内村鑑三全集26、岩波書店、588頁、4700円、1982.10.25
 
一九二一年(大正一〇年)
 
凡例………………………………………… 1
一九二一年(大正一〇年)
Crucifixianity.十字架教 ………………… 3
信仰の新年 他……………………………… 5
信仰の新年
義の宗教
神人の武器
A Servant of Jesus Christ.イエスキリストの僕パウロ…… 9
謙遜の実行 他………………………………11
謙遜の実行
決心と祈祷
聖語雑感
羅馬書の研究…………………………………16
第一講 羅馬書の大意
第二講 パウロの自己紹介一 一章一−七節の研究
第三講 パウロの自己紹介 二 一章一、二節の研究
第四講  同       三 一章三、四節の研究
第五講  同       四 一章五−七節の研究
第六講 羅馬訪問の計画 一章八−十五節の研究
第七講 問題の提出 一 一章十六、十七節の研究
第八講  同    二 同
第九講  同    三 同
第十講 異邦人の罪 一 一章十八−三二節の研究
第十一講  同    二 一章二八−三二節の研究
第十二講 ユダヤ人の罪 一 二章の研究
第十三講  同     二 同
第十四講 人類の罪  一 三章一−二十節の研究
第十五講  同    二 同
第十六講 律法の能力  三章十九、二十節の研究
第十七講 神の義  一 三章二十一節の研究
第十八講  同    二 三章二十二節の研究
第十九講  同    三 三章二十三、四節の研究
第二十講  同    四 三章二十五、六節の研究
第二十一講 永世不変の道
第二十二講 神の殿
第二十三講 アブラハムの信仰 四章の大意
第二十四講 義とせらるゝ事の結果 一 五章の研究
第二十五講 義とせらるゝ事の結果 二 五章の研究続き
第二十六講 アダムとキリスト 一 五章十二−廿一節の研究
第二十七講  同       二  同
第二十入講 潔めらるゝ事 一 バプチスマの意義 六章一−十四節の研究
第二十九講  同     二 僕役の生涯 六章十五−二十三節の研究
第三十講   同     三 恩恵の支配  同
第三十一講  同     四 律法の廃棄 七章一−六節の研究
第三十二講  同     五 律法の性質 七章七−十四節の研究
第三十三講  同     六 パウロの二重人格 七章十四−廿五節の研究
第三十四講 救の完成   一 八章全体の大意
第三十五講  同     二 八章一節の研究
第三十六講  同     三 八章一−十一節の研究
第三十七講  同     四 八章五−十三節の研究
第三十八講  同     五 =神の子と其光栄= 八章十四−十七節の研究
第三十九講  同     六 =天然の呻きと其救ひ= 八章十八−二十二節の研究
第四十講   同     七 =三つの呻き= 八章二十二−二十七節の研究
第四十一講  同     八 八章二十八−三十節の研究
第四十二講  同     九 八章三十一節の研究
第四十三講 ユダヤ人の不信と人類の救 一 九章一−五節の研究
第四十四講  同           二 九章、十章の大意
第四十五講  同           三 十一章の大意
第四十六講 基督教道徳の根柢 十二章一節の研究
第四十七講 基督教道徳の性質 十二章二節の研究
第四十八講 基督教道徳の一 謙遜 十二章三−八節の研究
第四十九講 基督教道徳の二 愛一 十二章九、十節の研究
第五十講   同      愛二 十二章十一−十五節の研究
第五十一講  同      愛三 十二章十六−十八節の研究
第五十二講  同      愛四 十二章十九−廿一節の研究
第五十三講 政府と国家に対する義務 十三章一−七節の研究
第五十四講 社会の一員としての愛 十三章八−十節の研究
第五十五講 日は近し 十三章十一−十四節の研究
第五十六講 小問題の解決 十四章以下の精神
第五十七講 パウロの伝道方針 十五章十四節以下の研究
第五十八講 パウロの友人録 十六章一−二十四節の研究
第五十九講 終結=頌栄の辞 十六章二十五節以下の研究
Germany.独逸国に就て…………………… 449
ピルグリム祖先の信仰…………………… 451
主の使女マリア…………………………… 456
『婚姻の意義』〔表紙〕………………… 461
Calvinism.カルビン主義………………… 463
幸福の途 他……………………………… 465
幸福の途
奉公の途
Is Christianity Practicable? 基督教は実行可能なる耶…… 467
霊なる神…………………………………… 469
『ルーテル伝講演集』…………………… 472
自から序する文
改版の序文
改版に附する言
Forgiveness.赦罪の美徳………………… 476
伝道の快楽 他…………………………… 478
伝道の快楽
沈黙と絶叫
矢内原忠雄著『基督者の信仰』序文…… 482
The East and the West.東洋と西洋…… 484
人物と伝道 他…………………………… 486
人物と伝道
反抗と服従
回顧の涙
真個の平民
Three Great Truths.三大真理 ………… 490
新生命 他………………………………… 492
新生命
信者の事業
信仰維持の価値
金銭以外の勢力
羅馬書に於ける復活……………………… 497
Christ within Me.我が衷なるキリスト…… 505
力の宗教 他……………………………… 507
力の宗教
信者の可能性
不快なる日本の社会
聖霊に関する研究………………………… 510
『霊交』の解……………………………… 518
Great Demands.大なる要求……………… 520
過去の回想 他…………………………… 522
過去の回想
洋行熱
パリサイの麪酵…………………………… 525
伝道の目的………………………………… 531
真個の教会………………………………… 534
Ideal and Power.理想と実力……………… 536
恋愛の自由に就て 他…………………… 538
恋愛の自由に就て
似而非なる基督教
聖召の祝福
平和の到来………………………………… 542
God Is.神は在し給ふ …………………… 544
他人本位 他……………………………… 546
他人本位
憐憫の神
怒つては悪い乎…………………………… 549
鳥に代つて………………………………… 552
黒崎幸吉訳『ルーテル加拉太書註解』序文…… 554
別篇
付言………………………………………… 557
社告・通知………………………………… 559
 
(3)     CRUCIFIXIANITY.十字架教
                         大正10年1月10日
                         『聖書之研究』246号
                         署名なし
 
     CRUCIFIXIANITY.
 
 CHRISTIANITY is essentially the religion of the Cross.It is not simply the religion of Christ,but the religion of Christ crucified. It teaches us not that we are to be crucified like him,but that He was crucified for us. The Cross is not merely a symbol of Christianity;it is its centre,the cornerstone upon which its whole structure rests.Sins forglven and annihilated on the Cross,blessings promised and bestowed on the condition of believing acceptance of what happened upon the Cross:−indeed,no Cross,no Christianity.When,as at present,many things pass for Christianity,which are not ChristiaIlity,−such forinstance as Social Service,Ethical Evangelism and International Thinking,−it is very desirable that we should call Christianity by a new name.I propose Crucifixianity as such;and when it too shall have been abused and vulgarized by new theologians,I will coin another.
 
(4)     十字架教
 
 基督教は元来十字架の宗教である、是れは単《たゞ》にキリストの教ではない、|十字架に釘けられ給ひし〔付○圏点〕キリストの教である、其教ふる所は我等がキリストに傚つて十字架に釘けらるゝ事ではない、キリストが我等の為に十字架に釘けられ給ひし事である、十字架は単に基督教の表号《シムボル》ではない、其の中心である、基督教の全構造が依て立つ所の隅の首石《をやいし》である、罪は十字架の上に赦され又消滅され、恩恵は十字架の上に成就《なしとげ》られし功績《いさほし》を信受する条件の下に約束せられ又施与せらるゝのである、実に十字架なくして基督教はない、今や基督教ならざる多くの物が基督教として通用する此時に際し、即ち所謂社会奉仕、倫理的福音、国際的思想までが基督教として目せらるゝ此時に際し、我等は基督教を称《よぶ》に新らしき名を以てするの欲求を感ずる、而して余は此欲求に応ぜんが為に十字架教なる名を提供する、而して此名も亦新神学者等に由て濫用され又俗化せらるゝに至らば、余は又更らに新らしき名を鋳造するであらう。
 
(5)     〔信仰の新年 他〕
                        大正10年1月10日
                        『聖書之研究』246号
                        署名なし
 
    信仰の新年
 
 年が改まつた、信仰も亦た改まらなければならない、而して信仰の新年は其|元始《はじめ》に還る事である、信仰の元始は何である乎、我等は何を信じて基督者たるを得たのである乎、社会奉仕か、世界改造か、文化運動か、否な否な然らず、信仰の元始は十字架の信仰である、キリストの十字架を仰ぎ瞻て我罪は赦され我は神と和《やわら》ぎて彼の子たるを得たのである。
  我れキリストと偕に十字架に釘けられたり、最早我れ生けるに非ず、キリスト我に在りて生けるなり、今我れ肉体に在りて生けるは我を愛して我が為に己を捨し者、即ち神の子を信ずるに由りて生けるなり(加拉太書二章廿節)
基督者《クリスチヤン》の信仰の元始、其の基礎は是れである、此信仰に還りて彼の信仰は改まるのである、倫理ではない、道徳ではない、自省ではない、修養ではない、勿論哲学ではない、社会事業ではない、キリストの十字架である、凡の恩恵、凡の幸福、すべて頌むべき事、すべて祝すべきことは、神の子の十字架の上に懸るのである。
 
(6)    義の宗教
 
 平和は貴むべくある、然し乍ら義に由る平和のみ貴むべくある、愛は慕ふべくある、然し乍ら義に由る愛のみ慕ふべくある、義に由らざる平和は平和に非ず、義に由らざる愛は愛でない、基督教は単に愛を教ふる宗教ではない、|義を満足させる愛の宗教である〔付○圏点〕、其れが故に特に貴いのである、神がイエスを立て信ずる者の挽回《なだめ》の祭物《そなへもの》とし給へるは、其(神の)義を彰はさん為め、即ちイエスを信ずる者を義とし尚ほ自ら義たらんが為なりと云ふ(羅馬書三章廿六節)、依て知る福音の原因が義であつて、其方法が義、其結果が義である事を、義を以て始まり義を以て終る、其れがキリストの福音である、之を十字架の福音と称するは其れが為である、十字架は神の義の表彰である、之に由らずして神の愛は臨まない、近代人は義を避けて愛を解せんとするが故に真の愛を解し得ない、凡て深い愛の人は強い義の人であつた、基督教の神は焼尽す火である、故に其愛は宏遠無量である、怒らざる罰せざる愛は偽りの愛である。
 
    神人の武器
 
  我等は肉に在りて行《あゆ》めども肉に循ひて戦はず、夫れ我等の戦の器《うちは》は肉に属する者に非ず営塁《とりで》を破るほど神に由りて能あり(哥林多後書十章三節四節)。
〇世に一見して基督教の教師はど無援《たすけな》き者はない、殊に独立伝道師に於て然りである、彼に政府の援助が無い、教会の同情が無い、社会の尊敬が無い、彼に金銭が無い、位階が無い、勢力が無い、権能が無い、之に加へて彼(7)は愛を説かざるべからず、平等を唱へざるべからず、自由平和一致を主張せざるべからず、彼れ自身に何物もあるなく、然かも与ふるの義務のみ存して受くるの資格なし、世に与し易き者にして基督教の教師の如きはない、彼は嘲けらるゝも怒るを許されず、打たるゝも打ち反す能はず、無能、無力、無援、……若し世に擲《うつ》ても、蹴《けつ》ても、唾《つばき》しても差支なく危険なき者があるとすれば、夫れは基督教の教師である、殊に独立伝道師である、彼は実に「世の汚穢《あくた》また万の物の塵垢《あか》の如し」である、詈らるゝ時は祝し、窘《せめ》らるゝ時は忍び、※[言+肖]《そし》らるゝ時は勧《すゝめ》をなす者である(前書四章十二、十三) 故に世の低き卑しき者等は遠慮なく彼を※[言+肖]り詈りて安価の快楽を貪るのである。
〇然し乍ら、其数師、其伝道師、其福音士……政府と教会と、役人と監督と、官吏と僧侶との眼の前には何等の価値なき彼も亦全然無能力ではないのである、彼は世人同様肉に在りて行めどもせ人と異なり肉に循ひて戦はないのである、彼にも亦戦闘の器があつて、之を以て彼は敵の堅塁をも破ることが出来るのである、社会と教会とは彼を慢《あなど》りて未だ彼の能力を知らないのである、彼れ若し其臂の力を発《あらは》せば、心の驕れる者を散らし、権柄《いきほひ》ある者を位より下す事が出来る(路加伝一章五一、五二)、神に遣されし伝道師は世人が思ふが如くに弱くはない、彼は営塁を破るほど神に由りて力が有る、自分には無い、神に由りて有る、彼を慢るは神を慢るに等し、実は世に神の人ほど強い者は無いのである。
〇神人の武器は何か? 勿論剣ではない、又剣を以て維持せらるゝ政権ではない、司法権ではない、警察権ではない、然ればとて此世の権威を以て保護せらるゝ監督、僧侶、神主等の所謂教権ではない、政府も教会も真の神人を保護しない 実に「我等の戦闘の器は肉に属する者に非ず」である、然らば神人の用ふる武器は何である乎、(8)言ふまでも無い、|祈祷である〔付○圏点〕、密室に在りて、小川の畔《ほとり》に於て、野原の真中《まなか》に於て、森の影に於て、独り神に向つて叫ぶ心の祈求《ねがひ》である、之を以て彼は敵を斃し、営塁を壊ち、一人以て千人に当り得るのである、希伯来書記者の言へる「彼等信仰に由りて諸国《くに/”\》を服し、郷子の口を箝《つぐ》み、火勢《ひのいきほい》を滅《け》し、剣《やいば》の刃を避れ、荏弱《よわき》よりして剛強《つよ》くせられ、戦争に於て勇ましく、異邦人の陣を退かせたり」とあるは此能力を指して言ふたのである(十一章三三、三四)、祈祷と云へば人は慈悲、忍耐、仁愛、喜楽といふが如き女性的美徳を喚起する為のものであるとのみ思へども、決して爾でない、祈祷は神人唯一の武器である、彼は之を以て敵に当るのである、敵塁を壊つのである、悪人と偽善者の口を箝むのである、異端の陣を退かするのである、|信者は祈祷を男性的に用ゐるのである〔付△圏点〕、而して 「神に由りて能」あるのである。
〇イエスは剣を抜いて其師の身を護らんとせし弟子等に告げて言ひ給ふた「我れ今十二軍余の天使を我父に請ふて受くること能はずと汝等思ふ乎」と(馬太伝廿六章五三)、イエスは戦ふて勝ち得なかつたのではない、神の聖旨の成らんが為に戦ひ給はなかつたのである、我等彼の僕にも亦此権能が無いのではない、唯容易に之を使用しないのである、世に実は神人の祈祷ほど恐るべき者はない、預言者ヱレミヤの一言に偽預言者ハナニヤは斃れた(耶利米亜記十八章参考)、パウロも亦止むを得ざる場合に於ては人の霊を救はんが為には肉体を滅す事ありと言ふた(哥林多前五章五節)、信者は弱き者ではない、強き者である、神に由りて宇宙の権能を揮ふ者である、彼を侮る者は大なる危険を冒す者である、神の子は容易に怒らない、又自分の為に怒らない、然し乍ら其忿恚《いきどほり》は恐るべきである。(詩篇第二篇八−十二節)
 
(9)     A SERVANT OFJESUS CHRIST.イエスキリストの僕パウロ
                        大正10年2月10日
                        『聖書之研究』247号
                        署名なし
 
     A SERVANT OF JEStJS CIIRIST.
 
 Paul,a servant of Jesus Christ! Truly so! A servant;nO七 a friend,not a brother,not even a disciple;but a servant,a slave-servant,one whose will is not his own,but his master's.Of Jesus Christ;not of men,nor of groups of men:not of kings,nor of bishops:not Of churches,nor of governments:not of society nor of humanity;but of Jesus Christ,the Son of God and the Lord of man.His business is not social service,nor Church-service, nOr government-service, but solely and entirely Christ-service. Paul,a servant of the Lord Jesus Christ;therefore an independent,courageous,humble and kindly man;a man,Who without serving men and society,did most to uplift,purify,and renovate the world.Oh,may I be like him, and be truly a servant of Jesus Christ! Romans,T.1.
 
     イエスキリストの僕パウロ
 
 イエスキリストの僕パウロと云ふ、真に然りである、僕である、友でない、兄弟でない、弟子でもない、僕(10)である、奴僕である、其意志は己がものでない、其主人の有である、イエスキリストの僕である、人の僕でない、団体の僕でない、王又は監督の僕でない、教会又は政府、社会又は公衆の僕でない、イエスキリストの僕である、神の子にして人の主なるイエスキリストの僕である、彼の任務は社会奉仕でない、教会又は政府に仕ふることでない、単に全然キリストに事ふることである、イエスキリストの僕パウロと云ふ、故に彼は独立の人であつた、勇敢の人であつた、謙遜の人であつた、同時に又親切の人であつた、彼は人にも社会にも仕へなかつた、然れどもイエスキリストに事へしが故に、世を高め、潔め、改むるに方て何人も及ばざる功績を挙げた、嗚呼我も亦彼れパウロに傚ひ真にイエスキリストの僕たらん事を(羅馬書一章一)。
 
(11)     〔謙遜の実行 他〕
                         大正10年2月10日
                         『聖書之研究』247号
                         署名なし
 
    謙遜の実行
 
  汝等もし之を知りて此の如く行はゞ福なり(約翰伝十三章十七節)。
 
 イエス御自身が弟子の足を濯ひ給ひて謙遜実行の実例を示し給ひて後に発せられし言である、謙遜の徳の如き其美を知るは容易である、難きは之を行ふ事である、カーライルは言ふた「基督教は特に謙遜を教ふる宗教なり」と、Christianity is the religion of humility. 而して何人も此定義に反対しないのである、然れども嗚呼! 世に稀なる者とて基督的謙遜の如きはない、謙遜は基督教会に於て無い、基督信者の間に無い、|殊に基督教の教師の内に無い〔付△圏点〕、有るものは謙遜讃美の辞である、人類の理想としての基督観である、然れども相互の足を濯ふの謙遜は……嗚呼|是《これ》の在る所に教会は寂れない、信仰は衰へない、伝道心は盛である、イエスの謙遜を知りて而して之を行ふ者にのみ神の祝福は降るのである、汝等之を知りて|之を行はゞ福ひなり〔付○圏点〕とイエスは弟子等を誡めて言ひ給ふた。
 
(12)    決心と祈祷
 
 水戸藩祖徳川頼房の歌に曰く
   幾度か思ひ定めて変はるらん
     頼むまじきは心なりけり
と、是は能く耶利米亜記第十七章第九節に於ける預言者ヱレミヤの言を注解するものである、曰く「心は万物《すべてのもの》よりも偽はる者にして甚だ悪《あし》し、誰か之を知るを得んや」と、真に頼むべからざるは己が心である、破れ易き者にして己が決心の如きはない、故に預言者は更に言を続けて言ふ「ヱホバよ我を医し給へ、然らば我れ医《いえ》ん、我を救ひ給へ、然らば我れ救はれん、爾は我が頌め奉る者なり」と(第十四節)、人は自分の決心を以て基督者《クリスチヤン》となる事は出来ない、神の大能に由り己が心を改造せられて、初めて神の子と成ることが出来る、決心、決心と唱へて決心に重きを置く伝道法は全然排斥すべきである 決心ではない、砕けたる悔し心を以てする祈祷である、自分の何たる乎を知る者は此謙遜、此自己無能の承認に出ざるを得ない。
 
    聖語雑感
 
      多欲のパウロ
  神は汝等をして常に凡の物に足らざる事なく凡の善事を多く行はしめんために凡の恩を多く汝等に賜へ得るなり(哥林多後九章八節)。
(13)  下の如くに読んで意味は一層明白になる、「神は凡の恩を汝等に賜へ得るなり、是れ汝等をして凡の善事を多く行はしめん為なり、常に(凡の時に)凡の物に足りつゝ」と、恩恵能力充溢の言と称すべきである、凡の時に凡の物に足りつゝ凡の善事を行はしめん為に凡の恩を多く賜ふと云ふ、慾の深いパウロなる哉、然し乍ら自分の為の恩賜《たまもの》ではない、多く賜はりて多く施さん為の多くの恩賜である、神は恩を賜ふ、是れ信者が自《みづ》から楽しまん為に非ず、他人に対し善事を為さんためである、而して其心持を以て恩恵に与かりて信者は常に凡の物に足りつゝ其日の生涯を送り得るのである、最も幸福なる生涯は恩恵輸送伝達の機関たらんと欲する生涯である。
       キリストの愛
我を愛して我が為に己を捨し者即ち神の子を信ずるに由りて生ける也(加拉太書二章廿節)。
  神の子、彼は我を愛せし者である、我れ彼を愛する前に我を愛せし者である、彼の我に対する愛は我の彼に対する愛の原因であつて其結果ではない、而して彼の愛は単に心に匿れたる愛情ではない、彼は我が為に御自身を捨て給ひし者である、人が人の為に為し得る最上最大を為し給ひし者である、彼は我が贖主である、生命の泉である、我は唯彼を信ずるに由りて生くるのである。
       平和の途
ヱホバ若し人の途を喜び給はゞ其の人の敵をも之と和がしむべし(箴言十六章七)。
  人と和らぐの最上の途は、然り惟一の途は神と和らぐにある、神と和らぎて我等は万人と和らぐのである、而して神を措いて人と和らがんと欲して、和らぎは和らぎとならないのである、世には多くの所謂調停者が(14)ある、彼等は平和を愛するの余り、論争者の間に入りて唯|単《ひたす》らに平和を計らんとする、然るに斯かる人等の仲裁に由りて成りし平和は「平和なき時に平和平和と云ふ」平和である(耶利米亜記六章十四節)、|最も確実なる平和は敵人相互にヱホバを喜ばし奉らんと欲して努力する時に成る〔付○圏点〕。ヱホバ若し人の行ふ所を善しと認め給はゞ、彼れ御自身が、此世の小なる調停者の努力を俟たずして、其人の敵をも之と和らがしめ給ふ、此事を知らないで、唯平和を愛すると称して、平和ならざる平和を計る浅薄なる平和愛好者の多きは歎ずべくして又慨すべき事である。
       向上の途
汝等我を仰ぎ瞻よ然らば救はれん(以賽亜書四十五章廿二)。
彼等ヱホバを仰ぎ瞻て輝けり(詩篇三十四篇五節)。
  ヱホバを仰ぎ瞻て救はる、救はれし結果として其|面《かほ》輝く、基督教は何処々々までも仰瞻教である、モーセ、シナイ山より下りし時、彼がヱホバと言《ものい》ひしに由りて其面光を発てりと云ふ(出埃及記三十四章)、パウロは曰ふ「凡て我等|※[巾+白]子《かほおほひ》なくして鏡に照すが如く主の栄を見、栄に栄いや増《まさ》りて其の同じ像《かたち》に化《かは》るなり」と(哥林多後書三章十八節)、信者に取り聖化の途、向上の途とて之を措て他に無いのである、主を仰ぎ瞻るのである 然らば我が面が輝くのである、我は栄光より栄光へと化り行くのである、然るに主を仰ぎ瞻ずして己に省みて粉骨砕身一生を終るも自己以上の者たること能はずである。
       不義の財
鷓鴣《しやこ》の己れの生まざる卵を抱くが如く不義を以て財《たから》を獲る者あり、其人は命の半にて之を離れ、其終りに愚かな
(15)る者とならん(耶利米亜記十七章十一)
  今や何人も財を得んと欲す、財是れ幸福なりと称して、之を獲るを以て一生の目的となす、然れども預言者ヱレミヤは曰ふ、彼等は己れの生まざる卵を孵化する鷓鴣の如く、不義の財は他鳥の雛の如くに飛去り、其終りに愚者とならん(|馬鹿を見ん〔付ゴマ点〕)と、而して今の世に鷓鴣の類何ぞ多きや、財、財、財と、而して之を獲て終る所は失望である、多くの場合に於て財其物が雛の如くに飛去り、又縦し己が手に留まると雖も、其齎す所のものは不満と失望と悲歎とである、人生蓄財を目的として其終極は大愚である、然るに今や人は預言者の言に耳を傾けず、国家としても個人としても財を獲るに汲々たり、敢て独逸と云はず、英国も米国も日本も、而して其内のすべての智者学者も、預言者の眼を以て視れば皆な暗愚鷓鴣の如き者である。
 
(16)     羅馬書の研究
                  大正10年2月10日−11年11月10日
                  『聖書之研究』247−268号
                  署名 内村鑑三講述 畔上賢造編纂
 
  本稿は内村の東京講演を基本として畔上が自己の研究をも加へて編纂したるもの、或意味に於て二人の共作と云ふべきものである。
 
    第一講 羅馬書の大意 (一月十六日)
 
 基督教の経典は云ふまでもなく新約聖書である、勿論旧約聖書をも加へて創世記より黙示録に至るまでに於て神の道の啓示は完うせられたのである故、基督信者の拠るべき経典は旧新約両書であるが、厳密の意味に於て基督教の経典と云ふべきは新約聖書である、何となれば基督教そのものは其完き形に於てはキリストの出現を以て始まつたものであるからである、而して此新約聖書は其分量に於ては決して謂ゆる大著述と称せらるべきものではない、五号活字を以て四六版に組みて僅かに数百頁に亘るに過ぎない、之を仏教の経典たる大蔵経に比するに其分量に於ては小屋を以て大厦に比するも尚足りない、又これを回教の経典たるコーランに此するも尚ほ其|半量《なかば》たるに過ぎない、其大さより云ふて真に一小著である、然るに此一小著中に、全世界を幾度も改造したる歴史を有し尚ほ将来も然する力を具備したる一書の含まるゝは、真に奇跡中の奇跡であると云はねばならぬ、この一書(17)こそ実に我等の今回の研究の題目たる羅馬書である。
 実に聖書は宝の庫である、その中に取て以て我等の心霊の糧とすべきものは限りなく在る、従つて我等は研究すべき題目の少きに苦まずして却て多きに苦むのである、しかし乍ら福音の中心たる十字架即ち贖罪問題について研究せんとする時は、この間題に関して徹底的説明を提供したる羅馬書を採るを最上の道とすること勿論である。
 イエスは其公生涯の終に当つて自己の死を弟子等に予示し給ふた、馬太伝十六章二十一節に言ふ「此時よりイエス其弟子に己のヱルサレムに往きて長老、祭司の長、学者たちより多くの苦しみを受け且殺され三日目に甦るなど為すべき事を示し始む」と、こは最後のガリラヤ巡回中に於ける事であつた、それを引き止めたるペテロは「サタン」と呼ばれて斥けられた、主は動かすべからざる決意を以て自ら死を選み給ふたのであつた、何の故の死ぞ、何故彼は出来るだけ長く地上に住みて衆民済度の聖業に従はんとせぬのであるか、寔に怪むべき至りである、イエスはガリラヤに於て此事を繰返して弟子等に語りしと見え十七章廿二、三節も同一の事を記してゐる、彼はヱルサレムに上る途中に於て復た此事を彼等に告げた(二十章十七より十九迄)、そして茲に初めて自己の死の決心の意味を語つた、「此の如く人の子の来るも人を使ふためには非ず却て人に使はれ又|多くの人に代りて生命を与へ其贖ひとならんためなり〔付○圏点〕」と(二十章二十八)、そして弟子と最後の過越節《すぎこしのいはひ》を守りし時に「汝等みな此杯より飲め、これ|新約の我血にして罪を赦さんとて〔付○圏点〕多くの人のために流す所のものなり」と告げ給ふた、果然彼の死の決意は万民の罪を自己一身に担ひ、彼等に代りて自己の生命を与へて其贖ひとなり、以て彼等の罪の赦を獲んとするにあつた、実に是れ彼の永久に人類全体を包む大愛の発動であつた。
(18) イエスは其言を果して十字架上に其尚ほ壮なる生命を献げた、弟子は失望と恐怖に逃れ去つた、しかしイエスは墓と死に閉ぢ込めらるべき者ではなかつた、父は彼を復活せしめた、そして昇天せしめた、茲に於て弟子の間に力ある信仰が勃然として起つた、彼等は主の生前の教を想起した、そして之と相照して其十字架と復活とを眺めた、かくて彼等は先づイエスの神性を明かに信じた、それに合せて十字架の贖罪を信じた、それに合せて主の再臨を信じた、かくして基督教は成り、かくして其世界的宣伝は開始せられた。
 我等がイエスの贖罪の死の予示と己の罪の赦免の切望とを以て十字架を見る時贖罪の信仰は生起する、十二使徒等はそれであつた、併し彼等は単純朴実の民であつて理論の上に其信仰を説明しやうとは企てなかつた、茲に神は敵人の中より使徒パウロを起し給ふた、彼は痛切なる赦罪の実験と深奥なる贖罪の理論とを兼ね有した人であつた、多分彼は此事について父の黙示に接せんと欲して幾年かを曠野に彷徨したことであらう、遂に彼は血と涙とを以て贖罪の実験と其理論とを兼ね獲るに至つた、父は彼に之を示し、彼はイエスの十字架に理論的根柢を与へた、羅馬書は即ち贖罪の理論的根柢を開示せる大著である。
 再臨は貴き希望である、併し十字架を除きし再臨の希望は害多くして益少ない、人は十字架を信ぜずしては、又は十字架について浅き信仰に止まる限りは再臨を信ずるも健全なるを得ない、|げに基督教の特色は再臨に存せずして十字架に存する〔付○圏点〕、勿論基督教の再臨及びそれに伴ふ世の終末と改造との内的性質が他の宗教の之と相似たるものと比して、全く比較し難き高処に立つは事実である、さはれ其事は他の宗教にも之に似たる教義の存することを否定するを得ない、例へばかの大本教の如きは謂ゆる終末教であつて、近き将来に於ける世界の壊敗と改造とを主張するものである、故に我等の再臨唱道が往々にして斯かる宗教を信ぜる人の同感賛成を得て、基督教(19)の浅き見方を惹起せしは遺憾の至である。|再臨の希望は贖罪の土台の上に築かれて初めて健全なるのである〔付○圏点〕、後者を除きたる前者は沙の上に建てられたる家の如くである、雨降り大水出で風吹きて其家を撞《う》てば終に倒れてその傾覆《たふれ》大である、否雨降らず風吹かざるに其家は倒れ去るのである。
 基督教の専有的教義は贖罪である、もとより罪の赦免は仏教にも在る、浄土真宗の如きは之を以て生命とせる宗教である、さはれ彼になくして我に在るものは実にキリストの十字架である、如何なる宗教か其数祖の死の上に赦罪の信仰を立脚せしむるものがあるか、〔唯の赦罪の信仰ではない、実にイエスキリストの贖罪に依る赦罪の信仰である、これ基督教の特有物にして福音の福音たる所以また実に茲に存するのである、故に今日此信仰を提唱するは基督教を他の宗教と截別せしむる効果あると共に、近時唱道せらるゝ贖罪抜きの基督教と我等の信ずる基督教との相違を明かならしむる最も有力なる道である、此意味に於て羅馬書の研究は頗る有価値であると云はねばならぬ。
 人は往々にして羅馬書を以て難解の書となし、此意味に於て新約聖書中これを黙示録と併置する、黙示録は記事そのものが不可解であり、羅馬書は其中に貴き語は散見すれど全体として解し難しと云はれて居る、果して此書は然く難解のものであらうか、先づ注意すべきは其分量の至極小なる事である、章に分ちて十六、節に分ちて四百三十三、字の数は希臘原文に於て約七千字、英訳に於て約八千字、日本訳に於て約一万六千字(仮名を一字に数へて)である、これを『聖書之研究』誌上に印刷すれば僅かに二十頁を以て事足るのである、又之を通読するには四十分を以て足ると思ふ、到底一時間を越ゆる事はないであらう、幾度も世界を改造せし書と称せらるゝも其分量の小なること寔に驚くべきである、故に之を難解なりとするも其小冊子たるを思へば、之が研究に従は(20)んとの勇気は自ら生起せざるを得ないのである、もし此書を一の要塞に譬へんか、もとより堅塁たるには相違なけれど、決して難攻不落と云ふべき程のものではあるまい、攻むるに道を以てすれば此堅塁も亦陥落するのである、要は我等の熱心如何に存する、而して此要塞が堅固なりと雖も必しも大ならざるは之を攻略せんとする我等に取り勿計の幸である、記せよ十六章、四百三十三節、一万六千字、難しと雖も僅かに一万六千字を以て成る一文章たるに過ぎない。
 由来貴重なる書物は之を読むのみに止めずして|筆写を以て理解を助くる〔付○圏点〕を最良の方法とする、我等の祖先に仏教の熱心なる信者多かりしは周知の事実なるが、彼等が熱心に経文を筆写したる一事は今人の遠く及ばざる事である、法華経を全部筆写したる人の如きは数へ得ぬ程多数であつたと思ふ、かの宗教改革に於て貴く重き責を充たしたるメランクトンは羅馬書を二回筆写したとの事にて、それが西洋に於て珍らしき事として伝へられて居る、併し之を日本の仏教史に持ち来れば少しも珍しき事でなく全く普通の事である、羅馬書の如き貴重にして且平易ならざる書は宜しく之を筆写すべきである、然る時は唯の通読に此して理解の上に恐らくは十倍もの力を与へることであらう。 英の詩人にして且文学批評の天才なりしコレリッヂは羅馬書を称して「世界最大の書」と呼んだ、げに人間の筆に成りしものゝ中これ程の大著作はないのである、此書ありしため地球の表面は幾度も改造せられたのである、もし此書なかりせば如何、我等は果して今見る如き世界を見得るであらうか、此書のために起されし幾度かの世界改造なかりしとせば、我等は尚は心霊束縛の幽《くら》き境に呻吟しつゝあるであらう、オーガスチンの羅馬教なく、ルーテルのプロテスタント教なく、クロムウェルの清教徒改革なくウヲシントンの米国建設なき時世界は今果し(21)て如何の状態にあるであらうか、我等は今その様を想像に上すことすら出来ない、併し恐らくは今日に比し猶遥かに悪き世界に我等は住むに相違ないと思ふ。
 今や世界改造の声は地の果より果に到るまで鳴り轟いてゐる、改造は人間生活の各方面に向つて叫ばれつゝある、併し乍ら今日の改造説は未だ一度も実地に試みられざるもの、従つて其どよめきは如何に大なるも其効能の明かならぬものである事は否定し得られない、然るに羅馬書の提示する改造の原理は、曾て幾度か試みられて其効果の顕著なるを証拠だてられし者である、且今日流行の改造説は唯社会の外部的制度に関する者であるが、羅馬書の改造説は自己心霊の改造を主眼とする者である、而して外の改造と内の改造と孰れが源にして孰れが末なるかは識者を俟たずして明である、故に羅馬書の提供する改造の原理は今日流行のそれに比して、遥かに深奥なるものなることは云はずして明である、外か内か、形か心か、肉か霊か、我等は前者の一を以て後者の一の上に置かねばならぬ 而して古往今来人の道は概ね外と形と肉とに重きを置き、神の道は永へに内と心と霊とに重きを置く、而して羅馬書の改造説は神の道である、故に今日流行の人の道たる幾多の改造説と正反対の極に立つものである、さりながら問題は孰れが真正の改造説なるかに存するのである、寔に然うである。
 今羅馬書の中より二三の有名なる語を摘出して、それが右の如き意味に於ける改造の原理たることを示すことにしよう、第一は一章十六、十七節である。  我は福音を耻とせず、此福音はユダヤ人を始めギリシヤ人すべて信ずる者を救はんとの神の大能たればなり、神の義は之に顕はれて信仰より信仰に至れり、録して|義人は信仰に由りて生くべし〔付○圏点〕と有るが如し。
 是れ多くの註解者によりて羅馬書の主題と見らるゝ重要なる語であつて、羅馬書全体を圧搾せしが如きもので(22)ある、時は千五百十一年の某月某日のことであつた、かの北欧の剛健児マルチン・ルーテルは其属する宗派の使命を帯びて羅馬府に使した、時に彼は三十歳の壮齢に於てあつた、彼は多くの巡礼者の群に投じて「ピラトの階段」を膝を以て登りつゝあつた、此階段はもとピラトの政庁にありしものにて、イエスの昇りしことあるものと伝へられてゐる(勿論事実ではない)、故に此階段を聖なるものとして巡礼者が敬虔なる姿態を以て登ることになつて居たのである、中途にして彼の心に浮びしは羅馬書一章十七、十八節であつた、殊に「義人は信仰によりて生くべし」の句であつた、電撃の如く此句が彼の魂を撃つた、彼は中途より階段を引き返した、彼の心は此時羅馬教と絶縁したのである、彼は多くの失望を以て郷国に帰つた、しかし新しき生命は此失望の中より発芽し姶めたのである、かくてプロテスタント教は起り、かくて自由は全土に漲るに至つた、彼によりて起りたる宗教改革は決して単なる宗教の改革ではなかつた、又旧教に対抗して新教が起つたと云ふだけの事ではなかつた、実にかの宗教改革は当時の世界たる欧洲全土の大改造であつた、げに基督教の生起を別として、宗教改革が与へたほどの大改造は嘗て此世に起らなかつた、羅馬書が――殊に其の一章十八節が――斯の如き大改造の因となつたのである、不思議である、しかし事実である。
 第二に注意すべきは第三章二十一−二十六節である、これ羅馬書の中心である、殊に其中の二十三−二十五節を我等は見やう。
  凡ての人罪を犯したれば神の栄光を受くるに足らず、功《いさほし》なくして神の恩恵により、キリストイエスにある贖罪《あがなひ》によりて義とせらるゝなり、即ち神は忍耐を以て過来し方の罪を見遁し給ひしが、己の義を顕はさんとて、キリストを立て、其血によりて信仰によれる宥《なだめ》の供物となし給へり。(改訳)
(23) 寔に人のグ救はるゝは行に由らず信仰に由る、功なくして唯キリストを信ずる信仰のみに由りて、神の恩恵を受けて義とせらる、これイエスの十字架の贖罪あるがためである、人はたゞイエスを信ずるに由りて罪を赦され潔めらる、唯一の救の道は信仰であると、これ人を救ひ、国を救ひ、世界を救ふ救済の大原理である、もし約百記十九章二十五節が約百記の中心であり且旧約聖書の中心であるならば、羅馬書三章二十五節は羅馬書の中心たるに止まらずして又実に新約聖書の中心であるのである。 古来此語によりて霊魂の平安を獲たる人は其数無限であると思ふ、英の詩人ウィルヤム・クウパーの如きは其代表者である。
  それはクウパーが絶望の底まで落ちこんだ時であつた、彼は甚しく興奮して居室を右に左に歩みつゝあつた、遂に彼は窓際に腰を卸した、其処に聖書があつたので、何かの慰めと力を見出し得るかも知れぬと思つて其れを開いた、彼は言ふてゐる「私の眼に触れた箇所は羅馬書第三章の第二十五節であつた、義の太陽の光はこよなき豊けさを以て私を照した、私はキリストが私の赦免と全く義とせらるゝ事とのために為せし贖ひの完全充足なるを知つた、一瞬にして私は之を信じそして福音の平和を受けた」と、彼は尚ほ言ふ「もし全能者の腕が私を支へなかつたならば私は感謝と歓喜とのために圧倒されて了つたことであらう、私の眼は涙に充ち感極まつて声は出でなかつた、私は愛と驚異に漲り溢れて唯静かなる敬畏《おそれ》を以て天を見上げ得るのみであつた」と、「その歓喜は言ひ難く且|栄光《さかえ》あり」(ペテロ前書一の八)とは正に斯の如き聖霊の働きを云ふのである。(テエラー氏著クウパー伝より)
げに三章二十五節の如きは聖書の中心たる著しき語である、|聖書は羅馬書に照して見る時完全に理解し得る〔付○圏点〕とカ(24)ルヴィンは言ふた、我等は寧ろ進んで言はう、羅馬書三章二十五節に照して創世記の姶より黙示録の終までを真に解し得るのであると、真に偉大なる言である。
|第三〔付○圏点〕に我等は第十三章十一−十四節を挙げ度い、(読者は聖書を開きて此箇処を読まれ度し)こは再臨の希望に根ざす強き新生活の勧めである、此語に励まされて新生涯に入つた人の数は無限であると思ふ、かの羅馬教会の最大偉人、聖オーガスチンの如きは其好き実例である、彼は如何にかして信仰生活に入らんと努めつゝあつたが、心に荒れ狂ふ情欲は空しく彼の努力を嘲笑つて居た、併し期《とき》は遂に来た、聖霊は彼の切なる願を納れた、彼は一日懊悩に重き胸を抑へて庭園を歩みつゝあつた、時に何処よりともなく細く妙なる声が彼の耳を打つた、その声は明かに「聖書を開け」と聞えた、天使の声か聖霊の囁《さゝや》きか、孰れにしても此世の人の声ではなかつた、彼は直ちに聖書を開いた、其処は恰も羅馬書十三章の終であつた、彼は燃ゆる眼を以て十一節以下を一気に読み下した、茲に強烈なる決心は自らにして彼に起つた、茲に「旧きは去つて皆新しくな」つた、其熱烈なる信仰の叫びと広博なる思想とを以て世界に大感化を与へし聖オーガスチン、彼は斯くして生れたのであつた、羅馬書十三章末段はオーガスチンを通して全世界に大感化を与へたのである。
 その他十八世紀に於て世界に強き霊的復活を与へたるジョン・ウェスレーの如きは、ルウテルの羅馬書註解の序文を読みて信仰に入れりと伝へらる、即ち羅馬書がルーテルを通してウェスレーを生んだのである、以上の如く世界を改造せし大偉人を幾度も起したる羅馬書は、即ち世界を改造せし書と云ふべきである、先づ人をその根柢に於て改造し以て世界の改造を促すものは此書である、これ今日までの歴史の証明する所である。
 余自身また此書に依て救はれし一人である、儒教国に育ちし我等は基督教を以て聖人君子たるの道と考へ、完(25)全なる道徳的状態に達せんことを信仰の目的と考へ易い、然る時己の実状が己の理想と副はざるため苦悶懊悩の襲ふ所となるのである、余の如きは此罪の悶えに泣きしも日本国に於て之を解決するの道なく、ために遥々米国にまで渡りて此疑団の氷解を求めたのである、時に深切なる先生あり余に教へて曰く「汝自ら義たらんと努むる勿れ、そは恰も小児が植木を鉢に植えて毎日引き抜きつゝ発育如何を調査する類にして、到底出来得べき事にあらず、|汝自ら聖くならんと努めずして唯十字架のイエスを仰げ、然らば平安汝に臨まん〔付○圏点〕」と、かく教へられて大に悟る所あり、且羅馬書を精読して遂に平安に達したのである、仰ぎ瞻よさらば救はれんと、これ羅馬書の提示する平安獲得の道である、自ら義となりて平安に達せんとするは福音とは正反対の道である、|福音は唯一つ即ち信仰によりて神に義とせられて平安に入るのである〔付○圏点〕、我等の研究せんとする羅馬書は此道を人に教ふる書である。
 最後に羅馬書の骨子を述べよう、一章一節−十五節は前置であり、十五章十四節以下十六章までは結尾の挨拶の類である故これを除きて、一章十六節より十五章十三節までを羅馬書の本体とする、之は左の三綱目に分たれる。
  一、人は如何にして救はるゝかの問題 (一章十六節−八章)
  二、人類は如何にして救はるゝかの問題 (九章−十一章)
  三、此救に与りし者の生活の問題(信者の実践道徳) (十二章−十五章十三節)
右の中第一が最も大切であつて、是れ羅馬書の主要部である、そして之を左の三項に分つことが出来る。
  第一、義とせらるゝ事(一章十六節−五章)
(26)  第二、聖めらるゝ事(六章、七章)
  第三、栄化せらるゝ事(八章)
この三つ、即ち義とせらるゝ事、聖めらるゝ事、栄化せらるゝ事は孰れも自己の努力に依らず唯信仰による仰瞻に依て与へられる、之を細説すれば|十字架のキリストを仰ぎ瞻る事に由て義とせられ、復活せるキリストを仰ぎ瞻る事に由て聖められ、再臨すべき彼を仰ぎ瞻る事に由て栄化せられる〔付○圏点〕、一として自己の功、行、積善、努力に由て達成せらるゝものはない、凡て凡て彼を信ずる信仰に由り、彼の遂げ給ひし功に由り、たゞ偏へに彼を信受し、彼に信頼し、彼を仰ぎ瞻る事に由りて我等は義とせられ、又聖められ、又栄化せしめらる、此事を教ふるが羅馬書の主要なる目的にして、それに添えて人類の救拯と基督者の実践道徳とを説示するのである、簡単にして明瞭、解し易きが如くにして而も鮮し難く、解し難きが如くにして而も解し易きが羅馬書である、げに此偉大なる書は我等の熱心なる研究に値するのである、そは其論ずる所が世界人類の最大問題であるからである。
 
     第二講 パウロの自己紹介(一) 第一章一節−七節の研究 (一月二十三日)
 
 前回の終に羅馬書の骨子について説明する所あつたが今少しく之を補ふ必要がある、羅馬書は秩序整然たる一大書翰である、勿論近代の意味に於ける書翰とは其性質を異にし、書翰であると共に其内容に於ては一大論文である、其規模の宏大なる、其秩序の一糸乱れざる、其内容の荘麗高貴なる、洵に之を一の大建築物(大迦籃、大殿堂)に譬ふべきである、羅馬書は七千字より成る、即ち之を七千個の大理石を以て造れる一大建築物に比すべきである、羅馬書を研究するは恰も此の一大建築物を表門より入りて裏門に出づるまで巡覧するが如きものであ(27)る、全体として壮麗であると共に、其個々の室が亦壮麗にして吾人の眼を驚かすのである、今これを上の如き図〔略、入力者〕を以て表はすを便とする。
 此大建築物に入る我等は其門に「義人は信仰に由て生く」なる標語の掲げられあるを見るであらう、そして我等は先づ|表門〔付○圏点〕の荘麗整美なるを歎称するのである、これ第一章一節−七節の「自己紹介」であつて洵に稀に見る大文字である、表門の次には|廊下〔付○圏点〕がある、これ一章八節−十七節の「挨拶」に相当する、これも亦表門に劣らざる立派な物である、此二つを通過して愈よ本館に入る、本館は三棟に分たる、第一の本館は三棟中最大のものであつて、本館中の本館と云ふべきものである、その荘厳雄大は言語に絶せりと称すべく、人間の建築物中他に類例なきを思はしむる程の物である、これ一章十八節より八章の終までに至る「個人の救ひ」の項である、.次は本館第二にして其美また第一に劣らぬ宏壮なる建物である、即ち九章−十一章の「人類の救ひ」が之に当るのである、本館第三は十二章より十五章十三節までの「信者の道徳」に当る、我等は救拯の問題の後に実践道徳に移るのである、先づ救拯あつての道徳である、道徳あつての救拯ではない、この第三の本館も此世の建物とは趣を異にせる美はしきものである、以上の如く三棟の本舘を巡覧し終りて遂に我等は裏門に達する、これ十五章十(28)四節以下十六章末尾までの「私用、告別、祝福」に当る、此裏門たるや亦看過すべからざる貴きものである、かくして裏門を出でゝ我等は羅馬書てふ一大殿堂を看終へるのである。
 而して此の大建築物は実に「信仰より信仰に至る」ものである、之を組織せる七千個の大理石は孰れも信仰の大理石である、天井を仰ぐも床に伏すも壁を見るも一として信仰に立たぬはない、土台其ものも亦信仰より成る、空気其者も亦信仰の香を放つ、その一見して信仰と見えざる部分も精査すれば明かに信仰の上に立つ、実に|信仰〔付◎圏点〕――然り主イエスキリストに対する信仰は此大迦籃に漲り溢るゝ特徴である。
 我等の羅馬書を講ずるは聴者を案内して右の如き一大殿堂を巡覧するのである、もし其中の個々の石、個々の壁等について精細なる説明をなす時は容易に此巡覧を終はることが出来ない、故に已むを得ず重なる部分の説明を以て満足しなくてはならない、羅馬書の一節々々の詳細なる説明は之を註解者に譲り、我等は大体の精神、重なる場所、骨髄を成す思想の説明を以て満足しよう、遺憾ながら時は之れ以上を許さないのである。
 先づ「表門」に当る自己紹介の部即ち一章一節−七節の研究をし度い、この部は僅に七節より成り、原語聖書に於て九十四字(冠詞をも一字に数へて)、英訳聖書にて百二十七字(冠詞をも加算して)、邦訳聖書にては二百五十九字を算へるのみである、併し乍ら此表門は此の世に於ける最も美はしき、最も貴き、最も良き材料より造られしものである、即ち其一字々々が悉く大文字である、一語々々が悉く大問題を伝へてゐる、誠に稀有なる自己紹介である、「使徒」と云ふ事が一の大問題、「異邦人」と云ふ事が一の大問題、「福音」と云ふ事が右の二つの大問題よりも尚ほ大なる問題である、更に「其子(神の子)我等の主イエスキリスト」と云ふに至つては問題は益々大となるのである、其他尚ほ偉大なる文字と重大なる思想は相続いて生起する、羅馬書一章一節−七節は巨(29)大なる大理石を累々積聚して成れる比類なく壮大なる門である。
 凡て大音譜、大詩篇には優秀なる序曲(Prelude)がある、そして此の序曲の中に全編の思想を圧搾せるを以て名作の特徴とする、その序曲の中に全篇の精神を収め得ざるは凡手である、例へば詩人テニソンの ln Memoriam(追想歌)の如きは偉大なる詩篇として名あるものであるが、その四十四行より成る序曲は洵に珠玉を連ねしが如き逸品であつて、能く全篇の精神を代表せるものである、又我等は大作曲家の名譜に接する時、その序曲の中に全篇の精神の躍如として動きつゝあるを知るのである、使徒パウロ、彼はもとより文学者でもなく詩人でもなく又作曲家でもなかつた、その大作羅馬書の如きも之を謂ゆる文学者の傑作と見るべきものではない、しかし乍ら其主題は宇宙人生の根本問題である、その所説は深奥にして該切である、その論法は鋭峻にして徹底的である、その精神は高貴にして霊偉である、全篇を貫くものは脈々たる信仰の宝流である、進みて歇まざる心霊の旋律である、漲り溢るゝ生命の躍動である、かくの如くにして羅馬書は一大傑作たらざるを得ない、而して其序曲たる初めの七節が稀代の作にして能く全篇の精神を代表せるは、益々以て此書の名作たるを裏書するものである。
 何故にパウロは劈頭第一に自己紹介の挙に出づる必要があつたのであるか、そは彼と羅馬の信者とが未見の間であつた(少数の者を除きては)からである、時は紀元五十七八年の頃であつた、彼は其の第三回伝道旅行の途次ギリシヤのコリントに滞在しつゝあつた、使徒行伝廿二章二、三節に「其地を経て多くの語を以て人々を勧め、|ギリシヤに至り此処に三ケ月留りて〔付○圏点〕」とあるがそれである、其時に、又其時の前から彼の心に二つの相納れぬ者が潜んで居た、一は以前より胸に秘め居たる羅馬行の希望であつて一はヱルサレム行の責務であつた、二つを同時に行ふことは出来ない、孰れか一を先にしなければならぬ、勿論彼は責務を希望の後に廻す人ではなかつた、(30)彼は先づ責務を果さんと決意した、然る後是非とも羅馬府を訪ひ、あはよくば羅馬府を飛石として西の端イスパニヤまで福音を布かんと志した、かの責任のため此希望は後廻しとなつた、しかし彼は羅馬府を――殊に其処にある或数の兄弟姉妹を――忘れ得る人ではなかつた、よし其大部分は未見の人なりとは云へ、霊に於ては十年の知己にも勝る者である、彼はアデリヤ海を隔てゝ遥かに羅馬大帝国の首府を懐うた、彼の心は愛を以て燃え立つた、彼は遂に一の公的書翰を認めて彼等に送らんと定めた、併し未見の兄弟姉妹への書翰である、故に彼は先づ第一に自己紹介のために数節を用ひたのである。
 かくの如き意味の自己紹介である、故に羅馬の信者と自己の間に|一致点〔付ゴマ点〕を見出して之を記さねばならぬ、これ未見の友に書翰を送るに当つては当然採るべき道である、一章一節−七節は種々の大真理を蔵する外、未見の兄弟に自己を連結せしむる|技巧〔付○圏点〕の点より見ても注意すべき所である、げにパウロはギリシヤのコリントよりアデリヤ海を超えて伊太利半島の羅馬府まで美妙《いみじ》くも橋を架したるかな、而して是れ技巧の生みたる技巧ではない、愛の生みたる技巧である、主にある兄弟に対する愛が彼をして知らず識らず此技巧に出でしめたのである、故に技巧そのまゝの技巧ではない、聖められたる技巧である、我等はパウロが種々の場合に表はしたる聖き技巧、愛の技巧を貴むものである――ただの技巧に対しては蔑視の眼を投ぐれども。
 此事は一節より七節までの思想の動きを逐へば明かである、第一節を原語聖書に於て見れば先づ「パウロ」と己の名を記し、次に「イエスキリストの僕」と記し、次に「召されたる使徒」と記し、次に「神の福音のために選ばれたる」の句を以て「使徒」なる語を形容してゐる、彼は第一節に於ては専ら己の何なるかを述べて、先づ此書翰の発送者の性質如何を説明したのである。
(31) 第一節の最後の語(原語聖書にて)は「神の福音」である、パウロは第二節に入りて此の福音の何なるかを述べる、即ち「此福音は従前《はやく》より其の(神の)預言者たちに託《よ》りて聖書に誓ひ給へるもの」なる事を示して居る、そして三節前半に於て此福音が「其の(神の)子我等の主イエスキリスト」に係はるものなる事を述べる、然らば此キリストとは何であるかとの疑問が起る、乃ち三節後半と四節は之に対する答にして「彼は肉体によればダビデの裔より生れ、聖善の霊性に由れば甦りし事によりて明かに神の子たること顕はれたり」と彼を両方面より説明してゐる。
 かくイエスの事を説明せしパウロは次に彼と自分等との関係を述べて第五節を作つた、即ち曰ふ「我等彼より恩恵と使徒の職とを受く、これ其名のために万国の人々をして信仰の道に従はせんとなり」と、|万国の人々〔付ゴマ点〕とあるは|凡ての異邦人〔付ゴマ点〕の意味である、そして此「凡ての異邦人」なる語より羅馬府の信者に言ひ及んで(彼等も亦異邦人の一部なれば)第六節を作り「汝等も亦其人々(異邦人)の中にありて召を蒙りし者なり」と記し、以て此書翰の受信者の性質を明かにしてゐる、この如くして自己より出発して愈々羅馬の兄弟にまで筆を運び来りて彼は第七節の語を発し得るに至つたのである、七節前半には「我れ凡てロマに在る所の神に愛《いつく》しまれ召を蒙り聖徒と成れる者にまで書《ふみ》を贈る」とある、個々に彼は其心の手を遥か羅馬府に伸ばして其処の兄弟と握手したのである、もし第一節より茲までを一言にして云へば「パウロ、ロマの聖徒にまで書を贈る」である、実は斯く簡単に記しただけでも事は弁ずるのであつた、其好き例は使徒行伝二十三章二十六節の「クラウデヲ ルシアス、最も尊き方伯《つかさ》べリクスの安きを問ふ」である、しかしパウロはロマの聖徒と一致点を見出すべく、愛の技巧を以て右の如き異常の迂回路を辿つたのである。
(32) 劈頭第一に「パウロ」と己の名を記して後彼の筆は一語又一語次第に遠く脇路に入るが如く見えた、彼は何処まで外《そ》れて行くのであるかと読者は大いに危む、然るに彼は鮮かなる手練を以て六節より七節前半に及びて遂に受信者と握手して了つた、されば彼は最後に於て祝福の辞を述べて此異常なる自己紹介を終つた、「汝等願くは我等の父なる神及び主イエスキリストより恩恵と平康とを受けよ」と七節後半に在る。
 この偉大なる「自己紹介」について英の聖書学者ジェー・エー・ビートの述べし左の語は誠に美はしき説明であると思ふ。
  パウロの初めの語(一節より七節迄を指す)の荘美と整斉に注意せよ、それはタルソの猶太人(パウロを指す)とロマの信者との閏の深き谷に架けた水晶の弓形《アーチ》橋である、パウロは先づ己の名を記し、次に己の職の権威を述べ、次に其宣伝する福音に言及する、福音の一語より進んで彼は福音の大なる主問題たる「ダビデの子にして神の子たるキリスト」にまで上る、これ此弓形橋の嶺である、茲より彼は再び使徒職について一言し、その使徒職の働きの範囲なる異邦万民に言及する、そして遂にこの異邦万民の中に在羅馬府の信者を見出すのである、彼は自己の権能主張を以て始め彼等の権能を認めて終つた、深き谷に橋が架かつた、民族的差別の河を超えて彼は一の弓形橋を投げた、それを形造る一つ/\の部分は生ける真理であつて、其|要石《キーストン》(中央の石)は人と成りし所の神の子である(第四章を指す)、此橋を渡して、彼は彼の父にして彼等の父なる神、及び彼の主にして彼等の主なるキリストよりの祝福を送つた(ビート羅馬書註解三十八頁)
洵に美はしき且最も適切なる説明である。
 さて此弓形橋の第一部は「イエスキリストの僕パウロ」である、之を原語の順序によれば
(33)  パウロ 僕 イエスキリストの
となる、「パウロ」と第一に己の名を記し、次に「僕」と記し、次に誰人の僕なるかを示すために「イエスキリストの」と記したのである、かく原語の順序を逐ふ時この語を発した時のパウロの思想の動きが知れるのである。
 「僕」と訳されし原語は doulos(ドゥーロス)であつて奴隷を意味する、されば有名なるモフヮツト氏の改訳聖書は之を slave(奴隷)と訳してゐる、パゥロは自己を以てイエスキリストの奴隷となしたのである、これ大に注意すべきことである、世にはイエスの|弟子〔付○圏点〕と自称する人、イエスの|兄弟〔付○圏点〕と自称する人、イエスの|友〔付○圏点〕と自称する人がある、勿論我等は彼の弟子である、兄弟である、又友である、そこに何等の誤謬はない、併し問題は其上に更にイエスの|奴隷〔付○圏点〕と云ふ観念を附加するかせぬかに存する、此語を以て我等は彼に対する絶対的服従を意味するのである、もし此第四の語を除きて単に彼の弟子ならんか、単に兄弟ならんか、単に友ならんか、勿論我等は彼に|全然的服従〔付△圏点〕をしないのである、弟子は全然師に服従する者ではない、師に背くことも師を棄てることも出来る、師の思想を旧しとして批評することも出来る、世にイエスの一部を取りて他を棄つる者多きは是れ彼の弟子たるものにして、彼に身を任せたる僕ではない、又イエスの友と云ふに止まらば或時は彼の言に従ひ或時は彼の言を斥け、又我より彼に忠告を呈することも出来、勿論彼を批評に上すことも出来る、世に彼の友たるに止まる者甚だ多い、又イエスの兄弟を以てのみ居る者も右と大同小異である、到底全部を献げて彼に従へる者ではあり得ない。
 我等はイエスの弟子でもあらう、兄弟でもあらう、友でもあらう、しかし何よりも第一に|彼の奴隷でなくては(34)ならぬ〔付△圏点〕、これ必須なる第一要件である、奴隷と云へば主人に全然服従すべきものである、水に入れと言はるれば水に入り、火に入れと言はるれば火に入り、死せよと言はるれば死す、主の命維れ服ひ、主のために死するを以て己の名誉、特権、幸福とする、実に基督者はキリストに対して此種の関係に於てあらねばならぬ、洵に日々十字架を負ふて彼に従ふ決心ある者にして初めて基督者たり得る、彼の一部に服して他に服せず、彼の命に半ば服して半ば服せず、彼の命を或時は守りて或時は守らず、これ己を主として彼を己の従たらしめんとするものであつて、己を空しうして彼に事へんとする者ではない、此種の人は或はキリストの弟子であり友であり兄弟であらう、けれどもキリストの僕ではない、そしてキリストの僕たらぬ者は少くともパウロの眼に於ては基督者ではないのである、我等は自己の有形物無形の所有全部――その生命までをも――彼に献ぐる心ありて初めて基督者たるのである。
 パウロは誰人にも頭を屈せぬ人であつた、その事は彼の全生涯と全書翰とが証明して居る、人に対して、殊に我を抑へんとする者に対しては、彼は極端に強剛であつた、この不屈の気性は彼の言動の随時随所に発露して彼の姿をして峻※[山+肖]ならしめて居る、然るにこのパウロがキリストに対してのみは絶対的服従の道を選んだのである、実に彼に取つては人の奴隷たるは死を以ても償ひ難き最大の恥辱であつた、「そは我誇る所を人に虚くせられんよりは寧ろ死ぬるは我に善き事なればなり」(コリント前書九の十五)とは彼の素懐であつた、然し乍らキリストの奴隷たるは何物を以ても換ひ難き最大の栄誉であつた、彼はかの耻辱の道を取らずして此栄誉の道を取つた、我等また彼に傚ふべきである、人の奴隷には決してなるまじ、如何なる事あるとも――よし死を以て脅かさるゝとも――決して成るまじ、併し|神の独子、人類の救主、我等の主たるイエスキリストには全然奴隷の位置に立た(35)ん〔付○圏点〕と、これ我等の悔改当時の決心であらねばならぬ、又一生涯の決心であらねばならぬ。
 然らば我等キリストの奴隷となる時われ等の尊重する自由を喪失する虞れなきか、否、|我等キリストの奴隷となりて初めて自由を我物となし得るのである〔付○圏点〕、人の奴隷となるは自由を喪失する所以である、キリストの奴隷となるは自由を確保し、培養し、之を真に我の永久的所有物たらしむる道である、今人が真の自由を有せざるは自由を獲るの道を知らざるためである、吾人はキリストの奴隷となりてのみ真に自由を我物となし得る、然るに今人は彼の奴隷たるを好まずして、徒らに自主たらんと欲して却て何か他の人又は他の物の奴隷となるの已むなきに至り、以て獲んとする自由を却て我とみづから追ひやつて居る、|キリストには絶対の服従、人よりは絶対の自由〔付△圏点〕、これが真の基督者の雑りなき姿である。
 「イエスキリストの僕パウロ」と、即ちイエスキリストの奴隷パウロと、かく用ひられて|奴隷〔付ゴマ点〕なる文字も卑き意味を伝へざる高貴なる語となる 其中にパウロの信仰の特徴が美はしく表はれて居る、而して人の真に生くる道を伝へてゐる。
 一個の石塊に知り尽し難き秘密あり、パウロの一語に無限の意味あり、我等先づ羅馬書劈頭の一語に深き注意を払ふべきである。 〔以上、2・10〕
 
     第三講 パウロの自己紹介(二) 第一章一節、二節の研究 (一月三十日)
 
 羅馬書一章一節を原語の順序の儘に記せば
  パウロ イエスキリストの僕 召されたる使徒 神の福音のために選ばれたる
(36)となる、之を文法的に云へば「パウロ」なる語を三箇の形容句(Adjective phrase)を以て修飾(modify)したのである、英訳聖書に於て Paul,a servant of Jesus Christ, called to be an apostle, separated unto the gospel of God とあるは完全なる訳ではないが、大体に於て原文の文脈は保たれて居るのである、今もし之を分解すれは左の如くになる。
  (第一)イエスキリストの僕なるパウロ
  (第二)召されたる使徒なるパウロ
  (第三)神の福音のために選ばれたるパウロ
即ち羅馬書第一章一節は右の三思想より成るものである、その中第一は前講に於て説明せし通り頗る重要なる意味を有するものであるが、第二第三も亦これに劣らざる重みを有するものである。
 パウロは先づ自己を「イエスキリストの僕」と称した、これコリントより遥か羅馬府に架したる弓形橋の第一石である、キリストの僕と云ふは広き語にして凡ての基督者を指すものである、キリストの僕(奴隷)たる覚悟なき者は、他に如何に優秀なる特性を有すとも基督者と称することは出来ない、羅馬府の信者にして真の基督者である上は必ずキリストの僕であるべき筈である、キリストの僕たる点に於てはパウロと彼等との間に何等の差別がない、よし両者は他の凡ての点に於て相違せりとも少くとも此一点に於て全く同一である、パウロは先づキリストの僕と記して何よりも先に此事が彼の第一特徴である事を示したのであるが、同時にまた羅馬府の信徒と共通なる此一点を先づ記して我と彼等との間に一脈の温流を通ぜしめたのである、貴き愛の技巧よ! 多分羅馬府の信徒は書翰の劈頭に此句を読みて少からぬ安心《やすけさ》と暖味を感じたことであらう。
(37) 然しパウロは彼等との共通点に何時までも佇立して居ることは出来なかつた、彼は進んで「召されたる使徒」と述べた、これ彼等と自分との第一の相違を明かにし、併せて神より与へられし自己の権能を示したものである、抑も「使徒」の意義如何、原語 apostolos(アポストロス)は apostello(アポステロー)なる動詞より出でし名詞にして、此動詞は「使者を遣《おく》る」を意味する語である、さればアポストロスは|遣はされし人、使者、特使〔付ゴマ点〕を意味する、ビートの羅馬書註解は此語を解して one sent on some special business(或特別の仕事のため遣はされし人)となして居る、此意味に於ては此語は聖書の専有語ではなくして普通一般の語である、しかし勿論聖書にありては之が特殊の意味を荷ふものとして用ひられて居る、即ちグリーンの希臘文典に記さるゝ如く之は a messenger of Christ to the world(キリストより此世への使者)の意である、然らば凡ての時代に於ける凡ての福音宣伝者は悉くアポストロスであるか、或意味に於て然り、しかし此語は新約聖書に於ては歴史的制限の下に記されて居る語である、即ち歴史的に初代教会に限られた語としてあるのである、初代教会以後に於ても多くの優秀なる伝道者は輩出した、彼等は明かに「キリストより此世への使者」である、しかし新約聖書に記さるゝアポストロスではないのである。
 かく|使徒〔付ゴマ点〕とは初代教会特有の語であるが、それに又広狭の二義がある、狭義に於てはキリストの生前に使徒に任命せられたる「十二使徒」を指すのである、此意味に於てはパウロは勿論使徒ではない、換言すれば彼は十二使徒の一人ではない、次に広義に於ては使徒なる語は第一級の伝道者を意味する、「神は第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、その次に異能を行ふ者 次に病を医す能を受けし者、救済する者、治理者《つかさどるもの》、方言を云ふ者を教会に置き給へり」(コリント前十二の二八)とあり、又「その賜ひし所は使徒あり、預言者あり、伝道者あり、(38)牧師あり、教師あり」(エべソ書四の十一)とある、即ち広義の使徒は教会の第一人者を意味する、バルナバ、主の兄弟ヤコブの如きは此意味の使徒であつた、パウロも十二使徒の一人でなかつた以上先づ此意味の使徒であつたのである。
 かく使徒なる語は初代教会に於て凡ての伝道者を指した語ではなく或種の伝道者を指した語である、此意味に於ては使徒を|大使〔付○圏点〕(Ambassador)と見るを最も便とする、抑も大使とは自国の主権者の代理として他国に赴ける者である、彼は異邦《ことくに》にありて自国の主権者の代理者として立つものである、故に四方に使して君命を辱めざるを好箇の大使とする、洵に貴き地位である、パウロが使徒であると云ふのはキリストの大使であると云ふ意味である、そして彼は特に異邦人への使徒である、然り異邦使徒(Gentile Apostle)である、即ちキリストより異邦に遣されし者であつて、異邦人の間に於けるキリストの代理者である。
 パウロは先づキリストの僕(奴隷)と称し次にキリストの大使と称す、一度奈落の底に落ちて忽ち九天の上に登るが如くである、之を捉へて矛盾と称して彼を貶する人がある、その思想を奇怪として排する人がある、しかし之は前後矛盾《コントラヂクシヨン》ではなくして対照《コントラスト》である、奇怪ではなくして奇勁である、げにパウロは大対照《グレートコントラスト》の人である、其人自身が種々の相反性を一身に於て兼ねた人であり、従つて其思想の中に種々の相反すると見ゆるものが共在して居るのである、さはれ是れ対照《コントラスト》であつて決して前後矛盾《コントラヂクシヨン》ではない、僕と云ふも真であり大使と云ふも真である、彼の地位は或意味に於て極めて低く或意味に於て極めて高い、従つて彼は或場合に於て極めて謙卑であり或場合に於て極めて自信に富む、彼は羅馬の兄弟たちと同じ地位のものであつて又別の地位のものである、彼等のために奉仕《サーブ》する僕であるが又彼等の上に権を取る使徒である、彼は「更に多くの人を得んために自ら己を凡て(39)の人の奴隷とな」した人であつた(コリント前書九の十九)、併し「我がキリストに効ふ如く汝等われに効ふべし」と云ひて己を信者の師表となす程の自信のあつた人であつた(同十一の一)。
 使徒である、けれ共唯の使徒ではない、「召されたる」使徒である、「召されたる」の一語は我等をしてイスラエルの古き偉人を想起せしめる、始祖アブラハムは「汝の国を出で汝の親族に別れ汝の家を離れて我が汝に示さん其地に到れ」とのヱホバの召を受けて「ヱホバの己に言ひ給ひし言に従ひて出で」往いたのである(創十二章)、国祖モーセは神の山ホレブに民族救出の聖召を受けて辞退し又逡巡せしも遂に之を受くるの余儀なきに至つたのである(出第三章)、預言者イザヤはヱホバに罪を潔められて召されしため其召に応じて立つに至り(イザヤ第六章)、ヱレミヤは「われ汝を腹に造らざりし先に汝を知り、汝が胎を出でざりし先に汝を聖め、汝を立てゝ万国の予言者となせり」との招きに応じて、一度は辞退せしも遂に預言者の聖職に就いたのである(エレミヤ一章)、孰れも自ら進んで其重責に当つたのではない、神に召されて辞退せしも許されず遂に余儀なくして就任したのである、|自薦に依らず聖召に依る〔付○圏点〕、其処に弱味があり又強味がある、然り人による弱味がある故に神による強味があるのである。
 パウロ自身が実に然うであつた、「彼は十二使徒等と同様彼の職に|召された〔付ゴマ点〕のである、彼は自ら好んで又は偶然の機会でそれに達したのではない」(マイヤー)、そして召されて使徒職に就いたと云ふ事は勿論彼の内心に神の此聖召を鼠知した事であつて、何等外形的の事象として現はれた事ではなかつた、ためにパウロは自ら僭して使徒と称すとの批難が所々方々にあつた、彼の敵人の中には此声が格別にも高く挙がつた、殊に彼が基督教迫害者であつたと云ふ過去の暗い歴史が彼の位置をして益々不利ならしめた、さりながら聖召の一事は凡ての斯る批(40)難攻撃の毒矢を払ひのけ得て余りあるものであつた、誰か主の召し給ひし所の者に向つて僭越との悪名を与へて正しきを得よう、パウロが加拉太書の劈頭第一に「人よりに非ず又人に由らずイエスキリストと彼を死より甦らしゝ父なる神に由りて立てられたる使徒パウロ」と高らかに叫んだのも哥林多前後書の処々に己の使徒職についての弁護的筆法を揮つたのも、これ皆我心の前に敵人の批難攻撃を立たせての戦なのである、哥林多前書九章を見よ、同後書三章、四章、六章、十章、十一章、十二章を見よ、戦塵濛々たる中に於ける彼の己の使徒職の擁護は実に精彩奕々たるものがある、まことに偉大なる霊魂の心情ありのまゝの発露として天然其者の如く鈍にして美である、羅馬書を記す頃は此擁護戦は略ぼ下火となつた、彼の勝利はもはや鮮かであつた、彼は今や押しも押されもせぬ大使徒である、しかし彼は過ぐる幾年かの辛き経験を想ひ出さゞるを得なかつた、彼は幾年も用ひし同じ武器を復た取りて「召されたる」の一語を添加せざるを得なかつた、語は一字である(原語クレートス)、しかし意味は無量である、そして此語を記しゝ時の彼の感慨も亦無量であつたことゝ我等は思ふ。
 教会に頼らず教派を恃まず独り立つて福音を世に布きたるパウロは偉大なる独立伝道者であつた、彼の使徒たるは「召されたる」といふ一事実の外何等の拠所なきものであつた、併し乍ら伝道者として「無くて叶ふまじきもの」は此一事であつて、他の凡ては有るも無きも可きものである、そして他の凡てを具備するとも此一事なくば伝道界の無資格者である、凡て真の伝道者は自ら進で伝道者となれる者にあらず、神に召されて否応なしに此務に当るに至りし者である、かゝる者に於ては形の上の資格は有るも可無きも可である、汝正規の神学校を卒へ牧師試験に及第せし故に真の伝道者なりと云ふか、去れよ斯る伝道者は神の国に用なき者である、汝その知識と徳望と技能との故に好適の伝道者なりと云ふか、去れよ斯る伝道者は僭越虚罔の徒である、唯|召されて伝道者と(41)なりし者〔付○圏点〕のみ、よし其外形は「世の汚穢《あくた》また万《よろづ》の物の塵垢《あか》の如」くなるとも真の伝道者である。而して実は単に伝道者に限らず凡て真の基督者は「召されたる」基督者である、自ら成らんと欲して成りしに非ず、父によりて信仰を与へられ、父の聖召によりて信仰生活に入つたのである、勿論洗礼の有無、所属教会の如何の如きは問題とならぬのである、併し乍ら「召されたる伝道者」、「召されたる基督者」と自称する者必しも悉く召されたる伝道者、召されたる基督者ではない、その中に偽りて斯く称するものがあり又幻想によりて斯く信ずる者がある、真ある所、偽は影の如く伴ふ、これ大に注意すべき点である。
 第一節の含む第三思想は「神の福音のために選ばれたるパウロ」である、|神〔付ゴマ点〕と云ひ|福音〔付ゴマ点〕と云ひ|選ばれたる〔付ゴマ点〕」と云ふ、孰れも重要なる語である、「選ばれたる」は|選別されたる〔付ゴマ点〕と訳するを可とする、原語 aphorismenos(アフヲーリスメノス)は別にせられたる、他より分たれたる、選び置かれたる等の意を有する語である(英語の separated;set apart)、或る時の用のために前以て選別し置かれたるを意味する、パウロは福音宣伝の使命のために斯く選別し置かれし器である、これ彼に根深き確信であつた、然らば聖召と選別の区別如何との問題が起る、この問題に光明を投ずるものは数年前に彼の発したる語である、即ち加拉太書一章十五節に「然れども我母の胎を出でし時より我を簡び置き恩をもて我を召し給ひし神」とある、此「簡び置き」は羅馬書一章一節の「選ばる」と同じ語、又「召し」は羅馬書一章一節の「召されて」と同じ語である 即ち彼は予め簡び置かれて或期間を経て後召されたのである、彼は元来「神の福音のために選別せられたる」器にして時来つて遂に「召されたる使徒」となりし者である。
 人は種々の器として選ばる、福音のために選ばれし人の中にも或は予言者あり、教師あり、牧師あり、或は全(42)教会の統率に当る器あり、或は事務を執り又は施済《ほどこし》に従ふ器あり、種々様々である、そしてパウロが福音のために選ばれたと云ふは勿論福音宣伝のために選ばれたのである、ゴオデーの如きは福音なる語は新約聖書に於ては寧ろ福音宣伝を意味すると断定してゐる、その見方の正否は別としてパウロが事実上福音宣伝のために選ばれたる器なることは誰人も認むる所である。「福音」は原語にて euangelion(ユーアンゲリオン)と云ふ、実に美はしき語である、美はしき思想を伝ふる語は美はしき響を有す、前に「奴隷」と云ふ惨ましき(文字の表面は)語を発し次に「福音」のために選ばると美はしき語を記す、茲に又たパウロ独特の対照があるのである、ユーアンゲリオンは「善き音信《おとづれ》」を意味す、英語に於て gospel(ゴスべル)が good spell 即ち「善き語」を意味すると似てゐる、パウロは実に此の善き音信のために選ばれたのである、神の怒の器としてゞはない、神の刑罰を世に伝ふる使者としてゞはない、実に神の善き音信を世の民に伝ふる使人《つかひびと》として選ばれたのである、何者の栄誉か之に如かん、何等の幸福か之に比せん。 羅馬書の劈頭にユーアンゲリオン(福音)の一語ありて此書の性質は明かである、パウロが福音の使徒たりとの事は羅馬書が福音の大証明書たることを示すのである、而して福音とは喜びの音信、歓喜の伝達、赦免と恩恵と平安とを盛れる一大宣言である、そして之を述ぶるが羅馬書である、歓喜を以て始まり歓喜を以て終るは此書である、その中に罪の指摘がないではないが、是れ光明に到達せんがための前提たる暗黒であつて、決して暗黒を以て終る所の暗黒ではない、恩恵は此書の基調である、歓喜と平安とは此書に漲溢する空気である、これパウロ彼自身が恩恵の上に確立し歓喜と平安とに漲溢せる人なるがためである。
 一節を全体として回顧せよ、パウロはイエスキリストの奴隷であり、召されたる使徒であり、神の福音のため(43)に選別せられたる者であると言ふ、此中に彼の謙遜あり確信あり、信頼あり覚悟あり、感謝あり歓喜あり、実験を盛りし語なると同時に教訓に富める語である、羅馬の信者は此書翰を開いて先づ此第一節に接せし時恰も恋人よりの便の如く言ひ知らぬ喜悦を味はつたことであらう、曾て此世が産みたる最大の基督者、最大の伝道者たる異邦使徒パウロの書翰冒頭の語として、我等は羅馬書一章一節に限りなき興趣を覚ゆるものである。
 次は第二節の研究である、「この福音は従前より其予言者たちに託りて聖書に誓ひ給へるものにて」と言ふ、予言者なる語は狭義に於てはサムエル以後予言の聖職に就きし者を指すのであるが、広義に於てはモーセまで溯ることが出来又モーセ以前の所謂「列祖」を含むこともある、而してメシヤの出現の予言は実に旧約聖書全体を通じて存するものにして、旧約の基調は明かにメシヤ予言である、故に第二節の「予言者たち」は最大広義に取るべきものである、洵に神は其予言者たちを通してメシヤの出現を聖書に於て誓ひ給ふた、さればイエスは「汝等の先祖アブラハムは我日を見んことを喜び」(ヨハネ伝八の五六)と云ひ、又「もしモーセを信ぜば我を信ずべし そはモーセ我事を記したればなり」(同五の四十六)と云ふた、又主の復活後福音宣伝の最初に於てペテロは使徒の所信を代表して云ふた「モーセ我等の先祖たちに告げて曰ひけるは、主なる汝等の神は汝等の兄弟の中より我に似たる一人の予言者を起さん……又サムエルより以来《このかた》語りし所の予言者も皆あらかじめ此日を指して云へり」と、かく神は重ね/\その予言者を通して福音確立の日あるべきを誓ひ給ふた、それは我等が旧約聖書の各処に発見する所にして、一度予言者の筆端此事に触るゝや、その想その辞共に高調に達し、花の如き美はしさと蜜の如き甘さとが其言葉を彩りて妙なる希望の美曲を奏で出づるのである、旧約聖書をして希望満々たる書たらしむるは実に之である、げにメシヤ予言は旧約の肉の肉、骨の骨、髄の髄、生命《いのち》の生命である。
(44) パウロは斯くの如き巨大なる旧約的背景を第二節に於て記したのである、そして自己の唱道する福音が決して自己創造の教説にあらずして古へより予言者の予め示したる事――予言者を通して神の誓ひ給へる事――なるを主張したのである、茲にパウロの拠り所がある、茲に過去数千年が彼の後援者として立つ、彼が聖書を以て自己宣伝の福音を擁護せしめし処に彼の周到なる用意と、又真正の伝道者たる特徴が存する、我等は古き聖書に拠る時最も確実である、自己発明の新説を唱道する時最も不確実である、そは古き聖書の教ふる所は永久に新しきに反して、人間所造の新説は忽ち旧説となりて路傍に遺棄せらるゝがためである、今や人は古き聖書を棄てゝ徒らに新説より新説へと転々す、そして聖書に示さるゝ神の道を閑却して人の所造にかゝる種々の学説教義を説明し、講述し、研究し、遵奉し以て得々として居る、げに危ふき極みである、あゝ人よ早く空しき努力を去れ、而して永久に新且真なる神の言に頼れ。
 最も進歩的の人なりしパウロは又最も保守的の人であつた、彼は古き聖書に頼り、古き旧き予言を以て最も新しき福音を擁護せしめた、彼を称して矛盾の人と云ふ勿れ、寧ろ偉大の人と云へ、進歩と保守とを一身に兼ねて人は初めて偉大である、凡そ人類の歴史に一大時期を劃せし偉人は概ね此種の人である、ルーテルは如何、クロムヱルは如何、リンカンは如何、グラッドストンは如何、グラッドストンの進歩的大政治家たるは誰人も知る処であるが、その信仰の頗る保守的なりしも亦著明の事実である、其他ルーテル、クロムヱル等孰れも敬虔なる使徒時代的信仰の所有者であつた、進歩と保守の一致する所、旧と新との融合する所、そこに真醇なるものが生起する、パウロほど進歩的の人はなく又パウロほど保守的の人はなかつた、これ彼が人類中最偉大の人たりし明かなる証拠であると思ふ。
 
(45)     第四講 パウロの自己紹介(三) 第一章 三、四節の研究 (二月六日)
 
 一節の終に「福音」の一語出でしため、二節は之を受けて「此福音は従前《はやく》より予言者たちに託りて聖書に誓ひ給へるものにて」と述べ、三節前半は「其子我等の主イエスキリストを指して示せり」と云ふ、これ福音の中心問題が「神の独子」なることを示したのである、そして三節後半と四節とは此の独子について記して云ふ「彼は肉体に由ればダビデの裔より生れ、聖善の霊性に由れば甦りし事によりて明かに神の子たること顕はれたり」と、これ使徒パウロの基督観の簡約にして、此自己紹介の中枢、弓形橋の要石たるものである。
 この三、四節は原文に於て僅かに二十八字、英訳に於て四十一字(共に冠詞をも加算して)より成りて、一節より七節に亘る一|成文《センテンス》の一部たるに過ぎないが、其内容の荘大、深遠、高貴なるは誰人も認めざるを得ざる処である、一節−七節を表門と見たる吾人の比喩を用ふれば、既に表門の閾《しきゐ》を見、鴨居を仰ぎたる縦覧者は測らずも天井を仰ぎて其処に一大彫刻物を認めたるが如きものである、「大」と云ふは其大いさを指さずして実質を指す、まことに類稀なる大傑作である、しかし乍ら凡て大傑作の特徴として之を領得することは容易でない、大体を掴むことは甚しく困難ではないが其全部を精密に且正確に知得することは至難である、されば此彫刻物の不可解なるに困惑し果てゝ遂に本館に入らずして此処より引返す者少なくないのである、由来パウロの文章には斯かる難所少からずして、此両節については大註解者が各その説を異にする有様である、ために我等も適帰する所に迷ふのである、しかし乍らパウロは固より人を苦しめんために不可解の文辞を弄した人ではない、必ずや或重大なる真理を提示するを目的として、彼自身に於ては極て明瞭なることを――あまりに明瞭なるがため――簡潔に記し(46)たのであらう、故に我等は此両節を成るべく能く理解せんことを努むべきである。
 日本訳聖書の訳は正確でない、今原文を左の如くに訳して見よう。
  〔この福音は従前より其預言者たちによりて聖書に誓ひ給へるものにて〕神の子に関するものなり、彼は肉によればダビデの裔より生れ聖なる霊によれば死よりの復活を以て明かに神の子たること顕れたる者、即ち我等の主イエスキリストなり。
これは決して完全なる改訳ではない、たゞ成るべく邦訳聖書の訳文を破壊しない程度で試みた仮の訳である、茲にイエスが唯の偉人又は聖人として記されて居ないことは一読して明かである、難ずる者は云ふであらう、イエスはイエスで可い、単なる人、偉人、聖人、ナザレの預言者で可い、かゝる難かしき基督論は不用である、まして書翰劈頭の自己紹介中に斯かる面倒なる神学的命題を記すが如きはパウロ其人の意を知るに苦しむと。
 かゝる立場より見る時は、この三、四節には少からぬ難問題が含まるゝのである、大工の子イエスがダビデ王統の人なりしとは、当時の猶太人にも異邦人にも明かに一の大疑問である、勿論彼等の容易に承認しがたき事であつたに相違ない、然るに此イエスは神の子であると云ふ、神の子とは神の子たちの意ではない、神の独子(The Son of God)の意である、然らば普通の人と全く本質を異にせる或る存在者を指すに相違ない、故に之は尚ほ難かしき問題である、然るに彼が神の子たる事の明かとなつたのは復活に依るとは益々大なる難問題である、復活其事が既に信じ難き事である、然るに之を以てイエス神性の証拠とすると云ふ、もし何か他の解し易き事――例へば彼の人格とか教訓とか業為とかの類――に於てイエスの神性が現はれたとならば之を理解するの道もあらう、然るに極めて疑はしき彼の復活を提《ひつさ》げて神性を証拠立てんとは恰も空虚の上に壮屋を築かんとする類《たぐゐ》ではないか、(47)併し仮に数歩を譲つてイエスの甦りを事実と認むるも、何故に甦りし事が彼の神性を現はしたかゞ明かに一の難問題となるのである、甦りと云ふ事が若し在るならば必しも彼一人に限つたことはなからう、然るに彼のみ其事のために神の子たること顕はれたと云ふは論拠頗る薄弱であると、かく見来れば此両節中に幾つもの難問題が潜んで居るのである。
 尚ほ一つの問題がある、「ダビデの裔」とある裔は原語 sperma(スべルマ)で男系の裔を意味す、然らばヨセフをダビデの後裔と見て其子たるイエスを「ダビデの裔より生れ」と云ふたのであらう、果して然らば福音書の強調するイエスの処女出生はパウロの否認する所であるのかと、これ亦聖書解釈上の一難問である、現にマイヤーの羅馬書註解(英訳四十五、六頁)は之を以てヨセフの家系を示すとなし、パウロは処女出生を其文書の何処に於ても支持せずとの頗る明快なる論定を下してゐるのに対して、ゴオデーは其羅馬書誌解(英訳百廿八頁)に於て可成り有力なる根拠の上に之をマリアの家系と見て、マイヤーと正反対の意見を提出して居る、孰れの見方にも相当の根拠ありて、信仰問題としてはいざ知らず、聖書学上の問題としては人をして取捨に迷はしむるのである。
 然り難問題は羅馬書一章三、四節には幾つも潜んでゐる、併し聖書は由来信仰の立場に於て読むを本義とする、辞義の攻究固より肝要であるが、信仰の眼を以てせずしては聖書は謎の世界である、聖書は信仰の書である、そして信仰の書は信仰の鏡に照らされて初めて其真の姿を現はすのである、霊の事は霊の眼にしか映らない、我等は信仰なき者の奇怪とする所、聖書学者の至難とする所をも霊の眼を以て見透さんとの勇猛心を揮ふを要するのである。
(48) 「肉によれば」とは何を意味するか、ゴオデーの研究によれば聖書の「肉」(希臘語 sarkos 英語 flesh に当る)には三義ある、第一は骨や血に対する肉の意で肉それ自身を指す、第二は体全部即ち肉体を意味する、第三は人問を意味する、此第三義の例を挙ぐれば「諸人(all flesh)こぞりて汝に来らん」(詩六十五の二)「神の前に義とせらるゝ者一人だに有ることなし(直訳――凡ての|肉〔付△圏点〕神の前に義とせられず)」(ロマ書三の廿)等ある、邦訳聖書が「肉体」と訳したのは此第二義を採つたのであるが、パウロは単にイエスの肉体のみを意味したのであらうか、イエスに神性と人性の兼有を信じ居たる彼は、寧ろ此場合肉なる文字を第三義に用ひたのであると思ふ。 即ちイエスは「人としては」ダビデの裔より生れたのである、これ彼の人的半面である、そして「聖き霊」によれば神の独子なのである、彼には二の性質があつた、|彼は一面人であつて一面神であつた〔付○圏点〕、彼に於ては人性と神性との両者が融合して一となつて居た、これパウロの主張であつた、そして羅馬書一章三、四節の主意は茲にある、之を形而上学的に又は神学的に講究することは暫く別として、単純なる基督者の信仰の立場より眺むるとき之は是非とも|不可欠の《なくてはならぬ》事である、イエスの神性が否定せらるゝ時は信仰の拠て立つべき土台が失せる、我等は空を踏まへて信仰の脚を立つることは出来ない、彼を単なる人と見るは理論上に於ては或は困難に陥らぬ道であるかも知れぬ、之を合理的《ラシヨナル》と称して誇る人が多い、果して事実上合理的なるかは一疑問であるが少くとも合理的に見えることは慥である、しかし斯くては信仰其ものが殆ど有るか無きかの如く稀薄となり去るを如何、感謝なく歓喜なく平安なく詩なく歌なきは此種の立場である、事実は雄弁以上の雄弁である、見よユニテリヤン教の如何に乾燥無味なるよ! 見よユニテリヤン教徒の如何に信仰的潤味を欠けるよ! 彼等に種々の長処がないではない、さり乍ら最も重要なる霊的生命の中核を欠けることは、彼等に感謝の詩なく歓喜の歌なきに依て明かで(49)ある、人の最も切に求むるものは理論の純一に非ずして魂の純一である、而して魂の純一は涙の伴ふ信仰に依らずしては得られない、我等は勿論理論を蔑視するものではない、たゞ理論に囚はれて心霊の光を鈍らする徒を蔑視するものである、人よ我等を以てかの狂信者流となす勿れ。
 然りイエスの神性を認むるは信仰をして信仰たらしむる道である、其故如何、けだし救拯なき処信仰は生起しない、而して人は単なる同類の一人に依て救拯に与り得べき者ではない、何となれば人は如何に偉大なりとも其揮ふ能力に制限があるからである、数年前までは米の大統領ウイルソンは世界の救済者の如く思はれて居た、しかし今や果して如何、彼は今日に於て寧ろ世界の壊乱者たらざるかを思はしむる程である、世界に於て今や誰一人として彼に依て救はれようとする者はない、さはれ是れ必しもウイルソンの罪にあらず、|由来人間には人間を救ふ力が与へられて居ない〔付△圏点〕、救拯は唯万物の主なる神と其代理者たる独子キリストとのみより来る その他の誰人よりも真の意味の救拯は来らない、ダビデよりもソロモンよりも、イザヤよりもヱレミヤよりも、パウロよりもルーテルよりも救は来らない、イエス若し単なるダビデの後裔であるならば如何に絶倫無比の人格者にても到底人を救ひ得ない、|唯彼に神の性があればこそ人を救ひ得たのである〔付○圏点〕、又救ひ得るのである、人の持たぬ性が彼にあればこそ人の持たぬ力が彼に有りて人類の救者たり得るのである、之は彼の救に浴した者に於ては極て明々白々なる実験上の真理である、此事が根柢になくば基督教は有るも効なき宗教である、浅く民の女《むすめ》の傷を医やして平康からざるに平康し/\と云ふ教である、基督教がイエスの神性の上に立つて居らぬ宗教ならば我等は一刻も早く此宗教を去るべきである、何となればこの宗教を信奉せしために種々の苦痛や不便に逢ふは愚の極であるからである、もし基督教が人を救ひ得る宗教であるならは、是非ともイエスの神性を其根蔕として持つものでな(50)くてはならぬ、故に云ふ、イエスは明かに神の独子である、その神性は日の如く月の如く明かであると。
 かくイエスの本質として神性を認むる時は、彼は天の栄位を去り身を下して人となつたと見る外ないのである、即ちパウロが晩年に於て、「彼は神の体にて居りしかども自ら其の神と等しく在る所の事を棄て難きことゝ思はず、却て己を虚うし僕の貌をとりて人の如くなれり」(ピリピ二の六、七)と言ひし如くである、即ち神の独子なる彼が人として人間世界に現はれたのである、然らば何故この事に出づる必要ありしかとの疑問が起る、之に答へるものとして我等は希伯来書四章十四−十六節を提示する。
  されば我等に空を通りて昇りし大なる祭司の長即ち神の子イエスあり、故に我等信ずる所の教を固く保つべし、そは我等が荏弱《よはき》を体恤《おもひや》ること能はざる祭司の長は我等に有らず、彼は凡ての事に我等の如く誘はれたれど罪を犯さゞりき、是故に我等|恤《あはれ》みを受け機《をり》に合ふ助となる恩恵を受けんために憚らずして恩寵の座に来るべし。
 神の子がイエスとなり大なる祭司の長となりて人の間に幾年かを人と共に送り、其間患難の風に吹かれ辛苦の雨に打たれ、罪は犯さゞりしも屡々人と同じく誘はれ、人の荏弱を体恤り得る立場に己を置き、遂には万民の罪を購ふために十字架に上り、甦り、空を通りて昇り、今や神の右に坐して祭司の長として人の罪のため刻々執成の労を取りつゝある、かるが故に我等は信ずる所を固く保つべきである、かるが故に我等は「恩恵を受けんために憚らずして恩寵の座に来るべ」きである、一言にして云へば神の子が降世して人となりし故に人の救拯は成立したのである、これなくば人は遂に絶望の捕虜《とりこ》となる運命を脱することは出来ない、イエスに人性と神性の両面が共在したればこそ彼は人類の救主たるのである、|羅馬書一章の三、四節について疑問とすべき点は幾つもある(51)が、その趣意はイエスの人性神性具有のを示すにあるは明かである〔付○圏点〕、そして此事は彼が救主たるべく必須のことであつて、從つて我等の救拯のために必須のことである、頭脳の上にのみ福音を悟了せんとする人には之は躓きの石である、しかし其の全心魂を挙げて救拯の実得と生命の分与に与らんと志せる悩める魂に取りては実にまことに天来の福音である。
 イエスはダビデの裔より出づ、故に人である、史的人物である、即ち過去の人である。イエスは神の子である、故に主である、今在る者である、昔在り今在り後在り、昨日も今日も永遠《いつ》までも変らざる者である……
 イエスはダビデの子である、故にユダヤ人の王として生れしものである、約束のメシヤ、イスラエルの救出者である。イエスは神の子である、故に人類の首《かしら》として降りしものである、王の王、主の主、人類を永遠に救ひ之をして永遠の生命に浴さしむる者である……
 然らば「死よりの復活を以て明かに神の子たること顕はれた」との四節の断定の意味は如何、之を二方面より眺むるを得と思ふ、第一彼は初から神の子であつた、「太初《はじめ》に道《ことば》あり、道は神と共にあり、道は即ち神なり」と云ふ、然り彼は太初から――生誕より前に、勿論復活より前に――神の子であつた、慥かに然うであつた、しかし然うあつたのみで然う表はれなかつた、然るに彼は人となりて死するや忽ち復活した、茲に於て彼の神の子であつた事が初て明かに人々に表はれたのである、見よ彼の使徒すら真に彼を神の子と認めたのは彼の復活てふ一大事実に接せし後であつた、その以前に於て「汝はキリスト、活ける神の子なり」との彼等の信仰をペテロが述べたのは未だ点睛せざる画竜であつた、されば彼等は復活を彼の神性の証拠として掲げた「既に神はイエスを甦らせ給へり、我等は皆その証人なり……されば凡てイスラエルの全家よ、汝等が十字架に釘けし此イエスを立てゝ(52)神これを主となしキリストとなし給ひし事を確に知れ」(行伝二章)と、実に復活によりて彼の神の子たることが顕彰せられたのである、もとより然りしと雖も其然る事が之に依て事実的に表はれたのである。
 第二に我等は之を他の方面より見ることが出来る、「明かに」と訳されし原語は en dunamai(エン ドウナマイ)であつて之を英語にて with power(力を以て)と訳してある、「明かに」は勿論意訳であるが決して充分な訳字ではない、次に「顕はれたる」は原語 horisthemtos(ホリスセントス)にして、之に種々の意義あるため孰れを採るべきかゞ学者間の問題となるのであるが、|立てられたる〔付ゴマ点〕との意に取ることも出来るのである、然る時は「死よりの復活により権能を以て神の子として立てられたる者」と改訳する事も文字上優に容《ゆる》さるゝのである、|かく見る時は復活後のキリストは或特殊の位に即いたのであつて、降世以前の彼とは別の或状態に入つたと見ることが出来るのである〔付○圏点〕。
 これ神学的には大問題であるが聖書の教ふる処は慥に茲にあると思ふ、即ち神の子たる彼が一度人となり復活昇天して再び旧《もと》の神の子となつたのではない、降世以前の彼と昇天以後の彼の間に著しき相違がある、実に神の独子の降世は永久に彼が人となることであつた、彼は神たることを棄てゝ人となり了つたのである、三位の神は其一位を永へに棄て去つたのである、「その神と等しくある所の事を棄て難き事と思はず却て己を虚うし……人の如くなり」とは正に此事を云ふたのである、故に三十余年の彼の地上生活に於ては彼の本質は神であつて現実は人であつたのである、そして「既に人の如き形状《ありさま》にて現はれ、己を卑くし、死に至るまで順ひ、十字架の死をさへ受くるに至」った、「是故に神は甚しく彼を崇めて諸々の名に超《まさ》る名を之に与へ給」ふたのである、これ即ち栄化である、彼は旧の所に帰つて悉く人性を脱して再び旧の「道《ことば》」となつたのではない、人として栄化して神(53)の右に坐するに至つたのである、即ち彼は今も尚ほその人たる性を脱せずして栄化せられし人として――しかし其最高位に――在るのである。
 此意味に於ては我等も亦彼に肖たる者となり得るのである、即ち救はれたる者に終に与へらるゝ栄化は現存のキリストに肖たる者となることである、彼は長兄たり嫡子たり他の者は皆彼の弟妹たることを得るのである、「それ神は予め知り給ふ所の者を|其子の形に効はせんと〔付○圏点〕予め之を定む、こは其子を|多くの兄弟〔付○圏点〕の中に|嫡子〔付○圏点〕たらせんが為なり」(ロマ八の二九)とあるが如きは此事を云ふたのである、其他新約聖書の各箇処を総合して此見方の正しきことを我等は知るのである、彼すでに復生《よみがへり》の初穂となり、第一に栄化して長兄として神の右に坐して我等のために執成せる故、「神すでに主を甦らせ給ふ、又その能力をもて我等をも甦らすべ」き事を信じ、栄化して彼に肖たる者となるべき事を信じ、茲に安心と希望を繋ぐのである、「死よりの復活により権能をもて神の子として立てられたる者」と云ふ、意味は極めて深遠である、しかし汲みて尽きせぬ生命の源が茲にあることを誰か否定し得よう。
 「聖書の霊性によれば」と云ふは古来幾多の註解者を悩ましたる一句である、これを原文のまゝに訳すれば「聖なる霊によれば」である、「聖なる霊」とは何を意味するか、原語 pneuma hagiosunes(プニウマ ハギオースネース)は英語の spirit of holiness に当り、|聖浄の霊〔附ごま点〕の意である、聖浄の霊とは何を指すか、頗る朦朧たる語句である、ために幾つもの解釈が生れたのであるが、大体に於て之を左の三類に分つことが出来る。
  第一、|聖霊〔付○圏点〕と見る、此見方を取つた人はクリソストム、フリッチェ、べツァ、トルック、ゴウデー等である。
  第二、|神性〔付○圏点〕と見る、此見方の人はメランクトン、べンゲル、ガアヴイ、オルスハゥゼン等である。
(54)  第三、|霊性〔付○圏点〕と見る、即ち人としてのイエスの霊性(神性にあらず)、しかし特別に聖なる故|聖なる霊〔付ごま点〕と云ふたのであると、之を主張する人はマイヤー等である。
以上三の中孰れを採るも文字上の故障はない、即ち「聖なる霊」といふ語は以上の孰れをも意味し得る語である、従つて孰れを採るべきかと云ふ事が単に意味の上の問題となる、是れ此句の解釈の難しき理由である、大聖書学者を悩ましたる此種の問題については我等は軽々に最後の決定を与ふることを避くべきである、以上の三意は孰れも多分原意に近いものであらう(よし正解でないとしても)、或はパウロは此三義を兼ねた積りで斯る広い語を用ひたのかも知れぬ、孰れにしても死と共に死せざる|或霊的のもの〔付ゴマ点〕を指したことは明かである、此或者によればダビデの子イエスは復活を以て神の子として現はれたとパウロは云ふのである、即ち第四節の主意は其含む難句の如何に係らず頗る明晰であると思ふ。
 第四節の最後には「即ち我等の主イエスキリストなり」とある、之を原語の順序のまゝに訳せば
  |イエス キリスト 我等の主〔ゴシック〕
である、「イエス」はたゞ人としての名即ち彼の人たることを示す、「キリスト」はメシヤ即ち受膏者を意味す、ダビデの子、イスラエルの王としてイスラエル積年の希望たりし購ひ主である、さればキリストなる名称は厳密に云へばユダヤ人にのみ係りある語にて異邦人たる我等には係りなきものである、「我等の主」とは万民の主を意味する、万民の罪を担ひて十字架に死し甦りて神の子の栄位に即き、神の右に坐して永へに生き、今我等のために執成し、今我等に恩恵と平康を与へ生命と力とを賜はり、時満つれば再び臨るべき人類の救主を云ふ、以上の三性質を兼ぬる者が「我等の主イエスキリスト」である、人であると共にユダヤ人の王であり、ユダヤ人の王(55)であると共に人類の主であるのが即ち|主イエスキリスト〔付○圏点〕である、「イエス」と「キリスト」とは時間と空間との制限を受くる史的人物として彼を示し、「主」は時間空間を超越せる永遠無碍の存在者として彼を示す、「主」が最も広く且重き語であることは云ふまでもない、此語を以て彼と人類との関係が云ひ表はされるのである、されば福音を称して|キリスト教〔付○圏点〕と云ふは実は不充分である、キリスト教は即ちメシヤ教と云ふと等しく単に猶太人に係はる語である、「主」を希臘語に於てキリオスと云ふ、故に之を|キリオス教〔付○圏点〕と改称する時初めてその全人類に係はる救の音信なることが示さるゝのである、それはともかく「主イエスキリスト」なる一語は不用意に発せらるべき語ではない、彼の本性を三方面より言ひ表はせし語として其内容の広く高く且深きに注意せねばならぬ、然るに今や此語を無意味に口にする者甚だ多きは歎ずべきことである。
 
     第五講 パウロの自己紹介(四) 第一章五−七節の研究 (二月十三日)
 
 三、四節はイエスを人として又神の子として提示するを主眼とした、第五節はこれを受けて「われら彼より恩恵と使徒の職《つとめ》を受く」と記し、次に其理由として「これ其名のために万国の人々をして信仰の道に従はせんとなり」と記したのである。
 「恩恵」とは何を意味するか、原語 charis(カリス)は英語 grace に当り種々の意味を有する語である、しかし神又はキリストの恩恵と云ふ時は「人に対しての自発的なる、制限せられざる愛」を意味する(グリーンの文法書に拠る)、そして第五節の「恩恵」は別に他の語を以て限られてない故広義に解すべきものである、マイヤーが之を「凡ての神の恩恵」(the entire divine grace)と解したのは寔に合適であると思ふ、即ち救に与り、罪を赦(56)され、生命に浴し、歓喜と平安を味ひ、永遠の希望を与へらるゝに至りし一切を指すのである、一言にして云へば「救の恩恵」(ゴオデー)と云ふことも出来る、その如何なるものであるかは屡々涙を以て此事を感謝せし凡ての基督者の知る所である(よし深浅の別はありと云へ)。
 先づ一般的の事を記し次に特殊的の事に移るはパウロの慣用する筆法である、主より恩恵を受けし点に於て筆者たるパウロも読者たる羅馬府の信徒も全く同一である、彼は此の両者の共通点を挙げて先づ温味を読者に注ぎたる後ち、「使碇の職を受く」と自己の特異点に触れたのである、自己の権能を記す前に先づ読者と同列に己を置くは「イエスキリストの僕、召されし使徒」と第一節に記したると同様である。
 「われら|彼より〔付○圏点〕恩恵と使徒の職を受く」と云ふ、「彼より」はキリストよりである、更に精確に云へばキリストを通してゞある(原語の dia は英語の through に当る)、賦与者は神である、仲介者はキリストである、凡ての恩恵は神よりキリストを通して降るのである、これ聖書の教ふる所にして又実験上の真理である、近代の信者は言ふ、我等は仲介者を以て神との関係を間接にせらるゝを忌む、人は各自直接にその神に連り得べきものである、人は皆神の子であり神は凡ての人の父である、父子の関係は直接であるべきであると、洵に尤もらしき説である、しかし乍ら事実が雄弁に此事を否定するを如何、そはキリストを除きて神と人との関係を近からしめんとするは、却てそれを遠からしむる道であるからである、人はキリストなくして神と達らんとするも事実上連り得ない、キリストを間に置きて初めて人は神と結び得るのである、これが心霊上の実験的事実である、恰も山巓を究むるには登山路を攀ぢ登らざるべからざる如く、電気は電線を通して初めて電灯を照し得るが如くである、キリストを間に置きて初めて恩恵は彼を通して我等に下る、これ実に生命獲得の道である、古来敬虔有力の信者は(57)悉く此道に拠りたるを史に眺めよ、重ねて言ふ我等は理論に拠らず事実に拠ると。
 五節後半は五節前半の理由である、「これ其名のために万国の人々をして信仰の道に従はせんとなり」と云ふ、之を改めて「これ其名のために異邦の万民をして信仰の服従に入らしめんため也」とする方原意に近い。
 「其名のために」即ちキリストの名のためにと云ふ、何故「万民を救ふために」と言はないのであるか、人類に対する福音宣伝は人類それ自身の救済のためではないか、イエス自身亦全人類のために十字架の死さへ受けたではないか、何故にパウロは万民のためと云はずしてキリストの名のためと云ふたのか……これ如何にも近代人の出しさうな抗議である、さりながらパウロの心を常に最も強く占領して居たのは|世界万民にあらずしてキリスト彼自身である〔付○圏点〕、従つて彼の福音宣伝は彼の名のため、彼の聖名の揚がらんためであつた、勿論万民を思はなかつたのではない、牧者《かうもの》なき迷羊の痛ましき姿は鋭感なる彼の心を強く動かしたに相違ない、しかし乍ら此痛ましき姿よりも彼《かの》聖なる姿がヨリ鮮かに彼の心に映つたのである、先づキリストのため、然る後同胞人類のためである、これ主にある健全なる心の態である、パウロの言は常に意表に出づるが如くにして実は決して意表に出でないのである。
 「異邦の万民をして(凡ての異邦人をして)」とあるはパウロが異邦伝道の使命を受けし使徒なる故である、「信仰の服従に入らしめんため也」とあるは原文「信仰の服従に迄」とあるのみなるを補訳したのである、今や服従といふ語は人の忌み嫌ふものである、さはれ吾人の実験は信仰の服従のみが人を自由独立ならしむる事を教ふるのである、人は信仰を以て神に服従して初めて自主の民となり得る、この服従を斥くる者は何か他の空しき人又は力に服従して其奴隷となるの已むなきに至るのである、見よ服従すべき者に服従するを厭ひて絶対の自由(58)境に至らんと志して却て物慾の奴隷となれる現代人の惨状を、実に現代は凡ゆる権力の支配を逃れんとして全然無服従の生活に憧憬し、国家の権能より、道徳の権能より、又神の権能より脱せんと焦燥せる時代である、併し乍ら斯くの如き努力は人をして神よりも、道徳よりも、国家よりも遥かに低き他の者に服従隷属せしむる所以である、人は服従すべき者に服従して初めて自由独立の人たり得る、信仰の服従とは圧制、威迫を含む事にあらず、最も美はしき服従である、最も貴き服従である、花の如く麗に、月の如く優なるものである。 「異邦の万民」の語が五節にあるのを受けて第六節は「汝等も其人々の中に在りてイエスキリストの召を受けし者なり」と云ふ、羅馬の信者は第一に異邦の万民の一部である、そして異邦の万民はパウロが福音宣伝の使命の領域である、此意味に於て彼等が単に異邦人の一部であると云ふ事のみにても彼と彼等との間に離れ難き関係がある、然るに第二に彼等は「イエスキリストの召を受けし者」である、彼も亦一節に記せし通り召されし者である、共にキリストに召され、共に父なる神を神とし主イエスキリストを主とする者である、されば彼と彼等との関係は二重に密接である、二者の間には離れんとして離れ難き関係が存するのである、誠に共にキリストに召されて人と人との友交は不易である、人と人と相繋がらずキリストに依て各自相つながる、間接の如くにして最も密接なる関係である、茲に凡ゆる差異区別を打破して立つ真の友交が存するのである。
 一節より六節に至る迂回路を取りて羅馬書の送り手と受け手は終に握手した、故に送り手は第七節の前半に於て「我れ凡てロマに在る所の神に愛《いつくし》まれ召を蒙り聖徒と成れる者にまで書を贈る」と云ふたのである、単に 「ロマに在る所の聖徒」と云はず「神に愛まれ召を蒙り」と添加したる所にパウロ式の潤味がある、歓喜に溢れしパウロは斯く云はざるを得なかつたのである、先づ神に愛まるゝが第一、そして第二が召を蒙むることである、か(59)くして初めて聖徒たり得るのである、神に愛まると云ひ召を蒙ると云ひ共に美はしき語である、此二句に接して羅馬の信者は感謝の懐かしき思出を以て其悔改当時を回想したことであらう――今日の我等も亦然るが如く。
 神に愛まれ召を蒙りて聖徒となつたのである、信者が信者自身聖徒と称する時は俗人は之を驕慢として憎み且嘲る、曰く信者も亦罪を犯すにあらずやと、然り信者も亦罪を犯す、即ち聖徒も亦決して聖くないのである、しかし由来「聖徒」とは聖き徒即ち聖浄無疵の徒を意味する語ではない、原語聖書には hagiois(ハギオイス)とありて hagios(ハギオス)より出でし語である、そして茲に注意すべきは此ハギオスと hosios(ホシオス)との別である、ホシオスは事実上聖きを意味しハギオスは聖き事に用ひらるゝを意味す、ホシオスは一点の汚れなきを示しハギオスは只神が聖き目的のために用ふるを示す、この二語は頗る似て而も大に異なるものである、そして聖徒はハギオスである、完全に聖き者ではない、聖き事のために用ひらるゝ者である、神の選別と聖召とを受けし者、世より選び出されて聖別せられし者である。
 神殿に於て用ひらるゝ素焼の土器は器としては甚だ無価値のものである、しかしそれが神事に用ひらるゝが故に貴いのである、此意味に於てそれは聖器である、「われら此宝を土の器に蔵《も》れり」とパウロは云ふた、我等は真に土の器である、価値なき、脆き、壊《やぶ》れ易き者である、しかし神に聖別せられて聖事に用ひらるゝ意味に於て聖徒である、故に我等の積罪垢汚は我等の聖徒たるに於て何等の妨げをなさぬのである、否罪の増す所恩恵は弥増すのである、我等は斯く言ふて自己の罪を弁護せんとするのではない、罪を犯さざらんこと、聖きに至らんことは基督者の念々刻々の希望であるべきである、罪を犯して恥ぢざる者は基督者ではない、さはれ聖徒なる文字の意義は明確に了知して置かねばならぬ、此一事を知らざるため自己の罪多きに失望して効なき煩悶を重ね、曾(60)て受けたる聖召を空無と感じ、失望の極信仰を喪失するに至る人が少なくない、摯実なる魂の所有者に却て此危険がある、これ聖徒の意味を誤解せるより起ることである、聖徒即ち基督者は決して今聖浄無疵なるものではない、唯聖召を受け聖別せられて聖事に用ひらるゝ者たるに過ぎない、然らば基督者は何時までも聖くなり得ぬ者であらうか、否基督者は永久に聖くなり得ぬ者ではない、その切に願ふ所は全き聖潔であつて其遂に到達する所は全き聖潔である、しかし是れ自己の力によつて到達するに非ず、遂に神に依て聖化され栄化さるゝのである、其時の歓喜抃舞果して如何なるべき、想ふだに心躍るは其時のことである、それ迄は基督者は「聖からざる聖徒」である、けれども疑ひもなく「聖徒」である。
 以上一節より七節前半までに於てコリントよりロマまでの大アーチは愈よ出来したのである、アーチの渡されし距離は遠くして而も関係は頗る密である、共に神よりキリストを通して召されし者、共に恩恵を受けし者である、即ちパウロも彼等もキリストに在りて一なるものである、かくキリストに在りて一なる者の一人より他の者に書を贈るのであるとパウロは言ふ、見事にアーチの造られしかな、かくて此アーチを超えて甲は乙に祝福を送るのである、即ち七章後半に曰ふ「汝等願くは我等の父なる神及び主イエスキリストより恩恵と平康を受けよ」と。
 「恩恵」は第五節の恩恵と同義に用ひられしものと思はる、神とキリストよりの凡ての賜を指すのである、その内容は基督者の実験上熟知せる所である、「平康」は英語 peace、原語に於て eirene(アイレーネー)である、これ恩恵に接したる結果として起る一種言ひ難き微妙なる心の平安を云ふ、「神と和《やはら》ぎしため心に与へらるゝ深き静謐又は内的安心の感」とゴオデーは之を説明して居る、その貴さは之を味へる者の熟知せる所である。
(61) この恩恵と平康が「我等の父なる神及び主イエスキリストより」来るのである、神を「我等の父なる神」と呼びイエスを「主イエスキリスト」と呼ぶ、甲は父にして乙は主である、最も美はしく意味深き称号である、恩恵と平康が神とキリストとの両者より来るのか、又は第五節の解義に於て説明せし如く神よりキリストを通して来るか、これ一の疑義であると思ふ、字義の上より見る時英語の from に当る apo(アポー)なる前置詞が神とキリストとの両者に係れる故を以て、二者を恩恵と平康の源泉と見る前説を採る人がある、併し此字義上の関係が神を源泉としキリストを仲介者とする事実を少しも妨げぬと断じて乙説に固執する人もある、孰れにせよ恩恵と平康が神とキリストとより来ることは実験上の事実である、そして神のみを挙げなかつた処にパウロの特色が存するのである、神のみを挙ぐれば足ると云ふは近代人の理論たるに過ぎない、信仰の偉人使徒パウロは其実験上より神とキリストとの両者を挙げざるを得なかつた、そして近代の信者と雖も理論より霊的実験を重んずる者は亦然るのである。
 七節後半は原文の通りに訳せば「願くは我等の父なる神と主イエスキリストとより汝等に恩恵と平康あらんことを」となる、即ち是れ祈りの語である、兄弟に向つての祈りとして最も美はしきものであると云ふべきである、併し乍ら或は云ふ人があるであらう、書翰に於て「平安を祈る」と云ふ意味の語を記すは不信者も亦能くし得る処でないかと、答へて言ふ、不信者の祈りの語とパウロの此語との間には第一に意味上に大なる相違があり第二に実際に祈らぬと祈るとの相違があると、徒らに「平安を祈る」と書翰に記すも事実上祈らざるは不信者である、パウロの如き人は単に斯く記すに止まつた人ではない、必ずやロマの兄弟のためにその恩恵と平康とを数多度《あまたゝび》熱心に祈つたに相違ない、かく思ふとき此語に一層の力を感知するのである。
(62) 然りパウロは世界の中心ロマ府を忘れ得る人ではなかつた、そして其処に住む所の少数の信者を忘れ得る人ではなかつた、彼がコリントにありて此書を認めし前、小亜細亜の各地を廻りつゝありし時、彼は日に幾度となく心を西方に向けてカイザルの都ロマ府を想つたことであらう、そして其処の聖徒のために篤き祈を神に献げたことであらう、彼は世界の中心に立つ彼等の基督者としての責任の大を痛切に思つたに相違ない、キリストの聖名の揚がらんことを生涯の願とした彼が斯く思はぬことは出来なかつたに相違ない、従つて彼等の信仰の堅立は単に彼等自身のためのみでなく、キリストの聖名のため、神の栄光のため、福音の世界に弘まらんため、全世界人類の救ひのために頗る必要なことであつた、されば神を思ひ、キリストを思ひ、福音を思ひ、世界人類を思ふパウロはロマの信徒のために切なる祈を献げざるを得なかつた、彼等の信仰の堅立を祈り、彼等の上に父なる神と主イエスキリストとより恩恵と平康の来らんことを祈らざるを得なかつたのである。
 以上を以て自己紹介の部を終る、其中に幾つもの貴重なる真理含まる、之を能く解せし人は福音其ものを了解せし人である、真に是れ基督教の縮写図である、その一語々々に此世の他の処に於て見出し得ぬ特異なる真理が存する。
       一章一節−七節の直訳
(1)パウロ イエスキリストの僕、召されし使徒 神の福音のために選別せられたる、(2)此福音は 彼の預言者たちを通して 聖書に於て 従前《はやく》より誓ひ給へるものにて (3)彼の子に関するものなり、彼は肉によれば、ダビデの裔より生れ (4)聖き霊によれば 死者の復活を以て 能《ちから》を以て 神の子として立てられし者 即ち我等の主イエスキリストなり、主(5)彼を通して我等恩恵と使徒職を受く 凡ての異邦人に於ける信仰の服従にまで 彼の名(63)のために (6)汝等も英人々の中にありて イエスキリストに召されしものなり、(7)ロマにある凡ての 神に愛せられ 召されて聖徒たる者にまで。汝等に恩恵と平康あれかし 我等の父なる神 及び主イエスキリストより。
       右の意訳
(1)我れパゥロ、イエスキリストの奴隷たる点に於ては汝等と全く等しきもの、併し特に召されて使徒となりしもの、又神の福音のために前以て選別し置かれし者、(2)此福音は今突然現はれしものにあらず、又我自身の創説にもあらず、神が旧約聖書に於て其出現を古くより其預言者たちの口を通して約束し給へるものにて、(3)神の子に関係せる所のものなり、神の子とは誰か 肉によればダビデの王統の裔として生れ、(4)聖き霊によれば死者の中より復活せしために神の子なることが力強く表はれしもの(又は権能を以て神の子と立てられしもの)即ち我等の主なるイエスキリストなり、(5)此イエスキリストを通して我等は救に浴して各種の恩恵を受け、其上使徒職を受けたり、そは彼の名の揚がらんため異邦万国の民をして信仰の服従(信仰によりて神に服従すること)に入らしめん為なり、(6)而して汝等は実に此異邦民中の一部にて、且我等同様イエスキリストに召されて信者となりしものなり、(7)(第一節を受けて)ロマ府に今住める所の神に愛せられ召されて聖徒となりし者にまで此書翰を送る。願くは我等の父なる神及び主イエスキリストより汝等に恩恵と平康と来らんことを祈る。
       ――――――――――
       附言
第四節「聖書の霊性によれば甦りし事によりて明かに神の子たること顕はれたり」とあるは全節悉く難解であること上述せし通りである、其中「甦りし事によりて」は原語には「死者(複数)の復活によりて」とある(ex(64)anastaseos nekron) 普通は之を「死者の中よりの復活」と見てキリストの復活を指すと解してゐる、これは事実を文字の中に読み込みしものである、文字上より云へば「キリストが死者を復活せしめ給ふ事によりて」と解する方が寧ろ自然であるかも知れない。
 もしパウロの意味が茲にあつたとすれば、それは霊的死者を霊的に復活せしむること、即ち多くの者を新生命に入れる事を意味することゝなる(霊的死者と明示はしてないが)、何となれば此場合は既往の事故未来に起る肉体の復活を指さない事は明かであるからである、然る時は第四節は人々を霊的に甦らしめる事を以てキリスト神性の証拠となした事になるのである、もしパウロの真意が茲にあつたとすれば彼は此場合余りユニテリヤン的ではないかとの批難が起るかも知れぬ。
 しかし思ふべきはパウロの特性である、彼は一面教理家にして一面実験家である、教理の主張の半面に必ず活ける霊的実験が伴ふ、キリスト復活の主張は或意味に於て教理の主張である、しかし魂に於て死せる者の今の霊的復活は実験である、今後者の起り得るは前者が事実なるがためである、主の復活は人々の霊的復活の原因である、後者は前者あるがために起り得るのである、この両者は一本の糸の両端である、故にキリスト神性の証拠として後者を提出する時は、前者も自から其中に含まれ居ると見るべきである、故に人々を霊的に復活せしむる事によりてキリストの神の子たるが顕はれたと云ふも少しも差支ないと思ふ、かく云ふてもキリストの復活が其神性の証拠となつて居るのである。 〔以上、3・10〕
 
(65)     第六講 羅馬訪問の計画 第一章八−十五節の研究 (二月廿日)
 
