内村鑑三全集27、岩波書店、606頁、4700円、1983.1.24
 
一九二二年(大正一一年)一月より一九二三年(大正一二年)八月まで
 
凡例………………………………………… 1
一九二二年(大正一一年)
イエスを迎へまつれよ……………………… 3
「千九百二十二年は?」への回答………… 5
Religion Personal.宗教は個人的である… 7
信者の義 他………………………………… 9
信者の義
最も貴き知識
単独の讃美……………………………………11
二種の宗教……………………………………18
羅馬書講演約説…………………………19
 第二十九講約説
 第三十講約説
 第三十一講約説 
 第三十五講約説 罪より免かるゝ事
 第三十六講約説 死より免かるゝ事
 第三十七講約説 禁慾と霊化
 第三十八講約貌 神の子と其光栄
 第三十九講約説 天然の呻きと其救ひ
 第四十講約説  三つの呻き
 第四十一講約貌 救はれし理由 羅馬書八章廿八−卅節
 第四十二講約説 救の凱歌 羅馬書八章卅一節以下
 第四十三講約説 パウロの愛国心 羅馬書九章一−五節
 第四十四講約説 イスラエルの不信 羅馬書第十章の大意
 第四十五講約説 神の摂理 羅馬書第十一章大意
 第四十六講約説 聖き活ける祭物 羅馬書第十二章一節
 第四十七講約説 基督教道徳の性質 
 第四十八講約説 基督教道徳 其一 謙遜
 第四十九講約説 基督教道徳 其二 愛
 第五十講約説  愛の表顕 羅馬書十二章十二其十八節
 第五十一講約説 謙遜と宏量 羅馬書十二章十六、十七節
 第五十二講約説 愛敵の途 羅馬書十二章十九節以下
 第五十三講約説 政治と社会
 第五十四講約説 負債と其償却
 第五十五講約説 終末と道徳
 第五十六講約説 小問題の解説
 第五十七講   羅馬書十五章十四−卅三節解訳
 第五十八講   羅馬書十六章一−十六節解訳
 第五十九講   羅馬書十六章十七節以下
 羅馬書大観
随時雑感…………………………………… 113
John Three Thirty Six.約翰伝三章三十六節…… 116
信仰の能力 他…………………………… 118
信仰の能力
信仰の告白
聖潔と聖別と聖化………………………… 120
強くなるの道……………………………… 123
信仰と寛容………………………………… 126
Perfection and Humility.完全と謙遜… 128
現代日本人の宗教熱……………………… 130
死ぬるは益………………………………… 132
『約百記講演』〔表紙〕………………… 133
責任観念…………………………………… 135
Self-Consciousness.自己意識に就て … 137
忿恚の時 他……………………………… 139
忿恚の時
破る者破らる
アベル族とカイン族 他………………… 141
アベル族とカイン族
善悪の判断
職責の完成
『英和独語集』〔序文のみ収録〕……… 145
Foreword. 
序言
Protestant Churches.プロテスタント教会…… 148
本当の宗教………………………………… 150
耶利米亜哀歌第三章……………………… 155
長寿の実例………………………………… 161
Christianity as Love.愛としての基督教…… 163
基督者の徽章 他………………………… 165
基督者の徽章
隠顕の理
如何にして伝道に成功せん乎…………… 170
中調的道徳………………………………… 173
簡短なる伝道……………………………… 175
Evolution.進化論………………………… 176
義理と人情………………………………… 178
神の言……………………………………… 182
Divine Healing.神癒について ………… 184
喜楽と平康と希望………………………… 186
ベツレヘムの星…………………………… 191
文化生活と基督教………………………… 193
Be Slow.遅鈍なれ………………………… 195
苦しみに勝つの途………………………… 197
計算の罪…………………………………… 201
虹の意味…………………………………… 204
伝道師の不足……………………………… 207
黒岩涙香君を懐ふ………………………… 208
商人と宗教………………………………… 210
Criticism and Orthodoxy.批評と正教… 213
パウロと神学者…………………………… 215
開会の祈祷………………………………… 217
罪の贖主としてのイエスキリスト……… 220
海と神……………………………………… 233
藤井喬子を葬るの辞……………………… 237
『但以理書の研究』〔序文・目次のみ収録〕…… 240
緒言
Woe! 禍ひなる哉 ……………………… 242
進化論と基督教…………………………… 244
世界伝道の特権…………………………… 246
Christmas Greeting.クリスマスの祝詞…… 250
幸福なる生誕節 他……………………… 252
幸福なる生誕節
羅馬書と福音書
基督者たるの証拠
平和の途
愛と義
罪の赦し
基督者と伝道……………………………… 256
キリスト伝研究(ガリラヤの道)……… 257
 第一回   福音の始
 第二回   先駆者ヨハネ
 第三回   イエスのバプテスマ
 第四回   野の試誘《こころみ》(上)
 第五回   野の試誘(中)
 第六回   野の試誘(下)
 第七回   伝道の開始
 第八回   弟子の選択
 第九回   ガリラヤ湖畔の一日
 第十回   伝道と奇跡
 第十一回  赦しと癒し
 第十二回  税吏マタイの聖召
 第十三回  旧き人と新しき人
 第十四回  安息日間題
 第十五回  山上の垂訓
 第十六回  祝福の辞(上)
 第十七回  祝福の辞(中)
 第十八回  祝福の辞(下)
 第十九回  塩と光
 第二十回  キリスト復活の実証
 第二十一回 基督教対旧道徳
 第二十二回 隠れたる宗教
 第二十三回 空の鳥と野の百合花
 第二十四回 基督信者の簡易生活
 第二十五回 審く勿れ
 第二十六回 豚に真珠
 第二十七回 黄金律
 第二十八回 生命に入るの門
 第二十九回 偽はりの預言者
 第三十回  言表と実行
  〔三一〕 イエスの奇蹟と其模範
  〔三二〕 軍人の信仰
  〔三三〕 家事の祝福
  〔三四〕 宇宙の制御
  〔三五〕 ガダラの出来事
  〔三六〕 ヤイロの娘
  〔三七〕 眼を開かれ舌を釈かる
  〔三八〕 ミツションの開始
  〔三九〕 十二使徒の選任
  〔四〇〕 伝道師と其責任
  〔四一〕 迫害の途
  〔四二〕 懼るゝ勿れ
  〔四三〕 愛の衝突
  〔四四〕 冷水一杯
  〔四五〕 イエス、バプテスマのヨハネに尿はれ給ふ
  〔四六〕 イエス、ヨハネを弁護し給ふ
クリスマス演説 勝利の生涯…………… 441
一九二三年(大正一二年)一月−八月
To My German Friends.余の独逸国の友人に告ぐ…… 447
神の義 他………………………………… 450
神の義
義の意義
個人主義
伝道成功の秘訣
平凡の道
支那伝道の義務…………………………… 454
Better than the Best.最善よりも善きもの…… 458
普通の生涯 他…………………………… 460
普通の生涯
詩篇第百篇
二種の進化論
執筆満三十年……………………………… 465
『世界伝道の特権』〔表紙〕…………… 466
Faith and Perfection.信仰と完全 …… 468
満六十二歳の感…………………………… 470
永遠に変らざるイエス…………………… 473
マダガスカーの場合……………………… 476
〔崔泰 『日本に送る』〕序言………… 480
Believing.事業としての信仰…………… 481
私の基督教………………………………… 483
簡短なる大福音…………………………… 488
朝の祈祷…………………………………… 489
北氷洋沿岸の民…………………………… 491
Does Faith Save? 信仰は果して人を救ふ乎…… 495
聖書は読まざるべからず………………… 498
伝道回避の弁疏…………………………… 499
Mystery.最大の奥義……………………… 503
神の言としての聖書……………………… 505
残る者と残らざる者……………………… 507
日本の国体と基督教……………………… 513
Wills, East and West.東西両洋の意志…… 517
武士道と基督教…………………………… 519
背教者としての有島武郎氏……………… 526
ホームの建設と基督教…………………… 532
The Suicide Cult. ……………………… 538
同胞に告ぐ 死ぬな……………………… 540
Faith.信仰の途…………………………… 542
狂気と正気………………………………… 544
信仰増大の途……………………………… 546
棄教者の申分……………………………… 552
別篇
付言………………………………………… 553
社告・通知………………………………… 557
参考………………………………………… 565
欧洲戦後の信仰………………………… 565
商人と宗教……………………………… 566
東京講演余録(羅馬書第六十講余録)…… 571
 
一九二二年(大正一一年) 六二歳
 
(3)     イエスを迎へまつれよ
                           大正11牛1月1日
                           『霊交』 4号
                           署名 内村鑑三
 
 イエスは言ひ給ひました、視よ我れ戸の外に立ちて叩く、我声を聞きて戸を開く者には我れ其人の所に来らん、或は其人と偕に、其人は我と偕に食せんと(黙示録三章二十)。
 イエスは神の御子であつて万有を其|掌《たなごころ》に握る方ではありません乎、彼は何故に戸の外に立ちて叩き給ふのであります乎、何故に我等が開くを待たずして、其大能を以て之を押開き、或は之を打壊して、入来りて我等を捕へ、我等を其従者となして救ひ給はないのであります乎、罪人を救はんとするに方て、我等が内から救拯の声に応ずるを待つの必要はないではありません乎。
 否《しからず》であります、イエスは我等を愛し給ひます、人として我等を敬ひ、我等の自由を重んじ給ひます、故に強盗の如くに我等を襲ひ給はず、紳士の如くに我等を見舞ひ給ひます、故に彼は我が心の戸の外に立ち静にコツコツと叩き給ひます、彼は我が承諾を得て我裏に入らんと欲し給ひます、強制は何よりも彼が忌み給ふ所であります、彼は善を為さんがためとて決して暴力を用ひ給ひません、彼は自由に迎へられて自由に恵まんと欲し給ひます、故に万有の主なりと雖も、服従を迫り給はず、歓迎を待ち給ひます。
 主は戸の外に立ちて叩き給ひます、我れなるぞ開けよ開けよと。
(4) 嗚呼何故に遅疑するのです乎、何故に直に立ちて戸を開いて彼を迎へ奉らないのです乎、彼は今日汝を見舞ひ給ひました、彼は何時までも戸の外に立ち給ひません、叩く丈け叩きて内より応ぜざる時は彼は汝の門前を去りて再び汝を訪れ給はない乎も知れません、「今日と云ふ今日、汝若し其声を聞かば汝の心を剛愎《かたくな》にして彼を斥くる勿れ」とあります(希伯来書三章十五。)
 門を叩けよ然らば開かるゝことを得んと言ひ給ひしイエスは何時まで俟も汝《あなた》の彼に来らざるを知り給ひましたるが故に、今は彼御自身汝の許を訪れ、汝の門を叩き給ふのであります、汝より進んで彼を求むべきであるに今や彼より汝を見舞ひ給ひます、彼を迎へまつらずして可《よい》でせう乎、嗚呼彼を迎へまつりて、彼をして我身我家の主人たらしめまつらずして可でせう乎(馬太伝七章七。)
 
(5)     〔「千九百二十二年は?」への回答〕
                          大正11年1月4日
                          『東京朝日新聞』
                          署名 内村鑑三
 
      華府会議の後を承けた今年は世界的にも国内的にも極めて重大な歳であるとの見地から、我社は此の歳に関する感想、予測、希望等に就て大方の所感を求めた。茲に掲ぐるは是に対する返書である。
 一九一二年は如何なる年であるか預言者ならぬ私には分明りません 然し如何なる年であつて欲しい乎其|希欲《ねがい》はあります、|私は一九二二年は特に平和の年であつて欲しくあります、私は此新しき年よりして、日本人が今日まで戦争の事に熱心であつたやうに平和の事に熱心であつて欲しくあります、誠に感謝すべき事には今や戦争は世界に於て廃れつゝあります、戦争は害ありて益なき者、戦争に由つて起つた国家は必ず戦争に由つて亡ぶ、戦争に永久的利益は何も伴はざる事、此事は今や人類全体に由つて認められつゝあります、今より後、偉大なる国家は戦争に強い国家ではありません、平和に秀たる国家であります、国民は軍艦を作り師団を増して自分で自分を攻めつゝあるのであります、我等は世界に率先して「剣を打かへて鋤となし、鎗を打かへて鎌となし、戦争《たゝかひ》の事を復び学ばざるべし」と普の予言者が完全のせ界に就て予言せし其幸福なる状態に入るべきであります。
 平和は単《たん》に戦争を廃ると云ふ事ではありません、進んで建設的生産約事業に就く事であります、日本国小なりと雖も之を善く耕し、良く開発して其五千万の民を養つて余りがあります、先づ山に林を造れば其れ丈けでも民(6)より租税を要求せずして国費を支へる事が出来ます、其水産は無尽蔵であります、而して尚ほ二百万町歩の未墾の地があります、新進科学を利用して此国土を利用すれば今日の人口が三倍すればとて優に之を養ふ事が出来ます、又全世界は平和の民を迎へます、五千万の民に平和の教育を施す時に全世界は我が国土となるのであります、「柔和なる者は福なり其人は地を嗣ぐ事を得べければ也」とは真理中の大真理であります、私は日本人が一九二二年を新紀元として世界第一の平和の国民と成らんことを望んで止みません。
 
(7)     RELIGION PERSONAL.宗教は個人的である
                         大正11年1月10日
                         『聖書之研究』258号
                         署名なし
 
     RELIGION PERSONAL.
 
 RELIGION is personal,not general. It is not“we”but“I”not plural,but singular,――first person,singular. It is not mankind or humanity,but I myself.“My God.my God,why hast Thou forsaken “me?”was Jesus' own religion.“O wretched man that I am! Who shall deliver me out of tbe body of this death?”was Paul's religion. Theologians seeking after general truth of religion,never find it. God is found onlyin one's inmost soul;and a man who cannot make himself an object-lesson in religion,can never be its preacher. Modern Christianity is tasteless and powerless,Chiefly because it is general and social, and not personal and individual. Is there anything more useless under heaven than the“expert”in religion?
 
