内村鑑三全集25、岩波書店、651頁、4800円、1982.9.24
一九一九年(大正八年)六月より一九二〇年(大正九年)一二月まで
凡例………………………………………… 1
一九一九年(大正八年)六月―一二月
Glorious Days.光明の日…………………… 3
安全の地位 他……………………………… 5
安全の地位
排斥と説教
排斥と宣揚
教職心理
唯一の信仰
信じ難き信仰
十人童女の譬喩 馬太伝第二十五章一―十三節の研究……11
死後の生命……………………………………17
人類最初の平和会議 創世記第十一章一―九節の研究……24
ダビデの牧羊歌 詩篇第二十三篇の研究…31
基督教界革正の必要…………………………36
排斥日記………………………………………42
『人道の偉人 スチーブン・ジラードの話』……44
『模範的実業家 スチーブン・ジラードの話』はしがき……45
American Money and Gospel.米国人の金と其福音……46
平和来 他……………………………………48
平和来
基督者の義
文学者の信仰
神の愛 約翰第一書四章七―十二節の研究……52
人類の堕落と最初の福音 創世記第三章の研究……58
独逸の復活 他………………………………70
独逸の復活
教会
Faith and Institution.信仰と制度………72
健全なる宗教…………………………………74
天国の市民と其栄光…………………………78
信仰の三角形 約翰第一書の根本教義……84
希望と聖徳 約翰第一書二章廿八節―三章三節……90
所謂「再臨説の粉砕」に就て………………96
山上雑話………………………………………98
『日本及日本人』の質問状への回答…… 100
God is Faithful.神は誠信なり………… 101
神第一 他………………………………… 103
神第一
神人交通の途
霊肉の関係
聖書無謬説に就て………………………… 106
主の祈祷と其解釈………………………… 110
知識の本源………………………………… 124
屍のある所に鷲集らん…………………… 131
清秋雑感…………………………………… 134
秋来る……………………………………… 136
Death the Beautifier. ………………… 137
信仰と神学 他…………………………… 138
信仰と神学
赦さるゝ時
満腔の満足
モーセの十誡……………………………… 141
モーセの十誡総論
十誡第一条第二条
十誡第三条
十誡第四条
十誡第五条
十誡第六条
十誡第七条
十誡第八条
十誡第九条
十誡第十条
律法と福音
煩慮と平安 腓立比書第四章四―七節の研究…… 206
賛成の辞…………………………………… 210
Greeting from Switzerland.瑞西大家の同情…… 212
拾珠録(1) 哥林多前書第一章より … 214
美はしき死 小出義彦君を葬るの辞…… 218
〔座古愛子著『父』〕序文……………… 221
『信仰日記 附歌こゝろ』……………… 223
『信仰日記』に附する自序…………… 224
The Will of God.神の聖意……………… 226
唯信ぜよ…………………………………… 228
拾珠録(2) ……………………………… 230
一九二〇年(大正九年)
I Cor. I. 30 Paraphrased.哥林多前書一章三十節の解訳…… 235
美術としての人生 他…………………… 237
美術としての人生
神の聖意
宗教とは何ぞや…………………………… 239
Reconstruction and Conversion.改造と改心…… 242
余輩の立場 他…………………………… 244
余輩の立場
基督教と幸福
宗教の二種
罪の赦し…………………………………… 248
完全なる救拯……………………………… 254
ベツレヘムの星…………………………… 262
信仰復興の真偽…………………………… 270
誹る者と誉める者………………………… 274
Emancipation.解放 ……………………… 276
水と霊 他………………………………… 278
水と霊…………………………………… 278
信仰と知識……………………………… 279
ダニエル書の研究………………………… 282
但以理事第一章之研究
但以理書第二章の研究(上)
但以理事第二章の研究(下)
但以理書第三章の研究
但以理事第四章の研究
バビロン城の覆滅
但以理所第五章の研究
獅子の穴に入れるダニエル
但以理所第六章の研究
慾と患難…………………………………… 333
現状と希望………………………………… 336
Democracy and Christ.デモクラシーとキリスト…… 338
聖霊の降臨に就て………………………… 340
理想と実際………………………………… 344
講演の困難………………………………… 347
Unity of the Bible.聖書の単一 ……… 348
総て善し 他……………………………… 350
総て善し
文学者の基督教
ペンテコステの出来事 使徒行伝第二章の研究…… 354
信と行……………………………………… 361
Paul a Samurai.武士の模範としての使徒パウロ…… 362
潔と愛……………………………………… 364
教会建設問題……………………………… 365
約百記の研究……………………………… 368
第一講 約百記は如何なる書である乎
第二講 ヨブの平生と彼に臨みし患難
約百記第一章二章の研究
第三講 ヨブの真実
約百記第三章の研究
第四講 老友エリパズ先づ語る
第四章、五章の研究
第五講 ヨブ再び口を啓く
第六章、七章の研究
第六講 神学者ビルダデ語る
第八章の研究
第七講 ヨブ仲保者を要求す
約百記第九章の研究
第八講 ヨブ愛の神に訴ふ
約百記第十章の研究
第九講 紙智の探索
約百記十一章、十二章の研究
第十講 再生の欲求
約百記第十四章の研究
第十一講 エリパズ再び語る
約百記第十五章の研究
第十二講 ヨブ答ふ(上)終に仲保者を見る
約百記第十六章の研究
第十三講 ヨブ答ふ(下)遂に仲保者を見る
約百記第十七章の研究
第十四講 ビルダデ再び語る
約百記第十八章の研究
第十五講 ヨブ終に贖主を認む
約百記第十九章の研究
第十六講 ゾパル再び語る
約百記第二十章の研究
第十七講 ヨブの見神(一)
約百記第三十八章の研究
第十八講 ヨブの見神(二)
約百記第三十八章の研究
第十九講 ヨブの見神(三)
約百記第三十八章の研究
第二十講 ヨブの見神(四)
約百記第三十八章三十九節より四十二章六節に至るまでの研究
第廿一講 ヨブの終末
約百記第四十二章七節以下の研究
基督再臨の二方面………………………… 491
The Test of Faith.信仰の試験………… 497
第弐拾年号 他…………………………… 499
第弍拾年号
信者か人か
イエスの誡
救拯の確証
基督教の競争者
『研究第二之十年』……………………… 504
序言……………………………………… 505
再版の序文
再版に附する序……………………… 509
Forgiveness of Sins.罪の赦し………… 510
善きサマリヤ人…………………………… 512
夏期雑感…………………………………… 514
想秋録……………………………………… 517
『山上の垂訓に関する研究』…………… 518
緒言……………………………………… 519
Not to Be a Christian.基督信者たらざらん事を…… 520
誤解の恐怖 他…………………………… 522
誤解の恐怖
聖書道楽
イスカリオテのユダ…………………… 523
ベタニヤのマリヤ
新約聖書大観……………………………… 526
基督再臨の兆……………………………… 545
『モーセの十誡』………………………… 551
はしがき………………………………… 552
基督教宣伝と日本文化…………………… 553
Goho, A Confucian Missionary.儒教宣教師呉鳳…… 565
信仰と迫害 他…………………………… 568
信仰と迫害
財界の王と信者
必ず聴かるゝ祈祷
神の道と人の道…………………………… 572
America and Japan.米国と日本………… 576
栄化の順序 他…………………………… 579
栄化の順序
単独の幸福
直覚と実験
平康と患難
信者の静養………………………………… 583
近代人の聖書観…………………………… 584
悲歎と慰藉………………………………… 586
『東京朝日新聞』の質問への回答……… 590
敬愛する木村君…………………………… 591
Japanese Christianity.日本的基督教… 592
年末の辞 他……………………………… 594
年末の辞
結婚の神聖
天然と神
ベツレヘムの星
パウロとバプテスマ問題
婚姻の意義………………………………… 598
希伯来書に於ける永久性………………… 602
永生の意義………………………………… 604
一致協力の基……………………………… 606
別篇
付言………………………………………… 609
社告・通知………………………………… 612
参考………………………………………… 617
Biographical Record of Graduates and Former Students. 1920.…… 617
一九一九年(大正八年)六月―一二月
(3) GLORIOUS DAYS.光明の曰
大正8年6月10日
『聖書之研究』227号
署名なし
GLORIOUS DAYS.
The times are hard,the days are dark,the churches are corrupt,and the pastors are sleeping;but thank God,the people are awakening to the Light of the Gospel.God is owning Japan as His own;He is callingher to Himself, directly without the instrumentality of churches and their hired ministers. The sons and daughters of Japan are awakening to their sense of responsibility;and despising the help of missionaries and churches founded by foreigners,are entering the service of the Gospel. The new days of true religious revival are at hand.Japan is becoming a Christian nation,independently,by her own children. Oh,glorious days! We are going to see the days of the national assimilation of Christianity, as was done in the case of Buddhism,in the days of Honen,Shinran and Nichiren.
(4) 光明の日
時は困難である、日は暗くある、教会は腐敗して居る、牧師は寝つて居る、然れども神に感謝す 国民は福音の光に目醒めつゝある、神は日本国を御自身の有として要求し給ひつゝある、彼女を御自身に招き給ひつゝある、直接に、教会と其雇教師の手を経ずして。日本国の男子女子等は其責任を覚りつゝある、而して宣教師と外国人に由て設けられ且つ育られし教会との補助を拒絶しつゝ福音宣伝の業に就きつゝある、真の信仰復興の日は近づきつゝある、日本国は全然独立して彼女自身の子等に由りて基督教国と成りつゝある、あゝ光明の日よ、我等は日本人が国民として基督教を同化するの日を見んとしつゝある、恰かも法然、親鸞、日蓮の日に於て彼等が仏教を同化せし如くに。
過去四十年間、昼望み、夜夢みつゝありし日は終に来た、日本は霊に目醒《めさ》めて、外国人の手を藉ずしてナザレのイエスを其救主として仰ぐ日が到来した。
(5) 〔安全の地位 他〕
大正8年6月10日
『聖書之研究』227号
署名なし
安全の地位
自分で択んで従事したる伝道でない、神に余儀なくせられて就いた此職である、故に人は何人と雖も之を我より奪ふ事は出来ない、亦我れ自身と雖も之を廃《やめ》んと欲して廃る事が出来ない、我れ我が職に忠実にして世界は総掛りとなりて寸毫たりとも我を動かす事が出来ない、「神は我等の霊魂を生存《ながら》へしめ、我等の足の動かさるゝ事を許し給はず」とあるが如し(詩篇六十六篇八節)、神の定め給ひし地位に立ちて我に競争者あるなし 所謂運動の必要あるなし、「汝(神)に選ばれ汝に近づけられて大庭に住《すま》ふ者は福ひなり」とあるが如し(同六五篇四節)、実に神に選ばれて我は狭き競争場裡に働く者に非ず、広き大庭に住ふ者である、斯くて他に対して寛大であり得る、敵に対して忍容であり得る、大なる平安は我心の底に宿り、巨浪《おほなみ》我身を掩ふも我衷に平穏の隠所《かくれが》がある、神に択ばれ彼に遺されたのである、人は我を如何ともする事が出来ない、然り神の据え給ひし磐に当る者は陶工《すゑつくり》の器具《うつはもの》の如くに自《みづ》から己《おの》が身を打砕くであらう。
(6) 排斥と説教
教会の監督牧師長老等は能く余輩を排斥する事が出来た、然し乍ら余輩に代て聖書を講じ福音を説く事が出来ない、彼等の内に数多の神学博士あるに非ずや、然るに其一人たりと雖も余輩の去りし高壇に登りて余輩が為せし丈けの事をすら為し得る者がない、是れ確に彼等が神に棄られし証拠ではない乎、排斥運動は誰にも出来る、|然り排斥運動の達人は悪魔である〔付△圏点〕、然れども神に愛せらるゝ者のみが能く有効的に連続して福音の真理を講ずる事が出来る、心に聖霊を宿すにあらざれば感謝と歓喜と満足とを以て聖書を連続的に講ずる事が出来ない、噫余輩の排斥者よ、汝等何故に余輩の去りし高壇を充たす能はざる乎、汝等の福音は何所に在るや、国民は神の言を聞くの饑饉に苦しみつゝあるに非ずや、排斥運動のみが汝等の能事なるや、噫我等は汝等の口より出づる生命の言を待ちつゝある、汝等之を有せざる乎、然らば汝等の職を去れよ、噫バアルの預言者等よ、我等は汝等の奮起を俟ちつゝある。
排斥と宣揚
歴史有て以来未だ曾て有力教会の排斥に遇はずして新宗教の興りし例あるを聞かない、猶太教の排斥に遇ふて基督教興り、天主教の排斥に遇ふてプロテスタント教興り、英国々教会の排斥に遇ふてメソヂスト教、バプチスト数等の新信仰が興つた、其他我国に在りても浄土宗日蓮宗等の興りしも皆然らざるはなし、而して余輩幸にして我国今日の組合教会、メソヂスト教会、日基教会等の排斥に遇ふて自身、新信仰出現の栄誉に与りつゝあるに(7)非ずやとの感を懐かずんばあらず、微弱なる是等の諸教会、之を有力教会と称するの甚だ不当なるを知ると雖も、彼等の排斥も亦多少新信仰の興起を援けざるに非ず、是等の諸教会も亦神の聖手の内に存して或る種の善事を為しつゝある、彼等は光を排斥して光の宣揚を援けつゝある、「光は暗《くらき》に照り暗は之を暁らざりき」とある(約翰伝一章五)、或は言ふ「暁らざりき」は「抑へざりき」と訳すべしと、然り暗は光を抑へんと欲して却て之を揚げつゝあるのである。
教職心理
基督教青年会の高壇は素々基督教を講ずる為に設けられたる者である、然るに今や其の基督教の為に用ゐらるゝ事極めて稀にして、芸術の為に、政談の為に、殖産の為に、然り時には仏教の為に、神道の為に用ゐらるゝを常とする、基督教青年会に於て基督教は弱くして基督教以外の者が強くある、而して其聖壇が常に汚されつゝあるに関はらず監督牧師神学博士等が之に対して未だ曾て一回も非難の声を挙げしことあるを聞かず、然るに偶々余輩が之を利用して、一年有半に亘りて連続的に其の上より聖書を講ずるや、彼等は異口同音「蜂の巣を突きたるが如」くに余輩を排斥し、余輩が終に之を去らざるを得ざるに至て彼等は始めて平安を得たり、奇異なるは是等教職輩の心理状態である、彼等が嫌ふ者にして他人に由て伝へらるゝ基督教の如きはない、|基督教青年会の高壇の尺八浄瑠璃の演奏の為に用ゐらるゝ事を拒まざる牧師監督等は余輩が之を聖書講演の為に用ゐる事を拒むのである、奇なる哉〔付△圏点〕。
(8) 唯一の信仰
信仰は多種ではない、唯一である、米国人の信仰あるなし、英国人の信仰あるなし、日本人の信仰あるなし、又商人の信仰あるなし、労働者の信仰あるなし、農家の信仰あるなし、官吏の信仰あるなし、華族の信仰あるなし、平民の信仰あるなし、信仰は唯一である、信仰は之を懐く者の人種又は職業又は階級に由て異らない、信仰の貴きは之が為である、信仰は唯一なるが故に之に由て四民平等、四海皆兄弟たるを得るのである、然らば唯一の信仰とは何である乎、余は之を加拉太書第二章二十節に於て見る、曰く、
我れキリストと偕に十字架に釘けられたり、最早我れ生けるに非ず、キリスト我に在りて生けるなり、今我れ肉体に在りて生けるは我を愛して我が為に己れを捨し者、即ち神の子を信ずるに由りて生けるなり
是は信仰であるよりは寧ろ実験である、実験より出る信仰である、此信仰の有る者が信者である、此信仰の無い者は信者でない、信者はすべて此信仰の上に立ち、此信仰に由て生くるのである、而して此信仰は学問に由て得らるゝ者でない、聖霊の働きに由り神の賜物として信者の心に起る者である、故に貧富、智愚、上下の差別なくすべて神の択み給ひし者の心に起る者である、而して信仰であつて学説でない、「如何でも可い者」でない、信仰であるが故に生命である、故に死を以て守るべき者である、キリストと彼の十字架、是れなくして基督教は無い、基督教は倫理でない道徳でない、慈善でない社会改良でない、政治でないデモクラシーでない、キリストと其十字架を基礎とする救済と希望と歓喜とである、而して此信仰がありて凡の書き行為《おこなひ》が自づから湧出るのである、此信仰がありて学者は善き学者たり得べく、労働者は善き労働者たり得べく、各自其職に在りて最も完全に(9)其職務を果たし得るのである、実にパウロは「我れキリストと彼の十字架に釘けられし事の外は何をも知るまじ、と意《こゝろ》を定めたり」と言ひて万事を言尽したのである。(鉄道ミツション集会に於て述べし所の大意)
信じ難き信仰
キリストは再び臨り給はないと云ふことは誰にでも出来る、是れ何等の信仰をも要せずして何人も言ひ得る所である、故に不敬虔の不信者、不信仰の教会信者等は何の憚る所なくしてキリスト再臨の如き到底有るべからざる事なりと唱ふ、然し乍ら難きはキリスト再び臨り給ふと言ふことである、是れ強き確信なくして言ふ能はざる事である、縦し迷信であるとするも心に大に期する所なくして唱ふる能はざる事である、「キリスト再臨せず」と、斯く唱ふれば安全である、彼は容易に臨り給はない、世も亦再臨を信ぜず之を望まない、世の信ぜざる事を我も亦信ぜずと言ふ、如何なる信仰的弱虫と雖も斯く唱へて何の憚る所はないのである、善事は遅滞し易し、宇宙最大の善事たる基督再臨の遅滞し易きは勿論である、而して此遅滞し易き善事の到来に関し失せなんとする信者の希望を維持するのが教師の職務である、然るに教師自から進んで主は臨り給はず彼を待望むは迷信なり再臨の希望の如きは之を抛棄するに如かずと云ふ、斯くして教師は其職務を抛棄するのである、彼は自身信仰的努力に堪ゆる能はず、故に自身先づ信仰を去りて他に亦去らんことを勧むるのである、信じ難きを信ずるのが信仰である、望み難きを望むのが希望である、然るに信じ難きが故に信ぜずと言ひ望み難きが故に望まずと云ふ、然らば信仰も希望もあつたものにあらず、茲に至て宗教は化して政治となり、人はたゞ見ゆる所にのみ従つて歩めばそれで安全なるのである、然し乍ら政治は宗教の用を為さない、人の霊魂は深き強き信仰を要求する、彼は信仰(10)の努力を喜ぶ、信じ難きを信じ望み難きを望まんと欲する、アブラハム神を信じければ神は其信仰を義とし給へりと云ふ、キリストの再臨、信じ難きは勿論である、然し乍ら之を信じ得て感謝し、望み得て聖潔《きよめ》の霊の我に宿りしを知るのである、迷信と云ふ、然り、|信ぜざる者の立場より見てすべての信仰は迷信である〔付△圏点〕、我等は己れに「迷信」の護るべきあるを感謝すべきである。
(11) 十人童女の譬喩
(三月九日) 馬太伝第二十五章一−十三節の研究
大正8年6月10日
『聖書之研究』227号
署名 内村鑑三述 藤井武筆記
イエスの終末観を伝ふる馬太伝二十四五両章中に三個の譬喩がある、其第一は僕の譬喩である(廿四章四十節以下)、第二は十人童女《じうにんのむすめ》の譬喩である(廿五章一−十三節)、第三は委ねられし銀の譬喩である(同十四−三十節)、而して新約聖書全体の教ふる所より見て是等の三譬喩は全人類に関する最終審判を示すものと解する事が出来ない、三者は孰れも特に|基督者に対する審判又は恩恵の譬喩である〔付○圏点〕、僕とは「時に及びて糧を彼等に与へさする為に立てられたる」者にして換言すれば信者を導くべき教役者である、故に第一の譬喩は牧者に対する審判である、委ねられし銀とは凡ての信者各自に委ねらるゝ相異なりたる宝にして彼等が其総勘定を為さゞるべからざる日が来るのである、故に第三の譬喩は信者各自に対する審判である、而して此二者の中間に在る|十人童女の譬喩は信者を団体として見たる教会に対する審判である〔付○圏点〕、童女を教会の意に解するに就ては聖書中多くの根拠がある(哥林多後書十一の二、黙示録十四の四等参照)、|牧者教導者の審判〔付○圏点〕と|教会の審判〔付○圏点〕と|信者各自の審判〔付○圏点〕、之れ馬太伝二十四五章に亘る三個の譬喩の内容である。
「其時天国は燈《ともしび》を執りて新郎を迎へに出づる十人の童女《むすめ》に比《たと》ふべし」といふ(廿五章一節)、茲に所謂「天国」(12)とは何の意である乎、之を探らんが為には馬太伝十三章を参照すべきである、十三章に於ても亦「天国は何々の如し」と言ひて七個の譬喩が列挙せらるゝのである、而して七譬喩は譬喩集に非ずして一の歴史である、基督教会の歴史を七個の譬喩を以て綴りたるものである、故に天国とは天国其者に非ずして|天国の福音が地上に於て経過すべき歴史〔付○圏点〕の謂ひである、十人童女の譬喩亦然り、キリストの十字架より其の再臨に至るまで即ち所謂異邦人の時又は教会時代の歴史に関する譬喩である、「天国の福音の地上に於ける経歴を何に比へん乎、そは燈《ともしび》を執りて新郎を迎へに出づる十人の童女の如し」といふのである。
