内村鑑三全集18、387頁、4200円1981.9.24

　

(�D)　　　目次

　

凡例

　

一九一〇年（明治四三年）二月−一二月

我が喜び　他…………………………………………三

　　　我が喜び

　　　神に関する智識

　　　根本問題

　　　結実《みのり》の秋

　　　真面目と成功

「シロアムの細流」…………………………………六

清秋独語………………………………………………八

博愛　他……………………………………………一一

　　　博愛

　　　合同

事業以上　他………………………………………一二

　　　事業以上

　　　聖書研究の範囲

　　　負罪の意義

　　　正義と慈悲

(vi)　　　説明と信仰

　　　神と信仰

　　　智能と信力

　　　平和の獲得

　　　潔《けつ》と救《きう》

　　　事業以外

　　　事業の尋問

　　　教会と救

　　　トルストイ翁を弔ふ

　　　福音対此世

新約聖書に現はれたる思想の系統…………………一八

伝道師に非ず　他……………………………………二九

　　　伝道師に非ず

　　　交際と最後の裁判

今の教育………………………………………………三〇

希望と長命……………………………………………三一

クリスマスの意義……………………………………三一

　

一九二年（明治四四年）

新年と神の愛　他……………………………………三七

　　　新年と神の愛

　　　神は愛なり

　　　新年の祈?

　　　新年の感謝

　　　希望と信仰

　　　人と信仰

　　　伝道と救済《すくひ》

　　　語る理由《わけ》

(vii)教育の基礎としての信仰………………………四一

善き事…………………………………………………四三

教会とは如何なる者である乎………………………四四

偉大なる哉聖書　他…………………………………四六

　　　偉大なる哉聖書

　　　真の交際

　　　詩欝第百六篇十五節

　　　詩篇第百二十篇五節

　　　欲しき者

　　　信仰の意義

　　　幸福なる家庭

我の為し得ること　他………………………………五二

　　　我の為し得ること

　　　罪の赦し

　　　三位一体

　　　善の報賞

　　　神と善

　　　大事業の成就

　　　基督教の特徴

　　　霊の深淵

　　　宗教家の資格

詩篇第百三十六篇……………………………………五七

神に選まれし者………………………………………六四

信仰の必要……………………………………………六五

(�G)二月中旬…………………………………………七〇

人格の否認……………………………………………七二

大なる小児　他………………………………………七三

　　　大なる小児

　　　神と共に働くと云ふ事

　　　文明と福音

　　　必要なるは唯一

　　　幸福と十字架

　　　全き救

　　　教会の真偽

　　　自由の貴尊

　　　信神、建徳、愛隣

　　　伝道は何のためなる乎

詩篇第十二篇…………………………………………七七

詩篇片々………………………………………………八五

　　（一）第百二十一篇、一、二節

　　（二）第三十篇五節

　　（三）第七十七篇、七、八節

　　（四）第七十六欝、一、二、三節、

　　（五）第百十八篇、八、九節、

　　（六）第七十一篇二十節、

　　（七）第六十二篇九節

　　　　　第五十篇二節

　　　　　第五十五篇二十二節

満五十歳に成りての感………………………………九三

近来の信仰に就て……………………………………九四

小地獄　……………………………………………一〇〇

(ix)自力と信力　他………………………………一〇一

　　　自力と信力

　　　義とするの力

　　　山を動かすの力

　　　吾人の職責

　　　教会と信仰

　　　教会と余輩と

　　　真理の直道

　　　永遠の我れ

　　　迷路に立ちでの祈?

待望の生涯…………………………………………一〇五

世渡りの困難………………………………………一一二

新約聖書の預言的分子……………………………一一三

基督信者の休息……………………………………一二四

余がキリストを要する時…………………………一二五

宗教の製作…………………………………………一三一

最大の事……………………………………………一三一

人の善悪　他………………………………………一三三

　　　人の善悪

　　　謂ゆる進歩

　　　戦争と繁栄

　　　個人性の衰退

　　　「活動」

(x)無政府主義者に非ず………………………………一三五

行路易し　他…………………………………………一三六

　　　行路易し

　　　自我の絶滅

　　　宗教の真偽

　　　今昔の敵

　　　寂寞と奨励

　　　平和と合同

　　　伝道の効果

　　　四福音書

　　　愛の遍在と其実現

　　　善行の感謝

地と世…………………………………………………一四二

毒麦の比喩……………………………………………一四六

神を識るの途…………………………………………一五四

安楽の途

我等の祈?　他………………………………………一五八

　　　我等の祈蒔

　　　審判く勿れ

To Our MISSIONARY-CRITICS．……………………一五九

住谷天来著『孔子及孔子教』序言…………………一六一

『洪水以前記』………………………………………一六三

(xi)　　　はしがき…………………………………一六四

国のために憂ふ　他…………………………………一六五

　　　国のために憂ふ

　　　徳と義

　　　訴ふべき所

　　　進化の法則

　　　信者に非ず信者也

　　　信仰と愛

　　　聴かれし祈求《ねがひ》

路加伝に由て伝へられたる主の祈?…………………一六九

神人の乖離………………………………………………一七六

社会の審判………………………………………………一八一

生活難を慰むる聖書の言葉……………………………一八二

教会とキリスト…………………………………………一八四

教会の必要………………………………………………一九一

FAITH OR CHURCH．…………………………………一九二

海乎山乎　他……………………………………………一九五

　　　海平山乎

　　　断えず祈るべし

神に助けらるゝ事………………………………………一九七

(xii)祈?の人……………………………………………一九九

我れ病める時に…………………………………………二〇二

神の全智全能に就て……………………………………二〇五

万全のキリスト…………………………………………二〇八

三個の駄目………………………………………………二一〇

聖書研究の話……………………………………………二一一

信仰的避暑………………………………………………二二四

確実なる三事　他………………………………………二二五

　　　確実なる三事

　　　其の自由

　　　神の恩恵

　　　神の実在

　　　密室の奉仕

　　　我等の祈求

　　　伝道者たるべし

　　　善業としての困難

　　　天国は近し

　　　政治と宗教

　　　儒教と基督教

　　　秋冷到る

神の国と其義……………………………………………二三〇

伝道者たるべし　他……………………………………二三三

　　　伝道者たるべし

　　　財産と道徳

(xiii)世界の平和は如何にして来る乎…………………二三四

最大幸福の事業…………………………………………二四一

世は果して進歩しつゝある乎…………………………二四二

愛と信……………………………………………………二四八

今世と来世　他…………………………………………二四九

　　　今世と来世

　　　補助と援助

　　　聖書に依るべし

MORE ABOUT MiSSlONARIES．………………………二五四

真《まこと》の教会………………………………………二五八

永久不変の愛　他…………………………………………二五九

　　　永久不変の愛

　　　祈帝と赦罪

　　　祈?の目的物

　　　義人たるの途

　　　福音と心理学

　　　子を持て知る

秋郊の歌……………………………………………………二六二

基督教の最大問題…………………………………………二六四

パリサイ人の偽善…………………………………………二七七

(xiv)唯一の書　他…………………………………………二八四

　　　唯一の書

　　　日本に於ける基督教の将来

　　　人と協はざる事の幸福

　　　平時の平和論

聖霊の証明　他………………………………………………二八八

　　　聖霊の証明

　　　而して如何？

　　　行違の福

　　　強ひて治癒を要めず

　　　人格と伝道

　　　忍耐

豊稔《ほうねん》の歌《うた》……………………………二九一

恩恵の生涯……………………………………………………二九五

デンマルク国の話……………………………………………三〇四

基督教と基督信者……………………………………………三一六

祈?　他………………………………………………………三一九

　　　祈?

　　　大事の遂行

　　　改悔の幸福

自由独立………………………………………………………三二二

祭司とは何ぞ…………………………………………………三二三

(xv)善悪の差別………………………………………………三二七

自己に関するイエスの無能…………………………………三三三

幸福目的の宗教………………………………………………三三九

神の国は能《ちから》に在り………………………………三四〇

恩恵と永生……………………………………………………三四六

クリスマス演説………………………………………………三四七

死以上の災害…………………………………………………三五七

　

別篇……………………………………………………………三五九

　　　〔付言〕………………………………………………三五九

　　　〔社告・通知〕………………………………………三六三

解題……………………………………………………………三六七

　

(3)　　　　　〔我が喜び　他〕

　　　　　　　　　明治43年11月10日『聖書之研究』125号　署名なし

　

　　　　　我が喜び

　

　我は我が事業の挙りしことを喜ばず、人の我に由りて主を信ずるに至りしを悦ばず、我は我が名の天に録《しる》されしを喜ぶ、主の僕《しもべ》として使役されしを悦ぶ、我は我が為し得る限りを為して益《えき》なき僕《しもべ》なり、我は我が為すを許されし少しばかりの善事に就て誇らんと欲するも能はざるなり。路可伝十章廿節。

　

　　　　　神に関する智識

　

　人は求めて神を知る能はず、然れども神は欲《この》みて自己《おのれ》を人に示すを得べし、人は神が自己を彼に示し給ふ丈けそれ丈け彼に就て知るを得べし　それ以上を知るを得ず、神に関する人の智識は神の自顕以上に達する能はず、人の智識を以て神を探らんと欲して人は何人も不可思議論者《アグノスチツク》たらざらんと欲するも能はざるなり。

　

(4)　　　　　根本問題

　

　夫れ道《ことば》肉体となりて我等の間に寄《やど》れりと云ふ、宇宙何事か之にまさりて偉大なる事あらんや、然れども是れ聖書の伝ふる事実たるなり、

　　彼（イエス）に由りて万物は造《つく》られたり、……万物は彼に由りて造られたり、且つその造られたるは彼がためなり、彼は万物より先にあり、万物、彼に由りて保つことを得るなり。

　神の愛は此事を以て顕はれたり、人類の救済と万物の復興とは此事を以て確《たしか》められたり、すべての方面より此事を証明するが基督者の任務たるなり、其の信じ難きは勿論のことなり、是れ人の智慧を以てして到底解し難きことなり、故にパウロは曰へり

　　人は聖霊に由るにあらざればイエスは主なりと謂ふ能はず

と、我等は神の黙示に由りてイエスは万物の主なりと信ずることを得るなり、孔孟釈基と称してイエスを聖賢の一人と見做す者の如き彼を浅く解する者なり、基督教の立つか倒るゝかはイエスの性格問題に由て決せらるゝなり、彼にして単に人ならん乎、福音は其根底に於て壊《くづ》るゝなり、我等は全力を注でイエスの神性を維持す可きなり。

　

　　　　　結実《みのり》の秋

　

　田は自《おのづ》から実《みの》りたり、聖語《みことば》は実《み》を結びたり、我れ実《み》を望まざるに実りたり、驚くべきかな聖語《みことば》！

　

(5)　　　　　真面目と成功

　

　今や大抵の人は言ふ、失敗は真面目の必然的結果なり、人は失敗を期するにあらざれば真面目なる能はずと、然らざるなり、失敗は不真面目の必然的結果なり、人は成功を期して真面目なるべきなり、真面目が此世に於ける事業の失敗を招ぐ場合なきにあらず、斯かる場合に於ては失敗は失敗にあらずして、反て成功以上の成功たるなり、真面目なるを失敗となし、不真面目なるを成功となす罪の此世は禍ひなるかな。

　

(6)　　　　　『シロアムの細流』

　　　　　　　　“By Cool Siloam's Shady Rill.”

　　　　　　　　明治43年11月10日『聖書之研究』125号　署名　内村生訳

　

涼《すゞ》しきシロアムの細流《ながれ》に沿《そ》ふて

　如何《いか》に美《うつ》くしく百合花《ゆり》は咲《さ》くよ

露《つゆ》けきシヤロンの小山《こやま》を払《はら》ふ

　微風《かぜ》は如何に香《かぐ》はしきかな

　

涼《すゞ》しきシロアムの細流《ながれ》に沿《そ》ふる

　百合花《ゆり》は終に衰《おとろ》へざるを得ず

シャロンの小山の裾《すそ》に生《は》ふる

　薔薇花《ばら》は終に凋《しほ》まざるを得ず

　

生命《いのち》と気息《いき》とを賜ふ神よ

(7)　我は汝の恩恵《めぐみ》に頼《たよ》る

我れ栄《さか》ふ時も衰《おとろ》ふ時も

　汝の属《もの》として我を護《まも》れよ

　

(8)　　　　　清秋独語

　　　　　　　　明治43年11月10日『聖書之研究』125号　署名　柏木生

　

○余の事業の成りし時に余は既に老ひたのである、余に猶ほ未だ成らざるの事業の多く存する時に余は未だ老ひないのである、永久の青年の身と心とを保たんと欲せば永久に成らざるの事業に従事すべきである、天国を此世に臨《き》たさんとする事業に従事して余は終生老ひんとするも得ない。

○余に敵の絶えし時に余は既に衰へたのである　余に今猶ほ余を　　謂《そし》り憎み嫌ふ者多きを見て余は未だ衰へざるを知るのである、万人が余の賞讃家となりし時に余は既に死したのである、余は終極《をはり》まで余を蛇蝎視する多くの敵を有したく欲《おも》ふ。

○余は外よりの奨励を要求しない、中よりの光明を欲望《よくばう》する、余は外よりは寧ろ反対と妨害と排斥とを要求する、而して中よりの慰藉と援助と嘉納とを欲望する、余は世に対しては常に戦闘的態度に立たんと欲する者である〔余〜傍点〕、余の霊魂の健康を維持する上に於て此態度は最も必要である、余に危険なることにして此世の歓迎と称讃の如きはない、余の救主を十字架に釘《つ》けし此世よりは余は何処《どこ》迄も憎まれんと欲する者である。

○余は自身に就て一の大なる不審《ふしん》がある、それは世の批評家が今尚ほ余に就て彼れ是れ批評を試むることである、余は今や世と何の干与《かゝはり》なき者である、過去六年間余は曾て一回も国事に就て論ぜしことなく、曾て一回も公壇の(9)上に立ちしことなく、曾て一回も余の事業を新聞紙に広告したことがない、余は今は世人の眼より見て純然たる隠遁者である、政治家や社会改良家の立場より見て死たると同然の者である、然るに余に関する世人の批評の絶えざるのを見て余は不審に堪へないのである、彼等は何故に余を放任して置かないのである乎、余は彼等の領分を蚕食《さんしよく》せんと為ない、余は彼等の罪悪を責めない、余は彼等より何物をも要求せず、又彼等に何物をも給与せんとしない、余は彼等とは全く活動の宇宙を異にする者である、

　　余をして独りあらしめよ、余は汝と何の関係《かゝはり》あるなし

とは余が彼等に曰はんと欲する所である、彼等は何故に彼等の一人が曾て余に書送して曰ひしが如く、

　　汝は路傍の草木にも劣る者なり、故に余の唾液一滴をすら値《ねうち》せざる者なり、

と曰ひて余を忘却の裡に葬らざる。

○此事に関し余は近頃哥林多後書六章九節を読んで大に感ずる所があった、

　　人に知られざるに似たれども人に知られ、死にたる者に似たれども生ける者、

と、余は微《ちい》さきながらパウロの此実験を余のものと為す事が出来て神に感謝する、余は己を世に紹介しない、然るに世は余を忘れない、何故に忘れないのである乎、余のために忘れないのではない、　　余が何にか世が以て苦痛を感ずることを唱へるからである、余の福音が余を〔余の〜右○〕際立《きわだて》る者となすのである〔九字右○〕、「路傍の草木にも劣る」余と雖も余の唱ふる福音のために山の上に建てられたる城となりて世の注目を惹くのである、世が余を忘れないのは余が福音の其｜体《からだ》の中に在りて刺《とげ》として感ぜられるからであらふ、世は自身の疼痛《いたみ》のために余を忘れないのであらふ。

○若し爾うならば止むを得ない、余は余の福音を棄ることは出来ない、余は世人の批評を恐れて余の信仰を変へ(10)ることは出来ない、余は自己を弁護しない、然れども余の福音は之を唱へざるを得ない、而して若し余の唱ふる福音が世を審判《さば》くが故に、世は其批評を以て余に対するならば、余は甘んじて之を受くるまでゞある、是れ余に取り一種の犠牲である、而かも貴《とうと》むべき誉《ほまれ》ある犠牲である。

○基督教に就て聞き、基督教に就て読む時に基督教に就て多くの疑が起て来る、乍然、基督教に就て読まずして聖書其物を読む時に、殊に神学者の註解を添へずして之を読む時に、すべての疑は晴れてしまふ、聖書に光明の饒多《さか》がある　之に接して闇黒は消え失せざるを得ない、疑を以て疑を駆逐《おいや》ることは出来ない、確信を以てのみ疑を消すことが出来る、聖書の確信に触れてすべての懐疑は粉砕せられざるを得ない。

○すべての問題は終に是れに帰着するのである　即ちキリスト一人と人類全体と孰れか大なる耶〔キ〜右○〕と、此間題の解決に由てすべての問題は定《き》まるのである、若しキリストも亦一人の人で有て、彼の真価は人類多数の輿論に依つて定まる者であるならば、余も亦輿論に与みして、キリストを裁判《さば》くべきである、乍然、若し聖書が教ふるが如く、キリストは世に裁判《さば》かるゝ者に非ずして、世はキリストに由て裁判かるゝ者であるならば、余はキリストに与みすれば、それで事は足りるのである、世には全然｜反《そむ》いても可《よ》い、キリストにさへ従へば足る、キリスト一人と共に起つは全世界と共に立つよりも強くある、社会も、教会も、批評家も少しも恐るゝに足りない、キリストと共に在りて余は全世界よりも強い者である、彼は曰ひ給ふた

　　懼るゝ勿れ、我れ既に世に勝てり

と、彼は既に全世界を彼の足の下に置き給ふた　故に彼に服《したが》ふて余は世のすべての者に勝ち得て余りありである、余は彼を友として全世界を敵として立つべきである。

　

(11)　　　　　〔博愛　他〕

　　　　　　　　　明治43年11月10日『聖書之研究』125号　署名なし

　

　　　　　博愛

　

　我は党を組まず、教会を作らず、我は神を愛し、又人を愛す、神を愛するが故にすべての人を愛す、基数信者を愛す、仏教信者を愛す、無神論者を愛す、すべて善き人と義《たゞし》き人とを愛す、我は斯く博《ひろ》く愛して、能く我主イエスの意に合《かな》ふと信ず、我は彼の忠実なる僕《しもべ》として我愛を世の所謂基督信者にのみ限る能はざる也。

　

　　　　　合同

　

　合同は教義に由て成らず、行為に由て成る、神の存在、キリストの神性は悪魔も能く之を「信」ずるを得べし（雅各書二章十九節）、義人は義人を覓《もと》む、すべて自己の信ずる主義に忠実なる者は相互を尊敬するが故に求めずして合同一致するを得べし、其他の者は如何に「信仰」を共にすると雖も合同する能はず、又合同するも暫時にして分離せざるを得ず。

　

(12)　　　　　〔事業以上　他〕

　　　　　　　　　　明治43年12月10日『聖書之研究』126号　署名なし

　　　　　事業以上

　

　余は小なる者なり、然れども余の事業よりも大なる者なり、余の事業は余の一小部分たるに過ぎず、余の衷《うち》に余の終生の事業を以てするも表顕《へうげん》する能はざる者ありて存す、是れ余が他に秀《ひいで》て大なるが故にあらず、余が人なるが故なり、神の像《かたち》に象《かたど》られて造れたる彼の子なるが故なり。

　

　　　　　聖書研究の範囲

　

　聖書の研究なり、故にキリストの研究なり、故に神の研究なり、人の研究なり、宇宙の研究なり、人生の研究なり、科学の研究なり、歴史の研究なり、詩歌と美術の研究なり、神と万有とに関はるすべての研究なり、聖書の研究にして若し之よりも小なる者ならん乎、余輩は今日直に之を放棄せんと欲す、聖書の研究は所謂教勢拡張を目的とする教会の機関にあらざるなり。

　

(13)　　　　　負罪の意義

　

　キリスト我等の罪を負ひ給へりと云ふは彼れ我等に代りて神に罰せられ給へりとの意にあらず、我等の罪を己が罪なる乎の如くに感じ、痛《いた》く之を歎《なげ》き給へりとの意なり、我等罪を犯してキリスト傷《いた》み給はずることなし、そは彼は罪を憎み給ふと同時に又我等を愛し給へばなり、我等は罪を犯すたび毎に、更らに彼を十字架に釘けつゝあるなり、彼の聖体を傷くる者は鉄の釘《くぎ》にあらずして人の罪なり、我等彼を休め奉らんと欲せば、罪を去て之を遠くべきなり。希伯来書六章六節。

　

　　　　　正義と慈悲

　

　人は正義、正義と曰ふ、然り、正義はまことに貴し、然れども正義の道は之を行ふに難からず、不義を罰すれば足る、行ふに難きは正義の道にあらず、慈悲の道なり、如何にして不義を赦さん乎〔如〜傍点〕、是れ仁者の心を悩《なやま》す問題なり、而して神はキリストを以て此問題を解決し給ひしなり、実《まこと》に預言者の曰へりしが如く

　　我等の尚ほ滅びざるはヱホバの慈悲《いつくしみ》に由る、その憐愍《あはれみ》の尽きざるに因る、

　神にして若し正義を以て我等に臨み給はん乎、我等は直に粉砕されざるを得ず、我等は神が我等を憐み給ふ其憐愍を以て我等の隣人を憐むべきなり。耶利米亜哀歌三章廿二節。

　

(14)　　　　　説明と信仰

　

　余輩は自今キリストと彼の福音に就て多くの説明を試みざるべし、余輩はキリスト御自身を紹介し彼の福音其物を伝ふべし、説明は智慧を増して信仰を作らず、福音を説明し尽して残るは僅かに其｜燼余《じんよ》のみ、余輩は大胆に神の大なる奥義なるキリストの十字架と其功績とを宜ぶべきなり。

　

　　　　　神と信仰

　

　神は聖者《きよきもの》なり、故に彼の忌《い》み給ふ事にして猜疑の如きはあらず、彼は人が一点の疑《うたがひ》を挟《さしはさ》むことなくして全然彼を信ぜんことを欲し給ふ、神にして若し汚《けが》れたる邪《よこしま》なる者ならん乎、人は彼を疑ふも可なり、然れども光輝《かゞやき》の中に在《いま》して聖にして聖なる彼は、唯信ずべくして崇むべき者なり、之を探り、之を究め、其真実を確かむるにあらざれば之を信ずる能はざるが如きは、人が神に対するの道にあらず、清士且つ信頼を要求す、況んや神に於てをや、神は御自身人を疑ひ給はざるが故に人の彼を疑はざらん事を欲し給ふ。

　

　　　　　智能と信力

　

　人に智能あり、又信力あり、智能を以てして彼は彼れ以下の物を探り、信力を以てして彼は彼れ以上の者を覚《さと》る、智能を以てして彼は宇宙と天然と、社会と人生とを究め、信力を以てして神と天国と、霊魂と来世とを認む、智能は彼の半分なり、而かもより〔二字傍点〕低き半分なり、すべて高きこと、すべて聖《きよ》きこと、すべて朽《くち》ざることは彼の能(15)力のより〔二字傍点〕高き半分なる信力を以て之を覚らざるべからず。

　

　　　　　平和の獲得

　

　平和は戦争に勝て来らず、宇宙を説明し尽して来らず、大教会を起して来らず、大慈善を行ふて来らず、主イエスキリストを信じて来る、天上天下、之を除きて他に平和を獲るの道あるなし、我は他に何事を為すを得ずと雖も、唯彼を信じ得るを感謝す。

　

　　　　　潔《けつ》と救《きう》

　

　先づ潔《きよ》められて而して後に救はるゝにあらず、先づ救はれて而して後に潔めらるゝなり、先づ律法と道徳との範囲を離れて而して後に聖《きよ》き義《たゞ》しき者となるを得るなり、人が容易に潔められず又容易に救はれざるは潔《けつ》と救《きう》との此関係を解せざるに因る、然かも聖書は明白に此事を示すなり、福音の福音なるは世の遺徳と全く背馳して救を先にして潔を後にするにあり。

　

　　　　　事業以外

　

　我れ一人の信者を作り得ずとて何かあらん、我はキリストを信じて救はる、我れ万人の信者を作り得たりとて何かあらん、我はキリストを信じて救はる、我が救はるゝと救はれざるとは我が事業の成否如何に関せず、我は一人の信者を作り得ずとも万人の信者を作り得しが如くに喜ぶ、我が歓喜と誇尚《ほこり》と満足とは全然我が事業の外に(16)在り。

　

　　　　　事業の尋問

　

　人の我に会ふあれば其信者なると不信者なるとに関はらず、我が事業に就て尋ぬるを常とす、然れども我は我が事業に就て語るを好まず、そはたとひ伝道事業なりと雖も事業はすべて此世の事なればなり、我は天の事に就て語るを好む、キリストと其十字架に就て語るを好む、此世の事業に倣慢は伴はざらんと欲するも得ず、唯キリストの遂《と》げ給ひし天の事業のみ、我れ之に就て誇らんと欲するも得ず、傲《たかぶ》らんと欲するも能はざるなり。

　

　　　　　教会と救

　

　教会に納れられて救はるゝに非ず、教会に捨てられて詛《のろ》はるゝに非ず、キリストを信じて救はるゝなり、彼を信ぜずして既に詛はれしなり、救はるゝと否なとは教会と教儀と儀式とに何の関係あるなし、我等は救はれんがためには単にキリストを信ずれば足る、教会は全然之を無視して可なり。

　　是故に子若し汝等を自由になさば汝等は誠《まこと》に自由なり。約翰》伝八章卅六節、

　

　　　　　トルストイ翁を弔ふ

　

　トルストイ翁逝く、親しき老ひたる十九世紀と別るゝの感あり。

(17)　彼れ在りて戦に敗れし露国は尚ほ世界の重鎮たりき、彼の如き者なくして戦に勝ちし日本に尚ほ遜色ありたり、而して今や此人逝く、二国の勢力に異動ありしを覚ゆ。

　翁の忌み嫌ひし者に二箇ありたり、其一は戦争なりき、其二は教会なりき、彼は戦争を嫌ひしが故に戦争を賛《たす》けし教会を嫌ひしなり。

　教会は彼を破門したり、而して彼れ死するも教会に屈従せざりしとの理由を以て彼がために哀悼式は行はれず、彼の遺骸は教会の援助なくして、ヤスナヤポルヤナなる彼の邸内の丘上に葬られたり、幸ひなる哉翁よ、彼と情性を共にせしカーライルも亦教会の援助を藉りずして蘇国なる彼の墳墓の地に葬られたり、彼と等しく教会を悪《にく》みしキールケゴードも亦牧師の慰藉を斥けて死せり、教会はトルストイを破門して、神は教会を破門し給へり、恁かる神の忠僕を破門せざるを得ざりし教会の運命は既に定まれりと言ふべし。

　

　　　　　福音対此世

　

　政治は勿論此世の事なり、外交、愛国、勿論亦此世の事なり、教会の伝道、亦主として此世の事なり、然れどもキリストの福音は此世の事にあらざるなり、之れ勿論此世と全く関係なき事にあらず、然れども其主要は天国の事にして、此世の事にあらざるなり、我等は福音に忠実ならんと欲して此世と此世の教会とより自己を絶たざらんと欲するも能はざるなり。

　

(18)　　　　　新約聖書に現はれたる思想の系統

　　　　　　　　　附、聖書の読方

　　　　　　　　　　明治43年12月10日『聖書之研究』126号　署名　内村鑑三

　

　新約聖書に思想の三系統がある。

　其第一は使徒ヤコブを以て代表さる〔其〜右○〕、彼に在りては福音は完全なる律法である、欠けなき道徳である、故に彼は之を称して「全き自由の律法」と云ふた（雅各書一章廿五節）、彼の理想は完全に律法を守ることであつた、故に彼は曰ふた、

　　人、律法を悉く守るとも若し其一に躓《つまづ》かば是れ其全部を犯すなり、

と（二章十節）、斯る理想を懐きし彼は自《おの》づから信仰よりも行為《おこなひ》を重んじた、彼は完全なる宗教の何たる乎に就て定義を下して曰ふた、

　　神なる父の前に潔《いさぎよ》くして穢《けが》れなく事《つか》ふることは孤児《みなしご》と寡婦《やもめ》とを其｜患難《なやみ》の中に見舞ひ、又｜自《みづ》から守りて汚《けが》れざる事是れなり、

と（一章廿七節）、斯の如くにして使徒ヤコブの基督教は行ふに甚だ難しと雖も解するに甚だ易い宗教である。

　其第二は使徒パウロを以て代表さる〔其〜右○〕、彼に在りては福音は律法と正反対の者である、二者は同時に両立し得る(19)者でない、故に彼は断言して憚らない、

　　若し義とせらるゝこと律法に由らばキリストは徒《いたず》らに死に給へり、

と（加拉太書二章廿一節）、彼は律法を全く離れたる救済《すくひ》の道を唱へた、

　　夫れ律法は肉の故に弱し、その為す能はざる所を神は（キリストを以て）為し給へり、

と（羅馬書八章三節）、彼は屡々福音の徳を讃《たゝ》ふるの余り律法の無能を唱ふるを禁じ得なかつた、斯の如くにして使徒パウロの基督教は解するに甚だ難く、然れども一たび之を解し得れば行ふに甚だ易き宗教である。

　其第三は使徒ヨハネを以て代表さる〔其〜右○〕、彼にありては福音は律法ではない、又信仰でもない、律法信仰を超越して光《ひかり》であり生命《いのち》である、彼に在りては律法に対する信仰でない、光に対する暗である、生命に対する死である、故に彼は多く律法に就て語らない、又律法の対照として信仰を見ない、彼はキリストを生命として唱道する、而して人が彼に来りて生きんことを要求する、

　　神は光なり少しの暗処《くらきところ》あるなし、　　若し神の光に在《いま》すが如く光の中を歩《あゆ》まば我等互に同心《とも》なるを得、且つ其子イエスキリストの血すべての罪より我等を潔《きよ》む、

と（約翰壱書一章五、七節）、又

　　神は窮《かぎり》なき生命をもて我等に賜ふ、此生命は其子に在り、神の子を有つ者は生命を有ち、其子を有たざる者は生命を有たず、

と（仝五章十一、十二節）、如斯くにして使徒ヨハネの基督教は高くして深き丈けそれ丈け行ふに難く、又解するに難き宗教である。

(20)　使徒ヤコブは実践的である、使徒パウロは信仰的である、使徒ヨハネは心霊的である。

　使徒ヤコブは主として猶太人のために説き、使徒パウロは異邦人のために説き、使徒ヨハネは猶太人異邦人の別なく、人類全体のために説いた。

　使徒ヤコブは旧き猶太教に繋《つなが》り、使徒パウロは猶太教と絶ち、使徒ヨハネは全く猶太数を離れて普及的福音を説いた。

　使徒ヤコブは律法を聖《きよ》め、使徒パウロは律法と絶ち、使徒ヨハネは律法に関係《かゝはり》なき自由の福音を唱へた。

　使徒ヤコブは旧《きう》の上に新《しん》を築き、使徒パウロは旧を脱して新に入り、使徒ヨハネは自由の天地に在て新たに生命の道を唱へた。

　モーセの律法は根である、ヤコブの基督教は幹と枝とである、パウロの基督教は葉と花とである、而してヨハネの基督教は熟したる実である。

　神の黙示は漸進的である、

　　初めには苗《なへ》、次ぎに穂出で、穂の中に熟したる穀《こく》を結ぶ、（馬可伝四章二十八節）

　ヤコブの基督教は苗である、パウロのそれは穂である、ヨハネのそれは熟したる穀である。

　ヤコブの尊きは保守的にして旧を重んずるに在る、パウロの尊きは進歩的にして旧を脱して新に入るに在る、而してヨハネの尊きは新を集めて新たに之を築き上ぐるに在る、三者其一を欠いて基督教は健全の発達を遂げ得なかった。

　新約聖書は一書ではない、二十七書より成る文庫である、一冊の聖書ではない、二十七冊の聖書を蒐めて為つ(21)た聖書である、而して其中に以上の思想の三系統が在るのである。

　勿論ヤコブ系統の正経は雅各書〔三字右○〕である、新約聖書の終りに近く置かるゝが、其思想は最も旧い者であつて、思想発達の順序より言へば、聖書の初めに置かるべき者である。

　雅各書に似て之と思想の系統を共にするものが　「ユダ即ちヤコブの兄弟」の作りし書なる短かき猶太書〔三字右○〕である。

　猶太書に似て同じ旧約の精神を呼吸する者が彼得後書〔四字右○〕である、其、果して使徒ペテロの手に作《な》りし書なるや否なやは聖書学上の疑問である、是れは多分准ヤコブ系統の書として見るべき者であらふ。

　純然たるヤコブ系統の書にあらず、然ればとて純パウロ系統にも属せざる者が彼得前書〔四字右○〕である、是れは二者の間に介立する者であつて、其｜繋続《つなぎ》となる者である、是れ蓋し使徒ペテロの地位であつたであらふ、彼は即ちヤコブ主義とパウロ主義の間に立て二者の連絡を計つた者らしくある。

　パウロ系の経典は勿論パウロの書翰〔六字右○〕である、夫れが総数十三ある、其中何人もパウロの自作として疑はない者は羅馬書〔三字右○〕、哥林多前書〔五字右○〕、仝後書〔三字右○〕　加拉太書〔四字右○〕の四書である、独逸国の聖書学者は之を称《よ》んで Haupt Briefe「主なる書翰」と云ふ、所謂パウロ主義なる者は最も明白に是等の四書に於て顕はれて居る、其、多くの点に於て独特の思想を伝へて居ることは何人が読んでも明かである、而して四大書翰に次いで腓立比書〔四字右○〕、帖撒羅尼迦前書〔七字右○〕并に腓利門書〔四字右○〕は多数の聖書学者に由て直にパウロより出たる者として認められてある、以弗所書〔四字右○〕、哥羅西書〔四字右○〕並に帖撤羅尼迦後書〔七字右○〕は縦しパウロの自作でないとするも、彼の親しき弟子に由て其師の名を以て書かれし乎、然らざれば善くパウロの心を識りし者に由て書かれし書《もの》なることは確《たしか》である、而して最も疑はしき者は牧会書翰と称せらるゝ提摩多前書仝後書〔八字右○〕井に提多書〔三字右○〕である、曾て本誌に於て述べしが如く是等の書翰がパウロの手に由て成りしとは、之(22)を疑ふに多くの理由がある、乍然、其、パウロ系に属すべき書であることは何人も疑はない。

　希伯来書〔四字右○〕は「使徒パウロ、ヘブル人に贈れる書」として載せてあるが、然し、其、パウロの作でないことは今や何人も疑はない、若し聖書の記事に最も明白なる誤謬があるとすれば、それは希伯来書を「使徒パウロ」の作として録《しる》したことである、或はアポロの作なりと云ひ、或はバルナバの作なりと云ひ、或ひはシラスの作なりと云ひて孰れを真実《まこと》と弁《わきま》へ難しと雖も、唯明白なるは其、純パウロ主義の書でないことである、或ひは之を以て別に思想の新系統を立る者と見るも可《よ》からふ、然れども、多くの点に於てパウロ思想に接近するが故に、彼得後書を以て准ヤコブ系の書と見做せしが如く、希伯来書を以て准パウロ系の書と見做すが適当であると思ふ。ヨハネ系の思想は最も明白に約翰伝〔三字右○〕並に約翰第一書〔五字右○〕に於て現はれて居る、茲に特殊の思想がある、其キリスト観、聖霊観、救拯観等、すべてが特殊である、其｜言辞《ことば》は平易である、然も其思想は深邃である、パウロの如くに教理を証明せんと為ない、真理を宣言する、恰かも地の深処《ふかみ》より清泉が湧き出づるが如くである。

　ヨハネ系に属する書に約翰第二書〔五字右○〕と仝第三書〔四字右○〕とがある、然し多分ヨハネ自身の書いた者ではあるまいとのことである。

　黙示録〔三字右○〕は普通之を「聖ヨハネの黙示録」と云ふ、然し其著者が果して使徒ヨハネでありし乎否やは是れ又疑問である、之に多くのヨハネ的思想がある、然かも其文体は全然猶太的であつて、寧ろヤコブ系に傾いて居る、之を准ヨハネ系の書と見るが適当であると思ふ。

　残るは四福音書と使徒行伝とである。

　馬太伝〔三字右○〕はヤコブ思想の立場より見たるキリスト伝である、茲にイエスはイスラエルの民の待望《まちのぞ》みしメシヤとし(23)て示されてある、故に彼の系図はイスラエルの先祖なるアブラハムを以て始まつて居る、彼は特にモーセの律法を重じ給ふたと言はれて居る、

　　我れ律法と予言者とを廃《すつ》るために来れりと思ふ勿れ、我れ来りて之を廃るにあらず、成就《じやうじゆ》せんためなり、

　　我れ誠に汝等に告げん、天地の尽きざる中に律法の一点一劃遂げつくさずしても廃《すた》ることなし、

と（五章十七、十八節）、是れ疑ひもなくヤコブ思想である、所謂山上の垂訓なる者は雅各書の所謂「完全なる自由の律法」を述べた者であつて、キリストの福音を完全なる道徳として見た者である。

　路加伝〔三字右○〕はパウロ思想の立場より見たるキリスト伝である、茲にイエスは万民の救主として紹介されてある、故に彼の系図は人類の始祖なるアダムまで遡《さかのぼ》つて居る、天使がイエスの誕生を告ぐるに方て、

　　我れ万民〔二字右○〕に関《かゝ》はりたる大なる喜びの音信《おとづれ》を汝等に告ぐべし、

と言ふて居る（二章十節）、記者は又アブラハムの子孫たることを軽んじて居る、

　　汝等心に我等が先祖にアブラハムありと思ふ勿れ、我れ汝等に告げん、神は能く此石を以てアブラハムの子と為らしむべし、

とバプテスマのヨハネをして言はして居る、路加伝がパウロ系統に属するキリスト伝であることは何れの方面より見るも明瞭《あきらか》である、其著者がルカであって、彼れ自身がパウロの弟子でありしことを知つて、此事は言はずして明かである。

　使徒行伝〔四字右○〕は路加伝の続篇である、其述ぶる所は主としてパウロの伝道事業である、故に徹頭徹尾パウロ系の書である。

(24)　約翰伝〔三字右○〕がヨハネ思想のキリスト伝であることは、唯其事を述ぶる丈けで充分である、イエスは元始の道《ことば》が肉体となりて人類の間に寄《やど》りし者であると云ひ、故に彼は人を照らす真《まこと》の光であると云ひ、世を救ふ真の生命《いのち》であると云ふ、約翰伝は他の二福音書とは全く其｜趣向《おもむき》を異にして居る。

　然らば馬可伝〔三字右○〕は何れの系統に属する者である乎と云ふに、是れは彼得前書と等しく半ばヤコブ系に属し、半ばパウロ系に属する者である、然し其全体の思想の傾向のパウロ的であるが故に、之を彼得前書と同じく准パウロ系の福音書〔九字傍点〕と見るべきであると思ふ、若し其著者が正さに始めはペテロの弟子であつて後にはパウロに師事せしマルコでありしとすれば、彼の著はせしキリスト伝が此地位を占むることは蓋し当然の事であらふ。

　今以上に陳述せし所に循ひ、新約聖書二十七書を其思想の系統に依て分類すれば左の如くになるのである、

　一、ヤコブ系＝雅各書〔三字右○〕、猶太書〔三字右○〕、馬太伝〔三字右○〕。

　　准ヤコブ系〔五字右●〕＝彼得後書〔四字右○〕。

　　ヤコブ系とパウロ系とを繋ぐ者＝彼得前書〔四字右○〕。

　二、パウロ系＝パウロ十三書翰（加拉太書〔四字右○〕、哥林多前書〔五字右○〕、仝後書〔三字右○〕、羅馬書〔三字右○〕、腓立比書〔四字右○〕、腓利門書〔四字右○〕、帖撒羅尼迦前書〔七字右○〕、哥羅西書〔四字右○〕、以弗所書〔四字右○〕、帖撒羅尼迦後書〔七字右○〕、提摩太後書〔五字右○〕、仝前書〔三字右○〕、提多書〔三字右○〕（【パウロの作として最も確かなるものを先きにし、最も疑はしき者を後にす。】）

　　路加伝〔三字右○〕、使徒行伝〔四字右○〕。）

　　准パウロ系〔五字右●〕＝希伯来書〔四字右○〕、馬可伝〔三字右○〕。

　三、ヨハネ系＝約翰伝〔三字右○〕、約翰第一書〔五字右○〕、仝第二書〔四字右○〕、仝第三書〔四字右○〕。

　　准ヨハネ系〔五字右●〕＝黙示録。

(25)　如斯くにして新約聖書は一冊の聖書でない、多くの小聖書より成りたる聖書である、其中にヤコブ系統の聖書がある、パウロ系統の聖書がある、ヨハネ系統の聖書がある、而して之に加へて准ヤコブ系、准パウロ系、准ヨハネ系の聖書がある、新約聖書は少くとも之を思想の三系統に分析することが出来る、其間に多少の矛盾がある、意見の衝突がある、記事の錯雑《さくざつ》がある、然し是れ免れ難い事である、異なりたる思想の人に依て書かれたる異りたる文書の間に斯かる行交《ゆきちがひ》のあることは止むを得ない、例へば信仰と行為のことに就てヤコブは曰ふて居る、

　　我兄弟よ、人、自から信仰ありと言ひて若し行為《おこなひ》なくば何の益あらんや、其信仰いかで彼を救ひ得んや、

と（雅各書二章十四節）、之に対してパウロは言ふて居る、

　　故に我等は斯く論断す、即ち人は律法の（命ずる）行為《おこなひ》を離れて信仰に由て義とせらると（羅馬書三章廿八節）、

　茲に確かに意見の相違がある、ヤコブとパウロとは律法に対して其の態度を全く異にして居る。

　又離婚のことに就てもパウロ系の路加伝と准パウロ系の馬可伝は、

　　凡そ其妻を出して他の者を娶る者は姦淫を行ふ者なり、

と言ひ切つて居るに対し（路加伝十六章十八節、馬可伝十章十一節）、ヤコブ系の馬太伝は一の条件を添へで居る、即ち、

　　姦淫の故ならで〔七字右○〕其妻を出す者は之に姦淫なさしむる也、

と（五章三十二節）、一読して此問題に対してパウロ系は厳《げん》であつて、ヤコブ系は寛《くわん》であるやうであるが、然し必Lも爾《さ》うでない、前者は罪を責むるに厳なると同時に信仰と云ふ逃路《にげみち》を設けて置く、後者は福音を「完全なる自由の律法」と見て此より〔二字傍点〕高き律法をして其れ自身にて成るべく完全なる着たらしめんとして居る、故に離婚は絶(26)対的に禁ずべきことなるや否やは聖書の言辞《ことば》に訴へた丈けでは判明《わか》らない。

　以上は一二の実例に過ぎない、其の他の重要なる問題に就ても聖書記者は悉く同一の意見を懐かない、各自其見地を異にしたるに由り、其見る所、意《おも》ふ所が自《おの》づから異なつて居る、茲に於てか我等は聖書全体に訴へて如何なる問題をも解決し得べしとの思考《かんがへ》の根拠の甚だ浅いものであることを知るのである、或る問題は勿論如斯くにして解決することが出来る、乍然、或る他の問題は――而して斯かる問題は決して尠くない――如斯くにしては決定《きま》らないのである、聖書自身が意見を異にして居る事に就ては我等は之を聖書に訴へたればとて、満足の解決を得られやう筈はない。

　故に我等は先づ聖書を其思想の系統に循《したが》つて究むべきである、先づ其最も旧きヤコブ系の文書より究むべきである、始めに雅各書を読み、次ぎに馬太伝を読み、之に猶太書、彼得後書を加へて読みて、先づ其立場よりキリストと其｜教示《をしへ》とを究むべきである、其れに短所がある、又長所がある、但し福音の或る肝要なる一面の是等の書類に依て示されてある事は確かである。

　ヤコブ系の書類に次いでパウロ系の書々を究むべきである、而して両者の過渡《わたり》を附くる者が彼得前書である、パウロ系にありては先づパウロの四大書翰を読むべきである、之に次いで路加伝を読み、使徒行伝を読み、参考として馬可伝を読み、終りにパウロの残余《のこり》の書翰を読むべきである、福音の或る他の大切なる方面は是等の書類を以て示されてある、之を知らずして福音の真髄に入ることは出来ない。

　パウロ系よりヨハネ系に遷《うつ》らんとするに当て准パウロ系の大作なる希伯来書を読むべきである、是はパウロ系とは稍々異なりたる立場よりキリストと其事業とを見た書《もの》であつて、初代の基督教を学ばんと欲する者に取ては(27)精究を怠るべからざる記録である。

　終りにヨハネ系の書類を読むべきである、思想発達の順序よりすれば准ヨハネ系の黙示録を以て始むるが当然であると思ふ、而して新約聖書中の最大著作、否な、嘗て人の手を以て書かれし思想の最大産物たる約翰伝と、其附録とも称すべき約翰第一書とを読むべきである、若し聖書中の聖書があるとすれば夫れは約翰伝である、此書物が解《わか》つた者がキリストの心を解つた者である、若し聖書に権能が在るとならば其主上権は此書に於てある、若し雅各書と馬太伝とが地方裁判所であり、パウロの書翰と路加伝とが控訴院であるとするならば、約翰伝は大審院である〔若〜傍点〕、若し人生に関するすべての問題は聖書に訴へて決せられる者であるならば、其最後の判決を与ふる者は約翰伝である、我等は約翰伝を解《わか》らんがために聖書の他の書類を究むるのであると言ふても可《よ》い、実に此書を以てして人類の思想は其最高点に達したのである。

　約翰伝と約翰第一書に加へて約翰第二書、同第三書を読んで、茲に新約聖書を読み了つたと云ふ事が出来る。

　以上が新約聖書の真正《ほんとう》の読方《よみかた》であると思ふ、馬太伝を以て始め黙示録を以て終る普通の読方は決して正当の読方でない、斯かる棒読《ぼうよみ》が読者を益すること甚だ尠きは実験と道理とに訴へて見て明かである。

　茲に於てか読者は余輩に問ふて曰ふであらふ、新約聖書の中に異なりたる思想の系統があり、其間に意見の相違は免かれないと云ふ、然らば新約聖書は何の確実なる事をも教ふる所なき乎と、然し夫れは決して爾うでない、勿論爾うでない、新約聖書は或る一つの明白なる確実なることを伝へる、夫れは主イエスキリストである〔夫〜右◎〕、彼れが其主人公であるのである、彼を世に示さんがために其二十七書は記《か》かれたのである、彼を種々の方面より見たる其記録が新約聖書である、其見方の異なるは見る立場と人とが異なるからである、而して異なりたる方面より(28)異なりたる人が見て、茲に最も完全に彼が世に示されたのである、我等はキリストを知らんと欲して聖書を学ぶのである〔我〜右○〕、而して人は必しも其発せし言辞《ことば》でない、又必しも其為せし行《わざ》でない、其｜言辞《ことば》と為行《わざ》とを通して伝はる精神〔二字右○〕である、霊〔右○〕である、我等はキリストの精神を知り、其霊を受けんために聖書に行くのである〔我〜傍点〕、故に此目的を以て聖書に臨んで我等は其記事の間に多少の相違があり、矛盾があり、衝突があればとて躓《つまづ》かないのである、聖書全体が我等に与ふるキリストの印象……我等が握らんと欲する所の者は是れである、而して聖書は祝すべき此印象を我等に与ふるに於て誤《あやま》らないのである、而して聖書の中にキリストを発見して、或る時は其矛盾せるが如くに見ゆる記事の中よりキリストを抽出《ぬきいだ》して、我等の聖書研究の目的は達せらるゝのである、聖書は尊いものである、世に之よりも尊い者はない、然し聖書は永遠に尊い者ではない、聖書が不用になる時は必ず来るのである、永遠に尊い者は神と其｜遣《おく》り給へる其｜独子《ひとりご》である、而して彼を世に伝ふるが聖書の世に在る理由である、而して彼を伝へ了つて聖書は不用になるのである、聖書は尊しと雖も神の家を築くための桟架《あしば》に過ぎない、

　　聖城《きよきまち》なる新らしきヱルサレム、備《そな》へ整《とゝの》ひて神の所を出て天より降りて地の上に築かるゝに至って、尊き聖書も亦神の造り給ひし他の物と等しく用なきに至るのである、其時我等は面と面とを合はして直に父を仰ぎまつり、人と其｜記《か》きし書に由て教へられずして直に彼に由て教へらるゝのである、故に曰ふ、

　　又｜城《まち》に月日の照ることを要せず、そは神の栄光之を照らし、且つ羔《こひつじ》、城の燈《ともしび》なれば也、

と（黙示録廿一章廿三節）、天国に在りては聖書は要《い》らない、神と羔とは之に由らずして直に我等を導き給ふ。

　

(29)　　　　　〔伝道師に非ず　他〕

　　　　　　　　　　明治43年12月10日『聖書之研究』126号　署名なし

　　　　　伝道師に非ず

　

　余輩は伝道師でない、聖書の研究者である、余輩は信者を作らんとしない、聖書の中に現はれたる神の真理を探り之を世に供せんとする、故に余輩を信者製作、教勢拡張のために使ふ者は余輩を濫用する者である、余輩は人が信者と成らないとて悲まない、余輩は又人の勧誘を試みない、人が余輩に由て信者と成ると成らざるとは余輩の関する所でない、余輩は冷淡なる聖書の研究者である、余輩は人が余輩を誤解せざらんことを望む。

　

　　　　　交際と最後の裁判

　

　交際交際と云ふ、交際はまことに結構である、然し、茲に我等各自が忘れてはならない事が一つある、それは我等各自が最後には単独で神の前に立たなければならない事である、其時交際は我等に取て何の用をも為さないのである、故に我等は今より単独で神と偕に在るの習慣を作って置かなければならないのである、交際を以て生命と為す者は其時大に狼狽《ろうばい》するであらふ、交際は到底此世の暫時のことたるに過ぎないのである。

　

(30)　　　　　今の教育

　　　　　　　　　明治43年12月10日『聖書之研究』126号　著名なし

　

　艱難に勝つの能力《ちから》を供せずして、艱難を避くるの方法を授く、是を今日我国に於て行はるゝ教育と做す、斯の如くにして勇者は養はれずして才子は作らる、恐る余輩の子弟に斯かる教育を施して彼等も亦自主の英雄たらずして、他人の侍僕《?レツト》として其生涯を終らんことを。

　

(31)　　　　　希望と長命

　　　　　　　　　明治43年12月10日『聖書之研究』126号　署名なし

　

　失望する勿れ、長く生きんとせよ、是れ長く楽まんがためでない、長く世の不幸者を助けんがためである、而して又人世最大の快楽は己れよりも不幸なる者を助くることである、世に生くるの甲斐なき生涯とてあるべき筈はない、自暴自棄《やけ》は最大の罪悪である。

　

(32)　　　　　クリスマスの意義

　　　　　　　　　明治43年12月10日『聖書之研究』126号　署名　主筆

　神は始めに天地と其中に在る万物を造りて彼の大能と大智とを現はし給ふた、彼は次ぎに人類を造り之に良心を与へ給ひ、又モーセ、孔子、ソクラテスの如き人を遣《おく》り給ひて道徳の律法を定め、以て彼は正義の神であり、すべての事に優りて正義を愛し給ふことを示し給ふた、如斯くにして神は己れの大能と大智と正義とを示し給ひしと雖も彼には未だ是等のものにまさりて猶ほ善且つ美なるものがあつた、而かして彼は終に之をしも亦示さずしては止み給はなかつた、其れは即ち彼の愛〔三字右●〕である、慈悲である、憐愍である、而かして彼は終にキリストを以て彼の最善最美、最高最深の特性を天地と人類とに示し給ふたのである、神の特性は愛であるとは人類はキリストに由りて始めて聞いた事である、神が全智であり、全能であることは宇宙を探り、万物を究むれば解《わか》る、又神の義であることは、聖人義人の教訓に由て見れば判明《わか》る、乍然、神は愛であるとはキリストに由らずしては会得《わか》らない、而かして神に関する最高智識とは彼は愛であるとのことである、此事が解《わか》つて、我等は神に関し、宇宙に関し、人生に関し、すべてが解つたのである。

　クリスマスは神が此最高智識を人に供し給ひし其紀念日である、此日に於て神は自己《おのれ》に関する最大最後の自顕を為し給ふたのである、而して我等も亦キリストに由りて神の愛であることを知つて、我等の生涯も亦茲に全く(33)一変したのである、茲に於てか苦痛も患難も、然り、死其物までが悉く其｜刺《とげ》を失ふに至つたのである。神は愛であると知つて、人生は涙の谷ならずして、歓喜の園となつたのである。

　クリスマス、嗚呼楽しきクリスマス、世の人は歳が暮《くる》るとて悲むなれども、我等は栄光の日の更らに一年近づきしを知つて歓ぶ、我等は今は神を恐れない、彼を愛する、我等が今日此時神に向て発する言はパウロのそれである、即ち

　　その言ひつくされぬ神の賜物《たまもの》に因りて我れ神に感謝する也

と（哥林多後事九章十五節）、実に言ひ尽くされぬ神の賜物なる主イエスキリストに因りて我等は神に感謝するのである。

　

(37)　　　　　〔新年と神の愛　他〕

　　　　　　　　　　明治44年1月10日『聖書之研究』127号　署名なし

　

　　　　　新年と神の愛

　

　旧き年は去れり、我は神の愛を語らん、新らしき年は来れり、我は神の愛を語らん、新らしき年は猶も来らん、我は神の愛を語らん、我れ世に在らん限り我は神の愛を語らん、我れ世を去りて後も我は神の愛を語らん、我は永遠の永遠に至るまで主イエスに由りて顕はれたる我神の愛を語らん。

　

　　　　　神は愛なり

　

　年は改まれり、然れども我信仰は改まらず、我は神は愛なりと信ず、世は年と共に変る、然れども我｜救《すくひ》の磐《いは》は変らず、我は神は愛なりと信ず、哲学の組織は革《あらた》まるべし、然れども我思想の基礎は動かず、我は神は愛なりと信ず、我れ我神に拠りて立て我は年と共に変らず、世と共に遷《うつ》らざるなり。

　

(38)　　　　　新年の祈?

　

　神よ、我に善き心を与へ給へ、人に報いられざるも彼に善を施《な》して倦まざるの心を与へ給へ、只善を為して楽しむの心を与へ給へ、爾《なんぢ》が爾の日を善き者にも悪しき者にも照らし、雨を義《たゞ》しき者にも義しからざる者にも降《ふ》らせ給ふが如く我も亦我を愛する者にも愛せざる者にも善を施すを得しめ給へ、斯くして爾が愛に於て完全《まつた》きが如く、我も亦我愛に於て完全からしめ給へ、神よ、我はすべてのものに勝《まさ》りて善良なる心を欲するなり。馬太伝五章四十五節以下。

　

　　　　　新年の感謝

　

　感謝す少しなりと主の名に由りて苦しむを得しことを、感謝す少しなりと此世と此世の教会との人々に憎まるゝを得しことを、感謝す少しなりとイエスの聖名《みな》のために嘲笑、迫害、窮乏の難を味ふを得しことを、希ふ、終生キリストの受け給ひし詬?《そしり》を身に受くるを得て、彼の聖名《みな》のために凌辱《はづかしめ》を受くるに足る者として保存せられんことを。使徒行伝五章四十一節。

　

　　　　　希望と信仰

　

　見えざる事を望む是を希望と云ふ、解し得ざる事を信ずる是を信仰と云ふ、既に見る所のものは之を望むの要なし、解し得る事を信ずるは知識にして信仰にあらず、信仰の貴きは解し得ざる事を信ずるにあり、而かも理由(39)なくして信ずるにあらず、愛の故に信ずるなり、愛の示す所の事を解し得ざるに之を信ずる、是を信仰と云ふ、而して我等の救はるゝは斯かる信仰に由てなり、有限の我等が無限の神に対し幼心《をさなごゝろ》を懐くに至て救はるるなり、即ち嬰児《をさなご》となりて救はるゝなり。羅馬書八章廿四節参考。

　

　　　　　人と信仰

　

　人は何人も人ならざるべからず、而して人なるが故に彼に信仰なかるべからず、即ち謙遜《へりくだ》りて依頼《よりたの》むの心なかるべからず、偉人とは唯我独尊《ゐがどくそん》の人にあらず、最も強く自己の荏弱《よわき》を感ずる人なり、ルーテルなり、コロムウエルなり、ダンテなり、ニュートンなり、皆な此意味に於ての信仰家たりしなり、人に己れの無学を自覚し、罪を歎ずるの心なくして、彼は人にして人にあらず、偉人他なし、謙遜の人なり、自己の弱きを覚りて嬰児《をさなご》の如くに神に依頼《よりたの》むの人なり。

　

　　　　　伝道と救済《すくひ》

　

　霊魂を救ふのではない、霊魂を創造《つく》るのである、イエスキリストを紹介して彼より生命（霊魂）を受けしむるのである、伝道とは是れである、救済《すくひ》とは是れである、而して世に是れ以上の事業は他《ほか》に無いのである。

　

　　　　　語る　理由《わけ》

　

　我は信者を作らんがために伝道しない、我は唯我が救済《すくひ》の歓喜を宣《のぶ》るまでゞある、人が我が言を聞いて之を受(40)けないでも可《よ》い、又一たび之を受けて再たび之を棄ても可い、我は人の我が言に対する態度に由て我が伝道を廃《や》めない、斥くる者は斥くるが可い、棄つる者は棄つるが可い、それは彼等の勝手である、我は唯語る、人が聴いても語る、聴かないでも語る、我は我が歓喜《よろこび》を語らずには居られない、我は雲雀《ひばり》が嘲《さへづ》るが如く、人が聴く聴かざるに関せず語る、我は黙するには余りに嬉しくある、夫れであるから語るのである。

　

(41)　　　　　教育の基礎としての信仰

　　　　　　　　　　明治44年1月10日『聖書之研究』127号　署名　内村鑑三

　

　　去年十月十五日、長野県南安曇郡東穂高村研成義塾設立第十二年紀念会席上に於て述べし所の大要なり。

　

　　凡そ神によりて生まるゝ者は世に勝つ、我等をして世に勝たしむる者は我等が信なり。約翰第一書五章四節。

　金は勢力なりと云ふ、まことに金は大なる勢力である、今や金は兵力を支配し、政治を支配し、文明を支配する、今や金なくして国家は一日も立つことが出来ない、故に実業教育は頻りに奨励される。

　然れども世には金を以てするも獲る能はざる者が多くある、又金を獲るの一点より見るも金は金を獲んと欲して獲ることの出来る者でない、金を獲るに金以外の勢力《ちから》が要《い》る、知識は確かに金以上の勢力である。

　知識は勢力である、知識は富を作り幸福を増す、知識は天然を征服し之を利用する、知識は最大の富源である、當は之を山と海とに於てのみ探るべきでない、亦之を人の脳裡に於て求むべきである、国民の知識を開発して、荒蕪を拓《ひら》くに勝《まさ》るの利益がある。

　然れども知識は以て人のすべての要求を充たすに足りない、知識は誇り易くある、又｜誤《あやま》り易くある、知識は脳を開くも未だ以て心を拓《ひら》くに足りない、知識は非社交的である、独り己を以て足れりとする、知識を教育の基礎(42)となして多くの利己主義の人を作らざるを得ない。

　茲に於てか知識の上に道徳が必要である、道徳は富と知識とを人類共有のものと為すために必要である、富者の驕奢《けうしや》と智者の傲慢を破るために必要である、国に道徳が欠乏して其富は少数の富者の手に止まり、其知識は少数の学者の専有する所となる、道徳は直接に又間接に富と知識とを増すために必要である、道徳は知識の領域を広め、富を其根柢に於て涵養する、道徳は知識に勝りて深くして堅固なる力である。

　然れども道徳と雖も亦独り自から己を維持し得る力でない、道徳も亦人の力であれば、人と共に有限である、道徳を其れ自身に放任して終に枯渇せざるを得ない、道徳は硬《かた》き規則と化し易くある、偽善と変じ易くある、道徳をして固き律法とならざらしめんがために、道徳以上の者が要る、夫れは即ち信仰である。

　信仰は人を無限の神に繋ぐ者である、而して神は道徳、知識、実力の本渡であるが故に、彼に連《つらな》りて人は能力《ちから》の本源に聯《つらな》るのである、茲に於てか彼は規則を以て自己《おのれ》を縛ることなくして道徳を維持するを得、愛の泉を己が心の中に発見して、強ひて躬《みづ》から努むることなくして生命の水を他に供給し得るに至る、而して道徳は自《おの》づと彼より湧出《わきい》づるに止まらず彼の心霊は自由を得て其結果として彼の智能までが著しく発達する、信仰は単に信仰として止まらない、直に自由研究の精神として現はれ、科学と哲学の発達を促《うなが》す、殖産是れが故に起り、事業是れが故に挙《あが》る、信仰の杖《つえ》を以て堅き心の磐《いは》を叩《たゝ》いて、其中よりすべての善き物は出来《いできた》るのである。

　資金なく知識なく徳望なしと雖も敢て悲むに足りない、我等は信仰を以てすべて是等の欠乏を補ふことが出来る、我等は信仰を以て世に勝たんとする、世が金力と知識と道徳とを以て為さんとする事を我等は信仰を以て為さんとする、而して我等の此希望の決して空望でないことは聖書と歴史と実験との明かに示す所である。

　

(43)　　　　　善き事

　　　　　　　　明治44年1月10日『聖書之研究』127号　署名なし

　

　我をしてキリストに近づかしむる事は我に取りてすべて善き事なり、貧困も、疾病も、孤独も、迫害も、然り、死其物も、すべて此意味に於て善き事なり、而して我れ彼を求めまつりて、我に取りすべての事善からざるはなし、幸福なるは我れなるかな。

　

(44)　　　　　教会とは如何なる者である乎

　　　　　　　　　明治44年1月10日『聖書之研究』127号　署名　内村生

　

　教会とは如何なる者である乎、

　余輩の実見せる所に由れば教会とは大略左の如き者である、即ち

　第一、教会は此世が可とする事は之を可とし、此世が否とする事は之を否とする、此世が戦争を可とする時は熱心に之を可とし、此世が平和を唱導するに至れば我れ劣らじと之を主唱す、教会は世に扈従する者である、之を先導する者でない、嘗てジヨセフ・パーカーが或人に就て言ひしが如く「教会は牛の尾の如き者である、即ち常に後《うしろ》に在る者である。」

　第二、教会は人が悲境に立つ時は世と共に彼を冷遇し、彼が世に迎へらるゝに至れば「彼は我党の士なり」と称して彼に就て世に向て誇る、教会は今日まで屡々自己が迫害して死に至らしめし者をカノナイズした、即ち聖人として祭り上げた、教会は物に対しても亦人に対しても世と褒貶毀誉を共にする、決して世の輿論に反して義を唱へない、又義人を庇保しない。

　第三、教会は人を使ふ者であつて人に役《つか》はるゝ者でない、教会は自己に利益なる者と見れば何人に限らず之を利用する、学者を利用する、商人を利用する、時には無教会主義者をすら利用する、而して彼等を利用して之に(45)酬ゆるの途を知らない、使徒パウロは人に教へて　　汝等人に愛のほか何物をも負ふ勿れ

と曰ふたが、教会と其指導者とはすべての人にすべての物を負ふて何の苦痛をも感じない、義理〔二字右○〕の観念に欠乏する者にして余輩は今の基督教会の如き者のあるを知らない。

(46)　　　　　〔偉大なる哉聖書　他〕

　　　　　　　　　　明治44年1月10日『聖書之研究』127号　署名なし

　

　　　　　偉大なる哉聖書

　聖書は如何に之を見るも是れ我れ以上の書なり　我れ之を消化《こな》さんと欲して之に臨んで之を消化《こな》す能はずして返て其｜消化《こな》す所となる、我が聖書の註解なる者は聖書に関はる我が註解にあらずして我に関はる聖書の解釈なり、即ち我に関はる聖書の判決〔二字右○〕なり、我れ聖書を知らんと欲して之を繙きて終に其知る所となる、我れ聖書に対して坐してヒマラヤ山に対して立つが如きの感あり、之を究むる能はずして終に其威圧する所となる、偉大なる哉聖書！

　

　　　　　真の交際

　

　人を見るを要せず、神を見んと欲す、人と交はるを要せず、神と交はらんと欲す、而して神に於て人を見、彼に在りて人と交はらんと欲す、真《まこと》の神は人と絶《はな》れて在る者にあらず、故に彼と交はりて人と交はらざらんと欲するも得ず、然り、彼と交はりてのみ能く深く〔二字右○〕人と交はるを得るなり、吾人は独り神と交はりて隠士たらんと欲す(47)るも得ざるなり。

　

　　　　　詩篇第百六篇十五節

　

　　ヱホバは彼等の祈願《ねがひ》を聴き給へり、

　　而して其霊魂を痩《やせ》しめ給へり

　祈?の聴かるゝことは必しも善き事でない、其れがために却て霊魂が痩せる場合がある、此世の事業の成功を祈りて、其祈?の聴かれし結果、信仰は衰へ、希望は失せ最《いと》も無意味な生涯を送るに至りし信者は尠くない、肉と此世の事に関しては我等の祈?の聴かれざる事こそ却て恩恵《めぐみ》なれ、我等は肉に於て肥えて霊に於て痩せんよりは寧ろ其正反対を望むべきである。

　

　　　　　詩篇第百二十篇五節

　

　　禍《わざは》ひなる哉、我はメセクに宿り

　　ケダルの傍《かたはら》に住めり、

　クロムウエル特愛の対句《ついく》である、彼は曾て曰ふた、

　　メセクは延引《えんいん》を意味し、ケダルは暗黒の意なり、主は延引し給ふと雖も、我は信ず彼は必ず我を彼の幕屋、彼の住所に導き給ふ、

(48)と、メセクとケダルとは蓋しアラビヤ民族中｜譎詐奸佞を以て聞えし者ならん、彼等の間に宿ると云ふは、詐欺、奸策の到る所に行はるゝ此罪悪の世に住むと云ふことである、ヱホバの聖徒は此世に在りて実《まこと》にメセクに宿り、ケダルの傍に住む者である、之を思ふて悲哀《かなしみ》に堪えない、然れどもクロムウヱルの言ひしが如く、「我は信ず」である、「今｜暫時《しばらく》ありて来者《きたるもの》来らん、必ず延引《えんいん》し給ふ事あらじ」である。希伯来書十章三十七節。

　

　　　　　欲しき者

　

　何にも豪《えら》い人になりたくない、又｜富者《かねもち》になりたくもない、位階も要らない、勲賞も要らない、貴顕を友人として欲くもない、又宣教師、牧師、伝導師等の同情も要らない、唯キリストが解《わか》りたい、又人にキリストが解つて欲しい、彼れさへ解《わか》ればすべての善き事は我に来るのである、心の平和が来る、窮りなき生命《いのち》が来る、希望《のぞみ》と歓喜《よろこび》と満足《まんぞく》とが来る、我は他に何にも欲しくない、唯キリストが欲しい、彼が来て我心に宿って欲しい、而して彼が我が此の切なる欲望《のぞみ》を充たし給ふを感謝する。

　

　　　　　信仰の意義

　

　余は恁《か》う信ずる、

　神を信ずるとは神を信念〔二字右○〕することではない、己を神に献げまつることである〔己〜右○〕、パウロの言を以てすれば、己が身を神の聖意《みこゝろ》に適《かな》ふ聖き活ける祭物《そなへもの》として彼に献げまつることである、己を神に信《まか》し奉ることである、彼の命ずる所に往き、彼の命ずる事を為し、己れは死したる者の如くなりて神の機械と成ることである、是れ以下のこと(49)は信仰でない、頭脳《あたま》を以て信ずること、心思《こゝろ》を以て念ずることは、信仰と称するに足りない、全身を神に献げまつるに及んで始めて信仰に入るのである。此意味に於て人は神を信ずるに由て救はるゝのである、即ち己れを棄て救はるゝのである、キリストの言ひ給ひしが如く、

　　その生命を惜む者は之を喪《うしな》ひ、其生命を惜まざる者は之を保存《たもち》て永生に至るべし、

である（約翰伝十二章廿五節）、救はるゝと云ひ永生を得ると云ふことは別に不可解のことではない、最も解し易きことである、十字架を負ふてイエスに従ふことである、即ち彼に傚ふて己れを神に献げまつることである、爾うすれば救はるゝのである、即ち人と成ることが出来るのである、少しなりと生命を惜むの念の存する間は罪より全く脱することは出来ない、罪は「己れ」であれば、全く己れを棄てざる間は罪は離れない、己れに死し、己れを神に献げて我等は始めて無私無我にして神の如き者と成ることが出来るのである。

　

　　　　　幸福なる家庭　詩篇第百二十八篇

　

　　　一、福《さいは》ひなる哉ヱホバを畏れ

　　　　　其道を歩む者は。

　　　二、汝は必ず汝の手の作業《わざ》の果を食ふべし、

　　　　　汝は幸福《さいはひ》なるべし汝は平康《やす》かるべし、

　　　三、汝の妻は家の奥に居りて

　　　　　実《みの》る葡萄樹《ぶどうじゆ》の如くなるべし、

(50)　　　　　汝の子等《こら》は汝の食卓《しよくたく》を囲みて

　　　　　　若《わか》き橄欖樹《かんらんじゆ》の如くなるべし。

　　　四、視よ、ヱホバを畏るゝ者は

　　　　　斯《かく》の如くにして恵まるべし。

　