     宗教は個人的である
 
 宗教は個人的である、全般的でない。宗教は「我等」でない、「我れ」である。複数でない、単数である、第(8)一人称の単数である。人類又は人道の事でない、我れ自身の事である。「|我が〔付○圏点〕神、|我が〔付○圏点〕神、何故に|我〔付○圏点〕を棄たまひしや」とはイエス御自身の宗教であつた。「噫|我れ〔付○圏点〕困苦《なやめ》る人なる哉、此の死の体より|我〔付○圏点〕を救はん者は誰ぞや」とはパウロの宗教であつた。神学者等は宗教の全般的真理を探るが故に何時までも宗教を看出さないのである。神は人の奥底の霊に於てのみ発見せらる。自己を宗教の実験物として提供する能はざる者は其説教者たる事は決して出来ない。近代的基督教が無味にして無能なるは主として其れが全般的であつて又社交的であり、個人的でなく又一身的でないからである。天《あま》が下に無用なる者にして世に所謂「宗教専門家」の如き者があらう乎。彼は宗教を知らずして宗教を語る者である。
 
(9)     〔信者の義 他〕
                         大正11年1月10日
                         『聖書之研究』258号
                         署名なし
 
    信者の義
 
 聖書の明白に教ふる所に随へば、神に由り義は信者に帰せらるゝ(impute)のであつて吹込まるゝ(infuse)のではない、即ち我等は義人と成りて救はるゝのではなくして、罪人なるに信仰の故を以て義人として扱はるゝのである、而して義人として扱はるゝの結果として、自から努めざるに自然と義人たり得るのである、故に信者は自己《おのれ》に顧みないのである、我が罪のために十字架に釘けられ給ひし神の子を仰ぎ瞻るのである、自分に罪の残るを見て失望せず、イエスに在りて我罪の完全に除かれしを知りて歓ぶのである、何事もキリストと其十字架である、信者の善事はすべて茲に在るのである、彼は自己に省みて「善なる者は我即ち我肉に居らざるを知る」と云ひ(ロマ書七章十八節) キリストを仰いで「それ神の充足《みちたれ》る徳は悉く形体《かたち》をなしてキリストに住めり」と云ふ(コロサイ書二章九)、信者の生涯は戦々兢々とし薄氷を踏むが如き生涯ではない、「主我を助くる者なれば恐怖なし、人我に何をか為さん」と云ひて進む生涯である、祝福《さいはひ》の極とは此事である。
 
(10)    最も貴き知識
 
 知識々々と云ふ、洵に知識は貴くある、然れども信仰は知識よりも貴くある、而して神は信仰よりも貴くある、|神を実験的に知りし知識〔付○圏点〕、それが信仰である、而して此知識即ち信仰は何物よりも貴くある、此知識、即ち神を実験的に知る知識ありて他に何物も要らない、富も要らない、位も要らない、知識も要らない、然れども此知識即ち信仰ありて我は万事を知つたのである、又万物を有するのである 而して此知識即ち信仰ありて知識欲は熾に起り、栄光と貴尊とは神の定め給ひし時に求めずして我に臨み来るのである、先づ神を求めよ然らば万物は汝に与へらるべし、神を知るの知識を有して哲学、科学、文学等の知識は有るも可なり、無きも不可ならずである、神を知らざる者は知識を求めて焦慮つて止まない、彼等は飽くなきの知識慾を有して、或は知識に誇り、或は無智に失望する、信者は然らず、彼は神に於て万物を有するが故に、飽くことを知りつゝ知識より知識へと進むのである。
 
(11)     単独の讃美
                         大正11年1月10日
                         『聖書之研究』258号
                         署名 内村鑑三
 
 米国メソヂスト教会派遣宣教師神学博士S・H・ウェインライト氏が余輩の欠点数々を例挙せし批評の一節に曰く「|彼は単独にして何人とも共働する能はず〔付△圏点〕」と、余輩は今茲に博士の此言に対して自分を弁護せんと欲するのではない 余輩は博士が余輩の欠点に就て知つて居るよりはヨリ以上自分の欠点に就て知つて居る積りである、然し乍ら余輩は茲に博士を以て代表せらるゝ米国基督信者の全体、並に彼等の派遣に係る宣教師等に由て教へられ又養はるゝ我国多数の基督教徒が懐く誤謬の一に就て説明を試みんと欲する、それは|彼等全体が単独を悪事と見做す事である〔付◎圏点〕、彼等は「人は社交的動物なり」と云ふ希臘哲学の立言を基督教的真理と見做し、之に反する者を以て基督教の根本義に反する如くに見做すのである、彼等に取りては基督教維れ共働生活である、故に信仰維れ集会である、団体の大なるを称して宗教の隆盛と云ひ、集会の繁きを以て信仰の熱烈と称す 彼等は教会てふ目に見ゆる団体と離れて宗教を考ふる能はず、集会の無き所に信仰を認むる事が出来ない、故に偶々《たま/\》団体を離れて信仰を維持する者があれば彼を呼ぶに神秘家の名を以てす、現に同じく米国宣教師にしてバプチスト派のW・アキスリング君が米国某地に於て為せし演説の中に余輩を日本のミスチツクとして紹介したとの事を読んだ 然し乍ら基督教を団体的に見るは是れ米国人の見方であつて、是れ必しも真正の見方ではない 米国人が多くの事(12)に於て誤つて居るやうに此事に於ても誤つて居る乎も知れない、故に余輩は米国神学博士に余輩の行動を非難されたとて敢て失望落胆するに及ばない、余輩は先づ静に聖書に依り彼等米国基督信者等の立場を研究して余輩に関する彼等の批評に答ふべきである。
 而して余輩は聖書を精読して米国基督信者の基督教観に同意する事が出来ないのである、聖書は決して単独を絶対的悪事として教へないのである、其反対に聖書は寧ろ単独を奨励するのである、先づ第一に神は一であつて単独であり給ふ、而して神に択ばれし者は大抵は単独であつた、|信仰の祖先と称せらるゝアブラハムは単独であつた〔付○圏点〕、彼れ未だメソポタミヤに在りし時栄光の神現はれて彼に曰ひ給ひけるは「汝の国を出で汝の親族を離れて我が汝に示さん所の地に至れ」と(行伝七章三節)、斯くしてアブラハムの一生は単独の一生であつた、彼はハランに於て父に死別れ、エジプトに流浪し、カナンに帰りて甥のロトと離れ、ソドム人と合はず、ゴモラ人と親まず、たゞヱホバを友として一生を終つた、「アブラハム神を信ず……彼又神の友と称《よば》れたり」とあるを見て神を除くの外に友と称すべき友の彼になかつた事が察せられるではない乎、聖書に於てアブラハムに関して録されたる総の言を綜合して見て彼が交際社会の人であつたとは如何しても思はれないのである。
 |神の人モーセに就ても同じ事を言ふことが出来る〔付○圏点〕、彼は歳四十にしてエジプトを遁れてミデアンの地に行いた、彼処《かしこ》に於て妻を迎へ、子を儲けしと雖も彼は単独の生涯を送つた、彼は独りで棘《しば》の中にヱホバの聖召《めし》を蒙つた、独りで幾回《いくたび》かシナイ山の巓に登り其所にヱホバの啓示《しめし》に与つた、イスラエルの民の中に彼が友とすべき者は一人もなかつた、彼の兄たるアロンも、妹たるミリアムも彼を誤解して彼を責めた、彼は四十年間、曠野《あれの》にイスラエルの民を率ゐて染々《しみ/”\》と人生の孤独を味ふた、彼は自己に民の罪を担ひて、彼等の為に祈て曰ふた「彼等の罪を赦(13)し給へ、然らずば願くは汝の書記《かきしる》し給へる書《すみ》の中より我名を抹去《けしさ》り給へ」と(出埃及記卅二章卅二節)、是はたしかに孤独の人の発せし言である、彼は又堪へ難き孤独の情を抒《のべ》て曰ふた
   我等の諸の日は爾の怒によりて過去る
   我等が総の年の尽るは一息の如し
   我等が年を経る日は七十歳《なゝそぢ》に過ず
   或ひは壮《すこやか》にして八十歳《やそぢ》に至らんも
   その誇る所は唯勤労と悲歎とのみ
   その去往《さりゆく》や速にして我等も亦飛去る
と(詩篇九十篇九、十節)、誰か此言の中に孤独の悲調を認めざる者があらう、是は決して今日の米国神学博士等が其「活動」に従事しつゝある間に発し得る言ではない、而して此モーセは独り生きて独り死んだ、独りピスガの巓に登り独り死してヱホバ御自身の葬る所となり、民の中に彼の墓を知る人なしと云ふ(申命記三十四章一−七節)、偉大なりし神の人モーセは如何見ても社交、交際の人ではなくして、単独にして神をのみ友とした人である。
 而して|預言者エリヤは如何に〔付○圏点〕? 彼は何であつたにしろ今日の米国宣教師等に由て代表せらるゝ社交の人ではなかつた、ギリアデの野人なりし彼れエリヤは特に単独の人であつた、彼は飄然として独り現はれ来り、飄然として独り消え去つた、彼は単独にてバアルの預言者数百人と相対し、独り闘つて独り勝つた、彼は会堂に会衆の慰藉に与らずして、神の山ホレブに大風の中に細き微なるヱホバの声を聞いた、彼の弟子は唯一人、而してエリ(14)シヤはエリヤの後を継ぎて其師に等しく単独の預言者となつた、聖書は師弟訣別の状《さま》を記して云ふ「彼等進みながら語れる時火の車と火の馬現はれて二人を隔《へだて》たり、エリヤは大風に乗りて天に昇れり」と(列王妃略下二章十一節)、単独の師に対して単独の弟子があつた、彼等は師弟の交際をすら長く楽しむ事を許されなかつた、試に若しエリヤが今日の基督教界に現はれたとすれば如何に? 其宣教師と牧師と伝道師とは之に奇人又は変人の名を附して一切之に取合はないであらう、彼等はエリヤの偉大を口にするも、彼等の内何人も之に傚はんとはしない、今日の基督教界は到底エリヤ系の信者に堪へ得ないのである。
 エリヤの後に来りしヱレミヤは如何に? ヱレミヤは果して米国宣教師等の意に合ふが如き預言者なりし乎、ヱレミヤは社交の人なりし乎、ヱレミヤは此世の政治家又は実業家と共にヱホバの道を伝へて耻とせざりし乎、誰か耶利米亜記と哀歌とを読んで此人の特に単独の人なりし事を認めざる者あらんや。
  あゝ我れ我が首《かうべ》を水となし、我が目を涙の泉となす事を得んものを、然《さ》れば我れ我が民の女《むすめ》の殺されたる者の為に昼夜|哭《なげ》かん、あゝ我れ曠野《あれの》に旅人の寓所《やどりどころ》を得んものを、然れば我れ我が民を離れて去り往かん
と叫びし者は孤独の人ならざりし乎(耶利米亜記九章一、二)、又「我は彼の震怒《いかり》の笞《しもと》に由りて艱難《なやみ》に遭ひたる人なり」と言ひて後に
  我等の尚ほ滅びざるはヱホバの仁愛《いつくしみ》に由る、その憐憫《あはれみ》の尽きざるに因る、…… 人若き時に軛を負ふは善し、ヱホパ之を負はせ給ふなれば独り坐して黙すべし
と独語せし人は信者不信者協戮して交際場裡に福音宣伝を語る米国宣教師等と類を共にする神の僕なりし乎(耶利米亜哀歌三章二二−二八)「ヱホバ之を負はせ給ふなれば独り坐して黙すべし」と、若し神の預言者ならずし(15)て余輩が此言を発したりとせん乎、今日の教会は必ず余輩を呼ぶに悲観家の名を以てするならん、誠に今日の基督教徒は預言者ヱレミヤに堪へ得ないのである、彼等にして真面目に耶利米亜記を研究する者は甚だ稀である、彼等は耶利米亜哀歌に悲哀美を嘆賞するの外に、之を己が実験として読み得るの能力を有たない、彼等に取りヱレミヤは悲歌慷慨の代名詞たるに過ぎない、彼に傚つて独り民の為に泣くと云ふが如きは浮虚軽薄の今日の基督教徒の及びもつかぬ事である。
 其他の旧約の勇者たる|ギデオン、バラク、ヱプタ、サムソン〔付○圏点〕等は孰れも単独の人であつた、|彼等は衆と共同して国を救つたのではない、神に頼り独り大事を為したのである〔付△圏点〕、所謂社交的基督教と称して多数の力を借りて世を改め国を救はんとするが如きは神の人の為さんとした事ではない、士師も預言者も皆な悉く単独の人であつた、今日の宣教師等とは全然|質《たち》を異にしたる人であつた。
 而して新約の人も亦爾うであつた、ヱスもパウロもヨハネも所謂社交の人ではなかつた、ヱスは預言者の所謂「侮られて人に棄られ悲哀《かなしみ》の人にして病を知る」人であつた、彼は其の少数の弟子にさへ棄られ、独り菌※[草がんむり/陳]の杯を飲み、独り十字架の苦楚を嘗め給ふた、パウロも亦畢克孤独の人であつた、彼の唱へし福音は非常に独創的のものであつて、之を解し得る者は極めて少数であつた、ヨハネも亦其晩年をパトモスの孤島に送り、茲に天よりの黙示に接して荘大絶美の黙示録を書いた、其他ピリポでも、ステパノでも、バルナバでも、所謂交際場裡の人ではなかつた、|彼等は委員を設けて聖書を作らなかつた〔付△圏点〕、馬太伝はマタイ一人が書きし者、路加伝はルカ一人の作、黙示録はヨハネ一人の終末観であつた、ステパノは衆と共に迫害を受けなかつた、一人真理を証明して石にて撃殺《うちころ》されたピリポは伝道団を作らず、一人道にエテオピヤの大臣を擁し、車中に入りて彼を教へ、路傍(16)に流るゝ小川に下りて彼に悔改のバプテスマを授けた(行伝八章二十六節以下)、|一人である、一人である〔付△圏点〕、会とか団とか同盟とか委員とか云ふ事は近代人、殊に集合的米国人の為す所の事であつて、初代の基督者《くりすちやん》の為した事ではない、初代の基督者は旧約時代の士師預言者等と同じく神と偕に在りて独りで闘つて独りで勝つた、彼等は米国人の如くに「|共同は勢力なり《ユニオンイズストレングス》」とは言はなかつた、モーセと共に言ふた「ヱホバは我力我歌なり、彼は我が救拯となり給へり」と(出埃及記十五章二)、彼等は団体の勢力を顧みて事を為さんとしなかつた、「主我を助くる者なれば恐怖《おそれ》なし人我に何をか為さん」と言ひて人の援助を俟ずして進んだ、王に瀬るも衆に頼るも人に頼るの点に至ては少しも異ならない、而して基督者は王公貴族に頼らざるやうに又民衆団体にも頼らないのである、|基督教は決して民主々義ではない、基督教は信神主義であつて其根柢は聖き堅き個人主義である〔付○圏点〕、基督者は他人と協戮する能はずとて悲まない、神と偕に歩む能はずとて歎く、伝道会社に頼らざれば伝道する能はず、出版会社に依らざれば著述する能はず、有力者の後援あるにあらざれば教育にも慈善にも従事する能はざる者は神の子にしてキリストの僕たる基督者ではない、基督教を社会的勢力と解するが如き大なる誤解はない、基督教は決して人の力でない、神の力である、先づ第一に個人の霊魂に臨む神の力である、故に単独の人を以て世界人類を動かす力である。
 故に深く基督教を味ひし人はすべて単独の人であつた、詩人ダンテは単独を好む単独の人であつた、彼の『神曲』は作詩委員の合作ではない、ルーテルも亦単独の人であつた、彼の独逸訳聖書は英訳又は日本訳聖書の如くに翻訳委員の手に由て成つた者ではない、其の特に貴きは之れがためである、人類あつて以来、委員制度に由て雄篇大作の成つた例《ためし》は一もない、|天才は個人的である〔付◎圏点〕、凡人が天才に傚はんとする時に止むを得ず委員会を組織(17)するのである、信仰の旺盛なる時に団体は重ぜられない、共同一致の必要の唱へらるゝ時は必ず信仰の衰へたる時である、ルーテルは聖書会社の依頼を受け、確実なる報酬を保証せられて聖書を独逸語に訳したのではない、彼は独り決《きめ》て独り行つた、是は|ルーテル訳〔付○圏点〕であつて、日本訳聖書の如くに|委員訳〔付△圏点〕でない、日本訳聖書の独逸訳聖書に及びもつかない理由は茲に在るのである、委員訳に碌な者のありやう筈がない、聖書は元々単独の人等に由て書かれたる書であるが故に多数の委員に由て完全に訳されやう筈がない、見よ委員に由て為されし事業を、事は遅々として捗らず、入費は多くして結果は平凡である、故に神は其御事業を為し給ふに方て委員を以てせずして単独の人を以てし給ふ、ミルトンも、カントも、ジヨナン・エドワードも、モーセス・スチユアートも単《たゞ》独り働いて単独りで功を挙げた、近代の教会より何の偉大なる事の出で来らざるは、信者が多数の力に頼んで、神に頼みて単独り働かんとしないからである、米国宣教師等は多くの呪ふべき誤謬を我等に伝へた、而して其内最も大なる者は彼等の誤りたる民主思想より出たる誤りたる多数主義である、我等は聖書の上に立ちて信仰の事に就ては殊に浅薄なる米国人の此思想、此主義を排斥すべきである。
 