パレスチナ地方に於いては結婚に際し或る特別の場合には新婦の許に新郎を迎ふる事今も行はるといふ、こは士師記十四章に示さるゝが如くサムソンの時代に於て既に其例を見たる古き風俗にしてイエスの当時も之に類したる事実があつたのであらう、彼の譬喩は常に事実を根拠とするものである、而して新婦が新郎を迎へんとするに当りては美はしき童女凡そ十人を選びて之を己が代理者として迎へに出でしむるのである、彼等は何れも其手に燈を携帯する、燈とは我国に於ける古代のカンテラの如く棒の尖端《さき》に燈の心を附して之に油を注ぎたるものである、然るに童女等の中には智《かしこ》き者あり又愚かなる者がある、其智き者は燈と共に油を器に満たして之を携ふるも愚かなる者は感興の余り油を忘れ蒼皇としてカンテラのみを担うて出で行く、斯くて彼等は待てども新郎来らず、皆仮寐して眠る、夜半ばにして忽ち声あり曰く「新郎来れり!」と、即ち彼等みな起きて燈を整へんとするに智き者の火は点ぜらるゝも愚なる者の燈は消えて点かない、茲に於て彼等は智き者に其油を分たん事を請ふも聴かれず、依て之を買はんとて往きし間に門は閉されて復た入る事が出来ないとの譬喩である、イエス始めに此卑近なる例を捉へて語り出せし時彼の面《おもて》には微笑が漂うて居たであらう、然しながら語りて此処に至り「我誠に(13)汝等に告げん、我は汝を知らず」と言ひし時彼は実に権威ある預言者と成り給うたのである。
十人の童女は十の教会である、十とは地上に於ける完成の数なるが故に十の教会は神の許し給ひし丈けの凡ての教会を意味する、|燈〔付○圏点〕とは何ぞ、|教会の機関又は制度としての外形〔付○圏点〕である、或は礼拝或は事業或は信仰箇条等の如き皆之に属する、油とは何ぞ、|此譬喩の重点は油にある〔付○圏点〕、油の有無に由て童女等の運命が分るゝのである、信仰上の外形たる燈の中にありて之に光を与ふる油は果して何である乎、聖書に於て油の最も明白なる意味は|聖霊〔付○圏点〕である、「汝義を愛し悪を憎む、是故に神即ち汝の神は喜びの油を以て汝の侶《とも》よりも愈りて汝に注げり」(ヘブル書一の九)、「此ナザレより出でたるイエスは神より聖霊と才能《ちから》を以て|油〔付○圏点〕を注がれ云々」(行伝十の卅八)、又キリストとはメシアの希臘訳にしてメシアは「油注がれたる者」の意である、凡ての基督者も亦彼に在て油を注がれたる者である、故に油は聖霊を代表すと見るは最も適当なる解釈である。
十の教会あり、皆新郎を迎へんが為に立つ、而して共に信仰的外形たる燈を携ふ、然れども智き者と愚かなる者とあり、智き者は衷に聖霊の油を有するも愚かなる者は之を有せず、新郎来る事遅くして彼等は悉く仮寐に耽ける、やがて「新郎来れり」との声響くや聖霊の油ある者は之を迎ふるも油なき者は迎ふるを得ずと、譬喩の大意は之である、而して教会の歴史は明白に其真実を証明するのである。
|教会は本来新郎を迎へんが為に起りしものである〔付○圏点〕、基督再臨の信仰を嘲らんと欲する者は嘲るべし、然しながら初代の教会が此信仰を以て起りたるの事実は之を如何ともする事が出来ない、新約聖書中最も旧き書翰はテサロニケ前書である、初代教会の実状を探らんと欲する者は先づ此書に就かなければならない、而して此書は始よりして曰ふ「汝条信仰に由て行ひ愛に由て労し|我等の主イエスキリストを望むに由て忍ぶ〔付○圏点〕」と、また「汝等偶像(14)を棄て神に帰して活ける真の神に事へ|其子の天より来るを待つ〔付○圏点〕」と、|若し基督再臨の信仰なかりせば基督教会は興らなかつたのである〔付○圏点〕、教会歴史の世界的権威たるアドルフ・ハーナックの如きは自ら再臨の信仰を有せざるに拘らず尚其冷静なる学者的立場より此事を断言して憚らないのである。
十の教会は皆新郎を迎へんが為に燈を執つて立つた、然しながら新郎は来らない、百年五百年又千年二千年を経れども新郎は未だ来らない、斯くて小き童女等の皆仮寐したるが如く|教会も亦〔付○圏点〕挙|つて睡眠の状態に陥つた〔付○圏点〕、其|半《なかば》が醒めて居つたのではない、再臨信者も然らざる者も共に眠つたのである、十字架又は聖霊等に就ては忘れざるも再臨は之を忘れたのである、美はしき十人の童女、其智き者も愚かなる者も皆燈を手にして眠りしが如く凡ての教会は洗礼晩餐式祈祷会慈善事業等を共にしつゝキリストの再臨を忘れて了つたのである。
然るに夜既に更けて暗黒其の絶頂に達し将さに明け初めんとする頃「新郎来りぬ」との声は響きて、均しく眠れる童女等の中智き者と愚かなる者とは判然相分たるゝのである、|キリスト再び来り給ふ時教会は劃然二個に区別せらる、聖霊の油を有する者と之を有せざる者と、二者は左右に区別せられ、而して前者のみが彼を迎へ得るのである〔付○圏点〕、再臨を嘲る者よ、汝等之を嘲るは可なり、然れども若しキリスト果して再臨して此処に立ちたらば如何、其時之をユダヤ思想なりと言ひ得る乎、其時は神学も教職も教沈も何の用あるなし、唯彼を迎へ得る乎或は迎へ得ずして周章狼狽する乎二者其一あるのみである、故に再臨信者は曰ふ、再臨の時迄待たんと、教会の真偽は其時に至て判明するのである。
新郎は未だ来らない、然しながら注意すべきは五十余年前より基督教界に於て響きつゝある高き叫びである、最も優秀なる学者等が祈祷を以て聖書を研究したる結果、基督教信仰の根本は基督の再臨にあり、之なくして真(15)の教会あるなしと唱ふるに至つた、聖書註解者中知識と信仰との健全を以て称せらるゝ有名なるランケの註釈(一八六三年版)に依れば其頃よりして多くの神学者が再臨を高唱するに至つたのである、此叫びは果して何である乎、|之れ「新郎来れり」との声ではない乎〔付○圏点〕、然らば即ち時勢は既に暗黒の絶頂に達したのである、而して今日迄教会は悉く眠りたるも今や何処よりともなく「新郎来れり」との叫びは聞えて人々皆醒めんとしつゝあるのである。
此声を聴いて既に多くの人は眠より醒めた、彼等は再臨の信仰を抱きてより聖書を全く新なる書と見、新生の喜びに似たる経験を繰返しつゝある、米国の如き常識の発達したる国に於て昨年五月に開かれたる費府《ヒラデルヒヤ》の再臨大会は近時稀に見る盛会であつた、其壇に立ちし者は狂熟の人に非ずして冷静なる学者であつた、而も三日間寸刻の弛緩をも感じなかつたといふ、又十一月の紐育大会も同様である、当夜は戦争中飛行機襲来を恐れて久しく実行したる電燈の禁令を解かれし第一夜にして市民の心自ら浮き立ちたる折なりしに拘らず、カーネギー会堂に会衆充満し其溢れたる部分は更に他の会堂に之を収容したりといふ、然るに他方に於ては又幾多の神学者教役者等が口を極めて再臨の信仰を罵りつゝある、或は之を迷信と呼び或は猶太思想と称して反対を試みつゝある、実に「|新郎来れり」との声に由て基督教会は二個に分裂したのである〔付○圏点〕、再臨の信仰は教会を両断する信仰である。
反対者は何故之を信ずる事が出来ないのである乎、蓋し彼等に油なきが故ではない乎、|彼等に燈の外形のみありて之に永遠の光と熟と生命とを与ふる聖霊の油なきが故ではない乎〔付△圏点〕、或時人は各唯一人となりて神の前に引出さるゝ事がある、其時信仰上の外形は一も自己の心を満足せしむるに足らない、教会への出席、伝道金の寄附、慈善事業又は伝道事業等を数へて自ら慰めんと欲するも少しも慰むる事が出来ない、誠にジョン・バンヤンの言(16)ひしが如く仮令地獄に落つるとも我等は唯だ顔を挙げて我為に十字架につきしイエスキリストを仰ぐのみである、神が我等の為に備へ給ひし十字架の贖を信ずるより外に我等の義とせらるゝ途はないのである、而して之を信じて聖霊の油を豊かに受けたる者はキリストの再臨を聞いて決して之を嘲らない、再臨反対者は油を有せざる者である、彼等は再臨の時に至りて愚かなる童女の如くに狼狽するであらう、然しながら其時油を有てる者は之を頒つ事が出来ない、|神は聖霊の油のみは之を余分に与へ給はない〔付○圏点〕、其人一人に足る丈けである、我等は各自神に求めて充されなければならないのである。
新郎は未だ来らない、尚ほ暫し油を買ふべき時がある、「何故糧にもあらぬ者の為に金を出し飽く事を得ざるものゝ為に労するや、我に聴き従へ、さらば汝等|美《よ》き物を食ふを得、油をもて其の霊魂を楽しまするを得ん」と(イザヤ書五十五の二)、眠れる者よ、速に醒めて往きて汝の油を買へ、然らずんば時既に過ぎて終に復た如何ともすべからざるに至るであらう、十人童女の譬喩は談笑の間に之を語り得ると雖も其中に無限の教訓がある、人の運命に就て教ふるものにして之よりも深きものを考ふる事が出来ない。
|附言〔ゴシック〕 再臨と非再臨、再臨信者と非再臨信者、「新郎来れり」との声に由りて基督教会は劃然と両分せられたのである、是れ主の教へ給ひし所であつて人は之を如何ともする事が出来ない 両者の間に合同は不可能である、教会の政治家にして聖書を究めて此事を覚るならば彼等は無益の調停を試みないであらう。
(17) 死後の生命
(三月十六日) 前号所載『パウロの復活論』の序論として講じたる所
大正8年6月10日
『聖書之研究』227号
署名 内村鑑三述 藤井武筆記
ヨブ記に曰ふ「人もし死なば又生きんや」と(十四の四)、今より二千五百年乃至四千年前に書かれし此古き書の一言は|今尚凡ての人の問題である〔付○圏点〕、我を遺して去りし愛する者は何処に往しや、我自身の生命も亦三四十年の後にして終るのである乎、他の問題は解決せられたるも独り此古き問題のみは解決せられない、古来幾多の賢哲出でゝ之を解かんと試みたるも今尚依然として一大疑問である、然らば斯かる不可解の問題は之を抛棄して更に有益なる他の問題に移らん乎 死後生命問題の研究は断然之を廃止せん乎、然れども斯く決心するや否や此問題は直に復た我等に迫り来るを如何せん、親しき者の死の面《かほ》を見て何人も之が果して永遠の別離なる乎、再び彼又は彼女と相見る時はなき乎と疑はざるを得ない、其他人生に於ける多くの不公平なる事実の如き、之に対する何等かの解決があるのではない乎、死後の生命果して如何、之を棄てんと欲して棄つる能はず、問題は千古に亘るの疑問である。
然しながら|近代人は此問題に就て甚だ冷淡である〔付○圏点〕、彼等は或は曰ふ、現世に於て正義を行ひ真理を信ずる事を許さるゝ以上、人生必ずしも未来を要せず、一日の生涯を高貴《ノーブル》ならしむれば即ち足ると、或は曰ふ、現世生活の(18)安楽を享受せんと欲すれば其途備はれり、何ぞ不確実なる来世の幸福を希はんと、かくて彼等の人生観は現世的にして彼等の宗教は地的である、今日の基督教会中明白なる来世観を示すもの幾許ありや、其講壇より説く所は所謂倫理的福音に非ずんば社会問題国際間題の類である、実に現世的思想は現代の一大風潮である。
来世は果して有る乎無い乎、之に関して記憶すべきは聖書が来世の存在を論議せざる事である、|基督教にありては神の存在又は来世の存在は既定の事実である〔付○圏点〕、イエスの其弟子等に教へて「天に在ます我等の父よ」と言はしめ、又はラザロと富者との死後の運命を語り給ひし時の如き、父なる神の存在と死後の生命の存在とは之が説明を要せずと為し給ひし事明瞭である、彼の生涯は常に来世と幕|一重《ひとへ》を隔てゝ相列つて居つたのである。
来世の存在を否定せんと欲すれば種々なる議論を以て之を証明する事が出来る、或は来世を知らざる者の間にも尊敬すべき人あり、来世を信ずる基督者の中にも卑しき人なきに非ずといふが如きは其一である、或は身体ありての霊魂なり、身体衰へて霊魂も亦衰ふ、誰か身体を離れたる霊魂を見たるやといふが如きは其二である、或は人類は極小動物より徐々に進化したる者なり、其進化の階梯の何処に於て霊魂が身体に入りしやといふが如きは其三である、或は小児は無心にして母の胎より出づるに非ずや、霊魂の有無の如きは大人の閑問題なりといふが如きは其四である、斯の如くにして其結論を下して言ふ事が出来る「故に霊魂あるなし、故に来世あるなし」と。
|然し乍ら斯の如き有力なる反対論あるにも拘はらず来世の存在は万人の熱望である〔付○圏点〕、若し何人か明白なる説明を以て来世の存在を立証する者あらんには凡ての人が之を傾聴せん事を欲するのである、但し近代人の要求する所の説明は聖書の言の如きではない、是に於てか近代的方法を以て此問題を説明せんと試むる者あるに至つた、(19)例へばフレデリック・マイヤーは心理学研究協会報告中に多くの証拠を載せて曰く「今より数十年の後には何人も自ら実験的に死者と語り得るに至らん」と、又有名なる学者W・L・ウォールカーは共著『霊と受肉』中に曰く「余は妻の死後彼女と交通したり」と、勿論之等の経験は少数者に限られたる事にして未だ以て確証とするには足りない、然し乍ら説明の如何に論なく、来世問題は人類の心の根柢に植付けられたる観念である、若し来世の観念なくば凡ての宗教はないのである、其存在を否定せんとする反対論あるに拘らず遂に此観念を抛棄する能はずして古来人類の多数が来世を信じ之を熱望し来りし事実は何を示す乎、|その人類の輿論又は根本的思想なりとの事実其著が来世存在に関する強力なる証明の一である〔付○圏点〕。
来世の存在は之を科学約に実験する事が出来ない、然し乍ら純然たる科学者の立場より之を弁護したる者は尠くない、オクスフォード大学の教授にして世界的医学者たるウィリアム・オスラーは『科学と死後生命』中に曰く「医学の立場よりすれば死後生命の存在を否定するは之を肯定するより以上の根拠を有せず」と、又有名なるプラグマチズム哲学の権威ウィリアム・ゼームスは『人間永生論』中に論結して曰く「脳は思想を作成する機関に非ずして之を濾過し整理する機関に過ぎず」と、彼等は学者として真面目に霊魂又は来世の存在を信ずるのである、余をして初めて来世の信仰を実見せしめたる者も亦一人の学者であつた、想起す一八八五年の秋余は米国アマストに赴き有名なる博士シーリー先生を訪うた、時は既に夕方であつた、先生はまづ余に尋ねて曰く「貴下は何時彼を信じたる乎」と、而して次に壁間の額を指《ゆびさ》して曰く「見よ彼女は余の妻なり、二年前に天国に往きて今や彼処に余を待ちつゝあり」と、余は其時博士の眼中熱涙の浮び出づるを見た、誰か学者の所説を以て患夫愚婦を導く為の方便 做す者ぞ、明日あると均しく来世あるを信じたる学者は古来決して少数ではないので(20)ある。
|宇宙の存在は合理的なり〔付○圏点〕といふ、然り物みな存在の目的がある、然るに独り人類の知的生命のみは其目的を有せざるが如くなるは何故である乎、|知識は其の進むに従ひて益々知識慾を増進する、かくて研究又研究、知識に知識を加へて遂に或所に至れば人は〔付○圏点〕遽然|として葬り去らるゝのである〔付○圏点〕、然らば人生程不合理なる者は無いではない乎、心理学者ヴント先生老齢九十に及びて尚青年と共に其研究を続くるが如きは畢竟無益である乎、否然らず、|幕の彼方に於て尚研究の途があるのである〔付◎圏点〕、|現世は人の限なき知識慾を充さんが為には余りに短小である〔付○圏点〕、来世の存在を認めずしては人生の円満なる解釈を下す事が出来ないのである。
又|神は愛なり〔付○圏点〕といふ、之れ最も深き真理である、然るに|人は神に似たる性格を備へんと欲して苦闘幾十年、漸くにして稍完全なる生涯に入らんとする時に当り〔付○圏点〕忽焉|として打ち砕かるゝが如きは残虐の極ではない乎〔付○圏点〕、斯の如くにして神は愛なりと言ふとも如何で之を信ずる事が出来やう乎、ニイチエは曰うた「宇宙とは斯かるものである、貴きものを作つては又之を破壊する所に宇宙の本性がある、永遠の還元(eternal recurrence)である、愛も死も限なく循環するのである」と、果して然る乎、我等は彼れニーチエの晩年に於ける発狂の原因の何処にありし乎を知らない、然し乍ら斯かる哲学が人をしてパウロ又はルーテル等の如く翼を張て天を翔る歓喜の生涯を送らしむる能はざるは何よりも明瞭である、十年二十年の努力を経て育成したる子女ほど母に取て貴きものはない、然るに之をしも棄てゝ顧みざるが如きは何の愛である乎、若し天然と人類との凡ての努力が破壊に終らん為であると言ふならば人生は絶望である、神は決して愛ではない、我等は来世の存在に由てのみ人生を此の大なる不合理より救ふ事が出来るのである、神は愛である、故に来世は必ず有る。
(21) 故に若し宇宙の合理的存在を信じ又神の愛を信ぜん乎、来世の存在をも亦之を否定する事が出来ない、道理に訴へて見て死後の生命を肯定するは之を否定するよりも強き主張である、然しながら理論は暫く措き我等をして之を感ぜしめよと言ふ乎、来世は果して之を感ずる事が出来る乎、|死後の生命は如何にして之を実験する事が出来る乎〔付○圏点〕、勿論数学の方式又は試験管を以て之を実験する事は出来ない、然れども何処にか我等をして今直に永生を実験せしむる途はないのである乎。
曰く有る、汝永生を実験せんと欲する乎、即ち|今より汝の自己中心的生涯を棄てよ、而して幾分なりともキリストに倣ふ生涯を送れよ、然らば明日より必ず来世を確信するに至るであらう〔付○圏点〕、死後の生命を嘲る者は誰ぞ、自己の利益をのみ追求し世を恐れ人を憚る政治家実業家宗教家輩ではない乎、然れども人の前にキリストを言ひ表はし彼の名の為に恥辱と迫害とを受け正義の為に世界を敵として戦ひキリストの為に十字架に上る人は、自己の生命の決して死と共に終らずして永遠のものなる事を確信せざるを得ないのである、|神の与へ給ふ死後の生命はキリストの有し給ひし如き生命である〔付○圏点〕、故にキリストに似たる愛と犠牲との生涯を送る者は即ち現世にありて既に死後の生命を実験する者である、問題は研究の問題ではない、実行の問題である、大哲学者が其学間の蘊蓄を傾けて来世の存在を否定する傍《そば》にありて職工たると学生たると教役者たると平信従たると主婦たると子女たるとを問はず、何人も今日直に来世の確信を獲得する事が出来るのである。
然しながら若し自ら之を実験し得ざるならば|我等は又或時他人の生涯を見て之を感得する事が出来る〔付○圏点〕、其肉体は全身破壊の状態にありて而も絶えず歓喜と希望とに溢れ常に人類を愛して生くる人の如き其生命は永遠に朽ちざるものではない乎、余は先日教友古崎|彊《きよう》君の死せんとする時彼を平塚海岸の病室に見舞つた、余は如何にして(22)彼を慰めん乎を思ひ前夜より特別の祈祷を続けて準備を為した、然るに到り見れば其朝既に一度び脈絶えたる病人が死の床に在りて莞爾として微笑し余を迎へて歓喜と感謝との言を繰返すのみである、彼は己が胸を指して曰うた「此処に平和の王国既に成れり」と、彼は又目前に迫れる己が死に就て諧謔を交へて語つた、余は其状を見て深く感ぜざるを得なかつたのである「此生命が如何にして死すべき乎」と、之を死すべしと言ふは微弱なる説である、斯る生命は決して死せずと言ふは其れよりも遙に有力なる解釈である。
死後生命の存在は斯の如くに之を証明する事が出来る、然しながら如何に証明すると雖もそは遂に一種の冒険たるを免れない、|死後の生命は信仰を以てする冒険である〔付○圏点〕、恰もコロンブスのアメリカ発見の如きである、彼の企図も亦大なる冒険であつた、然れども夢に基く冒険に非ずして信仰に基く冒険であつた、彼は地球の形状より推して海の彼方には必ず或る陸の存在すべきを信じたのである、故に彼は何人の反対をも恐れず己を疑ひて殺さんとする者ある尚其信仰を動かさずして遂に目的地に達したのである、死後の生命も亦然り、之を宇宙の合理的存在と神の愛と自己の実験とより推して死の彼方に必ず或る陸の存在すべきを信ぜば仮令何人の反対に遭遇するとも其信仰を動かす事なくして進むべきである、勿論来世の状態の委細に至ては今より之を知る事が出来ない、コロンブスも亦彼処に如何なる樹と草と鳥獣との在るべきかを知らなかつた、然し乍ら唯だ人の住むべき陸ある事を確信して彼は船を進めたのである、来世は常に讃美歌を歌ふ所である乎、金剛石と金銀とを以て飾りし所でぁる乎、我等は之を知らない、然れども唯其処に我等の永遠の住所あるを信じて疑はないのである。
詩人テニスン其の晩年に歌つて曰く「我れ一人にて大海に乗出すも彼処に水先案内ありて我船を導き遂に或る陸に着かしめん」と(”Crossing the Bar”)、之れ即ち死後生命の冒険にして彼の信仰であつた、而して独り彼の(23)みではない、ソクラテス然りパウロ然りダンテ然りルーテル然り、|古来世界に於ける最大偉人の大多数は皆之を信じたのである、実に来世の存在は人類全体の輿論である〔付○圏点〕、或る天主教僧侶の言ひしが如く仮令他の事は悉く誤るとも人類全体の信じたる来世の存在のみは誤まるべからずである、故に我等は此信仰の下に安んじて自己の船の進路を定めん事を欲する者である。
以上は死後の生命に関し聖書を離れて試み得べき最上の論証であると思ふ、然し乍ら人の説明は以て来世の実在を立証するに足りない、永生は神の賚賜である、而して神の啓示《けいじ》に由りてのみ死後生命の実在と性質とを明にする事が出来る、神の言なる聖書の教示《しめし》に由らずして来世を語る事は出来ない。
(24) 人類最初の平和会議
(四月廿七日) 創世記第十一章一−九節の研究
大正8年6月10日
『聖書之研究』227号
署名 内村鑑三述 藤井武筆記
全地は一の言語《ことば》、一の音《をん》のみなりき、茲に人々東に移りてシナルの地に平野を得て其処に住めり、彼等互に言ひけるはいざ瓦を作り之を善く焼かんと、遂に石の代りに瓦を獲、灰沙《しつくひ》の代りに石漆《ちやん》を獲たり、又言ひけるはいざ邑《まち》と塔とを建て其塔の頂を天に至らしめん、斯くして我等名を揚げて全地の表面に散る事を免れんと、ヱホバ降りて彼人々の建つる邑と塔とを観給へり、ヱホバ言ひ給ひけるは見よ民は一にして皆一の言語を用ふ、今度に之を為し始めたり、されば凡て其為さんと図る事は止め得られざるべし、いざ我等降り彼処にて彼等の言語を淆《みだ》し互に言語を通ずる事を得ざらしめんと、ヱホバ遂に彼等を彼処より全地の表面に散らし給ひければ彼等邑を建つる事を罷めたり、是故に英名はバベル(淆乱《みだれ》)と呼ばる、こはヱホバ彼処に全地の言語を淆し給ひしに由てなり、彼処よりヱホバ彼等を全地の表に散らし給へり(一−九節)。
「全地」 全地球ではない、其時代に周知せられたる世界である、主として西方アジア即ちパレスチナ及びアラビアの北方ユーフラテス河の西境地方である。
「一の言語一の音」 国語全体として一なるのみならず単語其他の組立に於ても一。
(25) 「東に移り」「東に向て」か「東より」か判明らない、「東」は固有名詞である、単に「東方」の意ではない。パレスチナより東方に当るメソポタミア地方即ちチグリス、ユーフラテスの沿岸である。
「いざ」 go to 又は now といふが如く或事に着手せんとする時の呼び掛けの語である。
「石の代に瓦を獲」 メソポタミア地方は恰も我国の上総九十九里の沿岸又は尾張平原の中央等の如く石に乏しき所である、故に石の代りに瓦即ち煉瓦を作つたのである。
「灰沙の代りに石漆を獲たり」 昔は石を固むるに灰沙を用ゐた、其代りに「石漆」即ち今のアスファルトを獲たのである、アスファルトは今日尚シナルの野、殊に死海の海底より多量に産出せらる。
「邑」 大なる都である、人類の巣窟又は大家族ともいふべき集団である、我国の多くの都会の如き町村の集合体の如き者ではない。
「塔」 バビロンの塔は「ヂクラート」と称し其巨大なる事到底我国の所謂塔の如きではない、仏国のアイフル塔も比較するに足りない、例へば東京神田区の一街を土台として其上に建設したる人工的の小丘である、従て其都の見えざる数十里の遠距離より塔のみは之を望見するを得べく以て人の注意を惹かんと欲したのである、バビロン地方には今も尚ほ此「塔」の遺物たる煉瓦の堆積が遺つて居るといふ。
「天に至らしめん」 原語に「至らしめん」の字なし、バビロン人如何に無学なりしと雖も塔を作りて天に上らんとはしなかつた、否塔の築造其事が彼等に深き知識ありし事を証明する、「天を指して」又は「天を以て」の意ならん、多分十二宮の図を塔の頂に掲げたのであらう。
「我等名を揚げて云々」 功名を立て偉力を示し我等こそはかゝる強大なる国民なる事を全世界に現はし以て(26)一致団結せんと欲したのである.
