて地の極に達し、世の終に至る、我も直に神に接し、其愛を我心に受けて、地に愛の波動を起さんかな。
 
    神を見る法
 
 神を見んと欲する乎、然らば隠れたる善を為すべし、神は恋人の如し、衆人の拍手喝采する所に其|貌《かたち》を顕し給(204)はず、我儕は密なる所に於てのみ神と相見るを得べし、我儕神を見んと欲せば人の見えざる所に多くの善を為して、度々彼と密会するの機会を作らざるべからず。
 
    信の一字
 
 我は人に頼らず、また己に頼らず、我は天地の造主なるヱホバの神に頼る、我は依頼せず、また独立せず、我は我主イエスキリストに依て立つ、依頼と云ひ独立と云ふは斯世の言なり、我儕に信の一字あるのみ、依頼以上の依頼、独立以上の独立、是なり。
 
    聖徒の交際
 
 我は此地に在りて独り神を愛するにあらず、我は世界許多の聖徒と共に神を愛するなり、我が身辺に同情者なしとて我何をか恨まん、我は同情者を広く全世界に有す、真正の基督信者はすべて主に在て一体なり、祈祷は我がために地の四方より天の宝座に向つて上りつゝあり、我儕は大軍なり、主の指導の下に同一事を斯世に在て為す者なり、我儕は如何なる境遇に在るも孤独寂寥を感ずべからざるなり。
 
    最上の快楽
 
 富の快楽あり、美術の快楽あり、文字の快楽あり、学究の快楽あり、然れども邪念なきの快楽は是等すべての快楽に優さる、視よ真のイスラエル人にして其衷に詭譎《いつはり》なき者ぞと、又、心の清き者は福ひなり、其人は神を視(205)ることを得べければ也と、嫉妬怨恨は人を害するよりは先づ己を毒す、我儕幸多き生涯を送らんと欲せば、何人に対しても悪意を挿《さしはさ》まざる清浄無邪気の心を懐くべきなり。
 
    理想の発見
 
 理想の人あるなし、理想の神に接して理想の人となるなり、理想の国あるなし、神の真理を受けて理想の国となるなり、理想は人国の既有性にあらず、新たに神より受くべきものなり、我等全世界に理想の人と国とを索めて之を発見し得ざればとて敢て失望すべからざるなり。
 
    更に可なり
 
 悪を矯むるは可なり、然れども善を勧むるは更らに可なり、毀つは可なり、然れども築くは更らに可なり、罵るは可なり、然れども教ゆるは更らに可なり、憎むは可なり、然れども愛するは更らに更らに可なり、爾曹悪に勝たるゝ勿れ、善を以て悪に勝つべしと、基督信徒は積極的人物なり、彼は常に積極的に世の改善を計らざるべからず。
 
    神の救済法
 
 善を為すべし、更らに善を為すべし、更らに進んで善を為すべし、善の大軍を起して悪の小軍を圧すべし、善の量を増して悪をして無きに均しき少量たらしむ可し、是れ天然の清潔法ならずや、大洋の浄水を以てすれば五(206)大洲の汚物も容易に之を清除するを得べし、涼風一陣室内を払へば終夜の汚気は消えて迹を留めず、死に勝つに生を以てし、暗を逐ふに光を以てし、怨を滅するに愛を以てす、是れ神の救済法なり、我儕神の子たる者は悪を挫くに悪を以てし、怨に報ゆるに怨を以てし、先づ暗を以て暗を逐ひ、然かる後に光を注入せんとする人の子の愚になろふべからざるなり。
 
    魔言の使用者
 
 魔言を弄して喜ぶ者あり、然り、更らに進んで悪魔の預言者となりて語るべし、悪魔の言に奇抜なるものあり、以て斯世の人を喜ばすに足る、然れども知るべし、魔言は以て己を高め人を進むるの勢力にあらざるを、魔言を弄して悪魔と共に苦笑するを得ん、然れども魔言を弄して晨星と共に歌ひ神の子等と皆な歓びて呼ばはること能はざるべし、魔言を弄するは其人の損失なり、彼は自から好んで此事を為す、余輩は彼の行為を妨げず。
       ――――――――――
 
    誰がためにか書かん
 
 誰がためにか書かん、嗚呼、誰がためにか書かん。
 国のために書かん乎、否な、国人は我が言を容れず、彼等は政治家に聞き、新聞記者に随従す、福音の真理の如きは彼等の措いて顧ざる所なり。
 社会のために書かん乎、否な、社会は生活の快楽を追求す、其他を要めず、基督教の教理の如きは彼等に取り(207)て何の用あるなし。
 教会のために書かん乎、否な、教会は教会制度に就て論じ、信徒の増加に就て語る、罪人の救済の如きは多く彼等の議題に上らざる問題なり。
 然らば我は誰がためにか書かん。
 然り、我は我が少数の同志のために書かん、饑渇神の義を慕ふ者のために書かん、斯世に大ならんとは欲せずして神の前に聖ならんと欲する者の為に書かん、肉に貧なるも霊に富まんと欲する者のために書かん、無教会信者のために書かん、キリストの外、仰ぐに教師なき者のために書かん、然り、我は是等少数の我が同志のために書いて自からも大に慰むる所あらん。
 
(208)     更らに善き方法
         即ち戦争に代ふるに仲裁々判を以てすべし
                       明治38年7月10日
                       『新希望』65号「智識」
                       署名なし
                                                      米国 ヨセフ、エルキントン
 『更らに書き方法』と『新希望』とは善き友人なり、吾人は愛と平和との優れることを証明するための議論を要せず、困難なるは之を今日の境遇に適用するにあり、而して此事をなすに多くの忍耐と寛容とを要す。
 世界に曾て在りし最大教師は曰へり、「悪に抵抗する勿れ」と、即ち悪を以て悪に抗する勿れと、又曰く、「爾の敵を愛すべし」と、此事を為すに強き意力と品性とを要す、而して人類の多数が雅量の此程度に達するまでには尚ほ永き時日を要するなるべし、然れども国民間に平和的関係を事実として成立せしむるための或る準備は何人と雖も能く之を為すを得べし、文明諸国に於て個人的安全を獲得するための事業が大に其効を奏せしを見て、以て此種の尽力の全く無効ならざるを知るべし。
 米国ボストン府に於て昨秋開会されし万国平和会議は曾て開かれし此種の会合の中にて、最も強く民衆の注意を惹ける、又最も多く公衆の心を刺戟せる会合なりき、其発会はトレモント公会堂に於て行はれたり、而して此大会堂のすべての椅子は聴衆の占むる所となり、而して尚三千の来会者は席なきために入場を謝絶されたり、来(209)会者中学者ありたり、紳商ありたり、技術師ありたり、合衆国々務大臣ヘイ氏は大統領の名を以て来会者を歓迎せり、彼の演説はすべての国際的紛争を整定するに仲裁的裁判を以てすべきことの強力にして熱心なる弁明なりき、彼の演説の一節は以て其論旨の那辺に存せし乎を示すに足る、ヘイ氏は云へり、
  余の聴衆諸君は目下の悲むべき世界の状態を認め、之に服従する能はずして、此幽暗の中を通過して日光を迎へんと欲するの方々なり、此大なる救済は如何にして果たさるべき乎、吾人のすべては近頃、トルストイ伯の戦争に関する、かの驚くべき説教を読めり、其中に著者の驚くべき炯眼と燃るが如き精神とが地理的並に政治的限界を脱して、天より彼に与へられし福音を彼を除いては何人も発する能はざる言を以て彼が述ぶるを見たり、而して諸君が痛心以て彼が戦争を非難する恐ろしき言を読むに方て、諸君は各己、人類の間に行はるゝすべての惨事に対し、一部の責任を負はざるべからざるを感じ、著者の供する救済策の何たる乎を知らんと欲するの念切なるに至て、諸君は終に之を供せらる、即ち宗教是なりと、然り、是れ唯一の救済策たるなり、若しすべての人が正義を行ふに至らば何人も悪事を行はざるに至るべしと、世間何事か是より明白なるものあらんや、是れ完全の方策なり、是れ預言者も聖徒も満足する所、而して神の定め給ひし時に於て此世に実行せらるべきものなり。
  然れども諸君は茲に相会して現代目下の人も亦此の望ましき日の到来を早むるために何事か為し得ざる乎との問題を攻究せられんとす、若し吾人は今日直に平和好情を以て世界通有の法則、国民の慣例と成す能はずとすれば、吾人は此境遇に接近せんために何を為し得べき乎、吾人は此望ましき目的点に向ひ、少しなりとも吾人を接近せしめんために如何なる方法を取るべきや、……余は合衆国政府が誠実にして同情を以てする
(210) 歓迎を諸君に呈し、諸君が茲に会合せられし目的精神を極力賛成する旨を諸君に確通すべく命ぜられたり。
 此演説に対し、英国、仏国、独逸、那威、伊太利、墺地利等の派遣委員は是等諸国に於ける軍隊主義の悲むべき結果に就て語勢を加へて述べられたり、『汝の武器を地に委ねよ』の著者なるスツトネル伯爵夫人は熾んなる喝采を以て迎へられ、各種の紛争を整定するに仲裁々判に由るべきことを熱心に主張せり、またボストン市内の教会堂並に市会議事堂は平和会議開会中に集合し来りし聴衆を以て満たされ、彼等は該会議に於て討議されし平和運動の種々の方面に就て聞かんとせり、『単純なる生涯』の著者牧師ワグネル氏は彼の友なる教授ケーニヒ氏と共に(二者共に仏蘭西人なり)基督教共励会の発起の下に開かれし会合に於て熱心に仲裁々判を賛成して語られたり、シカゴ市のジエーン、アダムス夫人も亦「真正なる愛国者は平和的殖産事業を以て誠意其国に事ふる者なること」を述べたり。
 『友会』も亦た多くの代表者を此議会に送れり、友会派は常に『更らに善き方法』の主張者なりき、ウヰリヤム、ペンは一千六百九十三年に欧羅巴諸国に「同盟の計画」なるものを提議し、国民間のすべての争闘に代ふるに共同的警察権の適用を以てせんことをせり、若し此正気なる方法にして採用されしならば過去二百年間に許多の惨事は省かれしならん、文明世界は大速力を以て此方法の採用に向ひ進歩しつゝあり、而して問題は僅かに此運動の先駆ならん乎、或ひは後殿ならん乎にあり、戦争の生ずる道徳的并に経済的動乱は永き以前より既に堪ゆべからざるものとなりぬ、而して寡婦并に孤児は更らなり、男子すらも、人道の名によりて、すべての国際的紛争を判決するに方て戦争よりも更らに道理に合へる或る他の方法を以てせんことを彼等の同胞に訴ふるに至れり。
 十五ケ国と其有力の政治家とを代表する万国平和同盟義会の二千の会員は昨年聖路易万国博覧会開設中合衆国(211)政府の招待する所となり、四十の国会議員も亦其列に加はれり、此議会が大統領ルーズベルト氏の充分に承認する所となりしはリツチヤード、バートルト氏の尽力に依れり、而してルーズベルト氏は直に和蘭国海牙府に於て第二の平和大会を開かんとの義会の提議に応じたり。
  編者曰、ヨセフ・エルキントン氏は米国費府『友会』々員にして、彼国知名の非戦論者なり、広く交際を各国の名士と結び、此主義のために尽瘁せらる、近頃本邦に来遊せられ、編者一夕親しく氏の温容に接するを得、文明諸国に於ける戦争廃止運動に就て氏の希望を以て語らるゝを聞いて大に我が志を強うせり、此時、余輩は氏に乞ふて其夜の談話の一節を記載して之を本誌に寄送せられんことを求めたり、而して氏は喜んで此乞を納れ、此訳文の原文を寄送せらる、余輩は茲に氏の厚意を謝すると同時に、余輩の訳文の拙劣にして充分に氏の精神のある所を本誌の読者に紹介する能はざるを憾む、然れども既に氏の如き博愛有識の士にして憚からずして此主義を全世界に向て唱道せらるゝを見て、余輩の同志諸君も亦、余輩と同じく大に其確信を固めらるゝなるべし、非戦論唱道は決して売国的行為にあらず、真正なる愛国者は平和的殖産事業を以て其国に事ふる者なりと、シカゴ婦人の此一言、以て余輩同志の座右の銘となすに足らずや、余輩は開戦中の今日、勿論国法を遵守して遺憾なからんことを期す、然れども余輩は飽くまでも非戦を余輩の信仰の一箇条となし、余輩の微力を其実行のために献げて惜まざるべし。
 
(212)     雨中閑話
                       明治38年7月10日
                       『新希望』65号「談話」
                       署名 角筈生
 
  平和の到来 〇争闘の継続 〇悪魔のインスピレーシヨン 〇戦争熱の伝染 〇不平病 〇其絶滅と治療法 〇遺伝性の不平患者 〇暗らい宗教と明かるい宗教 〇罪悪としての憤怒 〇義務としての歓喜 〇美術としての生涯 〇審美学の一章としての倫理学 〇雨期の利用
〇平和は軍人の武勇に由て来りません、又外交家の手腕に由て来りません、平和は天の神が其愛を人の心に注ぎ給ふに由て来ります、平和の恩恵は他の恩恵と等しく常に案外の所より来ります、神は遠からずして此恩恵を我等に下し給ひまして、彼が軍人以上、政治家以上であり給ふことを全世界に示し給ふと思ひます。
〇人は人を殺すことが出来ます、然かし人を活かすのは神の能であります、人は平和を破ることが出来ます、然かし平和を快復するのは神の事業であります、毀つは建つるなりとの人の言は偽はりであります、彼は毀つのみで建つることは出来ません、彼は死にたる虫一疋をも活かすことは出来ません、況して破れし平和をやです、彼は争闘を続けて平和をして益々困難ならしめつつあります。
〇内に平和が無いものでありますから、外に争闘を求めるのであります、さうして内に平和がない間は、勝利に勝利が続いても、外の争闘は止みません、争闘の原因を自己以外に求めるのが世の人の常であります、然しなが(213)ら是を自己の衷に発見して外の平和も来るのであります、世に憐むべき者とて人類の如きはありません、彼は中なる病を癒さんとて敵にもあらぬ者を敵として攻めつゝあるのであります、天の神は人類の此状態を見そなはして嘸かし泣いて居られるであらふと思ひます。
〇世には悪魔のインスピレーシヨンなる者があります、之に由て全世界が修羅の街《ちまた》となることがあります、愛が波及するやうに憎悪《にくみ》も波及します、恰かも恐水病が犬の間に伝染するやうに、憎悪殺伐の精神も人類間に伝染するものであります、世に所謂る同盟罷工なる者も多くの場合に於ては此種の伝染、此種のインスピレーシヨンに由て起るものであります、深き理由は知らずして、又深く理由を究めずして、唯、何んとなく雇主が憎くなり、そして同盟に加はる者が沢山あります、世に謀叛事業が成功するのは、大抵は悪魔の此援助に由るのであります、恐るべく警《いまし》むべきは実に此悪魔のインスピレーシヨンであります。
〇戦争病は恐水病と同じやうに神経病の一種ではありますまい乎、爾うして恐水病がパスチール液の注射に由て治るやうに、戦争病にも何か適当の治療法はありますまい乎、何れにしろ戦争熱の伝染すること丈けは確かであります、其避くべく、恐るべきはおもに此伝染に由ると思ひます、その産を尽し、命を損するの害は此害に較ぶれば小なるものであります。
〇此意味からして不平家は一家又は一国より何よりも早く何かの方法を以て絶つべきであると思ひます、勿論不平に高尚なると下等なると貴むべきと賤むべきとがあります、然し乍ら世に謂ふ不平家なる者は多くは確実なる不平の理由を有せざる不平家であります、即ち性来の不平家とでも称すべき者であります、即ち不平は其身体構造の中に存して居つて、天下何物を以てしても之を除くことの出来ない質《たち》の者であります「爾うして斯かる人の(214)危険なるは彼が不平の王なる悪魔のインスピレーシヨンに罹りて、彼の不平性を他人に伝へ易いからであります、世に同情を寄すべき人とて実は此天性の不平家の如きはありません、彼は治すに最も困難なる病を以て生れた者であります、我等は彼等を憎んではなりません、我等は彼等を成るべき丈刺戟の尠い境遇に置いて彼等の全癒を計るべきであります。
〇さうして不平家を癒すの途はあると思ひます、尚ほ他にもあるかも知れませんが、然し基督の福音が最も難症と思はるゝ不平家を癒した実例は沢山あります、或ひは私自身も此恩恵に与かつた者の一人であるかも知れません、基督の福音は恰かも消石散が体内の病塊《かたまり》を解去るやうに、除かんと欲して除く能はざりし不平の凝固《かたまり》を何時のまにか解去ります、または曠野《あれの》のメラに於て水苦くして飲むことを得ざりし時にモーゼが神に示されし一本の木を其中に投じて之を甘くしたやうに(出埃及記十五章廿三節以下)基督の愛を以てして数滴ならぬ万斛の胆汁なりと雖も、忽ちにして之を甘露水と化することが出来ます、基督に由て癒されし瞽者もありますれば跛者もありまするが、然かし近世に至て彼の奇跡的治癒に与りし不平病患者は数限りない程であると思ひます。
〇さうして日本人総体が遺伝性の不平病患者ではあるまい乎と思ひます、国は小さし、気候は蒸暑し、之に加へて支那風の圧制的道徳を採用したことでありますから、其結果として不平病は日本人の中に昂進せざらんと欲するも得ず、国民全体が終に腹立虫《はらたちむし》のやうになりて、僅かのことに悲憤梗概し、上を恨み、下を責め、政府を怒り、社会を憤るに至つたのでありますまい乎、何れにしろ日本人程感謝、感恩、満足、歓喜の念に欠乏して居る国民は多くはあるまいと思ひます、不平は確かに日本人の国民的疾病であると思ひます、殊に近来に至て、西洋の社会制度の輸入されてより一層其劇度を増し来つたではあるまい乎と思ひます。
(215)〇我等は望んで国の面積を拡めることは出来ません、又好んで気候を変更することは出来ません、或ひは不平病の確かに一大原因なる米食を廃して、直に胃弱症を絶つことは出来ません、然しながら支那風の道徳は今日直に之を廃棄することが出来ます、悲的天然観は直に之を去つて之に代ふるに詩人オルヅオスが持つたやうな喜的天然観を以てすることが出来ます、又宗教にも暗いものと明るい者とがあります、薄暗い寺院の宗教と青天に帽を脱して神を拝する天然の宗教とがあります、爾うして我等は今日より線香臭い古い暗い宗教を廃めて、野花の香《にほひ》清々たる新らしい明るい宗教を信じなければなりません。
〇人は盗むこと、姦淫すること、殺すこと等の罪悪を唱へます、是れ勿論罪悪たるに相違ありません、然しながら彼等は怒ること、憤ること、理由なくして悲むこと等の同じく罪悪であることを知りません、我等は剣《つるぎ》を以てのみ能く人を殺すを得べしと思ふてはなりません、幾万の妻、幾万の子は思慮なき夫や父の憤怒のために其生命を縮めつつあります、一人の常に憂愁《うれい》を懐くが故に、一家挙つて鬱々として常に楽まざる家庭は沢山あります、憤怒は確に大なる罪悪であります、憂愁亦無慈悲の行為であります、之に反して歓喜は大なる義務であります、常に喜ばざる者は自己を造りし神を侮辱し、自己と偕なる人を虐待酷遇する者であります。
〇美術とは絵画、音楽、彫刻等に限りません、人生又、美術の一つであります、然かり、人生は最も大なる美術であります、美術の目的は自他を喜ばすにあります、人を喜ばして己れも喜ぶのが、美術の特性であります、爾うして我等は我等の生涯をして最大美術となすことが出来ます、即ち常に微笑を含み、常に満足を表はし、詩人が曾て歌ひしやうな美術的生涯を送ることが出来ます。
  我もかの純潔の域に達し、
(216)  憂に沈む者の力の盃となり、
  熱き情を伝へ、清き愛を授け、
  悪意を交へざる微笑を咲かせ、
  至る所に温良の香を放ち、
  放つて益々心に芳しからんことを、
  斯くて世に喜びの音を奏する、
  天上の楽に我も和せんことを。
           (『愛吟』七十五頁を見よ)
音を発せざるも調和を発し、色を呈はさざるも愛を呈はし、我等の一挙一動をしてラフハエルの画、ミケル・アンゼローの彫刻にも優る大美術となすことが出来ます。
〇人に各々其|野心《アムビシヨン》があります、大政治家となるの野心、大文学者となるの野心、大美術家となるの野心があります、然かし何故に歓ばしき人となるの野心がありません乎、何故に独り自から楽み、到る処に人を楽まさんとする人生の大技術に熟達せんとするの野心が起りません乎、是れは才気充ち満ちたる青年男女が全力を注いで獲得する価値のある芸術ではありません乎、倫理学は審美学の一章でありまして、其最上位に位ひする者であります、倫理学は活きたる「マドチ」、活きたる「モーゼ」を画き又刻まんための学科であります、是に優さりて面白き、是に優りて真面目なる、亦是に優さりて、有益なる学科はありません。
〇雨は降り続きます、爾うして雨中に斯かることを談じまするのは何にも困難ではありません、只、思ひやられ(217)るのは農夫であります、麦の収穫《かりいれ》如何であります。半年の労働の半分が無益に皈するとのことであります、我等は彼等可憐の農夫のために何を為しませうか、農業改良論を唱へませう乎、輿論に反対しても非戦論を唱へませぅ乎、或ひは国人の忌諱に触れてもキリストの福音を伝へませう乎、嗚乎、為すべきことは沢山あります、只、此時を小説の楽読のために消費してはなりません、観劇の遊惰に過ごしてはなりません、雨晴れて後の窮民救済のための準備に此霖雨の時を用ひなければなりません サヨナラ。
 
(218)     喜信捷報
                       明治38年7月10日
                       『新希望』65号「雑記」
                       署名なし
 
 今や愉快なる通信は多く戦地より来る、先づ第一に第九師団野戦病院に在て看護の聖職を執らるゝ平井兄弟の信仰歌を紹介せん。
       祈祷の感
   つゝの音を余処に聖書をひもときて
     木陰に祈る日々の楽しさ。
   うきふしの繁き此世に幸あれと
     祈祷《ねぎごと》かわす霊のはらから。
       雲間の月
   かきみだす心の雲間縫ふ月の
     若葉を漏るゝ陰のさやけさ。
       看護卒
   年ふれどおひせぬものは岩つゝじ
     やまの奥にも花は咲きけり。
(219) 第三軍機関砲隊附の稲垣兄弟より満洲に於ける基督教の状態に就て左の如く報じ来らる、神に在る者は敵地に在るも又兄弟の中に在るを知るべし。
 