　　　　　　　　略註

　（一）ヱホバを畏るゝは知識の本なり、同時に又家庭幸福の基《もとゐ》なり、富あり、位あるも、信仰なく道徳なくして幸福なる家庭を見る能はざるなり。

　（二）斯かる者の労働は必ず報ひらるべし、或ひは必しも物を以てしては報ひられざるべし、然れども幸福と平康とは必ず之に伴ふて彼に到るべし、彼は必ず彼の手の労働に由て生活《いく》べし、彼は独立の人なるべし、故に幸福にして平和の人なるべし。

　（三）彼の妻は交際場裡に花を咲すが如き虚偽虚栄の婦人にあらざるべし、彼女は家の奥に居りて一家の実利を計る勤勉誠実の天使なるべし、実《みの》る葡萄樹の如くなるべし、咲きて実《みの》らざる桜の如くにあらず、見て美はしく、実りて貴く、味ふて甘き葡萄樹の如くなるべし。

　夫《をつと》の労は外に栄え、妻の業は中に実《みの》りて、彼等の間に設けられたる子等に不足あることなし、一家の食卓は其の幸福の中心となるべし、而して之を囲みて小児は若かき橄欖の如くに強健にして旺盛に生育すべし。

　（四）注意せよ、ヱホバを畏るゝものは斯の如くに恵まるべし、即ち人生最善の賜物《たまもの》なる幸福なる家庭を以て恵ま(51)るべし。

　ルーテルは此篇を称して Epithalamium 即ち結婚の歌と云へり、実《まこと》に最も聖き意味に於ての結婚の歌なり、世に之にまさりて美はしき家庭歌あるなし。

　

(52)　　　　　〔我の為し得ること　他〕

　　　　　　　　　明治44年2月10日『聖書之研究』128号　署名なし

　

　　　　　我の為し得ること

　

　金と銀とは我に有るなし、我は此世の財を以て人を援くる能はず、

　　我はキリストの福音を以て人を援けん。

　我は交際の術を知らず、故に権者の間に友人を有せず、我は権力を以て人を援くる能はず、

　　我はキリストの福音を以て人を援けん。

　我に技芸なし、我は美術と美文とを解せず、我は人を楽しましむるの術を知らず、

　　我はキリストの福音を以て人を慰めん。

　我に才能なし、我は処世の道に暗らし、我は智略を以て人を援くる能はず、

　　我はキリストの福音を以て人を援けん。

　我はすべての物とすべての方法とを以てすべての人を援くる能はざるを悲む、然れども唯少しく神は其性に於て愛なるを知れば、我は此単純なる福音を以て涙の谷を歩む此憐むべき人類を僅少《わずか》なりとも援け且つ慰めんと欲(53)す。

　

　　　　　罪の赦し

　

　神はキリストを以て我等の罪を赦し給ふたのではない、彼はキリストに由りて彼が我等の罪を赦し給ふことを示し給ふたのである。神はキリストを以て始めて〔三字右○〕我等の罪を赦し給ふたのではない、彼は世の創始《はじめ》よりキリストが我等の罪を赦し給ひしが如く之を赦し給ふたのである、然かも彼はたゞ〔二字右○〕赦し給ふたのではない、キリストが我等の罪のために苦しみ給ひしが如くに、之れが為に苦み給ひて之を赦し給ふたのである、我等が罪を犯すたび毎に神は我等のために十字架の苦を重ね、而して之を赦し給ふのである、キリストは神の御心の示顕である、神はキリストが血を流し給ひしが如く苦痛の極を繰返《くりかへ》して人の罪を赦し給ひつゝあるのである、無辺なる哉彼の愛！此愛を見て悔改めざる人の心の頑強《かたく》なさよ！

　

　　　　　三位一体

　

　神が万物を統治《すべおさ》め給ふ時、我等は彼を聖父と称し奉る、彼が人と成りて人類の間に顕はれ給ひし時に、我等は彼を聖子と称し奉る、彼が直に人の心に宿り給ふ時に、我等は彼を聖霊と呼び奉る、三位の神が如何にして一体であり得る乎、我等は其奥義を解する能はず、然れども神が三様に我等に顕はれ給ふことは我等の明白に実験する所なり、希くは栄光三位の神にあれ、アーメン。

　

(54)　　　　　善の報賞

　

　善を為して直に其報《むくひ》を受けて善の可能性は尽くるなり、善を為して其報を受けずして其可能性は後世に至るまで存するなり、善を為して其ために迫害せられて善の可能性は増大せられて後世に至るも尽きず、其果を結びて永久にまで存するなり、故に聖書は曰ふ、

　　喜べ躍り喜べ、天に於て汝等の報賞《むくひ》多ければ也、

と、最も幸福なることは、善を為して其報に与からざるのみならず、却て之がために迫害《せめ》らるる事なり。馬太伝五章十一、十二節。

　

　　　　　神と善

　

　余輩は神を信じ又善を信ず、余輩は神の無限を信じ又善の不滅を信ず、余輩は善意を以て為されたる善の何時《いつ》か何処《いづこ》かにて功を奏するを信ず、余輩は善の絶対的失敗を信ずる能はず、故に善を為すを喜び、又少しなりとも善を為すことを得さしめられしを感謝す。

　

　　　　　大事業の成就

　

　我等は好《この》んで此世に於て大なる事業を成すを得べし、必しも我等存命中に自身之を成す能はざるべし、然れども死後に於て他人を以て必ず之を成すを得べし、我等は大事業を計劃し、之れが為に努力し、之れがために祈?(55)し、終に之れがために我等の生命《いのち》を抛《なげう》ちて必ず之を此世に於て成就《なしとぐ》るを得ぺし、キリストの言給ひし

　　汝等すべて我名によりて祈求《ねが》ふ所のことは我れすべて之を為さん、

との言は此意味に於てまことに然り、我等は彼に祈求《ねが》ひて終に彼の聖名《みな》に依る大学をも起すを得べし、社会をも改造するを得べし、此世を化してキリストの国と成すを得べし、希望多きかな人生！

　

　　　　　基督教の特徴

　

　宗教は道徳に非ず、其事は明白なり、基督教は道徳を基礎とする宗教なり、其事も亦明白なり、厳正なる道徳を離れて基督数あるなし、故に謂ふ、宗教の中に在りて基督教のみ惟り宗教に非ずと、厳正なる道徳より分離して基督教は異邦の宗教と化するなり、教会の唱ふる基督教は其原理に於て、モアブ人、アモリ人、アマレク人等の宗教と何の異なる所なきなり。

　

　　　　　霊の深淵

　

　深き哉霊、霊は容貌に非ず、風采に非ず、学問に非ず、境遇に非ず、遺伝に非ず、将《はた》亦行為にも非ず、道徳にも非ず、霊は霊にして人の深き所に存す、各人の衷の意と心とは深し〔各〜右●〕（詩篇六十四篇六節）、神の霊のみ能く人の霊を知り給ふ、人は外より之を覗《うかゞ》ふて其何たるを知る能はず、人が人を審判《さば》く能はざるは之れが為なり、故に彼は曰ひ給へり、

　　我が観る所は人に異《ことな》り、人は外《そと》の貌《かたち》を見、ヱホバは心を観るなり、

(56)と（撒母耳前書十六章七節）。

　

　　　　　宗教家の資格

　

　教会を牧する者必しも宗教家に非ず、神学を講ずる者必しも宗教家に非ず、伝道を計劃し、此世を化してキリストの国と成さんとする者、亦必しも宗教家にあらざるなり、宗教家は親しく神と交はる者なり、モーセの如くに人が其友に言談《ものい》ふ如くに面を合せて神と言談《ものい》ふ者なり、宗教家は又身は此世に在るも霊は恒に天国に在る者なり、パウロの如くに希《ねが》ふ所は身を離れて主と偕に居らん事なりと言ひ得る者なり、神と親まず、天国を慕はずして、人は宗教を談ずるも宗教家にあらざるなり。出挨及記三十三章十一節。哥林多後書五章八節。

　

(57)　　　　　詩篇第百三十六篇

　　　　　　　　　明治44年2月10日『聖書之研究』128号　署名　内村鑑三

　

　　　　1感謝をヱホバに奉《たてまつ》れ、彼は恩恵《めぐみ》深し、

　　　　　其｜慈愛《いつくしみ》は永遠《とこしへ》に絶《たゆ》ることなし、

　　　　2感謝を神の神に奉れ、

　　　　　其慈愛は永遠に絶ることなし、

　　　　3感謝を主の主に奉れ、

　　　　　其慈愛は永遠に絶ることなし。

　　　　4彼は惟《ひと》り大なる事《わざ》を為し給ふ、

　　　　　其｜慈愛《いつくしみ》は永遠《とこしへ》に絶《たゆ》ることなし、

　　　　5智慧を以て天を造り給へり、

　　　　　其慈愛は永遠に絶ることなし、

　　　　6地を水の上に布《し》き給へり、

(58)　　　　其慈愛は永遠に絶ることなし、

　　　　7巨大《おほい》なる光《ひかり》を造り給へり、

　　　　　其｜慈愛《いつくしみ》は永遠《とこしへ》に絶《たゆ》ることなし、

　　　　8昼《ひる》を司《つかさど》るために日を造り給へり、

　　　　　其慈愛は永遠に絶ることなし、

　　　　9夜を司るために月と星とを造り給へり、

　　　　　其慈愛は永遠に絶ることなし。

　

　　　　10其初子《うひご》を以てエジプト人を撃ち給へり、

　　　　　　其｜慈愛《いつくしみ》は永遠《とこしへ》に絶《たゆ》ることなし、

　　　　11彼等の中よりイスラエルを率《ひき》ゐ出《いだ》し給へり、

　　　　　其慈愛は永遠に絶ることなし、

　　　　12臂《かひな》を延《のば》し大なる強き手を以て、……

　　　　　其慈愛は永遠に絶ることなし、

　　　　13紅海を截断《たちわ》り給へり、

　　　　　其慈愛は永遠に絶ることなし、

　　　　14イスラエルをして其中を通過《とう》らしめ給へり、

(59)　　　　其慈愛は永遠に始ることなし、

　　　　15パロと其軍勢とを紅海の中に篩《ふる》ひ給へり、

　　　　　其慈愛は永遠に絶ることなし、

　　　　16荒野の中に其民を導き給へり、

　　　　　其慈愛は永遠に絶ることなし、

　　　　17大なる王等を撃ち給へり、

　　　　　其慈愛は永遠に絶ることなし、

　　　　18又強き王等を滅《ほろぼ》し給へり、

　　　　　其慈愛は永遠に絶ることなし。

　

　　　　23我等が微賤《いやし》かりし時に我等を記憶し給へり、

　　　　　其｜慈愛《いつくしみ》は永遠《とこしへ》に絶《たゆ》ることなし、

　　　　24我等の敵より我等を救出《すくひいだ》し給へり、

　　　　　其慈愛は永遠に絶ることなし。

　　　　26感謝を天の神に奉れよ、

　　　　　其｜慈愛《いつくしみ》は永遠《とこしへ》に絶《たゆ》ることなし、

　

(60)　　　　　　　　略註

　(1)神の性は愛なり、彼は素《もと》より恩恵《めぐみ》深し、故に神は神として感謝を奉るべき者なり、彼の恩恵の表彰を須《ま》つを要せず、愛なる神は彼れ自身として讃《ほ》めまつるべき者なり。

　(2)神の上に立つ神、諸神の中に在て惟《ひと》り神の尊称を受くるに足る者、其｜慈愛《いつくしみ》は永遠《とこしへ》に絶ることなし、全能にして全智、同時に又全慈にして全悲、其慈愛に於て絶対無限なる者、ヱホバの神は如斯き者なり、而して慈愛に於で超越し給ふが故に彼はすべての神に優りて尊し。

　(3)神の神にして主の主、絶対的至上者、而かも其｜慈愛《いつくしみ》は永遠《とこしへ》に絶ることなし、諸神諸王の上に立ち宇宙の全権を握り給ふ彼の、其慈愛は永遠に絶ることなし、強き丈け優さしく、智《かしこ》き丈け恩恵《めぐみ》深し、無限の権能と無限の正義と、之に伴ふ、然り之に勝《まさ》る、無限の慈愛とを懐き給ふ者、神はまことに如斯き者なり、彼が神たるはまことに是れが故なり。

　(4)彼れのみ惟《ひと》り大なる奇跡を行ひ給ふ、彼は宇宙と其中に在る万物《よろづのもの》を造り給へり、而して彼は斯くも能力《ちから》ある者なりと雖も、然かも其｜慈愛《いつくしみ》は永遠《とこしへ》に絶ることなし、彼は畏るべき者なるよりは寧ろ愛すべき者なり、宇宙を造り給ひし彼は其心に父の愛を蔵《かく》し給ふ。

　(5)智慧を以て天を造り給へり、理に合《かな》ひて天体を排置し、法に循ひて之を回転し給へり、参宿を造り給へり、昴宿を造り給へり、アークツラスを造り給へり、大熊星小熊星を造り給へり、一等星より九等星に至るまで六十三万余の星と其外未だ人の眼に触れざる無数の星とを造り給へり、誠に

　　詔《もろ／＼》の天は神の栄光を顕はし、

(61)　　穹蒼《おほそら》は其手の工《わざ》を示す、

然り、更らに深く之を解すれば、

　　諸の天は神の慈愛《いつくしみ》を顕はし、

　　穹蒼《おほそら》は其心の愛を示す、

其｜慈愛《いつくしみ》は永遠《とこしへ》に絶ることなし、愛は智識の前《さき》に在り、又其後に存す、故に彼は曰ひ給へり、

　　汝等目を揚げて天を観よ、……天は烟の如く消えん……然れど我｜救《すくひ》は永遠《とこしへ》に存《なから》ふるなり

と（以賽亜書五十一章六節）。

　(6)天を造り給へり、又地を造り給へり、青々たる地を水の上に布《し》き給ひて人の住処《すみか》として美《うる》はしき所たらしめ給へり、誠に彼の慈愛は永遠に絶ることなし〔彼〜傍点〕、此山と海とを造り、此野と丘《をか》とを造り給ひし者、彼れ争《いかで》か終に我等を捨て給はんや、諸《もろ／＼》の天は神の慈愛《いつくしみ》を顕はし、地の万物は其心の愛を示す、下よりの声は上よりの声に和して曰ふ、神は愛なりと。

　(7)更らに天に就て語らん乎、彼は巨大《おほい》なる光を造り給へり、日と月とを造り給へり、彼は愛なるが故に之を造り給へり、其｜慈愛《いつくしみ》は日と共に照り月と共に輝《かゞや》きて永遠《とこしへ》に絶《たゆ》ることなし。

　(8)日を造り給へり−彼は愛なり。

　(9)月と星とを造り給へり−彼は愛なり、日を仰ぎ月を眺めて、彼の慈愛《いつくしみ》の永遠《とこしへ》に絶ることなきを知るなり。

　神は愛なり（一−三節）、其愛は宇宙万物に於て顕はる（四−九節）、又歴史に於て顕はる（十−十八節）。

　(10)エジプト人の頑強を挫かんがために、彼等の最愛の初子《うひご》をすら撃ち給へり。

(62)　(11)エジプト人の中よりイスラエルを率ゐ出し給へり。

　(12)其民を救はんがためには幾回《いくたび》か非常手段を取り給へり。

　(13)布《ぬの》を截《た》つが如くに紅海を截断《たちわ》り給へり。

　(14)イスラエルをして其中を通過《とう》らしめ給へり。

　(15)其｜後《あと》を追《お》ふパロと其軍勢とを風の吹き去る粃糠《もみから》の如くに之を海中に篩《ふる》ひ落し給へり。

　(16)四十年の間其民をアカバの荒野の中に導き給へり。

　(17)彼等の前路を遮《さへぎ》らんとする大なる王等を撃ち給へり。

　(18)又強き王等を滅し給へり。

　是《これ》等の事を想ふてヱホバの恩恵を意《おも》はざらんと欲するも得ず、撰民の歴史は歩一歩｜悉く恩恵の指導に由れり、永遠《とこしへ》に絶ることなき慈愛《いつくしみ》のみ能く彼等を聖《きよ》めて神の民となせり。

　(23)「我等が微賤《いやし》かりし時に云々」、是れ或は詩人がイスラエルを代表して曰ひし言ならん、然れども亦詩人自身の実験を語りし言として之を解するを得べし、ヱホバに導かるゝ者は其国家なると個人なるとを問はず、其生涯の実験に於て異なる所なし、此言蓋し主として詩人自身の実験を語りし者として解する方、適当なるべし。

　(24)「我等の敵より我等を救出し給へり」、神に愛せらるゝ者に敵多し、エジプト人あり、アマレク人あり、アモリ人の王シホンあり、バシヤンの王オグありて、或は我等の迹を逐ひ、或は我等の途を遮る、然れどもヱホバは彼等のすべてより我等を救出し給へり。

　(26)然れば感謝を天に在す神に奉れよ、ヱホバは始めに愛にして終りに愛なり、其目的は愛にして其手段は愛な(63)り、彼に就て思ふて愛に就て想はざるを得ず、其｜慈愛《いつくしみ》は永遠《とこしへ》に絶ることなし。第十九節より第二十二節まで、并に第二十五節は一般に後世の追加として認めらる、之を削除して全篇の意を害《そこな》はざるのみならず、返て其更らに一層明瞭となるを覚ゆ、全篇すべて二十一節、始めの三節は神の性の愛なるを歌ひ、次ぎの六節は造化に顕はれたる彼の愛を讃《たゝ》へ、其次ぎの九節は歴史に顕はれたる彼の愛を唱へ、終りの三節は蓋し作者の実験に顕はれたる神の愛を述べたる者なるべし、全篇を大別すれば左の如し、

　　神は愛なり（一−三節）

　　造化は神の愛なるを示す（四−九節）

　　歴史は神の愛なるを示す（十−十八節）

　　我が実験は神の愛なるを示す（二三、二四、二六節）

　神は愛なり、彼の慈愛は永遠に絶《たゆ》ることなし、天と地と、其中に在るすべての者は此事を示す、歴史の出来事はすべて此事を示す、我等の実験も亦すべて此事を示す、愛の神と、愛に由て成りし宇宙と、愛の指導の記録なる歴史と、愛の実験なる我生涯と、四者相共に証明して曰ふ

　　其｜慈愛《いつくしみ》は永遠《とこしへ》に絶ることなし。と。

　

(64)　　　　　神に選まれし者

　　　　　　　　学者多からず貴人多からず

　　　　　　　　　明治44年2月10日『聖書之研究』128号　署名なし

　

　兄弟よ、聖召《めし》を蒙れる汝等を視よ、肉によれる智慧ある者多からず、権威ある者多からず、貴き者多からざる也、神は却て此世の愚かなる者を選《えら》び給へり、是れ智者を愧《はづ》かしめんため也　此世の弱き者を選び給へり、是れ強き者を愧かしめんため也、此世の賤《いやし》き者、藐視《かろしめ》らるゝ者、然り、無きに等しき者を神は選び給へり、是れ自《みづ》から有ると信ずる者を謙《へ》り下《くだ》らせんがためなり、是れすべての人の神の前に誇ることなからんがためなり、………録《しる》して誇る者は主に因りて誇るべしとあるが如し、哥林多前書一章廿六節以下改訳。

　

(65)　　　　　信仰の必要

　　　　　　　　　明治44年2月10日『聖書之研究』128号　署名　内村鑑三

　去年十二月四日、静岡なる富士青年会々館に於て述べし所の大意なり

　

　義人は信仰に由て生くべし〔義〜右●○〕と云ひ（羅馬書一章十七節）、主イエスキリストを信ぜよ、然らば汝及び汝の家族も救はるべし〔主〜右●〕と云ひ（行伝十六章卅一節）、我等をして世に勝たしむる者は我等が信なり〔我〜右●〕と云ふ（約翰一書五章四節）、信、信、信、と、聖書は始めより終りまで信仰に至大の価値《ねうち》を置て居る、

　　信仰なくして神を悦《よろこば》すこと能はず、

と希伯来書の記者は断言して居る（十一章六節）　又

　　信ぜざる者は火と硫黄《いわう》の燃《もゆ》る池にて其｜報《むくひ》を受くべし

と黙示録の記者は曰ふて居る（二十一章八節）、聖書の示す所に依れば信仰なくして救済《すくい》はない、信仰は人が神の恩恵《めぐみ》に与かるための最大要件である。

　何故に爾うである乎、神は何故に人が彼に由て救はれんがためには何よりも先づ信仰を要求《もと》め給ふ乎、何故に人は智識を以て神を悦ばすこと能はざる乎、神が人より何よりも先づ信仰を求め給ふは、彼が人より迷信盲従を(66)求め給ふからではあるまい乎、即ち、神は智識の光明に耐ゆること能はずして、人の信仰に訴へて彼等の尊崇を己れに惹かんとするのではあるまい乎、何故に救済《すくひ》は信仰に存して、哲学、科学、美術に存せざる乎、我等は神が我等より何よりも先づ我等の信仰を要求し給ふと聞いて彼の公明を疑はざるを得ないではない乎。

　爾うではない、斯かる疑問は神の何たる乎を解《わか》らないより起る者である、若し神が単に道理であり、理想であり、宇宙の本源、又は絶対的真理と称すべき者であるならば、彼は或は信仰以外の能力《フハカルチー》を以て探ることが出来る者であらふ、而して多くの人々が神を探ぐると称して哲学の研究に従事するは神を如斯き者として見るからである、曰く有神説、曰く凡神説、曰く無神説と、是れ皆な哲学上の題目である、如斯くにしてギリシヤの哲学者等は神を探らんと欲した、彼等は

　　哲学は神と自由と永生とを供す

と曰ひて、其力を借りて無形の神を握らんとした、而して今時《いま》の人も亦多くは如斯くにして神を探らんとする、彼等は宗教は哲学の一種であると思ひ、之を以てして絶対無限の神を識らんとする、彼等は学問に依らざれば神は解《わか》らない者であると思ふ、彼等は神学者と云へば科学的に又論理的に神の存在を証明し、又其特性を抽出《ちうしゆつ》し得る者であると思ふ、如斯くにして神を信ずる能はざる彼等は哲学者と神学者とを迷信する、彼等は自身神を識らざるが故に、他の人が彼等に代って神を発見して呉れるであらふと考へる。

　然し神は彼等が考ふるが如き者ではない、神は勿論道理である、理想である、宇宙の本源である、絶対的真理である、乍然、彼は遙かに是等以上である、彼は義である、誠《せい》である、愛である、彼は倫理的実在者《エシカルビーイング》である、故に彼は力としてのみ、又は智慧としてのみ探るべき者でない、神は全智全能なりと云ひて彼に関するすべては(67)尽きない、神は全智以上、全能以上である。彼に心がある、而して神に於ても、亦人に於けるが如く、心は智慧以上、能力《ちから》以上である、学者ニユートンの智識の程度を知る者と雖も彼の心を知らない者はニユートンを知らない、力士サムソンの力を知る者と雖も彼の心を知らない者はサムソンを知らない、神に於ても其通りである、神を知らんと欲すれば神の心を知らなければならない、宇宙に現はれたる神の能力《ちから》を見て彼の力を知ることは出来やう、万物に現はれたる神の智巧《たくみ》を見て、彼の智慧を計ることは出来やう、乍然、神の心を知らずして神御自身を知ることは出来ない、神を単に智者と見、力士と見るが故に、人は信仰に由らずして彼を探らんと欲するのである、然し、神は精巧を極めたる機械でもなく、亦単に　力《エネルギー》の本源でもない、彼はペルソンである、情《じよう》を具《そな》へ、意《い》を有《いう》し、愛を懐《いだ》く所の存在者である。

　人を知ると云ふは人の心を知ることである、其如く神を知ると云ふは神の心を知ることである、而して人に於ても神に於でも如何にして其心を知るを得ん乎、一々彼の為したる行《わざ》を探り、彼の意志の如何を揣摩《しま》し、彼を四方八方より観察して而して後に彼を知るのである乎、即ち先づ疑《うたがひ》を以て始め、而して後に信仰に終るのである乎、爾うでない、如斯くにして人は曾て人を信じたことはない、疑つて人を見れば其人は永久に嫌疑的人物である、人を信ぜんと欲すれば始めより彼を信じて掛らなければならない、而して彼を信じてのみ始めて彼の心は能く解かるのである、信は人の心を開くための唯一の鑰《かぎ》である、是れなくして如何に揣摩推測《しますゐそく》を逞《たくま》しうするとも人の心を知ることは出来ない、其事は我等何人も、人との日常の交際に於て我等の能く知る所である。

　神に於ても其通りである、神を信ぜずして神を知ることは出来ない、始めより神を疑って掛って神は永久に疑問物である、殊に神は至誠者であることを知って信仰の彼を知るために必要欠くべからざる者であることが能く(68)判明《わか》る、至誠の人が何よりも嫌ふことは人が彼に就て疑を挾《さしはさ》むことである、至誠は至誠を要求する、至誠は至誠に接するにあらざれば其中に存する秘密を授けない、至誠は懷疑に対しては絶対的沈黙を守り、固く其門戸を閉ぢて奥義の外に洩れざらんことを努む、懷疑の己れに近づくを見れば至誠は声を励まして曰ふ、

　　ファイ、此処を去れ、我に汝に与ふべきものなし、

と、疑ふて聖人を見れば聖人は愚人の如し、懷疑の眼に映ずる至誠は愚鈍であり、無情であり、無意義である。

　至誠の人に於て爾うである、況して神に於てをやである、神は誠実其物である、彼は疑ふに余地なき者である、純白彼の如きはない、公明彼の如きはない、彼はたゞ然り、然り、否な、否なである、彼を疑ふは太陽の光明《ひかり》を疑ふのである、慈母の愛を疑ふのである、神を疑ふは疑ふ者が自《みづか》ら其心を閉づるのである、斯かる者に対して神は其光明を授けんと欲するも得ない、人は神を疑ふて自《みづ》から求めて暗鬼と化するのである。

　茲に於て神が人より信仰を要求し給ふ理由が能く解《わか》る、神は己れに關する人の穿鑿《せんさく》を恐れて彼より信仰を要求し給ふのではない、至誠なる彼は人が至誠を以て彼に近づくにあらざれば其人を惠むことが出來ないからである、神と人との關係は父と子との關係である、而して父子の關係は世の所謂研究的態度ではない、相互的信頼である、即ち子の側《かわ》よりしては父に対する信仰である、懷疑と云ふ他人行儀《たにんぎやうぎ》を以て己れに対する子に対しては父は教へんとするも教ふることが出來ない、惠まんと欲するも惠むことが出來ない。

　神を信ぜずして神を解せんと欲し、彼を信ぜずして其恩惠に与からんと欲す、然れども是れ無理の要求である、物には物の理があり、霊には霊の理がある、而して理に反して物も霊も働らくことは出來ない、己れを信ぜざる者を神は惠み給はんと欲するも得給はない、是れ神の愛に限りがあるからではない、霊の法則の然らしむる所で(69)ある、我等各自が己れを信ぜざる者に対して如何とも為す能はざるが如く、神も亦彼を信ぜざる者を救はんと欲し給ふも得給はないのである、是れ彼が人の不信を憤り給ふと同時に又｜甚《いた》く之を歎き給ふ理由《わけ》である、

　　背《そむ》けるイスラエルよ帰れ、我れ我が怒《いかり》の面を汝等に向けじ、我は矜恤《あはれみ》ある者なり、怒を限なく含《ふく》み居ることなしとヱホバ曰ひ給ふ、

と（耶利米亜記三章十二節）、是れ父なる神が子なる人に向て常に發し給ふ言である、神は素《もと》より矜恤《あはれみ》ある者である、彼は人に就て怒を懷く者でない、彼が怒ると思ふは人が彼を信ぜざるの結果、怒るが如くに思はるゝのである、「背《そむ》けるイスラヱルよ帰れ」、「疑ふ人等よ信ぜよ」と父は言ひ給ふ、而して懷疑的研究を以て彼に到らずして、信仰的誠実を以て彼に來りて、彼は己れに関するすべてを人に示し、尚ほ其上に

　　天の窓《まど》を開きて容《い》るべき所なきまでに恩沢《めぐみ》を彼等に注《そゝ》ぎ給ふ

のである（馬拉基書三章十節）。

　信仰である、信仰である、神を識るの唯一の道は信仰である、其｜恩沢《めぐみ》に与かるの唯一の方法は信仰である、そは神は智者であつて智者以上、權者であつて權者以上であるからである、即ち彼は愛であるからである、愛を識り愛に近づくの唯一の道は愛である、而して信仰は愛の一面である、信仰に由るにあらざれば救はるゝ事なしと云ふは此｜義《こと》である、信仰なくして神を悦ばすこと能はずと云ふは此故である、神の何たる乎を知て、彼が何よりも先づ信仰を要求し給ふ理由が能く判明《わか》る、愛の神を人に紹介する聖書が信仰に至大の重きを置くは決して異《あやし》むに足りない。

　

(70)　　　　　二月中旬

　　　　　　　　明治44年2月10日『聖書之研究』128號　署名　曳杖生

　

　　　　　風はまだ寒くある、

　　　　　土《つち》はまだ堅《かた》く凍《こほ》る、

　　　　　青《あを》きは未だ野を飾《かざ》らない、

　　　　　清《きよ》きは未だ空《そら》に響《ひゞ》かない、

　　　　　冬は未だ我等を去らない、

　　　　　彼の威力《ゐりよく》は今尚ほ我等を圧《あつ》する。

　　　　　然《さ》れど日は稍々《やゝ》長くなつた、

　　　　　温《あたゝ》かき風は時には来《きた》る、

　　　　　芹《せり》は泉《いづみ》のほとりに生《は》えて、

　　　　　魚《うを》は時々《とき／”＼》巣《す》を出て遊ぶ、

　　　　　冬の威力《ゐりよく》はすでに挫《くぢ》けた、

(71)　　　　　春の到来《たうらい》は遠くはない。

　

(72)　　　　　人格の否認

　　　　　　　　明治44年2月10日『聖書之研究』128号　署名なし

　

　人格人格と云ふ、人格に由るにあらざれば人を救ふ能はずと云ふ、若し果して爾うであるならば人を救ふ者は人であって神でない、而して若し爾うであるならば基督教は儒教、ストア教、武士道と何の異なる所はない。

○然し余輩は爾うは信じないのである、余輩の見る所を以てすれば、聖書は人格を以てする救済を唱へない、否な、其正反対を伝へる、聖書は其パウロを以て曰ふ、

　　善なる者は我れ即ち我肉（キリストを離れたる我）に居らざるを知る、

　　我れキリストと偕に十字架に釘けられたり、最早我れ生くるにあらず、キリスト我に在りて生くるなり、今我れ肉体に在りて生くるは我を愛して我がために己を捨てし者、即ち神の子を信ずるに由って生くるなり。

と、是れ人格の没却を云ふのである、其称讃を云ふのでない。

　

(73)　　　　　〔大なる小児　他〕

　　　　　　　　　明治44年3月10日『聖書之研究』129号　署名なし

　

　　　　　大なる小児

　

　我は大なる小児なり、父と共に遊ぶ者なり、我れ彼に依りて生き、彼に依りて考へ、彼に依りて行ふ、我は在りて無き者なり、然れども我が父我が衷に在りて我は実《まこと》に在る者なり、斯の如くにして我は齢《よはひ》百歳に達するも小児なり、永遠の永遠まで小児なり、感謝すべき哉。

　

　　　　　神と共に働くと云ふ事

　

　我れ神と共に働くと云ふは神我を援けて働き給ふといふ事に非ず、我れ神の働らき給ふが如くに働らくを云ふなり、恰かも舟を大河の面に浮《うかぶ》るが如し、其流れに従ふて動くなり、神は沈黙を守りて無為の快楽に耽けり給ふ者にあらず、彼は活くる神にましまして時々刻々と働き給ふものなり、彼れ山岳を以て撃ち給へば我は小槌《こづち》を以て之に和するなり、彼れ雷電を以て叱�曹ｵ給へば我は小声を揚げて之に応ずるなり、彼の敵は我が敵にして彼の味方は我が味方なり、而して彼の側《かたはら》に立ちて戦ひて我が成功は確実なり、そは如何なる政治も権威も能力も終に(74)彼に勝つ能はざれば也。以弗所書一章廿、廿一　廿二節。

　

　　　　　文明と福音

　

　文明は汽船を供し、汽車を供し、電信を供し、電話を供す、文明は肉体に関する多くの快楽と便利とを供す、然れども文明は平和を供せず、安心を供せず、天国を供せず、永生を供せず　文明は霊魂の安全に関し何の貢献する所なし、文明は善き事なり、然れども福音に優さりて善き事にあらず、我等は文明の光輝に眩惑せられて福音の真理を軽視すべからざる也。

　

　　　　　必要なるは唯一

　

　必要なるは唯一つ〔必〜右○〕と主は曰ひ給へり、法律に非ず、軍備に非ず、工業に非ず、商業に非ず、哲学に非ず、科学に非ず、将た亦高き道徳にも非ず、彼なり、而して彼の福音なり、是れなくして個人も、家庭も、社会も、国家も深き固き根柢の上に立つ能はざるなり。路加伝十章末節。

　

　　　　　幸福と十字架

　

　人類の幸福は学術の進歩を要す、学術の進歩は思想の自由を要す、思想の自由は政治の改善を要す、政治の改善は人心の洗浄を要す、人心の洗浄は霊魂の釈放を要す、霊魂の釈放はキリストの十字架を要す、キリストの十字架に由らずして人類の幸福も亦之を地上に於て見る能はざるなり。

　

(75)　　　　　全き救

　

　余輩は此世に在りて〔四字傍点〕救はれんと欲せず、此世より〔二字右○〕救はれんと欲す、此世は既に呪はれたる世なり、故に早晩亡ぶべき世なり、故に此世に在りて救はるゝは救はれざるに等《ひと》し、成功するも失敗するに同じ、余輩は此呪はれたる、亡ぶべき、ソドムとゴモラとに等しき世より救出されて余輩の救を全うせんと欲す。

　

　　　　　教会の真偽

　

　教会若し神の教会ならん乎、是れオルガニズムにしてオルガニゼーシヨンにあらざるなり、生命の形成する有機体にして人為の構造する体制にあらざるなり、教会はキリストの体《からだ》なりと謂へば其、今日世に称する教会にあらざるは明かなり、教会は聖霊の組織する生物なり、宗教家の編制する制度にあらざるなり、教会の真偽は近世科学の法規に照らし見て瞭《あきら》かなり。

　

　　　　　自由の貴尊

　

　自由は自由のために貴からず、神のために尊し、自由は勝手に我意を行ふために貴からず、神をして人の何等の干渉なくして我に在りて働らかしめ給ふがために尊し、自由の観念より神を分離して自由は賤しむべくして且つ危険なる者と化するなり、神を目的とせずして自由は之を求むべからざるなり。

　

(76)　　　　　信神、建徳、愛隣

　

　信神とはキリストの御父なる真《まこと》の神を信ずるを云ふなり、建徳とはキリストの霊即ち聖霊の実を結ぶを云ふなり、愛隣とはキリストに在りて彼の愛に勉《はげま》されて隣人を愛するを云ふなり、我等の善行はすべてキリストに由る善行なり、故に我等は自《みづ》から称して基督者と做すなり。

　

　　　　　伝道は何のためなる乎

　

　伝道は信者を作るためではない、又必しも人を善道に導くためでない、勿論社会を改良し国家を救済するためではない、伝道に由て信者は出来ない、又福音に由て人は必しも善人に成らない、否な、多くの場合に於て其正反対が事実である、吾人は誠実を以て伝道に従事して反て人をより〔二字傍点〕悪しく為した場合も無いではない。然らば伝道は何のためである乎、証明《あかし》のためである　神に就き、公義に就き、裁判に就き、救拯《すくひ》に就き証明するためである、而して此証明は神が最後に人類を裁判《さば》き給ふ時に必要なるのである、即ち各人の口｜塞《ふさが》り、世の挙《こぞ》りて神の前に罪ある者として認められんがために必要なるのである（羅馬書三章十九節）、而して新らしき天と新らしき地とが顕はるゝ前に福音は先づ万民に宣伝へられざるを得ず〔福〜右○〕とキリストは宜ふた（馬可伝十三章十節）、而して此日の一日も早く来れかしと待望むが故に、吾人は此世に於ける結果の如何に係はらず、時を得るも時を得ざるも努めて福音を宣伝ふのである（提摩太後書四章二節）。

　

(77)　　　　　詩篇第十二篇

　　　　　　　　明治44年3月10日『聖書之研究』129号　署名　内村鑑三

　

　　　一、助けよヱホバよ、仁慈《じんじ》は絶え、

　　　　　誠実《せいじつ》は人の子の中より失せたり、

　　　二、人は各自《おの／＼》、虚《きよ》を以て其隣人と相語《あひかた》り、

　　　　　滑《なめら》かなる唇《くちびる》と弐心《ふたごゝろ》を以て言《ものい》ふ。

　　　三、ヱホバのすべて滑かなる唇と

　　　　　大言を吐く舌とを滅《ほろぼ》し給はんことを

　　　四、彼等は曰ふ、我等は舌を以て勝たん、

　　　　　唇は我有《わかもの》なり、誰か我等に主たらんやと。

　　　五、苦しむ者掠められ貧しき者歎くが故に

　　　　　我れ今《いま》起《た》たんとヱホバ言ひ給ふ、

　　　　　我は其｜慕《した》ひ喘《あへ》ぐ平康《やすき》に彼を置かんと。

　　　六、ヱホバの言は雑《まじり》なき言なり、

(78)　　　　炉《ろ》にて錬《ね》られたる白銀《しろがね》なり、

　　　　　七次《なゝたび》清められたる白銀《しろがね》なり、

　　　七、ヱホバよ爾《なんじ》は彼等を護《まも》り給はん、

　　　　　爾は彼等を永《とこし》へに此｜類《たぐひ》より免れしめ給はん。

　　　八、人の子の中に汚穢《をわい》の崇《あが》めらるゝ時に、悪人は此所《こゝ》や彼所《かしこ》に歩むなり。

　

　　　　　　　　略註

　(1)社会は腐敗を極め、仁愛と誠実とは其跡を絶ちたり、詩人は堪えられずなりて神に向ひて叫びて言へり、「助け給へ」よ。

　(2)人の心に誠実絶えて彼等は各自、空虚の人となれり、彼等は語るべきの誠実を有せず、故に虚を以て相語るなり、虚偽を以てするは勿論なり、すべての事悉く虚なり、虚礼なり、無意味なり、語《かた》るにあらず、飾《かざ》るなり、言あり曰く「言語は真実を掩ふための技術なり」と、人心の腐敗其極に達して其言語は単に修飾の術たるに至る。

　「滑かなる唇と弐心」阿諛《あゆ》と曖昧《あいまい》、真実は如何なる場合に於ても語るべからずと做す、実に堪え難きは斯かる社会の状態なり、然かも人はこれを避けんとせず、交際を求むると称して却《かへつ》て身を其中に投ずるなり、誠に預言者ヱレミヤの言ひしが如し、

　　汝等は各自其隣人を欺き、且つ誠実《まこと》をいはず、其舌に?《いつはり》を語ることを教へ、悪を為すに疲る、と（耶利米亜記(79)九章五節）。

　(3)社会は紊れて斯の如し、故に詩人は祈願を述べて曰ふ「ヱホバの阿諛《あゆ》の唇と高言《かうげん》の舌とを絶ち給はんことを」と、阿《おもね》る者は誇《ほこ》るなり、阿諛の唇は同時に又高言の舌あり、同じく空虚なる心より発す、誠実の語るべきなし、故に?《ねうはち》の如くに響き、大風の如くに鳴るなり、希《ねが》ふヱホバの之等両つながらを絶ち給はんことを、と。

　(4)卑劣なる彼等は曰ふ　「我等は舌を以て勝たん」と、彼等は正々堂々義を唱へ、理に訴へて勝たんとはせず、誹譏、讒謗、毒舌を弄して人を斃さんと計る、彼等に武士の勇気なし、君子の公明なし、彼等にたゞ蛇《へび》の舌あるのみ、或ひは教会に隠れ、或ひは文壇に潜み、匿名を以て批評の矢を放ちて公人を傷くるを以て楽《たのしみ》となす、彼等は曰ふ　「唇或は筆）は我有なり、誰か我に主たらんや」と、卑怯なる彼等は責任を以て語るの勇気を有せず、唯言語は彼等の有なりと称し、之を束縛する者なしと唱へて、氣儘勝手に之を弄するなり、然り人の作りし法律は緩慢にして、言語の責任を問ふに足らず、然れども「すべて人の言ふ所の虚《むな》しき言は審判の日に之を訴へざるを得ず」とキリストは曰ひ給へり（馬太伝十二章三十六節）、言語はまことに人の有にあらず、神はまことに之を主《つかさど》り給ふ、而して人の虚言を吐く者あれば彼は此《これ》をも彼《かれ》をも滅《ほろぼ》し給ふ（哥林多前書六章十三節）。

　(5)詩人は虚偽の社会に堪えずなりて、阿諛と高言との絶たれんことを祈りしに、神は之に応《こた》へて曰ひ給へり

○「苦しむ者掠められ」とは暴主の圧制に遭ふて其所有を掠めらるとの意に非ず、又は税吏の誅求に遇ふて其収入を掠めらるゝの意にあらず、佞人の毒舌に由て其平和と名誉と、時には其地位とを奪はるゝの意なり、誹謗は最悪の圧制なり、之を訴ふるの有司あるなく、之を裁《さば》くの法律あるなし、佞人の毒舌にかゝりて其災害は強盗の毒刃にかゝるよりも甚だし　○「貧しき者歎くが故に」　普通の意味に於ての貧者に非ず、「貧しき者は福なり」(80)とキリストが言ひ給ひし其意味に於ての貧者なり、悪に遭ふて悪に抗せざる者なり、暴人の蹂躙に己が身を委ぬる者なり、誹?讒謗に其名を傷けられながら敢て弁明を試みざる者なり、謂ふ所の心の貧しき者にして、暴を以て暴に報ひんとする復讐の念を懐かざる者なり　○「歎く」は歎願の意なり、人に訴ふるも聴かれざるが故に神に向て歎き叫《さけ》ぶなり、而して神を動かすの力にして貧者の歎願の如きはなし、世の法律に訴ふるも益なき時は、神の聖座に訴へて効あり、而して佞人跋扈》の時に際して、我等に此最後の手段存す、感謝すべきにあらずや。

　「我れ今起たんとヱホバ言ひ給ふ」大なる「我」と強き「今」、万軍のヱホバ、沈黙を守りて今に至りしと雖も、無辜の叫号の声に応じて今〔右○〕起ち給はんとなり、昔しはイスラエルの子孫エジプトに在りて其課せられし労役の故によりて歎《なげ》き号《さけ》ぶの声神に達しければ、神その長呻《うめき》を聞き、イスラエルの子孫を眷《かへり》み給へりとあり（出埃及記二章廿二節以下）、而して今や之と等しく、真実に神を愛する者の、或ひは文明を誇る社会に在りて、或は神聖を衒《てら》ふ教会の中に在りて、俊才の讒誣に遭ふて歎き号ぶの声神に達しければ、神は又彼を救はんとて今〔右○〕又起ち給はんとなり、ヱホバはまことに滑かなる唇《くちびる》と?《いつはり》を語る舌とを斫《き》り棄て給ふべし、讒佞の除かるゝ時は必ず到る、彼の舌は彼の有《もの》にして彼の有にあらず、舌も亦ヱホバの有なり、彼は永久に其大言放語するを許し給はざるなり。

　鹿の渓水《たにみづ》を慕《した》ひ喘《あへ》ぐが如く、我が霊魂は爾を慕ふなりと詩人は曰へり（第四十二篇一節）、信者の慕ひ喘ぐ者は平和なり、佞弁の行はれざる所、平和の充ち溢るゝ所なり、然るに禍ひなる哉、彼は今メセクに宿り、ケダルの傍《かたはら》に住めり（本誌第百二十七号四十五頁を見よ）、毒舌の中に宿り、佞口《ねいこう》の傍《かたはら》に住めり、其時彼はまことに鹿の渓水を慕ひ喘ぐが如くに聖者の平康を慕ふなり、而して神は彼の歎願に聞きて、彼を其慕ひ喘ぐ平康《やすき》に置き給は(81)んとなり、大なる哉此恩恵！　而かも期《とき》到りて神は必ず此恩恵を我等に施し給ふ、曾ては邪智佞弁の渦中に漂流して拠るに家なく、立つに所なかりし者も今は「婬婦バビロン」の手を離れて、真愛自由の平康に在り、神が時には我等を讒害《ざんがい》、毀謗《きばう》、譏詐《きそ》、詭譎《きゝつ》の中に置き給ふは我等をして永《とこし》へに平和の水浜《みぎは》に憩《いこ》はせ給はんが為めなり、佞人も亦用なくして世に遣《つかは》さるゝ者に非ず、彼が社会を紊《みだ》し友団を乱《みだ》るは彼に由りて平康の一層慕はしくならんが為なり。

　(6)ヱホバは詩人の祈願を聞き給へり、彼は佞口讒舌《ねいこうざんぜつ》を絶たんと告げ給へり、茲に於てか詩人は絶えなんとせし彼の希望を復興し、ヱホバの誠実を讃《たゝ》へて曰へり。

　　「ヱホバの言は純精の言なり、炉にて錬られたる白銀の如し、七次《なゝたぴ》煉られたる白銀の如し」と、人の言の虚偽の言にして汚穢《あくた》の如く泥土の如くなるに較《くら》ぺて云ふ、実に人の声に慣れて時に神の言を耳にして我等に此感なくんばあらず、唯に其称讃阿諛の言に止まらず、其哲学の言も、科学の言も、悉く是れ汚穢、泥土たるの感なくんばあらず、而して人の言に較らべて神の言のみ惟り純金の言なるを覚ゆ、然り、然り、否な、否なと、形容を要せず、修飾を要せず、直に心霊の奥底に達す、恩恵に富み、光明に富み、正義溢る、実《まこと》に人は各自｜虚《きよ》を以て其隣人と相語りつゝある間に、神のみは惟り実《じつ》を以て我等と語り給ふ、此虚偽空言の世に在りて神の言のみ惟り真実の言なり、故に言ふ

　　爾の言は真理なり

と（約翰伝十七章十七節）、信仰の耳を傾けて時にヱホバの言に接して此確信の益々強くせらるゝを覚ゆ。

　(7)ヱホバの言は欺かず、彼は必ず彼等〔二字右○〕を護り給ふ、彼に号《さけ》び求むる者の声を聞き給ひて謗《そし》る者｜陥《おとしゐ》る者の舌よ(82)り彼等を護り給ふ、ヱホバは又彼等全体を護り給ふに止まらず、更らに彼等各自即ち「彼」を助け給ふ、ヱホバに?《よ》び求むる者は之を瞳《ひとみ》の如くに護りて其｜翼《つばさ》の蔭に匿《かく》し給ふ、（第十七篇八節）、而して彼を助けて永《とこし》へに此卑劣の徒より免かれしめ給ふ、蛇《へび》の毒舌は其威を逞《たくま》しうするも、そは永久に神の僕を害ふ能はざるなり。

　(8)神の僕は安全なり、然れども讒誣の徒の此世より絶ゆる時はあらざるべし、人の子の中に汚穢《をあい》の徒の崇めらるゝ時に悪人は到る所に跋扈するなり、彼等が政治家として尊まれ、牧師神学者として崇めらるゝ時に、佞人は政界に跋扈し、奸物は教会に横行するなり、是れ悲しむべき事実なり、然れども止むを得ざるなり、今は末の世なり、麦と稗子《からすむぎ》とが同時に同所に生《は》ゆる季《とき》なり、神に在りては稗子を抜集《ぬきあつ》めて之を燃棄《やきすつ》るは容易なり、然れども収穫《かりいれ》の季まで彼は此事を為し給はざるべし、而して其時に至れば

　　彼れ其｜使等《つかひたち》を遣はして其国の中よりすべて躓礙《つまづき》となる者、又悪を行《な》す人を斂《あつ》めて、之を炉の火に投入《なげい》るべし、其処にて哀哭《かなしみ》切歯《はがみ》することあるべし、此時義人は父の国に於て日の如く輝かん

とあり（馬太伝十三章四十一節以下）、義人は今は神の守護を以て足れりとすべし、悪人の絶滅は之を来世に於て期せざるべからず。

　然らば荒《すさ》べよ高ぶる舌よ、汝の毒箭を放てよ、

　　　彼れその?《はね》をもて汝を庇ひ給はん、

　　　汝、その翼《つばさ》の下に隠れん、

　　　其｜真実《まこと》は盾《たて》なり又｜干《こだて》なり、

　　　夜は驚かさるゝことあり、

(83)　　　昼は飛来る矢あり、

　　　…………………………

　　　千人は汝の左に仆れ、

　　　万人は汝の右に斃る、

　　　然れどその災害《わざはひ》は汝に近づく事なからん

とヱホバ言ひ給へり（第九十一篇四節以下）、讒者と佞人とは剣《つるぎ》の如く己が舌を磨《と》ぎ、其弓を張りて矢を放つが如くに毒言を放つと雖も、我等はヱホバに在りて安《やす》し、我等は彼に依りて勝たん（第六十四篇三節以下）。

　

　　　　　約説〔二字右◎〕

　佞人跋扈して詩人神に救助を求む＝第一、二節。

　彼等の世より絶たれんことを祈る＝第三、四節。

　祈?の声に応じて神の言｜臨《きた》る＝第五節。

　神の言に接して讃美の声揚る＝第六節。

　更らに進んで援助到来の確信生ず＝第七節。

　悪人は依然として横行すべし、然かも義人は彼等の中に在りて安全なり＝第八節。

　

　　　　　再説〔二字右○〕

(84)　叫号の声＝第二　二節

　祈?の声＝第三、四節

　感応の声＝第五節

　讃美の声＝第六節

　確信の声＝第七節

　覚悟の声＝第八節

　

(85)　　　　　詩篇片々

　　　　　　　　明治44年3月10日・10月10日『聖書之研究』129・135号　署名　内村鑑三

　

　　　　　（一）　第百二十一篇、一、二節

　

　　　我れ山に向ひて我が目を挙ぐ、

　　　問ふ、我が援助《たすけ》は何処《いづこ》より来るやと、

　　　我が援助はヱホバより来る、

　　　天地《あめつち》を造り給へるヱホバより来る。

　我れ時に我が眼を挙げて、援助《たすけ》を求む、独り心に問ふて曰ふ、我が援助は何処《いづこ》より来る耶と、然り、我が援助は政府より来らず、教会より来らず、将た又我が修養よりも、信仰よりも来らず、我が援助はヱホバより来る、宇宙を造り給へるヱホバより来る、我が援助は人より来らず、又自己より来らず、外より来らず、衷より来る、然かも我ならざる衷より来る、天地を造り給ひて、然かも我が霊に宿り給ふ神より来る、故に我は人に対して独立なり、然れども自己に依らずして他者に頼る、我は強し、然れども誇るを得ず、我が援助《たすけ》をヱホバに仰いで、我は謙下《へりくた》りて強健なるを得るなり。

　

(86)　　　　　（二）　第三十篇五節

　

　　　ヱホバの怒《いかり》はただ暫時《しばし》のみ、

　　　然れど其恵《めぐみ》は終身《しうしん》なり、

　　　涙《なみだ》は一夜《いちや》宿《やど》ることあるも、

　　　歓喜《よろこび》は朝と共に来らん。

　ヱホバは怒り給はざるにあらず、我等に刑罰の臨まざるにあらず、然れども是れたゞ暫時のみ、彼の恩恵は延びて終生に渉るなり、懲罰は例外のみ、而して恩恵は常則なり、涙は時に浮ばざるに非ず、然れども是れ単に旅人の一夜を我家に過《すご》すが如し、朝来れば彼は去り、而して歓喜は彼に代りて永へに我と共に住むなり、苦痛は暫時のみ、歓喜は永久なり、涙は旅人の如くにして去り、感謝は家人の如くにして来り住む、然り、歓喜は朝と共に来らん、旭陽暗黒を排して昇る時に、我が唇《くちびる》に讃美の声は揚る。

　

　　　　　（三）　第七十七篇、七、八節

　

　　　主は永へに棄《すて》たまふや、

　　　彼は再たび恵み給はざるや、

　　　其｜慈愛《いつくしみ》は残りなく去りしや、

　　　其約束は世々に廃《すた》りしや、

(87)　　　神は恵むべく忘れ給ひしや、

　　　彼は怒りて其｜矜恤《あはれみ》を緘《と》ぢ給ひしや。

　不可能事なり、斯かる事は永久に有るべからざるなり、之を問ふて其然らざるを知るなり、斯かる妄想の時に我等の心に浮ばざるにあらず、然れども明白に之を言辞に表はし見て、其如何に不合理なる乎を知る也、懐疑は懐疑として永く心に包むべからざるなり、時に之を言辞に表はして自から己れの不信を責むべきなり、世に解答を要せざる問題あり、而して以上の如きは其最も著明なる者なり。主なる神は永へに我等を棄て給ひしとよ！　不可能事なり。彼は再たび我等を恵み給はずとよ！　荒唐《くわうとう》なり。其慈愛は残りなく去りしとよ！　無稽《むけい》なり。彼の約束は、世々に廃《すた》れりとよ！　妄誕《ぼうたん》なり。彼は恵むぺく忘れ給ひしとよ！　思意するだも能はず。彼は怒りて其｜矜恤《あはれみ》を緘《と》ぢ給ひしとよ！　然り、天地は消失《きえう》するとも此事は有るべからず。信仰上の荒唐無稽《くわうとうむけい》とは是等の事を云ふなり、我等は如何なる困難に遭遇するも斯かる疑問をだに挙ぐべからざるなり。

　

　　　　　（四）　第七十六篇、一、二、三節、

　

　　　神はユダに知られ給ふ、

　　　其名はイスラエルに高し、

　　　其幕屋はサレムに在り、

　　　其聖座はシオンに在り、

　　　彼処《かしこ》に彼は弓と火箭《ひや》とを折り給へり、

(88)　　　盾《たて》と剣《つるぎ》と戦争とを挫《くぢ》き給へり。

　神はユダに知られ給ふ、異邦に知られ給はず、彼の聖名は撰民の中に高し、彼の幕屋は「平和」を意味するサレムに於て張らる、彼はシオンに鎮座し給ふ、而して彼処《かしこ》にて彼は弓と箭とを折り給へり、盾《たて》と剣《つるぎ》とを破毀《こぼ》ち給へり、而して戦争を廃し給へり、世はキリストの御父なる神を知らず、教会は彼を知ると称して実は彼を識らず、彼の名は彼の撰み給ひし少数の民の中に高し、彼は和平《やはらぎ》を愛する者の心に宿り拾ふ、彼の居所《すみか》は聖徒の集会《つどい》なる聖《きよ》き新らしきヱルサレムに於て在り、而して彼処《かしこ》に在りて、彼は彼等を以て弓と箭とを折り給ふ、眉《たて》と剣《つるぎ》とを挫き給ふ、大砲と軍艦とを壊ぼち給ふ、而て終に戦争を廃止し給ふ、世界の平和は政治を以て来らず、教会に由て臨まず、弱きユダと少数のイスラエルとに由て来る、戦争廃止は彼等の天職なり、而して神は彼等に由て必ず此大事を成就し給ふ。

　

　　　　　（五）　第百十八篇、八、九節、

　

　　　ヱホバに依頼《よりたの》むは

　　　　人に依頼むに勝《まさ》りて好《よ》し、

　　　ヱホバに依頼《よりたの》むは

　　　　侯伯《こうはく》に依頼むに勝りて良《よ》し。

　頼るべきは神なり、人に非ず、彼に依頼《よりたの》むは侯爵伯爵に依頼むよりも遙かに好し、人に依りて失望絶えず、侯伯に頼みて恥辱多し、彼等は憎愛常ならず、褒貶《はうへん》時に徇て変ず、ヱホバは然らず、彼は永遠に変らざる磐《いは》なり、(89)彼は衰ふる時の匿所《かくれば》なり、死する時の支柱《さゝえ》なり、彼に依頼みて暗黒は愈々光を放ち、衰落は益々慰藉を加ふ、彼に依頼みて恥辱あることなし、旭日の愈々《いよ／＼》光輝《かゞやき》を増して昼《ひる》の正午《まなか》に至るが如く、彼に依頼みて我等の生涯は歳の愈々｜邁《すゝ》むに循て栄光を増して天の福祉《さいはひ》に近づくなり、富貴も名誉も、位階も勲章も何の慰藉を我等に供せざる時に、ヱホバは其｜聖顔《みかほ》を我等に傾け給ひて、我等の寂寞《さびしき》を癒《いや》し給ふ。

　

　　　　　（六）　第七十一篇二十節、

　

　　　爾、多くの重き苦難《くるしみ》に我を会はせ給ひし者、爾は復たび我を活かし給はん、

　　　而して地の深き所より我を挙げ給はん。

　人世に悲惨事多し、然れども之を償ふて尚ほ余りあるの恩恵事あり、復活是れなり、此事ありて、而して又此事を望んで、此涙の谷は歓喜の楽園と化する也、我も亦多数の人と共に此世に在りて多くの重き苦難《くるしみ》に会ひたり、然れども我は望み又信ず、我神のキリストに在りて我を復たび活かし給ふを、而して墓の底より我を挙げ給ひて我をして天の清き所に住ましめ給ふを、而して此大希望の我が衷に存するが故に我は此世のすべての苦難に勝ち得て余りあり、嗚呼死よ汝の刺《はり》は安《いづ》くに在るや、嗚呼｜陰府《よみ》よ、汝の勝は安くに在るや、夫れ我等が受くる暫らくの軽き苦しみは極めて大いなる限りなき重き栄《さかえ》を我等に得しむる也。哥林多後書四章十七節。

　

(90)　　　　　（七）　第六十二篇第九節

　

　　　実《げ》に低き人は虚《むな》し

　　　高き人は偽《いつはり》なり

　　　権衡《はかり》に懸《か》くれば上《うへ》に上《あが》り

　　　気息《いき》よりも軽し。

　人に貴賤上下の別なし、彼等はすべて虚《むな》しく又｜偽《いつはり》なり、貴族なればとて貴からず、然れば平民なればとて信ずるに足らず、貴族も平民も等しく神に反《そむ》きし者にして彼の眼の前には滅亡《ほろび》の子なり、之を正義の権衡《はかり》に掛けん乎、少数の貴族も多数の平民も錘《おもり》に対して上《うへ》に上《あ》がり、軽きこと気息の如し、然らば我等は貴族にも頼らざるべし、平民にも頼らざるべし、帝国主義をも取らざるべし、社会主義をも唱へざるべし、我等は神に頼り彼の福音を唱道すべし、所謂階級戦争に加はりて上に与《く》みして下を圧せざるべし、又下に与みして上を苦しめざるべし、我等は神に与みして善は到る所に之を賛《たす》け、悪は到る所に之を排すべし。

　

　　　　　第五十篇二節

　

　　　美の極《きはみ》なるシオンより

　　　神は光を放ち給へり。

　「美の極」とはラフハエルの絵画ではない、又アンゲローの彫刻ではない、バツハ、ベートーベンの音楽では(91)ない、又清麗玉を欺く美人ではない、美の極とはシオンである、神の座《いま》し給ふ所である、彼の聖旨《みこゝろ》の行はるゝ所である、彼の聖徒の彼と偕に在る所である、即ち天国である、義と愛との充溢《みちあふ》るゝ所である、美の極は美形ではない、又美音ではない、美の極は美徳である、愛である、愛の行為である、愛が完全に行はるゝ所、其れが美の極である、而して其れが神の宝座《みくらゐ》の在る所のシオンである。

　「神はシオンより光を放ち給へり」、自己《おのれ》を人の子に示し給へり、前《さき》にはシナイの巓《いただき》より火と煙の中に其｜律法《おきて》をモーセに授け給へり、後にはセラピムの翼《つばさ》の上より其｜義《ぎ》と聖《せい》とを預言者等に示し給へり、而して終には其の子イエスキリストを以て其｜恩寵《めぐみ》と真実《まこと》とを下し給へり、神は神として超然として天の高きに止り給はず、謙下《へりくだ》りて自己《おのれ》を人に顕《あら》はし給ふ、美の極は天のシオンである、我等は地にありて之を実見することは出来ない、乍然、我等は天より降り給ひし神の一子《ひとりご》を其の聖なる美に於て仰ぎまつりて、聊か天の極美の一端を窺《うかゞ》ふことが出来るのである、今は洵に暗黒の勢力である、然れども神は既に美の極《きはみ》なる天のシオンより其光を放ち給ふた、光《ひかり》は今や暗《くらき》を逐ひやりつつある、朝は近し、全地が神の栄《さかえ》の光輝《かゞやき》を以て蔽はるる時は将さに近きにあるのである。

　

　　　　　第五十五篇二十二節

　

　　　汝の重荷《おもに》をヱホバに委《ゆだ》ねよ

　　　彼は汝を担《にな》ひ給はん、

　　　彼は義人の動かさるる事を決して允《ゆる》し給はざるべし。

　「汝の重荷をヱホバに委ねよ」、自身之を負はんとする勿れ、自から之を担はんとするが故に汝に堪え難きの(92)苦痛あるなり、之をヱホバに委ねよ、彼は容易《たやす》く之を担《にな》ひ得るなり、而して汝の重荷を汝に代て担ひ給ふに止まらず之と共に汝自身をも担ひ給ひて汝の心に平康《やすき》を賜ふなり。

　彼は義人〔二字右○〕、即ち彼に〔二字右○〕依頼《よりたの》む者〔二字右○〕、即ち彼と〔二字右○〕正《たゞ》しき関係に於て在る者〔十字右○〕の動かさるゝことを決して允《ゆる》し給はざるべし、然り、決して允し給はざるなり、世の所謂義人の動くことはあり、然れども神の義人の動くことはなし、神の義人は信仰の人なり、信頼の人なり、義を神より仰ぐ人なり、我は義人なりと云ふ人にあらず、罪人なる我を憐み給へと云ひて神の慈愛に縋《すが》る者なり、而して斯かる者は決して動かさるることなし、彼が毅然として動かざるにあらず、愛の神が彼の動かさるることを允し給はざるなり、信仰の人は弱きが如くに見えて強し、そは大能のヱホバ、彼を彼の重荷と共に担ひ給へばなり、彼れ自身は弱し、然れども彼を担ひ給ふヱホバは強し、彼は世の嘲弄の中に在りながら終に世を彼の足?《あしだい》となす者なり。

　

(93)　　　　　満五十歳に成つての感

　　　　　　　　　明治44年3月10日『聖書之研究』129号　署名　内村生

　

　余は人生に就て失望しない、余は此世に生れて来たことを悔ひない、余は此世に於て大なる者と成るを得ざりしとて悲まない、余は人と世とを離れて余の衷に何やら或る大なる者の築かれつゝあるを感ずる、余は此世の帝王よりも大なる者が余の心に臨みて、「安かれ、我れ汝を愛す」と言ふ其声を聞く、余は又朽ち行く此世以外に朽ちざる家の余のために築かれつゝあるを感ずる、余は何やら余が此世に来りし目的の日に日に達せられつゝあるを感ずる、余の生涯は其終りに近づくに循つて益々幸福となりつゝある、余は時々カナの酒宴に於けるキリストの奇蹟に就て考へる、神は余の生涯が酣《たけなは》なる頃に至りて旨《うま》き葡萄酒を余に飲ましめ給ひつゝある、余に取りても亦すべての事は悉く働らきて善を為した、然り、今尚ほ善を為しつゝある。

　

(94)　　　　　近来の信仰に就て

　　　　　　　　　明治44年3月10日『聖書之研究』129号　署名　内村鑑三

　

　キリストの尊きは彼の伝へし道義に因るのである、神は父であつて愛である、而して人類は兄弟であつて互に相愛すべき者である、是れが基督教の根本であつて、是れさへあれば他の事は無くとも可《よ》いのである、キリストの奇跡的出生の如き、彼が為せしと云ふ多くの奇跡の如き、復活の如き、昇天の如き、又末の日に於て彼が天使と共に再臨すると云ふが如き、是れ基督教の附《つけ》たりであつて、斯かる事は無しとするも基督教は仆れない、然り、斯かる事は之を無しと視る方が学術進歩の今の世に在て斯教を説明し、又之を人に勧むるに方て便利が多い、然り、更らに進んでキリストと称せられしナザレのイエスなる者は歴史的に存在したことの無い者であると云ふとも、基督教の根本は崩れない、基督教は愛神愛人である、故に基督教以外の宗教でもすべて此事か、又は此事に類したる事を教ゆる者はすべて基督教である、基督教は広くある、聖書やキリスト一人を以て限らるゝやうな者ではないと。

　斯る説は今や我日本ばかりではない、所謂基督教国に於ても多くの人に由て唱へられる、今や基督教は至て漠たる宗教となりつゝある、又キリストは有るか無いか至つて微《かす》かなる人となりつゝある、而かも彼等は曰ふ、基督教は依然として存在する、二十世紀の基督教は奇跡を要せざる宗教であると。

(95)　余輩とても勿論基督教会と其｜遣《おく》りし宣教師の唱ふる所を全然｜肯受《こうじゆ》する者ではない、余輩が教会を嫌らひ、監督、牧師、伝道師など云ふ教会の役人を嫌ふことは本誌の読者の能く知る所である、乍然、教会に反対すればとて余輩は前に述べたやうな漠たる締《しま》りのない基督教に賛成することは出来ない、余輩が聖書を棄てざる以上は、而してナザレのイエスを余輩の救主として仰ぐ以上は、余輩は確実なる歴史的事実の上に基礎を置かない信仰を懐《いだ》くことは出来ない、余輩の信じ又｜事《つか》へんとするキリストは弱い微《かす》かなる人ではない、強いハツキリとしたる者である、其始めと終りとが明白に分つたる者である、余輩は彼の教訓をのみ信ずる者でない、彼れ自身〔四字傍点〕を信ずる者である、若し彼にして新約聖書が明白に示す所の者にあらずとせん乎、余輩の信ずる基督教は其根本より崩れて了《しま》ふのである。

　今の人は頻りに愛、愛と云ふ、誠に余輩と雖も愛を貴ぶ、余輩も亦神は愛なりと信ずる、然れども神はキリストに由で如何なる〔四字右○〕愛を伝へ給ひし乎、其事を究めずして聖書は解らない、聖書は単に漠然たる愛を説かない、明白なる意味のある愛を伝へる、

　　キリストは我等のなほ罪人たる時我等のために死に給へり、神は之によりて其愛を彰《あら》はし給ふ

と（羅馬書五章八節）、キリストの愛とは此特別の愛である、彼が我等の罪のために死にたまひしと云ふ其愛である、此愛があつて基督信者の愛はあるのである、神に対する彼等の愛、人と相互とに対する彼等の愛はすべて此愛の泉より湧出《わきいづ》るのである、愛、愛と言つて唯の理由の無い愛ではない、キリストの十字架より流出る愛である、キリスト我罪のために十字架の死を遂げ給へりと云ふ事が心に刻《きざ》まれずして、彼が我等より要求し給ふ深き聖《きよ》き愛は出ないのである。

(96)　又基督教は希望の宗教であると云ふも、単に未来に善事を望むと云ふ漠たる希望を供する宗教ではない、聖書の云ふ希望とは特別の希望である、キリストの再臨《パルージヤ》と信者の復活を望む希望である、所謂「羞《はぢ》を来らせざる希望」とは此希望である、故に「希望と死者の復活」と云ひ（行伝廿三章六節）、「キリストは汝等が望む所の栄《さかえ》の希望なり」と云ふ（コロサイ書一章廿七節）、又希望と愛との関係を述べて曰ふ、

　　汝等が聖徒（相互）を愛する〔三字右○〕は汝等のために天に蓄へある所のもの、即ち曩《さき》に福音の真理の言《ことば》の中にて聞きし所のものを望む〔二字右○〕が故なり

と（コロサイ書一章五節）、パウロの最後の言として伝へらるゝ所のものに由れば

　　義の冕《かんむり》はすべて彼（キリスト）の顕著《あらはるゝ》（再臨）を慕ふ（望む）者に予へらるべし

とのことである（テモテ後書四章八節）、新約聖書を精読して、信者の希望を再臨、復活の希望として見ずして、其記事は不可解のものとなるのである。

　然し事は単に教理上又は聖書学上の問題ではない、実際上の問題である、我等は果して単に愛すべしと聞いて愛することが出来る乎、望むべしと教へられて望むことが出来る乎、愛を説くのは易い、然し之を行ふは非常に難い、而して愛を行ふに強い動機が要る〔愛〜右○〕、愛は最高の道義であると聞いても愛は行はれない、宇宙は神の愛を示すと聞いても愛は施されない、然しキリストの如き者が世に出て罪人なる我がために死し、而して彼の鞭撻《むちうた》れしことに由て我が不治の傷が癒《いや》されたりと聞て、我は感恩の念に強ひられて愛せざらんと欲するも能はざるに至るのである、基督者を動かす愛は抽象的の愛ではない、事実的の愛である、彼等はキリストの愛に勉《はげま》されて愛するのである、キリストより彼の十字架を取り、エリ、エリ、ラマ、サバクタニの声を除きて彼より強き愛は下らな(97)いのである、彼が苦痛の極を嘗《な》めて、除くべからざる我災害を除き、我をして彼を仰ぎ瞻るに由て、我が罪の身を以てしながら神の聖《きよ》き審判《さばき》の前に立つを得しめ給ひしと覚《さと》ればこそ、我が苦がき心の中よりも愛の甘露が滴《したゝ》れて我が四方《あたり》を湿《うるほ》すに至るのである、キリストが単《たゞ》に人であつて、彼が孔子やソクラテスと同じく単に道徳の教師であるとするならば、此愛は決して彼より流れ出でないのである。