 第一章一節−七節の「自己紹介」は寔に重要なる箇処であつた、それを通り来りし我等は恰も累々たる宝石の間を踏みわけつゝ来たやうなものである、然るに我等は又第八節より全く別の世界に導き入れられるのである、前より用ひ来つた比喩によれば、壮麗雄偉なる表門《おもてもん》を通過し終つた我等は愈よ本館に入ること、予期せしに、然《さ》はなくて茲に一の廊下のあるに会したのである、この廊下は宝玉を鏤めし如き表門に比すれば寧ろ簡素樸淳と称すべきものであるため、心なき者は往々にして平凡として之を看過する有様である、併しながら果して是れ平凡であらうか、精密なる注意が先づ之に向つて注がれねばならぬ。
  (8)まづ汝等の信仰を世こぞりて伝揚《いひひろ》めたるが故にイエスキリストによりて汝等|衆人《ひと/”\》につき我神に感謝す、
  (9)我れ其子の福音に於て心をもて事ふる所の神は我が絶えず汝等を懐《おも》ふ其|証《あかし》なり、(10)われ祈祷《いのり》ごとに終には神の旨意に適ひて平坦《やすらか》なる途を得、速かに汝等に到らんことを求む、(11)われ汝等を見んことを深く願ふは汝等を堅固《かた》うせん為に霊の賜を与へんと欲へばなり、(12)即ち我れ汝等の中に在らば互の信仰によりて相共に安慰《なぐさめ》を得べし、(13)兄弟よ我れ屡々志を立て汝等に到り他の邦人《くにびと》の中に在る如く汝等の中より果《み》を得んとせしかども今に至りて尚ほ阻げらる、こを汝等が知らざるを欲まず、(14)我はギリシヤ人及び異邦人また智人《かしこきひと》及び愚人《おろかなるひと》にも負へる所あり、(15)この故に我れ力を尽して福音を汝等ロマにある人々にも伝へんことを願ふ。
一読して受けた印象に於ては、此箇処は単なる挨拶の語にして他の奇なきが如く思はれる、又文字上に於ても次の十六、十七節が容易に了解し難き所なるに反して、十五節までは平易明瞭にして其意味は容易く掴み得るの(66)である、然らば我等は此箇処を平凡無味の所と見做して、特別の注意を払ふ要はないであらうか。
 之を山中の水に譬へる、樹の根を潜り草の葉を渡りて渓に集り、幾つもの渓川が凹地《くぼち》に注ぎ、下より湧き出づる水と合して一の湖を造る、その湖の深さ、静けさ、清らかさは天に向ひて開きたる澄める瞳に譬へつべきものである、その貴さは誰しも認むる所である、湖の水は静かに/\下方に移動して軈て湖口より川となりて流れ出づる、其川は湖に比すれば狭くして浅い。たゞ岩に激しつゝ水が低きに向つて流れゆくのみである、されば浅き観察者は此川を閑却して唯かの湖の奥床しさのみを讃へる、しかし乍ら実は此川に又少からぬ趣きと味ひとがあつて、かの湖に於て見出せし所とは異なる別箇の貴さが在るのである、其水の流れ、其岩のたゝずまひ、其両岸の姿、その浅流、その碧潭……その凡ての物に他には無い所の風趣があるのである、羅馬書一章一−七節を貴みて八−十五節を平凡として棄て去る人は、山中の流を棄てゝその湖のみを愛する浅き人である。因に言ふ、一度川となりて湖より流れ出でし水が軈て突如として一大瀑布の壮観を作り、又川となり、又湖となり、又瀑布となり、数多度《あまたゝび》姿を変へつゝ遂に洋々浩々たる大河となりて海に注ぐが如く、羅馬書全体は幾度も幾度も姿を変へて読者の前に現はれ、そして其何れの姿にもそれ/”\特殊の趣きありて遂に終尾に至るのである、之を読むものは其一語々々に、其一句々々に、其一節々々に、其一章々々に、其凡ての箇処に細心の注意を払はねばならない、一として不用又は無価値のものはないのである。
 まづ注意すべきは|一章八節−十五節がパウロの人格発露である〔付○圏点〕と云ふ事である、一節−八節は自己紹介ではあつたが其内容はパウロの基督教観の網目のやうなものであつた、即ちパウロの神学、パウロの人生観の縮図であつた、そして自己の哲学、自己の所信を発表するに甚だ急であつて決して自己自身を現はさじとする人が世には(67)多い、自己の情緒、感激、意図、心持等をさながらに発表して、自己の有りのまゝの姿を人の前に露呈することを黽めて避けるは貴からぬ人の常である、然るに|パウロは自己の信念と併せて自己其儘の姿を赤裸々に人の前に現はして少しも悔いない人である〔付ごま点〕、茲に彼の偉大さが存するのである、又美はしさが存するのである、八−十五節は即ち此純なる自己発表である。
 我等が此所を読みて彼の性情に触れ、彼の心の動きを見得るとき、一種微妙なる心の糸が彼と我等を繋ぐことを実感する、のみならず之に依て偉大なる基督者の人格を知り得る事は我等に取り種々の意味に於て少からぬ幸福と利益である、世界を動かせし大使徒の人格如何、最も大なる愛をキリストに捧げたる偉人の性情如何、我をも※[火+毀]き尽さんとする如き熾烈敏感なる魂の所有者の偽りなき姿如何、之等を知るは信仰上の実学として其値少からぬのである、もとより此箇処を以てパウロの性情全部を知ることは出来ない、他に哥林多前後書の如き此意味に於て極めて有力なる材料を併せ見るべきは当然の事であるが、少くとも此箇所の真価の茲にあることは先づ明知して置かねばならぬ。
 第八節前半を原文の順序のまゝに記せば
  先づ第一に 感謝す 我神に イエスキリストを通して 汝等凡てにつきて
となる、「第一に」と記すも八節以後に第二も第三も出て来ない、恰も頭あつて尾なきが如くである、文法的に又文章学的に之を推賞することは出来ない、しかし此種の文法無視はパウロには有りがちのことである、彼の書翰中より此種の欠陥を幾つも発見することが出来る、主語あつて説明語たる動詞なき場合の如きも一再に止まらぬのである、勿論此種の不注意は殊更に真似すべき事ではない、しかし文法的不注意は平然として為せしパウロが、(68)大切の事に於ては実に遺憾なき注意を用ひたる一事は我等の充分に学ぷべきことである、所詮文法は形体のことにして孰れにても可なるもの、生ける精神は生命なれば形体の如何に係らず沸々として文字の外に溢れ出づるのである、パウロが注意を用ふべき事と用ふるを要せぬ事との差別を立てたるは大小緩急を各々適当に弁別し且処置したる実務的手腕の一片影であると思ふ。
 「先づ第一に感謝す」である、挨拶の最初が感謝である、人に対する感謝ではない、神に対する感謝である、パウロが歓喜に溢れた人であつて、歓びを唯己の歓びとせず之を神への感謝と云ふ心持に於て味はつた事は注意すべきである、且又神を懐ふ事が常に心の先頭を占めて居つた故、かゝる挨拶の最初に「第一に神に感謝す」と云ふ語が自然と出たのである、実に美はしき心、慕ふべき魂の清さではないか、先づ感謝するのである、先づ神に対して感謝するのである、しかも自己の事業の成功の故ではない、己の名誉が揚がつたからではない、実に人の事について、而も人々の信仰の事について、福音それ自身のことについての感謝である、純にして貴き感謝、且常に神と共に歩める人の心の反映としての感謝である。
 次には「イエスキリストを通して」の一句あるに注意すべきである、これパウロ特愛の句であつて、彼の信仰の性質を示すものである、即ち神と己の間の仲介者としてキリストを見るのである、これ前回に説明せし点である故茲に反覆を要さないのである(前号二八及二九頁参照)、其次には「汝等凡てにつきて」の句がある、パウロの感謝は己についての感謝ではなく、在ロマの凡ての信徒――信徒全体――についての感謝であることが分る。
 第一にイエスキリストを通して我神に汝等凡てにつきて感謝すると云ふ、何を感謝するのか何のための感謝か、之を示すものは此節の後半(原文に於ては)である、即ち邦語聖書に「汝等の信仰を世こぞりて伝揚《いひひろ》めたるが故(69)に」とあるものである、之を正確に云へば「汝等の信仰が全世界に伝揚められたるを」である、パウロは此事を神に感謝したのである、全世界にロマ信徒の信仰が言伝へられたと云ふは誇大に過ぐと難ずる人があるかも知れぬ、勿論此種の用語に於て人は数学的正確を期することは出来ない、全世界と云ふも当時世界に生きて居た凡ゆる人間を含むと見ることは出来ない、しかし「世界」と「地球上」とは決して同一の範囲を指す語ではない、世界といふ語の指す範囲は常に時代に由て異なる、当時の世界は即ち羅馬世界である、羅馬帝国の政令と文化との行き亘つてゐた世界である、未だ独逸の大森林が中欧蛮族の根拠地であつた時、未だ露西亜の大平原が野人と野獣との住所であつた時、未だ英島国が北人争奪の舞台であつた時、勿論未だ南米両大陸は発見せられずして東洋文明は別世界のものであつた時、この時に於ての全世界は地中海を中に挿む所の謂ゆる羅馬世界であつたのである。
 かくの如きが当時の全世界であつた、そしてロマ府は其中心であつた、山巓の水が流れて麓を霑ほす如く、池の中央に投ぜられし石が波を岸まで漂はす如く、首都の事象は噂の波に乗りて自づと羅馬世界全体に聞えるのである、「伝揚められる」の原語は言伝へらると称揚せらるとの両義を有する語である、即ちロマ信徒の信仰が単に言伝へられたるのみならず称揚せられたのである、勿論不信者は之を称揚しなかつたであらう、併し信者は皆これを称揚したのである、首都の信者の信仰が羅馬世界の基督教徒全部に聞えて其称揚を得その信仰を励ましたことは勿論、又不信者の側に於ても評判は可成り高くなつたことゝ思ふ、当時基督教は未だ今日の如く文明国の宗教としては認められなかつたとは云へ、ともかくも猶太人の間より出でし一新宗教として漸く世人の注意を惹くに至つた時であつた、此時首都ロマに若干の信徒が現はれて而かもその信仰の堅固にして操守の厳正であつた(70)事は、恰も燃ゆる焔に新たなる薪を投ぜし如く、羅馬世界の不信者をして、よし好感を以てせずとも少くとも驚異の眼を以て此新宗教に対するに至らしめたことゝ思ふ。
 中央の信徒の信仰的堅立は全世界の信徒を奨励する道となり、又全世界の不信者をして新宗教に注意を向けしむる所以となつた、此二事を含めてパウロは感謝したのであると思ふ、前者は勿論感謝の充分なる動機たり得るが後者は果して如何との疑問も出でやう、しかしパウロがたゞの評判を喜ぶ人でなかつた事は言はずして明かである、彼は斯くして福音が次第に全世界に浸透すべきを思ふて躍り立つ胸の歓びを感じたに相違あるまい、神の福音を全世界に弘流せしむる大志望を其燃ゆる魂に漲らせ居たる大使徒パウロの心を思ふ時、われらは第八節の感謝の動機を知るに於て難くないと思ふ、何れにせよ中央の信徒の重き責任を考へ、その位置に対して適当なる価値の認識と敬意とを以てしたるパウロの細心は注意すべき事である。
 第九節に於てはパウロは彼が絶えずロマの信徒を懐ふ其証者として神を指し示すのである、「……神は我が絶えず汝等を懐ふ其証なり」と云ふ、原文によれば「我証人は神なり」である、パウロがロマの信徒を断えず懐ふて居たこと、そして何とかして彼等を訪はんものをとの切なる望を抱いて居た事、其事は彼の心の中の事実であつて彼の最も能く知つて居ることである、多分彼の二三の友は彼の此心を彼より聞いて知つて居たであらう、しかし誰よりも最も能く此事を知つて居るものは神である、人は之を疑ふかも知れぬ、しかし神はその証者である、そして世に神にまさる証者があらうか、人の中に一人の証者なくも宜しい、我証人は神なりと真実を以て言ひ得るだけの自信あれば足りるのである、寔にパウロ式の雄勁な語であると思ふ。
 この神は如何なる神ぞ、彼は言ふ「われ其子の福音に於て心を以て事ふる所の神」と、「心を以て」は原文「我(71)霊に於て」とある(英語 in my spirit)わが魂に於てゞある、パウロは己が心霊に於て神に事へるのである、そして「其子(キリストを指す)の福音に於て」神に事へるのである、パウロが神に事ふるに二つの特質がある、第一はその魂に於て、第二は神の子の福音てふ或る限られた範囲に於て事へるのである。
 実に此二つは我等の神に事ふるに於て欠くべからざるものである、我等は己が心霊に於て神に事へねばならぬと共に、又キリストの福音に於て事へねばならぬのである、そして此二つの制限を超えざる限りに於て我等の神に事ふる事は自由である、然るに世には此事を知らざる基督者が多い、「神は霊なれば拝する者も亦霊と真をもて之を拝すべきなり」とのイエスの教訓を忘れしが如くに、空虚なる形式を山と積み重ねてそれに於て神に事ふるを常とする者が多い、複雑なる儀式に依り煩瑣なる手続を経て初めて拝神の道を全うすと誤想せる宗派とそれに属する信徒多きは歎ずべきである、かくの如きは実に異教的形式と称すべき者である、著者は唯その心霊に於て、又神の子キリストの福音に於て目由自在に神に向つて活ける奉仕を為すべきものである、プロテスタント教の生起は実に斯くの如き純なる拝神の要求に根ざすものである、然るに今や末流濁りて不純なる拝神に心身を疲らする者多きは歎ずべき事である、我等努めて原始の純を追はんと志せるもの、パウロの此語に於て彼が我等の味方なるを知りて喜びに堪へぬのである。
 次は十節である、パウロは祈る毎にロマ行の願の充たされんことを求めて居ると云ふのである、邦訳聖書に於ては十節は九節と分離して訳してあるが、実は九節と十節を一として凡そ左の如く訳さなくては原意は通じないのである。
  |そは我れ如何にかして遂には聖意に由りて安らかなる道を得て汝等に到らんものをと、我祈祷ごとに願ひて〔付○圏点〕、(72)断えず汝等を懐ふ事につきては、其子の福音に於て我霊をもて事ふる神が我証人たるなり。
右の中圏点を施せしは原文に於ての十節、他は九節の分である、右は仮の訳であるが併し之に俵て原文の意は知り得ると思ふ、即ち神は唯パウロがロマ信徒を懐ふ事の証人たるのではなく、そのロマ行の希望を強く抱いて居る事、祈祷の度毎に此希望の実現を神に求めた事の証人であると云ふのである。(邦語改正訳を参照の事)
 「平坦なる道を得」については種々の解釈があるが、大体に於て「行くべき道の開かれて」と云ふ程の意味である。上掲の訳に於て「如何にかして遂に」と訳し、邦訳聖書に於て「終には……速かに」と訳せし原語は eipos ede pote(アイポース エーデー ポテ)である、之は他の国語に訳し難き句であるが「もし出来るならば速かに 併し時は不明」と云ふ意である、洵に奇妙な言ひ表はしと云ふべきである。
  マイヤーは此句を if perhaps at length on some occasion(もし多分 遂には 或時に)と訳し、ゴウデーは if by any means now at length(もし何とかして 今 遂に)と訳し、ビートとサンデーとは略ぼゴウデーと一致してゐる、第二語のエーデーは現在又は近き未来を意味する語で「今」とか「速かに」とか訳すべき語であり、第三語のポテは some time or other(いつかは一度)と云ふやうな時の不定を示す語である。
我等は此奇妙な言ひ表はしを用ひたパウロの細心を賞するものである、彼のロマ行はアイポース(もし出来るならば)である、彼は行かんと志し、祈祷ごとに神に祈り、神は多分此祈を聴くであらうと思ふ、しかし彼れ若し許し給はずば行くことは出来ぬ、故に|もし出来るならば〔付ゴマ点〕である、次はエーデー(今、速かに)である、今にも速かに、遅くも近き未来に行き得るであらうと思ふ、しかし神ならぬ身の断言は出来ない、神許し給はずば速かに行くことは出来ない、依てポテ(いつかは一度、時は不明)である、甚しく曖昧のやうに見えるが実は然うでない、(73)真の信者は斯く云ふ外ないのである、誰か明日の事を知り得ん、誰か聖意を悉く知り得ん、事は如何に進み行くか如何に変りゆくか到底人には解らない、未来の我行動について断定的言語を用ひざるものが実は強き信頼に住む信者である、我等は此短き一句にパウロの信仰の性質を知り得ることを喜び、且これを自己の亀鑑とすべきである。
 十一節に於てパウロはロマ行を切望する理由を述べた、「われ汝等を見んことを深く願ふは汝等を堅固《かた》うせんために霊の賜を与へんと欲すればなり」とある、霊の賜を与へて彼等の信仰の発達を促し其堅立を計らんことが彼のロマ行切望の動機であつたのである、「深く願ふ」の原語 epipotheo(ヱピポセオー)は切に願ふを意味す 此場合彼等を見んと願ふ情緒の頗る切々たるを言ひ表はすのである、げに情の人パウロは如何に強く彼等を懐ふたことであらう、ロマの信徒の信仰が如何に純良堅固であつても、大使徒パウロより見て尚ほ発達の余地あるものであつたことは云ふまでもない、彼等は文明の大都に幾多有力なる不信者に囲まれつゝ、強烈なる誘惑の香に襲はれつゝ其信仰の孤城を守つてゐる、しかも彼等を指導すべき有力なる師はない、そして責任は無限大である、我には彼等に与ふべき霊の賜がある、彼等を訪ふて之を分与する時彼等の信仰の堅固となり霊的生命の豊強となるは当然である、彼は小亜細亜の丘陵より又ギリシヤの海辺より西の方夕陽の舂《うすづ》く辺を遥かに望見して、彼等に到らんとの切望に心|※[火+毀]かれて幾度か熱き祈を父に献げたことであらう、美はしきかな情の人パウロよ!
 この十一節と此して十二節は特に注意すべき節である、之を原文に忠実に訳せば「即ち汝等の中にありて汝等と我との互の信仰によりて相共に慰められんため也」となる、「即ち」の原語は touto de estin(トゥート デ エスティン)である、|換言すれば〔付ゴマ点〕と云ふ日本語に略ぼ近いのであるが、前の言が不適当或は不充分なる時、更に(74)適切に又は充分に言ふと云ふ場合の発語である、此場合の如き「十一節の言が稍々不適当なる故更に適当の言ひ方をすれば」と云ふ意になるのである。
  ゴウデーは此句を「又は更に適切に云へば」(or to speak more properly)と訳し、マイヤーは「かく云ふも左の如く意味するに過ぎず」の意であるとなしてゐる、日本文に於て一の語句を記した後更に適切なる語句を記す時「否」の一語を拝むのが多分此場合に該当してゐると思はれる、即ち必しも前言を打消すのではなくて之をより能く言ひ直さうとするのである。
パウロは何故にかゝる言ひ直しをやつたのであらうか、けだし十一節に於ては彼は彼等に対して師たる態度を取つて居た、しかし彼は此時彼と彼等の関係に不図想到して、彼等が彼の純粋の弟子ではなくして寧ろ大部分未見の人であることを思ひて茲に友人たるの態度を取るの適当なるを思つたのである、茲に於て斯かる発語を用ひて、我れ汝等に到らんと切望するは実は相互の信仰によりて相共に慰められ励まされん為であると言ひ直したのである、|茲にパウロの謙遜と慎慮とを見る〔付○圏点〕、偉大なる彼にして――彼等の師たる資格の有り過ぎるほど有る処の彼として――此事あるは寔に奥ゆかしき限である、その美はしき礼譲と繊細なる心情とは彼が人格の香気をして弥が上にも芳醇ならしむるものである、自己を偉とせず自己を高きに置かざるが偉人の特色である。
 情緒の濃かなる十一節と謙遜に美はしき十二節とを併せ見て、パウロの貴さは今更の如く感ぜられる、之を自己を高しとして異邦信徒の兄弟たり得ぬ今日の欧米宣教師輩に比して如何に大なる相違ぞや、|師たるを知つて友たるを知らぬ所に真の伝道の行はるゝ筈がない〔付△圏点〕、パウロの偉大を以てして尚ほ喜んで此態度に出でた事は、今日に於て大に注意すべき事である。
(75) 十三節はロマ府伝道の志望は今日まで盛なりしも事情が之を許さゞりし事、今も尚ほ或事のために妨げられつゝある事を示す、思はざるに非ず許されざりしなりと云ふのである、企画《くわだて》が為されざりしに非ず阻止せられたるなりと云ふのである。
 十四節は十三節の理由提示とも云ふべきもの、大円の中に小円を包みし如きパウロ式論法である、「我はギリシヤ人及び異邦人、また賢き人及び愚なる人にも負へる所あり」と云ふ、「異邦人」は野蛮人の意である、ギリシヤ人は文明人である、パウロは文明人にも野蛮人にも、学者にも無学者にも我は福音宣伝をなすべき責務ありと云ふのである、之を果さぬ中は債務を負ふてゐるのである、之を果して初めて負債を償却したのである、この大責任を負はせられたれば自分は当然凡ての人に伝道すべき義務あるものであると云ふのである、寔に気宇の宏大、責任感の熾烈、たぐひ少なき壮大なる語である。
 文明人にも野蛮人にも智者にも愚者にも福音宣伝の義務を負ふと云ふ語の裡には、福音が文明人にも野蛮人にも智者にも愚者にも凡ての人に適する教なることが暗示されてゐる、洵に然うである、|福音は世の万人に適する、国籍の差別、文化の相違、階級の高下、知識の有無、賢愚の差、老若男女の別は福音の前には皆無である 福音は万人の信受に適する、故にこそ神の福音である、凡ての人を救はんとの神の力である〔付○圏点〕、パウロは此大なる責任感を述べたる後七十五節に於て「この故に我れ力を尽して福音を汝等ロマにある人々にも伝へんことを願ふ」と記して此著るしき挨拶の部を閉ぢたのである。
 この挨拶を全体として見る、其中にパウロの感謝あり、心の願あり、祈の題目あり、切なる情の発表あり、美はしき謙遜と礼譲とあり、高大なる貴任感あり、文字は平坦なれど其内容は百姿千態の趣あり、殊に彼の情性の(76)偽らざる発表として其値の大なるを思はざるを得ない。
 パウロはロマの信徒に対して右の如く謙遜であつた、かくの如きは彼を軽蔑の的として彼等の前に提出するが如きものではないか、彼等の中には斯かる言に接してパウロを賤しむるに至つたものが或はあつたかも知れない、パウロが自己に軽蔑を招く危険をまで冒して強て謙遜な態度を取つたのは愚の極ではないか、然り愚の極であるかも知れない、しかし彼が斯く自分以下の者に対して謙遜であつたのは、彼の魂の清さとキリスト的精神の豊けさとを示すものである、独の文豪ゲーテは言ふた
  最も普通の宗教は自己以上の者を崇むる宗教である、これ多数者の宗教である、これより高き宗教は自己と同等のものを崇むる宗教にして、これ即ち哲学者の宗教である、(所謂人類的思念と称して人が人を自己と同等のものとして崇むる人生観を指す)、|されど最上の宗教は自己以下の者を崇むる宗教である、これ即ち基督の教である〔付○圏点〕。
と、ゲーテを称して真の意味の基督者とは云ひ得まいが、彼の高秀なる天才は彼をして此深き評語を発せしめたのである、己より低き兄弟に対して謙遜と礼譲を守り、且切なる愛慕の情を披瀝したる使徒パウロの態度が、如何にキリストの心に似たるものなるかは説明を俟たずして明瞭である。
 
     第七講 問題の提出(一)一章十六、十七節の研究 (二月廿七日)
 
 一−七節は自己紹介、八−十五節は挨拶であつた、此挨拶は前講の如く頗る意味深きものであるが、それにしても一の挨拶として述べし語たるに過ぎない、然るに十六、十七節に入つてパウロは重大なる語を掲出して我等(77)を驚かすのである、多くの学者は此両節を以て羅馬書の主題の告知であるとなして居る、洵に羅馬書の主問題が茲に提出されたのである、曰ふ「我は福音を耻とせず、此福音はユダヤ人を始めギリシヤ人凡て信ずる者を救はんとの神の大能たればなり、神の義は之に顕はれて信仰より信仰に至れり、録して義人は信仰によりて生くべしと有るが如し」と。
 先づ注意すべきは此問題提出の仕方である、パウロは十五節に於て「是故に我れ力を尽して福音を汝等ロマにある人々にも伝へんことを願ふ」と記し、次に十六節の劈頭に gar《ガール》(何となれば)なる一語を挿みて、十五節の理由として十六節の第一句を述べた事を示してゐる(邦訳聖書には此接続詞を省いてあるが英訳聖書には for の一語がある)、即ち彼は挨拶を既に終へしが如く未だ終へざるが如くにして何時とはなしに主題の提起に移り行くのである、表面《あらは》に主題告知とせずして挨拶の中とも外ともつかぬ辺りに極めて自然に之を為したのは洵に滑らかな遣方《やりかた》である、之は知らず識らずの間に読者に心の準備を与ふる道であつて、パウロの練達せる教育家なることを示すものである、これ彼の貴き技術の一表現として我等の注意と興味とを惹くの一事である。
 尚ほ注意すべき一事がある、此書を認めし頃はパウロが信仰に入りて後既に二十余年を経過してゐた、そして彼は此期間の大部分を伝道に用ひた、従つて此時までに於て反対者と論争を為せし回数は無数に達したに相違ない、執拗なる猶太人と理知に強き希臘人とに囲まれての彼の孤独の奮闘を思ふ時、その論戦の激しさは推し測らるゝのである、彼の書翰は多く斯くの如き戦塵の濛々たる間に記されたものである、従つて自《おのづ》から其処に砲煙の香り、弾雨の響きを止むるのである、味方に送る書翰に於ても彼は自然と敵を前にして論陣を張るが如き趣きを示し、何時如何なる所から論敵が現はれても攻撃の隙を見出し得ないやうな論法を採ることが多い、かくの如き(78)緊張味を以て記されし彼の書翰なれば真理の無尽蔵たるのである、其上羅馬書の如きは彼の五十歳台の作として既に二十余年の戦を経し後の書なれば、人生の戦を長く為せし勇士の筆の常として一語一句一節の中にも真理が豊かに包蔵せられてゐるのである、徒らに冗長なるは戦の経験少き未熟者の筆である、老雄の筆は簡勃にして力と生命とに富む、この十六、十七節の如きは一章劈頭の自己紹介と共に其好標本である。
 先づ十六節を原文のまゝに訳する時は「そは我れ福音を耻とせず、何となれば是はユダヤ人を始めギリシヤ人にも、信ずる凡ての者には救拯に至るべき神の力たれば也」となる、今之を原文の順序を逐ふて記せば左の如くなる、
  そは我れ耻とせず 福音を、何となれば 是は(此福音は)神の力たればなり 救拯に至るべき 信ずる凡ての者には、ユダヤ人を始めギリシヤ人にも。
羅馬書を認めた時はハウロがコリントに於て伝道して居た時であつた(使徒行伝二十章二、三節を見よ)、仮にパウロが右の語をロマの信者ならでコリントの聴衆に向て発したとして見よう、必ず種々の批評が起つたことであらう、コリントと云へば人口七十万を有する大都であつて実業の都であると共に哲学文芸の都であつて、富者あり貧者あり、自由民あり奴隷あり、学者あり無学者あり、実業家あり芸術家あり、誠に各種類各階級の人を網羅せし都であつた、さればパウロの読者も亦多種多様であつたに相違ない。
 かゝる聴衆に向つて先づ「そは我れ福音を耻とせず」と云ふたならば各種の批評が現はれたことであらう、信者の或者は之を以てパウロにも似合はぬ弱き語となして不満に感じたであらう、「姦悪なる此世に於て我と我|道《ことば》を耻づる者をば人の子も亦聖き使と共に父の栄光をもて来る時これを耻づべし」とはイエスの警めであつた、福(79)音を耻ぢざるは基督者に於て固より当然のことである、今更これを更めて宣言する必要が何処にあらうか、これ無用の言たるのみならず又実に弱々しき語である、「我は福音を誉れとす」と積極的の言ひ方をせずして「耻とせず」と消極的に言ふたのは力なき態度ではないかと、多分信者の中にても無学なる者又は浅薄なる者は右の如く評したであらう、併し多少の思慮ある者は却て此語を聴いてパウロに対する敬意を増したであらう、又不信者の中にも之を弱き語と見る者もあり、或は又謙遜なる語として却てパウロを推賞する者もあつたであらう、洵に問題となるべき語である。
 次にパゥロは右の理由として「何となれば是は神の力たれば也」と云ふた、聴衆中の哲学者は直ちに抗議を提出したであらう、「力」とは何事ぞ、力には善き力もあり悪しき力もある、力たる事は決して其事の真理たるを示さない、もし基督教が大体系(great system)であると云ふならば我等はそれに特別の敬意と注意とを払はう、併したゞ力であると云ふ事なれば其低級なる教たること明かであると、次に其力は「救拯に至るべき」力であると聴いて彼等は又救拯とは無意義な事であると評するであらう、「信ずる凡ての者には」と云へば信仰なるものは迷信である場合多く到底識者の貴ぶものでないと云ふであらう、そして最後に「ユダヤ人を始めギリシヤ人をも」と云はるれば、此全く異なる二人種を一括して一と見しパウロの態度に不服を唱ふるであらう、かく十六節は種々の批評を喚起し得べき語である、不信者よりは勿論、信者の或者よりさへも。
 然らば次の十七節は如何、これ凡ての人を首肯せしむべき善き語であらうか、今これを原文のまゝに訳する時は「そは之に於て神の義は顕はれて信仰より信仰に至ればなり、録して義人は信仰によりて生きんとあるが如し」となる、更らに原文の順序のまゝに之を訳せば左の如くである。
(80)  そは 神の義は 之に於て 顕はれたればなり 信仰より信仰にまで、かく録されしが如し「義人は信仰によりて生きん」と。
此十七節に対しても読者は勿論種々の批評を下すことであらう、或人々に取つては第一「神の義」といふ語が甚だ喜ばしからぬ語である、神の恩恵と云ひ神の愛と云ふて初めて福音の本義を表はし得べきに、神の義と云ふは即ち神の怒 神の懲罰と一致するらしき語にして最も厭はしき語であると云ふであらう、神の恩恵と愛のみを喜び其義を好まぬ者は必ず右の如く云ふに違ひない、次に「顕はれたり」とは人間の努力の結果到達したのとは全く正反対であつて、上より啓示されたと云ふのである故、人類の真理探究てふ貴重なる努力を無視する嫌があると云ふであらう、又「信仰より信仰まで」と信仰を以て終始する如き口調は最も厭はしきものであると評するであらう、そして最後に聖句を引いて自説を支持せしめしを見て、聖書の言を無批評に真理とするは唾棄すべき盲目的態度であると貶するであらう。
 以上の如き反対や批評を起し易き語をパウロが茲に羅馬書の主題として掲出するのは如何にも拙劣なる、又は意地悪き遣方であるやうに思はれる、さり乍ら不思議なるはパウロの言である、理論に於ては反対すべき幾つもの箇処を見出す人と雖も、どこか其処に或貴きものが在る如く感ぜられて我にもあらで彼の言に牽き着けられるのである、多分コリントの多くの聴者は斯くの如き心理状態に於て彼を離れ得なかつたのであらう、此十六、十七節の如きは慥に此パウロ的特徴の色濃きものである。
 「我は福音を耻とせず」の一語を以て弱しとなすは浅き見方である、これをパウロの学識と経験と慎慮との背景に於て眺めて其強烈なる語たることが解る、彼は世界を知らずして独り己を高しとするユダヤ人ではなかつた、(81)彼は時代の文化の偉大を知らずして我信ずる教の偉大をのみ知る無学漢ではなかつた、彼は世界を知つて居た、彼は希臘の文化と羅馬の政制の優秀なるを知つて居た、其哲学と科学と芸術との偉大を知つて居た、其内に潜む思想に於て、その外に現はるゝ事業に於て当時の文化は燦として日月と其光輝を争はんとする概があつた、盲者《めくら》蛇に怖ぢずと云ふ、盲者ならぬ彼は蛇に対する警戒をせねばならぬ、勿論彼の信ずる福音は黙示に基づくものであつて人間探究の成果ではない、此点に於て人間の努力の総積に名を与へたる文化てふ者とは全然性質を異にせる者なることは彼に於て極て明白であつた、しかし乍ら当時の文化の偉大を知り且或意味に於て之に敬意を抱ける彼は、福音を携へて此文化の中心に投ぜんとして如何に精到なる考慮と準備とを要したことであらう、凡ての哲学思想に訴へても福音的宇宙観の優逸なるを証し、有ゆる科学的探究に比しても福音的真理の確実なるを示し、此世の有りと有ゆる力に較べても福音の力の絶倫なるを唱へんが為には、勿論それ相当の準備なきを得ないのである、ロマ府を志せし彼は遥かに此知識と能力の中心地を望み見て自己の小なるを痛感し、或時は恰も一個の爆弾を携へて百万の敵軍に突入するが如き戦慄を感じたことであらう、未だ福音がユダヤの一地方教と見做され居たる時に於て羅馬大帝国の凡ての文化と権力とを敵として、それ等を排逐して代るべき人生の原理として福音を提示せんとす、人の眼より見て如何に無謀の極であつたであらう、されば流石の彼も幾度か怖れ、躇《ためら》ひ、苦み、悩んだことであらう、しかも斯くの如き心の経過を味ひて後ち遂に準備悉く整ひ確信全く成りて「我は福音を耻とせず」の一句を発す、げに壮烈高貴の語と云ふべきである。
 此世の知識に富み人生の経験に豊かなりし彼れパウロが、其抱ける凡ゆる知識と経験とに訴へて福音の確実性を了知し、此世の力と云ふ力を悉く集めたるらしき厖然たる大帝国を前にして、身は一己卑賤なる天幕工を以て(82)して「我は福音を耻とせず」の一語を発す、これを今日に於て聞く我等は此語の貴さを知ると共に、此語を発したる彼に百万の援兵を見出したるが如き感なきを得ない。
 然らば福音を耻とせざる理由如何、「何となれば是は神の力たればなり」と先づ云ふ、福音は「力」である、そして人の力ではない、「神の」力である、此世の哲学と比せよ、「力」と云ふが既に特異なるに更に「神の」と
附加して二重に特異となるのである、「それ十字架の教は亡ぷる者には愚なるもの、我等救はるゝ者には神の力たるなり」(コリント前書一の十八)とパウロは曾て云ふた、福音は哲学に勝る大宇宙観である、しかし福音は哲学の如き単なる思想の体系ではない、福音は実に神の力である、茲に福音の特色が在る、パウロは思想家であつた、しかし思想家たる以上に実験家であつた、故に思想の完全とか徹底とか云ふ事よりも先づ求むる所は人生に於ての力の有無如何に存した、「ギリシヤ人には愚なるもの」と見ゆるも、それは福音の力たるを知らぬ人の浅き見方である、故に一度これが人を救ふ力たる事を知りし上は、之は「ギリシヤ人にも……神の力また神の智慧」たるのである。
 福音は力である、神の力である、「力である、そは福音は或事を為し得るからである、神の力である、そはその凡ての約束を果し得るからである」(ホフマン)、「神の力と云ふ、大にして栄あるものである」(べンゲル)、悔改、信仰、慰藉、愛、平安 歓喜、勇気、希望――此世の哲学倫理の供し得ざるもの――之を与ふる力が福音に在る、福音に此力があると云ふが其神の真理たる一証である、世の哲学者は福音を愚なるものと見る、しかし基督信徒の有する熱心に対しては推賞を惜まぬ者がある、恐くは当時の哲学者、思想家等もパウロに対して其所説を嘲りつゝも其熱心と勇気に驚愕の眼を張《みは》つたことであらう、実に彼の生涯其者が福音の有する力を実証するも(83)のであつた、彼は此力を深く自己に於て味ひたるが故に、文明と権力の都ロマを前にして「我は福音を耻とせず」と云ひ得たのである。
 「力」の原語は dunamis(ドゥナミス)である、英語 dynamics《ダイナミクス》(力学)dynamo《ダイナモ》(発電機)等は此語より出でたものであり、又かの dynamite《ダイナマイト》(爆裂弾)もさうである、ダイナマイトは元来罪悪遂行の器として発明せられたものではない、文明の開発を目的として発明せられしものである、近代の文明が如何に鉄道に負ふ所多きかを考ふる時は鉄路を通ずべく巌石を砕くダイナマイトの偉功を称《たゝ》へざるを得ない、一小片を以て巨大なる岩石を微塵に砕き得るは之れである、故にダイナマイトは力の絶好なる代表者である、福音は実にダイナマイトの如き力あるものである、之に比しては倫理道徳は鶴嘴《つるはし》を以て堅岩を砕かんとするが如き迂遠なる道である、福音のダイナマイト一度我を打つや、倫理道徳を以ては到底除き得ざりし執拗なる我執の巌も飛散し去るのである。
 福音は神の力である、故にパウロは福音を耻としないのである、然り寔に福音は神の力である、併し其の神の力なる事は其力に触れてみて初めて解ることである、そして或人は之に触れ或人は之に触れない、従つて福音は或人に取つては力であり或人に取つては力でない、然らばそれは如何なる人々に取て力であるか、パウロは云ふ「信ずる凡ての者には」其人の救を生むべき神の力であると、|panti to pisteuonti《バンチトーピスチユオンチ》(to every one that believeth)である、信ずる者は一人残らず――其一人々々に取つて――福音は救に至らする力である、|信仰〔付○圏点〕――之が救済に与るに要する唯一の条件(もし条件と称し得べくば)である、他に条件は一もない、たゞ信ずると云ふだけの条件である、そして其信仰は必しも強きを要しないのである、勿論強きを貴ぶけれども、弱き信仰とても苟も虚偽の信仰たらぬ限りは其の持主をして救ひに至らしめ得るのである、たゞの信仰、神とキリストとに対する信仰、(84)神を父としキリストを主として仰ぎ瞻る事、それだけで救ひに入るのである。
 |実に簡単である、長き努力に依て悟道の妙境に到達して救はれるのではない、一生涯の努力を以て善行を山と積んで救はれるのではない、たゞの信仰、信頼、それに依て救はれるのである〔付○圏点〕、「信ずる凡ての者」である、信ずる者は|誰でも〔付○圏点〕である、その遺伝の如何は勿論問題とならぬ、其知識、人格、徳行等も勿論問題とならぬ、如何なる悪しき祖先や父母を有する者にも、不幸にして其脈管の中に汚濁の血を湛うる者にても、|たゞ信仰に由て救はれる〔付◎圏点〕、其人格に於て低き者と雖も唯の信仰に由て救はれる、信仰に入りし後に於て其人椅の向上を生むべきも、そは又別箇の問題である、同時に人格に於て高等なる者と雖も信仰なくば救はれない、人格の高下と云ふ事は救ひといふ事を離れて他の標準に於て眺むる時は充分に問題となることである、たゞ救ひの事に於ては之は問題とならぬのである、其他知識、徳行、技能等いづれも皆問題とはならぬのである。
 「信ずる凡ての者」の一句を更に次の十七節と合せ見て、羅馬書の主題の性質が信仰中心なることは察知せられる、この両節は本館の入口に掲げられある大標語であるが、之を読みし者は未だ本館に入らずして本館の中心が信仰にあることを窺知するのである。
 信ずる凡ての者が救はると云ふ、寔に福音の福音たる所以が茲に存する、|この事の容易に受け納れ難き理由は、それが余りに有り難きことなる故である〔付○圏点〕、多くの人は何か自己に於て資格を作りて後救ひの門戸に受け入れられようと計る、従つて自己の無資格を痛嘆哀哭するうちに幾年かの貴き歳月を空しく流れさするのである、又先天的欠陥を有する者は此欠陥の蔽ひ難きを感じて救ひに関しては全き絶望に陥るに至る、併し共に是れ誤れるの甚しきものである、遺伝に依る悪事、先天的の病患、後天的の諸悪知識と徳行と品性との不足、自己の上に積み重(85)なりし罪悪の深重――いづれも是れ我救の妨げとなるものではない、|たゞの信仰によりて救はる〔付◎圏点〕、その信仰の弱きさへも救に至るに於ては――其信仰が持続さへすれば――妨げとならぬのである。
 かく福音は信ずる者には救拯に至るべき力である、此事が本館の戸口に大書せられあるを見て、我等は先づ少なからぬ歓喜と平安との予感を味ひ、本館内部の性質をも察し得るが如く思はれて、かくの如き福音なれば我の如き罪人をも救ひ得との希望を茲に抱くのである。
 
     第八講 問題の提出(二) 一章十六、十七節の研究 (三月六日)
 
 パウロは「我は福音を耻とせず」と宣した、そして其理由として、福音は神の力であると云ふた、力と云ふも善き力あり悪しき力がある、欧洲戦乱以前に一時欧洲人を支配するが如く見えし謂ゆる「力の福音」と云ふが如きは此悪しき力の方である、其悪きは結果が証明したのである、之とは異つて福音は神の力である、勿論善き貴き力である、即ち「信ずる凡ての者には救拯に至るべき」力である、「信ずる凡ての者」にづいては前講に於て述ぷる所あつた、次に起る問題は「救拯」の意味如何である。
 救拯とは今日頗る広義の語として用ひられて居る、福音以外の種々なる救済事業に於て此語は常に広く使用されて居る、社会的意味の救があり、道徳的意味の救があり、又思想上の救がある、又基督教の救についても今日の人の考ふる所は頗る茫漠たる者にして、悪しき行の改まりし事、或は福音に心を寄するに至りし事位を以て救と見做す人が多い、基督教の伝道師と称する者の中にさへ此種の浅き見方をする者が多く、洗礼を受けて教会に加入せし事を以て救と做して安心し、其後の心霊の発育如何に関しては何等の考慮を払はざる者がある、真に甚(86)しき誤りである。
 併し「救」とは元来かくの如き浅きものではない、原語 soteria(ソーテーリア)は新約聖書に於ては永久的意味を有する語である、今此語に関する二三の大家の解釈を参考のため左に摘記して見よう。
  (イ)ソーテーリアとはメシヤ王国に於ける永遠の救を言ひ表はす語である(マイヤー)。
  (ロ)ソーテーリアは二義を併せ有す、即ち一面滅亡よりの救出を意味し、他面神と共なる永生の交附を意味する(ゴウデー)。
  (ハ)ソーテーリアはメシヤ的救出を意味する語で、猶太教に於ては民族的の狭き語であるが基督教に於ては高き希望を伝ふる語である、後者の意味に於ては此語はメシヤ的救出の全範囲――即ち消極的には全人類に臨める神怒よりの救済、積極的には永遠生命《かぎりなきいのち》の賦与を包含するのである(サンデ−)。
即ち救とは唯の悔改を意味する語ではない、|此世に於ては罪に死してキリストに生き、罪の結果たる死(神怒、滅亡)より救はれ、復活して主の栄に似たる栄に洛し、永遠の世界に永遠の生命を受得する事これ即ち救である〔付○圏点〕、新約聖書のソーテーリアは之れ以外を意味するものではない、これ忘るべからざる事である。
 此事は新約聖書の詔処に於て極て明瞭である、「誰か救を受くべきや」との弟子の問に答へてイエスは「我と福音のために家或は兄弟……を捨つる者は……後の世には限なき生命を受けん」と答へ給ふた(マコ十章)、もし新約聖書中の各書翰より救の永遠的意味を立証せんとせば我等は其引用すべき語の多きに苦む程である、左掲の如きは其最も代表的なるものである。
  讃むべきかな神われらの主イエスキリストの父、かれ其大なる衿恤をもて我等を再び生み、我等をしてイエ(87)スキリストの甦り給ひし事によりて活ける望を得させ、亦われらの為に天に蔵めある朽ちず汚れず衰へざる嗣業《ゆづり》を得しめ給ふなり、汝等信仰によりて神の力に護られ既に備へある所の末の時に顕はれんとする救を得るなり。(彼前一章)
以て新約聖書に謂ふ所の救の意味を知るべきである。
 救とは実に右の如きものである、人は往々にして之を浅く見んとし、「神の己を愛する者の為に備へ給ひしものは目未だ見ず耳未だ聞かず人の心未だ思はざる者」であることを知らぬ、今や世界に充つるは浅き救の声である、そして救を説く者にして未だ一人たりとも救を実現した者がない、救の本義を世に向つて示すべき重責を持つ基督教会までが種々の社会的施設に没頭し、之に依て救を実現せんと企てつゝあるは何の陋態ぞ、救とは実に人をして永遠の栄光に浴せしむることである、かくの如き救に人を至らしむる力が福音にあればこそ、パウロは羅馬大帝国の光輝を前にして「我は福音を耻とせず」と云ひ得たのである、一時的なる此世の救済の如きは縦し遺憾なく実現せらるゝとも、人の魂をその根柢に於て救済することは出来ない、基督教の救が斯くの如き浅きものならば、それは我持てる一切を棄てゝも獲得すべき値あるものではない、それがために「家宅《いへ》或は兄弟或は姉妹或は父或は母或は妻或は児女或は田疇《たはた》を捨つる者」ほど愚なる者はない、しかし乍ら福音の供する救が永遠の栄を意味するものなればこそ、「一切を捨てゝ」も之に与からんとするのである、「彼(キリスト)と其|復生《よみがへり》の力を知り、其死の有様に循ひて彼の苦《くるしみ》に与り、とにもかくにも死にたる者の甦へることを得んがため」なればこそバウロはキリストのために「凡ての物を損せしかど之を糞土の如く意《おも》」ふたのである、福音のために犠牲の心を起さず熱心をも燃やさゞるは皆これ其供する救の如何に大なるものなるかを知らぬからの事である。
(88) 原文の順序によれば十六節の最後には「信ずる凡ての者には、ユダヤ人を始めギリシヤ人にも」の二句がある、之については前講に於て説く所あつたが更にそれを補ひ度いのである、今十六節の思想を解剖するに先づ「我は福音を耻とせず」と断じて次に其理由として左の四つを挙げて居るのである。
  1、福音は|力〔付○圏点〕である。
  2、副音は|神の〔付○圏点〕力である。
  3、福音は|救に至らしむる〔付○圏点〕神の力である。
  4、福音は|信ずる凡ての者を〔付○圏点〕(ユダヤ人を始めギリシヤ人をも)救に至らしむる神の力である。
信ずる者は誰人にても救はれるのである、信仰といふ条件が一つ要るのみである、そして信仰といふものは其本質上誰人でも抱き得るものである、故に「ユダヤ人を初めギリシヤ人にも」である、世界の人悉く此唯一の条件に由て救に至るのである、信仰は実に万人向である、さればこそ特に貴いのである、一部の人の有し得るものが貴いのではない、万人の手の届く範囲にあるものが貴いのである、ダイヤモンドよりも空気は貴く、爵位よりも水は貴いのである、前者は無用の贅物、後者はなくてならぬ物なる故、そして万人の用ひ得べきものなる故殊更に貴いのである。
 之を肉体の医療に譬ふれば信仰は種痘の如きものである、其事の本質上万人に用ひられ得べきものである、種痘の如き安価にして簡単なる道を以て病を予防し得るものは医療の道としては最も理想的である、万人がその利益に浴し得る、之に反してラヂウム療法の如きは頗る高価なる物にして少数の富者が其利益に浴し得るのみである、もし行の優秀、人格の高貴、真理の完全なる悟得等を以て救の条件とするならば、そは恰もラヂウム治療(89)の如く少数者に限らるゝものとなるのである、行は潔からず人格は高からず而して真理の悟得完全ならずとも、たゞ赤児の如く父に信頼する時に於て救の第一歩に迎へ入れられるのである、寔に詩人テニスンの道破せし如く
  信仰により、信仰のみによりて汝を抱く
  証明し得ぬ所を信仰もて信じて
である。
 かく信仰は万人の抱き得るものである、「ユダヤ人を始めギリシヤ人にも」である、信ずる凡ての者には救に至るべき神の力である、「ユダヤ人を始め」とユダヤ人を真先に出したる事について学者は種々の意見を提出する、併し之がユダヤ人に救についての優先権を認めた語でないことは明かである、若し然らずば国籍の別が救についての一種の条件となることゝなつて、明かに救拯の根本義に背くことになるのである、故に之は唯福音の光が先づユダヤ人に現はれ後ち異邦人を照らすに至つた史的視点の立場よりの語であると思ふ、「ギリシャ人」とは此場合広義に用ひられて異邦人全部を指す語である(行伝十四の一、哥前書十の三二参照)。
 凡ての人をして凡ての人の持ち得る信仰てふ一条件を以て救に入れしむるは福音である、かゝる力が福音に存する、簡単にして而も深遠、普遍的にして而も高貴、まことに人の教にあらずして神の福音である、人が努力の結果到達せし悟道にあらず神がキリストを以て――殊に其苦難と十字架とを以て――啓示し給ひたる神の道である、歓喜の福音、絶大の恩恵、類例なき貴きものである、福音は斯かる神の力である、故にこそパウロは之を耻とせぬとの事である、歎美すべきは唯一節の中に此大思想を籠め得たるパウロの偉大である、これ実験の器に霊感の語を盛りしものにして真に神の言と称すべきものである。
(90)  信仰は行為、人格、悟得等と異なりて万人の持ち得るもの故救拯の条件として最も普遍的であり従つて最も簡易であると述べた、之に対して「然れども事実上信仰を抱ける者は世に少なくして従つて救に浴し得べき者も少ないではないか」との抗議が出るであらう、併し乍ら之は一時の事象を以て永遠の原理を蔽ふ見方である、その本質に訴へて考ふる時信仰は万人の持ち得るものなるに反して、行為の完全、人格的聖浄、悟道の完成等は其本質上(少くとも此世に於ては)万人の持ち得るものではない、今日の実際に於て信仰を持てる者の少ないことは、我とみづから心霊の戸を閉ぢて信仰の入る余地なからしむる者の多い事を示すのであつて、決して信仰其者の非普遍性を示すものではない、信仰は其本質上万人の持ち得べきものである、故に普遍的のものである、故に救の条件として最も理想的のものである、此事は原理として最も明白である。以上を以て十六節の研究を終る。次は十七節である、パウロは十六節に於て福音が万人を救ふ神の力なることを示し、十七節に於ては其理由を示して云ふのである 「そは之に於て神の義は顕はれて信仰より信仰に至ればなり」と。
 先づ起る疑問は何故「神の愛」と云はずして「神の義」と云ふたかである、十六節に於て唯信仰のみに由て救はるとの恩恵《めぐみ》の語ありて、読者は当然「神の愛」なる語を予期すべきに「神の義」とあるために意外の感に打たれるのである、「義」は原語 dikaiosne(ディカイオスネー)、英語に於ては righteousness である、又 justice である(正義、公道、公義、正道)、その真意如何、又其十六節との関係如何は次回の問題とし、茲には二三の注意を述ぶるを以て止め度いのである。
 かの浄土宗の如きは弥陀の赦免の慈悲を高調する点に於て頗る基督教に類似せる宗教である、法然、親鸞等が(91)弥陀の本願に安心の根拠を置きしは他力救済の秘義に徹したる者にして、其信仰の芳醇味は我等の称讃を吝まぬ所である、さり乍ら我等が若し此他力宗の与へし見方を以て基督教に対するならば其《そ》は大なる過誤である、弥陀宗の根柢は慈悲であるが福音の根柢は「義」である、前者は徹頭徹尾慈悲の上に立ちて慈悲を通徹せしむる宗教であるが、後者は飽くまで義の上に立ちて慈悲を築成する宗教である、両者の類似は其外現に於て存するのみであつて、其根柢に於ては天と地の相違がある、然るに此一事を知らずして前者を以て後者を律せんとする者が世に甚だ多い、これ福音より其根柢を除去する事であつて、凡百の過誤と不徹底とが其処に胚胎するのである。
 |福音は義を根柢とする〔付○圏点〕、公義、正道は先づ慈悲赦免の前に於て在らねばならぬ、然らば人は自ら公義を実行実現したる後に於て初めて赦免と救拯との恩恵に洛するのであるか、然りとせば福音も亦一種の律法教にして「重く且負ひ難き荷を括りて人の肩に負はせ」る暴君である、茲に「神の義は之れ(福音)に於て顕はれたればなり」とあるに注意すべきである、「顕はれたり」とは探究の結果としての到達を貴ぶギリシヤ人には愚かと見ゆるものである、併し神の義が人の努力の結果の獲物にあらずして神より顕はれたものであると云ふは大に注意すべき事である、神は或道を取つて其義を顕はし給ひつゝある、是は福音の中に顕はれつゝある、或事に於て神の義は顕はれて居る、即ち或方法を以て神は其義を提供し給ふたのである、「其義を神は凡ての信者に賜ふて区別なし」(三の二三)である、即ち人は自ら努めて義人となりて救はるゝにあらず、神は其義を以て人に臨みて必罰の鞭を下さんとするにあらず、或事に於て神の義は顕はれそして信ずる者は神の提供する義を信仰を以て我有とするのである、「今律法の外に神の人を義とし給ふ事は顕はれて律法と預言者は其証をなせり、即ちイエスキリストを信ずるに由りて其義を神は凡ての信者に賜ふて区別《へだて》なし」とある。
(92) 英の評論家且詩人たるマシュウ・アーノルドは人間生活の少くとも四分の三(或は五分の四か六分の五か)は conduct(道徳的行為)であるとなし、そして此 conduct を宗教的に云へば即ち righteousness(正義)であると云ふた(アーノルド著『文学と教義』第一章を見よ)、アーノルドの正義観は羅馬書の如く徹底した者ではないが、彼が人生の四分の三以上を正義と見たるは流石に卓見であると云はねばならぬ、義なき処に高貴はない、義なき処に真も善も美もない、我等は義の範囲を脱して其処に赦免と恩恵と救済とに与からうとは願はない、たゞ赦免、たゞ恩恵、たゞ救済とのみ願ふは不健全なる魂の叫びである、|義の範囲に於て〔付○圏点〕罪の赦免に与かり度し、|義の範囲に於て〔付○圏点〕恩恵を受け度し、|義の範囲に於て〔付○圏点〕救済を得度し、これ吾人の心霊が健全なる時に於ては必ず抱く所の願である。
 かの義なくして徹頭徹尾赦免と恩恵のみに終始する宗教が、其処に信仰的潤味の美はしきものあるにも係らず凛然たる高気を欠きて動もすれば生命の沈滞を惹起するは、これその健全に於て欠くる所ある証左である、義は是非ともなくてはならぬ、義は是非とも備はらねばならぬ、義の上に愛あり愛の中に又義あるは人性本具の要求として欠くべからざるものである、義なき愛は我等の願はざる所である。
 但し義は人の義でない、「神の義」である、神の義が此福音に於て顕はれたのである、如何にして神の義が福音に於て顕はれしかは後の問題として、我等は神が義を顕はしたと云ふ其一事を今は注意せねばならぬ、神は先づ義を発揚し、樹立し、確保し、其上に於て人を義とするの道を取り給ふたのである、そして人は神が義を発揚、樹立、確保せし其上に於て赦免と救済とを得んと願ふのである、たゞ罪を赦されんと願ふのではない、唯救を得んと焦るのではない、赦免の与へらるゝ理由を充分に知り、救に浴し得る資格が或道に於て成立したるを示され(93)たる上に於て赦免と救済と二与かり度いのである、これ人の内心の真の要求である、健全なる心霊は斯く願ひ、そして此願の充たされて後初めて満足するのである。
 そして神は人の此要求に応ずる道を拓き給ふたのである、即ち義の顕はれて同時に愛の顕はれん事を望む要求は、義を顕はして同時に愛を顕はさんとの聖意と合致したのである、神は愛の神であると共に又義の神である、彼は愛のみを以て人に対して少しも義を示さぬことは出来ない、人の要求に於て然るが故に之に応ずると云ふのみではない、神は其本質上この両者を以て人に臨まねばならぬのである、そして人に於ては到底不可能なる此事を神は為し給ふたのである、彼は或道を取つて其義を顕はすと共に其愛を顕はしたのである、即ち人の罪を所罰すると共に其罪を赦したのである、只所罰を以てのみ止むることは出来ない、又只赦免をのみ与ふる事は出来ぬ、即ち或道を以て両者を同時に顕はしたのである。
 然らば神の義は如何にして発揚せられしかとの疑問が起る、しかし乍ら之は羅馬書の本館に入りて明示せらるゝ問題である、今は唯これが羅馬書の主題として告示せらる、我等はその輪廓をさへ知れば足るのである。 〔以上、4・10〕
 
     第九講 問題の提出(三) 第一章十六、十七節の研究 (三月十三日)
 
 前講に於て説きし如く第十七節の中心問題は「義」である、神の義が福音に於て顕はれたと云ふが其主眼である、原文に於て「義」なる語が真先に出て居るに注意すべきである、神の能も恩恵も其義を離れては加へられぬと云ふのである、福音を単なる恩恵又は愛の教と解すべきでない、義が儼然として其根柢をなして居るのである、(94)そして単に此十七節が然るのみならず羅馬書全体が此「義」を根柢として居るのである。
 「神の義」の真意如何、又如何にして夫が福音に於て顕はるゝか、此問題に就ては学者間に諸説紛々たる有様である、委細は第三章後半に至て明瞭となる事である故茲では一の注意だけに止めて置く、抑も「我は福音を耻とせず」と断じたるパウロは、其理由として「此福音はユダヤ人を始めギリシヤ人凡て信ずる者を救はんとの神の力たればなり」と言ふた、然るに彼は之を以て尚ほ不充分なりと感じて「神の義は之に顕はれて信仰より信仰に至ればなり」と附加したのである、福音は万人を救ふ神の力であるのみならず此福音に於て|神の義〔付○圏点〕が顕彰せられて居ると云ふのが彼の主張である。
 神の力である又彼の義である、義であるが故に力である、神に在りては義ならざる者は力でない、福音は神の力であると云ひて、勿論彼の腕力ではない、亦此世の所謂権力ではない、神の義である、故に其力の顕彰《あらはれ》である、人に在りては力が義と離れて存在する場合が尠くない、然れども神に在りては力即ち義である、義即ち力である、キリストの福音が人を救ふ為の唯一の力である理由は、それが最も瞭かに神の義を顕はすからである、義を以て動《はたら》く力であるが故にパウロは福音を耻としなかつたのである。
 「信仰より信仰に至れり」と邦訳聖書にある句は原語聖書に於ては唯「信仰より信仰にまで」とあるのみである(ek pisteos eis pistin《エク ピステオース アイスピスチン》英語 from faith to faith)、かく簡単なる一句なるがため其解釈区々たる有様である、或は「素朴なる信仰より精練せられたる信仰にまで」となし、或は「信仰より出発して信仰を以て終る」となし、或は「旧約的信仰より新約的信仰にまで」となし、或は「神が人を信ずる事より人が神を信ずる事にまで」となし、或は「(神の義は)信仰より発し信仰を以て獲得せらる」となす、其他異説頗る多い、之に決定的判断を与(95)ふるは難いことであるが其主眼とする所は不明ではないと思ふ。
 邦訳聖書が「神の義は之に顕はれて信仰より信仰に至れり」と意訳せるため、「信仰より信仰に至れり」の句を「神の義」と引き離して、単なる信仰の進歩を意味すとなす通俗的見解が起つた、併し原文に於て「神の義は之に於て信仰より信仰にまで顕はる」とあるを見れば、信仰云々の句は神の義の顕彰と密接に関係せることは明かである、且又原文の文脈に照らして見る時「信仰の進歩」と云ふ見方は此場合には不適当であると云はねばならぬ、茲に於て我等は思ふ、パウロは此句に於て神の義は信仰に依て|受け〔付○圏点〕、信仰に依て|保ち〔付○圏点〕、信仰に俵て|完成する〔付○圏点〕ものなる事を意味したのであると。
 前にも説きし如く「神の義」とは神より人に与へらるゝ義、神より顕はし給ひし義であつて、人の努力の産物たる人の義ではない、人は自己の行や功《いさをし》に依らずして唯信仰のみに依て神に義とせらるゝのである、即ち神の義を信仰に依て|受ける〔付△圏点〕のである、これ人に与へらるゝ大なる恩恵にして又人の抱ける大なる特権である、如何なる人と雖も一度翻つて父なる神と主イエスキリストとを信ずるに至れば、その信仰といふ一事を以て罪を赦されて義とせらるゝ恩恵に浴するのである、然らば此恩恵の継続のためには自己の努力を必要とするか、否たゞ主キリストを仰ぎ瞻る信仰を以てのみ足る、即ち義を持続する道は、そして聖められ進む道は唯信仰を保つのみである、換言すれば信仰によつて義とせられし後の生涯は信仰によつて聖められるのである、即ち神の義を信仰に依て|保つ〔付△圏点〕のである、然らば此義は如何にして完成さるゝか、人の努力に依るか、否然らず、唯イエスを仰ぎ瞻る信仰の結果として与へらる、換言すれば信仰に依つて義とせられ信仰に依て聖めらるゝ生涯は、其終に於て信仰に依て栄化さるゝのである、栄化は義の完成である、即ち神の義は信仰によつて|完成さる〔付△圏点〕ゝのである。
(96) 右の如く神の義は信仰によつて受け、保ち、完成さる、これ「神の義は信仰より信仰にまで(顕はる)」の意味である、信仰を以て始まり、信仰を以て進み、信仰を以て終る、其最始に於て其中道に於て其最終に於て――其凡てに於て信仰中心である、信仰に入り其信仰を持続すると云ふ唯の一線の上に宇宙間に於て凡そ人に加へられ得る最大の幸福が与へられるのである、これを伝ふるが福音である、故に余りに良過ぎる音信《おとづれ》である、従つて之を信ずるを躊躇する人が多い、併し神の恩恵は宇宙に充ちて居るではないか、神の愛は万物に溢れて居るではないか、天より露を下して草木を零ほし野の鳥に生の歓喜を声高く歌はしめ給ふ神は、無限の恩寵を人に与へんとして常に準備し給ふのである、たゞ之を受くべき人が心足らずして或は頑執《かたくな》を以て之を斥け、或は空しき努力の幽谷に彷徨して受くべき唯一の資格に思ひ到らないのである、受くべき唯一の資格なる信仰を抱かざる時に於ては、与へんとして待ち給ふ天父《ちゝ》も遂に与ふるに道がないのである。
 然りたゞ信仰である、信仰を以て始終一貫するのである、「地獄に落つるとも飽くまでキリストに依り頼まん」とバンヤンは叫んだ、此世に於ても後の世に於てもキリストに依り頼みて変らざる信仰である、此信仰の持続ありて義とせられ、聖められ、栄化せらる、言ひ換へれば信仰の故に義は与へられ、保続せられ、完成せらる、救ひは義を根柢とし信仰の故に実成するのである、然らば此義は何故に信仰によりて与へられ、保たれ、完うせらるゝか、此義と神の愛との共存する理由如何、之を明白に解明したのが羅馬書である、羅馬書研究の価値と興味は茲に在る、委細は後に出づる所、今は唯問題として提起せられたのである。
 パウロは十七節の最後に「録して義人は信仰に由りて生くべしと有るが如し」と云ふた、彼は例に依て聖句を引き来つて其所説を裏書せしめたのである、彼は其書翰の凡てに亘つて聖句を引用すること実に多い、これ彼が(97)旧約聖書に熟通して居たことを語るのみならず、彼が如何に聖書を神の言として尊敬して居たかを示すものである、彼は常に自己の断定を支持するために聖句を用ひ、聖句に斯くある上は其事に疑なしと云ふが如き筆法を用ひるのである。
 「義人は信仰によりて生きん」とは吟巴谷書二章四節よりの引用である、パウロは同一の句を加拉太書三章十一節に於ても引用してゐる、多分これは彼の特愛の句にして彼が暗黒を脱して光明に入るに於て大に力となつた語であると思ふ、吟巴谷書二章四節は云ふ、
  視よ彼の心は高ぶり其中にありて直からず、されど義しき者は信仰によりて活くべし。
と、「彼」とは誰か、或人はカルデヤ人と見、或人は不信のユダヤ人と做す、何れにしても「義しき者」と対立する心高ぶれる輩を指すのである、されば「義しき者」とは信仰に立つユダヤ人を指したのである、高ぷれる徒輩が直からずして滅亡に向て急ぎつゝあるに義しき者は信仰に由て生きんと云ふのである、神に背く者に来る必滅と彼に依頼む者の受くる生命とは預言者の語に於て鮮かに対比せられたのである、「義しき者は信仰によりて活くべし」と、語それ自身が偉大なる語である、そして之を汚濁なる世相を前にして発したる預言者の確信として眺むる時、その伝ふる精神の壮烈と思想の高貴とは強く我等を打つのである、パウロは此偉大なる語を引用し来つて之を羅馬書の大精神として掲出したのである。
 「政治家は政略によりて生く」と云ふ語を以て現代政治界の実状を云ひ表はすことが出来る、曾ては政略によりて生きざる政治家のあつた事もあるが今や之を見出すことは殆ど不可能である、孰れも政略を以て終始し之に|より〔付ゴマ点〕巧なる者は|より〔付ゴマ点〕拙なる者に勝つが政界の実状である、又「商人は利益によりて生く」と云へば能く彼等の実(98)状を道破したのである、物的利益は実に彼等の唯一の目的にして彼等の一挙手一投足は専ら之がために動くのである、同じ意味に於て「軍人は武力によりて生く」と云ふことが出来、「学者は知識によりて生く」と云ふことが出来る、之等は孰れも社会の実状である、今之等の語と相対して「義人は信仰によりて生きん」との語を見よ、その高貴なる語なることは極めて明瞭である。
 今や基督信徒と称する者にして政治家の如く政略に由て生き、商人の如く事効をのみ貴び、軍人の如く此世の力を重んじ、学者の如く此世の知識に頻る者少からぬは遺憾の至である、これ実に此世に降参して「此世の子等」の姿態《すがた》を学ぶことではないか、イエスは荒野の試誘に於て悪魔の勧むる此世の智慧や手段を悉く斥け去つた、彼を信ずる者も亦然あらねばならぬ、只信仰のみに生きんとは我等の堅き決心でなくてはならぬ、信仰のために如何なる不利益に陥り如何に多くの犠牲を払ふとも、之を以て一生涯を貫かんとの強固なる覚悟は基督者の日常の所有物でなくてはならぬ、「涙の谷を過ぐれども其処を多くの泉ある所とな」し、「悪の幕屋に居らんよりは寧ろ我神の家の門守とならん」ことを切に願はねばならぬ、キリストの為に迫めらるゝを以て大なる歓喜《よろこび》となし「我は永へにヱホバの宮に住まん」との更らぬ決意を抱かねばならぬ、この心あらば政治家たるも商人たるも学者たるも可なりである、然る時は政略に由て生きず利益に由て生きず知識に由て生きず、実に信仰によりて生くるのである、我等は如何なる職業に従ふとも信仰によりて生くる人たらねばならない。
 「義人」の意義如何、又「生きん」の意義如何、如何なる罪ある者も信仰によりて罪を赦されて義とせらると云ふのであるから寧ろ「罪人は信仰によりて生きん」と云ふ方可なりと思ふ人があるかも知れぬ、又「世の人こぞりて神の前に罪ある者」である以上一人として義人はない筈であると云ふことも出来る、併し乍ら茲にパウロ(99)が義人を以て意味するのは、かの自らを以て義とするパリサイ的義人でないと共に、何等罪を犯すことなき道徳的に完全なる者ではない、完全に義しき人は此世に於ては一人もない、抑も羅馬書は信仰を以て義とせらるゝ事を説くを以て主眼とする、故に此場合預言者ハバククの語を引用せし際に於てもパウロは「義人」の一語の中に此一事を含蓄せしめたに相違ないと思ふ、即ち道徳的に神の前に完全に義しき義人にあらず、信仰を以て神に義とせられたる義人である、これをパウロは意味したのであると思ふ、次に「生きん」の語に於て聖書の意味する処は現代人の意味する所の如く茫漠たるものではない、「生命」の一語は即ち|永生〔付ゴマ点〕を意味するのである、されば「生きん」の一語は「限りなく生きん」を意味するのである(ヨハネ伝六章五七、五八参照)、即ち滅亡を免かれて永遠の生命に入ることを意味するのである。
 「義人は信仰に由りて生きん」を原文のまゝに排列する時は、
  義人は 信仰に由り(由る)生きん
となる、「信仰に由り(由る)」の句は真中にあるため之を「信仰に由る義人は生きん」と読むも文法的には合理である、されば「義人は信仰に由りて生きん」と読むも「信仰に由る義人は生きん」と読むも文法上には何等の故障ないのである、従つて意味の上に於て孰れを採るべきかの判断をすることゝなるのである、英訳邦訳共に前者を採つて居るが、後者を採る方パウロ神学の精神に適ふと做す学者も相当に在るのである、ハバククの意味が前者にあつた事は学者の一様に認むる処であるが、之を引用した時のパウロの意味については二つの見方に分れるのである、されば此引用文の読み方如何は学者間に於ては可成り面倒な問題の一である。
 思ふに「信仰に由り(由る)」の句を前へも後へも関係せしめて「信仰に由る義人は信仰に由りて生きん」と読(100)むはパウロの真意に最も近きものではあるまいか、文法的に斯く一の句を二度読む事が許さるゝか如何は知らず、たゞ文法などに拘泥せざるパウロの真意を探らんとせば此読み方が最も合適であると思はれる、抑もパウロの意味する義人は「信仰に由る」義人である、信仰に由りて義とせられし義人である、かゝる義人は又「信仰に由りて」生くるのである、信仰に由て義とせられ信仰に由て生く、これパウロ的意味に於ける基督信者である。
 もし此見方にして成立するならば此一語は実に羅馬書の主要部たる第一本館(一章より八章まで)の主意を表明したものである、そして第一本館は実に羅馬書の最主要なる部分なるが故に、此一語は羅馬書の大趣意を表明したものであると云ひ得るのである、そして前にも説きし通り第一本館は、
  第一、義とせらるゝ事(一章十八節−五章)
  第二、聖めらるゝ事(六章、七章)
  第三、栄化せらるゝ事(八章)
の三に分たるゝものであるが、「信仰に由る義人」の一句は第一に当り、「信仰に由りて生きん」の一句は第二第三に該当するのである、即ち「信仰に由る義人」とは信仰に由て義とせられし基督者を指すので一章十八節−五章に当り、「信仰に由りて生きん」は此世より来世に亘る永生を意味するので、聖めらるゝ事と栄化せらるゝ事(六章より八章まで)に当るのである、されば「信仰に由る義人は信仰に由りて生きん」の一語は実に羅馬書の第一本館の模型と云ふべきである、此一語を先づ掲げたるパウロは之を引き伸ばして第八章までの大論述を為したのである、そして一章−八章は実に羅馬書の主体であつて九章以下は其附随物であるが故に、此一語は実に羅馬書を圧搾せしものと称し得るのである、十六、十七節が羅馬書の主題提示で羅馬書の縮図であるが、その(101)主題の最後にある此一句は更に小なる其縮図と云ふべきものである、我等は此一小句に深甚なる注意を払ふべきである。
 
     第十講 異邦人の罪(一) 第一章十八−三二節の研究 (三月廿日)
 
 パウロは一章劈頭に於て先づ挨拶を兼ねて自己紹介をなし、次に八−十五節に於て感謝を以て始めて羅馬訪問の計画について語り、十六、十七節に入りては自《おのづ》から羅馬書の主題に移りゆきて偉大なる語に包みて偉大なる思想を掲出した、挨拶を終へ感謝を終へ問題の提出を終へて茲に此大書翰は其序言を終つたのである、されば一章十八節よりは愈々本論に入るのである、即ち我等の用ひ来りし比喩によれば本館第一に入るのである。
 然らば此大書翰の本論に於て先づ我等の会する語は何ぞ、人間救拯の福音を盛れる第一本館に於て先づ我等の眼を打つものは何ぞ、そは神の恩恵を伝ふる野の百合花《ゆり》の如き語か、香|神の怒を伝ふる火の如き語である〔付△圏点〕。
  それ神の怒は不義をもて真理を抑ふる人々の凡ての不虔不義に向ひて天より顕はる。
と十八節は言ふ、誠に是れ吾人の意表に出づることである、併し乍ら福音は先づ罪悪の指摘を以て始まる、罪の摘示あり而して罪の悔改ありし後ならでは救拯の与へらるゝ素地がない、|輝く如き福音の美屋は陰惨なる罪戻指摘の土台の上に立つ〔付○圏点〕、美はしき花は黒き土より咲き出づる外はない、キリストの福音の伝へらるゝに先ちて、「主の道を備へ其|路線《みちすぢ》を直く」すべくバプテスマのヨハネの罪悪詰責がなくてはならなかつた、罪を責めずして先づ恩恵を説くは土台なきに家屋を建つることである、かゝる愚かなる工師の今や世に少からざるは歎ずべき事である、パウロは人を救ふ道を熟知して居る、その順序を誤るが如き事はしない、彼は恩恵を説く予備として茲(102)に其鋭烈なるべンを揮つて物すごき罪悪指摘に入るのである。
  十八節最初の語「それ」は実は「そは」と訳すべきものである、即ち十八節は十七節の理由として述べられた形になつて居る、けだし救の必要なる理由は神の怒が人の上に臨みつゝあるからであると云ふ意であらう。
 「神の怒」の一句に接して之を厭はしき語となす人があるであらう、併しそれは「怒」の一字を以て人間の怒を想起したからのことである、人の怒は多くの場合に於て感情の乱れを意味する厭はしき語である、しかし神の怒の状態が人のそれと違ふことは云ふまでもない、そして神怒の表顕は事実として此世に臨むことを我等は認むる、これ理論にあらず実に事実の問題である。
 「不義をもて真理を抑ふる人々」は即ち謂ゆる罪人である、善を善と知り之を行はざるべからずと知り乍ら敢て之を抑止して不義に歩む者である、神の神たる事を知りながら心の中に実感せらるゝ此真理を阻みて其発動を抑ふる者である、換言すれば真理を真理として知りながら之に従はず、不義を不義と知りつゝ之に従ふ者、これ即ち罪人である、罪人自身は此事を認めないであらう、しかし罪より救はれて神に生くるに至りし人は自己の過去を顧みて一様に此事を認知するのである。
 かゝる人の凡ての不虔(神に対して背く事)と不義(人に対して道徳的に義ならざる事)とに向つて「神の怒は……天より顕はる」るのである、恰も子の不義に対して父は怒らざるを得ざるが如きものである、「顕はる」の原語 apokaluptetai(アポカルプテタイ)は英語 is revealed に当り現在動詞である、故に今既に神怒が顕はれつゝあるを意味する、然らば何を以て神怒の現れとなすか、此問題について学者は種々の意見を提出する、併し其中最も合理的なるものは二十四節以下に描かるゝ荒濫の状態其者が即ち神怒の発表であるとなす見方である、然る(103)時は十八節の総括的断定を十九節以下が解明したことになるのである。
  此十八節は異邦人のみを指したか又は人類全体を指したかは学者の間に議論のある所である、もし異邦人のみを指したとすれば此節は第二章には全然関係なきものとなりて、たゞ一章十九節以下の異邦人の罪悪指摘の序言にのみ止まるのである、もし又此節が人類全体を指したとすれば、パウロは先づ人類の全部を見渡して此総括的断定を下し、然る後人類を異邦人とユダヤ人とに二分して、先づ一章十九節以下に於て異邦人の罪を指摘し、次に二章に於てユダヤ人の罪を指摘したことになるのである、即ち一章十八節は一章十九節−三章二十節の序言となるのである、後の見方は頗る組織的に見えるので近代の聖書学者たるサンデーの如きは之を採用してゐる、しかし「不義をもて真理を抑ふる」と云ふ心理は全然異邦人式であると云ふ理由を以て前の見方を採る人にべンゲル、マイヤー、ゴオデー、ビート等の大家がある事に注意せねばならぬ、もし此方の見方を正しとせば、十八節は全然異邦人に関する語となるのである(ゴオデー羅馬書註解英訳百六十八頁に於ける明晰なる分解を見よ)。
 一章十九節−三二節は三段に分ちて見るを便とする、第一段は十九−二三節である、茲に異邦人の偶像崇拝の心理は頗る適確に挙示せられたのである。
 (19)そは人の知るべき所の神の事柄は人に明かにして既に神これを人に顕はし給へばなり、(20)それ人の見ることを得ざる神の限なき力と其神性とは造られたる物により創世《よのはじめ》より以来《このかた》悟り得て明かに見るべし、是故に人々言ひ逃るべきやうなし、(21)既に神を知りて尚ほ神を崇めず亦謝することをせず却て其|思念《おもひ》を乱し其愚なる心暗くなれり、(22)自ら智しと称へて愚なる者となり (23)朽壊《くちはて》ざる神の栄光を変へて朽壊つべき人及び(104)禽獣昆虫の像に似す。
 「人の知るべき所の神の事柄」とは何を意味するか、之を原文のまゝに訳せば「神に関して人の知り得べき事」又は「神に関して人に知らるゝ事」となる、其の意味する所は何等特殊の天啓に依らずして自然と人に知らるゝ所の神的知識を指すのである、即ち唯一の神の存在すること、及び其神の大体の性質(例へば善を愛し悪を憎む事、又その限りなき力の所有者なる事等)は異邦人の間にありても極めて明かである、神は既に之を彼等に顕はし給ふたのである、神は彼等に人たるの本性を与へ、理性と良心とを与へ、且宇宙万物てふ材料を供して彼等に神的知識を得しむる道を開き置き給ふたのである、殊に彼等の間の哲学者、宗教家、智者、識者等比較的優秀なる頭脳と感受性を有する者には、神に関する知識が或程度までは当然備はるべき筈である。
 誠に然り、神には限りなき力(永遠に亘る力)がある、彼は偶像神の如き無力なるものではない、宇宙を支配し万物を動かす永への力が彼に在る、そして彼には又明かに「神性」がある、かの多神教の神々の如き卑俗なる性能の所有者ではない、真に万物の造主たる所の神たる性を具有してゐるのである、そして神に此力と此神性との備はれる事は宇宙万物に明かに記されてゐる、虚心平気にして――多神教的偏見を脱して――此宇宙万物に対する時誰人か神の神たるを悟識しないであらうか、よし神の特殊の黙示に接せざる異邦人と難も一度その本性を開いて神の造化を見ば、彼等は宇宙唯一の神と其力とを知り得べき筈である。
 然るに彼等異邦の民は「既に神を知りて尚これを神と崇めず亦謝することを」しない、彼等は心に与へられ居る真理を我と自ら抑塞して、神を認めつゝ而かも神を否認するのである、何者が彼等をして此矛盾に出でしむるか、その動機は様々であらう、併し彼等が悪魔の囁きに聴従したる一事は明かである、かくて其思は乱れ其心は(105)暗くなり、自ら智者を以て居るも実は愚者にして、朽ち果つべき人及び禽獣虫魚の像を以て神を刻み偶像崇拝の低卑と醜怪とに堕して居る、これ実に彼等異邦人の実状である、見よギリシヤ、ロマの多神教を、彼等の神々は人の如き情慾、痴愚、放恣、復讐等に走るものである、これ「朽壊てざる神の栄光を変へて朽壊つべき人」となすものではないか、又見よエヂプト、カルデヤの動物崇拝教を、牛、猫、蛇、鰐魚等を拝する彼等は正に「神の栄光を変へて……禽獣昆虫の像に似す」るものではないか、文化を以て誇る民が心霊問題に於ける其愚昧は沙汰の限りである、而して心霊問題は人生の最根本なる問題である、源濁りて末清き筈はない、心霊に於て愚昧なる彼等は其凡てに於て愚昧なのである。
 パウロは偶像崇拝の心的経過を右の如く描いた、近代の謂ゆる宗教学者と称する輩は彼の此断定を排拒するであらう、しかしパウロは深く人の心の内部に穿つたのである、そして心の奥深く存する霊魂の問題として之を見たのである、然る時心霊の鏡に映りし神的知識を我と自ら打ち消して、自己の欲望を彼に移して眺むる時に偶像拝跪は自から生起するものなる事を知るのである、パウロは罪に生れて罪に住む人間の心の傾向を眺めて、一神の知覚より偶像崇拝への堕落を其心の中の経過として認めたのである、実に大胆にして深刻なる断案と云ふべきである。
 神を知覚しつゝ而も偶像に走るは|悟性の乱れ〔付○圏点〕である、悟性の乱れの次に起るは|情性の乱れ〔付○圏点〕である、即ち彼等が真の神を斥けて偶像を信ずるに至りしため情性の荒乱は当然の結果として起つたのである、これを記述するのが二十四−二十七節である、これ第二段である、まづ二十四節は言ふ、
  是故に神は彼等を其心の慾を縦肆《ほしいまゝ》にするに任せて互に其身を辱しむる汚穢《けがれ》に付《わた》せり。
(106)と、「是故に」とある語に我等は注意せねばならぬ、前節に於て偶像崇拝を描き今これを受けて「是故に」と云ふ、されば二十四節は偶像崇拝の結果として情性の汚穢に陥りし事を意味するのである、そして「神は彼等を……汚穢に付せり」とあるを見れば此節は神怒の顕はれとして此事を記したものである事明かである。
 「付せり」の原語は paredoken である、二十六節の「任せ給へり」も此字を用ひてある、英語聖書は之を gave up と訳してゐる、付してしまつたと云ふのである、彼等が偶像拝跪の結果道義的敗壊に陥つたのを神は敢て阻止又は警戒の手を加へずして其儘に放任して了つたと云ふのである、彼等が肉慾てふ船に乗りて汚穢の海を走りつゝあるを其為すが儘に任せ給ふたのである、かくて彼等は滅亡に向つて急走するより外に道なきことゝなつたのである、彼等の罪戻の激甚が遂に此結果を生んだのである、これ即ち神の怒の現はれである。 由来偶像崇拝には必ず道徳的腐敗が伴ふ、パウロが羅馬書起草当時滞在し居たるコリントの如きは、偶像崇拝の盛なると共に其道義的敗壊を以て名高き所であつた、一方に哲学者が超高なる教を説きつゝありて人々は争て其講筵に列せしにも係らず、此講筵に列する人自身が乱倫の巷に彷徨して敢て耻ぢざるの有様であつた、実に偶像崇拝に道徳的腐敗の附随するは甲の結果として乙の起る実証である、日本に於ても其実例は決して少くない、仏教其者は貴き教であるに相違ないが之に偶像的信仰が伴ひ易く、而して偶像的信仰の起る所必ず風紀の敗頽が生れるのである。
 進んで二十六、七節を見るに其処に人性逆用の醜陋なる罪悪が挙げられて居る、聖書に斯る言あるを異とする人があるかも知れぬが、パウロは偶像崇拝の結果たる情性の荒濫を述べんためには当時盛に行はれたる此種の罪(107)悪を指示するの已むなきに至つたのである、希臘羅馬の社会に此種の腐敗の甚しかりしは旧記の明記する所である、しかし乍ら我国と雖も亦此点に於て決して清きものではない、実に偶像崇拝は人間悟性の乱れであると共に又情性の乱れを惹起する所の恐るべきものである。
 悟性乱れ情性乱れて意志も亦乱れざるを得ない、二十八節以下に記さるゝ各種の不義は何れも皆人が人に対して犯す罪であつて即ち|意志の荒乱〔付○圏点〕を意味するものである。
 羅馬書一章十八−三二節は異邦人の罪戻挙示である、そして心霊の鏡に映りし一神の姿を打消して多神を崇拝するに至りし所の偶像崇拝を以て凡ての罪悪不義の根原と見るが其特徴である、パウロは学者の如く区々たる論証を頼りとして論理の筆を行らず、予言者の如く神の人の如く確信の語を力強く吐露するのである、故に冒し難き権威の其全体を貫けるを否定することは出来ない、実に偉大なる思想であり偉大なる論述である、併し乍ら彼の此権威を認めざる者は必ず彼の所論に抗議を提出することであらう、併しパウロは断乎として之等の抗議を排し去りて飽くまで其確信を固執するのであらう、|仮に今日彼をして我日本に在らしめんか必ず現代社会の底知れぬ腐敗と不義との原因を我民族の偶像尊信に置くであらう〔付△圏点〕、そして如何なる抗議に対しても耳を借さぬであらう。
 パウロの茲に云ふ所は即ち聖書全体の教ふる所である、偶像崇拝が凡ての不義腐敗の原因なりとは凡ての旧約予言者の異口同音に唱ふる所であつて、新約に入つても亦此事は其各所に強調せられて居るのである、崇むべき所の者を崇めずして崇むべからざる所の者を崇むるは心霊の病的状態である、心霊既に病まば其人の凡てが病む外はない、かくて諸々の不義汚行は起らざらんとするも能はない、ぞして偶像とは凡て神以外の崇めらるゝ者を指す、利慾、権勢、虚名等も亦偶像の一種である、凡て神以外の者に頼るは偶像崇拝である、そして凡百の不義(108)汚濁の源泉である、人類数千年の歴史は明かに此事を証明して居るのである、而して人類の歴史に於て常に社会を支へ、潔め、保つ力となりし者は聖き唯一神の信仰である、げにキリストの福音こそ人類を慰め、励まし、改めつゝ来つたものではないか、こは慥かに過去二千年の人類史に筆太に記さるゝ一大事実である、之を科学者、哲学者、詩人、政治家等の各種類の人について見るも、神を知る人の方 神を知らぬ人よりも多くの感化を世に与へし事は否認し難き事実である、されば我等は云ふ、人類幾千年の経験は明かにパウロの言を裏書するものであると。
 以上の如くパウロの罪悪拳示を眺むる時我等も亦此罪人の一人なりとの実感の生起するを免れない、今や幸にして神を神として認むるに至りしと雖も、神を認めざりし当時に於て犯せし各種の罪悪は想起するだに怖ろしい、そして今や神に帰するに至りしと雖も尚全く聖き人たるを得るに至らずして罪は尚ほ悉く我を去つたと云ふことは出来ない、あゝ罪よ〈汝は斯く我が一生涯を悩ます残酷なる暴君なるか、我は此残酷なる暴君の奴隷として一生を拘縛の中に送らねばならぬのであるか……、罪の指摘に会つて苦悶は一入高まるのである、しかし乍ら予言者イザヤは言ふ、
  ヱホバ言ひ給はく、いざ我等ともに論らはん、汝等の罪は緋の如くなるも雪の如く白くなり、紅の如く赤くとも羊の毛の如くにならん(一章十八節)
と、げに慰め深き予言なるかな、緋の如き罪も消えて雪の如く白くなり、紅の如き罪も去りて羊の毛の如く純白になると云ふ、罪人にとりて此上なき大なる歓びの予示である、そして主イエスの福音こそ実に此予言を達成するものである、彼は十字架に於て万民の罪を負ひ、ために我等の罪は如何に重く且深くとも春の日の淡雪の如く(109)消え去るのである、そして我等は罪を其根柢に於て除かれて唯イエスを信ずるのみにて「功なくて義とせらるゝ」のである、罪あるに罪なしとせられ、義ならざるに義とせらる、げに至大の恩恵と云ふべきではないか、而かも未だ雪の如く羊の毛の如く白くなつたのではない、茲に尚ほ|不満〔付△圏点〕がある、故に|希望〔付◎圏点〕がある、(満ちて了へば希望はない)、キリスト臨つて我等の復活し栄化する時――其時我等は全く純白の衣を纏ひ手には勝利の印たる棕櫚の葉を持ちて宝位《くらゐ》と羔の前に立つに至るのである(黙七の九)、其時は予言者の予言の全く成就する時、福音が其目的を達せし時である、其時救は完成し、神の義と人の義と相一致するのである、これ罪が事実的に痕形もなく失せて義のみが凡てに漲る時である、然り只義のみが凡てに漲る時である。
 パウロは之を知るが故に、又これを説く予備として、先づ罪悪の挙示に其強きべンを揮つたのである、彼が罪を責むるや実に峻烈を棲むるの観がある、しかし之に添へて赦免の道を必ず提示するのである、そして人は誰人と雖も先づ赦免の実感に入ることは出来ない、まづ罪の弥増すを実感して堪へがたき苦痛を心に得たる後遂に福音的赦免を受得して心に安きを味ふに至るのである、これ自然の、そして健全なる順序である、故に始の苦悶は決して恐るゝに足らない、これやがて後の歓喜を生むべき第一歩である、故にパウロは敢て憚らず又遅疑せずして先づ激しく異邦万民の罪悪を指摘し且詰責したのである、パウロの此心を知るは羅馬書の一章後半、二章全部、三章前半を読むに於て甚だ大切である。
 
     第十一講 異邦人の罪(二)一章二八−三二節の研究 (四月三日)
 
 羅馬書一章十九−三二節は前講に於て説きし如く三段に分つことが出来る、即ち左の如くである。
(110)  第一段(十九−二三節) 悟性の乱れ(偶像崇拝)
  第二段(二四−二七節) 情性の乱れ(汚穢)
  第三段(二八−三二) 意志の乱れ(不義)
即ちパウロは異邦人の罪を悟性、情性、意志三者の昏乱に於て眺めたのである、そして悟性の乱れ即ち偶像崇拝を以て情意両者昏乱の原因と見做したのである、真に深刻にして正確なる心理的解剖と云ふべきである、今意志の乱れを述べたる二十八節以下を見るに左の如く記されて居る。
  (28)彼等心に神を存《と》むることを好まざれば神も彼等が邪僻《よこしま》なる心を抱きて行《す》まじき事を行すに任せ給へり、(29)凡ての不義、悪慝、貪婪《たんらん》、暴很を充たす者、また妬忌、凶殺、争闘、詭譎、刻薄を盈たす者、(30)また讒害、毀謗をなし神を怨む者、狎侮、傲慢、矜夸《きようくわ》、譏詐《きそ》、父母に不孝、(31)頑梗、背約、不情、不慈なる者、(32)凡て之等を行ふ者は死罪に当るべき神の判定を知りて尚ほ自ら行ふのみならず亦これを行ふ者をも喜べり。
之を前の数節と併せ読みて真に峻烈なる罪業弾詰であると云ふべきである、異邦世界の醜悪なる姿はさながらに目前に現はるゝの感なきを得ない、されば之について研究するよりも寧ろ之に顔を背くるを以て得策とすと云ふ人があるかも知れぬ、さりながら聖書の言は何事に関せるものなりとも、聖書の言なるが故に研究すべき値がある、加之この罪悪指摘は罪悪指摘のための罪悪指摘ではない、赦免の恩恵にまで導く中道としての罪悪指摘である、換言すれば罰せんがためのものに非ずして救はんがためのものである、之を譬ふれば滅亡の谷に導くには非ずして生命の山巓に到らしむるために峻絶なる嶮阪を攀づるが如きものである、故に苟も救拯の達成を我に於ても人に於ても望む者に取つては見落すべからざる箇処である。
(111) 罪悪の醜状を描くこと斯くの如く赤裸々なるはパウロにも似合はぬことゝ云ふ人があるかも知れない、|さりながら赦免を深刻に味ひたる人は罪を見ることも頗る深刻である。赦免の味ひ方浅き人は罪に対する見方も頗る緩慢である〔付△圏点〕。罪悪が如何に恐ろしき者なるかは其赦免の恩恵に接して初めて知るのである、深く此恩恵を味ひたるパウロが罪悪弾責に於て峻烈と見ゆるは固より当然のことである、ましてそれが殺すためならで活すための罪悪挙示なるをや。
 二十八節を読みて「無慈悲なる神かな」と云ふ人あらば其人は全然此節の真意を誤解せしものである、神は決して「邪僻《よこしま》なる心を抱きて行《す》まじき事を行す」処まで彼等を逐ひ込み給ふたのではない、彼等が「心に神を存むることを好まざる」結果として――即ち神を認めながら強ひて之を心の外に排逐し続けし当然の結果として――次第に悪の深みに入り進み、警告と懲戒とを以て反省を促さるゝにも係らず頑として罪の筵を去らざるがため、遂に神は一時其手を引きて彼等を放任するに至り「彼等が邪僻なる心を抱きて行まじき事を行すに任せ給」ふに及んだのである、「任せ給へり」の原語は paredoker(パレドーケン)にして二十四節の「付せり」と同語である(前講参照)、罪の甚しき時は遂に此種の神怒を惹き起すに至るのである、これ真に神に見放されたとも云ふべき状態であつて刑罰の甚しきものである、さはれ我等は之を以て神を無慈悲と見るべきでない、何となれば刑罰の目的は常に反省の心を起さしむるにある、刑罰は愛の半面である、そして刑罰は常に当然の結果として起る、二十八節は異邦人の意志昏乱の内的意味を最も合適に且深刻に言ひ表した者である。
 二十九−三十一節には幾つかの罪悪を列挙してある、パウロは斯く異邦人の罪悪を挙示しつゝ彼等の良心に向つて肉迫するのである、之を我等は|罪の目録〔付○圏点〕と名づける、そして新約聖書には尚この外にも罪を挙示する処が可(112)成り多いのであるが其中重なるものは左の二である、換言すれば新約聖書中罪の目録は少なくないのであるが、其中大目録と称すべきものは羅馬書一章二九−三一節の外に尚左の二つがあるのである。
  (馬可伝七亞二一、二二節)人の心より出づるものは悪念、姦淫、苟合、兇殺、盗窃、貪婪 悪慝、詭譎、好色、嫉妬、謗※[言+賣+言]《ばうとく》、驕傲、狂妄なり。
  (加拉太書五章十九−二一節)それ肉の行は顕著《あらは》なり、即ち苟合、汚穢《をくわい》、好色、偶像に事ふること、巫術、仇恨、闘争、※[女+戸]忌、忿怒、分争、結党、異端、※[女+冒]嫉、兇穀、酔酒、放蕩などの如し。
馬可伝所載の罪の目録はイエスに依つて与へられたもので最も組織的なるものである、その挙げし罪の数は十三である、加拉太書のものは罪の数十六を算へる、此両者に此して羅馬書の罪の目録は其数最も多くして二十一の種目を掲げてゐる。
 羅馬書の罪の目録は寧ろ罪人の目録とも云ふべきものであるが亦罪の目録にもなつて居るのである、そして之はたゞ雑然と罪を列挙したのではない、之に整然たる系統ありて正確なる順序の下に掲げられたものである、今これを左の如き表を以て表はすことが出来る。
  罪の総称=不義
  罪の総体=暴很、悪慝、貪婪
  嫉妬の罪=妬忌、兇殺、争闘、詭譎、刻薄
  讒誣の罪=讒害、毀謗 (怨神?)
  傲慢の罪=狎侮、傲慢、矜夸、(譏詐)
(113)  不実の罪=不孝、不法、不信、不情、不慈
此表にありては和訳聖書の文字を改めしものが二三ある、即ち「神を怨む」とあるを便宜上「怨神」と云ふ熟語に改め、次に「頑梗」を不法と改め、「背約」を|不信〔付○圏点〕と改めてある、又此目録中馬可伝に於てイエスの与へたる目録に含まるゝものと同じ罪は兇殺、貪婪、悪慝、詭譎、嫉※[女+戸](妬忌)の五である、他の十六は皆パウロの新たに挙げしものであるのに注意すべきである。
 パウロは先づ「凡ての不義」と云ひて罪の総称を掲げたのである、抑も二九−三一節は人の意志昏乱の結果としての罪業を記したものである、そして意志の昏乱は人間が相互に対する不義として現はれる、謂ゆる倫理上の罪である、故に之を総称して「凡ての不義」と云ふは頗る適切であると云ふべきである、貝原益軒が「仁とは善の総名なり」と云ひて仁を以て凡ての善を一括せしと相似て、パウロは茲に|不義〔付○圏点〕の一語を以て人間相互に対して犯す諸罪を一括したのである、かく先づ概括的の語を掲げ然る後分析的説明に入るはパウロの特徴である。
 次にパウロは「悪慝、貪婪、暴很」と云ふた、この三つの罪の順序は原本に依て相違あるため種々の説があるが多分「暴很、悪慝、貪婪」とあるのが正確であると思ふ、そして此三は実に「罪の総体」と称すべきである、凡ての不義を分ちて此三にすることが出来る、この三の中に人間相互間の凡ての罪悪を分類し得るのである、即ち是れ罪の総体である。
 |暴很〔付○圏点〕(原語 kakia《カキア》、英語 maliciousness)は未だ行として現はれざる心の中の悪毒を云ふ、悪行でなくして悪性である、内に潜むと雖も種々の悪行を産み易きものにして悪事の根原とも称すべきものである、これ心中に蟠まる苦き毒にして、内に潜みては心を汚し外に現はれては人を傷つくるものである、真に恐るべき悪の根である。
(114) |悪慝〔付○圏点〕(原語 poneria《ポネーリア》英語 wickedness)は悪が行として外に現はれしものを云ふ、不義の源なる暴很より発出し来つて事実的に人を傷つくる所のものを指す、しかも利慾のために悪事を行ふにあらずして悪のために悪を行ふ事、即ち他を苦むるを以て快楽とする所の悪事遂行である、最も根深き、最も執拗なる、最も罪深き所の悪行為である。
 |貪婪〔付○圏点〕(原語 pleonexia《プレオネキシア》,英語 covetousness)は他人の所有物を我物としたしと願ひ且此願を実現せんとする事である、これ人の所有権を害ひ人の物を我物となさんとする罪にして、今の社会に最も広く行はるゝ所のものである、これ正道を踏まずして物慾の飽満を願ふことにして其含む範囲の広き罪である、十誡第十条は「汝その隣の家を貪る勿れ」と特に此罪を戒めたのである。
 以上暴很、悪慝、貪婪は罪の総体である、凡ての罪悪は此三の中に含有されてゐる、パウロが妬忌以下に記したる十七罪は此三者の詳密なる分類と見ることが出来るのである、その第一類は「嫉妬の罪」にして其中に妬忌、兇殺、争闘 詭譎、刻薄の五種を含んで居る、妬忌は普通に謂ゆる嫉妬である、即ち嫉妬系の罪の中の主体である、嫉妬の罪が未だ外に現はれずして心の中に潜んで居る時が妬忌である、人の良き物(有形無形の)に対して悪しき眼を向け、人の優秀強所を見て心に暗黒なる思ひを抱くことを云ふのである、この妬忌が外に現はれて最も甚しきに至つたものが|兇殺〔付○圏点〕である、人を殺す罪である、妬忌は進んで憎悪となり憎悪は進んで兇殺となる、妬忌を徹底せしめしものが兇殺である、カインが其兄アべルを殺したるは其の最も好き例の一である。
 パウロは嫉妬系の罪の五種を挙ぐるに当つて先づ其内に潜む形なき所の妬忌を挙げ、次には其最も甚しきに至つた所の兇殺を挙げた、かく彼は初より出発して一足飛びに終に至つた、然る後回顧して初と終の中道にある所(115)の三の罪を挙げるのである、其第一は|争闘〔付○圏点〕である、妬忌の外に発して兇殺ほど甚しきに至らぬ時は争闘として続いてゆく、小は個人間の争より大は国家間の争に至るまで――其間に家と家の争、村と村の争、政党と政党の争等幾つも争關が介在する――多くは妬忌の結果である、口を以て筆を以て剣を以て其他種々の道を以て人は其競争者に対する妬忌の故に争闘に耽るのである、次は|詭譎〔付○圏点〕である(英語の deceit)、偽を以て人を欺くこと、陰険なる手段を廻らす事等を指す、之は敵を倒さんために用ふる悪事であつて、つまり妬忌の外に現はれし姿の一である、次は|刻薄〔付○圏点〕である、之の原語を kokoetheia(ココエーサイア)と云ふ、悪意を以て凡ての事柄に対する事を云ふ、如何なる善に対しても其動機及び其性質の中に悪を充分に認める事である、これ即ち妬忌の然らしむる所であつて、人の良善を嫉むあまり其に悪の衣を着せずしては心安きを得ないのである、換言すれば嫉妬のあまり凡ての物事を悪と見るが此罪であつて、是れ即ち自己心中の悪を他に投影したのである。
 次にパウロは讒害、毀謗の二罪を掲げた、これを総括して「讒誣の罪」と見ることが出来る。|讒害〔付○圏点〕とは謂ゆる蔭口である、公然として人を罵るにあらず、蔭でこそ/\と人の悪評をする事である、これ密かに人の耳より悪毒を注入する事であつて間接に他を傷ける罪である、之に対して毀謗とは公然人の悪を伝へて正面より人の名誉と地位を傷ける事である、即ち私かに行ふ讒誣が讒害であつて公けに行ふ讒誣が毀謗である、共に人を傷けんとの悪意より出でし罪である、讒誣系の此の二つの罪はパウロを常に取り囲んだものである、彼は常に敵人の中傷に煩された人であつた、殊にパウロの敵人たりし猶太人なる者は元来この種の罪に秀でた民族である、彼は執拗にして而も巧妙なる讒害と毀謗のために幾度か其事業と名誉とを傷けられんとしたのである、哥林多後書の如きは格別にも此事を明瞭に語る文書である。
(116) 次に掲げらるゝは「神を怨む」罪である、原語 theostugeis(セオスツガイス)は「神を憎む者」と訳すことも出来「神に憎まるゝ者」と訳することも出来る、其ために学者間に種々の見方が起つた、そして「神を憎む者」と云ふも「神に憎まるゝ者」と云ふも如何なる人を指すか共に余り明瞭でない、とにかく茲に一つの解し難き語が挿まつて居るのである。
  ゴオデーは「神を憎む者」と見て|最も大なる傲慢〔付ゴマ点〕即ち神の上に己を置く者を指すと解してゐる、然るにマイヤーは「神に憎まるゝ者」と見て、パウロは之まで異邦に行はれる各種の罪を挙げ来つて自ら其醜状に呆れし如く、嫌悪の情に堪へ兼ねて「神に憎まるゝ者よ!」と間接的に言ふたのであらうと推定してゐる ビートはマイヤーに同意してゐる、或は又パウロが讒害毀謗と二つの罪を挙げ来つた時、自己の上に多年加へられし此罪を想起し、根も葉もなき悪評が如何に彼の伝道を妨げしかを思ひて、その辛き経験の上に敵人の醜悪なる姿の鮮かに映れるを見て「神に憎まるゝ者よ!」と思はず一語を挿んだのであるかも知れない。
 次は「傲慢の罪」であつて其中に三つの罪が含まれて居る、|狎侮〔付○圏点〕とは人を賤視し、人に辱めを加へ、人に非礼の事をなし、人を愚弄して快とする罪を云ふ、傲慢罪が悪意的に人に向つて発せられたものである、|傲慢〔付○圏点〕(狭義に云ふ)は謂ゆる|高ぶり〔付ゴマ点〕である、即ち自己の優越の感を心の中に抱くことである、|高ぶり〔付ゴマ点〕が心の中に止まつて居る間は別に人に対して害を為さぬのであるが、自己自身は之がために種々の損害を受け間接に種々の不義の源となるのである、又外に発して狎侮〔付ゴマ点〕となつて人を害し易きものである、そして口を以て此傲慢を外に発表するが矜夸〔付○圏点〕である、己を高しとし人を侮り大言壮語して自ら快とする罪である、傲慢即ち|高ぶり〔付ゴマ点〕に対して之を|誇り〔付ゴマ点〕と云ふことが出来る。
(117) 傲慢系の罪たる此三者を掲げし後パウロは|譏詐〔付○圏点〕の罪を挙げた、之は傲慢に属する罪であるかも知れぬ、或はさうでないかも知れぬ、此点を定むることは困難であるが、人は傲慢の結果往々にして悪の遂行に陥るものである故之れを傲慢系の罪と見て大過なからうと思ふ、譏詐と云ふ訳字は不充分である、原語は「悪事の計画」の意である、一生涯の間他人に対して悪事を為さうと謀り続けることを意味する(ゴオデー)、まことに罪悪の甚しきものであつて悪魔的であると云ふべきである。
 最後に記されしは「不実の罪」である、即ち誠実欠乏の罪である、此系統の罪の第一は|不孝〔付○圏点〕である、父母に対して従順ならざる事、実意の足らざる事、愛の欠乏せる事である、第二は不法である、これは法に適はざる気儘な行為に出づる事であつて社会の秩序安寧を乱す結果を生み易きものである、社会に対する誠実欠乏の罪である、第三は|不信〔付○圏点〕である、約束を縦に破り信任を裏切る事であつて、友人同僚等に対する不実の罪である、第四は|不情〔付○圏点〕である、之は人間自然の愛情を欠ける事を意味する語であつて、親が子に対し子が親に対し、夫が妻に対し妻が夫に対し、兄弟が相互に対して実意と愛を欠ける事である、即ち家族間に於ける誠実欠乏の罪である、第五は|不慈〔付○圏点〕である、之は謂ゆる不人情の罪であつて冷酷を意味する語である、社会に於ける人間相互の関係に於て――殊に憐みを与ふべき地位の者より憐みを受くべき地位の者に対して憐みを与へざる罪である、奴隷に対して暴圧を加へし主人、闘技を観て快とせし上流人士等、いづれも是れパウロの時代に於ける|不慈なる者〔付ゴマ点〕であつた。
 以上がパゥロの「罪の目録」の大体の説明である(委細は『研究十年』三五三頁以下に明かである)、そして此目録を一見した時如何にそれが「モーセの十誡」と声息相通ずるものであるかゞ分る、掲げし罪の多くは畢竟するに十誡の孰れか一に背くことである、以てパウロの心に深く十誡の存せしことを知るに足るのである。
(118) パウロは右の如く二十一種の罪悪を摘示した後に於て一の大なる断案を下して云ふた「凡て之等を行ふ者は死罪に当るべき神の判定《さだめ》を知りて尚自ら行ふのみならず亦これを行ふ者をも喜べり」と、これ三十二節である、忘るべからざる事は之が異邦人の罪を責めし箇処の最後の語であることである、さらばパウロの此言は余りに厳酷ではないか、異邦人は果して「之等を行ふ者は死罪に当るべき神の判定」を知つて居たであらうか、これ明かに一の問題である。
 茲に「死罪」とあるは寧ろ単に「死」とすべきである、|死罪〔付ゴマ点〕の語は此世の法律上に於ける死刑を意味するものと思はるゝ嫌ひがある(改訳聖書も依然死罪の訳字を用ひて居るのは遭憾である)、之は単に「死」と訳すべき場合である、そして此「死」は霊魂上の滅亡を意味する語であるに相違ない、何となれば前掲の二十一種の罪悪中肉体の死(即ち法律上の死刑)に該当すべき罪は極て少いからである、而して異邦人と雖も不義の結果は霊魂の滅亡を生むべしとの神の判定を決して知つて居なかつたのではない、彼等の中の哲人賢者は此事を知りて此事を民に教へ、彼等の中の宗教家は死後の刑罰を説きて現世に於ける道義の勧めをなした、歴史は明かに此事を我等に示して居る、のみならず凡そ人間としての本具の感覚の上に神の此律法の存在はおのづと察知し得らるゝ事であつた、然り彼等は慥に不義を行ふ者に滅亡の臨むべしとの神法を知つてゐた、然るに彼等は此事を知りながら之等の不義を敢て行ふのみならず、之を行ふ者をも喜ぶといふ昏迷の中に住んでゐる、あゝその迷ひの深さよ! 罪の恐ろしさよ! パウロは半の憤りと半の憐みとを以て此断案を下したのである。
 人よ彼れパウロを称して峻酷となす勿れ、又同情のみを以て此不信社会を見る勿れ、彼の強き断案そのまゝが現代社会の実状なる事を我等は認めざるを得ないのである、我利のために凡てを犠牲にして憚らざる社会の醜き(119)姿は、その各種の不義が其人々を霊魂の滅亡に導くだけの充分の力ある事を我等に教へる、世の人はこの刑罰としての死を予感し或は知悉しつゝも渇者が水を呑むが如くに敢て不義を呑みて憚らぬのである、そして我と等しく不義を行ふ者あれば之を見て大に喜ぶのである、これ実にパウロ時代の異邦社会の実状であり、又今日の不信社会の実状である、パウロの言は決して過酷ではないのである。
 最後に残されし一の問題がある、我等も亦かゝる社会の一員にして同じ不義を犯す者ではないか、若し果して然らば我等は如何にしたならば可いのであるかと、これ明かに一の問題である、我等はパウロの数へし二十一の罪を悉く犯す者でないかも知れぬ、しかし五十歩百歩の争は此際不用である、とにかく我等は明かに不義を犯す者、我等は罪人である、然らば如何にすべき、甘じて滅亡の未来を待つべきか、そは堪へ難い、然らば死を変へて生となすの工夫は何処にあるか、これ重大なる疑問である。
 そして勿論此疑問に答へるものは聖書である福音である、我等はイエスの十字架を仰ぎ瞻て罪の赦免を得ると共に、又イエスを仰ぎ瞻て罪を脱するの道に入るべきである、自己の努力如何に強烈を加ふるも我等は罪を取除くことは出来ない、主イエスを心に迎へて彼が我の主人公となつた時彼が我にありて――換言すれば我が彼にありて――罪を脱することが出来る、義を行ふ事が出来る、心に神の国が建設せらるゝ時我等はおのづと怨恨を忘れ、嫉妬を除かれ、傲慢は失せ、不実より離るゝに至る、故に我等は自力を以て一つ/\の罪より脱しようとすべきでない、之は百年河清を待つの類であつて、努むれば努むるほど却て深みに陥没する事である、我等は唯主イエスキリスト――神の独子にして又人類の主なる、そして悪魔を征服し罪と死の権威を滅ぼして勝利の栄冠を得たる彼れイエスキリストを信じ、頼み、仰ぎ瞻るべきである、我心霊の戸を充分に開きて彼を我心に迎へ、彼(120)をして全く我を占領せしむべく計ればよい、其時神の霊我れを環《めぐ》り照らして我は不義を脱し善を行ひ得るのである。
 基督教は果して今の社会に於て実行し得らるべき宗教なるか、その道徳律は到底現代の如き物質本位の社会に於て守り得べき者でないのではあるまいかと、これ堕落せる現代が其代表者たる識者をして発せしむる言である、答へて曰ふ、然りと、又曰ふ否と、基督教道徳は到底我等が|自己の力を以ては〔付△圏点〕実行し得るものではない しかし乍ら一度我等に真の信仰起りてイエスの霊来つて我等を占め我等に代るに至らんか、これ自然と実行し得らるゝ事である。 〔以上、5・10〕
 
     第十二講 ユダヤ人の罪(一) 第二章の研究 (四月十日)
 
 前講及び前々講にて述べし如く、一章十八節以下三十二節までは専ら異邦人の罪悪を指摘せしものである、パウロは強剛なる言を以つて希臘人の智慧と羅馬人の力とを打ち砕いたのである、かくして彼は進んで第二章に於ては自己の同胞たるユダヤ人の罪悪を挙示せんとするのである、勿論彼は憎んで其同胞を悪しざまに云ふのではない、愛するがために之を道義の法廷に訴へるのである、彼は其兄弟、その骨肉の為にならんには「或はキリストより絶《はな》れ沈淪《ほろび》に至らんも」敢て厭はなかつた、同胞の救はれざる中は彼に「大なる憂」と「心に耐へざるの痛」とがあつた、そして人は救はれんためには先づ罪を示されねばならぬ、罪人救済の歓びを伝へる福音は罪人たるを自認せる人にのみ受得せられる、パウロは其愛する同胞を福音の慈雨に浴せしむべく先づ之を弾劾するのである、まして彼は「世の人こぞりて神の前に罪ある者と定まらん」(三の十九)ことを其立論の第一段とするの(121)であれば、既に異邦人の罪悪を指摘したる今は当然ユダヤ人の罪悪を指摘すべき順序となつたのである。
 此事が今日の我等の心に鮮かに映らんためには、我等は茲に想像の翼を借りて千九百年の昔に帰り、大使徒パウロが多島海の周辺に雑多の種類より成る聴衆と相対せし姿を心に描かねばならぬ、聴衆の種類は雑多であつたが之れを其国籍よりしてユダヤ人、異邦人と二大別することが出来たであらう、其異邦人に向つてパウロは先づ其罪悪の深重と敗頽の激甚とを豪宕激越なる語調を以て摘示したであらう、この激烈なる叱責を浴びて彼等は一言もなくして面を伏せたであらう、其間聴衆中のユダヤ人は如何に小気味よく感じたことであらう、平生「選民」を以て自らを高うし、神と律法あるを以て誇り、之なき故を以て異邦人を蔑視し居たる倨傲にして執拗なるユダヤ人は、パウロの此異邦人排撃に接して心ゆくばかりの痛快さを味つたことであらう、しかし乍らパウロは茲にも亦その慣用手段なる局面一変を用ひたことであらう、そして此度は聴衆中のユダヤ人に向つて其鋭き鋒《ほこさき》を向けたであらう、自らを聖しとして異邦人の罪を責むる彼等が実は同じく罪を犯しつゝある事実を指摘して、却て彼等の罪悪が聖書の仮面を装へるだけそれだけ尚ほ深刻なる事を論断したであらう、其時ユダヤ人も亦首を垂れる外に道がなかつたであらう、そしてパウロは異邦人、ユダヤ人両者の罪を斯く断定したる上、人類全体を心の前に置きて「義人なし、一人もあるなし」と高らかに且力強く叫んだことであらう。
 右の如き姿を心に描きたる上にて我等が羅馬書第二章に対するときは、その前後関係の上に明かなる光が投げられるのである、パウロは第一章後半にて異邦人を責め、茲に舞台を一転せしめて第二章に於てユダヤ人を責めるのである、そして然る後人類全体に対して罪人たるの烙印を押したのである、但し第二章に於て我等はパウロの特異なる論法に注意する、此章はその第十七節に至つて明かに筆の調子が変つてゐる、十六節までに於てはパ(122)ウロは「之等の事を行ふ者を審判きて同じく之を行ふ人」を責めてゐる、誰人と特定的に云はずして唯一般的に此種の人々の矛盾と偽善を指示して居る、そして十七節以下に於ては真正面よりユダヤ人を責めて居る、前半も暗にユダヤ人を責めたものであることは、学者間に強ひて之れを否定する者あるにも係らず、極て明々白々の事であると我等は思ふ、然る時はパウロの論法は先づ砲撃を以て敵の陣営を毀ちたる後ち歩兵の突撃戦に移る近世の攻撃法の如きものである、先づ原理を掲出して然る後これをユダヤ人に適用す、まことに彼等の死命を制する論法である、茲にパウロの周到なる用意と聖用せられたる技巧を我等は認めざるを得ない、加之その勇気、その公平なる態度――寔に神の忠実なる僕たるに相応しきものである。
 先づ一節より三節までを左に記して見よう。
  (1)是故に凡そ人を審判く所の人よ汝言ひ遁るべきなし、汝人を審判くは正しく己の罪を定むるなり、そは審判く所の汝も同じく之を行へばなり、(2)斯の如く行ふ者を罪する神の審判は真理《まこと》に適へりと我等は知る、(3)之等を行ふ者を審判きて同じく之を行ふ人よ汝神の審判を免れんと思ふや。
一節の最初に「是故に」とありて前との連路を保たせてある、一章末節には「凡て之等を行ふ者は死に当るべき神の判定《さだめ》を知りて尚ほ自ら行ふのみならず亦これを行ふ者をも喜べり」とあつた、自ら之等の罪を行ふ外更に之を行ふ者を|喜ぶ〔付△圏点〕のは実に律法を知らざる異邦人の罪の特色である、然らば敢て問ふ、之等の罪を行ふ者を審判き乍ら実は私かに自ら之を行ふは尚ほ大なる罪ではないか、かゝる人は単に罪を行ふのみならず其上に尚ほ偽善といふ虚偽を重ねるのである、これ律法を知れる者の犯す罪である、知識を有し倫理を学び、悪の避くべくして善の行ふべきを知れる者の陥る罪は即ち是れである、矛盾と虚偽とを伴ふだけそれだけ却て深刻なる罪である。
(123) 一章末節には「行ふ」の語が三つあり、二章に入りても三節までに此語が四つある、邦訳聖書に於ては常に同一の語を用ひてあるが、原語聖書に於ては二つの異なつた文字を使ひわけて居るのである、即ち prasso(プラソー)と poieo(ポイエオー)の二字を用ひてゐる、そして英訳聖書は前者を practise と訳し後者を do と訳して居る、即ちプラソーは習性としての行為に係はる語であつて習慣的に或事を行ふ事を意味する、即ち或期間続く所の其人の状態について云ふ語である、之に反してポイエオーは外に表れし其時其時の外部的行為に係はる語であつて、或事を事実的に為すことを意味する語である、即ち前者は人の行為を線として見たもので後者は之を点として見たものである、もし漢字の「行」が前者に当り「為」が後者に当るとするならば、先づ一章三十二節を左の如く改める事が出来る。
  凡て之等を|行ふ〔付○圏点〕(習性として)者は死に当るべき神の判定《さばき》を知りて尚ほ自ら之を|為す〔付△圏点〕(個々の行為として)のみならず亦これを行ふ(習性として)者をも喜べり。
以て此節の意味を明かにすることが出来るのである。
 今二章の一節より三節までの間に於て「行」と訳せられし文字を原語聖書又は英語聖書に拠て二種に分けて見る時は、其意味が明確になるのである、即ち一節最後は「そは審判く所の汝も同じく之を行へば也」は習性としてのユダヤ人の悪行を云ふたのである、又二節の「此くの如く|行ふ〔付○圏点〕者」も同様である、次に三節は「此等の事を|行ふ〔付○圏点〕(習性として)者を審判きて同じく之を|為す〔付△圏点〕(個々の行為として)人よ」となる、即ちユダヤ人は異邦人が習性的に行ふ罪悪を責めながら自分等も個々の行為として同一の罪悪を為すのである。
 パウロは三節後半に於て「汝神の審判を免《のが》れんと思ふや」と暗中に匕首を翳すが如く同胞に向て肉迫した、そ(124)して此肉迫は四、五節に至つて更に力を増して来た、彼は彼等が神の「豊厚《ゆたか》なる仁慈《めぐみ》」に狎れて、その仁慈の故に彼等の罪悪も無限に宥さるゝが如く思惟し、又はその仁慈たるを悟らずして神に罪を罰する力なしと誤想せる彼等の浅愚と驕慢とを責める、彼等は神の仁慈が彼等を悔改せしめんが為の聖慮に出づるを悟らずして、益々心を頑なにして罪を悔い改むる事をしない、彼等は愛を斥けて罪の底なき谷に向つて一歩は一歩より深く落ちゆく、かくして「己のために神の怒を積みて其の義き審判の顕れん震怒《いかり》の日に及」ぶのである、神はやがて彼等を罰し給ふであらう、その震怒の日一度来らば彼等は自ら蒔きし種よりの実を刈取るより外なきに至るであらう、あゝかの恐るべき審判の日よ! 其時に於ける我同胞の悲惨なる運命よ! あゝ其時我眼盲ひてそれを見ざらんことを! 我耳閉ぢて其叫びを聞かざらんことを! 併し神の律法は厳乎として存する、来るべき者は遂に来らねばならぬ、パウロは同胞のために深く憂へつゝ而も天の如く明かなる神の真理を厳かに掲げ出づるのである。
 次の六節に於て彼は「神は人の行に循ひて各人に其報を為すべし」との強き断定を与へたる後次の七、八節に於て左の如く言ふ。
  (7)耐へ忍びて善を行ひ栄光と尊貴と不朽とを求むる者には永生をもて報いん、(8)されど争闘を為し真理に順はず不義につく者には報ゆるに憤りと怒と患難辛苦とを以てす。(此中患難辛苦の語は第九節に属すべきものであるが便宜上八節の中に含めて置いた)
 七節は右の訳にて過ちなしと思はる、たゞ「報いん」の訳字が――六節の「其報をなすべし」と共に――やゝ報賞的の臭味を伝ふるを遺憾とする、永生は決して善き生涯の報酬として与へられるものではない、永生の賦与は徹頭徹尾「恩恵」である、併し此節に於ては永生の賦与が報酬であるか恩恵であるかは問題としてない、問題(125)は唯善き生涯を送りたる者に父より永生を|与へらるる〔付△圏点〕事を主張するにあるのである。
 しかし尚ほ注意すべきは八節である、右に掲げし如き現行訳に拠る時は、神は悪しき生涯を送れる者に向つて其当然の報として「憤りと怒と患難辛苦とを」与ふる者である如く見える、然らば神は罪人を憐むことなくして之に患難辛苦をのみ報ゆる神なるか、然る時は「それ天の父は其日を善き者にも悪き者にも照らし雨を義しき者にも義しからざる者にも降らせ給へり」といふ主の貴き語(マタイ伝五章)と矛盾しないであらうか、又人の患難辛苦は悉く自己の罪悪の結果であらうか、かくて罪悪と患難の関係についての面倒なる問題が茲に生起せんとするのである、之は現行邦語聖書の誤訳より起つた事であつて、此節は改めて正に次の如く訳すべきものである。
  されど争闘をなし真理に順はず不義につく者には憤りと怒と患難辛苦と|あらん〔付○圏点〕。
神は不義者に憤りと怒と患難辛苦とを|報い〔付△圏点〕ようとはしない、併し不義者には不義の|自然の結果として〔付△圏点〕之等が臨むのである、神は有意識的に彼等を苦めようとなし給はない、しかし不義は其本性上おのづと神の憤りと怒と患難辛苦を招くものである、特別に刑罰が降らずとも自然と刑罰が不義に伴ふのである、不義者は神に罰せられずとも自分で自分を罰して居るのである、|永生は神より与へらるゝもの、刑罰は自ら之を招くものである〔付○圏点〕、これ八、九節の解釈上大に注意すべき点である。
  「真理に順はず不義に属く者」は大体に於て良訳であるが寧ろ「真理に順はず不義に順ふ者」とするか、又は「真理に属かず不義に属く者」とするを可とする、即ち同一の動詞を否定と肯定に用ふべきである、英訳聖書には do not obey と obey を用ひて居る、真理に属かず不義に属くといふのは単に個々の行為を指して云ふた語ではなくして、其人の生活原理を指して云ふた語である、即ち其人の生活の根本方針が不義に隷属(126)せるものなることを示すのである、不義を主人として奴隷の如く之に従属するのが「不義に属く」である、即ち自己自身を罪の毒酒に浸し人生の原理として不義に其身を任せることである、これ実に罪の中の罪であつて諾意の根原である、これより離れて真理に属くに至るが悔改である、真理に属くか不義に属くか――人は何れか一を採り得るのみである。
 憤りと怒と患難辛苦とは「ユダヤ人を始めギリシヤ人凡て悪を行ふ人に及ぶ」のである、之に反して「ユダヤ人を始めギリシヤ人凡て善を行ふ人には栄光と尊貴と平康と」が与へられるのである(九、十節)、「栄光」は天の光にかゞやく全き潔き状態、「尊貴」は父の嘉賞の下に永への誉を有つこと、「平康」は右両者に伴ふ魂の状態であつて、此世に於て味ふものの更に進展完成せるを指す、即ち三者とも来世に於て実得せらるゝものである、そして更に注意すべきは悪を行ふ者と善を行ふ者との受くる各々の結果は人の国籍に依て少しも左右せられない一事である、ユダヤ人なりとも善者は賞せられ悪者は罰せらる、異邦人なりとも善者は賞せられ悪者は罰せらる、茲に人類は善悪の二つに分たれて各々その運命を異にすると云はれる、国籍の相違は小さき誇りと侮りの所因たり得べきも人の永遠の運命に対しては全く係はりなきものである、この事については彼が如何なる民族の一員であるかは少しも問はれないのでかる、そしてパウロは十一節に於て「これ神には偏視《かたより》なければなり」と云ひて其理由を与へて居る。
 異邦人と云ひユダヤ人と云ふ、事は千九百年の昔に属して今日の我等に係はりなしと云ふ勿れ、神を有し其律法を有てる者は如何なる時代にありても「ユダヤ人」である、神を知らず其律法を有たざる者は何時の世にありても「異邦人」である、然らば今のユダヤ人は誰ぞ、これ謂ゆる「信者」である、今の異邦人は誰ぞ、これ謂ゆ(127)る「不信者」(又は来信者)である、使徒パウロにして現代に再生せんか彼は先ず「不信者」の昏瞑と罪悪とを責めるであらう、併し若しこれに対して信者が快哉を叫ぶならばそは余りに早計である、何となれば彼は直ちに鋒《ほこさき》を転じて「信者」の虚偽と罪悪とを責めるであらう、|そして信者たると不信者たるとの別なく〔付△圏点〕――|洗礼を受けたと受けぬとの別なく〔付△圏点〕――|教会員たると然らざるとの別なく〔付△圏点〕――|凡て如何なる人たりとも善を行ふ者には永生与へられ悪を行ふ者には滅亡来ると論断して憚らないであらう〔付△圏点〕、今日の信者が神を知ると云ふ事、福音を持つて居ると云ふ事、教会に属して居ると云ふ事などを恃みとして天国の栄光期して待つべしと做し、不信者を蔑視して地獄の子となすが如き事あらば、そは迷ひ深き驕慢である、人の環境は決して其人に栄光又は滅亡を与ふるものではない、人を永へに活かし又は殺すものは其人の心の在り場所、及びそれより当然生るゝ生活の状態である、我等は今日パウロの語を己に当てはめて三思すべきである。
 然らば人は行によつて救はるゝか、パウロは左の如く言ふ。
  神は人の行に循ひて各人に其報を為すべし(六)。
  ……凡て善を行ふ人には栄光と尊貴と平康とを以て報ゆべし(十)。
  凡そ律法なくして罪を犯せる人は律法なくして亡び、律法ありて罪を犯せる人は律法によりて審判を受くべし(十二)。
  神の前に義とせらるゝは律法を聴く者にあらず義とせらるゝは律法を守る者なり(十三)。
 之等の語については学者間に種々の見方がある、それが「信仰によつて義とせらる」と云ふ羅馬書の根本義と表面矛盾せるためである、そしてフリッツェの如く到底この矛盾は調和し得ずと断ずる学者もあるが、多くは何(128)等かの解決を与へんと努めて居るのである、我等は茲に此難しき問題について煩瑣なる解説を試みようとはしない、唯率直に我等の信ずる処を述べて置き度い。
 先づ注意すべきは行に由る審判が聖書的原理の一なることである、「そは我等は必ず皆キリストの台前に出でゝ善にもあれ悪にもあれ各々身に居りて為しゝ所の事に循ひ其報を受くべき者なればなり」(コリント後五の十)とあり、パウロ文書の外にも「彼等おの/\其行に循ひて審判を受けたり」(黙二十の十三)などの語がある、又イエス自身の教としても約翰伝には「善事を行しゝ者は生を得るに甦り、悪事を為しゝ者は審判を受くるに甦るべし」(五の二九)とあり、且最後の審判を描くや必ず行に由る生と死とを説くのである、馬太伝七章二十一節以下を見よ、又二十五章十四節以下の比喩及び三十一節以下の審判の光景を見よ、此事は極めて明瞭ではないか、行に由る審判が聖書的原理の一なる事は一毫の疑念を挟む余地もなく確実である。
 次に注意すべきは羅馬書二章前半がユダヤ人の蒙を啓くを以て所説の目的とせる一事である、ユダヤ人と云へば神を信じ居るを以て恃みとせる民である、併し其信仰は真の信仰でない、彼等は信仰ありと誤想し又は誇称して罪悪の底なき沼に溺れて居るのである、かゝる人に向つて其罪を悟らしむるには「行に由る審判」の原理を説くを以て当然の順序とする、彼等もし先づ信仰に由る義を説かれんか益々其抱ける誤れる信仰に満足して弥が上にも罪の深みに陥るであらう、|行に由る審判は偽りの信仰に恃める人に向つては殊に強く説かれねばならぬのである〔付△圏点〕、寔にさうである。
 即ち|行は信仰の試金石である〔付○圏点〕、信仰の真偽を知るには行を以てする外はない、樹は其果を以て知らるゝのである、真の信仰は必ず善き行を生み偽りの信仰は之に反す、然り人は信仰に由て救はれる、しかし偽りの信仰に由(129)つては救はれない、真の信仰に由らでは救はれない、そして真の信仰は必ず行を伴ふ、此意味に放て人は行に由て救はると云ひ得る、審判は行に由て加へられるのである、「それキリストイエスに在りては割礼を受くるも受けざるも益なく唯|愛に由りて働く所の信仰〔付○圏点〕のみ益あり」とパウロは加拉太書に於て言ふた(五の六)、又言ふた「それキリストイエスに於ては割礼を受くるも受けざるも益なく|唯新たに作られし〔付○圏点〕者のみ益あり」と(六の十五)、愛に由て働く所の信仰――即ち善行として現はるゝ所の信仰――これが真の信仰である、此意味に於て人は善行に由らずしては救はれないのである、即ち不義に属く生活を去りて真理に属く新生活に入り、その新たに作られし結果として当然善果を結ぶ事――此事があつて人は遂に救はれるのである、信仰が善き行を産むに至らぬ中は空しき信仰である、偽りの信仰でなくば死せる又は眠れる信仰である、真の信仰は真の行を伴ひ、真の行は真の信仰に伴ふ、畢竟これ同一事象の表と裏である、故に人は信仰に由りて救はる、又人は行に由りて救はる、共にこれ真理である、何となれば要するに是れ同一の原理の異なれる表現たるに過ぎぬからである。
 右の意味に於て人は其行を以て審判かるゝのである、例を挙げて之を説かう、人を赦すは至美にして又至難なる事である、さりながら人を赦し得ざる者が果して神の赦免を贏ち得るであらうか、人を赦し得るに至らずしては未だ真に救に浴した者とは云ひ得ない、厳密なる意味に於ては人を赦し得ざる者は基督信者ではない、「神は人の行に循ひて各人に其報を為す」所の神であれば人を赦し得ざる者は恐くは栄光の中に摂取せられないであらう、しかし憂ふるを要せず我等に真の信仰与へらるゝ時は人を赦すに於て難くないのである、キリストに義とせられて彼の霊が我に宿るに至れば我は人を赦し得るに至る、自己一人の努力抑制を以ては到底人を赦し得ないものが、此のキリストの霊心に充つる時は自からにして人を赦し得るのである、問題は彼の霊が我に宿るか如何に(130)ある、彼の霊が我に宿る時は我の難しとする事を我にもあらで行ひ得るのである、これ我が之を行ふにあらず彼が我にありて行ふのである、されば彼は教へて言ふた「我は葡萄樹、汝等は其枝なり、人もし我に居り我れ亦彼に居らば多くの実を結ぶべし、そはもし汝等われを離るゝ時は何事をも為し能はざればなり」と(ヨハネ伝十五の五)、又同一の事を使徒パウロは其実験として言ふた「我は我に力を与ふるキリストに因りて凡ての事をなし得るなり」と、パウロのキリストは又我等のキリストである、我等真の信仰を抱き真に彼を我心に迎へまつりて彼にありて諸々の善をなし得るに至らねばならぬ、我等偏に彼を仰ぎ瞻て彼の霊を真正面より豊かに受くる者とならねばならぬ、神は必ず此願を充たし給ふのである。
 
     第十三講 ユダヤ人の罪(二) 第二章の研究 (四月十七日)
 