  却説、生義先月初旬金家屯滞営の砌り同地に於て若干の基督教徒あるを探知し、其の会堂を訪ねて謀らずも此の朔北異域の野に幾多熱心なる主によれる兄姉と会見いたし候、而して生は此の異邦の兄弟の感化により大に自己の霊性的危機を救ひ且つ偉大なる新希望の光明を発見するを得申候、実に主によれる同胞は一見の人忽ちにして相信ずること故旧の如く、彼等は此の万里の遠征の孤客を遇する其の家族の如く、生は又彼等を得て寂漠の野幽闇の裡に逍遥ふて、優さしき一片の菫花を尋ね得たるが如き心地し、歓極まりて唯だ只だ神の誘導を感謝するの外なかりし、斯くて我等は夜々其の会堂に打ち集ひて共に祈り共に讃美し、勿論彼等は清語を以て生は我が国語を以て、互に其の慰藉を交換いたし候。
  当隊は軍事上幾程もなく他へ転進いたし候へし故長く彼等と交はる能はざりしも、彼等は能く福音の奥義を解し、時々相集りて聖書を講究し主を讃美し、其の滅びなんとしつゝある自国の復興と其の頑迷なる同胞の救済のために祈祷いたし居候、而して彼等は眼前に横はれる国家の危急と曚※[目+未]なる同胞の迫害の為に其の信仰頗る熱烈にして、皆な協心同力相救助し、思を共にし、産業を共にし、互に共同的生活をなせる様、恰かも使徒時代の教会の観有之候。
  信徒には寺小屋的郷先生あり、職工あり、農夫あり、苦力《クリー》あり、皆な平和を愛し、労働を楽む小ゼントルマンなり、不思議なる事には清人には由来無筆多きに彼等は大抵清訳のバイブルを読み能ふ学力ありしに候。
  生は我が国人が常に劣等国未開人種として軽侮嘲笑しつゝある清国に此の如きクリスチアンあるを見て、我国現時の状態を顧み慚愧の感に耐えず、密に背に汗するの心地致し候。嗚呼ユダヤ人を初めとしすべて信ずる者の救たる福音の力は讃む可き哉、生は其後も到る処にて万一信徒はありもやせずかと軍務の余暇捜索いたし居候処二三の地に教会あるを見聞いたし候 当地は庫平城西北数里蒙古の境へ僅か二里ばかりの一僻村に候得共略三十人ばかりの信徒有之候、一般に当地方(220)教徒は人間も頗る質朴なるを以てその信仰も単純にして聖書的に候、法庫門には英人オーニールなる宣教師来住せられ居候由、生は其如何の人物なるやを知らず候得共土人は俛牧師と呼び甚だ尊敬いたし居候。
  聞く近く我等の戦場たる可き大窪八面城、吉林、奉化等北満洲の諸都市、又教徒尠からず候由、去れば露軍を撃攘して北の方ハルピンに向て進軍するの日また幾多未見の友と相会ふの時あるを信じ之を楽み待ち居候。
 在満洲征露之一兵卒と記名し、大文字を以て左の短信を送られし兄弟あり、
  『新希望』の発刊を祝す。
  併而時局に際し、偽善社会の塩となり、大活動を祈る。
 然れども喜信捷報は戦地よりに限らず、善き信仰の戦争は内地に於ても戦はれつゝあり、近頃愉快なる音信は海の北より来る、即ち左の如し、
  拝啓時下益々御清栄奉慶賀候、然者過日は『新希望』御送り被下奉謝候、小生は満腔の熱誠を以て其生誕を祝し、爾来健在の発達と貴下の御壮健とを祈候、
  小生も漸く平素の希望に向て一歩を進め、今回官海を辞するの期に達し当に大に新なる希望を以て〇〇〇〇〇野に自由の生活を計営せんとするに際し、雑誌『新希望』に接するを得たるは実に偶然にして心中不可言快感を党へ、記事中の「キリスト教の真意」「地上の天国」「新生命と新事実」等は真に余の為めにレベレーシヨンにして大に勇気を得申候、何卒小生をしてキリスト教の真意に適するものたらしめん事を御祈り被下度願上候 草々敬具
 官海を辞して天然界に入る、是確かに大向上なり、余輩も何時か硯筆界を辞して君の迹を遂ひたく求《ねが》ふ也、馬と牛と羊とは人類よりも劣等なる動物なり、而も彼等は正直なり、誠実なり、善く神の命を聴くなり、彼等と偕に聖書を読で聖書は真正に解せらるゝなり、教界に偽善と薄情と詐術と嫉妬と悪言と多し、夕張山上一輪高き辺に(221)馬を秣《まぐさか》う者は幸なる哉、君、夫れ勤めよや。
 然し喜ばしき音《おとづれ》は虚偽の特産地なる内地よりも来る、酒は余輩の大敵の一人なり、彼を聖帝国内より駆逐せんことは余輩の目的の一なり、而して今や茲に又彼の堅城の一の陥しを聞く、余輩は万歳を揚げて此大勝利を祝せんと欲す。
  拝啓、拙者は従来非常の飲酒家にて今年二十九歳の青年に有之候へ共最早十年余り一夜たりとも酒を絶ちし事無之候、然るに今回内村先生の国家禁酒論を拝誦し、時局に鑑み大に感ずる処あり、爾後断然禁酒可致考に有之候就ては今后知己朋友等の交際上酒を薦められ候場合には、内村先生の禁酒論壱部宛を呈して、禁酒の意を発表し、且つ友人にも可成賛成を得んがため該角筈パムフレツト第三国家禁酒論少々御注文申上候。草々敬具(為替入)
 斯の如くにして余輩の小なる事業も進みつゝあり、角筈の櫟林も或る意味に於ては一の小なる大本営なり、喜信捷報交々来り、余輩をして歓喜措く能はざらしむ、願ふ天下の同志と共に尚ほ余輩の戦争を続け、酒、不信、懶惰等の諸害敵を悉く平げ尽し、東洋に止まらず、全世界に渉る真正の平和を確立せんことを。
 
(222)     〔キリストに到るの 道他〕
                       明治38年8月10曰
                       『新希望』66号「精神」
                       署名なし
 
    キリストに到るの道
 
 キリストは宏大無辺なり、人は何人も彼を救主として仰ぐを得べし、彼に到るの途は一にして足らず、教会に由るも彼に到るを得べし、之に由らざるも彼の宝座に近づくを得べし、世に彼の恩恵を独占する教会も僧侶もあるべからず、彼に到るの条件は唯一あるのみ、砕けたる心是れのみ、此心ありて人は何人も直に彼の懐に入るを得べし。
 
    信仰と品性
 
 最も貴むべき者は高気《ノーブル》なる基督信者なり、其次に貴むべき者は高気なる不信者なり、而して卑しむべき者は高気ならざる信者と不信者となり、人は先づ何人も高気なるを要す、高気ならずして貴き基督教も彼を貴むべき者となす能はず、吾等は人の貴賎を定むるに其表白する信仰を以てせずして、其固有の品性を以てすべきなり。
 
(223)    幸福の秘訣
 
 斯世に在て幸福ならんと欲する勿れ、然らば幸福なるを得べし、斯世の不幸は吾等が幸福ならんと欲するより来る、斯世に在ては憎まれんと欲せよ、誤解せられんと欲せよ、迫害せられんと欲せよ、然らば吾等は幸福なる者となりて神と偕に永久の平和を楽むを得ん。
 
    真個の基督信者
 
 或人は嘲笑を受け、鞭撻たれ、縲※[糸+曳]と囹圄の苦みを受け、石にて撃たれ、鋸にて挽かれ、火にて焚かれ、刃にて殺され、棉羊と山羊の皮を衣て経あるき、窮乏して難み苦めり、世は彼等を置くに堪えず、彼等は曠野と山と地の洞と穴とに流浪せり(希伯来書十一章卅六卅七、卅八節)、基督信者とは斯の如き者なりし、基督信者とは斯の如き者ならざるべからず、かの政府に寵愛され、国民の人望を惹かんとする今の教会信者の如きは基督信者にあらざるなり。
 
    依頼と嫉妬
 
 依頼する者は互に相※[女+戸]む、是れ必然の理なり、宗教家に嫉※[女+戸]心強き.は彼等の依頼心強きに因る、彼等にして若し悉く独立の人とならん乎、彼等もまた同輩相援くるの人となりて、寛容高気の模範を世に示すに至らん、依頼は嫉※[女+戸]を醸してキリストの教会を破壊す、恐るべきは異端に非ずして依頼心なり、而かも異端を恐るゝ者は多(224)くして依頼を恐るゝ者は尠し、奇異と謂つべし。
 
    科学の嘲笑者
 
 科学を嘲笑する基督教信者(実は宣教師信者)多し、彼等は曰ふ、基督教は科学以上なり、科学を以て説明し得べき者にあらずと、而かも斯く超科学的に基督教を解する彼等は彼等の生涯の方針を定むるに方て信仰に依らずして科学に依ること多し、彼等は餓死を懼れて、悪しゝと知りながら宣教師の補給を仰ぎ、善《よし》と知りながら断然起て独立する能はず、彼等は科学を排するも可なり、然れども超自然的に聖書を解釈するを以て誇る彼等は超自然的に彼等の生涯の方針を定むるを要す、餓死を懼れて独立を躊躇する彼等は科学を嘲笑する権利を有せず。
 
    文明と基督教
 
 文明は肉の事なり、基督教は霊の事なり、故に文明と基督教との間に深き関係あるべからず、基督降世以前の希臘は人類が曾て達せし最高の文明に達せり、回々教を信ぜしムール人は其文明に於て遙かに当時の基督教的国民に優越せり、伊太利の文学復興は其基督教が腐敗の極に達せし時に起れり、之に反して基督教を産せし猶太国は所謂る文明国にはあらざりし、英国に清教徒起りてより其美術と文学とは頓に衰退せり、基督教徒は所謂る文明の民には非るなり、ヱホバ、預言者ザカリヤを以てイスラエルの民に告げて曰ひ給はく、シオンよ我汝の人々を振起してギリシヤの人々を攻めしめんと(撒加利亜書九章十三節)、シオンは信仰を代表し、ギリシヤは文明を代表す、而してシオンは常にギリシヤの敵なり、吾等今日の基督信徒も亦屡々振起して文明の人々を攻めざるべ(225)からず、吾等は自今、再び「文明と基督教との関係」を口にすべからざるなり。
 
    基督教国
 
 世に基督教国なるものあるなし、基督教国なるものあるべからず、キリスト曰く、我国はこの世の国に非ずと(約翰伝十八章三十六節)、基督の国はこの世に建設さるべき性質のものに非ず、之に国境又は兵備又は政府又は警察又は法律あるべからず、基督の国は愛の国なり、自由の国なり、霊の国なり、今は信徒各自の心の衷に存して後に世界的王国として顕はるゝ者なり、吾人は基督教国の名に眩惑せられて今の「基督教国」なる者に傚ふべからざるなり。
 
    同盟の危険
 
 露人を信ずべからざるのみならず、英人をも信ずべからず、仏人を信ずべからざるのみなちず、米人をも信ずべからず、欧人も米人も皆な斉しく利慾の人にして罪の子なり、彼等の一に頼るは他の者に頼るが如く危し、詩人ダンテ曰く、余は余一人にて一党派を樹立せんと、吾人は神と結ぶべし、人と同盟すべからず、神我と偕にありて我は惟り全世界と相対して立つを得べし。
 
    国家間の戯嬉
 
 言あり曰く、人は小児の成長せし者に外ならずと、余輩は更らに此言に加へて曰ふ、国家は成長せる小児の集(226)合体に外ならずと、甲、乙と結ばんとすれば丙は丁と結びて之に対せんとす、利慾と嫉※[女+戸]と猜疑とは同盟を作り、又同盟を壊つ、戯嬉は小児の間に行はれ、亦国家の間に行はる、之にたゞ大小の別あるのみ、天に座する者笑ひ給はん、主、彼等を嘲けり給ふべし(詩第二篇四節)。
 
    支那の破壊者
 
 露人は北より暴力を以て支那の国境を侵して之を破壊せんとせり、英人は南より盛に印度産の阿片を輸入し支那人の意気を消耗し以て華国壊乱の基を開けり、露人は外より、英人は中より我が可憐の隣人を侵害せり、吾人は露人の横暴を憤ると同時に亦英人の残虐を責めざるべからず。
 
    社会主義と基督教
 
 社会主義は肉の事なり、基督教は霊の事なり、社会主義は地の事なり、基督教は天の事なり、我空腹に苦む、願くは食を与へよと、是れ社会主義なり、鹿の渓水を慕ひ喘ぐが如く我が霊魂はヱホバの神を慕ひ喘ぐなり(詩篇四十二篇一節)、是れ基督教なり、二者の間に天壌雲泥の差あり、吾人は二者を混同すべからざるなり。
 
    信仰と智識と健康
 
 先づ第一に信仰の人たれよ、信仰は人格の骨子なり、信仰なくして人は道徳的無脊椎動物と化するなり。
 第二に智識の人たれよ、智識は神を見るの能力なり、智識に由らずして博く深く神を愛する能はず。
(227) 第三に健康の人たれよ、肉体の健康は勿論信仰を曲げてまでも保持するの価値あるものにあらず、然れども百年に満たざる此生命も吾等に取りては亦永生の一部分なり、之を善のために使用して出来得る丈け永く之を楽むは神の聖旨なり、吾等は生くる間は勇ましく生きて勇ましく死するための準備を為さゞるべからず。信仰と智識と健康、此三つの者は常に貴し、而して其中最も貴き者は信仰なり。
 
    深切の取戻し
 
 余は及ばずながら深切を為すことを好む、深切を為すことは無上の快楽である、之れを為さないことは大なる苦痛である、然しながら余の深切が軟弱として解せらるる時に、或ひは人の歓心を買はんための策略として受取らるゝ時に、余は残念ながら余の与へし深切を取戻さなければならない、聖書に神は善人にも悪人にも同じく雨を降し給ふと書いてあるが、然かしまた汝等豚の前に汝等の真珠を投与ふる勿れとも書いてある、人の与へんとする深切を濫用するが如き罪悪はないと思ふ、亦之を濫用された時の如き不愉快はない、我等は人が我等に施さんとする深切を濫用せざらんことを努むると同時に、亦我等の深切を乱発に施与せざらんことに充分注意すべきである。
 
(228)     平和主義の意義
                       明治38年8月10曰
                       『新希望』66号「精神」
                       署名 内村生
 
 平和主義、一名非戦主義、是れは何にも今日直に兵役を拒み、軍事に反対するといふことではない、平和主義は戦争の非理と損害とを唱へ、万国共同して之を廃止し、之に代ふるに仲裁々判を以てせんとすること是である、爾うして此目的を達せんために世界有識者の輿論を喚起し、各其政府に迫りて、戦争に由ることなくして総ての国際的紛擾を決せしめんとすることである、爾うして是れ決して迂遠の沙汰ではない、平和主義は日々其実効を現はしつゝある、和蘭国の公法学者グローシヤスが凡そ三百年前始めて此主義を唱へてより、其勢力は歳と共に増加しつゝある、其例は近時に至り、多くの国際的難問題が千戈に訴ふることなくして平和的に判定されつゝあるのを見ても能く分かる、平和主義は其性質に於て廃娼運動、禁酒運動等と少しも異ならない、然し是等の運動に較べて見て優かに雄大なる丈けそれ丈其実行は困難である、然かし困難なればとて決して不可能事ではない、不可能事と云へば廃娼も禁酒も斉しく不可能事である、廃娼禁酒を迂論なりとて嘲ける者は二十世紀の今日に於てすら尚ほ沢山居る、然れども吾等は多数に嘲けられるとて吾等の廃娼並に禁酒運動を廃めない、其如く吾等は全国民と全基督教界に嘲けられるとて吾等の非戦運動を廃めない、総ての善き主義は其始めは迂論なり、不可能事なりとて世に嘲けられる者である、基督教ですら始めは嘲けられた、日本国に於てすら其少しく社会の歓迎す(229)る所となりしは僅々四五年前からのことである、米国に於て始めて平和協会の起つたのは今より凡そ七十年前である、其後自国に在ては南北戦争は戦はれ、米西戦争は戦はれ、欧洲に在てはクリミヤ戦争、独墺戦争、独仏戦争、露土戦争等数個の大戦争が戦はれしにも関はらず、是等の非戦主義者は、基督教の原理に基き、人道の大綱に則り、平和主義の必ず此世に実行を見るに至ることを信じて疑はなかつた、爾うして彼等は其信仰を持続けて今日に至つた、多分其実行を見るの日は今より更らに数世紀の後である乎も知れない、然しながら「時と期《とき》と」に就ては吾等の知る必要はない、吾等はたゞ忠実に吾等の理想を唱へ、出来得る限り其実行を努め、而して其世界的大事実となりて現はれ来るの日を静かに俟つべきである。
 
(230)     愛の賞讃
        (哥林多前書十三章と其考察)
                       明治38年8月10日
                       『新希望』66号「智識」
                       署名 内村鑑三
 