　又キリストの復活と云ひ、最後の裁判と云ひ、彼の再顕と云ひ、新ヱルサレムの建設と云ひ、是れ又決して我等今日の実際上の生涯に関係の無いことではない、今の人は恐怖の念を忌む、彼等は愛とし云へば恐怖の痕跡だも伴はない者であると思ふ、然しさうでは無い、愛にも聖《きよ》いのと、聖くないのとがある、故に「愛に虚偽《いつはり》ある勿れ」と云ふ、而して愛をして純愛ならしむるために恐怖の燬尽《やきつく》す火が必要である、神の裁判の恐怖があつて、愛は其｜?《かす》を燬尽《やきつく》されて始めて純黄金《まじりなきこがね》と成るのである、最後に臨むべき神の裁判の恐怖が絶えて、道徳の基礎は崩るゝのである、正義は正義であつて、其真価は賞罰如何に因る者ではないとは、甚だ高尚に聞こゆる言ではあるが、然し実際に用の無い言である、社会道徳の最も強堅なるときは来世に於ける義罰の念の最も盛なる時である、恐怖の念は不愉快である、然し健全である、此念に燬尽《やきつく》されずして人の心は清浄《せいじやう》なるを得ない、（彼得後書七−十三節を見よ）、故に使徒ヨハネは云ふ

　　凡そ神に由る此望（神の怒より免かるゝ希望）を懐く者は其潔きが如く自己を潔くすと、（ヨハネ一書三章三節）。

　殊に罪悪の充ち溢るゝ今日の社会に在て、来らんとする神の国の希望を懐かずして、我等は悲観失望せざらんと欲するも得ない、文明は進歩すると云ふも腐敗は益々人心の奥底に侵蝕し、所謂人道の高唱せらるゝ今日、列(98)国の軍備の拡張は其終る所を知らず、平和到来の希望の薄き実に今日の如きはない、若し社会は社会に由て改良せらるゝ者であるならば、其改良せらるゝは何時《いつ》であるか我等は知らない、人類は進みながら退く者であるやうに見える、疾病の多き、罪悪の盛んなる、文明進歩の今日の如きはない、我等希望を人類に繋ぎ、文明に置て、失望せざらんと欲するも得ない。

　茲に於てキリスト再臨の希望が暗夜に光明を供するのである、

　　我等は其約束に因りて新らしき天と新らしき地とを待望《まちのぞ》む、義其中に在り、

と（ペテロ後書三章十三節）、我等の待望む新天地は平和会議、社会運動等、人の運動に由て来らない、聖《きよ》き城《まち》なる新らしきヱルサレムは備へ整ひて神の所を出て天より降る（黙示録廿一章二節）、即ち人に由て成らずして、神に由て成る、地より建上《たてあ》げられずして、完備《くわんび》して天より降《くだ》る、キリストの再来とは此事である、人の為す能はざることを彼が再たび顕はれ給ふて成就《ぜうじゆ》し給ふとのことである、而して斯かる事を迷信なりと称して嘲ける者は、地上に於ける人間の事業の如何に果《はか》ない者である乎、其事を知らない者である、人間が蒸汽を発明し、電気を利用すればとて、夫れで人間最大の幸福が得られやうと思ふのは夫れこそ最大の迷信である、肉の事は肉である、霊の事は霊である、人類は自己の努力を以て肉の事に改善を加ふることは出来るが、霊の事は自《みづ》から之を如何ともする事が出来ない、人類最大の幸福なる霊の平和は、彼等は之を神より賜はれなければならない。

　若し科学と哲学とを以て人生を説明しやうと思へば、或ひは近来唱へらるゝやうな説を以て基督教を説明し去るの必要があるであらふ、乍然、其れは説明〔二字傍点〕であって解決〔二字右○〕でない、説明は懐疑を晴らさんとするに止って、確信を持来《もちきた》す者でない、而して聖書の供する福音は説明としては不完全であらふが、解決としては最も完全なる者で(99)ある、是れは実際的に信仰を起し、希望を繋《つな》ぎ、愛を喚起《よびおこ》す者である、之に由て我等は流るゝ涙を拭《ぬぐ》ひ、死の恐怖に暇《いとま》を告げて、歓喜を以て此悲惨の世を渡ることが出来る。

　余輩が斯く云ふは人に歓ばれんためではない、教会と其役人の如きは余輩は之を眼中に置かない、乍然、余輩の人としての渇望を癒さんがために、又クリスチヤンとしての資格を全うせんがために、余輩は今日と雖も余輩に曾て伝へられし旧き聖書の福音を棄ることが出来ない、余輩は無教会主義者なりと雖も近来唱へらるゝ所の「新神学」又は「新福音」には大不賛成である。

　

(100)　　　　　小地獄

　　　　　　　　　明治44年3月10日『聖書之研究』129号　署名なし

　

　余輩は小地獄を見たり、之を基督教界に於て見たり、之を其教会と学校とに於て見たり、猜疑の精神は其中に充ち、幾個の党派は其中に結ばる、彼等は相互を兄弟姉妹と称へて陥擠呑噬を事とす、言あり曰く、悪魔の本城は今や此世に於てあらずして基督教会に於てありと、而して此言の敢て妄言にあらざることを実験せし者は蓋し余輩一人に限らざるべし。

　

(101)　　　　　〔自力と信力　他〕

　　　　　　　　　　明治44年5月10日『聖書之研究』130号　署名なし

　

　　　　　自力と信力

　

　我は意志を以て己《おのれ》に克《か》たんとせず、信仰を以てす、我は能力《ちから》を以て世に勝たんとせず、信仰を以てす、我が意《おも》ふが如く成るにあらず、我が信ずるが如く成るなり、信《しん》は自働《じどう》に非ず、自捐《じけん》なり、我に「我れ」なる者全く無きに至て我は神と偕《とも》に万物の主たるを得るなり。

　

　　　　　義とするの力

　

　縦令《たとへ》我れ全世界の人を悉く信者に作《な》すを得ると雖も我は義《ぎ》とせられず、縦令《たとへ》我れ一人の人を信者に作《な》すを得ずと雖も我は罪《つみ》せられず、我は神の義なるイエスキリストを信ずるに由て義とせらる、我が義とせらるゝと否なとは我が行為に由らず、信仰に由る、我れ口を以て主イエスを表白《いひあら》はし、心を以て彼を信じて我は何の善事をも為さずと雖も救はるゝなり。羅馬書十章九、十節。

　

(102)　　　　　山を動かすの力

　

　活かし給へ、教へ給へ、使ひ給へと、我が祈求《ねが》ふ所は是れなり、活動せんとせず、教導せんとせず、遂行《すゐかう》せんとせず、たゞ我が全身を開放して神の恩恵の受器たらんと欲す、進んで取らんとせず、俟《まち》て享《う》けんとす、而して如斯《かくのごと》くにして我が要求《もと》むる所の者は悉く与へられ、我は力に溢《あふ》れて山をも動かし得るに至る、奇《く》しきかな信仰の秘訣！

　

　　　　　吾人の職責

　

　人を信者に作《な》すは我の為し得る所に非ず、然れども彼に福音を証明するは我の能く為し得る所なり、我の職責は信者を作るに非ず、福音を証明するにあり、人の我が証明を受けて信者と成ると成らざるとは我の関する所にあらざる也。

　

　　　　　教会と信仰

　

　教会は果して正なる乎或ひは邪なる乎、余輩は能く其事を知らず、余輩は唯一事を知る、即ち余輩が教会に近づく時は余輩の信仰の冷却する時なることを、余輩が神に最も近く、真理に最も熱《あつ》き時は余輩が教会に遠かる時なり、余輩は自から好んで教会を棄てしにあらず、霊魂の必要に逼《せま》られて止むを得ず之を去りしなり、余輩は実験的無教会信者なり、論理的無教会信者にあらざるなり。

　

(103)　　　　　教会と余輩と

　

　教会は此世に勢力を得て之を化してキリストの国と成さんと欲す、余輩はキリストの天より降り給ひて此世を己《おのれ》に服《したが》はせ給ふを俟《ま》つ、教会は多数を得んと欲す、余輩は信者なる者の世の終まで少数なるを信ず、教会は信者を作らんと欲す、余輩は福音を証明せんと欲す、教会は此世と和せんと欲す、余輩は此世の其｜創始《はじめ》より神の敵なるを知れば終まで之と偕ならざらんと欲す　教会と余輩と相距《あひさ》る甚だ遠し、余輩は到底教会と共に歩《あゆ》む能はざるなり。

　

　　　　　真理の直道

　

　人を信者に成さんとする乎、方便も必要ならん、政略も必要ならん、権謀、術数、何れか必要ならざらんや、然れども神の真理を証明せんとして方便、政略、何の用あるなし、唯「否な、否な、然り、然り」にて足る、人の智慧の婉言《うるはしきことば》を用ひず唯霊と能《ちから》の証《あかし》を用ふ、要《えう》は神の道を混《みだ》さゞらんことなり、人の信者と成ると否なとは我が関する所にあらざるなり。哥林多後書四章二節。

　

　　　　　永遠の我れ

　

　我は我が齢《よはい》を数《かぞ》へざるべし、我は永遠に生くべき者なればなり。

　我は我が過去を顧ざるべし、我は永遠に進むべき者なればなり。

(104)　神に在りては千年は一日の如し、彼は昨日《きのふ》も今日《けふ》も永遠までも変らざるなり、我は神と共に歩みて我に歳月あるなし、我に唯永遠の現在のみ有りて、過去と未来とは有らざるなり。

　

　　　　　迷路に立ちての祈　帝

　

　神様、私が為さんと欲する事は成りません、亦｜他人《ひと》が私を以て為さんと欲することも成りません、唯｜貴神《あなた》が私を以て為さんと欲し給ふ事のみが成るのであります、神様、ドウゾ貴神《あなた》が私を以て何を為さんんと欲し給ふ乎、其事を教へて下さい、サウして其事の私に解《わか》った以上は私が私に力の有ると無いとを顧《かへりみ》ることなく、又｜他人《ひと》に何の遠慮することなく、唯大胆に其事に従事することの出来るやうに私を援けて下さい、アーメン。

　

(105)　　　　　待望の生涯

　　　　　　　　　羅馬書十三章十一節以下

　　　　　　　　　　明治44年5月10日『聖書之研究』130号　署名　内村鑑三

　

　　○此の如く行ふべし。

　政府の要求は怨言《つぶや》くことなく悉くこれに応ずべし（七節）、人に愛を負ふの他は何物をも負ふ勿れ（八節）、全然無慾の生涯を送るべし、此世は之を無き者と見做すべし。

　　○我等は時を知れり。

　我等は現時《いま》の如何なる時なる乎を知れり、現時《いま》は夜なり、キリストが彼の敵に告げて曰ひ給ひしが如く、今は汝等の時、暗黒の勢力なり〔今〜右●〕（路加伝二十二章五十三節）、暴威と偽善との横行する時なり、聖書を求めて之を得る能はざる時なり　万物の創始《はじめ》に於けるが如く、政治に於ても宗教に於ても黒暗｜淵《わた》の面《おも》を掩ふの時なり（創世記一章二節）、斯かる時に方りて抵抗は無益なり、現時《いま》は我等の時にあらざれば、我等は此時に方りて我等の聖望を充たさんと欲すべからざなり。

　　○今は寝《ねむり》より寤《さ》むべき時なり。

　今は夜なり、然れども暁《あかつき》は近し、今は暗黒の勢力なり、然れども其挫折の時は逼《せま》れり、主は臨《きた》り給はん、光は(106)臨まんとす、今や寝《ねぶり》より寤《さ》むべき時なり、復活の朝は近し、主に在りて既に寝りし者は墓より出て彼と偕に臨《きた》らん、而して生きて此世に存《のこ》れる我等は化せられて彼の処に至らん　暗黒の世に勢力を揮ふは今｜暫時《ざんじ》のみ、暫らくせば主、号令と天使の長《をさ》の声と神の?《らつぱ》を以て自から天より降り給はん、其時?鼠《むぐらもち》と蝙蝠《かほもり》と、其他すべて暗黒を愛する輩《ともがら》とは悉く此地より取除かるべし。テサロニケ前書四章、以賽亜書二章二十節以下。

　　○そは信仰の初《はじめ》より更らに我等の救は近し。

　我等が初めてキリストを信じてより以来、歳を経る幾回、月を閲《けみ》する幾干《いくばく》、幾回か天を仰ぎて主の臨るを俟ち、幾回か声を揚げて「主よ、斯くて幾何時《いくそのとき》を経たまふや」と叫びたり、我等の敵は嘲けりて曰へり「汝の神は何処《いづこ》に在るや」と、夜は長かりき、然れども今や我等の救は近し、我等の義とせらるゝ時は到りぬ、待望の時は既に去て、実現の時は逼《せま》れり。

　　○夜既に深《ふ》けて日近づけり。

　暗黒は既に其極に達して黎明《れいめい》将さに東天に白らまんとす、悪人既に其罪に飽きて義日将さに普《あまね》く一切を照らさんとす、試鎌の時は既に過ぎて報賞の時は到らんとす、キリストが世を治め給ふ時は近づけり、羔《こひつじ》の婚姻の筵《ふるまい》は将に開かれんとす。

　　○故に我等暗黒の行を去りて光明の甲《よろひ》を衣るべし。

　新郎《はなむこ》は将さに到らんとす、故に我等は衣を整へ、暗黒の行為の寝衣《しんい》を脱して光明の甲の正義を着るべきなり、寝衣は光明の筵《むしろ》に応《ふさは》しからず、王は招かれし客の礼服を着《き》んことを要《もと》め給ふ（馬太伝二十二章十一節）、暗黒の世に在ては人は暗黒の行為を怪まず、然れども将さに臨《きた》らんとする光明の世に在りては、光明の礼服を着るにあら(107)ざれば王の前に立つ能はず

　　王、（招かれし）客を見んとて来りけるに、茲に一人の礼服を着ざる者あるを見たり、之に曰ひけるは、友よ、如何なれば礼服を着ずして此処に来る乎と、彼れ黙然たり、王遂に其僕に曰ひけるは、彼の手足を縛りて外の幽暗《くらき》に投出《なげいだ》せ、其処にて哀哭《かなしみ》又｜切歯《はがみ》あらん。馬太伝廿二章十一節以下。

　　○行を正しくして昼歩む如くすべし。

　昼に応《ふさは》しき行を為すべし、我等は光の子なれば、今尚ほ夜なりと雖も、光の子の如くに行ふべし（以弗所書五章七節）、そは夜は急に〔二字右○〕明けて、日光｜倏《たちまち》にして我等の汚辱を照らすぺければなり。

　　○饗雀《たうてつ》酔酒、又奸淫好色、又争闘嫉妬に歩むこと勿れ。

　是れ皆な暗黒の行為なり、故に盛んに暗黒の此世に行はる、然れども我等主に招かれて其｜僕《しもべ》となりし者は、光の子供又昼の子供なり、我等は夜に属《つ》ける者｜暗《くらき》に属ける者に非ず、然れば我等世の人の寝《ねむ》るが如く寝ることをせず、醒めて慎むべきなり、そは寝る者は夜寝り酒に酔《ゑ》ふ者は夜酔へばなり（テサロニケ前書五章五節以下）、然り、争ふ者も亦夜争ひ、闘ふ者も亦夜間なり、故に暗闘〔二字傍点〕と云ひ、夜襲〔二字傍点〕と称す、暗黒の政治と暗黒の教会、何れか悪魔の支配する真暗黒の社会ならざらんや。

　　○惟汝等主イエスキリストを衣よ。

　光明の甲《よろひ》を衣よ、主イエスキリストを衣よ、彼は光なり、真理《まこと》なり、生命《いのち》なり、彼に傚《なら》へよ、彼の霊を受けよ、彼の歩み給ひしが如くに歩めよ、彼の如く謙遜に、彼の如く柔和に、信と愛との胸当《むねあて》を着、救《すくひ》の望を冑《かぶと》とし、以て彼の来り給ふを俟つべし。

(108)　　○肉体の慾を行はんがために其｜準備《そなへ》を為す勿れ。

　キリストの再臨は此世の終末なり、其時彼は此世のすべての権力を滅《ほろぼ》し之に代ふるに聖父《ちゝ》の権力を以てし給ふ、其時位階は廃《すた》れ、勲章は腐り、富は貴《たうとき》をなさず、権は威を作らず、此世の形状《さま》は失せて、新らしき天と新らしき地とは顕はれん、而して義其中に在り（彼得後書二章十三節）、其時｜有《も》つ者は有たざる者の如く、富める者は貧しき者と異ならず、惟信と望と愛とのみ存して其他は皆｜禾稿《わら》の如くに燬《や》かるべし、然らば我等｜聖国《みくに》を承継《うけつ》ぐべき者、争《いか》で肉体の慾を行はんがために其準備に汲々たるべけん乎、貯蓄は明日のために必要なるべし、或ひは来月のために必要なるべし、或ひは更らに延びて来年のために必要なるべし、然れども永久のために必要ならず、子孫のために必要ならず、貪婪は即ち偶像崇拝なり〔貪〜傍点〕（コロサイ書三章十五節）、長き将来のために準備するは貪婪の罪を犯すなり、主は臨り給はん、而して汝の富は廃《すた》れん、縦し主は未だ臨り給はずとするも、汝自身が彼の召す所とならん、而して汝の富は汝自身に取りては無きに等しきものとならん、或ひは主も来り給はず、汝自身も此世より召されずとするも、汝の富其物が銹《さ》び腐れて、或ひは鳥の如くに翼《つばさ》を生《しやう》じて汝の手より飛び去らん、或ひは汝の懐《ふところ》の中に在りて腐蝕《ふしよく》して汝と汝の子孫とを害せん、然り、貪婪《たんらん》は罪なるのみならず無智なり、此世の何たるを知り、自身の何たるを知り、富其物の何たるを知る者は之を蓄へて肉体の慾を行はんがために其準備を為さゞるなり。

　故に曰ふ、負債を払ふべし、愛を行ふべし、貪《むさぼ》る勿れと、明日あるを知らざる我等、盗人《ぬすびと》の来るが如くに意《おも》はざる時に主の来り給ふを俟つ我等、此世の滅亡を期する我等、而して万物の改造を望む我等、我等｜争《いか》でか此世の財に恋々して之を握り之に縋り以て主の前に立て耻辱《はぢ》を取らんや、慾は之を絶たんと欲して絶つ能はず、然れど(109)も慾の非理なるを知て、之を絶つこと甚だ易し〔慾〜傍点〕、信者は道徳としてのみ善事を行はず、智慧として之を行ふ、彼の人生観と、宇宙観と、未来観とが彼をして之を行ふに容易ならしむ

　　　亡ぶる此世　　朽行《くちゆ》く我身

　誠に実に此事を信じて彼は利慾の念に淡白ならんと欲するも能はざるなり。

　信者は光の子なり、暗黒の世に在て光の到来を俟つ者なり、此世は其政府なると教会なるとを問はず、すべて悉く暗黒なり、彼等は平和を講じながら軍備に急《いそが》はし、彼等は愛を説きながら互に相憎み相排斥す、而して此普遍的暗黒の中に在りて少数の信者は行為を潔うして主の到来を俟つ者なり、恰かも小団を作して敵地に陣を張るが如し、或ひは敵の重囲を受けて天涯に孤城を守るが如し、敵は外にあり、時には又中に在り、信者と称する者悉く味方にあらず、然り、敵は屡々天使の如くに輝きて我等の中に在り、今は誠に暗黒の勢力なり、此世の在らん限り信者は其警誠を解く能はず、故に少数の彼等は深く互に相愛すべきなり〔少〜右○〕、懇切《ねんごろ》に互に相援くべきなり、敵の重囲を受けて城中の小事は兄弟も啻ならず、暗黒の世に信仰の孤城を守りて信者は互に相愛せざらんと欲するも得んや、斯かる場合に処して愛せざるは信者にあらざるなり、愛は彼等の境遇の然らしむる所、彼等は主義としてのみ愛するにあらず、又境遇に強ひられて互に相愛せざるを得ざるなり。

　終りに偽はりの信者に注意せよ、彼等はキリストの信者なりと称して、キリストの敵なる此世と和し、之に媚《こ》び、之を迎へ、之を助けて、之と共に幸福の域に達せんと欲す、彼等は戦争は可なりと唱へ、富は大に作るべしと説き、此世に大なる勢力を得て、其政治を行ひ、其争競に勝たんと欲す、彼等の理想は此世の理想なり、彼等が此世と異なる所は惟教会に参し、讃美歌を唱へ、声を揚げて主よ主と叫ぶに止まる、而して神は彼等を裁判《さば》き(110)給はざらんや、未来に於ては勿論、現世に於ても神は顕明に彼等を裁判き給ふにあらずや、彼等の中の政治家を視よ、世を導くと称して返て世の欺く所となり、世の設けし葬穽《あな》に陥りて終にその捕ふる所となるにあらずや、彼等の中の実業家を視よ、富を作りて神を崇むべしと称して、返て富の誘ふ所となり、其毒する所となりて、神を?し、聖名を辱かしむるにあらずや、老ヨハネは誡めて曰へり

　　此世を愛する勿れ、又世にある物を愛する勿れ、人若し此世を愛せば父を愛するの愛其衷に在るなし

と（ヨハネ第一書二章十五節）、然れども教会と其信者とは聖書の此明訓に其耳を傾けず、返て此世を愛するを以てキリストの愛なりと称し、キリストの敵なる此世と和し、之と淫を行ひて、彼等と等《ひと》しく不義の愛を行はざる者を狭量なり偏屈なりと称して責むるなり。

　然れどもキリストの道は炳として太陽の如し、キリストの道は此世と相｜逆《もと》る、キリストを信じ、彼の聖旨《みこゝろ》を為さんと努めて、此世と此世の教会とに憎まれざらんと欲するも得ず、此世は已にキリストを殺したり、争《いか》で其弟子を許容《ゆる》すべけんや、我等は容易に信者の真偽を判別《わか》つを得るなり、世の憎む所の者、是れ真の信者なり、世の憎まざる所の者、是れ偽りの信者なり〔世の憎む〜右○〕、迫害は信者の附随物なり、此世の迫害を身に受けずして、信者は信者にあらざるなり。

　　我等の国は天に在り、我等は救主即ちイエスキリストの其処より来るを待つ、彼は万物を己に服《したか》はせ得る能《ちから》に由りて我等が卑しき体《からだ》を化《か》へて其栄光の体に象《かたど》らしむべし（腓立比書三章廿、廿一節）

　信者の現在の状態と未来の希望とは明かに茲に示さる、彼は此世に在りて大ならんと欲せず、又此世の栄を受けんと欲せず、彼は此世に在りては異邦の民たり、彼の幸福、彼の栄光はすべて天に在り、彼は日夜腰に帯《おび》して(111)主の其処より来るを待つ者なり、

　　我等此処に在りて恒に存つべき都城《みやこ》なし、惟来らんとする都城を求む。希伯来書十三章十四節。

　

(112)　　　　　世渡りの困難

　　　　　　　　　明治44年5月10日『聖書之研究』130号　署名なし

　

　世を渡るは甚だ困難である、然し其｜理由《わけ》は甚だ明瞭である、人は神の子であるのに、此世は今は悪魔の世であるからである、若し全然悪魔に服従するならば、それで此世を渡るのは甚だ容易《やうい》になるのである、然るに悪魔に服従せずして神の子たるに応《ふさ》はしき生涯を送らんとするが故に、世渡りは甚だ困難になるのである、悪魔はイエスに告げて曰ふた

　　汝若し僻伏《ひれふ》して我を拝せば我れ世界の諸国とその栄華とを悉く汝に与ふべし

と（馬太伝四章九節）、米国人の中に諺《ことわざ》がある　即ち

　　富豪となるは容易なり、良心の声は悉く之を打消せば足る

と、神に近くなればなるほど世を渡るのは困難になるのである、而してキリストの如く全く神と一致して人は何人も彼と同じく世に十字架に釘けられざるを得ない、世は今も昔と少しも異ならない、世は神を嫌らひ彼に反く、世を渡るの困難は敵の国を通るの困難である、敵に降らずして安全に其中を通ることは出来ない、是れ歎ずべきことである、然し避け難いことである、而して我等敵の中に在りて毅然として節を全うするにあらざれば永生の冕《かんむり》を獲ることが出来ないのである。

　

(113)　　　　　新約聖書の預言的分子

　　　　　　　　　明治44年5月10日『聖書之研究』130号　署名　内村鑑三

　

　聖書は三ツの部分より成る、其第一は歴史である、其第二は教訓である、其第三は預言である、聖書は純道徳ではない、歴史の事実を以て証明されたる道徳である、又預言の希望を以て奨励されたる道徳である、道徳は其中心であるが、然かも聖書の道徳は独り立つ道徳でない、過去の事実（歴史）に其基礎を置き、未来の希望（預言）に其実現を期する道徳である。

　之を旧約聖書に就て見るに其三分的組織は一目際然である、其モーセの五書と約書亜記と土師記と撒母耳前後書と列王紀略上下と歴代志略上下と、之に加へて以士喇書、尼希米亜記は何人が見ても歴史である、之に次いで約百記と詩篇と箴言と伝道之書とは何人が見ても教訓である　而して最後に来る四大預言書と十二小預言書は其名の通り預言である、如斯くにして旧約聖書は始めに歴史、中に教訓、終りに預言である。

　而して新約聖書も亦其組織に於て旧約聖書と異らない、旧約の最も明白なる歴史的分子なるモーセの五書、即ち創世記、出埃及記、利未記、民数紀略、及び申命記に対して、新約の五書とも称すべき、四福音書并に使徒行伝がある、之に次いで新約の教訓なる使徒等の書翰がある、而して最後に新約の預言なる黙示録がある、新約は旧約に傚ひて成りたる書である、新約は其組織に於て旧約の復作たるに過ぎない。改行

(114)　聖書は其全体の組織に於て三分的である、而して其各部も亦之を分析すれば三分的である、今試に新約の歴史の一なる馬太伝に就て観るに其純然たる歴史的分子に加へて、山上の垂訓の如き純然たる教訓的分子がある、又其第二十四章并二十五章に於けるが如き、純然たる預言的分子がある、又其教訓的分子なる山上の垂訓の中にも歴史的分子もあれば又預言的分子もある

　　イエス多くの人を見て山に登り、坐し給ひければ弟子等も其下に来れり

とあるは歴史である、又

　　汝等より前《さき》の預言者をも如此く迫害《せめ》たりき

とあるも歴史である、イエスが

　　古《いにしへ》の人に告げて言へること有るは

と幾回となく繰返《くりかへ》して宣べ給ひしは歴史を基礎として教訓《をしへ》を垂れ給ふたのである、山上の垂訓は旧約の歴史を土台として述べられたる教訓である。

　其事は明白である、乍然、多くの人の気の附かないことは山上の垂訓の中に預言的分子の多く在ることである、イエスも亦預言者である、故に彼も亦、旧約の預言者と同じく、教ふると同時に預言し給ふたのである、然り、預言者なる彼は預言しつゝ教へ給ふたのである、彼に在りては教訓は預言と分離して伝へられたものではない、二者は一体であった、彼の教訓は未来を期しての教訓であった、

　　心の貧しき者は福《さいはひ》なり

とは教訓である、而して

(115)　　天国は即ち其人の有なれば也

とは預言である、

　　殺すこと勿れ

とあるは教訓である、而して

　　すべて故《ゆゑ》なくして其兄弟を怒る者は審判《さばき》に干《あづか》らん、又其兄弟を愚者《おろかもの》よといふ者は集議に干らん、又｜狂妄《しれもの》よといふ者は地獄の火に干《あづか》るべし

とあるは未来の裁判に於ては誹?罪は殺人罪を以て罰せらるべしとのことを伝へし預言である、

　　凡そ婦人を見て色情を起す者は中心すでに姦淫したる也

とあるは教訓である、而して

　　五体の一を失ふは全身を地獄に投入《なげい》れらるゝに勝《まさ》れり

とあるは未来の裁判の恐るべきことを示して、姦淫の罪を其根柢に於て誡《いまし》めたる預言的教訓である、

　　隠《かく》れたるに鑒《み》たまふ汝の父は明顕《あらは》に報《むく》ひ給ふべし

と三たび繰返して曰ひ給ひしは、彼得後書一章七節に

　　汝等イエスキリストの顕はれ給はん時に称讃《ほまれ》と尊貴《たふとき》と栄光《さかえ》とを得ん

とあると同じく明白なる預言である、而して垂訓最後の一節なる

　　雨《あめ》降《ふ》り大水出で風吹きて其家を撞《うて》ども云々

は是れ又彼得後書三章五節に於ける

(116)　　上古《むかし》天あり、又水より出で且水に由りて立ちし地ありたり、而して之に由りて古《いにしへ》の世水にて掩《おほ》はれて滅《ほろ》びたり

とあるが如く、最後の裁判をノアの時の大洪水に準《なぞら》へて宣べ給ひし預言である。

　如此くにして山上の垂訓は同時に又山上の預言〔二字右○〕である、預言を以て励まし、又預言を以て誡《いまし》めたる垂訓である、其預言的分子を取除《とりのぞ》いて山上の垂訓は其動機を失ふのである、イエスは孔子やプラトーの如くに純道徳を唱へ給はなかつた　彼は天国の福音を宣《の》べ給ふた、天国に入るの資格として善を勧め、滅亡《ほろび》に入るの途《みち》として悪を誡め給ふたのである。

　又イエスの比喩《たとへばなし》なる者は多くは預言的比喩である、「十人の童女」の比喩も是れである（二十五章）、「智《かしこ》き僕と愚かなる僕《しもべ》と」の比喩も是れである（仝十四節以下）、羊と山羊《やぎ》との比喩も是れである、其他イエスの再顕と未来の審判に関《かゝ》はる比喩は多くなる、福音書の大部分が預言的であることは何人も否《いな》むことは出来ない。

　今又純然たる教義の書であるかの如くに思はるゝ羅馬書に就て観るも其大部分の預言であることを見るのである、教義に関する議論は始めの八章を以て尽きて居る、余《あと》は預言である、第八章は信者と宇宙との結末に関する大預言である、

　　我れ思ふに今時《いまのとき》の苦《くるしみ》は（後に）我等に顕はるべき栄光《さかえ》に比《くら》ぶべきに非ず

と、又

　　受造者《つくられしもの》の切《せつ》なる希望《のぞみ》は神の諸子《こたち》の顕はれんことなり

と、又

(117)　　己れの子を惜まずして我等すべてのために之を付《わた》せし者は豈《など》か彼に併《あは》せて万物をも我等に賜はざらん乎

と、以上は宇宙の改造と信者の彰栄とに関する大預言である。

　第九章より第十一章に渉りてパウロはイスラエル人の将来に就て預言して居る、パウロの歴史哲学は茲処《こゝ》に在る、万国は如何に成行くや、而して彼等の中にありてイスラエルの運命は如何と、パウロの歴史哲学はヘロードータスのそれよりも雄大である、歴史を預言的に解釈せんとせし者であつて、パウロのヘーゲルに劣らぬ哲学者でありしことを示し、又イザヤ、ヱレミヤと併《なら》び称すべき預言者でありしことを証《あか》しする者である。

　第十三章第十節以下は預言を以てする訓誡である、第十四章十節に於て

　　汝何ぞ其兄弟を審判《さばき》するや、何ぞ其兄弟を藐視《かろんず》るや、我等は皆なキリストの台前に立つべき者なり〔我〜右○〕

と言ひてパウロは未来の裁判を預言して信徒相互の批判を誡めて居る。

　実践的教訓を以て充つる哥林多前後書も亦多くの預言を載せて居る、前書第十五章は未来の復活に関する大預言である、後書第五章一節より十節に渉りて復活と審判《さばき》に就ての預言がある、前書十六章廿二節にマランアサー（主｜臨《きた》り給はん）の一言を存《のこ》してパウロはキリストの再臨を預言し、又信者の大希望を述べたのである。慰藉の書翰と称《とな》へらるゝ腓立比書も亦

　　汝等の心の中に善き業《わざ》を始め給ひし者、之を主イエスキリストの日までに全《まつた》うし給ふべしと我れ深く信ず

といふが如き（一章六節）、又有名なる

　　我等の国は天に在り、我等は救主即ちイエスキリストの其処より来るを待つ、彼は万物を己れに服《したか》はせ得る能力《ちから》に由りて我等が卑しき体《からだ》を化して其栄光の体に象《かたど》らしむべし

(118)と云ふが如き預言的希望を掲《かゝ》げて居る。

　帖撤羅尼迦前後書の殆んど全部が預言である、キリストの再来と信者の復活と、其前兆たるべき社会的現象とは最も明確に是等の二書に於て預言されてある。

　牧会書翰と称せらるゝ提摩太前後書并に提多書はパウロの書翰としては甚だ疑はしき者なりと雖も、然れども初代の信者の信念を伝ふる書としては充分に信ずるに足る者である、而して其、基督教会の将来に就て預言する所は最も明白で最も痛切である、

　　聖霊明かに曰ふ、後日《のちのひ》に至らば或人信仰より落ち、誘ふ霊と悪魔の教に耳を傾くるに至らん

と（提摩太前書一章一節）、又

　　汝此事を知るべし、即ち末日《すゑのひ》に困難の日到らん、其の日到らば人々己を愛し、云々

と、（仝後書三章一節以下）、又

　　我等の大なる神にして救主なるイエスキリストの顕はれんことを待望む

と（提多書二章十三節）、初代の信者の信と云ひ愛と云ひ、未来の希望を離れて在ったものでない、預言は彼等の信仰の生命であつた、故にパウロはコリント人に告げて曰ふたのである、

　　汝等愛を追求め且つ聖霊のさまざまの賜物を慕ふぺし、然れども殊に慕ふべきは〔七字傍点〕預言する事〔五字右○〕なり〔二字傍点〕

と（哥林多前書十四章一節）、初代の信者は現代の信者の如くに預言を藐視《なみ》し、只倫理と理想と社会改良とをのみ語った者でない、

　　霊を熄《け》すこと勿れ、預言を藐視《なみす》る勿れ

(119)とパウロは又言ふた（テサロニケ前書五章十九、二十節）、現代の信者は明白にパウロの此言を藐視《なみ》する者である。

　希伯来書も亦慰藉の預言に富む、

　　　主よ汝は元始《はじめ》に地の基《もとゐ》を置き給へり、

　　　天も亦汝の手の工《わざ》なり、

　　　此等は亡びん

　　　然れど汝は恒《つね》に在《いま》さん

　　　此等は旧《ふる》びん

　　　汝、此等を袍《うはぎ》の如くに捲《たゝ》み給はん

　　　彼等は変らん

　　　然れど汝は変ることなし、

　　　汝の寿《よはひ》は終らざる也

とあるは単に神の無窮を称《たゝ》へたる讃美の歌としてのみ見るべきでない、聖書の他の記事と比べて見て、是れ又世の終末《おはり》に関する預言であることが判明《わか》る（一章十節以下）。

　　信ずる所の我等は安息に入ることを得るなり

と云ひ（四章三節）、又信者は

　　来世の権能《ちから》を嘗《あぢは》ひし者なり

と云ひ（六章五節）、又

(120)　　活ける神の手に陥るは懼るべき事なり

と云ひ（十章三十一節）、又最後に

　　我等は此所に（此世に）在りて恒に（永久に）存する城邑《みやこ》（住家）なし、惟来らんとする城邑を求む

とあるを見て（十三章十四節）最初の基督教弁証論と称せらるゝ此希伯来書も亦預言者の精神を以て書かれたる者であることが判明《わか》る。

　又雅各書の如き純然たる実践道徳の書であるかの如くに見ゆる書に在ても、預言の精神の決して欠けて無いことを見るのである、使徒ヤコブは富者の横暴に対して貧しき信者を慰めて曰ふた、

　　兄弟よ忍びて主の臨《きた》るを待つべし、視よ、農夫、地の貴き産を得るを望みて前と後との雨を得るまで忍びて之を待てり、故に汝等も亦忍ぶべし、汝等の心を堅くせよ、そは主の臨り給ふこと近ければ也

と（五章七、八節）、初代の信者の希望と慰藉とは唯此一事であつた、即ち

　　兄弟よ、忍びて主の臨るを待つべし、

と、彼等が病める時、彼等が死せる時と彼等が貧《ひん》に困《くる》しみし時に、彼等の唯一の希望と唯一の慰藉とは此預言であつた。

　彼得前後書は殊に預言の書である、其記者は殊更らに預言の研究を読者に勧めて言ふた

　　殊に預言の確言の我等に在るあり、この言は暗処に輝く燈《ともしび》の如き者なり、夜の明くるまで明星の汝等の心の中に昇るまで之に注意するは善し

と（後喜一章十九節）、而して記者自身の此言に循ひ、彼の書翰は殊更らに預言を以て与へられたる教訓と警誡と(121)慰藉とである、

　　汝等心の腰《こし》に帯《おび》し、慎みてイエスキリストの顕はれ給ふ時に汝等に来らんとする恩恵《めぐみ》を疑はずして望むべし

と（前書一章十三節）、又

　　万物の末期近づけり

と（仝四章七節）、又

　　汝等キリストの苦《くるしみ》に与《あづか》るを以て歓楽《よろこび》とすべし　然らば彼の栄の顕はれん時汝等も亦喜び躍らん

と（仝四章十三節）、殊に彼得後書〔四字右●〕に至ては是れ世の末期と万物の結末に関する一大預言である

　　主の日の来ること盗人《ぬすびと》の夜来るが如くならん　其日には天大なる響《ひゞき》ありて去り、体質悉く焚毀《やけくづ》れ、地と其中にある物皆な焚尽《やけつ》きん、……神の日には天｜焚毀《やけくづ》れ体質｜焚鎔《やけと》けん、然れど我等は彼の約束によりて新らしき天と新らしき地を待望《まちのじ》む、義、其中に在り

と（後書三章十節以下）、恐怖と歓楽と、絶望と希望と、滅亡と復興とは火を睹るよりも瞭かに茲に預言してある。

　以上は新約聖書中、預言の書として認められざる書の中に録《しる》されたる預言である、其歴史は預言である、其教訓は預言である、聖書の記者は預言するにあらざれば、歴史をも道徳をも語り得なかつたのである。

　而して新約聖書の特殊の預言なる最後の黙示録に至ては其、徹頭徹尾預言の書なることは何人が見ても瞭かである、黙示録は殊に未来の書〔四字右○〕である、福音書が過去を記し、書翰が現在を教へんとしたるに対し、黙示録は殊に未来を示さんとした、黙示録の真価、其興味、其荘厳は茲に在る、未来を洞察せんとせずして黙示録は解らない、其中に多少の教訓の伝へられてないではない、乍然、其、特に伝へんとして居る事は此世と教会との未来に就(122)てゞある、此世は如何に成行くや、教会は如何に成行くや、其堕落の程度如何、神は如何にして二者を罰し給ふか、而して最後の結末如何と〔此〜右○〕、是等の大問題に対し明白なる解答を供する者が新約の大預言書なる黙示録である、余輩は今此所に其概略をさへ述ることは出来ない、曾て本誌に於て此書に就て少しく述べたことがある、又神若し許し給はゞ後に大に述べたく欲《おも》ふ、今は只此書を旧約の十六預言に対する新約の大預言として読者に紹介して置くまでゞある。

　現代の信者が何故に黙示録を読まない乎といふに、其れは彼等が未来に就て注意しないからである〔其〜右△〕、彼等は余りに現世的である、此世を化して天国となし、茲処《こゝ》にすべての幸福を求めんことは彼等の主願である、又彼等のすべての運動の動機である、彼等は昔時のギリシヤ人の如くに此世以外に天国を求めない、故に此世の政治を廓精し、社会を改良し、若し得べくんば自身貴族となり富豪となりて、大に此世を楽まんとする、故に彼等に来世に就て知らんと欲するの慾《よく》もなければ望もない、循《したが》つて彼等は黙示録の如き未来に就て語る書に対して興味を有たない　故に此書は彼等に対しては其記者が言ふ如く「七の印にて封印せられたる巻物」である（五章一節）、彼等は単に「奇異《ふしぎ》の書」として此書を見る　到底解らない書と見做して之を開かない、彼等の眼は此世に眩《くらま》されて茲に光明の黙示に与らんとしない。

　乍然、黙示録は新約の結論である、イエスキリスト其｜隅《すみ》の首石《おやいし》となり、使徒其上に築きて成りし新約の大構造は黙示録を冠石となして其完成を告げたのである、馬太伝なくしてキリストの福音の解からないやうに黙示録なくして基督教は無意味である、福音は単に教訓ではない、理想ではない、倫理ではない、天地と万物と、世と人と、善人と悪人と、神の敵と彼の子輩《こども》とに関はる預言である、聖書より其預言を取除いて聖書は聖書でなくなる(123)のである。

　然らば聖書は何を預言する乎、是れ余輩が聖霊の指導を得て、稿を更《あらた》めて再たび読者に語らんと欲する問題である。

　

(124)　　　　　基督信者の休息

　　　　　　　　　明治44年5月10日『聖書之研究』130号　署名なし

　

　我れ休息を求めて得ざりき、之を山に求めて得ざりき、之を海に求めて得ざりき、然れどもイエスキリストの御父なる真《まこと》の神に求めて充分に得たりき、彼に信頼《よりたの》みて工場の囂々《がう／＼》たるもレバノン山の寂《せき》々たるが如し、市場の閙々《たう／＼》たるもガリラヤ海の洋々たるが如し、休息は之を外に於て求むべからず、衷《うち》に於て求むべし、我は我が衷に大空のそれに等しき寂静《せきせい》を発見し得るを感謝す。

　

(125)　　　　　余がキリストを要する時

　　　　　　　　　明治44年5月10日『聖書之研究』130号　署名　内村生

　

　余はキリストを要する、余はキリストなくして一日をも過《すご》すことが出来ない、余は食物を要するが如くにキリストを要する、日光を要するが如くにキリストを要する、然り、或る意味に於ては、或るより〔二字傍点〕深き意味に於ては、余に取りてはキリストは食物よりも、亦空気よりも日光よりも必要である。誠に余に取りてはキリストは生命《いのち》のパンである、義の大陽である、彼れなくして余は饑《う》え、暗黒《くらやみ》に彷徨《さまよ》ふ者である。

　キリストは余の先生である、実現されたる理想である、人生の模範である、余の模範とする所の者はソクラテスではない、プラトーではない、将《は》た又リンコルンではない、カーライルではない、釈迦でもない、孔子でもない、勿論二宮尊徳や西郷隆盛ではない、余の模範とする所の者はキリストと称せられしナザレのイエスである、余は彼〔右◎〕に傚《なら》つて生涯せんとする、世に憎まれても可《よ》い、キリストは世に憎まれ給ふた、而して師を憎みて之を殺せし此世は其弟子をも憎み又之を殺すに定《きま》つて居る、戦争に負けても可い、然り、負ける方が勝つよりも可い、キリストは世と闘ひて之に負け給ふた、而して之に負けて終に之に勝ち給ふた、余も亦彼に傚ふて負けて勝つの戦術を施さんとする、十字架はキリストの武器であつて又余の武器である、余も亦此｜表号《しるし》を以て世に勝たんとする、コロムウエルや隆盛に傚ひて剣を抜いて仁道を世に布《し》かんとしない。

(126)　余も亦時には身の不幸を歎ずる、然れどもキリストを仰瞻《あおぎみ》て、余の此歎息は直に消失するのである、余は如何ほど不幸であるともキリストほど不幸であることは出来ない、若し身の不幸を云ふならば此世に未だ會てキリストほど不幸の人はなかつたのである、而して此最も不幸な人が最も聖《きよ》き人で又最も偉《えら》い人であつたことを知つて、余は返て余の不幸の足らぬのを恥ぢ、憂《う》きことの尚は此上に積《つも》れかしと心の衷より願ふに至るのである、余はキリストを師とし仰ぎて不平家たらんと欲するも得ない、此世は如何ほど余は窘《くるし》むるとも、余がキリストに師事する間は余を不平家と為すことは出来ない。

　余は又時には神より離れんとする、而して人生の不幸として無神論者となること程不幸なることは無い、然るに此危険は屡々余にも臨《きた》るのである、余が此世に於て不義が成功して正義が失敗するを目撃する時、神の前には一文の価値なき者が、やれ貴族よ、紳商よと云はれて持囃《もてはや》さるるのを見る時に、又余自身の最善の意志が最悪の意志として世に了解せらるゝ時に、又余の親友近親までが余の善意を誤解して余の敵となりて余に反《そむ》く時に、余は先づ第一に余の神を棄て、公然たる無神論者として残余の生涯を送らんとする、然るに此時に方りて余を再び余の神に結附《むすびつ》くる者はキリストである、キリストは「父よ、父よ何故に我を棄て給ふや」と叫びで、父に棄てらるゝも尚ほ父に縋《すが》り給ふた、若しキリストが神の最愛の子でありしとならば、神の愛は此身に臨む幸不幸を以て推量《おしはか》るべき者でない、而して若しキリストの十字架が神の愛の表現であるとならば、宇宙何物も余をして神を疑はしむることは出来ない、余の疑ふ神は余の想像したる神であって、真《まこと》の神ではないのである、キリストは余に真の神を示し給ふて、余をして再び無神論者たること能はざらしめ給ふのである。

　其他数へ来れば余がキリストに負ふ所は無限である、キリストは余をして生くるに甲斐ある者と成らしめ給ふ(127)た、キリストは余が世路を辿る時の最良の友人である、彼と共に歩みて涙の谷は微笑《えみ》の園と化し、死蔭《しかげ》の谷に希望の花は咲くのである。

　然しながら余がキリストを最も切に要する時は此世に於てゞは無いと思ふ、キリストは人世の友として最も貴い者であるが、然し彼の貴さは此世に於ては判明《わか》らないと思ふ、キリストは此世に於ける余の慰藉者《なぐさめて》であるばかりではない、然り、慰藉は彼が余に下し給ふ最大の恩恵ではない、彼は余の救主である〔九字右○〕、而して救主であると云ふは、余に善き道徳を教へ、生涯の模範を供し、悲痛を癒《いや》し、涙を拭ふと云ふことではない、余の救主であると云ふは余を神の前に義とし給ふと云ふことである〔余の〜傍点〕、即ち余の罪多きを以てするも尚ほ余をして神の台前に立つて其光輝に堪ゆることを得しめ給ふと云ふことである、我等は罪の此世に在りて神は如何ほど聖なる乎其事を知らない、此世が善人と称する者は此世の善人〔五字右○〕であって、恰かも病院に於ける比較的に軽症の患者の如き者である、監獄に在りては輕懲役の囚徒は重懲役の囚徒の中に在ては善人であり、義人である、其如く、暗黒の罪の世に在ては稍々輕き罪人は義人よ聖人よと称《よ》ばれて人に崇めらるゝのである、然し一たび神の光輝の照らす所となりては聖人も義人も有つた者ではない。

　　　人は如何なる者ぞ如何にして潔《きよ》からん、

　　　婦《をんな》の産みし者は如何なる者ぞ、如何にして義《たゞし》からん、

　　　それ神は其聖者にすら信を置き給はず、

　　　諸《もろ／＼》の天もその目の前には潔からざるなり、

　　　　　　　　　　　　　　　（約百記十四章十四、十五節）

(128)　神の前に立って我は義人なり聖人なりと言ひ得る者は一人も無い筈である。

　況して余に於てをや、余も亦此罪の世に在て余の如何に大なる罪人である乎を知らない、余は自身を他の人に比べて、時には愚かにも余の聖潔を誇るのである、然し神は時には此世に於て余に余の罪の深さを示し給ふ、或ひは人と離れて独り歩を林中に運《はこ》ぶ時、或ひは深夜独り目を醒まして幽暗に対して端座する時、或ひは電雷大樹を挫きて我身も共に震動する時、殊に聖霊が我衷に降り、心裡の暗室を照らす時に、余は余の汚穢《けがれ》の程度を示されて、蔽《お》ふに蔭《かげ》なく、隠《かく》るゝに穴なく、我と我が身の所置《しよち》に苦しむのである、而して余は信ず神が余を裁判《さば》き給ふとは此事であると、此世に在りては斯かる心霊的実験は唯稀れに有るのみにして、通常《つね》には良心｜鈍《にぶ》りて己の罪を感ずること至つて浅く、己を他人に較《くら》べ見て他を責めて己を義とするなれども、然れども最後の審判の日に於て、各人が其肉に在りて為せし行為《わざ》を一々神の前に裁判《さば》かるゝ時に人は何人も罪の苛責を免かれんと欲するも得ないのである、人の良心は永久に麻睡的状態に於て在る者ではない、其激烈に喚起せられて、鋭《するど》く其罪を感ずる時は必ず来るのである、而して此恐るべき時に至りて罪を免かるゝの途を知らない者は実に禍《わざは》いなる哉である、

　　当時《そのとき》人々山に対《むか》ひて曰はん、我等の上に圧《たぶ》れよと、陵《をか》に対ひて曰はん、我等を掩《おほ》へよと（路加伝廿三章三十節）、

　世に恐るべきこと多しと雖も神に己れの罪を示さるゝ事にまさりて恐るべきことはない、然し是れ遅かれ早かれ何人にも臨み来る災難である、而して此災難を免かるゝの途を講ぜずして人は未だ全く将来に備へたりと云ふことは出来ない、火災を保険し、生命を保険するも、霊魂を保険せずして人の将来は甚だ危険である。

　而して余が余の罪を示さるゝ時に、余は何を以て己を神の前に義とせん乎、余が余の為せし少しばかりの善業(129)を彼の前に列《なら》べ立つるも無益である、余が余の境遇を弁じ、遺伝を唱へ、社会の罪を鳴らしたりとて余は余の罪より免かるゝことは出来ない、余は他の人の如くに罪を犯さずと云ひたればとて、それは余の弁護とならない、余が洗礼を受けたりと唱ふるも、教会に属したりと弁ずるも余の罪の赦免《ゆるし》は来らない、其時余に特権なる者はない、神は人を偏視《かたよりみ》たまはず、彼の前に立て洗礼を受けし者も受けざる者の如く、監督も平信徒の如く、学位も爵位も禾稿《わら》一本程の価値がないのである。

　而して其時に方りて価値《ねうち》のある者は唯一つあるのである、唯一つの外は無いのである、それはキリストの十字架である〔そ〜右◎〕、それを仰げば救はるゝのである、モーセが野に銅《あかゞね》の蛇を挙げて、之を仰ぎし者はすべて其｜病《やまひ》を癒《いや》されしが如くに、神はキリストを十字架に挙げて之を仰ぐ者を赦し給ふのである、何故に爾うである乎、其学理的説明如何？、余は知らない、然し余はキリストの血が余の罪を潔むるを知る、余は彼を十字架の上に仰《あを》ぎ瞻て余の罪の重荷の直に余の肩より落つるを知る、余は神の前に自己を弁明することは出来ない、余は余の罪人なるを認《いゝあら》はす、余は唯キリストの十字架を仰ぐ、而して唯之に由てのみ救はれんとする、余は神の前に立て余の罪を裁判《さば》かるゝ時、哲学者でもなければ神学者でもない、余は罪人である、余の伝道の功績を以て救はれんとしない、余の聖書智識を以て義とせられんとしない、唯キリストの十字架を以て救はれんとする、

　　　手に物持たで　　十字架に縋《すが》る

　是れ丈けである、余は迷信家である乎も知らない、然し、余が余の罪を裁判《さば》かるゝ時は余の学問や迷信を語るべき時ではない、余は単《ひと》へに余の罪を赦されんとする、而してキリストの十字架のみ能く余を罪より救ふのである。

(130)　余は此世に在りてキリストを要する、然し余が最も切に彼を要する時は此世を去て後に来る、其時余は善き弁護人に伴ほれて神の前に出るのである、

　　　我れ知る我を贖ふ者は生く、

　　　後の日に至りて彼れ必ず（我と共に）地の上に立たん（約百記十九章廿五節）。

　　　人若し罪を犯せば我等のために父の前に保恵師（弁護人）あり、即ち義なるイエスキリストなり（約翰第一書二章一節）。

　余は其時彼に頼り、然り、惟り〔二字右○〕彼に頼りて神に納《う》けられんと欲する、キリストは最後の日に於て余に取りて最も必要である。

　

(131)　　　　　宗教の製作

　　　　　　　　　明治44年5月10日『聖書之研究』130号　署名なし

　

　基督敦を首《くび》とし、儒教を胴とし、仏教を手とし、神道を足とし、以て世界的宗教を作れりと称す、然れども如何せん、誰か其中に生命を吹入《すゐにう》せんや、世界的宗教を作るは小児の玩具を作るが如く易し、然れども全能の神のみ能く生命を与へ給ふ、宗教若し人の生命ならずんば之を作るも何の益あらんや、余輩は今も尚ほアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神を宇宙唯一の神として拝する者なり。

　

(132)　　　　　最大の事

　　　　　　　　　明治44年5月10日『聖書之研究』130号　署名なし

　

　信者たるは伝道師たるよりも大なり、信者たるは神学者たるよりも大なり、神を信ずるは教会を起すよりも大なり、神を信ずるは万人を教化するよりも大なり、信、信仰、信頼、人が為し得る最大の事業は自己を忘れ、自己に死し、神を信じ彼に依頼《よりたの》みて生くることなり。

　

(133)　　　　　〔人の善悪　他〕

　　　　　　　　　明治44年5月10日『聖書之研究』130号　署名なし

　

　　　　　人の善悪

　

　人の為す事は悉く悪なり、彼の為す悪は勿論悪なり、彼の為す善も亦悪なり、彼の性が悪なればなり、惟り神の遣《おく》り給ひし其｜一子《ひとりご》のみ善なり、而して人に在りては惟り彼を信ずることのみ善なり、世は勿論此事を知らず、然れども聖書は明かに此事を示す、而して我等も亦聖霊に教へられて明かに此事を知るなり。

　

　　　　　謂ゆる進歩

　

　世の謂ゆる進歩とは富源の開発なり、快楽の増進なり、唯｜向不見《むかふみず》に進むことなり、何に向て進む乎を知らず、唯｜前《まへ》に牽かれ後《あと》より押されて止むを得ず進むなり、其果して進歩なるや退歩なるやを知らず、唯世が之を進歩と称するが故に爾《し》か称するなり、或ひは地獄の底に向ての進歩なるやも計られず、多分然らん、然れども静止する能はざるが故に止むを得ず進むなり、不信者は勿論進むなり、信者も不信者と共に進むなり、煙《けむり》も響《ひゞき》と電光の閃《ひらめき》とを以て進むなり。

　

(134)　　　　　戦争と繁栄

　

　戦争の後に繁栄来る、繁栄は悪魔の事なれば也、繁栄は幸福の増進にあらず、慾心の亢進《かうしん》なり、誰か知らんや、神の聖眼より見て、繁栄は戦争相当の刑罰にあらざることを。

　

　　　　　個人性の衰退

　

　今や大政府ありと雖も一人のピツト又はグラツドストーンあるなし、今や多くの美術学校ありと雖も一人のラフハエル又はレムブラントあるなし、多くの音楽学校ありと雖も一人のハンデル又はベートーベンあるなし、多くの大学ありと雖も一人のニユートン又はカントあるなし、今は集合の時代なり、独立の時代にあらざるなり、今や人は団体を作るにあらざれば何事をも為す能はざるなり、貴むべき個人性の衰退にして実に今日の如きはあらざるなり。

　

　　　　　「活動」

　

　今や「活動」と云へば有《う》や無《む》やの間に働らく事なり、多く金を儲《まう》けて多く之を散ずる事なり、汽車電車に乗りて飛廻ることなり、演壇に立ちて叫ぶことなり、静かに祈ることにあらず、黙《もだ》して考ふることにあらず、聖霊の露を天より求めて之を以て人を潤《うるほ》すことにあらず、「活動」は体《からだ》を動《うごか》すことあり、霊を活かすことにあらざるなり。

　

(135)　　　　　無政府主義者に非ず

　　　　　　　　　明治44年5月10日『聖書之研究』130号　署名なし

　

　無教会信者は宗教界の無政府主義者にあらざるなり、そは彼等は自《みづ》から進んで教会を毀《こぼ》たんと欲する者にあらざればなり、無教会信者は教会の汚?《おどく》に触れざらんと欲するのみ、主の誡命《いましめ》に従ひ、彼の罪に共に与り、彼の災に共に遭ふことを免れんが為めに其中より出んと欲するのみ（黙示録十八章四節）、教会は先づ其中に背信、媚俗、讒害、毀謗、?忌、忿争等の諸悪の盛に行はれざるや否やを探るべきなり、而して後に無教会信者の果して教会の破壊者なるや否やを定むべきなり

　

(136)　　　　　〔行路易し　他〕

　　　　　　　　　明治44年6月10日『聖書之研究』131号　署名なし

　

　　　　　行路易し

　

　信《しん》ぜよ信《しん》ぜよ、然り信《まか》せよ信《まか》せよ、彼をして衷《うち》に在りて動《はたら》かしめよ、汝の衷に在る者は世の衷に在る者よりも強し、彼は汝に代り汝の心を潔《きよ》め、汝の身を強くし、汝の行《おこなひ》を全《まつた》うし、汝が為すべき凡《すべ》てのことを容易に且つ完全に為し給ふべし、信仰は世に勝つの力なり、而して信仰は自《みづ》から力《つと》めずして愛の父に自己《おのれ》を信《まか》し奉《たてまつ》ることなり、言ふ勿れ行路難しと、彼に信《まか》しまつりて、太行《たいかう》の路、巫峡《ふけふ》の水、人情反覆の間に在るも行路易し。ヨハネ第一書四章四節。

　

　　　　　自我の絶滅

　

　人は自己《おのれ》に死せるを唱ふ、我は神に殺されしを語る、我に独り自己に死する勇気あるなし、然れども神は其恩恵を以て我を殺し給へり、我が義は之を否定　給ひて之に代ふるに彼の義を以てし給へり、我が計画は之を敗り給ひて彼の聖旨《みこゝろ》を我に在りて成し給へり、彼は衷《うち》より又外より我れなる者を無くし給へり、パウロの曰ひし、

(137)　　我れキリストと偕に十字架に釘けられたり、最早我れ生けるに非ず、キリスト我に在て生けるなり、今、我れ肉体に在りて生けるは我を愛して我がために己を捨し者、即ち神の子を信ずるに由て生けるなり

との言の一字一句悉く文字通りに我言なるを我は感謝す。加拉太書二章廿節

　

　　　　　宗教の真偽

　

　真《まこと》の宗教は一年草に非ず、今年｜種《まい》て今年｜果《み》を結ぶ者に非ず、真の宗教は百歳樹にあらざれば千年樹なり、今年種で百年又は千年の後に始めて果を結ぶ者なり、其祖師は十字架に釘けられ、其使徒は或ひは焼かれ或ひは屠《はふ》られ、其｜数多《あまた》の弟子は数十百年に渉り、政府に忌まれ、教会に憎まれ、塵穢《ちりあくた》の如くに世に扱はれて、而して後に始めて世に基《もとゐ》を据《す》えるを得るなり、宗教の尊きは是れがためなり、渠《か》の今年｜種《まい》て今年生え、数年ならずして教会として起り、勢力として世に迎へらるゝ者の如きは、是れ真《まこと》の宗教に非ず、偽《いつはり》の宗教なり、野の草の如き、林の灌木の如き、今日《けふ》野に在りて明日《あす》炉に投入《なげい》れらるゝ者なり、信ずべからざるは成功を急《いそ》ぎ、又は早く成功せし宗教なり。

　

　　　　　今昔の敵

　

　昔は圧制は剣を以て行はれたり、今や圧制は金を以て行はる、昔は勇者は剣を恐れざりき、今や勇者は金を恐るぺからず、昔は剣に勝て世に勝つを得たり、今や金に勝つにあらざれば世に勝つ能はず、今やクリスチヤンの敵は剣に非ず、金なり、我等信仰を堅くして禦《ふせ》ぎ、彼をして我等の上に主たらしむぺからざる也。

　

(138)　　　　　寂寞と奨励

　

　千人は汝の左に仆《たふ》れ、万人は汝の右に斃《たふ》る、然れど其｜災害《わざはい》は汝に近づくこと莫らんと主は宣べ給ふ、千人は我が左に俗社会に降り万人は我が右に俗教会に入る、然れど主は我を護り給ひて我が彼に依る独立を維持し給はん、彼に依頼《よりたの》みて我は強し、我は永久《とこしへ》に独りヱホバと共に立たん。詩篇第九十一篇七節。

　

　　　　　平和と合同

　

　世界の平和は協議せられて国民の軍備は歳と共に拡張せられ、教会の合同は唱道せられて信者の嫉視は日々に益々甚だし、依て知る平和も合同も人の手に由て来らざることを、ヱホバが諸《もろ／＼》の国の間を鞫《さば》き、衆《おほく》の民を責め給はん時に、彼等は剣《つるぎ》を打更《うちかへ》で鋤《すき》となし、其｜鎗《やり》を打更へて鎌となし、国は国に対《むか》ひて剣を挙げず、戦争の事を再び学ばざるべしとあり、又エッサイの根起ちて諸《もろ／＼》の民の?《はた》となり、諸《もろ／＼》の邦人《くにびと》之に服《したが》ふ時にエフライムの猜《そねみ》は失せ、ユダを悩《なや》ます者は断たれ、エフライムはユダを猜まず、ユダはエフライムを悩ますことなかるべしとなり、ヱホバ御自身にして判人《さばきびと》となり、エッサイの裔《すえ》なるイエスにして諸民の旗号《はたじるし》となり給ふまでは平和と合同とは世に行はれざるなり、而して我等は静かにして其目の到来を待つ者なり。以賽亜書二章四節。仝十一章十節以下。

　

　　　　　伝道の効果

　

　人が此世を善くなさんが為の伝道にあらず、神がキリストを以て世を治め給ふ時に備へんがための伝道なり、(139)伝道はキリストの再顕と信者の復活とを待て始めて功を奏する事業なり、現世に於て伝道の効果を収めんと欲して吾人は失望せざらんと欲するも得ざるなり。

　

　　　　　四福音書

　

　イエスをアブラハムの裔なるダビデの裔、即ちユダヤ人の王として観たる者が馬太伝である（一章一節）、彼を権能の実現、即ち羅馬人の理想として観たる者が馬可伝である、彼を神の子なるアダムの子、即ち人類の王として観たる者が路加伝である（三章末節）、而して終《をはり》に彼を道《ことば》即ち宇宙の真理として観たる者が約翰伝である（一章一節）、羅馬天主教会は馬太伝を以て起り（十六章十八節）、ペテロの福音なる馬可伝を以て維持せらる、新教諸教会はパウロの福音なる路加伝を以て起つた、而して今や無教会又は超教会は約翰伝を以て起りつゝある、約翰伝は確かに第二十世紀以後の福音である、此書の理想の実現せるゝ時に羅馬教会もなければ新教諸教会もない、其時、神は教義を以て伝へられずして愛を以て示され、愛なき者は神を識らずと称《い》はれて不信者と認《みと》められ、神を愛する者は亦其兄弟をも愛すべしと唱へられて人を愛する者のみ信者として納《う》けらるるゝに至るのである。

　

　　　　　愛の遍在と其実現

　

　愛は信者に於て在る、不信者に於て在る、獣《けもの》に於て在る、禽《とり》に於て在る、魚に於て在る、虫に於て在る、然り或る形《かたち》の愛は植物に於て在る、鉱物に於て在る、愛は宇宙に遍在する、是れ即ち宇宙は愛なる神の造り給ひし者である証拠である、然しながら愛は其最上の状態に於てイエスキリストを以て己を顕はし給ひしヱホバの神に於(140)て在る、彼は愛である、純愛である、至上の愛である、愛の源であつて其精である、故に余輩は世にキリストの愛を説いて世に無い者を説くのではない、余輩は父子の愛の其｜源《もと》を説くのである、夫妻の愛の其粋を説くのである、鳥をして謡《うた》はしむる愛、花をして聞かしむる愛、其愛の出処を説くのである、余輩は愛を以て世に勝たんとする、即ち愛をして最大勢力たらしめんとする、キリストの福音の畢《つま》る所は愛の全能全勝である、其他の事は之に達するための階段である、キリストの愛が人類は勿論、宇宙万物に至るまで充ち満ちし時に神の国は臨んだのである。

　

　　　　　善行の感謝

　

　人を永久に救ひ又は絶対的に助くる事は是れ人の為し得る所でない、是れは神の聖事《みしごと》である、人は僅かに暫時的に又は部分的に人を助け又は救ひ得るのである、故に我等は縦令一日なりとも、又は半日なりとも、又は一時間なりとも又は一分間なりとも、人を慰め又は喜ばすことを得、又は一歩なりとも又は一寸なりとも彼を前に進め又は上へ挙ぐることを得ば、其れで喜び且つ満足すべきである、十年人に道を説て終に彼を信者に作すを得ざりしとて決して失望すべきでない、十年彼を慰むるを得、多少の真理を彼に伝ふるを得、幾分なりとも彼の向上を助くるを得しの故を以て、神に感謝し、又｜自《みづ》からも満足すべきである、我等は信者を作るための教会の伝道師ではない、我等は善を為すための神の子供である、我等は善を為したいのである、信者を作りたいのではない、而してキリストは宣教師又は牧師、伝道師とは異なり、信者を作り得ないとて我等を責め給はない、彼は寛大である、又慈恵深《めぐみふか》くある、彼は言ひ給ふた、

(141)　　我名の為めに一杯の水にても汝等に飲まする者は我れ誠に汝等に告げん、其人は報賞《むくひ》を失はざる也

と、我等は時を得るも、時を得ざるも、すべての機会を利用し、すべての人に対し、小善大善の区別を立つることなく、聖名《みな》のために善事を為すべきである。

　

(142)　　　　　地と世

　　　　　　　　　明治44年6月10日『聖書之研究』131号　署名なし

　

　地は神の造り給ひし者である、其山と川と、野と沢と、其中に棲《す》む獣《けもの》と鳥と、其｜面《おも》に繁《しげ》る草と木とは、凡《すべ》て神の造り給ひし者であつて彼の属《もの》である、故に美《うる》はしくある、貴《とうと》くある、完全である、故に永久に存《たも》つ者である、縦《よ》し其上に棲む罪の人の故を以て、一時は洪水を以て掩はれ、火を以て　　燐《や》かるゝことあるとも、常に改《あらた》まり、常に若返《わかがへ》りて永久《とこしへ》に残存《のこ》る者である、故に謂ふ、

　　世は去り世は来る、然れども地は永久に長存《たも》つなり

と（伝道之書一章四節）、又

　　全地はヱホバの栄光にて満つ

と（詩篇七十二篇十九節）、地は詛《のろ》はれしと雖も地其物のために詛はれたのではない、地は其上に棲む人のために詛はれたのである（創世記三章十七節）、故に謂ふ、

　　受造物《つくられしもの》の切《せつ》なる望《のぞみ》は神の諸子《こたち》（人類）の顕《あら》はれん（救はれん）ことなり

と（羅馬書八章十九節）、地は美くしくある、其中に盈《みて》る万物は愛すぺくある、地其物が悪いのではない、之を占領する人が悪いのである、我等は人の悪しきの故を以て之を宿《やど》す地を悪《にく》むべきでない。

(143)　地は神の造り給ひし者であって聖《きよ》くして貴《とうと》くある、之に反して世は人の作りし者であって穢《けが》れて賤《いや》しくある、世は神に逆《さから》ふ者、彼の遣《つかは》し給ふ預言者を殺す者、暗《くらき》を愛して光《ひかり》に来らざる者である、故に嫌ふべき者、詛ふべき者、倣《なら》ふべからざる者である、故に謂ふ、

　　此世に倣ふ勿れ

と（羅馬書十二章二節）、又

　　汝等世を友とするは神に敵するなるを知らざる乎、世の友とならんことを欲《ねが》ふ者は神の敵なり

と（雅各書四章四節）、又

　　世を愛する勿れ、又世に在る物を愛する勿れ、人若し世を愛するならば父の愛彼に在るなし、凡そ世に在る物、即ち肉の慾、眼の慾、資産の誇《ほこり》は父より出るに非ず、世より出るもの也、世は消去《きえさ》るべし、其慾も亦消去るべし、然れども神の旨を行ふ者は永久に存するなり

と（約翰第壱書二章十五節以下）、此世は神の敵である、故に悪魔を称して「此世の主《ぬし》」といふ（約翰伝十二章卅一節）、而してイエスは彼に就て曰ひ給ふた、

　　彼れ我に与《かゝは》ることなし

と（仝十四章三十節）、即ちイエスと彼れ「此世の主」とは何の干与《かんよ》する所なしとの事である、二者は目的を異にし、趣味を異にし、生来の性質を異にする、イエスと此世とは両立する能はざる者である、故にイエスの霊即ち聖霊に対して悪魔の霊即ち「此世の霊」がある（哥林多前書二章十二節）、神の智慧に対して「此世の智慧」がある（仝一章廿節）、信者の衷《うち》に居る者即ち神に対して「世の表に居る者」即ち悪魔がある（約翰第壱書四章四節）、(144)世は他《ほか》の者ではない、惡魔の国である、彼の支配を受け、彼の智慧に頼み、彼の指導の下に動き又存在する者である。

　世とは何である乎、其政事である、其宗教である、其政党である、其教会である、其戦争である、其商売である、其交際である、其慣例である、是れ皆な悪魔の制定《せいてい》せし者であって、彼の発起奨励に由て維持せらるゝ者である、而してキリストの世に顕はれ給ひしは悪魔と其の事業とを滅《ほろぼ》さんためである、故にキリストが明白に世に紹介せらるゝ所には必ず世の激烈なる反対がある、世は彼の来るを見るや、曾てカペナウムに於て汚《けが》れたる鬼《おに》に憑《つか》れたる人が喊叫《さけ》びしが如くに必ず声を揚げて曰ふ、