 前講に於て我等は第二章前半の大意を研究した、今少しくそれを補ひ度いのである、我等は先づ第一節に向つて再び眼を注いで見よう。
  是故に人を審判く所の人よ、汝言ひ遁るべきなし、汝人を審判くは正しく己の罪を定むるなり、そは審判く所の汝も同じく之を行へばなり。
とある、先づ注意すべきは審判に公私の別あることである、公の審判とは国家の名を以てする判官の司法上の裁判、社会の名を以てする記者の道義上の審判、及び神の名を以てする預言者の宗教上の審判の類を指すのである、斯る公の審判は必要なる審判である、判官は国家を代表して悪人を糺弾せねばならぬ、記者は社会に代りて人の不義を剔抉せねばならぬ、預言者は宇宙の司宰者の代理人として世の人の不義|悖戻《はいれい》を弾詰せねばならぬ、孰れも(131)是れ公義を維持する所以の道である、我等もし判官たらば、記者たらば、預言者たらば公義のために審判に従はねばならぬ、これ神に許されたる審判の施行である、之に反して私の審判は許されない、私情より出づる所の、何等公義に係はりなき所の審判は神の許し給はざる所である、これ明白に罪である、「人を議すること勿れ」と主はこれを戒め給ふた。
 「汝人を審判くは正しく己の罪を定むるなり」とパウロは言ふ、これ人を審判く積りにて発する言は実は自己を審判いて居るのであると云ふ意である、例へば「何某は斯く/\の罪を犯せり」と言定するは即ち「我は斯く/\の罪を犯せり」と云ふと等しいのである、刃を揮つて人を刺さんとするは実は自己を刺す事である、実に人を審判きて其罪を定むるは自己を審判きて其罪を定むる事である、其理如何、パウロは言ふ「そは審判く所の汝も同じく之を行へばなり」と、是れ実に人間の心理を穿てる言である、|けだし人が他を審判くは多くは自己の心に同一の罪の経験ある場合である〔付△圏点〕、人は自己の罪を自ら能く知る、行として現はれたる罪は他人にも明かに知らるれど、自己心中の私《ひそ》かなる罪は自己のみ之を知るのである、そして自己の此罪を独り自から耻ぢ且厭ふのである、然るに人ありて之と同一なる罪を犯したるらしき場合には、彼は恰も自己の心に秘めたる自己の罪が陽《あらは》に外に出でたる如き感を起して、それに対する嫌悪の情が激しく心中に醸さるゝのである、そして遂に其人を審判き其罪を定めずしては満足しないのである、されば人の罪を定むるは実は自己も之を犯したる場合が多いのである、されば人を審判きて其罪を定むるは実は己の罪の告白であると見ることができる、茲に於てか「人を審判くは正しく己の罪を定むる」ものなる事を我等は知る、故に「凡そ人を審判く所の人よ、汝言ひ遁るべきなし」である。
(132) 第二節には「斯くの如く行ふ者を罪する|神の審判〔付○圏点〕は真理《まこと》に適へりと我等は知る」とある、尚三節以後十六節までは行を標準とする所の神の審判の提唱である(前講参照の事)、そして十六節には「それ審判は……神イエスキリストをもて人の隠れたる事を鞫かん日に成るべし」とある、全体を通読して極めて明瞭なる事はパウロの謂ゆる審判は|来世の審判〔付○圏点〕なる事である、現世に於ても神の審判がないではない、しかしそれは未完成のものである、故に現世だけを以て審判の範囲とする時は其審判は可成り不公平として終るのである、併し乍ら真の審判は「神イエスキリストをもて人の隠れたる事を鞫かん日に成る」のである、即ちこれ未来の裁判である、其時綿羊と山羊とを分つが如く人類は二分せらると主は教へた、その時父が独子を以てする此裁判は完全にして且最後的の裁判である、或者は此時より其運命を永へに拓かれ或者は永へに閉ぢらるゝのである、怖るべき其日よ! 恵まれたる其日よ!
 審判とそれに伴ふ怖れとは宗教の欠くべからざる要素である、今や人は来世を思惟するを好まず、まして其審判をや、基督信者と称し仏教徒と称ふる者さへ多くは来世と審判とに心を用ひやうとせぬのである、かくて宗教は現世だけのものと成つて居る、しかし元来「死ある所宗教ある」のであつて宗教なるものは其本質上来世的たらねばならぬのである、来世を説かぬ宗教は塩が其味を失ひしものである、審判の怖れなき処に真正なる宗教心は起らない、此事を認めぬ者は二章前半の真意は分らない、審判を此世のみの事と誤想する人にはパウロの之等の言は只一の謎たるのみである、我等もし法然上人、源信僧都等の立場に立ちて眺めんか、パウロの語は力強く我等の心境に波及し来るであらう。
 基督教史と仏教史とに共通せる一事がある、それは|来世的信仰の最も旺盛なりし時が其宗教の最も純正且強盛(133)なりし時であつたと言ふ一事である〔付○圏点〕、静かに日本の仏教について思へ、地獄を怖るゝの想ひ最も盛なりし時は是れ即ち仏教其者の最も盛なりし時ではなかつたか、かの法然、親鸞、日蓮等の俊哲が蹶起して等しく寂光土の栄光と地獄の苦患を説きし時に於て、如何に宗教的生命が我日本民族の間に芳烈なりしよ、今日の仏教家が仏教を以て忠君愛国の教と做して只管此世の事に拘はりつゝあるは、仏教が其衰退の様にある事の明かなる証左である。
 曾ては我国に於ても恵心僧都の『往生要集』の如きを産みたる時代があつたのである、地獄と極楽を描きたる此書の如きを今日の仏教家の現世的著作に比して、其処に根本的の相違ある事を見ざるを得ないのである、此書に描かれたる地獄の怖しさよ、そして最後にある極楽の姿の美しさよ、其全体の結構に於てダンテの神曲に酷似し、日本人の手に成りし書中最も大なる物の一であると思はる、今の日本人が此書を顧みざるは大なる損失であると云はなくてはならない。
 来世を怖れて初めて深刻なる宗教心起る、バンヤンと云ひ、ルーテルと云ひ、ジョナサン・エドワードと云ひ凡そ偉大なる宗教家は一度は審判の恐怖に痛く心を脅かされし人である、審判を怖れずして真の敬虔は起り得ない、神を畏れ未来を怖るゝに至つて初めて人の魂は目醒めたのである、十九世紀に於ける日本の大政治家陸奥宗光は同じ英国の大政治家グラッドストンに会して、彼が本心より基督教を信じ居る一事に驚愕したと伝へられて居る、このグラッドストンは政治上に種々の大事を遂げたるにも係らず、自己の為したる唯一の仕事らしき仕事は監督バットラーの『アナロジー』(Analogy)の編纂であると做してゐた、そしてバットラーの此書は来世存在の哲学的説明であるのである、以てグ氏の心に存せし現世の事と来世の事との著しき軽重の差を知るのである、由来日本人は宗教を以て済民の方便と考ふ、故に来世の審判の如きは全く愚民済度の道であると做すのである、(134)かくして死を怖るゝも審判を怖るゝの道を知ず、宗教に会すれば凡て之を現世的事効の鋳型に収めんとする、歎ずべき至りである。
 既に来世あり、従つて永生と滅亡とあり、従つて未来の審判ありとせば我等如何にして此怖るべき審判の日に対すべきであるか、罪深き己を思ひ、行を以て鞫く神の審判を思ふては我等は深き絶望と萎縮に囚はれざるを得ない、自己一身の力を以てしては到底罪を悉く贖ひて全き聖潔に至ることは出来ない、併しながら罪の醜姿を担へるまゝにて神の審判の座に立ち得るであらうか、茲に深き恐怖がある、しかし此恐怖ありて福音の貴さは分る、此恐怖ありて初めて救拯の深みに徹する、之なき時には人に深き信仰は起らないのである。
 キリストは何が故にかの如き痛烈なる苦難を味ひ、かの如き絶大なる犠牲を払つたのであるか、そは云ふ迄もなく人類を救はんがためである、そして|人類の救とは其徹底的意味に於ては来世の栄化である〔付○圏点〕、換言すれば審判の座に堪へて限りなき栄光の境に摂取せらるゝ事である、然るに人類は今や此栄に入るべく余りに罪に深く沈んでゐる、堕落は洪水の如く世界の全野を蔽ふて居る、怖るべき未来の審判に堪へ得る人とては一人もない、而してイエスの教に順つて悔改の幸福に入る者は極て少く、多くは神の独子なる彼を斥ける、イエスは深く此事を憂へた、遂に人類の深罪を己に負ひて自己を犠牲の祭壇に上ぼせ、苦き杯を心ゆくばかり味ひて以て人類の罪を贖はんとした、この悲壮なる心事の下に神の独子は一介の死刑囚として死した、何等の曲事《ひがごと》ぞ! さはれ此曲事のために人類救拯の道は開かれたのである。
 此十字架を我等が仰ぎ瞻る事には種々の意味がある、或意味に於ては信仰生活の全部は十字架を仰ぎ瞻る事であると云ひ得る、しかし|特に十字架に拠るべきは怖るべき審判の座に臨みてゞある〔付○圏点〕、其時何等おのれに恃むべき(135)ものなく一言の首ひ遁るべきもない、唯主の十字架あり、これ我等の唯一の隠れ場である、我等は彼の十字架の蔭に隠れて審判の筵に臨むのである、我等は千歳《ちとせ》の巌に我身を囲まれて審判の日に至るのである、そして十字架に拠り十字架を仰ぐは真の信仰である、そして此の十字架を仰ぎ瞻る真の信仰は審判の恐怖より生起したものである、人は此恐怖より出発して誠に十字架に頼るに至り、福音の救に浴するに至り、真の信仰に入るに至る、先づなくてならぬものは審判の恐怖である。
 伝道の不熱心は今や基督信徒の通弊である、そして其原因は実に自己及び人の前程にある所の亡びの危険を充分に感得しないからである、己れ先づ来世の鋭き感覚あり従つて審判の強き恐怖あり、そして十字架を以てする亡びよりの救ひを信ずるに至つて平安の境に入らば、人の運命の危殆を痛切に感ぜざるを得ざるに至りて此危険より彼を救はんとの道を採るに至るべきである、而して彼を滅亡の否運より救はんための唯一の道は彼に福音の救拯を示して彼をして之を信ぜしむる事である、この外に人を救ふ道はない、かくて伝道心は審判の恐怖のために燃ゆべきものである、此恐怖を己のためにも人のためにも感じない者に真の伝道心の起る筈はないのである。
 パウロの教の背景として彼の強き来世観を見なくてはならぬ、そして之に伴ふ審判のことを深く心に置かねばならない、然らざる時は到底パウロの教を解することは出来ない、然り福音其者を解することは出来ぬ、聖書は地獄の火に照らして読むべきものであると云ふ言がある、洵に来世の鋭き感覚、審判の深き恐怖を以てして聖書を真に読むことがある、羅馬書第二章の如きは特に然うである、これ忘るべからざる重要事である。
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 パウロは二章十七節より全く態度を一変した、十六節までに於ては彼は専ら抽象的原理の説明に没頭してゐた、(136)人を審判きながら自ら同じ罪を犯す者の自家撞着と偽善を責め、神の審判を恐れざる其厚顔無恥を指摘し、如何なる国の民と雖も――よし選民たる優位に立つユダヤ人と雖も――悪をなす者には当然悪果の及ぶべき事を力説した、彼の此所説の目的は勿論ユダヤ人を責むるにあつた、しかし彼は陽《あらは》に彼等を責むる事をしなかつた、誰人と名指さずして唯だ人を審判き乍ら自ら同じ罪を犯す所の者を責めた そしてそれを単なる原理の提唱として説いた、そして此原理に対して全く反対の余地なからしめた、そは誰人と雖も承認せざるを得ざる明々白々の原理であるからである。
 かく十六節までに於て原理を説きたる彼は十七節以下に於て之をユダヤ人に適用したのである、かくてユダヤ人をして言ひ遁れの余地なからしめたのである、寔に名将の攻城法の如く精緻にして巧妙である、されば十七節より愈よ公然として真向より其愛する同胞を責めたてるのである。
  (17)汝もしユダヤ人と称へ律法を恃み神あるを誇り (18)其旨を知り律法にならひて是非を弁へ (19)自ら瞽者《めしひ》の手引、黒暗《くらき》に居る者の光、(20)愚なる者の師、童蒙《わらべ》の傅《かしづき》と思ひ、又律法に於て真理と知るべき事との式《のり》を得たりとせば (21)何故人を教へて自己を教へざるか、汝人に窃む勿れと勧めて自ら窃《ぬすみ》するか、(22)汝人に姦淫する勿れと諭して自ら姦淫するか、汝偶像を憎みて自ら殿《みや》の物を犯すか、(23)汝律法に誇りて自ら律法を犯し神を輕しむるか、(24)神の名は汝によりて異邦人の中に涜されたりと録されしが如し。
 まことに火の如き弾劾の叫である、汝はユダヤ人、イスラエル、神の選民と称し、律法てふ神よりの教を抱けるを恃み、自国民族の守護神として全智全能のヱホバ神あるを誇つてゐる、そして其神の聖旨《みむね》を知り、又律法に照らして事の是非善悪を弁別する能力を持つて居る、寔に汝は眼開ける者である、光明の中に居る者である、賢(137)き者である、成人《おとな》である、汝より見れば未だ神の光に浴せざる異邦の民は慥かに瞽者である、黒暗に居る者である、愚なる者である、童蒙である、故に汝は自己を以て彼等異邦人の手引、光、師、傅であると做してゐる、且又その律法に於て宗教的真理と霊的知識の則《のり》を有すと做して居る、然り真正のユダヤ人は真に然るべきである、さりながら自ら選民と称するも其実際上の資格に於て之を欠きながら誇るべき実なくして誇る者は如何、之等は偽りのユダヤ人ではないか、汝は右の如く誇ると雖も人を教へて己を教へず、人に窃む勿れと云ふて自ら窃みをなし、人に姦淫する勿れと諭して自ら姦淫し、偶像を憎むも自ら偶像の殿に献げられし物を私し、律法を誇るも自ら之を犯して神を輕しめてゐる、あゝ斯くしてユダヤ人てふ汝の名は異邦人の間に汚さるゝのである。
 パウロは右の如く其同族たるユダヤ人を責めた、彼もし今の世に甦りしならば彼は此儘の語を以て其同族たる基督教徒を責むるに相違ない、読者もし右の語の中の「ユダヤ人」を|基督信者〔付ごま圏点〕と改め、「律法」を|福音〔付ごま圏点〕と改め「異邦人」を|不信者〔付ごま圏点〕と改めて読む時は、大体に於てそれが今日の謂ゆる基督信者を責むる語として頗る適切なるを覚ゆるであらう、自ら信者を以て誇りて不信者を蔑視しながら実は不信者と等しき、又は尚ほ甚しき醜さを呈して居る者が今や世界に頗る多い、彼等は皆パウロ時代のユダヤ人である、正にパウロの叱責を受くべき輩である。
 次にパゥロは左の如く言ふた、彼の同胞弾劾は尚一歩深く入るのである、そして正しき異邦人を曲れるユダヤ人の上に置くのである。
  (25)汝もし律法を行はゞ割礼は益あり、もし律法を犯さば汝が割礼は割礼なきが如くなるべし、(26)この故に割礼なき者も若し律法の義を守らば其割礼なきも割礼せりと云はざるを得んや、(27)それ本性《うまれつき》のまゝ割礼なくして律法を守る者は儀文と割礼を以て尚ほ律法を犯す汝を審判かん。
(138) 割礼とは如何、これユダヤ人の心の聖別を標徴する形の別である、割礼の本体は肉に在るのではなくて霊に在るのである、故に律法を行ふ人に於て初めて割礼は有意味である、従つて律法を犯す人に於ては割礼は有るも無きが如きものである、之に反して割礼なき異邦人もし其良心に抱く不文の律法に照らして自ら律法の命ずる義を行ふ時は、此人は形の上に割礼なくも心の上に割礼を受けし者である、そして割礼は元来心の上に在るべきものである故かゝる人は割礼ある者と云ひ得るのである、されば此種の義しき異邦人は不義なるユダヤ人を審判き得る充分の資格を備ふるものである、前者の後者に遥かに勝る事は云はずして明かなる事である。
 もし右の語の中「律法」を|福音〔付ごま圏点〕と改め「割礼」を|洗礼〔付ごま圏点〕と改むる時は今日の基督教徒に反省を促すに足る頗る有力なる語となるであらう、基督信者にして却て福音の本義を行はず不信者にして不知不識の間に之を行ふ者ある時は甲は遥かに乙に劣るものであつて、寧ろ甲は事実上の不信者であり乙は事実上の基督信徒であると云ふべきである。
 右の如く述べ来つてパウロは茲に当然左の如く云ひ得るに至つたのである。
  (28)明《あらは》にユダヤ人たるも実《まこと》のユダヤ人にあらず、明に身に割礼あるも実の割礼にあらず (29)却て隠《ひそか》にユダヤ人たる者は実のユダヤ人なり、又割礼は霊にありて儀文にあらず、心の割礼は真なり、その誉れは人に由らず神に由れり。
 外部的にユダヤ人たるも真のユダヤ人ではない、外部的に身に割礼あるも真の割礼ではない、却て内部的にユダヤ人たるものが(それが何処の国人たるにも係らず)真のユダヤ人である、由来割礼は霊に在りて儀文に無い、心に刻まれし者が真の割礼である、儀文の規定通りに行ひしとて之を真の割礼と云ふことは出来ぬ、かくの如き(139)は抑も末の末である、真の割礼は心に在る、心の割礼は真である、かくパウロは論断して儀文と形式と環境とに恃むユダヤ人の蒙を啓かんとしたのである、我等はパウロの此の霊的の深み、人類的の広さに対して深き敬意を払はねばならない。
 我等は又これを左の如くに書き換へて之を今日に活かすことが出来る。
  明に基督信者たるも実の|基督信者〔付○圏点〕にあらず、明に身に|洗礼〔付○圏点〕あるも実の|洗礼〔付○圏点〕にあらず、却て隠に|基督信者〔付○圏点〕たる者は実の|基督信者〔付○圏点〕たり、又|洗礼〔付○圏点〕は霊に在りて儀文に在らず、心の|洗礼〔付○圏点〕は実なり、その誉れは人に由らず神に由れり。
 基督信者とは誰ぞ、洗礼を受けて教会員となりし者必しも信者ではない、内部的に神の聖旨を行ふ者――事実的にイエスを主として信従する者――それが基督信者である(よし形式上の形と名は何であつても)、真の洗礼は霊(聖霊)の恩化に浴せし事を云ふのであつて、儀文の形式に従つて受けしものではない、故に心の洗礼のみが真の洗礼であつて、その誉れは人に由らず神に由る、人の判断如何に係らず神は之を賞で給ふのである、人は外を見ヱホバは内を見る、外を見る人の軽侮又は怪訝は数ふるに足らず、内に向つてなさるゝ神の嘉賞のみ貴いのである。
 
     第十四講 人類の罪(一) 三章一−二十節の研究 (四月二十四日)
 
 一章十八節より本論に入りしパウロは先づ異邦人の罪を挙げ次にユダヤ人の罪を責めた、その論述の順序の正当なるは勿論、その筆法頗る巧妙にしてユダヤ人を責めし場合の如きは先づ間接射撃を以て威嚇し次に決河(140)の如き勢を以て肉迫する、寔に巧さと鋭さとを兼ね合せた攻撃であつて、之に対しては如何に執拗なるユダヤ人と雖も一言の遁辞なしと思はれる、故にパウロは之より直ちに全人類の有罪を断定し得るのである、恰も今日先づ不信者の罪を定め次に信者の罪を定めし上は直ちに全人類の罪を定め得るが如くである、併し乍らパウロの周密性は茲にも亦現はれた、彼はユダヤ人の中より尚ほ二三抗議あるべきを予想して自ら彼等に代つて二三の反間を出し、そして之に対してそれ/”\簡潔なる答を与へて居る、この部分が三章の一節より八節迄である、ユダヤ人問題についてはパウロは九、十、十一章に於て自己の見る所を精細に発表して居る、故に今は頗る簡単に此問題に触れるのみである、其様恰も大道を歩める時に道に横たはる二三の石を一蹴し去るが如くである。 第二孝の所論に対してユダヤ人は先づ質問を発して云ふであらう「然らばユダヤ人の長《すぐる》る処は何ぞや、又割礼の益する所は何ぞや」(第一節)と、そしてパウロは之に対してユダヤ人に何等の長所なしと云はなかつた、彼等には種々の長所がある、しかも此長所あり神より多く恵まれ居るにも係らず悪に其身を任す処に彼等の罪の特色が存するのである、さればパウロは此問に対して答へて言ふた「そは凡てのことに於て益多し、先づ第一は神の諭《さとし》をもて彼等に託《ゆだ》ね給へることなり」(第二節)と、「諭」の原語 logion(ロギオン)は英語の oracle(託宣)に当る、即ち神より人への黙示の内容を云ふのである、使徒行伝七章三十八節にては此語を以てモーセ律を意味し(「道《ことば》」なる訳字を用ひてゐる)、希伯来書五章十二節に於ては此語を以て福音を意味してゐる(「教」と訳してゐる)、語の性質上場合に依て内容を異にし得る語である、羅馬書三章二節の場合に於ては旧約の教全部を指すとも見られ、又第三節に照して判断する時はメシヤ預言のみを指すとも見られる、この狭義の方の見方を採る学者も少なくない、何れにせよ之を委ねられたる事これユダヤ人優秀の第一点である。
(141) 彼等の長所の「先づ第一は」は之である、然らば第二第三は如何、パウロは之を挙ぐるを忘れし如くに第三節に於て直ちに第二の質問を掲げた、けだし彼は早く此箇処を終へて本問題に入らんために其歩みを早めたのであらう、彼は此際丁寧なる解答を答ふるの煩に堪へなかつたのである、即ち第三節に云ふ「茲に信ぜざる者あれど其を如何、その不信は神の信を廃つべきか」と、これユダヤ人の第二の反問である、茲に「信ぜざる者」とあるはキリストを信ぜざる者の意であるに相違ない、何となれば神を信ぜず又は神の約束を信ぜざる者はユダヤ人の中には当然一人もなかつたと推定さるゝからである、彼等はメシヤ降臨の約束に与れる民であるに其約束に応じてキリスト来れば之をキリストとして信じない、却て彼等は彼を十字架に釘けしかも彼れ復活して其キリストたることを実証し、使徒たちが其証人として立ちても彼等の中には尚彼を信じない者が多い、かく彼等の大多数が不信である上は神も亦ユダヤ人に係はる将来の救の約束を破り給ふであらうか、これ三節の意味である、そしてパウロは之に対して「然らず凡ての人を偽りとするも神を真とすべし」(第四節)と頗る簡明なる解答を与へて居る、之を原語のまゝに訳せば「断じて然らず、神を真実《まこと》とし万人を虚偽者《いつはりびと》とせよ」となる、人は悉く虚偽者である、そして神は絶対に真実である、不信とか虚偽とか云ふ思想は神といふ観念と両立しない、神が其約束に対して不忠実であると云ふ如きは神の本質上到底あり得ないことであると、かくパウロは答へる、簡単にして雄勁、白日の光の如く強き語である。
 パウロは又ユダヤ人に代りて第三の質疑を起して言ふた「我等が不義もし神の義を彰《あらは》すとせば何を言ふべきか、怒を加ふる神は不義なるや」(第五節)と、ユダヤ人は不義不信にして神に背いてゐる、然るに神は義にして永へに変らない、然らばユダヤ人の不信は偶々以て神の真実を表はす機縁となつたのである、然りとせば神は寧ろユ(142)ダヤ人に感謝すべきではないか、もし彼等に対して怒を加ふるならば却て恩人に向つて鞭を加ふる如き不義となりはしまいかと、それ第五節の意味である、恰も放蕩息子あるがために親の愛心が発現されたとせば其親は寧ろ其子に感謝すべきであつて罰すべきでないと云ふ論法である、この詭弁の如き抗議を仮に設けてパウロは之に対して答へて云ふ「然ることあらじ、もし然る事あらば神如何にして世を鞫かんや」と、不義者を罰せざる如き神ならば如何にして世を鞫くことが出来ようか、神が審判の神である以上は到底不義者を罰せざるを得ないのである。
 第四の反間は七節にある、「もし神の真わが偽に因りて顕はれ其栄光いや増さば我れいかで尚ほ罪人とせられんや」とある、其意は第五節と略ぼ同様である、そしてパウロは之に答へて「かくあらば我等が誣《そし》らるゝ如く、善を来らせんと悪を作すは宜からずや、こを我等が言と云へる者あり」(八節前半)と云ふて居る、当時パウロの徹底せる福音主義を誤解して彼は「善を来らせんとて悪を作すは宜し」と宣伝して居ると做す輩があつた、けだし如何なる罪人と雖も信仰によりて義とせらると云ふ教義は浅薄者説の誤解を招き易きほど革命的なものであつたのである、そしてパウロは今己の受けし此攻撃の語を其のまゝユダヤ人に向けて反撃したのである、第七節の如き抗議は実は「善を来らせんため悪を作すは宜し」と云ふと同じであつて真に無意義の極、背理の至であると彼は云ふのである、そして彼は最後に「斯る人の罪せらるべきは宜なり」(八節後半)と云ひて愚言を為す者に短き、併し強き叱責を加へたのである。
 以上パウロはユダヤ人の立場より四個の抗議を出して一々之に答ふる所あつた、彼は此四抗議を軽く払ひ退けたのである、多分彼は之に対して詳細なる弁明を為すは余りに愚なる事と思つたのであらう、彼は顔に微笑を湛えつゝ之等の語を記したのであらう、実に彼は軽く愚言を斥けたのである、しかし銘刀はその輕き一閃を以ても(143)敵を斃すに足る、之等のパウロの答は軽く、併し敵の急所を見事に刺したものと云ふべきである。
       *     *     *     *
 第九節よりパウロは復た本論に帰つた、既に異邦人は悉く罪人と定まりユダヤ人も亦悉く罪人と定まり、後者より出づべき二三の抗議を斥けて茲に愈々人類全体を罪人と定むべき時となつたのである、先づ云ふ「然らば如何ぞや、われら勝れるか、決《きはめ》てなし、そは我等すでにユダヤ人もギリシア人も皆罪の下にある事を証《あかし》せり」(第九節)と、「われら」はユダヤ人を指す、然らばユダヤ人は罪人なる点に於て異邦人に勝る所あるか、即ち異邦人以上の罪人であるか、否々罪人たる一点に於ては彼等と異邦人との間に何等の区別がない、既に一章後半と二章とを以て証せられし如く「ユダヤ人もギリシヤ人も皆罪の下に在る」のである、そして此両人種は当時の人類の二大別(其文化の性質より見て)であるが故に、凡ての人類が悉く罪人なりと証せられた事になるのである、さればパウロは次の十節−十八節に於て聖句の引用を以て自己の九節の断案を裏書せしめたのである、今これを少しく改めて左の如く記して見よう。
  義人あるなし一人もあるなし
   悟れる者なし神を求むる者なし
   皆曲りて誰も彼も邪《よこしま》となれり
   善を行ふ者あるなし一人だにあるなし
   其喉は開けし墓なり
   其舌は詭詐《いつはり》を語り
(144)   其唇の下には蝮の毒あり
   其口は詛《のろひ》と苦《にが》きとにて満つ
   其足は血を流さんとして疾し
   残害《やぶれ》と災難《わざはひ》とは其道に遺れり
   彼等は平和の道を知らざるなり
  神を畏るゝの懼其目の前にあるなし(と録されたる如し)
之れは詩篇、以賽亜書等の各処より聖句を引き来つたものである、そして|注意すべきは之が聖句を唯羅列したものではなくて或順序を逐ふて挙げたるものである事である〔付ごま圏点〕、最後の句は第一の句と遥かに照応するものであつて、「義人あるなし」の理由として「神を畏るゝの懼其目の前になければなり」と云ふのである、そして其間に挿まれし十句は「義人あるなし」の説明と云ふべきものである、即ち之は聖句を集めて一の纏まつた思想を開説したのであつて筆者パウロの鮮かなる手腕は驚歎の外ないのである。
 「義人あるなし一人もあるなし」は万人有罪の事実の総括的断定である、そして次に万人の罪の状態を仔細に描くに当つて第一に「悟れる者なし神を求むる者なし」と云ひて罪の根原の在る所を摘示す、(|悟れる者〔付ごま圏点〕とは真に聡明なる者即ち真に神を知れる者を意味する)、次には「皆曲りて誰も彼も邪となれり、善を行ふ者あるなし一人だにあるなし」と人の全体の行の悪しきを述べ、それより更に細説に入りて喉、舌、唇、口の悪しきを描く、これ言語を以てする人の罪を述べたものである、そして次には「其足は血を流さんとして疾し」と云ひて実行の上に現はるゝ罪を述べ、次の二句を以て其結果たる状態を示し、そして最後に全体を総括すると共に第一語の理(145)由提示として「神を畏るゝの懼其目の前にあるなし」と記す、整然たる思想の順序を逐ふて此有力なる聖句引用をなし、以て自己の所説を強めたるパウロの手腕を我等は認める、真に有力なる且模範的なる聖句引用と云ふべきである。
  右の中「其喉は開けし墓なり」とあるはパレスチナ地方の自然の岩穴を以て墓とせし物はそれを蔽ふ所の石の蓋が除かれて中の醜さを露はす事のあるに譬へたのである。
 茲に当然一の疑問が起る、人類は斯くも腐敗せる者であるか、義しき人は一人だにないのであるか、これ或はパウロの過言ではないかと、しかしてこれは議論の問題にあらずして事実如何の問題である、比較的の善人は比較的の悪人と等しく人間世界に多い、併し絶対的に善なる者義なる人が一人でも有るであらうか、よし極めて稀に此種の人があるとするもそれは除外例であつて、謂ゆる除外例は総則を証明するものである、如何なる人にも不善不義の分子が混入してゐる、外に之が現はれなくとも心には必ず之が潜んでゐる、人生を長く経験せる老年者はその経験の上に立脚して一様にパウロの断定を是認するであらう。
 義人或は少しは此世にあるかも知れぬ、併しそれは人より見ての義人である、神より見ての義人とは云ひ得ない、「|ヱホバ天より人の子を望み見て〔付△圏点〕、悟る者神を探ぬる者ありやと見給ひしに、皆|逆《そむ》き出でゝ悉く腐れたり善を為す者一人だになし」と詩篇十四篇に在る、然り、ヱホバ天より人の子を望み見る時に争《いか》で一人として義人があらうや、人の心腸を探る彼に於て、頭髪《かみげ》の一つ/\を数へ給ふ彼に於て、我等の凡てが裸にて其前に現はるゝ彼に於て争で一人たりとも義人があらうか、クロムエルの如き偉大者も己の罪を充分に認めて居た、他は推して知るべし、あゝ凡ての人は罪人である、義人は一人もない、曾て一人もなかつた、今も一人もない――|至聖(146)なりし彼れナザレの人を除いては〔付○圏点〕。 〔以上、6・10〕
 
     第十五請 人類の罪(二) 三章一−二十節の研究 (五月一日)
 三章九節−二十節は全人類を罪人と定めし箇処であること前述せし通りである、そして全人類と云へば勿論其中に自己の含まれ居ることを認めざるを得ない、然らば自己が罪人と定まりしは厭ふべき事であるか、否これ却て祝すべき事である、罪のなき所に救はない、そして罪の感覚の浅い所には救の喜びも浅く、罪の感覚の深き所には救の喜びも深い、深く恩恵の宝泉に汲まんと志す者は先づ鋭利なる解剖刀を以て自己の心を切りさかねばならぬ、されば|罪の認知は信仰の礎石として極めて重要なるものである〔付○圏点〕、我等は再び十節−十八節(即ち旧約聖書よりの引用句を重ねし箇処)に注意する所あらねばならぬ(前号三一、三二頁参照)。
 「義人あるなし一人もあるなし」と第一語は先づ力強く我等の胸に迫り来る、これ果して人類の実状であらうか、我等は然りとの断定を敢て下すものである、之を現代に於て見れば、米国の前大統領ウィルソンの如きは今の世に珍らしき理想家として比較的正しき人には相違ないが、講和会議に於て自己の提案たる国際聯盟案の通過を計らん為に他国の不義に賛せし如き到底義人と称し得ぬ明証である、かのクロムウヱルならば如何に善き交換事件を以てするも到底斯る不義に同意しなかつたであらう、併し此偉大にして義烈なりしクロムウェルさへ自己の罪を認むること頗る痛切にして、臨終に際しては其一生を回顧して一時は失望に陥つた程である、あゝ凡ての人は罪人である、義人は一人もないのである。
 此大断定を敢てなせしパウロの大胆と深刻は云ふを待たない、さはれ彼の論議は凡て殺すためならで生かすた(147)めである、否人を救はんためには先づ其人に罪人たるを自覚せしめねばならぬ故、当然の順序として此万人有罪の大断定を敢て為したのである、そして然る後救ひの道を開示せんとするのである、聴者の罪を責めずして只管其歓心を買ふの言説に終始するは救ひの道を知らざる浅き教師の事である、救はんとする者は、そして救の道を知れるものは先づ万人の有罪を高く叫ぶのである。
 次には「悟れる者なし神を求むる者なし」の語がある、「悟れる者」は原語 ho sunion(ホ スニオーン)であつて此場合単に悟れる者の意ではなく|神を知れる〔付ごま圏点〕者といふ意である、次の「神を求むる者」と相対して前者は悟性に於て神を知る者を意味し、後者は意志に於て神を慕ひ求むる者を意味するのである。
  右はゴオデーの解釈を採つたものであるが他の学者の見方も略ぼ同様である、例へばマイヤーは「悟れる者」を敬虔なる者、「神を求むる者」を思想や努力が神の方に向ひたる者と解してゐる、又或る辞典には「悟れる者」を宗教的に明智なる者と解してゐる、孰れも大同小異と云ふべきである。
悟れる者なく神を求むる者なしとのパウロの此断定は果して事実に適つたものであらうか、古今東西を尋ぬるに少数なりとも聖者賢哲なる者が在る、支那にも印度にもあつた、彼等は慥に明達の士であり又神を求むる者であつた、道と義とに対しての彼等の熱愛は其一生を通じて若やかであつた、そして其奉ずる所の者に対しての献身と犠牲とは厳かにして強くあつた、ファラーの名著たる『神を求めし人々』(Seekers after God)はエビクテトス、セネカ、マークス・オウレリウス三聖の評伝であるが、孰れも貴き境地を踏める聖者である中にもエピクテトスの如きは真に至聖と云ふべき値ありと思はるゝ程である、かく考へ来るも我等は尚ほパウロに同意して「悟れる者なし神を求むる者なし」と云はねばならぬのであらうか――世に数多からぬ聖人賢者に対する我等の尊敬を傷(148)けてまでも。
 併し乍ら問題は彼等が真に悟れる者なるか、真に神を求めし人なるか如何に存する、熱誠の熾烈なりしと献身の強固なりしとは我等慥かに之を認める、さはれ彼等の「悟り」は果して全くあつたであらうか、即ち彼等は文字通り悟れる者――真に神を知れる者――であつたであらうか、我等は彼等に何かしら或物の欠けたるを感ぜざるを得ない、口には言ひ表はし得ぬ或る「物足らなさ」を感ぜざるを得ない、彼等は神を知らぬではないが其知り方は充分ではない、彼等は真の神を知つた人ではなかつた、即ち神を真に知つた人ではなかつた、これ彼等を貶して云ふのではない、彼等の真相を語らんとするのである、勿論彼等が貴き人であつたことは云ふ迄もない、又彼等に対して我等が敬意を表することも事実である、併し聖書的意味に於ては彼等も亦罪人であつたこと、そして此一点に於ては彼等は其同族たる他の人間と全く同一であつた事を我等は認める、そして注意すべきは彼等が人類中の極少数者であつた一事である、而してパウロが聖書の言を借りて此断定を敢て下したる時に於て、彼は勿論この極少数者を眼の前に置いたのではなくて人類全体を眼の前に置いたのである、それだけパウロの此断定の力と合適とを我等は認めざるを得ないのである。
 次は第十二節である、「皆曲りて誰も彼も邪となれり、善を行ふ者あるなし一人だにあるなし」と云ふ、「曲りて」は|脱線して〔付ごま圏点〕の意、「邪となれり」は|益なき者となれり〔付ごま圏点〕の意である、人は皆誰も彼も正しき道より脱線して益なき者となつて居ると云ふのである、これ果して事実であらうか、其次の「善を行ふ者あるなし一人だにあるなし」と共に承認し難き断定であると見られ易いのである、之に対しては前節の疑義に対すると同様の答弁を我等は与へ度いのである、即ち真に善を求むる者世にあるか、又真の善を求むるもの世にあるかの問を発し度いので(149)ある、その動機の中に一毫の私心をも混へずして真に――完全なる純潔を以て――何等の計量なくして、心より自然に而して至純に善を求める者が世に存するか、又真の善、唯一真正の善(the good)を求める者があるか、神の人に求むる善、神の独子キリストに現はれたる如き善、かゝる最上善を求むる者が世にあるか、かく問はるゝ時は、|ナザレのイエスを除いては古も今も善を行ふ人一人もなし〔付○圏点〕との断案を下すの已むなきに至るのである。
 大哲カントは云ふた「最も薯きものは善き意志である、故に此善き意志より出でしものが真の善である」と、此意味に於ける善即ち真醇なる善を行ふ人が世に果して在るであらうか、其動機に一厘たりとも不純を混へない所の――純粋に善き意志のみょり発する所の善を行ふ人が果して世に在るであらうか、他人《ひと》から見れば善人と見ゆる者も、其人の心の中に分け入て見る時は其処に善以外のものが潜むに相違ない、故に善人を以て我も人も容《ゆる》せし如き人にして、後ちキリストの救に入りて鋭利なる解剖を自己の上に加ふるに至るや、自己の罪と不善の姿が頗る鮮かに自己の心に感得せらるゝのである。 然り性来《うまれながら》の人には寔に善は行へない、性来の人の中に善人はない、人は性来にして怒の子、肉の慾に循ひて日を送る者、愆と罪を行ひて日を送る者である(エべソ書二章)、比較的の悪人と相対して比較的の善人はある、比較的の悪に対して比較的の善はある、勿論後者は前者より貴い、併し性来の人に醇真の善の行へぬ事には変りはない、さりながら或時人は醇真の善を行ふことがある、それはキリストの霊来つて其人を充分に占領した時である、この時は人は我にもあらで真の善を行ひ得るのである、中世紀に於ける独逸の名高き説教者タウレルは、有力なる伝道者として幾年かを経過せし後も尚ほ真の善を行ひ得ぬを感じて悶々の情に堪へず、或時ストラスブルグ市の郊外をライン河に沿ふて漫歩しつゝあつた、時に一人の老人の歩み来るに会し、
(150)  私に取つては凡ての日が善き日である、
  悪しき日は一人とてもない。
との老翁の歓喜の語を聞きて不思議に思ひ、「もし神汝を地獄に落し入れなば如何」との問を発した、老翁は其時快活に答へた。
  地獄とは何であるか私は知らない、
  併し私は主が私を離れ給はぬ事を知つてゐる。
  一の腕なる謙遜は彼の人間性を抱き
  他の腕なる愛が彼の神性を掴む。
  それ故私の往く所は何処へでも彼が往く。
  |彼なくして黄金の天国にあるよりも〔付○圏点〕
  |彼と共に火の地獄に居る方が優つてゐる〔付○圏点〕。
老翁の此語を聞いてタウレルの眼より涙は迸つた、彼は此単純なる信頻に住む老翁より「煩瑣な神学者たちの決して知らざる智慧」を教へられたのである(詩人ホイツチヤ作「タウレル」より)、地獄に落つるもキリストを離れじとの信頼は至純なる信頼である、天国に入るためにキリストを信じ善を為すと云ふ心には兎角不純が混り易い、結果の善きにも悪しきにも係らずして神を信じ善を選ぶと云ふは醇乎として醇なるものである、混りなき宝玉の如き美はしさが其処に在る、此老翁の如きは此域に達して居たのである、キリストの霊我等を潔むる時われらも亦此種の善に到達し得るのである、併し乍ら勿論これは人類中の或特別の変化を受けた人のみに係はる、(151)性来の人には到底真の意味の善は行はれない、「善を行ふ者あるなし一人だにあるなし」である。
 次にパウロは尚ほ聖句を引用して言ふた「其喉は開けし墓なり、其舌は詭詐を語り、其唇の下には蝮の毒あり、其口は詛と苦とにて満つ」と、是れ口舌を以てする罪悪である、即ち言語を以て人を欺き、苦め、罵り、譏る所の罪である、その罪が如何に人間に普通なるか、如何に地上のあらゆる人種に行きわたれるかは人の皆知る所である、極めて普通なる、そして小なるが如く見えて実は大なる罪である。
 次には「其足は血を流さんとして疾し、残害と災難とは其道に遺れり、彼等は平和の道を知らざるなり」とある、こは行為に現はるゝ罪――生活の状態としての罪――を述べた語である、「其足は血を流さんとして疾し」とは其生活が他を苦めて己を益さんために営まれつゝあるを示す 「残害と災難は其道に遺れり」は人を残害しつゝ歩みし跡に惨憺たる状の遺れるを意味する、「彼等は平和の道を知らざるなり」とは平和が彼等の本性に非ず又彼等は平和の何たる乎を知らざる事を云ふのである。
 以上口舌と行為との罪及び其状態は世に常なる事である、何時の代にも何の国にも之は常にある事である、実にこれ人類の罪の姿そのまゝの描写である、|殊に其激しきは戦争の前及び戦争の最中である〔付○圏点〕、戦将さに開かれんとして其の風声《うはさ》全地に鳴りひゞく時、及び戦いよ/\開かれて惨たる流血が全土に漲る時、その時こそ実に此処にある文字通りが事実である時である、如何に民と民とが毒舌を以て相対することよ、如何に悪魔のそゝのかす詛の叫が世を充つることよ、如何に憎悪そのものゝ如き言葉が滝の如く流るゝことよ、極度の詛ひと憎しみが言葉となりて外に表はるゝ有様は実に人が化して悪魔となつたのではないかと思はるゝ程である、而かも戦争終結するや此の詛と苦とにて其唇を充たせし熱狂者等は忽ち化して平和の使徒となり、以て人類平和促進の運動に(152)たづさはる如きは却て其罪悪と昏迷の深きを思はしむる事である、此度の欧洲戦乱に於て聯合国が敵国を呼ぶに悪魔を以てし、一人なりとも多く敵を殺すを以て正義人道に奉仕する所以なりとし、其宗教家等が神とキリストの名を以て此事を高調し宣伝せし有様を思へ、如何にパウロの語そのまゝなるよ、そして独墺と雖も此点に於て勿論その敵国に劣らなかつたのである、殊に独逸に於てはカイザルに事ふるを以て神に事ふると同一なりと見、自国の戦争を以てキリストのためにする神聖戦争と見做し、従つて敵国を以て神の業を妨ぐる悪魔と做す如き思想の根深かりしを思へ、あゝ共に正義人道の名に拠り、共に神とキリストとのために謂ゆる悪魔に対して戦をなしたのである! 「其舌は詭弁《いつはり》を語り、其唇の下には蝮の毒あり……其足は血を流さんとして疾し、残害と災難とは其道に遣れり」とは寔に彼等に於て文字通り真であつたのである。
 然らば人類は戦に際してのみ斯く毒舌と悪行に充つるか、否然らず|平時に於ても亦然り〔付○圏点〕、たゞ戦に際しては一入著しく現はるゝのみである、今日北米合衆国其他が日本民族に対して極度の悪口を弄し、其云ふ所多くは虚構の誣言なる如きは其一例である、其他民と民の間に、人と人の間に常に恐るべき悪言非行の交換されつゝあるは人皆自ら能く知る所である、あゝパウロの言をして偽りならしめよ、然らば人類と其社会とは如何に幸福なることよ、されどもパウロの言が事実其儘の記述なるを如何、あゝ人類の罪と迷は実に深きかな――古に於て又今に於て、然り古に於て又今に於て。
 十八節は「神を畏るゝの懼れ其の目の前にあるなし」と云ふ、これ前回に述べし如く全体を総括する語である、「神を畏るゝの懼れ」とは神に対する敬虔を指す、神と其聖旨、その審判を心に感ずることを意味するのである、「其目の前になし」とは勿論心の状態を形に托して述べた語であつて、|心に留めず〔付ごま圏点〕と云ふ程の意である、彼等は(153)神に対する敬虔を心に留めないのである、これ彼等の深罪の総括であり又原因である。
 以上パウロは旧約聖書の語句を巧みに排列して「人類悉く罪あり」との自己の主張の裏書となした、彼は先づ異邦人の悉く罪あることを述べ、次にユダヤ人も亦悉く罪ある事を述べ、然る後三章九節に於て「然らば如何にぞや、我等勝れるか、決めてなし、そは我等既にユダヤ人もギリシヤ人も皆罪の下に在ることを証せり」と断定して「人皆すでに罪を犯した」ることを明白に主張したる後此聖句引用となつたのである、|故に茲に我等は当然自己一人について考へざるを得ざるに至つたのである〔付○圏点〕、何となれば人類全体と云へば其中には云ふまでもなく自己も含まれて居るからである、その時我等は羅馬書一、二、三章に於て描かれし如き罪を犯さずと弁ずるも何等の弁解とならぬのである、何となれば|聖書に謂ゆる罪は人の外に表はれし行為よりも寧ろ其〔付○圏点〕衷|に潜む心の姿に係はるもの〔付○圏点〕であるからである、心に於て不義を行ひし者は不義者である、心に於て不善を行ひし者は不義者である、心に於て凶殺をなせし者は凶殺者である、心に於て姦婬を犯せし者は姦婬者である、其他パウロの列挙せし凡ての罪は我等が|よし〔付ごま圏点〕行に表はさずとも心に於て行ひ又は行はんとする処の罪である、然り我は明に罪人である 神は明に此事を示した、聖書は明に此事を教へた、神を知らずば宜かりしものを! 聖書を学ばずば宜かりしものを! 併し今や既に如何とも為すことは出来ない、我罪の醜き姿は我眼の前に今は些の曇りなく明かである、われ願ふ所の善は之を行はず却て願はざる所の悪は之を行ふ、善なるものは我に即ち我肉に居らざるを知る、我を※[手偏+虜]とする罪の法《のり》は慥かに我に在る、そして我が心の法を抑へてゐる、「あゝ我れ悩める人なるかな」、然りあゝ我れ悩める人なるかな。
 併しながら「此死の体より我を救はん者は誰ぞや」との叫び一度起る時は、即ち自ら己を救はんとせずして他(154)の我を救ふ者を見出さんとするに至る時は、晩かれ早かれ「これ我等の主イエスキリストなるが故に神に感謝す」との歓声を拳ぐるに至るのである、そして自己の罪悪深重なるすら尚ほ罪を赦されて救に浴するを知りて、感謝の無限なると共に亦誰人も救に入り得るものなる事を悟りて強き伝道心は自からにして生起するのである、然らば|凡ての良き事の根柢に自己の罪の認識が存する〔付○圏点〕、之なくしては一も良き事は生れない、歓びの花は黒き土より生ひ出づる外はない、人類凡ての罪人なること、そして自己の罪人なること、此事は先づ明かに認められねばならぬ――己の為にも又人の為にも、故にパウロは救の奥義を説示せんとして先づ此事に其鋭利なるべンを揮つたのである。
 
     第十六講 律法の能力 三章十九、二十節の研究 (五月八日)
 
 パウロは旧約聖書の引用を以て万人有罪の主張を裏書せしめし後、左の如き強き語を以て此箇処を結んだ。
  (19)それ律法《おきて》の言ふ所は其下にある者に示すと我等は知る、こは各人の口塞がり又世の人こぞりて神の前に罪ある者と定まらんためなり、(20)この故に律法の行に由りて神の前に義とせらるゝ者二人だに有ることなし、そは律法に由りて罪は知らるゝなり。
是れ羅馬書にある重大なる語の一にして真に革命的なる思想の発表と云ふべきである、そして之は一章十八節より始まつた人類皆罪の説論の総括又は結論と云ふべきものである、実にパウロは|此の二節を言ひ得んがために今まで筆を進め来つたのである〔付○圏点〕、彼れいかで故なくして異邦及び自国の民の醜き姿を描き出さうや、彼は此重要なる結論に導き至らんために、かの醜き姿を敢てその画布の上にのぼせたのである、今これを左の如く改訳し度い。(155)(19)それ律法の言ふ所は律法の下にある者に語ると我等は知る、これ凡ての人の口塞がりて全世界の神の前に罪に定められん為なり、(20)何故となれば律法の行為によりては肉の人は一人だに神の前に義とせられざればなり、そは律法に由りて罪の認識あればなり。
「義人一人もなし云々」とは十八節までのパウロの主張であつた、しかし十節−十八節の引用句は多く異邦人に関せるものである、然らばユダヤ人は之等の聖句によりて罪を定めらるゝ理由なしとの反駁が起るかも知れぬ、その反駁に対する答を兼ねて今までの所説の結論を与へたものが即ち此十九、二十節である。
 十九節の「律法」は何を指すかについて三つの説がある、第一は広く道徳律(イスラエル以外をも含めて)を指すと見、第二はモーセ律又はそれを含める『モーセの五書』を指すと見、第三は旧約聖書を指すと見るのである、此の場合は前後関係上第三説を採るより外に道がないと思ふ、そは前の十節−十八節の引用が詩篇、以賽亜書、箴言等から為されたものであるからである、(尤も此節を前の引用に直接の関係なしと見る時は、「律法」はモーセ律又は『モーセの五書』を指すとも見得るのである)、「律法」が旧約聖書全体を指すことのある例として挙ぐべき処は哥林多前書十四章二十一節である、其処に「律法に録して」と以賽亜書より引用してある、又約翰伝十章三十四節である、其処に詩篇より一句を引きて「汝等の律法に……と録されしにあらずや」とある、(其他約翰伝十二章三十四節、同十五章二十五節等も好き例である)。
 故に今十九節の前半を「それ聖書(旧約)の言ふ所は聖書の下にある者に語ると我等は知る」と書き直すと意味は明瞭となるのである、パウロの引用句が多く異邦人攻撃なるを機《しほ》として「故に我等ユダヤ人は罪人ならず」との言ひ遁れ起らんことを気づかひて彼は言ふのである、聖書に記さるゝ凡ての言句は即ち聖書の下にある者(156)――即ちユダヤ人――に対して語られしものである、よし外形は異邦人を責めし如き語にても同時にユダヤ人にも反省を促さんために記されしものである、即ちユダヤ人が異邦人と共に戒められたのである、律法の下にある民と彼等は常に誇称してゐる、然らば其律法の云ふ所に伏すべきではないか、其処に罪が責められてある以上、よしそれが異邦人の罪を責めたのであつても彼等も亦深く之に鑑み之を自己に引き当つべきではないかと、――これ十九節前半の意味であると思ふ、マイヤーは頗る簡潔に此意味を言ひ表はして云ふた「律法の範囲内に生を保てる者は律法が何と云ふとも――もとはそれがユダヤ人に対して云はれたものでも異邦人に対して云はれたものでも――自己に対して言はれたものと見做すべきである」と、是れ確かにパウロの真意を穿ちし語であると思ふ。
 之を今日の事を以て例示しょう、新約聖書には人の罪が責めてある、信者の或者はそれは不信者の罪を責めしものであるとして安んじて居るかも知れぬ、そして自己を以て聖き者となして誇て居るかも知れぬ、其時或人ありて彼に告ぐるに、聖書は聖書の下にある者即ち信者のために記されたものである故、よし不信者の罪が責められし所をも信者は自己に当てはめて反省せねばならぬと語つたとせば、これ正にパウロの此態度に酷似せるものとなるのである。
 十九節後半は云ふ「これ凡ての人の口塞がりて全世界の神の前に罪に定められん為なり」と、自己の無罪を主張する凡ての口塞がりて何等抗弁の余地なきに至れば全世界は神の前に罪人と定まるのである、先づ異邦人の口塞がり次に言遁れに巧みなるユダヤ人の口も塞がりて、全世界が――即ち異邦人もユダヤ人も誰も彼も――神の前に罪人と定まること是れ即ち旧約律法の目的である、故に旧約聖書は異邦人の罪を責めつゝ同時にイスラエルの罪を責める、「こは世の人こぞりて神の前に罪ある者と定まらん為」である、既に異邦人の罪は明である、され(157)ばユダヤ人さへ同じく罪人なることが解れば全人類が罪人と定つたわけである、然るに旧約聖書は其下にあるユダヤ人に示すものであれば矢張り彼等の罪を示したものである、されば茲に|聖書の光に照らさるゝ時凡ての世の人は罪人と定まるのである〔付○圏点〕――これパウロの論法である、彼もし今日に生れしならば先づ聖書に照らして不信者の罪を責め、次に聖書は其下にある信者の為に書かれし書なる理由を以て同様に信者の罪を定め、そして全人類が――信者不信者ともに――神の前に罪人なることを断定するであらう。
  「神の前に」である、「人の前に」ではない、人の前には如何やうに見えてもパウロの問題とする処ではない、或は聖人もあり君子もあり、或は聖き信徒もあり偉大なる信仰家もあるであらう、或は人格の高貴、識見の深奥等の姿もあるであらう、併しそれは孰れも「人の前に」である、人の眼に映ずる範囲のことである、「神の前に」ではない、即ち地の一角より同じ地上に動く諸象を見たのであつて天より地を俯瞰したのではない、しかし「ヱホバ天より人の子を望み見」る時は入は皆罪人であるのである、「神の前には」世の人こぞりて罪人であるのである。
二十節は十九節の理由提示である、「何故となれば律法の行為によりては肉の人は一人だに神の前に義とせられざればなり」と其前半は言ふ、「律法の行為」とはモーセ律の命ずる所の行為を意味とする、「今イスラエルよ我が汝等に教ふる法度《のり》と律法《おきて》を聴きて之を行へ、然せば汝等は生くることを得」(申命記四の一)とは旧約律法の根本的基調であつた、然し乍ら誰人か凡ての「法度と律法」を完全に守り得よう、よし形に於て完く守り得るとも心に於て完く守り得る人のある筈はない、そして心に於て行ひ得ぬものを形に於て強ひて行ふは、決して純真なる道徳的行為ではない、神の光は探照灯の如く我心を照らす、我の義ならざるは極て明かである、律法的行為に於て(158)人は完き能はず、故に律法の行為によりて神の前に義たり得る人は一人だにないのである、他に人の神に義とせらるゝ道あらば即ち可し、しかし|律法の行為によりては一人も神の前に義とせられないのである〔付○圏点〕、故に|律法はむしろ万人を罪人と定めんためのものである〔付△圏点〕、律法は人に行ふべき行為を示す、しかし之を行ふに要する力を少しも与へない、人は律法を与へられて却て自己の罪を悟るのみである、さはれ是れ実に律法の主目的である、律法は全世界の罪に沈める事を神の前に弾劾するものである、さればパウロは二十節前半の理由として後半に於て言ふ「そは律法によりて罪の認識あればなり」と、律法の鏡に照らされて人は自己の罪を認識する、即ち律法は人をして罪を悟らしむるものである、故に律法的行為に由りて神の前に義たらんことは望み得べくもあらぬ事である。
 以上は十九、二十節の大意である、静かに其含む思想を味ふ時その革命的大思想なることを誰か思はぬことを得よう、パウロは此語を以て其万人有罪説の結尾を飾り茲に本論の第一段を結びて、愈よ次節よりは新局面を打開して救拯の福音を提示せんとするのである、道窮すれば自から通ず、律法的救済の全然不可能なる事が斯く強く断定せられて茲に新たに福音的救済の新局面が展開し来らんとするのである、此意味に於て此両節の羅馬書に於て占むる位置の頗る重きことを我等は忘れてはならない。
 「律法」とは如何、十九節に於ける如く旧約聖書を指す場合もあるが多くはモーセ律(又はモーセ律を其主要なる内容とせるモーセの五書)を意味するのである、「律法とは能ある権威に依つて|命ぜられ〔付○圏点〕且必要の場合には|罰を以て強ひらるゝ〔付○圏点〕所の行為の規則である、これ聖書に於ける所の此語の主なる意味である」(デービス氏の聖書字典より)、能ある権威とはイスラエルに於ては勿論ヱホバ神を指す、律法は由来彼の命令に出づるものである、これ律法の聖く正しく且善なる所以である(ロマ書七の十二)、そして罰を伴ふが律法の特色である、即ち之を守る者(159)は裕かなる祝福に与かるに反して之に背くものは或罰を加へられる(ヱホバ彼自身より、又は彼より王の手を経て)、これユダヤ律法の特色であつた、即ち賞罰の予示を以て命ぜらるゝ行為の規則――換言すれば恐れと望みとを予期せしむる所の命令の一束――是れ即ち律法である。
 されば律法は即ち遺徳である、故に|此律法に関してパウロの茲に云ふ所は広く道徳律に関しても同様である〔付○圏点〕、彼はモーセ律に育てられたる人にして、且キリストの福音はモーセ律に代るものとして猶太の国より生れ出でたるが故に、彼は専らモーセ律についてのみ其論述を行《や》るのであるが、彼の此所説そのものは勿論原理として凡ての道徳律に適用さるべきである、換言すれば彼は茲にモーセ律について語つて凡ての道徳律について語つて居るのである、異邦にも勿論道徳律がある、或民族に於てはそれが一の形ある条文又は教となつて居り、他の民族に於てはそれが単に良心の本能的実感として不文律となつて居る、そして如何なる民族の一員にても其道徳を以ては義とせられないのである、更に一般的に云へば|人と云ふ者は誰人と雖も道徳の行に由りて神の前に義たることは出来ないのである、即ち真の意味に於て救に入ることは出来ないのである〔付○圏点〕、何となれば人は道徳的に完全なることを得ないからである、道徳に依て人の罪は知られるのである、道徳は「世の人こぞりて神の前に罪ある者と定まらん為」に神より人類に与へられたるものである、これ道徳を貶するのではない、却て其本性を明かにして其価値を定むるのである。
 我等日本人は殊に道徳の窟内に育てられし民族である、曾て然り今も然るのである、社会に於て最も濃厚なるは道徳的の空気である、(かく云ふは我民族が道徳的に優秀であると云ふ意味ではない、そは恰も宗教的空気の濃厚なる欧米各民族が必しも宗教的に優秀でないと同様である)、従つて万事万物に対する判断の尺度は主とし(160)て道徳律である、忠孝仁義は家庭教育及び学校教育の基調である、これ道徳が――たとひ表面に於てなりと――我社会の最上者である証拠である、然るに茲に「道徳は人の罪を示すものにして人を救ふものに非ず」との提言あらんか其革命的思想の提供なること云はずして明かである、もし此提言にして真なりとせんか、道徳を根柢とせる家庭教育、道徳を以て人を救はんとしつゝある学校教育及び社会教育は空しき努力の蓄積として、土台なき家屋の如く土崩瓦解し去ることであらう、即ちそは道徳本位の社会に対する霊的革命の提唱である、道徳の救世主たらぬを示して、之を以て立つ人と其社会を其根柢より改め、信仰の上に之を再建せんとするのである、果して然らばパウロの此言は道徳を基礎として立つ人と社会とに取つては軽々に看過し難き大問題の提出である。
 併し基督教の主張は極めて明瞭であつて些の疑義を挿む余地がない、「基督教のみが道徳に依て人は救はれずと主張する教である」と或学者は云ふた、真に至言である、基督教は要するに最高道徳の提供であると云て福音の最大特徴を其優秀なる道徳観に置くは、これ世の誤解を避けんとしての妥協的態度である、基督教の優秀なる道徳は其附随物にして決して主体ではない、人は道徳に依て救はれぬもの故に人を救ふ所の福音は如何にしても道徳本位であり得ないのである、人は道徳的に完全なる能はず故に道徳的行為に於て神の前に義たる能はずとの主張は、救を中心義とする福音の極力主張せざるを得ざる所である、げにパウロは此主張のために幾度かの執拗なる迫害と讒誣中傷とに接した、彼の敵は彼の赴く所に影の如く伴ひ来つて陰に陽に彼と彼の教説とを打ち砕かんとした、しかし彼は万難を排して其主張を維持し且高調した、暗きは光に追ひ迫らんとするも光は益す其輝を増し進んだ、彼は人を救はんがために――然り人を救はんためにこそ――此心霊の炬火を絶えず焔々として点じつゝあつたのである。
(161) 或る神学者は言ふ「パウロはキリストの単純なる教を化して視雑なる神学的教義となしたのである、彼もしなかりせば基督教はユダヤの山地に挙がりたる美はしき道徳教として遺つたことであらう」と、果して然うであらうか、我等は今之れについて長き論議をする時を持たない、たゞ人生の実験として見る時パウロの此主張の活ける事実そのまゝなるを認めざるを得ないのである、道徳は聖にして正しきものである、しかし之を完全に行はんとして我等は其不可能なるを発見し、その標準に照らして自己の義ならざるを実感するに至るのである、「十誡」の如き道徳律としては実に完全なるもの乍ら人は決して之に依て救はれるにあらず、却て之に審かれて律法的行為に於ては義たり得ぬ事を悟らしめらるゝのである、此時我等を襲ふものは実に罪の悶えである、そは恰も魂の奥底より沸き出でしが如くして払はんとするも払ひ得ざる心霊の呻きである、故に小なる理窟を以て此実感を打ち消すことは不可能である、完全に律法を守る聖浄の生活を送らんとの決心は牢乎として我にあれど、同時に律法を守り得ざる我の道徳的不能の姿のあさましく映ずるを如何せん、決心と実状、理想と実際との距離は天空にきらめく星と星とのそれの如く遠くある、故に道徳は決して人を救ひの歓びに至らしむるものではない、道徳律は優秀であればある程却て人をして及び難きを感ぜしむるものである、|故に人の実験上律法の行為に依て救はれざることは極めて明瞭の事実である〔付○圏点〕。
 然らば道徳の要は何であるか、曰くそれは人をして罪の識認を起さしむるに在る、「そは律法によりて罪の認識あればなり」とパウロは云ふた、勿論道徳の目的の一半としては人と人との間の行為の標準の挙示を見ないわけには行かない、けれども道徳の目的としては罪の認識の生起を充分に認めねばならない、基督教を知らんとして先づ「山上の垂訓」を読み、その美に打たれて之を実生活に於て実現せんと試みて其不能なるを見出すや、基督(162)教を至難の教となして離れ去る人がある、これ基督教を単なる道徳教と思ひ過りしためである、「山上の垂訓」は天国の律法にして救はれし者の守るべき道を示すと共に、又実に之を読む者をして己の罪を認めしめん事を目的としてゐる、然り律法は人をして「律法の行によりて神の前に義とせらるゝ者一人だに有ること」なきを知らしむるを目的とする、即ち道徳は人をして罪を悟らしむるに有力であつて、人を救ふには全然無力である、然り道徳の力と無力とは茲に明かである、|道徳は人を罪人と定むるに於て極て有力である、しかし其他の点に於ては全く無力である〔付○圏点〕、これパウロの力をこめて主張せし所、そして人の実験に於て――真面目に道徳を行はんとせし人の実験に於て――白日の如く明なる真理である、唯かの道徳を浅く外部的に見、従つて自己を其外面に於てのみ眺めて浅く且軽く道徳家を以て任ぜる人々の如きは余りに輕佻、あまりに浮薄、到底共に人生の根本問題を語り得ざる人等《ひとたち》である。
 茲に思ふべきは我日本国の既往数十年の教育の失敗である、今や明治大正の忠君愛国を基調とせる道徳的教育の失敗に帰せしは誰人も認むる処である、ために教育は行き詰りの状態にありて、如何にかして新生面を拓かんと苦心しつゝある有様である、げに現代の日本人はど至れり尽せりとも云ふべき倫理的教育を受けたものはないのである、欧米の識者は明かに此事を認めて居る、然るに其結果は如何、今や国を挙げて腐敗と不義と荒濫の濁水に溺れんとするが如き状況の下にあるではないか、不良少年、不良青年と相競ふが如き不良壮年、不良老年の跋扈を如何、節義地を払ひ徳操跡を隠すは現代の実状である、げに道徳的破産の淵に瀕せるのは現代の我社会である。
 あゝ是れかの凡ての道徳的教養の結果なるか、然り是れかの凡ての道徳的教養の結果である、道徳は之を行は(163)しむる力を本具してゐない、故に道徳だけの教養は人をして悪を避けしむる何等の力ともならぬのである、遺徳は人をして罪を識認せしむるものである、故に|道徳的教育の結果は人をして自己の罪を悟らしむると共に、又他人の罪をも悟識し得るに至らしむるのである〔付○圏点〕、自己の罪悪をも充分に認むると共に、他人の罪悪に対して鋭き眼を向けて其指摘に没頭しつゝある現代の状態は、まことに能く道徳的教養の性質及びその結果を実証するものである、即ち道徳的教養は人を少しも道徳的に向上せしむる事はなくして、唯自己及び他に対する道徳的批判を鋭敏ならしむるまでである、洵にパウロの断言せし通り律法にょりて罪の認識が生れるのである。
 倫理道徳の標準に照す時全世界は神の前に罪人と定まるのである、律法的行為に依ては一人だに義たり得ぬのである、然らば人は全く茲に行きつまつたのであるか、然り茲に人は道徳的には行きつまつたのである、換言すれば道徳を以て救はれんとする人類の企画は茲に行きつまつたのである、併し乍ら|人の行きつまりは神の行きつまりではない、神は人を救はんために新局面を打開き給ふ〔付○圏点〕、即ち次節以下に於て強調する如く「律法の外に神の人を義とし給ふ事」が顕はれたのである、これ即ち信仰の道である、かくて律法に於て窒死せる我等は信仰に於て甦るのである、律法的には義ならざる者が信仰によりて義とせらるゝのである、茲に救ひは人に臨み歓喜の露はその霊を潤ほすのである。
 パウロは此の新原理を提唱せんために人類皆罪の主張を一章十八節より掲げ来つたのである、面を背け度き人類の罪をわざと摘出せしも実に此結論に導かんためであつた、其の為には障礙となるべき途上の大石小石を撥ねのけつゝ遂に三章十九節二十節に至つて一先づ第一段の目的地に到達したのである、そして凱歌を奏するが如くに此両節を高らかに叫んだのである、何故の凱歌ぞ、言ふ迄もなし、そは福音的救済の山に導くべき野の最終点(164)に達したからである。 〔以上、7・10〕
 
     第十七講 神の義(一) 三章二十一節の研究 (五月廿二日)
 
 三章二十節は既設する所を総括して「この故に律法の行に由りて神の前に義とせらるゝ者一人だに有ることなし、そは律法に由りて罪は知らるゝなり」と云ふた、道徳的に完全なる人は一人もない、人は皆いづれも罪人である、そして律法は道徳的完全を交換条件として救ひを約束するものである、故に律法の行に由りて神の前に義とせらるゝ者は一人もないのである、実に律法の用は人をして其罪を悟識せしむるにある、されば律法は人の救済者ではなくして其弾劾者である、道義の法廷に人を弾劾して人の罪人と定まるを見て満足するは律法である。
 パウロは其霊的経験に於て或時此事を痛切に味つたに相違ない、パリサイ学徒としての彼は律法厳守を以て唯一の生命とした、彼が後年自から「律法に在る所の義に由れば※[王+占]《かけ》なき者なり」と誇称したのを見れば(ピリピ三の六)、彼の律法恪守が如何に厳粛を極めたかを察知し得るのである、しかも形の上に律法の規定を守るに於ては※[王+占]なかりし彼も、両刃《もろは》の剣《つるぎ》よりも利くして心の念《おもひ》と志意《こゝろざし》を鑑察《みわく》る所の神の言に接しては、律法の行によりて神の前に義たらざるを知り、同時に自己の罪人たることを明かに示されたのである、そして彼は此窮地に陥りて後一転して救ひの道を示されて平安に入つたのである、彼は自己の此経験を回想しつゝ三章二十節の言を記して律法を人類の弾劾者と定め、そして二十一節よりは律法以外に救の道ある事を述べんとして茲に言ひ難き安慰を味はつたことであらう。
 パウロは人類皆罪ある事を強調して遂に律法の真性貿を断定し、それが決して人類を救ふ者にあらざる事を明(165)言した、然り律法は慥かに人を救ふ者ではない、之を社会を治むる道である所の法律について見るも、文明諸国が毎年毎年新しき法律を作るにも係はらず其社会が悪化こそすれ毫も善化せざるに依ても、律法が人と社会との救済者たらざる事は明かである、由来|新約の根本的基調は律法による救ならで恩恵による救である〔付○圏点〕、しかし誰人も一度は之を律法的に見る故律法の行に依て救はれんと努力する、併し全く聖き信者たらんとの切なる願を朝に抱きて努力するも、夕には一日を回想して懺痛の涙を流すが常である、かくて同一の決心と同一の努力と同一の懺痛を幾度も幾度も繰返すだけを以て終るのである、これ実に行き詰りである、そして良心の鋭き者は必ず此行き詰りを経験するのである、アウガスチンがさうであつた、ルウテルがさうであつた、バンヤンがさうであつた、其他無数の人がさうであつた、そして悲むべき事は、此律法による行き詰りまで来つて、新局面の打開を見ざる中に早く既に福音と自己とに失望して遂に基督教を棄て去る人の決して少からざる一事である、彼等は何故に羅馬書を三章廿節まで読みて中止したのであるか、何故に廿一節以下の救拯の福音を味解せんとしなかつたのであるか、惜むべき事である。
 廿一節に曰ふ「今律法の外に神の人を義とし給ふ事は顕はれて律法と預言者は其証をなせり」と、之を原文に従つて正しく訳すれば
  然れども今律法を離れて神の義は顕はれ、律法と預言者とによりて証せられたり
となる、「然れども今」と先づ記して局面の一変が暗示せられるのである、今までは律法の束縛の下に暗黒の彷徨を続けて居た者が茲に俄然として全く別の世界ある事を示されるのである、その暗き世界より明るき世界への転移の境目が「然れども今」の一語である、短き語である(原語 Nuni de 英語 But now)、しかし重大なる語で(166)ある、実に羅馬書三章廿一節の「然れども今」は其前と後とを余りに鮮かに截別してゐる、前は世の壊乱、罪の詰責、律法に因る滅亡である、後は罪の赦免、義の顕揚、福音に因る救拯である、この両者を明暗の差異の如く明かに区別したのが「然れども今」の一語である、誠に「然れども今」である、曾ては罪の認識のみあつた、然れども今は罪の赦しが臨んだ、曾ては律法に依る暗黒のみあつた、然れども今は福音に依る光明が臨んだ、「然れども今」は実に新世界の暁を告ぐる鐘の音である。
 そして此新世界出現はキリストの降臨に基づくのである、彼の降臨ありて初めて旧き律法の束縛は失せ、自由の救済は我等の間に臨むに至つたのである、彼れ世に来りしが故に人の心は一変し、従つて人の人に対する道は一変し、従つて社会が一変したのである、是れ実に新しき紀元の開始であつた、之が真正の改造を促したのである、又促しつゝあるのである、之に比すれば今日世界に喧しき「改造」の叫の如きは言ふに足らざるものである、今日の改造の叫びは今の社会の律法より解放されて別の律法を立てんとする事である、故に解放と云ふも実は再び|他の或束縛〔付△圏点〕に身を任せる事である、改造と云ふも再び他の律法に縛らるゝ事である、之に比してキリストの救は余りに相違してゐる、|キリストの救は律法と全然絶縁する事である〔付○圏点〕、道徳及び法律より全く解放せらるゝ事である、然らば無政府状態に陥るのか、否な、儀文に事ふるを歇めて霊に事ふるに至るのである、死せる形式の束縛を脱して、活ける或霊に頼《よ》り活ける或原理に従ふに至るのである。
 故に「然れども今|律法を離れて〔付○圏点〕神の義は顕はれ」たのである、律法を全く離れて――律法以外に――律法に全然無関係にて神の義は顕はれたのである、全く律法と云ふ者の支配してゐる世界を脱して別に神の義が顕はれたのである、大改革である、根本的の大改革である、律法を悉く無用とし道徳を全く無視して而も決して乱れず、(167)活ける霊に導かれて自《おのづ》から節に適はしめんとするは即ちキリストの救である、人の意に過ぐる或特殊の大改革である、しかし福音は之である、之れ以下のものではない。
 多くの基督教信者は此事を悟らずして福音を律法と同一視して全然律法に仕ふる身となつて居る、又は信仰に立つ人と雖も之に律法を加味して、信仰を抱きて律法に事ふるを以て正しき道となしてゐる人が多い、これ無用なる軛を自己に加ふることである、かの基督教道徳と称するものは決して律法として我等を縛るものではない、霊に於て活くる者の行為の標準を示すものたるに過ぎない、全く律法を離れて信仰だけの人となつたのが真の基督者である、信仰の偉人たちを見よ、彼等は皆等しく|思ひきつて〔付ごま圏点〕律法を脱して全き恩恵の世界に移つた人々である、之は危険と見えて決して危険ではない、放胆なるが如くして実は慎重である、子が親に頼るに律法の其間に介在する要はない、律法は却て信顆の純粋を濁すものである、他の何者をも雑へない所の全く純なる信頼――これが徹底した信仰である、功《いさをし》を要しない、功を条件としない、たゞの無邪気なる信頼である、律法は人をして自己を見つめしむるものである、しかし自己を見つめて人は罪の外何等良きものを見出し得ない、上を仰ぐこと、神の義を仰ぎ瞻ること、これ唯一の救の道である。
 律法を離れて|神の義は顕はれ〔付○圏点〕たと云ふ、「神の義」とは何を意味するか、又それが「顕はれ」たとは何の事を指すか、学者は種々の意見を提出してゐる、しかし人の義(律法による義)の立ち難きを明示したる後の語である故、神より人に賜ふ義であると見るが正しい、人が自ら義たらんとする努力は空しき努力である、人は到底義を実現するを得ない、故に人の義たり得る唯一の道は他の者より義を与へらるゝことである、神は実に悔いし砕けたる心を愍み給ふて義を其人に賜ふのである、自己によりて義たり得ぬを知りて我に何の善きをも認めざるに至(168)り、しかも義たらずしては心霊の空虚満たし難きに懊悩せる人に向つて、神は其義を賜ふて彼を義とし給ふのである、されば茲に云ふ所の「神の義」は神より人に賜ふ義である、換言すれば神が人を義とし給ふ事である、この神の義が今や既に顕はれたのである、そしてそれがキリストの十字架の贖罪に依拠する事は云はずして明かである。
 空気や日光は人の生存に欠くべからざるものである、しかし人力を以て造り出すを得ざるものである、されば造物者より与へられてそれを我物とする外に道はない、神の義も亦これに似たるものである、人の努力を以て之を得ることは出来ない、神より与へられて人が之を享受するのである、故に人は唯空気を充分に吸ひ日光に充分其身をさらせば宜い、清い空気と輝く日光ほど人の肉体を健康ならしむるものはない、同様に神の義の中に己を投げ入れて豊かに之を享受するほど霊魂を健康ならしむるものはないのである。
 かの狭き暗き室内に常に陋居して汚れたる空気と薄き光線の中に在る事が肉体の健康を害ふことであるならば、律法の陰欝なる窟内に蟄居することは我とみづから心霊の健康を破る事である、戸を排して外に出でよ、そこに日は麗かに輝き風は清く流れてゐる、此日を浴び此風を受けて肉体は頓に生気を回復する、律法の室内にありては魂は錆び腐るばかりである、出でよ出でよ、出でゝ恩恵の光と風とに触れよ、然らば苦悶は失せ、心霊は甦り、歓喜の膏は魂の骨と髄とを霑ほし、十絃《とをを》の琴を以てする感謝は高く天に向つて発せられるであらう、これ己の力に依るにあらず全く恩恵の救ひの中に我を投げ入れし結果である、これを余りに良過ぎて信じ難しと云ふか、併し父が子に対して如何に多く恩恵を施すも誰か之を怪むものがあらうか、寔にさうである、事は実に簡単にして明瞭である、然るに此の簡易なる、そして唯一の救の道に来るものは暁の星の如く少ない、世の多くの人は道徳(169)と律法と事業とを高唱する、そして人の努力の総積の上に人類の救は成ると考へてゐる、今日の基督教国と称するものが亦実に之より以外を知らぬのである、其結果は事実が幾度も示す通り決して/\人類の救とはならない、今や人類は事業の強調、道徳の高揚と速かに絶縁して福音の単純に帰るべき時である、茲に真正の救があると共に亦真正の事業、真正の道徳も伴随するのである、これ今日の人類にとりて最緊要なる真の信仰復興《リバイバル》である。
 二十一節の最後の句は「律法と予言者とによりて証せられたり」である、上述せし所の神の義の顕揚は其証明者として律法と予言者を持つといふのである、「|律法を離れて〔付△圏点〕神の義は顕はれ」と云ふかと思へば忽ち「|律法〔付△圏点〕と予言者とによりて証せられたり」と云ふ、律法を全然離れ去りし事を高調して、旧き束縛の律法を全く彼方に投げやりし如くにして、忽ち又此律法を神の義を証明者として携へ来るのである、例に依て端睨すべからざるパウロ式論法である、さきに彼は一章一節に於て自己が福音のために選ばれし事を記せし後、第二節に入りて「この福音は従前《はやく》より其予言者たちによりて聖書に誓ひ給へるものにて」と云ふた、彼は大なる進歩家であると共に大なる保守家であつた(三月号十七頁参照)、神の義の新なる顕揚は全く律法を離れたる純恩恵のそれである、併し其事を証明する者としては律法と予言者があると、これパウロの主張である、彼は聖書を神の書として重んずる人であつた、故に聖書の裏書を得て初めて安んじて新真理を唱道するのである。
 律法と予言者と云へば旧約聖書の全部である 然らば如何にして旧約は此新しき神の義の宣揚を証するか、曰ふ旧約は旧き新約にして、新約は新しき旧約である、旧約の中に新約は未完成の形に於て――其萌芽に於て――存し、新約の中に旧約は完成の形に於て――其美はしき成熟に於て――存してゐる、旧約の進み来つて円成せしものが新約であり、新約の未だ円成せざるものが旧約である、一は大人であり一は小児である、しかも同一の生(170)命の連続である、故に律法と予言者の中に福音の義を予表せし所あるは自然の事である、モーセの五書に以賽亜書に耶利米亜記に其他の諸書に此予表は決して少くないのである、パウロが第四章に於て此の神の義を証すべく用ひしアブラハムの故事の如きは其一例である、加之これを全体の上より眺むるも、律法が罪を悟らしめて福音の義の準備をなし、予言者が主の救を幾度も幾度も預言せる如きは共に是れ新しき義を直接間接に証明せしものと云ひ得るのである、全く新しくして而も古きに萌芽を置く、全然新たなる啓示なると共に亦古き預言の完成である、これ実に福音の福音たる所以である。
 日本に於て法然親鸞等の他力救済宗が広く平民の心に訴ふる所ありて、此時より我国の仏教が初めて民衆の世界に入り来りしは人の知る所である、人の行に依らず全く弥陀の本願に基づく所の他力救済の教が斯く民衆の心に速かに透入したるは、人が皆本純的に律法による義の実現し難きを感知せるが為であつた、故に仏教徒にして法然親鸞の心を能く知れる者は、福音の根本義を聞く時これを理解し、之に共鳴し得るのである、されば我国の古き宗教も亦或意味に於て福音を証明すと云ひ得るのである、何れにせよ神の義は既に顕はれたのである、律法の義にあらず行の義にあらず、神より人に賜はる所の義、神が人を義とし給ふ所の義、行によらず唯キリストイエスに対する信頼の故に賜はる所の義は既にキリストの十字架以後、新原理として世に臨んだのである、神は之を宣示し給ふたのである、されば人々よ旧き律法の繋ぎを脱け出でゝ早く神の義の恩恵に浴せよ、そこに清き空気と輝く日光とを受けて早く魂の甦りと強き歓喜とを受得せよ、人の救はるゝ道は此一つの外にないのである。
 
(171)     第十八講 神の義(二) 三章二十二節の研究 (五月廿九日)
                                    二十一節は律法を離れて神の義の顕はれしこと及び律法と預言者がそれを裏書することを説いた、この神の義について更に説明するのが廿二節である、邦訳聖書には
  即ちイエスキリストを信ずるに由りて其義を神は凡ての信者に賜ふて区別なし
とある、キリストに対する信仰の故に神は其義を区別なく誰人にも与へると云ふ意である、もし之を原文のまゝに直訳すれば
  〔即ち〕神の義 イエスキリストに於ける信仰に由りて、凡ての人に向ひて 凡て信ずる者の上に、そは区別なければ也。
となる、最後の「そは区別なければなり」は一の成句(clause)にして、主語あり説明語ありて一の纏まつた思想の発表となつて居る、然るに初めの四は何れも一の句(phrase)たるに止まつてゐる、パウロは茲に四の句を並べただけであつて必要なる説明の働詞は全然省かれて居るのである、故に之を補ふて意味を完了させねばならぬ、先づ次の如くして大過なからうと思ふ。
  即ち神の義〔は顕はれたり〕
  イエスキリストに於ける信仰に由りて〔受けらるゝ義〕、
  凡ての人に向ひて〔発せられし義〕、
  凡て信ずる者の上に〔止まる義なり〕、
(172)  そは区別なければ也。
右の如く括弧内の語を補ひて初めて此節の意味が明かとなるのである。
 「神の義」は前回に講ぜし通り人の義ではない、人が自力を以て達成せし義ではない、神より信ずる者の上に賜はる所の義である、神は此義をキリストを信ずる者の上に賜ふて彼を義とし給ふのである。
 即ち「イエスキリストに於ける信仰に由りて」受けらるゝ義である、信仰を以て此義を受けるのである、神の義を受くる唯一の条件――もし条件と云ひ得べくば――は信仰である、キリストに於ける信仰、これ神の義を受くる唯だ一つの道であり、従つて之なき人は神に義とせられ得ないのである。
 此義は「凡ての人に向ひて」発せられし義である、即ち神は凡ての人類に向つてイエスの十字架の故を以て此信仰の義を発し給ふたのである、目的は凡ての人がキリストを信じて此義を我有とするにある、決して或一部の人を義とするを目的として発せられし義ではない、故に此義は凡ての人に向ひて発せられしものである。
  此一句は或原本にありて或原本にはない、従つて此一句を保つべきか除くべきかは学者間に議論のある所である、英語聖書は unto all と之を保存してゐるが其改訂聖書は之を除いてある、邦訳聖書は現行訳改訳ともに之を除いてゐる、しかし茲には暫く之を保存して置いた。
 然り凡ての人に向つて発せられし義である、けれども「凡て信ずる者の上に止まる義」である、此義を我物とするは信ずる者に限るのである、万人の取るを目的とし万人の取るに任せられたる生命の水ではあるが、之を取らんと欲して汲器を持ち来る者にして初めて之れを実得し得るのである、これ注意すべき一事である、キリストの血は万民の罪を赦さんとて流す所の契約の血であつた、彼の十字架は万民の罪を贖ふためのものである、併し(173)彼を信じたる者に於て初めて此罪の贖ひが事実となるのである、神の人を義とする義には此特有牲がある、然らずしては悔改も信仰も全く不用となるのである、然り神の義は凡て信ずる者――キリストを信ずる者――の上に止まる義である。
 以上の中、後の三句には何れも前置詞が附て居る、凡そギリシヤ文を読む時は前置詞に特別の注意を払はねばならぬ、「イエスキリストに於ける信仰に由りて」の|由りて〔付○圏点〕は dia《ヂア》 であつて英語の through に相当する、「凡ての人に向ひて」の|向ひて〔付○圏点〕は eis《アイス》であつて英語の unto に相当し、「凡て信ずる者の上に」の|上に〔付○圏点〕は epi《エピ》であつて英語の upon に相当する、此三句の如き一の動詞をも用ひずして唯前置詞を以て意味を明かに述べたのである、故に一の前置詞にも充分の重味が加はつて居るのである。
 二十二節の最後には「そは区別なければ也」と云ふ一成句がある(英語 for there is no distinction)、簡潔なる一句であるため|何の〔付△圏点〕区別がないのであるか定かでない、故に前後関係の上から、若しくはパウロの思想全体に照して其意味を定むるより外に方法はない、要はパウロが此語を記した時心の中に於て|何の〔付△圏点〕区別を考へて居たかに在る、信ずる者の上に神の義が与へらるゝに区別がないと言ふのであるから、勿論人の区別がないのを意味するに相違ない、此事は誰人にも直ちに推定せらるゝ事である、即ちパウロは如何なる人と雖も信仰を以て義とせらるゝと主張するのである。
 されば「区別なし」と云ふた時パウロは先づ猶太人、異邦人の区別なき事を意味したであらう、曾ては猶太人のみが選民として神に救はるゝ事を確信し居たるパリサイの人サウロも、キリストの化する所となりては国籍の区別は空しきものとして去つたのである、故に国籍の区別なくして人は信仰だけを以て――如何なる良き民族の(174)人にても悪き民族の人にても――義とせらると主張するのである、そして国籍の区別に止まらない、老若男女の区別もなく、学者無学者の区別もなく、智者愚者の区別もなく、富者貧者の区別もない、更に進んで義人と罪人の区別もなく、善人と悪人の区別もないのである、義しき人、善なる人のみ救に与りて、罪ある者、悪しき者は亡ぶとは普通の見方である、然るに福音は善人悪人、義人罪人の間に区別を置かぬのである(信仰さへあれば義とせらるゝと云ふ一点に於ては)、|悔改めて神に帰属しキリストに信徒するに至りし者は、たゞ其事のみに依て神の義を賜はるのである〔付○圏点〕。
 「そは区別なければ」とは実に偉大なる言である、かの何事にも差別を認めたる時代に於て此徹底せる信念に立ちしパウロの偉よ! そしてパウロに此徹底せる信念を与へし福音の偉よ! |誰人と雖も〔付△圏点〕信仰に依て義とせらる、故に救の一点に於ては人間の間に存する有りと有ゆる差別が差別とならぬのである、故に如何なる罪人と雖も信仰さへすれば救はれるのである、かくてこそ我等は始めて安らかである、何となれば自己の深き罪人たるは自己自身に於て最も明かな事であるからである。
 以上は二十二節の大意であるが此節について二三注意すべき事がある、先づ「イエスキリストに於ける信仰に依りて」の句は原文の意訳であつて、之を直訳すれば「イエスキリストの信仰に由りて」である、(英語 by faith of Jesus Christ)、されば或人言ふ、是れキリスト自身の抱き居たる信仰を意味するのであつて、此句は我等また彼の抱き居たる信仰と同じ信仰を抱きて救に浴し得る事を云ふたのであると、即ちキリストを模範として、其信仰に傚ひ其行を学ぶ者は神に義とせらるゝと云ふユニテリアン的教義を此節に於て見出すのである。
 文字は明かは「イエスキリストの信仰」とある、之をキリストの抱きし信仰と見るも、キリストに対する信仰(175)(キリストを信ずる事)と見るも文字上にては少しも故障ないのである(英語 faith of Jesus Christ が孰れにも解し得るを見よ)、従つて此取捨は繋《かゝ》つて意味の適否に存する そして前後関係の上に見てもパウロ思想全体より見るも、「キリストに|於ける〔付○圏点〕信仰」と見るを選ぶべきである、学者の多くは之を採用し、現に英語改訂聖書の如きは through faith in Jesus Christ(イエスキリストに於ける信仰を通して)と思ひきつた訳し方をして居る程である、パウロの強き福音主義は誰人も知る所である、キリストに向つての信従は彼を際立たしむる最も大き線である、そのパウロが茲にのみユニテリヤン主義を唱へたとは不可有のことである、此一句の意味は極て明確であると思ふ。
 信仰さへあれば如何なる罪人、如何なる悪人にても救はると云ふは、信仰さへあれば如何に多く罪を犯すも可なりといふ思想を産まぬであらうか、かく疑ふ人がある、即ち福音主義は人をして安んじて罪を犯さしむるものであると云ふのである、そして史上の事実として我国の他力宗もパウロの福音主義も共に此種の放縦者を起したのである、けれども一部の弊害を以て全般を蔽ふは誤つてゐる、如何に貴き原理も人の誤解する所となりては弊害を生ず、これ其教の悪しきにあらず其人の悪しきためである。
 先づ考ふべきは信仰ある者に神の義が臨むと云ふこと、即ち凡て信ずる者の上に神の義が|止まる〔付○圏点〕と云ふ事である、これ我等が先づ義とせられて次には義を為し得るに至る事を暗示する、人は罪を責められ常に罪の呵責にありては決して善を行ひ得ず、却て恐れつゝ益々罪に沈むのである、之に反して信仰の故に罪を赦されて義ならざるに義とせらるゝ時は、心に歓び充ち生命湧きて却て義を行ひ得るに至るのである、これ信仰上及び心理上の事実である、されば単なる信仰に依りて義とせらるゝと云ふ教は決して人を益々罪に陥るゝものではない、否却て(176)人に善と正と義とを行はしむる動力を供給するものである、たゞ此福音主義の救ひを心霊の事実として把握せずして之を鵜呑みにして得々たる者の如きは、その怠慢と無誠意の当然の結果を刈り取る外ないのである、かゝる輩の常に有りがちなるにも係らず、福音主義そのものは永へに人間心霊の闇を照らす灯火として立つのである、然り灯火として立つのである。
 又「神の義」と云へば其中に愛も含められて居るのである、抑も人に対して悪を為せし者も一度悔改むる時は之を赦すを以て|義し〔付○圏点〕とすとは人の間の普通の思想である、或場合には人を罰する事ならで人を赦す事が却て義しいのである、故に神も亦義しき神なる故に人を赦し人を愛すとの思想が旧約時代にあつた、詩五十一篇十四節を見よ
  神よ、わが救の神よ、血を流しゝ罪より我を助け出し給へ、我舌は声高らかに汝の|義〔付○圏点〕をうたはんとある、これ愛と赦免とを以て義と見る――少くとも義の一部と見るのである、又詩百四十三篇一節に云ふ、
  汝の真実、汝の|公義〔付○圏点〕をもて我に答へ給へ、汝の僕の審判にかゝつらひ給ふ勿れ、そは活ける者一人だに御前に義とせらるゝはなし
と、これ亦公義の中に赦免を見るのである、故に新約に於ても約翰第壱書一章九節には
  もし己の罪を言ひ表はさば神は信実なる義しき者なるが故に必ず我等の罪を赦し、凡ての不義より我等を潔むべし
とある、義なるが故に父は我等の罪を赦すと云ふのである。
 かく神の義は愛を含有する、故に神の義を受けし者は此愛をも同時に受けたのである、そして神よりの愛を受(177)けし故に兄弟をも愛し得るに至るのである、「我等神を愛するにあらず、神我等を愛し我等の罪のために其子を遣はして挽何《なだめ》の祭物《そなへもの》とせり、これ即ち愛なり、愛する者よ、かくの如く神われらを愛し給へば我等も亦互に相愛すべし」とある(一約四の十、十一)、信仰によりて義とせられて人は人を愛し、赦し得るに至る、信仰による義を受けて其中に籠れる父の深愛を味得するに至り、求めざる感激は自から我に起り比ひ難き生命は自から我に湧きて人に対して亦愛を起し愛を行ふに至るのである、先づ愛して父に愛せらるゝにあらず、先づ父に愛せられて愛するに至るのである。
       附言
 羅馬書三章二十一節−二十六節は僅かに五節より成る所であるが、其中に福音の真髄が教へられ居るとして有名である、然るに何故か文辞あまりに簡単である、パウロが若し之を引き伸して長い論文となし置かば、研究者に取りては寔に幸であるのに、不幸にも意地悪しと思はるゝ程簡単なのである。
 何故に斯く彼は重大な真理を短く云ふたのであるか、彼は恩恵の救ひを説く前に当然順序として善人の皆罪あるを強調した、彼は早く救ひを説き度きに、逸る心を抑へつ/\して厭はしき罪の姿を画いてゐたのであらう、そして愈よそれを画き終へて、律法の行に由ては一人も義とせらぬ事を結論として述べ終るや、茲に今まで支へられ居りし大水が俄に堤を破りて流れ出づるが如く、心の中に|はちきれん〔付ごま圏点〕とする恩恵の言辞が決河の勢を以て迸り出でたのであらう、故に委しき説明をする余裕などなく、恰も久し振りにて遇ひし親友間の語の如く、論理的聯絡に頓着せずして、きれ/”\に甲より乙、乙より丙と真理が迸出したのであらう、故に言は短くして意は長い、文法的又は論理的には不充分にして而も偉大なる言である、之は深くパウロの心に中まで穿ち入りて初め(178)て解し得る語である、西洋風の論理的の見方よりも東洋風の味読的の方法が此際役立つのである。 〔以上、8・10〕
 
     第十九講 神の義(三) 三章二十三、四節の研究 (六月五日)
 今律法の外に神の義が顕はれたとは二十一節の主張であつた、この神の義はキリストを信ずる者に区別なく与へらるゝとは二十二節の主張であつた、然り神の義は律法以外に現はれそしてキリストを信ずる者に与へらるゝ所のものである、何故に斯くの如き義が顕はれ斯くの如くにして義が与へらるゝか、この疑問に答ふるものが二十三、四節である、邦訳聖書には「そは人皆すでに罪を犯したれば神より栄を受くるに足らず、只キリストイエスの贖に頼りて神の恩恵を受け功《いさをし》なくて義とせらるゝ也」とある、大体に於て原文の精神を捉へた訳ではあるが原文の直訳は左の如くである。
  (23) そは人皆罪を犯したればなり
     其れ故に神の栄に達せず
  (24) 常に義とせられつゝ
     賚賜《たまもの》として
     其の恩恵に由り
     キリストイエスの贖に依りて。
かく二十三、四節は短き句又は語を接ぎ合せたやうな文章である、殊に二十四節の如きは語と句を並べたと云ふ(179)までのもので一の成文となつて居ない、上掲の直訳は此両節を仮に六行に分けて記したのであるが、其第一行は三字より、第二行は四字より、第三行及び第四行は共に一字より、第五行は三字より、第六行は七字より成つてゐる(共に冠詞をも加算して)、全部合せて十九字である(二十三節は七字、二十四節は十二字)、かく短くとぎれ/\の語を以て人類永遠の運命に関する大真理が説かれたのである、そは恰も電報の如くである、語は簡単であるが意味は頗る深長である。
 先づ二十三節を見るに其の二十二節の理由を提示せしものたるや明である、二十二節は神の義が信ずる者に与へらるゝ事を説く、即ちこれ自ら起す所の義にあらずして他より与へらるゝ所の義である、然らば何故に人は自ら義たるを要せずして他より義を与へらるゝに至つたのであるか、之に二十三節は答へて先づ云ふ「そは人皆罪を犯したればなり」と、既往に於て人は皆罪を犯したからであると云ふのである(二十三節の前半句の動詞は過去であつて後半句のそれは現在なるに注意せよ)、人は皆、誰人と雖も一人残らず既に罪を犯したのである、人は孰れも既定的に罪人である、故に律法の行に依て義たらんとするも不可能である、自ら義を立てゝ神の前に己れ義たらんとするも、そは既に破れし紙を本通りにせんとし溢《こぼ》れし水を旧に返さんとするが如く不可能である、故に斯る人類てふ者が義を得べき唯一の道は此義を神より与へられるより外にはないのである、即ち人は皆罪人なれば信仰の故に神より義とせらるゝ恩恵を受くる外ないのである、これ実に義ならざるに義とせらるゝ唯一の道である、かく二十三節は二十二節の説明を与へてゐるのである。
 二十三節後半は「それ故に(人は)神の栄に達せず」と云ふ、「それ故に」の原語 kai(カイ)は英語の and(アンド、|そして〔付ごま圏点〕の意)に当る、そしてアンドが種々の意味を伝ふると等しくカイも亦種々の意味を伝へる語である、(180)此場合の如きは「それ故に(その結果として)」の意を伝へて居ることゝ思ふ、即ち人皆罪を犯したる故――犯したる結果として――神の栄に達しないと云ふのである、さらば「神の栄に達せず」とは何を意味するのであるか、之について種々の見方があるが其中の重なるものとして二つを挙げることが出来る、第一はキリスト再臨の時に於て神より栄を受くることを得ない、栄光を冠せられ栄化することを得ない事を意味すると見るのである、即ち人は皆罪を犯したる故当然滅亡すると云ふ意味になるのである、之は慥かに一の有力な見方であるが、文字上の故障のために之を採用し難しと做す人(例へばゴオデーの如き)があるのである。
 茲に於て第二の見方が生れる、之に依れば人は元来神に肖せられて造られたる者である、創世記一章二十七節は曰ふ「神その像の如くに人を創造り給へり、即ち神の像の如くに之を創造《つく》り……」と、故に人は元来神の栄を着て居るべきものである、然るにアダム先づ罪を犯し凡ての人亦彼にありて罪を犯せし故に此栄光は彼等を棄て去つたのである、彼等が神を棄つると共に此栄も亦彼等を棄てたのである、見よ彼等の面に現はるゝ悲寥の影を、見よ徨々相さまよへる彼等の力なき姿を、彼等は慥かに神の栄を失ひしものである、天より逐はれて地の泥に塗るゝに至りし者である、されば彼等は皆罪を犯したるが故に神の此栄を失つたのである、即ち人皆罪を犯したる故に神の栄に達しないのである、神の栄を欠くのである、これ第二の見方である。
 邦訳聖書が「神の栄を受くるに足らず」と訳したのは第一の見方に依たのである、併し「受くるに足らず」の原語は達せず又は欠くと云ふ意味である故(英訳聖書に fall shurt of とあるを見よ)第二の見方も優に成立するのである、ゴオデーの如きは此動詞の意味から見て第一の見方は到底成立しないと断定して居る程である。
(181)  第二の見方の熱心なる主張者たるゴオデーは云ふ「神の栄とは神自身より発射し来る所の――そして神と共に在る所の人に彼が与ふる所の――聖なる輝きである、神は之を与へ得る、そは彼自身がそれを持つて居り、それが彼の本性に属せるものであるからである、初め彼が人を清き者且つ幸な者として創造した時には即ち此輝きの一部を人に送つたのであつた、そして人が無罪より聖浄に進むに従つて此輝きが益々光輝を増すやうにして置いたのである、然るに人は罪に陥つたゝめ、その受けて居たもの及び之より受けんとするものを両方共失つてしまつた、王位を失つた王である、王冠が頭より落ちてしまつたのである」と。
 第一の見方と第二の見方の中いづれが正しいかは容易に定め難い、即ち「栄に達せず」とは後に起る滅亡を指すか或は今在る所の堕落の状態を指すか明かでない、けれども罪を犯す事その事が人を神の栄より遠ざけるものである事は極めて明瞭である、人は罪を犯した、そのために本具の栄を喪失したのである、或は人は罪を犯した、そのために後に受くべき栄を受け得ないのである、これ実に人間の実状である、何か或者が此状態を破らない限りは人は此の悲惨なる運命より解かれ得ないのである。
 人は皆罪を犯して神の栄に遠ざかつて居る、人は律法の行を以て神の前に己を義とすることは出来ない、故に律法の外に今神の義が顕はれた、神はキリストを信ずる者に其信仰の故に義を賜ふ、即ち人はキリストを信ずれば其のために罪人たるまゝにて義とせらるゝのである、これ二十一−二十三節の説きし所であつた、然る時は何故に斯かる恩恵の救が人に臨むに至つたかと云ふ疑問が当然茲に生起せざるを得ない、我等は此疑問に答ふるものとして二十四−二十六節を見るのである。
 併し乍ら此の二十四−二十六節は文章としては余りに簡潔に過ぎて、たゞ若干の句を並べただけのものである、(182)パウロは自己の義とせられし実感を回想して感謝の念に堪へ難く、感激のあまり心より発する純なる叫びを其儘に並べ記したのであらう、故に其包む生命力は外装たる不備の文字を破つて躍り出でゝ居るのである、恰も甘露の一滴又一滴天より降るが如く、一語一語、一句一句に言ひ難き力と生命とが籠つてゐる、之を解するためには意味を補足する外ないのであるが、如何やうに補足されても意味の中心点には大差ないのである。
 先づ二十四節を見るに第一に「義とせられつゝ」の語が立つ、英語にては being justified と二字に訳してあるが原語は dikaioumenoi(ディカイウーメノイ)の一字である、これ文法上の謂ゆる現在分詞である、故に「常に」といふ意味を含んでゐる、されば「常に義とせられつゝ」と訳して始めて原意を充分に表明したことになるのである、僅かに一語であるが其中に限りなき恩恵と慰藉とを我等は感ずる、|我等は常に義とされつゝある、我等の義とせられるのは一時の事に限られないで継続する事である〔付○圏点〕、我等は単に悔改めし時又は十字架の贖ひの信ぜられた其時に一度義とせられて已むのではない、|常に義とせられつゝ彼時にまで至るのである〔付○圏点〕。
 我等は悔改めて神に帰するに至つた後と雖も決して全き聖浄無罪に達するものではない、波瀾重畳は実に信仰生活の常の姿である、比較的聖きこともあるが罪に陥りて悲む事も亦度々である、一度誘ひに克ちて喜びに溢るゝも、直ちに又之れに負けて深き悲歎と重き憂欝に襲はれる、罪を犯して後はいたく之を悔ゆる、しかし悔いし罪を又忽ち行ふに至る、我等の信仰生活に於て理想と実際との相去ることは千里も啻ならぬのである、これ基督信者特有の苦悩である、そのために自己を偽善者と見て大に失望し、其極遂に信仰を棄つる者も決して少くない、或人は悔改めし後の生涯に於ては人は決して罪を犯さないと云ふ、しかし不幸にして是れ我等の実際の経験と相反してゐる、人は信仰に入りても常に罪を犯しつゝあるのである、故に「常に義とせられつゝ」行く必要が起る(183)のである、人の信仰生活に於て為し得る事は絶対的に罪を犯さないことではない、|十字架のキリストを仰ぐことである〔付○圏点〕、そして此信仰の故に人は「常に義とされつゝ」行くのである、人は常に罪を犯しつゝ常に赦されつゝ行くのである、故に「常に義とせられつゝ」即ちディカイウーメノイの一語は、罪に悩める基督信者にとりては大なる慰めの語である、かくして初めて我等に真の安心が臨むのである、一度義とせられしだけにて後《あと》は自ら義たらねばならぬと云ふ事ならば、我等の生涯は重荷の圧迫に潰え果つるだけのものである、常に義とせられつゝ進み行くは此上なき恩恵、類例なき慰藉である。
  かく云ふ時は人は如何に多く罪を犯しても宜いと云ふことになつて、其結果は只人を放縦に陥れるのみであると云ふ人がある、けれども之は此事を実験としては味はざる人の抗議である、此事は或は偽りの信者にその放縦を弁護する好辞柄となるかも知れない、しかしそは自から別箇の問題である、苟も真に悔改めたる、そして主の十字架を負ひて従はんとしつゝある誠実なる信徒に取つては、これが健全にして且強力なる慰めを与ふること言ふ迄もない。
 二十四節の第二語は「賚賜として」である、英訳聖書は之を freely(無代価にて、価なくして)と訳し、邦訳聖書は「功なくて」と訳してゐる、この原語 dorean(ドーレアン)は dorea(ドーレア)即ち「賚賜」と云ふ語の一変化であつて、「賚賜として」を本来の意味とする語である、賚賜である故に無代価で又功なくて得ることにはなるが「賚賜として」が本来の意味である、即ち神よりの義は「賚賜として」与へらるゝものである、報ではない、報酬でも給料でもない、たゞ賜として子が何かを親より貰ふ如くに貰ふのである、即ち貰ひに行きさへすれば自由に与へらるゝ所のものである、実に絶対の恩恵、何等人の功に依らず、来る者の汲むに任する所の生命の泉な(184)る「神の義」である、但し信仰てふ汲器を持ち来らざる者は此泉より生命の水を汲取るを得ない、故に人々よ忘るゝ勿れ汲器を携へて来ることを、如何に「賚賜として」無料にて与へらるゝ生命の水なりとも、汲器なき者は之を我有とするを得ないのである。
  この「賚賜として」の原語ドーレアンは新約聖書に於て八回ほど用ひられてゐる、そして其多くは「価なしに」と訳してある、かの馬太伝十章八節にある「汝等|価なしに〔付ごま圏点〕受けたれば亦|価なしに〔付ごま圏点〕施すべし」も此語を用ひてゐる、之は賚賜として受ければ亦賚賜として与へよとの意である、其他コリント前書十一章七節、テサロニカ後書三章八節、黙示録二十一章六節、同廿二章十七章等に何れも「価なしに」と訳してある、これ皆「賚賜として」の意である、「願ふ者は価なしに生命の水を飲むべし」とある如き其一例である。「賚賜として」の次には「其の恩恵により」の句がある、「神の恩恵により」の意である、賜物を与ふるにも種々の意味がある、人の世に於て行はるゝ賜物の賦与は、多くは之を受くべき或理由ある場合に限らるゝのである、家臣が或功を立てしため君公より或賜物を与へらるゝ如き、学生が成績の優良なるため賞与に与る如き――此の種の場合が人間世界には多いのである、然るに賜物として与へらるゝ神の義は全く「恩恵として」与へらるゝのである、|神の恩恵〔付○圏点〕これ即ち此の賜物の与へらるる意味である、神は其義を義ならざる者に与へ賜ふ、恩恵として之を与ふるが神の神たる所以である、親は其の子に対するに専ら恩恵を以てす、これ愛の故である、神は罪あるものに対するに専ら恩恵を以てす、これ愛の故である、彼は此親心を以て人に臨み給ふ、ただ恩恵より出でて賜物として義を人に与へ給ふ、その為に人は義ならざるに義とせられて神の前に立つ事が出来る、人は「賚賜として其の恩恵によりて」常に義とせられつゝ行くと、これパウロの強く主張した|全恩恵の福音〔付△圏点〕である。
(185) 二十四節の最後の句は「キリストイエスの贖に依りて」である、人は何故に価なくて唯の恩恵に由りて義とせらるゝかとは当然此際起るべき疑問である、この至大の特権が人に与へらるるは何故か、あまり良過ぎて信ずるに難しと思はるゝ程に之は人の思に過る絶大の恩恵である、此恩恵の根柢如何、之に答ふるが此の一句である、「キリストイエスの贖に依りて」と言ふ、これ人が義ならざるに義とせらるゝ事の根柢である、即ち|キリストの贖あるに依りて人は唯信仰のみを以て常に義とせられつゝ行くのである〔付○圏点〕、キリストの十字架を万民の罪の贖と見るは実に福音主義の根柢として欠くべからざる者である、今や新しき神学が之を旧思想として排しつゝあるにも係らず、贖罪其のものゝ貴重なる実は永へに魂の傷を医やす霊薬として立つのである、神の独子の貴き血が万民の為に流され、其の死が万民の罪を一身に担ひての贖の死であればこそ、罪ある我等も罪なきものとして見られ、義ならざる我等も義なる者と見做さるるのである、さればキリストの贖罪は実に福音の根柢である、これ実にパウロ主義の基調であるのみならず、他の使徒たちも之を信じ且説き、又当時の信者も皆之を信じた、実に贖罪は新約の福音其の者の根柢に横たはる一大事実である、天の高きが如く地の広きが如く此一事は明かである。
 
     第二十講 神の義(四) 三章二十五、六節の研究 (六月十二日)
 
 律法を離れて今神の義は顕はれた、即ちキリストを信ずる者に神は其の義を賜ふ、そは人は皆罪を犯したる故自ら義たる能はざれば、只神の恩恵を受け功なくして(価なくして、賚賜として)義とせらる、これキリストの贖罪に依るのである、――かくパウロは二十四節までに於て説いた、茲に於て一の問題は生起せざるを得ない、何の故に贖罪の必要ありしか、贖罪なくも罪の赦免は可有なる如く思はるゝに、殊更に贖罪てふ手続きを要した(186)る理由如何と、この問題が提出せられしと考へ、そして其答として二十五、六節を見る事が出来る、即ち此両節は贖罪の意味、必要、理由等を説いたものである、換言すれば贖罪の内面的観察である。
 邦訳聖書には此両節を訳して「神は其血によりてイエスを立てて信ずる者の挽回《なだめ》の祭物となし給へり、そは神忍びて既往《すぎこしかた》の罪を寛容《ゆるやか》にし給ひし事に就きて今其義を彰はさん為め、即ちキリストを信ずる者を義とし尚自ら義たらん為めなり」と記してゐる、今之を意訳して左の如くにする事が出来る。
  神はイエスを立てゝ宥めの供物となし給へり(是れ信仰に由りて受けらるべきもの、其血を以て提供せられしものなり)……
   是れ一には神が忍耐の中に既往の罪を見逃し給ひし事につきて其義を彰はさんため、二には今の時に其義を彰はさんためなり。
  是れ神自から義たり、而して同時に亦イエスを信ずる者を義とせんがためなり。
実に此の両節は羅馬書中最重要の句と言ふべきである、詳細は他日に譲り茲には大意を述ぶるに止め度い。
 古来如何程多くの人が此の両節に就て考へた事であらう、古来聖書学者にして此両節について註解を試みた人の数は算へ難い、まして平信徒にして之について幾度か思ひをこらし、或は疑ひ或は信じ、或は喜び或は悲しみし人の数は如何ほど多くあつた事であらう、之れは決して平易な箇所ではない、難かしと言へば慥かにむづかしい、併しながら聖書は万人の霊魂の為に書かれた書である故、又神の教を説き記したものである故、其中の難かしき所と雖も其主眼点は普通の平信徒に解し得られる、ただ主要ならぬ部分には解し難き所あり、種々の解釈ありて孰れを採るべきかを定め難い所がある、しかしそれは如何に定まつても全体の上に差したる影響はない、此(187)両節の如きも此意味に於て其大意は明である、但し之は福音を信ずる者について云ふたのである、信ぜざる者に取つては之は到底不可解の謎である、故に福音を信じない者に之を解き明かすことは到底不可能である、同時に信者にして之を解し得ざるは大なる耻辱である、之を解し得ざる者は信仰の道に於ては乳児である、又はそれ以下である、何となれば此の両節は実に福音の根本を説きしものであるからである。 この両節を見るに説き方は二十四節同様頗る簡潔である、二十四節が十二字より成ることは前講に於て述べたが、更に二十五節を見るに二十三字より成り、二十六節は二十六字より成つてゐる(冠詞を数へなければ此数は尚ほ減ずる)、大真理――福音の真髄――を説述せしものとしては甚だ簡潔である、即ちこれ真理の結晶体を並べただけのものであつて、その個々の結晶体については何等の解説をも加へて居ないのである、即ち之は真理の|提示〔付ごま圏点〕であつて其|説明〔付ごま圏点〕ではない、故に読む者は之に説明を加へて読むより外に道はないのである。
 前説せし通り此両節は廿四節に出でし「贖ひ」の説明である、そして其中先づ明瞭なることは左の三事である。
  一、神はイエスを以て罪人のための挽回の供物となし給ひしこと。
  二、神は今までは寛大であつたが、今は愈よ其義を顕はすに至りしこと。  三、そして右の目的は信ずる者を義とすると共に又神御自身が義たらん為であること。
委細の点は別として此の三つだけは此両節を読みて直ちに了知し得る事である、かく先づ明かな事を先に認めて置くことは全体を理解する上に大に役立つのである。
 次に上掲せし此両節の意訳の大意を述べ度い、この全体を即坐に了得することは多くの人に取つては多分困難であると思ふ、かゝる人は先づ其始と終だけに注意を向けるを便とする、即ち「神はイエスを立てゝ宥めの供物(188)となし給へり」と云ふ最初の句について先づ考へ、次に最後の「是れ神自ら義たり而して同時に亦イエスを信ずる者を義とせんが為なり」の句について考へるのである、この二つの意味が分り、そして其聯絡が分れば其中間の語の意味も略ぼ分つてくるのである。
 「神はイエスを立てゝ宥めの供へ物となし給へり」とは何を意味する語であらうか、「宥め」とは誰が誰を宥めることを意味するのであるか、神が人を宥めることを意味するのでないことは明かである、何となれば之を此世の親子の関係に於て見るとき、子が悪を為して而かも怒りし場合親より子を宥めるといふ事は出来ないからである(甚しく愚かな親でなくては斯かる無思慮の事は決して為さぬ)、神と人との間に隔離が出来たからとて、而もそれは人の罪に根原を置くものであれば、到底神より人を宥めると云ふ事のありうる筈はない。 然らば人より神を宥めるのであるに相違ない、然らば神は宥められて初めて人の罪を赦すものであるか、もし此宥めが無いとすれば神は永久に人を赦し得ないのか、然る時は神を以て愛の神と称し得やうか、宥められて初めて赦す如き神は惨虐なる暴王の如きものではないか、宥めの供物などはなくとも自由に人の罪を赦し、義ならざる人を義とし得てこそ神は愛の神である、然るに宥めを要するとは何故かと疑問は強く起らざるを得ない、さはれ古来多くの優秀なる基智者が主の十字架を「宥めの供物」として見たるは事実である、ルーテル然り、カルビン然り、クロムヱル然り、ミルトン然り、バンヤン然り、その他彼等と所信を等しうせし者は無数である、彼等は一様にキリストの十字架なくば罪の赦免ある筈なしと信じたのである。
 此事について茲に少しく考へてみ度い、子が親に対して罪を犯したる場合に子が謝罪したとて親は直に赦すべきものであらうか、此際親が直ちに、そして易々と赦したならば子は其れに甘へて其後は平気で罪を犯すことに(189)なる、即ち一言謝罪しさへすれば必ず赦さるゝと子が親の心を読むに至る時は、子は平気で罪を犯しそして悔いることなくして唯口先で謝罪することになるであらう、|もし此際親は子の罪のために大なる苦みを受け、此苦みありて後ち初めて赦し得ると云ふことであれば、子は我罪の恐しきを悟りて真の悔改を為し以後は決して罪を犯さじとの決心を起すに相違ない〔付△圏点〕、然らば親は愛のために却て軽々しく子を赦すことは出来ない、子のためを計る親としては子の益々悪に沈むやうな道を取ることは出来ない、子が再び悪に陥らぬやうな道を取るは親としては当然の事である、これ云ふまでもない事である。
 之を国家の事に於て見るも、凡ての犯罪者を唯悔いたと云ふ一事のみで赦したならば如何、彼等は益々安んじて悪をなし、そして其度毎に口先の悔改をして済ますであらう、かくては国家の秩序は失せ悪人横行の世と化すること当然である、茲に殺人者ありしとせよ、彼は犯行の後ち多分悔ゆるであらう、しかし悔いたと云ふ一事のみを以て直ちに此殺人者を赦したならば其結果は如何、主権者の威厳は失せ、国法の権威は落ち、犯罪は全国に充ちて、国を挙げて無秩序の状態に陥るであらう、のみならず斯く易々と赦さるゝ事は犯罪者彼自身にとつて大なる不幸である、かくては到底真の改悛は起らない、そして更に悪を重ぬることに成り易い、茲に是非とも刑罰の必要がある、これ彼の真の改悛のために必要である、否殺人者にして真に改悛したならば其犯せし罪の恐しさに慄へて寧ろ自ら死を願ひ、以て其犯行の申訳をすると共に国法の固く維持せられんことを飽くまで望むこと必定である。
 神は軽々しく罪ある者を赦し得ない、彼もし罪人を無条件にて赦すならば彼の威厳は失せ、彼の公義の権威は落ち、彼の宇宙の秩序は破るゝに至る、即ち神は神ならぬ者となつて了ふのである、神の威厳は是非とも保たれ(190)ねばならぬ、彼の公義の権威は是非とも保たれねばならぬ、彼の宇宙の秩序は是非とも保たれねばならぬ、神は是非とも神でなくてはならぬ、故に「罰」は是非ともなくてはならぬ、公義は是非とも維持せられねばならぬ、公義は厳として立つ、|神と雖も公義を宇宙の外に排逐し去ることは出来ない〔付△圏点〕、|故に公義は神をさへ束縛するのである〔付◎圏点〕、彼は公義を自から立てゝ其公義に縛らるゝのである、恰も一国の主権者が自から憲法を立てゝ此憲法に縛らるゝ如きものである、此公義ある以上神はたゞ罪を赦すことを得ない、罰は当然伴はれねばならぬ、換言すれば神は|義を以て〔付○圏点〕人の罪を赦す外はない、加之軽々しく罪の赦さるゝ事は罪人自身にとつて不幸である、彼は此のために罪を輕視し、安んじて罪を犯すに至り、益々罪の楽みに耽るに至る悪結果を生む、されば神は罪人を唯赦すことは出来ない、これは|神が神たるため、公義維持のため、又罪人自身のため〔付○圏点〕に極て必要なることである。
 神は罪人を赦さんと欲す、併し罰なしには赦し得られない、もし罪人に対して正当なる罰を以て臨まんか人類は誰一人として亡滅の否運を免がるゝを得ない、併し乍ら是れ神の人に対する愛の忍びがたき処である、|義〔付○圏点〕のためには罰せねばならぬ、愛のためには赦し度しと思ふ、滅ぼすべきか生かすべきか、永遠の死か永遠の生か、永遠の否定《ノー》か永遠の肯定《イエス》か、永遠の暗黒か永遠の光明か、永遠の呪詛か永遠の祝福か、永遠の悲哀か永遠の歓喜か、永遠の絶望か永遠の希望か……孰れを選ぶべきか事は頗る至難である、一を選ぶ時は他を棄てねばならぬ、一を棄てゝのみ初めて他を選ぶことが出来る、義を立てんか愛を行はんか、この相納れぬ二つを一に納めることは、恰も火と水とを抱いて両者の共に全きを計る類である、これ人には到底出来ぬことである、然るに「人の為し得ざる所は神の為し得るところ」(ルカ十八の二七)である、神は「その生み給へる独子」を世に遣はし、彼を十字架につけ、彼にありて人類の凡ての罪を永へに処分し、以て人の罪の赦さるゝ道を開き、我等彼を信ずる者(191)は彼にありて罪を罰せられ、彼にありて義とせられ、彼にありて復活し得るに至つたのである、げに人の思ひに過ぐる偉大なる智慧よ! あゝ神の智と識の富は深いかな、彼はこの至難なる難問を其独子の降世と受難とを以て見事に解き給ふたのである、ために義も立ち又愛も行はる、罪は罰せられそして赦さる、人は亡ぼされそして又永へに生くる、人はキリストにありて永遠に亡ぼされ、そしてキリストにありて永遠に生くるのである。
 此事を認めし上に於て上掲の意訳の最後の句なる「是れ神自ら義たり、而して同時に亦イエスを信ずる者を義とせんが為なり」に対する時は其意味は明瞭となる、即ち神はイエスを立てゝ宥めの供物となし給ふた、彼を十字架につけ以て彼にありて人を罰すると共に又人を義とした、即ち彼は自己の義を顕はして人類を罰すると共に、又人類の罪を赦して之を義とする道を開き給ふた、罰すると赦すと、罪に定むると義とすると、二つの事をキリストの十字架を以て同時に行つた、即ち「神自から義たり、同時に又イエスを信ずる者を義とせんが為め」である、自己の義を顕揚すると共に又人を義とするのである、併し何故に「人類全体」と云はずして只「イエスを信ずる者」と限つたのか、勿論原理としては万人が十字架に於て義とせられた、しかし原理は個々の場合に適用せられて初めて其値を生ずる、即ちキリストを信ずる個々の人が事実上義とせらるゝのである、即ち罪を悔いて神に服帰し、主イエスキリストに信従するに至つてのみ人は初めて神に義とせられるのである、信仰に依てのみこの特殊の義――即ち義ならざるに受くる義――を我有とするを得るのである。
 されば主の十字架は天地の隔てを除く唯一の道である、十字架は地に立つて其頂きは天の高きにまで届いて居るのである、十字架あるが故に神は自由に人を赦し、人を義とし得るに至る、そして人は罪の消除のために神より我を隔つるものを除かれて、恐怖を去り、憚らずして恩恵の座に上り得るに至る、即ち神と人との間の隔離は(192)十字架を以て除かれたのである、其ために神と人とは公々然として近づき得るに至つたのである、げに罪は怖しきものである、之れありては神と人とは離れざらんとするも能はない、此罪が消除せられてのみ神と人の間に平和は生れる、そして人は其罪が神の独子の死に値するほど重大なるものなるを知りて以後は罪を犯さゞらんと力むるに至る、恩恵に狎れず却て平和と希望と光明との与ふる歓喜の故に感恩の献物を捧ぐる生涯を送らんとするに至る、げに祝すべきは主の十字架なるかな。
 今や人は往々にして言ふ、神は愛なる故に悔改する者は直ちに赦さる、何等十字架の贖罪を要さないと、併し此種の言は唯尤もらしき理窟であると云ふに止まつて、何等活ける生命の事実に触れぬものである、かゝる浅き理窟を以てせる安心の如きは口舌の遊戯たる類であるに過ぎない、人の罪とは洵に底深きものである、そのためには是非とも贖ひがなくてはならぬ、これ神の公義の求むる所又人類の本能性の要求する所である、キリストの贖罪あるが故に神は自ら義たり得、又同時にキリストを信ずる者を義とし得るのである、「神はイエスを立てゝ宥めの供物となし給へり」と、深いかな貴いかな此事!
 以上の如く二十五、六節の始と終を知る時は其間に挿まれし一観念の意味は自から明かとなるのである、「是れ一には神の忍耐の中に既往の罪を見逃し給ひし事につきて其義を彰はさんため」である、キリスト以前の人類の間にも神の刑罰は或程度まで行はれて居た、併し其罰は其罪に此すればいと軽くあつた、もし神が人類に向つて其罪に相当する罰を以てするならば即坐に全人類の滅亡あるのみであつた、然るに此事なくて罰は軽く恩恵は重くあつた、然るに神を知らざる彼等は神の此寛恕を悟らずして、罪を以て死に当る如き恐るべき者とは思はずして益々之に耽るの有様を呈した、今日人が神の罰なる語を聞くも深く意に留めざるは即ち此の構神と等しきもの(193)である、乍併これ此上なき大謬想である、罪の価は死である、罪ある所死は必ずあるべきである、然らば何故人類は早く既に滅亡せざりしぞ、答へて曰ふ是れ神の寛恕に依ると、即ち「忍耐の中に既往の罪を見逃し給」ふたのである、|そして此寛恕は他の道を以て人類を罰せんとし給ひつゝありしためである〔付△圏点〕、即ち時来るや彼は其独子を人の形を以て降し其十字架の死を以て人類の深罪を処分し給ふたのである、即ち「其義を彰はさんためで」ある。
 また「今の時に其義を彰はさんため」である、愈々時来つてキリストの降世となり其十字架の死となつて茲に神の義が彰はされたのである、故に人は皆唯キリストを信ずる信仰のみに依て義とせられて生くるに至つたのである、かくて義と愛とが共存するを得た、神は十字架の故を以て罰し且赦し、滅し且救ひ得るのである、義の範囲に於て憐みを施すは父なる神の明かなる特徴である。 以上の如く救は専ら神に由り人に由らぬ、信仰に依り行に依らぬ、実に絶大なる恩恵である、故に人には一も誇る所ない、これパウロが二十七節に於て「然らば誇る所安にあるや、有ることなし」と断言し、以下これを敷衍して説きし所以である、行を以て義とせらるゝならば義とせられし人は誇り得よう、併し誰人と雖も行では義とせられず只信仰の故に義を賜ふのであれば人は毫も誇り得ないのである。 〔以上、9・10〕
 
     第廿一講 永世不変の道《ことば》
       彼得前書一章二三−二五節及び以弗所書五章十八節に就いて (九月十八日)
 
 今秋も亦前に引きつゞきて羅馬書の研究をなさんと欲する、第三章は前回を以て研究を終へたことゝし、これ(194)より第四章の研究に入り度いのであるが、今日は先づ今秋の研究開始の序として聖書全体の性質について一言して置き度いのである。
 先づ見るべきは彼得前書一章の二十三節より二十五節までゞある。
  (23)汝等が再び生るゝは(生れしは)朽つべき種に由るにあらず、朽つべからざる種、即ち限りなく保つ神の活ける道《ことば》に由るなり。(24)それ人は既に草の如く其栄は凡ての草の花の如し、草は枯れその花は落つ、(25)されど主の道は限りなく保つなり、汝等に宣伝ふる福音は即ちこの道なり。
 右の中二十四節は旧約聖書よりの引用であつて、人の栄のうつろひ易きを花にたとへて述べたものである、それと比して福音の永久的なるが述べられたのである。
 今夏信濃沓掛の高原に滞在して、草と花とについて強く感ぜられしことは第一にその美である、これ実に高原に休臥せる間の最大の慰めであつた(他にも種々の良き慰めを得たが)、高原地の特徴は第一に空気の清澄である、第二に日光の芳烈である、その結果として彼地にありては草と云ふ草が凡て美はしく、花と云ふ花が悉く佳麗である、特別に良き草と良き花とを求むるに及ばない、平地にありては少しも人の目を牽かぬ普通の草と花とが山地にありては異常の艶美を呈して我等の眼を牽くのである、山荘にありて前の原に眼をやる時、そこに立つ凡ての野生の草と其花とが異常なる美の集団である、杖を曳いて外に出づれば路傍に生へ出でし名もなき雑草が妙《たへ》なる栄《さかへ》と光の羅列である、野にも山にも庭にも路にも我等はかく植生の美に囲まるゝのである、平地にありて平凡なる者が高原にありて斯く佳麗なるは、云ふまでもなく空気の清さと日光の芳《かぐは》しさとに基因するのである。
 神の霊は清き空気である、神の愛は芳しき日光である、之に包まれ之に接しては人の世に於ては如何に劣れる(195)と見ゆる人も美と光とを放つのである、あゝ思ひ出づるは天国の光景である、そこの空気、そこの日光、神の霊と愛と光とを真正面《まとも》に受くる時の人の輝きは如何、高原にあらば美はしかるべき花も平地にありては平凡無味である、これ空気濁り日光悪しきためである 此世は霊的意味に於て空気濁り日光悪しき所である、故に此世にありては天国にては優秀なるべき人も庸劣凡愚と見ゆるのである、げに此世にては或特別の天才者の外は孰れも皆雑草である、あるに甲斐なきものである、併し乍ら天革まりなば如何、新しき天と新しき地と出現しなば如何、その時こそ、其世界に於てこそ雑草の一つ/\が妙なる光を浴びて立つのである、何の見ばえもなかりし者が霊妙の光を以て輝き出づるのである、高原の空気と光とは凡ての雑草の真の値を発揮する、天国の空気と光とは其処に住む凡ての霊魂の真の値を発揮する、されば失望する勿れ、此世に於て栄《はえ》なき者よ! 時一たび来らば汝の平凡は非凡となり、汝は或は真珠として或は金剛石として或は碧玉として燦たる輝光を放つに至るのである、それまでの此世の旅は忍耐である、忍耐を以てする信仰の持続である。
 花を基督者に比して其の天国的価値を思ふと共に、之を此世の実相に比して微笑の禁じ難きものがある、花の栄の如く急速に消長するものはない、或る時は一の花が他の凡てを圧して全盛を誇る、それは正に王の栄であつて他の花はあれども無きが如くである、しかし其期間は長くない、或ものは数日、或ものは一日、そして他の者に代はられるのである、シモツケサウよりメタカラカウ、シシウドよりキキヤウ、マツムシサウよりカルカヤ、ツリフネサウよりススキヘと代り行くのである、かくして各自の全盛期は極て短く甲より乙、乙より丙、丙より丁へと常に移り行くのである、これ此物質世界の常の姿である、此処には何ものも常なるはない、無常が即ち此物質せ界である、全盛期は極て短時日、そして他に代はられるのである、政治界を見よ、文芸界を見よ、謂ゆる(196)思想界を見よ、常に流行の問題があり全盛の人がある、そして短時日にしてそれが他に移りゆく、咋の王は今の奴僕である、今の天才は明の凡愚である、変転万化、常なきことの如何に著しきよ!
 新人の新思想とよ! 然り或時はオイケン、或時はべルグソン、或時はタゴール、或時はラツセル、其著書の売行大なるは世の大なる評判となり、其の新思想出でゝ遂に人類の救ひ成れりと思はるゝ程である、その時旧き福音は何となく光彩を失ひし如く感ぜられる、パウロの唱へ、オーガスチンの立て、ルーテルの改め、 ルトンの堅く信じたる此福音は遂に世を救ふ教にあらざるかとの疑惑が起る、併し乍ら「昨日も今日も永遠《いつまでも》変らざる」ものはキリストの福音であつて、昨日も今日も永遠変りつゝあるものは此世の思想である、見よ新人の忽ち旧人となるを、又新思想の忽ち旧思想となるを、デモクラシーの声は一時世界を覆へす如くであつたが其後労働問題全盛の世となり、今や労働問題も既に下火となりつゝありと伝へらる、恐くは是れまた到底人力を以て解き難き問題として、倦怠のうちに忘れ去らるゝことであらう、此次は宗教問題か、或はさうであらう、よし宗教問題全盛の世となりても勿論これ福音全盛の世となつたのではない、これ此罪の世の謂ゆる宗教問題であつて、決して我等の云ふ所の宗教問題ではない、これ神が人を救ふ所の福音の教とは全く相反するものであつて、人が人を救はんとする愚なる計画の声たるのみである、かく世の思想は常に変転する、そして此の常に変転しつゝ来りし世の思想とは全く別の流をなして、千九百年の間変らずして今に至りしものが即ちキリストの福音である、これ実に歴史の頁に刻みこまれし強き基督教証拠論である、福音の強味は斯く歴史の上に証明せられた、他の凡て変る中にありて常に変らざる福音の価値を千九百年の歳月が立証する、恒に変るは人の教、恒久に変らざるは神の教である。
(197) この事を知りて彼得前書一章二三−二五節を読めば其意味は鮮かに我等の心に入る、肉につける生活は死である、故に再生は是非ともなくてはならぬ、併し再生は新生である、これには適当なる種子を要する、福音は新生を促す所の種子である、しかも「朽つべき種」ではない、「朽つべからざる種」である、即ち「限りなく保つ神の活ける道」である、これ即ち福音である、そして之を文字を以て示せし聖書である、そして人は草の如きもの、その栄は草の花の如きものである、「草は枯れその花は落つ」、人は枯れ其栄は落つる、人と其栄は常に亡び、常に消え、常に移りゆく、たゞ「主の道は限りなく保つ」のである、主の道とは何ぞ、これ宣伝へらるゝ所の福音である、そしてそれを文字にて現はせしは聖書である。
 聖書の研究とは他なし、他の凡て保たざる中にありての此の「限りなく保つ神の活ける語」の研究である、かく限りなく保つ神の語の研究なればこそ、聖書研究には特殊の価値と歓びとが伴ふのである、福音は世の表面《おもて》を動かさずして其下を流れてゆく、活ける泉は何の時代に於ても俗眼の達せぬ所に潜んでゐる、そして世の外面が常に変りつゝある間を、終始一貫して恒久の姿を呈しつゝあるは福音である、げに神の為し給ふ所と人の為す所とには天地の差がある、静なる水を以て徐ろに谷を掘り岩を削り以て地の姿を変へ給ふ神は、静かに福音を此世の奥に潜ませて之を以て徐々として、しかし不断に 永久的に聖図を進め給ふのである、この福音の研究であれば、又此限りなく保つ神の活ける語の研究であれば、我等又静かに、しかし怠らず撓まずして進みゆくべきである。
 然らばこの神の活ける語の研究法如何、この問題に答ふる語として以弗所書五章十八節を見ることが出来る。
  また酒に酔ふこと勿れ、之を為すは放蕩なり、宜しく霊《みたま》に満さるべし
(198)とある、これは聖書が酒を禁じたる所と見られ得る、果して然らば是れ禁酒運動の標語《モツトー》として頗る適切なるを思はしめる、しかし「酒に酔ふこと勿れ宜しく霊に満たさるべし」と|酒〔付○圏点〕と|聖霊〔付○圏点〕とを対照させたのは果して如何であらうか、聖霊は人の魂の内底に加へらるゝものである故、これに相対して「酒に酔ふ勿れ」と云へば実際の酔酒のことに止まらず、すべて外部の刺戟に酔ふ勿れの意であると思はる、即ち人力の工夫を以てする外部的の刺戟に心を奪はるゝ勿れの意であらう、此意味に於て酒に酔ふは「放蕩」であると云ふ、放蕩は今日日本語に於ては放縦汚行を意味する語であるが英語聖書には riot と訳してあり、原語は asotia(アソーチア)であつて、|過度、乱れ〔付ごま圏点〕の意味を有してゐる、外部的の刺戟に酔ふは「乱れ」であると云ふのである。
 此世の事は多くは酒に酔ふこと即ち人力を以てする外部的刺戟に酔ふことである、|殊に此世に入り換り立ち換りて起りて強く世人の注意を牽く処の政治運動、社会運動、思想運動、宗教運動の類は概ねこれ酒に酔ふことである〔付△圏点〕、人間的工夫に訴へ外部的の刺戟を以て元気と熱情とを煽ることであつて、一時遽然として火の如く燃えたてど後ち又遽然として消滅し後は石の如き冷枯と死の如き疲憊《ひはい》あるのみである、これ即ち「放蕩」(過度、乱れ)である、聖書の研究には此の如き外部的刺戟の道は全然棄て去るべきである。
 「酒に酔ふ勿れ……霊に満さるべし」と云ふ、|酒〔付○圏点〕と|聖霊〔付○圏点〕とが対照され又|酔ふ〔付△圏点〕と|満さる〔付△圏点〕とが対照されてゐる、酔ふ勿れ寧ろ満されよである、外部的手段より刺戟を受けて酔はずして魂の中に聖霊を以て|満されよ〔付△圏点〕である、底深く神の霊を貯へ満たして内の底より力を養へよである、恰も清く爽かなる空気の中に我肉体を涵《ひた》して何となく身も心も満たされしを感ずるが如く、聖霊の中に我霊魂を深々と涵して之を以て魂の髄と膏とを養ひ且満たさるゝのである、かくする時は今まで不可解なりし聖書も解し得られ、今まで真と信じ得ざりし奇跡も真と信ぜられ、(199)今まで疑惑を以つて対し来りし福音の根本的教義も、恰も陰欝なる雨期の後に秋空の戞然として霽れわたりしを仰ぐが如くに鮮かに感得せらるゝのである。
 聖霊を受けずして唯学者としてのみ聖書を学ぶは害多くして益少い、聖書を学問的に研究するにも聖霊に充たされずしては真の研究は出来ない、まして信仰的の研究をや、実に聖霊を受けて研究して初めて聖書を解し得るのである、之なくしては万巻の註解書も我等をして聖書を真に味解せしむべく不適当である、但し世にはリバイバルと称して聖霊に酔ふことを以て信仰の主眼とする人がある、併し以弗所書の明示する通り聖霊は魂を満たすべきものであつて、之を以て我を酔はしむべきものではない、聖霊降れりと称して狂喜乱舞あらゆる騒態を演ずるは健全なる道ではない、これ果して真に聖霊に動かされたのであらうか、むしろ是れ酒に酔ひしものではあるまいか、即ち人間の工夫を以てする外部的刺戟の一変態ではあるまいか、聖霊は静かに深く満さるべきものであつて決して浅く騒がしく酔はさるべきものではない、酒に酔ふこと勿れ之をなすは放蕩なり宜しく聖霊に満さるべしである、酔ふことは凡て過度と乱れである、我等は何ものにも何運動にも――よし聖霊と称せらるゝものにさへも――酔つてはならない、宜しく静かに深く聖霊に満たさるべきである、これ聖書の研究について肝要なる注意なると共に、又信仰的生活全体についての誡めとして反覆考察すべき一事である。
 聖書は永久変らざる書である、他《ほか》の書は廃《した》れても聖書丈けは廃らない、然り、他の書は悉く廃りて聖書丈けが残るのである、聖書は我等の学ぶべき唯一の書である。
 
(200)     第二十二講 神の殿
        詩篇百三十三篇、使徒行伝二章一−十三節、
        約翰伝十五章一−八節及び以弗所書四章一−十二節参照 (九月廿五日)
 