  仮令我人の言を語り、又天使の言を語るとも若し愛なくば鳴る銅《かね》又は響く※[金+拔の旁]《ねうはち》となりしなり。
 言語は如何に美なるとも、如何に博くあるとも、仮令我に希臘人が羨望して歇まざるリシヤス、デモセニスの弁ありとするも、然り之に加ふるに我に人以上の天使の美音麗韻ありとするも、又仮令我れよく万国の語に通じ、希臘、拉典、埃及、波斯の人に語るに其自国の語を以てするを得るとするも、然り、之に加ふるに「天使の語」なりと称せらるゝ希伯来語を以て自由に神の奥義を語り得るとするも、仮令我言は如何に美なるも、我語は如何に博くあるとも、若し我に愛なくば、我は鳴る銅又は響く※[金+拔の旁]となりしなり、即ち我は意味なき音を発する器具と化せしなり、愛なき能弁は言語にあらず、音響なり、沈黙は之に優りて遙かに美なり。
  (2) 又仮令我に預言あり、我又すべての奥義とすべての学識に達し、又山を移す程なるすべての信仰あり雖も若し愛なくば我は無なり。
 能弁と博言とは希臘人の羨望する所なり、而かも之に加ふるに愛を以てせざれば二者斉しく意味なき音響たるに過ぎず、預言はユダヤ人の追求する所なり、彼等はイザヤ、ヱレミヤ、ダニエル、アモスと列を同うせんこと(231)而已ならず、預言と奥義と学識とに加ふるに山を移すに足るの信仰を以てすと雖も、即ち我に最高の預言と最強の信仰ありと雖も(「すべて」の意義は是なるべし)、若し我に愛なくば我は無なり、我は無きに等しき者なり、我の預言と奥義と学識と信仰とは我に何の価値をも添へざるなり、我は我が天より授けられし預言又は学識又は信仰の故を以て多少価値あるに止つて、我自身に於ては何の価値だも存せざるなり、我に愛ありて我は始めて価値ある者となるなり、そは愛以外のものは総て我霊性以外のものにして、以て我有と称すべからざればなり、天才は財産と異ならず、我に委託されたるものなり、我有にあらず、神の有なり、我等は何時か之を神に返納するの時あるべし、然れども愛は我霊の性にして、我真個の財産なり、而して若し我に此財産なくば我に智あり、信ありて我は尚ほ無一物の貧者なり。
  (3) 仮令我れ我がすべての財産を施し、又誇らんために我身を予ふとも若し愛なくば我に益なし。
 愛なき言語は意味なき音響なり(第一節)、愛なき信仰は無信仰なり(第二節)、而して愛なぎ慈善は如何(第三節)、是れ無益の業たるなり、仮令我れ貧者を養はんために我がすべての財産を施し、否な茲に止まらずして、我慈善に就て誇らんがために我生命をも彼等のために供するとも、若し愛なくば我は我が割愛犠牲より何の益をも収めざるなり、貧者は我が施与に由て益せらるゝならんも、愛なくして誇らんがために為せし我が慈善は我には何の益をも供せざるなり、愛なき慈善は純粋の損失なり、名を得んとし、又過去の罪業を償はんとして少しも其目的を達する能はざるなり、(原語の Kautheisomai(焚かるゝ)は Kaucheisomai(誇る)と改正する方適当なるべし。)
(232)  (4) 愛は永く忍ぶなり、又人の善を図るなり、愛は好まざるなり、誇らざるなり、高ぶらざるなり、非礼を行はざるなり。
 我は愛を語れり、然れども愛とは抑々如何なるものぞ、我は先づ其何を為すかに就て語らん。
  愛は永く忍ぶなり、愛は広量なり、大度なり、彼女は海の如し、広くして深し、彼女は怒らざるに非ず、然れども容易に怒らざるなり、彼女は能く凌辱に耐え、嘲弄に耐え、罵詈に耐え、冷遇虐待に耐ゆ、愛は気永なり、彼女は事を為すに永遠を期す、彼女は人の堕落を聞て失望せず、彼女は能く百年千年を俟つを得るなり。
 愛は永く忍ぶなり、人の悪を恕すなり、然れども愛は寛大なるに止まらず、進んで人の善を図るなり、受動的に赦すのみならず、また活動的に助くるなり、己の利益のために人の善を図るにあらずして、其人のために、また善其物のために善を図るなり、己を人の地位に置き、己の益を図る如く其人の益を図るなり、善を為すの熱情、之を称して愛と云ふなり、愛は自他の区別を没却し、自から人に為られんと欲ふことは、また人にも其如く為すなり。
 愛の為す所如斯、即ち受動的には悪を忍び、活動的には善を図る、我、更らに愛の為さゞることに就て言はん乎、愛は先づ第一に※[女+戸]まざるなり、愛は自己を以て足るものなれば、人の成功を羨み、其優秀を※[女+戸]むの要なし、富者に競争あり、学者と宗教家に嫉※[女+戸]ありと雖も、愛の満足に居る者は猜忌羨望の邪念に侵されず、愛は活ける泉なり、与ふるを知て受くるを知らず、己に充ち満るが故に人の充溢を聞いて憤ることなし、愛に在て貧者は富者を憤らず、愚者は学者を羨まず、愛は人生終局の善且つ美なり、愛に達して人はすべての慾望を絶つに至る、金を有つ者は銅、鉄、又は鉛を有つ者を羨まず、其如く、愛に在る者ば金銀、宝貨、学識、天才を有する者を※[女+戸](233)まず、愛に嫉※[女+戸]なし、然り、神の愛に達してのみ、吾人は姶めて嫉※[女+戸]以上の人たるを得るなり。
 愛は第二に誇らざるなり、己の善を衒はざるなり、己れと己を世に紹介せざるなり、愛は内気なり、己を以て足ればなり、愛は名を売りて世の賞讃を買ふの要なし、人の誇るは己の真価以上に人に評価せられんがためなり、然れども純金は鍍《めつき》するの要なきが如く真愛は之を衒ふ(誇る)の要なきなり、金は金なり、愛は愛なり、愛に在る者は量を踰えて誇らざるなり(哥林多後書十章十三節)。
 愛は第三に高ぶらざるなり、弱者、貧者、劣者の上に己の権柄を揮はざるなり、愛は謙遜なり、殊に下輩に対して謙遜なり、上輩又は同輩に対して誇らざるのみならず(其歓心高評を買はんがために)亦下輩に対して高ぶらざるなり、愛に自他の差別なきのみならず、また上下、貴賤、賢愚の懸隔なし、愛は上に向つて誇らず、下に向て高ぶらざるなり。
 愛は第四に非礼を行はざるなり、礼に勿論虚礼なきにあらず、然れども虚礼あればとて礼は全く排斥すべきものにあらず、礼は人に接する適当の道なり、人は何人も人として敬せざるべからず、人の感情は故なくして之を害ふべからず、人の権利は之を侵すべからず、若し誠実を以て語らば何を語るも可なりと云ふが如き、若し公益を計らんと欲せば個人の権利の如きは顧るに足らずと思ふが如きは、是れ人に接する適当の途にあらざるなり、愛は誠実以上なり、亦正義以上なり、愛は感情を重ずるなり、故に其言語を慎むなり、友情の毀損を恐るゝなり、愛は小者の権利を重ずるなり、故に其動作を慎むなり、最《いと》微《ちい》さき者を躓かせて神の怒に触れんことを恐るゝなり、愛は即ちゼントルマンの要素なり、富あり、識あり、権力ありて未だゼントルマンならず、人に対して此細心優思ありて、人は始めてゼントルマンたるなり、愛なき富者は紳士ならん、然れどもゼントルマンに非ず、愛なき(234)学者は偉大の人物ならん、然れどもゼントルマンにあらず、基督信者に婦人の如き繊麗細美なる所なかるべからず、彼はたゞに粗大なるべからず、正義一方の人なるべからず、非礼を行はざる注意深き人ならざるべからず。
  (5) 己の利を求めざるなり、軽々しく怒らざるなり、悪を念はざるなり。
 愛は第五に己の利を求めざるなり、即ち己の利を先にして人の利を後にせざるなり、愛は遺利を求むるに躊躇せざるべし、然れども生存競争の理なりと称して、争て利を獲んとは為さゞるなり、譲退は愛の特性なり、愛は神が与ふるまでは謹んで待つなり。
 愛は第六に軽々しく怒らざるなり、怒ること必しも悪きに非ず(以弗所書四章廿六節)、世に義憤なる者なきに非ず、然れども謙遜にして謙譲なる愛に利益のために人と衝突するの機会なければ憤怒を発するの機会も亦甚だ尠し、公憤は私憤と混じ易し、而して私憤に駆られて地獄に落ちし者甚だ多し、故に憤怒はその公憤なると私憤なるとに関はらず、甚だ危険なるものなり、軽々しく発すべき者に非ず、余輩は五十年間に一度始めて怒りし人あるを知る、吾人の発怒も火山の破裂の如く百年一回の現象ならざるべからず。
 愛は第七に悪を念はざるなり、愛は万事を善に解するなり、世に悪人ありとは愛が信ずるに最も難しとする所なり、故に愛は欺かれ易し、斯世の眼を以て見て愛は確かに善愚なり、蛇《じや》の道は蛇《へび》よく之を知る、愛は蛇の道に暗し、愛はすべての人を善人として解し易し、愛は人に過失あるを信ずるも悪意あるを信ずるに困む、愛は無邪気なり、この邪曲の世に在て邪曲の途に最も疎き者なり。
  (6) 不義を喜ばざるなり、真理を喜ぶなり。
 愛は第八に不義を喜ばざるなり、其何人に由て何所に行はるゝに関はらず、愛は不義を耳にして心に甚《いた》く不快(235)を感ずるなり、愛に取りては不義は之を憤るまでもなし、不快なり、故に彼女は思はずして之を避けんとし又除かんとするなり、愛の不義に対するは美術家の醜事に対するが如し、其不調に耐ゆる能はずして、之を忌み嫌ふなり、博奕の如き、戦争の如き、汚穢、酔酒、放蕩の悪習の如き、愛は之に対し単へに憎悪、嫌厭、背逆の感を懐くなり、不義は愛の嗜好に適せず、彼女は之に接して臭気に触れしが如くに感ずるなり。
 愛は不義を喜ばざるなり、真理を喜ぶなり、愛の嗜好は真理にあり、其宗教的なると、科学的なると、哲学的なると、美学的なるとに関はらず、真理は何れの真理たるに関はらず愛の喜ぶ所なり、愛は科学の発見を聞いて喜び、哲学の闡明を聞いて喜び、美術の開発を聞いて喜ぶ、愛は其趣味に於て狭隘ならず、広闊なり、愛は情の粋にして、また理の極なり、故に善を図るがごとくにまた真を喜ぶなり、愛は感情なるのみならず、亦道理なり、人は彼が学に志すに至るまでは未だ以て愛を知れりと云ふ能はざるなり。
  (7) すべての事覆ひ包み、すべての事信じ、すべての事望み、すべての事耐え忍ぶなり。
 愛の為さゞることは斯の如し、今彼女の行為を一括して言はんか、彼女はすべての悪事は之を覆ひ包み、すべての真理は躇躇することなく之を信じ、すべての善事は其実行を望み、故にすべての困難に遭遇して能く之を忍び、能く之に耐ゆるなり、悪を念はざる愛は悪に接すれば之を覆ひ包まんとす、彼女は樸直を貴ぶと称して世の悪事を曝露して喜ばざるなり、今人の所謂る「写実」なるものは彼女の賛する所にあらず、愛はすべての悪事は之を覆ひ包まんとす、若し之を発堀せざるを得ざる場合に於ては多くの涙と苦痛とを以て之を為すなり。
 愛はすべての真理を信ずるなり、そは彼女は多くの思考研鑽を要せずして真理の真理たるを直覚的に知ればなり、愛は詩人なり、彼女は解説を経ずして本能的に真理を了得す、信仰は愛の表彰なり、智識の先駆なり、先づ(236)愛を以て信じ、然る後に智を以て窮むるなり、是れ宗教に於てのみ然るにあらず、科学に於ても亦然り、天然を愛し、彼女を信ぜざるものに彼女は其秘密を授けず、信は先にして智は後なり、信の示す所を智は辿るなり、信は智の結論に非ず。
 すべての真理を信ずる愛はすべての善事の現実を望むなり、而して望むとは信じて疑はざるの謂なり、愛は神の善なるを信ずるが故にすべての善事の必ず事実となりて現はれ来るを信じて疑はざるなり、善ならん乎、必ず成るべし、悪ならん乎、必ず敗るべし、是れ愛の確信なり、彼女は善は既に成りしものと信じて進むなり。
 すべての真理を信じ、すべての善事を望む愛に失望落胆なるものなし、彼女は失望の彼方に成功を見、悲哀を越えて歓喜を望むが故に、すべての事に耐え、すべての事を忍ぶなり、希望なき忍耐は忍耐にあらず、絶念なり、而して絶念は精神の死的状態なり、絶念のある所に活動あるなし、進歩あるなし、愛はすべての事に希望を嘱して永久に進むなり、愛は老ゆることなし、衰ふることなし、そは彼女は永久の希望を懐きて神の宇宙に闊歩すればなり。
  (8) 愛は何時までも堕ることなし、然れど若し預言あらん乎、其は廃らん、若し言語あらん乎、そは止まん、若し智識あらん乎、そも亦廃らん。
 愛の為す所と、為さゞる所とは斯の如し、然らば愛は如何なる性質のものなる乎、愛は永久堕ることなし、愛に堕落の虞れあるなし、愛は恒星のごとし、昨日の栄光は今日の栄光と異ならず、今日の栄光は明日も亦同じ、愛に時代の変化あるなし、アブラハムにありし愛は我等にある愛の如く貴し、我等の愛は千万年を経るも其真価を失はず、愛に比較なし、恒に貴くして超越せられざる者は世にたゞ愛あるのみ。
(237) 然れども若し預言あらん乎、そは廃らん、そは是れ愛の如くに永久に貴きものに非らざればなり、預言は充たされて後に用なし、預言は先じて語ることなり、而して「時」なき所に預言の用あるなし、「時」は現世のことなり、「時」なき永遠の来世に預言の用なきは明かなり、預言者は常に乱世に先て出づ、愛の普及する所に預言者の出て世の罪悪を矯むるの要なし、預言者ヱレミヤ歎じて曰く嗚呼我禍ひなるかなと、預言は世の改善と同時に早晩廃らざるべからざる者なり。
 若し言語あらん乎、そは止まん、埃及語は夙く既に止みたり、バビロン語、シリヤ語は今や僅に学者の記憶に存するのみ、希臘語、拉典語また活ける国民の日用語に非ず、今日の英語は三百年前の英語にあらず、知らずや難解の万葉集も其当時の日常の日本語なりしことを、博言を以て誇る者は誰ぞ、彼は日々に変り行く流行を以て誇る者の類ならずや、言語は思想交換の機関たるに過ぎず、而うして人は永久に言語を以て其思想を通ずべき者に非ず、霊は終に直に霊と通ずべし、言語は終に霊感の代はる所となりて、人は語らずして其意を人に通ずるに至るべし。
 若し智識あらん乎、そも亦廃らん、今や科学は十年ならずして陳腐に属し、百年を経過すれば人の之を顧る者なし、ニュトンは曰へり、余は終生を学究に消費してわづかに三四の礫《こいし》を拾ひ上げしに過ぎず、未知の大洋は尚ほ依然として我が目前に横はると、ハムボルトは曰へり、余は八十年間研学に従事して、未だ余の生命の意義すらも知らずと、絶世の大学者にして此悲歎の声を発するあり、智識を以て誇る者の如きは未だ智識の初歩をも会得せざる者なり。
  (9) 我等の智識は全からず、預言もまた全からず。
(238) 我等は僅かに宇宙の一小部分に就て知るのみ、我等は僅かに神の智識の一小部分を授けられしのみ、人類の智識の零砕的なるは智者の能く知る所なり、彼の知らざる所は彼の知る所よりも遙かに多し、彼は未だ一茎の草が如何にして生育つ乎を知らず、況んや人に就てをや、況んや神に就てをや。
 我等はまた宇宙の一小部分に就て預言するのみ、或ひは一国に就て或ひは世界の一局部に就て預言するのみ、イザヤはユダヤ国并に其の隣邦の預言者なりき、ダンテは伊太利の預言者なりき、唯一人キリストの全世界に就て預言し給ひしあるのみ、人は何人も盲者なり、彼は僅かに神の光明《ひかり》に輝らされて、寸前の将来を先知し得るのみ、預言は貴きも愛の如くに包全的のものにあらず。
  (10) 全き者きたる時は全からざる者廃るべし。
 預言と言語と智識とは斉しく是れ部分的のものにして、また暫時的のものなり、而して愛は是等と異なり完全にしてまた永遠のものなり、故に完全なる愛の臨む時は預言、言語、智識等不完全なるものゝ廃る時なり、預言は畢竟、愛に就ての預言に過ぎず、言語は畢竟、愛を伝ふるの機関に過ぎず、智識は畢竟、愛の探究に外ならず、愛にして臨まん乎、頚言は言を潜めて可なり、愛にして到らん乎、沈黙は返て言語よりも雄弁なり、愛にして現はれん乎、智識は無用の器具として存せんのみ、星と月とは夜のためのみ、日出て後に彼等の要なし、愛なき所に預言と言語と智識との要あり、然れども愛の大陽の昇りし後に我等は彼等に依るの要なし、彼処には夜あることなく、燈の光と日の光とを用うることなし、そは主なる神、彼等を照らし給へば也(黙示録廿二章五節)、我等の理想の世界は預言を要せず、能弁を要せず、智識を要せざる世界なり。
  (11) 我れ幼児《おさなご》の時には幼児の如くに語り、幼児の如くに思ひ、幼児の如くに慮《はか》りたり、然れど成人《おとな》となり(239)てよりは幼児の事を棄てたり。
 我にもまた信仰の幼児時代ありき、其時我もまた、預言を頼み、言語を慕ひ、智識を求めたりき、我はイザヤの如くなりて預言せんことを願ひたりき、アポロの如くに流暢の言を以て道を伝へんことを欲したりき、ソロモンの智慧を以て神の奥義を窮めんことを求めたりき、然れどもキリストの愛を我心に受くるに及んで我は全然是等の冀望を撤したり、恰かも幼児が成人となりて其幼時の玩具を棄つるが如し、愛するは預言するよりも大なり、愛するは雄弁を揮ふよりも美なり、愛するは学ぶよりも益あり、人は愛に入て信仰の成人時代に入るなり、彼が預言を望み、雄弁を貴び、学識に無上の尊敬を払ふ間は、彼は未だ信仰の小児にして、愛の真味を嘗はざる者なり。
  (12) 我等今鏡に依りて昏然として相見る、然れども彼の時には顔を対《あは》せて相見ん、我今知ること全からず、然れども彼の時には我が知らるゝ如く我知らん。
 愛に入て我等は信仰の成人となるなり、然れども斯世は愛の完全に行はるゝ所にあらず、また愛の我等に充溢する所にあらず、我等は今尚ほ預言を要し、言語と智識とを要す、我等の智識は全からず、故に我等が神を見んと欲するも、恰も金鏡に対して、友人相互に其顔を見んと欲するが如し、金鏡に曇多くて我等は其の反射面に僅かに昏然として神の聖貌を認むるのみ、然れども愛の充溢する「彼の時」にいたらば神と我とは鏡面に顔を合はすが如くにあらずして、顔と顔と相対して相見るが故に、其時我は今神に我が知らるゝ如く、明かに神を知るを得ん、今や肉の薄膜に蔽はれて我は僅かに朦朧として我神を見るのみ、我は今僅かに我智識に依りて神を探り、聖書の言語に頼りて其聖旨を窺ふのみ、然れども我は判然と我神を見んと欲す、而して我が此皮此身の朽果てん(240)後、我、肉を離れて神を見ん(約百記十九章廿六節)。
  (13) それ信と望と愛と、此三つの者は恒に在るなり、此うち最も大なる者は愛なり。
 世に永存する(恒に在るの意)者三つあり、信、望、愛是れなり、其他はすべて一時的のものなり、富貴は煙の如し、権威は雲の如し、名誉は朝の霧の如し、持続すること稍々永き預言、言語、智識と雖もまた時に至れば廃らざるを得ず、然れども信、望、愛の三者は恒に在るなり、即ち永遠に存し、永遠に廃らざるなり、我等が神を信ずるの要なき時は有るべからず、我等が神の恩恵を待ち望まざる時とても亦有るべからず、而して神を愛せずして我等は死す、永遠の生命とは信、望、愛の生涯なり、我等の生命が是等三者に単帰《シムブリフハイ》するに及んで我等の永遠の生命は始まるなり。
 信、望、愛の三者は斉しく存永す、然れども其中最も大なるものは愛なり、三位の神は父に在て合一するが如く、永遠の三姉妹は愛に在て合体す、信を以て立ち、望に由て進み、愛に到て足る、愛は人生の終極点なり、茲に至て人は神の懐に入り、神の子となりて永遠に生存す、そは神は即ち愛なればなり(約翰第一書四章八節)。
 
(241)     トマス・デビツドソンの訓誡
                       明治38年8月10日
                       『新希望』66号「智識」
                       署名 内村生訳す
 
  編者曰、トマス・デビツドソンは米国近時の学者なり、深く古今の哲学に達し、其該博の智識に驚くべきものあり、而かも彼は職を大学の講座に求めず、又進んで革命の陣頭に立たず、静かに己を養ひ、「高潔なる人士の新共和国」を建設するを以て自から任とせり、左に訳する彼の訓誡なるものは彼が曾て紐育市なる某労働者団鉢に送りしものにして、以て彼の意気の一斑を窺ふを得べし、余輩は斯かる高潔なる文士の尚ほ米国に残留するあるを見て(而かも其基督教会以外に)大に余輩の志を強くする者なり。
第一条 汝自身の能力に倚るべし、他人の援助を俟つ勿れ、又彼等に依頼する勿れ。
第二条 汝の全力を尽くして汝自身の最高の理想に縋るべし、富、地位、人望と称するが如き世俗の目的に迷はさるゝ勿れ、汝は汝自身たるべし。
第三条 汝の真価は汝の品性に存す、汝の財産に存せず、 の品性は真に汝の行為に現はるべし。
第四条 苛立つ勿れ、怨む勿れ、好む勿れ、汝の境遇を汝よりも幸福なる人の境遇に較べて見て己れに不快を招く勿れ、たゞ汝に臨みし機会を充分に利用せよ、片時瞬間たりとも有益に使用せよ。
第五条 汝が遭遇する最も高気《ノーブル》なる人と交はれよ、最も善き書を読むべし、世界の偉人を友とせよ、同時に単独(242)にして幸福なる途を学べよ。
第六条 雄大なることゝ勇壮なることゝは総て過去に属すと惟ふ勿れ、貴人、預言者、英准、聖人を汝の周囲の人の中に求めよ、汝は必ず彼等を発見するを得べし。
第七条 善人が天国に於て受けんと欲する幸福を汝は地上に於て得んとせよ。第八条 理想的友誼を脩めよ、餓え渇く如く真理を慕ふ汝の知人は之を一団となして汝の周囲に集めよ、記憶せよ、天国とて高潔人士の親交以外のものにあらざることを。
第九条 有益にして仁慈なる行為は其難きと嫌はしきとに関はらず、之を避けんとする勿れ、行為の価値は之を行ふ精神の如何に由て定まるなり。
第十条 若し汝が世俗の方法を採らざるの故を以て世の迫害する所となるも、汝の心を悩ます勿れ、但汝が執る途の正義の途なることを確かめよ。
第十一条 汝の計画が悉く失敗に終るも落胆する勿れ、汝の目的の義しき間は汝自身は失敗せざりしなり。
第十二条 毎夜己に省みょ、而して汝は日の中に智識と同情と善を為すの力とに於て進歩せし乎を想へ、而してこの進歩なきの日は之を損失の中に算へよ。第十三条 快楽は之を力行に於て求めよ、安楽に於て求むる勿れ、吾人の価値は単に吾人の遂行せし事業に由て定まる。
第十四条 汝の善行をして職業的たらしむる勿れ、之をして汝の品性の天真有の儘の発動たらしめよ、故に第一に品性を養ふべし。
(243)第十五条 若し罪を犯場さば罪を犯したりと言へ、而して出来得る限り弁償を計れよ、是れ真正の勇気なり、罪を犯しながら之を隠くして道徳的債務を担ふ勿れ。
第十六条 如何なる行為に出ん乎との問題に困むことある乎、其時は己に問ふて曰へ、我が理想は我に何を要求する乎と、汝の理想を実行して汝自身と和睦せよ。
第十七条 善行の報償を望む勿れ、善行の報償は善行其物なり、記憶せよ、天国と地獄とは若し之を賞罰のために設けられし者と見る時は、是れ全然不義の制度なることを。
第十八条 善のために企てられしすべての運動と計営とに対しては汝の出来得る限りの賛成と援助とを与へよ、汝は宗派的なるべからず。
第十九条 如何なる看板をも汝の身の内外に掲ぐる勿れ、たゞ全然人道的たれ。
第二十条 造化の意味と人生の目的とを解するまでは満足する勿れ、汝の思想界をして道理に合ふ調和の宇宙たらしめよ。
 
(244)     余の好む人物
         附 友誼の神聖
                       明治38年8月10日
                       『新希望』66号「談話」
                       署名 内村鑑三
 
 余は基督信者として総ての人を愛すべきではあるが、然し余にも好きな人と嫌ひな人がある、嫌ひな人とて勿論余の敵ではない、余は嫌ひな人ほど、其人に対して余の為すべきの義務を尽さなければならない、然ればとて余はすべての人を同様に好むことは出来ない、是れは余の天性の然らしむる所であつて止むを得ざる次第である、甘まい物の好きな人もあれば辛らい物の好きな人もある、人の嗜好は道徳を以て縛ることの出来るものではない。
 余の好む人物は第一に常識の人である、常識とは勿論世才の謂ひではない、世才の人は余は大嫌ひである、常識の人とは原因結果の理を能く弁へた人である、天然普通の理に従て行動する者である、余は奇跡を信ずるが、然し理由のない奇跡は之を信じない積りである、余は度々世論に反対するが、然し余一人の判断を以ては之に反対しない積りである、余が世論に反対する時には余は余の知る世界の智識を以て反対する、余は自身は此世が在て以来の最初の智者であるとは信じない、余の有つ少許の智識は是れ余が古人より受けし者に僅かばかりの自身の発見を加へたものであつて、決して余一人の懐く智識ではない、爾うして常識は智識界に於ける余の適当の地位を教へる、余は或ることを知る、然し総てのことを知らない、故に余の行動の方針を定むる時には余は余の知(245)る世界最大の智者の指導を仰がなければならない、是を為すのが常識であると思ふ、爾うして之を為さない人は常識を欠く人であつて余の好む人ではない。
 余は第二に快活の人を好む、陰鬱の人は余は大嫌ひである、余は心の奥底まで透徹《すきとほつ》て見ゆるやうな人を好む、山中の湖水の如く透明にして深き人を好む、余は己を蔽ひ隠さんとする人を好まない、余は天真有の儘の人を好む、余は隠すに物なく、亦、之を隠さんと欲するも隠す能はざる人を好む、余は己を他人の前に吐露して恥ぢることなき人を好む、余は己れ独り高きに止まり、他人を眼下に見下す人を好まない、亦己の周囲に高き城壁を構へて、己の内部を人に窺はしめざらんと努むる人を好まない、余の理想は清空である、水晶である、山間の渓流である、若し清水に魚棲まずとならば棲まずとも宜しい、余は余の心の水を濁してまでも、鯰、鰌の類を迎へんとは為ない、泥水を愛する者は泥水に到るべきである、余は余の心の中に清水を湛えて其処に天使の姿を映したく望む者である。
 余は第三に公平の人を好む、公平の人とは勿論無慾の人ではない、人に多少の慾のあるのは已むを得ない、公平の人とは他人の適当の慾を認め、其権利を重んずる人である、余は横着《づる》い人を嫌ふ、即ち己を成るべき丈け無為の地位に置いて、人をして成るべき丈け重き責任を負はしめんとする人を嫌ふ、余は人の担ふ丈けの責任は己も亦担はんとする人を好む、公平とは責任平分の意である、爾うして公平の人とは自から進んで責任を平分し、己の担ふべき分を担はんとする人である、余は斯かる人を好む、責任の軽きを貴び、之を避くるを得たればとて喜び且つ誇る人は余の大嫌ひな人物である。
 余は第四にノーブル(高気)なる人を好む、ノーブルとは英語であつて、是に適当な訳字がない、ノーブルに豪(246)気の意味がある、爾うして小事に頓着しない点に於てはノーブルは確かに豪気である、然しながら豪気は時には不品行である、放縦である、彼は善く飲み、善く談じながら彼の妻子が饑渇に迫つて居ることを知らない、爾うしてノーブルとは斯かる無慈悲なる豪気ではない、ノーブルとは豪気に愛を加へたものである。
 ノーブルに亦高潔の意味がある、爾うして利慾の念を離れ俗事に拘泥しない点に於てはノーブルは確かに高潔である、然しながら高潔は屡々独尊である、情のない潔白である、彼は秋の月の如く、皎々たるも而かも冷かである、爾うしてノーブルは高きと同時に温かである、高潔に温情を加へたもの、是れがノーブルである、爾うして余は斯かる豪気なる斯かる潔白なる人を好む。
 国のため、人のため、社会のためとなれば時々自己を忘るゝ人、何故か其理由は知らざれども、或る動機に触れて、知らず識らずの間に或る無私の行為に出る人、是れがノーブルなる人であつて余の好む人物である、ノーブルなる人の反対は冷算の人である、自覚の観念の余りに強きより自己を忘るゝことの出来ない人である、詩人と云ひ、予言者と云ひ、皆なノーブルなる人である、彼等は冷静なる哲学者ではない、亦、周到なる政治家でもない、彼等は世に所謂る智者ではない、彼等は或る時は前後を忘れて動く者である、天啓に接せし盲人の如き者である、彼等は何を言ひつゝある乎を知らない、又何を為しつゝある乎を知らない、彼等は自己を高き或他の勢力に委ねし者である。
 此高尚なる盲目的《めくらてき》なる所のない人、何事も自覚し、何事も精算し、何事も探り究めざれば為さない人、注意一方の人、是れ余の好まざる人物である、余は時には猛進する人を好む、余は時には哲学を離れて詩的観念を以て動く人を好む、余は科学と常識とを貴ぶが、然し科学のみの人を好まない、余はグラツドストンのやうな時には(247)政略を忘却する政治家を好む、アガシのやうな研究室に入つて神に感謝の祈祷を捧ぐる科学者を好む、すべて貴きこと、すべて真なること、すべて義しきことに対しては満腔の同情を表する人を好む、詩歌のない人物、殊に詩歌のない宗教家、是れ余の耐え難い人物である。
 余は第五に独立の人を好む、独立の人とは孤独の人ではない、勿論唯我独尊の人ではない、独立の人は高慢になり易い、然し独立の人は勿論高慢の人であつてはならない、独立の人は先づ第一に神と自己とに頼る人である、神の偉大なる援助力を信じ、また神が自己に賜ひし驚くべき耐忍力を信ずる者である、独立の人とは他人の援助と言へば悉く之を斥くる者ではない、彼は神と自己とを信ずるの余り、他人の援助を多く要せざる者である、神は慧《かしこ》き造物主であるから、彼は決して吾人各自を他人に頼らなければ何事も為得ない者としては造り給はない、神の造り給ふた人類は各自完備したる一小字宙である、独立は人たる者の本性であつて、独立せざる者は言ふまでもなく一人前の人間ではない、聖書に於てさへも爾曹は神なりと書いてある(約翰伝十章卅四節)、我等は或る意味に於ては確かに神である、即ち独り自から或る確実なる事を行ふことの出来る者である、然るに此事を忘れて、「人は社交的動物なり」との希臘の哲学者アリストートルの言を楯に取り、依頼を恥とせぎる人の多きは実に驚くべきの限りである、余は依頼の人を一人前の人とは見ない、彼は半人前の人か、或ひは四分の一の人である、斯かる人の好ましからざるは言ふまでもない。
 余は第六に労働の人を好む、読書の人、美術の人、音楽の人、演説、説教の人を好まないではないが、然かし、鍬を取り、槌を振り上げる人に較ぶれば、余の彼等を好むことは至つて少ない、余の嫌ふ人とて懶け者の如きはない、余は懶惰は大罪悪であると信ずる、世に最も神聖なるものは高壇に立て説教することではない、田園に出(248)て働くことである、働かない者は神を知らない、神に就て最も疎い者とて神学者教役者の輩の如きはない、故に余は労働者を愛する丈けそれ丈け世に所謂る宗教家なる者を嫌ふ。
 其他余の好き嫌ひを言へば数限りない、然かし是等は先づ余の嗜好の重なる者である、斯く言ひて、余は自身己の理想に合ふ完全無欠の者であると信ずるのではない、余は度々己の理想に反し、己れと己れを忌み嫌ふ者である、如何なる嫌悪でも己れに対して懐く嫌悪の如くに辛らいものはない。
 余の好む人物は斯の如しであるとして、扨斯かる人物は何処に居る乎と云ふに、何所にでも居る、政府部内にもあらふ、然かし多くはあるまい、民間の政治家の中にも一人や二人はあらふ、教会内にもあらふ、然かし余は不幸にして其処に多くを見ない、ノーブルであるとか、独立であるとか云ふことは余の見た所では今の基督教会内には至て尠ない、否な、ノーブルであれば今の教会には居たまらないのが常である、若し独立を主張すれば宣教師には嫌はれ、宣教師学校よりは遂はれる、今の基督教会なるものは高気、独立を養ふ所ではない。
 余は余の好む人を最も多く平人の中に発見する、政府にも政党にも教会にも何の関係だも有たない人の中に発見する、百姓の中に、職工の中に、町人の中に発見する、所謂る学生の中には余り多く見ない、学生は少しく学問を修むれば直に生意気になる、同時に懶ける、学問を継けたさに、主義を売り、独立を捨てる、社会の状態に省み、己の地位の安然を計らんため、万事に注意深くなりて、言ふべきことをも言はず、言ふべからざることをも言ふやうになる、学生の最大多数は少しばかりの学問と身の快楽とのために己の自由と霊魂とを売る者である、今の社会に於て最も unheroic(非勇)なる者は学生の中に多い、余は容易に今の学生を信ぜざる者の一人である、斯く云ひて余は勿論愛すべき学生のあることを疑はない、然かし其発見の非常に困難なるを見て、一層深く今の(249)学生社会の腐敗堕落を感ずる者である.
 余は自身が基督信者であるから余の好む人は重に基督信者の中にある乎と云ふに決して爾うではない、否な、余は余の最も好まざる人を基督教信者の中に発見する、熱心家と称して科学的常識に全く欠乏する人、韜晦を愛して透明を避くる人、否な、透明を暗愚なりとて嘲ける人、非常にづるい人、依頼の人、懶ける人、是れ余が今の基督教会に於て遭遇する人物である、余も多分彼等の眠から見たらば欠点だらけの人であるだらふ、然かしながら余が今の基督教会なるものに耐えられない理由は余一人が悪いばかりではないと思ふ。
 之に反して余は余の甚だ好む人を基督教界以外に於て発見する、余の最も好む人の一人は西本願寺派の某僧侶である、余と非戦論を共にして永く世の嘲笑を受けし人は激烈なる基督教の反対者である、其他余の友にして宗教問題には至て冷淡な人も多くある、余は勿論余の信仰を維持する上に於て彼等の主張には一歩も譲らない積りである、然しながら友誼は友誼であつて信仰は信仰である、是れ斯世の逆説《パラドツクス》の一つである、我等は死すとも我等の信仰を棄つることは出来ない、然ればとて我等の好まぬ人を友とすることも出来ない、宗教と友誼とは全く別物である。
 勿論同主義の人が同宗教を信ずるに至つて最も深い友誼の起るのは言ふまでもない、而して余も幸にして少しは斯かる友人を有つ、「我等の心をキリストの愛に於て結ぶ其愛は祝すべきかな」、是れ友誼の最上である、然しながらら斯かる友誼は金剛石が稀れなるが如く稀れである、爾うして金剛石を瓦礫の如くに与へ給はざりし神は斯かる友人をば夥多《あまた》賜はない、之を一つか二つ有てば充分である、嗚呼キリストに在る友人! 我何を以てか之を評価せん。
(250)       *     *     *     *
  人その友のために己の命を捐つるは之より大なる愛はなし、すべて我、汝等に命ずる所の事を行はゞ則ち我友なり、今より後、我、爾曹を僕と称ばず、そは僕は其主の行《な》すことを知らざればなり、我、先きに爾曹を
友と呼べり、我、汝等に我父より聞きし所のことを尽く告げしに拠る(約翰伝十五章十三、十四、十五節)、
 是れは貴いキリストの言葉である、世に最も親密なる関係は親子でもなければ、兄弟でもなければ、夫婦でもなければ、師弟でもなければ、君臣でもなければ、同政党員でもなければ、同数会員でもない、世に最も深い関係は友人の関係である、すべての関係が友人の関係となるまでは永久の関係となることは出来ない。父子もたがひに友人となりて最も親密なる父子となるのである、兄弟も夫婦も君臣も師弟も同じことである、我等は夫婦たるよりも先づ友人でなくてはならない、君臣であるよりも先づ友人でなくてはならない、神でさへも我等卑しき人間と深き関係に入らんと欲せば先づ我等と友人の関係に入り給ふ、友人とならずして政党員となりたればとて、教会員となりたればとて何んでもない、余輩が今の教会なるものに重きを置かないのはその友人の関係になつたものでないからである、監督あり、牧師あり、執事ありて今の教会なるものは小政府であつて、家庭ではない、友誼的団体たる倶楽部ではない(語弊はあるけれども)、斯かる所は霊魂を養ふ所ではない、今の教会なるものは裁判所の一種である、吾人の欠点を指摘詰責せらるゝための所である、誰が斯かる所に安堵して居らふぞ。
 然しながらキリストの教会は素々斯かる者ではなかつたらふと思ふ、教会とは実に友人の団体であつたのであらふと思ふ、則ち友誼てふ人間の最も深い関係に由て繋がれた団体であつたのであらふと思ふ、其建設の初期に方て之に非常の発達力のあつたのは全く之がためであつたらふと思ふ、然るを後世の「宗教家」なるものが出(251)て、此神の造り給ふた美はしき友人の団体を政府の一種に変じて了つたのであらふと思ふ、余の霊魂は実に斯かる教会を要求する、余はキリストの友となりて、また彼の友を余の友として有ちたく欲ふ、嗚呼、斯かる教会を今日起すことは出来まい乎。
 然かし若し今日直に、友人の教会、又は教会の友人を有つことが出来ないならば、余は教会なくとも友人を有ちたく思ふ、教会の無いのは忍ぶことが出来る、然し友人の無いのは忍ぶことが出来ない、故に余はキリストの教会の建つのを俟ちつゝある間は、すなはち少しなりとも其建設に貢献しつゝある間は、余の霊魂の慕ふ少数の友人を余の心の奥室に迎へ、其処に出来得る限り彼等を款待して、此冷酷なる世に在る間、天国に在るが如き聖き霊交を味はひたく欲ふ。
 