(18)     二種の宗教
                        大正11年1月10日
                        『聖書之研究』258号
                        署名なし
 
 宗教に二種ある、唯二種あるのみである、即ち自力宗と他力宗と是れである、儒教、神道、回々教、猶太教、皆な自力宗である、而して浄土門の仏教は他力宗であるが、絶対的他力宗でない、信仰を救拯の条件として要求する宗教は未だ絶対的他力宗と称する事は出来ない、|信仰其物までを神の恩賜として観るに至つて宗教は絶対的他力宗となるのである〔付○圏点〕、而してキリストの福音は斯かる宗教である、即ち絶対的他力宗である、曰く「汝等の信ずるは神の大能の感動に由るなり」と(エべソ書一章十九) 信者の信仰其物が神の恩賜である、故に誇るの余地が寸毫ないのである 唯祈るのである、祈り求むるのである、而して其祈る心をさへ祈り求めて之を与へられて神に感謝するのである、造られし人は造りし神に対して絶対的服従に出るより他に取るべき態度はないのである、信仰の道はつまる所祈り求むるの道に外ならないのである。
 
(19)     〔羅馬書〕講演約説
                      大正11年1月10日−12月10日
                      『聖書之研究』258−269号
                      署名 内村艦三
 
    第二十九講約説
 
〇信者は罪の内に居てはならない、即ち罪を其習慣性となしてはならない(六章一節)、罪より全く脱出しなければならない、而して救拯の第一歩は罪の統治権より脱する事である、彼に在りて罪は弱くなり義は強くなる事である、彼は断然罪の配下より離れて義の生涯に入るべきである(十二、十三節)、而して是れ彼の為し能ふ事である、そは彼は信者となりて恩恵の下に在りて律法の下にあらざるが故に、罪は彼の上に主権を揮ふ事が出来ないからである、其理由は後に明かである。
〇信者は罪の支配より脱せねばならぬ、両して更に進んで完全の人とならねばならぬ、罪は痕跡だも留めぬ者とならねばならぬ(十五節)、彼は恩恵の下に在ればとて如何なる罪と雖も之を犯すべく許されないのである(馬太伝五章四八節、腓立比書二章十五節参考)、而して此事たる神が信者より要求め給ふ事であつて、又彼に在りて為し給ふ事である、神は命令を発し給ふと同時に能力を供給し給ふ、彼の命令に必ず実行可能の約束が伴ふ、何々する勿れ、何々すべしと曰ひて単に実行を迫り給ふのではない、「罪は汝等に主たる事なければ也」と言ひて(20)命令執行の可能を肯定し給ふ、故に信者は神の完全要求に対して失望落胆してはならない 「神の意旨は汝等の潔からん事なり」とある(テサロニケ前書四章三節)、是れ神が信者が為さん事を欲し給ふ事であつて、同時に又神が彼に在りて為し給ふ事である、聖書を読むに方て神の命令(imperatives)と共に彼の肯定(affirmatives)あるを忘れてはならない。
 
    第三十講約説
 
〇信者は自主自由の身ではない、彼は何事も彼の自由意志を以て決定して之を行ふ者ではない、さう思ふのは大なる間違である、信者も亦奴隷である、其点に於ては不信者と異ならない、信者と不信者の異なる点は其の隷属する主人にあるのである、不信者は罪の奴隷であるのに、信者は神の奴隷である、人は何人も全然自由たる能はず、何者にか仕へざるを得ないのである 神に仕へざれば悪魔に仕へ、神に仕へて初めて悪魔に仕へざるに至る、而して基督信者と云ふは別の者ではない、悪魔の僕たるを廃て神の僕となつた者である、恰かも昔の日本武士の如き者である、何れかの諸侯に仕へざるを得ない、仕ふるの主なき者は浪人である、其如く人は何人も何者かの僕となりて悪魔に勝ち、罪に勝ち、肉に勝ち、自己に勝つ事が出来るのである、彼は前に罪の又汚穢の僕であつた(十六、十七、十九節) 然れども今や神の恩恵に由りて順(信仰)の僕(十六節)義の僕(十八節)又神の僕たるに至つた(廿二節)、然れども依然として奴僕である、パウロは自己を称してイエスキリストの僕(奴隷)と云ふた、而してキリストの奴隷たるは名誉の絶頂である、真正の自由は茲に在る、神に救はるゝは彼の捕虜となりて彼の意旨の儘に使はるゝ事である。
 
(21)    第三十一講約説
 
〇宗教の種類は多しと雖も律法−道徳−を不用とする宗教は唯一つである、それは基督教である、真の基督教は遺徳廃棄を主張して憚らないのである、基督教が危険視さるゝは実は其の為である。
〇然れども基督教は危険に見えて少しも危険でない、基督教は過激主義や極端なる社会主義とは全然根本を異にする、|キリストは完全に律法−道徳−の要求に応じて之を不用ならしめ給ふ〔付○圏点〕、律法に逆らつてゞはない 之に順つて実際的に之を廃棄し給ふたのである、加拉太書五章廿二、三節に日へるが如し、「霊の結ぶ所の果は仁愛、喜楽、平和、忍耐、慈悲、良善、忠信、温柔 ※[手偏+尊]節、|斯くの如き類を禁ずる律法はある事なし〔付○圏点〕」と、完全に律法に適ふ人となりて其人に対して律法は死し 律法に対して英人は死するのである、キリストは如斯くにして律法不用の人となり給ふた、而して其の如く亦信者も信仰に由りてキリストと同体になつて律法に対して死し、又律法は彼に対して無能となるのである 基督教に在りては律法廃棄は学者の空論でない、実際的事実である、良心の命令を無視して道徳の範囲より脱出せんとするのではない、充分に良心の要求を満足せしめて道徳の必要なからしむるのである。
〇「儀文の旧きに由らず、霊の新しきに由りて事ふ」(第六節)、道徳は旧い者である、旧いが故に権威がある而かも其権威たるや外より臨むが故に威圧的である、我等道徳に由て完全ならんと欲して機械的にして消極的ならざるを得ない、霊即ち聖霊はキリストに由て初めて臨む者である、故に嶄新である、而して我等の霊に降りて内より働くが故に其行動たるや自由であつて積極的である、常に古への聖人を顧みて其聖訓に則りて行ふのでは(22)ない、今、目下我が内に在し給ふ神の霊に励まされて其聖旨の儘に動くのである、基督者は機械的君子ではない、活ける神の活ける子輩《こども》である。 〔以上、1・10〕
 
  筆者曰ふ、約説実は原稿である、畔上君の編纂に次いで之を掲ぐるは重複の嫌ひありと雖も、聖書の言は幾回重複するも益あつて害がない、読者が前後両編を合せ読んで更らに深くパウロの言を味はれん事を望む。
 
    第三十五講約説 罪より免かるゝ事
 
〇国家問題と云ひ、世界問題と云ひ、別の問題ではない、単純なる、広く知れ渡りたる|正義問題〔付○圏点〕である、去年十一月十一日より、全世界凝視の中心となりて開かれ来りし華盛頓会議に於て文明諸国最大の政治家達に由て討議せられし問題は哲学又は科学又は芸術の問題ではなくして何人にも能く判る正義問題であつた、如何にして明白なる正義を国と国との間に実行せん乎、是が大政治家の頭脳を悩ます最大問題である、まことにマツシュー・アーノルドが曰ひしが如くに「人生十分の九は正義である」、正義を発見し、正義を実行す、人生十分の九は之にて尽きて居るのである。
〇聖書の貴き理由は茲に在るのである、其れは特に正義の書であるからである、聖書は第一に神と人との義しき関係に就て教へる、第二に人と人との義しき関係に就て教へる、其れ故に聖書は永久的に貴いのである、而して世界思想を支配する者は聖書である、華盛頓会議も亦聖書の教を国際的に実行せんが為に開かれたに過ぎないのである、今より二千七百年前に予言者イザヤの発せし言、即ち「剣を打かへて鋤となし、鎗を打かへて鎌となし、(23)戦闘の事を復び習はざるべし」との言が今や其実現を見んとしつゝあるのである、故に聖書を知らずして世界は判らない、聖書を知るは個人として、国家として、人類として最も必要である、我等は聖書を学んで閑問題を学びつゝあるのでない、最も実際的の最大問題を研究しつゝあるのである。
〇羅馬書第八章は聖書の最高峰である、故に其一言一句も忽せにする事は出来ない、其第一節に曰く「是故にイエスキリストに在る者は罪せらるゝ事なし」と、全章を紹介する辞として甚だ大切である、「是故に」は前章末節を受けた辞として見る事は出来ない、さう見る場合には心にては神の法に服へども肉にては罪の法に服ふ者が罪せらるゝ事なしと云ふ事になる、勿論然かありやう筈はない、故に「是故に」は前章六節を受けた者と見るが正当である、而して七章六節は五章一節以下の絮説の結論であるが故に、「是政に」は五章以下七章までの議論の結果を受けて云ふ者と見るが当然である、即ち信仰に由て義とせられ、キリストの死と復活とに由て潔めらるゝが故に、「是故に」と云ふのである、希臘語の小辞《ぱ−ちくる》(gar)であるが、其解釈如何に由て信者の信仰上並に実践道徳上に大なる相違を生ずるに至るのである。
〇「イエスキリスト」は改訳には原語の通りに「キリストイエス」と成つて居る、それが本当である、而してキリストイエスと云ふはイエスキリストと云ふと少しく違ふ、キリストイエスは復活し、昇天し、今は聖父の右に座して万物の上に其大能を揮ひ給ふ栄光のイエスである、即ちキリストなるイエスである、而かも単に神なるキリストではない、神にして人なる即ちイエスなるキリストである、イエスキリストと云ふ場合には人なるイエスが高調せられ、キリストイエスと云ふ場合には神なるキリストが強唱せらる、而して信者が今仰ぎ頼む者は栄光の宝位に座し給ふキリストイエスである。
(24)〇「キリストイエスに在る者」 クリスチャンの何たるかを示したる辞である、クリスヤンは単にキリストを信ずる者ではない、彼を崇め又拝む者ではない、「キリストに在る者」である、キリストの内に自己を投込んだ者である、キリストと同体に成つた者である、我れ彼に在り彼れ我に在りと云ふ状態に於て在る者である、「人もし我に居り、我れ亦彼に居らば」と約翰伝十五章五節に云ふ其状態である、親密其極に達したる関係である、基督信者と云ふよりも更に更に深い意味のある名称である。
〇「罪せらるゝ事なし」 改訳には「罪に定めらるゝ事なし」とある、罪を言渡さるゝ事なし又罪を罰せらるゝ事なし、罪と其結果とより全然釈放せらるとの意である、罪責《ギルト》並に刑罰より免かるとの事である、キリストに在る者には完全なる赦免があるとの事である。
〇改訳に倣ひ「是故に」の次ぎに「今」と云ふ辞を入れるの必要がある、神の恩恵を信じ、キリストの内に自己を投入れし者は今や罪せらるゝの恐怖なしとの事である、「今」は不信時代の過去に対して云ふのである。
〇「罪せらるゝ事なし」と云ふ、是れ何人に取りても大恩恵である、信仰の一面はたしかに罪の当然の結果たる刑罰の恐れよりの解脱である、此恐怖なくして福音の福音たる理由は判らない、然かも近代人に此恐怖がないのである、彼等は神は愛なりと称へて彼が罪を憎み、罪人の責任を問ひ、悔改めざる罪人を罰し給ふ事を信じないのである、近代人は神の愛を誤解して彼を恐れない、彼等は聖書に「活ける神の手に陥いるは恐るべき事なり」と読んで其恐ろしさを感じない(希伯来書十章三一節)、彼等が福音の有難さを感じ得ない理由は茲に在る、彼等が又宗教的熱心を発し得ざる理由も茲に在る、パウロを始めとしてルーテルも、コロムウエルも、バンヤンも、深い信者と云ふ信者はすべて此恐怖を感じた、自身地獄に堕ちたる実験のあるダンテが彼の『神曲』を著はし得(25)たのである、而して此実験なき近代の宗教家と文学者とは『神曲』の芸術的方面を解し得るに止まつて、其信仰的心髄は到底之を探り得ないのである。
 