「ヱホバ降りて云々」 邑は建てられ塔は成らんとす、人は其中央集権の目的を達せんとす、神は上より之を見、若し之を放任せんには彼等今後何を企つべきか図るべからざるものあるを憂へ給うたのである。
「我等降り」 聖書に於て神は初より「我等」と言ひ給ふ、神は勿論多数ではない、独一無二である、然しながら三位一体である、父なる神と子なる神と聖霊なる神とである。
「彼等の言語を淆し云々」 神は彼等の建てたる邑又は塔を壊たんとは言ひ給はない、邑と塔とは其儘存つたであらう、然しながら神彼等の言語を乱し給へば彼等は忽ち散乱して邑の建設を中止せざるを得ざるに至つたのである。
「是故に其名はバベル(淆乱)と呼ばる云々」 「バベル」は「バビル」にして「神の門」である、バビロン人は此意味に於て名を附したのであらう、然るにバビロンに対して悪感を有するヘブル人は自己の立場より之を「淆乱」と呼んだのである。
|注意すべきは「ヱホバ降りて云々」に至る迄一も神の名を見ざる事である〔付○圏点〕、いざ邑と塔とを建て「我等」の名を全世界に揚げて合同せんといふ、神の為ではない「我等」の名誉「我等」の幸福「我等」の勢力の為である、|天地を造りし神を蔑《ないがしろ》にして合同せんと欲したのである、故に神は之を散乱せしめ給うたのである〔付○圏点〕、近代の智者は之を評して言はん、神は何故人類の功名を嫉むや、何故広量大度に出でざるやと、神若し父なる神に非ざりしならば彼は彼等の言の如くに為し給うたであらう、然しながら父なる神を離るゝは即ち子の滅亡である、之れ彼等の上に神の大なる聖手の降りし所以である。
(27) 而して神は破壊者なると共に又建設者である、|彼は神を離れたる人類の計画を破壊し給ふ、然れども又直に自ら備へ給ふ所の結合を始め給ふ〔付○圏点〕、バベルに人の言語を乱して之を全地の表面に散乱せしめ給ひし神は、セムの後より長き系統を経て遂にアブラハムをカルデヤのウルより呼び、彼に由てイスラエルの歴史を始め、更にイエスキリストの降誕と再臨とに由り最後に人類の真正なる和合一致を実現せんと欲し給ふのである、故に創世記第十一章に於てバベルの記事に尋ぐものはセムの伝である(十節以下)、|之れ人類の計画に基く合同に代ふるに神の計画に基く統一を以てし給ふ事を教ふるものである〔付○圏点〕。
近代の註釈家(例へばドライバー氏)は曰ふ、此記事は之を歴史的に見る能はず、人類の言語が一なりしといひ神之を乱し給へりといふも言語の成立又は混乱は爾《しか》く容易に行はるゝものに非ずと、然らば此記事は一の譬喩又は小説に過ぎずして其深き意義は著るしく減殺されざるを得ない、勿論全世界が一の国語を有したる時代は今日殆んど想像すべからざる太古の事である、然しながら此処に所謂「一の言語」とは斯の如き意味ではない、こは|大勢力家の出現に基く国語の統一〔付○圏点〕である、例へば露西亜中に幾十種の言語ありしに拘らず彼得《ペートル》大帝及び之に続きし幾多の英傑の出現により一億数千万の民が遂に一の言語を用ゐるに至りしが如くである、而して創世記十章八節及び十二節に於て之が説明を発見する事が出来る、ニムロデなる大英傑出現して独裁君主となり大なる城邑を建設して其国民の言語を統一したのである(或は曰ふニムロデは人名に非ず、其語源「ムラード」は謀叛を意味す、即ち彼は神に対する謀叛人、偽基督なりと、以て其非凡の英傑なりしを知る)、然らば「言語を乱す」といふも亦国語を忘却せしむる事ではない、露国の帝室倒れてウクライナ、ポランド、シベリア等皆各別の語を使ふに至るが如く、|国家の分裂〔付○圏点〕の意である、又言語の同一は思想の同一又は主義の同一を意味する、其生活の根柢破(28)壊せられて思想及び主義に分裂を生ずるは歴史上の事実である、故に創世記の記事は大体に於て之を歴史的に解釈すべきである。
功名の発揚、権力の振暢、実業の繁栄、而して世界の統一、之れ皆佳き事である、古代の英傑ニムロデ之を図り爾来稀世の英雄チヤーレマン、ペートル、ナポレオン等皆之を図つた、然るに彼等の事業の悉く失敗に帰せしは何故である乎、彼等の為す所凡て佳かりしと雖も唯一つ欠くる所ありしが故である、|彼等は一言も神の名を唱へざりしが故である、バベルに於ける人類最初の平和会議の混乱に終りし所以は全く此処にあつた〔付○圏点〕、平和は可なり、聯盟は可なり、|然れども世には神の定め給ひし唯一の平和聯盟の途あるのみ、之を除いて決して永久的平和永久的聯盟あるなしとは聖書の明白に教ふる真理である〔付△圏点〕。
翻て思ふに、今回の巴里に於ける平和会議は如何、余も亦之を歓迎したる者の一人である、然しながら先づ解し難きは会議地として巴里を選定したる事である、戦前の巴里は世界腐敗の中心にして実に近世のバビロンであつたではない乎、此処に万国の政治家等相集りて世界の平和と人類の合同とを議しつゝあるのである、而して彼等は如何にして之を議しつゝある乎、嘗てフランクリンが費府に於て米国の独立を議せんとせし時彼は会衆一同に告げて曰うた、斯かる大問題は神に祈らずして之を議する能はず、故に毎朝教師を招き祈祷を以て会議を始めんと、福ひなる哉北米合衆国、斯の如くにして成りしものがかの有名なる独立宣言書である、之れ世界の曾て作りし最も完全なる合同の議決書である、|然るに巴里に於ける平和会議が祈祷を以て開かれたりとは内外の新聞電報の一言も報ぜざる所である〔付○圏点〕、ロイド・ジヨージ又はウイルソンは熱心なる基督者なりと聞く、然るにも拘らず彼等が世界十五億の民の合同平和を図る重大事件を議せんとするに当り神の名キリストの名の下に祈祷を(29)以てせざるは何を示すのである乎、巴里に於て独逸の事自耳義の事戦争の事経済の事其他何事を語るも自由である、然しながら唯ヱホバの名のみは禁物とせらる、神を抜きにして人類の合同を計る、之れ豈バベルの会議に酷似して居るではない乎、故にヱホバの神は四千年前と同じく今回も亦「いざ我等降り彼処にて彼等の言語を淆し互に言語を通ずる事を得ざらしめん」と言ひ給ふであらう、|巴里に於ける平和会議も亦人類最初の平和会議と同じく混乱に終るであらう〔付△圏点〕、試に昨今の新聞電報を見よ、而して之を数月前に現はれたる世界の大なる期待と対比せよ、国際聯盟を以て理想の実現と做し大統領ウイルソンを以て人類の救主と做したる者は今何処にある乎、自ら名を揚げて合同せんと欲したる国民等の却て全地に散乱せんとする徴候が既に見ゆるではない乎、平和会議は何故に爾く我等を失望せしめたのである乎、其説明は明白に聖書の中に示さるゝではない乎、之を東京にて語るも未だ足りない、余輩は之を巴里の中央に於て叫びたく欲ふ、|実に〔付◎圏点〕禍|なるは神に祈らずして聯合を作らんと欲せし政治家教師等である、彼等は二十世紀の今日再びバベル会議の〔付◎圏点〕覆轍|を踏みつゝあるのである〔付◎圏点〕。
而してこは独り国際問題に限らない、個人間の平和然り、教会の合同然り、我国に於ける教会合同の未だ実現せざるは何故である乎、余は虞る教会の名士一堂に会合して互に其利害を譲らんとするも合同は永久に成立せざる事を、|教会合同の秘訣は祈祷にある〔付○圏点〕、会議に先だちて祈祷会を開き合同の主唱者たる教会の先輩より姶めて一同自己の罪を悔改め互に主の名に由て相赦さんと欲する時一条の法則なくして合同は直に成立するであらう〔付△圏点〕。
而して合同の要件はたゞヱホバを迎ふる事にあるのみ、其他に何の条件をも要しない、各々其住む所の家を異にするも真実の合同を妨げないのである、バビロンの英傑は先づ国民の言語を統一せんと欲した、然しながら|神は言語の統一を要求し給はない〔付○圏点〕、ペンテコステの日聖霊降りて使徒等の大説教を始めたる時彼等は諸国の言語を(30)以て語つた、神は会衆の言語を統一せずして却て使徒等に異なりたる言語を学ばしめ給うたのである、又黙示録七章九節に曰ふ「此後我見しに諸国諸族諸民諸|音〔付△圏点〕の中より誰も数へ尽す能はざる程の多くの人白き衣を着、手に椋梠の葉を持ち宝位《みくらゐ》と羔の前に来りて立てり、彼等大声に呼はり曰ひけるは云々」と、依て思ふに天国に於ても亦諸国の民皆其特異の言語を以て神を讃美するのであらう、而して言語は寧ろ其異なる所に美はしさがある、和合一致を妨ぐるものは言語ではない、教会の合同を妨ぐるものは教派ではない、|教派は其儘にて可なり、唯心を一にして神を崇めよ〔付○圏点〕、然らば教会の真実なる合同が成るであらう、主の前に跪きて平和を議せよ、然らば完全なる国際聯盟が成るであらう。
(31) ダビデの牧羊歌
(二月二日) 詩篇第二十三篇の研究
大正8年6月10日
『聖書之研究』227号
署名 内村鑑三述 藤井武筆記
ヱホバはわが牧者なり、われ乏しきことあらじ、ヱホパは我をみどりの野にふさせ、いこひの水浜《みぎは》にともなひたまふ、ヱホバはわが霊魂《たましい》をいかし名《みな》のゆゑをもて我をたゞしき路にみちびき給ふ、たとひわれ死のかげの谷をあゆむとも禍害《わざはい》をおそれじ、汝我とゝもに在せばなり、汝の笞《しもと》汝の杖われを慰む、汝わが仇のまへに我がために筵《えん》をまうけわが首にあぶらをそゝぎ給ふ、わが酒杯《さかづき》はあふるゝなり、わが世にあらん限りはかならず恩恵と憐憫《あはれみ》とわれに添ひ来らん、我はとこしへにヱホバの宮にすまん。
詩篇第二十三篇は旧約聖書中の真珠である。信者にして此詩が其口より自ら流るゝ様に出で来るに非ずんば未だ深く聖書を味うたとは言へない。此篇は新約聖書に於ける「主の祈り」と共に信者が常に心に銘じて誦すべきものである。
第二十三篇は其の冒頭に言ふ「ヱホバは我牧者なり」と。是れ全篇の主《おも》なる題目である。|聖書を学ぶ秘訣は其冒頭の数語の深き意味に注意する事である〔付○圏点〕。創世記第一章第一節に旧約書の全部が含まれ、詩篇第一篇第一節に詩篇全体の序文があり、又馬太伝第一章第一節にキリストの福音が総べて説かれてある。而して此考を以て「ヱ(32)ホバは我牧者なり」の一句を読むに、原語にては僅かに四字なれど各皆重き意味の語なる事が判かる。牧者とは何ぞ。イエスも自らを牧者に譬へられしが如く牧者と羊とは聖書中に於て深き意義を有する。而してダビデは自ら牧者であつた。サムエル前書第十七章以下には彼の牧者生活の詳細を載せて居る。 彼は或時其愛する羊群が獅子と熊に襲はれしを奪ひ返へせし話もある。故にダビデは羊を牧ふの苦心其他之に関する全般の事情を弁へて居つた。故に彼が歌うて「ヱホバは我牧者なり」と言へる時彼の全生涯の実験が此の数語に織り込まれて居るのである。ベテロ前書二章二十五節にも「霊魂の牧者」なる語がある。
牧者の損さを知るには羊の愚かなるを知るを要す。抑も羊を飼ふには杖と笞《しもと》とが必要である。羊は集合的に動き雷同的に振舞ふ。故に一疋にても群を離るれば全体忽ち四散する。治め難きものにして羊の如きは無い。此れ牧者の苦心の存する所である。
此の如く羊に必要なるは善き牧者である。我等人生に必要なるは善き牧師である。国の政治を行ひ地方を治むるにも牧民官を要する。善き牧民官のあると否とは人民の休戚に大関係がある。況んや霊魂の場合に於てをや。「我が霊魂を活し聖名の故に我を義しき路に導く」ものは果して誰であるか。
我等は実に善き牧者を要する。今の世の牧師果して我が望みをみたすや。悉く然らずである。|然れども唯一人の牧師あり、ヱホバは其人である〔付○圏点〕。ヱホバあるが故に我れは善き牧師なきを悲しまない、仮令悪しき数多の牧師ありと雖、其の最後の頂上にはヱホバなる大牧師あれば我等は失望しないのである。
「我が」と言ひ、「われ」と言ひて、「我等」或は「クリスチヤン」と書かざるは注意すべき点である。是れ決して神を独占する意味に非ず。|各自が独りで特別に実験すべき事であるからである〔付○圏点〕。ヱホバが各自に取りて特別(33)に実験さるべき大牧師なる事は、此のダビデの独自の実験によりて示されて居る。「我が」又は「われ」と言ひて単数にて書かれたる所に特に力があり望みがある。一般的《ゼネラライズ》にさるれば意味頗る薄弱となる。之を単数にて語りて初めて友に向つて語るが如き信頼と親密とを表はすのである。
又「ある」「なり」とはヘブライ語希臘語にて大切なる文字である。特に語気や意味を強めるために用ゐられる断定の言葉である。此れまた深く味うべきである。更に第一節に曰く「我れともしき事あらじ」と。蓋しヱホバを牧師として仰げば最早何等の欠乏を感ぜぬのである。人間には欠くる所が多い。感情濃かなれば知識足らず。知識増せば信仰冷へ、意志強ければ愛を欠く。此れ実に人間の弱点である。然し乍らヱホバは総べて此等を備へ給ふ。愛と知識と感情と意志と皆完全に有ち給ふのである。故にヱホバを仰げば我が要求は総べて満たさるのである。
第二節ヱホバは我を緑の野に臥させ、憩の「水浜《みぎは》に伴ひ給ふ」と、緑の野は我が日常の食物を作る畑である 憩の水浜は我が命の水を供給し、休息を与うる所である。ヱホバは我が食物にして同時に命の水である。ヱホバを信ずる者は他に休息を要せない。現代人は休息を山に求め海に漁《あさ》り夏には避暑冬には避寒せざれば神経衰弱を病むと言ふ。然し乍ら休みは山になく海に無し。ヱホバに頼めば憩ひ自ら成るのである。書斎にあり労働場にありて十分に休み得るのである。今のクリスチヤンが外に休みを求めて止まないのは頼むべき憩ふべき真の牧者が無いからである。
第三節「我が霊魂を活かし、聖名の故を以て我を義しき路に導き給ふ」と。「活かし」は復活である。萎《なへ》たる霊魂を新たにする事である。新しき希望と力とを与ふる事である。而して此の復活したる霊魂を悪魔の手に委ね(34)ず。神の聖名の栄えを顕はすために使はんとて義しき路に導き給ふのである。単に救ひ出し新生命を吹き込むのみならず、此れを義しく導き使ひ給うのである。
第四節「縦ひわれ死の蔭の谷を行《あゆ》むとも云々」とある。「死の蔭の谷」は死に臨み神の側に在るを確めたる言葉と言ふよりも、寧ろ吾人の日常生活に当箝る言葉である。ヘブライ語に相似たる二語がある。ツアルマベースとツアルムートと言ふ。前者は「死の蔭」を意味し後者は「薄暗き場所」の意である。此節は後者の意に解するが適切である。即ちパレスチナの暗き谷間多き平地に於ては獅子其他の猛獣が其間に匿れて度々羊を襲ふのである。我等の日常生活は恰も暗き谷間に近く彷徨ふ羊の生涯と似て居る。思はざる所に恐るべき誘惑が現はれ迫害が起りて我等を悩ます。然し乍らヱホバに倚り頼むものはかゝる禍害《わざはひ》を恐れない。神は如何なる時も我側に在りて我等を守り総べての必要なるものを与へ給ふからである。
かくの如く神は我等の要求を容れ休養を賜ひ慰めを与へ給ふ、読むで此所に至れば神は只有難き一方である。浄土真宗の唱ふる弥陀と殆んど異る所がない。然し乍ら聖書の特色は此後にある。基督教の神は単に憩ひを与ふるのみでない。憩ひの後に直に活動を要求する。馬可伝第九章にもある如くイエスがペテロ、ヤコブ、ヨハネを伴ひて変貌の山に登りし時、ペテロはイエス、エリヤ、モーセのために庵りを結むで静かに潔き生涯を送らんと言ふた。然るにイエス此れを聞き給はず、山を下りて其所に待つ数多の人の救ひに急ぎ給ふたのは、基督教が活動的であり積極的である善き証拠である。故に「ヱホバは我を義しき路に導き給ふ」と言ひて其中に戦ひがある。此世と戦ふに必要なる休養既に終はつた後は、直に出でゝ義のために戦へと言ふのである。而して敵と戦ふに当つてはヱホバの助け必ず至る。即ち「汝の笞なんぢの杖われを慰む」(四節)と言ふ。笞も杖も敵を防ぐために用(35)ゆるものである、「慰む」とは助くるの意である。然し乍ら笞には更に他の意味が有る。罰を加へる事である。人が過誤に陥つた時は笞を用ゐて此れを矯《たゞ》すのである。即ち第四節は単に外部の敵を防ぐのみならず、若し自ら過ちに陥つたならば神が笞を加へて罰を下し給ふ必要がある事を言つたのである。愛濃ければ笞愈々厳し、我等は内なる敵を懲らす時に神の笞の有難さを能く知る事が出来る。
第五節より全く題目が一転する。「汝わが仇の前に我がために筵を設け云々」と。人生は戦である。戦前に曝露しつゝ与へらるゝ糧《マナ》こそ真の御馳走である。休養に非ず享楽に非ず。戦はんがための奨励である、慰安である。心|急《せわ》しき中にヱホバの御馳走を得て直ちに次の戦を戦ふのである。我が首《かうべ》には油|濺《そゝ》がれ我が酒杯は満ちてあふる。我が勇気は倍せざるを得ない。我が足は進まざるを得ない。
最後に第六節は二つに分たる。先づ「わが世にあらん限りは必ず恩恵と憐憫とわれに添ひ来らん」と、此れヱホバに倚り頼むものに現世の慰安豊かなるを歌へるものである。次に「我れはとこしへにヱホバの宮にすまん」と。此れヱホバを待ち望むものに来世の希望動かすべからざるを示せるものである。此世に在りては種々の悩みの中にヱホバの恩恵と憐憫とに慰められ、此世を去つては永へにヱホバの側に天国の生活を送る。此れ基督者の特権である。
ヱホバに飼はれヱホバに養はれ、総べてヱホバにょりて生き働き遂に永への生命に入る。基督者の拠所はヱホバ、ヱホバ、ヱホバである。詩篇第二十三篇はダビデの宗教的自覚を歌ひたる最も美はしき詩である。此篇が詩篇中の雄篇と称せらるゝは実に当然である。
(36) 基督教界革正の必要
大正8年6月10日
『聖書之研究』227号
署名 内村鑑三
五月十三日夜東京基督教青年会館内開催基督教界革正大演説会に於ける演説の大意
汝等は地の塩なり、塩もし其味を失はゞ何を以てか故の味に復さん、後は用なし、外に棄てられて人に践まるゝのみ(馬太伝五の一三)。
汝等唯然り々々否々と言へ、之より過ぐるは悪より出づるなり(同三七)。
あゝ 禍なるかな偽善なる学者とパリサイの人よ、そは汝等|※[行人偏+扁]《あまね》く水陸を歴巡《めぐり》て一人をも己が宗旨に引入れんとす、既に引入るれば之を汝等よりも倍したる地獄の子と為せり(同二三の一五)。
又此世に効《なら》ふ勿れ、汝等神の全く且善にして悦ぶべき旨を知らんが為に心を変へて新にせよ(羅馬書一二の二)。
凡そ世にあるもの即ち肉体の慾眼の慾又勢より起る驕傲《たかぶり》、之等は皆父より出づるに非ず世より出づるものなり、此世と其慾とは過ぐるものにて神の旨を行ふ者は限りなく存《とゞ》まるなり(約翰第一書二の一六、一七)。
今より四十二年前即ち明治十年に余は七百噸の小汽船玄武丸に搭じて品川湾を発し北海道に向つた、而して其(37)翌年札幌に於て基督信者と成りし頃より余の胸中に一の大なる期待があつた、|そは基督教が日本国を救ふべき唯一の力なりとの自覚が何時か国民の中に発生するに非ずやとの事であつた〔付○圏点〕、爾来余は石狩平原の林中にありて幾度びか之を夢み且之が為めに祈つた。
四十年は短きが如くして長かつた、然れども神の聖旨は働きつゝあつた、|余の旧き夢は今に至りて遂に事実と成りて現はれつゝあるのである〔付○圏点〕、見よ今夕の此光景を、基督教界の革正を標榜する演説会に於て青年会講堂の記録が曾て示さゞりし程の多数の参集を見るは何を示すのである乎、少くとも東京に於ける基督者の多数は今日の我国基督教界革正の必要を認むるの証明ではない乎、而して独り基督者のみならず国民の多数が純清なる基督教を求めつゝあるのである、今や純福音に対する要求は国民的である、|国民の深大なる不安を除却すべきものは仏教に非ず在来の道徳に非ずして唯キリストの福音あるのみとの自覚は今日日本全国に〔付○圏点〕磅※[石+薄]|たる機運である〔付○圏点〕、余輩の小なる伝道の実験が明白に其事を証明するのである、近時国内各地方に於て伝道するに当り到る所其会場を充す丈の会衆を見ざるはない、純福音の提供せらるゝ処に聴衆欠乏の嘆を聞かない、聖書を手にして之を如実《ありのまゝ》に説く処に教勢不振の声は挙らない、実に近来の如き伝道 好機会は余輩の未だ曾て経験せざりし所である、一人の求道者を発見する事は伝道者に取て大なる歓びである、然るに咋今多数の男女の踵を接して余輩の門を叩く者がある、伝道は今や最大の快楽である、そは何の故である乎、蓋し国民の最大要求に応ずる事業となりしが故である。
国民の要求既に斯の如し、然るに之に応ずべき教会の状態は如何、多数の国民は其周辺を囲みて「与へよ与へよ」と叫びつゝあるに拘らず不思議にも教会は其声に応ずる事が出来ない、東京市中教会又は講義所の数凡そ百(38)ある、而して其中二三を除く外は日曜日毎の出席者平均二十名内外に過ぎずといふ、彼等は種々なる方法によりて振興の策を講ずるも尚且つ微々として振はないのである、教会然り、神学校亦然り、広大なる土地に宏荘なる建物を並べ基金数十万円教師内外十数人を蓄へて其養成する所の生徒の数は僅かに十指を以て数へ得るに過ず、而も之等少数の生徒中卒業後伝道に従事する者更に寥々たりといふに至ては驚かざるを得ない、|世は福音を与へよと叫ぶも教会と神学校とは全く之に応ずる事が出来ないのである〔付○圏点〕。
教会は唯に外よりの要求に応ずる能はざるのみならず其内側に又た解すべからざる現象がある、教会は愛の家なりとは何人も信ずる所である、恰も家庭が不完全なる家族の集合たるにも拘らず愛の故に温き休息所たるが如く教会も亦斯くあるべき筈である、然るに事実は如何、|教会は果して愛の充つる世界である乎〔付○圏点〕、否冷|かなる所にして教会の如きはない〔付○圏点〕、こは自ら教会内にある者の何人も熟知する事実である、現に此席に列せる松村介石君の如き今日其信仰に於ては全然余輩と異なるものありと雖も君は確かに誠実の士にして曾ては教会の光であつた、然るに君をして教会に在るに堪へざらしめたる責任は何処にある乎、其他同じ実例は決して少くない、光を愛する人にして教会より駆逐せられたる者は甚だ多くある、之れ抑も何故である乎、之れ教会が暗き冷き場所と化したるが故ではない乎、|愛を以て充つべき教会が陰険なる狐狸の〔付○圏点〕住家|となれるが故ではない乎〔付○圏点〕。 教会の腐敗は明白なる事実である、而して其の茲に至りし所以を考ふるに|異端〔付●圏点〕と|俗化〔付●圏点〕との二大理由を挙げざるを得ない、異端とは何ぞ、|神の明白なる真理に従はざる事である〔付○圏点〕、余輩の初て福音を受けし頃信仰は極めて簡単なるものであつた、其一は聖書を特別の意味に於て神の言と信ずる事であつた、余の四十年間の信仰生活に幾多の変遷ありしと雖も此一事は一日だも之れを疑はなかつた、然るに近来余輩は驚くべき奇怪事を発見したのであ(39)る、不信者又はユニテリアンならばいざ知らず、|明白なる|正統派《オルソドクス》|の信者殊に教師が「聖書は特別の意味に於て神の言に非ず」と断言して憚らないのである〔付○圏点〕、例へば昨年五月有力なるメソヂスト教会の牧師白石喜之助氏はユニテリアンの機関誌たる『六合雑誌』に「基督教界現下の迷妄」と題する論文を掲げて次の如き言を述べた、曰く「基督再来の思想は古来幾度か基督教界を禍したる迷妄である、使徒時代には此迷妄の為に聖書に示すが如く生業を擲ち労作を放棄し云々、夫れ聖書は天啓なるに相違ない、然し其天啓たるや論語の天啓たると其性質に於
て異なる所はない〔付△圏点〕」と、驚くべし聖書の天啓たるは論語の天啓たると其性質に於て異ならずとは! 而して|更に驚くべきは斯かる大異端が足下に於て公然唱導せらるゝには拘らず教会の監督の一言之を取締りたるを聞かず教会内一人の立ちて之を責めたる者あるを聞かない事である〔付○圏点〕、日本メソヂスト教会監督平岩博士は余が無教会主義者なるの故を以て青年会講壇を余に提供するの非を鳴らしたる由なるも|監督は何故其職権を以て己が教会内の異端責めないのである乎〔付△圏点〕、斯の如き監督を戴く教会は禍なる哉である、又本年一月メソヂストの機関雑誌『神学評論』に現はれたる富永徳麿氏の基督再臨反対論の如きも亦其一例である、氏は其論を結んで曰ふ「聖書の言なりとて信ぜずともよし、基督の教にありたりとて信ぜずともよし」と、問ふ然らば氏は何を信ぜんとするのである乎、教会内に異端横行して何人も之を怪まない、|実に彼等に取て教会は信仰よりも大切なるものである〔付○圏点〕、曾て余の地方伝道に赴きし時汽車中一人の組合教会派の米国宣教師に遭遇した、彼は余の何人なるやを知るや余に問うて曰く「貴下は教会に関して特殊の思想を有すと聞く、乞ふ之を承はらん」と、依て余は問を以て之に答へて曰うた「教会と信仰と二者何れが貴き乎」と、又「貴教会の先輩海老名彈正氏と無教会の余と信仰に於て孰れが正しきや」と、而して彼れ宣教師が余の信仰の正しきを認むるも教会内に於ける信仰上の異端を憂ふる事をせずし(40)て教会に対する余の態度のみを責めんとする者なるを知りしが故に余は最後に彼に向て断言した「貴下の如き憐むべき教会を有する人々は余の無教会主義に就て質問するの資格なし」と、|教会乎信仰乎、余の無教会主義は或は誤謬であるかも知れない、然しながら信仰の事に於ては余は決して彼等の如くに謬らない〔付○圏点〕積りである、信仰は教会よりも遙に重要である、異端は革正すべき第一の問題である。
次には教会の俗化である、|利益を獲んが為に此世と妥協す、教会は之を当然の事と言ふ、然し乍ら余輩は之を称して俗化と言ふのである〔付○圏点〕、明年我国に於て開催すべき世界日曜学校大会が其後援者として知名の不信者たる大隈侯、渋沢男等を戴くが如きは其一例である、諸君是は果して俗化ではない乎、然り確かに俗化である、俗化は教会の腐敗である、不信の富豪に依頼し彼等に依て貯へられたる金銭の寄附を仰いで以て伝道資金に充つるが如きは俗化の最も甚だしきものである、(茲に留岡幸助氏が曾て古河市兵衛氏より寄附金を受けた時の実例を述べた)、今や紛々たる教会の俗臭は既に鼻を衝いて到る、誰か此処に革正の必要なしと言ふ者がある乎、|信者は何れの教会に属するも可なり、然れども願はくは異端を信ずるを〔付○圏点〕罷|めよ、願はくは貧しと雖も清き生涯を送れ、而して温き愛を以て一団となり以て俗化せる教会の革正に力を尽せ、之れ実に余輩の切望である〔付○圏点〕。
|附言〔ゴシック〕 教会は俗化して居る、其事は明白である、而して其事を最も能く知る者は余輩に非ずして教会々員彼等自身である、曾て或る大教会に在りて長く教職を執りしが、其俗化に堪へずして近頃之を去りて官職に就きし者が、余輩の革正演説を聴いて言ふたさうである、「|論者の攻撃は激烈である、然し乍ら腐敗の表面に触れしに過ぎない、実際の俗化は遙にそれ以上である、〇〇〇〇〇教会の俗化の如き既に其骨髄に達して居る〔付△圏点〕」と、是れ教会の内情を熟知する者の表白である、教会に之を弁明するに足るの確信ありや、若し試に「|教会(41)俗化調査会〔付○圏点〕」なる者を設け、公平に冷静に俗化の事実を調査するならば如何、是れ牧師監督等に所謂人身攻撃を加ふるのではない、民の牧者としての彼等の行為を責むるのである、余輩は彼等を追窮して死に至らしめんと欲するのではない、彼等をして福音宣伝の途を改めしめて人の霊魂を救ふに当て有効ならしめんと欲するのである、而して彼等の俗化腐敗を責むる者は余輩ではなくして彼等の事業其物である、彼等の教会である、彼等の神学校である、彼等の機関雑誌である、教勢行詰りは彼等が掩はんと欲して掩ふ能はざる所である、信者は先づ自己を悔改め然る後に他を悔改の歓喜に導くことが出来る、其如く基督教会は光づ自己を潔めて然る後に社会を清むる事が出来る、余輩が革正を叫ぶは之が為めである、教会が実に世を救ふの機関とならんが為である 而して今の教会は其機関でないのである、教会革正は神の声であると同時に亦社会国家の要求である、教会は革正を叫ぶ余輩を悪んで止まない、然れども自から革正《あらた》めざれば教会は自づから滅ぶるであらう。
(42) 排斥日記
大正8年6月10日
『聖書之研究』227号
署名なし
排斥したのではない、排斥せられたのである、五月廿七日東京基督教青年会より余輩の許に使者を遣はし「今日限り」依嘱の聖書講演を断はるとの事であつた、何故かと問へば「其理由は申上げられぬ」と云ふ、然らば聴衆に其旨を告ぐる必要もあれば次ぎの日曜日丈け之を開く事を許されたし、若し青年会主催の下に開く能はずば料金を払ふが故に講堂を余輩に貸与せられたしと申出しも応ぜず、其理由如何と問へば「申上げられず」と云ふ、「理由は申上げられず、只今日限り断はる」との事であつた、是れ勿論紳士を遇するの途に非ず、又「汝等何事を行ふにも愛を以て行ふべし」との聖語を以て標語となす東京基督教青年会の取る途と思はれざる故に特に人を会長江原素六氏の許に遣はし其意見を聞正したる所、青年会の行為を悉く是認すとの答でありし故に、茲に交渉を断念し余輩の取るべき途を取つた、予て斯かる事あらん場合に処する為に交渉し置きし大日本私立衛生会の講堂を借受くる事に定め之を申込みし所、直に快諾を得たれば直に其旨を六百有余の聴衆に通知した、斯くて青年会との関係は断然絶えて我等は尠からざる平安を覚えた、過去五ケ月間随分多くの心配と遠慮とを為した、主義と信仰とを全然異にする教会の牧師、執事、長老等と会合せざるを得ずして尠からざる不快を感じた、然し今は自由の身となつた、我等同志一同勇み起つた、五月廿九日の夜交渉断絶した夜は近頃になき安眠を貪りし夜で(43)あつた、我等は排斥せられて心窃に我等を排斥せし人々に感謝せざるを得なかつた、而して教会は我等を排斥せしも世間は案外にも我等に同情した、新聞紙は探訪者を送りて我等の立場に就て尋ねた、『東京朝日新聞』と『万朝報』とは長き記事を掲げて我等の事業を紹介して呉れた、而して恰も宜し『内村全集』が盛んに読まれ始められたる時に際したれば求めざりし世間の同情は我等の上に集つて来た、斯くて六月一日が来た、関係断絶後、丸ノ内なる内務省前日本衛生会に於て開かれたる第一回の講演は盛なる者であつて聴衆堂に溢れ、入口を閉ぢて入場を謝絶するに至つた、最も緊張したる而かも静粛なる会合であつた、会終て例に由り献金籠を調べし所、勿驚金壱千〇六拾参円と云ふ記録破りの高を得て一同感謝の涙を浮べた、|福音終に丸ノ内に入る〔付○圏点〕、其先鋒の名誉に与りし者は余輩である、神が我等を此に連れ来り給ふたのである、我等の排斥者は実は我等の援助者である、我等は如何に計画しても斯う旨くは行かない。感謝である、大感謝である!!