　　噫《あゝ》ナザレのイエスよ、我等は汝と何の干与《かゝはり》あらんや、汝、来りて我等を滅《ほろぼ》さんとする乎、我れ汝は誰なる乎を知る、即ち神の聖なる者なり

と（馬可伝一章廿四節）、世の悪《にく》む者にしてイエスキリストの如きはない、世は凡ての哲学者を容れ、すべての宗教家、すべての聖人君子を許すと雖も、イエスキリストのみは之を許さない、彼等は必ず彼を営《かこひ》の外に携出《つれいだ》し、其処にて彼を屠《ほふ》る（希伯来書十三章十二、十三節）、而して我等彼と偕《とも》になりて世の悪憎《にくみ》を我等の身に招かざらんと欲するも得ない、即ち彼が其弟子に告げ給ひしが如し、

　　世〔右◎〕、若し汝等を悪《にく》む時は汝等よりも先きに我を悪むと知れ、汝等若し世〔右◎〕のものならば世〔右◎〕は己のものを愛すべし、然れど汝等は世〔右◎〕のものならず我れ汝等を世〔右◎〕より選みたり、之に因りて世〔右◎〕汝等を悪むと（約翰伝十五章十八、十九節）、世、世、世と、イエスが一時に六回まで此詞を繰返《くりかへ》し給ひしを見て、彼が如何ほど世を嫌《きら》ひ給ひし乎が判明《わか》る。

(145)　神の造り給ひし地〔右◎〕の上に悪魔の作りし世〔右◎〕があるのである、前者は神の庭園であって、後者は彼の敵国である、今や神の敵が彼の園《その》を侵《おか》し、之を占領して居るのである、此地の美《うる》はしくあると同時に、此世の歎《なげ》かはしくあるは是れがためである、然し神は何時《いつ》までも彼の庭園を彼の敵の蹂躙《じうりん》に任《まか》して置き給はない、園《その》の主人は速かに臨《きた》り拾ふ、而して其時彼は、

　　此等の悪人を甚《いた》く討滅《うちほろば》し、期《とき》に及びてその果《み》を納《をさ》むる他の農夫に葡萄園を貸与《かしあた》ふべし（馬太伝廿一章四十一節）。

　然らば俟たなん我等は主の臨《きた》るを、我等は敵人の中に在るも、敵地に於て在るのではない、地は父の所有《もの》である、唯、盗賊が今一時之を占領して居るまでゞある、期《とき》到れば来るべき者は来り給ふ、故に其｜期《とき》の到るまでは、我等は父の園に彼の聖工《みわざ》を究め、彼の聖語《みことば》に我等の弛《たゆ》める心を励まし、以て彼の臨《きた》り給ふを俟つべきである。

　　　　　　　　――――――――――

　此世に道徳が無いではない、然し悪魔の支配する此世に在ては道徳は事を為すの手段であるに止つて其目的ではない、世は善のために善を為さない〔世〜傍点〕、悪のために善を利用する〔悪〜右○〕、我等は善が或る程度まで此世に於て行はるゝを見て、之を善き世と見てはならない、善、善ならんがためには至上の勢力を保たなければならない、而して罪の此世に在ては此勢力を保つ者は善ではなくして悪である、神は世を挙《こぞ》りて之を罪ある者と定め給へりといふは此事である。

　

(146)　　　　　毒麦の比喩

　　　　　馬太伝十三章廿四−三十節。仝卅六−四十三節。

　　　　　　　　明治44年6月10日『聖書之研究』131号　著名なし

　

　イエス他の比喩《たとへ》を彼等に提供して曰ひけるは、天国は其畑に良き種《たね》を播《ま》く所の人に譬へらるべし、人々の寝《いね》たる間に其敵来り麦の中に毒麦《ジザニヤ》を播きて去れり、苗｜生出《はえいで》て実《みの》りたる時に毒麦も亦現はれたり、主人の僕来りて曰ひけるは、主よ、汝は良き種を播き給ひしにあらずや、毒麦は何処より来りし乎、彼れ僕に曰ひけるは敵人《あだひと》此事を為せり、僕、主人に曰ひけるは然らば我等の往きて之を刈斂《かりあつ》めんことを欲し給ふ乎と、彼れ曰ひけるは、否な、恐らくは汝等毒麦を刈斂《かりあつ》めんとして、之と共に麦をも抜かん、収穫まで両つながら共に生長《そだ》たしめよ、収穫の期《とき》に我れ刈者《かるもの》に曰はん、先づ毒麦を刈斂め、之を燬《や》かんために束《たば》に束ねよ、而して麦をば之を我が倉に収めよと。

　群衆を去りて後に彼れ家に入り給へり、弟子等彼に進来《すゝみきた》り曰ひけるは、畑の毒麦の比喩《たとへ》を我等に解き給へと、彼れ答へて曰ひ給ひけるは、良き種を播く者は人の子なり、畑は世界なり、良き種は、是れ天国の子等なり、毒麦《ジザニヤ》は悪魔の子なり、之を播く敵は悪魔なり、収穫は世の終末《おはり》なり、刈者は天使なり、毒麦の斂められて火にて燬かるゝが如く、世の終末に於て其如くなるべし、人の子其使者等を遣《おく》らん、而して彼等其国の中よりすべて礙《つまづき》となる者、又悪を為す者を斂《あつ》めて之を火の炉に投《なげい》入るべし、其処にて哀哭《かなしみ》と切歯《はがみ》とあるべし、其時義者は彼等の父の(147)国に於て太陽の如く輝《かゞや》かん、聴くための耳を有つ者は聴くべし。

　　　　　　　　――――――――――

○茲に比喩《ひゆ》と其解釈とがある、故に比喩其物は余輩の解釈を俟《また》ずして瞭《あきら》かである、解《わか》らないのは比喩其物ではない、イエスが此比喩を以て教へ給はんとせし人生の事実である、余輩は茲に少しく此事実に就て語り、以て此比喩をして一層明瞭ならしめんと欲する。

○先づ第一に比喩と云ふ事に就て知るの必要がある、比喩《ひゆ》とは関係のない事を比較《ひかく》して云ふ事ではない、比喩とは顕明《げんめい》なる事実を以て幽玄《ゆうげん》なる真理を説明することである、二者の間に根本的の一致があるのである、唯、顕明なるは外に顕《あら》はれて何人にも解《わか》り易く、幽玄なるは中に隠《かく》れて甚だ解り難いのである、而して比喩とは解り難い真理を解り易い事実を以て語ることである〔比〜傍点〕、真理に難易の別はないのである、唯顕密の差があるのみである、其顕はれたるや、人之を称して解し易しと云ひ、其隠れたるや、人之を呼んで解し難しと云ふのである、麦の畑に生《は》ゆる事実は何人も能く之を知る、然れども善根の人心に植えらるゝ事実は之を知る者が尠い、然し二者は異なりたる事実ではない、同一の事実である、其間に唯顕密の差があるのみである、二者を支配する天然の法則に何の異なる所はない、物界と霊界とは元是れ同一界である、而して霊界の事を語るに物界の事を以てする、是れが比喩である〔霊〜右○〕。

○畑がある、農夫がある、麦がある、麦の間に生えて其葉と茎とを以てしては麦と区別し難きジザニヤ草即ち毒麦がある、播種の春があり、生長の夏があり、収穫の秋がある、而して収穫の時に麦と毒麦との択分《えりわけ》がある、是れパレスチナの田舎《いなか》に於て何人も能く知る事実である、事実は甚だ明白である、而して明白なるが故に何人も之(148)を以て其不調和《ふてふわ》を怪《あやし》まない、人は之を当然の事と見做し、之がために失望もしなければ、亦懐疑にも陥らない。

○然し茲に之に似たる事実がある、人世がある、キリストがある、信者がある、信者の間に在りて其風采言語習慣に於て信者と少しも異ならざる偽信者がある、伝道の時期がある、信仰隆盛の時期がある、随て真偽判別の時期がなくてはならない、畑と世と異なる所は、畑は僅かに一年にして実《みの》るに比《くら》べて世は実るに数千年又は数万年を要するのである、唯時期に長短の差があるのみである、其他の事実はすべて同様《どうやう》である、恰かも人の一生を草の一期と見ることが出来ると同然である、一年も七十年も栄枯、盛衰、生死の事実に至ては草と人との間に何の異なる所はない。

○然れば畑を見て人世を知るべきである、畑は人世である、良き種を播く者はキリストである、其間に悪しき種を播く者は彼の敵なる悪魔である、而して良き種と悪しき種とは其｜生出《はえいで》し苗を以ては見別《みわ》くることが出来ない、ジザニヤ草の能く麦に似るが如く偽信者は能く信者に似る、否な、事は茲に止まらない、雑草の勢力は優《はるか》に禾穀の上に出で、其根を張ること強く其｜茎《くき》を伸《のば》すこと長し、故に偽信者は信者の間に跋扈し、其教師となり、長老となりて権力を揮《ふる》ふ、而して之を見て農事に経験なき者は驚いて曰ふ、

　　主よ、汝は畑に良き種を播き給ひしにあらずや、毒麦は何処より来りし乎、我等往きて之を抜取《ぬきと》り火にて燬《や》くべきや、

と、然しながら経験に長《た》けたる農夫は之に答へて曰ふ、

　　否な、之を為す勿れ、恐らくは汝等毒麦を抜かんとして麦をも亦抜かん、収穫の時まで俟つべし、其時麦と毒麦と判然と相分れて、而して、其時我は刈者《かるもの》を遣《おく》り、麦は之を我《わが》倉《くら》に収め、毒麦は之を束《たば》となして火にて(149)　　債かん

と、主従の此対話に麦を信者と読み、偽信者をジザニヤ草即ち毒麦と読んで、霊界の事実は物界の事実を以て正確に言表《いひあら》はさるゝのである。

○現時《いま》は人世の夏である、草木繁茂して、善樹と悪樹と、麦と毒麦とを区別するに難き時期である、今や山の雑木も香柏と異ならざる縁《みどり》を装《よそほ》ひ、勢《いきほひ》を誇り、権《ちから》を揮ふ時期である、然れども夏は永久に続かないのである、秋は遠からずして来る、其時樹は其結ぶ実を以て知らるゝのである　即ち善樹は善果を結び悪樹は悪果を結び、森の香柏は常盤《ときわ》の色を顕《あら》はし、雑木《ざふき》は凋《しほ》れて冬枯《ふゆがれ》の淋《さび》しさを示すのである、誠に奇《ふし》ぎなるは秋の顕像力《けんしやうりよく》である、

　　　白露の色はひとつをいかにして

　　　　秋のこのはをちゞにそむらむ。

　　　　　　　　　　　　　　　　　（『古今集』）

○然らば何ぞ憂へん世に偽善者多きを、世は未だ終結《おはり》を告げたのではない、今や猶ほ夏の中半《なかば》である、或ひは中半は既に過ぎて秋風既に戦《そよ》ぐ時期《とき》である、結実《みのり》の秋は遠からずして来る、其時主は顕はれ給ひて我等も亦彼の前に顕はるるのである、彼は其時牧者の綿羊と山羊《やぎ》とを別つが如く我等を別ち給ふ（馬太伝廿五章卅一節以下を見よ）、其時｜真《まこと》の信者と偽《いつはり》の信者とは明白に別たるゝのである、而して一方には哀哭《かなしみ》と切歯《はがみ》とがあるに較《くら》べて他方には感謝と歓喜とがあるのである。

○故に憂ふべきは今の世に偽信者の多きことではない、我れ自身の誠実足らずして偽善者の群に加はらんことである、此世の危険は茲に在る、即ち真喜と偽善との区別し難きに在る、我れ偽善者たるも善人の如くに己を人に(150)示すことが出来る、此世に在りては人の真偽は其外形を以てしては判別《わか》らない、故に当《あて》にならない者にして人の評判の如きはない、

　　　人は外《そと》の貌《かたち》を見、

　　　ヱホバは心を観るなり、

とある（撒母耳前書十六章七節）、今の世に在りては人が正確に他の人の心を観んことは不可能である、今の世は欺くに至て易い所である。

○我等は悪魔に注意すべきである、彼は人々の寝《ねぶ》る間に悪しき種を播いて良き種の成長を妨害する、而して彼れ自身が光明《ひかり》の天使《つかひ》の貌《かたち》に変ずるが如くに（哥林多後書十一章十四節）彼の子供も亦其外貌は能く天国の子供に似るのである、彼は詭計《はかりごと》に富む、彼は最も巧《たくみ》なる悪戯者《いたづらもの》である、彼は世の所謂悪人ではない〔彼〜傍点〕、彼は世の所謂紳士である〔彼〜右△〕、彼に才学がある、威厳がある、然り、時には信仰がある、神学さへもある、彼は一見して善き信者である、彼が世に現はるるや、アンチクリストとして現はれる、（約翰第壱書二章十八節を見よ）即ち似而非《にてひ》なるキリストとして現はれる、サタンのサタンたるは彼の外貌、学説、信仰箇条を以てしては判明《わか》らない、両刃《もろば》より利《と》き神の霊を以てするにあらざれば到底彼を看破《かんば》することは出来ない。

○茲に於てか謙遜と祈?との大なる必要が起るのである、サタンの詭計《はかりごと》に罹らざらんが為に、己に欺かれて自身彼の子とならざらんがために、我等は常に醒め、常に警誡する必要がある。

○今の世に大なる危険がある、敵味方と混合する此世に真《まこと》の平和と安心とはない、然れども悪魔は如何に其詭計を逞《たくまし》くするとも神の聖業《みしごと》を毀《こぼ》つことは出来ない、麦は終りまで麦であつて、毒麦は終りまで毒麦である、毒麦は(151)終に麦を化して自己と同じき毒麦となすことは出来ない、

　　主は己に属《つ》ける者を知り給ふ

とある（テモテ後書二章十九節）、又

　　我羊は我声を聴く、我は彼等を識る、彼等我に従ひ、我れ彼等に永生を賜ふ、彼等いつまでも亡びず、亦彼等を我手より奪ふ者なし〔彼〜右○〕

とある（ヨハネ伝十章廿七、廿八節）、神は其類に従ひて草と樹とを造り給へりとある（創世記一章十一節）、又

　　土《つち》に属《つ》ける者に凡て土に属ける者は似、天に属ける者にすべて天に属ける者は似るなり

とある（コリント前書十五章四十八節）、即ち天性の根本的変化なる者は無いとのことである〔天〜傍点〕、此点に就ては聖書の教ふる所はダーウヰンの唱へし所と全く異なる、聖書は云ふ、時と境遇とは終に物の天性を変ずる能はずと、麦はいつまでも麦である、如何なる境遇に置かるゝも麦である、悪魔の巧妙と毒麦の圧迫とを以てし、之を全生涯の長き間続くるとも、麦を変じて麦以外の物となすことは出来ない、是れ大なる慰藉である、

　　彼等を我手より奪ふ者なし

と、善と善人と、義と義人とは神の手に存す、悪魔はその詭計《はかりごと》と抑圧《よくあつ》とを以てするも之を己が有となすこと能はずと。

○然らば我等は毅然《きぜん》として曰ふべきである、

　　主我を助くる者なれば恐怖《おそれ》なし、人我に何をか為さん、

と（ヒブライ書十三章六節）、又

(152)　　我等の心に善業《よきわざ》を始め給ひし者は之を主イエスキリストの日までに全うすべしと我れ深く信ず、

と（ピリピ書一章六節）、悪魔と其子供は強く且つ巧《たくみ》である、然れども、

　　汝等は神より出で又彼等に勝つことを得たり、そは汝等の衷《うち》に居る者は世の衷に居る者よりも大なるに因りて也

と（ヨハネ第一書四章四節）、我等は自《みづ》から求めて主を信ぜしにあらず、彼に選《えら》まれ、然り彼に強ひられて彼に従ひし者であれば、彼は必ず我等を再たび彼の敵の手に附《わた》し給はずと、我等は固く信ずべきである。

○主に選まれし我等は安全である、又我等が主に依りて為す事業はすべて安全である、主が我等を以て播き給ふ良き種は、縦し一時は毒麦の蔽《ふさ》ぐ所となり、生命｜覚束《おぼつか》なく見ゆることありと雖も、永生を其中に宿す所の福音の種は、是れ亦永久に消ゆべき者でない、走れ亦｜何時《いつ》か何処《どこ》かにて生長し、果を結びて主の栄《みさかへ》を顕はす者である、縦し人世の夏なる現時《いま》の時に方ては真理の苗は偽善のそれと外形上何の異なる所なしと雖も、而かも時到れば我等の労は明白に報ひらるゝのである。

　　汝の種を水の上に蒔《ま》けよ、然らば多くの日の後に汝再たび之を得ん、

と智者は曰ふ（伝道之書十一章一節）、又

　　我愛する兄弟よ、汝等堅くして動かず恒に励《はげ》みて主の業《わざ》を務むべし、そは汝等主に在りて汝等の為す所の労働の徒労ならざるを知ればなり

と使徒パウロは曰ふた（コリント前書十五章末節）、古《いにしへ》の詩人も亦我等を励まして曰ふた、

　　涙と共に播く者は、歓喜《よろこび》と共に穫《かりと》らん、(153)其人は種を携《たづさ》へ涙を流して出行《いでゆき》しかど禾束《たば》を携へ喜びて帰り来らん

と（詩篇百二十六篇、五、六節）、然らば蒔かんかな、収穫の秋を楽しみて蒔かんかな、毒草茂り、偽善者｜跋扈《ばつこ》するとも希望を懐いて蒔かんかな。

　

(154)　　　　　神を識るの途

　　　　　　　　　（或る夜或る友人に語りし所）

　　　　　　　　　明治44年6月10日『聖書之研究』131号　署名なし

　

　神の在ることが解《わか》らないと云ふ者がある、爾《さ》う云ふ人に、爾う云ふならば君に何が解る乎と間ふて見ると、大抵の場合に於ては、何にも解らないと答ふ、其れは其筈である、神は実在の本源である、故に神の在ることが解らずして、他《ほか》の者の在ることは解らない、之れと同時に、自己の在ること、義務、道徳の神聖を確認する者にして神の実在を疑ふ者はない、神を疑ふの心は万物を疑ふの心である、懐疑とは神にのみ関する心の状態ではない、万事万物に対する疑問の態度である、何事に関しても「我れ信ず」と言ひ得ないのである、人をも信ずる能はず、自己をも信ずる能はず、善は果して善なる乎を知らず、悪は果して悪なる乎を識らず、道徳も疑問、宗教も疑問、万事万物悉くX《ヱツキス》である、故に神の在る乎否乎も疑問であるのである、神は Everlasting Yea 永久の是《ぜ》である、故に確信ある者の信ぜざらんと欲するも能はざる者である。

　神の実在を疑ふ者は誰である乎、大抵は学者である、書斎に閉籠つて宇宙の真理を探らんと欲する者である、即ち脳髄の労働《はたらき》のみを以て宇宙と人生とを解釈せんと努むる者である、而して無神論は大抵は斯かる人等に由て唱へらるゝのである、然し神は脳髄丈けでは解らない、彼は生命であるが故に彼を解するに活動が要る、温《あたゝ》かき(155)正《たゞ》しき心と、勤勉なる手と足とが要る、是れなくして彼は解らない、万巻の書を読破し、古今の哲学に精通するも、愛なく、労なく、汗《あせ》と涙とを流さずして神は解らない、道楽半分に哲学、科学、文学を攻究する者、学資の欠乏に心思を労したる経験なき者、自己は常に批評家の地位に立ち、他人の所信を批判するの外に、自身は何の所信の提すべきなき者、無神論者は大抵は斯かる階級より補充せらるゝのである、彼等は誠に有難くない人等である。

　懐疑説の泰斗と云へば誰である乎、哲学者ヒユームである、彼が大哲学者でありし事は疑ひない、彼に由て提出されし丈けの強い懐疑説は未だ曾て世に出でたことはない、又将来と雖も決して出ないであらふ、彼は実に剃刀《かみそり》の如き刃《やいば》を以て有神論と基督教を解剖し、其弱点を露出《さらけいだ》したのである、世に有神論の攻難不落を誇る者はヒユームを読むべきである、ヒユームに由て毀たれない信仰のみが確乎不抜の信仰である。

　然しヒユームは如何なる人である乎、彼は純粋の哲学者である、彼の哲学は真面目《まじめ》の人の一生懸命の真理の探究であるとは如何《どう》しても認められない、彼は狩猟家が獲物《えもの》を逐ふの心を以て信神家の信仰を毀たんとした、彼に取りては信仰破壊は最大の快楽であつた、哲学は彼に取りては遊戯であつた、彼は彼の対手の論城を毀ちて洪笑拍手したのである。

　ヒユームの論説に由て「信条的睡眠より醒されし」と云ふ哲学者カントは彼れヒユームとは正反対の学者であつた、カントに取りては哲学は死生の問題であつた、彼は之を以て自己を救ひ、父祖の宗教を救ひ、父祖の国を救はんとした、カントは誠に哲学界に於けるマルチン・ルーテルである〔カ〜傍点〕、神と霊魂と永生、是れ果して在る者である乎、又は無い者である乎、人間の智識は果して三者の実在を識認するに足る乎と、カントは志士が国に殉ず(156)るの心を以て此問題に当つたのである、カントは哲学研究に従事する前に既に熱誠の人であつた、而して此人は終に何物か確実なる者を提供せざれば止まなかつたのである、彼は哲学者である前に既に英雄《ヒーロー》であつた、彼が実在の本源なる神を探当《さぐりあて》んことは前以て予知せられたる事であつた。

　誰か神を知る者ぞ、政府の俸給に哲学の講座を担任する大学の講師ではない、又は父兄の供給する学資に博士号獲得を目的として専門｜研覈《けんかく》に日も又足らざる大学生ではない、彼等は神を識らんには余りに浅薄である、神は決して軽薄彼等の如き者に自己を顕はし給はない、神は全身全力を尽してのみ識ることが出来る、活ける人生と宇宙とに直に接触してのみ解することが出来る、読むのみならず働いて知ることが出来る、考ふるのみならず愛して識ることが出来る、神は愛である、智識ではない、故に愛の活動なる犠牲を以てしてのみ知ることが出来る、故に神を知るに良き地位に在る者は大学の教授ではない、又は大学院の学生ではない、正直なる農夫である、勤勉なる職工である、智識よりも勇行を重んずる思想家である、働かずして研究をのみ是れ事とする者は自《おのづ》から懐疑病に罹らざるを得ない、懐疑は確かに疾病である、脳の不消化病である、神の労働園に其忠僕として働らく者に懐疑もなければ無神論もない。

　

(157)　　　　　安楽の途

　　　　　　　　　明治44年6月10日『聖書之研究』131号　署名なし

　

　人に親切を為さるゝは楽し、然れども人に親切を為すは更らに楽し、人より親切を受くるは難し、人に親切を施すは易し、我等はより〔二字傍点〕易き途》を取てより〔二字傍点〕多く楽しむべきなり。

　

(158)　　　　　〔我等の祈?　他〕

　　　　　　　　　明治44年6月10日『聖書之研究』131号　署名なし

　

　　　　　我等の祈?

　

　神よ、我は汝に我と我家とを福《さいは》ひし給へと祈らず、我等を汝の属《もの》として役《つか》ひ給へと?る、我等に善き物を与へ給へと祈らず、我等をして我等の有するすべての物を汝に献げしめ給へと?る、汝が我等に下し給ふ最大の賚賜《たまもの》は謙下《へりくだ》りたる要求せざる心なり、而して汝はイエスキリストに由りて此心を我等に下し給ふを感謝す。

　

　　　　　審判く勿れ

　

　人は大を知るを得べし、小を知るを得ぺし、星を知るを得べし、虫を知るを得べし、海《うみ》と陸《くが》と其中に在るすべての物を知るを得べし、然れども人は人を知る能はず、殊に其心を知る能はず、神のみ惟り人と其心とを知り給ふ、人類の智識が其進歩の極に達して、其、人に就て正確に知る所は何人も神の前に立て罪人なりとの一事に止まる、然れども人は自から此事をさへも知る能はざりし、神の啓示に由て此事を知るを得たり、人が自から人に就て知る所は零なり、故に人は相互を審判《さば》くべからざるなり。

　

(161)　　　　　〔住谷天来著『孔子及孔子教』〕序言

　　　　　　　　　明治44年6月23日『孔子及孔子教』　署名　内村鑑三

　

　余の友人住谷天来君は其｜性来《うまれつき》の質《たち》より謂ふも、亦其学問の性質より考ふるも、純粋なる漢学者である、然るに此人が孔子を師として仰がずしてナザレ人イエスに弟子として事ふるのである、余が特に君を敬する所以は茲にある、又君の孔子論の特に敬読すべき所以も亦茲に在ると思ふ。

　孔子は確かに偉人である、而かも支那の偉人である、東洋の偉人である、『人《ゼーマン》』ではない、人類の首《かしら》ではない、ゼーマンは他《ほか》に在る、而して仰ぐべきは『彼』である、孔子ではない、支那の偉人たる孔子は止むを得ずして政略の人である、方便の人である、聖書の人でない、純正の良心でないと、是れ天来君が孔子に就て余輩に教ふる所である、而して余輩は君の此観察に首肯せざるを得ないのである。

　天来君が斯く唱ふるは君が外国宣教師の飯を食ふからではない、又基督教会の被雇人《やとはれびと》であるからではない、君は独立の人である、而して君の独立の立場よりして、君が最も深く親しめる孔子に就て斯く言はるゝのである。

　而して余は天来君より孔子に就て斯の如くに聞て、孔子を藐視《かろし》まないのである、否な、其正反対が事実である、余は孔子を人として学んで彼の特に敬すべく愛すべきを知るのである、世に拝すべき人は一人ある、唯一人ある、其他はすべて親しむべき者、愛すべき者、同情すべき者である、而して人は拝すべき其一人を拝して、すべての(162)聖人、すべての偉人、すべての英雄は正当に解し得るに至るのである。

　而して余輩の此言は住谷君と余輩とのみの言ではない、ゲーテも爾《そ》う曰ふた、カーライルも爾う曰ふた、ロックも爾う曰ふた、トルストイも爾う曰ふた、人類を最も深く解した人は皆な此点に於ては一致して居る、人類の首《かしら》は孔子ではない、孟子ではない、釈迦ではない、ソクラテスではない、キリストと称《とな》へられしナザレ人イエスである、而して彼の十字架の下に立ってのみ孔子も釈迦もソクラテスも正当に解することが出来るのである。

　住谷君の孔子論は此立場より観たる孔子の評価である、其、我邦に於て異例なるは茲に在る、余は邦人の或者が君の此著に由りて大に啓発せるゝ所あるを信ずる。

　　　　　　千九百十一年五月十五日　東京市外柏木に於て　内村鑑三

　

(163)　　　　　『洪水以前記』

　　　　　　　　　明治44年7月5日　単行本　署名　内村鑑三　著

　

　初版表紙190×130mm

　

(164)　　　　　はしがき

　

　此書は是れ今を去る十年、余が雑誌『聖書之研究』主筆として其第一号より第二十八号に渉りて連載せし創世記註解を蒐集し、之に訂正を加へて一書と成せし者なり、今よりして之を観る、他人の作を視るの感なくんばあらず、乞ふ読者の、其数多き欠点を許され、其中に散在する多少の真理を以て満足せられんことを。

　　　千九百十一年六月廿四日　　　著者

　目次

　第一章　万物の元始

　第二章　天地の創造

　第三章　安息日の制定

　第四章　エデンの園

　第五章　女性の創造

　第六章　人類の堕落

　第七章　最初の殺人罪

　第八章　善悪二子の裔

　第九章　長寿時代

　第十章　ノアの洪水

　

(165)　　　　　〔国のために憂ふ　他〕

　　　　　　　　　明治44年7月10日『聖書之研究』132号　署名なし

　

　　　　　国のために憂ふ

　

　我は我国に多くの智者あるを見る、我は我国に多くの勇者あるを見る、然れども我は我国に多くの義人あるを見る能はず、然り、少数の義人すらあるを見る能はず、我れ我国のために憂ふるは茲にあり、我は日々我神に祈る、彼が我国に多くの義人を起し給はんことを。

　

　　　　　徳と義

　

　徳は得《とく》なり、利得《りとく》を目的とする人の道なり、義は義なり、利益を眼中に置かざる神の道なり、徳は計算的なり、義は確信的なり、徳は政治家に由て唱へられ、義はキリストに由て伝へらる、我等キリストの弟子たる者は幸福を計りて徳を講ずるを要せず、神の前に聖《きよ》からんと欲し唯｜単《ひたす》らに義を求むべき也。

　

(166)　　　　　訴ふべき所

　

　困難を有司に訴ふるも益なし、そは有司に有司自身の大なる困難あればなり、悲痛を社会に訴ふるも益なし、そは社会には社会自身の大なる悲痛あればなり、困難と悲痛とは之を真《まこと》の神に訴ふべし、彼に是等を除去《のぞきさ》りて尚ほ余りあるの能力《ちから》存す、彼は与へて求めず、彼は咎《とがむ》ることなく惜まずして衆人《すべてのひと》に予へ給ふ、有司と社会との外に訴ふるに所なき者は憐むべきかな、其｜避所《さけどころ》又｜力《ちから》、難《なや》める時の最《い》と近《ちか》き助《たすけ》としてヱホバの神を有《も》つ者は福《さいは》ひなるかな。詩篇四十六篇一節。

　

　　　　　進化の法則

　

　言ふ、進化は生存競争にあり、故に援助を要せず、誘導を要せず、唯競争をして人を進化せしむれば足ると、茲に於てか無慈悲の教育あり、残忍の商業あり、一人が成功せんがためには千人は失敗し、一人が選抜せられんがためには万人は振墜《ふりおとさ》る、歓ぶ者は尠くして泣く者は多く、起つ者は少数にして斃るゝ者は多数なり、而かも言ふ是れ天然の法則にして進歩の原理なりと、誠に此世の霊はキリストの霊と相｜敵《もと》る、悪魔を呼んで「此世の主《ぬし》」と称するは敢て怪むに足らざるなり。約翰伝十二章卅一節。

　

　　　　　信者に非ず信者也

　

　余は信者でない、余は教会の会員でない、余は洗礼を受けない、儀式に与《あづ》からない、信仰箇条に署名しない、(167)監督、長老、執事、牧師、伝道師など云ふ、人の定めし教職の教権を認めない、余は其意味に於て信者でない、不信者である。

　然れども余は信者である、余はナザレのイエスを余の理想として仰ぐ、余は彼の僕《しもべ》たらんと欲する、余は彼を神として拝するに躊躇しない、余は彼のためとならば余のすべてを棄るを惜まない、余は彼の聖名《みな》のためには世の詬?《そしり》を受くるを厭はない、余は人としての最大名誉は彼れナザレのイエスのために粉身砕骨、以て命を終ることであると信ずる、其意味に於て余は確かに信者である、余は自《みづ》からイエスの弟子なりと称して恥《はぢ》ない。

　斯の如くにして余は所謂基督教会に対しては信者でない、不信者である、然れどもキリストの敵なる此世に対しては信者である、故に宣教師、監督、長老、牧師、伝道師、其他教会信者全体に対しては余は信者でないと言ふ、然れどもキリストを嘲けり、彼の福音を斥くる此世全体に対しては余は信者である、イエスの弟子であると断言して憚らない。

　

　　　　　信仰と愛

　

　信仰は武器である、余輩は信仰を以て暗黒を排《はら》ひ、圧制を挫き、束縛を断ち、自由を獲て光明に入らんとする。

　愛は治平である、余輩は愛を以て瘡痍《さうい》を癒し、恩恵を施し、平和を結び、自由を楽しみ、光明を増さんとする。

　此罪の世に在りて信仰の武器を揮《ふる》はずして自由と平和とを獲得《くわくとく》することは出来ない、其れと同時に愛の恩撫を欠いて戦て得し自由と平和とを享受することは出来ない、信仰、愛に先だつにあらざれば愛は獲られない、愛、信仰に続《つゞ》くにあらざれば信仰は無効となる、信仰と愛とは相携へて進むべき者である。

(168)　パウロに学びて束縛を断ち、ヨハネに教へられて自由を楽む、我等は信仰の人であると同時に又愛の人たるべきである。

　　平和の福音を鞋《くつ》として足に穿《は》き、信仰の盾《たて》を取りて悉く悪者《あしきもの》の火箭《ひや》を滅《け》すべし。以弗所書六章十五、十六節。

　

　　　　　聴かれし祈求《ねがひ》

　

　余は多くの事を神に祈求《ねが》へり、余は勿論余の身の事を祈求へり、余の家の事を祈求へり、余の骨肉の事を祈求《ねが》へり、余の友人の事を祈求へり、余の国の事を祈求へり、而して時には自他の事を忘れてキリストと彼の福音の事を祈求《ねが》へり、而して多くの年の間、多くの事を祈求ひしと雖も、其中、確《たし》かに神に聴かれたりと信ずるは唯最後の祈求《ねがひ》のみ、余の身に幸福は来らずして不幸は来れり、余の家は栄えずして衰へたり、余の骨肉は多くは余を離れたり、余の友人にして今余と偕にある者は甚だ尠し、余の国は益々神を離れて、其堕落は歳と共に甚だし、唯キリストと彼の福音とは月と共に挙り、歳と共に顕はれつつあり〔唯〜傍点〕、余に幸福の来らざりしは之れがためなりし、余の家の栄えざりしは之れが為めなりし、余の血縁と交友と社交とに失望多かりしも亦之れが為めなりし、即ちキリストと彼の福音とが世に挙らんがためなりし、彼は栄ゆべし、我は衰ふべし〔彼〜右●〕（ヨハネ伝三の三十）、彼の聖名の我に由て挙《あが》らんがためには我は大に苦しまざるべからず、福音盛栄の立場より見て我が失望は成功なりし〔福〜傍点〕、我が祈求《ねがひ》の聴かれざりしに非ず、然り、我が最大の祈求の聴かれしに由り、我がすべての祈求は聴かれしなり、主の栄光は顕はれつつあり、我が欲求《ねがひ》の斥けられしに由て、我が希望の充たされざるに由て、暗黒の世に益々甚だしきに由て、福音の光栄《かゞやき》は挙りつゝあり、余は今に至り余の祈求のすべて悉く〔五字右○〕神に聴かれしを感謝す。

　

(169)　　　　　路加伝に由て伝へられたる主の祈?

　　　　　　　　明治44年7月10日『聖書之研究』132号　署名　内村鑑三

　

　聖書は二個の主の祈?を吾人に伝ふ、馬太伝に由る者と（六章九−十三節）路加伝に由る者と（十一章二−四節）是れなり、二者要目を共にすと雖も文に長短繁簡の別あり、而して近世聖書学者の研究に依れば、路加伝に由る者の、其簡潔なるが故に、始めてイエスの口より出し者なるが如しとの説多し、馬太伝に由る者はイエスの原始の言辞《ことば》に修飾を加へし者にして、礼拝用としては優美なるも、祈?の精神を伝ふる者としては反て前者に劣る所あるが如し、今、最も信憑すべき古代謄写本に由り、路加伝十一章二節以下四節までを邦訳すれば左の如し、

　　イエス曰ひけるは、汝等祈る時は言ふべし

　　　父よ、御名《みな》を聖《きよ》め給へ、

　　　御国《みくに》を臨《きた》らせ給へ、

　　　我等の必要の糧《かて》を日毎に我等に与へ給へ、

　　　我等の罪を赦し給へ、そは我等さへも亦

　　　　我等に負ふ所のすべての人を赦せばなり、

　　　我等を誘惑に放任《まか》し給ふ勿れ。

　

(170)　　　　　　　略註（ゴーデー氏註解に依る所多し）

　祈る時は　祈らんと欲する心の起る時は、必しも時を定めて祈るに及ばず、又職務に強ひられて祈るべからず、祈るの必要を感じ、祈りたく欲《おも》ふ時は下の如くに祈るべし。

　「期の如くに」　馬太伝に此文字あり、然れども路加伝にあるなし、蓋し此所も亦此意を加へて読むべき者ならん、即ち、此言葉を繰り返すべしと言はず、之を模範として祈るべしと言ふ、我れ汝等に祈?の模範を示さん、其精神を以て祈るべしとの意ならん。

　言ふべし　之を言葉に言表《いひあらは》すべし、汝等、心に祈らんと欲する時、其｜意《こゝろ》は下の例に傚ひ、之を言葉に表はすべし。

　父よ　「天地万物の造主なる真の神よ」と言ふに及ばず、又必しも「天に在す我等の父よ」と言ふに及ばず、「父よ」の一言にて足る、天地の造主なる真《まこと》の神は今は其愛子を以て汝等の父として顕はれ給へり、彼は又人類の父なるのみならず又汝等の父なり、万人の父にして又汝一人の父なり、故に彼と語るに単に「父よ」と言ふべし、彼を?《よ》びまつるに方て彼に長き肩書《かたがき》を附して彼をして汝より遠《とほざか》らしむる勿れ。

　御名　人が神に附し奉る名なり、或はエロヒムと云ひ、或はアドナイと云ひ、或はエルシヤダイと云ひ、或はヱホバと云ひ、或は神《かみ》と云ひ、或は仏《ほとけ》と云ふ、　　名は思想の表彰なり〔九字右●〕、人が神に就て思ふが如くに彼は彼を称《よ》びまつるなり、力者《ちからあるもの》と思ふ時にエロヒムと称びまつり、恩恵者《めぐみあるもの》と思ふ時にヱホバと称びまつるなり、御名は神に就て人が懐く思想なり〔御〜傍点〕。

(171)　聖《きよ》め給へ　我等が汝に就て懐く思想を聖め給へ、我等をして正当に汝を解し得させ給へ、汝の聖く在《いま》し給ふが如くに、我等汝に関して懐く思想をして聖からしめ給へ、我等をして卑《ひく》く汝を解さしめ給ふ勿れ、異邦人が汝を解するが如くに解さしめ給ふ勿れ、万事の神と称《よ》びまつりて汝を軍神又は勢力の神と解さしめ給ふ勿れ、或は恩恵の神と称《よ》びまつりて汝を福神又は幸福を人に下し給ふ神と解さしめ給ふ勿れ、我等をしてイエスキリストの御父として汝を解さしめ給へ、即ち純愛の神〔四字右○〕、犠牲の神〔四字右○〕として汝を識らしめ給へ、我名は彼に在り〔七字右●〕と汝は言ひ給へり（出挨及記廿三章廿一節）、即ち汝の何たる乎は彼れイエスに於て完全に顕はるとなり、我等は未だ汝を識らず、我等は自身が意《おも》ふが如くに汝を解し易し、願くは我等に在りて御名《みな》を聖《きよ》め給へ、我等をして預言者イザヤが聖殿《みや》に於て聞しが如くに、聖なる哉、聖なる哉、聖なる哉、万軍のヱホバとして汝を識り、又汝を?《よ》びまつらしめ給へ。以賽亜書六章。

　御国《みくに》　神の国は神の政治なり〔神〜傍点〕、而して神の政治は人の政治と異なり、之に国土あるなし、法律あるなし、警察あるなし、兵力あるなし、神の政治は愛と義と聖霊とを以て人の心の衷に行はる〔神〜傍点〕、若し其効果の外に顕はるゝことあれば、そは先づ其｜能力《ちから》の衷《うち》を聖《きよ》めたるに因るなり、人の政治は権威を以て外より衷に及ぼさんとし、神の政治は之に反して衷より外に顕はれんとす。

　臨《きた》らせ給へ　布《し》き給へと言はず、臨らせ給へと云ふ、善政を圧抑的に施し給へと言はず、聖旨を自由的に行ひ給へと言ふ、即ち聖霊を降し給へ〔七字傍点〕と言ふに同じ、神の国は降臨すべき者なり、先づイエスの霊即ち聖霊として人の心に臨むべき者なり、甘露の牧場《まきば》を潤《うるほ》すが如くに、静かに霊魂に降るべき者なり、「御国《みくに》を臨《きた》らせ給へ」、聖霊を降し給へ、而して我等の衷《うち》なる霊を化して終に外なる肉と社会とに及び給へ、議会を以て法律を改め給へと祈(172)らず、警察を以て風紀を正《たゞ》し給へと祈らず、或は教会を以て又は文壇を以て、声と筆とを以て社会を改良し給へと祈らず、神に応《ふさ》はしき方法を以て、彼の取り給ふ唯一の方法を以て、即ち御子イエスの霊、即ち聖霊を我等の霊に降し、以て義と愛との　政《まつりごと》を天に行ひ給ふが如く地にも行ひ給へと祈る。

　我等の……我等に……我等を　先づ神の事を祈るべし、是れ第一なり、先づ神の真正《まこと》に人に識られん事を、又神の政治の人の間に行はれんことを祈るべし、而して後に人の事を祈るべし、而かも我が〔二字右○〕事を祈るべからず、我等〔二字右○〕の事を祈るべし、人類全体のために祈るべし、神を愛する者総体のために祈るべし、「我〔右○〕の、我〔右○〕に、我〔右○〕を」と言ふべからず、「我等〔二字右○〕の、我等〔二字右○〕に、我等〔二字右○〕を」と言ふべし、即ち異邦人并に偶像信者が祈るが如くに祈るべからず、彼等は自己のために祈りて他人のために祈らず、人のために祈りて神のために祈らず、然れども汝等は爾《し》かなすべからざるなり、汝等は先づ第一に神のために祈るべし　次ぎに人のために祈るべし、而かも自己のために祈らずして、同志同類のために祈るべし、汝等我れイエスの弟子たる者は爾かなすべき也。

　糧《かて》　受造物たる人に糧の必要あり、肉体の糧の必要あり、霊魂の糧の必要あり、彼は糧なくして一日も存在する能はざる也、故に我等糧のために祈るは善し、然り、其ために祈らざるを得ざる也、我等は楽まんがために生きんことを欲せず、役《つか》へんがために養はれんことを祈求《ねが》ふ、神が其｜政《まつりこと》を行ひ給ふに方て、我等を使役し給はんがために、我等は糧を得て健《すこやか》ならんことを願ふ。

　必要の糧　糧のために祈るべし、然れども余分（periousios）の糧のために祈るべからず、糧は必要（epiousios）の分あれば足る、人が全体に富を要求するは彼が必要以上の糧を要求するに因る、然れども我等大なる父に信頼する者は必要以上の糧を獲るの要なし、而して神は必ずしも人に富を与へ給はざれども、彼に依頼《よりたの》む者に必ず必(173)要の糧を賜ふなり。

　日毎に我等に与へ給へ　必要の糧を与へ給へ、而かも一年の糧、又は十年の糧を与へ給へと祈らず、日毎に之を与へ給へ〔九字右○〕と祈るなり、今日は今日、明日は明日と、神が空《そら》の鳥や野の獣《けもの》を養ひ給ふが如くに我等を養ひ給へと祈るなり、而して斯く祈りて我等は心に寡慾ならんと欲するなり、祈?の目的は客観的にして又主観的なり、我等は最少額を祈て、之を神より得ると同時に又彼に由て我等の慾心を減殺せらるゝなり、我等の必要の糧を日毎に我等に与へ給へと祈て我等の肉体を養はるゝと同時に又我等の霊魂を潔《きよ》めらるゝ也。

　我等の罪を赦し給へ　肉体の生きんことを祈て次ぎに霊魂の活きんことを求む、罪の価《あたひ》は死なり、罪を除《のぞ》かれざれば霊魂は活きず、而して罪を除かれんと欲して神に之を赦さるゝの一途あるのみ、故に言ふ、我等の罪を赦し給へと、而して神に我等の犯せしすべての罪を赦すに足るの恩寵在て存す、我等は単に父の仁慈に訴ふるのみ、我等に罪を赦さるゝの一の権利あるなし、我等は単《ひと》へに父の寛裕を乞ふて曰ふのみ「父よ赦し給へ」と。

　そは我等さへも亦我等に負ふ所のすべての人を赦せばなり　父は我等の罪を赦し給ふべし、そは我等罪に生まれ、悪に成長《そだち》し人間すら我等に物を負ふ者あれば、之を赦すの憐愍の心を存すれば也、主は曰ひ給へり、汝等悪しき者なるに善き物を其子等に与ふるを知る、況して天に在す汝等の父に於てをやと（路加伝十一章十三節）、我等罪に沈める人間にすら人を赦すの心存す、況して光の中に在《いま》して罪を知り給はざる汝聖父に於てをや、我等の衷に憐愍の心を植ゑ給ひし汝はいかで我等の祈願に応じて我等の罪を赦し給はざらんや。

　我等を誘惑に放任し給ふ勿れ　我等の罪を赦し給へ、而して我等をして再たび罪に陥らしめ給ふ勿れ、我等は知る、汝は人を悪に誘ひ給はざるを（雅各書一章十三節）、我等を誘ふ者は悪魔なり、而して我等が悪魔に誘はれざ(174)らんがためには我等は汝の常時の保護を要するなり、汝にして一たび汝の愛護の聖手《みて》を放ち給はんか、我等は直に悪魔の捕《とら》ふる所となり、其誘ふ所となりて汝に反《さから》ひて罪を犯すに至るなり、故に祈求《ねが》ふ我等をして故意《ことさら》なる罪を犯して汝をして聖顔《みかほ》を我等より反《そむ》けしめまつるに至らざらんことを、祈求《ねが》ふ、我等高ぶりて自己に頼り、我等の不信時代に於けるが如く、汝が我等を其心の慾を縦肆《ほしいまゝ》にするに任かせて汚穢《けがれ》に附《わた》し給はざらんことを（羅馬書一章廿四節）。

　　　　　　　＊　　＊　　＊　　＊

　路加伝に由て伝へられたる主の祈?を約言すれば左の如し、

　　一、神のためにする祈?

　　　イ、神の聖旨《みこゝろ》の真正に人に識られんことを祈る、

　　　ロ、斯くて聖旨《みこゝろ》の実際的に人の間に行はるゝに至らんことを祈る。

　　二、人のために祈る、

　　　イ、必要欠くべからざる肉体の糧《かて》の与へられんことを祈る、

　　　ロ、罪を赦されて死せる霊魂の活きんことを祈る、

　　　ハ、神の聖手《みて》を離れて再たび罪を犯すに至らざらんことを祈る。

　祈?の要目は僅かに五箇条、而して人の神に祈るべきことを言ひ尽して余りあり、我等は此祈?に則りて祈らざるべからず、而して斯かる祈癖の必ず神の聴き納れ給ふ所となるは言はずして明かなり。

　　　父よ、御名《みな》を聖《きよ》め給へ、

(175)　　　御国《みくに》を臨《きた》らせ給へ、

　　　必要の糧を日毎に我等に与へ給へ、

　　　神人共通の御憐愍を以て我等の罪を赦し給へ

　　　而して我等を護り給ひて我等を悪魔の誘惑に放任し給ふ勿れ、アーメン。

　

(176)　　　　　神人の乖離

　　　　　　　　（六月廿一日柏木に於て）

　　　　　　　　明治44年7月10日『聖書之研究』132号　署名なし

　

　神は全地を造り給ひ之を挙げて彼の愛子なる人類に与へ給ひたれば、人類は彼の擁護の下に之を耕し之を飾美《かざ》りて今日に至れり、人類が歳と共に為す所の開明進歩は神の嘉《よみ》し給ふ所であつて、神は人類を以て誇りと為し給ひ、益々恩恵を其上に加へ給ひて彼等を啓導愛撫し給ふ、縦し人類の間に多くの罪悪は行はれ、無神論は唱へられ、悲事惨劇は演ぜらるゝも、大量、神の如き者は少しも之を意に介し給はず、彼等は反くも彼は怒り給はず、二者の関係は今尚ほ親密なる父子の関係にして、其間に曾て隔絶乖離の存せしことなしと。

　是れ世人に由て懐かるゝ神と人類とに関する観念であつて、基督信者と称せらるゝ者の中にも其近世的とか進歩派とか称する者は、之か、或ひは之に類する観念を懐くを以て常とする。

　然しながら驚くべきことには聖書は決して斯かる思想を伝へないのである、聖書は伝へて曰ふ、神は全地を造り給へりと（其事は其通りである）彼は人類を造り給ひ、之を愛して之に地と其中に在る万物を与へ給へりと（其事も亦其通りである）、然るに人類は己に賜はりし此無上の特権を以て足れりと為さず、自身も神の如き者とならんと欲し、己を造りし神の命に聴かずして神の敵なる悪魔の声に耳を傾け、之に従ひて全然神に反きたり、(177)茲に於てか神と人類との間に乖離生じ、父子の関係は破れ、神は人の心を去り、人は地上に流浪人《さすらひびと》となり、彼に取りては神は有て無きが如き者となりたり、茲に於てか人は互に相信頼せんと欲して争闘絶えず、神は其子を失ひて慈愛に泣き、人は父を失ふて暗夜に彷徨《はうくわう》するに至れり、是れ今日に至るも此世の状態である、勿論愛なる神は己を離れし人類を棄て給はず、屡々義人を送り、預言者を遣はし、終には其一人の愛子をさへ遣《おく》り給ひて人類の反逆《そむき》を癒《いや》さんとし給ひしも、人類は度毎《たびごと》に神の使者を斥け、或ひは石もて之を撃ち、或ひは剣もて之を殺し、特に神の愛子に至ては之を十字架に附けて彼の愛に酬ゐた、人類は其創造の始めより神の敵となりて今尚ほ改めない、人類の憎む者にして実は真《まこと》の神の如きはない、彼等は神の手より世界を奪ひ、勝手に之を開発し、神なくキリストなく、自己の択《えら》みし途に進みつゝある。

　然れども斯かる状態は何時《いつ》までも継続《つゞ》くべきではない、世界の持主は終に来りて其所有権を実行し給ふ、彼は終に地上より反逆の民を逐ひ給ふて之を順良の民に与へ給ふ、世の終りと云ひ、最後の裁判と云ふは此事である、現時《いま》は尚ほ暗黒の勢力である、神の忍耐の時期である、而して神の忍耐に慣れ、彼を侮りて、人類が勝手氣儘を継くる時期である、此の時に方りて信者は夙《はや》く反逆を廃め、神に帰順し、彼に対して元始《はじめ》の父子の関係に入り、以て今や将さに世に臨まんとする神の怒を免かるべきであると。

　以上は聖書が創世記の始より黙示録の終りに至るまで語を交へ、調《てう》を代へ、或ひは訓誡を以て、或ひは比喩を以て、繰返し、繰返し、反複、倦むことなく告知《つげしら》する所である。

　人の自己《おのれ》に関する観念と聖書の人に関する指示《しめし》と、二者孰れが真《まこと》なるや、其問題は後《あと》にして、人に取り、二者孰れが快《こゝろよ》き乎と問ふに、其は言はずして明かである、人は自己は神の反逆人である、地の掠奪者である、神の(178)恚怒《いかり》の宿《やど》る者である、故に悔改《くひあらた》むるにあらざれば終に滅《ほろば》さるべき者であると聞かされて決して喜ばない、否な、斯の如くに説き聞かされて彼は怒を発し、耳を掩ふて自己を責むる者を攻む、人の好む事にして称讃追従《しやうさんつゐしやう》の如きはない、彼は個人として、又国民として、又人類全体として、何よりも多く称讃さるゝことを好む、「人は生れながらにして神の子なり、愛は彼の特性なり、彼は万物の長にして、生れながらにして不死の性を有す」など称はれて彼は喜悦措く所を知らず、斯かる称讃の辞を彼に奉る者を称して人類の友なり、進歩的思想家なり、能く神人の和合一致を計る者なりと言ふ、彼は言ふ「聖書何者ぞ、神の愛を説く者にあらずや、愛に憤怒なし、刑罰なし、愛は与ふるを知て要《もと》むるを知らず、人類は神の愛子にして、此世界は父の子に賜ひし絶大の賚《おくりもの》なり」と、斯く自から語り、他《ひと》に説かれて、彼は人生の秘密を探《さぐ》り当《あて》たりと思惟する。

　然し聖書は人類に就て決して斯かる提言を為さないのである、聖書は憚らずして言ふ、

　　義人なし、一人もあるなし、暁達《さと》る者なし、神を求むる者なし、皆な曲りて全く邪《よこしま》となれり、善を為す者なし、一人も有るなし、その喉《のど》は破れし墓なり、其舌は詭詐《いつはり》を語り、其｜唇《くちびる》には蝮《まむし》の毒を蔵《かく》す、其口は詛《のろひ》と苦《にがき》とにて満つ　其足は血を流さんために疾《はや》し、残害《やぶれ》と禍患《わざはひ》は其途に遺《のこ》れり、彼等は平和の道を知らず、其｜目前《めのまへ》に神を畏るゝの懼あることなし

と（羅馬書第三章十節以下）、是れ実に激烈なる言葉である、人類の弾劾にして之よりも強い者はない、是は今の所謂進歩的基督教を唱ふる者の口調《くてう》ではない、是は苦《にが》い言葉である、「高貴なる人類」の聞くに堪えない言葉である。

　而かも是れ決してパウロ一人の語調ではない、バプテスマのヨハネは当時の人を称《よ》んで「蝮《まむし》の裔《すゑ》よ」といふた、(179)イエスも亦パリサイの人を呼ぶに同じ言葉を以てし給ふた（馬太伝十二章三十四節）、彼は彼の敵をのみ斯く称し給ふたのではない、彼の弟子に対しても曰ひ給ふた、

　　汝等悪しき者なるに云々

と（仝七章十一節）、此場合に於て「惡しき者」とは「悪魔の性を帯《おぶ》る者」との意である、後にペテロに対して

　　サタンよ我が後《うしろ》に退け

と言ひ給ひしと同一である、聖《きよ》きイエスの眼より見て彼の特別に択み給ひし弟子までが悪魔の子であつたのである。

　イエスは人類の、地の掠奪者であることを、彼の宣べ給ひし葡萄園の比喩を以て明かに示し給ふた、

　　或る家の主人葡萄園を作り、之に籬《まがき》を環《めぐ》らし、其中に酒搾《さかぶね》を穿《ほ》り、塔《ものみ》を建て、之を農夫に貸して他の国へ往けり、収穫の期《とき》近づきければ、其果を収《と》らんために僕《しもべ》を農夫の許《もと》に遣《つかは》せり、農夫等其僕等を捕らへ、一人を鞭《むちう》ち一人を殺し一人を石にて撃《うて》り、又他の僕を前よりも多く遣しけるに之にも前の如くなせり、主人終に、我子は之を敬《うやま》ふならんと謂ひて其子を遣しゝに、農夫共其子を見て互に曰ひけるは「此は嗣子《あとつぎ》なり、いざ彼を殺して其家産をも奪ふべし」と、即ち之を捕らへ、彼を葡萄園より逐出して殺したり、然れば葡萄園の主人｜臨《きた》らん時に此等の農夫に何を為すべき乎……我れ汝等に告げん、神の国を彼等より奪ひ、之を其果を結ぶ他の民に与ふべし

と（馬太伝廿一章三十三節以下）、是は直接に当時のユダヤ人に対して曰はれし言《こと》であるが、然し又間接に人類全体に就て言はれしことである、主人は神である、葡萄園は此美はしき世界である、農夫は人類である、主人の僕《しもべ》(180)は義人と預言者とである、嗣子は言ふまでもなくイエスキリストである、人類は神より地を掠奪し、其果を其持主に納めずして自《みづか》ら之を横領し、主人の使者を遣して之を要求するなれば之を鞭《むちう》ち、殺し、石にて撃ち、終に其一人の嗣子を殺して全地を永久に己が有《もの》となさんとせり、故に主人自から其所有の園に臨《きた》らん時には悪しき人類を剿滅し之を彼の択みし善き民に与ふべしと、此短かき比喩《たとへ》の中に人類の創始《はじめ》と、其長き悲惨なる歴史と、其憐むべき運命とが明かに示されてあるのである。

　其他聖書全体を通うして此人生観は到る所に説かれてあるのである、此人生観有つて始めてキリスト降臨の必要もあり、十字架上に於ける贖罪の必要もあり、復活の必要もあり、昇天の必要もあるのである、人世を斯の如くに観《み》ずして福音は意味の無い者となるのである、聖書のみ人類の堕落を説いて其完全なる救済法を備へた、聖書を除いて他《ほか》の宗教は人性の全然的腐敗（total depravity）を説かない代りに、又其完全なる救済《すくひ》を供《そな》へない　人の善を唱へ、社会の自然的進歩を道《い》ふ者は民の傷《きづ》を浅く癒す偽はりの預言者である、苦言は親友の特性である、人類の真《まこと》の友はその罪を黙過する者でない、大胆に之を曝露し、然る後にキリストの血なるギリアデの乳香《にうかう》を以て其深き傷を癒《いや》す者である。耶利米亜記八章廿二節参照。

　

(181)　　　　　社会の審判

　　　　　　　　明治44年7月10日『聖書之研究』132号　署名なし

　

　我は社会に審判《さば》かれず、社会を審判《さば》くなり、我は罪人なりと雖も社会の如き大罪人にあらざる也、社会は人を殺すこと無数、姦淫を公許し、虚偽を認容す、罪悪の社会は我を審判くの権利を有せず、其批評の如きは全然之を無視して可なり。

　

(182)　　　　　生活難を慰むる聖書の言葉

　　　　　　　　明治44年7月10日『聖書之研究』132号　署名なし

　

　　　　　其一

　

　無慾を以て常性とせよ、今有るものを以て満足せよ、そは彼れ御自身曰ひ給ひたればなり「我れ必ず汝を離れず、我は決して汝を棄ず」と、然れば我等毅然として曰ふべし

　　　主我を助け給ふ、我に恐怖なし

　　　人、我に何をか為し得ん

と。希伯来書十三章五、六節、私訳。

　

　　　　　其二

　

　抑《そも／＼》足る事を知れる敬虔こそは大なる利益の道なれ、其は我等が世に来りし時何物をも携へざりしかば、去る時亦何物をも取る能はざるは疑なき所なればなり、衣食だにあらば、我等は其れにて満足すべし、蓋し富まんと欲する人々は、誘惑と悪魔の罠《わな》に陥り、人を堕落と滅亡とに沈むる、愚にして有害なる種々の慾望に陥る、即ち(183)利慾は一切の悪事の根なり、或人々は之が為に信仰に遠ざかりて迷ひ、多くの苦《くるしみ》を以て己を刺貫《さしつらぬ》けり。提摩太前書六章六−十節。ラゲ氏訳。

　

　　　　　其三

　

　我れ昔し年若くして今老ひたり、

　然れど義者の棄られ、其｜裔《すゑ》の糧《かて》を乞ひ歩《ある》くを見しことなし。詩篇第三十七篇五節。

　

　　　　　其四

　

　汝の孤児を遺《のこ》せ我れ之を生存《ながら》へしめん、汝の寡婦《やもめ》は我に倚頼《よりたの》むべし。耶利米亜記四十九章十一節。

　

(184)　　　　　教会とキリスト

　　　　　　　　明治44年7月10日『聖書之研究』132号　署名　内村鑑三

　

　我等はキリストを信ずるに方て教会のキリストを借り来て彼を信ずるのではない、キリストは教会の専有物ではない、彼は神の有《もの》であつて又人類の有である、恰かも大陽は一国又は一階級の専有物ではなくして、全世界全人類の有《もの》であると同然である、故に我等何人と雖も人として生れ来りし以上はキリストを我が救主として有つの権利を有す、彼に救はれんがために我等は教会に由るの必要はない、恰かも大陽に照らされんがために、我等は或る特別の所に往くの必要がないと同然である、我等はたゞ蒼《あを》き空天《そら》の下に立ち天を仰いで身を大陽の光線に曝《さ》らせば足りるのである、其如く我等キリストに救はれんと欲すれば我心を虚《むなし》うし、彼を仰ぎ瞻《み》れば其時直に救はれるのである、義の大陽なるキリストは何々教会と云ふやうな、其んな狭《せま》い穴の中からのみ覘《のぞ》くことの出来る者ではない、彼は宇宙丈けそれ丈け広くある、人と云ふ人にして彼に救はれんと欲して直接に彼に救はれない者は一人もない筈である、キリストを教会の中に探らんと欲する者、又教会を以てするにあらざれば人を救ふ能はずと思ふ者は、未だ神のキリスト、人類の救主、万物の復興者として彼を認めない者である。

　余輩の見る所を以てすればキリストは今尚ほ教会の捕虜として存し給ふ、斯く言ひてキリストは弱い者であると云ふのではない、教会が彼を自己の専有物である乎の如くに思ふて、彼の万民に其救主として受けらるゝこと(185)を妨げて居ると言ふのである、教会は今やキリストに関して、昔しパリサイの人々が神に関して為しゝが如くに為しつゝある、

　　汝等天国を人の前に閉ぢて自《みづ》から入らず、且つ入らんとする者の入るを許さず

と（馬太伝廿三の十三）、教会はキリストを己が専有物である乎の如くに思ふて自から其救ひに与かる能はず且又人が彼に由て救はるゝの妨害を為しつゝある　キリストの救拯《すくひ》をして万民に普及せしめんが為めには彼を教会の手より奪いまつるの必要がある、而してキリストを教会の俘囚《ふしう》より釈放《ときはな》つと云ふのは、彼の光を遮《さへぎ》る教会を取除《とりのぞ》くと云ふことである、而して教会を取除くと云ふのは人をして教会に由らずして直にキリストに到らしむることである、何にも教会を毀《こぼ》つの必要はない、教会の必要を認めなければ、それでキリストは教会の俘囚を脱し給ひて直に万民を照らし給ふのであ　。

　余輩の此言の決して過激の言でないことは西洋諸国に於ける基督教の状態を看れば善く判明《わか》る　西洋諸国に於ては基督教と基督教会とは同一物である、教会を離れて基督数あるなく、基督教とし云へば必ず教会の奉ずる宗教として認められて居る、故に彼国に於ては教会を去る者は必ず基督教を棄て、教会に反《そむ》く者は必ずキリストに反く、基督教会を離れても基督教が在ると云ふは、西洋諸国に於ては信者不信者共に信ぜざる所である〔基督教会〜傍点〕、故に多くの誠実なる人にして、教会に飽足《あきたら》ざるがためにキリストを去った者は沢山在る、詩人シエリーの如きが其著名なる者の一人である、彼は公然自から称して無神論者であると云ふた、然れども彼れと同時代の英国人にして彼れに優さりて正義を愛し、人道に忠実なる者はなかつた、彼の理想とせし所は全然イエスキリストのそれであつた、彼は武力に依らざる、無抵抗主義の上に立つ社会の建設を唱へた、彼の詩を読んで余輩は如何にしても無神(186)論者の詩を読むやうな心地がしない、然し彼は公然と言ふた「余は無神論者なり」と、而して英国の社会も又「無神詩人」として彼を認めた、実に歎ずべきの極とは此事である、キリストの心を最も深く解した人が自からも憚らずして無神論者であると唱へ、世も亦彼を無神論者と呼んだのである、天に在りて此事を視たまひしキリストは熱き涙を注ぎて泣き給ふたに相違ない〔天〜傍点〕。

　然しシエリーの如き場合は西洋諸国に於ては沢山に在る、米国に在ては教会には守銭奴と称《よ》ばれ、自身は其｜設立《たて》し孤児大学に教会の職員たる者の入るを許さなかつたスチーブン・ジラードが偉大なる人道の主唱者であり、愛と自由の実行者でありしことは曾て本誌に於て述べた通りである、又英国に於てはチャーレス・ブラツドローと云へば無神論者の巨魁として教会に蛇蝎視され、彼が選ばれて議会に入るや、議会は三回まで彼が無神論者たるの故を以て彼の議席を奪つた、然るに彼は奮闘｜弛《たゆ》まず、議会に彼の議席を維持したのみならず、議会をして終に彼の如き無神論者は聖書の上に手を置て憲法擁護を誓約するを要せず唯誠実を以て口に誓言すれば足るとの法律を通過せしめた、而して斯くも無神論のために奮闘した彼れブラッドローは如何なる人でありし乎と云ふに、貧者に対し、労働者に対し、殊に自己の敵に対し、キリストの熱愛と同情と宥恕とを懐いた人であつた、余輩は彼れブラッドローの伝記を読んで余輩も亦若し日本に生れずして英国に生れ、彼が英国の基督教会に扱はれしやうに余輩も扱はれしならば、余輩も亦ブラッドローと等しく無神論者となり、教会と其唱ふる基督教に対して奮闘したであらふと思ふ。

　其他トマス・ペインに就て、J・S・ミルに就て、哲学者スペンサーに就て、評論家フレデリック・ハリソンに就て余輩は茲に語らない、余輩は如何にしても彼等がイエスキリストの敵であるとは思へない、彼等がキリスト(187)に反《そむ》いたと云ふのは基督教会に反いたのである、若し基督教会なる者が無くして、其教義と教権とを以て彼等に迫ることが無つたならば彼等は疑ひもなくキリストの忠実なる僕であつたのである〔若〜傍点〕、教会は此世に於で多少の善を為したにもせよ、斯かる誠実仁愛の士を幾人となく無神論者として仕舞つたと云ふ事は実に償《つぐな》ふべからざる罪科《とが》である、而して是れ皆な教会と基督教とを同一視するより来る害毒である、若し二者を全然分離して仕舞へば此害毒は全然｜取除《とりのぞ》かるゝのである、何にも必しも今日在る所の教会を毀《こわ》して仕舞ふに及ばない、唯キリストの福音は宇宙の真理であつて、其真価は教会の有無に何の関係も無いことを認むるに至て、人は教会に反いてもキリストに反むかざるに至るのである、即ち物理学の言辞《ことば》を藉《か》りて言へば、福音を教会より遊離《リベレート》せしめて之を宇内の真理となすことが出来るのである、今の如くにキリストを教会の内に密閉して、多くの志士仁人は彼を知らずして止むのである、世に歎《なげ》かはしき事にして之に優さる者はない、然し是れ実際的に所謂基督教国に於て行はれつゝある事である。

　教会の害毒は又之を他の方面より観察することが出来る、教会は信者の結合を計るために必要であるとは職を教会に執る者の常に唱道する所であると雖も、事実は其正反対である、余輩の観る所を以てすれば教会ほど信者の一致和合を妨ぐる者はないのである〔教〜傍点〕、今や世界に存在する基督教会の数は六百以上〔四字右◎〕に達するとの事である、而して其、我国に移されし者も既に五十有余に達するとの事である、同一の主イエスを信ずる者が斯くも多数の教会に分れ、嫉視反目、以て相互を苦しめつゝあるとは聞くも恐ろしい事である、然し事実は掩ふべからずである、教会の数はレギヨンである（馬可伝五の九）、而して彼等の間に一致がない所ではない、見苦しき競争がある、犬猿も啻ならざる悪闘が行はれる。

(188)　茲に於てか今や頻りに教会合同が唱へらるゝのである、西洋に於て唱へらるる、日本に於て唱へらるゝ、去年英国エヂンボローに於て開かれし万国基督信者大会に於て全会の注意を惹起《ひきおこ》せし大問題は此間題でありしと云ふ、誠に教会の合同は信者に取りては最大の所望事《デシデラーツム》である、然し是れ果して行はれ得ることである乎〔然〜傍点〕、是れ大々的疑問である〔十字右○〕、使徒時代より連綿として継続し来りたりと自《みづ》から称する英国監督教会は果して之に反《そむ》いて起りしメソヂスト諸教会と合同し得る乎、カルビンの推理《ロジツク》より起りし長老派諸教会（我邦に在りては之を「日本基督教会」と称す）は果してルーテルの熱情より起りしルーテル教会と合同し得る乎、バプテスマの式に過大の価値《ねうち》を置く浸礼教会は果して此式を無用視する友会即ちクエーカー派と合同し得る乎、是れ大疑問である、今日まで斯かる合同の計劃されたる事は幾度もある、然かも何れも皆な失敗に終った事は教会歴史の能く証明する所である、縦し理想は失敗を恐れずして追求すべしとするも、教会合同は果して信者の理想であつて其｜迷景《ミラージ》にあらざる乎、縦し又合同は終に成る者と仮定するも、其今年又は明年、十年又は二十年の後に成る者でない事は何人が見ても明かである、縦し又合同は成つたとしても是れ主として教職間の職務的の合同であつて、信者間の心霊的の合同で無いことも、是れ亦察するに難くない、故に真正の合同は万一成るとするも、是れ我等の生存中に目撃し得らるることでないことは何人も承認する所である、然らば我等は未来の合同を期して（然かも当《あて》にならざる合同を期して）我等の分離を継続すべき乎、世は万事に於て迅速の進歩を為しつつあるに、キリストの弟子のみは百年の後を期して其一致を待つべきである乎、余輩は斯かる怠慢に耐ゆる事は出来ない、余輩は成功の望み甚だ薄き未来の合同を期して今日の分離競争、嫉視反目に耐ゆることは出来ない、余輩の生命は短かくある、余輩は今、今日、目前に、美果を味ひたく欲《ねが》ふ。

(189)　而して今直に一致の美果を味ふ事は難くないと思ふ、我等教会の合同を待て合同せんと欲するが故に合同が出来ないのである、若し〔我〜傍点〕教会を離れて〔六字右○〕合同せんと欲すれば合同は今直に成るのである〔合〜傍点〕、合同を妨ぐる者は勿論神でもなければ福音でもない、合同を妨ぐる者は人の作りし教会である〔合〜右○〕、故に教会を離れて神と自我とに還れば其時合同は直に成るのである、困難なるは信者の合同ではない、教会の合同である〔困〜傍点〕、而して教会の合同を待て合同せんと欲するが故に信者の合同は成らないのである、キリストの光を遮《さへぎ》る者は教会である、教会を離れてキリストを望めば人は教会に由らずして直にキリストに救はるゝのである、其如く、信者の合同を妨ぐる者は教会である、教会を離れて相互と合はんと欲すれば今日直に合ふ事が出来るのである、カーライルが彼の『衣裳哲学』に於て論ずるが如く、真個の一致は各自が独立の人と成る時に来る、人が自己以外の者に由て立たんと欲する時に分離と嫉争とは免れないのである。