    第三十六講約説 死より免かるゝ事
 
〇若し聖書を宝の倉庫に譬ふべくば羅馬書、殊に其第八章は之を宝玉の匣に比ぶる事が出来る、其内に金剛石《だいやもんど》あり、黄玉《とぱず》あり、緑玉《えめらるど》あり、青玉《さつはや》ありて、其孰れを以てするも富を作し貴きに達する事が出来る、其各節が真理の珠玉である、其孰れを取るも以て長講演の題目となす事が出来る 第一節「キリストイエスに在る者は罪せらるゝ事なし」と云ふが如き 第六節の「肉の事を念ふは死なり云々」と云ふが如き、第十節「キリスト汝等に在らば体は罪に因りて死《しに》云々」と云ふが如き、孰れも信仰上の大真理であつて、之を委しく説明するは容易の事でない、宝貨《たから》は積みて山をなす、其孰れよりして評価を始めて宜しきや其途に窮するのである。
〇パウロの文体は……ヨハネ其他の聖書記者の文体も同様である……現代人のそれとは違ひ論理的でなくして累積的である、一個の真理を順序的に叙述するのでなくして、一つの真理の上に他の真理を積累ねて連続的に感得せしむるのである、恰かも夏の雲を望むが如くであつて、塁々として重巒を望むの観を呈す、之を一節より十一節までに於て見るに贖罪の真理、清潔の真理、聖霊の真理、復活の真理が相重なりて提示せらるゝのである、パウロは神の使者として権威《オーソリチー》を以て殆んど威圧的に我等に臨むのである、而して我等は先づ其孰れに接して之に応へん乎、其途に苦しむのである、彼の言辞は余りに重く、其意味は余りに濃厚にして、其摂取と消化とに読者は甚く困しめらるゝのである。
(26)〇斯かる場合に於て何人も同時に其全部を咀嚼し消化する事は出来ない、其一節一句丈けで充分である、而して其一節を深く究めて全篇を貫く中心真理に達する事が出来る、恰かも地球の表面何れの地点より穴を穿つも之を四千哩の深さにまで掘鑿すれば終に地球の中心に達すると同じである、試に第一節を其終極まで究むれば福音の中心的真理に達する、第六節、第十節皆な同様である、必要なる事は我等各自がパウロ気分になる事である、我等各自がパウロと共に心を福音の中心点に置くならば、彼の言辞がすべて我有となりて其意味は注解を俟たずして明瞭になるのである。
〇第一節を見るに其内に二個《ふたつ》の大切なる真理が示されてある、其第一は「キリストに在る者」と云ふ事、第二は「罪せらるゝ事なし」と云ふ事である、キリストに在るとは彼と同身同体となる事である、我れ彼に在り彼れ我に在ると云ふ状態に入る事である、故に九節に於て「神の霊汝等に住まば」と云ふも、「キリスト汝等に在らば」と云ふも、又十一節に於て「イエスを甦らし者の霊汝等に住まば」と云ふも、其意味は「キリストに在る者」と云ふと異ならない、信者はキリストに在る者であつて、同時に又キリストが其霊を以て其内に住み給ふ者である、「キリストに在る者」と云ふ言辞の内に聖霊内在の真理の一面が明かに示されてあるのである。
〇「罪せらるゝ事なし」と云ふが第一節の示す所の第二の福音的大真理である、「罪せらるゝ事なし」とは救拯の消極的半面である。然し救拯其物を示す言辞なるは明白である、而して其積極的半面を云ふた者が第六節の「生《いのち》」又「安《やすき》」である、第十節の「霊魂は義に縁りて生きん」とある其事である、第十一節の「汝等が死ぬべき身体をも生すべし」とある其事である、其他後節に於て神の子と成る事、キリストと共に世嗣となる事も其内に含まれて在るのである、斯くして「罪せらるゝ事なし」と云ふは大なる広き言辞である、神がキリストを以て下し給ひ(27)し恩恵の全部が其内に含まれてあるのである。
〇如斯くに解して第一節を以て第八章全体の題目として見る事が出来る、残る三十八節は此一節の敷衍又は註解とも見る事が出来る、「キリストイエスに在る者は罪せらるゝ事なし」と云ふ、我れ信仰を以てキリストに在り、キリスト聖霊を以て我内に宿り給ひて我は義とせられ、浄められ、終に復活して救拯を完成《まつたう》せらると云ふのである。
〇茲に一節以下四節までの意訳を紹介する。
  以上に述べ来りし所に由れば、クリスチヤン即ちキリストイエスに在る者は今や罪に定めらるゝと云ふ事あるなし、而して更らに尚ほ他の理由を述べて言はんに、キリストイエスに在る生命の霊の働らきは罪と死との働らきより我を解放したり、其理由如何となれば律法の無能なる所、即ち肉の故に弱き所を神は実行し給へり、即ち其独子を罪の肉の形にて罪祭の犠牲として遣《おく》り、其肉に於て罪を罰し給へり、これ律法の義の我等クリスチヤンに於て成就せられん為なり。
〇第二節は聖霊の聖化力を示したる言辞である、聖化力は聖霊のみでない、信仰其物が大なる聖化力である、キリストの御生涯も亦大なる聖潔の能力である、我等はキリストを仰瞻て、信仰的にも実行的に聖めらるゝのである、然し乍ら聖潔は最も徹底的に聖霊の降臨に由て実行せらるゝのである、キリストイエスに由る活かす霊が信者に臨んで彼の内に働く死と罪とが駆逐せらるゝのである、有名なる蘇格蘭の現教師ドクトル・チヤルマーが曰ひし通りである、Expulsive power of new affections(新らしき愛情の駆逐力)と、聖き活す碑の霊が心に臨む時に死せる罪の霊は駆逐せられて、信者は後者の束縛より釈放せらるゝのである 茲に「法《のり》」とあるは「権能」と(28)解すべきである、権能は法に必ず附随する者である、此場合に於ては生命の霊の権能に由りて罪と其結果たる死との権能より釈されたりと解して意味は明白になる、又|釈さる〔付○圏点〕(現在)ではない、|釈されたり〔付○圏点〕(過去)である、パウロは過去に於て或る明確なる実験として聖霊の降臨に由る罪念消滅の恩恵に与つたのである。
〇第三節四節は難解の二節である、言辞は簡短であつて意味は深遠である、之を悉く解釈するに福音全部の説明が必要である、キリストの受肉、其受難、復活、昇天の意味を明かにして此両節の意味が判明るのである、而して今正に斯かる説明を為すことは出来ない、又為すの必要はない、然し斯かる説明を為さずとも、其根本の意味を探るの途は在ると思ふ、基督教は罪を如何に観る乎、其事が判明つて是等両節の意味が判明ると思ふ、有名なる英国の説教師ドクトル・ジヨヱツトの言を藉りて言ふならば罪は eruption《エラプシヨン》(爆発)であり corruption《コーラプシヨン》(腐敗)であり、disruption《ヂスラプシヨン》(分裂)である、罪は悪の外に爆発した者である、然し乍ら其原因は内なる心の腐敗にあり、而して腐敗にも亦原因がある、それは分裂である、神に対する人の関係が分裂して茲に心の腐敗が始まつたのである、故に罪を去らんと欲せば腐敗を除かざるべからず、腐敗を除かんと欲せば神との分離(父子の関係の分裂)を正さゞるべからず、罪の原因を茲に発見せずして、其|刈除《かいじよ》を講ずるも無益である。而して神が其子を罪の肉の形となして罪祭の犠牲として遣はし、其肉に於て罪を罰し給へると云ふは罪を其根本に於て絶たん為であつたに相違ない、神の取り給ひし此途の説明は之を為すに難くある、然し乍ら其目的の茲に在つた事、而して之に由て我等の罪が実際的に其根本に於て絶たるゝ事は信者の実験として疑ふの余地がない、キリストの御生涯に由て神と人との関係が正され、茲に両者の間に交通の途が開かれキリストを通うして生ける神の霊が死せる人に伝はり其結果として人が罪と死とより免かるゝに至ると云ふのが基督教の根本的教義である、而して此教義を明白に且(29)簡潔に伝へた者が羅馬書八章三節四節である、難いと云へば難くある、深いと云へば深くある、然し乍ら福音の真理の明白なる記述として意味最も明瞭である、茲にパウロが記した言辞其儘が大真理である、之を解し得ないのは、言辞が解し難いからでない、我等の心が罪に汚れて其明自なる意味を受取り得ないからである、聖霊に従ふ者の眼には一目瞭然たるべきである。
〇人は神を離れて罪の状態に於て在つた、キリストは二者の間に入り、其分裂を癒し、神が人に臨み、人が神に詣《いた》るの道を開き給ふた、茲に於てか神の霊が人に通じて人は神の聖旨を行ひ得るに至つたのである。
 