(44) 『人道の偉人 スチーブン・ジラードの話』
大正8年7月1日
単行本
署名 内村鑑三述
〔画像略〕初版表紙151×107mm
(45) はしがき
此話は明治四十三年六月四日、今井樟太郎君永眠四週年に際し、東京市外柏木今井館に於て私が述べし所の者であります。今、其第二十一週年に際し、之を別冊と成して、知友に頒つ次第であります。本当の実業家はジラードの如き者であらねばなりません。今日の日本人は善き教師として彼に学ぶの必要があると思ひます。
昭和二年五月二十日 今井氏遺族に代り 内村鑑三
(46) AMERICAN MONEY AND GOSPEL.米国人の金と其福音
大正8年7月10日
『空事之研究』228号
署名なし
AMERICAN MONEY AND GOSPEL.
IT is said that America is golng to spend more money on foreign missions than it spent on the World−War. Very generous for America;but as far as Japan is concerned,we wish to be spared from the said charity. America has money,but little or no true Gospel;and American gospel preached with American money does veritable,yea infinite,harm to the world.May God give more Gospel and less money to America.Next to German militarism,nothing,I believe,does more harm to the cause of true religion than American money. Woe,woe to the world,if it is to be flooded with American gospel with the push of American money. May God save us all from both!
米国人の金と其福音
新聞紙は伝へて曰ふ米国は近き将来に於て世界戦争の為に消費せし以上の金額を世界伝道の為に消費せんとすと 米国に取り寔に寛大なることである、然し乍ら日本だけは其大慈善の恩恵より免れんことを欲する、米国に(47)金は有る、然し真の福音は有るか、無しである、米国人の金を以て米国人の福音を伝へられて全世界は大害毒を、然り永遠に消えざる大害毒を蒙らざるを得ない、祈る神が米国により多くの福音に併せて|より〔付傍点〕尠く金を与へ給はんことを、余の知る範囲に於て独逸人の軍国主義を除いて他に米国人の金ほど真の宗教の進歩を妨ぐるものはない、若し米国人の金を以て彼等の福音を播布せられんには世界は寔に禍なる哉である、祈る神が全人類をして米国人の金と其福音との禍厄より免れしめ給はんことを。
神ラオデキヤの教会に書贈りて言はしめ給はく「汝自ら我は富み且つ豊になり乏しき所なしと言ひて実は悩める者憐むべき者又貧しき者なるを知らざれば……………我れ汝を我が口より吐き出さん」と(黙示録三章一六、一七節)。
(48) 〔平和来 他〕
大正8年7月10日
『聖書之研究』228号
署名なし
平和来
平和は来た、対独講和条約の調印が済で茲に五年間に渉りし世界戦争は終結を告げた、寔に慶すべき賀すべき事である、サンマルコ聖堂の鐘は鳴り響いて全世界は再び剣を鞘に収めて鋤犂の業にと就きつゝある、何物か之に勝りて喜ばしき事あらんやである。
然し乍ら是で戦争が廃《や》んだのではない、一時休んだ丈けである、戦争は猶ほ続くのである、軍艦は盛んに造られつゝある、師団は新たに設けられつゝある、国際聯盟は成りしと雖も誰一人として戦争の全廃を信ずる者は無い、此の戦争は済んだ、然し更に大なる戦争は起りつゝある、英米戦争である乎、英民族対拉典民族の戦争である乎、其事は判明らない、然し乍ら這般《こたび》の戦争よりも更に更に大なる戦争の起りつゝあるは預言者の言を待たずして明かである。
国と国との戦争と、民族と民族との戦争とに加へて階級と階級との戦争が起りつゝある、此世は依然として戦争の衝衢《ちまた》である、物価は益々騰貴する、生活は益々困難になる、随て競争は益々激しくなる、人が生命を呪ふ(49)時が来りつゝある、「斥候《ものみ》よ夜は何時ぞ? 斥候答へて曰ふ朝来り|夜また来る〔付○圏点〕と」(イザヤ書廿一章十一、十二)然り、平和来り戦争また来る、暗黒は猶ほ地を去らない、人類が其造主を忘れて自己の幸福を求めつゝある間は戦争は決して彼等の間に絶えない、父を離れしが故に兄弟相互に害ふのである、神に対する叛逆の刑罰として人類は戦争に苦しむのである、此叛逆が癒さるゝに非ざれば真の平和は地上に臨まない、神を除外せし這般の平和も亦永く続く者でない、巴里に結ばれし平和条約も亦バベルの塔と同一である、其結果たる国民の結合に非ずして其離散である、交戦国の悔改を以て始まらざりし此平和会議が失敗に終るは火を睹るよりも瞭である。
然らば我等は何を為さん乎? 時を獲るも時を獲ざるも平和の福音を唱へんのみ、人をしてキリストに由りて神と和がしめ、而して永久に破れざる平和を地上に来たさんのみ、キリストのみ真の平和の主である。
基督者の義
「基督者《クリスチヤン》他なし義人なり」と云ふ者がある、即正義の人でさへあれば其人の信仰は怎《どう》であらうとも其人は基督者であると云ふ、即ち儒教信者たる可なり、仏教信者たる可なり 無神論者たる亦可なり、正義を愛し之を行ふ者は凡て基督者であると云ふ、寔に道理らしき見方である、世に正義の士に非ずして自ら基督者なりと称する者あるが故に斯くの如き意見が行はるゝのである、然し乍ら義人必しも基督者ではない、基督者は勿論義人である、然し凡の義人は基督者ではない、基督者は義人の一種である、自分の義を行ふ者ではない、神の義を行ふ者である、而して神の義は正義人道と称するが如き倫理学上の義ではない、彼が遣はし給ひし御子イエスキリストである、イエスは神に立られて基督者の義となり給ふたのである(コリント前書一章三十節)、故に若し基督者《クリスチヤン》に義があ(50)るとすれば夫れはイエスを信ずるの義である、是れパウロの所謂「神の人を義とし給ふ義」であつて此世に儔《たぐひ》なき義である、而して信者に在りては神の此の義を信ずる事、それが彼(信者)の義である、此を措いて他に基督者の義あるなしである、基督者《クリスチヤン》は義人であると云ふはイエスキリストと彼の十字架を信ずると云ふ事の外に無いのである、然らば基督者は此世の義人以下の義人であるかと云ふに決してさうではない、自ら義人たらんと欲せずして神に義とせられし基督者は義務として義を行ふ者に非ずして性質として義を愛する者である、彼は聖書の霊に由て再び生れし者であるが故に義は彼の自然性と成るのである、故に彼は努めて義を求めざるも義は自然的に彼より流れ出るのである、斯くして彼は道義の範囲を脱して道義以上の動機に因て義を行ふ者と成つたのである、故に外より彼を見て普通の義人と多く異なる所なしと雖も、衷より彼を見て彼は全然別種の義人である、基督者は神に由て生れし者であつて神の子である、故に神の聖きが如く聖くなりつゝある者である、基督者は日に日に神の子イエスキリストを仰瞻るに由て其義を己が所有と為しつゝある者である。
文学者の信仰
当にならぬ者とて文学者の基督教の信仰の如きはない、彼等は基督教に接して之を歓迎する、之に憧憬る、其美的一面を視て之に引附けられる、然れども一朝其厳格なる道徳的要求に会ふや之に耐へ得ずして忽ち之を棄去るを常とする、文学者にして忠実なるキリストの僕として其一生を終る者は甚だ稀である、彼等は自由を愛すると称して如何なる律法《おきて》にも耐ゆる能はず、正直を貴ぶと称して如何なる信仰をも懐《いだ》くことが出来ない、彼等は放縦の人たらんと欲し、思想に於ても行為に於ても何等の拘束をも受けざらんと欲す、而して斯かる人等に基督教(51)が解らないのは勿論である、|義に基く愛〔付○圏点〕の宗教である、故に厳格なる義の要求に応ぜずして基督教の愛を覚ることは出来ない、罪を罪としで認め、罪の価は死なりと信じて、自身罪の子たる以上、死の刑罰を価ひする者なるを承認してのみ初めて基督教の有難さが解るのである、然れども是れ大抵の文学者の為す能はざる所である、彼等は夫れが為めに基督教を去て、他に彼等に都合好き人生哲学に走るのである、文学者は律法なき福音、条件なき愛を要求して止まないのである、故に十字架を中心とする基督教に耐へ得ないのである、必竟するに文学者は思想の人であつて実行の人でない、好楽の人であつて奮闘の人でない、筆執る人であつて槌や鶴嘴や鋤を手にする人でない、故に大工の子なるナザレのイエスの教は解せんと欲して解し得ないのである、文学は基督教を解せんと欲する者の択むべき|最悪の途〔付△圏点〕である、医学も工学も理学も農学も然り亦法学も、人をキリストの福音に導く途として優《はるか》に文学以上である、宗教は実験である、人生の深き事実である、宗教は行つて、闘つて苦んで信ずる事が出来る、考へて、夢みて、楽しみながら解する事は出来ない、文学者は批評家、劇作家、小説家、然り、特別の場合に於ては詩人と成る事が出来る、然れども十字架を負ふてキリストに従はんが為には、彼等は余りに繊弱である、繊美《デリケート》である、勇気が足りない。
(52) 神の愛
(五月四日) 約翰第一書四章七−十二節の研究
大正8年7月10日
『聖書之研究』228号
署名 内村鑑三述 藤井武筆記
約翰第一書は多くの貴き真理を教ふる書翰である、殊に基督者が其標語とする「神は愛なり」との語は此書の中に三度び繰返さるゝのである、故に神の愛に就て知らんと欲して此書に勝るものはない、然しながら使徒ヨハネは茲に神の愛に関する教義を論述して後世に伝へんと欲したのではない、|彼は当時の或る境遇に迫られて筆を執り之に応ずるに永久的真理を以てしたのである〔付○圏点〕、故に此書を解するの心的準備として其境遇の如何なるものなりし乎を知るを必要とする、凡て記者の性質と其境遇とを知る事は聖書研究上極めて緊要である、此書も亦之等の事情を明かにするに由て数多の疑問を除く事が出来る。
ヨハネの此書を認めたるはキリストの死後凡そ六七十年の頃であつた、当時基督教会は漸く発達して|既に大なる異端が其中に侵入した〔付○圏点〕、之を名けて Gnosticism と言ふ、其大意に曰く「神は光である、故に神を知らんと欲する者は亦神より特別の光に接しなければならない、而して神の光に接するに二の途がある、其一は哲学即ち|知識〔付△圏点〕である、其二は|神秘的黙示〔付△圏点〕である」と、斯くて彼等の間に知識階級又は黙示階級なるものを生じ之に与らざる者は神の子に非ずとの思想が起つたのである、蓋しエペソ其他小亜細亜地方は其地理上半希臘半東洋的の場所な(53)るが故に希臘の哲学思想と東洋の神秘思想とが混淆して遂に斯かる異端を作成したのであらう、|然るに此間にありて独り老使徒ヨハネは明白に主張したのである、曰く「之れ信仰の真正なる試験法に非ず、又イエスキリストの教にも非ず、斯の如きは大なる異端である〔付○圏点〕」と、彼は自ら名誉ある十二使徒の一人なりしに拘らず当時の神学者哲学者神秘家等に対して|平信徒の強き弁護者〔付○圏点〕として立つたのである。
神に由て生れ且神を知る者は哲学者ではない神秘家ではない、然らば何人である乎、ヨハネは言うた「そは|義を行ふ者〔付○圏点〕である、|兄弟を愛する者〔付○圏点〕である、而して又|イエスキリストの肉体となりて来り給へる事を信ずる者〔付○圏点〕である、然らざる者は皆異端である」と、茲にヨハネの排斥したる異端は初代基督教会に行はれし異端にして又何れの時代にも行はるゝ異端である、我等自身も亦屡々異端に陥らんとするの危険がある、即ち或は自己の研究に由て神の光を探れりと為し其研究に与らざる者を憐まんとするが如き、或は山野を跋渉して特殊の黙示を受けたりと為し其黙示に接せざる者を蔑まんとするが如き之れである、而して斯の如き思想を抱く者は多くはキリストの神性と其受肉と其復活再臨等を信じない、然れども彼等若し哲学と神秘思想とを以てヨハネ先生の許に至らん乎、彼は一喝を加へて曰ふであらう「汝等は兄弟を愛する乎、汝等は神の誡を守りて義を行ふ乎、汝等は神の子の肉体を以て降臨したる事を信ずる乎、|凡そ兄弟を愛せず義を行はずイエスの神性を信ぜざる者は基督者ではない〔付△圏点〕」と、之れ即ち約翰第一書の根本教義である。
ヨハネは既に此事を説き尽して四章七節以下に至り簡単に之を括約した、故に其短き数節の間に約翰第一書中の真理は更に濃厚なる形を以て表されたのである。
「愛する者よ」 人類全体ではない、自己の弟子、自己の牧したる教会の信者等に対して言ふ。
(54) 「我等互に相愛すべし、愛は神より出づればなり」 彼は先づ我等互に相愛すべしと言ひて基督者相互の愛に訴へた、然しながら基督者の愛の源泉は各自に又は此世に在るのではない、偽預言者は此世より出でし者なるが如く基督者は神より出でたる者である(五、六節)、而して神は愛である、故に基督者の愛は神より豊かに流れ出づるのである、基督者は自ら愛するに非ず、神に由て愛せしめらるゝなりとの意である、勧奨《すゝめ》を為すと共に徳の源泉を指示したのである。
「凡そ愛する者が神に由て生れ又神を知れるなり」 誰が神に由て生れし者即ち神の子である乎、誰が神を知る者である乎、之れ当時の大問題であつた、博学の士等が此問題の為に激しき議論を闘はした、其時に当りヨハネは一言にして曰うたのである「|誰が? 愛する者が其れである〔付○圏点〕、愛せざる者は仮令如何なる学者宗教家又は監督と雖も神の子ではない、又神を知れる者ではない」と。
「愛せざる者は神を知らず、神は即ち愛なればなり」 今より数年前或る有識の仏教徒が余を訪ね来りて余に曰うた「抑も基督教の愛は無我の愛なる乎はた絶対の愛なる乎」と、余は之に答へて曰うた「無我か絶対か余は之を知らず、然れども|貴下若し基督教の愛の何たるかを解せんと欲せば貴下の有する最も大切なる者を貧者に与へよ〔付○圏点〕、然らば自ら分明ならん」と、ジョージ・エリオットの小説中にダニエル・デロンドなる人物がある、彼はユダヤ人であるが神を知らずして唯金銭のみを貯へた、其深き慾の為に家庭を有つ事さへ之を嫌うた、彼れ年老いて巨富を作りしも遂に心の平和を獲る能はず、或夕商業よりの帰途日暮れて路傍に輝く者を発見し金塊かと之を抱き上ぐれば何ぞ図らんそは一人の金髪の嬰児であつた、而して其嬰児の笑顔を見るや彼の心中に初めて愛が起つた、即ち之を携へ帰り乳母を傭うて養育するに及び彼は次第に神の愛を知りて美はしき残生を終つたのであ(55)る、実に神の生命、其根本中心が愛なるが故に愛する者のみ能く神を知る事が出来る、|自ら愛せずして神を知らんと欲するも到底不可能である〔付○圏点〕。
次にヨハネは|神の愛の如何なるものなる乎〔付○圏点〕を説明せんとして曰うた「神は其子即ち生み給へる独子を世に遣はし我等をして彼に由て命を得しむ、是に於て神の愛我等に顕はれたり」と、曾て有名なる教育家ホレース・マンが教育の貴重なる所以に就て言うた事がある、教育を受くる者が我子ならば其為に凡てを犠牲に供し得るに非ずやと、然り子の故に教育も亦貴くある、世に貴き者にして子の如きはない、若し子の為ならんには全世界を棄つるも惜しからずとは凡て真実なる親心である、人は子を失うて其最も貴き者を失ふのである、然るに神は其子而も独子を棄て給へりと言ふ、而して之れ我等をして生命を獲得せしめんが為であると言ふ、|犠牲の極致である、神の有し給ふ最高最大の愛の発現である〔付○圏点〕、其深き意味は己が子を失ひし経験ある者にして初めて稍之を解する事が出来る。
更に曰く「我等神を愛すと言ふ事に非ず、神我等を愛し我等の罪の為に其子を遺して挽回《なだめ》の祭物《そなへもの》となせりと言ふ事之れ即ち彼の愛なり」と、|神は本来愛すべき者である、故に我等之を愛するは当然の事にして怪しむに足りない、然しながら驚くべきは神が愛すべからざる我等を愛し給ふ事である〔付○圏点〕、我等の如く神を斥け神を嘲り神に敵する穢れたる罪人を神は愛し給ひて、唯に愛するのみならず之に生命を獲しめんが為に其独子をさへ棄て給へりと言ふ事、之れ最も驚くべき愛である、而して神の愛とは即ち斯の愛を言ふのである(羅馬書五の七、八参照)。
愛は情であるといふ、情は人之を支配する事が出来ない、故に情の愛は自ら受働的交換的である、彼れ我を愛せん乎我も又彼を愛す、彼れ我に背かん乎我も亦彼に背く、斯かる交換的の愛と雖も美はしくないではない、然(56)しながら之れ人の愛であつて又動物の愛である、犬の其子を愛し獅子の牝獅子を愛するも皆同じ情の愛である、神の愛は然らず、我に逆ひ我を鞭うち我に棘《いばら》の冠を被らせ我を十字架に釘けし者を愛し之が為に祈り之が為に生命を捐つ、|愛は茲に至て情に非ずして意志である〔付○圏点〕、神の愛は最も貴き意志の愛である。
「愛する者よ、斯の如く神我等を愛し給へば」 神は斯かる驚くべき愛を以て我等を愛し給へば我等は之に対して如何にすべき乎、「我等も亦神を愛すべし」である乎、否ヨハネは曰うた「|我等も亦互に相愛すべし〔付○圏点〕」と、神は悪むべき嫌ふべき罪人我等に対し神として用ゐ得べき最大の愛を以て愛し給うたのである、其の愛たるや余りに偉大にして我等は到底之に応ずる事が出来ない、勿論如何なる奉仕も祭事も以て之に酬ゆるに足りない、然らば如何にせん乎、曰く兄弟を愛すべしである、|兄弟互に相愛する事之れ神の愛に対する我等の応酬である〔付○圏点〕。
「未だ神を見し者なし、我等もし互に相愛せば神我等の衷に居りて彼を愛する愛を我等の衷に完うす」 神秘家は屡々見神の実験を提唱する、然しながら我等に見神以上の実験がある、我等若し互に相愛せば神自身我等の中に宿り神を愛するの愛を完成して審判の日に懼なからしめ給ふのである、之が為には何等の素養をも地位をも要しない、老若男女、学者無学者の別を問はない、唯「我等若し互に相愛せば」である、実に常識に富みたる大真理である、恰も山中の湖水の如く深くして而も底まで見透す事の出来る真理である。
基督的愛《クリスチヤンラヴ》とは即ち之である、今若し此愛を以て我等各自を審判かれなば如何、先づ余自身の場合に於て余は或は次の如くに言はるゝであらう、曰く汝は多く聖書を講じたり、又大に世の腐敗を憤れり、又多少の慈善を為したり、我れ皆之を記憶す、然れども汝は我が汝を愛したる如くに汝の兄弟を愛したる乎、汝を偽善者と呼び国賊と嘲り汝を土芥視し蛇蝎視したる者を愛したる乎と、而して余は之に答へて唯「主よ此罪人を赦し給へ」と言ふ(57)の外を知らない、同じやうに諸君各自も亦審判かるゝであらう「何時は洗礼を受けたり、教会に加入せり、伝道事業に参加せり、其資金を寄附したり、然れども汝の事業を妨げ汝の名誉を傷つけんとしたる者を悪まざりし乎、汝の存在に関はる悪計を巡らしたる者を呪はざりし乎」と、実に我等の愛する能はざる者は随所に多いのである、然しながら我等は神の我等を赦し給ひし其愛を以て亦彼等を赦さんと欲する、我等の胸中にある一切の怨恨を棄却して彼等の為に祈らんと欲する、斯くして兄弟相互の愛を以て真に神の子たるの実を挙げん事を欲する。
(58) 人類の堕落と最初の福音
(五月十一、十八日) 創世記第三章の研究
大正8年7月10日
『聖書之研究』228号
署名 内村鑑三述 藤井武筆記
創世記第三章の記事は興味ある物語なるも其中に我等各自の信仰と深き関係を有する大なる真理あるなしとは近世人及び近代の註解者等の称ふる所である、彼等は曰ふ「之れ何処にもある女と蛇との譚《はなし》に過ぎない、世界の古き記録は皆此種の物語より始まる」と、例へばメキシコの如き文明より離隔したる国に於ても女と蛇とに関する口碑あり、又バビロンの如き古代の文明国に於ても樹下に佇立せる女の傍に蛇あり其頭を擡げて之と語るといふ古き物語あり、其他支那に於ても所謂陰陽の観念ありて諸の悪は陰性たる婦人より来ると見るが如き皆同一の思想より出づ、ヘブル人の思想も亦之と異ならない、創世記第三章は此の人類共通の古き観念を描けるものであると言ふのである、然しながら斯の如き解釈は恰も善悪を知るの樹の果《み》を食ふと同じく人をして識者たらしむるに足らんも之をして霊的道徳的に向上せしむる事は出来ない、創世記第三章の解釈は信仰の程度如何に由て異なる、|深き信仰を以て之を読みて其中に偉大なる真理ある事を知るのである、実に此一事の中に基督教の全体が含まれて居ると言ふ事が出来る〔付○圏点〕、故に或人は之を呼んで the proto-evangel(最初の福音)と称したのである。
「ヱホバ神の造り給ひし野の生物の中に蛇最も狡猾《さが》し、蛇婦に言ひけるは云々」 事実である乎譬喩である乎、(59)明白に識別する事が出来ない、然しながら|之を原語にて読む時は其困難の大部分を解き去る事が出来る〔付○圏点〕、蛇の腹語 Nachash(ナカシュ)は其字義よりすれば「|光る者〔付○圏点〕」又は「|悧巧さうに見ゆる者〔付○圏点〕」の意である、即ち一見して博識多才、世事に精通し人心の機微を穿つが如き者を「ナカシュ」と言ふ、其註解を得んと欲すれば哥林多後書十一章十四節を見よ、「サタンも自ら光照《ひかり》の使の貌《かたち》に変ずるなり」と、|アダムとエバとの前に現はれたる蛇即ちナカシュは光明の使の貌に変じたるサタンである〔付○圏点〕、故に之を訳語にて蛇と読まずして寧ろ原語のま、「ナカシュ」と読むを可《よし》とする、而してサタンが光明の使の貌に変じて来りて人を試むる事あるは我等の信仰生活に於て屡々実験する所である、風采揚り学識秀でたる光明の士《ひと》に誘はれて遂に恐るべき淵に陥る事が多い、人類の始祖を誘ひたる者も亦斯かる「光る者」「悧巧さうに見ゆる者」であつた、即ちサタンがナカシュの貌を以て現はれたのである。