 羅馬書の研究を継続して第四章に入る前に当つて尚ほ予備として述べたき一事がある、それは「禅の殿」なる問題についてゞある、之は今夏中に反覆考察せし問題の一であるが、今まで之について誤解し居たることに自ら気が附いたのである、又人々も多く此事について正しき理解をして居らぬことを発見した、哥林多前書三章十六、十七節を見るに左の如く記してある。
  汝等は神の殿《みや》にして神の霊《みたま》なんぢらの中に在《いま》すことを知らざるか、もし人神の殿を毀たば神かれを毀たん、そは神の殿は聖きものなればなり。
茲に「神の殿」なる句が三度用ひられて居る、普通の見方はこれを個々の信者と見るのである、基督者は衷に聖霊を宿するものである故神の宿り給ふ所即ち「神の殿」である、故に「聖きもの」である、されば此の聖き神の殿即ち基督者を毀つ者は必ず神の毀つ所となる、手を以て造れる神殿は是れ決して神の住み給ふ所でない、「至高き神は手にて造れる所に居給はず」(使七の四十八)とある、今や神の霊おの/\の基督者に宿りて各自が一人々々「神の殿」である、此意味に於て我等各々は聖く、貴く、永久的の値あるものである、人よ基督者を毀つ勿れ、基智者よ自らを重んじて汚す勿れと、これパウロの意味であるとなすのが普通である。
 然るに此両節を精読して見ると右の見方の少しく誤れることに気づくのである、そしてそれが僅の誤りの如く(201)であつて実は大なる誤りであることを知るのである、日本語には名詞に単複の区別なきため此点不明であるが、原文聖書又は英訳聖書に依れば「汝等」と云ふ主語は複数であるのに「殿」と云ふ客語は単数である、即ち十六節には ye are a temple of God とあり、十七節の最後には whch temple ye are と記されてゐる、之に依て見れば|汝等の一人々々が各々一の〔付○圏点〕殿《みや》|であると云ふのではなく、汝等凡てゞ一の殿を形造つてゐる〔付○圏点〕と云ふのである、即ち基督者の或一団(此場合に於てはコリントの教会)が聖霊の宿る所であつて、換言すれば一の「神の殿」であると云ふのである、此事を知らざるかとコリントの信者に云ひたるパウロは、今もし我等の間にありとせば我等に対しても同様に斯く云ふであらう、実に汝等は一の神の殿なることを知らざるかである、既に充分に知り居るべき筈の此道理を知らざるかである。
 葡萄樹の枝は其樹を離るれば枯死する、人体の各肢体(目、耳、手、足、指等)は其体を離るれば死滅する、枝たるもの肢体たるものは生きんためには是非とも其本体に繋がり居らねばならぬ、|聖霊は団体の上に降る、兄弟姉妹の集合せる処に神の殿は成り立つ、故に聖霊を受けんためには此の神の殿の一部と成らなくてはならぬ〔付○圏点〕、そして神の殿にありて共に聖霊の滋雨に浴さねばならぬ、神の殿を離れては本体より切り放されし肢体の如く死滅する外はない、是非とも兄弟姉妹と共に一団となりて其中にありて聖霊の雨を浴びねばならぬのである。
 此事を裏書するものとして我等は詩篇百三十三篇を引用し度いのである。
  (1)視よはらから相睦みて共に居るは、いかに善く如何に楽しきかな、
  (2)首《かうべ》に注がれたる貴きあぶら鬚に流れ、アロンの鬚に流れ、その衣の裾にまで流れ滴るが如く (3)またヘルモンの露くだりてシオンの山に流るゝが如し、そはヱホバかしこに福祉《さいはひ》をくだし、限りなき生命を与へ給へり。
(202) 是れ実に簡潔にして優美なる詩として最も代表的のものである、第一節は兄弟姉妹の美しき団居《まどゐ》を述べしものであつて、如何に独立を愛重する者にも此の一節の貴さは充分に感知せられるのである、第二節は我等日本人には少しく奇怪なる形容の如く見ゆるけれども、※[髪の友が參]《さん》々として垂るゝ美はしき鬚を有するシェム人の間にありては如何に良き形容として感ぜられたことであらう、アロンの首《かうべ》に注ぎたる貴き香膏《にほひあぶら》がこの鬚に垂れ下り、それより垂れて衣に及び、更に衣を流れくだりて遂に其裾に及ぶと云ふのである、これ聖霊の降る様を譬へたのである、第三節上半はヘルモン山に流れ注ぐ滝の如き雨が遂に乾けるシオンの山をまで潤ほすの意であつて、これ亦聖霊のくだる有様を描いたのである、アロンは祭司長の就任式に於てモーセより其首に香膏を注がれた、「モーセ……又潅膏《そゝぎあぶら》をアロンの首に注ぎ之に膏をそゝぎて聖別《きよ》めたり」(利未記八の十二)とあり、それよりさきモーセはヱホバより「灌膏をとりて之を彼(アロン)の首に|傾け灌ぐべし〔付△圏点〕」(出誇及記二九の七)と命ぜられてゐる、溢るゝばかり注がれし香油は衣の裾にまで流れ下るのである、北の方ヘルモンは露しげき山である 伝へ聞くスリヤの夜には強雨多く、殊にヘルモン山には豪雨滝の如く降りて雪と共に流れ下ると云ふ、南の方シオンは乾ける地に立つ乾ける山である、その欠く所は露なるが故に望む所も亦露である、あり余るヘルモンの露はシオンの山をまで潤ほすのである、アロンの首に灌がれし膏の如くヘルモン山に降《くだ》りし露の如く、聖霊は流れくだりて会衆の上に止まるのである、されば其処に福祉があり限りなき生命がある、第三節後半「そはヱホバかしこに(其集会の上に)福祉をくだし、限りなき生命をさへ与へ給へり」とあるは之である。
 されば此歌は神の霊あぶらの如く又露の如く上より降りて一団の会衆の上に臨む有様を描いたものである、聖霊は膏である、聖霊は露である、魂の傷を医し魂の渇を潤ほす、その会衆の上に降る有様を実はしく描きたる此(203)の歌は、「神の殿」を歌へる歌として最も優れしものであると云はねばならぬ。
 次に此問題について見るべきは使徒行伝第二章の有名なるべンテコステの記事である。
  (1)べンテコステの日に至りて弟子たち皆心を合せて一処に在りしに (2)俄に天より迅《はげ》しき風の如き響ありて彼等が坐する所の室《いへ》に充てり、(3)焔の如きもの現はれ岐れて彼等各人の上に止まる、(4)茲に於て彼等みな聖霊に満たされ、その聖霊の言はしむるに従ひて異なる諸国《くに/”\》の方言《ことば》を言ひ始めたり。
 茲に代表的なる聖霊降下の叙述がある、この間題について最有名なる此箇処は第三節に於て明記さるゝ如く「焔の如きもの現はれ岐れて彼等各人の上に止まる」と云ふ、即ち聖霊は初から別々に−人々々の上に降つたのではなくして先づ焔の如き一のものとして現はれそれが岐れて各人の上に止まつたのである、「岐れて」は意訳である、改訳聖書に「火の如きもの舌のやうに現はれ」とあるは原意に忠ならんと力めたのであらうが不正確な訳である、「恰も火の分れし舌の如く」とでも訳すべきであらう、即ち一の火がありてそれより幾つかの舌が出でて其一つ/\の舌が各人一人々々の上に止まつたと云ふのである、火は一としてくだる、そして幾つもの舌を出して各人の上に止まる、これ使徒行伝第二章に記さるゝ聖霊降下の姿である。
 聖霊を受くることは基督者として最も大切なる事である、此事なくしては如何に聖書を熟読反覆するも、如何に万巻の註解書を読破するも、如何にグリーク、ヘブライの原語を精究するも心霊上には些の効果がない、否却て心霊を毒するのみである、不消化の知識は今や日本人を苦しめつゝある、知識を山の如く貯へて而かも人生の方向に迷ひつゝある人の如何に多き、殊に聖書の研究に於ては聖霊を伴はざる知識は有害無益である、「人聖霊に感ぜざればイエスを主と謂ふ能はず」(哥前十二の三)とある、我等は聖霊を受けて基督者となり得、又(204)聖霊を受けて信仰生活の維持進展をなし得るのである、聖霊を受くるは信仰的生涯の最必要事である。
 然らば如何にして聖霊を受けんか、これ問題である、密室の熱烈なる祈り、独り山中に分け入りて谷川の調べと鳥の歌に合せて献げらる、静かなる祈り、それも貴くもあり又必要でもある、併し之のみにては聖霊の恩賜に与る事は出来ない、之のみに訴ふるは甚だ不充分である、前にも説明せし通り|神の霊は「神の殿」に下る〔付○圏点〕、集会の上に膏と露と焔とは下る、そして之が会衆の上に岐れて下るのである、過去に於て聖霊は概ね斯くの如くにして降つた、故に今に於ても然り又将来に於ても然るであらう、集会の必要、祈祷会の必要、共に福音を学び共に父に祈るの必要は茲に於てか起るのである、孤立は大なる禍である、聖霊の下賜を妨ぐることである、我等は相つらなり相結びて全体に於て一の「禅の殿」を形造り、此殿の上に一として降る聖霊を各自が分与せらるゝやう努めねばならぬ、それが余輩の長年唱へ来りし無教会主義に背かざるか如何は別の問題である、それが如何であつても聖霊降下の道は過去の事実に訴へて明かである、会衆相結びて一の「神の殿」を造りそして各自が神の霊を受くべきである。
 聖霊は団体の上にくだるを常則とする、その良き例は我等の此の安息日毎の会合である、安息日の十時より此集会が開かるゝや神は我等を憐み給ふて、我等の祈に応じて此処に其霊を降し給ふ、故に一種の言ひがたき霊気が此処に漲ぎる、人々は此堂を動かす一種の霊気を呼吸せんとして斯く多く集ひ来るのである。
 全世界に神のエクレージヤは唯一つある、神は之を殿として其内に宿り給ふ、而して人は何人も此エクレシヤに聯りてのみ聖霊の恩賜に与ることが出来る、其意味に於て「霊は一つ、主一つ、信仰一つ、バプテスマ一つ」である、又其意味に於て旧き教会の唱道に誤りはない、曰く「教会以外に救済あるなし」と、然し乍ら孰れが真(205)の教会なる乎、其れが問題である、而して教会は天国の如くに「此処に見よ彼所に見よ」と言ひて指定し得るものではない、教会は霊的実在者である、故に霊的にのみ其実在を認むる事が出来る、人は聖霊を受けざればイエスを主と称びまつる事が出来ないやうに、聖霊を受けざれば信者又は教会の真偽を判別する事は出来ない、神の霊に由つてのみ神の事を知る事が出来る、俗人にも不信者にも認むる事の出来るやうな其んな教会は今の世には存在し得ないのである、其んな教会を建設しやうと欲ふが故に多くの偽はりの教会が成立して人を偽はり世を欺くのである、目に見ゆる真の教会はキリストが再臨し給ふ時に成立する、其時までは成立しない、然し今は眼には見えないが存在する事は確実である、而して信者は今は眼に見えざる主を仰ぎつゝ眼に見えざるエクレシヤに聯りて其信仰的生活を営むのである、然り眼には見えないが略ぼ知る事が出来る、|真の信者は相会して略ぼ相互に其真の兄弟姉妹なる事を知る〔付○圏点〕、未だ完成されざる此世にありて誤察は免かれ難い、肉に在りて信者と雖も今鏡をもて見る如く見る所|昏然《おぼろ》である、然れど彼の時には面を対《あは》せて相見るのである(コリント前十四章十二)、信者は大衆である、而して一団である、其事は確実《たしか》である、其中に偽信者は居らないとは限らない、稗子《からすむぎ》は麦と共に収穫の世の末まで存在するであらうとの事である、然れども其事あるに係はらず神は此の暗き世の内に彼の選び給へるエクレシヤを有ち給ふ、而して人は之に加はりてのみ神が人に賜ふ最大の恩賜なる聖霊を頂く事が出来る、茲に真正《ほんとう》の聖徒の交際《まじはり》がある、一つの霊の分賜に与るが故に信者は真に兄弟姉妹である。 〔以上、10・10〕
 
(206)     第廿三講 アブラハムの信仰 羅馬書第四章の大意 (十月二日)
 
 羅馬書は第三章までに於て先づ一段落を告げたのである、万人の罪人なること、故に人は到底行を以て神の前に義たり得ぬこと、従つて只神より義を賜はる外に道なきこと、そして神は此義を我等に賜ふて義ならざるに義とする道を拓き給ひしこと、そしてこれはイエスの十字架の贖罪ありしに由ること、されば今われらは唯このキリストを信ずる信仰のみに依て義とせらるゝこと、故に人には何等誇るべきなく凡ての良き事は皆キリストに於てあること――是れ第三章までに於てパウロの説きし所である。
 彼は進んで第四章に於てイスラエルの始祖アブラハムの信仰に就て説述するのである、イスラエルの始祖と今の我等と何の係はりあらんやと云ふて、此章を不用視する者あらばそは大なる誤謬である、その甚だ重要なる箇処なる事は此章を熟読してみて解ることである、我等は充分に此章を重要視すべきである。
 先づ此革の構想を窺ふに略ぼ四段より成つて居ること明かである、第一段は一節より八節までゞある、その説く所はアブラハムが行の故に義とせられたのではなくして信仰の故に義とせられたのである故に、これ純粋なる恩恵であつて幸福の極であると云ふにある、茲にアブラハムの信仰の性質が示されたのである、次の第二段は九節より十二節迄である、その主眼はアブラハムは割礼を受けざる前に義とせられたのである故、彼の信仰の実例は実に全人類に向つての信仰の模範であり、従つて異邦人もユダヤ人も悉く彼を信仰の師父として仰ぐべきであると云ふにある、形を見ずして心を見るパウロの深さが茲に現はれて居るのである、第三段は十三節より十六節までゞある、世界の嗣子《よつぎ》たるは律法に依るアブラハムの子孫に約束せられたことではない、凡てアブラハムの(207)信仰に傚ふ者――即ち霊魂に於ける彼の子孫――に約束せられたことである、換言すればアブラハムの信仰に傚ふ者は即ち世界の嗣子であると、これ第三段の主眼である、そして第四段は十七節以下である、茲にアブラハムの信仰が神の約束を確信する信仰であること、及び我等も亦彼の如く「我主イエスを死より甦へらしゝ神を」真に信ずれば彼と同様に義とせらるゝことが説かれて居る、まづ以上の如き思想を骨格として第四章は成り立つて居るのである。
 羅馬書第四章の意味を充分領得せんためには予め創世記第十一章以下に於てアブラハムの生涯を学ばねばならぬ、まづ父テラと共にカルデヤのウルを出でゝハランに移り住みし事より、ヱホバの命に従つてハランを出でゝカナンに入り、更に南に移り、遂に飢饉に禍せられて沃饒なるエヂプトに移住し、再びカナンに帰り、其処に甥のロトと別れて住み、ヱホバより大なる約束を受け、又イサクを与へられ、そして其イサクを一度献げんとせし等、彼の生涯は波瀾多く興味津々たるものである、そして彼の生涯を学ぶことは単に羅馬書四章の研究に役立つのみではなく、神を信仰する生涯の好模範として基督者に取つて甚だ益多き事である、否たゞに基督教徒に限らない、如何なる人に取つてもアブラハムを知るは頗る有意義のことである、何となれば彼はルーテルやミルトンやウヲシントン等と同様に世界的人物の一人であるからである、彼の如き世界的人物の生涯と信仰と其精神とを探ることは誰人にとつても有価値なことである、現代の人はアブラハムの如き人物を旧しとして顧みず、カント ゲーテ、シルレル等近代の人をのみ知ることを貴んじて居るが、近代の優秀なる人物は多くはアブラハム及び其子等の弟子であることを知らない、そして源泉を忘れて末にのみ汲んでゐる、何故溯つて歴史を太く流れつゝある一大生命の源を究めんとせぬのであるか、怪訝の至りである。
(208) 前述せし通り第四章はアブラハムの信仰に就いて説述せし所である、之に対して今日の人は云ふであらう、我等はパウロより救の道を更に尚ほ聞かんとするのである、イスラエルの祖たるアブラハムに就いて我等何の学ぶ要があらうか(我等は唯キリストと其福音について知れば足る、他は全く我等に係はりなき事であると、併し乍らこれパウロを知らず又アブラハムを知らざる事である、抑もパウロはユダヤ人である、そしてアブラハムは如何なるユダヤ人にとつても肉の始祖であると共に又霊の始祖である、即ち信仰の偉大なる師表である、今までパウロは福音の中心義が信仰の義であつて行の義でないと説き来つた、之に対して彼の同胞は「然らば信仰の師表たるアブラハムの場合に於ても亦然るか」と問ひたゞすに相違ないのである、もしアブラハムの場合も同様であればパウロの所説は完全なる裏書を得たことゝなるが、もし然らざる場合はパウロの所説より力強き支柱が取去らるゝことゝなるのである、之を一言にして云へば、|ユダヤ人たるパウロとしてはアブラハムの支持なくして此大真理を強く主張することは不可能であつたのである〔付ごま圏点〕、これ彼が第四章全体をアブラハムの信仰を説くに用ひた理由である。
 曾て説きし如くパウロは偉大なる進歩家であつたと共に亦偉大なる保守家であつた、革進と守旧とは彼の表裏となつてゐた、そして此方面を一身に具有するものが即ち健全なる人である、孰れか一に偏するは慥かに不健全の徴候である、根なき所に花はないと等しく過去なき処に現在未来はない、過去の或る確実なるものに根柢を置くは真理の特徴である、パウロの説く福音がアブラハム及び多くのイスラエルの優秀なる予言者や詩人の善き信仰と思想とに根柢を有して、初めて健全であり、確実であり、且真に革命的なのである、人類過去の経験を裏書として有つは真理の真理たる所以である、福音は此意味に於て他の凡ての宗教や思想や信仰に打ち勝つのである、(209)之を我等日本民族だけに於て見るも、福音もし果して神の真理ならば我民族の過去に於て抱有せし凡ての良き信仰、良き思想、良き精神を充たすものでなくてはならぬ、即ち後者が前者の裏書たらねばならぬのである、そして我等は其事を然りと断定するものである、実に我等の祖先の抱きたる最も貴きものは更に醇化せる姿に於て福音の中に見出さるゝのである、革進は即ち守旧、進歩は即ち保守、パウロは旧き古きアブラハムの歴史に於て……時の流を隔つること幾千年なる悠遠の過去の中に……新時代を導くべき神の福音の好証明を見たのである、げに最も旧くして最も新しきは神の真理である、これ永遠性をその特徴とせるがためである。 先づ第一段たる一節−八節を見るに前述せし通り之はアブラハムの信仰の特質を述べし所である、第一節は「さらば肉体につける我等の先祖アブラハムは何の得し所ありと言はん」と改むべきである、肉についてのユダヤ人の始祖たるアブラハムの場合は如何と先づ第四章の問題が茲に提起されたのである(此問題をパウロが提起せし理由は既に述べた)、そして云ふ、アブラハムは行に由て義とせられず信仰に由て義とせられたのである、故に恩恵である、故に幸福であると。
  (2)もしアブラハム行に由りて義とせられたらんには誇るべき所あり、されど神の前には有ることなし、(3)そは聖書に何と云へるかアブラハム神を信ず其信仰を義とせられたり(と)、(4)工《はたらき》を作す者の価は恩《めぐみ》と云はず受くべきもの也、(5)されど工なき者も不義なる者を義とする禅を信じて其信仰を義とせられたり。
之に依つてアブラハムが行を義とせられたのでなく信仰を義とせられたのであるとのパウロの主張を知るのである、創世記十五章六節に云ふ「アブラハム、ヱホバを信ず、ヱホバ之を彼の義と為し給へり」と、これをパウロは第三節に引用したのである、両者を比較して字句に多少の相違はあるが、之はパウロが旧約聖書のギリシヤ訳(210)より引用したからの事で其意味は孰れも同様である、即ちアブラハムは神より其信仰を義と|数へられた〔付△圏点〕のである、別の語にて云へば神はアブラハムの信仰を義と|数へ給ふた〔付△圏点〕と云ふのである。
 若し普通道徳に循つて云へば善行(行の義、功工《いさをしはたらき》)あつて即ち義がある、故に人は善行に由て義とせられるのである、しかしアブラハムは行よりも寧ろ信仰に由て義とせられた、即ち其信仰を其義として数へられ、認められたと云ふのである、数へられたと云ふのは甲を乙として数へられたと云ふのであつて他の物を以て其物に代へた意味である、数へたと云ふのは恰も帳簿に記入したと云ふことに当るので、例へば人と人との関係に於て甲を受取るべき場合に乙を受け取つて、之を甲を受けたことゝして帳簿に記入したと云ふやうな意味になるのである、アブラハムの場合に於ては行のことは別としてヱホバが彼の「信仰」を其の帳簿に「義」として記入したと云ふのである、故にこれ恩恵である、もし行を以てしたならば当然ヱホバより其報として義とせらるゝのであるが、信仰を義と数へられたと云ふのである故一切は恩恵となるのである。
 かくアブラハムは信仰を義と数へられた、然らば斯く義と数へられし彼の信仰の性質は如何、これ当然起るべき問題である、信仰と云へば之を単なる「熱信」と思ふ人が多い、忠実に集会に出席する人を見て熱心の信者であると評するは人の常である、併しそれは唯礼拝に出席することが熱心であると云ふだけのことで、果して其人が真の信仰を持つてゐるか如何は分らないのである、世には日常の実際生活は全く別にして、即ち自己の生活の上に少しもキリストの精神を持ち来らずして、全く不信者と同様または其以下の低卑なる生活を為しつゝ、たゞ集会に熱心に出席するだけを以て信仰と考へ、この信仰だにあらば義とせらるゝと考ふる人がある、此種の人は宗教とは唯安息日に崇厳なる儀式を営む事及びそれに出席する事であると考へてゐる、従つて安息日以外に於て(211)は不信者と全く同様なる精神を以て同様なる生活を送るのである、これ詩人ホイッチャの謂ゆる「一週日の中一日だけを神に、他の六日を財神《マンモン》に献げる」ものである、これ信仰なるものを全然誤解したものである、又信仰を以て或る一列の教義を知識的に了得する事であると考へ、正統派の信仰を抱くを以て誇とし、此信仰を以て義とせらると考へる人がある、此種の人はこの知的確信に於ては頗る強固であつて、他の信仰を異端として排するに頗る熱心である、従つて宗派心が頗る強烈である、しかし人を義とする信仰は決して此種の信仰ではない、知的確信は決して人を義とする信仰ではないのである。
 アブラハムの信仰は決して右の如き信仰ではなかつた、「|アブラハム神を信ず其信仰を義とせられたり〔ゴシック〕」と云ふ、アブラハム神を信ずと語は極めて簡単である、しかし深き又強き語である、|神を信ずとは神自身を信ずることである〔付○圏点〕。神に関する或事を信ずることではない、全然神に信頼することであつて、其他の或者または或事を信ずることではない、親子の関係、師弟の関係、友人の関係等に於て最も理想的なのは相互の全き信頼に立つものである、互に信ずると云ふ所に至つて其関係は真に理想的となるのである、アブラハムが神を信じたと云ふのは全然神を信頼したのである、少しの疑もなく又呟きもなく全く神を信じて一切を任せ奉つたのである、アブラハムは此意味に於て神を信じて其信仰を義とせられたのである。
 アブラハムの信仰が此種の信仰であつた事は彼の生涯が証明する、ハランを出でよと云へば命これ従ひ、エヂプトを出でよと云へば命これ従ひ、独子イサクを献げよと云へば又命これ従ふ、何の躊躇も何の疑もない、そこに面倒があつても、不都合があつても、或は又人情としての悲痛哀苦があつても、それに頓着することなくして神の命に直ちに従ふ、これ真に神自身を信じて居たからの事である、神に信頼し神御自身を信ずる事これ即ち信(212)仰である、此信仰ありし故にアブラハムはそれを義と数へられたのである。
 信仰は|信じ仰ぐ〔付○圏点〕ことであると云ひて上のみを仰ぎて自己の状態を省みないのは危険である、|信仰とは神を信ずることである〔付△圏点〕、故に神の命のまゝに動くことである、信仰の生涯とは神御自身を信じ奉りて聖意に徒つて世を送る生涯である、黄金が万能と思はれつゝある今の時代に住める我等が、同じく此悪精神を抱きつゝありては、如何に神を信ずと思ひ居るも此種の信仰に由ては義とせられないのである、かゝる時代の悪精神を振りすてゝ神の意に従はんとする信仰でなくては義とせられない、又国際戦争の悪にして避くべきものであることは今や誰人も感知せる所である、そして平和の招来を促すものは実に軍備の撤廃である、各国の会議を開きて軍備の縮小を議するも、戦争廃止の実現せられざるは勿論軍備の縮小それ自身すら到底実現せらるべくもない、実に平和は会議に由て来らず信仰に由て来る、神を信じて全く任せ奉らば軍備縮小の如きは即坐に実行し得らるゝ筈である、世界の各国が絶対的平和を願ひつゝ而かもその実現の不可能なるは是れ神を信ずる信仰が――殊に基督教国と自称する国に於て――充分に無いからである、其他個人の事に於ても、信仰ありと称し乍ら明白に悪しき所の職業を棄て得ざるが如きもこれ亦真に神を信じないからである、労めず紡がざる野の鳥をも養ひ給ふ神はいかで彼を信ずる一人を餓死せしめよう、真に神を信ぜばその御|保護《まもり》に信頼して、悪しき職業の如きは直ちに棄て得る筈である。
 以上の如きが碑を信ずる信仰である、之が義とせらるゝ信仰である、アブラハムは此点に於て信仰の師表である、我等また宜しく彼に傚ふべきである。
 第二段(九節−十二節)の主意は初めに述べた通りであるが、之は割礼問題に触れし所なる故ユダヤ人ならぬ我(213)等に係はりなしと云ふは誤つてゐる、之を|洗礼〔付○圏点〕と見て我等に充てはめて考ふべきである、アブラハムは割礼を受けし後ち義とせられたのではない、その前に義とせられたのである、同様に我等は洗礼を受けたからとて義とせられるのではない、義とせられし故に其印として洗礼を――もし受くべきものならば――受くるのである、英国々教会の如きは洗礼の儀式それ自身に大なる功徳ありとし、之を受けて人は初て義とせられ又聖霊を受くと主張す、これ形式に大なる値を置く事であつて、霊的なるべき所を形式に堕したのである、|信仰は信仰である〔付△圏点〕、神と其独子キリストを信ずる事である、この信仰あれば聖書の明示せる如く義とせられるのである、洗礼は形式の事であれば之に伴ふも可、伴はざるも可である、ミルトン、クロムヱル、ヂョーヂ・フヲックス等の信仰は実に此種の信仰であつたのである。
 第三段(十三−十六節)の主意も初めに述べて置いた、凡てアブラハムの信仰に傚ふ者は世界の嗣子とせらるゝと云ふのである、彼の肉の子孫はたゞカナンの地を与へられたのみである、しかし彼の霊の子孫――彼の信仰を学ぶ者――は世界万物を与へらるべしと云ふ、「万物は汝等のものなり……或は世界、或は生(ある者)、或は死(せる者)、或は今のもの、或は後のもの、是れ皆汝等の属なり」(哥前三の二一)とある、世界万物の嗣子たるは信仰に由て義とせられし者の特権であると云ふのである。
 第四段(十七−二十五節)は第一段に似てアブラハムの信仰の性質を説いたものである、彼は「死せし者を生かし無き者を有りし如く称ふる神」を信じ、汝の子孫は天の星の如くなるべしとの神の約束ありし故に「望むべくもあらぬ時に尚ほ望みて多くの国人の父と為らんことを信」じた、イサクを献げよとの命に接しても「神は死より之を復活《いきかへ》し得ると」(ヘブル十一の十九)思ひて遅疑する所なかつた、無より有を起し死を変へて生となす神を(214)彼は信じた、此信仰が義とせられたのである、「神はその約束し給ふ所を必ず為し得べしと心に定む、是故に其信仰義とせられたり」とある。
 我等も亦彼の如く「死にし者を活かし無き者を有りし如く称ふる神」を信ずべきである、此神を信じて死を思はず生を思ひ、無を思はず有を思はねばならぬ、愛する者の死に会して直ちに其復活の朝を思ひ、キリスト甦りし如く彼に在る者も亦甦るべしと信ぜねばならぬ、|げに死を否定して生を肯定する所に基督者の特徴が存する〔付○圏点〕、アブラハムの此信仰、それに我等も傚はねばならぬ、そして信ずる者に復活の恩恵を賜ふ神を堅く信ぜねばならぬ、「我等もし我主イエスを死より甦へらしゝ神を信ぜば同じく義とせらるゝ事を得べし」と云ふ、イエスを復活せしめし神、イエスに在る者をいつかは復活せしめ給ふ神、その神を信じて死を以て死とせず限りなき生命の門戸と思ふ者、永生の中に死を忘るゝ者、かゝる人は此信仰の故に義とせらるゝのである。
 
     第廿四講 義とせらるゝ事の結果(一) 第五章の研究 (十月九日)
 
 羅馬書は第三章までに於て信仰に由て義とせらるゝと云ふ救拯の根柢的真理を説き、第四章に入つては信仰の模範アブラハムを此真理の証明者として挙げた、先づ説き次に証明を掲げて茲に此教理は確立した、かくて人が信仰に由て義とせらるゝ事は既に明々白々となつた、茲に於てか、|義とせらるゝ事の結果如何を記すべき順序となつた〔付○圏点〕、これ第五章以下である。
 第五章の一節に曰ふ「この故に我等信仰に由りて義とせられたれば神と和ぐことを得たり、こは我主イエスキリストに頼《よ》りてなり」と、これは既説全部の反覆と見るべきものである、我等は信仰に由りて義とせられた、既(215)に罪を赦され義人として神に受け容れらるゝに至つたのであれば是れ即ち神と和ぐ事を得たのである、そして此事たる全く「我主イエスキリストに頼りて」である、彼と其十字架の犠牲に頼りてゞある、パウロは第四章までに於て此事を精細に説いたのである、然らば何故彼は斯く精細に之を説いたのであるか、そは之が実に信仰生活の基礎であり又救拯の根柢であるからである、凡そ根元的真理は先づ精細に説かるべきものである、恰も生物学を説くに当つては先づ組織の単元たる細胞(cell)の事を詳説するが如くである 一度細胞の性質構造等が明白になれば余は自然に理解し得らるゝのである、故にパウロは第四章までに於て信仰の義を力説し詳説したのである、そは此事が一度信受さるれば他の事は比較的たやすく領得せられ、もし此事が信受されぬ時は他の事は到底領得し得ないからである。
 さればパウロは第五章に入つて先づ既説せし所を一言の下に要約し、そして第二節よりは愈よ他の問題に移り行かんとするのである、他の問題とは他なし|義とせられし事の結果たる信仰生活の特徴である〔付○圏点〕、我等は前に三章二十一−二十六節を研究した、そしてそれまで万民を罪人として道義の法廷に弾劾し続けねばならなかつたパウロが、云はんとして怺へ来つた赦罪の福音を茲に堰を除かれし大水の如く灌《そゝ》ぎ出したことを見た、五章二節以下また之に酷似してゐる、パウロは早く信仰生活に加へらるゝ恩恵を語らんと願ひしも、その前提として「信仰に由て義とせらるゝ事」を是非とも説かねばならなかつた、且これが単純ではあるが容易くは信受し難き教義であるため、アブラハムの故事までも引用して充分に此一義を説明せねばならなかつた、恩恵の大水は避け難き且必要なる堰を以て暫し止められてゐた、今やいよ/\此の堰を撤開すべき時が来つた、恩恵の大水は滔々として奔流し来らんとする、これ第五章二節以下である。
(216) 第二節には「亦われら彼(キリスト)により信仰によりて今居る所の恩恵に入ることを得、且神の栄《さかへ》を望みて欣喜《よろこび》をなす」とある、キリストにより信仰によりて来るものの中第一は「恩恵」である、第二は「神の栄を望みて欣喜をなす」事即ち希望の喜びである、これを第一節と合せ考ふれば第一、義とせられて神と和ぐ事、第二、恩恵に入る事、第三、希望の喜びを受くる事となるのである、此三段の順序に我等は注意すべきである。
 罪を赦され義とせらるゝや恩恵に入らざるを得ない、恰も親に背きつゝありし子が親に赦されて其許に帰るや、親は長く抑へ居りし愛を一時に注ぎ、子は其加へらるゝ恩恵の思ひの外大なるに驚くが如き類である、げに信仰によりて義とせられし結果として受くる恩恵は駕くべきものである、其事はこの恩恵を受けつゝある其人自身が誰人よりもよく知つてゐる、罪の苦悶は拭ふが如く失せ、心には云ひ知らぬ平和来り、天国を偲びて現世の患難に堪へ、天よりの生命を受けて確信を以て働く、父は我祈に応じて可しと云ひ給ふが如く、我は全世界の凡ての良き人と天使と万物と相融合するの境に入りしを感じ、万物の悉く我有なるを(コリント前書三の二一)思ふに至る、まことに測り知られぬ恩恵である。
 義とせられて恩恵を受くる状態に入りし人は「神の栄を望みて欣喜をなす」に至る、神の栄を望むとは何を意味するか、神が栄を本具し給へる事は云ふまでもない、この栄を望むと云ふのは此栄に与らんことを望む意であるに相違ない、神の本具し給ふ所の其栄の輝きを己も亦浴びんとの望である、「愛する者よ我等いま神の子たり、後ち如何未だ露はれず、その現はれん時は必ず神に肖んことを知る」(ヨハネ壱書三の二)とある所の希望である、人が神とならんとするのではない、神に肖た者に化せられんとするのである、一言にして云へば完成栄化の希望である、この大希望を胸に抱いて歓び躍るは、神に義とせられて恩恵の領域に入りし者の受くる大なる特権である。
(217) 義とせらるゝや恩恵を受け、更にまた栄化の大希望を与へられて喜び躍る、これ一に主イエスキリストを信ぜしと云ふ一事に由るのである、彼の十字架あるがために唯信仰のみを以て此大なる特権と歓喜を我ものとするに至る、単なる信仰のみの故に――何等功を立つる事なくして――罪人の上にかく恩恵を与へ給ふ神の愛の大なるかな! 「われら神を愛するにあらず、神我等を愛し、我らの罪のために其子を遣はして挽回の祭物とせり、これ即ち愛なり」(ヨハネ壱書三の十)とある通りである。
 義とせられて恩恵を受け希望を与へらるゝ事、この事を三節以下が細説するのである、即ち第一節は既説の要約であるが同時にまた一、二節を合せて第三節以下の大意掲出と見ることが出来る、先づ述べんとする事の主意を簡単に掲げて然る後ちその細説に入るはパウロの文章の特徴である。
 第一節、第二節の如き言をパウロが其聴衆に向つて発せしと仮定してみよう(之は事実上あつたことであらう)、或人々は勿論感服したであらう、しかし中には無遠慮に彼に向つて言ふた人もあつたであらう、「パウロよ、汝の言甚だ可し、併し汝の現状は如何、世に何等の財もなく僅に労働を以て口を糊し、敵は教会の内外に雲の如く多く、国人よりは異端者として斥けられて孤独窮乏の中にある惨状を如何、汝の所言と実際とあまりに相違せるものあるではないか」と、併し乍ら斯る批難は彼の今立てる堅塁を覆へさんには余りに無力であつた、パウロは揚々たる意気を以て直に之に酬ゆる所あつたであらう、即ち三節−五節がそれである。
  (3)たゞ之のみならず患難にも欣喜をなせり、そは患難は忍耐を生じ、(4)忍耐は練達を生じ、練達は希望を生じ、(5)希望は羞を来らせざるを知る、こは我等に賜ふ所の聖霊によりて神の愛われらの心に灌げばなり。
義とせられて恩恵を受け、希望に溢れて喜ぷ、たゞ之のみに止まらない、患難にあつても亦欣喜をなすと云ふ、(218)患難の原語は thlipsis(スリプシス)である、聖書に於ては主として|信仰の故に受くる所の迫害、犠牲、苦難、痛苦〔付△圏点〕を意味する語である、必しも謂ゆる迫害のみを指さず 凡そ信仰の故に受くる一切の不利益、損失、誤解及び払はねばならぬ犠牲等を総括して「患難」と云ふのである、即ち|基督者に臨む特殊の患難〔付△圏点〕を云ふたのである。
 三節後半、四節、及び五節は患難にも欣喜をなす所の理由提示である、まづ「そは患難は忍耐を生じ」とある、忍耐と云へば我国の用法に於ては唯或る事を耐へ忍んでゐるのを意味し、専ら消極的のものであるやうに見える、漢字の原意如何は別として、とにかく之れを消極的に|怺へてゐる事〔付ごま圏点〕と見るが普通の見方である、然るに原語 hupomone(ヒュポモネー)は消極的に怺へて居る事を意味する語ではない、積極的に堅く立ち強く進む事を意味する語である、堅忍 剛毅、不屈、不撓等の意味を包含する語である、迫害の中にありて信仰を維持するのみならず毫も屈する所なくして進んで神の道を行ふ進取邁進を云ふのである、パウロとシラスがピリピにて町を擾す者として執へられ、はげしく杖《むちう》たれ「奥の獄《ひとや》に入れて桎《あしかせ》をかけ」られたるにも係らず、勇気益々身に満ちて夜半頃「祈祷をなし且神を讃美」し、遂に獄吏をして其前に俯伏《ひれふ》すに至らしめしが如き寔に好きヒュポモネーの一例である。
 「忍耐は練達を生じ」とある、忍耐が患難の生む所である如く練達は忍耐の生む所である、然らば練達の意味如何、英語聖書には experience(実験)とあり其改訳聖書には probation(立証)とある、原語は dokime(ドキメー)にして元来実験に由て得たる証明を意味する語であり、従つて斯く証明せられし状態を云ふにも用ひられる、これ忍耐の結果として福音の価値が益々実証せられて我心に一種犯しがたき信仰的確信の起りたる状態を指すのである、忍耐の結果として心に起りたる此確信は山の如く不抜である、これ実に忍耐持続の中に得たる実験の産物(219)である、故に世の学者がその学術的研究を以て福音に反対し又は福音に批評的研究を加ふるとも、元来信仰上の確信は斯かる学術的研究と何等の関係なきものであれば、彼等の言説を心に留めずして、余はキリストと其福音を確信すとの境地を他の侵犯を許さずして心に保つのである、信仰のために受くる多くの患難にありて忍耐を持続する時この確信が生れる、故に英人は|練達〔付ごま圏点〕の域に達する 百戦を経し老兵《ヴエテラン》の域に達する、即ち不動の域に達する、これ即ち練達である、旧き者の表面を塗りかへて此世が絶えず提供する所の、謂ゆる新思想、新運動の類――かゝる者に信仰の境地を犯されて動揺常なき者の如きは未だ信仰上の練達に至らざる者である。
 「練達は希望を生じ」とある、練達の境に入つて我に確固たる希望が具はるのである、堅信、練達、確信益々増し進むや神の栄を望むの希望は殆ど我身我心の如く我存在の一部となるに至る、患難の中に忍耐を以て神の道に歩むや忍耐は練達を生み、そして練達は希望を生む、この希望、永生の希望、栄化の希望、これこそ基督者の至宝である、そしてこれ実に患難の産物である、患難が忍耐を生み忍耐が練達を生み練達が希望を生むだのである、故に「患難にも欣喜をなす」のである。
 一、二節及び三、四節の相平行せることに我等は注意する、前者は義とせられ恩恵に入り|希望を与へられて喜ぶ〔付○圏点〕と説き、後者は患難は忍耐を忍耐は練達を練達は|希望を生むが故に喜ぶ〔付○圏点〕と云ふ、甲は純信仰の生み起す希望の喜び、乙は実生活の生み起す希望の喜びである、かく両方面より希望の喜びが説かれたのである、二節に於て「欣喜をなす」と言ひ三節に於て「欣喜をなせり」と言ひし原語は共に kauchomai(コーホオマイ)である、之は英語の rejoice(欣ぶ)boast(誇る)glory(栄とする)等を意味する語であつて、|勝ち得てあまりある所の其勝利を喜ぶ〔付○圏点〕といふ意である、「我は福音を耻とせず」と云ひしパウロの心境、「此ほか別に救ある事なし」と叫びしべテ(220)ロの確信、これ即ちコーホオマイである、信仰の道を堂々と濶歩して自信充ち勇気溢るゝ充足の感である、欣喜をなすと云ふも単なる欣喜ではない、勝ち誇る喜びを云ふのである、パウロが如何に豊かに此喜びを抱いて居たかは、彼の全文書と全生涯との立証する所である。
 一節より四節までを反覆熟読せよ、信仰生活の特徴は遺憾なく此数語の中に示されてゐるではないか、之を霊的領得の上より見れば神と和ぎ恩恵に入り妙なる希望を与へられて勝ち喜ぶ心境であり、之を実際生活の上より見れば患難にありても其生む所が忍耐、練達、希望なるが故に勝利の光栄に酔ふ生涯である、これ即ち「四方より患難を受くれども窮せず、詮方尽くれども望を失はず、迫害らるれども棄てられず跌倒《たふさ》るれども亡び」ざる生涯である、退転せず委靡せず進んで已まざる生涯である、積極的、進取的にして光明と生命とを具有する生涯である、平和温良無害の人となるが決して信仰の目的ではない、生命と力を以て進撃する生活が真の信仰生活である、併し乍ら注意すべきは是れ自力を以て努力奮進して然るにあらず、主として救主の十字架より流れ出づる所の生命の源に汲んで然るのである、我本具の生命に依るにあらず専ら彼の大生命に浴して然るのである、信仰生活は謂ゆる努力の生活ではない、十字架の故に罪の赦免に浴し義ならざるに義とせるゝに至りし大恩恵に接し、感謝心に満ちて自から力ある歩みを惹き起す生活である、源あつての末である、原因あつての結果である、これ忘るべからざる事である、その故にこそ感謝は益々大となるのである。
 
     第廿五講 義とせらるゝ事の結果(二) 第五章の研究続き (十月十六日)
 
 羅馬書第五章の一節−五節は或意味に於て崇高なる詩といふべき箇処である、もとよりパウロが専門の詩人で(221)あるからではない、凡そ偉大なる信仰の士は宗教家にして哲学者にして且詩人であるからのことである、前講に於て我等は第四節までを窺つたのであるが、実は三節−五節が一の成文《センテンス》を為してゐるのである故、茲に為す所の第五節の研究は前講を補足するものとなるのである。
 まづ五節の初には「希望は羞を来らせざるを知る」とある、こは此希望が必ず実現せらるべくして決して空望に終らぬことを意味するのである、此世の事に於て人々は種々の希望を抱くを常とする、併し乍ら其希望の多くは実現せられずして其人々は終に羞を抱くに至るのである、恰も砂漠の渓川を望み慕ひしテマの隊客《くみたび》、シバの旅客《たびびと》が其枯渇せるに会して「彼等これを望みしによりて愧耻を取り彼処に至りてその面を赧くす」る類である(ヨブ記第六章)、しかし乍ら基督者が迫害を経て練達し、練達のために生れし希望は決して空しく終るものではない、かの時に至つて必ず実現成就せらるべきものである、此事は基督者が自から能く知つてゐるのである。
 然らば問ふ、この希望が空望として終らぬ証拠は何処にあるか、答へて云ふ「こは我等に賜ふ所の聖霊に由りて神の愛われらの心に灌げばなり」(五節後半)と、今これを原意のまゝに充分に且つ正確に訳出せんとせば左の如くに改訳すべきものである。
  こは我等に|賜はりたる〔付△圏点〕聖霊に由りて神の愛われらの心に|灌がれて残れば〔付△圏点〕なり。
 「我等に賜はりたる聖霊」である、聖霊を賜はりたる事は基督者にとりて過去のことである(勿論現在を除外しないけれども)、そして此聖霊に由て神の愛が心に灌がれて今残つてゐるのである、そして此事が実にかの希望の羞を来らせざる事の証左たるのである、凡そ希望なるものは其本性上将来に係はることである故、愈よ其時が来らなくては此希望実現の成否を完全に知ることは出来ない、しかし乍ら神の栄を望む希望の確実なる事は、(222)基督者の霊魂の上に実得せられし過去現在の心的経験が優に之を実証してゐるのである、聖霊我に降りて神の愛大水の如く沛然として我心に灌がれ、其愛が今も止まれることは我心の活ける実験として固より疑ひ得ぬ事実である、此事実を一方に抱きながら与へられし希望の空無として終らんことを他方に思ふことは不可能それ自身である、愛をゆたかに我に注ぎ給へる神が空しき希望を与へて我等に羞を取らしめ給ふことのあるべき筈がない、神の愛は我等をして彼を信ぜしめる、彼を信ずれば彼の与へし希望の必ず実現さるべきをも信ぜねばならぬのである。
 パウロを嘲る者は彼に向つて云ふたであらう、汝は歓喜と希望に充ちてゐる、これ大に可し、されど汝の窮乏孤独の実状を如何、汝は希望に生くと広言して憚らないが、抑も希望なるものは其時にならずしては成否のわからぬものである故、汝の希望も亦遂に世に数多あるそれの如く空無として了るものではあるまいかと、しかしパウロは之等の言を一蹴し去るが如くに、神の愛ゆたかに我に灌がれし故我は与へられし希望の必ず実現さるべきを信ずと答へるのである、簡単なれど力強き、意味の頗る深き、多年の実験を圧搾したる貴き言であると云はねばならぬ。
 此意味に於て信仰は純主観的のものである、賜はりし所の聖霊によりて神の愛そゝがれて今も残ることを心に於て実験するのである、この実験ある上は遂に完全に救はれて栄化の域に達すべき事を疑はんとするも疑ひ得ないのである、かく自己の確信であり、実験であり、純主観のことであるが故に他よりの批評、攻撃、嘲罵の如きは我に於て何等問題とならない、恰かも岩に向つて放たれし矢の如く矢はたゞ撥ねかへる外ないのである、又基教二千年の歴史に於て、信仰上の迫害が毫も信徒の信仰を擾すことなくして却て益々熱心を煽りし如き固より(223)然かあるべき事である。
 神に救はれし証拠は何であるか、或人は事業の成功であると云ひ、自己の致富栄達を以て救はれし証拠となす人がある、信仰の結果として勤勉を生み為に致富栄達に至る人がないとは云へぬ、併し乍ら詐偽と詭譎とを以て致富栄達に至る人もある、或は又幸運が成功をもたらす事もある、故に救はれし証拠を此世の成功に置くは大体に於て誤つでゐる、又健廉を以て救はれし証拠となす人もある、信仰は健康の源たる心の平和を生むものである故救はれし証拠である場合もないではない、併し乍ら世には無信仰であつても天賦の強健なる肉体に溢るゝばかりの健康を盛つてゐる人もある、又神に救はれし者にても病弱を免かれぬ場合もある、故に健康を以て救はれし証拠と見ることは不正確である、その他概ね此類である。
 神に救はれし者は此救の完成さるべき希望を抱く、即ち栄化完成の希望である、然らば救はれし証拠又救の完成の希望の確実なる事を証する証拠は何であるか、これ成功にあらず健康にあらず其他一切の外部的徴証にあらず、心中深く抱かるゝ所の|聖霊に由る神愛の実感である〔付○圏点〕、我等に賜はりし所の聖霊に由り神の愛ゆたかに注がれて今残ることを如実に味ひたること、此実験が最確実なる希望の証拠である、救はれしことの証拠であると共に救の完成せらるべき事の証拠である、即ち希望の確実性を証するものである。
 そして此貴き実験は患難即ち迫害を経て来るものである、迫害は忍耐−練達−希望の母であると共に又神愛感得の実験を生み起す所のものである、茲に於てか患難迫害の基督者に取りて益々歓迎すべきものたることを知るのである、そして迫害と云へば昔ありし謂ゆる迫害の類に限らず信仰のために受くる一切の不利益、苦痛損害、犠牲を指すのである、此種の迫害は今も頗る多い、否信仰の在るところ必ず此迫害が伴ふのである、併し乍ら(224)迫害の結果として希望生ずると共に、又聖霊降りて神の愛われに充ち以て此希望の羞を来らせざる事を示すのである、されば歓迎すべきかな迫害苦難! これ我等の完成せらるゝために是非とも来らねばならぬもの、即ち貴き天の使である。
 聖霊を賜はりて神の愛来り止まる、聖霊の我等を導くは即ち聖霊に由りて神の愛が我等に灌がるゝ事である、六節以下パウロは進んで尚ほ神の愛の内容を説かんとするのである、先づ六−八節は左の如くである。
  (6)我等尚ほ弱かりし時キリスト定まりたる日に及びて罪人のために死に給へり、(7)それ義人のために死ぬるもの殆ど稀なり、仁者のために死ぬることを厭はざる者もやあらん、(8)されどキリストは我等のなほ罪人たる時われらの為に死に給へり、神は之によりて其愛を彰はし給ふ。
 キリストは罪人のために十字架の死をとり給ふた、これ即ち神の愛である、神の特別の愛が之に於て現はれたのである、之を人間の社会に於て見るに義人のためなりとて我生命を献ぐるものは皆無と云ふべきほど稀である、仁者は義人と異なり慈悲と救恤《あはれみ》とを以て人に対する者である、されば其愛に感激して或はその為に生命を献ぐる者も少しは在るかも知れない、さはれ固より稀有の事である、然るにキリストは仁者のために死したのではない、又義人のために死したのではない、|実に罪人のために死したのである〔付△圏点〕、罪人のために我生命を与へて罪人に生命を与へたのである、人は己に仁を施した人のためならでは生命を与へ得ない、併しそれすら頗る稀である、然るにキリストは罪人のために生命を献げたのである、これ実にキリストの十字架の死であつた、彼は自己の死を以て万民の死に代へ、自己死する故に万民の生きんことを計つたのである、これ彼の自ら選びとりし十字架の意味であると共に、神御自身が罪人のために其独子を賜ふて罪人のために十字架の死に就かしめたのである、「神わ(225)れらを(其尚ほ罪人なるとき)愛し、我等の罪のために其子を遣はして挽回の祭物と」したのである、されば「神は之によりて其愛を彰はし給ふ」たのである、即ち罪人のためのキリストの死は神の愛の著しき顕彰《げんしやう》であるのである。
 世に人道上の難問題は少くない、目下の世界問題の如き其一である、併し凡ては|人が真に人を愛するか如何の一点に帰着する〔付△圏点〕、他《ひと》のために自己を犠牲にして尽さんとの徴底的愛心のある所難問は難問でなくなるのである、しかし此種の愛心は神の愛に感激してのみ起る所のものである、「主は我等のために生命を捐て給へり、之によりて愛といふことを知りたり、我等も亦兄弟のために生命を捐つべし」(ヨハネ壱 三の十六)とある如く、キリストの十字架――神の愛のあらはれ――に感激したる処にのみ同胞人類に対する無私の愛は生起するのである、この無私の愛世界に充つるに至れば凡ての難問題は晴れたる日の朝露の如く忽ち消え去るのである。
 次に九節を見るに「今その血に頼りて我等義とせられたれば況《ま》して彼に由りて怒より救はるゝ事なからんや」とある、キリストは我等のなほ罪人なる時われらの為に死に給ふた、其故に我等は罪を赦さるゝに至つた、即ち我等は彼の血(死)によりて義とせられた者である、我等罪人であるにも係らず彼の死によりて既に義人とせられた、然らば既に義とせられて義人たるに至りし我等は彼によりて神の怒(即ち永遠の刑罰)より救はること当然であらう、かの事すら我等のために為し給ひし愛の神がそれより容易き此事を我等のために為し給はぬ筈がない、恰も全力を挙げて重病を治療しくれたる良医は、以後の健康増進――それは治療よりも頗る容易いことである――のために配慮しくるゝこと当然であると云ふに等しい。
 十節は九節の反覆ではあるが併しその説き方が九節よりも積極的なるに注意すべきである、即ち「もし我等敵(226)たりし時その子の死によりて神と和ぐことを得たらんには、まして和ぎを得たる今その生けるに頼りて救はるゝことを得ざらんや」とある、九節は罪人たる者が義とせられたるを云ひ十節は敵たる者が神と和ぐに至りしを云ふ、又九節に於て「怒より救はるゝ事なからんや」とあるを十節には「救はるゝ事を得ざらんや」と云ふ、同一事を云ふのに異なる発表を為せしに注意すべきである。
 十一節に曰ふ「たゞ之のみならず我等に和ぎを得させ給ひし我主イエスキリストに頼りて亦神を喜べり」と、九節十節の如く神愛の深さを以て救拯の確実を推知するが為めに勝利の歓喜は自から生起せざるを得ない、即ち「神を喜べり」は神にありて勝ち誇れりの意である(原語は前講に説きし如くコウホオマイである)、単に怒より救ひ出さるゝに止まらず、救はれて勝ち誇るに至る、漸くサツト救はれたのではない、優に救はれて罪と死とに勝ち得て余りあるのである、そして之は「我等に和ぎを得させ給ひしイエスキリストに頼りて」の事である。
 五章一節−十一節は歓喜と勝利の連続である、その伝ふる霊的事実の如何に貴く有難きよ! そしてその凡ての根元は信仰に由て義とせられしと云ふ一事に存する、そして是れ己の功によらず専ら神の愛に基づくことである、感謝すべきかな主の恩恵、讃美すべかな神の栄。 〔以上、11・10〕
 
     第廿六講 アダムとキリスト(一) 五章十二−廿一節の研究 (十月廿三日)
 
 羅馬書第五章は一節より十一節までに於て専らキリストに依る救拯を説いた、信仰に依る恩恵、信仰の生活に与へらるゝ力、及び信仰の結果たる救拯は力強く説かれた、十二節よりパウロはアダムとキリストの比較に入る、アダムとキリストとは各々人類の二大代表者である、全世界を蔽ふ二つの大なる流の源頭に二人は各々立つてゐ(227)る、罪と死との源頭にはアダムが、義と生との源頭にはキリリストが立つてゐる、人類の罪と死はアダムより来り、人類の義と生とはキリストより来る、此事を説きしものが十二節−二十一節である、原語聖書に於ては字数二百五十八字を算する(邦訳聖書の約半数)に過ぎないのであるが、之について古来より註解又は解説の試みられしことは幾許なるを知らず、その費されし字数は到底数へ難いのである、茲には細密なる註解にわたるを避けて、重なる点にのみ注意を向け、以て大体の主旨を探らうとするのである。
 最も重要なる句は十二節と十八節とである、邦訳聖書は之を左の如く訳してゐる。
  12 されば是れ一人より罪の世に入り、罪より死の来り、人みな罪を犯せば死の凡ての人に及びたるが如し。
  18 この故に一の罪より罪せらるゝ事の凡ての人に及びし如く、一の義より義とせられ生命を獲ることも凡ての人に及べり。
人類の始祖アダムが堕罪のために死を受くるに至り、其為めにかれの子孫にも同一の悲運が臨んだ事を十二節に述べる、かく一の罪より罪せらるゝ事が凡ての人に及んだ、しかしキリストの義は彼を信ずる凡ての人に義と生命とを与へる、人はキリストにありて罪を赦され、義とせられ、限りなき生命を受くるに至つた、アダム一人のために罪と死が人類を襲ふに至りしと相似て、キリスト一人のために義と生とが人類に与へらるゝに至つた、此事を説きし者が即ち十八節である。
 別の語を以て此事を云へば、「人類は一人によりて楽園を失ひ、又一人によりて之を快復せり」と云ふことである、アダムも人類の代表者、キリストも人類の代表者である、神はいづれの場合に於ても|代表者を以て〔付○圏点〕人類に相対した、アダムを以て人類の代表者と見なせし故その堕罪を人類全体の堕罪と見て之に死を与へ、同様にキリ(228)ストを人類全体の代表者と見なして其の義の故に人類に永生を賜ふに至つたとパウロは主張する、即ち|人類の運命は係つてその代表者の上にある〔付○圏点〕、第一の代表者の罪のために「罪せらるゝ事」が凡ての人に及び、第二の代表者の義のために「義とせられ生命を獲る事」が凡ての人に及んだ、人類の運命の縮まりしも拓かれしも一に其代表者に基づいたのであると、これパウロの説く所である。
 此説に対して先づ人類学上の故障が提出される、進化論に拠れば人類の祖先は「猿人」である、然るに創世記はアダムを完全なる人と見てその処より人類の堕落せしを主張する、科学は人類の動物よりの進化を見、聖書は人類の聖境よりの堕落を主張する、この間に明白なる矛盾がある、この矛盾を除去せんと欲して脳漿を絞りし神学者は幾人あるかを知らない。又次には倫理学上の故障がある、人は各々自己に対して責任を有つべき筈である。自身罪を犯さば自身罰を受け、自身義なれば自身賞を受くべき筈である、然るに他の或一人が自己の知らぬ間に自己及び他の凡ての人の代表者とせられ、彼の罪の故に自己も亦(他の凡ての人も同様に)その罰として死を受けねばならぬとは余りに不合理である、同様に或一人がまた全人類の代表者と見られて、彼の義の故に自己も亦(他の凡ての人も同様に)永生を以て報いられると云ふのも不合理であると、かく倫理学上よりの反対がある、そして又これに対する神学者よりの弁解もある。
 問題は決して簡易ではない、パウロの所説の深きと共にそれに対する疑問も亦深しと云はねばならぬ、そして我等の取るべき態度は先づパウロの主張を明確に探知することである、然る上にて採るべきは採り棄つべきは棄てねばならぬ、パウロの所説の全部又は或部分が明白に背理であると解つた時にも尚ほ之を固執するは頑愚である、同時に其中に深くして異なる所ある場合にも之を斥くるは同じく頑愚である、今日パウロにして再生せんか、(229)上述の如き疑問を以て彼に迫る人は其数少なくあるまい、併し乍ら彼は近代の人類学や倫理学は当時問題とならざりし故今も亦問題とならずと称してたゞ其確信を反覆強説するに止まるであらう、さり乍ら我等は今日の科学なるものを全然無視してはならぬ、又無視することは出来ぬ、宗教と科学とを全然分離して考ふると云ふ近代の精神は我等の採らざる処である、科学より見て聖書の所説の合理とせらるゝ時は後者に強き支柱の与へられし時である、勿論聖書の教は天啓に立つが故に科学の証明を得て初めて真理となるのではない、然し乍ら聖書の所説を科学も亦裏書する事となればそれに一層の確実性と光輝とが与へられるのである、又頭脳を以てのみ研究せらるゝ科学が聖書的真理を悉く又完全に証明することは固より不可能である、それにも係らず科学者が科学上より見ても亦聖書の所説の誤謬ならざる事、又は真理と見らるべき事を明かにせんとするは実に貴き努力である、有名なるニユウトンは言はずもがな、比較解剖学の元祖たる仏のキヴイエー、偉大なる動物学者たる米のルイ・アガシの如き孰れも深き科学者にして深き基督者であつた、宗教と科学の調和を計りしために両者を深く且正しく解し得たのである、宗教的にも又科学的にも充分に真理を探究し、真理なる以上は確く之た立つと云ふ態度を我等は取らねばならない。
 パウロの主張は|神は人類に対するに其代表者を以てする〔付○圏点〕と云ふに在る、之に就て誰人にも先づ明白なる一事は|人類が一の種である〔付○圏点〕といふ事である、白色人種、黄色人種、銅色人種、黒色人種等の別あれども、各人種間の結婚の可能及び其間に必ず子の生るゝ事は人類の一なることを語るものである、又一人種の子が小児の時他人種の間に居れば其国の純粋なる語を語り得るが如き、或は又低き社会道徳の間に育てられて道徳観念の頗る稀薄なる野蛮人が一度福音を信ずるに至れば全く別の人となるが如き、いづれも皆人類一如の真理を伝ふるものである、(230)人類は一なりとは人類学と聖書とが等しく主張する所である、又「この神は凡ての民を一の血より造り」とパウロはアテンスに於て説いた(行伝十七章二六節)。
 次に我等に知らるゝ明白なる一事は|人類の共同黄任〔付○圏点〕(solidarity)といふことである、之は学問の問題ではなくして人生の実際問題である、事実の上に於て人類の共同責任は儼として存しゐる、之を好むも好まぬも事実は飽くまで事と実である、之より脱せんと力むるも人は到底脱し得ないのである、見よ一家に於て其戸主の所業又は現状は家族全体に影響を与へるではないか、戸主は其家族の代表者であるがためである、同様に町村長の言行は其代表する町村の全体に影響し、県知事の言行はその代表する県民全体に影響する、また大臣或は使臣は国民の代表者である故、その言ふ所行ふ所は全国民に必ず影響し来るのである、戦争の破裂せし場合の如き国民全体の受くる災禍は非常であるが、而かも彼等自身が直接その種を蒔いたのではなくして、主として大臣の政策又は使臣の行動が開戦に導いたのである、|或事を為すのは代表者であつて其結果を受け責任を負ふのは凡ての人である〔付△圏点〕、之を不公平として呟くことは人の自由である、併し人類社会が斯る原理の上に成立してゐる事実は明かに認められねばならぬ、即ち必ず代表者あり又必ず共同責任がある、家庭、社会、国家、いづれも皆この事実の上に立つてゐる、之を否認するは家庭、社会、国家を否認することである、之がなくては人の団体といふ者は存しない、之ありてこそ家庭もあり国家もあり社会もあるのである、団体の各員はその代表者の行ふ善により又悪により或は利益を受け或は損害を受くる、凡ての人間の団体の底に此原理が流れてゐる、此事は充分に又明白に承認せられねばならね。
 以上に依て二の事は明かとなつた、第一は人類の一なることである、第二は代表者の存在と総員の共同責任で(231)ある、既に人類は一である、人類は全体で一の社会を形造つてゐる、茲に於てか人類全体を代表する者がなくてはならぬ、神は先づ始祖アダムを人類の代表者として造り給ふた、彼を以て其後に生るべき凡ての人類の代表者と見なし給ふたのである、アダムは罪なき者として造られた、彼がもし原始の聖浄を失はなかつたならば人類は彼にありて如何に祝福されたことであらう、併しながらサタンは成功し彼は失敗した、彼は其妻と共に罪に陥りて人類の代表者たる責務を汚した、神は已むを得ず彼に死の悲みを与へ、そして彼は人類の代表者なる故全人類にも死の悲みを与へた、人類は一にして総員の共同責任が原理として存する以上これは実に止むを得ざることである。
 |併し共同責任の原理は人類に禍のみをもたらさなかつた、代表者の罪に因りて死を受けし人類は茲に又代表者の義によりて生を受くるに至つたのである、神はアダムの失敗を補ふべく其独子を人となして世に降し、彼を人類の新たなる代表者となし、彼をして人類に代つて罪の罰を受けしめて人類の罪を赦し、彼をして人類に代つて義を成就せしめて人類に永生を与ふる道を取り給ふたのである、人類の一体なる事と代表及び共同責任の事とを事実として認むる上はこのキリストの人類代表と彼一人よりして恩恵が全人類に臨みし事との決して不合理ならぬを知るのである〔付○圏点〕、十八節の前半は実に悲しき音信《おとづれ》である、「この故に一の罪より罪せらるゝ事の凡ての人に及びし」と読みて我等は人類共同責任の恐しさに慄へるのである、さりながら後半の如何に嘉き音信なるよ、「一の義より義とせられ生命を獲る事も凡ての人に及べり」と云ふ、キリスト一人の義が義と生命とを全人類に及ぼすのである、感謝すべきかな此事!
 かくて今や光明の時代である、始祖の堕落のために、陰暗の彷徨を続けねばならなかつた人類社会に、今やは(232)や義の太陽は昇り来つて眼くらむばかりの光輝を放つてゐるのである、キリスト既に我等に代つて罪の罰を受け義を成就せしがために、我等は今かれを信じさへすれば罪を消され義を与へられ永への生命を以て恵まるゝのである、「神罪を知らざる者を我等の代りに罪人とせり、これ我等をして彼にありて神の義となることを得しめん為なり」とある(哥後五の廿一)、実に今や恩恵の時代である、此絶大の幸福が我に与へらるゝ事を思へば、人間世界に尚ほ存する所の災禍、愁苦、哀痛の如きは云ふに足らない、まことに然うである、義の太陽は既に上り恩恵の光は人類の全野を照らして居る、然るにも係らず未だこの光の人類の全部にゆき亘らぬは何故であるか、云ふまでもなくそれは我心霊の戸を閉ぢて此光を導き入れぬ人の頗る多いからである、光が普く照らさないのではない、普く照らして居るのに之を我魂の前より斥けつゝある人が多いのである、さらば凡ての人よ速かに霊魂の戸を撤して赫燿たる霊界の光を導き入れよ、凡ての善き事、幸なる事、恵まるゝ事は此事よりして起り来るのである(凡ての悪き事、禍なる事、呪はるゝ事が彼一事よりして起り来りしが如くに)。
 
     第廿七講 アダムとキリスト(二) 五章十二−廿一節の研究 (十月三十日)
 
 前回に引きつゞき五章十二−廿一節の研究であるが、この場所は短き語の中に無量の真理を含ませた処である故文章としては不備の点多く、全部を正確に了得することは中々困難である、邦語改訳聖書は在来の訳より正確である故之を参考とする事は少からず理解を助けるのである、又前回に説きし如く(第一)人類の一体なること(第二)神は人類に対するに其代表者を以てし給ふこと、此の二つの真理は先づ心に貯へて置かれねばならぬ。
 十四節の最後に「アダムは即ち来らんとする者の模《かた》なり」といふ句がある、「来らんとする者」とはキリスト(233)を指す、即ちアダムとキリストとが人類の二大代表者であをと云ふのである、神は人類中の最上なる者をその代表者として選び給ふたのである、そしてパウロの茲に説く所は大体に於て之を左の二つに分つことが出来る。
  第一、アダムはキリストの模である、アダム一人の堕罪より人類に罪と死が及んだ、同様にキリスト一人の義によりて義と生とが人類に及んだ、甲は死の源であり乙は生の源である、此の意味に於て二人の人類に対する関係は酷似してゐる。
  第二、併し乍ら此二人の対人類関係に於て相異なる点も亦ある、その相違点は大凡左の三項である。
   (イ) アダムは純然たる人である、然るにキリストは神が其独子を人の容《かたち》に於て世に降したものである。
   (ロ) アダムに因る人類の死は神の審判より出でたものであるが、キリストに因る人類の救は神の憐愍より出でたものである。
   (ハ) アダムのために人類に臨んだものは死であるが、キリストのために人類に臨んだものは永生である。
 かくアダムとキリストとは似て居つて而かも大に相違してゐる、そしてその相違は実に根本的の相違である、甲より出で来つたものは罪と死――永への詛ひである、然るに乙より出で来つたものは此永久の詛ひを打ち破る義と生と永久の祝福とである、似て居るが故に前者を真理として受る者は後者をも真理として受けねばならぬ、又相違せるが故に甲に因る我等の死が乙に因る生に依て打ち摧かるゝに相違ない、されば我等の救は確実である、人々よ早く来つて此救を受けよとパウロは勧めるのである。(右の第一の類似点を説くが十二−十四節、第二の相違点を説くが十五−廿一節である)。
 之はパウロ神学なれば我等の関する所にあらずと云ふ人がある、併しそは大なる誤りである、先づ我等は旧約(234)聖書に於て左の如き語に接するのである。
  我れヱホバ汝の神は嫉む神なれば、我を悪む者に向ひては父の罪を子に報いて三四代に及ぼし、我を愛し我|誡命《いましめ》を守る者には恩恵を施して|千代に至るなり〔付○圏点〕。(出埃及記二十章五、六節)
  ヱホバを畏るゝ者にヱホバの賜ふその憐憫《あはれみ》は大にして天の地よりも高きが如し、その我等より愆を遠ざけ給ふことは東の西より遠きが如し。(詩百〇三篇十一、十二節)
  ヱホバに感謝せよ、ヱホバは恩恵ふかく、|その憐愍はとこしへに絶ゆることなし〔付○圏点〕。(詩百十八篇一節)
  その|怒は暫時〔付△圏点〕にて|その恵は生と共に永し〔付○圏点〕、夜は夜もすがら泣き悲むとも朝には喜びて歌はん。(詩三十篇五節)
  我れ|しばし〔付△圏点〕汝を棄てたれど|大なる憐愍〔付○圏点〕をもて汝をあつめん、我が忿恚《いかり》あふれて|暫く〔付△圏点〕我が面を汝に隠したれど|永遠の恩恵をもて汝を憐まん〔付○圏点〕と、こは汝を贖ひ給ふヱホバの聖言《みことば》なり。(イザヤ書五十四章、七、八節)
以上の五つは最も代表的のものであるが他にも之に類似せる語句は無数にある、雅各書二章十三節の語を以てすれば是れ「憐愍は審判に勝つなり」である、審判はもとより無くてはならぬ、しかし憐愍は審判以上に在る、審判は三四代に及び恩恵は千代に及ぶ、怒は暫時にして憐愍は永久である、神もとより怒と罰を与へ給はねばならぬ、併し彼は怒と罰に熱心ではなくして是れ已むを得ざるに出でしもの、そして憐愍と恩恵とについては真に燃ゆるが如き熱心を起し給ふのであると、これ旧約時代よりの明かなる教である。
 神の此心は今の人間の心と正反対である、憤る事、責むる事、毀つ事には全精力を尽すも、赦す事、忍ぶ事、建つる事には充分の力を用ひない、凡ての悪に対しては熱心を燃やすも善に対しては最も冷淡である、これ人類(235)堕落の有力なる証拠とも云ふべき者である、如此人の心と神の心とは全く違ふ、神は怒ること遅くして恵むこと早い、彼は責むるに熱心ならずして赦すに熱心である、故に今日の人と雖も神を信じて聖霊を心に迎ふるに至れば、亦善に対して熱心にして悪に対して嫌厭たり得るのである。
 この神の心を知りて我等は十五節を読まねばならぬ、「されど罪のことは恩賜のことの如きにならず、もし一人の罪によりて死ぬる者多からば、まして神の恵と一人のイエスキリストに由れる恵の賜とは多くの人に|溢れざらんや〔付○圏点〕」と云ふ、神はアダム一人の罪の故に全人類に対するに審判を以てしたれども、これ已むを得ざるに出でたのであつて彼が此事に熱心であるからではない、彼が熱心はキリストに因る全人類の救にある、キリスト一人の義の故に恵の賜が多くの人に|溢るゝに至る〔付○圏点〕、こゝに神の特別の熱心が注がれたのである、キリスト一人より全人類に生命の及んだといふ事は神の此特別の性質を知れば決して不可解のことではない、これが了得しがたく思はるゝのは、人が自己の善に不熱心にして悪に熱心なる心を神に映して眺むるからのことである。
 次に十六節は「賜は一人より来る罪の如きに非ず、そは審判は一の罪より出でゝ罪せらるゝに至り、賜は多くの罪より出でゝ義とせらるゝに至る」と改訳すべきものである、前節同様アダムに因る審判と、キリストに因る恩恵との対照である、甲は全人類の罪せらるゝに至りし事、乙は全人類の義とせらるゝに至りし事にて此の両者の間に天地の相違ありと云ふのである。即ち審判は|一の罪〔付○圏点〕を出発点として出で、賜は|多くの罪〔付○圏点〕を出発点として出でゝ救に至つたと云ふのである。
 次の十七節は曰ふ「もし一人罪を犯しゝにより死この一人に由て王たらんには、まして溢るゝの恵と義の賜を受くる者は一人のイエスキリストにより生にありて王たらざらんや」と、此節の対照は死と生とである、一人の(236)アダムの堕罪のため死の支配を受くるに至り、一人のキリストの義の故に生にあつて支配し得るに至る、|死の支配を受くると生にありて支配すると、その差は実に無限大である〔付○圏点〕、アダムのために人類は死に支配せらるゝの不幸に会した、しかし神は第二のアダムとしてキリストを賜ふて、彼の義の故に彼を信ずる者には何人に限らず永生の幸福を与ふる道を拓き給ふた、神は罰するに熱心ではなく恵むに熱心である。
 以上に於てアダムとキリストの比較は略ぼ明かになつたことゝ思ふ、まことにキリストの救は大なる救である、神もし人類の一人一人が義となる時初て永生をもて酬ゆるとならば、人生は永久の絶望たるほかないのである、自分の罪を考へよ、又人類の罪を考へよ、その深きを思へよ、人いかで自ら完き義人たり得よう、各人自ら全き義を実現せずしては生命を与へられずとせば人は滅亡を其前途に期する外はない、さり乍ら神は憐むに熱心なる神である、故に其独子を人として世に降し、彼をして人類に代つて義を実現せしめ、彼れ義なるがため人類も亦義とせられて生を受くるに至る道を拓き給ふた、こゝに大なる恵があり又人類の拠り所がある、この外に真に救はるゝ道はない、従つて此外に真に安心に入り得る道はない。
 この義とせられて生を与へらるゝ恵に入りて初めて又事実上義を行ひ得るに至るのである、即ち道徳より信仰に入るにあらず信仰より道徳に入るのである、|義となりて義とせらるゝにあらず、義とせられて義となるのである〔付○圏点〕。完き人として取扱はるゝ恵に入りて初めて完全に向て進むのである、故に第一に必要なることはイエスキリストを信ずることである、この信仰ありて義とせられ、義とせられて義となるのである、信仰! これ実に現代の最大欠乏物であつて又最大必要物である、如何にして此社会を救ふべきか、又如何にして個々の人を救ふべきか、そは孰れも信仰に依りてである、キリストに対する信従のある所、人も救はれ又社会も救はる 先づ必要なるも(237)のは信仰である。
 以上を以て五章十二−廿一節の大意を説明し終つた、遼遠の古に於ける始祖アダムの堕落は遂に神の独子の降世を必要ならしめたのである、始祖の堕罪は人類の受けたる最も大なる創痍であつた、たゞ之を医やして余りあるキリストの救あつて我等の歓びは尽くる処を知らないのである、この両者の対照をパウロは力強く記して我等に示すのである、今こゝに有名なるミルトンの『失楽園』(Paradise Lost)がアダムの堕落を如何に描きしかを見よう、これ羅馬書五章の解釈を大に助くるものである。
 ミルトンの『失楽園』は創世記第三章の詩的註解であつて、始祖堕落の最も深き説明と称すべき者である、事は第六、七、八、九、十章に審である、先づサタンは蛇の形を取つてアダムとエバとを罪に陥いれんとする、彼は男よりも欺き易き女を選び、エバに近よりて「美はしき創造者に似たる最も美はしき汝よ」と云ひて彼女に甘き諂への語をかける、サタンは女の陥り易き虚栄心と好奇心の両方よりエバを惑はさんとするのである、かくエバは先づ虚栄心に満足を与へられ、そして何故に蛇が人語を語り得るかとの疑問を起す、これ即ち好奇心の生む所である、蛇はエバが思ふ壺にはまつたのを喜んで或樹の果を食ひしため人語を解するに至つたと答へる、エバ好奇心に駆られて蛇を促し至り見れば果せるかなそれは禁ぜられてゐる樹の果であつた、蛇は云ふ、神が之を禁じたのは獣が之を食すれば人の如くなると共に人が之を食すれば神の如くになるからである、神は人が己と等しき者となるのを嫉み、永久に人を己に隷属せしめんと欲して之を禁じたのである、故に之を食するは少しも差支ないのみか却て大なる幸福を持ち来すのであると、この巧みなる誘ひの語に惑はされて、エバは遂に知識の樹の果を食するに至るのである。
(238) 之を食しみれば案の錠心に言ひ知れぬ喜と新なる力とが臨んだ、彼女は此力を用ひてアダムと等しきもの又はアダムより優れた者と己を見做して、|アダムを下に抑へよう〔付△圏点〕と云ふ心を起した、併し又思ひ直した、自分は既に禁令を犯したのである故多分罰として死を受くるのであらう、然る後はアダムには新らしき妻が与へられるであらう、これは堪へ難きことである、故に寧ろアダムを誘ひて同じ罪を犯さしむる方がよいと(男を屈服させようと願ひながら又男に頼らねばならぬ女性の弱味が心理的に描かれてゐる)、乃ち自己の堕罪をアダムに打ちあける、アダムは大に驚き又失望した、しかし女の愛にひかされて「汝なくしていかで我れ生くべきや」と遂に同じ罪を犯すに至つたのである。
 かくして二人は遂に堕落した、二人は一時の歓楽より醒めて失ひし処のあまりに大なるに驚いた、堕落の状態のみぢめさが浸々《しみ/”\》と感ぜられた、アダムは殊に激しき失望に襲はれた、彼は二人の現状について痛恨の呻きを発した、彼は鋭き批難の矢をエバに向け彼女の薄志を以て墜落の凡ての原因であると詰つた、エバは之に対してアダムの薄志弱行にして終に女の誘惑に勝つ能はざりしを責めた、而して二人は遂に相争ふの愚なるを語つて共に悲惨なる運命を甘受するに至つた、彼等は他の凡てを失ふも二人の愛だけは失はじと決心するに至つた。
 かくミルトンは人類堕落の心理的解剖をなした、人類堕落の動機及び恋愛のためには凡てを棄て厭はずと云ふ堕落せる人間の心は遺憾なく描れてゐる、実に人間は――殊に現代の人間は――恋愛のためには凡ゆる罪を是認せんとするのである、十二節に「さればこれ一人より罪の世に入り、罪より死の来り、|人みな罪を犯せば〔付△圏点〕死の凡ての人に及びたるが如し」とある如く、人は皆アダムにありて罪を犯し、又アダムと同じく死するのである、「人皆罪を犯せば死の凡ての人に及」ぶのである、人類が堕落して神を失ひ、男は女よりも又女は男よりも良き(239)者がなきに至つて其醜さが一層明かに現れるのである、如何にして此堕落より脱すべきか、いかにして失ひし楽園を回復すべきか、ミルトンが其『楽園恢復』(Paradise Regained)に於て説ける如く、そは一にキリストに依てゞある。
 
     第廿八講 潔めらるゝ事(一) バプテスマの意義 六章一−十四節の研究 (十一月六日)
 
 六章一−十四節は決して解し易い箇処ではない、さりとて全然不可解の所ではない、大体の精神を掴むことは少しく注意すれば出来、既に大体の精神が分れば各句、各語の意味も亦おのづからほゞ理解せられるのである、そして其為には我等は先づ前後の関係を見てパウロの思想排列の順序を探らねばならぬ。 抑も六章と七章は何を記すを主眼とするのであるか、曾て説きし如く羅馬書の三大問題の第一たる「個人の救」は(第一)義とせらるゝ事、(第二)潔めらるゝ事、(第三)救はるゝ事の三項に分ちて述べられて居る、この中第一の義とせらるゝ事は一章後半より五章に至るまでの主題であつて、我等は今までにそれを見来たのである、其主眼は人の義とせらるゝは決して行の義によらず、神より云へば|恩恵〔付ごま圏点〕、人より云へば|信仰〔付ごま圏点〕に因ると云ふにある、「そしてイエスキリストの贖によりて神の恵を受け功なくて義とせらるゝなり」(三の二四)とある如く、此大なる特権は偏にキリストの十字架に依ると云ふのである、これ慥かに福音である。
 併しながら茲に一の疑問が当然起る、もし行によりて義たる能はず信仰によりて義とせらると云ふならば行は如何でも宜いことゝなる、換言すれば信仰が義とせらる事の唯一の条件であれば行は如何にあつても問題とならぬ、何を為なくとも宜いと共に亦何をしても宜いことになる、然る時は信仰至上主義の教義は実際道徳の上に大(240)なる危険をもたらすではないかとの疑問である、パウロは此疑問を仮想して六章一節に於て「然らばわれら何を言はんや、恵みの増さんために罪に居るべきか」と云ふのである、罪のある処に恵が加はるならば恵を益々受けんためには罪の中に居るを宜しとすべきではないかとの疑問である、パウロは第二節に於て此疑問を一蹴し去つて云ふ「然らず我等罪に於て死にし者なるにいかで尚ほ其中に於て生きんや」と、我等すでに悔改めて赦罪の恵に浴せし者、罪に於て死にし過去の惨状は想起するだも恐ろしきものである、然るに今に至て恵の増さんためとて再び罪の中に死の生活を続んとする如き到底思ひ得ぬことであるとパウロは云ふ、断乎として疑問を斥ける彼の態度は例に依て強烈である。
 この一語は愚なる疑問を一蹴し去るには充分である、しかしパウロは之を機として信仰生活の特徴たる「潔め」の問題に入るのである、これ第三節以下である、もし彼が此問題に入る必要がなかつたならば、第二節に於て疑問を一蹴し去つて直ちに第八章の「救ひ」の問題に入るべきであつた、しかし彼は「潔め」のことを説明するを必要とした、故に六章七章に於て之を説いたのである、何故に彼は之を説かねばならなかつた、そは「潔めらるゝ事」が信仰生活の上に不可欠の事であるからである、「義とせらるゝ事」とは人の罪が赦され、神と人の間の隔てが失せ、義として神に受けらるゝに至つたことである、恰も家を離れて徨《さまと》ひ居りし子が父の家に戻るに至つたと云ふだけの事である、神の子とせられたのである、けれども未だ名実備はる神の子となつたのではない、之からは名実共に備はる神の子とならねばならぬ、これ即ち「潔めらるゝ事」である、これ真の神の子になるために是非ともなくてはならぬ事である。
 之を譬へて云へば「義とせらるゝ事」と云ふのは、恰も王家を離れて永く漂浪《さすらひ》の旅にありし王子が再び王家に(241)戻り来つたと云ふだけの事である、彼は名だけ王子となつたのであつて未だ王子たるの実を備てゐない、永き放浪は彼をして庶民の如くならしめた、彼が王子たる品性と威厳を回復せんには其上尚ほ幾歳月を要するのである、基督者は義とせられ神の子とせられた後更に神の子たる実に向つて進みゆかねばならぬ、これ即ち「潔め」である、更にも一つの比喩を以てせば重病を医やされたものが直ちに健康者となることは出来ぬ、病の去りしは事実であるが未だ衰弱は残つてゐる、或月日を経て後この衰へが失せて健康回復し、初めて健全者となるのである、この健康回復の経過が即ち「潔め」に相当するのである、|義とせられし者は義と見做されただけで、未だ義となつたのではない〔付△圏点〕、これからは真に義となるべきである、されば信者は神の子の完全を志して進むべきである、小キリストとならんとの努力、之が信仰生活の常の姿でなくてはならぬ、此事を知らずして唯悔改めし事、たゞ義とせられし事、只洗礼を受けし事、これだけを以て満足する者が多い、基督信者の無力、基督教会の腐敗は概ね茲に基づくのである、之を至難の事、不可能の事と見る人があるかも知れぬ、併し至難であるか不可能であるかは別問題として、これ基督者に欠くべからざる事であり、且又信仰の与ふる歓喜も希望も之なくては充分なるを得ないのである、然り、得られないのである。
 この潔めの事を説明するためにパウロは三つの例を引いたのである、第一はバプテスマのこと(一節より)第二は奴隷のこと(十五節より)第三は婚姻の事(七章一節より)である、バプテスマは初代教会に於ては全身を水に浸す式であつた(今日浸礼教会にて為す如く)、之れには意味がある、即ち全身を水に埋めるのはキリストと共に死して葬られし事を象徴し、そして水より引き出さるゝのは彼と共に復活した事を象徴したのである、故に|バプテスマを受くるに当つて必要なものが二つ在つた、第一はキリストの死(勿論贖罪の死)と復活とを信ずること(242)であり、第二は自身亦キリストと共に罪に死にて義に甦へりし事を実験する事であつた〔付△圏点〕、この第二の実験を形に現はしたのがバプテスマであるが故に、自然バプテスマは亦第一の信仰をも表白するものとなるのである、何となれば第一の信仰なくしては第二の実験は起り得ないからである、バプテスマとは斯くも意味深きものであつた、キリストの復活といふ客観的事実を認むると共に、彼と共に死し共に復活せしてふ主観的経験を象徴したものであつた、かくも意味深きバプテスマが今日軽き事として行はれ居るは痛嘆の至である。
 右の事を知りし上にて三節以下を読むときは意味は大体に於て明瞭となると思ふ、先づ三節−五節は左の如くである。
  イエスキリストに合はんとてバプテスマを受けし者は即ち其死に合はんとて之を受けしなるを汝等知らざるか。故に我其死に合ふバプテスマに由りて彼と共に葬らるゝはキリスト父に栄に由り甦へされし如く我等も亦新しき生命に歩むべきためなり。もし我等彼の死の様に等しからば亦かれの復生にも等しかるべし。
我等は既にバプテスマを受けた、想起せよ我等が此式に与かつたのはキリストと共に死しキリストと共に甦へりし実験を象徴したものである事を、我等が信仰生活に入つたと云ふ事はキリストと共に新しき生命に甦つたことである、生れ変つて「新しき生命に歩む」こと是れ即ち信仰の生涯である、然るにいかでして旧き罪の生涯を続けることが出来ようか、如何にして「罪の中に生きる」ことが出来ようか、かくパウロは云ふのである、更に六節には曰ふ。
  我等の旧き人かれ(キリスト)と共に十字架に釘けらるゝは罪の身|減《すた》りて今より罪に役《つか》へざるが為なるを我等は知る。
(243)と、我等の旧き人は既に主と共に十字架にて死した、これ罪の身亡びて以後は罪に役へる事なきためである、基督者は既に罪といふ旧主人の許を辞して之に事へぬものであると云ふのである、更に九節−十一節を見よ。
  キリスト死より甦りて復た死なず、死も亦彼に主とならざるを知れり。これ其の死にしは罪について一度死にしなり、その生くるは神について生くるなり。かく汝等も我等の主イエスキリストにより罪については自ら死ぬる者、また神については生ける者なりと思ふべし。
キリストと基督者の霊的合致は茲に記されてゐる、既にバプテスマを受てキリストと共に死し共に甦へりしといふ実験あらば、彼が罪について死せし如く我等も罪について死せる者、彼が神について今生ける如く我等も神について生ける者であるべき筈である、我等は既に罪とサタンに事へる生涯を棄てゝ義と神とに事へる生涯に入つたものである、然り慥かにさうである、併し乍ら此一義を人は往々にして忘れんとする、この潔めらるゝ事を忘れて唯義とせられし恩恵の甘夢を貪るべく午睡を続けんとする、故にパウロは十二、十三節に於て勧めの語を述べるのである、
  この故に汝等罪を死ぬべき肉体に王たらしめて其の慾に従ふ勿れ。また汝等の肢体を不義の器となして罪に献ぐること勿れ。死より甦へりし者の如く己を神に献げ、また肢体を義の器となして神に事ふべし。
罪をして肉体を支配せしむる勿れ、肢体を罪てふ主人に献げて不義の器となす勿れ、キリストと共に死より甦へりて新生涯に入りしものなる以上、己を全く神に献げ肢体は之を義の器となし、専ら神の僕として義に奉仕する生活を営むべしと、これパウロが全力をこめて茲に勧むる所である。
 |信仰とはキリストと合致する事である〔付○圏点〕、故に彼と共に甦へる事である、罪に死し義に甦へる事である、凡てを(244)以て神に徒ひ義に事ふる生涯、これが潔めらるゝ生涯、これが潔めらるゝ事である、パウロは哥林多後書三章十八節に於て云ふた「凡て我等|※[巾+白]子《かほおほひ》なくして鏡に照《うつ》すが如く主の栄を見、栄に栄いやまさりて其の同じ像に化《かは》るなり、これ主即ち霊に由りてなり」と、キリストを仰ぎ、眺め、信ずる生涯は次第に聖化せられてキリストと同じ像のものとなる、そして之は自力によるに非ず全く聖霊によるのであるとパウロは茲に云ふのである、かく聖霊によつて化せられて次第にキリストと似たものと成り進むが「潔めらるゝこと」である、健全なる信仰生活は常にこの種の生活である、赫々たる光明の希望に生くる生活にあるべき我等いかで旧き罪の中に生くるを得ようか、いかで旧きエヂプトに帰りゆくを得ようか、ただ義とせられし事のみにて晏如たり得ようか、否々我等は益々潔めを聖霊に依て実現せらるべく祈り且求めなくてはならないのである。
       附言
 バプテスマの意味は前述せし通りである、たゞ問題となるのは斯る新生に入つたものにバプテスマの式の必要あるかなきかと云ふことである、或人は有りと云ひ或人は無しと答へる、何れにしても之は根本問題、主要問題、第一義的問題ではない、そして我等の主張は必しも形の上の儀式を受くる要なし(或は受けた方がより良いかも知れぬが)と云ふのである、「無くて叶ふまじきものは一」である、他はあるも可し無くも可しである。 〔以上、12・10〕
 
     第廿九講 潔めらるゝ事(二) 僕役の生涯 六章十五−二十三節の研究 (十一月十三日)
       (参考) 馬太伝十二章二十九節、約翰伝二十一章十八節
 
(245) 前述せし通り六章の問題は「潔め」である、即ち基督者は奮励努力して全き神の子たるべく進まねばならぬ、全き聖潔に達せんとの理想は全き聖潔を与へらるゝ時あるべしとの希望と相結ばねばならぬ、たゞ義と見做されしのみにて満足するは怠慢であるといふのである、信仰は勿論第一に必要である、そして此信仰は希望を伴つて生きてくる、しかし之に止まつてはならない、此外に更にキリストの霊化に浴して次第に彼に化せられると云ふ実験がなくてはならぬ、神に祈り聖霊の恩化に浴して聖潔に向はんとする努力は常に信者の信仰生活を生々せしむるものである、之がない時には信仰は生気を失し、遂には有るか無きかの有様に立ち至るものである、贖罪の信仰、永生の希望のみにては足らぬ、其上に此「潔め」の努力及び実験を必要とする、故に此の「潔め」は往々一方に於ては極端に又偏して強調さるゝことあるにも係らず、又他方に於ては全然軽視又は無視さるゝに係らず、その健全なる姿に於ては如何なる信者にも欠くべからざるものなる事を認めねばならぬ。
 イエスは山上の垂訓に於て教へ給ふた「|心の清き者〔付○圏点〕は福なり、其人は神を見ることを得べければなり」(マタイ五の八)と、パウロはテサロニケ前書に於て「又願ふ主汝等の愛を増し且満たしめ、汝等をして互に愛し、凡ての人を愛すること我等が汝等を愛する如くならしめて、汝等の心を堅くし、我等の主イエスその凡ての聖徒と共に来らんとき汝等をして我等の神なる父の前に|潔くして責むべき所なからしめん〔付○圏点〕ことを」(三の十二十三)と、又ヘブライ書には「なんぢら凡ての人と和ぐ事をなし、|自ら潔からんことを務めよ。人もし潔からずば主に〔付○圏点〕見|ゆることを得ざるなり〔付○圏点〕」(十二の十四)とある、信仰の生活はサタンとの限なき闘争の生活である、サタンを斥け罪に打勝ち聖潔《きよき》を成し遂ぐる努力の連続が信仰の生涯である、「汝等罪と戦へ、勝て、聖潔に至れ、神はその聖霊を以て充分に汝等の努力を助け給ふ」と、これ羅馬書六章七章の精神である。
(246) 此あたりのパウロの筆はかなり難かしくして之を解せんとする者を少からず苦める、ために或人は疑ふ或はパウロ自身が此事について未だ其思想が熟して居なかつたのではないかと、しかし是れ大に誤つてゐる、彼はもとより此事が充分にわかつて居たのである、たゞ彼の苦んだ事は如何にして之を簡単に説明せんかにあつたのである、彼は説くべき事を数限りなく多く持つてゐた、彼の信仰の経験はあまりに豊であり彼の思想の嚢はあまりに多き内容を以て|はちきれん〔付ごま圏点〕許りであつた、されば一の問題について懇切叮寧なる説明をなすことは到底彼に於て許されなかつた、彼は次より次へと新しき問題に移りゆかねばならぬ、故に一の問題については簡単に述ぷるより外なかつたのである、これ彼の筆に難解の処多く、羅馬書の如き大問題の続出するものに於ては殊に然る所以である、我等は精密なる注意と深き思考とを以て彼の筆に対さねばならぬ。
 六章十五節より問題は少しく変つてくる、先づ十五節を見よ。
  然らば如何、われら恩恵の下にありて律法の下にあらざるが故に罪を犯すべきか。
との設問がある、パウロは既に六章第一節に於て「然らば我等何を言はんや、恩恵の増さんために罪に居るべきか」との疑問を設けて「然らず」と之を否定し且その理由を述べた、然るに復たこゝに同じやうな疑問を出したのは何故であるか、答へて曰ふ、一節と十五節は同一の疑問ではない、仔細に此の二つの節を較べて見るに明かに二つの相違がある、一節には「恩恵の増さんために」とあり十五節には「恩恵の下にありて律法の下にあらざるが故に」とある、即ちこの両節はその疑問の理由に於て相異つてゐる、次に一節の疑問は「罪に|居る〔付○圏点〕べきか」であつて十五節のそれは「罪を犯すべきか」である、文字の上に斯く明かに相違があるのは此両節が意味に於て相違せるがためである。
(247) 信者となることは大なる変化を受けることである、心に根本的の革命を起すのが信仰である、東が西となり天が地となるのが信仰である、神より来る生命は之だけの事を人の魂に為さんとするのである、併しながら人は其の受くる変化のあまりに革命的なるに今更の如く吃驚する、かくては我生活が根柢より破壊されるであらうと思ふ、そして成るべく此変化より逃れんとする、それでも恩恵だけは受け度いと思ふ、即ち変化は受くることなく、旧き生活をつゞけしまゝにて恩恵だけは益々多く受け度しと願ふ、これ堕落せる人間の特徴たる自己本位の心持である、この心持を表はしたものが第一節である、「恩恵の増さんために罪に居るべきか」と云ふ、即ち旧き罪の生活を続けて恩恵だけは益々多く受けんとの願である。
 之と十五節との間には明白なる相違がある、一節は「罪に居るべきか」である、罪の生活を続けるべきかとの疑問である、十五節は「罪を犯すべきか」である、個々の罪を犯すべきかである、罪の旧生活を棄てゝ義の新生活に入つたのではあるが、併し一つや二つ罪を犯しても宜いではないかとの疑問である、「われら恩恵の下にありて律法の下にあらざるが故に」とある、既に信仰によりて義とせられて今や我等全く恩恵の下にある、今ははや律法は我等を縛らない、我等は律法の支配を受けては居ない、神は今や恩恵の中に我等を置き給ふ、その愛は我等を取かこんでゐる、故に少し位は罪を犯しても宜いではないか、神が赦す神である以上われ等少しは罪を犯すも赦さるゝ筈である、まして今日の如き腐敗を極めたる社会にありて強き誘惑に囲まれてゐる者が、そして罪の遺伝を受けてゐる者が潔き生活を送るといふは不可能のことである、遺伝と境遇とは我等をして必然的に罪を犯さしめる、これ実に已むを得ないことである、然る上は我等旧き生活を棄てたとて全然新くなる必要はあるまい、旧き生活に於て為したる罪を少しは続けても宜いではあるまいか、全き潔き生活を理想として努力奮進する(248)如きは寧ろ不可能を試むるが如き事ではあるまいかと、これ十五節の意味である。
 パウロは此疑問に対して先づ「然らず」と答へ、そして十六節より其理由を説明するのであるが、順序として先づ前に帰つて第十二節より解釈せねばならぬ。
  この故に汝等罪を死ぬべき肉体に王たらしめて其慾に循ふ勿れ
と第十二節は言ふ、罪を肉体に|王たらしむる〔付○圏点〕勿れ、罪をして肉体を支配せしむる勿れ、肉体をして罪てふ王の臣僕たらしむる勿れと云ふ意味である、実際罪の支配の下にないものが信者であつて罪の支配の下にある者が不信者である、罪を王として僕役の生活を送つてゐるものが不信者であつて、義を王として僕役の生活を送つてゐる者が信者である、共に支配さるゝ生活であるが支配する者が全く違ふのである、信者になつたとてあまり変らぬではないかと世は基督者を批評する、基督者自身も亦余り変つたやうに思はれぬことがある、併し茲に根本的の変化があつたのである(もし信者が真の信者であるならば)、|不信者の時は罪が王となつて我を支配してゐたのであつて、信者となつたと云ふのは此支配を脱したことである〔付ごま圏点〕。
 之について見るべきは第二十節である、「そは汝等罪の僕なりし時には義に事へざればなり」とある、これ罪をして王たらしめて居た不信者時代の事を云ふたのである、「義に事へざればなり」は原文を直訳すれば「義より自由なりき」とある(英訳聖書参考のこと)、義より解放せられ居る生活が不信者の生活――罪をして王たらしめて其支配の下にある生活――である、義より自由であるといふのは義の支配下に居らぬこと全然義より離れ居ることである、これ即ち不信者の生活である、不信者と云ふても種々の程度の人があるけれども、彼等の生活原理を見るときは斯く云はざるを得ないのである、之に反して信者は義の支配下にあつて既に罪の支配を脱した者(249)である、罪をして王たらしめて居ない者である、約翰第一書三章六節に「凡そ彼(キリスト)に居る者は罪を犯さず、凡そ罪を犯すものは未だ彼を見ず未だ彼を識らざるなり」とあるは即ち此意を表はしたもので、其意味する所は個々の罪を一も犯さずと云ふのでなくて、|習慣性として罪を犯さず〔付○圏点〕即ち罪に歩むことを生活の原理とせずと云ふのである、まことにキリストにある者は罪を王として其支配を受けて居ないのである、罪の僕役たる生活を棄てゝ義の僕役たる生活に入つたのである。
 十三節は十二節と続けて読むべき語で其精神は全く等しいのである。
  また汝等の肢体を不義の器となして罪に献ぐること勿れ、死より甦へりし者の如く己を神に献げ、また肢体を義の器となして神に事ふべし
とある、肉体を罪の奴僕たらしめざるのみならず又肉体を不義の器として罪に献ぐる勿れ、己を神に献げ肢体を義の器として神に献げよと云ふのである、そして十四節には左の如くある。
  そは汝等恩恵の下にありて律法の下にあらざれば罪は汝等に主となることなければなり.
其意は基督者は既に恩恵の下にあつて律法の下にない故罪が彼等を支配する――罪が彼等に王たり彼等が罪の奴僕たる――ことは全然ないのであると云ふにある。
 今此の十四節と十二節及び十三節とを比ぶるに其処に明白なる矛盾があるやうに見える、もし十四節に云ふ如く信者が罪に支配せらるゝ事ないものであるならば、十二節十三節の如く罪をして王たらしむる勿れと云ふやうな勧めをする必要はない筈である。之は既に然ある者に向て然あれと命令することで、恰も男に向つて男たれと云ひ女に向ひて女たれと云ふ如く無用のことであると思はれる、然し乍ら努力を勧め又原理を示すは決して前後(250)矛盾ではない、例へば男に向つて「男らしかれ、汝は既に男なれば也」と云ひ、又女に向つて「女らしかれ、汝は既に女なれば也」と云ふが如きは是れである、これ決して不合理でも前後矛盾でもなく、却て頗る有力なる勧めの道たるのである。
 罪の僕たる勿れ、汝等は罪の僕にあらざればなりと云ふは之である、|神は命令を下すと共に之を実行し得る状態に人を置き給ふのである〔付○圏点〕、たゞの命令ではない、命令に実現が伴ふのである、潔くならんと努めよ神は必ず潔くならしめ給ふと云ふのである、これほど力ある勧が何処にあらうか、サタンと戦ひて勝つべし勝利は必ず汝等の者なりと告げられて、誰か勇気百倍以て強敵に当らんとの勇猛心を奮ひ起さぬ者があらうか、之に反してサタンと戦ひて勝たんと力めよ或は汝は負くるならんと云はれんか、それ勇気をいたく阻喪せしめらるゝ事である、但し努めよと云ふも勿論単なる自力ではない、神が我等に命令し且実行せしめ給ふのである、即ち命令すると共に力を賜はるのである、此事を知らざる時は或は事の難きに失望し、或は僅かの成功に高ぶるに至る危険があるのである。
 神の我等に対しての要求は全く潔くなれである、凡てを献げて神に事へ義の僕たれである、そして是れ不可能を要求する如く見ゆるれど、この命令に添えて聖霊を以て実行力を賜はるのである。あらゆる這を以て我等を助け給ふのである、されば我等努むべし、励むべし、努力奮進すべし、神は必ず我等の志す所を遂げしめ給ふのである。
 たゞ義たれ義たれと命令するは此世の道徳である、之は唯命令するのみで力は少しも供給しないのである、先づ義ならざる人を義として摂め取り、其罪の苦みを除き、心に歓びを漲らしめて、自ら義たらんとの志を起さし(251)め、聖霊を賜ふて其実現を助くると云ふのが福音である。
 
     第三十講 潔めらるゝ事(三) 恩恵の支配 六章十五−二十三節の研究 (十一月二十日)
       (参考) 帖撒羅尼迦前書四章三−八節
 
 この「潔めらるゝ事」については充分なる思考を加へねばならぬ、又極めて重大なる問題なる故、之を各方面より考究せねばならぬ、一面のみより見る時はとかく誤りに陥るのである、パウロは六章前半に於ては先づ罪の支配より離るべきことを説き、後半に於ては恩恵の下に己を置くべきことを説き、更に七章に入つては罪を悟らしむるも罪を除く力を有たぬ所の律法を全然棄て去るべきを説き、そして八章に入つては――其四節以下に於て――聖霊の助けに由りて潔めらるゝべきものなる事を説くのである、いづれも重大なる問題にして、「潔め」の欠くべからざる各方面として深き注意を払ふべき事柄である。
 六章十四節については前講に一言する所あつたが、更に此の節について充分に考へ度いのである、「そは汝等恩恵の下にありて律法の下にあらざれば罪は汝等に主となることなければなり」と云ふ、此語は不信者には到底理解せられぬものであつて頗る難解である、それだけ其革命的なる点に於ても著しいのである、抑も律法とは何であるか、これユダヤに於ては普通モーセ律を指す語である、モーセ律と云へば其中に拝神の式典も含まれて居るが其の主たる所は寧ろ道徳である、即ち人の踏むべき道、行ふべき徳である、故にパウロの此語を今の人に分りやすくする為に、その前半を「そは汝等恩恵の下にありて道徳の下にあらざれば」と改めることが出来る、基督者は恩恵の下にあつて道徳の下にあらぬと云ふのである、即ち道徳の支配を脱してゐると云ふのである、以て(252)その如何に革命的の思想なるかを知るのである。
 普通に「教」と云へば多くは人の踏むべき道を教へたもので即ち道徳教である、之れ/\の事はなすべし之れ/\の事は為すべからずと教ふるものである、宗教と云ふても神又は仏を信じて道徳を守ることゝ教へられて、とかく道徳中心であるやうに考へられる、然るに茲にパウロは基督教を説明して、人をして此道徳の支配を脱して恩恵の下に入れしむる者であると云ふ、真に人の思ひに過ぐる見方である、この見方の適否は別とするも、その革命的にして人の意表に出づるものなると共に、かくして宗教と道徳との別が判然と立てらるゝと云ふ事は認められねばならぬ。
 或人は云ふであらう、かく信仰は道徳の支配を去らしむるものであるならば道徳は既に用なきものである、然らば道徳を守るといふ必要もなくなり、又不徳を行つても毫も差支ないと云ふ事になりはしないかと、現に斯く考へて不徳を行ふに至つた信者が昔から少くなかつた、それほど甚しきに至らずとも、之に似た思念《かんがへ》を抱けるため其実生活に於て緊張味を失ひ、怠慢無力に陥る者が少くない、これ実にパウロ思想の誤解から出でたものであつて、悲しむべき事柄である。
 十四節後半「罪は汝等に主となることなければなり」の句を忘れてはならぬ、既に律法の支配下を脱して恩恵の支配下に移りし上は罪は決して基督者に主となる――王となりて支配する――ことなしと云ふのである 即ち基督者は既に罪てふ王の臣僕たらずと云ふのである、かく罪てふ者の支配を脱して之と無関係の位置に入つたのであるから、罪を離れてゐると云ふのが其常態であるべきである、罪を如何ほど犯しても宜いとか、いくらでも犯すやうになる危険があるとか云ふ筈はない、十四節及び其前後を精細に読んでみて、パウロの真意を誤解する(253)筈はないのである。
 パウロは六章の最初に「恩恵の増さんために罪に居るべきか」との問題を提出し、そしてバプテスマの式に論及して之に答へてゐる、バプテスマを受けし者は既にキリストと共に旧き生命に死して新しき生命に復活した者である」罪について死に神について生くるに至た者である かく罪に暇を告げて別の世界に入つた者が罪に居るべき筈はないではないか、旧き埃及を出でた者がその埃及に居るべき筈はないではないかと、かくパウロは説いた、彼れは十四節に於て云ひ出でし「律法よりの脱出、恩恵の支配」を十五節以下に於て説明すべく、やはり此バプテスマに論及してもよかつた、けれども彼は思想の豊かに視界の広い人であつた、故に別の事を以てその説明をなした、先づ当時の奴隷制度に依つて此事を説明し、次には七章に入つて結婚制度のことを借りて説明するのである。
 先づ十五節に於て一の疑問を提出し、十六節より之に答へる意味にて説明を進めるのである 十五節の意味及びこれと第一節との差異については前講に於て述べた、依て茲には十六節より説かう、まづ十六節は左の如くである。
  汝等身を献げ僕となり誰に從ふとも其の従ふところの僕たるを知らざるか、或は罪の僕たれば死に及び、或は順の僕とならば義に及ばん。
すでに身を献げて奴僕となつた以上は、その従ふ所の一人の主人の奴僕である、主人ではなくして飽くまでも奴僕である、奴僕でなくてはならぬ、そして人には罪の僕たるか順の僕たるかの二つの道の中一つがあるのみである、「人は二人の主に事ふること能はず」、一人で両者に同時に事ふることは出来ない、そして罪の僕として一生(254)を罪てふ主人に仕へて終るものは死に及び、順の僕として一生を神に順ひて送る者は義たるに至るのである。
  此節には「順の僕」とあり、十八節等には「義の僕」とあり、二十二節には「神の僕」とある、文字の意味に多少の相違はあるが、いづれも基督者を指して云ふたのである、第一の語は「不順の僕」と相対する意味にて、神に対して信順なる僕の意、第二の語は「罪の僕」に対する語にして義に歩むを生涯の根本方針とするに至りし者の意、第三の語は「サタンの僕」に対する語にて神といふ主人の奴僕となつた者を意味するのである、三語とも意味を異にして同一の事を云ふたのである。
 人には罪の僕たると順の僕たるとの二途がある、基督者とは幸にして前の途を悔いて後の途に移つたものである、十七、十八節は此事を云ふのである。
  然れども我れ神に感謝す、汝等はもと罪の僕たりしかど、今は既に授けられし所の教の範に心より服ひて、罪より赦され義の僕となればなり。
罪の僕たりしもの、悔い改めて福音に順ひ、罪を赦され、義の僕となるに至つた、僕たるに於ては同一であるが主人を代へた点に於て其変化は根本的である、感謝すべきかな。
 十九節前半「我れいま人の言を藉りて言へるは汝等が肉体弱き故なり」は、汝等の霊的理解力弱き故この世の奴隷制度のことを借りて説明すると云ふ意味である、これ注記である、十九節後半よりまた本論に入るのである、これを左の如く少しく改めねばならぬ。
 汝等その肢体をさゝげて汚穢の僕となり悪より悪に至りし如く、今また其肢体をさゝげ義の僕となりて聖潔《きよき》に至るべし。(255)基智者は既に汚穢の僕たるを棄てゝ義の僕となつたものである、併し乍ら彼等の中此事を忘れて悪を犯して意とせぬ者がある、故に全き献身と聖潔に至るべき努力とを茲に促すのである。
 以下パウロは更に此二つの生涯を対照するのである、二十、二十一節は言ふ  そは汝等罪の僕なりし時には義に事へざればなり、汝等いま恥づる所の事を行ひし其とき何の果を得たりしや、これらの事の終《はて》ほ死なり。
と、罪に仕へゐたる時の有様を茲に想起せよ、何の果を結びたるか、そはたゞ死を持ち来すのみではないか、然るに今にして再び旧き埃及を思ふ者あるは何故ぞ、義の僕たる者の状態及び特権は実に二十二節の如く、
  されど今罪より釈されて神の僕となりたれば聖潔に至るの果を得たり且その終は永生なり。
ではないか、聖潔に至るの果を得、そして遂に永生を与へらるゝものではないか、実に大なる特権、この上なき恩恵である、故に我等退きて沈倫《ほろび》に及ぶべきものではない、信じて霊魂の救を得べき者である、かくパウロは勧めの意味に於て説き来り、遂に二十三節に於ては罪の生活と義の生活とを一言にして対比して云ふのである。
  罪の価は死なり、神の賜は我等の主イエスキリストに於て賜はる永生なり。
と、「罪の価」は罪の|給料〔付△圏点〕と改訳すべきものである、罪と云ふ主人は己に事へ居る僕に給料を払ふ、しかしそれは喜ぶべき給料ではなくして実に「死」といふ忌はしき、怖るべき給料である、然るに神が己に事へ居る僕に与ふるものは給料ではなくして「賜」である、即ちイエスキリストに於て賜はる永生である、神は斯の如き良き賜を賜はるのである、罪てふ主人は其僕に対して死でふ給料を支払ひ、神てふ主人はその僕に永生てふ賜を賜はると、(256)実に意味深き語である。
 以上パウロの説く所を充分に味解せんためには、我等は想像を二千年の古に遡らせて当時のギリシヤ、ロマの世界に至り見ねばならない、そして記者たるパウロ及び読者たるロマ人の環境の中に己を立たせねばならぬ、当時は奴隷の数は独立民の数に数倍してゐた、その奴隷と云ふのは多く戦敗国の捕虜であつて、必しも未開又は野蛮人種ではなかつた、即ち当時は大抵の人は奴隷たりし時代であつた、大抵の人は自由民たるを得ざりし時代であつた、従て基督者の中にも亦奴隷が多かつた、かゝる時代に於てかゝる人々に福音の根本義を説くために、それを奴隷制度に擬へたと云ふのは極めて自然のことであり、又最も能く読者に訴へる道であつたのである。
 即ちパウロは二つの主人を立てたのである、第一の主人は「罪」、第二の主人は「義」である、人は此二つの主人の中の何れかに従はねばならぬ、そして基智者とは罪といふ主人の許を去て義といふ主人に事ふるに至つたものである 既に主人を変へた上は今更如何ともすることは出来ぬ、既に甲を去つて乙に従ふに至つた上は全く甲の事を忘れて乙にのみ忠実熱心に事ふべきである、旧き主人は我をしで自由に悪を行はしめ其給料として死を与へた、新しき主人は我をして聖潔に至らしめ遂に永生を与へる、然らば我は全精神を献げて新主人に事ふべきではないか、旧き罪は思ふだに怖ろしとして之を我より引き離すべきではないかと、これパウロの説く所の精神である。
 パウロが主人と奴隷の事に擬へて此事を説明したのは当時の社会状態に依つたものであるが之は今日の我等にも充分あてはまる事であると思ふ、実際罪の中に住む状態は罪といふ者の奴隷となつてゐる状態である、全く束縛の中にあつて自由のきかぬ状態である、自身は道徳より解放されてゐるとか旧き伝統より自由になつてゐると(257)か、何か尤もらしき事を云ふてゐる、しかし解放でも自由でもない、全く罪に縛られて身動きの出来ぬ奴隷である、之を飾る言葉はいくらでもある、しかし事実は何か他の或者に|引きづられて〔付○圏点〕悪を犯す生活であつて、徹頭徹尾罪の奴隷たる生活である、然らば此生活を棄てゝ信仰の生活に入つたのは全き自由に入つたのであらうか、否我等はやはり奴隷たる点に於ては前と同様であつて、唯主人を取り換へたに過ぎないのである、信仰生活とは多くの人の思ふ如く自己の意力を揮ひ起して克己奮闘以て悪に克ち善を行ふ生活ではない、或者に|引きづられて〔付○圏点〕悪が自から厭はしくなり吾が自ら慕はしく、喜ばしく、行はれる生活である、自分の意志に因るのではなくして、或他の意志に支配されて営む所の生活である、是れ即ち或る他の者の奴隷たる状態ではないか、即ち基督者は「義の僕(奴隷)」である、義の奴隷たるに至つて信仰が真の信仰になつたのである。
 今や人の厭ふ語にして「奴隷」といふ語の如く甚しきものはない、何者にも従はず何者をも主とせず凡ての権威を否認すといふ矯激なる思想は現代の流行物である、併し|我等は義の僕、神の奴隷たるを以て理想とする〔付○圏点〕、全然己を空しうして神に隷属して了はねばならぬ、自分の意志が全くなくなつて聖意のまゝに引き廻はされるのが真の信仰生活である、一々の事件に対して我意志を用ひて判断して処理すると云ふのではない、自然の傾向として又習慣性として、悪が厭はれ、善が慕はれ、事の判断が行はれてゆくのが、神の僕たるものゝ日常生活である。
 非戦問題の如きは理窟はどちらにでも立つであらう、平和の貴いものであると共に、戦争も必要のものかも知れない、併し神の僕たる者にはキリストの心が宿つてゐる、此キリストの心は到底彼をして戦争を是認せしめないのである 労働問題と云ひ又その他の難問題と云ひ何れも同様である、神の僕たる者にはキリストの心が宿つてゐて、何が神の喜び給ふ処であるかゞ自から分り、其思想も行為も自然と之できまつて行くのである。
(258) 「恩恵の下にありて律法の下にあらず」といふ、律法に縛られてゐる時は却て律法に反抗して罪を犯してみ度くなる、そして相当の罰を受けるのである、然るに此の律法の支配を脱して恩恵の下に移つたとせば如何、既に人を恩恵の下に摂取せし上は神は唯だ罪を問責し給ふだけではすまない、既に人を子として受け入れたのである故、親が子に対する関係の更に深きものが其間になくてはならぬ、故に只の責罰を以て終る筈がない、必ず神は一人の罪を犯す者あらば其為に絶え難き苦みを味ひ給ふに相違ない、即ち恩恵の下にある者の罪に会ひては、神は罰するよりも先づ御自身に於て深き苦みを嘗め給ふのである。これ実に親心である、律法の時代は人の罰せらるゝ時代、恩恵の時代は父が独り心を痛め給ふ時代である。
 そして今や実に恩恵の時代である、今や我等の犯す只一の罪、たゞ一の不信の言行がいたく父を苦むるのである、されば我等罪を犯さぬやう力めねばならぬ、御心を痛め奉らぬやう心がけねばならぬ、我を愛し又我の愛する父は斯くすれば喜び斯くすれば悲むと知りながら、父の喜び給ふ事を捨てゝ悲み給ふ事を行ふとは不信の至である、故に我等罪を犯すべきでない、益々聖潔に向つて進まねばならない、神の僕たる者は常に斯かる心を抱かねばならない、これ律法の支配を脱して恩恵の下に取り収められし者に於て当然起るべき心である、かくして我等は罪より自由たるを得、即ち神の奴隷となつて初めてサタンより自由たるを得るのである、神の奴隷たるは実は真正に自主たる道である。
 
     第三十一講 潔めらるゝ事(四) 律法の廃棄 第七章一節−六節の研究 (十一月廿七日)
      (参考) 哥羅西書二章十四節
 
(259) 第七章に入つてパウロは尚ほ聖潔の問題を取扱つてゐる、第六草に於て彼はバプテスマの事及び奴隷の例を引いて両方面より此問題を説明した、いま七章に入つては再婚問題を引例し来つて更に同一の問題を説かんとするのである。
 六章十四節には「そは汝等恩恵の下にありて|律法の下に在らざれば〔付○圏点〕罪は汝等に主となることなければなり」とある、此語の意味は前講及び前々講に於て説いたが、今こゝに注意すべきは|基督者は律法の下に在る者でないと云ふ〔付○圏点〕一事である、律法が全く廃滅して了ふか又は我等が律法に触れぬほど潔まるか、孰れにしても律法なるものと事実上絶縁してしまふと云ふ事が必要である、一言にして云へば|道徳不用である〔付△圏点〕、故に頗る革命的である、従つて之を誤解するときは可成り危険である、併し乍ら誤解を虞れて此大切なる真理を敬遠することは出来ない、人は実に道徳不用の境地に一度到達せずしては真の信仰の歓しさ、貴さを知ることは出来ない、勿論「聖潔」は道徳不用の境である、されば道徳廃棄は人をして真の信仰と聖潔に至らしむべき必須なる要因である、道徳の下にあるとき人は己の罪を悟らされるのみで、決して信仰の歓びと聖潔の福ひに至ることは出来ない、この道徳を一蹴したる所に生命も安心も歓喜も起るのである、七章一節−六節は更に尚ほ此道徳不用の主張である。
 この問題は七章に入つては更に徹底的に、更に大胆に説かるゝため、或種類の人は之を誤解して道徳的無政府の状態に陥る危険がある、又他の種類の人は之を理解し得ずして依然として道徳本位の生活に囚はれるのである、甲は横に外れしもの、乙は及ばざるものである、此二の中間に正しき道がある、その道を取てパウロの真意を握り又これを事実の上に味はねばならない、彼は此の一問題のために加拉太書といふ大書翰を認めたほどである、その重大にして肝要なる問題たること云ふまでもない。
(260) 今聖書の記す所の意味を説明しよう、先づ一節より四節までは左の如くである。
  (1)兄弟よ我れ今律法を知れる者に言はん、律法は人の畢生《いのちのかぎり》その主たるを知らざるか。(2)夫ある婦《をんな》は律法のために夫の生ける間はそれに繋がるれど夫死なば其律法より釈さる。(3)されば夫の生ける間に他の人に適かば淫婦と称ふべし、もし夫死なば其律法より釈さるゝ故に人に適くとも淫婦には非ず。(4)然れば我兄弟よ汝等もキリストの身により律法について殺されしものなり、これ別人《ほかのひと》すなはち死より甦へらされ給ひし者に適きて神のために果を結ばんとなり。
パウロは基督信者に於ける律法不用を主張すべく此世の普通の律法の性質を説くのである、抑も普通の律法なるものは人を其の生存中だけ支配するものたるに過ぎない、法律に依つて権利を与へられ義務を課せらるゝと云ふも、それは人の生存中に限らるゝ事であつて、死せし人にまで法律の手は届き得ないのである、例へば負債の如き生存中こそ償却すべき責任があるのであつて、死せし人が其責任を負ふと云ふことは事実上不可能である、又如何なる大罪を犯すとも死してしまへば罰せらるゝ筈がないのである かの宗教改革者ジョン・ウィクリフの死後その墓を発きて其骨を灰とせし如きは、徒らに後世の嗤笑を買ふ道であつて、之に依てウィクリフを罰し得たとは誰も思はないのである、即ち律法なるものは人を其生存中だけ支配し得るものたるに過ぎないのである。
 この原理を夫婦間題に宛てはめたのが二節、三節である、夫ある婦《つま》は夫の生存中は飽くまでも夫の妻である、彼女がもし斯かる状態の下にありながら他の一人を別に夫とせば是れ即ち姦淫である、即ち妻は夫の生存中は其夫だけを夫とせねばならぬ、これ即ち律法の命ずる所である、併し乍ら若し夫が彼女に先ちて死したならば彼女は自由に他の夫を新たに有つことが出来るのである、未亡人となつた彼女が再婚したとて之を姦淫と称すること(261)は出来ない、即ち夫の生ける間は其夫にのみ事ふべしとは律法の命ずる処であれば、夫の生ける間だけ此律法に繋がれて居るのである、併し夫死なば此律法は既に効力を失ふたので、彼女は既に人妻ではなく、一個の独立した婦人となつたのである、故に法律的に云へば自由に他の人に嫁することを得るのである、他の人を夫としても法律的には全然合法なのである。(三、四節は再婚を法律的に違法にあらずと云ふたゞけの事である、決して他の意味に於ける再婚の可否、又は再婚の時期等に言及したのではない)。
 パウロは次の第四節に於て愈々その主張を説くのである、「汝等もキリストの身により律法について殺されしものなり」と前半は言ふ、そして「これ即ち別人すなはち死より甦へらされ給ひし者(キリスト)に通きて(嫁して)神のために果を結ばんとなり」と後半は言ふ、けだしパウロの意味は、夫に死別せし妻が他人に嫁する如く、基督者は既に旧き夫たる律法の死滅に会せし故第二の夫たるキリストに嫁せし者であると云ふにある、たゞ問題となるのは何故此節の前半を「律法は既に死滅したり」と記さなかつたのかと云ふ点である、かく記して初て前の二、三節と此節とが首尾一貫するのである、思ふにパウロは律法の死滅せし事をおのづから四節前半の中に含ませたのである、そして律法すでに死滅しそして同時に基督者は律法について殺されし者であると云ふ二意を含ませたのである、夫たる律法死せし上は妻たる我等は全く律法より自由となつたのである、そしてキリストてふ新しき夫に嫁して、その新婦となり、熱心彼に事へ、彼に在りて「神のために果を結」ぷべき者となつたのである。
 故に第四節の主意は律法の廃滅、律法よりの解放は事実であるが、併し基督者とは之だけに止る者ではなく、更に他の新しき夫たるキリストの新嫁《はなよめ》となり彼に事へて果を結ぶべきものであると云ふのである、以て律法不用を高調するパウロの建設的半面を知るべきである、嘗て彼がコリントの兄弟たちに向つて「われ神の熱心の如き(262)熱心をもて汝等を思ふ、我れ汝等を一人の夫に聘定《いひなづけ》せり、これ汝等を潔き女《むすめ》としてキリストに献げんとするなり」(哥後十一の二)と云ひし心を茲にも亦我等は見るのである。
 かくキリストに帰するに至りし後の生活と前の生活とを対照せしものが五、六節である。
  (5)われら肉に在りし時は律法に因れる罪の慾われらの肢体に働きて死のために果を結べり。(6)されど今我等を繋げる者に於て死にたれば律法より釈され、儀文の旧様《ふるき》に由らず霊の新様《あたらしき》によりて事ふ。曾て肉にありし時は、罪の諸慾我うちに働きて死のために果を結ぶのみであつた、併しキリストに帰するに至つて、律法に於て死にたる故律法より釈放せられ、今は何等旧き儀文(文字、規則、条文)の我を煩はすものなく唯神の霊の新たなるに浴してキリストに事へつゝある、前の生活と今の生活――律法に支配され居たる時の生活とキリストの支配に身を任せ居る今の生活――との対比を、パウロは言外に深き感謝をこめて茲に記したのである。
 以上が羅馬書七章一節−六節の大意である、今之と同一趣意の事を簡単に言ひ表はせし所として哥羅西書二章十四節を挙げることが出来る。
  (されど神汝等をして凡ての罪を赦し、彼と共に生かしめ)且手にて録しゝ所の我等を攻むる規条《いましめ》の書《ふみ》即ち我等に逆ふものを塗抹《ぬりけ》し、これを中間より取去り、釘をもて其十字架に釘け給へり。
とある、改訳聖書にありては之よりも尚ほ明瞭であつて左の如く在る。
  (神は汝等を彼と共に生かし、我等の凡ての咎を赦し)、かつ我らを責むる規《のり》の証書を塗抹し、之を中間より取り去りて十字架につけ……。
(263)此の方が簡単にして正確である、神が我等を責むる規の証書たる律法を塗抹して十字架に釘けてしまつたと云ふのである、即ち律法の破棄である、「証書」と改訳したのは正しいと思ふ、今これを例へて借用金証書と見れば解し易い、借用金証書といふものは債務者を甚しく苦めるものである、債務者の身となりて――殊に綺麗に全部を返済して了ふ力のない債務者の身となりて此証書ほど厭なものはない、此証書が実に彼を苦めるのである、之さへなくば彼は実に自由である、望む所は誰かゞ何かの方法で之を廃棄してくれる事である、自力を以て返金し得ぬ者に取ては之れほど望ましきことはない、もし誰かゞ之を廃棄してくれゝば彼の感謝は止まる所を知らず、歓喜は限りなきに至るに相違ない。
 我等に負債なしと云ふ勿れ、我等は神に対して大なる負債を負ふてゐる、為すべき事を為さぬのみならず、為すべからざる事を為して其償ひは少しも出来て居らぬ、我等の神に対しての借用金証書の額面は頗る巨額である、そして自力を以て之を支払ふ道は全然ないのである、故に誰人かゞ代つて之を支払ひて其証書を破棄せん事を切に願ふのである、|そしてキリストは実に此人である、彼はたゞ証書を破棄したのではない、負債を弁償し皆済して以て証書をして無効ならしめたのである〔付○圏点〕、これ一に彼の功に依るのである、されば我等たゞ彼を信じ彼に在りさへすれば彼の功の故に我等の負債が支払はれたことゝなる、従つて我らの証書は事実的に廃棄せられるのである、これ躍るばかりの歓びではないか、これ渾身の赤心《まごゝろ》をもて感謝すべき事ではないか。
 かく律法は既に廃棄された、そして此律法を夫として我等はその妻として曾て事へて居たのである、されば夫たる律法が死すれば妻たる我等も亦死したのである、律法の妻たる範囲に於ては我等も亦死したのである、且又我等が肉を離れ罪に死して霊に事ふに至れば律法は有るも無きに等しいものとなる、即ち事実上律法不用となる(264)のである、律法の命令を以て強ひられて行ひ禁ぜられて行はぬと云ふは器械的な、他律的な、生命のない事である、律法とは全く関はりなくして自由に善を行ひ悪を避け得るが生命の特徴である、いづれにするも律法の下にあるは束縛である、のみならず|律法に縛らるゝ時は却て之を破つて見たくなるのが人の性質である〔付△圏点〕 律法は却て罪を励ますものである、決して罪を少くするものではない、されば律法より釈放せられて自由となる事が極めて必要である、律法は我等の霊的発達を止むるものである、まづ之の把握を脱せずしては聖潔に達することは出来ぬ、之の廃棄は一見危険なるが如くにして実は最も健全有効の事である。
 かくして六節の「律法より釈され、儀文の旧様《ふるき》に由らず霊の新様《あたらしき》に由りて事ふ」るの幸福に入らねばならぬ、律法――儀文――規則が不用となり、紙上の文字が我等を縛ることなくしてたゞ聖霊の導くまゝに行動するが真の自由の道であり、又真の信仰の道である、唯キリストを夫とし其妻として事ふるだけで、頗る簡単である、併し茲に凡ての良き事が存し又起るのである、この霊の生活に於ては事実上律法は不用である、律法は死し我等も亦死したのである、そしてキリストの中に新しく甦つたのである、律法の廃棄(律法よりの釈放)そしてキリストへの帰属――これが信仰の道又聖潔の道である。
 以上の事を学びて如何に使徒パウロが革命的思想の捉唱者なるかを知るのである、律法不用と一と口に云へば事は頗る簡単なるが如くである、しかし乍ら其の含む内容の如何に重大であつたかは、今日これを道徳不用といふ語を以て云ひ換へてみて梢々察知し得るのである、我国に於て道徳といふ広い語の中に如何に多くの重要なるもの、貴重なるもの、神聖視せらるゝものが含まれて居るかは人の知る所である、之を悉く不用と称し、その廃棄を高らかに叫ぶのがパウロである、かのユダヤに於て神より与へられたる者として神聖視せられ居たる律法(265)を彼は「既に廃棄せられたり」と高調したのである、彼の革命的、独創的にして霊界の開拓者たる面目の茲に躍如たるを思ふのである。
 彼の此の大胆なる主張は教会の内部に恐るべき敵を作つた、彼を最も執拗に苦めたのは不信者よりも寧ろ信者と称する人たちであつた、キリストを信ずるも固く律法に拘着してゐたユダヤの信者中には、パウロを背神の賊として強度に憎悪したものが多かつた、彼等の或者は恰も影の形に添ふ如くパウロの迹を追随して、到る処に彼の仕事を破壊した、勿論信者ならぬユダヤ人等は悉くパウロを律法の敵として窘めた、かく彼は同胞の迫害を手ひどく受けねばならなかつた、それでも彼は益々声を高くして律法不用を叫んだ、その姿は勇壮であると云ふよりも寧ろ悲壮であつた。
 何故に斯く為したか、そは律法よりの釈放がなくしては真にキリストに帰属することが出来ぬからである、儀文に事へ居る束縛の中にありては真に霊の新しきに事ふことは出来ない、旧き者の支配を脱せずしては新き者の支配下に己を属せしむることは出来ない、今や既に恩恵の時代にして律法の時代ではない、キリストによる恩恵は律法によらずして聖霊によりて裕かに流れ下るのである、この時旧き律法はたゞ妨害物たるのみである、さればパウロは神のため、真理のため、万民の救ひのために、凡ての障害に屈せずして此事を明かに説いたのである。 〔以上、大正11・1・10〕
 
     第三十二講 潔めらるゝ事(五) 律法の性質 七章七節−十四節の研究 (十二月四日)
 