　世に広い人と云ふは誰である乎、逆説の如くに聞こゆれども、広い人とは孤独の人である〔広〜右◎〕、我等の主イエスの如くに、身を寄するの教派もなく、保護を頼むの党派も無い人である、斯かる人に宇宙的の同情がある、人類的の愛心がある、党派の人に偉《え》らい人が無かつたではない、然し最も偉らい人は無党派の人である、教会の信者に善い人が無いではあるまい、然し最も善い人は教会の無い人である、エマソンの如き、カーライルの如き、ホイツトマンの如、一人を以てして数教会が為さんと欲して為す能はざるの大事業を為した人々はすべて政党にも属せず、教会にも属せざる人であった、而して真人〔二字右○〕は業を異にし説を異にし、人種を異にし、性質を異にしながら、すべて同一体である、我等合同せんと欲すれば、真人と成って今直に合同することが出来る、我等の教会を携《ひつさ》げて合同せんとするが故に我等の希望する合同は成らないのである、教会なる重荷《おもに》を放棄《なげす》て、天真有の儘の真(190)個の自我に成れば其時、完全なる合同は成るのである、而して、此外、別に合同は無いのである、真我を以てするより他の合同はすべて偽はりの合同である〔真〜右○〕、政略上の合同である、神とキリストに由る合同ではない、悪魔と政治家とに由る合同である、我等は教会を経由〔二字右○〕して合同せんとせずして、教会を離れ、神がキリストを以て各自に下し給ふ聖霊の天真を以て合同すべきである。

　

(191)　　　　　教会の必要

　　　　　　　　明治44年7月10日『聖書之研究』132号　署名なし

　

　若し教会が必要であると云ふならば、それは神に対し人に対して、我等の信仰を維持するために必要であるのではない、教会は教会に対して我等の主張を維持するために必要である、教会の必要を促す者は教会である、教会がなくなる時に教会は不必要になるのである。

　

(195)　　　　　〔海乎山乎　他〕

　　　　　　　　　明治44年8月10日『聖書之研究』133号　著名なし

　

　　　　　海乎山乎

　

　大量海の如しと云ふ、実《まこと》に海は広くある、然し其水は苦《にが》くある、其中に多くの怪獣は棲《す》む、芳《かうば》しと云ひ、清しと云ふ点より見て海は決して理想とすべき者でない、其点に於ては山間の細流は遙かに海洋に勝さる、清きは之を大海に於て求むべからず渓流に於て探るべきである、広き人は濁り狭き人は清し、稽《かんが》へざるべからず。

　

　　　　　断えず祈るべし　テサロニケ前書五章十七節

　

　断えず祈?の状態に於て在るべし、常に心を虚《むなし》うし、凡ての喜き物を神より求めんと欲する謙遜に居るべし、必しも時を定めて祈るに及ばず、高壇に立て天を仰で叫ぶを要せず、唯断えず祈るべし、出る時に祈るべし、入る時に祈るべし、友を訪ふ時に友誼的訪問の有効ならんことを祈るぺし、人に物を贈る時にその彼を益して害せざらんことを祈るぺし、我等の日々に為す小善の神の祝福の下に喜き果を結ばんことを祈るべし、轟々たる車中に祈るべし、森々たる樹下に祈るべし、筆を執る時、斧を振ふ時、鋤を手にする時に祈るべし、然り断えず祈る(196)べし、祈?を以て生命と為すべし。

　

(197)　　　　　神に助けらるゝ事

　　　　　　　　　明治44年8月10日『聖書之研究』133号　署名なし

　

　神に助けらるゝとは真実《まこと》に神に助けらるゝことである。

　神は霊であれば彼は直に吾人の霊に降り、霊的に吾人を助け給ふ、吾人に愛を賜ひ、智慧を賜ひ、義を賜ひて、吾人を衷《うち》に温《あた》ため、照らし、清め給ふ、此は神が吾人を助け給ふ独特の途であつて、物を離れ、人を離れて、彼が吾人を導き給ふ特殊の方法である。

　神は宇宙の主宰であれば、彼は宇宙万物を以て吾人を助け給ふ、或ひは風を吹かし、或は波を起し、或ひは洪水を下し、或ひは山を崩して吾人を助け給ふ、聖書に曰ふ、

　　星は其道を離れてシセラを攻む

と（土師記五章廿節）、神は時には人の手を藉《から》ずして、天然の力を以て吾人の敵を攻め、吾人彼に倚頼《よりたの》む者を助け給ふ。

　神は人類の王である、故に人類を使役して吾人を助け給ふ、義人を起し、聖人を遣《つか》はし、智者を送りて、吾人を醒まし、教へ、導き給ふ、彼は又悪人をして互に相争はしめて、彼等をして吾人に害を加ふること能はざらしめ給ふ、神に反《そむ》きし人類は智者の如くに見えて、実は迷羊の如き者であれば、彼は聖旨《みこゝろ》のまゝに彼等を統御し給(198)ひて吾人彼に信頼する者の最善を計り給ふ、内治も外交も政治も経済も人の為す事のやうに見えて、実は神の為し給ふ事である、人類の歴史は宇宙の運行と等しく人為的でない、神為的である、神は人の自由にすることの出来ない人事を以て、吾人彼の援助を待望《まちのぞ》む者を助け給ふ。

　斯くて神は、御自身を以てのみならず、天然を以て、又人を以て吾人を助け給ふ、神に助けらるゝと云ふのは、吾人が自身で自身を助くることではない、又人に助を乞ふことではない、神に助けられんと欲して吾人は自己にも依らず他人にも頼まない、吾人はたゞ神に祈る、而して神は友人を起し彼等を送り以て吾人を助け給ふ、故に神に助けられんと欲して、人に助けらるゝが如くに見ゆる事ありと雖も、実は人に助けらるゝのではない、神に助けらるゝのである、吾人は神の援助を齎らして吾人に臨みし人（之を称して友人〔二字傍点〕と云ふ）に謝するも、然かも彼よりも遙かに多く彼を吾人に送り給ひし神に謝するのである、斯くて神に倚頼む者は人に対しては全然独立である、吾人は声を大にして社会の同情を仰ぐを須《もち》ゐない、又は新聞紙に広告して世の注意を吾人の事業に惹くに及ばない、唯隠れたる所に独り静かに吾人の神に祈り、神の御注意を吾人に惹けばそれで足りるのである、即ちパウロの曰ひしが如し、

　　何事をも思ひ煩ふ勿れ、唯事々に祈り、願ひ、且つ感謝して己が求むる所を神に告げよ、然らば神より出て人のすべて思ふ所にすぐる平和は、汝等の心と意《おもひ》をキリストイエスに由りて守らんと（腓立比書四章六、七節）。

　

(199)　　　　　祈?の人

　　　　　　　　明治44年8月10日『聖書之研究』133号　署名なし

　

　祈?の人とは祈?をする人〔六字傍点〕ではない、祈?を以て事を為す人〔十字右○〕である、更らに進んで、祈?を以てするにあらざれば何事をも為す能はざる人である、祈?を以て学ぶ人である、祈?を以て働く人である、祈?を以て戦ふ人である、即ち自己の力を以てせずして神の能《ちから》を以て万事を為す人である。

　神の人モーセは祈?の人であつた、彼は大なる政治家であつた、然し政略を弄する今の所謂政治家ではなかった、彼は万事を神に問ふて、即ち祈?してイスラエルの民を治めた、彼は又大なる軍人であつた、然し自から陣に臨んで兵を指揮する軍人ではなかつた、神に祈り、神の能《ちから》を以て敵に勝たんとする軍人であつた。

　　時にアマレク来りてイスラエルとレピデムに於て戦ふ、モーセ、ヨシユアに言ひけるは、我等のために人を択み出てアマレクと戦へ、我れ神の杖を手に取りて小山の巓《いたゞき》に立たん、ヨシユア即ちモーセの己に言ひし如くに為しアマレクと戦ふ、モーセ、アロン及びホルは小山の巓に登れり、此所にモーセ手を挙ればイスラエル勝ち、手を垂るればアマレク勝てり、然るにモーセの手重くなりたればアロンとホル石を取りてモーセの下に置き、彼をして其上に坐せしめ、一人は此方《こなた》、一人は彼方《かなた》にありてモーセの手を支《さゝ》へたりしかば、其手日の入るまで垂下《さが》らざりき、茲に於でヨシユア刃《やいば》をもてアマレクと其民を破れり。出埃及記十七章八節以(200)下。

　茲に戦争は神の人の祈?を以て闘はれたのである、彼の祈?の弛《ゆる》む時に彼の味方は敗れ、其｜熱《ねつ》する時に彼等は勝つたのである、ヨシユアの刃《やいば》を以てゞはない、モーセの祈?を以てイスラエルの子孫《ひと／”＼》はアマレクの民に勝つたのである。

　　或人は戎車《いくさぐるま》を頼み、或人は騎馬に倚《たよ》る、

　　然れど我等は我神ヱホバの名を唱へん、

とイスラエルの詩人は謡ふた（詩篇廿篇七節）、正義の戦争は軍隊と軍艦とを以て闘はるべき者でない、神の人の熱誠の祈?を以て關はるべき者である。

　勿論祈?の人と云ふは人の面さへ見れば直に俯伏《ひれふ》して神に祈?せんとする今の所謂宗教家の如き者を云ふのではない、彼等は神に聴かれんと欲して祈るのではない、演劇的に人を動かさんと欲して哀《かな》しき声を揚げて?るのである、又祈?の人と云ふは、高壇の上に立ち「天地万物の造主なる真《まこと》の神よ」と叫びて神に対つて演説を試むる今の牧師、説教師を云ふのではない、彼等の祈?は神に聴かれんための祈?にあらずして、人に聞かれんための演説《えんぜつ》である、祈?の人とは泣《な》き号《さけ》ぶの外に術を知らざる無為無能の今の宗教家の類ではない、此等は祈?の人ではない、教会の傭人《やとひゞと》である。

　祈?の人とは祈?に実力あるを確認する人である、之に天地を動かすに足る実力の存することを信じて疑はない人である、宇宙の最大勢力の霊なる神であることを知り、霊の誠実を以て彼に到り、彼より超自然的の能力を仰がんと欲する者である、而して神は或人に此力を与へ給ふた、即ち宇宙の霊より天然以上の能力を求取《きうしゆ》するの(201)力を与へ給ふた、モーセの如き、エリヤの如きは斯かる人であつた、彼等は人類の中に在りて最も恵まれたる者であつた、彼等の祈?の力を藉《かり》るは万事の力を頼るよりも強くある、彼等は帝王が其手に握るすべての政権、財権、兵権を以てしても為す能はざる大なる事を為し得る者である。

　而して我等何人も亦神に祈求《もと》めて祈?の人となることが出来る、先づ自己《おのれ》を虚《むな》しうし、我れと我が所有とを悉く彼に献げ、彼をして我に代りて我が万事を主《つかさど》らしめまつりて、我は人のすべて思ふ所に過ぐる大にして奇《ふしぎ》なる能力《ちから》を我が衷に得て、天然以上、人為以上の大にして奇《ふしぎ》なる事を為すことが出来る、即ちイエスの宣べ給ひし

　　此｜桑樹《くはのき》に命じて「抜《ぬ》けて海に植《う》はれよ」と言ふとも汝等に従ふべし

との言を我身に於て実行することが出来る。路加伝十七章六節。

　

(202)　　　　　我れ病める時に

　　　　　　　　明治44年8月10日『聖書之研究』133号　署名なし

　

　我れ病める時に我は治癒の普通の手段を取る、我は普通の摂生法を講ずる、止むを得ざる場合には医師の診察を乞ふ、我は絶対的に薬品と医師とを拒まない、我は神に感謝して、薬を飲み、医術を受くる。

　然し茲に止まらない、我は更らに進んで我れが病に罹りし其道徳的理由を探求する〔我〜右○〕、そは疾病は其一面に於ては確かに罪の結果であるからである、或ひは我れ一人の犯したる罪の結果ではないかも知れない、或ひは父母の罪或ひは祖父母の罪、又或ひは隣人即ち社会の罪の結果であるかも知れない、乍然、疾病を罪より離して見ることは出来ない〔疾〜傍点〕、故に疾病を癒さんと欲して、医術と薬品と丈けでは足りない、罪の結果なる疾病を根本的に癒さんと欲すれば、其源因たる罪を探り、之を発見し、之を悔ひ、之を神に赦されなければならない〔結〜右○〕。

　故に我れ病める時に我は静かに自己に顧みる、我が行為か思惟かの中に、何にか神の此恩恵的注意を催《うなが》せし罪はなき乎と、而して斯かる探求を行って、我は其目的を達しない事はないのである、神は必ず我に我が疾病を招きし理由を示し給ふ、而して我は之を示されて、神の前に我が罪を悔ひ、之を赦され、心に大なる平和を得て、我が疾病は治癒の途に就き、我は終に全く癒されて、心も身と共に新たになり、茲に又新たなる生涯を始むるのである。

(203)　イエスが常に病者に対《むか》つて

　　汝若し信ずる事を得ば信ずる者に於ては為し能はざる事なし

と曰ひて、先づ彼をして信ぜしめて然る後に彼を癒し給ひたりと記《しる》してあるは此事を意《い》ふのであると思ふ、「信ずる」とはイエスは必ず癒すことが出来ると信ずることのみではない、「信ずる」と云ふ事の中に多くの他の事が籠つて居る、「信ずる」の中に罪の探求がある、其悔改がある、其赦免がある、而して是等の順序を経て後にイエスの大能を信ずるならば、疾病は必ず癒されると云ふ事である、「信ずる」と云ふ事を単にイエスの治療的可能力を信ずることに限るが故に、之を信ずるの困難があり、随て治癒の恩恵に与る事が出来ないのである、乍然「信ずる」を狭き意義に解せず広き意義に解して、即ち、其中に、内省、悔改、赦免を含《ふく》ませて、「信ずる」に由て疾病を癒さるゝの理由が明白になるのである。

　斯くて我れ病める時に我は我神に近づくのである、而して大抵の場合に於ては斯の如くに為して我が病は癒さるゝのである、然し万一我れ我が罪を悔ゆるも我が疾病の癒さるゝ事なくば如何、我れは其れでも満足するのである、真正の悔改は強いて報賞を要求しない、彼は曰ふ「若し聖旨《みこゝろ》に適《かな》はゞ我を癒し給へ」と、我は我が罪の多きを知るが故に、如何なる苦痛も猶ほ以て之を償ふに足りない事を知るのである、而して斯くの如くに自己を神の前に謙下《へりくた》して、我は我が疾病を以てすら満足、感謝するに至るのである、我が罹りし疾病は我に此自覚を起して、神が之を我に遣《おく》り給ひし其目的はすべて達せられたのである、此｜福《さいは》ひなる自覚起りて後は、疾病は癒えても、癒えないでも我は多く之に意を留めないのである、而して大抵の場合に於ては斯かる自覚の起りし以上は、神は其れと同時に肉体の病疾を癒し給ふなれども、或る他の場合に於ては恩恵は霊の大なる平和に止まり、彼は之を(204)以つて我をして肉の病疾に勝たしめ給ふのである、何時《いつ》か一度は朽つべき肉体、神が今之を腐朽に還らしめ給ふと雖も我は歎《なげ》かないのである、「我が恩恵汝に足る」である、神御自身は肉体の健康に優さる大なる恩賜《たまもの》である。

　

(205)　　　　　神の全智全能に就て

　　　　　　　　明治44年8月10日『聖書之研究』133号　署名なし

　

　神は全智全能であると云ふ、誠に其通りである、然し全智全能と云ふは、神は御自身、独りで全智全能であり給ふと云ふことではない、斯かる全智全能は虚偽の全智全能であつて、神の全智全能でない事は言ふまでもない、真正《ほんとう》の全智全能は一人丈けで全智全能であることではない、すべての人にすべての智識を与へ、すべての能力《ちから》を供し得る全智全能でなくてはならない。

　而して神の全智全能は斯かる全智全能である、使徒ヤコブの言を以て曰へば神は

　　咎《とが》むることなく惜むことなくして、凡ての人に与ふる

者である（雅各書一の五）、神は此世の貴族や富豪の如き者ではない、即ち独り有して独り誇る者ではない、彼は自己に大能を有して之をすべての人に頒《わか》たんと欲し給ふ者である、神の全智は今時《いま》の博士等の博識の如き者でない、即ち之を以て誇りとなし、独り社会の上位に立ちて其尊敬を求めんと欲する者でない、神の全智は万民のための全智である、彼が之を以てすべての幽暗を照らし、彼等を導きて彼れ御自身の如くに成らしめんと欲し給ふための全智である。

　此世の事を以て神を判断し易き此世の人等は神の大能と聞けば、唯遠くより彼を畏敬する丈けであつて、自《みづ》か(206)ら進んで其大能の分配に与からんとしない、彼等が神の大能を見ること、此世の貴族や富豪の邸宅を見るが如くである、即ち、彼等は之を全然他人の所有《もの》と見做し、到底自身等の分配に与かることの出来る者でないと思ふ、然し神は人ではない、彼は貴族の大なる者、又は富豪の雄なる者ではない、彼は父である、人類を造り、之を父の心を以て愛し給ふ者である。

　故に父なる神は御自身の全能をすべての人に頒《わか》ち与へんと欲し給ふ、彼の造り給ひし此小さき地球ですら殆んど能力《ちから》の無尽蔵である、人が之を開発し、之を使用するは彼の最も喜び給ふ所である、然し神の造化は此小さき地球に止まらない、地球以外、エーテルの充ち盈つる所にドレ丈けの能力が貯へられてあるか、吾人の予想する事すら出来ない所である、人類が物質的宇宙に貯へられたる神の大能を使ひ尽す時は未だ幾億万年の後であるか判分《わか》らない。

　然し神の大能の分与に与からんと欲して何にも必しも地球以外に出で、或ひは又独り全地球を占領するに及ばない、神の大能は彼の造り給ひし物よりも、彼れ御自身に於てより〔二字傍点〕多く実在する、我等は彼れ御自身より直に其大能の自由なる御分配に与かることが出来る、人が人たるの特権は茲に在る、彼は彼の霊を通して、霊なる神よりすべて〔三字右○〕の能力の御分配に与ることが出来る、何にも必しも信仰の能力に限らない、病疾を癒す能力をも、必需の糧を得る能力をも、其他我等の要するすべての他の能力をも直に神より戴《いたゞ》くことが出来る。

　我等は「全智全能の神」と唯｜口僻《くちぐせ》に唱へてはならない、我等は実《まこと》に誠に斯かる神の在し給ふ事と信じ、実に誠に彼に倚り奉り、実に誠に其無限の智慧と能力との御分配に与からなければならない、是れが神を信ずるの真実《まこと》の途である、神は人類が斯の如くに彼を信ぜんことを欲し給ふ、我等は此世の多くの人が為すが如くに、唯徒(207)らに、交際の道具として神を信ずると称して基督教に「帰依」してはならない。

　

(208)　　　　　万全のキリスト

　　　　　　　　明治44年8月10日『聖書之研究』133号　署名なし

　

　キリストは万物を以て万物を満たしむる者なりと云ふ（以弗所書一章廿三節）、彼は又万物の上に在り又万物の中に在りと云ふ（哥羅西書三章十一節）、即ちキリストは人類、殊に信者の万事万物であると云ふ、キリストを有《もつ》て我等は万物を有つのである、我等は彼を信じて単に我等の霊魂を救はらるゝのではない、彼に由りて父なる神より万物を賜はるの資格を得るのである、故にパウロは曰ふ、

　　己れの子を惜まずして我等すべてのために之を附《わた》せる者は、などか彼れに添へて万物をも我等に賜はざらん乎

と（羅馬書八の卅二）、信者に取りてはキリストを賜はりて、他に何も要らないのである。

　然るに多くの信者は此事を認めない、彼等はキリストを信ずると称しながら彼れ一人を以て満足する能はず、彼れ以外に救者《すくひて》を求めて止まない、彼等はキリストを宗教的崇拝物として崇め奉まつるに止つて、彼より万物を仰いで其万全なる救に与からんとしない、彼等は精神療法と唱へて、キリストに依らざる信仰的治療を施されんとする、彼等はキリストを以て足らずとなし、此世の聖人賢人を呼び来つて彼れ（キリスト）の欠を補はしめんとする、彼等はキリストより要求する所が甚だ尠ない、彼等はキリストを信ずると称しながら如何なる救主〔六右○〕を信じ(209)たるかを知らない。

　　夫れ神の充ち足れる徳（能力）は形体をなしてキリストに住めり

とあるに関はらず（コロサイ書二の九）、彼等は神徳をキリスト以外の人に於て求めんとする、斯くなすは勿論彼等の自由なりと雖も、然れども是れキリストを侮辱するにあらざれば、少くとも彼を軽視するの行為であると言はざるを得ない、キリストは勿論強いて人に役《つかは》れんと欲し給はない、乍然、天の恩恵のすべてを身に体して世に臨み給ひし彼は、人が彼の大能を認めて、充分に彼の援助に与からん事を欲し給ふ。

　余輩はキリストを知らざる此世の人等が巫術、法術、魔術等、（但以理書二の二参考）福音以外の救済法を試むるを怪まない、余輩が唯｜奇《ふし》ぎに感ずるのは、神の子イエスを救主として仰ぐ者（実は仰ぐと称する者〔四字傍点〕）が彼を以て足れりと為さずして、此世の流行に習ひ、彼れ以外の者に救済《すくひ》を頼むことである、旧約の預言者の左の言は彼等の如き者を誡めたるものであると思ふ、

　　世に言へるあり、人若し其妻を出さんに、彼女去り行きて他の人の妻とならば、其｜夫《をつと》再たび彼女に帰るべけんや、……汝は多くの者と姦淫を行へり、然れど汝我に帰れよとヱホバ曰ひ給ふ、（耶利米亜記三章一節）。

　

(210)　　　　　三個の駄目

　　　　　　　　明治44年8月10日『聖書之研究』133号　署名なし

　

　基督教でなければ駄目である、外国伝来の教会の基督教では駄目である、神御自身が日本人の中より起し給ひし基督教でなければ駄目である、而して神は今や此国を恵み給ひて、此国自生の多くのイエスの弟子を起し給ひつゝある、実に感謝すべき事である。

　

(211)　　　　　聖書研究の話

　　　　　　　　（四月十一日夜長崎メソヂスト教会に於て）

　　　　　　　　明治44年8月10日『聖書之研究』133号　署名　内村鑑三　述　教友三氏筆記

　

　私は此度休養かた／”＼当地にある友人を訪はむが為めに初めて此長崎に参りました、かねていろ／＼と想像いたして居りましたが参つて見ますと事々に私の感興を惹くものが多くあります、第一には周囲の景色と草木とであります、先づ到着しました翌朝友人の家から四方の山々を見ますると、東京あたりはまだ花ばかりでありますが、こちらには何れの山も各種の草木殊に樟樹が青々と新芽をふいて居りますのは誠に心地のよいものでありまして、これに由て直ちに考へ及びまするは此草木が伝へる所の歴史であります、夫の和蘭人であり瑞典人であり独逸人でありまするケムペル、ツンベルグ、シーボルト（Kaempfer,Thunberg,von Siebold）等の人々によりて採集せられ、研究せられ、日本の植物として最初世界に紹介せられましたのは此長崎附近の山野に生長する草木でありました、又市中に出まして目につきますのは此地の魚類であります、私は早くより此の研究が好きでありましたが、我日本の動物として初めて世界の学界に提出されましたのは実に是等此地の魚類でありまして、シーボルト氏が之を蒐集して欧州に送り、之を当時の碩学でありましたテミンクやシレーゲル氏等が（Temminck,Schlegel）研究致しまして「ファウナ、ジャポニカ」（Fauna Japonica）といふ日本の動物に関する最初の大著述が出版され(212)たのであります、私共明治の初年に教育を受けましたものは、先づ是等諸氏の研究したる長崎附近の動植物に付て学むだのであります、今是等の草木や魚類に対しまして、恰かも旧き先生、旧き友人に出会したるの思が致しました、次に此土地が私に深き感慨を与へますものは宗教に関する事で、即ち此地の基督教の歴史であります、或西洋人が長崎を以て日本の金門《ゴールデンゲート》と呼びましたが私も「城《しろ》の古址《こし》」に上り西の方港口を望みまして最初の西洋の文物が皆あの二つの岬の間より日本に入り来りたる事を思ひ実にこれが我国の金門《ゴールデンゲート》であつたと感じました、今日も雨の中を浦上《うらかみ》まで参りまして山の上に立って居る十字架を望むで、最初に此国に此教を伝へた人と之を受けたる人々とを追懐致しまして思はず帽を取つて敬意を表して参りました、此の如く此土地に付ては多くの感が湧いて参りますが私が年来其の研究に従事して居りまする聖書も亦此金門を経て初めて此国に入りました事を思ひ之を今晩の題目として少しく其研究に付いて語りたいと存じます。

　聖書の研究に付て御話致します前に信者の方には既によく御承知の事でありますが、先づ聖書の何物であるかについて述べませう、聖書は基督信者が経典と致しまして無上の価値を置くものでありまして、其如何なるものであるかは一読しなければわかりませぬが、しかし未だ読まぬ人にでも如何なる価値〔六字右○〕のあるものかは之を知る事が出来ると思ひます、先づ第一に此世に於て何が最も貴いかと申しまするに、それは書物である〔八字右○〕といふ事は誰れも承認する処であると思ひます、或は当地に於て製造せらるゝかの壮大なる汽船であるとか、軍艦であるとか、或は陸上に於て便利を私共に供しまする汽車及び之等を動かす蒸気力、電気力などの事を見まして、此世に於て最も大切なるものは書物でなくして他にあると思ふものがあるかも知れませぬが、併し若し人間が人間でありまする以上は其最も貴しとする処は書物でなくてはなりませぬ、カーライルが彼の『英雄崇拝論』の中に曰て居り(213)まするに、英国に取りて最も大切なるものはシエークスビヤの戯曲《ドラマ》である、英国は印度帝国を失ふもシエークスビヤ全集を失ふてはならぬ、それは印度全国を失ふても英国は滅びる事はないが、シエークスピヤなくして今日の英国は存立する事は出来ないと、実にさうであります、今日世界の五分の一乃至四分の一を占むるに至れる英民族を教育して今日あらしめたものは実にシエークスピヤの戯曲である事は何人も疑はない所であります、人間に貴いものがありとすれば其れは其思想であります、此の思想を結晶して僅か二つの表紙の間に納めたる書物こそは実に人の有ち得る最も貴いものと云はざるを得ませぬ、さて書物が最も貴いものであるとして然らば此世界にある多くの書物の中でどの書物が最も貴いものであるか、此問題に対して世界の輿論は疑ひもなく一つの本に一致して居るのであります、昨年でありましたか一昨年でありましたか、東京の時事新報社が広く世の名士に書を寄せて各の読むだ書物の内、最も価値ありと思ひ有益なりと信ずるもの三十種を挙げてくれとの事でありまして私の処にもそれが参りました、其募集の結果を統計に作つたものを見ますると、日本の読書家が認めて以て最も大切なりとするものは、第一に論語でありました、これは如何にもさもあるべき事と思ひます、其次第二第三は忘れましたが第四番目か五番目にダーウヰンの進化論がありました、而して第七番目が新約聖書〔四字右○〕でありました、これは注目すべき事であります、先づ基督教国でない我国に於てしかも基督教が我上流社会に於て甚だ歓迎せられざる事を思ひ、殊に時事新報といふ新聞が最も物質主義の新聞として知られてゐる事を思ひますと、此新聞が其読者の為めになしたる催に於て聖書が書物の第七位〔九字傍点〕に置かれたといふ事は著しい事といはねばなりませぬ、以上は時事新報読者の輿論であるとしまして、さて之を日本社会全体に問ふたならば如何でありませうか、或はもう少し上の方に聖書を置くかも知れませぬ、それなれば世界の輿論〔五字傍点〕は如何でありませうか、仝じ事を英国(214)の社会に問ふたならば如何でありませう、或は仏蘭西や独逸の社界に問ふたならば如何でありませう、先頃英国のルートレッジ出版会社に於て、今や世に多くの本があつて読者は往々其撰択に迷ふが故にどうか人類として最善の智識を得べく、以て読書の標準となすべき様の書籍一百部を撰びたいとの計画がありまして、其書物の撰択は之を英国第一流の学者に請ふ事になりました、而して此撰に当った人はサー・ジヨン・ラボツク氏でありました、氏は銀行家であつて、博物学者であり、最も常識に富むだ人と云はれ、又国会議員として盛名ある人であります、そして注目すべきは此人が宗教に対しては寧ろ冷淡なる人である事であります、さて此ラボツク氏がルートレツジ会社の為めに撰むだ百冊の本の第一番に何を置たかと申しまするに、博物学者の事でありますからダーウヰンの原種論でもあげるかと思ひまするに、此宗教に冷淡なる博物学者なる銀行家なる彼は第一には論もなく聖書《バイブル》と記さざるを得ませぬでした、其外百冊の内には論語もあり、孟子もあり、ダーウヰンの原種論もダンテの神曲もシエークスピヤの戯曲の二三もあつたと覚えます、然しラボツク氏に限りません、西洋諸国に於て思考《かんがへ》のある人に尋ねましたならば誰れしも第一に此聖書を〔七字右○〕置くのは動かすべからざる事実であります、しかし乍ら第二以下になりますと人々によりて千差万別であります、之を以て見ても欧米に於て聖書が如何なる価値を置かれてあるかを知る事が出来ます、現今世界に於て出版される書籍の数は実に多くありまして、数年前の統計によりて見ますると一ケ年問に約二万の新刊書があるとの事であります、グラツドストーン氏は最も多く本を読むだ人として知られて居りますが、氏の死後氏が目を通してしるし〔三字傍点〕を付けた本を調べましたら約二万部あつたとの事であります、さうして見ますとグ氏の大頭脳と大精力を以てして一生涯に世界に於て僅かに一ケ年間に出版する本に漸く目を通す事が出来るのであります、グ氏にしてさうであります、私共に於きましてはたとへ生涯に他の何(215)等の仕事をなす事なく、専ら読書にのみ耽りました処で一生の間に読破し得る処は之を世界に存する書籍の多きに比して誠に微少なるものと云はざるを得ませぬ、茲に於て私共は少数のよき書籍を撰択して之を読む事を以て満足しなけばなりませぬ、然らば｜我が本《マイブツク》として何を撰ぶべきか、若くは生涯「一書の人」として只一冊の本を撰むで読むのでありましたならば何れの本を取るべきでありませうか、世界の輿論が以て書籍中の第一位に置く処の此聖書を撰ぶは自然の順序と云はざるを得ませぬ〔世〜傍点〕。

　聖書を識るといふ事は単に信仰を養ふといふ事の外に世界の知識に接する〔世〜右○〕といふ上よりして我等は是非共之を研究しなければならぬのであります、斯く申しますと、夫れは外国ではさうであらふが日本ではさうは行かないと申す人があるかも知れませぬが、然しながら事実は今日の日本に於て聖書が論語よりも、孟子よりも多数に発行せられ読まれて居る事を示します、横浜の聖書出版会社に参りますと大きな印刷機を並べて大小各種の聖書を印刷して居りますが、刷つても刷つても尚足りませぬ、年中此同じ本を印刷して居ります、私は他に年々只一種の本のみを印刷して居る印刷所のある事を知りませぬ、何処に年中論語のみ若くは経文のみを印刷し居る大印刷所がありますか、此一事を以てしても聖書が我国に於て多く弘まりつゝあり読まれつゝある事を知る事が出来ます、さう申しますと或人は、それは人が聖書を買つて読むのではなくて、宣教師が無代《たゞ》で呉れてやるから其様に多数に印刷されるのである、施本に用ひられるからであると申します、然し乍ら事実はさうでありませぬ、現に私は宣教師から聖書を貰ひませぬ、私の同志の人もさうであります、又私は人に聖書をやりませぬ、それは人は金を出して買った本は読みますが、只で貰つた本は決して読む者でない事を知つて居るからであります、私も私の極く親しくしてゐる友人で、又此の本を愛する人で、彼の大切な機会、例へば結婚の祝など時に之を贈る事は(216)致しますが、妄りに他人に之を施与した事はありませぬ、又も一つの話は曩きに東京で聖書改訳事業が企てられました時に、私も之に携はつて居りましたが之を聞いて其出版の権利を得たいと云つて東京は素より大坂神戸あたりの本屋までが先を争ふて申込むで参りまして数千円の出資の約束は直ちに成つたのであります、殊に奇妙な事には彼等が其版権は之を子々孫々に伝へる様にしたいと云つて来た事であります、商人なる彼等が改訳聖書の出版に着目するのは即ち聖書が日本に於てもよく売れる本であり、又永久すたらぬ本である事をよく知つて居るからでありまして又以て現今の日本にも聖書が多く読まれる大なる証拠であります、即ち聖書は今日とても我国に於て日々に第一の本となりつゝあるのであります、前申しました時事新報の投票では第七位でありましたる聖書が今後五十年を経ずして必らず日本人の読む書籍の第一位に置かるゝに至ると想像するは甚だしく当を失した言葉でないと思ひます。

　然るに世にはこの聖書を嘲るものが常にあるのであります、七八年前中江兆民先生が生前の遺稿として『一年有半』並に『続一年有半』を著はして、無神無霊魂論を唱へました時は天下の人心靡然として之に赴くといふ風で発売部数約七万、当時かくの如く多く売れた本はなかつたさうであります、何でも二年間位は版を重ねて売れたさうでありますが、然るに此本が其後すつかり影をかくしてしまひまして今日では最早何れの本屋に尋ねても之を求める事は出来ませず却て場末の古本屋あたりで安くて手に入れる事が出来るといふ風であります、又先頃不幸の死を遂げました幸徳秋水氏の『基督抹殺論』といふのが同氏死後に其紀念として出版せられ、私も嘗て同氏と朝報社で机を並べて居りました縁故を以て其一部を贈られました、これも甚く聖書を謗り嘲り之を其根底より覆さんと試みたものであります、私はこの本を一見致しました時に考へました、此本も亦一二年ならずし(217)て滅び、さうして聖書は相変らず益々盛に行はれるのであらふと、かく聖書を仆さんと試みたものは古来多くありました、しかし其終は皆同様でありまして聖書は常に活きて居るのであります、是を以ても聖書の価値の何たるかは略ぼ明かであると思ひます、既に申ました如く人類の持つ者で最も貴いものが書籍であつて、而して書籍の内の最も貴いものが聖書であると致しますれば〔人〜傍点〕、聖書は世界中凡てに優りて貴いものと云はねばなりますぬ〔聖〜右○〕、かくも古往今来世界の輿論が貴き価値を置く処の聖書でありますれば私共思想を有する人間として先づ探るべきの本であります、ダンテやイブセンやニーチェの書を研究するが為めのみに其書かれました困難なる伊太利語やスカンデナビヤ語や独逸語を学ぶ人も尠くないのでありますれば、私共此聖書の研究の為めには一生の精力を費すも尚足らざるを覚ゆるのであります、殊に基督信者として立つ者に取りて其研究の必要なるは只当然の事といふべきのみであります。

　然らば此大切なる聖書の研究は容易なる者である乎と云ひまするに決して爾うではありませぬ、其書かれましたのは廿世紀の日本人たる我等の為めに書かれたのではありませぬ、近くとも千八百年前亜細亜洲の西端パレスチナ、若くは其附近に於て我等とは性質、思想、境遇を異にせる当時のユダヤ民族、希臘民族、若くは羅馬人の為に其国語を以て書かれたものであります、我国の古事記は千三百年前に書かれたものであると云ふ事であり、万葉集も之に比して古いものではありませぬが、此両者が今日の我等に取りて難解の書である事を思ひますれば、我等との関係更らに遠き人によりて書かれし此聖書が之を解して其真意を汲まん事の容易でない事は略ぼ推し得られるのであります、之を学ぶには先づ之を書きし人と之を与へられし読者の周囲と其の内部の状態を明かにし其思想と言語とを究めてそれが果して何を伝へるものであるかを静かに考へ冷かに判断しなければなりませぬ、(218)即ち一言以て之を言ひますれば、私共は先づ学者の態度を以て之に臨まなければなりませぬ〔私〜右○〕、信者の間には聖書は神の御詞であるが故に誰にでも直にわかるものであると考へる人々もあります、其熱心は諒すべきでありますが併し之は誤まれる考であると云はねばなりませぬ、由来宗教は人の情に訴へる事の強きものであり、宗教家といふものは至つて拗《ネツ》いものでありますが故に聖書を読むに此学者の態度を取る事が困難でありまして兎角或る既定の思想を以て之に臨み知らず識らずある一定の結論に持て行かふとするのであります、例へば聖書は神の言葉であるといふ意義を高調して遂に其の一字一句誤謬のないものであると唱へるが如きも其一つであります、それで甲が或説を唱へますと乙も亦己の見方を以て聖書を解し、丙は又我教会の主張に忠ならんとして他様に之を解するといふが如く、其結果一の聖書が種々なる意義を以て読まるゝに至るのであります、故に私共読書の真意を学ばむとするものは宗派の教義や既定の思想を去り学者の態度を以て先づ聖書それ自身は何を教ふるか、パウロやヨハネやペテロは其内に何を説きしかを研究し、それが果し真理なるや否や、我等之を信ずべきや否やは然る後に考へねばなりませぬ、斯の如くにして研究致しますると聖書は是迄の読方を以てしたるに比して全く新しき本となつて私共の前に現はれ私共は多くの新しき真理を之より学ぶのみならず今迄の如く多くの説の間に存する差異が甚だ少くなって来るのであります、例へば近頃屡々講壇の上より唱へられます所をきゝますと、或は文明の宗教は此世を離れて、霊魂とか天国とかをのみ説くべきものにあらず、基督教は実に此現世を救ひ、世道人心を正ふし、大に社会の改良を行はむが為めに此世に送られたるものであるといふ様な事を承りますのであります、此説は甚　尤と耳を傾くべき説でありまして或は真理であるかも知れませぬが、併し乍ら聖書は此事に就て何を教ふるかは又別の問題であります、或は其反対が使徒等の語る所であるかも知れませぬ、私の研究しました所(219)によりますると、聖書は凡ての価値を現世に置かずして天国に置くものである、此世を改良する事を説かずして反対に基督の再び来り給ふ時迄此世は聖化される者でない、彼を信ずるものは此罪の世にありて其時に至る迄基督の証人として立つものであると告げて居ります、此意味を以て聖書を読みますと其多くの点が明白になつて参ります、然るに之を現世的、倫理的に解せんとして聖書を読みますと其内に不用なるもの、寧ろ障害となるものが多くあるのであります、五つのパンを以て五千人を養ふたる事や、又は復活、昇天、再臨、そんな事は皆無用でありまして之を其時代の思想として何とか説明し去らなければなりませぬ、今日新神学なるものが世に現はれましたのも此聖書の内の奇蹟的分子を除いて倫理的分子のみを残し以て基督教を現世に通用するものになさむと云ふが其の動機の一であります、さりながら聖書そのものに就て果して左様であるか否やを研究致しますと其何を教ふるものであるかゞわかるのであります、例へばかの山上の垂訓と知られて居る者は第一に「心の貧しきものは福なり」といひ、又「義しき事の為めに責めらるゝものは福なり」と申して居ります、之だけなれば世の道徳と甚だ異る所はなく、随て之に裁て誰も申分はありませぬ、只これ等毎句の次に付け句があります、即「心の貧しきものは福なり何となれば神の国は其人のものなればなり〔何〜右○〕」、「義しき事の為めに責めらるゝものは福なり何となれば神の国は即其人のものなればなり〔何〜右○〕」、此第二句神の国は〔四字右○〕云々が、之が聖書の特徴でありまして、即ち基督教が其道徳の基礎の置き処を此世以外に移して居るといぶ事を示すものであります、又黙示録によりますに「われ必らず速かに至らむ」といひ、「アメン、主イエスよ、来り給へ」とある基督再臨の思想の如き是又聖書が大胆に唱へるところであります、之等来世的の観念が善いものか悪いものかは別としまして、兎に角聖書を一貫して居りますものは是等他界的の観念〔六字右○〕であります事は実に泰西に於ける不信者なる聖書学者も亦之を唱ふ(220)る所でありまして、彼等は聖書の主として説く処は来世の事であって此世の改良の如きは第二位第三位に置くのであるといふ事を立証するのであります、次に肉体の復活〔五字右○〕といふ事があります　之も亦邪魔物でありまして往々人々が如何様にか説明し去らむと試みるものであります、去り乍ら此不公平なる此苦痛の余りに多き人世に在て私共に真正の深き慰安を与へるものにして此復活の思想の如きはありませぬ、私共之を除かむとして聖書の最も重要なる柱石の一を除かむとするのであります、新約聖書の三分の二を占むる保羅の書翰は彼がダマスコ途上復活せる基督に出会つたといふ事実を以て基礎観念となして居ります、之を取り去つて彼の基督論は崩れてしまふのであります、復活が真理であるか又は誤謬であるかは別問題として、只一つ明瞭なる事は此事を以てせずして聖書を解する事が出来ない事であります、或はこれ今日の我等に無用であるかは知れずとするも聖書記者が此事に大なる重きを置いた一事は何人も拒む能はざる所でありまして、我等は先づ身を其著者の境に於て之を読むの必要があります、かくして著者の真意がわかりましたならば、それが果して真理であるか又其教ふる所が実に今日の私共が要求する所のものであるか如何といふ事は之を我等の実験に照らして悟るべきであります、私共は往々無用であると思ふものゝうちに非常に貴いものゝ存する事を発見するのであります、来世観のない宗教が私共を慰むるに足りますか、又其宗教が力あるものでありませうか、基督教の来世観は啻に聖書記者が高調して語るところであるのみならず、現今の社会思想が又此来世観と密接なる関係を保つといふ事に就て一つの面白い話しがあります、米国紐育市の株式取引所に永年理事を勤めたる老人某が申しましたに

　　取引所は昔も今も変らないが変ったのは之に出入する人である、往年人の心に尚来世の観念が強かつた時分には人の信用が盛であつたなれども、今や此の観念が薄らぐと共に信用が減じて取引が不確《ふたしか》なものとなりつ(221)ゝある

と、此話は今日欧米の社会思想が来世観の欠乏の為めに其根底を危くされつゝある事を説明するものであります、元来倫理思想の動機は誤りなき正義の裁判を受くるといふ自覚より発するものでありまして、未来の観念を取り除いて強き道徳の根本は失せるのであります、今日の我国に於ては「未だ生を識らず奚ぞ死を識らむや」で未来の観念は至つて軽視されて居るのでありますが、未来なき道徳が果して国民を救ひ得るか否や、此問題に対して歴史の答ふるところは明白であります、英米の歴史より清教徒《ピユリタン》を取去つたならば私共は其最良の部分を取去るのであります、今日の商業道徳の最も高いとして知られてある英国を生むだものは実にかの清教徒でありました、而してかの清教徒なるものは其来世ある事を信ずる事、我等が明日ある事を信ずるが如くでありました、これあるが故にかのクロンウエルやミルトンが為したるが如き深刻なる社会運動、根本的の革命が起り得るのでありまして、だうしても此の来世観なしに世界を其根本より動かす処の力は来らないのであります、爰に於てか聖書が深く未来に付て語るの理由を解する事が出来、又此事を教ふる其事が聖書の聖書たる所以である事を知るのであります、尚又復活〔二字右○〕の事に就て十分に述ぶるの時間がありませぬが、之を信者の自覚に訴へて見て彼が真の力ある慰藉を要求する時に之に応ずるものは此復活の信仰である事が判明《わか》ります、「神は愛なり」と申しましても此復活の信仰なしに真の希望は生じませぬ、私は復活を科学的に説明することは出来ませぬが、私が大なる苦痛に際会します時に私を慰め私に希望を供するものは此復活の信仰であります、斯の如く聖書の教ふるところ、或は来世といひ、或は復活といひ、一見我等の理性に逆らふ如くでありますが、之に最も貴重なる真理のあるを見ますると、聖書記者の語るところ実に我々の最も切に要求するものである事を知る事が出来ます、故に我々は先づ学者(222)の態度を以て公平に聖書を読み、其教ふる処の何たるかを解して而して時に至つて其与ふる慰藉希望及び其潔めの働きが我等のものとせられむ事を待つべきであります、聖書は真理の大なる宝庫でありまして、私共一時に之を取出す事は出来ませぬが次第々々に必要に応じて之を受くべきであります、又教会などいろ／＼に別れて居りましても此聖書の思想を知らむとする一事に於ては彼等は皆な一致する事が出来ると信じますれば、此長崎の地に於ても各教会の教師方が主唱せられて、聖書倶楽部〔五字右○〕といふ様なものを起されまして、此聖書の研究が此地にも起らむ事を希望するのであります。

　私は茲に十一年間『聖書之研究』と云ふ雑誌の発行に従事して居ります、其目的は外ではなく学者として聖書を研究するにあります、然るに其結果、聖書の真理を学ぶ事の外に寧ろ意外なるものを私に与へたのであります、私は何れの教会にも属して居りませぬが此研究の為めに何れの教会にも友人を有するに至りました、私の教友はメソヂスト教会にも、聖公会にも、又天主教会、其他の教会にもあります、ニコライ氏の主《つかさ》どる正教会の教師なる一人が申しましたに、或時東京に其教会の役者の会合が開かれ各地より集まつた人が大きな宿舎に落ち合つて各其行李を解いた時に、あつちにもこつちにも私の出しまする『聖書之研究』雑誌が出て来て其数十人のうちの多数がその読者であつた事を発見して互に驚いたといふ事であります、又基督信者以外の人にても聖書の研究であるならば之を共にしやうといふ人々があります、此長崎県下のある真宗の御寺の住職は私の雑誌の初号以来の愛読者であります、又東京で浄土宗の或有名な僧侶で私の事業を賛成する人がありますが嘗て若干の金を持つて私の許に参られまして之を私の事業の為めに使用してくれとの事でありました、仏教の和尚さんから寄附金を受けた基督教の教師は或は私一人かも知れませぬ〔仏〜傍点〕、此人が或時私に申されましたに、此間自分が静岡に用事があ(223)つて行く汽車中で先生の雑誌を読むだが、誠に自分が仏教で云はんとして云ふ能はざるところを云つてくれて甚だ愉快であつた、併し余り興に入つて読み耽つた為めについ自分の降りるべき駅を通り越して大に困つたとの事でありました、其外又小学校長で其筋より教育上の功労大なりとして賞誉を得た人にも私と同意見で聖書を研究して居る人があります、斯様な次第で聖書の研究という事となりますと其立場を異にした多くの人々と事を共にする事が出来、且又其内によき朋友を見出す事を得たのであります、今や基督教各派の合同なるものが企てられて居りますが此聖書を研究すると云ふ事になりますと、常に基督教各派のみならず、私共には仏教とも儒教とも一処になれるのであります、私は考へます、人を最も深きところに於てつなぐものは聖書であると〔人〜傍点〕、されば私は諸君が伝道の方法としてゞなく、単に研究を目的として此研究に力を尽されむ事を御勧め致し升、実に聖書の研究はよき果を結びます、之に依つて私共は最良の兄弟姉妹を得られます、私自身はこれまで従事しました多くの事業の内之が最も多く私に満足を与へました、私は明日此地を立つて帰宅致しますが途中重なる停車場のある処には大抵真実を以て私を歓迎して呉れる友人がありまして、私は東京までの旅行も恰も我家の内を行くの思ひが致します、さうしてこれ皆此研究が私に与へた賜物であります。

　

(224)　　　　　信仰的避暑

　　　　　　　　明治44年8月10日『聖書之研究』133号　署名なし

　

　避暑は信仰的にも之を行ふことが出来る、信仰的避暑は実は最も有効なる避暑である。

　為し難き事を自から努めて為さんとせず、上よりの力の降るを待て優に為し得るの事を為す、常に心を虚うし、神が其霊を降して之を充たし給ふを待つ、如斯くに為して努力なきが故に炎熱の我身に及ぼす圧迫を感じない、我は悪に抗せざるが如くに暑に抗せざるが故に、暑は我を苦しめる事が出来ない。

　如斯くにして信仰的避暑法は信仰的生活法である、暑気に限らない、我等神を信ずる者は同一の方法を以てすべての圧迫を避くるのである、政治的圧制をも如斯くにして避くる、社会的又は教会的迫害をも如斯くにして避くる、貧の苦痛をも如斯くにして避くる、疾病の患苦をも如斯くにして避くる、悪に抗せざるの心を以てすれば苦痛と云ふ苦痛にして避くることの出来ない者はない筈である〔悪〜右○〕。

　

(225)　　　　　〔確実なる三事　他〕

　　　　　　　　　明治44年9月10日『聖書之研究』134号　署名なし

　

　　　　　確実なる三事

　

　人生万事悉く不安なり、其中に在りて唯三事の山岳よりも確実なるあり、我が一度は必ず死すべき事其一なり、キリストの死より甦《よみがへ》り給ひし事其二なり、彼に依りて我も亦死より甦り得る事其三なり、地移り、海鳴り、山は動くとも可なり、是等三事の確実なるありて我心は動かざるべし。

　

　　　　　真の自由

　

　自由は意志の自由に限らず、又思想の自由に止まらず、実行の自由をも意《い》ふ、我れ我が為さんと欲する事を為すを得て我に真正の自由有るなり、而して神がキリストを以て信者に賜ふ自由は此自由なり、困難の山をも動かし、積弊の桑樹をも抜きて海に移し得るの自由なり、信者の特権は神の全能の使用権に他ならず、而して未だ此特権に与らずして人は未だ神の子の自由に入れりと云ふ能はざるなり。

　

(226)　　　　　神の恩恵

　

　我が道徳を以ても救はれない、我が事業を以ても救はれない、我が思想を以ても救はれない、然り、我が信仰を以ても救はれない、神の恩恵に由て救はるゝのである、神の恩恵、神の恩恵万事は之に帰するのである、是れありせば罪人も救はるゝのである、悪人も救はるゝのである、教会に入らずとも救はるゝのである、洗礼を受けずとも救はるゝのである、社会改良又は教勢拡張に従事せずとも救はるゝのである、神の恩恵、夫れ至上者《いとたかきもの》は忘恩者及び不善者にまで慈愛を施し給ふと、此事を知りて我に無限の歓喜と無窮の平和とがあるのである、此無限の慈愛の掌中に在りて宇内何物も我を害《そこな》ふことが出来ないのである、我が不徳は我が救はるゝの障害とならない、又世も悪魔も我を我父の手より奪ふ事が出来ないのである。路加伝六章三十五節。

　

　　　　　神の実在

　

　神は偶像に非ず、幻象に非ず、思想に非ず、美名に非ず、神は実在者なり、性格を具へたるペルソンなり、父なり、王なり、友なり、救者なり、故に神に祈るは蒼天に向て叫ぶに非ず、又自己と相対して語るに非ず、モーセの如くに人が其友に言談《ものい》ふが如くに神と面を合はして語ることなり、神にして若し「人」ならずんば彼に祈るも何の益あるなし、神に来る者は神あるを信じ、且つ彼の必ず己に求むる者に報賞《むくひ》を賜ふ者なるを信ずべきなり。希伯来書十一章六節。

　

(227)　　　　　密室の奉仕

　

　金と銀とは我に有るなし、我は此世の財貨と勢力とを以て我友に酬ゆる能はず、然れども我には又我神が我に賜ひし独特の能力《ちから》あるを信ず、我は密室に跪坐して我友のために何事か善事を為し得べしと信ず、我は祈?は単に感情なりと信ずる能はず、我は祈?を以て実際的に我友を援け得べしと信ず、祈?に従事して我は我が勢力の著《いちゞる》しく消尽するを感ず、而して我は此勢力の他の勢力と化して我が愛する友の上に現はるべきを疑ふ能はず、我は祈?の実力なるを信ず、故に世の軽視して省みざる此実力を施して我友のために尽さんと欲す。

　

　　　　　我等の祈求

　

　我等は此所《こゝ》に在りて恒《つね》に存《たも》つべき城邑《みやこ》なし、惟来らんとする城邑を求む。希伯来書十三章十四節。

　我等は此世に在りて改良されたる社会を求めず、強大なる国家を求めず、幸福なる家庭を求めず、純潔なる教会を求めず、惟来らんとする新らしきエルサレムなる神の国を求む。

　理想は此世に於て求むべからず、然れども讃美と栄光と福祉《さいはひ》と歓喜《よろこび》とは窮りなく来らんとする神の家に存す、我等は彼所《かしこ》に到らんと欲して労《つと》め且つ働《はた》らくなり、此世の安泰《やすき》と幸福《さいはひ》とは我等の求むる所にあらざるなり。

　

　　　　　善業としての困難

　

　善を為す事のみ善事に非ず、困難に耐ゆる事、是れ亦大なる善事なり、我等は自《みづ》から困難に耐えて困難に在る(228)多くの同胞を慰むるを得るなり、人を慰むるものにして「我も亦汝の如く困しめり」と云ふ言の如く効力多きはあらず、月の円《まろ》むと同時に俸給は来り、夏は暑を避けて山に登り、冬は寒を懼れて海に降り、飢餓を知らず寒暑を忘れて百《もゝ》たび聖書を読み、千《ち》たび福音を説けばとて人は慰められず、霊魂は救はれざるなり、福《さいはひ》なるは貧と戦ひ、夏の正午《まひる》、冬の夜も主と共に働らく事なり。

　

　　　　　天国は近し

　

　国に富めると貧しきとあり、強きと弱きとあり、自由なると圧制なるとあり、然れども天国に到るの途として弱国に由るは強国に由るよりも遠からず、圧制国を経《へ》るは自由国を経るよりも難からず、今や天国は近づきて人の中に在り、之に到らんと欲して我等国を択《えら》むの要なし、富強よりするも貧弱よりするも、自由よりするも束縛よりするも、キリストに由りて我等は直に美《うる》はしき自由の天国に達するを得ぺし、感謝すべきにあらずや。

　

　　　　　政治と宗教

　

　政治の主眼は勢力に在り、主義に非ず、故に勢力にして有らん乎、主義は其択む所に非ず、仏教にして勢力あらん乎、政治は仏教を保護して之を利用す、基督教にして勢力あるに至らん乎、政治は又基督教を奨励して之を利用す、政治の保護を獲るは易し、神を懌ばし奉るに及ばず、正義を実行するを要せず、惟此世に多数を得て勢力を得れば足る、神の聖眼より見て此世の政治の保護を獲るは決して貴き事にらざるなり。

　

(229)　　　　　儒教と基督教

　

　儒教の目的は治国平天下に在り、基数の目的は来らんとする世に主たるにあり、儒教は現世的にして基教は来世的なり、社会改良、国家隆盛教勢拡張を主眼とする今時《いま》の教会の基督教は基督教に非ず、基督教の名を被《き》せたる儒教なり、希臓羅馬の基督教の如く異教化せる基督教（Paganized Christianity）の一種なり。希伯来書二章五節。

　

　　　　　秋冷到る

　

　秋は来た、涼しき秋は来た。

　秋の涼しきは夏の署かりしが故に一層快くなる、夏を涼しく暮らした者は秋の涼しさを感謝すること至て尠くある。

　其如く天国《みくに》の楽《たの》しさは現世《このよ》の苦しかりしが故に一層楽しくあるであらふ、現世《このよ》を楽しく送りし者は天国《みくに》の楽しさを感ずること至て尠くあるであらふ。

　

(230)　　　　　神の国と其義

　　　　　　　　明治44年9月10日『聖書之研究』134号　署名なし

　

　　汝等先づ神の国と其義とを求めよ、然らば此等の物は皆な汝等に加へらるべし。馬太伝六章三十三節。

　神の国とは信者が神の名を以て自己の努力に由て地上に建設せんとする理想の社会を云ふのではない、神の国とはキリストの再臨に由て彼が万物を己れに服《したが》はせ得る能力《ちから》を以て実現し給ふ未来の聖国である。

　義とは世に謂ふ所の正義又は正道を云ふのではない、此所に云ふ所の義は「神の国の義」であつて、道義学上の義とは全く性質を異にする者である、之を一名「神の義」と云ふ（羅馬書三章廿一節）、人の義に対して爾《し》か云ふのである、即ち人が神に対して行ふ義に非ずして、神が人に被《き》せ給ふ義である、「義の衣を被る」と云ふのは此事である（黙示録十九章八節）、我より生ずる者にあらずして、神より来て我に被《き》せらるゝ者であるからである、故に此所に「義」と云ふは「恩恵」と云ふと異ならないのである、聖書に於ては「義」といふ言辞《ことば》は屡々「恩恵」又は「慈悲」の意味を以て用ゐらる、即ち詩篇第七十二篇二節に

　　彼（神）は義を以て其民を審判《さば》き給ふべし

とあり、又同第八十五篇十一節に

　　真実《まこと》は地より生《は》え、義は天より瞰下《みおろ》せり

(231)とあるは此意味に於ての義を云ふのである、神の国の義とは世に謂ふ所の義人の義又は仁者の仁ではない、神が其慈愛の大御心よりしてキリストを以て世に示し、聖霊を以て信者の霊に賦与し給ふ一種特別の義である。

　キリストを以て世に臨まんとする神の国と、神がキリストを以て彼を信ずる者に与へんとする特殊の義を求めよとの事である、一言以て之を言へば常に待望的態度に居れ〔常〜右○〕とのことである、上を瞻《み》よ、未来を望め、此世に在りて此世の属《もの》たる勿れ、常に希望の翼《つばさ》に駕して地の慾望を離れて　　翔翔《かうしやう》せよとの事である、然らば是等の物、即ち衣食の料、居住の家、総て不信者が人生最上の捕獲物《えもの》として握扼《あくやく》せんとする所のものは、汝に在ては労せずして汝に加へらるべしとの事である。

　而して是れキリストの垂訓であつて、又彼を待望《まちのぞ》む者の日々に実験する所である、我等希望を此世より絶ち、我等の財《たから》を悉く天に移《うつ》して、我等の生涯は甚だ安楽なる者となるのである、野の百合花《ゆり》の如く労《つと》めず紡《つむ》がざるに衣《ころも》は我等に給《あた》へられ、空《そら》の鳥の如くに倉《くら》に蓄へざるに我等の食物は絶えないのである、社会主義者の唱ふる衣食の煩慮を去り安心以て業に就くの理想はキリストを信ずるに由て始めて実現せらるゝのである〔社〜傍点〕、人世を称して「競争場裡」といふは信者の言ふことではない、不信者の言ふことである、信者に取りては人世は競争場裡〔四字傍点〕ではない、讓退場裡〔四字右○〕である、彼はすべての善物《よきもの》を上より豊かに与へらるゝが故に他人を退けて其物を奪はんとしない、彼は父として大富豪を持つが如き観念を以て此世に棲息する、彼が若し窮境に陥ることがあれば、夫れは彼が智慧と努力とに於て不足するからではない、望むことが足りないからである、父は彼より大希望を要求し給ふのである、彼は彼が神の国と其義とを慾望せんことを欲し給ふのである、而して此大希望を懐くに至て彼の身に関する小希望は悉く達せらるのである、誠にパウロの言へるが如く我等は希望に由て救はるゝのである（羅馬書八章廿(232)四節）、希望は我身を軽からしめ、我が行動を敏《さと》からしめ、我思惟を鮮《あざや》かならしむ、神の国と其義とを求めて我等は飛行機に乗て空中を駛《はし》るが如く、障害多き此地の上を滑らかに走り得るのである。

　

(233)　　　　　〔伝道者たるべし　他〕

　　　　　　　　明治44年9月10日『聖書之研究』134号　署名なし

　

　　　　　伝道者たるべし

　

　若し一国の伝道者たる能はずんば一県の伝道者たるべし、若し一県の伝道者たる能はずんば一町又は一村の伝道者たるべし、若し一村の伝道者たる能はずんば一団体又は一家の伝道者たるべし、伝道者たるべし、伝道者たるべし、キリストの福音の宣伝者たるべし、今の時に方りて之に勝さりて幸福なる、且つ満足なる、且つ必要なる業あるなし。

　

　　　　　財産と道徳

　

　道徳無くとも財産さへあれば足ると云ふ、或は財産は道徳よりも遙かに大切であると云ふ、然れども余輩は道徳無きが故に一代の辛苦に作《な》りし財産の暫時にして水の泡と成りて消え去りし実例を沢山《たくさん》に見た、財産を作るに汲々として遺徳を養ふに至つて冷淡なる今の人は財産を作るの途をさへ知らない人であると言はざるを得ない、然かも彼等は此事を知て尚ほ財産を作るに汲々として、道徳を語る者の如きは貶して之を顧みないのである。

　

(234)　　　　　世界の平和は如何にして来る乎

　　　　　　　　明治44年9月10日『聖書之研究』134号　署名　内村鑑三

　

　余は世界の平和は必ず来ると信ずる、余は預言者の唱へし

　　彼等（国民）は其｜剣《つるぎ》をうちかへて鋤《すき》となし、其｜鎗《やり》をうちかへて鎌となし、国は国に向ひて剣をあげず、戦闘《たゝかひ》のことを再び学ばざるべし

との言の必ず事実となりて現はるべきを信ず、（以賽亜書二章四節）、余は戦争の全廃を信ず、余は人が軍人たるを耻ぢ、軍功が大耻辱として認めらるゝ時の必然的到来を信ず、世に最も確かなる事は戦争の必ず廃止せらるゝ事である、此事は人の必ず死する事丈けそれ丈け確かである、余が全身を賭して誓ひ得る事の一つは未来に於ける戦争廃止の事である。

　然れども戦争廃止、世界の平和は如何にして来る乎と云ふに、其れは人に由ては来らない〔人〜右○〕と信ずるのである、余は勿論、武《ぶ》は戈《ほこ》を止《とゞ》むる者なりとの軍人の套語を信じない、武は戈を止むる者ではない、其反対に戈を作《おこ》す者である、戦争が戦争を止めた例は一ツもない、戦争は戦争を生む〔八字傍点〕、戦争を廃《や》めない間は戦争は止まない、世に迷想多しと雖も軍備は平和の保障であると云ふが如き大なる迷想はない、軍備は平和を保障しない、戦争を保証する、世界の平和を軍人に待つは之を悪魔に待つ丈けそれ丈け難くある。

(235)　平和は軍人に由て来らない、然らば之を政治家の手腕に待つべきである乎と云ふに、是れ又無益の希望である、軍人は戦場に勝敗を決し、政治家は樽俎の間に利害を論ずと云へば如何にも立派に聞えて、政治家は恰かも平和の天使である乎のやうに思はるれども、然し事実は決して爾うでない、名誉に駆られ、利害に動かさるゝ政治家は単に表面の平和を計るに止て、永遠無窮の平和を持来たす事は出来ない、彼等は誠に偽はりの預言者であつて、浅く民の傷を癒し、真個の平和なき時に、平和平和と叫ぶ者である、然り、内心の争闘を蔽ふに外面の平和を以てする彼等政治家は争闘を絶つ者にあらずして、返て之を増す者である、恰かも庸医が疾病《やまひ》を内に逐ひこめて返て危険を増すと同然である、人類の平和は斯くも容易に来る者でない、戦争の真因は政治的でもなければ亦経済的でもない、戦争の真因は道徳的である、然り、宗教的である、カインがアペルを殺せし其精神が後世国際的戦争と成つて現はれて来たのである。

　政治家が世界の平和を計画して全然失敗に終つた実例は歴史上尠くない、今其二三の例を挙げんに、其第一は仏国の英主ヘンリー第四世に由て計画せられたる者である、彼は欧洲に戦争の迹を絶たんと欲し、英、仏、西、独、其他の諸邦を合して一大基督教的共和国を建設し、以て預言者の理想を地上に実現するの名誉を彼の肩上に担はんと欲した、然るに此大計画の商議されつゝありし間に、一大戦争は欧洲全土に渉りて醸されつゝあつたのである、所謂 Cleves-Jülich 王位継承問題起り、仏向は墺国と兵を交へざるを得ざるに至つた、而して戦争末だ開けざるにヘンリーは狂人ラベーヤツクの暗殺する所となり、茲に平和の大計画は夢となりて消え、欧洲は再び血の海、屍《かばね》の山と化したのである。

　其第二は有名なる神聖同盟《ホーレーアライアンス》である、露国皇帝アレキサンドルの主唱に由り、露、墺、普は此同盟を作り、聖(236)教を基礎として茲に平和の福祉を全欧洲に及ぼさんとした、時に紀元千八百十五年九月二十六日、英普の同盟軍がウオートルローにナポレオンを破りて後三ケ月、世は戦争に疲れ果て平和を望む事最も切なる時であつた、故に欧洲人は大歓喜を以て此聖なる同盟を迎へた、彼等は想ふた、聖誕節の夕、天使が牧者に伝へしと云ふ

　　地には平康《おだやか》、人には恩恵《めぐみ》あれ

との音信《おとづれ》は今や事実となりて地上に現はれんとすと、然れども真の事実は如何《どう》であつた乎、帝王等の協議に成りし列国の神聖同盟は誠に平和を欧洲に持来たせし乎、否な、否な、是れ又失望失敗に終つた、平和は来らざりしのみならず其正反対の争乱が来つた、神聖同盟其物は帝王等が相合して民を圧するの機関と化した、而して帝王自身等も亦相互の間に平和を維持する事が出来なかつた、同盟結締後四十年間欧州各地に起りし小戦争は措て問はずとして、千八百五十四年にはクリミヤ戦争起り、英と仏とは合して露に当り、茲に歴史上稀れに見る所の残忍兇悪の大戦争は闘はれたのである、次ぎに千八百六十六年、普国と墺国とは兵を交へ、其の年七月三日、サドワの大戦争に墺軍敗れて、茲に中欧の覇権は普国の手に落ちた、続いて千八百七十年に普仏戦争起り、茲にライン河両岸一帯の地は修羅《しゆら》の街《ちまた》と化したのである、戦争又戦争、神聖同盟成つて後の欧洲に戦雲の曾て絶えたことはない、斯くして露帝アレキサンドルの主唱に成りし此の同盟は滑稽劇として終つたのである。

　其第三は海牙《ヘーグ》平和会議である、其の主唱者は又露国皇帝であつて、彼をして此の挙に出でしめし者は英国女皇ビクトリヤ陛下其人でありしと伝へらる、女皇陛下は戦争を嫌ひ給ひしこと甚だしく、晩年に至りて曾て人に語て曰ひ給はく、朕は今後終生何れの宣戦布告にも署名せざるべしと、然るに憐むべし、此善良なる女皇は彼女生前の最後の行為として南阿戦争の開戦を布告するを余義なくせられたのである、而して此基督教的貴婦人の慫慂《しやうよう》(237)とニコラス第二世の主唱とに由て始まりしと云ふ海牙《ヘーグ》平和会議が其の第一回の会合を終りしや否や、其の後に直に起った者は何んであつた乎、世界の平和か、軍備の縮少か、否な、否な、日露戦争の大惨劇〔八字右○〕であつた、茲に平和会議の慫慂者の同盟国は其主唱者に向て戦争を宣告し、而かも他国の領土に於て、平和連続の希望を以て開かれし第二十世紀の第一回の大戦争は闘はれたのである、而して平和会議の第一の目的たる列国軍備縮少の提議は事実に於ては少しも傾聴せられず、平和会議開会後の列国軍備拡張の程度は有史以来未曾有と言ふより外はない。

　如斯くにして政治家の企図せる平和計画は今日まで悉く失敗に終った、而して今後も亦た失敗に終るに相違ない、政治家は常に平和を協議して戦争を醸しつゝあるのである、人類の戦争的性癖は政治家の技倆を以て癒すには余りに強くある、預言者ヱレミヤの言ひし如く

　　　エチオピヤ人其｜膚《はだへ》を変へ得る乎、

　　　豹《へう》其｜斑駁《まだら》を変へ得る乎、

　　　若し之を為すを得ば悪に慣れたる汝等も亦善を為すを得べし

である（耶利米亜記十三章廿三節）、戦争に慣れたる人類に戦争を廃めしめんとするは黒人の膚《はだへ》を変へて之を白くし、豹《へう》の斑駁《まだら》を除く丈けそれ丈け難くある、是れ政治家又は外交家輩の決して為し得る事でない。

　軍人は戈《ほこ》を止むる能はず、政治家は平和を持来たす能はずとならば、然らば哲学者と公法学者とは此の大任に当り得る乎と云ふに是れ亦決して爾うでない、戦争の不合理なると、其の背倫違法なると、其の害多くして以て其利を償ふに足らざる事とは哲学者カント又は公法学者グローシユスを待たずして人の能く知る所である、東洋(238)に在りては二千五百年の昔、老子は既に非戦論を唱へ、西洋に在りては紀元前五百年ピサゴラスは既に戦争の愚を笑った、人類は今日の平和論者の説教を聞かずして早く既に戦争の悪と愚を認めた、然し之れを認めて之を避け得ないのである、罪を認むるは易くある、之を廃するは難くある、平和の輿論を作りたらんには、其の結果として戦争は止むならんと想ふは、之を痴人の夢と言ふより他《ほか》はない、而かも斯かる夢想家は常に絶えないのである、平和論も亦論者の道楽の一ツである、戦争当時は争つて世と共に戦争の益を唱へ、戦争終へて後は、平和協会を起して平和を高唱す、是れが所謂当世の識者又は経世家の争つて為す事である、而して世界平和の福祉が斯かる浮薄の徒の口によりて地上に臨まんとは信ずるに余りに難くある。

　然らば世界の平和は永久に来らざる乎と云ふに決して爾うではない、何人の手に由て来る乎と云ふに、聖書は其問に答へて曰ふ、人に由て来らず、神に由て来ると〔人〜右○〕、戦争廃止、世界平和は人間の事業としては余りに宏大である、是れは神が御自身に保有し給ひし事業であるやうに思はれる、戦争は何時止む乎と云ふに、預言者イザヤは此事に就て述べて曰ふた、

　　　ヱホバ〔三字右○〕は諸《もろ／＼》の国の問を鞫《さば》き

　　　多くの民を責め給はん、

　　　斯くて彼等は剣を打かへて鋤《すき》となし云々

と、即ち戦争の廃止はヱホバ御自身〔六字右○〕が万国を治め給ふ時に来るとのことである、軍人の奮闘に由らず、政治家の手腕に由らず、哲学者、公法学者、又は文士論客の言論に由らず、ヱホバの能力《ちから》に由て来ると、聖書は又教へて言ふ、