然しながら「野の生物の中」といひ「腹行ひて云々」と言ふが故にナカシュは蛇を代表する者たる事は疑ひがない、蛇其者には非ざるも蛇の如き者である、而して|ナカシュを以て蛇を代表せしむるは宇宙を詩的に観察したる思想である〔付○圏点〕、宇宙は一の大なる詩である、万物は霊界の表現である、ウオルヅヲルス、ブライアント等の詩人は能く此事を了解した、彼等は万物の中に或る霊の具象を認めた、而して我等も亦時として詩人と成るのである、世に陰険なる人物を称して狸といふ、狸は実は愛すべき動物である、然しながら此称呼に深き意味がある、狸は日の光を喜ばない、彼は好んで暗き穴に潜る、故に陰険なる人物を狸と呼ぶは天然の詩的解釈である、其如く|野にある蛇も亦或る一の霊の表現である〔付○圏点〕、蛇が人を誘ひたりと言ふ、詩である、而して深き真理である。
|人殊に婦人は何故に蛇を嫌ふ乎〔付○圏点〕、こは動物学上説明すべからざる現象である、動物学者の言ふ所に由れば動物(60)の運動方法として蛇の運動ほど美はしきものはないといふ、然るに何故之を嫌ふのである乎、蛇の中には毒蛇あるが故である乎、然しながら蛇の種類数百の中有毒のもの僅かに十二三種に過ぎない、若し毒の故を以てすれば虫にも毒虫あり魚にも毒魚がある、然らば何故である乎、之れ興味ある問題である、或る学者は曰ふ、人は今日迄多くの動物と闘ひしも其最も困難なりしは蛇との關ひであると(蛇は門を閉づるも之を防ぐ能はず、壁間の小孔等より侵入し来りて人を害する、印度又は台湾等に於ては今尚ほ蛇の為に死する者年々数万に上る)、此説明は甚だ有力なりと雖も未だ十分なる理由と為すに足りない、蛇と婦人との間には何か我等の解する能はざる深き理由ありて斯の如く甚だしき反目を来したのである、而して此点に於ても亦創世記第三章は大なる参考資料を供するものである。
然しながら最も重要なる事は蛇が何で有つた乎の問題ではない、|ナカシュが如何にして人類を誘ひし乎〔付○圏点〕の問題である、之れ独りアダム、エバの遭遇したる問題なるのみならず又我等自身の遭遇する問題である、サタンは来りて先づ疑問を発して曰うた「神真に汝等園の凡ての樹の果は食ふべからずと言ひ給ひしや」と、サタンの人を誘ふや常に疑問を以てする、而して人は之に対して「然り」又は「否」を以て答ふれば足る、然るにエバはサタンに答へて曰うた「我等園の樹の果を食ふ事を得、されど園の中央に在る樹の果をば神汝等之を食ふべからず又之に※[手偏+門]《さは》るべからず、恐らくは汝等死なんと言ひ給へり」と、之を二章十六七節と対照するに「又之にに※[手偏+門]るべからず」とは神御自身の言ではない、エバが己の想像より附け加へたる言である、又神は「恐らくは」と言はずして「必ず」と言ひ給うたのである、|即ち知るエバは神の言其儘を引かずして或は之に附加するに自己の想像より出づる解釈を以てし或は〔付○圏点〕妄|に之を修正したる事を、エバがナカシュに乗ぜられたる所以は此処にある〔付○圏点〕、ナカシュ(61)婦に言ひけるは「汝等必ず死ぬる事あらじ、神汝等が之を食ふ日には汝等の目開け汝等神の如くなりて善悪を知るに至るを知り給ふなり、」と ナカシュはエバの態度より察して其の誘ふに足るを思ひ大胆にも言うたのである、神の之を禁じたるは神自身の地位を独占せんが為めにして汝等に対する愛ではないと、茲に於てエバは其樹を見れば食ふに善く目に美はしきが故に遂に全く誘はれて神に逆くに至つたのである、試に之を我等各自の実験に比せよ、ナカシュ来りて先づ或る疑問を発し我等の之に応ずるを見るや甘言を以て歩一歩我等を誘ひ遂に全く信仰を失墜せしむるに至る、実に能く真を穿ちたる記述である。
ナカシュは又イエスキリストの許に来りて彼を試みた、然しながら彼は唯聖書の言有の儘を以て答へて之を撃退した、馬太伝第四章は創世記第三章と著るしき対照を為すものである、|エバは何故に失敗したる乎、彼女は聖書の言に修飾改訂を施したるが故である、イエスは何故に成功したる乎、彼は聖書其儘を以て立ちしが故である、而してサタンの誘惑を撃退する唯一の途は此処にある〔付○圏点〕、人は自己の意志を鞏固にして以て誘惑を排斥せんとするも能はない、唯聖書の言を繰返してのみ確実に之を撃退する事が出来る、聖書の言が如何にして斯の如き力を有する乎は説明するに甚だ困難である、然しながら長き信仰生活を続くる者は皆知るのである、|聖書中の或る一節一句が屡々人の霊魂を危機より救ひ出す事を〔付○圏点〕、之に反し人をしてナカシュの誘惑に陥らしむるの途を開くものは聖書の言を疑ひ或は之を変へんとするの異端である。
次に善悪を知るの樹とは如何、樹が如何にして善悪を知らしむるのである乎、都市の住民は此事を解するに困難である、然しながら山中の民に取て樹の如く大なる意義を有するものは少い、|一本の樹の上に多くの歴史が繋《かゝ》つて居る〔付○圏点〕、其萌芽、其新緑、其紅葉、其落葉、皆人生との間に深き関係が有る、余輩の忘るゝ能はざるものは青(62)年時代に北海道に於て親みし樹である、彼等は多年余輩を教へ又慰めたる旧友である、今日と雖も窓前に繁る一樹の欅は余輩に取て朝となく夕となく深大なる慰藉である教訓である、|善悪を知るの樹と言ふ、天然との交通の経験に富む者は能く其消息を解する事が出来る〔付○圏点〕。
「園の凡ての樹の果は意《こゝろ》の儘に食ふ事を得、されど善悪を知るの樹は其果を食ふべからず」と、園中の樹幾万本、而して其中唯一本の果のみは食ふ事を禁ぜらる、人の人たる所以、其の神と異なる所以は此処にあるのである、人は他の事に於ては凡て自由である、|然しながら唯一事に就ては絶対的服従を守らなければならない、此唯一の服従ありて初て人の価値がある〔付○圏点〕、偉人とは誰ぞ、才能絶倫の人ではない、神の前に絶対服従を守る人である、曾てアイザック・ニュートンは曰うた、「基督教の起否は但以理書を神の言として受くるか否かにあり」、と以て彼の如き大科学者にも唯一つ信じて疑はざる者ありしを知る事が出来る、若し人にして一も信ずる所なく服従する所なきに至らん乎、即ち彼は人にして人ではない、人たるの品格は既に彼より落ちたのである、斯かる人の光輝失せたる顔色は其事を裏切つて余りがある、|信徒即ち之れ善である、叛逆即ち之れ悪である〔付○圏点〕、神は園中幾万本の樹の中唯一本を禁じ給ふ、而して之に信従して人に善の善たるものあり、之に叛逆して悪の悪たるものがある、|堕落とは人が其唯一の服従を失ふ事である〔付○圏点〕。
然らば今日に於て善悪を知るの樹とは何である乎、他の物は皆意のまゝに食ふを得るも唯之のみは食ふべからず、若し之を食はゞ必ず死なんと言はるゝものは何である乎、初代に於ける|樹〔付○圏点〕は今日に於ける|書〔付○圏点〕である、神は我等に唯一書を与へ給うた、而して我等は他の哲学文学又は歴史科学等何れに対して自由の判断を下すも可なり、唯此書に現はれたる神の言に対してのみは絶対的信従を守らなければならない、然らずんば我等は必ず死すべき(63)である、「若し此書の予言の言に加ふる者あれば神此書に記《しる》す所の災を以て之に加へん、若し此書の予言の言を削
る者あれほ神之をして此書に記す所の生命の樹の果と聖き城《まち》とに与る事なからしむ」とあるが如しである(黙示録二二の一八、一九)、|我等が善悪を知るの樹は聖書である、之のみは食ふべからず唯其儘に信じて受くべきものである〔付○圏点〕。
アダムとエバとは善悪を知るの樹の果を食ひてより己が裸体なるを知り之を耻ぢて無花果の葉を綴りて裳を作つた、彼等は何故裸体を耻づるに至つたのである乎、思ふに此時人類に大変化が臨んだのであらう、人類には初め極めて貴きものがあつた、其時裸体は耻づべき状態ではなかつた、美術家の要求するものにして裸体の如きはない、天然美は此処に最も善く現はるゝが故である、又今日と雖も裸体の毫も耻辱に非ざる場合がある、テニソンの詩に歌はれたる或る少女の場合の如きが其れである、少女は圧制君主の女《むすめ》であつた、彼女の父なる国王は或時人民に誓つて日うた、若し婦人にして裸体の儘馬上城下を乗廻る者あらば圧制の法律を悉く撤廃せんと、然るに彼女は民を救はんが為に自ら裸体の姿を馬上に現はして街区を巡つた、民皆感激し其日は謹んで帷《カーテン》を垂れれ遠慮した、或る一人私かに之を見んと欲したれば忽ち天より火降りて彼は盲目と成つたといふ、而して悪法は翌日悉く撤廃せられたのである、此場合に於て裸体は決して耻辱ではなかつた、然らば|人の之を耻づるは何故である乎、蓋しナカシュに誘はれて堕落したる結果穢れたる名誉心に訴ふる所あるが故である〔付○圏点〕、羞耻の念は多くの場合に於て己が醜態を蔽はんとする卑しき心である、アダムとエバは善悪を知る事が出来た、然しながら善を行ふの力、悪を避くるの力は之を有たなかつた、|既に自己の汚穢を知る、然れども之を脱する能はず、此処に於てか之を蔽はんと欲す〔付○圏点〕、衣服は斯の如くにして出来たのである、今日男も女も衣服衣服と呼びて自己を飾らんとする(64)は此思想より起つたのである、而して人の宗教道徳、其凡ての制度儀式は皆衣服である、斯かる多くの衣服を以て身を蔽はんと欲するは即ち|人が其赤裸々の姿を以て神の前に出づるに堪へざるを感ずるが故である〔付○圏点〕。 人は堕落して茲に神の定め給ひし福《さいはひ》を失うた、人類の始祖アダムの堕落に由て罪は全人類の傾向となつたのである、此世は罪の世である、我等は此世に来りて罪を犯さゞるを得ざる世界に来たのである、勿論我が罪に就て我に實任がある、然しながら恰も前|独帝《カイゼル》及び前政府の行為に関し独逸国民全体が其責任を負ふが如く|人類の代表者の罪に関し人類全体が連帯して其責任を負はなければならない〔付○圏点〕、初の一人の代表せし事が後の人類の全体に及ぶは神の定め給ひし法則である、然らば神は無慈悲の神である乎、|否神は人類の罪を犯すや否や直に救贖の途を開き給うたのである、創世記第三章に此福音的半面がある〔付○圏点〕、之を知つて神の如何に恩恵に富み給ふ神なるかを知るのである。
「彼等園の中に日の涼しき頃歩み給ふヱホバ神の声を聞きしかばアダムと其妻即ちヱホバ神の面《かほ》を避けて園の樹の間に身を匿せり、ヱホバ神アダムを呼びて之に言ひ給ひけるは汝は何処に居るや」と、|神は茲にアダムを捉へて叱責し給うたのではない、失はれし子を尋ねて之を救に導かんとし給うたのである〔付○圏点〕、故に八節以下は路加伝第十五章と並読すべきである、彼にありては父は帰り来りし子を抱きて歓び迎ふ、此にありては神は未だ帰らんとせざるアダム、エバを迎へん為め自ら之を尋ね給ふ、「汝は何処に居るや」とは「|汝の今の立場は何処に在るや〔付△圏点〕」との意である、アダムと神との間には久しく父子の美はしき関係があつた(アダムは其九百三十年の一生中久しき間神の前に罪なき生涯を送つたのである)、然るに一朝彼の罪を犯すに及んで此関係断絶したるが故に父は子の帰り来るを待たずして自ら往いて之を尋ねたのである。
(65) 「ヱホバ言ひ給ひけるは誰が汝の裸なるを汝に告げしや、汝は我が汝に食ふ勿れと命じたる樹の果を食ひたりしや、アダム言ひけるは汝が与へて我と共ならしめ給ひし婦《をんな》彼れ其樹の果を我に与へたれば我食へり、ヱホバ神婦に言ひけるは汝が為したる此事は何ぞや、婦言ひけるは蛇我を誘惑して我食へり」と、アダムは答へて曰うた、我をして罪を犯さしめたる者は我妻なり、而して妻は汝の与へ給ひし者なるが故に罪の責任は実は汝にあるなりと、エバは答へて曰うた、我を誘惑したる者は蛇なりと、|実に自ら責任を負はんと欲せざるは罪人の特徴である〔付○圏点〕、彼等は曰ふ、責任は我にあらず、親にあり、教師にあり、社会にあり、神にありと、|然しながら何人よりも自己の責任の重きを感じて「最も悪しき者は我なり」と言ふに非ざれば罪人と神との関係は回復しないのである〔付○圏点〕、今より十余年前一人の出獄人が出獄の当日余を訪ねて来た事があつた、彼は先に二友人と共に或る外人を欺きし為め二年の禁錮に処せられしが判決申渡の当時既に基督者と成りたる彼は自己の罪の重きに比し此処刑を以て言ふに足らずと為し直に服罪して今や其刑期を終つたのである、然るに共謀の二人は刑の重きを争ひて其時尚ほ控訴中であつた、救はれたる者と救はれざる者との相違実に斯の如しである。
而して我等各自が皆此経験に遭遇するのである、或は野外に於て或は山中に於て日の涼しき頃神は独り我等を見舞ひ「汝は何処に居るや」と尋ね給ふ、其時自己を省みれば何の頼むべきものあるなく身は唯穢れたる裸体である、「誰が汝の裸なるを汝に告げしや」、親か、祖先か、社会か、斯る説明は神の前にありて何等の弁護にも値しない、|我等は神に発見せられて罪人の宣告を受くるのみである、之れ人生の最も辛き経験である、然しながら神の前に凡ての弁護の尽きたる時イエスキリストの十字架を示されて茲に我が救を認め以て一切の罪を赦されるのである〔付○圏点〕 之れ即ち基督者の信仰的実験である。
(66) 「ヱホバ神蛇に言ひ給ひけるは汝之を為したるに由て汝は凡ての家畜と野の凡ての獣よりも勝りて詛はる、汝は腹行ひて一生の間塵を食ふべし」と、神はアダムとエバとに対しては先づ質問を発して以て其申開きを為すの特権を与へ給うた、然るに彼等を誘ひたるナカシュに対しては初より裁判である、|人に対しては救贖の途を開きナカシュに対しては刑罰の宣告を下し給ふ〔付○圏点〕、之れ悪魔の罪は所謂聖霊を涜すの罪に当り救はるべき時を過ぎたる赦さるべからざる罪なるが故である、故に彼は最早や直立して面相接するの態度を取る能はず|裏面より陰険に人を〔付○圏点〕陥|るゝの生涯に定めらる〔付○圏点〕、曰ふ「汝は腹行ひて一生の間塵を食ふべし」と、即ち天然を詩的に解釈し蛇の性質を以て悪魔の生涯を説明したる語である 而して其意味に於て悪魔が蛇なる事は人の皆知る所である、かのゲーテの傑作『ファウスト』に於て悪魔が甘言を以てファウストに言ひ掛くる時之を撃退するの力を有せずと雖も「|蛇よ蛇よ《シユランゲシユランゲ》」と叫びしは能く人の実験を描ける者である。
悪魔は蛇である、裏面より陰険なる手段を以て人を惑はさずんば已まない、然しながら神は永久に蛇を生かして置き給はないのである、「又我れ汝と婦の間及び汝の裔《すゑ》と婦の裔との間に怨恨《うらみ》を置かん、彼は汝の頭を砕《くじ》き汝は彼の踵《くびす》を砕かん」、|蛇と婦の〔付○圏点〕裔(単数なり、即ち|婦の生む或る特別の子)との間に限なき戦が続き終に婦の裔に由て蛇は其頭を砕かれんとの約束である、蛇の其頭を砕かるゝは即ち人類の救贖の完成する時であつて死が生に呑まるゝ時である〔付○圏点〕、知るべしナカシュに対する神の此語は人類救贖に関する大なる約束なる事を、|之れ実に人類最初の福音である〔付○圏点〕、人類が罪を犯すや否や直に之を取除くべき方法が設けられたのである。
「又婦に言ひ給ひけるは我大に汝の懐姙《はらみ》の苦労を増すべし、汝は苦みて子を産まん、又汝は夫を慕ひ彼は汝を治めん」、神は男女を創造すると共に生めよ繁殖《ふえ》よと言ひ給ひしが故に子を産む事が罪の結果に非ざるは明白で(67)ある、然しながら|懐姙出産の苦労の増したる事は罪の結果である〔付○圏点〕、坐食して労働せず不自然なる生涯を送れる婦人に出産の苦労多きを知らば思ひ半ばに過ぐるものがあらう、文明は甚だしく婦人の懐姙出産の苦労を増したのである、又夫婦は神の※[藕の草がんむり無し]《あは》せ給ふもの家庭は神の定め給ひしものなるに拘らず「彼は汝を治めん」と言ひて圧制虐待の行はるゝに至りしも亦人の罪の結果である。
「土は汝の為に詛はる、汝は一生の間苦労して其れより食を得ん、土は荊棘《いばら》と薊とを汝の為に生ずべし、又汝は野の草蔬《くさ》を食ふべし云々」、人の食物として最も完全なるものは果実《きのみ》である、其種類を選びて之を食はゞ肉又は殺類を取るの必要なくして最も健全なる健康を維持する事が出来る、こは現に或る人々の実行せる所である、而して神が最初に人類に与へ給ひし食物は肉類に非ざるのみならず穀類にも非ず果実であつた、然るに之を棄てゝ穀類を選ぶに至りし原因は此処にあつたのである、又|薊は天然に発生しない〔付○圏点〕、人の耕作を廃したる時即ち土地乾燥して何の用をも為さざるに至りし時に繁茂するものである、故に薊の発生は罪の結果である、米国ボルチモア華府間鉄道沿線に荊棘と薊とを以て蔽はれたる数哩に続く原野がある、かの沃饒《よくねう》を以て聞えたるヴァージニア地方の野に如何にして斯るものが発生したのである乎、他なし煙草耕作の結果である、地を殺すものにして煙草の如きはない、其耕作に由て地力を消耗し尽したる後に沃野は薊の原野と化したのである。
罪の結果に由て幾多の禍は人類の上に臨んだ、然しながら人類は神に呪はれたのではない、婦の裔は終に蛇の頭を砕かんとの約束ありて人類に大なる希望があつた、アダムは之を解し之を信じたのである、故に「アダム其妻の名をエバと名けたり、そは彼は凡ての生けるものゝ母なればなり」、|彼女より出づる者が真の生命の供給者たらん〔付○圏点〕との意である、即ち知るエバは希望の名なるを、|罪は女を通して来た、然しながら救も亦女を通して来る〔付○圏点〕(68)のである、人類の希望は女にある、其の〔付○圏点〕裔《こ》|にある〔付○圏点〕、何故に特に女の裔と言ふ乎、救主イエスキリストは父によらず処女《をとめ》より聖き霊に由て生れ給ふが故である、「生《いのち》の母」と言ひ「婦の裔」と言ふ、其中に人の霊魂の要求する最も深き真理がある。
「ヱホバ神アダムと其妻の為に皮衣《かはころも》を作りて彼等に着せ給へり」、彼等は初め自己の裸体なるを知るや自ら無花果の葉を綴りて裳を作つた、然るに今や神は獣《けもの》を殺し其の皮を以て彼等を蔽ひ給うた、|無花果の葉の裳は己の義である〔付○圏点〕、己の修養工夫儀式道徳である、|皮衣は神の屠り給ひし羔の贖ひである〔付○圏点〕、アダムとエバとは自己の作りし無花果の裳を纏うて神の前に立つ事が出来なかつた、然しながら神の備へ給ひし皮衣を着て赦されたる罪人として神に受けられた、我等も亦然りである、己の義に代ふるに羔の贖を以てして初て神に受けらるゝのである。
神は又彼等を園より逐ひ出し「ケルビムと自ら旋転《まは》る焔の剣を置きて生命の樹の途を守り給ふ」とある(「自ら旋転る」は「凡ての途を塞ぐ」と読むべし)、斯くて永遠の生命の道は塞がれてアダムとエバとは其特権を失つたのである、彼等若し罪を犯さゞりしならば永遠に生くる事が出来たのである、然るに|罪の結果人は必ず死せざるべからざるに至る〔付○圏点〕、人は果して永久に生かしむる能はざる乎、医学者の最大野心は其処にある、有名なる露国の動物学者メチニコフ百二十歳生存説を称へしも先年自身七十五歳を以て死して其説の不可能を立証した、人は千代もと祈るも生くる能はず、生命の樹の途は塞がれたのである、|然しながら神は更に他の途を開きて我等の為に大なる恵を備へ給うた、即ち羔の皮衣を着せらるゝ者はキリスト再び現はれ給ふ時新しき体を賦与せられて永遠に生くる事が出来るのである〔付○圏点〕、|再臨の恩恵はエデンの失敗を償うて余りがある〔付◎圏点〕。(69)哲学者ライプニッツ曰く「人類の進歩を促したる者にしてアダムの堕落の如きはない」と、大いなる逆説《パラドクス》である、然しながら真理である、|人の罪を犯すや其刹那に神は救贖の途を開き給うたのである〔付○圏点〕、誠に罪の増す処には恩恵も弥増せりである、創世記第三章に此絶大なる福音がある、誰か之を以て考古学上の資料たるに過ぎずと言ふ乎、人類最初の福音はアダムの堕落を伝ふる創世記第三章に示されたのである。
附記 婦の苗裔《すゑ》がナカシュ(蛇)の頭を砕く時は何時か、彼が十字架に上り人類の罪を贖ひし時であるか、さうではないと思ふ、神の子の贖罪の死に由て悪魔は大打撃を受け致命傷を負ふた、然し彼はまだ死んだのではない、彼は今猶ほ生きて居る、而して人を欺き彼を生命の源なる神より離絶しつゝある、今はまだ暗黒の時代である、悪魔(蛇)が猛威を揮ふ時代である、而して婦の苗裔(seed である、単数である、婦の生みし一人の子である)、彼が蛇の頭を砕く時は来りつゝある、「平安の神汝等の足の下にサタンを速に砕くべし」とある其時は来りつゝある(ロマ書十六章二十) キリストの再臨が其時である、聖書は其|創始《はじめ》の書に於て再臨を予言して居る、創世記三章は黙示録十九章と相照らして読むべき者である。
(70) 〔独逸の復活 他〕
大正8年7月10日
『聖書之研究』228号
署名なし
独逸の復活
独逸は敗北した、鉄血宰相ビスマルクの大計画は茲に菫花一朝の夢として消えた、而して独逸は如何にして復活するを得るであらう? 其敵の聯合国は言ふ「国家を民主化してゞある」と、独逸人自身は言ふ「国民を社会主義化するに由て」と、然し若しルーテルやメランクトンをして言はしめたならば彼等は確に言ふたであらう「独逸人をして其父祖の信仰に還らしめて」と、民主々義と云ひ社会主義と云ひ、同じく人間の主義である、之を採用して国家も社会も終に滅びざるを得ない、人類を活かす途は唯一つある、それは智者には愚かなる者と見做さるゝ十字架の福音である、之を信じて個人も活き国家も活くるのである、而して独逸は此福音を受けしが故に興つたのである、而して之を失ひしが故に亡びんとしつゝあるのである、余輩は独逸が英米の民主々義に傚ふ事なく、又自国の社会主義を採ることなく、旧き十字架の福音を信じて再び興らん事を祈る。
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(71) 教会
日本の社会全体は今や教会を嫌う、今や教会に斥けらるゝは社会に迎へらるゝの途である、今や教会に棄てられて何の損する所はない。
(72) FAITH AND INSTITUTION.信仰と制度
大正8年8月10日
『聖書之研究』229号
署名なし
FAITH AND INSTITUTION.