(252)     緑蔭対話
                       明治38年8月10日
                       『新希望』66号「談話」
                       署名 角筈生
 
〇暑いです、暑いです、中々暑いです、然かし今は角筈の森の好時節であります、小供は今は皆んな海へ泳ぎに参りまして、静かなる上にも一層静であります、私は朝は仕事場に入つて働らき、午後は大抵は櫟林の緑蔭を逍遥して楽しき夢考に耽りつゝあります、或ひはダンテと共に、或ひはオルヅオスと共に淋しき楽しき生涯を送りつゝあります。
〇私の庭に石竹科の一種でおいらん草と名づくる草花があります、好き香《にほひ》を放つ濃紫《こきむらさき》の花でありまして、私が愛育する花の一つであります、此花は毎年七月中旬に成ると咲き出します、爾うして此花が咲きそむる毎に私が思ひ出しますことは夏期講談会であります、私の家族の話柄は此花の咲くのを見る時には何時でも過ぐる年の三回の夏期講談会に及び至ります、依て近頃はおいらん草の名の余りに軟弱なるを知りますれば此花を夏期講談会草と称ぶことに致しました、少し長過ぎる名ではありますが、然かし至つて適当な名であると思ひます、私共は今より毎年此花を見て、死ぬまでかの喜ばしかりし会合を想ひ出さうと思ひます。
〇三回の夏期講談会は実に有益なる会合でありました、之に依て真個のキリスト信者になつた者を大分見受けます、己れ一人なつたのみならず、全家族を導き、全村までを感化した者も其来会者の中から出でました、之を(253)司りし者に取ては随分辛らい会合ではありましたが、然し其結果の予想外に善かりしのを見て、今はたゞ感謝に溢るゝ計りであります、私は余り集会の類を好みません、然かし斯かる会合を一生涯に三度設ける方が、益のない会合を千百回設くるよりも増であります。
〇それは爾うと致しまして、私が今日最も努めて居りますことは如何うかして人と争ふことなくして日々を愉快に送らんとのことであります、私は如何いふ訳か近頃はすべての争闘が全く厭になりました、此百年に足らない生涯を、一日でも不愉快極まる争闘に費すとは如何にも詰らないことであります、依て如何にして争闘のない平和の生涯を送らん乎と種々思考を凝らしました所、私は左の結論に達しました。
〇争闘は利害の衝突から起るものに極まつて居ります、故に成るべき丈け人との利害の関係より遠かりますればそれ丈け争闘の原因が減る訳であります、即ち人と接触することが少ないければ少ない程、それ丈け平和の生涯が送れる訳であります、茲に於てか独立生涯の平和に必要なる理由が能く分かると思ひます、国に事へても其政府から給金を貰はなければ国民と衝突する機会はありません、教会に入りても其補助を仰がなけば教会員と衝突する機会はありません、人との交際は成るべく丈け乾いて居る方が宜しいと申します、即ち利益の関係の少ないのが、或ひは全くないのが宜しいとのことでありす、爾うして斯くも交際に注意して居れば腹の立つ機会は少くして、私供は理想に稍々近い生涯を送ることが出来やうと思ひます。
〇近頃愉快なる人物とは私が此号に一寸と紹介して置きました米国の文士トマス・デビッドソンであると思ひます、彼は遙かにエマソン以上であると思ひます、彼の学は博く、彼の情は熱くありました、彼は英民族中時々出づる所の人物の一人でありまして、日本などには迚も見ることの出来ない人物であります、彼に似た者は英国で(254)はカーライル、ラスキンであります、米国では「ワルデン一名林中の生涯」の著者なるトローであります、彼等は皆な人間の社会制度なるものを嫌ひ、独り天然の中に審美の神と交はらんとした者であります、然しながらデビッドソンの是等三者に優さる所は彼の労働者に対する非常の同情であると思ひます、彼は彼の生涯の大部分を独り林中に送りましたが、然かし林中より度々書を労働者に寄せて、彼等の苦痛を慰めると同時に又彼等に高気の生涯を教へました、彼は人間社会を嫌ひましたが、然かし人間を愛しました、其点に於ては彼は確かにトマスカーライル以上であると思ひます。
〇デビッドソンは自身が平民で平民の篤き友人でありました、然かし奇態なことには彼は今の社会主義が大嫌ひでありました、彼の訓誡の一条にもありまする通り、彼は人が如何なる看板だも其の身の内外に掲ぐることを好みませんでした、(第二九頁を見よ、)彼はすべての「主義」を嫌ひました、彼は個人個人の品性を高むるより外の社会改良策には全く信を置きませんでした、彼は紐育に於て其労働者団体に告げて言ひました、「余は雇主に対する被雇人の不平を聞く耳を有たない、然かし余は労働者を彼の今日の地位に於て幸福なる者となさんための多少の福音を有つと信ず」と、彼は人は何人もその心の中に於て、王侯貴族たり得べしと信じました、「単数の個人」the individual in the singular number 是れ彼の目的物でありました、彼は是れ以外に彼の天国を築かんとは致しまんでした。
〇彼のことに就ては後日を待つて尚ほ委しく御話し致さうと思ひます、私に取りましても彼は尚ほ新知友であります、然かし彼の著書をも注文して置きましたから、今後数ケ月の後には大に此新偉人を諸君に紹介致さうと思ひます、序に申上げて置きますが、彼は近頃世を逝つた人であります。
(255)〇其他御話し致したいことは沢山ありますが、今日は暑いから之れで御免を蒙ります。サヨナラ
 
(256)     平和彙報
                       明治38年8月10日
                       『新希望』66号「雑記」
                       署名 平和生 編
 
〇第十九世紀間に所謂る文明諸国が戦争のために犠牲に供せし人命は総数凡そ四千万人、消費せし金額は三千億円(300.000.000.000yen)なりと云ふ、若し此金を以てすれば三万の大学校を起し、優に之を維持するを得べし、或ひは最も困難なる鉄道三十万哩を架するを得べし、此人と金とを以て為し得ざる経世利民の事業は一つとしてあるなし、然れども尚ほ非戦論は迂論なりと云ふ、吾人は何故に其迂論なるやを知るに苦む。
〇今や全世界に在る非戦を主張する平和協会は五百を以て算へらる、米国、英国、墺国、独国、仏国、伊国皆な平和協会を有たざるはなし、殊に軍人の跋扈を以て名高き仏国に於て最も盛なりと云ふ、而かも東洋の君子国なる日本に此会あるなし、廃娼会あり、禁酒会あり、婦人矯風会あり、動物虐待妨止会あるも、同胞の殺戮に由らずして国際的紛擾を整理せんと図る平和協会の設けあるなし、耻づべきに非ずや。
〇第十四回万国平和大会は来る九月十九日を以て瑞西《スウヰス》国ルチェルン府に於て開かるべし、世界の平和主義大家は山水明媚なる此地に会し、大に戦争廃止の方法に就て討議せんとす、而して米国の如きすら多数の代表者を此会に送りて大に其勢力を援けんとするの計画ありと云ふ。
〇千九百五年度仏国政府の歳入総額は凡そ三十六億|法《フランク》(九億円余)にして其中軍事と公債(重もに戦争の為に起せ(257)しもの)とのために消費する額は二十億法なりと云ふ、而かも軍備拡張の声は尚ほ彼国の政府并に軍人社会の中に揚りつゝあり、故に下院議員デスツーネル、ド、コンスタン氏は近頃彼国の議会に於て此案に反対して叫んで曰へり、仏国の国家も議会も政府自身すらも吾人の財政の実況を知らずと、仏国の窮状は憐むべし、而かも其議会に一人のド、コンスタン氏あるは祝すべし、仏国の将来に尚ほ希望ありと云ふべし。
〇万国公法学会第二十三大会は本年九月四日を以て那威国首府クリスチヤナ市に於て開かるべし、是れ又非戦主義実行の一好手段なり、余輩は其成功を祈る。
〇伊国羅馬府に於に於て万国中央農事協会の設立あり、伊国皇帝陛下は之に三十万リラ(八万円余)の寄附を為されしと云ふ、是れまた平和運動の一大幇助たらざるを得ず。
 
(258)     人類の宗教分け
                       明治38年8月10日
                       『新希望』66号「雑記」
                       署名なし
 
瑞西国バーゼル府出版の万国伝道年報に依れば世界人口の宗教分けは左の如くなりと云ふ
  基督教徒   五三四、九四〇、〇〇〇人
  猶太教徒   一〇、八六〇、〇〇〇人
  回々教徒   一七五、五九〇、〇〇〇人
  偶像教徒   八二五、四二〇、〇〇〇人
 之を人口一千に割当つれば左の如し
  偶像教徒         五三三人
  基督教徒         三四六人
  回々教徒         一一四人
  猶太教徒           七人
 又基督教徒を其所属の宗派に由て区分すれば左の如し
  天主教徒   二五四、五〇〇、〇〇〇人
(259)  新教徒  一六五、七五〇、〇〇〇人
  其他       八、一九〇、〇〇〇人
 此統計に依れば基督教徒の総数五億三千四百九十四万なりと云ふ、大勢と云ふべし、但し其中には猶太人を虐待する露国の所謂る「正教徒」もあれば、亦外国宣教師に依食して耻とせざる日本の基督教徒も含まれあることを忘るべからず。
 又基督教徒中、天主、希臘、新教の三大教派に属する者以外に尚ほ八百十九万の基督教徒ありと云ふ、吾等無教会信者は其中に含まれてあるにや、或ひは何人も吾等のキリストを信ずるに至りしことを、其本国に報告せし者なければ、吾等の如きは多分今尚ほ偶像教徒として算へらるゝやも知れず、世に当にならぬものとて宗教的統計の如きはあらず、昔しダビデは其民を算へて神に罰せられたりと云ふ(撒母耳後書十八章を見よ) 吾等は偶像教徒として算へらるゝも可なり、唯神に愛せらるれば足る。
 
(260)     〔我が唯一の武器 他〕
                       明治38年9月10日
                       『新希望』67号「精神」
                       署名なし
 
    我が唯一の武器
 
 万軍のヱホバ宣べ給ふ、権勢に由らず、能力に由らず、我霊に由るなりと(撤加利亜書四章六節)、政権に由らず、武力に由らず、唯神の霊に由る、教会に由らず、神学に由らず、唯神の聖霊に由る、我が武器は唯是れのみ、我は之に由り己に勝ち、世に勝ち、終に死に勝たんと欲す。
 
    光明の一閃
 
 我れ時には幽暗の裡に彷徨す、我は此学者に依り、また彼学者に頼る、我は己に問ふて曰ふ、世に果して真理なるものありやと、斯くて我が意見なる者は全くなきに至る、時に我は波上に浮ぶ小舟の如く、何物をも信ずるを得て、何物をも信ずる能はず、時に光明の天より我幽暗を照らすあり、我れ之に接して疑雲一時に霽る、我はキリストを呼んで我が真理なりと言ふ、我は磐石の上に立ツて動かざるに至る。
 
(261)    我の信頼
 
 我は我が弱きを歎くを須ひず、神は其霊を以て我を強くし給ふ(希伯来書十一章卅四節) 我は我が愚を悲むを須ひず、神は其霊を以て我を慧《さと》くし給ふ(雅各書一章五節)、我は我が不信を憂ふるを須ひず、神は其霊を以て我が信を増し給ふ(路可伝十七章五節)、神は我を外より扶け給ふ、亦、内より助け給ふ、神は其霊を以て我を義者仁人勇者と為し給ふ。
 
    意志の刷新
 
 境遇の改善に非ず、意志の刷新なり、前者は人も能く之を為すを得べし、後者は神にあらざれば之を為す能はず、主ヱホバ曰ひ給ふ、我は新しき心と新しき霊魂を起すべしと(以西結書十八章卅一節)、我は我が心の新たに造らるゝを要す、而して神はキリストに在りて聖霊を以て此奇跡を我衷に行ひ給ふ。
 
    善心の恩賜
 
 善き境遇の中にありて善き人となるに非ず、善き心を賜はりて善き人と成るなり、人は善き心を造る能はず、故にひとへに善き境遇を作りて善き人と成らんと計る 社会主義も之を計り、基督教会も之を努む、然れども是れ無益の業たるなり、バベルの塔を築きて天に昇らんとするが如し、我等は其愚に傚ふことなく、直に神に到り、彼より直に善心の恩賜に与かるべきなり。
 
(262)    平和克復の困難
 
 平和を破るは易し、平和を復すは難し、愚者も容易に之を破るを得べし、賢者も容易に之を復す能はず、平和の貴きは其回復し難きに存す、衆愚の声に聴いて濫りに之を破り怨恨を千載に遺す者は禍ひなるかな。
 
    主戦論者の論理
 
 世界人道のために平和の回復を要すとならば始より平和を破らざるに若かず、已に之を破りながら人道のために其回復を急ぐと云ふ、戦争果して善事なるか、何故に之を永久に続けざる、然れども人道の声に聴いて其中止を計るといふ、是れ戦争の悪事なるを認めてにあらずや、正義のために戦を開き、人道のために之を止むと云ふ、主戦論者の論理は到底余輩の会得し得る所にあらず。
 
    教育と平和
 
 戦ふに巧にして和するに拙なき者、是を今日の愛国者なりとす、彼等は悪むを知て愛するを知らず、戦場に斃るゝより外に国を護るの途を知らず、愛は武器に優さる防国の具なり、人を愛する者にあらざれば永久の平和を結ぶ能はず、愛国を敵愾の精神とのみ解せし国民は戦場に敵を破り得るも、樽俎の間に敵と和するの術を知らず、常に脩むべきは愛人の精神なるかな。
 
(263)    愛の順序
 
 第一に神を愛すべし、第二に世界と人類とを愛すべし、第三に国と国人とを愛すべし、第四に自己と家族とを愛すべし、愛を此順序に循て施して我はすべての人と平和を結ぶを得べく、我が事業は栄え、我が心は常に平安なるべし、然れども愛の此順序を転倒して、我はカインの如くなりて、人は皆な我の敵となりて我はまた人の敵となるべし。
 
    孤児の敵
 
 一方には孤児の養育を唱へ、一方には戦争の利益を道ふ、斯くて一方には孤児を扶けながら一方には盛んに孤児を作る、笑止千万とは主戦論者の孤児救済事業なり、彼等は孤児の敵なり、其友に非ず。
 
    禁酒と戦争
 
 神の聖書に循て禁酒を唱道し、新聞記者の論説に拠りて戦争を主張す、酒を飲むは悪しゝと云ひ、人を殺すも可なりと云ふ、斯く言ひて彼等は己を怪まず、教会も亦彼等を咎めず、宜べなり、高潔の無神論者が今日の基督教会を目するに偽善者の団体を以てするは。
 
(264)    基督信者の本性
 
 基督を「信」ずる者に非ず、基督に在りて有る者なり、即ち基督の中に己を失ひて彼をして我に代つて我が自我たらしむる者なり、基督信者(クリスチヤン)とは如斯き者なり、基督自身が彼に於て顕はれ、彼に在て働らく者なり、彼は意志の本城を基督に開放し、今は其捕虜となりて動く者なり、神の捕虜なり、恥辱の身なり、而かも無上の栄光の身なり。
 
    基督信者の善行
 
 基督教は其信者に善を為せとは言はず、善を為す者と成れといふ、或ひは善を為す者と成らんことを神に祈求《もと》めよといふ、善を為さゞる者は基督信者にあらず、好んで善を為す者にあらざれば基督信者にあらず、善行が自然性と成りし者にあらざれば基督信者にあらず、而してキリストの霊の宿る所となりて我等は斯の如き者と成るを得るなり。
 
    神人合体の事実
 
 神はキリストに在りて人に臨み、人はキリストに在りて神に近づく、神人合体は今や詩人の夢想にあらず、人はキリストに由らずして神に到る能はず、神はキリストに於てのみ自己を顕はし給へり、キリストは天と地との接触点なり、神と人との間に立つ中保者なり、キリストは途なり、罪の人が聖き神に到るの途なり、彼に在て我(265)等は神の子供たるを得るなり、天に在す我等の父の完全《まつた》きが如く、我等も完全くなるを得るなり。
 
(266)     余の今日の祈祷
                       明治38年9月10日
                       『新希望』67号「精神」
                       署名 砕心生
 
 神様、私は今は貴様《あなた》の御祝福《おんめぐみ》に由りまして何にも他《ほか》に欲しくありません、金も欲しくありません、名誉も欲しくありません、人望も欲しくありません、学問も技芸も才能も欲しくありません、私は今唯貴様の聖霊が欲しくあります、之を得て貴神の深き情《こと》が解かり、人生の意味が解かり、死が懼くなくなり、来世が明白になり、善が自然と私の心より湧出で、美が自然と私の身より輝くやうになりたくあります、私の欲しい者は唯是ればかりであります、即ち貴神の聖霊であります。是れさへ賜はれば私は満足します、然かし是がなければ私は最も憐れなる者であります、私は貴神に祈ります、汝の聖き霊を我より取り給ふ勿れと(詩篇五十一篇十一節)、私はキリストの貴き御約束に頼ります、天に在す汝等の父は求むる者に聖霊を予へざらん乎と(路可伝十一章十三節)、貴神は此恩賜を私供に約束し給ひました、故に私は之を貴神より得ずしては止みません、私は之を得んために祈祷を以て貴神の宝座《みくら》に迫らんと思ひます、私は励みて天国を取らんと欲ひます(馬太伝十一章十二節)、是れが私の祈祷の目的物であります、神の聖霊、神よ、私に之を賜へ、私の愛する者に之を賜へ、私の友人に之を賜へ、私供に他の物を賜はずとも此物を与へ給へ、人が先づ第一に求むべきものは是れであります、是を得んがためには何物を犠牲に供しても惜くはありません、天国とは何んでもありません、是れであります、天国は畑に蔵れたる宝(267)の如し、人、看出さば之を秘し、喜び帰り、其所有を尽く売りてその畑を買ふなりと(馬太伝十三章四十四節)、私には今は此|聖語《みことば》の意味が能く解ります、私は蔵《かく》れたる宝を確かに看出したと思ひます、然かしまだ全く之を私の所有《もの》とすることが出来ません、私は一度か二度、又は数回之を見た計りであります、然かしまだ悲しいことには是れはまだ私の永久の所有としては存《のこ》りません、故に神様、私は私の所有を尽く売りても此宝の蔵れてある畑を買ふ積りであります、願くは此祈祷を充たしめ給ひて、私をして此宝を懐いて永久に歓ぶことを得しめ給へ、アーメン。
 
