内村鑑三全集14、岩波書店、528頁、4600円、1981.10.23
 
目次
凡例
1905年(明治39年)
新決心と旧決心 他………………………… 3
新決心と旧決心
雑誌と福音
単純なる福音
我が愛する者
神は愛なり
友人としての神
事業と慰藉
現世的基督教
教会対社会
宗教又宗教
強国の祝賀
戦勝と飢饉
余の基督教…………………………………… 8
但以理の生涯…………………………………10
神癒に就て……………………………………23
余の旧き聖書より……………………………32
宝船……………………………………………38
病中の回顧 他………………………………42
病中の回顧
神癒説と疾病
病中の慰藉
病中の快楽
自分の事に就て申上候………………………46
『家庭の聖書』〔角筈パムフレット第七〕〔序文のみ収録〕……47
はしがき……………………………………47
無為の五週間 他……………………………50
無為の五週間
信仰と愛
パリサイ人とは誰ぞ
信仰と救
奇蹟と摂理
平民と平信者
平民の友
神の無限の愛
病後の歓喜
見神の有無……………………………………56
病中雑記………………………………………58
春は来りつゝある……………………………61
福音とは何ぞ 他……………………………63
福音とは何ぞ
罪人の首
我のすべて
神の言辞
我が友
基督信徒の交友
新伝道
新教会
教会と天国
キリストの如くなれ
窄き路
信仰又信仰
キリストの三敵
神学を厭ふ
田舎伝道
詩人と俗人
世界最大の者
偉大なる神……………………………………70
羅馬書第八章…………………………………73
耶利米亜記感想(余の旧き聖書より)… 100
家庭問題…………………………………… 112
雅各書の研究……………………………… 115
春の到来…………………………………… 129
名称復旧 他……………………………… 131
名称復旧………………………………… 131
聖書の研究
天国の宗教
最新の教会
最も難き事
最も恐るべき傲慢………………………… 133
天災と刑罰 附、罪と死………………… 134
基督信者の多少…………………………… 138
天使の降臨 田舎伝道の快楽…………… 139
課題〔1「彼得前書二章廿四節」〕 …… 142
迫害の益 他……………………………… 145
迫害の益
小なる救主
犠牲の栄光
患難の解釈
我等の道徳
大野心
軟弱信者に告ぐ
成効の秘訣
伝道の情念………………………………… 149
バプテスマの目的………………………… 152
ユダの叛逆………………………………… 156
キリストの表白…………………………… 159
安息日聖守の動機………………………… 162
課題〔2「基督信徒の婦徳 彼得前書三章三、四節」〕…… 166
今井樟太郎君逝く………………………… 169
硬骨議員(羅馬哲学者エピクテエトス講演集の一節)…… 170
遠大の事業 他…………………………… 172
遠大の事業
伝道の真義
犠牲の意義
恩惠としての患難
苦痛と刑罰
境遇と意志
荏弱の自覚
十字架の仰瞻
ヒユーマニチーと基督教
福音と人道
内と外と
イエスと余と……………………………… 177
加拉太書第一章…………………………… 179
男性的基督教 忿怒の神聖……………… 189
東北伝道…………………………………… 196
課題〔3「神の無窮の言葉 彼得前書一章廿四、廿五節」〕…… 202
見ざる愛 他……………………………… 206
見ざる愛
成功と失敗
友人の定義
聖旨に応ふ祈祷
勝利の生涯
俗人と魚
信者より見たる不信者
小学者と小商人
宗教以上の人
汚財に注意せよ
キリストの賜……………………………… 211
神と我と…………………………………… 213
加拉太書第二章に現はれたる解釈上の困難并に其自訳…… 214
イエスの矛盾……………………………… 220
聖霊を受けし時の感覚…………………… 227
米国人の伝道法 附、余輩の伝道法…… 231
余の今日の基督…………………………… 235
課題〔4「堕落信者の状態 彼得後書二章廿、廿一、廿二節」〕…… 240
独逸人の無教会歌………………………… 243
孤児を顧よ………………………………… 244
我とキリスト 他………………………… 245
我とキリスト
死と生と
我の救
キリストたれ
キリストに在りて
天国の建設
露国と米国
美術と宗教
ピユーリタンの消滅
書斎と実験室……………………………… 249
夏過ぎて感あり…………………………… 250
羅馬書第九章……………………………… 252
パウロ微りせば…………………………… 264
内外の自由………………………………… 270
近世婦人の要求…………………………… 271
基督の死状に就て………………………… 274
今の批評…………………………………… 277
課題〔5「最終の裁判 彼得後書三章十―十三節」〕…… 278
『三条の金線』〔角筈パムフレツト第八〕〔表紙〕…… 282
基督教とキリスト 他…………………… 283
基督教とキリスト
福音書と書翰
科学と神学
我が基督教
限りなき恵み
自省と仰瞻
信仰の道
基督者たるの資格
基督教と兄弟主義………………………… 287
神学耶農学耶 実験的に科学と宗教との関係を論ず…… 288
基督者は何故に善を為す可き乎………… 298
真の苦痛…………………………………… 305
伝道師の処世問題………………………… 306
ヱホバの熱心……………………………… 310
課題〔6「智識の本源 箴言第一章七、八、九節」〕…… 312
晩秋の感 他……………………………… 316
晩秋の感
無私の祈祷
必要物の供給
損失の利益
四大使徒の信仰
新教会の顕出
我が義イエスキリスト
進歩の子たれよ
永久の小児
文士と神学者
宣教師の大軍
大詩人に聴け
恩恵の代価
学生の信仰………………………………… 322
馬太伝第五章……………………………… 324
新らしき誡め……………………………… 346
秋の伝道…………………………………… 356
課題〔7「提摩太前書一章十五、十六節」〕…… 360
基督信徒の歳暮 他……………………… 364
基督信徒の歳暮
聖誕節
村里の祝福
真正の伝道
疲労と歓喜
幸福なる伝道者
電気と電線
日本人の宗教心
名実の差別
神の不偏
善人が悪心を懼るゝ理由………………… 368
教会に対する余輩の態度………………… 370
人命は何故に貴重なる乎………………… 372
クリスマス演説 イエスの系図………… 376
大阪講演の要点…………………………… 382
第一夜 聖書の貴き理由
第二夜 聖書の研究法
第三夜 余は如何にして基督信徒となりし乎
進まんのみ………………………………… 390
笑ひ草……………………………………… 391
関西紀行…………………………………… 392
課題〔8「提摩太前書六章六節より十一節まで」〕…… 396
簡単なる結婚式…………………………… 402
クリスマスの大贈物……………………… 403
歳末の辞…………………………………… 405
1907年(明治40年)1月―3月
同一の福音 他…………………………… 409
同一の福音
我が信仰の途
幸福なる生涯
助けの石
初夢
福音の進歩
教会建設の難易
天国の自設
単独の歓喜
世界最大の旧教国
第二の宗教改革
平々凡々の理……………………………… 414
イエスの系図中の婦人…………………… 417
イエスの三方面…………………………… 422
牧会書翰の真価値(教会腐敗の活写真として)…… 428
イエスキリストを懐ふ…………………… 431
新年の珍客………………………………… 434
『研究』誌の新年………………………… 437
故今井樟太郎著『香料案内』への序文… 439
福音の性質 他…………………………… 441
福音の性質
一人となりて立つの覚悟
永遠の磐
基督信者の真偽
何の得し所ぞ
戦友となれよ
国と人
戦捷の結果
教と力
有効なる祈祷
堕落信者の口実と其批評………………… 446
智識と真理と自由………………………… 449
病中の感…………………………………… 451
課題〔9「使徒パウロの最後 提摩太後書四章六、七、八節」〕…… 456
同盟反対の神言…………………………… 459
美なる脱会………………………………… 461
『基督教と社会主義』〔角筈パムフレット第九〕〔表紙〕…… 462
『基督教世界』の「開書」への回答…… 463
今の救済 他……………………………… 465
今の救済
復活の信仰
福音書の研究
聖書と聖霊
隠遁者に非ず
集会と運動
神の途と人の途
ゼントルマンの為さゞること
信仰の報賞………………………………… 469
詩篇第百十八篇…………………………… 471
イエスの受洗と其意義…………………… 477
余の基督教………………………………… 480
聖書の研究法に就て(内よりすべし、聖霊によるべし、実験を以てすべし)…… 483
洗礼と信仰………………………………… 487
無教会主義の前進………………………… 489
信仰のパラドックスと其教訓…………… 492
課題〔10「使徒パウロの単独 提摩太後書四章九―十八節」〕…… 494
『研究』読者の慈善心…………………… 500
別篇
付言………………………………………… 501
社告・通知………………………………… 503
 
 一九〇六年(明治三九年) 四六歳
 
(3)     〔新決心と旧決心 他〕
                       明治39年1月15曰
                       『新希望』71号「所感」
                       署名なし
 
    新決心と旧決心
 
 新決心は旧決心なり、而して旧決心は人よりに非ず、又人に由らず、イエスキリストと彼を死より甦らしゝ父なる神に由りて福音を此国に伝へんとするにありき、我等は新年と共に更らに進んで神とキリストとより他の何者にも由ることなくして我等に委ねられし福音を此国民に宣伝へんと欲す。
 
    雑誌と福音
 
 余輩は「雑誌を出」さんとせず、キリストの福音を宣べんとす、雑誌は出さゞるも可なり、福音は宣べざるべからず、雑誌は手段なり、福音は目的なり、余輩は雑誌のために福音を唱へざらんと欲す。
 
    単純なる福音
 
 キリストの福音は複雑なる者に非ず、至て単純なり、数言以て能く之を悉すを得べし、それ神は其生み給へる(4)独子を賜ふほどに世の人を愛し給へり(約翰伝三章十六節)、イエスは我等が罪のために附され、我等が義と為られんために甦へらされたり(羅馬書四章廿五節)、キリストの受肉と其復活、之に加ふるに其再来と裁判とを以てすれば基督教の大意は之を悉せりと謂ふべし、余輩は多くを語るを要せず、又必しも聖書を悉く学ぶを要せず、余輩は単純なる小児の心を以て単純なるキリストの福音を受くるを得べし。
 
    我が愛する者
 
 我が衷に大なるものあり、ヒマラヤ山あり、アマゾン河あり、大陽系あり、オライ ン星あり。
 我が衷に小なる者あり、石竹あり、雛菊あり、をだまきあり、竜胆あり。
 我は雄大なる者と繊美なる者とを愛す、神と小児とを愛す、キリストと罪を悔《くや》める罪人とを愛す、其他を愛せず。
 
    神は愛なり
 
  七歳の小女を失ひ、彼女の未来に就て憂慮を懐ける彼女の父に書き送りし書翰の一節
 人の来世問題に就ては種々の難問題有之候、之を満足に説明し得る者は世界中一人も無之ことゝ存候、然れども我等は此事を知る、即ち神は愛なることを、而して愛なる神は決して我等の愛する者を来世に於ても悪しきに扱ひ玉はざることを、キリストは万民のために死に給へりと聖書に記しあれば、キリストの贖罪の功徳に与かり得ざる者とては宇宙間一人もなきことを、小生は此信仰が御互のすべての苦痛を慰めて余りありと存候、聖書(5)の教ゆる所は詮ずる所は是れのみと存候、即ち神は愛なりと。
 
    友人としての神
 
 神は善き友人である、第一等の友人である、彼に祈祷を聴くの耳がある、恩恵を施すの手がある、彼に愛心のあるのは勿論である、彼と語るは最も楽しくある、彼に頼むは最も安全である、神は名ではない実である、道理ではない性格である、帝王ではない友人である、アブラハムが神の友と称ばれしやうに、我等も神の友となりて其指導援助に与かるべきである。
 
    事業と慰藉
 
 如何に高尚なる事業と雖も此世の事実に慰藉あることなし、使徒パウロと雖も彼の伝道事業に於て彼の慰藉を求めざりしは明かなり、慰藉は神の愛にあり、キリストの贖罪にあり、復活の希望にあり、来らんとするキリストの王国の光栄にあり、此慰藉ありて我等の従事する事業は如何に卑賤なるも我等は歓喜満足を以て此世を渡り得るなり。
 
    現世的基督教
 
 来世の希望あるなし、有るも甚だ微弱なり、唯交際の快楽を求めて止まず、教会に出席するもたゞ之がためなり、若し善き友を求め得ば此世に天国を発見せりと信ず、願ふ所は体面なり、紳士淑女として世の尊敬を受けん(6)ことなり 音楽なり、「幸福なる家庭なり」、※[牀の木が女]飾的教育なり、是れを今の教会的基督教となす、血を以て守るべき信仰あるなし、身を棄て達せんとする希望の目的物あるなし、斯かる基督教と斯かる教会とに就て聖書は曰ふなり、汝等彼の罪に共に与かり、又彼の災に共に遇ふことを免れんがためにその中を出づべしと(黙示録十八章四節)。
 
    教会対社会
 
 教会が社会と和する時に教会も腐敗し、社会も亦腐敗す、教会が社会と戦ふ時に教会も健全にして社会も亦健全なり、教会と社会とは素々敵にして味方にあらず、二者は其本性に於て相和すべき者に非ず、汝等世を友とするは神に敵するなるを知らざらんや、世の友とならん事を欲ふ者は神の敵なり(雅各書四章四節)、社会は常に神の教会の反対に由てのみ其道徳を維持す、社会の不幸にして教会に優遇せらるゝが如きはあらず、我等若し社会の幸福を計らば之に対して常に反抗交戦の態度を取るべきなり。
 
    宗教又宗教
 
 宗教あり、又宗教あり、古典を弄ぶ宗教あり、儀式に耽ける宗教あり、交際を求むる宗教あり、宗教家を評する宗教あり、愛国を叫んで政治に類する宗教あり、然れども是れ我等の要求する宗教にあらざるなり。
 血を以て争ふ宗教あり(人を殺してに非ず)、義と平和と聖霊に由れる歓喜なる宗教あり(羅馬書十四章十七節)、即ち虚なる宗教に対する実なる宗教あり、道楽的宗教に対する奮闘的宗教あり、儀文的宗教に対する心霊的宗教(7)あり、此 的宗教に対する自省的宗教あり、交際的宗教に対する黙祷的宗教あり、世は等しく之を宗教と称す、然れどもすべての宗教は譽むべき貴むべき宗教にあらざるなり。
 
    強国の祝賀
 
 強国たる必しも聖国たるの謂にあらず、英国は強国たるも其中に窮民の多きこと世界に比なし、米国は強国たるも銭魔崇拝の盛なる宇内第一なり、若し人はパンのみを以て生くる者にあらざれば国も亦富強を以てのみ其価値を定めらるべき者に非ず、貧者にして清士あるが如く弱国にして聖国あり、強国たること必しも祝すべきことにあらざるなり。
 
    戦勝と飢饉
 
 国威四海に挙て民は飢餓に泣く、国威宣揚を祝する声は高し、餓民窮迫を悲む声は低し、是れ戦争の結果たるなり、覇気は増し同情は減ず、敵を殺し得て同胞を援け得ず、外に獲て内に失ふ、ナポレオン大帝表白して曰く人は兵力を以てして永久に渉る何事をも為す能はずと、弾薬と銃剣とは以て民の空腹を充たすに足らず、戦争歇んで後に憂苦の声は挙らざらん也。
 
(8)     余の基督教
                       明治39年1月15日
                       『新希望』71号「所感」
                       署名 希望生
 
〇余の基督教は主として来世を目的とする基督教である、是れは勿論現世とは全く関係の無い基督教ではない、是れは現世に於て始まるものである、爾うして余もまた現世に於て在る者である、夫れ丈けは余も余の基督教も現世と関係ある者である、然かしながら余は余の救済を現世に於て完うせんがためにキリストの福音を信じない、余の信仰の報賞は現世に於て獲らるべきものではない、余は余の望むすべての善き物を河の彼方に於て索むる者である。
〇余の国は? 余の国はキリストの国である、我国はこの世の国に非ず(約十八〇三六)、我国、即我がすべての希望を繋ぐ国、我が永久の住所、完全なる自由の在る所、公義公道の完全に行はるゝ所、余の国は斯かる国であつて、斯かる国は日本国でもなければ、英国でもない、米国でもない、現世に勿論より善い国とより悪い国とがある、然かしながら現世に完全の国はない、完全の国はキリストの王国のみである、爾うして余の霊の慕ふ国は不完全極まるこの世の国ではない、我等の図は天に在り 我等は救主即ちイエスキリストの其処より来るを待つ(腓三〇廿)。
〇余の救済《すくひ》は? 余はこの世より救に入らんと欲す、然しながらこの世に於て救はれんとは欲しない、即ち余の(9)霊も肉もこの世に於て完全なる者とならんとは望まない、体は罪に縁りて既に死せり(羅八〇十)、肉体は既に罪の故を以て死に定められたる者である、医術が其進歩の極に達するとも、此「死の体」が永久に活くるに至りやう筈はない、壊つべき肉体に宿ること其事が現世の頼るに足らない最も明白なる証拠である、余は死より救はれんと欲する者である、即ち霊に於ては勿論、体に於ても死せざるの境に入らんと欲する者である、爾うして斯かる境遇は勿論この世に於て求められ得べきものではない、キリスト死を廃し、福音を以て生命と壊ちざる事とを明にせり(提後一〇十)、爾うして此生命と壊ちざる事とは彼が再び顕はれ給はん時に我等に事実となりて顕はるべきものである(約壱、三〇二)。
〇然り、余のすべての善きものは墓の彼方に於て在る、余の自由も、余の満足も、余の冠冕もすべて来らんとするキリストの王国に於て在る、余は今は待望の地位に立つ者である、農夫地の貴き産を得るを望みて前と後との雨を得るまで久しく忍びて之を待つ如く、忍びて主の臨るを待つ者である(雅五〇七)。〇故に斯世に於ける余の生涯は何うでも可い、憎まるゝも可い、誤解せらるゝも可い、貧しきも可い、裸なるも可い、余の永久の運命は斯世に於ける余の境遇に由て定められる者ではない、余の運命を定める者は余のために自己を棄て給ひし余の救主イエスキリストである、彼は余のために所を備へんために父の許に往き給ふた、彼は又来りて汝等を我に納《う》くべしと約束し給ふた(約翰伝十四章)、余はこの世に在ては遠人《たびゞと》である、暫時の滞留者である、余は一時天幕を此地に張る者である、永久の住家を築く者ではない、神が余を呼び給ふ時には直に天幕の網を絶ち、之を畳んで彼の国へと急ぐ者である。
 
(10)     但以理《ダニエル》の生涯
                     明治39年1月15日
                     『新希望』71号「研究」
                     著名 内村鑑三述 研究生記
 
     左に記す処は、但以理書第一章より第六章に至る研究にして、昨年の初め、内村先生より学びしものなり、筆記に非ざるが為に、其深意の大半を失へるを憾む。此篇を読まるゝ前に必ず但以理書始めの六章を精読せられんことを切望す。
 
     一
 
 但以理曰く、「神を知る人は力ありて事をなさん」と(第十二章卅二節)、蓋し、此語をして実ならしむるものは、彼れ但以理自らの生涯である。
 国は外疆の侵す処となり、齢未だ若冠、貴公子の身を以てして、家親を離れ、異教の国の宮廷に養はる、是れ既に逆遇困厄の生涯といはざるを得ない、況んや諸種の迫害は、続々として彼を襲ひ、常に生を賭して之れにあたらねばならぬ、信仰の力強きものでなければ、耐ゆることは出来ない。
 但以理書十二章、之れを二ツの部分に分つ、其前部が即ち予言者の伝記である、一体此書たる最も古き黙示的文学であつて、記事の怪異なる、甚だ解説に難い者としてある、然し、吾人が茲に学ばんとする処は、其歴史的(11)又は神学的煩瑣なる考究ではなくして、神に頼り、力ありて、総ての試練に勝つた、生涯の事実其ものである。
 
     二
 
 但以理は他の三人の青年と共に、今やバビロン宮廷に養はれるの身となつた、ネブカデネザルの目的は、之等慧知能幹の青年を訓育して、己が侍臣として、大に用ゐる処あらんと欲したのである、即ち食はしむるには王饌を以てし、就かしむるには第一流の師を以てして、体力も智力も、理想的に発達せしめやうとした、但以理等の信仰は既に茲に試みられんとする。
 宮廷が先づ彼等に施したことは、其改名である、ハナニヤといひ、ミシヤヱルといひ、アザリヤといひ、又ダニエルといひ、皆エホバの神を讃美するの意を含んだる名であるをかへて、カルデヤ諸神を崇むるの名を以てした、仮令ば、「神の審判」の義なるダニヱルを廃して、「ベルの皇子」を意味するベルシヤザルを以てかゆる如き、之れ彼等の甚だ快からざることであつたに相違ない、然し名はどこ迄も名である、人が如何なる名を以て吾人を呼ぶかは、余り重大なる問題ではない、之れは忍ぶことが出来る、然し枉ぐべからざることは、信仰の実行である。
 前に述ぶる如く、バビロン宮廷の目的は、美饌を以て之れ等の青年を養ひ、強壮肥満の美少年たらしめんとするにある、彼等は、人は滋味に飴かしめさへすれば、健康を得らるゝものと思ふて居る、活力は美酒佳肴によつてのみ得らるゝものと思つて居る、然るに但以理等の信仰は之れと反して居た、彼等はどこ迄もイスラエル人である、粗食と禁酒とは彼等の主義である、但以理書にいふ「饌《くひもの》」とは、或る註釈によれば、麺麭と鶏卵酒だとの(12)ことであるから、即ち脂肪を増して全身を肥満せしめる滋養であろう、然るに、但以理は宗教上の信仰と共に、又淡白なる食物の、却つて衛生上にも功のあることを知つて居た、彼れは寺人の長の配慮を斥けて、独り菜蔬《あをもの》と水とを用ゐた、而して其結果、所謂王饌に飽けるものよりも、却つて壮健なる体力を得た、今彼れのつやゝかなる顔色の光りは、酒と肪とによるものにあらずして、真に内より出づる、平静満足の輝きである。
 かくして但以理は第一の試錬に勝つた、或人は之は試錬でも何んでもないといふかもしれぬ、然し思へ、主義も同じ、信仰も同じ同志の間に交つて居て、目前何等の圧迫も蒙ることなく、自分の主張を立てゝゆくことは、何んでもないことである、然し、但以理の場合はそれとは違ふ、いはゞ捕虜の身を以てして、上には圧制の暴君あり、信仰も主義も全く異れる権力の下に立つて、敢て断乎として、自家の主義を遂行せんとするのである、避けてしまへば何んでもないことであるが、之れを実行する身にとつては、容易ならぬ勇気を要することである。
 又曰ふ人があるかも知れぬ、飲食のことの如きは、どうでもよいことではないかと、或はそうかもしれない、然し、今の問題は、飲食其のものに就ての問題ではなくて、青年が一つの主張を遂行するといふ力の問題である、仮令ば、吾人が一杯の酒を強ゐらるゝ時、それを飲んだとて一杯の酒に過ぎぬ、何のことでもないかもしれない、然し、此場合の問題は、主義の把持力其者の試験である、飲む飲まぬではない、勝つと負けるとである、負ける、一歩譲る、未だ酷《はなはだ》しく恐るべきことではないかもしれぬ、然し、誰れか知らん、一歩の退譲は遂に全局の敗亡とならざることを。
 但以理等の確信は強かつた、彼等は消極的に己れの主義を破らなかつたといふ丈けではない、肥膩《こえあぶらつ》きたる体格、美はしき顔色、神はかくの如き些細の場合に於ても、信仰に頼るものに、常に勝利を与へ給ふのである。
 
(13)     三
 
 神は愈々四人の青年に知識を得させ、智慧に穎《さと》からしめ、特に但以理には、異象《まぼろし》と夢兆《ゆめ》とを暁るの力を与へ給ふた、ガルデヤ王の信任は、漸く深からんとするのである。
 ネブカデネザル一夜怪夢に悩まされた、醒めて後、其如何なる夢であつたかを知らず、心思ひ煩ふこと甚しくて、復び眠りに就くことが出来ない、之れを博士、法術士等に諮つても、一人も之れを解き得たものはない、ネブカデネザルは之れを怒つて、国内の智者を悉く殺さんとした、但以理も亦殺されんとした一人であつた、此時に処した彼れの態度は、如何であつたろうか。
 彼れのなしたる第一のことは、友人と共にせし祈祷であつた、遠慮と智慧とを以て、侍衛の長《かしら》に応答したる彼れは、家に帰つて熱心に神助を祷つた、而して彼れは、特に同信の友人と共に、協力して祈ることを忘れなかつた。
 次に彼れの態度は、即ち謙遜のそれであつた、彼は既に、夜の異象《まぼろし》の中に、夢の秘密を教へられて居る、確乎たる信念は動かすべくもない、しかも彼れは、王の問ひに答ふるに、誠に謙遜を失なはなかつた、彼れいふ、王の夢を解き得るものは、地上の学者に一人だにあるなし、之れを王の為に解くものは、吾れ但以理一人あるのみと、何たる大確信なるぞ、然し、彼れが此大確信を述ぶる時、此力は我が内に有する処なりとは、決していはなかつた、曰く、「天に一つの神ありて、其秘密をあらはし給ふ」と、之れ、ヨセフがパロの為に夢を解ける時、「我れによるにあらず、神、パロの平安を告げ給はん」(創世記第四十一其第十六節)、と答へしと同一であつて、(14)思ふに、、神を信ずるものゝ態度は、常にかくの如くなければならぬ、其堂々たる勇気は、必ず敬虔なる謙遜の念を以て裏うちせられて居ねばならぬ、即ち、此裏うちのあるが為めに、其表が真に硬いことを得るのである。
 此夢は、表象的であつて、其直接の意味は、バビロン王国の将来に関したる予言である、然し此順序と史上の事実とを比較して、年代的に又政治的に之を研究することは、頗る難問題であり、従ふて多くの註解者の説が未だ充分に一致して居ない、特に第四の国の如きに就ては、色々の議論が戦はされて居る、然し、此夢に由て吾人が明白に学び得る真理は疑ふことを得ぬ、それは此予言がバビロンの歴史によく適中して居るのみならず、広く、あらゆる世界歴史上の通則として、国家盛衰興亡の経路を示して居ることである、金が銀になり、銅になり、終りには不純なる泥になる時、之れを不意に倒すものは、思ひがけぬ新らしい勢力であるといふことは、一々例を引く迄もなく、歴史上明かなことである、又更に、之れを吾人日常の経験に校《かんが》へて見るに、亦同一の原則のあるを信ぜざるを得ない、蓋し力は常に思ひがけぬ処からあらはれて、古きを毀つて、復た新らしきを、うち立つるのである。
 シヤデラク、メシヤク、アベデネゴの三人は、但以理の薦奏によつて、各々州の事務官に任ぜられた。
 第三章は、但以理には関係のないことである、然し、其事の壮厳にして絶大なる、通読した丈けでも、或る感激を与へられざるを得ない。
 金像の高さ九十尺、ドラの平野を蔽ふて立つ、ネブカデネザルは其前に盛なる告成礼を行ふたのである、儀典(15)の壮大なる、よく群集の心を圧伏せしめ、金光の燦然たる、仰ぐものゝ眼を眩ぜしむ、忽ち、朗々なる楽器の響は野の全面に湧き、謹厳なる吹奏は劉玲として起り、諸民諸族諸音、みな俯伏して金像を拝せざるものはない、蓋し暴王は、其圧抑手段を偶像の燿きにかりて、実は諸民を己れの前に拝伏せしめたのである、凡て心を以て信服せしめ得ざるものは、常に此手段を執る、彼等は、倨傲と誇大とを以て威圧するの外、何事も出来ないのである、伝令者の叫びは響き渡つて曰く、金像を拝せざるものは、火の燃ゆる炉の中に投ぜんと、広き王領内、共威に属しないものは、只イスラエルの三人のみであつた。
 聖書の筆は、茲に対比の妙を極めて居る、試みに描き見よ、金の巨像と熱き火炉とを控へて、激越なる調子を以て詰問するものは、暴王ネブカデネザルである、暴王の憤怒は、それ自ら既に人を焼く熱気である、思ふに金像に反映せる太陽の光は、赫々として彼れの額を射て、其相恰の猛烈なる、万億の群集をして戦慄せしめたであろう、「汝らもし拝することをせずば、即時に火の燃ゆる炉の中に投げこまるべし、何れの神か、能く汝等をわが手より救ひ出すことをせん」と、三人は徐々として之れに答へた、「ネブカデネザルよ、この事に於ては、我等汝に答ふるに及ばず、もしよからんには、王よ、我等の事ふる我等の神我等を救ふの能あり、彼れ、その火の燃ゆる炉の中と、汝の手の中より我等を救ひ出さん」と、彼等の顔色と言辞とは、蓋し静平なる力其ものであつた、尚ほ語を更めていふ、「仮令しからざるも、王よ知りたまへ、我等は汝の神々に事へず、また汝の立てたる金像を拝せじ」と、其毅然として動かざること、実に泰山の如しといふべきではないか。
 彼れ等は縛せられて、炉中に投ぜられた、肉も骨も一瞬にして爛れざるを得ないのである。
 凡そ此書の記事は、事毎に怪奇の感を起さゞるはない、特に、火中に入りて焼かれざる如き、余りに突飛の事(16)である、然し、一度び其内を探つて其数訓を味ふて見よ、此記述の徒らに異常を語るものでないことが分る、是れを昔のことゝのみ解せずして、現に吾人の遭遇する経験として察して見よ、此三人が投ぜられたる熱火は、現に社会にあり家庭にあつて、常にクリスチヤンを迫害しつゝあるものではないか、実に此火炉は、権力に反抗して自己の信仰を枉げざるものを焼かんとする一切の火である、此火は、チグリス河畔、ドラの野の金像の前にのみ、燃ゆるものではない、西洋に於ても、東洋に於ても、古来数万のシヤデラク等が、皆経験せる迫害の焔である、之に投ぜられたものは、果して皆な焼けて砕けて終るのであるか、之れ実に古き但以理書第三章の問題ではなくして、吾人自身の為に解かれねばならぬ問題である。
 此考究は、尚ほ第六章の後に譲る。
 
     五
 
 第一の夢の解明は、世界の歴史に関するものであつた、第二の夢の解明は、個人の生涯に関する戒である。
 第四其は、別に多くの説明を要せぬことゝ思ふ、要は、驕れるもの久しからず、審判の遂に免るべからざることを述べたものである、高き樹は伐られて倒される、驕れるネブカデネザルは、耻づべき病を与へられて、昨日高楼の人、今日は草野に獣と分を同ふせねばならぬ、北条氏の滅亡の原因は、九代高時の驕奢にある、ナポレオンの最後は、モスカウ出征の馬上、人は計り、神は遂ぐといふ語を斥けた傲語にあらはれて居る、「驕傲《たかぶり》は滅亡《ほろび》に先だち、誇る心は傾跌《たほれ》にさきだつ」(箴言第十七章十八節)とは、昔も今も真理に変りはない、而して之れは、地位、財産、知識に於てのみの事でなく、道徳に関し、信仰に関して、寧ろ尚ほ恐るべきものである、凡て心に(17)驕りの萌す処、其時既に、天の咎責《とがめ》は其人に臨んで居る、倒れぬ人とは、絶えず謙遜を失はぬ人である、其人は、決して、堕落の絶壁に転ぶことのない人である。
 此章の精といふべきは、其十七節にある、然し此誡は、国を治むる王者にのみの戒ではない、吾人平生の心懸けに於て、瞬時も忘れてはならぬことである、聖書はいふ、驕傲る者には必ず責罰が来ると、滅亡は驕慢の結果であると、噫、誰れか、明日己が Lycanthropy リカンスロピー(狼狂、ネブカデネザルの罹かりし病)、の耻を与へられるゝことを思ふて、しかも恐れざるものがあろう。
 然らば、いかにして此罰から免るゝことを得るか、義を行ふことである、罪を離れることである 貧者を憐れむことである、一度び驕慢の念の萌しに心づいた時、吾人は直に思ひかへして、此戒に帰らねばならぬ。
 神は、心づいて改むるものを、どこ迄も追窮し給はない、恩恵は、牛の如く草くふて居た者にも下つたではないか、而して、「彼の行為は凡て真実、彼の道は正義、自ら高ぶる者は、彼れよく之を卑くし給ふ」との讃頌を、其の心に置き給ふたではないか、願はくは、吾人疾く真の分別性に帰つて、常に此讃頌を有したいものである。
 
     六
 
 第五章は、また色々の説のある処である、然し、茲に記載されて居る大体のことについては、別に六ケ敷いことはない、加之、聖書の筆は、其一場の光景を、活画の様に吾人の目の前に描き出して、一種凄愴謹厳の感を以て迫つてくる。
 ベルシヤザルは、ネブカドネザルの孫である、彼れは先王の余威によつて、驕奢の甚しきを極めて居る、而し(18)て、今や彼れの狼藉は、其極に達し、神の器を、不潔の宴席に涜すに至つた、バビロン王国の滅亡は、目睫の間に迫つて居るといはねばならぬ。
 其頃の建築の風として、壁には獣や人の像を刻み、殊に王室などに於ては、其祖先の偉業の跡を彫刻した、即ち、ベルシヤザルが一千人の大臣を召して(大酒宴を張つた大広間の壁には、ネブカデネザルの、各地の獣勝の光景が誇りかに刻んであつたに相違ない、卓上の玉山、既に崩れて、酒の香が煙の如く漂ふて居る時、人の手の先きがあらはれて、怪やしの文字をかいたのは、即ち此得意の壁の面であろう、何たる凄愴ぞ、流石驕慢のベルシヤザルも、忽ち顔色を失ひ、腿の関節はゆるみ、膝は相撃つて戦慄したと記してある。
 扨て、其手は何であつたか、誠にあらはれたものであつたか、眼の幻影《まぼろし》であつたか、之れは吾人の茲に答へ得る問題ではない、然し、其説明の如何にせよ、神が、罪人の罪の最中にあらはれ給ふといふことは、吾人にとつて、最も厳粛なる問題である、之れは幻影にあらずして事実である。
 又、文字に対する解明も、必ずしも、ダニエルの言ふた通りに解かねばならぬものとも、確にはいはれない、ヘブライの文字は、子音のみを並ぶるものであつて、こゝに壁にあらはれたと思はるゝ十二の文字も、母音の附け方によつて、三百通り程の読み方がある、然し、予言は智慧でなくして確信であるが故に、予言者は、文字其ものを読むといふよりは、寧ろ神が此暴慢不敬のベルシヤザルに降し給ふべき、当然の御旨を疑はなかつたのである。――かくの如く解して、吾人は記事其ものゝ怪奇にのみ心を奪はれない。
 神は、カルデヤ王統を、其驕慢の始めに於て戒め給ふた時、其悔い謙《へりくだ》るに於て、再び之れをゆるし給ふた、しかし、代を経ること僅に一代、既に此大恩恵を忘れて、更に傲奢を極むるに及んで、最後の判定は立所に与へら(19)れた、
 メネ、メネ、テケル、ウパルシン
 数《かぞ》へられたり、数へられたり、秤られたり、分かたれたり、
 怖るべしベルシヤザルは、此涜罪の夜に於て、殺されてしまつた。
 歴史的に、政治的に、バビロン王国の滅亡には種々の原因もあらふ、然し、語あり、驕傲は滅亡に先だつと、此真理は拒まれぬのである。
 
     七
 
 但以理の三人の友は、火炉に投ぜられて焼けなかつた、而して、但以理自身は、獅子の穴に投ぜられて、少しの害をもうけなかつた、信仰は迫害に勝つものか、之れ実に非常なる力ではないか。
 但以理の遇ふた迫害は、蓋し、真面目なるクリスチヤンが、屡々被むる迫害の模式である、悪事はせぬ、併し憎まれる、何の咎もない、然し忌まれる、世は何とかして彼を斥けようとする、何となく厭はるゝのである、邪魔なのである、実に鵜の目鷹の目で、其欠点を見出さうとする、然し、之れに責むべき不義も、過失もない、そこで止むを得ず、無理無体なる口実を持ち出す、特に祈祷の如きが、最多く此口実の的となるのである。
 ダリヨスも亦無理なる禁令を出した、但以理は之れを知つて居る、之れに背けば、捕へられて獅子の穴に投ぜらるゝことも知つて居る、加之、自分の周囲には、多くの怖ろしい目が狙つて居ることも知つて居る、彼は此時如何にしたか。
(20) 或人はいふであらふ、抑も祈祷は心のことであつて、形式ではない、何もかゝる場合、強ゐて態《わざ》にあらはす必要はない、只心の中で密に祈りさへすればよい、之が社会と一致しつゝ自己の主張を維持する法であつて、最も穏かなる、賢き態度であると、此論者に曰はしむれば、但以理は愚であつた。
 然し見よ、身に迫まりくる迫害には無頓着に、静かに暮れてゆく夕べの窓に踞いて、独り祈祷に耽つて居る人の姿を、誰れか之れに対して、崇高の感を起さゞる者があらう、今彼れの心には、禁令もない、獅子の穴もない、自分もない、遙に煙迷ふヱルサレムの方を望めば、神の恵は抑へ難く胸に湧いて、膝は自ら屈し、頭は自ら垂るゝのである、あゝ貴いかな信仰の愚、彼れが目前の結果を怖れざる挙動は、意気地《いぢ》ではない、勿論奇狂でもない、一つに其高貴なる信仰の愚によるのである。
 獅子の穴に於ける但以理は、炉中に於けるシヤデラク等と、同一様の教を与へる、之れ蓋し、但以理書が与ふる、最も力ある教訓であつて、古来、信仰上の勇士にして、此記事に励まされたものは、其数を知らぬ、吾人は、一層細かなる注意を以て、之れを学び度いと思ふ。
 第一に考ふべきことは、彼等が大試錬に臨んだ時の態度である。
 彼等とて、目前の災厄に、全然怖れを感ぜぬのではない、彼等の信仰は如何に強くとも、其身体が石になつて居るのではない、希臘神話にあるアヒルスの様に、其身には矢も立たぬとの保証を受けて居るのではない、しかも平然として怖れなかつたのは何故であるか、焼けぬ噛まれぬとの確信があつたからではない、焼けても噛まれても辞せぬ、との確信があつたからである、之れを只言葉の上でいへば、少しく詭弁の如くにもとれるかもしれない、然し、之れは実験上の事実であつて、多くのクリスチヤンの勇気は、屡々茲に基いて居る、迫害は大濤の(21)如く、吾人の前に寄せてくる、其威は吾人をして畏縮せしめる、然し、吾人は吾人の信仰に於て前進せねばならぬことがある、濤に渦《ま》かれてしまふかも知れぬ、或は濤の方で退くかも知れぬ、只、何しろ、吾人は進まねばならぬのである、此時畏れずして進めよ、濤必ず退くべしとの確信を与へらるゝものは幸である、然し、叫んでも、求めても、神は此確信を与へ給はないことがある、しかも進まねばならぬ、神が吾人を助けて、其濤を退かしめ給ふや否やは、吾人の断行の後でなければ分らない、常に事の結果について保証を求めてやまざるは、弱き者の声であつて、神は吾人を助け給ふ前に、先づ吾人の確信の決行力を要求し給ふのである、シヤデラク等は曰く、
 「仮令しからざるも、王よ知り給へ、我等は汝の神々に事へず、また汝の立てたる金像を拝せじ」と、実にネブカデネザルが感嘆していへる如く、「彼等は自己の神の外には、何の神にも事へず、また拝せざらんとて、王の命をも用ゐず、自己の身をも捨てんと」したのである、此断行の勇気あつて、始めて後、火も難くるのである。
 第二に、然らば、其勇気を以て断行したる結果はどうであつたか、第三章には曰く、「シヤデラク メシヤク、アベデネゴの神は讃むべきかな、彼その使者を遣りて、己を頼む僕を救へり」と」又第六章には曰く、「吾神その使をおくりて、獅子の口を閉ぢさせ給ひたれば、獅子は我れを害せざりき」と、吾人は前に、災厄も亦断行の勇気の前には避くるといふた、而し、勿論之れは当然然るべきだといふのではない、是れ一つに「彼れおのれの神を頼みたるによりてなり」であつて、吾人茲に到つて、神を讃むるの外、説明も理屈も知らぬのである、更に又、害をうけぬのみではない、困厄不幸の中に只一人と思つて居る時、慮らざりき、第四の者の容は神の子の如しで、力ある者、吾人の傍に偕に居て下さるのである、自分は此事を行はねばならぬ、然し、誰れ一人賛成してくれる者はない、嗚呼吾れ一人して此悲境を忍ばねばならぬのかと思ふ時、実につく/”\と寂莫を感ぜざるを得(22)ない、此時、吾人を励ますものにして、神は吾人の艱難の中にも、常に吾人と偕に居て下さるとの信念に越すものがあらうか。
 第三に学ぶことは、かゝる勇気ある断行の功果影響である、先づ其当人が受くべき功果は、いふ迄もない、事の大小を問はず、自ら此勝利の実験を有しないものは、未だ真に力ある信仰の自覚を得られないのであつて、此実験の上に立つ確信こそ、始めて動かず朽ちざる生命力となるのである。次に、其周囲の人に及ぼす影響は、亦偉大なるものである、之れ実に、実行を以てする伝道であつて、この位ひ人を感動せしめるものはない、見よ、流石のネブカデネザルも深く感嘆して、心からいと高き神を讃美したではないか、前には祈祷を禁じたるダリヨスも、自ら令を発して、但以理の神を畏れ敬ふべしと命じたではないか、活ける真の力は、力其ものを以てのみ、伝ふることを得るものである。       *     *     *     *
 吾人は、此力の生涯を学ぶと共に、吾人も亦如何にして、此力ある信を得べきかを思はざるを得ない。
 キリストは教へ給ふ、「此類は祈祷に非らざれば出づることなし」と(馬太伝第十七章廿一節)。
 
(23)     神癒に就て
                       明治39年1月15日
                       『新希望』71号「問答」
                       署名 内村鑑三
 
問、先生、貴下《あなた》は神癒をお信じになります乎。
答、勿論信じます、神が造りし此身体、神が其疾病を癒し得ないといふ理はありません、キリストは今も尚ほ生きて在します、彼の能力に昔も今も変りはありません、若し聖意に通はば彼は今も昔の如く、性来《うまれつき》の盲人《めくら》の目を開くことが出来ます、死にたる人を復活《いきかへら》すことが出来ます。
問、去‘先生は何故さ病気に罹られた時に医者にお恃《かゝ》りなさりますか。
答、医者に恃るのが神の聖意であると信ずるからであります、私は斯かることは聖書の言に由るまでもなく私の常識に由て決します。
問、然かし聖書にはヱホバは汝のすべての疾をいやしと書いてあるではありません乎(詩篇百三篇三節)、又雅各書には汝等の中誰か病める者ある乎、あらば教会の長老等を招くべし、彼等主の名に託りて其人に膏を沃ぎ之が為めに祈らん云々と書いてあるではありません乎(五章十四節以下)、其他キリストが癲癇、※[病垂/難]※[病垂/風]《ちおうぶ》、血漏其他すべての疾を癒されたことを聖書は沢山に記録《かきしる》して居ではありま軋ん乎。
答、其事は私も承知して居ります、私も神に依らずして如何なる疾と雖も決して癒すことの出来ないことを固く(24)信じます、ヱホバは実に我等のすべての疾を癒す神であります、然かしながらヱホバは我等の疾病を如何にして癒し給ふ乎、それが問題であるのであります、神が疾を癒し給ふ方法は一ツにして足りません、所謂る奇跡を以てするのみが医癒の唯一の方法ではありません、医術を以てするのも神が私共の疾を癒し給ふ一ツの方法であります、爾うして今日の如くに医術が比較的に進歩したる時に方ては神に感謝しながら之を使用するのが常識に適ふたる信仰の途であると思ひます。
問、然かし聖書に疾病に罹りたる時は医者に行けと何処に書いてあります乎、聖書は医者の無能を唱へて止まないではありません乎、汝等は只※[言+荒]言を造り設くる者、汝等は皆な無用の医師なりと(約百記十三章四節)、此婦多くの医者のために甚だ苦められ、其所有をも尽く費しけれども何の益もなく却て悪しかりきと(馬可伝五章廿六節)、聖書の言其儘に由れば医者は全く無用の者ではありません乎。
答、爾うであります、聖書にはまた※[さんずい+氣]車に乗れとか、憲法政治を採用せよとか、銀行を興して金融の途を開けと書いてはありません、又若し聖書が医者の無用に就て述べて居るとしまするならば、智者安くに在る 学者安くに在る、此世の論者安くに在る、神は此世の智識をして愚かならしむるに非ずや(哥林多前書一章廿節)、又我(神)智者の智を滅し、慧き者の慧きを廃《むなし》くせん、(仝十九節)とも記し居ります、パウロ在世当時の智者と云ひ、慧き者と云ふは今日の哲学者科学者に当ります、爾うして聖書に斯う書いてあるから、我等キリスト信者はカントの哲学もダーヴヰンの進化説も顧みてはならないといふのでありますか、若し爾うであるとしますると私共は近世科学の結果たるすべての発明をも利用することは出来ません、又近世哲学の結論たるすべての進歩的思想を懐くことも出来なくなります、貴下は私に医者に恃つてはならないと仰せられて、私にカントの平和(25)論をも信ずるな、近世科学の発明にかゝる※[さんずい+氣]車、電車にも乗るなと仰せられるのであります乎。
問、然かし医術に多くの誤謬のあるのは貴下も御承知でありませう、貴下は今日の医術が神の像《かたち》に象りて造られたる人の身体を悉く解し得ると御信じになります乎。
答、勿論爾うは信じません、私は今日の医術に多くの仮想があることを信じます、故に私は多くの注意を以て私の身体を医師に托します、然しながら同じやうに今日の政治学にも社会学にもまた多くの誤謬があります、立憲政体なる者が果して完全の政体なるや否やは未だ大疑問であります、それのみではありません、今の基督教にもまた多くの誤謬のあることは明かであります、今の医学の全く信ずるに足らないやうに今の神学も今の聖書学も未だ全く信ずるに足りません、若し誤謬多きの故を以て医術を排斥するならば同じ理由を以て今の神学、聖書学をも排斥しなければなりません、我等人間は我等の有つ丈けの智識に頼るより外に途はありません、医術に誤謬多きは決して之を悪魔の術として排斥するの理由とはなりません。
問、然かし医師の誤謬に由て生命を奪はれた者は沢山あるではありません乎、政治や哲学は直接の生命問題ではありません、然かし所謂る医学に至ては是れ吾人の生命に係はることであります 爾うして貴重、否な神聖なる吾人の生命は是れ人に任かすべきものではないと思ひます、貴下は爾うはお信じになりません乎。
答、医師の誤診に由て生命を奪はれた者は沢山あります、然かし又医師の診察を受けずして生命を失ふた者も沢山あります、試に医術に種痘の発見がなかつたとして御覧なさい、幾千万の小児が成長に至らずして死んだか判りません、人類の発見中に種痘の発見は其最も大なるものゝ一つであると思ひます、又近頃に至りましてヂフテリヤ病の血清療法が続々と功を奏して居るではありません乎、其他不完全ながらも医術は人類の苦痛の多(26)くを拭ひつゝあるではありません乎、医術とても神の特別の指導なくして今日の進歩に達したものではないと思ひます、多くの医学者は最も熱心なる基督信者でありました、彼等は神に事へ同胞を救はんとの熱心より彼等の研究に従事したのであります、私は信じて疑ひません、医術の多くの発見も、他の技術の発見の如く、神よりの直接のインスピレーシヨンに由りましたことを、私は医術に誤謬多きの故を以て絶対的に之を排斥するの甚だ没常識なるを唱へざるを得ません。
問、然らば貴下は雅各書五章十四節以下を何う御解釈になりますか。
答、文字通りに解釈します、私は義者の篤き祈祷は力ある者なることを信じて疑ひません、私は人の疾病は直接、間接にその罪の結果たることを信じます、故に疾病に罹りたる時は神に罪の憾悔を為して其赦免を乞ふの必要なることを信じます、私は又霊魂の疾病は之を神に任かし、肉体の疾病は之を医師にのみ委ねる人の能く事理を解する人にあらざることを認めます、私は肉体の疾病に罹りし時にも又祈祷の最も必要なることを信じます、然かしながら雅各の此言葉の中に医者に恃つてはならないとは一つも書いてありません、又薬を用いてはならないとも書いてはありません、否な、膏を沃げと書いてあるのを見ますれば適当の療法は之を施すべしと云ひ居るやうにも見えます、御承知の通り今より二千年前のユダヤに於ては今日世に称する医術なる者はありませんでした、其時代の薬品とては少数の香料と香油とに限られました、ギレアデに乳香あるにあらずや、彼処に医者あるにあらずや、とはヱレミヤ時代の医術の有様を示した言葉であります(耶利米亜記八章廿二節)、強盗に打擲かれ瀕死《しぬばかり》になりし旅人を或るサマリヤ人が救ひし時に彼は其傷に油と酒とを沃《さしこ》んでやつたと書いてあります(路可伝十章卅四節)、故に雅各が茲に病人に膏を沃げと云ふたのも此意味で云ふたのであらふと思ひます、(27)勿論膏を沃ぐとは聖めるとの意味にも取れます、然かしながら穏当なる聖書学E,H,プラムプター氏の如きも、雅各書の茲にある膏を沃ぐといふ言葉を薬品使用の意味に取て居ります、(ケムブリッヂ聖書雅各書百三頁を見られよ)、勿論私は聖書の此一節を取て基督信者に薬品使用を義務として強ひんとは致しません、然しながら雅各が茲に薬品の使用を禁じて居ないこと丈けは明かであると思ひます。
 長老を招けとは勿論今日の或る教会にある長老職を招けと云ふのではないことは明かであります、長老とは勿論信仰の長者であります、祈祷の実力を知り、力ある祈祷を神に捧ぐるの秘訣を知つて居る人であります、斯かる人を病気の時に招いて其祈祷を乞ふのは最も適当のことであります、私は雅各のこの言葉の中に何にも解し難い教理を発見することは出来ません、私と雖も疾病に罹りました時は大抵は雅各が茲に教へた通りに実行して居る積りであります。
問、然しながら人が医者に頼ればそれ丈け神に頼らなくなるのは解かり切つて居るではありません乎、神にのみ頼つてこそ真正の信仰が出るのではありません乎。
答、必しも爾うとは限りません、善く万物の理を弁へた者はすべての方法を取りつゝすべてのことに於て神に頼ります、智識ある信仰は其熱心の度を増さんがために神の供へ給ひし明白なる手段までを放棄しません。
問、然かし祈祷で疾病が癒えるものである以上は、別に医術の助けを藉りるの必要はないではありません乎、若し貴下の御説明の通りでありますれば祈祷に由りて疾病を癒さんとするの場合は全くなくなるではありません乎。
答、決して爾うではありません、若し医術が完全無欠の者でありまするならば或ひは爾う成る乎も知れません、(28)然かし医術が人間の術である以上は之に全く頼ることの出来ないのは勿論であります、雅各在世当時の如く医術の今日よりも更らに不完全なりし時には祈祷の必要の今日よりも更らに多くあつたことは能く判ります、然かし今日とても疾病の時に於ける祈祷の必要は決して失せません、今日とても未だ尚多くの不治の疾病があります、癩病の如き、胃癌の如き、肺結核の如き、脊髄病の如き、今日の医術を以てしては到底治すことの出来ない疾病があります、爾うして斯かる疾病に罹りました時は、唯祈祷を以て神に癩るのみであります、此時こそエリヤの如き信仰を有つたる人の祈祷を乞ふて其治療を計るより他に途はありません、医術の比較的に進歩せる今日に在ても信仰治療の範囲はまだ沢山残つて居ります、神は人類をして其造主を忘れざらしめんがために疾病治療に関する秘密を未だ悉く彼等に示し給ひません、吾等はすべての場合に於て直接間接に神に頼らなければなりませんが、然かし直接彼にのみ頼らなければならない場合は今日と雖もまだ沢山あります。
問、貴下の御説を伺ひますると何んだか判つたやうで少しも判りません、貴下は神癒を信ぜられるやうでもあり又信ぜられないやうでもあります、此問題に対する貴下の御態度は何うも明瞭を欠いて居るやうに思はれます。
答、爾う仰せられますならば此問題に対する私の態度を貴下に明白に申上げませう、私は神を信ずる上に於て神癒なるものに余り重きを置きません、貴下方の唱へられる神癒なるものは私の信仰箇条とはなりません、私は神が私の祈祷を聴いて私の肉体の疾病を癒し給ふが、給ふまいが、それに由て神の私に対する聖意の程を判断致しません、私は私の肉体の疾病を癒されんがためにキリストを信じたのではありません、私は私の霊魂を救はれんために彼の弟子となつたのであります、私の肉体は罪の故に既に死んだものであります(羅馬書八章十節)、是は一度癒されても終には必ず死すべきものであります、甦らされしラザロですら終には死んで了いま(29)した、キリストは肉体の疾病が癒さるゝことは霊魂の罪を赦さるゝやうな大なる救済ではありません、私は私の霊魂さへ癒さるれば私の肉体は何うなつても宜いのであります。
 霊魂のためを思ふて疾病は少しも悪いことではありません、然かり、多くの場合に於ては疾病は恩恵であります、重き疾病に罹りし結果として罪の縲絏《なはめ》より救はれた人は沢山あります、或る時は疾病は実に歓迎すべきものであります、感謝すべきものであります、疾病をすべて悪事とのみ解する者は未だ深くキリストの恩恵を味つたことのない人であると思ひます。
 祈祷で疾病が治ると定まりますならば基督教は速かに俗化して了ひます、疾病医療の願ひは決して無私無欲の願ひではありません、疾病を癒されんと欲する願ひは何人にも有る願ひであります、爾うして若しキリストが肉体の医師であると判かりましたならば、利慾一方の官吏でも、商売人でも、争つて彼の膝下に来るでありませう、丁度浜口某なる者が金剛力を以てすべての病気を治すと唱へました時に都下の衆愚が争て彼の許に走つたやうなものであります、キリストは万物の造主でありますから勿論容易に肉体の疾病を治すことが出来ます、然かし人の霊魂を救ひ、彼等をして永久に活かしめんとするのが彼の目的でありますから、彼は或る特別の場合に於てゞなければ肉体の疾病を治し給ひません、彼は若し霊魂を救ふために肉体を癒すの必要があると認め給ひますれば、之を癒し給ひます、然かし其他の場合に於ては之を癒し給ひません。
 キリストが肉体の疾病を癒し給ふからと言つて彼を信じ、給はないからと言つて彼の恩恵を疑ふが如きは是れキリストを信ずるの途を知らない者の為すことであります、或る大臣がキリストの許に来りカペナウンに下りて其子を医《いや》し給はんことを請ひし時にキリストは彼に問ひ給ひました、汝等|休徴《しるし》と異能《ことなるわざ》とを見ずば信ぜじ(30)と(約翰伝四章四十八節)、肉体に医療の恩恵を受けしが故にキリストを信ずるのは彼を欣ばし奉るの途ではありません、私共は私共の霊魂に於てキリストの偉大の能力を感ずべきであります、爾うして此処に之を感じさへすれば私共は肉体の医療如何に由らずして彼に感謝して止まないのであります、彼(神)我を殺すとも我は彼に依頼まんと言ふのが真正《ほんとう》の信仰であります(約百記十四章十五節)、使徒パウロも或る苦痛より免かれんことを神に求めました、然かし神はパウロの其祈祷を聴入れ給ひませんでした、其時パウロは何う言ひましたか、哥林多後書十二章七節以下を読んで御覧なさい、
 我に賜はりし多くの黙示に因りて我が高ぶること無からん為に一つの刺を我が肉体に予ふ、即ち我が高ぶること無からん為に我を撃つサタンの使者なり、我れ之が為に三たび主に之を我より去らんことを求めたり、彼れ我に言ひ給ひけるは我が恩恵汝に足れり、そは我が力は弱きに於て全くなれば也と、此故に我は寧ろ欣びて自己の弱きに誇らん、是れキリストの力、我に寓らん為なり。 是れが真正の基督教的信仰であります、肉体の治療に余り重きを置いて、神癒を信ずるを以て信仰強しと言ひ、侶ぜざるを以て信仰足らずと言ふが如きは、甚だ低い且つ浅い信仰であると思ひます、私は私の信仰を斯かる程度に止め置かんことを望みません、私はヨブやパウロと共に、私の肉体の疾病を癒されずとも篤く神に依頼《よりたの》むの信仰に達したく思ひます。
問、御説或ひは御尤もかも知れません、然かし貴下の御説は何んだか学者の説のやうに聞えまして、私には未だ充分に之を受け納れることが出来ません。
答、多分爾うでありませう、私は今、貴下の「神癒」に関する御信仰を毀たうとするのではありません、只、今(31)後私が疾病に離りたる時に私が医師の援助を求むればとてそれがために無信仰を以て私を責めないで下さい。
問、それは委細承知しました。
答、爾うさい為て下されば私は此問題に就て最早貴下に何んにも申上げません。
                             サヨナラ
 
(32)     余の旧き聖書より
                       明治39年1月15日
                       『新希望』71号「実験」
                       署名 内村鑑三
 
 余に旧き聖書がある、英訳聖書である、余は一千八百八十三年、即ち明治十六年、東京芝日蔭町十字屋支店に於て之を買求めた、彼は余の半生の伴である、彼の表紙は破れ、頁は脱し、今は見すぼらしき古本である、然かし彼は余の貴重品の一つである、余と共に墓に降るにあらざれば、余の最愛の友に譲渡さるべき物である、彼は余の戦ひしすべての戦闘に参与した、彼に由て余は幾度か悪魔を追斥けた、彼に鎚つて余は幾度か熱き火の中を通つた、彼は実に余に取りては両刃《もろは》の剣である、彼の頁面《ぺーじめん》に血痕の歴々たるがある、熱涙の滴りて汚点《しみ》を遺すがある、余の短き生涯は彼無しには説明し得べからざる者である、余を感化せし者にして彼の如きはない、彼は実に余の肉の肉にして骨の骨である、彼は余の書斎の王である、余の有するすべての書は彼の内容を説明せんための者である、『聖書之研究』は主として彼の研究であつた、『新希望』は主として彼の供する希望である、彼れなくして余の事業はない、余は英文を以てエラスマスのかの有名なる言を彼の巻首に書入れ置いた、(確か米国アマスト大学に於てなりと信ず)、即ち
  “l am firmly resolved to die in the study of the Scriptures;in them are all my joy and all my peace.”
(33)  余は聖書の研究を以て死なんと決心す、余のすべての歓喜とすべての平和とは其中にあり。
 依て知るべし、余の聖書の研究の計画は今に始まりしものにあらざることを、余はエラスマスの此言をフルード氏著「ルーテル対エラスマス論」の中に発見せりと信ず。
 余の旧き聖書は勿論余を海外の流竄に伴へり、彼は千八百八十四年秋十月余と共に氣船トウキヤウ号に乗りて太平洋を横断《よこぎ》れり、彼は余と共に最下等列車に投じてロツキー山を逾えたり、余は彼を携へて故ドクトル・ケルリン氏をペンシルバニヤ洲エルヰンの丘上に建てられたる白痴病院に訪へり、余は彼れケルリン氏の庇保する所となりて、彼れ(余の旧き聖書)と共に二年の有益なる日月を此慈善病院に経過せり、余は夏は此古き書をエルヰン丘上岩石狼藉たる所に読めり、春はアービュータス草の香に誘はれて、彼を叢林の間に繙けり、エルム樹の芽を萌せし頃、盛夏にドグ樹の白花を結びし頃、余は青草の上に、或ひは緑蔭の下に余の携へ来りし友人と共にユダ国古代の聖徒に就て学べり、余は特に耶利米亜記を此所に於て読めり、余は彼れ預言者エレミヤと共に泣けり、余の周囲に七百の白痴童児の人類の罪悪を表現して集まるあり、余は預言者と共に泣かざるを得ざりき、
  あゝ我れ我|首《かうべ》を水となし、我目を涙の泉となすことを得んものを、
と(耶利米亜記九章一節)、余は赤色インキを以て耶利米亜記の終りに左の如く記入せり(日本文にて)、
  明治十八年五月廿九日米国エルウヰンに於て之を読み終る、我が心思を動かすこと甚だし、一国の興敗、愛国者の困難、一々我が心魂に徹す、願くは将来国のために計るに及んで大に益する所あらんことを。
と、余は今に至るも耶利米亜書を読む毎にエルウヰンと恩人故ドクトル・ケルリン氏とを思出さゞるを得ず。
 余は余の古き聖書を携へて千八百八十五年夏一時エルウヰンを去つた、其秋彼とギボン著『羅馬衰亡史』七冊(34)とを携へてアマスト大学に入学せんとて其校長故ジユリアス・シーリー氏を訪ふた、是より余と余の聖書との関係は一層親密なるものとなつた、アマスト校に於ける満二年間の余の生涯は主として余の古き友人との対座であつた、余は特に其奥義を探らんとて其処に往いたのである、余は全校と共に毎朝綜理先生の彼の響き渡る音声を以てする聖書の朗読を拝聴した、余は独り博士フィールド氏と共に旧約聖書歴史を究むるの特権を与へられた、余は此処に希臘語の初歩を学んだ、余は又こゝに希伯来語の研究を姶め、字典の援助を以てすればモーゼの五書位ひは稍々解し得るに至ツた、アマストに於ける余の忘るべからざる経験は、夏期休暇中、全校の生徒悉く帰省し、余は独り寄宿舎に残りて、松林の栗鼠と共に校舎を守る間に、独りデビッドソン氏著『希伯来文典』とグリーン氏著 Chrestmathy とを手にし、楓樹の蔭に青草の上に横臥しながら余が故郷より持来りし余の古き聖書を読みしことであつた、頭を擡げて西方を望めばコンネクチカツト河の流は日光を其流面より反射して恰かも銀色の帯一筋を牧場の間に布しが如くに見えた、尚ほ暫時《しばらく》経てば赤き夏の太陽は終日の運動に疲れ果てゝ、余の視線を西方に限りしバークシヤ山脈の彼方に舂《うすづ》いた、時に余は心の中に思ふた、西半球に於ける夕陽は東半球に於ける日出である、今は余の故園の富士山の巓に朝日の光が輝いて居る頃であらふと、斯く思ふて余の頭を低れて余の古き聖書の上に俯伏して天地の造主なる余の神に余の愛国的祈祷を捧ぐれば、公会堂の鐘は入相を告げて、余は余の書冊を纏めて独り余の密房に退いた。
 嗚呼余の旧き聖書よ、汝は余の証人なり、其時の余は熱心なる愛国者なりしことの、余は其時は主に余の国を救はんとして余の聖書を研究した、日本、日本、何んでも日本であつた、故に殊更らに興味を以て預言書を読んだ、今、余の古い聖書を開いて見ると左の如き記入がある。
(35) 但以理書の始めに
  基督信者にして朝に事へんと欲する者は此章を読むべし、
と、余にも其頃は日本国の官吏たらんと欲するの野心が有つたと見える、実に憐むべきである、同じ但以理書の終りに左の記入がある、
  千八百八十六年二月廿二日米国アマストに於て読み終る、英(穎)敏聖明の愛国者、国を憂ふるの情を察し、大に我が心を感動せしめたり、
と、余が其時から邦文に堪能ならざりしは此記事を以ても知ることが出来る、吟巴谷書末章終りの三節に対し左の記事がある、
  読んでこゝに至り、心、快然として止む能はず、英雄世の難に当るに及んで先ヅ斯快楽なかるべからず、
と、愛国者たりし当時の余は亦英雄たらんと望みしが如し、笑ふべきかな。
 西番雅書に於てヱルサレム市紊乱の状を読んで左の記入がある、
  Pari,Vienna,New York,etc.BEWARE.
  巴黎、維也納《びえんな》、紐育《にゆうよるく》等よ、警誡せよ、
と、其時未だ東京、横浜、大阪、京都等の市政便乱はなかつた、故に余は是等の名を加へなかつたと見える。
 哈基書の終りに左の記入がある、
  明治十九年三月廿一日夜、米国アムハルストに於て此章を読む、時に郷国下民多く不景気を嘆ず(勿論新聞紙に由て知るを得たり、余の父は郵船毎に朝野新聞を送り越したり)、人、挙て挽回の法を談ず、然れども(36)救治策に困しむ、此章に記する所、以て今日の難を救ふの要点なるべし、維新以来我邦大に文明の進歩に注意し、人生幸福(hedonism)を増すを以て独意(原文の儘、専心の意なるべし)となし、上帝の真理を究め神の聖教会の進歩に注意せず、以て大に道徳の衰(頽の字を脱す)を来たせり、神の声高し、国民挙て之を聞くべし、
と、余も其時は一廉《いつかど》の愛国者なりき、余は其時未だ今日の如く余の国人に就て失望せざりき。
 撒加利亜書の終りに唯左の一句がある、
  Consoling book!
  慰藉に富める書よ!
と、爾うして旧約聖書の終りにして又預言書の終りなる馬拉基書の終りに左の長々しき英文の記入がある、
  A most glorious promise! One year ago,I began the study of prophets at EIwyn,with Jeremiah as Jeremiah,Weeping and lamenting. Today(Apr.13.1886)I close this most delightful study with Malachi as Malachi, my heart filled with glorious hopes and transcendent joys. Oh,What a change in the condition of my heart during this one year! I thank God I have enough education to read His words.I thank God I am not dumb;and even though all of my earthly hopes fail,I have a tiny tongue to thunder out(forth)the glorious salvation which the Lord sent upon me.Blessed be the Triune God!!
  最も光栄ある約束なるかな、余は今を去る一年前にエルウヰンに於て預言書の研究を始めたり、余はヱ(37)レミヤの心を以て泣きつゝ又悲みつゝヱレミヤ書を以て此研究を始めたり、今日即ち千八百八十六年四月十三日余はマラキの心を以て、即ち余の心は光栄なる希望と感覚以上の歓喜を以て満たされてマラキ書の研究を以て此最も愉快なる研究を終る、嗚呼、此一年間に於ける余の心の状態の変化は如何なるものぞ、余は神に感謝す、余に彼の聖言を読むに足るの教育あることを、余は神に感謝す 余は唖者にあらざることを、而して地上に於ける余のすべての希望は失敗に帰すとも余に主が余に送り給ひし光栄ある救済の途を轟かすに足るの小なる舌の存することを、三位一体の神は讃美すべきかな。
と、是れは確かに熱誠の言である、爾うして二十年後の今日、余は雷声《かみなりのこゑ》を以て主の福音を世に轟かしては居らないが、然かし或る他の方法を以て余の当時の目的を実行しつゝあるを感謝する。
 余は千八百八十七年の夏アマルスト校を去り、同じ年の秋、更らに余の聖書を学ばんと欲してコンネクチカツト洲ハートフホルド神学校に入つた、然かし此処に多くを学び得ずして、翌年三月十日紐育港より船に乗じ、故国を指して皈途に就いた、五月十日余は再たび余の旧き聖書と共に余の故国なる横浜の埠頭に達した、爾うして余の旧き友は海の外に於ての如く海の内に於ても余の身を護る天使であつた、余は余の同胞の中に帰り来りてより、幾たびか余の旧き聖書に由りて獅子の口を箝《つぐ》み、火の勢ひを滅し、剣の刃を避がれ、弱きよりして強くせられ、戦争に於て勇ましく、異邦人の陣を退かせた(希伯来書十一章卅三、卅四節)。
 いざ今より余の旧き聖書の中より余が人生の戦場に於て感じ且つ玩味せし章句を引いて之に対する余の感想を述べやうと思ふ。
 
(38)     宝船
                       明治39年1月15曰
                       『新希望』71号「雑録」
                       署名なし
 
 我等の宝は友人である、彼等より送り来る手紙は宝船である、爾うして角筈の湊は歳末歳始に際しては斯かる船を以て輻輳する、左に載する者の如きは其三四に過ぎない、然かし其最も好き代表者である、世は戦勝を以て誇るの外、他に喜ぶべきことなき時に方て、我等は人を殺さず、金をも儲けざるに、歓喜を以て充ち溢れる、キリストを信ずることは此世からしての大利益である、我等は世の富者、貴族輩に聞かんと欲す、君等に我等が有つ百分の一の快楽あるやと、羨むべきは彼等ではなくして我等である、我等は此世の塵芥の如くに思はるれども実は此世の王である。
 
     一
 安藤大二郎君は身に一物を有するなく、今や不治の病に罹り、他人の家に客たる者なり、若し世に不幸なる者ありとすれば君は実に其の人なり、然れども君は失望悲歎の人にあらざるなり、左に掲ぐる君の年賀の辞を見よ、君は今や君の翼を張て天を指して昇らんとするの概あり、世の王侯貴族にして君の如くに喜々たる者は何処に在るや、余輩は君の端書に接して君のために泣き、又君に此勇気を賜ひし愛なる神を讃美せり。
(39)  真なる父、愛なる神の御恩寵に依り御同事に年の復活に接するの歓喜を感謝し奉る、願くは尚本年も我等兄姉の上に祝福の益々豊ならんことを アーメン
  初日さす五十鈴川《いそすゞがは》に垢離《こり》とりて
    恵の神を拝むかも。
  意馬に鞭《むちうち》天国さして奔騰す。
    軈《やが》て逝く身にもうれしき今朝の春。
右松の内の御笑草に候
                褥中病夫 安藤大二郎
 
     二
 茲に出雲松江市高橋八重子姉より送られし信仰歌三首あり、以て吾人新年の愛吟となすに足る。
      信仰歌               八重子
   聴かれずもおめずおくせず語らなん
     神の言葉を人の真中に。
   国のため世のためはげみ働いて
     受けつゝくらす神の恵みを。
   うきこともつらきも忘れ朝夕に
(40)     神と交る心たのしさ.
 
     三
 水野いし姉は七十歳余りの寡婦なり、三四年前に最愛の独子を失ひ、今は単独寄辺なきの人なり、世の人ならんには老境の悲歎遣る方なきに、此人未だ曾て一回の愚痴を余輩に書き送られしことなし、今年も又左の如き歓喜の信書あり、戦勝の後に、海軍士官一人をキリストに導かさして戴きたりとて感謝す、彼女の老年は実に羨むべきものならずや。
  謹みて新年を賀し奉る、……………別して昨年などは戦さの為め世上一般の人々苦難の多き事のみに候へどもわたくし事は御導きのおかげによりいつもながら神様の御愛の中に在て日を送らさして戴き、更に又喜びと希望を以て新年を迎へ候間何卒畏れながら御安意給はり度ねがひ上げ候、尚旧冬には新希望誌のおかげによりはじめて海軍の士官一人をキリスト様に導かさして戴きました、誠に実事にありがたく、たへず感謝いたし居り候、先づは新年の御祝詞申上奉り候かしこ。
                          水野いし
 
(41)     四
 肥前国五島今竹男君は君の元旦の日記中の一節を送らる、即ち左の如し。
    余の幸福
 余は元来不幸なる者なり、余は他人が有する如き幾多の幸福を有せず、第一、富を有せず、第二、高位高官を有せず、第三智識を有せず、第四名誉を有せず、第五人の賞する徳行を有せず、第六人の喜ぶ快活なる気象を有せず、第七愉快を得べき道楽を有せず、数へ来れば幸福の必要条件たるものは一も有せざるなり。
 然れども余は幸福なるものなりと自白せざるを得ず、余は他人が有せざる幾多の幸福を有す、第一 両親と数人の親しき兄弟とを有す、第二 忠貞を尽す妻を有す、第三 余が欠点を寛恕して同情を寄する友を有す、第四 些少ながら余の心底に賛助する生徒を有す、第五 自由に動かし得る手足を有す、第六平易なる書を読み得る目を有す、第七 余を永遠の楽境に導く神を有す、余は他人が有する幸福よりも余の有する幸福を喜ぶなり。
 此他尚ほ歓信書書多し、我等は斯かる宝の寄贈を受けて最も歓ばしき春を迎へたり、我等は今年もまた神の僕となりて働らき、明年も又其歳の始めに於て更らに貴き宝を賜はりて善き初夢を結ばんと欲す。
 
(42)     〔病中の回顧 他〕
                       明治39年2月10日
                       『新希望』72号「所感」
                       署名なし
 
    病中の回顧
 
 余は雑誌編輯に従事してより茲に十年、号を重ぬる事前後合せて百五十余回、然かも未だ曾て一回もこれを他人の手に委ねし事なし、自からその重なる記事を綴り、殊に『研究誌』となりてよりは寄贈文は悉く之を熟読精選し校正は少くとも一回自から之を精閲し以て今日にいたれり、身は強健と称すべからざるも之を脆弱なる文学者の経歴としてやゝ誇るに足るものなりと信ず、然るに今や少しく念の入りたる病に罹り、余の愛する斯業を友人の親切なる手に委ねざるべからざるに至り遺憾甚だ尠からずと雖も、亦過去に於ける神の深き恩恵に稽へて深き感謝なき能はず 読者諸君に於ても十年間連続せる余の微力を憐まれて余の今回の不能を赦し給はん事を願ふ。
 
    神癒説と疾病
 
 前号に「神癒論」を書いて余は直ちに病に罹れり、或人は曰はん、是れ「神癒」を絶対的に信ぜざる結果なり(43)と、然共余は然か信ずる能はず、余は病に罹りてより余の尤も信任する、且つ今の世に在ては罕に見る処の正直なる医師の治療を受け居れり、且つ又報を地方の教友に飛ばして彼等の祈祷を乞へり、余は出来得る丈け天然の法則に従ひ、又出来得る丈け信仰の道を守れり、然して病は漸次その勢を失ふに至れり、余は之を以て常識の道に適ふたる信仰の道なりと信ず、余は世の所謂る神癒説なるものに未だ全然服従する能はざるなり。
 
    病中の慰藉
 
 病癒えて後に再び平時の勤労に就かんとするの希望、是れ病中の慰慰藉の一たるや疑なし、然れども是れ完全なる慰藉にあらず、病、或は癒えざるもいまだ以て知るべからず、労働の快楽たる是れ独り自ら得んと欲して得る能はざるものなり。
 病癒えて後に再び交友、家庭、天然の快楽を楽しまんとするの希望、是れ亦病中の慰藉の一たるや明かなり、然れども是れ前の希望と同じく吾人の慾望の一たるに過ぎず、亦以て凡ての苦痛を慰むるに足るものにあらず。
 病中唯一の慰藉は人世唯一の慰藉より外のものにあらず、即ち神がキリストに依てその愛するものに下し給ふキリストの王国に於ける栄光の希望、是れなり、この希望は不定の希望にあらず、確定の希望なり、必ず吾等に事実となりて顕はるべき希望なり、此希望ありてすべての苦痛は慰め得らるべし、この希望ありて病室も天国の光を受けて耀くべし、この希望を思ひ出して我は病の人にあらず、その時我が渇きたる咽喉より低声の讃美の声は発す、罪の赦しの希望、復活の希望、キリストと共に全世界の聖徒と共に永遠に聖き生涯を送り得るの希望、この希望を抱いて我自身に取りては病は癒ゆるも可なり、癒えざるも可なり、我は我が生命の長からざるを悲し(44)まず、我は我が生涯の数限りなき苦痛を忘却す、然してかゝる愉快なる希望を抱いて肉体は大なる精力を得て健康の快復は大に助けらる、健康を要求せざる信仰こそ健康を快復するに尤も力ある信仰なるなれ。
 キリスト教の希望、これを病中の慰藉となすものは幸福なり その他の慰藉は以て確実なる慰藉となすに足らず、余は殊に今回この慰藉の力を感じて深く神に感謝せざるを得ず。
 
    病中の快楽
 
 病中に病気の苦痛はある、頭は痛い、咽喉も痛い、食物は少しも甘まくない、体は疲労する、何んにも出来ない、是れみな病中の苦痛である、然かしその外の苦痛とては一つもない、健康の時とて決して苦痛のない時ではない、この面倒なる社会に在て我が身と我が家族を処するの道は甚だ六ケしい、いかにして此人に対せんか、いかにして彼の人に対せんか、親切を施さんか、或は是を取り戻さんか、是等はみな苦痛の種である、我等は或時は数日をかゝる苦痛の中に消費する。
 その他に信仰の苦痛がある、罪は常に我等を誘ふ、我等の心の裏に罪念が湧きいづる、これを撲滅せん事は多くの労苦であつて亦多くの苦痛である、信仰を維持すると云ふ事は我等の信仰が進めば進むほど益々困難である、日々己れと大戦争を継続するにあらざれば我等は直きに元の剛慢なる俗人となり了る。 第三に学問の苦痛がある、新説はいまや続々として提出せらる、我等是に対して目を閉ぢ、耳を塞がんか、これ或は安全の方法なるべし、然れどもこれ決して進歩の方法にあらず、我等は正直なる説とあれば何れの説にも耳を傾けざるべからず、故に一日として欧米の新著に目を晒さゞる事なく、以て我が智識の時代の夫れに遅れざ(45)らん事を務む、然して山をなす新説の中より真を撰び、偽を捨つるは是亦非常の労苦であつて、非常の苦痛である、而して我等は他の苦痛と共に日々この苦痛をも感じつゝあるものである。
 かくて我等は日々苦痛を感じつゝあるものである、罪悪を以て充ち満ちたる日本今日の社会に対して、己れの心に来襲する悪魔の誘惑に対して、亦我が脳裡に存する無学に対して、日々に戦争を継続しつゝあるものである、故に睡眠の時間を除いては我等に苦痛のない時とては殆んど一刻もない、然るに病に罷りて以来は我は病の苦痛の為めに凡ての他の苦痛を忘却せしめられ、我は白痴児の如くなりて、我が身を我を愛する看護のものに委ね、我が意は一ツもある事なくして医師と看護者の意のみ我が意たり、我は世に薄情、残忍、譎詐等の非道あるを忘れ、悪魔は我が肉の弱きが故に我を罪に誘ふ能はず、我が能力は衰へて新智識獲得の業に従事する能はず、我は再び小児に帰りて、殆んど無意無識の人となる、疾病必ずしも悪しき事のみにはあらざるなり。アーメン。
 
(46)     自分の事に就て申上候
                       明治紳年2月10日
                       『新希望』72号「雑録」
                       署名 内村鑑三
 
 拝啓 小生儀去る一月十五日朝より原因不明の緩漫、然かも頑固なる熱病に罹りその治療に種々手を尽くし候へ共三週日の間少しも下熱せず、大に困却いたし、止むを得ず、雑誌編揖を小山内薫、倉橋惣三の両友人に任かし、専ら治療に意を注ぎ居り候処、幸にして二月二日にいたり、平熱に復し快復期に入り候間、自分の事ながら年来の誌友諸君に於ても御安神被下度候、且つ余り広くこの事を諸君へ御通知申上げざりしにも不拘、或は書翰を以て、或は電報を以て、或は特に遠路御来訪被下、褥中にありて唯感謝の涙に咽び候のみに御座候、何れ尚本復迄には数週日を要し可申、従て雑誌編輯も意の如くならず候へ共、その段は特に御宥恕被下度偏に願上候、小生は僅かの疾病の為めに神が小生に賜ひし尊き慾望を放棄仕らず候、健康の本復を待て益々主の為めに働き度
望み居り候。
  我儕が外なる人は壊るゝとも内なる人は日々に新なり(哥後四〇十六)。(褥中口伝)
 
(47)     『家庭の聖書』〔角筈パムフレット第七〕
                         明治39年3月5日
                         単行本
                         署名 内村鑑三撰
〔画像略〕第九版表紙149×110mm
 
    はしがき
 
前に「小供の聖書」の小冊子あり、今之に次ぐに「家庭の聖書」を以てす、聖書の訓誡を老若男女を問はず、(48)全家族に及さんためなり。
 本書は全家族挙て一所に集て読むを宜しとす、家長一節を読み、家族次節を読み、以て一篇又は数篇を読了すべし、例せば「愛の教訓」を読むに方て家長は先づ
  愛は神より出づ
と読むべし、次に全家族は家長に和して昔ふ
  愛なき者は神を識らず、神は即ち愛なればなり
と、家長は又唱へて言ふ
  神は愛なり
と、全家族又彼に続いて言ふ
  凡そ愛に居る者は神に居り、神また彼に居る
と、以て応答唱和して全篇を読了すべし。
 又は家長一句を読み、家族次句を読むも宜し、例せば「基督信者の行為」 の一篇を読む時の如きは此方に従ふを宜しとす、即ち家長「愛に仮偽《いつはり》ある勿れ」と読めば、家族「悪を憎み善を親み」と答へ、家長「兄弟の愛を以て互に愛し」と唱ふれば、家族は「礼義を以て相譲り」と和す、斯くて声は声に和し、意は意に答へて全篇を読了れば、其意義の一層深長なるを覚るべし。最終《おはり》の「祝福の辞」は家族礼拝式の終りに家族が未だ頭を擡げざる間に家長が彼等に向つて粛唱すべきものなり。
 此小冊子又家庭に神聖を来たすの一助たらんことを祈る。
(49)   明治卅九年一月初旬               内村鑑三
 
 〔目次〕
一、親子      一、遠人の接待
一、夫婦      一、和合一致
一、良妻      一、基督教信者の行為
一、兄弟      一、愛の教訓
一、主従      一、祝福の辞
一、朋友
 
(50)     〔無為の五週間 他〕
                       明治39年3月10日
                       『新希望』73号「所感」
                       署名なし
 
    無為の五週間
 
 余は病のために五週間の長日月を無為の間に過せり、独り思ふ余は長時間を無益に消費せりと、然れども余は此間に著しき愛の表顕を目撃せり、余は余の友人医師某が百里の路を遠しとせず、雪を侵して余を訪はんとて来りしを見たり、余はまた或る地方の無牧の小教会が余のために数日に渉る祈祷会を開きしを聞けり、教友の或る一小団体が白雪皚々たる上に晴夜に余のために天に叫べるを知れり、」取るに足らざる余も病に罹りてより多くの愛の受領者となれり、余は病褥に在りて夢に天の扉の余の前に開かれて聖徒の其中に座するを見ざりき、然れども余は余の肉眼を以て地上に愛の天国の既に建設せられつゝあるを目撃せり、無為の五週間はまた黙示の五週間なりき、余は病癒えて後に目に天国を見しの感を懐けり。
 
    信仰と愛
 
 信仰は熱し易し、亦狂し易し、信仰は時には怒り、時には呪ひ、時には殺す、信仰は多くの不義を攘へり、亦(51)多くの義人を殺せり、信仰に由て人は直に神に達する能はざるなり。
       *     *     *     *
 信仰は愛に終らざるべからず、信仰は愛に到るの路にして、愛は神に達するの道なり、愛は信仰に始らざるべからず、然れども信仰は直に人を神に導かず、信仰の激務先づ愛の緩流と化するにあらざれば救済《すくひ》の大洋に入る能はず。
       *     *     *     *
 Excelsior《エキセルシオル》! Excelsior! 昇らんかな、昇らんかな、智識より信仰へと、信仰より愛へと、更らに高きに向て昇らんかな、愛なき者は神を識らず、神は即ち愛なれば也(約壱、四〇八)我等は信仰を眼下に瞰て、愛なる神を目指して昇らんかな。
 
    パリサイ人とは誰ぞ
 
 パリサイ人とは必しも偽善者にあらざりき、模範的パリサイ人とは信ありて愛なき者なりき、彼等は言へり、神を信ぜよ、然らば救はるべしと、之に対してイエスは言ひ給へり、神を愛せよ、然らば救はるべしと、イエスとパリサイ人との衝突は愛と信との衝突なりき、より狭き信がより博き愛の優勢権を認むる能はずして之を十字架に釘けしことなりき、二者同じく神に事へんとせり、パリサイ人は信を以て、イエスは愛を以て、故にかの神聖なる悲劇ありたり。
 
(52)    信仰と救
 
 我等は単に信仰に由て救はるゝに非ず、ナザレのイエスを信ずるに由て救はるゝなり、彼を神の子、救主、理想の人と信じて救はるゝなり、野心勃々として欧洲に覇たらんとせしナポレオンを信ずる者は亡ぶべし、信仰のために剣を抜き敵人を屠りしモハメツトを信ずる者は亡ぶべし、然れども工匠の子として生れ、無垢の生涯を送り、※[言+后]《のゝしら》れて※[言+后]しらず、苦められて励言《はげしきことば》を出さず、終に極悪の罪人として木の上に懸けられしイエスをキリスト(神の受膏者)なりと信ずる者は救はるべし、イエスを崇むる者はイエスの如くに成らんと欲る者なり、彼を理想とし、模範とし、即ち神として仰ぐ者なり、而して斯かる者は救はるべしと、余輩は容易に此意味に於ての信仰に由る救を解するを得るなり、実際の生涯と直接の関係なき其他の意味に於ての信仰に由る救を了《さと》るに苦しむ。
 
    奇蹟と摂理
 
 余は未だ曾て一回も奇跡を行ふたことはない、亦他人の奇跡を行ふのを見たことはない、然かし余は幾回《いくたび》か余の身の上にも亦他人の身の上にも神の摂理の行はれるのを見た、神の聖旨《みこゝろ》が天然の法則を破て急激に働らくことを奇跡といふ、天然の法則に従ひ徐々として働らくことを摂理といふ、神は勿論天然以上であるから容易に奇跡をも行ふことが出来る、然かし、摂理は通例であつて奇跡は例外である、神は極く稀にのみ奇跡を行ひ給ふ、爾うして今は奇跡の世ではなくして摂理の世であると思ふ、著しく神の摂理の行はれつゝある世であると思ふ、今の世に於て奇跡を見んと欲する者は必ず失望する、然かし摂理を見んと欲して我等は神が我等と現世とに於て実(53)際的に働らきつゝ、あり給ふことを実験することが出来る。
 
    平民と平信者
 
 余は貴族ではない、平民である、余は特別に陛下に寵遇せられんと欲する者ではない、唯忠実なる一臣民としてその統治を受けんと欲する者である。
 其如く余は使徒でもなければ亦法王、監督でもない、然かり、世に称ふ牧師伝道師でもない、余は平信者である、余は特別に衆人に越えて神に愛せられんと欲する者ではない、余は唯神が公平に万人を愛し給ふ其愛を以て彼に愛せられんと欲する者である、余は社交的に貴族たるを欲せざるが如く、また信仰的にも僧侶、神官、祭司、教職たることを欲しない、余は国民としては平民として、基督信者としては平信者として存在せんことを欲する者である。
 
    平民の友
 
 若し神より詩人たるの天才を賜はらん乎、余はヲルヅヲスの如き平民詩人たるべし、若し政治家たるの才能を賜はらん乎、余はフランクリンの如き平民政治家たるべし、若し美術家たるの技倆を賜はらん乎、余はレムブラントの如き平民美術家たるべし、若し伝道師たるの天職を授からん乎、余はダビツド・ブレナードの如き隠れたる平民伝道師たるべし、余は所謂る偉人たるを好まず、巨人たるを嫌ふ、余は万民と共に救はれずむば万民と共に呪はれんことを欲す。
 
(54)    神の無限の愛
 
 神は我等を罰し給ふであらふ耶?
 否な、神は決して我等を罰し給はない、神は我等の罪を罰し給ふ、我等を罰し給はない、爾うして我等の罪を罰し給ふに方ても之を我等に於て罰し給はない、自己に於て罰し給ふ、彼は自己の独子を世に送り、罪なき彼を罪の供物となし、紅《くれなゐ》の如き我等の罪を聖き彼に於て罰し給ふた、神、罪を識らざる者を我等の代りに罪人となせり 是れ我等をして彼に在りて神の義となることを得しめんためなり(哥後五の廿一)。
 神は我等を棄て給ふであらふ耶
 否な、否な、決してない、神は何処までも我等を愛し給ふ、我等が天国に昇らふが、地獄に落ちやうが神が我等を棄て給ふ事はない、我等は神の子供である、爾うして現世に在ても我等は善き父が其の子を棄てた例を見たことがない、況して神に於てをや、婦其乳児を忘れて己が胎の子を憐まざることあらんや、縦ひ彼等忘るゝことありとも我は汝等を忘るゝことなしと(イザヤ書四十九の十五)、神が我等を棄て給ふなどゝは、縦ひ大監督が此事を述べやうが、又は大神学者が此事を説かふが、我等は大異端として斯かる教を斥けて可い。
 神の愛とは斯くも深いものである、我等若し亡ぶることがあるならば、神が我等を亡すのではなくして自己で自己を亡すのである、我等の救の途は充分に備へられてある、我等は愛の宇宙に存在して居るのである、我等何を苦んで不平を唱へ、失望に陥いるのであらふ乎。
 
(55)    病後の歓喜
      明治三十九年冬病に罹り、其癒ゆるや我が信仰に一大進歩のありしを覚りければ喜んで詠める。
 
  雪の間を病の床に打臥して
     覚むれば嬉し愛の春雨
 
(56)     見神の有無
                       明治39年3月10日
                       『新希望』73号「所感」
                       署名 内村生
 
 余は神を見たり、然り、日々彼を見つゝあり、余は春来る毎に青草の萌え出るを見るなり、余は冬の夜、オライオン星が剣を帯びて天空を駈け走るを見るなり、余は嬰児が母の胎内より生れ、生長して或は詩人となり、或ひは聖徒となりて神の栄光を顕すを見るなり、余は不可思議なる自己以外の意志が余の生涯に於て遂行されつゝあるを実験するなり、余は是等の事に於て神を見るなり、神を見んと欲して余は恍惚として酔夢の中に奇異なる形象を認むるの要なきなり、余は検微鏡を以て、又は望遠鏡を以て余の崇め奉る神を見るを得るなり。
       *     *     *     *
 余は未だ曾て神を見しことなし、余の拝し奉る神は霊にして物体にあらざれば、余は如何なる方法に由るも余の肉眼を以てして彼を見る能はざるなり、彼は又無限の宇宙に充ち満つる者なるが故に、余の細微を以てしては到底彼の無限大を其総体に於て窺ふ能はざるなり、然り、余の神は人の見ることを得ざる神(哥羅西書一章十五節)なり、彼は霊と真とを以てのみ拝し得る神なり、人あり若し神を其実体に於て拝せりと云ふ者あらば、余は其人の脳神経の健全を疑はざるを得ざるなり。
       *     *     *     *
(57) 人未だ曾て神を見しことなし、然れども神の状(かたち)は曾て世に顕はれたり、彼(其状を帯びし者)は神の栄の光輝、その質の実像(希伯来書一章三節)なりき、而して彼の直弟子の多くは彼を目に見、懇切に観、手にて捫《さ》はれり(約翰第壱書一章一節)、彼を見し者は実に神を見しなり、彼は歴史的人物なりき、故に彼は其外貌に於て肉なる人と何の異なる所なかりき、彼は憎まれて人に棄てられ、彼に見るべきの艶色《みばえ》なかりき、我等若し肉体に於ける彼を見しならんか、我等は必ず彼を神として認めざりしならん、彼は労働者なりき、貧しかりき、彼は極悪の罪人として十字架の刑に処せられたりき、而かも彼は神の子なりき、然かり、神として人の崇拝を受くべき者なりき、人は彼に由るにあらざれば何人も神を見る能はざるなり。
       *     *     *     *
 神は天然に於て、又ナザレのイエスに於て自己を顕はし給へり、我等は敬虔以て天然を研究し、信仰以てイエスを信ずるより外に神を見ること能はざるなり。
 
(58)     病中雑記
        (病気御見舞御礼の辞に代ふ)
                        明治39年3月10曰
                        『新希望』73号「雑録」                            署名 内村生
 
〇自分の病気を有の儘に報告せし結果として誌友諸君に多くの御心配を懸け、実に恐縮の至りに堪えない、今に至りて考へて見れば之を誌上に報ぜずに置けば善かりしならんと思ふこともある、然かし、雑誌の編輯をたとへ一回なりとも友人の手に任かせしことなれば其理由を報告せずには置かれぬ、さりとも虚偽を報告することは出来ないから、事実其儘を報告した次第である、余りに仰々しく自分の苦痛を述べたやうに見へし段は幾重にも御容赦を乞ふ。
〇然かし疾病に基く無為の五週間は余輩に取りて決して無益ではなかつた、余輩は之に由て神より多くの新らしき教訓を得た、余輩は病癒えて後に更らに一歩神に近くなつたやうに感ずる、夫れのみではない、余輩は今回の苦がき経験に由て、余輩が誌上に於て得し友人の如何に親しき、如何に温かき者であるかを知つた、余輩は今日まで斯くまで深く誌友に思はれて居やうとは知らなかつた、余輩は褥中に幾回か友愛の厚き表顕に接して泣いた、余輩は今回始めて自身は自身の属《もの》でないことを悟つた、余輩は神の属であるのみならず、亦余輩の友人の属であることを知つた、余輩は之に由て余輩の責任の一層重くなりしを感じた、是れだけでも今回の苦痛は充分に償は(59)れる。
〇病中最も愉快なる報知は北欧諸国より達した、芬蘭土に於ては去年クリスマスに余輩の小著述なる「余は如何にして基督信者となりし乎」は其国語を以て出版され、新版二冊は余輩の枕辺に到着した、芬蘭土語を以てする其表題は左の如くである、即ち
 Mitenka Minusta tuki Kristitty
訳者は同国ソルタバラ市高等学校教授カールロ・スオマライネン氏である、斯くて露西亜帝国中最も教育ある、且つ最も多く自由を享有する二百五十万の民に余輩の自由思想の栽分かゞ伝へらるの機関は備へられた、此事を思ふて病中また感謝に堪えなかつた。
〇其れのみではない、同じ聖誕節に芬蘭土の隣国|瑞典《スイデン》国首府ストツクホルムに於て同著の瑞典語訳が出版されて其見本もまた病中に余輩の手許に達した、唯恨むらくは其出版人が余輩が翻訳権を与へた人でないことである、其れがために正当の翻訳人より異議の申立が起り、余輩に該国在留日本領事を以て版権侵害の訴訟を起せよとの注告を受け、病気快癒に向ふや否や、其措置に就て少しく頭を悩まさゞるを得なかつた、而かし事は勿論穏便に了《しも》ふつもりである、只瑞典国に於てまで余輩の思想の頒布のために斯かる関係の姶つたことを感謝する。
〇まだある、独逸国より芬蘭土、瑞典へと拡まりし余輩の小著述は今や亦丁抹国に於ても其国語に翻訳されつゝあるとの報に接した、是も甚だ愉快なる報知である、其翻訳成りし暁には同国首府コペンハーゲンに於て出版されるのであらふ、爾うして丁抹本国は勿論、フハロー島、アイスランド島にまで広められるであらふ、爾うして人口の割合に読書家最も多きの故を以て世界に有名なる北大西洋中の孤島アイスランドに於てまで余輩の信仰(60)独立論が伝へられて、其処に一人なり、二人なりの同志を得るに至るならば如何に楽しからふ、嗚呼、神は活きて在す 神は余輩を棄て給はない、曾て京都に在りて窮迫の中に綴りし此著述が十年後の今日余輩に此快報を齎らすの原因とならふとは夢にも思はなかつた、是れが摂理ではないか、然かり奇跡ではないか、此驚くべき奇跡的摂理を自己の身に受けて、余輩は神が奇跡的に一瞬間に余輩の疾病を癒し給はないとて神の存在を疑はない、諺に曰く「神の水車は徐《おそ》く運転る」と、彼は十年後に、然かり百年後に、然かり此世が消え去りて後に、祈祷を以て彼に捧げまつりし我等の微さき仕事の上に祝福を垂れ給ふ、我等は唯彼のために我等の為し得る丈けのことを為し置けば宜い、爾うすれば彼の聖意に適ふ時に於て之を祝し、充分に我等の微力に酬ひ給ふ。〇斯くて病苦は友人の親切と神の摂理とに依て充分に慰められ、医薬と看護とは適当の功を奏し、神の恩恵に由りて疾病に罹りてより六週間後の今日、『所感』と此文とを綴り得るに至つた 茲に熱き友情を表せられし誌友諸君に謝し、併せて将来の厚誼を祈る。
       ――――――――――
〇以上を書き終りし後に病後未だ力なきに筆を執り過ぎたりとて医師に叱かられた、然かし尚ほ一つ書き加へねば らぬことがある、芬蘭土より既に該地に於ける余の小著述発行に対する反響が来た、其首府ヘルシングフホースなる芬蘭土地理学協会は其編纂に成る立派なる芬蘭土地図と其説明書とを余に送り来つた、実に精巧を極めたる者であつて、日本国に於ても未だ斯の如き精密なる日本地図は出来て居らないと思ふ、人口僅かに二百五十万に足らない小国にして、然かも其政府に由てではなく、私設学会に由て斯かゝる高貴なる出版物が世に公にせらるゝとは実に驚嘆の至りに堪えない、其内容に就ては他日之を読者諸君に報じたく思ふ。
 