(239)　　　ヱホバ〔三字右○〕は地の極《はて》まで戦争を廃《や》めしめ、

　　　弓を折り戈を絶ち戎車《いくさぐるま》を火にて焼き給ふ

と（詩篇四十六篇九節）、此所にも亦戦争廃止の功は之をヱホバの神に帰してある、又

　　神〔右○〕彼等の目の涕《なみだ》を悉く拭いとり、復た死あらず、哀み痛み有ることなし

とありて、戦場の殺戮を止むる者は神御自身であると教へてある（黙示録廿一章四節）、聖書は平和の功を人に帰さない、之を必ず神に帰し奉る、キリストを称して「平和の主」と云ふ、彼に由て真の平和は世に臨むからである、而して神の独子なるキリストのみ能く此大任に耐ゆるのである、彼れのみ能く罪を除き、戦争を其根本に於て除く事が出来るからである、彼に人に無い能力《ちから》がある、彼は人に新たなる心を与へることが出来る、彼は軍人の如く外より武を以て平和を強ひない、彼は又政治家の如く平和を以て外面に内心の争闘を飾らんとしない、彼は亦此世の論者の如くに単に口に平和を唱へない、彼は平和を各自の心に注ぎ、争闘を其｜源《もと》に於て絶ち給ふ、彼れのみ真の平和主義者である〔彼〜傍点〕、絶対的平和を唱へて完全に之を実行し得る者である、故に彼の降臨を待たずして世に平和は行はれない、世界の平和は畢竟するにキリストの再臨を待て始めて世に行はるゝものである〔世〜右○〕。

　然らば其時まで我等は平和の唱道を止むべきである乎と云ふに、爾うでない、我等は平和の実行を見んがために非ず、平和を証《あかし》せんがために時を得るも之を得ざるも、怠らずして平和を唱ふべきである、我等は殊に世の人が平和を唱へざる時に之を唱ふべきである、国民が挙《こぞ》って戦争に熱する時に、其面に対して其の憤怒を懼れずして大胆に平和を唱ふべきである、而して斯くして平和を唱ふるは神が万国を鞫《さば》き給ふ時に必要である、其時彼等の口｜塞《ふさが》り、人々｜推?《いひのがる》べきやうなきがために必要である（羅馬書一章廿節）　我等の非戦論の没常識として此世の論(240)者に迎へらるゝを知る、然し意とするに足りない、我等の主唱の事実となりて現はるゝ時は必ず到る、

　　主は号令と天使の長《をさ》の声と神の?《らつぱ》を以て自《みづ》から天より降り給はん、

　而して其時に至りて彼は其口の気息《いき》を以て不法を滅《ほろぼ》し給はん（テサロニケ前書四章十六節、仝後書二章八節）、

其時ヱホバは彼を以て地の極《はて》より戦争を廃めしめ、弓を折り戈《ほこ》を絶ち、戎車《いくさぐるま》を火にて焼き給はん、我等は其時彼に誉められんために（今の時に世の人に讃《たゝ》えられんがために非ず）希望を以て大胆に非戦的平和論〔六字右○〕を唱ふべきである。

　

(241)　　　　　最大幸福の事業

　　　　　　　　明治44年9月10日『聖書之研究』134号　署名なし

　

　福音宣伝事業は満足と快楽との最も多い事業である、此業に従事して俸給が上らずとも少しも不平は起らない、失錯を為せば祈?を以て之を補ふことが出来る、世人の反対と不人望とは少しも気に懸らない、其上に毎日、此世に在て何にか少しづゝ永遠的事業を為しつゝあるとの快感が心に絶えない、而して斯くも満足と幸福との伴ふに関せず、多くの基督信者が、殊に彼等の中の青年が、種々なる口実を設け、此業を避けて、文学とか、教育とか、経済とか、政治とか其他此世に関する事業に走るは余の解するに甚だ苦しむ所である、幸福快楽の一点より見て、キリストの福音宣伝事業はすべての事業中第一位に位ひする者であると思ふ。

　

(242)　　　　　世は果して進歩しつゝある乎

　　　　　　　（思想は之をフィリツプ・マウロー氏の著書に得たり）

　　　　　　　　明治44年9月10日『聖書之研究』134号　署名　内村鑑三

　

．進歩は此世の特性であつて其｜畢《おは》る所は完全であると云ふ、実《まこと》に爾うである乎、是れ大なる問題である、世は或る事に於ては常に進歩しつゝある、其事は確実《たしか》である、然し又或る他の事に於ては常に退歩しつゝある、其事も亦｜確実《たしか》である、進歩は此世全体の特性であると云ふ事は出来ない、否な、万物腐敗の性を帯ぶる此世に於ては壊頽《かいたい》が返て其特性である乎も知れない。

　今、今の世に就て見るに、其中に確かに進歩がある、所謂自然科学の進歩がある、�]《エツキス》光線の発見があつた、ラヂユアムの発見があつた、其他天然学すべての方面に於て著るしき進歩のあつた事は明かである、又交通機関に於ても大なる進歩のあつた事は確かである、馬車は汽車となり、汽車は電車となり、電車は飛行機となりつゝある、茲に確かに大なる進歩があつた、又点燈の方法に於ても著るしき進歩があつた、石油は瓦斯の代る所となり、瓦斯は電気の代る所となりつゝある、石油ランプが全く廃止せられて、電気が全国を照らすに至る時は決して遠き未来ではあるまい、其他食品の進歩、衣類の進歩、化粧術の進歩、家屋建築の進歩に就ては此所に語るの必要はない、而して斯くも生活のすべての方面に於て進歩があるが故に、人は言ふ、此世の進歩は其｜畢《おは》る所を知(243)らず、人類は終に完全の極に達して此地を化して楽園と成すに至るべしと。

　然しながら吾人は今の世の進歩に眩惑せられて、人類に大なる退歩のありし事を忘れてはならない、若し進歩の指示すべきがあれば同時に又退歩の指摘すべきがある、人類の退歩も亦著るしき事実である。

　先づ第一に注意すべきは人格の退歩〔五字右○〕である、今や偉人なる者は殆んど全く此の世より其｜迹《あと》を絶つに至つた、イザヤの如き、ヱレミヤの如き、パウロの如き信仰的人物は今や之を世界孰れの国に於て探るも得ることは出来ない、而して遠き過去は措て問はずとして、近き過去に於て見るも、ルーテルの如き、カルビンの如き、ノツクスの如き、ジョージ・フホックスの如き、将た又リビングストンの如き、ジヨナサン・エドワードの如き信仰の勇者は今や之れを基督教国何れに於いて求めんと欲するも能はない、今時《いま》の信仰なる者はすべて集合的団体的の信仰である、曰く教会、曰く青年会、曰く奨励会と、今や人は一個人として神に近づきて其の壮厳の美に接すること能はざるを覚るが故に、無闇《むやみ》に群を成し、会を作りて多数の勢力を以て神の恩恵に与らんと計る、個人的信仰の一事に於て人類が非常に退歩し来りし事は何人が見ても明かである。

　然し信仰の事に止まらない、政治〔二字右○〕の事に於ても爾うである、今やエリザベス女王の如き政治家は何処《どこ》にも居らない、又北米合衆国建設当時に於けるが如く、ワシントン、フランクリン、ハミルトン、ジェファソン等の如く、大政治家が揃ひも揃つて聚団を成して一国の政治界に現はれしが如き今や世界各国孰れの国に於ても見る能はざる所である、多分故グラッドストーンが英国の政治界より去りて、政治的偉人は此世より全く其迹を絶つたのであらふと言ふ人さへある、或ひは爾うである乎も知れない、希臓のペリクリース以来英国のグラツドストーンに至るまで世に偉大なる政治家があつた、即ち国家を以て大なる理想を行はんとする詩人的政治家があつた、然し(244)斯かる政治家は今や全く其迹を絶つた、今時《いま》の政治家は商売人の一種である、所謂国の利益を計る外は他に何の理想をも懐かない人等である、多く土地を獲んと欲し、広く商権を張らんと欲する外に、何の欲望も無い人等である、詩は彼等の最も賤しむ所である、彼等は散文的なるよりは寧ろ算盤《そろばん》的である、彼等は商店の番頭の稍や大なる者である、哲人アナクサゴラスに学んで其の理想を国家の上に実現せんと計りし雅典《アテン》の政治家ペリクリースの心事の如きは到底今日の政治家輩の推量し得る所でない、世界に於ける政治的人物の退歩は実に著るしき事実である。

　政治に於て爾うである、美術〔二字右○〕に於ても亦爾うである、美術に於て人類は業《すで》に已《すで》に其絶頂に達し、今や其｜下坂《くだりざか》に於てある、美術は已に成つた、彫刻に於て今や何人もミケル・アンゼローに秀《ひいで》んと欲する者はない、絵画に於ても爾うである、世は再たびラファエルやレムブラントの天才を見んと欲しない、音楽に於ても亦爾うである、今や音楽は古人の楽譜を練習するに過ぎない、ハイドン、バッハ、メンデルゾーン、ベートーベンと云へば、音楽の頂上であつて、人は今や之に達せんと欲するも、之れ以上に卓越し得るとは信じない、音楽は既に其最美が謡はれたのであつて、是れ亦今や衰退の状態に於てある。

　哲学〔二字右○〕に於ても亦爾うである、哲学も既に其最深最高を語つた、カント、ヘーゲル、スピノーザの徒が再たび世に出んとは人の信ぜざる所である、カント哲学の復興はあらふ、然り、カントの批評は行はれやう、然しカント以上の哲学者は今や何処に居る乎、哲学界の第三等星、第四等星、第五等星は無いではない、然し第一等星は今や何処に居る乎、言あり曰く「スペンサーは世界最後の大哲学者なりし」と、而して彼れ逝きて後に世界的大哲学者は全く其迹を絶つたのである、千八百九十八年にグラツドストーン死して政治的偉人は絶へ、千九百〇三年(245)にハーバート・スペンサー逝きて大哲学者は此世に其迹を絶つたのである。

　斯く数へ来れば人類退歩の証跡は決して尠くないのである、而して人類が今進歩しつつある方面は其低き卑しき方面であり、其退歩しつつある方面は其高き貴き方面であるを見て〔人〜右○〕、人類全体は今や正さに進歩しつつある乎或ひは退歩しつゝある乎は余輩の論断を待たずして明かである。

　人類全体は一個人の如き者である、是れも亦其年齢に循つて趣味発育を異にする、彼れが信仰的に其発達を遂げた時代があつた、或ひは政治的に、或ひは美術的に、或ひは哲学的に其才能を発揮したる時代があつた、然し彼は齢の邁《すゝ》むと同時に段々と物質的になつた、人は「老ひて誡むる慾にあり」と云ふが〔人〜傍点〕、人類全体も亦老いて益

々慾が深くなつたのである〔人〜右○〕、人類は今や信仰を去り、政治を濫用し、美術は単に之を娯楽に供し、哲学を賤しみ、一意専心以て肉慾の増進を計りつつある、而して今時《いま》の所謂る進歩なる者は此進歩である、物質の進歩である、快楽の進歩である、「如何にして最も楽しく現世を送らん乎」、是れ今の人が熱注する唯一の問題である、其政治と云ひ、軍備と云ひ、法律と云ひ、教育と云ひ、然り、其道徳宗教までが、悉く此の最下等の目的に達せんがために施さるるのである。

　其の畢る所は如何？　楽園か？　否らず、肉慾の要求が科学の進歩と法律の完成と、道徳宗教の俗化とに由つて完全に充たさるゝ時に、其時に聖書に記《しる》さるゝ所の世の終焉《おはり》が来るのであらふ、恰かも個人が其才能を顕はし尽し、終に其老年の慾心を全《まつた》うするを得て、然る後に墓に下ると同じである、故に聖書は言ふ、

　　小子よ、今は乃ち末世《すゑのよ》なり、アンチキリスト来らんとは汝等が聞し所なり、而して今既にアンチキリスト多し、是に由て今は乃ち末世《すゑのよ》なるを我等は知る(246)と（ヨハネ一書二章十八節）、此所に言ふアンチキリストとは邦訳聖書に言ふが如き「キリストに敵する者」ではない、似而非《にてひ》なるキリストである、キリストに代る者である、キリストに代りて人類の希望を繋ぎ、其崇拝を惹く者である、而して今時《いま》の所謂る実業家、其頤使する所たる政治家と経済学者と理工学者、彼等はアンチキリストであつて、今人の敬崇を惹く者である、キリストは霊魂の救主であるに代へて是等の似而非なるキリストは肉体の救者である、キリストは来世に天国を供し給ふに代へて是等の非キリストは現世に於て楽園を供する者として信ぜらる、今人の渇仰するキリストは美《よ》き食物を安価《やす》く沢山に人類に供する者である、而して斯かる詐りの約束を以て世に臨む偽《にせ》キリストは今や世に多数《あまた》在るのである。

　　末世《すゑのよ》に艱難の日来らん、其日至らば人々たゞ己を愛し、貪《むさぼ》り、誇り、高ぶり、罵り、不孝、忘恩、不潔、不情、怨恨《うらみ》を解かず、謗《そし》り、慾を縦《ほしいまゝ》にし、残忍、不善、友を売り、放埒、自負、神よりも佚楽《たのしみ》を愛する事を為さん（テモテ後書三章一−四節）。

　今日の社会を描写する言辞にして之にまさりて通切なるものはない、日々の新聞紙と、毎週毎月の雑誌とは社会の此状態を写し得て余りあるのである、「人々唯自己を愛し、貪り、誇り、残忍、不善、友を売り、放埒、自負、神よりも佚楽《たのしみ》を愛す」と、若し是れが末世《すゑのよ》の正確なる記述であるとならば今時《いま》は確かに末世である、進歩、科学、憲法、経済を以て誇る今の世は急転直下の勢を以て奈落の底に向て進みつゝあるのである。

　然らば滅亡が万物の終極である乎と云ふに決して爾うではない、此世の終る時が来世《つぎのよ》の始まる時である、非キリストが鞫《さば》かるゝ時に真《まこと》のキリストは顕はれ給ふのである、故に此世の進歩は滅亡に向ての進歩であるが、然し進歩はやはり進歩であるのである、即ち神の国は世の老衰と共に近づきつゝあるのである、神に反《そむ》きし人類が其(247)欲するが儘を行ひ、佚楽に耽り、放蕩に身を崩し了《おは》つて後に、新らしきエルサレムは備へ整ひて神の所を出て天より人の間に降るのである、故に此世の暗黒の日々に益々加はり行くは之を来世《つぎのよ》の暁《あかつき》の将さに白まんとする前兆として見るべきである、

　　視よ我れ速かに来らん

とキリストは言ひ給ふ、此世は今や物質的に急速の進歩を為して、知らず識らずの間に主の再来を招きつゝあるのである、我等は此明白なる時の徴候を読み誤まりてはならない。

　

(248)　　　　　愛と信

　　　　　　　　明治44年9月10日『聖書之研究』134号　署名なし

　

　愛が愛として存する間は信仰は要《い》らない、乍然愛が律法として強ひられ、功績として誇らるゝに至て、信仰を以て之を破毀し之を再建するの必要がある、信仰のための愛ではない、愛のための信仰である、信仰は愛を強め、潔め、高めるために必要なるのである。

　

(249)　　　　　〔今世と来世　他〕

　　　　　　　　明治44年9月10日『聖書之研究』134号　署名なし

　

　　　　　今世と来世

　

　此世に於ては天然の法則が行はれる、社会の法則が行はれる、此世に於ては日は善人の上にも照り亦悪人の上にも照る、雨は善人の上にも降り亦悪人の上にも降る、善人も貧家に生るれば貧しき生涯を送らざるを得ず、悪人も富家に生るれば其栄華に与る事が出来る、夫れと同時に又災害は善惡を択《えら》ばずして来る、雷電は劇場をも打てば又教会をも撃つ、同一の火山の噴火に由て悪人も死すれば善人も斃る、シロアムの塔仆れて圧死《おしころ》されし十八人はヱルサレムに住めるすべての人々より勝さりて罪ある者に非ずとイエスは曰ふた（路加伝十三章四節）、天然は貴族にも遠慮せざるが如く亦善人にも義人にも遠慮しない、同一の洪波《おほなみ》は善人悪人を同時に呑む。

　然しながら是れ皆な悉く此世の事である、神がキリストを以て己が択み給ひし者のために備へ給ひし来世《つぎのよ》に於ては斯かる事は決してない、其所《そこ》には天然の法則は行はれない、霊の法則が行はれる、其所には悪人は入ること能はざるが故に、悪人の罪のために善人が苦しむ事はない、其所には日月の照らすことなく、羔《こひつじ》が其｜月燈《ともしび》であると云ふ（黙示録廿一章廿三節）、其所には悪人が善人の上に跋扈して天下を横領するの奇観は呈せられない、其(250)所には経済的法則と称して利に敏き者は惡人と雖も富むを得べしと云ふ此世の法則は絶対に行はれない、如斯くにして来世《つぎのよ》は此世の連続《つゞき》ではない、全く性質を異にしたる世である、所謂る別世界〔三字傍点〕である、我れ万物を新たにせんと主は曰ひ給ふ（黙示録廿一章三節）、全く異つたる世界、全く差《ちが》つたる社会、異つたる日月、異つたる富貴、此世の事物を以てしては迚も来世《つぎのよ》を推量《おしはか》る事が出来ない、事物の価値の本位が違《ちが》ふ故に、此世に於けると彼世《かのよ》に於けると万物の地位が転倒するのである。

　善人も悪人と同じ災害に遭遇せずばならず、悪人も運命如何に由りては金襴を纏ふて社会の上位に座し、善人も亦運命如何に由りては襤褸を纏ふて枕《まくら》するに所なき此世は決して慕はしき世ではない、実《まこと》に希伯来書記者の曰へりしが如く、

　我等は

　　神の造営《つくりいとな》み給ひし所の基《もとゐ》ある京城《みやこ》を望み（十一章十節）

又

　　我等は此所に在りて永く存《たも》つべき京城《みやこ》なし、惟来らんとする京城《みやこ》を望むのである（仝十三章十四節）。

　

　　　　　補助と援助

　

　神のために神と共に働らくに方て所謂補助なるものは全く要らない、政府の補助は要らない、教会の補助は要らない、補助にはすべて責任が附随する、而して人に対する責任は神に対する責任を妨ぐる者である、我等は自(251)由なる全き律法即ち神の福音を説くに方て、人より微少《すこし》なりと束縛を受けてはならない。雅各書一章廿五節。

　斯く云ひて余輩は友人の援助を斥くると云ふのではない、援助は「補助」ではない、援助は自発的好意より出る贈物《おくりもの》であって、之には何の責任も伴はない、之れは神に対する献物《さゝげもの》として吾人の手に臨む者であって、之に対して吾人は唯神にさへ感謝すれば其れで足りるのである、故に援助は補助の如く月々又は歳々額を定めて来らない、之に何の条件も附いて居らないのは言ふまでもない、之は我等が或る殊種の教会に属すればとて其れがために我等に来るものでない、其れは又我等が或る特別の教義を唱ふればとて其れがために我等に来らない、其れは純粋の愛より来る、其れは神のすべての賜物の如くに「フリーギフト」である、余輩を信じて来る者であつて、企輩が如何《とう》使つても可《よ》い者である、而して斯かる贈物《ギフト》にあらざれば善のためにも自由の福音のためにも使へないのである、「　　福音のために使ふべし」との条件を附せられたる贈物は自由に福音のために使へないのである〔福〜傍点〕、我等を愛〔四字右○〕するが故〔四字傍点〕に贈られたる贈物のみ、我等は有効的に福音のために使ふことが出来るのである〔に贈〜右○〕。

　斯かる態度に居つては何人も余輩を援くる者なけんと曰ふ人もあらふが、其は余輩の関せざる所である、然かも斯かる援助は時々余輩の手に達するのである、思はざる人より思はざる時に余輩の所に来るのである、曰く

　　君、此寄附に関して主イエスキリストの外、何人にも謝するに及ばず、君は之を受けて何人に対しても責任を負ふことなし

と、是れ独逸の某氏（彼は其姓名住所をすら余輩に通ぜず）より或る贈物と共に余輩に達したる書翰の一節である、

　　余は先生に此寄附を為して先生より何物をも要求せず、先生は唯余より此感謝の徴《しるし》を受くれば足る

と、是れは在邦の或友人が余輩に書送りし真情の発表である、斯かる贈物は神より来る者であつて、人より来る(252)のでない、余輩が依頼し、運動し、哀願して来つた者でない、唯密室に在て神に祈求《もと》めて彼より賜はりし者である。

　神は如斯くにして我等を援け給ふ、神に「不景気」なければ彼は何時なりとも我等の要する時に我等の要する物を送り給ふ、故に彼のために彼と共に働らくに方て我等は人の補助を乞ふの必要は微少《すこし》もない、我等は何人の前にも頸《くび》を曲《ま》ぐるの必要はない、恰かも大富豪を父として持つの心を以て大胆に世に立つべきである。

　然れば我等毅然として曰ふべし、主我を助くる者なれば恐怖《おそれ》なし、人、我に何をか為さんと。希伯来書十三章六節。

　

　　　　　聖書に依るべし

　

　彼等は聖書に依りて事を為すと謂ふ、聖書に依りて教会を作り、聖書に依りてバプテスマを施し、聖書に依りて監督を任命し、聖書に依りて礼拝を行ふと云ふ、誠に宜し、彼等は聖書に依りて万事を行ふべきである。

　然らば彼等は何故に教会以外〔四字傍点〕の事に於て聖書に従はざる、何故に聖書に従つて兄弟を愛せざる、何故に聖書に従つて神の名を重んじて人の名を軽んぜざる、何故に聖書に従つて人爵を軽んじて神択《しんたく》を重んぜざる、何故に聖書に反《そむ》きて兄弟相排し相｜陥《おとしい》れ、相憎み相譏り、相互の事業を妨げて喜《よろこび》となせる、何故に聖書に従つて彼等の間に横行せるパリサイと学者の徒を排斥せざる、何故に聖書に反いて先づ金の事を議して然る後に事業に就くが如き行為に出るや、彼等は教会の事と儀式の事と、僧侶、監督、執事、長老、牧師、伝道師の事にのみ聖書的にして、其他の事に於ては殆んど悉く明白に且つ大胆に非聖書的なるに非ずや、彼等は教会の事に於てのみ聖書的(253)であつて、夫れ丈けで聖書に忠実なる者であると言ふてはならない。

　

(258)　　　　　真《まこと》の教会

　　　　　　　　明治44年9月10日『聖書之研究』134号　署名なし

　

　真の教会がある、其れは無教会である、制度を設けて人が他の人を治めんとする教会でない、霊を以て人々互に相愛し相励し相援くる教会である、其一致と和合とは見えざる所に存して見ゆる所にない、故に其腐敗する危険は毫《すこし》も無い、是れが真のキリストの体《からだ》である　真の聖公会《ホーレーカソリツクチヤーチ》である、人は肉を離れて此教会に入て始めて完全に救はるゝのである。

　

(259)　　　　　〔永久不変の愛　他〕

　　　　　　　　明治44年10月10日『聖書之研究』135号　署名なし

　

　　　　　永久不変の愛

　

　変らざる者は天然の法則に非ず、又大政府の信用に非ず、天は焚毀《やけくず》れ地は焚鎔《やけとく》ることあらん、又大政府の信用は地に落て一顧の価値《ねうち》なきに至ることあり、変らざる者はキリストを以て顕はれたる神の愛なり、此は天地は失するとも変らざる者なり、我が友は悉く変り、我が父母さへも我を棄ることあらんも、然り、我れ自身は変り我より進んで神を去ることあらんも、神が我を愛し給ふ其愛は変らざるなり、此永久不変の愛の我を護るあるを知りて我は千変万化の此世に在りて、我が霊魂の磐石よりも安きを感ずる也。

　

　　　　　祈?と赦罪

　

　神に我が祈?《いのり》を聴かれんと欲すれば、我は先づ我が罪を赦されざるべからず、我が罪を赦されんと欲すれば我は先づ人が我に対して犯せし罪を悉く赦さゞるべからず、我に全宇宙に我が憎むべき人、又恨むべき人一人もなきに至て、我は神の前に立て我が祈?の必ず聴かるゝを識るなり、故に言ふ、汝等若し人の罪を赦さずば汝等の父も(260)亦汝等の罪を赦し給はざるべしと、又汝、若し供物《そなへもの》を携へて聖壇に往きたる時、彼所《かしこ》にて兄弟を恨むことを想起《おもひおこ》さば、其供物を壇の前に留め、先づ往きて汝の兄弟と和らぎ、後、来りて汝の供物を献げよと。馬太五の廿三、廿四、仝六の十六。

　

　　　　　祈?の目的物

　

　我が?《よ》びまつる者は天地万物の造主《つくりぬし》なる真《まこと》の神に非ず、我が救者《すくひて》なる人なるイエスなり、我と情《じやう》を同うし、我が苦痛を味《あぢは》ひ給へる我が友にして又我が主なるイエスなり、我は彼を?びまつりて彼の我に甚だ近きを感ず、二人三人《ふたりさんにん》我が名に由りて集まる処には我も亦其中に在りと彼は曰ひ給へり、我は我が教主《すくひぬし》に祈るに方て天の高きに向て叫《さけ》ぶに非ず、我が側《かたはら》に座し、我に同情《おもひ》を寄せ給ふ我主に対《むか》つて語るなり、我は「主イエスよ」と?《よ》びまつりて我が祈　藤の空を打つが如くにあらずして或る確実なる目的物に向て発せらるゝを知る也。馬太十八の二十。

　

　　　　　義人たるの途

　

　我れは義人となりて神に義とせらるゝに非ず、神我を義とし給ひて我は義人たるを得るなり、神は前《さき》にして我は後なり、神にして先づ我が罪を贖《あがな》ひ之を除き給ふにあらざれば、我は刻苦勉励、身を粉にすと雖も、義者となりて彼の前に立つ能はざる也。

　

　　　　　福音と心理学

　

　病を知るは易し、之を医《いや》すは難し、罪を知るは易し、之を除《のぞ》くは難し、治療の術は病理の学に伴はず、救済の(261)途は心理の学に及ばず、是れ此世の通則なり。

　之れに反してキリストの福音は贖罪の道と称して罪を除くの途なり、福音は単《たゞ》に幽暗《くらき》を照らし罪を発見するに止まらず、之を癒し、之を除き之に代ふるに正と義とを以てす、福音は罪の現象に就て、「興味を感ずる」近世心理学の如き者にあらざるなり。

　

　　　　　子を持て知る

　

　子を持て知る親《おや》の恩を、然り、子を持て知る神の愛を、親は其子を救はんがためには彼の有する何物をも犠牲として払ふを辞せず、神も亦我等人類を救はんがためには其｜独子《ひとりご》をさへ我等の罪の犠牲として世に与ふるを惜み給はざりしなり、親の愛の深さを自覚して神の愛の量《はか》りなさを稍々《やや》推測するを得る也。

　

(262)　　　　　秋郊の歌

　　　　　　　　　詩篇第六十五篇

　　　　　　　　明治44年10月10日『聖書之研究』135号　署名なし

　

　　　沈黙は汝の前に適応《ふさは》し、シオンに在《いま》す神よ、

　　　祈誓《ちかひ》は汝に果《はた》さるべし、

　　　汝、祈?《いのり》を聴き給ふ者よ、

　　　人は皆な汝に到るべし、

　　　我罪は我に対して強し、

　　　然れど汝は、然り汝は之を祓《はら》ひ給ふべし、

　　　汝に選《えら》まるゝ者は福《さいはひ》なるかな、

　　　汝に近《ちかづ》きまつりて（聖殿《みや》）の大庭《おほには》に住《す》む者は福ひなるか

　　　我等をして汝の家の佳物《よきもの》を以て飽かしめよ。

　　　汝は地を見舞ひて之に灌漑《みづそゝ》ぎ給ふ、

(263)　　　汝は大に之を富まし給ふ、

　　　神の川は水にて満つ、

　　　汝、斯く地を備へて彼等に穀物を与へ給ふ、

　　　汝、豊かに?《みぞ》を潤し畝《うね》を平らかにし、

　　　汝、白雨《むらさめ》を以て之を軟《やはらか》にし、其萌芽を祝し給ふ、

　　　汝、恩恵《めぐみ》を以て年を冠《くわん》し給ふ、

　　　汝の途に膏《あぶら》滴る、

　　　其｜恩滴《したゝり》は野の牧場を潤し、

　　　小山は歓喜を以て帯《おび》さる、

　　　牧場は羊の群を衣《き》、

　　　谷は麦を以て飾らる、

　　　彼等は歓喜を以て相｜応《こた》へ且つ歌ふ。

　

(264)　　　　　基督教の最大問題

　　　　　　　　　エドウィン・ハッチ氏の『ヒバート講演』を読む

　　　　　　　　　The Influence of Greek ldeas and Usages upon the Christian Church,by Edwin Hatch D.D.

　　　　　　　　明治44年10月10日『聖書之研究』135号　署名　内村鑑三

　

　基督教に数多《あまた》の大問題がある、其中に在りて最大問題と称すべき者は是れである、即ち

　　今日の謂ゆる基督教、即ち欧米諸国に於て信ぜられ、其｜遣《おく》りし宣教師等に由て我国にも伝へられし基督教なる者は、是れ果して始めイエスに由て宜べられ、後、使徒等に由て伝へられし元始《もと》の基督教なる乎

と、基督教に関する諸《すべ》ての問題の中に、実際的に之に優《まさ》りて大切なる者はない、此問題の解決如何に由りて我等の基督教に対する態度は一変し、我等の採るべき伝道の方法も亦随て一変するのである。

　余は近頃有名なるヒツバート講演集の一なるエドウィン・ハッチ氏の講演「希臘《ギリシヤ》思想并に習慣の基督教会に及ぼせし感化」を読んで大に教えらるゝ所があった、ハッチ氏は牛津《オクスフホード》大学に於ける教会歴史の講師であつて、斯学の泰斗として世界の尊敬を惹いた人である、初代の教会歴史に関する氏の智識は該博を極むと称すべきである、氏は博く基督教出現以前の希臘文学に通じ、又深く基督教会創設当時の希臘羅馬の思想歴史を究めた、氏は神学者ではない、歴史家である、氏は特別の教義を弁護せんとしない、氏はたゞ初代の教会に在りし事を、其当(265)時の記録に由りて其儘叙述せんとする、氏の叙述法は全然歴史的である、氏は事実の外に走りて自己の所感を述べんとしない。

　講演其物は千八百八十八年、即ち今を去る二十三年前に述べられたる者である、故に新刊続出の今日、之を新智識と称する事は出来ない、乍然、歴史的事実の上に築かれたる講師の結論は時と共に動かない、余は信ず、ハッチ氏の此講演集は教会歴史の憑典《オーソリチー》として長く尊重せらるることを。

　而してハッチ氏の言ふ所は何ぞ、余は左に彼の所説の大略を述べんと欲する。

　基督教は使徒等の手を離れてより凡そ一百年の後に全く一変した、イエスの山上の垂訓と教会のニケヤ信条との間には霄壌も啻ならざる相違がある、前者は信仰的である、後者は理論的である、前者にパレスチナの山地の清気の掬すべきがある、後者に雅典《アテン》、アレキサンドリヤの学風の臭《にほ》ふべきがある、前者は神を識るの直覚より出し言であつて、後者は神に就て思惟せし思想を陳べたる者である、語を換へて曰へば、イエスはユダヤの預言者等の遺伝を受けて宗教の人でありしに代へて、ニケヤ信条を編成せし教会の博士等は希臘哲学に養はれし学問の人であつた、基督教は使徒等の手を離れて異邦人の手に渡りし否や、僅か一百年許りの間に全く異教化されたのである、埃及のアレキサンドリヤに於ては、クレメントとオリゲン、今の仏国のリオンに於てはイレネウス、阿弗利加のカルタゴに生れしテルツリアン等に由て唱へられし基督教は使徒等の伝へし者とは全く其｜趣《おもむき》を異にし、信仰的であるよりは寧ろ哲学的であり、預言的であるよりは寧ろ雄弁的であり、直覚的であるよりは寧ろ註釈的であつた、異邦人の手に渡つて基督教は謂ゆる文明の宗教と化した、イザヤ、ヱレミヤ、エゼキエル、アモス等より系統を引いたる宗教でなくして、ピサゴラス、アナクサゴラス、プラトー、アリストートル等に縁の近き思想と成(266)つた、異教化されたる基督教は心情《ハート》の宗教たるよりは寧ろ頭脳《ヘツド》の宗教となつた。

　今、其一例を挙げて言はん乎、今日と雖も基督教会に於て「説教」なる者がある、聖書の一句を取り、之を説明し、之を土台となして、教師の説を述ぶる事である、今日と雖も説教は基督教の教師たる者の必ず為すべき事の一ツである、然り、彼の価値は之に由て定まるのである、善き説教家が善き教師であるのである、彼に学識なかるべからず、彼は雄弁家ならざるべからず、彼は高壇の名士たるを要す、威風堂々、能く壇上に聴衆を風靡する者、是れが今日の善良なる基督教の教師である、然れども新約聖書を読む者はすべて其中に今日謂ゆる「説教」なる者のあることを認めない、イエスの山上の垂訓は説教ではない、之に聖書の引用はある、然し、其主題となりし聖句《テキスト》はない、山上の垂訓は前後整然たる論説ではない、之を統一する組織は無い、片々の発言である、イエスの心に湧出せし信仰的意識其儘の発表である、而してイエスの其他の言に徴するも亦同一の事を見るのである。其中に今日の謂ゆる説教らしき者は一ツもない、比喩がある、教訓がある、慰藉の言がある、時と所とに応じたる言がある、前以て準備したる論説らしき者は一ツも無い。

　今、イエスを去て其弟子等に至るも我等は同じ事を見るのである、使徒行伝は多く使徒等の「言」を載せて居る、然し、今日の謂ゆる「説教」なる者は其中に一ツも之を発見する事が出来無い、ペンテコステの日にペテロがヱルサレムに集来《つどひきた》りし諸国の人々に語りしと云ふは、彼等に対《むか》つて説教を試みたのではない、

　　ペテロ十人と偕に立ち声を揚げて彼等に対《むか》ひ言ひけるは

とありて、今日の謂ゆる｜即座の演説《エキステムボーアスピーチ》であった（行伝第二章）、ステパノが彼の迫害者に対《むか》つて語りし言は其長さより言ふも調子より言ふも稍々説教に類して居るが、然し、其文学的説教にあらざりし事は、彼が此言を発せし(267)当時の境遇を知て直に之を解する事が出来る（仝第七章）、又パウロとバルナバとがピシデヤのアンテオケに至りし時に、安息日に会堂に入りて坐せしに、聖書を読畢《よみおは》りて後、会堂の主宰《つかさ》起ちて彼等に一場の勧言《すゝめ》を乞ひければ

　　パウロ起て手を揺《うごか》し曰ひけるは

とありて如何にも大説教を試みたやうに見ゆるが、然し、是れ亦パウロの即座の感を述べた者であつて、今日の謂ゆる牧師の説教とは全く性質を異にしたる者であることは何人が見ても明かである、其他新約聖書の何処《どこ》を探るも説教なる者には見当らないのである、使徒時代に在ては信仰を語ることは之を「預言」と称《い》ふた、「ピリポに預言する四人の女あり」とあるは此事である（行伝廿一章九節）、又パウロが

　　殊に慕ふべきは預言する事なり

と云ふたものも此事である（哥林多前書十四章一節）、「預言」するとは神の言を語ることである、而して是れ人が聖霊に感ぜずして為し得ることでない、

　　そは預言は素《もと》より人意に出しに非ず、神に属する聖人《きよきひと》、聖霊に感じて語りし者なれば也

とあるが如し（彼得後書一章廿一節）、預言するに該博なる智識は要らない、書斎に於ける長き準備は要らない、雄弁術の習練は要らない、預言するに必要なる資格は清き心である、篤き信仰である、神と親しく交はる事である、預言は自然的である、岩の裂罅《われめ》より湧出る清泉の如き者である、其量は多くない、然し清くなる、生命を供する、エレキ的である、一言の中に長論文を以てするも述ぶる能はざる真理が含《ふく》まれてある。

　使徒時代に在りては福音は預言〔二字右○〕に由て伝へられた、然し今時《いま》は爾うでない、今時《いま》は説教〔二字右○〕が伝道の主《おも》なる方法である、而して説教なる者は抑々何人に由て始つたのである乎と問ふに、是れ疑ひもなく希臘《ぎりしや》人に由つて始まった(268)のである、ギリシヤ人は基督教に接触する前に既に説教の術に長《た》けた、ホーマーの詩集の中より一句を取り之を主題となして彼等の所説を述ぶるはギリシヤ人の間に普く行はし習慣であつた、此技術を伝へんがために多くの雄弁学校は彼等の間に設けられた、ギリシヤの青年の野心は此術に長じて、人心を動かし、民心を収攬せんことであつた、アウガスチンの如き、クリソストムの如き、後には基督教会の師父として仰がれし者も始めは雄弁学校に説教の技術を習練したる者であつた、説教はギリシヤの雄弁術を基督教に適用して始まつた者である〔説〜傍点〕、素々《もと／＼》イエスを以て始まつた者でない、又使徒等に由て開始せられた者でない、ギリシヤ人に由て基督教に輸入せられた者である。

　説教勿論悪い事ではない、是れ或ひは伝道の方法の一ツである乎も知れない、乍然、「預言」が「説教」と化した時に基督教の性質が一変したのである、此時よりして教養《カルチユア》が信仰よりも重要視せらるゝに至ったのである、パウロは明白に

　　仮令我れ｜諸々《もろ／＼》の人の言《ことば》を語り、天使《てんのつかひ》の言を語るとも若し愛なくば鳴銅《なるかね》や響く?《ねうはち》の如き者なり

と曰ふて居るが（コリント前書十三章一節）、然し預言が説教と化するに及んで天使の言を語ることは愛を心に蓄ふる事よりも遙かに大切なる事となつたのである、雄弁術を以て福音を述ぶるに至つて、信仰は心の事にあらずして、口の事、風采の事、謂ゆる人物の事と成つたのである、事は至つて小事であるが、然し其小事の中に基督教会千八百年間の腐敗の麪酵《ぱんだね》が潜《ひそ》んで居つたのである、キリストの単純なる福音が基督教てふ複雑なる宗教と化し、聖《きよ》き信者の愛の交際が、教会てふ一種の政治的団体と成りたるも亦預言が説教と化せし時に同時に始まりし悲むべき現象である。

(269)　今、説教の事を去りて洗礼の事に及ばん乎、我等は同じ異教の感化を見るのである、イエスは自身果して人にバプテスマを施されし乎は疑問として（約翰伝四章二節参考）、彼の弟子等が信者に此事を行ふたのは事実である、乍然、使徒時代のバプテスマなる者は至て簡短なる事であつた、是れは決して「式」又は「礼」と称する程の事ではなかつた、人はイエスに由りて罪を覚り其｜赦免《ゆるし》を神より得るや、彼は共時直にバプテスマを受けたのである、而して之を行ふ人に亦彼が真《まこと》の信者である事の外は別に資格は要らなかつた、信者は何人たりともバプテスマを施すことが出来たのである〔信〜傍点〕、エテオピヤ人の女王カンダケの大臣なる寺人某は馬車の中にピリポのイザヤ書の説明を聞き、信仰を起して彼は直に馬車を降り、路傍の小川にてピリポよりバプテスマを受けたのである（行伝八章卅六節以下）、而して此ピリポが十二使徒の一人にあらずして使徒等に由て平信徒の中より撰まれし今日の謂ゆる教会の執事の如き者の一人でありしことは行伝第六章五節に就て見て明《あきらか》である、即ち当時《そのとき》は今と異なり、執事もバプテスマを施すの権能を有したのである、又ダマスコに於てタルソのサウロ、後にパウロと称して異邦人の使徒となりし者に、バプテスマを施せし者はペテロ、ヨハネ、ヤコブなどいふ使徒の錚々《さう／＼》たる者ではなくして、無名の平信徒なるアナニヤと呼ばるゝ者であつた（行伝九章十節以下）、監督にあらざればバプテスマを授くる能はずとか、或ひは教会の按手礼を受くるにあらざれば此式を司《つかさど》るの権能を有せずとか云ふ事は使徒時代の信者間には全然無つた事である、其時に方て信者はすべて祭司であつた、預言者であつた、然り使徒であつた、十二使徒のみが使徒ではなかつた、すべて福音証明のために神に選ばれて世に遣《つかは》されし者、其人はすべて使徒であつた、（羅馬書十六章七節参考）、信者の間に使徒、監督、長老等の階級を立て、彼は此事を為すを得べし、彼は此事を為すを得ずと云ふが如きは使徒時代に於て有つた事ではない、是れ皆な後世の案出に係る人の定めたる制度であ(270)る、而して余輩は特別に此事をバプテスマ施行の権能に於て認むるのである。

　使徒時代に在てはバプテスマは斯くも簡短なる事であつた、然るに基督教がギリシヤ人の手に渡てよりは其性質が全く一変したのである、ギリシヤ人に由てバプテスマの慣例はバプテスマの式〔右○〕と化した、信者何人にも施すことの出来た此美はしき罪の改悔《くひあらため》の表号《シムポル》は教会の或る特別の役人にあらざれば施すことの出来ない儀式となつた、之に与かるに或る特別の修養が必要になつた、洗礼志願者は学校の入学志願者と同様、教会の設けし試験委員の前に呼出されて、信仰の試験を受くることになつた、而して此儀式に或る秘密の能《ちから》が伴ふやうに思はれ、信者は之を受けて、己が罪が洗《あら》はれ新たに生れたやうに感ずるに至つたのである。

　バプテスマに関する思想の変化を知らんと欲せば、当時のギリシヤ人の間に盛に行はれし神秘《ミステリー》并に秘密団体に就て知らなければならない、ミステリーとは天然又は人生に関する或る特別の秘密である、或ひは哲人ピサゴラスに由で伝へられしと唱へられ、或ひは彼れ以前、エヂプト国の古聖に由て授けられたりと称はれた、而して団体は固く之を秘して語らず、人の之を知らんと欲する者あれば彼は其団体の提供する多くの条件に従ひ、共課する多くの苦行を積み、斎戒休浴、以て其紀律に服従するの誓約を立て然る後に洗滌の礼を施されて〔洗〜右○〕、茲に俗世の塵を洗はれて、始めて新生命の境涯《きやうがい》に入ることが出来たのである、俗世と団体との間に明白なる区別を定め、而して彼れより此れに移らんとするに際して洗滌の礼を用ひし事は新約聖書時代のギリシヤ人の間に於て普通に行はれし事であつた、而して此慣例に慣れし彼等が基督教を信ずるに至りしや、彼等は福音を以て一種のミステリー（秘義）と見做し、教会は此秘義を守るの秘密団体なり、而してバプテスマは此団体に入るの儀式なりと思ふに至つたのである、即ち神秘并に秘密団体の思想并に制度を其儘基督教に輸入して、茲に希臘《ギリシヤ》化されたる基督教、(271)即ち其伝はりて千九百年後の今日にまで至りし所の西洋の基督教が出来《でき》たのである、今の謂ゆる基督教会の濫觴《らんしやう》は茲に在るのである、而して其最も著明なる紀念は今日基督教会に於て行はるゝ洗礼の式である。

　勿論同一の事が聖餐式に就ても言はるゝのである、余は英語を解し得る本誌の読者がハッチ氏の講演集第十章に就て此事に関する氏の明晰なる説明を聴かれんことを望む。

　基督教がギリシヤ人の手に渡りて預言は化して説教と成り、バプテスマは化して洗礼式と成つた、其他の多くの根本的変化に就て余は今茲に之を語るの場所を持たない、乍然、本論を終る前に尚ほ一事の特に読者の注意を惹きたき事がある、其れは信仰〔二字右○〕に関はる事である、基督教が使徒等の手を離れてギリシヤ人の手に渡りてより、説教、洗礼等儀礼慣例の事に止まらず、教義の根本たる信仰其物に関はる思想までが全く一変したのである。

　新約聖書に在りては信仰〔二字右○〕は単に信任〔二字右○〕であつた、人が神を信ずると云ふは誠に彼を信ずることであつた、即ち彼が己が父を信ずるが如くに神を信ずる事であつた、父子互ひの信任、朋友相互ひの信任、信仰とは是れより外の事ではなかつた、即ち希伯来書記者の言ふた通りである、

　　信仰なくば神を悦ばすこと能はず、そは神に来る者は神在るを信じ且つ神は必ず己を求むる者に報い給ふ者なるを信ずべければ也

と（十一章六節）、此単純なる意味に於ての信仰なくして、此世の父をも朋友をも悦ばすことは出来ない、信任は愛を繋《つな》ぎ友誼を保つの唯一の紐《ひも》である、而して神が人より要求し給ふ所の信仰なる者は是れより外の者ではない、神は人が肉の父を信ずるが如く霊の父を信ぜんことを要求し給ふのである。

　又パウロの主張たる人は行為《おこなひ》に由らず信仰に由て救はると云ふた、亦此単純なる信仰を指して言ふのである、(272)人は善行を為し尽し、自《みづ》から完全なる義人となりて救はるゝのではない、子の心を以て神に事へて、其れで救はるゝのであると、アバ父よと呼びて神に縋《すが》り附くの心、父なる神が我等より要求し給ふ者は唯此心である、彼は人類に他人扱《たにんあつかひ》を為されんことを嫌ひ給ふのである、「我を信ぜよ、我は汝の父なり、我は汝の為めに悪事を計らず、我は我が眼の球の如くに汝を護る」と、神は其子供なる人類に斯く言ひ給ふのである、而してイエスと使徒等は神の此情を人に伝へたのである、

　然るにギリシャ人は斯く単純に信仰の事を解しなかつた、彼等は哲学を以て養はれしが故に、彼等の信仰なる者も亦随て哲学的であつた、即ち彼等の信仰なる者は信仰と称すべきよりは寧ろ智識と称すべきであつた、彼等が神を信ずると云ふは神を信ずるのではなくして、神に就て〔二字右○〕信ずるのであつた、子が父を信ずるの信仰ではなくして、学者が学説を信ずるの信仰であつた、「余は神を信ず」と云ふはギリシヤ人に取りては「余は神に関はる多くの命題《プロポジシヨン》を信ず」と謂ふことであつた、曰く神の存在を信ずと、曰く神の全能全智を信ずと、曰く神の仁慈を信ずと、彼等は即ち智能の働作《はたらき》を以て知り得る限り神に就て識らんと欲し、而して其智識が彼等に供せし判断を称して之を信仰と呼んだのである。

　而してギリシヤ人の手に成りし信条《クリード》なる者は此種の信仰の発表であつた、有名なるニケヤ信条の如き、疑ひもなく基督教の信仰をギリシヤ化したる者である、

　　我は全能なる父、天と地と、見ゆる者と見えざる者との、即ち万物の造主なる独一の神を信ず、又神の独子にして、万物に先だちて父より生れ、神の神にして光の光、真の神にして実の神、生れて造られず、神と同質たる主イエスキリストを信ず云々、

(273)　是れ信条の模本である、ギリシヤ文明を以て成長せし異邦の基督信者が基督教の信仰を世間に向て発表せんとして作りし謂ゆる信仰箇条なる者である、而して其、新約聖書の伝ふる信仰と全然性質を異にしたる者なることは何人が見ても明かである、是れ信仰の発表ではない、哲学的思考の陳述である、神とキリストとに対する信者の信仰の告白ではない、神とキリストとに関する信者の思想の叙述である、使徒等とギリシヤ人等とは信仰に対する心の根本的態度を異にして居つたのである。

　而してギリシャ人の此態度が今日に至るも尚ほ西洋の基督教会に存《のこ》り、又彼等の遣《おく》りし宣教師に由りて我等日本人にまで伝へられたのである、即ち各教派が拠て立つ信仰箇条なる者は是れ新約聖書的の者ではなくして、全くギリシヤ的の者である、此は其系統をクレメント、オリゲン、アタナシウス等より引く者であつて、パウロ、ペテロ、ヨハネ等より出たる者でない、「我は神に就て斯の如くに信ず、キリストに就て斯の如くに信ず、来世に就て斯の如くに信ず」と云ふは、直覚的、本能的に斯く信ずと云ふのではなくして、理論的に、回想的に斯く信ずと云ふのである、即ち此場合に於ては教派は一種の学派であつて、信者は一種の学徒であるのである、即ちキリストの愛の福音はプラトーの哲学のやうに見做され、之を旗幟となして其下に立つ者が信者と称せられたのである。

　信仰に関する思想が斯くも一変して、茲に信仰維持の名の下にすべての罪悪が敢行せらるゝの奇観が謂ゆる信徒の間に演ぜらるゝに至つたのである、信仰が心の事、愛の事たらずして、脳の事、思想の事たるに及んで、行為は全く信仰と離絶するに至つたのである、今の基督教会に於て、不信者も敢て為さゞる多くの幽暗の行為が少しの反対をも受くることなく公々然として盛んに其中に行はるゝの奇観は、是れ今日我国に於で始まりしことに非ずして、今より千八百年の昔、基督教が使徒等の手を離れてギリシヤ人の手に伝はりし時に、既に其時に始ま(274)つたことである。

　以上はハツチ氏が氏の記憶すべき此講演に於て述べたる所の大意である、余は更らに茲に教会に関する思想の変化、神学思想の発達の順序に就て語り得ざるを遺憾とする、余は三百五十三頁に渉る氏の講演の筆記の中より極くの大略を茲に述べたまでゞある。

　然れども事実誠に如斯くであるとすれば（而して其事実なるは疑ふべからずである）、茲に実際上の大問題が起つて来るのである、即ち如何にして異教化以前の基督教を地上に実顕する事が出来るか〔如〜右○〕、語を換へて言へば、　如何にして使徒時代の基督教を我等の有となす事が出来る乎〔如〜右○〕、基督教の問題にして是れよりも大なる者は無い、而して余はハツチ氏の講演を読んで氏が此問題の解決に就て大なる煩悩を感じつゝあるに気附くのである、氏はオクスフホード大学の講師である、而して氏の地位よりして、氏は赤地《あからさま》に英国の国教なる聖公会式の基督教は是れ真の基督教に非ずして、ギリシヤ人に由て異教化されたる基督教であると言ふことは出来ない、然《さ》ればとて氏は該博にして公平なる学者であれば氏は自己の学究の結果を否認することは出来ない、謂ゆる基督敦国の基督教は真正《まことただ》しきイエス並に使徒等の基督教でない異教化されたる基督教である、而して氏自身の属する英国聖公会の基督教も亦其中に在て例外ではない、然れば此「異りたる基督教」を如何にせん、之を棄つべきか保存すべきか、棄てん乎、国教会を如何《いか》にせん、保存せん乎、基督教を如何にせん、斯学の泰斗たる氏も茲に至て大なるヂレムマに遭遇したのである、余は氏の講演集を読んで氏に対して気の毒の感を懐かざるを得ないのである、氏は言ふて居る、

　　教会は敬虔の人、聖《きよ》き生涯を送らんと欲して死を決してまで熱誠なる人々の集合たらずなりぬ、其監督は政(275)治家たりぬ、其役員は此世の人たりぬ、其会員は此世の人たりぬ、彼等は社会の普通の慣例に準じて事を行ひ、同一の名称と彼等が解し得ざる信条の緩《ゆる》き紲《きづな》を以て相互に結ばるゝに過ぎざりき、

と（三四九頁）、氏の結末の言に曰く

　　仮令諸君は余を夢を夢みる者とせんも、然かも余は遠き未来の空《そら》に於て、我等と我等の子孫等とが足跡を印する地域の外の空《そら》の彼方《かなた》に於て、新たならずして旧《ふる》き、旧からずして新らしき基督教、即ち道徳的並に心霊的要素が復たび其本来の地位を保ち、人が相互奉仕の紲《きづな》を以て相結ばるゝ、神の子を結ぶべき此紲を以て相結ばるゝの基督教、即ち人類の同胞主義を実現するの基督教、其最初の団体が理想とせし基督教の、余の眼中に映ずるが如きを感ず

と（三五三頁）、是れ誠にハツチ氏に取りては希望の声であつて同時に又失望の声である、氏は氏の故国の英国に於ては、「我等と我等の子孫とが足跡を印する地域」に於ては、到底氏の理想の実現し難きを知覚したのである、然れども氏は英国以外、米国以外、然り、今日基督教国と称せらるゝ国土以外に於て氏の此理想の何時《いつ》か実現せられんことを遙かに望んだのである。

　而してハツチ氏の眼中に映《うつ》りし元始の基督教の実現地は何処《どこ》であらふ乎、アフリカ乎、或は然らん、米大陸中ロツキー山上の高原か、或ひは然らん、然り、然れども余は祈る、我日本国も亦此名誉を担ふの国たらんことを〔我〜右◎〕、英国も、米国も、独逸も、仏蘭西も、露国は勿論、新開の濠洲までが、既に旧《ふる》き異教化されたる基督教の捕捉の中にある今日、我日本は幸にして基督教に対しては未だ殆んど処女林の地位に於て在る者である、幸にして我国に在りては基督教信者と称せらるゝ者は未だ十万に過ぎない、此時に方て我等をして此国にハツチ氏の理想、然(276)り、使徒等の理想、更らに然り、イエスキリストの理想を実現せしめよ、我等をして此国に在りては欧米基督信者の糟糠を嘗むること莫らしめよ、此国に在ては我等をして単にウェスレ−、カルビン、ルーテルに帰るを以て満足することなく、直にパウロに、ペテロに、ヨハネに、然り、更らに生命の本源たるイエスにまで還らしめよ、比国に於て欧米諸国に存在する異教化されたる基督教を移植するの必要は少しも無い、我等をして此国に於て千八百年前の元始の基督教を新たに始めしめよ、イエスの福音は日本国に在りて千八百年間欧米人に由て妨遏されし其発達を再たび新たに開始すべきである、斯くして日本国の基督信者は自己を救ふに止まらず、全世界に元始の清き福音を供給する大なる責任を担ふべきである。

　

(277)　　　　　パリサイ人の偽善

　　　　　　　　　（九月十日今井館に於て述ぶ）

　　　　　　　　明治44年10月10日『聖書之研究』135号　署名　内村鑑三

　

　其時｜数多《あまた》の群衆互に相｜践合《ふみあ》ふほどに集りければ、イエス先づ其弟子等に曰ひけるは、汝等パリサイの人の麪酵《ぱんだね》に注意せよ、是れ偽善なり、然れども掩《おほ》はれて露《あら》はれざるはなく、隠れて知られざるはなし、是れと相対して、汝等が幽暗《くらやみ》に於て語りしことは光明《ひかり》に於て聞かるべし、密室に於て耳に附きて語りしことは屋根の上より宣伝《のべつた》へらるべし、路加伝十二章一−三節。改訳。

　麪酵《ぱんだね》とは主義である、精神である、パリサイの人の麪酵とは彼の主義精神である、而して其れが偽善であると云ふ、今日では偽善と云へば内の意を掩ふに外の善を以てし、内の醜を掩ふに外の美を以てする事である、而してパリサイの人にも此意味の偽善のあつた事は疑ふべくもない、イエスが彼等を罵り給ひし言辞《ことば》の中に

　　噫、禍《わざは》ひなる哉汝等偽善なる神学者とパリサイの人よ、汝等は白く塗《ぬ》りたる墓に似たり、外《そと》は美はしく見ゆれども内は骸骨《がいこつ》と様々《さま／”＼》の汚穢《けがれ》にて充つ、此の如く汝等も亦外は義《たゞ》しく人に見ゆれども内は偽善と不法とにて充つ、

とある（馬太伝廿三章廿七、廿八節）、イエスの此｜言辞《ことば》よりして当時のパリサイの人の、今日我等の間に見るが如(278)き偽善者であったことが判明《わか》る。

　然しながら偽善とは単に外の善を以て内の悪を飾ること計りではない、今日の謂ゆる偽善者のみがイエスの言ひ給ひし偽善者ではない、パリサイの人は全体に誠実の人であった、

　　彼等が神に熱心なることは我れ之を証《あかし》す

とパウロは曰ふた（羅馬書十章二節）、而かも彼等は偽善の人であつたのである、希臘《ギリシヤ》語のヒポクリテス〔八字右○〕（偽善者と訳せられし原語）は「俳優」の意である、而して俳優は舞台の上に行為を演ずる者である〔は俳優〜右○〕、即ち人に見られんと欲して事を行ふ者である、外形を重んずる人である、事業と称し、功績と称し、公衆の耳目を惹くを以て行動の第一の目的と做す者である、故にイエスは又パリサイの人に就て曰ひ給ふた、

　　彼等の行為《おこなひ》はすべて人に見られんがためにする也

と（馬太伝廿三章五節）、即ちパリサイの人は俳優の一種であつたのである〔パ〜右○〕、而して彼等の行為はすべて演劇的であつたのである、人に見られんがために、人に好く評せられんがために、今日の言辞《ことば》を以て言へば、社会の好評を博せんがために、彼等は万事を為したのである、伝道に従事せんか、彼等は信者の多きを求め、教勢の隆盛を望んだのである、天国の建設を唱へんか、彼等は地上に於ける政権の実施を期したのである、彼等は即ち宗教家であるよりは寧ろ政治家であつたのである、信仰家であるよりは寧ろ運動家であつたのである、今日の言辞《ことば》を以て言へば、彼等は手腕家であつたのである、社会に宗教の勢力を張る其技術に長じたる者であつたのである、宗教的俳優であつたのである、社会の舞台の上に立て善く信仰を演ずるの技倆を有し、以て世を自己に化するの才能を誇りたる者である。

(279)　而してイエスが特にパリサイの人を嫌ひ給ひしは是れがためであつた、而して是が故に彼は彼等をヒポクリテス即ち俳優〔二字傍点〕、即ち偽善者〔三字傍点〕と称《よ》び給ふたのである、宗教は元来心霊的の事である、是れは霊と霊との関係である、容易に外に現はすべき者でない、恰かも夫妻の間に存する愛の如き者であつて、之を人に示せば損害を被らざるを得ない者である、然るにパリサイの人は神と人との間に存する此神聖なるべき愛を世の露出物《さらしもの》と為したのである、而己ならず、之を以て自己の勢力を作らんとしたのである、宗教を政治化せんとしたのである、信仰を舞台（教壇）の上に演ぜんとしたのである、而して是れイエスに取りては耐えられない事であつた、イエスに取りては信仰は衷《うち》の事であつた、外の事ではなかつた、是れは政治問題又は社会問題となすべき性質《たち》のものではない、是れは神聖の秘密を守るべき者である、決して舞台の上に演ずべき者ではない、然るに当時の神学者とパリサイの人とは争つてイエスの最も嫌ひ給ひし此事を為したのである、故に彼は耐《こら》え得ずして幾回《いくたび》か怒つて曰ひ給ふたのである、

　　噫、禍《わざは》ひなる哉学者とパリサイの人よ

と、又弟子等に告げて或る時は

　　心してパリサイとサドカイの人の麪酵《ぱんだね》に注意せよ

と曰ひ給ひ（馬太伝十六章六節）、又或る時は

　　心してパリサイの麪酵《ばんだね》とヘロデの麪酵とに注意せよ

と曰ひ給ふたのである（馬可伝八章十五節）、サドカイの人は宗教を文明の用具として利用せんとし、ヘロデは之を政治の機関として使用せんとした、而してパリサイの人も亦、是等両党の人に傚ひ、内なるべき信仰を外なる(280)勢力と化せんとした、彼等の三者は政略を異にしたれども目的を共にした、信仰を現世《このよ》の事たらしめんとするに於ては、パリサイもサドカイもヘロデも三者同じく其の軌《き》を一にしたのである。

　故にイエスは彼の前に集《つど》ひ来りし群衆を教へ給ふに先きだち、先づ其の弟子等に教へて曰ひ給ふたのである、

　　汝等パリサイの人の麪酵《ぱんだね》に注意せよ、是れ偽善（ヒポクリシス）なり

と、即ちイエスの弟子たる者はパリサイの人の主義に則り信仰を外形的に維持すべからず、之を公衆の前に演ずべからず、数と量と威と権とに倚《たよ》るべからずとの事であつた、イエスは彼の弟子より信仰の秘密を要求し給ふた、

　　汝祈る時に偽善者（即ちパリサイの人）の如くする勿れ、彼等は人に見られんために会堂や街衢《ちまた》の隅《すみ》に立て祈ることを好む、我れ洵《まこと》に汝等に告げん、彼等は既に其｜報賞《むくひ》を得たり、汝祈る時は密《ひそか》なる室《へや》に入り戸を閉ぢて隠《かく》れたるに在ます汝の父に祈るべし、然らば隠れたるに鑒《み》たまふ汝の父は顕明《あらは》に報ひ給ふべし（馬太伝六章五、六節）。

　公開演説と云ひ、路傍説教と云ひ、是れ偽善なるパリサイの人の為した事であつて、イエスの命じ給ふた事でない、イエスはすべて演劇に類したる事は之を心より嫌ひ給ふたのである、故に彼は続いて曰ひ給ふた、

　　パリサイの人は偽善を主義とす、然れども掩《おほ》はるる者にして露《あら》はれざるはなく、又隠れたる者にして知られざるはなし、又之に反して、汝等が暗らき所に於で密《ひそ》かに語りしことは公然と明《あか》るき所に於て聞かるるに至るべし、又密室に於て耳語《さゝや》きしことは屋根《やね》の上より宣伝《のべつた》へらるるに至るべし

と、イエスは茲に特にパリサイの人の伝道法に就て語り、併せて彼の弟子たる者の取るべき伝道法に就て宜べ給ふたのである、パリサイの人は会堂や街衢《ちまた》の傍《かたはら》に立ちて声を張揚げて祈り又説教し、或ひはヘロデ党と結び、或(281)ひはサドカイの徒と和して、成るべく公けに、成るべく広く其の主張を述べて一人たりとも多くの同信の者を作らんと欲す、然れども斯く為したればとて彼等は彼等の真価より自己を貴くなす能はず、演劇は偽善なり、俳優は偽善者なり、内の真価は外の鍍金《めつき》を以て飾《かざ》る能はず、真理は特に之を広告するの必要なし、パリサイの徒は人の方法を以て神の真理を拡めんと計りで、自《みづ》から欺きて知らず識らずの間に偽善者と成れり、之に反して汝等我が弟子たる者は彼等に傚ふべからず、汝等は外に張らんとせずして、内に実《みの》らんとすべし、高壇の上に道を説かんとせずして、密室に於て人と対座して語るべし、真理は自己の広告者なり、汝にして真理を語らんか、真理は汝の手段を待たずして、独り幽暗より出て光明に輝《かゞや》き、密室より出て屋根の上より響くべし、真理は之を舞台の上に演ずるの要なし、之を幽暗に語り、密室に耳語すれば足ると、イエスは茲に如斯くに彼の弟子等に教へ給ふたのである。

　　　　　＊　　　　　＊　　　　　＊　　　　　＊

　貴きかき此教訓、是れ誠にイエスの教訓らしき教訓である、イエスは誠に如斯くに教へ給ふたに相違ない、すべての偉人は真理の確信者である、況してイエスに於てをや、イエスは真理の真価を信ずること余りに強くありしが故に、パリサイの人が政治を利用し、文明と結合し、すべての俗手段を弄して、教勢拡張に従事するを見て之を耐え難く感じ給ふたのである、イエスの立場より見て今日の謂ゆる教勢拡張運動はすべてパリサイの人の〔イエ〜傍点〕麪酵《ぱんだね》に依るものにして偽善である〔に〜傍点〕、之に従事する者はすべて偽善者である、何にも必しも悪意より之を為すが故に偽善者と称ふではない、神の真理の誤りたる評価より之を為すが故に偽善者と称するのである、即ちパウロが彼等に就て述べしが如し、

(282)　　彼等が神に対して熱心なることは我れ之を証《あかし》す、然れども其熱心は智識に由るに非ず

と（羅馬書十章二節）、茲に云ふ「智識」とは之を常識〔二字右○〕と云ふて可なりと思ふ、パリサイの人等は熱心ならざるにあらざりしと雖も常識を欠いて居つたのである、彼等は天国のことを此世のことの如くに解したのである、彼等は宗教を政治と混同したのである、彼等は信仰のことを社会問題と誤想して、其伝播の方法を全然誤りたるのである。

　而して昔しのパリサイの人に止まらない、今の宗教家も多くは此常識を欠いて居るのである、彼等が自己に常識があるかの如くに思ひて、此世の手段を以て宗教の伝播を計る其事が彼等が霊と天国の事に就て全く常識を欠いて居る証拠である。

　「幽暗に於て語りしことは光明《ひかり》に於て聞かるべし、密室に於て耳に附けて語りしことは屋根の上より宣伝へらるべし」と、然らば福《さいは》ひなるかな個人伝道、福ひなるかな宣教師が嘲けりて称《とな》ふる「火鉢伝道《ひばちでんだう》」、二人相対して神の道を語る事是れ決して小なる事業でない、是れ軈《やが》ては光明に於いて聞かれ、屋根の上より宣伝へらるゝに至る大真理の伝達である、師父スタウピッツがエルフルトの修道院の密接にルーテルと相対して語りし時に、其時に実は十六世紀の宗教大改革は始まつたのである、ウオルムスの会議に帝王、侯伯、高僧、貴顕、欧洲の華《くわ》を蒐《あつ》めたる五千の聴衆を集めたる其席上に、ルーテルが唱へし大真理は素《もと》是れスタウピッツ　密室に在りて細き声を以て彼れルーテルに伝へし者であつた、スタウピッツかルーテルか、世界歴史は伝へて言ふ、宗教改革はルーテルの事業なりと、然れども誰か知らん、天の帳簿には、スタウピッツこそ其主唱者なれと記《しる》しあらん事を、余輩はイエス御自身が密室伝道の主唱者なるを知り、大に心を安うする者である〔余〜右○〕、余輩も亦、聖書に明白に記載しあるに関は(283)らず伝道と云へば矢張り会堂や街衢《ちまた》の傍《かたほら》に立て祈り又叫ぶことであると思ふた、斯くなすは偽善者の行為であるとはイエス御自身の言を待つて始めて知ることが出来た、パリサイの人の麪酵《ぱんだね》、演劇主義、公開演説　貴顕紳士招待会、帝王の祝電、貴族を宗教運動の会頭として戴くこと、是れ皆なヒポクリシスである、偽善である、其｜虚《きよ》なること、其不実なることは遠からずして曝露さるゝに定《きま》つて居る、

　　そは人の援助《たすけ》は空しければなり

と聖詩人は繰返して言ふた、社会の賛成を求むると云ふは「人の援助を乞ふ」と云ふことである、我等イエスの弟子たる者は社会も教会も之を眼中に置かず、唯神と偕に直に人の霊魂に接すべきである。

　

(284)　　　　　〔唯一の書　他〕

　　　　　　　　明治44年10月10日『聖書之研究』135号　署名なし

　

　　　　　唯一の書

　

　書籍の数は多い、殆んど数限《かずかぎ》りない、政治の書がある、経済の書がある、法律の書がある、工学の書がある、医学の書がある、理学の書がある、文学の書がある、動物の書がある、植物の書がある、地質の書がある、鉱山の書がある、冶金の書がある、水産の書がある、農学の書がある、実に汗牛充棟《かんぎうじうとう》も啻ならざる程ある、然れども是れ皆な此地に関する書である、直径八千哩に充たざる此地球に関する書である、人類は其脳漿を絞りて広き宇宙の此一点に関して学ばんとして居るのである、彼等の智識は此地の外に出でない、唯天文の一科の此地以外の現象を究むるありと雖も、是れ亦此地を立場としての天体の研究であつて此地に関する智識の延長に過ぎない。

　而して数限りなき書籍の中に在て唯一書此地に関はらざる書があるのである、唯一書天の書があるのである、聖書のみが地を離れて天の立場より書かれたる書である〔聖〜右○〕、勿論此地に在る書であれば、地に全く関係ないではない、又地の事を語らないではない、然し其主題とする所は地ではなくして天である、地に天を知らせんとして書かれたる書である、人の言辞《ことば》を以て神の意《こゝろ》を述べたる書である、故に永久のインテレストを有つ書である、世に(285)毫末《ごうまつ》の俗味をも留めざる書とては唯此一書があるのみである、聖書のみが純然たる超俗の書である、世に之に転ぶべき書は他に一冊もない。

　然れば人たる者は何人も此書を読むの必要がある、人に不滅の生命の在る以上は、此書を措いて他に彼を此世以外に就いて教ゆる書は無い、此世の書を悉く読尽くして（其事は不可能である）彼は唯此小なる何時《いつ》か朽つべき地に就て少しく知ることが出来るに過ぎない、而して此智識は又彼の死と共に彼れ自身に取りては全く不用に帰するものである、然し聖書の伝ふる智識は之と異なる、此智識は永久の智識である、天と神と永生とに関する智識である、是れ死に近づきて益々明瞭になる智識である、而して死して後に我等をより〔二字傍点〕大なる光明に導く智識である、人類の有する広き智識を二種に類別する事が出来る、即ち地に関する智識〔七字右○〕が其一である、天に関する智識〔七字右○〕が其二である、而して此世の智識なる者、即ち大学が教へ、博士号を授くる智識はすべて悉く第一種に属する智識である、而して此智識と相対して、唯一書を以て伝へらるゝ天の智識があるのである、量と数とを以て言はんか、地の智識を伝ふる書は棟《むね》に充《み》ち牛《うし》に汗《あせ》するも尚ほ足らず、天の智識を授くる書は容易《たやす》く一手に握り得る一冊の聖書である、然れども質と価《ねうち》とを言はん乎、前者は塵《ちり》の山であつて、後者は一箇の金剛石である、