(268)     力と真理
                       明治38年9月10日
                       『新希望』67号「精神」
                       署名 研究生
 
 基督教は真理であつて力である、力ある真理である、真《まこと》の力である、力のない真理ではない、真でない力ではない。
 兵力は力である、然かし真の力ではない、哲学は真理である、然かし霊魂を活かす真理ではない、基督教は兵力や金力のやうな力ではないと同時に、また数学や哲学のやうな真理ではない。
 基督教は神の力である、すべて信ずる者を救はんとの神の大能である、故に基督教は力ある真理であると云ふは其真理其物に力が存して居ると云ふのではない、是れは其真理に神の力が伴ふといふことである、「神は愛なり」と云ふ真理其物が力あると云ふのではない、是れに似たる真理は基督教以外の宗教にもある、然しながら此真理が神が特別に遣はし給ひし使者に由て唱へらるゝ時に、是に非常の力が添ふのである、力は真理以上に在るのである、爾うして力が真理に添ふ時に、それが神の言となりて死せる霊魂を活きかへらしむるのである。
 故に基督教をたゞ学んだとて、それで其教理より力を得ることは出来ない、哲学的にいくら深く研究しても、基督教は仏教儒教等と多く異なる所はない、基督教をして其大効を奏せしめんと欲せば是を其創設者なる神に由て学ばなければならない、即ち基督教の真理と共に神の聖霊を仰がなければならない、基督教を活かすのも殺す(269)のも全く聖霊の力に依るのである。
 他の宗教が一定の時期を経過すれば必ず死往くに基督教のみが年毎に新たなるは何故なるか、何故に古き聖書は歳と共に古びざる乎、是れは基督教の哲学的真理が完全無欠であるからである乎、爾うとは思へない、基督教の不朽なるは神の不朽なるが故である、活きたる神が常に之に伴ひ、其真理を以て人の心に働らき給ふからである、神なくして聖書も基督教も無能のものとなる。論語や孟子と多く異なる所のない者となる、然しながら神が在し給ふ間は……爾うして神が在し給はない時とては未来永劫決してない……聖書の真理が其活力を失ふ時はない、我儕は神を信じつゝ基督教の真理を究めて其救済に与かるべきである。
 
(270)     親愛宥恕の途
        (羅馬書十二章十四節より廿一節まで)
                       明治38年9月10日
                       『新希望』67号「智識」
                       署名 内村鑑三
  十四、汝等を迫害する者を祝せよ、祝して詛ふべからず。
  十五、喜ぶ者と偕に喜び、哀む者と偕に哀むべし。
  十六、相互に対し同一の事を念ふべし、高き思念を懐くべからず、反て低きに就くべし、自己《おのれ》を智しとする勿れ。
  十七、何人に対しても悪を以て悪に報ゆべからず、すべての人の善と見做すことは努めて之を為すべし。
  十八、為し得べき限りは汝等よりしてはすべての人と相和ぐべし。
  十九、愛する者よ、自から讐を復《かへ》す勿れ、退きて主の怒に任せよ、そは録《しる》して「讐を復へすは我にあり、我之を報ゆべしと主は曰ひ給ふ」とあればなり。
  二十、否な、汝の敵若し飢なば之に食はせよ、渇かば之に飲ませよ、そは此く為して汝は熱炭《あつきひ》を彼の首《かうべ》に積めばなり。
  廿一、汝、悪に勝たるゝ勿れ、善を以て悪に勝つべし。
(271) 十四、「汝等」 基督信者に対して曰ふ、汝等天国の市民たる者は斯く為すべしとなり、基督を信ぜざる者は斯く為す能はず、彼等に敵を愛するの深き動機あるなし、彼等は復讐は正当の権利なりと信ず、然れども汝等は新らしき律法を学びし者なり、汝等の道義的観念は全然彼等のそれと異なる、汝等主にありて無限の財宝を天に蓄ふる者は此世の事に関しては全然譲退の途に出づべし 〇「迫害する者」 汝等の信仰の故を以て、汝等の為す所が彼等の為す所と全然その趣を異にするが故に、汝等を忌み嫌ひ、且つ汝等がキリストの教へ給ひし無抵抗主義を守るが故に、汝等を与し易き者と見做し、汝等を蹴仆し、汝等に唾《つばき》するを以て快楽となす者を祝せよとなり、真正の基督信者出て始めて迫害なるものはあるなり、基督信者の如く弱くして無慾なる者の出ざる間は世に迫害なるものは起らざるなり、迫害は信者に取りては彼がキリストに在りて新たに生れし事実の確証なり、不信者に取りては彼が再生の恩恵に与かり得ざるを自覚するより来る嫉妬と怨恨との発表なり、恩恵臨みて迫害起る、恩恵のなき所に迫害あるなし、世に望ましきものにして実は迫害の如きはあらざるなり 〇「祝せよ」その為めに幸福を祈れよ、単《たゞ》にその罪を免すにては足らず、進んで彼が幸福ならん事を祈れよ、彼の神に受納せられんことを祈れよ、彼が悔改めて父なる神に還り来らんことを祈れよ、汝等自身も曾て一度は神に逆ひし者、善を憎み悪を愛せし者即ち迫害者なりき、然るに神は今汝等を恵み、迫害さるゝ者とならしめ給へり、今汝等に迫害を加ふる者も亦同一の恩恵に与かり得ざるの理あらんや、故に彼等の神に恵まれんことを祈れよと 〇「詛ふべからず」 祝せよの反対なり、悪事の彼の上に落来らんことを祈る勿れ、呪詛は復仇の最も甚だしきものなり、汝等基督信者は手を以て仇を報ゆべからざるのみならず、亦心に於ても復讐の念を懐くべからざるなり、我等は思念《おもひ》に於ても行為《おこなひ》に於ても全然我等の敵を赦し、更らに進んでその幸福を祈るべきなりと。
(272) 十五、同情推察の心を養成せよ、而して先づ喜ぶ者と偕に喜ぶの心を懐けよ、是れ基督信者の特に為すべきことなり、哀む者と偕に哀むは不信者と雖も能く之を為すを得べし、彼等は人の悲哀に沈むを見て、己の人に優つて遙かに幸福なるを知て喜ぶなり、世人の所謂る同情推察なるものは深く其源を究むれば、自尊自足の情に外ならざるなり、憐憫は多くの場合に於ては傲慢なり、恩を人に売ることなり、自己の繁昌を人に誇示することなり、是れ勿論、恩を施さゞるに優さると雖も、而かも最上の同情と称すべからず、キリストの愛は憐憫以上なり、是れ哀む者と偕に哀むに止まらずして、進んで喜ぶ者と偕に喜ぶことなり、愛は※[女+戸]まず誇らざるなり、人の境遇の己に優るを看て之を好まざるのみならず、反て之を喜ぶなり、人の立身を聞て喜ぶなり、人の成功を見て喜ぶなり、人の己の上に立つに至るを知て喜ぶなり、而して汝等籍を天国に移せし者にキリストの此心なかるべからず。
 十六、「相互に対し」 すべての人に対し、殊に信仰の兄弟姉妹に対し 〇「同一の事を念ふべし」 汝等念を同うし、愛心を同うし、意を合せて念ふことを一にすべし(腓立比書二章二節)、汝等自己のことに就て念ふ如くまた兄弟のことに就て念ふべし、即ち汝等の思念に自他の差別あるべからず、自己のことは兄弟のこと、兄弟のことは自己のことたるべし、汝等の行為は自己に対しても、亦兄弟に対してもたゞ千遍一律たるべし、即ち愛の律たるべし、我等各人キリストに於て一体たれば亦互に其|肢《えだ》たる也(第五節)、手の欲する所は亦足の欲する所にして、足の求むる所はまた手の求むる所なり、手と足とは同一の事を念ふなり、汝等キリストに在る兄弟姉妹も亦その如くなすべし 〇「高き思念を懐くべからず云々」 自己に就て高き思念を懐くべからず、反て自己は低きに就くべし、平和一致を欠くことにして高ぶりの心の如きはなし、自己を中心とし、他は悉く自己に事ふべき者と思ひて調和は破壊されざるを得ず、人は何人も主人公たるの思念を抛棄して下僕たるの覚悟を定めよ、人(273)に奉仕《つか》はれんと欲せずして、人に事へんとせよ、是れキリストの心なり、奉仕を社会より要求し、国家より要求し、家族より要求して平和一致は望むべからず、家長主義に依て成る東洋の国家に温情和楽の掬すべきなきはキリストの此心に於て欠くる所あればなり 〇「自己を智しとする勿れ」 箴言三章七節の言を以て汝等の心と為すべし、己れと己の価値を定むる勿れ、神と人とを離れて己に就て念ふべからず、自己は教会(キリストの体)の一分子(一肢)なることを忘るべからず、権利を有すると同時に亦義務を担ふ者なることを記臆すべし、自己を特別に聡明なる者、特別に高貴なる者と念ふべからず、人の互に相異なるは彼が神より賜はる所の恩恵に藉りて賜を異にするに因る(第六節)、王者、王者に非ず、学者、学者にあらず、各自、其信仰の量に循ひて(仝)神と同胞とのために尽す者たるのみ。
 十七、「何人に対しても」 信者に対しても不信者に対しても、内国人に対しても外国人に対しても、人といふ人に対して、汝等キリストの僕たり天国の市民たる者は悪を以て悪に報ゆべからずと、復讎は斯世の人が以て正当の権利なりと見做す所のものなりと雖も、斯世の者に非ざる基督信者は之を罪悪と見做すべきなり、世に所謂る「基督信者」、英国人、米国人、露国人、即ち教会信者の多数が復讐を敢てし、之を正義なり人道なりと称讃することありと雖も、我等は其言に耳を傾くるの要なし、我等は基督の言其儘を服膺して基督信者たるの職責を尽くすべきなり 〇「すべての人の善と見做すこと云々」 衆目が視て以て善となすことは努めて之を為すべし、人の批評は之を顧みるに足らずと做す勿れ、顧るに足らざる批評あり、顧るに足る批評あり、世の公評は多くの場合に於ては神の声なり、我等は完全に達せんがために努めて世の批評をも利用すべきなり、我等が斯くするは主の前のみならず、亦人の前にも善からんことを慮《はか》るなり(哥林多後書八章二十一節)。
(274) 十八、「為し得べき限りは云々」 平和は万事を犠牲に供しても保つべき者にあらず、世に平和に優りて更らに貴重なるものあり、然れども為し得べき限りは、出来得る限りはすべての人と相和らぐべきなり、若し我等の財産を提供するに依て平和を保ち得べくんば之を保つべし、若し主義信仰以外の譲退に由て之を維持し得べくんば之を維持せよ 〇「汝等よりして」 平和は止むを得ず之を破らざるを得ざることあるとも、汝等よりして之を破る勿れ、汝等よりしては恒に平和の手段に出でよ、若し汝等に依て和戦孰れかゞ決せらるべき場合に臨まば汝等は必ず和に決せよ、汝よりして戦を挑む勿れ、汝よりして争闘を求むる勿れ、汝等はドコまでも平和の人たるべし、然り、出来得べき限りは、汝等よりしては、すべての人と相和らぐべし。
 十九、「愛する者よ」 キリストに在りて信仰と望と艱難とを共にする者よ 〇「自から讐を復へす勿れ」 若し讐の復すべきあらば自から之を復す勿れ、斯世の法律に於てすら私人の復讐は禁ぜらるゝにあらずや、況して天国の法律に於てをや、汝は如何なる場合に於ても汝に寇する者の上に汝、自から手を下すべからず 〇「退きて主の怒に任せよ」 汝の敵は之を汝の神の手に任かせよ、彼(神)は唯一の正当なる裁判人なり、罰するの権利は彼にのみ属す、彼の怒に私憤の混ずることあるなし、彼は純愛を以てのみ怒り給ふ、故に彼の怒に触れて人は救はれんがために罰せらるゝなり、汝、自から讐を復へさんとするか、汝の敵は永久に汝の敵として存すべし、然れども若し神が汝に代りて汝の仇を報いんか、汝の敵は其罪を悔ひて終に汝と和らぐに至るべし、汝の敵を神に附たすは是れ更らに厳しく彼を罰せんがためにあらず、彼を正義の裁判に附して彼をして汝と和らがしめんためなり 〇「そは録して云々」 旧約聖書に此言あるなし、之に類するものを申命記三十二章卅五節なりとす、保羅并に希伯来書の記者は此語を旧約聖書以外の或る書より引用せしが如し(希伯来書十章三十節)、神の言は必し(275)も聖書に限らず、真理はすべて神の言なり、聖書記者は自由に聖書以外の言を引用して、神の言の聖書にのみ限られざるを証明せり 〇「讐を復すは我にあり」 復讐は我が(神の)事なり、人の自から行ふべきことにあらず、我(神)は汝等(人)に依らざれば悪人を罰し得ずと思ふ勿れ、我に火あり、また水あり、我はまた直に人の良心を責むるを得るなり、汝等は自から剣を抜いて我(神)に代て汝等の敵に懲罰を加ふと称すれども、我は曾て斯かる代理を汝等に委ねしことなし、我は自から我が僕なるすべての人類を処置するなり、汝等何人なれば他人の僕を審判するか、彼の或ひは立ち或ひは倒るゝは其主に由るなり(羅馬書十四章四節)、天に代て不義を撃つと称する汝等自身の手を吟味し見よ、之にまた責むべきの不義は存せざる乎、此故に凡そ人を鞫く所の者よ、汝言ひ遁るべき樣なし、汝、他人を鞫くは正しく己の罪を定むる也、そは鞫く所の汝も之を行へば也(二章一節)。 二十、「否な」 之に反して、讐を復すに反して 〇「汝の敵若し飢なば云々」 箴言廿五章廿一、廿二節に依る、旧約聖書の此言を其儘実行せよ、敵に対する新約の教訓は旧約のそれと異ならず 〇「熱炭を彼の首に積む」 二様に解するを得べし、悪に報ゆるに善を以てして汝の敵の心に羞恥の念を起し、以て彼の悔改を促すべしと、是れ此言の普通の解釈なり、或ひは悪に報ゆるに善を以てし悪をして一層悪ならしめ、以て一層迅速に汝の敵の頭上に神の怒を招くべしとも解するを得べし、炭は火を招くための導火線なり、神の怒に触れて熱し、懲治し難き悪人を焼尽すに至るべし、蓋し是れ彼を匡正するための唯一の方法なるべし、彼は火より脱れ出る如く終に救はれん(哥林多前書三章十五節)、二者孰れに解するも敵に悪意を表するの意にあらざるは明かなり、我等の目的は敵人の改悛に在り、其他に在らず。
 二十一、「悪に勝たるゝ勿れ」 悪を以て悪に報ゆるは悪に勝たるゝなり、即ち悪の刺戟を受けて之に応ぜしな(276)り、悪の刺戟は善を以て代を挫かざるべからず、悪は火の如し、火を以て火に対すれば火は益々熾なり、悪の火を熄《け》さんと欲せば善の水を以てせざるべからず、而して火を熄すの途は何人も能く之を知る、然れども悪に勝つの途は智者も能く之を知らず、曰く懲罰、曰く懲誡と、而して之を加へて悪は益々その猛威を逞うす、悪の懼るゝものは悪に非ずして実は善なり、而してキリストは己を悪の手に附《わた》し給ひて悪を其根本に於て挫き給へり、我等彼の弟子たる者も亦彼に傚ひ、彼の偉業を賛けて悪の全滅を計るべきなり。
 
(277)     基督教の来世観に関する明白なる事実
                       明治38年9月10日
                       『新希望』67号「智識」
                       署名 内村鑑三
 
 基督教は明白に来世の存在を教へる、之を教へるのみならず、其事実を供する、此点に於て基督教は他の宗教と全く異なる、他の宗教は来世は在るべき筈であると教へる、又は必ず無くてはならないと説く、則ち来世存在に就て揣摩推測を供する、ソクラテスの来世観なるものも是れである、仏教の来世観なるものも(若し是れありとすれば)是れに過ぎない、則ち来世存在に関する人間の推測と冀望とを述べたまでゞある、其事実に就ては彼等は知る所がなかつた、彼等はその確かに有るといふ証明を供することが出来なかつた。
 然かし基督教は僅かに来世の存在を教ゆるに止まらない、基督教は単に来世は無くてはならないとは云はない、基督教は論理を語るよりも寧ろ事実を告げる、若し示すべき事実がなければ論理を語らない、他の事に就ても爾うである、来世存在問題に就ても爾うである。
 然らば基督教が示す来世存在の事実とは何んである乎、誰か来世に往いて再び斯世に還り来りて、其実在を証明したと云ふのであるか、勿論爾うではない、爾んな人のありやう筈はない、然らば基督教は何に由て来世の実在を吾人に証明する乎。
 言ふまでもなく吾人に不朽の生命即ち永生を供してゞある、永生を知らない者は来世を知らない、永生を受け(278)ずして来世を明白に望むことは出来ない、永生とは不死不朽の生命であつて、今始まつて肉体の腐死と共に死せざるものである、永生とは使徒保羅の言を藉りて言へば霊の質である(コリント後書五章五節)、即ち永生の素因たる霊性の前味《まへあぢ》である、神はキリストに由りて吾等をして斯かる生命を前以て味はしめ給ひて、肉体の死後に更らにより高き生命のあることを吾等に示し給ふのである、此前約なくして、来世の此前兆なくして、吾等はいくら来世の存在を説き聞かさるるとも之を信ずることは出来ない、実物を以てする証明の伴はざる約束は約束とはならない、今より実験することの出来ない来世は頼るに足らない来世である、いくら聖書が来世の存在を説くも、之を証明するに足る目前の事実がないならば、吾等は如何に之を信ぜんと欲するも信ずることは出来ない、信仰とは勿論眼を以て視、手を以て触るゝことではない、然しながら信仰とは実験以外の事を信ずることではない、信仰とは霊の実験を事実として認めることである、爾うして吾等は吾等が生れながらにして有たない新たなる生命を吾等の中に実験して永生(来世)の希望を確実なる智覚の基礎の上に築くのである。
 斯くて基督教の供する来世の希望は決して漠然たる頼る所なき希望ではない、基督教は人は何人も生れながらにして不朽の者であるなどゝは云はない、斯く云ふは或ひは「人情的」である乎も知れない、然しながら「人情的」と事実とは全く別物である、何人も不朽なることは望ましいけれども、然しながら何人も或る明白なる理由なくして不朽なることは出来ない、天然の法則は無慈悲である、原因が無くして結果はない、血肉は神の国を嗣ぐこと能はず、是れ避くべからざる天然の法則である、生れながらの人に永生なし、是れ天然の事実である、基督教は永生を人類の固有性としては説かない、基督教の明白なる教示に従へば永生は神よりの恩賜である、神の大慈に出たる最大の恩恵である。(279) 然らば此永生とは如何にして吾等に臨む乎、基督教は教へて曰ふ、神の独子なるイエスキリストを通うしてと、永生は彼にのみ存す(He only has immortality)(提摩太前書六章十六節)、是を彼より受けずして受くる所はない キリスト死を滅し福音を以て生命と壊ざる事とを明かにせり(仝後書一章十節) 爾曹我(キリスト)に居れ、さらば我また爾曹に居らん、枝若し葡萄樹に連ならざれば自《みづか》ら実を結ぶこと能はず、爾曹も我に連ならざれば亦此の如くならん(約翰伝十五章四節)、生命なくして生命なし、生命のみ能く生命を生ず、是れ生物学の原理である、永生なくして永生なし、永生のみ能く永生を生ず、是れ基督教の教義である、イエス曰ひけるは我は復活なり、生命(永生)なり、我を信ずる者は死ぬるとも生量くべし(ヨハネ伝十章廿五節)、キリストを信ぜずして、則ち彼に依頼み、彼と心霊的交通を開かずして、吾等に復活もなければ永生もない、キリストを要せざる来世存在は基督教の立場より見れば頼る処なき空想である。
 永生を受けずして来世は無い、爾うして永生はキリストに於てのみ存す、故に之をキリストに受けずして吾等は来世を嗣ぐことは出来ない、是れ明白なる基督教の教示である、此教示が真理であるか誤謬である乎は全く別問題である、然しその明白に基督教の聖書が示す所の教義であること丈けは公平に此書を研究した人の何人も否むことの出来ない所である、今や来世問題の稍や人の注意に上りし時に方て、余輩が茲に此事を繰返して置くの必要があると思ふ。
 
(280)     無抵抗主義実行の実例
                       明治38年9月10日
                       『新希望』67号「智識」
                       署名 角筈生 編
 
      其一 イサク対アビメレク 創世記第二十六章
 
  アブラハムの子イサク、ゲラルの地に往きてペリシテの王アビメレクの許に来れり………………イサク彼地に種を播きて其年に百倍を獲たり、ヱホバ彼を恵み給へり………ペリシテ人彼を嫉み、彼の父アブラハムの従僕が堀りたる諸の井《ゐど》を塞《ふさぎ》て土を以て之に充たし、彼と彼の家族とをして飲むこと能はざらしめたり、ペリシテ人の王アビメレク更らにイサクに言ひけるは「汝は我等よりも強且大なる者となりたれば今我等を離れて此地を去るべし」と、イサク彼と争ふことを為さず、彼が言ふが儘に従ひ彼処を去りてゲラルの谷に往き其処に天幕を張りて住めり、其処にまた彼の父アブラハムの世に堀りたる井にしてペリシテ人が悪意を以て塞ぎたるものありければ、彼は之を浚ひ之に其父が附したる名を附したり、イサクの僕はまた谷に堀りて其処に更らに良泉の湧出る井を得たり、然るにゲラルに住めるペリシテ人の牧者之を見て「此水は我等の所属《もの》なり」と言ひ張りてイサクの僕と争ひければ、イサクはまた彼等の不条理なる言に抗することなく、唯其井にエセク(争闘)の名を附するのみにて、自から譲りて之をペリシテ人の手に渡したり、是に於てイサク又他の井を鑿りしに、ペリシテ人また是をも争ひけ(281)れば、イサクはまた譲り、井の名をシテナ(敵)と名けて之を敵の手に渡したり、イサク争闘を避けんため乃ち彼処より移りて更らにまた他の井を鑿りけるが、ペリシテ人の是を争はざるを見、喜んで其井の名をレホポテ(広場)と名けたり、彼は心に言へり、「今こそはヱホバ我等に人の争はざる広き場所を与へ給へり、我等此地に繁殖せん」と、斯くて彼、其処より更らに進んでベ∃に至りしが、其夜ヱホバ彼に顕はれて言ひ給ひけるは、「我は汝の父アブラハムの神なり、懼るゝ勿れ、我、汝と偕に在りて汝を恵み、我僕アブラハムのために汝の子孫を増さん」と、イサク彼処に壇を築きてヱホバの名を※[龠+頁]《よ》び天幕を張りて住めり、イサクの僕また此処に井を鑿れり、茲に於てアビメレク其友アホザテ及び其軍勢の長ピコルと共にゲラルの地よりイサクの許に来りければ、イサク彼等に曰ふ「汝等は我を悪み、我をして汝等を離れ去らしめたる者なるに、何ぞ今我許に来るや」と、彼等曰ひけるは「我等は今確かにヱホバの汝と偕に在すを見る、故に乞ふ今我等と汝との間に誓言を立て、我等をして汝
と契約を結ばしめよ」と、……イサク乃ち彼等のために酒宴を設けて彼等を饗せり、彼等食ひ且つ飲みたり、斯くて彼等朝早く起きて互に相誓へり、而してイサク彼等を去らしめたれば彼等イサクを離れて安然《やすらか》に去れり、其日イサクの僕来りて其堀りたる井につきて彼に告げて曰へり「我等また良き水を得たり」と、イサク即ち其井をシバ(誓約)と名づけたり、是故に此邑の名は今日尚はベエルシバ(誓約の井)と称ふ。
  註に曰く、イサク一たび譲りてゲラルの地を去り、二たび譲りて.エセクの井を敵手に渡たし、三たび譲りてシテナの井を放棄せり、而して彼は竟にレホポテの井を得て茲に安堵するを得たり、而して更らに進んでベエルシバの地に到るや、彼の曩日《さき》の敵は己の心に深く愧る所やありけん、来て彼に和を乞ふに至れり、イサクは彼の譲退に由りて一つの失ふ所なくして多くの得る所ありたり、彼は抗せずして彼の敵を征服せり、遵《したが》(282)ふべきは無抵抗主義なるかな。
自から譲りて「争闘」、「敵対」の井を放棄すれば神は更らに「広豁」「誓約=平和」の井を吾人に下し給ふ。
       ――――――――――
 