(61)     春は来りつゝある
                       明治39年3月10日
                       『新希望』73号「雑録」
                       署名 角筈生
 
   雪は降りつゝある
    然かし春は来りつゝある
   寒《さむき》は強くある
    然かし春は来りつゝある
     春は来りつゝある
     春は来りつゝある
    雪の降るにも拘はらず
    寒の強きにも拘はらず
     春は来りつゝある
 
   慰めよ苦しめる友よ
   汝の患難《なやみ》多きにも拘はらず
 
(62)   汝の苦痛《いたみ》強きにも拘はらず
   春は汝にもまた来りつゝある。
 
(63)     〔福音とは何ぞ 他〕
                      明治39年4月10日
                       『新希望』74号「所感」
                      署名なし
 
    福音とは何ぞ
 
 福音は高き道徳に非ず、完き哲学に非ず、福音は罪の赦免なり、エホバ言ひ給はく我を仰ぎ瞻よ、然らば救はるべしと、天よりの此声なくして、其理は如何に深くとも、其説は如何に高くとも、我に我を喜ばすの福音あるなし、福音は簡単にして有力なる神の声なり、我れ小児の心を以て此声を信じて救はる、我等は福音を聖書学、又は宗教哲学、又は組織神学と同視すべからざるなり。
 
    罪人の首
 
 キリストを敵に附せし者、罪人の首にあらず、彼を十字架に釘けし者、罪人の首にあらず、人を殺せし者、姦淫罪を犯せし者、亦罪人の首にあらず、罪人の首は我れ自身なり、神の恩恵に浴しながら永く之を濫用し、善と知りつゝも書を為さず、悪と知りつゝも悪を避けず、屡々神の聖霊を熄《け》し、其聖意を傷めまつれり、若し亡ぶべき者あらば我は彼なり、我は恩恵を蒙りし丈けそれ丈け神に負ふ所の者となれり。
(64) 若し万人にして救はれざらん乎、我は第一に亡さるべし、然れども若し我にして救はれん乎、世に救はれざる者一人もなかるべし、我の救済は神の恩恵の試験石なり、我は自から救はれて万民の救済を確めんと欲す。
 
    我のすべて
 
 産を失ふも可なり、願くは神の聖顔を見失はざらんことを、病に悩むも可なり、願くは神の聖旨を疑はざらんことを、人に棄らるゝも可なり、願くは神に棄られざらんことを、死するも可なり、願くは神より れざらんことを、神は我がすべてなり、神を失ふて我は我がすべてを失ふなり、我等に父を示し給へ、然らは足れり(ヨハネ伝十四章八節)、我が全生涯の目的は神を視、彼を我が有となすにあり、其他にあらず。
 
    神の言辞
 
 神は人の言辞を以て語り給はず、事実を以て語り給ふ、或ひは災難を以て、或ひは疾病を以て、或ひは悪人に遭遇せしめて、其聖意を我等に伝へ給ふ、事実は隠語なり、其解釈は決して易からず、苦悶転倒数月に渡りて猶ほ其解答を得ざることあり、然れども聖霊の暗示に由りて終に其解明に達するや、万物悉く明かにして青空一点の疑雲を浮べず、其時、川と丘とは「然り」と答へ、人も我も「然り」と応ず、沈黙に勝さる雄弁あるなし、事実を以て語り給ふ神の言辞は其意味深遠にして量るべからず。
 
    我が友
 
(65) 我と友たらんと欲せばキリストを信ぜよ、キリストを信ぜずして我と友たる能はず、今の我は我れ生けるに非ず、キリスト我に在りて生き給ふなり(加拉太書二章廿節)、我は基督者なり、小なるキリストなり、我が生命にして我が首なるキリストに繋るにあらずんば、何人も我と繋がる能はず、我をキリスト以外に於て知らんと欲する者は我を誤解する者なり。
 
    基督信徒の交友
 
 我等は利益を語らず、天国を語る、我等は相互の上に立たんと欲せず、其下に立たんと欲す、我等は徳を以て競はず、罪を以て相譲る、我等は敵に勝ちたりとて喜ばず、己に勝ちたりとて誇る、我等は酒を飲まず、聖霊に酔ふ、我等は美食に飽かず、聖書を咀嚼す、我等は壮語せず、互に相祈る、美はしきかな此交友、恰かも天のそれの如し。
 
    新伝道
 
 農夫、農業を廃せずして伝道に従事し、商家、商業に従事しながら聖書を研究し、医師肉体を癒しながら霊魂を救ひ、官吏其職に留て大胆にキリストを表白す、殊更らに神学者たるの要なし、疎更に按手礼を受けて伝道の職に就くを要せず、此身此儘にして善き有力なる伝道師たるを得べし、二十世紀的新伝道は監督、牧師、伝道師等、特種の階級を要せざる者ならざるべからず。
 
(66)    新教会
 
 監督なし、牧師なし、伝道師なし、憲法なし、洗礼なし、聖餐式なし、按手礼なし、楽器と教壇とを備へたる教会なし、神あり、キリストあり、聖霊あり、神と人とを愛する心あり、其数会堂は上に蒼穹を張り、下に青草を布きたる天然なり、其礼拝式は日々の労働なり、其音楽は聖霊に感じたる時の感謝の祈祷なり、其憲法は聖書なり、其監督はキリストなり、而して其会員は霊と真とを以て神を拝する世界万国の兄弟姉妹なり、我等は永久に斯教会に忠実なる会員たらんと欲す。
 
    教会と天国
 
 教会は現世の天国にあらず、天国は来世の教会にあらず天国は教会の中にあり、又其外にあり、教会失すると同時に天国は失せず、然かり、多くの場合に於ては教会失せて後に始めて天国現はる、我等は必ず天国の市民たるを要す、必しも教会の会員たるを要せず、神の天国は広し、我等天国に入らんと欲して必しも教会に入るの要なきなり。
 
    キリストの如くなれ
 
 キリストの如くなれよ、即ち身に教職を執らずして心に篤く神を信ぜよ、監督、執事、牧師、伝道師たる勿れ、身に於ては農夫たれ、職工たれ、勤勉なる労働者たれ、然れども心に於ては聖徒たれ、予言者たれ、熱心なる伝(67)道師たれ、労働者たらざる労働者たれ、伝道師たらざる伝道師たれ、平民たれ、平信者たれ、神の子たれ、天国の市民たれ、伝道を業とする勿れ、貸銀のために働く勿れ、農聖人たれ、神学と儀式とに由らずしで直に神の真義に導かるゝ者となれ。
 
    窄き路
     (馬太伝七章十三節)
 
 一方に宗教界あり、他方に俗世界あり、宗教界に妬忌、讒害、毀謗、分争、結党、詭譎あり、俗世界に不義、悪慝、貪婪、兇殺、酔酒、放蕩あり、前者にすべての霊なる罪は存し、後者にすべての肉なる罪は行はる、二者の間に窄き路あり、茲に貧困、飢餓、裸※[衣+呈]、迫害、十字架あり、然れども生命に入るの路は唯此一途あるのみ、我等は主の迹を逐ふて此窄き途を辿らざるべからず。
 
    信仰又信仰
 
 信仰あり、又信仰あり、熱心の意味に於ての信仰あり、確信の意味に於ての信仰あり、又信頼の意味に於ての信仰あり、不動、聖天《せうでん》、モハメットを信ずる者に熱心なる者多し、神道儒教を無上の真理と確信して死に就く者もまた尠からず、熱心、確信、必しも純正、純美の信仰にあらざるなり。ヱホバの神に信顧する者のみ救はるゝなり、己の行為又は智識に頼らざるのみならず、信仰其物をすら神に求め、己に何の賞すべきものなきを覚て神に頼り縋る者のみ救はるゝなり、信頼の意味に於ての信仰のみ能く我等(68)を救ふに足るの信仰なり。
 
    キリストの三敵
 
 世は何れの世にもピラトあり、サドカイ派あり、パリサイ派あり、ピラトは政権を、サドカイは学閥を、パリサイは教会を代表す、而して三者相|集《よ》つてキリストを十字架に附す、ピラトはキリストの不忠を責め、サドカイはキリストの無学を嘲けり、パリサイはキリストの不信を呪ふ、三者同じく愛に於て欠くる所あり、故に神の愛子を迫害す、我等も亦彼等の憎む所となりてキリストの弟子となりしを知るべし。
 
    神学を厭ふ
 
 自由神学あり、保守神学あり、『高等批評』あり、福音的神学あり、然れども神学は神学にして多くは是れ教職神学者の業なり、平民と平信者とは神学を要せず、彼等は神を直覚し、彼を愛し、彼に事ふ、平民をして神学の旋渦に入らざらしめよ、神学は少数の神学者に道を勧むるの途なるやも知らず、然れども神の愛し給ふ億兆の平民は神学の紛乱錯雑を厭ふて止まざるなり。
 
    田舎伝道
 
 「神は村落を造り、悪魔は都会を作れり」と、都会は悪魔の勢力の最も強き所なり、循つて其従者の最も多き所なり、都会に福音を説くは砂地に種を蒔くに等しき業なり、福音は之を村落に伝へよ、松風梢に楽を奏し、渓(69)流、岩に瀑布を垂るゝ所に伝へよ、人は天然と偕に居り、天然の如くに正直にして純樸なる所に伝へよ、聖書は之を神学者に学ばんよりは、寧ろ野の百合花と空の鳥とに習へよ、ヱレミヤは田舎予言者なりき、キリストは田舍伝道師なりき、二者稀には都会に上りしと雖も、死に至るまで静かなる田舎を愛したりき、農は国の大本なり、田舎は福音の根拠地なり、今や虚栄を逐ひ求むる世人は争て都会に入来りつゝある時に際して、我等神の真理を愛する者は争て此魔族の巣窟を去り、田舎に神の王国の建設を謀るべきなり。
 
    詩人と俗人
 
 詩人、地主に言ふて曰く「土地は汝の所有なり、然れども風景は我が所有なり」と、神の天然を楽むに山林田野を我が有となすの要なきなり。
 詩人、政治家に言ふて曰く「政権は汝に在り、教権は我に存す」と、人の心を支配するに軍隊、警察、法律、威力に依るの要なきなり。
 詩人、宗教家に言ふて曰く「寺院と教会とは汝に属す、然れども霊魂は我に帰す」と、人に神の愛を示し、救拯の恩恵を伝へ、聖霊の歓喜を供するに、僧侶、神官、監督、牧師、伝道師たるの要なきなり。
 
    世界最大の者
 
 智識を以て腕力に克つべし、信仰を以て智識に克つべし、愛を以て信仰に克つべし、愛は進化の終局なり、最大の能力なり、愛に達して我等は世界最大の者となるなり。
 
(70)     偉大なる神
                       明治39年4月10日
                       『新希望』74号「所感」
                       署名 内村生
 
 我等の崇むるヱホバの神は偉大なる神である、彼は世に所謂る憐愍の神ではない、其子の願望とあれば何んでも聴納れ給ふやうな意志薄弱の神ではない、彼は確かに厳父である、総ての情実を排しても彼の聖意を遂行《ついかう》し給ふ威厳の神である、彼の道は旋風に在る、大風に在る、雲は其足の塵である(ナホム書一の三)、彼に逆らひ得る者は誰もない、ヱホバの神は崇むべきかな。
 我等は時には彼を称して人の祈祷を聴き給ふ神といふ、然かしながら彼の為し給ひし所の事を見奉るに彼は多くの場合に於ては彼の子供の祈祷を聴き給はざる神である、彼はゲッセマネの園に於ける彼の愛子の祈祷を斥けて彼をして苦き杯を飲ましめ、彼を敵人の手に渡して彼をして耻辱の死を遂げしめ給ふた、彼はまた彼の義僕バプテスマのヨハネの祈祷を斥け給ひて彼を妊婦の手に渡し、彼の生命を暗主一夜の酒宴に興を添ふるための料となし給ふた、ヱホパの神は実に或る場合に於ては無慈悲の神である、然かり、残酷の神である、我等彼の為し給ふ所を見て時には彼を恨み奉らざるを得ない。
 神を信ずるの困難は実に茲にある、神が若し我等と同じ者であり給ふならば我等は容易に彼を信じ奉るであらふ、即ち我が祈願とあれば悉く之を聴入れ、我が苦痛は即時に悉くこれを取り去り、我が欲する物は直に悉く(71)之を我に与へ給ふ者であるならば我等の中に一人の無神論者、一人の懐疑者はないであらふ、然れども天の地よりも高きが如く、神の意は我等の意と異なる、夫れ故に我等は彼を信ずるに方て非常の困難を感ずるのである、彼は時には我等の祈祷に反して、我等を措置し給ふ、我等を敵人の手に渡し、我等の恐るゝ疾病を我等に下し、我等の最も愛する者を我等よりもぎ取り、我等を彼の怒の的である乎の如くに扱ひ給ふ、我等は実に或る時は叫んで曰ふ
  我が戦慄き懼れし者我に臨み、我が怖懼《おぢおそ》れたる者この身に及べり(ヨブ記三の廿五)
と、斯くて我等は彼を信ぜんと欲するも得ない、我等は実際的に無神論者となる、我等は我等の救主イエスキリストと共に神に叫んで曰ふ『我が神、我が神、何故に我を棄て給ふ乎』と。
 然かし神の神たるの所以は茲にある、彼は愛の神であると同時に永遠の磐である、彼は彼の子供が如何に叫ぶとも愛なる彼の聖意を少しも変へんとは為し給はない、彼は終に万人を救はなければならない、故に度々彼の最も愛する子供を罪人救済のための犠牲に供し給ふ、彼の手に種々の鞭がある、疾病がある、飢饉がある、総ての天災がある、悪魔もまた時には彼の使者となりて働く、彼は斯くして彼の聖意を遂行し給ふ、花を咲かして彼の子供の目を喜ばし給ふかと思へば、堅き氷を以て地の上を張り詰めて彼等の心を寒からしめ給ふ、彼の愛は余りに深くして余りに博きが故に彼は或時は暴虐の君主として我等の眼に映ずるのである。
 凡人が偉人を解するに困難なるが如く、人は神を解するに困む、レムブラントの如き画家、トルヮルドセンの如き彫刻家は其為す所すべて平凡美術家の想像以外である、偉大なる神が我等に誤解せられ給ふのは決して怪むに足らない。
(72) アヽ神よ、我等をして爾を偉大なる神として解せしめよ、我等の切望とあれば何事によらず之を聴き納れ給ふが如き我等に肖たる小なる神として爾を了らしむる勿れ、我等をして爾の前に平伏せしめよ、爾が爾の聖顔を我等より背け給ふ時に爾の我等の聖父なることを認めしめよ、爾に我等の祈祷を悉く聴き納れらるゝは善し、然れども爾の聖旨のまゝに導かるゝは更らに善し、我等をして爾に何事をも注文する所あらしむる勿れ、我等をして自から善悪を定めしむる勿れ、汝の為し給ふ所……病にあれ、饑餓《うえ》にあれ、裸※[衣+呈]にあれ……是れ善なりと解せしめよ、アーメン。
 
(73) 羅馬書第八章
            明治39年4月10日−6月10日
            『新希望』74・『聖書之研究』75・76号「研究」
            署名 内村鑑三
 
  一、是故にイエスキリストに在る者は罪せらるゝことなし。
 是故に キリスト我等のために死に給ひたれば、彼、我等に代りて律法のすべての要求を充たし給ひたれば、彼は人として此世に生れし者の中に唯一人、完全無欠の生涯を送り給ひたれば云々、「是故に」は前七章全体の意を接《う》けて云ふ、第一章に始まり第七章に終りし立論の結局は終に茲に至らざるべからずとの意なり。
 イエスキリストに在る者 彼に己を委ねし者、己は死してキリスト彼に在りて生くる者、キリストと共に十字架に釘けられ、もはや彼れ生くるに非ずしてキリスト彼に在りて生くる者(加拉太二の廿)、キリストに在るはキリストの中に己を浸たすことなり、彼を以て心霊的空気となし、其中に動き、生を保つことなり。
 罪せらるゝことなし 罪を定めらるゝことなし、罪人として神に扱はる、ことなし、その不法を免され其罪を蔽はるゝ福ひなる者(四章七節)となるべし、人はキリストに在りてのみ罪なき者となるなり、儀式も修養も慈善も伝道も彼をして斯かる幸福なる者たらしむるに足らず。
  二、そは生命の霊の法はキリストイエスに在りて罪と死との法より我を釈き放てば也。
 生命の霊 聖霊なり、聖霊一名之を生命の霊といふ、そは此は生命を供する霊、又は生命の源なる霊なれば也、(74)人の潔めらるゝも此霊に由るなり、彼が罪なき者として神の前に立ち得るも此霊に由るなり、聖霊は聖潔の霊なり(彼得前書一章二節参考)、故に救済の動力なり。
 法 法則なり、天則と云ふが如し、聖霊もまた或る法則に従ひて働き給ふなり、彼の我等の裏に臨み給ふや風の己がまゝに吹き、人、其声を聞けども何処より来り何処に往くを知らざるが如しと雖も、然りとて彼は或る一定の法則に由らずしては人の心に臨み給はざるなり、法則は束縛なりと称して全然之を排斥すべからざるなり、法則に釈《と》く者と縛る者とあり、而して生命の霊の法則は我等を罪の縲絏《なわめ》より釈放たんための法則なり。
 キリストイエスに在りて 聖霊はキリストに在りて働き給ふ、彼(キリスト)を離れて働き給はず、是れ前に云へる聖霊活動の法則の一なり、人はキリストに在りて聖霊の恩賜に与かるを得べし、聖霊は又キリストにありて人の心に臨み給ふ、キリストに在りて昇り、キリストに在りて降る、キリスト以外に聖霊の降臨あることなし、所謂る詩人のインスピレーションと称し、天然を通し、又は人を通して新思想に接することの如きは、是れ基督信者が聖霊の降臨と称する者にあらざるなり。
 罪と死との法 罪と死とを宣告する法、即ち律法なり、使徒パウロの場合に於ては殊にモーゼの律法なり、殺すこと勿れ、殺す者は審判に干《あづ》からんと言ふ如き者なり、恐怖を以て人を制する法なり、刑罰の伴ふ命令なり、人をして戦慄せしむる者、其下に屈従せしむる者なり、即ち奴隷根性を養成する法なり。
 我を釈放てば也 法を釈く者は法なり、生命の法は死の法を釈き、義の法は罪の法を除く、法に由らずして法を除く能はず、自由は法則の撤去にあらず、其革新なり、生命の霊の法を以てのみ能く懲罰の法を無用たらしむるを得べし、キリストの愛の法を以てのみ能く法文を以てするすべての検束的道徳を廃するを得るなり。
(75)  三、それ律法は肉に由りて弱く、其為し能はざる所を神は為し給へり、即ち己の子を罪の肉の状にて罪のために遣はし其肉に於て罪を罰し給へり。
 律法は肉に由りて弱く 律法は肉を通して働らく者なるが故に弱し、其罰たるや肉に加ふる罰なり、其賞たるや肉に供する賞なり、律法は肉の制限に外ならず、肉を経由せずして律法は其効力を人に及ぼす能はず、律法は肉を経て働らく者なるが故に霊に及ぼす其効力は甚だ微弱なり、殊に弱き肉に由りて働らく者なるが故に更らに微弱なり、律法は神聖なるも能力あるものに非ず。
 其為し能はざる所云々 其弱くして不可能なる所を、即、其、人の霊に達し能はざる所を、罪を其根底に於て滅し能はざる所を、新生命を供し能はざる所を云々、律法は一種の強迫なり、内なる霊を外より抑制せんとする者なり、律法は如何に完全なるも霊と心とを改造する能はざるなり。
 律法は微力なり、之に加ふるに帝王の威厳を以てするも、国民の輿論を以てするも律法は律法にして能力ある者に非ず、律法に衷を化するの力あるなし、法律、法令、勅令、法文と、其名は異なれども其実は一なり、即ち威力を以て善行を強ふる者なり、故に霊を化すること能はざる者なり。世に若し律法以外に人を化するの道なからん乎、世は圧制と偽善との充ち満つる所たるに至らん、然れども神は律法以上のものを世に賜へり、即ち律法に由らずして律法のすべての要求を充たすの道を備へ給へり、之を称してキリストの福音といふ。
 己の子を キリストを。罪の肉の状にて、罪の由て働らく肉の状にて、罪ある肉の状に非ず、そはキリストに罪なければ也、又単に肉の状にてに非ず、そはキリストの肉は吾人の肉と其質に於て何の異なる所なければ也、罪の肉とは吾人の肉の如くに罪に感染し易き肉なり、すべての事に於て我等の如く誘はれたる肉なり(希伯来書(76)四の十五)、彼は唯だ我等の如くに罪を犯し給はざりしのみ。状(かたち) キリスト顕現の状態なり(腓立比書二章六、七、八節参考)。
 罪のために 我等の罪の代贖として、我等の罪を贖はんために、(希伯来書十章六、八節に同じ原語を罪祭と訳しあるを参証せよ)、神がキリストを遣し給ひしは彼を罪祭の供物《そなへもの》となさんためなりと、贖罪は新約聖書の根本的教義なるを知るべし。
 其肉に於て キリストの肉に於て。罪を罰し給へり 我等の罪を死刑に処し給へり、罪を犯さゞりし者の肉に我等罪人の受くべき罰を加へて、我等の罪を無害なる者とならしめ給へり、其如何にして然るかは我等の知悉《しりつく》す能はざる所なるべし、然れども其|実《まこと》に然るは我等の実験する所なり、キリストの死によりて我等彼を信ずる者にありては罪は能力《ちから》なき者となれり、之に由りて我等は罪と其価なる死より免がるゝを得たり(『求安録』贖罪の哲理の章参照)。
  四、是れ律法の義の肉に従はで霊に徒ひて歩む我等に成就せんがためなり。
 律法の義 律法の要求するすべての正義、モーゼの十誡なるべし。肉に従はで霊に従ひて歩む我等 基督信者なり、キリストに由りて斯くなすを得し者、キリストは其肉に於て我等の罪を滅し、又我等に聖霊を降して我等をして肉の要求に従はで霊の要求に従て歩む者とならしめ給へり。
 成就せんがためなり キリストの死は其肉に於て我等の罪を滅し、我等を律法の束縛より釈放たんためなりと雖も、律法其物を毀たんためにあらず、否な、之に反して我等をして律法の要求するすべての義を成就せしめんためなり(馬太伝五の十七)、律法は律法の目的を達する能はず、律法以上なる福音のみ能く律法の目的なる正義(77)を成就するを得ねし、道徳に由て道徳は行はれず、道徳以上の宗教に由てのみ道徳の目的は達せらるゝなり。
  五 肉に従ふ者は肉のことを念ひ、霊に従ふ者は霊のことを念ふ。
 肉に従ふ者 又は肉に依る者、罪に穢されし肉の要求を正当なる要求と見做す者、即ち純粋なる俗人なり、此世以上、肉の要求以外に何等の目的をも有せざる者なり。
 斯かる者は恒に肉のことを念ふなり、何を食はん乎、何を衣ん乎、如何にして世の賞讃を博せん乎、如何にして無為にして長寿を保たん乎と、念ふは単に思念の意にあらず、全心全力を注ぐの意なり、肉に従ふ者即ち俗人は肉のことに其全心全力を注ぐなり、彼等は神のこと、永生のこと、救済のことに就て思念を凝らすこと更らに無きなり。
 之に反して霊に従ふ者は霊のことを念ふなり、「霊」は此場合に於ては「生命の霊」即ち聖霊なるべし、キリストに在りて信者の心に宿り給ふ者なり、其命を奉じ、其欲する所に従ふ者は、全心全力を霊のことに注ぐなり、神のこと、聖書のこと、天国のこと、是れ彼が昼も夜も念ふ所の事なり、彼は必ずしも世の所謂る完全無欠の聖人にはあらざるべし、彼に多くの瑕瑾あるなるべし、彼れ時には深き懐疑の雲の中に迷ふことあるべし、然れども彼の思念の主なる題目は利得にあらず、蓄財にあらず、栄進にあらず、神のことなり、霊魂のことなり、永生のことなり、救済のことなり、彼は伝道師ならずと雖も宗教問題を度外に置かず、彼は真面目に之を究め、其明解を望んで歇まざるなり。
  六、肉のことを念ふは死なり、霊のことを念ふは生なり、平安《やすき》なり。
 肉のことを念ふは死なり 其結果は死なり、生命の源なる神を離れ、心に光明絶えて、存在の目的を全く失ふ(78)に至るべし、之に反して霊のことを念ふは生なり、平安なり、其結果は神との和合なり、故に永生なり、人のすべて思ふ所に過ぐる平安なり(腓立比書四の七)。
 不信者とは誰ぞ、肉のことを念ふ者なり、信者とは誰ぞ、霊のことを念ふ者なり、信者不信者の別は此に在り、其他にあらず。
  七、そは肉のことを念ふは神に乖ればなり、是れ神の律法に服はず、又服ふこと能はざればなり。
 神に乖ればなり 肉のことを念ふは死なり、其故如何、是れ神に乖ればなり、而已ならず、是れ(肉は)神の律法に服はず、又服ふこと能はざればなり、肉の精は私慾なり、神の精は愛なり、二者相反すること北極と南極との如し、故に神若し生なれば肉は死なり、故に肉に全心全力を注いで生命と平和とあるべき理なし、而かも無智の人は曰ふ、肉(罪に汚れし此肉有の儘)もまた神に造られし者なり、其慾に従ふは天然の要求に従ふことにしてまた神に従ふことなり、憤怒も天然なり、敵愾心も天然なり、故に競争も天然なり、戦争も天然なり、之を行ふも何の罪かあらんと、然れども斯かる者に対して聖書は言ふなり、汝等世を友とするは神に敵するなるを知らざるか、世の友とならん事を欲ふ者は神の敵なりと(雅各書四章四節)。
  八、斯くて肉に居る者は神を喜ばすこと能はず。
 肉に居る者 キリストに在る者と相対していふ、肉の要求を充たすを以て生涯の方針と定め、肉のために学び、肉のために計り、肉のために貯ふる者、肉の中に浸りて、肉を其活動の宇宙と定むる者、斯かる者は、神を喜ばすこと能はず、神の心に適ふこと能はず、神は霊なり真なれば、神に事へんと欲せば肉以外に在て、霊と真とを以てせざるべからず、肉の要素は私慾なり、神の本性は無慾なり、愛なり、肉に在て神を喜ばせんとするは人を(79)憎むと同時に彼を愛せんとするが如く難し。
  九の上、然れども若し神の霊、汝等の衷に住まば汝等は肉に在らず、霊に在り、
 然れども 肉と霊との差別は斯の如くなりと雖も。神の霊、汝等の衷に住まば 聖霊汝等の衷に宿らば、住むは永住の意なり、聖霊永久に其居を汝等の中に占め給はゞ云々、聖霊一たび人の心に降り給はゞ再び其処を去り賜はざるが如し、約翰伝十四章廿三節参照。
 若し 聖霊もし汝等の衷に住むとすれば(而して我は其然るを信じて疑はざるなり)、原語の eiper に此意味あり、之を訳文に現はすこと難し。汝等 羅馬に在る基督信者。肉に在らず、霊に在り 汝等は世上一般の人と異なる、汝等は今は肉に於て在らず、霊に於て在り、汝等は肉の要求を充たすを以て人生の目的となす者にあらず、聖霊の命に従ふ者なり。
  九の下、凡そキリストの霊を有せざる者はキリストの有にあらざる也。
 凡そ 我は汝等は肉に在らずと云へり、然れども是れ聖霊汝等の中に住むが故に然るなり、若し汝等の中に聖霊の降臨を受けずして、肉を離れて霊に在りと云ふ者あらば彼は虚偽を言ふ者なり、そは何人にあれ、凡そキリストの霊を有せざる者は、其人はキリストの有にあらざれば也、即ちクリスチャンにあらざれば也と、キリストの霊(精神にあらず)を受けずして基督信者たる能はず、基督信者たらずして肉を離れて霊に在る能はず、是れパウロの確信たりし也、而して是れ亦我等の実験する所なり。
 生命の霊と云ひ、神の霊と云ひ、又キリストの霊と云ふは皆な一なり、即ち聖霊を指して云ふなり、聖霊の宿る(永住する)所とならざるものはキリストの有にあらざるなり、基督信者にあらざるなりと、狭隘の如くに見え
(80)て最も確実なる教義なり。
  十、若しキリスト汝等の衷に在らば体は罪の故に死し、霊魂は義の故に生くべし。
 若しキリスト其聖霊を以て汝等の衷に在らば、汝等の体は罪の故に死すと雖も汝等の霊は義の故に生くべしと、体は肉体なり、単に「肉」と云ふと異なる、「肉」は主として「肉情」を云ふなり、肉体其物は神の造り給ひし者にして聖き者なり、然れども罪の汚す所となりて、種々の肉情を発するに至れり、肉体は罪の原因にあらず、罪悪誘導の機関となりしのみ、神の憎み給ふ所のものは肉体に非ずして肉情なり、神はキリストに在りて「罪の肉」を滅し給ふ、然れども霊魂を宿す体は終に之を救ひ給ふ。
 体は罪のために死し 体は罪の機関となりし故に一度は死の刑罰を受けざるべからず、死の苦痛を経ずして復活の恩恵に与かる能はず、然れども霊魂はキリストの贖罪の結果として今より直に生命を受くべし、キリストの霊は先づ人の霊魂に下り、其(キリスト)の義を以て之(霊魂)を活かし、然る後に肉体の復活に及ぷ、霊魂の救は前にして肉体の救は後なり、霊魂は今より救はれ、肉体は死後に救はる、二者等しく終には救はるべし、然れども肉体は一たび死の苦しき経験を経ざれば救はれざるべし。
  十一、然れども若しイエスを甦らしゝ者の霊汝等の中に住まばキリストを死より甦らしゝ者はその汝等の中に住む所の霊を以て汝等の死の体をも生かすべし。
 然れども云々 体は罪の故に一度は死ざるべからず、然れどもイエスを甦らしゝ者の霊、聖霊、即ち父なる神の霊、汝等の中に住まば、彼れ、即ちキリストを死より甦らしゝ者はその汝等の衷に住む所の同じ霊を以て汝等の死したる体をも生かすべしと、即ち信者の中に住み給ふ神の霊は其(信者の)霊魂を救ふに止まらずして終には(81)其死したる体をも生かして之を救ひ給ふべしと。
 肉体と霊魂とは個々別々のものにあらず、二者は同一物なり、霊魂は肉体の中にして肉体は霊魂の外なり、霊魂若し肉体の核《さね》と称し得べくんば肉体は霊魂の殻なり、故に霊魂を救ふに足る能力は終に肉体をも救ふものならざるべからず、然れども霊なる者は前にして肉なる者は後なり(救済の場合に於ては)、神は中より外に向て救済を施し給ふ、先づ其霊を人の霊に下し、霊より肉に向て其救済を普及し給ふ、故に肉体の死するは外殻の一時枯衰するのみ、生命既に内心に充実するが故に、春陽来復、生命の主が再び此世に臨み給ふや、主に在りて眠りし霊魂は再び其肉体を着せられて顕はるべし、深いかな復活の奥義、然れども是れ我等の揣摩し能はざる教義にはあらざるなり(哥林多後書五章一−六節を見よ)。 〔以上、4・10〕
  十二、是故に兄弟よ我等は負債者なり、肉に対してに非ず、肉に従て行むべき者に非ず。
 是故に 肉は我等に何の善き事をも為さゞるに反して、霊は我等に霊魂の生命を与へ、体の復活を供するが故に(前節) 〇負債者なり 義務を負ふ所の者なり、責任を要求せらるゝ者なり 〇肉に対してに非ず 負債者なり、然れども世の人の如く肉に対しての負債者に非ず、肉の束縛を受け、其命に従ひ、其要求に応ずべき者に非ず、彼等は肉に対しての負債者にして其奴隷なり、我等は我等に生命の霊を供し給ふ神に対しての負債者にして其子なり 〇肉に従て行むべき者に非ず 肉に対しての負債者に非ず、故に肉の要求に応じて生涯を送るべき者にあらず、霊《みたま》に対しての負債者なり、故に霊の命に従て日を過すべき者なり、人は絶対的に自から主たる能はず、霊に従はざれば肉に従はざるべからず、我等基督信者も亦他に負ふ所の者なり、然れども神の霊に負ふ所の者にして罪の肉に負ふ所の者に非ず。
(82)  十三、若し肉に従ひて行《あゆ》まば死ぬべし、されど若し霊に由りて体の行為《わざ》を殺さば生くべし。
 死ぬべし 終に死に至るべし、肉に従ふも今直には死せざるべし、然れども終に死に至るや必せり 〇霊に由りて 霊を以て、或ひは霊に在て。独り自ら罪に勝つ能はず、霊を以て、或は霊に自己の身を託して勝つなり、霊は基督信者の武器にして又其勝利の境遇なり
 ○体の行為を殺す 「体」は此場合に於ては罪の身なり(六章六節)「肉」といふと同じ。其行為を殺すとは肉の行動を制止することなり、我慾を無きに等しき者とならしむることなり、体より其肉的生命を奪ふことなり(加拉太書五章廿四節参考) 〇生くべし 肉に於て死して霊に於て生くべし、霊的生命を保存し其発達を遂るを得べし、而かも是れ難行苦行し肉に鞭撻を加へて為し得ることに非ず、聖霊に由りて為すべき事なり、聖霊をして為さしむべき事なり、基督教は世に所謂る禁慾主義にあらず、霊化主義なり、生命の の働らきを以て肉の行為を殺すものなり、博士チヤルマーの所謂る「新しき愛の排斥力」を使用するものなり。
  十四、そはすべて神の霊に導かるゝ者は是れ即ち神の子なればなり。
 そは 生くべし(前節)如何となれば神の子なればなり、神は死し者の神に非ず、生ける者の神(馬太伝廿二章卅二節)なれば神の子は永久に生くる者ならざるべからず、生くる者は神の子ならざるべからずと、パウロ的論法の一なり 〇神の霊に導かるゝ者 肉に従ふ者に非ず、霊に導かるゝ者、霊に由て衷より推進せらるゝ者、是れ即ち神の子なり。神の子たるの実証は茲に有り、神の霊の宿る所となりて其指導する所となる者、是れ即ち神の子なり。
  十五、そは汝等は再び懼を懐かんための奴隷たるの霊を受けしに非ず、否な、子たるの霊を受けたればなり。
(83) そは 神の子たり(前節)、そは汝等は子たるの霊を受けたればなり ○再び モーセの時に於けるイスラエル人の如くに(希伯来書十二章十八−廿一節) 〇懼を懐かんための奴隷の霊 霊に卑屈的のものあり、自由的のものあり、奴隷の霊あり、自由の霊あり、奴隷の霊は屈従の霊にして又恐怖の霊なり、而して神がキリストに在りて我等に賜ひし霊は斯かる霊にあらざるなり、即ち戦々兢々として神に近く能はざる霊にあらざるなり、憚らずして至聖所に入る事を得る霊なり(希伯来書十章十九節) 〇子たるの霊 我等を子と成さしむるに足るの霊なり、聖霊なり、我等の心に降《くだ》り臨《きた》り、之を化し、終に死すべき我等の体をも甦らしむるに足るの霊なり、神は我等を子と称び給ふに止まらず、子と成し給ふ、我等の衷心に変質的動作を起して、我等をして実質的に神の子たるを得しめ給ふ。
  十六、我等アバ父よと※[龠+頁]《よ》ぶに由て聖霊自から我等の霊と偕に我等が神の子供たるを証《あかし》す。
 我等は神の子たり(前節)、其証明如何 〇アバ父よ アバはパウロ在世当時のヒブライ語なり、父を意味す、パウロが幼時より其肉体の父を称ぶに使ひし語なるべし、邦語の「お父さん」といふの類なるべし、英語に父を father といはずして papa といふも之に同じ、父に対する親昵を現はす語なり。アバ父よ アバなる父よ、親しき慕はしき懐かしき父よ 〇アバ父よと※[龠+頁]ぶに由て聖霊自から云々 我等は今は神をアバ父よと称ぶなり、小児が其慈父を称ぶの言を以てす、我等は今は彼を天地万物の造主なるヱホバの神よと唱へて遠方より彼を拝し奉らざるなり、我等はアバ父よと叫びて彼の膝に縋るなり、神と我等との此接近に由て、我等の衷に宿り給ひし聖霊は其宿る所となりし我等自身の霊と偕に我等が神の子供なるを証するなり、アバ父よと※[龠+頁]ぶ者は我等の霊なり、我等をして斯く※[龠+頁]ばしむる者は聖霊なり、我等此声を発するを得て、聖霊は我等の霊と偕に我等が神の子なるを(84)証するなり 〇神の子供 前節に謂ふ所の神の子と異なる、子(huios,son)は法律上の子なり、子供(tekna,Children)は鍾愛せらるゝ子なり、我等はキリストに由りて子として法律的に神に養はれしに止まらず、子供として彼の聖なる家庭に受けられしなり、故に我等は憚らずして彼をアバ父よと※[龠+頁]び奉るなり。
  十七の上、若し子供たらば又後嗣《よつぎ》たらん、神の後嗣にしてキリストと偕に後嗣たり、
 子供たらば又後嗣たらん 既に神の子供たり、其後嗣たらざるを得ず、愛は名と共に実を供す、権利と共に権力を附与す、神の子供となりて其後嗣たらざることあるべからず 〇神の後嗣にして云々 如何なる後嗣ぞ、神の後嗣なり、亦キリストと偕に後嗣なり、大帝国の帝王の後嗣たるに優り、其皇太子と偕に後嗣たるに優る、名誉の極、栄光の極、福祉何物か是に優る者あらん、キリストと偕に神の天国を嗣ぐこと、是れ卑しき我等に附与せられし権利なり、我等は我等が担ふ此絶大の権能を智覚するや、去らば何故に世の王公貴族を羨むや、「我等は王の子なり」、然り、真に王の子と称すべき者は我等の外にあらざるなり。
  十七の下、我等若し彼と偕に苦を受けなば、彼と偕に栄をも受くべし。
 若し eiper 第九節註解参考 〇彼と偕に苦を受けなば云々 我等はキリストと偕に神の後嗣たるべし、然れども何に由て我等に此権利の附与されしを知るや、キリストと偕に苦を受くるに由てなり、彼と偕に世に迫害せらるゝに由てなり、キリストは人に苦められて神に納《う》けられたり、我等も亦神に納けられんと欲せばキリストの如くに人に苦められざるべからず、迫害は天国承継の印証なり、我等此印証を持行くにあらざれば天国の門は我等の前に開かれざるなり、世に憎まれ、国人に唾棄せらるゝにあらざればキリストと共に栄光を頒つ能はざるなり。
(85)  十八 我れ意ふに今の時の苦は後に我等に顕はれんとする栄に比ぶべきに非ず。
 意ふに 算定するに、静かに計算するに.パウロは熱心以て斯く断言するにあらず、冷静以て斯く判定するなり 〇今の時の苦は云々 今の時の苦は多し、然れども是れ後に顕はれんとする栄に此ぶべきに非ず、栄の大なる、苦《くるしみ》を忘却せしむるに足るべし、今は歎き悲む、然れども後に笑ひ楽むべし、今は友なく独り地上に彷徨ふ、然れども後に永久の住居を得て聖徒と共に交らん、今の苦痛は冬の雪の如し、春の到ると共に我等は花の絨氈《じうせん》の上に座せん、今の迫害は後の歓迎の前兆なり、我等此事を意ふて我心、衷に躍る、有名なるジヨン・カルビンは此聖句を口にしながら死に就け。
  十九、それ受造物の切なる希望は神の子輩の顕はれんことを待てるなり。 それ 栄は後に我等に顕はるべし(前節)、我等此事を霊の黙示に由て知る、又天然の示顕《しめし》に由て識る 〇受造物 無性格の天然物なり、山川木石昆虫禽獣等をいふ、霊性を有する人類を除く外の天然物総体をいふなり 〇切なる希望は云々 無感覚なるが如くに見ゆる天然物も亦人類の今日の悲境に対し深き同情を表するなり、彼等も亦神の子輩のキリストと偕に栄を以て顕はれんことを待てるなり、翹望するなり(切なる希望と訳されたる apokadokia の原意は是れなり)、天然は人を離れて存在する者に非ず、人と運命を共にし、毀誉を共にす、人、汚さるれば天然も汚され、人、崇めらるれば天然も崇めらる、造化の基《もとゐ》の置かれし時には晨星相共に歌ひ、神の子等皆な歓びて呼はりぬといふ(約百記三十八章八節)、又神の撰民の贖はるゝ時には山と岡とは声を放ちて前に歌ひ、野に在る樹は皆な手を拍たんとあり(以賽亜書五十五章十二節)、是れ詩歌的にのみ然るにはあらざるべし、人類と天然との間に存する最も親密なる関係を知る者は二者の間に此同情同感の存するを聞て怪まざるべし、人(86)は其罪を以て同類を辱かしめしに止まらず、亦天然全体をも汚したり、故に神と天使とが人類の救はれんことを待望むが如くに、天然も亦この事を待望むなりと、深いかな此言や 〇希望は待てると云ふはヘブライ的語法なり、希望の切々なるを云ふ。
  二十、そは受造物は空虚に附せられたればなり、自から欲《この》んでにあらず、之を附せし者に因てなり、−希望を以て。
 そは 天然物は人類の救はれんことを俟ちつゝあり(前節)、其故如何となれば 〇空虚に附せらる 存在の目的を誤まらる、徒空に終らせらる、人類の堕落の結果として天然も亦其受造の目的を空くせられたりと 〇自から欲んでにあらず 天然物自から求めて此悲境に陥りしにあらず、天然は其神より受けし完全の発達を遂げんとせり、然れども或る者に由て妨げられたり 〇之を附せし者に因てなり 自から欲んで空虚に附せられしにあらず、斯く命ぜられしなり、人類の罪の結果として其詛を神に負せられしなり、万物は其霊たる人と運命を共にせざるを得ざりき 〇希望を以て 天然は人類と共に空虚に附せられたり、其存在の目的を空くせられたり、然れども恢復の希望なくして詛はれしにあらず、救済は堕落当時より既に約束せられたり(創世記三章十五節)、天然物の詛はれしも亦万物復興(行伝三章廿一節)の希望を以てなりし、神は永久に其受造物を詛ひ給はず、詛ふも必ず希望を以てし給ふ 「希望を以て」、簡単なる此一句の中に無限の慰藉存す。
  廿一、そは受造物も亦|敗壊《やぶれ》の羈絆《きづな》を脱れて神の子供の栄の自由に入らしめらるべければなり。
 そは 詛はれたりしも希望を以て詛はれたり(前節)、そは受造物も神の子供と共に救はるべければ也 〇敗壊の羈絆 敗壊に終らざるべからざる運命、恰かも縛せられて空虚に附せられしが如し、敗壊、空虚、堕落、皆な(87)同一の事をいふなり、即ち人類の罪の結果の天然物に及びし影響をいふなり 〇栄の自由 栄に伴ふ自由、或ひは栄と共に臨る自由、敗壊の羈絆を釈かれて、完全の発達を遂ぐる自由。天然物も亦人類の救はるゝと同時に救はるべし、人類が罪の羈絆を脱がれ、キリストと偕に栄を以て顕はるゝ時に、天然も亦其栄と、之に伴ふ其自由とを共に享くるを得べし、天然が天然らしくなるは人が人らしくなる時なり、山は復たび旧時の処女林を以て蔽はれ、川は復たび其岸を溢れず、毒流は田野を浸さず、禽獣は人を懼れず、万物悉く堵《と》に安んず、神の子供が栄を受けて斯世の国がキリストの国となる時に此事ありと。
  廿二、そは我等は万の受造物は今に至るまで共に欺き共に苦むを知ればなり。
 そは 天然物は人類と共に栄の自由に入らしめらるべし(前節)、そは其、今に至るまで人類と共に歎き且つ苦みて自由を望みつゝあるを我等は知ればなり 〇共に歎き共に苦む 天然物相共に歎き云々、又は人類と共に歎き云々 〇「歎き」は空虚に附せられしを歎くの意ならん、「苦み」は産の労劬《くるしみ》にして新天地を産出せんとするの苦みなるべし(博士※[ワに濁点]イスの説) 〇今に至るまで 人類の堕落と同時に詛はれてより今日に至るまで 〇天然の面《おも》に悲痛の相あり、其河流に疲倦の貌《ばう》あり、其山野は林を褫《は》がれて貧者裸体の状を呈す、禽獣相食み、人畜相殺す、人は人を敵とし、天然を劫掠す、耳を地盤にあてゝ聞かんか、呻吟《うめき》の声は全地に響きて神の救済《すくひ》をよび求むるが如し、天然は小児の如し、是に罪の責むべきあるなし、然れども其住人の罪を負ひて彼と共に歎き且つ苦む。
  廿三、而已ならず、聖霊の始めて結びし実を有てる我等自身も己の衷に歎きて子と成らんこと、即ち我等の身体の救はれんことを俟望むなり。
 而已ならず 天然物が歎き苦むのみならず(前節) 〇聖霊の始めて結びし実を有てる我等自身も 聖霊の初穂(88)なる我等基督信者も。我等は聖霊の初穂なり、後の収穫を預表する者なり、現世に在て後世に於ける聖にして大なる家族を代表する者なり。「初穂」とは最初に結べる実の意に非ず。「実を有てる」とは「実なる」と云ふと同じ、真に聖霊の実を有てる者は其実となりし者なればなり、神は霊の質《かた》を我等の心に賜へり(コリント後書二章廿二節)といふに同じ 〇天然も歎き我等も歎く、子と成らんとて歎く、即ち我等の体の救はれて神の子たるの実の現はれんことを俟望むなりと、キリストの場合に於ても甦りし事によりて明かに神の子たること顕はれたり(一章四節)、我等の場合に於ても復活体を着せられて明かに我等の子たること顕はるゝなり 〇己の衷に歎く我等の欺きは外なる浅き歎きにあらず、衷なる深き歎きなり。又は、天然は物を以て外に歎き、我等は心を以て衷に歎く。
  廿四、そは我等は希望を以て救はれたればなり、目に見ゆる希望は希望に非ず、そは人誰か目に見るものを望むや。
 そは 我等を救はれんことを俟望むなり(前節)、そは我等は来世に於ける救済を目的として現世に於て救はれたればなり 〇希望を以て救はれたり 信仰に由ての如く、希望に由て救はれたりとの意に非ず、希望を基礎として、或ひは、希望を条件としてとの意なり、希望的に救はれたりと言はん乎、未だ事実的に救はれしに非ず、救済の誓約に与かりしのみ、故に其目的物を獲んがために俟望んで止まざるなり 〇目に見ゆる希望は希望に非ず 希望は目の達せざる所に存す、目に見えて希望は希望たらざるに至る、待望は基督信者の特性なり、彼は手にて造られざる、即ち肉眼を以てしては見るべからざる、神の国を待ち望めばなり、我等に希望の存するは我等に尚ほ獲得すべき報賞の存するあるを証するなり、我等が待ち望むは当然なり、そは人、誰か目に見るものを望(89)んや、我等も亦目に見るものを望まざる也、未だ事実となりて現はれざる我等の救済を待望むなり、即ち我等の体の救はれんことを待望むなり。
  廿五、然れども若し我等目に見ざる者を望まば忍耐を以て待望むなり。
 然れども 我等は目に見ゆるものを待望まざるなり、勿論の事なり、然れども云々 〇若し我等見ざるものを望まば−而して我等は斯かるものを望む者なり−我等は忍耐を以て之を待望むなり、斯かるものは忍耐を以てせずして望み得るものにあらず、自から大に励み勉めずして懐き得る希望に非ず、基督信者の希望は夢想に非ず、是れ寤寐の間に心に浮ぶ天国の影象にあらず、是れまた戦て得て戦て守るべきものなり、忍耐を以て待望むなり、多くの疑惑を排しつゝ待望むなり、見えざるものを見るが如くに待望むなり、即ち希望を現実として待望むなり、之を為すに多くの勇気と努力とを要するなり、即ち忍耐を要するなり。
  廿六、其如く聖霊も亦我等の荏弱《よわき》を助く、そは我等は祈るべき所を知らざれども聖霊自から言ひ難きの歎きを以て我等に代りて求むればなり。
 其如く 天然が外より其同情を以て我等の歎きを助くるが如く聖霊も亦中より我等の弱きを助け給ふ 〇我等の荏弱 下にいふが如し、即ち無智無識の荏弱なり、祈るべき所さへも知らざる信仰的荏弱なり 〇そは 前に言へる荏弱と神の援助の説明 〇祈るべき所を知らず 人は生れながらにして其祈るべき所を知らず、彼は身の幸福、心の平康を祈ると雖も霊魂の救済、体の復活《よみがへり》を得んとは祈らず、我等は唯歎くのみ、何を目的として祈るべき乎を知らず 〇聖霊自から 我等は祈るべき所を知らず、然れども我等の無識を顧みずして、聖霊自から進んで我等に代りて云々 〇言ひ難きの歎き 人の言辞《ことば》を以てしては言ひ顕はし難き歎きを以て。神の我等に関は(90)る悲歌に人の言語を以てしては言ひ尽し難きものあり、天然の我等に対する同情は厚けれども、又我等自身の悲歎は烈しかれども、神の我等に関して懐き給ふ悲歎の如くに甚しからず 〇我等に代りて求むればなり 我等は何を祈るべき乎を知らず、亦我等は熱心に於て不足する所あり、然れども聖霊は我等に代り、我等の言語を以てしては言ひ尽されぬ聖霊御自身の熱心を以て我等に代りて求め給ふ、代請し給ふ、執成し給ふ 〇我等が救はれてキリストと偕に栄を受けんことは(十七節)第一に天然物の切に望む所なり(十九節)、第二に我等自身の待望む所なり(廿三節)、第三に聖霊が我等に代りて神に求むる所あり、我等の待望は外より促され、又中より助けらる、我等は終に救はれざらんと欲するも得ざるべしと。
  廿七、而して人の心を察たまふ者は聖霊の意の何たる乎を知り給ふ、即ち神の心に遵ひて聖徒に代りて求むるを知り給ふ。
 而して 聖霊は我等に代りて父なる神に求め給ふ、而して神は之に応じ其要求を納れ給ふ。此節は聖霊代請の結果をいふなり 〇人の心を察たまふ者 勿論神なり、人の心を透察し給ふ神は人の心の何たると聖霊の意《おもひ》の何たる乎を能く弁別し給ふ、彼は誤りたる人の祈を斥くることあるべし、然れども誤りなき聖霊の祈を斥け給ふことなし 〇聖霊の意 聖霊の意志と目的、聖霊の心の状態、原語 phronema の意味は是れなるべし 〇即ち神の 心に遵ひて云々 聖霊の心の状態は是なり、其意志と目的とは是なり、即ち神の聖意に遵ふことなり 〇神は聖霊の意の何たる乎を知り給ふ、故に其代請は必ず之を受納し給ふ、聖霊が我等に代りて捧ぐる祈祷に誤謬あるなし、循て神に聴かれざるものあるなし、而して我等は斯かる祈祷の我等の衷に捧げらるゝを知る、故に我等の終に救はるべきは確実なり 〇外に天然物の我等の栄に入らんことを切望するあり、衷に我等の霊の此事あらん(91)ことを待望むなり、而して聖霊の此切望と待望とを助くるあり、三者相応じて神に求む、神は万有、人類、聖霊三者の声に聴いて終に我等を救ひ給はざらんやと、偉大なる哉、バウロの此言!! 〔以上、5・10〕
  廿八、尚又すべての事は神の旨に循て召されたる神を愛する者のためには共に働きて益をなすを我等は知る。
 尚亦 天然は外より其同情を以て我等の救済を促し、聖霊は衷より我等のために執成し給ふ(前節)、加之、尚又 〇すべての事は 外なる天然と衷なる聖霊のみならず、すべての事物は、歓喜も悲痛も、敵も味方も、失敗も成功も、死も生も、事といふ事、物といふ物はすべて皆な共に働らきて信徒のために益をなすと 〇神の旨に循て云々 基督信徒を謂ふなり、彼は神に召されたる者にして又神を愛する者なり、即ち愛を以て神の聖召に応じたる者なり、而して彼の神に召されたるは其旨に循てなり、即ち其予め定め給ひし聖図に循てなり、彼は目的なくして召されたるにあらず、神の聖業の一として、又之を賛《たす》けんがために召されたるなり 〇共に働きて 共和して。相応じて。名将の下に万卒の動くが如くに、万事万物は神の指定の下に綜合一致して信徒の進歩完成を賛くと 〇益をなす 身の利益をなすに非ず、霊魂の裨益をなすなり、其救済を賛くるなり、基督信者に取りて「益」と称すべき者は之を除て他にあらざるなり、キリストと共に栄を受けんことなり(第十七節)、神の子と成らんことなり(第廿三節)、彼の此終極の目的を賛くる者はすべて彼に取ては益ある者なり、而して万事万物は共同一致して彼をして此最終の目的を達せしむと
 ○我等は知る 我等は此事を知覚す、即ち万事万物が、善きも悪きも、相共に相応じて我等の霊魂の益を謀るを知る、我等は実験に由て此事を知る、我等は又すべての聖徒の経歴に由て此事を知る、我等はまた衷なる聖霊の告知に由て此事を知る、我等は知る 我等は確信す、即ち万事万物は神の摂理の下にすべて我等の味方なることを。
(92)  廿九、それ神は其預め知り給ひし所の者は亦之を其子の状に効《ならは》せんとて預め定め給へり、是れ彼をして多くの兄弟の中に嫡子たらしめんが為なり。
 それ 万事万物は悉く共に働きて信者の益をなすなり(前節)、今此事を事実に就て稽査せん乎、まことに下の如くなることを見ん、即ち神は世の基を置ざりし先きより、業《すで》に已に其目を我等の上に注ぎ、我等をして其子の栄を受けしめんがために、万事万物を所理し給ひしことを 〇預め知り給ひし者 神の属として目を留め給ひし者、信者は今始めて神に召されし者に非ず、世々の始より神に知られし者なり 〇亦之を……預め定め給へり 已に己が属として目を留め給ひし者は亦之を己が属として定め給へり、即ち之を他の者より区別し、之を擁護し、之を保存し給へり、「定む」は区別を定むるの意なり、週囲に墻を繞して、外物の侵害を防ぐをいふ 〇其子の状に効せんとて 信者を預め他の者より区別し給へり、其目的は彼等をして終に其子イエスキリストの状に効せんためなり、即ち、彼の如く聖く、彼の如く完全くなるを得て、彼の受くべき栄を受けしめんためなり、一言以て之を言へば、彼等を聖めんためなり 〇是れ彼をして多くの兄弟云々 信者を擁護し、之を保存するの目的は之を望めん為なり、而して之を聖むるの目的はキリストを崇めんためなり、キリストをして独り栄を受けしめずして、多くの兄弟の中に嫡子となりて、即ち聖なる天の家庭の長子となりて、父の栄光を担はしめんためなり、すべての物は信者のため、信者はキリストのため、キリストは神のためなり、是れ神の制度に於ける万物の順序なり(哥林多前書三章廿一節以下)。
  三十、又預め定め給ひし所の者は之を召し給へり、召し給ひし所の者は之を義とし給へり、義とし給ひし所の者は之に栄を賜へり。
(93) 之を召し給へり 預め己の属として聖別し給ひし者は更に進んで之を基督信者として召し給へり、「召し」は基督の救済に招くの意なり、筵席に招くが如し、救済の宴に招き給へり(馬太伝廿二章) 〇義とし給へり キリストの贖罪の恩恵に与からしめ給へり 〇栄を賜へり キリストと共に神の子たるを得て神の後嗣《よつぎ》たるの栄を得しめ給へり、是れ勿論、世の最終に於て事実となりて顕はるべきものなりと雖も、信者は業に已に此栄光を担ふ者なりと解して可なり、信仰の眼には希望は既成の事として解せらる。
  三十一、然らば此等の事に就て我等何をか言はん乎、神、若し我等の味方ならば誰か我等に敵せん乎。
 然らば 事実若し斯の如しとならば(而して我等はその斯の如くなるを信じて疑はざるなり) 〇此等の事に就て云々 我が此書翰(羅馬書)に於て言ふ所のこと、殊に身の困難、迫害等に就て我等何をか言はん乎 〇神、若し我等の味方ならば云々 我等に苦難多し、妨害多し、罪は霊に存し(第七章十七節以下)、荏弱は身を纏ふと雖も(第八章一節以下)、我等何をか懼れん、神、若し我等の味方ならば誰か我等に敵せんや、悪魔も悪人も神が預め我等に就て定め給ひし善工《よきわあ》を毀つ能はざるなり、我等時には我等の救済の完成うせられざらんことを懼る、我等の意志の薄弱なるが故に、悪魔の勢力の強大なるが故に、悪人の譎計の巧なるが故に、我等に係はる神の聖図の敗られんことを恐る、然れども我等の疑懼は無用なり、神は我等の味方なり、彼は無窮の過去に於て業に已に我等に其慈愛の目を注ぎ給へり、我等の今日あるは決して偶然のことにあらざるなり、万事万物が悉く相共に働きて我等をして今日あるを得しめたるなり、我等の遺伝も我等の境遇も、我等の祖先も、我等の父母も、我等の友人も、然かり我等の敵人も、相共に働きて我等をして今日の福祉《さいはひ》あるを得しめたり、我等の地位は安固なり、世に我等に係はる神の聖旨を妨礙し得る者一人もあるなし。
(94)  三十二、己の子を惜まずして我等すべての者のために附せる者は豈《など》か彼に併せてすべての物を我等に賜はざらん乎。
 己の子を惜まずして云々 キリストは神が人類に賜ひし最大の賜物なり 〇我等すべて 人類全躰の意なるべし 〇附せる者 敵人の手に附し、之を十字架に釘けしめて我等の罪を贖はしめし者 〇豈か彼に併せて云々 既に此大恩恵を下し給ひし者、などか我等彼を愛する者に、キリストを賜ひしと同時に又すべての善き物を賜はざらんや、大恩恵は小恩恵の保証なり、其独子をさへも惜まずして我等に賜ひし者は其他のものを我等に賜はざるの理あらん乎、我等の要する忍耐、智識、然かり健康、食物、住所、友人、我等の霊魂に益をなすに足るものは一ツとして之を賜はざるの理なし、我等の恐怖は無益なり、餓死の恐怖、孤独の恐怖等はすべて無益なり、己の子を惜まずして我等人類のために耻辱の死を遂げしめ給ひし神は何の善き物をか我等に賜はざらん乎、キリストを有する我等は万物の所有主《もちぬし》と自から信じて可なり。
  三十三、神の簡びたる者を訟ふる者は誰ぞや、神は義とする者に非ずや。 神の簡びたる者云々 基督信者の罪を算へ、之を神に訟へて彼を罪に陥れんとする者は誰ぞや、彼れ悪魔は常に此事を為して止まず、彼はヨブを神に訟へて彼と神とを離間せんとせり(約百記第一章)、彼はその如く今日尚ほ我等を神に訴へ、我等の罪を摘指して我等を神より離絶せんとす、斯くて我等は幾回か彼の欺く所となり、神を無慈悲の裁判官なりと誤解して、彼を離れて独り自から己を潔うせんとせり 〇神は義とする者に非ずや 悪魔は我等を神に訟ふ、然れども我等は今に至て知る、其子を我等のために附たせし神は我等を罪に定むる者にあらずして反て義とする者なることを、悪魔よ汝は汝の譎計を続くるも、汝は最早や我等を欺く能はざるなり、(95)かの十字架の上の神の羔を見よ、神は罪を定むる者にあらずして義とする者にあらずや、汝の告訴は無益なり、我等十字架を仰瞻《おほぎみ》て、罪より脱がるゝを得て、亦汝の讒誣より免かるゝを得るなり。
  三十四、罪を定むる者は誰ぞや、キリストは既に死に給ひしに非ずや、然かり、甦りて神の右に在り我等に代りて求め給ふにあらずや。
 罪を定むる者は誰ぞや 罪を訟ふる者は誰ぞや、悪魔なり、然れども訴訟を聴て之に判決を下すべき神は罪する者にあらずして義とする者なり、彼れ悪魔の訴訟は無効ならざるを得ず(前節)、人の罪を訟ふる悪魔に対して之を定むる者は誰ぞや、キリストなり、神は彼に由りて世を鞫き給ふ、然れどもキリストは既に死に給ひしにあらずや云々 〇キリストは既に死に給ひしにあらずや 人の罪を鞫き、其罪を定むべき者は既に十字架上の死を遂げ我等の罪を贖ひ給ひしにあらずや、既に我等の罪を赦せし者が、いかで再び我等を罪せんや、悪魔よ、汝の奸計は挫かれたり、汝は今や我等の罪を訴へんと欲して訴ふるに所なきなり 〇然かり、甦りて云々 キリストは既に死に給へり、人の罪は既に贖はれたり、然れど事は茲に止まらざるなり、罪を贖ひしキリストは甦りて今は神の右に座して我等のために代求し給ふなり、斯かる者がいかで我等を罪に定めん乎、死せしキリストは活けるキリストなり、我等の贖主は同時に我等の弁護士なり、而して彼はまた我等の裁判人なり、悪魔の告訴は必ず彼の敗訴を以て終るべし。
  三十五、我等をキリストの愛より離絶《はな》らせん者は誰ぞや、患難《なやみ》なるか、或ひは困苦《くるしみ》なるか、或ひは迫害なるか、或ひは飢餓《うえ》なるか、或ひは裸※[衣偏+呈]なる乎、或ひは危険なるか、或ひは刃剣《つるぎ》なる乎。
 我等をキリストの愛より云々 彼れ悪魔は恒に我等の告訴人となり、我等を神に訟へ、我等を罪に陥れんと計(96)る、斯くて彼は我等をキリストの愛より離絶せんとす、然れども能はざるなり、キリストは其身に於て我等の罪を滅し給ひて悪魔をして我等を訟ふるに途なからしめ給へり、然らば来れ、患難よ、困苦よ云々 〇患難…賜困苦 内なる患難と外なる困苦の意乎 〇基督信者に取りてはすべての困難の恐るべきは其が悪魔に由て誘惑の利器として用ゐらるゝに在り、然れども既に彼の権威の殺《そが》れたる以上は世に恐るべきもの何もあるなし、患難、困苦、飢餓、裸※[衣偏+呈]、危険、刃剣、是れ悪魔の誘惑を離れては僅かに身を殺すに止つて、魂を殺すこと能はざる者なり(馬太伝十章廿八節)。
  三十六、是れ『我等|終日《ひねもす》汝のために死に附され、屠られんとする羊の如くせらる』と録《しる》されたるが如し。
 是れ 詩篇第四十四篇二十二節の言葉なり、神の選民が異邦の民に困めらるゝ状を示す 〇屠られんとする 燔祭の犠牲として屠られんとする 〇我れ日々に死す(哥前十五〇卅一)とはまた基督信者の生涯なり、彼は斯世に在ては最も憐れなる者、世の汚穢《あくた》また万の物の塵垢《あか》の如くに扱はる、彼は内に死し、又外より殺さる、彼もまたキリストと偕に敵に附され十字架に釘けられし者なり。
  三十七、然れども我等を愛《いつくし》める者に託り、すべて其等のことに勝ち得て余りあり。
 然れども 困苦は身の内外に迫れり、然れども 〇我等を愛める者.我等に生命の霊を供せんために其身を十字架に釘けし者 〇託り 其力に託り。是れあるが故に 〇すべて是等のこと すべての患難、すべての困苦 〇勝ち得て余りあり たゞに勝つのみに止まらず、勝ち得て余りあり、征服し得て余力尚ほ存す、死に勝て更らに生に入る、困難は反て歓喜と化す、墓は栄光に入るの門となる、是れ皆な我等を愛める者に託てなり。
  三十八、そは或ひは死或ひは生、或ひは天使或ひは執政或ひは有能《ちからあるもの》、或ひは今ある者或ひは後あらん者、
(97) そは、世に我等をキリストの愛より離絶し得る者あるなし(第三十五節)。そは我は固く此事を信ずれば也、即ち云々(本節并に次節) 〇死……生 死の苦痛と生の患難 〇天使……執政……有能 人間以上の実在者なり、天使属と称せんか、執政(archai)は天使の長(archangels)ならん、有能は其中の更らに有力なる者ならん、天使に善き者と悪き者とあり、此処に謂ふ所のものは後者を指すなるべし、以弗所書六章十二節を参照すべし 〇今ある者……後あらん者 今ある者恐るゝに足らず、後あらん者、又恐るゝに足らず、世は如何に変化するとも我等をキリストの愛より離絶するに足る者あるべからず。
  三十九、或ひは高き或ひは深き、また他の受造物も我等を我主イエスキリストに在る神の愛より離絶すること能はざるを我は信ずれば也。
 高き……深き 天の高きも蔭府《よみ》の深きも、其中に在るすべての物も 〇また他の受造物も 茲に枚挙する能はざる其他のものも 〇キリストに在る神の愛 キリストに由て顕はれたる神の愛。たゞに造物主としての神の愛にあらず、イエスキリストの御父としての神の愛より 〇我等を離絶すること能はざるなり 我霊は受造物を離れてキリストに在りて神に結び附けられし者なれば、神に造られし物は何物も之を造りし神より我等を離絶すること能はざるなり。
 
    全章約説
 
〇求むべきは聖霊なり、是れキリストに由りて神より臨る者、即ち活かす神の霊なり、此霊を受けて我等に生命あり、是れ肉とは正反対のものなり、死とは他なし、肉に従ひ、肉のことを念ふことなり、生とは他なし、活か(98)す神の霊なる聖霊に従ひ、其ことを念ふことなり、生死の別は霊肉の別に存す、然れども注意せよ、我霊にあらず神の霊なり、我霊は我肉に克たんと欲するも能はず、神の霊、我霊と偕に在るに及んで、我等は能く我肉に克つを得て神の心に通ふことを得るなり(一−十節)。
〇復活とは聖霊に由りて死ぬべき身体を生かしめらるゝことなり、神の子たるは同じ聖霊に導かるゝことなり、聖霊我等の霊に宿りて神と我等との間に父子の関係は生ずるなり(十一1十七節)。
。聖霊が我等の中に在りて為し給ふことは天然が我等の外に在りて我等より要求することなり、天然は我等の救済を促し、聖霊も亦我等に代りて之を神に哀求す、外には天然の我等のために歎き悲むあり、衷には聖霊の言ひ尽されぬ悲歎《なげき》を以て我等のために祈るあり、天然の声は神(聖霊)の声なり、我等は終に救はれざらんと欲するも得ざる也(十八−廿七節)。
〇事は茲に止まらざるなり、万事万物は悉く相共に働らきて我等に益をなしつゝあり、聖霊は衷より万物は外より内外相応じて我等にかゝはる神の聖旨を成就しつゝあり、然らば我等何をか恐れん、キリストに在りて神の愛に繞囲せらるゝ我等は神より離れんと欲するも能はざるなり、昔の詩人の言は今や我等の言となりぬ、曰く、
   我れ何処に往きて爾の聖霊《みたま》を離れんや、
   我れ何処に行きて爾の前を遁れんや、
   我れ天に昇るとも商は彼処《かしこ》に存《いま》し、
   我れ我が榻《とこ》を蔭府《よみ》に設くるとも視よ爾は彼処に在ます、
   我れ曙の翼を借りて海の端《はて》に住むとも、
(99)   彼処にて尚ほ爾の手、我を導き、
   汝の右の手我を保ち給はん。
          (詩篇第三十九篇第七節以下)
世を離れ、聖霊に由りキリストに往き神に還りて世は壊《くづ》るとも我等はキリストと偕に生きん(廿八−卅九節)。 〔以上、6・10〕
 
(100)     耶利米亜記感想
       (余の古き聖書より)
              明治39年4月10日・5月10日
              『新希望』74・『聖書之研究』75号「実験」
              署名 内村鑑三
 
 余の特愛の預言者はヱレミヤである、余はイザヤを尊崇し、エゼキエルを敬畏し、ダニエルを歎賞する、然かしヱレミヤに至ては余は彼を親愛する、預言者と云へば如何にも厳格にして近づくべからざる者のやうに思はれるが、併しヱレミヤに至ては彼に就て少しもさういふ感覚が起らない、余は余の親しき友人として彼に近づく事が出来る、彼は余に取りては預言者といふよりは寧ろ詩人である、神の僕といふよりは寧ろ人類の友である、旧約聖書人物中で余が最も親んだ者は此の「涙の預言者」である。
 彼は祭司の子であつた(一章一節)、然かし彼は自身、祭司とならなかつた、彼は死に至るまで純然たる平信者であつた、爾うして幾回となく祭司(今の所謂る宗教家)を敵に有つた、彼は何処までも民の預言者であつた、即ち神と民との間に立つて祭司を経ずして直に神の聖意を民に伝ふる者であつた、預言者中彼の如くに慣れ/\しく神に近いた者はなかつた、彼は神に怨恨《うらみ》を述べた、幾回《いくたび》か強いて其恩恵を求めた、彼は神の愛を信じて幾回か神の尊厳を冒した。
 民の預言者であつた彼は自から田舎の預言者であつた、彼はヱルサレムを距る三哩、ベニヤミンの地アナトテ(101)に生れた(一章一節)、爾うして彼は終生、居を此地に卜せんとした(卅七章七節以下)、イザヤが都会の預言者なると、ダニエルが朝廷の予言者なるとに対して、ヱレミヤは何処までも田舎の予言者であつた、彼は特に地方の邑々のために弁護した、彼は閑静と孤独とを愛した、都会の紛雑は彼の最も忌み嫌ふ所であつた。
 彼はまた惰の人であつた、彼の理性は屡々情の支配する所となつた、彼は怒つた、泣いた、彼はイザヤのやうな円満なる思想家ではなかつた、ダニエルのやうな政治家ではなかつた、又エゼキエルのやうな意志の人ではなかつた、彼に婦人の情性があつた、彼の如くに強い人はなかつたが、又それと同時に彼の如くに弱い人はなかつた、彼に細美なる所があつた、彼の愛は婦人のそれに似て居つた、深くして濃かであつた。
 斯くも親しき予言者の記事であれば、余は幾回となく繰返して耶利米亜記を読んだ、余の古き聖書は其耶利米亜記に於て朱字を以て記入されたる感想を以て充たされて居る、余はヱレミヤの実験は悉く余の実験である乎の如くに感ずる、今より順を逐ふて余が此書より感得した所のことを少しく読者の前に述べやうと思ふ。
 耶利米亜記第一章は予言者の予言職就任に関する記事である、聖職就任と云へば如何にも荘厳なる儀式でも執行されたやうに思ふ人もあらうが、然かしそれは決して爾うではなかつた、平民的予言者の就任式なるものは如何にも平民的で如何にも単純であつた、彼の首《かうべ》に膏を注ぐ祭司の長もなかつた、彼のために祝福を祈るレビの族《やから》もなかつた、又彼のために証人にたつ同志友人の如き者もなかつた、彼は独り神の前に立ち、神より直に予言の職を授つた、ヱホバの言はヨシヤ王の治世十三年に始めて彼に臨んだとのことであれば、彼が始めて此大任を自覚したのは彼が十九歳の時であつたらふとのことである、神を識るに最も良き時は青年時代である、宗教は老年のことであるなどとは余が余の国人の口より屡々耳にした所であるが、余は茲に一青年の独り自から進んで神の(102)予言者たるを肯ぜし者あるを知て大に余の青年時代の確信を強うした。
  ヱホバの言我に臨みて云ふ、我れ汝を腹に造らざりし先に汝を識り、汝が胎を出でざりし先に汝を聖別し、汝を立てゝ万国の予言者となせり(四、五節)。
 ヱホバの言は如何にして彼に臨んだであらふか、祭司の口を以てであらふか、否な、或ひは天より響き渉る声を以てゞあらふか、多分さうではあるまい、是れは多分青年のヱレミヤが彼の成育の地なるアナトテ附近の郊外を独り歩みし時に於て、或ひは古きオレブ樹の下に独り黙祷に耽けりしころ、彼の心琴に幾度となく触れし細き微かなる声であつたらふ、彼は幾度となく之を打熄さんとしたらふ、然かし其声は彼を去らなかつたであらふ、彼は終に彼の予言者として神に予定されし者であることを信ぜざるを得ざるに至つたのであらふ、「我れ汝を腹に造らざりし先に汝を識り、汝が胎を出ざりし先きに汝を聖別し、汝を立てゝ万国の予言者となせり」と、人よりにあらず又人に由らず宇宙万物の造主なるヱホバの神に由りて万国の予言者として立てられしと、若し爾うであるとすれば彼は此職を否まんと欲して否むことが出来ない、又彼の父も彼の母も、彼の兄弟も姉妹も友人も彼の予言者たるを拒むことが出来ない、憐むべき人は神に其職を定められし者である、彼は先天的の神の捕虜である、事業の撰択の如きは彼の為し得ることではない、彼は否でも応でも彼のために定められし職に就かなければならない、予定の天職を示されし時の神の子供の心の状態は決して感謝ばかりではない、ヱレミヤに取ても多分爾うであつたらふ、彼も彼の懐きし多くの小なる冀欲《アムビシヨン》を放棄するの苦痛を感じたであらふ、彼も亦彼が父の職を嗣いで祭司とならんことを欲ふ父の意志に乖くの苦痛を感じたであらふ、然かし止むを得ない、彼は母の胎内に造られざりし前より神に定められし予言者である、予言者たらざらん乎、彼は無きに等しき者である、予言者(103)たるは辛らし、然かし止むを得ない、其職に就くと就かざるとは彼に取ては死活問題である。
  ヱホバの聖召《めし》の声に接して青年のヱレミヤはヱホパに答へて云ふた、
  噫主ヱホバよ、視よ我は幼少きが故に語るを知らず(六節)
と、彼は彼の年齢不足の故を以て予言の大任を辞退せんとした、彼は一には未だ自己を信じ得なかつたであらふ、二には社会が彼の若年を侮り、耳を彼の言に傾けざるを恐れたであらふ、或ひは彼の親戚友人にして、彼に起立の尚ほ早きを説き、尚ほ数年の修養を勧めた者もあつたであらふ、何れにしろ彼は内気の青年であつた、彼は性来《うまれつき》の格闘家ではなかつた、彼は寧ろ憶病者であつた、彼は公的生涯を忌んだ、若し彼の意志其儘を云はしめしならば、彼はユダの山地に橄欖を植え、其谷間に麦を蒔き、前の雨と後の雨とを待つて、穂にヱホバの恵の実るを視て、彼を讃めまつらんことを望んだで らふ、彼の理想は多くの詩人のそれと等しく「藁葺の屋根の下に少さき妻と共に居る」ことであつたらふ、然し彼に干はるヱホバの聖意は之とは正反対であつた、
  ヱホバ我に言ひ給ひけるは、汝、我は幼少しと言ふ勿れ、すべて我が汝を遣はす所に往き、我が汝に命ずるすべての言を語るべし、汝、彼等(人)を畏るゝ勿れ、そは我、汝と偕にありて汝を済ふべければなり(七、八節)。
 青年のヱレミヤはイザヤ、アモス、ホゼヤ、ミカの如く予言者たるべし、彼は己の歳足らざるの故を以て予言の重職を辞退すべからず、そは予言者たるは、己の智慧を以て謀り、己の言を語ることにあらざればなりとのことであつた、ヱレミヤは未だ予言の何たるを知らなかつた、彼の予言者たるは神の機械となることであることを知らなかつた、「我の意志は神の意志を我が意志となすにあり」との信仰の秘訣は今始めて彼に伝へられた、彼は(104)若年でも可い、然かり、若し神の聖意となれば無学でも可い、唯神の声を識別するの能さへあれば可い、此能さへ神より賜はらば、彼は人を畏るべきではない、神は彼に取り、「最と近き援助」である、彼は今より独り立て万国を相手に闘ふべきである。
  ヱホバ遂に其手を伸べて我口につけ、ヱホバ我に言ひ給ひけるは、視よ、我れ我言を汝の口に入れたり、視よ、我、今日汝を万民の上と万国の上に立て、汝をして或ひは抜き、或ひは毀ち、或ひは滅し、或ひは覆《たふ》し、或ひは建て、或ひは植しめん(九、十節)。
 始めにヱホバの言彼に臨み(四節)、遂に其手彼の口に触れたりと云ふ、是れは抑々何う云ふことであらふか、言を以て伝へしことを手を以て実行し給へりと云ふことであらふ乎、或ひは手を伸べて閉ぢたる口を開き、彼に雄弁の能力を賜ひて、彼をして沈黙を破らしめ給へりと云ふことであらふか、或ひは我言を汝の口に入れたりとあれば、大思想を彼の心に注入して彼をして大声疾呼せざるを得ざるに至らしめ給へりといふことであらふ乎、文字の解釈は至て困難である、眼に見えざるヱホバに肉の手のありやう筈はない、然り、ヱホバの手はヱホバの力である、その予言者の口に入りしとあるは力が彼に臨んだのであらふ、彼は此時彼が未だ曾て知らざりし権能の彼に加へられしのを感じたのであらふ、憶病なる彼は今は勇者となつたのであらふ、懐疑の彼は今は確信の彼となつたのであらふ、彼は今、頼るべき或る確実なる物を感ずるに至つたのであらふ、爾うしてヱホバは此新らしき能力を彼に加へ給ひて更らに彼に宣べ給ふたのであらふ「視よ我、今日汝を云々」と。
 十九歳の青年、彼は今は万民の上と万国の上とに置えられた、彼は今は牧伯以上、帝王以上の者となつた、彼は僅にユダヤ一国の上に立て其運命を支配すべき者ではない、エジプト人とエジプト国の上に立ち、バビロン人(105)とバビロン国の上に立ち、フィニシヤ人とフィニシヤ国の上に立ち、即ち彼れ在世当時のすべての国民の運命を卜し、其罪を責め、其罰を宣告し、其滅亡を判決すべき者となつた、予言者とは斯かる者である、彼は読んで字の通り必しも予め言ふ者ではない、即ち先見者たるのみではない、希伯来語のナビーは沸騰する者の意であるとも云ひ、又は単に告知者の意であるとも云ふ、若し沸騰者ならば憤慨者、民の罪悪を憤る者、抑へんと欲して抑ふること能はざる感慨有の儘を噴出する者である、若し告知者ならば神の聖意を民に告げ知らする者である、然かれども字義を離れてナビー(予言者)其物に就て言へば、彼は先見者で沸騰者で告知者である、爾うしてヱレミヤの如きは其最も顕著なる者で最も熱烈なる者であつた。
 彼は今より国民を抜きもし、毀ちもし、滅しもし、覆《たふ》しもし、建てもし、植えもするとのことである、彼が之をなすと云ふは勿論、彼は神の聖意を語る者である故に、彼の言辞は必ず事実と成りて顕はるべしとのことである、彼れ荏弱の一青年なりと雖も、彼れ若しエジプトに滅亡を宣告すればエジプトは終に亡ぶべしとのことである、彼若しユダヤに再興を約束すればユダヤは終に再び興るべしとのことである、時の強国たるアッシリヤもバビロニヤも、又第二等国に位ひしたるエドム、アモン、エラム等も彼の言辞のまに/\或ひは亡び或は興るべしとのことである、偉大なるかなナビー(予言者)の権能、大王ネブカドネザルと雖も此権能は有たなかつた、而かも此権能が十九歳の一青年に附与せられたとのことである、彼れ若し暗愚ならば彼は宗教狂となり果てたであらふ、予言者たるの難きは他を責むるよりも己を慎むにある、然しヱレミヤは此大任を負はせられて彼の常識を失はなかつた。
  ヱホバの言また我に臨みていふ、ヱレミヤよ、汝、何を視るやと、我答へけるは巴旦杏の枝を視ると、ヱホ(106)バ我に言ひ給ひけるは汝善く視たり、そは我れ速かに我言をなさんとすれば也(十一、十二節)。
  ヱホバの言再び我に臨みて云ふ、汝、何を視るやと、我れ答へて曰ひけるは沸騰《にへたち》たる※[金+獲の旁]《なべ》を視る、其面は北より此方に向ふと、ヱホバ我に言ひ給ひけるは災、北より起りてこの地に住めるすべての者に臨らん(十三、十四節)。
 ヱホバの大能彼に降りて後に、ヱレミヤは一日庭前に於てか、或ひは郊外に於て巴旦杏の枝を見た、彼の詩的眼は直に此樹の枝に神の聖意を読んだ、ユダヤの巴旦杏は日本の梅のやうな者である、花の魁《さきがけ》と称せられ、厳冬まだ去らざるに其梢に雪ならぬ花を咲かする者である、故に希伯来語にては之をペコースと云ひ、醍むる者の意である、「期未だ至らざるに冬期の睡眠より醍むる者」、是れが巴旦杏である、想ひしよりも早く咲く花、噫、斯樹はユダヤ国の運命を告知らす者であらふ、此国に干はるヱホバの言は人が想ふよりも早く実行されるであらふ、正義の裁判は速かに臨むであらふ、ペコース(巴旦杏)の花が時ならぬに咲くやうに神の憤怒は時ならぬに(ペカース)に不義を悦ぶ此国民の上に落来るであらふ、ペコース(Pekohs 巴旦香)はペカース(Pekahs 急速、不意)の表号《しるし》であらふ、天然は善く之を解すれば神の言辞である、巴旦杏は眠れる民に覚醒を告ぐる神の言辞であると。
 田舎の予言者にして田園詩人たりしヱレミヤは巴旦杏の一枝に神の深き聖意を読んだ、彼に取ては草も小石も有力なる説教であつた、爾うして、彼に降りし最初の黙示は巴旦杏の一枝に由てゞあつた、彼は実にヲルズオス以上の天然詩人である。
 (巴旦杏の如何なる樹であるか、之を「はたんけやう」と訓まずして「あめんどう」と訓むべき事等に就ては(107)之を本誌第廿二号「聖書の植物」巴旦杏の篇に於て読まれたし。)
 巴旦杏に神の裁判の臨むべき時期を読みしヱレミヤは沸騰たる※[金+獲の旁]に其来るべき方向を見た、※[金+獲の旁]とはユダヤ人の使用する普通の家具であつて、恰かも我国に於ける鉄瓶の如き者である、彼れ一日※[金+獲の旁]のその口を北より南に向けて沸騰蒸発しつゝあるを見て、神の憤怒の北より南に向つて臨み来るを知つた、水の鼎の中に在て沸騰するが如く、正義は神の心の中に噴起しつゝある、爾うして予言者の目前に※[金+獲の旁]が其口を北より南に向けて熱き蒸汽を吐きつゝあるやうに、神の義憤は北方の地より南を指して此ユダヤ国に臨むであらふ、時は不意に、人の想ふよりも速かに、方向は北より南に向て神の裁判は臨みつゝあると、ヱレミヤに臨みし第二何の黙示は沸騰せる※[金+獲の旁]に由てゞあつた。
 巴旦杏と※[金+獲の旁]、梅と鉄瓶、瑣々たる此天然物と些細なる此家具とは国民の運命を此青年予言者に伝へた、神は其聖意を其愛子に伝ふるに方て必ずしも雷霆の声を以て大岳の上より轟き給ふに及ばない、梅の一枝を以て、或ひは煮え立つ鉄瓶を以て、宇宙の奥義を人に示し給ふ、耳ある者は聴くべし、眼ある者は視るべし、神の黙示は台所に在り、路傍にあり、必しも高壇の上より説教師の説教を聞くに及ばず、山中に隠退して人生の秘密に就て沈思黙考するに及ばない、ヱレミヤはまことに田園詩人にして家庭の予言者である。 〔以上、4・10〕
 
     鉄面皮と孤立
 
 鉄面皮は悪いことである、鉄面皮はまた善いことである、恥に対するの鉄面皮、義と情とに対する鉄面皮は悪いことである、然し不義に対するの鉄面皮、殊に権力に依る不義と圧制と暴虐とに対する鉄面皮は善いことにし(108)て賞すべきことである、爾うして神と正義とのために尽さんと欲する者には此種の鉄面皮がなくてはならない、正義は美《うる》はしいものである、然かし花のやうに、美人のやうに美はしい者ではない、正義の美はしいのは山岳の美はしいやうに美はしいのである、之に巍々たる所があり、嵯峨たる所があるから美はしいのである、故に其唱道者たる者にも亦崎嶇たる所、欝崛たる所がなくてはならない、彼は所謂る八方美人であつてはならない、寛容を唱へて何人でも之を懐けんとする人であつてはならない、預言者は磐でなくてはならない、鉄でなくてはならない、ヱホバ預言者エゼキエルに言ひ給はく我れ汝の額を金剛石の如くし、磐よりも堅くせりと(以西結書三章九節)、爾うして預言者ヱレミヤも亦万国の預言者として世に立つに方ては鉄面石心の人とならなくてはならない。
  汝、腰に帯して起ち、我が汝に命ずるすべての事を彼等に告げよ、彼等の面を懼るゝ勿れ、否らざれば我れ彼等の前に汝を辱かしめん、視よ我れ今日此全国と、ユダの王等と、その牧伯と、その祭司と、その地の民の前に汝を堅き城、鉄の柱、銅《あかゞね》の牆《かき》となせり、彼等、汝と戦はんとするも汝に勝たざるべし、そは我れ汝と偕に在りて汝を救ふべければなりとヱホバ言ひ給へり(一章十七、十八、十九節)。
 「人の面を懼るゝ勿れ」、彼等は必ず憤怒を以て汝に向はん、彼等は彼等の旧き習慣の破打せらるゝを好まざるべし、彼等は彼等の不義偽善を摘指せらるゝを歓ばざるべし、汝は彼等の中に在て邪魔物として扱はるべし、然れども彼等の面を懼るゝ勿れ、彼等は彼等の面に現はるゝが如き畏るべき者にあらず、彼等の心は彼等の面の如くに恐しからず、彼等の良心は静かなる所に於て彼等を責むるなり、彼等又時には死の恐怖を以て襲はれ、神の裁判を想像して戦慄するなり、然り、彼等の面を畏るゝ勿れ、彼等の面に対して彼等の罪悪を述べよ、汝、外より言辞を以て彼等を攻めよ、我、衷より良心の声を以て彼等を責めん、彼等は多数にして汝は一人なり、然れ(109)ども我れヱホバの神の汝と力を合せて彼等の背後より彼等を責むるを忘る勿れ。
 「彼等の面を畏るゝ勿れ、否らざれば我れ彼等の前に汝を辱かしめん」、汝、若し我が味方となりて彼等を責めざれば我は汝の敵となりて彼等をして汝を辱かしむべし、汝、彼等を逐はざらん乎、彼等の逐ふ所となるべし、世の歓ぶことにして神の使者を窘むるが如きことあるなし、汝は彼等の嘲弄物となるべし、士師サムソンの如くに異邦人の前に索かれて其弄ぶ所となるべし(士師記十六章を見よ)。
 予言者の責むべき人とは誰ぞ、敵として有つべき者は誰ぞ、「此全国と、ユダの王等と、その牧伯と、その祭司と、その地の民」とである、即ち国王と、政治家と軍人と、宗教家と、国民全体とである、彼は即ち全国を相手にして立つべき者である、彼は勿論王公貴族の弁弁者ではない、富豪の代弁者ではない、宗教家の一人ではない、去りとて亦世に所謂る平民の友でもない、彼は神の僕である、故に神に敵する者には貴族にも平民にも敵する者である 彼の属する党派なる者はない、彼は神と偕に立つ者である 世に若し彼の外に神と偕に立つ者あらん乎、斯かる人は其貴族たると平民たると、政治家たると軍人たると、宗教家たると平信者たるとに関はらず、亦彼の友である、然れども若し斯かる人一人もあらざらん乎、彼は一人で立つべきである、彼は異邦のギリシャ人に傚ひ人は社交的動物であるとの言に従つて、強ひて同志を求むべきではない、彼に頼るべきの階級はない、彼は貴族でもなければ平民でもない、彼に属すべきの党派はない、彼はヱヂプト党でもなければバビロン党でもない、彼に帰依すべきの教会はない、彼は祭司でもなければレビの族《やから》でもない、彼は神の僕である、故に堕落せる彼の在世当時の社会に在ては止むを得ず孤独たるべきである、而して彼は孤独たるを悲んではならない、ヱホバの神は彼と偕にありて彼を救ふべしとのことである。単に孤独たるばかりではない、彼は国王、政治家、軍人、宗教(110)家、平民、即ち全国民に対して鉄の面と金剛石の額とを向くべきである、彼等の罪悪は決して仮借すべきでない、婬縦は婬縦と呼ぶべきである、奢侈は奢侈と称ふべきである、偽善は偽善として攻むべきである、国王の嗜好なればとて罪悪を罪悪以外の名を以て称すべきではない、民の輿論なればとて輿論に阿るべきではない、黒は黒、白は白、事実有の儘を唱ふべきである、斯く為して彼は此社会に在て敵地に陣を張るの境遇に立たざるを得ない、彼は週囲に敵を受くるの覚悟を為なければならない、故に神は彼を地の民の前に竪き城、鉄の柱、銅の牆となし給へりと、弱き脆き一青年、身に寸鉄を携ふるにあらず、彼に階級、党派又は教会の保護あるに非ず、然れどもヱホバの言を身に体して彼は独り立て敵人繞囲の中に金城鉄壁たるべきである。
 「彼等汝と戦はんとするも汝に勝たざるべし」と、神の預言者たる一青年は国王、政治家、軍人、宗教家、平民、即ち国民全体よりも強かるべしと、神が彼に在りて国民の中に降りたるなれば、国民は誤るとも彼は誤らざるべし、元老の議は敗るとも彼の言は成るべし、預言者一人は全国民よりも強し、国民は挙て敵国を亡し得るも預言者一人を亡し得ざるべし、然り、彼を殺すを得ん、然れども彼の生命なる彼の言は生存して、事実となりて現はれて終には罪悪の民を滅すべし、禍ひなるかな預言者を送られし罪悪の民は!彼等の運命は既に定まれり。
 「我れ汝と偕に在りて汝を救ふべければ也とヱホバ言ひ給へり」、世は挙つて立つも預言者に克つ能はざる説明は茲に在る、ヱホバが彼と偕に在りて彼を救ひ給ふからである、彼れ自身に不抜の構神があるからではない、不撓《ふげう》の精力があるからではない、ヱホバが彼に由て語り、ヱホバが彼を以て動作《はたら》き給ふからである、世は人が欲ふやうに成るものではない、神の渝らざる聖意《みこころ》に従つて進むものである 預言者の強きは彼は此聖意に託るからである、世の人の弱きは彼等は自己に頼るからである、預言者に世に克つの力があるのではない、彼は神に従ふ(111)が故に神と偕に世に克つのである、預言者は世に克つの秘訣を知る者である、彼の強きの故を以て彼を褒むべきではない、彼の聖き智慧を讃すべきである、然り、彼に賜はりし信仰の故を以て彼を羨むべきである。
 斯く固められてヱレミヤの生涯は始つた、今より彼は或ひは国王に対し、或ひは牧伯に対し、或は祭司に対し、或ひは平民に対し彼の預言的攻撃を開始した、茲に一大戦争はヤコブの家とイスラエルの家のすべての族の中に開かれた、一大強敵は民の中に現はれた、国王、牧伯、祭司、平民は挙つて彼を圧服せんとした、彼は半百年の間孤独の生涯を継けた、彼は度び/\泣いた、自己の孤独を悲んだ、彼は時には神をも恨み奉つた、然かし彼は堅き城、鉄の柱、銅の牆たるの彼の本性を失はなかつた、爾うして彼は甚く国人に困しめられたけれども其克つ所とはならなかつた、ユダ王国終りの五十年間、然りユダ民族過去二千五百年間の歴史は神がヱレミヤを以て指定し給ひしものであつた、然り、ユダ王国は終に亡びて了つた、然れどもヱレミヤの言は亡びなかつた、ヱレミヤの言は民の慰藉として存した、爾うして存して今尚ほ残つて居る、二十世紀の今日に至るもヱレミヤの言は神を愛するすべての民の慰藉であつて、能力であつて、指導である、草は枯れ、其花は落つ、然れど主の言は窮なく存《たも》つなり(彼得前書一章廿五節)。 〔以上、5・10〕
 