    第三十七講約説 禁慾と霊化
 
〇聖書の言は其儘にて真理である、之に註解を附するの必要はない、註解を附して却て其意味を害ふの虞れがある、詩人ホヰツトマンが自分を歌ふた言に曰く
  私は知る私の尊厳なるを、然し私は自分を説明し、又は諒解して貰はふと思はない、思ふにこの根原の法則は解釈に絶することを。私は在るが儘に在る、それで充分である、誰も私を知つて呉れなくも満足である、そして皆が又残らずの人が私を知つて呉れても同様に満足である。
此言は詩人に於てよりは寧ろ聖書の言に於て真理である、聖書は霊魂の根原の法則に就て語る者であるから是は解釈に絶するのである、聖書は在るが儘に在る、人が誤解すればとて自分の為には悲まない、又強て自分を説明し、世に諒解して貰はふとは思はない。
〇「肉の事を念ふは死なり、霊の事を念ふは生命なり、平安なり……肉の事を念ふは神に乖る(敵する)事なり(30)……肉に居る者は神の心に通ふ(神を悦ばす)事能はず」と云ふ(羅馬書八章六、七 八節)、是は聖書の言であつて其儘が大真理である、之に説明を加ふるの必要はない、是は尊厳にして犯すべからず、神の言として信受するまでゞある、而して|今日諒解する事が出来ないならば、之を記憶に留めて、聖霊の働らきに由り我が実験となりて現はるゝまで待つべきである〔付ごま圏点〕、「肉の事を念ふは死なり」と言ふ、強い言である、然し乍ら明白なる深い真理である、人生其七分は性慾であり、三分は食慾であると云ふ、即ち其全部が肉慾であると云ふのである、而して之に苦悶と恥辱と死と滅亡との伴ふは言はずして明かである、個人と社会と国家との注意を肉より霊に転じて其処に生命と平安とがあるのである、「霊の事を念ふは生命なり平安なり」と、人生の偉大と云ふ事はすべて霊界に於て行はるゝのである、偉人とは霊の人、大国民とは霊的に偉大なる国民である 富豪は其有する富の故に偉大ならず、強国は其領土の広きが故に偉大ならず、大宗教と、大思想と、大文学と、大美術とを有する者は、小なりと雖も大である、弱きと雖も強くある。
〇聖書の言は在るが儘にて大真理である、人は之に説明を加へてヨリ大なる真理となす事は出来ない、純金は鍍金するに及ばない、太陽を照らすに足るの燈火《ともしび》はない、然れども我等は聖書の言の誤解又は濫用を防ぐ事が出来る、此事たる勿論|聖語《みことば》其物の為には必要でない、然し乍ら聖語に接する人の為に必要である、我等聖語に接して時に眩惑せらるゝ危険があり、又※[火+毀]尽《やきつく》さるゝの虞れがある、茲に於てか聖書註解と謂はんよりは寧ろ|聖書弁証〔付○圏点〕と称すべき者の必要が起るのである、神学の一科として弁証学あるは是が為である。
〇「肉の事を念ふは死なり」と云ひ、「神に乖る」事なりと云ひ、「肉に居る者は神の心に通ふ事能はず」と云ふ、若し此言を文字通りに解するならば容易ならぬ事になる、即ち生きて居てはならぬと云ふ事になる、肉の事を念(31)ふは罪、其結果は死、神に逆ふ事、神に悦ばれざる事であると云ふならば信者は肉を殺し之に死すべく努めねばならぬ、而して同じ事を教ゆるやうに見える聖書の言は他にも許多《あまた》ある、キリストの聖言としては「我れ汝等に告げん(肉の)生命の為に何を食らひ何を飲みまた身体の為に何を衣んとて憂慮ふ(注意を配る)勿れ云々」と(馬太伝六章廿五節)、又「若し我に従はんと欲する者は己を棄て其十字架を負ひて我に従へ、そは其生命を保全せんとする者は之を失ひ、我が為に其生命を失ふ者は之を得べければ也」と(同十六章廿四、廿六節)、又イエスが独身生活を奨励するが如くに見ゆる言としては「それ母の腹より生れつきなる寺人あり 又人にせられたる寺人あり、又天国の為に自からなれる寺人あり」と云ふが如き(同十九章十二節)其他枚挙するに遑がない、殊に「汝等の地に在る肢体を殺すべし」とのパウロの言の如きは最も明白に肉の生命其物を拒否するが如くに見える(哥羅西三章五節)。
〇然れば基督教は禁慾主義である乎、又は更に進んで遁世主義又は殺我主義である乎、多くの人はさうであると曰ふ、而して彼等は彼等の主張を証明するに方て聖書より許多の言を引用する事が出来る、而して斯く唱ふる人に二種ある、第一種は基督教に反対する人であつて、第二種は禁慾主義を実行する人である、第一種の人は曰ふ、基督教は明白に禁慾主義である、故に到底行ふべからざる者である、天然の法則を無視し、存在の根本を毀つ者である、故に信ずべからず、斥くべしと、斯く言ひて基督教を去つた者が多くある、縦し公然と斯く唱へざるも基督教を如斯くに解釈して其厳格なる要求に堪えずして之を去つた者は尠くない。
〇第二種の人は基督教を禁慾主義なりと解して其通りに実行した人である、斯る人のあつた事、又今ある事に就て詳しく述ぶる必要はない、羅馬天主教会に於て教職はすべて独身者なる事、基督教会に於て早くより禁慾主義(32)の起りし事、Encratite《エンクラタイト》の一派ありて結婚と飲酒を厳禁せし事、有名なる聖シメオンありて砂漠に高き柱を立て、其上に座して風雨に身を曝しながら三十年の長き生涯を送りし事、現今も尚ほ享楽主義の盛なる米国に於てすらシエーカーの一派ありて中古時代の禁慾主義の下に共産生活を営む事、是れ皆な周知の事実であつて茲に之を反覆す必要はない、而して基督教に限らず宗教と云ふ宗教にすべて此傾向ある事、仏教に於ても、回々教に於ても、禁慾主義の教派のある事是れ亦知れ亘りたる事実である、瑞典国の有名なる探険家スベン・ヘヂンが西蔵国に於て実見せし極端の殺慾的生活、我国の宗教歴史に於ては法然の弟子として武蔵の国の住人津戸の三郎為守の有名なる自害往生があつた事(法然上人行状画図第二十八を見よ)其他焼身往生、入水往生、断食往生等の例があつた事……禁慾主義は基督教に限らない、熱心なる宗教的信仰の在つた所には必ず禁慾主義があつた。
〇基督教は果して禁慾主義である乎、然らずである、或る方面より見て爾う見ゆるなれども、其根本的精神を究めて見て決して爾うでない事が判明る、キリストは常に御自分を新郎《はなむこ》に譬へて曰ひ給ふた、ヨハネの弟子彼に来りて我等とパリサイの人は屡々断食するに汝の弟子の断食せざるは何故ぞと問ひしに答へて彼は言ひ給ふた「新郎の友その新郎と偕に居る間《うち》は哀む事を得んや」と(馬太伝九章十四節以下)、又曰ひ給ふた、「人の子来りて食ふ事をし飲む事を為す」と(同十一章十九節)、キリストは新郎であり、信者は新嫁であり待望まるゝ救ひは羔の結婚であると教ゆる基督教が禁慾主義の宗教でありやう筈がない、故にパウロが晩年に至り彼の言の誤解せられて、彼の弟子の内に禁慾主義の兆候を発見せしや、彼は痛烈に之を非難攻撃し、彼等の之に惑はされざるやうに誡めた、曰く
  汝等若しキリストと共に死にて此の世の小学を離れしなれば何ぞ尚ほ世に生ける者の如く人の誡命《いましめ》と教と(33)に循ひて「※[手偏+門]《さは》るな、味ふな、触るな」と云ふ規《のり》の下に在るか、是等の誡命は……智慧ある如く見ゆれど実は肉慾の放縦《ほしひまゝ》を防ぐなし(コロサイ書二章廿節以下)。
と、彼は又|強剛《きやうかう》に結婚を禁ずるの異端を責めて曰ふた、
  聖霊明らかに、或人の後の日に及びて惑の霊と悪鬼の教とに心を寄せて、信仰より離れんことを言ひ給ふ……疲等は良心を焼金《たきがね》にて焼れ、婚姻するを禁じ食を断つ事を命ず、然れども食は神の造り給へる物にして、信じ且つ真理を知る者の感謝して受く可きものなり、神の造り給へる物は皆善し、感謝して受くる時は棄つべき物なし、そは神の言と祈とによりて潔めらるるなり(テモテ前書四章一節以下)。
〇基督教は禁慾主義に非ず、勿論其反対に放縦主義に非ず、然り死せる主義に非ず、活ける生命である、肉の生命に代ふるに霊の生命を以てする者である、肉に居らず、其支配を受けず、之をして自己が上に王たらしめざる教である、而して肉を殺すに律法の誡命を以てせず、霊の権能《ちから》を以てする、故に曰ふ「若し霊《みたま》に由り身体の行為を滅さば生くべし」と(十三章)、患難苦行してゞはない、「霊に由りて」である。
〇此の途たる決して曖昧不徹底なるものではない、最も能く常識に適ひ、有効的にして永続する途である、常に信仰に由りてイエスを仰ぎ瞻て、其報賞として聖霊を賜はり、其指導に従つて歩む、如斯くにして肉は適宜に支配せられ、一方には禁慾に至らず、他方には放縦に流れない、神は我等が肉に宿る間は世の所謂「特別に潔き事」を要求し給はない、クリスチャンにも亦美はしき自然の途がある、我等は人の誡命と教とに従ひ「特別に潔き」を称して信仰の奥義に達せりと称すべきでない、聖霊の働らきを信じて満足すべきである。
〇而して此途を践みて多くの清き生涯が営まれた、禁慾主義の行はるゝ所は決して清き所でない、ルーテルは結(34)婚を断行して欧洲教職階級の道徳を数段高めた、最も美はしき家庭生活は清教徒《ピユーリタン》に由て営まれた、新英洲文学は最も健全なる文学である、ホヰツチヤーの『雪籠《スノーバンド》』、ロングフエローのエヴアンジエリン、其他ブライヤント、ローエル等の作は皆な清教徒の自由にして貞淑なる空気を呼吸する者である、高貴《ノーブル》にして清潔なる思想と実行とは「霊に由りて身体の行為を滅《ころ》す」に由て生るゝものである。
〇慾の制限の程度如何、自己を義とせざる範囲に於て行ふべし、喜んで正当と思ふ程度に於て施すべし 自己に奉ずるにも亦此法則に循ふべし、但し霊の量に増減あるを忘るべからず、神は其子の祈祷に応じて霊を賜ふ、多く求むる者に多く賜ひ、少く求むる者に少く賜ふ、「神は之に霊を賜ひて限量《かぎり》なければ也」とある(ヨハネ伝三章卅四節)、而して慾の制限の程度は賜はる霊の多寡に由て異なる、今日喜んで一円を献じ得る者は明日は同様に十円を献じ得るに至る、喫煙、飲酒、観劇の如き之を罪悪と称する事は出来ない、然し乍ら若し豊かにキリストの霊の宿る所とならん乎、自から努むる事なくして、其の趣味を絶つに至る、べテロ曰く「益々我等の主なるイエスキリストの恩寵《めぐみ》に進め」と(べテロ後書三章十八節)、而して恩寵に進めば進む程肉の慾は尠くなる、是が本当の減慾法である、何事を為すにも聖霊の指導に従ふ、聖霊を離れて律法と規則と鞭撻の下に行ひて行為《おこなひ》に無理が生じて神をも人をも悦ばす事が出来ない、使徒等曰く「|聖霊と我等と〔付○圏点〕は左の事を可《よし》とせり」と(行伝十五章廿八節)、道は茲に在りである。
 
    附言 肉とは何ぞや
 
〇肉と云ひ、身体と云ひ、肢体と云ひ、同じ事を云ふのである、其肉と云ふは何である乎、其事を知るは聖書研(35)究上最も肝要である。
〇道徳的に見たる肉とは肉慾であるとは何人も思ふ所である、食慾、性慾、其他すべて生んと欲する慾、其れが肉慾即ち肉であるとは何人も気の附く所である、而して此見方たる大体に於て誤謬なきは言はずして明かである。
〇乍然、肉慾即ち肉なりと云ひて肉を罪と同視する事は出来ない、食ふ事、生む事は決して罪ではない、生命は神より出し者であつて、之を維持し又継続する事が罪である筈はない、故に「肉の事を念ふは死なり、紙に乖る事なり……肉に居る者は神に適ふ事能はず」と云ひ(羅馬書八章六−八節)「身体の行為を滅さば生くべし」と云ひ(同十三節)、「汝等の地に在る肢体を殺すべし」と云ひて(コロサイ書三章五)肉と共に肉慾を殺すべしと云ふ事でない事は明である、蓋《そは》若しさうであるならば、神が万物を造り之を人に賜ひて、「生めよ繁殖《ふえ》よ地に満盈《みて》よ……全地の面《おもて》にある諸《すべて》の草と諸の樹とを汝等に与ふ、之は汝等の糧たるべし」との神の言が無効に帰するからである、生命が悪事でありやう筈がない、肉の生命も亦然りである、「神其造り給へる諸の物を視たまひけるに甚だ善かりき」とある、然り「善りき」である、悪しくありやう筈がない(創世記一章廿八節以下を見よ)。
〇然らば神に乖る者、殺すべき者、肉と称し退治すべき者は何である乎、|其れは肉其物ではなくして肉が霊化せしもの、肉の主たるべき霊が其奴隷となりしもの其れが即ち肉である〔付○圏点〕、憎むべき殺すべき者は此意味に於ての肉である、肉化せる霊、或ひは肉的の霊、それが肉である、故に肉と称して解剖学上又は生理学上の肉ではない、道徳上又は精神上の肉である、神に反きたる霊が節制なき肉の慾として現はるゝが故に之を短縮《ちゞめ》て肉と称するのである、「|肉」は霊である〔付○圏点〕、其事を忘れてはならない。
〇其事を最も善く証明する者は加拉太書五章十九、二十、二十一節である、曰く
(36)  夫れ肉の行為は顕著《あらは》なり、即ち苟合《こうがう》、汚穢《をくわい》、好色、偶像に事ふる事、巫術、仇恨、争闘、※[女+戸]忌、忿怒、分争、結党、異端、※[女+冒]嫉、兇殺、酔酒、放蕩等
と、以上は何れも誤れる霊が肉に顕るゝ行為であつて肉其物の行為ではない、殊に※[女+戸]忌、分争、結党、異端 ※[女+冒]嫉等に至ては純然たる霊的行為である、而して是れ神に乖る者、滅すべき者、殺すべき者であるは言はずして明かである、又同じ事を証明する聖語として哥羅西書三章五節がある、曰く
  是故に汝等の地にある肢体即ち奸淫、汚穢、邪情、悪慾及び貪婪《たんらん》を殺すべし、貪婪は即ち偶像崇拝也。
と、此場合に於て殺すべき者は、肢体則ち肉体ではない、奸淫、邪情、貪婪等の悪念である、正当なる肉の要求ではなくして、不正なる肉慾の濫用である、希伯来書十三章四節は此事に関する善き註解である。
〇茲に於てか肉の何たる乎は明かである、肉は食ふ事ではない、結婚する事ではない、肉の生命を維持し、其正当の発達を計る事ではない、所謂「肉」は自己を中心として万事万物を私用せんとする事である、故に憎む事、嫉む事、窃む事、諛ふ事、他人の名誉を害ふ事、是れ皆な肉である、此意味に於て罪は凡て肉である、多くの場合に於て、肉とは何の関係もなきやうに見ゆる罪も亦明白なる肉である。
〇肉と云へば普通に食慾性慾に限られて居るやうに思はれてゐる、宴楽、酔酒、奸淫、好色と云へば肉の行為を尽して居るやうに思はれてゐる、然れども争闘も肉であれば、嫉妬も肉である(羅馬書十三章十三節を見よ)、而して|最も憎むべき肉は霊化されたる肉である〔付△圏点〕 税吏《みつぎとり》と娼妓《あそびめ》を肉の人の模範と見るは浅い見方である、肉の人の模範は寧ろ学者とパリサイの人である、神学博士と教会信者である、故にイエスは是等の教会者に告げて曰ひ給ふたのである、曰く「誠に汝等に告げん税吏及び娼妓は汝等より先きに神の国に入るべし」と(馬太伝廿一章卅一(37)節)、マタイは一度利欲の為に国を売り異邦羅馬の官吏となりて己が私腹を肥せしと雖も キリストに召されて悔改めて其使徒となる事が出来た マグダラのマリヤは貞操を売りて汚穢《けがれ》の淵に沈みしと雖も、主に救はれて其|聖《きよ》き婢となる事が出来た、彼等何れも肉の人であつた、乍然、主の御眼より見て比較的に軽い罪人であつた、而して学者とパリサイの人とは税吏と娼妓よりも遥に重い罪人、遥に悪い肉の人であつた、彼等或は酒を飲まず淫に耽らざる点に於て霊の人として世に迎へられたかも知れない、乍然彼等は其内心に於て純然たる肉の人であつた、彼等は「※[行人偏+扁]く水陸を歴巡り一人も己が宗旨に引入れんとして」充分に彼等の肉慾を発揮したのである(馬太伝廿三章十五節)、先づ除くべきはパリサイの麪酵《ぱんだね》である、是はまことに|肉素〔付●圏点〕と称すべき者である、宗教的嫉妬心 Odium Theologicum(神学者の悪意)、是が堕落せる肉の精である、何よりも悪むべき者、嫌ふべき者は是である、|肉は特にパリサイの〔付○圏点〕麪酵|である〔付○圏点〕。 〔以上、3・10〕
 