     其二 古公亶父の避戦 (史記周本記第四に依る)
 
古公亶父《ここうたんぷ》、后稷公劉の業を脩め、徳を積み義を行ふ、国人皆な之を戴く、薫育戎狄之を攻め、財物を得んと欲す、之を予ふ、已に復た攻めて地と民とを得んと欲す、民皆な怒て戦はんと欲す、古公曰く、民有て君を立るは将さに以て之を利せんとするにあり、今戎狄が攻め戦はんとする所為《ゆへ》は吾が地と民とを以てなり、民の我に在ると、其彼に在ると何ぞ異ならん、民、我の故を以て戦はんと欲す、人の父子を殺して而して之に君たらんこと、是れ予の為すに忍びざる所なりと、乃ち私属と与に遂に〓《ひん》を去り、漆沮《しつしよ》を渡り、梁山を踰へ、岐下へ止まる、〓人国を挙り、老を扶け、弱を携へて尽く復た古公に岐下に帰す、及び他の傍国、古公の仁を聞て亦多く之に帰す……民皆な之を歌楽して其徳を頌す。
  註に曰く、キリスト曰ひ給はく、柔和なる者(抵抗せざる者の意)は福ひなり、其人は地を嗣ぐことを得べければなりと(馬太伝五章五節)、古公亶父は支那人にしてキリストを知らざる者なりしと雖も、欧米人にしてキリストを知ると称する輩よりも遙かに能く神の聖旨を解せりと謂ふべし
 
(283)     秋の到来
         三大事業の設計
                       明治38年9月10日
                       『新希望』67号「談話」
                       署名 内村鑑三
 
 秋は来ました、心地好き楽しき秋は来ました、秋は事業の年度の替目《かわりめ》であります、私供は秋に於て一年の事業の計画を立つるのであります、此一年間に何を為さう乎、是れ今日私共が己に問ふて己に答ふべき問題であります。
 私は此一年間更らに進んで私の新信仰を唱へやうと欲ひます、新信仰と云ひて何にも在来の基督教を棄て何にか別に新らしい主義信仰を唱へやうと云ふのではありません、私が今より更らに唱んとする基督教は矢張り古い旧い基督教であります、然しながら基督教の基督教たる所以は其永久に新らしいことであります、私の今年の基督教は昨年のそれよりも新らしくあると思ひます、基督教は生命でありますから新鮮でなければ死んだものであります、固定せる基督教は基督教ではありません、爾うして有難いことには私にもまた今年になりましてから、此秋に入りましてから、古い旧い基督教がまた新らしくなつて示されたと思ひます、私は新たなる熱心を以てまた其研究に入ることが出来ます、私は今より二十九年前に始めてそれに接した時と同じ感覚を以て、然かり、之に優さる数層倍の興味を以て聖書を手にすることが出来ます、始めて石狩河の辺の処女林に入つた時のやうな心(284)地にて、其預言書、其福音書、其使徒行伝等の研究に入ることが出来ます、其事それ自身が聖書が哲学や歴史の書でないことの最も好い証拠であると思ひます、神の言であり、其中に深い人生の原理が示してありますから、斯くも何時までも面白いのであると思ひます、聖書を文学的や歴史的に研究して其興味は直《ぢき》に尽きて了いますが、然し之を心霊的に、即ち聖霊的に研究して、其意味は深長にして、永久に尽きません、爾うして私は秋風到り、燈火親むべき時に際しまして、又此楽しき研究を続けやうと思ひます、勿論私は総ての方面より聖書を研究します、歴史的方面より、考古学的方面より、文法的方面より、科学的方面より、孰れの方面よりも此研究を続けます、然しながら之を導くに神様御自身の聖霊の光を以てしませんならば、それは唯道楽の学問となりて終ります、活きたる霊に導かれてのみ、古い聖書は活きたる書となります、爾うして此活きたる書を学んで、其研究の結果を独り己に蔵つて置くことは出来ません、活きたる書の研究は吾人を活きたる人の間に逐ひやります、書斎の研究は同胞間の伝道とならずしては止みません、神の霊に導かれて為す聖書の研究は決して人を「本蝕《ほんく》ひ虫」とは為しません、研究生は遅かれ早かれ伝道師となりて顕はれます、是れ此研究の固有性の一ツであります。
 私は又今より平和主義の研究並に其唱道を続けやうと思ひます。私は今まで色々の慈善事業を研究し、又之に手を出して見ましたが、然かし戦争廃止を目的とする平和主義に優さりて善且つ大なる慈善事業を思附くことは出来ません、是に較べて見ますれば、孤児救済事業も、悪少年感化事業も、動物虐待防止事業も、其他有りと凡ゆる慈善事業は至て小なる事業であると思ひます、戦争廃止を一年早くすることは孤児万人を救ふに優さる慈善事業であると思ひます、社会は其根底より今日の所謂る国際的戦争なる者に由て其安寧秩序を破壊されつゝあります、凡ての悪事の母は金銭を愛することであると云ふよりは(提摩多前書六章十節参考)、今日の所では戦争で(285)あると言はなければなりません、禁酒を説きながら戦争を賛成するなどゝは笑止千万であります、戦争の害に較べて見て酒や煙草の害などは語るに足りません、動物を虐待してはならないと言ひながら人と馬とを同穴に葬むる戦争を賛成するとは何の事やら少しも分かりません、人類の罪悪が其極頂に達したるものが戦争であります、戦争が此世から絶たれるまでは此世に文明が臨んだとは言はれません、一日に三万とか五万とか云ふ人が何の天災に罹つたのでもなくして蝗の如くに死ぬるのを見て、之れでも文明があると云ふならば、文明と野蛮との間に何の差別もありません、幸福の増進が文明の目的であるとならば、何故に人類は全力を揮ふて、幸福の此大破壊なる戦争を取除《とりのけ》やうと致しません乎、私は戦争を賛成する基督教の伝道なるものゝ何んである乎少しも分かりません、私は廃娼禁酒に熱心して戦争廃止を冷笑する多くの基督信者の心事に就て深き疑念を懐かざるを得ません、両眼を打貫かれて盲目となり、それがために失望して自殺を企てた人のあるのを聞きながら、戦争のことゝ言へば大熱心となりて、口から泡を噴いて陸海軍万歳を唱へる基督信者のあるのを見て、基督教会の堕落も茲に至つたかと思ひ、密かに暗涙に咽びます、或人が預言者マホメツトに、世に最も賤むべき者は何である乎と問ひましたら、堕落せる信者であると答へたさうであります、若し同じ問ひを私に掛ける者がありましたならば、私は戦争賛成の基督信者であると答へやうと思ひます、爾うして奇態な事には孰れの国に於ても戦争賞讃者の多くは基督教の教師であるとのことであります、今や無神論者、社会主義者、さては商人、製造家等が続々として非戦主義者の列に加はりつゝある時に際して、平和の君なるイエスキリストの福音を伝へると称する基督教の監督、宣教師、牧師輩が世の普通の愛国者の声に聴いて戦争を賞讃するとは実に驚き入つた次第ではありません乎、戦争のことに関しては何にも特別に基督教の聖書に訴ふるの必要はありません、普通の人道に訴へて見ても其極悪の(286)業なることは能く分かります、英国の名士モノキュア・コンウエイなる人は基督教会が戦争を賛成するのを見て、終に基督教の信仰を棄て、今は無神哲学者となつた人でありますが、彼は近頃彼の自叙伝を著はして其終りに斯う云ふたさうであります、
  平和を祈ると言ふか、然かり余の読者よ、平和を祈れよ……単に「今日平和を下し給へ」と祈る勿れ、平和の事業を賛けて自身其祈祷に応へんとせよ、斯くなさば汝の祈祷は聴かれずして世は尚ほ争闘を継くると雖ども、少くとも汝自身の心には平和あるべし。
 私は此無神哲学者の方が今日の教会信者の多数よりも優かにキリストの聖旨に合ふた人であると思ひます、私はキリストのためには勿論、人道のために、殊に無辜の兵士のために、殊に更らに辜なき彼等の家族のために、私の微力を戦争廃止のために捧げたく欲ひます、私は今は慈善事業は何一つをも為し得ません、然しながら私が非戦論を唱へた結果として戦争が一分時間早く此世から絶たれまするならば、私は主の最終の裁判の前に出て、貴き主より「あゝ善且つ忠なる僕よ、汝、我が此兄妹の最と微さき者に行へるは即ち我に行ひしなり」との御言葉を頂戴することが出来ませう乎と思ひます。
 私は今年の秋より私の年来の友人の団合に従事しやうと欲ひます、斯く言ひまするのは勿論、彼等を率ひて大に天下に雄飛しやうと言ふのではありません、私が万一、斯かる野心を懐いて居ると致しましても私の友人は私に斯かる事を免しません、私は又新教会を設けて大に教勢を張ふと言ふのでもありません、私は今日までの人類の経験に鑑みまして教会設立の大危険を認めます、私は新たに信者を得んとは致しません、私は神が今日まで此憐むべき私を使ひ給ひて彼に召し給ひし信者を以て充分に満足する者であります、私は尚ほ此上に信者も友人も(287)欲しくはありません、私は今日まで神が私に腸はりました友人を以て充分なりと感ずる者であります、故に私は今より年来の友人の団合を計りたく欲ひます、即ち本誌の前号に掲げました米国の名士トマス・デビッドソン氏の訓誡の一条に従ひまして彼の所謂る、「高潔人士の新共和国」なるものを造りたく欲ひます、彼の訓誡の第九条に
  理想的友誼を脩めよ、餓え渇く如く真理を慕ふ汝の知人は之を一団となして汝の周囲に集めよ、記憶せよ、天国とて高潔人士の親交以外のものにあらざることを。
とありました、私は此訓誡に従ひまして、今年の秋より私の友人と共に此「地上の天国」を作らふと欲ひます、其、如何なる形を以て顕はれますかは、已に三四の友人とも相談して置きましたから本誌の次の号に於ては読者諸君に之を報告することが出来やうと思ひます。
     *     *     *     *
 聖書の新研究、平和主義の唱道、友人の団合、是れで今年の事業は充分であると思ひます、私は満腔の感謝を以てまた此清涼の秋を迎ふる者であります。
 
(288)     真正の宗教
                       明治38年9月10日
                       『新希望』67号「談話」
                       署名 角箸生
 
〇真正《ほんとう》の宗教とは事実の宗教であります、純真理の宗教と称して哲学者を満足させる宗教ではありません、実物実力の宗教でありまして、常識の人を満足させる宗教であります、若し哲学的に攻究しなければ解らないやうな宗教ならばそれは真正の宗教ではありません、哲学は人の学説でありまして、時と共に変遷するものであります、常に変らざるものは硬き確なる事実であります、爾うして事実でない宗教は永久不動の宗教ではありません。
〇神が在るといふのは何にも哲学的に爾う証明していふのではありません、彼の在ることが実験的に証明せられるからであります、吾等の意識の中心に於て何よりも明白に何よりも確実に彼は顕はれ給ふからであります、キリストの神性とても同じことであります、是れは教義ではありません、是もまた実験であります、議論の証明に由てゞはなく、能力の供給に由て彼の神秘力が吾等に伝へらるゝに由て解かることであります、其他の宗教的事実も皆な同じ事であります。
〇斯く云ひますると、或人は言ひませう、誰か神を見た者がある乎と、私供は此問に対して反問を設けて言ひます、誰か電気を見た者がある乎と、神を見たものもなければ電気を見た者もありません、然かし電気を感じた者の多くありますやうに神を感じた者も多くあります、爾うして感じたとは単に夢のやうに感じたと云ふのではあ(289)りません、感じて其実力を使用したことがあると云ふのであります、電気を以て電燈を点じて暗きを照らしたやうに、神の光に照らされて迷信を脱し、正気、常識の人となりて、己の荏弱《よわき》に勝ち、世の罪悪に勝ち、下界の幽暗を斥けたことがあるといふのであります、電気に就て黙想し、其美を賞讃し、其怪力を詩歌に表はした所がそれまでゞあります、其実力を自覚し、之を適用して、人類の幸福を計つて見るまでは電気の何たる乎は解かりません、真正の宗教も其通りであります、真正の宗教は隠遁者や神秘家の玩弄物ではありません、是れは実行家の実用具であります。
〇世に嬉しい事があるとて基督教が真正に解つた時の様な嬉しいことはありません、其時我等は始めて人らしい人となるのであります、我が此世に生れて来た理由も解かり、我が永遠の往先《いくさき》も解かり、「困難の哲理」も解かり、無抵抗主義の理由も解かり、何にも那《か》にも明白になりて、我身は夏の正午の日光を洛びながら独り野中に立つやうな心地がするに至ります、「人生は歓喜である」との詩人の言は茲に始めて事実となりて吾人が実験するのであります、此歓喜に入りて金や財産を得んとて齷齪する人が甚だ笑止しくなります、胸に勲章を下げて威張つて歩く人が何んだか子供らしく見えます、哲学者の言に左右せられて、迷霧の中に彷徨する人が何んだか気の毒に思はれます、基督教が解つて見ますると世人の生涯は夢の生涯であります、物でないものを物と解し、地獄に落行くのを天堂に昇行くのであると解する底の生涯であります、曰く戦争、曰く外交と、キリストの心を以て之を見ますれば是れ小の小なる問題であります、若し人、全世界を得るとも、霊魂を失はば何の益あらん乎(馬太伝十六章廿六節)、露西亜の天子が其欲ふ通りに亜細亜大陸の全部を得た所が爆裂弾一発で永遠の死に往かねばならないと思へば、満洲問題の如き、彼に取りては極小の問題でなくてはなりません、取つた所が僅かに五千二百廿五(290)万平方哩に過ぎない此地球、無窮の宇宙に永存することの出来る権利を授けられたる人は斯かる小なるものゝために彼の全心全力を注がんとは致しません。
〇斯くて我等は真正の基督教を信じて真正の基督信者とならなくてはなりません、教会信者や、哲学的信者や、或ひは聖書的信者たるを以て満足してはなりません、事実上、神の子供となり、実際的に神の実力を授かり、基督教を語る者ではなくして、之を自覚して之を用ゆる、或る異能《ふしぎなるちから》が我心に降り来り、人も己も為さんと欲して為す能はざる根本的大変化の我全身に施されしを感じ、其結果として世に懼るべき者とては一つもなくなり、悪魔も我声を聞いて戦慄《ふる》へるやうな、爾ういふ人とならなければなりません、即ちヨブと共に神に対つて我れ汝の事を耳にて聞ゐたりしが今は目を以て汝を見たてまつると断言し得るやうな基督信者とならなくてはなりません(約百記四十二章五節)。
 
(291)     慾の上進
                       明治38年9月10日
                       『新希望』67号「談話」
                       署名 櫟林生
 
 人の慾は絶つことの出来るものではない、慾は彼の固有性であつて、彼の慾を全く絶つことは彼を殺すことである、故に人を無慾にすることは不可能事である、無慾無慾といふて世の人は頻りに無慾の人を誉めるが然かし其様な人は広き宇宙に一人も無い。
 然かし慾はすべて同じものではない、高い慾があり、低い慾がある、貴い慾があり、卑しい慾がある、爾うして世に謂ふ所の無慾の人とは低い、卑しい慾の無い人を謂ふのである。
 慾にも種々種類がある、金銭の慾がある、是れは最も普通で最も低い慾である、名誉の慾がある、是れは人に誉められたい、人の上位に立つて威張りたいといふ慾であつて、金銭の慾と相俟つて常人《じやうじん》を支配する慾である、其上に学問の慾があり、美術の慾があり、思想の慾があり、労働の慾があり、慈善の慾があり、終には無我無慾の慾があるのである、爾うして我等の努むべきことは成るべく丈け高き慾を以て成るべく丈け低き慾を駆逐ることである、名誉の慾は低い慾ではあるが、然かし金銭の慾よりも少しく上位である、学問の慾とても余りに誉めたものではないが、然かし金銭名誉の慾に較べて見れば稍々高尚なる慾である、美術の慾、詩歌、哲学の慾は稍や人らしい慾と称はなければならない、金銭を目的とせざる労働の慾、即ち労働其物のために労働を求むる心は(292)蓋し美術文学以上の慾であると思ふ。
 然かし人類の懐くべき慾は是等以上の慾でなければならない、即ち自己を忘るゝの慾、世に所謂る慾念を全く絶たんとするの慾でなくてはならない、慈善の慾、愛国の慾の如きは此種の慾の中で最も普通なるものである、爾うして下等なる利慾の熾なる斯の世に在て慈善、愛国の貴いことは言ふまでもない、然かしながら慾には限りの無いものである、慾の量に限りの無いやうに慾の質にも限りがない、世には慈善、愛国よりも更らに高い、更らに聖い、更らに貴い慾がある、それは神を視んとする慾である、其子供とならんとする慾である、神の懐に入り、其愛の奥義を知り、之に励まされて博く深く同胞を愛せんとする慾である、是れが慾の絶頂である、慾の昇華せしもの、慾と称すべからざる慾、慾に逆らひ、之を全滅せんとする慾である。
 爾うしてキリストは斯かる慾に我等を招き給ふのである、彼は我等に諭して曰ひ給ふ「汝等小慾の者よ、蠹《しみ》くい銹くさり、盗穿ちて窃む所の地に財を蓄へて何を為さんとするか、又人の名誉を己に博して何の益する所ある乎、神が汝等を造り給ひしは斯かる小慾の者たらしめんとにはあらざりし 汝等は実に神の子たるの特権に与かり得る者なり、神を以て汝等の所有《もの》と為し得る者なり、汝等若し全世界を得るとも之を神の無限に較ぶれば之とてもいと小なるものなり、神は無限の神を以てするにあらざれば満足する能はざる者として汝等を造り給へり、故に神の其目的に適ひて無限の慾を懐いて其子となれよ、而して神は我を遣はして此慾を充たしむるの途を汝等のために供へ給へり」と。
 神の己を愛する者の為に備へ給ひしものは目未だ見ず、耳未だ聞かず、人の心未だ念はざるなり(哥前二〇九)、世の富者の心に其貧者は入ることが出来ないやうに、神の子供の富と栄とに世の富者も権者も入ることは出来な(293)
い、神の霊が心に降りし時の平和、天開けて神の使等《つかひたち》が昇降《のぼりくだり》するを見る時の歓び、万物悉く新たになり、山にも川にも木にも草にも神の愛が満ち充ちて叢に囀づる小鳥の声までが天人の音楽のやうに聞える時の楽み………人は何人でも斯の栄光、斯の快楽を我が所有と為さんとするの聖慾を懐くべきである。
 
(294)     我書芬蘭土に入る
                       明治38年9月10日
                       『新希望』67号「雑記」
                       署名 内村生
 
 日露両国は今や開戦中に在り、然れども日露両国のキリストに在る真の兄弟は平和と一致とを以て遠く互に相交はる、戦争は斯世の事なり、キリストの事にあらず、キリストにありては我等戦はんと欲するも能はざるなり、左の書翰は近頃北欧芬蘭土より余の手に接せし者なり、之を一読して基督教徒の霊交の如何に親且つ密なる乎を見るべし、キリストの福音に敵味方の別あるなし、(書翰は綺麗なる英文にて成れり、左に掲ぐるは余の自訳なり)。
 
  芬蘭土国ソルタバラに於て
  一千九百五年七月五日
  内村鑑三君貴下
 
   親愛なる君よ、余は君に全く知られざる遠き外国の人なるに斯くも君を煩はさゞるを得ざるに至りし事に就て君の忍容を乞はざるべからず、然れども余は今己を抑へんと欲して抑ふる能はざるなり、余は君に書を寄せざるを得ざるなり、余に肝要なる事件生ぜり。
(295) 余は今独逸文の翻訳に依て君の好著述『余は如何にして基督信徒となりし乎』を読めり、而して余は之を我が芬蘭土文学の中に加へんと欲す、余が今君に書を寄するは切に君に乞ふて君の此著を英文原書より芬蘭土語に訳するの君の深切なる許可を得んがためなり。
  君の此書は余が曾て読みし外国伝道に就ての最良の説教なり、亦我等欧洲の基督信者に取て甚だ健全にして而かも峻厳なる教訓なり、人は此一小孔を通うして他教国の状態を窺ふを得べく、而して其愛すべくして愛心を喚起すべき影像に彼の眼を喜ばすを得べし、余は信じて疑はず、君の此書は亦余の国に於ても――其人口よりすれば甚だ小なる国なりと雖も――亦多くの同情者を得るならんことを。
  余は望む、君が余の此懇切なる希願を斥けざらんことを、余はまた君が此書翰に対する君の返書を芬蘭土訳の首《はじめ》に掲ぐるの許可を余に予へられんことを、今より予め君に願ひ置くなり。
  君にして若し同時に日本の基督信者に関する統計的事実を余に供せらるゝならば余が君に負ふ所は更らに大なるべし。
  余は今此書翰を瑞典国ストックホルム市を経て君に向て発送す、是れ今日の状態に顧みて聖彼得堡、東京間に於ける郵便物の安全を気遣へばなり、君も願くばストックホルムを経て君の書翰を送られんことを。
  多くの好意を以て
   君の最も真実なる
    カールロ、スオマライネン
 余は之に対して大略左の如く答へたり。
(296)   余は勿論喜んで君の来意を諒す、余は芬蘭土人の日本人と同人種の民なるを知る、余は未だ曾て余の黄色人種なることを愧たることなし、人は其属する人種に依て其尊卑を定めらるべき者にあらず、芬蘭土人は黄色人種なるも欧洲に於て最も円満に発達せる基督教的文明を産出せり、余は余の国人に勧むるに、其海軍に於て英国に傚ひ、其陸軍に於て独逸国に学びしが如くに、其宗教に於ては芬蘭土に傚はんことを以てす、君よ、我等両蒙古的国民をして東西両面より露西亜帝国に侵入せしめよ、而かも軍艦と軍隊とを以てにあらず、爆裂弾と革命運動とを以てにあらず、イエスキリストの平和の福音を以て我等をして、日本人は東より、芬蘭土人は西より、露西亜帝国に侵入せしめよ、余は君の命に従ひ、此書を瑞典国を経て君に向けて発送す、
 
〔画像略〕フィンランド語版『余は如何にして基督信徒となりし乎』初版扉
 
(297)   然れども切に祈る、余が次回書を君に寄する時は平和は日露両国に間に復り、余の書翰は西比利亜鉄道に由りて直に君の手許に達するに至らんことを云々
   因に曰ふ、南阿非利加ケープ植民地ステレンボツシユなるブーア民族の神学校教授ドクトル、ホツフマイエル氏も亦遙々書を寄せられて、同意と同情と同感とを余輩に表せられたり。
 
(298)     トルストイ伯の社会主義観
                       明治38年9月10日
                       『新希望』67号「雑記」
                       署名なし
 