CHURCHES as we find them in Europe and America are Christian doctrines institutionalized.Institutions are Roman,as doctrines are Greek, while Christianity is essentially faith,and faith is Hebrew. Political Romans and their European and American descendants can comprehend faith only ln forms of institutions. Not so Orientals.Orientals can comprehend faith as such,apart from forms,and are in this respect akin to Hebrew prophets and Christian apostles.The work remains to Orientals in general,and it may be,to Japanese in particular, of deinstitutionalizing Christianity,and thus of freeing invisible faith from visible institutions.(I hear American and British missionaries saying to all these:Vague,Visionary!)
信仰と制度
欧米人の教会なるものは基督教の教義を制度化したる者である、制度は羅馬性のもの、教義は希臘性のもの、(73)基督教は実質上信仰であつて信仰は希伯来性のものである、政治的の羅馬人と彼等の後裔たる欧州人と米国人とは制度の形体を以てするにあらざれば信仰を解し得ない、然し乍ら東洋人は彼等と異なる、東洋人は信仰を信仰として制度の形体より離れて解することが出来る、此点に於て東洋人は希伯来の預言者並に基督教初代の使徒等と質を同うす、茲に於てか一大事業の東洋人全体に残りあるを覚ゆ、或は特に日本人に残るのであらう、即ち基督教を非制度化するの事業、見えざる信仰を見ゆる制度より解放するの事業是れである(余輩の此言に対し英米宣教師が「漠然たり、空想也」との批評を試むる、其声の余輩の耳朶に響くを感ず)。
そは見ゆる所の者は暫時的にして見えざる所のものは永久的なれば也(哥林多後書四章末節)。
(74) 健全なる宗教
大正8年8月10日
『聖書之研究』229号
署名 内村鑑三
七月十六日夜京都平信徒信仰革正会の催しに係る講演会に於て述べし所の大意
〇健全なる宗教は|第一〔ゴシック〕に主観的でなくして客観的である、内省的でなくして仰瞻《かうせん》的である、人は己《おの》が内を如何程探るとも其内に真善真美を発見する事は出来ない、「善なる者は我れ即ち我肉に居らざるを知る」とパウロは曰ふた(ロマ書七章十八節) 心の底を掘り尽すとも其所に神を看出す事は出来ない、「我」は何処までも罪の我である、「心は万物よりも偽はる者にして甚だ悪し」とあるが如し(ヱレミヤ記十七章九節)、心理の解剖精細を極むるとも之を以て神と真理とを織出す事は出来ない、神は我が外に在ます、我が衷に在まさない、我は彼を我が衷に探るを廃めて我が外に探るべきである、|我が義、我が聖、我が贖は十字架に釘けられしイエスに於て在る〔付○圏点〕、其所に彼を仰瞻て我は我が求むる神を視、我が欲する平安を獲るのである、内省的宗教は不健全である、虚である、空である、労多くして無益である、信仰の目的物を我れ以外、十字架上のキリストに於て求め得て我が希望は充たされ、我は新たなる力を獲て鷲の如く翼を張りて昇り、走れども疲れず、歩めども倦まざるに至る(イザヤ書四十章三一節)。
(75) ○健全なる宗教は|第二〔ゴシック〕に批評的でなくして信頼的である、信頼すべき神の言を有し、之に縋りて惑はない、経典なくして宗教はない、聖書若し神の言ならずば基督教は何に拠て立つ耶、聖書神言説は説として多くの非難すべき点があらう、然し乍ら信仰の実験として之を否定する事は出来ない、|信者は其実験に由りて聖書は其一言一句尽く神の言なるを識るのである〔付○圏点〕、|実験を以て聖書に臨む時に其冠詞〔付△圏点〕一箇《ひとつ》|も前置詞一箇も変更する事は出来ない〔付△圏点〕、信者の実験に現はれたる聖書は完全無欠の神の書である、而して之あるが故に信者は之に信頼して迷はず、世論を排し人言を斥けて奮然として進むのである、聖書を批評し之を取捨して健全なる信仰の有り得やう筈がない、聖書は信仰の拠りて立つ磐である、人は之に由りて審判かるべき者であつて之を審判くべき者でない、「凡の人を偽とするも神を真とすべし」である(ロマ書三章四) 凡の書を偽りとするも聖書を真とすべしである、而して其証拠は明白である、聖書のみ時代と共に変らない、哲学は変り神学は廃る、然し聖書のみは廃らない 聖書を嘲けりしミル、スペンサーの哲学は今は何処に在る乎、ダーウインの進化説さへ古びつゝあるではない乎、何れの書か聖書の如くに永久に新鮮なる耶、何人も聖書を批評する事が出来る、然し乍ら聖書を批評して自身何の益する所はない、聖書を批評して聖書は其批評家に何の新たなる力をも加へない、聖書は神の言として信受すべき書である、而して之を信受して其意味は判明り、其|勢力《ちから》は給《あた》へらる、聖書が神の言たる証拠は此に在る、而して聖書を斯くの如くに見るは決して迷信ではない、最大の聖書学者は此立場より聖書を見たる人である、オリゲン、クリソストム、アウガスチン、ルーテル、カルビン、ベンゲル、デリッチ、ルートハート、是等は皆な此立場より聖書を見たる人々である、神の言を神の言として見てのみ其正当の解釈あるは当然である、神の言を人の言として見て其解釈を誤るは是れ亦当然である、聖書無謬説は善男善女の迷信ではない、是は信ずるに充分の理由あ(76)る説である、実に無謬の聖書があつてのみ徹底せる基督教の信仰がある、能力ある健全なる信仰は謬りなき神の言として聖書に頼る信仰である。
〇健全なる宗教は|第三〔ゴシック〕に明確なる来世観を有する宗教である、言あり曰く「人の信仰は其終末観に由て定まる」と(A man's belief is determined by his eschatology)、未来如何、万物の終末如何、其問題が定つて信仰が定るのである、而して聖書は明白に其事を示すのである、聖書は倫理道徳の書ではない、宗教の書である、宗教の書であるが故に預言の書である、殊に世の終末に関する預言の書である、聖書の倫理道徳なる者は其終末観を基礎とし背景として説かれたる者である、所謂「山上の垂訓」なる者も単《たゞ》の倫理道徳ではない「人を議する勿れ、恐くは汝等も亦議せられん」とあるは未来の裁判を予定しての訓誡《いましめ》である(馬太伝七章一)、「汝等審判れざらんが為に人を審判く勿れ」と訳すべきである、何々を為すべし「汝の父は明顕《あらは》に報い給ふべし」とある(同六章四−六)、「明顕に」とは未来の裁判を指して云ふのであつて是れ亦聖書の終末観に基く実際道徳の訓示である、実に聖書の終末観を離れて聖書は解らない、聖書は近代人が為すが如くに道徳の為に道徳を論じない、聖書に所謂純道徳なるものはない、勿論浅薄なる利害の為に道徳を説かずと雖も、然れども善悪の永久的結果を離れて道徳を論じない、パウロは「主の畏るべきを知るが故に人に勧む」と言ふた(コリント後五章十一節)、是れ神のいるべき審判を前に見ての言である、福音は単に神は愛なりとの音信《おとづれ》ではない、現れんとする神の憤怒《いかり》より免かるゝ為に彼が設け給ひし避難の途の宣伝である、「神キリストにありて世を己れと和がしめ其罪を之に負せず」と云ふ(同十九節)、此「和らぎ」に由りて罪人は現はれんとする義の審判より免かるゝ事が出来るのである、如斯くして聖書の終末観が解らずして聖書は解らない、故に聖書を解らんが為に先づ第一に知るべき者は其の明かに示(77)す所の終末観である、馬太伝の第二十四章である、路加伝の第二十一章である、羅馬書の第八章である、哥林多前書の第十五章である、テサロニケ前書の第四章である、同後書の第二章である、|殊に黙示録全部である〔付○圏点〕、現に米国シカゴ市ムーデー聖書学校に於て第一に学生に課するは黙示録の研究であると云ふ、博士ジヨンソンの言に「書を読まんと欲する者は先づ第一に其最後の一章を読むべし」と云ふことがあるが、聖書に於て殊に然りである、旧新六十六巻の聖書を解するの鑰《かぎ》は其最終の書なる黙示録に於てある、之を黙示録と訳したのが抑々其誤解の初である、The Book of Aoocalypse は|顕明録〔付○圏点〕である、キリストが顕れ給ひて万事を明にし給ふ其経路の預言的記録である、之を明解し緊握してのみ健全なる信仰が有るのである。
(78) 天国の市民と其栄光
(五月廿五日)
大正8年8月10日
『聖書之研究』229号
署名 内村鑑三述 藤井武筆記
我等の国は天に在り、我等は救主即ちイエスキリストの其処より来るを待つ、彼は万物を己に従はせ得る力に由て我等が卑しき体を化へて其栄光の体に象らしむべし(ピリピ書三章廿、廿一)。
之れ我等の熟知せる美はしき言である、然し乍ら之を其前後の関係より見て更に深き意味を知る事が出来る、パウロは此処に特に天国の市民と其栄光とに就て語らんと欲したのではない、彼が或る他の事を言ふに当り序《ついで》を以て述べたる此言が却て最も重要なる教訓として人の心に訴ふるに至つたのである。
ピリピ書第三章の初に於てパウロは歓喜の福音を述べつゝあつた、然るに彼は何を憶ひ出せしか、如何なる悪しき報知《しらせ》の彼に達せしものあるか、其第二節より突然激語を放つて居る、而して斯く彼の心を動乱せしめたる原因は二つあつた、|教会内に於ける二種の基督者が彼を悩ましたのである〔付○圏点〕、パウロの此書を認めしは多分紀元後六十四五年の頃にしてキリストの昇天後未だ四十年にも成らなかつた、然るに驚くべし此時既に教会内に党派を生じて純福音を乱す者が出たのである、其第一は|ユダヤ的基督者〔付○圏点〕であつた、即ち基督教会に入り乍ら依然として旧き習慣を守り割礼を重んじ之に由らざれば救はれずと言ひてパウロを苦めたる人々である、パウロは彼等を呼び(79)て「犬」と称し、若しユダヤ的信仰が救の為に必要ならば我こそ最初に救はるべき筈ではなかつた乎と言ひて彼等と闘つた、告ぎに其第二派は彼が十八節以下に説く所の者である、「キリストの十字架の敵多ければなり、彼等の終は滅亡《ほろび》なり、己が腹を其神となし己が羞辱《はぢ》を其|栄《ほまれ》となす、彼等は唯世の事をのみ思へり」と、之れ所謂|逸楽派〔付○圏点〕である、彼等は神の愛を信じ基督教の美しきを賞讃すと雖も素と自己の哲学的思想より又は社会改良の必要より基督教に入りし者なるが故に、キリストの為に十字架を負はざるべからざるに至つては乃ち之を逃避するのである、パウロは此種の人々を責めて彼等は己が腹即ち胃腑《ゐのふ》を神となす者なりと言うた、斯の如く彼が一方に於て「犬」と呼び他方に於て「十字架の敵」と称して激しく之と闘ひたる二派の者は|何れも異邦人又は教会外のユダヤ人に非ずして教会の内部に在りて異端を唱ふる基督者であつたのである〔付○圏点〕。
而して|十字架の福音は常に此両極端を敵として左右に有するのである〔付○圏点〕、儀式的信仰と社会的信仰、人の救はるゝは多くの誡律を守りて己を潔くするにありと為すユダヤ派と、キリストの如き厳格なる生涯を排し、及ぶ限りの快楽を享受するを以て神の聖旨に適へりとなす逸楽派と、此二派は何れの時代の教会にも在る、彼等の主張する所は全然相反するが如しと雖も、其の|自己又は肉を中心として十字架の福音を空しくせんとするに於ては二者同一である〔付○圏点〕、故にパウロは屡々十字架を高唱して此両派と闘つた、「人は十字架を信じて救はるゝなり」とはユダヤ派に対する彼の答弁であつた、「我等は十字架を負うて此世の敵とならざるべからず」とは逸楽派に対する彼の誡告であつた。
ピリピ書第三章に於ても亦彼は此両派に反対したる後自己の立場を明かにして言うた、曰く「|我等〔付○圏点〕の国は天に在り」と、即ち|我等〔付○圏点〕は此世のものにあらず、此世は我等の籍を置く処に非ずと、|一言以て彼等と絶縁したのであ(80)る〔付○圏点〕、此強き一言に由てパウロは自らユダヤ派又は逸楽派と何の関与もなき事を明白にしたのである、「国」とは市民権の意味である、パウロはタルソに生れたるユダヤ人なるも彼の父は何かの功蹟ありて羅馬の市民権を有した、故に彼は周囲の人々に対し「汝等はヘブル人又はギリシア人なるも我等は羅馬人なり」と言ひて政治上に於ける自己の特権を表白し以て彼等との立場の相違を明かにする事が出来たのである、然しながら|政治的に羅馬の市民りし彼れパウロは信仰的には天の市民であつた〔付○圏点〕、羅馬人としては凡ての事羅馬の法律命令習慣に従はざるべからざるが如く基督者としては凡ての事天国の法律命令習慣に従はなければならなかつた、彼の一切の利害(interest)は繋《かゝ》つて天国に在つたのである、故に曰ふ「我等の国は天にあり」と、以て俗化派又は儀式派と全然其関係を絶つに足るのである。
然し乍ら斯く言ひてパウロは尚其の言ひ足らざるを覚えた、彼は之に加へて|キリストの再臨と信者の栄光〔付○圏点〕とを一言せざるを得なかつた、ピリピ書第三章の主題よりすれば彼は其事を茲に附加せずして済んだであらう、然しながら仮令《たとへ》主題に関係なしと雖も己が心に充ち満てる大なる真理を発表すべき機会あらば之を発表せずして已む能はざりしは彼れパウロの習慣であつた、此点に於てグラッドストーンの如きも亦彼に似て居つた グラッドストーンが英国宰相としての演説に恰も大学講堂に於ける学者の講演に類するものがあつた、政治上の問題を論ずるに当り事もし美術文学詩歌等に関聯せん乎、乃ち彼は自己の深き研究を説いて憚らなかつたのである、故に或人之を評して日く「彼の演説は川を渡らんとするに舟を以てせず悠々其上流に溯りて土地産物等を調査するが如し」と、パウロ亦然り、|彼は自己の心を擾乱したる教会内の異端に対し警誡の語を発するの序に最も美はしき語を以て其心中に充溢せる深き真理を吐露したのである〔付○圏点〕。
(81) 「我等は救主即ちイエスキリストの其処より来るを待つ」我等の市民権は上にある、此世は我等の国ではない、我等は今敵の中にあるのである、然り敵は教会の外にある又其内にある、我等は彼等と激しき戦を続けつゝある、我等の戦は敗北に終らんとするが如くに見ゆる、然し乍ら何時迄も斯くして在るのではない、|やがて天より大なる援兵〔付○圏点〕――救手|我等の爲めに降るのである、救手とは誰ぞ、イエスキリストである〔付○圏点〕、彼は一度び死して葬られたりと雖も三日目に甦りて天に昇り今尚生きて居給ふのである、而して或る時到らば彼が我等の救手(原語「ソーテール」は「救主」よりも寧ろ「救手」と訳するを可とす)として必ず彼処より来り給ふのである。
「彼は万物を己に従はせ得る力を以て云々」、彼れイエスキリストは孔孟又は釈迦よりも偉大なる人物なりとは何人も認むる所である、然しながらパウロは言ふ、|彼れは単に偉人又は聖人ではない、彼に由て万物が造られたのである、彼に由て万物が〔付○圏点〕存《たも》|つ事を得るのである〔付○圏点〕(コロサイ書一章十六、十七)、|彼は万物を己に従はせ得る力を有する者である〔付○圏点〕と、基督者と称する者にして此事を信ずる者果して幾許ある乎、若し之を信じ得るならば奇蹟の如きは実に当然の事である、彼は一言の下に嵐を鎮めたりといふ、何の不思議かあらん、彼は五のパンを以て五千人を養ひしといふ、何の疑問かあらん、彼は死者を甦らしめたりといふ、何の不合理かあらん、唯に地球のみならず日も月も幾万の星も、然り|全字宙が彼の〔付○圏点〕釘打|たれたる手の中に存するのである〔付○圏点〕、之を信ぜずして基督者と言ふ事は出来ない、若し各自の信仰を試験せんと欲せば此事を以てせよ、パウロは之を信じた、故に彼はキリスト来りて「我等の卑しき体を化へて其栄光の体に象らしむべし」と言ひて十分なる論拠を有したのである、尋常の人物が来りて此事を為すべしと彼は言はない、万物を己に従はせ得るイエスキリストである、彼が来りて我等の身体の栄化を行ふべしとのパウロの主張は論理上に於ても何等の誤謬を存しないのである。
(82) 茲にパウロは「身体」の事に就て云為して居る、而して独り此処のみではない、「噫我れ悩める人なる哉、此死の体より我を救はん者は誰ぞや」といひ(ロマ書七章廿九)、「キリストを死より甦らしゝ者は其汝等に住む所の霊をもて汝等が死ぬべき|身体〔付△圏点〕をも生かすべし」といひ(同八章十一)、「我等も自ら心の中に歎きて子と成らん事即ち我等の|身体〔付△圏点〕の救はれん事を待つ」といふ(同廿八)、|彼は何故に斯く屡々「身体」の事を口にするのである乎〔付○圏点〕、宗教は霊魂の事である、身体は医家の領域に属する、然るにパウロの切りに身体の事を言ふは彼の信仰が肉的なりし故である乎、否彼が身体の救を力説するに深き理由があつた、生命の要素中身体ほど御し難きものはない、霊魂の変化は大なるも身体は霊魂の欲する所に副はない、即ち|身体救はれずして霊魂も完全なるを得ないのである〔付○圏点〕 故に特別に救を要するものは身体である、キリスト降りて此身体を栄化する時我等の救拯は初めて完成するのである。
昨秋米国大統領ウヰルソン出でゝ大なる希望を世界に提供した、彼は万国の民を一家族と成して永遠の平和を実現せんと欲したのである、何人も其高遠なる理想を尊敬せざるものはなかつた、然しながら惜むらくは彼に一の違算があつた、我等の|罪の身体を如何〔付○圏点〕、此罪の身体の改造なくして平和の喜びは地に臨まない、パウロの高唱するが如く我等の救手なるイエスキリスト天より降り来り万物を己に従はせ得る力を以て我等の卑しき身体を化へて彼の栄光の復活体に象らしめ給ふ時真の平和は初て実現するのである、之れ聖書の繰返し教ふる所である、其時を待たずして自ら之を成就せんと欲する者は何人も深刻なる失望に陥らざるを得ない、ウヰルソン亦然りである、彼が曩に提出したる大理想の実行の不可能漸く明白ならんとする今日、彼の心中果して浩歎なきを得る乎、|余は思ふ今に至て彼も亦其母より伝へられたる古き新約聖書の真理の謬らざる事を痛感したであらうと、理想家の失望は皆此真理を解せざるより来る〔付○圏点〕、若し自己の力を以て世界を改善せんと欲せば何人か失望に赴かざら(83)ん、然れどもパウロは曰うた、理想は必ず実行せらる、但し我に由てに非ず代議士に由てに非ず平和会議に由てに非ず、|天より来る教主イエスキリストに由てゞある〔付○圏点〕、彼が万物を己に従はせ得る力を以て我等の身体を復活栄化せしむる時我等の理想は遺憾なく実行せらるゝのであると。
故にキリストの再臨は人類の理想実現の唯一の途である、再臨を信ぜずして高遠なる理想の実現を信ずる事は出来ない、再臨を信ぜずして俗化せざる聖き生涯を維持する事は出来ない、キリスト自ら教へて曰く「汝等腰に帯し火燈《ともしび》を燈《とも》して居れ」と(ルカ伝十二章卅五)、之れ再臨の信仰と信者の現世に於ける生活との離るべからざる関係を説きしものである、何故基督者の間に徒らに儀式を重んずるユダヤ派又は肉慾を充さんとする逸楽派を生ずるのである乎、彼等は天を仰いで教主キリストの其処より来るを待ち望まないからである、|天的信仰の持続はキリストの再臨を信ずるに由てのみ可能である〔付○圏点〕。
人或は再臨の信仰を以て其人の|学説〔付△圏点〕であると言ふ、然しながら再臨は学説ではない、|信仰〔付△圏点〕である、|学説は之を譲らん、信仰は一歩も譲るべからず〔付○圏点〕である、神の言たる聖書が明示する所のキリストの再臨は動かすべからざる我等の信仰である、曾て有名なるリンコルンの米国大統領たりし時彼は奴隷廃止の必要を切言し「凡て相争ふ家は立つべからず」との聖書の言を引いて之を主張した、然るに彼の反対者なるダグラスが神の言を否定して「否相争ふ家も立つ事を得」と言ひし時彼は答へて日ふた「然らば争論は余と余の政敵との間に在るに非ず、彼と聖書との間に在り、余は余の答弁を聖書に譲らん」と、斯く曰ひて彼は断然彼等と絶つたのである、聖書の言は最後の決定者である、我等は聖書がキリストの再臨と信者の栄光とを明言するが故に一切の失望に打勝ち疑はずして唯之を待ち望むのである。
(84) 信仰の三角形
(六月一日) 約翰第一書の根本教義
大正8年8月10日
『聖書之研究』229号
署名 内村鑑三述 藤井武筆記
約翰第一書は新約聖書の末尾に近く収録せらるる一小書翰に過ぎない、其説く所も単純なるが如くにして而も必ずしも明瞭ならざるの観がある、然しながら少しく注意して本書を研究せん乎、其中に最も深遠なる三大真理を発見する事が出来る、約翰第一書の根本教義は「信仰の三角形」にありと言はゞ簡単にして適切なる命題たるを失はないであらう。
信仰の三角形とは何ぞ、
一、神は義しき者なれば|神の子は義しからざるべからず〔付○圏点〕、
二、神は愛なれば|神の子は神の我等を愛する愛を以て相互に愛せざるべからず、
三、|イエスキリストは神の独子の肉体を取りて現はれたる者〔付○圏点〕なれば彼を人としてに非ず神として信ぜざるべからず、
此三である、|此三を行ひ之を信ずる者が基督者である〔付○圏点〕、之を行はず之を僧ぜざる者は唯に基督者でないばかりではない偽基督であると言ふのである。
(85) 先づ第一に|義〔付△圏点〕に就ては曰く「汝等は主の義《たゞしき》を知るに由て義を行ふ者の皆主の生む所なるを知るなり」と(二章廿九)、神の義は何人も之を知る、然しながら神の生む新たる神の子は義を知る者ではない又之を論ずる者ではない、|神の義しきが如くに義を行ふ者が其れである〔付○圏点〕と言ふ、又曰く「凡そ彼に居る者は罪を犯さず、凡そ罪を犯す者は未だ彼を見ず未だ彼を識らざるなり、罪を犯す者は悪魔より出づ、そは悪魔は初より罪を犯せばなり……凡そ神に由て生るゝ者は罪を犯さず そは神の種其衷にあるに因る、彼れ亦罪を犯す事能はず、そは神に由て生るればなり」と(三章六−九) 即ち神の子たる者は義を行はざるべからず、罪を犯すべからず、罪を犯す者は神の子に非ずして悪魔の子であると言ふ、果して然らば我等各自は如何、真の基督者は何処にある乎、誠に之れ罪人の心に大なる痛みを感ぜしむる強き言なりと雖も使徒ヨハネは何の憚る所なく堂々として之を主張するのである。
第二に|愛〔付△圏点〕に就て彼は曰く「光に居ると言ひて其兄弟を憎む者は今なほ暗《くらき》に居るなり、兄弟を愛する者は光に居りて己を躓かする者衷になし」と(二章九、十)、光明に接したりとて喜ぶ人よ、汝等は己が側《かたはら》にある隣人を愛する乎と彼は言ふのである、而して此一言の前には多くの神学者も黙せざるを得ないであらう、又曰く「愛する者よ、我等互に相愛すべし、愛は神より出づればなり 凡そ愛ある者は神に由て生れ又神を知れるなり 愛なき者は神を知らず、神は即ち愛なればなり」と(四章七、八)、其他至る所に於て彼は同一の趣旨を繰返すのである。
義を教へ又愛を教ふ、以て足れりである、他は信仰箇条の問題である、而して信仰箇条は学説の一種である、何ぞ其異同を問はんと、之れ多くの基督者の唱ふる所である、然し乍らヨハネは義と愛とを教ふるを以て満足しない、第三にキリストが特別の意味に於て神の子なりとの信仰箇条に就て彼は曰く「それ我等が聞き又目に見……我手※[手偏+門]りし所のもの即ち元始《はじめ》より在りし生命《いのち》の道《ことば》を汝等に伝ふ……即ち原《も》と父と共に在りし者にて云々……(86)我等は父及び其子イエスキリストと同心たり」と(一章一−三)、キリストは生命の道即ち神の如き実在者人格者である、彼は原と父と|相対して〔付○圏点〕在りし者である(父と「共に」は正訳でない、希臘語の pros である、「相対して」である、内裏と后との雛壇上に相対するが如きである)、又曰く「父と子とを拒む者は即ちキリストに敵する者なり、凡そ子を拒む者は父をも有たず、子を受くる者は父をも有てり」と(二章廿二、廿三)、キリストを知りし者は神を知りし者であると言ふ、如何なる偉人に就ても斯く言ふ能はずである、之れキリストのみ神と相対して在りし者なるが故である、又曰く「凡そイエスキリストの肉体となりて来り給へる事を言ひ表はす霊は神より出づ……凡そイエスキリストを言ひ表さゞる霊は神より出づるに非ず即ちキリストに敵する者の霊なり」と(四章二、三)、キリストの神性を信ぜざる者の中にも所謂善人はあるであらう、然しながら聖書は茲に明言するのである、|キリストが永遠の実在者にして処女マリアより生れし神の子なる事を信ぜざる者は基督者に非ざるのみならず、斯る人は神の敵である〔付○圏点〕と、而して其最も著るしきは五章二十節である、曰ふ「神の子既に来り我等が真理者《まことのもの》を知るの智慧を我等に賜へるを知る、我等真理者にあり、即ち其子イエスキリストにあり、|彼は乃ち真神〔付△圏点〕また永生《かぎりなきいのち》なり」と、誰か聖書にキリストは神なりとの明言なしと言ふ乎(此所に「彼は」とあるは神の事なりとの解釈は前後の関係より見て明かに不当である)、「彼は乃ち真神なり」とヨハネは断言するではない乎。