(112)     家庭問題
                       明治39年4月10日
                       『新希望』74号「実験」
                       署名 角筈生
 
 幸福なる家庭は最も望ましき者である、然かし、此罪の世に於ては、殊に日本国のやうな支那道徳の制裁を受け、社会組織の根底が虚偽、偽善なる所に於ては容易に得られる者ではない、家庭は日本人最大多数に取ては幸福なる処ではなくして忍耐の所である、爾うして我等が如何に望むとも此忍耐の処を直に化して幸福なる所となすことは出来ない。
 然しながら我等の家庭が幸福なる所でないとて我等は別に失望するに及ばない、人世其物が決して幸福なる所ではない、此不幸なる人世に在る家庭のことであれば、それが完全に幸福でありやう筈はない、家庭の幸福と云ひ、不幸と云ひ、それはたゞ比較的のことである、悲痛のより尠い家庭、是を幸福なる家庭と云ふのである、不幸、多幸は悲痛の多少の問題である、我等が悲痛多き此人世に処するに方て基督信者たるの心を以てすれば、如何に不幸なる家庭と雖も之に堪えられない理由はない。
 爾うして人世に処する基督信者の心とは何んである乎と云ふに、言ふまでもなく、肉に死し、霊に生くることである、即ち己なる者を神の聖霊の働らきに由て熄すことである、さうすれば如何なる苦痛にも容易《やさ》しく堪えられるやうになるのである、さうして其結果として此苦痛の人世が歓喜満足の世となるのである、我が心の中心点(113)に此歓喜と満足と平和とが臨んで、我が我が週囲の闇黒を照らす燈明台となり、我れ自身が幸福なる者となるのみならず、我が週囲の人々までが我より幸福を受くるに至るのである、幸福なる家庭も社会も斯の如くにして成るのである、始めから幸福なる家庭が在て幸福なる人が出来たのではない、幸福なる人があつて、彼に由て終に幸福なる家庭が出来たのである、我等各自が幸福の燈火《ともしび》となり、泉源《いづみ》となるまでは何時まで待つても幸福なる家庭と幸福なる社会とは出来て来ない。
 斯かる幸福なる家庭の組成法を教へずしてその機械的製作法を伝へた者は主に外国、殊に米国宣教師である、彼等は何事に由らず外観を尊ぶ者であるから、何んでも彼等の作り上げし信者に幸福なる家庭を作らしめて、さうして幸福なる人を作らんとした、爾うして教を彼等に受けし日本国幾多の基督信者は幸福なる家庭を作らんとして大失望した、彼等の或者はそれがために終に基督教の効力までを疑ふに至つた、社会改良、家庭改造に失敗して其信仰までを失つたものもある。
 幸福なる家庭とよ! キリストは己を信ずる者にそんなものを約束し給はない、彼は己が世に現はれし結果の一つに就て左の如くに述べ給ふた、即ち
  今より後、一家に五人あらば三人は二人に敵対し二人は三人に敵対して分かるべし、父は子に、子は父に、母は女《むすめ》に、女は母に、姑は其|婦《よめ》に、婦は其姑に敵対し分かるべし(路可伝十二章五二、五三節)。
 是れは決して幸福なる家庭の状態ではない、否な、其正反対である、人の敵は其家の者なるべしと、基督教を信じて幸福なる家庭が成るべしとは新約聖書の何処にも書いてない、是れは長き永き信仰の鍛錬の結果として世に現はれるものである、故に幸福なる家庭は信仰の結果である、其原因ではない、我等は不幸なる家庭に在て信(114)仰を養ひ、自身、幸福なる者となつて永き日の後に幸福なる家庭を作ることが出来る。
 
(115)     雅各書の研究
              明治39年4月10日、5月10日
              『新希望』74・『聖書之研究』75号「雑録」
              署名 畔上生記内村生校
 
    第一章 十九節より二十七節まで  十一月五日聴講
 
  (十九)是故に我愛する兄弟よ人おの/\聴く事を速かにし語ることを徐《おそ》くし怒ることを徐くすべし(二十) そは人の怒は神の義を行ふことをせざれば也 (二一)されば諸々の汚穢《けがれ》と多くの邪悪とをすて却て柔和を以て汝等その心に植えられたる所の霊魂を救ひ得る道を受くべし (二二)汝等道を行ふものとなるべし唯之を聞くのみにて自己を欺くものとなる勿れ (二三)それ道を聞くのみにて之を行はざるものは鏡に向ひて本来《うまれつき》の面をみる人に似たり (二四)かれ己を照し視て走り後直に其如何なる相貌なりしかを忘る (二五)されば自由なる全き律法を切々《ねんごろ》に観て離れざる者は是れ功《わざ》を行ふ者にして聞て忘るゝ者に非ず此人其行ふ所に於て祝福を受けん (二六)汝等の中誰か若し自ら神に事ふる者と思ひて其舌に轡をつけず自ら其心を欺かば其行ふことは徒然《いたづら》なり (二七)神なる父の前に潔くして穢なく事ふることは孤児と寡婦を其|患難《なやみ》の中に眷顧《みま》ひ又自ら守りて世に汚れざる是なり。
○前段よりの順序としてヤコブは茲に実行の重んずべき所以を説かんとす、而して先づ曰く「語ること少なか(116)れ」と、蓋し語ることは吾人の道徳上、従て信仰上に大なる影響を及ぼすを以て也、多言実に危険なり、多言の結果は往々にして吾人の道徳を傷け霊性を害す、故に彼は劈頭第一先づ之を戒めんとす(十九)。
〇世人は曰く「宜しく寡言なるべし是れ処世の上の一大要件なり」と、是れ真理ならざるにあらず、然れども基督教的信念の立場にありては更に深き理由に依らざるべからず、其理由の第一は多言なれば罪を犯し易きことなり、多く語る中には自ら偽善の言葉出で誹謗の言辞起る、或は人を議し或は我を誇る、是れ陥らざらんと欲して而も知らず/\陥る所の罪なり、あゝ舌を制馭することの如何に難い哉、されば自らなる罪に陥ることを避けんがため吾人はまづ多言せざることを勉むべき也。其理由の第二は多言なれば勢ひ人に誤謬を伝へ従て人を誤り易きこと也、吾れ殊更に人に誤りを伝へんとするにあらず、去りながら、多く語る中には言語の勢に駆られ我注意の欠乏により自ら人に誤を伝へて為に人を害するに至るべし、己れ罪を犯すのみに止まらずして更に人をも誤らんとす、怖るべきかな多言の弊や。其理由の第三は力の蓄積のためなり、吾人は時に大に語らざるべからざることあり、(平生の場合にあらず)されば此時の用意として平生沈黙を守りて独り静に言語の潜勢力を養ふ要あり、言語には必ず我精神の努力伴ふ、平生多言なれば我精神の力は絶えず消散しつゝあり、されば常は沈黙を守りて精力を充分心裏に貯へなば時あつて我思想を発表するに当りてや力ある言、人を動かすの辞自ら口をついて出づべし。其理由の第四は是れ真理を獲得するの方法なるを以て也、思想は財産の如し、語れば消失す、真理また心に熟さずして漫りに之を発表せんか、我は真に成熟せる真理を形成すること能はざるべし、真理を得んとするものは「聴くことを速かにして語ることを徐くすべき」なり(十九)。
〇多言なれば中に自ら怒の情の侵入するを免れず、多言の中知らず/\人について悪を語り従て怒の情を起すに(117)至る、怒は多言に依て誘起せらるゝこと多し、さればヤコブは多言を戒むることに連関して怒について訓ふる所あるなり(十九)。
〇怒或は悲憤なり、憤慨なり、激越の叫びなり、奔放の辞なり、世に之を以て神の道を行ひ得べしと考ふるものあり、滔々鼓を鳴らして世の罪悪を責め悲憤激越の辞を吐いて人の睡眠を醒し、かくして神の義を行はんとすと云ふ、然れどもヤコブは云ふ斯の如きは以て神の義を行ふ(完成する)に足らざるもの也、神の義を完うせんとするか、吾人は温言以て世に臨まざるべからず、温情以て人に接せざるべからず、秋霜烈日は以て神の事業に当るに足らず、只駘蕩なる春風のみ世に道を布くに足るべしと(二十)。
〇且つや怒は其多くの場合に於て私憤なり、義憤なるもの無きにあらずと雖も之は極て稀なる場合なり、私憤争でか神の義を行ふことを得んや(二十)。
〇戦争も亦是れ怒の一発動なり、古来義戦と称するものあり、戦争に依て神の義を行はんと志して起りしものあり、ワシントンの米国独立戦争の如き、リンコルンの奴隷廃止戦争の如き是れなり、然れども深く史を知るものは吾人に告ぐるに此等の所謂義戦が神の道を行ふことに於て予期の成功を得ざりしことを以てす(二十)。
〇「汚穢」とは凡ての罪を云ふ、茲にては前の関係上重に怒の罪を指す、「邪悪」は重に憎悪を云ふ、「多くの」は「溢るゝ」の意なり、心中に溢るゝを云ふ、曰く右に云へるが如くなるが故に吾人は怒を棄てゝ柔和温情を以て神の道を受くべしと、夫れ、悲憤慷慨して事をなすや其勢ひ甚だ猛烈なるを以て思へらく是れ以て大事を完成するを得べしと、其柔和温情を以て事に当るや其力甚だ弱きが如きを以て思へらく以て大事を為すに足らずと、而も其結果は之に反し柔和は却て神の義を行ひ悲憤は一も為す所あらざる也、神の道を行はんとする時、吾人は(118)急言危語を禁じ、柔和静情を以て徐々として我精を尽すべきなり(二十一)。
〇道を聴くや之を正なりとす、而も後、自ら其道を施し若くは行はざる時は我と我行を弁解して我に過ちなしとなす、強いて過なしと信ぜんとす、是れ自ら欺くものにあらずして何ぞ(二十二)。
〇鏡に向ひて我面を見る、而して其面に欠点あるを知る、而も去りて後之を忘れ、自ら思ふらく、我は美なり我容貌は完全なりと、教を聴きて之を行はざるものも亦斯の如きか、朝に教を聴きて我行に多くの欠点あるを知る、而も夕に之を忘れて思ふらく我行は完全なりと、あゝ世の聴いて行はざるものよ、汝等何ぞかの我面の美に誇る世の紛々たる軽薄の徒輩と相似たることの甚しきや(二十三、二十四)。
〇教を聴いて忘れざるものは此教を行ふものなり、教を行ひつゝ進まんか、其教は益々我心に明となり決して之を忘るゝことなかるべし、教を忘るゝは之を実際に行はんとせずして只「聴き放し」にするが故なり、真理は実験の証明を得て姶て我に対して確実となり且生命となるに至る、真理の貴きは之を実際に行ひ実際に徴して其確実なることを知り得べきを以て也、教を聴きたる者は先づ之を実行せざるべからず、真理を其至醇なる形に於て得んとする者は先づ教の実行者たらざるべからず(二十五前半)。
〇教を実行せよ、教を実行せよ、教を実行するものが真に神の祝福を享くるものなり(二十六後半)。
〇祈祷、讃美、儀式を以て神に事へ、而して「自ら神に事ふる者と思」ふ、然れども信仰は儀式に在らずして精神にあり、其言ふ処にして人を毒し、其心にして自らを欺かば神に事へりと思へる千百の儀式も要するにこれ徒らなるのみ(二六)。
〇然らば「神なる父の前に潔くして穢なく事ふること」即ち真正なる礼拝の儀式は何ぞ、かの祈祷讃美等の儀式(119)に其力を尽すとも其言ふ処行ふ処に於て多く誤れるが如きは以て神の前に真正に事へたりと云ふべからず、真正の儀式とは他なし、孤児と寡婦とを其患難の中に眷顧ふことなり、勿論慈善其ものが信仰にはあらず、道徳と宗教とは大に異り、信仰とは内心に基督を信ずることなり、されども内部の信仰は何かの形式を以て外部に顕はれざる能はず、礼拝の儀式とは即ち此内心なる信仰の外的発現なり、而して其儀式の最も真を得たるものは慈善の如き博愛の如き神に対する感謝の念を以て行はれたる愛の実行なりと云ふべきなり(二七)。
 
     第二章一節より十三節まで  十一月十九日聴講
 
  (一)わが兄弟よ汝等栄の主なる我等の主イエスキリストの信仰の道を守らんには人を偏視《かたよりみ》ること勿れ (二)もし人金環をはめ美しき衣服を着て汝等の会堂に来り又貧き人汚れたる衣服を着て来らんに (三)汝等美しき衣服を着たる人を顧て汝この栄位に座れと曰ひ又貧者に汝彼処に立てといひ或は足の下に座れと曰はゞ (四)汝等は各人の中区別を立てまた悪念を以て人を分つものにあらずや (五)我が愛する兄弟よ聴け神は 斯世の貧者を選びて信仰に富ませ己を愛するものに約束し給ひし所の国を嗣ぐべきものとならしめ給ふにあらずや、然るに汝等貧者を藐視《いやしめ》たり (六)汝等を凌虐《しいた》げ又裁判所に曳くものは富者に非ずや (七)彼等は汝等が称へらるゝ所の美名《よきな》を汚するものにあらずや (八)汝等もし聖書に載する所の己の如く汝の隣を愛すべしと云る貴き法《おきて》を守らば其行ふ所善し (九)されど若し人を偏視ることをせば是れ罪を行ふなり律法《おきて》汝等を定めて罪人とせん (十)人律法を悉く守るとも若し其一に躓かばこれすべてを犯すなり (十一)それ姦淫するなかれと言へる者又殺すこと勿れと言へば汝等姦淫せずとも若し殺すことをせば律法を犯すものとなる(120)也 (十二)汝等語ること行ふこと自由の律法に循《よ》りて鞫を受けんとする者の如くすべし (十三)憐むことをせざる者は鞫かるゝ時また憐まるゝこと無からん矜恤《あはれみ》は鞫に勝つなり。
〇本章の教は普通の道徳と異なる所なきが如し、全体の主眼は人を偏視すること勿れと云ふことなり、恰も普通道徳の如し、然り其外観に於て之を見る、全く普通の道徳的教訓なり、去りながら普通道徳と基督教道徳とは其根柢に於ては全く異り、従て其動機に於ては全く異なり、其動機を地に於て求む、是れ普通道徳なり、其動機を天に於て求む、是れ基督教道徳なり、此点に着目せずしては真に聖経を解すること能はざるなり。
〇ヤコブの此言に依て見れば初代の教会既に貧富を分ちて偏視するの風ありしが如し、此偏視是れ実に教会腐敗のもとなり、富者教会に重んぜられて貧者教会に賤めらる、教会と俗世と何の区別かある、かくては教会の堕落して現実の世界と其伍を等うするに至ること寔に理の当に然る処にあらずや。
〇「栄の主」の栄は此世の栄を云ふにあらず天国の栄を云ふなり、我等は天国の栄の主なるイエスキリストを仰ぎ其信仰の道を守らんとす、我身は未だ地上にありと雖も我霊は既に天国にあり、偏視是れ現世にある所、天国に之なし、我等天国の民にして現世に属ける人の如くに偏視を敢てなす、是れ自ら天国の市民たるの特権を放棄するもの敢て我と我身を賤くするものにあらずや(一)。
〇此世にありて天国的生涯を送らんとするものは自ら貧富の懸隔を立てざるなり、是れ我党の平等論なり、世に自由平等を標榜して人を偏視せざらんとするものあり、或は階級の差別を打破せんとするものあり、自由平等是れ実に大義なり、吾人之を貴ばざるにあらず、只吾人の平等観は其動機に於て之と異なるものあり、吾人の平等観は其根底を天に置けり、天国の一瞥は我をして自ら人を偏視すること勿らしむ、我れ神を信じたるの時、人為(212)の差別や人界の階級や貧富の懸隔や霧の消ゆるが如く其跡を収めて世界は平等一如として茲に一の差別相を見ざるに至るなり(一)。
〇かくの如くなるに汝等は会堂の中に貧者を賤め富者を貴む、何が故にかく偏視の悪を敢てなすや、汝等其告白する信仰と其実行する道義と如何なれば然く相反するやと(二、三、四、五)。
〇富者とは是れ却て汝等を虐待する者にあらずや、汝等が称へらるゝ所の美名を汚すもの、即ち基督信徒を迫害し蔑視するものは世の富人にあらずや、勿論富者の中に基督教の味方あり貧者の中に基督教の敵ありと雖も、概して之を言はゞ富人階級は宗教の敵にして貧人階級は宗教の味方なり、然るに汝等かくの如き富者を尊重するは何故ぞ、是れ寧ろ常識の了解に苦む所ならずやと(六、七)。
〇偏視、これ大罪なり、貧富の間に懸隔を立つるは禍の源なり、見よ多くの教会が此「偏視」あるが為に如何に堕落し腐敗し多くの禍を起したるかを(八、九)。
〇律法の一を犯せば是れ凡てを犯したると同様なり、他は凡て完全に守るとも只一の罪を常に犯せば茲に全品性の低落を来し道心落ち人格降り罪に馴れて他の罪を犯すに至る、一の罪の我に残れるは実に禍の源なり、千丈の堤も蟻螻の一穴より崩壊するが如く一の罪は引いて凡ての罪を犯さしむるに至る、ヤコブに此言ある真に異むに足らざるなり(十)。
〇されば一の偏視の罪あらんか、譬へ凡ての他の律法を完全に行ふとも是れ凡ての罪を犯したると同様なり(十)。
〇誠に右の如くなるは是れ元来基督教が吾人の罪の根源を取り去るものなるを以てなり、吾人は罪の根源を取り去られて罪を犯さゞるやうになることを祈るべきなり(十、十一)。
(122)〇「自由の律法」とはヤコブの慣用語にて「完全なる律法」と云ふ意なり、而して完全なる律法は世の寛大なる律法にあらずして其一を犯せば他の凡てを犯したると等しくなるが如き律法を云ふなり、而して斯の如き完全なる而して又峻厳なる律法に依て吾人は鞫を受くるものなることを常に心に留むべきなりと(十二)。 〔以上、4・10〕
 
     雅各書第二章 十四節より二十六節まで  十一月廿六日聴講
 
  (十四)わが兄弟よ人自ら信仰ありと言ひて若し行なくば何の益あらんやその信仰いかで彼を救ひ得んや (十五)もし兄弟或は姉妹|裸体《はだか》にて日用の糧に乏からんに (十六)汝等の中或人之に曰ひて安然にして行け願くは汝等|温《あたゝか》にして飽くことを得よと、而して其身体に無くてならぬ物を之に予へずば何の益あらんや (十七)此の如く信仰もし行を兼ねざるときは乃ち死ぬるなり (十八)或入曰はん汝信仰あり我れ行あり請ふ汝が行を兼ねざる信仰を我に示せ我は我行に由りて我信仰を汝に示さんと (十九)汝神は唯|一《ひとり》なりと信ず、かく信ずるは善し、悪魔も亦信じて戦慄けり (二十)あゝ愚なる人よ、行なき信仰の死ぬることを汝知らんと欲ふや (二十一)我等の先祖アブラハムその子イサクを壇の上に献げて義とせられたるは行に由るにあらずや (二二)その信仰、行と共に働き且つ行に由りて信仰|全備《まつたき》を得たるを汝見るべし (二三)これ聖書に記してアブラハム神を信ず其の信仰を義とせられたりと有るに応へり、彼また神の友と称ばれたり (二四)汝等人の義とせらるゝは信仰にのみ由るにあらず又行に由ることを知るなるべし (二五)また妓婦ラハブ使者をうけこれを外の道より去らしめて義とせられたるは行に由るにあらずや (二六)身もし霊魂はなるれば死(123)ぬるごとく信仰も行はなるれば死ぬつなり。
〇十四節にある「その信仰」は「かゝる信仰」とすべし、即ち行を兼ねざる信仰を指す、真の信仰は勿論行を兼ねたるものなり、信仰と云へば其中に自ら行の意を存するなり、されば行なき信仰とは未だ行の実を結ばざる状態に在る信仰にして真の信仰にあらず、之を虚の信仰とや云はん、空の信仰とや名づけん。故にヤコブは曰くかゝる信仰は無益なり、以て我霊を救ふに足らずと(十四)
〇例を掲げて之を説かんか、今茲に慈善をなさんとするものありとせよ、此者もし口に慈善らしき言を発するも事実の上に之をなさずば毫釐も慈善の実を挙げざるなり。衣食に窮せる者に向つて「温かにして飽くことを得よ」と云ふ、言や誠に美なり、然りと雖も何物をも之に与へずばあゝ遂に何等の益か是れあらんや、只空なるのみ只虚なるのみ、是れ言徒らに美にして行少も之に副はざるなり。行なき信仰も亦正に斯の如し、口を開けば即ち曰く我に信ありと、自己を顧みて思へらく我に信ありと、而も行の之に伴ふものなくんば其有する所の「信仰」も亦何の益かあらん。
〇第十五、十六節は人往々にして之を誤りて慈善を奨励せし言となす。されども実は然らず、慈善のことを例にとり来りて信仰の真実相を表明せし言なり。(十五、十六)
〇ヤコブの云ふ所や寔に斯の如し。而も我等の行や常に低くして我理想に伴はず、中に顧みて私に耻づる所あり。雅各書全五章は是れ真に我惰心に撲つ鞭たらんなり。(十五、十六)
〇されば我信を人に示さんにも、人の信を我れ知らんにも其行=信仰の結果として表はるもの、信仰の体現せられたるもの=に依るの外なきなり。(十八)
(124)○神は唯一なりと信ず、之を唯一神論《モノセーイズム》と云ふ 是れ哲学的基礎に立つものにして智的信仰と云ふべきなり。我全性が神を知りしにあらず、只我智が神は唯一なりと知りしのみ。此智的信仰是れ実に悪魔の信仰なり、「悪魔も亦」しか「信じて戦けり」、而して行なき信仰は智的信仰なり、されば行なき信仰は即ち悪魔の信仰なり。耻ぢよ耻ぢよ、汝等悪魔の信仰を以て満足するやと。(十九)
〇アブラハムの如きは信仰の実を結びたるものなり、「信仰の全備を得たる」ものなり 世に隠れ人に隠れて只徒に神を信ずるのみにては益あるなし。行之に伴ふ時は其信仰為に全備し為に完全となるを得るなり。少しく信仰を得るとも之を行に表はさゞれば此信仰は消失するものなり、基督信者が其信を失ひて再び俗世塵垢の汚れに染むもの之に基ゐする多からん。(二一、二二)
〇廿三節の「神の友」とは神に似たるものとの謂なり。神は実行のものなり、最高の思想を最高の力を以て実行するもの是れ神なり。されば行の挙がる人は此点に於て神に似たる人となり神の友と称へらるべし。(二三)
〇妓婦ラハブの謡は旧約聖書約書亜記第一章第二章にあり。(二五)
       *     *    *     *
〇吾人の信仰冷えて聖経を読むも祈祷をなすも少も復活せざることあり。此時や是れ行の欠乏せるがためなり、我れに為すべきことあるを為さず故に我信衰へたるなり。されば吾人は此際奮つて為すべきの善行をなすべし、信仰は自ら復し来らん。
 
(125)     雅各書第三章 (上) 十二月三日聴講
 
  (一)わが兄弟よ汝等多く師となるべからず、蓋我等の審判を受くること最も重しと知ればなり (二)われらは皆多くのことに於て愆《あやまち》をなせる者なり、人もし言に愆なくば是れ全き人にして全体に轡を置き得るなり (三)それ我等馬を己に馴《したがは》はせんとして其口に轡を置くときは其全体を馭《まは》すべし (四)舟も亦その形は大く且狂風に追るゝとも小き舵を以て舵子《かぢとり》の意のまゝに之を運《まは》すなり (五)此の如く舌も亦小きものにして大なることを誇るなり、視よ微火《わづかのひ》いかに大なる林を燃すを (六)舌は即ち火、即ち悪の世界なり、舌は百体の中に備はりて全体を汚し又全世界を燃やすなり、舌の火は地獄よりたきつけらる (七)それ各類《さま/”\》の獣、禽、昆虫《はふもの》、海にあるもの皆制を受く、又既に人に制せられたり (八)されど人誰も舌を制し能はず、乃ち抑へ難き悪にして死の毒の充てるものなり (九)我等之を以て主なる神を祝ひ又之を以て神の形に像りて造られたる人を詛ふ (十)泉の源は一つ穴なり甘き水と苦き水をともに出さんや (十二)わが兄弟よ、無花果の樹、橄欖の果を結び、或は葡萄の樹、無花果の果を結ぷことを得んや、斯の如く泉の源、鹸水《しほみづ》と淡水《まみづ》とを並《とも》に出すこと能はず。
〇神の特別の命に依つて師となる人あり、人を教ふることは此人の使命なり。然れども当時猶太の風、神の命に由らずして師とならんことを願ふもの多かりし故「汝等多く師となるべからず」と云ひしなり。(一)
〇「我等の審判を受くること最も重し」と。神は人の師として我等使徒を選び給へり、故に我等の受くる恩恵の大なるだけ我等より要求せらるゝ所も亦大なるなり。(一)
(126)〇舌の罪悪は信仰について人に語る時最も陥り易きなり、虚偽、誇栄等は知らず識らずして此時犯す罪なり。而して師たるものは信仰について人を教ふるもの故特に此罪を犯し易し。(一)
〇舌の過ちは多くの過ちの中にて最も重し、舌に過なき程の人は他の罪を犯すことなし。依て云ふ「言に愆なくば全き人なり」と。(二)
〇誇りは多くの罪の源なり。如何に多くの罪悪失墜が自負、驕慢、我執等に依て生ずるよ。故にヤコブは「舌が大なることを誇る」由を述べて戒むるなり。(五)
〇第六節より第十三節までヤコブは力を極て舌の罪悪を述べ来れり。曰く舌は悪の世界なり云々、曰く舌のみは抑へ難きものなり云々、曰く同一の舌を以て朝に神を祝ひ夕に人を詛ふ云々と。言々痛切、句々熱烈、之を読む者をして舌の害悪に慄然として怖れしむ。之を古今の歴史に見よ、之を現世の事実に見よ、如何に一人の毒舌一人の虚言が多くの害悪を家庭に社会に国家になすかは例証を以てせずして明かなるべし。ヤコブの教訓の如何に真を穿てるよ、吾人深く顧る所なかるべからず。(六−十三)
〇舌の害や右の如く甚だ怖るべし。吾人は如何にして此罪より免るゝを得んか、第一は我心に平和歓喜を充たすべし、舌の罪悪は概ね心中の不安不調より来る、我衷心平安と調和とに充たば何ぞ敢て舌を以て徒らなる誇りと徒らなる詛を発するを要せん。徒らに沈黙を守りて舌の罪より免れんとするは拙なり、吾人は聖霊の力を得て心の中に平和と歓喜とを充たすべきなり。第二に舌を善用すべし、舌を以て人に福音を伝へよ、舌を以て苦むものを慰めよ、病めるものを労はれよ、言語是れ大に人生に必要のもの、之を善用して人に平安を与へ慰藉を給するは正に大に力むべき処にあらずや。
 
(127)     雅各書第三章 (下)
 
  (十三)汝等のうち智《かしこ》くして聡明《さとき》ものは誰なるや、智慧ある柔和を以て善行を彰すべし (十四)されど若し汝等心の中に苦《にが》き嫉《ねたみ》と忿争《あらそひ》を懐かば是れ真理に背くなり、真理に背きて誇る勿れ、又※[言+荒]《いつは》る勿れ (十五)かゝる知慧は上より下るに非ず、地に属けるもの 情欲に属けるもの、悪魔につけるもの也 (十六)そは※[女+冒]嫉《ねたみ》と忿争ある処には乱《みだれ》と諸般《さま/”\》の悪事とあればなり (十七)されど上よりの智慧は第一に潔く、次に平和 寛容 柔順かつ衿恤《あはれみ》と書果《よきみ》みち、人を偏り視ず、亦偽なきものなり (十八)義の果は平和を行ふ者の平和を以て種くに由て結ぶなり
〇口を以て賢明なるが如き言をなすもの多し。之も舌の罪の中なり、されど是れ真の賢明にあらず。智慧ある柔和を以て善行を彰すこと是れ真の聡明賢良なり。真の聡明賢良とは勿論基督教の信仰を離れてあるべきにあらず。智慧ある柔和を以て善行を彰せと、言簡なりと雖も基督信者日常の格言として之に勝るものありと思へず。(十三)
〇基督信徒の要する智慧は真の智慧なり、真理なり。かの分争を事とし※[女+冒]嫉を抱くが如きは其智慧何ぞ真と云ふを得んや、斯の如き智慧は上より来りしものにあらず、地のものなり、情慾の属なり、悪魔の属なり。(十四、十五)
〇地に属ける智慧は右の如し、されど天に属ける智慧は之に反して潔く、平和、寛容、順従かつ衿恤と善果みち人を偏り視ず、偽なきものなりと(十七)
(128)〇第十八節は何等正大の語ぞ、正義の大事業は平和の手段を以て得べしと、平和を行ふもの静かに平和を以て正義の種を蒔く、種は樹に育ちて遂に大なる正義の大果実を結ぶに至る。凡て剣をとる者は剣にて亡ぶべし(馬太伝廿六〇五二) 永遠に亘る正義の事業は只平和の心と平和の手段とを以てのみ成るなり。彼の那翁も其配流の場所なる絶海の孤島セントヘレナに其いとも憐れなりし晩年を終へんとして瀕死の病床に横はる時、波瀾多かりし其一生を顧みて転た今昔の感に堪へず、乃ち万古の真理を述べて曰く「腕力を以てしては永久に亘る事業何事をもなす能はず」と。詩人ローエルも亦云ひぬ「獣力は決して大事をなす能はず」と。第十八節は、実に千古の真理と云ふべし。(十八) 〔以上、5・10〕
 
(129)     春の到来
                       明治39年4月10日
                       『新希望』74号「雑録」
                       署名 角筈生
 
   佳き期は来れり
   春は来れり
   花は咲かんとす
   鳥は歌はんとす
   小川の氷は解けて
   其|辺《ふち》に董笑ふ。
 
   佳き期《とき》は来れり
   聖霊《みたま》は降《くだ》れり
   栄光《さかえ》は顕れんとす
   讃美は揚らんとす
   心の疑団は釈けて
(130)   其衷に歓喜溢る。
   佳き期は来れり
 
   春は来れり
   春は外よりも来れり
   亦内よりも来れり。
 
(131)     〔名称復旧 他〕
                     明治39年5月10日
                     『聖書之研究』75号「所感」
                     署名なし
 
    名称復旧
 
 此雑誌の場合に於ても旧は新よりも好し(路可伝五章卅九節)、『聖書の研究』の名は『新希望』のそれよりも好し、旧は新よりも闊《ひろ》くして深し、新は旧の中に存す、余輩は茲に再たび旧に帰て新を其源に於て探らんと欲す。
 
    聖書の研究
 
 聖書の研究なり、其批評的研究に非ず、又感情的探究にあらず、聖霊に依り常識を以てする深き静かなる研究なり、凡ゆる思想に訴へ、凡ゆる事実に鑑み、宇宙と人生とを支配する神の聖意の探究なり、聖書の研究はすべての研究の中に最も広くして最も深き研究なり、実在の中心に達せんとすることなり、愛を以て万有を解せんとすることなり。
 
    天国の宗教
 
(132) 基督教は西洋の宗教に非ず、亦東洋の宗教に非ず、基督教は此世の宗教に非ず、天国の宗教なり、基督教を解するの困難は、或ひは希臘哲学を以て、或ひは独逸哲学を以て、或ひは印度哲学を以て之を解せんとするにあり、
基督教は斯世の哲学を以てしては到底解し得ざるものなり、イエス曰ひけるは人もし新たに生れずば神の国を見ること能はずと、新生の恩恵に与からずして東洋の儒者も西洋の哲学者も基督教の何たる乎を会得する能はず。
 
    最新の教会
 
 始めに猶太数会あり、次ぎに羅馬教会あり、次ぎに新教会あり、終りに無教会あり、無教会は新教会の更らに進歩したる者なり、基督教は終にすべての外形を脱却すべきものなり、而して今や世界各国に於て無形教会は起りつゝあり、我等此末日に世に遺はされし者はルーテル、カルビン、ウヱスレー等の創設にかゝる新教会何れの教派にも属するの要なきなり。
 
    最も難き事
 
 最も難きことは起て働くことに非ず、最も難きことは静かに主の時と命とを待つことなり、或ひは一年、或ひは三年、或ひは十年、或ひは二十年、我等各自の信仰の量に循ひ、黙して主の命を待つことなり、詩人ミルトン曰く「単に待つ者も亦善く神に奉仕す」と、従順なる待命は父なる神の最も喜び給ふ所なり、我等は時には大事を為さんと欲せずして無為に安んじて我等の神を喜ばし奉るべきなり。
 
(133)     最も恐るべき傲慢
                     明治39年5月10曰
                     『聖書之研究』75号「所感」
                     署名 角筈生
 
 傲慢は罪悪中の罪悪である、之に依て天使は堕ちて悪魔と化したとのことである、酔酒も罪悪である、姦婬も罪悪である、然し傲慢ほどの罪悪ではない、傲慢は罪悪の首であつて其極である。然かし傲慢にもいくつかの種類がある、富を誇る傲慢がある、位を誇る傲慢がある、智識を誇る傲慢がある、才気を誇る傲慢がある、何れも憎むべき嫌ふべき罪悪ではあるが、然かし是れまだ最も憎むべき傲慢ではない、罪悪のであつて、傲慢の首は己の信仰を誇る傲慢である、所謂る心霊的傲慢であつて、是れ罪悪の精要《エツセン》とも称すべき者である。
 キリストの最も嫌ひ給ひしパリサイ人とは此種の傲慢に陥つた者であつた、彼等は神に祈つて曰ふた、神よ、我は他の人の如く強索《うばひ》、不義、姦婬せず、又此税吏の如くにもあらざるを謝す(ルカ伝十八の十一)と、パリサイ人は世に所謂る悪人ではなかつた、又必しも偽善者ではなかつた、彼等は心霊的に心に足りた者であつた、信仰と徳とに於て、与ふるを知て受くるを知らない者であつた。
 心霊的傲慢!此罪悪に陥つて我等は地獄の門にまで達したのである、赦さるべからざる罪に最も近い罪は是れである、而かも是れは宗教家の最も陥り易い罪である、神の恩恵を受くれば受くる程此罪に陥るの危険が多くなるのである、我等、恩恵に依て救はれんと欲する者は謹んでも尚謹むべきである。
 
(134)     天災と刑罰
         附、罪と死
                     明治39年5月10日
                     『聖書之研究』75号「実験」
                     署名 研究生
 
 天災は読んで字の通り天災であらふ、即ち天然的現象であらふ、地震は地層の波動であらふ、噂火は地熱の放発であらふ、之に何にも怪むべき所はあるまい、天災に意志もなく道理もあるまい、循て之は神の刑罰ではあるまい。
 然かしながら神は無意識の天災を刑罰の道具として使ひ給ふ、天災が悪人の上に墜落《おちきた》れば是れ即ち神の刑罰である、悪人は既に神に詛はれたる者であるから、天災は其詛を実にする、然り、天災其物は刑罰ではあるまい、然かし、悪人が之に遭遇すれば天災は確かに天罰である。
 然らば義人が之に遭遇すれば如何にと問ふ人もあらう、然り、義人が之に遭遇すれば天災は天罰ではなくして善き試練である、彼れ若し之がために命を隕さば、彼は神に召されたのである、彼れ若し之がために産を失はゞ、是れ彼が霊に於て富まんがためである、義人は既に神に恵まれたる者であるから、天災は反て其恵を実にするに過ぎない。
 天災は悪人に取ては刑罰である、義人に取ては恩恵である、我等は常に衷に備へて天災に備ふることが出来る、(135)是れが宗教の力である、科学以上の力である。
       *     *     *     *
 天災が爾うである、病と死とも亦爾うである、病其物は刑罰でもなければ亦恩恵でもない、悪人が之に罹れば刑罰である、義人が之に地れば恩恵である、之に罹りし者、必しも神に詛はれたる者ではない、之に罹りて神を詛ふ者、是れが神に詛はれし者である。
       *     *     *     *
 聖書に罪より死来り(ロマ書六章十二節)と書いてある、之は罪なくしては肉体の死は無つたとのことであらふ乎、即ち、人が罪を犯すまでは生物界に死なるものはなく、万物悉く永久にまで存在したといふことであらふ乎、然し死は天然的現象の一ではあるまい乎、其肉体に於ては一たび死ぬることは人に定まれる事(希伯来書九章廿七節)ではあるまい乎、或ひは爾うでない乎も知れない、或ひはすべての生物の死も人類の罪の結果を預表したものである乎も知れない、死といふ死はすべて罪の結果であつて、罪なくしては死は何れの形を以てしても此世に臨まなかつた乎も知れない、爾うして或る神学者は此説を取て動かない。
 然かし是れ維持するに至て困難なる説である、死は確かに人類が此世に現はれし以前より在つた、死はまた生物存在上の必要として認められる、此限ある地上に若し死がなかつたならば暫時にして生物は悉く死せざるを得ざるに至る、死は生の必要条件である、死がなければ生はない、若《じやく》が老に代はるにあらざれば進歩と改善とは倏忽《たっちまち》にして中止する。
 然らば罪より死来りとは何ういふ事であらふ乎、是は人が肉体の死を霊魂の死として感ずる事ではあるまい乎、(136)即ち死の蔭に遭ふて自己の死滅を自覚せしめられることではあるまい乎、内に光明の充つる時は外に暗黒の襲ひ来るを懼れざるやうに、霊魂に生命の充つる時は肉体に死の臨むを懼るべきではない、然るに真に生命の尽きし結果として外の死を衷の死と同視するに至る、是れが即ちパウロの所謂る罪の価なる死ではあるまい乎(ロマ書六章廿三節)、少しく逆説のやうには聞ゆるけれども死を死と感ずること、是れが死ではあるまい乎、人はもと神と同じく霊なれば肉の死を死と感ずべき者ではなかツた、然るに自己の傲慢のために神より離れし結果として、既に衷に於て死にたれば外の死を衷の死と同視するに至ツた、是れ即ち実の死であつて、最も苦しき最も懼るべき死である。
 斯く説明して聖書の言と天然の現象とを調和することが出来る、然かし是れが真個の説明である乎、否は余輩の証明し得る所ではない、天然的説明を常に嫌悪する神学者は余輩の此説明に対し甚く反対を表するであらふ、然かしながら、何にか之に類したる説明を供するにあらざれば多くの真理探究者の心を満足せしむることは出来ない。
       *     *     *     *
 天災其物は刑罰ではない、悪人が之に遭遇して刑罰として感ぜらるゝのである、死其物も刑罰ではない、真に死したる者が之に襲はれて之を死滅として感ずるのである、刑罰はすべて主観的である 然かし主観的であればとて実在せざるものではない、実在の基礎は性格《ペルソナリチー》である、爾うして性格の如何に由て無性格の天然物の道徳的価値は定められるのである、潔き人にはすべての物潔く、汚れたる人には一として潔き物なし(提多書一章十五節)、実に其通りである、神を愛する人には天災も死も刑罰ではない、恩恵である、之に反して神を畏れず、肉(137)の慾に事ふるほか他に生涯の目的なき不信者に取りては事として呪詛《のろひ》ならざるはない、彼等に取りては天災は懼るべき最終の主の裁判の日の前兆である、死は第二の死(黙示録二十章六節)の先駆である。
 
(138)     基督信者の多少
                     明治39年5月10日
                     『聖書之研究』75号「実験」
                     署名なし
 
 基督信者は数少き者なり、多くあるべき者に非ず、日本国に三万の基督信者ありと云ふ、信ずる勿れ、三万の基督信者あるに非ず、三万の教会の洗礼を受けし者あるのみ、基督信者とはキリストに在りて新に神に造られし者なり、斯かる者の数少きは金剛石の数少きが如し、我等は世に基督信者の多きを望んで無益の失望を自己に招くべからざるなり。
 
(139)     天使の降臨
         田舎伝道の快楽
                     明治39年5月10日
                     『聖書之研究』75号「雑録」
                     署名 角筈生
 
 余は近頃東京近在の或る無牧教会に於て病後始めての説教を為した、教会は二間に四間の小屋、畳十二畳を布くのみ、其処に集まりし者は老若男女を合せて三十余名、其内に高壇の前に座せし少女四人があつた、其中の小なる者は四歳に五歳ばかり、余の説教の始まるに方て、その彼等に解し難ければとて教会の役員某は頻りに彼等に退去を促した、余も亦彼等に退去を乞はんとした、然れども彼等は頑として動かず、頻りに面を余の方に向けて余より何物かを求めんとしつゝあつたやうである、やがて開会の時間が来て讃美歌が殆まつた、主会者は讃美歌第二百八番を与へた、其時会衆を率ひて声爽かに歌ひし者は彼等四人の少女であつた。
   一 いかできよめん  つみのこの身を
      なみだは雨と   ふりそゝぐとも
        いかできよめん
 
      わがつみのため  十字架につきし
(140)     御子よりほかに  すくひはなし
 
   二 いかですくはん    つみのこの身を
      こゝろくだきて     なすよきわざも
       いかですくはん
 
   三 いかでたすけん    つみのこの身を
      きくのみならば    神のをしへも
       いかでたすけん。
 彼等に由て歌はれし此讃美歌は一言一句余の心に浸渉つた、余は之を聞いて彼等に退去を乞はざりしを喜んだ、彼等は当日の集会に取りては活きたる音楽であつた。
 やがて説教が始まつた、余は馬太伝廿八章十九節に就て講じた、余は父と子と聖霊の名に入れて弟子と為すべしといふことに就て述べた、一寸と六ケ敷い説教であつた、然るに見よ、余の説教の始まるや否や、小なる少女の二人は余の前にてスヤ/\と睡眠《ねむり》に就いた、如何にも心地良さうに眠つた、其中の一人は其姉と覚しき者の膝に枕して、余の熱心に聖書を説くにも関はらず、スヤ/\と眠つた、実に可愛らしかつた 余は余の説教を了へた、又讃美歌が始まつた、すると二人の少女は目を覚した、又声高らかに歌ひ出した、我等は彼等の後に附いて歌つた。余は其時に思ふた、其日に神が余の病後の始めての伝道を授けん為に四人の天使を送つて下さ たので(141)あらふと、其日は余に取り近来稀に有つたる愉快なる安息日であつた、余は説教を終へて後に汽車に乗て帰途に就いた、車中に余は独り思ふた、大会堂とは何ぞ、大集会とは何ぞ、大音楽とは何ぞ、大説教とは何ぞ、此日の小集会は大集会であつて、此日の音楽は大音楽ではなかつたか、かの二間に四間の教会の中に確かにキリストは在したではない乎、爾うして之につれて余の其日の説教は大説教ではなかつた乎と、斯くて余は歓びに溢れて家に帰つた、爾うして其日にあつたことを家族の者共に話した、嗚呼為すべきことは福音の宣伝である、田舎伝道である、かの愛らしき少女の寝顔、其爽かなる清き声、余は忘れんと欲して忘るゝことが出来ない、嗚呼、又彼等に行いて余の福音を彼等無辜の農民に伝へんかな。
 
(142)     課題〔1「彼得前書二章廿四節」〕
                     明治39年5月10日
                     『聖書之研究』75号「雑録」
                     署名なし
 
    彼得前書二章廿四節
  彼れ木の上に懸りて我等の罪を自から己が身に負ひ給へり、是れ我等をして罪に死にて義に生かしめん為なり、彼の鞭打れしに因りて汝等医されたり。       註解
 木 木片の意なり、キリストの場合に於ては勿論十字架なり、然れども十字架に限らず、桎《かせ》の如き、絞首台の如き(以士帖書五章十四節)すべて罪人を曝らすに用ゆる刑具をいふなり、木に懸けらるゝ者はエホバに詛はるゝ者なり(申命記廿一章廿三節)。
 懸りて の文字原文にあるなし、之を除くを可とす、キリストは木の上に我等の罪を贖ひ給へり、十字架は彼に取りては自己を神に献ぐるための祭壇なりし(希伯来書十三章十節参証)。
 自から 自から進んで、何者にも余義なくせられずして、愛に励まされて、自から我等の罪を己が身に負ひ給へり。
 負ひ 原文に「献ぐ」の意あり、犠牲を献ぐ(希伯来書七章廿七節)、讃美の祭を神に献ぐ(同十三章十五節)と(143)いふが如き場合に於て用ひらるゝ辞なり、キリストは我等の罪を己が身に負ひ給ひしに止まらず、之を負ひて自から犠牲となりて己を祭壇の上に(木の上に)神に献げ給へり、罪を負ひて犠牲となり給へりとか、又は犠牲たらんがために罪を負ひ給へりとか解すべし。 以上半節を左の如くに意訳して其意味稍や明瞭となるべし。
  自身祭司となりて自己を彼等の罪の祭物として十字架なる祭壇の上に献げ給へり。
 罪に死して義に生かしめん為なり一度び罪に死して(不定過去動詞)永く義に生かしめん(未来動詞)ためなり、死は一時にして生は永久なり、我等一度びキリストと共に罪の身を十字架に釘けなば彼と共に永久に生くるを得べしと。
 鞭打れし 受けし鞭、又は受けし鞭の痍と解して意義更らに明瞭なるべし、以賽亜書五十三章五節には その打たれし痍に由りて我等は癒されたりとあり、「痍」は或ひは「痍痕」なるべし、イエスの手と脅《あばら》とに存する痍痕は我等の救済の証明なるべし(約翰伝二十章廿七節)、此痍痕は彼に取りては名誉の痍として、我等に取りては恥辱の痍として(我等の罪を紀念するものなるが故に)永久に彼の復活体に存するなるべし。
       ――――――――――
 編者白す、本課題に対し感想又は詩歌又は実験談を送られし本誌読者諸君はすべて三十名、何れも深き福音的信仰を表はし、本誌の深く栄誉とする所なり、紙面に限有り、悉く之を掲載する能はざる(144)を悲む、尚は真率の筆を揮はれ続々寄贈あらんことを乞ふ、撰に当ると否とは諸君の多く意に介すべきことに非ず、唯諸君の心情と見解とを余輩に知らしめよ、而して諸君と余輩との間に深き霊的関係を成立たしめよ。
 
 次号課題は左の如し
   基督信徒の婦徳
    彼得前書三章三、四節
 
(145)     〔迫害の益 他〕
                     明治39年6月10日
                     『聖書之研究』76号「所感」
                     署名なし
 
    迫害の益
 
 迫害は我がためにのみ益あらず、世のためにも亦益あり、我は之に由て多少世の罪を贖はしめらる、我は喜んで之に当るべきなり。
 
    小なる救主
 
 キリストは我等の罪を負ひ給へり、我等も亦キリストに在りて世の罪の幾分を負はざるべからず、道を説くのみが基督信者の本分に非ず、彼はまた人に苦しめられて世の罪の幾分を贖はざるべからず、彼が神に召されしは自から救はれんがためのみにあらず、キリストと偕にまた世の罪を負はんがためなり、贖罪はまた彼の本分なり、彼はキリストと偕に苦しめられて小なる救主とならざるべからず。
 
(146)    犠牲の栄光
 
 心に神の黙示に接して口を啓いて之を宣伝ふるは大なる栄光なり、然れども身に世の罪を負はせられて口を噤《つむ》いで之に耐ゆるは更らに大なる栄光なり、伝道者たらんと欲するものは多し、罪の犠牲たらんと欲する者は尠し、我等は感謝して「口を啓かず屠場《ほふりば》に索かるゝ羊羔《こひつじ》」の職に就くべきなり。以賽亜書第五十三章七節。
 
    患難の解釈
 
 患難は之を消局的に解すべからず、積局的に解すべし、之を神の刑罰として解すべからず、神の恩恵として解すべし、神の憤怒の表彰として解すべからず、其慈愛の示顕として解すべし、雲の柱は火の柱として解すべし、旋風は神の鳳輦《みくるま》として解すべし、患難はすべて身の患難にして霊の幸福なり、霊の幸福と解してすべての患難は患難たらざるに至る。
 
    我等の道徳
 
 或者は道徳を軽んず、彼等は欺き且つ奪ふ、而かも紙の怒に触れんとは思はず。
 或者は道徳を重んず、彼等は完全き道徳に達して神の救済に与からんと欲す。
 然れども我等は道徳を求めず、キリストを求む、彼は神の義(道徳)なり、我等は彼に在りて神の義となることを得るなり(哥後五〇廿一)、我等は自己を道徳的に完全うせんと欲せず、キリストに在りて彼に完全うせら(147)れんと欲す、我等は自己の道徳を軽んじ、キリストの義を重んず、我等は道徳家たらんと欲せず、クリスチヤンたらんと欲す。
 
    大野心
 
 丁瑪国の思想家ゼーレン・キルケガート曰く「基督教は解するに最も難き宗教なり、余は斯世に於て未だ曾て真正の基督信者を見たることなし、然れども解するの難きは其誤謬なるの証拠に非ず、一人の基督信者なきは余が信者たり得ざるの理由となすに足らず、余は全世界に一人の信者なきも独り確実なる基督教の信仰に達せんと欲す」と。
 然り、実に然り、極東の日本国に生れし余も、未だ曾て余の理想に合ふ信者一人をも見しことなしと雖も、不肖余の如き者もまた彼れキルケガート氏の言に傚ひ、少くとも日本国に於ける唯一の基督信者たらんことを求《ねが》ふ。
 
    軟弱信者に告ぐ
 
 基督教を究めよ、基督教に就て聞かんと欲する勿れ、聖書を学べよ、宗教文学を楽まんと欲する勿れ、神を信ぜよ、教会と教師とに頼らんと欲する勿れ、己の弱きを訴ふるを止めて自から強からんことを、求めよ、何時までも信仰の乳を以て養はれんと欲する信仰の赤子たる勿れ、堅きに耐え、神の信顆を値《ねうち》する福音の戦士たれ。
 
(148)    成効の秘訣
 
 呪ふ者は仆れ祝する者は起つ、兄弟を呪ふは自己を呪ふに等し、我等は万人と共に成効せんことを祈るべし、他人を仆して独り起たんと欲すべからず、聖書は成効の秘訣を吾人に伝へて曰く、生命を愛し、善き日を見んと欲する者は其舌を抑へて悪を言はず、其唇を抑へて詭譎《いつはり》を言ふ勿れ、悪を避けて善を行ひ平和を求めて之を追求むべしと。彼得前書三章十、十一節。
 
(149)     伝道の情念
                     明治39年6月10日
                     『聖書之研究』76号「所感」
                     署名 角筈生
 
〇伝道は人のためには出来ない、然り、神のためにも出来ない、伝道は自己のためになら出来る、義務としては出来ない、快楽としてならば出来る、之に伴ふ苦痛は余りに多くある、爾うして之に対する報酬は余りに少くある、人が之に酬ひない許りではない、神も多くは之に報ひ給はない、自己を同胞のために捧げて得る所は社会よりは軽蔑である、国人よりは或る種の十字架である、収支相償はざる職業とて伝道の如きはない。
〇然かし伝道は基督信者に取ては大なる快楽である、然かり唯一の快楽である、天の美音を伝ふることである、宇宙の調和を宣ぶることである、心に平和を得て其平和を広く世界に宣伝ふることである、まことによろこびの音信《おとづれ》を伝へ平和を告げ、善きおとづれを伝へ、救を告げ、シオンに向ひて汝の神は統べ治め給ふといふ者の足は山の上にありていかに美はしきかな(イザヤ書五十二章七節)、伝道は美的事業である、故に之に従事することが既に至大の快楽である、伝道の報酬は伝道其物である、是に従事し得るのが至大の特権である、伝道師は彼の事業以外に報酬を要求するの権利を有たない。
〇パウロは曰ふた、若し我れ福音を宣伝へずば実に禍ひなりと(コリント前書九章十三節)、彼れパウロは伝道の快楽を知つた、故に之を為さゞるの苦痛を覚つた、彼に取ては伝道が苦痛であつたのではない、之を為さないの(150)が苦痛であつたのである、彼は如何にもして之を為さなければならなかつた、之を禁じられて彼は泣いたに相違ない、彼は小児が遊戯に耽けるの興味を以て伝道に徒事したであらふ。
〇我等今日の伝道師とても爾うでなくてはならない、伝道が義務であり、報酬を要する職業である間は共成効は決して望めない、之が娯楽となり、快楽となるに及んで始めて我等も心に足りて之に従事することが出来き、世も又歓んで我等の言に耳を傾くるに至るのである。
〇然り、福音は我が情念《パツシヨン》である、我は之を抑へんと欲して抑ゆることが出来ない、故に之を他人に向て発表するのである、我れかさねてヱホバの事を宣べず、又その名をもて語らじと云へり、然れどヱホバの言葉我心にありて火の我が骨の中に閉籠りて燃るが如くなれば忍ぶに疲れて堪へ難し(ヱレミヤ記二十九章九節)、我は我が愛する者に就て語り且つ歌はんと欲するのである。
   林の樹の中に林檎のあるが如く
   我が愛する者は男子等《をのこたち》の中に在り、
   我れ深く喜びて其陰に坐れり、
   其実は我が口に甘かりき、
   彼れ我を携へて酒宴《さかもり》の室《いへ》に至れり、
   其、我が上に翻したる旗は愛なりき、
   請ふ汝等乾葡萄を以て我が力を補へ、
   林檎をもて我に力を附けよ、
(151)   我は愛により疾みわづらふ、
彼が左の手は我が頭の下にあり、
   其右の手を以て我を抱く。
           (雅歌第二章三、四、五 節)
 伝道の精神とは之である、深き愛情である、聖《きよ》き恋愛である、或る意味から言へば我等も又愛情に駆られて伝道に従事する者である。
〇恋愛のための伝道である、故に我等は報酬を望まないのである、物質上の報酬を望まないのみならず霊魂上の報酬をも望まないのである、我等の伝道に由て一人の信者が出来ずとも可い、我等に由て出来し信者が悉く神と我等を棄去ても可い、我等は信者を目的に伝道するのではない、我等はたゞ我等の愛する者に就て語れば満足するのである、イエスキリストの名、其「実が我が口に甘いのである」、「我は其愛により疾みわづらふ」故に、其愛に励されて伝道するのである。
〇嗚呼、世の伝道せざる信者よ、伝道を恐るゝ者よ、伝道を聖人君子の業なりと思ふ者よ、偽はりの謙遜の欺く所となりて伝道を避くる者よ、我は汝等を憐むなり、汝等は美術、文学、実業、政治が伝道よりも自由にして快楽なりと信ずるなり、嗚呼、我れ福音を宣伝へずば実に禍ひなるかなと言ひ得るまでにキリストを味へよ、而して教会の免許を得るも得ざるも、又其他の方法が備はるも備はらざるも、万難を排し万事を棄て伝道に従事せんとするの慾を起せよ。
 
(152)     バプテスマの目的
         四月廿二日埼玉県和戸教会に於て
                     明治39年6月10日
                     『聖書之研究』76号「講演」
                     署名なし
 
  是故に汝等ゆきて万国の民にバプテスマを施し、之を父と子と聖霊の名に入れて弟子とし。馬太伝廿八章十九節。
 バプテスマとは如何なる式である乎、其事に就て予は今日述べんと欲するのではない、或ひは水に浸す式である乎、或ひは水を掛ける式である乎、或ひは水を濡る式である乎、是れ予の明白に知る処ではない、或ひはバプテスマとは全く水を要せざる式である乎も知れない、バプテスマの字義に就て今日論議を闘はすのは全く要のないことであると思ふ。
 聖書の言葉からバプテスマは如何なる式であつたかを定むることは甚だ六ケ敷い、然かしバプテスマの目的の何んでありし乎は聖書の明白に教ふる所である、バプテスマは如何なる式であるにもせよ、是れは人を父と子と聖霊の名に入れてキリストの弟子となす式であつたこと丈けは明かである、如何なる信者でも此式に与かるの必要がある、或ひは之を監督牧師宣教師などいふ教職の手より受けざるとするも、或る荘厳なる方法を以て、神と人との前にナザレのイエスの弟子と成りたることを表白するの必要がある。
(153) 然らばバプテスマの目的は何んである乎と問ふに是れは父と子と聖霊の名に入ることである、即ち三位一体の神を認め、之を我が主、我が理想、我が崇拝の目的物として崇め奉り、之に子として、僕として事へまつるに至ることである、三位一体の神を認むるまでは基督教のバプテスマを授かるべきではない、神は往昔《むかし》は独一無二の能力ある神として自己をアブラハムに顕はし給ふた、又其後モーセを以てヱホバの神として自己を顕はし給ふた、故にユダヤ人は皆な雲と海にてバプテスマを受けてモーセに属けりといふ(コリント前書十章二節)、然かし基督信者の拝する神は単に天地万物の造主ではない、彼はまた単に正義仁愛の神ではない、彼はイエスキリストの御父なる神である、キリストに在りて世の罪を贖ひ、彼に由りて生命の霊なる聖霊を下し給ふ神である、神を父、子、聖霊と認むるまでは基督教の信仰はない、ヱホバの神がユダヤ人の特別の神であつたやうに、父、子、聖霊は基督信者の特別の神である、我等基督信者は世界万民と共に同様の神を拝するのではない、即ちゾロアストル教徒、何々教徒が拝する同じ神を拝するのではない、我等は三位一体の神を拝するのである、斯かる神は他の宗教にはない、是れは基督教が世に伝ふる独特の神である。
 父と子と聖霊を認め、三者の聖なる相互的関係を識り、其信頼者、其帰依者、其崇拝家たらんと欲して茲にバプテスマの式に与かるのである、此霊覚と決心とがなくして如何なる方式のバプテスマに与かるとも全く無益である、三位一体を認めざる者の受くるバプテスマ式は全然無意義である、バプテスマは教会の入会式ではない、之は又何にも或る利益の伴ふた儀式ではない、之は或る特別の信念を表白するための宣誓式である、基督教の伝ふる特別の神を明白に了解せざる者の徒らに受くべき式ではない。
 日本訳の聖書には「名に入れ」とある、然かし之は意訳である、希臘語にてはたゞ「名にまで」とあるばかり(154)である、然かし「まで」といふは「に入れて」といふよりは意味が強くある、今全節を直訳すれば左の如くになる、
  万国の民を父と子と聖霊の名にまでバプテスマし之を弟子とすべし
と、扨、名にまでバプテスマするとは何ういふ事であらふか、「まで」とは希臘語では eis といひ、英語では into 又は unto といふ、方向を示す言葉である、旅人が東京にまで往くといふは、東京に向つて往くといふことである、此小なる言葉の中に旅人の取るべき三つの態度が含まれてある、第一は東京に向つて其方向を転ずることである、第二は東京に向つて其歩を進むることである、第三は終に東京に到着することである、信者が父と子と聖霊にまでバプテスマを受くるといふのも同じことである、第一は三位一体の神に向つて彼の心の方向を転ずることである、第二は此聖き、高き愛の神を理想として、之に傚はんと欲して彼の日々の生涯を送ることである、第三は終にキリストと偕に神の子と成るを得て、此理想、此完全に達することである、是れがバプテスマの目的である、罪を離れ、愛を行ひ、終に父の完全《まつたき》が如く完全くなることである。
 以上がバプテスマの目的であるとすれば是れは一時の式でないことは明白である、我等は完全の神にまでバプテスマせらるゝのである、故に之に到着するまでは我等のバプテスマ式も了らないのである、我等は実に日々にパプテスマ式を授かるべき者である、即ち父の国に於てキリストと偕に栄を受くるまでは我等は常に此聖式に与かるべきである、バプテスマを一時の式と見るのは大なる誤謬である、是れは終生続くべき式である、我等は之を三位一体の神にまで受けたのである、爾うして今は彼に向つて進みつゝある者なれば、今尚ほ日々之に与かりつゝある者である、我等はバプテスマに由て信者となつたのではない、信者となり始めたのである、我等は今信(155)者となりつゝあるのである、爾うして神の国に入つてキリストの貌《かたち》に傚ふを得て始めて我等ぼバプテスマ式は了るのである、父、子、聖霊の名にまでバプテスマし云々、我等は此小なる「まで」の一語を忘れてはならない。
 三位一体論の詳細に就ては之を拙著『基督教問答』に於て見られんことを望む。
 
(156)     ユダの叛逆
         五月二十日角筈自宅に於て
                     明治39年6月10日
                     『聖書之研究』76号「講演」
                     署名なし
 
  馬可伝十四章三節より十一節まで、十七節より廿一節まで、四三節より四六節まで。
 イスカリヲテのユダは何故にイエスに叛きし乎、イエスに就て失望してなり、彼はイエスより政治的並に社会的革命を望んだ、然るにイエスが其望に応ぜず、幾何か好き機会の到来せしに係はらず、之を逸し、彼れユダが待ち望みし大々的政治的並に社会的運動を開始せざりしを見て、失望の極終にイエスを恨み、之を其敵の手に附たすに至つたのである、ユダは世に所謂る悪人ではなかつた、彼は自己の利慾のためにイエスに従つたのではない、彼は当時の愛国者であつた、今日の言葉を以て曰へば熱心なる社会改良家であつた、彼は彼の国人の多数と等しくメシヤ(救世主)の職を現世的に解した、即ち救世とは政治的に又は社会的に世を救ふことであると思ふた、然るにイエスのメシヤ的思想は全然是と異なり、全然心霊的であつた故に、ユダは自己はイエスに欺かれたりと感じ、憤怒の余り彼に叛いて彼を敵人の手に渡したのである。
 爾うして此疑惑、此失望、此憤怒はユダ一人に限らなかつたと思ふ、十二弟子のすべてに多少此叛逆の精神が起つたやうに見える、馬可伝第十四章第四節に「或る人々互に怒を含み言ひけるは」とあるは弟子等をも指して(157)いふたのであると思ふ、「此膏を麋《つひや》すは何故ぞや、之を鬻《う》らば三百あまりのデナリを得て貧者に施すことを得ん」とは社会改良家のイエスに対する不平であつた、然るにイエスは彼の頭《かうべ》に此価貴きナルドの香油を沃ぎし婦人を賞めて不平的批評を試みし弟子等を誡め給ふた、婦人はイエスの救世的事業は彼の贖罪の死を以てのみ遂げらるゝものであることを知つた、然るに弟子等は此事を解せず、イエスが何処までも彼等を率ひて大王国を此世に建設し、神政を世界に布かんことを望んだ。
 十二弟子のすべてに此失望と憤怒とがあつたやうに我等今日の信者にも亦キリストに対する此反逆の精神が無からざるを得ない、今の信者もキリストの許に来る時には大抵はユダと同じく現世的の希望を以て来る、キリスト教は文明国の宗教であるとか、社会改良の最大勢力であるとか、人類の最高道徳であるとか、幸福なる家庭の建設者であるといふが如き、基督教の現世的利益を信じ、自己も其福利に与からんと欲してキリストに来る者が甚だ多い、然かし斯かる者は遅かれ早かれイスカリヲテのユダと成り了らざるを得ない、基督教は勿論現世を益する者である、然し現世を益する前に人の霊魂を益する者である、爾うして人の霊魂を益するに方てキリストは先づ一度は世に棄てられ、辱かしめられ、十字架の死を遂げなければならない、キリストは人の霊魂の糧とならんためには世の殺す所とならなければならない、然かし是れキリストより直接に現世的利益を望む者の到底解し得ない所である、故に斯かる信者(所謂る)は彼に就て躓く、彼等は曰ふ「基督教は以て終に国家と社会とを済ふに足らず」と、斯くて彼等はキリストを去て政治に入り、社会主義者となる、彼等はキリストに就て余りに緩渓《まだるし》く感ずる、彼等は短刀直入、直に政治、又は実業、又は社会主義を以て世を救はんとする。
 イスカリヲテのユダと云へばキリストの敵の張本人である乎のやうに思はれて居る、然かしキリストより現世(158)的利益を求めんと欲する者はすべてユダの徒である、キリストの贖罪の何たる乎を解せず、聖霊の恩賜の何たる乎を知らず、キリスト教とは社会的最高道徳なりとか、国家精神の現化なりとか唱へて、我も人もキリストの現世的利益に浴せんと欲する者は一度は必ずイスカリヲテのユダと同じくキリストに叛き、彼を棄去る者である。
 
(159)     キリストの表白
         五月廿七日角筈自宅に於て
                     明治39年6月10日
                     『聖書之研究』76号「講演」
                     署名なし
 
  凡そ人の前に我を識ると言はん者を我も亦天に在す我父の前に之を識ると言はん、人の前に我を識らずと言はん者を我も亦天に在す我父の前に識らずと言はん。馬太伝十章卅二、卅三節。路加伝十二章八、九節。
  姦悪なる此世に於て我と我道を耻づる者をば人の子も亦|聖使《きよきつかひ》と共に父の栄光を以て来る時之を耻づべし。
  馬可伝八章三十八節。路加伝九章二十六節。
  若し汝口にて主イエスを認《いひあら》はし、又汝心にて神の彼を死より甦らしゝを信ぜば救はるべし。羅馬書十章九節。
 是に類したる聖書の言葉はまだ他にも沢山ある、ユダヤ人の宰《つかさ》ニコデモが人の目を憚かり夜イエスを訪ふたとの事の如き(ヨハネ伝三章)、ペテロが鶏《にはとり》鳴かざる前に三次《みたび》イエスを識らずと言ひしとの事の如き(馬太伝廿六章六九節以下)、パウロが我は福音を耻とせずと言ひしが如き(羅馬書一章十六節)、皆な此類である、キリストの直弟子ですら彼に就て耻ぢたことがあると見える。
 不信者は公然と其不信を発表して憚らない、然かるに基督信者はキリストに於ける其信仰を公言するに躊躇する、貴族にして其地位を耻る者はない、然るに神の子なりと称する基督信者は神より賜はりし特権に就て耻る、(160)是れは最も奇異なる現象である。
 多くの基督信者は曰ふ、「我は心にキリストを信ず、故に之を人の前に発表するに及ばず」と、斯くて彼等は不信者の前には之を包んで言はない、彼等は「耶蘇信者」として世に認められんことを懼る、彼等は隠れたる信者として存在せんことを欲す、彼等は信仰の表白は用なきのみならず害ありと言ふ、彼等は信念と実行とを以て彼等の信仰を顕はすべしと云ふ。
 然かしキリストは斯かる臆病的沈黙を喜び給はない、彼は我等より明白なる信仰の表白を要め給ふ、勿論、我等は人の問はざるに我等より進んで我等の信仰を吹聴するに及ばない、我等は豚の前に真珠を投じてはならない、人を見れば直に之に我が宗教を説くが如きは是を無礼の行為と云はざるを得ない、我等は我等の信仰を展覧物《みせもの》となさゞるやうに注意すべきである、然かし濫りに之を世に示さゞるのは之を沈黙に附するの謂ではない、我等は時と場合に由ては明白に我等の基督教的信仰を表白しなければならない、我等は人の前に基督信者たることを耻てはならない、我等は人をして我等の基督信者たることを疑はしめてはならない、殊に日本人多数のやうに基督信者を忌み嫌ふ者に向つては我等は予め明白に我等の基督信者たることを告白して置かなければならない。
 キリストが我等より信仰の表白を要求し給ふのはキリスト御自身の利益を思ふてゞはない、キリストは今時《いま》の医師や代言人のやうに自己を世に向て広告して呉れないとて怒るやうな賤い者でないことは何よりも明白である、信仰の表白がキリストの為であるならば彼は之を我等より求め給はないに相違ない、然かし之は彼のためではない、我等彼を信ずる者のためである、我等は彼を人の前に表白するにあらざれば彼を我が所有、我が救主となすことが出来ない、キリストを我が友となさんためには我等が世に嫌はるゝの必要がある、我等が世人に彼等の一(161)人として認められる間はキリストは我等の心に臨み給はない、我等は彼を我等の心に、迎へ奉るために、我等の信仰を世に表はし、我等はキリストの属であつて、世の属でないことを明白に世に告げなければならない。
 羅馬書十章九節に由れば人の救はるゝのは心でキリストを信ずるに由るばかりではない、是れと同時に口にて主イエスを認《いひあら》はすに由るとのことである、即ちイエスは主なることを認はすに由るとのことである、此公然たるキリストの識認なくしては我等は救はれざるべしとのことである、爾うして其理由は明白である、キリストに救はるゝとはたゞ無意識に救はるゝのではない、実際に救はるゝのである、即ちキリストを我が所有となして救はるゝのである、キリストを実験し、其苦難を我が苦難とし、其歓喜を我が歓喜として救はるゝのである、キリストと深き同情推察の関係に入て我等は彼に由て救はるゝのである、爾うして世に向つて我等の彼に於ける信仰を表白せずして我等は彼に対する此深き同情推察に入ることは出来ない、信仰の表白は実に我等の救霊上の必要である。
 我が信仰を衷に蔵《かく》し置くはキリストに対して不忠であるばかりではない、世に対しても不実である、我等は神と自己とを欺いてはならないばかりではない、世をも欺いてはならない、我等は世の忌み嫌ふ基督信者であるに係はらず、恰かも彼等の親愛する世人の一人であるかのやうに自己を見せかけるのは彼等に大なる迷惑を懸くることである、予は予の敵人は明白に予の敵人たることを予に告白せんことを望む、予の味方なるが如くに見せかけて予に近き、終に予を捕へんと欲するやうな敵人は予の甚だ賤む所の者である、其如くに我等も基督信者たることを世に公言すべきである、我等はキリストの僕にして世の敵である、世人は宜しく我等に就て注意すべきである。
 
(162)     安息日聖守の動機
                     明治39年6月10日
                     『聖書之研究』76号「雑録」
                     署名 内村生
 
問、先生、貴下は今でも安息日を御守りになります乎。
答、守ります、私は三十年間之を守り継けた積りであります、少くとも之を憶《おぼ》えた積りであります。
問、貴下は安息日を如何御守りになります乎。
答、左様であります、先づ出来得る丈け俗事を避けます、金銭の受渡であるとか、物品の取引であるとか、其他家族の中に混雑を起すやうな事は勉めて之を避けます、私は此日に聖書を研究します、之を人に教へます、病院に病人を見舞ひます、遠方にある友人に書を認めて其安否を問ひ、其苦痛を慰めます、天気麗かなる時には郊外に出て或ひは森の木陰に於て、或ひは小川の辺に於て、神を讃美し、彼に祈ります、私はまた子供や召使の者に休日を与へるために此日を守ります、是れが安息日聖守の主なる目的の一つであらふと思ひます、汝の僕|婢《しもめ》も汝の家畜も然りと聖書に書いてあります(出埃及記二十章七節)。
問、貴下は何ういふ動機から安息日を御守りになります乎。
答、別に何ういふ動機からといふのではありません、私は基督信者であるから安息日を守るのであります。
問、貴下はモーゼの十誡に安息日を憶えて之を聖く守るべしと書いてあるから之をお守りになるのであります乎。
(163)答、夫れも確かに動機の一つであります、然しながらユダヤ人ならぬ私は摩西《モ−ゼ》律に悉く従はねばならない義務を有ちません。
問、然かしキリストは度々安息日厳守の誤謬を説かれたではありません乎、安息日は人の為めに設けられたる者にして人は安息日の為に設けられたるに非ずと云はれ、又、人の子は安息日にも主たる也と曰はれて、キリストに由て安息日制度は廃止せられたやうにも聖書に書いてあるではありません乎(馬可伝二章廿七、廿八節)。
答、それは安息日の誤用と濫用とを誠められた御言葉であります、然かしキリスト御自身が安息日を守られたことは聖書の所々に書いてあります、試みに馬可伝一章廿一節以下三十四節まで、約翰伝五章一節以下十七節まで、馬太伝十二章九節以下十三節まで、路加伝十三章十節以下十七節まで等を御覧なさい、其中にキリストが如何して安息日を守られたかゞ示してあります。
問、其事は善く判りました、安息日に善を為すことは善いことであることは判りました、然かし何故に其日に店を開いて商売を為しては悪いのであります乎、何故に日曜日に田地を耕しては悪いのであります乎、又何故に此日に少しく娯楽に耽りて肉体に休養を与へては悪いのであります乎、私には其事が判りません。
答、何故に乎その理由は私にも善くは判りません、然かし基督信者に取りては安息日は律法的の休息日ではありません、是は主の日(黙示録一章十節)と称へられまして、我等の救主を記憶するための日であります、彼は此日に墓を破りて復活されました(馬太伝廿八章一節、約翰伝二十章十一節)、所謂七日の首の日(馬可伝十六章二節)又は一週の首の日は是れキリスト復活の紀念日でありまして、又基督教建設の紀念日であります、此日を聖く守るのはキリストを憶ゆることであります、彼の復活の証人として立つことであります、即ち我が信仰(164)と希望の基礎《もとゐ》を世に向て発表することであります、私は序に申上げて置きますが基督信者の安息日(主の日)はユダヤ人の安息日と日を異にします、一般に信じられる所に由りますればユダヤ人の安息日は一週の終りの日でありまして今の土曜日であります、故に私共基督信者が「安息日」を守ると云ふのは甚だ誤解され易くあります、私共は主の日即ち一週の始めの日を守るのであります、即ちユダヤ人が其安息日なる土曜日を守りしやうに私共は主の日なる日曜日を守るのであります、日曜日は基督信者の安息日であるのであります。
問、多分爾うでありませう、然かし何故に普通の業を休んで此紀念日を守らなければならないのであります乎。
答、それは信者各自の信仰に由て決せらるべき問題であります、我等日本人が紀元節や天長節に業を休まないとて日本政府も天皇陛下も我等を罰し給ひは致しません、然かし日本国を愛し、天皇陛下に忠実なる者は自から進んで其業を休んで此日を祝します、其如く我等基督信者が安息日に商売したればとてキリストはそれがために特別に我等に向て憤怒を発し給ひは致しますまい、然かし我等彼を愛する者は自から我等の業を休んで此日を聖く守りたく欲ひます、主の日の如何なる日である乎を知り、又主キリストが我等のために何を為し給ひしかを覚りし者は一週に一日、此日を彼のために献じ、彼の聖業を祝し、その我等に施し給ひし偉大なる救拯を感謝せずには居られません、安息日は信者に取りては感謝日であります、是れは義務的に厳守する日ではなくして感恩的に記憶すべき日であります、其点に於てもユダヤ人の安息日と基督教の主の日とは全く其性質を異にします。
問、其事は能く判りました、然かし此問題に就ては尚ほ伺ひたい事が沢山あります、それは他日伺ふことに致しませう。
(165)答、爾う願ひます。安息日問題は至つて込入つたる問題であります、私も尚ほ能く攻究した後で御質問に応じませう、サヨナラ。
 
(166)     課題〔2「基督信徒の婦徳 彼得前書三章三、四節」〕
                     明治39年6月10日
                     『聖書之研究』76号「雑録」
                     署名なし
 
    基督信徒の婦徳
 
  彼得前書三章三、四節
汝等の※[牀の木が女]飾《かざり》は髪を※[辯の言が糸]《く》み金を掛け、又衣を着るが如き外面の※[牀の木が女]飾たるべからず、たゞ心の中の隠れたる人、壊《くづ》ることなき柔和にして静かなる霊を以て※[牀の木が女]飾とすべし、是れ神の前に価貴きもの也。
 参考、提摩太前書二章九−十二節。
     註解
金を掛け 金を纏ふの意なり、之を頭飾《かみかざり》として髪に纏ひ、指輪として指に纏ひ、腕輪として腕に纏ふ 〇心の中の隠れたる人 内なる人と云ふに同じ、すべての宝物を心の中に蓄ふる者なり 〇是れ神の前に価貴きもの也 価貴き※[牀の木が女]飾なり、然れども人の前に貴きにあらず、神の前に貴きなり、そは金や銀の如き壊る物にあらざれば也。一章十八節。
 
(167)     聖書の模範的婦人
 
 アブラハムの妻サラ。創世記、十二、十三章。エフタの女《むすめ》。士師記、十一章。ボアズの妻ルツ。路得記。サムエルの母ハンナ。撒母耳前書一、二章。女王エステル。以士帖書。キリストの母マリヤ。ベタニヤのマリヤ。等なり、何れも柔和にして静かなる女なり、聖書に所謂る女傑なきに非ず、然れども女傑は聖書の理想的婦人に非ず、パウロが教会の婦人に命じて汝等の婦女等は教会の中に黙すべし、彼等の語るを許さず、彼等は律法に云へるが如く順ふべき者なり、若し学ばんとする所あらば家に在りて其夫に問ふべし、そは婦女教会に於て語るは恥づべき事なれば也と云ひしはヒブライ人たる彼の理想の婦人に就て云ひしなり、使徒等に取りても我等日本人に取りての如く婦徳の第一は外見を憚かることなり、即ち英語に所謂る modesty《モデスチー》なり。箴言第三十一章十節以下参照。
       ――――――――――
本号課題に対し寄贈文を送られし読者諸君はすべて二十五名、諸君の好意を謝す。
 
次号課題
  神の無窮の言葉
(168)    彼得前書第一章第二十四、二十五節。
 寄書〆切六月三十日。
 第壱等に対しては『逆境の恩寵』一部、其他の掲載文に対しては角筈パムフレツト三部づゝを呈す。
 寄書はハガキ一枚に記入し得る者に限る。
 当撰すると否なとに係はらず、続々寄贈を乞ふ、記者が読者諸君の信仰の状況を知るために最も有益なり。
 寄書家は記者まで其姓名住所を通知せらるゝを要す、之を為さゞる者の文は載せず、但し本名を誌上に表はすと否なとは寄書家の自由に任かす。
 
(169)     今井樟太郎君逝く
                     明治39年6月10日
                     『聖書之研究』76号「雑録」
                     署名 内村鑑三
 
 旧東京独立雑誌以来の本誌の愛読者にして余輩の慰藉者、本誌の有力なる維持者の一人なる大阪香料商永広堂主人今井樟太郎君、本月五日神の聖召に応じ突然斯世を去らる、余輩はキリストの福音のため、日本国実業界のため、君の遺族のためは勿論、余輩のため、本誌のため、此事ありしを悲むや実に切なり、君は屡々余輩を寂寥の中に慰め給へり、又幾回か余輩の欠乏を補ひて本誌の存続を助け給へり、而して今や此人逝く、余輩は余輩の心中に大なる空虚を感ぜずんばあらず。
 然れども君は今はキリストと偕に在りて君の遺族と友人とのために祈りつゝあり、悲む者は君にあらずして余輩なり、死は今や君を自由の人となしたり、今より後君は君の霊を以て余輩を助け給はん、君は死に由て余輩を離れず、否な、更らに余輩に近き者となり給へり、余輩は更らに君の援助を得て働かん、而して父の園に於て歓喜を以て君と相見るの時を俟たん、
   “Thy servant Death with solving rite,
    Pours finite into infinite.”
                     本誌校正中君の永眠の報に接し悲歎愛惜の中に記す  内村鑑三
 
(170)     硬骨議員
        (羅馬哲学者エピクテエトス講演集の一節)
                          明治39年6月10日
                          『新紀元』8号
                          署名 内村鑑三 訳
 昔し羅馬帝王ベスパシヤンは幾回か羅馬議会に臨んで彼の政略に最も便利なる不正の議案を無理に通過せしめんとせり、然るに一人の硬骨議員ヘルピデイアス・プリスカスありて正義を唱へて止まず、屡々帝王の意志を阻礙しければ、帝王は憤怒の余り、幾回か害を彼れプリスカスの身に加へんとせり、茲に於てか帝王とプリスカスとの間に左の如き問答起りしと云ふ、
 帝王ベスパシヤン『余は汝の議場に出席するを禁ずべし』
 議員プリスカス『余が議員たる以上は余は出席せざるを得ず』
 帝王『然らば出席するも可なり、然れど沈黙を守れよ』
 議員『余の意見を問ふ勿れ、然ば余は沈黙を守るべし』
 帝王『余は憲法に遵ひ、議会の意見を問はざるを得ず』
 議員『余も亦憲法に遵ひ答へざるを得ず、而して余は正義と信ずる所を答へざるを得ず』
 帝王『然らば余は汝を殺すべし』
(171) 議員『王よ、余は曾て汝に汝は余を殺すこと能はずと語りしことありや。汝は能く余を殺すを得べし、而して余は能く良心に恥づる所なくして死に就くを得べし』
斯かる議員を有せし帝国と議会とは幸ひなるかな!
 