 近刊『直言』碓誌(社会主義の機関紙)はトルストイ伯より安倍磯雄君に寄せられし書翰を載せたり、社会主義を痛切に論ぜられしものなり、余輩は基督教のことに関しては全然伯の弟子たる能はざれども、社会主義のことに関しては伯と全然意見を共にする者なり、斯く曰ひて余輩は斯主義を奉ずる多くの高潔なる人士に対し余輩が平常懐抱する尊敬の念を撤回せんとする者に非ず、主義は主義なり、人格は人格なり、余輩は茲に『直言』記者の許可を得て伯の書翰の全文を転載す。
   千九百〇四年十月廿三日、ツーラ、ヤスナヤポリアナに於て
    親愛なる友人安倍磯雄君よ
   足下の手紙及び英文を載せたる足下の新聞を受取りたる事は予に取りて大いなる愉快なりき、予は心より之を謝す
   日本に於て、幾多の理性的、道徳的及び宗教的人士ありて、今この昏迷せる両国民問に荒びつゝある戦争の罪悪に反対し居るべきは、予の疑はざる所なりしが、今や其の確証を得たるは予の深く喜ぷ所なり
   予は日本に於て、親しく相交るべき友人を有し共働者を有する事を思ひ、実に欣喜に堪へず
(299)   然れども予は総ての尊敬する友人に対して然する如く、足下に対しても亦た極めて真摯ならざる可らず、而して予は社会主義に賛成せざる事を足下に告げざる可らず、予は日本の、慧敏にして精力強き、人民の最も進歩せる部分が、此の脆弱なる、空想的の、而も誤謬多き社会主義を欧洲より取りたるを悲む、欧洲に於ては社会主義は今や既に遺棄せられつゝあり
   社会主義は人間性情の最も賤しき部分の満足(即ち其の物質的の幸福)を以て目的と為す、而して其の幸福は決して其の唱道する手段に依りて到達せらるべきものに非ず
   人間の真の幸福は精神的即ち道徳的にして其中に物質的幸福を包含す、而して此の高尚なる目的は、国民及び人間を組織せる一切の単位の、宗教的即ち道徳的完成に依りてのみ到達せらる
   宗教と云へば、予は人間一切に通ずる神の法則に対する合理的信仰を意味す、之を実際に現はすは、即ち総ての人を愛し、総ての人に対し、己れの欲する所を施すに在り
   此の法は社会主義及び其他の脆弱なる諸主義に比し、甚だ有効ならざるが如きの観あるべしと雖も、予は之を以て唯一の真法と為す 而して彼の誤謬多き(而も到底その目的に達す可らざる)諸主義を現ぜんとする一切の運動は、この唯一の真法の使用を妨げ、現時に於て正当なる、人類及び各個人の幸福の度に到達せざらしむ
   足下の信仰を自由に評論したる事と予の英文の拙き事とに対して予を宥恕せよ、而して予が足下の真の友人なる事を信ぜよ
                 レオ、トルストイ
 
(300)     イエスの友人
                       明治38年9月10日
                       『新希望』67号「雑記」
                       署名なし
 
 イエスに多くの友人ありたり、今、其模範的人物を掲ぐれば大略左の如し。 一は税吏の長なるザアカイなり、イエス彼の家に入りて食しければ衆人之を見て呟き曰ひけるは彼は往きて罪ある人の客となれりと(路可伝十九章一1十節)。
 二はマグダラのマリヤなり、悔改めし娼婦なりと伝へらる、蝋石の盆に香膏《にほひあぶら》を携来り、イエスの足に之を抹り、彼女の首《かしら》の髪をもて之を拭ひし者は此婦ならんと解せらる(路可伝七章二十六節以下)。
 三はカナンの婦《をんな》なり、即ち異教の婦人なり、今の宣教師が賤視して止まざる所謂る Heathen woman なり、而かもイエスは彼女の女《むすめ》にして悪鬼に憑れたる者を癒し給へり(馬可伝七章廿四−三十節)。
 四には百夫の長某なり、彼は羅馬人にして猶太神教には何の関係をも有たざりしも、イエスは喜んで其僕の病を癒し、且つ甚く其信仰を賞め給へり(馬太伝八章五−十三節)。
 五には十字架上の盗賊の一人なり、イエス其悔改の言を聞いて今日汝は我と偕に楽園に在るべしと言ひ給へり(路可伝廿三章三十九−四十三節)。
 他にイエスの益友とも称すべき者としてはベタニヤのマルタ、マリヤ、ラザロの一家族ありたり(約翰伝十一(301)章)、アリマタヤの富める人なるヨセフありたり(馬太伝廿七章五十七節)、パリサイのニコデモの如く公然とは彼を師とは仰がざりしも隠然と彼を慕ひし者ありたり(約翰伝三章)。
 然れども是等は寧ろ例外として見るべきなり。依て知るイエスの友人は主として俗吏、異邦人、罪人の類なりしを、彼は高官、貴族、殊に当時の宗教家の中に一人の親友を有たざりしを見る、我等今日の彼の弟子たる者は、我等の友人を択まんとするに際して大に彼に学ぶ所なくして可ならんや。
 
(302)     〔釈放の霊 他〕
                       明治38年10月10日
                       『新希望』68号「精神」
                       署名なし
 
    釈放の霊
 
 我は釈放の霊を要す、我肉は病の縛る所となりて我は活動する能はず、我心は惑の閉す所となりて我は光明を仰ぐ能はず、我霊は罪の圧する所となりて我は清浄なる能はず、ナザレのイエスよ、我を授けよ、而して我がすべての束縛を釈いて我をして神の子の自由に入らしめよ。
 
    我意と神意との衝突
 
 我は恒に我が力の足らざらんことを懼れ、神は恒に我が力の足り過ぎんことを慮《おもひはか》り給ふ、我は我れ強からざれば弱しと思ひ、神は我れ弱からざれば強からざるを知り給ふ、我は我が力を増さんと欲し、神は我が力を穀がんと欲し給ふ、我が意ふ所は常に神の見る所と異なる、我の焦慮する時に神は笑ひ給ふ、我は己を知らずして恒に自から苦悩《なや》む者なり。
 
(303)    神の独立
 
 神は我が神経に非ず、我が精力に非ず、彼は我が脳裡に画ける影像に非ず、彼は我を離れて実在する者なり、神は我と強弱を共にする者に非ず、我れ弱き時も彼は強し、然かり、彼は我が弱きに由て其強きを顕はし給ふ、神の栄光をのみ是れ求むべき我は我が弱きの所為《ゆえ》を以て悲むべからざるなり。
 
    信仰と労働
 
 信仰は信仰に由て維持する能はず、信仰は労働に由てのみ能く維持するを得べし、信仰は根にして労働は枝なり、前者は養汁を供し、後者は之を消化す、枝葉無くして汁液は腐敗して毒素を醸す、労働なくして信仰は堕落して懐疑を生ず、信仰維持に必要なるものはより多くの信仰にあらず、手と脳とを以てする労働なり、労働なくして肉体は飢え霊魂は死す、労働は肉体維持のためにのみ必要なるものにあらざるなり。
 
    信仰の鑑識
 
 社会学者は言ふ、労働は貸銀を獲るための苦業なりと、宗教家もまた其声を受けて言ふ、労働は心身の疲労なり、多くの休養を以て之を償はざるべからずと、然れどもキリストは言ひ給ふ、労働は手を以て神の真理を実得することなり、直に神の宇宙に接することなり、神と共に働くことなり、故に至高純美の快楽なりと、人の信仰は労働に関はる彼の観念を以て鑑識するを得べし、労働を忌み、卑み、避くる者は不信者なり、之を好み、尊み、(304)楽む者は信者なり、余輩は半生の実験に由て斯く断言するを憚らず。
 
    神の歴史
 
 人の歴史あり、神の歴史あり、而して聖書は神の行動の記録にして神の歴史なり、之を解するの困難は人の歴史として之を解せんとするに因る、之を神の歴史として見て、其解釈に何等の困難あるなし、神の歴史なり、故に最も確実なる歴史なり、人の歴史はすべて誤謬ならんも、神の歴史はすべて真実なるべし、余輩は「動かすべからざる聖経の磐」に籟らんと欲す。
 
    活ける聖書
 
 聖書を究むるは嘉し、然れども己れ自から神の聖書たるは更に嘉し、聖書は過去に於ける神の行動の記録なり、我をして現在に於ける神の行動の実証たらしめよ、我をして聖書の活ける註釈たらしめよ、即ち贖罪、表義、救拯の目的物たるを得て「赦されたる罪人」の好標本たらしめよ、我は聖書学者たるの野心を絶たるゝも神の恩恵の受器たるを得て小なる善きクリスチヤンたらんことを欲す。
 
    忍耐の業=伝道
 
 伝道は忍耐の業なり、福音の種を蒔て其生育を待つことなり、其他に非ず、雄弁に非ず、交際に非ず、学識に非ず忍耐なり、忍耐を以て待つことなり、そは若し倦むことなくば、我等時に至りて穫取るべければ也(加拉太(305)書六章九節)、すべでの才能に於て欠くる所なしと雖も忍耐の一事に於て欠くる者は此聖業に入るべからざるなり。
 
    外交の重責
 
 外交は公的生涯の最も顕著なる者なり、世界環視の下に国民の運命を議することなり、国に代て万国の民に鞫かるゝことなり、是に所謂る懸引なるものあるべからず、権謀術数あるべからず、恥づべき匿れたる事を棄て詭譎を行はず、神の道を乱さず、真理を顕はして神の前に己をすべての人の良心に質すことならざるべからず(哥林多後書四章二節)、軽躁浮虚の人は到底此重責に当る能はず、外交は技量よりも寧ろ品性を要す、基督教的紳士ならずして良き外交家たる能はず。
 
    国家と国家
 
 国家あり又国家あり、理想の国家あり、又現実の国家あり、神の国家あり、又人の国家あり、前者は敬ふべし、服ふべし、後者は憐れむべし、導くべし、前者は之を神の黙示に由て知る、後者は之を時の制度、輿論、政治に於て見る、前者は主なり、後者は従なり、二者を混同して主従其処を換ふることあり、慎むべし。
 
    二人の主
 
 理想の国家は日ふ、我に真理と福音とを供せよと、現実の国家は曰ふ、我に金と国威とを与へよと、理想の国(306)は我が伝道に従事するを見て悦び、現実の国家は我が利殖の業に就かざるを見て怒る、理想の国家は明君なり、彼は智慧と真理とを愛す、現実の国家は暗主なり、彼は金と虚栄とを求む、我は前者の忠臣義士となりて、後者の逆臣賊子たらんと欲す。
 
(307)     今日の為めにす
         毎朝就職前の決心
                       明治38年10月10日
                       『新希望』68号「精神」
                       署名なし
 
          『コスモポリタン』雑誌主筆 ジョン・ブリスベン・ウオルカー
 何は兎もあれ余は臆病者ならざらんことを、余に勇気あらんことを、人生の不安に動かされず、友人、健康、資財の損失を懼れざるの勇気あらんことを、余は確かなる静かなる心を以て、即ち何物をも恐るゝことなく、勇気を以て失敗又は損失に処するの覚悟を以て、余の今日の事業を就かんことを。
 余は余が接触せんとするすべての人に対し好情と善意とを懐きながら余の今日の勤労に入らんことを、余は妄りに又は悪意を以て他の人を鞫かざらんことを。
 余は貪らざらんことを、余が当然受くべき此世の物質を以て満足し、而して他人をして其当然受くべきものを受けしめんことを、余は余の義務を尽すに於て勤勉ならんことを、又余の挙動に於て快活ならんことを、余は正義の遂行に熱心ならんことを。
 余は小事にあれ大事にあれ、或ひは新良法を学ぶ上に於て、或は大胆にして静粛なる、円満にして調和せる生涯を送るに必要なる哲理を受くる上に於て、真理とあれば如何なる真理と雖も喜んで之を受納れんとする公明な(308)る心を以て世に立たんことを。
 
(309)     以賽亜書私訳
                 明治38年10月10日−39年3月10日
                 『新希望』68−73号「研究」「翻訳」
                 署名 内村鑑三
 
   序言
 
是は余が『角筈聖書』の続編として自己を慰め、友を益せんがために作りし者なり、学者に批評の材料を供せんがために非ず、其心して読まれんことを望む。
余は之を編纂するに方て左の諸書に負ふ所甚だ多し、
 日本訳聖書 〇監督シェレチユースキー(S.I.J.Schelescbewsky)氏支那訳聖書 〇英訳聖書 〇ルーテル独通訳聖書 〇猶太人アイザック・レーゼル(lsaac Leeser)訳英訳聖書 〇スキンネル(T.Skinner)氏著『以賽亜書註解』二冊 〇スミス(George Adam Smith)氏著『以賽亜之書』二冊 〇デリッチ(Franz Delitzsch)氏『以賽亜書註解』二冊 〇チーネー(T.K.Cheyne)氏著『以賽亜の予言』。
其他、以賽亜書に関し余が幼時より読み来りし書は略す。
註解は他日附することあるも、今は附せず、是れ一には余の訳文の已に註解的なるが故なり、二には読者をして註解に依ることなくして聖書を愛読するの好習慣を得しめんためなり、余は文の配列と字句の撰択とに(310)由りて本文をして在来の訳文よりもより解し易きものたらしめたりと信ず。
試に以賽亜書四十章より四十八章までの余の私訳を本誌読者の前に提供す、神、願くは此小にして、而かも至て困難なる労働の結果を祝福し給はんことを。
 
   第四十章
 
 一、汝等の神ヱホバ云ひ給はく、
   慰めよ、汝等我が民を慰めよ、
 二、懇切《ねんごろ》にヱルサレムに語り之に耳語《さゝやき》きて告げよ、
   その服役の期すでに終り、
   その科すでに赦され、
   そのすべての罪はヱホバの手によりて加倍して罰せられたりと。
 三、声あり、喚はりて云はく、
   汝等|曠野《あれの》にヱホバの途を備へ、
   沙漠に我等の神の大路を修めよと。
 四、諸《もろ/\》の谷は高くせられ、
   諸の山と岡とは低くせられ、
(311)   峻※[山+區]《けはし》きは平かにせらるべし、
 五、斯くてヱホバの栄光現はれ、
   人みな共に之を見ん。
 六、声あり、云く、叫べと、
   我答へて曰く、何をか叫ばんと、
   云く、人はみな草なり、
   その栄華《はえ》はすべて野の花の如し、
 七、草は枯れ花は凋む、
   ヱホバの気息《いき》その上を吹きしに因ると。
   実《げ》に民は草なり、
 八、草は枯れ、花は凋む、
   然れど我等の神の言《ことば》は永遠《とこしへ》に立たん。
 九、嘉き音信《おとづれ》をシオンに伝ふる者よ、汝、高山《たかきやま》に登れ、
   嘉き音信をヱルサレムに伝ふる者よ、汝強く汝の声を揚げよ、
(312)   声を揚げて懼るゝ勿れ、
   ユダの邑々《まち々々》に告げて曰へ、汝等の神|臨《きた》り給ふと。
 十、見よ、ヱホバ能力を以て臨り給はん、
   その臂《かひな》を以て統治《すべおさ》め給はん、
   見よ、報賞はその手にあり、
   労働の報酬はその前にあり。
 十一、彼、牧者の如くに其群を養ひ給はん、
   彼、その臂を以て其小羊を集め給はん、
   之をその懐に携へ給はん、
   子を持てる牝羊は静かに之を導き給はん、
 十二、誰か掌《たなごゝろ》をもて海の水を量り、
   指をのばして天を度りし者あるや、
   誰か量器《ます》に地の塵を盛り、
   権《けん》をもて山を権《はか》り
   衡をもて岡を衡《はか》りし者ありや、
 〔十三〕誰か主の心を導きしや、
(313) 十四、訓へられんとて彼は誰に諮りしや、
   誰か公道を彼に伝へしや、
   また明道《めいどう》を彼に示せしや。
 十五、見よ、万国は盤水の一滴の如し、
   衡上の微塵の如し、
   見よ、島々は立昇る塵埃の如し。
 十六、レバノンは薪に足らず、
   そのなかの獣は燔祭《はんさい》に足らず、
 十七、ヱホバの前には国民は皆な無《なき》に等し、
   彼に取りては是等は皆な虚無に等しき者なり。
 十八、然らば汝等神を何に較べん乎、
   いかなる肖像をもて之に肖せん乎、
 十九、偶像は冶工之を鋳り、
   鍛工、黄金をもて之を覆ふ、
 二十、供物《くもつ》に乏しき貧しき者は朽ざる木を選み、
(314)   己のために良工を求め、
   動くことなき偶像を建しむ。
 
 廿一、汝等知らざるか、汝等聞かざるか、
   原始より汝等に伝へられざりし乎、
   汝等地の基《もとゐ》の置かれし時より悟らざりし乎、
 廿二、ヱホバは地のはるか上に座し給ひて、
   其住民を見給ふこと蝗の如し、
   彼薄絹の如くに天を布き、
   住ふべき天幕の如くに之を張り給へり、
 廿三、尊者《そんしや》を無に帰せしめ、
   地上の権者を虚とならしめ給ふ、
 廿四、然り、彼等僅かに植らるゝや否や、
   然り、彼等僅かに播かるゝや否や、
   然り、その幹僅かに地に根ざすや否や、
   神その上に吹き給へば即ち枯る、
   暴風《はやて》枯草の如くに之を捲去る。
(315) 廿五、然らば汝等我を誰に較べん乎、
   何に肖せんとする乎と聖者曰ひ給ふ、
 廿六、汝等の眼を揚げて高きを見よ、
   誰が是等の天体を創造り給ひしぞ、
   彼は数を検《ただ》してその万象を牽出だし、
   名を呼びてすべて彼等を呼出し給ふ、
   主の勢大なるが故に、その力強きが故に、
   一としてその命《めい》に応ぜざる者なし。
 廿七、ヤコブよ、汝、何故に言ふや、イスラエルよ、汝何故に語るや、
   我が途《みち》はヱホバの前に隠れ、
   我が訟《うつたへ》は我が神の前を過去れりと。
 廿八、汝、知らざるか、汝聞かざる乎、
   永久の神はヱホバなり、
   地の極《はて》を創造り給ひし者、
   彼は倦むことなし、また疲るゝことなし、
   彼の聡明《さとり》は測り難し、
(316) 廿九、疲れたる者に力を与へ、
   勢なき者に強《つよき》を増し加へ給ふことを。
 三十、青年は倦み疲れ、
   壮士も亦衰ふ、
 卅一、然れどヱホバを俟望む者は新なる力を得ん、
   彼等は鷲の如く翼を張りて昇らん、
   走れども疲れず、歩めども倦まざるべし。
 
 第四十一章
 
 一、黙して我に聴け、島々よ、
   新たなる力を得て我に近き来れ、
   而して言はんと欲する所を言へ、
   我等相近よりて弁論《いひあらそは》はん、
 二、誰か日の出づる方より一《ひとり》の人を起し、
   正義をもて之を我が足下に召し、
   その前に諸国を服せしめ諸王を治めしめ、
   彼等の剣を塵の如くならしめ、
(317) 三、彼、彼等を逐ふて行過ぐ、
   其迅速きこと地を履まずして道を行くが如し、
 四、誰か此事を計り此事を行ひしや、
   誰か太初《はじめ》より世々の人々を呼起せしや、
   我、ヱホバなり、始に在りし者、
   また終と共に在るものなり、
 五、島々は見て駭けり、
   地の極は戦慄《おのゝ》けり、
   彼等は相集り来れり、
 六、而して隣人互に相扶け、
   その侶伴《とも》に語りて言ふ、心を強くせよと、
 七、冶工は鍛工を励まし、
   槌を以て平らかにする者は鉄砧《かなしき》を打つ者を励まし、
   金板の接合《つぎあはせ》の成るを見て曰ふ『是れにて足れり』と、
   而して釘をもて之を堅うして揺《うご》くことなからしむ。
 八、然れど我が僕イスラエルよ、
(318)   我が選めるヤコブよ、
   我が友アブラハムの裔《すゑ》よ、
 九、我、地の極より汝を携へ来り、
   地の端より汝を召し、
   而して汝に言へり『汝、我が僕よ、
   我、汝を選み、汝を棄ず』と、
 十、懼るゝ勿れ、我、汝と偕に在り、
   驚く勿れ、我は汝の神なり、
   我、汝を強くせり、然り、我、汝を助けん、
   然り、我が正義の右手を以て汝を支えん、
 十一、視よ、汝に向つて怒を発せし者を、……彼等は耻辱を獲て狼狽へん、   汝と競ひし者を、……彼等は無きが如き者となりて亡び失せん、
 十ニ、汝と争ひし者を、……汝、彼等を尋ねて会はざるべし、
   汝と闘ひし者を、……彼等は無きが如き者、虚しき者となるべし、
 十三、そは我、汝の神ヱホバは汝の右手を取り、
   『懼るゝ勿れ、我汝を助けん』と言ふ者なればなり、
 十四、懼るゝ勿れ、汝、虫に等しきヤコブよ、汝等イスラエルの者等よ、
(319)   彼は汝の贖主、イスラエルの聖者なり。
 十五、視よ、我、汝を新しき鋭利なる打麦《むぎうち》の器となさん、
   汝、山を打ちて微塵に打砕かん、
   岡を打ちて粃糠《もみがら》の如くに為さん、
 十六、汝、之を簸《あふ》がん、而して風之を巻去らん、
   狂風之を吹散さん。
   然れど汝はヱホバによりて喜ばん、
   イスラエルの聖者によりて誇らん。
 十七、貧者と乏者とは水を求めて得ず、
   その舌渇きて燥く時、
   我、ヱホバ彼等に聴て応へん、
   イスラエルの神は彼等を棄てざるべし。
 十八、我、河を禿の山に開き、
   泉を谷の中に出だし、
   曠野《あれの》を水の溜となし、
   焦土を水の源となさん、
(320) 十九、我、曠野に香柏、アカシヤ、桃金嬢《てんにんくわ》、油樹《あぶらのき》を植えん、
   沙漠に杉、松、黄楊を共に置かん、
 二十、彼等之を見て識り、考へ、且つ暁《さと》らん、
   即ちヱホバの手《みて》、此事を為し、
   イスラエルの聖者之を造りしことを暁らん。
 廿一、いま汝等の訴訟《うつたへ》を述べよとヱホバ宣べ給ふ、
   汝等の証拠を挙げよとヤコブの王言ひ給ふ、
 廿二、之を挙げよ、即ち後にあらんことを我等に示せ、
   その最先《いやさき》に成るべきことの何たる乎を示せ、
   我等熟思して其結局を見ん、
   或ひは将さに来らんとする事を我等に宜べよ、
 廿三、後に来らんとすることを我等に示せ、
   我等汝等が神なるを知らん、
   或ひは福ひせよ、或ひは禍ひせよ、
   我等ともに見て駭かん。
 廿四、視よ、汝等は皆虚なり、汝等の作す所も亦虚なり、
(321) 廿五、我、一りの人を北より起したり、
   彼、日の出づる方より来りて我名を※[龠+頁]ばん、
   彼来て侯伯を泥の如くにせん、恰かも陶工《すえつくり》が土を践む如くにせん、
 廿六、誰か太初より告げて我等をして暁らしめたりしや、
   誰か昔より示して我等をして『実に然り』と言はしめしや、
   一人だに告げし者なし、一人だに示せし者なし、
   一人だに汝等の言を聞きし者なし。
 廿七、我、予めシオンに云はん『視よ、彼等を視よ』と、
   我、嘉き音信《おとづれ》を伝ふる者をヱルサレムに予へん、
 廿八、視よ、我見まはせしに一人だになし、
   是等の中に助言者一人だになし、
   之に問へども応ふる者一人だになし、
 廿九、視よ、彼等はすべて虚なり、彼等の所作《わざ》は無なり、
   その偶像は風なり、また空《くう》なり。 〔以上、10・10〕
 