　　それ人は既に草の如く、其｜栄《さかへ》はすべての草の花の如し、草は枯れ其花は落つ、然れど主の言《ことば》は窮りなく存《のこ》るなり、而して汝等に宣伝へらるゝ福音は乃ち此言なり。彼得前書一章廿四、廿五節。

　

　　　　　日本に於ける基督教の将来（若し今日の儘にて進み行かば）

　

　日本に於ける基督教の将来は之を卜《ぼく》するに難くない、基督教は日本に於て成功するであらふ、政府の採用する(286)所となるであらふ、貴顕紳士は其家族と共に争て洗礼を受くるであらふ、監督、牧師、伝道師は政府の任命する所となり、其与ふる俸給に由て豊かに生活するであらふ、仏教の寺院は基督教の会堂と化し、其僧侶は髪を蓄へ法衣を脱してフロツクコートを着け、聖書を経文の如くに読むであらふ、而して其結果として偽善は今の教会に於けるよりも遙かに盛んに基督信者の間に行はれ、大胆に基督教に反対する者は政府と国民とに由て苦《はなはだ》しく迫害せらるゝであらふ、而して信仰の堕落は益々甚だしく、為めに誠に真理を愛し人道を貴ぶ者は基督教を棄てゝ無神論者となり、盛んに政府と教会とを攻撃するであらふ、即ち将来の日本は化して今日の伊太利、墺太利、独逸、露西亜、英国、米国の如き所謂基督教国となりて、十字の旗を翻《ひるがへ》しながらすべての非基督教的行為を敢てするであらふ、実に歎ずべきの限りである。

　余輩は之を思ふて今日の非基督的の日本に生れて、未来の基督教的日本に生れ来らざりしことを神に感謝する、政府の嫌悪、社会の反対は不快は不快であるに相違ないが、然し、キリストの名を以てする迫害に較ぶれば遙かに幸福《さいはひ》である、余輩は今はキリストの弟子として余輩の信仰を維持することが出来る、乍然、若し不幸にして百年後の基督教的日本に生れ来りしならば、余輩は自己の良心に恥ぢざる生涯を送らんがために止むを得ず基督教的信仰を棄て、米のインガーソル、英のブラッドフホードの如くに基督教の偽善に当らざるを得ないであらふ、今は決して悪い時ではない、生活の困難、社会の冷遇位ひは敢て意とするに足りない、信仰の危機は今より後に来る、日本が基督教国となりし後に来る、監督が爵位を授けられ、牧師が位階を賜はる時に来る、而して今のまゝにして進み行かば斯かる時は必ず来る、而して基督教のために最も恐るべき、又最も呪ふべき時は其時である、余輩は余輩の子孫のために其時の到らんことを甚だ憂ふるのである。

　

(287)　　　　　人と協はざる事の幸福

　

　余輩が人と協《あ》はないとて余輩を責むる者がある、洵《まこと》に人と協はない事は余輩の大なる欠点であるであらう、乍然、或る場合に於では人と協はざる事は大なる幸福である、人と協はざりしが故に、余輩は無益の戦争に賛成して取返《とりかへ》し難き損害を国家に招かなかつた、人と協はざりしが故に、余輩は政治家の利用する所となりて、宗教の名を以て基督教国に戦争の弁護を試みなかつた、人と協はざりしが故に、余輩は努めて貴顕紳士を迎へて信仰の堕落を招かなかつた、人と協はざりしが故に、余輩は外国宣教師の補助を仰ぎて我国に於ける信仰自由の発達を妨げなかつた、人と協はりしが故に、平和の歓迎せらるゝ今日、余輩は周章《あわて》て戦争の害を唱ふるが如き醜態を演ずるの必要がない、人と協はざりしが故に、余輩は外国基督信者の同情を失へる今日、伝道継続の困難を訴ふるに及ばない、人と協はざる事は余輩の場合に於ては大なる幸福であり、又大なる利益であつた、余輩は人と協はざりしことを神に感謝する、余輩は今より後も亦、神と協はんことを努めて、人と協はんことを求めざらんと欲す。

　

　　　　　平時の平和論

　

　恃むべからざる者は平和の時の平和論である、斯かる者は戦争の時には又戦争を唱ふる者である、平和は戦争の時に唱ふべきである、戦争の時の平和の一言は平和の時の平和の百万言よりも力がある、恃むべからざる者は平時の平和論である。

　

(288)　　　　　〔聖霊の証明　他〕明治44年11月10日『聖書之研究』136号　署名なし

　

　　　　　聖霊の証明

　

　縦令《たとへ》不幸は連続して我身に臨むとも其事は以て神が我を詛《のろ》ひ給ひしと云ふ証明となすに足らず、縦令我は此世のすべての人の憎む所となるも其事は以て神が我を棄て給ひしと云ふ理由となすに足らず、聖霊みづから我等の霊に証《あかし》す我等は神の子なりと、我が神の子たるは聖霊｜自《みづ》から我霊に証《あかし》する所なり、他の批評と我身の境遇との証明する所にあらざるなり。羅馬書八章十六節。

　

　　　　　而して如何？

　

　汝は汝の目的を達して此世に於て成功せりと云ふ、少しく財産を作りたりと云ふ、貴顕紳士の知遇を得たりと云ふ、少しく名を挙ぐるを得て人の称讃を博せりと云ふ、而して如何、汝と汝の造主との関係如何、汝の永生の希望如何、汝の天国に入るの資格如何、汝の俗才は長けて汝の霊智は衰へしにあらずや、汝の肉体は肥えて汝の霊魂は瘠《やせ》しにあらずや、汝は成功せりと云ふ、而して如何、嗚呼而して如何？

　

(289)　　　　　行道の福

　

　朝《あした》に道を聴て夕《ゆふべ》に死すとも可なり、然り、朝に道を行ふて〔三字右○〕夕に死すとも可なり、道を聴くは易し、悪魔も偽善者も能く道を聴くを得るなり、然れども神に恵まれたる者のみ能く道を行ふを得るなり、汝等道を行ふ者となるべし、徒《たゞ》に之を聞くのみにして自己を欺く者となる莫れと聖書は言ふ、道を行ふは大なり、我等道を行ふを得て恐れずして神の前に立つを得るなり。ヤコブ書一の廿二。

　

　　　　　強ひて治癒を要めず

　

　病《やまひ》は癒ゆるも可なり、癒えざるも可なり、癒ゆるは今暫らく此世に留まることなり、癒えざるは直にキリストの許《もと》に到ることなり、我等は終に必ずキリストの許に到るべき者なり、故に今到るも後に到るも我等に取りて多く差違あるなし、願ふ神の択み給ふ時に此世を逝《さ》りて彼の懐《ふところ》に還らんことを。腓立比書一章廿三、廿四節。

　

　　　　　人格と伝道

　

　余が自身人を救《すく》った例《ためし》は一つもない、然し余の伝ふる福音が人を救つた例《ためし》は沢山にある、依て知る人を救ふ上に於て余の品性人格は何の価値《ねうち》も無き事を、又知る福音の能力《ちから》は其宣伝者の人格如何に由て増減する者にあらざる事を、要は真正の福音を知るにある、而して之を伝ふるにある、爾うすれば我等の人格如何に由らずして、我等は多くの人を救ひ得て伝道に成功する事が出来る。

　

(290)　　　　　忍耐

　

　　汝等に必要なるものは忍耐《にんたい》なり、是れ神の旨を行ひて約束の物を受けんがためなり。希伯来書十章三十六節。

　忍耐とは唯一直線に進む事である、時を得るも時を得ざるも、人に善く称《い》はるゝも悪しく称はるゝも、社会に賛成せらるゝも、反対せらるゝも、成功するも失敗するも唯神の命維れ重んじ、右顧左眄《うこさべん》することなく、唯一直線に進むことである、忍耐は直進を要し、又時間を要す、同一の事を永く継続するを要す、単調無味の譏《そしり》は免かるべからざる所である、堅き岩に鑿《のみ》を当て努力以て之を貫かんとするのである、忍耐は頑固なるを要す、人と協《あ》はんと欲し、世に歓ばれんと欲して、忍耐を完《まつた》うすることは出来ない、忍耐の道は到底｜春野《はるの》を分行《わけゆ》くが如き快楽の道ではない。

　

(291)　　　　　豊稔《ほうねん》の歌《うた》

　　　　　　　　　詩篇第六十五篇

　　　　　　　　明治44年11月10日『聖書之研究』136号　署名なし

　

　　　　　第九節

　

　　　汝は地を見舞ひて之に灌漑《みづそゝ》ぎ給ふ、

　　　汝は大に之を富まし給ふ、

　　　神の川は水にて満つ、

　　　汝、斯く地を備へて彼等に穀物を与へ給ふ。

　神は、地を造りて、之を謂ゆる天然の法則に放任し給はず、歳毎に之を見舞ひて之に灌漑《みづそゝ》ぎ之を富まし給ふ、豊熟《ほうじゆく》は直接に神の賚賜《たまもの》なり、金波の田園に揚るは神が耕耘に携《たづさ》はり給ひしが故なり　○「神の川」は天より降る雨なり、人の穿《うがち》し溝《みぞ》の如くに水に欠乏することなし、驟雨沛然として降り、乾枯為めに蘇生す、神は斯くの如くにして地を備へ給ひて、人と畜《けもの》とに食物を与へ給ふ。

　

(292)　　　　　第十節

　

　　　汝、豊かに?《みぞ》を潤《うるほ》し、畝《うね》を平らかにし、

　　　汝、白雨《むらさめ》を以て之を軟《やはら》かにし、其萌芽を祝し給ふ。

　単《たゞ》に雨を降して全地を潤し給ふに止まらず、自から田畝に臨み給ひて其耕耘を助け給ふ、水を畦溝に注ぎ、畝《うね》の隆起を銷《けづ》り、更に白雨を降して之を軟かにし、農夫をして其上に種《うえ》しめて、植生の萌芽を助け給ふ、「我父は農夫なり」とイエスは言ひ給へり（約翰伝十五の一）、神は真《まこと》に忠実なる農夫なり、彼は植生の細事にまで携《たづさ》はり給ふ、彼は種子を護り、之を暖《あたゝ》め、之を潤し、其萌芽を見て歓んで之を祝し給ふ、彼を万軍の主と呼びまつりて宇宙の主宰とのみ見做しまつるは否なり、彼は空《そら》の鳥を護り給ひて、其一羽たりとも彼の許可《ゆるし》なくして地に隕《おつ》ることなし（馬太十の廿九）、彼は又野の百合花《ゆり》を愛し、之を飾るにソロモンの栄華の極《きはみ》の時だにも見る能はざりし装《よそほひ》を以てし給ふ（仝七の廿九）、実《まこと》に悪魔は都会を作り、神は田舎《いなか》を造り給へりと云ふ、神は涼しき樹木の蔭に在《いま》し、萌出《もえいづ》る畝《うね》の間を歩《あゆ》み給ふ、彼は農夫の心を以て種子の萌芽を祝し給ふ、祝すべきかな此神！　彼は聖殿の聖所に在して民を審判《さば》き給ふ神にあらず、?畝《けんぽ》の間に降りて畦丁《けいてい》と並《なら》び耕《たがや》し給ふ神なり。

　

　　　　　第十一節

　

　　　汝、恩恵《めぐみ》を以て年を冠《くわん》し給ふ、

　　　汝の途《みち》に膏《あぶら》滴《したゝ》る、

(293)　地を見舞ひ之に灌漑《みづそゝ》ぎ、?《みぞ》を潤し、畝《うね》を平らかにし、土を水に浸《ひた》して之を軟かにし、種子の萌芽を促し其成長を助け、其花を開かせ、其果を実《みの》らせ、而して終に豊熟の恩恵を以て一年の勤労を冠《くわん》し給ふ、戴冠は栄華の極なり、事の完成に達する、之を其加冠と称す、年は地の一期なり、而して豊熟は其｜冠冕《かんむり》なり、国王が其｜頂《いたゞき》に戴く金の冠《かんむり》に非ず、黄金色を帯びたる重き禾穀の冕なり、「目を挙げて視よ、田は熟《いろづ》きて収穫時《かりいれどき》になれり」とキリストは其弟子等に言ひ給へり（約翰伝四の三十五）、汝、年の冠冕《かんむり》を視んと欲するか、目を挙げて観よ、平野一面金砂を布くが如く、秋風其上を吹て、水ならざる海に金波の揚るを見ん、神は年毎に地を冠《くわん》し給ふ、紅葉の錦《にしき》を以て装ひ、禾穀の金冕《きんべん》を以て之を冠し給ふ、国に一人の王を挙げて民衆をして跪きて之を拝せしむるの類に非ず、?く地を冠し給ひて、万民をして各自、自由の王たるの感あらしめ給ふ、神が豊熟の恩恵を以て年に冠《かんむり》を加へ給ふ時に地は実《まこと》に「王者の国」となりて、其内に王たらざる者一人も無きに至るなり。

　年の戴冠式は挙げられて、豊稔《みのり》の神の之に臨み給ふや、車駕到る処に恩恵の膏《あぶら》滴《したゝ》る、人類の王なる真《まこと》の神は豪?にして寛厚なり、彼は惜むことなくして、すべての善物《よきもの》をすべての人に与へ給ふ、車駕?々として民の間を過《すぐ》る時に、恩恵は彼の右に滴《したゝ》れ、又其左に流る。

　

　　　　　第十二節

　

　　　其｜恩滴《したゝり》は野の牧場《まきば》を潤し、

　　　小山は歓喜を以て帯《おび》さる、

　恩恵は滴《したゝ》れて野の牧場を潤し、小山は歓喜の中に浸《ひた》さる、前《さき》には雨の水を以て潤し給ひ、今は恩恵の膏《あぶら》を灑《そゝ》ぎ(294)給ふ、低き牧場《まきば》は恩恵《めぐみ》を湛《たゝ》え、高き小山は歓喜を佩《お》ぶ、其麓に立て之を仰ぎ視れば、中腹の畑《はた》は赤く実《みの》りて錦帯を以て山を囲繞《めぐ》るが如し、年の戴冠の壮儀に遭ふて、小山は処女《おとめ》の姿《すがた》を呈し、歓喜を以て其腰を纏ふを見る。

　

　　　　　第十三節

　

　　　牧場《まきば》は羊《ひつじ》の群《むれ》を衣《き》、

　　　谷《たに》は禾穀《くわこく》を以て飾《かざ》らる、

　　　彼等は歓喜を以て相応呼《あひこた》へ相歌ふ。

　小山の歓喜を以て帯《おぴ》とするあり、又牧場の羊の群《むれ》を衣《き》、又谷の禾穀《くわこく》を以て飾らるゝあり、半群密にして団衆する所、之を丘上より望んで毛衣の牧場を被ふが如きの観あり、而して禾穀《くわこく》熟《いろづ》きて谷を?むるの所、羅裳《らしやう》の之を飾るの風《ふう》あり、斯くて小山と牧場と谷との三人の姉妹は衣裳を異にし、装飾を殊にして、歓喜を以て相｜応呼《こた》へ相歌ふ、神の地を祝し年を恵み給ひしや大なり、民の鼓腹撃壌、以て豊稔を謳ふに止まらず、小山と牧場と谷とは人の感謝に感じて相応呼して歌ふを聞く、是れ実《まこと》に豊稔の歌なり、全地が挙りて神の恩恵を謝するの声なり、願くは斯かる聖《きよ》き高き深き声の我国の野と山とより揚れかし。

　

(295)　　　　　恩恵の生涯

　　　　　　　　　腓立比書一章廿九節の研究（十月八日今井館に於て）

　　　　　　　　明治44年11月10日『聖書之研究』136号　署名　内村鑑三

　

　　そは爾曹《なんぢら》に賜ふ所の恩《めぐみ》はキリストのために第《たゞ》之を信ずること而己ならず亦之がために苦《くるしみ》を受ることをも賜ひたれば也。

　是は日本訳聖書の訳文である、然し其意味は甚だ解し難くある、今之を希臘語より直訳すれば左の如くに成る、

　　汝等には　恩恵として与へらる　キリストの故に　単《たゞ》に彼を信ずる事のみならず　亦彼の故に苦しむ事も。

　斯く訳して日本文には成らない、然しパウロの意味は斯かる文法違背の言を以てして最も能く汲取《くみと》ることが出来る、聖書は美文ではない、聖霊の能力《ちから》である、我等は福音の意義を明らかにせんがためには文法違背の譏《そしり》を恐れてはならない。

　汝等には　他の人には然らず、然れども汝等には、汝等世を離れて天国の民と成りし者には、神を信じキリストを信じ彼に由て万事を為さんと欲する者には、俗人には然らず、然れども汝等信者には。汝等は選ばれたる族《やから》、王なる祭司、聖き民、神に属ける者なりと聖書は謂ふ（彼得前二の九）、信者には信者独特の道がある、パウロが此所《こゝ》に言はんと欲する所のことは信者に就てゞある、此世の一般の人に就てゞはない。

(296)　恩恵として与へらる　信者にはすべての善物《よきもの》は恩恵として与へらる、善行に対する報賞として与へられない、信者は神の奴隷ではない、彼の子供である、即ち神の後嗣《よつぎ》にしてキリストと偕に後嗣《よつぎ》たる者である（羅馬書八の十七）、故に彼はすべての善物《よきもの》を父の愛の贈物《おくりもの》として受くる者である、彼は今は律法の支配を離れて恩恵の境涯に入りたる者である、故に彼に臨むすべての善事《よきこと》は今は恩恵として臨むのである、彼に今や己《おの》が善業《よきわざ》を以て贏得《かちう》る者とては何もない、彼の糧《かて》、彼の衣《ころも》、彼の家、彼の思想、彼の技術、然り、彼の信仰其物も今は恩恵として神より彼に賜はるのである、彼に取りてはすべての善物《よきもの》は父よりの賚賜《おくりもの》である、彼が世の人と全く異なる点は茲にある、彼は労《つと》めず、又｜紡《つむ》がない、然かも彼の天の父はすべて必需物《なくてならぬもの》を彼に賜ふのである。

　キリストの故に　信者にはすべての善物《よきもの》は恩恵として父より賜はるのである、而して彼の故に之を賜はるのではない、キリストの故に賜はるのである、信者に臨むすべての恩恵は是れキリストが彼に代り彼の為めに贏得《かちえ》し者である、神の恩恵はすべてキリストに由りキリストの故に信者に臨むのである〔神〜傍点〕、何故に爾うである乎、其事を今｜茲《こゝ》に究《きは》むるの必要はない、信者は己《おの》が実験と聖書の証明とに由て其事の事実なるを知るのである、彼は深く己れに省みて彼に神より何等の恩恵をも要求する資格の無い事を暁《さと》るのである、彼が若し神の恩恵に与からんと欲せば「キリストの故に」之を祈求《もと》むるより他《ほか》に途《みち》はないのである、信者は世の謂ゆる義人ではない、彼は神と人との前に立て「我に何の疚《や》ましき所なし」などゝ言ひて己が義を誇ることの出来る者でない、彼は自己に就てはパウロと偕に言ひ得るのみである、

　　善なる者は我れ、即ち我肉に居らざるを知る

と（羅馬書七の十八）、信者の義はキリストである〔信〜右○〕、彼はキリストを離れて何の価値《ねうち》もない者である、随《したがつ》て彼はキ(297)リストを離れて神より何物をも要求することの出来ない者である、「キリストの故に」と、「キリストの聖名《みな》の為めに」と、彼が神に捧《さゝ》ぐる祈?はすべて此辞句を以て伴はるゝのである、而してキリストの故に求むる祈?が最も力ある祈?であるのである、是れはキリスト御自身が捧げ給ひし祈?と同じ力のある祈?である、而して神はキリストの功績《いさほし》に報ひ給ふ其恩恵を以て彼の聖名《みな》の故にする此祈?に応《こた》へ給ふのである、我等は単《たゞ》に自己《おのれ》のために求めて我等の求め得ることの甚だ尠きを知る、自己のために求めて我等の神より要求《もと》め得ることは「我を潔め給へ」位いが関《せき》の山《やま》である、然しながらキリストの故に求めて我等の求め得ない事とては何にも無いのである、

　　我に求めよ、我れ異邦の民を汝に与へん

とある（詩篇二の八）、即ち万国を我に与へよとの意である、之をキリストの国となさんがために万国を我に与へ給へとの祈?である、実に大胆なる祈?である、自己のために求めて到底《とて》も口に出すことの出来ない祈?である、乍然、キリストの故に求めて決して求め難き祈願《ねがひ》ではない、神は万物をキリストに与へ給ふた、故にキリストの故に求めて我等はキリストの所有《もの》を求むるに過ぎない、我が故に求めんとすればこそ我等に多くの求め難い祈願《ねがひ》があるのである、乍然キリストの故に求めて我等に祈?の勇気〔五字右○〕が生《しやう》じて来るのである、キリストの故に此山の如き大困難を除き給へと、キリストの故に此不治の疾病《やまい》を癒《いや》し給へと、キリストの故に此罪人をして悔改めしめ給へと、キリストの故に此不信の国民を神の民と成し給へと、キリストの故に、然り、キリストの故に、信者の大胆は茲《こゝ》にある、此理由あるが故に、彼は如何なる大事をも神に要求《もと》めて怖《おぢ》ないのである、キリストは信者が以て宇宙を動かすの梃《てこ》である、神の心はキリストの故に動き、宇宙万物はキリストの故に我等の命を聴く、我等の祈?に力乏しく、其無効に終ること多きは、我等がキリストの故に祈求《もと》むる其秘訣を未だ充分に知らないから(298)である。

　彼を信ずる事　信者に臨むすべての善事《よきこと》はキリストの故に恩恵として彼に与へらるゝのである、言ふ迄もなく恩恵は無限無量である、然し其中にありて最大の恩恵と称すべき者は彼れ即ちキリストを信ずる事である、是れ恩恵の第一である、其オメガであつて其アルフハである、其｜始《はじめ》であつて其｜終《おはり》である、世に之に優さりて大なる恩恵はない、キリストを信ずる事は決して容易なる事ではない、是は教会に入り宣教師に就て基督教を学んで為し得る事ではない、信者は自己の理性に訴へて論理の強ふる所となつてキリストを信ずるに至つたのではない、世人は聞て怪むであらうが、然し、キリストを信ずる事は奇蹟である、是は水を酒に化し、五片《いつきれ》の　　麺窮《ぱん》を以て五千の人を養ひし丈けの、然り、其れよりも更らに驚くべき奇蹟であるのである、キリストを信ずる事、かの十字架に釘けられし者を我主は我理想、我救主として仰ぐに至りし事、是れ決して人間業《にんげんわざ》でないのである、是れ我より求めて為し得る事でない、人の意《おもひ》は決してキリストを人類の首長《かしら》として受けない、人間の立場より見てキリストは

　　彼は侮《あなど》られて人に棄られ、悲哀《かなしみ》の人にして病息《なやみ》を知り、又｜面《かほ》を掩《おほ》いて避くることをせらるゝ神に呪《のろ》はれしが如き者

である（以賽亜書五十三章）、然るに此｜涙《なみだ》の人、悲哀《かなしみ》を識るの人、神に呪はれしが如くに見ゆる人、此人を王の王、主の主、人類の模範、神の独子《ひとりご》として認むるに至つたのである、此事は確かに大なる奇蹟である、然り、最大の奇蹟である、而して此奇蹟を心に施《ほどこ》されし事は、此《こ》は確《たし》かに最大の恩恵である、此は我より求めて我に施されたる事ではない、此は神の無限の愛より出たる至大至高の恩恵である、キリストを信ずる事、此事は大国の帝位に即《つ》くことよりも大なる恩恵である、此事は世界第一の富者となるよりも遙かに大なる恩恵である、キリストを信(299)ずる事は大哲学者となる事、大詩人、大美術家となる事よりも遙かに大なる恩恵である、実《まこと》にキリストを信ずるを得て我等はパウロと偕に叫んで言ふのである、

　　我れ我主キリストイエスを識るを以て最も益《まさ》れる事とするが故にすべての物を損となす、我れ彼のために既に此等のすべての物を損せしかども之を糞土の如く意《おも》へり

と（腓立比書三の八）、キリストは神が人類に賜ひし最大の賚賜《たまもの》である、而して之を賜はりて我等は是れ以上の賚賜《たまもの》を要求しないのである、パウロが

　　其言ひ尽されぬ神の賜物《たまもの》に因りて我れ神に感謝する也

と言ひし其賜物はキリストである（哥林多後九の十五）、而して此賜物を我有とするを得し事、是れ最大最善最上の恩恵である。

　単《たゞ》に……而已ならず　キリストを信ずるを得し事は最大の恩恵である、然し之に加へて更らに大なる恩恵がある、単《たゞ》にキリストを信ずるを得し事、其れ丈けが既に最大の恩恵である、然るに神は之に止まらず、信者の或者には此恩恵の上に更らに恩恵を加へ給ふ、其れはキリストを信じて其上に

　彼の故に苦《くる》しむ事　である、苦しむ事必しもキリストを信ずる事の必然的結果ではない、世にはキリストを信じて苦しまない人もある、キリストを信ぜしが故に商売は昌《さか》へ、家庭は幸福に、世の信用は増して、万事万端都合甚だ宜しと言ふ人もある、謂ゆる基督教会の模範的信者なる者は大抵は如斯き信者である、立身、成功、勿論神の恩恵でないではない、或人に取りては是れ確かに甚大の恩恵である、彼等は此事ありしが故に特に神に感謝すべきである、然しながら神は或る他の人には之よりも遙かに優《まさ》れる恩恵を下し給ふ、其れはキリストを信じて其(300)結果として彼の故に苦しむ事〔キ〜右○〕である、キリストの故に迫害《せめ》らるゝ事である、世の汚穢《あくた》又｜万《よろづ》の塵垢《あか》として扱はるゝ事である、事業は悉く失敗に終り、世の信用は悉く身を離れ、骨肉の嫌ふ所、国人の憎む所となる事である、而已ならず、神を信ずると称する人にまで厭はれ、教会より逐はれ、異端の徒、無神の族《やから》として彼等に忌み嫌はるゝ事である、即ち世が視て以て不幸と做し、教会が目して以て呪詛《のろひ》と做す事を我身に於て受くる事である、是れが恩恵の上に加へらるゝ更らに大なる恩恵であるとの事である、キリストを信ずる事は最大の恩恵である、彼を信じて其の結果として苦《くる》しむ事は更らに大なる恩恵である、キリストを信じて世に愛せられずして却て憎まれ、キリストを信じて教会に納《う》けられずして却て斥《しりぞ》けらるゝ事、是れ恩恵の絶頂である、福祉《さいはひ》の至極である、神は其最も愛する者を斯くの如くにして恵み給ふのである、其最愛の独子《ひとりご》を彼の敵人の手に附《わた》し、彼をして十字架の死を味はしめ給ひし神は、又彼の愛する者をしてキリストの如くに苦《にが》き杯《さかづき》を飲ましめ給ふ、神の愛が身の苦痛として現はるゝに至て我等は特に〔二字右○〕神に愛せらるゝ者なることを知るのである、キリストの故に神より与へらるゝ恩恵の中に、彼を信じて彼の故に苦しむ事、其事が最大最終最美の恩恵である。

　苦しむ事は確かに恩恵である、我等は苦しまずしてキリストの心を知ることが出来ない、神の愛の何たる乎、キリストの救済《すくひ》の何たる乎、其深さと其広さ、是れ苦《くる》しまずして知ることの出来る事でない、聖書の深き意味と、人生の真の意義は苦しまずしては判明《わか》らない、苦痛は我等を神に繋ぎ、キリストに結ぶ唯一の綱《つな》である、是れなくして我と神との関係は至て微弱である、詩人ゲーテの言ひしが如く、神を其正体に於て拝し奉らんと欲する者は之を苦痛の聖殿に於て為さゞるべからずである。

　キリストの故に苦しむとは言ふまでもなく、キリストの〔五字傍点〕聖名《みな》の故に、彼の如くに世に苦しめらるゝ事である〔の故〜傍点〕、(301)世は永久にキリストを憎《にく》む者である、其政治家輩が時に信者を庇保《ひほ》するが如くに見ゆるは、其《そ》は決してキリストを愛するからではない、若しキリストにして世に今日現はれ給はん乎、世は挙て彼を排斥するに定《きま》つて居る、故に信者にして若し信者たるの本分を尽さん乎、彼が世の憎む所となるは必然である、彼が時に世の歓迎する所となり、政治家の庇保する所となるは、偶然《たま／＼》以て彼の不信を露《あらは》すに過ぎないのである、是れ彼の名誉ではなくして却て彼の大耻辱である、真実《まこと》にキリストを信ずれば彼の故に世に苦しめらるゝ事は信仰の通則である、信者はキリストを信じ彼と共に苦しむべき者である、彼にキリストと共通の苦難《くるしみ》ありて彼は実《まこと》にキリストの属《もの》なる事を確認するのである、苦痛なし、故に真《まこと》の信仰なし、世に苦しめられず、故にキリストの属《もの》に非ずである、此世の憎悪《ぞうを》、謗誘《ひばう》、迫害《はくがい》は信者が其身に佩《おび》る栄光の印記《しるし》である。

　然しキリストの故に苦しむとは彼の聖名《みな》の故に世に迫害《せめ》らるゝこと而已ではない、我等がキリストを人に紹介するために身に艱難を嘗《な》むることは、是れ又確かにキリストの故に苦しむ事である、キリストの福音を世に宣ぶるに方て人に最も必要なるものは同情である、而して同情は自から艱難を嘗めずして起る者でない、キリスト御自身が自から艱難を嘗め給ひて万人の救者《すくひて》となり給ふたのである、

　　彼れ自《みづ》から誘《いざな》はれて艱難《くるしみ》を受けたれば誘はるゝ者を助け得るなり

とあり（希伯来書二の十八）又

　　我等が荏弱《よわき》を想察《おもひや》ること能はざる祭司の長《をさ》は我等に有るなし、彼はすべての事に於て我等の如くに誘はれ給へり、

とある（仝三の十五）、而して我等も亦彼に代りて彼を世に紹介するに方りて彼の如くに艱難《くるしみ》を受け、人の荏弱《よわき》を(302)相察《おもひや》る其資格を作らなければならない、如斯《かくのごと》くにして信者に臨むすべての艱難はキリストの故に受くる艱難と化するのである、我れ我が愛する者を失ひしの艱難を受けん乎、是れやがては同じ艱難を受けし者にキリストの慰藉《なぐさめ》を供《そな》ふるための機会となるのであつて、我は我身に此艱難を受けて、我は他人《ひと》のために之を受け、又キリストの為めに之を受けたのである、貧《ひん》して始めて貧者《ひんしや》に同情を寄するを得べく、又｜貧《まづ》しかりしキリストの心を知るを得て、彼を彼等に紹介することが出来る、キリストを信ずる幸福の一ツはすべての艱難を彼の故に受くる艱難と化することの出来ることである〔キ〜右○〕、信者に取りては艱難は金《かね》と時間との損失ではない、使徒ペテロの言ひしが如く、我等の信仰を試みる各様《さま／”＼》の艱難は壊《くづ》る金の火にて試みらるゝよりも貴《たうと》くある、すべての艱難は同情の区域を広くする、之を以て一方にはより〔二字傍点〕深く神の心を知ることが出来る、他の一方にはより〔二字傍点〕深く且つより〔二字傍点〕広く人の荏弱《よわき》を想察《おもひや》ることが出来る、艱難は我等をより〔二字傍点〕善きキリストの僕《しもべ》となし、又より〔二字傍点〕能力《ちから》ある人の救済者《すくひて》となす、神学あり、哲学あり、深き聖書の造詣《ざうけい》ありて、艱難の実験に欠くるが故に、神をも歓ばし得ず、人をも助け得ざる者は我等の屡々目撃する所である。

　　　　　　　＊　　　　　　＊　　　　　　＊　　　　　　＊

　汝等には　此世の属《もの》ならずしてキリストの属となれる汝等には。恩恵として与へらる　すべての善物《よきもの》は愛の父よりの愛の賚賜《たまもの》として与へらる。キリストの故に　汝等の故にあらず、汝等に何の賞むべき善き事有るが故にあらず、キリストの故に、彼の功績《いさほし》の故に。彼を信ずる事　最大の恩恵は此事である、最善の賚賜《たまもの》は彼れである、キリストである。単《たゞ》に……而已ならず　此の最大の恩恵の上に更らに大なる恩恵の加へらるゝことあり、其れはキリストの故に苦しむ事である、キリストを信ずるを得て、其上に彼の故に苦しむを得て、人は神が其愛子に下し給ふ最も(303)優《すぐ》れたる恩恵に与かることを得るのである。

　　汝等には　恩恵として与へらる　キリストの故に　単《たゞ》に彼を信ずる事のみならず　亦彼の故に苦しむ事も。

　是れ偉大なる言である、誠実《まこと》の福音である、斯かる言は之を聖書を除いて他の書に於て見ることは出来ない、其一言一句が悉く奇異《ふしぎ》である、世の教ゆる所とは全く異なる、「恩恵として与へらる」と云ひ、「キリストの故に」と云ふ、是れ此世の道徳に於て決して見る能はざる教義である、「キリストを信ずる」は恩恵に因ると云ふ、是れ神学と教会と宣教師との普通に唱ふる所ではない、殊に「苦しむ事」を以て最大の恩恵と見做すに至ては、是を人の言として承くることは出来ない、斯かる言は神より出るにあらざれば決して人間の口より出《で》ない、而かもパウロはピリピ人に慰藉の書翰を書送《かきおく》るに方て、特別に努むると云ふことなくして自然に斯かる遠大の言を発したのである、聖書は果して神の言である乎否やは論理的に定《き》めることは出来ない、乍然、腓立比書の此一節の如きを能く勘考咀嚼して見て、其｜真《まこと》に人の言にあらずして神の言なる事が明白になるのである。

　

(304)　　　　　デンマルク国の話

　　　　　　　　　信仰と樹木とを以て国を救ひし話（十月廿二日今井館に於て）

　　　　　　　　明治44年11月10日『聖書之研究』136号　署名　内村鑑三

　

　　　　　　　以賽亜書三十五章一、二節

　　　曠野《あれの》と湿潤《うるほひ》なき地とは楽しみ、

　　　砂漠《さばく》は歓びて番紅《さふらん》の如くに咲かん、

　　　盛《さかん》に咲きて歓ばん、

　　　喜び且つ歌はん、

　　　レバノンの栄《さか》えは之に与へられん、

　　　カルメルとシヤロンの美《うるは》しきとは之に授けられん、

　　　彼等はヱホバの栄《さかえ》を見ん、

　　　我等の神の美はしきを視ん。

　

　今日は少し此世の事に就てお話し致さうと欲《おも》ひます。

(305)　デンマルクは欧洲北部の一小邦であります、其面積は朝鮮と台湾とを除いた日本帝国の十分の一でありまして、我が北海道の半分に当り、九州の一島に当らない国であります、其人口は二百五十万でありまして、日本の二十分の一であります、実に取るに足りないやうな小国でありますが、然し此国に就て多くの面白い話しがあります。

　今単に経済上より観察を下しまして、此小国の決して侮るべからざる国である事が判明《わか》ります、此国の面積と人口とは到底《とて》も我が日本国に及びませんが、然し富の程度に至りましては遙かに日本以上であります〔富〜傍点〕、其一例を挙げますれば日本国の二十分の一の人口を有するデンマルク国は日本国の二分の一の外国貿易を有つのであります、即ちデンマルク人一人の外国貿易の高は日本人一人の十倍に当るのであります、以て其富の程度が判明《わか》ります、或人の曰ひまするに、デンマルク人は多分世界の中で最も富んだる民であるだらふとの事であります、即ちデンマルク人一人の有する富は独逸人又は英国人又は米国人一人の有する富よりも多いのであります、実に驚くべき事ではありません乎。

　然らばデンマルク人は如何《どう》して此富を得た乎と問ひまするに、其れは彼等が国外に多くの領地を有《もつ》て居るからではありません、彼等は勿論広きグリーンランドを有ちます、然し北水洋の氷《こほり》の中に在る此領土の経済上殆んど何の価値もない事は何人も知つて居ります、彼等は又其面積に於てはデンマルク本土に二倍する水島国《アイスランド》を有ちます、然し其名を聞て其国の富饒の土地でない事は直ぐに判明《わか》ります、外に僅かに鳥毛を産するフハロー島があります、又稍々富饒なる西印度中のサンクロア、サントーマス、サンユーアンの三島があります、是れ確かに富の源《みなもと》でありますが、然し経済上収支相償ふこと尠きが故に、曾ては之を米国に売却せんとの計画もあつた位ひであります、故にデンマルクの富源と云ひまして、別に本国以外に在るのではありません、人口一人に対し世界第一の(306)富を彼等に供せし其富源は我九州大のデンマルク本国に於てあるのであります。

　然るに此デンマルク本国が決して富饒の地と称すべきではないのであります、国に一鉱山あるでなく、大港湾の万国の船舶を惹《ひ》く者があるのではありません、デンマルクの富は主として其土地に在るのであります、其牧場と其家畜と、其｜樅《もみ》と白樺《しらかば》との森林と、其沿海の漁業とに於て在るのであります、殊に其誇りとする所は其乳産であります、其｜乳油《バター》と牛酪《チーズ》とであります、デンマルクは実に牛乳を以て立つ国であると云ふ事が出来ます、トー?ルドセンを出して世界の彫刻術に一新紀元を劃し、アンデルセンを出して近世お伽話《とぎばなし》の元祖たらしめ、クリーケゴードを出して無教会主義の基督教を世界に唱へしめしデンマルクは実に柔和なる牝牛《めうし》の産を以て立つ小にして静かなる国であります。

　然るに今を去る四十年前のデンマルクは最も憐れなる国でありました、千八百六十四年に独墺の二強国の圧迫する所となり、其要求を拒みし結果、終に開戦の不幸を見、デンマルク人は善く戦いましたが、然し弱は以て強に勝つ能はず、デッペルの一戦に北軍敗れて再び起つ能はざるに至りました、デンマルクは和を乞ひました、而して敗北の賠償《ばいしやう》として独墺の二国に南部最良の二州スレスウィグとホルスタインを割讓しました、戦争は茲に終《おはり》を告げました、然しデンマルクは是れがために窮困の極に達しました、元より多くも無い領土、而かも其最良の部分を持去《もちさ》られたのであります、如何にして国運を恢復せん乎、如何にして敗戦の大損害を償はん乎、是れ此時に方りデンマルクの愛国者が其の脳漿を絞《しぼ》つて考へし問題でありました、国は小さく、民は尠なく、而して残りし土地に荒漠多しと云ふ状態《ありさま》でありました、国民の精力は斯かる時に試《た》めさるゝのであります、戦は敗れ、国は削《けづ》られ、国民の意気銷沈し何事にも手の着《つ》かざる時に、斯かる時に国民の真の価値《ねうち》は判明するのであります、戦勝(307)国の戦後の経営は何《ど》んな詰《つま》らない政治家にも出来ます、国威宣揚に伴ふ事業の発展は何《ど》んな詰《つま》らない実業家にも出来ます、難いのは戦敗国の戦後の経営であります、国運衰退の時に於ける事業の発展であります〔難〜傍点〕、戦に敗れて精神に敗れない民が真に偉大なる民であります〔戦〜右○〕、宗教と云ひ信仰と云ひ、国運隆盛の時には何の必要も無い者であります、然しながら国に幽暗《くらき》の臨みし時に精神の光が必要になるのであります、国の興ると亡ぶるとは此時に定まるのであります、何《ど》んな国にも時には暗黒が臨みます、其時之に打勝つことの出来る民が、其民が永久に栄ゆるのであります、恰かも疾病《やまひ》の襲ふ所となりて人の健康が判明《わか》ると同然であります、平常《ふだん》の時には弱い人も強い人と違《ちが》ひません、疾病《やまひ》に罹《かゝ》って弱い人は斃れて強い人は存《のこ》るのであります、其如く真に強い国は国難に遭遇して亡びないのであります、其兵は敗れ、其財は尽きて其時尚ほ起るの精力を蓄ふる者であります、此は誠に国民の試練の時であります、此時に亡びないで彼等は運命の如何に関はらず永久に亡びないのであります。

　越王｜勾践《こうせん》呉を破りて帰るではありません、デンマルク人は戦に敗れて家に還つて来ました、還り来れば国は荒れ、財は尽き、見る物として悲憤失望の種ならざるはなしでありました、「今やデンマルクに取り悪しき日なり」と彼等は相互に対して曰ひました、此｜挨拶《あひさつ》に対して「否な」と答へ得る者は彼等の中に一人もありませんでした、然るに茲に彼等の中に一人の工兵士官がありました、彼の名をダルガス（Enrico Mylius Dalgas）と称ひまして、フランス種のデンマルク人でありました、彼の祖先は有名なるフーゲノツト党の一人でありまして、彼等は一千六百八十五年信仰自由の故を以て故国フランスを逐はれ、或ひは英国に、或ひは和蘭《をらんだ》に、或ひは普露西《ぽろいす》に、又或ひはデンマルクに逃れ来りし者でありました、フーゲノツト党の人は到る所に自由と熱信と勤勉とを運《はこ》びました、英国に於てはエリザベス女王の下に其今や世界に冠たる製造業を起しました、其他、和蘭に於て、独逸に於て、(308)多くの有利的事業は彼等に由て起されました、旧《ふる》き宗教を維持せんとするの結果、仏蘭西国が失ひし多くの物の中に、彼国に取り最大の損失と称すべき者はフーゲノツト党の外国脱出でありました、而して十九世紀の末に当て彼等は未だ猶ほ其祖先の精神を矢はなかつたのであります、ダルガス、齢《とし》は今三十六歳、工兵士官として戦争に臨み、橋を架し、道路を築き、溝《みぞ》を堀るの際、彼は細かに彼の故国の地質を研究しました、而して戦争未だ終らざるに彼は既に彼の胸中に故国恢復の策を蓄へました、即ちデンマルク国の欧洲大陸に連なる部分にして、其領土の大部分を占むるユツトランド〔六字右○〕（Jutland）の荒漠を化して之を沃饒の地となさん〔の〜右○〕との大計画を、彼は既に彼の胸中に蓄へました、故に戦敗れて彼の同僚が絶望に圧せられて其故国に帰り来りし時に、ダルガス一人は其面に微笑《えみ》を湛《たゝ》え其｜首《かうべ》に希望の春を戴《いたゞ》きました、「今やデンマルクに取り悪しき日なり」と彼の同僚は言ひました、「誠に然り」とダルガスは答へました、「然しながら我等は外に失ひし所の者を内に於て取返すを得べし、君等と余との生存中に我等はユツトランドの曠野を化して薔薇花咲く所となすを得べし」と彼は続《つゞ》いて答へました、此工兵士官に預言者イザヤの精神がありました、彼の血管に流るゝフーゲノツト党の血は此時に方て彼をして平和の天使たらしめました、他人の失望する時に彼は失望しませんでした、彼は彼の国人が剣を以て失つた物を鋤を以て取返さんとしました〔彼は〜傍点〕、今や敵国に対して復讐戦を計画するに非ず〔今〜右○〕、鋤《すき》と〔右○〕鍬《くわ》とを以て残る領土の曠漠と闘ひ、之を田園と化して敵に奪はれし物を補はんとしました、誠にクリスチヤンらしき計画ではありません乎、真正の平和主義者は斯かる計画に出でなければなりません〔とを〜右○〕。

　然しダルガスは単《たゞ》に預言者ではありませんでした、彼は単に夢想家《ゆめみるもの》ではありませんでした、工兵士官なる彼は土木学者でありしと同時に又地質学者であり植物学者でありました、彼は斯くの如くにして詩人でありしと同時(309)に又実際家でありました、彼は理想を実現するの術を知つて居りました、斯かる軍人を我々は時々欧米の軍人の中に見るのであります、軍人と云へば人を殺すの術にのみ長じて居る者であるとの思想は外国に於ては一般に行はれて居らないのであります。

　ユツトランドはデンマルクの半分以上であります、而して其三分の一以上が不毛の地であつたのであります、面積一万五千平方哩のデンマルクに取りましては三千平方哩の曠野は過大の廃物であります、之を化して艮田　野となして、外に失ひし所の者を内に在りて償《つぐな》はんとするのが其れがダルガスの夢であつたのであります、而して此夢を実現するに方てダルガスの執るべき武器は唯二つでありました、其第一は水でありました、其第二は樹《き》でありました、荒地に水を〔五字傍点〕灌《そゝ》ぐを得、之に樹を植えて殖林の実を挙ぐるを得ば、それで事は成るのであります〔ぐを〜傍点〕、事は至て簡単でありました、然し簡単ではあるが容易ではありませんでした、世に御《ぎよ》し難い物とて人間の作つた砂漠の如きはありません、若しユツトランドの荒地がサハラの砂漠の如き者でありましたならば問題は遙かに容易であつたのであります、天然の砂漠は水をさへ之に灑《そゝ》ぐを得ば其れで直に沃土《よきつち》と成るのであります、然し人間の無謀と怠慢とに成りし砂漠は之は恢復するに最も難い者であります、而してユツトランドの荒地は此種の荒地であつたのであります、今より八百年前の昔には其処《そこ》に繁茂せる良き林がありました、而して降て今より二百年前までは処々《ところ／”＼》に槲《かし》の林を見ることが出来ました、然るに文明の進むと同時に人の慾心は益々増進し、彼等は土地より取るに急《きう》にして之に酬ゆるに緩《くわん》でありました故に、地は時を追ふて益々痩せ衰へ、終に四十年前の憐れむべき状態に立到つたのであります、然し人間の強慾を以てするも地は永久に殺すことの出来る者ではありません、神と天然とが示す或る適当の方法を以てしますれば、此最悪の状態に於てある土地をも元始の沃饒に返すことが(310)出来ます、誠に詩人シルレルの言ひしが如く、天然には永久の希望あり、敗壊は之をたゞ人の間に於てのみ見るのであります〔天〜右○〕。

　先づ溝《みぞ》を穿《うがち》て水を注ぎ、ヒーズと称する荒野の植物を駆逐し、之に代ふるに馬鈴薯《じやがたらいも》並に牧草《ぼくきう》を以てするのであります、此事は左程の困難ではありませんでした、然し難中の難事は荒地に樹を植ゆることでありました〔難中〜傍点〕、此事に就てダルガスは非常の苦心を以て研究しました、植物界広しと雖もユツトランドの荒地に適し其処に成育してレバノンの栄《さかえ》を呈《あら》はす樹は有るや無しやと彼は研究に研究を重ねました、而して彼の心に思ひ当りましたのは那威《のるうえー》産の樅《もみ》でありました、是れはユツトランドの荒地に成育すべき樹であることは分りました、然しながら実際之を試験《ため》して見ますると、思ふ通りには行きません、樅《もみ》は生《は》えは生えまするが数年ならずして枯れて了《しま》ひます、ユツトランドの荒地は今や此強硬なる樹木をさへ養ふに足るの養分を存《のこ》しませんでした。

　然しダルガスの熱心は之れがために挫けませんでした、彼れは天然は亦彼に此難問題をも解決して呉れる事と確信しました、故に彼は更らに研究を続けました、而して彼の頭脳《あたま》にフト浮び出ましたことはアルプス産の小樅《こもみ》でありました、若し之を移植したらば如何と彼は思ひました、而して之を取り来りて那威《のるうえー》産の樅の間に植えました時に、奇なる哉、両種の樅は相併《あいなら》んで生長し、年を経るも枯れなかつたのであります、茲に於て大問題は釈けました、ユツトランドの荒野に始めて縁《みどり》の野を見ることが出来ました、緑《みどり》は希望の色であります、ダルガスの希望、デンマルクの希望、其民二百五十万の希望は実際に現はれました。

　然し問題は未だ全く釈けませんでした、緑《みどり》の野は出来ましたが、緑の林は出来ませんでした、ユツトランドの荒地より建築用の木材をも伐り得んとのダルガスの野心的慾望は事実となりて現はれませんでした、樅《もみ》は或る程_(311)度まで成長して、其れで成長を止めました、其枯死はアルプス産の小樅《こもみ》の併植《へいしよく》を以て防《ふせ》ぎ得ましたけれども、其永久の成長は之に由て成就《とげ》られませんでした、「ダルガスよ、汝の預言せし材木を与へよ」と言ひてデンマルクの農夫等は彼に迫りました、恰かもエジプトより遁出《のがれいで》しイスラエルの民が一部の失敗の故を以てモーセを責めたと同然でありました、然し神はモーセの祈願《ねがひ》を聴き給ひしが如くにダルガスの心の叫《さけび》をも聴き給ひました、黙示は今度は彼に臨まずして彼の子に臨みました、彼の長男をフレデリック・ダルガスと称《い》ひました、彼は父の質を受けて善き植物学者でありました、彼は樅《もみ》の成長に就て大なる発見を為しました。

　若かきダルガスは言ひました、大樅《おほもみ》が或る程度以上に成長しないのは小樅《こもみ》を何時《いつ》までも大樅の側《そば》に生《はや》して置くからである、若し或る時期に達して小樅を斫払《きりはら》つて仕舞ふならば大樅は独り土地を占領して其成長を続けるであらふと、而して若かきダルガスの此言を実際に試《ため》して見ました所が実に其通りでありました、小樅は或る程度まで大樅の成長を促《うな》がすの能力《ちから》を持つて居ります、然し其程度に達すれば却て之を妨ぐる者であるとの奇態《きたい》なる植物学上の事実がダルガス父子に由て発見せられたのであります、而かも此発見はデンマルク国の開発に取りては実に絶大なる発見でありました、之に由てユツトランドの荒地挽回の難問題は解釈されたのであります、是れよりして各地に鬱蒼たる樅の林を見るに至りました、千八百六十年に於てはユツトランドの山林は僅かに十五万七千エークルに過ぎませんでしたが、四十七年後の千九百〇七年に至りましては四十七万六千エークルの多きに達しました、然し是れ尚ほ全州面積の七分二厘に過ぎません、更らにダルガスの方法に循《したが》ひ殖林を継続致しますならば数十年の後には彼地に数百万エークルの緑林を見るに至るのでありませう、実に多望と謂《いゝ》つべしであります。

　然し殖林の効果は単に木材の収穫に止まりません、第一に其善き感化を蒙りたる者はユツトランドの気候であ(312)りました、樹木の無き土地は熱し易くして冷《さ》め易くあります、故にダルガスの殖林以前に於てはユツトランドの夏は昼《ひる》は非常に暑くして、夜は時に霜を見ました、四六時中に熱帯の暑気と初冬の霜を見ることでありますれば、植生は堪《たま》った者でありません、其時に方てユツトランドの農夫が収穫成功の希望を以て種《う》ゆるを得し植物は馬鈴薯、黒麦、其他少数の者に過ぎませんでした、然し殖林成功後の彼地の農業は一変しました、夏期の降霜は全く止みました〔夏〜右○〕、今や小麦なり、砂糖大根なり、北欧産の穀類又は野菜にして、成熟せざる者なきに至りました、ユツトランドは大樅《おほもみ》の林の繁茂の故を以て良き田園と化しました、木材を与へられし上に善き気候を与へられました、植ゆべきは誠に樹であります。

　然し殖林の善き感化は之に止まりませんでした、樹木の繁茂は海岸より吹送《ふきおく》らるゝ砂塵の荒廃を止めました、北海沿岸特有の砂丘《すなやま》は海岸近くに喰止《くひと》められました、樅《もみ》は根を地に張りて襲ひ来る砂塵《すなほこり》に対して言ひました、

　　　此《こゝ》までは来るを得べし

　　　然し此を越ゆべからず

と（約百記三十八の十一）、北海に浜する国に取りては敵国の艦隊よりも恐るべき砂丘《すなやま》は戦闘艦ならずして縁《みどり》の樅《もみ》の林を以て茲に美事《みごと》に撃退されたのであります。

　霜は消え砂は去り、其上に第三に洪水の害は除かれたのであります、是れ何処《いづこ》の国に於ても殖林の結果として直に現はるゝ者であります、勿論海抜六百尺を以て最高点となすユツトランドに於ては我邦の如き山国に於ける如く洪水の害を見ることはありません、然し其比較的に少き此害すらダルガスの事業に由て除かれたのであります。

(313)　斯の如くにしてユツトランドの全州は一変しました、廃《すた》りし市邑は再び起りました、新たに町村は設けられました、地価は非常に騰貴《とうき》しました、或る所に於ては四十年前の百五十倍〔四〜右○〕に達しました、道路と鉄道とは縦横に築かれました、我四国全島に更らに一千万哩を加へたるユツトランドは復活しました、戦争に由て失ひしスレスウィグとホルスタインとは今日已己に償《つぐな》はれて尚は余りあるとの事であります。

　然し木材よりも、野菜よりも、穀類よりも、畜類よりも更らに貴き者は国民の精神であります、デンマルク人の精神はダルガス殖林成功の結果として茲に一変したのであります、失望せる彼等は茲に希望を恢復しました、彼等は国を削られて更らに新たに良き国を得たのであります、而かも他人の国を奪ったのではありません、己れの国を改造したのであります、自由宗教より来る熱誠と忍耐と、之に加ふるに大樅《おほもみ》小樅《こもみ》の不思議なる能力《ちから》とに由りて彼等の荒れたる国を挽回したのであります。

　ダルガスの他の事業に就て私は今此所に語るの時を有ちません、彼は如何にして砂地《すなぢ》を田園に化せし乎、如何にして沼地の水を排《はら》ひし乎、如何にして磽地《いしぢ》を拓《ひら》いて果園を作りし乎、是れ殖林に劣らぬ面白き物語《ものがたり》であります、此等の問題に興味を有せらるゝ諸君は直に私に就てお尋ねを願ひます。

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　今、此所にお話し致しましたデンマルクの話は私供に何を教へます乎。

　第一に戦敗必しも不幸にあらざる事を教へます〔第〜右○〕、国は戦争に負《ま》けても亡びません、実に戦争に勝て亡びた国は歴史上決して尠くないのであります、国の興亡は戦争の勝敗に因りません、其民の平素の修養に因ります、善き宗教、善き道徳、善き精神ありて国は戦争に負けても衰へません、否な、其正反対が事実であります、牢固《らうこ》たる(314)精神ありて戦敗は却て善き刺激となりて不幸の民を興します、デンマルクは実に其善き実例であります。

　第二に天然の無限的生産力を示します〔第〜右○〕、富は大陸にもあります、島嶼にもあります、沃野にもあります、砂漠にもあります、大陸の主《ぬし》必しも富者ではありません、小島の所有者必しも貧者ではありません、善く之を開発すれば小島も能く大陸に勝さるの産を産するのであります、故に国の小なるは決して歎《なげ》くに足りません、之に対して国の大なるは決して誇るに足りません、富は有利化されたるエネルギー（力）であります、而してエネルギーは太陽の光線にも在ります、海の波濤にもあります、吹く風にもあります、噴火する火山にもあります、若し之を利用するを得ますれば是等は皆な悉く富源であります、必しも英国の如く世界の陸面六分の一の持主となるの必要はありません、デンマルクで足ります、然り、其れよりも小なる国で足ります、外《そと》に拡《ひろ》がらんとするよりは内を開発すべきであります。

　第三に信仰の実力を示します〔第〜右○〕、国の実力は軍隊ではありません、軍艦ではありません、将た又金ではありません、銀ではありません、信仰であります〔七字傍点〕、此事に関しましてはマハン大佐も未だ真理を語りません、アダム・スミス、J・Sミルも未だ真理を語りません、此事に関して真理を語つた者は矢張り旧い聖書であります。

　　若し芥種《からしだね》の如き信仰あらば此山に移《うつ》りて此処《こゝ》より彼処《かしこ》に移れと命《い》ふとも必ず移らん、又汝等に能はざること無るべし

とイエスは曰ひ給ひました（馬太十七の二十）又

　　凡そ神に由て生るゝ者は世に勝つ、我等をして世に勝たしむる者は我等の信なり

と聖ヨハネは曰ひました（約翰第一、五の四）。世に勝つの力、地を征服する力は矢張り信仰であります、フーゲ(315)ノツト党の信仰は其一人を以て鋤《すき》と樅樹《もみのき》とを以てデンマルク国を救ひました、縦《よ》し又ダルガス一人に信仰がありましてもデンマルク人全体に信仰がありませんでしたならば、彼の事業も無効に終つたのであります、此人あり此民あり、仏国より輸入されたる自由信仰あり、デンマルク自生の自由信仰ありて此偉業が成つたのであります、宗教、信仰、経済に関係なしと唱ふる者は誰であります乎、宗教は詩人と愚人とに佳《よ》くして実際家と智者に要なしなどゝ唱ふる人は歴史も哲学も経済も何にも知らない人であります、国に若し斯かる「愚かなる智者」のみありて、ダルガスの如き「智《さと》き愚人」が居りませんならば、不幸一歩を誤りて戦敗の非運に遭ひまするならば、其国は其時｜倏《たちま》ちにして亡びて了ふのであります、国家の大危険にして信仰を嘲けり、之を無用視するが如き事はありません〔国〜右○〕、私が今日茲にお話し致しましたデンマルクとダルガスとに関する事柄は大に軽桃浮薄の経世家を警《いまし》むべきであります。

　

(316)　　　　　基督教と基督信者

　　　　　　　　明治44年11月10日『聖書之研究』136号　署名なし

　

　基督教は一ツではない、数多《あまた》である、基督教の数は宗教の数丈け其れ丈け多くある。一方には露国正教会がある、羅馬天主教会がある、英国聖公会がある、他の一方にはジヨージ・フホツクスのクエーカー教がある、セヲドア・パーカーのユニテリアン教がある、ゾーレン・クリーケゴードの無教会主義がある、若し前の者が基督教であるならば後の者は基督教でない、後の者が若し基督教であるならば前の者は基督教でないのである、然し二者同じく基督教であると称ふのである、此場合に於ては名は実を示す者ではない、ジヨージ・フホツクスが英国聖公会に容れられやうとは如何《どう》しても思はれない、クリーケゴードが天主教会に受けられやうとは如何《どう》しても信ぜられない、然し彼等｜何《いづ》れも基督信者なりと称するのである、茲に於てか基督教の極めて広い、且つ極めて自家撞着の教である事が判《わか》るのである。

　基督教が爾《さ》うである、基督教信者が爾うである、基督信者と称へば相互を愛する兄弟姉妹である乎のやうに思はれるが、事実は決して決して爾うでない、基督信者ほど相互を憎む者は無いのである、謂ゆる基督教国が軍備拡張に汲々として日も亦足らざるは異教国に備へんがために非ずして主として相互に備へんがためである、基督教国は屡々異教国と同盟して他の基督教国を攻めた、而して其敗退を見て喜び、公然と神に感謝した、又人が人(317)を攻むるに方ても基督信者が相互を攻むるが如く残忍冷酷の事は無い、異教徒を攻むるに至て寛大なる基督信者は同信の徒を攻むる時は残酷を極むる、是れ基督教会千九百年間の歴史の充分に証明する所である、基督信者が相互を　窘迫する時は恰かも彼等が悪魔である乎の如くに働らくのである。

　是れ実に悲むべき事である、世に憂ふべき事とて是れに優さる者はない、愛を主義とする者が相互を憎むこと甚だしいとの事である、人類の不幸にして是れよりも大なる者はない、然し是れが事実であるのである、然らば我等は失望すべきであらふ乎。

　否な爾うでない、是れが此世の此世たる所以である、基督教が相分れ、基督信者が相｜窘《くる》しめると云ふ事が以て此世の何たる乎を示して余りないのである、此世は是れ麦と毒麦とが相混同して成長する所である、執《いづ》れが麦で孰れが毒麦である乎判明し難い所である、聖書は明かに此世は斯かる所であると謂ふて居る、若し此世が斯かる所でないならば聖書は偽はりを言ふて居るのである、余輩は此世の状態を見て悲むと同時に又聖書の言の全然事実に適中するを見て非常に慰めらるゝのである。

　然らば如何にせんである、自分は神の前に自分の最善を尽すまでの事である〔自〜傍点〕、他の人より見て自分は偽善者であり、筆の信者であり、異端論者であり、基督信者でない乎も知れぬ、然し止むを得ない、唯一事は明白である〔九字右○〕、自分も亦人である〔八字右◎〕、人である以上は人として神の愛を受くる者である、自分が若し基督信者で無いとするとも、神は教会が自分を呪ふやうに自分を呪ひ給はない、教会と基督信者とが自分を嫌ふやうに神は自分を嫌ひ給はない、其れは何も自分が特別に聖《きよ》い且つ豪《えら》い人であるからではない、自分は人であるからである、一羽の雀さへ其｜許可《ゆるし》なくして地に隕《お》ちない神の護り給ふ此宇宙に人として生れ来りし以上は神の恩恵は永《とこし》へに自分にも伴ふので(318)ある、自分は縦し基督信者として神より何にも要求することが出来ずとも人として彼より多くを要求することが出来る。

　其次ぎは他人を〔七字傍点〕鞫《さばか》ない事である〔五字傍点〕、誰が信者であつて誰が信者でない乎は自分の判《わか》る事ではない、多分自分が信着と思ふ人が不信者であつて不信者と思ふ人が信者であるのかも知れない〔多〜右○〕、故に自分は信者不信者の別を立つることなく人はすべて人として〔人は〜傍点〕、即ち神の子として適当の尊敬を以て扱ふべきである。

　自分は不信者の名を着せらるゝことを少しも意に留めない、否な、反て此事を喜びとする、自分は基督信者ならざるに基督信者の受くべき特権を受けんことを恐るゝが故に籍を教会に置かず、其援助に与からんとしない、否な、寧ろ「不信者」と交はり、「罪人」の友たるを以て満足する。

　

(319)　　　　　〔祈濤　他〕

　　　　　　　　明治44年12月10日『聖書之研究』137号　署名なし

　

　　　　　祈濤

　

　祈濤は此《こ》の事｜彼《か》の事を神に祈願《ねが》ふことにあらず、そは汝等の天の父は祈求《ねが》はざる先に汝等の必需物《なくてならぬもの》を知り給へりとあれば也（馬太六の八）、祈濤は自己を祈濤の態度に置く事なり、神を我が心中の第一位に置き、自己は単に恩恵の受器となりて其祝福を仰ぐことなり、祈濤は人たる者が其の造主《つくりぬし》なる神に対して取るべき当然の態度なり、此態度に在りて彼の肉体は健全ならざるを得ず、彼の思想は明瞭ならざるを得ず、彼の行為は勇敢ならざるを得ず、彼の霊魂は高明ならざるを得ず、此祈濤の態度に在りて万物は彼の為めに働らきて善をなさゞるを得ず、祈濤は信者が神に対して採る服従の態度なり、待命の態度なり、容受の態度なり、彼は一言を発するを要せず、又一事を求むるを要せず、唯態度を改むれば足る、最高の祈　　帝は無言無求の沈黙ならざるを得ず。

　

　　　　　大事の遂行

　

　曰ふ、キリストなればこそ此事を為すを得給ひしなれ、我は之を為す能はずと、又曰ふ、パウロなればこそ此(320)事を為すを得しなれ、我は之を為す能はずと、又曰ふ、ルーテルなればこそ此事を為すを得しなれ、我は之を為す能はずと、又曰ふ、何の誰なればこそ此事を為すを得しなれ、我は之を為す能はずと、如斯くにして其人は偉大なる事、高貴なる事は一つも之を為す能はざるに至る。

　然れども彼は爾《し》か曰ふべからざるなり、彼は曰ふべきなり、キリストは此事を為し給へり、彼は又我に在りて之を為すを得べし、パウロはキリストに在りて此事を為すを得たり、我も亦彼に在りて同じ事を為すを得べし、ルーテルも亦キリストに在りて此事を為すを得たり、我も亦彼に在りて之を為し得ざらんや、何の誰も亦同じくキリストに在りて此事を為すを得たり、我も亦彼に在りて之を為し得ざるの理あらんやと、如斯くにして彼は自身為す能はざる事を、キリストに在りて　悉く為し得るに至る。

　主は曰ひ給へり、

　　誠に実に汝等に告げん、我を信ずる者は我が行《な》す所の事を行さん、且つ此れより大なる事を行すべし、そは我れ我父に往けばなり、

と（約翰伝十四章十二節）。

　

　　　　　改悔の幸福

　

　罪を犯して之を悔《くい》ざる、不幸之より大なるはなし、罪を犯して之を悔る、幸福之より大なるはなし、罪を犯して我は我が弱きを知り、同時に神の強きと其の恩恵《めぐみ》深きを識る、罪は我を柔和たらしめ又謙遜たらしめ、砕けたる悔《くい》し心の人たらしむ、罪は我をして容易に人の罪を赦さしむ、世に美《うる》はしく又愛すべき者にして悔し罪人の如(321)きはあらざる也。

　

(322)　　　　　自由独立

　　　　　　　　明治44年12月10日『聖書之研究』137号　署名なし

　

　我は政府の属《もの》に非ず、又教会の属《もの》に非ず、又会社の属に非ず、勿論自己の属に非ず、神の属《もの》なり、故に神に使はるべき者にして、人に役《つか》はるべき者にあらざる也、我れ神の忠実なる僕《しもべ》たらんと欲して自由独立の人たらざらんと欲するも得ざる也。

　

(323)　　　　　祭司とは何ぞ

　　　　　　　　明治44年12月10日『聖書之研究』137号　署名なし

　

　祭司とは白衣を着けて祭壇の前に立ち、　　蝋燭を燈《とも》し、香を焼き、祈　　蒔文を暗誦《そらん》じ、謂ゆる聖職を司《つかさど》る者ではない、是れ人の定めし祭司である乎も知らない、然し神の召し給ひし祭司ではない。

　祭司（PRIEST）とは神と人との間に介立し、神を人に紹介し、人を神に〔と〜右○〕執成《とりな》す者である〔五字右○〕、即ち神人間の中保者である、克く神の心を知り、克く人の須要《しゆえう》を知り、以て二者を繋ぐ者である、此意味に於てイエスは理想の祭司であつた、希伯来書記者の言を以てすれば、

　　彼は聖潔《きよ》くして罪なく、穢《けがれ》なく、罪人に遠《とうざ》かりて天よりも高くせられたる大祭司であつた（七章廿六節）、彼に由て神人一致の理想は実現せられたのである。

　然しながらイエス一人に限らない、すべて神を人に紹介し、人を神に導く者はイエスと同じく祭司の地位に在る者である、其の人は必しも祭司として教会に認めらるるに及ばない、監督、牧師、伝道師等の按手礼は以て人を祭司となすに足りない、イエスはレビの裔《すゑ》に非ずと雖も最も優《すぐ》れたる祭司であつた、其の如く我等も亦教会の定めたる「肉体に係《かゝ》る律法《おきて》の例《のり》に循《したが》」はずして、「神より賜はる生命《いのち》の能力《ちから》に循」ひて、真《まこと》の祭司となる事が出来る（希伯来書七章十一節併に十六節）、真の祭司は神に召されたる者でなくてはならない、即ち祭司として神(324)に造られたる者でなくてはならない、是れは人が任命し又は黜斥《ちつせき》する事の出来る者でない。

　イエスは理想の祭司であつた、而して彼の如くに神と人との間に立って二者の結合を計る者はすべて祭司の聖職に在る者である、此意味に於てすべての預言者、すべての義人、すべての聖賢は祭司であつた、ペテルの祭司アマジヤに沈黙を命ぜられし預言者アモスはアマジヤ以上の祭司であつた（亜麼士書八章十節以下）、預言者ヱレミヤを桎梏《あしかせ》に繋《つな》ぎ、彼の罪を訟へて獄《ひとや》に下せし聖殿《みや》の宰《つかさ》の長なる祭司パシユルは、実は祭司にあらずして彼に繋がれしヱレミヤこそ真の祭司であつたのである（耶利米亜記二十章）、近世の露国に於て神の心を人に伝へ、人の心を神に転向《むけ》し者にしてレオ・トルストイの如きはなかつた、露国に幾万の祭司は居るが、其一人も未だ曾てトルストイの如くに忠実に祭司の職を務めなかつた、英国に於てはトマス・力ーライルはカンターバリー大寺院の大僧正以上の祭司であつた、而かも英国々教会は勿論祭司として彼を認めざるのみならず、基督信者の名をさへ彼に附与することを躊躇する、米国に在ではクエーカー詩人のホヰッチヤル、自由の讃美者ローエル、ユニテリアン主義を以てユニテリヤン教会より放逐せられしセオド・パーカー、彼等は孰れも神人の和合一致を計りし貴むべき祭司であつた、而かも米国の諸教会は彼等を祭司として認めざるのみならず、多くは信仰上の危険人物として彼等を排斥する、勿論真の祭司は人の定めし制度や儀式に少しも頓着しない、彼等は昔時のユダヤの預言者の如くに単《たゞ》に「ヱホバ斯く言ひ給ふ」と言ふ、彼等は人の面を怖れない、彼等に唯父なる神と子なる人類とがあるのみである、彼等は二者の乖離を悲み、全力を尽して之を取除かんと欲する。

　祭司、世に貴むべき職にして之に優さる者はない、是れまことに聖職〔二字右○〕である、唯一の聖職〔五字右○〕である、神を人に紹介し人を神に携行《つれゆ》くの職、是れまことに慕ふべく、懇求《もと》むべき職である、而して如何にして此聖職に就くを得ん(325)乎と云ふに、我等は必しも神学を研究し、教会に入り、教職の課する試験に及第して、祭司の班《くみ》に入るに及ばない、人はすべて神が彼を置き給ひし其地位に在て善き祭司となることが出来る〔人〜右○〕。鋤を執る祭司、斧《おの》を揮《ふる》ふ祭司、魚《うを》を漁《すなど》る祭司、工場に働らく祭司、店頭に立つ祭司、然り、万止むを得ざる場合に於ては、書斎に筆を執る祭司、詩を作る祭司、慰藉の言を頒《わか》つ祭司、我等は孰れの地位孰れの職に在るも善き祭司となりて働らく事が出来る、先づナザレのイエスに教へられ、神の心の何たる乎を知り、其の愛であつて、恐怖でないことを識り、其の己が独子《ひとりご》をさへ惜まずして与へ給ふるほどに人を愛し給ふを識り、同時にまた自己《おのれ》を知り、己が罪を知り、之を除くの途を知り、悲痛《かなしみ》を知り、艱難《なやみ》を知り、之に由りて同情を知り、慰藉の術を知り、平和獲得の秘訣を知りて、我等何人も神と人との間に立て、神を人に紹介し、人を神に導きて祭司の聖職を果たすことが出来る、是れまことに人として最も応《ふさ》はしき職《わざ》である、人はまことに其理想に達すれば何人も祭司たらざるを得ない、儀式祭典我に在りて何かあらんやである、我はイエスに顕はれたる神の心を識り、又我が心に罪の赦免の福音を実験して、我は教会の任命を待たずして独り祭司たることが出来る。