神の義と神の愛と、之に加ふるにイエスキリストは真の神が肉体を取りて我等の間に生れ給へる者なりとの信仰、之れ即ち信仰の三角形である、而してヨハネは更に之を二段に|適用〔付○圏点〕して論じた。
其一、|光に歩むとは如何〔付○圏点〕、義を行ふ者、彼が光に歩む者である、兄弟を愛する者、彼が光に歩む者である、イエスキリストは神の子の肉体を以て来りし者なる事を信ずる者、彼が光に歩む者である、然らざる者は凡て暗に(87)歩む者である。
其二、|神に由て生るとは如何〔付○圏点〕、換言すれば「神の子」とは如何、人は皆神の子なりと言ふ乎、然らば造化何物か神の子ならざるである、特別の意味に於ての神の子とは凡ての人ではない、義を行ふ者、兄弟を愛する者、イエスキリストの神性を信ずる者である。
|義〔付△圏点〕である、|愛〔付△圏点〕である、而して|キリスト神性の信仰〔付△圏点〕である、三者は互に相関聯する、其一を欠いて他は在る事を得ない、|義を行はずして愛する能はず、愛せずして義を行ふ能はず、イエスキリストの神の子なるを信ぜずして愛し又は義を行ふ事は出来ない〔付○圏点〕、信と義と愛と、三者相倚つて初めて完全なる宗教を成すのである、人は屡々基督教の中心は愛の一点にありと想像する、然しながら愛よ愛よと言ひて義を怠り信を軽んぜんには愛其者が我等を堕落せしむるのである 神の子キリストの生涯を見よ、彼の一度び義を顕はし給ふや雷電霹靂の勢を以て叱咤し給うた而して此峻烈なる義の発現あるに由て彼の愛は赫々として光輝を放つのである、神は屡々我等をして苦き杯を飲ましめ給ふ、我が神は残酷なる神に非ずやとは信仰の生涯に於て幾度びとなく発せらるゝ声である、然しながら神の義を知りてこそ真に能く神の愛を味ふ事が出来る、神は義である又愛である、愛である又義である、然らば義と愛とを以て足る乎、否、其上に尚ほ信の必要がある、而して信とは尋常の信仰ではない、神と相対してありし者が肉体を以て世に降れりとの信仰である、此信仰なくして義と愛とを行はんと欲するも能はずである、之れ我等の実験の証明する所である。
近頃我国の思想界に最も欠乏せるものは何である乎、曰く|道徳的深刻味〔付○圏点〕である、之なきが故に一朝世界の思想に接触するや若き男女等自己内心の大なる動揺を禁ずる能はず、乃ち相率ゐて滔々たる北欧文学の渦中に溺れん(88)とするのである、然らば道徳的深刻味の最大なるものは何処にある乎、|我等の罪の為め、然り我が罪の為め神の子自ら肉を取て降り十字架につかざるを得ざりしと言ふ、何者か之よりも深く我が罪の恐ろしさを教ふるものぞ〔付○圏点〕、神なるキリストの十字架を信じて初めて最も深刻なる罪と義とを鰐する事が出来る。
愛に就ても亦然うである、日本人が好んで止まざる浄瑠璃の如きは切りに愛を語りて已まない 然しながら|天下何処にか神は其独子を賜ふ程に我等人類を愛し給へりといふが如き深刻なる愛がある乎、愛の何たる乎はキリストの誰なる乎を知て初めて之を解する事が出来る〔付○圏点〕、神の子である、原と神と相対して在りし者である、真の神である、彼が肉体を以て我等の間に宿り十字架の死を遂げ給うたのである、愛とは実に斯くの如きものである、キリストは神の子なりとの信仰は我等の愛の為に絶対に必要である。
余輩は外国宣教師の或者に対しては必ずしも尊敬を表する事が出来ない、然し乍ら教養ある幾千の紳士が故国を棄てゝ或は東洋諸国に或は阿弗利加内地に其他隔絶せる異域に進入し甚大なる不便と苦痛とを忍びて十年二十年五十年其生涯を終る迄福音宣伝に従事しつゝあるは寔に驚くべき事実である、|彼等をして斯くも深く異国人の霊魂を愛せしむる所以のものは何である乎〔付○圏点〕 余輩は未だ我日本より遣《おく》られて蒙古西蔵印度等の土人の為に其一生を献げたる宣教師あるを聞かない、我等に託せられたる朝鮮人を我兄弟姉妹として愛し得る者果して幾人ある乎、神の子イエスキリスト我が為に十字架に上り給へりと信じて初めて彼等に対する深き愛を抱く事が出来る、然らずして彼等の為に責任を感じ生涯彼等と共に苦まんとするが如き愛は到底之を期待する事が出来ない。
西洋文明の最善なるもの欧米文学の最深なるものは皆此信仰より出たのである、先般其護生百年祭を行はれし詩人ホイットマンがリンコルンの死を歌ふの詩、又は戦に斃れたる一青年の死屍に近づき静に彼が面上を蔽へる(89)布片《ふへん》を掲げて凝視多時遂に感慨に堪へずして「噫兄弟よ、噫キリストよ、キリストの顔貌《かほ》いま茲にあり」と叫ぶが如き、又はかの有名なるテニスンの追悼歌《インメモリアム》発端の一語の如き、キリストの神性を信ぜずして如何ににして其の深き意義を味ふ事が出来やう乎。
我等は深刻なる愛を欲する、我等は深刻なる義を欲する、然れども徒に大声疾呼して愛と義とを説くも全く無益である、神の子イエスキリスト自ら肉体を取て我等の間に宿り我等の罪の為め十字架の恥辱と苦痛とを受け給ひしを信ずる迄は深刻なる愛と義とは決して起らない、故にキリストの神性は学説ではない、信仰である、道徳である、生命である、然り之れ|人生の最も貴きものゝ根柢である〔付○圏点〕、若し何人か此問題の如何を顧みず唯相提携して社会の改善に尽力せん事を求めん乎、余輩は断然として之を拒絶すべきのみ、誰か我父に就き大なる誤解を有する者と共に手を携へ得る乎、イエスの神の子なるを信ぜざるは我が生命に関する問題である、愛と義とは此信仰を根柢として立つのである。
(90) 希望と聖徳
(六月八日) 約翰第一書二章廿八節−三章三節
大正8年8月10日
『聖書之研究』229号
署名 内村鑑三述 藤井武筆記
「小子《をさなご》よ」 ヨハネ自ら既に老年なるが故に斯く言ふ。
「恒に主に居るべし、其の顕はるゝ時に我等懼るる事なく其臨る時に其前に耻づる事なからん為なり」 彼の顕はれ給ふ時がある、其時我等彼の前に出でゝ耻ぢざるやう準備せざるべからずとの意である、|新約聖書に於ては凡ての道徳はキリストの再臨に関聯する〔付○圏点〕、単に基督者は潔くあるべし罪を犯すべからずとは言はない、審判の時を目前に置いて之を勧むるのである。 「汝等は主の義《たゞしき》を知るに由て義を行ふ者の皆主の生む所なるを亦知るなり」 我等の救主は義しき者である、故に義を行ふ者が神に由て生れたる者なるを知るのである、如何なる思想を有する乎に由らず、義を行ふ乎否乎に由る、之れ凡ての平信徒の解し得る常識である、而して此一節中注意すべきは「主の義を|知る〔付△圏点〕」といひ「亦|知る〔付△圏点〕なり」といふも二箇の異なる語を用ゐる事である、前者は自|ら知る〔付○圏点〕の謂であつて後者は|実験に由て知る〔付○圏点〕の意である、神の義しき者なる事に就ては説明又は実験を要しない、聖霊に由て直覚的に之を知る、然るに人が神の子なるか否かは其人が義を行ふか否かにょり長き交際に由て実験的に之を知るのである。
(91) 「汝等見よ」 特に語を更めて「見よ」と言ふは或る驚くべき事を語らんとするのである。
「我等|称《とな》へられて神の子たる事を得、之れ父の我等に賜ふ何等《いかばかり》の愛ぞ」 之を原文の儘に「我等神の子と称へられん為に父は何等の愛を我等に賜ひしぞや」と直訳して更に能く其意味を解する事が出来る、|我等今神の子と称へらるゝは唯に斯く称へらるゝのみではない、此名に伴ふ実がある、神の子と呼ばるゝに足る丈の権能を父より賜うたのである〔付○圏点〕 即ち聖潔《きよめ》の霊の如き、神を知るの知識の如き、神の愛を以て相互を愛するの愛の如き皆其権能である、之れ父の我等に賜ひし何等の愛なるかを考へ見よといふ、我等平常此事を忘れ勝ちである、然し乍ら基督者と呼ばるるは決して無意義ではない、小事ではない、世の智者権者等一朝大なる蹉躓に遭遇し心中何の頼む所なくして惨憺たる失望に陥る時独り基督者には動かざる千歳の磐《いは》ありて之に頼むを得るのである、誠に我等神の子と称へらるゝに足る権能を有するは父の我等に賜ひし如何ばかりの愛ぞである。
「世は父を知らず、之に由て我等をも知らざるなり」 寧ろ原文の儘に「世は|彼〔付△圏点〕を知らざりき、之に由て云々」と読むべし、此湯合に於て「彼」とは父よりもキリストである、又「知らず」とは実験的に認めざる事である、即ちヨハネは言うたのである、「世の人は我等基督者の真価を認めない 何となれば彼等は我等の主イエスキリストの真価を認めないからである」と、何故此処に之を言ふの必要がある乎、蓋し基督者は自ら神の子たる権能の偉大なるを知ると雖も世は全く之を認めず軽侮嘲笑の眼を以て彼等を迎ふる事は人生の大なる事実なるが故にヨハネは一言之が説明を加へざるを得なかつたのである、彼は其原因を明瞭に指摘して言うた「世は彼を知らざればなり」と、「彼」である、我等の救主なるイエスキリストである、世若し彼を認めしならば我等をも認めたであらう、然しながらせは彼を解せず彼を軽侮したるが故に亦我等を解せず我等を軽侮するのである、|我等の運命(92)は教主の運命と同一である〔付○圏点〕、然らば却て名誉なる哉世より卑めらるゝ事! 感謝すべき哉彼と共に斥けらるゝ事!
「愛する者よ」 斯く基督者が皆救主と同一の運命を荷ひ共に世より卑めらるゝ事は又|彼等相互の繋ぎを一層堅くする所以〔付○圏点〕である、故に此処に「愛する者よ」と言ひて兄弟姉妹の関係の前よりも更に密なるものあるを表はす。
「我等今神の子たり」 前に述べたる所を再び明確に断定したのである、我等いま世より卑めらる、其れあるに拘らず我等は確かに神の子であると、世が我等を偽善者と呼び迷妄家と称する時白髪の老先生の我等の肩を叩きて此言を発するあらば如何に喜ばしく感ずるであらう。
「後如何、未だ現はれず」 今既に神の子たりと雖も斯かる卑しき体を纏ひし儘にて何時迄も存在すべき筈ではない、基督者には未だ現はれざる未来がある。
「現はれん時には必ず神に肖んことを知る」 「其」或は「彼」と読み得る、「|彼の現はれん時〔付△圏点〕」である、基督者は霊に於ては既に神の霊を宿すも体に於ては今尚弱くして罪を犯し易き者である 然しながら斯かる状態が終局ではない、|遂には我等の休も亦神の子に〔付○圏点〕適|はしき者とせらるゝ時が必ず来る〔付○圏点〕、其時は何時ぞ、「彼の現はれん時」である、|今は陰れて在り給ふイエスキリストが其栄光の体を以て現はれ給ふ時〔付○圏点〕である、其時には我等も「必ず|彼〔付△圏点〕に肖ん事を知る」である、彼の栄光の体に我等の休も肖るのである、之れ神の言たる聖書の権威ある明言であつて又神の霊を宿せる者の深き欲求に応ずる希望である。
「そは我等其の真の状《さま》を見るべければなり」 既にキリストの霊を我が衷に宿せば次第に聖化せられて遂には(93)彼の姿に肖たる完全なる者となり得べしとは多くの人の抱ける思想である、然しながら事実は果して爾うである乎、信仰の生活を送る事数十年にして尚キリストの姿と相肖ざる事甚だしくパウロと共に終生「此死の体より我を救はん者は誰ぞや」との声を発するは凡ての基督者の経験ではない乎、実に彼の現はるゝ時までは我等は完全に彼に肖る事が出来ないのである、然らば彼の現はるゝ時に至つて如何にして彼に肖る事が出来る乎、曰く|彼を〔付○圏点〕眼《ま》|の当り見るが故である、見る事は肖んが為に必要である〔付○圏点〕、尊敬すべき教師の著書又は書翰を通じて受くる感化よりも一度び彼に面接して獲たる印象は遙かに深大である、子は母と相見て其清き愛を実験せざるを得ない(孤児の最大不幸は衣食の不足ではない、親の面《かほ》を見る能はざる事にある)、偉人に接して家に帰る時其面上に漂ふ新しき光輝《かゞやき》の家人をして怪ましむるものがある 誰か篤信の基督者の貴き死の床に侍して天よりの恩恵に与らざる者があらう乎、況んや栄光の主を眼前に拝するの実験に於てをや、其の如何ばかり大なる聖化を我等に及ぼすべきかはモーセ又はパウロの経験に徴して之を察する事が出来る、モーセはヱホバに召されてシナイ山頂に上りしが彼処にて「人が其友に言ふ如くにヱホバモーセと面を合せて言ひ」給うた、故に「モーセ其の律法の板二枚を己の手に執りてシナイ山より下りしが其の山より下りし時にモーセは其面の己がヱホバと言《ものい》ひしに由て光を発《はな》つを知らざりき」とある(出埃及記卅四章二九)、パウロがダマスコに至らんとする途上にて復活のキリストを見る事を許されし一瞬問は実に彼が全生涯を一変せしむるに足るの恩恵であつた、我等も亦何時か之に勝るの恩恵に与るのである、|時到らば我等は復活体を賦与せられ面と面とを〔付○圏点〕対《あは》|せて栄光のキリストと相見る事を許されるのである、其時は独り我等の体の彼に肖たるものとなるのみならず霊に於て精神に於て気質に於て行為に於て完く彼の在るが如くに聖化せらるゝであらう〔付○圏点〕、故に曰ふ「凡て我等|※[巾+白]子《ほおほひ》なくして鏡に照《うつ》すが如く主の栄《さかえ》を見、栄(94)に栄いや増さりて其同じ像《かたち》に化《かは》るなり」と(コリント後書四章十八)、彼の再び現はれ給ふ時我等其の真の状を見その栄光を眼の当りに拝するが故に我等自身も其同じ像に化せられて彼に肖たる完く聖き者と成るを得べしとは聖書の伝ふる最も深き真理であつて又基督者の唯一の希望である、寔に|人生最大の幸福は相見る事にある〔付○圏点〕 親子又は夫婦の相見んが為めには阿弗利加内地の蛮土に赴くをも難しとしない、況して基督者が日夜其心に慕ふ所の栄光の主と相見んが為には此世に於ける一切の患難も之に勝ち得て尚余りあるを覚ゆるのである。
「凡そ禅に由れる此望を懐く者は其潔きが如く自己《みづから》を潔くす」 「神に由れる」は原文に従ひ「|彼〔付○圏点〕に由れる」と読むべし、キリストに由れる希望である、批評する者或は曰ふ「再臨の希望は詩としては甚だ美はしきも実生活に何の要あるなし」と、然しながら|希望は決して単に詩又は歌として存らない、希望は直に人の実際的行為に現はるゝのである〔付○圏点〕、キリスト何時か再び来り給ひ我等皆必ず彼の台前に立たざるべからず、願はくは其時に耻ぢざるものと成らん事をとの切なる希望を抱きて初めて我等に自己を潔くせんとの真正なる努力が生ずる、之れ理論の問題に非ずして事実である、再臨の信仰に反対する者に幾多の有力なる主張がある、然しながら彼等の生活に自己を潔くせんとする最も厳粛なる熱心を見ざるは何故である乎、之れその希望抜きの生活なるが故ではない乎、|若し我等と〔付○圏点〕幕一重|を隔てゝ栄光の主彼処に在り、やがて幕の掲げらるる時彼自ら現はれて我等の一切の心意と言行とを〔付○圏点〕審判|き給ふと知れば如何〔付○圏点〕、父は近日外国より帰らむと開いて留守中母の大なる憂なりし子は自ら慎み励むのである、こは決して卑しむべき子供心ではない、希望より来る奮励である、基督者に取ても亦然り、主の現はれ給ふは何時である乎、我等彼の前に立ちて総勘定を為すべきは何時である乎、彼の栄光の姿を拝し我等も亦彼に肖たる者となるべき其時は何時である乎、或は今宵であるかも知れない、然り或は今であるかも知れない、此(95)大なる希望を明確に抱きて我等の生涯は一変せざるを得ないのである、彼の潔きが如くに自ら潔くせんと欲せざるを得ないのである、故に|来世の希望は単に来世の希望として存しない、翻て現世に迄侵入し来り希望其ものが現在に於て我等を潔むる力となるのである〔付○圏点〕。
こは小問題なるが如くにして小問題ではない、此世の多くの人々が思はざる打撃に遭遇するや恰も洪水に押し流さるゝが如く頼む所なき者となるは一に彼等の胸中来世の希望が其地位を占めないからである、来世の希望なくして如何にして罪の世に忍耐と勇気とを以て充ちたる生活を送り得る乎、再臨の希望なくして如何にしてキリストの命じ給ひし諸の律法に堪へ得る乎、|我等をして地上に在りて天的生活を実行せしむる唯一の原動力は再現すべきキリストに対する希望にある〔付○圏点〕、故にヨハネと全く其気質を異にせしパウロも亦同一の言を以て我等を教へて曰うた「既に汝等キリストと共に甦りたれば天に在るものを求むべし、キリスト彼処に在りて神の右に坐し給へり、汝等天にあるものを念ひ地にあるものを念ふなかれ、それ汝等は死にし者にて其命はキリストと共に神の中に蔵《かく》れ在るなり 我等の命なるキリストの顕はれん時我等も之と共に栄の中に顕はるゝなり」と(コロサイ書三章一−四)、其他新約聖書中に於ける同じ意味の数多き語は一々之を挙ぐる事が出来ない、|基督者の聖徳はキリスト再臨の希望より来るとは聖書全体が強烈に主張する所の深き真理である〔付○圏点〕。
――――――――――
不敬虔と世の慾とを棄てゝ謹慎《つゝしみ》と正義と敬虔とをもて此世を過し、幸福なる望即ち大なる神我等の救主イエスキリストの栄光の顕現を待つべきを我等に教ふ(テトス二の一三)。
(96) 所謂「再臨説の粉砕」に就て
大正8年8月10日
『聖書之研究』229号
署名 一記者
〇『内村全集』発行書店警醒社の発行にかゝる富永徳磨氏著『基督再臨説を排す』の同書店の新聞紙広告文に曰く(著書の広告文は著者自身の筆に成るのが日本今日の習慣であるとの事なれば此広告文も或ひは此著者自身の作なるべし)
世を惑はし基督教を誤る再臨説に向つて、著者独特の徹底せる論理と鋭利なる筆鋒とを以て大痛撃を加へたるもの。獅子全力を罩めて兎を搏ちし如く再臨説は全然粉砕し尽されて痕跡だになし。
と、寔に揮つたる広告文であつて、其意味たるや『内村全集』読むべからずと云ふと同一である 商売上より見れば自殺的の広告文である、一方に於ては「永久的価値を有し、子孫に伝ふべき明治大正の大産物」と広告し置きながら他の一方に於ては「世を惑はし基督教を誤る云々」と云ふ、孰れが本当であるか読者は嘸かし迷ふ事であらう。
〇以上は著者と其著書とに関する事柄である、然し乍ら茲に解決すべき極めて重要なる問題がある、其第一は再臨「説」は果して世を惑はし基督教を誤る者である乎、若しさうであるならば聖書こそ其書である、基督再臨は余輩が初て唱へた者ではない、基督に由て唱へられ使徒に由て唱へられたる信仰である(「説」ではない信仰であ(97)る)、新約聖書は二十五節毎に一回基督再臨に就て語て居る。新約聖書は果して「世を惑はし基督教を誤る」書である乎、若しさうならば今日直に之を棄つるに若かずである。
〇発行書店の広告文に依れば著者独特の徹底せる論理と鋭利なる筆鋒とに由り「再臨説は全然粉砕し尽されて痕迹だになし」と、憐むべき再臨説なる哉、僅々六十頁足らずの小著述に由て「粉砕し尽されて痕迹だになし」とは扨も扨も憐むべき哉、斯かる薄弱なる「説」を信じて基督教の中心なりと唱道せし多くの聖徒、コロムウエル、ニユートン、ファラデー、ゲス、ガウソン、ゴーデー、デリツチ等の諸先覚者は憐むべき哉 此著者の此著述に由て日本に於ける内村中田等の再臨説は「粉砕し尽されて痕迹だになし」と言ひ得やう、然し乍ら之に由てパウロ、ペテロ、ヨハネの再臨「説」、其他数知れぬ聖徒の再臨「説」を粉砕し尽したりと言ひ得る乎、是払尠くとも余輩に取りては大々的疑問である、若し此著者と警醒社書店とが去る五月下旬米国費府に於て開かれた世界再臨信者大会に於て此言を発したならば会衆は何と答へたであらう、紐育のハルドマン博士、ジョンス・ホツポキンス大学外科学教授ケリー博士、其他数多の学者と信者とは何んと答へたであらう乎、「再臨説は粉砕し尽されて痕迹だになし」とよ、大に有りである、大勢力大信仰として世界を動かしつゝある、駝鳥は頭を砂中に埋めて自身安全なりと想ふであらう、然し猟犬は彼を逐ひつゝありて彼は終に打殺さるゝであらう、信仰の価値を定むる者は神学者ではない、平信徒である、余輩は神学者に問はずして平信徒に訴ふるであらう。
(98) 山上雑話
大正8年8月10日
『聖書之研究』229号
署名 内村生 記
余輩と教会との間に横たはる溝渠は益々拡大しつゝある、今やすべての点に於て余輩と教会とは全然無関係となりつゝある、是れ悲むべき事の如くに見えて実はさうでない、斯くなりてこそ余輩は全然意を決して教会を背《うしろ》にして所謂不信者社会へと進入する事が出来るのである、パウロとバルナバとがユダヤ人に対ひて「我儕移りて異邦人に向ふべし」と言ひしが如くに余輩は教会の教師、監督、神学者、其他の役人等に対ひて言ふのである「余輩移りて不信者に向ふべし」と(行伝十三章四六節) 余輩は断然意を決した|余輩は自今再び教会革正を唱へざるべしと〔付△圏点〕、教会を愛したればこそ其革正を唱へたるなれ、既に全然之と関係を絶つに至て最早此上其革正を唱ふるの必要はない、教会の神学者は言ふ余輩の説く基督教は|世を惑はし基督教を誤る〔付△圏点〕者であると、真に有難い、故に余輩に来る勿れ、余輩を信ずる勿れ、彼等との分離は余輩の望んで止まざる所である、氷炭豈共に語るべけんやである。
〇余輩と教会との関係は絶えた、然し乍ら之に由て余輩と非基督信者との関係は益々親密になりつゝある、余輩は多くの善き信仰の友を我国仏教徒の間に有つ、日本人は元来宗教的の民である、明治大正の日本人を以て其深き宗教性を量ることは出来ない、日本人は元来斯んな無宗教なる不敬虔の民ではない、宗教的には全然無意識な(99)りし薩長の政治家に由て建設せられし日本の社会は日本人の立場より見ても最も劣等なる社会である、日本人全体が一時は僧侶と化したる時代がある、其点に於て日本人は欧米人と異なる所はない、数百千年にお亘る深き信仰的素養があつてこそ日本人は其今日の世界的地位に達する事が出来たのである、而して|感謝す此旧き宗教的日本の未だ全然消滅し去らざる事を〔付○圏点〕、或ひは神道、或ひは仏教と、其形体は異なれども其底には此深い宗教的日本が潜んで居るのである、而して余輩が愛し且つ信頼する者は此隠れたる日本である、余輩が我国今日の基督教会なる者を離れて「移りて向ふべし」と云ふは此純正なる信仰的日本である、余輩は慧心、法然、親鸞の弟子等の間に余輩の信仰の友を求めんと欲するのである、而して単純なるイエスの福音は終に彼等の信受する所となるべしと信ずるのである、余は今手にサイズ氏著『黙示録講義』を持ちつゝある、而して之に由て慧心僧都の著『往生要集』を想出《おもひいだ》さゞるを得ない(那須火山の中腹に於て内村生記)。
(100) 〔『日本及日本人』の質問状への回答〕
大正8年8月15日
『日本及日本人』763号
署名 内村鑑三
本社の質問状
奸商を死刑に(|仏国の物価調節方策〔付△圏点〕)
食料供給任務に関係ある各省長官は現在の高き生活費につき緊急引下げ手段を断行することに議定したり代議院議員中には暴利を貪るものに対し極厳の処分を加へんことを要求するもの多く代議院にては審問の結果買占又は暴利獲取運動の罪証ある各種一切の投機行為を死刑を以て処罰するの法律案既に提出せられたり(七月十一日巴里電報)
右は最近巴里電報の報ずる処に有之候処我国に於ても暴利を貪る奸商の横暴は無標準なる物価の暴騰を来し国民生活は刻々に危機に瀕し緩漫なる暴利取締令の如きは殆ど寸効なき有様に有之候処将来我国に於ても暴利奸商の徹底的取綿方法として死刑処分を規定するの必要生ぜざるか、並に奸商死刑処分の可否に就きて御高見御示し被下度御依頼申上候。
拝啓、奸商を死刑に処する事小生は大賛成に有之候。同時に政治界の佞人、奸物、偽君子等悉く死刑に処し候はゞ、国家の大幸福に有之間敷や、伺ひ申上候。匆々頓首。
(101) GOD IS FAITHFUL.神は誠信なり
大正8年9月10曰
『聖書之研究』230号
署名なし
GOD IS FAITHFUL.