(172)     〔遠大の事業 他〕
                     明治39年7月10日
                     『聖書之研究』77号「所感」
                     署名なし
 
    遠大の事業
 
 余輩は今の人をのみ救はんと欲せず、亦後の人をも救はんと欲す、余輩は日本人をのみ救はんと欲せず、全人類を救はんと欲す、余輩の事業は小なりと雖も永久的にして又宇宙的なり、余輩は今人今時をのみ目的として働く者に非ず。
 
    伝道の真義
 
 伝道は教を説くことにあらず、愛を以て自己を与ふることなり、自己を虚うすることなくして、山をなすの教義、川をなすの言語も、以て人一人を救ふに足らず、貧困、疲労、挫折、是れ人を救ふの力なり、世は雄弁を以て済ふ能はず、又議論を以て化する能はず、唯そのために自己の生命を棄てゝのみ之を神に導くを得るなり。腓立比書二章五−八節。
 
(173)    犠牲の意義
 
 犠牲は読んで字の如く犠牲なり、即ちすべての快楽を犠牲に供することなり、肉の快楽のみならず、霊の快楽をも犠牲に供することなり、吾神、吾神、何故に我を棄て給ふ乎と、(馬太伝廿七章四十六節)、是れ十字架上に於ける救主キリストの声なりき、彼は神に棄てられしの感を懐かざるを得ざるほどの苦痛を嘗め給ひて我等罪人のために救済の途を開き給へり、若し我が兄弟我が骨肉のためにならんには或ひはキリストより絶《はな》れ沈淪《ほろび》に至らんも亦我が願なりとはパウロの犠牲の精神なりき(羅馬書九章三節)、我等は世を救はんためには自己は地獄に落つるも可なりとの決心を懐かざるべからず。
 
    恩恵としての患難
 
 患難、若し自己の罪の結果ならば自己の罪を贖ふために利益あり、若し他人の罪の結果ならば他人の罪を贖ふために利益あり、神は無益に患難を下し給はず、之を自己か又は他人を救ふために下し給ふ、患難はたしかに神の恩恵なり、之れなくして我も人も罪悪を去て正義の神に帰る能はず。
 
    苦痛と刑罰
 
 苦痛は刑罰なり、我は確かに此事を認む、而して此事を認めて神を讃美し奉る、苦痛は刑罰なり、我れ罪を犯せしが故に神は我に苦痛を下し給ひて其義を我に顕はし給ふ、而して時には我が罪のためにあらず、我が祖先の(174)罪のために、我が国人の罪のために、我骨肉友人の罪のために我を罰し給ひて其公義を世に顕はし給ふ、我は此事あるがために我が神を讃美し奉る、我の忌む可き神は罪を看過して之を罰せざる神なり、我は慈悲一方の神を厭ふ、我は正義の神を愛す、罰せざれば赦し給はざる神を愛す、苦痛は刑罰の表顕にして刑罰は愛の実証なり、我等に苦痛の臨む間は神我等と偕に在し給ふと信じて可なり。
 
    境遇と意志
 
 人と天然とは外より働らき、神は衷より働らき給ふ、前者は境遇を作り、後者は意志を作り給ふ、吾人が神に到るは彼れに意志を強くせられんためなり、境遇に勝ち得て、自から新境遇を作らんためなり、人は神の子なり、境遇の奴隷にあらず、神に依りて境遇を無視し、之を破りて意志の自由を実行すべき者なり。
 
    荏弱の自覚
 
 弱し弱しと歎じ、他人の援助をのみ維れ求むる者多し、然れども自己の弱きを覚るは是れ他人の援助を仰がんためにあらず、直に神に到りて自己を強くせられて独り自から立たんためなり、荏弱の自覚は信仰の確立に終らざるべからず、徒らに悲鳴を挙げて世の同情推察を哀求するが如きはクリスチヤンたるの道に非ず。
 
    十字架の仰瞻
 
 汝等我を仰ぎ瞻よ然らば救はれん(以賽亜書四十五章廿二節)、十字架上のキリストを仰ぎ瞻よ、然らば救はれ(175)ん、其流せる血は汝の罪のためなるを認めよ、然らば救はれん、其言ひ尽されぬ苦痛《くるしみ》は汝の罪に対する神の忿怒《いかり》の表顕《ひやうげん》なるを認めよ、然らば救はれん、キリストの死に汝の死を認めよ、然らば救はれん、単に眺め見るにあらず、仰ぎ瞻て救はるゝなり、即ち信仰を以て自身、キリストと偕に十字架に釘けられて救はるゝなり。加拉太書二章二十節。
 
    ヒユーマニチーと基督教
 
 ヒユーマニチー(人道)是れ基督教に非ず、基督教はヒユーマニチー以上なり、基督教はキリストの死と昇天とに顕れたる神の公義なり、基督教は罪の罪たるを認む、血を流すこと有らざれば赦さるゝ事なしと教ふ(希伯来書九章廿二節)、神は憫み給ふのみならず亦怒り給ふ、正義に由らずしては罪人を赦し給はず、ヒユーマニチーは人の情なり、基督教は神の義なり、吾人は二者を混同して神の恩恵を空うすべからざるなり。加拉太書二章末節。
 
    福音と人道
 
 人道もあらん、又天道もあらん、然れど我等に唯キリストの十字架の福音あるのみ 是れユダヤ人には礙《つまづ》く者、ギリシヤ人には愚かなる者なり、然れど我等召されたる者には神の大能《ちから》また其智慧たるなり、我等は今に至て人道又は天道を唱ふるを要せず、我等はすべての善事《よきこと》をキリストの聖名《みな》のために為すべきなり、今や優れたるキリストの福音を棄て、人道の小学に帰るべき時に非ず。改行
 
(176)    内と外と
 
 基督教は内九分にして外一分なり、内に大なるキリストの王国ありて、外に小なる此世の王国あり、外、時には幽暗と化する事あり、然れども内は益々光輝《かゞやき》を放つて燦爛たり、基督教は信仰九分にして境遇一分なり、我等何ぞ今の教会信者に傚ひて現世的文明を以て境遇の改善をのみ維れ計らんや、我等は暗黒の裡に在るも能く内に楽みて安全なるを得るなり。
 
(177)     イエスと余と
                     明治39年7月10日
                     『聖書之研究』77号「所感」
                     署名 角菅生
 
 余の休息は山の静かなる所に於てあらず、湖水の清き辺に於てあらず、余の休息はイエスキリストに於てあり、彼と偕に在りて、余は家に在るとも、衆人の中に立つとも、人の思念《おもひ》に過ぐる平康《やすき》を得て独り静かに休むを得るなり。
       *     *     *     *
 余の智識は書物に於てあらず、然り、聖書に於てあらず、余の智識は活けるイエスキリストに於てあり、余は彼に聴て道を説き、彼に学びて文を綴る、彼は余の最《い》と近き教師なり、余は日に日に彼より活ける新たなる真理を授けらる。
       *     *     *     *
 余の富は金銀に於てあらず、土地家屋に於てあらず、余の富は主イエスキリストに於てあり、彼は日毎の糧を余に賜ふ、彼に無尽の宝貨在り、彼に縋りて余は常に乏しからざるを得るなり。
       *     *     *     *
 イエスは余の休息《やすみ》なり、智識なり、宝貸なり、夏の熱きも、冬の寒きも、壇に登る時も、筆を執る時も、余と(178)余の愛する者とが空乏《ともしき》を感ずる時も、イエスは余の確かなる救主なり。
 
(179)     加拉太書第一章
                     明治39年7月10日
                     『聖書之研究』77号「研究」
                     署名 内村鑑三
 
  一、人よりに非ず、又人に由らず、イエスキリストと彼を死より甦らしゝ父なる神による使徒パウロ
 我れパウロは使徒なり、ペテロ、ヤコプ、ヨハネ等、キリストの十二使徒と称する者と職と権能とを同うする者なり、我も彼等と等しく此職と権能とを人より受けず、又人を経由して之れを授けられず、我も直に之をイエスキリストを経由して彼を死より甦らしゝ父なる神より受けたり、我が使徒たるの命は直に神より発し、人に由らずして其聖子イエスキリストに由りて直に我に伝へられたり、我は独立信者なり、又独立伝道師なり、道を直に神に聴て之を汝等に伝ふる者なり。
  二、及び我と偕に在るすべての兄弟、ガラテヤの諸教会に書を送る。
 我れガヲテヤの諸教会に書を送る、然れども我れ独り送るに非ず、我は今、我と偕に在るすべての兄弟と共に之を送るなり、我は彼等の賛同と証明とを得て之を送るなり、是れ人なる彼等の援助を得て汝等に対する我が立場を強くせんがために非ず、我が信仰の単独なる者にあらざるを汝等に示して、汝等をして己に省る所あらしめんためなり。
  三、願くは父なる神、及び我等の主イエスキリストよりの恩寵と平康汝等にあれ。
(180) 我、今より此書を以て大に汝等に問ふ所あらんと欲す、然れども我が此事を為すは汝等を憎んでにあらず、我等は時に争はざるべからず、然れども自己の忿怒、怨恨に駆られて争はざるなり、故に我は先づ汝等の平安を問ふ、我等若し争はざるを得ずば神の恩寵の裡に在て争はしめよ、我等の論争の終局は神より来る平康ならしめよ。
  四、キリストは神即ち我等の父の旨に循ひ悪しき今の世より我等を救出さんとて我等の罪のために己が身を捨て給へり。
 我等の主イエスキリストに神に対する此従循と人に対する此愛とありたり、我等も亦彼に傚はしめよ、福音何物ぞ、神に循ひ人を愛するの道に非ずや、兄弟よ、我等教理を論じ、相互の誤謬を正さんとするに方て、此一事を忘れざらしめよ、愛はすべての律法《おきて》を完全《まつたう》す、愛はすべての智識の始にして又其終りなり、我等の争論は如何なる場合に於ても愛の境界を越すべからざるなり。
  五、栄光世々彼にあり、アーメン。
 栄光は世々彼れキリストにあり、他の者にあらず、智者にあらず、勇者にあらず、弁者にあらず、我等罪人のために己が身を捨て給ひし彼れキリストに於て在り、彼が我等の理想にして我等の模範たるなり、我等の求むべき主として惟り彼あるのみ、アーメン、実に然り、我は我が全性の熱心と帰服とを彼に捧げ奉る。
       ――――――――――
  六、我は汝等が恩《めぐみ》をもて汝等を召したる者即ちキリストより斯くも容易に離れて異なる福音に遷りしことを怪しむ。
 報あり、我に伝へて曰く、汝等は我が汝等に伝へし恩恵の福音を離れて他の異なる福音に遷りつゝありと、我(181)れ此事を聞て甚だ怪む、キリストは恩恵を以て汝等を召し賜へり、彼は汝等を召し給ふに方て、彼に於て顕はれたる神の恩恵を信じ、信仰を以て之を自己に受くるより他に何の要求をも汝等に対つて為し給はざりし、まことに汝等が受けし福音は徹頭徹尾恩恵の福音なりし、然るに汝等は容易に之を離れたりと云ふ、我の汝等に就て怪むは之がためなり、人は容易に恩恵を棄去る者に非ず、然るに汝等は心に何の苦痛をも感ずることなくして、容易に恩恵の福音と其目的物なるキリストを去り、儀式の福音、修養の福音、行為の福音に遷りつゝありと云ふ、我は此事を聞て甚だ怪むなり。
  七、此は福音に非ず、たゞ或人汝等を擾《みだ》しキリストの福音を更へんとする也。
 我は之を異なる福音と称べり、然れども是れ福音にあらざるなり、恩恵に基かざる者、如何で之を福音と称するを得んや、福音は一なり、キリストの福音是れなり、「道徳の福音」、「修養の福音」、是れ皆な福音の名の濫用なり、汝等は我が汝等に伝へし恩恵の福音を離れてより善き他の福音に遷りつゝありと云ふ、自から欺く勿れ、汝等は一の福音より他の福音に遷りつゝあるに非ず、たゞ或人が汝等を惑はし、キリストの福音を顛覆せんとしつゝある也、汝等は恩恵の福音を離れて全然福音を離れつゝある也、基督教を棄てつゝある也。
  八、たとへ我等にもせよ、天よりの使者にもせよ、若し我等が曾て汝等に伝へし所にあらざるものを汝等に伝へんには其人はアナテマたるべし。
 福音は一なり、他にあるべからず、十字架の福音是なり、此は人の変更し得べきものにあらず、是れ我が福音に非ず、天使のそれにも非ず、此は神の福音なり、神の無窮の言葉なり、天地は失するとも失せざる者なり、故に若し是れ以外の者を汝等に伝ふる者あらんには其人はアナテマたるべし、神の恩恵より絶たるべし、其生命を(182)受け得ざるべし、そは神の恩恵と生命とはキリストの福音に於てのみ顕はれたれば也。
  九、我等曩に言ひしが如く今また言ふ、若し人汝等に汝等が受けし所のものにあらざるものを伝へんには其人はアナテマたるべし。
 我は重ねて言ふ、而して我れ曾てバルナバ及びシラスと共に汝等の中に在りし時に此事を告げたり、我は今我等三人が汝等に告げしことを茲に反復して言ふ、即ち若し人、何人にまれ、我等が曾て汝等に伝へし福音以外の者を汝等に伝へんには其人は神の恩恵より絶たるべしと。
  十、我れ今神よりも人に親まんことを要めんや、人を歓ばせんことを求《ねが》はんや、若し我れ尚ほ人を歓ばせなば我はキリストの僕に非るべし。
 我は斯く断言して憚からざるなり、そは我は今は人よりも神に親まんことを要むればなり、人を歓ばせんと欲せずして神を歓ばせんと欲すればなり、既に肉に死しキリストと偕に十字架に釘けられし者が、いかで今に至るも尚ほ神を疎じて人に親まんことを要めんや、我に就て斯かる疑惑を懐く者は今日の我を知らざる者なり、若し我れ今尚ほ常人の如く人を歓ばせんには我はキリストの僕に非るべし、既にキリストの僕なり、豈今に至るも尚ほ人に取入らんがために福音ならざる者を福音と称して彼等の好意を迎へんや。
       ――――――――――
  十一、兄弟よ我れ汝等に告ぐ、我が宣伝へたる福音は人に由るに非ず
 汝等は我が汝等に伝へし福音を離れ、福音ならざる他の者に遷りしと聞く、我れ今、我が福音に就て少しく汝等に告ぐる所あらん、汝等は此事を知るべし、即ち我が宣伝へし福音は人に由るものにあらざることを、人に由(183)て伝へられし者を我が受次ぎて汝等に伝へし者にあらざることを。
  十二、そは我は之を人より受けず亦教へられず、惟イエスキリストの黙示に由りて受けたれば也。
 我は我が福音を人より受けず、又人に教へられず、直に之をイエスキリストより受けたり、我に人なる教師はあらざりき、キリストは其霊を以て直に之を我霊に示し給へり、我はまことにキリストの直弟子なり、間接の弟子に非ず、直接の弟子なり、我は肉に於てナザレのイエスを知らざりし、然れども霊に於て主なるキリストを見たり、我に此直覚なからん乎、我は使徒たり伝道師たるの資格なき者なり。
  十三、我が前にユダヤ教に在りし時の行為を汝等は聞けり、即ち甚しく神の教会を迫害し且つ之を荒らせり。
 我が宣伝へし福音の人に由る者にあらざるは我が経歴に照して明かなり、汝等が度々我より聞けるが如く、我は前には激烈なるユダヤ教の人にして甚しくキリストの教会を迫害し且つ之を荒らしたり。
  十四、又ユダヤ教に在りては我国人中、年相同じき多くの輩にまさりて先祖等の遺訓に熱したり。
 我は通常のユダヤ人にはあらざりき、我は其最も熱心なる者なりき、我は我が同輩の者にまさりて先祖等の遺訓《いゝつたへ》を厳守し、偏へに模範的愛国者たらんと欲したりき、我は我が愛国の情に駆られてキリストと其福音とを憎みたりき、我が愛国心の如何に熱烈なりし乎を知る者は、我の、我が父祖の貴き宗教を棄て人の伝説に服して他教に転ずるが如き者ならざるを知るなるべし。
  十五、十六、然れども我が母の胎内より我を簡び、恩恵を以て我を召し給ひし神、其子を異邦人の中に宣べしめんがため彼を我が衷に顕はすことを善とし給ひし時、我は直に血肉と謀ることをせず、我はユダヤ教の信者にして熱烈なる愛国者なりき、我は死すとも我が国教を棄つるが如き者にはあらざりき、(184)然れども神が我を召し給ひし時、而して召すに恩恵を以てし給ひし時、即ち我が罪は悉く之を赦し、我に帰するに其聖子の義を以てし給ひし時、而して我を召し給ふや遠き過去より我を召し給ひしことを知りし時、即ち神の指導の下に我が家系も教育も境遇もすべて我をして異邦人の中にキリストを宣べしめんための準備たりしことを知りし時、我に此確信起りし時、我はすべての情実を排斥し、骨血朋友と謀ることをせず、猛然独り意を決し旧を去て新に就けり。
  十七、又我より先に使徒となりてヱルサレムに在る所の者にも往かず、アラビヤに往けり、而して復たダマスコに返れり。
 我は骨血と謀らざりしのみならず、我より先きに使徒となりてエルサレムに在る所の者にも往かざりき、我は直に人なき里なるアラビヤに往けり、而してエリヤの如くに独り神と偕に在りて彼の靜かなる細微《ほそ》き声を聞けり(列王紀略上十九章十二節)、我は寂寞の裡に在りて直に神に教へられたり、而して時を経て後に復たダマスコに返れり。
  十八、其後三年を経て、我れペテロを尋ねんためにエルサレムに上り、十五日間彼と共に居りしが、我の上京は我が改信後三年の後にてありき、我はペテロを尋ねんために上れり、伝道のことに就て彼と謀らんために上れり、然れども彼に教へられんためにはあらざりき、而して十五日間、都に留りて屡々彼と相見たり。
  十九、他の使徒等には主の兄弟ヤコブを除ては誰にも会はざりき。
 我は十五日間都に留まれり、然れども当時の教会の首長たりし主の肉体の兄弟ヤコブを除いては他の使徒には誰にも会はざりき、因て知るべし我に其時使徒等より福音の教義に就て学ぶの時も機会もあらざりしことを、我(185)は其時既に福音の奥義を知れり、故に其事に就て使徒等より教へらるゝの必要なかりき。
  二十、今我が汝等に書き送る所は、視よ、神の前に我は偽はらざるなり。
 我が茲に言ふ所は事実なり、肝要なる事実なり、視よ我は我が神と良心とに誓て言ふ、我は此事に於て偽はらざるを、我は実にペテロ并にヤコブとの始めの面会に於て福音の奥義に就て彼等より新たに何の学ぶ所なかりき。
  二十一、其後我れスリヤ并にキリキヤの地に至れり。
 我は永くエルサレムに止まらざりき、其後北の方スリヤ并にキリキヤに往き十年の久しき其地に留まれり。
  二十二、我はユダヤに在るキリストの諸数会に面を識られざるに至りき。 遠隔の地に留まること十年、我は終にユダヤに在る諸教会に面を忘れらるゝに至れり、因て知るべし、十二使徒等と我との交際の決して親密なるものにあらざりしことを、我は改信してより十三年間、惟一回彼等の中の二人と相見しのみ、我れ我が福音を彼等より受たりとの流言の全然根拠なき讒誣たるは茲に至て益々明かなり。
  二十三、二十四、たゞ彼等は前に己等を窘めし者、今はその、前に荒らしたる信仰の道を宣伝ふと聞き、我が故に神を崇めたり。
 彼等は我面を忘るゝに至れり、然れども前の迫害者は今の伝道者となりしを聞いて我が故に神を崇めたり、我が名の彼等に伝はりしのみ、彼等と我との間に深き交通のありしにあらず。
 
     感想
 
〇伝道の使命は之をキリストに由りて直に神より受けざるべからず、人に由りて人より受くべからず、法王、監(186)督、牧師、神学者等に由りて教会より受くべからず、昔時の使徒然り、今日の伝道師然り、世に用なき者とて人に命ぜられ、人より遣はされし伝道師の如きはあらざるなり。(第一節)。
〇我等真理のために争ふも可なり、然り、時には論争は義務なり、神の命なり、然れども神の真理のために争ふなるが故に愛と平和との境を越すべからず、我等はパウロに傚ひ、争ふに先じて我等の反対に立つ者の上に父なる神及び我等の主イエスキリストより来る恩寵と平康との宿らんことを祈る可き也。(第三節)。
〇我等の模範はイエスキリストなり、罪人のために自己を棄て給ひし主なり、彼を主と仰ぎて、我等敵を憎まんと欲するも得ず、栄光は世々彼にあり、我等彼と偕に彼の栄光を担はんと欲せば彼の如くに我等に敵する者をも愛せざるべからず。(第四、五節)。
〇怪むべきは一度び福音を信ぜし者が之を棄るにあり、恩寵の福音を棄て旧の倫理道徳に還るにあり、是れ自由を去て束縛に還るなり、子たるの権利を擲つて奴隷たるの無資格に還るなり、而かも世の基督信者にして此途を取る者甚だ多きは歎ずべきかな。(第六節)。
〇福音は一つなり、一ならざるべからず、十字架の福音是れなり、救済の条件として善行を要求するの道は他にもあり、然れども基督教のみ惟り善行に由らざる救済の途を人に供す、是れ世の道徳家の怪んで止まざる所、而かも福音の奥義は其中に存す。(第七節)。
〇キリストの十字架を説かざるものは福音に非ず、正統教会の免許牧師之を説かん乎、彼はアナテマたるべし、監督之を説かん乎、彼もアナテマたるべし、法王之を説かん乎、彼もアナテマたるべし、然り、若し天使之を説かん乎、彼等もアナテマたるべし、真理に寛容なし、二と二を合すれば四なり、キリストの十字架なくしてキリ(187)ストの福音あるなし、是れ天地が壊《くづ》るゝも然り。(第八、九節)。
〇人は寛容を愛すると称して信仰の放縦を要求す、而して人に親み、之を歓ばせんと欲する者は度々俗衆の此要求に応ぜんと欲す、然れどもキリストの僕は断じて斯くなすべからず、彼は狭隘と呼ばるゝも頑固と称せらるゝも断乎として十字架の福音を守るべきなり。(第十節)。
〇道に能く従ふ者は前には之に逆ひし者なり、容易に信者となる者は容易に之を棄る者なり、迫害者サウロは使徒パウロを作れり、吾人は吾人の迫害者を斥くべからず、彼等の中或ひは幾多の使徒パウロを存せん。(第十三、十四節)。
〇吾人神の聖召《めし》を蒙りし時に血肉と謀るも詮なし、彼等は神の情を知らざればなり、彼等は又吾人の行為を妨げ得ざるなり、そは神は永久の聖召を以て吾人を召し給ひたればなり、神は一時に吾人を召し給ひしにあらず、永き過去より吾人を簡び給ひしなり、吾人の聖召は永き過去に於て始まり、今日始めて事実となりて現はれしなり、血肉何者か能く吾人に干はる神の此永久の企図を碍ぐるを得ん。(第十五節)。
〇神より黙示に接して後は教師の許に走るべからず、又衆人の前に之を公表すべからず、アラビヤに往くべし、而して其処に寂寥の中に神と交はるべし、直に神の声を聞くべし、彼を我がアバ父よと呼び奉るに至るべし、今のリバイバル信者に一考を促す。(第十七節)。
〇神に教へられて人に教へらるゝを要せず、我等は独り師なき人なき山里に在りて神と親交を結ぶを得るなり、都会の信者神より遠かり、僻地の信者返て能く神を知る、キリストは今尚ほ活きて在ませばなり、彼は山中又は海辺の人なき所に於て彼を愛する者を教へ給へばなり。(第十八、第十九節)。
(188)〇使徒パウロは独立信者の模範なり、神は彼の如き者を起し給ひて、後世の無教会信者を励まし給へり、我等何の恐るべき所かある、猛然として進むべきなり。(第二十−二十三節)。
 
(189)     男性的基督教
         忿怒の神聖  六月廿四日角筈自宅に於て
                     明治39年7月10日
                     『聖書之研究』77号「講演」
                     署名 内村鑑三
 
  イエス、エルサレムに上り、殿《みや》にて牛、羊、鴿を売る者と兌銀《りやうがへ》する者の坐せるを見、縄をもて鞭を作り、彼等及び羊 牛を殿より逐出し兌銀する者の金を散らし其案を倒し、鴿を売る者に曰ひけるは此物を取り往け、我父の家を貿易《あきなひ》の家とする勿れと、弟子等、汝の家のための熱心我を蝕《くら》はんと録されたるを憶起《おもひいだ》せり(約翰伝第二章十三−十七節)。
 
 基督教は愛の宗教であつて、キリストは慈悲一方の救主であるとは今の人がキリストに就て懐く一般の感想であります、キリストは憫む者、赦す者、彼の眼中には只宥恕憐憫の涙あるのみとは大抵の基督信者が其心に念ふ所であります、彼等の眼に映ずるキリストは婦人のやうな人であります、「汝の我を愛《いつくし》める愛は尋常《よのつね》ならず婦人の愛にも勝りたり」(撒母耳後書一章廿六節)とは信者全体がキリストに就て懐く観念であります。
 然しそれは誤りたる観念であります、キリストは婦人のやうな救主ではありません、彼が弱きが如くに見えたのは彼に非常に強い所があつたからであります、彼の愛は父なる神の愛であります、即ち厳格なる強い堅い愛であります、聖書を読んでキリストを婦人のやうに解するのは誤解の最も大なるものと言はざるを得ません。
 キリストは怒られました、度々怒られました、彼が伝道を始めらるゝに方て所謂る「始めの神殿の掃攘」が(190)ありました、又伝道を終らるゝに方て所謂「終りの掃攘」がありました(馬太伝廿一章十二、十三節)、始めには「往け、我が父の家を貿易の家となす勿れ」と罵られまして、兌銀する者、牛や羊や鴿を売る者を殿より追払はれました、終りには「汝等は神の殿を盗賊《ぬすびと》の巣となせり」との更らに激烈なる言葉を用ひられまして、同じ事を為されました、此場合に於けるキリストは決して柔弱なる救主ではありません、彼は神の忿怒を表はされました、実にヱホバの家のための熱心彼を蝕《くら》はんまでに怒られました。
 キリストは又頑硬なるパリサイ人を見て幾回《いくたび》か怒られました、「イエス怒を含みて環視《みまは》し彼等が心の頑硬《かたくな》なるを憂へ云々」と、(馬可伝三章五節)、彼は又屡々彼の弟子の信仰の鈍きを見て間怠《まだる》しく感ぜられ、怒の声を発せられました、「噫、信なき世なる哉いつまで我れ汝等を忍ばんや」と(同九章十九節)、是れ確かに忍耐将さに尽きんとするの声であります、殊にペテロが其主の救世の事業の何たるを解せず、彼をして十字架の死を避けしめんとせし時、キリストの忿怒は其極度に達し、彼を叱咤して曰ひ給ひました、(日本訳聖書に「戒めて」とあるは弱過ぎます、「叱咤して」であります)、
  サタンよ、我が後に退け、汝は神のことを思はず、反て人のことを思ふ
と(同八章三十三節)、罵詈叱責の言葉として之より強いものはありません、己の弟子をサタンと称ばれたのであります、此時イヱスはペテロが悪魔の手先となりて彼を誘はんとしたのを強く怒られたのであります。
 斯の如くにキリストは多くの場合に於て怒られました、彼は怒ること其事を以て悪事であるとは認められませんでした、神の聖名の涜されし時、其公義の無視《なみ》されし時、彼は忿怒を発せられました、忿怒は不義に対する愛の発憤であります、神に此聖なる忿怒があります、故にキリストにも亦此忿怒のありしは決して怪むに足りま(191)せん。
 然るに今の人、殊に今の基督信者は怒りません、彼等は怒はすべて非基督教的行為であると言ひます、然かし斯う云ふ彼等と雖も自己のことに就ては怒ります、自己の名誉を傷けられし時、自己の利益を害はれし時には彼等は非常に怒ります、彼等はそれがためには罵りもし、誹りもし、多くの奸策を弄して彼等の敵を仆さんともします、然しながら、神の聖名が涜されしとて、他人の権利が侵されしとて、社会の公義が蹂躙されしとて、彼等は怒りません、斯かる場合に於ては彼等は至て冷静であります、彼等は怒るは損であると云ひます、健康に害があると云ひます、怒て事の成らざるを説いて、冷静忍耐を勧めます、ヱホバの家のための熱心は彼等を蝕《くら》ひません、彼等はすべての公的罪悪に対しては至て広量大度であります。
 今の人が罪を憎まないことは著い事実であります、彼等はキリストを去ると同時に、又彼を誤解すると同時に、罪の罪たることを忘れました、彼等は罪とは境遇の然らしむる所であつて、憫むべきものであつて、責むべきものでないと云ひます、窃盗は貧の然しむる所であると云ひます、姦淫は自由恋愛が行はれないからであると云ひます、彼等はすべての罪悪を境遇の結果として説去らんとします、故に彼等の眼中には罪なる者はないのであります、彼等は罪とは律法を犯すことなるを知りません、彼等に取りては罪は疾病の一種であります、意志の荏弱であります、憐むべき者、同情を寄すべき者であつて、怒るべき者、譴責すべき者ではありません。
 爾うして何が彼等をして罪に就て斯かる柔弱なる、締りなき観念を懐くに至らしめしかと云ふに、夫れには種々の原因があると思ひます、爾うして其中最も著明なるものは、利己心であることは云ふまでもありません、彼等が罪を責めないのは己の罪を責められざらんがためであります、彼等は聖書に謂ふ所の「汝等が人を議する(192)如く己も議せらるべし、汝等が人を量る如く己も量らるべし」との言葉を最も浅薄に、最も利己的に解釈して、他人を恕して自己の罪をも恕されんと欲します、彼等の宥恕なる者は自己の安全を謀るための宥恕の交換に過ぎません、彼等はすべての事を自己のために求むる者でありますから、神の公義までを自己のために使用せんと致します、彼等はキリストの譬喩《たとへ》にある慧《かしこ》き不義の番頭のやうな者でありまして、主人(神)の貸金(罪)は悉く之を負債者に免してやつて、自己が世に立つ時の便宜に供せんと致します(路加伝十六章一−八節)。
 然しながら今の人の罪に対する放縦なる観念は悉く之を彼等の利己心にのみ帰することは出来ません、彼等の愛読する近世文学が此事に与つて大に力あるのは是れ又否むべからざる事実であります、罪に対する寛大の態度は近世文学の特質であります、ゲーテの劇作、ゾラの小説、其他是等の所謂文豪の流を汲むすべての文学は此一事に於て一致して居ります、即ち是等はすべて聖書が罪を観るやうには之を観ません、是等は「神は苟合《こうがふ》また奸淫する者を審判き給ふ」とは説きません(希伯来書十三章四節)、是等は皆な姦淫を憫みます、然り、多くの場合に於ては之に対して熱き同情を表します、是等は「恋愛の神聖」を説きます、姦淫を怒らずして姦淫を怒る社会の圧制無情を怒ります、是等は恋愛のチヤムピオン(戦士)を以て自から任じます、新社会を自由恋愛の基礎の上に立てんと致します。
 ゲーテの『フハウスト劇』とは何であります乎、其女主人公マーガレツトは明白なる姦淫を犯した者であります、彼女は情夫との密会を遂げんがためには其母を殺しました、彼女の実兄は此罪の会合を妨げんとして彼女の情夫の殺す所となりました、彼女は勿論法の問ふ所となりまして、悲惨の死を遂げました、然かしながら少女マーガレツトは大罪を犯しながらも基督教が要求するやうな改悔の苦悩を経ることなしに直に聖母マリヤの傍に運(193)ばれ、其処に他の天使と共に彼女の情夫の昇天を迎へました。ゲーテの『フハウスト劇』を読んで誰も姦婦マーガレツトに対して怒を発する者はありません、只彼女を憐むのみであります、彼女に尠からざる同情を表せざるを得ざるに至ります。
 其他ゲーテの著作に対して一々茲に批評を試むることは出来ません、然しながらその全体に不道徳なること、其男女の関係を記すに方て放縦にして、締りなきことは何人も認むる所であります、爾うして彼れが近世第一流の文豪であるとのことであります、他は推して知るべしであります。
 爾うして近世文学に止まりません、文学と云ふ文学、特に Belles Lettres 美文学と称するものは古今東西の別なく、此種の軟弱なる思想を吹入する者であります、希臘文学に在ては女詩人サッフホー、日本文学に於ては同じく紫式部、何れも堅固なる男性的精神を吹込んだ者ではありません、所謂純文学其物が全体に女性的で柔弱であります、恋愛のために自殺を勧める的のものであります、爾うして近世文学は殊に然るのであります、爾うして其感化を受けし今の人が、殊に今の青年男女が、殊に基督教を信ずると称する青年男女が、此悲むべき軟弱に陥つたのであります。
 然しながら言ふまでもなく是れ基督教の精神ではありません、基督教は罪を憎む者であります、其拝する神は愛であると同時に、然り、愛である故に燬尽す火であります、汚穢に堪え得ない神であります、故に正当の理由なくしては罰すべき者をば必ず赦すことを為さゞる者であります(拿翁書一章三節)、神は自由に人の罪を赦します、と云ふのは無条件にて赦すとの謂ひでありません、キリストを信ずる者を自由に赦すとの謂ひであります、即ち信仰を義として赦すとの謂ひであります、神は罪を問はずして我等を赦し給ひません、キリストの十字架が(194)我等の罪の極端の問責であります、我等が十字架を認むるとは我等の罪の極悪を認むることであります。
 我等は自己《おのれ》に対する他人の罪はすべて之を赦すべきであります、「汝等互に忍容《しのぶこと》をなし、若し人に責むべき事あらば之を恕るせ、キリスト汝等を恕し給へる如く汝等も然かすべし」とは此事を言ふたのであります(哥羅西書三章十三節)、我等に自己の敵なる者があつてはなりません、自己に害を加へた者は悉く之を恕るさなければなりません。
 然しながら物には公私の別があります、キリストでさへも言はれました、
  凡そ人の子を謗ることは赦さるべし、然れども聖霊を褻《けが》す者は赦さるべからず(路加伝十二章十節)
と、キリストにすら彼が赦さんと欲して赦すことの出来ない人の罪があつたのであります、己に対する罪は凡て之を赦すと雖も聖霊を褻す罪は赦されないとのことであります、聖詩人は言ひました
  ヱホバよ、我は汝を憎む者を憎むにあらずや、汝に逆ひ起り立つ者を厭ふにあらずや(詩篇第百三十九篇廿一節)
と、自己の敵は之を愛さなければなりません、
 然かしながら神の敵、正義の敵、人類の敵は之を憎まなければなりません、情のために国家の敵を赦す者は不忠の民であります、ビスマークは曾て独逸聯邦議会に臨んで述べて曰ひました、
  諸君、余を撃ち給ふとも余は決して撃ち返へさゞるべし、然れども若し皇帝陛下を撃ち、独逸帝国の尊厳を涜すがごとき事を為す者あらば、余は嘲罵を以て嘲罵を返すべし、打撃を以て打撃を返すべし
と、鉄血宰相の剛毅堅心、斯くあるべきであります、我等何人にも正義、純潔、神聖に対する熱心がなくてはな(195)りません、不義を憤り、不潔を忌み嫌ひ、褻涜を怒るの熱心がなくてはなりません、是れがない者は無骨漢であります、真理のためにとならば死を辞せざる勇者ではありません。
 然るに今の世に在ては、今の基督信者の中に在ては、斯かる忿怒を発する者は無慈悲なる者として憎まれます、多数の同情は恒に罪を犯せし者の上にあつて之を憤る者の上にはありません、罪悪は凡て之を恕す教師、是れが人望のある教師であります、人はすべて弱い者、殊に女は弱い者、情は脆い者、爾うして罪は弱い人が脆い情に駆られて犯せしもの、是れは恕すべきもの、憫むべきもの、赦すべきものであると云ひて涙を以て罪人を遇する教師が歓迎されるのであります、然しながら是れ聖書が我等に命ずる所の罪人待遇の途ではありません、是れモーセ、ヨシユア、ナタン、パウロ等が取つた途ではありません、我等は罪人を愛すべきであります、爾うして彼等を愛するが故に彼等が罪を犯したる時は彼等が之を悔ゆるに至るまでは彼等に対つて不承の面を向け、明白に彼等の罪悪を認むべきであります、爾うして斯くするも人が我等を不人情なり、無慈悲なりと云ひて排斥しまするならば、其時は我等はヌンの子ヨシユヤの言を以て彼等に答ふべきであります。
  汝等若しヱホバに事ふることを悪しゝとせば(即ち厳格なる正義の神に事ふることを悪しゝとせば)、汝等の先祖が河の彼辺《かなた》にて事へし神々にもあれ(即ち美の神、情の神にもあれ)、又は汝等が今居る地のアモリ人の神々にもあれ(即ち暴力の神、獣慾の神にもあれ)、汝等の事ふべき者を今日選ぶべし、但し我と我家とは共にエホバの神に事へん(約書亜記二十四章十五節)。
 
(196)     東北伝道
   近刊半谷清寿翁著『東北の将来』へ寄贈せんとて稿せる一篇
                     明治39年7月10日
                     『聖書之研究』77号「講演」
                     署名 内村鑑三
 
 人は肉と霊とである、肉ばかりではない、亦霊である、霊ばかりではない、亦肉である、故に彼を完全に救はんと欲せば彼の霊肉両つながらを救はなければならない。
 肉は外であつて霊は内である、肉は慾と情との存する所であつて、霊は意と神との存する所である、肉若し衣服ならば霊は身体である、肉若し宮殿ならば霊は神体である、肉は霊のためであつて、霊は肉のためでない、身体は衣よりも優れる如く、霊は肉よりも優さる、肉の霊に必要なるは以て霊を肉の属と見做す理由となすに足らない。
 故に人を救ふの目的は其霊を救ふにある、肉のために肉を救ふのではない、霊のために肉を救ふのである、我等は何れの救済事業に従事するに方ても此一事を忘れてはならない。
 然れども今の世に謂ゆる救済事業なるものは殆んど其すべてが肉の救済である、殖産工業は勿論人に衣食を給することである、政治法律は人権の擁護であつて、人権の擁護とは財産生命(肉体の)の保護である、教育は主として人に衣食を獲るの道を教ゆることである、而して宗教ですら、今は現世に於ける生活の幸福を増すの手段と(197)化した、今の世は一から十まで肉の世である、孝行とは親に衣食を給し肉体的快楽を供することである、忠君とは富国強兵に努め、物質的に国の隆盛を計ることである、今の人は人に霊あることを知ると雖も、霊として人を扱はない、彼等の眼中只肉あるのみである、彼等の思惟の根底は肉である、彼等は肉を離れて何事をも思惟することが出来ない。
 東北の救済、是れ目下の日本人に取ては最大問題である、然り、最大問題であるべきである、東北六県は其面積に於ては日本の七分の一である、人口に於ては其九分の一である、爾うして此土地此民が頻年海嘯に、不作に、霜害に、無智に無学に苦みつゝあるのである、如何にして此民を救はんか、是れ日本国の最大問題であるべき筈である、然れども奇なることには東北の救済が最大問題となつて居らない、海外の朝鮮満洲が最大問題となりつゝある今日、東北の救済問題は第三第四の地位に置かれつゝある、是れ甚だ奇異なる現象と言はなければならない。然し東北が一般に疎ぜらるゝ理由は発見するに難くない、それは東北の生産力が比較的に多くないからである、即ち東北が日本国の物質的強大に貢献し得る部分が比較的に少いからである、若し阿武隈川の沿岸が利根川のそれのやうに豊富であつたならば、若し陸奥が筑前であり、羽後が肥後か筑後であつたならば、東北問題は言はずして業《すで》に已に日本国の最大問題であつたであらふ、政治家も教育家もすべて眼を東北の富源に注いで、慈善家が起つて特別に東北のために絶叫するの必要は更らにないであらう。
 東北の等閑《なほざり》に附せらるゝ理由如斯しであるとすれば、其理由の裏に更らに大なる理由のあることを発見するは決して難くない、其貧困の故を以て東北を軽視んずる者は東北五百万の民よりも東北四千四百方里の山野に重きを置く者である、民の生産力と購買力とに依て其価値を定むる者である、而して斯かる国民が東北問題を等閑(198)に附し置くは決して怪むに足らない、今日の日本に於て東北問題が最大問題として現はれないのは日本人の不完全なる人生観に職因すると言はざるを得ない。
 東北五百万の民は貴い民である、米を作り、蚕を養ふからばかり貴いのではない、人として貴いのである、彼等一人に若し其衷にあるすべての能力を開発することが出来るならば阿仁の銅山、伊達の絹にまさるの価値があるのである、彼等は霊魂を有たる人である、薩州人、肥後人、長州人と同じ価値のある人である、否な、若し彼等の霊性を発育するならば貴顕※[手偏+晉]紳も及ばざる人と為ることの出来る者である、若し日本人全体が人の所有品《もちもの》よりも其霊魂を重んずるならば彼等は決して東北五百万の民を今日の憐むべき状態に存しては置かない、彼等は有為なる頼もしき兄弟姉妹を有つたるの感を以て彼等を誘掖し、開明と幸福と智識とに彼等を導くに相違ない。
 然しながら東北が日本全国に重んぜられないのは日本人全体の科《ちが》ばかりではない、東北人が自己の価値を知らないにも因る、東北は西南に此して其地位から言ふても、地質から言ふても確かに貧国である、勿論其富源の開発は既に其極度に達したりと云ふことは出来ない、然し如何う見ても其比較的に貧国であることは確かである、吾人は勿論今より大に東北の物質的開発に努めなければならない、然しながら東北は決して其米や、麦や、絹や、其他の農産物や製造物を以て競争場裡に立て勝を制することは出来ないと思ふ、東北には地より産する物の外に何にか他に産物がなくてはならない、爾うして其産物は決して肉に属けるものではない、今の日本人が聞たら笑ふであらうが、然し余輩の信ずる所に由れば東北の特産物は意志でなければならない、霊魂でなければならない、即ち地より得る所が薄いから天より獲る所が厚くなければならない、爾うして是れ決して空想ではない、世界何れの国に於ても、我が東北地方の如き地位と境遇とに置かれし国に取ては霊を以て肉に勝つより他に勝を制する(199)途はないのである。
 試に見よ、北欧芬蘭土の民を、数は三百万に過ぎない、其土地は多くは極寒の野地《やち》である、岩と湖水とは其面積の半分以上を塞ぎ、北寒帯の木材を除いては他に誇るべき物産とてはない、然しながら芬蘭土人は最も円満なる発達を以て世界に鳴る民である、教育の普及、宗教の純潔を以てしては、五大洲中、多分此小国民に及ぶ民はあるまい、芬蘭土人は北緯六十度以北に在て、甚だ羨むべき民である、爾うして何が彼等をして此羨むべき状態に達せしめし乎と尋ぬるに、其説明は至て明白である、彼等は霊を以て肉に勝つたのである、物の欠乏を補ふに霊を以てしたのである、少しく神秘的の言語を以て曰へば彼等は虚空より滋養分を吸収するの秘訣を探り当てたのである。
 加奈太が合衆国と併び立つのも其故である、那威瑞典の両国が賤むべからざる文明国であるのも其故である、アイスランドの如き洋中の磽※[石+角]瘠薄の孤島ですら之に住するに高尚の民を以てすれば一廉の小文明国を洋面に顕出せしむるのである、若し土地を耕し得ずんば民の心を耕すべきである、左すれば土地より生ずる産にまさる産を得て国は栄え民は輝くのである。
 国が貧しければ貧しき程、其民の心を耕すの必要が多いのである、人は何人も其霊を磨くの必要があるが、然し貧しき民は富める民よりも其必要が多いのである、東北人も九州人も人たるの点に於ては一つである、然しながら霊的に富むの必要に於ては二者決して一つではない、九州人や中国人には肉的に栄ふる途が多く備へられてある、彼等は君子ならざるも聖徒ならざるも其存在を維持するに難くない、然しながら東北人に至ては霊に富むは存在上の必要である、彼等は霊に於て拡張するにあらざれば肉に於ても消滅せざるを得ざる地位に立つ者で(200)ある。
 茲に於てか東北の救済策として宗教伝道の必要が一層切に感ぜられるのである、余輩は東北の運命は其採用すべき宗教如何に由て定まるとまで断言するを憚らない、東北は真理の浄土となるにあらざれば関西併に西南地方と対立することは出来ない、若し薩州の産は其軍人であり、長州の産は其政治家であり、畿内の産は其美人であり、江州の産は其商人であるとすれば、東北の産は其正直なる、高潔なる、神の人であるべきである、若し東北の山野が其予言者を以て日本の天下を制することが出来ないならば、東北は実に永久西南人の奴隷として存せざるを得ない。
 爾うして余輩の今日までの実験に照して見て東北に対する余輩の此希望は全く拠る所なき希望でないことが判かる、東北人は頑にして愚である、余輩は東北人を愛するが故に斯く公言して憚らない、彼等は然しながら正直である、彼等が人に欺かれ易いのは彼等が真理を受け易い徴候である、東北の人は容易に真理を受けない、然しながら一度び之を受くれば頑固に之を維持する、東北に愚物は多い、然しながら九州や中国に於けるが如く疑物は多くない、東北の原野の畿内中国のそれに較べて粗にして大なるが如く其民の心も闊くして質素である、東北は日本のギレアデである、テシビ人ユリヤを産すべき地である、彼等に蝗虫《いなご》と野蜜《のみつ》を食ふ蛮風はある乎も知れない、然しながらそれと同時に人を憚からずして愚(世の称する)を押通すの勇気がある、東北に霊魂開発の希望の存するのは是れがためである。
 愚なる東北人は容易に新しき真理を受けない、爾うして彼等は亦何人にも甚だ欺かれ易くある、彼等は自己の敵と味方とを見分くるの明に乏しい、彼等は屡々敵を味方として歓迎し、味方を敵として排斥する、故に東北人(201)を感化するに多くの忍耐力を要する、東北を化するは其|磽地《いしぢ》を耕すが如くに困難である、果実は容易に之を収むることが出来ない、然しながら一度収めし果実は容易に其味を失ない、其関山産の林檎の如き、其花巻産の百合根の如き、余輩は咀嚼《かん》で益々其味の芳はしきを知るのである。
 故に余輩は伝道地として東北に多大の希望を繋ぐのである、西南人に賤められ、中国人に愚弄せらるゝ東北人は蓋し「神の智者」として立つであらふ、是れ蓋し聖書に謂ゆる「工匠《いへつくり》の棄たる石は家の隅の首石《おやいし》となれり」との言に応ひてであらふ(馬太伝二十一章四十二節)、爾うして東北人が神の聖徒として立つ其時、岩手山の麓は薔薇の如くに咲き、六甲山の巓は膏《あぶら》を滴らすに至るのであらふ。
 それ故に余輩は家に在て東北の山野を黙想する時に常に聖詩人の言を想出すのである。
  涙と共に播く者は歓喜《よろこび》と共に穫《かり》とらん、
  其人は種を携さへ涙を流して出往きしかど、
  禾束《たば》を携へ喜びて帰り来らん。
            (詩篇第百二十六篇五、六節)
 
(202)     課題〔3「神の無窮の言葉彼得前書一章廿四、廿五節」〕
                     明治39年7月10日
                     『聖書之研究』77号「鹿録」
                     署名なし
 
     神の無窮の言葉
 
    彼得前書一章廿四、廿五節。
  夫れ人は既に草の如く、其栄はすべての草の花の如し、草は枯れ其花は落つ、然れど主の言葉は窮りなく存《たも》つなり。
       註解
 本文は以賽亜書第四十章六−八節より引用されし者なり、即ち左の如し、記者の改訳に依る、
   声あり、云く、叫べと、
   我答へて曰く、何をか叫ばんと、
   云く、人はみな草なり、
   その栄華《はえ》はすべて野の花の如し、
   草は枯れ花は凋む、
(203)   ヱホバの気息《いき》その上を吹きしに因ると。
   実《げ》に民は草なり、
   草は枯れ、花は凋む、
   然れど我等の神の言《ことば》は永遠《とこしへ》に立たん。
 使徒ヤコブも又同一の言を藉りて富者の富の果《はか》なきを述べたり。雅各書一章十、十一節。
       ――――――――――
 既に の文字原語に見当らず、之を除くを可とす 〇草の如し 草に等し、草なり 〇草の如し、樹の如くならず、檜、欅、橿、の如くならざるは勿論、梅、桜の如くにもあらず、草の如し、卉花の如し、白頭翁、牽牛子、欝金香、罌子粟の如し、橿は三百年を経《ふ》ることあり、然れども人は草花の如し、朝に開いて夕に散る 〇栄 光沢を云ふならん、其日光に輝く露の間を云ふならん、詩人ゲーテ言へるあり、美人の最も美はしきは二年にして消ゆと、桜花も見頃と称するは僅かに一日なり、大王と雖も其栄華の極に留まるは僅かに一二年のみ 〇草は枯れ其花は落ち パレスチナに於ては砂漠よりの熱風吹来れば花は茎諸共に枯死す、花は落ち草は存するに非ず、花は革と共に失す、栄華と共に其人失す、位階勲章は之を帯びし人と共に墓に葬らる 〇然れど 之に反して 〇主の言葉 主の語り給ひし言葉にして今は聖書に録さるゝ者なり、約翰伝一章一節にある道(ことば)にあらず、前者は希臘語の rhema にして後者は同じく logos なり、勿論後者なくして前者あるなし、然れども二者の間に自から別あり 〇存つなり のこるなり、天地は失するとも存るなり、是れ永久の真理なればなり。
――――――――――
(204) 是れ使徒ペテロの言なり、而して歴史は彼の言の偽はらざるを証明せり、羅馬帝国は失せしも聖書は存せり、大詩人の詩は忘れられしも漁夫ペテロの言は存せり、人は歳と共に其著作を葬むれども、眇たる聖書を葬る能は
ず、是を大書店に就て問へ、歳毎に廃たるゝ書の如何に多きを、十年の生命を保つ書を著はさんとするや甚だ難し、百年の後に至るも尚ほ廃たれざる書を著さんとするや実に難し、二千年間を経るも尚ほ世界の民に厭かれざる書を著はすことの不可能事なるは著作に従事する者の能く知る所なり、而して聖書は二千年後の今日僅に古典の一として人に珍重せらるゝにあらず、活ける今日の書として、生命のパンとして幾千万の人に必要視せらるゝなり、是れ神の書に非ずして何ぞ、而して吾人は聖書が無用視又は骨董視せらるゝ時代の到来に就て思惟する能はず、人といふ人の存在せん限りは聖書は活ける神の書として存すべし。
       ――――――――――
〔「東京 大野芳麿」の投稿文の末尾の付言〕
編者曰、少しく解し難き節あり、然れども其中に大なる真理を認めずんばあらず。
       ――――――――――
 本課題に対する応答はすべて五十通、深く寄送者諸君の好意を謝す、神の言葉に対する諸君の熱心を見て非常に歓ぶ、尚ほ続々と御投稿を乞ふ。
 
 八月分課題
   堕落信者の状態
(205)    彼得後書二章廿、廿一、廿二節
 右応募編輯の都合により七月二十日限り。
 第一等に対しては新版『求安録』一冊に著者の姓名を自署して進呈すべし。
 応募概則は之を前号の巻末に於て見られたし。
 
(206)     〔見ざる愛 他〕
                     明治39年8月10日
                     『聖書之研究』78号「所感」
                     署名なし
 
    見ざる愛
 
 我に近き者は我を憎まん、然れども我を離れたる者は我を愛せん、今の人は我を斥けん、然れども後の人は我を迎へん、見ざる愛は見る愛よりも深くして清し、我は我が友を見ざる人の中に求めん。
 
    成功と失敗
 
 我の為すべきことは神は成功を以て之を祝し給ふ、我の為すべからざることは神は失敗を以て之を呪ひ給ふ、成功、失敗共に是れ神の聖意を我に伝ふる福音なり、我は感謝して両者に接せん。
 
    友人の定義
       故今井樟太郎君に就て思ひ起す所あり。
 
 英国の某雑誌曾て賞を懸けて友人の定義を募る、而して其第壱等賞に当りしは左のものなりと云ふ、
(207)  友人は世が悉く我を棄去る時惟り我に来る者なり
と、是れ蓋し人類に由て提供されし最も完全なる友人の定義なるべし、かの滔々たる今の世の友人なる者、人の批評を聞ては疑ひ、新聞の記事を見ては世と共に棄去る、余輩は故今井君に於て真個の友人を見しを感謝す。
 
    聖旨に応ふ祈祷
 
 全世界の救はれんことを祈るべし、殊更らに我国の救はれんことを祈るべからず。全国の救はれんことを祈るべし、殊更らに我地方の救はれんことを祈るべからず。全地方の救はれんことを祈るべし、殊更に我町又は我村の救はれんことを祈るべからず。我町又は我村の救はれんことを祈るべし、殊更らに我家又は自己の救はれんことを祈るべからず。自己を以て祈祷の最終の目的物となすべし、而してキリストの聖旨に応ふ祈祷を神に捧ぐべし。
 
    勝利の生涯
 
 世を遁れんとする勿れ、世に勝つべし、境遇の改まらんことを祈る莫れ、心の改まらんことを祈るべし、苦痛の去らんことを願ふ莫れ、恩恵の増さんことを願ふべし、外に富み且つ栄えんと欲する莫れ、衷に喜び且つ楽む者となるべし。
 
(208)    俗人と魚
 
 清水に魚棲まずと云ふ、即ち俗人棲まずと云ふ、そは俗人は魚なればなり、然れども清水に月は映ずるなり、心の清き者は神を見るを得るなり、我等は魚と俗人とに棲まれんがために殊更らに努めて心を濁すを要せず、否な、益々明かに月を映ぜんがために、益々瞭かに神を見んがために、我等の心をして益々清からしむべきなり.
 
    信者より見たる不信者
 
 不信者より見て信者の如き奇異なる者はあらざるべし、然れども信者より見て亦不信者の如き奇異なる者はあらざるなり、百年に足らざる生涯を存在の全期と見做し、金力是れ能力なりと信じ、位階勲章を実質的栄誉なりとして喜び、聖書を浅薄なる書なりと嘲けり、成功は楽《らく》に面白く生涯を送ることなりと信ず、如何なる現象か之に優りて奇異なる者あらんや、我等は不信者の生涯の余りに児戯に類するを見て、時に或は抱腹絶倒して哄笑を発せざるを得ず。
 
    小学者と小商人
 
 大学を卒へ少しく智識を得たればとて既に宗教の要なしと云ひ、商業に従事し少しく財を作りたればとて既に宗教の要なしと云ふ、小なる頭脳は些少の智識を以て之を充たすを得べし、小なる慾心は些少の財貨を以て之を溢らすを得べし、小学者となり、小商人となりたればとて神よりも慧く、神よりも富めりと信ず、誰か云ふ希望(209)は青年に存すと、余輩は今の青年に就て失望せること今日まで幾回なる乎を知らず。
 
    宗教以上の人
 
 己れ宗教を信ぜず、然れども宗教の庇護者を以て自から任ず、己れ伝道に従事せず 然れども伝道の奨励者を以て自から居る、少額の汚財を宗教に寄附するが故に自己は宗教以上の人なりと信ず、今の商人、実業家、官吏、博士の類は概ね是れなり、彼等は些少の慈善を撒いて神と人とに対する自己の責任より免かれんと欲す、使徒ペテロ財奴シモンを詰責《せめ》て曰く
  汝の金は汝と偕に亡びよ、汝は神の賜を金にて得んと意へり、汝、この事に於て分《わかち》なく又|与《あづかり》なし、そは汝の心神の前に正しからざればなり、故に汝、この悪を悔改めて神に祈れ、汝の心の念《おもひ》或ひは赦されん、我れ汝が胆《たん》の若きに居り不義の繋《つなぎ》に在るを見る(使徒行伝八章二十−二十三節)。
 
    汚財に注意せよ
 
 我等主の聖き福音を宣伝ふるに方てキリストを知らざる富者の金を用ふべからざるなり、恐くは彼等は言はん「我が金に由て伝道は成功せり」と、伝道は金を斥けず 然れども金を乞はず、我等は伝道に由て主の栄を顕はすべし、之に由てキリストを崇めざる富者の名を揚ぐべからざるなり。
  アブラム、ソドムの王に言ひけるは我れ天地の主なる至《いと》高き神ヱホバを指して言ふ、一本の糸にても鞋帯《くつひも》にてもすべて汝の所属は我れ取らざるべし、恐くは汝「我れアブラムを富ましめたり」と言はん(創世記十四(210)章廿二、廿三節)。
 アブラハムはヱ享ホバのために戦ふに方てソドムの王より「一本の糸にても鞋帯にても」取らざりき、我等も亦彼に傚ふて「金銀の王」なる今の富者なる者より一銭の金一厘の銀をも受くべからざるなり、恐くは彼等言はん「我れ基督信者を富みましめて彼等をして此地に福音を宣伝へしめたり」と。
 
(211)     キリストの賜
                     明治39年8月10日
                     『聖書之研究』78号「所感」
                     署名 角筈生
 
 キリストは余に金を賜はらない、食物又は衣服、家屋又は土地を賜はらない、位階又は勲章又は地位を賜はらない、彼は余に取ては慈善家又は恩人ではない、彼は斯世の物を以て余を恵み給はらない。
       *     *     *     *
 キリストは余に学問を賜はらない、哲学又は倫理を賜はらない、美術又は文学又は学術を賜はらない、彼は余に取りては斯世の教師ではない、天然と歴史と技芸とに就て余は彼より学ぶ所はない。
       *     *     *     *
 然れどもキリストは余に自己《おのれ》を賜ふた、彼に在る生命を賜ふた、聖霊を賜ふた、神と人とを愛する心を賜ふた、忍耐と希望と歓喜とを賜ふた、然り、彼は余に神を賜ふた、而して神と共に宇宙万物を賜ふた、彼は余の死せる霊魂を活かし給ふて余をして内に富み且つ慧《さと》き者とならしめ給ふた。
       *     *     *     *
 夫れ故にキリストは余のすべてゞある、余の食物又衣服又家屋である、彼は又余が神の前に立つ時の誇り(勲章)である、彼は又余の義又余の智識である、彼は又余の「曙の星」であつて、余の歌の題目、美術の模型であ(212)る、彼は又余の自覚の根底であるから、余の哲学と倫理との基礎である、キリストは余に自己を与へ給ふて余に万物を与へ給ふた。
 
(213)     神と我と
                     明治39年8月10日
                     『聖書之研究』78号「所感」
                     署名 櫟林生
 
 天地は広し、人は多し、然れども其中に唯二人あるのみ、神と我と是なり。 彼、我を愛し、我又彼を愛し、我は彼の命に聴いてすべての事を為す、我は彼に誉められて喜び、責められて泣く、彼に善《よし》とせられんことは我が終生の目的なり、我、彼と偕に働き、彼と栄光と恥辱とを分つ、彼、崇めらるれば我れ歓び、彼、涜さるれば我れ怒る、我れ彼に我が手を携《ひ》かれて彼の造り給ひし宇宙を逍※[行人偏+羊]し、其中の諸《すべて》の獣《けもの》と天空《そら》の諸の鳥とを示され、我が生物に名づけたる所は皆な其名となる(創世記二章十九節)、我はまことに今の世に在て始のアダムなり、我の外に人あるなし、唯神、我と偕に在るのみ。
 神と我とのみ、故に我は彼に在りて万人と万物とを愛す、我は神に由らずして何物にも繋らず、亦神に由りてすべてのものに繋るなり。改行
 
(214)     加拉太書第二章に現はれたる解釈上の困難并に其自訳
                     明治39年8月10日
                     『聖書之研究』78号「研究」
                     署名 内村鑑三
 
   聖書の解釈は至て容易なる業であつて、是れは智慧も学問も要らない、誰にでも出来ることのやうに思ふて居る人が沢山在る、斯かる人は不信者の批評家の中に多い、彼等は未だ聖書を手に持つたことがない、或ひは持つても深く之を研究したことがない、故に斯かる浅薄の言を発するのである。
   又聖書は神の言葉である、故に之に意味の不明なる所などのありやう筈はない、是れは明々白々正午の太陽の如き者である、之を正当に解し得ないのは解釈者の信仰が足りないからである、熱心なる祈祷を以てして判らない聖書の言葉のありやう筈はないと、是れ聖書の外、何物にも頼らずと称する或派の教会信者の常に唱ふる所である、彼等は聖書は神の言葉なりとのドグマ的前提を置いて、其文字文法等には殊更らに目を注がない、故に斯かる楽天的の言を発するのである。然かし聖書の解釈は決して容易い業ではない、又信仰のみを以て就すことの出来ることではない、今其困難の一斑を示さんために茲に加拉太書第二章に現はれたる解釈上の困難の主なるものを掲げやうと欲ふ。
 
一節 十四年の後 改侶後十四年なるか、第一回ヱルサレム上京後十四年なるか、文法的に判定する能はず
(215)〇バルナバと偕にテトスを伴ひ 確かに誤訳なり、少くとも曖昧訳なり、パウロは自からテトスを伴ひてパルナバと偕に上京せしなり、テトスはパウロに属せし者なり。
二節 名ある者 原語の dokousi は単に見ゆる者とか、称せらるゝ者とかの意なり、有力者とか、オーソリチーとか訳する方、適当なるべし。
三節 ギリシャ人なるに尚ほ にては足らぬなり、バプテスト教会訳聖書は「之にすら」を加ふ。
五節 福音の真理、常に爾曹と偕に在らんこと云々 希臘話の pros は此場合に於ては「偕に」と訳すべき乎、「為めに」と訳すべき乎、之を文法的にも教義的にも解決する難し。
八節 ペテロに能力を予へて云々 「能力を予へて」は原文にては一語なり、訳するに難き言葉なり、ペテロなる固有名詞の前に en なる前置詞の欠くるが故に或る註解者は「ペテロのために働らき」云々と訳すべしと云ふ、即ち彼のために道を備へてとの意なり。
九節 柱と意はるゝ 「意はるゝ」は第二節に於て「名ある者」と訳せられし詞なり、「意はるゝ」は其原意なるや決し難し、或る学者は之を「称せらるゝ」と解して、少しく嘲弄の意を含むと言ふ、若し然らんにはヤコブ、ケパ、ヨハネの三長者に対するパウロの態度は余り面白からざりしが如し。
十一節 彼に責むべき所ありしに因り 不明の文字なり、彼(ペテロ)は(其行為に由りて)自己を罪に定めたりと言ひて云々と訳すべしの説を懐く註解者あり。
十二節 割礼を受けたる者 蓋し誤訳なるべし、割礼派の人と訳する方、適当なるべし、即ち割礼の救霊上必要を信ぜし者なり。
(216)十四節 福音の真に遵ひ 「遵ひ」の訳字は疑はし、「為めに」と訳する方、穏当なるべし、或ひは「遭ひ……行ふ」を一つの熟語と解して、正しく福音の真理を扱はざる(解せざる)を見云々と訳すべしと云ふ者あり、此場合に於けるペテロの誤謬は道徳的なりし乎、教理的なりし乎は一前置詞の解訳法如何に由て決せらるゝなり 〇ペテロに対するパウロの譴責の言は第十四節を以て終るべき者なるや、或ひは十八節まで続くべき者なるや、或ひは本章末節をも含む者なるや、文法的に決する能はず、然れども此問題を決せずして十四節以下を解釈すること甚だ困難なり。
十六節 行に由るに非ず の「由る」は曖昧なり、直ぐ後にある信ずるに由るの「由る」は別詞なり、前の「由る」は「結果として」なり、爾か釈する方適当なるべし 〇惟 ean me 難解詞なり、「惟」なる乎、「にあらざれば」なる乎、惟キリストを信ずるに由て(全く律法の行を離れて)救はるゝなる乎、或ひはキリストを信ずるにあらざれば、律法の行を以てするも救はれざる乎、即ち、信仰のみを以て救はるゝ乎、或は信仰兼行為を以て救はるゝ乎、是れ此場合に於ては ean me の解釈如何に由て決せらるゝ問題なり。
十七節 罪人ならば 訳文不足なり、罪人と認めらるゝならば、或ひは罪人として発見せらるゝならば 〇前後の関係より本節の意義を発見すること甚だ難し、註釈者中に異論多し。
十八節 我が は誰なる乎、パゥロなる乎、或ひはペテロを指して言ふなる乎、或ひは不定代名詞なる乎。
十九節 律法に由り律法に向ひて死せり 難句なり、「由り」にはあらざるべし、そは我等はキリストに由り法律に死する者なればなり、律法の下に在りながらの意なるべし、異説多し。
二十節 至難の一節なり、註釈者中異説多し、パウロは余りに簡潔なる文字を用ひて我等後世の註釈者を苦まし(217)むること甚だ大なり、我等は本節に顕はれたるパウロの大意を知るのみ、其細密に就ては之を聖書解釈学の進歩に俟たざるべからず。
  以上は余輩の浅学を以てするも本章に於て容易に発見し得る解釈上の困難なり。左に載する訳文の如きは諸訳を折衷し之に余輩の自己の所見を加へて成りし者なり、識者の批正を俟つ。
       ――――――――――
一、其後十四年を経て我れバルナバと解に復たヱルサレムに上れり、我は又我と共にテトスを伴へり。
二、我は黙示に循て上れり、而して我は我が異邦人の中に宣伝ふる所の福音を彼等の前に述べたり、殊に密かに「有力者」の前に述べたり、是れ我が今行す所の事、或ひは既に行せし所の事の徒労に帰せざらんためなり。
三、然れども我と解にありしテトスはギリシヤ人なるも、彼すら割礼を強ひられざりし。
四、是れ窃かに入れられし偽はりの兄弟ありしに因てなり、彼等は我等がイエスキリストに在りて有つ所の自由を窺ひ、我等を奴隷にせんために窃かに入り来りしなり。
五、我等は彼等に片時も譲らざりし又順はざりし、是れ福音の真理の汝等の中に存せんためなり。
六、かの有力者と称せらるゝ者よりは……彼等が前《さき》に何たりし乎は我に於て何かあらん、神は顔に由て人を受け給はず……
七、然り、「有力者」は我に何の加ふる所なかりき、而已ならず、彼等はペテロが割礼者の福音を以て委ねられし如く、我が非割礼者の福音を以て委ねられしを見て
八、……まことに割礼者の使徒たらしめんがためにペテロのために働らき給ひし者は亦異邦人の使徒たらしめん(218)がために我がためにも働らき給へり……
九、彼等は我に賜はりし恩恵を知りしに因り、柱と称せらるゝヤコプ、ケパ、ヨハネは我とバルナバとに親交の右手を与へたり、是れ我等は異邦人の中に、彼等は割礼者の中に、行かんためなり。
十、彼等は唯我等が貧者を記憶せんことを求めたり、此事たる亦我の進んで為さんと欲する所なりき。
十一、ペテロ、アンテオケに至りし時、我はまのあたり彼に反対せり、彼に責むべき所ありたればなり。
十二、そはヤコブよりの人の至らざりし前には彼は異邦人と食を共にせり、然れども彼等至りし時には彼は割礼派の人を懼れて自から退きて別れたればなり。
十三、彼に傚ひて亦|余《ほか》のユダヤ人も偽はりて己を装ひたり、而して遂にバルナバまでも彼等の偽善に引入れられたり。
十四、然れども我れ彼等が福音の真理に遵ひて正しく歩まざるを見るや、衆人の前に於てペテロに言て曰く、若し汝ユダヤ人なるに異邦人の如くに行ひてユダヤ人の如くに行はずば、何故に異邦人を強ひてユダヤ入の如くに行はしめんとするや。
十五、我等は性来のユダヤ人にして異邦の罪人にあらざるなり。
十六、然れども人は律法の行為に由て義とせらるゝにあらず、唯イエスキリストを信ずるに由るなるを知るが故に、我等も亦律法の行為に由らずしてキリストを信ずるに由て義とせられんためにキリストイエスを信じたりき、律法の行為に由りて義とせらるゝ者一人もなしとあるが如し。
(219)十七、若し我等キリストに在りて義とせられんと欲する者が自から罪人として認めらるゝならば、然らばキリストは罪の役者なる乎、勿論然らず。
十八、まことに我若し先きに毀しものを今複た建んには、我は自から罪人なるを証するなり。
十九、我は律法に由り律法に対して死せり、是れ神に対して活きんためなり。二十、我はキリストと偕に十字架に釘けられたり、もはや我れ生けるに非ず、キリスト我に在りて生けるなり、今我れ肉体に於て生けるは我を愛して我がために己を捨てし者、即ち禅の子を信ずるに由てなり。
二十「我は神の恩恵を空くせず、そは若し義とせらるゝ事律法に由るならば、キリストは要なきに死に給ひたればなり。
 
(220)     イエスの矛盾
                     明治39年8月10日
                     『聖書之研究』78号「研究」
                     署名 内村鑑三
 
  或る月曜日の午後、友人独逸人某と散策を目白附近田圃の間に取る、談は日本人の風俗問題より基督信者の信仰問題に移り、終に茲に掲ぐる題目を想出するに至れり、彼れ問を起し、我れ之に和し、落合の里に、雑司ケ谷の森に、夏の日の暮るゝを知らざりき。
 イエスは理想の人であります、彼は我等基督信者が仰いで以て完全無欠の人と見做す人であります、然るに此人に矛盾があつたと云ふのであります、是れは余りに奇矯の言のやうに聞えます、然しながら事実は予想と全く違ひます、イエスの行為に多くの矛盾がありました、是れ福音書の明白に示す所であります。
 イエスは己は柔和なる者であると曰はれました、「我は心柔和にして謙遜者なれば我軛を負ひて我に学べ」と曰はれました(馬太伝十一章廿九節)、然るに斯う曰ひ給ひし彼は時には縄をもて鞭を作り、神の殿《みや》に在て売買する者を叱咤し、「我が父の室《いへ》を貿易《あきなひ》の家とする勿れ」と罵られまして彼等を殿より逐出されました(約翰伝二章十二節以下)、是れイエスの矛盾の第一ではありません乎。
 イエスは又自から「税吏并に罪ある人の友」を以て任ぜられ、パリサイの人にして彼を請《まね》きて食を共にせんとする者があれば、喜んで其請きに応じて其客となられしに関らず(路加伝七章卅六節以下)、常にパリサイ人を(221)罵て歇み給はず、「噫、汝等禍ひなるかな偽善なる学者とパリサイの人よ」と繰返し繰返して彼等パリサイの人を咀はれました、喜んでパリサイ人の客となられしかと思へば、同じパリサイ人を言《げん》を極めて罵られました、是れイエスの矛盾の第二ではありません乎。
 イエスは又其弟子に命じて「異邦の途に往く勿れ、又サマリヤ人の邑にも入る勿れ、惟イスラエルの家の迷へる羊に往け」と曰はれまして当時の伝道をイスラエル人の中に限られ(馬太伝十章五節以下)、己も亦カナンの婦《をんな》に告げてイスラエルの家の迷へる羊の外に我は遣はされず……児女《こども》のパンを取て犬に投与ふるは宜しからず」と曰ひて救済《すくひ》を求むる彼女の請《こひ》を斥んとせられしに関はらず(仝十五章廿一節以下)、ヤコブの井戸の辺《ほおり》に於てサマリヤの婦《をんな》に遭ひ給へば之に彼が為されし説教の中で最も深いものを聴《きか》せられ、又犬とまで呼び給ひしカナンの婦の乞を納れて直に其女を※[病垂/全]《いや》されました、己は特にイスラエルの家の救主であると曰はれながらイスラエルの家の者よりも異邦の民を愛し給ひました、是れイエスの矛盾の第三ではありません乎。
 其他数へ来ればイエスの矛盾は之に止まりません、其母に向て「我時未だ至らず」と曰ひ給ひて其要求を拒まれし乎と思へば、直に其願ひ通りに水を葡萄酒に化して彼女を喜ばし給ひました(約翰伝二章)、又彼の隣人や兄弟が彼にヱルサレムへ上らんことを勧めました時には彼等に答へて「我時未だ至らず、汝等の時は恒に備はれり」と曰はれまして、曖昧の中に彼等の勧告を葬られながら、彼等が上京せし後に、彼も亦続いて上られました(仝七章二節以下)、是等は悪く解すれば虚言のやうにも聞えまして、イエスの言としては受取り難いやうにも見えます。
 爾うしてイエス許りではありません、イエスの精神を最も善く解した使徒パウロの行為に於ても多くの矛盾を発見することが出来ます、彼れパウロはユダヤ人を懐ける方便として其弟子テモテには割礼を行ひながら(使徒(222)行伝十六章三節)、同じ弟子のテトスに割礼を強ひんとする者がありました時には怒て之を拒みました(加拉太書二章)、又己はヘブライ人中のヘブライ人であると曰ひて誇りながら、時には彼が有ちし羅馬の市民権を振廻はして、自分の生命の保安を計りました(仝廿二章廿五節)、是等も亦矛盾と云へば確かに矛盾であります、弟子は其師に似て時には政略を弄したと基督教の敵は云ひませう。
 是れは抑々如何ういふ訳でありませう乎、聖人や義人に矛盾があつても宜いものでありませう乎、彼等は主義一徹の人でなくてはならないではありません乎、従つて言行一致、始終一貫は彼等の特性たるべきではありません乎、実にイエスの敵が彼を誤解した理由の其一つは彼等が称して以て彼の行為の矛盾となした者であつたことは明かであります、彼等はイエスを了解するに非常に苦みました、善人のやうにも見え、悪人のやうにも見え、聖人のやうにも見え、偽善者のやうにも見え、誠実の人のやうにも見え、策略の人のやうにも見え、柔和なる人のやうにも見え、残酷なる人のやうにも見えました、彼等は困迷の極、或時は彼に問ふて曰ひました
  我等を幾時《いつ》まで疑はするや、汝、若しキリストならば明かに我等に告げよ(約翰伝十章廿四節)
と、彼等はイエスの如き人物を解し得ませんでした、彼等は所謂る主義の人を解し得ました、又斯かる人を非常に尊敬しました、其主義の何たる乎は彼等の深く問ふ所ではありません、帝国主義でも、世界主義でも、平民主義でも、社会主義でも何んでも宜いのであります、彼等は唯複雑に堪えないのであります、彼等は唯彼等の理想の人より単純を要求するのであります、水晶のやうな透明なる人生観、之を一丸となして呑込むことの出来るやうな教義、一言にして足れりと云ひ得るやうな倫理系、是れ彼等が要求する所であります、然かもイエスは斯かる主義一天張りの人ではありませんでした。
(223) イエスに何故に矛盾があつたのでありませう乎、彼は学者ではないからであります、彼の人生観なるものは……若し彼にも斯かるものがあつたとしますれば……之は彼が沈思黙考錬磨研究の結果として得たものではありません、彼は所謂る篤学の士ではありませんでした、温厚の君子ではありませんでした、彼は心を錬り思を凝らした結果救主として世に出た者ではありません、其点に於て彼は確かにソクラテスや孔子や釈迦と違ひます、イエスは「哲人」ではありません、所謂雪螢の功を積んだ者ではありません、イエスを世の先生と見たのが彼の同時代の人が彼を全然誤解した重なる理由であります、又今の人が、殊に今の東洋人が彼を解し得ない重なる理由であります。
 イエスは神の子であります、故に最も純正なる意味に於て人の子であります、彼は人の手を以て磨き上げたる宝玉のやうな者ではありません、「人手によらずして山より鑿《き》り出されたる石」のやうな者であります、(但以理書二章四十五節)、イエスは又婦人の織手によりて造られたる造花のやうな者ではありません、彼はシヤロンの薔薇の花であります、造花は之を解剖するに至て容易くあります、然かし天然の花は其一弁と雖も之を知悉《しりつく》すことは出来ません、イエスは神の子でありますから又天然の子であります、彼を解するの困難は天然を解するが如く困難であります。
 誰か天然に矛盾がないと云ひますか、天然は実に矛盾だらけであると云つても宜しう厶います、天然程美はしい者はありません、然かし亦天然程懼ろしい者はありません、岩間に咲く石竹と其傍に轟く瀑布と、何んと矛盾して居るではありません乎、然かし同じ天然であります、濃《こき》紫に山端《やまのは》せ彩る夕陽と、炎天に人畜を鎔《とろか》す夏の正午《まひる》の太陽と、何んと矛盾して居るではありません乎、然かし同じ天然であります、一滴の水の中にも数万の動植物(224)が生々として動いて居る乎と思へば、蒼穹は星の塵埃を揚げて永久に廻転して居るではありません乎、然し同じ天然であります、そよ吹く風もあります、又大船を覆す暴風もあります、然かし同じ天然であります、天然とは学者の脳裡に容易く収まるやうな、微少《ちいさ》な者ではありません、是れは学者を呑込むべき者でありまして、学者に呑込まるべき者ではありません、然かり天然に数限りなき矛盾があります、然かし、我等は天然を讃美して止みません。
 曙の星なる我等の主イエスキリストは神の懐を出て直に此世に臨まれたる者でありますから、彼にも亦我等狭き人間の目から視ました時には多くの矛盾があります、彼は世の罪を負ふ神の羔であります、それと同時に又「ユダの支派《わかれ》より出たる獅子」であります(黙示録五章五節)、彼はシヤロンの薔薇であります、それと同時にまた「エツサイの根めざし、異邦人を治めんとする」救ひの大樹であります(羅馬書十五章十二節)、イエスは小であります、又大であります、彼に小児の心があります、又父なる神の能力があります、彼に婦人の愛と涙とがあります、又国民を打砕く忿怒があります、彼の細き微少き声に接するは、夏の涼風《すゞかぜ》に接するが如くであります、然かしながら彼の叱咤する所となるや、暴風も其声を収めます、イエスは宥め給ひました、又怒り給ひました、泣き給ひました、又罵り給ひました、小児を愛し給ひました、祭司長老牧伯を詛ひ給ひました、イエスに一定の主義なる者はありませんでした、即ち「必ず泣くまい」とか、「必ず怒るまい」とか、云ふやうな規則はありませんでした、彼は非常に小児を愛せられましたと同時に御自身が大なる小児であり給ひました、小児に主義や方針や規則のないやうにイエスにも爾んな定木はありませんでした、イエスは泣く時には泣き、怒る時には怒り、愛する時には愛し、憎む時には憎み給ひました、イエスには世の外見を憚かる遠慮なる者はありませんでした、(225)彼は父の懐より出て小児の自由を以てその一生を終られました。
 然らばイエスは無主義、無節操、気儘勝手の人であつた乎と云ふに、勿論爾うではありません、彼は神の子、謙遜犠牲の模範であります、彼の矛盾なる者は二心より出たる矛盾ではありません、彼の矛盾に大なる調和のあることは少し深く彼の生涯に就て究めた者の斉しく認むる所であります、彼を外より見ずして内より見て御覧なさい、彼ほど合宜《コンシステント》の人はありません、彼の中心に自己を置いて彼の生涯を見て御覧なさい、是れは整然たる道徳的大宇宙であります、イエスを解せんと欲せばイエスの自覚に達しなければなりません、己に神の生命《いのち》を受けて神の子の一人と成りて「長子イエスキリスト」を見て御覧なさい、彼の姿は富士山のそれよりも善く相合《さうがう》して居ることが判ります。
 イエスの矛盾なる者は世の俗人より見たる矛盾であります、天使の眼に映ずるイエスの生涯には矛盾は一つもないと思ひます。
 或人が曾て米国の大詩人ヰットマンを責むるに彼の言行の矛盾を以てしました、其時彼は答へて
  現に矛盾あり、然り、確かにあり、
  そは我は大なればなり
と言ひました、彼の意、蓋し小君子には矛盾なからん、然れども宇宙大を求むる詩人には矛盾なからざるを得ずとのことであつたのでありませう、人は大なれば大なる程、矛盾は免かれません、勿論罪に生れたる人間の矛盾でありますれば是れは悉くイエスの矛盾と較ぶべき者でないことは明かであります、然かしながら所謂る偉人の矛盾なるものは其すべてが矛盾でないこと、其事も又明かであります、ルーテルは矛盾の人でありました、然(226)しながら世の人が思ふ程の、又思ふやうな矛盾の人ではありません、コロムウェルも爾うであります、モハメットも爾うであります、我が日蓮 太閤のやうな人も爾うであります、円満の人と称へらるゝワシントンですら怒つた時には当るべからざる人であつたとのことであります、主義の人の模範として仰がれしグラッドストンも幾回《いくたび》か表裏反覆を以て彼の政友政敵両つながらに責められました、小人は英雄の心を知りません、爾うして己の解らないことは悉く之を矛盾と称します、同じやうに罪の人には聖き神の子は解りません、我等はイエスに矛盾を認めて、彼を斥けてはなりません、己れイエスの心を神より賜はりてイエスの矛盾に神の大なる調和を認むるに至るやう、常に祈るべきであります。
 
(227)     聖霊を受けし時の感覚
         七月一日角筈自宅に於て為せる講演の一節
                     明治39年8月10日
                     『聖書之研究』78号「実験」
                     署名なし
 
 聖霊を受けし時の感は是れである、即ち斯んな善い者は全世界にない、是れさへあれば余は何んにも要らない、金は勿論、位も名誉も何んにも要らない、家庭も要らない(若し神の聖意ならば)、事業も要らない、成功も欲しくない(若し神の聖意ならば)、伝道に従事することが出来なくとも可い(若し神の聖意ならば)、何んにも要らない)、唯之(聖霊)を永久に有つて居りたい、之に去られては堪らない、如何にかして之を永久に存して置かなければならない。
 嗚呼、平和、平康、安心、聖書に書いてある人の思念に過ぐる平和とは此事であらふ、我が過去はすべて忘れられ、我が未来は希望満々たり、人生の意味は判かり、殊に苦痛問題は美事に解釈され、天は晴れ、地は動かず、樹も草も、獣も鳥も、日も月も星も、皆な我に同情を寄するやうに思はれる、是れが若し天国でないならば何が天国である乎、天より降る新しきエルサレムを我は此世に於て見ることが出来て感謝する。
 人は聖霊を受くるは自覚を失ふことであると云ふ、狂気すること、心神が転倒することであると云ふ、彼等は或る時、今の教会に於て行はるゝ所謂るリバイバルなるものを見て爾う云ふのであらう、然かしあれは真正《ほんとう》の聖(228)霊の降臨ではないと思ふ、聖霊の降臨とは実に静かなるものである、心の根底より始まり、全身に行渉るものである、其時我等は自覚を失ふのではない、否な、其れとは正反対である、我等は其時始めて正気に還へるのである、聖霊の降らない我れが狂つて居るのである、聖霊が降つて我は始めて正気に還へるのである、自覚するのである、神と宇宙と我との関係を正確に知覚するのである、此時我は始めて人らしく感ずるのである、聖書に書いてある神の己を愛する者の為に備へ給ひしものは目未だ見ず耳未だ聞かず人の心未だ念はざる者なりとの言葉の意味を始めて了解するに至るのである。
 斯んな嬉しい事、斯んな有難い事を余は余の斯世の生涯に於て実験しやうとは思はなかつた、嗚呼、今より後永久続けて斯かる歓喜に与かりたいとは或ひは望外の望であるかも知らない、然かし縦し一分間でも可い、一分間なりと斯世から天国を覘《のぞ》いたのである、此一分間を得んがために余の生涯のすべての苦痛があつたとするも余は悔いない、余は唯此昇天的歓楽を一度も味はないで世を逝る人の多いのを見て彼等のために非常に気の毒に感ずる、余は今より後余の死ぬるまでに斯かる経験を尚ほ一度も有つことが出来ずとも深く神に感謝すべきである。
 天国とは何である乎、斯かる経験の妨碍《さまたげ》なき享楽の連続であるに相違ない、我等は此世に於ては僅かに霊の質を得るのである、即ち天国に於て受くべき聖霊の一部を得るのである、神は我等をして斯世に於て天国の前味を為さしめんがために之を賜ふのであらふ、我は一度び聖霊を味ふて其味を忘れることは出来ない、縦し我が望む通りに、我は終生之を我衷に留むることが出来ないにもせよ、来世に於て再び其恩賜に与からんと欲する希望を以て我は忍耐を以て斯世のすべての戦争を關ひ通すことが出来る。
 是れである、然り、是れである、是れが基督教が人類に与へんとする最大の賜である、是を受くるための手段(229)とならずしてバプテスマの式も、聖晩餐の式も、神学の研究も、日曜日毎の礼拝も、何の用にも立たない、是を得て我は始めて満足するのである、是を得る迄は我に何等かの不満は絶えない、summum bonum 主なる善とは是れである、是を我等に賜はんために神は其独子を斯世に遣はし、又キリストは我等のために十字架の上に血を流し給ふたのである、聖霊の恩恵に与かりて我は始めて聖書が明白に解るに至つた、旧約の準備も新約の充応も此恩恵を人の子に賜はんためである、此恩恵に接して我は罪に勝つことが至て容易すくなるのである、従つて何の苦もなくキリストの訓誡を守ることが出来るやうになるのである、聖霊を受けずして聖書に示してある神の命令を能く守ることは非常に難い、然り、不可能事である、然しながら神の此最大の恩恵に接して見れば敵を愛することは何んでもない、財嚢《さいのう》の紐を緩めて其中にある金銀を人に施すことも何んでもない、聖霊に接して憎悪《にくみ》とか慾とか云ふやうなものは皆んな何処かへ飛んで往いて了う、是を受けて大伝道も大慈善も出来るのである、茲に至て基督教国に大慈善家が起て、非基督教国にその起らない理由が明白に判る、聖霊に慾の根を絶たれて富豪《かねもち》も自由に其金を擲つに至るのである、此経験を持たない我国の富豪が思切つて大慈善を為し得ないのは決して怪むに足らない。
 故に祈求《もと》むべきものは是れである、聖霊である、是れが基督信者の祈祷の目的物である、彼は何よりも先きに先づ之を祈求むべきである、事業の成功、家庭の平和、教会の隆盛、伝道の成功、是れ勿論祈求めて悪いものではない、然かし基督信者が第一に祈求むべきものではない、基督信者の祈求《もとめ》と云へば聖霊でなくてはならない、故にキリストは曰ひ給ふた、
  汝等の中父なる者誰か其子パンを求めんに石を予へん乎、魚を求めんに其れに代へて蛇を予へん乎、卵を求(230)めんに蝎《さそり》を予へん乎、然れば汝等|悪者《あしきもの》ながら善賜《よきたまもの》をその児等に予ふるを知る、況して天に在す汝等の父は求むる者に聖霊を予へざらん乎(路加伝十一章十一−十三節)。
 祈求むれば聖霊が予へられるとのことである、我等何人も此恩恵に洩れざらんやう祈るべきである。
 
(231)     米国人の伝道法
         附、余輩の伝道法
                     明治39年8月10日
                     『聖書之研究』78号「実験」
                     署名 内村鑑三
 
 余の見し所を以てすれば米国人の伝道法は大略左の如し、
   先づ第一に金を募るべし、金なくしては何事も為す能はず、教会も建る能はず、伝道師も雇ふ能はず、会館も設くる能はず、雑誌も出す能はず、金は近世伝道の最大要素なるを認むべし、故に金は成るべく多きを要す、故にすべての方法を以て之を募るべし、之を信者より募るは勿論、不信者より之を募るも可なり、彼等が基督教を賛成すれば足れり、彼等の品性の如きは深く探ぐるを要せず、彼等の金を伝道に使用するは彼等をして善を為さしむることなり、金に善悪の差別あるなし、何人の手より出るも金は金にして力なり、吾人は成るべく多く之を得て得るべく広く吾人の教勢を張るべきなり。
   金を得し後は大に社交的勢力を使用すべし、先づ国務大臣の賛成を得べし、知事、代議士、郡長 村長の意を迎ふべし、先づ首を化して然る後に手足に及ぶの途を取るべし、婦人会を起すべし、而して其会長としては土地の有力者の夫人を選ぶべし、青年会を起すべし、而して大政治家を招いて其経綸を聞くべし、先づ基督教をして社会的大勢力たらんことを努むべし、然らば民心は風靡して之を戴くに至るべし。
(232)  努めて政府に接近すべし、出来得べくんば貴顕※[手偏+晉]紳と交を結ぶべし、大に其政略を援くべし、愛国の熱情を表顕するに方ては人後に立たざらんことを努むべし、今の世に於て輿論に逆ひて何事も為す能はず、vox populi est vox dei 衆人の声是れ神の声なり、輿論と神の声との間に軒輊あるべき理なし、而して神の声は時には之を判別する難し、然れども輿論は新聞紙に依て瞭かに之を知るを得るなり、吾人は輿論に反して神に逆はざるやう努むべし、
  而して直接伝道の方法たるや必ず最も進歩したる制度に由るべし、先づ全国を伝道区に区劃すべし、而して各区に管長を置くべし(其名は何と称するも可なり)彼より毎年報告を徴すべし、精細なる統計を作らしめて之を伝道本部に送らしむべし、毎年大会を設くべし、部会を設くべし、而して伝道師の黜捗、伝道費の募集、分配等に就て審議すべし、何事をも委員を設けて調査せしむべし、而して時には信徒全体の大親睦会を開いて、大に教勢を教会の内外に向つて発揚すべし。
  而して伝道師を養成するに方て彼等に人心収攬の術を授くべし、パウロもウエスレーも大統率者たりしなり、此才能なくして信仰如何に厚きも伝道に成功する能はず、教会を設立し、之を維持し、之をして隆盛ならしむること、是れ伝道師たる者の第一の職務なり、彼に雄弁術を授くるは最も肝要なり、彼は彼の風彩彼の能弁を以て民心を彼が望む儘に翻弄し得るの力を供へざるべからず。
  伝道師は成るべく円満の人たるを要す、衝突は彼の最も慎むべき最も忌むべきものなり、彼は上は監督との衝突を避けざるべからず、下は信徒との衝突を避けざるべからず、又社会と教会との間に立て二者の調和を計らざるべからず、故に彼は努めて艶麗の言語を用ゆべし、信徒を怒らすべからず、有力なる信者は殊に(233)然り、彼等の賛助を失ふて教会は終に立たざるに至るべし。
   詮ずるに宗教は国家的大勢力たらざるべからず、社会的大感化力たらざるべからず、之を個人のことゝして見るべからず、国家の政権を信徒の手に握るまでは吾人の伝道は成効せりと思ふべからず云々
 以上は余輩が米国人の伝道方法として、其本国に於て、又其伝道地の一なる日本国に於て過去三十余年間目撃せし所の大略なり、其如何なる結果に終りし乎は基督教会現時の状況が最も明白に示す所なり、而して是れ余輩の伝道法にあらざることは本誌の読者の夙に知る所なり、余輩が今日まで外国宣教師と事を共にする能はざりしは彼等が外国人なるを嫌ふてにあらず、又彼等自身を忌みてにあらず、彼等の伝道法なるものゝ余輩の観る新約聖書的方法と全く趣を異にするが故なり、余輩の伝道は主として個人的、心霊的たるに換へて彼等の伝道は国家的、社交的、政治的、制度的、統計的、役人的、軍略的なるが故なり、余輩は衷に深からんと欲するに彼等は外に広からんと欲す、余輩は各自直に神に近かんと欲するに、彼等は団体的に神の指導の下に動かんと欲す、余輩は主として個人的救主を求むるに彼等は社会的救世主を求む、余輩は静かなる所に「神よ此罪人を赦し給へ」と叫んで余輩の胸を撃たんと欲するに、彼等は聖徒の団体を作り、社会の公的勢力たらんと欲す、故に彼等は伝道に金を要すること甚だ多しと雖も、余輩は之を要すること至て尠し、従て余輩は世の貴顕※[手偏+晉]紳に頼むの要を感ぜず、余輩は各自一枚の舌と一本の筆とを以て希望満々の中に余輩の伝道事業に就くを得るなり、余輩は「信者を作る」も(米国流信者の言を藉りて言ふ)之を教会に収むるの要を感ぜず、余輩は信者は之をすべて神に任かし奉る、而して神は又其簡び給ひし者を必ず失ひ給はざるを知る、余輩は福音のために道を開かんとせず、福音をして余輩のために道を開かしむ、余輩はキリストに在りて祈祷を以て信仰上の兄弟姉妹と交通す、名を教会の帳簿(234)に聯ねて兄弟姉妹と称ばれんことを欲せず。
 余輩の信仰の根底は是れなり、即ち「イエスと我れと」なり、余輩の伝道の秘訣は是れなり、即ち「イエスと汝と」なり、而して余輩は此個人的信仰の永く個人的信仰として止まらざるを知る、斯かる信仰の個人の心に植附けらるゝや遠からずして疾風となり、洪水となりて、社会を風靡し国家を潤すを知る、然れども余輩は目を社会的感化に注がず、単へに迷へる兄弟を一人々々に父の懐に連来らんと努む、故に余輩は大なるを望まず、実なるを欲す、華奢なるを憎み、樸素《じみ》なるを愛す、大演説を避け坐談を求む、(米国宣教師の或者は斯かる対座的伝道を「火鉢伝道」と称したり、蓋し適称なるべし)、余輩は世を救はんとするに方て大統領リンコルンが奴隷を解放せし方法に由らずしてジヨン・エリオツト(彼も米国人なりし)が米国の銅色土人を救ひし方法に由らんと欲す、余輩の理想的伝道師はビーチヤーにあらず、ブレナード(彼も米国人なりし)なり、伝道界の勇将某々等にあらずして、独り静かにラブラドルの土人に福音を伝へし独逸モラビヤ派の宣教師なり。
 嗚呼、米国よ、汝は余の教師なりし、而して余は汝の教へし方法に従ひ、余の同胞を救はんと努めて茲に三十余年、而して其効果の甚だ尠きを以て、又余の気質の之に合はざるを見て(或は余の臆病なるに由らんも)余は全然之れを廃棄せざるを得ざるに至れり、汝、余の頑硬を免ぜよ、余は教主イエスキリストを棄てしにあらず、又伝道を廃せしに非ず、只汝の伝へし伝道の方法たる余りに金銭的にして、余りに機械的にして、余りに政治的にして、余りに策略的なるが故に余は主の名に由りて之を廃棄せしなり、而して余は余の愛する汝に望む、汝、今日少しく汝の祖先の行為に鑑みる所あり、人を団塊《マツス》として扱ふことを止め、個人として導くことを努め、衷に富み且つ栄ゆるの道を求めて、外に張る異邦人的の方法を棄てんことを。
 
(235)     余の今日の基督
                     明治39年8月10日
                     『聖書之研究』78号「実験」
                     署名 内村鑑三
 
 イエスキリストは昨日も今も永遠変らざる也と云ふ(希伯来書十三章八節)、彼はまことに歳と共に変る者ではない、然し我等の心に映ずるキリストは我等が変ると同時に変る者である、我等の生涯の目的は勿論完全の人即ちキリストの満ち足れる程と成るまでに至ることである、(以弗所書四章十三節)、然かし此の終局の目的に達するまでには、我等は種々の状に於てキリストを仰ぎ奉るのである、余の今年の基督は十年前のそれではない、然かり、余は日に日に異つたる方面よりキリストを仰ぎ奉る者である、勿論、異つたるキリストではない、同じキリストである、然かし同じ富士の山が之を眺める方面と之を包む雲の様子とに由て其形状を異にするやうに、キリストも彼を仰ぎ瞻る方面と我等を包む雲の有無種類等に由て其、我等に顕はし給ふ容貌を変へ給ふのである。
 余は今年の今日、何うキリストを観奉る乎、是れ余が今読者に告げんと欲する所である。
 余は今も前の如く、然り、前よりも一層深く、キリストを余の友人として認むる者である、余は此世に於て友人に乏しき者ではない、然かしキリストなる友人なくしては非常に淋しく感ずる者である、余の心の中には世の友人の同情推察を以てしては到底充たすことの出来ない空所《あき》がある、余のすべての友人に繞囲せられても余は矢張り宇宙に於ける孤客である、世に余を充分に慰め得る者は一人もない、余は心の奥底に於て鰥寡孤独、宇宙の(236)漂流人《さすらひびと》である。
 然しながらキリストを友として持つて、此寂寥の感は余より全く取除かれるのである、キリストは余の唯一の友人である、人の如く不実ならず、然りとて神の如く森厳ならず、人にして神、神にして人、彼と偕に歩んで人に欺かるゝの危険もなければ、亦神を棄去るの恐懼《おそれ》もない、彼を友とし持つて、余は一方に於ては俗人と成了り、他方に於ては狂信家と成了るの危険より免かるゝことが出来る。
 殊に無教会信者たる余に取りてはキリストの友愛は余の交友の渇を潤す唯一の甘露である、余はまことにキリストなくしては無教会信者たり得ざる者である、余には教会はない、従つて法王も、主教も、監督も、牧師もない、若し今の教会信者が「聖徒」であるならば、余は所謂る「聖徒の交際」なる者は一つも有たない者である、然かしながら此地位に立つて余は一層深くキリストの友愛を感ずるのである、キリストも無教会信者であり給ふた、ナザレの教会は彼を放逐した、彼は祭司学者パリサイの人の中に一人の友人を有ち給はなんだ、彼は身を寄するの信者の団体を有ち給はなんだ、狐に穴あり、空の鳥に巣あり、然れども人の子は枕する所が無つた、彼は社交的にのみならず亦教会的に、然り、殊に教会的に孤独であり給ふた、我等は此世に在ていくら孤独であつてもキリストほど孤独であることは出来ない、キリストは人の中で最も孤独なる者であつた。
 爾うして斯かる人を友とし持つて、孤独は却つて歓喜と化するのである、キリストと親交を厚くせん為に丈けでも孤独は却つて追求すべき者である、キリストは彼と二人歩むにあらざれば彼の深き事を我等各自に伝へ給はない、此世と此世の教会とに棄られざるにあらざればキリストに深き同情を有つことは出来ない、余は無教会信者ならざる者が何うしてキリストの善き友となることが出来やう乎と、独り私かに訝かる者である。
(237) 然かし余は勿論、今キリストを余の友人としてのみ尊ぶ者ではない、キリストは余の友である、余の霊魂の牧者監督である、余の教師である、余の王である、余の救主である、然り、余の総てゞある、然り、余の今のキリストは余以外の者ではない、キリストはキリスト、余は余と、二個別の者ではない、余は余の存在をすべてキリストに移した者である、然り、日々に移さんと努めつゝある者である、循つて余はキリストに真似んと欲する者ではない、彼は又余が真似んと欲して真似ることの出来る者ではない、キリストの如く成らんと欲するは余の求願《ねがひ》ではあるが、然かし、今日の余は斯く成らんと自から努むる者ではない、其故如何にとなれば余は既に今日までの余の生涯の実験に由て斯かる努力の全く無益なることを知つたからである、余は今は余の信仰を以て十字架上のキリストを仰ぎ瞻る者である、単にそれ丈けである、余には自から余の罪を贖ふことが出来ない、故にキリストに贖つて戴くのである、余には自から神を喜ばし奉ることが出来ない、故に余に代つてキリストに神を喜ばして戴くのである、余の義なるものは余が死力を尽して之を遂げんとするも実に取るに足らない者である、故に余はキリストの義を余の義として受けんと求願ふ者である、余は神の恩恵の一つをも受くるに値しない者である、唯キリストの功績《いさほし》に由てのみ之に与からんと欲する者である、今の余は信仰を以て十字架上のキリストを余の所有《もの》となさんと唯此事をのみ努むる者である、余は是れ以下の意味に於てキリストを余の救主として戴くことは出来ない、爾うして、斯かる万全の意味に於て余がキリストを余の救主として戴かんことは、余にかゝはる神の最大の聖旨であると信ずる。
 故に余は今、盛に世に行はるゝ「基督教救世論」なる者を信ずることは出来ない、余は余のキリストを所謂る「社会的最大勢力」として見る事は出来ない、余に取りてはキリストは最良の「道徳的教師」であるばかりでは(238)ない、彼は最も深い且つ最も高い意味に於て余の身代りである、余のなすべき義をキリストは余に代つて既に為し給ふたのである、余の今より為すべきことは進んでキリストの如く成らんと欲することではない、既に成されしキリストの義を余のものとして信得せんことである、キリストの救済は未成事ではない、既成事である、是れ新約聖書の明白に示す所であつて、又聖霊が余の心に確証する所である。
 故に余の祈祷はすべてキリストに於てある、余はキリストを離れて神に祈ることは出来ない、キリストのために我を受け給へ、キリストのために聖霊を我に賜へと、是れが余の祈祷である、キリストは実に余の霊的宇宙である、万物が神に頼りて生きまた動きまた在ることを得るやうに、余の霊はキリストに頼りて生きまた動きまた在ることを得る者である(使徒行伝十七章廿八節)、天国は実に神の賜なるキリストを以て我等に近いたのである、爾うして我等は信仰を以てキリストを我等の有となして今より此天国に入ることが出来るのである、茲に至つてキリストは余の友人、王、牧者たるに止まらずして、余の生命の食物となり給ふのである、又は余の呼吸する空気となり給ふのである、まことに余はキリストの血を飲み、其肉を食ふて生存する者である(約翰伝六章五十五節)。
 余は今、斯の如くにキリストを観ずる、爾うして是れ余が宣教師に教へられたことではない、又神学者の著はしたる書に由て学んだことでもない、是れは或者が直接に余に伝へたことである、其或者とは何である乎、誰である乎、彼の容貌如何、彼の音声如何、是れ余りに神聖にして余の汚れたる筆を以てしては書記すことの出来る事ではない、風は己がままに吹き、何処《いづこ》より来り、何処に逝くを知らざるやうに、斯かる示顕は影と形とを以て来る者ではない、然れども、其来るや、事実中の事実であつて、之に接して我等は天地は消失するも其真理なる(239)ことを疑ふことは出来ないのである、
  万物を以て万物に満たしむる者の満る所の者(以弗所書一章末節)
 是れが余の今日のキリストである。
 
(240)     課題〔4「堕落信者の状態彼得後書二章廿、廿一、廿二節」〕                          明治39年8月10日
                     『聖書之研究』78号「雑録」
                     署名なし
 
     堕落信者の状態
    彼得後書二章廿、廿一、廿二節。
  彼等若し我等の主にして救主なるイエスキリストを識るに因りて世の汚を脱れし後、復たぴ之に累《まちは》れて勝たるゝならば、其後の状態は前にまさりて更らに悪し、彼等に取りては義の道を識らざりし方、之を識りて後に、彼等に伝へられし聖き訓誡に背くよりは更らに善かりしならん、犬かへり来りて其吐きたる者を食ひ、豕《ぶた》、洗ひ潔められて泥の中に転《まろ》ぶとの諺は彼等に於て事実となりて顕はれたり。
 彼等 堕落信者なり、殊に堕落教師なり(前節を見よ) 〇識るに因て 深く究めしに因て、単に耳に聞きしに止まらず、心に主を嘗《あぢは》ひしに因て(  前書二章三節)、是れ教師の為せし所なり、然れども彼等今や仁愛《めぐみ》の主を棄てたり 〇累れて 縛せられて、鳥の羅にかゝりしが如く世事の煩累にまとはれて。多忙多忙なりと称して、世事に忙殺されて終に再び不信者となる 〇其後の状態云々 馬太伝十二章四十五節を見るべし、不信者の心に一りの悪鬼住み、堕落信者の心には七つの悪鬼宿る 〇義の道 義とせらるゝ道、福音なり 〇聖き訓誡 山上の(241)垂訓の如きものを云ふなるべし、基督信者の道徳なり、世の道徳よりも遙かに厳格なるもの也、堕落は高き道徳より低き道徳への堕落なり、彼等は基督信者の中に在りて信仰薄き者と称せられんよりは、世人の中に下りて比較的に高潔なる者と呼ばれんことを欲す 〇犬と豕 馬太伝七章六節を見るべし、信者たるを廃めて俗人となる、人たるの権利を擲て犬となり豕となるが如し、人、若し一度び天使の群に入り、然るに後に天使の資格を失はゞ、彼は再たび人となるに非ずして、犬となり豕と化す 〇犬かへり云々 箴言廿六章十一節の引用なり 〇豕洗ひ潔められ云々 聖書に之に類する諺あるなし、蓋し当時の通言なるべし、犬は吐きし者を食ひ、豕は脱せし泥に還る、堕落信者は曾て廃《すて》し主義を再たび採用し、復たび世の泥海に還りて巧に其中を游泳す。
       ――――――――――
 人あり、曾て亜拉此亜の予言者マホメツトに問ふて曰く「世に最も美はしき者は何ぞや、又最も醜き者は何ぞや」と、彼答へて曰く「世に最も美はしき者は罪を悔ゆる罪人なり、而して最も醜き者は信仰を棄る信者なり」と、キリストは斯かる信者に就て宜べ給はく、後は用なし、外に棄てられて人に践れん而已と、何れの宗教に於けるも堕落信者の如くに醜き且つ憎むべき者はあらざるなり、彼等は天国の謀叛人なり、キリストを再び十字架に釘くる者、イスカリオテのユダよりも更らに一層悪しき者なり、噫、我等は如何なる者となるとも堕落信者と成り了らざらんことを。
       ――――――――――
(242)     九月分課題
   最終の裁判
    彼得後書三章十−十三節。
原稿〆切八月三十一日、
寄書条件すべて本号と同じ。
 
(243)     独逸人の無教会歌
                     明治39年8月10日
                     『聖書之研究』78号「雑録」
                     署名なし
 
 左に掲ぐるは独逸国愛国詩人ウーラントの作の一節なり、善く吾人の意に合へる者なり、
   Nicht im kalten Marmorsteinen,
   Nicht in Tempeln dumpf und tot,
   In den frischen Eichenhainen
   Webt und rauscht der deutscbe Gott.
   冷たき大理石の中に於て在らず
   苔むす死せる教堂に於て在らず
   常に新鮮なる橿の小森の中に
   独逸人の神は在し且つ動き給ふ
 然り、我が東海の島国を護り給ふ神も、俗人の金を以て造りたる石や木の会堂に於て在し給はず、常に新鮮なる欅や樅の林に於て、又は直立天を突く杉の小森の中に在し且つ動き給ふ、我等は彼処に行て彼を拝すべきなり。
 
(244)     孤児を顧よ
                       明治39年8月20日
                       宮沢六郎著『保育の圍』
                       署名 内村鑑三
 
 子を有つ者は孤児を顧よ、そは彼も亦何時孤児を遺すに至るやも知らざればなり、他人の孤児を顧るは己の子に保険を附するなり、孤児を顧る者の孤児は顧らるべし、産を子孫に遺し得ずと雖も、恵を他人の児に施して、我児のために恵を積むべし、我児のために他人の児を愛すべし、然らば恩恵常に我児に伴ふべし。
 子を有せざる者は孤児を顧よ、而して親心の温きを知るべし、子なきは憂ふるに足らず、子を愛するの心なきこと、是れ最も憂ふべきことなり、而して子は求めて之を得る能はず、然れども子を愛するの心は容易に之を得るを得べし、親なきの児に親の愛を表《へう》し見よ、親子の情はたちどころに成立して子なきの憂は消え失するに至るべし、世に孤児多きは児なき人に児を授けんがためにあらずや、愛は心のことなり、血を分つが故に愛あるにあらず、最も清くして最も深き愛は血肉の関係の更らに無き所に存す、血肉の子を設くる能はず、然らば愛心の子を設けよ、孤児を愛して、之をして汝の実子たらしめよ。 子を有つ者も子を有たざる者も、すべて情と能《ちから》とを備へたる者は孤児を顧よ、孤児は他人の子にあらず、神の子にして亦我子なり、我等は頼辺なき可憐の彼等を愛して、此無情の社会を化して、温愛の家庭となすべきなり。
 
(245)     〔我とキリスト 他〕
                     明治39年9月15日
                     『聖書之研究』79号「所感」
                     署名なし
 