 七章七節に於てパウロは言ふ「然らば我等何を言ふべきか、律法は罪なるや、然らず、律法に由らざれば|我れ〔付○圏点〕(266)罪の罪たるを識ることなし……」と、かく彼は此節より「我れ」なる語を用ひ始めて此章の最後にまで及んでゐる、パウロは七節より廿五節までに於て「我れ」又は「我が」なる語を用ふること実に三十八回の多きに及んでゐる、彼は茲に何等隠す所憚る所なくして自己を有りのまゝに|さらけ出して〔付ごま圏点〕居るのである、実にこれ彼の特徴として注意すべき所である。
 今この箇処を学ぶに当つて順序上前講の大意を復習する必要がある、七章一節−六節には二つの重要な事が含まれてゐる、第一は律法が死せしこと、第二は我等が罪に死せしため律法に対して死せしことである、第一と第二とは是非伴はねばならぬ、第一の律法廃棄のみにては危険である、道徳不用となりて自己が罪に死せざるに於ては罪をして益々跋扈せしむる事となる、故に律法が自から不用となるやうに我等自身が罪に対して死なねばならぬ、我等自身が罪に死ねば律法は自然不必要となりて存在の要なく、徒つて我等が「律法について殺されしもの」となるのである、真の生活に入れば律法は自から不用となる、故に律法不用は真の生活の欠くべからざる要素である。
 此事は今日に至つてさへ基督教会に於て未だ充分に了得せられない、ましてユダヤ人の間に於ては、パウロは律法の敵、神の敵として詛はれてゐる、今日に於て尚この有様である、彼が初めて此事を唱道した当時に於て教会の内外に潮の如き敵を起せしは当然の事である、もと/\律法とはユダヤ民族の国祖モーセがシナイ山にてヱホバ神より与へられたるものである、之はそれほど神聖なるものである、然るにパウロは敢て大胆にそれの廃棄を高唱した、以てその如何に革命的なりしかを知るのである、且又彼に無数の敵のありし理由を知るのである。
 然かし乍ら彼の主張は単なる律法廃棄ではなかつた、律法のみに事へては却て律法を行ふ事は出来ぬ、律法を(267)廃棄して福音に従ふに至つて初て却て律法の真精神を充たし、且行ふことが出来ると彼は主張する、即ち棄つるは寧ろ拾ふ道であり、破るは却て之を充たす所以であると彼は曰ふ、律法のみならず凡ての宗教道徳に対して彼は此事を云はんとするのである、棄つるは即ちそれを実現する道である、凡て福音に従ひキリストに事ふるに至て他の教を全く棄つるとき、人は他の教を事実的に行ふことを得る、福音を信ぜずして他の道徳や宗教に従ひ居る時は却て之を行ふことが出来ない、後者を去つて前者に従ふ時初めて前者をも充たし得ると彼は主張するのである。
 さて七節後半を見るに「律法に由らざれば我れ罪の罪たるを知ることなし、それ律法に貪る勿れと言はざれば我れ貪慾《むさぼり》の罪たるを識らざるなり」とある、そして以下パウロは自己の罪悪感の告白をなして居る、「貪る勿れ」とは人も知る如く十誡の第十条である、彼は此誡めに由て貪慾の罪なることを知つたと云ふのである、茲に問題となるのは何故彼が茲に貪慾の罪のみを挙げて他の罪に言及しなかつたのかと云ふ一事である、或人は答へる、これパウロが殊に貪慾の心の強い人であつたからであらうと、併しながら是れ徒らに彼を悪しく見る偏頗心に囚はれし者である、八節以下に於て我等が彼の深刻痛烈なる罪の告白に接する時、そして彼が既往千九百年間最大の基督信者である事と思ひ合せる時、彼の誠実なる人格と偉大なる霊魂に対して深き敬意を払はざるを得ない、或人はパウロを罪の人として蔑み、或人はパウロに斯かる苦悶を与へし基督教を力弱しとして貶するであらう、併し乍ら我等は彼の如き偉大なる人物に此深き苦悶ありしを知りて、同じ苦悶の中にも大なる慰めを感ずるのである、罪に苛む事これ決して神に棄てられし事ではない、否之こそ人が神の国に収めらるゝ前程であつて、之を通過して初て真の平安と歓喜の中に入るのである、彼れパウロの如きすら貪慾の罪に深く苦みしと云ふ事は、(268)種々の意味に於て強く我等を慰めるものである。
 抑もモーセの十誡中その第十条は頗る注意すべきものである、「|汝貪る勿れ」とは実に人の内心に関する戒めである〔付△圏点〕、人が其心に於て他人の物をほしがる事これが貪る事である、それが外部に表はれて場合により種々異つた行為となるのであるが、唯心の中だけで慾心を抱くのが貪慾である、|十誡は其第十条に至て人の内心の慾を強く戒めて、十誡全体の根元に横はる内部的性質を表示するのである〔付○圏点〕、外に表はるゝ諸々の罪を戒めることは要するに内に潜む貪慾を戒める事である、貪慾は凡ての罪悪の源である、そは凡ての罪と悪の行為は皆心の中の悪念から起るからの事である、十誡第十条「汝貪る勿れ」は実に此意味に於ける戒めである(内村鑑三講『モーセの十誡』参照)
 パウロはモーセの十誡を以て常に其心を照らしつゝあつたであらう、青年にして熾烈なる宗教心及び道徳心を抱きし彼れパウロが十誡の各条と相争ひし有様は悲壮を極めたであらう、そして彼は多分第一条より第九条までは守り得たりとの確信に達したかも知れぬ、併し乍ら其時第十条「汝貪る勿れ」の一句が恐しき力を以て彼の面前に迫り来つたであらう、そして彼の心の醜きを摘出する恐るべき解剖刀の如く働いたであらう、そして第九条までは守り得との確信にありし彼の心の堅城を物の見事に打ち砕いたであらう、彼は此の第十条の鋭き攻撃に会ひては遂に降参する外はなかつたであらう、そして「我は罪人のうち首《かしら》なり」と数多度叫び、又「この死の体より我を救はん者は誰ぞ」と幾度も幾度も哀求したことであらう。
 「殺す勿れ」との誡は守り得ると云ふ、又「姦淫する勿れ」との誡は守り得ると云ふ、然り寔にさうである、さり乍ら心の中に於て悪念の生起するは如何ともすることが出来ない、そして既に心中に悪念の生起する上は、(269)心の中に於ては明かに殺し或は姦淫したのである、かく考ふれば「貪る勿れ」との誡めが守り得ぬ以上は、他の凡ての誡めを守り得るともそれは外部的だけのことであつて、内部的には凡ての誡を犯した事と同様となるのである、故に此第十条を以て責めらるゝ時は誰人と雖も言逃るゝを得ない、キリストを除いた他の凡ての人は狂人ならざる限り、茲に自己の罪を認白せざるを得ないのである、オーガスチンもさうであつた、ルーテルもさうであつた、バンヤンもさうであつた、十誡第十条を以て自己を照らす時誠実の士にして誰か自己の罪を悟らぬ者があらうか、さればパウロは此場合彼一人特有の貪慾罪について云ふてゐるわけではない、むしろ万人の心に巣喰ふ貪りの罪悪について自己を活ける実例の一として提出したのである、即ち彼は万人の罪人であることを言外に含ませて自己の罪人なることを告白し、そして凡ての罪悪の根源なる貪慾の罪を挙げて凡ての罪を代表させたのである。
 パウロは八節より益々明かに自己の経験を記すのである、八節前半には「而して罪は誡の機《をり》に乗りて我中に様々の貪慾《むさぼり》を起せり」とある、貪る勿れとの誡めは貪慾の罪なることを明かに示すけれども、併しパウロの心は禁ぜられて却て刺戟を受くるが如く、却て益々貪慾の罪を行ふに至つた、もとより誡が罪の起因ではない、心の底に潜んでゐる様々の貪慾が此誡に会ひて明かに擡頭し始めたのである、故に誡がないとすれば罪はあつても眠つてゐるのである、之をパウロは八節後半に於て説いて曰ふ「律法なければ罪は死ぬるものなり」と、罪は死ぬるとは全然罪を犯さないと云ふのではない、罪が眠つて居ると云ふのであり、又罪を犯してもそれが罪として意識せられないと云ふのである、実に律法なき時は罪は死ぬるものである。
 パウロは進んで九節に於て「われ昔律法なくして生きたれど、誡来りて罪は活きかへり我は死ねり」と云ふて(270)其年少き時を回顧した、彼が年少にして未だ律法を知らなかつた時は何等罪の意識の彼を苦しむるなくして、溌溂たる生気が彼の小さき心の内に充ちて居た、しかし長じて律法を学び誡を知るに至て罪は明かに心の意識に上つて来た、そして此罪の自覚は烈しき苦悶を以て彼を撃ち彼を殺した、彼は生くれども死せるが如き人となりて唯茫々乎として日を送るのみであつた、「かくて人を生かさんための誡は却て是れわれを死なしむる者となれり、如何にとなれば罪は誡の機《をり》に乗りて我を惑はし、その誡をもて我を殺せり」とパウロは更に十、十一節に於て言ふた、これ反覆であり又結論である、その意味は上来記す所に依て自から明瞭であると思ふ。
  「律法」と云ひ「誡」と云ふ、律法は此場合狭義に用ひられて十誡だけを指したものであらう、誡〔付○圏点〕は十誡の各条を指したものであるが、此処では単数を以て記されてゐるから、前後の関係上その第十条のみを指したものと思はれる。
 以上に於てパウロは律法の性質及び律法と罪との関係を自己の実験として記したのである、誡が眠れる罪を誘起するものである事は明確なる心理上の事実である、誡即ち道徳の命令があればそれに反抗してみ度くなるのが人の心である、権威あり命令あれば反抗心は自然誘起さるゝのである、今日の世界を見よ反抗的過激主義は到る処に瀰漫してゐるではないか、凡て権威といふものを否認せんと欲し、今ある所の権威には飽くまで反抗せんとするが現代の風潮である、これ律法が罪を制へずして却て眠れる罪を誘起することの好き証明である、たとひ善き命令なりとも、貴き道徳的戒律なりとも権威を以て強ひらるゝ時は之に叛逆し度くなるのが人間固有の悪しき癖である、茲に人間の罪の深さが見える、これが人類堕落の証拠の一である。
 律法のある所必ず罪は多く行はるゝのである、道徳的教養の盛なる社会は然らざる社会より却て罪が多く行は(271)れる、文明人は却て野蛮人以上の罪悪敢行者なることは事実である、之を我国に於て見るも現代ほど国民道徳――忠君愛国の道――の教へられた時はない、然るに忠君愛国を強く/\教へられし後の日本人間に於ける其心の減退を見よ、これ誰人にも明白な事ではないか、愛国の教を以て育てられし現代の中年青年者の間に果してどれ程の愛国心があるか、今や愛国心の衰退の著しきは誰人も知る所の明白なる事実である、国を愛せよと道徳を以て命ぜられて人は却て此の命令に背くのである、茲に人の罪の底知れぬ深さが見える、故に律法は人の罪を顕明《あらは》にするものである、心の底に潜んでゐる罪を心の表面まで浮き上げるものである、即ち「誡によりて罪の甚しき事は現はるゝ」(十四節)のである、律法によりて罪の意識が生るゝのである、これ律法の働きである、律法は之だけの働きをする、併し之以上のことを働き得ないのである。
 然らば律法とは悪しきものなるか、否「それ律法は聖し、誡も潔く正しく且つ善なり」(十二節)である、律法は人を救はない、然かし人を救ふ準備をする、何となれば人は救はれんためには自己の罪を痛切に認めねばならず、そして之を認めしむるが律法であるからである、人は律法によりて罪に定められる、そしてキリストによりて此罪より救はれる、救者《すくひて》は勿論主イエスキリストである、彼のほかに人を救ふものはない、さり乍ら彼の来る前に先づバプテスマのヨハネが来らねばならぬ、専ら道徳的命令を以て人々の眠れる心を打ち醒ます彼れヨハネが来らねばならぬ、ヨハネは道徳を以て人々を責め人々をして己の罪を認白せしめる、然る後ちキリストは其救の御業をなすのである、重ねて云ふ律法は人を救はない、しかし人を救ふ準備をする、そは律法は人をして罪を意識せしむるものであるからであると、これが律法−誡−道徳といふ者の本性である。
 
(272)     第三十三講 潔めらるゝ事(六) パウロの二重人格 七章十四−廿五節の研究 (十二月十一日)
 
 信仰は元来個人的である、他人の信仰を語るのではない、教会の信仰を語るのではない、又人類全体の信仰を語るのでもない、|自分の信仰〔付○圏点〕を語るのである、「我等が」ではない、「吾人が」ではない、「人類又は教会が」ではない、「我が」である、「私が」である、複数ではない、単数である、第二人称又は第三人称ではない、|第一人称単数である〔付○圏点〕、パウロは大宗教家であつたが、今日の宗教家の如くに単に一般的信仰を述べなかつた、彼れ自身の信仰を述べた、自身を信仰の実験物として他人の観察に供するを恥としなかつた、茲に彼の信仰の強味がある、「|我は〔付○圏点〕肉なる者にして罪の下に売られたり」と、「|我が〔付○圏点〕願ふ所のもの|我れ〔付○圏点〕之を行《な》さず、|我が〔付○圏点〕悪む所のもの|我れ〔付○圏点〕之を行す」と、「あゝ|我れ〔付○圏点〕困苦《なやめ》る人なる哉、この死の体より|我を〔付○圏点〕救はん者は誰ぞや」と、|我れ、我れ、我れ〔付○圏点〕と自分の実験を以て宗教的真理を証明す 之よりも確かなる事はない、而して此信仰なきものは信仰又は宗教を語るべからずである、而して大なる宗教家はすべて此実験を有つた人である、アウガスチン、ルーテル、バンヤン等は皆この種の人であつた、「我れ」と言ひ得ずして「吾人」と言ひて人類全体の背後《うしろ》に己を隠すものの如きは、到底真理を的確に紹介し、人を確実に救ふことの出来るものでない。
 二重人格といふ言葉は心理学より出でたるものである、即ち人は一人の人に非ずして二人……或場合に於ては二人以上……より成るとのことである、同一の人に於て悪人は善人に伴ひ、肉の人は霊の人に繋がると云ふのである、これ決して美はしき事ではない、人は一人たるを要する、善人は全部善人たるべきである、彼は其半面に於て悪人であつてはならない、二重人格の人は決して理想の人ではない、彼は偽善者に類する者である、而して(273)使徒パウロも亦二重人格の人であつたと云へば大抵の基督信者は承知しないのである。
 然るに羅馬書七章七節以下に於てパウロは明かに自己の二重人格について述べてゐる、勿論二重人格なる文字を用ひない、乍併その事実は明かに語つてゐる、「我れ願ふ所の善は之を行はず反て願はざる所の悪は之を行ふ」と云ひ、又「我れ自から心にては神の法に服ひ肉にては罪の法に服ふなり」と云ふて確かに彼に二重人格のあつた事を証明するのである、即ちタルソのパウロは一人のパウロではなかつた、善きパウロと共に悪きパウロがあつた、霊なるパウロと共に肉なるパウロがあつた、内なるパウロと共に外なるパウロがあつた、神の律法を楽しむパウロと共に罪の法に従ふパウロがあつた。
 茲に於てか説をなすものがある、曰く是れパウロが自己について語つた言ではない、パウロとも云ふべき人が斯くありよう筈がない、然り斯くあつてはならない、パウロは茲に不信者を想像し、其心中の苦悶の状態を述べたのであると、しかし乍ら言辞《ことば》はあまりに明白である、彼は茲に「我れ」と言ひて「彼等」とは言はない、彼が不信者の有様について述ぷる時には明白に彼等を指して言ふて居る(一章八節以下を見よ) 茲に於てか更にまた説をなす者がある、曰く是れパウロが彼の不信者時代の状態を述べたる言である、一たび信者となりし以上彼に斯かる煩悶苦闘の有りやう筈がないと、然し若しさうであるならば彼は何故明白にさう記さないのか、彼は何故茲に過去動詞を使はないで現在動詞を用ひて居るのであるか、何故明白に「我れ願ふ所の善は之を|行はず〔付△圏点〕(現在動詞)反りて願はざる所の悪は之を|行ふ〔付△圏点〕(現在動詞、邦語聖書に|行へり〔付ごま圏点〕とあるは誤訳である)」と記して居るのであるか、パウロは茲に明白に今ロマに在る兄弟たちに向つて此言をなして居るのである、其時彼は確かに現在を忘れ得なかつたに相違ない。
(274) されば羅馬書七章後半はパウロ自身の実験、しかも其当時の実験を述べたものと見るほかないのである、それは文辞そのものゝ上から見て明かである、他人のことを想像して記した場合に斯く生々した言葉の出る筈はなく、又過去の追懐の記述が斯くの如き鮮かさを有つ筈がない、特にパウロの如き正直なる人に於ては目下実験し居らざる事を実験し居る如く記すことは全く不可能である、敬虔質実なる註解者にして之をパウロの其時の実験と見るものが、カルビンを始めとして其の以降かなり多い、余は全然彼等に同意し彼等と同じ見方を採るものである。
 文辞の解釈上より我等は右の見方の正しきを思ふ者であるが、更に進んで之を基督信者の実験に訴へてみる時かゝる二重人格の苦悶が事実上基督者にあることは頗る明白である、苟も基智者が真の基督者である以上、理想と実際の矛盾より起る言ひ難き苦悶を必ず担ふに相違ないのである、信仰に入りし後ち一回も此種の苦悶を味はずと誰か敢て言ひ得るものがあらうか、即ち神に従はんとする心と肉に従はんとする心とが共に我衷に存して、そこに激烈なる戦が行はれつゝある事は凡ての基督者の実験する所である、これ謂ゆる内心の分裂である、アウガスチンと云ひ、ルーテルと云ひ、クロムウエルと云ひ、バンヤンと云ひ凡そ模範的の信者は何れも之を経験したのである、之あればこそ霊を肉に宿せる所の人であると云ひ得る、之なき者は人でない、人以上か或は人以下である。
 此事を述ぶるに当つて余は他人の実験を幾つも紹介することが出来る、しかし実は其必要がない、なぜと云ふに余は茲に余自身を此実験を味へる者として提出し得るからである、余は基督者となりて後ち凡そ五年を経て初めてキリストにある平和を与へらるゝに至つたものである、そして此以前に於ては勿論此以後に於ても、パウロが此処に記せる如き苦き経験を味はざるを得なかつたのである、即ち基督者となりて後ち此苦悶あり、キリスト(275)にある平安を獲し後とても多かれ少かれ此苦悶は存したのである、|今も存するのである〔付△圏点〕、斯く言ふは決して恥ではない、又信者の威厳を損ずることではない、これは聖霊心にはたらく時に必然起る所の心中の波瀾、魂の呻きである、これ基督者を見舞ふ嵐である、パウロも此嵐の襲来をしたゝかに受けた人である、これは毫《すこし》も怪むに足らぬ事である。
 問題の別かるゝ所は第二十四、五節である、「あゝ我れ困苦《なやめ》る人なるかな、この死の体より我を救はん者は誰ぞや」と二十四節にはある、信者は勿論、不信者にても良心の鋭敏なる人は此苦悶の哀声を茫々たる宇宙に向つて発せざるを得ないのである、人は如何なる人と雖も二重人格者である、人には神の律法を喜ぶ半面と喜ばざる半面とがある、自己と自己とが戦ひつゝあるのが人である、自己の中にて光と暗とが争ひつゝある故に上よりの光が人に臨めば臨むほど却てこの心中の矛盾、苦悶は激烈深刻となるのである。
 我を救はん者は誰ぞやとの此疑問に対して普通人は「|一人もなし、全宇宙に一人もなし、人生は斯かるものなり、矛盾と苦悩が人生の常の姿なり、故に永久に戦はんのみ、戦はんのみ〔付△圏点〕」と答へる、これ可成り勇ましき決心である、しかし之れほどの決心を起し得ざる者は、人生はかゝるものなる以上この問題を説かんとするは愚、従つて斯る疑問を起すは愚なりと考へるのである、これ普通人の態度であつて、人をこの悩みより救ふ者は一人もなしと云ふのである、然るに茲に少しく自信の強き人々がある、彼等は「誰ぞや」の疑問に対しては「|たゞ我あるのみ〔付△圏点〕」と答へる、彼等は言ふ、人は自分で自分を支配せねばならぬ、自分の悪しきは自分で之を改めねばならぬ、之は自分の責任として当然為さねばならぬことである、他の者に頼りて改めて貰ふと云ふ如きは無責任であると共に不可能であると、其言は甚だ壮である、併し乍ら事実は言葉以上に雄弁である、彼等は自己の力を以て(276)自己を改めんとするも事実上全き失敗に終り、依然として為すべからざるを為し、為すべきを為さざる状態に止まるを以て終るのである、それにも係らず彼等は口だけにてはたゞ「我あるのみ」を繰返すのである。
 この苦悩《なやみ》より我を救はん者は誰ぞやとの疑問に対して或人は「誰もなし」と答へ、或人は「我の外になし」と答へる、併し二者いづれも失望を以て終る点は同一である、然らば基督者は如何なる答を為すのであるか、|我を救ふ者は誰か、自己ではない、他の人でもない、如何なる偉大なる哲学者でもない、如何なる偉大なる思想家宗教家でもない、過去にありし凡ての人、今ある凡ての人――何人と雖も此苦悶懊悩より我を救ひ〔付○圏点〕|得るものはない、たゞ一人、人にして人ならざる者、神にして神ならざる者、一たび神性を脱して人となり今は神の右に栄光の坐にある者、即ちキリストイエス〔付◎圏点〕、彼のみが能く此深刻たとひ難き苦悩より我を救ひ得るものである、「これ我らの主イエスキリストなるが故に神に感謝す」である、神の子にして人類の救主たるイエスキリストのみが我等の内心の分裂を医し、苦悶を除きて我等を幸福に導き得るのである、彼を仰ぎ彼に依り頼むとき内心の調和――苦悶の中に哀求せし所の調和――この調和が与へられるのである、故に「神に感謝す」るのである。
 茲に一の問題が起る、余は此苦悶を以て基督者の信仰に入りし後の実験であると云ふた、パウロは之を記せし時に於て確かに此実験を味ひつゝあつたのであると云ふた、然るに茲にまたキリストに依り頼めば此苦悶より救はると云ふ、この二つの考の間に矛盾はないであらうか、然り矛盾はない、此二つは共に吾人の実験上の事実である、人はキリストに依りて明かに二重人格の苦悶より救はるゝ幸福に入るのである、しかし基督者の信仰生活は此幸福の絶えざる連続であるとは云ひ得ない、|信仰に入りし者と雖も上を仰がずして自己を見つめる時は――信仰よりも良心と道徳とが多く問題となる時は――また旧の憐むべき二重人格の苦悶に陥るのである〔付○圏点〕、故に信仰(277)生活は此幸福と此苦悶との交錯であると云ひ得る、苦悶に入りて之より救ひ出され、又同じ苦悶を繰返し又同じ救ひを繰返す、これ実に信仰生活の常の姿である、もとより信仰の進歩は此苦悩の度を弱くする、内心分裂の苦みは信仰の進むと共に次第に強さを減じてくる、又苦みに陥りても|より〔付ごま圏点〕早く之より救ひ出さるゝことが出来る、それは経験上の明白なる事実であるが、此事は決して苦悶の消滅を意味しない、度合は弱くなり時は短くなつても苦悶はやはり苦悶たるに相違ないのである、いづれの基督者か其理想を完全に実現し得るものぞ、既に実際が理想までに達せぬ以上は其処に或る自己不満、或る焦慮、或る煩悶はあるべき筈である、しかし主にありて救はるゝ道は常に備へられて居るのである。
 パウロの茲に述ぶる所は彼の度々陥りし所の心的状態である、彼も亦繰返し/\此のにがき経験を嘗めたのである、嘗めざるを得なかつたのである、我等これを読みて彼と我等との苦悶の共通を知りて、彼も亦弱き一個の人なりしことを学ぶと共に、又彼より平和歓喜の人となり得る秘訣を誤りなく教へらるゝ事を喜ぶものである。
 附記して云ふ、パウロは茲に決して単なる自己の苦悶を訴へたのではない、彼は現在も亦此苦悶の中にあることを述べたけれども、それは決して唯の失望懊悩の声ではない、彼は明かに茲にキリストに因る救を説いてゐるのである、故に之は敗戦の哀号ではなくして勝利の凱歌である、呻きつゝ、悶えつゝ、苦みつゝ而かも高らかに発する所の凱歌である、実に力ある奏曲 真正の意味に於ての大文字である、深く鋭く強く人の肺腑をつく、けれども絶望の哀声でない故に決して人をして失望せしめない、強く/\人を慰める、彼は呻きつゝ勝鬨をあげて走つた人である、偉大なるかな彼れ! 凡ての基督者の最上の模範たる彼れ! 彼の名の永へに讃へられよかし!
 
(278)     第三十四講 救の完成(一) 第八章全体の大意 (十二月十七日)
 
 薙馬書は十六章より成るが故に、分量的に見るも第八章は其中心である、之を一の山に譬へれば第八章は実に登りつめた所、即ち絶頂である、そして九章よりは下りとなるのである、羅馬書は新約聖書の中心であり、その第八章は羅馬書の中心である、故に羅馬書第八章は新約聖書の中心である、かの独逸敬虔派の創始者スピーネルの言として伝へらるゝ所によれば、「もし聖書を指輪に比するならば羅馬書は其宝石であり、第八章はその宝石の輝点(sparkling point)である」との事である、実にこれ聖書の最高点である、近く天を摩せんとする所の絶巓である。
 今八章の第一節を見るに「この故にイエスキリストに在るものは罪せらるゝ事なし」とある、そして八章の最終句は「そは或は死或は生、或は天使或は執政《つかさ》……また他の受造物は我らを我主イエスキリストによる神の愛より絶《はな》らすること能はざる者なるを我は信ぜり」とある、罪せらるゝ事なしは慥に大なる恩恵である、しかし之は恩恵の消極的方面であつて、たゞ罪せられないと云ふだけである、然るに八章の終尾は何者を以てするも、何事を以てするもキリストの愛(キリストが我等を愛する愛)より我等を離らし得ないと云ふのであつて、明かに恩恵の積極的方面を説いたものである、恩恵は先づ消極を以て始まり遂に積極の絶頂に及ぶものである、これを記せしが第八章である、最初の句が恩恵、最後の句が恩恵であるが故に、その間に挿まる各節が悉く恩恵を記せしものである、羅馬書八章は実に「恩恵記」である。
 次に八章全体を見るに其処に自から論述の順序といふ者がある故、これを数段に分ちて見ることは解釈上に益する所多いのである、そして註解学者は何れも最上の分析をなさんと競ふため、今日まで幾つかの分ち方が発表せられたのである、今一々これを紹介するは益なき事である故、こゝには羅鳥書誌解の最高権威の一人たるゴゥデーのそれを用ふることにする、ゴゥデーは左の如く五つに分けたのである。
  (第一段) 一節−四節、罪より免かるゝ事。
  (第二段) 五節−十一節、罪と其結果たる死より免かるゝ事。
  (第三段) 十二節−十七節、神の子とせらるゝ事。
  (第四段) 十八節−三十節、世嗣とせらるゝ事。
  (第五段) 三十一節−三十九節、大讃美。
 但し精しく云へばゴゥデーは一節より十一節までを第一段と見てそれを又二つに分けたのであつて、従つて全体を 段に分けて居るが、茲には便宜上彼の心を採つて全体を五つに分ける事にしたのである。
 |第一段〔付○圏点〕はその第一節に於て「イエスキリストにある者は罪せらるゝ事なし」と断定し、その根拠として二、三、四節を記してゐる、「活かす霊の法《のり》」を以て律法に代るべきものと見て、聖霊の働きに重きを置いたのが其特徴である。
 |第二段〔付○圏点〕は罪の結果たる死より免かれて永遠の生命を与へらるゝ幸福を説く、これ亦聖霊に依るのである、「もしイエスを死より甦へらしゝ者の|霊〔付○圏点〕汝等に住まば、キリストを死より甦らしゝ者は其汝等に住む所の|霊〔付○圏点〕をもて汝等が死ぬべき身体をも生かすべし」と十一節にある通りである。
 |第三段〔付○圏点〕は聖霊に依て神の子とせらるゝことを主眼とする、「凡そ|神の霊〔付○圏点〕に導かるゝものは是れ即ち神の子なり」(280)と十四節にあり、「聖霊みづから我等の霊と共に我等が神の子たるを証す」と十六節にある、人類は悉く神の子であるとは能く聞く所のことである、併し乍らパウロに依れば、或特別の状態にある者のみが神の子である、それは人類の全部ではなくして其幾部分である、即ちキリストを信じて罪と死とより免かるゝ特別の恩恵に接せし者のみが神の子である、この恩恵と幸福とに接しないものは、それが如何なる聖者哲人であつても決して神の子ではない、それはたゞの人の子――人間である、神の子とは普通の人より一転して全く別な或る他の者と成つた者を云ふのである。
 |第四段〔付○圏点〕は世嗣たる事を説く、「我等もし子たらば又世嗣たらん」と十七節に言ふ、神の子たる者は又世嗣たるに至るといふのである、たゞ神の子たる名称と資格を得たと云ふのみに止まらない、或る|実物〔付○圏点〕を賦与せらるゝと云ふのである、神の子とせられし者は神の子として止まる以上は必ず或る実物を神より与へらるゝのである、即ち「神の世嗣にしてキリストと共に世嗣たる者」である、然らば何を父より譲り与へらるゝのであるか、答へて言ふ|改造せられたる宇宙――全世界万物〔付○圏点〕――を与へらるゝのであると、別の語を以て云へば全宇宙と共に救はれて其字宙の主人公となるのである、実に壮大なる希望ではないか、これ実に神の子たる者がキリストと共に世嗣となりて受けんとするものである、茲に至つてパゥロの信仰、思想、希望は絶頂に達したのである、|基督者は復活して栄光を纏ひて改造完成せられたる全宇宙の主人公となると云ふ〔付○圏点〕、これが基督者を待つ所の最大の栄誉また救の完成である、あゝ偉大なる思想よ、人類の抱き得る思想にして之以上に出づることは到底出来ないのである。
 茲に至つて|第五段〔付○圏点〕の壮麗なる讃美の歌は自からパウロの唇をついて流れ出たのである、流れ出ざるを得なかつたのである、之は決して作つた詩ではない、大希望大感謝の溢れ漲れる心より自然と流れくだりし大歓喜の滴《したゝ》(281)れである。
 以上が第八章の大意であるが茲に尚ほ注意すべき一つの事がある、それは七章以前の全部と第八章との相違点である、七章までに於ても勿論救ひは説かれて居るが、之を八章のそれと比較するに大体に於て外部的であると云はねばならぬ、勿論救ひのことであるから之を霊魂に受くる点より云へば内部的であるが、しかし八章の|より〔付ごま圏点〕内部的なるに比すれば|より〔付ごま圏点〕外部的であると見ねばならぬ、即ち七章までに於て説かるゝ救は重に人の外に在る事を信ずるのである、即ち十字架に於けるイエスの贖ひを信ずるのである、又イエスを仰ぎ瞻てそれを型として潔めらるゝのである、その他何れの点より見るも信者の外に於て在る事を信受すると云ふのである、之にて救は全うせらるゝであらうか、否、更により内部的なる一事が必要である、神御自身が聖霊として我等の衷に下りて、我等の霊と合体し、以て我等を助け我等の救を完成し給ふ事、この事が是非ともなければならない、これ内部よりの救であつて実に第八章の主題である、神は内外より我等を救ひ給ふのである、外に神の御業を示して我等を救ふこと――之れ第七章までの主題である、内に聖霊を働かしめて我等の救を完成すること――之れ第八章の主題である。
 パウロは加拉太書三章一節に於て「愚なるかな既にイエスキリストの十字架に釘けられたる事を明かに|其目の前に現はされたる〔付○圏点〕ガラテヤ人よ、誰が汝等を誑かしゝや」と云ふた、十字架のイエスを明かに目の前に現はさるゝ事、此事に依て人は自己の罪の赦免を悟りて魂の平安を得るのである、義ならざるに義とせらるゝ事を学びて歓喜の人となるのである、又彼は哥林多後書三章十八節に於て「すべて我等|※[巾+白]子《かほおほひ》なくして鏡に照すが如く主の栄を見、栄に栄いや増りて其おなじ形に化《かは》るなり、これ主即ち霊《みたま》に由りてなり」と言ふた、之は己の外に在る主(282)の栄を常に仰ぎ瞻る事に依て己も亦それに似ると云ふのである、義とせらるゝと云ふ事潔めらるゝと云ふ事、これは共に重要なることであるが自己以外の或者、或事がその主要素となつて居るのである、故に比較的に云へば外部的である、之が羅馬に於て七章迄に説かれたことである。
 かく始まりし救は内部的に完成せられねばならぬ、聖霊が内より信者を化さねばならぬ、これ八章の特に教ふる所である、その十六節に「聖霊みづから我等の霊と共に我等が神の子たるを証《あかし》す」と云ひ、又二十六節に「聖霊も亦われらの荏弱を助く、我等は祈るべき所を知らざれども聖霊みづから言ひ難きの慨歎《なげき》を以て我等のために祈りぬ」とある如き共に此章の特色を示す言葉である、聖霊が信者の心を占領して内部より彼を動かし、励まし、教へ、力附け、以て外よりの関係を内的に完成、成就すると云ふのである。 なほ他の語を以て云へば、七章までは神と人の関係を説き八章は神と人の|合一〔付○圏点〕を説いたものである、関係は関係だけで止まつては未完成である、この関係の発展するところ遂に合一、一致、融合にまで至らねばならぬ、そして此の合一は実に霊と霊の合一を以て起らねばならぬ、先づ霊と霊が合一すれば相互の最も深き所に於て合一したのである故、その他の合一も当然実現さるゝのである、そして神の霊はキリストの霊である、又聖霊である、この聖霊が信者の心に臨んでその霊と一致融合する時謂ゆる神人合一は実現せらるゝのである、之を説きしものが第八章である。 〔以上、大正11・2・10〕
 
     第三十五講 救の完成(二) 第八章一節の研究 (一月八日)
 
 羅馬書八章の大意は前回に於て述べた、之より各節の研究に入るに当つて羅鳥書全体の研究につきて一の注意(283)を与へたい、羅馬書を研究しつゝ茲に来つて我等は同一の事を反覆し来つたやうな感を免かれない、問題は「義とせらるゝ事」と云ひ「潔めらるゝ事」と云ふが如き二三に止まつて実に単純である、否単調である、如何にパウロが熱誠をつくして述ぶるとも、反覆と単調とは到底免かれ難い、之を現代の如き進歩せる複雑の社会にありて種々雑多の問題に囲繞せらるる者より見て如何にも不調和の感を免れない、世の思想と事業とが凡て進歩して複雑となれるに、信仰の事のみ斯く単純なるは、あまりに現代と没交渉ではあるまいかと、これ起りやすき疑惑である。
 之について思ひ起すは昨冬来、米国ワシントン府に於て開かれつゝある軍備制限会議のことである、今や世界の視聴は悉く此会議に向つて注がるゝが如き観がある、こゝに世界各国の第一流の政治家が会合して精力を傾注して商議し、各国の新聞紙はその模様を細大となく精細に報告してゐる、これ今や実に現下の世界最大の問題である、然らば此会議の主題は何であるか、新問題か新研究か新発見か、否、否、否依然として古き旧き人間社会の創まると共に起りし問題である、しかも其問題は決して複雑ではない、極めて単一、たゞ一の問題である、即ち人と人との間、社会と社会との間、国家と国家との間に|如何にせば正義が行はるゝか〔付○圏点〕の問題である、もし此の正義が行はれぬ時は他の凡ての良き事が――文明世界の凡ゆる公益も便安も――空しきに帰せしめらるゝ危険がある、故に此正義が行はれぬときは他の凡ての良き事は有るも無きに等しい、されば如何にせば正義が人の社会に行はるゝかは実に人間世界の最大問題である。
 他の多くの書が廃れつゝある中に聖書のみは何故に廃れないのであるか、何故羅馬書は聖書の中心として常に信者の注意の焦点となつてゐるのであるか、これ人間社金に於ける正義実行の問題をその深き根柢に於いて解く(284)は聖書、殊に羅馬書であるからである、けだし人間相互間に於ける正義実行の問題は当然遡つて個人の正義実行の問題となり、個人の正義実行の問題はまた当然遡つて神の前に義たる道如何の問題となるのである、何となれば神の前に義たる人にして初めて個人として正義の実行者であり得、個人として正義の実行者である者にして初めて人間相互に対する正義の実行者であり得るからである、故に如何にせば人間社会に正義が行はるべきかの問題はその究竟に於ては、|如何にして人は神の前に義たるべきか〔付○圏点〕の問題に帰着するのである。
 故に人類間の平和問題はつまり神人間の平和問題である、人と人との間の正義の問題はつまり神と人との間の正義の問題である、ワシントン会議に於ては我日本人が如何はど此問題に心を傾けて居るかゞ試験せらるゝのである、固より会議に列れる欧米各国人が悉く篤信の基督信徒であるとは云はない、併し乍ら長年欧米民族を養ひ来りし聖書は彼等の感情と精神とを今尚ほ支配しつゝあらぬと誰か云ひ得よう、先祖は如何、伝統は如何、彼等と雖も自国の利益を思はないではないが、外に一種犯し難き正大の公義的精神を深く持てるは事実である、やはり問題は聖書の問題である、聖書の中心問題が彼等の心の深い所を動かして居るのである、然り或意味に於て聖書は依然として彼等を支配しつゝあるのである、ワシントン会議が今の世界人類の第一問題であるのは、つまり聖書の問題が世界人類の第一問題であるのである、この意味に於て聖書は依然として人類を支配してゐると云ひ得る、曾て或人の言ふたことがある、「予言者イザヤが以賽亜書に於て平和の予言をなせし以来二千六百年間、人類世界は依然として戦を歇めないけれども、併し如何にかして戦を歇め度しといふ希願と理想とを抱きつゝ来つた」と、平和は実に聖書問題である、聖書の精神は平和実現の日を見ずば已まじと云ふに在る、人類を最も動かしつゝあるものは聖書である、故に人類が最も熱心に研究せねばならぬものは聖書である。
(285) 羅馬書八章の骨子は前講に述べし如く罪より免かるゝ事、死より免かるゝ事、神の子とせらるゝ事、世嗣とせらるゝ事である、そして罪より免かるゝ事は一節−四節の主題である。まづ第一節を見よ。
  この故にイエスキリストに在る者は罪せらるゝことなし
とある、之を原文に忠実に訳せば
  この故に 今や キリストイエスに在る者は 罪せらるゝ事なし
と改めねばならぬ。
 語《ことば》は頗る簡単である、之を分析すれば「この故に」「今や」「キリストイエスに在る者」「罪せらるゝ事なし」といふ四つの語句より成つてゐるのである、かく語は簡単である、しかし意味は決して簡単でない、殊に此一節を前後の意味との連絡上から眺めれば、決して平易簡明といふことは出来ないのである。
 「この故に」(ギリシャ語の ara《アラ》 英語 therefore)は何を受けての語かゞ先づ難しい問題である、普通この語は一般に直ぐ前の語を受けて云ふ語であるから、七章の末尾を受けたと見るが自然である、しかし斯く見るときは七章の末節と如何に連路するかゞ問題となる、七章最後の語は「されば我れみづから心にては神の法に服ひ、肉にては罪の法に従ふなり」である、之れを受けて「この故に」と云ふたとは少しく不合理ではあるまいか、二重人格の状態に於てある故キリストに在る者は罪せらるゝ事なしとは意味を為して居るであらうか、或は肉は罪の法に服ふも心は神の法に服ふ故――換言すれば実際は低卑なれども理想だけは高逸なる故――キリストに在る者は罪せられぬと云ふ意味か、然る時は基督信者は理想だに高く持てば実状は如何やうでも良いと云ふ事になるのか、これは誰人も肯ぜぬ所であらう。
(286) かく「この故に」を七章末尾を受けしものと認められぬ以上は、どこか他に適当な所を見出さねばならぬ事となる、之が明瞭にせられぬ時は道徳的に見ても由々しき問題となるのである、故に僅に一句の問題と云ひて之を輕視する事は出来ないのである、ゴオデー其他の註解者は此語を以て七章六節を受けたものと見てゐる、然るときは七章七−二十五節の苦悶の告白は一の挿入文と見られるのである、勿論挿入文と見るのは単に文法上の見方であつて、そのために其意味を輕く見ることにはならぬのである、挿入文と雖も此箇処の如きは主文に優るとも劣らぬ重要の所であることは云ふまでもない。
 七章六節を見るに「されども今われらを繋げるものに於て死にたれば律法より釈され、儀文の旧きに由らず霊の新しきに由りて事ふ」とある、これを八章一節の「この故に」が受けたとすれば意味の連絡は頗る合理的である、儀文を棄てゝ聖霊によりて事ふるに至りし故にキリストに在る者は罪せらるゝ事なしと云へば誰にも意味が明瞭となるのである、由来七章六節は前段の結論たる重き語である、この一語に此前の凡ての叙述が総括されたとも云へる、そして今や第八章に入らんとして此語を受けて先づ「この故に」と云ひて、前との関係を保持しつゝ新問題は提供されんとするのである、義とせらるゝ道、潔めらるゝ道が既に論ぜられ終りし故、それを受けて八章との境界線の上に立ちて「この故に」と云ふのである、いよ/\之より救の完成、全き栄化を論ぜんとする分水嶺上の「この故に」である、一の小さい語であつても其位置は決して小さくないのである。
 「今や」は|今に於ては〔付ごま圏点〕である、キリストすでに我等の罪を担ひて十字架にかゝりし今は、キリスト既に復活して神の右に坐する今は、此のキリストを信じて義とせられ潔めらるゝに至りし今は……である。
 「キリストイエス」と改めねばならぬ、日本訳の「イエスキリスト」は誤訳である、この両語の間に区別があ(287)るであらうか、「イエス」と云ひ、殊に「イエス様」と云へば其処に一種の親みが湧く、又「キリスト」と云へば何となく崇高く貴い感じがする、今「キリストイエス」と云へばキリストといふ感じが先に立ち、「イエスキリスト」と呼べばイエスといふ感じが強くなる、「キリストイエス」と云へばキリストと云ふ位に立つ所のイエスを意味する、即ち復活昇天して今神の右に在りて権能の位に坐する所の、しかし我等に親しき所のイエスを意味する、然るに「イエスキリスト」と云へば我等の友なるイエスといふ観念が第一となりて、権能者といふ観念が第二となるのである。
 「キリストイエスに在る者」とは何を意味するか、勿論基督者を意味する語ではあるが、|キリストの僕〔付ごま圏点〕と云はず又|キリストを信ずる者〔付ごま圏点〕と云はず|キリストに在る者〔付ごま圏点〕といふたのには意味がある、之はキリストと信者との最も深き関係を語る言葉である、キリストを仰ぐとか信ずるとか、又はキリストの僕とか云へば未だキリストと己とを別に見たのである、キリストに在ると云ふのは、己をキリストの中に入れてしまつた状態である、キリストの大なる霊の中に我が小なる霊が這入つて、二者一となつたことである、恰も理想的の君臣、理想的の夫婦の如き乙が甲の心の中に飛びこんで了つた有様である、キリストに在るとはキリストとの合体である、故に信仰の最も徹底せるものである、基督信者は勿論キリストを信ずる者であり、又キリストの僕たる者である、しかしキリストとの最も深き関係を示す語としては「キリストに在る者」である、実に美はしき語である。
 「キリストイエスに在る者は罪せらるゝ事なし」といふ、罪せられぬと云ふこと、神より滅亡《ほろび》の宣告を与へられぬと云ふこと、罪の果たる死滅を課せられぬと云ふこと、これ人たる者の最上の希願且努力でなくてはならぬ、故にキリストに在る者は罪せられずといふは実に大なる福音である、キリストに在りさへすれば罪の果たる(288)罰を免かるゝと云ふのである、実に大なる特権、至大の恵みである、刑罰の恐怖は真実に神を懐ふ者に於ては免かれ難き所である、神の大法の神聖厳粛なるを知り又自己の罪の深重夥多なるを知りては、良心の鋭敏なるもの誰かこの恐怖なきを得よう、故に罪せらるゝ事なきを知りて此恐怖の失する時、言ひ難き平安は人の魂に漲るのである。
 八章一節は短けれども偉大なる言葉である、この語が実験上の事実として味はれ、心の底より自分の語として発せらるゝは実に幸なる時ではないか、何者を以ても我は罪せられず自己の深き罪を以てしてさへ罪せられずと知りて、何らの幸か之に過ぐる者があらうか、既に神より罪せらるゝ事なしとの声を聞いたのである されば天上天下如何なる事が我に起り如何なるものが我を襲ふても、患難、迫害、飢餓、危険《あやうき》、刀剣《つるぎ》其他のあらゆる悪しき事が来ても、死が来てさへも、未来永劫罪せらるゝ事なしとの確信が起るのである、かのバンヤンがキリストに身を隠せし者には刑罰の臨む筈なしと堅く信じて、神をさへ挑むの大胆に達せし如き、まことに此実験の芳烈なるを語るものである、我等は羅馬書八章一節を単にパウロの語として反覆するに止まらず、又これを研究して其貴さを知るに止まらず、之を自己の実験として体得し自己の霊魂の声として発し得るに至らなくてはならぬ。
 
     第三十六講 救の完成(三) 第八章一−十一節の研究 (一月十五日)
 
 八章の一節より十一節までを研究するについて、先づ一言すべきは其各節について精密なる研究をする事の殆んど不可能であると云ふ事である、優秀なる幾多の学者が各節各語の解釈について種々の異つた意見を提出して居る有様である、其中の一を採ると云ふことは可成り難しくあり、更に別に独創的の解釈を提出すると云ふ事は(289)尚更困難である、しかし聖書の言である以上、信仰を以て見ればその大様の意味は誰にでも解るのである、又各節が大切なる深き真理を語つてゐて一節として重要ならぬはない、恰も宝石の山に入りしが如くである、もし我等がパウロの心を我心として、彼の立場に立て眺むる時は、どの節を取りて究むるも彼の思想の中心に達することが出来、もし斯く一節を能く究むれば他の節も自然と割合にたやすく理解せらるゝのである、フィリップ・ブルックスの言として、「地上何れの点より掘るも垂直に掘れば地球の中心に達す」と云ふ語がある、此の箇所の如き何れの一節を取りても、之を深く/\掘ればパウロ思想の中心に達するのである。
 第一節の意味は前講に於て祝いた通り頗る重要である、キリストに在る者は罪せられずと云ふは実に大なる福音的真理である、次に二節三節四節……と十一節まで順次に各節について考へよ、各節ともに半ば解りし如く半ば解らざるが如き感を免かれない、そこに真理は隠見するけれども其本体を明確に掴んだと云ふ感じが起りにくい、併し乍らパウロの心を我心として真面目なる思考を加へ、且自己の実験に照らして之等の各節を解せんと努むる時は、其大意を掴むことは決して不可能ではないのである。
 比較的併しやすき節としては第五、六節の如きがある、まづ五節には「肉に従ふ者は肉の事を念ひ霊に従ふ者は霊の事を念ふ」とある、各語の正確なる意味については諸説あるとするも其大意は誰人にも略ぼ明かである、実に肉に従ふものは肉の事のみを思ふ、今や世の問題は概ね物質上の問題である、社会改造の問題と云ひ、経済政策の問題と云ひ、文化生活の問題と云ふも概ねこれ衣食住の問題である、併し乍ら国家としても又個人としても肉の事をのみ思ふは、死――滅亡――を惹き起すことである、史上の国にして何等国家に大精神、大理想なくして唯富国強兵等の物質的方面にのみ走りしものは、何れも遂に亡滅若しくは衰頽の悲運を招かぬはない、強固(290)なる主義、正大なる精神なくして国は興り又立たぬのである、個人も亦同様である、故に六節にあるが如く「肉の事を念ふは死なり、霊の事を念ふは生《いのち》なり安《やすき》なり」である、霊の事を念ふて生命と平安とは自から充盈し来るのである、国家然り社会然り、個人然り、これ史上の事実また個人実験上の事実である。
 次に十、十一節の如きを見よ、その如何に崇高なる真理の提示なるかは一読して明かである、「もしキリスト汝等に住まば体は罪によりて死に霊魂は義によりて生きん」とある、キリストの霊我等に住めば肉体は罪の故に死するも霊魂は永へに生くると云ふのである、しかも十一節に至れば説明は一歩進みて、神は其霊を以て「汝等が死ぬべき身体をも活かすべし」と云ふ、即ち復活である、これ皆基督者に宿る聖霊の働きに因るのである、永遠の生、永生への復活――それをパウロは確言し、主張し、高唱するのである、げに貴重なる真理の提示と云ふべきである。
 その他の各節を解するに当つて注意すべきはパウロの言が論理的でなくして、|重畳的〔付○圏点〕であると云ふ事である、近代人の文は論理と分析を特色とし凡て正しき連路を保ちて記される、然るにパウロやヨハネは論理に頓着せずして、心中に潜む真理を続々として累積的に注ぎ出す、乙は甲の上に重なり丙は乙の上に重なり、層々相重なりて見る者をして眩からしむる、これ聖書に於て初代教会の偉大なる文字に接するときに忘るべからざる事である。
 第一節には二つの大きい観念がある、第一はキリストイエスに在る事即ちキリストと合体する事、第二は斯かる人は罪せらるゝ事なしとの事である、或意味に於て八章全体は此の二大観念の敷衍であるとも云ひ得る、キリストに在る事と云へば即ちキリストの霊(聖霊)が信者に宿れる事である、そして聖霊の信者にありての働きは実に八章の力をこめて説明する主眼点である、又罪せらるゝ事なしとは恩恵の消極的半面ではあるが、消極は当然(291)進んで積極に至るべきものであつて、此消極より積極への恩恵の進展は即ち八章の主題であるとも云ひ得る、故に八章全体は実にその第一節を引きのばしたものであるとも云ひ得る、従つて二節以下の各節は凡て第一節の説明であるとも云ひ得るのである。
 まづ第二節の意味は如何、「そは活かす霊の法《のり》はイエスキリストに由りて罪と死の法より我を釈せばなり」と云ふ、これ第一節の「キリストイエスに在る者は罪せらるゝ事なし」の理由として掲げられし語である、されば第一節の語に対しては前講の如く七章六節が理由となつてゐると共に、此の第二節も亦理由となつて居るのである、「罪と死の法」と云ふ、法とは何を云ふか、此場合は|律法〔付ごま圏点〕の意ではなく、一の方則、一の原理を意味するのであるが今これを|権能〔付ごま圏点〕と見るが解釈上には最も便利である、罪と死との権能ほど人を力強く把握してゐるものはない、人の生涯は罪を犯しつゝ死を前に望む恐怖の生涯である、罪の苦悶と死の恐怖と、この二つは人が墓まで携へゆくべき道連である、免かれんとして免かれ得ざる恐るべき運命よ! げに「罪と死の法」は人をしかと抑へて身動きも出来ぬやうにして居るのである、此の恐るべき法、この払ひのけ難き権能、これより免かるゝ道が何処かにあるであらうか、罪を脱し死を免かるゝ道あるか如何、これ寔に人生の至難なる問題である。
 而して此問題に対して第二節は答を与へてゐるのである、「キリストイエスにある生命の御霊の法は汝を罪と死との法より解放したればなり」(改訳聖書)と、現行訳よりは改訳の方が正確である、但し此文の目的格を「汝を」とすべきか「我を」とすべきかは原本に依て相違せるため容易に定め難いのである、併し「汝を」でも「我を」でも「我等を」でも此節の主意には別段の影響はない、注意すべきはパウロが「解放したればなり」と云ひて之を過去の事として記せる点である、パウロは茲に我(又は人)の実験として此事を記したのである、罪と死と(292)の権能より免かるゝは唯「キリストイエスにある生命の御霊の法」に依る、この御霊の法が我(又は人)を死と罪との法より解き放つたと云ふのである。
 実験の語を理解するには実験に訴へるを最上の道とする、余は曾て罪と死との苦悶の中に懊悩の幾年月かを送つたものである、罪と死とは放たじと余を抑へてゐた、然るに遂にキリストの十字架を仰ぎ瞻るや不思議に此恐るべき罪と死との権能より免かれた、苦悶は失せ、罪と死の圧迫は去り、歓喜と自由は一身にみなぎるに至つた、その理由は充分に解し難い、しかし其事実は空に日の照る如く明かである、この実験に照らして第二節に対する時は、別に何等の思考を要せずして第二節の語が其儘に自然と味得せらるゝのである。
 然りキリストの十字架の贖罪力に触るゝとき人は誰人も罪と死よりの釈放を味ふのである、併し乍ら「キリストイエスにある生命の御霊の法」とありて、茲に聖霊の働きが記されて居るのに注意せねばならぬ、聖霊は即ちキリストの霊である、又生命の御霊である、このキリストの霊が人の心に入るや罪と死の権能は如実に心中より駆逐せられる、これ実験上の事実である、美しき情感、けだかき思想を伝ふる所の詩文を読むとき、人は一時なりとも感激に心の浄化せらるゝを感ずる、此世の詩人文士の霊すら一時なりとも人を浄める、ましてキリストの霊の人に及ぼす力幾許ぞ、彼の霊一度人の心に入るや聖浄《きよき》の霊なるが故に罪の法を排除し生命の霊なるが故に死の権能を駆逐する、あゝ人よキリストの霊を受けよ、然らば我を抑へゐたる罪の力はもはや我に対する支配力を失ひ、我を脅しゐたる死の権能は失せて永への生命の我前途に無限に開展せるを感ずるであらう、蘇国の神学者チヤルマズは「新き愛の排逐力」(Expulsive power of new affection)なる語を用ひた、新き愛が入れば旧き愛はおのづと排逐せられる、此世とその物とに対する愛慾が人の心を占領して彼をして罪と死との法に服せしめ(293)てゐる、そこにキリストの霊来れば新き神の国の愛は此の罪の愛を排《お》し斥《しりぞ》ぞける、これ自然の順序である、故に曰ふキリストイエスにある生命の御霊は罪と死との法より我(又は汝)を釈放したりと。
 「それ律法は肉によりて弱く、その能はざる所を神は為し給へり」と三節前半は言ふ、律法そのものは聖且義ではあるが、肉が人を抑へ居る故律法の義は行はれない、即ち人が肉に妨げられ居る故律法は無力たらざるを得ないのである、茲に於て神は律法の能はざる所を他の方法を以て為し給ふたのである、然らば如何なる方法ぞ、三節後半は言ふ「即ち己の子を罪の肉の形となして罪のために遣はし肉に於て罪を罰しぬ」と、これ彼が其独子を人の形となして世に遺はし、人の罪を罰する代りに彼を罰し、以て人の罪を処分し彼の死を以て贖ひとなし、而して人はたゞ彼を信じ彼を仰ぎさへすれば罪を赦されて義とせらるゝの道を開き給ふた事を云ふのである、これ羅馬書が三章、四章、五章等に於て極力主張した十字架の福音の反覆である。
 併し乍ら十字架の受難は単なる贖罪の為のみではない、彼の死と復活と昇天とありて聖霊人に臨むに至り、人は此聖霊を宿すために、我の故ならで聖霊の故に力を得て律法の義を行ひ得るに至るのである、されば独子の受難は人をして義を実現せしむるの道を拓いたのである、これ第四節の言ふ所である、即ち「これ肉に従はず霊に従ひて歩む我等の中に律法の義の完うせられん為なり」(改訳聖書)とある、げに「霊に従ひて歩む生活」(聖霊を心に宿して其力に導かれて歩む生活)は主の十字架を源として流れ出でしものである。
 以上を以て一節より四節までの研究を終る、さて茲に一言すべきは罪の問題である、外に現はるゝは個々の罪の行であるが、その源は心の底に深く横はる|汚敗〔付○圏点〕である、後者ありての前者である、前者ありての後者ではない、然るに普通の人は罪の行が源であつて其れを重ねし結果心に汚敗が臨んだと云ふ、之に対してパウロは心の底に(294)横はる汚敗が罪の行の源であると云ふ、そして|此汚敗の源は神よりの離絶であると云ふ〔付△圏点〕、別言すれば神よりの離絶があるため心の汚敗があり、心の汚敗があるため罪の行があるのである、真に或人の云ひし如く先づ disruption《ヂスラプシヨン》(分離−神よりの分離)ありしために corruption《コラプシヨン》(汚れ、心の腐敗)が起り corruption《コラプシヨン》起りしために eruption《エラプシヨン》(爆発――罪の爆発――心の汚れが出口を見出して外に爆発せしもの即ち個々の罪)が起るのである。
 故に人を罪より救ふ道はその源に遡つて神との離絶を恢復して先づ神と和がしむるに在る、然る時は自然と心の腐れが医され、心の腐れが医さるゝ時は自然と罪の行より遠ざかるのである、福音の救済法は実にこれである、末に走つては努力奮闘も効果がない、源に至つて初めて事績は挙がる、人に神を示し、人をして神との離絶を恢復せしめ、人をして神に和がしむるが福音の救済である、故に最も有効なる最も徹底せる救済である、何故キリストは十字架に死するの決心をなせしか、何故神はその独子を世に降して之を十字架の犠牲《いけにえ》とせしか、そは斯くしてのみ神と人とが和ぐに至るからである、十字架を通してのみ人の神よりの離叛が医さるゝからである、そして此源を正す事に依てのみ束なる罪が除かれるからである、人が神に立ち帰るため、人と神とが一致するため、聖霊が人に降るため、即ち罪が除かれ人が救はれんためには此十字架の窄《せま》き路より外に路はないからである、然るに世人は此最も根本的なる救済を棄てゝ徒らに末にのみ走つてゐる、然し乍ら十字架の源を以てせずしては到底人は救はれないのである。
 
     第三十七講 救の完成(四) 八章五節−十三節の研究 (一月廿九日)
 
 羅馬書八章の一節より十三節までを読みて、誰れにも明かなることは「肉」なる文字の多いことである、此語(295)は第三節より出始めて十三節までに実に十三回の多きに達してゐる、パウロは何故にかく数多く此語を用ひたのであるか、|それは霊の反対は肉なる故に肉について知るは即ち霊に就て知る所以であるからである〔付○圏点〕、換言すれば霊の事を明白ならしめんためには肉について知るを要するからである。
 尚ほ注意すべきは羅馬書八章を研究する時の心得である、此章は救の完成について説いたものでパウロの信仰の絶頂であり、極致である、従つて之を理解することは容易でない、しかもパウロは今までと違つて之に数章を費さずして僅に一章を用ひたのみである故、文字は頗る圧縮されて居り理解は一層困難となるのである、理解に難きものを人に向つて解釈し説明せんとするは尚更に困難である、又解釈を聴いたとてそれだけで解るものではない、かゝる大文字に対しては聖霊の指導により信仰の実験を重ねて味解するより外に道はない、即ち説明や解釈を経ずして唯パウロの文字そのまゝが心に味得せられる時を待つ外はない、しかし此時を招来するために二つの予備行為を要する、第一は此のまゝ此章を暗記して置くことである、之は此文字を其儘味ふ方法である、第二は誤解することなきやうに、誤解しさうな箇所について注意をして置くことである。
 本講は此意味に於て「肉」なる語を説明し之についての誤解をたゞすを目的とする、我等は先づ左の如き語に注意する。
  肉の事を思ふは死なり(六節)。
  そは肉の事を思ふは神に乖《もと》るが故なり(七節)。
  肉に居るものは神の心に適ふ事能はず(八節)。
  もし肉に従ひ役へなば死ぬべし(十三節)。
(296)人は此世にありて肉体に包まれて生きてゐる、最も貴しと云はるゝ其霊魂さへも肉体の中に宿つてゐる、肉体を保持するために飲食、衣服、住居の必要がある、もし肉のために計ることが悪いと云ふならば人は一時も生存してゐることが出来ぬ、然らばパウロの右の語は恰も我等に向て「自殺せよ」と云ふと同じではあるまいか、もし然りとせば是れ人に不可能を強ひる事であると云はねばならない。
 単に右の語のみに止まらない、聖書中には禁慾主義を奨励せし語と思はるゝ所が他にも頗る多い、まづイエスの語について見るも山上垂訓中に「生命のために何を食らひ何を飲みまた身体のために何を衣んと憂慮《おもひわずら》ふ勿れ」(太六の二五)の語があり、肉の生命の喪失をすゝめし如く思はるゝ語として「我がために其生命を失ふものは之を得べければ也」(太十六の二六)の如きがあり、又独身生活を奨励せし如く思はるゝ語として「天国のために自から成れる寺人あり」(太十九の十二)の如きものがある、その他一々挙げ難い、又イエスの教訓以外にも之に類するもの頗る多く、その中パウロの語たる「汝等の地にある肢体を殺すべし」(西三の五)の如きは明かに禁慾奨励の語なるが如く思はれやすい、ために基督教を禁慾主義の宗教と考へる人々がある、かゝる人々は右の如き聖語を引用して自己の所信の裏書きとするのである。 かく基督教を禁慾主義、隠遁主義の教と見る人を大別して二種とすることが出来る、第一種の人は不信者の中にある、彼等は基督教を禁慾隠遁の教と断じ、到底実行不可能なりとし、故に到底信受すること能はずと云ふ、彼等は基督教を以て天然の方則を無視し存在の根本を脅す者と考ふるのである、又一度び此教を信受せし者にして斯く考へて之を棄て去りしものが多い、彼等は云ふ、基督教は禁慾主義にして到底実行できぬ教である、故にその信者と称する者も勿論之を行つてゐない、行ふことが出来ないのである、従つて信者となるは偽善者となる(297)ことである、行ひ得ぬ事を信じて之を行つてゐるやうな顔をすることである、これ明かに偽善者である、かゝる偽善の生活に堪へずして我等は此教を棄てゝ自然人となつた、我等は今自然人となつて自然のまゝの生活をしてゐる、かの偽善者輩は我等を卑めるが、偽善者として己を欺き人を欺くよりも自然人たる方が遥かに正直であると、かく云ひて彼等は基督教を貶し自己の立場を擁護してゐる。
 基督教を禁慾の宗教と見る第二種の人は信者中の或者である、之は昔より今に至るまで一の流をなして歴然として存してゐる、基督教の歴史を見れば時を異にし処を異にして禁慾的傾向の表現するを見る、実に基督教を禁慾の教と解して禁慾実行に其心身を委ねた人は古来頗る多いのである、中世紀に此傾向の如何に著しかつたかは人の知る所である、沙漠に隠遁して難業苦行に従ひし人の多かりしこと、僧院の盛なりしこと何れも著しき事実である、そして多くは痛ましき破船の歴史を好き教訓として後世に遺せしにも係らず、今尚ほ禁慾的生活に従ふを以て聖意を行ふ事となす人が少なくない、現に今日米国に於てさへシェーカー派なる禁慾主義の一派があり、又旧教に於ては僧職は独身者に限るほどである、そして単に基督教に於てのみではない、仏教の歴史を見ても又回々教の歴史を見ても禁慾厭世の色彩は必ず伴つてゐる、個人として禁慾生活に没頭せし者も頗る多く、又一の宗派として之を重んぜしものも少からず現はれた、凡そ宗教と云ふ宗教には此傾向は免かれざるものと見える。
 然し乍ら基督教は果して禁慾厭遁の宗教であらうか パウロが斥けし所の「肉」なる語の意味は如何やうに解すべきであらうか、これ明かに一の問題である、先づ注意すべきは|基督教の根本精神が決して禁欲厭世に無いことである〔付○圏点〕、キリストが屡々婚姻の例を引きて自己を新郎に譬へたるは周知の事実である、「新郎の友其新郎と共に居るうちは悲む事を得んや」(太九の十五)と云ひて自己を新郎にたとへ、又自己の再臨を新郎の入来に譬へた(太(298)二十五六章)、キリストは新郎であつて信者は新郎の友であり、或は新婦であると云ふのである(パウロが哥林多後書十一章二節に於て「我れ汝等を一人の夫に聘定《いひなづけ》せり、これ汝等を潔き女《むすめ》としてキリストに献げんとするなり」と云ひしを見よ)、又イエスは其実際生活に於て、ヨハネの禁慾生活と対照せられて「食を嗜み酒を好む人」と云はれたほどであつた、又ヨハネの弟子やパリサイの人の断食するに相対して彼の弟子は断食しなかつたとある(太九の十四)、彼の生活には何とも云ひ難き一種の美はしき自然さがあつた、それは断食その他の禁慾的行為を以て宗教の要諦と考へてゐたパリサイの輩と著しき対照をなした、イエスの教訓と生涯とを見て、基督教が禁慾の宗教ならざることは明かである。
 |基督教は禁慾主義の宗教でないのみならず却て禁慾主義を排斥する宗教である〔付△圏点〕。パウロは晩年に於て信徒の間に禁慾的傾向の起つた時之を戒めて言ふた「汝等もしキリストと共に死にて此世の小学を離れしならば何ぞ世にありて日を送る者の如く人の誡命《いましめ》と教とに循ひ、※[手偏+門]《さは》る勿れ嘗《あじは》ふ勿れ触るゝ勿れといふ律法の下にあるや……」と(西二の二十以下)、これ禁慾を主とする旧き律法の下にあるを批難せし語である、又彼は結婚を禁ずる一派を異端として排した(提後四章)、「娶ることを禁じ食を断つことを命ずる」教を「人を惑はす霊と悪鬼の教」となして排し「それ神の造りし物はみな美《よ》きなり、感謝して受くるときは棄つべき物なし、そは神の言と祈祷によりて潔くなればなり」と教へた、さればパウロを禁慾主義の主張者の如く見るは彼の片言隻語をとらへて誤読せし結果である。
 基督教は禁慾主義の教でない、さりとて其正反対なる放縦主義の教でもない、基督教は主義ではない、生命である、即ち死せる原理や律法ではない、生ける一の生命である、生命なるが故に固形した規則や主義方則はな(299)い、常に溌剌として動くものである、いま羅馬書八章十三節を見るに「もし肉に従ひ役へなば死ぬべし もし霊(聖霊)によりて身体の行為《はたらき》を滅《ころ》さば生くべし」とある、生命の動く所まことに斯くの如くである、|寔に自力を以て肉を殺すのではない、律法として肉が禁ぜられるのではない〔付○圏点〕、|聖霊の力を以て適当に肉を処分するのである〔付◎圏点〕、「身体の行為を滅す」とあるも人としての固有の慾を禁圧してしまふと云ふ意味ではない、肉をして人を支配せしめないやうに為る事である、即ち肉の支配を脱することである、|聖霊の力を以て肉の支配を脱し、聖霊の指導の下に適宜に慾を処理してゆく〔付○圏点〕、これがパウロの意味する所である、「霊(聖霊)に由りて」とい一句に深い意味がある、此句がなければパウロも普通の禁慾的信者と選ぶ所がない、此一句に基督教の特殊的性質が含まれて居るのである。
 聖霊はキリストを信じキリストを仰ぎ瞻る結果として与へらる、この聖霊を与へられて其指導と力の中に己を委ねる時、人は肉に支配されないで肉は適当に支配される、禁慾といふ一方の極端に行かず放縦といふ他方の極端に走らずして宜しきに適ふに至るのである、聖霊を以て肉を支配して行く道は第一には有効的であるといふ長処がある、自力によらず聖霊の力に由るのである故、自力の如く失敗に終る虞れがない、これ即ち有効的なる所以である、そして第二の長所は此道による時は自然にして無理なく又見苦しからぬと云ふ点である、謂ゆる宜しきに適ひて自から則を超えずである、この二つは明かにその長所であると思ふ。
 故に基督教は謂ゆる「特別に潔き事」(形の上に潔きを行ふこと)を要求しない、特別に或る潔い生活――普通の人のそれと形を異にした生活――たとへば独身隠遁等の生活を営む必要は少しもない、普通人の普通生活を送ればよい、たゞ信仰を以て之を美化する事が要求されるの違がある、これ即ち聖霊の下にある生活にして、真の(300)潔きは却て此生活の上に存するのである、かの形の上の潔きを貴ぶ禁慾隠遁の謂ゆる修道生活が人を潔くする能はずして却て大腐敗を持ち来せしは、仏教、回教、そして基督教の歴史にも顧著なる事実である、人は如何なる禁慾的の難業苦行に従ふとも到底その慾を滅ぼし得べきものではない、この不自然に訴へる者は却て惨憺たる失敗を招くのである、|聖霊を受け聖霊の指導を以て適宜に肉を処分してゆくより外に人が肉に克つ道はないのである〔付△圏点〕。
 然らば慾は如何の程度に於て制限すべきか、答へて曰ふ、|自己を義とせざる範囲に於て行ふべし〔付○圏点〕と、例へば慈善は自己の或物を棄てたのであつて一種の制慾である、此慈善をなして自己を義とし潔しとし美き事を為したりと誇るやうでは誤つてゐる、誇り得ざる程度内にて施すべきである、自己を潔しとせざる程度に於て即ち自然に出来る程度に於て施すべきである、但し聖霊の指導の下にありて行はねばならない、故に時に従つて変化があり増減がある、|聖霊ゆたかに下らば〔付○圏点〕施済《ほどこし》|の度も亦ゆたかとなり、聖霊の力を感ずること小なる時は、施済の度も亦小となるのである〔付○圏点〕。
 規則ではない、主義ではない、鞭撻ではない、聖霊に導かるゝ生活である、故に禁慾といふも普通の禁慾ではない、禁酒禁煙といふが如きも我等は主義や律法として之に支配されて行ふのではない、|霊が充されて心に平安満悦を味ふ自然の結果として、おのづから酒や煙草が不用となつたのである〔付△圏点〕、之が基督信者の禁慾、(もし禁慾と云ひ得べくば)である。 〔以上、大正11・3・10〕
 
     第三十八講 救の完成(五)=神の子と其光栄=第八章十四−十七節の研究 (二月五日)
 
(301) 羅馬書研究の困難なるは我等がバウロの心持に入ることの困難なるに基因する、もし彼の居る立場に我等も立ち得れば彼の思想は決して了解し難くない、然るに何時とはなしに自己の旧き立場に帰りて、そこから彼を眺むる故不可解となるのである、されば時々既説せし所を振りかへりつゝ前に進むを必要とする、第八章の研究に当りては、我等は時々七章までの論述を想起《おもひおこ》し反覆すべきである。
 今こゝに「罪」といふ問題について既説せし所を想起し度い、普通個々の悪の実行を罪と考へるものが信者にも多い、併し乍らパウロをして云はしむれば、又基督教をして云はしむれば、罪とは甲の悪事、乙の不徳の問題ではない、|神を離れてゐる事これが即ち罪である〔付△圏点〕、即ち基督教にて云ふ|罪とは道徳的ではなくして宗教的である〔付△圏点〕、人と人の間の善悪の問題ではない、専ら神と人の関係の上に成り立つことである、旧約聖書を読むとき我等は常に此事を忘れてはならない、其処に於ては罪とは常に神よりの離絶であるが故に、罪を犯せし際は如何にして神に立ち帰るかと云ふが問題となるのである、此見方よりする時利未記に記載されある各種の祭事の如きは頗る有意味となる、何となれば之等は実に神と人との離隔を除きて二者の関係を復旧せんための企であるからである、実に神に立ち帰ることが第一の問題である、謂ゆる道徳的の善悪問題は第一問題ではない。
 電球は其のまゝにては何等の光を放たない、これを電線につなぎて初めて光を放ち得る、人は電球の如きものである、独りありては暗々黒々たるのみである、これ即ち罪であり不信である、故に神につながりさへすれば、恰も電球が電線に繋がりし如く即坐に輝光《ひかり》を放ちて周囲を照すのである、電球は電線を離れ居ては如何にひとりで努力し工夫しても光を放ち得ない、人が神を離れての努力、修養、工夫は如何に積り重なるとも零の加重である、我等は自己一切の考量、工夫、計度《けいたく》、努力を棄てゝ唯生命の源なる神に帰ればよいのである、これ悔改、(302)復帰である 罪を離れし事である、かくすれば線に繋がれし電球の如く求めずして光を放ち得るのである。
 日に三度己を省ると云ふ、それは普通道徳としては貴いことでもあらう、けれども基督教に於ては無効である、反省と云ひ修養と云ひ自己改善と云ふ、これを毎日毎時つゞけても無効である、恰も汚れし水の沼より清水を得んとするが如く無効である、一度び此迷ひを棄てゝ神に帰するに至れば、これ生命の本源に繋つたのである故、いづこからともなく新しき生命と光明との我に臨み来るを感知するのである、神に己を任せ奉りキリストを仰ぎて我の「義」となすが最上の、最大の、最初の事でなくてはならない、人は自立しては暗黒と死滅あるのみ、故に今も後も永遠の未来までも神に従ひ居らずば光を放ち得ない、来世に於いての完成と云ひ栄化と云ふも、それは決して神を離れて自立する意味に於ての完成栄化ではない、神は永へに光と生命の本源である、茲に造物者たる神の栄がある、人は永久に神に従ひて此光と生命とに与るのである、こゝに被造物たる人間の栄がある、かの反省、修養、努力を以て信条となす者の如きは此簡単なる一事を忘れて人は自立して光と生命とを発し得べしとの思念に囚はれし人々である、即ち被造物たる人間の位置を忘れて造物者の位置に己を高めんとすることである、これ道徳の範囲に於ては善であるかも知れぬが、宗教的に云へば不幸にして「無謀」の名を以て称する外ないのである。
 悔改めて神に帰するに至れば即ち「神の子」となつたのである、「我等神の子たり」と約翰第一書にはある、「凡そ神の霊に導かる者は是れ即ち神の子なり」と羅馬書八章十四節は云ふ、然らば神の子となるの道如何、約翰伝一章十二節に言ふ「彼を接け英名を信ぜし者には権《ちから》を賜ひて神の子と為せり」と、イエスを受け彼を神の独子として信受せし者には其信仰に応じて聖霊を賜ふて之を「神の子」と為し給ふのである、併し乍ら斯く成(303)りし者と雖も一度キリストの連結絶ゆるときは神の子でなくなるのである、彼は神の独子なるキリストに連つてゐる限に於て神の子たるのである、即ち人は神の独子にありて神の子たるのである、約翰伝十五章の葡萄樹の教が能く示す如く、神の子とは幹なる独子の枝たる事である、そして幹に充つる所の生命の液汁を受け、幹と同体となりて生長することである、これ神の子たる者の性質である、羅馬書第八章十四節以下を学ぶに方て、此事を予め知つて置かねばならない。 基督教とは人類の皆な神の子なる事、従つて人類が皆な兄弟姉妹である事を教へる宗教であると思つてゐる人がある、其伝道者と称する人々の中にすら斯く説く人が多い、併しながら聖書は生れながらの人を決して「神の子」とは呼ばない、たゞ「人の子」と云ひ又「アダムの裔《こ》」と云ひ又「此世の子ら」と云ふ、そしてキリストを信じ神に帰属して神の国に入るに至りし者のみを「神の子」と云ふ、即ち「神の子」とは人類の全部を指さずして其小部分を指して云ふ語である、かく言ふたとて人類の小部分のみが神の愛の中に住み他は悉く神に憎まれて居ると云ふのではない、たゞ聖書に記さるゝ文字の意味を明かにしたのである。
 少しく前に帰つて第八節を見るに其処に注意すべき語句がある、「もし|神の霊〔付○圏点〕なんぢらに住まば汝等は肉に居らで霊に居らん、凡そ|キリストの霊〔付○圏点〕なきものはキリストに属かざるものなり」とある、外に「聖霊」なる語が十六節、二十三節、二十六節其他に幾度も用ひられてゐる、即ち|茲に神の霊、キリストの霊、聖霊の三つがある〔付○圏点〕、しかし乍ら此三つは別々のものなるが如く又同一者を指せしが如くに見える、哥林多前書十二章にも「賜は異なれども|霊〔付○圏点〕は同じ、職は異なれども|主〔付○圏点〕は同じ、また行為は異なれども一切の事を凡ての人の中に行ふ|神〔付○圏点〕は同じ」とありて、こゝに聖霊、キリスト、神の三者がふしぎに並べられて居るのである、神は一にあらずして父、子、(304)聖霊の三より成るといふ謂ゆる三位一体の教が茲に示されてゐるのである、約翰伝十四章に「イエス曰ひけるは、もし人我れを愛せば、我言を守らん、……|我等〔付○圏点〕きたりて彼と共に住むべし」とある、これは三位の禅が信者に宿ることを意味したものと見る外に見方はないのである。
 羅馬書八章に依て見るに|人の救はるゝは実に此父なる神とキリストと聖霊との共同事業である〔付○圏点〕、換言すれば三位一体の神の業である、何故三が一であるのか、一が三であるのか其理論的説明は出来ない、之の此論(Analogy)を天然界より取ることは出来るであらう、又その他に了得を助くるための多少の説明は供し得よう、併し乍ら問題は要するに実験の上の事実であると云ふ事である、之は神の力を味ひ主の導きを知り聖霊の助けを感じた者の霊魂に於て実得せらるゝ真理である、実に自己の救が此三者の共同の上に成り立つを実験し、そして三といふも実は一の中の三であることを実感せる者に於ては、三位一体といふ教義ほど満足を与ふるものはないのである、|父は上より、独子は側より、聖霊は下より働きて人の救は成る〔付○圏点〕、即ち甲は召し、乙は助け、丙は擡げるのである、これが人の救はるゝ唯一の道である。
 茲に一の家族ありて其中の一子が家を去りてあらぬ道を走りしとして見よう、その時は|家中総がゝり〔付△圏点〕で此子を家に取り戻さんとする、父は威厳を以てする愛、母は慈悲を以てする愛、兄は同情を以てする愛に依りて三方面よりの共同働作を以て其子を救はんとする、かゝる三者共同の愛あらんか頑硬なる不幸児と雖も遂には悔いて立ち帰らざるを得ない、神は人の弱きを知り給ふ、人は三方面よりの愛の包囲攻撃に会せずしては容易に神に帰り得ないのである、茲に神の霊が父の如く、聖霊が母の如く、主キリストの霊が兄弟の如くにして上より、下より、側より共働して初て人を救ひ得るのである、恰も人の肉体に病患あらんか全肉体が総がゝりにて之を医さんとて(305)大活動を為すが如く、一人の迷へる子の救のためには三位の神の全体的活動を要とするのである、かくてこそ人は神の子とせらるゝのである、以て神の子たるの特権と栄誉と幸福と恩寵とを知らるべきである、そして此三は三にして一であるといふが三位一体の教である。
 三位一体とは理論の上には容易に理解しがたきことである、併し乍ら此理由を以て此大切なる真理を否定せんとするは大なる愚である、凡そ真理といふものは――殊に宗教的真理は――頭脳で解つたからとて真に解つたのではなく、頭脳で解らぬからとて真に解らぬのではない、頭脳はたゞ理論といふ表面の事を知るだけの作用しか表はさない、霊魂に於て実得すると云ふのは之とは大に異なる事である、霊の求むる所は理論ではない、実感である、三位一体といふが如きも理論の説明は充分に出来ない、頭脳では容易に解らない、併し乍ら神の子とせられた者は実験の上に此真理を味得するのである。
 神の霊に導かるゝ者は神の子である(十四節)、此霊はアバ父よと呼ぶ霊である(十五節)、聖霊は我等が神の子たることを証する(十六節)、かく既に神の子とせらる、然らば子として何か譲り受くる嗣業があるか、十七節に曰ふ「我等もし子たらば又|後嗣《よつぎ》たらん、即ち神の後嗣にしてキリスと共に後嗣たるものなり」と、神の子とせられし者はキリスと共に後嗣とせらると云ふ、然らば嗣業として何を賜はるのであるか、答へて云ふ|嗣業は改造せられたる宇宙万物である〔付◎圏点〕と、|神の子は改造せられたる体を与へられて改造せられたる全宇宙を嗣業として受けるのである〔付○圏点〕、之が神の子の特権であり栄光である、全宇宙を改造して之を彼を信ずる者に与へんとするのが神の心である、三十二節に「己の子を惜まずして我等凡ての為に之を附せる者はなどか之に併《そ》へて万物をも我等に賜はざらんや」とあるを見よ、万物と云ふ、我等は宇宙万物の下賜を事実に於て望んでゐるか、我等の希望とい(306)ふのはどれ程の希望であるか、我等人間は実に|つまらぬ〔付ごま圏点〕物を最大の望として居るではないか、恰も小児が小さき玩具を与へられて満足し、親が更によき物を与へんとの心を有つも之を知らぬが如く、人類は狭き地上に於ける小地位、小名誉、小資財を得んために営々努力して神が全字宙を与へんとして待ち給ふに気がつかない、小玩具を得て全き満足を感ずる子を見て親がそれを憫む如く、神は小さき物を得て得意げに満足する人間を愍み給ふのである、実に全宇宙を賜はる光栄が人類の前にある事を知らずして、遥かに小なる地上の一得一矢に悲喜哀苦する事の愚かさよ!
 改造されたる宇宙万物の賦与、之が神の側より視たる人の救である、救とは之れ以下の事ではない、神の子とせられたのは、即ち基督者とせられたのは之を与へられんが為である、罪より救ひ、死より救ひ、遂に全宇宙を賜ひて其処に限りなき生命を附与する事これ即ち救である、神の心は常に之である、然るに人は茲まで到らない、基督者と称する者さへも多くは小さき修養、道徳的改善、社会奉仕、浅薄なる愛の実行を以て満足せる有様である、これ実に基督者たる事の意味を知らざること、神が人を神の子とせし御心を知らざることである、我等果して此大希望を抱きて其のために聖書の研究をして居るか、小道徳や小改善や社会救済位ゐを目的として聖書を研究して居るか、我ら深く省察すべきである。
 「神の後嗣にしてキリストと共に後嗣たる者なり」と云ひてパウロの心は右の如き大希望に躍り立つたに相違ない、そして自ら描きし天国の栄光に却て眼くらまんとする如く感じたに相違ない、光の大なるは人をして眩惑せしめる、そして夢より醒めし如くに基督者の此世にて受くる苦みを想起して彼は言ふた「我等もし彼と共に苦みを受けなば彼と共に栄をも受くべし」(十七節後半)と、此世に於てキリストと共に苦むは基督者の当然の運命(307)である、今の苦難、後の光栄、これは連続せる一事の前と後とである、又この苦難はかの栄光の反面であると云ふ事もできる、故に苦みを訴へて哀声を放つのではない、栄光の反面としての苦みを思ふのである、そして此「苦み」たる基督者特有の苦みである、此「歎き」たる基督者特有の歎きである、|あまり大なる栄光なるがため歎きが伴ふのである〔付○圏点〕、故に宇宙と共に歎く悲歎《なげき》、神と共にキリストと共に聖霊と共に歎く悲歎である、かゝる深刻莊大なる歎きが他の何処にあらうや、如何なる文学者が此大悲歎を筆にし得べき、深くして大、到底筆にも言語にも表はしがたいものである。
 さり乍ら「われ思ふに今の時の苦みは我等に顕はれん栄に此ぶべきにあらず」と十八節に在る、凡ての基督者の苦みも後に腸はらんとする栄に比してはあまりに小であるのである、それほどに賜はらんとする栄は大であるのである、あゝ誰かこの栄に心躍らざるべき、誰か此栄の約束に歓喜の膏全心をうるほすを禁じ得べき、大歓喜の歌は口をついて出でざるを得ないのである。
 
     第三十九講 救の完成(六)=天然の呻きと其救ひ=第八章十八−二十二節の研究 (二月十二日)
 
 神の子とせられし者はキリストと共に後嗣たるものである、即ち改造せられたる宇宙万物を受くるものである、此大なる栄光を受くべき基督者に今在るものは「苦み」である、しかし乍ら「我れ思ふに今の時の苦みほ我等に顕はれん栄に比ぶべきにあらず」(十八節)である、栄より苦みへ、苦みより栄へと思想は一転し又再転す、恰も雲の上に雲が湧き出でゝ重なり、又其の上に雲が湧き出でゝ重なる如く偉大なる思想は続々生起して読者を眩惑せんとする、しかも茲に止まらず益々進みて大思想は大思想の上に重なつて起るのである。
(308) 基督者に今在るものは苦みである、後受くるものは宇宙万物である、此事を心に置きて我等は十九節以下を読むべきである。
  (19)それ受造物の切望《ふかきのぞみ》は神の諸子《こたち》の顕はれんことを待てるなり、(20)それ受造物の虚空《むなしき》に帰らせらるゝは其の願ふ所にあらず、即ち之を帰らする者に因れり、(21)また受造物みづから敗壊《やぶれ》の奴たることを脱れ神の諸子の栄なる自由に入らんことを許されんとの望を有されたり、(22)万の受造物は今に至るまで共に歎き共に苦むことあるを我等は知る。
茲に「受造物」とあるは何を意味するかゞ問題である、原語 ktisis(クチシス)は創造の行為を指すか又は創造されし物(即ち宇宙万物)を指す語である、しかし後者の場合に於て此語は宇宙万物の中より其一部を除きて残部のみを指すことがある 例へば哥羅西書一章二十三節に於ては此語を「万人」と訳し、馬可伝十六章十五節には「凡ての人」と訳してある、之と反対に人類を除きて他の無生物有生物全部を指す場合もあり得るのである、即ち此語は全字宙を指すか、人類だけを指すか、又は人類以外の有生物無生物全部即ち「天然」を指すか、此三の中の一でなくてはならない、そして此場合に於て此語は「神の諸子」に対立して用ひられてゐるから、少くとも「神の諸子」は此語の中に含まれてゐないのである、又不信者が信者の栄化さるゝ時共に栄化さるゝと云ふことは聖書の原理に反することであるから、不信者は除いて見ねばならない、信者と不信者を合せれば全人類となる、故に茲の「受造物」は人類を除きたる宇宙万物即ち「天然」を指したものと見る外見方はないのである(マイヤーの羅馬書註解に於ける明晰なる説明を見よ)、そして此見方は古来多くの優秀なる学者によつて支持せられたものである、教父時代の大学者クリソストムを始め、宗教改革時代の学者としてはエラスムス、カルビン、
(310) 天地万有は今「敗壊の奴」であると云ひ、虚空に帰らせられて居ると云ふ(二十節に受造物の虚空に帰らせらるゝは」とあるは|帰らせられしは〔付ごま圏点〕と改訳すべき者である、即ち既成の事として記されたのである)、然らば何時、如何にしてと云ふ問題が起る、之に答ふるものは創世記三章十七、八節である、曰く「汝、我が命じて食ふべからずと言ひたる樹の果を食ひしに因りて土(地)は汝のために詛はる……土は荊棘と薊とを汝のために生ずべし」と、これ神がアダムに告げ給ひし語である、即ち始祖堕落のために地も亦|虚空《むなし》に帰せしめられて敗壊の奴となつたと云ふのである、実に天然と人とは不思議の糸を以て繋がつてゐる、人死して天然も亦死し、人生きて天然も亦生きる、人類の堕落は明かに天然の敗壊を惹き起したのである、人と万物とは運命を同うする、人が罪の捕囚《とりこ》となつて堕落して万物も亦虚空に帰せしめられつゝある、人と天然とを一貫して一の心が流れてゐる、天然は人と共に苦みつゝ今に至つたのである、斯くて万物は人と等しく、その創造せられし目的を達する能はずして苦悶の呻吟《うめき》を続けてゐる、これ天然界の実状であると、これパウロの天然観である。
  「それ受造物の虚空に帰らせられしは其願ふ所に非ず、即ち之を帰らせし者に因れり」(廿節改訳)とある中最後の句の意味については諸説がある、之を帰らせし者とは何を指すかゞ問題となるのである、或人は「神」と見、或人は「サタン」と見、或人は「アダム」と見る、何れにせよパウロは万物敗壊の原因を人類堕落に置いたのであるが、万物を虚空に服せしむる力はサタンにもアダムにも無い故やはり「禅」と見るを正しとすると思ふ。
天然を敗壊の奴と見るパウロの天然観は普通人のそれとは全く異なるものである、普通人は天然を以て美の充溢する所となし、それに対して人の汚れを歎じ、天然に恒久不変を見て人の世のうつろひ易きを悲む、しかし是(311)れ浅き天然観である、天然は美なれどもそれは表面だけのことである、一歩深く其内に入れば醜怪、混乱、残害、争闘である、百花美はしく咲き揃ふ叢の中に恐ろしき生存の戦ひ、殺伐なる弱肉強食が行はれてゐる、彼等は凡て己よりも弱きものを虐げて己より強き者に虐げらるゝの悲惨なる有様にある、地の上に到る処に之が行はるゝと共に水中の到る処に同じく之が行はれてゐる、しかも之は単に自己の生存に必要な範囲に止まらずして、唯他の生命を絶ちて快とする残虐にまで達してゐる、鼬が鶏を襲ふ場合の如きは即ちこれである、即ち唯他の生命を絶ちて快とするのである、又猫が鼠を弄殺する如きは他の苦むを見て快とする惨虐性の発露である、その他数へあげれば限りがない、実に天然世界よりは苦悶の叫びが日に夜に登つてゐる、彼等は皆一様に自己の解放と自由を希つてゐる。そして神の子たちの栄化と共に己等を復興し完成せんことを切望してゐる、実にパウロが茲に記せし通りである。
 実に人類の堕落は地の堕落を惹き起した、人は如何に地を荒したことであらう、又荒しつゝあることであらう、今地を母とし人類を其子とせよ、母なる地は如何に豊富なる物資を子のために備へて置いたことであらう、先づ其一として|石炭〔付○圏点〕を挙げることが出来る、之は幾万年間の年月の産物であつて再び得がたき貴き物資である、然るに人類は其利慾のために之を空費すること激甚にして、もはや百二十年後には地中にそれを見る能はずと云はれてゐる、|石油〔付○圏点〕も同様であつて近来の此濫用はその尽きる時の近きを思はせる、之等は皆戦争、及び平生の戦備、或は工業のために用ひられるのであるが、善用さるゝ場合は少く多くは人間の愚なる好戦心、利慾心、企業心のために濫費せられて居るのである、之等は一二の実例たるに過ぎない、堕落せる人類が自然界を征服すると称して破壊しつゝ来りしことは余りに明瞭なる事である。
(312) この敗壊されし天然は人類の完成と共に完成せらるとパウロは言ふのである、以賽亜書十一章一節−九節に於ける預言者イザヤの大希望が即ち羅馬書八章十九−廿二節に於ける使徒パウロの大希望である、これ使徒行伝三章二十節の「万物の復興」である、此完き平和、万物の救の完成の希望を迷信として嘲る人は多い、併し我等は此事を敢て確信するものである、人に天然を支配する力あることは事実である、聖フランシスの如き聖き人が能く動物を制御し得しを思へ、故に人が良くなる時は天然も良くなり、人が完く救はるゝ時は天然も亦完く救はると見るは決して不合理ではないのである。
 あゝ神の力は無限である、宇宙万物の運命は未だ縮らない、或時来らば宇宙の改造は人類の完成と共に起るのである、神の造り給ひし宇宙万物の根柢には今尚ほ復興の力が潜んでゐる、勿論神には全能の力がある、今日の自然科学も亦宇宙に潜在する一種の高大なる目的を認知して、この聖書的希望を否認せざるのみか却て裏書する状態である、神は或時その無限の力を以て吾人を復活せしめ同時に天然を復活せしめ、かくして宇宙万物を創造し給ひし最初の目的を完成し給ふに相違ない、神はキリストにありて我等の深き罪を宥して我等を義とし、我等を聖め、既に大なる恩恵を雨の如く我等に注いだ、この恩恵は我この完全なる救にまで至らずば已まないのであらう、我等亦それまで至らずば満ち足らない、今迄受けたる恩恵より推して更に大なる此恩恵を賜ふことを我等は信ずる、そして我等は天然の敗壊を深く悲むが故に天然も亦復興せんことを望む、而して神はその所造たる天然の荒廃を必ず医やし給ふのである、かくて人と天然と共に救はれて万物悉く完成し、たゞ平和と歓喜のみが全天全地に充つるに至るであらう。
 此大希望なくして福音は福音ではない、この大実現なくして神は神でない、もし福音が之れ以下のものならば(313)福音は福音でない、もし神が之れ以下のものなれば神は神でない、|人と天然と共に救はるゝ事〔付◎圏点〕、これ実に福音的救済である、茲に人類の希望が係つてゐるのである。
 
     第四十講 救の完成(七)=三つの呻き= 第八章二十二−二十七節の研究 (二月十九日)
 
 羅馬書八章の如きは其各節が大思想の圧縮であつて、各の一節が優に一回の講演の題目たり得るものである、殊に今日研究の箇処の如きは其感を強うする所である、しかし乍ら今日は「三つの呻き」と云ふ事だけを主題としてパウロの心を探ることにする、之にて彼の云ふ所が全部は解らないまでも可成りの度合までは解るのである、今左の聖句に注意し度い。
  (22)万の受造物は今に至るまで共に歎き(|呻き〔付△圏点〕)共に労苦むことあるを我等は知る。
  (23)たゞ之等のものゝみならず聖霊の初て結べる実を持てる我等も自ら心の中に|歎きて〔付ごま圏点〕(|呻きて〔付△圏点〕)子とならんこと即ち我等の身体の救はれんことを俟つ。
  (26)聖霊も亦我等の荏弱を助く、我等は祈るべき所を知らざれども聖霊みづから言ひがたき|歎を以て〔付ごま圏点〕(|呻きを以て〔付△圏点〕)我等のために祈りぬ。
「歎き」と訳するよりも「呻き」と訳すべきものである、二十二節と二十三節には動詞、二十六節には名詞を用ひてあるが三つとも「呻き」である(英語聖書 groan;groanings)、即ち茲に三つの呻きが説かれて居るのである、|第一は万物の呻き、第二は基督者の呻き、第三は聖霊の呻きである〔付ごま圏点〕。
 「万の受造物」の|呻き〔付ごま圏点〕については前講にものべた通り実に偉大なる天然観である、二十二節の「労苦む」は産(314)の劬労《くるしみ》を為す意味である、大なる母たる宇宙万物は呻きて産の劬労をなして居ると云ふのである、何のための呻吟痛苦ぞ、曰く救はれて栄化せられて神の子たちを生まんためであり、それと同時に自身も亦救はれて復興完成せんためである、我等今この大なる母の胎内に抱かれて自己の出産を待ちつゝ母の苦悶の声を耳に受けて居るのである、かくの如き心持にてパウロは此言を為したのであらう、げに雄大なる思想、深奥荘実の天然観と云ふべきである、天然の奥ふかく分け入りて其処に痛切なる苦悶の叫を耳に受け、而もその苦悶が絶望のそれならで希望のそれなることを認む、その深さよ! その美はしさよ!
 而して近時の自然科学も亦万有は自己のために存せずして或大なる目的のために存するものであるとの事を認め始めたのである、万物は必しも自己のためにのみ存せず各々他を助くる意味にて存在し且働く、そして相協力しつゝ或共通の目的に向つて進みつゝあると、これ近時の改造せられたる自然科学の教ふる所である、故にパウロの茲に説く所の万物完成の希望は必しも一宗教熱心者の夢として斥くべき者ではない、近頃の科学がそれに裏書こそすれ決してそれを斥けようとは為ないのである、我等もしパウロの此心を以て天地万有に対せんか、その呻きの産の苦みたるを知りて、春待つ人の心の如く云ひ難き希望の楽しさに心躍るであらう、然るときは野に咲く一茎の野花にも空にひゞく雲雀の歌にも希望の色と歌とを強く/\味ひ得るであらう。
 第一の呻きは天然万物の呻きである、第二の呻きは信者の呻きである、之を記せしが右に掲げし二十三節である、「聖霊の初て結べる実をもてる我等」は「御霊の初の実をもてる我等」と改訳すべきである、此語が基智者を指すものであることは明かであるが、それが初代信者を指したのか或は一般的に凡ての信者を指したのかゞ問題である、エラスムスを初としオルスハウゼン、マイヤー等の甲説を採る学者も少なくなく、クリソストムを初(315)としカルビン、トルツク、ゴウデー等乙説を採る学者も亦多いのである、甲説に従ふ時は「御霊の初の実」とは初代教会に降りし恩恵を後世のそれと対比して指したものとなり、乙説に従ふ時は信者の此世にて受くる恩恵を後に受くべき恩恵と対比して指したことになる、永久的真理を説くを主眼とせしパウロの心に訴ふる時は乙説の方有力なりと思はれる。
 この基督者が心の中に呻きて子とならんこと即ち我等の身体の救はれんことを待つと云ふのである、「子とならんこと」とは天つ国に迎へられて神の子としての実を備ふに至らんことである、今すでに神の子ではあるが更に名実共に備はれる神の子とならんこと即ちキリストに似ん事である、そして此事を云ひ直せば「我等の身体の救はれんこと」である、身体まで救はれて全部救はれるのである、我等を苦め我等を歎かしむる最大原因は此弱き肉体の中に霊魂が閉ぢこめられて居る事である、「その魂には願ふなれども肉体よわきなり」(馬太二六章四一)である、此体まで潔められずしては救は完成したのでない、かくパウロも考へ我等も考へる、彼には罪の歎きあり又体の歎きがあつた、彼は既に完全に救はれたとは云はなかつた、「信仰の初より更に我等の救は近し」(羅馬書十三章十一)と云ひて只管に救の全く成る日を待ち望んだ、その時休も亦救はれる、即ち栄光の体を与へらると彼は確信して疑はなかつた。
 この復活体を与へらるゝことを望みて呻く、これ基督者の呻きである、復活に関しては科学的に或は反対があるかも知れぬ、併し乍ら此不自由なる体に囲まるゝ人の魂に深き呻き――歎きのある事は事実である、この呻き歎きは何を意味するか、これ躰も亦救はれ栄化し以て身も魂も完全に達せんことを哀求しつゝある所の呻きではないか、げに魂は永久に朽ちざる幕屋、栄光の体を与へられずば満足しないのである、故に我等はキリストの復(316)活を信じ、且彼に在る者の復活を信ずる、そして呻きつゝ忍耐して其日を待つ悲歎の呻吟ではない、産《うみ》の苦みの呻吟である、希望に躍り乍ら苦む所の苦である、故に呻きつゝ待つのである、されば二十四、五節に曰ふ「我等が救を得るは望によれり、されど望を見ば亦望なし、既に見る所の者はいかで尚ほ之を望まんや、もし我ら未だ見ざる者を望まば忍びて之を待つべし」と、「忍び」とは迫害の中にありて変らず且堅く信仰に立つことを意味する(サンデイ)、此忍びを以て偏に其日を呻きつゝ待つのである。
 天然の呻きあり信者の呻きありて更に聖霊の呻きがある、これ第三の呻きである、上掲の二十六節は即ちそれである、聖霊も亦われらの弱きを助ける、そして我等は祈るべき所を知らないが(如何にして何を祈るが真の祈なるかを知らずして、祈るべからざるを祈つたり又祈るべきを祈らなかつたりして居るが)聖霊みづから言ひ難きの|呻きを以て〔付○圏点〕我等のために祈ると云ふのである、何たる深き言葉、何たる大なる思想ぞ、筆舌を以て之を説明することは出来ぬ、たゞ此言葉を魂に於て味はんのみである。
 抑も「呻き」とは如何、呻きとは云ひがたき感情の発露である、文法上間投詞(Interjection)と云はるゝ「アヽ」「オヽ」の類は即ち呻きである、人の外に発する者の中最も深きものは雄弁ではない「呻き」である、死の場合、生の場合、その他一大事の場合、大感情にうたれし場合、大思想の湧起せし場合、大希望に心おどる場合、凡てかゝる時に於ては言語は心の発表を為し得ずして唯呻きの間投詞のみが役だつのである、凡て言語に移し得ざる場合即ち口に言ひ尽されぬ場合に「呻き」が出てくるのである、呻きとは斯くも深きものである、|この呻きを天地万有が発し、基督者が発し、聖霊も亦発すると云ふ〔付○圏点〕、崇高の極み、壮大比ひなしと云ふべきか。
 「聖霊白から言ひがたき|呻きを以て〔付○圏点〕我等のために祈る」と改訳すべきである、我等は何を祈るべきか知らない、(317)祈りても真の祈とならぬことが多い、この足らざるを聖霊が禰ひ給ふ、此場合の祈るは原意|執成〔付ごま圏点〕すである、聖霊は信者の弱き故に之を助け、その祈の足らざる故に彼のために父に執成すのである、これ実に信者の心に於ての深き実験である、聖霊我衷にありて我の弱きを助け、我の祈の足らざる故に我のために父に執成す、我の罪のために父に謝し、我の救のために父に乞ひ、言ひがたき呻きを以て父に向つて我に代りて祈る、かゝる時の祈は勿論「呻き」である、たゞの呻きである、しかし数万言にまさる呻き、無量の思ひをこめたる呻きである、この聖霊が呻きつゝ我等の衷にありて祈り且執成す、実に神自身が我を救はんとして常に我と共にありて働くのである、かく知つて我等何を以てか感謝しよう、唯感謝の呻きのみ、然り感謝の呻きのみ!
 二十七節に曰ふ「人の心を察《み》給ふ者は聖霊の意《おもひ》をも知れり、そは(聖霊は)神の心に従ひて聖徒のために祈れば也(執成せば也)」と、「人の心を察給ふ者」とは神を指して云ふ、詩七篇九節に「たゞしき神は人の心と腎《むらと》とを探り知り給ふ」とある、この神は勿論「聖霊の意を」能く知り給ふ、信者を助けて其足らざるを補ふ聖霊の意、聖霊の呻きの意味は彼はよく知り給ふ、我等のためのその執成はまさしく彼のもとに達するのである、もと/\聖霊は唯自身の心のみを以て聖徒のために祈るのではない、実に「神の心に従ひて」聖徒のために祈るのである、即ち聖霊が呻きて信者のために執成すのは全く神の聖意に従つての事である、されば其祈、其執成の限なき効果を我等は思はざるを得ないのである。
 |真の祈りは唯の祈りではない〔付○圏点〕、|一種の預言である〔付◎圏点〕、即ち必ず成就すべき事を前以て語に表はすことである、「神の心に従ひて祈る」と云ふ祈は此種の祈である、然らば殊更に祈りて祈願の意を表する必要ないではないかとの反対が起るであらう、併し乍ら真の祈は祈願と云ひて或事を願ひ求むることではない、之は実に霊魂の呼吸(318)である、万感充ちてそれがおのづと外に表はれしだけのものである、徒らに長き語をつらねて幾つもの事柄を数へ立てるのが決して真の祈ではない、宗教的堕落に陥りゐたるパリサイ人は「いつはりて長き祈をなす」(馬太二三章十四)を以てその特徴とした、又真の神を信ぜざる異邦人は重複語《くりかへしごと》を言ふて祈つた(同、六章七)、これは共に主の嫌ひ給ふ所であつた、偽の信者と偶像信者とは共に謂ゆる熱心なる祈をなすものである、同一の事を反覆し反覆して長き時を人の前に祈るものである、これ「言《ことば》多きをもて聴かれんと意」ふからである(同六章七)、祈といふものゝ本質を全く誤解して、祈とは人間的熱心を以て神の心を動かして我願を適へてもらうものと思ふからである、かくの如きは謂ゆる「御祈祷」である、決して祈ではないのである、真の祈は神の心に従ひての祈である、|成就すべき事の預言である〔付△圏点〕、祈の聴かれたと云ふのは成就さるべき事を祈ただけの事である、聖霊が人の衷にありて其人に代りて神の聖旨に適ひて祈ること之が真の祈である。三つの大なる呻き! それは三つの大なる預言の声である、成就するかせぬか不定なる事を希願して呻くのではない、必ず成就すべき大完成の日を宇宙と信徒と聖霊とが呻きつゝ待望してゐるのである 確信を以て、恰も厳冬に於て誰人も後に必ず春の来るを確信して待つが如く待つのである、|大完成〔付○圏点〕の日然り|大完成の日、宇宙の完成、人類の完成、新天新地出現〔付○圏点〕の日。その日を全天然と基督者と聖霊とが確信を以て呻きつゝ|待望するのである〔付○圏点〕、これ現下の状態である、旺なる哉此事! 〔以上、大正11・4・10〕
 
     第四十一講 救の完成(八) 第八章二八−三十節の研究 (二月廿六日)
 
 万物と基督者と聖霊とは同一の或ことを待望して呻く、呻きつゝ或一事を待望する、或一事とは救の完成であ(319)る、換言すれは基督者の救の完成を望みての呻きは天然と聖霊との呻きに依て助けられる、かくて我等の究極に向つての歩みは力附けられるのである、さればパウロは次の二十八節に於て自《おのづ》から左の如く言ふに至つたのである。
  また凡ての事は神の旨に依りて召かれたる神を愛する者のために悉く働きて益をなすを我等は知れり。
之を完全なる訳と云ふことは出来ない、しかし乍ら我国人が邦訳の聖書を読み始めしより数十年、既に若干の聖語は我等に親しきものとなりて、それを改訳せぬ方が却て我等に力を与ふるのである、この節の如きは即ち斯かる聖語の一である。
 「神の旨によりて召かれたる神を愛する者」とは基督信者のことである、パウロは単に基督信者と云はずして多くは別の語を以て之を云うた、これ彼の特徴である、或は「神に愛《いつく》しまれ召を蒙り聖徒となれる者」(羅馬一の七)と云ひ、或は「イエスキリストに在る者」(羅馬八の一)と云ふ、其他種々ありて何れも意味深き称呼である、いま廿八節の此語を原語の順序に従ひて訳せば「神を愛する者、(即ち)神の旨によりて召かれた者」となるのである、基督者は「神を愛する者」である、けれども之は我等から先づ発心して神を愛するに至つたのではない、先づ神が其旨によりて我等を召き、キリストにありて我等を義とし、我等を神の子とするの恩恵を加へ給うたのである、此愛に感激して神を愛するに至つたのである、即ち彼の我等に対する愛が前《さき》であつて、我等の彼に対する愛は後《のち》である、誰人も自ら努めて神を信じ神を愛することは出来ない、神まづ我等を召し其愛を以て我等の不信頑冥なる心の岩を打ち砕くが故に、其処より神を愛する生命の水が滾々として迸出するのである、かく神に召かれて斯く彼を愛するに至りし者が基督者であるとパウロは茲に云ふのである。
(320) かゝる者のためには「凡ての事が働きて益をなす」と云ふ、「凡ての事」は万事万物である、世の謂ゆる良き事のみではない、悪しき事も勿論含まれてゐる、その凡ての事(all things)が信者のために働きて益をなすと云ふのである、「を我等は知れり」と、パウロは此事を自分の確実なる知識として述べたのである、実に驚くべき大なる確信であると云はねばならない。
 併しながら之は必しもパウロ一人の確信ではない、今日まで数多の基督信徒が其生涯の実験として之を知つたのである、確実なる信仰生活を長年つゞけたる者は誰人と雖も此事を知るのである、之は実験上の事実であつて理論の如何には全く関係がない、普通人の考へは理論的には頗る合理である、即ち友は我を助けるもの敵は我を妨ぐるもの、成功は我を助け失敗は我を妨ぐるもの、幸運は我を助け災禍は我を妨ぐるものと考ふ、故に敵と失敗と災禍とは彼等の極度に嫌忌する所である、併し基督者にとつては友も敵も成功も失敗も幸運も災禍も悉く己を助くるものである、陰険なる敵の襲撃に逢ひし時は誰人と雖も心持あしきものである、併し後に至りて見れば彼も亦我を助けしもの、神より我を助くべく遣はされしもの、彼ありたればこそ却て我は助かつたのであると感悟せざるを得ない、又失敗困窮苦難に会しては憂悶やる方なく偏に孤独無援の身を憾むも、後に至りみれば是れ神の愛の訪づれにして、之ありてこそ我の天国への歩みは幸に続き来つたのであると思ふに至る、又愛する者を失ふ悲痛の如き到底筆舌に尽し難く、此祈にして聴かれずば寧ろ全宇宙が破壊されよと思ふほどの熱烈なる祈も効なくして、絶望哀苦が離れじと我心臓に食ひ入るのである、併し後に至つて静に思へば此悲痛ありしために現在の信仰の歓びがあり、此哀苦ありし故に我霊は天国につながれて離れないのである、実に神を愛する者には凡ての事働きて益をなす、世の謂ゆる悪しき事が来れば来るほど神の恩恵は多く加はるのである。
(321) 以上の説明を以て廿八節の大意は明かであるが、更に此節を精細に調ぷればパウロの意味の尚一層ふかきを知るのである、先づ「凡ての事」が働きて益をなすと云ふが「凡ての事」とは何を意味するのであらうか、原語 panta(パンタ)は「凡て」を意味する、故に其内容として有ゆる事と有ゆる物とを含み得る語である、従つて前後関係の上から其含む内容を推定する外ないのである、しかしゴウデーの説明の如きは最も当を得たものであると思ふ、彼は此語を註解して言ふ「我等の上に起り来る一切を指す、殊に今の世の不完全と世人の罪との結果として起る|痛苦の一切を指す〔付△圏点〕」と、「凡て」は万事で善悪ともに含まるゝ語であるが、此場合は世の謂ゆる悪き事の方が重に筆者の心を占めて居たと推定さるゝのである。
 この凡ての事が「悉く働きて益をなす」といふ、「悉く働きて」は誤訳である、共に働きてと改訳すべきである(原語 sunergo 英語 work together)、凡ての出来事の一つ/\が働きて益をなすのではない、凡ての出来事が共同して一の目的のために働くのである、信者の益のために凡ての事が――殊に人の災禍苦痛と称する事が協同して働くのである。凡ての事は神が我等の益のために備へ給ふたのである、患難も痛苦も災禍も迫害も……凡て我が腸をしぼるが如き一切の事は彼が我の益のために備へ給ひし貴き設備である、かくパウロは敢て云ふのである、かく我等の実験は敢て叫ぶのである。
 神を愛する者のために凡てが共に働きて「益をなす」と云ふ、之はむしろ|善をなす〔付ごま圏点〕と訳すべきところである(原語 els agathon. 英語 for good)、茲に於て誰の善を指すかゞ問題となるのである、勿論|信者の善のために〔付ごま圏点〕と云ふ意味を含んでゐるには相違ない、然し果してそれだけであらうか、もし信者の善のためとのみ言うては信者を不当の誇に導く虞れがある、信者は宇宙の主権者ではない、又宇宙の中心ではない、又信者の救が神と宇宙の全(322)目的ではない、万物は基督者のものであるが基督者はキリストのものである(哥前三の廿二−廿四)、故に人間中心ではない、神中心である、されば|善をなす〔付ごま圏点〕の句に於て我等は神の善を考へねばならない、|神の目的の成就これ即ち善である〔付○圏点〕と考へねばならない。
 此意味に於て我等は此節の最後の句(原文に於ての)に注意する、原文に於ては最後の句は「|神の旨によりて〔付○圏点〕招かれたる者には」である、「旨」は|目的〔付○圏点〕である、原語に於て之を prothesis(プロセシス)といふ、即ち神の預め定め給ひし目的を指す、信者は此聖目的によりて召されたものである、この聖目的は即ち善である、凡てが此の神の目的のために働くのである、たゞ信者だけの善ではない、神はその予め定め給ひし善き目的のために凡てを働かするのである、これ即ち万事が善に向つて働くのである、神の大なる書き目的の中に人の善も含まれてゐる、凡てが神の大なる善のために働く時それは基督者のためにも善に向つて働いてゐるのである。
 然らば神の此善なる目的(プロセシス)の内容如何、提摩太後書一章九節、羅馬書三章廿四節、以弗所書一章三−十一節等いづれも此の神の目的の説明であるが、こゝでは次の廿九節が此目的を説明してゐるのである、即ち「それ神は予め知り給ふところの者を其子の形に効《なら》はせんと預め之を定む、こは其子を多くの兄弟の中に嫡子たらせんが為なり」とある、これ神の予め定めたる計画、目的、即ちプロセシスである、万事万物は神の此大目的に向つて共に働くのである、神は予め知る所の或人々を其子キリストに肖るものとせんとして、即ち完全なる救に達せしめんとして予め定める、その目的は其独子キリストを多くの彼に肖たる者の中に嫡子たらせんとするに在る、即ち神の主目的はキリストの栄化であつて信者の栄化ではない、神はキリストを嫡子たらせんことを主とし、其従として信者を救ふのである、これが神のプロセシス、世の創始《はじめ》より立て給ひし神の目的である、この神(323)の善なる目的に応じて信者は召され、義とせられ、潔められ、そして栄化せしめられるのである、信者の救はるゝのは神の此聖目的のため、又キリストの栄のためである、徹頭徹尾キリストが主であつて信者は従である、信者は聖国に於てキリストといふ王の民たるべく救はれるのである、即ちキリストの栄のために信者は救はれるのである、されば三十節も亦此意味に於て読むべき語である、曰く「又予め定めたる所の物は之を召き、召きたる者は之を義とし、義としたる者は之に栄を賜へり」と。
 かく云へば神は独裁君主の如く、人はたゞ其器械として利用さるゝに過ぎぬ如く思はれる、併し乍ら宇宙の主裁者にして絶対者たる彼に独裁権がなくしては宇宙は壊乱に陥るに至る、そして信者は神の立て給へる此大目的のために救はるゝが故に其救はるゝ事が確実なのである、|換言すれば自己のために救はれるに非ずして、神のために又キリストのために救はるゝが故にその救は確実なのである〔付ごま圏点〕、もし救はたゞ信者を目的とするものであり、そして万事万物がそのために協力しつゝあると云ふならば、それは自己の無価値を能く知れる我等にとつては受け納れ難きことである、よし受け納れ得ても自己の無価値と罪悪深重とを思ふごとに深き不安が必ず襲ひ来る、そして自分の如き者は到底救はれずとの絶望的結論を下すに至る、これ良心の鋭敏なる者に於ては当然のことである、然るに自己の救は自己のためでなく、神はキリスト王国の民を得んために特に罪人を招きて救ふと聞きて我等の歓喜、安心、感謝はいや益々高まるのである、基督者の真の安心は茲にある、その安心の深くして大なる理由は茲にある、|己の救はれし理由を少しも己に於て発見せずして神の整なる目的に於て見る、かくして我救ひの絶対性を知るのである〔付○圏点〕。
 然らば神は独裁君主として全く自己本位であるか、否然らず、己を棄つる大犠牲の精神は彼の特徴である、(324)彼は其唯一の独子を賜ふほどに世の人を愛し、独子は人を救ふために己を十字架につけ、この大なる神と独子との犠牲の愛に感激して人は神のため又世のために己を犠牲にせんとする、「我等神を愛するにあらず神われらを愛し我等の罪のために其子を遣はして挽回の祭物とせり、これ即ち愛なり、愛する者よ斯くの如く神われらを愛し給へば我らも亦互に相愛すべし」(約壱四章)とある通りである、又他の方面より見れば神は独子のため、独子は人のために其全愛を注ぎ出すがために、人は之を受けてまた神のために其全愛を献げる、神はまた之を受けて独子に己を渡し、独子は人に己を渡し、又人は神に己を渡す、かくして愛の流れは上より下に及び又下より上に行き絶えず環をなして巡環す、これ愛の環であり恩恵の循環である、実に天と地とを貫く美はしき霊的関係と云ふべきである。
 以上の如くパウロは救拯の真意味を示されて云ひ難き大安心をその心霊に於て抱きたるが故に、感謝と歓喜は心に充盈して遂に力強く外に迸しり出づるに至つたのである、これ三十一節以下に記さるゝ大勝利の歓歌である。
 
     第四十二講 救の完成(九) 第八章三十一節以下の研究 (三月十二日)
 
 前講に説きし如く八章二十九節に於て、パウロは神の主目的はキリストを多くの兄弟の中に嫡子たらせんためにして、キリストの栄化が主、信者の栄化は従であるとの奥義を説いた、次の三十節に於て彼は言ふ「又予め定めたる所の者は之を召き、召きたる者は之を義とし、義としたる者は之に栄を賜へり」と、これ神の人を救ふ順序を述べたものである、之を二十九節と合せて第一は予め知る事、第二は予め定むる事、第三は召く事、第四は義とする事(キリストの十字架の故に罪を消除して義とする事)、第五は栄を賜ふ事即ち栄化せしむる事である、(325)此中一より四までは人の過去現在に関するものであるが第五は未来に於て与へらるゝものである、しかしパウロは未来の栄化が余りに確実であり、且それを望みて生くる現在の歓喜があまりに大なるがため、思はず知らず「栄を賜へり」と之を既成の事なるが如く記したのである。
 予め定めると云ふ事は「預走の教義」と呼ばれて普通に難かしいものと思はれてゐる、今これについて細説する時を有たぬが「予め定むる」の原語プロオリゾー(proorizo)は|予め境界を立てる、予めはつきり定めて置く〔付ごま圏点〕等の意を有する語である、即ち神が或人を救はんとして前以て定めて置くといふのである、之を卑近の例を以て説明すれば木曾の山中に於て「御神木」を得るために、十数年前より或樹を定め置きて之に境界を立て他より区別して保護し、前定し、修形して其成育を助け行くが如きものである、これ神が人を救はんために前以て為し給ふところである、之を教義として見て理論上の困難あるにも係らず基督者の個人的実験としては値高きものである。
 三十節まで記し来てパウロの歓喜は絶頂に達した、救の完成、全き勝利、かぎりなき生命、義の冠、栄光の体を与へらるゝ事、それは一点の疑もなき確実の事となつた、今まで与へられし所すら感謝測り難きに、更に義の冠は今や手を伸ばせば届かんかと思はるゝほどの近くに見える、あゝ楽しき勝利の予感よ、又勝利の実感よ! パウロの此漲り溢るゝ心より三十一節以下の大歓歌はおのづから迸出したのである、先づ初めの二節を見よ。
  (31)さらば之等の事に於て何をか言はん、もし神われらを守らば誰か我等に敵せんや、(32)己の子を惜まずして我等すべての為に之を付せる者はなどか彼に併《そ》へて万物をも我等に賜はざらんや。
「もし神われらを守らば」は神もし我等の味方ならばと改訳すべきである、神は其大目的を達成するために我等を救ふのである、さればよし全世界が我等に反対して起つとも此神が既に我らの味方たる上は何の恐るゝ所があ(326)らうか、誰か神を味方とする者に敵対し得ようか、竿を提げて天に達し得ぬ以上は神を味方とする者には到底敵するを得ないのである、そして神は其独子キリストをさへ惜まないで我等凡て(信者全体)のために死に付せし程の神である、かゝる神のことであれば万物をもキリストに併せて賜はるに相違ない、最も貴き独子をさへ惜まざりし彼は、それ以下の万物を少しも惜むことなくして彼の子たちに与へるに相違ない、――かくパウロは力ある言辞《ことば》を以て力ある希望を述べるのである。
 茲に「万物」とあるは何を指すであらうか、或人は我等の救に必要なる凡ての事物と見(サンデー)、或人はキリストに於て与へらるゝ凡ての恩恵と見(マイヤー)或人は既説せし凡ての恩恵と見(ゴウデー)、或人は我等に取りて善き凡ての事と見(ビート)、又或人は我等の幸福に必要なる凡ての事と見る(ジヨン・ブラウン)、何れも大同小異である、何々を指すかと限定することは困難であるが、凡ての恩恵を指したものなることは明かである。
 神すでに我等の味方である、誰か我等に敵し得ん、神すでに独子を我等に賜ふ、などか彼と共に万物を賜はざらんやと述べたるパウロは、尚ほ進んで勝利の確実を高く叫ぶのである。
  (33)神の選びたる者を訴へんものは誰ぞや、義とする神なるか、(34)罪を定むるものは誰ぞや、死にてまた甦り神の右にありて我等のために祷告《とりな》し給ふキリストなるか、(35)キリストの愛より我等を離らせん者は誰ぞや、患難なるか、或は迫害か、飢餓か、裸※[衣+呈]《はだか》か 危険《あやうき》か、刀剣《つるぎ》なるか。
この三つの節はその各々が一の質問である、しかし第三の質問たる三十五節の中には七つの質問が含まれてゐる、故に全体で九つの質問があるのである、……誰ぞや、……誰ぞや、……誰ぞやとパウロは茲に挑戦的態度を以て質問を連発し、無し、無し、無しとの答を言外に含ませて居るのである。
(327) 八章の初めに於てパウロは「イエスキリストにある者は罪せらるゝ事なし」と云うた、そして神の恩恵の数々を挙げ救の完成の希望を歌ひつゝ三十二節にまで来つた、茲に至つて再たび「罪せらるゝ事なし」と云はんは彼に漲溢せる勝利の歓喜が承知しなかつた、依て筆は自から挑戦的に動きて「……訴へん者は誰ぞや」「……罪に定むる者は誰ぞや」……と質問連発に出で、ノー、ノー、ノーとの強き否定を文字の中に含ませたのである、由来パウロを甚しく苦めしは罪の問題であつた、如何にして神の前に義たらんか、如何にして審判に於て罪を定められざるやう成り得べきか、これ彼を最も苦めし難問題であつた、彼が少壮有為のパリサイ学徒たりし時に於ても之は彼を激しく苦めた、後ちキリストの聖姿を拝して信仰に導き入れられしも此問題は依然として彼を強く悩ますものであつた、実にパウロを常に神の前に訴ふる執拗なる敵があつたのである、如何にして此大敵を打ち破るべきか、如何にして此大敵の訴へを無効ならしむべきか、之が彼の長き年月の最大関心事であつたのである、あゝ誠実真摯なる魂の苦闘よ! 神は彼の悩みを愍みて遂に信仰と歓喜とを以て彼を包んだ、彼を苦むる敵は見事に打ち砕かれた、勝利の声は自から揚がらざるを得ない、自己の行に頼りての勝利ではない、自己の意志をふるひ起してのサタン征服ではない、かゝる頼み難きものを以てして争で人力以上の大敵サタンを殪し得よう、幸なるかな神の子キリスト、我に代りて蛇の頭を打ち砕いた。我れ今やキリストに頼めば勝利の連続と恩恵の雨下あるのみである、今まではサタンに攻められて苦戦に苦戦を重ねた、防禦戦のみじめさを強《したゝ》かに味はせられた。しかし之からはもう敗走する敵を逐ふ追撃戦である、故に「罪せらるゝ事なし」ではない、「罪に定むる者は誰ぞや……」である、逃ぐる敵の後ろより挑戦の矢を放つのである。
 追撃戦の愉快さよ、軍人として戦場に立たんか苦戦力闘の後ち勝ちて追撃戦に移る時ほど愉快なるはないであ(328)らう、ダンバーに於けるクロムヱルの蘇国兵追撃、義家の貞任追撃の如き如何に愉快なるものであつたらうか、併しながら此世の戦はどうでもよい、人生の最大戦争に於て、サタンとの決死の戦に於て防禦戦の苦しさを沁々と味つてゐた者が、或時天より光明臨みて敵は忽ち敗走し去り、之を後ろより追ふ戦に移りし時の快さ、楽さは如何ばかりであらうか、パウロが人生の最大問題に於て追撃戦に移りしが即ち三十三節以下である、この追撃戦の余裕と快適とは実に|勝ち得てあまりある〔付△圏点〕と云ふ状態である、されば三十七節に言ふ「されども我等を愛《いつく》しめる者に頼りすべて之等の事に勝ち得てあまりあり」と。
 尚ほ三十三−三十七節について説明を加へて置かう 「神の選びたる者を訴へん者は誰ぞや、義とする神なるか」と三十三節は言ふ、誰が神の選んだ者を訴へ得ようか、宇宙の絶対者たる神の選んだ者を誰か神に訴へることが出来やうか、(一国の主権者が赦免した罪人を誰か訴へる力を有ち得るであらうか)、人の中に訴へ得る者はない、さらば神が神に訴へるであらうか、然るに其神は罪人を「義とする神」ではないか、義とする神が如何にして訴へ得ようか、宥す神が如何にして同時に罰し得ようか、太陽を上げる神が同時に之を下すことを得ようか、不可能事、イムポシブル、とても有り得ぬ事、笑ふべき事、ばからしき事、そんな事のあるべき筈がないのである。
 三十四節は言ふ「罪を定むる者は誰ぞや、死にて復甦り神の右にありて我等のために祷告し給ふキリストなるか」と、今やキリストに在る者に向つて罪を定むるものは何処にあるか、彼に滅亡の宣告を与ふる者は誰であるか、それはキリストであるか、あゝ不可能の事よ、キリストとは我等を義とせんために死に、甦り、今や神の右に坐して我等のために執成を為しつゝある者ではないか、此者が我等を罪に定むると云ふが如きは考ふることも(329)出来ぬことである、そんな不合理な事がどうして起り得ようか。
 パウロの追撃戦は正に酣である、此の大なるキリストの愛より我等を離らする者は何であらうか、患難であらうか非ず(|患難〔付ごま圏点〕とは外より襲ひ来る苦みである) 困苦であらうか非ず(|困苦〔付ごま圏点〕とは内より湧きあぐる苦みである)、迫害であらうか非ず(|迫害〔付ごま圏点〕とは信仰のために受くる凡ての困苦艱難を指す)、飢餓であらうか非ず(迫害の結果たる飢餓――生活の欠乏脅威を云ふ)、裸※[衣+呈]であらうか非ず(迫害のために起る衣服の欠乏)、危険であらうか非ず(|危険〔付ごま圏点〕又危難である、コリント後書十一章にある河の難、盗賊の難、同族の難……の類である)、刀剣であらうか非ず(|刀剣〔付ごま圏点〕とは殉教の死を意味する)、之等の凡ての事は到底我等をキリストの愛より離らするを得ない、我より彼への愛ならば知らず、彼より我への愛なれば此愛より到底我を離らし得ないのである。
 「われら終日《ひねもす》なんぢの為に死に付され屠られんとする羊の如くせらるゝ也」と古への詩人は悲痛の叫をあげた(詩四四の二二)、基督者の実状は実にこれである、患難、困苦、迫害、飢餓、裸※[衣+呈]、危険、刀剣の連続である、パウロの時に於て勿論然り、今に於てさへ何等かの形を以て信仰のための苦難は信仰の人を取囲むのである、之に対して或人は忍耐を以て辛うじて勝つであらう、或は恩恵によりて幸に勝ち得たと安心するであらう、しかしパウロは言ふ「我等を愛しめる者に頼りすべて之等の事に勝ち得てあまりあり」と(三七)、「我等を愛しめる者」は神を指すかキリストを指すか議論の存する処である、併し三十五節に「キリストの愛」とあるを見れば之をキリストと見る方正しき如く思はれる(ゴウデー、マイヤー、サンデー、.ビート等優秀なる学者にして之をキリストと見てゐる人が多い)、そしてキリストに頻りて之等の事に勝ち得てあまりあると云ふのである、辛うじて勝つのではない、只勝つのではない、勝ち得てあまりあるのである、勝ちて尚余力あり、余裕綽々たる有様であ(330)る、恰も大人が赤児の手を※[手偏+丑]《ひね》る如く|らく/\と〔付ごま圏点〕勝ち得ると云ふのである、如何にして斯くも容易くすべての苦難痛苦に勝ち得るか、それは自力で戦はないでキリストの蔭に自己を隠し彼に代つて戦つて頂くからである、努力奮闘は効ない、唯キリストに隠れよ、彼が我に代つて戦ふに任せよ、然らば恐るべき強敵は自然と潰え去るのである、されば信仰の生涯に於ては恐るべきものは一もない、キリストに隠れさへすれば事は済むのである、故に信仰を隠す勿れ、大胆に告白しそして厳粛真摯なる信仰生活に入れよ、然るとき迫害は種々の形を取つて来るであらう、併しながら「我を愛しめる者」の中に己を隠しさへすれば勝ち得てあまりあるのである。 三十三、四節については尚ほ外に第二の読み方がある、邦語改訳聖書は之に拠つてゐる、英訳聖書も欽定訳改訳ともに之を採つてゐる、ギリシヤ原文は文字上何れにも採ることが出来るので此両つの中一を定むることはやゝ困難である、しかし近代の学者は多く第二の方を採つてゐる、その第二に拠れば左の如く訳することになる。
  神の選び給へる者を訴へん者を誰ぞや、義とする者は神なり。罪を定むる者は誰ぞや、死にし者はキリストなり、然り彼は甦へりし者、神の右にありて執成し給ふ者なり。
義とする神ある上は誰か我等を訴へ得ん、我等の罪のために死に、甦り、今神の右にありて執成しつゝあるキリストある以上誰か我等を罪に定め得んと、これ此両節の意味となるのである。甲を採るも乙を採るも言葉の趣意に相違はないが、甲は意味の上に一の反語《アイロニー》一種の諧謔《ユーマー》がある点に於て乙より面白いのである。
 最後にパウロは三十八、九節に於いて偉大なる確信を発表して云うた「そは或は死或は生、或は天使或は執政、或は有能者《ちからあるもの》、或は今あるもの後あらんもの、或は高き或は深き、また他の受造物《つくられしもの》は我らを我主イエスキリストに頼れる神の愛より離らすること能はざるものなるを我は信ぜり」と、三十一節より始まりし凱歌の結語として実(331)に旺なる語である、「死」は肉体の死である、「生」は生に伴ふ患難と誘惑である、「執政」は天使の一階故にて|大天使〔付ごま圏点〕とも云うべきものであらう、「有能者」は地上に於ける権力者を云うたものであらう、されば天使、執政、有能者と並べて天上天下のあらゆる権能者を意味したのであらう、「今あるもの」は現在ある凡ての事と物、「後あらんもの」は将来起る所の凡ての事と物を指す、「或は高き或は低き」は天界と地獄とに如何なる神秘、異象、無知の力が存して居てもと云ふ意であらう、以上の何者を以ても我等を神の愛より離らし得ないとパウロは断言するのである、而して以上を以て此宇宙の事を云ひ尽せし故、更にもし別の宇宙があつて其処に別の存在物があるとても、それらも到底神の愛より離らし得ないと云ふのである、即ち「また他の受造物は……」とあるは之である。
 右はパウロ時代の宇宙観を知つて読むとき、そして更に又之を現代科学の与ふる宇宙観に照して読むとき興趣の尽きぬものがある、天使の各階級の存在は当時のユダヤ神学の信条であつた、又天上地上に如何なる神秘怪奇の力か存してゐるかも知れぬとは当時の普通の考であつた、然るに今や分光器による天界の研究やラヂウムの発見に因せる物質原素の新研究によりて、天にも地にも同一物質のみの存在することを知り、又物質は凡て単一の素より成るものなる事が判明して、茲に天上天下凡て一の力の発源なることが分つた、されば神の愛より我等を離らする恐しき怪奇力はもはや何処にもないことが分つた、実にパウロの此確信は今や更に幾倍かの強さを加へたのである。
 パウロは凡ての事物を列挙せしのち「……我等を我主イエスキリストの愛より離らすること能はざるを我は信ぜり」と云ふ、「信ぜり」は|信ぜしめられたり〔付ごま圏点〕の意である、自分から信じたのではない、実験上信ぜざるを得ざる(332)に至つたのである、否応なく信ぜねばならぬやうに、なつたのである、余儀なく信ずるに至つたのである、実験に依て信ぜしめられたのである、之は|信ぜり〔付ごま圏点〕と云ふよりは遥かに強い語である。
 パウロの此雄偉なる声に接して茲に一の問題が起る 我ら自身の罪は我らを此の神の愛より離らすことはないであらうかと、他の凡ての事物はもはや慥かに神の愛より我らを離らさない、併し罪は如何、我罪が神の愛より離らすることありとせば罪人たる我等は不断の不安の中に住まねばならない、然らば信仰生活は堪へがたき重荷である、しかし乍ら今までの神の愛は我らの罪も亦われらを之より離し得ない事を信ぜしめる、我を予知し、予定し、召し、義としたる神はいかで最後に至つて我を棄てるであらうか、「汝等の中に善き業を始めし者これを主イエスキリストの日までに全うすべしと我れ深く信ず」(腓立比一の六)とはパウロの確信であつた、我は屬ば罪を犯したものである、屡ば聖旨に背いたものである、そして今も然り後も然るかも知れない、弱き我のことゝて自己に就て何の保証をも為し得ない、併し乍ら神の愛は我を堅く護りて離れない、我の罪と雖も此愛より我を遠ざけないのである。
 然らば天上天下のあらゆる物、過去現在未来の凡ての事、又他の宇宙の凡ての事物も、又我自身の限りなき罪さへも我をキリストによる神の愛より離らし得ないのである、さらば我が救はるゝことは今やあまりに確実である、我が救の完成、我勝利、我がキリストの如き栄を衣《き》せらるゝ事、それは今やあまりに確実なる事である、されば歓べ人々、感謝せよ人々、十絃《とをを》の琴に合せて歓びの凱歌を高らかに歌へ!
 