    第三十八講約説 神の子と其光栄
 
〇「凡そ神の霊に導かるゝ者は是れ即ち神の子なり」と云ふ(十四節)、如何にして神の子たるを得ん乎、是れ先決問題である、此事を明に示す者は約翰伝一章十二節である、曰く「彼を接《う》け、其名を信ぜし者には権《ちから》を賜ひて神の子と為せり」と、神の独子なるイエスを迎へ、彼をすべての人を照す真《まこと》の光(九節)、即ち彼が自己に就て証し給へる其聖言の儘に信ずる者には、神は其信仰に応じて権能を賜ひて神の子と為せりと云ふ、即ち先づ信じ、信仰に応じて権能=神の霊=聖霊を賜《あた》へられ、而して神の子と成るのである、然れども神の子と成つて了つたのではない、神の独子に連りて|彼に在りて〔付○圏点〕神の子と成つたのである、|人は信仰を以てイエスと連る間丈け神の子で(38)あるのである〔付○圏点〕、一朝其連結が絶たるゝ時には復び元の不信者に成るのである、「我は真の葡萄樹、汝等は其枝なり、人もし我に居り、我れ亦彼に居らば多の実を結ぶべし、それ汝等もし我を離るゝ時は何事をも行し能はざれば也」とイエスが言ひ給ひしが如くである(同十五章五節)、子と成るとは子に連なる事である、幹の枝と成る事である、而して幹に充実する樹液《さつぷ》を受けて同体となりて成長する事である、人が信仰を以て神の子イエスと連なる時に、イエスに充実する神の霊は彼に伝はりて彼も亦イエスが在るが如くに神の子と成るのである、此心を以て羅馬書八章十四節以下を読みて其意味は明瞭になる。
〇神は三位である、父と子と聖霊である、而して人の救拯は三位の神の共同事業である、其事が明白に此章に於て示されてある、信者の霊に三位の神の霊が宿り給ふのである、第十一節に「イエスを死より甦らしゝ者の霊」とあるは父なる神の霊を指して云ふのである、「キリストの霊」と云ふ、「子たる者の霊」と云ふは子なる神の霊である、而して|聖霊、聖霊、聖霊〔付○圏点〕と繰返して云ふは聖霊の神を指して云ふのである、斯くして三位の神の塞が信者の霊に宿りて其救拯を行ひ給ふのである、約翰伝十四章廿三節に「イエス曰ひけるは、若し人我を愛せば我言を守らん……|我等〔付○圏点〕臨《きた》りて彼と偕に住むべし」とあるは此事を云ふたのであらう、イエス御一人(我)ではない、父と子と聖霊とが(我等)信者の霊に永久に宿る(住む)べしとの事である、事は神性の奥義に関し人の理知を以て説明する事は出来ない、然し信者の霊的実験に照し合はして了解する事の出来ない事ではない、神は|総がゝり〔付○圏点〕となりて人を救ひ給ふのである、父は上より、子は側より、聖霊は下より信者を助け給ふのである、神は唯一なりと云ひて、単一の神が救ひ給ふと云ふよりは遥に深い、且つ情の籠りたる救拯の方法である。(第九節並に第十四節に於て「神の霊」とあるは三位の神の霊全体とも、或は父なる神の霊とも解する事が出来る、然し後者即ち父なる(39)神の霊と解する方が全章の意味を更らに明瞭ならしむると思ふ)。
〇第十四節以下三節を左の如くに解訳して意味の一層明瞭になるを見る。
  凡そ|父なる神の霊〔付○圏点〕に導かるる者は即ち神の子なり。汝等が受けしは奴隷《しもべ》たる者の霊即ち復たび懼るゝ霊に非ず、|子なる神の霊〔付○圏点〕を受けて、子とせられて、我等はアバ父よと呼ぶなり。
  |聖霊〔付○圏点〕自ら我等の霊と偕に我等が神の子たるを証す。
約翰第一書五章八節に「証をなす者は三なり、即ち霊と水と血となり、其帰する所は一なり」とある、霊は勿論聖霊である、而して血は勿論子なる神が流し給へる贖罪の血である、而して水を父なる神が注ぎ給ふ聖霊と解して、此一節を以て以上三節の約説と見る事が出来る。
〇子に嗣業なかるべからず、神の子の嗣業は改造されたる宇宙である、改造されたる霊を宿すに改造されたる身体を以てして改造されたる宇宙を賜はる、神の子の特権と其栄光とは茲に在る、「己の子を惜まずして我等すべての為に之を附せる者はなどか之に併《そへ》て万物をも我等に賜はざらん乎」とある(三十二節)、神は己が子に与へんとて万物即ち宇宙を造り給ふたのである。
〇光栄は至大である、然れども光栄に苦難《くるしみ》が伴ふ、キリストと同体になりて彼と栄辱を頒たざるを得ない、苦難は光栄の影である、レムブラントの絵画に於けるが如くに基督者の生涯に於て光明の強き丈けそれ丈け暗黒は濃くある、故に信者の光栄は苦難を離れて説く事が出来ない、然り、信者は己に臨む光栄の大なるを知るが故に却て苦難を喜ぶのである、「患難にも欣喜《よろこび》をなせり」とパウロは言ふ(五章三節)、「兄弟よ若し汝等様々の試誘《こゝろみ》(患難)に遇はゞ之を喜ぶべき事とすべし」と使徒ヤコブは言ふた(雅各書一章二節)、「今暫らく様々の艱難に遇(40)ふて憂へざるを得ずと雖も却て喜びをなせり」と使徒べテロは言ふた(彼得前書一章六節)、敢へて艱難を訴へて同情を得んとするのではない、艱難を光栄の一面と見て却て之を誇るのである、基督者《クリスチヤン》はキリストである、キリストに艱難があつた、之に類する艱難が信者にも臨まねばならぬ、而して信者が感ずる艱難は浅い肉体の艱難ではない、広い宇宙的の艱難と深い霊的の艱難である、宇宙は基督者と共に苦しみ、聖霊も亦彼と偕に慨歎くのである。
 
    第三十九講約説 天然の呻きと其救ひ
 
〇パウロに二つのものが欠けて居つたと言はれる、其一つは芸術を見るの眼で、其他の者は天然を見るの眼であるとの事である、彼は希臘の雅典《アテンス》に往いて其驚くべき夥多の美術に接して、少しも興味を喚起されなかつた、彼は唯之に人類堕落の現はれなる偶像崇拝の罪悪を見るに過ぎなかつた、事は使徒行伝第十七章に詳かである、美術家の立場より見てパウロは無趣味なる不風流なる人である。
〇パウロに亦天然を見るの眼がなかつた、彼は幾回か地中海を渡り、タウラス山を横断してアナトリヤ高原(今の小亜細亜)を踏破せしと雖も、曾て一回も其天然美に関する讃美の辞を洩らした事がない、彼にヲルヅヲス、プライアントの天然観なきのみならず、主イエスの空の鳥と野の百合花を愛る愛さへ無かつたやうである、パウロは美術的に無能であつて天然的に貧弱であつたやうに見える。
〇乍併、美術の事は別として天然の事に関してパウロは決して無能ではなかつた、彼にも亦確実なる天然観があつた、之を伝ふるのが羅馬書八章十九節−廿二節である、パウロの天然観は聖書記者のそれである、殊に預(41)言者イザヤのそれである、而して其天然観たるや希臘哲学の流を汲める近代人のそれよりも遥に深い者であつた、イザヤもパウロも其眼を天然の表面には注がなかつた、深く其心に入つて其|呻吟《うめき》の声を聞き、其希望の歌を歌つた、彼等は言ふた、人と天然とは同一体である、二者栄辱を共にし、人の呪はれし時に地も呪はれ、人の崇めらるゝ時に地も崇めらる、故に人の労苦は地も亦之を頒ち、人の歓喜に地も亦躍ると、ヱホバはアダムに告げて言ひ給ふた「汝、我が命じて食ふべからずと言ひたる樹の果を食ひしに因りて|土(地)は汝のために詛はる〔付△圏点〕」と(創世記三章十七節)、即ち地は人と運命を共にせしめられたのである、人は今や神を離れて罪の内に在る、之と共に呪詛は地に加へられて万物即ち受造物は呪はれし状態に於て在る、「受造物の虚空《むなしき》に帰せらるゝ」と云ふは此状態を言ふのである、人は神を離れて其為す所悉く虚空(失敗)に帰するが如くに、地と地上の万物も亦其受造の目的に達する能はずして、失望悲歎の声を揚げつゝあると言ふ。
〇人は天然の美を語る、然れども美は僅に其表面に止まる、一歩其裏面に入れば天然は美に非ずして醜である、調和に非ずして混乱である、平和に非ずして戦争である、夏の野山に百花咲き競ふの状は美くしけれども、叢中如何なる殺伐、如何なる敗壊が演ぜられつゝある乎を知るならば、詩人の心は恐怖に戦慄《ふる》へて讃美の歌は絶えるであらう、蛇は蛙を呑まんとし、蛙は虫を食はんとし、虫は相互を殺さんとす、其蛇を狙ふ鷲がある、其鷲を狙ふ他の鳥がある、鶯の声美はしと雖も、蛇は其巣に侵入して其卵を呑まんとし、鷹は其雛と親鳥とを窺ひて巣中の団欒を毀たんとす、伯労《もず》の残酷なる、梟の陰険なる、杜鵑の狡猾なる、鳥類の常性を研究して見て、春の森、夏の林の決してエデンの園でない事が判明る、水中に於ても同じである、池に数尾の※[魚+單]魚《やつめうなぎ》が居れば他の魚類は腹部に穴を穿たれ血を吸はれて斃れて其跡を絶つに至る、鰯や飛魚や青串魚《さんま》は鯨や海豚の餌食となりて失す(42)るに対し、鯨や海豚には又之を攻撃する逆叉《さかまた》ありて彼等の之を恐るや甚だし、猫が鼠を弄ぶの状、鼬が鶏を襲ふの目的、無情を極め、残忍を極む、花咲く桜は美しくあれども、共若葉を食ふ虫は見るさへ恐ろしく、松食ふ虫、稲を枯らす黴菌数ふるに遑がない、まことに耳を地につけて聞けば天然の呻吟の声が聞える、曰く「我は痛む、我は苦しむ、人の子よ、早く救はれて、汝と共に我を救へよ、我は敗壊の奴隷たるに堪へず、汝と共に神の子たちの栄なる自由に入らんことを願ふ」と、天然は人と共に呪はれ、彼と共に縛られて、共に解放を叫びつゝある。
〇斯くて人類の救ひは万物の救ひと共に行はる、以賽亜書第十一章に於ける預言者イザヤの言は完全き救ひに就て述ぶる者である、曰く
  エツサイの株より一つの芽出で、其根より一つの枝生て実を結ばん、其上にヱホバの霊止まらん……彼はヱホバを畏るゝを以て歓楽とし、又目見る所に由りて審判を為さず、耳聞く所に由りて断定《さだめ》を為さず、正義をもて貧者を審判き、公平をもて国内の卑しき者の為に断定をなし、……正義は其腰の帯となり忠信は其身の帯とならん、狼は小学と共に宿り、豹は小山羊と共に臥し、犢 雄獅子 肥たる家畜と共に居りて小さき童子《わらべ》に導かれ、牝牛と熊とは食物を共にし、熊の子と共に臥し、獅子は牛の如くに藁を食ひ、乳児《ちのみご》は毒蛇の洞に戯ふれ、乳ばなれの児は手を蝮の穴に入れん、斯て我が聖山《きよきやま》の何処にても害ふ事なく傷つける事なからん、そは水の海を覆へる如くヱホバを知るの知識地に充つ。
「斯くて我が聖山の何処にても害ふ事なく傷つける事なからん」と、是が完全なる平和であつて完全なる救ひである、使徒行伝三章廿節に所謂「万物の復興」とは此事である。
 