    我とキリスト
 
 キリストの如く成るにあらず、キリストと成るなり、其手となり、足となるなり、我は己に死してキリストをして我に在りて活かしむるなり、然らば我は欲せざるもキリストの如く成らざるを得ず、我とキリストとの関係は道徳的にあらず、生命的なり、キリストは我が教師にあらず、我が救主なり、我が生命なり、又我が復活なり・
 
    死と生と
 
 我れキリストの如く成らんと欲する時に我に尚ほ我が生命存す、我れ我が無能を認めて己をキリストに委ね奉る時、我は己に死してキリストに在りて生くるなり、我等キリストの如く成らんと欲せば先づキリストの如く成らんと欲する我等の慾念を絶たざるべからず、先づ道徳的に死するにあらざればキリストにありて生くる能はず、我等の殺すべき最後の敵は聖徒たりクリスチヤンたらんと欲する我等の道徳的慾望ならざるべからず。
 
(246)    我の救
 
 キリストが我が救たるなり、我は彼に傚ひて救はるゝに非ず、然り、我は彼に傚ひ得る者に非ず、我は己を脱してキリストを着せられて救はるゝなり、キリストを除いて他に救あるなし、我等は実にキリストの肢体となりて救はるゝなり、我とキリストと相対して在るべからず、我はキリストと一体と成るべきなり、キリスト我に在りて生き、我れキリストに在りて生くるに至らざるべからず、キリストと我との関係は師と弟との関係たるべからず、主と従との関係たるべからず、幹と枝との関係たるべし、同一体に於ける首《かしら》と手足との関係たるべし。
 
    キリストたれ
 
 我等は基督信者たるを以て足るべからず、キリストたるを期すべし、是れ自から神たらんと欲するの意にあらず、キリストに同化され其義を以て我が義となすの謂なり、英語のクリスチヤンも独逸語のクリストも基督信者と訳すべき辞《ことば》にあらず、クリスチヤンはキリストなり、我等は彼が身の肢なり、彼が肉より出で、彼が骨より出たり(以弗所書五章三十節)、クリスチヤンはキリスト以外の者にあらず、二者の同体を解せずして基督教の真義を暁る能はず。
 
    キリストに在りて
 
 我は人の罪を赦す能はず、然れどもキリストに在りて容易に此事を為すを得るなり、七次《なゝたび》を七十倍する宥恕は(247)是れ我の為し得ることに非ず、我れキリストに在りて為し得ることなり、善を為すは難し、然れどもキリストに在りて之を為すは易し、我は我に力を予ふるキリストに在りてすべての事を為し得るなり(腓立此書四章十三節)。
 
    天国の建設
 
 天国は今之を身の外に求むる能はず、然れども之を心の衷に建つるを得べし、キリストの愛を以て自由に人の罪を赦して、我は我が心より憎悪憤怨の苦きを去り、立ろに其処に平和の天国を建つるを得るなり、天国は無限の宥恕の行はるゝ所なり、キリストの愛を以てして罪の世に在る今日と雖も我等は容易に我等の衷に天国を建設し得るなり。
 
    露国と米国
 
 日本国に二大敵国あり、其第一は露國なり、彼は其併呑主義を以て外より我等を破壊せんとす、其第二は米国なり、彼は其物質主義を以て衷より我等を腐蝕せんとす、我等の軍人は剣を以て第一の敵を撃退せり、我等の宗教家は信仰を以て第二の敵を排攘せざるべからず。
 
    美術と宗教
 
 宗教の深浅は其産する美術の大小に由て知るを得べし、深き宗教は大なる美術を産す、浅き宗教は美術を出さず、美術なき国民は宗教なき国民なり。
(248) 米国に美術と称すべき美術なきを見よ、而して其宗教の取るに足らざる者なるを知れよ、誰か米国人より絵画、彫刻、音楽の術を学ばんと欲する者あらんや、而かも我等日本人は今日まで我等の宗教を主として此美術なき米国人より学びたり、我等の信ぜし基督教が浅薄にして現世的なるは敢て怪むに足らざるなり。
 
    ピユーリタンの消滅
 
 余輩はピユーリタンを尊敬す、彼は実にプロテスタント教の精華なりき、彼れありしが故に地球の表面の一変せしことは余輩の充分に認むる所なり。
 然れども悲哉、ピユーリタンは今や米国より其跡を絶ちつゝあり、其本拠の地たりし新英洲すら今やピユーリタンの所有《もの》に非ず、ピユーリタンは今や米国の主人公に非ず、其政府も議会も、然かり、多くの場合に於ては其学校も教会もピユーリタン以外の者の支配する所となれり、我等が米国を迎へしはピユーリタンの米国を迎へしなり、然るに今やピユーリタンはなきに等しき者となりて米国は我等に取りて精神的に全く要なき者となれり、我等は我等の師たりしピユーリタンと共に米国今日の堕落を欺く者なり。
 
(249)     書斎と実験室
                     明治39年9月15日
                     『聖書之研究』79号「所感」
                     署名 角筈生
 
 書斎にありて独り静かに大家の著書を便に基督教を研究するのは是れ最大の快楽である、我は時には思ふ、書斎は我が楽園である、我は終生此処に籠りて我が余命を送らんかなと。
 然しながら基督教は書籍に由てばかりでは解らない、我等は時には其ために苦まなければならない、悪と争ひ拒ぎて血を流すに至らなければならない(希伯来書十二章四節)、聖書の註解を註解書以外に於て求めなければならない、即ち之を苦しき人生の実験に於て求めなければならない、患難は忍耐を生じ、忍耐は練達を生じ、練達は希望を生ずと(羅馬書五章三 節)、忍耐の何たる、希望の何たる、是れは註解書に由て解る事ではない、是れはキリストに由て耐え忍びて始めて解かる事である、涙を透うして天国を望んで始めて解かる事である、信、望、愛の宝玉は古書を渉猟して拾ひ得らるゝ物ではない、血が固つて成りしもの、是れが信の金剛石である、涙が凝つて成りし者、是れが望の真珠である、爾うして聖き生命が晶化せし者、是れが愛の水晶である、書籍は貴いものであるが、然かし最も貴いものは書籍からは来らない、最も貴いものは迫害から来る、耐え難き苦痛から来る、書籍が示す所の外に基督教を知らない者は最も不幸なる信者である、我等は屡々人世の実験室に入つて、其処に火と水と、酸と塩《えん》とを以て、書籍が伝ふる人生の真理を実験感得すべきである。
 
(250)     夏過ぎて感あり
                     明治39年9月15日
                     『聖書之研究』79号「所感」
                     署名 櫟林生
 
 夏は逝けり、而して我は休息を得る能はずして労苦を得たり、青山に安臥する能はずして閭里に労働せり、心、密かに想ふ、我れ身に休養を与へずして神に対して罪を犯さゞりし乎と、避暑静養が義務視せらるゝ今日、夏期の労働は罪悪の如くに感ぜらる。
 然れども我れ我主イエスキリストを思ふて我が心に安泰《やすき》を感ずるなり、彼に夏期休養なるものはあらざりし、彼に青山の安臥と海浜の悠適とはあらざりし、イエスは周《あまねく》遊《めぐ》りて善事を行ひ給へり(行伝十章三十八節)、彼は又到る処に人に知られざらん事を欲ひしが隠れ得ざりき(馬可伝七章廿四節)、彼に枕する所なかりき、彼は休養の人にあらずして労働の人なりき、彼の休養はまことに労働に於てありき(約翰伝四章三十四節)。
 然り、我は過ぎにし夏イエスの如くありしのみ、我は彼の如く休むを得ずして働かしめられしのみ、我は此事に就て神に感謝すべきなり、今や秋風再び到らんとするに際して、我は讃美の声を揚げて神の庭園に新たなる業に就くべきのみ。
   春のあさけ   夏のまひる
    秋のゆふべ   冬の夜も
(251)   いそしみ播く  道のたねの
    たりほとなる   時いたらん
 
   かりいるゝ   日はちかし
    よろこびまて   そのたりほ
     (讃美歌第四百二十七)。
 
(252)     羅馬書第九章
                   明治39年9月15日・10月10日
                   『聖書之研究』79・80号「研究」
                   署名 内村鑑三
 
   (本文は自訳に依る)
一 我はキリストに在りて真実を語るなり、我は偽はらざるなり、我良心も亦聖霊に在りて我に証《あかし》す、
二 即ち、我に大なる憂ある事を、我が心に断えざる痛あることを。
三 そは我は我の兄弟にして肉によれば我が同胞なる者の為めならんには自身はキリストより離れてアナテマたらんことを欲《ねが》へばなり。
四 彼等は実にイスラエル人なり、世嗣又|栄光《さかえ》、契約又律法、祭儀又約束は皆な彼等のものなり。
五 列祖は又彼等のものなり、而して肉体によればキリストも亦彼等より出たり、彼は万物の上にありて世々讃美すべき神なり。アーメン。
六 斯く言へるは神の言葉は地に堕ちたりと謂ふにあらず、そはイスラエルより出たる者悉くイスラエルにあらざればなり。
七 亦アブラハムの苗裔《すえ》なればとて悉く其子たるに非ず、唯イサクより出る者汝の苗裔と称へらるべしと録されたり。
(253)八 即ち肉の子たる者、神の子たるに非ず、唯約束の子たる者、是れ其苗裔とせらるゝ也
九 約束の言は是なりき、即ち期到らば我来らん、而してサラに男子あるべしと。
十 而已ならず、リベカ亦我等の先祖なるイサク一人によりて孕みし時、
十一 其子未だ生れず、又善をも悪をも為さざりし時、行に由るに非ず、唯召し給ふ者に由るとの予定による神の聖図《せいと》の存立せんため、
十二 彼女に言ひ給へり、長子は次子に事へんと。
十三 録《しる》して我はヤコブを愛し、エサウを憎めりと有るが如し。
       ――――――――――
十四 然らば我等は何を言はん乎、神に不義ある耶、勿論無し。
十五 彼がモーゼに言ひ給へるが如し、即ち我れ恵まんと欲する者を恵み、憐まんと欲する者を憐むと。
十六 即ち欲する者にも由らず、走る者にも由らず、唯恵む所の者に由る。
十七 聖書は又パロに告げて言ふ、我れ是故に汝を起せり、即ち汝を以て我が権能《ちから》を顕はさんため、又汝をして普く世界に我が名を伝へしめんためなりと。
十八 斯の如くにして彼の欲する者を彼は恵み、又彼の欲する者を彼は頑硬《かたくな》に為し給ふ。
 
     意解
 
〇我が言ふ所は真《まこと》なり、そは我は独り自から語るにあらず、キリストに在りて語ればなり、彼は真理なり、故に(254)彼に在る者は真ならざるを得ず、我を疑ふも可なり、然れどもキリストに在る我は疑ふ可らず、そは我は彼に在りて彼の真実なるが如く真実なればなり。(1)
〇我は又我が衷に存する誠実の有るたけを以て語るなり、我はたゞ我が誠実を以てのみ足れりと為ざるなり、我を証明する者は我れ以外に二位《ふたり》あり、キリストなり、聖霊なり、我は聖き両者の証明を得て語るなり。(1)
〇我良心も亦我が言の真なるを証す、然れども良心の証なればとて我は必しも之を受けざる也、そは神を離れたる人の良心は度々吾人を欺く者なれば也、然れども我が良心は今や聖霊に在りて我に証するなり、其充たす所となり、又其照らす所となりて我に証するなり、斯かる良心の証は信ずるに足るなり、而して我は其証を得て語るなり。(1)
〇我が証言せんとする事は是なり、即ち我が同胞、我が骨肉に関することなり、彼等の救済に関する事なり、此事に関して我に大なる憂あり、心に断えざる痛あり、我れ此事を思ふて断腸の念なからざるを得ず。(2)
〇我は実《まこと》に或時は思ふなり、我の兄弟にして肉によれば我が同胞なる者の救はれんためには我自身は救はれざるも可なりと、即ち或は我が救主イエスキリストより離れて神に呪はれたる者となるも可なりと、我は天上天下、何物もキリストに在る神の愛より我を離絶すること能はざるを知ると雖も、而かも我は或時は此無限の愛を犠牲に供しても我が同胞骨肉を救はんと欲するなり、視よ、神の前に我は偽はらざるなり、我は実に我が同胞骨肉に就て此感を懐くなり。(3)
〇我が同胞骨肉とは誰ぞ、今は我が敵たり、我が伝道の大妨害者たるイスラエル人英人なり、我は彼等が我の如くにキリストによりて救はれんことを欲するなり、彼等は実に其救済に与かるに足る充分の資格を備へたる者な(255)り、世嗣と云ひ、栄光と云ひ、契約と云ひ、律法と云ひ、祭儀と云ひ、約束と云ひ、是れ皆な彼等に与へられ、彼等を以て始まりしものなり、旧約の恩恵はすべて彼等に与へられしものなり、彼等なくして世は神の心と賜とに就て知る所なかりし、彼等は神の恩恵の貯蔵者なりき、世に恵まれし民とて彼等の如きはあらざるなり。(4)
〇列祖は又彼等のものなり、アブラハムと云ひ、イサクと云ひ、ヤコブと云ひ、皆な彼等イスラエル人の祖先なり、彼等は聖き貴き血統を引く者なり、彼等は其遺伝性より考ふるもキリストの救済に洩るべき者にあらず。(5)
〇而已ならず、茲に彼等に就て著大なる事実あり、即ち万民の救主なるイエスキリストの肉体によれば彼等より出し事是なり、キリストはイスラエル人にしてユダ人なり、彼等は彼を木に懸けて殺したりと雖も、而かも彼はギリシヤ人又はロマ人にあらざるなり、キリストは実に其肉体によればイスラエル人なり、彼等が彼に由りて救はれざるの理あらん乎、而かも彼等は彼に由て救はれんとは欲せざるなり。(5)
〇イスラエル人より生れ出しキリスト! 彼は万物の上にありて世々讃美すべき神なり、アーメン、実に然り、ユダ人の栄光此上あるなし、神たるキリストを産みしイスラエル人! 彼等が救はれざるの理あらんや、而かも今は彼等は神に詛はれつゝあるが如し、我が衷に耐え難き疑惑の存するは是れがためなり。(5)
〇恩恵の独占者とも称すべきイスラエル人が、最後の、而して最大の恩恵なるキリストの救済に洩れつゝありと言はんには、或人は言はん、若し然らんには神の言葉は地に堕ちたりと、然らざるなり、我等は深く聖書を究めんには其事の決して然らざるを知るべし。(6)
〇我は先づ第一に言はんと欲す、イスラエルより出たる者悉くイスラエルに非ずと、即ち肉なるイスラエル人悉(256)く真実《まこと》のイスラエル人に非ずと、我れ今聖書によりて我が此提言を説明せん。(6)
〇アブラハムの苗裔なればとて悉くアブラハムの子にあらず、我等が先祖にアブラハム有りと言ひて神の選民を以て自から任ずる者は未だ深く聖書を究めざる者なり、アブラハムに二子ありたり、其|婢《しもめ》ハガルより生れしイシマエルと正妻サラより生れしイサクと是れなり、然るに神はアブラハムに言ひ給はく唯イサクより出る者汝の苗裔と称へらるべしと(創世記廿一章十二節)。(7)
〇依て知るべし、肉の子なる者必しも神の子にあらざることを、若し然らんにはイシマエルと其子孫も神の子なるべし、唯神の約束に由る子のみ神の子にしてアブラハムの苗裔たるなり、イサクがアブラハムの子と称へられしはアブラハムの血を承けしが故にあらず、神の約束に由りて其恩恵を継ぎしが故なり。(8)
〇イサクに関はる約束とは何ぞ、神、アブラハムに言ひ給ひけるは明年の今頃我必ず汝に還るべし、汝の妻サラに男子あらんと(創世記十八章十節)、依て知るべし、イサクのアブラハムに生れしは神の特別の賜としてなることを、彼の肉より出しと雖も彼が欲《この》んで得し者にあらざるなり、イサクがアブラハムの子たるは神の聖意に由てなり。(9)
〇人或ひは曰はん、イシマエルは婢の生みし子なり、故に嗣子《よつぎ》たる能はず、イサクがアブラハムの嗣子たりしは彼が正妻の子たりしに由ると、然れども正妻の子たる者必しもアブラハムの苗裔に非ず、其事は同じく我等の先祖なるイサクが其正妻リベカによりて生みし二人の子の場合に照らし見て明かなり、父一人、母一人にて生みし二人の子は如何になりしぞ。(10)
〇其等二人の子未だ生れず、又善をも悪をも為さゞりし時に神は其母リベカに言ひ給ひしにあらずや、長子は次(257)子に事ふべしと(創世記二十五章二十三節)、是れ抑々何が故ぞ、神の言葉の地に堕ちずして(第六節)予定による其聖図の存立せんため、即ち人の簡まれ且つ救はるゝは彼の行に由るに非ず、彼を召し給ふ者の意志に由るとの真理の存立せんがために非ずや、リベカの二子ヤコブとエサウとの場合に於て血肉の関係は以て約束の子たるの資格を作るに足らずとの真理は証明されしにあらずや。(11、12)
〇聖書は又録して言ふ、我はヤコブを愛しエサウを憎めりと(馬拉基書一章二、三節)、即ち神は事実上、ヤコブの子孫なるイスラエル人を愛し、エサウの子孫なるエドム人を憎み給へりと、同一の胎より同時に出でし二人の兄弟と雖も、約束の子の子孫は恵まれ、之れなき者の子孫は詛はれたり。(13)
〇然らば約束のことに就て我等何を言はん乎、神に不義ある乎、神に不公平ある乎、是れ或人の言はんと欲する所なるべし、勿論決して否《しからざ》るなり。(14)
〇神はモーゼに何と言ひ給ひし乎、我れ恵まんと欲する者を恵み、憐まんと欲する者を憐むと(出埃及記二十三章十九節)、即ち恵むも憐むも神の聖意に存するに非ずや、即ち恵まるゝは恵まれんと欲する者の意志にも行為にも由るにあらずして、唯恵まんと欲する者の聖旨に存するに非ずや。(15、16)
〇恵まれしモーゼに対しては神は前の如くに言ひ給へり、又詛はれし埃及王パロに対しても彼は斯く言ひ給へり、即ち、我是故に云々と(出埃及記九章十六節)、パロが歴史の舞台に現はれしは自から欲《この》んでにあらず、神が彼を起し給ひしに由る、パロは神の権能を顕はし、其名を普く世界に伝へんための機関として世に遣られしなり、モーゼ然り、パロ然り、善人然り、悪人然り、神の聖旨に由らずして、善人は善を為す能はず、悪人は悪を為すを許されず。(17)
(258)〇斯の如くにして神は己の欲する者を恵み、又己の欲する者を頑硬《かたくな》に為し給ふ、歴史は神の聖旨の遂行なり、人ありて事を為すに非ず、神ありて事成るなり、所謂る聖史なる者も、亦俗史なる者も其源を究むればすべて神史なり、神の聖意を離れて人類の歴史は考ふべからず。(18) 〔以上、9・15〕
 
十九 然れば汝、我に言ふならん、神何ぞ尚ほ人を責むるや、誰か其旨に逆ふやと。
二十 否なよ、オー人よ、汝何者なれば神に言ひ逆ふや、造られし者は造りし者に向て汝何故に我を此く作りしやと云ふべけんや。
廿一 又|陶器師《すゑものし》は同じ粘土の塊をもて一の器を貴く一の器を賤く造るの権あるに非ずや。
廿二 然れども若し神其怒を彰はし其能力を示さんと欲し給ふにも関はらず、滅亡《ほろび》に備はれる器を永く耐え忍び給ひしに於ては、
廿三 又栄光に預め備へ給ひし憐愍《あはれみ》の器に共栄の豊かなるを示さんとし給へば(我等何の言ふ所あらんや)。
廿四 憐愍の器とはユダヤ人のみならず、亦異邦人の中よりも彼が召し給ひし我等なり。
廿五 ホゼヤの書に於て言ひ給ふが如し、
    我は我が民ならざる者を我が民と称へ、
    愛せられざりし者を愛せられし者と称へん。
廿六   又汝等我民ならずと言はれし処に於て、
     其処に彼等は活ける神の子と称へらるべし。
(259)廿七 又イザヤはイスラエルに就て叫で曰ふ『イスラエルの数は海の砂の如くなれども唯少数者のみ救はるべし、
廿八 そは主は地の上に其言を充分に且つ速かに行ひ給ふべければ也』と。
廿九 又イザヤが預言せし如し
    若し万軍の主我等に裔《たね》を遺し給はざりしならば、
    我等はソドムの如く成りしならん、又ゴモラと等しかりしならん。
三十 然れば我等は何と言はん乎、義を追求めざる異邦人は義を得たり、信仰に由る所の義を得たり。
卅一 然れど義の律法を追求めしイスラエルは其律法に達せざりき。
卅二 何が故にか? 彼等は信仰に由らず、行ひに由て達し得べしと思ひしが故なり。
卅三 彼等は躓《つまづき》の石に蹶《つまづ》きたり、聖書に録されしが如し、即ち
    視よ、我れシオンに躓きの石、また礙げの磐を置かん、
    而してすべて彼を信ずる者は辱かしめられざるべし。
 
     意解
 
〇善人の善たるも悪人の悪たるも神の聖旨に由ると我が言ひしに依て汝反問者は直に我に問ふて言ふならん、然らば神は何故に人の罪を責め給ふや、世に神の旨に逆ふ者は何処にあるや、善人も悪人も神の予め定め給ひし所の者なりとならば神に人を責むるの権利なきにあらずやと。(19)
〇否なよ、人なる反問者よ、汝の反問に理由あるなし、汝は人に就て斯かる反問を起すを得べし、然れど神に就(260)て之を起すを得ず、造られし人は造りし神に向て汝何故に我を此く作りしやと言ふを得ず、予(パウロ)は神は特に悪人を作り給へりとは言はず、然れども若し神に於て斯かる事ありしとするも人の限りある智を以て神の限りなき智を量る能はず、神は全能にして全智なり、彼は絶対的に神聖にして犯すべからざる者なり、一国の君主が如何なる事をなすと雖も法律的の罪とならざるが如く、宇宙の主宰なる神は如何なる事を為し給ふとも我等は彼に帰し奉るに罪科を以てする能はず、我等は神は神として論ぜざるべからず、神に人に対する責任あるなし、責任ある者は神にあらざる也。(20)
〇之を陶器師に就て思へ、彼れ陶器師は同じ粘土の塊を以て一つの器は之を貴く造り、他の器は之を賤く造るの権あるにあらずや、神も亦然り、我等は神の造り給へる者なり、神が人を如何に造り給ふと雖も人は神に向て呟くを得ず。  土器の破片たるに過ぎざるに
  その造主と争ふ者は禍なるかな、
  土塊は陶人《すえものし》に向ひ「汝何を作る乎」と言ふ乎、
  又汝の作りし者汝に向ひ「汝の手に由らず」と言ふ乎、
  父に向ひ「汝何故に生みしや」と言ふ者は禍なるかな、
  婦に向ひ「汝何故に産の劬労《くるしみ》を為せしや」と言ふ者は禍ひなるかな、
                (以賽亜書四十五章九、十節)
先づ神の絶対的主権を認めよ、然る後、禅に就て論ずる所あれ。(21)
(261)〇神の主権は犯すべからず、神は其欲するが儘を為し給ふ、然れども神は暴虐の神にあらず、憐愍の神なり、彼は怒ること遅くして恵むこと速かなり、汝、我が反問者は神は気儘なる者なりと言はんと欲するが如し、然れども神の為し給ふ所を視よ、彼は其忿怒を彰はし、悪人の上に其能力を示さんと欲し給ふに関はらず、容易に刑罰を行ひ給はず、滅亡に備はれる器なる彼等悪人を永く耐え忍び給ふにあらずや、神若し気儘勝手ならば暴虐的に気儘ならず、慈悲的に勝手なり、彼は其絶対的主権を揮ひ給ふに方て常に寛容宥恕を以て之を行ひ給ふ、之をパロの場合に於て見よ、其他すべて心を頑硬にして神に逆ひし者の場合に於て見よ、彼等は容易に其罪の報ひを受けざりしなり、彼等は彼等が窘しむる者をして幾回か「主よかくて幾何時《いくそのとき》を経たまふや」の声を発せしめたり、神は或時は悪人に対して寛にして善人に対して厳なるが如くに見え給ふ、事実に顕はれたる神は寛に過ぎたる神にして厳に過ぎたる神にはあらざるなり。(22)
〇悪人に対して寛なる神は亦善人に対して恩恵豊かなり、彼が終に悪人を罰し給ふも、是れ彼の恩恵の更らに善人に及ばんためなり、彼が為し給ふすべての事の目的は、彼が世の基を置かざりし前より預め栄光に備へ給ひし彼の憐愍を受くべき器に彼の栄光を豐かに顕はさんためなり、即ち万事万物の目的は神に召されたる者に恩恵の加はらんためなり、世に恩恵の増さんことが造化と歴史との目的たるなり、予は後に至て委しく此事を論ぜんと欲す(第十一章に於て)、茲には唯神の主権に就て汝が誤解せざらんがために斯く一言し置くなり。(23)
〇憐愍の器とは何ぞや、即ち神が栄光に預め備へ給ひし者、造化と歴史との目的物、此地の最後の所有主たるべき最も恵まれたる、キリストに於て神が簡み給へるその撰民とは誰ぞや、之を二種に別つを得べし、ユダヤ人の中より簡まれし者と異邦人の中より簡まれし者と是れなり、我れ今聖書(旧約)の言に照らして之を論ぜん、我は(262)先づ異邦人に就て語らん。(24)
〇預者言ホゼヤの書に曰く(何西阿書二章二十三節)我は我が民ならざる者云々と、以て知るべし、異邦人の召されて神の撰民たるべきことは早く已に神が預言者を以て宣べ給ひし所なるを、民ならざる者、民となるべし、愛せられざる者愛せらるべしと、即ち東より西より南より北よりアブラハムの子ならざる者が召されて神の国に入るべしと。(25)
〇同じ何西阿書(一章十節)に又曰へるあり、汝等我民ならずと言はれし処に於て云々と、即ち異邦人は彼等の生れし異邦の地に於て、ユダヤ人が約束の地なりと称せしパレスチナの聖地に詣《いた》ることなくして其処に、即ち異邦の地に居ながら活ける神の子と称へらるべしと、即ち聖き者はユダヤ人とユダヤ国のみに限らず、すべての民とすべての国とが聖めらるべしとなり、讃美すべきにあらずや。(26)
〇聖書が異邦人に就て言ふ所は此の如し、然らばイスラエル人に就て言ふ所は如何、預言者イザヤ叫んで日く「イスラエルの数は海の砂の如くなりと雖も唯少数者のみ救はるべし」云々と(以賽亜書十章二十二節)、即ちイスラエル人も救はるべし、然れども其すべてが救はるゝにあらず、其中の少数者のみ救はるべしとなり、是れ前にも言へる如く神の約束の血統に由らずしてその聖旨に循て人に臨まんためなり(七−十三節)。(27)
〇イザヤは又曰へり主は地の上に其言を充分に且つ速かに行ひ給ふと、主の言は行はれざれば止まず(以賽亜書五十五章十、十一節)、イスラエル人の撰択は充分に且つ速かに行はるべし、審判は彼等の上に臨みつゝあり、羊と山羊とは終に分たるべし、ヱルサレムの陥落、ユダヤ国の滅亡は遠きにあらざるべし、然れども是れ彼等の中の少数者が救はれんがためなり、我が前に述べしが如し(二十二節)。(28)
(263)〇イザヤ又予言して曰く若し万軍の主我等に裔を遺し給はざりしならば云々と、実に然り、若しイスラエル人中救はるべき少数者微りせばヱルサレムは其陥落と共にソドムの如くなるべし、ユダヤ国は其滅亡と共にゴモラと等しかるべし、即ち消えて跡なき者たるべし、然れども神は其約束の民を絶ち給はざるべし、而してイスラエルの裔とはキリストに由て救はるべき其中の少数者なり、彼等に由て真正のイスラエル民族は継続せらるべし。(29)
〇我等是等の預言に対して何と言はん乎、之を約言すれば如何、即ち是れなり、義を追求めざる異邦人は義を得たり、而かも彼等の得しは特種の義なり、信仰に由る所の義なり、之に反して義を目的とする律法を追求めしイスラエルは其追求めし律法に達せざりきと。(30、31)
〇何が故に然る乎、何が故に異邦人の達せし義にイスラエルは達するを得ざりし乎、其理由は探るに難からず、彼等イスラエル人は信仰に由らず、行ひに由て之に達し得べしと思ひたりしが故なり、彼等は義に達するの途を誤れり、彼等は自から義人となりて神に義とせられんと欲せり、然れども是れ不可能事なり、人は努めて義人たり得る者にあらず、彼等は自己に依りて神に頼らざりしが故に神の義人たること能はざりき。(32)
〇彼等イスラエル人は躓きの石に蹶きたり、以賽亜書八章十四節に曰へるが如し、又同じ書の二十八章十六節に曰く視よ我れシオンに躓きの石また礙げの磐を置かん云々と、躓きの石、礙げの磐とは十字架に釘けられしイエスキリストなり、彼はユダヤ人には蹶く者ギリシヤ人には愚かなる者なり、即ち信仰の妨害物なり、忿怒を醸し、反抗を喚起する者なり、然れどもすべて此磐に頼る者は救はるべし、此恥辱の死を遂げし彼を信ずる者は恥辱を取らざるべし、十字架に釘けられしイエスキリストを信じてのみ最終の裁判の日に外の幽暗に逐出されて其処にて哀哭切歯《かなしみはがみ》すること無かるべし。(33) 〔以上、10・10〕
 
(264)     パウロ微りせば
                     明治39年9月15日
                     『聖書之研究』79号「研究」
                     署名 内村鑑三
 
 余は時々思ふ、若し使徒パウロが居らなかつたならばサゾ好つたであらふと、其時は煩はしき神学なる者は無くして、随つて教会もなく教派もなく、唯単純なるキリストの教訓のみ存して、基督教は実に単純無垢の者であつたであらふと、パウロは確かに神学の元祖である、彼微りせば基督教は今日の如く面倒なる、込入つたる者で無つたに相違ない、余は実に或時はパウロの居らざりしことを望む者である、又は居りしも彼の書翰を新約聖書の中より取除きたく欲ふ者である。
 山上の垂訓、放蕩|児《むすこ》の話、是れで基督教は足りて居るではない乎、何を好んで神の愛に就て論究するのであらふ乎、パウロは基督教を無理に、又無益に困難くした者ではない乎、彼は基督教を神学化した者ではない乎、パウロの在りしことは基督教に取りて最も悲むべきことではない乎。
 然かし是れは一時の感である、基督教を極く浅薄に見た時の感である、殊に余の罪、余の救済に就て深く感じない時の感である。パウロは基督教を困難くしたのではない。深くしたのである、人の心の奥底にまで達する宗教としたのである、キリストの教訓を伝ふるに止まらずして、其性格を究め、之に由て人の行為に止まらずして、其本性までを改造するに足るの真理を啓発したのである、実にパウロに由て基督教は宗教となつたのである、
(265)道理に合《かな》ふキリスト崇拝はパウロを以て始つたのである、福音書の示すキリストは主としてラビ(教師)としてのキリストである、ラビ我等爾は神より来りし師なりと知るとニコデモはキリストに向つて曰ふた、爾うして是れが福音記者が主に伝ふるキリストである、爾うして若しキリストが其れだけの者であるならば彼は孔子、釈迦、ソクラテスと類を同うする者である、大なる教師、聖賢の一人、而かも其最も大なる者、其れだけである、彼の血、彼の死、彼の復活、彼の昇天に、我等人類の生命に関はる大なる真理が含つて在るとのことは主にパウロに由て闡明せられたことである。
 キリストに傚ひ、彼の如く謙遜に、彼の如く柔和に、彼の如く勤勉に、彼の如く慈悲なることが我等基督信者の目的であることは言ふまでもない、然しながら罪に沈める我等をしてキリストの完全に達せしむるの途に就ては我等は之を福音書が示すキリストの教訓以外に於て求めなければならない、福音書は人が神に到るの途を示して居る、然かしパウロは特別に人がキリストを通うして神に到るの途を示した、パウロは明白に人と神との間にキリストを置いた、爾うして、斯くして人と神との関係を間接にして、二者の間を離したやうではあるが、然かし神人間の中保者を確定し、二者を繋ぐに愛の純金の鏈《くさり》を以てした、間接なることは必しも疎遠なることではない、否な、直接の関係は多くは破れ易い関係である、媒介者に由らざる夫妻の関係の如き、慈母の愛を以て繋がれざる父子の関係の如き、直接にして返て危き関係である、神と人との関係も其通りである、直接なるは望しきやうなれども、実際は維持するに最も困難なる関係である、勿論神の場合に於ては彼より進んで人との関係を絶つが如きことは無しと雖も、人が神の愛を誤解し、彼の正義を忿怒と見做し、終に彼を離れ去るの場合は沢山ある、キリストは人を固く神に繋ぐために必要である、キリストを明かに中間に居いて神と人との関係を間接なら(266)しめしパウロは両者の関係を非常に強めた者である。
 人は行為に因て救はるゝのではなくして信仰に因て救はるゝのであると言ふたパウロは如何にも善行を軽視《かろし》めたやうにも見える、爾うして或る場合に於てはキリストの行為其儘を真似て、自我以外の力に頼まない方が救済の捷路《はやみち》であるやうに見えることがある、然しながら是れ我等の心に永久の平康《やすき》を与へる途でないことは、是れ亦明かなる事実である、人は行為に因て救はるゝに非ず、信頼に因て救はるゝのであると聞いて永久の平和は初めて我等の心に臨むのである、我等弱き罪人の完全に為し得ることは実は信頼の一事である、仁愛、喜楽、慈悲、良善、温柔、※[手偏+尊]節、是れ我等が為さんと努めて満足に為し得ることではない、是れを完全に為し得ることが救済であるとならば、我等は失望せざるを得ない、然し我等に一事完全に為し得ることがある、其れは即ち信頼即ち信仰である、我等は神の慈悲と恩恵と宥恕とを充分に信ずることが出来る、此意味に於ての完全の信仰は罪人なる我等と雖も容易に懐くことが出来る、然り、我等の罪が深ければ深い程、此信仰を懐くことが容易である、恰かも病人の疾病が重ければ重い程、医師に頼るの心が強くなると同じである、爾うして若し此心が神を歓ばし奉るに最も貴い最是効《きゝめ》ある心であると教へられて、我等は始めて永遠より永遠に渉る深い強い堅い清い平和を全身に感ずる事が出来るのである、人は信仰に由て義とせらるゝとは実にキリストの福音の真髄である、此事なくして福音は福音でない、爾うして此事を最も強く、最も明らけく、且つ最も繁く宣べた者は使徒パウロである、人は信仰に由て救はるゝとは神学的命題ではない、是は深き宗教的信念である、基督信徒の平和の依て立つ土台を一言以て表白せる者、是れが信仰に因て救はるゝとの教義である。
 パウロは確かに基督教神学の元祖である、パウロの基督論なくして後世のすべての煩雑なる基督論は無つたで(267)あらふ、然しながら茲にパウロの神学に就て一事等が忘れてはならない事がある、即ちパウロの神学たる神学のための神学ではなかつたこと、是れである、然り、パウロの神学たる新たに神学を建てるための神学ではなくして、旧き死せる無用なる神学を壊つための神学である、パウロの神学は明かに反神学的である、多分パウロ程神学論を嫌つた者はあるまい、然しながら己れ神学を以て育てられし彼は神学を壊つために神学を用いたのである、彼は敵を屠るに其武器を以てしたのである、彼は単純なるキリストの福音を愛した、然るに彼の敵が神学の紛糾を以て彼を縛らんとせしが故に、彼は同じ罔羅を以て己を護り、又其敵を圧伏せんとしたのである。
 其れが故に今に至るも神学の縲絏を断つに最も有効なる武器は、パウロの書翰に顕はれたる彼の神学論である、猶太神学を破らんために物せられたるパウロの神学論は羅馬天主教神学を破るためにも、英国監督教会神学を破るためにも、米国の数限りなき宗派神学を破るためにも有力である、今より後誰も我を擾《わずら》はす勿れ、我れ身にイエスの印記《しるし》を佩びたれば也(加拉太書六章十七節)と、此確信に基きしパウロの神学は如何なる神学をも掃攘するに足る、又如何なる神学も此確信に基く彼の神学を覆へすことは出来ない、パウロは確かに神学者であつた、然かし神学研究を目的とする今の神学者の如き者ではなかつた、彼の神学は神学掃攘のための神学であつた、故に実際的に最も有益なる神学であつた、神学が悉くパウロの神学の如き者となつて、信者も教会も神学の害を蒙らざるに至るのである。
 パウロ微りせば、然り、パウロ微りせば、パウロ微りせば基督教は業に既に消へて了つたであらふ、或ひは今尚ほ存して居つたにせよ、アルメニヤの山中、或ひは黒海の浜あたりに小なる一宗教として存して居つたであらふ、パウロ微りせば基督教は世界的宗教とはならなかつたに相違ない、随つて我等極東の住民は終生之を目にも(268)耳にもすることが出来なかつたに相違ない。
 爾うして是れ必しもパウロの伝道区域の世界的なりしにのみ因るのではない、散布の区域は如何に広くとも生気の薄い種は永くは繁殖しない、基督教がパウロに由て世界的になり、又永久的になつたには地理的以外何にか他《ほか》に理由がなくつてはならない、爾うして其れがパウロの伝へし教義の性質に存せしことは言ふまでもない、パウロに由りて基督教は濃厚にして精鋭なる者となつた、福音其物は美は美であつたが、然かしまだ人、殊に罪人《つみびと》の良心を刺通し、其暗処に存するすべての邪悪を露出し、之を神の前にまで引き来りて、赦免の恩恵に与からしむるには足らなかつた、人の罪の余りに大なる、優しきイエスの言のみにては之を滅すに足らなかつた、故に神は罪に生れしパウロを起し、彼をして己に罪の赦免の恩恵を充分に味はしめ、而して世界の万民をして彼に由て同じ恩恵に与からしむるの途を設け給ふた。
 実《まこと》に四福音書は我等の良心の外より働らき、パウロの書翰は其衷より働く、前なる者は太陽の如く、其|和煦《あたゝまり》を以て外より我等を煖め、後なる者は地中の水の如く、其湿潤を以て衷より我等を萌芽《きざ》さしむ、イエスの恩恵我等を取巻き、使徒等(殊にパウロ)の勧告我等を励まして我等は終に救はるゝのである、使徒等の遺せし書翰は実に福音の半分である、是れなくしてはイエスの教訓も充分に其目的の効を奏しないのである、若し大なる使徒にも劣らず(哥林多後書十一章十二節)して働らきし使徒パウロがなかつたならばイエスの福音も半は其救霊の能力《ちから》を失ふであらふ。
 故に近頃我等の屡々耳にする「パウロよりイエスに還れ」との或る神学者等の声は全く謂なき言である、我等はパウロを離れてイエスに還ることは出来ない、我等はパウロに由てイエスに携来《つれきた》られた者である、故に若しパ(269)ウロを離れるならばイエスをも離れざるを得ないものである、パウロに由て観ざるイエスは我等罪人を救ふためには至て能力弱きイエスである、パウロは我等がイエスを其万善の神性に於て解するために必要である、パウロなくしてイエスは解らない、パウロなくして基督教は消えて了ふ、パウロはパウロのために貴いのではない、彼は神の遣し給ひし使徒として貴いのである、彼は神の定めし旨と預め知り給ふ所に応ひて(行伝二章廿三節)遣された者である、故に我等彼を排斥して終には神を排斥するの罪に陥らざるを得ない、故に余は今も尚ほ敬虔以てパウロの書翰を研究し、四福音書同様、神の言として之を戴く者である。
 
(270)     内外の自由
                     明治39年9月15日
                     『聖書之研究』79号「研究」
                     署名なし
 
 外の自由は之を求めんと欲する勿れ、内の自由を求めんと欲せよ、肉は縛らるゝも可なり、霊にして神の宿る所となれば足る、神は必しも其愛子に外の自由を与へ給はず、然れども内に罪の羈絆を解て、彼をして鏈に繋がれながら歓喜に溢れて神を讃美せしめ給ふ。使徒行伝十六章廿四、廿五節。
 
(271)     近世婦人の要求
                     明治39年9月15日
                     『聖書之研究』79号「雑録」
                     署名 内村生
 
  或る日曜日の朝、府下の或る高等女学校に教育の任に当らるゝ貴婦人某余の家を訪はれ、宗教問題に就て余に問ふ所ありたれば、彼女と余との間に大略左の如き問答起りたり。
問、先生、宗教はまことに結構でありまして、人には是非共無くてはならない者でありますが、然かし宗教は此世と衝突する者でありまして、此世を円滑に渡らんとするには信仰は守り難い者であります、故に私が殊に先生に伺ひたいことは世に此世と衝突しない宗教はありますまい乎、又基督教を信ずるとして此世と衝突せずして之を信ずるの道はありますまい乎、其事に就て伺ひたく存じます。
答、夫れはまことに困つた御質問であります、然かし今の世には斯かる質問を掛ける人が沢山居ります、彼等は血を流すことなくして此世から天国に往きたくおもひます、然しながら私の見る所を以てしますれば甚だ御気の毒ではありますが、然かし斯かる便利なる宗教は一つもないと思ひます、或ひは若し他にあるとするも私の信ずる基督教は決してそんな者ではありません、基督教を此世と調和せんとするは火を水と調和せんとするやうに六ケ敷くあります、基督教は其根底に於て此世の敵であります、故に誠実に基督教を信ぜんと欲すれば此世との衝突は到底免かれません、私は若し貴女が世と衝突なしに基督教を信ぜんとせらるゝならば、始めから(272)之を信ぜられざらんことを御勧め申上げます、貴女が若し新約聖書を善く読んで御覧なさるならば私の茲に申上ぐることの決して虚偽《うそ》でないことを御認めになります。
問、夫れは爾うであると致しまして、基督教と科学とは衝突致しません乎、其事に就て伺ひたく存じます。
答、其事に就て御質問でありますか、其事ならば私が永々と茲に貴女に御答へ申すの必要はありません、基督教と科学との関係を知らんと欲せば基督教と科学とを両つながら其根本に於て深く研究するより他に善い方法はありません、世の両者の矛盾を説く者は大抵は両者を深く究めない者であります、或ひは一方を究めて他の一方を究めない者であります、基督教に就て聞き、科学に就て聞いた人のみが二者の衝突を唱へるのであります、若し貴女が二者の関係を知らんと欲せらるるならば一方に於ては直に聖書に於て、他の一方に於ては直に天然に就て誠実の研究を続けられんことを望みます、貴女は二者の間に深き深き調和の存するを知られまして、私に再び斯かる御質問を掛けらるゝことなきに至りませう、失礼ながら貴女は聖書に就てドレ程基督教を究められましたか、又天然に就てドレ程科学を究められましたか、私は貴女に伺ひたく存じます(此問に対する婦人の答は略す)。聖書を深く研究して御覧なさい、貴女は貴女の罪深きことに就て恥られるに至りませう、天然を深く究めて御覧なさい、貴女は自己の無学の大なる事に就て恥づるに至られませう、人類が菫一本に就て知る所は至て僅少《わづか》であります、菫一本に就てさへ世界の大学者が知らない事が沢山あります、聖書は自己の罪を示します、天然は我等の無学を教へます、罪と無学、他の調和はさて置いて、基督教と科学との間に既に此調和のあることを発見せられませう。
問、或ひは爾うでありませう、私が先生に更らに伺ひたいことは、かの仏教徒の或者が唱ふる無我の愛といふこ(273)とに就てゞあります、其の無我の愛と基督教で言ふ愛と何う違ひます乎、私も此事に就ては大分考へて見ましたが、絶対者に対する吾人の見地からして二種の愛の間に何ういふ差違がありますか、其事に就て伺ひたく存じます。
答、至て六ケ敷い御質問であります、私は斯かることに就ては何んにも知らないと申上ぐるより他に途はありますまい、無我の愛は何であるか、絶対者は何であるか、それは形而上学《メタフイジツクス》の問題であります、爾うして私もそれに就て多少の考へはないではありませんが、然かしそれは実際の宗教問題ではありません、愛の何たる乎は形以上学に由て之を究めても判分りません、実際に之を行つて見て判分るのであります、我等の所有物の中の最も好き物を他人《ひと》に与へて見て判分るのであります、絶対者云々の如きに至ては是れ宗教問題とは至て縁の遠い問題であります、私共は堅き論城の上に私共の信仰を築くのではありません、幾回か繰返へされたる実験の上に立つのであります、私共は何故にキリストは神である乎、其理論は能くは知りません、彼と絶対者との関係、彼が此世に臨みし間は三位の一位が宇宙の他の方面に於て欠け居りしや否や、是れ私共の能く知る所ではありません、勿論此等のことに就て私共に多少の意見がないではありません、然しながら私共は斯かる問題に満足なる智的解釈を施して然る後にキリストを信ずるに至つたのではありません、私共は実際的にキリストの血に由て私共の罪を洗はれましたから、夫れ故に彼を私共の教主として崇め奉るのであります、ドーゾ宗教と形而上学とを混同なさらないで下さい、二者は決して同一の者ではありません。
 其他二三の是に類する質問ありし後、余は説教後疲労の折りなればとて此上の応答を謝絶したれば、婦人は如何にも不満足らしく余の家を去られたり。改行
 
(274)     基督の死状に就て
                     明治39年9月15日
                     『聖書之研究』79号「雑録」
                     署名なし
 
   彼がエリ、エリ、ラマ、サバクタニの声を発し給ひし理由。馬太伝廿七章四五−四九節。
  是れは過ぐる八月、越後国柏崎町に於て開かれたる教友会員夏期懇談会の席上に於て会員の質問に対して内村生が述べたものであります。
 
 基督は其伝道の初めに方てカナに於ける婚筵の席に於て人に葡萄酒を飲ませ給ひ、終に自分は酢を飲ませられるに至つたのであります、聖書の此の所を読んで基督が神性を備へ給ひしと同時に又真個の人間であつたことを深く感じます、此のエリ、エリ、ラマ、サバクタニの辞《ことば》は詩篇(廿二章一節)から引いた言葉であつて、是れはイエスが幼い時から母の膝に恁れて読んで居られた詩篇の言が自然に発したのであります、基督に其時勇ましい死状を人に見せやうと云ふやうな御心があつたならば、彼は巍然として十字架上に立ち上り、猶太人を罵るとか、或は羅馬語か希臘語で学者牧伯を責むるといふやうな事をなされたであらうと思ひますが、彼は決してそんな事はなさりませんでした、彼は其時知らず知らず其祖国の言葉たる希伯来語を以つてエリ、エリ、ラマ、サバクタニと叫ばれました、之に依て基督が如何に私共に近い方であつたかを想像することが出来ます、私も死ぬ時には多分英語や其他の外国語を語りながら死に就かうと思ひません、それで私共から見ますと或は基督にもう少し勇(275)ましく死んで戴きたかつた、少くともステパノ位ひに勇ましく、又ヨブの樣に「神我を殺すとも我は神を捨てず」と云つて死んで戴きたかつたやうに思はれます、併し能く考へて見ますれば基督が「吾が神我が神なんぞ我を捨て給ふ乎」と云つて下された事が私共の心を非常に強くします、或時は私共が病気にでも罹れば苦痛の余りに神を怨み奉ることが往々あります、そこで斯く神を怨み奉るやうな罪を犯したのであるから神は到底私共を赦し給ふまいと思ひて非常に心を痛めます、然しながら基督の死状を考へる時には、彼が「我が神我が神何ぞ吾を捨て給ふ乎」と叫ばれてそれで神の独子であるとすれば、私共の不信の罪をも神は必ず赦し給ふことを信じ、それに由て大なる慰安を得るのであります、基督の死状がステパノのやうでありましたならば私共は苦痛の余り神を怨み奉つた時に如何にして良いか行く瀬が無いのであります。
 英国の有名なる文学者サムエル・ジョンソンは立派な信仰を有て居つた人でありましたが、彼が死の床に就きし時に或婦人が彼を訪問致しますと、彼はブル/\ふるへて居ましたから、「何が恐しいのでありますか」と尋ねましたら「地獄に陥るのが恐しい」と答へました、そこで「地獄に陥るとは如何いふ事でありますか」と聞きましたら「神を離れて悪魔に交《わた》されることである、貴女はそれが恐しくはありませんか」と病床から叫んだと云ふことであります、ジヨンソンの如き立派な信仰を有し乍ら地獄に陥ることを懼れたと云ふものは人の人たる所以で又ジヨンソンのジヨンソンたる所以であります。
 能く世間では基督教信者の死状は美はしい者であると云ひまして、其れがために基督教を貴びまするが、然か 人の死状の如何によつて彼が天国に行くか地獄に陥るかゞ分るものではありません、彼が彼の全生涯を神の為めに用ゐたか、彼の全生涯の目的は何であつたか、其れに依つて定まるものであります。
(276) 北米合衆国の独立を助け、ワシントン、フランクリンと共に尽力した人にトマス・ペインと云ふ人がありました、此人は「道理の世」と云ふ本を書いて大に当時の基督教会を攻撃した為めに世人から非常に卑められまして、今に至るも誰もトマス・ペインなどゝ呼ぶ者は無く、トム・ペイン、トム・ペインと呼ばれて居ります、そこでトム・ペインの死状は非常に恐ろしい、苦悶を極めたものであつて彼を看病した老婆某は将来決して無神論者の看病は為すまじと決心したと云つたとの事であります、然るに其後無神論者のインガソルと云ふ人が出て十万弗の懸賞を以て若し果して老婆の言つたと云ふ言を証拠立て得るものがあるならば此金額を与へんと云つて、証拠の出るのを待ちましたけれども、幾年すぎても此事を証拠立つるものなく、今は終にトム・ペインの死状の悲惨であつたと云ふことは何時となしに消滅して仕舞つたのみならず、近頃に至つてトマス・ペインはワシントン、フランクリンとの三人中最も多く信仰を有したる人にて、彼が仏蘭西に行つた時には彼国人の神を信ずること甚だ少なきを慨き、書を著して大に宗教心を彼等の中に鼓吹したと云ふことが明かになり、コンウェイと云ふ学者が其伝を書いて、彼は彼時代に於て人類の為めに多く尽したる人であつたことを世人に知らしめる様になりました。ジヨン・バンヤンの書いた『悪人の伝』に悪人は安らかに死んだと書いてあります、そこで私共は基督をしてかゝる声を発せしめし人類の罪の如何に大なるかを感ずると同時に、人の死状によつて其善悪を判断することの誤謬なるを了りますれば、斯かる考は此懇話会を限りとして一切止めて仕舞いたいと思ひます。
 
(277)     今の批評
                     明治39年9月15日
                     『聖書之研究』79号「雑録」
                     署名なし
 
 褒るは正義の故にあらず、恩義の故なり、貶るは罪悪の故にあらず、怨恨の故なり、今の批評なるものは私恩私怨の発表なり、世が之に些少の信をも置かざるは敢て怪むに足らざるなり
 
(278)     課題〔5「最終の裁判彼得後書三章十−十三節」〕
                     明治39年9月15日
                     『聖書之研究』79号「雑録」
                     署名 内村生
 
      最終の裁判
 
    (彼得後書三章十−十三節。自訳)
  然れど主の日は来るべし、盗人の夜来るが如くに来るべし、其日には諸天は大なる響を以て消去り、天体は熱火を以て鎔去り、地と其中にある事業は焼け尽すべし、此の如くにして万物悉く鎔去るべければ汝等は神の日を待望み且つ之を速めつゝ如何ばかり其行を潔ふし、神を敬ふべきよ、是によりて天は燃え失せ天体は焼鎔けん、然れど我等は約束に拠りて新らしき天と新らしき地とを待望むなり、義、其中に宿る。
 
     辞解
 
 然れど 或る人は主はその約束し給ひし所を成すに遅しと云ふ(前節)、然れども 〇主の日 キリストの顕はれ給ふ日にして彼が世を鞫き給ふ日なり、最終の裁判の日なり 〇来るなり 必ず来るなり 〇盗人の夜云々 不意に来るなり、人が来らずと思ふ時に来るなり 〇諸天 総ての宇宙の意ならん乎、宇宙は一つにあらず、数(279)個ありとは古今の学者の唱道する所なり 〇大なる響を以て 疾風が吹去る時の如き、或ひは矢が空中を飛び行く時の如き響をなして 〇消去り 消失し 〇天体 月、日、星の如き者 〇地云々 此地と其上になされし人のすべての事業 〇之を速め 信者は其潔き行を以て主の日の来るを速むべしとなり、其速かに来らざるは信者の之に対する準備の整はざるに由るとの意なるべし 〇義其中に宿る 義は新天地の中に永住して再び之を去らざるべし、新王国の市民の堕落するが如きは決して無かるべし、宿るの字に注意せよ。
 
    宇宙の焼失
 
 星にして焼失せし者ありとは天文学者の認むる所なり、又此地球の焼失せんことは決して想像し難き事に非ず、若し何にかの理由によりて地球が其運行を中止するに至らん乎、太陽の周囲を一秒時間に七哩づゝの速度を以て疾行しつゝある地球は其運行の中止に由て、速力は化して熱となり、以て之を焼失するに至るべし、或ひは他の天体と衝突するによりて焼失すべし、或ひは又或る学者の唱ふるが如く地球は歳々太陽に何て近づきつゝある者なれば終に其吸収する所となりて焼失するに至るべし、地球の最後は火なりとは人類の一般に信じ来りし所なり。
 
    主の日の待望
 
 最終の裁判と云へば一般に恐怖るべき者として信ぜらる、然れども是れキリストを信ぜざる者に取りてのみ然るなり、我等彼と偕に在る者に取りては之れ我等の切に待望む所のものなり、我等の義とせらるゝは其時にあり、(280)我等は異邦に流偶するの感を以て此世に在る者なり、今は裁判の時に非ず、今や正邪の別は甚だ曖昧なり、然れども主の日の来る其時に、義者は冠を着せられて現はれ、悪人は硫黄の火の中に投入らるべし、「爾国《みくに》を臨《きた》らせ給へ」とは此日を速く来らせ給へとの祈祷なり、我等はキリストの降臨なくして此世が社会改良者の努力によりて黄金世界と化せんとは決して信ぜざるなり、故に我等は何よりも最も切に主の日の来らんことを待望むなり、主イエスよ来り給へ(黙示録末章廿節)是れ我等の熱切の祈祷なり。
 最終の裁判は来るべし、ノアの時に大洪水の地上に臨みしが如くに来るべし、又仏国革命が仏国民の上に臨みしが如くに来るべし、又近くは桑港の上に地震が臨みしが如くに来るべし、而して来て此地を一掃して、新天地の建設を促すべし、故に我等は行を潔うし侶を篤うして此日の来るを待つべきなり。
 
    基督者《クリスチヤン》の救の希望
 
 基督者は他者に優れて徳が高く行が潔いから救はるゝのではない、義人あるなし一人もあるなしで、若し人は其義を以て救はるゝ者であるならば世に救はるべき者は一人もない、若し徳行が救済の理由であるならば我等も救済の希望を有たない者である。
 然しながら我等基督者は我等の徳行を以て救はれんと望む者ではない、宇宙に聖い義しい者は唯一人ある、神の子イエスキリストである、彼れのみが天国を建て、又之に入るの資格を備へた者である、彼は完全無欠の者であつて、彼れのみが天国の王にして又其市民たるの資格を備へた者である。
 爾うして我等が救はれんと欲するのは彼れイエスキリストに由りてである、彼に帰し彼に依り、信仰を以て彼(281)の属となり、彼の義を我が義となし、彼の完全を我が完全となし、爾うして救はれんと欲するのであある、即ち我等は十字架にすがりて救はれんと欲するのである、神が我等のために備へ給ひし羔の犠牲の徳を其儘我がものとなして救はれんと欲するのである。
 故に我等が救済を希望し之を確信するのは我等の徳行を誇つてゞはない、又神の我等に対する特別の愛に自惚《おのぼれ》てゞはない、我等は自棄して謙遜の極に達して救はれんと欲するのである、基督者が救済を確信するは其中に深き道理が存して居ると思ふ、能く基督の何者たる乎を解して、基督者の救済、永生の希望の決して空望でないことが解かる。
       ――――――――――
十月分課題は左の如し
  智識の本源
   箴言第一章七、八、九節。
答文一人に付き八百字以内(仮名共に)。
第一等に対しては著者の名を自署したる『興国史談』一冊を進呈す。
原稿〆切九月三十日。
 
(282)     『三条の金線』
                       明治39年9月16日
                       単行本
                       署名 内村鑑三述
〔図版省略〕初版表紙146×111mm
 
(283)     〔基督教とキリスト 他〕
                     明治39年10月10日
                     『聖書之研究』80号「所感」
                     署名なし
 
    基督教とキリスト
 
 主義に非ず、性格なり、教理に非ず、生命なり、基督教に非ず、キリストなり、主義は如何に高きも教理は如何に深きも儀文にして束縛なり、我等は直に活けるキリストに到り其生命を受けて真の自由に入るべきなり。
 
    福音書と書翰
 
 福音書は救主の言行を伝へし者なり、書翰は救はれたる者の信仰を陳べし者なり、救済の一事を神より見て福音書あり、人より見て書翰あり、唯見地を異にするのみ、実体を異にするにあらず、二者の相違を説く者はキリストに現はれたる救済の事実を見留めざる者なり。
 
    科学と神学
 
 今や科学は唯心説に還りつゝあるに、神学は唯物説に傾きつゝあり、科学者は天然を奇蹟視しつゝあるに神学(284)者は成る可く丈け奇蹟の承認を避けつゝあり、それ後の者は先に、先の者は後に為るべし(路加伝十三章三十節)、信仰の見地より看るも今や神学者は遠く科学者に及ばざるなり。
 
    我が基督教
 
 我が基督教は是れなり、神我が衷に働らき給ふと、我れ義しきにあらず、我れ聖きにあらず、我れ能力あるにあらず、神は其正義を以て、其聖潔を以て、其能力を以て我が衷に働らき給ふ、強き神が弱き我に顕はれ給ひしもの、是れ我が基督教なり、我は是れ以外に我が基督教あるを知らず。
 
    限りなき恵み
       詩篇第百七篇
 
 歓喜を以て主を讃美せよ、そは彼の恵みに限りなければなり、万事を彼に任かし奉れよ、そは彼の恵みに限りなければなり、彼は我等のすべての敵を服へ給へり、彼の恵みに限りなければなり、彼は我等に多くの善き友を与へ給へり、彼の恵みに限りなければなり、彼に由りて我等の生涯は勝利の生涯なりし、彼の恵みに限りなければなり、我等は終に安然《やすらか》に眠るを得ん、彼の恵みに限りなければなり、我等は覚めて主の聖国《みくに》に永遠《とこしへ》の春を楽しむを得ん、彼の恵みに限りなければなり、彼の恵みに限りなきが故に、我が世に在らん限りは、又世を去りて後も、其恩恵と憐憫とは我に添ひ来らん。
 
(285)    自省と仰瞻
 
 我は日々に自己《おのれ》を省みず、我は日々に我が主を仰ぎ奉る、我は我が衷に何の善き事をも発見する能はず、我が善はすべてキリストと偕に神の中に蔵れ在るなり(哥羅西書三章三節)、我の汚れたるは悲しむに足らず、神は其聖きを以て我を聖め給ふ、我の愚かなるは歎くに足らず、神は其慧きを以て我を慧くし給ふ、我は己に省みて降り、神を仰ぎ瞻て昇る、恰かも日光の我を天に向けて引附くるが如し、我れ我が主を仰ぎ瞻て、我が信仰の翼は張りて、我が身は地を離れて、主の宝座《みくら》に向て昇るが如くに感ず。
 
    信仰の道
 
 信仰の道は易い哉、唯任し奉れば足る、然れば光明我に臨《きた》り、能力我に加はり、汚穢我を去り、聖霊我に宿る、信仰は完全に達するの捷路なり、智識の径《こみち》を辿るが如くならず、修養の山を攀《よぢ》るが如くならず、信仰は鷲の如くに翼を張りて直に神の懐に達す、学は幽暗を照らすための燈なり、徳は暗夜に道を探ぐるための杖なり、然れども信仰は義の太陽なり、我等はその照らす所となりて恩恵の大道を闊歩し、心に神を讃美しながら我等の旅行を終り得るなり。
 
    基督者《クリスチヤン》たるの資格
 
 我の過失を挙げて我の悪人たるを証せんとする者あり、然れども其事たる縦し悉く事実なりとするも我が(286)基督者《クリスチヤン》たる上に於ては何の関係あるなし、最も善き基督者の一人は基督の側《かたはら》に十字架に釘けられし盗賊の一人なりし、  彼れイエスに曰ひけるは、汝、汝国《みくに》に来らん時我を憶ひ給へ、イエス答へけるは誠に我れ汝に告げん、今日汝我と偕に楽園に在るべし(路加伝廿三章四十二、四十三節)。
 若し彼れ盗賊にして楽園に在り得べしとならば、我も亦其処に到り得ざるの理あらんや、我は悪人なればとて基督者たるの資格を失はざるなり。
 
(287)     基督教と兄弟主義
                     明治39年10月10日
                     『聖書之研究』80号「所感」
                     署名 角筈生
 
〇基督教は兄弟主義であると云ふ、然り、其結果に於ては鞏固なる兄弟主義である 然れども其源因に於ては夫れではない、基督教は本来兄弟主義ではない、読んで字の通りキリスト主義である、吾人各自が直にキリストに連結することである、爾うして其結果として兄弟相愛するに至ることである、同胞相連りてキリストに連るに至るのではない、キリストに連りて同胞相連るに至るのである、キリストに由らざる兄弟主義は基督教の重きを置かざる所である。
〇兄弟主義を唱ふる者は多くは己れが他人に助けられんと欲して之を唱ふるのである、他人を助けんと欲して唱ふるのではない、キリストに由りてのみ吾人は真に無私たるを得るのである、キリストを要せざる兄弟主義は畢竟《つまり》利己主義たるに過ぎない。
〇兄弟主義の美は何人も能く之を知る、然れども之を実行するの力は惟りキリストに於てのみある、彼に由りて肉(自我)を十字架に釘けらるゝまでは我等は真に兄弟を愛することは出来ない、基督教は兄弟主義を唱へずして其力を供する者である、キリストに由りてのみ真個の兄弟の縁は結ばれるのである。
 
(288)     神学耶農学耶
         実験的に科学と宗教との関係を論ず
                     明治39年10月10日
                     『聖書之研究』80号「実験」
                     署名 内村鑑三
 
 余の今の事業は農業ではない、伝道である、余の今耕しつゝあるものは土地ではない、人の心である、余の今きつつある種は麦、粟、稗、玉蜀黍ではない、キリストの福音である、余が今収穫《かりとら》んとしつゝあるものは果物又は穀類ではない、キリストに由て救はれたる人の霊魂である、又余が今|漁《すなど》りつゝあるものは鰊、鱈、鮭ではなくして人である、余は今鋤を取らずして筆を取る者である、網を引かずして道を説く者である、而かも余は農学を修めた者であつて神学を修めた者ではない、余は余の学んだものを行ひつゝある者ではない、余は農学を学びながら神学者の従事する伝道に従事しつゝある者である。
 故に余の同窓の友は曰ふ、余は農学校の生産物ではなくして副産物であると、又正式の按手礼を受けたる伝道師の側より言へば余は伝道海の密猟者である、余は農学者でもなければ伝道師でもない、雌雄の性を別ち難き両性動物の如き者である。
 余は時々思ふ、余にして若し夙くより余は伝道に従事すべき者であると知りしならば余は農学を学ばずして神学を究めしものをと、爾うして今日実際伝道の業に従事するに方て余は少からず神学的智識の欠乏を感ずる者で(289)ある、余の希《ひ》、希《き》両語の知識は取るに足らない、余は組織神学又は歴史神学又は牧会神学又は弁証学又はドグマ神学に就ては殆んど知る所はない、余は形而上学を知らない、余は霊魂不滅を哲学を以て証明することは出来ない、余は心《マインド》と霊魂《ソール》と精神《スピリツト》との区別を知らない、余は又近世の聖書批評学なる者を知らない、言語学的に加拉太書が使徒パウロの作であることを証明することは出来ない、以賽亜書は一人の作である乎、二人の作である乎を判定することは出来ない、余は又教会制度に就ては全く無学である、若し是等のことを知ることが伝道師たるの資格を作るに必要であるとするならば余は少しも其資格を備へない者である、神学は余に合はず余は神学に合はない、余は今に至るも神学を学ばざりしことを深く悔ゆる者ではない。
 是に反して余は農学を修めしことに就ては尠からず神に感謝する者である、余は今に至るも農事に就て非常の趣味を懐く者である、余は心に苦痛を感ずる時は、教会堂に入つて教師の勧めに与からんとせずして、歩を田圃の間に運び、茄子や胡瓜が自己を太陽の光線に曝らして何の憂慮《おもひはか》ることなく生長するを見て、偉大の慰藉を感ずる者である、花の間を歩む時に、余は暫時にして慰安の霊の余の霊に臨むを覚え、言ふべからざる聖き快楽を感ずる者である、余は教会堂に香の薫《くすぼ》るを求めざれども秋の野に熟せる稲の香を嗅いで神を讃美し奉らんとの聖き欲心《おもひ》を起す者である。余は流れに鱗族を見る時は旧き友に遭ひし心地し、其銀色の鱗に太陽の光の映ずるを見ては彼等と共に躍りたく欲ふ者である、余が田舎伝道を愛して都会伝道を嫌ふのは都会人士を怕れてゞはない、余は農夫と共に農産物を愛するからである、金環をはめ美はしき衣服を着て会堂に来る都会信者(雅各書二章二節)を見んよりは風に漂ふ稲の穂や露を湛ふる芋の葉を見んと欲するからである。余は神は田舎を作り、悪魔は都会を造りたりとの言を字義其儘に信ずる者である。
(290) 斯くて余は今農業に従事せざるも今に尚ほ「田舎の小供」である、余は神学に就てよりは農学に就て多く知つて居ることを神に感謝する、余が若し少しなりとも神とキリストとに就て知る所があるならば、其れは神学書と神学者とに由てよりは野と丘と川と海と其中にあるすべての者より教へられたものである、神御自身に亜ぐ余の教師は玉蜀黍である、甜菜《びーと》である、馬鈴薯《じやがたらいも》である、牛である、馬である、鷸《しぎ》である、鵯である、駒鳥である、鮭である、鱒である、鰊である、鱈である、爾うして冬の夜、空天《そら》の晴れ渡りたる時はオライオン星である、アルクチユラス星である、余を教へし説教師にして是等の如く雄弁なるはない、余は彼等に由て神を識り、キリストに導かれた者である。
 爾うして基督教の聖書を学ぶ上に於ても「農学研究は余に取り無上の手引であつた、幸にして余の救主として仰ぎ奉るイエスキリストは神学者ではなくして労働者であり給ふた、彼は大工の子ではあり給ひしも田舎の大工の子であり給ひしが故に其思想も言葉も農夫のそれであつた、ナザレのイエスに希臘哲学も猶太神学もなかつた、故に学者の如くならず権威を有てる者の如く教へ給ふた、爾うして其権威を有てる者の如き教はすべて平易なる農夫の言を以て伝へられた、天空《そら》の鳥と野の百合花。狐に穴あり空の鳥に巣あり。葡萄樹、橄欖樹、芥種《からしだね》。初めには苗、次ぎに穂出で、穂の中に熟したる穀を結ぶ。種播く者播かんとて出づ、※[石+堯]地《いしぢ》、棘《いばら》の中、沃壌《よきつち》、実を結べること或ひは三十倍、或ひは六十倍、或ひは百倍。羊と牧羊者。豕の食する所の豆莢《まめがら》。薄荷《はくか》茴香《ういきやう》及びすべての野菜の十分の一。天国は之を何に譬へん、芥種の如し、麪酵《ぱんだね》の如し。是れ皆な農家の言葉である、其意味を解するには神学は要らない、農業的智識を要する、余は福音書を読んで斯う思ふ、即ち福音書は神学を学ばない者にも解かるが農業を知らない者には解らない、其優其美は田園生活に慣れたる者のみ充分に之を会得することの出(291)来るものであると。
 キリストは勿論普通の農夫ではない、彼は勿論農業を教へた者ではない、彼は後世を説き給ふた、罪の赦しを宣へ給ふた、贖罪と復活と昇天とを語り給ふた、彼は地の言葉を以て語り給ふたなれども地の者ではなかつた、然しながら天の者ではあり給ふたが地の実物を離れては語り給はなかつた、彼は「天国の福音」と言ひ給ふて、「絶対的真理」とは言ひ給はなかつた、「罪の赦し」と言ひ給ふた「社会改良」とは言ひ給はなかつた、彼は悪鬼を逐出し給ふた、新智識を供して無学の幽暗を照らさんとは為し給はなかつた、キリストは確実なる地の言葉を以て高遠なる天の理を語り給ふた、彼は野花の如くに近づき易くある、而かも其如くに意味深くして解し難くある、彼は神の懐より直に出で来り給ひし者、故に青空が凝結して花となりしと云ふ秋の花なる紫竜胆の如くに睦み易くして解し難くある、神が農家の間に顕はれ給ひし者、聖なる平民、不朽の神の子!
 天然学の長子なる農学に由て神を識りし余は多くの無益なる疑問に苦しめられなかつた、余にも勿論多くの懐疑はあつた、然かし是れは人生の実際的懐疑であつて、哲学者や神学者の懐く思弁的懐疑ではなかつた、農学の研究は余に事実は事実として之を信ずるの習慣を供した、何故にニツケルは硼砂球に褐色を以て顕はれ、コバルトは青色を以て、マンガンは紫色を以て顕れるか、其説明を供せられずとも、褐色なるが故にニツケルなりと信じ、青色なるが故にコバルトなりと信じ、紫色なるが故にマンガンなりと信ずるの悟性を供せられた、詩人ゲーテは曰ふた、「余は思考することに就て思考せず」と、何故に青は眼に育と映ずるか、何故に赤は赤と映ずるか、是れ思考するも益なき問題である、我等は天を瞻て紅きが故にアルデバラン星なりと判じ、青きが故にシリアス星なるを知る、科学者の知らんと欲する所は存在の理由にあらずして存在の有無である、事実の真相である、信(292)じ難き事とは有るべからずと想ふことではない、実際に無き事である、若し実際有るとならば、又は有りしことならば科学者は何事たりとも之を信ずるに躇躇しない、信じ難い]《エツキス》光線の力をも信ずる、無線電信の効能をも信ずる、我等は何故と問ふて、其説明を聞くまでは之を信ぜざるが如き事を為さない、我等は神の子であると同時に又天然の子である、故に「ナゼ、何故に」との問ひを起すことなしにすべての事実を事実として信ずる。
 此習慣を供せられし故に余は基督教を究める上に於ても多くの無益なる懐疑より免かるゝを得た、基督の奇蹟の如き、是れ真正の科学者としては有るべからざる事として先天的に拒むべきことではない、実に有りし乎、是れ彼の知らんと欲する所である、若し有りしとの充分の歴史的証明を供せられ、有り得べき充分の力学的《ダイナミツク》並に道徳的理由を供せらるゝならば、彼は何の狐疑する所なくして之を信ずべきである、真正の科学者は天然の事物並に顕象に対してはナタニエルの如く真のイスラエル人にして其心詭譎なき者でなくてはならない(約翰伝一章四十七節)、詩人ロングフェローは彼の理想的科学者ルイ・アガシに就て歌ふて言ふた
   其《そ》は五十年前なりし
   美はしき五月《さつき》の月に於て
    はしきパイデヴォーの谷に於て
   赤子《あかご》は其|揺籃《ゆりかご》の中に臥せり
 
   老ひたる乳母の天然は
   彼を彼女の膝に抱上げ
(293)   言へるやう『茲に一つの物語あり
   汝の父は之を書き給へり』
 
   『来れ、我と偕に遊べよ、
   人の未だ践まざる地に到れよ、
   而して其所に人の未だ読まざる
   神の自筆を以てせる記録を読めよ』と。
        『アガシ第五十回誕辰』中の三節
 科学者の精神は是れである、嬰児《おさなご》の精神である、天然の事実を有の儘に信ずることである、奇蹟なればとて驚かない、又疑はない、事実は事実として信ずる、爾うして神に感謝する。
 余の拳督教の信仰は今日に至るも此信仰である、即ち事実の信仰である、理屈の信仰ではない、実験の信仰である、何故に神は在る乎、余は知らない、余は只神の在るのを知る、何故にキリストは余の救主である乎、余は能く知らない、余は唯キリストに由りて余の罪が取去られ、余は神を見るを得て潔きと義しきとに就て意ひ得るを知る、余は何故に聖書は神の言葉である乎を能く知らない、唯、其、余の心を動かすこと人の言葉の如くにあらざるを知る、魚は魚、禽は禽、獣は獣、人は人、キリストはキリスト、余は爾か信ずるのである、其れには夫れ相応の説明はあるべし、然れども説明は事実の真相を説き悉すに足りない、天然に就て黙想する者は天然に就て善く知る者ではない、其如くキリストに就て黙想すればとて能くキリストを知ることは出来ない、天然を識る(294)の法は直に天然に接するにある、其如くキリストを識るの法は直に我等の霊に於て活きたるキリストに接するにある、二者を識るの方法は同一である、科学の方法は亦宗教の方法である、信仰は実験である、科学と宗教との異なる点は其方法精神に於て在らずして、単に其探究の領域に於て在る、地のことを究むるのが地文学であつて、天のことを究むるのが天文学である、其如く霊のことを究むるのが宗教である、余に取りては宗教は余の科学を霊の界《さかひ》に移したまでゞある。余は今聖書を究むるに方ても曾て鮑や、鰊や、鮭のことを究めたと同じ方法精神を以てする者である。
 事実《フハクト》、事実、事実、「天然の堅き基礎の上に、永遠に築く者は頼る」、見ゆる天然は見えざる永遠に達するための唯一の階段である、人は先づ「天然の堅き基礎の上に」立たずして真実と真理と神とに達することは出来ない、天然の研究を以て宗教研究に入りし余は幸福なる者である。
 農学より宗教に移りし余は未だ曾て宗教の実《リアルチー》を疑つたことはない、否な、若し宗教にして実ならざるものならん乎、余は今日直に之を棄つべきである、宗教にして若し単に哲学ならん乎、論理ならん乎、方便ならん乎、政略ならん乎、世を治むるための経緯ならん乎、余は今日直に之を去るべきである、空は以て人の腹を充たすに足らない、其如く空論は以て人の霊魂を養ふに足らない、人の肉体の要する者は政治論と経済論と社会学とにあらずして実の穀物と実の肉類である、其如く人の霊魂の要するものは神学論と教会論と聖書学とではない、実のキリストと実の聖霊とである、茲に至てキリストの言の愈々深きを了るのである、
  イエス曰ひけるは誠に実《まこと》に汝等に告げん、若し人の子の肉を食はず、其血を飲まざれば汝等に生命なし、我が肉を食ひ、我が血を飲む者は永生あり、我れ末の日に之を甦らせん、夫れ我が肉は真の食物、又我が血は(295)真の飲物なり(約翰伝六章五十三−五十五節)。
 余の見、又実験する所に由れば人の救はるゝのは真理を教へられて救はるゝのではない、真の生命を授けられて救はるゝのである。智覚《さとり》を開かれて救はるゝのではない。聖霊を与へられて救はるゝのである、聖霊は実に実在物である、理ではない、膏雨が天より降りて乾きたる地を潤す如く、聖霊は神の所より出て渇きたる人の霊を潤す者である、ギリシヤ人は理を語り、ローマ人は法を説いた、然しユダヤ人は神に依て実を伝へた、故に理は之を哲学者に任かせよ、法は之を政治家に譲れよ、然れども我等クリスチヤンは科学者の精神を以て実を求めん、基督教は是れ理論家、又は経綸家の手に委ね置くべき者ではない。
 天然学を以て養はれし余は世のすべての儀礼に堪ゆることは出来ない、天然は其儘にして美はしく又正しく、又|敬虔《つゝしみ》深くある、天然は別に礼服を着ずして其造主を讃美する、天然に僧侶の階級はない、特に聖殿と称すべき神を礼拝する場所はない、天然は純粋なる平民である、天然は直に神に造られて直に神に縋がる、故に天然的に神を拝せんと欲せば自由独立ならざるを得ない、然り、余の独立信仰は素と是れルーテル、コロムウエルより学んだ事ではない、山の松より、空を翔ける鳥より、大海を遊泳する魚より学んだ事である、余の庭前に咲く萩も、櫟の梢に囀る蝉も今尚ほ余に「自由なれ、独立なれ」と告げつゝある、天然を学んで我等は教則に縛らるゝことは出来ない、天然を友として我等は僧侶より膏を注がれんとは為ない、天然の子供なる我等は詩人ホイットマンの言を藉りて言ふ
   Ah,more than any priest,O soul,we too believe in God;
   But with the mystery ofGod,We dare not dally.
(296)   嗚呼、何れの僧侶よりも、我が霊魂よ、我等は篤く神を信ず、
   然れど神の深事《ふかきこと》を以て我等は弄ばんとせず。
 天然学を以て育てられし余は教会の分離に堪えない、天然は一体である、宇宙をコズモスと云ふは整体の意である、天然は大なる音楽である、又は大なる絵画である、天然に対照はあるが矛盾はない、天然に由て基督教を究めて我等はパウロと共に叫ばざるを得ない、
  キリストは数多に分かるゝ者ならん乎(哥林多前書一章十三節)
と、天然は自由と同時に一致を教へる、自由を重んずる一致と、一致の中にある自由を教へる。
 実《まこと》に天然の研究ほど人の寛容の性を養ふものはない、最も狭隘にして最も嫉妬深き者は常に天然学を賤んで止まざる神学者である、科学者が科学的真理のために人を焼殺した例はない、然かし神学者が神学論のために人を殺し、友を陥ゐれ、悪み、嫉んだ例は挙げて数ふべからずである、世に恐るべき、悪むべき、厭ふべき者とて所謂る「神学者の憎悪」(Odium theologicum)の如きはない、爾うして悪魔の此毒焔より免かれんと欲せば神の天然を学ぶより他に善き途はない。
       *     *     *     *
 若し茲に今より神の道の研究に従事せんと欲する有為の青年があるとするならば、余は余の経験に由りて何の研究を彼に勧めん乎、神学か、農学か、神学を学ぶの益は多くあらん、然れども農学を学ぶの益も決して尠くはない、農学は農学のために必要なるばかりではない、神学のため、伝道のためにも必要である、直に思想の翼に乗りて天に上らん乎、或ひは地に土台を築いて然る後に上らん乎、前者或ひは捷径なるべし。然れども落るの虞(297)れ多し、後者に人を塵に就かしむるの虞れあり(詩篇百十九篇二十五節)、然れども安全にして健全なり、爾うして余は空想に走り易き日本国の青年に向つては神学を究めんよりは農学を究めんことを勧めたく欲ふ者である、余は之を思ふて神が伝道に従事すべき余に神学を修めしめ給はずして、反て世の神学者等が伝道とは何の関係もなきものゝやうに思ひ居る農学を修めしめ給ひしことを今に至て深く深く感謝せざるを得ない。
 
(298)     基督者《クリスチヤン》は何故に善を為す可き乎
                     明治39年10月10日
                     『聖書之研究』80号「実験」
                     署名 内村鑑三
 
 基督者《クリスチヤン》は善を為すべきである、然かし彼は何故に善を為すべきである乎、是れ至て容易《やさし》いやうで実は甚だ困難い問題である。 基督者は現世に於ける報酬を目的として善を為してはならない、汝饗筵を設くる時は貧者、不具者、跛者、瞽者等を請くべし、然らば汝福ひなるべし、そは彼等は汝に報ること能はざれば也、義人の甦らん其時汝等に報賞あるべし(路加伝十四章十三、十四節)、我等は我等の善行に対して最終の日に於て神より受くる義の報賞のほか、人より何の望む所があつてはならない。
 基督者は又名誉を目的として善を為してはならない、汝等人に見せんために其義を人の前に行す事を慎むべし、……施済《ほどこし》を行す時人の栄を得んために会堂や街衢《ちまた》にて偽善者の如く※[竹/孤]《らつぱ》を己が前に吹かしむる勿れ、……汝施済を行す時は右の手の為す事を左の手に知らする勿れ(馬太伝六章一、二、三節)、世の人望を博せんために、国人に愛国者として認められんために我等は善を為してはならない、我等は譏らるゝも、誉めらるゝも、世の批評なるものは無きものと見て、為し得る丈けの善を為すべきである。
 基督者は又善の成功を期して之を為してはならない、此世は悪の世である、善は弱くして悪の強い世である、(299)暗黒は光明を圧し、罪悪は正義を掩ふ世である、斯かる世に在て我等は善の成功を期して絶望せざるを得ない、キリストは世の始より殺され給ひし羔であつて今尚ほ殺されつゝあり給ふ者である(黙示録十三章八節)、キリストの如くに正を行ひ義を唱へた者で或る意味に於て世に殺されなかつた者は未だ曾て一人も無い、凡の人汝等を誉めなば汝等禍ひなる哉(路加伝六章廿六節)、姦悪の此世に善と認めらるゝ事は善ではない悪である、善を此世に於て為さんと欲する者は失敗を期して之を為さなければならない、十字架を負はずしてキリストに従ふことは出来ない。
 然らば我等は何を目的に善を為すべきである乎、何を目的に福音を宣伝へ、何を目的に慈善を施し、何を目的に社会改良に努め、何を目的に真理の探究に従事するのである乎、若し善行に報酬なく、名誉伴はず、成功の見込なしとならば善を行すの動機は那辺に在る乎、我等は善を為して実は空を撃つのではあるまい乎、善行はすべてドンキホテの事業ではあるまい乎。
 否な、爾うではない、爾う思へるのは此世を実の世と見做すからである、然かし我等は此世を実の世としては見ない、是れは仮りの世である、準備のための世である、完成されたる世ではない、完成に向ひつゝある世である、そは見ゆる所の者は暫時にして見えざる所の者は永遠なれば也(哥林多後書四章末節)、見ゆる所の此世は暫時的の者である、爾うして基督者が善を為すはこの暫時的の世を益せんがために為すのではない、彼の目的が永遠であるが故に、彼は暫時的の此世より報賞をも名誉をも望まないのである。
 汝等主に在りて其為す所の労の空しからざるを知れば也(哥林多前書十五章末節)、我等基督者が善を為すの動機は茲に在る、我等が善を為すのは己れのために為すのではない、又世のために為すのでもない、主に在りて為(300)すのである、キリストの事業として為すのである、神キリストに在りて世々の前より定め給ひし企図《くわだて》を成就せんがために為すのである。以弗所書三章十一節。
 我等は何故に福音を宣伝ふるのである乎、勿論教勢拡張のためではない、我等の弟子を作らんためではない、然ればとて所謂る信者を作らんためでもない、伝道師の伝道に由てすべての人が救はるべしとは聖書のドコにも書いて無い、伝道は宣明である、キリストの福音のデクラレーシヨンである、之に由て多くの人は頽《ほろ》ぶべし又多くの人は興るべし(路加伝二章三十四節)、頽ぶるは勿論我等の歎く所であって、興るは勿論我等の歓ぶ所であるが、然かし頽ぶと興るとは是れ全く神の聖旨に存する所であつて、我等の関する所ではない、天国の此福音は万国の民に証しせん為めに普く全世界に宣伝へらるべし(馬太伝廿四章十四節)、神が之を以て万国の民を鞫き給はんがために、我等は福音を普く全世界に宣伝ふるのである。
 伝道の目的が茲に在らずして我等は此業に就て全然失望せざるを得ない、伝道は其勤労の割合に信者を作らないことは最も明白なる事実である、米国の如き福音の最も広く行渉りたる国に於てすら教会に属する信者は僅かに其人口の五分の一である、爾うして又是等教会信者の中にまことに神を信ずる者はいくたりある乎、まことに寥々たる者である、所謂る基督教国なる者はすべて事実上の非基督教国である、最も激烈なる無神論は所謂る基督教国に於て行はれる、罪悪は基督教の宣伝と同時に減退せずして、却て増加しつゝある、世が基督教の伝道を以て救はれないのは何よりも明白なる事実である、伝道は其成功を現世以外に於て期するに非れば大失望の種である、現世の改善を目的として基督教の伝道に従事した者が幾人となく伝道を放棄するに至つたのは決して怪むに足らない。
(301) 伝道の目的が現世の改善にないやうに其他の改善事業もすべて此世の改善のためではない、禁酒運動は如何に熱心なるも国民の使用する酒清の量を減ずることは出来ない、否な、之に反して基督教の最も盛なる国が多量に酒を飲む国である、世界の飲酒国とは日本ではない、米国である、支那、印度ではない、英国である、禁酒家は回々教徒の中に多くして基督教徒の中に少ない、禁酒運動は決して酒を禁じない、此世に於て酒を禁ぜんとして禁酒運動は無益の運動である。
 非戦運動とても同じである、非戦論が唱へられしために戦争は少しも減じない、否な、所謂る文明の進歩と共に戦争の規模は益々大になりつゝある「基督降世後千九百年の今日ほど軍備の整ふたる時はない、最も惨酷なる戦争はアレキサンドル、シーザーの戦争ではなくして日露戦争であつた、文明諸国が最も熱注しつゝある問題は宗教問題でもなければ、教育問題でもなければ、将た又殖産問題でもない、戦争問題である、如何にして最も容易く同胞を屠らん乎、是れ英国人も米国人も日本人も、露西亜人も独通人も仏蘭西人も伊太利人も日夜焦慮しつゝある問題である、外国伝道のために三百万弗を消すを惜む米国民は一千万弗を値する戦闘艦幾艘を造るも少しも其費用を惜まない、世に非戦論は唱へられないではない、而かも其声たるや雷霆の轟に此ぶる鶯の声に過ぎない、美は美なれども何の力をも有たない声である、此世より戦争を廃せんとするは鴨緑江を逆流せんとするよりも難くある、我等の筆は如何に椽大なるも陸海軍将校の剣に抗する事は出来ない、彼等は我等が非戦を唱ふるを見て笑ふ、若し非戦論の唱道に由て此世に於て戦争を止めることが出来るならば、我等は命令に由て山を崩すことが出来る。
 然しながら我等は非戦論の唱道を廃めないのである、其、到底此世に於て行はれないのを知りつゝ廃めないの(302)である、我等は幾多の理由よりして之を止めないのである、我等の良心が之を証し、神の言葉なる聖書が之を教へ、ナポレオン以上、ビスマーク以上の偉人が之を唱へしに由て之を止めないのである、爾うして彼等が之を唱へしは現世に於て此理想が行はれやうと思ふたからではない、彼等が其心の奥深き所に於て神の声を聞いたからである、実に非戦を信ずるの信仰は此世の信仰ではない、キリストの再現を信ずるにあらざれば真面目に信ずることの出来ない信仰である。
 戦争は何時廃まるであらふ乎、非戦論が輿論となつて、人が自から進んで兵を廃める時であらふ乎、否な、否な、斯かる時は俟てども決して来らない、今日まで人類が世界の平和は既に到来せりと信じた時は幾度もあつた、アウグスタス・カイザルの下に羅馬帝国が一統せられし時、近くは露西亜皇帝アレキサンドル第一世に由て所謂る「基督教国の神聖なる同盟」が唱へられし時に戦争は此世に於て終結を告げたと信ぜられた、然かし斯かる信仰は皆な迷信であつた、今より後、平和会議は幾回其会合を重ぬるとも、狼は小羊と偕に宿り、豹は小山羊と偕に伏し、牝牛《めうし》と熊とは食物を共にする時は来らざるべし(以賽亜書十一章)、露国はイツまでも熊なるべし、英国はイツ迄も獅子なるべし、米国はイツまでも鷲なるべし、預言者ヱレミヤの言ひし如く豹其|斑駁《まだら》を変へ得る乎、若し之を為し得ば悪に慣れたる汝等も善を為し得べし(耶利米亜記十三章廿三節)、英人と露人と独人と仏人と日人と米人とが其戦争の性癖を去らんことは豹が其斑駁を去るよりも難くある。
 去らば戦争は永久に廃まるまい乎、然り、廃む時がある、それはエツサイの根より一つの枝生え、其口の杖をもて国を撃ち、その唇の気息をもて悪人を殺し給ふ其時(以賽亜書十一章一、四節)、民は其剣を打かへて鋤となし、其鎗を打かへて鎌となし、国は国にむかひて剣をあげず、戦闘の事を再び学ばざるべし(同二章四節)、永久(303)の平和は主の再現を俟つて此世に臨《きた》る。人の子己れの栄光をもて諸の聖使を率来る時は其栄光の位に座し、万国の民を其前に集め、牧羊者が綿羊と山羊とを別つが如く彼等を別ち給ふべし(馬太伝廿五章卅一、二節)、新らしき天と新らしき地は斯かる裁判ありて後に此世に臨むのである、聖き城なる新らしきヱルサレムが新婦《はなよめ》がその新郎《はなむこ》を迎へんために飾りたるが如く備へ整ひて神の所を出て天より降る時に人類の涕は悉く拭ひ取られ、復た死あらず、哀み哭き痛み有ることなきに至るのである(黙示録二十一章)、平和は他の恩恵と等しく地より湧き出づる者にはあらずして天より降《くだ》り来るべき者である、春が来るにあらざれば人工を以てしては小山に花の咲かざるやうに、キリストが現はれ給ふにあらざれば人の力を以てしては世に平和は臨まないのである。
 去らば我等は主の再現の時まで手を束ねて沈黙を守るべきであらふ乎、否な、我等は今より其準備をなすべきである、新郎を迎ふるための修飾をなすべきである、我等は潔き勇ましき行ひを以て主の再来を速むべきである(前号課題、彼得後書三章十一節参考)、我等は農夫が根に糞《こえ》し、枝を刈込みて春の到来を待つが如くに、真理を唱へ、不義を排して主の再来を待つべきである、我等は神と共に働く者である、爾うして彼が平和を以て上より臨み給ふに対して我等は平和の準備をなして下より彼を迎へ奉るのである。我等は主が来りて自から為し給ふことを予め為し置きて聊か其労を省き奉らんと欲するのみならず、又自から少しく其業に参与して多少の栄誉に与からんと欲するのである、我等は純潔、非戦を唱へて不可能事を唱へるのではない、我等は主が来て実行し給ふことを今唱へつゝあるのである、我等はキリストを離れて善の成功を望まないが、然れども主に在りて行す所の労《はた》らきの成功を確信して善行を努むるのである。
 故に我等は我等の善行に此世の報酬が伴はないとて失望しない、義しき人々の甦らん其時汝等に報答あるべし(304)と主は曰ひ給ひたれば也、我等は人に誉められないとて落胆しない、
  今より後、義の冕、我がために備へあり、即ち正しき審判を為す者、其日に至りて之を我に賜ふ 惟我に賜ふのみならず、すべて彼の現はるゝを慕ふ者に賜ふべし(提摩太後書四章八節)
とあれば也、我等は又我等の為す善行が此世に於てすべて失敗に終るを悲まない、そは我等主に在りて其行す所の労らきの空しからざるを知れば也、又、そは我等必ず皆なキリストの台前に出て善にもあれ、悪にもあれ、各々身に居りて為しゝ所のことに循ひ其報ひを受くべき者なれば也(哥林多後書五章十節)。
 
(305)     真の苦痛
                     明治39年10月10日
                     『聖書之研究』80号「実験」
                     署名なし
 
 苦痛は苦痛である、肉の苦痛であるのみならず亦霊の苦痛である、肉の苦痛であつて霊の苦痛でないものは苦痛であつて、実は苦痛ではない、爾うして若し世を救ふが為めに苦痛が必要であるとならば、是れ単に肉の苦痛に止るべきではない、神に棄てられしの感、キリストより絶《はな》れしの念、是れ亦時には我等の受くべき苦痛である、救世の事業は歓喜と讃美とばかりではない、時には闇黒の裡に彷徨することである、血の涙を流すことである、神を疑ひ、然り、彼を恨み奉ることである、爾うして自己は死に附《わた》されながら世に生命を供することである。
 
(306)     伝道師の処世問題
         或る若き伝道師の質問に対しての応答なり
                     明治39年10月10日
                     『聖書之研究』80号「雑録」
                     署名 独立生
 