     第四十三講 ユダヤ人の不信と人類の救(一) 第九章一−五節の研究 (三月十二日)
 
(333) 羅馬書研究の初めに当つて、我等は此書の主文を三つの本館にたとへた、其中の第一本館は最大のものである、我等は八章迄の研究を終へた、ともかくも此第一本館の大様を眺め終つたのである、そして其結構の大と内容の荘美とに驚いたのである、之よりは第二の本館に足を踏み入れねばならない、換言すれば第八章までに於て個人の救は論じつくされたれば第九章よりはイスラエル及び人類の救の問題に入るのである。
 羅馬書は大著述であると言ふ、たしかに然うである、併し之は内容より云うたので分量より云うたのではない、日本文に於て二万余字、これを『聖書之研究』誌上に印刷すれば其の三分の一を満たすに過ぎない、文字に含まるゝ思想は高大深遠であるが、文字の数よりのみ云へば一小論文たるに過ぎない、或は多忙の生涯を送つたパウロのことであるから一日を以て一気呵成に草し終つたかとも思ふ、当時彼はコリント市に滞在して居たのである、十六章二十二、三節に左の如き挨拶が述べてある。
  此書を筆《か》けるテリテオ我れキリストに於て汝等に安きを問ふ、我と全会の寓主《あるじ》ガヨス汝等に安きを問へり、邑《まち》の庫司《くらつかさ》ヱラストまた兄弟クワルト汝等に安きを問へり。
彼はガヨスと云ふ相当の身分ある人の家に客となつて居た、そして或日書記テリテオに口授して此書翰を認めしめた、多分主人ガヨス、市の庫司(今日の語に云へば収入役、会計課長等の類か)ヱラスト等は傍聴しつゝあつたであらう。パウロは個人の救を論じて次第に高調に達し遂に八章末尾の大凱歌となつて一先づ休憩したであらう。
 休憩の後ちパウロの口授はまた始まつた、書記テリテオも傍聴者も彼の熱情は益々燃えたつことゝ思つたであらう、然るに意外なるかな彼の様子は全く一変してゐた、言ひがたき苦悶が彼の心を占めつゝあるが如く見えた、悲痛が彼の表情に漲つた、人々は皆その意外に驚いたであらう、その驚きを破るが如くに彼は先づ次の如く口授(334)した。
  我はキリストに在りて真実を語る、我は偽らず、我が良心は聖霊にありて共に証す、我に大なる憂ある事を、我が心に絶えざる痛ある事を。我は思ふ、我が兄弟、我が骨肉のためならんにはキリストより絶《はな》れてアナテマ(詛はれし者、滅亡に定められし者)たるも可なり。(一−三節改訳)
彼は先づ自己が真実を語りて虚偽を語らざることを強調する、「キリストにありて」真実を語ると云ひ、我の「良心」が其事柄の証明者であると云ひ、しかも其証明は「聖霊にありて」の証明であると云ふ、然らば彼がキリストにありて真実を語り、そして彼の良心が聖霊にありて証する事柄は何であるか、それは彼に「大なる憂」があり又彼の心に「絶えざる痛」のあると云ふ一事である、此事は人は認めずとも又人の中に一人の証明者はなくとも、これ我心の実際の感情であつて、我良心と聖霊とは慥に之を知り之を証《あかし》すると彼は云ふのである、然らば彼の此憂、この痛は何のための憂、何の故の痛ぞ。
 パウロは其の事を明白には云はない、感情の火彼のうちに燃えて彼は直ちに第三節の強き語を発してしまつたのである、此節については種々の見方がある、しかしその同胞たるイスラエル民族のためには自分はキリストより離れて滅亡に至るも敢て厭はぬとの意味に相違ない、この語に依て直ちに推知さるゝのは彼の憂と痛との意味である、彼は同胞の大部分がキリストを拒斥しつゝある不信を歎き、その未来の運命を思うて痛切なる憂苦を胸に抱いたのである、そしてもし自己が滅亡に陥る事に由て彼等を救に入れ得べきものならば、彼等のために自己の幸を全部棄てゝキリストより離れ滅亡に陥るも亦可なりと云ふのである。
 八章を口授しつゝある時パウロの歓びは倍加し倍加しっゝ進んだであらう、そして其末尾の大奏曲に至つては(335)彼の歓びは彼の胸を張りさくほどの絶頂に達したであらう、併しながら此歓びの後ち彼は静かに思うたであらう、此歓びはキリストを信受せし者についての歓びである、然るに彼の同胞は如何、少数者を除きては皆この歓びの外にありて、詛はるゝ者となりつゝあるではないか、彼は之を思うて急に大なる憂悶を心に感じ、その憂悶の己にある事を虚偽ならずとして強調しながら、万感胸に迫りて其理由を述ぶる余裕なく、直ちに三節の如き犠牲的愛国的熱情を吐露したのである、律法の破毀者と謗られ国を忘れし者と罵られゐたる彼に、かくの如き強烈なる愛国心のあることを茲に示したのである。
 冷淡なる批評家は云ふであらう、自己の救についてあれほどの大凱歌をあげたる彼が忽ち自己の滅亡を可なりとするは何等の矛盾であるかと、浅きかな此見方! パウロの無私なる愛国心を思うて、彼がかゝる自己犠牲の大なる語を発したるに向つて敬意を表すべきではないか、彼は自己及び救はるゝ者について大歓喜を味ふと共に、亡ぶる同胞のために大痛苦を感じて自己を以て彼等に代り得べくば自己を滅してなりと彼等を救はんと願つたのである、我等は彼の※[火+毀]くが如き愛国の熱情を敬ふものである。
 一−三節に於て右の如き憂国の強き情を述べたる彼は、四五節に於て又一転してイスラエルの特権を挙ぐるのである、子とせられし事、栄光、盟約、律法を与へられし事、祭儀、約束みな彼等に属する所である、之にてイスラエルに六つの特有物がある、然のみならず列祖アブラハム、イサク、ヤコブは彼等の先祖である、更に之に加ふるに主キリストイエスも其人間的方面に於て云へば彼等民族の一員である、パウロは斯くイスラエルの優秀なる点八つを挙げたる後ち最後のキリストについて云ふ「彼は万物の上にありて世々讃美を得べき神なりアーメン」と、即ちキリストを神として彼はこの讃美をなしたのである、これ注意すべき事である、まことに徹底せる(336)キリスト神性の主張が之に含まれてゐるのである。
 かくの如く神の大なる恩恵を受けつゝあるイスラエルが今の不信の有様は如何、あまりに大なる矛盾ではないか、かゝる民の不信なればこそパウロは痛恨堪へがたくして、彼等の救となるならば自己をアナテマとせんと云ふのである、実に愛国心の絶頂と云ふべきである、故にパウロの此語は我等に強く訴へるのである 由来我ら日本人は愛国心の強きを以て鳴る民である、余は茲にはしなくも余等の青年時代を想起する、当時余等は信仰に入りて大なる歓びを味ひしも、亦忽ち自己の愛する両親兄弟乃至国人が此光に未だ浴せざるを見ては悲痛措く能はず、愛国の心に燃えて同胞の救済日本国の教化のために一生を献げんと決心したものである、我等は自己及び共に主にある者の勝利について大に歓ぶ、その故に大凱歌をあげる、しかしそれだけで歇んではならない、直ちに同胞の大部分が暗中にさまよひつゝある此迷乱の状態を深く心に置きて、同胞の救のために粉骨砕身せんとの愛国的熱情を起さねばならない、自己の救のみに耽りて同胞の不信を憂へず又同胞の救のために熱情を起さゞるは未だ信仰浅しと云はねばならない。
 ルーテル、ミルトン、クロムヱル等を見よ、基督者の中に真正の愛国者があつた、深き愛国心は神を知らぬ者の抱き得ぬところである、自国に神の与へ給ひし使命あるを見、同胞を神の道に導くために凡ゆる努力を厭はじと云ふ、これ最も聖き愛国心である、真の愛国者はパウロの此心がなくてはならぬ、今日我国に於て愛国心の衰頽いちじるしきは、深き信仰的基礎が人々の愛国心に存しないからである、単なる国自慢、民族的偏狭、愚かなる敵愾心、空しき民族的衿誇――これらのみを抱いて愛国心の所有者と思へる者の可笑しさよ かゝる者はあるも効なし、又あるも忽ち衰へ去るものである、そして人皆自己中心の利慾的動物となるのである、福音は必しも(337)愛国を高調しない、併しながら福音は人の心をその根柢から動かすものなる故、これを受けし者に真にして深き愛国愛民の心が生まるゝのである、実に福音は人間固有の愛国の情を高め、深め、潔めるものである。
 今や日本人の愛国心は著しく哀頽した、日本人ほど愛国心を鼓吹せられた国民はない、愛国心は日本国民の宗教と云はるゝ程であつた、然るに今や愛国心は地を払つて去つた、人々は今や国を思はず、社会を思はず、世界人類を思はず、唯自己一身の幸福獲得にのみ全精力を注ぎ居る有様である、実に我民族は僅かの年月の間に一方の極端より他方の極端にまで走つたのである、しかし是れ不思議の如くにして不思議ではない、国のためにのみ国を愛する愛国心、即ち他に何等の基礎を有せざる浅き愛国心の運命は皆かくの如きものである。
 真の愛国心とは単なる愛国心ではない、深い広い或精神の外に発せし表現である、神の愛を味ひ、その愛に励まされて神を愛すと共に人を愛し全人類を愛するに至りし結果として、自から湧起する所の国と同胞とを愛するの心――これ即ち真個の愛国心である、此種の愛国心は決して年と共に変らない、否年を経て益々盛になるのである、此意味の愛国心を豊かに抱いてゐたのはイエスキリストであつた、彼が橄欖山よりエルサレム城を下瞰し其運命を思うて「あゝヱルサレムよヱレサレムよ……」と万斛の熱涙を注ぎ出したるを見よ、深き/\人類愛に根ざした愛国心が彼の心を占領してゐたのである、パウロの愛国心も亦これであつた、神を愛し人類を愛する基礎に立ちての愛国心であつた、そのイエスの愛国心、又パウロの愛国心、それが以後凡て真の基督信者に伝はつたのである。
 故に愛国心の模範的実例は偉大なる基督者の生涯に於て求むべきである、英国に於ては最も純粋なる愛国心をミルトンの詩に求むべく、独逸人の愛国心はルーテルに由て涵養せられ、伊太利人は今に至るも愛国者の模範と(338)してサボナローラを仰ぎ、米国人の愛国心はピルグリム祖先より発生し来り、又新興国ゼコー・スラバキヤは初めて国を興すに当つて宗教改革の犠牲者ヨハン・フツスの愛国心に励まさるゝ所大であつた、皆これ深き福音的信仰を以て養はれたる基督信徒の愛国心に源泉を発してゐるのである、福音を源として湧き立ちし愛国心のみが永遠に尽きざる清き、広き熱情を保ちて、永へに国を涵ほすのである。
 而してキリストの愛国心は又旧約の偉大なる預言者に源を発したものである、愛国的思想及び情感の最も純粋なる模範を見んと欲せば、今なほ旧約の預言書に於て見出し得るのである、故に云ふ聖書を除いて真正の愛国心が起り得るや疑問であると、我国に於ても此源泉に至らぬ中は、真正の愛国心は起り得ないのである、此国民のために茲に此事を言ふ。
 同胞の不信はパウロを憂へしめ痛ましめた、しかし彼は失望を以て終る人ではない、故にイスラエルの救が或形を以て或時遂に行はるゝを信じた、此事を記したのが九章、十章、十一章である、即ちこれパウロのイスラエル救拯論である、彼はイスラエルの救はるべき時あることを信じて、こゝに失望より発して希望に終るのである、我等も日本民族について思ふ、今かれらが自己中心に陥りてキリストを拒否しては居るが神は必ず或方法を以て我等の愛する此民を救ひ給ふであらうと、故にわれらは喜びを以て刈り取る日の必ずいつか在るべきを思ひて今涙を以て種を蒔きつゝあるのである、国人の無情と軽薄と冷淡とに屈せずして主の道を説きつゝあるのである、日本人の現状は我等を大に悲ましむる、併し我民族は曾ては優秀なる宗教家と宗教信者とを数多く出した民ではないか、パウロが同胞の優逸点を数へあげしが如く、幾らも亦同胞のそれを数へ得る、神は遂にその愛する所の日本民族を救ひ給ふであらう、かく思ひて我等は希望を以て働く、日本国のみならず東洋全体に水の海を蔽(339)ふが如く神を知るの知識が充つる時を遥かに望み見つゝ、今は憂国の情と同胞のための熱心とを以て日々に働くのである、而してイスラエルの救が人類全体の救と相係はりて離れざる如く、日本民族の救も全人類の救と係はる所深きものであらう、故に日本人の救のために働くは又全世界の救のために働くことである、我等福音のため、わが愛する日本国のため、又世界人類のために日々に働かんかな。 〔以上、大正11・5・10〕
 
     第四十四講 ユダヤ人の不信と人類の救(二) 第九章、十章の大意 (三月十九日)
 
 羅馬書九章、十章、十一章は一の連続した思想の発表である、その説く所はユダヤ民族――延いて全人類の救に関する重大なる問題である、故に読者は此点に第一の注意をなさねばならぬ、然るに九章六節あたりよりパウロの説く所は謂ゆる「予定」の教である、此の解し難き事が茲にあるため人々は此一問題にのみ全注意を注ぎ、之を思索の中心とし議論の焦点として、其のために九、十、十一章の趣旨を逸し去るのである、これパウロの意《こゝろ》を解する道ではない、先づ此三つの章全体を通読してその主眼たる所に注目し、その大意を了得することが第一の問題である、そして然る後初めて九章所説の難問題を考察の題目とすべきである、そして此三つの章の趣旨はユダヤ人の救は何時、如何にして行はるゝかの問題に対する解答である、彼は九章の四、五節に於てユダヤ民族の特権を幾つも掲げた、かゝる特権を神より与へられ来りし民族が今やその大なる救の恩恵より遠ざかつて居るのは何故であるか、是れ単に同胞イスラエルの問題たるのみならず、又実に神の摂理の問題――神が如何やうに世界を統べゆくかの問題である、これが解決せられざる時は彼はその同胞を余所に異邦世界にのみ福音を宣伝するその使徒職を執り得なかつたであらう、彼が三年の間アラビヤに過せしと云ふ沈思祈祷の歳月は、多分この大(340)切なる問題の解答を得んことをも其重なる内容の一としたことであらう、それほど之は大切なる所である。
 彼は先づ 「呻き」を以て此大切なる問題を始めた、「我に大なる憂ある事と心に耐えざるの痛みある事」を述べた、その憂と痛とは同胞たるイスラエルの救はれざる事についてゞあつた、そして彼は同胞の救はれざる理由として三を挙げる、第一の理由は九章に、第二の理由は十章に、第三の理由は十一章に記される、彼等の救はれざる第一の理由は|神の御心に因るのである〔付○圏点〕と云ふ事、第二の理由は|彼等の不信仰に因るのである〔付○圏点〕と云ふ事、第三の理由は|異邦人が救はれんため、且その結果として全人類が救はれんためである〔付○圏点〕と云ふ事である。
 九章は(精確に云へば九章六節−廿九節は)右の第一の理由を述べし所である、その主眼は救はれるも救はれぬも専ら神の意志《みこゝろ》に基づくと云ふにある、「肉に由りて子たるもの之等は神の子たるにあらず、たゞ|約束に由りて〔付△圏点〕子たる者は其|苗裔《すゑ》とせらるゝなり」と八節は云ふ、又エサウとヤコブが母の胎にあつた時、母リべカは「兄は弟に服《つか》へん」とのヱホバの声を聞いた、これ「其子いまだ生れず亦善悪を行さゞれど神の選び給ひし聖旨は変ることなく行に由らで召に由るを彰はさんとて」であつた(十−十三節)、また十五節に曰ふ「神モーセに曰ふわれ衿恤まんと欲ふ者を衿恤み憐憫まんと欲ふ者を憐憫むと」と、尚ほ十八節に曰ふ「されば神は憐憫まんと欲ふ者をあはれみ、剛愎《かたくな》にせんと欲ふ者を剛愎にせり」と、実に人の救はるゝも亡ぶるも凡てが神の絶対の意志と絶対の力とに依拠するのであると云ふ、真に大胆なる断定である、そしてパウロは尚ほ此事の合理的根拠として二十一節に於て「陶人《すゑものし》は同じ塊《つちくれ》をもて一の器を貴く一の器を賤く造るの権あるにあらずや」と云うてゐる。
 救はるゝ者も予め定まり救はれぬ者も予め定まつてゐると云ふ、即ち謂ゆる予定の教義である、かく人の運命が至上者の心に於て定まつて居るものならば、人には何等の責任もないことゝなり、努力奮励の必要は全くな(341)く、伝道は無益の業となつてしまふとの疑義が当然起る、然り予定の教義は理論上には幾つもの困難を有す、しかし是れ人生の一の見方なることは明かである、即ち或人は自己の事をかく見るのである、見ざるを得ないのである、即ちこれ実験上の真理である、自己の既往を回顧するとき一切の出来事が我救ひのための設備であつて、神は我を救はんことを予め定め置きて此目的に向つて我を進めたのであると考へる、我救ひは決して我努力の所産ではない、幾度も/\神を棄てゝ他に走らんと願ひしも彼は遂に我を放し給はない、即ち我は神に捉へられたのである、其理由は我には解らない、たゞ其事実が我実験として存するのである、然る時パウロの「我が母の胎を出でし時より我を簡びおき恵をもて我を召し給ひし神」(ガラテヤ一の十五)との確信が自から生れる、予定の教義を我より離れて考ふる時は併し難き点がある、何故に神は或人を恩恵の中に摂取し或人を不信の中に閉ぢこむるのか其理由は解らない、しかし自己の問題として、神と我との関係の上の問題として見るとき之は明々白々たる真理となるのである。
 パウロは同胞イスラエルについて思ふ、彼等の今救はれざるは神の聖旨に因るのである、救はれるも救はれざるも凡て神の心より出づ、神は救はんと欲する者を救ひ滅ぼさんと欲する者を滅ぼす、これが彼の為し給ふ所である、旧約の歴史に於ても此事は度々記されてゐる、故にイスラエルの今の不信は悲むべきではあるが聖旨であれば亦已むを得ないと、かく考へて彼はその悲歎を慰めるのである、然らばイスラエルの救はれざる事については彼等には全然責任がないであらうか、否彼等の救はれざるは亦彼等の責任である、即ち彼等の不信仰が彼等の亡びを惹き起しつゝあるのである、かくパウロは考へて之を第十章に於て記したのである。
 然らば九章と十章とは相納れぬ二つの真理を説いたものではないか、その間に明白なる矛盾があるではないか、(342)人の救と亡びとは全然神の意志に基づくと云ふのは九章、人の意志からの信不信に基づくと云ふのは十章である、甲は凡てを神の意志に置きて人の責任を無視するが如く、乙は人の意志に重きを置きて人の責任を問ふが如くである、茲に矛盾があると云へば慥かに矛盾がある、併し此矛盾の中に人生の興趣も亦在る、如何にして此矛盾が調和せらるべきか、即ち神の意志と人の意志との併存を如何やうにして認むべきか、茲に人生の面白味が存するのである。
 イスラエルの不信は神の意志より出で又人の意志より出づると云ふ、然らばイスラエルは永久に神の斥くる所となるのであるか、否とパウロは答へる、彼は十一章に於て説きて曰ふ、|イスラエルの今の不信は福音の光の異邦に臨まんためである〔付○圏点〕、彼等が福音を斥けしために今福音は異邦の暗き谷を照しそこに異邦人は続々としてキリストに帰しつゝある、而して異邦の人救はれし後ち福音の光は再びイスラエルを照し、「イスラエルの人悉く救はるゝを得」るに至る、かくして全世界に生命の光ゆきわたり地上の全民族に救は臨むのである、故に今のイスラエルの福音拒斥はやがて全世界が之を信受する予備であると、これパウロの世界救拯論である、実に深妙なる歴史哲学、荘芙なる世界の大観、雄大なる未来の予言と称すべきものである、茲に一切の矛盾、疑義が神の大愛てふ一義の中に美はしく調和融合せられるのである。
 このパウロの大希望の予言に接して我等は現在の世界の状態について大に慰められるのである、今や世界の壊乱はその極に至つたかと思はれる、今は人は善悪と云ふ簡単なる道徳的差別をさへ認めない時代である。一切を自己と自己の快楽のために用ひて之を耻ぢざるのみか之を誇りつゝあるが現代人の心理である、そのために人類社会の醜陋堕落は九天直下の勢を示してゐるかと思はれる、巴里、伯林、紐育等の文明都市の大腐敗は此事(343)の著しき徴である、これ実に人の意志より出でたものであつて同時に神の意志より出でたものである、即ちこれ明白に神の審判である、併しながら神は又必ず此の暗きを通して新たなる光明の世まで人類を導き給ふであらう、ユダヤ人の不信が遂に全世界の救ひを起すとのパウロの予言に傚ひて、我等も亦今の世界壊乱は遂に全世界の救にまで導かるゝと預言し得るであらう、人は今神の法《おきて》を破りつゝあるが如くであるが実は神の法は人に破らるゝ如き脆弱なるものではない、神の法は厳として千古に立つてゐる、彼は依然として全世界救拯のその聖計画を進めつゝある、やがて聖図の成る時は必ず来る、恰も我の罪を通して神は我を光明の境にまで導き来り給ひしが如く、全世界の今の罪悪を通して彼は之をその聖目的のある処まで導きゆき給ふであらう、その事を思うて我等にも亦悲歌の中に大なる慰藉がある。
 以上の如く九、十、十一章の大意を見ることが甚だ肝要である、即ち我等は主なる着眼点を全人類と救といふ処に置かねばならぬ、然るときは九章の予定問題の如きも亦自から融け去るのである、予定問題のみを摘出し之を客観的真理として理論の上に於てのみ検査する故解らないのである、之を更に広き視野に於て眺める時は決して難問題として人を苦めないのである、即ち神が如何やうに世界人類を導きつゝあるか、如何にして人類の救は成るべきか、この大問題を心に置きてその一部として予定の教を見る時は、この難かしき教義と称せらるゝ者が自然と解けてしまふのである。
 これ九、十、十一章の大観である、然らば我等は前に帰つて十章の大意を見よう、これイスラエル不信の第二の理由である、即ち彼等の不信は彼等の責任であると云ふ主張の提起である、「彼等は神の義を知らず、己の義を立てんことを求めて神の義に服はざるなり」と三節にある、又「凡て信ずる者の義とせられんためにキリスト(344)は律法の終となれり」と四節にある、律法の行によつて自らを義とせんとはキリスト以前の事である、律法の行によりて即ち自己を義として救はるとは旧き原理である、キリストが十字架に於て亡ぼしたる原理である、今はたゞ信仰だけで義とせられるのである、これが「神の義」である、然るにキリストを知らざる彼等は此簡単容易なる義の道を棄てゝ、かの複雑困難なる義の道に執着してゐる、彼等は旧くして劣れるものを固く抱きて新くして優れるものを斥けてゐる、自己の努力奮闘に依て律法の義を行ひ以て神の前に己を義とせんとして、信仰に依て与へらるゝ所の神の義を顧みない、茲に於てかキリストと其十字架とを受けないのである、見よ信仰の道の如何に簡易なるかを、「道は汝に近く汝の口にあり汝の心にありと、是れ即ち我等が宣ぶる所の信仰の道なり、そはもし汝口にて主イエスを認白《いひあらは》し又汝心にて神の彼を死より甦へらしゝを信ぜば救はるべし、それ人は心に信じて義とせられ口に認白して救はるゝなり」とある(八−十節)、この簡易なる信仰の義を採らずして、かの難渋なる行の義に依れること、是れユダヤ人不信の理由である、かくばかり平易簡明なる恩恵の道をすら採らない、故に不信の責任は彼等自身が負ふべきものである。
 実に信仰の義は簡易である、たゞ信仰さへすれば義とせらるゝのである、ユダヤ人、ギリシヤの区別はない、「凡て主の名を呼び求むるものは救はるべし」である(十三節)、たゞ父なる神に頼りさへすればよい、己の修養、工夫、努力、計度《けいたく》によつて自己を義とせんとする自立的態度を神は喜び給はない、たゞキリストを心に信じ之を口に告白するだけで義とせられる、然るに哲学と叫び神学と唱へ、何か自己の工夫を以て偉大なる心境を開拓し神聖なる境地に己を持ちゆかうとする故、日に夜に労して得る所は労苦と失望とのみである、法然上人の『選択集《せんじやくしゆう》』は信仰による救を証明せし大著である、行に因る道を難行道と名け、信仰による道を易行道と呼ぶ、難行道(345)は峻嶮なる急坂を喘ぎ/\登る如きものであり、易行道は舟子のあやつる船に己の身を任する如きものであると教ふ、洵にその通りである、唯キリストを信じて一切を任すればそれだけで救の船に乗せられて天の国まで連れられて行くのである、人はその生涯に於て如何に多くの善行を積んだとて救はれるのではない、只信ずべき者を信じ、依り頼むべき者に依り頼みて、且この信仰を告白する生涯をつづけて救はれるのである。
 この秘義を知らずしてイスラエルはキリストを斥け今の文明人も亦同様にしてキリストを斥けてゐる、この簡易なる信仰の道に人生の平安、歓喜、愉悦、生命及び永生のあることを知らずして、人間の努力を以て何か良きものを人の心に、人の社会に産み出さんとして狂奔乱撃に陥り、凡て失望を以て終るの惨状を呈してゐる、即ち彼等は昔のユダヤ人と全く同じ心理状態にある、故に基督教国と称せらるゝ国々に於ても大部分の者はキリストを信ぜず、又異教国に於ても同様にその極小部分のみしか彼を信じないのである、今日の文明人はパウロ時代のユダヤ人そのまゝである、自ら立たんと欲するが故にキリストを信受しないのである パウロはユダヤ人に悔改めよと叫んだ、我等も今の文明人に向つて同様の叫びを発せざるを得ない。
 
     第四十五講ユダヤ人の不信と人類の救(三) 第十一章の大意 (四月二日)
 
 ユダヤ人は今キリストを斥けてゐる、それは第一に神の聖旨に基づくことであり、第二に彼等が己の義に執着せるからのことである、かくて今イスラエルは救の外にあると、これ九章、十章の大意である、之を受けてパウロは十一章の劈頭に於て先づ問ふ「然らば我れ云はん、神はその民を棄てしや」と、そして直ちに答へる「極めて然らず、如何《いかに》となれば我も亦イスラエルの人、アブラハムの裔、べニヤミンの支派《わかれ》なり」(一節)と純粋のユダ(346)ヤ人たる我自身が既に神に招かれて其恩恵に浴した、然らば他のユダヤ人も亦同一の恩恵に浴し得ない筈はないと、これパウロの意である、ヱホバは預言者エリヤに向つて「われ自らのためにバアルに跪づかざる者七千人を残せり」と告げ給うた(二−四節)、「かくの如く今も尚ほ恵の選びに由りて遺れる者あり」とパウロは云ふ(五節)、今も民族全体の不信の中にごく少数の除外例がある、僅少の同胞がともかくも福音を信じてゐる、これは「遺れる者」である、此者が根となつてやがて救のユダヤ全民に臨む時が来るとパウロは確信したのである(一節より十節まで)。
 我日本民族についても我等は同様のことを考へる、彼等を民族全体として見るとき福音を明白に拒否してゐる、彼等は自己の利害のために焦慮して神の福音については無関心である、日本国は仏教国である、各地にある所の寺院巨刹を見よ、死する時営まるゝ葬式を見よ、よし仏教の活ける精神は多く失せたりとは云へ其形式は尚ほ固く我民族を把握しつゝある、草と樹が日本の全国土を蔽へる如くに不信者は日本の全社会を蔽うてゐるのである、そして表面に於ては基督信者であつて実は然らざるもの、又一度信ぜしも之を棄てし人々、之等は其数に於て甚だ多い、私かに虞る神は我日本を棄てしにあらざるかと、併し乍ら又思ふ我の如き頑梗深罪のものすら神の恩恵に浴したではないか、然らば他の日本人の救はれぬ理由がどこに在るかと、又思ふ少数の日本人は既に神の招く所となつた、その数は少なしとは云へ是れ日本民族の一部である、かくその一部が救はれた以上はその全部も遂に救はれるに相違ないと、これ我等がパウロに傚ひて我が同胞について抱く所の希望である。
 次には十一節−十六節を見るべきである、十一節に曰ふ「然らば我れ言はん、彼等(イスラエル)が蹶《つまづ》きは倒れに及びしや、然らず却て彼等が錯失《あやまち》により救は異邦人に及べり、これイスラエルを励まさせんが為なり」と、福(347)音はイスラエルの拒斥する所となつて其目標を転じて異邦人に向つた、そして神の光に未だ浴せざりし心霊の暗黒世界より両手《もろて》をあげて神を呼び求むる者が続々として起つた、之はイスラエルを励まさんためである、侮りゐたる異邦世界に心霊の覚醒大なりと聞かば彼等は之に励まされてキリストに帰するに至るであらう、曾ては彼等が異邦人の師であつた、しかし之からは異邦人が彼等の師となつて福音は彼等の国に逆輸入せられ、茲に救は彼等の上にいと滋く臨むに至るであらう、かくして全人類がキリストの光に浴するに至るであらうと、これパウロの確信であつた。
 今この事を今日に喩へて見るなれば丁度我日本民族は当時のユダヤ民族の位置にある、福音我国に伝へられてより既に幾十年、その間に尽されし人の努力と費されし財帑は尠少ではない、しかも日本人は福音については頗る冷淡である、偶々熱心なる者あるも多くは青年時代の夢として終る、米国の神学校に米国人の資を以て学びし日本の青年の多くは伝道の職を棄てた、日本人は利のために福音を利用するも決して福音を受けようとはしない、欧米人は日本人について著しく失望した、その結果として支那人と朝鮮人とに多大の注意を払ふに至つた、今や欧米諸国は此両民族に向て続々として宣教師を派遣する、そして其効果頗る著しいと言はれてゐる、東洋の教化が日本より始まらんことは我等の多年の願であつた、今も此願は変らない、先づ福音が日本の全土に臨み恰も水の低きにつくが如く日本より支那、朝鮮に流るゝ時我等の喜悦はいかばかりであらうか、併し乍ら日本人は福音を斥ける、そのために恵は支那、朝鮮に及びつゝある、即ち日本人の不信は支那人、朝鮮人に信仰の与へらるゝ機縁となつた、然る後ち福音は彼等より日本に伝へられて、遂に全東洋が救はれるのであらうと思はれる、即ち|神は東洋全体に福音の光を普ねからしめんために先づ日本人を不信の中に閉ぢこめたのである〔付△圏点〕、故に日(348)本民族は決して棄てられたのではない、後ち必ず大なる救に浴するのである、即ち最後に日本が救はれて東洋全体が救はれるのである。
 これ固より東洋の救拯に関する我等の想像である、然り想像である、しかし必しも空想と云ふことは出来ない、日本人は東洋の兄弟たる支那人、朝鮮人を蔑視しつゝ来つた、今も依然として蔑視してゐる、中には彼等を虐げるを以て快としてゐる者がある、神は高ぶる者を卑くし卑き者を高くし給ふ、日本人が彼等に先ちて欧米の物質文明を吸収し、其のために一等国の列に入りて東洋の兄弟を軽しむる時、神はその物質文明を日本に与へ置きて其福音をその手より奪ひ、之を支那人、朝鮮人に与へ、然る後ち彼等を以て福音に於ける日本人の師となし、遂に生命の光を全東洋に漲らしむるの道を取り給ひつゝあるかも知れない、何れにせよパウロが其同胞たるユダヤ民族の救について失望しなかつたやうに、我等も亦同胞たる日本民族の救について失望しない、神は必ず何等かの方法を以て全東洋を救ふと共に全日本民族を救ふであらう、全世界を救ふと共に全ユダヤ民族を救ふであらう、我等はパウロと共に希望の歓びの中に我痛みつゝある心を安息せしむる者である。
 次の十七−二十四節は有名なる橄欖の接木の比喩《たとひ》である、普通の接木は良き実を結ばざる基樹に良き実を結ぶ樹の枝を接ぎ以て其樹全体をして良き実を結ばしむるものである、然るに橄欖の樹には特殊の接木法があつた、それは野生の橄欖樹の枝を栽培せる橄欖樹に接ぐのである、然る時は両者にとつて良き結果が起る 即ち橄欖の老樹は精気を回復して若々しくなり、野生の枝は栽培せられし橄欖の枝の如くに醇化するのである、(我国に於ても有名なる近江の唐崎の松は、若き松を傍らに植えられる事に依て精気を快復しつゝ来つたと言ひ伝へられる、事実なるか如何は知らず、たゞそれがパウロの茲に説く接木法に似たる所に興味がある)、イスラエルは神の庭(349)に多年栽培せられし橄欖樹である もとより野に放置せられ来りし野生の橄欖たる異邦人と比すべきものではない、併しながら幾千年の間神の道を抱き来つて今やいたく疲れた、霊的の力衰へて主の福音をさへ斥けるの悲境に入つた、茲に於てか神は野生の橄欖たる異邦人を抜き来つて之に接木した、これ両者にとつて幸な事であつた、そのために異邦人は神の光に浴して心霊の醇化更生を遂げた、そしてそれに励まされてユダヤ人も亦霊的に復興するのである。
 異邦人の中には生命の流れ滾々として異邦の野に注げるを誇り、我とみづから之を遮りたるユダヤ人を蔑むものがある、併し乍ら「誇ること勿れたゞ戒懼《おそ》れよ」(二十節)とパウロは彼等に向つて警告を発する、「もし幾許の枝を折られたるに汝野の橄欖なるそれを其中に接がれ、共に其根により共に其|汁漿《うるほひ》を受くるならば、原の技に向ひて誇る勿れ、たとひ誇るとも汝は根を保たず根は汝を保てり」と十八節にある、かくパウロは異邦人をして誇る余地なからしめんとする、同時に彼等が神に背きて棄てらるゝ日を招来することなきやう信仰と敬虔の確保を促して曰ふ「そは神もし原樹《もとき》の枝をさへ惜まずば恐くは汝をも惜まじ」(廿一節)と、又曰ふ「汝慈しみに居らば其の慈しみは汝にあらん、然らざれば亦汝も斫離《きりはな》さるべし」(二十二節)と。
 イスラエルの救はれざるは不信仰のため、異邦人の救はるゝは信仰のためである、故にイスラエルと雖も信仰に入れば救はるゝに相違ない、元来不信仰なる異邦人さへ一転して信仰に入りし故救はれた、ましてや元来信仰に立つイスラエルのことゝて、今は不信なりとは云へ一度立ち帰りて主を信受せば忽ち救に浴すること当然である(二十節及び二十三、四節)、茲に於てかパウロは容を改め姿を正して異邦の信者に向つて左の如く告げる。
  兄弟よ我れ汝等が自己《みづから》を賢しとする事なからんために此奥義を知らざるを欲まず、即ち幾分のイスラエルの(350)頑梗《にぶき》は異邦人の数盈つるに至らん時までなり、而してイスラエルの人悉く救はるゝを得ん……昔《もと》汝等は神に背きしが今彼等が背けるに由りて汝等矜恤を受けたるが如く、今かれらの背けるは汝等の衿恤を受くるに因りて亦衿恤を受けんためなり、それ神は凡ての人を憐まんがために皆これを不服《そむき》の中に入れかこめり(二五−三二節)。
今イスラエルの大部分は不信の中にある、しかし之れは救の異邦に臨まんためである、やがて救はるべき異邦人が皆救はれた時には、福音はユダヤに帰りてイスラエルは悉く救はるゝであらう、曾て神に背きつゝありし異邦人がユダヤ人の不信のために今神に従ふに至りし如く、今背きつゝあるユダヤ人は異邦人の信のために再び神に復帰するに至るであらう、故に今のイスラエルの不信は後の信のためである、観じ来れば何れの民族と雖も一度は不信背戻の中に閉ぢ込められる、しかし是れ後に於て救を施されんためである、かくして神の支配の下にあつては凡てが光明へ向つての進展である。
 かく思うてパウロの心に大なる安慰が臨んだ、彼は同胞の救はれざるために大なる憂と心に耐えざるの痛を抱いた、如何にかして彼等を悔改しめんと願つた、これ彼の哀哭愛民の至誠からであつた、彼は異邦人の続々として神に帰しっゝあるに対して同胞の執拗なる不信を見るに忍びなかつた、けれども彼は眼を全人類の未来に向つて注いだ、そして全人類の救の日を期待し且その一部として最後に起るイスラエルの救を予覚した、万事の終る所は光明である、世界人類の前途には満々たる希望がある、神は一度何れの民族をも「不服の中に入れかこむ」と雖も是れ即ち後に燐みを施さんためである、冷き冬の後に暖き春は必ず来る、今はユダヤ民族の冬である、併し乍ら是れ後に到来する所の春の光明と生命とを予示するものである、かくして神はその聖旨を行ひ給ふのであ(351)る。
 パウロは右の如くに考へた、この偉大なる思念の中に先の憂と痛とは失せ去つた、残る所は唯讃美のみである、三十三節以下に於て彼は歌ふ。
  あゝ神の智と識の富は深いかな、其審判は測りがたく其|踪跡《みち》は索《たづ》ね難し、誰か主の心を知りし、誰か彼と共に議《はか》る事をせしや、誰か先づ彼に与へて其報を受けんや、そは万物は彼より出て彼に倚り彼に帰ればなり、願くは世々|栄《ほま》れ神にあれアメン
是れ偉大なる讃美の歌にして、八章終尾の讃歌と相対して其美を競ふものである、彼は救の確実なるを知りて揚げたる凱歌、是は神智の宏大なるを歎美したる讃歌である、摂理の中に凡てを見るがその特徴である、寔に九章より十一章に亘る人類救拯論の結尾として相応しきものである。
 世界の現状如何、又我日本国の現状如何、溷濁迷乱の極と云ふべきである、神は何故かくの如く人類を導き給ふか、何故これを放置し給ふかとの疑問が起らざるを得ない、之に対する説明の第一は神の聖旨に依るとの事である、第二の説明は人類の意志に依るとの事である、人類は自から神と真理とに背き来つた、之に対して彼等は責任を持たねばならぬ、乃ち神は之に対して相当の罰を与へて彼等を此淆乱の中に入れかこめた、併し乍ら暗中に光を生み出す神は必ずや此淆乱醜汚を通して人類を光明の境に導きゆくであらう、パウロが今の世に生れたならば斯く信じたに相違ない、我等亦かく信じかく望みてパウロと共に神の智と識の富とを讃美しよう。
 之を矛盾と見做す人がある、然り然らず、純理の上に於てはそこに矛盾が存する、しかし愛は理論以上である、愛は全宇萌ほどそれほど大である、愛の中には一切の矛盾が調和せられる、神の愛は春の光の如く柔かに全人類(352)を蔽うてゐる、人は神の愛の如何に大なるかを知らない、併し乍ら時来つて新しき天と新しき地の開かるゝ其復活の朝に於て如何、その時与へらるゝ恩恵のあまりに大なるに驚かざるもの果して幾人ぞ、その時神の愛の絶大に眼くらまざる者果して幾人ぞ、其時自己のあまりに弱かりしを耻ぢざるもの果して幾人ぞ、実に神の愛は人の目未だ見ず人の心未だ思はざるものを与へんとするのである、此大愛の中に世界の現在と将来とを見たるパウロの救拯観、それは実に宏大なる希望に波うつ魂の叫びである、此大思想の前に此世の哲学は煙の如く失せ去るではないか、人間の理智を以てする小懐疑は微塵に打ち砕かるゝではないか。そして残るは唯神智に対する讃美の歌のみである。
 
     第四十六講 基督教道徳の根柢 第十二章一節の研究 (四月九日)
 
 前講を以て第十一章の研究を終へた、これからは第十二章以後の研究に入るのである、その内容の価値から云へば羅馬書は第八章を以て絶頂とする、しかし其内容の性質から云へば十一章と十二章の間が分水嶺となつて居る、即ち十一章までに説かるゝは教義であるが、十二章からは全く面目を異にして専ら|実践道徳〔付○圏点〕を説くのである、故に羅馬書を二大部に分つて十一章までを第一部、十二章以後を第二部と見ることが出来る、併し又全体を三大部に分ちて、個人の救を主題とする一−八章を第一部と見、人類の救を主題とする九−十一章を第二部と見、実践道徳を説く十二章以下を第三部と見ることも出来る。
 かく其書翰の前半に於て福音的教義を説き後半に於て実践道徳を説くは羅馬書のみに限らない、パウロの他の書翰に於ても之がある、その最も鮮明なのは羅馬書のほか以弗所書である、此書は第三章までに於て信仰に関す(353)る深き教義を説き、第四章よりは「されば主にありて囚人《めしうど》となれる我れ汝等に勧む、汝等召されし召に符《かな》ひて行はんことを」と説き始めて専ら実践道徳を説明してゐる、哥羅西書も此点が可成り明瞭である、一、二章に於て含蓄豊かなる教義が説かれし後ち第三章よりは「既に汝等キリストと共に甦りたれば天にあるものを求むべし」と説き出して専ら道徳的の注意が与へられてゐる、その他加拉太書は第五章一節より、テサロニケ前書は四章一節より、同後書は三章六節より孰れも実践道徳に入つてゐる、パウロの書翰の半数が此特徴を担つてゐる事は注意すべき一事である。
 普通の這を以てすれば先づ人を教ふるには道徳を説くべきである、これ解し易きのみならず実際生活上主たる注意を行為に置くは当然であるからである、然るにパウロは何故解し難くして且実際生活には縁遠しと思はるゝ教義――多くの人々に神秘的と云はるゝもの――を第一に力説して、然る後ち|より〔付ごま圏点〕解し易くして|より〔付ごま圏点〕緊切と思はるゝ道徳の事を説くのであるか、これ一の疑問である、併しながらパウロを以て見れば|教義は源にして道徳は末である〔付○圏点〕、教義は根幹にして道徳は華葉である、義とせらるゝ事と云ひ、聖めらるゝ事と云ひ、救はるゝ事と云ひ、又人類救拯の次第と言ひ、これパウロに取つては人生の第一問題である、神と人との関係の根本をなす問題である、故に之が解明に多くの文字を費して然る後ち初めて道徳倫理の問題に入るのである、普通の人は考へる、世には実際問題が多い、社会国家人類に関する切実緊要なる問題が山の如くある 之等の解決のために人は今や日も亦足らざる状態にある、何を苦しんでか神人の関係など云ふ問題にたづさはらんと、然るにパウロに取つては神人関係の問題が人生の第一問題である、之さへ解ければ他の凡ての難問題と称せらるる物の如きは自然と解け去ると云ふのである。
(354) 根なくして葉の茂り花の開く筈がない、然るに此世の人等は営々として此の不可能事に従事して居る、さりながら教義は人生の第一問題の解明である、神と人の関係が先づ義しくされなくては他の凡ての事は義しくされない、基督教道義は基督教々義を根幹として立つ華葉である、故にこそ根幹より養汁を受けて栄ゆるのである、根柢なくして只独り立つ所の倫理道徳は恰も瓶に植えし花の如く凋み果つる外ない、此点に於て基督教道徳は普通の道徳と根本的に相違してゐる、自己の義とせらるゝ事、聖めらるゝ事、救はるゝ事の奥義を学び、進んで全世界に関する聖図の秘義を学びて歓喜と希望の歌が高く揚がる――然る後ち実際道徳に入るのである、我等心の根本に生命を供給せられずば如何に優秀なる道徳と雖も之を実行する道がない、人生の根本問題が解決され、罪の苦悶がその根柢より医され、神の前に義とせらるゝに至り、栄化の聖望に心おどりて歓喜と平安わが全心を霑ほすに至るときは、心は自から生命と力に充ちて道徳は求めずして行はるゝのである、これ道徳的生活を実現する最上の道である、故に道徳の前に教義あり教義の後に道徳あるは、少しも怪むに足らざる当然の事である。
 基督教道徳と云へば大問題なる如く思はれ、之について大部の著述をなす学者がある程である、如何やうにも之を精密に論ずることは出来るであらう、しかし羅馬書の十二章、十三章を以て基督教道徳の大綱はほゞ尽きて居ると云ふことが出来る、人の人に対する務、人の社会国家に対する務等各方面に亘りて精細に説明されてゐる、人生に必要なる倫理道徳はほゞ網羅されて居ると云ふことが出来る、故に一字一句に注意して丁寧に研究するときは我等の日常生活の完全なる指針となるのである。
 先づ十二章第一節を見るに邦訳聖書には「されば兄弟よ我れ神の諸々の慈悲《あはれみ》をもて汝等に勧む、その身を神の心に適ふ聖き活ける祭物として神に献げよ、これ当然《なすべき》の祭なり」とある、今これを原文の順序のまゝに訳せば大(355)体左の如くなる。
  されば汝等に勧む、兄弟よ、神の諸々の慈悲をもて、その身を献げよ、神の心に適ふ聖き活ける祭物として、これ当然の祭なり。
実に其一字一句が意味深き語である、これ実に基督教倫理の根本的原理である、実に此一節を以て倫理入門と称することが出来る。
 第一に立つは「されば」である(原文に於ては第一に|勧む〔付ごま圏点〕の語があり次に|されば〔付ごま圏点〕があるが、之は此文字の性質上然るのであつて意味の関係に於ては勿論|されば〔付ごま圏点〕が第一に立つのである)、この|されば〔付ごま圏点〕は何を受けての語であるかは一間題とされてゐる、マイヤーの如きは十一章三十五、六節を受けたのであると主張する、然し乍ら多くの学者は此語を以て一章十七節以下の既説全部を受けての語であると見てゐる、この語は羅馬書の教義部と道徳部の間に立つ所の「されば」である、故に教義部の全体を受けての語であると見るが最上の見方と思ふ、即ち「汝等キリストによりて義とせられ神と新しき関係に入らしめられたれば」の意である(サンデー)、義とせられ聖められ救の希望を有たせられたれば――かく数々の大なる恵に接したれば――云ひ難き歓びと安きを与へられたれば……と云ふ意である、かく「されば」を以て呼び起さるゝ道徳の勧めである、たゞ為すべし為すべからずの誡めではない、充分の根柢ありて自から現はれねばならぬ勧めである、二節以下十五章まで説く所多岐に亘つてゐるが、何れの誡めと雖もその前にこの「されば」を冠する所の誡めである、この如き意味の「されば」を冠する道徳にして初て道徳としての値がある、又実行せられ得る、即ち充分なる心霊的根柢と生命の源泉とを有する所の道徳である、羅馬書十二章以後の基督教道徳を学ぶに当つて我等の常に心得置くべきは此の「されば」である。
(356) 「汝等に勧む、兄弟よ」と云ふ、「兄弟よ」とはパウロが何か重大な事、意味の深い事、自己の至情などを改まつて云はうとする前に発する慣用の語である、例へば十章一節に「兄弟よ我心に願ふ所と神に祈る所はイスラエルの救はれんこと也」とある如き、また哥林多前書十二章一節に「兄弟よ霊の賜については我れ汝等が知らざるを好まず」とある如きを見よ、情のこもつた語、兄弟が兄弟に対して云ふ語である、パウロは茲に兄弟の態度を以て、親みをロマの信徒に向つて注ぎつゝ、温き心を以て道徳的の勧めをなさんとするのである、僅に一語を加へただけであるが其中に筆者パウロの当時の心構ひが充分に見える、そして偉大なれども繊細なりし彼の心を我等はこゝに見るのである。
 「勧む」と云ふ、命ずではない、「モーセは命じパウロは勧める」とべンゲルは言ふ、モーセ律は権威を以てする命令である、そして之を行へば幸福来り之を破れば刑罰臨むと云ふ、即ちモーセ律は幸福の約束と刑罰の威嚇とを以てする命令である、然るに今や時来つて福音の時代となつた、先づ与へらるゝは恩恵である、然る後ち「されば……勧む」である、道徳的命令を新たに課さうとするのではない、恩恵に浴して感激する結果当然あるべき事を念のために勧めるのである、勧めなくても読者の当然実行するべき事ではあるが、或は忘るゝ者もあらうかとの心遣ひより改めて勧めるのである、故に自然に起るべき事をひき起すだけのことである、故に少しも命令として威嚇的に臨む必要はない、たゞ勧めただけで充分である。
 「神の諾々の慈悲をもて」勧めると云ふ、第十一章までに於て説く所皆な神の「諸々の慈悲」である、殊に一章−八章に於ける救拯の本義は徹頭徹尾神の慈悲である、そこに著しきは人の罪と神の愛との対照である、人には唯罪の深きあるのみにて何の功なく只信仰によつて義とせられ、聖められ、救はると云ふ神の慈悲である、こ(357)の神の慈悲をもてバウロは献身を勧めると云ふのである、慈悲に感激して自ら為すに至る献身を念のためにパウロは尚勧めるのである、「神の慈悲に過たず心動かさるゝ者は其凡ての聖旨に従ふに至る」とべンゲルの云へるに注意せよ。
 神の諸々の慈悲をもてパウロは何を勧めるのか、同く「その身を猷げよ」である、パウロが茲にその身(肉体)を献げよとのみ云ひて、全身全霊を献げよとも、汝自身を献げよとも云はなかつた事については種々の説がある、しかし乍らその身即ち肉体を献げよと明示してある上はそれが肉体的献身を意味することは勿論である、パウロは何故此事に重きを置いたのであるか、彼は第二節に於て「心を化《か》へて新にせよ」と勧めてゐる故第一節には専ら身体のことを云ふたのであらう、抑も人の肉体なるものは人間が事を行ふ道具である、之を以て人は悪をもなし又善をもなす、之をサタンの誘ふまゝに濫用し悪用するが世の常である、その最も甚しき例は既に一章末段に記された、この悪用され易き又罪の機関となり得る肉体を神に献げて彼のために用ふるは、心を潔むると共に又肉体を聖むる道である 神のために此肉体−此頭、手、足を用ふるが茲にパウロの云ふ献身である、その身を献げよとは卑近なるが如くして実は深き勧めである。
 「神の心に適ふ聖き活ける祭物として」献げよである、祭物とは勿論ユダヤにあつては犠牲として祭壇に供ふる物の意である、ユダヤにはヱホバを祭る数種の祭がある、幼きより之等の諸祭に親しみゐたるパウロは極めて自然に「祭物として献げよ」との言を発したのであらう(自国の祭に対する一種の親みを以て)、燔祭は前であつて酬恩祭は後である、共に犠牲を献げる祭であるが甲は罪のため乙は感謝のためである、而して信者の場合に於てはキリストは我等に代りて「世の罪を負ふ神の羔」として自から燔祭の壇に己を亡ぼせし故我らの燔祭は既(358)に了りて今や感謝を表する酬恩祭を献ぐべき時となつたのである、併し乍ら今や牛や羊を献ぐるは神の心に適ふ所ではない、今献ぐべき犠牲は自己の肉体である、聖き活ける祭物である、死せる牛や羊は今や祭物たる価をもたない、活ける我身体を全部――その肢体と共に全部――献げて了ふこと是れ「神の意に適ふ」祭物である、これを我らは感謝の意味に於て恩に酬ゆる意味に於て献ぐべきである、そして神の聖き御業のために我身体を全部用ふべきである。
 パウロは右の如く全き献身をすゝめて後ち「これ為すべきの祭なり」と附記した、此献身は基督者として当然為すべきの祭であると云ふ意味である、「為すべき」の原語を logikos(ロギコス)と云ふ、之は|合理的〔付ごま圏点〕と訳するが普通ではあるが(英語 rational)また|霊的〔付ごま圏点〕と訳することも出来る(英語 spiritual)、合理的と見れば以上の如き恩恵を受けたる基督者がその身を献ぐるは|当然の〔付○圏点〕祭であると云ふ意になる、実に理に適つた、無理のない、当然の献身であると云ふのである、是れ普通の見方である、そして此見方には何等の故障もなくして文字上、意味上自然にして無難なる見方である、併し又|霊的〔付ごま圏点〕と見る方にも捨てがたき点がある、同一の文字が彼得前書二章二節に用ひてあつて「|霊の〔付△圏点〕真の乳」(改訳聖書)と訳してある(現行訳聖書に|心を養ふ〔付ごま圏点〕とあるは稍々意訳に過ぎてゐる)、又同じ二章五節には「イエスキリストに由りて神に悦ばるゝ|霊の〔付○圏点〕祭物を献ぐべし」とある、この方は別の文字を用ひてはあるが此節の意味が羅馬書十二章一節と酷似せるは見逃し難き点である、或はパウロは「これ霊的の祭なり」と云ひて猶太諸祭の物質的なるに対比せしめたのかも知れぬ、殊に此頃民と祭司との堕落のためにユダヤ諸祭はその美しき意味を忘れられて専ら物質的、形式的の祭と化し去つてゐたのである故、パウロは殊に力をこめて|霊的の〔付ごま圏点〕祭なりと云ふたのかも知れない、何れに定まつてもその主意は同一である。
(359) 基督教にも亦祭がある、それは既に形式化したるユダヤの諸祭儀の如きものではない、又異邦に行はるゝ所のかの俗の俗たる祭の類ではない、そして又日を定めて或一日又は数日をのみ神のために用ふる祭ではない、基督者の祭とはその当然為すべき祭であり又霊的の祭である、それは其身を「神の心に適ふ潔き生ける祭物として献」ぐる所の祭である、一度その身を献げて日々に連続して其身を献げつゝゆく祭である、別の語を以て云へば信者はその生涯全部が祭である、彼には此世の謂ゆる祭はない、けれども祭が全くないと云ふは誤つてゐる、否祭を最も多く営む者は彼である、何となれば彼は毎日々々祭をするからである、否その全生涯が祭の連続であるからである、否その全生活が即ち祭であるからである、故に我等は他に特別の祭をする要がないのである。 以上を以て十二章一節の解を終る、まことに右の如きが基督教道徳である、基督教道徳は全き献身を先づ第一とする、それより凡て行為の細末にわたるのである、然し献身と云ふも単なる命令ではない、まづ神の恩恵に豊に浴し人生の根本問題を解かれて歓喜満悦のあまり当然為し得る献身のすゝめである、かくして深められたる心より自発的に起る所の愛の行と生涯である、何の根柢なき道徳ではない、根柢を明かにせられし故|合理的〔付○圏点〕に為し得る所の道徳である、理に適つて心から行ひ得る道徳である、賦課ではない、心から為し得る献身、喜んで為し得る献身、及びその結果としての行為である、これが基督教道徳である、僅に一節の中に基督教道徳の大体が説かれたのである。 〔以上、大正11・6・10〕
 
     第四十七講 基督教道徳の性質 第十二章二節の研究 (四月十六日)
 
 羅馬書第十二章は信者の一人としての道、十三章は社会の一員としての道を説示したものである、そして十四(360)章、十五章は同じく実践上の問題に係はつては居るが、特に羅馬教会特有の事柄について注意を与へたものである、故に一般的の基督教道徳と云へば十二、十三章を以てほゞ其大綱を尽してゐるのである、而して前講に説きし如く十二章の第一節は基督教道徳の根柢であると共に、またそれが実行の動機であると云ふことが出来る、即ち神の愛に感激して全き献身をなせよとのことである、もし此事さへ充分に出来れば他の事は学ばずとも自から明瞭となるのである、しかしパウロは念のため尚ほ諄々として基督教道徳の全般を語らんとするのである。
 第一節は基督教道徳の根柢である、之に対して第二節の説く所はそれの性質である、そしてパウロは彼れ特有の習慣として先づその消極的半面を説き、然る後その積極的半面を説くのである、消極的半面とは二節の前半である、曰く  又この世に効ふ勿れ
と、そして積極的半面とは二節後半である、曰く
  汝等神の全く且善にして悦ぶべき旨を知らんがために心を化へて新にせよと、寔に此両方面を併せる時そこに基督教道穂の性質は遺憾なく知らるゝのである、健全なる道徳は一方に於ては此世の潮流に対する反対、他方に於ては心の革新である、此両者を兼ねる所に基督教道徳は成立する、然らざる所には基督教道徳はないのである。
 「此世に効ふ勿れ」と云ふ、此世に効ふ所には基督教道徳はない、基督教道徳は何処から見ても非現世的である、非習俗的である、今これを実際問題として見よう、基督教会なるものは兎角此世に効ひやすく、そして其為めに堕落し易きものである、しかし真の教会は Church-militant である、即ち此世と戦ふ教会である、此世との(361)戦を罷めて此世の風潮に効ふときには教会の生命は失せて直に無力となり堕落する、パウロは基督教遺徳の内容を細説する前に当つて、まづ「此世に効ふ勿れ」と云ひて、此世と其悪に対する態度を明かに示したのである、これで基督教道徳の性質は可成り明かとなつたのである。 更に此の「効ふ勿れ」といふ原語の意味を研究する時は、此語が尚ほ一層意味ふかき語なるを知るのである、「効ふ」は原語を suschematizo(ススケーマチゾー)と云ふ、これ schema(スケーマ、英語の scheme《スキーム》)より出でし語である、スケーマとは此世の移りゆく様を云ふ語、ススケーマチゾーは此移りゆく様と共になることを意味する、故に「効ふ勿れ」は此世の移りゆく様、流行、風潮に加はる勿れといふ意味である、世は常に風の如く流れ潮の如く動くものである、恰も婦人の服装の流行が流行といふ文字が示す通り絶えず流れ行くが如きが謂ゆる此世の風潮である、時代思想など云ひて之を貴ぶ人が多い、しかし世の最も高尚と見ゆるものまでがスケーマ(流行)である、帝国主義の時代があり、平和主義の時代があり、社会運動の時代があり、謂ゆる宗教的熱心の時代がある、何れもこれ婦人の衣裳の類である、咋是今非、変転きはまりなく、風の如くにして何等捉へ所のないものである。
 然るに基督教会の多くが、又基督信者の多くが此の世の流行に効ひつゝあるは痛歎すべきことである、変りゆく此世の相《すがた》に己を似せ、周囲の色の変るごとに之と同じ色に塗りかへ、世が帝国主義を高唱する時は之に同じ、世が社会運動に熱狂する時は又之に加はり、もし斯く世に効はざる時は教会又は信者の生命は衰ふべしと考へる、併し世に効はざる所に教会及び信者の生命がある、世は教会に向つて己に効ふべきを要求すれど、少しく時日を経過すれば己に効ふ者を賤むるのである、然るときは味を失ひし塩の如きもの、後は用なし外に棄てられて人に(362)践まるゝのみである、然るに此事に気づかずして浮草の如く潮流に流されつゝある現代教会の愚かさよ、見よ海中に屹然として立つ岩を、満潮のとき潮は高鳴りしつゝ陸に向つて押しよせ押しよせ、海に漂ふ凡てのものを共に動かし、岩に向つても云ふ「共にかの陸に向つて行かずや」と、しかし岩は海底ふかく根をおろして冷然として動かないのである、又退潮のとき岩に向つて「共に沖に出でずや」と誘ふも敢て顧みないのである、これ正に基督者の此世の風潮に対する態度でなくてはならぬ、此世は亡ぷべきもの、その根本精神は物慾追求にある、神を信じて永遠の国を懐ふものは斯かる世の流行風潮の外に超然として独自の境を守つて居なくてはならぬ、故に云ふ「此世に効ふ勿れ」と。
 次の積極的半面は「心を化へて新にせよ」である、こゝの「心」は原語 nous(ヌース)といふ、ヌースは pueuma(プネウマ)の如く魂を意味する語ではない、心思(マインド)を意味し判断力(アンダスタンヂング)を意味する、善と真とを見分る力これ即ちヌースである、故に心を化へて新にせよと云ふのは人生観を一変し一新せよとの意である、物の見方を全然改めよとの意である、パウロが茲に魂(スピリツト)と云はず心情(ハート)と云はざるに注意せよ、彼は勿論必要なる場合には「魂」を云ひ又「心情」を云ふ、しかし茲には特に判断力の変改を促したのである、人は心情だけ良いでは足らぬ、判断力も亦良くなくてはならぬ、心思も亦涵養せられねばならぬ、かの福音を以て単に情を潔めるものとのみ見なす者は誰ぞ、これ一方に偏せる見方である、情が涵養せられても知性が涵養せられない時は、信仰的生涯に確固たる重味が加はらないのである、我等は心思、判断力、常識を養はなくてはならぬ、そして此世の人のそれと異なる或新しき世界へ心の眼を向けねばならぬ、普通の心は「肉の心」(哥羅西三の十八、己の心とあるは誤訳)である、故に之を化へて霊的の心とせねばならぬ、かく心を変革するた(363)めには霊魂の改造、情性の涵養が必要である、併しパウロの特に茲に力説する所は知的判断力の改新である、即ち心を改へて新たにせよである、これ真に重要なる誡めである。
 何故心を改へて新にすべきか、そは「神の全く且善にして悦ぶべき旨を知らんがため」である、こゝに神の旨(聖意)と云ふ語に対して三の形容詞が用ひてある、第一は「善なる」である、第二は「悦ぶべき」である、第三は「全き」である(原語の順序による)、神の善なる意、悦ぶべき意、全き意である、かゝる神の聖旨を知ることは基督者の実際生活に於て常に最も必要なる事である、之がためには先づ心を化へて新にせねばならぬのである。
 然らば神の旨を知るの道如何、或は天然の中に或は世界の推移の中にこれを探ることが出来る、併し先づ第一には|聖書の研究〔付○圏点〕である、聖書の中には明かに神の御旨が記されてゐる、之を「心」を以て――化へられたる新たなる心を以て――学び、そこに示されたる聖旨を知らねばならぬ、基督信者と称する者にして聖書を充分に読まざるもの、聖書の研究に頗る冷淡なる者多きは彼等の大通弊である、そして神の御旨と云へば唯「愛」であると考へてゐる、しかし其愛とは如何と問へば明瞭なる答をなし得るもの果して幾人かある、神の御心たる愛はかく一口に人の云ふほど簡易なるものではない、愛とは如何なるものなるかを知るために、聖書の全体を学ぶ必要がある、健全なる知的理解力を以て聖書を充分に研究し精読せずしては、神の善にして、悦ぶべき、全き旨を知ることは出来ない、もし斯くして充分に聖書を学ぶ時はそこに示されたる神の御心の全く予想外なるに驚くのである、されば我等普通の心を棄て肉の思ひを去り、変革せられたる新たなる心を以て聖書を学び、以て神の全き旨を探るべきである、聖書の研究は決して知的遊戯ではない、それに依て活ける聖旨を知り、之を実際生活に於て行ふためのものである。
(364) 今第二節を全体として見るに全く此世の人の意表に出づる誡めであることを知るのである、此世に効ふ勿れとは先づ人の意外とする処である、此世の風潮とは多数決である、多数決は真理であると人は考へる、然るにパウロは茲に先づ此世に効ふ勿れと云ふのである また人は宗教問題に於ては知性よりも第一に情性であると考へ、情性の涵養だけで足ると考へる、然るにパウロは知性を変革し改新して神の心を知れと教へる、そして神の心と云へば愛を指すのであつて解りきつて居るとの普通の考に反して、右の如き新なる知性を以て之を究め学べと勧める、かく第二節全体が悉く人の意表に出づる誡めであることに注意せねばならない。
 実に神の誡めは人の意表に出づるものである。その実例は次の第三節以下である、こゝに信者の実践道徳についての聖意が記されて居るが、それを精読してその全く予想外なるに驚くのである、決して漠然たる愛と云ふが如きものではない、「我が思は汝等の思と異なり、我道は汝等の道と異なれり」(イザヤ五五の八)とある通りである、之を精密に研究して初めて神の聖意を知ることが出来る、然らずしては基督教道徳の何たるかを知り得ないのである。
 尚ほ注意すべき二三のことがある、第一は「効ふ」といふ文字と「化へる」といふ文字との比較である、パウロは此世に効ふ勿れ心を化へよと勧める、効ふは前述する如くススケーマチゾー即ち此世の様に従ふことである、此世の様は即ちスケーマである、そして「化へる」の原語を metamorphoo(メタモルフォオー)といふ、これ morphe(モルフェー)より出でし語である、モルフェーは形を意味する(英語 fom)、メタモルフォオーは形を化へよとの意である、パウロの勧めは此世のスケーマに従ふ勿れ心のモルフェーを化へよと云ふのである、今スケーマとモルフェーとを比較するに、スケーマは前説せし通り移りゆく世の相であつて変転きはまりなきもので(365)ある、之に対してモルフェーは確固たる形である、甲は表面だけの形で常に変りゆくもの、乙は或観念が自然に取る所の形である、即ち心ありての形である、甲は何等確実なる根拠なく只新奇を好む人心に従つて変転しゆく浮薄なる外装である、然るに乙は心が変りしためにそれに応じて自から変る外の形であり、従つて心が不変なる時は常に不変なる形である、されば此形即ちモルフェーを変へることは容易のことではない、これメタモルフォオー即ちモルフェーを化へることの困難なる理由である、併し乍ら一度これを化へた上は又容易に動かざるものである、「心を化へよ」とは先づ精神を改め観念を新たにして形までも自から変ることを云ふ、此世のスケーマ即ち変転きはまりなき外相に従ひて己も亦変転する勿れと、これ此世に効ふ勿れの意である、心のモルフェー(形)を変へて新しきモルフェーとなし、確固不抜再び動かざる形を取れと、これ心を化へて新にせよの意である、一方に於て世の諸相の移りゆくあり、他方に於て基督者の心の変らざるあり、世の動きつゝある間に一度化へたる後永久に変らざる我等の人生観あり、その対照が此節の中に、殊に此二語に充分に表はれて居るのである。
 次には「効ふ勿れ」「化へよ」といふ二つの動詞の|態〔付○圏点〕(voice)に就て注意すべき事がある、人の普通知る所は能動態(active voice)と受動態(passive voice)である、日本文法には態は此の二つのみしかない、能動態とは|働きかけ〔付ごま圏点〕である、「与ふ」、「打つ」の類である、受動態とは|受け身〔付ごま圏点〕である、「与へらる」、「打たる」の類である、甲は全然自力、乙は全然他力である、甲には自分の意志のみあり乙には他人の意志のみある、然るにギリシヤ語その他の国語に|中態〔付○圏点〕(middle voice)といふものがある、之は他力と自力の結合を示す態である、即ち自分に意志はあれど力なき場合或る他の者の力に己を任せ、其力によりて我意志の遂げらるゝを待つと云ふやうな場合に用ひらるゝものである。
(366) 此世に効ふ勿れ、心を化へよは原語に於ては共に此|中態〔付ごま圏点〕を用ひてゐるに注意すべきである、即ち自力のみを以て此世に効はず心を化へよと云ふのではない、かく云はるゝ時パウロの此勧めは不可能を強うるものである、さりとて又全然自分の意志なく全く受動的に斯くなれと云ふのではない、自己の意志を少しも動かさずして唯静かに受身の態度に己を置いたのみでは、此勧めの実現せらるゝ時はない、此世に効はないこと、心を化へて新にすること、之は自力と他力の結合の上に初めて行はるゝものである、世に効はじとの決意、心を化へんとの努力、それを抱いたまゝにて神の大なる能動《はたらき》の中に己を投ずるのである、そして神の力に浴して我決意を実現し我努力を有効ならしむるのである、これが此誡めの実行せらるゝ道である、基督教道徳を自力本位にのみ解する勿れ、然るときは堪へ難き重荷となる、又恩恵を楽むのあまり全然他力的となる勿れ、かくては緩怠弛廃の空気いと濃きを加へるであらう、宜しく自己の努力と神の力との一致融合の上に之を建つべきである、これが基督教道徳を行ふ所の道である。
 
     第四十八講 基督教道徳の一 謙遜 第十二章三節−八節の研究 (四月廿三日)
 
 第十二章の第一節は感激より起る献身を説く、これ基督教道徳の根柢である、そして第二節は此世に効ふ勿れと云ひ心を化へて新にせよと勧める、これ基督教道徳の性質である、この二つの節を以て基督教道徳の根本的精神は尽きて居る、第三節以下は之が適用である、又基督教道徳の細則である、勿論第三節以下十三章の終までを以て全部を尽すと云ふことは出来ない、しかし其重なるものは略ぼ挙げられてゐる、即ちパウロは茲に基督教道徳中大切なりと信ずるものだけを選り抜いて記したのである、我等は此心を以て注意深く之に対すべきである。
(367) 第三節より八節までは|謙遜〔付○圏点〕である、基督教道徳と云へば直ちに「愛」と人は云ふ、故にパウロは此場合まづ第一に愛を説くべきであると考へる、併しパウロの為す所は少しく普通の信者と違ふ、彼は第一に謙遂について記して然る後ち愛に説き及ぶ、これ注意すべき事である。
 第三節の初めに於てパウロは先づ言ふ「我れ受くる所の恩《めぐみ》に藉《よ》りて汝等各人に告げん」と、この発語の頗る謙遜なるを見よ、彼は使徒の一人であり殊に其最も大なる者であつた、彼は或場合には「我は何事にも最も大なる使徒たちに劣らずと思ふなり」(哥後書十一の五)と公言せし程であつた、殊に異邦伝道の重責を神より委託せられたる彼であつた、故に「我れ命ず」と云ひても何の差閊はなかつた、或は「我権能を以て告ぐ」と云ひても誰も怪むものはなかつた、然るに彼は我れ受くる所の恩によりて告げんと言ふ、勿論この場合の「恩」は使徒職たる資格を与へられ居ることを意味するのであるが、わざと「恩」といふ語を選びしは彼の美しき謙遜を語るものである、謙遜の教を説くに当つて先づ謙遜の態度を取る、寔に美はしき心事と云ふべきである。
 謙遜について聖書の教ふる所如何、それが日本人の普通に考へ居る所のものと根本的に相違して居ることに注意すべきである、日本に於ては謙遜と云へば主として外形上のことである、即ち態度言語に関したことである、その心の状態の如きは敢て問はず、たゞ外に現はれた形を捉へて謙遜といふ、その心如何に神に対し又人に対して謙遜なるものであつても、言語や態度に於て恭謙ならざる者は傲慢として貶せられ、その心は驕慢にても表に謙遜を装ふものは徳器と称せられて決して偽善者と云はれないのである、我国に於て謙遜なる道徳が斯く表面的に浅く見られ居るは慨はしき事である、自己の能力を用ふべき場合にても人の前にわざと隠すこと、又は集会に於て席の譲り合ひに空しく時間を費すこと、之等を以て謙遜の美徳と考へ居るため、それに由りて我国人の受く(368)る損害は一通りではない、かゝる誤れる謙遜は百害あつて一利ない、我等は宜しく之を棄てゝ聖書の教ふる真の謙遜を学び之を行ふべきである。
 パウロの教ふる謙遜とは如何、パウロは言ふ「心を高ぶり思を過すこと勿れ、神の各人に賜はりたる信仰の量《はかり》に従ひて公平《たひらか》に思ふべし」と、之が彼の教ふる所の謙遜である、第二節とひとしく前半は消極的の「勿れ」であつて後半は積極的の「べし」である、謙遜の消極的半面は「心を高ぷり思を過すこと勿れ」である、之は意訳であつて原文には「自己について正当に思ひ得る以上に思ひ過す勿れ」とある(英語聖書参照)、之を一言にして云へば「思ひ上る勿れ」である、自己を正しく知ること、自己の値打を正しく知ること、それが先づ第一である、そして其自己の値打以上に自己を思はないこと、これ即ち謙遜の消極的半面である、神に対して己の無知無力なること、キリストに対して己の罪深く穢れ多きことを知りて人は心に謙遜を抱くべきである、大学者ニユートンが宇宙の大に対して指呼の知識の浅小を充分に認め居たるが最も美はしき謙遜の実例である、出来る事を出来ぬと云ひ、知れる事を知らぬと云ふは虚偽にして謙遜ではない、自己について思を過さないことが謙遜である、深く学べるものは自己の知識の限度を能く知りて謙遜である、真の学者は皆謙遜である、同様に真の信者は皆謙遜である、僅少の知識を誇るもの、不純なる信仰を以て得意とする者、かゝる人たちは自己について思ひ上りて、自己の浅愚を人に示して居るのである。
 謙遜の積極的半面は「神の各人に賜はりたる信仰の量に従ひて公平に思念ふべし」である、「信仰の量」とは信仰の分量ではなく、信仰のことについて与へられたる力の分量であると思ふ、即ち信者として自己の為し得る働き、信者として自己に与られし或技能を指すと思ふ、この働き、この技能相当に自己について|公平に〔付ごま圏点〕(思ひ過(369)さぬやう、謙遜に、正確に、真面目に)思ふべきである、自己に与へられし賜物を其儘に、その値だけに評価せよである、人は皆いづれも天賦の技能がある、如何なる人と雖も何をも持たずして生れ来るものはない、そして彼が基督者となれば神は此天賦を発達せしめ聖化せしめ、且尚ほその上に種々の能力を賜はるのである、これ「与へられたる信仰の量」である、かく与へられたる能力ある以上はそれを無なりと考へてはならぬ、いかに自己の罪は深くとを神は我に能力を賜ひて益々之を聖化せんとし給ふ、信者は此賜物の与へられあることを認めて感謝し、之を神のため主のため又人のために用ふべきである、|謙遜と云ふことは自己を真価以上に見ないと共に又真価以下に見ないことである〔付ごま圏点〕、正当に認むべきだけに、公平に正確に差支なき程度に於て自己の賜物――与へられある能力――を認むる事である。
 以上第三節の説く所は謙遜の真性質である、心を高ぶり思を過す勿れ信仰の量に従ひ公平に思ふべし、即ち自己を真価以上に見る勿れ又真価以下に見るなかれ自己に賜はれる能力を|その儘に〔付○圏点〕認むべしと云ふのである、自分に凡ての能力が具はつてゐると思ふてはならない、又自分に一も能力がないと思ふてはならない、自分の能力を正確に知れる者は驕慢なることなくして能く謙遜たるを得るのである、かくパウロは説きて四節以下に於て、此謙遜の教を実際に当てはめて説明するのである、まづ四、五節に於て言ふ
  即ち我等一つ体に多くの肢《えだ》あれども皆その用《つとめ》を同うせざるが如く、各人キリストに於て一体たれは亦互にその肢たるなり
と、キリストに於て一体たるもの是れ基督者である、そして人体の各部が皆その用を同うせざる如く信者も亦互にその働き、その能力を異にして居るのである、人体には色々の肢がある、脳、目、鼻、口、手、足、その他の(370)内臓等各々働きを異にしてゐる、何れも相助け相補つて人体といふ一の組織をなしてゐる、目は見ることだけは出来る、しかし目は脳の働きをなすことは出来ぬ、又手の代りとなることは出来ぬ、もし目が手や足の働きをなし得ると思へば之は高ぶりである、同時に見ることも出来ぬと云へば之は偽はりの謙遜――日本流の謙遜――である、目は見ることの出来る自己の能力を正当に認め、それ以上にもそれ以下にも自己を認めないのが真の謙遜である。
 一つ体の各肢体たる信者は自己について斯く認めねばならぬ、自己にある能力だけを認め、その能力を働かして他のために尽し、他人の有てる能力を貴びてその値を認め、互に相推賞して謙遜の美を発揮せねばならぬ、哲学者ライプニツツは「有機体とは其各部が同時に手段にして且目的たるものなり」との定義を下した、目は自己を以て目的としてはいけない、他の各肢体を目的として之に仕へねばならぬ、しかし耳より見れば目が又目的の一たるのである、信者各自は自己を以て目的とせず互に他を以て目的とすべきである、故に自己は自己より見れば他の手段であるが又他より見れば一の目的となつてゐるのである、かゝる精神が凡ての信者にあれば其教会は実に理想的の団体となるのである。
 パウロは此事を当時の教会の実例に照して説明した これ六節より八節までである。
  されば賜はる所の恩によりて各人賜を異にせり、或は預言あらば信仰の量に従ひて預言をなし、或は役事《つとめ》あらば其役事をなし、或は教誨《をしへ》をなす者はその教誨をなし、勧慰《すゝめ》をなす者はその勧慰をなし、※[貝+周]済《ほどこし》をなす者は吝《をしみ》なく施し、治理《をさめ》をなす者は懈らず治め、衿恤をなす者は歓びて憐むべし。
とある、教会の各員皆な神より賜はれる技能を異にしてゐる、或人は目たり或人は口たり或人は足たるのである、(371)茲にパウロは預言以下七つの務めを挙げてゐる、これ当時の教会の実際であつたのである、故に之は謙遜を教ふる説明を助くるのみに止まらず、初代教会の実況を知る一史料として興味深いものである。
 第一は「預言をなす者」である、預言とは神より直接啓示されてそれを人に向つて語ることである、預言者は初代教会に於ける第一の職ではない、その上に「使徒」があつた、哥林多前書十二章二十八節に「神は第一に使徒、第二に預言者……を教会に置き給へり」とあり、以弗所書四章十一節にも「使徒あり預言者あり……」とある、使徒の次は預言者である、そして預言をなすものは「信仰の量に従ひて」なさなくてはならぬ、信仰に相応ずるやう預言をせねばならぬ、(茲に云ふ|信仰の量に従ひて〔付ごま圏点〕は第三節の|信仰の量に従ひて〔付ごま圏点〕とは原語を異にする、英訳聖書に於ても同様である、然るに邦訳聖書が改訳に於てまでも両者に同じ訳字を用ひたのは粗漏と云ふべきである、茲の方は|信仰に相応ずるやう〔付ごま圏点〕と訳する方原意に近いと思ふ)。
 信仰に応ずるやう預言せねばならぬとは何を意味するか、茲に云ふ信仰とは何の信仰か、これ学者間にむづかしき問題となつてゐる所である、しかし|福音についての正しき信仰〔付ごま圏点〕と見てよいと思ふ、正しき信仰に応ずるやう預言すべし、これが真の預言である、預言に何の標準もなく何を云うても宜いと云ふ筈はない、正しき信仰は聖書に記されてゐる、聖書の範囲に於ての預言ならずしては真の預言ではない、神の示す所は漸次的であつて、神の啓示は前進的である、神は突発的に全然既往と関係なしに新真理を啓示し給はない、それは旧約時代より新約時代への過程がよく証明してゐる されば今までに示されたる教の基礎に立てる新真理の提唱が預言である、茲に預言の真偽を判別する標準があるのである。
 預言の次は「役事」である、原語 diakonia(ヂアコニア)は英語の ministry に当る、有形無形の賜物を信者に(372)頒つこと、教会員全体を益せんために実際的の役目に当ること、今日の語にて云へば牧師と執事の職を兼ねし如きものを指すのである、これは教会全体の健全及び発達に係はる重き役目であつて、預言の次に位するものであつた。
 次は「教誨」である、之をなすものを教師と云ふ、教師は預言者と等しく口を以て働くものである、しかし教師は預言者の如く新黙示を語るものではない、既に示されたる真理を説明し、敷衍して人々の了解を助くるものである、即ち教理の説明者である。
 教師の次には「勧慰をなす者」があつた、之は人々を激励し慰諭してより強き信仰生活に進ましむる役目である、教誨は専ら知性に訴へるもの、勧慰は主として情意に訴へるものである、熱烈なる説教をなして会衆を激励するもの、情をこめたる詩を賦して人々を慰むるもの、何れもこれ「勧慰をなす者」である。
 以上四つの役目は主として教会員及び其数会に出席する求道者のみに係はれるものである、そして以下の三つの役目は教会の此世に対する働き(今日の語にて云へば社会奉仕)に係はるものである、その第一は「※[貝+周]済をなす者」である、即ち「分け与ふる者」である、以弗所書四章二十八節に「貧者に|施さん〔付○圏点〕ために励みて手づから善き工《わざ》を作すべし」とあると原語は同一である、故に慈善の事務に当る人を指さずして自己の財を頒ちて貧者を霑ほす者を指すのである、「吝なく施すべし」は「|単純に〔付○圏点〕施すべし」の意である(英語 with simplicity)、慈善をなすに単純率直ならずして種々の条件を附するは我国の通弊である、慈善は全く無条件になすべきである、これ対手を尊重し且つ自由を与へることである、又対手を信じ且愛する時は慈善は無条件ならざるを得ないのである、慈善を単純に施して其結果に注意を払はざるが真の慈善である、「なんぢ施済をする時右の手のなすことを左の手(373)に知らする勿れ」(馬太六の三)とは此種の慈善を云ふのであらう。
 次は「治理をなす者」である、之は人を助くるための種々の事務に当るもの、慈善その他善事の実行に当る役である、教会に於て行ひ居たる種々の慈善博愛の事業の処理者を意味するのであらう、「懈らず治め」とあるは「迅速に治め」の意である、愛の事業の処理は迅速を貴ぶ、迅速ならざる時は効果が少ない、迅速熱心は此種の業の要訣である。
 最後に挙げられしは「衿恤をなす者」である、之は慈善以外の愛の業を指す、病者を見舞ひ苦める者を慰める等の精神的の衿恤をなす者を云ふ、そして「衿恤をなす者は|歓びて〔付ごま圏点〕憐むべし」である、「歓びて」は歓びを以て、飛びたつばかりの歓びを以て、浮々した軽き心を以ての意である、原語は英語の with hilarity に当る語である、顔にも態度にも楽しさ、喜ばしさの充溢れる者ならずして此事に当り得ない、実に苦める者に衿恤を表はす場合には此注意が最も肝要である。
 初代教会に右の如き各種の役目があつた、そして其各々に適する人があつた、併し一人で凡てに適する人はない、謙遜とは自己に適せる働きを認て熱心を以て之に従ふと共に、自分に適せざる役目を適する如く誤認することなく、他人の適任なるは充分に之を認めて敬意を表し、各々の働きが一つ体の肢として肝要なるものなる故互に高ぶることなく、同時に自己に与へられし技能を隠さずして用ふること――これ即ち謙遜である、心を高ぶる勿れである、同時に自己に与へられし才能について公平に思ふべしである、そして一つ体の一の肢として其才能を用ひよである、半ば消極的にして半ば積極的、これ基督教的謙遜の特徴である、普通道徳家の云ふ謙遜に比して其差の如何に大なるよ! これ基督者の行ふべき謙遜である。
 
(374)     第四十九講 基督教道徳の二 愛(一) 第十二章九、十節の研究 (四月三十日)
 
 前講に説きし如く基督教道徳の第一は謙遜である、そして謙遜は何人にも勿論必要であるが殊に何か或物を持てる者に取つては格別にも必要である、即ち学識あるもの、智能あるもの、資財あるもの、地位あるもの等は特に謙遜の徳を行ふべきである、故にパウロは特に教会中の有力者に向つて此徳を強く説いたのである(約説参照)、謙遜の次にパウロは愛を説く、そして愛の特徴はそれが誰人にも必要なる点にある、有力者無力者の別なく、如何なる基督信者に取つても、教会の如何なる一員に取つても常に行はねばならぬものは此徳である。
 先づ九節と十節とに注意するを要する、邦訳聖書に於て見るに左の如くある  愛は偽はること勿れ、悪は憎み善は親み、兄弟の愛を以て互に愛し、礼儀をもて相譲りとありて行文頗る簡潔である、パウロは羅馬書を論文として認めないで書翰として認めたのである、勢ひ言葉は簡潔ならざるを得ない、且つ教義の説明に可成りの字数を用ひたる後であるから終を急ぎしと見え、用語は恰も電文の如く簡潔である、併し短き語の中に深刻且つ高遠なる真理が含まれて居る、注意深く一語一語を研究する時は少からず教へらるるのである。
 「愛は偽はること勿れ」とある一句は英訳聖書は五字を用ひて居るけれども、ギリシヤ原文は僅に二字より成つてゐる、即ち「愛」といふ字と「偽りなし」と云ふ字より成つてゐるのである、従つて「愛は偽りなし」(偽りなきもの也)とも解することが出来る、しかし「愛に偽りある勿れ」との誡めと解するのが正しいであらう、偽りある勿れの原語は|偽善ある勿れ〔付ごま圏点〕の意である、偽善(英語 hypocrisy)は仮面を意味する語である、そして仮面とは(375)元来演劇より起りし語である、我国に於ても何れの国に於ても、最初の演劇は俳優が仮面を被りて舞台に演ぜしものである、故に愛に偽善ある勿れは愛を|俳優的に演劇的にする勿れ〔付ごま圏点〕の意である、人は心に悪意を抱いてゐても外に愛を装ふことが出来る、此世に於て行はるゝ愛といふものゝ如きは概ね此類である、即ち愛の仮面を面にかけたゞけである、人生に於ける愛の交換は多くは仮面劇である、不信者は勿論然り、信者の中にさへ之が甚だ多いのである、我等は此弊に陥らぬやう心せねばならぬ、仮面の愛を以て人に対せぬやう注意せねばならぬ。
 これ愛に関する一般的注意である、之れより更に細密なる注意を述べるのである、先づ一般的のことを述べ次に細密に亘つて述べ、両々相待つて了解を助くるがパウロ式叙述法である、「悪は憎み」といふ、まづ此事を勧めしは注意すべきである、愛の教の細則を説かんとして第一に憎悪《にくみ》を説くは人の意表に出づることである、愛といへば全然愛にして其中に憎の一部分なりとも含まるべきでないと普通の人は考へる、しかし乍ら真の愛は悪に対する憎悪を充分に含むものである、|仮面的の愛又は浅き愛は悪を憎むことを知らない〔付△圏点〕、けれども深く真なる愛は斯くあることは出来ないのである、
強く悪を憎む人ならでは強く善を愛するを得ない、キリストの愛が此種の愛なることは四福音書に明示さるゝ所である、そして凡て彼れの忠実なる弟子はこれであつた、ダンテ、ミルトン等高貴なる精神に燃えてゐた人の詩文を見よ、いかに悪に対する激烈なる憎悪が表明されて居るか、彼等は悪と虚偽と偽善とに対しては憤激措く能はなかつたのである、かゝる有様なればこそ神に対し真理に対して熱愛を抱き、又人に対しても深き愛を抱き居たのである、これ吾人の学ぶべき事である、強き憎みを抱かずして強き愛を抱き得る筈がない、博士ジョンソンが憎み得ざる者を其倶楽部員に加へなかつたといふのは此事を知つて居たからである、されば云ふ強く悪を憎めよ、然らずしては真の愛の何たるかを知り得ないと。
(376) 悪を憎む〔付ごま圏点〕は愛の消極的半面である、次には例に依つてその積極的半面が記さる、即ち「善は親み」である、之を邦訳聖書の如く「悪は憎み善は親み」と訳しては頗るに語力のなきを憾む、|憎み〔付ごま圏点〕の原語 apostugeo(アボスツュゲオー)は「嫌悪を感じて退縮す」の意である、又|親み〔付ごま圏点〕の原語 kollao(コラオー)は「膠着す」の意である、共に強き感情の罩《こも》りたる語である、悪を見ては蛇に逢ひし如く嫌悪を覚えて退縮し、善を見ては膠を以てする如くそれに固着すべしと云ふのが此誡めである、愛に此要素を欠いてはならない、人を愛すると云ふても其人の為す善をも悪をも共に愛してはならぬ、これ真の愛ではない、真の愛は其人の悪を強く憎むと共に其善を強く愛するのである、従つて悪に向つては充分忠言を与へ其の善に向つては充分の助力をなすのである、実にパウロ式の勧めである、彼れ自身が斯る人であつたことは彼の生涯の行動、又彼の書きし物――殊に加拉太書、哥林多後書等――が明示してゐる、しかし之はただ気質の問題ではない、真に神の霊に占領せられたる者は何れも斯くあるのである、斯くあらざるを得ないのである。
 善に対しても悪に対しても平然たるは不信者の常であるが殊に日本人に此傾向の著きは痛歎の至である、自己の利益に関する事なれば非常なる熱心を表はし、寝食を忘れて狂奔する、けれども正義に対して少しも熱烈なる賛成を表はさないと共に、不義に対しては何等著しき反対を示さない、善に向つても悪に向つても常に冷々淡々、恰も別世界の事柄に対するが如くである、社会全体に漲る不真面目と倦怠、公義の念の欠乏、人生に対する厳粛なる態度のなき事、真正なる友誼に乏しき事等、いづれも皆かゝる心理状態の産物である、この邦人の通弊は基督信者となりし者の中にも往々にして残留する、故に我等はパウロの此誡めに深き注意を払はねばならぬ、そして大に省る所なくてはならぬ、「愛」といふが如きは解りきつた事と思つてゐる人が多い、しかしパウロの此誡め(377)に接して愛の真性を学ぶ時いかにそれが人の意表に出づるものであるか、実に自ら能く知れりと思へる者は未だ其知るべきほども知らないのである、注意せよ人々! 基督教的愛の如何なるものなるを学べ! そして之を実行し得るやう祈れ!
 愛に偽りがあつてはならない、そして愛の要素として欠くべからざる事は悪を強く憎み善を強く愛する事である、然らば次に必要なる事は何か、それは「兄弟の愛をもて互に愛し、礼儀をもて相譲」る事である(十節)、「兄弟の愛」とは謂ゆる兄弟姉妹の愛の意ではない、肉身の兄弟の愛の意である、原語 philadelphia(フィラデルフィア)は此意味である、「互に愛し」は原語を philostergoi(フィロステルゴイ)といふ、家族に対する情的の愛情を意味する語である、故に「兄弟の愛を以て互に愛し」は兄弟、肉親、骨肉の愛の如き愛を以て、深く強き愛着の心を以て情的に相愛せよとの意である、基督信者の間の愛は斯くあらねばならぬ 真の基督者は相互に対して此愛を抱く、この愛の行はるゝ所が即ち「エクレジヤ」である、初代の教会は之であつた、又福音の思ひの外早く世界に拡がりし理由の一は初代信者間に実存した此愛のためであつた、我国に於ても明治の初めに於て一時福音が盛であつた頃は、信者間の愛は真に美はしく、かゝる潔き愛の行はるゝ処に我も加はり度しとの考から教会に加入した人が多かつたのである。
 あゝ四十年前に於ては我国にも此美はしき信者間の愛があつたのである、然るに近時は如何、どこに此種の愛が行はれて居るか、兄弟姉妹とは口に上せる言葉たるだけに止まつて其実は何処にあるか、信者の間に存するものは嫉妬、憎悪、悪感、悪言、陥穽等である、教会堕落の有様如何、実に痛歎すべき限ではないか、共に主にある者は当然この愛を以て結ばるべきであるに、事実然らざるは是れ其信仰に何かの欠陥がある証拠である、我等(378)は信仰を深く養ひ、心の底より兄弟姉妹に対して深き愛情を感じ、此愛を以て互に相愛するやうならねばならぬ、而して理想的エクレジヤの建設を計らねばならぬ。
 讃美歌三百二十三番は博士J・フヲーセツトの作にして、此兄弟姉妹の愛を歌ひしものとして有名である、殊に博士が此歌を作りし由来を聞いて一層美はしき歌となるのである、博士は英国バプチスト教会の教師であつて学識深く人格高潔の伝道者であつたが、永く田舎の小教会を牧して何等名聞を求むるなく、貧しき生活に安んじて無欲淡泊の生を送つてゐた、併し博士の学識と信仰とは博士をして首都の大教会の牧者たらしむべく充分であつた、ロンドンの大教会は博士を迎へんとした、博士も亦中央に於て主のため充分に働き度くなり、且田舎の其村のために尽すこと既に多年にして略ぼ尽すだけを尽したことゝて遂に此招聘に応ずることゝなつた、やがて別るゝ時は来つた、最後の安息日に教会に於て為したる最後の説教は一同をして涙を絞らしめた、かくて別るゝ時は来た、村人一同は博士夫妻を村境まで送り来つた、愈よ最後の別離の時となつた、老幼男女より成る此一群は理想的の牧者に別るゝの悲みに堪へなかつた、牧者を失つた後ちの〔淋しさを思ひて胸に少からぬ痛みを感じた、遂に一同は言ひ合せた如くに泣いた、この涙を見て博士夫妻も亦泣いた、妻は夫に向つて言うた「此順良なる村人を棄てゝ都に赴任することが出来ようか」と、夫は声に応じて答へた「不可能」と、かくて荷物を運び行く馬車は家に帰ることを命ぜられ、博士は又その村の牧者として止まるに至つた、村人の愛は深く博士の心を動かした、其時作つたのが此歌であると云ふ、「神によりていつくしめる、友の交らひはいとも楽し」と云ふ、時は千七百八十二年、今を去ること百四十年前の事であつた、之を今に於て見んとするも見る能はざる美はしき出来事である、信者間の愛の稀薄となれる今日、我等は殊に此美はしき事件と此美はしき歌とを想起せざるを得(379)ない。
 次は「礼儀をもて相譲り」である、之は意訳であるが大体に於て原意をよく伝へた訳である、英語聖書には inhonour preferring one anotber とある、名誉に於ては互に他を己に勝れりとせよの意である、名誉の原語を time(チメー)といふ、むしろ|尊敬〔付ごま圏点〕の意である、人が人に対して抱く敬意を云ふ、故に此場合に於ては「信者が兄弟に対し、彼も己と等しくキリストに贖はれて神の子となりし者として抱く所の|尊敬〔付ごま圏点〕の念を指す」のである(ゴウデー)、此語を羅馬書二章七、十節、希伯来書五章四節等には「尊貴」と訳し、馬太伝廿七章六節には「価」と訳してゐる、即ち他のものに対して抱く価値の感を指したのである、兄弟に対する敬意に於ては互に他を己に勝れりとせよと云ふ、即ち兄弟に対して充分の敬意を抱き自己以上の人として相対せよと云ふ意である、後年パウロがピリピの信者に対して「各謙りたる心を以て互に人を己に愈れりとせよ」(ピリピ二の三)と勧めたのは全く之と同じ心である。
 「愛は非礼を行はず」とある(コリント前十三の四)、狎るゝは愛の乏しき証拠である、兄弟に対して深き真の愛を抱く時は互に他を己に勝れりとして、その間に美はしき礼譲が生れざるを得ない、兄弟の欠点のみに着目するは愛の足らぬためである、キリストに贖はれし者、神の子とせられしもの、後にはキリストに似る栄の姿に化せられんとする者、これ即ち兄弟姉妹である、故に先づ抱くべきは尊敬を含みたる愛である、愛の中に宿る礼儀、礼譲である、たゞの人すら神に造られし者として、又心霊的存在物として之に或敬意を抱くを当然とする、ましてキリストが其為に命を棄てゝ贖ひし兄弟姉妹に対して特別の尊敬をもつべきである。
 今や信者問に愛の欠乏著しきは信仰の衰頽に基くこと当然であるが、又実に此注意を忘れしもその一因である(380)と思ふ、尊敬の念なき所人々相狎るゝに至り相狎るれば相争ふに至る、即ち愛に礼儀の欠くるときは其愛自身が消え失せるのである、礼儀尊敬は今や却て不信者の間にあつて信者の間にない、従つて信者間に信用のなきことも著しい、基督信者と称する者が同じく信者なる主人に仕へる場合の如き、主人と己との同権を思ひ又特別の愛を要求し、何等の礼儀をも表はさゞる我儘は我等をして大に不快を感ぜしめる、かくの如きは我国信者間の大通弊である。
 以上九、十節を反覆精読せよ、いかに深き又行きとどいた誡めであるか、先づ「愛は偽ること勿れ」と一般的注意を与へ、次には細則に入りて其第一に「悪を憎み」と大切なる注意を与へて人々の怠りがちなる点を警め、次には「善は喜び」と注意し、そして尚ほ「兄弟の愛をもて互に愛し」と積極的の勧めをなし、次には「礼儀をもて相譲り」と人の忘れ易き点を注意する、洵に至れり尽せる愛の教である。 〔以上、大正11・7・10〕
 
     第五十講 基督教道徳の二 愛(二) 第十二章十一−十五節の研究 (五月七日)
 
 前講に於ては愛の性質について説く所があつた、まづ愛に偽りあるべからずと云ひ、次に細則に入りて、悪を憎み善を親むべき事、兄弟の愛を以て互に愛すべき事、礼儀をもて相譲るべき事をあげた、大体に於て愛の内部的方面である、即ち心の内の働きと見ての愛である、併しながら愛は心の中に働くのみに止まるべきものではない、外に現はれて働くものでなくてはならぬ、外に現はれざる愛は愛としての効果を未だ充分に表はさぬのである、この愛の外的表現について教へたるものが十一節以下である。
 十一節に云ふ「勤めて惰《おこた》らず心を熱くして主に事へ」と、「勤めて惰らず」は|熱心にして惰らず〔付ごま圏点〕の意である、(381)そして此誡めは自己の事についてゞはなく、他人《ひと》の事についての誡めである、即ち自分の事について熱心にして怠る勿れではない、他人の事について熱心にして怠る勿れである、此誡めの前後が他に対する愛の教である故この誡めも亦他に対する道であるに相違ない、人は自己の事には自然熱心なるも他人の事に就ては不熱心に陥りやすきものである、故に少しく注意を怠れば他人の事については兎角怠慢に流るゝ嫌ひがある、さりながら自己についてのみ熱心なるは愛の道ではない、又キリストに在る者の為すべき事ではない、之は不信者の行ふ処である、キリストに在るものは他人の事についても自己の事についての如くに熱心でなくてはならぬ、これ愛の道である、故に云ふ勤めて惰る勿れと。 次には「心を熱くして主に事へ」とある、心を熱くするとは心を煮えたゝせるの意である。原語 zeo(ゼオー)は元来煮え立つ(英語 boil)を意味する語である、燃え上り沸き立つ如き熱心を云ふのである、愛のために煮えたつ如き熱心を起すことをパウロは茲に望んだのである、基督信者と云うても此種の人はあまり多くない、しかし時にかゝる人に会ふことがある、その愛に煮え立てる有様恰も母親が子の愛のために心を燃やして居るが如くである、これ深くキリストの心を宿せる人の心の状態である。
 「心を熱くして主に事へ」と一の句のやうに訳してあるけれども、之は正確に云へば「心を熱くし、主に事へ」と二句に訳すべきものである、何故こゝに兄弟に事へよと云はずして主に事へよと云うたのであるか、|そは兄弟に事ふることが即ち主に事ふることであるからである〔付○圏点〕、いと小さき兄弟の一人に為したのは即ち主に対して為したのである、(馬太伝二十五章三十一節以下の美はしき訓話を見よ)、主に事へることは人を愛することである、我等は兄弟に事へて主に事へるのである、故にこゝに主に事へよと記して兄弟に事へよとの意味を暗示したので(382)ある。
  或原本には「主に事へ」を「時に事へ」としてある、時に事へよとは時に己を適応せしめよとの意である、即ち場合々々に応じてそれ/”\適当に行動せよとの意である、これ兄弟に対する愛の実行の上に於て甚だ有益なる戒めであると思ふ、従つてマイヤー、ゴウデーの如き一流の学者にして、前後関係に訴へて此読方を採用する人がある、これ慥かに棄てがたき読方であると思ふ、併し大抵の原本には|時〔付ごま圏点〕とあらずして|主〔付ごま圏点〕とあるのである。
 次には第十二節である、「望みて喜び、患難《なやみ》に耐へ、祈祷《いのり》を恒にし」と云ふ、こゝに前節同様また三つの相連絡せる誡めがあるのである、希望を抱くがために喜び、患難に会しては忍耐を以て之に処し、凡てに於て祈祷を恒にせよと云ふのは基督者に対して極て適切の誡めであること云ふまでもない、ホフマン此節を解きて曰ふ「望むべき理由あらんか我らをして喜ばしめよ、苦むべき理由あらんか我等をして忍耐せしめよ、祈祷の戸我等に向つて開けんか我等をして祈りをつゞけしめよ」と、洵にその通りである。
 殊に此の節は兄弟姉妹の中 罪に陥れる者ありし場合に最もよく適用せらるゝ戒めである、かゝる場合に罪の人を審判き、賤め、遠ざけるは大なる過ちである、かくては彼は失望して遂に亡びの道に奔り去るに相違ない、かゝる際には先づ望みて喜ばなくてはならぬ、即ち彼が悔改めて再び健全なる信仰の状態に立ち帰り旧き罪を洗ひ流されて尚ほ良き信仰に進み得る時のやがて来るべきを望み喜ぶことが大切である、決して彼について失望すべきでない、かゝる際に失望落胆は最大の禁物である、宜しく彼の前途について満々たる希望を抱いて先づ喜ぶべきである、信者と雖もこの危険にして誘惑多き世にあつては測らずも罪に陥ることがある、かゝる時必ず用ふ(383)べきは愛である、愛を以て彼のために慮ることである、パリサイ人の態度を学んで彼をさばいてはならぬ、先づ彼の復活すべき時あるを望みて満々たる希望の喜びを抱きて彼の為に計るべきである、而して彼のために種々の困難が起るべきも此の「患難に耐へ」ることを努めねばならぬ、波瀾の通過するまで静かに困難に堪へることを力めねばならぬ、又殊に必要なるは「祈祷を恒にする事」である、祈りは凡ての場合に必要であるが斯る場合には殊に必要である、過ちに陥れる兄弟のために又他の凡ての兄弟姉妹のために熱誠なる祈りが天に向つて上らねばならぬ、以上の三は兄弟に対する愛の道として1殊に罪を犯せる兄弟のありし場合には――極めて大切なることである。
 十三節に至つてパウロの解めは益す具体的になる、曰く「聖徒の匱乏《ともしき》を賑恤《にぎは》し、遠人《たびびと》を懸勲《ねんごろ》にせよ」と、「賑恤し」の原語 koinoneo(コイノーネオー)は同情又は援助を以て自己を人に結びつける事を意味する語である、聖徒の窮乏に対して同情と援助とを以て己を彼又は彼等に結びつけよと云ふ教である、これ実に基督信者間に於ける美はしき関係である、初代教会の初めに於て教会が一種の共産社会の姿を呈せしは聖書の明記する所である、共産的なると否とを問はず、兄弟姉妹の間に於て余れる者が足らざる者を賑恤すことは愛の表現として美はしき事である、真に基督教的愛があれば、兄弟の欠乏を補ふといふ事は当然あるべき所の事である。
 近時は社会主義的の精神が次第に勢力を得つゝあるやうに思はれる、これ貧富の差別を打破し、凡ての人余れるもなく足らざるもなき社会を造り、以て万人一家族たらんとするを以て理想とせる思想である、その実行せられ得べきか如何は知らず、併し乍ら人類間に愛の欠けたる時に於て形のみに愛を行はんとするは如何、我等同一の主にある兄弟姉妹は先づ我等の間に愛の遺憾なき実現を計るべきである、その形は何れにせよ有無相通ずるの(384)実を拳ぐるが愛の道である、今日の教会が信者間に於ける愛の実現を計らずして唯世に向つて社会政策を施す事に熱中しつゝある如きは本末を転倒せるの甚しきものである、神を信ずる兄弟姉妹の間に愛の道が行はれずば不信者の間にそれが行はるゝ筈がないのである、我等基督者は兄弟姉妹に対する愛の道として、何等かの形に於て互に欠乏を補ふの態度を取るべきである。
 「聖徒の匱乏を賑恤し」とあるが、聖徒と云へば初代教会に於て信徒を指す語となつて居る、しかし或は此の場合殊に教師を指したものであるかも知れない、何れにせよ教師の欠乏を補ふと云ふ事は信者として常に心がけねばならぬ事である、|真正なる福音の教師は概ね窮乏に悩まさるゝものである〔付△圏点〕、パウロの如きは勿論さうであつた、ルーテルも生涯の大部分は貧しくあつた、もとより福音の師は此世の安楽殷富を希つてはならぬ、窮乏は寧ろその喜ぶ所でなくてはならぬ、さりながら信者にして師の欠乏を少しも念とせざる如きは愛の欠乏の著しきものである、彼等に其師を富ます必要はない、けれども其欠乏を補ふだけの心掛は常になくてはならぬ。
 「遠人を慇懃にせよ」とは謂ゆるホスピタリチー(hospitality)の教である、即ち是らぬ人を客として親切に待遇することを云ふのである、原語 philoxenia(フイロクセニヤ)は未知の人に親切なるを意味する語である、旅館のなき国、旅館のなき時代に於ては民家に宿するより外に道なく、従つてホスピタリチーといふ美風も起つたのである、我国に於ても蓮月尼が
   宿かさぬ人のなさけに旅の空
      おぼろ月夜に花のした蕗
と詠じたる如きは、旅舘なき時代の作として見て初めて面白味が解るのである、今日に於てもアラビヤ、メキシ(385)コ、露領沿海州等に於ては旅館なくして此美風を見ることが出来る、殊にアラビヤ人間に於て此美風の盛なりしは昔より名高きことである、而して初代教会の時代に於ては、甲地の信者が乙地に旅するや其処の信者の家に客となりて、主人一家の歓待を受け、信仰と愛とを交換して主客ともに大なる慰めを得たのである、実に実はしき風習であつた、故にパウロは基督教的愛の表現の一として茲に之を数へたのである、尚ほペテロ前書四章九節、ヘブル書十三章二節、テモテ前書五章十節、テトス書一章八節にも同様なる教訓がある、以て此事が初代教会時代に於て如何に美はしき徳として見られたるかを知るのである、我国に於ても明治の初め、基督教会の初現時代には斯かる美はしき事の多少行はれたことがあつた、併し忽ち此美風は衰へ去つたのである、歎ずべき事である。
 次は十四節である、「汝等を害ふものを祝し、之を祝して詛ふべからず」とある、九節より十六節まで主として信者間の愛を説きつゝあるに、その間に挿まる十四節が独り敵に対する教を説くは不思議である、これは寧ろ十七節以下の愛敵の中に加はるべきものであると思ふ、併しながら教会の腐敗、信徒の信仰の堕落は既に当時に於て萌して居たのであれば、同じ教会員と称する者の中にさへ他の兄弟姉妹を毀謗し、讒書し、陥穽する者があつたと思はれる、故に汝等を害ふものを祝せよと云ふ戒めは不幸にして対信者道徳の一部を形造ることゝなつて居つたかも知れないのである。
 十五節は之につゞいて言ふ「喜ぶ者と共に喜び悲む者と共に悲むべし」と、これ一見平凡なる教なるが如くして実は深き教である、又キリストの霊に浴さずしては到底実行の出来ざる教である、人の心は自然と人の悲みに対しては同情する、人の不幸 災禍 哀苦に会しては如何に冷淡なる人にても少しは同情を感ずる、これ人間の天性である、故に基督者となつても兄弟姉妹に対して同情(英語 sympathy 即ち悲みを共にすること)を感ずることは(386)比較的容易である、即ち「悲む者と共に悲むべし」といふ誡めは割合に実行し得る誡めである、|併しながら人の難しとする所は喜ぶ者と共に喜ぶことである〔付○圏点〕、他人の成功、繁栄、立身等に会しては喜ばざるを人情の常とする、如何に自己に親しき者と雖も其成功は却て嫉妬を起さしむる、或る場合には其失敗が却て我の喜びとなることがある、これ罪の子たる人に於ては自然のことである、従つて信者となりし後と雖も之の実行は仲々に困難である、兄弟姉妹の失敗過誤を見て却て一種の快感を覚ゆると云ふ如き事が、たとひ微《かすか》なりとも起りやすきものである、併し是れ兄弟姉妹に対する道ではない、我等は宜しく喜ぶ者と共に喜ぶの域に達し得るやう祈らねばならぬ、聖霊の感化を祈り求めて、心の悪しき嫉妬を去り、兄弟が成功し繁栄して喜ぶ時は恰も我れが成功し繁栄せし如く共に喜ぷやう力めねばならぬ、この為し難きを主の霊を受けて為さんとする処に信仰生活の力が存するのである、悲む者と共に悲むだけでは足らぬ、喜ぶ者と共に喜ばねばならぬ、換言すれば共に主にある者は常に悲喜哀楽を共にせねばならぬ、これ兄弟に対するの道である。
 以上十一節より十五節までを反覆熟読せよ、何れも簡単なる戒めながら一として意味の深からぬものはない、我等再思し三思してその真意を深く味ひ、そして之を実行し得るやう祈り求めねばならない。
 
     第五十一講 基督教道徳の二 愛(三) 第十二章十六−十八節の研究 (五月十四日)
 
 十五節までは前講に於て説いた、更に之に加へて十六節を見ねばならぬ、そは十六節までは信者間に於ける愛の道であり、十七節以後は不信者に対する愛の道であるからである、勿論信者にもパウロの謂ゆる偽の兄弟がある故、十七節以下も或る場合には信者に対する道となることもある、併しそれは或特殊の適用であつて、十七節(387)以下の目指す所は対不信者、対社会である、故に先づ十六節を前回の継続として請じて対信者の愛を終へ、然るのち十七節以下に対不信者の愛を探ることにする。
 十六節を原語聖書もしくは英語聖書に於て見よ、それは左の如く三つの成文《センテンス》より成つて居るのである。
  相互に意《おもひ》を同うせよ。
  尊大思《たかきおもひ》をなさず、却て卑微《ひくき》に就けよ。
  自己《みづから》を智しとする勿れ。
そして之は別々の教ではなく互に相関聯せる誡めである、「相互に意を同うせよ」を解して「相互に対する関係に於て調和的なれ」となす人があり(サンデー)また「各々が他と同じ思ひ及び努力をもつ所の愛の調和を意味す」となす人もある(マイヤー)、異体同心とも云ふべき信者間に於ける美はしき霊的一致を勧めた語である、而して此一致を妨ぐるものは各自の抱く尊大の心である、高き位置を望む野心である、故に第二の戒めとなつたのである、「尊大志をなさず」は|高き事を思ふ勿れ〕、高き地位を望む勿れ〔付ごま圏点〕の意である、これ教会内に於て高位に上り又は名誉ある職に就かんとの野心を戒めた語である、次に「却て卑微に就けよ」と云ふ、微賤低卑と思はれ居る地位或は仕事に従へよとの意である、即ち教会内に於て好んで低き地位に就き微賤なる仕事に従へといふ誡めである、人々が高きを望んで低きを避ける時は到底教会内に霊的一致は起らない、之に反して各自が低きを望んで高きを避くる時は謙譲の美は自から信者間の一致をひき起すのである。
 一致は謙遜を伴ひ、謙遜は一致を生む、之を羅馬書十二章十六節が説き又ピリピ書二章前半が説く、後者の第二節に言ふ「汝等念を同うし愛心を同うし意を合せて念ふ事を一にし我が喜びを充たしめよ」と、そして三節後(388)半に於て「各々謙だりたる心をもて互に人を己に愈れりとせよ」と云ひ、以下イエスの謙だりの例を引き来つて人々に謙遜を勧めてゐる、平和一致は信者間の関係に於て最も大切なるものである、そして之の実現は各自の謙遜に依て成る、人々が他を己に愈れりとし、他を尊敬し、他を推重する態度に出づれば自然と平和一致が生れる、故に高きを願はずして卑きに就くことを念となし、以て信者間の平和実現を計るべきである。
 高きを思はず卑きに就けよとは普通道徳としても貴き教である、人は誰人も斯くあり度きものである、今や世の人が何れも高きを競ひつゝありて其れがため嫉妬、紛争、擾乱の絶へざるは慨はしき事である、さりながら基督者は之を学んではならぬ、基智者は卑きに就くを以て常の心がけとせねばならぬ、神は人類を救はんとするに当つて其独子を卑き人の形として降した、而かも羅馬世界の片田舎たるユダヤ国に、ユダヤ国の片田舎たるナザレ村に降した、神の独子たる彼は「神の形にて居りしかども自ら神と匹しく在る所の事を棄て難きことゝ思はず、却て己を空しうし僕の形をとりて人の如く成」つた、父なる神の為す所、また子なる神の為す所すでに斯くの如くである、然らばキリストイエスの心を以て心とすべき基督者たるものは宜しく此態度を学ばねばならぬ、高きに就くは信仰の衰へたる時のことである、信仰の盛なる時、即ち比較的キリストに近くある時は低きに就くを以て喜びとすること当然である。
 註解者の中には此語を解して「高き所に目を着けず卑き人と共にせよ」といふ位に取る人がある、ゴウデーの如きは其一人である、当時教会の堕落やうやく兆して会員の中徒らに教会内の高位を望む人があつた、パウロは之を戒めて高き地位に目をつけず卑き人と共にせよと勧めたのであらう、高き地位を貴び高貴の人に近づくを望み、卑賤小微なる人に遠ざかる如き態度を取るは信仰の低落である、基督者は常に高き地位を思はず低き人の(389)友でなくてはならぬ、使徒ヤコブが信者を戒めて「もし人金の指環をはめ美はしき衣服を着て汝等の会堂に来り、又貧しき人汚れたる衣服を着て来らんに、汝等美はしき衣服を着たる人を顧みて汝この栄位に坐れと曰ひ、又貧しき者に汝かしこに立てと言ひ或は我足下に坐れと曰はゞ、汝等は各々人のうち区別を立てまた悪念《あしきおもひ》を以て人を分つ者に非ずや」と述べたるを見よ、初代教会が早く既に此弊風を生みて信仰衰頽の兆を示したるは歎ずべき事である、信仰の健全なる処必ず高きは望まれずして卑きが思はれるのである。
 平和の道は此謙だりの心より行はれる、この心あれば不和の生るゝ余地はない、争の起るは人々が上へ上へと頭をもたげんとするからである、下へ下へと低きに就かんとする所いかで争の起る余地があらうか、我等は此心を以て不断の心となし、以て平和の実現を計るべきである。
 第三の戒めは「自己を智しとする勿れ」である、これ箴言三章七節にある「自ら看て聡明《さとし》とする勿れ」を引用せしものである、併し勿論無意味に此句を引用したのではない、その場合に適切なる戒めとして挙げたのである、今箴言に於て此句をその前後の語と併せ記すに左の如くである。
  汝心をつくしてヱホバに倚り頼め、おのれの聡明に倚ること勿れ。汝すべての道に於てヱホバを認めよ、さらば汝の道を直くし給ふべし。|自ら看て聡明とする勿れ〔付○圏点〕、ヱホバを畏れて悪を離れよ。
即ち神に頼らずして自己を過信することを戒めたのである、そして神を信ずる者の中にも往々にして余り自己を信じ過ぎるものがある、之をパウロは戒めたのである、却て信仰の強しと云はるゝ人の中に此種の人がある、自己の判断を以て絶対の正となし、之を神の聖意と誤信して、他人が之に従はんことを求め、然らざる場合には其人を以て神の聖意に背くもの――基督者として不純なるもの――と考ふる人がある、「誰か己の過失を知り得ん(390)や」(詩十九の十二)、誰か自己を以て常に智しとなし得んや、誰か自己を以て常に正しとなし得んや、我等宜しく謙だりて相推奨すべきである。
 兄弟姉妹間の協同一致の美を破るものは此自己を智しとする心である、己の判断を絶対の真として他に譲らざるの態度である、福音の根本義については何が真であり何が虚であるかは聖書の明示する処である、しかし人生の実際問題については一定せる規定を立てがたきものである、人々思ふ所を異にすること当然である、従つて斯る際は|交譲の美徳を以て事を定めねばならぬ〔付○圏点〕、各々自己の所見をのみ正しとせば帰着する所を知らず、又互に審判くことゝなりて忌はしき不和、紛争、分裂を惹き起し、百害ありて一利ないのである、我の思ふ所と彼の思ふ所と一致せざる場合いづれが正しきかは唯だ神のみ知り給ふ所である、基督者は常に神の聖意を探りて之を行はんことを心がくるを要す、而して我も信者であり彼も信者であつて我と彼との思ひの一致せざる場合は、何れを以て神の聖旨と定めようか、この際我等は宜しく謙遜でなくてはならぬ、あまりに自信があり過ぎてはならぬ、或は彼の思ふ所が正で我の思ふ所が誤であるかも知れぬ、故に深く自から考察して彼の意見をも亦充分に参酌し、自己の意見について幾度も省み、又兄弟姉妹各自の思ふ所をも参酌して最善の決定に到達せんと力めねばならぬ、これ決して微温き妥協を好むのではない、謙遜と愛との生む当然の態度である、あゝ人誰か己の正しきを知り得んや、我等は宜しく自己について或程度までの|自己不信〔付△圏点〕を抱くべきである、そして愛のためには喜んで自己を棄つる心を抱くべきである、自己を智しとする態度は愛の一致にとつて最大の妨害物である。
 |宗教的に偉大なる人は決して自信の強い人ではない〔付△圏点〕 否却て自己不信に強き人であつた、モーセはエホバに召されてイスラエル救出の大業に従はしめられんとするや、到底己のその器にあらざるを思ひて種々の申し訳を作(391)りて只管召命に応ぜざらんとした、そしてヱホバが如何に諭するも頑としてそれに応じなかつた、「わが主よ願はくは遣はすべき者を遣はし給へ」と云ひて飽くまで自己の不適任を言ひ張つた、ヱホバ遂に憤りを発するに至つてモーセは已むなく立つに至つたのである、事は出埃及記三、四章に精細に記されてゐる、イザヤ、ヱレミヤ等も亦自己の不適任を認めしもヱホバの強ふる所とあつて已むを得ず立つたのである(イザヤ書六章、ヱレミヤ記一章を見よ)、又ルーテルの宗教改革の如き決して自己に力ありとなして企てた事でなく、已むを得ずして立ちし結果が、図らずして宗教改革といふ大事業にまで進展したのである、自己不信の人、謙だれる人、愈よ立つまでには長き躊躇を経験せる人、かゝる人が宗教的偉人である、かの徒らに自己の信ずる所に強烈頑固にして他の人の思ひを悉く排し、以て我れ独り聖意を得たりとせる輩の如きは一種の妄想者にして宗教的小人と云ふべきものである、我等キリストの心に効はんとせば宜しく自己不信と謙遜とを以て相推譲し、以て平和の道を全うすべきである。
 十六節の含む三つの誡めは上述の如くである、これを心に留めて之を行はんと力むる所平和と愛とは漲るのである、かくて無益なる争ひ、愚かしき分裂、及び幾多の紛議や不快は起らずしてすむのである。
 十六節までは兄弟姉妹に対する道、十七節からは不信者に対する道である、十七節の初に言ふ「悪をもて悪に酬ゆる勿れ」と、是れ敵を愛する道である、故に之は十九節以下の愛敵の教と合せて見るべきである、次には言ふ「衆人の善とする所を心に記《と》めて之をなし、為し得べき所は力を竭して人々と睦み親むべし」と(十七節後半及び十八節)、これ不信者に対する道として頗る適切なる教である。
 不信者の為す所、思ふ所、信ずる所を徹頭徹尾否認して信者のみ正しとなすは狂信者流のことである、かゝる(392)謬想に囚はれしため狭量 頑執 非礼となりて対社会の関係に於て徒らに紛乱に陥り、或は之れがために苦悩し或は迫害に会へりとて得意とする者がある、これ誤れるの甚しきものである、基督者は平和の民でなくてはならぬ、成るべく紛争を避けるやう心がけねばならぬ、已むを得ずば世に背き人と争ふ、しかし出来る限りは他にも善き所を発見して之を採り之を行ふやう力むべきである、争のために争ふ奇矯の徒となつてはならぬ、武士道にも儒教にも仏教にも又此世の道穂習慣にも良きものがある、強ひて之に反対して争ふ要はない、衆人の善しとする所には何かの意味があるに相違ない、勿論衆人の善しとする所が明白にキリストの精神に背いて居るときは之を採ることは出来ない、併しさうでない限りは、即ち主に背かざる限りは世人の善しとする所は行ふべきである、行つて何かの益あるときは勿論、行つて別に害のない場合にも世人の行ふ所に従ふべきである、基督者は小問題について世と争ふべきではない、根本問題にあらざる限り、枝葉問題については主に背かざる限り世と行動を共にして宜しい、否共にする方が宜しいのである、他に争ふべき重大な問題がある、争ふべき重大な場合がある、何れでも良き事については世に従へ、そして精力の労費、無益の衝突を避けよ、即ち「為し得べき所は力を竭して人々と睦み親むべし」である。
 パウロは此事を人に勧め又自から実行した、彼は熱心なる信者ではあつたが狭量 頑固 奇矯なる狂信家ではなかつた、彼に広い心があつた、彼に深い思慮があつた、彼に教養ある紳士の品位と余裕とがあつた、コリント教会の姉妹たちの間に社会の風習に背いて男子と同じ位置に己を置かんとする風のあつた時、彼はそれを戒めて彼等をして飽くまで当時の婦人道徳を守らしめやうとした(コリント前書九章)、純粋の理論から云へば女子に尚ほ多くの権を認め得るかも知れぬ、又当時の婦人の習慣が別に良いものと云ふ程でなかつたかも知れぬ、しかし斯(393)かる事に於ては社会の風習に従ひて無益なる紛議を避くべきである、出来るかぎりは世人とも睦み親むべきである、故にこそ彼は斯く戒めたのである、又彼はユダヤ人の社会にありてはユダヤ人の如く行ひ、ギリシヤ人の間にあつてはギリシヤの風俗習慣のまゝに行つた、之は「更に多くの人を得ん」と云ふ大目的があつたゝめ、|より〔付ごま圏点〕小なる事については世に従ひて「自ら己を凡ての人の奴隷とな」したのである、「いかにもして彼等数人を救はん」との高き心ありしために、|より〔付ごま圏点〕小なる事については「又すべての人には我れその凡ての人の様に循へり」といふ態度を採つたのである。
 パウロの此心は今又われらの心とならねばならぬ、愛のためには出来るかぎりは世の人と睦み親まねばならぬ、平和を愛する人、心の広き人、他に対して相愛の敬意をもつ人、これ真にキリストに在る人である、この心を以て基智者は此世の生涯を営むべきである。
 基督者は出来るかぎり世に従ふ、しかし世に降るのではない、根本問題に於てはいかで此世に降り得よう、主にある以上いかで此世の人と全く同じきを得よう、出来るかぎりは世と共たらんと力むるも、心に於ては此世の人との間に天地の差があるべきである、故に此世の人は種々にして基督者を敵となして迫害し来る、かゝる場合は如何にすべきか、かゝる場合も亦愛を以てせよ、愛を以て憎に勝てよと、これ十九節以下の教である。
 
     第五十二講 基督教道徳の二 愛(四) 第十二章十九−廿一節の研究 (五月廿一日)
 
 愛の教は九節より姶つて章尾の二十一節まで続く、そして最後に記さるゝが|愛敵の教〔付○圏点〕にして、十九節以下が即ちそれである、しかしパウロは十九節以前に於て二度この問題に触れてゐる、その第一は十四節にして「汝等を(394)害ふものを祝し之を祝して詛ふべからず」とあり、其の第二は十七節前半にして「悪をもて悪に酬ゆる勿れ」とある、叙述の順序から見れば之は慥かに乱れてゐる、愛敵の教は全部まとめて一箇所に記す方が叙述としては整つてゐる、しかし茲にパウロの心が見える、彼は九節より愛の教を説きつゝ進んで一刻も早く愛の絶頂とも云ふべき愛敵の勧めに入りたかつた、故に第十四節に於て一度それに入つた、しかし入り方が早過ぎた、尚ほ愛敵の勧めの前に云ふべきことがあつた、依て第十五節から問題を逆戻りさせた、併し同じ心の働きよりして十七節前半に於て二度愛敵の勧めに入つた、そして又問題を後戻りさせた、そして第十九節に至つて愈よ正式に愛敵の教に入つたのである、まづ「我が愛する者よ」と呼びかけて充分の注意を促して後ち左の如く述べてゐる。  その仇を報ゆるなかれ、退きて主の怒を待て、そは録して「主の曰ひ給ひけるは仇を復《かへ》すは我にあり、我必ず之を報いん」とあればなり、この故に汝の仇もし飢えなば之に食はせ、もし渇かば之に飲せよ、汝かくするは熱き火を彼の首に積むなり、汝悪に勝たるゝ勿れ、善をもて悪に勝つべし。
「その仇を報ゆる勿れ」と先づ一般的に説き、次に「退きて主の怒を待て」と云ふ、原語には「怒に湯所を与へよ」とありて特別に誰の怒とも断はつてない、しかし五章九節にもたゞ「怒」とのみありて神の怒を意味してゐる、且十九節後半の旧約引用に照して見ても之は明かに神の怒を意味して居るのである、神の怒に所を与へよである、神をして充分に罰すべきを罰せしめよ、我を苦むる敵に対しては我より報ゆる勿れ、神にその怒を注ぐべき余地を与へおけ、敵は必ず神の罰に会するであらう、故に我等は敵に対して何ら報復の道を取るを要しないと云ふのである、之が正しい見方と思ふ。
  この怒を人の怒と見る学者がある、その中甲は之を「敵の怒」と見て敵をして勝手に怒らせて置けとの意に(395)取り、乙は「汝の怒」と見て汝の怒(即ち復讐心)を抑へよとの意であると見る、しかし前後関係の上から此両説は共に謬つてゐると思ふ、怒はやはり此場合「神の怒」でなくてはならない。
「仇を復すは我にあり、我れ必ず報いん」との旧約引用は申命記三十二章三十五節(ギリシヤ訳)である、神は悪をなす者を必ず罰すといふ意味を伝へた語である、悪き者に対して処分を施すは神のことである、我を苦むる悪しき者を彼は必ず罰し給ふ、故に之が処分を一切彼に任せて我等自身仇をかへすことは差控へよといふ意味である、次に二十節の「汝の仇もし飢えなば之に食はせ……」は箴言二十五章二十一、二節よりの引用である、最後にパウロは「汝悪に勝たるゝ勿れ、善をもて悪に勝つべし」との有力なる語を述べて、此重要にして美はしき勧めの語を閉ぢたのである。
 敵を愛するの教は必しも基督教に限らない、他の宗教、他の道徳に於ても之は美徳として勧められてゐる、たゞ注意すべきは基督教に於てはキリストの生涯が愛敵の結晶であることである、パウロが羅馬書十二章に此教を説いたのは勿論彼の創始ではない、キリストの教訓及び生涯に傚つてのことである、キリストは山上の垂訓中、馬太伝五章四十三節以下に於て明白に愛敵の教を説き、又それに似たることを同三十八節以下に於て説いてゐる、之は彼の教であるが故に羅馬書に於けるパウロの教よりは勿論美はしく且意味に深みがある、両者を照して見て基督教の愛敵の精神を知ることが出来る、そしてキリストの生涯が愛敵実行のそれなりしことは誰人も知る所である、されば彼を信ずるものは彼の生涯に傚ひ又彼の教訓に適ふやう、愛敵の道に於て遺憾なからんことを力めねばならぬ、祈つて聖霊の助を受け以て之を実行し得るに至らねばならぬ。
 然るに遺憾なるは奉西二千年の歴史である、基督教を国教として選び、教会を立てゝ宗教々育を施し、王はキ(396)リストの道を守ることを誓ひて即位し、又異教国を教化せんとして宣教師を派遣す、然るに愛敵の道に於て全然欠けたるは何故であるか、敵とあれば極度の憎悪を以て之を殪さんとし、自己の利権を擁護するために不義の戦を起して尽くる時を知らない、共にキリストにある兄弟姉妹であり乍ら各民族の間に憎悪嫉妬の心強く、互に他を苦めて己を利せんとしてゐる、而して事は之のみに止まらない、力なき半開又は野蛮人を苦めて自国及び自国民の利慾を逞うしつゝ今に至つた、近世期の初め西班牙がアメリカ及びメキシコに土人を虐げしを始めとして、英、仏、独、米相競つて世界到る処に弱き民を虐げつゝ来つたのである、愛敵は愚か、何等我に敵対せざる平和の民を捉へて白刃を揮ひ銃丸を放つたのである、基督教国とは名のみである、|彼等にして基督教国民たらば悪魔も亦天使たるのである〔付△圏点〕、彼等の罪悪は歴史の頁の上に鮮かに遺りて永久にその不信背逆を物語つてゐるのである。
 然り謂ゆる基督教国は真の基督教国ではない、福音を委託せられたる欧米民族は却て福音の明白なる教訓に背いてゐる、併しながら此事は聖書の愛敵の教の値を一毫も減ずるものではない、信者と称する者が之を行はずとも之は是非とも行ふべきものである、他人は如何あつてもよい、我等は之を行ふべきである、行はねばならぬのである、キリストの誡なるが故に之を行はねばならぬのである、そして是れ決して退嬰的の弱き道徳ではない、ニイチエが之を弱者道徳として擯斥したのは其真意を知らなかつたからである、之は復仇する以上に力を要することである、人間自然の情に任するは難しきことではない、自然の情は憎みに報ゆるに憎みを以てせんとする、然るに憎に報ゆるに愛を以てするのは自然の情に打ち克つて聖霊の恩化に浴して初めて可能なる事である、敵の憎の力に打ち勝つだけの力が我にあつて初て敵を愛し得るのである、故にこれ頗る積極的、進取的の道である、之を消極的、退嬰的と見る者の如きは、此の教の真意味を知らざるものである。
(397) 「汝かくするは熱き火を彼の首《かうべ》に積むなり」とは何を意味する語であるか、熱き火を首に積むと云ふことは激しき苦痛を与へると云ふことである(ヘブル人、アラビヤ人の間に於ては此語を此意味にて用ひしと云ふ)、しかし何の意味の激しき苦痛であるかゞ問題である、或人は神より来る刑罰と見る、即ち「仇を復へすは我にあり」とある如く神は必ず敵を罰し給ふ故、自ら仇を報いざるは神をして彼の上に大苦罰を与へしむる所以であると見るのである、けれども之は果して敵を愛する道であらうか、之は却て敵を呪ふことではないか、且又次の節の「善をもて悪に勝つべし」との教と矛盾する、故に多くの学者の云ふ如く、敵に激しき苦痛を与へると云ふのは敵をして深く慙愧せしむる事を意味するに相違ない、パウロは云ふのである「汝敵に復讐せんと欲するか、然らば茲に最上の道がある、決して敵に憎みを以て対する勿れ、むしろ敵に対する愛を以てせよ、飢ゑなば食はせ渇かば飲ませよ、これは熱き火を彼の首に積むことである、即ち彼に慙汗背をうるほして身の置き所もなきほど痛悶せしむることである、この時の彼の良心の苦痛は如何に激しいことであらうか、かく彼を苦めれば汝の復仇の目的は達したではないか、然らば敵を愛するは敵に復仇する最上の道である、故に復仇を望まば敵を愛せよ、而して彼をして慙悔せしめよ」と、即ち善を以て悪に報ゐて敵の首に痛恨の熱火を起せよと云ふのである。
 最後にパウロは云ふ「汝悪に勝たるゝ勿れ、善をもて悪に勝つべし」と、敵の加へし悪に負けて悪と以て悪に報ゆる態度に出づる勿れ、汝の愛と善とを以て敵の悪を征服せよとの意である、|悪に酬ゆるに悪を以てするは悪に負けたのである、何をも報いないで唯忍んで居るのは戦はないことである〔付○圏点〕、|善を以て悪に対するのが悪と戦つて勝つことである〔付◎圏点〕、怨に酬ゆるに徳を以てし、憎に対するに愛を以てし、悪に対するに善を以てする事これが愛敵の教である、故に愛敵はたゞ敵を愛すると云ふ事だけに止まらない、悪と戦つて之を亡ぼすと云ふ壮快なる戦(398)の意味が主となつて居るのである。
 この教は実行して初めて値あり、又実験して初めてその異なるを知り得るものである、敵に会しては愛を以てするが最上の道であること人生の実験に照して明かである、悪に対するに悪を以てすれば底止する所を知らない、敵の悪は益々増大し自己の悪も亦益々増大する、相互の憎悪憤怒はその激怒を増すのみである、敵に対して愛を以てせよ、我を憎む者を愛し、我を呪ふものを祝し、我を苦むるものに幸福の至らんことを祈れ、我が愛心を注ぎ出して彼のために尽せ、然るときは敵の悪は止むであらう、或は進んで懺悔の涙が彼の眼より流れ下るであらう、そして是は推測ではない、幾人かの実際に経験せし所である、まことに恨に対しては愛を以てするほか道はないのである。
 この愛敵の教の美はしき物語として詩人ローヱルの作なる Yussouf(ユスーフ)なる一篇を茲に紹介し度い、これ恐くはイエス及びパウロの愛敵の教に対して与へられたる幾多学者の註解にまさる最上の註解であると思ふ、ユスーフ(ヘブル名のヨセフ)はアラビヤの酋長であつた、恰も約百記の主人公ヨブの如く其富と信仰と徳行とを以て聞えし人であつた、ある夕見知らぬ人が彼の幕屋に来た、そして云うた「私は私の生命を求むる者に逐はれて死の危険の中にある者である、逃れ来つたけれども枕する所がない、それで私は善人と綽名されて居るあなたの処に来たのである、どうか一夜の宿りと糧とを恵んで下さい」と、之に対してユスーフは答へて云つた「この幕屋は私のものである、しかし亦神様のものであります、お這入り下さい、そしてゆつくりと憩んで下さい、そして私が神様の物を自由に頂いて居るやうにあなたは私の物を何でも自由に御取り下さい、彼は私共の此幕屋の上に夜と昼の美はしい大空をかけてゐます、そして彼の戸口では誰人も否と拒まれたことはありません」と、(399)ユスーフは神の大愛の下にあるが故に又誰人に向つても愛を注がんとするのである、かくして逃避者は彼の手厚き保護の中に受け入れられたのである。
 その夜ユスーフは心をこめて客人を歓待した、翌朝未だほの暗き中にユスーフは客を起して言うた「こゝに黄金がある、又第一等の駿馬には既に鞍が置かれてゐる、早くお逃げなさい、日の出ぬ中に早く/\」と、昨夜よりの余りの親切に客の心は動かされた、言ひ知らぬ感動が彼の心を波うたせた、彼の心の中には嵐の如き動揺が起つたらしく見えた、彼は跪づいてユスーフの手の中にその前額を埋めて歔欷しながら云うた、「私はかうして此処を去ることは出来ない、私はあなたに報いねばならぬ、|私こそはあなたの一子を殺したイブラヒム〔付△圏点〕(ヘブル名のアブラハムか)|であります〔付△圏点〕、どうか私の命を取つて復讐して下さい」と、ユスーフは知らずして其子の仇敵を隠まひ且歓待したのであつた、けれども彼は静かに云うた「その黄金を三倍にして与へよう、之であなたと共に私の悪念も亦沙漠の方に行つて再び帰らないであらう、私は殺された子のことを忘れず又仇を討たうと長年考へてゐた、しかし今その子の仇を厚遇したことが即ち復仇したことである、之が最上の復讐である、之でもう私のいやな心も失せてしまつた、実に有りがたいことである」と、そして又死せる子のことを想起して云うた「わが長子よ、凡て神の定めは正しい、おまへの復讐は今立派に出来た、どうか安らかに眠つてくれ」と、之が此詩の語る所である、僅に三十行より成る短詩であるが其教ふる所は深いのである。
 印度独立運動の主導者ガンヂーが最近捕へられたと云ふことである、彼は三億の印度人を率ひて印度を英国より独立せしむる事のために努力奮闘してゐる、彼の独立運動は曾てなきほど英政府を震駭せしめてゐると云ふ、彼はイエスの愛敵の教に堅く立つてゐる、決して武器を以て英国に対して反抗はしない、即ち叛乱と云ふことを(400)堅く避けてゐる、彼は平和的に独立の実現さるゝ日を待ち望んで其の招来のために苦闘してゐる、彼は英国宣教師の教ふる所の聖書の教に従つて堅く無抵抗を主義としてゐる、決して英政府と其官吏とに反抗しない、そして此主義を極力印度人に向つて吹きこんで居る、凡て英官吏の命令に服せ、凡ての課税の要求に応ぜよ、圧制であつても暴虐であつてもそれに反抗せずして之に服せよと教へる、彼は英政府の印度に於て為す所が全然聖書の教に背けることを主張してゐる、しかし此暴虐に対しては全然抵抗しないと宣言してゐる、又さう教へてゐる、実に無抵抗主義を以てする独立運動である。
 三月廿九日発行のアウトルツク誌によれば、ガンヂーは最近に於て六ケ年の禁錮を言ひわたされた、その審問に際しての彼の態度は実に見上げたものであつた 彼は言うた、自分の行が罪に値すると判事が認めたならば如何様に処罰されてもそれに服する、けれども出獄の後は無抵抗を信条として独立の宣伝を続けると、そして英政府は此不当の所罰を彼に課したけれども、印度の民は彼の平生の教により何等叛乱を起すやうの事なくして静粛の中に暮してゐると云ふ、彼の感化衰へざるかぎり印度人はキリストの愛敵を実行しつゞけるであらう、かくして此聖教訓は初めて国際的に実行されんとしてゐるのである、|謂ゆる基督教国に於て未だ国際的に実行されない宗教が、こゝに彼等の無視しつゝある未開の異教徒に由て国際上に実行されんとするのである、耻ぢよ有名無実の基督教徒等よ〔付△圏点〕!
 かの徒らに信仰箇条を高調し教義の純正を誇るも敵を愛するの這を顧みざる者の如きは未だキリストの心を知らざる者である、教義の純正を誇る神学者何者ぞ、キリストは一度もかゝる事を誇つたことはない、しかし彼は愛のため其凡てを――その生命をまで――献げた、彼を信ずる者は愛の人にならねばならぬ、敵を愛し得る人と(401)ならねばならぬ、然らずしては教義の穿鑿も聖書の研究も凡て無益である、愛敵の人ならずば基督教でないのである、然るに今や基督教国と自称基督信者とは少しも之を行はない、これ自己の偽善を暴露してゐるのである。 〔以上、大正11・8・10〕
 