(43)    第四十講約説 三つの呻き
 
〇「万の受造物は今に至るまで共に歎き共に労苦むことあるを我等は知る」とある(羅馬書八章廿二節)、「歎く」とは「呻く」又は「唸る」の意である、「労苦む」とは「産《うみ》の劬労《くるしみ》に在る」との意である、宇宙万物は今や呻きつゝ産の劬労に於て在るとのことである、大なる母宇宙は完全なる宇宙を産出して完全なる救拯を施されたる神の子達を迎へんと、今や呻き苦しみつゝあると云ふ、実に雄大なる思想である、虚空に渦を巻いて新字宙を造らんとしつゝある星雲、地獄の釜の如くに溶岩を以て沸騰する噴火口、肉食獣の襲撃に遭ふて悲鳴を挙げて呻く鹿と山羊、何れも宇宙の呻きならざるはない、然れども希望なき無益の労苦ではない、希望に満つる産の劬労である、其処に聖書の天然観の美はしき所がある。
〇宇宙の歎き即ち呻きがある、之に応じて信者の呻きがある、聖霊の初めて結べる実を有る我等|基督者《クリスチヤン》も亦己が衷に歎きて(呻きて)子と成らん事即ち我等の身体の救はれんことを俟つ(廿三節)、宇宙の呻きに応じて信者の呻きがある、呻きに応ずる呻きである、而して信者の呻きは其身体の救はれんが為の呻きである、其霊魂は既に救はれた、未だ救はれざるは其身体である、而して身体が救はれずして霊魂は完全に救はれないのである、恰も妻が救はれずして夫は完全に救はれないと同然である、故に基督者《クリスチヤン》は其身体の救はれん事を欲ひ之を望みて呻くのである、「噫我れ困苦《なやめ》る人なる哉此死の体より我を救はん者は誰ぞや」と云ひて歎き、「我に死ざる栄光の体を賜ふ者は誰ぞや」と云ひて呻くのである、而かも是れ亦希望なき無益の労苦でない、宇宙の労苦と同じく希望ある産の劬労である、神は既にキリストの身体の復活に由て彼を信ずる者の身体の救ひを保証し給ふたのである。
(44)〇更に尚ほ一つの呻きがある、それは聖霊の呻きである、「聖霊も亦我等の荏弱を助く、我等は祈るべき所を知らざれども、聖霊自から言ひ難きの慨歎を以て我等の為に祈る」とある(廿六節)、「慨歎」は前の場合に於けるが如く「呻き」である、宇宙は呻き、信者は呻き、聖霊も亦呻くと云ふ、実に著るしき言葉である、
〇抑々呻きとは何ぞ、呻きは言ひ尽されぬ感情の発表である、「アー」と云ふが如き、「ウーン」と云ふが如き、「オー」と云ふが如き、「アラス」と云ふが如き、文法に所謂間投詞又は感嘆詞を以て言表さるゝ事柄である、馬太伝廿三章にあるキリストが学者とパリサイの人を責め給ひし時に使はれし言葉は此種の言葉であつた、即ち呻きであつた、「噫禍なる哉」と訳せられしは単に「ウーアイ」と云ふ間投詞であつた、「ウーアイ学者とパリサイよ」と彼は言ひ給ふたのである、「言語に絶したる汝等よ」と云ふと同じである、而して人生最も深き者は言葉ではなくして呻きである、死の苦痛 産の歓喜、何れも言葉以上である、我等は「アー」と云ひ、「オー」と叫びて我等最深の情を言ひ露はすのである、パウロは「その言尽されぬ神の賜物に因りて我れ神に感謝する也」と曰ひて恩恵も感謝も言葉に絶せりと曰ふたのである(コリント後書九章十五節)、実に沈黙は最大の雄弁であると云ふが、多くの場合に於て呻き又は唸りは言葉以上の言葉、美文以上の美文である、而して宇宙は呻き、信者は呻き、聖霊も亦呻くと曰ひてパウロは茲に言尽されぬ深事を述べて居るのである。
〇「聖霊自から言難きの呻きを以て我等の為に祈る」と云ふ、「祈る」は「執成す」である、深い実験の言葉である、我が祈祷は低い浅い祈祷である、人は自分で自分の事を知る事が出来ない、茲に於てか聖霊御自身が人に代て祈り給ふと云ふ、而かも信者の外に在てゞはない、内に在りて、彼の霊と共に在りて、彼と同体同霊となりて彼に代て祈ると云ふ、其場合に於て祈祷は言葉でない、呻きである、アー又はオーの連続である、語るには余(45)り深くある、イエスのゲツセマネの園に於ける祈祷は斯かる祈祷であつたに相違ない、言葉は有ても短い、血の汗は流るゝ、「父よ聖意に任せ給へ」と、ヘブライ書の記者が此|状態《ありさま》を記して「彼れ肉体に在りし時哀み哭びて涕を流して祈れり」と言ひしは、まことに其通りである。
〇熱信なる母の祈祷の伴ふ子供は安全であると云ふが、信者には神御自身即ち聖霊の祈祷が伴ふのである、而して信者の祈祷の聴かれない事はあるが、聖霊の祈祷の聴かれない事は断じてない、「人の心を察たまふ者は聖霊の意を知る、蓋《そは》神の心に遵ひて聖徒の為に祈れば也」とある(廿七節)、真の祈祷は預言である、是れ必ず成就さるべき者である、信者は聖霊に由りて事実となつて現はるべき事を祈求《ねがひ》として預め神に求むるのである、三つの呻きは三つの大なる預言である、宇宙と信者と聖霊とは言難きの呻きを以て、万物の完成、神の子の出現、天国の建設を預言しつゝあるのである、而して此三大預言ありて我等何をか疑はん、縦し地は動き海は鳴り、山は海原の中に移るとも、我等いかでか恐れん、天地万物と、我が霊魂と、神御自身とが我が信仰の証明者である、ハレルーヤー。 〔以上、4・10〕
 
    第四十一講約説 救はれし理由(羅馬書八章廿八−卅節)
 
〇「また凡の事は神の旨に依りて召かれたる神を愛する者の為に悉く動《はたら》きて益をなすを我等は知れり」と云ふ(廿八節)、此の旧い日本訳に依るも、パウロの此言は実に著しい言である、信者を称して「神の旨に依りて召かれたる神を愛する者」と云ふ、基督信者の定義として甚だ深い者である、信者は元来自から進んで神を信じてキリストの弟子と成つた者ではない、神に召かれた者である、聖召《みまねき》は神を以て初つたのであつて、信者は只之(46)に応じたまでである、而して聖召の恩恵に与りし結果として感恩の余り神を愛せざるを得ざるに至つた者である、斯くて信者の信も愛も元々自分から出た者でない、神から出た者である、|信者は徹頭徹尾神の恩恵の産である〔付○圏点〕、而して斯かる者には万事が悉く動きて益を為すと云ふ、「万事が」である、善き事のみならず悪しき事も、成功のみならず失敗も、名誉のみならず恥辱も、健康のみならず疾病も、利得のみならず損失も、万事が悉く動きて害を為さずして益を為すと云ふ、実に驚くべき事柄である、世にそんな事があらう乎、そんな人があらう乎、「在ると我等は知る」とパウロは言ふのである、パウロの信仰が此事を彼に示し、彼の実験が其示しを確めたのである。
〇然し乍らパウロの言は日本訳に現はれたる以上に意味深長である、今之を左の如くに改訳する。
  また我等は知る、神を愛する者にはすべてが善に向て共に働く、聖旨に循ひて召されたる者には
と、信者は神を愛する者である、然し乍ら彼が神を愛するは神先づ彼を愛し給ひしに由る、彼は聖旨に循ひて選まれて召されたる者である、パウロは信者の神に対する愛を語る時に、之に優さる神の愛を陳べざるを得なかつた、以てパウロの信仰の性質を窺ふ事が出来る、「すべて」は何乎、万事の外に万物をも含まざる乎、又は「すべての困難《くるしみ》」の意なる乎、すべての患難、悲痛《かなしみ》 試誘《こゝろみ》を指して云ふとM・スチユアートは言ふ。「共に働きて」である。旧い訳の「悉く働きて」ではない、万事万物は相関聯し、相共同し、一大機関となりて信者の益の為に働くと云ふのである、恰も名将が諸軍を指揮して一の目的に向つて進むが如くである。而して其目的は「善」である、誰の善乎、信者の善乎、神の善乎、パウロは之を指名しない、唯「善に向つて」、又は善を目的《めあて》に働くと云ふ、而して其善の何たる乎は次節に於て明かである、信者は神の愛の目的物なれども、彼は万物の中心ではない、(47)万事万物は信者の善を目的に働くと云ひて、信者を貴く見過るの誤謬《あやまり》に陥る、万物は汝等の属なり」と言ひしパウロは更に附加して言ふた「汝等はキリストの属、キリストは神の属なり」と(哥林多前書三章廿二−四節)、基督教は人間中心主義でもなければ信者中心主義でもない、神中心主義である。基督者には万事万物は善を目的に働く、必しも己が善の為ではない、至上の善たる神の善き聖旨の成就を目的として働く、故に彼は悦ぶ、神の善、万物の吾が彼れ自身の善であるからである。
〇「それ神は預め知り給ひし所の者を其子の形に効《ならは》せんとて預め之を定め給へり、此は其子を多くの兄弟の中に嫡子たらせんが為なり」と(廿九節)、万物の目的は茲にある、其子キリストを多くの兄弟の中にありて嫡子たらしめん為である、神が我等を召き給ひし第一の目的は我等を救はんが為に非ずして|其子キリストの崇められん為〔付○圏点〕であつた、人間の社会に於ても最も喜き家庭は子供本位の家庭である、三位の神の聖家庭に於ても其中心は聖子である、「万物は彼(愛子キリスト)に由て造られたり、且その造られたるは彼が為なり、彼は万物より先にあり、万物は彼に由りて存つ事を得るなり」とある(哥羅西書一章十六、十七節)、而して信者も万物の一部分であつて、彼が救はれしも亦キリストの為である、彼が其兄弟即ち其聖き姿に効ひし者の中に在りて嫡子たらんが為である、国王に国民が必要であるが如くに、聖国に王たるべきキリストにも亦救はれたる聖き民が必要である、斯くて信者は自分の為に選まれ、召かれ、義とせられ、潔められ、終に栄光を着せられるのではない、王キリストの栄光に更に栄光を加へん為である、神の為の救である、人間の為の救でない。
〇夫故に信者の救は確実なるものである、若し我等の為の救ならば、我等は第一に之を信ずる事が出来ない、第二に縦し救はれたりとするも不安に堪へない、自分にさへ呆れる者が神が自分に就て呆れ給はずとの理由を発見(48)する事が出来ない、然し乍ら神御自身の為の救であると聞いて我等は安心して之に与る事が出来る、神が其子の救済の能力を顕はさんが為に特別に罪人を選みて其救に与らしめ給へりと聞いて少しも不思議でない、又我等如き者の救はれんが為に、万物は外に在りて、聖霊は内に在りて呻き歎くと聞いて我等は驚かない、其聖子の善き臣下を造らんが為に神が万物をして互に相働きて我等の救を完成し給ふと聞いて少しも怪まない、自分の為に施されたる恩恵は頼り難き恩恵である、然れども神御自身の為に施されたる恩恵なるが故に、之を失ふの危険がないのである、基督者《クリスチヤン》の安心の基礎は茲に在る、彼は己が救はれし理由を神の変らざる聖旨に於て見るからである、「父よ然り、如此きは聖旨に適へるなり」である(馬太伝十一章廿六節)。
 
    第四十二講約説 救の凱歌(羅馬書八章卅一節以下)
 
〇人の救はるゝは己に因らず神に因る、己の為めに非ず神の為である、故に救は確実である 又安全である、其順序は預知、預定、聖召、為義、賜栄である、其目的は「其子を多の兄弟の中に嫡子たらせんが為め」である、「万物は彼より出、彼に倚り、彼に帰る」とある、人の救はるゝは全然神中心である(十一章卅六節)。
〇「然れば此等の事に就て何をか言はん、神若し我等の味方ならば誰か我等に敵せん乎」(卅一節)、神御自身が施し給ひし救ひなれば何人も之を奪ふ事が出来ない、以下左の如くに解訳すべし。
  己の子を惜まずして(アブラハムが其子イサクを惜まざりしが如くに)我等すべて(信者全体)の為に之を(死に)附せる者は、豈《などか》彼に併せて万物(救ひに必要なる万物)をも我等に賜はざらん乎、神の選び給へる者を訟へん者は誰ぞ乎、義とする者は神なり、罪を定むる者は誰ぞ乎、死し者はキリストなり、然り、彼は復活り(49)し者、神の右に在りて我等の為めに執成し給ふ者なり、キリストの愛より我等を絶《はな》らせん者は誰ぞ乎、患難なる乎、憂苦《くるしみ》なる乎、迫害なる乎、飢餓《うゑ》なる乎、裸※[衣+呈]なる乎、危険なる乎、刀剣なる乎、是れ「我等|終日《ひねもす》汝の為めに死に附され、屠られんとする羊の如くせられたり」と録されしが如し(詩篇四十四篇廿二節)、然れども我等を愛し給ひし者に由り凡て此等の事に勝ち得て余りあり、そは或は死或は生、或は天使或は執政《つかさ》、或は権能、或は現在或は未来、或は高き或は深き、また他の受造物は我等を我主イエスキリストに在る神の愛より絶らする事能はざるを我は信ぜしめらる(三十五節より三十九節まで)。
〇「キリストに在る者は罪せらるる事なし」と云ひて始まりし第八章は「罪を定むる者は誰ぞや」との挑戦的質問を以て終つて居る、パウロが何よりも恐れた事は最後の神の裁判に於て罪に定められる事であつた、而して此事なきを保証せられて彼は凱歌を揚げざるを得なかつた、是れ彼が茲に十数回に渉り挑戦的質問を連発した理由である、彼は茲に長の間彼を苦しめし敵を追ひまくり乍ら、詰問の矢を放ちつゝある、恰も源義家が安倍貞任を追ふの状である、「鐙の袖は綻びにけり」と云ひて追ひ掛くれば、「年を経て糸の乱れの苦しさに」と云ひて逃去る、パウロは茲に人の子を神に訟ふる者即ちサタンを追窮しつつあるのである。
〇「執政」は希臘語のアルカイ、天使の一階級の名である(以弗所一章廿節参考)、「権能」と云ふも同じならん天使と執政と権能と云ひて天使の三階級を指して言ひしならん、或は「天に在りては天使大天使、地に在りては執権者」との意なる乎も知れず、天上天下の勢力を総括しての謂ひならん。
〇死の恐怖、生の誘惑。天上の勢力、地上の権威。既知の現在、未知の未来。天空の異象、地下の秘密。其他若し全然別種の世界ありとするも、是れ亦我等を我主イエスキリストに在る神の愛より云々。キリストに在る神の(50)愛である、漠然たる神の愛でない、明白に指定せられたる神の愛である、義を以て現はれたる愛である、罰すべきを罰せずしては赦し給はざる神の愛である、故に貴き確実《たしか》なる神の愛である、|正義に由て現はれたる神の愛なるが故に、宇宙万物何者も之を毀つ能はず、又我等を其愛より絶らする事能はずとパウロは言ふやのである〔付○圏点〕、万有は正義の上に立つ、万有は壊れても正義は壊れない、而して正義の上に立つ救ひなれば万有も之を翻へすこと能はずとパウロは言ふのである、「我主イエスキリストに在る神の愛」、彼を通うして現はれたる愛、自身罪なき者なるに我等の罪となりて我等に代りて十字架の死を受け給ひし彼の愛、此愛より絶らする者、時間空間に在ることなしと云ふのである。
〇然らば「我が罪は如何」と問ふ者もあらう、天上天下現在未来、|我れ以外の何者も〔付△圏点〕我をキリストに現れたる神の愛より絶らすること能はずと云ふも、|我れ自身の罪〔付△圏点〕は我が授かりし救ひより我を絶らするの危険なき乎 「在り」と或る神学者は言ふ、然れども若し然りとすれば我が救ひは最も不安である、頼り難き者にして我心の如きはない、「心は万物よりも偽はる者にして甚だ悪し」とある(耶利米亜記十七章九節)、若し我が救ひが我が決心、我が努力、我が撓まざる注意に由る者ならば我は尚ほ危険《あやうき》に於て在る、天使よりも大天使よりも死の苦痛と生の誘惑よりも危険なる者は我心である 之が守られずして、其安全が保証せられずして、我は依然として危険に居るのである。
〇まことに安心はならないと言へば言ひ得る、「汝等常に畏懼戦慄《おそれをのゝき》て己が救を全うせよ」とパウロは言ふた、然れども斯く言ひて後直に彼は言ふて居る「そは神その善き聖旨を行はんとて汝等の衷に働き、汝等をして志を立て事を行はしむれば也」と(腓立比書二章十二、十三節)、|神は我が衷に働きて我が救を完成し給ふ〔付○圏点〕、「汝等の(51)心の中に善き工を始め給ひし者は之を主イエスキリストの日までに全うすべし」とパウロは同じ腓立比書に於て言ふて居る(一章六節)、我れ求めざるに我を求め給ひし者、我を知り、定め、召し、義とし、潔め給ひし者が、最後の瀬戸際に於て我を見放し給ふであらう乎。
   His mercies in past forbids me to think、
   That He will at last、allow me to sink.
過去に於て現はれたる彼の恩恵は余をして思ふ事を禁ぜしむ、彼は終に我をして滅亡の淵に沈めしめ給ふとは。
 