問、先生に第一に受玉はりたい事は日本今日の教会に関する先生の御意見であります、先生は之に就て如何う御考へなさります乎。
答、然ればです、牧師とか宣教師とか伝道師とか神学生とか云はるゝ方々は私に会はれますると大抵は此質問を掛けられます、爾うして私が彼等に対する応答は是れであります、即ち私に取りては教会問題は第四か第五の問題であります、私は教会問題を第一位に置く人は未だ基督教の真理を深く味はつたことのない人であると信じますと、私は多くの信仰の篤い基督信者に出会ひました、爾うして其人達が私に懸ける質問は教会に就てゞはありません、基督信者の第一に究むべき問題は信仰問題で有ます、爾うして其信仰さへ確かであれば其他は措いて問ひません、私は天主教会、又は希臘教会、又は英国監督教会の篤い信者に会ひました、爾うして彼等と私との間に神とキリストに関する信仰に於て大なる一致のあることが判明つて私は彼等の善き友人となりました、信仰問題を措いて先づ第一に教会問題に就て語らんとする人には教会問題に就て語るも無益であります、私は貴下が若し私の信仰に就て御尋ねになりますならば喜んで御答へ申さうと思ひます、然し先づ第一に教会(307)問題に就ての御質問は御断はり申しあげます。
問、夫れでは教会問題に就ては伺ひますまい、次ぎに私の伺ひたいことは基督教を余り深く信ずれば世と全く離れるに至るの危懼はありません乎、其事に就て御意見を伺ひたく存じます。
答、其れは無益の疑懼であります、然かし政治的の日本人の多くが懐く疑懼であります、彼等は何よりも隠遁者となることを懼れます、彼等は此世のことに携はらないことを何よりも恐しいことであると思ひます、然しながら真正《まこと》に基督教を信じて此世を全く棄去つた者は何処にあります乎、中古時代の院僧《モンク》ですら全く世と関係を絶つには至らなかつたではありません乎、以弗所書のやうな超現世的の書を書いたパウロですら常に此世と接触して居つたではありません乎、基督教の精神其物が隠遁的ではありません、私共は基督教が隠遁者を作りはせぬかなどと云ふ無益な心配は全く之を抛擲して全身全力を挙げて之を信ず可きであると思ひます。
問、然かし今の世に於てパン問題は重要問題であるではありません乎、今の時に於て此問題を等閑に附することは出来ないではありません乎。
答、聖書には何んと書いてあります乎、爾曹生命のために何を食ひ何を飲み又身体のために何を衣んとて憂慮ふ勿れと書いてあるではありません乎、是に由て観ますればパン問題は基督信者に取りては重要問題であつてはならない筈ではありません乎、基督信者は其霊魂のみならず亦其肉体をも神に任かし奉るべき者であります、故に彼はパン問題に彼の思考の大部分を奪はれてはなりません、斯く云ひて彼は勿論、遊飲坐食して他人をして自己を養はしめんとは致しません、彼は常人の通り商売にも農業にも工業にも従事します、外から見たる彼は世の人と少しも変りません、然しながら基督信者の農、商、工に従事するのは世の人とは全く異つた精神を(308)以てします、彼は所謂る渡世の業としては之に従事しません、彼は神の命として之に従事します、彼は彼の職業に由て自己と自己の家族を養はんとは為しません、其事は彼は之を神に任かし奉ります、彼は唯神の命に従ひ、神の事業として彼の職業に従事します。
 畢克するに教会問題と云ひ、パン問題と云ひ等しく是れ肉の問題でありまして、此世の問題であります、爾うして斯かる問題に常に頭脳を悩さるゝのは是れ我等の懐く信仰の甚だ不健全なる証拠であります、我等が若し真正の基督教を信じたならば我等は既に斯かる問題を以て自己を苦しめない筈であります、爾うして基督教を信ずる既に五年又六年、而して今尚ほ斯かる問題に悩さるゝのは我等に伝へられし基督教の真個の基督教でない証拠であります、爾うして我等をして今日尚ほ我等の霊魂を塵につかしむる訳は我等が米国人の基督教を受けたからであります、肉体のことに就て最も深く心配する者は米国人であります、彼等は夏は暑を避けずには居られません、衣食問題を重要視せざるが如きは彼等に取りては大罪悪であります、彼等が教会問題を宗教問題中の第一位に置きまするのも全く是れがためであります、彼等は眼に見えざる超現世的の宗教を信じ得ないからであります、パン問題が彼等の最大の注意を惹くのは敢て怪むに足りません、不幸にして物質的なる米国人より始めて基督教を聞いた我等は今や其束縛の覊絆より脱せんと欲して脱し得ません、然かしながら我等はすべての力を尽して一日も早く此有害の感化より脱却しなければなりません、パン問題の如きに就ては旧来の我国の武士道の方が遙かに米国宣教師に由て伝へられし基督教に勝さつて居ります。
 私は常に思ひます、日本国に二大敵国がありますと、其第一は露国であります、彼は其併呑主義を以て外から我等を圧伏せんとしました、故に我等は剣を抜いて彼を逐攘ひました 其第二は米国であります、彼は其物(309)質主義を以て衷から我等を腐らせんとします、故に我等は信仰を以て此第二の敵を逐攘はなければなりません、斯く云ひて私は勿論米国人は個人として悉く我等の敵であると云ふのではありません、同じやうに露国人の中にも個人としては尊敬親愛すべき者が多くあります、然しながら併呑主義が露国の主義傾向であるやうに物質主義は米国の主義傾向であります、我等は此有害なる二つの主義を代表する露国と米国とを排斥すべきであります、是れ誰君、誰さんの問題ではありません、米露両国に充溢する主義精神の問題であります。
 故に我等の教会問題を決するに方ても、又我等の身の独立を計るに就ても我等は米国人に傚つてはなりません、我等は基督教を其真髄に於て解し、茲に超現世的の信仰を我等の中に作らなければなりません。サヨナラ
 
(310)     ヱホバの熱心
         (或る友人と夜話に語りし所)
                     明治39年10月10日
                     『聖書之研究』80号「雑録」
                     署名 櫟林生
 
 聖書にヱホバの熱心之を成すべしと云ふことがある(以賽亜書九章七節、同卅七章卅二節)、ヱホバの熱心とは抑々何う云ふことであらふ乎。
 熱心とは熱情である、英語で云ふパツションである、即ち物の前後を省みず情に駆られることである、冷算せざる事である、「恋愛は盲目なり」との言の如きは能く熱心の何たる乎を示す者である、爾うして我等の驚く事はヱホバに斯かる心があるとのことである、神は全智全能といひて智を以て充満した者ではない乎、然るに彼が事を為すに熱情即ちパツションを以て為し給ふとは肯《うけが》ひ難き事ではない乎。
 神には勿論痴情はない、彼に亦老婆心の如き者はない、然かし彼に熱情があるとは決して信じ難い事ではない、否な、深く考へて見れば是れあるが故にヱホバの神は真の神であるのである。
 神に先見のあるのは勿論である、彼は能く源因結果の理を弁へ給ふ、故に、彼にして若し冷智の者であり給ふならば、彼は自から多くの苦痛を冒して人類を救はんとはし給はない、又彼は能く人の何たる乎を知り給ふ、恩を忘れ易く、反《そむ》き易く、呟き易く、変り易き者なるを知り給ふ、人を救ふことは難き事なるのみならず又嫌なこと(311)である、前後利害を考へて見ては神たると人たるとを問はず、人類の救済事業には到底従事することは出来ない。
 然しながら愛は盲目である、人の場合に於てのみならず、神の場合に於ても爾うである、愛に励まされて我等は物の前後を忘れて仕舞ふ、苦痛も忘れ、失敗も忘れ、恥辱も忘れ、唯愛せん、憐まん、恵まんとの一筋に万事を放棄して、我等の愛する者を益せんとする、其時に我等は哲理に訴へて事を為さんとはしない、我等は情に強ひられて、利害を省みず、得失を省みず、只一心に我等の愛を断行せんとする。
 爾うして聖書の示す所に依ればヱホバの神にも亦此熱心があるとの事である、彼は人類を愛する余りに切なるが故に、彼等を救はんと欲し給ふに方てはその代価の高きには少しも意を注ぎ給はない、彼は親が其子を危険の中より救はんとする時の熱心を以て、自己の地位の高きを忘れ、又自己が救はんとする人より受くべき恥辱に思ひ及ばず、唯愛する者を助けんとの一念に大なる救ひを施し給ふ。
 世に賤むべき者とて冷脳冷智の哲学者の如きはない、彼は万事を弁へるが故に常に安全の途を取りて危険に臨まない、彼は熱心を賤み、極端を嘲ける、彼は独り高きに座して、人類の罪悪に沈むを憫む、而して自から低きに下て彼等を助けんとはせず、唯冷然批評して彼等の愚を笑ふ。
 然れどもヱホバの神は哲学者ではない、彼は時には熱心に駆られ給ふ者である、彼は全智であると同時に全愛である、爾うして愛は智よりも大にして力強きが故に、ヱホバに在ても愛は度々智に勝つことがある。爾うして神が最も貴く最も神々しく顕はれ給ふ時は彼の愛が彼の智に越ゆる時である、神の小なる者が人である如く、人の大なる者が神である、神に於ても人に於けるが如く情は智慧以上の勢力である、此奥義を能く伝へた者が路加伝十五章に有るキリストの放蕩息子の譬である。改行
 
(312)     課題〔6「智識の本源 箴言第一章七、八、九節」〕
                     明治39年10月10日
                     『聖書之研究』80号「雑録」
                     署名なし
 
    箴言第一章第七節
  ヱホバを畏るゝは智識の本源なり
 ヱホバは万物の造主にして人類の父なり、
、其聖意の天然に顕はれたる者を天則と云ひ、人に顕はれたる者を道と云ふ、ヱホバはすべての法則の本源なり、故にヱホバを離れて天地と其中にあるすべての物は究むべからず。畏るは勿論敬畏するなり、重んずるなり、其律法を犯さゞらんことを努むるなり、法則厳守の民たらんことを欲するなり、天則と人道とに服従せんとするの精神なり、天意をして我意を支配せしめんとするの決心なり、従順なる小供が其父に事ふるの心を以てヱホバの命に聴かんとするの謙遜なり。
 智識は万物の真理と真価とを知ることなり、単に其現象を知るにあらず、其|存《あつ》て在る理由を了ることなり、其相互の関係を知り、其道徳的教訓を解し、之に顕はれたる神の聖意を了ることなり、智識は単に知ることにあらず。深く智ることなり、霊的に覚ることなり、使パウロの謂ゆる霊の予ふるすべての智慧と穎悟となり(哥羅西書一章九節)。
 本源なり、発端なり、又秘訣なり、万物の秘密を開くための鍵なり、必要条件なり、是れなくして智識の門に(313)入る能はず、又其中に渉猟する能はざるなり。
       ――――――――――
 まことにヱホバを畏るゝの心なくして真正の智識に達する能はず、真理を愛するの熱情なくして真理は吾人に其奥義を授けず、無私無慾なるは聖徒にのみ必要ならず又学者に必要なり、吾人は真理の台前には何物をも犠牲に供せざるべからず、人の面を懼るゝ歴史家、世に阿る哲学者、慾に駆らるゝ理学者は何れも真理探究の資格なき者なり。
       ――――――――――
 ヱホバを畏るゝ者とは教会信者の謂ひにあらず 唇を以て神を讃め奉る者、必しも神の聖意を心に体する者にあらず、神は霊なれば彼を拝する者は霊と真とを以てせざるべからず、謙遜以て真理を追求する者、是れ教会堂に僧侶の祝福を受けざるも真《まこと》を以て神を拝する者なり、真正の智識が往々にして教会信者が目して以て不信者と見做す者の中より出来たるは是れがためなり、教会は其神を信ずと称するの故を以て真理を専有する能はず。
       ――――――――――
 ヱホバを畏るゝことなくして皮相的の智識はあらん、単に物を物とし見るの智識はあらん、ヱホバを畏ることなくして、強記の者は所謂る活き字引たるを得ん、万巻の書を読み尽すは敢て難き業にあらず、有りと有らゆるすべての植物と動物と鉱物との名称を知り、其特性を誦《そ詞らんずることは敢て不可能事にはあらざるべし、然れども是れ聖書記者が智識と称するものにはあらざるなり、烏を黒き鳥なりと知るは蛮人も能く為し得る所なり、烏を智識的に知らんと欲せば其万有に対する関係と、其特性を以て代表する道徳的意義とを知らざるべからず、(314)天然物を能く識る者は其標本の採集家にあらず、又其構造の解剖家にあらず、ダーウインの如くに其相互の関係を審かに解せし者、ウォルズオスの如くに其道徳的意義を了りし者なり、天然を通して天然の神に達せんと欲する者にあらざれば真正の智識に達する能はず。
       ――――――――――
 世界大学者の大多数はヱホバを畏るゝ者なりき、理学に在てはニユートン、星学に在てはコペルニカスとハーシエル、医学に在てはハーベー、化学に在てはハムフレー・デビーとフアラデー、哲学に在てはカント、国法学に在てはグローシヤス、史学に在てはランケ、言語学に在てはマクス・ムラー、是等は皆な特別の意味に於てヱホバを畏るゝ人なりき、ダーウインの如き、ハムボルトの如き、多く神に就て語りし人にはあらずと雖も、其謙遜にして真理に忠実なる、篤く真理の神を信ぜし人と称するを得べし、軽薄なる人、傲慢なる人、多慾なる人、虚栄を追求むる人にして曾て大学者たりし者あるなし、心の貧しき者は福ひなり、天国は即ち其人の有なれば也と、然り、真理も亦其人の有なれば也、ヱホバを畏れて人を懼れず、真理を愛して富貴を求めざる者にあらざれば真正の学者たる能はず。
       ――――――――――
 本課題に対し読者諸君より送られし感想は僅かに八通、中に第一等と認むべき者に見当らざりしを悲む、蓋し例月に此し考案日数の少かりしに由るならん、次回よりは更らに振て御投稿あらんことを望む。
(315) 次号課題は左の如し
   提摩太前書一章十五、十六節。
 原稿〆切十月三十日。答文一人に付き六百宇(仮名共に)を限りとす。第一等に対しては金壱円の書籍券を呈す。
 
(316)     〔晩秋の感 他〕
                     明治39年11月10日
                     『聖書之研究』81号「所感」
                     署名なし
 
    晩秋の感
 
 冬に就て思はず、春に就て思ふ、夜に就て思はず、朝に就て思ふ、死に就て思はず、生に就て思ふ、墓に就て思はず、復活に就て思ふ、我等の崇むる神は死せる者の神に非ず活ける者の神なり、光の子なる我等は死と暗とに堪ふる能はざるなり。
 
    無私の祈祷
 
 自己《おのれ》に恩恵の下らんことを祈るべからず、神の栄光の顕はれんことを祈るべし、自己を以て祈祷の題目となすべからず、神のために神に祈るべし、聖意を成らせ給へ、聖国を臨らせ給へと、而して無私の心に臨む神より出て人のすべて思ふ所に過ぐる平安を受くべし。
 
(317)    必要物の供給
 
 我等に必要のものは必ず与へらるべし、然かも前以て与へられず、必要の時に与へらるべし、故に我等は要なき物を要なき時に祈求めて主たる我等の神を試むべからず(馬太伝四章七節)、神は最と近き助けなり(詩四十六篇一節)、我等は一呼して其援助に与かるを得べし、父の物を己れに貯ふるにあらざれば不安を懐くが如きは子たる者の道にあらず。
 
    損失の利益
 
 肉に於て足るは霊に於て満つるの途にあらず、霊の健全は肉の減殺を以て維持せらる、肉に於て飽かば霊に於て死すべし、故に慾望は充分に達せられざるを宜とす 天国の門は地上の失望に由て開かる、肉に於て失ふだけ、夫れだけ霊に於て得る所あり、我等は勿論強ひて損失を求むべからず、然れども常に損失の利益なるを知つて、足らざるの故を以て感謝満足すべきなり(提摩太前書六章六節)。
 
    四大使徒の信仰
 
 雅各の信仰は律法の信仰なりし、彼得の信仰は訓練の信仰なりし、保羅の信仰は信仰の信仰なりし、而して約翰の信仰は愛の信仰なりし、四大使徒は基督教の四大主義を代表せり、而して余輩は特に使徒約翰の主義を択ぶ者なり。
 
(318)    新教会の顕出
 
 教会の上に教会あり、羅馬天主教会の上にルーテル、カルビン、ウエスレー等の教派教会ありたり、教派教会の上に無教会なかるべからず、無教会は愛の法則の外に何等の法則をも認めざる教会なり、而して斯かる教会が最善最美の教会なるは言を俟たずして明かなり、God is marching on(神は進みつゝあり)、我等は此新世紀と新興国とに於て詩人と預言者とが理想せし新教会の顕出を努めざるべからず。
 
    我が義イエスキリスト
 
 キリストは我がすべてなり、我が義なり、命なり、救なり、我が洗礼なり、聖餐なり、教会なり、夫れ我等の逾越、即ちキリストは既に宰られ給へり(哥林多前書五章七節)、我はキリスト以外に何の儀式をも制度をも求めず、霊に因りて始まりし我は肉に因りて完うせられんとせず、我れ今若し何等かの律法又は教則又は儀文に因て完うせられんとせば我はキリストの属にあらざるなり、我は神の恩恵を空しくせず、故にすべての律法に死して我が義なるイエスキリストに在りて生きんと欲す。
 
    進歩の子たれよ
 
 進歩の子たれよ、保守の子たる勿れ、アブラハムがカルデヤの地を去りしが如く、腐敗の巣窟は断然之を去れ、預言者が時の制度を排斥せしが如く、陳腐の制度は之を排斥するに躊躇する勿れ、キリストが祭司、学者、パリ(319)サイの人以上の義を求め給ひし如く、法王、監督、宣教師以上の義を求めよ、パウロがペテロを面前に詰《いま》しめし如く、自由の福音を維持せんが為には高僧碩学にも服はざるの覚悟を懐けよ、進歩の子たれよ、而してアブラハム、預言者、キリスト、パウロ等と階級を同うする者となれよ。
 
    永久の小児
 
 我は固まらんとせず、伸びんとす、我は永久に小児たらんと欲す、我は祭司たらんとせず、預言者たらんとす、神学者たらんとせず、詩人たらんとす、政治家たらんとせず、革命者たらんとす、我は永久に自由の小児として神の宇宙に存在せんと欲す。
 
    文士と神学者
 
 道は之を神学者に学ぶも可なり、然れども其伝播の方法は之を文士に学ぶべし、ブラウニング、カーライル、ホヰットマン等に学ぶべし、彼等は堅き心と一本の筆の外に何の頼る所あらざりし、而かも真理を広く世界に伝へて万人の心に歓喜を供せり、近世に於ける昔時の預言者の継承者は教会の勢力を後循に取りて高壇より叫ぶ説教者にあらず、神と自己とより外に頼む所なき独立の文士なり。
 
    宣教師の大軍
 
 最近の報告書に従へば現今我国に滞留伝教する外国宣教師は其総数男女を合せて千百三十三人なりと云ふ、大(320)軍と称すべし、宜べなり、夏期に至り、彼等が清涼なる山上に下界の暑を避くる頃は、日光軽井沢に宣教師市の顕出を見るに至るは、然るに余輩斯道を信ずる茲に三十年、宣教師と交際を結ぶ二三人に過ぎず、亦広く此地に伝道して彼等に由て道を信ぜし者に遭遇すること甚だ稀れなり、彼等は余輩の知らざる処に大なる事業を為しつゝあらん、然れども、彼等に由らずして福音の駸々として進むを見て、余輩は彼等が斯かる大軍をなして此地に留まる其実際的理由を知るに苦む。
 
    大詩人に聴け
 
 説教集と宗教書類とをのみ読む勿れ、時に大詩人の詩集を繙きて大に自由と独立の精神を養ふべし、宗教は人を因循、姑息、怯懦になし易し、旧習に拘泥ましめ、古例に盲従せしめ易し、神が時々大詩人を世に送り給ふは古きエジプトの束縛を慕ふ奴隷の民を覚醒せんためなり、米国宣教師に聴く勿れ、米国詩人ワルト・ホヰットマンに耳を傾けよ、彼に傚《ならつ》て
  Nature without check,with original energy
  元始の精力を以て碍げらるゝことなく天真有の儘を語れよ、彼は又言へ
  The immortal poets of Asia and Europe have done their work and passed to otber Spheres,
  A work remains,the work of surpassing all they have done.
  亜細亜と欧羅巴の不朽の詩人は既に其業を終て他界に去れり、
(321)  今や一事業の存するあり、彼等の為せしに優さる事業を為すこと是れなり、
 然り、亜細亜と言ふ勿れ、欧羅巴と言ふ勿れ、亦亜米利加と言ふべし、詩人と言ふ勿れ、亦宗教家と言ふべし、我等は詩人の教訓に従ひ、スポルジオン、ビーチヤー、ムーデー等が為すを得ざりし事業を此地に於て為すべきなり。
 
    恩恵の代価
 
 神は無代価に恩恵を人に下し給ふ、然れども人は代価を払はずして其恩恵を己が有となす能はず、多く払ふ者は多くを得、少く払ふ者は少くを得、富者其所有の万分の一を捧げて恩恵の万分の一を得、貧婦其有てるすべてを抛ちて恩恵のすべてを得たり(路加伝廿一章一、二節)、是れ神の吝嗇なるが故にあらず、宇宙の法則なれば也、福音を恥とする者は終生福音を耳にするも福音の恩恵に与かる能はず、福音のために命を捐つる者にして始めて福音の恩恵をすべて享有するを得べし、神はまことに慢るべき者に非ず(加拉太書六章七節)、多く払ふ者は多く得、少く払ふ者は少く得、我等は神を怨むべからず、己を責むべし、己れが得んと欲せざりしが故に得る能はざりしを認むべし。
 
(322)     学生の信仰
                     明治39年11月10日
                     『聖書之研究』81号「所感」
                     署名 角筈生
 
 危険なるものにして学生の信仰の如きはあらず、彼等は容易に信じ又容易に疑ふ、来ること速かにして去ること又速かなり、伝道師を失望せしむる者にして学生、殊に我国今日の学生の如きはあらざるなり、而して其理由は之を発見するに難からざるなり、彼等は主として読書の人にして労働の人にあらざれば也、彼等は脳裡に宗教を了解せんとして、生涯に之を実験せんとせざれば也、学生は心的平衡を失へる者なり、脳と口とに重くして手と足とに軽き者なり、故に平衡を失し易くして転倒し易し。
 基督教は事実の宗教なり、故に智解すべきものに非ずして実得すべきものなり、手もて探り、足もて歩み、心もて信じ、口もて認《いひあら》はすべきものなり、基督教の精神は今の所謂る学生なる者の精神と反対す、基督教は手を拱き、机に凭り、書に頼り、沈思黙考して案出し得べき者に非ず、是れ身にて行ひ、其為めに窘しめられて始めて暁るを得るものなり。
 余輩は学生を愛し、又之を憐む、然れども基督教の受信者として多く彼等に望を嘱する者に非ず、能く基督教を解する者は理想を追窮して止まずと称する学生に非ず、直に神の天然に接し、地を耕し、鉄を鍛え、木を削る農夫職工なり、正直なる労働に由らずして基督教の真髄を知る能はず、学生たるは哲学者、文学者、法律家、(323)経済学者たるの途たらんも、謙遜なるキリストの弟子たるに適する地位に非ず。
 然ればにやキリストは其弟子を学生の中より択び給はずして、漁夫税吏等の中より召し給へり、縦し又一人のパウロを学者の中より簡び給ひしと雖も、天幕製造の業を以て其常識を鍛へし彼を択び給へり、基督教は希臘哲学に非ず、故に是れ特に学生に適する宗教に非ず、否な、今の学生なる者が其すべての空想、すべての不遜、すべての僭妄、懶惰、智的傲慢を擲つにあらざれば、キリストを其謙遜と柔和と勤勉と率直との美に於て仰ぎ瞻ること能はざるなり。
 
(324)     馬太伝第五章
                 明治39年11月10日−40年1月10日
                 『聖書之研究』81・82・83号「研究」
                 署名 内村鑑三
 
  (1)イエス許多《おほく》の人を見て山に登り坐し給ひければ弟子等も其下に来れり。
 「許多の人」 群衆の意なり、爾か訳するを宜《よし》とす、奇を好み、利を求むる群衆なり、イエスに由りて其肉体の疾病《やまひ》を癒され、此世の幸福に与からんと欲して彼に従へる者なり(前章廿四、廿五節) 〇「見て」 群衆を見、之を避けて 〇「山に登り」 気爽かにして四囲静かなる山に登り給へり、高山にあらず、幽邃の地なり、山に入り給へりとの意なるべし、イエスは俗衆の彼の迹に従ふを見給ひければ之を避けて静かなる山に入り給へりとなり、彼の之を為し給ひしは勿論俗衆を忌み嫌ひてにあらず、静かなる所に天の父と交はり、又彼の近親の弟子を教へんためなり 〇「座し給ひければ」 単《たゞ》に端座し給へりとの意にはあらざるべし、所謂る山上の垂訓なる者は一席の講演にあらず、数回に渉りし垂訓を編纂せしものなり、イエスは数日に渉りて之を宣べ給ひしが如し、今日の夏期講演会の如き者なりしならん、イエスは此時、世の喧噪を避けて、静かなる山中に其弟子と偕に留まり、祈祷と教戒とに聖き時日を送り給ひしが如し 〇「弟子等も其下に来れり」 「も」の字を除くべし、彼の弟子等彼に来れり、群衆は山中にまで彼に従はざりし、弟子等彼に従ひてその居る所に来れり、イエスは此静かなる山中に特に彼の弟子等を教へ給ひしなり、山上の垂訓は群衆に対する説教にあらず、弟子に対する訓誡なり、(325)其心して之を読まざれば能く其真義を解する難し。
 (改訳)群衆を見給ひければ彼れ山に登り給へり、彼れ座し給ひければ彼の弟子等彼に来れり。
 
  (2)イエス口を啓きて彼等に教へ曰ひけるは、
 「口を啓きて」 粛然口を啓きて彼等に教へ給へり、イエスは多くを語り給はざりしならん、然れども一たび口を啓き給へば金玉の言其中より出たり 〇「彼等」 弟子等なり、後に十二使徒として立てられし者の其中にありしは勿論なり、然れども聴衆は彼等少数者に限られざりしなるべし、誠心を以て彼に従はんと欲せし者はすべて此会合に集ふの特権を与へられしなるべし。
(改訳)彼れ其口を啓きて彼等を教へ給へり、曰く、
 
  (3)心の貧き者は福なり、天国は即ち其人の有なれば也。
 「心の貧き者」 心に貧き者なり、心に貧しきを感ずる者なり、自己《おのれ》の頼りなきを感じ、罪深きを感ずる者なり、必しも世の所謂る貧者をのみ指して言ふにあらず、世の財貨に貧しくして心に貧しからざる者あり、心に貧しき者とは貧を憤る者にあらず、貧を悲む者なり、最大唯一の宝なる神を離れたる心の状態を歎く者なり、貧を身に於て感ぜず、心に於て感ずる者なり、真実に人生を解して人何人か貧者ならざらん乎、棲むに家なく、食ふに食なき者は勿論、億万の富を積む者と雖も亦貧者ならざるを得ず、誠心より貧者たる者、身に貧しくして又心に貧しき者は勿論、身は富むと雖も心に謙遜にして貧しき者、斯かる者は福なりとなり 〇「福なり」 幸福な(326)り、幸多き者なり、神に恵まれし者なり、幸運の人なり、人に羨まるべき者なり、神の眼より見て多幸多福の人なり 〇「天国」 神の国なり、後に事実となりて此世に現はるべき者、然れども今は霊的状態として聖徒の心に存する者なり、此世以上の国なり、之を「天国」と称するは天上の高きに在るが故にあらず、地上の王国と其性質を全く異にするが故なり、其律法の一斑は之を約翰伝十三章五節より十五節までに於て見よ 〇「其人の有なれば也」 其人に属すれば也、彼は此世に於ては寸地を有せざるべし、然れども彼は幸福なり、そは彼は天国を其属となし得れば也、身は貧しくも心に富むを得れば也、今は何物をも有せざるも、後に万物を共有となし得れば也。哥林多前書三章廿一−廿三節 〇「有なれば也」 今既に其人の有なれば也、キリストの再来と万物の復興とを待つを要せず、天国は今既に心に貧しき者の有なれば也、天国は来世と混同すべからず、来世とは天国が事実となりて後に此世に現はるゝ者を云ふに過ぎず、天国は今既に存す、キリストの霊の灑がるゝ所、聖徒の愛を以て互に相交はる所、是れ天国なり、今は肉眼を以て見る能はざるも、霊覚を以て感じ得る者なり、天国はキリストの降臨と同時に此世に臨めり、而して心を虚うして吾人何人も今日、今、之を吾人の有となすを得るなり。
 (改訳)心に貧しき者は幸福なり、天国は即ち其人の有なれば也。
 
  (4)哀む者は福なり、其人は安慰《なぐさめ》を得べければ也。
 「哀む者」 損失を哀み、失敗を哀み、死別を哀み、堕落を哀む者、悲境を自覚する者、悲哀の身に臨みし道徳的源因を索ねて、改悔の憂に沈む者、斯かる者は福なりとなり 〇「其人は安慰を得べければ也」 其人は今は(327)泣くべし、然れども後に其涙を拭はるべし、悲哀を経ずして歓喜は来らず、憂苦に由らざる慰安あるなし、慰安の快楽を知らんと欲せば、憂愁の苦痛を味はざるべからず、故に神に撃たれし者は福なり、其人は神の医術を其身に於て実験するを得べければ也、其|傲慢《たかぶり》を砕かれし者は福なり、其人は謙遜の衣を着せられて再び高くせらるべければ也、キリストは悲哀の人なりし(以賽亜書五十三章三節)、而して悲哀を知るにあらざればキリストを知る能はず、而して人生最大の慰藉はキリストを知るにあり、悲哀はキリストに到るの途なり、哀む人の福なるは是れがためなり。
 (改訳)哀む者は幸福なり、其人は慰めらるべければ也。
 
  (5)柔和なる者は福なり、其人は地を嗣ぐことを得べければ也。
 「柔和なる者」 我意を張らざる者、人に地歩を譲る者、無抵抗者、剣を以て争はざるのみならず、口を以ても、又筆を以ても害を他人に(特に敵に)加へざる者、斯かる者は幸福なり、神に恵まれたる者、人に羨まるべき者なりとなり 〇「其人は地を嗣ぐことを得べければ也」 天国を共有となし得るのみならず、彼の譲りし地を終に己が有として神より賜はるべければ也、無抵抗主義者の幸福は特に茲に在り、即ち其自から譲りしものを再び与へらるゝにあり、争て得んと欲する者は失ひ、争はずして譲る者は得、世に所謂る優勝劣敗なるものはキリストの法則にあらず、剣を磨き武を備へて地を得んと欲する者は得るも終には之を失ひ、強圧に耐え、侵略を忍ぶ者は地を失て終に之を得る、是れ単に道義的原理にあらず、歴史的事実なり、アッシリア国今何処にある、バビロン国今何処にある、羅馬帝国今何処にある、今より一千年を経て露国もなかるべし、英国もなかるべし、(328)米国もなかるべし、剣を以て起ちし国はすべて剣を以て仆るべし、而して柔和の民は彼等の後を承けて、広き彼等の領土を占有すべし、剣を帯ぶる軍人に勢力あるが如くに見ゆるは唯其表面に於てのみ、国家の実力は常に腰に寸鉄を携へざる農夫商人に存するにあらずや、宇宙万物を造り給ひし神は平和の神なり、故に彼は平和の民を愛し給ひて好戦の人を憎み給ふ、神は其造り給ひし此美はしき地を永久に軍人と武国とに賜はず、平和は終に水が大洋を掩ふが如く全地を掩ふべし、而して其時、謙譲の民は之を享有すべし、戦ふは地を得るの途にあらず、地を譲るこそ地を嗣ぐの途なれ、依て知るべし、今の所謂る基督教国なる者の絶対的偽善国なることを。
 (改訳)改訳の要を見ず、但し希臘語の praeis を柔和なる者と訳するは物足らざる心地す、然ればとて之に優るの訳語を案出する能はず。
 
  (6)饑え渇く如く義を慕ふ者は福なり、其人は飽くことを得べければ也。
 「饑え渇く如く義を慕ふ者」 意訳なり、直訳の意義の明白にして力あるに如かず、義に饑え且つ渇く者は福なり云々と、物に饑え渇くとは之れなくば死すべしとの感を懐くことなり、義に饑え渇くとは義の生命的必要を感ずることなり 〇「其人は飽くことを得べければ也」 原文の通り飽かせらるべければ也と訳すべし、義に饑えるも若し之に飽くことを得ざれば返て苦悩を増すに過ぎず、然れども人は何人も努めて自から義に飽くこと能はず、彼は容易に慾と悪とに飽くことを得べし、然れども義と善とに飽くこと能はず、彼れ若し義に飽くことを得ば、是れ飽かせられて也、即ち神に其義を帰せられて也、義に饑え且つ渇く者が之に飽くことを得るは神に飽かせられて也、神の義はイエスキリストなり、信仰を以てキリストを我が有となして、我は義に飽かせられて、(329)之に飽くことを得る也、義に饑え渇きてのみキリストを識るを得べし、而してキリストを識るを得て我等は義に飽かせらる、イエスが山上に此教訓を垂れ給ひし時に、彼の贖罪の義は未だ完うせられざりし、然れども、既に己れに在りて神の義の完うせらるべきを識り給ひしが故に、予め此言を発して彼の弟子等を励まし給へり、聖書は霊に関はる事実を示して誤らざるなり、聖書は人は努めて飽き足るまでに義を行ひ得べしとは教へず、神に義を帰せらるべきを教ゆ、故に飽くことを得べしと読むべからず、飽かせらるべしと読むべし。
 (改訳)義に饑え且つ渇く者は幸福なり、其人は飽かせらるべければ也。
 
  (7)矜恤《あはれみ》ある者は福なり、其人は衿恤を得べければ也。
 「衿恤ある者」 憐む者、人の困苦に在るを視て之を責むるに其罪を以てせずして、之に同情を表し、援助を供する者、斯かる者は神に恵まれし者なりとなり 〇「其人は衿恤を得べければ也」 憐まるべければ也、己れ困苦に遭遇する時に神と人とに憐まれ且つ援けらるべければ也、殊に最終の裁判の日に方て己れ神の憐愍を要する最も大なる時、我れ小にして且つ弱き者を憐みしが故に大にして且つ強き神に憐まるべければ也、憐まざる者は憐愍を識らず、故に憐まれず、又憐まるゝも憐愍の憐愍なるを識る能はず、憐慾も亦訓練を要す、我等は人を憐んで、自から憐まるゝ時に憐愍を憐愍として受くるの準備を為すべき也。
 (改訳)衿恤む者は幸福なり、其人は憐まるべければ也。
 
  (8)心の清き者は福なり、其人は神を見ることを得べければ也。
(330) 「心の清き者」 罪念邪慾を心に貯へざる者の意なる乎、然らば生れながらにして斯くある者は世に一人もなかるべし、心は清からざるべからず、然れども生れながらにして心の清き者あるなし、心は万物よりも偽はるものにして甚だ悪し(耶利米亜記十七章九節)、若し心の清き者にあらざれば神を見ること能はずとならば世に神を見ることを得る者は一人もなかるべし、故に心の清き者の意義は之を字義以外に於て発見せざるべからず、而して之を説明するに最も善き聖語は馬太伝六章廿二、廿三節なり、心の清き者とは其目的の単純なる者との意ならざるべからず、天国と其義の外、何物をも求めざらんと欲する者との意ならざるべからず、此単純なる目的ありて、人に多くの欠点と汚穢と存するあるも、彼は徐々に完うせられ且つ潔められて終に神を見るを得るに至るべしとなり、心の清からざる者、即ち濁る者とは二心の者なり(雅各書一章八節)、神と世とを両つながら歓ばせんと欲する者なり、単純は完全に達するの途なり、患ふべきは行為の過失多きことにあらず、心の複雑なることなり、失錯多きシモン・ペテロの如きすら其心の単純真率なりしが故に終に能く神を見るを得たり 〇「神を見ることを得べければ也」 opsontai,shall see.神を見るべければ也、神を見るの可能性を備ふれば也、必ず見るを得べしとは定まらず、そは単純其物は見神の資格となすに足らざればなり、神を示さるべき資格を供せらるべき性質を備ふればなりと 〇「神を見る」 神は物体にあらざるが故に肉眼を以て見る能はざるは言ふまでもなし、眼に神を見たりと云ふ者は迷信にあらざれば幻想を語る者なり、神は霊なり、真《まこと》なれば彼を見る者は霊と真とを以て為ざるべからず、神を見るとは(第一に)その栄の光輝その質の真像なるイエスキリストに於て之を見ることなり(希伯来書一章三節)、キリストを見し者は神を見しなり(約翰伝十四章九節)、人はキリストに由らずして神を見る能ず。(第二に)神に在りて人生と万有とを解し得ることなり、人生の矛盾は大なる調和として了《さと》られ、(331)宇宙の現象は愛の行動として解せらるゝに至ることなり。(第三に)神の霊を自己の霊に受けて、父の完全なるが如く自己も完全きことなり、「見る」とは想像に対して言ふ語なり、明白に会得するの意なり、百聞一見に如かずと言ふが如し、たゞに神を憶想推測するにあらずして、判然と暁得するの意なり。
 (改訳)心の純なる者は幸福なり、其人は神を見るべければ也。
 
  (9)和平を求むる者は福なり、其人は神の子と称へらるべければ也。
 「和平を求むる者」 平和を行ふ者、平和の人たるに止まらず、平和を愛するに止まらず、進んで平和を行ふ者なり(求むるは意義弱し)、斯かる者は福なりとなり、総ての方法を尽して争闘を妨止せんとし、己れ自から之に加はらざるは勿論、他人をもして之を避けしめんとする者、是を平和を行ふ者と称ふ、平和を行ふに多くの勇気を要す、自己に在りては多く赦し多く譲らざるべからず、社会に在りてはすべての党派に加はらず、厳然たる中正を保たざるべからず、国家に在りては如何なる場合に於ても戦争を非認し、世界の平和を唱へざるべからず、平和を行ふ者は平和の主(帖撒羅尼迦前書三章十六節)の外に主を求めず、彼は平和の君(以賽亜書九章六節)に属し、平和の神(羅馬書十五章三十三節)を※[龠+頁]《よ》びまつる、彼は公道の外に政党あるを知らず、キリストの外に教会を認めず、彼は多くの人に憎まれながら平和の道を歩まざるべからず、.平和を行ふ者は怯懦の人にあらず、安逸を求むる者にあらず、十字架に釘けらるゝも堅く平和を取て動かざる者なり 〇「其人は神の子と称へらるべければ也」 平和を行ふ者は愛国者と称へられず、彼は此世の国家が愛国的行動と認むる戦争を根本的に非認すれば也、平和を行ふ者は又熱心なる教会信者と称へられず、彼はキリストの分つべからざる者なるを確信し、すべて(332)の教派的行動に絶対的に反対すれば也、平和を行ふて此世の帝王より位階勲章の恩賜に与かるの希望なし、平和を行ふて又法王、監督、宣教師の類より賞讃同情を得る能はず、然れども勇気を以て平和を行ふて神の子と称へ
らるゝの名誉に与かるを得べし、神学博士の称号尊からざるにはあらざるべし、然れども神の子の名称の単純にして壮厳なるに及ばざるや遠し、此世の勲章は以て神の前に立つの資格を作るに足らず、唯神の性を帯ぶるが故に神の子と称へらるゝ者のみ、能く神の懐に入りて彼をアバ父よと※[龠+頁]び奉るを得るなり、平和を行ふの報賞は実に大なりと言ふべし。
 (改訳)平和を行ふ者は幸福なり、其人は神の子と称へらるべければ也。
 
  (10)義しきことの為めに責めらるゝ者は福なり、天国は即ち其人の有なれば也。
 「義しきこと」 正義正道なり、然れども此場合に於ては特にキリストの福音なり、キリストは神の正義也、彼はユダヤ人には礙く者、ギリシヤ人には愚かなる者なりと雖も、召されたる者には神の大能また智慧また正義たるなり 〇「責めらるゝ者」 原文に窘められて今日に至る者との意義存す、即ち迫害の中に信仰を持続せし者の意なり、姦悪の世が正義を憎むは人世の通則也、然れどもキリストの福音の如く世に憎まるゝ者の他にあるなし、迫害なるものは実は基督教の顕出を待て世に始まりしものなり、之を憎む者は賤夫悪徒に止まらず、志士仁人と称する者も亦然り、キリストの福音は背倫、亡国、褻涜の道として斥けらる、キリストの弟子は此世の異分子なり、彼は悪人に愚弄せられ、義人、善人に軽蔑せらる、実にキリストの福音を信じてのみ吾等は始めて迫害の何たる乎を知るなり 〇「天国は即ち云々」 天国は今既に其人の有なればなり、彼は窘しめられながら益々(333)深く天国に入りつゝあり、パウロ曰く
  是故に我等憶せず、我等が外なる人は壊《やぶ》るゝとも内なる人は日々に新たなり、夫れ我等が受くる暫時の軽き苦しみは極めて大なる窮りなき重き栄を我等に得しむる也(哥林多後書四章十六、十七節)
と、永生は神に由て内に植ゑられ、人に由て外より堅めらるゝ者なり、迫害は信仰成長の要件の半ばなり、是れなくして人は何人も天国に入る能はざるなり。
 (改訳)義のために窘しめらるゝ者は幸福なり、天国は即ち其人の有なれば也。
 
  (11)我が為に人、汝等を詬※[言う+卒]《のゝし》りまた迫害《せ》め偽はりて各様《さま/”\》の悪しき言をいはん、其時は汝等福なり。
 前節の敷行なり 〇「我が為めに」 我(キリスト)を主と仰ぎ我が福音を信ずるがために、即ち此世の倫理道徳とは全然其素質を異にする我が福音を信じ、其数訓を実行するが故に 〇「汝等を詬※[言う+卒]り」 汝等我が弟子を罵り、汝等に帰するに多くの悪意悪計を以てし、汝等の罪を糺さんと苛立つ時 〇「また迫害め」 窘しめ、害を加へ、単に言を以て謗り罵るのみならず、手を以て害を加へんとする時 〇「偽はりて各様の悪しきことを言はん」 虚偽の言を発して汝等を謗らん、又故意に無実の罪を構造して汝等を罪に陥ゐれんとせん其時云々、不信者が信者を責むる時に彼等は意志方法の善悪を択ばざるが如し、若し悪魔のインスピレーションなるものありとすれば、是れ信者を苦めんとする時に不信者の心に臨むものなり 〇「各様の悪しきことを言はん」 汝等を国賊と称ふべし、不忠の臣と称ふべし、不孝の子と称ふべし、社会の壊乱者と称ふべし、偽善者と称ふべし、偽君子と称ふべし、魔術師と称ふべし、人口に上る悪しき名称にして不信者に由てキリストの弟子に適用せられざる者はなか(334)るべし 〇「其時は汝等福なり」 罵られ、譏られ、迫害せられ、悪名といふ悪名を悉く着せらるゝ其時、汝等は福なり、そは其時汝等は大なる宝を天に積みつゝあればなり、キリストのために受くる苦痛は生命の無益の消費にあらず、有益なる労働なり、我等は斯く責められつゝある間に我等の戴くべき栄の冕を鍛へつゝあるなり、天国に永住の家を築きつゝあるなり、苦しと思ふ其時が幸福なる時なり。
 (改訳)別に改訳の要を見ず、但し「詬※[言う+卒]」は罵りと改め、「迫害」は「せめ」と訓まずして「はくがい」と読む乎、或ひは「窘しめ」と改むるを宜しとすべし、「詬※[言う+卒]」の原意は罵辱の熟辞を以て最も正当に表はさるべしと信ず、左の如く改めなば多少の改良なるべし、
 我がために人、汝等を罵り(罵辱し)、また窘しめ(迫害し)、偽はりてさま/”\の悪しきことを言はん、其時汝等は幸福なり。
 
  (12)喜び楽しめ、天に於て汝等の報賞多ければ也、そは汝等より前の預言者をも如此せめたりき。
 「喜び楽しめ」 喜べ、躍り歓べ、歓喜雀躍せよ 〇「天に於て汝等の報賞多ければ也」 来世に於てのみならず、今も既に、キリストの国なる霊の世界に於て汝等の受くる報賞多ければ也と、迫害の報賞は人生最大の賜物なる神より来る聖霊なり、之を心に受けて我等は喜ぶなり、躍り歓ぶなり、聖霊の喜楽(帖撒羅尼迦前書1章六節)はすべての艱難に勝ち得て余りあり、神は我等を其膝下に召し給ふ前に、我等が尚ほ此苦痛の世に在る間も我等を喜ばしむるに足るの賜物を其手中に握り給ふ、然れども迫害の報賞は聖霊に止まらざるなり、神は聖霊と共に終にすべてのものを与へ給ふべし、我が為せし悪はすべて忘れらるべし、我が為せし善は悉く酬いらるべし、(335)而して我は罪の人なるに天使と共に永遠の国を嗣ぐを得べし、斯世に在て福音のために不信者より受くる罵蓐と迫害とは損失にあらず、利得なり 〇「そは汝等より前の予言者をも如此せめたりき」 彼等は……窘しめたれば也、彼等不信者は今汝等を窘しむるが如く、汝等より前に世に送られし予言者をも窘しめたれば也、此く罵られ、辱しめられ、窘しめられ、悪口せらるゝ者は惟り汝等に止まらざれば也、福ひなる理由の第二なり、世に責めらるゝは福ひなり、天に於て汝等の報賞多ければ也、然れども迫害に耐え忍ぶの報賞は之に止まらざる也、地に在りては汝等は昔時の予言者と同情的関係に入るを得るなり、而して是れ大なる報賞なりとなり、迫害は我等を神と繋ぎ又偉人と繋ぐ、我等は之に由りてイザヤ、ヱレミヤの友となり、パウロ、ヤコブ、ヨハネの兄弟となるを得るなり、天に在りては聖徒と共に永生を楽しむの報賞あり、地に在りては士師、予言者、使徒、其他すべて義のために窘しめられし者と霊交を結び最も深き意味に於ての兄弟的関係に入るの快楽あり、我等は福音のために窘しめらるゝ時に、不信者が穀物と酒との豊かなる時に歓ぶが如くに喜ぶべきなり(詩の四篇七節)。
 (改訳)喜べ、躍り歓べ、天に於て汝等の報賞多ければ也、そは彼等は汝等より前の予言者をも此く窘しめたれば也。 〔以上、11・10〕
 
    地の塩と世の光
 
  (13)汝等は地の塩なり、塩もし其味を失はゞ何を以てか故の味に復さん、後は用なし、外に棄てられて人に践まるゝ而已。
 「汝等は」 我少数の弟子なる汝等は 〇「地の塩なり」 全地の腐敗を防止し、之に味を附する者なり、少数(336)の基督信者に依て社会全体の道徳は維持せられ、人生の興味は供せらる、世は永久にキリストを信ぜざるべし、然れどもキリストの弟子に由て其道徳的生命は維持せらる、塩の日常生活に必要なるが如く、キリストの弟子は社会の存在に必要なり、基督信者なくして社会は永久に存在する能はず、是れキリストの言にして亦歴史の事実なり 〇「塩若し其味を失はゞ」 塩若し塩たるの性を失はゞ、其鹹味を失ひ、其の防腐力を去らばと。斯かる事はパレスチナ産の塩に往々有る事なりと云ふ、純粋の塩にあらずして、多くの混合物を含有するに因るなるべし 〇味を失はゞと訳せられし原語(moranthe)は感覚を失ふの意義に於て昔時医学上の術語として用ゐられしと云ふ、故に此場合に於ては地の塩たるべきキリストの弟子若し其信仰的感覚を失ふに至らばの意なるべし 〇「何を以てか故の味に復さん」 何を以てか塩つけられん、「故の味に復さん」は訳者の意訳なり、而かも正確なるものと称すべからず、地の塩たるべき弟子若し其信仰的感覚を失はゞ、地は何に由てか其腐敗を防止せん、亦塩自身は何を以てか其鹹味を回復せん、塩にして其鹹味を保たば地の腐敗は恐るゝに足らず、然れども塩若し其鹹味を失はゞ、地の腐敗に恐るべき者あり、基督信者の腐敗は信者自身に取りては勿論、社会全体に取りて、最も寒心すべき事なり 〇「後は用なし」 鹹味を味ひし後の塩、信仰的感覚を失ひし後の信者、世に用なき者とて之に如くもの他にあるべからず、馬糞と牛骨とは之を肥料として用ゐるも益あり、愚者も俗人も全く用なきにあらず、然れども鹹味なき塩と信仰なき信者とは廃物中の廃物なり、如何なる智者と雖も其利用法を発見する能はず 〇「外に棄られて人に践まるゝ而已」 人に践まれんとて外に棄てらるゝ而已、「外」とは戸外なり、道路の意なるべし、昔時ユダヤに於ては今の朝鮮支那に於けるが如く、道路は掃溜の用をなしたり、人に践まれんとて外に棄てらるゝとは道路を固めんために其上に散布せらるべしとの意にあらず、腐敗せる塩は砂利の代用をも(337)為すに足らざるなり、唯不用物として戸外に棄てらるゝのみ、而して用なき、賤むべき、嫌ふべき者として行人に践まるゝ而已、是れ鹹味を失へる塩の運命にして、亦信仰を失へる信者の運命たるなり 〇地の必要物は地の無用物と化するの恐れあり、最も貴き者は最も賤むべき者となる、天使若し堕落すれば悪魔と化す、信者若し堕落すれば世の汚穢《あくた》又万の物の塵垢《あか》と成る、大なる恥辱は大なる栄光に伴ふ、天国に登らんと欲して若し之に達し得ざれば地獄に堕つ、我等は畏懼《おそれ》戦慄《をのゝき》を以て我等の救を全うすべきなり(腓立比書第二章十二節)。
 (改訳)汝等は地の塩なり、塩もし其感覚を失はゞ何を以てか塩つけられんや、後は用なし、人に践まれんとて外に棄てらるゝ而已。
 
  (14)汝等は世の光なり、山の上に建られたる城は隠るゝことを得ず。
 「汝等は世の光なり」 地の塩たる我少数の弟子たる汝等は亦同時に世の光たるなり、汝等は内より地の腐敗を防止し、外より其闇黒を照すべき者なり 〇「山の上に建られたる云々」 山の上に建られたる城市は隠れんと欲して隠るゝことを得ず、世に注目さるべきが其特性たるなり、光として世を照らし山上の城として世の注意を惹く、是れ汝等我弟子たる者の避けんと欲して避くる能はざる所なり。
 改訳の要を見ず。
 
  (15)燈を燃《とも》して斗《ます》の下に置く者なし、燭台に置きて家に在るすべての物を照らさん。
 「燈を燃して云々」 汝等の中、何人か燈を燃して之を斗の下に置く者あらんや、之を燭台の上に置て家に在る(338)すべての物を照らさしむるに非ずや、其如く神も亦汝等の心に点火して、即ち汝等に福音の真理を降して、汝等を隠所に隠し置き給はんや、必ず世を照らさしむるために汝等を燭台の上に置き、又世の注意を惹かんために汝等を山の上に曝らし給ふべし、汝等は世を照らすための燈台として、又我を世に示すための証人として立てられし者なり、我弟子たる汝等は既に公的人物たるなり、汝等は今より後、自己のために生くる能はず、又自己のために死する能はず、汝等は自己の利益をのみ計りて、独り密かに我福音を信ずる能はざるなり、我福音は異邦人の哲学と異なる、是れ自己一個人のためにのみ信じ得る者にあらず、是れ内を照らすと同時に亦外に向て輝くべき者なり、山の上に建てられし城の如く難攻不落なると同時に亦敵の注意を惹く者なり、神が福音の真理を汝等に授け給ひしは故等が独り自ら之を楽まんがためにあらざるなり。
 (改訳)燈を燃して斗の下に置く者なし、燭台の上に置くなり、而して燈は家に在るすべての物を照らすなり。
 
  (16)此の如く人々の前に汝等の光を輝かせ、然かすれば人々汝等の善行を見て天に在す汝等の父を崇むべし。
 「此の如く云々」 燈は燭台の上に置かれて家に在るすべての物を照らすが如く汝等の光も亦人々の前に輝きて其|闇黒《くらき》を照らすべきなり、我は汝等に汝等自身を人々の前に輝かすべしと言はず、そは光りは神より臨みて汝等の衷に存する者にして、汝等自身は光りにあらざれば也、汝等は自己を銜《てら》ふべからず、汝等の衷に存し、汝等に託せられし光をして輝かさしむべきなり、汝等は汝等の衷に耀く光を掩はざれば足る、汝等は自から努めて己より光輝を放つ能はず、そは汝等自身も亦闇黒の子供なればなり、然れども汝等の衷に降りし光は自から光輝を放つ者なり、唯人、往々にして之を蔽はんとするが故に其光輝を朦朧たらしむるなり、汝等は燈明台なり、燈光に(339)あらず、而して善き燈明台は善く燈光を四方に放つ者なり、汝等は世の注目する所となるを恐れて、汝等の衷に在る光を蒙蔽し、以て其放光を妨ぐべからざる也 〇「然かすれば云々」 汝等自身輝かんとする勿れ、汝等の衷に在る光をして自由に輝かしめよ、其放光に何の妨害をも加ふる勿れ、然かすれば善行は求めずして汝等より出づべし、而して世の人々は汝等に由て為る善行を見て汝等を誉めずして、天に在す汝等の父を崇むべし、汝等我弟子は我に傚ひ、汝等の名誉の揚らんことを需むべからず、天に在す汝等の父の崇められんことを計るべし、汝等は聖人君子として世に迎へられざるも可なり、然り、偽善者、奸物、国賊として待《あへしら》はるゝも可なり、只、汝等の天の父の名の崇められんことを努めよ、而して斯くなさんがために汝等の美名、安全、幸福を犠牲に供し、世に耶蘇信者として指弾《つまはじき》せらるゝを厭はず、教会に不信者として排斥せらるゝを意とせず、大胆に、勇ましく、汝等の心に臨みし自由の神の霊をして自由に其光を放たしめよ。
 (改訳)此の如く汝等の光をして人々の前に燿かしめよ、斯くて彼等は汝等の善行を見て天に在す汝等の父を崇むべし。
 
       ――――――――――
 
      塩と光
 
〇少量の塩能く団塊の腐敗を止む、少数の基督信者、能く全地の堕落を防ぐ、信者にして信者たらん乎、少数にして能く多数を制するを得べし、汝等の一人は千人を逐ふことを得んと(約書亜記第廿三章十節)、信者は社会を制せんとするに方て、其多数なるを要せず、信者が多数に頼らんとする時は既に其信仰を失へる時なり。
〇信者は己れ自から地の塩たり、世の光たる能はず、彼も亦世の人と等しく防腐剤と光輝とを要する者なり、(340)彼が地の塩たり得るは身に救済の鹹味を受けしが故なり、彼が世の光たり得るは心に福音の光に接したれば也、彼は信仰を以て救済の鹹味を失はざれば足る、然かすれば彼は努めずして地の大腐敗を防ぐを得べし、彼は亦世を懼るゝの余り、俗智を弄して彼の衷に臨みし光明の発輝を妨げざれば足る、然かすれば彼は欲せざるも世の真闇を照らすを得べし、彼の衷に働く塩をして自己に鹹味をつけしめ、又世に鹹味つけしめよ、亦彼の衷に輝く光をして自己を照らし亦世を照らさしめよと、是れ完全に彼の大使命を果たすの秘訣なり、信者の堕落は道徳の堕落を以てにあらず、信仰の減退を以て始まる、己れキリストなる塩を失つて、地の塩たり得ざるに至り、己れキリストなる光を蔽ふて、身に光を放ち得ざるに至る、キリストは茲に彼の弟子等に道徳を教へ給ふにあらず、信仰を伝へ給ふなり。
〇善行を以て自己を世に示さんとする勿れ、世に基督信者の模範を供せんとて焦慮る勿れ、そは斯く為して神の聖旨に適ふ善行を為す能はざれば也、善行に対しては消極的態度に出でよ、神をして汝に在りて善行を為さしめよ、汝は唯汝の衷に臨みし光を蔽はざらんことを勉めよ、聖霊を熄さゞらんことを努めよ、汝の虚栄と傲慢とを絶ちて、全然神の器具たらんことを期せよ、然らば善行は自然に汝より出て、汝は無能者として世に認めらるゝも神は大能者として崇めらるゝに至るべし、キリストの弟子たる者は聖人たり、君子たるの野心をも絶つべきなり、唯順良なる神の善行の器具たるを期すべし 而して斯くなすことが実に人たるの最大名誉なるを知るべし。 〔以上、12・10〕
 
    キリストは破壊者に非ず
 
(341)  (17)我れ律法と預言者を廃《すつ》る為に来れりと意ふ勿れ、来りて之を廃るに非ず、成就せん為めなり。
 我を破壊者と見做す者あり、然れども彼等の言を信ずる勿れ、我は破壊者にあらず、完成者なり、真正の建設者なり 〇「律法と預言者」 律法又は預言者、モーゼの律法を毀つ者に非ず、去りとて又律法に反対せしが如くに見えし預言者を斥くる者にあらず、我は一見矛盾の状を呈せる律法、預言両つながらを尊敬する者なり 〇「来りて云々」 毀たんために来らず、成就せんために来れり、我が降世の月的は過去の破壊にあらず、其完成にあり、其精神を発揮し、其目的を達せしめんためなり、律法は律法のためにあらず、神の聖意を遂げんためなり、預言は預言のためにあらず、神の聖意を伝へんためなり、我は律法又は預言の要求に応じて世に臨みし者なり。
 (改訳)我れ律法又は預言者を毀たんために来れりと思ふ勿れ、毀たんために来らず、成就せんために来れり。
 
  (18)我れ誠に汝等に告げん、天地の尽きざる中に律法の一点一画も遂げ尽くさずして廃ることなし。
 「我れ誠に汝等に告げん」 我れ我が権能を以て汝等に告ぐ、我は真なり、我が言に偽あるなしと、是れキリストの言なり、疑はずして納《う》くべきものなり 〇「天地の尽きざる中に」 此天と此地との過ぎ去るまでは、即ち今在りて後に過ぎ去るべき天と地との過ぎ去る迄は(黙示録廿章十一節、仝廿章一節参照)、律法はキリストの言の如くに永久に存すべき者にあらず(馬太伝廿四章廿五節参照) 律法は此天地と其存在を共にする者なり、然れども此天此地が過ぎ去るまでは存在し且つ有効なるものなり 〇「律法の一点一画」 希伯来文字を以て書かれたる律法の中に存する点画を云ふ、点はi《アイ》音を示し、画はd《デイー》音をγ《アール》音より、b《ビー》音をk《ケイ》音より区別す、曰ふ、旧約(342)聖書中に六万六千四百二十の点字ありと、キリストは茲に曰ひ給ふ、此天と此地とが過ぎ去るまでは律法は其全体に於て有効なるべしと 〇「遂げ尽さずして」 万事が遂行《なしと》げられずして、日本訳に「万事」の一語を脱せり、為めに原意を害ふこと甚だし、「遂げつくさずして」とは律法に関しての言にあらず、万事の遂行とは天地の過去《かきよ》と云ふに同じ、即ち天地万物が其用を成了ふるを云ふ、使徒行伝三章廿一節に於ける万物の復興と云ふに同じ、万事悉く成るまでは、此天と此地との目的が悉く達せらるるまでは云々。
 (改訳)我れ誠に汝等に告ぐ、此天と此地との過ぎ去るまでは律法の一点一画も過ぎ去らざるべし、然り、万事が遂行げらるゝまでは過ぎ去らざるべし。
 
  (19)是故に人若し誡の至《いと》微《ちいさ》き一つを破り、又その如く人に教へなば天国に於て至微さき者と謂はれん、凡そ之を行ひ且つ人に教ふる者は天国に於て大なる者と謂はるべし。
 「是故に」 律法は其全体に於て斯くも神聖なる者なれば 〇「誡の至微き一つ」 誡の一つ、其微少きものゝ一つ。誡とは此場合に於ては明かにモーゼの十誡なり、律法は其全体に於て神聖なり、故に律法の中心にして其根本たる十誡は殊に神聖なり、故に其一を破る者は、其中の至徹さきものゝ一を破る者は云々、至微さきとは人に由て至微と称せらるゝの意なり、キリスト在世当時の人は十誡中に大小の区別を立てしが如し、其第一が最大の誡にして第六以下は之を小なる誡と称せしが如し、然れどもキリストは茲に曰ひ給ふ、律法全体は神聖なり、十誡は殊に神聖なり、之に世の宗教家が称する如く大小の区別あるべからず、人若し其中の最小と称せらるゝものを破らば其人は天国に於て最小の者と謂はるべしと 〇「破り又その如く人に教へ」 人は独り罪を犯さず、(343)他人を誘ふて己と偕に同一の罪を犯さしむ 〇「天国に於て」 新らしき天と新しき地に於て。先きの天と先きの地とが過ぎ去りて後に神の所より出で来る天地を云ふ(黙示録廿一章一、二節)、完成されたる未来の世界、信者が其復活体を以てキリストと偕に臨む所 〇「至微さき者と謂はれん」 謂はるべし、至微さしと称して神聖なる十誡の一つを破る者は未来のキリストの国に於て真実に至微さき者と謂はるべし、想像は現実と化すべし、小事を怠るは決して小事にあらざるなり 〇「之を行ひ」 十誡のすべてを行ひ、殊に其至微さしと称せらるゝものを行ふ者 〇「大なる者と謂はるべし」 小なる誡を行ひしが故に大なる者と謂はるべし、小事に忠なりしが故に大なる物を委ねらるべし(馬太伝廿五章廿三節)。
 (改訳)是故に人若し誡の一を破り、殊に其至微さきものゝ一を破り、又その如く人に教へなば天国に於て至微さき者と謂はるべし、然れども之を行ひ且つ人に教ふる者は天国に於て大なる者と謂はるべし。
 
  (20)我れ汝等に告げん、学者とパリサイの人の義しきよりも汝等の義しきこと勝れずば必ず天国に入ること能はじ。
 「我れ汝等に告げん」 我れ我が特殊の教訓として汝等に告ぐべし、即ち云々 〇「学者とパリサイの人」 当時普通の教師なり、之を偽善者と解するは非なり、キリストは時には彼等を罵り給へり、然れども律法と預言とを重じ給ひし彼は又其教師を重じ給ひしなり(約翰伝三章に於けるニコデモの場合を参照せよ) 〇「学者とパリサイの人の義」 彼等に由て行はれし義、或ひは彼等に由て教へられし義、蓋し後者なるべし、是れ必しも悪しきにあらず、然れども肉の義なるが故に霊の義となすに足らず(約翰伝三章六、七節参照) 〇「勝れずば」 それ(344)以上の者たらずば、其性質に於て肉以上の義たらざれば、古人に伝へられ、今、学者とパリサイの人に由て伝へらるゝ義は善は善なりと雖も、以て之を行ふ者をして天国に入らしむるに足らず、十誡は之を心霊的に解せざるべからず、而して斯く解して之を行ふて始めて天国に入るを得べし。
 (改訳)我れ汝等に告ぐ、汝等の義にして学者とパリサイの人の義に勝れざるよりは汝等天国に入る能はず。
       ――――――――――
〇キリストは破壊者に非ず、完成者なり、完成者なるが故に破壊者の如くに見ゆるなり、破壊するための破壊者あり、完成するための破壊者あり、前者は真正の破壊者にして、後者は真正の建設者なり、而してキリストは斯かる建設者たりしなり(十七節)。
〇能く物の精神を発揮する者は其物を不要ならしむ、是れ其物を廃してにあらず、其目的を達せしめてなり、殻は芽を護るに要あり、然れども幼芽已に根を地中に張つて殻は自から不要に帰す、殻は殻として貴まざるべからず、然れども殻は永久に存すべき者に非ず、芽を殻の破壊者と見るは否なり、芽は殻の破壊者に非ず、其完成者なり(十七節)。
〇大なる誡は守り易し、小なる者と雖も能く之を守るを得べし、難きは小なる誡を守るにあり、天国に於て大なる者は世の小事に忠なりし者なり(廿五章廿三節)、小事は措て之を省みずと称する者はキリストの歓楽《よろこび》に入る能はざるなり(十九節)。
〇「天国に於て至微さき者と謂はるべし」 天国に入り得ざるにはあらざるべし、入るも其市民中至微さき者と謂はるべしと、キリストは厳粛一方の救主にあらず、彼は誤りて誡を破りし者にも天国に入るの希望を供し給ふ、(345)但し其中に在りて大なる者たるを許し給はず、恩恵は正義の上に出づることあり、然れども正義を滅する能はず(十九節)。
〇天国に入らんと欲せば律法のすべてを行はざるべからず、之を其最深最高の意義に於て行はざるべからず、然れども是れ何人も力めて為す能はざる所なり、若し律法遂行の途にして他に備えられざるよりは何人も天国に入る能はざるなり。
〇然れども一人のイエスキリストの律法の要求を悉く充たし給ひしあり、而して我等は彼に在りて完全なる律法の遂行者たり得るなり、そはすべて信ずる者の義とせられん為にキリストは律法の終となり給へば也(羅馬書十章四節)、天が下にキリストを除いて他に救ひなきは是れが故也。 〔以上、明治40・1・10〕
 
(346)     新らしき誡め
                     明治39年11月10日
                     『聖書之研究』81号「講演」
                     署名 内村鑑三
 
  明治三十九年十月十七日信州小諸町懐古園に於ける北信基督信徒第五回懇親会席上に於て述べしもの。
  我れ新しき誡を汝等に予ふ、即ち汝等相愛すべしとの是れなり、我が汝等を愛する如く汝等も相愛すべし、
  汝等若し相愛せば之に因りて人々汝等の我弟子なることを知るべし(約翰伝十三章卅四、卅五節)。
 茲にキリストは其弟子等に新しき誡めを予へ給ひしとあります、爾うして其誡めとは汝等相愛すべしとのことであるとあります、然しながら私供に判明らないことは汝等相愛すべしとの誡めは果して新らしい誡めである乎、其事であります、旧約聖書利未記十九章十八節を見ますれば斯う書いてあります、即ち  汝、仇を複へすべからず、汝の民の子孫に対ひて怨みを懐くべからず、己の如く汝の隣を愛すべし
と、斯くも既にモーゼに由て予へられし誡めは決して新らしい誡めではない筈であります、キリストも又一人の教法師に答へてモーゼの律法の中で最も大なるものゝ第二は己の如く汝の隣を愛すべしといふことであると述べられました(馬太伝廿二章卅九節)、故に汝等相愛すべしとの誡めを以てキリストが其弟子に与へ給ひし新らしき誡めであるとは何う見ても判かりません。
(347) 故に茲に聖書の誤解がなくてはなりません、或ひは誤訳がなくてはなりません、爾うして少しく原文に照らして見まするとその誤訳であることが判かると思ひます、「予ふ」の下に句切を附けたのが抑々誤解の始めであると思ひます、新らしき誡めとは三十四節全体に渉るべきものであると思ひます、今、希臘文に循つて、言葉なりに之を直訳しますれば斯うならふと思ひます、即ち
  汝等も亦相愛せんがために我が汝等を愛せし如く汝等も相愛すべし、是れ我が汝等に予ふ新しき誡なり。
 普通の日本訳に「我が汝等を愛する如く」とあるのは何うしても「愛せし如く」でなくてはなりません。扨、斯う改訳しまして、其意味は之を探るに難くありません、キリストが茲に予へ給ひし汝等相愛すべしとの誡めの新らしき理由は其愛の性質に存します、単に相愛すべしとのことではありません、我が汝等を愛せし如く相愛すべしとのことであります、キリストが在世中、弟子等の模範とならんために彼等を愛し給ひし如く、其如く、又はそれと同じ性質の愛を以て彼等互に相愛すべしとのことであります、爾うしてキリストの愛が一種、特別、世の未だ知らざりし愛であつたことは我等基督信著には善く判かります、キリストの愛其物が新らしい愛でありましたから此愛を以て相愛すべしとの誡めは新らしい誡めでなくてはなりません。
 キリストはつゞいて言はれました、前節に傚つて私の直訳を申上げます、
  汝等若し愛を相互の間に懐かば此事に因りて人々汝等の特に我が弟子なることを知るべし。
普通訳に「汝等相愛せば」とありますが、原文なりに「愛を相互の間に懐かば」と訳する方が稍々意味が深いと思ひます、単に努めて愛的行為に出づるに止まらず、心の中に愛を湛えなば、爾うして心の満つるより之を行為《おこなひ》に表はすに至らばとの意味が原文の中に含まれて居ると思ひます(英訳の if ye have love one to another を(348)参考なさい)、爾うして斯かる愛を相互に懐くことが是れが彼等が特にイエスの弟子であるとの世に対しての証明であるとのことであります(私が茲に「特に」の字を加へましたのは原文の emoi に存する語勢を表はさんとしたのであります)、キリストの此訓誡に由りますれば、人が彼の弟子たるの証拠は此特種の愛を心に懐き、之を行為に表はすの一事にあるとのことであります、キリストは茲に洗礼を受けたる者が我が弟子であるとは言はれません、又或る特別の教義を堅く維持する者が基督信者であるとは言はれません、キリストの弟子たるはキリストが其弟子を愛し給ひし其愛を以て互に相愛することであります、キリストの此誡めは最も明白であります、誰も是を曲解することは出来ません。
 扨、キリストが此誡めを予へられました前後の関係を能く調べて見ますると其意味が更らに一層明白になつて来ると思ひます、キリストは何故に此時に此誡めを弟子等に予へられたのでありませう乎、其事は前節即ち三十三節を読めば能く判かります、
  小子《をさなご》よ、我れ尚ほ片時《しばらく》、汝等と偕に在り、汝等、我を尋ねん、我が往く所に汝等往く能はず。
 是れに由て観ますれば此新らしき誡めなるものはキリストの留別の言葉であることが能く判かります、キリストは今や其弟子等を去らんとするに方て、彼等の将来を慮《おもひはか》り給ひて此言を遺されたのであります、キリストの世に在り給ひし間は弟子等は其師の保護を受けて居りました故に安全でありました、然るに今や此保護者を失はんとするに方て、彼等が此世に在て顧るべき者は同じ師に従ふ同志の者共より外にありません、彼等は今や将さに孤児とならんとして居つたのであります、勿論主は新たに「慰むる者」を送つて彼等を導き給ふとは雖ども、然かし、主の容姿は今より之を失はなければなりません、今より彼等は牧者なき羊の如き者となりて狼の群の中(349)に入らなければなりません。故にキリストは彼等を憐まるゝこと甚だしく、父が其子に遺言するの心を以て此言を遺されたのであります、
  弱き援助《たすけ》なき小子よ、我れ汝等と偕に在るは片時のみ、我が汝等を世に遺して父の許に往かざるべからざる時は目前に迫れり、我れ去りて後に汝等寂寞の余り我を尋ねん、然れども我を見る能はざるべし、汝等は今我が往く所に往く能はず、尚ほ此罪の世に止まりて我が事業を成さゞるべからず、故に我は我が訓誡として此言を汝等に遺す、是れ即ち我が特別の訓誡なり、即ち我が世に在りし間、我が汝等を愛せし如く汝等互に相愛すべし、而して我が亡き後は、汝等が今日まで我より受けし愛を相互より求めよ、今より後、汝等相互に対して父たれ、又兄たれ、以て汝等が要求する我が愛の欠乏を補へよ。 若しキリストの御言葉の意味を敷衍して見ましたならば、大略斯ういふやうな者であらふと思ひます、恰かも我国の歴史に在る毛利元就が死に臨んで其子を誡めたやうの者でありまして、一本の矢は容易に之を折ることが出来るが、数本の矢を一束に為せば之を折ることが出来ない、其如く、兄弟が個々別々に立てば容易に敵の亡す所となる、然れども互に相団合して一体となりて立てば如何なる敵も之に当ることが出来ない、是れが毛利元就の其子に対する遺言でありまして、其、之を予へし動機に至りましてはキリストの愛の遺訓と少しも異なる所はありません。
 爾うしてキリストの弟子等に関はる此時の憂慮は決して杞憂ではなかつたと思ひます、世にキリストの弟子程援助ない者はありません、彼等は此世とは全く関係を絶つた者であります、彼等はキリストに従ひしの故を以て其父母兄弟親戚にまですべて憎まるゝに至つた者であります、世に頼辺なき者とて実にキリストの弟子の如き(350)はありません、彼等は此世に在ては外国に滞留する旅人の如き者であります、孤独、寂寞、窮乏の状は最も深く彼等に於て見るのであります、日暮れて途遠し、主は去りて天国は未だ臨らず、不信者は跋扈し、悪人は跳梁し、我等の貴ぶ名は嘲けられ、我等は世の汚穢《あくた》又万の物の塵垢《あか》の如くに扱はる、此場合に在りてキリストの弟子たる者が互に相愛せざれば世に憐むべき者とて実に彼等の如きはありません、パウロは若しキリストに由れる我等の望みたゞ此世のみならば総ての人の中に我等は最も憐むべき者なりと言ひました(哥林多前書十五章十九節)、私は彼の言葉を少しく変へて曰ひたく思ひます、若し我等キリストの弟子に相互の愛なくば総ての人の中に我等は最も憐むべき者なりと、世の人は利益の為めに一致します、名誉のために結合します、然かし利益と名誉とを放棄せしキリストの弟子は之を以て一致結合の動機となすことは出来ません、キリストの弟子等がキリストの愛を以て互に相愛することが出来ませんならば、世に弱き者とて、援助なき者とて、心淋しき者とて、活きて居るの甲斐なき者とて実に彼等の如きはありません。
 然かし事実は如何であります乎、キリストの弟子等は果して互に相愛します乎、彼等は党を結びません乎、教会のために忠実であつてキリストのために不忠ではありません乎、相互を譏りません乎、他教会、他信者の衰退堕落を聞いて窃に悦びません乎、教会の財産争ひを為しません乎、所謂る信者の中に在るも敵の中に在るが如きの感を懐きません乎、所謂る基督信者なる者は互に相欺きません乎、相陥いれません乎、キリストの愛を以て互に相愛することは今日の所謂基督信者の特質であります乎、是等の問に対して私は今皆様の前に答を供すべきではありません、私は独り私の心の中に答ふべきであります、皆様も各々其心の中に答ふべきであります、キリストが此世を去らるゝに方て、殊に此一事を憂慮られて特に此誡めを彼の弟子等に予へられましたのは其中に深(351)き理由《いはれ》があったから、又今尚ほ有るからであります。
 「我が汝等を愛せし如く」とあるキリストの其愛は何んなものでありませう乎、是れを知るには新約聖書全体を能く読まなければ判かりません、我は善き牧者なり、善き牧者は羊のために命を捐つ(約翰伝十章十一節)、是れキリストが其弟子を愛せられし愛の一斑であります、キリストの愛、我を勉《はげま》せり、我等思ふに一人すべての人に代りて死にたればすべての人既に死にたる也(哥林多後書五章十四節)、是れキリストの愛の実力を示した言葉であります、(序に申上げますが、茲に「勉ます」とあるは誤訳であると思ひます、原語の意味は英語の constrainth と同じやうに限るとか、両側より狭ばめらるゝとかの意味であると思ひます、キリストの愛我が途を限る、我は今、此愛以外に行動する能はずとの意味であらふと思ひます)、キリストの愛に就て悉く茲に語ることは到底不可能事であります、然しながら同じ約翰伝の十三章に具体的に其如何なるものである乎が示してあると思ひます、キリストは彼の愛の実例を示された後に此愛の誡めを予へられたのであると思ひます、今同じ章の三節以下を読んで御覧なさい、
  イエス己の手に父の万物を賜ひしことゝ、神より来り神に帰ることとを知り、夕飯の席を起ちて上衣を脱ぎ手巾《てぬぐひ》を取て腰に纏ひ、而して盤《たらひ》に水を入れ、弟子の足を濯ひ、その纏ひたる手巾にて拭き始じめ、遂にシモン・ペテロに及ぶ、ペテロ曰ひけるは主よ、汝、我足を濯ふ乎、イエス答へて曰ひけるは汝が為すことを汝、今、知らず、後、之を知るべし、……彼等の足を濯ひし後、その上衣を取り又坐りて彼等に曰ひけるは我が汝等に行《な》しゝ事を知る乎、汝等我を師と呼び、又主と呼ぶ、汝等の言ふ所は宜し、我は誠誡に是なり、我は汝等の師又主なるに尚ほ汝等の足を濯ふ、汝等も亦互に足を濯ふべし、我れ汝等に例を示せり、此は我(352)が汝等に行しゝ如く汝等にも行さしめんためなり(三−七、十二−十五節)。
 是れがキリストが其弟子等を愛せし愛の実例であります、爾うして彼は彼等に此の如く互ひに相愛せんことを教へ給ふたのであります。
 相互の足を濯ふとは勿論水を以て相互の足の泥を濯ひ落すといふに止まりません、謙遜以て相|役《つか》ふの意であります、パウロの所謂る
  然れども我等強き者は強からざる者の弱きを負ひて己の心に悦ばざるをも為すべき也、………キリストすら尚ほ己を悦ばす事をせざりき(羅馬書十五章一、三節)
とのことであります、即ち強き者は弱き者の婢僕となるの覚悟を以て互に相役ふべしとのことであります、是れ確かに新らしき誡めであります、斯かる訓誡はモーゼに由ても、ソクラテスに由ても、孔子に由ても世に予へられませんでした、爾うして斯う為るのは何にも功徳のためではありません、自己の潔白を表顕するためでもありません、「愛を心に懐く」からであります、愛が此謙遜を帯ぶるに至りますまでは之をキリストの愛といふことは出来ません。
 爾うして斯の如くに相互を愛して我等は始めてキリストの弟子として世に認められるに至るのであるとのことであります、我等は或る特別の儀式を守つて我等のキリストの弟子たることを世に向つて表白すべきではありません、又或る一定の信仰個条を宣言して我等の地位を明かにすべきではありません、キリストの弟子の特質は其相互に対して懐く特種の愛であります。
 信仰、信仰と云ひますが、信仰は決して基督教の特質ではありません、信仰の強いものはキリストの弟子に限(353)りません。回々教の信者で信仰に於ては遙かに基督教信者よりも強い者が沢山居ります、彼等は宗教のためとならば命を鴻毛よりも軽く思ひます、過る年、亜非利加オムダルマンの役に何万といふ回々教徒は英国人の速射砲の前に枕を并べて斃れました、若し信仰の強弱に由て宗教の優劣が定まる者でありますならば回々教は遙かに基督教以上の宗教であります。
 然かしながら信仰の多いと寡いとには由りません、信仰の性質に由ります、如何なる信仰である乎、是れ我等の第一に起すべき問題であります、愛を基礎とする信仰である乎、或ひは愛を離れたる信仰である乎、凡てのことを愛の犠牲となすの信仰である乎、或ひは自己の主張を押し通さんがためには反対者を傷け、之を罵り、譏り、斃すも敢てする信仰である乎、是れ我等の第一に究むべき問題であります、爾うして私の見る所に由りますれば回々教と言はず基督教に於ても所謂る信仰なるものは第二種の信仰であります、即ち愛とは何の関係もない信仰であります、兄弟の足を濯はないは勿論、場合に由ては之を傷け、其心臓を絞つて快哉を叫ぶ信仰であります、斯かる信仰は我国の基督教界に於てあるばかりでなく、米国、英国等の古き基督教国に於ても屡々目撃さるゝ所であります、実に痛歎の極ではありません乎、而かもそれでも基督教であると言ふのであります。
 斯く痛言して私は特に貴下方を責めるのではありません、私は愛の不足を以て責むべき者は第一に私自身であることを知ります、私始め、常に信仰の不足を歎いて愛の不足に気附かない者であります、私始め基督教は特別に愛の宗教であつて、信仰の宗教ではないことを忘れる者であります、然しながら是れ大なる不注意、大なる忘失であります、愛を最上位に置かない者はキリストの弟子ではありません。
 然らば私供は如何したらば宜しう厶いませう乎、私供の心に確かに愛はないのであります、私供はキリストの(354)弟子たるの第一の資格を欠いて居るのであります、然らば私供は如何したらば宜しう厶いませう乎。
 神より愛を賜はらんことを祈るべきであります、私供は度々愛は神の最大の賜物であることを忘れます、私供は愛は之を自己に発揮し得ずば神の恵みに与り得ないと思ひます、爾うして自己の愛の無いのを見て失望し、返て神より遠ざからんとします、然しながら是れは誤つたる考へであります、私供は直に神の宝座《みくら》に近いて愛に満たされんことを祈るべきであります、パウロのコリント人に関はる祈祷は是でありました、即ち
  願くは主イエスキリストの恵、神の愛と聖霊の交際、汝等すべてと偕にあらんこと(哥林多後書末章末節)
と、私供も亦、自己のために、相互のために、殊に斯かる会合のために神の愛の我等と偕にあらんことを切に祈らなければなりません。
       *     *     *     *
 今や我国の基督教は旧時期を去て新時期に入らんとしつゝあると思ひます、旧来の西洋伝来の基督教は既に其為すべきだけのことを為し了はつたと思ひます、故に若し此上基督教其物が発展しませんならば我国に於ける是れ以上のその発達は覚束ないと思ひます、爾うして基督教の発展とは何んであります乎、其真理の発揚であります、基督教は未だ其精力を消尽しません、神は日本人に命じて其新発展を待ちつゝあり給ふと信じます、今やすべての方面に於て日本人は欧米人を凌駕しつゝあるではありません乎、下瀬火薬の如き、木村式無線電信の如き、皆な欧米人以上の新発明ではありません乎、爾うして惟り宗教に於てのみ我等は西洋人の糟糠《かす》を何時までも嘗めて居らなければならないのであります乎、私はそれは神の聖意ではないと思ひます、我等日本人は宗教に於ても、然り、殊に宗教に於て欧米人以上に出なければなりません、爾うして彼等以上に出るとは彼等以上の言語学的発(355)見をなし、彼等以上の教義的明確に達すると言ふことではありません、此事も為しませう、然かし是れよりも大切なる事があります、それは愛に於て上進することであります、日本国に於て宗派的偏執を全く絶つことであります、かの冷たき、理論と法則と儀式とを以て維持せんとする欧米流の基督教に代ふるに温かき、霊と生命《いのち》と愛とを以てする新たなる基督教を以てすべきであります、我等は富と智識とに於ては彼等に及ばざる所ありとするも、聖霊の力なる愛に於ては彼等以上に立たんとする聖望を懐くべきであると思ひます、斯くしてこそこの浅間山の麓、千曲川の辺より世界を動かすの勢力が湧き出るのであると思ひます。
 
(356)     秋の伝道
                     明治39年11月10日
                     『聖書之研究』81号「雑録」
                     署名 内村生
 
 秋も半を告げ、年の中で最も好き時期となつた、依て去月十二日角筈の古巣を出て秋の伝道にと出掛けた。
 十二日には栃木県の宇都宮に行いた、其日の午後に余は教友に伴はれて市内の八幡宮の丘に登つた、此所は余が明治二年余が九歳の時、父に伴はれて奥州石巻に至るの途中、登つたことの記憶のある小山である、其時宇都宮城は大鳥圭介氏の焼く所となりて、宮殿も灰と化して居つたことを幽かに記憶する、嗚呼、想起す、三十七年前の昔、余は其時幼な心に何を思つたであらふか、名誉か、利達か、将た又凧か、竹馬か、然るに今はイエスキリストの奴僕となりて此山に登る、絹川の流は彼方に銀線を引き、二荒《につくわう》の山は此方《こなた》に初雪を戴いて白し、感慨心に満ちて夢を辿るが如き心地した、其夜旧城館に一泊し、夜も朝も教友数名と共に神とキリストと永生とに就て談じ、余の勧めざるに宇都宮教友会の成立を見、翌朝十時教友に送られて福島県に向つて出発した。
 十三日、天気晴朗、那須山は其全景を露はし、汽車は其半面を繞りて走るの感あり、黒磯を過ぐれば那須川の西岸は既に秋の紅《くれない》を帯び、白川の城壁は赤き蔦に絡まれて古城寂寞の状を呈した、午後二時岩代国本宮町に下車し、友人の家に迎へらる、彼の事業の栄え行くと信仰の固きとを見て感謝した、午後は共に山に登り、又下りて阿 隈川を渡り、夜は道を談じて歓んで眠に就いた。
(357) 十四日、日曜日なり、朝と夕と両回福音を語る。午後は友人二名と共に磐井の清水を訪ふた、源義家が奥州征伐の時、弓もて岩を突きしかば湧き出しものなりと云ふ、而して義家ならざる我も福音を以て余の友人の心を突きしかば、其中より活水流れ出て今は其地方を潤しつゝあるを見た、余は窃に思へり、余に義家の名誉なしと雖も義家に優さるの幸福ありと、磐井の清水は永久に流れて尽きざらん、然れども、神が此拙き余を以て余の友に予へ給ひし水は其中にて泉となり湧出で永生に至るべし(約翰伝四章十四節)。
 十五日、本宮の友人の家を辞し、南に走ること十時間、黄昏頃一先づ角筈の家に帰りて休息した。
 十六日、更らに信州に向つて出発す、是れ蓋し余の第二十何回の入信なるべし、余が信州を愛するは大なりと云ふべし、日は碓氷の山に暮れて、夜に入つて小諸に達す。
 十七日 晴、此日午前十時より小諸町懐古園に於て北信基督信徒第五回懇親会が開かれた、余が此地に招かれしは此会に出席して一場の講演を為さんが為めであつた、其席に於て述べしものが前に掲げたる「新らしき誡め」の一篇である、会する者八十余名、富者にあらず、然りとて貧者にもあらず、多くは木綿縞|草鞋《わらんじ》掛けの態にて、日本国の中堅を代表する勤勉独立の民であつた、之を見ても基督教は既に外国の宗教ではなくして日本国の宗教であることが判かる、余は彼等に接して尠からざる強固と平安とを心に感じた。
 夜友人某より余の揮毫を強請された、立派なる絹地に余の悪筆を揮へとの厳命である、固く辞すれども聴かず、依て止むを得ず左の如くヤツ附けた、但し余の旧作である、
    仲秋月を見て千曲川沿岸の教友を思ふ
   思ひやる姨捨山の秋の月
(358)     千曲の岸の実《みのり》いかにと
 十八日 晴、午前七時小諸を辞し、越後より来り会せし教友某と共に帰路に就く、途に碓氷の紅葉の錦繍を以て全山を彩るを見る、十時上州磯部に至りて下車し、昼飯を終り、午後徒歩して妙義山に至る、宿に達すれば日将さに暮れんとす、故に直に山に登り、社殿を一覧し、午後七時の祈祷を山中、松杉|蓊《しげ》りて蔭暗き叢《くさむら》の中に捧ぐ、二人帽を脱し、頭を低れ、内村生先づ唇を開き
  固き岩を被《かぶむ》らすに紅葉《もみぢ》の錦を以てし給ふ神よ
と叫び出すや、何所《いづこ》より来りけん一羽の杜鵑のケン、ケン、ケンと三声ほど鳴いて我等の頭の上を通るあり、我等は其声に励まされて近来になき聖き熱き祈祷を捧ぐるを得て、神を讃美しながら山を下り、宿に帰り、湯に浴し、食を終へ、来世と現世とを談じながら眠に就いた。
 十九日 快晴、払暁目を覚まし、床中に路加伝の大綱を談じ、日の出るを待つ、六時何分と云ふ頃に日輪は関東の平原より出づ、筑波山は遙かに丘陵の波の中に現はれ、光明は今は幽暗を輝らせり、之を見て余は叫べり「神はまことに大なり」と、又詩篇六十一篇の言を藉りて叫べり
  願くは神よ起き給へ、
  汝の仇を悉く散らし給へ
と、七時友人と共に山を下り、再び磯部に至り、此所に彼と別れ、彼は越後に去り、我は東京に帰る、家に帰りて此聖き旅行を廻想すれば感満ちて抑へ難し、依て左の一首を録して越後なる余の同行の教友に送る
   紅葉せる妙義の山の秋の暮
(359)    鳥鳴く下の祈祷《いのり》忘るな
 是を以て明治三十九年の秋の伝道を終る。
 
(360)     課題〔7「提摩太前書一章十五、十六節」〕
                     明治39年11月10日
                     『聖書之研究』81号「雑録」
                     署名なし
 
    捉摩太前書一章十五、十六節。
  キリストイエス罪人を救はんために世に臨れり、信ずべく亦疑はずして納《う》くべき話なり、罪人の中我は首《かしら》なり、然れども我が衿恤《あはれみ》を受けしはキリストイエスいやさきに我に寛容を悉く顕はし、後、彼を信じて永生を受くる者の我を模楷となし給へる也。
 
     略註
 
 「信ずべく」 又真にしてとも訳するを得べし、異なるが故に信ずべきなり、我等の全性を以て大真理として納くべき話なりと 〇「疑はずして納くべき」 原文なりにすべての歓迎を値すべきと直訳する方宜しかるべし、斯く訳して其意義は最も明白となるなり、「疑はずして云々」は訳者の意訳に過ぎず、而かも善良なる意訳と称するを得ず 〇「話なり」 「話」にては意義余りに弱し 四章七節の「妄《みだり》なる談《はなし》、老たる婦の奇《あやし》き談」に類して全性を傾けて信ずべき事とは受取り難し、原文なりに「言」と訳するに若くはなし、「言」又は「事」とも解するを得るなり、約翰伝一章一節に「道」と訳しあるは此語なり 〇「首なり」 第一に位する者なり、首座を占む(361)る者なり、必ずしも最大の罪人たるの意にあらず、罪人の首長なり、彼等を指導せし者、即ち隊長なりとの意なるべし。使徒行伝七章五十四節以下、加拉太書一章十三節等参考 〇「衿恤を受けしは」 救はれしは、我の救はれしは我に何の善きこと、義しきことありしに因りてに非ず、全く神の憐愍に因りてなり 〇「寛容を悉く顕はし」 すべての寛容を顕はしと直訳するを宜とす、有る丈けの寛容を顕はしの意なり、神の寛大のすべてを尽すにあらざれば我罪は赦されざりしとなり 〇「後、彼を信じて云々」 永生にまで彼を信ぜんとする者の模楷となさんがために。「永生にまでとは」 永生を目的としてとも、或ひは永生に至るまでとも解するを得べし。約翰伝四章十四節参考。邦訳の「永生を受くる者」は確かに言過なり 〇全二節を左の如く改訳すれば其意義一層明瞭となるべし。
  信ずべく亦すべての歓迎を値ひすべき言は是なり、即ちキリストイエス罪人を救はんために世に臨れりとの言なり、我れ自身が其首長たるなり、然れど我は是れがために衿恤を受けたり、即ち永生にまで彼を信ぜんとする者の模楷となさんがために、キリストイエス我に在りていやさきに其すべての寛容を顕さんためなり。
 
     意解
 
〇キリストの福音を約言すれば是れなり、即ちキリストイエス罪人を救はんために世に臨れりとの事なり、是れ確かに歓喜の音信《おとづれ》たるなり、罪人の信ずべく、亦すべての歓迎を以て迎ふべき音信なり、其哲学的説明を俟つを要せず、その、罪人が最も渇望する音信なるが故に、彼は熱情を以て之を受くるなり、キリストの福音は罪人のための福音なり、故に罪人ならざる者は、即ち己れの罪人たるを認めざる者は之を信ぜず、亦すべての歓迎を以(362)て之を迎へざるなり。
〇罪人を救はんための福音なり、而して斯く言ふ我れ自身が罪人の隊長たるなりと、キリストの敵を指揮して其教会(今の所謂る「教会」に非ず)を窘しめし者なり、キリストの恩恵を斥け、我が義を以て神の前に立たんとせし者なり、我は普通の罪人にはあらざりし、罪人を率いて神に抵抗を試みし者なりと。〇然れども神が特別に我如き者を救ひ給ひしは特に我一人を救はんためにあらず、我を以て多くの他の人を救はんためなり、我は罪人の模楷《かた》として救はれしなり、亦神の寛容の限なきを示さんために救はれしなり、故に我を救ひ給ひし神は如何なる罪人と雖も能く之を救ふを得べし、又我にして神に救はれし以上は、如何なる罪人と雖も大胆に神の許に至りて其絶大の寛容を乞ふべきなり、已に其隊長を擒にし給ひし神は容易に兵卒を征服するを得るなり。
       *     *     *     *
〇謙遜なるパウロよ、汝は汝の罪を示されて福ひなる者なり、願くは我も汝に傚ひ、罪人の中決して小なる者にあらざるを覚り、汝と共に心よりしてキリストの赦罪の福音を信じ、満腔の感謝を以て之を歓迎するに至らんことを。
 
       ――――――――――
 
       嬉しき時  編輯生
 
  嬉しき時は神に我が罪を指示された時である、ベニエルに於けるヤコブの如く天使に傲慢の髀《もゝ》の枢骨《つがひ》の巨筋《おほすぢ》を(363)絶たれて歩行き得ぬに至る時である(創世記三十二章廿四−卅一節)、又ダビデが神より預言者ナタンを遺されて其罪を糺され汝は其人なりと言はれし時の如き時である(撒母耳後書十二章一−七節)、其時我は人と自己とを離れて神に縋る、其時十字架は我目の前に輝く、其時我に懐疑《うたがひ》は一つもなくなる、自己が罪人の首であることを感じた時にキリストイエス罪人を救はんために世に臨れりとは信ずべく又疑はずして受くべき話である、爾うして神に我傷(罪)を指されずして此感は起らない、我は義人なりと思ふ時に、我が他人の罪を責めつゝある間は、此嬉しき、美はしき感は起らない、一言の申訳なくして我れが神の前に立つ時に、キリストは其十字架を負ひ給ひて我が心の眼の前に顕はれ給ふ、幸福なるはまことに神に我が罪を指示されたる時である。
       ――――――――――
次号課題は左の如し
  提摩太前書六章六節より十一節まで
原稿〆切り十一月三十日、第一等并に第二等に対しては美はしきクリスマスカードを贈るべし。
 
(364)     〔基督信徒の歳暮 他〕
                     明治39年12月10日
                     『聖書之研究』82号「所感」
                     署名なし
 
    基督信徒の歳暮
 
 歳将さに暮れんとす、然れども、我等に歳暮あるなし、又歳始あるなし、我等に唯永久の春あるのみ、イエスキリストは昨日も今日も永遠までも変らざる也(希伯来書十三章七節)、彼にありて生くる我等は歳と共に老ひず、又歳と共に変らざる也。
 
    聖誕節
 
 花鳥叢林を去りて佳節到り、歓喜心に絶へて希望生まる、ベツレヘムの夕、寒月テコアの丘陵を照らす頃、キリストはユダの山地に生れ給へり、世に堕落の声高くして、人皆な寂寥を感ずる今日キリストは再び我等の中に生れ給はざらん乎。
 
    村里の祝福
 
(365) ローマの帝都に於てあらず、エルサレムの聖都に於てあらず、ベツレヘムの僻邑に於て人類の救主は生れ給へり、美服を着たる者は王宮に在り(馬太伝十一章八節)、然れども人を救ふ者は僻陬より出づ、神は其の独子をベツレヘムに下し給ひて、村里を祝し給ふと同時に都会を詛ひ給へり。
 
    真正の伝道
 
 伝道は言語の伝達にあらず、精神の傾注なり、自己を虚うして他人を充たすことなり 伝道に勝さる辛労の業あるなし 伝道はまことに犠牲の業なり、人の霊魂のために身を尽くすことなり(哥林多後書十二章十五節) 民の罪のために自己を献ぐることなり(希伯来書七章廿七節) 伝道は特にキリストの業なりし、而して彼の如く罪祭の供物とならんと欲する者のみ、能く伝道者の工を為すを得べし(提摩太後書四章五、六節)。
 
    疲労と歓喜
 
 我れ疲れて他人《ひと》休み、我れ撃れて他人癒さる、キリストは我がために斯く為し給へり、我も亦他人のために斯く為さゞるべからず、是れ名誉なり、快楽なり、我れ我が主を想ひやりて、我れに言ひ難きの歓喜あり。
 