GoD is faithful.Oh blessed words! He changeth not. Whatever He planneth He accomplisheth. He,not We,not our wills or resolutions or endeavours,called us into the fellowship of His Son Jesus Christ.Therefore we are safe;our salvation is assured.“Faithful is He that calleth you, who will also do it”.“He who began a good work in you,Will perfect it until the day of Jesus Christ.”Then,neither men nor devils,nor governments nor Churches,nor kings nor bishops,nor powers celestial,nor powers terrestrial,nor the whole creation itself, shall be able to separate us from love of God,and make His plan of salvation concerning us failure and abortion. Because God is faithful,is our hope of salvation sure,in spite of all our unfaithfulness, errors, imperfections,and even of occasional sins and backslidings. I Cor.1:9.
(102) 神は誠信《まこと》なり
神は誠信なりと云ふ、祝ふべき哉此言や、神は誠信なり故に渝《かは》り給はない、彼は其計画し給ひし事を必ず実行し給ふ、|彼〔付○圏点〕が我等を其子イエスキリストの交際《まじはり》に召き給ふたのである、然り|彼〔付○圏点〕である、我等自身ではない、我等の意志又は決心又は努力ではない、故に我等は安全である、我等の救拯は保証されたのである、「汝等を召く者は誠信なり彼れ此事を成し給はん」とあるが如し(テサロニケ前五章廿四)、又「汝等の心の中に善工《よきわざ》を始めし者之を主イエスキリストの日までに全うすべし」とある(ピリピ書一章六節)、然るが故に人も悪魔も政府も教会も帝王も監督も天の権能も地の勢力も、然り全宇宙其物も、我等を神の愛より絶《はな》らせ、我等の救拯に係《かゝは》る彼の御計画を失敗無効に終らしむる事は能ない、神は誠信である、故に我等が救はるゝ希望は確実《たしか》である、我等の不信、誤謬、不完全、度々犯す罪、陥る堕落、凡て之あるに関はらず我等が救はるゝは確実である。
(103) 〔神第一 他〕
大正8年9月10日
『聖書之研究』230号
署名なし
神第一
基督教は先づ第一にディビニチー(神性)である、然る後にヒユーマニチー(人性)である、先づ第一に神を愛する事である、然る後に人を愛する事である、先づ第一に神政である、然る後に帝政又は民政と称するが如き此世の政治である、基督教に在りては神が第一にして人が第二である、信者は先づ第一に神の国と其|義《たゞしき》とを求め、然る後に其結果として此世の凡の美物《よきもの》は彼等に加へらるゝのである、此順序を転倒して基督教は無いのである、而して欧米今日の基督教は此の無に等しき基督教である、〔即ち人本位の基督教である、社交的基督教と称して先づ人を愛して然る後に神を愛せんとし、改良されたる社会に於て神の国の実現を見んと欲する基督教である、偽《いつはり》の基督教である、故に基督教の目的を達し得ざる基督教である、|先づ第一に神〔付○圏点〕、神と和らぎ、神に服ひ、神を愛して、然る後に地上の平和、社会の完全、人類の幸福を期待する事が出来る、我等は此重大事に関して欧米人に傚はずして直に聖書に学ぶべきである。
(104) 神人交通の途
神と人との関係は直接の関係に非ずして間接の関係である、神の子にして人の王なるイエスキリストを通うしての関係である、イエス言ひ給はく「我は途なり誠なり生命なり、人もし我に由らざれば父の所に往くこと能はず」と(ヨハネ伝十四章六)、神はキリストに在りて人を迎へ、人はキリストに在りて神の所に往く、神人交通の途唯此一途あるのみである、然るに現代の人は言ふ「是れ神人交通の途を制限する者なり、神は宇宙の広きが如く広し、人の彼に到らんと欲す、豈キリスト一人にのみ由らんや」と、是れ或は哲学なるべし、然れども聖書の基督教に非ず、聖書の基督教はキリストである、彼を離れて真理も生命も無いのである、而してキリストは個性《ペルソン》である、一人の人である、彼に由りて神は人に臨み人は神に到るのである、而してキリストに由らざる神人交通はすべて失敗である、欧米諸国に於てキリスト抜の「広き基督教」の唱へらるゝ此時に際し、我等は彼等欧米人に傚はずして直に聖書に学ぶべきである。
霊肉の関係
「先づ経済的慰安を供《あた》へよ、然らば心霊的にも亦平安なるを得べし、人は第一に肉にして第二に霊なり、故に肉に足りずして霊に充《みつ》ること能はず、肉の要求を充すは是れ霊の要求に応ずるの途なり」と、以上は社会民主々義者《ソシヤルデモクラット》の叫びにして又現代人全体の叫びである、而して基督教会も亦之に和し、社会運動是れ基督教なりと称し、所謂「飲食の事に仕ふる」を主として福音宣伝を軽んず(行伝六章二節)、然れども聖書は明白に示して曰ふ(105)「神の国は飲食に非ず唯義と和《くわ》と聖霊に由れる歓楽《よろこび》にあり」と(ロマ書十四章十七)「衣食足りて礼節を知る」と云ふは儒教であると同時に又純然たる物質主義である、「困苦《くるしみ》も迫害《せめ》も飢餓《うゑ》も裸体《はだか》も我らを我主イエスキリストに頼《よれ》る神の愛より絶《はなら》すこと能はざるを我は信ず」と云ふのが基督教である(同八章三五節)、聖書の示す所に依れば霊は主にして肉は属である、人は霊に充ちて肉に足ることを知るのである、神より出て人のすべて思ふ所に過る聖霊に由れる歓楽《よろこび》は人生のすべての悲痛《かなしみ》に勝得て余あるのである。
(106) 聖書無謬説に就て
大正8年9月10日・10月10日
『聖書之研究』230・231号
署名なし
○今や聖書無謬説は基督再臨説と共に教会神学者の嘲笑の好題目である、「聖書丸呑にすべからず」とは学者らしく見ゆる彼等の勧告である、書を読んで尽く之を信ずれば書なきに若かずとの諺は彼等が聖書に適用して憚らざる所である、往昔《むかし》は聖書を弁護するのが神学者の職務であつたが、今は聖書の誤謬を捜索《さがす》のが彼等の能事であるやうに見える、而して牧師神学者等の聖書攻撃に対する平信徒の聖書弁護は現代教界の一奇観である。
〇|先づ第一に注目すべきは聖書其物が自箇の無謬を唱ふる事である〔付○圏点〕、茲に能く知れ渡りたる章句を挙げんに、イエスは「律法と予言者」即ち吾人が今日旧約聖書と称する者の神的権威に就て述べて言ひ給ふた「我れ誠に汝らに告げん天地の尽きざる中に律法の一点一画も遂《とげ》つくされずして廃ることなし、是《この》故に人若し誠の至《いと》微《ちいさ》き一を壊《やぶ》り又その如く人に教へなば云々」と(馬太伝五章十八節)、聖書無謬説は之よりも強い言辞を以て唱ふる事は出来ない、若し之は旧約聖書に就て言ふたのである新約の無謬弁護にならないと言ふ人があるならば、聖書最尾の言なる黙示録末章末節の言は最も明白に新約聖書中最要の一書たる此書の絶対的無謬を裏書する者である、曰く
我れ此香の預言の言を聞く者に証《あかし》を為す、若し此書の預言の言に加ふる者あれば神此書に録す所の災を以て之に加へん、若し此書の預言の言を削る者あれば神之をして此書に録す所の生命の樹の果と聖城《きよきまち》とに与るこ(107)と莫《なか》らしむ
と、是は強い言である、呪詛《のろひ》を以て聖句変更を禁じたる言である、「此書一言一句尽く神の言なり、之に加ふべからず、之を削るべからず、其一点一画を加減する者は宇宙の重きが如き重き刑罰に処せらるべし」との言である、而して聖書の終尾に書加へられたる此言は単に黙示録に就てのみ記されたる者であるとは思へない、即ち黙示録の此結尾の言は聖書全体の結尾と見るが当然であると思ふ。
〇イエスが「天地は廃《うせ》ん然れども我言は廃《うせ》じ」と言ひ給ひし其言を伝ふる新約聖書が無謬の書であると見るは無理ならぬ事である(馬太伝廿五章三五)、使徒ペテロは明白《あきらか》に新約の言の神の言にして永久変らざる者なることを証明して居る、
汝らが再び生れしは壊《くつ》べき種に由るに非ず、壊べからざる種即ち窮なく存《たも》つ所の神の活ける言に由るなり、それ人は既に草の如く其栄は凡の草の花の如し、草は枯れ其花は落つ、然れど主の言は窮なく存つなり、|汝等に宣伝へられたる福音は即ち此言なり〔付○圏点〕
と(ペテロ前一章二三)、新約聖書神言説、其永久的価値、而して其必然の結論として起る其無謬説を証明する者にして之よりも確実なる者はない。
〇其他聖書の自己証明に就て述ぷべき事は饒多《あまた》ある、聖書は明白に自箇の神性と無謬を証明する、而して公平なる聖書学者は聖書の此自己証明を否定しない、然るに現代の神学者等は曰ふ「イエスは爾か信ずるも吾人は信ずるに及ばず、聖書は爾か唱ふるも吾人は之に服ふに及ばず、基督教の真理は他《ほか》に在り」と、茲に於てか問題は「余輩対彼等」の者たらずして「聖書対彼等」の者たるに至るのである。 〔以上、9・10〕
(108)〇イエスは聖書を如何に観たまひし乎、信者の聖書観はイエスのそれに由て定まるのである。
〇イエスは聖書を最上の真理と認め給ふた、故に曠野《あれの》の試誘《こゝろみ》に於て悪魔と争ひ給ふや彼は論理に訴へずして神の言なる聖書を引き給ふた、曰く「人はパンのみにて生る者に非ず、唯神の口より出る凡の言に由ると|録されたり〔付○圏点〕」と、彼又日く「主たる爾の神を試むべからずと|録されたり〔付○圏点〕」と、又曰く「主たる爾の神を拝し惟之にのみ事ふべしと|録されたり〔付○圏点〕」と、「録されたり、聖書に録されたり」と、是がイエスの唯一の論鋒であつた、彼は道理に訴へて悪魔の論鋒を挫かんと為し給はなかつた、唯聖書の言を引きて悪魔の誘惑を退け給ふた、而して是れ彼に取り亦我等に取り最上の論法である、此の場合に於て聖書の言に勝る剣《つるぎ》あるなしである(撒母耳前書廿一章六節)、「それ神の言は活きて且つ能あり、両刃《もろは》の剣よりも利く、気《いのち》と魂また筋節骨髄まで刺《とほ》し剖《わか》ち心の念と志意《こゝろざし》を鑒察《みわく》る者なり」とあるが如し(希伯来書四章十二)、人の言に此能力はない、然れども聖書の言に此不思議なる能力がある、之を以てのみ能く誘惑者《いざなふもの》を撃退する事が出来る、少しも変更を加へざる聖書の言其儘に此不思議なる除魔《まよけ》の能力が在る。
〇イエスは聖書は一言一句神の言であると信じ給ふた、彼は其一点一画に於てすら天地の重きを認め給ふた、故に彼の論証は往々にして其一語の上に築かれた、復活の事に就いて学者とパリサイの人等と争ひ給ふや、彼は出埃及記三章十五節の言を引きて曰ひ給ふた「我はアブラハムの神イサクの神ヤコブの神なりとあるを未だ(聖書に於て)読まざる乎」と(馬太伝廿二章三二)、此場合に於て死者の復活を証明する者は単に「なり」の一語である、神はアブラハムの死後四百年、モーセに此言を告ぐるに方て「我はアブラハムの神なりき」とは曰ひ給はなかつた、「なり」と曰ひ給ふた、英語に訳して云へば waa とは曰ひ給はなかつた、am と曰ひ給ふた、「我は今尚(109)アブラハムの神|なり〔付○圏点〕」と曰ひ給ふた、故にアブラハムは今尚生きて居らねばならぬとはイエスの論法であつた、僅に「なりき」と「なり」との差である、然し乍ら其間に天地の差がある、而して聖書の此の短かき一語の上にイエスは其復活論を築き給ふたのである、僅に一語である、助動詞として用ゐらるゝ「ある」isの一語である、乍然神の言である、故に其上に信仰を築く事が出釆るとは此場合に於けるイエスの論拠であつた、彼は聖書の一言一句を神の言として信じ給ふたのである。
〇イエスは又己が神性を聖書の一語を以て証明し給ふた、彼は詩篇八十二篇六節を引証して曰ひ給ふた「汝等は神なり」と、而して其一言よりして己が神なる事を証明し給ふた(約翰伝十章二三節以下)、彼は此時語を加へて曰ひ給ふた「聖書は毀《やぶ》るべからず」と(同三五節)、聖書は完全の書なり、其一部分たりとも之を毀つべからず、恰も完全なる美術品の如し、其一片を欠いて其完全を期すべからずとの意なるが如し、彼は又曰ひ給ふた「天地の廃るは律法の一画の廃るよりも易し」と(路加伝十六章十七)。 〔以上、10・10〕
(110) 主の祈祷と其解釈
(六月十五、廿二日)
大正8年9月10日
『聖書之研究』230号
署名 内村鑑三速 藤井武筆記
「主の祈祷」は基督者の何人も口にする所である、世界に知られたる語として斯の如きはない、其の人類の歴史に及ぼせし感化力に言ひ尽すべからざるものがある、世界に於ける最大の思想最大の文学は実に此簡単なる「主の祈祷」であると言ふ事が出来る。
曾て米国第二期大統領たりしジヨン・アダムスは其後久しく上院議員として奉公した、彼は或時国事を議せんが為め華府に赴き一旅館に多くの政治家と同宿した事があつた、一同将に寝《ねむり》に就かんとする時偉人アダムスは独りベットの上に俯伏し恰も母の膝に頼《よ》れる小児の如き態度もて声を発して「主の祈祷」を始めた、何処《いづこ》も同じく崇厳《さうごん》の念に乏しき政治家等之を聞いて怪しみ彼に問うた、アダムス乃ち答へて曰く「之れ余が母の膝下にて教へられし主の祈祷である、爾来余は未だ曾て此祈祷を献げずして寝に就きし事がない」と。
実に基督者《クリスチヤン》は皆祈る、祈らざる者は基督者ではない、然るに或は曰ふ者がある「我は心中にて祈るも之を口に発せず」と、恰も祈る事が偽善者の所為なるが如き口吻である、誤謬之より大なるはない、人皆心中に願がある、基督者が其心中の願を父に向て発表するもの之れ即ち祈祷である。
(111) 然らば祈祷は如何なる態度と如何なる言語とを以て為すべき乎、馬太伝六章五節以下は此問題に就て我等に教ふるものである。
第一、|如何なる場所にて祈るべき乎〔付○圏点〕、「汝祈る時は厳密《ひそか》なる室に入り戸を閉ぢて隠れたるに在す汝の父に祈れ」、祈祷は父との秘密の会話である 故に人の見えざる所にて祈るべきである、然らばとて勿論共同の祈祷を怠るのではない、共に為す祈祷あり又各自厳密なる所にて為す祈祷あり、而して交際の最も親密なるものは人の見えざる所にての交際なるが如く|祈祷の最も深きものも亦隠れたる所に在ての祈祷である〔付○圏点〕、或は住宅内に特別の一室を定めて、或は山上に於て林中に於て河畔に於て、凡て人の見えざる所ならば何処にても可なりである、斯く祈祷の為に定めし場所ほど美しき印象を人に残すものはない、余輩の記憶に止まれる最も美はしき地は皆祈祷の場所である、祈祷の森、祈祷の小丘、祈祷の川端である、試に何人にも聞えざる原野の中央に立ちて大声を発して父に祈れ、日光又は函根の山中深く分け入りて己が胸底の願を悉く祈り見よ、祈祷の果して聴かるゝ耶否耶の問題を離れ、|斯る祈祷其者が如何に我等の心を聖むる乎〔付○圏点〕又神の如何に我等に近く在すを感ずる乎を実験するであらう。
想ひ起すは余輩の青年学生時代である、始めて祈祷の何たるかを知りてより同信の友等皆毎夜外に出でゝ各自己が祈祷の場所を選定した、彼処には誰も居るまじとて到り見れば、何ぞ図らん既に其所にて祈れる友あり、又或時友を尋ねて其室に入れば独り卓上に俯して祈れるを発見する事も度々あつた、斯の如き経験が相互の親密を助けし事如何ばかりなりしかを知らない、殊に其友に対して疑惑を抱き居りし場合の如きは却て自ら耻ぢざるを得なかつたのである、|祈祷の場所を有せざる人、隠れたる所に在て独り祈る事を知らざる人は最も憐むべき人〔付△圏点〕
(113)る時は総べて七である、聖書に於て三は天に係る数、四は地に係る数にして七は完全を表はす数である、|七句よ
(115)る時如何に祈るも主は之を聴き給はない「我等に罪を犯す者を我等の赦す如く我等の罪をも赦し給へ」である、
(117)て頭を上ぐる時我等の胸中言ふべからざる神の子らしき歓喜に溢るゝであらう、而して矢の的に中りし如く我等
(119)は即ち此の大なる希望に関する祈祷である。
(121)がある、世人は自ら労作して其糧を産出すると言ふ、然しながら我等に取ては糧は凡て天よりのマナである、故
(123)思想其者は甚だ貴くある、国も之を支配する権力も之に伴ふ栄光も皆人の有に非ずして神御自身の有であると
(125) |ヱホバ〔ゴシック〕 単に「神」と言ふと異なる、特別の意味に於ての神である、アブラハム、イサク、ヤコブに顕はれ遂
(127)ゝ心なくして彼の大著述は決して成らなかつたのである。
(129)らざるを覚ゆるのである、之に反してヱホバを畏れざる人々が其|年歯《ねんし》未だ五十に達せざるに早く既に知識欲の減
(133)「世の始より殺され給ひし羔」である、|屍とは我等の罪の為に犠牲となりしイエスの体である〔付○圏点〕。
(135) 彼等は信仰に就て万事《すべて》を知つて居る、故に何も知らない、彼等は余の兄弟であ
(143)進みヨシュアに守られてカナンの地に入つた、然るに紀元前凡そ六百年の頃に及びバビロン王ネブカドネザル之
(145)五、汝の父と母とを敬ふべし。
(147)「|汝の神ヱホバ〔付○圏点〕の名を妄に口に上ぐべからず」といふ、「我」である、「ヱホバ」である、「神」である、即ち知る
(149)此処に立つと否とを問はないのである、其の如く「汝我が面の前に我の外何者をも云々」と言ふ
(151)と雖も英才彼の如き者果して其間|曠野《あらの》にのみ彷徨したであらう乎、或は疑ふ彼は進んでバビロンに赴きて其文明
(153) 《めあて》 又はバビロンに於て唱へられたのである、而して多
(157)と称して之をモーセを介し又イスラエルを通して世界万民に示し給ひしには深き意義あるを疑ふ事が出来ない、
(159) 大にして貴く、斯くて十年又百年、永遠に亘り限なき真理と恩寵とを人類に
(161) 七日の中一日を安息日として特別に記憶して之を聖守すべしとの誡めである、而して「凡て之を涜す者は必ず
(163)り、田植時等已むを得ざる場合には特に時間を制限して之を許す事あるも然らざる場合に若し此習慣に違背する
(165)何故である乎、米価の暴騰停止する所を知らざるは何故である乎、|こは孰れも土地虐待の結果其生産力を消失し〔付△圏点〕
(167)を表はすに足りない、殊に pious の語の如き今は所謂「御信心」と称する嘲弄の意味に用ゐらるゝ事が多い、故
(169) のみではない、遺伝又は衛生状態等も亦与て力があるのである 然らば
(171) 厚き人なりし乎は彼の十字架上に於ける最後の態度の明白に示す所である、「イエス母と愛
(173) 殺す勿れとの誡である。
(175) 処がある乎、多くの産科医又は産婆が其一指を以て天使の如き児を屠《ほふ》り
(177) 我等の自等予想だもせざる此罪にさへ我等を問ひ給
(179) 忠実であつた乎、彼等は如何にして其子の為に妻を迎へた乎、アブラハムの僕は
(181) 余輩は決して爾か思はない、
(185) 万軍の主の耳に入れり」とある(ヤコブ書五章四節)、資本家が労働者を雇ひ自ら多大の利益を挙げながら之
(187) 前に顕れ給ふ〔付○圏点〕、神は何時か全人類に対して必ず|万物の返還〔付△圏点〕(restitution of all things)
(189) 偽証に由て隣人の生命を奪ふに至つたのである。
(191) 、或は数年或は数月甚だしきに至ては数時の間人と共に在りて而して彼を知り尽せ
(193) |意思 密接なる関係を有する〔付○圏点〕、隣人の妻を貪り而して之に併せて姦淫と
(195) |イエスキリスト余の心に宿り給うて真の生命が余の衷に湧き起りし時
(197) 者は実に我自身なりとの感念を
(199) 脱るゝの途を学ぶ事が出来る、律法が我等の心中に
(201) 永久の疑問である、守らざるべからざる律法と、守る能は
(203) 状態である、我等は浅薄なる米国の基督信者に傚ひて其信
(209) 、そは恰も妙薬の作用に由て毒素の浸入
(211) 、義務
(215) 状《さま》
(217) との意〔付○圏点〕である、|基督教はキリスト崇拝である〔付○圏点〕、
(227) 恩寵に由り、
(241) 於て満《みつ》る者となる事が出来ない、藤原道長、太閤秀吉