     第五十三講 政府と国家に対する義務 第十三章一節−七節の研究 (五月廿八日)
 
 第十二章に於て個人間の道徳を説いたパウロは第十三章に入つて政府と国家に対する道徳を説くのである、かく云へば十三章は十二章とは全然別な誡めの如くに思はれるが実はさうではない、パウロは十二章の愛の教の継続として十三章の対国家の道を説いたのである、人を愛すべし、我を苦むる人をも愛すべし、国を愛すべし、我を苦むる国をも愛すべしと、これ十二章十三章を一貫して流るゝ精神である。
 十二章は九節より愛の教に入り、それより愛敵の教に説き進み、その最後に於ては「なんぢ悪に勝たるゝ勿れ、善をもて悪に勝つべし」との偉大なる語を発した、羅馬書はその処々に於て論述の高調に達するを見る、三章二十四、五、六節の贖罪提唱の如き、八章末尾の凱歌の如き、十一章末尾の讃美の如き之である、そして此の十二章末尾の如きも正に実践道徳の絶頂にして、其想其辞ともに高調に達せりと云ふべきである、人の道徳は到底これ以上に出づることは出来ぬ、実にこれ人間道義の絶頂である、「善をもて悪に勝つ」とは心中の戦を云うたものである、人より悪を受け其悪にまた悪をもて報いんとの心を起すは即ち悪に負けたのである、この復讐心と戦つて之を抑へ、其悪に対するに善を以てするが即ち善を以て悪に勝つたのである、悪を以て悪に対して敵を屈服せしむるは悪に負けたのである、悪に堪ゆるのみならず進んで敵を愛するに至るが悪に勝つたのである、キ(402)リストの十字架は此勝利の極で著しきものである、彼は敵人の包囲に会つて之に抗せず其儘十字架の悲運を甘受し、しかも我を殺す敵のために宥めを父に祈る程の愛心を発した、かくの如き人を主と仰ぐ者は常に此心を以て人に対さねばならぬ、愛敵の心盛なる所、社会には平和漲り、国と国との間には争は起らないのである。
 十二章末尾の此精神を以てすれば十三章の対家の国の道はたやすく了得し得られるのである、先づ一節に言ふ「上に在りて権をもてる者に凡て人々服ふべし、そは神より出でざる権なく、凡そ有る所の権は神の立て給ふ所なればなり」と、これ|此世の政治的権能に服従すべし〔付○圏点〕との勧めである、そして其理由として此世の政治的権能と雖も亦悉く神の立て給ふたものであると強調したのである、基督者は神にのみ服従すべきであつて此世の権能に対しては毫も服従する要なしと主張する者をパウロは戒めるのである、故に二節に於て言ふ「この故に権に逆ふものは神の定に背くなり、背くものは自ら其審判を受くべし」と、此世の権能に逆ふは神の立て給ひし権能に背くのであれば即ち神の規定に背くのである、故に其審判を受くるに至ること当然であると云ふのである、全世界にわたれる神の統治を認め、制度尊重、秩序保続の健全なる精神をパウロは茲に鼓吹するのである。
 次に三、四節を見よ、「有司《つかさびと》は善行《よきわざ》の畏にあらず悪行の畏なり。汝権を畏れざることを願ふか、唯善を行へ、さらば彼より褒《ほまれ》を得ん、彼は汝を益せんための神の僕なり。もし悪を為さば畏れよ、彼は徒らに刃をとらず、神の僕たれば、悪を行ふものに怒をもて報ゆるものなり」とある、此世の権威に対する道は只菩を為し悪を避けるだけの事である、善を為すものは有司より質せられ、悪をなす者は罰せらる、有司は神の僕である故善を賞し悪を懲らす役目を行ふ、されば善をなす者は少しも此世の権能を畏るゝの必要がない、正しきを行ふものに恐怖の襲ふ理由は寸毫《すこし》もない、併し悪をなせば必ず有司の罰が来る、されば悪をなす勿れとパウロは警めるのである、(403)依て進んで五節に於て言ふ「故に之に服へ、たゞ怒によりてのみ服はず良心によりて服ふべし」と、即ち刑罰の畏懼に依てのみならず亦実に良心よりして権能に服へと勧めるのである。
 次の六、七節は以上の原理の適用とも云ふべき所である、「この故に汝等貢を納めよ、彼等は神の用人《つかひびと》にして常に此職を司れり、汝ら受くべき所の人には之に与へ、貢を受くべき者には之に貢し、税を受くべき者には之に税し、畏るべき者には畏れ、貴ぶべき者は之を貴べ」と云ふ、その意味は説明を待たずして明かである、たゞ貢と税との別について一言しよう、独立国の民は税を納むれども貢は納めない、いかに重税を課せられても税だけである、然るに古代にあつては属国の民は税を納むる外に尚ほ貢なるものを納むる必要があつた、これ服従忠順を標象する所のものであつた、さればロマ本国の民は税を納めるだけを以て足りたけれども、ユダヤ人は税と貢とを兼ね納める必要があつた、故にパウロが茲に貢の納入を勧めたのは征服国の政府が被征服国の民に向つて課する暴圧にも服従せよとの意味である。
 以上の如く一節より七節まで其意味は至極平易であるが、之れに関聯して二三の重要なる問題が起るのである、まづ近代人はパウロの此教に抗議を提起して云ふ、これ古代専制治下に於ての誡めであつて現代の民本政治に於ては全然無用なるものではないかと、否然らず、いかなる時代の如何なる政治組織の下に於ても一国の秩序を維持するための権能は必ずあるべきである、そしてパウロは此権能に伏して以て秩序を重んじ騒擾を悪み平和順良を愛する民たれと勧めるのである、従つて此誡めは如何なる時代に於ても廃るべきものではない、且またパウロの此国権服従論は十二章の愛及び愛敵の教よりおのづから引き出されたものである、即ち如何なる人をも愛し我敵をも愛するが基督者の道である以上は、良き国家に対しても悪き国家に対しても服従と愛とを以て対し、たと(404)ひ暴圧治下にありても尚ほ我を虐ぐる権能者に服ひ且これを愛するの心を抱くべきであると云ふのである、従つてパウロの此国権服従の根柢に横はりしものは|基督的愛の大精神〔付○圏点〕である、茲に於てか知る彼の此の誡めの永久に廃らざる誡めとして残れることを。
 基督者とはその国籍を天に移せし者である、「我等の国は天に在り」(ピリピ三の二十)とある通りである、故に此世の事は実はどうあつても宜いのである、何となれば是れ彼にとつては人生第一義の問題ではないからである、故に強ひて此世の権能に反抗するほどの熱心が起らない、何れでもよい事である故むしろ服従を以て此世の権能に対するのである、今これを近時むづかしき問題となりつゝある労働問題について考へて見よう、今や労働者は資本家の横暴残忍を攻撃し、資本家は労働者の怠慢無謀を攻撃してゐる、我等基督者は資本家が横暴なれば労働者に同情する、しかし又労働者があまりに無謀なれば資本家に同情する、基督者はあらゆる場合に於て正者の味方である、併しもし彼が資本家の一人であるならば労働者の暴挙のために損害を受けても之をあまり問題としないのである、又労働者の一人であるならば到底熱心に資本家攻撃に従ひて収入増加のために奮闘するの心を起し得ないのを当然とする、彼は既に財を天に貯へたものである以上、この世の財のことについては余り大なる熱心を起し得ないのである、此世の事に重きを置かぬものは此世の事には無頓着である、そして斯く此世の利益問題に無頓着なる故無益なる抗争、反抗、騒擾等に従ひ得ないのである、愚かなる怒や自己の小利害の故に此世に於て争を起すことなきが基督者の健全なる状態である、勿論神のため、又平和のため大なる運動を起し又はそれに携はる場合がないとは云へない、けれどそれは稀のことである、平素は平和、服従、秩序、権能、専重の民たるのである。
(405) されば基督者は平和の民である、世にありて革命、騒擾、叛乱を起すことを厭ふ、真の基督者にして社会の秩序を紊したものあるを聞かない、又自ら好んで革命叛乱を起したものあるを聞かない、欧米の諸国が基督教国と称し乍ら屡々醜陋なる戦に従ふごときは虚偽の極である、併し茲に一の問題が起る、もし国の政府が腐敗を極めて明白に民の敵となりたる時の如き、もしくは自国が圧制国の版図に属して暴虐横恣の下に悩む場合の如きは如何、かゝる際には之に反抗して革命独立の旗を翻すを可とすべきではないかと、例へばクロムウエルの英国革命戦争、オレンジ公ウイリヤムのネーデルランド独立戦争、ジヨウジ・ワシントンの米国独立戦争の如きは何れも不義の跋扈を抑ふるべく義のため愛のために起つたのである、故に之は義戦として称揚せらるべく、又基督教徒の当然携はるべき性質のものと認めらるべきではあるまいか、叛乱と云へば叛乱であるが之は基督教的に推奨少くとも是認せらるべき性質のものではあるまいか。
 この間題に対して先づ注意すべきは|斯かる場合の甚だ稀である〔付△圏点〕と云ふ一事である、そして稀なる或場合には或は政権反抗が正しくあるとしても、そのため常の場合の反抗が正しいと云ふことにはならない、パウロは茲に基督者平素の心得を教へたのであれば、平素の場合に於ては政権服従を可とすると云ふ原理を述べたのである、然らば右の如き或特別の場合に於ては如何、パウロは一般の原理を述べたゞけで特別の場合には言及して居ない、けれども彼の精神のある所を見、殊に主イエスの心に訴へて見て斯かる場合に際しての最上の道をほゞ知り得ると思ふ、即ち政治の非違その極に達して民皆苦む場合の如きにも、基督者は平和的手段にのみ訴ふべきである、先づ謙遜と静和とを以て権能者に向つて抗議《プロテスト》すべきである、幾度も/\繰返して抗議し、其他平和を超えぬ範囲に於ては凡ての道を取るべきである、百折不撓の心を以て目的の貫達を祈るべきである、併し乍らその目的が達(406)せられずとて武器に訴へての叛乱を起すべきではない、平和的手段だけに限りて成敗は悉く大能の手に任すべきである。
 然らば基督者が正義のために抗議せし場合それが罪に問はるゝ如きことゝならば如何、己の命を求めらるゝ場合は已むを得ず坂乱を起すべきか、|否かゝる場合には権能者の命のまゝに我生命を差出すべきである、この点に於てはギリシヤの哲人ソクラテスは多くの基督教徒以上に基督的であつた〔付△圏点〕、彼は政府の秕政に対してはたゞ抗議するだけであつた、捕へられて死刑の宣告を受けるや、無実の罪であつても政府が合法なる機関を通して為したる判決である故を以て潔く之に服した、そして友人等が準備を悉く整へて脱牢をすゝむるや国法に背くの不道理を唱へてこれを峻拒した、彼の場合に於ては国法の適用は誤つては居るが国法の命ずる処に背くは彼に於て全然なし得ざる所であつた、そして彼は、悲み泣く弟子らに霊魂不滅の教を説きつゝ毒杯を傾け、最後の瞬間に至るまで諄々として説いて変らなかつた、げに壮美の極と云ふべきである、神の独子の死たるキリストの十字架は別として、人として、ソクラテス以上に美しき死を見ることは出来ない、されば国法服従の一点に至つてはソクラテスはオレンジ公、クロムヱル、ワシントンに遥かに勝ると云ふべきである、而してキリストは此点に於てソクラテスに似て又ソクラテス以上であつた、彼は何等反抗の手段に出でずして権能者の審判くまゝに死に就き給うた、我等はキリストに傚ふべし又ソクラテスに傚ふべきである。
 此点に於て印度革命者ガンヂーの無抵抗的革命の如きは正にキリスト的である、在来の武器を以てする革命はキリストの心に適はざるものである、圧制者に向つて武力を以て抗争すると云ふは彼等に対する憎悪を否定することは出来ない、基督者にして圧制者に武力的に反抗せしものは皆かれらを神の敵として憎悪呪詛した、しかし(407)圧制者をも愛を以て赦す態度こそ基督者の採るべき態度である、彼等のためにも祈る心を抱くに至らずしては真の愛と云ふことは出来ない、|クロムヱル、ミルトン等偉大雄烈なる基督者にして我等の深く専敬する所であるが、此点に於ては到底われらの模範とするに足りない〔付△圏点〕、その党派心、抗争心の盛にして権能服従の心乏しく、愛敵の道に於いて足らざりしは惜むべきの至りである、此点に於ては我等は彼等に傚はない、全然ナザレのイエスに傚はねばならない、権能に服し国法を重んじて死に就き、われを殺す敵のために祈るの大精神を発揮したるナザレのイエスに傚はねばならない。
 最後に注意すべきはパウロの羅馬政府に対する態度である、十三章の権能服従の語は事実的には羅馬政府に対しての服従を勧めたものである、史家の認むる如く羅馬帝国の政治と云へば地上の政治としては最も完備した政治であつた、凡ての点より見て人間の力を以て之れ以上に整備せる、之れ以上に威力ある、之れ以上に巧妙なる政治を見ることは出来ない、故に是れ民が――たとひ属国の民なりとも――喜んで服従すべき政治であつた、殊に此政治は基督教の世界的伝播にとりて大なる助となつた、かゝる完備せる政治組織の下に.福音はその盛なる交通網に乗りて羅馬全版図に早くも弘まつたのである、されば此帝国も亦これ神の摂理の中に現はれしものである、故にパウロは此の政府に対しては多くのユダヤ人の如く憎悪を抱かず、広く高き視点よりして之に大なる好意を寄せてゐたのである、これ彼の博大なる精神より出でたことであつた、彼の権能服従論の背景として此事あるを我等は忘れてはならない。
 然らば我等は日本の政治に対して如何に考ふべきであるか、もとより共有する種々の病弊は痛歎すべきであるが、|大体より見て比較的良政であると認めねばならない〔付○圏点〕、これ外国漫遊の後故国に帰りし日本人の概ね認むる(408)所である、又日本に滞在せる外国人にして之を認むる人も少くない、生命財産の安全、信仰の自由、或程度までの思想の自由等は慥に此国に存する、此国にありて我等は平和の中に福音を研究し且宣伝することを得る、もしパウロにして今日我国に生れたならば此国に於ける福音宣伝の自由と便宜との故を以て深く日本政府を徳とするであらう、そして一節−七節の如き政権服従論を唱へるであらう、不信者の営む政治なりとて直ちに之をサタンの政治の如く思ふは過つてゐる、之を始から敵と見て反抗せんとするは浅愚である、良心を以て――心より――服従の徳を以て対すべきである、神の定には服ふべし、敵なりとも愛すべし、出来得べきかぎりは人々と睦み親むべし、不信社会に生を送る我等は強き信仰の人たると共に宏量、坦懐、寛大、慎慮の人たらねばならないのである。
 
     第五十四講 社会の一員としての愛 第十三章八節−十節の研究 (六月四日)
 
 パウロは十二章に於て愛の道を説き、その最後に於ては愛敵の勧めに入り、これに促されて十三章に於ては政権服従の大義を唱道し其終に於て「汝等受くべき所の人には之を与へよ、貢を受くべき者には之に貢し、税を受くべき者には之に税し、畏るべき者には畏れ敬ぶべき者は之を敬べ」(七節)と云うた、そして彼は次の八節より十節までに於て再び愛の教を説く、併しながら彼は新題目に移るに方て前との連絡をたちきりて全く筆を改める事を余り好まない、自然と滑りこむが如くに何時とはなしに新題目に入るを以て特徴とする、故に八節より新題目に入つたのではあるが意味に於ては七節の続きである、曰く「汝等愛を負ふのほか凡ての事を人に負ふこと勿れ、そは人を愛する者は律法を全うすればなり」と、税を納めよ貢を納めよ払ふべき者には凡て払へ、愛のほか(409)は凡ての事に於て人に負ふ勿れ、一切の負債、義務責任を果せよと教へるのである。
 八節−十節は十二章後半の如く愛の教である、従つてパウロに反覆又は冗長の罪を帰する人もある、併しながら十二章の愛は一個の人として隣人に対して抱くべきものを云ひ、十三章のそれは国家の一員たる者に取つての法律の実行力としての愛である、同一の愛にしても全然異なる立場より眺められたものである、甲は個人道徳としての愛であり乙は国民道徳としての愛である、之は前後の関係より見て極めて明かなることである。
 八節前半「汝等互に愛を負ふのほか凡ての事を人に負ふこと勿れ」の一語はパウロの発せし偉大なる語の一である、之を正確に訳せば「何人にも何物をも負ふこと勿れ、たゞ相互に対する愛だけは別なり」となる、|何人にも何物をも負ふ勿れ〔付○圏点〕、負債は悉く償却し義務は悉く果せ、但し愛を負ふことだけは全く別である、愛の義務は一生負ふて居るべきものであると云ふ意味である。
 愛のほか何物をも何人にも負ふ勿れとは人生の一軌範として洵に大切なることである、政府に対し社会に対し隣人に対し果すべき義務は之を速かに果せ、或は物質を以てする義務、或は身体を以て為すべき責務は出来るだけ正確に果せ、例へば納税の如き之を怠りて何時までも負債として止め置く勿れ、期限内に正確に納入して負ふ処なきに至れ。|又借財の如きは〔付△圏点〕断じて之を避くべきである、已むを得ずして之に陥りたる時は一刻も早く償却すべく努力すべきである、負債の中にあるは健全なる生活の大なる支障である、そのため人に対する独立心を喪失し卑屈陰柔の生活に陥る虞れがある、或はそのために親族故旧の間の友誼を妨げ誤解を生み、人をも我をも害し苦むる恐しき結果を起し易きものである、パウロの如きは最も之を厭ひし一人であつたと思ふ、負債を避けると云ふことは人として大切なる処世の道である、基督者として尚更らである、之は自他のために大切なる心得で(410)ある。
 さりながら「負ふ勿れ」とは単に借財を警めた語ではない、之は頗る広義に於て人生の全般に関する誡めである、負ふ勿れとは義務を果たさぬまゝにして置く勿れの意である、人は世に生れ来て各方面に対して為すべき義務を抱いてゐる、主権者に対しては忠誠の義務、師長に対しては尊敬の義務、親に対しては服従の義務、人に対し世に対しては奉仕の義務を抱いてゐる、その他此世に生を享け、家族の一人として又社会の一員として又国家の民として各種の義務を双肩に担つてゐる、これ人として自然のことである、人はこの義務を承認し之を立派に果たすべきである、これ即ち負債償却である、何人にも何物をも負ふ勿れとは此の負債償却――義務遂行――を怠る勿れとの意である、然るに現代の多くの人は義務は少しも果さうとしない、即ち多くの事を多くの人に負ひしまゝにて平然としてゐる、負債の中にありて冷然として知らぬが如くである、然し乍ら権利の行使及び伸張には驚くべきほど熱心である、実に自己中心の極である、何人にも何物をも負ふ勿れとのパウロの誡めは現代人に取つては正に口に苦き良薬である、さはれ彼等は此良薬を取らうとはしない、そして益々滅びの淵に向つての進度を早めつゝある、あゝ!
 然り何物をも何事をも負ふ勿れ、責任未済の中にある勿れ、義務は悉くこれを果せ、併しながら「愛」の一事に至りては全く別である、愛は相互に対して負へるまゝにて可いのである、愛は到底果し得ない負債である、人を愛する事には限界がない、或程度まで又は或時期まで愛したからとて愛の負債は償却されない、愛は一生涯有ちつゞけねばならぬもの、故に一生涯かゝりても払ひつくされぬ負債、果しつくされぬ責務である、故に愛を施すべき責任は常に持ち続くるべきものである、即ち愛だけは負ふのがよいのである、愛を負はずと云へばもは(411)や全く愛さなくなつたのである、されば相互に対する愛だけは飽くまで熱心に負ふべきものである。
 人と人との間にありては相互に対する義務は完全に果して貸借なしの関係に於てあるべきものである、けれども何もかも皆な果し尽しては彼我の間に何等の関係の残らぬ憾みがある、何か一の負債だけありて互に負ふ所あるため彼我の関係の繋がるゝを可とする、而して此役目に当るべきものが愛の負債である、人を愛することは止むべき時がない、故に愛といふ負債は払ひつくせぬ負債である、いくら払つても払つても払ひ尽せないのである、故に彼我の間に此負債あれば一生涯二人の関係は絶えないのである、されば人は相互に対して愛の負債を抱きて其関係を一生涯つゞくるべきである、もと/\我等は神に対して為すべき務を果たさずして重き負債の中に陥没し居たるものである、然るに神はその独子の死を以て我等の負債を消除したのである、換言すれば独子が我等に代つて負債を弁償しくれし故我らはもはや神に対しては自身負債償却の道に入る必要が失せたのである、茲に於てか神に対して払ふべきを人に移して払ふに至るべきである 別の語を以て云へば神すでに我等の罪をキリストの故に赦免したる故、われら此大愛に感激して人を愛するの態度に出づるを当然とするのである、これ即ち愛の負債である、愛さねばならぬと云ふ義務である、これ一生涯かゝりても到底払ひつくせぬ負債である、之だけは有りて名誉、無きは不名誉である。
 何人にも何事をも負ふこと勿れ、負債に陥る勿れ、義務不履行のまゝにあること勿れ、これ独立尊重の信仰生活に於て欠くべからず、併し乍ら愛だけは常に負債として抱け、この負債だけは償却し尽さざるを可しとすると、これ八節上半の教である、英語聖書に於ては十字、原語聖書に於ては僅かに八字より成る一成句であるが、其含む内容の広さ、深さは比類の少きものである、処世の指針として――殊に此複雑なる社会に処する人々に取つて(412)――洵に絶好の教であると信ずる。
 九節は云ふ「それ奸淫する勿れ、殺す勿れ、窃む勿れ、偽りの証を立つる勿れ、貪る勿れと曰へる此ほか尚ほ誡あるとも己の如く汝の隣を愛すべしと曰へる言の中に包《こも》りたり」と、茲に列挙せし五つの禁条は十誡第六条以下である、己の如く汝の隣を愛すべしとは利未記十九章十八節にある誡めである、イエスは此誡め及び神を愛すべしとの誡めを以て凡ての律法中の最大なるものと做し、「凡ての律法と予言者は此二つの誡めに因れり」とさへ言ひ切られた(マタイ二二の四十)、パウロも亦この精神に傚ふて此誡めを以て十誡第六条以下即ち対人道徳を一括せしめたのである、洵に然り、人に対する道を列挙すれば十誡の第二部(第六条以下)を初めとし此世の道徳、此世の法律、その数をさへ数へ得ないほど多くある、併しながら「己の如く汝の隣を愛すべし」と云へば之等の凡てを尽してゐるではないか、隣人を愛すること我を愛する如くすれば如何なる場合に於ても対人道徳は充たし得るのである、故に凡ての道徳や法律は失せ去つても宜い、たゞ「己の如く汝の隣を愛すべし」との誡めだにあれば足るのである。
 八節後半には「そは人を愛するものは律法を全うすれば也」の句あり又十節は「愛は隣を害はず、この故に愛は律法を全うす」とある、こゝの「律法」なる文字には定冠詞が附いて居ない、故にモーセ律又は旧約律法のみを指したのではなく、凡そ法律といふ法律、道徳といふ道徳を不定的に言うたものである、法律とは人々の権利を維持してその侵略を防ぐためのものである、故に法律の種類、その無数の条文、それのために生存する裁判官と弁護士……何ぞ複雑の甚しき、唯愛あれば隣人の利を計るも害を計らない、故に愛ある所法律はあるも無用である、愛に依て他人の生命や所有物が確保さるれば法律の要はなくなつたのである、如何にして法律を民に厳守(413)せしむべきかは一の難しき問題と見られてゐる、しかしパウロの茲に提出する道は|愛〔付○圏点〕である、「人を愛する者は律法を完うすればなり」は|したればなり〔付△圏点〕の意味である、人を愛せし者は事実上すでに法律を完うしてしまつたと云ふのである、そして法律を完うしてしまへば法律はその目的を達したのである。
 国に対する道如何、国家の一員としての責務如何、まづ権能服従である、次は愛を以て凡て人に対することである、この愛さへあれば法律の各個条はおのづから実現されるのである、愛のなき所には法律は如何にその威権を増すも充分には実行せられない、即ち愛は社会の一員として社会的の義を行ふ道である、殊に基督者に於ては此事を明確に悟り居らねばならない、誡めは至極簡単なれども意味は深長、効果は明確である、古来福音のよく行き亘れる社会に於ては国法のよく守られたるは此理由によるのである、服従と愛とを以て国法に従ひ且之を完うしたからである、法律を守る事は法律以上の愛の上に立ちて法律を超越して初めて可能である、之を超越せる故これに拘泥せず、却て之を守り得るのである。
 パウロには尚ほ記すべき幾つかの実践教訓があつたであらう、けれども最早書翰を終結せしむべく急がねばならぬ、即ち実践倫理の箇条書きは十節を以て打ちきりて十一節より大希望提示に入つたのである、「かくの如く為すべし」とは以上一切の実践教訓を実行すべしとの意である、そして「我等は時を知れり、今は眠より醒むべきの時なり、そは信仰の初より更に我らの救は近し」と云ひ、以下有名な 大文字となるのである、これ即ち|再臨の希望を以て道徳の実行、行為の緊張を迫つたのである〔付○圏点〕、翻つて十二章の初を見るに「されば」と云ひて恩恵の救全部の説明を受け、「神の諸々のあはれみを以て汝等に勧む」と云ひて専ら道徳の土台として信仰に由る恩恵を置いてゐる、そして今最後には再臨救済の希望を以て道徳実行の奨励者となして居る、|行は信と望の間にある〔付○圏点〕、(414)信を以て土台とし望を以て激励者として行は挙がる、そして基督教に於て行と云へば愛といふとほぼ同一である、信だけにては足らず望だけにても足らず両者兼ねそなはりて愛は初めて行はれるのである、これ即ちパウロ特愛の三連語として彼の書翰に散見せる「信、望、愛」の教である(その最も著しきものがコリント前書十三章にあるは人の知る所である)、信を以て義とせられて感謝のあまり愛の生活に入る、しかも何か或鮮かなる目標の前程に聳ゆるなくしては愛の歩はともすれば弛緩しやすい、即ちこゝに救ひの希望がある、救の日は信仰の初より益す近よれりとの実感は一脈の緊張味を愛の歩みに与へるのである、かくて信望愛は信仰生活の三要素として欠くべからずである、洵に完全なる教、至れり尽せる人生の指針と云ふべきである、我等はいつまでも父、子、聖霊の神を信じて、信、望、愛の三標語を守らんかな!
 
     第五十五講 日は近し 第十三章十一節−十四節の研究 (六月十一日)
 
 十三章の十一節以下は世の終末、キリストの再臨、信者の復活栄化等の大問題に触るゝ重要なる箇処である、十二章の一節よりパウロは基督者の実践道徳を提示し、先づ対個人道徳として謙遜と愛とを詳説し、次に対社会道徳として権能服従と愛とを力説する、そして愈よ最後に至つて再臨の希望に言及するのである、従つて十三章十一節以下が十二章一節より十三章十節までに何かの深き関係を有つことは言はずして明かである。
 而して前講の最後に於て説きし如く、基督者の道徳実行を助くるものは信仰と愛である、十一章までに説きしは信仰、そして十三章十一節以下は希望である、キリストと其贖ひを信じて其大なる恩恵に感激するは人をして愛の行に出でしむる根源である、しかし乍ら之だけにては根柢の強きあるも激励の足らざるを憾む、こゝに主(415)再臨の希望ありて其時迫れりとの実感より強き刺戟が加へられ、自からにして緊張せる信仰生涯が生れるのである、即ち|信望愛〔付○圏点〕は常に相離れずして、信は愛の根柢たり望は愛の激励者たるのである、然るに現代は信と望とを神秘不可解となして排し只愛のみを祝く、不信者は勿論然り信者と称するものまでが亦然る有様である、しかし唯の倫理教ほど無力なるものはない、之はたゞ人に愛を賦課するのみにて少しも愛を行はしめないのである、故に信と望なくしては愛は立ち得ないのである、此事は過去千九百年間の人類の経験に因て明白である、信と望の稀薄となりし時に愛の充分に行はれし例はない、愛の盛なる所には必ず信と望とが伴ふ、凡て醇真なる基督者は皆この事を自己の生涯に於て実験したのである。
 十三章一節以下の趣旨は暗黒の時代たる現代は既に終とならんとし、今や恰も夜すでに更けて日登らんとする如き状勢にあれば、基督者は此の主再臨後の時代に適応するやう暗黒の業を避けて光明の業をなすべしと云ふのである、十一節前半は「かくの如く行すべし、我等は時を知れり、今は寝《ねむり》より寤むべきの時なり」とあるは訳としてやゝ不正確である、改訳聖書には「汝等時を知る故にいよ/\然なすべし、今は眠より覚むべき時なり」とあるは多少の改善であると思はれる、原意は「汝等は今の時期が眠より覚むべき時であることを知れば以上の如く行ふべし」との意味である、即ち以上に述べし所の凡ての道徳的行為実行の理由として終末の近接を掲げたのである。
 「われらは|時〔付○圏点〕を知れり」と云ふ、「時」とは何を云ふか、之をたゞ普通の意味の時と見てはならぬ、英語聖書に之を time(時)と訳せるを同改訂聖書は season(期)と改めてゐる如き注意すべきである、原語 kairos(カイロス)は或る定《き》まつた、短い、はつきりした時期を指す語であつて、聖書に於てはキリスト再臨の前の或期間を云ふに(416)用ひられてゐる、コリント前書七章二十九節に「今より後の|時〔付○圏点〕はちゞまれり」とある如きを見よ、即ち此処にいふ「時」は「福音の時代」である、福音の宣伝せらるゝ時代である、既にキリスト出現しその十字架の犠牲成りて今や旧約の時代は去り新約の時代となつた、しかし此の福音宣伝の時代は決して永久に続くものではない、之には必ず終がある、しかもその終たるや決して永き未来の事ではない、比較的近い中に之が来るのである、そして此時代は一面に於ては福音宣伝の時代ではあるが又その真性より云へば暗黒の時代である、イエスは己を捕へんとて来りし祭司の長、殿司《みやもり》、長老どもに言ふた「今は汝等の時かつ黒暗《くらき》の勢なり」と(ルカ廿二の五三)、悪が跋扈し不善が横行し真と義とが至て力なく見ゆる時代である、しかし此時代は永くはない、既に間もなく終らんとしてゐるのである、即ち暗黒の夜は既に更けて東天は早くも紅《くれない》を呈し、義の太陽はその赫耀たる輝きを以て全世界に照り出でんとしてゐるのである。
 されば「信仰の初より更に我らの救は近し」(十一節後半)である、我等の救はるゝ其日、キリスト再臨の日、審判の日、怖るべき日、しかし我等の救はるゝ復活栄化の日、その日は既に近ける故信仰に入りし初の頃より我等の救は近くなつたのである、即ち「夜すでに更けて日近づけり」(十二節前半)である、暗黒の夜は更けて光明の時代は近づいたのである、故に左の如き誡めが当然キリストを信ずる者に向つて説かるゝのである。
  故にわれら暗きの行を棄てゝ光明の甲《よろひ》を衣るべし、行を正しくして昼歩む如くすべし、※[號/食]※[餮/食]《たうてつ》、酔酒、また姦淫好色、また争闘嫉妬に歩むこと勿れ、たゞ汝等主イエスキリストを衣よ、肉体の慾を行はんがために其の備をなすこと勿れ。(十二節後半より十四節まで)。
 日は既に登らんとしてゐる、キリストはすでに来らんとして幕の彼方に待つてゐる、故に暗黒の行為は棄つべ(417)きである、そして光明の甲を以て装ひ、昼歩むが如くに何人から見ても正しき行に歩べきで、凡ての肉慾陶酔を避けよ、肉体の慾に耽るためにその供をなす勿れ、たゞイエスキリストを衣よ、然り只イエスキリストを衣よとパウロは勧めるのである。
 こゝに三種の悪が挙げられてゐる、第一種は※[號/食]※[餮/食]と酔酒、即ち暴食と暴飲である、これは食欲の放縦である、第二種は姦淫と好色、これは性欲の放縦である、第三種は争闘と嫉妬、これは所有欲又は自利中心主義の放縦である、この三種の荒乱に或一人が悉く従ふこともあらう、しかし多くの人は全部を行はずして大抵その一種に従へるものである、即ち暴食暴飲に従ふか、然らずば姦淫好色か、然らずば争闘嫉妬かに己を任せて居るのである、けれども全部を行ふが悪である如く一部を行ふも亦悪である、これは皆夜の行である、はや日は近づかんとしてゐる、早く夜の行を去れ、早く光明の中にある如く行へ……かくパウロは叫ぶのである。
 終末《おはり》近しとならば誰人も真面目ならざるを得ない、終末の近きを明知してその生活と精神と共に緊張せざるものはない、自己の死近きを知れば失望の中にも覚悟して、凡てに於て立派なる態度を示す人が少なくない、信仰の人は勿論、無信仰の人と雖もさうである、まして世の終末の近接は単に終末の近接ではない、また実に新しき時代の到来、慕ひつゝ待ちし主の顕現、自己の救の完成、復活栄化、光明と栄光と生命との充ちあふるゝ時の来ることである、この望ありて如何なる基督者か不真面目なるを得べき、不信者すら何かの望を前にしては奮励し努力する、まして絶大の恩恵を受けんとする大救済の其日を望む者をや。
 併し乍ら反対者は云ふであらう、理論としては洵に然らんも事実千九百年間待てども待てどもキリストの再臨なかりしは如何、これ空しき望を以て人を警め若しくは励まさんとするものではないかと、果して然るか、千九(418)百年とは人の思ふ程永き時であらうか、それは実に永遠の時に比しては一瞬時に過ぎないではない乎、されば永遠を手に握り給ふ宇宙の主宰者に於ては我等の一日にも足らぬのである、「主に於ては一日は千年の如く、千年は一日の如し」とある(ペテロ後書三の八)、時の長しと云ひ短しと云ふ如きは要するに比較的のものである、一人に於ても其経験に於て必しも同一ではない、苦悶の八時間は幾ケ月の如く長く、熟睡の八時問は一瞬間である、キリストの再臨後れたりとて何かあらん、そのため墓にある時が長くなりたりとて何かあらん、墓に眠れる時は幾千年にても幾万年にても眼覚めし時は之を一瞬時と感ずるに相違ない、故に待つことは如何に永くも敢て厭はないのである。
 そして今や兎にも角にも世がその終に近きつゝある事――信仰の姶より我等の救の近くなりし事――それは明瞭に過ぎるほど明瞭である、世界大戦中に始まりし世界の堕落は戦後に至つて益々甚しくなり進んだ、その荒濫敗頽の実状はげに凄まじき限りである、かゝる状態にて世が尚ほ永続するとはいかで信じ得よう、今は世界がその終末に向つて急速に歩みつゝありとは多くの識者の一致して認むる所である、神世界を治め給ふ、かゝる荒濫の長びく筈はなく、さりとて改善の曙光は何処に於ても発見せられない、世は終末に近づきつゝありと認むるが最も自然の見方である、欧洲各国の真面目なる思想家にして広き知識の立場より、又冷静なる学者的思索の立場より世の終末近きを認むるものが多い、まして我等基督者にして聖書に於て主の約束として、又使徒の教として此事が明白に教へられあるを知る者に於てをや、われら聖書的の此希望を疑ふことなく益すそれに於て堅くなり、以て希望に激励せらるゝ愛の行に励むべきである。
 信仰に由てのみ義とせらるゝの恩恵、それより起る愛のみにて事足るか、希望を否認するものは信と愛のみを(419)高唱する、これ信をまで斥け去る現代に於ては少しは良き部類に属する方である、しかし是れ頗る不完全の道である、人は弱きものである、過ちやすきは人である、この弱くして過ちやすき人に向つて信に由て救はるゝだけにて足ると云へば兎角その行に於て弛みを来しやすい、悔改めて信ずれば足ると教ふる我国浄土門の教の起す弊害は周知の事実である、殊に親鸞の浄土真宗に至つて完成せりと云はるゝ此他力救済の教は遂に如何なる放悉邪行をも是認し、人間一切の罪を煩悩の業となして寛仮せんとするの傾向に陥り、その極如何なる醜陋の行為も信仰と並立し得るものと做すに至る、見よ此信仰又は思想中に漲れる汚気を! これ信だけを立てゝ望を抱かざるより起る弊害である、人にしてより良きものならば信だけを以ても可成り良き行の人となり得る筈であるが、人の弱きや到底かく成り得ないのである、茲に望を以て之を補足する必要がある、再臨審判の期待に由て畏怖を抱いて其行に緊張厳粛を加ふると共に、主の憐れみに由て其時刑罰を免かれて救に入れられんとの信穎の中に敬虔の態度を取るを得、又希望に伴ふ救の喜びに溢れて自から善行に出づる事、これ此の希望の結果である、故に信望愛は基督者の健全なる生活の三特徴であらねばならぬ。
 世の終を信ずるは果して迷愚であるか、今や世は終末に近づきつゝありとは識者を以てせずしても何となく感ぜらるゝ事ではないか、世界の荒乱、全世界に充つる陰暗なる空気、凡てのものが病的に過度に陥れる如き現状、如何なる放悉邪行も何かの美名を以て是認せらるゝ今日、――この凡ては果して終末の予感を人に与へないであらうか、八年前の世界と今日とを比較して果して如何、今や露独の紙幣の如きは世界に於て殆ど無価値のものとなつたではないか、誰か八年前に今日の此事あるを思つたか、八年以前を回顧せよ、その時露国はザールに無限の権能ありて政権も教権も彼の一手にあり、彼の下なる官権は世界無比の権能を以て民を威圧し、少数の革命運(420)動者を除いては何れも之に褶服しつゝあつたのである、誰か此時露国の帝政が一朝にして崩壊し、労農政府が起り、その紙幣が無価値に等しきものとなるを思ひ得たであらうか、独逸帝国と雖も八年前の勢威は如何なりしぞ、そのカイザルの威風と、その整然たる軍国的設備と、其旺盛なる科学的工業とは以て世界を風靡するの力を有して居たのである、誰かその時に於て此大帝国が衰微してそのマルクが今の如き低落を示すと予知し得たか、世の変動は今やかくも急激を極むるに至つた、さらば今より八年後の世界を今に於て誰か予知し得るものぞ、八年の後世界各国の紙幣が皆無価値となりて餓※[草がんむり/孚]全地球の表に充つるの日なしと誰か断言し得るものぞ、かくて誰か世の終末来らずと言ひ得るものぞ。
 世の終末とよ! 然り其時は今まで貴ばれしものが凡て賤きものとなり、今まで賤まれしものが凡て貴くなる時である、然り価値顛倒の時、これ即ち世の終である、その時は人の貴べる財宝の如き何の値すら有たない、一夜にして皆形もなく失せ去るであらう、その時今の世の権者富者と称せらるゝもの――ち暗き夜たる今に於て跋扈跳梁せる蝙蝠《かはほり》族、梟《ふくろ》族、※[鼠+晏]鼠《むぐらもち》族等は東天紅を呈すると共に其姿を隠し、夜に於ては何の勢力なかりし雲雀、班鳩《やまばと》、鶯等は義の太陽の登上と共に歓喜に充ちて唄ひ又跳り、こゝに世界は全く転倒して新世界は生れ、人類とその社会と宇宙とは茲に一朝にして完成するのである、この世界完成の希望こそ我等此世にありて力なき者を励まして愛の行為に出でしむる最大の動力である。 世の終末は如何なる形に於て来るか、それは明白でない、しかし如何やうにしても来得ることは確実である、文明の破壊、地の変動、地球の壊滅、太陽系の変動……いかにしても世の終末は来り得る、この何時変動し何時覆滅するか測り得ぬ地上にありて永久の安固を願ふ人の愚さよ、この恃み難き地上に蔵を増し加へて財宝を貯へ(421)「かくて霊魂に向ひ霊魂よ多年を過すほどの多くの貨物《たから》を有ちたれば安心して食ひ飲み楽めと言」ふものゝの愚かさよ、「然るに神これに日ひけるは無知なる者よ今夜《こよひ》汝がたましひ取らるゝ事あるべし」と云ふ(ルカ十二の十六−二十)、然り洵に然り、然るに恃み難き地上に頼みがたき物を積み頼み難き権力にあこがれて蠢動することの愚なるかな、営々として努力し紛々として争闘し、そして得る所は遂に滅亡あるのみではないか、「剛愎《かたくな》にして悔なきの心に循ひ己のために神の怒を積みて其正しき鞫きの顕はれん怒の日に及ぶなり」(ロマ書二の五)とは即ち此事である、我等信によつて義とせられたる者は希望を併せ抱きて、この信とこの望とに励まされて此時代にありて「光明《ひかり》の子」として愛の生涯を営むべきである。暗き夜にありて決して失望せず、黎明近きを信じて、光明の甲を着て歩むべきである。 〔以上、大正11・9・10〕
 
     五十六講 小問題の解決 羅馬書第十四章以下の精神 (六月十八日)
 
 羅馬書は第十三章までを以て福音に関する大切なる問題は説き了へたのである。個人は如何やうにして救はるべきか、人類は如何やうにして救はるべきか、人は基智者として道徳的に如何なる行為をなすべきか、凡そ此等重要なる問題に対しては既に充分の解答が与へられたのである。そして十四章以後は比較的小なる、又ロマ教会特有の――他の教会に無いとは云はぬが――問題をのみ取扱つて居るのである。故にパウロは此等の問題に入るを罷めて十三章を以て此の大書翰を閉づべきであつた。よし又彼が十四章以後を記した事には意味があるとしても、既に根本問題を研究し了へたる我等は茲に研究を中止するを至当とすべきではあるまいか、かく思ふことも出来る。併し乍ら小問題また之を閑却すべきではない。人の生涯に度々生起するものは小問題である。その解決(422)如何は信仰生涯の健全なる歩みの上に影響する所決して小ではない。故にパウロが小問題解決に用ひし精神を学ぶは我等に取りて亦頗る有益且必要なる事である。或意味に於て大問題の解決と等しきほど重大であるとも云ひ得る。我等はやはり十四章以下を研究すべきである。
 まづ十四章を見よ。その全体が食物問題である。これ小問題ではあるが基督的愛の問題に関係する所大なる点に於ては決して小問題ではない。パウロが此問題を基督的愛の高所に立ちて解決したるは頗る注意すべき点であると云はねばならぬ。次の十五章前半は十四章と同じ精神の続けるものであり、その後半はパウロの羅馬教会に対する態度及び福音宣伝の上の覚悟の披瀝の如きものである。そして十六章に入つては全く個人的の挨拶となる。茲にパウロは幾人かの友人について記し、その一人々々について簡潔適切なる紹介をなして居る。茲に彼の友人観を知ることが出来るのである。彼の如き大宗教家が如何なる友を有つて居たか、又その友について如何なる細かき又良き見方をなして居たか、その一つ/\を見て偉大なる胸中に潜める婦人の如く繊細優雅なる愛を窺ふことが出来る。まことに注意すべき所である。そして十六章は最後に至つて二十五節以下の壮大なる讃美となつて茲に愈よ此の大書翰は結了するのである。 キリストは神である、又人である。彼は此世の聖人の如く神らしき人、又は人にして神の如きものではない。彼には二つの性質があつた。曰く神性、曰く人性、即ち彼は全き神であつて又全き人であつた。基督者は勿論純然たる人であるが、又キリストの宿る所となつたものである。故に唯の人とは違ふ。キリストに在りて「皆新しく」なりし者である。彼の中にはキリストが在る。故に彼に神心《かみごゝろ》があると共に人心がある。優れたる基督者は強く神らしく(intensely divine)あると共に又強く人らしく(intensely human)ある。努力修養に依て人らしき所を(423)殺して謂ゆる聖人となつたものではない.特別の修養工夫に依て此世を超越し人間性を脱却すると云ふ事が仏教の理想であるとするならば、此点に於て基督教と仏教との相違は甚だ著しいのである。特別に聖き生活に入る事、特別に聖き事に従ふ事即ち形の上の聖さは基督教に於ては少しも要求されて居ない。基督者は形に於ては此世の人と何等異なるを要さない。心も亦人らしくあつて宜いのである。唯その人らしさが神の霊に依て深められて、強く又深く人らしくなるを要するのである。パウロの如きは偉大なる基督者なりし故その神らしき方面も人らしき方面も共に深刻強烈であつたのである。羅馬書十四章以下の三章は彼のこの人間的方面の発露として見て限りなき興趣が存するのである。
 人に欠くべからざるは此二つの方面である。Divinity(神らしき方面)と Humanity(人らしき方面、これを|人間味〔付○圏点〕と訳すべきか)、天に関しての熱心と地に関しての熱心、この二つが互に相補つて真の人が生れる。一方に偏する時は――乙の方に偏するのは勿論、たとひ甲の方に偏するにても――其人は健全を失つた人である。我が日本民族の如きは人間味に豊かにして神的興味の甚しく欠けたる民である。故に人として健全を欠くのみならず、その人間味さへも亦甚しく浅薄に流れやすいのである。見よその国語は情を哀はす美はしき語に富めども、神聖厳粛なる事を言ひ表はす語に甚だ乏しきことを。人は此の両方面を具備して初めて真の人たるのである。パウロがその宗教的偉大の故を以て人間味の欠乏せる者の如く思はるゝは大なる誤解である。彼が宗教的に偉大なる事その事が彼の人間的にも亦偉大なることを示すのである。何となれば|凡そ人間味に於て欠けたる者が宗教的に偉大なる筈はないから〔付○圏点〕である。
 羅馬書は偉大なる神学書と称せらる。そして実に偉大なる神学書である。個人の救と人類の救と実践道徳とに(424)関する完全なる教の提唱である。到底これ以上の神学書が此世に現はるゝ事はない。羅馬書以前に羅馬書なく、羅馬書以後に羅馬書なきものである。併しながら此書がもし神学の提示のみを以て終るならば、あまりに莊高厳粛に過ぎて人をして近づくを得ざらしむるものと成るに相違ない。然るに茲に十四、十五、十六章がある。これは彼とロマの信者との個人的関係を示すものにして、彼の|人間味〔付△圏点〕の美はしさが遺憾なく表はれてゐるのである。之あるがために羅馬書が我等になつかしき書となり、又パウロ彼自身が親しき人となるのである。十四章以下はこの意味に於て貴重なる部分であると共に、その内容の伝ふる教訓から見るも亦頗る貴重なる所である。我等は之を軽視してならぬ。
 十四章は第一節に於て先づ言ふ「信仰の弱き者を納《う》けよ、されど其意ふ所を詰る勿れ」と。これ全章の精神である。信仰上の根本問題については争はねばならない。しかし生活上の小問題については他の信者の意ふ所を詰つてはならない。彼をして其の信ずるまゝに行はしめなくてはならない。そして彼を審かずして兄弟の一人として愛を以て納けねばならない。人の小問題にまで干渉して彼をして我の意に従はしめんとしてはならない。人おの/\見る所あり、然るが故に互に人の意を尊重し、その自由を認容し、寛き愛の心を以て互に相納くることを心掛けねばならぬ。
 「或人は凡ての物を食ふべしと信じ或人は弱くして唯野菜を食へり」と第二節に在る。こゝに信者に肉食をなす者と之を避ける者との二種類があつたのである。そして後者が肉食を避けた理由は今日の菜食主義者とは目的を異にしてゐた。当時ギリシヤ、ロマ等の諸都市に於ては偶像の宮に献げし肉類を商人に払ひ下げ、商人は之を他の肉と混へて市に売る風習があつた。従つて肉食する時は偶像に献げし肉をも食する虞れがあつた。こゝに於(425)てか当然信者の間に二種類の人が出でた.謂ゆる「信仰の強き者」は偶像に敵げし肉を食ふことを少しも虞れなかつた。彼等はイエスの語を引用して(マタイ伝十五の十六1十八)、口より出づるものは人を汚せど口より入る者は毫も人を汚さずと主張したであらう。彼等は形式の事に拘泥しない強い信仰と強い人格の所有者であつた。パウロ自身の如きは勿論之に属する人であつた。然るに謂ゆる「信仰の弱き者」があつた。彼等は慎み深い人か或は気の小さい人であつた。ヱホバ神を信ずる以上偶像に献げし物を食するは信仰的に不純であると考へた。これを不徹底と云へば云へる。けれども人には各々生来の性向や過去の境遇や遺伝がある。凡ての人が謂ゆる強き信者となる事はできない。弱き信者の思ふ所にも亦一理ある。その良心の鋭敏なると偏へに敬虔ならんと力むる心はまた大に採るべきである。
 又日を守る守らぬの問題があつた。「或人は此日を彼日に愈れりとし、或人は何れの日も皆同じとす」(五節)とある。「或は節期、或は月朔《ついたち》、或は安息日の事」(コロサイ二の十六)につき旧き律法をそのまゝに守る人があつた。彼等は謹みて日を守らずしては神の御心に背くと思ひて日を守つたのである。然るに或人に取つては凡ての日が同じであつた。或日には特別なる或奉仕をすると云ふやうな形式主義を脱してゐた。凡ての日に於て同様に神に事ふるを以て、必要且充分であるとなした。前者は謂ゆる強き信者、後者は謂ゆる弱き信者であつた。
 右の如く強き信者があり又弱き信者があつた。かく二種類の人のある事は別に困つた事ではない。|困つた事は両者の間がとかく愛の一致を欠いた事であつた〔付△圏点〕。強き者は弱き者を小心者として嘲りてわざと其の前に食するやうの事をなし、弱き者は強き者を不敬虔不謹慎となして行動を共にするを恥ぢ、その間に厭ふべき乖離が起りつゝある状況に於てあつた。その暗雲は多分まだ色濃くはなかつたであらう、それでも暗い雲の起つて居た事は(426)事実である。
 そしてパウロは勧めて言ふのである、此小問題の不一致を問題とせずして愛に於て一致せよ、互に審かず又軽しめず、小問題なるが故に相譲りキリストの愛に於て一たれと。殊に強き信者に向つて彼は特にその注意を喚起するのである。強き信者にとつては食物や日の問題は自由の問題である。|どうでもよい〔付ごま圏点〕問題である。肉は食してもよい、故に或理由があれば食さなくてもよい。彼等に於てはどうにでも出来る事である。故にもし肉を食する事が愛の道に適はぬ場合は肉を食すべきでない。「肉を食ひ酒を飲む何事に由らず汝の兄弟を倒し或は礙《つまづ》かせ或は懦弱《よわ》くするは宜しからざる也」(二十一節)とあるのがパウロの意《こゝろ》である。食物問題は小問題である。|しかし愛は大問題である〔付○圏点〕。小問題のために大問題を犠牲にしてはならぬ。小問題に於て自分の意地を通すため大問題たる愛の道を破つてはならぬ。日は守るもよし守らぬもよし、肉は食ふもよし食はぬもよし、|しかし愛は是非とも行はねばならぬ事である〔付○圏点〕。故に愛の道に適ふやうに日を守るべし、又肉を禁ずべしである。兄弟を愛するが故に日を守り肉を禁ずべしである。「神の国は飲食にあらず唯義と和と聖霊に由れる歓びにあり」(十七節)である。故に飲食問題を主要問題として争ふなく、かゝる小問題は愛の故に譲りて、偏に義と和と歓びとの実現を計るべきであると。かくパウロは勧め戒めるのである。まことに小問題の如くであるが、その解決如何は決して小問題ではない。事は大問題に波及し来るのである。故に小問題が大問題となるのである。
 観劇如何の問題、禁酒禁煙等の問題がある。観劇が絶対に悪いと定めることは出来ない。又小量の飲酒喫煙は場合によつては却つて保健の道であるかも知れない。之等を行つたものは罪悪を行つたものであると云ふことは出来ない。併し乍ら之を禁ぜる兄弟の前にて殊更に之を用ふる如きは愛の道に適はない。かくして人を礙かせば(427)これ明白に罪である。殊に信者にして飲酒喫煙する如きは同信の青年を礙かせ易きことであり又未信者をして福音を誤解せしめ易きことである。共に愛の道に適はない。故に凡て此種の実際問題に於ては、何れでも宜きもの故、愛の道に適ふやうに行ふべきである。
 故《もと》の札幌農学校教頭ウイリヤム・S・クラークは日本に来る際健康維持の必要上四ダースの純良ブランデーを携へ来つた。これ酔ふて楽しむためにあらず、時々小量づゝ用ひて疲労を医し健康を維持せんためであつた。然るに品川より小樽への船中、飲酒が如何に日本人――殊に日本の青年を毒しつゝあるかを実見して大に感ずる所あり、日本を救ふために禁酒奨励の必要を感じ、札幌に着くや先づそのブランデーを棄てゝ自ら禁酒の実をなすと共に禁酒会を起し、以て禁酒の必要を熱心宣伝する所あつた。此一事によりて先づ禁酒の美風が我国に入り、以て今日盛なる禁酒事業の一源泉となつたのである。何れでもよき事である故に愛の標準に照らして定むるとは、正にかくの如きを言ふのである。
 謂ゆる信仰の強き者は小問題に於ては弱き者に譲るの心得を要する。これ愛をして全からしむる道である。又弱き者は強き者を審判いてはならぬ。「食はざる者は食ふ者を審判《さばき》する勿れ」と三節にあり、尚ほ次の四節に於ては強き語を以て之を戒めてゐる。又|弱き者は強き者に向つて愛の要求を為してはならぬ〔付△圏点〕。愛の不足を責め愛の尚ほ多からんことを要求する如きは卑劣の行為である。強き者は弱き者の弱きを許して愛の故に彼を軽しむる勿れ。弱き者は強き者の行為に対して愛の故に審判かざれ。かくせば両者の間に差別と乖離失せ、キリストにありて一体たる兄弟姉妹として美はしき愛の団結を続け得るのである。
 信仰の根本問題に於て強烈無比、一歩も譲らざりし剛漢パウロが、愛についての慮る所のいかに周密繊細(428)なりしかを見よ。人生の実際問題についての彼の解決の如何にキリスト的愛に根ざすかを見よ。彼はその確信に於て巌の如く堅く、その感情に於て婦人の如く細かく行きとゞいて居た。彼は強く|神的〔付ごま圏点〕なりしと共に亦強く|人的〔付ごま圏点〕であつた。第三の天に携へ行かれて人の語るまじき言を聞くはどに|宗教的〔付ごま圏点〕に偉大なりし彼は、一人の弱き信者に対しても妻が夫を思ふ如き熱愛を以てするはどに|人間的〔付ごま圏点〕であつた。そして多くの信仰の偉人は皆さうであつた。之が霊的偉人の霊的偉人たる特色である。霊的に大なると共に、|人間味〔付ごま圏点〕に富めること、弱き兄弟のために自己の自由を制限せんとする心遣り、これが真の信者に存するものである。われら亦深くパウロの此心に汲み、強く宗教的たると共に又強く人間的なる、情味のゆたかなる、愛に於て繊細なる人とならねばならない。 〔以上、大正11・10・10〕
 
     第五十七講 パウロの伝道方針 第十五章十四節以下の研究 (十月一日)
 
 第十二、十三章を以て一般的の実践道徳を説き、十四章より羅馬教会特有の問題に入つたこと前述せる通りである。そしてパウロは後者のために十五章十三節までを用ひて熱心に説く所あつた。そして最後に「望を与ふる神の汝等をして聖霊の力により其の望を大にせんがために、汝等の信仰より起る凡ての喜楽と平康を充たしめ給はんことを願ふ」と述べて結んでゐる。羅馬書の本文は茲に一先づ終つたと見る事が出来る。
 一章の十六節より十五章十三節までを以て、教義の解明及び実践道徳の提唱は結了したのである。故に残るは余論又は挨拶の如きものである。これ即ち十五章十四節以下である。
 十五章十四節より章尾までは専ら自己に係はる事の説明である。これ一種の挨拶の如きものである。しかし其(429)中にパウロの伝道方針が判然《はつきり》表はれて居る。われ等は之に注意すべきである。
 先づ十四、十五節に曰ふ「わが兄弟よ、われ汝等が仁慈に充ち凡ての智に充ちて互に勧め得ることを信ず 然れども兄弟よ我れなほ汝等に思ひ出させんため憚らずしてほゞ汝等に書き送れり」と。こゝに見るはパウロの大なる謙遜である。彼れもとより羅馬の信者に教ふるに足る充分の力あり、彼等また彼より教を受くべき人たちであつたこと勿論である。しかし乍ら此教会は彼の創設した教会ではなかつた。その中に彼の知れる信者ありしとは云へ、大部分の教会員は未知の人であつたに相違ない。こゝに適当の礼節と謙遜とを要する理由が存する。故に「汝等は我より教へらるゝ必要なき人たちにして、信仰と行とに秀でゝ居るけれども、尚ほ知れる事を思ひ起さしめんために斯く永々と書いたのである」との意味を先づ述べるのである。彼の如き種々の事に於て優秀なる人物が、又謙遜に於ても優秀なりしは注意すべき点である。謙遜の要なきに謙遜する所に彼の偉大が存する。もし彼に此美点がなかつたならば他の幾多の長所も亦輝きを薄くしたに相違ない。この美徳ありて他の凡ての長所が一層光輝を増すのである。これ明かに彼の霊的偉人なりし特徴である。ために彼の人格が一層の美しさと偉さとを加へるのである。われ等は宜しくパウロの此態度を学ぶべきである。加之、かく人の感情を重んじ、人の誤解を避けんため、又良き感じを起さしめんために細心の注意を払ひたる用意周到を見よ。益々以て彼の偉大を示すものではないか。
 十五節の最後には「これ神の我に賜ふ所の恩《めぐみ》に因るなり」とある。即ちロマの信者に向つて福音を説きしは神より賜はりし恩恵に因ると云ふのである。この恩恵とは何ぞ、これ即ち特に彼に賜はりし異邦伝道職である。彼は十六−十九節に於て之を説明した。彼は神に招かれて此大任を授けられ、キリストの役者《えきしや》となりて専ら異邦人(430)教化に従ひ、キリストに助けられて、「異邦人を順従《したがは》しめんために休徴《しるし》と奇跡の力と神の霊《みたま》の力をあらはし、言と行とを以てエルサレムより※[行人偏+扁]くイルリコに至るまで」福音を宣伝した。これ今まで彼の為せし所であつた。そして此異邦伝道は之からも益々熱心に為さんとする所、即ち彼の一生の業である。故にロマの信者に向つて福音を説くも、亦これ此職分に忠実ならんがためである。ロマの教会が異邦にある教会なるが故にその教会に向つて、彼が異邦使徒たるが故に教を説くのである。
 二十節に於てパウロはその伝道上の大方針を披瀝した。即ち「且われ慎みて他人の置きし土台に建てじとイエスの名の未だ称へられざる所に福音を宣伝へたり」と云ふ。彼は主として心霊未開の野の開拓に徒事した。未だ人の斧を入れざる樹木を伐り倒し、未だ人の鋤を入れざる地を耕して、そこに福音の播種をなすを以てその一生の大方針とした。故にユダヤ伝道には手を下さゞるのみならず、異邦に於ても他人の建てた教会は力めて之を避けんとした。彼は福音の全く入り居らざる地、一人も信者のなき地を選んで其処に福音を宣伝したのである。「慎みて」は正訳ではない、「努めて」と訳してやゝ原語の意味を表はし得る。しかし「野心を抱けり」との意を原語は伝へる。即ち「他人の置きし土台に建てじとイエスの名の未だ称へられざる所に福音を宣伝せんとの|野心を抱けり〔付○圏点〕」である。彼は此事を自分の野心(Ambition)となし、又名誉となし、心から之を喜び求めたのである。こゝに彼の独立心が見える。又他の信徒の領分を侵さぬといふ武士的廉恥心が見える。又世界を伝道区域とする其の聖望の偉大さが見える。
 心霊未開の地は全世界に充ち/\てゐる。故にパウロはその開拓に従事して日も亦足らざる有様であつた 故にロマに到らんとするも到る時を有たなかつたのである。「この故に屡ば阻げられて我れ汝等に到ることを得ざ(431)りき」と二十二節に在る。次に彼は言ふ「今この地に伝ふべき処なし、われ年来《としごろ》なんぢらに行かんと願へる故に、ヒスパニヤに赴かん時《ついで》に汝等に就《いた》るべし、そは過る時に汝等に遇はゞほゞ心に充てるを得て又汝等に送られんことを望めばなり」(二十三、二十四節)と。彼は小亜細亜、ギリシヤ方面にもはや福音を伝ふる余地がなくなつた故いよ/\ロマに行くことに定めたと云ふ。しかしロマ行はロマ行を目的とするのではない。ヒスパニヤ(スべイン)に行くとき序でにロマに立ち寄り、ある期間とゞまりて心充ちたる後ちロマを出立してヒスパニヤに行かうと云ふのである。彼はかくの如く遠大なる世界伝道の計画をもち且それを実現せんと努めたのである。
 羅馬教会はパウロの建てた教会ではない。故に彼は之に対して適当なる遠慮と礼儀を表はした。他人の事業に係はることである故、綿密なる注意を以て之に対し、専ら他の権限内に自己を入るゝやうの事を避けた まして他人の業を自分のものとする如き横領的の心は少しも彼にはなかつたのである。羅馬教会は文明世界の中心に立てる教会である。これを我有とするは、恰も高山の頂より山下の全野を俯瞰するが如きものである。世界伝道を以て天職とせる彼は、もし此教会を以てその本拠としたならば如何に万事に好都合であつたであらう。しかしパウロは努めて他人の置きし土台に建てじと決心せる人であつた。故に飽くまで或る遠慮を以て此教会に対し、充分の礼節を尽すを忘れずしてそこに美はしき謙遜の表はるゝものがあつた。パウロの此心事を知りてロマの信者は却つてパゥロを自己教会の監督として迎へ度しとの心を抱いたかも知れない しかし乍らパウロは他人の建てし土台に建つるを潔しとしない。彼の思ふ所は西陲ヒスパニヤである。小亜とギリシヤとの伝道を了へたる彼は、スべイン伝道のために其残世を献げんと志したのである。しかしロマ行は多年の宿望であれば、スべイン行の序でを以てロマに立ち寄り、そこに或期間を愛の交換に送りて後ちロマの兄弟の祈祷に送られてスべインに行かう(432)と志したのである。
 以上の如きがパウロの伝道計画である。当時の文明世界全体を掌に握るが如き気宇の宏大なるを見よ。実に彼の異邦使徒職は全異邦を伝道区域として有つ所のものであつた。彼の大なる到底これ以下を以て満足することは出来なかつた。彼はこの大方針に従つてその三十年の伝道生涯を送つた。彼がその計画せし如くヒスパニヤまで行きたりしや否やは、全然推測の範囲に止まる問題である。或は行き得たかも知れぬ。或は未だ行かざる中に迫害の手にロマ府に殪れたかも知れぬ いづれにせよ彼の伝道事績を知るには、彼の残存せる凡ての書翰に合せて使徒行伝に拠るほか道はない。この使徒行伝はその半ば以上をパウロの伝道記録に用ひてゐる。これ聖書中最も興味深き文書である。当時の地理、人情、風俗等を研究して、これらの背景の前に此書の記事を立たせて見るとき此書より無限の興趣が湧き立つのである。由来良き旅行記は基督者に清き楽みを与へるものとして最も歓迎すべきである。之を近時続々として出づる片々たる文学物の如きを読むに比しては其差実に千里である。リビングストンのアフリカ伝道旅行記の如きはその代表的なるものである。そして使徒行伝は凡ての旅行記中最優秀の旅行記である 我等は羅馬書十五章後半にパウロの世界伝道の精神を学ぷと共に、その具象化せるものとして使徒行伝の記事に深甚なる注意を払はねばならない。
 パウロは世界を家とする伝道者であつた。万国の民に福音を宣伝せよとの主の命令を彼は実現せんと欲した。従つて他人の拓きし所を避けて、専ら光の照らぬ野に、谷に光を照らさしめんとした。これ彼の一生抱きて変らざりし聖望であつた。故に彼は異邦世界の各要地に播種しつゝ進み進んで遂に当時の世界の西陲なるスべインを志すに至つたのである。思ふに彼は平生世界地図を眺めつゝ頻りに此意図の実現方法を考案したことであらう。(433)そして常に若々しき希望に心を躍らして居たことであらう。勿論彼は特別の意味に於て選ばれし器なるが故に、誰人も彼の如く世界に伝道する人となることは出来ない。けれども彼の此大精神に効ふことは出来る。他人の据ゑし土台に建てじとの気概心霊未開の地を選みてその暗黒を拓かんとの志、それは彼より学び得ることである。
 何故に指頭の如き小天地に互に派を立てゝ相鬩ぎ相侵すのであるか。何故眼を南方の洋上に注ぎて、そこに在るボルネオ、ニユウギニヤの霊的未開地を思はないのであるか。何故北方の曠漠無限の如き大シべリヤを閑却するのであるか。その沿海州だけに於ても広きこと如何ばかりぞ。誰かヤブロノイ、スタノボイ両山脈の峰に福音の旗を高く北風に翻すものは無きか。近く隣邦たる支那に眼をそゝぐも、我島帝国の幾倍かの地が誰人か来つて之を福音的に占領する日を待ちつゝある。魂の未開地は全世界に充ち/\てゐる。その広さは測り得ぬほどである。その中の一部を我区域として賜はりても、日本全土を我有とするに勝さること万々である。かゝる聖望に燃えたつものはあらざるか。神はかゝる勇敢なる僕を要し給ふのである。
 然るに今の日本人の考ふる所は何か、その望む所は何か。その最大問題は物質問題、経済問題である。その最も望む所は自己の収入の些少の増加である。又は自己中心の小さき恋愛問題である。その最も好んで読むものは遊戯的の愛欲を題材とした片々たる駄小説の類である。自己の小利害――之が現代の日本人を支配してゐる凡てである。実に侏儒の集合と云ふべきは我民族の現状ではないか。そして基督者と称するものまでが此悪風に染みて、多くはたゞ自己の小慰安のためにのみ福音を信じつゝあるは痛歎すべき極みである。かく己を主とする信仰は決して真の信仰ではない。己を忘るゝ信仰こそ真の信仰である。己を忘れて世界を思ふこと、之を我等は日本今日の基督教徒に勧める。広漠なる世界、そこには未だ福音の光に触れざる民が何億となく存在してゐる。福音(434)の光に照らされざる地が幾千万方哩となく存してゐる。此事を常に忘れてはならない。もとより世界伝道の使命を受くることなくして世界伝道の旅に上ることは出来ない。故に伝道者は特別の人に限る。たゞ凡ての信者に要求せらるゝことは、自己の 慰安を主とする信仰を棄てゝ世界を思ふ信仰を抱くことである。かくして一身の利害得失を忘れて、我信仰生活の性質を向上させその内容を豊富にする心掛を持たねばならぬ。
 故にパウロの伝道計画を学び、その伝道の方針を探ることは単なる史的研究ではない。これは亦実に自己を覚醒さするための研究である。我等は深く彼の心に汲み、強く彼の心に傚ふことを力むべきである。
 
     第五十八講 パウロの友人録 第十六章一節−二十四節の研究 (十月八日)
 
 パウロは自己の伝道計画を説明して第十五章を了へた。そしてその最後に「平安の神なんぢら衆人《すべて》と共に在さんことを願ふアメン」と、恰も此大書翰を結ぶが如き一語を下した。彼は此時もう筆を擱かうとして居たのかも知れぬ。しかし此書翰の持参人なるフイべを一言ロマの信者に紹介するの必要を想ひ起して、十六章一、二節の語を成した。そして更にロマに在る彼の友人を想起してその名を列記し、「安きを問へ」の連発を以て十六節までに至つたのである。
 「安きを問へ」は日本語の「宜しく」に相当する。希伯来人の挨拶の語は「サローム、アレーヘム」であつて、|神の平安汝にあれ〔付ごま圏点〕を意味する。彼はロマの信者中よりその知れる人々を想起して、一々「宜しく伝へよ」と全会衆に向つて注文したのである。勿論こゝに列挙せられし人々も此書翰の読み手の中に加はつて居たのであるから、殊にかく云ふ必要はないやうであるが、彼はかく述べて全会衆が此人々に特に注意せんことを望んだのであらう。(435)とにかく之は人名の連続にして、特に研究する必要ありとは思はれぬ。歴史的には多少の意味あらんも信仰的には別に研究の要あらじと人は云ふであらう。併しこれ浅見である。敬虔《つゝしみ》を以て之を研究せよ。言葉の裏に潜む深き意味を探り出せ。然る時はこれ亦確かに神の言の一部にして、人の信仰を助くる文字なることを悟るであらう。不注意に之を読むときは恰も砂漠を旅するが如く感ずるであらう。しかしながら砂漠は決して無価値のものではない。その中に僅か在る所の草花、昆虫の類は博物学者にとつては無限の興趣を荷ふものである。聖書の研究に要するものは敬虔の心である、又深く探る精神である。
 パウロは先づ「ケンクレアにある教会の女執事なる」フイべを「我等の姉妹」として彼等に紹介した。そして「なんぢら聖徒のなすべき如く主に依りて彼女を受け、その需むる所は之を助けよ」と勧め、次にフイべの為人を簡潔なる語を以て述べて「彼女はもと多くの人を助け、また我をも助く」と云うた。僅かに二節ではあるが実に至れり尽せりと云ふべき紹介の語である。
 次に安きを問ふべき在ロマの人々を列挙せんとして先づ第一にプリスキラとアクラを挙げた。プリスキラは妻、アクラはその夫である。使徒行伝十八章に於て此夫妻のことは明かである。彼等はもとロマの人であつたが、一時コリントに滞在し、此の時パウロと職業を共にし――彼等は天幕工であつた――又福音のための労苦を共にしたのである。後ち又パウロと共にエべソに到つて同様の働きをなした。其後この夫妻はロマ府に還りしと見え、パウロは幾人かに挨拶するに当つて、誰よりも先に此二人を挙げたのである。実に彼等はそれに充分値する人たちであつた。「かれらはイエスキリストについて我と共に勤むる者なり、又わが命のために己の頸を剣の下に置けり、たゞ我のみならず異邦人の教会もまた彼等に感謝せり」と記す。短かき語を以て豊かなる事実が示された(436)のである。パウロは彼等と共に労苦せし年月を想起して、万感胸に迫るの感あり、彼等に対して抱ける感謝の念がおのづから此の美はしき推讃の辞となつて表はれたのであらう。
 次に挙げらるゝはエパイネトである。「彼はアジアに於てキリストの初に結べる実なり」と云ふ。アジアは小亜細亜の一州の名、エべソは即ちその首府である。多分エパイネトはパウロのエべソ伝道の時最初に悔改めた人であらう。この一事実の中にエパイネトの人物と信仰の性質がよく見える。パウロは彼の名誉のために此事を特にロマの信徒に告げたのであらう。
 次には「われらのために多くの苦労をせしマリアに安きを問へ」とある。この婦人について委しき事は少しも分らないが、たゞ此一語に依て彼女が信仰の戦士であつたことが分るのである。次にはアンデロニコとジユニヤを挙げる。この二人はパウロと共に或期間獄舎に住みしことあり、又使徒の間に名高き人々であり且パウロよりも早く悔改めた人であるとパウロは記して居る。この数語で彼等が如何なる人物であつたかは分るのである。なほ続いてアンピリア以下十数名を挙ぐるに当つて、出来るだけ其人の特徴について一言せるに注意すべきである。「キリストに属《つき》て我等と共に勤むるウルバノ」と云ふ如き、「キリストに於て鍛錬なるアべレ」と云ふ如き、「彼等は主に於て苦労せし女なり」と云ふ如き、何れも一言を以て其人の特徴を語れるものである。
 以上の如くして、ロマの信徒がその中の重なる人々に敬意を表すべきを慫慂したるのち、パウロは十六節に於て一先づ此挨拶を閉ぢんとして「汝等きよき接吻《くちづけ》を以て互に安きを問へ、キリストの凡ての教会汝等に安きを問へり」と記した。前半はロマの信徒各自の間に於ける愛と敬意との交換をすゝめしもの、後半は他の教会よりの伝言を一纏めにして取次いだのである。
(437) 右の挨拶の語はロマに於けるパウロの友人録である 彼はロマに右の如き善き友人をもつて居たのである。凡そ人は何等の目的なくして如何に独坐工夫をこらすも決して大思想を抱き得るものではない。|大思想は人を助けんとする愛に燃ゆるとき〔付○圏点〕自|づと湧起するものである〔付○圏点〕。羅馬書の内容が基督教的救拯の完全なる説明たるは云はずもがな、之を一の宇宙観、人生観として見て偉大、深奥、荘美なる大思想たるは誰人も否定し得ぬ所である。そして何が斯くの如き大思想を産んだのであるか。これ幾つもの解答を促し得る問題ではあるが、ロマ信徒に対するパウロの愛なくして之の生れなかつたことは明かである。されば我等は茲に羅馬書を産みし原因の一として、パウロの幾人かの友人の名を知るのである。プリスキラ、アクラを始めとして茲に記されたる二十有余名の人々――此種の人々を慰め、励まし、教へんとする愛の迸流《ほとばしり》が遂に羅馬書の大思想となつたのである。
 カアライルのクロムヱル伝は世にある伝中の最も優秀なるものであらう。彼はクロムヱルの書翰と演説を出来るだけ多く蒐集し、それに説明を加へて読者の了解に便ならしめて、之を世に提供したのである。故に題して『クロムヱル伝』と云はず、『クロムヱルの書翰及び演説』と云ふ。けだし彼もし自己の筆々以てクロムヱルの生涯を描き出さんか、読者はカアライルを通してクロムヱルを知ることゝなりて、その知識は間接なるを免かれないであらう。しかし若しクロムヱルの書翰と演説とをそのまゝ読者の前に提出するときは人々は直ちにクロムヱルの姿に接する得て、其知識は直接且純粋なるを得るであらう。カアライルは斯く考へし故、わざと自己を隠して専らクロムヱルだけを人の前に提出したのである。これ彼のクロムヱル伝の特に貴き理由である。まことに人の手紙ほど其人を能く表はすものはない。羅馬書の如きは一の系統ある思想の大なる発表であるが、最後に之等人名録を見て、之が一の書翰として之等の人々に送られしものなる事を知りて、此書が単なる論文にあらずし(438)て、活ける人より活ける人に送られし一の活ける消息であることを知るのである。実にこの人名録は羅鳥書の価値と性質とを示すものである。
 此の人名録の中、三分の一が婦人なることは特に我等の注意をひく事である。第一は此書翰の持参人たるフイべ、第二はプリスキラ、第三はマリア、この三人については前述せし通りである。就中プリスキラはパウロ及び夫のアクラと共に主のため十字架を負ひし女であつて、且その夫より先に名の記しあるを見れば(使徒行伝十八章十八節、二十六節、テモテ後書四章十九節に於ても同様)信者としての彼女の優秀は一般の定評であつたのであらう。そして第四にパウロの挙げし婦人はテルパイナとテルポサである。「彼等は主に於て苦労せし女なり」と云ふ。この二人(多分骨肉か)は福音のために努力尽瘁せる婦人であつた。第五には「愛せらるゝべルシーに安きを問へ、かれは主に居りて多く苦労せし女なり」と記して、彼女が充分に十字架を負へる人なることを示してゐる。次にはルポの母を挙げて「即ち我母なり」と簡単なる一語を加へてゐる。以て彼女の価値ある老婦人なりしを知るのである。尚ほ十五節のジユリヤは婦人であり、その外「ネリオと其姉妹」の語がある。かく初代教会には婦人多く、しかも優秀にして福音のために努力せし婦人が多かつたのである。
 既にキリストの在世中にも幾人かの婦人が弟子の中にありて、それ/”\重き役目に当り或意味に於て男子にまさりしこと四福音書に記さるゝ通りである。そして茲に記さるゝ通り、使徒時代に於ても亦婦人に多くの善き信者ありて、彼等は男子に劣らぬ良き働きをなしたのである。かくて婦人は基督教世界に於て事実的にその値を示してその地位を高め進んだのである。ギリシヤ、ローマの文明は決して婦人を重んずるものではなかつた。その社会に於ては著しく男尊女卑の風があつた。当時の哲人賢者の著書を見るもその婦人観は一般のそれと似たもの(439)である。かゝる時代と社会にありて、福音は新たに婦人の価値を発揚し、婦人の地位を高めし点に於て全く独始的であつた。これ福音の革命的性質の一表顕である。パウロはコリント前書に於て「女の首《かしら》は男なり」(十一の三)との男主女従主義(男尊女卑にあらず)を主張しながらも、「されど主にありては男は女に由らざることなく、女は男に由らざることなし」(十一の十一)との一種の平等観を述べてゐる。そして又こゝには其友人録中に幾人かの女性を挙げて彼等を推奨してゐる。これ当時の大哲学者たるセネカやシセロと雖も到底なし得ぬ所であつて、パウロの革命的なるを充分に語ると共に、彼をかく革命的にせし福音そのものゝ革命的勢力たるを知るのである。
 次に注意すべきは茲に記されし人々が皆信仰の勇士なることである。或は富者もあつたであらう。高官に在る人もあつたであらう。或は貧き下層社会の人もあつたであらう。或は奴隷もあつたであらう。それが皆愛と信仰の故に一致して茲に一の美はしき霊的一団を形成したのである。茲に記さるゝ二十七人がパウロの知れるロマ信者にして孰れも良き信仰の持主なるを思へば、彼の知らざるロマ信者中にも幾人かの良き信者ありしこと勿論である。以て初代教会の霊的豊強を知るのである。
 尚ほ注意すべきは五節前半「又その家にある教会にも安きを問へ」の一語である。教会とありても今日の教会とは大に違ふ。これは原語エクレシヤであつて、一の団体をなしてゐる信徒全体を意味する語である。即ち此場合に於ては、プリスキラ、アクラの家に幾人かの信者が度々|集会《あつまり》をした其の集会の人々を指したのである。今日の謂ゆる教会と云ふ如き組織的のものは紀元三世紀まではなかつた。原始教会はたゞ愛を以てつながる兄弟的団体たるに過ぎなかつた。羅馬教会と云ふても別に堂々たる会堂を所有してゐたわけではない。たゞ信者の家で会合を保つただけのものである。プリスキラの家にある教会と云ふのは其一であつて、尚他にも之に類するものが(440)あつたのであらう(十四節、十五節を見よ)。実に簡素な、単純な、別に教職と云ふ職業的の者もなく、教権とか教会政治とか云ふ此世の政治組織をまねたものもなく、自由な、楽しい教会であつたのである。かゝるものが教会であるならば、我等も勿論これを斥けない。否これを我等の霊約家庭として迎へる。然りかくの如きもののみが真の教会である。基督教が溌剌として生きて居た原始時代に於ては教会とは凡て之であつた。後ち霊に於て失ひし所を肉に於て補はんとして今見る如き教会なるものが生れたのである。
 茲に我等は十五章二十五節以下に注意し度い。二十四節までに於てパウロはスべイン行の計画について語つた。しかし二十五節より一転して云ふ「されど今われ聖徒を助けんためにエルサレムに往かんとす、マケドニヤとアカヤの人々ヱルサレムの貧き聖徒のために供給《たすけ》をすることを喜悦《よろこび》とせり……この故に我事をはり此果を渡しゝ後なんぢらに由りてヒスパニヤに往かん」と。彼はかねての約束通りヱルサレムの貧しき信徒を助くるため異邦より献金を募つた。そしてロマ行に先ちてヱルサレムに至つて之を手渡しせんと計つた そしてそれを実行した。彼はコリントにて羅馬書を認めし後ち兄弟たちと共にヱルサレムに向て旅立つた。ヱルサレムにパウロ排撃の空気濃きは著名の事実であつた。其地の頑固なるユダヤ教信者は彼を讐敵の如く悪んでゐた。故に彼のヱルサレム行は火焔の上に躍るが如き危き者であつた。従つて兄弟姉妹たちは彼の此行をひきとめんとして心をこめたる忠告を試みた。しかし彼は敢然としてヱルサレム上りを決行した。彼は生命を賭して此愛の勤を実行したのである。そしてもし幸にしてヱルサレムに於て生命を全うするを得ば、西向してロマに赴き、ロマより又スべインに往かんと志した。果して彼はヱルサレムに於て身命の危険に会した。しかし神は能く死より生を起し給ふ。バウロのロマ行の望みは徒《あだ》とならなかつた。彼は思ひもよらず囚人としてロマに行くことになつた。神は斯くの如き道を(441)以てバウロのロマ行の切望を達せしめ給うたのである。讃美すべきかな彼れ!(事は使徒行伝二十章以下に於て明かである)。
 時は紀元五十九年の春の頃であつたと史家は云ふ。パウロは囚はれの身ながらも春の如き若き希望に輝きて、以太利半島とシシリー島との間を北上して半島西岸の港プテオリに上陸し、そこより陸路ロマに上り、ロマの兄弟たちと相合した。その時プリスキラ、アクラ以下数十名(又は数百名)の兄弟妹姉たちの喜びは如何に大なりしか。又多年翹望の対象なりしロマ府を見し時の大使徒の喜びは如何なりしか。此地に数年を過せし間、この大便徒と信者たちの交りは如何に美はしくあつたであらう。これを兄弟姉妹相争ふ今日に於て眺めて無量の感慨に打たれざるを得ないのである。
 
     第五十九講 終結=頌栄の辞 第十六章二十五節以下の研究 (十月十五日)
 
 幾度も終らんとして終らなかつた羅馬書は愈よ茲に最後に達した。十六章二十五節以下はこの大書翰の最後を飾るにふさはしき大讃美である。
 パウロは十五章十三節を以て一先づ此書翰を了へしも、追伸して二十三節に至り茲に再び此書翰を了へんとした。しかし又追伸して十六章十六節に至つて三度び擱筆せんとした。しかし又追伸して異論を戒めて二十節に至つて茲に四度び擱筆せんとした。しかし又追伸して彼と共に在る者の挨拶の語を取次いで後ち愈よ此大書翰も終結に達せし故こゝに最後に大なる頌栄の辞を述べたのである。これ書翰の態より見ればやゝ変則であると云はねばならない。けれども筆者の心は此変則を通して輝いて居るのである。恰も一の宗教的集会を催せし場合に、一(442)旦集りを閉ぢし後ち尚講師より附言する所ありて二度び集りを閉ぢしも、更にまた附言する所ありて三度び集りを閉ぢ、尚かくすること数回にしてやうやく終はりしが如きものである。これ集会の形式より見れば明かに混乱であるが、却てその中に霊的生命の豊かさが見ゆるのである。
 羅馬書は偉大なる書翰である。そして劈頭の語(一章一節より七節まで)が偉大である。これに応じて其終尾の頌栄の語が偉大である。荘麗なる殿堂を飾るべく其の表門と裏門とがまた荘麗である。われ等は今この莊麗なる裏門に全注意を集注すべきである。この頌栄の辞は三節にわたつて居るけれども、実は全体で一の成文《センテンス》をなして居るのである(最後のアメンは別として)。邦訳聖書に於ても、英訳聖書に於ても、やはり一成文となつて居る。原文に於ては九つの句より成る一成文で五十二字より成り(冠詞まで加算して)、必しも混雑した文ではないが、邦訳に於ては邦文の性質上頗る混雑した文になつて居るのである。故に左表の如く一句々々に分析して研究の便を計り度い。こゝにパウロは僅か一成文の中に彼の広汎なる基督教思想を圧搾したのである。故に一句ごとに思想が新しくなる。甲の句が一の大思想を伝へれば、又乙の旬が別の大思想を伝へる。故に一句々々に注意を払はねばならぬ。
   汝等を堅固うし得る者に
    我福音に依りて
    イエスキリストの宣伝に依りて
    奥義の掲示によりて
     永き間世に隠れたりしも
(443)    今顕はれ
     窮りなき神の命に由り
     預言者たちの聖書を以て
     信仰の服従に入らしめんために
      万国の民に示されたる
   獨一睿智の神に
      世々限りなく
      イエスキリストに由りて
     栄光あらんことを〔汝等を堅固〜原文横書き〕
 この頌栄の辞の中根幹といふべきは「汝等を堅固うし得る者に、即ち独一睿智の神に、世々限りなく、イエスキリストに由りて栄光あらんことを」の句である。あとは此根幹に附随せる枝葉である。勿論根葉と云ふても大切なるものではあるが、先づ注意すべきは右の根幹である。「汝等を堅固うし得るもの」は即ち「独一睿智の神」である。信仰は神より与へられしもの、又信仰生活の堅立は神の導きに依るのである。神は彼を信ずる者を堅固うし|得る〔付○圏点〕のである。即ち堅固うする力を有し給ふのである。あゝかの幾人かの信者を作れりと誇称する輩は何ものぞ。然らば汝は花を造り得るか樹を育て得るか。「我は植えアポロは灌《みづそゝ》ぐ、育つる者はたゞ神なり、植うる者も灌ぐものも数ふるに足らず、たゞ貴きは育つる所の神なり」とある(コリント前三章)。伝道者はいかに大なる働きをなすとも、信者を造り、育て、堅固うすることは出来ない。之を為し得るはたゞ神のみである。故に「神(444)は終まで汝等を堅くし、我等の主イエスキリストの日に於て汝等に責《とが》なからしむ」(コリント前一の八)と云ひ、また「汝等の心の中に善き工を始めし者これを主イエスキリストの日までに全うすべしと我れ深く信ず」(ピリピ一の六)と云ふ。パウロは信仰を堅固うし得る所の独一睿智の神を讃美するのである。
 次に注意すべきは「世々限りなくイエスキリストに由りて栄光あらんことを」とパウロが|キリストを通して〔付○圏点〕神を讃美したことである。キリストを以て神と人との仲介者となし、彼を通して神と交はり、彼の故に罪を赦され、彼を以て永生を与へらるゝとの事は福音的基督教の基調である。今や彼を除きて神を信ずる事が流行し、基督信者と称する者の中にさへキリストを大教師とのみ見る者多きは、パウロの此心と全く正反対なるものである。キリストの外に救なしとは福音的救済の根本義である。パウロは此大なる頌栄の辞の最後に「イエスキリストに由りて」の一句を用ゐて、彼の抱ける此の篤き信念をおのづから表はしたのである。
 以上の讃美の語が廿五、六、七節の根幹である。パウロの頌栄の辞の骨は之だけである。しかし之に附随せる各句が又一つ/\重大なる思想の発表である。今それを概観し度い。第一の句は「我福音に依りて」である。神は福音に依りて信徒を堅固うするのである。「我福音」とあるも別に普通の福音と異なるものを指したのではない。これパウロ特有の語にして、彼は二章十六節に於て又テモテ後書二章八節に於て同一の語を用ひてゐる。けだし我説く所が純正の福音なることを確信し得たる彼は、時にこの種の語を用ひたのであらう。「われ等にもせよ天よりの使者にもせよ、若し我等が曾て汝等に伝へし所に逆ふ福音を汝等に伝ふる者は詛はるべし」(ガラテヤ一の八)と云ひしほどのパウロである。彼の此確信を知りて「我福音」なる語が決して偏狭傲慢を意味せぬことを知るのである。次の句は「イエスキリストの宣伝に依りて」である。神は福音に依り又キリスト宣伝に依て信(445)徒を堅固うするのである。キリストを宣伝すること、彼とその生涯、その十字架、復活、再臨を人々に宣べ伝ふること、彼に関する事の外は宜べざること、これ即ちキリスト宣伝である。そして福音と云ふは要するにキリスト宣伝に外ならぬのである。
 次には「奥義の啓示によりて」の句がある。イエスキリストの宣伝に依りてと云ふことを言ひかへれば「奥義の啓示によりて」である。そして此奥義は「永き間世に隠れたりしも今顕はれ」たものである。「我等の語る所は隠れたりし神の奥義の智慧なり、こは創世《よのはじめ》の先より神の予め我等をして栄を得しめんが為に定め給ひしものなり」とパウロは曾て云うた(コリント前二の七)。予め定められては居たが隠れて居たのである。その隠れて居たものが今神の独子の出現、その生涯、その十字架、その復活に依りて明かに啓示せられたのである。これ即ちパウロの謂ゆる「我福音」である。我福音と云ふも決して自己創造の教ではない。神よりキリストを通して啓示せられた教である。もし福音が人間創造の教ならば之に真の生命はない。たとひ栄ゆるも朝に咲きて夕に枯るゝ野の花の栄の如き者である。又その宣伝者たるパウロその他の使徒たちに、かくの如き巌よりも堅き確信と火よりも熱き熱心とを与へた筈がない。まことに福音が神の啓示なればこそ、彼はその宣伝のために凡てを抛つて毫も悔いず鷲の如く翼を張つて上つたのである。
 そして此奥義の今啓示せられたるは「限りなき神の命に由り」である。永遠に在す神は茲に此時を以て此奥義の啓示をなすことを自ら定め給うたのである。即ちこの福音は全然神の意志より出でたのであつて何等人の心に依拠しないのである。又此奥義の啓示は「預言者たちの聖書を以て」である。即ち旧約聖書を以て神の啓示は行はれたのである。たゞし「永き間世に隠れたりしも」とある通り、キリスト出現以前には旧約聖書の真意も人々(446)には充分に分らなかつたのであるが今キリスト出現の故にその真意明かとなり、こゝに聖書を通して神の啓示は行はるゝことゝなつたのである 勿論聖書以外に聖霊の指導は不可欠である。しかし聖書が此新啓示の手段となつたことは明かである。「聖書(旧約)は汝をしてキリストイエスを信ずるに因りて救を得しめんために智慧を与ふるものなり」とパウロが後年テモテに説きしを見よ(テモテ後三の十五)。尚ほ最後に此啓示は「信仰の服従に入らしめんために万国の民に示されたる」ものである。啓示の目的は世界万国の民をして神に帰属するに至らしめんためである。げにキリストの福音の目的は之である、決して之れ以下ではない。福音の本質はあくまで抱世界的である、全人類をして神に信従せしむるにある。神は之を目的として常に全人類を招きつゝある。
 以上の如きがこの大なる頌栄の辞の大意である。今大体原文の順序に依つて之を解りよく云ひ直せば大凡左の如くである。
  汝等を堅固うし得るものは神である。神は福音に依りて汝等を堅固うするのである。換言すればイエスキリストの宣伝に依りて汝等を堅固うするのである 又換言すれば奥義の啓示に依りて汝等を堅固うするのである。――この奥義は永い間世に隠れ居たれど今顕はれたのである。その顕はれたのは窮りなき神の命に由るのであつて、旧約聖書を通して顕はれ、且万国の民に信仰の服従に入らしめんために示されたものである。――かくの如くして汝等を堅固うし得る神に、即ち独一睿智の神に、世々限りなく、イエスキリストに由りて、栄光あらんことを願ふ。
まことに多くの学者の云へる如く、この頌栄の中に羅馬書全体が要約せられて居るのである。
 神の栄を讃美することは基督者が凡ての場合に於て為すべきことである。如何に大なる成功を以て見舞はるゝ(447)も、彼は之を自己の力に帰してはならない。之を全然神の力に帰してその栄を讃美せねばならない。又いかに大なる不幸に会しても神を無慈悲としてはならない。やはり神を讃美せねばならない。大災禍に会して「われ裸にて母の胎を出でたり、又裸にて彼処に帰らん、ヱホバ与へヱホバ取り給ふなり、ヱホバの御名は讃むべきかな」と云ひしヨブは我等の好き模範である。大書翰を認めてその最後に何等自己の力を思ふことなくして、凡てを神に帰して美はしき頌栄の辞をとゞめたる大使徒パウロは我等のよき模範である。
 げに然り、凡ては神より出づるものである。人はたゞ神に使役せられて彼事此事に当るに過ぎない。人に何かの能力あるもそれはもとより天賦である。入に何の誇る所があり得よう。人は神の前に立ちて絶対の謙遜あるのみである。彼は事に当りて常に独一睿智の神を讃美すべきである。一の事を為し了へて神を讃美し一日を暮し了りて神を讃美し、一週を、一月を、一年を送り了りて神を讃美すべきである。回顧して自己に何かの善きを見出すは未だ信仰の不純なる者である。そして此世を去るの時、御許に召さるゝの時愈よ来らば一生を回顧して、自己の功績を思ふことなく、凡ての良き事を禅に帰し、以て声高く頌栄の辞を述ぶべきである。大著述の最後を頌栄を以て結びたる大使徒にならひて、我等も与へられし我小生涯の最後を頌栄を以て結ぶべきである。我等をして今も、後も、いつまでも神を讃美せしめよ、然り神を讃美せしめよ。
 以上の如きが実にこの偉大なる書翰を結ぶ所の大讃美の辞である。パウロならで羅馬書が草せられなかつたやうに、彼ならでかゝる大なる頌栄の辞は出でなかつたに相違ない。その一語一語、一節一節を見よ。空しき語は一つもない、その一つ一つが重大なる思想の圧縮である。大著述をなして後も大使徒の力は少しも衰へずして、その終にかくの如く盛なる霊的生命の結晶とも云ふべき大讃美が彼の魂の底より天に向つて、挙がつたのである。(448)事それ自身が実に壮美なる事である。これぞ真の画竜点睛である。これあつて羅馬書は永久に世界第一の書である。 〔以上、大正11・11・10〕
 
(449)    GERMANY.独逸国に就て
                         大正10年3月10曰
                         『聖書之研究』248号
                         署名なし
 
     GERMANY.
 
 God loveth Germany as He loveth all other nations. God hath saved the world through Germany many a time in past;and He will yet do the same through the same people in future. The nation which gave so many great and good men to the world,will yet give greater and better. That Germany failed in world-politics,and was defeated in world-war,is a mighty assurance that she will succeed and be victorious in her own appointed sphere of action. Germany will rule the air,as France rules the land,and England,the sea;the air, as Luther ruled the spirit,and Kant,the mind. We look to new,Spirit-led Germany for new beginningln moral uplifting of the world. A greater and mightier Luther will yet come out of Germany. May God bless Germany!
 
     独逸国に就て
 
 神は独逸を愛し給ふ、凡ての他の国民を愛し給ふが如く独逸を愛し給ふ、神は過去に於て幾回か独逸を以て世(450)界を救ひ給ふた、彼は将来に於ても同じ国民を以て同じ救拯を施し給ふであらう、今日まで斯くも多くの大且善なる人物を世界に供へし国民は今後は更らに大なる且つ更らに善なる人物を産するであらう、独逸が這般《こたび》世界政治に於て失敗し、世界戦争に於て敗北せし事は、彼れが彼れ独特の活動の区域に於て成功し又勝利を挙げんとする有力なる保証たらざるを得ない、言あり曰く「英国は海に覇たり、仏国は陸に覇たり、独逸は空に覇たらん」と、実に独逸はルーテルを以て霊界に覇たり、カントを以て思想界を支配した、其意味に於て彼は既に空界に覇たり得たのである、我等は新らしき聖霊に導かれたる独逸より世界の道徳的向上史に新紀元を劃する大運動の起らんことを俟つ、ルーテルよりも更に大なる、更に力強き第二のルーテルが今後独逸より起るであらう、神よ独逸国を恵み給へ!
 
(451)     ピルグリム祖先の信仰
                         大正10年3月10日
                         『聖書之研究』248号
                         署名 内村鑑三
 
  二月十一日柏木今井館に於ける東京聖書研究会有志懇話会にて述べし談話の要点である。
 
〇咋一九二〇年は有名なるピルグリム祖先が大胆にも百八十噸の小船に乗り、太西洋の荒波を乗切りて米大陸に渡りし三百年紀に当るを以て、英国、和蘭、仏国米国等の関係諸国に於ては所々に盛なる紀念会が開かれた、嬰児共に僅々百人余りの平民が為せる此|業為《わざ》が三百年後の今日、斯くも世界的注意を喚起するに至りしは其中に深き理由がなくてはならない、実に北米合衆国の今日あるの原因は此等少数の平信徒の此勇敢なる業為に在るのである、而して其影響は全世界に及び我等今日の日本人と雖も亦彼等に負ふ所なしと言ふ事は出来ない、英国首相ロイド・ジヨージが彼等を称揚せる言に曰く「ピルグリム祖先は新世界に信仰の自由を伝へし使徒《アポスツルス》である」と、実にさうである、然し乍ら「信仰の自由」と云ふ丈けでは足りない、政治的自由、商業的自由、思想的自由、其他自由と云ふ自由はすべて是等少数の基督信者に負ふ所が多いのである、実に信仰を以て事に当れば少数の弱者も永遠に亘る世界的大事業を遂げ得るのである。
〇然らばピルグリム祖先は何を信じたかと云ふに、彼等は基督者《クリスチヤン》が信ずべき普通の事を信じたに過ぎないのであ(452)る、彼等は先づ第一に熱心なる基督者であつた、詩人ミルトンが言ひしやうに彼等に取りて「宗教は人生第一の重要事であ」つた(Religion is man's chiefest concern)、此世の権者より何の干渉をも受けずして己が良心の命ずる儘に神を拝したしとは彼等が米大陸移住の第一の目的であつた、彼等に取りては政治的自由或は経済的成功の如きは唯単に信仰的自由を確保するための手段に過ぎなかつた、其点に於て彼等は当時の他の移民、又は現代の外国移住と全く性質を異にした、今や移住と云へば経済的利益を獲得せんが為である、他国の事は措いて問はずとして、日本人の米国移住、南洋発展は其目的とする所、経済的、現世的、肉欲的なるは云ふまでもない、然し乍らピルグリム祖先は神(God)を求めて金(goid)を求めなかつた、自由に自由の神に祭事《つか》へんが為に彼等は大冒険を敢《あえて》したのである、それが為には彼等はすべての損失は勿論の事、死其物さへ恐れなかつた、而して彼等の多数はそれが為に死んだ、神と信仰と永生……彼等は之が為には万事を抛つたのである、アブラハムが真《まこと》の神を拝せんが為にカルデヤのウルを出でカナンに行きしやうに、ピルグリム祖先は英国々教会の腐敗圧制に堪へずして、涙を揮つて英国を去り、和蘭に止まり、終に荒蕪未開の地たる米国に渡つたのである、二者同じく信仰的移住である、故に其結果は永遠的である、神を信ずるに出ざる事業に永遠的のものは一つもない。
〇然らば斯かる偉大なる事業を挙げしピルグリム祖先の信仰は如何であつたかと云ふに、近代人の、殊に近代米国人の到底解し得ない者であつた、|彼等は先づ第一に近代人の如くに神を観なかつた、彼等は神は愛なりと称して彼に狎れ近づかなかつた、彼等の神は宇宙独裁の主で(the great Egoist of the Universe)あつた、故に彼等は神に恵まれん事を要求せずして唯其命に服従せん事を欲した、彼等はパウロと等しく「主の僕」であつた、自分の意志を殺して惟神の聖意を行はんとのみ欲求ふた、神の聖名にして揚らん乎、彼等は自分は如何成つても可い(453)と信じた、故に彼等に今人の知らざる勇気と忍耐とがあつた、神の聖名の揚らんが為には自分の霊魂は地獄に落るも可なりと信ぜし彼等に世に恐るべき者とては何物もなかつた、自分の自由の 求ではない、神の聖意の実現である、此目的を以て進みし彼等に越え難き妨害の山も海もなかつた、ピルグリム祖先を自由の戦士と称して、此世の革命家又は社会改良家と同視するは誤謬の最も甚だしき者である、クロポトキン又はマルクスの徒の立場より見て、米国の建設者なるピルグリム祖先は迷信の徒である、奴隷の類である、近代人に称揚せられて彼等は迷惑至極に感ずるであらう。
〇|第二にピルグリム祖先は近代人、殊に近代の米国基督信者とは全然異り、世を感化し又は之を支配せんと欲せずして、世と相対して闘ひ、之に対ひて信仰の証明を為さんとした〔付○圏点〕、彼等は此世に於て多数を占めて其勢力を掌握し之を聖き神の国と成さんと努めなかつた、彼等は聖書の明言に循ひ「白から賓旅《たびびと》なり寄寓者《やどれるもの》なり」と信じて遥に天に在る国を慕ふた(希伯来書第十一章)、彼等の教会は世に勝つて其主人公と成らんと欲する教会でなくして、世と相対して終極まで闘はんとする教会、即ち真正の意味に於ての church militant であつた、彼等は使徒ヤコブの言葉を文字通りに信じた、曰く「汝等世を友とするは神に敵するなるを知らざらんや、世の友とならんことを欲《おも》ふ者は神の敵なり」と(雅各書四章四節)、此世は神に反きし者、故に神の敵である、故に世と和するは神に敵するのであると彼等は固く信じた、故に彼等は絶対的に世と妥協しなかつた、彼等が故国の英国に在りて、国王を始めとして大臣並に国民全体、並に国教会の監督信徒等に忌み嫌はれし理由は茲にあつた、彼等は狭き、所謂融通のきかない人等であつた、斯て彼等は神を畏れて世と人とを恐れなかつた、而して独一の神を友として持つ以上は全世界を敵として有つも恐れずと信じた、実に御し難き民とて彼等の如きはなかつた、然れども清廉(454)にして潔白最も信頼すべき民であつた。英国は彼等を失つて其最良分子を失つたのである、|而して最も不思議なる事は世を敵として有ちし彼等が最も徹底的に世を善化した事である〔付△圏点〕、今や英米の民にして彼等の業為を頌揚して止まざる者は彼等と全然信仰を異にする者である、若しピルグリム祖先をして今日在らしめば、彼等は近代人、殊に近代の教会者を目するに神の敵を以てするであらう、然れども彼等の敵が今や彼等を頌揚して止まないのである、此世を敵とした者が最も深く此世を善化したのである、之を称して信仰の逆説と云ふのであらう、不思議である、然し事実である、其正反対に此世と妥協し、之を友として持たんと欲して止まざる近代の教会者程此世を毒する者は無いのである、時《タイム》は国賊を化して愛国者となし、教会の撹乱者を変じて其恩人と成す、ピルグリム祖先も其類である、英米の教会者等は今や是等の信仰的勇者の偉業を紀念しながら自己を殺せし預言者の墓碑を建てつゝあるのである。
〇ピルグリム祖先にも教会があつた、それは聖書に明記せる「天に録されたる長子どもの教会」であつた(希伯来書十二章廿三節) 神に召され又撰まれたる者が自《おのづ》から成す集団であつた、故に之に人の定めたる制度はなかつた、監督なく又長老なく、信者各自の霊に於て福音を以て神に事ふるの外に祭事もなく亦儀礼もなかつた、彼等の信ぜし所に由れば真の信者の在る所に教会があつた、即ち信者有つての教会であつて、教会有つての信者でなかつた、故に制度としての教会を重視する当時の英国の社会には到底容れられなかつた、|実にピルグリム祖先は三百年前の英国に於ける無教会信者であつた〔付△圏点〕、教会は合同論者(Unionists)であるに対して彼等は分離論者(Separatists)であつた、彼等は教会より分離するを以て神に対する義務であると信じた、而して是等少数の分離論者に由りて英米の基督教界は一変せられたのである、誰か曰ふ分離は悪事なりと、基督教は素々分離教なる事(455)を我等は忘れてはならない。
 
(456)     主の使女《つかひめ》マリア
                         大正10年3月10日
                         『聖書之研究』248号
                         署名 内村鑑三
 
  一月二十七日代々木長尾氏宅に於ける有志婦人懇話会席上に於ける談話の大意
 
 聖母マリアの名は之を新教国に於て聞くこと至て稀である、然るに羅馬教徒の間に於ては聖母マリアの名はキリストの聖名と同じ程に(或場合にはそれ以上に)貴ばれる、新教徒の間に彼女の名の称へられざるは、思ふに旧教徒に対する反感の然らしむる所であらう、旧教徒の態度を以てマリアに対する尊崇の過度と評し得べくば、新教徒の彼女に対する態度は尊崇の過少と称すべきものである、共に是れ我等の取るべき道ではない、我等は此二つの中間に我等の取るべき公正健全なる態度が存すると思ふものである。
 聖母マリアの美点を奇跡的方面に求めんとする時は彼女は我等の生活より離隔するに至る、マリアが奇跡的に神の独子を生みし事を思ひ、そして此聖職に当るべく他人の企て及ばぬ特性ありし事と考ふる為、一方に於ては彼女を神として崇拝する信仰が起り、又他の一方に於ては彼女を我に係りなしと見て遠く押しやる態度が現はれるのである、併し聖母マリアの貴き点は決して奇跡的特性にあるに非ず、今日の基督教婦人と雖も共にし得る或性質に存するのである 即ち凡そキリストに於ける信仰ある婦人は|誰人も発揮し得べき所の或る美点〔付○圏点〕にマリアの(457)貴き所が存するのである.
 今日まで画家又は彫刻家はマリアの外面的の美に注目し、形の上に於て完全なる女として画き又は彫《きざ》む風があつた、或はさうであつたかも知れぬ、併し完全に美しき女としては聖書の何処にも記されて居ない、|聖書の示すマリアは他の聖徒の場合に於けると等しく全く信仰的である、彼女を完全なる婦人と見るならば第一に信仰的に完全なる婦人である〔付○圏点〕、この外の意味の完全は聖書に示されて居らぬ故知ることが出来ない、又知るを要しないのである。
 天使より懐胎の告知を受けたる時のマリアの言を見よ、曰ふ「これ主の使女なり、汝の言へる如く我に応《あ》れかし」と(ルカ一の三八)、又親戚エリサべツの訪問に接せし時彼女の発せし美はしき語の中に尚ほ美はしきは「我霊は我救主なる神を喜ぷ これ其使女の卑微《いやしき》をも眷顧《かへり》み給ふが故なり」とあるを見よ、此語に表はれたるマリアは聖書に記す彼女の凡ての行為に表はれたる所であつて、彼女の特性如何を明かに示すものである、即ち一言にして云へば|彼女は謙遜柔順の女であつた〔付◎圏点〕、但し他人の命たゞ是れ徒ふ柔順ではない、人の何たるか婦人の何たるかを弁へたる上の理解ある、又自覚ある柔順である。
 人もしマリアが教主の母たるを得しは最大の栄誉であつたと云ふならば、そは一を知つて未だ二を知らざる者である、勿論事は其本質上大なる栄誉であつたに相違ないが然く誰人にも映じたのではない、寧ろ当時にありては困難を極めし職務にして、世の誤解と嘲笑の的たるべくして終生至難の地位に立つを免れない性質のものであつた、キリストの母と云ふも生みし子が直ちにイスラエルの王位に上ると云ふにはあらで、預言者シメオンが彼女に向て「剣《つるぎ》汝の心をも刺透すべし」(ルカニの三五)と言ひし如く、多くの忍び難き苦みが彼女を見舞ふべき(458)であつた、これ予め知れ得たる運命であつた、この辛き大責任を負はせられて彼女は辞意切なりしも、遂にその許されざるを知るや断然決意して「これ主の使女なり、汝の言へる如く我に応れかし」と述べ以て此重責に当つたのである、かゝる意味に於てマリアは柔順なる婦人であつた、パウロが「イエスキリストの僕(奴隷)」と自称したる意味に於ける僕婢の態度を彼女は取つたのである、彼女の特に貴かりしは実に此一点にあつたのである。
 人は男女を問はず孰れも神の僕、婢《しもめ》である、之は実際上の事実であつて、其事を人の認めると認めぬとに依て左右されるものではない、人と云ふ人は一人として絶対的に自主なる者はない、我等一人々々は我等以外の或者の意を実行すべく此世に遣はされた者である、此事を知るも知らぬも人は悉く「或他の者」の意志に依て使はれて居るのである、我等の実験に訴ふるも我計画は成就せずして思ひもつかぬ事が実現されつゝあるが我等の生涯である、人は皆自主にあらずして神の僕婢である、故に神に使役せられて居る一点に於ては信者不信者の区別はないのである。
 併し乍ら此事実を認める者と認めぬ者とがある、茲に人類は二種に分たれる、そして人類の大多数は神に使役されながら神を知らず又神に使役せられ居る事を知らず、従つて進んで神の使役に服さんとの心を起さない、これ不信者である、そして人類中僅かに英一部の者が己を使役しつゝある或者を認め、その聖意を尊重し、之に服するを以て最大の栄誉とする、これ信者である、使役されつゝある一点に於ては両者一であるが、之を認めて進んで服すると之を認めずして服せざるとに依りて信者不信者の別を生ずる、そして実はこれ天地も啻ならざる別である、人類の大多数が後者の態度にある事は事実であり、又その少数者のみが前者の態度にある事も事実である、さはれ多数必しも真理に立つのではない、此場合に於ては少数者が寧ろ人としての真理の上に立つのであつ(459)て、多数者の態度其ものこそ真に痛歎すべき事である。
 マリアの如き婦人、パウロの如き男子は人の人たる本来の立場に立つたのであつて、これ即ち神に喜ばるゝ態度である、マリアは「主の使女」と信じて身をも霊をも委ね奉り、主の聖意を行ふ事を以て己が心とした、此意味に於て彼女は完全なる信者であつた、マリアの貴きは此点にあつた、凡ての基督教婦人が彼女を模範として仰ぐべきは此点にある、彼女が外形的に完全なる婦人、又は天才的に完全なる婦人であつたと云ふならば、之に及ぶ者は世界に再び現はれぬであらう、しかし彼女の完全は主の絶対的権能を認めて之に絶対的に服した点にあるならば、今日孰れの婦人と雖も彼女に傚ひ得るのである、マリアを信仰の模範として仰ぐ時は彼女は婦人に取ては勿論、誰人に取ても最も傚ふべく且慕はしき者となるのである、実に神に対して僕婢なる態度を取るが基督信者である、そして此態度に於て完き者は完全なる基督信者である、之に比しては外形の美、天才の優は云ふに足らぬものである、我等は基督信者としての此立場を充分に認めねばならぬ、そして此立場に於て全かりしマリアの如きを以て我等の模範として仰がねばならぬ。
 キリストの母たる特権に与りしはマリア一人のみであつた、併し孰れの婦人も神より何かの御用を委ねられて居るのである、然らざる者は一人もないのである、然る時は「これ主の使女なり、汝の言へる如く我に応れかし」との信仰的服従の精神を以て神に対するの必要は、マリア一人に限らず凡ての婦人に在るのである、これ凡ての婦人の取るべき態度である、此点に於て孰れの婦人もマリアと同じ立場に立ち得るのである(キリストの母たり得しは彼女一人に限りしも)、委ねられし小家庭、子女の養育、或は病者の看護、その他小なる仕事に婦人が従ふ時各自が神の聖意をなしつゝあるのである、其点に於て自覚するとせざるとに係らず凡ての婦人が神の婢(460)である、唯人としての此地位にあるを名誉とし聖旨に従ふを人生の最大本務と悟る時こゝに真に神の女《むすめ》が生れるのである、故に些細なる日々の仕事も聖意に依ると見れば些事も天地万物を動かすだけの貴重なる仕事である、一婦人の手に委ねられし一子により世界の一変する事あるやも知れぬ、或は其子の子に依て、或は其子の孫に依て然るかも知れぬ、委ねられし職分を守りて聖旨を行ふは絶大の天職にして、此点に於てはマリアがイエスを委ねられしと少しも変りないのである、されば|信仰ある婦人は誰人も聖母たり得〔付○圏点〕と云ふも過言でないと思ふ。
       ――――――――――
  マリア曰ひけるは、我が心は主を崇めまつる、我霊は我救主なる神を喜ぶ、是れ其使女の卑微をも眷顧み給ふが故なり、今より後|万世《よろづよ》までも我を福なる者と称《とな》ふべし(路加伝一章四六節以下)。
 
(461)     『婚姻の意義』
                          大正10年3月25日
                          単行本
                          署名 内村鑑 述
〔画像略〕初版表紙 127×95mm
 
(462) 本書は夫婦の関係に就ての聖句中重なる者を書き抜き、之に添ふるに大正九年十月二十八日、星野鉄男対大石みその結婚式に於て、内村鑑三の述べたる説教の大意「婚姻の意義」(聖書之研究第二百四十五号所載)を以てしたるものなり。
 
夫婦の関係に就ての聖句
婚姻の意義
 
(463)     CALVINISM.カルビン主義
                         大正10年4月10日
                         『聖書之研究』249号
                         署名なし
 
     CALVINISM.
 
 CALVINISM is a system of Christian belief and thinking based upon the Biblical teaching of the sovereignty of God.It is severely logical,strictly just,and intensely merciful. It is the grace of Jesus grafted upon the law of Moses,the sweet Galilee implanted upon the burning Sinai. Calvinism is productive of great men and nations. Cromwell,Milton, Rembrandt, the Pilgrim Fathers,and an innumerable host of holy and strong men and women were Calvinists. And England at its best, and America at its purest were Calvinistic nations;and in proportion as they departed from the strict Calvinistic standard,have they sunk deeper and deeperinto sin and corruption. The world's hope,I believe,lies in revival of Calvinisn, with such modifications in its forms as the Changing Circumstances may require.
 
(464)     カルビン主義
 
 カルビン主義は聖書が明示する神の主権の教義を土台として築かれたる基督教的信仰並に思想の系統である。カルビン主義は厳密に論理的である、厳格に正義を主張し、熱烈に恩恵を唱道する、カルビン主義はイエスの恩恵をモーセの法律の上に接《つぎ》し者である、美はしきガリラヤの湖水を燃ゆるシナイの巓に湛えし者である、カルビン主義は偉大なる人物と国家とを産出するの能力を有す、クロムウエル、ミルトン、レムプラント、ピルグリム祖先、其他聖浄にして強健なる無数男女の大衆はカルビン主義者であつた、英国が最善なりし時、米国が純美なりし時は、彼等がカルビン主義の国家でありし時であつた、而して彼等が厳格なるカルビン主義の標準より離れし時に、彼等は夫丈け罪悪と腐敗とに沈んだ、余は信ず世界革正の希望はカルビン主義の復興に在る事を、時勢の変遷に伴ふ必要なる変化を其外形に加ふるものとして。
 
(465)     〔幸福の途 他〕
                         大正10年4月10日
                         『聖書之研究』249号
                         署名なし
 
    幸福の途
 
 自分々々と云ふ其自分が悪いのである、夫がすべての苦悶の原因である、然りすべての罪の根本である、自分が清浄ならんと欲し、自分が義人たらんと欲し、自分が真理に徹底して完全なる人たらんと欲す、煩悶と苦痛と失望と落胆とは総て其処に在るのである、|幸福は自分を完成するに非ず、自分に死するにある〔付○圏点〕、自分なる者が無くなつて苦悶はすべて取除かるゝのである、然らば如何にして自分を無くする事が出来る乎と云ふに、自分で自分に死する事は出来ない、自殺は自業であつて残る所は必竟《つまり》自分である、自分に死せんと欲せば自分より高き者に自分を託するの唯一途あるのみである、彼を仰ぎ瞻て我は救はるゝのである、即ち彼は我が衷に入来りて我なる者即ち自分を駆逐《おひや》つて我に代つて生き給ふのである、「最早我れ生《いけ》るに非ずキリスト我に在りて生るなり、今我れ肉体に在りて生るは我を愛して我が為に己れを捨し者即ち神の子を信ずるに由りて生る也」とパウロの言ひしは此事である(加拉太書二章二十)。
 
(466)    奉公の途
 
 国に尽さんと欲せば必しも政治又は軍事に携はるの要はない、社会に仕へんと欲せば必しも社会事業に従事するの要はない、我に賦与せられし能力に応じ我が為すべき事を忠実に為せば其れ以上の愛国的行為はない、又社会的事業はない、レムブラントは善き絵を描いて和蘭国の名を世界に揚げた、ワルヅワスは善き詩を作りて英民族の風儀を一変した、奉公の途は一にして足りない、美術も音楽も作詩も説教も忠実に之を為せば国を興し民を化するの事業である、必しも議会の壇上に登るに及ばず独り書斎に籠りて教を万世に垂る事が出来る、必しも慈善事業に従事するに及ばず、教壇に聖書を講じて慈善以上の大慈善を施す事が出来る 「凡て汝の手に堪《たふ》る事は力を尽して之を為すべし」である、我が為すべく此世に遣《おく》られし事を忠実に為して、我は国家を益し社会を改め、然り全宇宙を動かす事が出来る、願ふ静にして、運動又は宣伝の手段を用ひずして、小にして大なる愛国者又は改革者たらんことを。
 
(467)     IS CHRISTIANITY PRACTICABLE? 基督教は実行可能なる耶
                         大正10年5月10日
                         『聖書之研究』250号
                         署名なし
 
     IS CHRISTIANITY PRACTICABLE?
 
 Is Christianity practicable? Is it possible to love our enemies,Or to turn ourleft cheeks when they smite us on the right? It is not possible,and it is possible. It is not possible if we are to practise it by ourselves, and it is possible if God is to practise it for ourselves.“Apart from Me ye can do nothing.”said Christ;and“I can do all things through Him that strengtheneth me,”said Paul.Cbristianity without Christ is an impossibility;with Him it is a perfect possibility,as experienced by all His saints. Modern men,considering Christianity as an ethical system,find many things in it which are impracticable. But Christianity is not an ethical system, but a gospel,and it furnishes its believers with all the strength necessary to fulfill all its demamds. Let us hear no more from modern theologlans on this subject.
 
(468)     基督教は実行可能なる耶
 
 基督教は実行可能なる耶、我等の敵を愛し、彼れ若し我が左の頻を撃たば又右の頑をも転して之に向けると云ふが如きは実行し得る教訓である耶、得べからず又得べしである、若し我等自身の力に由て実行すべき者ならば得べからずである、然れども若し神が我等に代つて実行すべき者ならば得べしである、「汝等我を離れて何事をも為す能はず」とキリストは吉ひ給ふた、「我は我に力を賜ふ彼に由りてすべての事を為し得べし」とパウロは言ふた、キリスト有りて基督教は充分に可能である、是れ彼を信ずる者のすべてが実験せし所である、近代人は基督教は倫理学的組織なりと思ふて其内に多くの実行し難き教訓を発見する、然れども基督教は倫理ではない福音である、故に之を信ずる者に其のすべての教訓を実行するに必要なる能力を供給する、此明白なる事実あるが故に我等は此問題に関し再び近代神学者の言説を聞くに及ばない。
 
(469)     霊なる神
                         大正10年5月10日
                         『聖書之研究』250号
                         署名なし
 
  神は霊なれば之を拝する者も亦霊と真を以て之を拝すべき也(ヨハネ伝四章二十四節)。
 
〇神は霊である、彼は物でない、故に偶像を以て表はすべき者でない、神はまた思想でない、理想でない、概念でない、故に哲学的術語を以て言表し得べき者でない、神は霊である、物でないのみならず思想でない、手を以て※[手偏+門]る能はず、又|頭脳《あたま》を以て考へ出すことの出来ない者である。
〇神は霊である、故に之を拝する者は霊を以てすべきである、然り拝するに止まらず、探るにもまた了《さと》るにも霊を以てすべき者である、霊を以てせずして霊なる神は解らない、神を科学的研究の目的物となす事は出来ない、又哲学的思索の題目となす事は出来ない、神は霊的にのみ之を探究する事が出来る、又霊的にのみ之を実得する事が出来る、霊なる神は直に人の霊に触れ給ふ者である、人は又其霊に於てのみ直接に神と交はる事の出来る者である。
〇神は霊である、故に神を探る者は霊を以てすべきである、然るに事実は如何《いかに》と云ふに大抵の人は神を探り之に事ふるに霊を以てしないのである、或人は万物存在の理由として神の存在を仮定せんとし、或人は思想の論理的(470)帰結として神の実在を認めんとする、而して如斯くにして探究せし神は霊以外に在る神であつて、実《まこと》に冷めたい味の無い神である、然れども真の神は斯る者に非ず、直に人の霊に臨みて之を動かし給ふ者である、「風は己《おの》が儘に吹く、汝其声を聞けども何処より来り何処へ往くを知らず」と云ふべき者である、神は確実なる実在者である、然れども霊的にのみ獲得し得る実在者である、人に若し霊なくば、又は霊ありと雖も其働きなくば、彼は神を知る能はず、循つて真個《ほんとう》に之を拝する事は出来ないのである。
〇如何にして霊なる神を知る事が出釆る乎、如何にして彼に接する事が出来る乎、先づ第一に祈る事に由て、第二に自己に死する事に由て、第三に不可能ながらも全力を尽して其命令に服従せんとして、彼の臨在に与る事が出来る、霊は物質に非ず又思想に非ず又感情に非ずして意志である、意志の働きに由らずして神に接する能はず、又神の臨在に逢ふて先づ第一に強めらるゝものは我が意志である、而して霊なる神が我が霊に臨み給ひて我は死して神は我に代て生き給ふのである、神霊降臨の場合に於ても「死は勝《かち》に呑《のま》るべし」との聖書の言が実現せらるゝのである。
〇霊なる神が人の霊に臨んで其人は自主独立自足の人と成る、彼は己が衷に強大なる王国の建設されしを覚る、彼は自己以外に何物をも求めざるに至る、彼は名誉又は権力を求めざるのみならず事業をも徳行をも求めない、彼の存在其事が歓喜と成る、彼は彼が要求する万物《すべてのもの》を己が衷に有するに至る、讃美の歌は自から彼の唇を破つて出る、彼は神に献《さゝぐ》るに「讃美の祭物」を以てする、彼れ自身が一個の宇宙と成る、而して衷に溢れるが故に自から外に出ざるを得ない 彼の手は動く、彼の財布の紐は自づから緩む、慈善は義務たらずして歓喜たるに至る。彼の足は動く、運動は外よりの刺戟なくして始まる、教会は自から成る、諸て我が如く成りし者は我と偕なり我(471)れ又彼等と偕なるに至る、我等は皆な神に在りて兄弟たり又親友たるに至る、自己に足る者のみ真個の友人を得ることが出来る、自己の不足を友人に於て求めんと欲して終に其友より離れざるを得ない、我れ足り彼れ亦足りて我等は永久の友人たり得るのである、人は事業を以て結合する能はず、信仰箇条を以て結合する事は出来ない、霊なる神を以て己が霊を充たされ、彼は充実されたる人となりて、すべての充実されたる人と結合するに至る、是れ鞏固にして永久に破れざる結合である。
〇左れば衷に開かん哉、全能者を其処に迎へ奉り、何も有たざるも諸のものを有つ者となり、我霊の衷に永久の王国を築き、其処に神と神を愛する諸《すべて》の人と偕に生きん哉、我は人たるの特権として霊を与へられたれば、其処に霊なる神の宿る所となりて神の子として永久に栄えん哉。
 
(472)     『ルーテル伝講演集』
                         大正10年6月5日
                         単行本
                         署名 内村鑑三 著
 
〔画像略〕初版表紙190×12アmm
 
(473)     自から序する文
 
 今年はルーテルが彼の信仰を大帝カール第五世の前に於て堅く執て動かざりしヴオルムス大議会後の第四百年である、而して独逸は亡びても、ルーテルは亡びない、ビスマークやカイゼルの事業は壊れてもルーテルの事業は壊れない。ニイチエの哲学やマルクスの経済論は廃れてもルーテルの信仰は廃れない、独逸はルーテルありしが故に偉大である、独逸人が再びルーテルの単純なる信仰に立還る時に独逸は真に復興するのである、而して余の如き小なる者も亦絶東の日本に在て、二十世紀の今日、ルーテルの信仰を伝ふるに過ぎないのである。今やルーテルが「余は聖書の上に立つ、其他を知らず、神我を護り給はん」との勇敢なる言を発せし後の第四百年を紀念するに方て、余は余の此小著を愛すべき偉大なる彼に献じて、余の彼に対する同情、尊敬、友愛を表せんと欲する。
  一九二一年六月十三日
                東京市外柏木に於て 内村鑑三
 
ルーテル伝講話
  旧教国と新教国
  ルーテル以前の改革者
  ルーテルの出生
  ルーテルの改信
  ルーテルの平和時代
(474)  戦闘の開始
  ライブチツヒ宗論
ルーテル論叢
  ルーテルの為に弁ず
  宗教改革の精神
  ルーテルの遺せし害毒
  若しルーテルが日本に生れしならば
  四百年前の今月卅一日
  小児としての信者
  大胆なる信仰
宗教改革を迎へし国と之を斥けし国
 
(475)    〔『ルーテル伝講演集』改版大正13年12月5日刊】
 
     改版に附する言
 
 震災に由て旧版は壊たれた。然れどもルーテルの信仰は宇宙何物に由ても壊たるべきでない。震災後の日本はルーテルを要すること益々切である。出版書店克く此必要を解し、茲に改版を見るに至つた。大なる感謝を以て之を精神的に疲れ果たる我国の読書界に送る。
  大正十三年十一月十三日               著者
 
(476)     FORGIVENESS.赦罪の美徳
                         大正10年6月10日
                         『聖書之研究』251号
                         署名なし
 
     FORGIVENESS.
 
 Forgiveness is the greatest of Christian virtues. It is the entire forgetting of the past, and building up anew of life upon the basis of the good will of the Loving Father. Forgiveness is both active and passive. Entirely to forgive is possible as a result of being entirely forgiven.“Even as Christ forgave you,so also do ye.”(Col.3:13).He blotted out all our sins on the Cross,and gave us the spirit of forgiveness to blot out all the sins which others bave committed against us. Forgiveness is a heavenly gift,and the greatest of all gifts. It is the beginning of all good things. Friendship,peace of mind,cessation of war,and universal brotherhood,are possible as sure results of Christian forgiveness. Great is forgiveness!
 