(322)   第四十二章
 
     理想の伝導師
 一、視よ我の支持する我僕を、
   我心に適ふ我選びし者を、
   我、我霊を彼に予へたり、
   彼異邦人に道を示すべし、
 二、彼は叫ばず、その声を揚げず、
   人、その声を街頭《ちまた》に聞かず、
 三、傷める葦を折ることなく、
   残れる燈火《ともし》を滅すことなし、
   彼は真理に循ひて道を伝へん、
 四、彼は衰へず、また憊《つか》れず、
   全地に道を布くに至らん、
   島々は彼の教を待てり。
     メシヤの天職
 五、ヱホバかく言給ふ……
(323)   地と其上の万物を造り、
   其上に住む民に気息《いき》を予へ、
   其上に歩む者に霊を賜ひし者なり……
 〔六〕曰く、我れヱホバ公義をもて汝を召したり、
   我れ汝の手を取り、汝を護り、
   汝を民の契約となし、異邦の光となし、
 七、而して瞽者《めしひ》の目を開かしめ、
   俘虜《めしうど》を獄《ひちや》より出さしめ、
   暗《くらき》に在る者を檻《をり》より出さしめん。
 八、我はヱホバなり、是れ我名なり、
   我は我栄光を他《ほか》の者に予へず、
   我|頌美《ほまれ》を偶像に予へざるなり、
 九、先に成るべきことは既に成れり、
   我れ今、新しきことを汝等に告げん、
   事の兆さゞる前に我れ之を汝等に示さん。
(324)     讃美の声
 十、ヱホバにむかひて新しき歌をうたひ、
   地の極より其頌美をたゝへよ、
   海に浮ぶ人と其中に在る者よ、
   島々と之に住める民よ。
 十一、曠野と其邑々と、
   ケダル人の住める村々とはその声を揚げよ、
   セラの民は謳《うた》へ、
   その山の巓より
 十二、栄光をヱホバに奉れ、
   その頌美を島々に告げよ、
 十三、ヱホバは勇士の如くに出立ち給ふ、
   戦士の如くに憤怒を発し給ふ、
   大能を現してその敵を攻め給ふ。
     ヱホバの発憤
 十四、我れ久しく声を出さず、
   黙して己を抑へたり、
(325)   今我れ産の劬労《くるしみ》にかゝりし婦人《をんな》の如くに叫ばん、
   気息烈しく且つ喘がん、
 十五、我れ山と岡とを荒し、
   そのすべての草木を枯さん、
   我れ河を変じて島と化し、
   海は之を涸さん、
 十六、我れ瞽者をその未だ知らざる路に携行《つれゆ》き、
   その未だ識らざる径に導かん、
   我れその前に暗《くらき》を光となし、
   曲りたる所を直くすべし、
   我れ是等の事を為すべし、為さでは止まざるべし、
 十七、彼等、刻みたる像に頼む者は、
   彼等鋳りたる像に向ひて『汝は我神なり』と言ふ者は、
   彼等は退けられ、彼等は甚《いた》く凌辱《はじ》しめらるべし。
     盲目の民
 十八、汝等|聾者《みゝしひ》よ、聴け、
   汝等瞽者よ、見て暁れ、
(326) 十九、瞽者とは誰ぞ、我僕ならずや、
   誰か我が遺はせし使者《つかひ》の如き聾者あらんや、
   誰か我|信頼《たの》みし者の如き瞽者あらんや、
   ヱホバの僕の如き聾者あらんや、
 二十、汝、多くのことを見たり、然れども暁らざるなり、
   耳を開きたり、然れども聴かざるなり、
 廿一、ヱホバはその公義の故をもて
   之に大にして貴き律法《おきて》を賜ひたり、
 廿二、然るに此民は掠められ又奪ひ去られたり、
   彼等は皆な穴の中に捕はれたり、
   彼等は獄の中に閉込められたり、
   彼等は捕虜となれり、而かも彼等を助くる者なし、
   彼等は獲物となれり、而かも『還せ』と云ふ者なし、
 廿三、汝等のうち誰か此事に耳を傾くる者ぞ、
   誰か後日《のち》のために心を用ゐて聞く者ぞ、
 廿四、ヤコブを獲物として与へし者は誰ぞや、
   イスラエルを掠むる者に付《わた》せし者は誰ぞや、
(327)   是れヱホバならずや。
     罪の懺悔
   我等は彼に対つて罪を犯したり、
   彼等は好んでヱホバの道に歩まざりき、
   その律法に従はざりき、
 廿五、故にヱホバは憤怒《ふんど》の烈火をその上に注ぎ給へり
   戦争の猛火を来らせ給へり、
   炎《ほのう》、彼の周囲に燃へしかども彼識らず、
   彼を焚《や》けども彼之を心に留めざりき。
 
   第四十三章
 
     慰藉の辞
 一、然れどヤコブよ、汝を造れるヱホバ今云ひ給ふ、
   イスラエルよ、汝を作れる者斯く云ひ給ふ、
   懼るゝ勿れ、我、汝を贖へり、
   我、汝を呼ぷに汝の名を以てせり、汝は我が有《もの》なり、
 二、汝水の中を過る時、我、汝と偕に在り、
(328)   河を横断《よぎ》る時、其水汝の上に溢れざるべし、
   汝火の中を歩む時、汝は焼かれざるべし、
   其焔は汝を焦さゞるべし、
 三、そは我、ヱホバは汝の神なればなり、
   我、イスラエルの聖者は汝の救主なればなり、
   我、エヂプトを汝の贖代《あがなひ》として与へたり、
   エテオピヤとセバとを汝の代りに附したり、
 四、汝、我が眼の前に貴重なるが故に、
   尊くして我、汝を愛するが故に、
   我は人を以て汝に替へ、
   民を以て汝の命に代ふべし、
 五、懼るゝ勿れ、我、汝と偕にあり、
   我、汝の裔《すえ》を東より携《つ》れ来り、
   西より汝を集むべし、
 六、我、北に向ひて云はん「放せ」と、
   南に向ひて云はん「留むる勿れ」と、
   我子等を遠方《とほく》より来らせよ、
(329)   我女等を地の極より来らせよ、
 七、彼等はすべて、我が名を以て称ばれし者、
   我が栄光のために我が造りし者、
   我が作りし者、然り我が完成せし者なり。
     国民の召集
 八、見る眼を有ちながら瞽者《めくら》なる民、
   聴く耳を有ちながら聾者《つんぼ》なる民を喚び出せよ、
 九、国々よ、汝等相集ふべし、
   民等よ、汝等来り会すべし、
   彼等の中誰か此事を告げ得んや、
   誰か先きに成るべきことを示し得んや、
   その証拠を挙げよ、然らば是とせらるべし、
   人をして彼等に聴き「真に然り」と云はしめよ。
     ヱホバの証人
 十、ヱホバ言ひ給ふ、汝等は我が証人なり、
   我が簡みし我が僕なり、
   是れ汝等知りて我を信じ、
(330)   我が彼なるを暁らんためなり、
   我が前に神あるなし、
   我が後に神あるべからず、
 十一、我は……我は真にヱホバなり、
   我の外に救主あるなし、
 十二、我告げたり、而して救を施せり、
   我示したり……
   其時汝等の中に他の神なかりき、
   汝等は我が証人なり、我は神なりとヱホバ言ひ給ふ。
 十三、然り、今より後も我は彼なり、
   我が手より救ひ出す者なし、
   我為して何人か妨ぐるを得ん。
     イスラエルの救出
 十四、汝等の贖主イスラエルの聖者ヱホバ斯く云ひ給ふ、
   汝等のために我、人をバビロンに送り、
   其民をして総て河を下りて逃れしめ、
   カルデヤ人をして其|宴楽《あそび》の船に乗りて逃れしめん、
(331) 十五、我ヱホバは汝等の聖者なり、
   イスラエルを造りし者にして汝等の王なり。
 十六、ヱホバ斯く云ひ給ふ、……
   彼は海のなかに大路を設け、
   大なる水の中に径を作り、
 十七、戎車《じうしや》と馬と、軍旅と軍士とを出《いで》来らしめし者なり、
   彼等は尽く仆れて起つ能はず、
   皆燈火の消ゆるが如く消えたり……
 十八、ヱホパ云ひ給ふ、
   汝等往昔のことを思出づる勿れ、
   上古《いにしへ》のことを ふる勿れ、
 十九、視よ、我新しきことを為さんとす、
   今や既に起らんとしつゝあり、
   我、曠野に道を設け、
   沙漠に河を出さん、
 二十、野の獣《けもの》我を崇むべし、
   野犬《ジヤカル》と舵鳥もまた然り、
   汝等之を認めざる乎、
(332)   我、水を曠野に出し、
   河を沙漠に設けて、
   我民我簡びし者に飲ましむべければなり。
 廿一、こは我がために我が作りし民なり、
   彼等は我が讃美を宣べん。
     イスラエルの忘恩
 廿二、然るにヤコブよ、汝は我を※[龠+頁]び頼まざりき、
   イスラエルよ、汝は我がために労せざりき、
 廿三、汝は燔祭の羊を我に持来らざりき、
   又犠牲をもて我を崇めざりき、
   我、供物をもて汝を苦めざりき、
   又乳香をもて汝を煩さゞりき、
 廿四、汝は銀《かね》を以て我がために香物《かうもつ》を購はざりき、
   犠牲の膏を以て我を飽かしめざりき、
   汝は反て汝の罪をもて我を苦めたり、
   汝の悪を以て我を煩したりき、
 廿五、我は、我は実に己がために汝の愆《とが》を消す者なり、
(333)   我は汝の罪を記《おぼ》へざるべし、
 廿六、我をして想起さしめよ、我等相対して争はん、
   汝是とせられんために言はんと欲する所を言へ、
   汝の始祖罪を犯したり、
   汝の教師また我に逆へり、
 廿七、此故に(異邦人をして)我聖なる監督を汚さしめ、
   ヤコブを詛《のろ》はしめ、
   イスラエルを嘲らしめたり。 〔以上、11・10〕
 
   第四十四章
 
     恩恵の約束
 一 然れど今聴け、我僕ヤコブよ、
   我簡みしイスラエルよ、
 二 汝を造りしヱホバ斯く云ひ給ふ、
   汝を胎内に作りし以来汝を援けし者斯く云ひ給ふ、
   懼るゝ勿れ、我僕ヤコブよ、
(334)   我簡みしヱシュルンよ、
 三 我れ渇ける者に水を注ぎ、
   乾《ひ》たる地に水流《ながれ》を出し、
   汝の子等に霊を注ぎ、
   汝の裔に恩《めぐみ》を与ふべければなり。
 四 斯くて彼等は革の如くに蕃《しげ》らん、
   恰かも水浜《みぎは》に生ふる柳の如くならん、
 五 或者は曰はん「我はヱホバの属《もの》なり」と、
   或者はヤコブの名を以て自から称へん、
   或者は我は「ヱホバの属なり」と手にて記し、
   イスラエルの名を名告らん。
     ヱホバと偶像
 六 イスラエルの王にしてその贖主なるヱホバ、斯く云ひ給ふ、
   (彼は万軍のヱホバなり、)
   我は姶にして我は終なり、
   我の外に神あるなし、
 七 誰か我の如く宣べ得んや、
(335)   誰か昔より未来の事を告げしや、
   後に成らんとする事を示し得ば示すべし。
 八 汝等懼るゝ勿れ、戦慄く勿れ、
   我れ昔より汝に告げしにあらずや、汝に示せしにあらずや、
   汝等は我が証人なり、我の外に神あらんや、
   然り、我の外に磐あるなし、我は其在るを知らず、
 九 偶像を作る者は……彼等はすべて虚なり、
   彼等が慕ふ所のものは益なし、
   而して彼等の証人は……
   彼等は見えず又暁らず、彼等は愧しめらるべし、
 十 神を作りし者は誰ぞ、
   益なき偶像を鋳たりし者は誰ぞ、
 十一 視よ、彼等の伴侶《ともがら》はすべて愧しめらるべし、
   その職工等は……彼等は人のみ、
   彼等相集り、相寄て立つべし、
   彼等は驚かさるべし、相共に慚《はぢ》しめらるべし、
(336) 十二 鉄工は火を以て鑠《や》き、
   鎚をもて之を鍛へ、
   強き腕をもて之を固む、
   彼、飢《うゝ》れば力衰へ、
   水を飲まざれば疲かる。
 十三 木工は縄にて測り、墨にて画き、
   ※[金+斯]《かんな》にて削り、定木にて記し、
   人の美に像り、人の形に肖《にせ》て作り、
   而して之を家の中に安置す。
 十四 或ひは香柏を伐仆し、
   或ひは※[木+解]《かしは》を採り、或ひは橿を取り、
   或ひは林の中の或る他の樹を選び、
   或ひは杉を植え、雨をして之を生育たしむ、
 十五 而して人之を採りて薪となし、
   之をもて己が体を暖め、
   又之を燃してパンを※[火+亢]《や》き、
   又之を神に作りて拝み、
(337) 十六 其半を以て火を燃し、
   其半を以て肉を食ひ、
   即ち飽くまでに肉を焙りて食ふ、
   彼また己を煖めて云ふ、
   「アヽ我れ煖まれり、我れ熱きを党ゆ」と、
 十七 而して其|余《あまり》を以て神を作り、其像を作り、
   其前に平伏《ひれふ》し、之を拝み之に祈りて云ふ、
   「我を救へよ、汝は我神なり」と。
 十八 彼等は知らず、また悟らず、
   其眼塞りて見えず、
   其心閉ぢて了らず、
 十九 深く心に考ふる者なし、
   智識と明悟《さとり》とありて言ふ者なし、
   「我、其半を以て火 燃し、
   其炭火の上にパンを※[火+亢]き、
   肉を焙りて之を食ひたり、
(338)   我その余を以て憎むべき偶像を作らんや、
   我木の断片に平伏さんや」と。
 廿 灰を食ふ者よ!
   彼は迷へる心に惑はされて、
   己が霊魂を救ふ能はず、
   また「我右手に虚妄《きよばう》なき乎」と問ふ能はず、
 廿一 ヤコブよ、イスラエルよ、是等のことを心に留めよ、
   そは汝は我僕なればなり、
   我汝を作りたり、汝は我僕なり、
   イスラエルよ、汝は我に忘れられざるべし、
 廿二 我れ霧の如くに汝の愆を消したり、
   雲の如くに汝の罪を散らしたり、
   我に還れよ、我汝を贖ひたればなり。
     宇宙万物の頌讃
 廿三 歌へよ、天よ、ヱホバは此事を就《な》し給へり、
   叫べよ、地の低き所よ、
   声を発ちて謳へよ、汝等山々よ、
(339)   林と其中にあるすべての木よ、
   ヱホバはヤコブを贖ひ給へり、
   イスラエルの中に其|栄光《さかえ》を現はし給はん。
     ――――――――――
   ペルシヤ王クロスの聖召
 廿四 ヱホバ斯く云ひ給ふ、
   我は汝を贖ふ者、汝を胎内より作りし者なり、
   我は万事を成就るヱホバなり、
   惟り天を伸べ、
   自から地を闢き、
 廿五 誇張者の言を空しからしめ、
   売卜者を狂せしめ、
   智者をして後《しりへ》に退かしめ、
   其智慧を愚かならしめ、
 廿六 我僕の言を遂げしめ、
   我|使者等《つかひら》の謀を成らしめ、
   ヱルサレムに就て言ふ「再び居民あらん」と、
(340)   ユダの諸の邑に裁て言ふ「再び建らるべし」と、
   又「我その荒廃《あれはて》たる所を興さん」と、
 廿七 淵に命じて言ふ「乾け」と、
   又「我れ汝の川々を涸さん」と、
 廿八 又クロスに就て言ふ「彼は我が牧者なり、
   彼れ、我すべて好む所を成さん」と、
   彼はヱルサレムに就て言はん「汝は建らるべし」と、
   又型殿に就て言はん「汝の基は据えらるべし」と。
 
   第四十五章
 
     クロスの選抜
 一 我ヱホバ我受膏者クロスの右手を執り、
   詔の国を其前に降《くだ》らしめ、
   諸の王の腰を解き、
   扉をその前に開き、
   門をしてその前に閉られざらしむ。
 二 ヱホバ彼に斯く云ひ給ふ、
(341)   我れ汝の前に行き、
   ※[山+奇]※[山+區]《けはしき》を平かにし、
   銅《あかがね》の門を毀ち、
   鉄《くろがね》の関木《くわんぬき》を断つべし、
 三 我れ汝に暗中の財貨を与へ、
   また密処の宝物を附《わた》さん、
   是れ我はヱホバ、名を以て汝を召し者、
   イスラエルの神なるを汝に知らしめんためなり、
 四 我僕ヤコブ我簡めるイスラエルのために、
   汝我を知らざるも我は汝の名を以て汝を召したり、
   我は汝に尊称を附《ふ》したり、
 五 我はヱホバなり、外に神あるなし、
   我の外に神あるなし、
   汝我を知らざるも我は汝を固うせり、
 六 是れ日の出づる所より日の入る所まで、
   人皆な我の外に神なきことを知らんためなり、
   我は実《まこと》に神なり、外に神あるなし、
(342) 七 我は光を作り又|暗《くらやみ》を造る、
   我は平和を来し又|禍害《わざはひ》を起す、
   是れ皆な我ヱホバの為す所なり。
     義の雨と義の草
 八 天よ、上より滴らせよ、
   雲よ、義を降らせよ、
   地は開けて救を生ぜよ、
   義を萌出さしめよ、
   是れ我ヱホバの造《な》す所なり。
     ヱホバの権能
 九 土器の破片たるに過ぎざるに
   その造主と争ふ者は禍なるかな、
   土塊《つちくれ》は陶人《すえものし》に向ひ「汝何を作る乎」
と言ふ乎、
   又汝の作りし者汝に向ひ「汝の手に由らず」と言ふ乎、
 十 父に向ひ「汝何故に生みしや」と言ふ者は禍なるかな、
   婦に向ひ「汝何故に産《さん》の劬労《くるしみ》を為せしや」と言ふ者は禍なるかな、
 十一 イスラエルの聖者にして其造主なるヱホバ斯く言ひ給ふ、
(343)   後に来らんとする事に就て我に質さんとする乎、
   我が手の工《わざ》に就て我に命ぜんとする乎、
 十二 我は地を作れり、
   而して其上に人を造れり、
   我は我手をもて天を引伸したり、
   而してその万象の列を定めたり、
 十三 我は正義に随て彼クロスを起したり、
   我其すべての道を直くすべし、
   彼は我が城市《まち》を建つべし、
   又価と報となしに俘囚《とらはれびと》を釈《ゆる》すべし、
   是れ万軍のヱホバの言なり。
     クロスの万邦征服
 十四 ヱホバ斯く言ひ給ふ、
   エヂプトの工業とエテオピヤの商業と、
   身の丈高きセバ人とは、
   汝に来り汝に属すべし、
   彼等自から鎖を纏ひて汝に従ひ、
(344)   汝の前に俯伏《ひれふ》して汝に求めて言ふべし、
   実に神は汝の衷にあり、
   彼を除いて外に神あるなしと。
     ヱホバとイスラエル
 十五 実に汝は己を隠し給ふ神なり、
   救を施し給ふイスラエルの神よ、
 十六 彼等は愧《はぢ》しめらるべし、
   彼等はすべて惑はさるべし、
   彼等偶像を作る者は諸共に惑ひ乱れて退くべし、
 十七 然れどもイスラエルは永遠の救をもてヱホバに救はるべし、
   彼等は永遠に至るまで愧しめられざるべし、惑はされざるべし。
     聖言実行の約束
 十八 ヱホバ斯く言ひ給ふ、……
   彼は天を造りし者にして彼惟り神なり、
   彼は地を作り之を完成し其基を固うし給へり、
   徒然に之を造り給はず、人の住所として作り給へり……
   我はヱホバなり、外に神あるなし。
(345) 十九 我は隠れたる所、地の暗き所に於て語らず、
   我はヤコプの裔に「徒然に我を尋ねよ」と言はず、
   我ヱホバは正を語り、直《ちよく》を告ぐ、
 二十 汝等諸の国の中に脱れし者よ、
   集ひ聚り共に前み来れ、
   木の像を担ひ、
   救ふ能はざる神に祈祷する者は無智なるなり、
 廿一 汝等の論拠を挙げ来りて之を述ぶべし、
   然り、彼等互に相謀るべし、
   誰か此事を古より示したりしや、
   誰か此事を昔より告げたりしや、
   我ヱホバならずや、我の外に神あるなし、
   我は義しき神にして救ふ者なり、我の外に神あるなし。
 廿二 地の極《はて》なる人々よ、
   汝等我を仰ぎ瞻よ、然らば救はるべし、
   我は神にして外に神なければなり、
 廿三 我は己を指して誓ひたり、
(346)   正義は我が口より出たり、是れ反ることなき言なり、
   即ちすべての膝は我が前に跪き、
   すべての舌は我に誓はんと。
 廿四 人、我に就て言はん「正義と能力とはヱホバにのみあり」と、
   すべての人は必ずヱホバに詣《いた》らん、
   而して彼に逆ひしすべての人は愧しめらるべし。
 廿五 イスラエルの裔はヱホバにありて義とせられん、
   また彼にありて誇らん。
 
   第四十六章
 
     人に担はるゝ偶像
 一 ベルは伏しネボは屈《かゞ》む、
   彼等の像は獣《けもの》と家畜の上にあり、
   汝等が担ぎ歩きしものは荷となりて
   疲れし獣の負ふ所となる。
 二 彼等は屈みたり、彼等は共に伏したり、 〔以上、明治39・2・10〕
(347)   彼等は荷となりしものを救ふ能はず、
   彼等自からも捕虜《とりこ》となりて行けり。
     人を担ふヱホバ
 三 我に聴けヤコブの家よ、
   イスラエルの家の遺れる者よ、
   腹の中より我に負はれ、
   胎《たい》の中より我に担はれし者よ、
 四 年老ゆるまで我は彼なり、
   髪白くなるまで我は担はん、
   我は斯く行へり、我は負はん、
   我は担はん、而して救はん。
     ヱホバと偶像との比較
 五 汝等誰に我を較べ、誰に比《たぐ》へ、
   誰に擬へて彼と我とを較べんとする乎。
 六 彼等嚢より金を傾《かたぶ》け出し、
   権衡《はかり》を以て銀を度《はか》り、
   金工を覓めて之に神を作らせ、
(348)   其前に俯伏し、之を拝む、
 七 彼等は之を肩に負ひ、之を担ぎ、
   行て之を其処に安置す、
   而して彼は立て其《その》処を離れず、
   人、彼に向ひ呼はれども答ふる能はず、
   又之を苦難《なやみ》の中より救ふ能はず。
     歴史の神
 八 此事を想ひて自から堅うせよ、叛逆者よ、
   此事を心に留めよ、
 九 汝等古より以来《このかた》のことを想ふべし、
   我は神なり、外にあるなし、
   神なり、我の如き者あるなし、
 十 我は始より終を告げ、
   昔より未だ成らざることを示したり、
   我は言へり「我が謀は成らん、
   我は我がすべて欲する所を成さん」と、
 十一 又「我は東より鷲を招き、
(349)   遠国《とほきくに》より我が謀を行ふ者を召さん」と、
   然り、我は語りたり、我は我言を事実たらしむべし、
   我は定めたり、我は行ふべし、
 十二 我に聴け、汝等心の剛愎《かたくな》なる者よ、
   義に遠かる者よ、
 十三 我、我義を近づかしむ可し、その来ること遠からず、
   我救は渋滞らざるべし、
   我れ救をシオンに施し、我栄光をイスラエルに予へん。
 
   第四十七章
     バビロンの貶化 其一
 一 バビロンの処女よ、降りて塵の中に坐れ、
   カルデヤ人の女《むすめ》よ、座《くらゐ》を離れて地に坐れ、
   汝は復たぴ婀娜たり嬌たりと唱へられざるべし、
 二 磨臼を取りて粉《こ》を挽け、
   面※[巾+白]《かほおほひ》を取り去り裾を※[塞の土が衣]《かゝ》げ、
   脛脚《すね》を露はして河を渉れ、
(350) 三 汝の肌は現はれ汝の恥は曝さるべし、
   我れ仇を報いて人を顧みず。
   我等を贖ひ給ふ者はその名を万軍のヱホバと云ふ、
   彼はイスラエルの聖者なり。
     バビロンの貶下 其二
 四 カルデヤ人の女《むすめ》よ、黙して坐れ、暗所に潜め、
   そは汝は復たび国々の主母《とじ》と称へられざるべければなり、
 五 我《われ》我《わが》民を憤り、我産業を汚《けが》し、
   之を汝の手に与へたり、
   汝、之に憐憫を施さず、
   年老いたる者の上に軛を置きて甚く蕾めたり、
 六 汝曰へらく「我永久に主母たらん」と、
   斯くて汝は是等の事を心に留めず、
   亦その終局《おはり》を念はざりき。
   驕傲《たかぶり》は滅亡《ほろび》に先だつ
 七 汝、歓楽に耽り、安逸に居り、
(351)   心の中に 「唯我而已、我の外に人あるなし、
   我は寡婦《やもめ》とならじ、また子を失ふことを知るまじ」と念ふ者よ、
 八 汝、今聴け、子を失ふ事と寡婦となる事と、
   是等の二つの事は一日の中に俄かに汝に臨まん、
   汝の魔術の多きと汝の呪詛《まじなひ》の繁きとに係はらず、
   是等の事は全然汝に来らん、
 九 汝は己の悪に恃みて曰へり、「我を見る者なし」と、
   汝の智慧と汝の聡明《さとり》とは汝を惑はしたり、
   汝は心の中に曰へり「唯我のみ、我の外に人あるなし」と。
 十 是故に災害《わざわひ》汝に来らん、
   汝呪ひて之を除くることを知らざるべし、
   艱難《なやみ》汝に墜来らん、
   汝之を攘ふこと能はざるべし、
   汝の思はざる荒廃俄かに汝に臨まん、
 十一 今汝の呪詛に拠て立つべし、
   汝の多くの魔術を以て嚮《むか》ふべし、
   是れ汝が幼時《わかきとき》より勤め行ひしことなり、