    幸福なる伝道者
 
 我れ福音を唱へ、基督に於ける我が姉妹某之を受けて再たび之を某艦の下士某に伝ふ、而て彼れ其愛に励まされて蔚山沖の海戦に溺れんとする露兵三十余名を救へりと聞く、依て知る福音宣伝は大なる慈善事業なること(366)を、我は播かず又穫らず唯言を述ぶるのみ、而かも我が言は海中に同胞を救ふの動機となれりと云ふ、幸福なるは活ける神の福音を宣ぶる伝道者なり。
 
    電気と電線
 
 我は福音にあらず、福音の伝達者なり、電気にあらず、電線なり、而かも金線又は銀線にあらず、賤しき銅線なり、福音は貴むべし、我は貴むべからず、我を崇むる者は電気に勝さりて電線を貴むの愚を学ぶ者なり。
 
    日本人の宗教心
 
 我等の心霊の友はウェスレーなるよりも寧ろ法然なり、ムーデーなるよりも寧ろ親鸞なり、宗教の同じきは信念の傾向の同じきに如かず、我等がイエスを仰ぎ奉る心は法然親鸞が弥佗仏に依頼みし心に似て、英米の基督信徒がキリストを信ずるの心に類せず、我等は勿論イエスを去て釈迦に就かんと欲する者に非ず、然れども神が我等日本人に賜ひし特殊の宗教心を以て我等の主イエスキリストを崇め奉らんと欲す。
 
    名実の差別
 
 余輩は名に就て争はず、実に就て争ふ、「仏佗」なりとて斥けず、「基督」なりとて迎へず、余輩は万物の中に充満する愛の心を遵奉す、神は愛なり、愛なき者は神を識らず、余輩も亦聊か愛の何たるを知る、故に愛の在る所に余輩の神を認め、其名の異同の故を以て取捨向背を決せざるなり。
 
(367)    神の不偏
 
 教会の中に在る者必しも神を識らず、教会の外にある者必しも神を非認《いな》まず、神を識る者は教会の中に在り又其外にあり、神の教会は全宇宙なり、
  ペテロ口を啓きて曰ひけるは、我れまことに神は偏らざる者にして何れの国民にても神を敬ひ義を行ふ者は其聖旨に適ふ者なりと云ふことを悟る(使徒行伝十章卅四、卅五節)
と、余輩も亦時に意外の所に神の忠実なる婢僕あるを見て、同じ驚愕の言を発せざるを得ず。
 
(368)     善人が悪人を懼るゝ理由
                     明治39年12月10日
                     『聖書之研究』82号「所感」
                     署名 角筈生
 
 善人は悪人に接触することを懼れる、夫れは何にも悪人を懼れてゞはない、悪人何者ぞ、
  汝いかなる者なれば死ぬべき人を懼れ、草の如くなるべき人の子を恐るゝか(以賽亜書五十一章十二節)、
 善人が悪人を懼れるのは悪人其者を懼れてゞはない。
 善人が悪人を懼れるのは悪人に接触して神に対つて罪を犯さんことを懼れてゞある、彼等に罵られて心に怒を発して彼等を罵るに至らんことを懼れてゞある、彼等に窘しめられて、仇を以て仇に報いんことを懼れてゞある、善人が悪人を懼れるのは悪人に心の平和を擾されんことを懼れてゞある、其純潔を汚されんことを懼れてゞある、善人は之れがために悪人を懼れることが非常である。
 然るに悪人は此事を知らない、彼等は善人が彼等を懼れるのは彼等自身を懼れるのであると思ふ、或ひは善人が心の中に何にか疚しきことがある故に彼等を懼れるのであると思ふ、彼等は過敏なる良心が汚穢に接触したる時の感情を知らない。
 世に恐怖の念に乏しい者とて悪人の如きはない、不義なる裁判人の言ひし事を聴け、我れ神を畏れず亦人をも敬はずと(路加伝十八章一−八節) 大胆不敵なるは善人にあらず、悪人なり、我が神、我が神、何故に我を棄て(369)給ひし乎と叫びしものは悪人にあらずして神の独子イエスキリストであつた、愛に恐怖《おそれ》なしと雖も、愛には又処女が其純潔を汚されんとするを恐るゝが如き聖き恐怖がある、悪人は善人の心を知らない、故に善人の恐怖の何たる乎を知らない。
 
(370)     教会に対する余輩の態度
                     明治39年12月10日
                     『聖書之研究』82号「所感」
                     署名 内村生
 
 余輩は自身無教会信者なり、然れどもすべての教会に対して深き尊敬を有す、新教諸教会に対してのみならず、希臘教会に対し、天主教会に対して余輩は深き誠実の尊敬を表す。
 余輩は余輩の無教会主義に或る真理の存するを知る、又すべての教会に或る他の真理の存するを知る、真理は一人又は一団体の専有し得べき者にあらず、余輩も亦余輩の有限微弱なるを知るが故に、余輩の信仰を確守すると同時に又すべて他の信仰に対し深き尊敬を表す。
 故に余輩は教会を毀たんとせず、能ふべくんば之を建てんと欲す、之と争はんとせず、能ふべくんば之と協力せんと欲す、余輩は余輩の有てる物(神の余輩に賜ひし)を教会に頒たんと欲す、教会は又其有てる物を余輩に頒つを得べし、我等は相互に対して強いて敵たらんとするの要なきなり。若し夫れ相互の主義を述ぶるに方て、相衝突するが如きことあらん乎、是れ止むを得ざるなり、斯かる場合に於ては我等は真理の深き所に於て互に相ひ一致すべきなり、そは真理は表面に於ては衝突することあるも内裡に於ては和合する者なれば也。
 而して余輩の教会に対する此態度は既に世の多くの教会者に由て認められしが如し、そは教会者にして本誌の年来の愛読者たる者は決して少数にあらざればなり、余輩は又屡々教会の招く所となりて、其業を援け、教役(371)者諸氏と握手して同一の主のために働きたり、余輩は未だ曾て誠実の教役者に対して悪意を懐きしことなく、又彼等は屬々昔時の使徒の如く余輩に其右手を予へて交を結べり(加拉太書二章九節)。
 無教会なるは悲むに足らず、悲むべきはキリストを棄つることなり、我等は信と義に於て一致すべし、水の洗礼に就て、葡萄酒とパンとを以てする聖晩餐式に就ては、我等に多少の異説あるも可なり、教会を異にするが故に争ふ者は外国宣教師なり、我等は彼等に傚ふて、聖書の細末の字句に拘泥して、心に同一の主を崇むる同胞相互を責め又譏るべからざるなり、基督信者の「教派争ひ」は之を欧米諸国に留めよ、之を我日本に移植する勿れ、我等は神の特別に恵み給ひし此国に於て肉を離れたる霊の福音を奉ずべきなり。改行
 
(372)     人命は何故に貴重なる乎
                     明治39年12月10日
                     『聖書之研究』82号「研究」
                     署名 内村鑑三
 
 是れ自明理のやうであつて、実は随分困難しい問題である、人命は何故に貴重である乎、何故に赤子の生命は数十万円を値ひするアラビヤ馬のそれよりも貴重である乎、何故に法律の前には乞丐の生命は貴族のそれ丈け貴重である乎、何故に死ぬる病人とは知りつゝも全治し得べき者と見做して之を看護すべきである乎、何故に我子なればとて若し之を殺せば他人を殺したと同じ罪に問はれる乎、何故に我生命を奪ふことなればとて自殺は極悪の罪悪である乎、是れ明白の真理であるが、然かし何人も能く解し得る真理ではない。
 此問題に対して普通提供せらるゝ解答は是れである、即ち人類の自衛上人命を尊重するの必要があるからであると、即ち他人の生命を軽ぜんには自己の生命を軽ぜらるゝの危虞《おそれ》あるが故に、自己の生命を重んずる上から他人の生命を重んずるのであると、然れども是れ甚だ不充分なる解答であることは之を生涯の実際に照らして見て明かである、人の生涯には他人の生命を害ふ方が却て自己の生命に利益なる場合が沢山ある、若し自衛上より云ふならば自己に敵する者の生命は出来得る限り之を芟除するに若くはない、爾うして多くの場合に於て此理からして、即ち自衛の必要からして、戦争は起され、故殺、謀殺は行はれる、「自衛の必要」は人命貴重の理由としては甚だ薄弱である。或ひは言ふ、是れ其同類的本能に存する感覚であると、牛は牛の生命を貴び、猿は猿の生命(373)を重んず、其如く人は人の生命を貴ばざるを得ずと、然しながら人が人の生命を貴ぶのは其本能以上である、人は人命を貴重するに止まらず、之を神聖視する、殺人罪に対して嫌悪を感ずるに止まらず義憤を感ずる、我身を害はれしやうに感ずるのみならず、宇宙の法則の破られしやうに感ずる、人は人に対して同情を懐くのみならず、義務を自覚する、カイン其弟アベルの身に関して神に答へしやうに我れ豈、我弟の守者ならんや(創世記四章九節)とは我等は言はんと欲するも得ない、同胞は同胞であるばかりではない、何にか或る他の者の代表者である、人が其生みし子を見るに方ても、己が子としてのみ之を見ない、大なる委託物として見る、故に之を愛するに情を以てのみしない、義務を感ずる、我子は実は我子ではない、我と同じ丈け貴い者であつて、時には自己を棄てゝも保護しなければならない者である。
 何故に人命は貴重なる乎、人は其貴重なるを知る、然れども神の啓示に由てのみ能く其貴重なる理由を知る、人命の貴重なるは之は神の生命であるからである、即ち人は神に象りて造られたる者であるからである(創世記一章廿六節)、勿論禽獣の生命とて貴くないではない、生命はすべて貴くある、然しながら人の生命は特別の意味に於て貴くある、即ち、神の性を備えて居る故に貴くある。神に象りて造られたる者であるから勿論神ではない、然れども神の如く成り得る者である、即ち神の子たるの可能性を備えたる者である、獣の如く亡び失することなくして、神が生き給ふが如くに生き得る者である、馬は如何に価貴き者と雖も此性を備えない、獣はすべて今日の物である、然れども人は今日を以て失すべき者ではない、此永遠の性を有する一点に於て一人の乞丐は千万疋の名馬よりも貴いのである。
 或入嘗て白痴教育者ジエームス・B・リッチヤーズに語るに狆を教育するの白痴を教育するに優さるを以てす、(374)リッチヤーズ憤怒を含んで答へて曰く
  卿は狆に教ゆるに多くの奇芸を以てするを得ん、然れども余は是等の白痴児童に永遠の神を示すを得べし
と、実に其通りである、白痴の児童と雖も神を示さるゝの一点に於ては総ての動物以上である、白痴教育の必要は之を経済の上より打算することは出来ない、彼等を神の子と見ざる間は、彼等のために万金を投じて彼等を教へんとするの動機は起らない。
 勿論、神の何たる乎は自身神を知るまでは判らない、随て人命の貴重なる理由も自身神を知るに至るまでは充分に会得することは出来ない、神を知つてのみ始めて生命の貴重なる訳が判る、真といひ、善といひ、美といひ、是れ実体的に神に在て存する者である、神を識つて最も親しき人も非常に貴くなる、帝王よりも、学者よりも、富者よりも貴くなる、爾うして斯かる最上の貴尊に達するの資格を備えて居るが故にすべての人の生命は非常に貴重なるのである。 人命の貴重なるはキリストの降世と其贖罪の死とに由て最も明白に人類に示された、人の生命は宇宙の主宰なる神が其の独子を送つてまでも之を救はんと欲し給ふほどの価値のある者である、人の貴重なるを知つて神子受肉の奥義の一斑を解するを得べく、又神子受肉を見て人命貴重の理を深く弁へることが出来る、一は他を解釈する、神は其の生み給へる独子を賜ふほどに世の人を愛し給へり、此はすべて彼を信ずる者に亡ること無くして永生を受けしめんため也(約翰伝三章十六節)と、人命の貴重なる理由を述べし言葉にして是れよりも深く、又是れよりも高いものはない。
 キリストの代りて死に給ひし弱き兄弟(哥林多前書八章十一節)、是れがすべての弱き人、すべての苦しめる者、(375)すべての貧しき者を救はんとする最高最深の動機である、路頭に迷ふ無宿童童、警官に逐立てらるゝ乞丐、経済的には社会に何の価値もなき白痴、跛者《あしなへ》、瞽者《めしひ》、※[病垂/音]者《あうし》、残欠者《かたわ》、是れ皆な「キリストの代りて死に給ひし弱き者」である、故に貴くある、彼等とても若し聖旨に合はゞ信仰に由りて神を見ることが出来、天使の如き者と成ることが出来る、彼等を害ふのは金剛石を粉砕し、名馬を屠殺するにまさる数層倍の罪悪である、神の像を涜す者は神を涜したと同一の罪に問はる、人類は無意識的に人命を専重して其造主を崇めつゝある、神の像、其代表者として見てのみ人の貴い理由が分かる、故に聖書は言ふて居る
  汝の民の間に往きめぐりて人を譏るべからず、汝の隣人の血を流すべからず、我はヱホバなり(利未記十九章十六節)
と、我はヱホバなりと、我はヱホバなり、而して人を譏り人を殺す者は我を殺す者なりと、宗教に由らざる道徳の甚だ浅いものであることは此一言に由てでも判かる、神の代表者として人を見るにあらざれば、其の生命の如何に貴い乎、如何に重い乎は判らない、人は神の宮殿として貴いのである。
 
(376)     クリスマス演説 イエスの系図
                     明治39年12月10日
                     『聖書之研究』82号「講演」
                     署名 内村艦三
 
  アブラハムの裔なるダビデの裔イエスキリストの系図。馬太伝第一章第一節。
 是れは新約聖書劈頭第一の言葉である、爾うして聖書を読む者の大抵が何の思考もなくして読み下す一節である、彼等は此一節に何の意味も含まれて居らないと思ふ、彼等の多くは新約聖書を繙き其の困難しき名の行列を以て始つて居るのを見て、ツマラない書であると云ひて之を閉ぢる、イエスの系図の中に貴い基督教の真理が含まれてあるなどゝは彼等は聞いても容易に信じない。
 然しながら是れ深く聖書を究めないからである、或ひは基督教に就て深く考へないからである、聖書は神の言葉であると云ふ、然らば其発端に於て無用の文字が書いてありやう筈はない、儒教のすべては論語の劈頭第一、学而の一節の中に籠つて居るといふではない乎、基督教のすべては馬太伝一章一節の中に籠つて居らないであらふ乎、余は聖書を読む者が此事に注意しないのを見て甚だ怪しとする者である。
 「アブラハムの裔なるダビデの裔イエスキリストの系図」と、先づ第一に改訳の必要がある、「裔」は「子」と改むべきである、「ダビデの子」の下に「なる」の二字を加ふるの必要がある、又「アブラハムの子なる」の下に句切を打つの必要がある、アブラハムの子なるダビデの子イエスキリストではない、アブラハムの子にして(377)又ダビデの子なるイエスキリストである、イエスキリストは直接に二人に関係して居るのである、此一節は即ち左の如くに改訳すべき者である、
  アブラハムの子なる、ダビデの子なる、イエスキリストの系図
と、邦訳聖書改訳の必要は其馬太伝第一章第一節に於ても顕はれて居る。
 此一節の言辞《ことば》を原文に於て読めば左の順序となる、
  系図、イエス、キリストの、子、ダビデの、子、アブラハムの
と、すべて七字である(原語の Biblios-geneseos を一字として読む)爾うして其各字の中に大なる福音が含まれて有る。
 「系図」 イエスキリストにも系図があつたとのことである、以て知るべし彼は歴史的人物であつたことを、イエスは詩人の夢想に成つた人物ではない、彼は洵に人なるキリストイエスである(提摩太前書二章五節)、彼が人でありしことを知るのは彼が神でありしことを知るだけ必要である、彼は奇跡を行ひ、死より甦り、天に昇りし者でありしと雖も、霊ではなくして肉と骨とを着けたる人であつた、彼は此世に在て生き、呼吸し、食ひ、泣き、愛し、憎まれし者である、
  そは我等が弱きを思ひやること能はざる祭司の長は我等に有ることなし、彼はすべての事に於て我等の如く誘はれたり、然れど罪を犯さゞりき(希伯来書四章十五節)。
 イエスキリストは其肉体に於ては我等と同じ人であり給ふた、系図を有つて居る血と肉との人であり給ふた、故に彼は我等の救主と成ることが出来たのである(希伯来書二章十七節参考)。
(378) 「イエス」 イエスとは希臘語であつて希伯来語のヨシヤである、ヨシヤとは旧約聖書の約書亜記のヨシヤと同じ名である、其意味は「ヱホバは救ひなり」である、万民を救ふ故にイエスと名けたり(馬太伝一章廿一節)、然かし其名の意味は別に注意すべきではないと思ふ、注意すべきはその性質である、イエスの名はユダヤ人の中に在て最も普通なる名の一つであつた、ユダとか、ヨハネとか、ヤコブとか云ふと同じく多くの男子に附けられたる名であつた、ナザレの小村にも幾人かのイエスがあつたに相違ない、我国に於て云へば重蔵とか佐平とか太郎とか云ふと同じく最も普通なる名であつた、イエスの名に由て彼が平民中の平民であつたことが分かる、彼は学者や官吏が何の注意をも払はない者であつたに相違ない、ナザレのイエス、太田村の佐乎、誰か此人が世に生れ来りし最大の人物であると思ふたらふ、ローマのカイザル、ヱルサレムのカイヤバと聞いたら何人も尊敬の意を表したであらふが、イエスと聞いては其名に何の貴い所がなかつた。
 「キリスト」 希伯来語のメシヤを希臘語に訳したものである、「塗る」とか「注ぐ」とかの意であつて、受膏者の意である、メシヤとは猶太人の理想の人である、預言者イザヤは此メシヤに就て言ふた
  一人の嬰児《みどりご》我等のために生れたり、我等は一人の子を与へられたり、政事《まつりごと》はその肩にあり、その名は奇妙、また義士、また大能の神、永久の父、平和の君と称へられん(以賽亜書九章六節)
と、斯かる者は人ではない、神である、猶太人の思想に従へばメシヤ即ちキリストは神の子であつて、人の王である。
 然るにイエスがキリストであるとのことである、ナザレのイエスが、大工の子イエスが、大能の神、永久の父、平和の君と称へらるべきメシヤ即ちキリストであるとのことである、是れ驚くべき告知ではない乎、人は容易に(379)此事を信ずるであらう乎、試に茲に若し太田村の佐平なる者が天子の子であると云ふ者があるとしたならば誰が其宣言を信ずるであらう、イエスキリストと、イエスはキリストなりと、洵に我等が宣ぶる所を誰が信ぜしや(以賽亜書五十三章一節)、然かも馬太伝の記者は大胆にも其福音の劈頭に於て此宣言を為したのである、是れ神の福音にあらざれば狂人の妄語《たわごと》である、驚くべき言とて之に勝さるものはない。
 而かも此イエスは普通の平民ではない、彼は罪人として、神を涜す者として十字架の刑に処せられたる者である、賤しき生れの者であつて恥辱の死を遂げたる者である、国賊である、背信者である、凡て木に懸る者は詛はれし者なりと聖書に録してある、然るにイエスは木に懸けられたる者である、故に詛はれし者である、世に嫌ふべき、遅くべき、遠ざくべき者にして此イエスの如きはない。而かも此イエスがメシヤであるとのことである、若し然らば人間の思想はすべて間違がつて居つたのである、若し然らば貴き者は王公貴族にあらずして平民である、若し然らば世の罪人必しも悪人ではない、人類の模範たるメシヤは平民であつて、罪人として殺されたる者である、嗚呼、若し然らば帝王は帝王ではない、平民は平民ではない、罪人とて禽獣扱ひを為さるべき者ではない、イエスがキリストなりと聞いて世界は震動した、之に由て帝王の位は揺動《ゆる》ぎだした、平民の向上は始まつた、イエスキリストと、此賤き名と貴き名との並列に由て人類の歴史に新期限は開かれた。
 イエスは洵にキリストである、人類を救ふ者は実に彼である、帝王ではない、富豪ではない、学者ではない、ナザレの村に大工の職を執り、静かにして貧しき生涯を送りし後に、罪人として十字架の刑に処せられし者である、是れが人類の救主で、亦我等各自の救主である、我等基督信者の信仰はすべて「イエスキリスト」の名に含まれて居る、イエスをキリストとして戴くが故に我等はすべての困難、すべての屈辱に耐え得るのである、イエ(380)スがキリストであると信ずるが故に人の下に立つことを恥と思はざるのである、イエスをキリストとして受けて我等の人生観は一変した、我等は大なる人とは高楼玉殿に住つて居る人であると思ふた、然れどもイエスがキリストであると聞いて、我等は偉人を農夫、職工、商人の中に探ぐるやうになつた、人類に伝へられし福音にして之に勝りて貴い者はない、イエスキリスト、イエスがキリストである、頭を提げよ、平民と労働者よ。イエスがキリストである、謙遜れよ王公と貴族。千九百年前に此名が響き渡つて、世界の根本的改造が始まつた。
 「ダビデ」 ユダヤ人の理想の王、すべての権能の代表者、其「子」たりとは其血統を引いた裔《すえ》であると云ふに止まらない、子とは其精神の継承者である、エリシヤはエリヤを我が父我が父と呼んだ(列王紀略下二章十二節)、而かも彼はエリヤの肉体の子ではなかつた、エリシヤはエリヤの精神を承けた故に其子であつた、其の如くダビデの子とはダビデの権能と栄位とを承継いだ者である、爾うしてナザレのイエスは真正の意味に於てダビデの子である、彼は肉体に由ればダビデの裔より生れたばかりではない(羅馬書一章三節)、彼れはより深き、又より高き意味に於てダビデの子である、彼は洵に王である、ユダヤ人のみならず、人類全体の王として仰がるべき者である、神は彼にすべての権能を授け給ふた、彼は人を救ふ者で又人を鞫く者である、彼は愛すべき者で又恐るべき者である、故に詩人は彼に就て予言して曰ふた、
  子に接吻けよ、恐くは彼れ怒を放ち、汝等途に滅びん、その忿恚《いきどほり》は速かに燃ゆべければなり、すべて彼に依頼む者は福ひなり(詩二篇の十二節)。
 「アブラハムの子」 イエスはダビデの子であると同時に又アブラハムの子である、権能の代表者であると同時に又信仰の代表者である、信仰の美穂は其のすべての形に於てイエスに於て顕はれた、彼は死に至るまで順ふ(381)た(腓立比書二章八節)、イエスの場合に於ては子は遙かに父に優さつた、イエスの信仰は遙かにアブラハム以上であつた、アブラハムの真正の子はイサクではない、イエスである、イエスに於てアブラハムの信仰は其最高点に達した。
 アブラハムの子にして、ダビデの子なるイエスキリストの系図、是れは実に貴い言葉である、約翰伝第一章第一節にも劣らない、深い貴い言葉である、是れは聖誕節の標語として最も適切なる言葉である、彼は彼の祖先の希望を悉く身に体して生れ給ふた者である、彼は彼の驚くべき生涯と死とに由て人類の思想を一変し給ふた、彼は最大の改革者である、我等が今日あるを得しは全く彼が在つたからである、我等は今日アブラハムの子にしてダビデの子なるイエスキリストの弟子であることを忘れてはならない、栄光は永久に父と子と聖霊の上にあれ、アーメン。
 
(382)     大阪講演の要点
                     明治39年12月10日
                     『聖書之研究』82号「講演」
                     署名 内村鑑三
 
    第一夜 聖書の貴き理由
 
〇聖書は其物自身にて貴い者である、人の保護や賛助を受けて貴い者ではない、グラツドストン翁やビクトリヤ女王が之を讃めたればとて貴い者ではない、斯かる貴い書を讃めた故に彼等が貴くなるのである、聖書は人間以上である、聖書は之を読む人を貴くする、貴い人に読まれたればとて貴くなる者ではない。
〇聖書は教会の保護に由て存在する者ではない、若し爾うならばプラウニングの詩集やカーライルの論文集は聖書よりも遙かに貴い者である、是等の書類を保護するの教会も団体もない、然かし是等の書類は其物自身の価値に由て世に迎へられつゝある、聖書が独り立つことの出来ない書《もの》であるならば之れは至つてツマラない書である、然かし聖書は爾んなツマラない書ではない、聖書は教会に拠て立つ者ではない、教会が聖書に拠て立つ者である、聖書は其存在拡張のために教会の保護を要しない、否な、多くの場合に於ては教会の保護は却て聖書の進歩を妨げる、聖書は其独り放任せられんことを教会に向つて望む者である。
〇聖書は第一に道徳の書として貴くある、之に優さるの道徳の書は全世界にない、其事に就て余は今茲に述ぶる(383)に及ばない。
〇道徳の書である、然かし聖書は高い清い道徳の書として殊に貴いのではない、聖書は殊に信仰の途を教ふる書として貴いのである、罪人に其罪の赦免を伝ふる書として殊に貴いのである、聖書は殊に義人が其義を楽まんとて読むべき書ではない、罪人が其の罪を赦されんために読むべき書である、聖書は殊に罪人に取りて貴い書である、故に是れは我等が罪を犯したればとて、其の叱責する所とならんことを恐れて、閉ぢて筺底に葬るべき書ではない、我等が罪を犯し神より遠かるの虞れある故に、日毎に繙くべき書である。
〇聖書の貴さは神に自己の罪を鞫かるゝ時に判かる、我が目前に我がすべての罪を画かれ、免るゝに途なきに至つて、始めて其、世界唯一の書であることが分かる、我が罪を全能全智の神に鞫かるゝ時、聖書が示す隠場所を除いて他に身を隠すべき所はない、爾うして斯かる恐るべき裁判は我等各自の生涯に於て遅かれ早かれ必ず来る、爾うして其時聖書を知らない者は所謂る地獄の苛責に遭遇しなければならない、聖書は来るべき神の忿怒《いかり》より我等を庇護るが故に貴くある。
 
    第二夜 聖書の研究法
 
〇吾人の今日採るべき聖書の研究法は自由研究法でなくてはならない、今や宇宙万物がすべて此方法に由て研究されつゝある時に方て、聖書をのみ、神聖にして犯すべからざる者として自由攻究の範囲以外に置くことは出来ない、聖書は始めより神の書なりとの前提を置いて研究すべきものではない、是れ果して神の書である乎、是れ研究に由て定むべき問題である、自由研究の結果としてその神の書たることが判かるまでは、我等は満足しては(384)ならない。
〇爾うして斯かる研究は過去五六十年間泰西の大学者に由て続けられた、爾うして其研究の結果てして聖書が神に由て人類に与へられし唯一の書であることが、段々と明白になつて来た。
〇実に聖書は自由攻究に由て常に其光を放つ者である、第十六世紀に於ける欧州の宗教革命なる者は全く其時代の聖書研究の結果として始つた者である、希臘羅馬古代文学の復興が導火線となり、聖書の自由攻究が行はれ、其結果として比較的に純粋なる福音が欧州人の中に復興し、終にかの驚天動地の大運動が起つたのである。
〇宗教的大革命は常に経済的大発展に伴ふて来る、十六世紀の宗教大革命はバスコ・デ・ガマの東洋航路発見、コロムブスの新大陸発見に続いて起つた、若しかの時代に此精神的大革命が起らなかつたならば人類は全く経済的動物と化して了つたであらふ、然かしコロムブスを起し給ふた神は同時にメランクソン、ルーテルを起し給ふた、神は人類を愛し給ふ、故に彼は其子供が一方にのみ発展するを許し給はない、新大陸を加へ給ひし神は同時に新福音を授け給ふた、第十六世紀に於て爾うであつて、第二十世紀に於ても爾うでなくてはならない。
〇今は実に経済発展の時代である、我国に於てのみならず、世界各国に於て爾うである、人類は今は其肉体の快楽を増すために全力を注ぎつゝある、今や精神問題は経済問題に圧せられて、文明とは経済的発展の一事に止まる乎のやうに思はれるに至つた、然かし此の状況は永く続くべきではない、神若し神であり、人若し人であるならば、此経済的大発展に精神的大革命が伴ふべきである、余は過去の歴史に省みて、又神の特性に鑑みて此事のあるべきを信じて疑はない。
〇爾うしで此精神的大革命は聖書の新研究を以て世に臨むべきものである、過去に於ても爾うであつた、今に於(385)ても爾うでなくてはならない。キリストの福音が其純粋なる形に於て世に供せられる時に精神的大革命が始まるのである、爾うして過去六十年間に渉る聖書の自由攻究が来るべき此大革命の準備であつたらふと思ふ、近世の大戦争は米西戦争、南阿戦争、日露戦争に止まらない、俗人の知らない所に、聖書の研究の上に幾回の大戦争が闘はれた、其劇戦の状は旅順口攻撃のそれにも劣らない、知る者は知るであらふ、過去半百年間聖書は実に論戦の修羅の街であつたことを。
〇聖書学上の論戦今や酣ならんとするに方て大発見は独逸国より報ぜられつゝある、其ハイデルブルグ大学の若き教授ダイスマン氏は埃及の砂漠の中に保存せられし古代の屑紙の中より聖書研究に関はる最良の材料を発見し、是に由て新約聖書は其創成時代の意味に於て新たに読まれつゝあるとのことである、世界の富は金鉱の発掘、新領土の開発を以て増大しつゝある間に、神は埃及の砂漠の中に隠されし屑紙を以て精神的大革命を人類の中に起しつゝあり給ふやうに見える、幸福なるは独逸国である、前後二回の精神的大革命を世界に供するの名誉は彼国に授けられしやうに見える。
〇我等が茲に注意すべき一つの事がある、夫れは大人物の顕はれんことを待ち望むの誤謬である、神の事業は大人物を以ては始まらない、ルーテル其人が世に所謂る大人物ではなかつた、彼は聖書に由て大人物となつたのである、聖書を能く識ることに由て我等何人も大人物となることが出来る、何にも大人物の特に我等の中に生れ来らんことを待ち望むに及ばない、ツマラない人物を大人物となすのが単純なる福音の特性である、聖書は我等各自の手の中にあるではない乎、何を苦んで大人物の顕出を絶叫するのである乎、我等各自は此書を読んで自から大人物となるべきである。
(386)〇我等は直に聖書に就て神の福音に接すべきである、外国宣教師等に就て其末流を汲むべきではない、誰か淀川の清流を汲まんとするに方て之を大阪安治川口の濁流に於て為す者あらんや、宜しく琵琶湖畔に溯り、比良の高根より積雪滴りて渓流となり、湖面に注ぐ所に於て為すべきにあらずや、神の言葉は直に之を聖書に於て汲むべきである、自由攻究を以て之を究むべきである、而して永遠流れて尽きざる泉に於て活ける生命の水を飲むべきである。
 
    第三夜 余は如何にして基督信徒となりし乎
 
〇是れは余が曾て余の信仰の経歴を外国人に示さんとて余の拙き英文を以て綴りし小著述の題号である、此書世に出てより英米宣教師の多くの笑ひを買ひ、横浜在留の英国宣教師某の如きは其英文の奇異なるを示さんがために戯れに其数十部を購ひて之を其本国の友人に送りしとのことである、其、米国に於て出版さるゝや、三四年を経て漸く五百部を売尽くすを得しのみ、又英国に於てはロンドンに於ても、エヂンバラに於ても一軒の書店の其出版を引受けんとする者がなかつた、余は英文を以て此書を書いて英米両国人の嘲笑を買ふに過ぎなかつた、彼等は唯余の英文を笑つた、爾うして余の精神の在る所には少しも眼を留めなかつた、唯一「紐育ネーシヨン」なる一文学雑誌が之に多大の同情を表し、之を宗教以外に価値ある書として其読者に紹介して呉れたのを記憶する。
〇然るに此小著述が独逸人の目に触れてより大に欧洲人の歓迎する所となつた、其独逸訳は英書独訳を以て名を知られたるチユービンゲン市のエーレル嬢の筆に成つた、爾うしてスツットガート市に於て出版さるゝや、独逸、(387)墺地理、瑞西等、独逸語の行渡る所に於て読まれた、数多き同情の手紙は余の手に達した、余は思はずも、欧洲大陸に於て多くの善き信仰の友を得た。
〇此小著述は独逸より露西亜に渡つた、而かも日露戦争最中、露国の基督教徒と余との間に親しき信仰の手紙が交換されたといふ次第である、終に此書は露領芬蘭土にまで行渉つた、爾うして其処にソルタバラ市高等師範学校教授スオマライネン氏の筆に由て芬蘭土語に翻訳された、爾う斯うする中に瑞典語の翻訳が出た、爾うして今や又丁瑪訳が出でつゝある、独逸に於てはベルネツケ博士の批評を辱ふした、ベテツクス教授の愛読の栄を得た、余は余の精神的友人を英米人の中に得る能はずして、之を欧洲人の中に得た、而かも墺地利に於ての如きは其天主教信者の中に得た、是れ実に奇異なる現象である。
〇然かし是れ決して怪むべき現象ではないと思ふ、我等日本人と全く霊性を異にしたる国民は英米両国民である、殊に米国人である、日本人は政治的には英米人の友であらふ、然かし宗教的には決して彼等の親友ではない、英米人、殊に米人には piety 即ち敬虔の念なる者は殆んどない、宗教は違ふと雖も、米国の宗教家には我国の法然や親鸞などの深き濃かなる宗教的感情は到底解かるまいと思ふ。
       *     *     *     *
〇余は如何にして基督信徒となりし乎、然かり、余は洗礼を受けて基督信徒とはならない、洗礼は余を基督信徒となすの力を有たない、余は教会に加はつて基督信徒とはならない、其聖餐式、堅信礼は余を基督信徒と成すことは出来ない、余は又大家に接して基督信徒とはならない、大著述を読んで基督信徒とはならない、余の基督信徒と成つたのは人や教会に由つてではない。
(388)〇然らば人は言ふであらふ、汝の基督信徒たるの証拠は何処にある乎と、其時余は加拉太書第六章十七節のパウロの言を以て答ふるのみである、
  今より後、誰も我を擾《わづらは》はす勿れ、そは我れ身にイエスの印記《しるし》を佩びたれば也
 「印記」とは烙印《やきいん》である、奴隷の持主が其所有の奴隷に捺す烙印である、爾うしてパウロは身にイエスの烙印を佩びて居つたとのことである、即ちイエスのために受けた迫害の傷痕を佩びて居つたとの事である、或ひは之を身に佩びて居つたであらふ、或ひは又之を心に佩びて居つたであらふ、何れにしても彼れパウロはイエスを信ぜしに由て蒙りし多くの痛き経験の痕跡を佩びて居つたに相違ない、爾うして彼は是等の傷痕を人に示して云ふた、「是れが我が基督信徒たるの証拠である」と。
〇余の如き数ふるに足らぬ者と雖も亦仝じである、余と雖もイエスの印記を身に佩びずして基督信徒なりと称する事は出来ない、勿論明治の照代に生れし余は幸にして余の肉体に傷を負はせられなかつた、然かし余と雖も余の心には尠からざる痛き傷の痕を佩びて居らないではない、イエスのために国人、親戚、教会より受けし誤解、其ために流せし熱き涙の痕、心《しん》の臓を斫らるゝまでに苦みし痛みの跡、余とても亦斯かる烙印を余の心に佩びて居らないではない、爾うして是等の傷痕が、是れが余の基督信徒たるの証拠である、余は是を証拠にキリストの台前に立たんと欲する者である、余は其処に監督、牧師、宣教師等の証明を要しない、余がイエスのために受けし苦痛の跡、是れが余がイエスの弟子であり、其奴僕であるの証拠である。
〇世には「イエスの印記を佩び」ない所謂る基督信者がある、彼等は洗礼を受け、教会に列し、聖餐の式に与かる、故に正統の基督信者であるといふ、然れども彼等は未だ曾て一回もキリストのために彼等の社会に於ける地(389)位を犠牲に供せしことなく、キリストのために金銭上の大損失を招きしことなく、キリストのために世に憎まれしことなく、キリストのために偽善者、不信者として教会より逐はれし事はない、彼等は水の洗礼を受けたりと云ふより外に基督信徒たるの証明を有たない、彼等は実に憐むべき信者である、当てにならぬ信者である、籍を正統教会に置くも、欺き、偽はり、他人に多くの迷惑を掛くることを敢てする信者である、嗚呼、主キリストは彼等に向つて言ひ給ふであらう、汝等が我がために受けし迫害の印証を示せよ、然らざれば我は汝等が千百度び水の洗礼を受けたりとするも汝等の基督信徒たるを認めざるべしと。
 
(390)     進まんのみ
                     明治39年12月10日
                     『聖書之研究』82号「講演」
                     署名なし
 
 進まんのみ、進まんのみ、褒めらるゝも褒められざるが如くに進まんのみ、譏らるゝも譏られざるが如くに進まんのみ、唯一筋に神を目的に進まんのみ、人は無き者と思ふて進まんのみ。
 
(391)     笑ひ草
                     明治39年12月10日
                     『聖書之研究』82号「寄書」
                     署名なし
 
 当所に九歳の小児あり、近頃小学校にて少しづゝ漢字を習ひ得て大得意なり、聖書研究社の社の字を「ヤシロ」と訓み、セイショケンキウヤシロと称す、我等大人之を聞て大に感ずる所あり、日く「神社たれ、商社たる勿れ、永久に聖書研究ヤシロたれ」と。
 
(392)     関西紀行
                     明治39年12月10日
                     『聖書之研究』82号「雑録」
                     署名 内村生
 
〇妙義山上の祈祷を以て今年の秋の伝道は終りしと思ひしに、秋は未だ全く暮れざるにイヤな関西へ行かねばならぬ運命となつた。
〇イヤと言ては済まない、関西には余の恩人も友人も親戚も居る、関西は日本の半分である、其大切なる半分である、然り、或る意味から言へば其中心である、関西を賤む者は日本国を賤む者である、余の関西嫌ひは癖《へき》である、而かも許すべからざる癖である。
〇三年前より大坂に来れとの懇切なる招きを受けた、而かも今日まで往く気にならなかつた、越後とか信州とか云へば直に立つ足が大坂へと云へばドウしても立たなかつた、余は関西に与ふべき時と力とを常に東北に与へ来つた。
〇然るに今年は不幸にも関西の一友人なる今井樟大郎君を失つた、余は君の永眠の報に接して余が今日まで関西を怠りしを悔ひた、余は君に報ゆる為めだけにも一度は関西に行かなければならないと思つた。
○此時に方て余は大坂の友人の乗ずる所となつた、彼等は今度は今井夫人と教会の執事某君とを余の許に送て余の西下を促した、是等の貴き使者を送られて余はイヤとは言はれなかつた、余は終に大坂に行くに決した。
(393)〇十一月十三日、雑誌の発送を終つて後に余は西へ向つて発足した、乗慣れぬ東海道の汽車に乗り、久振りにて函根山を越え、静岡、名古屋の友人を不本意ながらも素通りにし、十四日払暁に京都に着いた、茲に義母の出迎ひを受け、八年振りにて京都の縁戚の家に入つた、積りし談話は尽くる時なく、『研究誌』を発刊してより始めての会見であれば、戦況の報告に日も又足らなかつた、午後余の京都在留中の恩人便利堂主人を訪ふた、彼は驚いたらしい、彼は余は已に彼を忘れたと思ふて居つたらしい、然かし余は彼を忘れる事は出来ない、余も不遇の時に京都に於て思はぬ友人に援けられし点に於ては木戸菊松、山県狂介に異らない、京都に義侠燐愍の人は居る、便利堂主人の如きは確かに其一人である。
〇十五日、便利堂主人と二人連れ立ちて嵐山に遊ぶ、汽車にて丹波亀岡に至り、これより舟を雇ひて保津川の急流を下る、激湍岩を突き、青山に迎へられ、又送られ、楓樹の錦は深淵の鏡に映り、口にも筆にも尽されぬ風景であつた、二人舟板の上に直立し、賞言讃辞を続けながら川を下つた、午後二時嵐山に至り舟を下り、紅葉を賞しながら昼飯を共にし、微雨を冒して京に帰つた、終生忘るべからざる一日。夜在京都『研究』読者十余名の来訪を受け、快談十時に至て分かる。
〇十六日、朝京都の縁家を辞し、正午大坂に到る、停車場にて友人諸氏の歓迎を受く、中に天満教会牧師長田時行君あり、君は余の札幌時代よりの教友なり、二十有五年一日の如く忠実に教職を続けらる、今計らずも君と共働するの機会を与へらる、感謝に堪えず、一同車を馳せて安堂寺橋通りの今井君の家に至る、至れば香料の香気は鼻を突けり、然れども香はしき主人は今は此世の人にあらず、「嗚呼若し君にして在し給はゞ」と余は叫びぬ、「実に然らん」と主婦は涙を以て答へぬ、一同昼飯を共にし夕刻を期して分れぬ。
(394) 午後七時を以て北区樽屋橋通り天満教会堂に於て講演第一回を開きぬ、来り会する者四五百名、会を開く半時間程前、二階の洋燈落ちて将さに大事に至らんとせり、而かも来会者の努力に由りて事なきを得たり、嗚呼、神に感謝す、大坂市の歴史に「内村火事」の名を留むるに至らざりしことを、講演は煙となりて消えんとせり、而かも発火は霊火の前兆なりしのみ、講演の要点は講演欄に掲ぐ、之に就て読まれたし。
〇十七日、午前教友三名と共に大坂築港を見る、実に偉観なり、物質的事業も茲に至て偉大の名称を附せざるを得ず、安治川口を溯り、船檣林立の壮観を見、途に或る病める姉妹を大阪病院に見舞ひ、会堂に至り、有志の質問を受け、暫時休息の上再たび高壇に上り、五百乃至六百の聴衆に対して「聖書の研究法」に就て一時間と半時ばかり語り、十時疲労を極めて今井氏の家に帰りて眠る。
〇十八日、朝より多くの来客に接し、午後故今井樟太郎君の墓に詣づ、墓前に希望の祈擣を捧げ、讃美の歌を唱ふ、後、一人の兄弟と共に教友婦人某の家を訪ふ、後にて余を伴ひし兄弟は云へり、主キリストがベタニヤに於てマルタとマリヤの歓迎を受け給ひしも多分之には勝さらざりしならんと、以て余等の受けし優遇款待の状は察せらるべし、後、前日と同じく質問会に臨み、馬太伝一章一節より十六節までのキリストの系図に就て語る所あり、午後七時よりは堂に充満せる聴衆に対し「余は如何にして基督信徒となりし乎」に就て語れり、是れ余の択みし題にあらず、牧師長田君が余に与へし題なり、講演終る頃に感極まりけん拍手盛に聴衆の間に起る、説教は演説と化せり、而かも俗化せしにはあらざりしと信ず、余が講演を終りて壇上の席に就くや、紀州橋本より態々来聴せられし余の尊敬する教友の一人、監督教会の教師卜部徳太郎君は年長者の資格を以て聴衆に代り三夜に渉りし余の拙き講演に対し厚き礼辞を述べられたり、君は言ひ給へり
(395) 余は今回の講演に由り余の感情に於てにあらず、余の意識に訴へて云々
と、「意識に訴へて云々」の君の言は甚く余の感を動せり、そは余は今回の講演に於て余の目的の幾分を達するを得しを君の言に由て知りたれば也、大坂人士の感情を動かさんことは余の此行の目的にあらざりし、余は彼等の意識に訴へんとせり、そは感情の霜の如くにして解け易き者、意識は岩の如くにして永久存つ者なれば也、真正の宗教的運動は人の意識に訴ふる者ならざるべからず、余は卜部君に此言を呈せられて心に非常の満足を感じたり。
 茲に多くの祈擣を以て準備されし連夜の講演は終りを告げ、身は疲労を以て砕かれしも心は感謝を以て充たされ、歓喜満々の中に会堂を辞し、這般の運動に多大の労を取られし教会の執事青木庄蔵君の家に到り、全家族の優待を受けたり。
〇十九日、午前九時四十五分多くの友人に送られて大坂を発す、京都に立寄り、更らに一夜を此処に過ごし、二十日帰途に就く、浜松に下車し、天竜川駅より来りし教友二人と談じ、夜、汽車に乗じ、二十一日、朝暾品川海に昇りし頃、身は蝉の抜殻の如くになりしも、心に多くの感謝を湛えて角筈の家に帰れり。
 
(396)     課題〔8「提摩太前書六章六節より十一節まで」〕
                     明治39年12月10日
                     『聖書之研究』82号「雑録」
                     署名なし
 
    提摩太前書第六章六節−十一節まで
     足ることを知るの幸福 金銭を愛するの苦痛
  六、神を敬ひて足ることを知るは大なる利なり。
 神を敬ひて利を得んと欲ふ人あり(前節)、即ち信仰を営利的に使用せんとする人あり、是れ勿論大なる誤謬なり、然れども茲に信仰を実利的に使用する途あり、即ち信仰に加ふるに知足を以てすること是れなり、真に神を敬ひ、外に慾を節して我等は幸福の生涯を送るを得るなり 〇「神を敬ひ」 「神を崇む」とか、又は「神を信ずる」とか云ふに同じ、心に神を認めて豊かに其霊の恩恵に与かるを云ふ、邦語に「敬神」といふよりも意味遙かに深し 〇「足ることを知る」 原文にありては一語なり、「知足」の熟辞を以て之に当つるに若かず 〇「利なり」 利得の途なり、俗語の「儲け」なり、信仰に加ふるに知足を以てするは大儲なりと。
 
  七、我等何をも携へて世に来らず、亦何をも携へて往くこと能はざるは明かなり。
(397) 約百記一章廿一節を見るべし、人は元来無一物の者なり、裸体にて生れ裸体にて去る者なりと、原文に循ひ、左の如く改訳すべし
  そは我等何物をも携へて世に来らざればなり、亦何物をも携へて往くこと能はざれば也
 「明かなり」の字を脱すべし、知足の理由を二段に分けて述べし言なり。
 
  八、それ衣食あらば之を以て足れりとすべし。
 「衣食」 原文にありては二字なり、「食ふべき物と蔽ふべき物」となり、蔽ふべき物とは衣類に限らず、家屋をも含む、衣と家との意なるべし、食ふに食あり、被るに衣あり、住むに家あらば、之を以て足れりとすべしとの意なるが如し、余輩は左の如く改訳す、
  然れど食ふべき物と蔽ふべき物とありて、我等は之を以て満足すべし。
 「然れど」は不足の心に対して云ふ、我等は強慾※[厭/食]かざるの世人の生涯を追はざるべし、然れど(之に反して)我等は少きを以て足れりとする生涯を送るべしと。
 
  九、富まんことを欲する者は患難と罟《わな》、又人を滅亡と沈淪に溺らす所の愚にして害ある万殊《さまざま》の慾に陥るなり。「富まん事を欲する者」 富貴を追求する者、致富を存在の主眼とする者 〇「患難と罟」 試誘と悪(馬太伝六章十三節)、悪魔の試誘と其設くる罟 〇「万殊の慾」 恐るべき慾、人を永遠の滅亡と沈淪に溺らしむる慾、肉体の快楽を得んがために霊魂の智覚を失はしむる慾、是れまことに不道理(愚)にして恐るべき害ある慾なり、(398)而かも富を追求する者は此種の慾に陥る者なり、左の如く改訳すれば意味更らに明瞭となるべし、
  富まんことを欲する者は試誘と罟とに陥るなり、愚にして害ある種々の慾に陥るなり、是れ人を滅亡と沈淪に溺らす者なり。
 
  十、財を慕ふは諸の悪事の根なり、或人之を慕ひ迷ひて信仰の道を離れ、多くの苦害《くるしみ》を以て自から己を刺せり。
 「財を慕ふは」 原語其儘に「金を愛するは」と訳するを宜とす 〇「諸の悪事の根なり」 実に然かり、悪事と称する悪事はすべて金を愛するより来るなり、吾人は西洋の宗教家に傚ひ、富者を怒らせんことを恐れて、聖書の此言を軟く解するの要なきなり、金銭を愛することは実に誠にすべての悪事の根なり、欧米諸国の教会までが今日の如くに腐敗するに至りしは全く其信者が神を愛せずしで金銭を愛するが故なり、米国人は云ふ「万能なる弗」と、彼等の神は実に「弗」たるなり 〇「迷ひて信仰の道を離れ」 信仰の道より迷出で、金銀を愛せしが故に信仰より迷ひ出でし基督信者は外国に於ても我国に於ても挙げて算ふべからず 〇「自から己を刺せり」 自から多くの苦痛を己が身に招きたり、己と自から己が身を刺せり、精神的に自殺せり、斯かる者の一たび神を信ぜし者の中に多きは余輩の指摘を待たずして明かなり。
  金銭を愛するはすべての悪事の根なり、或人之を慕ひて信仰の道より迷ひ出で、多くの苦痛を以て自から己を刺せり。
(400)神より吾人に賜はるべきものなり、吾人より進んで取るべきものにあらず。
 人、或ひは言はん、聖書の此教訓にして若し真理なりとすれば今日の経済組織は根本的に破壊せんと、然り、其通りなり、聖書は今日の経済組織を神の聖旨に合ふものとして認めざるなり、聖書は今の世を罪悪の世として認むるなり、滅亡と沈淪に定められし世として認むるなり、所謂る「生存競争」なるものは神の命じ給ひし生存の途にあらざるなり、信仰を以て静に神の恩恵を楽むことなり、是れ神の聖旨に合ふ生涯なり、而して斯かる生涯は決して有り得べからざる生涯にはあらざるなり、之を試みし個人あり、又之を試みし国家なきに非ず、而して之を試みし者は皆な曰ふ 「之に勝さりて幸福なる生涯あるなし」と、今日の経済組織を以て完全に最も近きものと見做す者の如きは未だ「神の人」たるの幸福と快楽とを夢想だも為したることなき者なり。
       *     *     *     *
 神の人たれよ、罪の人よ、金銭と名誉とを慕ふを歇めて、正義と、神と、信仰と、愛と、忍耐と、柔和とを慕ふ者となれよ、然らばなくてならぬだけの食物と衣服と家屋と金銭とは汝に与へられて、汝は義と神とを愛しながら来世のみならず現世をも楽しむを得べし。
       ――――――――――
次号課題
  使徒パウロの最後
(401)   提摩太後書四章六、七、八節
原稿〆切十二月三十一日
 
(402)     簡単なる結婚式
        (某教友の問ひに答へて)
                     明治39年12月10日
                     『聖書之研究』82号「雑録」
                     署名 内村生
 
 先づ司会者を設くべし。
 新夫婦たらんとする者に予かじめ自筆を以て、簡単にして厳粛なる相互に対する誓約文を認めしむべし。
 司会者は列席者一同に向ひ哥林多前書七章三、四節。哥羅西書三章十八、十九節。彼得前書三章一−七節を読むべし(共に内村生編『家庭の聖書』に有り)。
 司会者は然る後に祈祷を捧ぐべし。
 新夫婦をして前述の誓約文を読ましむべし。
 新夫婦に向ひ勧告を述ぶべし。
 新夫婦の上に祝福を祈るべし。
 之に讃美歌を加ふるも可なり。
 
(403)     クリスマスの大贈物
                     明治39年12月10日
                     『聖書之研究』82号「雑録」
                     署名 内村生
 
 余は近年に至り、クリスマス毎に神より大なる贈物を賜はるを常とす、咋年は小著『余は如何にして基督信徒となりし乎』の芬蘭土語訳を賜はりて多大の感謝を以て聖夜節を迎へしが、今年は又同じ書の丁瑪語訳を賜はりて讃美の声を揚げんとす、印刷已に成り今や読者の手に渡らんとしつゝありと其訳者なる丁瑪国コリング市マリア・ウルフ嬢より通知ありたり、茲に於てか余は丁瑪国のみならず、那威国に於て、アイスランド島に於て又多くの教友を与へられんとす。
 想へば曾て窮乏、孤独と戦ひつゝ京都に在りて綴りし此小著述、誰か知らん十有三年後の今日、余に此多大の慰藉と名誉(聖なる)とを持来さんとは、是れ国威を宣揚するの書にあらず、之に文の賞すべきあるなし、唯、一個信者の普通の実験を語りしに過ぎず、然かも神の導く所となりて今や北欧諸邦に其行渡るを見るに至れり、驚くべきかな摂理、余は近頃、京都に至り、余が之を草せし小屋の前を過ぎ、感に撃たれて頭を擡ぐる能はざりき。
 神よ、更らに此小なる著述を恵み給へ、ユツトラント半島の牧場にホルスタイン種の牝牛が搾乳婦に乳を与へつゝある所に、或ひは北氷洋の浜に数日に渉り太陽が其面を表はさゞる所に、又或ひはアイスランドの孤島、へ(404)クヲ火山の麓、噴泉煙霧を吹いて数丈の高きに達する所に、我が同信の友が之を繙く時に、神よ、此小著述を恵み給へ、而して我等日本人も、独逸人も、露西亜人も、墺太利人も、瑞西人も、芬蘭土人も、瑞典人も、丁瑪人も、那威人も、アイスランド人も皆な主イエスに在りて一つとなり、声を合はして救ひの神を讃美するに至らしめ給へ。
〔画像略〕デンマーク語版『余は如何にして基督信徒となりし乎』初版表紙184×125mm
 
(405)     歳末の辞
                     明治39年12月10日
                     『聖書之研究』82号「雑録」
                     署名 編輯生
 
〇此年も全く無益の年ではなかつた、何にか少しは善きことを為したらふと思ふ、少しは神の福音を人に伝へることが出来、少しは人をキリストに導く事が出来たらうと思ふ。
〇此年も又多く悪魔と戦つた、悪魔は余輩が恩恵に進むと同時に益々其威を逞うする、来年の悪魔は今年のそれよりも強いに相違ない、然かし余輩は又之にも勝ち得て余りある事を確信する。
〇今年も又二三の善き友人を失つた、然かし神はイツまでも在し給ふ、彼に在りて友は去りしにあらず、尚ほ余輩と共に在る、彼等は余輩に在りて働きつゝある、彼等の高誼は余輩を動かし、彼等の紀念は余輩を清めつゝある、彼等は自己の肉を離れて余輩の霊に宿つた、余輩は彼等を失つたのではない、更らに確実に彼等を得たのである。
〇詩人ホヰツトマン曰く、
  The earth good and the stars good,and their adjuncts all good,
  地善なり、星善なり、而して其附属物皆な善なり
と、余輩は余輩の今年の事に就て又爾か言はんと欲す。
 
(409)     〔同一の福音 他〕
                     明治40年1月10日
                     『聖書之研究』83号「所感」
                     署名なし
 
    同一の福音
 
 年は改まれり、然れども我が福音は改まらざるなり、我が福音は十字架の福音なり 罪の贖ひの福音なり、肉体復活の福音なり、我は今年も明年も明後年も、然り、我が世に在らん限り、同じ此福音を唱へんと欲す。
 
    我が信仰の途
 
 キリストは我を義とする者にあらず、我が義なり、我が義なるが故に真に我を義とする者なり、キリストは我を救ふ者にあらず、我が救ひなり、我が救ひなるが故に竟に我を救ふ者なり、キリストは我に代りて我が為すべき事を悉く為し給へり、我は信仰を以て彼を我が有となせば足る、信仰の途は是なり、完全に達する途は是れなり、是れ以外に我に安心立命の途あるなし。
 
(410)    幸福なる生涯
 
 神の命維れ従ひ、神に導かれ、神に養はる、我に計画あるなし、循て責任あるなし、餓死の恐怖あるなし、諂媚阿従の要あるなし、日々に働き、日々に喜び、日々に遠大の希望を懐く、斯くて存在は感謝の連続たり、人生にして若し斯かる者ならんには我は七度び此世に送らるゝも憾まず。
 
    助けの石
 
 ヱホバ是れまで我を助け給へり、我が今日あるを得しはヱホパに由りてなり、我はヱホバを棄去らんとせり、然れど彼は我を去らしめ給はざりし、我は此世の者とならんとせり、然れどヱホパは我が希望を挫き給ひて強ひて我を彼の聖国《みくに》に索《ひき》つけ給へり、ヱホバは其|笞《しもと》、其杖を以て我を導き、我を今日緑の野に臥させ、休憩《いこひ》の水辺《みぎは》に伴ひ給へり、我が過去は嶮しかりき、然れど嶮しかりしは我がために善かりき、我も亦鞭たれて癒されたり、愚かなる羊の如くに杖もて主の牧場に追込まれたり、我も亦新年の首途に於てサムエルの如くに一つの石を立て、之をエベネゼル(助けの石)と称ばんかな。撒母耳前書七章十二節。
 
    初夢
 
 恩恵の露、富士山頂に降り、滴りて其麓を霑《うるほ》し、溢れて東西の二流となり、其西なる者は海を渡り、長白山を洗ひ、崑崙山を浸し、天山、ヒマラヤの麓に灌漑《みづそゝ》ぎ、ユダの荒野に到りて尽きぬ、其東なる者は大洋を横断し、(411)ロツキーの麓に金像崇拝の火を滅し、ミシシピ、ハドソンの岸に神の聖殿を潔め、大西洋の水に合して消えぬ、アルプスの嶺は之を見て曙の星と共に声を放ちて謡ひ、サハラの沙漠は喜びて蕃紅《さふらん》の花の如くに咲き、斯くて水の大洋を覆ふが如くヱホパを知るの智識全地に充ち、此世の王国は化してキリストの王国となれり、我れ睡眠より覚め独り大声に呼はりて日く、アーメン、然かあれ、聖旨《みこゝろ》の天に成る如く地にも成らせ給へと。
 
    福音の進歩
 
 猶太国に芽を萌せしキリストの福音は猶太国の滅亡と共に亡びず、羅馬に生長して羅馬の衰亡と共に衰へず、米国に繁茂して米国の堕落と共に堕ちず、今此日本に移植せられて新たに其発展を続けんとす、是れ日本国が他の諸国に優れて善且つ良なるが故にあらず、その神の田園に招れしや遅くして、他人の労したる果を受けたれば也、吾人は謙遜以て吾人の任を全うし、吾人が受けし賜物を完全に更らに近き者となして、之を吾人の後進者に譲るべきなり。
 
    教会建設の難易
 
 教会を作ること何ぞ易き、教会を作ること何ぞ難き、木と煉瓦との教会を作ること何ぞ易き、人と霊魂との教会を作ること何ぞ難き、余輩無資の者、前者は能く之を作り得ざるべし、然れども神の聖霊の援助を得て、小なりと雖も後者の一を作らんと欲す。
 
(412)    天国の自設
 
 人に愛せられんと欲する莫れ、唯愛せよ、嫌はるゝより愛せよ、憎まるゝも愛せよ、十字架の上よりも愛せよ、愛するは愛せらるゝよりも幸福なり、我等は愛せられんと欲するも愛せられず、然れども愛するは我等の自由なり、我等は進んですべての人を愛し、自から己のために天国を作るべきなり。
 
    単独の歓喜
 
 独り足りて独り喜び、独り喜びて到る処に歓喜の香を放つ、星の如く、花の如く、識認を要せず、奨励を要せず、独り輝いて独り香はし、詩人ホイットマン曰く
  我は我が有る儘に存在す、夫れにて足る、
  若し世に何人の我を認むるなきも我は満足して独り座す、
  若し衆人と各人とが我を認むるとも我は満足して独り座す、
と、而してキリストに在りて我も亦斯く有り得るを感謝す。
 
    世界最大の旧教国
 
 今や世界最大の旧教国は北米合衆国なり、旧教の精神は行《おこなひ》にあり、米国の精神は事業にあり、而して事業は行の別名たるのみ、而して事業を崇拝する米国人は名は新教徒たるも実は極端の旧教徒たり、余輩はルーテルが羅(413)馬天主教に叛きし心を以て米国人の宗教に反対する者なり。
 
    第二の宗教改革
 
 第二の宗教改革は第一の宗教改革に同じ、即ち行に対する信仰の勃興なり、第一の場合に於ては行は伊太利国に由て代表されたり、第二の場合に於ては米国に由て代表さる、第一の場合に於ては改革の任は独逸に下れり、第二の場合に於てはその我日本に委ねられんことを希ふ、我等は手にパウロの書翰を握るに非ずや、我等は之を以て弱き賤き事業の小学を打破すべきなり。加拉太書四章九節。
 
(414)     平々凡々の理
                     明治40年1月10日
                     『聖書之研究』83号「所感」
                     署名 角筈生
 
〇神を多く語る勿れ、神を多く感ぜよ、而して平々凡々の事を語り、平々凡々の事を為せよ、然らば平々の中に神は在して、人は彼を認むるに至らん。
〇手を以てする伝道は筆を以てする伝道に勝さる、筆を以てする伝道は口を以てする伝道に勝さる、最も悪しき伝道は口を以てする伝道なり、真理は声と共に虚空に失せ易し、語りし者は之れが為めに空しく、聴きし者之れが為めに充たさるゝこと尠し、最も書き伝道は手より手へと伝へらるゝ伝道なり。
〇愛せよ、然らば愛せらるべし、与へよ、然らば与へらるべし、恵まれんとのみ欲する者は永久に恵まれざる者なり、神の造り給ひし此宇宙は素と是れ己が儘に成る宇宙なり、「儘ならぬ世」なりと言ひて歎く勿れ、キリストの心を以て人を愛して自から世界の王となれよ。
〇幸福に就て語る勿れ、幸福は汝の手中に在り、幸福は労働に在り、微《すこ》しなりと宇宙を完全にせよ、微しなりと人の心より苦痛を除けよ、然らば幸福なるべし、苦痛とは働かぬ事なり、座して人生に就て黙考することなり、起て神と偕に働けよ、然らば労働の神は汝に光明と慰藉とを供し給はん、「労働是れ幸福」なりとの単純の真理を忘るゝ勿れ。
(415)〇宗教も之を自己のために信ずる勿れ、祈祷も之を自己のため捧ぐる勿れ、我れ殊に勧む、万人のために※[龠+頁]告、祈祷、懇求、感謝せよとパウロは言へり(提摩太前書二章一節)、利己心は之を信仰界にも許すべからず、その生命を惜む者は之を喪ひとのキリストの言は霊的生命に於ても亦爾かり、我等の懐く信仰は万人のための信仰ならざるべからず。
〇我を苦むる者は我れ彼を愛せざるに我を愛する者なり、我は斯の如き人を畏れ且つ敬ふ、其如く、我れ若し人を苦めんと欲せば彼の怨に報ゆるに恩を以てし、憎《にくみ》に報ゆるに愛を以てするに若かず、彼れ或ひは彼の苦痛に堪えずして終に我に降服するに至るやも未だ以て知るべからず、之をなん熱炭を彼の首に積むと謂ふ乎。
〇我が友は我れ留めざるも我を去らず、我が友ならざる者は我れ彼の迹を逐ふも竟に我を去る、此に於て我は知る友は予め定められし者なる事を、人は友を作る能はず、又友を失ふ能はず、彼の友は彼と共に生れ、永久に彼と共に存す、是れ大なる慰藉なり。
〇人若し無力にして人類のために何事をも為し得ずんば、遇ふ人毎に対して微笑を呈せよ、微笑は大なる勢力なり、春の風の如し、心の堅氷を解くの力あり、到る処に微笑を散布して、少しく世の厳冬の寒を緩めよ。
〇信仰のみの人たる勿れ、信仰を有てる労働者たるべし、神を信ずる農夫、又は商人、又は職工、又は水夫たるべし、万々止むを得ざる場合にあらざれば信仰を説く人となる勿れ、世に危険にして不健全なる、今日の伝道師の職の如きはあらざるなり、信仰のみの人は労働のみの人の如く、同じく片端人間なり、我は聖書と信仰との外、何事をも語り得ざる人を諱むこと甚だし。
〇神はすべての途を以て我等を恵まんと欲し給ふ、心の衷よりは福音を以てし、眼よりは美観を以て、耳よりは(416)音楽を以て、鼻よりは香気を以て我等を恵まんと欲し給ふ、我等は恵の途は何れも之を塞ぐべからず、神をして衷よりも亦外よりも我等を恵ましめて、裕かに彼の恩恵に沐浴すべきなり。
〇我が机上に聖書あり、野花あり、造花あり、絵画あり、香水あり(以上勿論何れも高価のものに非ず)、我はすべて之を喜ぶ、我はすべて是等に由りて我が神を知る、而して夜毎に燈火を滅して暗所に隠れたるに在す彼を拝す、昼は神を見て、夜は彼を感ず、我が宗教は理性感情のみの宗教にあらざるなり。
 
(417)     イエスの系図中の婦人
         十一月十八日大阪天満教会質問会に於て
                     明治40年1月10日
                     『聖書之研究』83号「講演」
                     署名なし
 
 馬太伝第一章革に記されたるイエスの系図中四人の婦人の名が録されてある、即ちタマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻の夫れである、五十余人の男子の名が録されてあるのに、何故に唯四人の婦人の名が録されてある乎、何故に「メシヤの母」たるの栄誉に与かりし他の婦人の名は録されてない乎、何故にサラ、リベカ、レヤ等の名は除かれて、特に前記四人の名が録されてある乎、是れ注意すべき事実である。
 タマルとは誰ぞ、彼女はユダの正妻ではない、之を創世記第三十八章に就て見るに、タマルがユダに由りてパレズ、ザラの※[巒の山が子]《ふたご》を産みし談《はなし》は決して美はしき談ではない、※[女+息]《よめ》が娼妓《あそびめ》の装《なり》をなして舅を罪に誘ひたりとの事である、爾うして斯かる背倫の結果として生れたる者がイエスの祖先の一人なるパレズであるとのことである。
 ラハブとは誰ぞ、彼女はヱリコの邑の娼妓である(約書亜記二章参考)、彼女はイスラエル人をカナンの地に導きし功に由り、士師ヨシュヤの副官の一人サルモンの妻となりて、名をイスラエルの歴史に留むるに至つた者である、彼女は異邦カナンの産であつて、而かも娼婦である、賤しきが上にも賤しき者である、而かも彼女も亦「メシヤの母」の一人となるの栄誉に与かりしとの事である。
(418) ルツとは誰ぞ、是れも亦異邦モアブの婦人である、其貞節の故を以てイスラエル人ボアズの迎ふる所となり、ダビデ王の曾祖母となりて、「メシヤの母」の一人たるに至つた。
 爾うしてクリヤの妻とは誰ぞ、其名をバテセバといひ、ダビデ王の誘ふ所となり、王に由て子を設けしと同時に、災害を其夫の身上に及ぼさしめた者である、世に姦淫の歴史多しと雖も、ダビデがバテセバに由て犯せし姦淫罪の如く醜悪なるものはない(撒母耳後書十一章を見よ)、而かもイエスの祖先の中には斯かる姦夫姦婦もあつたとのことである、是れ又驚くべき事実である。
 タマルとラハブとルツとバテセバ、是等四人の婦人の名が殊更らに人類の救主イエスキリストの系図の中に記されてあるとの事である、嗚呼、是れイエスに取りては恥辱の歴史ではない乎、背倫者あり、娼婦あり、異教信者あり、.姦淫の婦人ありたりとの事である、而して馬太伝の著者はイエスの祖先中に他に多くの淑徳声名の婦人ありしを知りながら、悉く之を省いて、殊更らに是等の悪名の婦人の名を掲げたのである、大工の子イエスをキリストと称び做した馬太伝記者は又殊更らに是等四人の婦人の名を掲げて彼の大胆なる信仰を一層明白に表白した。
 然かり、斯かる悪名《あしききこえ》の婦人を其祖先の中に有つたるイエスは世の人の眼から見て卑賎下劣の者であらふ、然しながら我等罪を贖はれんためにイエスの許に来る者に取ては是れ又多大の慰藉を供する事実である、我等の中何人か、其祖先の歴史を調べ見て其中に恥辱の記録を認めざる者があらふ乎、我等各自の祖先の中にも放蕩児あり、淫婦あり、或ひは娼婦も妓婦もあつたであらふ、我等何人も決して血統的に清浄無垢の者ではない。我等の血液の中には多くの穢汚、多くの罪悪が混つて居る、我等各自は己れ一人の犯した罪のためにのみ苦しめられて居る(419)のではない、我等の父母、我等の祖父母、我等の曾祖父母、又其前々の祖先等が犯した罪をも亦身に負ふて居る者である、憐むべきは人の子である、彼等各自は善と悪との遺伝の蓄積所である、然かも善は少くして悪は多い、善は弱くして悪は強い、而かも情《つれ》なき世の人は、然かり、其基督信者と称する者までが、此人生明白の事実を認めずして、我等が犯せし罪は惟り我等自身が犯した罪であるやうに思ひ、我等を責め、我等を其教会より放逐し、我等を其牢獄に投じ、我等に悪名を着せて世の逐放人とならしむ、然れども万事を能く知り給ふ神は知り給ふ、我等の犯せし罪は我等のみの罪にあらざる事を、我等の先祖も亦我等に在りて多くの罪を犯しつゝある、我等も亦或る意味から云へば「世の罪を負ふ羔」である、他人の罪のために自から鞭たるゝ憐むべき者である。
 然しながら学者とパリサイの人に類する今の世の人々を見ずして、我等の救主イエスキリストを見奉る時に我等に大なる慰めがある、彼れも亦我等と均しく多くの悪しき汚れたる遺伝性を以て生れ給ふたる者である、婬婦、娼婦、其他マナセ王の如き、アモン王の如き「ヱホバの眼の前に悪を為したる」多くの悪人の遺伝性を以て生れ給ふたる者である、イエスは聖書の霊性に由れば明かに神の子であるが、然し肉体に由れば確かにダビデの裔《すえ》より生れたる者である(羅馬書一章三、四節)、爾うしてダビデの裔より生れ給ひし彼は罪悪と云ふ罪悪を悉く其身に負ひ給ふた、我等の救主イエスキリストは世の人が想ふが如き罪とは全く無関係の者ではない、彼はすべての事に於て我等の如く誘はれ給へり(希伯来書四章十五節)、彼は其身に於てタマル、ラハブ、ルツ、バテセバの罪を悉く感じ給ふた、然れども唯罪を犯さゞりしのみである(仝章仝節)、彼は能く罪の苦痛を知り給ふ、是故に能く我等の荏弱《よわき》を体恤《おもひや》り給ふ(仝章仝節)、我等の救主は身に一点の汚穢を留めずと称する此世の王子王孫の如き者にあらざるを知つて、我等は憐恤を受け、機に合ふ援助となる恩恵を受けんために憚らずして彼の恩寵の座に(420)来るべきである(仝章十六節)。
 イエスは其身に於て人類全体の罪を贖ひ給ふた、然しながらそれと仝時に又すべて彼の祖先の罪を贖ひ給ふた、彼を十字架に釘けた者は彼と同時代の者、又は彼より後に生れし者ばかりではない、彼は又其身に娼婦ラハブの罪をも、姦婦バテセバの罪をも、虐王アハズ、マネセ等の罪をも担ひて十字架に上り給ふた、イエスの系図は確かに彼の担ひ給ひし罪の目録である、馬太伝記者は之に由て、イエスの贖罪の事業の如何に広且つ大なるものである乎を示したのであると思ふ。
 イエスにして爾うであつたとすれば我等彼の弟子たる者も爾うでなくてはならない、我等は自身イエスに救はれると同時に又我等の身に於て我等の祖先のすべての罪を贖はなければならない、其迷信、其頑硬、其婬縦、其放肆、其妬忌、讒書、刻薄、毀謗の罪を悉く我等の身に於て贖はなければならない、我等は現代の人のため又は後世《のち》の人のために十字架に上るの覚悟を定むるのみならず、又過去の人のため、殊に我等各自の祖先のために罪祭の供物として献げらるゝの決心を為さなければならない。
 イエスの祖先の中に娼妓がありしと云ふ、然らば娼妓とてイエスに由て救はれない者ではない、イエスは娼妓に対して深き同情を懐き給ふ、洵に彼の最始の弟子にして最も誠実なる者の一人は「邑の中に悪行《あしき》を為せる婦」なりしと云ふ(路加伝七章卅七、卅八節)、マグダラのマリヤは娼妓なりしとは一般に信ぜらるゝ伝説である、イエスにありては婦人の娼妓たることは彼女を潔むるための碍害《さまたげ》とはならない、タマル、ラハブを其祖先の中に認め給ひしイエスは娼妓をも其弟子の中に加へ給ふて耻辱《はぢ》となし給はない。
 来れ娼婦よ、釆れ堕落婦人よ、来れすべての罪人よ、イエスに在りて神はすべての穢汚、すべての罪悪を潔め(421)給ふた、我等も亦彼に来りて我等の罪を潔めらるゝと同時に、又我等の祖先の罪をも悉く滅《け》すことが出来る、多くの婦人の中より殊更らに背倫、汚穢、異教、姦婬の婦人の名を掲げて其系図を示さしめ給ひしイエスはすべての堕落婦人、すべての罪人を己に招き給ふ者である。
 
(422)     イエスの三方面
         完全なる救主の性格 十一月廿六日角筈に於て
                     明治40年1月10日
                     『聖書之研究』83号「講演」
                     署名なし
 
  イエス彼に曰ひけるは、我は途なり、真理なり、生命なり(約翰伝第十四章六節)
 之はイエスの自己に関はる最も完全なる自顕である、彼は之に由て最も簡潔に彼の何たる乎を彼の弟子等に示し給ふた、イエスはまことに途である、真理である、生命である、是れであるが故に人類の完全なる教主である。途とは何である乎、処世の途である、所謂る道徳である、人に対し神に対し、人の取るべき道である、即ち実行の方法である、イエスは其躬に於て完全なる道徳の標準を示し給ふた、我等は国に対し、社会に対し、主権者に対し、父母に対し、兄弟に対し、朋友に対し、敵に対し、悪人に対し、如何なる途を取るべき乎、我等はイエスの行為に於て之を学ぶべきである、世に処するの途は困難しくある、然かしながらイエスは其躬に於て最も明白に之を我等に示し給ふた、パウロはコリント人に書贈つて曰ふた、我キリストに効ふ如く汝等我に効ふべしと(哥林多前書十一章一節)、我等はすべての事に於てキリストに効へば宜いのである、イエスの途は之を践むに難くはあるが曖昧ではない、窄《せま》くはあるが直《まつす》ぐである、之に十字架は伴ふなれども其到達点は天国である、イエスの生涯は人生の模範である、之に由るにあらざれば人は父の所に往くこと能はず。
(423) 然かしイエスは途であるばかりではない、実践道徳の模範であるばかりではない、彼は道徳であると仝時に又真理である、イエスは行為を以て効ふべき者であるばかりではない、彼は知識を以て攻究すべき者である、彼は万物が由て存《たも》つ所の基である(哥羅西書一章十七節)、智慧と知識の蓄積は一切キリストに蔵れある也(仝三章三節)、キリストはまことに智慧其ものである、永遠より、元始より、地の有らざりし前より立てられ、未だ海洋あらず、未だ大なる水の泉あらざりし時既に生れ給ひし者である(箴言八章)、キリストは聖書に従へば宇宙の原理である、故に彼は実行的に解得すべき者なるのみならず、亦思索的に探求すべき者である、彼は道徳の模範であるのみならず、亦哲学の題目である、彼は真理其ものである、哲学の終局点、万物の解釈である。
 道徳であつて真理であるイエスは同時に又生命である、殊に霊的生命である、人を其存在の根底に於て動かす者である、之に生命あり、此生命は人の光なり(約翰伝一章四節)と、イエス曰ひけるは我は復生なり生命なりと(仝十一章廿五節)、彼に由らずして人は霊的に死んだ者である、彼はまことに神より贈られし生命のパンである、彼に由るにあらざれば活きたる道徳もなければ又活きたる哲学もない、彼は特別に人を活かす者である。
 斯の如くにしてイエスは完全なる救主である、たゞに実践道徳の模範を示すに止まらず、人の道理に訴ふる者である、爾うして道徳を教へ道理に訴ふると同時に、又人の霊魂に生命を与ふる者である、イエスは孔子のやうな道徳家ではない、去りとて又プラトーのやうな哲学者ではない、彼は人類の救主であるが故に、道徳以外、哲学以外に活ける深き神の生命を供する者である。
 イエスは如斯き救主であれば、彼を完全に解せんと欲せば、彼の特性たる三方面より彼を見なければならない、三方面の一を欠いて我等の基督観は片端たらざるを得ない、完全なる基督観と健全なる信仰とはイエスを其三方(424)面より解得したる結果である。
 世には所謂る実行的基督信者なる者がある、彼等はたゞ単《ひたす》らにイエスを其行為に於て真似んとする、イエスの如く謙遜に、イエスの如く慈悲深く、イエスの如く勤勉ならんとする、基督教哲学の如きは彼等の措いて問はざる所である、彼等は又心霊的生涯なるものを軽蔑する、祈り、泣き、罪を悔ひ、聖霊を求むるが如きは彼等の解し得ざる所である、彼等は曰ふ、基督教何ものぞ、実際的道徳にあらずして何ぞや、キリストの教訓を実践躬行するより他に基督教なるものあるべからずと、神の特性の如き、キリストの真性の如き、復活の教義の如き、彼等は之を不用問題と見做し、基督教のすべてはソロモンの箴言と、キリストの山上の垂訓と、使徒ヤコブの書翰とに在りと言ひて、最も簡易に基督教を解釈せんとする。
 然しながら是れ甚だ簡易にして甚だ単純なる基督観であるやうに見ゆれども実は甚だ浅薄なる、循つて維持するに甚だ困難なる基督観である、基督教の道徳なるものは其教義を離れて存在するものではない、其道徳は常に其教義の結果であつて、二者の関係は樹と其果とのそれである、深き教義がなくして高き道徳はない、キリストは神である、彼は万物の造主であると言ふことは基督教道徳に深い深い関係のあることである、基督教道徳とはたゞにキリストの行為の機械的模倣ではない、是れは宇宙と人生とを支配する深遠なる道理の一身の行為に現はれたる者である、人はイヤでもオウでも基督教を知識的に解さなければならない、然らざれば彼はキリストを真似んと欲するも彼を真似ることは出来ない。
 殊に祈祷を軽んじ、讃美を笑ひ、すべての心霊的感情の発動を迷信視する者の如きは宗教を其根底に於て拒否する者である、宗教は活きたる神と活きたる人との交際である、さうして斯かる交際が深き感情を以て現はるゝ(425)のは当然のことである、詩歌なく、音楽なく、悔改の涙なき宗教は極く浅薄なる宗教である、神は規則の励行者ではない、愛の父である、我等は心に深く父の愛を感ずるにあらざれば能く其命に従ふことは出来ない。
 ユニテリアン主義の基督教が甚だ単純なるが如くに見えて常に浅薄にして消え易きは是れがためである、即ちイエスを主に途、即ち道徳の標準として見て、真理として究むること浅く、又生命として受くることが少いから
である、使徒ヤコブの神なる父の前に潔くして穢れなく事ふることは孤子と寡婦を其患難の中に見舞ふ事是れなりとの言を極く浅薄に解するからである、イエスは途である、実践道徳である、然しながら夫れ許りではない、
夫れと仝時に又哲学的真理である、心霊的生命である。
 世には又イエスを主に真理と見る者がある、是れが即ち世に所謂る神学者である、彼等は理解の一方面のみよりイエスを会得せんとする、宇宙に於けるイエスの位置、イエスは人である乎、三位一体の哲学的説明、聖書の文学的批評、神の自顕の範囲、其他是に類する問題である、爾うして是れ亦軽んずべからざる問題であるは言ふまでもない、然かしながら神学者の大欠点は実行敬虔の二方面を怠ることである、真理は理解性に由てのみ了解し得らるゝものではない、実行も亦真理会得上の必要条件である、祈祷も亦真理の了得に必要である、祈つて、行つて、考ふるにあらざれば真理を完全に解することは出来ない、神学なるものゝ多くが干燥無味、砂を囓むが如くに感ぜらるゝは之に実験が伴はず、生命が無いからである、大神学者ネアンデルは言ふた「心ぞ神学の中心なれ」と、基督教は貴族の宗教でないと同時に又学者の宗教ではない、是れは書斎に在りて考出せらるべき質《たち》のものではない、是れは感じて、験《ため》して、始めて判明る宗教である、神学の議論に果《はてし》は無い、世に無益なる学問とて純神学の如きはない、神学者が其反対者を謗り、陥ゐれ、殺した場合は昔も今も沢山ある、神学者必しも基督(426)信者ではない、否な、多くの場合に於ては神学者ほどキリストの心の解らない者はない、キリストを殺した者は学者とパリサイの人とである、爾うして学者とは今の神学者である、殺す文字に拘泥して活かす霊を忘れたる者である、イエスを真理としてのみ見るの弊は終に人をして茲に至らしむ、即ち彼を「神学者」となして、誇り、驕《たかぶ》り、※[言+后]《のゝし》り、謗り、残刻、友を売り、放肆、自負の者たらしむ(提摩太後書三章二−四節)、謹みても尚ほ慎むべきは此神学的偏見である。
 然しながら偏見の害は前二者に止まらない、イエスを生命とのみ見る者も亦多くの誤謬に陥る者である、宗教は確かに人と神との心霊的交際である、其最大の慰藉、最深の歓喜は心霊の範囲に於てある、真正のクリスチヤンは天国を彼の心霊以外に於て求めんとは為ない、彼は其処に父と語り、友と交はり、天の饗宴に与らんとする、基督教は特に心霊の宗教である。
 然しながら天の饗筵《ふるまひ》に与かるのみが神とキリストを識るの途ではない、過食は肉体に害あるのみならず、又霊魂にも吾がある、生命のパンも只之を食ふのみにして之を消化せざれば霊魂を活かさずして返て之を殺すに至る、爾うして生命の消化とは其実行である、即ち善を自己に得て然る後に之を他に施すことである、生命は膏雨の如し、たゞ之を蓄ふれば返て腐敗を醸す、之を燥ける地の上に灌いで花は咲き果は実るのである、善行は生命の放散である、是れに由て自己も活き他も救はるゝのである、信仰を養ふと称して祈祷断食をのみ是れ事とする者は終には信仰の腐敗を来して、自己をも滅すに至る者である、所謂る寺院的宗教なるものの危険は茲に在る、即ち宗教を私用に供するの結果、他人をも救ひ得ずして、自からをも亡ぼすに至る、生命のパンと雖も独り無限に之を食はんとしてはならない。
(427) 心霊的生命を重んずる者は往々にして自由攻究を却《しりぞけ》る、彼等は学問は危険なりと云ふ、聖書は文字なりに之を信ぜよと迫る、彼等は理性を束縛して、之を全然信仰の奴隷となさんと計る、彼等は学理に訴ふる者を無神論者と呼ぶ、彼等は直覚的にキリストを感ずるの外、哲学的に彼を理解することを悦ばない、彼等は宗教は主として感情なりと見做して、冷かなる理性に由て之を解剖されることを恐れる、所謂信仰家の宗教が迷信に陥り易きは是れがためである、即ち時々道理の光線を其中に注射して、病的黴菌を取除かないからである、道理若し冷静なれば夫れと仝時に乾燥である、道理は心霊界に於ける最善の殺菌剤である、道理に由てのみ宗教は迷信の害毒より免がるゝことが出来る、イエスを生命としてのみ見て真理として見ない者は終に彼を迷信するに至る者である。
 イエス、トマスに曰ひけるは我は途なり、真理なり、生命なり、人もし我に由らざれば父の所に往くこと能はずと、イエスは実際的道徳である、哲学的真理である、心霊的生命である、故に彼の教訓を身に於て行ひ、彼の人成《ひとゝなり》を智識的に解し、彼の生命を心に受くるにあらざれば彼を完全に解する能はず、又斯く為すにあらざれば終に救はれて父の天国に往く能はず、我等は実行、知識、信仰の三方面より完全の救主を仰ぎ瞻て、彼の完全きが如く完全くならんかな。
 
(428)     牧会書翰の真価値
        (教会腐敗の活写真として)  十二月十六日角筈に於て
                     明治40年1月10日
                     『聖書之研究』83号「講演」
                     署名なし
 
 提摩太前後書、提多事の三書を合せて通常之を牧会書翰(Pastoral epistles)と称ぶ、エベソ教会の牧師テモテ、クレテ教会の牧師テトスに贈られし書翰であつて、教会を牧する途に就て比較的に委はしく述べて居るからである。 是等の書翰は実際使徒パウロに由て書かれしものであるか、是れ近世聖書学に於ける論争の焼点である、其中に多くの尊き基督教的真理の含まれてあるに関はらず、之をパウロに由て書かれし書翰として受取るに多くの排し難き困難がある、若し教会の監督制度なる者が主として是等書翰に由て設けられたる者で又維持せらるゝ者であるならば、近世の聖書批評学は斯かる制度を聖書の言に由て維持することを非常に困難ならしめた、監督制度に限らない、すべて聖書の精神に由らずして、其文字に由て維持せらるゝ信条、制度、習慣等が近世の聖書批評学に由て其根本を動かされし事はキリストの福音のために最も賀すべき事であると思ふ、キリストの福音は儀文や宗制や信仰箇条ではない、是れはすべて信ずる者を救はんとの神の大能である、是れは聖書の文字の上に立つものではない、循つて批評学者等に左右せらるべきものではない、是れは永遠の磐である、すべて人に由て組立(429)てられし教会が破壊《こは》れて了つた後にも尚ほ厳然として存立する者である。
 故に今日に至つて所謂る牧会書翰なるものに由て今の教会制度を維持せんとするが如きは甚だ愚かなる事であると思ふ、我等は聖書を聖霊の援助に由り常識的に解釈して其中に存する神の深き聖旨を探ぐるべきである。
 牧会書翰は何を示す乎、言ふまでもなく既に使徒時代に於ける基督教会の腐敗を示す、キリストが昇天し給ひてより百年たらざる中に、然り、未だ十二使徒等の存命中に、多分使徒パウロが尚ほ伝道に従事しつゝありし間に基督教会は業に已に此等の書翰に書いてあるやうな腐敗堕落に達した、監督の中に教会を管《あづか》りながら自己《おのれ》の家を理《おさ》むる事を知らざる者が出た(提摩太前書三章五節)、或ひは二枚の舌を使ひ、酒を嗜み、利を貪るやうな執事も出た(仝八節)、人を謗り、懶惰に習ひ、人の家を遊び周《めぐ》り、妄りに人の風評を言ひ、好みて人の事に関はり、言ふべからざる事を云ふ女執事女信者等も在つた(仝十一節、四章十三節)、殊に奢侈の悪風は盛んに教会内に行はれ、基督信者の婦人にして宜しきに合はざる衣にて自から飾り、金と真珠と価貴き衣を以て妝飾《かざり》とし、善行を以て妝飾とせざる者が続々と現はれた(仝二章九、十節)、爾うして万事斯の如くになりたれば信者間に議論と言辞《ことば》の争弁《あらそひ》、※[女+冒]嫉、争闘、毀謗、妄疑等の罪悪が盛んに行はれ、信者各自が籍を教会に置くと雖も敵地に天幕を張りて居るやうな感を懐くに至つた(仝六章四節)、是等の事が是等の書翰に於て強く誡めてあるのを見て、その既に教会の中に盛んに行はれて居つた事を知ることが出来る、基督教会は使徒在世当時、業に已に清士の堪えられない所となつた、故に牧会書翰の記者はテモテに勧めて言ふた、汝此の如き者(堕落信者)を避くべしと(後書三章五節)。
 斯の如くにして余輩は牧会書翰に於て今の所謂る教会なるものゝ存在の理由を認むることは出来ない、否な之(430)に由て組織的教会《オルガナイズドチヤーチ》なるものゝ如何に腐敗し易きものである乎を知るを得て、純粋なるキリストの福音を教会以外に於て求めんとする、使徒の熱心を以てしても教会は五十年を出ずして是等の書翰に書いてあるやうな浅ましき状態に達した、教会是れ腐敗の巣窟と称するも決して過言ではないと思ふ。
 爾うして使徒時代に於てばかりではない、後世に於ても教会の腐敗は実に著しい者である、伊国に於ける天主教会の腐敗、露国に於ける希臘教会の腐敗に就ては我等は沢山に新教の宣教師等に由て言聞かされた、然かし新教諸教会其物が腐敗を以て充満て居る、独逸に於けるルーテル教会、英国に於ける上下両様の監督教会、米国に於ける無数の宗派教会は何れも腐敗の空気を以て充たされて居る、二千余年前に書かれし是等牧会書翰を今日欧米孰れの教会に於て読んで見ても思ひ当る事が夥多《あまた》ある、牧会書翰は教会腐敗の活写真である、其永久に貴き所以は全く是れが為めである。
 爾うして何にも欧米の諸数会と云ふに及ばない、我邦今日の教会とても同じことである、其監督、執事、牧師に就て、其妝飾に誇る婦人に就て、其争闘、毀謗、妄疑を事とする教師信者に就て、余輩が今日言はんと欲することは悉く是等牧会書翰の中に委しく書いてある、彼等は余輩を以て彼等の痛撃者と見做してはならない、彼等を痛撃する者は余輩ではない、彼等の手の中に存し、彼等が常に神の啓示なりと称して世に伝へんとする聖書其物である、余輩は日本国今日の教会の状態に就ても明白に之を牧会書翰の中に読むことが出来る、爾うして若し余輩の中或者が今の教会信者の衿誇《ほこり》、驕傲《たかぶり》、※[言+后]※[言+卒]《のゝしり》、残刻、友を売り、放肆、自負等に耐え得ずして、其中より出で来りしとすれば、それは汝此の如き者を避くべしとの牧会書翰の言に従つてゞある(提摩太後書三章一−五節)。
 
(431)     イエスキリストを懐ふ
         十二月廿三日角筈に於て
                     明治40年1月10日
                     『聖書之研究』83号「講演」
                     署名なし
 
 イエスキリストは余の救主である、彼は余の道徳上の教師ではない、彼が余に取りて殊更らに貴いのは彼が余の罪の贖主であるからである、此事たる余が今日まで幾回となく繰返して言ふた事である、然しながら幾回繰返しても意味の尽きない事である、殊に今日の如くナザレのイエスは世界最大の人物であるとか最も完全なる道徳を教へし教師であるとか云ふ言《こと》が、不信者のみならず、所謂る基督信者の中にも憚からずして唱へらるゝ時に方て、我等がイエスの救主たることを力を籠めて唱ふるの必要がある、イエスに由て我等の罪は贖はれたのである、我等は我等の行に由て救はるゝのではない、イエスは十字架の上に我等の罪を滅し、我等は彼の義、彼の犠牲に由て救はるゝのである、福音とは此事である、イエスが人類の罪を負ふ神の羔でないならば福音は無きものとなるのである、人の子の来りしは多くの人に代りその命を予へて贖ひとならん為なりと(馬可伝十章四十五節)、余はイエスが余に此事を為し給へりと信ずる、余に此確信が消えて余はクリスチヤンではない、余は明治三十九年の今日、余が基督教を信じてより三十年後の今日、余は尚ほ此事を信ずる、然かり、益々深く此事を信ずる。
(432) イエスは平民である、余は平民の模範として彼を仰ぎまつる、斯く云ひて余はイエスは今の所謂る平民であると云ふのではない、平民とは其有つ所の位の有無、富の多少に由て定めらるべき者ではない、貴族の中にも平民あれば平民の中にも貴族がある、自己を貴ばざる者、是れが平民である、自己を何にか貴い者であるやうに思ふ者、是れが貴族である。
 故にイエスは平民であると云はんよりは寧ろ平民とはイエスの如き者であると云ふべきである、すべてイエスを主として仰ぐ者、彼に罪を贖はれんとする者、是れ皆な平民である、即ち神の子としての貴尊を認むる外、其他の貴尊を悉く拒否する者、是れが真正の平民である。
 イエスは労働者である、余は彼に由て労働の貴き所以を知つた、労働は賃銀を得るために貴いのではない、心を養ふために貴いのである、煩悶と懐疑とは沈思黙考に由ては解けない、労働に由て釈ける、労働の人生に於けるは排水溝の沼地に於けるが如きものである、之に由て悪水は除かれ、膏腴は残り、地は豊穣を呈するに至る、煩悶は思ふこと多くして働くこと尠きより起る、煩悶を除かんために身を噴火口に投ずるに及ばない、通常の労働に従事すれば足る、されば糸の如くに乱れし心は整理に就て、讃美の声は口より上るに至る。
 茲に一つ注意すべき事がある、即ち我等何人も労働の謳歌者とならざらんことである、我等は努めて労働者たるべきである、択んで労働の鼓吹者たるべきでない、一軍隊に喇叭手は一人あれば足る、余は悉く戦闘員たるべきである、喇叭の吹奏者多くして軍隊は混乱を来さゞるを得ない、我等は止むを得ざるにあらざれば伝道者、新聞記者、雑誌記者等となるべきでない、手を以てするは口と筆とを以てするより遙かに貴い労働である、我等の主イエスキリストは口を以てするよりは手を以てして多く働き給ふた。
(433) イエスは余の万善《すべてのよきこと》である、爾うして、今やまた旧き年を送り、新らしき歳を迎へんとするに方て、余は殊更らに彼を余の救主、平民の模範、労働の聖化者として懐はざるを得ない。
 
(434)     新年の珍客
                     明治40年1月10日
                     『聖書之研究』83号「雑録」
                     署名 角筈生
 