     赦罪の美徳
 
 赦罪は基督教的美徳中最大の者である、赦罪は罪ある過去の全き忘却である、而して愛の父の善意を基礎とし(477)て生涯を造り直す事である、赦罪は積極的である又消極的である、神に全く赦されたる確実なる結果として人を全く赦す事が出来るのである、「キリスト汝等を赦し給へるが如く汝等も然すべし」とある(コロサイ書三章十三節)、キリストは十字架の上に我等のすべての罪を抹殺し給ひて、我等に賜ふに他人が我等に対して犯せしすべての罪を抹殺するの赦罪の霊を以てし給ふた、赦罪は天の賜物であつて、最大の賜物である、赦罪はすべての善事の本原である、友誼、心の平和、戦争の廃止、万国同胞主義の実行……是等は皆な基督教的赦罪の必然的結果として在り得る事である、偉大なる哉赦罪の美徳!
 
(478)     〔伝道の快楽 他〕
                        大正10年6月10日
                        『聖書之研究』251号
                        署名なし
 
    伝道の快楽
 
 不信者は云ふ、不信者の一種なる教会信者は云ふ、伝道は犠牲である、之に従事するは苦痛であると、然し真の信者はさうは思はないのである、イエスに取りては伝道は苦痛ではなかつた、骨折でもなかつた、其反対に快楽であつた、彼は其弟子等に告げて言ひ給ふた「我に汝等の知らざる食物あり……我を遣しゝ者の旨に随ひ其工を成遂《なしとぐ》るは是れ我が食物なり」と(ヨハネ伝四章三四)、イエスに取りては伝道は労働でなく又饑渇でもなく、快楽であり又食物であつた、而してすべての基督者《クリスチヤン》に取りて同じである、伝道は苦痛ではない、其反対に伝道せざる事が苦痛である、パウロが言ひしが如く「我れ若し福音を宣べ得ずば禍ひなり」である(コリント前書九章十六節)、為す事が最大の快楽である職業は世に多分唯一つあるのみであらう、それは伝道師の職業である、是は経済学者の言ふ Work is onerous(労働は苦労なり故に適当の報酬を要求す)との法則の外に立つ職業である、伝道は俸給自弁で為すも苦しからざる職業である、是は旅行や観劇や音楽を以て慰むるに非れば継続する事の出来ない職業でない、伝道は高級美術の如き者であつて……実に伝道は最高美術である……為す者も為さるゝ者も同(479)時に楽しむ職業である、キリストの福音を説く事、罪の赦免の音信《おとづれ》を宣べる事、天国建設、永生賦与の約束を伝ふる事、こんな楽しい喜ばしい業を授けられて伝道者は他に職を求めないのである、然り伝道は食物である、快楽である、歓喜である、満足である、休養である、健全なる刺戟である、最も完全なる職業である、故に人に同情さるべき職業ではない、羨まるべき職業である、内閣総理大臣となるよりも、大会社の社長となるよりも、大地主大株主となるよりも遥に貴き且つ楽しき職業である、惟り怪む此職業を求むる者の尠きことを、更らに怪む伝道を業とする者にして之を去つて政治、外交、実業等労苦多くして慰安尠き……殆ど無き……業に転ずる者の有ることを、世に若し完全なる幸福者ありとすれば、それはイエスの福音を宣伝ふる者である。
 
    沈黙と絶叫
 
  祭司の長《をさ》と学者たち……児輩《こどもら》の殿《みや》にて呼はりダビデの裔《こ》ホザナよと云ふを聞きて怒を含みイエスに曰ひけるは彼等が言ふことを聞くや、イエス答へて曰ひけるは、然り嬰児《をさなご》哺乳者《ちのみご》の口に讃美を備へたりと録されしを未だ読まざる乎と(馬太伝廿一章十五、十六節)。
  イエス彼等(パリサイの人等)に答へけるは、我れ汝等に告げん、此輩もし黙止《だまり》なば石叫ぷべしと(路加伝十九章丁四十節)。
〇世には福音は信ずるも之を口に語る事は出来ないと云ふ者が多くある、彼等は説教は雄弁学を修めたる説教師の為す事であつて、説教師以外の信者は唯沈黙を守つて居れば可いのであると思ふ、故に大抵の場合に於て信者の集会に於て語る者は定《きま》つて居るのであつて、其余の者は謹んで沈黙を守り、唯聞くのみを以て其本分なりと見(480)做して居る。
〇勿論沈黙は悪い事ではない、瑞西人の諺にあるが如く「若し雄弁は銀であるならば沈黙は金である」、最も貴い事は口に言ふことの出来ない事である、最も嫌ふべき事の一つは確に多弁である、殊に神聖なる事を濫りに語るに至ては語る其人の不幸此上なしである、浅薄なる信仰は小川の浅瀬と同じく常に囀つて止まない、余輩が最も忌み嫌ふものは現代米国流の多弁的基督教である、余輩は多くの場合に於ては雄弁よりも沈黙を愛する者である。
〇然し乍ら弁者必しも浅薄であつて黙者必しも深遠でない、語るべき時がある、黙すべき時がある、而して語るべき時に語らざるは怠慢である、卑怯である、不実である、然り場合に由りては罪悪である、神が語るが為に口と舌とを与へ給ひし以上は、語るべき時に語らざるは義務の怠慢である、責任の抛棄である、人生時には語るは金であり金剛石であり、黙するは鉛であり土である場合が尠くない、而して斯かる場合はキリストの福音を信じ之を守らんと欲する時に殊に多いのである。
〇イエスは言ひ給ふた「凡そ人の前に我を識ると言はん者を我も亦天に在す我父の前に之れを識ると言はん」と(マタイ伝十章三二)、パウロは言ふた「汝若し口にて主イエスを認《いひあら》はし又心にて神の彼を死より甦らしゝを信ぜば救はるべし」と(ロマ書十章九)、「言ふ」と云ひ、「認はす」と云ふ、言語を以て口に出す事である、唯聴くのみではない、又唯心に信ずるのみではない、口に言表はす事である、人は主イエスを人の前に言表はして救はるゝのである、イエスもパウロも絶対的沈黙の人ではなかつた、彼等は語るべき時には大に大胆に語つた、基督教が若しトラピスト修道院を以て代表せらるゝが如き沈黙の宗教であつたならば人類は決して幾回《いくたび》か之に由て救(481)はれなかつたであらう。
〇基督教の説教は素々能弁術の表現ではない、是は主イエスを言表はす事である、故に真の信者に取ては止むを得ない事である、|彼は語らずに居られないのである、故に止むを得ず語るのである〔付△圏点〕、彼はモーセの如くに「我は口の人にあらず」と言ひて説教を辞退する事を許されないのである、彼は預言者ヱレミヤの如くに、ヱホバの言の彼の心に臨みたれば黙するに堪へずして語るのである、教会の牧師や伝道師のやうに、官吏、商人、学者、政治家等に、講壇の上より語る為に、俸給を以て雇はれたるが故に、止むを得ず語るのではない、神の霊に充たされ、衷に溢れる恩恵と歓喜とに余儀なくせられて語るのである、基督教の説教は能弁術の一種ではない、是は燃ゆる信仰の表白である、抑へ難き神の言葉の発表である、基督者《クリスチヤン》である、故に預言者の一種である、故に語らざるを得ないのである、訥弁も雄弁もあつた者ではない、舌あり唇ありて語らざるを得ないのである、故に語るのである、若し人が語らないならば嬰児と哺乳児が語るのである、若し人が黙止るならば木石が語るのである、|キリストの福音を心に受けて沈黙は不可能である〔付○圏点〕。
〇汝語らんと欲する乎、能弁家として生れ来るに及ばない、又能弁術を修むるに及ばない、心に真の福音を信ぜよ、然らば能力《ちから》ある言は汝の唇を破て出で来るべし。
 
(482)     〔矢内原忠雄著『基督者の信仰』〕序文
                          大正10年7月10日
                          『基督者の信仰』
                          署名 内村鑑三
 
 此書の著者矢内原忠雄君は東京帝国大学の出身にして今や法科大学助教授として欧洲に留学し、遠からずして帰朝して大学正教授となり博士の称号を以て其名を冠せらるべき人である、即ち君は近代人の所謂俊才の一人であつて通則に従へば一度びは基督教を信じて早く既に之を捨去るべき人である、然るに君は未だ基督教を捨てず又捨つるの傾向を示さず、益々熱く之を信じ又之を他に説いて耻としない、而して君の信奉する基督教は近代人の歓迎する所謂基督教に非ず、即ち社会奉仕教に非ず、倫理的福音に非ず、文化運動に非ず、労働運動に非ず、古い旧い十字架の贖罪教である、近代人には時代後れの迷信として目せられ、彼等の賤視め又排斥する所となる者である 然るに新人にして俊才の一人なる矢内原君は固く此信仰を取て動かないのである、而して君に在りては此信仰こそ最新の法理論又は経済説に優さりて国家民衆を救ふに方て力ある者である、君が法律又は経済学を棄つる時はあるとも、君が此書に於て表白する所の信仰を去る時は永久に来ないと余は信ずる、新らしき日本に於て君の如き新進学者ありとは不思議と言はざるを得ない、而して余自身に取りても亦余を先生と呼んで呉れる俊才の内に知識の進むと同時に余と余の伝へし福音を棄ざる君の如き若き友人のあるを知りて言ひ尽されぬ慰藉又伝道の奨励である、祈る此著の多くの患める人に生命の糧を供し、先づ個人を救ひて国家と社会とを健全鞏固(483)なる基礎の上に据るに至らんことを。
  一九二一年六月二十八日       東京市外柏木 内村鑑三
 
(484)     THE EAST AND THE WEST.東洋と西洋
                         大正10年7月10日
                         『聖書之研究』252号
                         署名なし
 
     THE EAST AND THE WEST.
 
 THE LlFE is work,says the Occidental:the life is rest,says the Oriental.The life is action,says tbe West:the life is being,says the East.“Hurry,be quick,and make yourself and the world happy,and that in the shortest possible time,”says the representative West.“You are happy already,if you but know yourself. Believe,and all will be well,”says the representative East. The West is Martha,and the Eastis Mary,and the Lord saith to the active,restless,propagandizing West:“Thou art anxious and troubled about many things:but one thing is needful,for Mary(the East)hath chosen the good part,which shall not be taken away from her.”−Luke 10:41.42.
 
     東洋と西洋
 
 人生は事業なりと西洋人は曰ふ、人生は安息なりと東洋人は曰ふ、人生は活動なりとは西洋に於て唱へられ、人生は実在なりとは東洋に於て伝へらる、「速く、急げ、自己と世界とを幸福にせよ、それも一刻も早く」と西洋(485)の代表者は曰ふ、「人は既に幸福なるものなり、彼はたゞ其事を自覚すれば足る、惟信ぜよ、然《さ》らば万事可なるべし」と東洋の代表者は曰ふ、西洋はマルタである、東洋はマリヤである、而して主は活動して休止する所を知らずして常に自己主張の宣伝に従事する西洋に対ひて曰ひ給ふ、「汝は多事《おほくのこと》に由り思ひ慮《わづら》ひて心労《こゝろづか》ひせり、然《さ》れば無くて叶ふまじき者は一なり、マリヤ(東洋)は既に善業《よきかた》を選びたり、此《こ》は彼女より奪《と》るべからざるものなり」と(路加伝十章四一、四二節)。
  ヱホバを俟望め、雄々しかれ、汝の心を堅うせよ、必ずやヱホバを俟望め(詩篇二十七篇十四)。
  ヱホバの救拯を望みて静に之を待つは善し(哀歌三章廿六)。
 
(486)     〔人物と伝道 他〕
                         大正10年7月10日
                         『聖書之研究』252号
                         署名なし
 
    人物と伝道
 
 人は言ふ人物である、人物なくして世を救ふことは出来ないと、然らずと余輩は言ふ、人物ではない、福音である、神の恩恵の福音である、是れさへあれば、此福音さへあれば、人物なくとも世を救ひ人を助くる事が出来る、又此福音を信じて人物ならざる人も人物となる事が出来る、人物とならんと欲するが故に人は人物と成り得ないのである、先づ人物ならざらんと欲し、自分の無価値《つまらな》い者なるを悟り、罪人の首《かしら》たる事を自覚して、キリストの十字架に頼るに至て、人は何人も真実の人物と成り得るのである、教会は人物を要求して福音を説かざるが故に人物が出来ないのである、人物を作るの唯一の道は人を悔改《くいあらため》に導く十字架の福音を説く事である、此事を為さないで人物々々と叫んで人物は起らない、然り人物は要らない、然り人物は在り過ぎる程在る、願ふ無きに等しき者たるの自覚ある人々の簇々として起らんことを、十字架の福音を信じ之を唱ふより他に智慧も能力も無き人の多く起らん事を、然らば世は救はれて神の栄光は揚らん。
 
(487)    反抗と服従
 
 反抗又反抗、自覚と云ひ解放と云ひ改造と云ふ、皆な権威に対する反抗に外ならない、近代人は反抗せざれば偉大ならずと思ひ、偉人是れ反抗の人であると信ずる、然し乍ら反抗は決して偉大なる事ではない、偉大なる事は服従である、威力に屈服するに非ずして、自から進んで正当なる権威に服従して、人は始めて自己を発見し、人生の偉大と貴尊とを知るのである、悪魔何者ぞ、神の謀叛人であつて反抗者である、キリスト誰人《たれびと》ぞ、神の僕であつて模範的服徒者である、彼は「己を卑《ひくゝ》し、死に至るまで順ひ、十字架の死をさへ受くるに至れり、是故に神は甚しく彼を崇めて諸の名に越《まさ》る名を之に与へ給へり」と云ふ(ピリピ書二章八、九節)、ニイチエの如く反抗して神に勝つて神以上の者たらんと欲するのではない、神に服従して神の子となるのである、基督者《クリスチヤン》は近代人と全然異なり、自覚と解放と改造とを服従に於て求めて反抗に由て得んとしない、反抗は悪魔に対してのみ行ふべきである(ヤコブ書四章七節)、神と神の定め給ひし権威に対しては惟服従あるのみである。
 
    回顧の涙
 
 余は過去六十年間の生涯を顧みて一の悲しき事を感ずる、そは大体に於て余が人に愛せられなかつた事である、余は余の骨肉に嫌はれ、親類に厭《いやが》られ、余が卒業せし内外の学校に顧みられず、余が事へし政府に嫌はれ、余が関係せし教会に嫌はれ、基督教諸団体に嫌はれ、官吏に嫌はれ、宣教師に嫌はれ、余を先生と呼びし多くの弟子に嫌はれ、殊に俊才に嫌はれ、甚だしきに至ては出入の商人職人にまで嫌はれた、余に何か厭《いや》らしき所があるに(488)相違ない、此事を思ふて余は或時は悲しくて耐らなくなる、然れども顧みて思ふ是れ余に取て最も善き事であつた、余は人に嫌はれしが故に神にまで追ひやられたのである、余が少しなりとも神とキリストと其十字架とを解するを得しは其一面に於ては余が人に厭られ、嫌はれしに由る、人は余を嫌ひて余をして神に愛せられしめたのである、「我父我母我を捨る時ヱホバ我を迎へ給ふ」とある(詩篇二七篇十)、而して父と母とに限らない、人と云ふ人、制度と云ふ制度、社会、政府、教会、彼等が我を捨る時、ヱホバは我を迎へ給ふのである、|故に人の一生の幸福とて人に嫌はるが如きはない〔付△圏点〕、人は人を嫌ひて彼が神に納けらるゝ特権を奪ふ事は出来ない、而已ならず人は人を嫌ひて彼が神に迎へらるゝ資格を作りつゝあるのである、故に余は今に於て余を嫌ひし人等を恨まない、却て厚く彼等に感謝する、余の如き薄信の者は人と神とに併せて愛せられ得ない、余の場合に於ては人に嫌はるゝは救霊上の必要であつた、余は人に嫌はれずして神の愛に入る事が出来なかつた、而して余は人に嫌はれて初めて神の慈悲なる者の何たる乎を覚つた、余は新約聖書を読んで神の慈悲なる言に接して幾度か感謝の涙を流した(ロマ書十二の一、ピリピ書二の一)、是れ希臘語の oiktirmos《オイクチルモス》である、美はしい優しい言《ことば》である、父が其子を憐む其|衿恤《あはれみ》を表はす言である、父なる神のオイクチルモス! 嗚呼之さへあれば他に何物も要らないのである、人の愛、人の同情、人の賛成、是等は却て信仰の妨害である、而して人に嫌はれ勝ちなりし余は世に最も幸福なる者の一人である。(三月三十日内村生記す)
 
    真個の平民
 
 余は今猶ほ平民の友である、然れども余の云ふ平民は勿論俗人ではない、又は民衆と称せらるゝ者ではない、(489)貧民ではない、労働階級ではない、余が弁護し自身其一人たらんと欲する平民は|人らしき人〔付○圏点〕である、人として価値ある者である、地位とか爵位とか所有《もちもの》とか云ふものを全然離れて人たるの価値を有する者である、余の云ふ平民は|霊魂の人〔付○圏点〕である、衷に足りて外に求めざる者である、|真個の価値を赤裸々の霊魂に有して、之を飾るに位階勲章の金箔を以てするの要なき者である〔付ごま圏点〕、故に偉人と云ふ偉人は凡て平民である、平民の首は勿論ナザレのイエスである、彼より前きに雅典《アテンス》のソクラテスは大平民であつた、而してイエスの弟子としてダンテとルーテルとカルビンと、クロムウエルとミルトンと、ワシントンとリンコルンとグラツドストンとはすべて大平民であつた、彼等は偉人たるに貴族の列に入るの必要はなかつた、彼等に取りては学府が贈与する学位さへも不似合であつた、単《たゞ》のミストル・グラツドストン又はミストル・リンコルンであつた、神に造られし儘の彼等であつた、故に貴くあつた、人類の模範であつた、|神の貴族〔付○圏点〕であつた、大勲位公爵と称するが如き人間の偽物ではなかつた。斯くして平民は決して多数ではない、少数である、民衆は決して平民ではない、真個の平民の尠きは貴族の尠きよりも尠い、而して民衆が平民でないと同時に、稀には貴族の内にも真個の平民が居る、而して又貴族を恨み之に反抗する所謂平民も其最大多数は生れながらの貴族である、名誉に憧憬れ利欲に牽かるゝ者は名は平民たるも実は貴族である、此事たる我国の歴史に於て薩長の平民|輩《ばら》が一朝自から貴族となりしや最も悪しき貴族階級を作りし事実に徴し見て明かである、|人たるの名誉以外に何等の名誉をも求めざる者、霊魂の深き所に神に接するの特権以外に何等 特権にも与らんと欲せざる者、其者が真個の平民である〔付○圏点〕、而して余は斯かる人等の友たらんと欲し、又自からも其一人とならんと欲する者である。
 
(490)     THREE GREAT TRUTHS.三大真理
                         大正10年8月10日
                         『聖書之研究』253号
                         署名なし
 
     THREE GREAT TRUTHS.
 
 The first great truth is that God is not a Force but Love,a Loving Father.The whole universe wears a diffrent aspect when viewed with faith in the Fatherhood of God.
 The second great trut his that Jesus Christ is not a man, not even the greatest man,but God Himself. Peace that passeth all understandings is ours when we come to believe in the Deityo f Jesus.
 The third great truth is that the Holy Spirit is not an influence,but a person. Faith becomes real,and true freedom is won,only when we realize the Personality of the Holy Spirit.
 
     三大真理
 
 第一の大真理は神は力に非ず愛なり愛する父なりと云ふ事である、神は父なりとの信仰を懐いて見る時に全宇宙は一変する。
 第二の大真理はイエスキリストは人に非ず最大偉人にも非ず神御自身なりと云ふ事である、イエスの神たる事(491)を信ずるに至て、すべて人の思ふ所に過る平和は我有となる。
 第三の大真理は聖霊は感化力に非ず人格者《べルソン》なりと云ふ事である、聖霊の個性《べルソナリチー》を実得して信仰は事実と成り、真の自由は獲得せらる。
  神は父なりと云ふ事のみを信じて信仰は浅くなり易い。ユニテリヤン教の欠点は主として茲に在ると思ふ。
  キリストは神なりとのみ主張して信仰は狭くなり易い、カルビン主義の短所は茲にありと言はざるを得ない。
  聖霊は人格者なりと云ふ事のみを高調して信仰は狂し易い、是れリバイバル信者の陥り易い危険である事は人のよく知る所である。
  三大真理を同時に信じ同様に受けてのみ完全なる信仰に生くる事が出来る。
 
(492)     〔新生命 他〕
                         大正10年8月10日
                         『聖書之研究』253号
                         署名なし
 
    新生命
 
 新しき生命と云ふは新しき年と云ふが如くに旧くよりありし生命が新たに始めらると云ふ事ではない、新しき生命とは此世に無い生命が新たに人に臨む事である、即ち植生又は動生又は人生とは全然其性質を異にする生命が信者に臨む事である、「我等の生命なるキリスト」とあるは即ち此生命である(コロサイ書三章四)、此生命は其発達に生存競争を要しないのである、此生命は他の生命と異なり儚き者にあらずして宇宙は失するも失せざる者である、植物又は動物が進化して成つた者ではない、又野蛮人の生命の文明化した者ではない、是は直に神より降りて彼を信ずる者に臨む特種の生命である、基督者《クリスチヤン》は所謂基督教的文化に接して成つた産物ではない、彼は神の新たに造り給へる者……キリストイエスを以て造り給へる者である(エべソ書二章十節)、若し全宇宙に特別造化なる事があるならば我等は其実例を真正の基督者《クリスチヤン》に於て見るのである、キリストは生命以外の生命である、心理学者や社会学者の探知し得ざる異種特別の生命である。
 
(493)    信者の事業
 
 事業、事業と云ふ、然れども基督者には事業はない、彼に殖産事業又は改造事業等がないのみならず、社会事業も伝道事業もない、然り彼に唯一つの事業がある、それは神の遣はし給へる者を信ずる事である(ヨハネ伝六章二九) 其他の事業に対して彼は無頓着である、無関係である、然らば彼は無為に一生を送る乎と云ふに決してさうでは無い、「我父は今に至る迄働き給ふ我も亦働くなり」とありて、我は働かざるに働かしめらるゝのである(同五章十七節)、活ける神の霊我衷に在りて働きて我は其機械となりて動くのである、|死者に事業はない、キリストと偕に十字架に釘けられし者に事業のありやう筈はない〔付○圏点〕 若しあるとすれば彼の死体の衷に在りて働く或他物の霊である、斯くして信者に事業の心配はない、其計画はない、其実行の努力はない、唯信じて命ぜらるゝが儘に動く、故に安心である 平和である、事業に焦心らない、競争しない、失敗に失望しない、疲れない、限りなく働く、嗚呼厭ふべきは近代人の事業熱である。
 
    信仰維持の価値
 
 日本国の如き不信国に於ては基督教の信仰を維持する事だけが伝道的に見て一大事業である、別に教会を起すに及ばない、多数の信者を作るに及ばない、宗教的大著述を為すに及ばない、一度び受けし信仰を勇敢に頑強に守り通す事丈けが大なる伝道事業である、日本国に於て純福音を信じ通うす事は至難の業である、其事は一たび信仰に入りし者にして千人は我らの左に仆れ、万人は我らの右に斃れしに由て判明る(詩篇九一篇七)、殊に教会(494)又は外国宣教師等外来の援助に頼る事なくして基督教の信仰を守り通うす事は至難の業である、而して此事を為し得て我らは大事を為し得し事に就て神に感謝すべきである、或は三十年、或は四十年或は五十年、此社会の冷淡、嘲笑、反対の中に我信仰を維持するを得て我は善き伝道を為すべく許されたのである、敢て他に伝道事業を企つるの必要はない、内に対しては明白に、外に対しては独立に、一生信仰を守り通うして、我らは其れ丈けにて善き伝道師たり得たのである。
 
    金銭以外の勢力
 
  ペテロ曰ひけるは、金と銀とは我に有るなし、惟我に有るものを汝に与ふ、ナザレのイエスキリストの名によりて起《たち》て歩むべしと(使徒行伝三章六節)。
〇「金と銀とは我に有るなし」、斯く曰ひしペテロは貧者であつた、若し彼をして今日の日本又は米国に於て在らしめしならば、彼は無能無力、社会にも教会にも全然顧みられざる人であつたであらう、土地、家屋、公債証書、有価証券、そんな物は彼には無かつた、彼は寄附金を為して教会又は青年会又は慈善団体を喜ばすことは出来なかつた、「金と銀とは我に有るなし」と、是れカーネギー又はハインツ、古河又は三菱の発し得る言ではない、彼をして今日に於て在らしめば、牧師も監督も神学博士も彼に何の干与《かゝは》る所はないであらう。
〇「惟我に有るものを汝に与ふ」、使徒ペテロに金と銀とはなかつた、然し乍ら彼は何も有たざる者ではなかつた、彼は「或物」を有つて居た、是れ勿論商学士と経済学者とが評価し得る物ではなかつた、然し乍ら或る一種の価値を有するものであつた、金銀のみが世の當ではない、健康も當であれば思想も當である、知識も富であれ(495)ば信仰も富である、其点に於てペテロは詩人又は哲学者と彼が有せし富の種類を同うして、今日の米国人又は日本人とは全然富の標準を異にした、金銀は無くとも人は富者たり得べし〔付△圏点〕とは今人の解するに甚だ困しむ所である。
〇「ナザレのイエスキリストの名によりて起て行むべし」、ペテロの有せし富は是であつた、即ちナザレのイエスキリストであつた、是が彼の有せし惟一の宝、貴き財産、又頼るべき生命の磐であつた、是れありしが故に彼も亦富豪であつた、彼は大金を投じて慈善病院を立て得なかつた、然れども信仰の一言を以て跛者《あしなへ》をして起つことを得しめた、彼はハインツも古河も為し得ざることを為し得た、其の為せし事業の功績より見てペテロは富者以上の有力者であつた。
〇「ペテロ曰ひけるは金と銀とは我に有るなし 惟我に有るものを汝に与ふ、ナザレのイエス云々」と、実に然りである、善を為すに必しも金と銀とは要らない、寄附金を仰がずとも大なる善事を為すことが出来る、心にナザレのイエスを宿して我等は跛者をして起たしむる事が出来る、死を慰むる事が出来る、貧を癒す事が出来る、寡婦《やもめ》の顔面《かほ》に感謝の微笑《ほゝえみ》を起す事が出来る 世にはナザレのイエスを有するのみにして、金銀は無くとも為し得るの善事は幾許《いくら》でも在る、ヱホバは預言者イザヤを以て音ひ給ふた。
  噫汝等渇ける者よ、悉く水に来れ、金なき者も来るべし……来れ、金なく価なくして葡萄酒と乳とを買へ、何故に糧にもあらざる者の為に金を出し、飽くことを得ざる物の為に労するや、我に聴従へ、去らば汝等美物《よきもの》を食ふを得、脂をもて汝等の霊魂を楽まするを得ん
と(イザヤ書五五章一以下)、世には金銀なくして買ふことの出来る美物がある、神とキリストと永生とは金なくして我が有とすることが出来る、イエスは言ひ給ふた「汝等朽つる糧のために働かずして永生に至る糧す(496)なはち人の子の与ふる糧のために働くべし」と(ヨハネ伝六章二七)。
 
(497)     羅馬書に於ける復活
         三月廿七日復活節に於ける講演の大意
                         大正10年8月10日
                         『聖書之研究』253号
                         署名なし
 
  イエスは我等が罪のために解《わた》され、又われらが義とせられんが為めに甦へらされたり(四章二十五節)。
  もしイエスを死より甦へらしゝ者の霊汝等に住まば、キリストを死より甦らしゝ者は、其汝等に住むところの霊をもて汝等が死ぬべき身体をも生かすべし(八章十一節)。
 羅馬書に於ける復活の信仰を探らんとして第一に気づくことは、羅馬書が十六章より成る長論文なるにも係らず復活に関する箇処の甚だ少き一事である、復活については哥林多前書の方が遥かに多くの言を費してゐるのである、然るに此復活について説く事比較的少なき羅馬書は、主の再臨については比較的多く説いて居るのである、そして注意すべきは復活と再臨と其関係頗る密切であると云ふ一事である。
 羅馬書中主の再臨に関する重なる箇処が三つある、第一は二章五節−十一節であつて、是れ世の終(即ち再臨の時)に於ける審判を示した所である、第二は八章十七節−廿五節であつて、再臨に際しての信者の栄化を教へた者である、第三は十三章十一節−十四節であつて、是れ再臨の近き事を説きそのための信仰堅立を勧めた所である、此三箇処のほか尚ほ再臨に触れた箇処は可成り在る、羅馬書は信仰の書なると共に亦希望の書である、パウロは(498)羅馬書を認《したゝ》むる時再臨の信仰を強く抱いて居て、それが自から此書翰の各処に発露したのである。
 近頃米国の某学者の羅馬書註解が世に出でた 此書は羅馬書の中心の再臨にある事を認め、そして羅馬書は其時救に入る準備を信者に与へんとして草せられた者であると断定してゐる、然るに不思議なる事には|此註解書の著者自身は再臨を全然信ぜずと明言して居る〔付△圏点〕、そして只其再臨提唱の中に吾人の参考となるべき点があるのみと云ふてゐる、かく原始的基督教の内容を明かに知りて基督教の本質如何を悟りながら、自己は之とは異なりたる或物を捉へて基督教と做しつゝある近代式米国神学者等の心理状態は我等の理解に苦しむ所である、我等と彼等との態度は此点に於て明かに相違してゐる、さりながら再臨否定の学者すら羅馬書を以て再臨準備の書と見ると云ふ一事は、如何に此書に再臨の希望が根深く存してゐるかを示すものである、新約聖書中最重要の書巻の一たる羅馬書が再臨を核心とせる事は大に注意すべきである、かくても尚ほ之を猶太思想として漫然排斥し得るであらうか。
 羅馬書には復活を記す事少なくして再臨を記す事が多い、しかし此二つは密接不離の関係に於てある、主の再臨――そして信徒の復活、それは原始的基督教に於ては世の終に於ける連続的事件であつたのである、此二つは別の信仰といふことは出来ない程同一生命の流れであつたのである、甲に必ず乙は伴ひ、乙に必ず甲は伴つた、然るが故に羅馬書に再臨の説かるゝこと多きは、復活は勿論それに附随せるものと見られて居たことゝて、矢張り間接には復活も亦数多く説かれたことゝ見るべきである、これ気儘勝手の見方ではない、慥かに史的又教義的根柢の上に立ちての見方である。
 そしてパウロが羅馬書に於て直接には余り多く復活の事を説かなかつたのは、ロマの信者が復活を当然の事と(499)して信じて居たからである、パウロは羅馬書に於いて復活を特別に教示する必要を感じなかつたのである、故に復活の精神は全巻の各所に発露しては居るが直接復活を説いた所は少ないのである、併しながら其少ない二三の場所が大に我等の注意を惹く、之が羅馬書の復活観――従つて又パウロの復活の信仰――を知るに於て大に役だつのである、此二三の箇処といふのは左の三である。
  (一) 第四章第二十五節
  (二) 第八章第十一節
  (三) 第十章第九節
外に六章一節−十一節といふ稍長い箇処がある 併しこれは寧ろ信者の霊的復活を教へた所である故、重要なる場所ではあるが暫く之を引き離すを便とする、されば特に注意すべきは上掲の三箇処となるのである。
 先づ四章二十五節は少しく改訳して「イエスは我等が罪のために解され、又我等が義とせられしが故に甦らされたり」とすべきである、「我等が罪のために解され」は十字架の贖罪を指すのである、イエスは人類の代表者として人類凡ての者の罪のために身を死に解し以て其底知れぬ深き罪の消除を就《な》したのである、そして義ならざる人を尚且つ其儘にて義とする所の新原理を実在せしめたのである、彼の十字架ありしために我等は義とせられたのである、そして十字架の後にイエスに起つたものは復活であつた。
 彼は寔に類なき人類の代表者であつた、我等の為すべくして而かも弱きが為に為し得ぬ事を彼は我等に代つて悉く実現し給ふたのである、抑も死は罪の結果である、されば茲に少しも罪なくして完全に義且聖なる人ありとせば其人には死はない筈である、死しても当然復活して限りなく生き得る筈である、これ原理として第一に(500)立つべき事である、そしてキリストは明かに罪を犯さずして全く義且聖なる生涯を送つた人である、故に彼は当然神の復活せしめ給ふ所となつたのである、故に我等彼を信ずるときは彼の功《いさをし》に与りて彼の故を以て我等も亦復活の恵に浴するのである、自己の力によらず唯彼の故を以て復活の事に与り得るのである。
 されば「我等が義とせられしが故に甦らされた」のである、彼れが義たる以上は我等彼を信ずる者も亦彼の義に与りて義とせられる、されば彼の義なりし事と我等の義とせられし事とは同一事象の表と裏である、此二つは原理としては同時に起つた事である(事実上彼の義を個々の人が与へられるのは其時々々の別々の事象ではあるが)、されば彼が義なりし故に甦へらされたと云ふ事は、我等が義とせられし故に甦へらされたと云ふと同じ事なのである、彼れ義なりし故に(其為めに我等も義とせられし故に)彼は甦へらされ(同時に我等も亦甦へされ)たのである、故にキリストの復活は我等の義せられし証拠となるのである。
 キリストの死は我等のための死、そして復活も亦我等のための復活である、罪の結果は死である、故に死が失せて初めて罪の赦されしを知る、即ち|復活は義とせられし結果であり又証左である〔付○圏点〕、故に我等に復活の実が与へられて初て我等の罪が既に消除されて我等が義とせられし事を知るのである、そしてキリストの復活は実に我等の復活の前駆である、彼を信ずる我等は彼にありて義とせられ又彼にありて復活する、或意味に於て我等は既に彼と共に死し彼と共に甦つて居るのである(ロマ書第六章)、即ちキリストの復活の中に我等の復活も含まれて居るのである、故にキリストの復活は我等の罪の赦されし確証となるのである。
 罪が赦されて義とせられし事、是は第一には聖霊みづから直接に我等の霊に囁き教へ給ふことである、第二にはそれの帰結として、又それを完成する者として後に起る所の復活栄化を見ることが出来る、かく我等の義とせ(501)られし事は聖霊が之を示し給ふと共に後の復活栄化が其完成を為すのである、そして此両者の中間に立つものとして主復活の信仰が存する、即ち主の復活を信ずる事は我等が復活せしめらるゝに至る迄の間の、我等の義とせられし確証となるのである、実に主の復活は我等が復活を事実的に与へらるゝ迄の、我等の赦免と復活との証拠である、換言すれば|主の復活は我等が此世にありて受くる所の我等の罪の赦免であり、又復活の予約証である〔付○圏点〕、我等が此世の生涯の間主の復活を信ずる事は、この赦免状兼予約証を受けて之を肌身離さず抱きつゝある事である、故に云ふ「(イエスは)我等が義とせられしが故に甦らされたり」と、イエスは我等が義とせられし故に復活した、イエスの復活は我等の義とせられし確証である。
 次に見るべきは八章十一節である、「もしイエスを死より甦らしゝ者の霊汝等に住まばキリストを死より甦らしゝ者は其汝等に住む所の霊をもて汝等が死ぬべき身体をも生かすべし」と云ふ、「イエス(キリスト)を死より甦らしゝ者」と云ふ句が此節に二つある、之は勿論父なる神を意味する(たゞ殊更に|イエスを死より甦らしゝ者〔付ごま圏点〕と云ふたのは有意味であることに注意せねばならぬ)、故に此節は「もし神の霊汝等に住まば神は其汝等に住む所の霊をもて汝等が死ぬべき身体をも生かすべし」との意である、神は其聖霊を我等に住ませ其れを以て我等を復活せしめ給ふのである、是れ彼がイエスを復活せしめし神であるからである。
 凡そ生命は必ず|体〔付○圏点〕に於て現はれる、これ生命の特徴である、生命は体現せるもの又は体現せらるべきものである、神は生命を凡てに賜ふ、故に神の為し給ふ事は今体現せられずば後には必ず体現せらるべきものである、神は生命の本源である、生命は彼より迸出せねば已まない、これ即ち彼より出でし生命の結晶として宇宙万象の現はれし理由である、宇宙万象は決して死物にあらず神よりの生命の体現である、|されば体ある所生命が起るので(502)はない、生命ある所体は起らざるを得ないのである〔付○圏点〕、神の造り給ひし万象に我等は生命の必有を思はざるを得ない、神の造り給ひし宇宙は生命の結晶である、それ以下のものは決して神の宇宙ではない、繰返して曰ふ生命ありての体である、体ありての生命ではない、故に生命ある所体は起らざるを得ないのである。
 キリストの生命に与かりし者は遂にその生命の体現たるべき或体を与へらるとは我等の確信である、今の此肉体は旧き生命――アダムの生命――の体現である、如何に長命するもつまりは朽ち去る物である、アダムの生命は其力乏しき故其体現たる吾人の休も亦一時的にして不完全である、我等に与へられしキリストの生命は此アダムの生命とは全く別なるものである、これ即ち「新しき生命」である、此新しき生命は今や我等にありて盛に進展しつゝありて遂にはそれ相当の体を与へられるのである、換言すれば此の新生命は遂に体現するに至るのである、それは此生命に相応《ふさは》しき栄光の体にして、朽ち果つべき吾人の肉体とは全然質を異にせるものであるに相違ない。
 これ即ち復活である、朽ち果つべき生命の体現たる此の肉体は当然亡ぶべきである、しかしキリストの生命を受けて得たる限りなき生命は当然不朽の体を纏ふべきである、甲は亡び失せて乙は新たに起る、故に甦りと云ふも旧き体が其儘で甦るのではない、新たなる創造であつて新たなる生命の体現である、しかし之を自己の個人性の立場より見れば明かに「甦へり」と云ふべきである。 されば復活は実に奇跡として起るのである、今それに潜めるキリストの生命が何時か一度突如として体を纏ふに至るのである、そは恰も「容形なく曠空《むなし》くして暗黒淵《やみわだ》の面にあり」し時に於て光と天と地と万象とが突如として現はれ出でし如くであらう、然るに此奇跡的に神より与へらるし復活と栄化と永生とを信ぜざる者は進化てふ(503)一観念を過信して社会と人類の進化に極度の希望を置くのである、社会は或は進歩するかも知れぬ、人類は或は進化するかも知れぬ、しかし果して完全の満足を人に与ふるに至るであらうか、今や改造の声は全世界に充ちてゐる、果して改造は成就するであらうか、改造を高らかに叫ぶ者も自己一身の改造すら成し遂げ得ぬ状態ではないか、独の大哲ゲーテは人類の改善進歩を高唱しつゝありしにも係らず、人類と社会との前途については深き疑を抱けるまゝにて死せしと云ふ、実に人力に依る人類改造の不可能は誰人も直覚しつゝある事である、|実に改造完成は神の奇跡力に基づいて起る〔付○圏点〕、再び宇宙を創造する如き絶大の力が加はらずしては人類の完成は起らない、|実に神がキリストを以てする人の救は新たなる創造である〔付○圏点〕、之に新生命を注ぎそして遂に此生命の体現を事実ならしむ、これ神にして初めて為し得るところの奇跡的事業である。
 之に比しては世に謂ゆる改造の如きは実に浅き表面のことである、かゝる人類の努力を以てする改造はよし成就しても、人の肉体を化して永へに生くる体たらしむる如き力を表はし得ない事は明々白々である、そして永生なき処、如何に他の事が悉く改善されても、死の苦みが依然として存する以上人類に完全なる満足の来る筈はない、復活あり栄化あり永への生命あり愛する者との再会ありて、「神かれらの目の涙を悉く拭ひとり復た死あらず悲み哭き痛み有ることなき」に至らずして、如何にして人々に完き満足と完全なる生活が有り得よゝつか、寔にさうである、天国来るまでは人は満足しないのである、自然の進化も人力を以てする改造も恃むべからず、唯神の為し給ふ奇跡的大改造のみ我等の希望のかゝる所である。
 最後に見るべきは十章九節である、「そはもし汝口にて主イエスを認《いひあ》らはし、又汝心にて神の彼を死より甦へらしゝを信ぜば救はるべし」とある、主イエスを信ずること、そして彼の復活を信ずること、是れ実に人を救ふ(504)に足るべき信仰である、これ以下の信仰を以ては人は救はれないとパウロは断言したのである、以てパウロ思想に於て、又初代教会に於て信仰の内容として主の復活が如何に重き地位を占め居りしかを知るのである。
 以上の三つの節が羅馬書の中に於て直接復活に触れし箇所である、その数は多くはないが其説く所の内容の嶄新豊贍なるは敬歎すべきである、之を要するに我等はみづから義たる能はず唯イエスを信じて其義を与へられ、彼れ義たるために又我等が義とせられしために復活せし故我等も亦彼を信じて彼の義を纏ひて、彼にありて復活せしめらるゝのである、そして生命は遂に体現すべきもの故、我等が彼に在りて義とせられし其義的新生命は、遂に我等に霊体を以て復活を惹き起すのである、是れ羅馬書の復活観である、そして主の復活と其結果としての信者の復活とは、初代教会に於ては信仰の中枢であつたのである。  |注意〔ゴシック〕 余は本論を以て復活に関する余のすべての意見を言ひ尽してゐると云ふ事は出来ない、是はたしかに其一面である、然し乍ら読者が之を補ふに余が他の箇処に於て述べし所のものを以てせられんことを望む。(内村生)
 
(505)     CHRIST WITHIN ME.我が衷なるキリスト
                         大正10年9月10日
                         『聖書之研究』254号
                         署名なし
 
     CHRIST WITHIN ME.
 
 Christ within me is none other than the Holy Spirit Himself.Christ now dwelling in heaven,on the right hand of the Father,leaves me not desolate. He dwells in me through the Spirit,and leads me,and teaches me,and comforts me,as when He was with His disciples in the days of His flesh.The Christian is strong,not because of his incomparable faith,but because of the Strong Son of God,the Immortal Love,Who dwells in him,and works through him.I am more than a conqueror through Him that loveth me,i.e. through the Holy Spirit who is with me.The Spirit is a present reality,and makes the Christian religion, not merely a thing of past,or of future,but a working power,NOW and HERE.
 
     我が衷なるキリスト
 
 我が衷に宿り給ふキリストとは聖霊御自身以外の者ではない、キリストは今は天に在し、父の右に坐し給ふと(506)雖も、我をして地上に在りて孤児として存し給はず、彼は聖霊を以て我が衷に宿り給ふ、而して我を導き、我を教へ、我を慰め給ふこと彼が肉を受けて地上に在りて其弟子等と共に在《いま》し給ひし時に異らない、クリスチヤンの強きは彼に無比の信仰有るからでない、詩人テニソンの謂ゆる「不朽の愛なる強き神の子」が彼の衷に宿り彼を通うして働き給ふからである、我は我を愛する者に由り勝ち得て余りあると云ふのは我と偕に在し給ふ聖霊に由りて然かあるを得るのである、聖霊は現在の事実である、聖霊に由りて基督教は単に過去又は未来の事にあらずして、現在目下の事となるのである、「イエス答へて曰ひけるは若し人我を愛せば我言を守らん、且我父は之を愛せん、我等(父と子)臨《きた》りて彼と偕に住むべし」とあるは此事である。(約翰伝十四章廿三)
 
(507)     〔力の宗教 他〕
                         大正10年9月10日
                         『聖書之研究』254号
                         署名なし
 
    力の宗教
 
 若し基督教が思想であるならば、善き頭脳と共に金と時とを有する人は何人と雖も之を了解して善き基督者《クリスチヤン》たる事が出来る、而して多くの人は、殊に大抵の近代人は、基督教を如斯くに解して、偏に研鑽錬磨の功を積んで之を会得して自から深遠なる基督者たらんと欲する、然れども幸にして基督教は思想でない、故に之は神学者と註解書を読破して了解し得らるゝ者でない、基督教は人をして救拯に至らしむる神の能力である、故に神より直に賜はる者であつて、人より進んで獲得する事の出来る者でない、基督教は神学でない、聖書知識でない、信仰であり、聖霊の能力である、神の最大の賚賜《たまもの》である、故に切に祈り求むべき者、又謙遜りて恩賜に接すべき者である、基督教に在りては、知識は縦令聖書知識たりと雖も、神より直に降る真の生命の代用をなさない、無学は勿論択むべきでない、然れども基督教は書籍に於て求むるも之を獲るを得ない、心の貧き者即ち知識に頼まざる者は福なり、天国は其人の有なれば也。
 
(508)    信者の可能性
 
 問題は多くある、其解決は難くある、弱き我、我れ争で之に当るを得んや、然れども我が之に当るのではない、全能全智の神が之に当り給ふのである、而して我はたゞ自己を彼に委ね奉り、彼をして我を以て働かしめまつれば、我に由りて大事も容易に成るのである、神は預言者ゼカリヤを以てゼルバべルに告げて曰い給はく、
  万軍のヱホバ宣ふ、是は権勢《いきほひ》に由らず権力《ちから》に由らず、我が霊に由るなり。
  ゼルバべルの前に当れる大山よ、汝は何者ぞ、汝は平地とならん。
と(撒加利亜書四章六、七)、実に其通りである、政権に由り武力に由りて何事もない、然れども神の霊に由りて為し得ざる事はない、神の愛児の前には大山も平地となる、社会問題何者ぞ、労働問題何者ぞ、大平洋問題何者ぞ、首相と大統領とが脳漿を絞りて為す能はざる事を、神の児等は聖霊の力に由て為すことが出来る、世界人類唯一の希望は茲に在る、神の霊の働きに在る。
 
    不快なる日本の社会
 
 日本の天然は美しくある、其社会は悪しくある、居心の悪い社会とて日本の社会の如きはない、其点に於て米国の社会と雖も優《はるか》に日本のそれに勝る、何故に然る乎と云ふに、|日本の社会に在りては敵と味方とが判然しないからである〔付△圏点〕、日本の社会に在りては誰が敵か、誰が味方か少しも判明《わから》ない、敵と思ふ人が却て味方である場合があり、味方であると思ふ人が敵である場合が甚だ多い、日本人は人と交はるに敵味方を択ばない、甲と乙とが争(509)つて居る場合に甲とも交はり、乙をも友とする、彼等は斯く為さざる事を狭隘と称し、何人よりも獲る丈けの物を得んと欲する、而して其結果たるや友誼は其根柢に於て毒され、人は人と交はるに方て何人をも信頼する能はざるに至る、敵味方を判明にするは友誼を鞏固にする為に必要である、人は其友の敵を友として彼と純粋の交際に入ることは出来ない、一人の真の友を獲んと欲すれば、数人の友を棄てざるを得ざる場合がある、総の友を保存せんと欲すれば、一人の友をも獲ることは出来ない、友は貴重品である、高き代価を払はざれば之を購ふことが出来ない、然るに成るべく多くの友を獲んと欲して却て一人の真の友をも得る能はず、日本人は友誼の此秘訣を解せざるが故に彼等の間に真の深い堅い友誼は成立しないのである、宗良親王の名歌に曰く「諏訪の湖や氷を渡る人の世も、神し守らば危からめや」と、実に能く日本人の心中を歌ふた歌である、日本人の社会は氷を以て張詰めたる諏訪湖の如き者である、之を渡る者は何時信頼の友に裏切られて苦痛の深淵に陥るかわからない、故に日本人は何んに対しても不断の注意を怠らず、火を見れば火事と思ふが如くに、人を見れば敵と思ひ、之に対して堅固なる防衛の城壁を築くのである、而して如斯きは不信者の間に止まらず、所謂基督信者と称する者の間に於ても同然である、唯神の守護に依りてのみ是等「偽り兄弟の難」を免かるゝ事を得るのである。(哥林多後書十一章廿六節、提摩太後書四章十四、十五節等参考)。
 
(510)     聖霊に関する研究
                      大正10年9月10日、10月10日
                      『聖書之研究』254・255号
                      署名 内村鑑三
 
 基督教に|三大真理〔付○圏点〕がある、そして其一つ/\が凡て人の思ふ所に過ぐをものである、且之を深く究め又味へば何れも偉大なる革命的真理たること明瞭である、|第一の真理は神は力にあらず法則にあらず実に「愛なる父」である〔付○圏点〕と云ふ事である、これ慥に革命的大真理である、基督教の凡ては此中に含まると云ひ度き程の大真理であるため、多くの人々は其真理の大なるに眩惑して之のみを把握して他を基督教より全然排拒し去らんとして居る、併し此真理は如何に大なりとも福音は之にて尽くるものではない、尚ほ|第二の大真理〔付○圏点〕が存する、それは|キリストは人にあらず最大の偉人にもあらず実に神御自身なり〔付○圏点〕と云ふことである、これ亦信ずるに難き教ではあるが聖書の明に示す処であつて、之を信じて其偉大なる革命的真理たるを知るのである、キリストを神と見て自己並に社会並に全宇宙の過去現在未来までが明白となるのである、人生問題として之れ以上に重きものはない、故に此真理を把握すれば他は不用なりと考ふる人のあるのも亦無理ならぬ事である、併し福音は之で尽きない、更に|第三の大真理〔付○圏点〕がある、|聖霊は神より来る力に非ず又キリストに依る感化力にあらず、聖霊は即ち神にして人格者〔付○圏点〕(Person)|として我等に臨むといふ事〔付○圏点〕これである、これ聖書の明白に示す所にして疑もなく革命的大真理である、福音の全部が此一真理にありと誤想する人のあるのも是れ亦無理ならぬことである。
(511)  聖霊を「人格者」と云ふ、英語で云へば Person である、併し人格者といふ語は「人」であると云ふ感じを起させ易い語である、元来此語は聖霊が単なる力ならずして人と同様に心を備ふる存在者であることを示すために用ひられしものである、故に日本語の「御方」に相当するのである、即ち「聖霊といふ御方」である、以下此語を用ひる。
以上の三教理は各々大真理である、之を全部併せ信じて福音を其凡ての方面に於て深く味ふを得るのである、神は父である、キリストは神である、聖霊は「御方」である、願くは我等三位の神を我神として拝し得んことを。
 以上の中第一、第二の真理に就ては余輩は数十年間述べ来つた、第三の真理たる聖霊問題についても度々論述する所あつたが、其研究に於て尚足らざるの憾みを免かれなかつた、故に之を余輩に最後に残されし聖書研究の大問題として以後細説し又高調し度いのである。
 |先づ考ふべきは聖霊を欠く信仰が大なる欠陥を有する一事である〔付△圏点〕、我等キリストを信ずる時 第一に其の十字架上の贖罪を信じ、第二に其の復活昇天栄化を信じ、第三にその再臨を信ずる、この三者は何れも大なる信仰的真理である、我等その一をも欠くことを得ない、併し乍ら静かに考察すべきは此三信仰の性質である、第一に十字架上の贖罪の信仰は勿論現在の我赦免に係はるものではあるが贖罪そのものは遠き昔に於て為されし十字架の罪の贖一事を指すのである、其貴重なる大教義たるは云はずして明かではあるが、同時にそれが現在の事にあらずして過去の事たるも亦明かである、第二にキリスト復活栄化して彼れ今や父の右に坐して我等のために執成し給ふと云ふ信仰は勿論貴き信仰である、併し事の本性上天上に関することである、従つて我等地上にありて世と戦ひ又己と戦ひつゝある者に取つては、此信仰のみにては何となく遥かに天を仰ぐと云ふ遼遠離隔の感な(512)きを得ない、第三の再臨の信仰は是れ亦我等の希望の繋がる所の大事実であるが同時に是れ亦未来に関する信仰たること云ふ迄もない、従つて現在より離れ易きものたることを免かれない、かく考ふる時はキリストに関する信仰は過去と天上と未来とに係はるものにして、勿論貴重にして且必要なる信仰たることは事実であるが、地上に今日戦ひつゝある者の信仰としては大に不足の点ありと云はねばならぬ。
 然らば我等この不足を如何にすべきか、不足のまゝにて安んずることは出来ぬ、如何にもして此欠陥を補はねばならぬ、然るに幸ひなるかな神は聖霊を我等に下賜し給ふて裕かに此欠陥を補ひ給ふのである、聖霊は今地上にありて我等の中に宿り、キリストの贖罪の効果を事実的に発現して彼の慰めを齎らし、彼が後の日に現はれ給ふまで我等の希望を養ひ、|今地上〔付○圏点〕に於てキリストに代つて我等を導き、護り、育て、培ひ給ふのである、換言すれば聖霊は|地上今日〔付○圏点〕に於ける我等の指導者、慰藉者、且救主たるのである、茲に於て、聖霊を信受するに至て我等の信仰は強く現在的に化することゝなり、|今現実〔付○圏点〕に神の力を感受するの幸福に入るのである、而して現実に於て力を感ずるは福音を信ずる者に於て是非ともなくてならぬ事である、従つて聖霊を受くるの如何に肝要なるかを知るのである。
 されば聖霊を受くることなくしては福音を実際的に信得し且その命ずる所を守ることは不可能である、一例を挙げて言はう、己の如く汝の隣を愛すべしと云ふは主が第二の大なる誡めとして与へ給ひし所である(マタイ二二の三四以下)、この簡単なる基督教道徳にても聖霊に依らずしては完全に守ることを得ないのである、我等或は地上に於て営まれしキリストの御生涯に効《なら》はんと努めて此愛の誡を実行せんとする、又はキリストを仰ぎ其助けを受けて人を愛せんと努める、或は又未来に現はるべき彼の栄光を待望する事に依て愛の徳を行はんと力める、(513)何れも空しき努力ではないが之等に依ては到底愛を有力的に実行するを得ないのである。
 そして|愛の実行を促すものは聖霊それ自身である〔付○圏点〕、パウロは言ふ「たゞ之のみならず患難にも欣喜をなせり、そは患難は忍耐を生じ、忍耐は練達を生じ、練達は希望を生じ、希望は耻を来らせざるを知る、こは我等に賜ふ所の|聖霊に由りて神の愛われらの心に〔付○圏点〕灌漑|ばなり〔付○圏点〕」と(ロマ書五の三−五)、我等は聖霊に由て直接に愛を感ずるのみならず聖霊が直接に我心に臨みて愛を注ぎ給ふことを願はねばならぬ、かくして人に対する愛が実行し得るに至るのである。
 愛の教は単にキリストの誡めたるに止まらない、又実に其御約束である、彼は聖霊を降して彼の愛を我等に注ぎ給ふと約束したのである(約翰伝十四章以下の主の遺訓を見よ)、この約束あるにより我等地上の生涯に於て聖霊を祈り求めて愛を行ひ以て主の約束は我等に成就さるゝのである、其他希望と云ひ忍耐と云ひ憐愍と云ひ之を単なる誡めと見るべきではない、誡めなると共に亦神の約束である。
 そして誡めに可能性を与ふるは聖霊である、換言すれば誡めを行ふは聖霊に依るのである、即ち聖霊を受けて初めて誡めを実行し得るのである、されば聖書の中に於て誡めの記されある場合は単に之を道徳的に誡めとのみ解すべきではない、哥羅西書三章五節に「汝等の地にある肢体……を殺すべし」(Mortify your bodies)とある如き自力的の誡めと見られ易く、之を以て禁慾の命令と見し人は古来少なくないのである、併し乍ら之を加拉太書五章十六節と照合せよ、後者は曰ふ「我れ云ふ汝等霊に由りて行《あゆ》むべし、されば肉の慾を成すことなからん」と、見よ聖霊の接受は原因にして誡の実行はその自然の結果である、単なる誡は未だ曾て与へられないのである、常に之に添へて聖霊の恩賜が約束せらる、信徒はその愛の実行に当つては偏に聖霊に頼まざる能はず、神は之に頼(514)めと教示し給ふのである。
 聖霊に頼りて神の誡めを守らんと力めて初て「其の(神の)誡めは難からず」(一ヨハネ五の三)と云ひ得る、もし聖霊に依らずしてキリストの誡めを行はんと努力せんか是れモーセ律以上の重荷を負はさるゝことである、げに堪へ難き事である。
 聖霊は人格者である、「御方」である、我等これに依らずしては此弱き肉にありて此罪の世に勝つことを得ない、聖霊あるに依り福音は地上にての実行力となる、聖霊を除きし信仰に美はしき所、慕ふべき所あれど、聖霊ありて初めて信仰は勝利をもたらす信仰となる、我等切に聖霊の恩賜を祈求せんかな! 然り聖霊の恩賜を祈求せんかな! 〔以上、9・10〕
 基督者《クリスチヤン》とは如何なる者を指して云ふのであるか、謂ゆるキリストの精神を有つ者必ずしも基督者ではない、又聖書や基督教に関して豊富な知識を備ふるもの必しも基督者ではない、|基督者とはキリスト御自身の宿る所となりしものを指して云ふのである〔付○圏点〕、然らざる者は如何にキリストの心に似た心を有つとも、如何に山の如き聖書知識を貯ふるとも決して基督者ではないのである。
 パウロは羅馬書八章九節後半に於て言ふ「凡そキリストの霊なき者はキリストに属かざる者なり」と、此場合「キリストの霊」とは彼の精神を云ふのではない、神がキリストを以て遣《おく》り給ふ聖霊を指して云ふのである、それは同じ節の前半に於て「もし|神の霊〔付○圏点〕なんぢらに住まば汝等は肉に居らで霊に居らん」と言はれしを参照すれば明白である、さればキリストの霊なき者はキリストに属かざる者であると言ふのは、|聖霊を受けざる者は基督者でないと云ふ事である〔付○圏点〕、パウロは又加拉太書四章十九節に於て言ふ「我|小子《をさなご》よ我れ汝等の心にキリストの状《かたち》(糢(515)型)成るまでは再び汝等のために産の劬労をなす」と、此場合に於て「キリストの状」とあるは躰得せられたる聖霊と解して可《よ》いのであると思ふ、即ち漠然たる或霊を指さずして、キリストの状とある通り明確なる或る霊的実在物を指して云ふのである、パウロは聖霊が確実にガラテヤの信者たちの心に降るまでは満足しないと云ふのである、これ等のパウロの語に依て見るも、基督者とは聖霊の来り宿る所となりし人を指すのであることは明白である。 そして之は単にパウロの主張したことに止まらない、実に主イエスの約束し給ひし所である、約翰伝十四章二十三節に「もし人われを愛せば我言を守らん、又我父は之を愛せん、|我等来りて彼と共に住むべし〔付○圏点〕」とある、これ神とキリストが来つて信者と共に住むの意にして、即ち人の心霊《たましひ》に於ける聖霊の内在を説いた語である、キリストを愛して聖霊の来り住む処となつて初めて基督者となつたのである、キリストは斯く聖霊の恩賜を約束し給ふた、この約束の実現せらるる処に基督者が起るのである。
 此事たるや旧約預言者も亦予め預言せる処である、今その一例を挙ぐれば以西結書三十六章二十七節の如きそれである、「我れ|我霊を汝等の衷に置き〔付○圏点〕汝等をして我|法度《のり》に歩ましめ我|律法《おきて》を守りて之を行はしむべし」と云ふ、これヱホバが其民に対して約束し給ひし所としてエゼキエルの掲げたる語である。
 以上の如く事は頗る明白である、基督者たるは人間的手段方法を尽して成り得ることではない、聖霊の降臨を仰ぎその我衷に住む所となりて初めて基督者たり得るのである、生物学の語を以て云へば biogenesis である、生命に依て生命を受くること、生より生の出づる事である、死より生を起すことは出来ぬ、聖霊なき所に基督者の生れ出づる筈がない、直ちに神の生ける霊に接すること是れ即ち基督者たる唯一の道である。
(516) 世には似而非《にてひ》なる基督教がある、福音の仮面を被れる福音ならぬものがある、此者は声高く叫んで云ふ、人は生れながらにして神の子である、此事を悟りし者が即ち基督者であると、然るに聖書の明かに示す所に依れば、人は生れながらにして罪の子にして神の怒その上に止まるものである、故に人は新なる霊を受けねばならぬ、即ち真の生命、キリストの霊、限りなく在す神の霊を受けねばならぬ、かくして新たなる人となりし者が即ち基督者である、人は生れながらにして神の子ではない、罪を悔ひキリストに従ひ聖霊を受け旧きを棄てゝ新しくなつて初て神の子となるのである。
 されば人が基督者たる時に其処に一の奇跡が行はれたのである、この奇跡の行はれない所には――即ち父の霊来つて人の魂を化せざる所には−如何に外部より基督教的感化力を及ぼすも、聖書知識を注入するも、又は謂ゆる基督的文化を接受せしむるも到抵基督者たり得ないのである、然るに今日基督教徒と称する者の多くは唯此外部的の勢力に触れたと云ふだけの者である、即ち未だ聖霊を受けず又受けんともせざる、換言すれば再生の奇跡を経過せざる者である、彼等に真の生命なく、生れ更りし入らしき処なく、自己と世界とを改造する力なき事是れもとより然るべきである。
 茲に於てか聖霊を祈り求むる事の如何に必要なるかを知るのである、之に勝りて何の貴きものがあらう、我等は聖霊を受けて先づ己に死なゝくてはならぬ、パウロは加拉太書二章二十節に於て言ふた「もはや我れ生けるにあらずキリスト我にありて生けるなり」と、キリストその聖霊を以て我が中に宿り給ふ時に於て、我が死しキリスト我に代つて生き給ふのである、其時われらは基督者となり、此の罪の世にありて神の子として輝き、又キリストの兄弟として神の栄を放ち得るのである、今日人の内心の切に要求する処は、又全世界が其無言の呻きを以(517)て要求する処は、|人が神の霊を受くる〔付○圏点〕てふ大恩恵に与りて、此世の哲学や宗教や思想の夢想だもする能はざる新創造の実現を見ん事である、茲にのみ人類の希望あり、之を離れては他に人類の希望は一もないのである。 〔以上、10・10〕
 
(518)     『霊交』の解
                           大正10年10月1日
                           『霊交』 1号
                           署名 内村鑑三
 
 霊交は霊の交際であります、政治、社会、経済、法律、殖産、外交と云ふが如き肉に関する事に於ての交際ではありません、又知識の交換と称して学問上の交際でもありません、又同志と称して主義又は精神上の交際でもありません、更に亦教友と称して教義又は教会を共にするより起る交際でもありません、霊交と称して人の霊即ち其中心に於ての交際であります、最も深い交際であります、事業、知識、主義、主張、教理、信条と称する者よりも更に深い所に於ての交際であります。
 然し基督者《クリスチヤン》に取りては霊交は単に人の霊と霊との交際ではありません、人の霊は深い者でありますが、然し神の霊は更に深い者であります、そして人の霊は元々神の霊より出《いで》たる者でありますから、人は霊に於て交はらんと欲して神に由りて交はるより他に途がないのであります、即ち、人は直接に霊交する事が出来ないのであります、神の霊の宿る所となりて人は同じ霊の宿る所となりし他の人と交はる事が出来るのであります、聖書に之を称して「聖霊の交際《まぢはり》」と云ひます、聖霊に於ける交際《かうさい》であります、或ひは又聖霊を通うして為す所の交際であります、実に聖霊は信者相互の交通機関であります(私は敬虔《つゝしみ》を以て斯の言葉を用ひます) 聖霊に由らずして神と人との交通のないやうに、又聖霊に由らずして人々相互の間の、深い聖い交際はないのであります。
() 我等は神の霊に由りて相互の霊に於て交はらんと欲するのであります、故に茲に虚偽を弄するの余地はありません 又学問を衒ふの機会はありません、万事が誠実で、公平で公明で、謙遜でなくてはなりません、即ち、我等は以弗所書五章十八節以下に於てパウロが曰ふが如き交際を為さんと欲するのであります。
  汝等宜しく霊《みたま》に満たさるべし、互に詩と歌と霊に由りて作れる賦とを以て語り合ひ、又歌ひて汝等の心に主を讃美すべし……キリストを畏るゝ心を以て互に服ふべし
 
(520)     GREAT DEMANDS.大なる要求
                         大正10年10月10日
                         『聖書之研究』255号
                         署名なし
 
     GREAT DEMANDS.
 
 It is written:Be ye perfect,even as your Fatller which is in heavenis perfect. Again:Be ye holy;for I am holy.Is it possible for weak,imperfect men to meet so great demands? It is not possible,and iti s possible.Not possible by their own efforts;possible by the power of the Almighty Father.“Be ye perfect”means“Submit yourselves to be perfected by Him.”He is able(〓).God by sending the Holy Spirit in Christ CAN recreate us,and fashion us to the image of His Son.Whatis called Christian Morality is not to be considered apart from God and His Christ;as it is also written:Apart from Me,ye can do nothing;and:With God all things are possible.
 
     大なる要求
 
 神が其児等に為し給ふ要求は大である、曰く「天に在す汝等の父の完全きが如く汝等も完全くすべし」と(馬太伝五章四八節)、ヱホパ曰ひ給ふ「我れ聖ければ汝等も聖くすべし」と(彼得前書一章十六)、是は弱くして不完全(521)なる人に対せる要求としては無理の要求であるやうに見える、恰かも小児に対つて大人の力を出せと云ふが如きである、然しながら無理のやうであつて無理でない、神は斯かる要求を為し給ふに方て之に応ずるの途を備へ給ふたに相違ない、勿論人は自から努めて神の如くに完全く又聖くなる事は出来ない、然し乍ら神に於ては能はざる事なしである、「完全くすべし」とは神に由て「完全くせらるべし」との意である、「聖くすべし」と云ふも同然である、神はキリストに在りて聖霊を遣りて信者を聖くし給ふのである、人は聖霊を受けて自分で為す能はざる事を為し得るのである、神は為し能ふ、基督教道徳は神を離れて考ふべき者でない、|神に由りて〔付○圏点〕人は完全く且聖くなる事が出来る。
 
(522)     〔過去の回想 他〕
                         大正10年10月10日
                         『聖書之研究』255号
                         署名なし
 
    過去の回想
 
 今を去ること二十一年前、聖書の研究は甚だ不人望であつた、其時日本国中之を表題として雑誌を発行せんとする者は一人も無かつた。其時に当つて『聖書之研究』を発行するは無謀に近き危険なる大胆なる企計であつた、然し神の恩恵に由り余輩は其事を為した、而して十数年の長き間、余輩に真似る者は一人もなかつた、「コスモス開き、山茶花咲き、木犀香ひ、菊花薫り、灯前夜静にして筆勢急なり、知る天啓豊かにして秋酣なるを」、斯くて角筈の櫟林に於て、柏木の麦圃の中に、単独此仕事を続けた、実に愉快なる年月であつた、然し時勢は変つた、今や聖書研究が世の歓迎を受くる時となつた、而して何人も聖書雑誌を発行して読者を得るに難からざるに至つた、余輩は時勢の此変化を喜ぶ、兎にも角にも聖書が日本人の書となりつゝあるを見て神に感謝する、然し乍ら其れと同時に亦往時の快感の失せしを歎ずる、今や聖書研究が一種の流行と成りつゝあるを見て、之を継続するの稍々男らしくなきを感ずる、時には思ふ、聖書研究が世の歓迎を受くるの今日、余輩は此業を去て、他に勇気と独立とを要求する事業に就くべきではない乎と、恰も山中の仙境を俗人に発見せられて、其所を逃去る(523)の必要が起りしやうに感ずる、余輩は此国に於ける聖書研究の開拓者、其先躯者たるの名誉に与かつた、然れども荒蕪既に開けて開拓者は永く其地に留まるべきではない、彼は更に進んで更に新しき未墾の地を拓くべきである、福音の為に希臘羅馬を拓きしパウロは更に西の方西班牙指して進んだ、|嗚呼余輩の到るべき西班牙は何処に在るや、北の海か、東の山か、寒村か、僻邑か、何れにしろ余輩は人の未だ到らざる所に往かんことを欲する〔付○圏点〕、然れども猶ほ暫らく羅馬に止まれと云ふが神の聖旨ならば、余輩また何をか言はん、唯聖旨をして成らしめ給へと答へまつるのみである。然れども近頃聖書研究の故を以て稍々世の歓迎する所となるを見て、余輩に不安の念の禁じ難き者あるは偽はらざる事実である。
 
    洋行熱
 
 洋行又洋行、今日の如くに洋行が流行する時は未だ曾て無かつた、何の為の洋行か? 勿論新知識を得て先づ第一に自分が偉くなり、第二に|自分に由りて〔付△圏点〕国が偉くならんが為である、然れども敢て問ふ、欧米の新知識は人と国とを偉くする乎? 洋行して偉くなつた人は何処に居る乎? 日本国は西洋文明の輸入に由て果して偉大なる国になつた乎? 甚だ疑はしき次第である、欧米の新知識は人を大為我主義者(great egoist)となすの外に何の効果あるを知らない、西洋文明は日本国を欧米諸国同様大物欲国となした外に何の善事をも為さなかつた、所謂「洋行帰り」の人を見よ、彼等の大多数は劇烈なる自己中心主義者である、彼等は自己を国に献げんとする人に非ずして、国をして自己に仕へしめんと欲する人である、彼等は洋行して「自己を発見したり」と称して、実は国を忘れ、民に背きし人等である、人生最大の獲物は洋行して獲らるゝ物ではない、正義である、憐憫である、(524)謙遜である、是等は紐育、倫敦、巴里等に於て得るに最も難き物である、人生最大の獲物は洋行せずして、此菊と桜の国に於て獲るに難くない、然り真摯敬虔なる点に於ては日本国は欧米諸国に優さるも劣らない、何故に此国に止まつて直に天の神に接し其指導と黙示に与らざる、何故に神の援助に由り西洋文明以上の文明を作らざる、|洋行可なり〔付○圏点〕、|西洋人を教化せん為に洋行するは可なり、宣教師となりて彼等に真の福音を伝へん為に洋行するは可なり〔付△圏点〕、然れども今日の如くに彼等に教へられん為に洋行するの必要は何処に在る耶? 視よ米国の宗教界を、暗黒極まるとは米国の宗教界である、今や宗教の事に於て日本人は米国人に学ぶ必要は少しもない、寧ろ我等より行いて彼等に真の福音を説くべきである、米国人に教へられて日本人は彼等と共に亡びざるを得ない、洋行せよ、然り洋行せよ、宣教師としてならば洋行せよ、然れども彼等に教へられん為には洋行するも益する所甚だ尠ないであらう、|殊に伝道金募集の為の洋行は耻辱の絶頂である〔付△圏点〕。
 
(525)     パリサイの麪酵
                         大正10年10月10日
                         『聖書之研究』255号
                         署名 内村艦三
 
  其弟子|対《むか》ふの岸に到りしにパンを携ふる事を忘れたり、イエス彼等に曰ひけるは心してパリサイとサドカイの人の麪酵を慎めよ、弟子互に論じて曰ひけるは是れパンを携へざりし故ならん、イエス之を知りて曰ひけるは信仰薄き者よ何ぞ互にパンを携へざりしことを論ずる乎……是に於て弟子その麪酵にはあらでパリサイとサドカイの教を謹めと言へるなるを悟れり(馬太伝十六章五−十二節)。
  イエス弟子に曰ひけるは汝等パリサイの麪酵を謹めよ、是れ偽善なり(路加伝十二章一節)。
 イエスはパリサイの人を嫌ひ給ふた。其れは勿論彼等を人として嫌ひ給ふたのではない。パリサイの人は当時の清教徒であつて、彼等の間に多くの貴むべき愛すべき点があつた。宰《つかさ》ニコデモはパリサイの人であつた。イエスは彼を愛し、彼は最期までイエスを尊敬した。イエスは又パリサイの人シモンの招待《まねき》に応じて其客となり給ふた(路加七章)。又イエスの死後に其弟子等を弁護し、彼等の身に危害を加へざらしめし者はパリサイの人にて衆民《たみ》の中に尊ばれし教法師ガマリエルであつた(行伝五章)。而して最後にイエスの最大弟子となりて其福音を全世界に伝ふるに至りし者は同じガマリエルの弟子の一人なりしパリサイ派のパウロであつた。ユダヤ歴史を読む者はパリサイの人は当時の猶太人中最も高潔且優秀なる者でありし事を知る。パリサイの人と云へば偽善者(526)の代名詞である乎の如くに思ふは大なる間違である。
 然らばイエスは何故にパリサイの人を嫌ひ給ふた乎と云ふに、其れは彼等の「教」の故であつた。今日の言葉を以て言ふならば其主義精神の故であつた。パリサイの人は党人であつた。而して党人根性を最も明白に発揮した者であつた。彼等は※[行人偏+扁]く水陸を歴巡り一人をも己が宗派に引入れんとした(馬太伝廿三章十五)。彼等は天国を人の前に閉ぢて自らも入らず且入らんとする者の入るをも許さなかつた(同十三節)。|即ち彼等は信仰の人であるよりは寧ろ宗派の人であつた〔付△圏点〕。彼等の伝道は神の道を伝ふる為の伝道でなくして自分の勢力を拡張する為の伝道であつた。彼等は人がパリサイ派に入らざる限りは神の道を聞かざらん事を欲した。故に彼等に由りて信者となりし者は彼等よりも倍したる地獄の子となつた(同十五節)。嫉妬、陥※[手偏+齊]、暗闘、結党は彼等の常性であつた。彼等の信仰なる者は宗教の名の下に政治的野心を行ふに過ぎなかつた。
 以上がパリサイの麪酵である。其「教」である。其主義精神である。而して是れあるが故にイエスは何者よりもパリサイの人を嫌ひ給ふたのである。イエスの精神はパリサイの人のそれと正反対であつた。二者は両立し得る者でない。イエスに政略は毛頭なかつた。彼はすべて正直率直であつた。「然り然り否な否な、此より過るは悪より出るなり」とは彼の教であつて、又彼が常に実行し給ひし所であつた(馬太伝五章三十七)。イエスに疑ふの心はなかつた。彼は雲雀の如くに日光を愛し給ふた。嫉妬、暗闘、結党の如きは暗黒を愛する蝙蝠族の為す所であつて、常に日光の内に棲息する雲雀族の王の堪ゆる能はざる所であつた。イエスの立場より見て最も嫌ふべき者は無知無能無芸の民ではなかつた。彼は能く大抵の罪悪に堪へ給ふた。然れどもパリサイの麪酵に至つては、政治的野心を以て行ふ宗教に至ては、神の名を用ひて人の益を計るに至ては、信仰の名の下に自党の利害を語る(527)に至ては……イエスは之に対する憎悪の念を発表するに足るの言葉を持ち給はなかつた。故に彼は彼等に対するに彼の感情有の儘を発露するより他に途がなかつた。曰く「ウーアイ嫌ふべき者よ」と。和訳の「噫汝等禍なる哉偽善なる学者とパリサイの人よ」とは弱い訳字である。「蛇蝮《へびまむし》の類」とは彼が彼等に与へ給ひし名称である(三十三節)。暗黒《くらき》を愛する蝙蝠族、毒を蔵《かく》す蛇蝮類、税更《みつぎとり》よりも、娼婦《あそびめ》よりも憎むべき嫌ふべき政治的宗教家……イエスはパリサイの人の前に立ちて純潔の処女《をとめ》が悪漢の前に立ちしやうに感じ給ふたのである。
 而してパリサイの人の麪酵、是れ何時の世にも在る精神である。|悪魔は必ず宗教家となりて世に顕はるゝのである〔付△圏点〕。即ちパリサイの人となりて現はるゝのである。彼は誠に宗教家|らしく〔付△圏点〕ある。彼に神学がある、聖書知識がある、熱心がある、謙遜がある、所謂社会奉仕の心がある。外見に現はれたる彼は立派なる宗教家である。故に多くの人は彼に帰服する。彼れ自身も多分悪魔なることを知るまい。然れども其れあるに係らず彼は蝮の裔である。彼は光明を嫌ふ。自党を愛する。他を指導せんと欲して指導せらるゝを好まない。正義に訟へない、愛を説いて感情に問ふ。自党確立の為に一致協同の必要を説く。怒らない、穏健なる君子である。他を称んで蛇蝮の類《たぐひ》と云ふが如き事は断じて為さない。立派なる基督教的紳士である。常に聖書の言を引いて語る。何人が見ても模範的基督者である。
 然し乍ら神の子イエスは斯かる「完全なる人」を嫌ひ給ふ。斯かる人は其外観の美はしきに係らず蝮の裔である。故にペテロの如き正直者が此麪酵の毒する所となり、正義を念とせずして利害を思ひ、イエスのヱルサレムに上りて身を危険に曝さんとし給ふを見て、彼を引留めて「主よ宜からず此事汝に来るべからず」と言ひしや、イエスは彼の愛する弟子に悪魔の乗移りしを認め、彼を叱責して言ひ給ふた「サタンよ我が後《うしろ》に退け、汝は我に(528)礙く者なり、汝は神の事を思はず、人の事を思へり」と(馬太伝十六章廿一以下)。イエスは茲にパリサイの麪酵の彼の率ゐる小団体の間に入らんとするを認め給ふたのである。故に大喝一声之を斥け給ふたのである。ペテロは此際確かにサタンと化したのである。イエスにして此際若しペテロの此行為を許し給ひしならば彼の福音は其源に於て毒されたのである。事は小事に見えて重大事であつた。パリサイの人の麪酵は其痕跡だも弟子団の中に入るを許されなかつたのである。
 「神の事を思はずして人の事を思ふ」と云ふ。正義を思はずして政略を思ふ。斯くなすは宜し斯く為すは宜しからずと云ふ。社会の手前を憚り、自己自党の安全を計る、是れパリサイの人の麪酵である。而して此麪酵の犯す所となりてキリストの福音は其根柢より滅びるのである。今日の所謂教会何者ぞ パリサイの人の麪酵の脹発《ふくら》す所となりし三斗の麦粉たるに過ぎないのである(馬太伝十三章三三)。パリサイの人の間に行はれし弊害は悉く今日の基督教会の内に行はる。|基督教会、実は之をパリサイ教会と称すべきである〔付△圏点〕。昔のパリサイの人の美点も汚点も、長所も短所も悉く之を今日の基督教会に於て明に認むる事が出来る。余輩は今日の基督教会の欠点のみに注目して其美点を見逃さんとはしない。今日の基督教会の内に少数のニコデモ、ガマリエル、又タルソのサウロの在る事を余輩は疑はない。余輩は人として教会信者を尊敬し又彼等を愛する。然し乍らイエスにして今日彼の名に由て立つ教会を見給ひしならば、彼は其内に於て彼れ在世当時のパリサイの人の間に働きしと同様の麪酵の盛に働きつゝあるを認め給ふに相違ない。今日の伝道に競争の盛なる、教師間に嫉妬暗闘の盛に行はるゝ、「※[行人偏+扁]く水陸を歴巡り(外国伝道を行ひ)、一人をも己が宗旨に引入れんとす(一人も多く洗礼を授けて之を己が教会の会員たらしめんとす)、既に引入るれば之を汝等よりも倍したる地獄の子と為せり(既に信者となし教会員た(529)らしむれば宣教師同様或は彼等以上の地獄の子即ち党派の人となして嫉妬陥※[手偏+齊]離叛等有りと有らゆる党人の罪悪を行はしむ)」。是れ今日の基督教会に於て何人も目撃する事実である。即ちパリサイの名は絶えしも、其麪酵は絶えないのである。蛇蝮の類は依然として蕃殖し、※[釐の里が女]婦《やもめ》の家を呑み偽はりて長き祈祷をなし、人々よりラビ(神学博士)と称せられて上流社会と交際して得意然たるのである。而してイエスの心を以て心とする者は是等近代のパリサイの人に対してイエスが当時のパリサイの人に対せしと同様の態度に出ざるを得ないのである。「ウーアイ嫌ふべき者よ」と、「噫汝等禍ひなる哉偽善なる学者(神学者)とパリサイの人よ」と。若しキリストの福音と全然正反対なる者がありとすれば、其れは今日の宗教界に瀰漫する宗派心である。是は預言者を殺しながら其墓を建て義人の碑を飾る精神である。福音に似て最も非なる者、キリストの名の下にサタンの意志を行ふ者である。
 而して斯く唱ふる余輩も亦稍もすればパリサイの人と成り教会信者と化するのである。我は彼等の如くならずと唱ふる時に余輩も亦非パリサイ的教会を形作り易くなる。余輩も亦ペテロの如くに純福音を唱へながら神の事を思はずして人の事を思ひ易くなる。我が団体が貴くなる。其社交的体面を維持せんとする。福音の純潔を守ると称して他人の主義主張を異端視し、是と与すべからず彼と偕なるべしと云ふ。神の真理は太陽の光の如き者なることを忘れて、自分の書斎を照すランプの光を以て全世界を照さんとする。実に慎むべきは此時である。一歩を過まれば余輩自身が蛇蝮の類となるのである。余輩は思ふイスカリオテのユダは此淵に沈みし者であることを。ユダは世に所謂る悪人ではなかつた。彼も亦イエスを思ふの一人であつた。彼の離叛は悪意より出たと云ふ事は出来ない。彼は多分思ふたであらう、イエスは何時まで待つても身を起して世界の王となり給はない、故に(530)若し彼を敵人に附さば彼は奇蹟力を発揮して自己を救ひ敵を亡ぼして弟子一同が期待する世界王国を建設するに至り給ふであらう、是れイエスに取ての利益、又弟子団に取ての幸福なりと。斯くしてユダは師と団体との為を思ふて彼の大胆なる行為に出たのである。然し乍ら彼の目的は達せられずして師は十字架に釘けられ団体は四散したのである。ユダの動機に同情すべき所があつたと云ふを得やう。然し乍ら彼も亦神の事を思はずして人の事を思ふた。彼も亦パリサイの人の麪酵の化する所となりて其一生を過つたのである。憐むべきである、然し慎むべきである。而してイエスとしてはパリサイ主義の体得者なるユダと断ちて彼の弟子団の純潔を維持するより他に途がなかつた、パリサイの精神がイエスを十字架に釘けたのである。
 
(531)     伝道の目的
                         大正10年10月10日
                         『聖書之研究』255号
                         署名 内村鑑三
 
 若し伝道の目的が救済であるならば伝道は失敗である、伝道に由て国の救はれし例なく、伝道に由て済けられし人は済けられざりし人に較べて極めて少数である。イエスの伝道に由てユダヤは救はれなかつた、パウロの伝道に由て希臘も羅馬も救はれなかつた、ルーテルの伝道ありしに係らず独逸は今日の悲境に陥ゐつた、ウエスレー、スポルジョンの伝道を受けながら英国は今猶世界第一の偽善国である、ジヨナサン・エドワード、モーセス・スチェアートの如き大神学者に教へられ、ブシユネル、ムーデー等の大説教を聴きし米国は今や物慾主義の代表者として全世界を堕落の淵へと誘ひつゝある、而して国に於て然うである如く人に於ても然うである、伝道に由て救はれた人は無いではないが、救はれない人は遥に多くある、イエスは信ずる人には救拯の磐であるが、信ぜざる者には礙きの石である、老ひたるシメオンがイエスの母マリヤに曰ひしが如くに「此|嬰児《をさなご》はイスラエルの多くの人の頽びん事と且又興らん事と、誹駁《いひさからひ》を受けん其|号《しるし》に立らる」である(路加伝一章三四節)、イエスを伝へて救はるべき人は救はれ、救はるべからざる人は滅びる、不可解と云へば不可解である、然れども争ふべからざる事実である、故に人を必ず救はんと欲して伝道に従事して何人も大なる失望に陥らざるを得ない、パウロ自身の伝道さへ救済事業としては失敗であつた、曰く「アジヤに居る者すべて(悉く)我に背けり、フゲロとヘル(532)モゲネも其中に在り……銅匠《かぢや》なるアレキサンデル多く我を悩ませり……我が始めて審官《さばきびと》に事由を陳べし時誰も(誰れ一人)我と偕にせず皆な我を離れたり」と(テモテ前後書)、斯くてパウロの晩年は憐むべき者であつた、彼に由て福音を聞きし者は大抵は彼を離れ去りて、唯ルカ、テモテ、テトス等少数の者のみ彼の弟子として存した、而してパウロの実験はすべて忠実にキリストの福音を伝へし者のそれである、熱血を注いで救はんとせし人は多くは我と我神とを去りて、我が福音を受けて救拯の祝福に入りし者は少数中の少数である。
 然らば伝道を廃すべき乎、然らずである、|人を救ふ為の伝道でない、福音証明の為の伝道である〔付○圏点〕、伝道師は「キリストの役者《つかへびと》、神の奥義を司る家宰《いへづかさ》」である(コリント前四章一)、而して「家宰に求むる所は其忠信ならん事なり」とある、伝道師は其の自己に委ねられし神の奥義即ち福音の真理を忠実に伝ふれば彼の任務を完うするのである、人が之を受くるや否やは彼の問ふ所でない、彼は「神の道《ことば》を混乱せず、誠により、神に由りて神の前にキリストに在りて言《ものい》へば其れで事は済むのである、先づ第一に彼の説く所の福音の純清ならんことを要す、其他は枝葉問題である、之に由て或人は救はるゝであらう、或る他の人は頽びるであらう、然し是れ彼の関する所でない、神はキリストの福音を以て或は救ひ、或は審判き給ふ、彼は彼れ御自身の為に福音を要し給ふ、故に彼の役者を遣りて之を説かしめ給ふのである、伝道師は読んで字の如く道を伝ふる者である、慈善家ではない、社会改良家ではない、教会建設者ではない、伝道者である、「和平《おだやか》なる言を宣べ又善き事を宣ぶる者の其足は実はしき哉」とある其|言辞《ことば》の伝達者である。
 神は其聖言の伝達に由て国は必しも興るべしと約束し給はない、彼は預言者ヱレミヤに告げて曰ひ給ふた、「視よ我れ今日汝を万民の上と万国の上に立て、汝をして或は抜き或は毀ち或は滅し或は覆《たふ》し或は建て或は植ゑしめ(533)ん」と(耶利米亜一章十節)、毀つも建つるも、覆すも植ゆるも預言者の責任ではない、神は彼に「我が汝に命ずるすべての言を語るべし」と命じ給ふた、神の言を誤らずに語る事、其事が預言者の職務である、彼は憐憫の故
に之を控えてはならない、彼は人面を恐れて之を隠くしてはならない、|結果の如何を顧みず〔付△圏点〕大胆に之を宣伝ふべきである、預言者を世の救済者と見て彼等を全然誤解するのである。
 昔の預言者が然うであつた、今の伝道師が然うである、福音を混乱すことなくして伝ふる人其人が真個の伝道師である、其人に由て幾万人の悔改者が出やうが、幾百の教会堂が建られやうが、彼の説く所が純福音ならざる限りは伝道師としての彼の事業は失敗である、テサロニケ前書二章四節に於てパウロが曰へる如く「我等神の撰択《えらび》を得、福音を伝ふることを託ねられたるに由り語るなり、此は人を悦ばするに非ず我が心を察し給ふ神を悦ばする也」である、所謂伝道の結果を見て福音は混乱《みだ》れ易くある、而して近代式の伝道、殊に米国式の伝道が多数を教化せんと努むるの結果として福音を曲ぐるの傾向あるは人の能く知る所である、勿論福音は人を救はん為の神の能力である、然し神の能力(機械)であつて人のそれでない、神が使用して人を救ひ給ふ機械であつて、人が欲するが儘に使用し得る者でない、神の福音である、故に伝道師は之に加へることなく、又之を削ることなく、伝へられし其儘の言を説かなくてはならない。
 
(534)     真個の教会
                          大正10年11月10日
                          『霊交』 2号
                          署名 内村鑑三
 
 教会はあります、教会はありません。故に無教会信者なる者は有つてはなりません。又無くてはなりません。キリストは教会を建たまふたとも言へます、また建たまはないとも言へます。私供は教会の真偽を判別するの必要があります。
 所謂教会、監督あり、長老あり、神学者あり、憲法あり 信仰箇条あり、一種の政府又は政党の如き者、教勢拡張を計り、我が信仰を社会の輿論となして民衆を済度せんと唱ふる者、それは教会と称へらるれどもキリストの建たまひし教会ではありません。私供は斯かる教会に対して公然無教会主義を唱へます。然し乍らキリストは別に彼の教会を建たまひました。彼は言ひ給ひました「我名の為に(に由りて)二人《ふたり》三人《さんにん》集まれる処には我も亦其中に在り」と(馬太伝十八章二十節) 是がキリストの建たまふ真個の教会であります。其中心はキリストであります、而して其周囲に集ふ者は彼の名に由りて彼の聖旨を為さんと欲する信者であります。「二人三人」と云ひて必ず少数に限ると云ふ事ではありません。|二人にても可なり〔付○圏点〕と云ふ事であります。唯一人であつてはならないのであります。然り、信者は一人であり得ないのであります。彼は必ず同志を求めます。又神は必ず其|霊《みたま》を多数の人の上に注ぎ給ひます。神は人が相愛し相結んで御自身を拝せんことを要め給ひます。故に「二人三人」と(535)言ひ給ふたのであると思ひます。
 斯くて教会は最も簡単なる者であります。同時に最も深い又聖い関係に由て成る者であります。二人以上の真の信者がイエスキリストの名に由りて交はる処に真個の教会があります。其処に社会勢力なる者はありませんが、キリストは其内に在し給ひます。美しい聖い集団《あつまり》であります。実に地上の天国であります。
 私は斯る教会の我国孰の所にも起らんことを望みます。初代の教会はすべて斯ういふ者でありました。プリスキラとアクラの家は教会でありました(羅馬書十六章三−五節) 「ヌンパス及び其家にある教会に安《やすき》を問へ」とありまして此処にも亦一信徒の家に教会があつたのであります(哥羅西書四章十五節)。ピレモンの家も亦教会であつたのであります(腓利門書二節)。斯くて教会を作るに監督の許可を得て献堂式を執行するの必要はありません。二人以上の真個の信者の在る所には、其処に教会が在り得るのであります。然り、既に在るのであります。
 所謂公教会なる者は基督教が羅馬人の手に渡つてから出来た者であります。羅馬人には公的ならざる者に価値《ねうち》ある者はなかつたのであります。而して其思考が欧米に伝はつて今日に至つたのであります。然れども此事に関して私供は欧米人に傚ふの必要は少しもありません。私供は直にイエス様に帰り、信者相互に愛し、相共に結んで……其数は何人でも、何百人でも、何千人でも……イエス様を私供の間に迎へまつりて、其処に真個の教会を建ていたゞくべきであります。
 
(536)     IDEAL AND POWER.理想と実力
                         大正10年11月10日
                         『聖書之研究』256号
                         署名なし
 
     IDEAL AND POWER.
 
 There must be an ideal,and there must be a power to realize that ideal.The Christian's ideal is Christ, and his poweris the Holy Spirit. The Christian looks intently at Christ,but looking alone does not make him a son of God.The Spirit works within him, and makes him to appropriate to himself the beauty of holiness he is looking at. As was said by St.Paul:We all,with open face beholding as in a glass the glory of the Lord,are Changed into the same image from glory to glory,
even as by the Lord,the Spirit.――U Cor.3:18.The model before us,and the spirit of the model to conform us thereto,――how perfect is the Gospel. No vain dreaming;no mere yearning;the goal,and the way,and the power to reach that goal provided at the same time!
 
     理想と実力
 
  我等すべて※[巾+白]子《かほおほひ》なくして鏡に照すが如く主の栄を見、栄に栄いや増りて其同じ像《かたち》に化《かが》るなり、是れ主即ち(537)霊に由りてなり(哥林多後書三章十八節)。
 先づ第一に理想がなくてはならぬ、而して之を実現するの力がなくてはならぬ、基督者の理想はキリストである、両して実現する力は聖霊でぁる、基督者《クリスチヤン》は一意専心にキリストを見詰る、然れども見詰るのみにては彼は神の子とならない、聖霊は彼の裡に働きて彼が見詰つゝある聖善の美を己が有とならしめ給ふ、パウロが言へるが如く、我等|基督者《クリスチヤン》は主キリストの姿を我が良心の鏡に照し、之を見詰て共同じ像に化はる、而して主なる聖霊は我裡にありて此事を行ひ給ふ。我等の前に模範の供せらるゝあり、之に合はんが為の霊能の注がるゝあり、福音はまことに完全である、単に無益に夢想するのではない、単に追求するのではない、終局と之に達するの途と力が同時に供せらるゝのである。
 
(538)     〔恋愛の自由に就て 他〕
                         大正10年11月10日
                         『聖書之研究』256号
                         署名なし
 
    恋愛の自由に就て
 
 恋愛は自由である、然れども神の聖旨の内に在りてのみ自由である、第一に神の聖旨、次に我が意志、而して我が意志としての恋愛、此順序に従はずして愛もなければ自由もない、恋愛は其物自身の為に存立する能はず、恋愛の為にする恋愛は必ず自滅する 神の聖意の範囲に於て行はれて恋愛は栄へ又聖く又永続する、我が為に他を愛するに非ず、神の為に、福音の為に、国の為に、人類の為に、貧者の為に、異邦の為に、一人の男が一人の女を恋ひ、又一人の女が一人の男を愛する時に、そこに聖き美しき堅き恋愛がある、恋愛は義務に由て聖化せらるゝを要す、義務の無き所に頼むべき恋愛はない、楽まんが為の恋愛ではない、義務を果さんが為の恋愛である、而して義務の支持する所となりて恋愛は永久に衰へず其幸福は歳と共に加はる、恋愛を義務の外に求めて人は実は嫌厭を求めつゝある、腐蝕し易きものにして恋愛の如きはない、而して義務は恋愛の新鮮を維持する為の唯一の防腐剤である。
 
(539)    似而非なる基督教
 
 宗教が流行する今日、多くの基督教ならざる信仰が基督教として唱へられつゝある、人は思ふ愛と信と望と、神と霊魂と天国とを説けばそれが基督教であると、然らずである、真の基督教は義の神を説き、罪に沈める人類を認め、義人なし一人もなしと教へ キリストと其の十字架上の死にのみ由る罪の赦しを唱へ、聖霊の降臨、キリストの再臨、死者の復活、万物の復興を説く、基督教は信ずるに甚だ困難なる宗教である、人は新たに生れざれば神の国に入る能はず、彼は自己の罪人の首たるを認むるにあらざればキリストの弟子たることが出来ない、基督信者たるは容易の事でない、文学者はキリストを己が理想と仰いだのみで基督信者たる事が出来ない、多くの偽《いつはり》の基督教の唱へらるゝ今日信者は霊を弁へるの必要がある、使徒ヨハネは曰ふた「愛する者よ凡ての霊を信ずる勿れ、其霊神より出るや否を試むべし、多の偽預言者世に入れり」と、而して今日は其時である(約翰第一書四章一)。
 
    聖召の祝福
 
 世に幸福なる事は数多あるが、神に択まれて福音の使者となされし事に優る幸福はない、是れ自から望んで与へられ、択んで得らるゝ幸福でない、神の善き聖意に由り、特に彼の聖召《めし》を蒙りし者にのみ賜はる幸福である、人は誰も自から択んで伝道師となる事は出来ない、事は余りに困難である、此世全体の反対がある、骨肉近親の反対がある、|自分自身の反対がある〔付△圏点〕、生れながらの人は何人もキリストの福音を好まない、故に人は神に余儀な(540)くせらるゝにあらざれば真の伝道師となる事は出来ない、此事を称して聖召と云ふ、聖召は単に心に響く神の声ではない、我を捕へ、我を縛り、我を余儀なくし給ふ神の行動である、故に聖召は内的であると共に亦外的である、ペテロの聖召は善き例である、イエス彼に「我に従へ」と曰ひ給ひければ彼は網を棄てイエスに従へりと云ふ(馬太伝四章十九、廿節)、是は命令の辞を以てして彼の心に降りし聖召である、イエスまた彼に曰ひ給ひけるは「誠に実に汝に告げん、汝|幼《いとけな》き時自から帯し意《こゝろ》に任せて遊行《ある》きぬ、老ては手を伸べ人汝を束《くく》り意に欲《かな》はざる所に曳到らん……我に従へ」と(約翰伝廿一章十八、十九節)、是は威力を以てして彼の身に臨みし聖召である、聖召は命令として心に臨み、威力として身に加はるのである、神は身の内外より其択び給ひし僕を召しまた之を使ひ給ふ、召されまた使役せらる、是が聖召である、決して楽しき喜ばしき事ではない、止むを得ざる事である、乍併斯く召され斯く縛られてこそ聖召の祝福は降るなれ、避けんと欲して遅くる能はず、至上者に追ひやられて止むを得ず福音宣伝に従事するのである、内なる声に追立られ、外なる境遇に余儀なくせられ、奴隷の如くに使役せらる、而して人生最大の幸福は其内に在るのである、若し我れ福音を宣伝へずば禍ひなる哉(哥林多前書九章十六節)、若し我れ福音を宣伝せずして政治に入り、実業に従事し、文芸を楽しみ、外交に尽すならば禍ひなる哉、実に伝道師は伝道の外に何事をも為す能はざる者である、他《ひと》なるイエスは我を束り意に欲はざる所に我を曳き行き給ふ、而して其処に至上の祝福を注ぎ給ふ、実に矛盾せる生涯とて聖召を蒙れる伝道師の生涯の如きはない、奴隷束縛の生涯である、同時に亦最も恵まれたる最も福ひなる生涯である、他も嫌ひ自分も嫌ふ神の事業に迫ひやらるゝのである。是れ自ら好んで為す事の出来る事ではない。全能者に余儀なくせられて止むを得ず行ふ事である、預言者ヱレミヤは叫んで曰ふた、
(541)  ヱホバよ汝我を勧め給ひて我其勧めに従へり、汝我を捕へて我に勝ち給へり、我れ日々に人の笑いとなり、人皆な我を嘲けりぬ……是をもて我れ重ねてヱホバの事を宣べず又其名をもて語らじと言へり、然れどヱホバの言我心にありて火の我骨の中に閉籠りて燃ゆるが如くなれば忍耐は疲て堪へ難し(耶利米亜記二十章七−九節)
と、せは神の言を厭ひ、預言者又之を宣伝ふるに苦しむ、然れども神は彼の沈黙を許し給はず、聖言を彼に送りて、彼をして沈黙に堪へざらしめ給ふ、茲に於てか真の預言者と伝道師との世に甚だ稀なる理由《わけ》が判明るのである、伝道は他の職業の如くに人が自から選択ぶ職業ではない、又教会と監督とは人を雇ふて彼を伝道師となす事は出来ない、自から伝道師たる能はず、人を伝道師となす能はず、俸給も、教権も、学識も、志望も人を伝道師となすことは出来ない、唯全能者の聖意より出たる聖召に由りてのみ此聖職に就く事が出来る、召されし者の栄光此上なしである、然れども之に伴ふ損失と患難、孤独と寂寥、是れ亦無類である、イエスは聖召の祝福につき弟子等に告げて曰ひ給ふた
  誠に汝等に告げん、我と福音の為に家宅或は兄弟或は姉妹或は父或は母或は妻或は児女或は田畑を棄る者は此世にて百倍を受けざる者なし……|迫害と共に受け、又後の世には窮りなき生命を受けん〔ゴシック〕(馬可伝十章廿九、三十節)
と、|此世に於ては迫害〔付△圏点〕、|後の世には無窮の生命〔付○圏点〕……栄光の極である、祝福の頂上である、故に謂ふ「イエスキリストの僕(奴隷)パウロ召されて使徒となり神の福音の為に選ばる」と、人として最大の恩恵を蒙り、最上の栄光に浴せし使徒パウロは|召されて奴僕となつた〔付○圏点〕者である。
 
(542)     平和の到来
                           大正10年12月1日
                           『霊交』 3号
                           署名 内村鑑三
 
 世に平和程善き者はありません、之に対して戦争程悪しき者はありません、戦争は罪悪の王であります、すべての罪悪を総合した者、之を戦争と称します、フランクリンは曾て言ひました、「最も悪しき平和は最も善き戦争よりも善し」と、戦争に由て善き事の来た例は一つもありません、又戦争に由て戦争は止みません、此世を善く成さんと欲すれば、先づ戦争を廃めなければなりません、禁酒も禁煙も廃娼も戦争に較ぶれば小なる問題であります、戦争が止む時に此世は初めて神の国と成るのであります。
 然らば如何して戦争を止むる事が出来ませう乎、政治家の平和運動も決して之を見下してはなりません、縦し今日までの平和会議は悉く失敗に終りたりとするも、善き目的を以て為されたる是等の会議は、其成功の為に捧ぐる私共の祈祷に充分に値します、然し乍ら永久確乎たる平和は政治家の手に依て成る者ではありません、是は平和の神が世を知食《しろしめ》すに至て初めて実現する者であります、イザヤ書二章四節に曰く「ヱホバは諸の国を鞫き、衆《おほく》の民を正し給はん、斯くて彼等はその剣《つるぎ》を打かへて鋤となし、其鎗を打かへて鎌となし、国は国に向いて剣を揚げず、戦闘の事を再び学ばざるべし」と、即ちヱホバが万国民を治め給ふに方て世界的平和が臨むのであります、ヱホバの神を除外して人間がいくら努力しても戦争は止みません、而して神が其御子イエスキリストを以て(543)臨み給ふ所に必ず平和があります、先づ人の心に、次ぎに其家庭に、進んで社会に、国家に、世界に確実なる平和が臨みます、是は外面《うはべ》の暫時的の平和でありません、人のすべて思ふ所に過ぐる深き永久的の平和であります、故に私共は平和運動の最も確実なる手段として福音宣伝に従事します、一人の人が福音に身を捧げし時に、其れ丈け戦争が止んだのであります、平和会議が如何なつても私共は最上の平和手段たる伝道を怠つてはなりません。
 
(544)     GOD IS.神は在し給ふ
                         大正10年12月10日
                         『聖書之研究』257号
                         署名なし
 
     GOD IS.
 
 GOD IS. Oh blessed thought! God the Loving Father,Who is Love Itself,IS,――He exists,He rules,He takes care of the world,mankind,my country,my home,and me,――what more need I know? Peace everlasting should be mine. The world is in turmoil,nations armlng themselvesto the teeth,diplomats sitting in a council to bring about a universal peace,toiling hard to attain the end,――the future all unknown,dark,terrible:indeed,darkness covers the earth,and gross darkness the people,as was foretold by a prophet.(Isa.60:2)・But GOD IS,――that settles the questiun. All is right.We can rest and sleep in peace,as Jesus the Almighty Power incarnate slept at the stern of the ship which carried His disciples over the furious waves of the sea of Galilee.
 
     神は在し給ふ
 
神は有る、嗚呼祝福すべき哉此思想よ、神、愛の父、愛其物、彼が有ると云ふ、彼が在し、彼が治め、彼が世(545)界と人類と我国と我家と我自身の気附《きつけ》を取り給ふと云ふ、此事以上に我れ何をか知るを要せん、永久の平和は我有たるべきである、世は混乱状態に於てある、国家は|あからさまに〔付ごま圏点〕相互に対して武装し、外交家は世界的平和を来らせんとて会議に列し、其目的を達せんとて努力しつゝある、未来はすべて不明である、暗くある、恐しくある、実に預言者に由て示されしが如くに「暗《くらき》は全地を掩ひ、闇は諸民を覆ひ」つゝある(以賽亜書六十章二)、然し乍ら神は在し給ふ、問題は此一事に由て解決せらる、万物悉く可なりである、我等は安心して休み且つ眠る事が出来る、恰かも宇宙の大権を其手に握り給ひしイエスがガリラヤの湖《うみ》の荒れ狂ふ波の上に其弟子を運びし舟の艫に安らかに眠り給ひしが如くに、我等も亦静かに眠る事が出来る。
 
(546)     〔他人本位 他〕
                        大正10年12月10日
                        『聖書之研究』257号
                        署名なし
 
    他人本位
 
 人類の有するすべての言辞の中で最も大なる者の一は「他人」と云ふ言辞である 他人とは親類以外の者との意義ではない、又我に何等の関係なき者とのことでもない、他人とは我れ以外の者の総称である、其意味に於て神も他人である、キリストも他人である、我妻も子も他人である、我れ以外の人はすべて他人である、而して他人であるが故に貴くある、神御自身が御自分の為を思ひ給はずして、彼に取りては他人なる世人の為を思ひて之を救はんが為には其独子をさへ惜み給はなかつた、而して神の聖旨を以て心となし給ひしキリストは他を救ひて自己を救ひ能はなかつた(馬可伝十四章三一)、人の人たる価値は神に似るにある、而して神は無私無我の者で在り給ふ、御自身の全部を他に与へて惜み給はざる者である、「主は我等の為に生命を捐たまへり是に由りて愛といふ事を知りたり、我等また兄弟の為に生命を捐べし」とあるは神の何たる乎に対して人の義務を教へたる言辞である(約翰第一書三章十六節)、人は自分の事を忘れて他人の事を思ふだけそれ丈け神に似て偉大であるのである、|偉人他なし無我有他の人である〔付○圏点〕、而してすべての幸福は自分を忘れて他の為を思ふにある、|自覚〔付○圏点〕と云ひ、|自己修養〔付○圏点〕と云ひ、|自己発展〔付○圏点〕と云ひ尽く禍患の基《もとゐ》である、故に我等幸福ならんと欲する乎、先づ第一に他人の為に祈るべきである、己が為に祈らずして他人の為に祈る時に祈祷は聖くして力がある、殊に我を悪み嫌ふ者の為に祈りて我は最も神らしくある、而して我が計画、我が努力をしてすべて他人の為めならしめよ、其時に良策は出て尽きず、成功は確実である、使徒パウロは教へて曰ふ「各自己が事を顧ず己が事を超越して他人の事を顧るべし」と(監督ライトフートの腓立比書二章四節の解説に依る)、基督者の幸福、其義務、其努力は茲に在る、自国の為を思はずして他国の為を思ふて茲に初めて文字通りの基督教国がある、而して斯かる国は未だ曾て在つた事はない、人も亦同じである、他人本位の人のみ真個の基督者である。
 
    憐憫の神
 
 使徒ヤコブは預言者ミカの言を引いて曰ふ「憐憫は審判に勝つなり」と(雅各書二草十三節)、審判は人を罪に定むるの権《ちから》であり、憐憫は罪を赦し恩恵を施すの心である、而し此の心は彼の権に勝つといふ、即ち憐憫は審判よりも強しといふ、実に感謝すべき事である、神に在りては善人に在るが如くに審判くは難くして憐憫は易くあり、神の能力は最も強く赦し且つ恵む時に現はる、彼は罰せざるを得ずと雖も、罰するは最も難くある、神の神たるは最も明かに赦し且つ恵む時に現はる、
   その怒は暫時《しばし》にして
   その恵は生命と共に永し、
   夜《よ》は夜もすがら泣き悲むとも
(548)   朝には喜び歌はん
とあるが如し(詩篇三十篇五)、怒は神の性質に合はない、故に彼は一刻も早く赦さんと欲し給ふ、彼は怒るに遅くして赦すに早くある、神の能力も智慧も最も著るしく恵む時に現はる、彼は又預言者を以てイスラエルの民に告げて曰ひ給ふた
   我はしばし汝を棄たれども
   大なる憐憫を以て汝を集めん、
   我が忿恚《いきどほり》あふれて暫く我面を汝に隠たれど
   永遠の恩恵を以て汝を憐まん
と(以賽亜書五十四章七、八節)、忿恚は暫時、恩恵は永遠、……神の途は常に斯の如し、イスラエルの民に対して然り、全人類に対して然り、一箇人に対して又然り、愛せん事を愛し給ふ神は斯くあらざるを得ないのである、神と人との異なる点は主として茲にある、人は怒るに強くして赦すに弱くあるに、神は其反対に怒る時に其能力は削《そが》れ、赦し又恵む時に其熱心は充分に発露《あら》はる、而して斯かる神が万物を統治し給ふが故に、宇宙の完成、人類の救済、死者の復活、永生の賦与、天国の建設は確実であるのである、ヱホバの神ありてキリストの福音なかるべからず、神が己を愛する者の為に備へ給ひしものは目未だ見ず耳未だ聞かず人の心未だ念はざるなりと聞いて少しも不思議はないのである(哥林多前書二章九節を見よ)。
 
(549)     怒つては悪い乎
                         大正10年12月10日
                         『聖書之研究』257号
                         署名 内村鑑三
 
〇基督信者は怒つてはならない、怒る者は基督信者でない、殊に基督教の教師に於て然りである、彼は凡ての事を赦し、凡ての事を忍ばねばならぬ、怒るのは彼の信仰が足りないからであるとは、余輩が此国に於て大抵の基督信者と自から称する人等より聞く所である、而して他人が余輩に明白なる無礼又は侮辱を加ふるに際し、余輩が彼等に対して憤怒を発する場合があれば、人は怒る余輩を責めて、余輩に侮辱を加へし者を責めない、彼等は思ふのである、基督信者、殊に基督教の教師が怒るは、彼が他を侮辱する丈け、然り其れ以上に悪しくあると。
〇叱思想たる彼等が精《くわし》く聖書を研究してより起つた思想ではない、是は彼等自身が基督教に就て抱く思想であつて基督教其物が彼等に伝へし思想ではない、是は多分日本の社会に深く浸潤する仏教思想より起つたものであると思はれる、日本人の宗教的理想は阿弥陀である、而して阿弥陀は絶対的慈悲であつて之に憤怒や忿恚はない、阿弥陀はすべて慈悲である、彼は罪人を憐む、之を怒らない、赦すは彼の特徴であつて、責むるは彼の質《たち》でない、阿弥陀は泣き、宥め、憐む、赦す、彼は無限大の慈母である、如何なる罪人も罪の身其儘にて阿弥陀の懐に入ることが出来る、而して日本人は思ふのである、キリストは阿弥陀以上の者である、故に彼が怒り給はないのは勿論である、而して基督信者にして怒る者の如きは未だキリストの心を知らないのである、基督信者は完全の人で(550)ある、而して完全の人は怒らない、怒るは罪悪である、怒る人は基督教の教師たる資格を有たないと、是れ余輩の知る大抵の日本人が其の基督信者たると否とに関せず心に抱く思想である。
〇併し乍ら聖書を読んで見ると、以上の思想の間違つて居る事が明白に示さるゝのである、哥林多前書第十三章、パウロの愛の讃美の辞の一節に曰く「愛は軽々しく怒らず」と、茲に愛は怒らないとは記いてない、軽々しく怒らないと書いてある、即ち怒る事は絶対的に禁止されてないのである、又以弗所書四章二十六章に日く「怒りて罪を犯す勿れ、怒りて日の入るまでに至ること勿れ」と、即ち、怒るべき時に怒るは可なり、然れども悪意を以て怒る勿れ、執念深く何時までも怒る勿れとのことである、此処にも亦絶対的に怒る勿れとは書いてないのである。
〇而してイエスの御生涯に於て彼が怒り給ひし事は聖書の数ケ所に録してある、彼が神殿を潔め給ひし時に、弟子等が小児の故に来らんとするを妨げし時に、殊に「嗟于禍ひなる哉学者とパリサイの人よ」と七たぴ繰返して教会の神学者と宗教家とを呪ひ給ひし時に、イエスは確かに強く怒り給ふたのである、聖書にナザレのイエスの伝を読で見て、彼は決して日本人の理想とする阿弥陀様でなかつた事が判明る(イエスの一面はたしかに峻厳なる預言者であつた、彼に涙があつた、然れども涙と共に鞭があつた、彼は神の羔であつたと共にユダの族《やから》の獅子であつた、愛すべく又恐るべき神の子であつた。
〇余輩は今茲にイエス以外の聖書人物に就て語らない、彼等が決して怒らざる人でなかつた事は聖書を読む者のよく知る所である、而して聖書を離れて基督教歴史に現はれたる大人物の生涯に就て見るも、彼等は孰れも基督的人物であつて、阿弥陀的人物ではなかつた、彼等は執れも怒り得る人物であつた、又怒つたことのある人物で(551)あつた、余輩の記憶にして誤らずんば聖フランシスさへ怒つた事がある、彼は然かも彼の父を怒つたのである、而も彼の父が彼の伝道に入るを妨げんとした時に怒つたのである、柔和なるワシントンさへ幾回も怒つた、コロムウエル、ミルトン等イエスの心をよく解した人が白熱的に怒つた事は云ふまでもない、ワルヅワスの詩に多くの忿怒の破裂がある、余輩は余輩の先生たりし故シイリー先生が其学生に対し甚《いた》く怒り給ひしことを覚えて居る、余輩の知る範囲に於て最も聖き且最も高き基督信者は孰れもよく怒る人であつた、彼等が露はせし愛の故のみではない、彼等が時に発せし激烈なる怒りの故に余輩は彼等を愛し且敬ふのである。
〇言ふまでもなく基督信者は軽々しく怒らない、又怒つて罪を犯さゞるやうに努むる、然し乍ら怒らないのではない、彼は聖く怒るべく彼の神に許されるのである、パウロは曰ふた「誰か礙きて我心熱せざらんや」と(コリント後十一事二九)、「心熱す」るとは此場合に於ては聖く憤るの意味であると思ふ、ダビデの歌に曰く「ヱホバよ我れ汝を悪む者を悪むにあらずや」と(詩篇百卅九第二一)。茲にも亦たしかに信者の聖憤がある、「主は其の愛する者を懲しめ又すべて其の納《うく》る所の子を鞭てり」とある(ヒブライ書十二章六節)、真の愛に怒が伴ふ、|怒らざるは偽りの愛にあらざれば浅き愛である。神が屡々其民を怒り給ふは彼が深く強く彼等を愛し給ふから〔付○圏点〕である。
 
(552)     鳥に代つて
                         大正10年12月13日
                         『東京朝日新聞』
                         署名 内村鑑三 寄
 
 ◇私共が日本国に棲み又は年毎に渡来るは其貴族や富豪や、其他有りと凡ゆる高等遊民に打殺されん為めではありません、或る高貴なる天職を帯びてゞあります、私共は美はしき歌を謳つて悲しむ者を慰めます、又楽しき巣を構へて家庭の何たる乎を知らない多くの日本人、殊に其上流社会の人達に教へます、又草木を害ふ虫類を退治して国土の生産を助けます。若し私共鳥類が居らなくなれば、夫こそ国家の大事件であります。
◇然るに其事を知らないで遊猟と称して私共を打殺す日本人の心は解りません、御覧なさい、私共が減じた為に此国の山野が近頃メツキリと淋しくなつた事を、又其社会に不良青年の非常に増加した事を、其原因は家庭の荒廃に在るのでありまして、其また原因は家長たる者が遊猟に従事するの結果として其心が自と冷酷になり、夫れが家庭に現れて終に不良青年を産するに至るのであります、其の証拠には不良青年男女は上流社会に此較的に多いではありません乎。◇世に天罰と云ふ事は無いと言ふ人がありますが、然し実際有る事は確かであります。私共弱い鳥類は仇を復へす事は出来ませんが、然し天然の法則なる者がありまして、私共罪なき者を無暗に打殺す者は其罪が己の心理状態に現れて其結果が不良青年を生んで無情の罪が罰せらるゝのであります。
(553)◇更に又近頃に至り日本の山林田畑に虫害の益々多きを御覧なさい、是れ何に由つて然るのであります乎、言ふまでもなく私共鳥類が其|数《すう》を減じたるが為に、虫類の繁殖が盛んになつたからであります。一方に於ては国産の不足を欺きながら他方に於ては私共農産第一の保護者たる鳥類を狩尽さんとするは何たる矛盾であります乎。
◇故に私共は茲に日本政府の当局者に申上ます、直に岡村博士並に城山《じやうさん》大将の説を納れて遊猟禁止を実行なさい。然らざれば日本国は外国の侵略を待たずして亡びます、鳥類の保護は国家存在の為に必要であります。
 
(554)     〔黒崎幸音訳『ルーテル加拉太書註解』〕序文
                      大正10年12月20日
                      『ルーテル加拉太事註解』
                      書名 内村鑑三
 
 英国第十九世紀の文豪マッシュー・アーノルドは曰ふた「正義は人生の十分の九である」と、政治と云ひ、外交と云ひ、経済と云ひ、殖産と云ふも、人生のすべての問題は畢竟《つま》る所正義の問題に帰着するのである、而して
正義に二方面がある、人に対する正義と、神に対する正義とがある、而して人に対する正は神に対する正義に由て定まるのである、諺に曰く Be right with God, and all will be right(神と義しき関係に入るべし、然らば万事正しかるべし)と、言葉を替へて言ふならば、道徳問題はすべて宗教問題に由て解決せらるゝのである、人は神と和らぐにあらざれば人と和ぐ事が出来ないのである。
 神と和らぐの道、人生之に勝るの大問題は無いのである、此事を発見した者は人類の大恩人である、新大陸の発見も、新機械の発明も、其効果たる神と和ぐの道の発見には遥かに及ばないのである、而してタルソのパウロは此事の発見者であつた、彼が過去千九百年間の人類の歴史に於て中心的地位を占むる理由は彼の此大発見に由るのである、而して彼れパウロの此発見を最も明確に記述した者が有名なる加拉太書である、一小冊子に過ぎざる此書ありしが故に、世界に於て今日までに幾回の思想的社会的道徳的……然り政治的経済的大革命が起つたのである、人の義とせらるゝは律法の行為に由らず信仰に由ると、加拉太書に由て此教理が提唱せられて人類は幾(555)回か其進歩の階段を登つたのである、有名なる法理学者ジエームス・マッキントッシュが曰ひしが如くに近代の代議政体なる者も固々此教理より起つた者である。
 而してパウロの加拉太書を最も深く味はつた者はマルチン・ルーテルである、パウロを知らんと欲すればルーテルに由らざるべからず、我友黒崎幸吉君に此訳書ありし理由は茲に存するのである、君も余もパウロ信者であつて、又或る意味に於てのルーテル教信者である、我等はルーテルを世に紹介して自分自身を語りつゝあるのである、ルーテルではない自分である、彼が我が言はんと欲する所を最も明白に且つ最も有力に言ふて呉れたのである、故に彼に我に代つて言ふて貰ふのである、訳書といへば訳書である、然し乍ら無関係の訳書ではない、自分の著書に代ふる為の訳書である、キリストは我が主であり、パウロは我が師であり、ルーテルは我が兄である、我等は長兄ルーテルを以て我が信仰を証明せんと欲するのである。
 パウロの加拉太書! 懐しき書よ、此書に由て旧き猶太数は斃れた、此書に由て旧き羅馬天主教は致命傷を負はせられた、此書に由て旧き英国々教会も亦徐々として其根柢を覆へされつゝある、而してすべての所謂「教会」、規則と教令と儀式とを以て人の霊魂を束縛せんとする者は、其の如何なる制度、如何なる人格たるに関はらず遅かれ早かれ必ず此書に由て廃せらるゝのである、余は加拉太書を謳歌する者の一人である、茲に此書に序して著者並に訳者と責任を頌《わか》つを名誉とする。
  一九二一年十二月二日    東京市外柏木に於て 内村鑑三
 
(557)     別篇
 
  〔付言〕
 
  諏訪熊太郎「余は斯して基督を信ず」
           大正10年2月10日『聖書之研究』247号
 内村生曰ふ、此一篇は余の同信の友なる諏訪君が君の郷里山形県鶴岡町発行雑誌『大正』に寄贈せられし者である、君と編輯者との許諾を得て茲に転載する。
 
  浦口文治「ペテロの天稟(二)」への付言
           大正10年5月10日『聖書之研究』250号
〇内村生白す、天才は有つたばかりでは可ない、之を発見して貰はなければならない、而して天才の最大発見者はイエスである、此点から見てもイエスを信ずるは何人に取りても必要である。
 
  ロバート・ポーグ
  「主は再臨に就き違算ありしや」への付言
           大正10年5月10日『聖書之研究』250号
 (編者言ふ、本論は米国費府発行 The Sunday School Times より翻訳せし者であつて、訳文は金沢常雄君の筆に成りし者である)。
 
  浦口文治「アルケトン テヘメラ ヘカキヤ アウテース」への付言
    .      大正10年6月10日『聖書之研究』251号
 |内村生附加して言ふ〔ゴシック〕 詩人コレリツヂが言ふた事がある、日く「詩は美はしき思想を美はしき言を以て言表はしたる
 
       (558)ものである」と、まことに美はしき思想は自から美はしき言を以て表はるゝ者である、イエスの如き美はしき思想を以て充溢れて居た人の言が言々句々大なる詩でありし事は当然である、其点から見て聖書は最大詩集である、イエス、パウロ、ヨハネ、イザヤ、ヱレミヤ等に勝る詩人は無い、未だイザヤの預言を研究した事の無い人は詩を語るの資格なき人である、壮美なる言にして神人の言の如きはない。
 
  浦口文治「霊の果と肉の業」への付言
        大正10年8月10日『聖書之研究』253号
 内村生註、霊は此場合に於ては「聖霊」である、聖父と聖子より来るべルソナ的の霊である。
 
  O H生「此世より神の国に」への付言
            大正10年11月1日『霊交』2号
 内村生白す、感謝であります、君がキリストに由りて救はれん為には君が払はれし代価は決して高価ではありません、私は『内村全集』が君一人をキリストに導く機械として使はれしを思へば之が為めに費せしすべての労苦を浪費とは思ひません。
 
  黒崎幸苦「報賞を求むる心」への付言
         大正10年11月10日『聖書之研究』256号
 内村生曰ふ、余は黒崎君の説に同意する。報賞を望む事は決して悪い事でない。此の世の善事なる者は多くは之を望んで行はれるのである。乍併基督者は現世に於ける報賞を望んで善事を為すのではない。而して実際的に人は|死後来世〔付△圏点〕に於ける報賞を望んで決して堕落しないのである。
 
(559)     〔社告・通知〕
 
 【大正10年1月10日『聖書之研究』246号】
   新年の辞
 福音の中心はキリストの十字架であります、十字架が解らずして基督教は悉皆解りません、復活も再臨も万物の復興も解りません、十字架は実に基督教の根本義であります、就ては大正十年(一九二一年)は主として十字架を説かんと欲します、一月十六日より開始すべき中央講壇に於ては特に十字架教の経典たる羅馬書を講ぜんと欲します、無益なる思索、病的なる感情を排して、万世の磐なるキリストの十字架を高調せんと欲します、同信諸君の御加祷を願います、
  大正十年元旦             内村鑑三
 
 【大正10年2月10日『聖書之研究』247号】
   女中を求む
 身体強健にして家庭的労働を愛する者 〇年齢十八歳以上二十五歳以下 〇少くとも三年間勤続し得る者 〇確実なる身元保証人を有する者 〇必しも基督信者たるを要せず 〇志望者は自筆を以て申込まれたし。
  東京市外柏木九一九          内村
 
 【大正10年3月10日『聖書之研究』248号】
〇女中は見当り申候、依て此事に関する前号所載の広告を取消し申候。
〇小生視力節約の必要あり、執筆は成るべく避けざるべからず、依て書面の御返辞は万々止むを得ざる場合の外は仕らず候間左様御承知被下度候。
〇研究社への用事を親展として小生宛にて御申越しの事は御控へ被下度候。                           内村鑑三
 
 【大正10年5月10日『聖書之研究』250号】
〇厳格なる基督信者の家庭に於て女中奉公を為さんと欲する者は身分、年齢、所望を記載して申込みあれ、適当の家を紹(560)介すべし、但し身体強健にして労働に堪へ、又確実なる身元引受人ある者に限る。
〇真理は眼と耳とを通して入らず、手と足とを通うして来る、真理は書を読み説を聞いて解らず、忠実に働いて握ることが出来る、学校に入らずとも聖書を読みつゝ働く丈けで真人と成ることが出来る、而して多くの偉人は如斯くにして成つたのである。
 
 【大正10年6月10日『聖書之研究』251号】
   謹告
 講師休養の必要有之、今年は六月第二日曜日(十二日)を以て中央聖書講演会を閉鎖致します、神若し許し給はば来る九月第三日曜日(十八日)午前十時を以て開講致します。
〇小生今年夏期は完全なる休息を得るの必要有之、就ては勝手ながら講演司式等の御請求には一切応じ不申候間不悪御承知を願ひます、秋冷の到来を待て新たなる力を以て奉仕の任に当りたき心得であります。    内村鑑三
 
 【大正10年8月10日『聖書之研究』253号】
   夏期通信
〇暑中読者諸君の御平安を祈ります、私は信州浅間山の麓に善き場所を得て其処に静に休んで居ます、偏へに秋冷の到ると共に善き天国の福音を説かんと、其れのみが目下の祈願であります。
〇這般東京聖書研究会が成り其会員名簿が配布せられたので、世には私が遂に教会を建てたと云ひて笑ふ者も亦憤る者もあります、研究会が果して教会であるや否やは時が経ば明白になる事であります、孰にしろ神の言が少しなりと有効的に説かるゝに至つたのでありますれば、凡て主を愛する者は喜んで呉れるのが本統であると思ひます、私は聖書研究会を作つて何人の自由を妨げたとは思ひません、唯来聴者の数が余りに多いので之を制限するの必要が生じ、止むを得ず苦しまぎれに斯んな手段を取つたのであります、若し之が失敗に終れば他に方法を講じなければなりません、敵も味方も御安心なすつて可からうと思ひます(内村鑑三)
 
(561) 【大正10年9月10日『聖書之研究』254号】
   中央聖書講演会に就て
●神の御許しを得て来る九月十八日(第三日曜日)午前十時より東京大手町大日本衛生会講堂に於て聖書の研究会を開始します、但し会員数既に満員以上に達したるが故に、会員以外の方は残念ながら入場を御断はり致します、又会員は必ず会員証を御持参願ひます、之を御示しなき場合には入場を御断はり致すかも知れません。予め御承知置き願ひます。
 
   小雑誌『霊交』の発行に就て
 来る十月一日を以て小雑誌『霊交』を発行します、之は第一に東京聖書研究会々員の相互的交通機関であります、第二に聖書研究社の地方伝道機関であります、第三に『聖書の研究』読者の思想並に信仰並に実験の発表機関であります、編輯は『研究』誌同様内村、黒崎、畔上が其任に当ります、毎号地方報告並に読者の寄書がある筈であります、(何卒御投稿を願ひます)、又毎号内村も短編なりとも自から筆を執る積りであります、文字は成るべく平易になして家庭雑誌の用を務めさせたくあります、相成るべくは東京聖書研究会々員の総体と『研究』誌読者の皆様が之を購読せられんことを望みます、代価は一部につき郵税なしの十銭一年分壱円であります、聖書研究社振替を以て『研究』誌代金と共に御送金あるも差支はありません。序に申上げます、雑誌『教友』は以上と略ぼ同一の目的を以て発行されたのでありますが、或る止むなき事情のため、昨年七月以来『聖書の研究』と直接の関係なくして今日に至つたのであります、是れ亦摂理の然らしむる所であると信じ茲に新たに小雑誌を起す次第であります、彼我の別なく、総て誠実を以て福音の為に尽さんとする働きの上に、父の恩恵の裕かに宿らんことを祈ります。
  東京府下淀橋町柏木九一九聖書研究社内『霊交』発行所
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   自分の事に就て
〇自宅御訪問は在宅の日に限り午後三時より四時までの間に願ひます、其他の時間に於ける御面会は之を謝絶することあるも御不平なきやう偏に願ひます。
(562)〇御書面に対し一々御返辞を差上げる事は出来ません 毎日数十通の書面を受取るのでありまして、一々之に酬ゐねばならぬとならば私は書面を認めるより外に何にも為すことが出来なくなります、御申越しの件々を不問に附すのではありません、之に答ふるの時と力とがないのであります、私の残余の生涯を最も有効的に使用せんと欲すれば、成るべく個人的関係を避けて公的任務に当らなければなりません、是れ或る時は為すに甚だ辛らい事であります、而して勇気を鼓して為さなければなりません、日暮れんとして途猶ほ遠しであります、御推察を願ひます、御書面に対し私より御返辞が達せざればとて不快の念を懐かれざるやう偏に願ひます。
                   内村鑑三
 
 【大正10年10月10日『聖書之研究』255号】
    秋来る
〇神の御許しに由り先づ無事に秋の仕事を始むる事が出来て大なる感謝であります、今年は昨年の如くに世界日曜学校大会と称するが如き大運動もなく、随て我国に於ける霊的基督教が危害を蒙る虞れもなく、平和に安心して聖書を講ずる事が出釆るのは何よりも幸福であります、何が恐ろしいとて今日の此社会に白熱的に又は赤熱的に迎へらるゝが如き事はありません、此社会は人を高く揚げて置いて而して後に之を奈落の底にまで突落す事を何よりも好みます、斯かる社会とは没交渉なるが何よりの安全であります、私は此社会が歓迎するやうな基督教を説き得ない事を至大の幸福と認めます、今年も亦純の純たる聖書の教を説いて楽しき有益なる労働の一年を送りたくあります。
〇重ねて広告します、雑誌『教友』と私並に聖書研究社との関係は昨年七月以来絶えて居るのであります、私は又|平出慶一君〔付○圏点〕の伝道には何も関係して居りません、此事が明白になつて居らざりし為に読者諸君の間に尠からざる疑惑を生じ又御迷惑を掛けた事を聞いて甚だ悲みます、今後の誤解なき為に茲に重ねて広告して置きます。    内村鑑三
 
(563) 【大正10年11月10日『聖書之研究』256号】
   菊花薫る
 英文『|代表的日本人〔ゴシック〕』の改版が出ました、英文の読める方には読んで戴きたくあります、日本文で言ひ兼ぬる事を欧文を以て言ふ事が出来ます、日本を世界に向て紹介し、日本人を西洋人に対して弁護するには、如何しても欧文を以てしなければなりません、私は一生の事業の一として此事を為し得た事を感謝します、私の貴ぶ者は二つの|J《ジエー》であります、其一は Jesus(イエス)であります、其他の者の Japan(日本)であります、本書は第二の|J《ジエー》に対して私の義務の幾分かを尽した者であります。(内村鑑三)。
 
 【大正10年12月1日『霊交』3号】
 私共の旧き信仰の友なる陸中花巻の小田代廉子は近頃召されて此世を逝りました。彼女は彼地に於ける信仰の柱石でありまして、彼女に励まされて信仰的生涯を送て居た者が尠くありません。高齢孤独の身を以て彼女は幾回か私共の設けし各地の聖書講演会に臨み斯事業を援けられました 彼女の故に主を讃美します。
 
 【大正10年12月10日『聖書之研究』257号】
   感謝の辞
 茲に又旧年を送り新年を迎へんとするに方り父の恩恵益々裕に読者諸君の上に加はらん事を祈ります、本誌発行以来茲に二十一年、聖書は確実に日本人の書となりつゝあります、我国に於ける福音の勝利に今や寸毫の疑はありません、過去を顧みて感謝に堪へず、将来を計りて希望に溢れます、ハレルヤ、主を讃美せよであります。 内村鑑三外社員一同
    〔2023年9月18日(月)午前9時50分、入力終了〕