　　然れば我等に天《そら》を通うりて昇りし大なる祭司の長《をさ》即ち神の子イエスあり、故に我等信ずる所の事を固く持《たも》つべし、そは我等が荏弱《よわき》を体恤《おもひや》ること能はざる祭司の長の我等に有るなし、彼は凡ての事に於て我等の如くに誘はれ給へり、然れども罪を犯し給はざりき、是故に我等｜矜恤《あはれみ》を受け、機《をり》に合《かな》ふ恩恵《めぐみ》を受けんために憚らずして恩寵の座に来るべし（希伯来書四章十四節以下）。

　イエスは此世の祭司の如くに威厳《ゐげん》凛々《りん／＼》として近づくべからざる者ではない、彼は我等の荏弱《よはき》は総て之を克く体恤《おもひや》ることの出来る者である、彼は最も人らしき者である、罪人の友である、肉の人の兄弟である、而して彼にし(326)て聖《きよ》き疵《きず》なき祭司の長《をさ》であるとならば、我等も亦彼の班《はん》に加はりて小なる祭司となることが出来る、レビの裔の班にあらず、監督、長老、牧師、伝道師の班にあらず、罪人の友なるイエスの班に入りて我等も亦平人の平祭司〔六字右○〕たることが出来る。

　

(327)　　　　　善悪の差別

　　　　　　　　　（十一月十二日自宅に於て）

　　　　　　　　明治44年12月10日『聖書之研究』137号　署名　内村鑑三

　

　　我は善き牧羊者《ひつじかひ》なり、善き牧羊者は羊のために其の生命《いのち》を捐《すつ》るなり、然れども被雇人《やとはれびと》は牧羊者に非ず、羊は其の有《いう》にあらざるが故に彼は狼《おほかみ》の来るを見れば羊を棄て逃《にぐ》るなり、狼、之を捉《とら》へて散《ちら》すなり、そは彼は被雇人にして其の羊を顧《かへりみ》ざればなり。約翰伝十章十一−十三節。

　善《よ》き牧羊者とは誰である乎。

　善き牧羊者とは必しも牧羊術に熟練したる者ではない、博《ひろ》く羊に就て知り、多く羊に就て語る者ではない、善き牧羊者とは能く羊を愛する者である、場合に由れば羊のために其生命を捐る者である、自己《おのれ》にまさりて羊を愛する者である、自己本位の者でなくして羊本位の者である。

　之に反して悪しき牧羊者とは羊を本位とせずして自己を本位とする者である、彼は牧畜学を修めたる農学者である乎も知れない、牧羊の術に於ては天下第一を以て称《とな》へらるゝ人である乎も知れない、乍然、羊を愛せざるが故に彼は悪しき牧羊者《ひつじかひ》である、彼は自己の利益のために羊を牧《か》ふのである、故に狼の来りて彼の身に危害を加へんとするあれば彼は羊を棄て逃《にぐ》るのである、彼は実に牧羊者の名をさへ負ふの資格のない者である、彼は単《たゞ》に(328)被雇人《やとはれびと》である、賃金のために人に傭《やと》はれて羊を守る者である、羊を愛して之を牧ふのではない、貸金欲しさに之を番《ばん》するに過ぎない。

　牧羊者《ひつじかひ》の善悪は此一事を以て定まるのである、自己よりも羊を愛する者、是れが善き牧羊者である、羊よりも自己を愛する者、是れが悪しき牧羊者である、其の学力、技芸、才能等は問ふ所でない。

　豈《あに》惟《ひと》り牧羊者のみならんやである。

　善き医師とは誰である乎、善き医師とは必しも医学の蘊奥を究めたる者ではない、治療の術に巧《たくみ》なる者ではない、善き医師とは善く患者を愛する者である、患者の利益と幸福とを第一位に置き、己が利益は之を第二位又は第三位に置く者である、己に委ねられし患者にして癒ゆるを得ん乎、己が利益も名誉も敢て之を顧《かへりみ》ざる者である、之に反して悪しき医師とは患者よりも自己を愛する者である、患者の癒《いえ》ん事よりも自己の病院の栄えん事、自己の財嚢の膨脹《ふく》れんことを欲する者である、彼に学殖ある事は以て彼を善き医師となすに足りない、彼の医術にして若し富者と貴族とのためにのみ施す者であるならば、彼は大医にあらずして庸医である、自己の腹を肥《こや》さんことのみ是れ努むる悪しき医師である、医師の善悪は牧羊者のそれと同じく、其の学力、技術、才能等を以て定むべきでない。

　善き牧師とは誰であつて悪しき牧師とは誰である乎、深く神学を究め、博く聖書に通じ、加ふるに人心収攬の術に長ずる者必しも善き牧師でない、善き牧師とは自己よりも、又自己の教会よりも、己に委ねられし神の羊即ち信者を愛する者である、場合に由れば信者のために其生命を捐る者である、即ち自己本位又は教会本位の者でなくして信者本位の者である。

(329)　之に反して悪しき牧師は信者よりも自己を愛する者である、其の神学も、其哲学も、其雄弁も、其文才も、総て悉く之を自己と自己の教会のために使用する者である、人の救はるゝと亡ぶるとは彼の深く関する所ではない、彼は只自己を人に及ぼさんとする、自己を拡大《かくだい》せんとする、彼の学殖は只此事を行ふの機関たるに過ぎない、彼は信者のために自己を失はんとしない、自己のために信者を用いんとする、如斯くにして彼にすべての素養と才能とありて彼は悪しき牧師である。

　人の善悪はすべて如斯くにして定むることが出来る、善き官吏は自己よりも自己に委ねられし職務を愛する者である、悪しき官吏は其反対であつて、職務よりも俸給を愛する者である。善き銀行家は先づ第一に株主と預金者との利益を計り、自己の利益は之を其の次ぎに置く者である、之に反して恵しき銀行家は株主と預金者との利益は措て之を顧みず、只ひたすらに自己の地位を利用して自己の利益をのみ是れ計らんとする。善き商人は顧客の利益を先にして自己の利益を後にする、悪しき商人は其反対であつて、彼の念頭に顧客の利益あるなしである。善き弁護士は訴訟依頼人を愛し、彼の権利を保護するを以て第一の目的とする、悪しき弁護士は利益の多き方に味方し、依頼人の権利は之を眼中に置かない。善き村長は自己よりも村を愛し、悪しき村長は自己の利益のために村を犠牲に供するに躊躇しない。其他すべて同じである、善は他を愛することであつて、悪は自己を愛することである〔善〜右△〕、善悪の差別は他《ほか》にない、一目瞭然である。

　神は喜者である、イエスの曰ひ給ひしが如し

　　一《ひとり》の外に善者《よきもの》は無し、即ち神なり

と（路加十八の十九）、彼は其日光を善者にも悪者にも照らし、雨を義者にも不義者にも降《ふら》せ給ふ（馬太五の四十(330)五）、神は愛である、即ち人のために自己を捐て給ふ者である、其独子《ひとりご》をさへ与へ給ふ程に世を愛し給ふ者である、故に神の子たる事は他《ほか》の事ではない、彼の完《まつた》きが如く完くなる事である、即ち彼が善《ぜん》なるが如く善なる事である、善、愛、犠牲、他《ひと》のために自己を忘るゝ事、是れが神の心である、此心を得て我等は神の子となりたるのである、基督信者となりたるのである、水の洗礼を受けて教会に入り、其すべての儀式に与りたればとて、神の此心を我心となすを得ずして、我は神の子ではない、勿論基督信者ではないのである。

　神が特に善者であるに対して悪魔は特に悪者である、主の祈　藤の一節に、

　　我等を試誘《こゝろみ》に遇《あは》せず悪〔右○〕より拯出《すくひいだ》し給へ

とあるは悪者〔二字右○〕の手より拯出し給へとの意であって悪魔を指して云ふたのである、馬太伝十三章の毒麦の讐《たとへ》に「悪鬼」とあり（十九節）、又「悪魔」とあるは（三九節）単に「悪者」と訳すべき辞《ことは》であつて、勿論悪魔を指して云ふたのである、又以弗所書六章十六節に

　　此ほか信仰の盾《たて》を取るべし、此盾をもて悉く悪者〔二字右○〕の火箭《ひや》を滅《け》すことを得ん

とある其の「悪者」とは言ふまでもなく悪魔を指して云ふたのである、又約翰第一書二章十三節並に十四節に「悪者に勝《かて》る」とあるは「悪魔に勝つ」の意である、即ち悪魔是れ悪者なりとの意である、神が善者なるに対して悪魔は悪者である、神が他者中心であるに対して悪魔は自己中心である、神は自己を人に与へんと欲し給ひ、悪魔は人を自己のために利用せんとする、

　　人の子の来るは人を役《つか》ふためにあらず、反て人に役はれ、又多くの人に代りて生命《いのち》を予《あた》へ、その贖《あがなひ》とならんためなり

(331)とはキリストの心であつて又神の心である（馬太二十の廿八）、之に反して

　　汝｜俯伏《ひれふ》して我を拝せよ、然らば我れ此等のもの（世界の諸国と其栄華と）を悉く汝に与ふべし

とは悪魔の精神である（馬太四の九）、「我に傚《なら》つて与へよ」とは神の教へ給ふ所である、「我に傚《なら》つて獲よ」とは悪魔の告ぐる所である、故に善き牧羊者《ひつじかひ》とは他《ほか》の者ではない、神に傚つて羊を愛する者である、之に反して悪しき牧羊者とは他の者ではない、悪魔に傚つて羊を牧ふ者である、善き医師は神の心を以て患者に対する者、悪しき医師は悪魔の心を以て患者を扱ふ者である、神の心を以て信者を導く者、其人が善き牧師である、悪魔の心を以て牧会の職に居る者、其の人が悪しき牧師である、神の心を以て商業に従事すれば善き商人があり、悪魔の心を以てすれば悪しき商人がある、其他すべて斯の如しである、職業の如何に由らず、智識才能の如何に由らない、イエスの曰ひ給ひしが如く

　　凡て善《よき》樹《き》は善《よき》果《み》を結び、悪《あしき》樹《き》は悪《あしき》果《み》を結ぶなり

である（馬太七の十七）、善者を牧羊者となせば善き牧羊者となり、医師となせば善き医師となり、牧師となせば善き牧師となり、商人となせば善き商人となり、弁護士となせば善き弁護士となり、村長となせば善き村長となる、之に反して悪者は之を何になすとも悪者である、悪医師、悪牧師、悪伝道師、悪商人、悪法律家、悪村長、是れ皆な悪魔の化身である、自己の利益を第一の目的として他人に臨む者である。

　善悪の差別は斯の如くに明白である、然も善を撰《えら》むは難くして悪を択《えら》むは易くある、誠に善者たらんと欲せば我等はイエスと同じく十字架を覚悟しなければならない〔誠〜傍点〕、世は善を迎へて悪を斥くる乎と思ふに其正反対が事実である、悪魔に欺かれし此世は何よりも欺かるゝことを好む、此奸悪の世に在りては善き牧羊者は悪しき牧羊者(332)の迫害する所となり、善き医師は悪しき医師の厭ふ所となり、善き牧師は悪しき牧師の憎み且つ殺す所となる、世の善を意ふて世に憎まるゝとは不思議なる事であるが然し其事が此世の此世たる所以である、故に我等此世に在りて神に傚つて善者たらんと欲せば、譏謗、排斥、迫害を覚悟しなければならない、善者の模範たるイエスを十字架に釘けし此世は今尚ほすべての善者を迫害して止まない、善き医師も、善き代言人も、善き商人も、善き農夫も、善き牧師と伝道師とは勿論、凡て神の善なるが如く善ならんと欲せば、此世と此世の教会の憎悪、排斥、迫害を免かれんと欲するも得ない、キリストは世界の基礎の据《す》えられし前より十字架に釘けられし者であつて（黙示録十三の八）又世の終末《おはり》まで殺さるゝ者である、而して我等彼に傚つて善者ならんと欲して我等各自の地位に於て小キリストたるの運命に遭遇せざるを得ない、此覚悟なくして小基督又は小善者たらんと欲するも能はずである。

　艱難《なやみ》は必ず善に伴ふて来る、然し善は善にして善以外のものでない、善は美《び》である、快《くわい》である、平和である、歓喜である、善に人の称讃は無い、然し神の嘉納がある、我等一たび善の美を味ふて死すとも之と離るゝことは出来ない、人生最大幸福は是れである、即ちキリストに傚つて自己を他《ひと》に与ふることである、悪魔が伝ふる自己拡大の途は、是れ虚偽である、永久尽きざる涙の泉である、利益なるが如くに見えて実は損失の最も大なるものである。

　

(333)　　　　　自己に関するイエスの無能

　　　　　　　　　（十一月廿六日横浜なる友人某の家に於て）

　　　　　　　　明治44年12月10日『聖書之研究』137号　署名　内村鑑三

　

　　人を救ひて己が身を救ふ能はず。馬太伝廿七章四十二節。

　是れはイエスの敵が彼に向つて放ちたる嘲弄の言辞《ことば》である、嘲弄の言辞ではあるが然し事実である、イエスはまことに人を救ひ得て己が身を救ひ得なかつたのである。

　十二年｜血漏《ちろう》を患《わづら》ひし婦《をんな》を只彼に捫《さは》りし丈にて癒《いや》し給ひし彼れ、ヤイロの死《しに》し娘を一言の下に起《おこ》し給ひし彼れ（路加伝八章）、カナンの婦《をんな》の切《せつ》なる請《こひ》に応じて其｜女《むすめ》を癒し給ひし彼れ（馬太伝十五章）、五のパンと二の魚をもて五千人を養ひ給ひし彼れ（仝十四章）、其弟子の海に溺れざらんがためには一言の下に風を止め波を静め給ひし彼れ（仝）、己を殺さんとして来りし者の耳に捫《さは》りて其傷を医し給ひし彼れ（路加伝廿二章）、其他数限りなき奇蹟を行ひ給ひし彼れイエスは今や其敵に十字架に釘けられ、民の嘲弄を身に浴びながら己を救ひて十字架より下り来ることが出来なかつたのである、民と祭司と学者とが彼を嘲けりたのも無理でない、イエスは茲に確かに己の無能を示し給ふたのである。

　而して此事たるイエスの敵の嘲弄の種であつたばかりでない、又彼の弟子の疑問の種であつた、彼は何故に此(334)時彼の大能を現はして己を救ひ給はなかつたのであるか、彼に己を救ふの能力《ちから》が無かつたのではあるまい、然らば何故に彼は此場合に於て奇蹟を行ひ給はなかつたのである乎、彼は其師を護《まも》らんとして其敵の一人の耳を削落《そぎおと》せしペテロに向つて曰ひ給ふたではない乎、

　　我れ今十二軍余の天使を我父に請ひて受くること能はずと汝等思ふ乎

と（馬太廿六の五十三）、而して此危急の場合に於て天使は彼のために現はれ、彼の敵を逐散《おひち》らして彼を十字架より取下《とりおろ》さなかつたのである、其理由｜抑々《そも／＼》如何と。

　而して此疑問に対して教会が今日まで提供し来りし解答は、斯く為さゞればイエスは贖罪の実を挙ぐることが出来なかつたからである、彼に其時と雖も己を救ふの能力が無つたのではない　彼は故意に之を使用し給はなかつたのである、即ち「聖書に応《かな》はせんために」イエスは此場合に於て其奇蹟力を使用し給はなかつたのであると。

　果して爾《さ》うであらふ乎、イエスは果して此時己に有る能力を故意に使用し給はなかつたのであらう乎、余輩は爾う思ふ事は出来ない。

　余輩は此世の善人にして克く己を忘れて他人のために尽せし人の、己のために計つて甚だ拙、自家のために行つて甚だ無能なるを見た、善人の善人たる所以は茲に在る、即ち〔善人の〜傍点〕、自己を他人のために消費し尽して自己のために何の〔自〜右△〕刺《あま》す所なきに在る〔七字右△〕、況してイエスに於てをやである、善人中の善人なるイエスが人を救ひて己を救ひ能はざりしは敢て怪しむに足りない、若し彼が他をも救ひ自己をも救ひ得しならば彼は神の子ではなかつた、愛の化身たりし彼は他《ひと》のために自己の能力を使ひ尽して己のために余す所がなかつた、彼が大能なりしは他を救ふ時に於てのみであつた、彼が自己の利益を計らんために奇蹟を行ひ給ひしとは聖書に一回も記してない、彼は全然無(335)慾であつた、而して自己の利益と安全とを計るがためには全然無能であつたらしくある。

　故に十字架に上げられし此場合に於てのみではない、彼の全生涯を通うして彼は自己のために奇蹟を行ひ給はなかつた、彼は世の志士仁人と同じく自家の家計をさへ整へることが出来なかつた、故に死に際して彼の母をさへ彼の弟子の一人に委托せざるを得なかつた、（約翰伝十九章廿六、七節）、彼に多くの肉体の兄弟があつたが、其一人も彼の生存中、彼を救主として認めなかつたより見ても、彼が他人に尽くすこと懇切《ねんごろ》にして骨肉のために尽すことの甚だ冷淡であつた事が判《わか》る、彼の郷人と兄弟とは幾回か彼に向つて曰ふたのであらふ、

　　医者よ自身《みづから》を医《いや》せ、我等の聞し所の汝がカペナウンにて行《な》せし所の事を自己の家郷《ふるさと》なる此土ナザレ）にも行すべし

と（路加伝四章廿三節）、然し斯くイエスを詰《なじ》りし彼の郷友と家人とは愛の何たる乎を知らなかつたのである、愛は自己のために尽すことを知らないのである、愛は犠牲である、自己に遠き者に篤くして自己に近き者に薄き者である、而して自己に対しては全く無能なる者である、愛とは斯の如き者である、英語の Love（愛）は Leave（去る、棄る）であるとは余輩の曾て唱へた所である（『求安録』を見よ）、普通の男女の愛に於てすら、其最も純粋なる者は此性質を佩《おぶ》る者である、親は子の病を看る時に自己を知らない、況して神が人を愛するに於てをや、キリストイエスが己《をのれ》を虚《むなし》うし給へりしと云ふは此事を云ふに相違ない（腓立比書二章七節）、神学者の謂ゆるキリストの Kenosis（虚脱）なる事は此事を云ふのであると思ふ、「虚脱」は単に栄光の虚脱に止まらない、能力の虚脱をも含む、キリストイエスは他を救はんがために神と匹《ひとし》くする所の事（栄光）を棄て給ふたに止まらず、反て己を虚《むなし》うし僕《しもべ》の形《かたち》を取り給へりとあるは、彼は自己に関しては無能無力無資格の者と成り給へりとの事であると思ふ。

(336)　「人を救ふて己を救ふ能はず」、是れイエスがキリスト即ち神の子たるの確実なる証拠である、彼に若し此事がなかりしならば彼は如何に多くの奇蹟を行ひ給ひしとするも彼は神の子でなかつたのである、他に対しては全能、自己に対しては無能〔他〜右○〕、嗚呼尊きかなイエスよ、汝は誠に神の子なり、汝は誠に愛の化身なり、汝に於て我等は始めて愛の何たる乎を見るなり、汝の敵は汝を嘲けりて汝に係《かゝ》はる最大の讃美を唱へたり、汝は実に人を救ふて己を救ふ能はざりし、故に我等は救主として汝を仰ぐなり、汝は誠に限りなく我等を救ひ得る者なり。

　イエスは斯く自己に就ては無能なりし、然らば彼の信者と称し、地上に於ける彼の代表者なりと称する教会は如何、嗚呼彼等はイエスに反し、如何に己を救ふに熱心にして他を救ふに冷淡なるよ、己の事とあれば熱心湧き、智慧立ころに生ずるに反し、他の事とあれば如何に冷淡にして、如何に愚鈍なるよ、彼等は熱心と云へば自己の教会に尽すことであると思ひ、智慧と云へば自己の利益を計ることであると思ひ、其手段方法はすべて悉く自己拡張のために講ぜらる、彼等は此世の人と共に、自己を処するに拙なる者を呼んで愚者と称し、他を倒して自己と自己の党派を起す者を呼んで智者と称し策士と称し人物と称して之を敬ひ尊ぶ、彼等のイエスと相｜距《さ》る何ぞ遠きや、イエスにして若し彼等の目の前に十字架に釘けられ給はん乎、彼等はパリサイの人、学者等と相和し、彼を詬《のゝし》り首《くび》を揺《ふ》りて曰ふならん、

　　噫、聖殿《みや》を毀ちて之を三日に建る者よ、自己《みづから》を救ひて十字架を下《お》りよ、……人を救ひて自己を救ふ能はず、

と（馬可伝十五章廿九−卅一節）、然れば我等イエスの忠実なる弟子たらんと欲する者は彼に傚ひて益々他人の事に関しては慧《さと》く自己の事に関しては拙《つたな》く、他人の事に関しては熱心溢れ、自己の事に関しては甚だ冷淡、即ち人を救ひ得て、自己を救ふ能はざる者となるべきである。

　

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(337)　　　　　附言

　

　余輩の此所説に対して聖書より反対の証拠が挙らないではない、約翰伝十章十八節に依れば、イエスはユダヤ人に告げて曰ひ給ふたとのことである、

　　我より之（生命）を奪ふ者なし、我れ自《みづ》から之を捐《すつ》るなり、我れ之を捐るの権能《ちから》あり、亦能く之を得るの権能あり、我父より我れ此命令を受けたり

と、之に由て見ればイエスは最後の真際《まぎは》に於ても尚ほ自己を救ふの能力《ちから》を有つて居たやうに見える。

　又前に引用せしイエスがペテロに告げし言に添へて左の如きがある、

　　若し然かせば（即ち十二軍余の天使を呼んで自己を救はんには）此くあるべき事を録《しる》しし聖書に如何で応《かな》はん乎

と（馬太伝廿六章五四節）、之に由て見ればイエスは聖書に示されしが如くに己が身の民の罪の贖《あがなひ》として終らんがために、己を救ふ能力を有ち給ひしに関はらず、故意に己を敵に附《わた》し給ふたのである。

　其他尚ほ反対の証拠を挙げることが出来やう。之に対して余輩の答ふる所は大略左の如くである。

　一、福音書はイエスが此世を逝《さ》り給ひてより早くして三十年、遅くして七十年後に書かれたる者であるから、其中に当時の教会の信仰を書込《かきこ》んだ所が多くある、福音書はイエスの言行録としてのみ見る事は出来ない、是れは一種の神学書である、故にイエスに就て記述するに方て、知らず識らずの間に当時の信者の信仰を書き聯《つら》ねた(338)のである、イエスの死其物を代贖的に見るに至りしは或ひはイエス御自身を以て始つたのではなくして、ユダヤ思想より全然脱出する能はざりし当時の信者の信仰に基《もとづ》いたのである乎も知れない。

　二、乍然、縦《よ》し是等の言がイエスの口より出たにもせよ、其事は以て自己に関するイエスの無能を否定するに足りない、能力に力学的《ダイナミツク》なると倫理的《エシカル》なるとがある、イエスに能力が無くして之を現はし給はざりしのであるか、或ひは能力は有りしと雖も愛の故に之を現はさゞりしのである乎、其事は外面からは判断《わか》らない、唯、彼が能力を現はし給はざりし事〔彼〜傍点〕、其事は明かである、而してイエスの如き愛を以て生命と為せし者（倫理的実在者）に取りては、愛の故に現はさざりしは現はすべきの能力が有らざりしに等しくある、愛は人をして他に対しては強からしめ、自己に対しては弱からしむる者である、愛の支配する所となりて能力は他に対する時に増進され、自己に対する時に減殺さる、故にイエスの如き愛の化身に在ては自己に対する時は、能力は有るも無きに等しくあつたに相違ない、彼に自己を救ふの能力があつた、彼は実《まこと》に神に匹《ひとし》き者であつた、乍然、彼は愛の故に之を棄てた、彼は自己を救はんがためには無能に成つた、而して無能であつたと、余輩は此く思惟することが出来る。

　イエスの意識を窺《うかゞ》ふに方て余輩の取るべき安全の方法は、聖書の此の言彼の言に由らずして、彼の生涯の全体の方針〔彼〜傍点〕に依る事である、而して之に加ふるに神の心に像《かたど》りて造られし吾人人類の意識を以てして、余輩のキリスト観は其大体に於て誤謬がないと思ふ、余輩は読者の参考までに茲に此言を附して置く。

　

(339)　　　　　幸福目的の宗教

　　　　　　　　明治44年12月10日『聖書之研究』137号　署名なし

　

　我に傚《なら》へよ、然らば汝の事業は昌《さか》ふべしと、又、我に与《くみ》せよ、然らば汝の境遇は改まるべしと、今の宗教家は人を己に招くに方に多くは肉体の利益を以てす、然れどもイエスは曰ひ給へり、若し我に従はんと欲《おも》はゞ己を棄て十字架を負ひて我に従へと、即ち知る、イエスは其弟子たらんと欲する者に幸福を約束し給はずして其反対に十字架を約束し給ひしことを、真理の報賞は幸福に非ずして艱難なり、而して終に艱難に打勝つの能力《ちから》なり、幸福を目的に人を招くの宗教の如きは敢て顧《かへりみ》るに足らざるなり。

　

(340)　　　　　神の国は能《ちから》に在り

　　　　　　　　　十一月五日自宅に於て

　　　　　　　　明治44年12月10日『聖書之研究』137号　署名　内村鑑三述（来聴者筆記）

　

　　かれら路《みち》を行ける時イエス或村に入りければマルタと云へる婦《をんな》これを迎へて自己の家に入りぬ、その姉妹にマリアと云へる者あり　イエスの足下に坐《すわ》りて其の道《ことば》を聴けり、マルタ供給《もてなし》のこと多くして心いりみだれイエスに近よりて曰ひけるは、主よ我が姉妹われを一人遺して労働《はたら》かしむるを何とも意《おも》はざるか、彼に命じて我を助けしめよ、イエス答へて曰ひけるは、マルタよマルタよ爾｜多端《おほくのこと》により思慮《おもひわづら》ひて心労せり、されど無くて叶ふまじき者は一なり、マリアは既に善業《よきかた》を選びたり、こは彼より奪《と》るべからざるものなり、（路可伝十章三十八節より四十二節まで）。

　　そは神の国は言《ことば》にあるに非ず能《ちから》に在ればなり、（哥林多前書四章二十節）。

　かれら路を行ける時。イエスが弟子と共に伝道のため此処彼処を?歴《へめぐ》つて居る問に。

　或村。エルサレムの附近のベタニヤと云ふ村であることは約翰伝第十一章を見ればわかる、此村の或家にマルタマリアの姉妹の外にラザロといふ弟があった、イエスはヱルサレムへの往復などに時々此家に立ち寄られたので、此家はイエスの休養所のやうなものであつた。

(341)　……主よ我姉妹われを一人遺して労働《はたら》かしむ。マリヤは最初から働かないでイエスに道を聴いて居たのではなく、自分の宜《よ》いと思ふ所まで働いて後、イエスの教を聴いたのである。

　マルタよマルタよ爾多の事により思慮《おもひわつら》ひて心労せり、されど無くて叶ふまじきものは一なり。此「一」といふのは教を聴くことを指したのだと一般に解せらるゝけれど之は後から附した解釈である、イエスの語に対する後人の感想である、イエスの片言隻語にも真理がある故、これを種々の事に応用して解することが出来る、教を聴くことゝ解するのも善き解釈であらうけれど、これは後人の応用である、其上斯う解釈するとイエスが「教さへ聴いて居れば宜しい働くには及ばぬ」といふたことゝなって、イエスの二人に対する態度に偏頗不公平の疑を附し度くなる。多くの事を多くの物〔九字右●〕とし、一〔右●〕を一の物〔三字右●〕とし、此二語を対照して考へ、無くて叶ふまじきもの〔無〜右●〕を必要なるもの〔必〜右●〕と直すとよくわかる、多くの物〔四字右●〕は多くの品である、幾皿《いくさら》もの馳走である、一の物〔三字右●〕は一品の馳走である、一皿である、多分マリヤは僅かの馳走を準備しただけで充分と思つてイエスの足下に来たのであらう、然るにマルタは沢山の馳走をしなければならぬと思つて、一人で気をもんで一人で働いて居たのである、故にイエスはマルタに向つて、多くの馳走を備へやうと苦慮するに及ばぬ、馳走は一皿で充分であると云はれたのである。かう解する方が自然的の解釈で正しいと思ふ、即ち之は日常応待の言で自然と口から出た普通の語である、イエスが不用意の間に、自然的にかう云はれたので、説教をする積りで云はれたのではない、同時に又此語に由てイエスの日常の生活の如何に簡易であつた乎が解かる、彼に取ては食事は一時に一品で足りたのである、イエスの語は成るべく辞義なりに自然と解するが宜い、但し吾々がかゝるイエスの片言隻語によつて大なる真理を教へらるゝことのあるのは自ら別問題である。

(342)　マリアは既に善業《よきかた》を選びたり。善業とはイエスの教を聴くこと、云ひ換へればイエスより馳走を受くることである、「イエスへの〔二字右●〕馳走」は一皿で沢山である、之れは軽いことである、大切なのは、「イエスよりの〔三字右●〕馳走」である、霊の馳走である、真理の皿である。

　此話には二人の婦人の性質が対照的に鮮かに表れて居る、此二種類の性質については吾々は充分に考へなくてはならぬ、併しそれよりも大切なことはイエスの言語及び態度である、福音書はイエスの伝記である故常にイエスが中心である、どの所に於ても吾々はイエスの言行に最も重きを置て見、主としてそれについて考へねばならぬ、此一小話にも万事に対するイエスの精神イエスの態度が明かにあらはれて居る、従て又吾々の万事に対して抱くべき精神、執るべき態度、即ちイエスの吾々に要求し給ふ精神態度が明かに表はれて居るので、よく考へて見て教へらるゝことが多い、勿論イエスは吾々を教へるためにかゝる語を述べられたのでなく、唯マルタに対して自然的の返答をしたのであるが、かゝる一小事にも真理は自ら発せられて居るのである、それ故此一小話と雖も、万事に関係する大切な問題の解決を含んで居るのである。

　一小事、一短語にも人の主義方針はよくあらはれるものである、故に人の伝記などに於ても、吾人に最も興味のあるのは其華かな社会的活動や外面的生涯の叙述ではなく、却て其逸事とか短言とかいふものである、従て家庭生活の有様や友人への書翰などが面白いので、之等比較的軽いことがむしろ其人を能く紹介するのである、イエスの伝を研究するには此マルタ、マリアの話のやうなものに充分注意せねばならぬ、約翰伝の四章にあるサマリヤの婦人《をんな》の話のやふなのも同様である。

(343)　マルタは勝気《かちき》な活動的な婦人であつて自分でイエスを迎に出て（三十八節）連れ来つて充分の馳走をしやうと一所懸命に働いた、之には客を充分喜ばせ度いといふ願も含んで居るが、其外にも一つ沢山の馳走を出して自分も賞められ度い即ち「自分をも喜ばせ度い」と云ふ私欲も交つて居る、そしてどちらかと云へば、賞められて自分を喜ばせる方が主である、他愛心の二分に自愛心の八分を合せたやふなものである、客の方が主でなくて自分の方が主である、これは勝気の婦人によくあることで東西古今に変りはない。

　マリアはマルタよりも静淑《しとやか》な深い婦人である、そしてイエスの如き人を接待《もてな》す場合に於ては、自分等より充分の馳走をすべき者でなくて客なる人より充分の馳走を受くべきものであることを知つて居た故、イエスより馳走を受けんと其足下に行つたのである、そして姉の不平を訴へたのに対して、イエスは活動するマルタよりも活動せぬマリアを良しとした、之れは吾々に何を教うるか。

　世にキリストに仕へんとの熱心を抱く人で、所謂活動を貴び、余り計画手段に訴へ過ぎて、衷心に深く味はないで、伝道とか事業とか云ふことを有形的に行ふことに腐心し、早く立派な結果を造り出してキリストを喜ばせやうと計る人がある、かう云ふ人の常として自分を喜ばせ自分で成功を楽み度いといふ私欲心を抱き、遂に欲心の奴隷となり、為に慮ひ煩ひ心労れ、偶々事予期に反するや絶望悲嘆に陥るものである、姉のマルタは此類の人であつた。又キリストに仕へるに、活動せず計画せず運動せず奔走せず、自力を以てキリストを喜ばせんとはしないで、先づ静かに教を聴き之を味ひこれより力を得やうとする人がある、マリアは此種の人であつた、そしてイエスはマリアの態度を可とせられた、即ち此方からキリストに馳走をするのでない、キリストから馳走を受けるが良いのである。

(344)　新約聖書の大精神は行を貴ばないで信仰を貴む点にある、殊に之を細説したのは羅馬書である、行に止まつて居る中は煩悶を免れぬ、信まで来なくては歓びは得られぬ、道徳は第二義のことで信仰は第一義のことである、イエスがマリアを可とせられたのは物の根源を貴ばれたのである。

　ヨハネが主の愛する弟子（約翰伝十三の二三）であつたのは、元気?溂たる活動家のペテロよりも静かに道を聴いて飢ゑ渇くごとく救済《すくひ》を願つたヨハネの方が主の喜ぶ所であつたからである、唯温順な弟子を愛したと云ふわけではない、能く云ふことを聞くものが気に入つたといふわけではない、之に深い意味がある。

　宗教を求むる態度に二種ある、一は知識的研究的の態度で一は実際的信仰的の態度である、知識的の宗教研究も面白いもので、近頃「宗教研究」と云て流行するのは多く之である、併し広く材料を集めて諸種の方面より哲学的知識的に研究するのは快は則ち快なりと雖も、単なる知の快楽を得たのみで、丁度亜米利加で金が儲かるといふ話を沢山聴いたゞけで実際亜米利加へは行かず、自《みづ》からは金を儲けぬと同様である、斯ふすれば安心が得られる、斯ふすれば歓喜の人となれるといふことを知つたゞけで、一向自己の事実とならぬのである、唯美しい夢を見せられたゞけで、空想である、充たされぬ望である。

　第二の態度は事実の信仰を求むるので、願ふ処は暗中の光明、苦中の力である、そして之がヨハネの態度、マリアの態度であつた、言語を以て慰めらるる丈の第一の態度では満足しないで能《ちから》を求るのである、パウロが「神の国は言《ことば》にあるにあらず、能《ちから》にあり」と云つたのは第一の態度を貶して第二の態度を可としたのである。

　多くの教会の与うるのは第一の方の「言《ことば》」である　説教である、種々の儀式である、形で慰めることである、しかし貧人の要するものは慰藉の言〔右△〕でなくて慰藉の実〔右▲〕である、今日の糧に吉むものには言を与へても無効である、(345)実を与へねばならぬ、我等は能《ちから》を要する。

　マリアは心を拓《ひら》いてイエスの足下に坐した、我等も能を得るには心を拓いて主に迫らねばならぬ、一度び心を拓けば能《ちから》は上より加へられる、マルタ――活動を愛する人、活動を愛する教会、活動を愛する社会――は此事を知らないで自分の力で一生懸命に活動しやうと?《もが》き苦む、しかし自己を放つて宇宙に任せば活動せる宇宙の一部となって自《おのづか》ら活動を開始するのである、丁度徒歩で遠地に達するのは困難であるが、一度び進行して居る汽車に我身を投ずれば、我も自づと進行して、容易く目的地に達すると同様である。

　此世の教会は計画を好み手段を愛し、種々の方法を案出して之を実行し、神の事業を助けやうとする、併し私は唯神に任せてしまつて神の活動の一部となつて自然的に活動することが真の信仰的生涯であると思ふ、真の力の生涯であると思ふ、即ち神に己れを投じて力に充つる一個体となることが最も必要である、我等はイエスの力の一部に触れたのみである、其力の中に投入してしまはねばならぬ、「我父は今に至るまで働き給ふ、我も亦働く也」（約五の十七）、此「働」きの中に己を入れてしまはねばならぬ、イエスは力に充ち／＼て居た故人は之に触れた丈で医されたのである、吾等も亦自己の力に依つて活動しないで、大なる力の中に投じて自ら力あるものとなつて、自ら活動体の一部とならねばならぬ。

　而して、之れには先づマリアの態度ヨハネの態度を学ぶべきである。

　

(346)　　　　　恩恵と永生

　　　　　　　　明治44年12月10日『聖書之研究』137号　署名なし

　

　神の恩恵は大にして広し、此地を以て限らるべき者に非ず、延びて万有に到り、引いて永遠に達すべき者なり、此地は大なりと雖も、以て神の恩恵を悉く容るゝに足らず、此地以外に尚ほ之を施すの所なかるべからず、無限の恩恵は無限の生命を証す、我は此短かき生涯に於て神の恩恵を受け尽す能はざるを知りて、我がために尚ほ之を享くるの時と所との存するあるを識る、永生の証明は恩恵の無尽に在り。

　

(347)　　　　　クリスマス演説

　　　　　　　　明治44年12月10日『聖書之研究』137号　署名　内村鑑三

　

　　其の言尽されぬ神の賜物に因りて我れ神に感謝する也。哥林多後書九章十五節。

　今度も復た久振りにてクリスマス演説を致さうと欲《おも》ひます、別に新らしい事を述《のぶ》る事は出来ますまい、旧《ふる》い事の繰返《くりかへ》しでありませう。

　天地万物はすべて悉く神の恩恵の賜物であります、然かし其中にありて最も貴いものは言ふまでもなく人であります、人の中で最も貴い者は言ふまでもなくキリストと称へられしナザレのイエスであります、私供は星に就き、太陽に就き、月に就き、山に就き、川に就き、花に就き、鳥に就きて神に感謝し、又神が人類に下し給ひし多くの偉人に就て感謝しまするが、然し言尽《いひつく》されぬ神の賜物《たまもの》として感謝に感謝を重ぬるも尚ほ足らずと思はるる者は私共の救主として仰ぐ所のナザレのイエスであります、彼の如何に貴き乎は私共の生涯を顧み、又世に彼を識らざる者の生涯に照らして見て益々明白になるのであります。

　私共は天然は美《び》なりと称《しよう》します、宇宙は偉《ゐ》なりと称します、人生は快《くわい》なりと称します、乍然、其の美、其大、其快は単に浮雲の如き者でありまして、衣の如くに古《ふる》び、袍《うわぎ》の如くに変る者なることは詩人の言を待たずして明かであります、天然の美は唯肉眼で之を見た丈けで見える者ではありません、野蛮人は終生｜美《うつ》くしき天然を見て(348)居りましても其美を認めません、天然の美を認めまするには、之を認むるの心が要ります、同じ富士山でも見る人々に由て様々《さま／”＼》であります、大底の人は夜々《よな／＼》穹蒼《おほぞら》の下を歩《ある》きましても、彼等の頭《あたま》の上に何《ど》んな冕《かんむり》が輝《かゞや》いて居る乎を知りません、帝王の宮殿も乞丐《こつじき》の子に取りては多く茅舎《ばうしや》と異なりません、天然を身の揺《ゆる》ぐばかりに楽まんと欲すれば、之を楽むの心が要ります、天然丈けでは未だ以て神の大なる恩恵の賜物となすに足りません、王の子たるの資格を与へられずして宮殿は有りて無きが如き者であります、此静かなる冬の夕暮《ゆうくれ》、金星西に輝き、弦月《げんげつ》其上に懸《かゝ》り、一葉落ちて、其｜音《おと》全林に響き渡る時に、地上に天国の在るを知る者は天然以外に何か大なる恩恵の賜物に与《あづか》つた者であります。

　然らば智識あり、哲学あり、詩歌あり、美術あればそれで人生が楽しめる乎と云ふに決してさうでありません、私共は時には人類は人類を以て足れりと思ひます、我に釈迦あり、孔子あり、エマソンあり、カーライルあり、トルストイあり、ニイチエあり、ビスマルクあり、モルトケあり、豈他を要せん乎と言ふことがあります、実《げ》にも人類は偉大なる者であります、其政治、其法律、其文学、其宗教、其商売、其工業、之を悉く綜合すれば以て我霊を充たし得て余りありと思はるゝことがあります、文明を罵る者は生存競争の失敗者であつて、克《よ》く人生を味ひ得る者は是れ以外に楽園を求めざるべしとは此世の謂ゆる幸運児が時々、私共に聴かする説教であります。

　然し、人生が左程に完全の者でないことは少しく深く之を味へば直《す》ぐ分《わか》るのであります、世に憐むべき者にして謂ゆる成功者の傲語《がうご》の如きはありません、今日《けふ》は得意《とくい》、明日《あす》は蹉跌《さてつ》、明後日《あさつて》は絶望、其後が厭世《えんせい》、其行く先きは定《きま》つて居ります、常に隆盛を唱へて常に悲歎、野心勃々たる下には死の氷河が流れて居ります、若し文明と偉人と、交際と文芸と、政治と実業とが人生の全部《すべて》でありまするならば、少しく真面目に人生を考ふる者は匕首《あひくち》か(349)ら毒杯《どくはい》に往くより他に良き隠れ場を看出《みいだ》すことは出来まいと思ひます。

　茲に於てか私共に特に神に感謝すべき言ひ尽されぬ神の賜物とは何であるかゞ判《わか》るのであります、それは金銀に非ず、宝石に非ず、アマゾンの平原に非ず、ロッキー山の鉱脉に非ず、将た又電車にあらず、汽車汽船に非ず、憲法に非ず、教会にあらず、然らば人が敬崇して止まざる数多《あまた》の偉人である乎と云ふに、さうでもありません、私共は各自他に依頼することなく、己れ一人を以て足ることの出来る者を要するのであります〔私〜右○〕、美術の思想なき者にラフハエルやレムブラントは不用であります、エマソンとカーライルは如何に偉大でありましても、日本人の多数には有て無きに等《ひと》しき者であります、建国の野心なき者にビスマルクやモルトケは無きも同然の者であります、カントと云ひ、スピノーザと云ひ、フィヒテと云ひ、其真価を判別《わか》る者は幾人《いくたり》もありません、湘南の海風は暖かなりと雖も、之に吹かれて冬の寒さを忘るゝ者は少数の貴族と富者とであります、金剛石は美なりと雖も、其美を嗜《たしな》み得る者は少数の淑女と貴婦人とであります、神の最大の賜物とは斯かる偏跛《へんぱ》的の物であつてはなりません、すべての人をすべての境遇に於て恵む者でなくてはなりません〔すべての人〜右○〕、而して斯かる者が私共に与へられたのであります、

　　　一人《ひとり》の嬰児《みどりご》は我等のために生れたり、

　　　一人の子は我等に与へられたり、

と預言者イザヤの宣《の》べました者は此者であります。

　イエス、彼が神が人類に賜はりし最大の賜物であります〔彼〜右○〕、此人が在りて人生が一変するのであります、然り、此人が在りて無言の天然までが其真美を発揮《はつき》するのであります、此人を看出《みいだ》して私も亦生れて甲斐あることを知(350)つたのであります、イエスは山の桜に優《まさ》り、谷《たに》の百合花《ゆり》に優り、ダンテの詩に優り、シェクスピヤの劇に優りて遙かに美《うつ》くしい者であります。

　何故《なぜ》であります乎、彼が真《まこと》に人であつたからであります、世界に十二億の人がありますが、彼等を合はしても「人」、即ち完全なる人にはなりません、世の謂ゆる偉人なる者は人でなくして人の諸方面であります、或ひは政治家であります、或ひは宗教家であります、或ひは美術家であります、或ひは詩人であります、或ひは実業家であります、或ひは教育家であります、然し「人」ではありません、宇宙広しと雖も私共はイエスを除いて他に人に見当らないのであります、イエスを裁判《さば》きしピラトは自《みづ》から何を言ふ乎を知らずして彼を指して言ひました、

　　人を観よ〔四字右◎〕

と（約翰伝十九章五節）、実にピラトの言ひし通り茲に「人」があつたのであります、世に多くの偉人はありました、英雄はありました、豪傑はありました、美姫はありました、才媛はありました、然し茲に始めて唯一人、「人」があつたのであります、曾て曾呂利《そろり》新左衛門が太閤秀吉に答へて、

　　世に最も多き者は人であつて、最も尠き者は人である、

と言ひしとのことでありますが、誠に人と称すべき人はイエス一人であつたのであります、此人のみが人であります、而して此人に傚《なら》つて私共も始めて人と成ることが出来るのであります。

　然らば人とは何であります乎、希臘《ぎりしや》の哲学者の曰ひしやうに「羽《はね》の無《な》い二本足《にほんあし》の動物《どうぶつ》」、其れは人ではありません、太閤秀吉も西郷隆盛も、人と云ふ定義には合入《はま》りません、人たるには野心なく、我心《がしん》なく、聖《きよ》く、罪なく、穢《けがれ》なく、人の中に在りて人に遠《とうざ》かり、他を救ふて己れを救ひ得ざる強くして弱い者でなければなりません、而し(351)て斯かる人はイエスを除いて他に一人もなかつたのであります、而して斯かる人が一人此世に現はれたと云ふ事、其事が此世の最大事件であります、是れはシーザーが生れたよりも、彼の文星、此の軍神が世に出たよりも、遙かに祝すべき大事件であります。

　私は今他人の事に就ては語りません、自分の事に就て語ります、若し私がイエスを知りませんでしたならば如何《どう》でありましたらふ、或ひは、若し私は世に生れて来ましても、若しイエスが曾て此世に在りませんでしたならば如何《どう》でありましたらふ、私は勿論普通の日本人としての生涯を送つたらふと思ひます、私は忠君愛国の精神に於ては人の背後に落なかつたらふと思ひます、私は新文明の利益を充分に自己《おのれ》に収めたらふと思ひます、私は決して此世に在りて不幸の人ではなかつたらふと思ひます、然しながら、嗚呼、然しながら、私の理想は如何でありましたらふ、私の心の状態は如何でありましたらふ、私の人としての価値は如何でありましたらふ、私に希望と称すべき希望がありましたらふ乎、私は歓喜の何物たるかを知りましたらふ乎、嗚呼之を思ふて私も亦今日此クリスマスに際してパウロと共に叫ばざるを得ないのであります、

　　其の言ひ尽されぬ神の賜物に因りて我れ神に感謝する也、と。

　私の理想は？、若し私が政治家になりましたとするならば私の理想は正一位大勲位公爵でありましたらふ、若し私が学者となりましたとするならば大学教授何博士でありましたらふ、若し教会に入りましたとするならば、監督神学博士でありましたらふ、若し殖産に従事しましたならば大会社の社長で其大株主でありましたらふ、イエスを知らざりし私の理想は政府に誉められ、社会に誉められ、教会に誉められ、人に羨まるゝことでありましたらふ、即ち人の上に立ち、人に崇められ、人に事へらるゝ事が私の理想でありました、世の称讃を博せんため(352)には私は死をも辞さなかったらふと思ひます〔世〜傍点〕、然るにイエスを知りてより茲に此理想は全然破壊されまして、新らしい別《べつ》の理想が私に与へられたのであります、イエスを知て人に誉めらるゝことは最も小なる事となりました、彼が其弟子の足を洗ひ給ひしことを知りまして、私も亦人の下に立つことの決して卑しい事でない事を知りました、

　　人の子の来りしは人を役《つか》ふためには非ず、反て人に役《つか》はれ、又多くの人に代りて生命《いのち》を与へ、その贖《あがない》とならん為なり

との彼の言を聞きまして、野心功名は私の心の奥底《おくそこ》より打壊《うちこわ》されました、人を使ふ者とならんとの私の青年時代の理想は、人に事ふる者とならんとの理想に化しました、随て私の事ふべき主人は一変したのであります、今までは私に恩賞を賜ふ君に仕へんと欲する心が今は私に何の報酬《むくひ》をも供し得ざる憐れなる弱き貧しき者に事へんと欲する心と化しました、若し地上に神の代表者があるならば其人は権力を握りて人の上に立つ王侯牧伯の類ならんと思ひし私は、イエスを知てより以来《このかた》は之を世の貧しき者、義のために迫害《せめ》らるゝ者、政府と社会と教会とに忌み嫌《きら》はるゝ者の中に求むるに至りました、イエスを知りてより人生に関する私の意見は一変しました、上下転倒とは此事であります、前の尊《とうと》い者は卑《いや》しくなり、前の卑しき者は尊くなりました、之をば称してコンボルションと云ふのであらふと思ひます、コンボルションは改宗〔二字傍点〕ではありません、回転〔二字右○〕であります、西に向て進まんと欲した者が東に向て進むに至ることであります、聖人の伝を読んでも喰止《くひと》むることの出来なかつた私の野心を、イエスは容易《たやす》く喰止め給ひて之を新らしき天の方向に向け給ふたのであります。

　又イエスが私に為し給ふたる不思議の事があります、それは彼が私の敵愾心を〔そ〜右○〕壊《こぼ》ち給ふた事であります〔ち〜右○〕、日本(353)人として生れ来りし私は復讐は決して悪い事でないと思ひました、私の道徳なる者は敵有つての遺徳でありました〔私〜傍点〕、国の敵、家の敵、我が敵と、敵に対して勇敢に、敵に劣らず、敵に辱かしめられずと、私の道徳は敵対道徳〔四字傍点〕と称しても可《よ》い者でありました、故に戦争は私の道徳の一部分でありました、然り、其大部分でありました、私は多く人を愛する事に就ては考へませんでした、敵を憎む事に就て思ひました、私の生命は敵と相対してのみ在つた者であります。

　然るにイエスを知つてより此態度が全く一変しました、私の道徳は敵なくして在る者と成りました〔私〜傍点〕、如何にして人を援けん乎、恵まん乎、如何にして万人と和《やわ》らがん乎、如何にして彼等の友誼を買はん乎と日々思考するに至りました、而して敵愾心《てきがいしん》を失ひし私は軍事に就て全く趣味を失ひました、随て今日まで喜んで読み来りし軍談なる者が全く興味を失ひました、武田信玄とか上杉謙信とか、加藤清正とか小西行長とか、戦争の事の外多くを為さなかつた人物は私より何の尊敬も惹かなくなりました、彼等に代て私は二宮尊徳とか上杉鷹山とか云ふ様な、人を援くるために力を尽した人に就て読み且つ学ぶの心を起しました、戦争史としての歴史は全然〔戦〜傍点〕嫌《いや》に成りました〔六字傍点〕、之に代って平和史、産業史、幸福増進史としての歴史が非常に面白くなりました〔之〜右△〕。

　而して斯く敵愾心《てきがいしん》が壊《こぼ》たれしが故に私に勇気が無くなつた乎と云ふに、決してさうではありません、成程敵を斃さんとする勇気は無くなりました、然し、之に代りて更らに貴き勇気が起りました、即ち己が確信を維持するの勇気が起りました〔己〜傍点〕、「否な、否な」、「然り、然り」と、「否な」は全国民が私に反対しても「否な」、「然り」は骨肉兄弟が挙つて「否な」と云ふても「然り」、進んで敵を作らず又之を攻めずと雖も、神が私の心に築き給ひし信念の城は全世界が起て之を改めても渡たさじとの決心はイエスを知るに由りて私に起りました、私は又イエ(354)スに由りて人は之を憎まずと雖も不義は之を憎むの心を強くせられました、義憤なる事は其｜真個《ほんとう》の意味に於て私がイエスより学んだ事であります、イエスが曾て憤怒の面を示し給ひしは弟子等が嬰児《おさなご》の彼に来るを禁ぜし時でありしことを知りまして、私は憤怒の如何なる場合に於て発すべき者である乎を知りました（馬可伝十章十四節）。

　イエスは又私に労働の貴き事を教へました、遊惰は特権に非ずして大なる罪悪であることを教へました、今までは百姓町人と云へば働くが故に賤しき者、貴顕紳士と云へば働かずして座食するが故に貴き者と思ひし私はイエスを知りてより以来、貴賤の観念が転倒しました、働かざる貴族《きぞく》是れ卑族《ひぞく》、働らく賤夫《せんぶ》是れ貴人《きじん》との思想《かんがへ》は私がイエスに親しめば親《した》しむ程起る観念であります、労働は神聖なりとは今や何《ど》んな文士でも唱ふる所でありますが、然し、是れイエスを以て始めて世に伝へられた観念であります、而して其如何に貴き観念である乎は自からイエスに接しなければ判明《わから》ない者であります。

　イエスを知つて私の快楽の観念が一変しました、遊ぶことが楽しくなくなり、働らくことが楽しくなりしと同時に又快楽の種類が一変しました、馬の競ふを見て喜ぶ快楽、人の相撲《すま》ふを見て喜ぶ快楽、人生の喜怒哀楽の舞台の上に演ぜらるゝを見て楽しむの快楽は私より全く取除かれました、之に代て生きて居る事〔六字右○〕其事が大なる快楽として感ぜらるゝに至りました、日の出る事、日の入る事、草の萌《も》ゆる事、其枯るゝこと、鳥の林に嘲《さへ》づること、魚の水に游《およ》ぐこと、母が子供を養ふこと、父が野に耕す事、之を見又之を聞て無上の快楽を感ずるに至りました、独り野に出て芋《いも》の葉の風に揺《ゆる》ぐを見る時に、大俳優の舞台に技倆を演ずるを見るにまさるの快楽があります、イエスを知つて平凡なるが如くに見ゆる此世界が興味尽きざる大劇場となるのであります、而して是れ決して小なる恩恵ではありません。

(355)　然しイエスに由て得し所は決して此世に止まりません、彼を知らざりし私は野心勃々としながら最も憐れむべき者でありました、私の勇ましき容貌の下には大なる悲痛があつたのであります、然り、私が悲歌慷慨致しましたのも実は此大悲痛を包み匿《かく》さんがためでありました、私が生命を惜みませんでしたのは、死を恐れなかつたからではありません、私に生命の価値《ねうち》が解りませんでしたから其れが惜しくなかつたのであります、生くるの甲斐がありませんでしたから、死ぬるも敢て悲しく無つたのであります、勇気とは言ひますものゝ、実は絶望であります、自暴自棄であります、死んだ方が生きて居る方よりも宜かつたから死を恐れなかつたのであります、生くるも暗黒、死するも暗黒、孰れも暗黒でありまする故に、死して無感覚の暗黒に至らんと欲したのであります、イエスを知らざる者の勇気なる者は如斯くにして実は決して尊い者ではありません、而して私も亦曾ては斯かる禽獣の勇気を有《も》つた者であります

　乍然、イエスを知つてよりは現世も未来も明《あか》るくなりました故に、生も死も貴くなりました、死は其恐怖を脱しませんが、然し其の生命の行詰《ゆきづまり》でない事が解りまして、更らに大なる生命に達する門として之を待受くるに至りました、此世の才人が痴人の夢なりと嘲ける所の来世存在は事実中の事実となりました、人生僅かに五十年の歎声は私の口より出なくなりました、人生は五十年でもありません、又聖詩人の歌ひしやうに、

　　我等が年を経るは七十歳に過ず

でもありません（詩篇九十篇十節）、近世人の唱ふる完全の百二十歳でもありません、無限であります〔七字傍点〕、蜉蝣《かげらふ》の齢《よはひ》は六時間、猫の齢は八ケ年、象の齢は一百歳であります、然しイエスを知りし人の齢は歳を以てしては数へられません、イエスを知りてより私の生命は無限に伸びました、私は百年の計を立つるにあらずして永遠の計を立つ(356)るに至りました、失せにし愛する者との再会は疑ふ能はざる事に成りました、人生は茲に無限に延長されしのみならず、又無限に意味深き者となりました、私は茲に詩歌と美術との新題目を得ました、性来《うまれつき》詩人ならず又美術家ならざる私も歌ひ又｜画《ゑが》かずには居られなくなりました、冬の夕、落葉を蹴《け》りながら独り静かに林の中を歩みまする時に、木《こ》の間《ま》を通して指《さ》し来る夕陽に対しましてヲルズヲスの名句を我が句として誦《そら》んぜざるを得ません、

　　　我が肩《かた》の翼《つばさ》は将さに動かんとす、

　　　然れども今猶ほ此地に存して我は立て眺む

　　　かの輝《かゞや》く階段《かいだん》の天の方向に

　　　其通路を開くことを。

　其他イエスが私に為し給ひし多くの事を述立《のべたつ》れば限りがありません、私の全生涯を変へ、又之を富ました者にしてイエスの如きはありません、其他の偉人にして私を感化した者は無いではありません、乍然、イエスが感化したやうに私を感化した者は一人もありません、私に若し孔子がなくも孟子が無くも、果た又ヲルヅヲスが無くも、カーライルが無くも、私の生涯に左程の変化は無かつたらふと思ひます、然し若しイエスがありませんでしたならば私は唯の日本人、唯の東洋人、唯の近世人として一生を終つたのであります、然し幸にしてイエスを知ることが出来まして、古への聖人君子等が探て知ること能はざりし大なる光に接したのであります、之を思ふて私は此言ひ尽されぬ神の賜物に就て彼に感謝しなければならないのであります、クリスマスが来りまする毎に此感謝の念が益々深くなります、今年も亦此佳節に会しまして感謝を禁じ得ませんから茲に其大略を述べて之を諸君に頒《わか》つ次第であります。

　

(357)　　　　　死以上の災害

　　　　　　　　明治44年12月10日『聖書之研究』137号　署名なし

　

　死は怖るべきことなり、然れども最も怖るべき事にあらざるなり、世には死よりも遙かに怖るべき事多し、神を棄る事なり、俗人となり了る事なり、罪を罪と意《おも》はざる事なり、不義に与《くみ》する事なり、善を嘲ける事なり、是れ皆な死よりも遙かに怖るべき事なり、我は祈る、不信不義の災害の我に来らんよりは死の我に臨まんことを。

　

(359)　　　　　別篇

　

　　〔付言〕

　

　　別所梅之助「苦痛の福音」への付言

　　　　　　　　　明治43年11月10日『聖書之研究』125号

　

　内村生曰ふ、余は余の敬友別所君に由て欧洲に於ける無教会主義の主唱者なるキールケゴードの本誌の読者に紹介されしを喜ぶ、彼は心理学の泰斗ヘフヂング氏が師として仰ぎ、且つ近世第一流の哲学者なりとして世に紹介せし人なり、余の無教会説は世人能く之を嘲るを得ん、然れどもキ氏のそれは之を尊重せざるを得ず、余は教界の指導の任に当れる諸氏にキールケゴールド研究を勧むる者なり。

　

　　木村蓮峰「めぐみの奇跡」への付言

　　　　　　　　明治43年12月10日『聖書之研究』126号

　

　編者曰ふ、此篇蓋し余輩の無教会論に対する最も有力なる反駁なるべし。

　

　　原崎源作「責任、自覚、恥」への付言

　　　　　　　　明治44年1月10日『聖書之研究』127号

　

　内村生白す、原崎君は静岡なる製茶業富士合資会社の総支配人であります、本誌第壱号よりの読者でありまして、私の小なる事業に対して尠なからず同情を表して下されました、茲に載するは昨年四月十七日、該会社の事務打合せ会の席上に於て君が述べられし談話の筆記であります、能く君の健全なる常識を表はす者でありますから、君に乞ふて之を本誌に掲ぐる事に致しました、之を読んで益せらるる読者は決して尠くないと信じます、君は常に私に申されます、

　　貴君《あなた》は真理を伝へ、私は之を実行に現はさんとして努めます、如斯くにして御互に神様の御用を務むることが出来ます、

と、私は実に君の如き仁がありて私の足らざる言を事実に現はして下さるのを感謝します、又君の如き人を総支配人として有つ会社は甚だ幸ひであると思ひます、私は神が長き寿命(360)を君に賜ひて、君をして君の遠大なる志望を此世に於て遂げしめ給はんことを祈ります、茲に君を紹介し、併せて君の健康を祝します。

　篇中、点は私が附けたものであります。

　

　　口村佶郎「恩寵と信仰」への付言

　　　　　　　明治44年1月10日『聖書之研究』127号

　

　内村生曰ふ、是れ旧き福音なり、然かも真《まこと》の福音なり、余は今も尚ほ此福音を信じ得るを感謝す、今や大人物の人格に依る福音の基督教会内に於てすら盛に唱へらるゝ時に方て、此旧き単純の福音の唱へらるゝは余の喜んで止まざる所なり。

　

　　富士山下の未亡人某「亡夫の述懐」への付言

　　　　　　　明治44年7月10日『聖書之研究』132号

　

　内村生白ふ、此篇の作者と此篇の題目となりし主人公とは共に本誌の愛読者にして余の愛する信仰の兄弟姉妹なり、去年六月、兄弟なる者は世を去りて父の家に還り、姉妹なる者は世に残りて我等と共に在り、此篇は是れ彼女が彼に代りて語らんと欲する所なり、彼女はまことに彼の肉の?《とも》にして又霊の友なり、十年彼の病を養ひて今や茲に彼の志を述ぶ、主に在りて相結ぶ者は福《さいはひ》なり、彼等は死して別れず、誠に天国に入るの資格を得るは博士号を獲るよりも福《さいはひ》なり、余の友は人生の目的を果《はた》して死せり、而して今や彼の妻を以て語る、世に医学者多しと雖も、彼は其中に在りて最も幸福なる者なり、主に在りて眠る者は福なり、

　　彼れ死ぬれども信仰に由りて今猶は言《ものい》へり。

　此篇は勿論他人に示さんと欲して成りし者に非ず、然れども親翰に伴《ともな》ひし此信仰の証明《あかし》を独専するに忍びず、作者に乞ひて之を茲に掲ぐることゝなせり、乞ふ、読者此事を諒せよ。

　

　　ルーテル著石川銕雄訳

　　「基督信徒の自由（三）」への付言

　　　　　　明治44年7月10日『聖書之研究』132号

　

　内村生曰ふ、余は読者がルーテルの此言を精読、再読、三読せんことを望んで止まず、四百年前の彼の思想は今日悉く之を解するは易からずと雖も、然かも其精神は万古不易の精神なり、我等が羅馬天主教徒にあらず、又羅馬教会に類似する英国監督教会又は露国希臘教会の信徒にあらざるは我等も亦ルーテルの此信仰を懐くが故なり、我等はルーテルの此言に由て世のすべての教会と戦ふなり、彼が吹きし自由の喇叭の声は今日尚ほ我等を駆て信仰の勝利に導くなり、余は友(361)人石川君の援助を得て茲にルーテル自身をして本誌の寄書家たらしめしを喜ぶ。

　

　　畔上賢造「イエスの教会観」への付言

　　　　　　明治44年8月10日『聖書之研究』133号

　

　内村生曰ふ、現今吾人の有する聖書を以て無教会主義を弁護するは頗る困難なる業である、そは聖書其物が教会に由て編成されたる書であるからである、教会は自己の便宜に従ひ或ひは加筆し、或ひは削除した、乍然、教会は原作に添削を行ふに方て、之に現はれたるイエスの精神を隠蔽することは出来なかつた、新約聖書は教会の改刪ありしに関はらず、イエスの自由の精神を鮮かに示して居る、而して此精神の今の所謂教会に全然反対したる者なる事は何人が見ても明かである、近世の聖書研究は教会の添削以前の原聖書〔教〜右○〕を吾人に供しつゝある、実に感謝すべき事である。

　

　　「初代教会の腐敗」への付言

　　　　　　明治44年10月10日『聖書之研究』135号

　

　内村生曰ふ、此篇は前篇と相対して精読すべき者なり、ハツチ氏とアンダーソン氏との英国の二名士は計らずして本誌に於て両面より同一の真理を語るなり、余輩の教会非難の欧米に類なき者にあらざるを知るべき也。

　

　　「メキシコだより」への付言

　　　　　　明治44年10月10日『聖書之研究』135号

　

　内村生曰ふ、メキシコの野に在りて天国を遠望しながら農業に従事すと云ふ、当さに是れ地上の天国なるべし、余は該地の教友諸君を羨んで止まず。

　

(362)　　「感謝の外は何もなし」への付言

　　　　　　明治44年12月10日『聖書之研究』137号

　

　内村生曰ふ、以上は越後なる我教友某より送り来りし者なり、詩想｜裕《ゆた》かに、言辞賤しからず、六十三歳の農夫の作とは思へざるなり、実に文学は文字に非ず信仰なり、キリストと彼を遣はし給ひし神を信ずるの信仰ありて此優美なる言は出しなり、キリストの福音は今や既に我邦に土着《どちやく》せり、キリストの福音はもはや外国宣教師の宗教にあらざるなり、茲に「日本のバンヤン」の既に其聖められたる天才を現はすを見る、後世「日本の天路歴程」の無教会信者の手に由りて成るを見ん。

　

　　佐藤生「神は今や死せり」への付言

　　　　　明治44年12月10日『聖書之研究』137号

　

　内村生曰ふ、余は未だニイチエを知らず、然れども彼の、教会が称するが如き悪人にあらざるを知る、然り教会が彼を悪人と称するが故に彼の悪人にあらざるを知る、そは今の時に方りて大抵の場合に於て教会が悪人と称する者を善人と見、善人と称する者を悪人と見て吾人の判断に誤謬なければなり、欧米の社会に於て無神論者を作るに於て最も成功せし者は基督教会なり、ニイチエの如き此災害に罹りし者の一人なりと云はざるべからず、吾人はイエスの聖名のために飽くまで今の謂ゆる基督教会なる者に反対せざるを得ざるなり。

　

(363)　　　〔社告・通知〕

　

　【明治43年12月10日『聖書之研究』126号】

　

　今年も亦楽しきクリスマスと喜ばしき新年と読者諸君の上に来らんことを祈る。

　　千九百十年十二月　　　　　　　　　　　　　　　　内村鑑三

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　家族一同

　

　【明治44年1月10日『聖書之研究』127号】

　　　　　謹告

　本誌義自今毎号の頁《ページ》数を一定せず、記事の多寡に随ひ或ひは増し或ひは減じ、以て成るべく思想の堅実を計り申すべく候間、読者諸君に於て左様御承知置被下度願上候。

　　一月　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　聖書研究社

　

　【明治44年3月10日『聖書之研究』129号】

　　　　　謹告

　少しく休養の必要有之候に付き来る四月本誌休刊致し候間左様御承知被下度候、即ち五月十日を以て第百三十号を発行致すべく候。

　　明治四十四年三月　　　　　　　　　　　　　　　　内村鑑三

　

　【明治44年7月10日『聖書之研究』132号】

　　　　　謹謝

　去月十九日当地暴風雨に付き多数の読者諸君より御見舞状に与り感謝の至りに奉存候、幸にして差したる損害を蒙ることなくして止み候間御放念被下度願上候　敬具

　　七月　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　内村鑑三

　

　【明治44年8月10日『聖書之研究』133号】

　　　　　謹謝

　去月廿五日当地又々大暴風の処、読者諸君より重ね／＼の御慰問に与り謹謝の至りに奉存候、幸にして此たびも亦事無きを得候間御安心被下度候、敬具。

　　八月　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　内村鑑三

　

　【明治44年9月10日『聖書之研究』134号】

　毎日曜日午前十時より柏木今井館に於て聖書講演あり、本(364)誌の読者は何人たりとも来聴するを得べし。

　

　【明治44年10月10日『聖書之研究』135号】

　　　　自分の事ども

○今や萩は衰へ、コスモスは開かんとし、ダリヤは其盛りを続けつゝ有之候、庭園の秋光、愛すべく候。

○メキシコの教友より送来れる鸚鵡、日々我等にメキシコ語を語り聞かせ申し候、其間に「オハヨー」「バカ」等の日本語を混《まじ》えて我等を笑はせ申し候。

○自分義は幸にして至て健康に有之候、体量十八貫目を示し申し候。

○娘事久しく病気にて床に臥し居り候、其れがため大に心を痛め候、然し、其れがため大に信仰を鍛えられ、又心の大掃除を行はれ、種々の大利益有之候、多分人の手段の尽くる時に神の手段の現はるゝことゝ存候、読者諸君に於て我等のために御祈り被下やう偏に懇願致し候。

○前述の次第にて友人諸君より送り来れる多くの御親書に対して御返信致す能はず、恐縮の至りに存じ候、偏へに御宥恕願上候。

○教友畔上賢造君、今般千葉中学校を辞し、自今専ら伝道に従事せらるゝ由に有之候、氏は其傍ら大に本誌を助けらるべく候、本号掲ぐる所のアンダーソン氏の意見の如き氏の翻訳に成る者に有之候。

○今井館に於て毎日曜日午前十時より不相変聖書の講議有之候、本誌一年以上の購読者は何人たりとも出席御随意に有之候。

　　十月　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　内村生

　

　【明治44年11月10日『聖書之研究』136号】

　読者諸君よりの病人御見舞を謝す　　　　　　　　　　内村

　

　【明治44年12月10日『聖書之研究』137号】

　　　　　祝詞

　今年も亦楽しきクリスマスと喜ばしき新年と読者諸君の上に在らんことを祈上候。

　　明治四十四年十二月　　　　　　　　　　　　　　　内村鑑三

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　家族一同

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　社員一同

　　　――――――――――

　　　　　年賀状の事に就き友人諸君に告ぐ

(365)　本誌を接受せらるゝ友人諸君へは別に年賀状を差上げ申さず、此号を以て之に代へ候間左様御承知被下度候。　　　　　　　　　　　　　内村鑑三

〔2019年8月31日（土）午後4時57分、入力終了〕