 新年に入りてより四人の珍客は余輩の小なる書斎に入り来つた、彼等は永く余輩と偕に留まるべし、余輩は虔んで彼等を優遇礼待せんとす。
 彼等は現世の人ではない、過去の人である、彼等は日本人ではない、外国人である、然れども彼等は孰れも何国人と称して己を人に紹介せんと欲するやうな者ではない、彼等は彼等の一人なるアレキサンドル・フムボルトの如く「世界の市民」を以て自から任ずる者である、故に彼等は日本の角筈に来りたればとて異邦に来りしの感を懐く者ではない、彼等のすべては謂ゆる国家観念なるものを脱却したる人類の友である。
 珍客の一人は和蘭国人として紀元千六百八年に生れたる画家レムブラントである、彼は画界に於けるカルビンと称せられし者であつて、新教的思想を筆と色とに現はした者である、彼はオレンジ公ウイリヤム、コロムウエル、ワシントン等にも劣らない平民主義の主道者である、彼は好んで商人、職工等、所謂る下層の民と称せられたる者を画いた、彼は勿論、彼の霊魂の救主イエスキリストを画いた、彼は今の平民主義者のやうに神を無視し、キリストを嘲けるやうな者ではなかつた、彼は平民主義を其根本に於て解した者である、彼の理想の平民は言ふまでもなくナザレの大工イエスである、彼は此人を神の子として拝した、故に自身が平民の画家となつたのである。
(435) 余の室に入来りし彼は彼自身が画いた者である、歳の恰好は凡そ三十前後、上唇に髭が生えたばかり、毛帽を横に被り、襟元の装飾は乱れて、我れ世に関せずと言はんばかり、若し世に独立独創の美術家がありしとすれば彼である、彼は画家であるよりは寧ろ「人」である、余輩が彼を愛し、敬し、自身は美術とは関係最も浅き者たるに関はらず、彼れレムプラントを余輩の理想の人の一人として仰ぐは彼の「人類性」の非常に深かりしが故である、彼れ今其肖像に由て余輩の室に入来れり、余輩は今より後、彼に励まされて、色を以てせざるも、墨を以て、彼に類するの思想を誌上に画かんと欲す。
 珍客の第二は音楽者ベートーベンである、千七百七十年独逸国ボンに生まる、彼の肖像を仰ぎ見て彼が音楽の人であるとはドウしても思へない、彼の髪は乱れて居る、彼の唇は緊つて居る、彼の眼は怒つて居る、彼はドウ見ても調和の人ではない、不平の人である、憤怒の人である、然り、悲哀の人である、爾うして音楽に堪能なる余の友人の一人は彼を見て云ふた、彼の作りし音楽は彼の肖像の通りであると、余は勿論音楽を解しない、故に美術的に彼を評価することは出来ない、然しながら余は少しく彼の人物を知る、風波多かりし彼の生涯を知る、余は彼に対して深厚なる同情を表する、余は余の小なる生涯が少しく彼の大なるそれに似て居つた事を感謝する、故に余は四人の珍客を迎ふるに方て余に最も近き位置を彼に与へた、彼は余の机上、余の椅子に対する所に座を占めた、爾うして日に日に余が筆を執りつゝある時に余を瞰下する、余は彼の感化に由りて彼の音楽の如き文を綴りたく欲ふ。
 第三の珍客は余の旧友ルーテルである、彼の弟子クラナツヒの画筆《ブラツシユ》に成りし者の写なり、彼のサクソン的の容貌、百姓面と称せんばかりの面、眼は暴風の後の平静を示し、太りたる手は何物かを握るが如し(蓋し聖書なる(436)べし)、嗚呼ルーテルよ、懐かしきルーテルよ、余の青年時代よりの友よ、余は汝を知りし以来寤寐の間にも汝を忘れざるなり、余の小なる生涯は多くは汝の大なる生涯に傚つて成りし者なり、汝の信仰は今も尚ほ余の信仰なり、余は汝の事業を以て余の事業と為さんと欲す、人の子の中に汝よりも余に近しきはなし、使徒パウロと聖アウガスチンと汝、余は今や又汝の接近を要すること切なり、汝、此時に方りて汝の生国より速く来りて余の角筈の家を見舞ふ、善く来りしよ、我友ルーテルよ、永く此小なる書斎に止まれよ、而して余が若し汝と余との救主なる神イエスキリストの命に叛くが如きあらんには、汝、その鋭き眼を以て余を責めよ、余は汝の行為に鑑み、己に恥ぢて人の前に怯懦を演ずるが如きことを為さゞるべし。
 第四の珍客はカント先生である、豪気なるカント先生、近世のソクラテス、而かもソクラテスよりも大なる哲学者、今の世に先生の哲学を彼れ是れ非難する者がある、然しながら余は知る先生の哲学の大なるは先生の哲学のためではないことを、先生をして哲学者として起たしめし其精神、是れが先生の偉大なる故であつて、又先生の哲学の偉大なる故である、先生は自由と真理と信仰とのために起ち給ふた、爾うして思想界に神と永生と自由とのために堅固なる地位を設け給ふた、先生は哲学者としてよりは人類の友として貴くある、余が這般独逸なる余の友人に乞ふて先生を余の小屋に迎へ奉つたのは是れがためである、願くは先生今より後余の家に留まり、余が真理を探るに方て虚思幻想に走らざるやう余を督し給はんことを。
       *     *     *     *
 斯かる珍客の入来を得て余の新年は幸福なる者である、余は今より後彼等に励され、教へられ導かれて余の職分を尽したく欲ふ。
 
(437)     『研究』誌の新年
                     朋治40年1月10日
                     『聖書之研究』83号「雑録」
                     署名なし
 
 雑誌の数は甚だ多いが本誌の如く神に恵まれたる者は多くはないと思ふ、半社会的の雑誌『東京独立雑誌』の後を承けて生れ、今日に至るまで満六年と五ケ月、多くの艱《なや》める人に福音の慰藉を供することを得、之を手にして永の眠に就きし者さへあり、其読者は多しと云ふにはあらざれども去りとて尠しと云ふにもあらず、殊に誠実親愛の一事に至しは全国無比と云ふても決して過言でない事を信ずる、本誌に由て余輩が造りし友人は骨肉の兄弟も啻ならざる者である 今や内地は勿論、朝鮮、北清、北米太平洋沿岸至る処に余輩の霊の兄弟姉妹は散在し、余輩は毎日彼等と祈祷を偕にし、愛を交換す、余輩は本誌に由て此広き世界を余輩のホームと為すを得た、斯かる快事を其記者と読者とに為した雑誌は他に何処にあらふ。
 余輩が又感謝に堪えない事は本誌が始より今日に至るまで経済的に絶対的独立を維持し来つたことである、本誌は未だ曾て一銭一厘の負債を以て年を越したことはない、然れども未だ曾て何れの教会、何れの伝道会社、何れの富める友にも寄附を請求したことはない、事業は微少《いとちい》さき者なりと雖も、是れ又祈祷を以てのみ維持され来つた者である、余輩は勿論、乞はざるに贈られし友人の愛の贈物を受けた、大なる感謝を以て之を受けた、然しながら余輩は神に乞ふたまでゞ未だ曾て一回も人に乞ふた事はないと思ふ、爾うして神は余輩の乞ひを納れられ(438)て、幾回か奇蹟的に余輩の友人を通うして余輩を授け給ふた、余輩の眼は幾回か主の驚くべき聖業《みわざ》を見た、余輩は之を口にし又筆にすることを好まない、余輩は唯マリヤの如くに是等の凡ての事を心に蔵し置くまでである(路加伝二章五十一節)。
 曾て幾回か述べしが如く齢の長きは余輩の望み又誇る所ではない、余輩は唯活きたる神の御手の直接に余輩の事業の上に顕はれしことを歓ぶ、余輩は縦令一年又は半年なりとも斯かる聖き仕事を手に執ることを得しを感謝する、七年に垂んとする此喜ばしき事業に従事するを得て、余輩は充分に此世に生れ来りし甲斐のありしことを感ずる。
 神若し許し給はゞ余輩は更らに此事を継続するであらふ、然しながら此業であれ、他の業であれ、余輩はキリストの福音を伝へずしては此世に存在しまいと欲ふ、余輩が福音を唱へざる時は余輩が死んだ時である、余輩は福音を離れたる余輩の生涯に就て想像することは出来ない。
 茲に永年に渉る読者諸君の同情と援助とを謝し、併せて我等の関係の現世限りの者にあらざらんことを祈る。
 
(439)     〔故今井樟太郎著『香料案内』への序文〕
                    明治40年2月7日
                     故今欺樟太郎著『香料案内』
                    署名 内村鑑三
 
〔巻頭「故今井樟太郎肖像」の下に〕
     馨《かぐ》はしき人ありたり
     馨はしき業に従事し
     馨はしき生涯を送れり
     茲に馨はしき紀念を留む
              校閲者誌す
 
  序文
 
 偉人は政界に在り、財界に在り、文界に在り、医界に在り、楽界に在り、画界に在り、亦香界にあらざらんや、而して我友今井樟太郎君は我国香界の偉人たりしなり、君は紀伊の蜜柑、肉桂に、伊豆の黒文字に、米沢の薄荷に我国特有の香を探らんために神より遣されし人なり、我等君の友人は君がその鋭き嗅感を以て汎く我国を渉(440)猟せんことを望みたりき、然るに君は此希望を果さずして我等を去れり、我等は我等の為めは勿論、尚ほ隠れて曠野にその香を放つ我国幾多の香艸佳樹のために此事ありしを悲めり。
 然れども君も亦君の領域に於ける開拓者たりしなり、君は我国の香料界に先鞭を就くるの栄誉を担へり、而して此著に君の声を留めて世を逝れり、今より後君の迹を追ふて此研究に従事する者、続々として起るべし、此著はまことに『香料案内』なり、単に香料を商はんと欲する者のための案内にあらず、神の造り給ひし此美はしき宇宙に透徹するすべての香気に人を導くための案内なり、余は此著が此使命を充さん事を信じて疑はず。
   明治四十年一月十八日   東京市外角筈村に於て 内村鑑三
 
(441)     〔福音の性質 他〕
                     明治40年2月10日
                     『聖書之研究』84号「所感」
                     署名なし
 
    福音の性質
 
 福音は罪人のための福音なり、弱者のための福音なり、故に我に福音を語り得ざるの時あるべからず、又世に福音を信じ得ざるの人あるべからず、我れ罪を犯したればとて福音を語るの資格を失はず、弱きは却て福音を信ずるに益あり、福音は人生の絶下に拡げられし神の救助網《すくひあみ》なり、罪と荏弱とを自覚する者にして其救助に漏るゝ者あるべからず。
 
    一人となりて立つの覚悟
 
 我等キリストの僕となりて一人となりて世に立つの決心なかるべからず、世は我等の主を棄たり、亦其僕たる我等をも棄つべし、此世の政府と社会と教会と個人とは我等の主を棄しが如く亦我等をも棄つべし、我等にも亦独り十字架に上るの決心なかるべからず、我等の友人と親戚と弟子とに棄てられ、独りエリ、エリ、ラマ、サバクタニを口にしながら気《いき》絶るの決心なかるべからず。馬太伝廿七章。
 
(442)    永遠の磐
 
 国興るもキリストを信じ、国衰ふるも亦彼を信ず、時可なるもキリストを信じ、時非なるも亦彼を信ず、業栄ふるもキリストを信じ、業衰ふるも亦彼を信ず、キリストを信ぜんのみ、キリストを信ぜんのみ、天は失せ地は消ゆるともキリストを信ぜんのみ。
 
    基督信者の真偽
 
 光は暗に照り暗は之を暁らざりきと(約翰伝一章五節)、彼れ己の国に来りしに其民之を接けざりきと(仝十節)、羔は世の始より殺され給ひし者なりと(黙示録十三章八節)、仍て知るべし、世に了解され、其受くる所となる者はキリストの僕にあらざることを、基督信者の真偽は之に由て分つを得べし、即ち世の人望を博せし者、是れ偽の信者なり、世と常に闘ひ永久に之と和睦せざる者、是れ真の信者なり、基督信者の真偽は容易に之を分つを得るなり。
 
    何の得し所ぞ
 
 我れ基督教を信じて何の得し所ぞ、不孝の子として家人に斥けられ、不忠の臣とて国人に憎まれ、不信の徒として教会に厭はる、窮乏の裡に一生を送り、名誉栄達の身に臨むなし、我れ之を思ふて心、衷に沈む、予言者ヱレミヤと共に叫んで曰ふ、ヱホバよ汝、我を欺けり、我れ汝に欺かれたりと(耶利米亜記二十章七節英訳に由る)。
(443) 然り、我れ基督教を信じて何の得る処なかりき、唯一物を獲たり、イエスキリスト是れなり、神の完全なる者、万物を以て万物に満たしむる者の満てる所の者、成就されたる義、道徳的宇宙、然り、我は基督教を信じて之を獲たり、之を獲て我れ亦何をか要せん、我はパウロと偕に叫ばんのみ、その言ひ尽されぬ神の賜物に因りて我れ神に感謝する也と(哥林多後書九章十五節)。
 
    戦友となれよ
 
 我を師と称ぶ勿れ、そは我は人の師に非ず、キリストに在りて此世と闘ふ者なれば也、我が戦友となれよ、此世に対して戦争を宣告し、其憎む所となり、逐ふ所となりて然る後に我に来れよ、其時我等は互に手を執て語らん、我が「崇拝者」は我れ多く之を有す、然れども我は戦友の乏しきに苦む、然り、我を師と称ぶを止めよ、来て我が戦友となれよ。
 
    国と人
 
 英国は基督教国に非ず、然れども基督教は英国に有り、米国は基督教国に非ず、然れども基督信者は米国人の中に有り、其如く日本も亦永久に基督教国とはならざるべし、然れども多くの基督信者は日本人の中より起るべし、神は彼の簡み給ひし者をすべての国民の中より召き給ふべし、一国民を挙げて悉く其子となすが如きことを為し給はざるべし、国民は恒に此世の国民たるべし、而して此世の国民が悉く失せし後に其中より簡まれし神の子供は存《のこ》るべし、詩人テニソンは誤れり、個人は失せて世界は益々大なるに非ず、地と其中にある物は皆な焚《やき》(444)尽くさるべし、然れどもヱホバを愛する者はいよ/\光輝《かゞやき》を増して昼の正午《まなか》に至るべし。彼得後書三章十節。箴言四章十八節。
 
    戦捷の結果
 
 戦捷の結果は何? 国債の激増、投機熱の昇騰、軍備の拡張、而して之に伴ふ美術、文学、哲学、道徳、宗教の衰退是れなり、肉に勝て霊に敗る、是れ天然の法則なり、悲むべし、然れども敢て怪むに足らず。
 
    教と力
 
 基督教ならば左程貴い者ではない、基督の力なるが故に貴いのである、基督教ならば神学者も能く之を知ることが出来る、然しながら基督の力なるが故に神に直に接しなければ得られないのである、我は必しも基督教を学ばんとは為ない、然かしながら身に基督の力を得て自己を救ふと仝時に世を済ひたく欲ふ。
 
    有効なる祈祷
 
 我等の祈祷が聴かれるのではない、我等に関はるキリストの祈祷が聴かれるのである、或ひはキリストを通うして神に達する我等の祈祷が聴かれるのである、汝等すべて求ふ所は聴かるべしとは記《か》いてない、汝等すべて我名に託りて求ふ所のことは我れすべて之を行さんと記いてある、キリストの名に託りて聴かれるのである、彼の功《いさほし》に託りて聴かれるのである、我等に我等の祈祷が神に聴かれる資格はない、然かしながらキリストにはすべて(445)の祈祷が聴かれる資格がある、我等はたゞキリストが其資格を以て我等の祈祷を神に執成し給はんことを希ふまでゞある、爾うして此執成が我等に取り最大の力であるのである、我等は之に由りて山をも動かし得るのである、キリストの執成に由らざる祈祷はすべて無効である、キリストの聖名《みな》に由らざる我等の祈祷が聴かれざればとて我等は決して怪むべきではない。
 
(446)     堕落信者の口実と其批評
                     明治40年2月10日
                     『聖書之研究』84号「所感」
                     署名 角筈生
 
     (一)
 
 完全なる人とて世に一人もあるなし、道徳の模範たるべき宣教師、神学者、牧師、伝道師すらすべて欠点多き人にあらずや、我れ独り純潔を追求するも何の益かあらん、我れ信者たるも不信者たるも唯五十歩百歩の差のみ、否な、信者は聖浄を装ひながら罪を犯す、不信者は不潔を自認しながら道に戻る、故に信者は偽善者なるに反して不信者は天真の人なり、我は偽書者なる信者たるを廃めて天真の人なる不信者とならんと。
  評に曰く、宗教は他人の事にあらず、自己の事なり、宣教師、牧師、伝道師等の言行如何は吾人の関する所にあらず、彼は彼なり、我は我なり、我は我が義務を守らざるべからず、我は我が神を喜ばすべきなり、神は他人の行為を以て我を鞫き給はず、他人が罪を犯すも我は犯さゞるべし 我は教役者輩が偽善者なるの故を以て自から罪の人とならざるべし、然り、我は神に祈りて彼等以上の人となりて、神をして我が罪の身を通して其栄光を世に顕はさしめん。
 
(447)     (二)
 
 教会は貧困なり、其伝道事業の揚らざるは信仰欠乏の故にあらず、資金不足の故なり、我は今より伝道師の班を脱し、俗人の班に入り、大に産を作り、金を以て聖なる伝道事業を援けん、然れども既に俗界に下る以上は多少の汚穢は免がるべからず、願くは我に多少の放縦を許せよ、そは我は斯道のために身を俗界に沈むる者なればなりと。
  評に曰く、汝の好意は厚く之を謝す、然れども我等は汝が身を泥中に投じてまでも我等を授けんことを欲せず、殊に汝が伝道失敗の源因を資金の欠乏に帰するは大なる謬見なり、伝道は資金を要すること至て尠し、今の教会なるもの或は資金の充足を以てするにあらざれば伝道を継続し能はざるべし、然れども神は資金を要せずして其聖き伝道事業を続け給ふなり、汝、真の伝道に就て識る所あれ、然れば汝の伝道廃止、俗界投身の口実は其土台より崩れん。
 
     (三)
 
 伝道師は多くは依頼の人なり、而して世が彼に由て得る所甚だ尠し、我れ何ぞ永く伝道界に留まりて賤むべき依頼の人たらんや、若かず、我れ伝道を廃するも独立の人とならん、我は社会の人となり、社会の尊敬を得て、大に社会を益せん、我は独立を愛するが故に、又大に社会の公益を計らんと欲するが故に、伝道界を去て俗界に下らんと。
(448)  評に曰く、依頼の人たるは悪し、一日も早く教会又は外国宣教師の補助を絶てよ、然れども独立の人たらんと欲して、俗界に下て俗人となるの要なし、神に依て独立の伝道師となれよ、独立と伝道と両つながらを実行せよ。
 
(449)     智識と真理と自由
                     明治40年2月10日
                     『聖書之研究』84号「研究」
                     書名 内村鑑三
 
  且つ真理を識らん、真理は汝等に自由を得さすべし。約翰伝八章卅二節。 此一節の中に三つの大なる辞がある、即ち「識る」、「真理」、「自由」とのそれである。
 識るとはドウいふ事である乎、識るとはたゞ智識的に知ることではない、即ち二と二を合すれば四となるとか酸素と水酸とを合すれば水と成るといふやうに知ることではない、神を識るとは全心を以て之を識認することである、即ち智識、意識、感識することである、神と親しくなる事である、或る意味から言へば神と合することである、識るとは聖書に在りては深い辞である、即ち我等が神に知らるゝ如く彼を知る事である(哥林多前書十二章十三節)。
 真理とは何んである乎、勿論数学的真理ではない、又は科学的真理でもない、又は哲学的真理でもない、聖書に所謂る真理はモット深い広い且つ具体的の者である、真理は第一に無ペルソナ的(impersonal)の者ではない、是れは活きたるペルソナ的の者である、真理は神御自身である、爾うして是れが肉体を以て顕はれたる者がキリストである、是を生命と称しても可い、或ひは光と呼んでも可い、但したゞの生(bios)ではない、生の源因である、たゞの光ではない、活きたる光である、基督教は哲学ではないから、冷智を以てのみ会得し得る智的真理を(450)最上の真理とは認めない。自由とは何である乎、是れ勿論政治的自由ではない、政治的自由は得るも甚だ価値の少ない者である、又必しも思想の自由に止まらない、思想の自由は道徳の腐敗したる所にも存在する、茲に云ふ自由とは言ふまでもなく霊魂の自由である、爾うして霊魂の自由とは愛の外何の束縛をも受けざることである、是れはすべての法則より全然脱することである、自然の法則以上、国家社会の定めし制度法律以上、然り道徳以上、宗教以上に達することである、真正の自由は絶対的自由でなければならない、爾うしてキリストが我等に与へ給はんとする自由は斯かる自由である、是れは人類の政治史にも、法律史にも、倫理史にも書いてない自由である、是れは神の独子の降臨を待て始めて世に臨みし自由である。
       *     *     *     *
 キリストの弟子と成ることは斯かることである、即ち神を識了して凡ての法則に超越することである、而かも斯かる特権に与かりし者、又は与かりつゝある者は何処に在る乎、キリストの此|聖語《みことば》に比較べ見て今の所謂る基督信者なる者は実に実に廉つぽい者ではない乎。
 
(451)     病中の感
                    明治40年2月10日
                    『聖書之研究』84号「談話」
                    署名 内村生
 
〇寒気の到来と同時に今年も亦昨年の如く病気に罹つた、然かし幸にして今年は昨年よりも軽かつた、熱も低く、其間も短かく、従つて疲労も尠かつた。
〇然かし病気は矢張り病気であつた、其不愉快と之に伴ふ試練と懐疑とは同じであつた、数日の間、床に伏して、何も為すことなく、唯、過去と摂理と人生とに就て考へた、病気は如何程軽いものでも死の前味である、病気に罹つて死に就て多少思はざるを得ない。
〇我れ若し今死せば如何、我は此世に生れ来りて今日までに何を為せしやと、斯く自己に問ふて、余は満足なる答を供することは出来ない、余は「何事をも為し得ざりし」と答ふるのみである、余の為せし僅かばかりの善行、余は之を以て善人として神の前に立つことは出来ない、余は自己に省みて天国に入るの資格を作つたと云ふことは出来ない、余は無益の僕である(路加伝十七章十節)、地獄の火に投入れらるゝも何の苦情を訴ふべき資格を有たない者である。〇斯く思ふて余は失望せざるを得ない、更らに又余の事業其物に就て思ふ時は更らに堪え難きことが多い、余に由て道を信じた者は多い、然し之を持続けた者は幾人ある乎、一時は神と余とを祝した者で今は両つながらを呪(452)ふ者は夥多《あまた》あるではない乎、彼の学士、是の博士を見よ、彼等も一度は我と偕に主イエスキリストの聖名を讃美した者ではない乎、然るに彼等は今は政を談じ法を講じ富を説いて道を語らず、而して我れ独り残りて古き旧き福音を唱ふ、才子才媛は我を去り、愚夫愚婦のみ我と共に留まる、嗚呼、我は誑《たぶら》かされしにあらざる乎、嗚呼、我は人に一時の慰安を供するための玩具として使はれしにあらざる乎、貧の時に我に聴て富みて後に我に遠かりし者何ぞ多き、学窓に我書を繙いて、之を放棄して世に立ちし者何ぞ多き、此日本国に於ける伝道事業を其結果に於て見よ、智慧ある者、能ある者、位い貴き者にして、永く忠実にキリストの福音を奉ぜし者は何処に在る乎。
〇之を思ふて余は失望せざるを得ない、余は「益なき僕」であるばかりではない、益なき事業に従事しつゝあつたのである、米一粒を作りしにあらず、橋一桁を架せしにあらず、敵一人を斃せしにあらず、唯用なき福音を唱へしのみ、余の事業は空《くう》に終り、余の前途に何の要求すべきなし、余は仏人ルナンの言ひし如くに「美はしきガリラヤの夢」を見て居つたのではあるまい乎。○或ひは爾うである乎も知れない、然しながら翻つて思ふ、若し爾うであるならば如何である乎、余はそれがために神に向つて呟くべきである乎と、否な、爾うではない、余の過去は空であつて、余の未来は空であつて、人生は夢であるとするも、余は決して人間の中で最も不幸なる者ではない、余は夢を見せしめられしとせん、然しながら如何なる夢を見せしめられし乎、美はしき夢、宇宙改造の夢、死の消滅、肉体復活の夢、新婦《はなよめ》が其|新郎《はなむこ》を迎へん為に修飾りたるが如き装を以て神の所を出て天より降らんとする聖城《きよきまち》なる新しきヱルサレムの夢、神の裁判の夢、悪人絶滅、善人残留の夢、嗚呼如何に美はしき、如何に潔き、如何に勇ましき夢なりしよ、夢に悪夢あり、又善夢あり、而して我は夢の中に最も善き夢を見せしめられしなり、人生は夢なりとすれば我は富貴の夢、(453)栄華の夢にはあらずして、正義の夢、永生の夢、義の冕《かんむり》の夢を見せしめられしなり、予言者等の夢みし夢、パトモスの島に於て聖ヨハネが見し如き夢を見せしめられしなり、人は皆な夢みる者なりとならば、我は最も高尚なる夢を見し者にして人の中に最も幸福なる者なり、「美はしきガリラヤの夢」を見し者なりとて我を嘲ける勿れ、そは夢の世に在りて此夢に優りて美はしき夢の他に有ることなければ也。
○嗚呼、余は神に感謝す、余は縦令一年なりとも、然り一日なりとも福音宣伝の快事に従事するを許されしを、余の未来は消滅であらうが、或ひは地獄の火であらうが、余は呟くべきではない、余は既に美はしき記憶を懐く者である、福音宣伝の記憶を懐く者である、爾うして此記憶は余に取りて永久の宝である、天の高きに昇らふが、地の低きに降らふが余の霊魂を離れざる宝である、余は既に報賞を獲たる者である、尚ほ此上に望むべきではない、伝道其物が大なる快楽であつて、大なる報賞である、我は既に工銭《あたひ》を獲たる工人《はたらきびと》である。路加伝十章七節。
〇然らば来世の存在如何と問ふ者があらふ、然り、来世は必ずあるであらふ、然しながら是れ我に当然属すべき者ではない、是れは神が其簡び給ひし所の者に与へ給ふ所のものであつて、人より進んで権利として要求し得べき者ではない、我は我が衷に永生を有たない、我は生れながらにして滅亡に定められたる者である、我は我が為し得るすべてを為して尚ほ天国を承継ぐべき何の資格をも有たない者である。
〇然しながら我れ病んで独り静かに思ふ、我れに永生を獲取するに足るの善行なしと雖も、我に神の恩恵を信ずるの心あり、我は天国を造り得ず、又好んで之に入ること能はずと雖も、神は人に依らずして之を建て、又人に依らずして之に入るの途を設け給ふた、キリストは途である、生命である、復活である、神はキリストに在りて人のために善行に由らずして永生を承継ぐの途を設け給ふた、天国と永生とは我を離れて存在する者である、我(454)は我れ以外に於て之を見ることが出来る、爾うして我は我が衷に之を我が有となすに足るの一つの能《ちから》の神より贈られしを感ずる、信仰の能、是れである。
 仰ぎ瞻よ然らば救はるべし、何故に励みて天国を取らんとするぞ(馬太伝十一章十二節)、天国は道徳の力に由て奪取する能はざるなり、天国は善行の報賞として人に与へらるゝ者にあらず、天国に入らんと欲せば道徳以外の力に由らざるべからず、天国は待望んで之を獲るを得べし、仰ぎ瞻て之を我が有となすを得べし、In silentio et spe erit fortitudo vestra 汝等静かにせば救ひを得、平穏にして依頼まば力を得べし(以賽亜書三十章十五節)、嗚呼、忘れ易きは単純なる此真理である、爾うして神が度々我等に疾病《やまひ》を下し給ふは我等に此真理を想起《おもひおこ》さしめ給はんが為めではあるまい乎。
 或る基督信者は曰ふ、すべての疾病は罪の結果なり、故に疾病は真の信者にはあるべからざるものなりと、或ひは爾からん、然れども若し爾からんには死も亦罪の結果なるが故に真の信者は死すべからざる者なりとも言ふを得ん、然れども死せざる信者とて何処にある乎、死は罪の結果ならん、然れども罪の人に取りては死は必しも刑罰にあらず、多くの場合に於ては大なる恩恵なり、詩人ロングフェロー曰く
  死の天使も亦生のそれの如く、同じく神より遣さるゝ者なり、
  故に神の許可《ゆるし》なくして、何人の門前をも過ぐることなし、
 此事を知りて何人か、神の使者に対して其門を閉ぢんや。(The Two Angels 末節の意訳)
 其如く疾病も亦神の使者である、信者の信仰の目を醒さんための神の使者である、信者が己の徳に頼るが故に、然り、其信仰に頼るが故に、自から地上に天国を建設すると称し、計劃運動に日も亦足らざるが故に、愛の父は(455)屡々疾病を下し、彼等を一時的無能者たらしめ、働らくを廃めて、頼らしめ給ふのである、天国は活動を以ては獲られない、信頼に由て与へらる、爾うして信頼を興すためには疾病は健康に優りて遙かに有力である。
〇疾病は肉体の疾病である、故に精神の静養である、疾病に由て我等は静養を余儀なくせらるゝのである、此点から見ても疾病は確かに大なる恩恵である、健康の時は言ふまでもなく労働の時である、我等神の僕に取りては健康の時は我が時ではない、神と同胞との時である、故に我等は自己に就て考ふること至て尠く、朝起てより夜眠むるまで他人のことに就てのみ思はねばならぬ地位に立つ者である、然るに一朝疾病に撃たれて床に臥するや我は我が責任より免さるゝのである。此時我が時は我がものとなり、我は自己に就て考へ、我が神と特に親しく交はるに至る、足立たず、手動かず、咽喉鳴らざる時に我が休息の時は到る、人は病後の静養を語る、然れども我が静養は病中に行はる、病癒えて後に我は起て直に我が業に就く、「静養のための疾病」、キリストの僕の疾病とは斯の如きものである。
〇感謝、感謝、何事も感謝、健康も感謝、疾病も感謝、生も感謝、死も感謝、そは凡の事は神の旨に依りて招かれたる神を愛する者の為に悉く働きて益をなすを我等は知れば也(羅馬書八章廿八節)、昼は太陽を仰ぎ、夜は月と星とを仰ぐ、健康の時に外に拡がり、疾病の時に衷に穿つ、強き時に此世に勝ちて、弱き時に天国を与へらる、故に、若し自己一人のために計らんには疾病は健康よりも貴くある、何れを選ぶべきか我れ之を知らず(腓立比書一章廿二節)、然れど今や再たび健康を与へられんとす、我は再び我が喜ばしき業に就かんとす。
 
(456)     課題〔9「使徒パウロの最後提摩太後書四章六、七、八節」〕                     明治40年2月10日
                     『聖書之研究』84号「雑録」
                     署名なし
 
   使徒パウロの最後 提摩太後書四章六、七、八節」
 
  (六) 我れ今祭物とならんとす、我が世を逝る期既に近づけり。
 汝(テモテ)真の伝道者の業を為すべし、我れ(パウロ)に傚へよ、信仰の維持者なる我の最後に注目せよ(前節)
〇「今」 今や将さに 〇「祭物とならんとす」 灌祭の供物となりて献げられんとす、今や将さに屠られて我が血は灌祭の酒の代用としてヱホバに馨はしき香を奉らんために献げられんとす(民数紀略十五章七節)、単に祭物とせしは誤訳なり 〇「世を逝る期」 解体の時期、勿論死期なり 〇「近づけり」 我が側に立てり、死は我が側に立てりと云ふに同じ。
  (七) 我れ既に善戦《よきたゝかひ》を戦ひ、既に馳《はし》るべき途程《みちのり》を尽し、既に信仰の道を守れり。
 「戦」 血を流す戦争の意味に於ての戦ひに非ず、競技の意味に於ての苦闘なり、パウロは幼時より屡々ギリシヤ人の競技を目撃せしなるべし、彼の書中に競技に関はる文字多し、腓立比書三章十二−十四節を見よ
〇「善戦」 立派なる競技(fair game)と云ふに同じ、善く競技の法則を守り、一点の非難すべき所なきを云ふ、(457)我は立派に競技を競ひたりと意訳するを得べし(I have played a fair game) 〇「馳るべき途程を尽し」 走程を完うせり、競走場の決勝点に達せり 〇「信仰の道を守れり」 信仰を守れり、原文に「道」なる辞あるなし、能く信仰を守り通うせりとも、又は能く信仰の規則を守れりとも解するを得べし、後の場合に於ては信仰を競技の規則と見て云ふなり、能く規則を遵奉して立派に信仰の競技に勝てりと。
  (八の上) 今より後、義の冕、我が為めに備へあり、主、則ち正しき審判を為す者、その日に至りて之を我に予ふ。
 「今より後」 今は唯、苦闘既に終り、我れ既に走程を尽したれば 〇「義の冕」 金銀又は宝石の冕にあらず、又はギリシヤ人の競技に於て勝者が贏得しが如き月桂樹又は常春藤《きつた》の具にあらず、義の冕なり、而かも我が義の冕に非ず、キリストの義の冕なり、彼が贏得し義を我は我が信仰の報賞として着せらるゝなり 〇「我が為めに備へあり」 義の冕我が為めに準備しあり、恰かも慈母に由て甘味が其児のために備へ置かるゝが如し、愛の父は今や栄光の冕を手にして我を待ちつゝあり、我は我が褒美を得んとして我が父の許に往かんとす 〇「主即ち正しき審判を為す者」 裁判人としてのキリスト、彼は救主にして又裁判人なり、慕ふべき者にして又恐るべき者なり、而かも其燐愍を蒙りし我に在りては恐るべき者は慕はしき者となれり、我は我が愛する者に審判かれんとす、故に我に賞誉の希望のみありて、責罰の恐怖あるなし 〇「その日」 かの日と訳すべし、かの恐るべき日、罪人が戦慄《ふるいひおのゝ》く日、万物が終結を告ぐるの日、羊が山羊より分かたるゝの日。
 
  (八の下) 独り我れのみならず、すべて彼の顕はるゝを慕ふ者にも予ふべし。
 「独り我れのみならず」 世の競技にありては冕を受くる者は唯一人なり、然れども信仰の競技にありては能(458)く信仰を守りし者はすべて勝利の冕を着せらる、我れ一人賞誉に与かるにあらず、我は我が同信の友と偕に栄光の冠を戴かんとすと。寛大なるかな使徒パウロ 〇「彼の顕はるを慕ふ者」 キリストの再顕を慕ふ者、彼が勝利の王として世に立ち給ふ時を待望む者、此信仰と待望なき者は基督信者に非ず。
       ――――――――――
 勇ましき又美はしき最後なり、武士の最後にもあらず、去りとて又狂信家の最後にもあらず、クリスチヤンの最後なり、自己の為すべきを為し尽して、而かも自己の功に頼らず、唯神の恩恵を望んで静かに死の至るを待つ、粛然として死に就くにあらず、喜々として父の懐に帰る、パウロを信仰の戦士といふ勿れ、彼は神の信頼者たりしなり、故に斯くも優しき死を遂ぐるを得しなり、我等は預言者ユリヤの如く火車に乗りて天に昇らんと欲すべからず(列王紀略下二章十一節)、イエスに在りて眠らんと欲すべし、赤児が其母の懐に在りて眠るが如く、愛の手に抱かれて眠らんと欲すべし、パウロが茲に善戦云々を述べしは彼の軍功を語りてに非ず、彼の過去を追想してなり、彼は云はんと欲す、我が苦闘は既に終りたり、今は唯休息と褒賞との我を待つあるのみと、彼は彼の身に於て父の命令を果したれば、今や父の約束し給ひし褒美を待ちつゝあり、彼の死は軍人の凱旋に非ず、小児の帰省なり、彼は飛立て父の家に帰れり。
       ――――――――――
 次回課題は左の如し。
   使徒パウロの単独
    提摩太後書四章九−十八節。
 
(459)     同盟反対の神言
                      明治40年2月10日
                      『聖書之研究』84号「雑録」                      署名なし
 
援助《たすけ》を得んとてエジプトに下り馬に依頼む者は禍ひなるかな
戎車《いくさぐるま》多きが故に之に頼み、騎兵甚だ強きが故に之に倚頼む、
然れどイスラエルの聖者を仰がず、ヱホバを求むることを為さざるなり、
然はあれどヱホバも亦智慧あるべし、必ず禍害を下して其言を翻へし給はず、
起ちて悪しき者の家と不義を行ふ者を助くる者とを攻め給はん、
エジプト人は人にして神にあらず、
その馬は肉にして霊にあらず、
ヱホバ其手を伸し給はゞ助くる者も躓き
助けらるゝ者も仆れて斉しく亡びん。
                   (以賽亜書第三十一章一、二、三節)
 
(460)  同盟国
 
“True that we bave a faithful Ally,
 But only the Devil knows what he means!”
 実に吾人に誠実なる同盟国あり、
 然れど彼れ心に何を謀る乎、悪魔のみ能く之を知る。
                   (詩人テニソン作『戦争』の一節)
  非同盟的政策
 
“Equal and exact justice to all men,of whatever State or persuasion,religious or political,peace,commerce,and honest friendsbip with all nations,−entangling alliances with none.”
すべての人に対して平等にして正確なる公義、其生国の何たるに係はらず、其宗教的又は政治的意見の如何に関はらず、すべての国民と平和、貿易、誠実なる友誼――而して孰れの国民とも紛乱の基たる同盟に入らず。
        北米合衆国第三大統領トマス・ジェファーソン就職演説の一節(千八百〇一年)
 
(461)     美なる脱会
                     明治40年2月10日
                     『聖書之研究』84号「雑録」
                     署名なし
 
 某地の教友某等二人、近頃信仰の故を以て其所属の教会を脱す、然れども累を他人に及ぼさんことを懼れ、従前の通り出金の義務を負ふことを約す、余輩は此事を聞いて甚だ喜ぶ、そは是れ能く無教会主義の精神を彰はす者なればなり、愛は信仰のために廃すべからず、自由は気儘と混仝すべからず、余輩は諸氏が更らに進んで、従前に優さるの愛を以て其脱会せる教会に尽さんことを望む、
 
(462)     『基督教と社会主義』〔角筈パムフレット第九〕
                          明治40年2月16日
                          単行本
                          署名 内村鑑三 述
〔画像略〕第四版147×109mm
 
     〔目次〕
 
 基督教と社会主義   基督教と社会主義(再び)
 
(463)     〔『基督教世界』の「開書」への回答〕
                      明治40年2月21日
                      『基督教世界』一二二五号
                      署名 内村鑑三
 
    ◎開書 本誌愛読者諸兄姉の相互の霊交を計り各自修養の資に供せんが為め左の五項に対し御消息御泄らし被下度虔希望仕儀(御回答は郵便葉書に限る、且つ御姓名御明記を乞ふ)
    一。本年に於ける貴下の『標語』若くは御覚悟。
    二。目下基督に就て如何なる点を最も多く学ばんとせられつゝありや。
    三。昨年中読まれし書物中最も会心のもの二三。
    四。伝道の要訣と思召さるゝ聖書中の章句。
    五。教会員もしくは一般信徒に対し望まるゝ点。    四十年二月 基督教世界社
 
一、『爾曹目を覚し堅く信仰に立ちて丈夫の如く剛かれ、爾曹の行ふ所みな愛を以て行ふべし』(哥前十六ノ一三、一四)
二、基督に関する初代基督教会の思想
三、エフ、ベツテツクス著『学術と基督教』サンデー著『羅馬書』(万国批評註釈書中)ワルト、ホウヰツトマンの詩集
(464) 四、『われら神の撰をえ福音を伝ることを託ねられたるに因りて語るなり 此は人を悦ばするに非ず我が心を察し給ふ神を悦ばするなり』(撒前二ノ四)
 五、総てのものに対する愛と宣教師よりの全き独立
 
(465)     〔今の救済 他〕
                     明治40年3月10日
                     『聖書之研究』85号「所感」
                     署名なし
 
    今の救済
 
 救済《すくひ》は事実なり、意識に非ず、又信仰にあらず、我等は救はれて救はるゝなり、識て救はるゝに非ず、信ずると信じて救はるゝに非ず、今生くるキリストに今救はれて救はるゝなり、過去のキリストを回想して救はるゝに非ず、消えにしキリストを冥想して救はるゝに非ず、前に死にしことあるも、世々窮《かぎり》なく生き給ふキリストに今救はれて救はるゝなり。黙示録一章十八節。
 
    復活の信仰
 
 春陽の来復はキリストの復活に就て思はしむ キリストは甦り給へり、而して万世の救主となり給へり、復活後の彼は曰ひ給へり 視よ我は世の終りまで常に汝等と偕に在るなりと、キリストにして甦り給はざりしならば我等の信仰は空し、過去の人は今我等を救ふ能はず、而して甦らざりしキリストは過去に属す、キリストは甦り給ひて永久に生くる者となり給へり、我等は我等の救済の必要上よりキリストの復活を信ずる者也。
 
(466)    福音書の研究
 
 馬太伝は馬太伝として研究せよ、馬可伝は馬可伝として研究せよ、路加伝は路加伝として研究せよ、約 伝は約翰伝として研究せよ、強ひて四福音書の記事的調和を計らんと努むる勿れ、各福音書の主なる目的はキリストに関はる歴史的事実を伝へんとするにあらず、信徒の心にキリストを形成らんとするにあり、福音書は伝道の書なり、伝記にあらず、吾人は其心して之を読まざるべからず。
 
    聖書と聖霊
 
 聖書智識のみは人を救はず、聖書智識に加ふるに聖霊の能力を以てして人の霊魂は救はるゝなり、聖書其物は死せる文字なり、然れども聖霊は聖書に由らずしては働き給はず、聖書を学ぶは聖書に由て救はれんがためにあらず、聖霊を身に招かんためなり、聖霊、聖書智識に点火して、死せる霊魂を活き復へらしむるなり。詩篇第十九篇七節。
 
       ――――――――――
 
    隠遁者に非ず
 
 余輩を隠遁者と見做す者あり、否らず余輩は隠遁者に非ず、罪の世と交はらざるのみ、余輩の頭上に穹蒼の天幕の如くに張りつめらるゝあり、余輩の足下に菫、翁艸の花咲くあり、又幾多の友人の繁く余輩の門を叩くあり、(467)全世界に散在して多くの信仰の友の余輩のために祈るあり、而して楽しき聖き業の神より余輩に賜はりしあり、世に自由にして楽しき者にして余輩の如きは稀なるべし、聖徒の交際の何たる乎を知らざる者は罪の世と交はらざるを隠遁と称す、霊に在りて神と其愛子と交はりて、政府の官吏が出入せざればとて、教界の紳士淑女が訪来らざればとて、余輩は世捨人にもあらず、亦隠遁者にもあらず。
 
    集会と運動
 
 集会の勢力に由らざれば神と人とに尽す能はざる者は禍ひなるかな、独り真理の燈台となりて世の暗黒を照らす能はざる者は禍ひなるかな、街に声高らかに叫ぶにあらざれば人を救ふ能はざる者は禍ひなるかな、静かなる、深き、内なる信仰を懐き得ざる者は禍ひなるかな、集会又集会、運動又運動、茲に於てか余輩は主キリストの言を想出さゞるを得ず、神の国は顕はれて来る者に非ず、此所に視よ、彼所に視よと人の言ふべき者にあらず、夫れ神の国は汝等の衷に在りと(路加伝十七章廿、廿一節)。
 
    神の途と人の途
 
 戦勝の余光を藉りて福音の伝播を助けんとすと云ふ、然れども是れ福音の弱きを世に示すに過ぎず、神は亡国ユダヤの民を駆て福音を全世界に拡めしめ給ひて福音の強きを世に顕はし給へり、
 ヱホバ宜給はく、我が思は汝等の思と異なり、我が途は汝等の途と異る、天の地よりも高きが如く我が途は汝等の途よりも高く、我が思は汝等の思よりも高し(以賽亜書五十五章八、九節)
(468) 余輩は神の途と人の途との相違を両者の伝道法に於て見るなり。
 
     ゼントルマンの為さゞること
 
 ゼントルマンは人を其弱きに乗じて苦めず。
 ゼントルマンは人に悪意を帰せず。
 ゼントルマンは人の劣情に訴へて事を為さず。
 ゼントルマンは友人の秘密を公にせず。
 ゼントルマンは人と利を争はず。
 ゼントルマンは人の深切を蔑《ないがしろ》にせず。
 ゼントルマンは人の自由と平和を妨げず。
 ゼントルマンは殺生を好まず。
 ゼントルマンは自己を広告せず。
 ゼントルマンは自己の為し得ることを他人に為さしめず。
 
(469)    信仰の報賞
       (アブラハムの例に照して)
                     明治40年3月10日
                     『聖書之研究』85号「所感」
                     署名 角筈生
 
 信仰の報賞は土地家屋に非ず、金銀宝玉に非ず、世の人望に非ず、教会の歓迎に非ず、幸福なる家庭に非ず、必しも長き寿命に非ず、信仰の徳たる是れ朽つべき此世の物を以て報ひらるべき者にあらず。
       *     *     *     *
 信仰の報賞は神御自身なり、彼を其無限の愛に於て識ることなり、彼をアバ父よと呼び奉まつるに至ることなり、宇宙の大なるも其造主なる神の大なるに及ばず、而して神は自己を信ずる者を報ひ給ふに最大最善の者を以てし給ふ。       *     *     *     *
 ヱホバの言、異象の中にアブラハムに臨みて曰く、懼る勿れ、我は汝の盾、汝の最大の報賞なりと(創世記十五章一節、英訳聖書参照)、アブラハムは国を望んで国を得ざりき、天の星の多きと海辺の砂の数へ難きが如き子孫を見んと欲して唯一人のイサクを設けしのみ、彼は神を信じて約束の物を得ざりき、彼の信仰は報ひられざりしが如くに見えたり。
(470)       *     *     *     *
 然れどもアブラハムは遙かに之を望みて喜びたり(希伯来書十一章十三節)、彼は約束の物を与へられずして約束以上の物を与へられたり、神は自己を彼に顕はし給へり、アブラハムはまことに最大の報賞を得たり。
       *     *     *     *
 神は誠信《まこと》なり、彼は自己を信ずる者を欺き給はず、彼は先づ自己を与へ給ひて、然る後に彼の造りし物を与へ給ふ、先づ自己をアブラハムに顕はし給ひて、然る後に彼の数多き子孫にカナンの土地を与へ給へり、信仰の報賞は先きに霊にして後に物なり、約束の物は人を導て約束の霊に到らしむ、我等神を信じて物を得ざればとて悲むべからず、そは先づ霊を与へられて後に亦物をも豊かに与へらるべければなり。
 
(471)     詩篇第百十八篇
                     明治40年3月10日
                     『聖書之研究』85号「研究」
                     署名 内村鑑三 編
 
 此篇蓋しイスラエル人の行列頌歌なるべし、会衆、一人の指導者に率ひられて列を作りて神の聖殿に詣づ、一行の合唱あり、指導者の独唱あり、之に対する会衆の和唱あり、一行、聖殿の門前に達するや、祭司の一列(アロンの家の者)の門を開きて内より之を迎ふるあり、斯くて全篇を戯曲的に解して能く其意義を明らかにするを得べし。
 
     (合唱)
 一、 ヱホバに感謝を奉れよ、彼は善なり、
    そは彼の慈愛《めぐみ》は永久《とこしへ》に存《ながら》ふべければなり。
 二、 イスラエルは爾か言ふべし、
    そは彼の慈愛は永久に存ふべければなり。
 三、 アロンの家の者は爾か言ふべし、
    そは彼の慈愛は永久に存ふべければなり。
 四、 ヱホバを畏るゝ者は爾か言ふべし、
(472)   そは彼の慈愛は永久に存ふべければなり。
     (独唱)
 五、 我れ患難の中よりヱホバを※[龠+頁]び奉れり、
    ヱホバは我に応へて我を広き処に引出し給へり。
 六、 ヱホバは我が味方なり、我は懼れじ、
    人、我に何をか為し得ん。
 七、 ヱホバは我が援助なれば、
    我は我が願望の我を憎む者の上に成るを見ん。
     (和唱)
 八、 ヱホバに依頼むは、
    人に依顧むよりもよし。
 九、 ヱホバに依頼むは、
    侯伯《きみ》に依頼むよりもよし。
     (独唱)
 十、 諸の国民は我を囲めり、
    然れど我はヱホバの名に依りて彼等を滅さん。
 十一、 彼等は我を囲めり、然り、我を囲めり、
(473)  然れど我はヱホバの名に依りて彼等を滅さん。
 十二、 彼等は蜂の如くに我を囲めり、
    荊《いばら》に燃移りし火の如くに燃えたり、
    然れど我はヱホバの名に倚りて彼等を滅さん。
 十三、汝、我敵は我を斃さんとして我を刺せり、
    然れどヱホバは我を助け給へり。
 一四、 ヱホバは我が力、我が歌なり、
    彼は我が救となり給へり。
     (和唱)
 十五、 歓喜と救拯の声は義者《たゞしきもの》の幕屋に聞ゆ、
    ヱホバの右手《みぎのて》は勇ましき働作をなせり。
 十六、 ヱホバの右手は高く挙れり、
    ヱホバの右手は勇ましき働作を為せり。
     (独唱)
 十七、 我は死なざるべし、我は存へん、
    而してヱホバの作為《みわざ》を宣べん。
 十八、 ヱホバは痛く我を懲し給へり、
(474)  然れど死にまで我を附《わた》し給はざりき。
     (聖殿の門に向つて唱ふ)
 十九、 汝等、我がために義の門を開けよ、
    我は其中に入りてヱホバに感謝せん。
     (門の内より声あり)
 二十、 此はヱホバの門なり、
    義者はその中に入るべし。
     (独唱)
 廿一、 我は爾に感謝せん、
    汝、我に答へて我が救となり給へばなり。
     (和唱)
 廿二、 工師《いへつくり》の棄たる石は
    隅の首石《おやいし》となれり。
 廿三、 是れヱホバの成し給へる所、
    我等が見て奇《あやし》とする所なり。
 廿四、 是れヱホパの設け給へる日なり、
    我等は此日に喜び且つ楽まん。
(475)     (独唱)
 廿五、 あゝヱホバよ、我れ汝に願ふ、救ひ給へ、
    あゝヱホバよ、我れ汝に願ふ、繁栄を下し給へ。
     (祭司和唱)
 廿六、 ヱホバの名に由りて来る者は福なり、
    我等はヱホバの家より汝等を祝せり。
 廿七、 ヱホバは神なり、彼れ光を我等に賜へり、
    列を繋ぐに枝を以てし、
    祭壇の角《つの》に至るべし。
     (独唱)
 廿八、 爾は我神なり、我れ爾に感謝せん、
    我神よ、我れ爾を崇めまつらん。
     (合唱)
 廿九、 ヱホバに感謝を奉れよ、彼は善なり、
    そは彼の恩愛《めぐみ》は永久に存ふべければなり。
編者曰ふ、第廿七節は難節なり、註解者の所説紛々たり、余輩は博士チーニー氏の改訳に従へり 「列を繋ぐ(476)に枝を以てし」は「列を繋ぐ小綱《をづな》を以て繋がれたる枝を以てし」の意なるべし、行列の各人手に枝を握りて進み、而して一行を結ばんがために枝は小綱を以て繋がれしが如し、約翰伝十二章十三節に録されたる行列に稍々似たる者なりしなるべし、「祭壇」は神殿内至聖所の前にありたり、「祭壇の角に至るべし」とは一行、列を正うして至聖所近くまで進むべしとの意なるべし。
 
(477)     イエスの受洗と其意義
         馬太伝二章十三−十七節
                     明治40年3月10日
                     『聖書之研究』85号「研究」
                     署名 内村鑑三
 
 イエスは洗礼をバプテスマのヨハネより受け給へり、是れ抑々何のためなりしか、彼に洗ふべき罪のなかりしは明かなり、故にヨハネは彼より洗礼を受けんとするイエスの乞を辞みて曰へり、我は汝よりバプテスマを受くべき者なるに汝反て我に来る乎と、世の罪を任《お》ふ神の羔を観てヨハネはイエスに洗礼の要なきを認めたり。
 然れどもイエスは強ひてヨハネより洗礼を受け給へり、是れイエスが洗礼の式其物に重きを置き給ひてにあらざるは彼が説き給ひし福音全体の精神に照らし見て明かなり。
 罪なきイエスは罪の悔改のバプテスマを受けて、自己の罪人の友なるを証し、陰に彼の側に立ちて彼の行為如何を目撃しつゝありしパリサイ及びサドカイの人々の自己を義とするの罪を責め、陽に心に罪を悔ひて赦免の恩恵に与からんと欲する罪人の義を賞め給ひしなり、イエスは衆人凝視の中に悔改のバプテスマを受け給ひて世が称して以て義士仁人と做す者の班を脱して罪人の中に己が身を投じ給へり、彼は後に税吏其他の罪ある人と食を偕にせしの故を以てパリサイ人の酷評を受け給ひし時に健か穎る者は援助を要せず、唯病ある者之を要す……夫れ我が来るは義人を招くために非ず、罪ある人を招きて悔改めさせんが為なり(太九〇十二、十三)と曰ひ給(478)ひしと同一の精神を茲に表顕し給ひしなり、イエスの洗礼は彼のすべての行為と等しく愛に出し勇敢の行為たりし也。茲に於てか余輩は彼がヨハネに答へて曰ひ給ひし言の意義の一斑を解するを得るなり、
  イエス答へけるは暫く許せ、かくすべての義き事は我等尽すべきなり(第十五節)。
 「暫く許せ」Aphes arti、蓋し当時の俗語にして、今日の日本語を以てすれば「構ふ勿れ」と云ふが如き者なりしならん、すべての義しき事とはすべての義しき律法の意に非ず、イエスは茲にヨハネに向て儀式の重要を弁
じ給ひしに非ず、pasan dikaiosunen はすべての義なり(義き事に非ず、義なる言辞の単数名詞なるに注意せよ)、義を一括せし者との意也、全節を左の如く改訳すべし。
  構ふ勿れ、そは(gar)かくすべての義を成就(plerosai)するは我等の為すべきことなればなり、
 イエスは茲にヨハネに告げて曰ひ給へり「汝、我に悔改のバプテスマを施すに躇躇する勿れ、そは我が今為さんとするが如くに為してすべての義を成就するは我等天国の民たる者の為すべきことなれば也、すべての義とは他なし、愛、是れなり、義者が不義者と班を同うし其ために死することなり、斯かる愛的行為をばすべての義を成就すると云ふなり、而して是れ我等の為すべき事なり」と。斯くてイエスは罪人のために人が為すことを耻ることを為し給へり、彼が洗礼を受け給ひしは無意義に一定の制式に服従してにあらず、罪人に対する彼の愛を表せんがためなり、彼の受洗は彼の十字架の前表に外ならず。
 斯くも勇敢なる愛的行為に出で給ひしかば、彼れバプテスマを受けて水より上がり給へる時、天忽ち彼がために開け、神の霊は鴿の如くに彼の上に降れり、又天より声ありて此は我心に通ふ我が愛子なりと云へり、勇敢の行為に伴ふに常に甚大の霊的報賞あり、イエスは自己を虚うし、断然茲に悔改のバプテスマを受けて罪人の友(479)たるを神と人との前に表白し給ひたれば、聖父は彼に報ゆるに異常の霊の賜物を以てし給ひしなり。
 罪人に同情を表するための勇敢なる愛的行為としての洗礼に至大の道徳的価値存す、然れども其他の意味の洗礼に何の用ある乎、余輩は之を知るに甚だ苦むなり。
 
(480)     余の基督教
                     明治40年3月10日
                     『聖書之研究』85号「談話」
                     署名なし
 
〇余の基督教を云為する者がある、然り、余の基督教は主イエスキリストである、余の基督教は余の懐く説ではない、又余の奉ずる主義ではない、余の与かる儀式でもなければ、又余の属す教会でもない、余の基督教は死物ではない、生者である、文字ではない、精霊である、余の懐く者ではない、余を懐く者である、木や石を以て造られたる教会堂に祭りこまるべき者ではない、無辺の宇宙に充実する者である。
○之を基督教と称するのが抑も間違の始めである、世に基督教なる者は実は無いのである、基督教を作らんとするが故にキリストは隠れて仕舞ひ給ふのである、生命は機械でないやうに、キリストは哲学組織でもなければ教会制度でもない、キリストはペルソナである、人である、又神である、人なる神である、神なる人である、彼は所謂哲学的|精確《プレシツシヨン》を以て表顕《いひあらは》し得らるべき者ではない、余はキリストはキリストであると言ふより外にキリストに就て言ふ辞を有たない。
〇然らば余の宗教は曖昧なる者であると云ふ者があらふ、否らず、決して否らず、すべての実在物の中で霊と識とを備えたるペルソナの如くに確実なる者はない、余は余の肉体の実在を疑ふことあるとも余自身の実在を疑ふことは出来ない、I AM「余は在る」余に取りて之よりも確かなることはない、其如くイエスキリストの実在は(481)天地万物の実在よりも確かである、我等は勿論彼に定義を附する事は出来ない、然れども我は我が信ずる者を知る(提摩太後書一章十二節)、我は我が父を知り、我が妻を知り、我が親しき友を知る(彼等に哲学的定義を附せずして)、其如く、然り、其れよりも確かに、我は我が霊魂の救主を知る、彼れありて我が信仰があるのである、我が信仰ありて彼があるのではない、我が信仰とは彼を信ずることである、我が宗教とは彼に事へまつることである。
〇伯チンチエンドルフ曰く「彼れのみ、唯彼れのみ」と、然り、キリストのみ、唯キリストのみ、キリストは我が教師、我が兄弟、我が友であるばかりではない、彼はまた我が義である(哥林多前書一章三十節)、我が潔めである(仝)、我が贖ひである(仝)、我が生命である(約翰伝十一章廿五節)、我が復生《よみがへり》である(仝)、我が逾越《すぎこし》である(哥林多前書五章七節)、我が祭司の長である(希伯来書三章二節)、然り、彼は我が凡ての凡てゞある(哥羅西書三章十一節)、我が宗教も我が道徳も我が救拯も我が天国もすべてキリストに於て在るのである、キリストを離れて我が基督教はないのみならず、我が信仰も希望も愛もないのである、我はキリストに頼りて生き、動き、且つ有ることを得る者である(使徒行伝十七章廿八節)。
〇斯く云ふと又或人は我に言ふであらふ、汝の宗教は神秘的である、幽玄にして捕捉し難しと、多分爾うであらふ、然しながら生命とは斯かる者ではあるまい乎、生命はすべて神秘的であって捕捉し得べからざる者ではあるまい乎、爾うして宗教は人の霊的生命であると云へば其神秘的なるは勿論である、神秘的ならざる者は宗教にして宗教にあらず、渠《か》の神秘的ならざる宗教を見よ、渠の機械的なる外国伝来の数限りなき宣教師的基督教を見よ、渠の理論と哲学とを以て組立てられたる神学者の宗教を見よ、是れ弄ぶに善き玩具ならん、是れエデンの園に(482)人類の始祖を滅亡に誘ひし樹の実の如く食ふに善く見るに美麗はしからん(創世記三章六節)、然かし人を永生に導く生命でないことは一たび之を味ふた者の皆な知る所である、宗教は神秘的でなくてはならない、パウロの宗教も爾うであつた、ヨハネの宗教も爾うであつた。科学的であると云ひ、哲学的であると云ひて神秘的でない宗教は偽《いつはり》の宗教である。
〇人なるキリスト、今は天に在りて神の右に座し給ふキリスト、世の始より殺され給ひし神の羔彼が余の希望、余の生命、余のすべてゞあるのである、若し此事が神秘的であつて、判明らないと云ふならば、夫れは余の罪ではない、判明らない人の不幸である、斯かる人は己に省みて斯かる真理が自明の真理となりて示さるゝやう真理の神に祈るべきである。
   鷲の山誰かは月をみざるべき
     こゝろにかゝる雲しなければ。    (西行法師)
 
(483)     聖書の研究法に就て
         (内よりすべし、聖霊に由るべし、実験を以てすべし)
                     明治40年3月10日
                     『聖書之研究』85号「談話」
                     署名なし
 
〇聖書は之を外から見ては判明らない、然かし内から見れば善く判明る、之を所謂る歴史的に見れば支離滅裂の書である、然かし信仰的に見れば完全無欠の書である、聖霊に由て書かれたる聖書は聖霊に由らざれば如何しても判明らない、今の所謂る批評学者なる者が聖書を解するに甚だ困むのは是れがためである、ルーテルは「神学は音楽の一種である」と云ふた、然れども今日の神学の如くに煩混錯節の者はない、史眼を以てのみ聖書を解釈せんと欲する者は此紛糾に陥らざるを得ない。
〇キリストは人である乎、神である乎、肉体の復活は有ることである乎、無いことである乎、キリストが死より甦りしといふことは、是れは客観的事実である乎、或ひは単に弟子等の心に存せし主観的信仰である乎、是等の問題を歴史的にも、文学的にも解決することは到底出来ない、否な、歴史も文学も人に関することであれば、之を以て神のことを究むることは出来ない、爾うして若し歴史以外、文学以外に、神の真理を発見する途がないとならば、神の真理は到底発見し得られないものと断念するより外はない。
〇然しながら神のことなればとて人には如何しても解らないと云ふのではない、人にも亦た神のことを解かるた(484)めの機能《フエカルチー》が備えられてある、爾うして其機能とは才能でもなければ智能でもない、或は又之を霊能とも称することは出来まい、神のことを知るための機能は人の良心である、良心其物は勿論神ではないが、然かし良心に由らずして人は神を知ることは出来ない、神の声は之を良心に聞き、神の顔《みかお》は之を良心に拝し奉るのである、良心に大変動が来つて、其根本から潔められない以上は、いくら考へてむ、いくら研究しても神の事は解らない、否な、聖められない良心を以てして神のことは之を究むれば究むる程懐疑紛雑を増すのみである。
〇爾うして聖められたる良心とは他のものではない、改悔めたる心である、詩篇に所謂る砕けたる悔いし心である(第五十一篇十七節)、是れは神の前に最も貴いものである、神は人の智慧を笑ひ給ふが此心を窮め給はない、爾うして此心を以て見れば神の事はよく解かる、聖書も亦矛盾と衝突とを以て充満たる書ではなくなる、キリストが若し汝の目明かならば全身も亦明かなるべし、若し汝の目|※[目+毛]《あし》からば全身も亦暗かるべしと曰はれたのは此事を曰はれたのである。
〇茲に於てか自己の罪を認めない者と神のことに就て言争ふの要が全くなくなるのである、是れは性来の盲人と色のことに就て言争ふと同然で、全く詮のない事である、キリストが神であるとか、人であるとか云ふことは是れは決して歴史問題ではない、循て聖書の句を繰返したればとて決定《さだ》まる問題ではない、是れは道徳問題である、キリストが弟子等に汝等は我を言ひて誰とする乎(馬太伝十六章十五節)と問ひ給ひし時に彼は彼等の智識を試めし給ふたのではない、彼等の心を糺し給ふたのである、人のキリストに対する態度に由て其人の道徳的価値が定まるのである、老いたるシメオンが嬰児《をさなご》イエスの両親を祝ひて其母マリヤに向つて
  此嬰児はイスラエルの多くの人の亡びて且つ興らん事と誹駁《いひさからひ》を受けんその号《しるし》に立てらる、是れ衆《おほく》の心の念《おもひ》の(485)露はれんが為なり(路加伝二章三四、三五節)
と曰ひしは人類の中に於けるイエスの此地位を明かにしてである。
〇勿論イエスは神なりと言ひたればとて、其人が神の前に聖い人であるとは限らない、何事なりとも言ふことは至て容易くある、故に最も卑しき人にして最も卑しき動機よりイエスは神なり、聖書は神の言葉なりと言ふ者は饒多ある、言ふとは言ふまでもなく唇を以て言ふことではない、宣教師の口吻を真似ることではない、言ふとは心より湧出ることである、信仰の表白である、パウロの所謂る汝、口にてイエスを認《いひあらは》はし(表白し)又心にて神の彼を死より甦らしゝを信ぜば救はるべしとは此事である(羅馬書十章九節)、爾うして此深い意味に於ては人は先づ其心の罪を聖められざればイエスはキリストであると言ふことは出来ない。
〇イエスの復活に就ても同じである、復活は歴史的事実であつた、然しながら夫れと同時に人類の道徳的事実である、イエスの復活はイエス一人に関したることではない、是れは人類全体に関したることである、殊に彼に由て罪より救はれんと欲する者に関する事実である、故にパウロはイエスは我等が義とせられん為めに甦へらされたりと言ふて居る(羅馬書四章二十五節)、神に義とせらるゝの必要を感ぜざる者が如何に聖書を精しく調べやうがイエスの復活の真偽は解らない、先づ之を良心問題とし、其解決が就いて、然る後に其歴史的解決が就くのである、歴史的の解決が就いて然る後に良心を満足し得るのではない、多くの人がキリストに就て躓く理由は、彼等が先づ第一に彼を歴史的に知らんと欲するからである、イエスはアレキサンドルやナポレオンのやうな所謂る歴史的人物ではない、即ち一時歴史の舞台に現はれて然る後に消えて仕舞つた人物ではない、彼は歴史以前より在りし者であつて、今も尚ほ在る者である、若しも彼が斯かる者でないならば彼は人類の救主ではない。
(486)〇斯く言ひて我等は勿論イエスの歴史的研究を恐れる者ではない、我等も亦屡々歴史的に彼を研究する、然しながら彼は歴史以外に渉る者であれば、歴史丈けにて判明る者ではない、イエスキリストは昨日も今日も永遠までも変らざる者なり(希伯来書十三章八節)、斯かる者は歴史以外に、実験的に、又形而上学的に研究すべき者である、今在るキリストを知るにあらざれば二千年前に在りし彼を知ることは出来ない。
 
(487)     洗礼と信仰
                     明治40年3月10日
                     『聖書之研究』85号「談話」
                     署名なし
 
〇洗礼を受けない者は基督信者でないと云ふ、去らば余の如く洗礼は受けたれども之を返納した者は基督信者でないのである、又余と等しく心にキリストを信ずると雖も頭に洗礼を受けない者は基督信者でないのである、キリストのために世に迫害《せ》められ、キリストのために身と心とに傷を負ふ者でも牧師、宣教師、伝道師等より水の洗礼を受けない者は基督信者でないとのことである、之に反して、党を結び、友を売り、偽はり、欺き、世に媚び、富を追求する者でも水の洗礼を受けたる者はすべて基督信者であるとのことである、嗚呼、若し然らば基督信者たることは如何に易きぞ、余は基督信者となりてキリストを離れんよりは寧ろ基督信者たらずしてキリストの心を識らんと欲する。
〇洗礼を受けなければ基督信者として認められない、循て宣教師と教会信者の仲間に納《う》けられない、循て其すべての俗化、すべての腐敗より免がるゝことが出来る、洗礼を受けずして我等は身を安全の地位に置く者である、幸福なることの一は確かに水の洗礼を受けざることである。
〇誰が基督信者である? キリストの如くに世に憎まるゝ者、彼の如くに世に枕する所なき者、彼と苦痛を偕にする者、荊棘《いばら》の冠を着せらるゝ者、此世の政府と教会とに十字架に釘けらるゝ者、是れが基督信者である、若し(488)バプテスマ(洗礼)を受くべしとならば聖霊のバプテスマを受くべきである、若し聖餐式の必要があるとならば、迫害の苦き杯を飲むべきである、我等に取りては之を除いて他に洗礼もなければ聖餐式もない
〇聖書に水の洗礼のことが書いてある、故に洗礼を受けない者は基督信者でないと云ふ、然り、同じ聖書に、盗む者、姦淫する者、兄弟を謗る者、財貨を愛する者は基督信者でないと書いてある、故に洗礼を受けない者が基督信者でないとならば、洗礼を受けながら此世の思慮《こゝろづかひ》と貨財《たから》と各様《さま/”\》の情欲とに蔽はれて居る者はすべて基督信者でないのである、基督信者でない者は水の洗礼を受けずして教会の外に立つ者ばかりではない、教会の内に在て罪を犯しながら自己の罪を認めざる者も亦すべて基督信者でないのである。
〇昔時《むかし》は洗礼を受くることは多くの苦痛であつた、之は古き宗教と絶ち悪しき習慣を去ることであつた、今は然らずである、今は水の洗礼を受くることは教会と宣教師との保護を蒙ることである、多くの社交的便宜を得ることである、洗礼を受け、教会信者となりて富を作つた者もある、教育を受けた者もある、今は洗礼を受くることはキリストイエスを識るを以て最も勝れる事とするが故にすべてのものを損となすことではない(腓立比書三章八節)、物質上并に社交上多くの利益を受くる事である、今の洗礼なるものが害あつて益なきは之れが為めである。
〇基督信者でなくても可い、キリストを信じ其聖足の跡を践み、其救ひに与かれば足る、洗礼信者は一団となりて其行かんと欲する処に行くべしである、我等洗礼を受けざる信者も亦キリストの十字架を担ひながら我等の行くべき処に行くべきである、我等は基督信者と認められざればとて何の苦痛をも不快をも感ぜざる者である。
 
(489)     無教会主義の前進
                     明治40年3月10日
                     『聖書之研究』85号「雑録」
                     署名なし
 
〇無教会は進んで有教会となるべきである、然し在来の教会に還るべきではない、教会ならざる教会となるべきである、即ち教会を要せざる者の霊的団体となるべきである、斯かる団体が直に又教会と成り易きは余輩の充分に認むる所である、然かし其場合に於ては又直に之を壊つべきである、教会は生物の体躯と均しく永久に壊ちて永久に築くべき者である、教会も亦生物と均しく其恐るゝ所は結晶である、無教会主義は其一面に於ては結晶せる教会の破壊である、他の一面に於ては生ける教会の建設である、而うして無教会が結晶して又所謂る教会となる時には無教会主義を以て又之を壊つべきである、キリストの王国は斯の如くにして発達する、余輩は安心して大胆に進むべきである。
〇爾うは言へ、無教会主義も亦ゼントルマン的でなければならない、彼は在来の教会の自由と平和とを妨げてはならない、故に彼は其道を教会内に説いてはならない、彼はパウロの如くに異邦人の中に適《ゆ》くべきである(使徒行伝十八章六節)、爾うして若し教会を建つるの必要があるならば彼等無教会信者の中に建つべきである。
〇無教会主義は又教会内の不平家を糾合せんことを努めてはならない、彼は全く教会を離れて働くべきである、教会と関係ある者、又はありし者は成るべく避くべきである、日本国に未だ福音を信ぜざる者は数千百万人ある、(490)少数の基督信者を誘ふて我が味方となす必要は毫もない、我等は純粋の不信者を我が味方となすべきである、我等は進んで心霊界の叢林に入つて其獅子と虎とを捕ふべきである、教会の庭園に入つて其馴れたる鹿や羊を盗むべきではない。
〇余輩はすべてのキリストを愛する者を尊敬する、然しながら今の教会に関聯して余輩の手と足とを纏はるゝを好まない、余輩は福音の急先鋒ならんと欲する、故に監督制度や憲法政治の束縛を離れて自由の活動を許されたく欲ふ、余輩は彼等を妨げない、故に彼等に妨げられたくない、余輩は又今日まで彼等の援助を乞はざりし如く、今後も亦彼等に頼るまいと思ふ、余輩は天国に於ては彼等と偕になりたく思ふなれども、然し、此世に於ては彼等と離れて居ることを望む、是れ余輩に寛容の精神が足りないからではない、福音のためである、聖書に曰く、
  聖霊曰ひけるは、我がためにバルナバとサウロを選別ちて我が彼等に命ぜし所の事を行はしめよ(使徒行伝十三章二節)
と、分離は必しも悪いことではない、主のためにすれば甚だ善いことである。〇無教会主義であればとて決して放埒に流れてはならない、我等は外形の儀式は之を軽んずるも福音の精要には固く縋るべきである、我等は所謂る正統教会とは何の関係も有たないが、然かし聖徒に一たび伝へられし信仰の道のためには力を尽して戦はん事を欲する(猶太書三節)、余輩は自由を重んずるがユニテリアン主義を取らない、常識を貴ぶが肉体復活の信仰を棄てない、余輩は出来得る丈け新約聖書を其儘に実行せんと欲する。
〇余輩の行為を単独突飛の行為と見做す者は間違つてをる、余輩の同志は我日本国に多くあるばかりではない、外国にも少くない、殊に丁瑪国有名の思想家ゼーレン・クリーケゴールドの如きは余輩の先導者と称すべき者(491)である、彼が如何なる人物である乎、彼の信仰は如何なるものである乎は、余輩の友人 W・グンデルト氏に由て遠からずして本誌の読者に紹介せられるであらふ、丁瑪国は小国であるなど曰ひて決して侮るべきではない、大なる思想は常に小なる国より出来たる、基督教を産みしユダヤは小国であつた、西洋文明を産みしギリシャも小国であつた、余輩近頃神の導きに由て丁瑪国と少しく縁を結ぶに至て、其心霊的には遙かに大米国以上の国でぁることを発見した、彼れクリーケゴールドの言の如きは大に余輩を励ます者である。
〇率ざ来れ、我が信仰の友よ、立つて今より後又進まんかな、松の梢に奏づる風を我が音楽となし、蓊れる森を我が祈祷の座と定め、罪人を我が友となし、愛に縛らるゝの外、何物にも縛られずして、広き世界に自由の福音を宣伝へんかな。
 
(492)     信仰のパラドックスと其教訓
                     明治40年3月10日
                     『聖書之研究』85号「雑録」
                     署名なし
 
〇バラドックス、之を逆説と訳す、理に於てはあるべからざる事にして実際に於ては有ることを云ふ。
〇信仰のバラドックスとは是れなり、即ち信仰の有る人、必しも善人に非ず、信仰の無き人、必しも悪人に非ずとの事是れなり、信仰の有る善人あり(是れ最善の善人なり)、信仰の有る悪人あり(是れ最悪の悪人ならざるべからず)、信仰の無き善人あり、信仰の無き悪人あり、是れ皆な実際上の事実なり。
〇然らば信仰は之を廃棄すべき乎と云ふに是れ亦為す能はざる所なり、信仰は永久に人の心より絶えざるべし、其悪人に由て懐かるゝにも干はらず、或る場合に於ては熱く彼等に由て懐かるゝにも関はらず。
〇然らば我等は如何になすべき乎? 信ぜんのみ、善ならんのみ、信ぜずして善なる者を迎ふることあるも、信じて悪なる者を避けんのみ、人生の事実は避んと欲して避くべからず、善は必しも信仰と伴はずとは悲むべき事実なり、然れども是れ事実なり、故にバラドックスなり、故に避くべからざる事なり。
〇福音の奥義に明かにして悪しき人あり、福音を嘲けり、神とキリストとの存在を否む人にして善き人あり、故に我は誇らざるべし、我は福音を暁るの明を神より賜はりたればとて。我が所謂るオルソドキシー(正教)は我を救はざるべし、我は我が唱ふる教義の正しきが故に善人なるに非ず、人は大悪人にして大神学者たるを得るなり、(493)而して大神学者なるが故に己れ神の天国に於て大なる者なりと迷想する事あり、是れパリサイ人の陥りし迷想なり、而して我も慎まざれば亦此迷想に陥り易し、誰か己の過失を知り得んや、願くは我を隠れたる愆より解放ち給へ(詩篇十九篇十二節)、我等各自に此自省と祈願となかるべからず。
〇故に我等は信仰の表白に由て相集らざるべし、そは悪人も善人と同じ信仰の表白を為し得ればなり、然ればとて我等は又行為の同一なるに由て相集らざるべし、そは信仰を異にして心霊の和合は望むべからざればなり、我等は信仰行動両つながらの同一なるに由て相集るべし、然らば鞏固なる団合は成るべし、而かも斯かる同人は得るに甚だ難かるべし、随て成りし団体は数字的には甚だ小なる者なるべし、然しながら是れ雨降り、大水出で、風吹きて之を撞てども倒れざる団体なるべし、而して斯かる小なる固き団体を以てしてのみ、神の王国を地上に建設するを得べし、是れ預言者の所謂る人手によらずして山より鑿られて出で、鉄と銅と泥土と銀と金とを打砕く堅き石なり(但以理書二章四十五節)、此世のすべての国と教会とは亡ぶるも是石のみは立ちて永遠に至らん(仝四十四節)。
 
(494)     課題〔10「使徒パウロの単独 提摩太後書四章九−十八節」〕
                     明治40年3月10日
                     『聖書之研究』85号「雑録」
                     署名なし
 
   使徒パウロの単独 提摩太後書四章九−十八節。
 
  九、汝、務めて速かに我に来れ。
 汝、我子テモテよ、務めて速かに我に来れ、冬は至らんとす、航海は杜絶せんとす、而して我れ寂寥を感ずる甚だし。
  十の一、デマス此世を愛し、我を棄てテサロニケに往けり。
 デマスは医者ルカと共に曾てパウロと偕に羅馬の獄舎に在りし者なり(哥羅西書四章十四節) 然るに今や其師を棄て再び身を俗塵に投ず、彼れ此世を愛し、将さに福音の証人として屠られんとする老使徒を棄てテサロニケに往けりと云ふ、或ひは単に身の安全を計らんためにか、或ひは商売に従事せんためにか、或ひは羅馬政府の官吏となりて、此世の権威に服従せんためにか デマスは堕落信者の好模範なり、世に真正の伝道師のあらん限りはデマスの輩は絶えざるべし、或は曰ふ、デマスはエペソの銀工デメテリオと同一の人なりと(使徒行伝十九章廿四節)
(495)  (十の二) クレスケンス、ガラタヤに
 茲に謂ふガラタヤはパウロが加拉太書を送りしガラタヤに非ずしてガリヤ即ち今の仏蘭西国なりとの説あり、古代の仏蘭西人はクレスケンスを以て彼等の教会の創設者と見做せり、彼のデマスの類にあらざりしは疑なきが如し。
  (十の三) テトス、ダルマテヤに
 提多書を受取りしテトスなり、パウロが「我が真子」と称びし者、故に彼がダルマテヤに往きしは其師を棄てゝにあらず、其命を受けて彼地に道を伝へんためなるべし、ダルマテヤはアドリヤ海の東岸に在り、今は墺地利国に属す。  (十の四) 惟ルカのみ我と偕に在り。
 「我等が愛する医者ルカ」(哥羅西書四章十四節)、パウロの旅行の侶伴《とも》、神より授けられし彼の侍医、ルカはパウロの病体を気遣ひて終生彼に附隠せしが如し、神の使徒《アポステル》(全権大使)パウロを看護して医師ルカは福音を擁護せり。
  十一、汝、マコを伴ひ来れ、そは彼れ我が職務に益あれば也。
 マコは一たびパウロを去りし者なり(使徒行伝十三章十三節)、然れどもデマスの如く世を愛してにあらず、故に後年に至りて使徒との和睦成り、今や再び其招く所となりたり、福音に忠実なる者は一たび相離るゝとも再び相合す、然れども「世を愛して」の分離は永久の分離なり、是れ再び調和すべからざるの離絶なり 〇「我が職務に益あり」 獄内に於ける我伝道を助くるに益あり。
(496)  十二、我れテキコをエペソに遣はせり。
 「我が愛する兄弟、忠実なる役者、我と偕に主に事ふるテキコ」(哥羅西書四章七節)、クレスケンスをガリヤ(仏蘭西)に、テトスをダルマテヤに送りし如く、我れテキコをエペソに遣せりと、老使徒、死に瀕して伝道を怠らず、獄内より使者を四方に発して弱りたる膝を強くす(希伯来書十二章十二節)。  十三、汝、来る時、我がトロアスにてカルポの所に遺しゝ外衣を携へ来れ、又書籍を携へ来れ、其皮なるもの尤も肝要なり。
 冬は至らんとす 我れ獄舎にあり 老体に寒気を感ず、汝、来る時にトロアスに立寄り、我がカルポの家に遺しゝ古き外衣を携へ来れ、我れ又鉄窓の下に寂寥を感ずる甚だし、我は読書に我が英気を養はんと欲す、故に我が外衣と共に遺せし書籍を携へ来れ、殊に其皮なる者を忘るゝ勿れ、我は古きを温ねて此所に我が孤独を慰めんと欲すと。
  十四、銅工アレキサンデル多く我を悩せり、主、彼れが行ひし所に循ひて報ひ給はん。
 銅工デマスは危急の場合に臨みてパウロを棄去れり、雨して銅工アレキサンデルは彼を此場合に誘ふの手引となりしが如し、「悩ませり」とある原語に 「訴へたり」との意ありと云ふ、若し然りとすれば彼れアレキサンデルはイスカリオテのユダがイエスに為せし事をパウロに為せしが如し、即ち其師を敵の手に附し、彼をして縲紲の身とならしめしが如し、然かも老使徒は彼を怒ることなく、単に「主、彼れが行ひし所に循ひて報ひ給はん」と云へり、即ち悪を以て悪に酬ゐることなく、退きて主の怒を待てり。
  十五、汝も亦彼に注意すべし、彼れ甚だしく我等の言に逆ひたり。
(497) 彼れ銅工アレキサンデルを憎む勿れ、然れども彼は悪人なり、彼に注意すべし、汝、我の如く彼の係蹄《わな》に罹る勿れ、彼れ甚だしく我等の言に逆ひたり、即ち一たび福音を信ぜし彼は近来に至り甚だしく之に逆ひたり、昨日の味方は今日の敵となれり、而して福音に叛きしが故に其使者たる我に叛きたり。
  十六、我が始めての公判に於て何人も我と偕に立たず、皆な我を棄去れり、願くは此事の彼等に報ひられざらんことを。
 今は「愛する医者ルカ」我と偕に在り、然れども我れ始めて公判に附せらるゝや何人も我が側に立ちて我がために弁護し又我の証人となる者なかりき、我友は皆な其時我を棄去れり、皆なデマスの跡に従へり、我れ神に願ふ、此不信背棄の罪の彼等に報ひられざらんことを。
  十七の上、然れども主は我と偕に立ち給へり、而して我を力づけ給へり、是れ我に由りて道の知れ渡りて異邦人をして之を聴かしめんためなり。
 友は我を棄去れり、我は独り裁判官の前に立てり、然れど我は単独ならざりし、主は我が側に立ち給へり、而して我を力づけ給へり、主が斯く為し給ひしは特に我が身を護らんためにはあらざりし、福音の我に由りて衆人に知れ渡り、異邦人をして之を聴かしめんためなり、我が公判は伝道の好機会となれり。
  十七の下、我は獅子の口より引出されたり。
 主の弁護と助力とに由りて我は大なる危険より免がるゝを得たり 〇茲に云ふ獅子とは何を指したるや、或ひはネロー帝なる乎、或ひはサタンなる乎、或ひはローマの円劇場《アムフイシヤトル》に獅子と格闘せしめらるゝの危険より免がれしを云ふなる乎、今に至て判定し難し 〇「引出されたり」 強力を以て引出されたり、我が敵の企図と我が予期(498)に反して奇《ふしぎ》にも引出されたり。
  十八、主また我をすべての悪事より引出し給はん、而して我を救ひて其天国に入れ給はん、願くは栄光世々窮なく彼に帰せんことを、アーメン。
 我を今獅子の口より引出し給へり、其如く主は将来と雖もすべての悪事より我を引出し給はん、而して悪事より我を引出し給ふに止まらず、更らに進んで我を救ひて其天国に入れしめ給ふべし、斯かる救主を我は称讃し奉らざるを得ず、願くば栄光世々窮なく彼にあれかし、アーメン。
       ――――――――――
〇単独のパウロは単独に非ず、大なる弁護士、大なる慰藉者の常に彼の側に座するあり、彼は詩人の言を藉りて曰ひしならん、主、我を助くる者なれば我に恐怖なし、人、我に何を為し得んと(詩篇百十八篇六節)、彼は独り裁判官の前に立ちて人に鞫かるゝ者にあらずして、世を鞫く者なりき、強き者彼と偕に立ちたればなり。
〇去れよ、デマスよ、アレキサンデルよ、我は我がために汝等が我を棄去りしを悲まず、汝等が我を棄去りし前に既に汝等の救主を棄去りしを汝等のために悲むなり、願くば此事の汝等に報ひられざらんことを、生命の主を棄去りし結果として永遠の沈淪《ほろび》に至らざらんことを。
〇人去て、主来り給ふ、人無き所に主は在し給ふ、人の我を去るは我をして独り主と偕ならしめんためなり、喧しき世の人よ、世の教会よ、汝等我の単独を憐むの要なし、反て之を羨めよ、而して汝等が群衆喧轟の中に在りて細き静かなる主の声を聞く能はざるを悲めよ。
(499)       ――――――――――
  次回課題左の如し
    キリストの謙遜
     腓立比書二章五−九節
 
(500)     『研究』読者の慈善心
                     明治40年3月10日
                     『聖書之研究』85号「雑録」
                     署名なし
 
 木村蓬峰君の筆に成りし在信濃藁科家に係はる記事の本誌の紙上に現はれし以来、暖かき同情は国の四方より到り、日ならずして予想外の同情物を難める家族に送るを得て余輩は感謝の至りに堪えず、我等イエスの婢僕たる者に取りては慈善は最大の善に非ず、然れども慈善は確かに最大の快楽なり、与ふるは受るよりも幸福なり、而して我等は今回少しく此幸福に与かるを得て神に感謝して止まざる也。
 今日までに受取りし金員総額金四拾壱円九拾九銭五厘、寄贈者総数三十二名、寄贈者姓名并に各自の寄附金は先方に通知せり、茲に諸名の厚意を謝し、イエスの恩寵の諸君の上に裕かならんことを祈る。
 
(501)  別篇
 
  〔付言〕
 
  東京牛込光照寺住職糸山篤恂
  「法然上人について」への付言
        明治39年7月10日『聖書之研究』77号「講演」
 
 内村生白す、糸山師は余の益友の一人なり、君はよく余の基督教を解し、余もまた深く君の仏教を重んず、君、近頃余の家を訪ふて君の理想の人法然上人に就て語る所あり、余は斯かる宗教家の我が同胞中にありしを聞いて大に余の志を強くせり、蓋し日本の仏教史はやがて其基督教史なるべければなり、依て余は君に乞ふて君の談話の一節を本誌に掲げんとせり、君、今余の乞を納れられて本篇を送らる、至誠はすべての信仰の基底なり、仏教宣基督教の敵ならんや。
 
  住谷天来「農聖|枢哲夫《スーテヱツフ》の性行」への付言
        明治39年8月10日『聖書之研究』78号「寄書」
 
 内村生曰ふ、スーテヱッフの信仰、蓋し之を新約聖書の唱ふる福音的信仰と称すること能はざるべし、然れども直截的に基督の教訓其儘を実行せんとする勇気と熱心とに至ては余輩大に彼に学ばざるべからず、蓋し露西亜人の情性たる日本人のそれに似て、純潔を愛し、直進を貴ぶ、弁証は彼の忌む所、彼は悪人ならざれば、直に其正反対なる純聖人ならんと欲す、露西亜人の愛すべき点は此に存す、余輩はトルストイ、ニコライ・ガイ、ヴェレスチャギン又は本篇の題目なるスーテヱッフの為人に就て読む毎に深く此感に撃れずんばあらず、英米人に由て余輩に紹介されし露西亜人は悪の極端に走りし露西亜人なり、然れども善の極端に走りし露西亜人(502)に就て我等日本人は知ること至て尠し、スーテヱッフは蓋し斯かる露西亜人の一人なるべし、冷算的にして物質的なる英米人と較べ見て豚群の中に麒麟を見るの感あり。
 
  小児専攻者 文学土 倉橋惣三
  「聖書と小児」への付言
       明治39年12月10日『聖書之研究』82号「寄書」
 
 内村生白す、倉橋君は角筈聖書研究会員中古参者の一人なり、今、君の筆に由り斯くも有益にして深遠なる研究を見るに至りしを感謝す。
 
  日向 故北郷四郎君「臨終の歌」への付言
       明治40年2月10日『聖書之研究』84号「雑録」
 
 君の友人某氏より送られし者なり、君は本誌多年の読者にして又無教会主義の基督信者なりしと云ふ、去年三月三日三十三歳を一期として永眠せらる。
 編者曰ふ、誰か之を死と言はんや、是れ死に非ず、就眠なり。
 
  信濃 木村蓮峰「予が所見」への付言
       明治40年2月10日『聖書之研究』84号「雑録」
 
 内村生白す、若し本誌読者諸君の中に此|患《なや》める一家族に同情を表せんと欲せらるゝ方あらば之を当方に送られんことを望む、当方のものと合して之を先方に送達すべし。
 
(503)  〔社告・通知〕
 
 【明治39年1月1日『無尽燈』11巻1号】
   〔『無尽燈』誌の質問「学生と宗教」に対する返信〕
 
 拝啓、貴社益御隆盛奉慶賀候、陳者学生の宗教問題に付き、愚見御要求に相成候へ共、目下の処小生は別に是ぞと申す意見無之候間左様御承知被下度願上候早々。
 
 【明治39年1月15日『新希望』71号】
   友誼の交換
 
 本年も例年の通り、然かり、例年より多く、全国、海外、并に出征中の読者諸君より歳末歳始の賀状を賜はりたり、茲に篤く諸君の厚意を謝し、併せて主イエスキリストの恩、神の愛、聖霊の交はり、我等すべてと偕にあらんことを祈る。
 千九百〇六年一月         内村鑑三
 
 【明治39年4月10日『新希望』74号】
   本誌名称復旧に就き謹告
 
 本誌はもと『聖書之研究』と称したりしが咋年五月『新希望』と改題せり、而して改題は少しく社会の意嚮に適ひたりけん、読者は改題以前に比し殆んど三割を増加せり。
 然れども本誌の内容は依然として聖書の研究なり、余輩は特に来世の希望に就て語らんと欲せしかども、霊的生命保全の必要上、常に基督教々理の全体に就て語らざるを得ざりき、故に改題は読者増加の目的は之を達したらんも、余輩は特に改題其物の目的を達すること能はざりき、是れ特に余輩の罪にはあらざるべし、人生常態の然らしむる所なりと信ず。
 殊に『研究誌』の名は旧来の読者に由て忘れられざるなり、彼等の多数は今に至るも猶ほ之を『聖書之研究』と呼んで止まず、『研究誌』の名は深く彼等の心に彫まれしが如し、今に至て新名称の取て之に代はり得べきにあらざるが如し。
 『聖書之研究』の名はまた海外にまで知れ渡るに至れり、信書の欧洲より余輩の手許に達する者にして日本東京『聖書(504)之研究』一名『基督の為め国の為め』雑誌記者の宛名を以てする者多し、深く内地読者の心に彫まれし此名称はまた広く外人の知る所となれり。
 名は実を示さゞるべからず、基督教の聖書の研究を目的とする本誌は『聖書之研究』と称するを可とす。
 名は最も深く人に愛せられ、又最も広く知られたる者を良しとす、既に海の内外に知れ渡りし本誌の旧名は之を復活せざるべからず。
 余輩はまた更らに言はんと欲す、名は少しく聞こえ悪しきを良しとすと、そは聞え善き名は腐敗し易ければなり、非基督教国なる日本に於ては聖書の名は新希望のそれよりも聞こえ悪し、而して聞こえ悪しき丈けそれ丈け世の腐敗に染むの危険尠し、余輩は美名を以て世を余輩に引附けんことを懼れ茲に再び不人望なる『聖書之研究』に帰らんと欲す。
 若し夫れ旧名復活に由て多少の読者を失ふことあるも余輩の得る所は優に失ふ所を償ふに足るべし。
 茲に謹んで名称復旧を読者諸君に広告す。
 次号より本誌を再び『聖書之研究』と称すべし。
 号数は勿論本号の後を逐ふべし、記事体裁等は旧来と少しも変る所なし。
 更らに読者諸君の賛助を祈る。
 
   改称謹告
 
 本誌事次号より旧名に帰り『聖書之研究』と改題致し候に付ては本社も自今旧名に復し『聖書研究社』と改称仕り候間読者諸君に於ても左様御承知被下度候
  明治三十九年四月            新希望社
 ――――――――――
     AN IMPORTANT ANNOUNCEMENT.
 This Magazine shall resume its former title,and be again called SEISHO-NO-KENKYU(Biblical Study)from the next issue.
               Shinkibo-sha.
                     April,1906
 
 ――――――――――
   課題の設置に就て
 
 本誌に於て今後毎号課題を設け、之に対する読者諸君の簡(505)短なる説明、感想、又は信仰歌の寄送を乞はんと欲す、寄送文はすべてはがき一枚に記入し得るものを限りとす、別に報酬を呈する能はず、掲載の寄送文に対し雑誌一冊、又は角筈パムフ ット三冊、外は約百記註解一冊を御指命に従ひ呈送すべし。
 左の聖句を以て次号の課題と定む
    彼得前書二章二十四節
 原稿〆切四月三十日
 
                  内村鑑三白す
 【明治39年5月10日『聖書之研究』75号】
   紙面緊縮に就き予告
 
 紙価騰貴に付き現時の定価を維持せんため本誌次号より従来の六十四頁を五十六頁に減じ、之れと同時に更らに記事の精選を行ひ、一頁に対する字数を増加し、以て小にして力ある雑誌たらんことを期す、茲に予め読者諸君に謹告す。
                  聖書研究社
 神若し許し給はゞ次号より再たび約百記註解を始めんと欲す。
 
 【明治39年7月10日『聖書之研究』77号】
 毎月下旬は雄誌編輯多忙に付き御訪問御差控へ被下度候
                  内村鑑三
 
 友人各位
 
 【明治39年10月10日『聖書之研究』80号】
   謹告
 
 自今小生万一病気又は其他の止むを得ざる事故のため執筆致し難き場合有之候節は其月に限り本誌休刊致し候間此旨予め御承知置被下度候。
  十月              内村鑑三
 
(506) 【明治39年12月10日『聖書之研究』82号】
   祝賀
 
 楽しきクリスマスの読者諸君の上にあらんことを祈り上候
  明治三十九年十二月
                  内村鑑三
                  一家一同
 
 【明治40年1月10日『聖書之研究』83号】
   謹告
 
 小生義毎月上旬下旬は雑誌編成にて多忙に御座候間御訪問は中旬に願上候
 友人各位             内村鑑三
   ――――――――――
 都合あり、本月分の課題は之を来月に廻し候、尚ほ続々と御投稿を乞ふ。
 
   感謝
 
 全国并に海外の読者諸君二百〇七名より歳末歳始の御慰問に与かり茲に厚く御礼申上候、諸君の御姓名は之を友人録に留め永く記憶仕るべく候。
  明治四十年一月         内村鑑三
 
 【明治40年2月10日『聖書之研究』84号】
   謹告
 
 小生義今年も亦昨年と同じ疾病に罹り、為めに今月分雑誌編輯意の如くならず、偏に読者諸君の御寛容を乞ひ申候、但し至て軽症にて既に略ぼ本復致し候間乍余事御安心願上候。
  二月             内村鑑三
   〔2022年2月9日(水)午前11時40分、入力終了〕