    第四十三講約説 パウロの愛国心(羅馬書九章一−五節)
 
〇パウロは希臘コリントのガヨスの家に客となりし間にテリテオを書記として此書翰を口授しつゝあつた(十六章廿二、廿三節)、彼は多分一日に此書翰を書き終つたであらう、朝始めて夜までには終つたであらう 而して多分正午少し過ぎ頃に八章を書き終つたであらう、火山が鎔岩を噂出するが如くに、彼の張裂けんとする霊魂は其大思想を吐露して之を書記テリテオの筆に留めた、|人ほ如何にして救はるゝ乎〔付○圏点〕、是が第一に取扱はるべき問題であつた、而して説き来り説き去りて第八章の終りに至つて彼は一種の安堵を感じたであらう、恰かも旅人が嶮しき峠を登り詰て其巓に達して一息するが如くであつたらう、彼は後《あと》を振回り、来りし道を下に瞰て、大声に勝利の凱歌を揚げたのであらう、茲に口授は一先づ中止せられ、口授者と書記と、傍聴の特権に与りし主人ガヨスとは、共に別室に退きて、中食の卓に就いたであらう。
(52)〇休憩の後に口授は再び始つた、而して凱歌を揚げし口授者の口より出し言は讃美ではなくして呻吟であつた、背《うしろ》を顧みて歌ひしパウロは前を望みて呻いた、自分の救は確実である、救に到る途は明白である、然れども我が同胞は如何に、イスラエルは如何に、パウロの呻きは夕凪に遠く響く大洋の唸の如くであつた。
 我はキリストに在りて真実《まこと》を語る、我は偽はらず、我が良心は聖霊に在りて共に証す、我に大なる憂ある事を、我が心に絶えざる痛ある事を、我は願ふ、我が兄弟、我が骨肉の為ならんにはキリストより絶れてアナテマたるも可なり、我はイスラエル人に就て言ふ、子とせられし事、栄光、盟約、律法を授けられし事、祭儀、約束、皆な彼等に属す、列祖は彼等の列祖なり、キリストも亦肉体に由れば彼等より出たり、彼は万物の上にありて世々崇めらるべき者なりアーメン。(第九章一−五節)。
〇ユダヤ人はパウロに就て言ふた「彼は反逆者であるイスラエルと其|栄光《さかえ》たるモーセの律法を売りし者である」と、「然らず」とパウロは答へて曰ふ「我は我国を思ひ、我民を想ふ、彼等が救はれんが為めには我れ自身は呪はるゝも可なり、我が耐へ難き憂慮と苦痛とは彼等が福音を斥けて其恩恵に与らざる事なり」と、パウロは茲に己が模範をモーセに取つて言ふたのである、モーセも亦イスラエルの罪の赦されん事を祈求ひて言ふた、
  嗚呼此の民の罪は大なり、彼等は己が為に金の神を作れり、然れど嗚呼、若し聖意に合はゞ彼等の罪を赦し給へ、然らずば願くは汝の書紀《かきしる》し給へる書《ふみ》の中より我名を抹去《けしさ》り給へ(〔出埃及記卅二章 卅二節)。
と、是れ以上の愛国心を考ふる事は出来ない、民が救はれんが為には自分は永久に滅びても可いと云ふのである、誰か言ふクリスチヤンに愛国心なしと、最上の愛国心はキリストに由て起る者である、ルーテル、サボナローラ、コロムウエル、ミルトン、「我に若し百の生命あらは我は悉く之を我が国の為に棄てん」と云ひし米国革命時(53)代の愛国者があつた、八人の男子を生める母が其すべてを国に献げて惜まなかつた南北戦争時代の米国婦人があつた、基督教は個人道徳に長ずるも国家道徳に於て欠くる所多しと言ひ来りし我国多数の所謂「識者」は歴史も実際も知らざる者である。
〇歎ずべき事は救はるべき者が救はれない事である、キリストを生みしイスラエルがキリストの救に与らないと云ふ事である、悲歎此上なしである、其理由の解るまではパウロの煩悶は止まなかつた、同じ悲歎が日本人に就て起るまい乎、日本人は優秀の民でない乎 強い宗教心を持てる民でない乎、或はユダヤ人の一派ではあるまい乎との説が立てらるゝ程である、而して此民に過去六十年に渡り随分と善き福音が伝へられた 第十九世紀の基督教宣教歴史に於て日本に尠からざる伝道的勇者が送られた、ヘボン、ブラウン、ベルベツキ、監督ウイリヤムス、監督ハリス、W・S・クラーク彼等は何れも偉人であつた、而して彼等は其生命を日本人の為に棄て惜まなかつた、然れども日本人は国民として今尚ほキリストを斥けて彼に従はないのである 仏教徒は何千万を以て算へらるゝに基督信徒は三十万人に足らないのである、日本人は西洋宣教師より西洋文明を獲て、キリストの福音を獲んと欲しなかつた、又福音を受くる者はあつたが長く固く信仰を持続する者は至て少数である、大抵は信仰を棄て元の不信者となるが常である、之を思ひて我等にも亦パウロの如くに「大なる憂《うれへ》、絶えざる痛」なきを得ない、最後の審判の座に於てキリストは日本人を訟へて曰ひ給はぬであらう乎「ニネベの人はヨナの説教に由て悔改めた、然るに是等の日本人はヨナよりも大なる者の教を伝へられて之を省みずして肉慾文明に耽けつた、彼等が罪に定めらるゝは当然なり」と(馬太伝十二章四一節参照)。
〇乍併パウロは彼の同胞に就て失望しなかった、彼はユダヤ人の最後の救を信じた、「イスラエルの人悉く救(54)はるゝを得ん」とは彼の結論であつた(十一章廿六節) 我等も亦日本人に就て同一の信仰を懐くであらう。
〇茲にキリストは神であると云ふ事が明白に教へてある、「肉体に由ればキリストも亦彼等より出たり、彼は万物の上に在りて世々讃美を得べき神なりアーメン」と(五節)、パウロの此言に紛はしき所は少しもない、文法上並に言語学上より見て其明白なる意味を変へる事は出来ない、たゞキリストの神たる事を信ずるの甚だ困難なるより、此一節に関し古来幾多の解釈又は読方が現はれたのである、改正新約聖書欄外に於て、「万物の上に在りて」云々を前句より切離し、之を別に神を讃美する言葉と見るが如きは其一である、乍併個人の信仰問題を離れて、聖書の文字其物に就て見て之はキリストを神なりとして示す明白なる言である事は疑ふの余地がないのである。
〇而してキリストは神である、造物主であると云ふ事は此箇処に限らず、聖書の他の箇処に於ても明かに示さるゝ所である、約翰伝一章一節が其一である、「太初《はじめ》に道《ことば》あり、道は即ち神なり」と云ひて、「道《ことば》肉体と成りて我等の内に宿れり」と記《しる》してある、約翰伝記者はパウロの此言に裏書して居るのである、腓立比書二章六節にはキリストは「神の実体にて在りしかども自から神と等しく在る事を棄難きことゝ意はず」と記してある、神と等しき者は神である事は明かである、哥羅西書一章十六節には「万物彼(キリスト)に由て造られたり」とあり、同十七節には「万物彼に由て存つことを得るなり」と記《かい》てある、キリストは宇宙の造主であつて又其支持者であると云ふのである、又提多書一章三節に於てはキリストを呼ぶに「我等の救主なる神」なる名称を以てして居る、同二章十三節に於ては、信者は「大なる神即ち我等の救主イエスキリストの栄の顕はれん事を待望む」者として記されてある、其他斯く確然《はつきり》とは示して居ないが、併し乍らキリストを大能の神として解するにあらざれば到底(55)解す能はざる聖書の言は枚挙するに遑がない。
〇併し乍ら単に文字の問題ではない、信仰的実験の問題である、キリストは神でなければならない、神でなければ罪を赦す事が出来ない、信者はキリストに罪を赦されて、彼が洵に「大なる神即ち我等の教主イエスキリスト」である事を知るのである、「人の子地にて罪を赦すの権ある事を知らせんとて」彼は度々不思議なる業を行ひ給ふた、「子若し汝等に自由(罪よりの釈放)を賜へなば汝等洵に自由を得べし」と彼は言ひ給ふた、是れ神ならでは言ふ能はざる所である、而して斯く言ひて其言の行はるゝを知つて我等は洵に彼が「万物の上に在りて世々讃美を得べき神」なるを知るのである、キリストが神で在り給ふが故に我等も世も彼に由て救はるゝのである。 〔以上、5・10〕
 
    第四十四講約説 イスラエルの不信 羅馬書第十章の大意
 
〇ユダヤ人は何故に救はれざる乎。(一)聖書に合《かな》はんが為である(九章六−廿九節)。(二)彼等が信ぜざるが故である(九章三十−十章)。(三)彼等の不信に由て異邦人が救はれ、終に全人類が救はれんが為である(十一章)。
〇第九章は主として神の選《えらみ》(予定)に就て論ずる、イサクの召れしも、ヤコブの選まれしも之に由る、神の選の聖意の動かざらん為である(十一節)、神は斯く為して不義を行ひ給ふに非ず、彼は憐憫んと欲する者を憐憫み、剛愎にせんと欲する者を剛愎にして彼が神たるの権能を現はし給ふに過ぎない、陶工《すゑものし》は同じ土塊《つちくれ》を以て己が意《こゝろ》に任せ、或る器は貴く、或る器は賤しく作るが如くに、神も亦聖意の儘に滅亡の器と憐憫の器とを備へ給ひたればとて何人も不義を以て彼を責むる事は出来ない、彼は預言者を以て言ひ給ふた「イスラエルの子の数は海の沙の(56)如くなれども救はるゝ者はたゞ僅少《わづか》ならん」と(以賽亜書十章廿二節)、而して事実は其通りであつた、イスラエルの人の多数は救はれざるべしとの事は神の聖意であつて聖書に応ふ事であつた、神の聖意である、故に其内に深き理由がなくてはならない 之を思ふて我が耐え難き苦痛の幾部分かを癒す事が出来るとパウロは言ふたのである。
〇ユダヤ人の不信の原因は神の聖意に在つた、然れども彼等にも亦大なる責任在て存す、彼等は信仰に由らず行に由て義を追求めた、彼等は己が義を求めて神の義を求めなかつた、「視よ我れ躓石また礙磐《さまたぐるいは》をシオンに置かん、凡て之を信ずる者は辱しめられず」とある(以賽亜書八章十四節、同廿八章十六節)、是は勿論キリストを指して謂ふたのである、而してユダヤ人は信ずべき者を信ぜざりしが故に之に躓いたのである、之に反して義を追求めざりし異邦人は計らずも義を得たり 即ち信仰に由る義を得たり、然るにイスラエルは律法の義に達せんとして之にさへ達し得なかつた、彼等は全然義の何たるを解しなかつた、神の遺しゝ者を信ずる是れ即ち神の悦び給ふ工である(約翰伝六章廿九節) 義人却て義を失ひ、罪人却て義に与る、神が何よりも悦び給ふ者は砕けたる悔いし心である、イスラエルは此事を忘れて、却て異邦人の先ずる所となつた(卅−卅三節)。
〇イスラエルに熱心がある、然れども智慧に由る熱心がない、彼等は神の義と人の義とを混同して居る、神の義は信仰である、人の義は行為である、信仰は小児の信頼である、行為は大人の努力である、前者は容易である、後者は困難である、而してイスラエルは易きを棄て難きに就いて其目的に達し得ないのである、愚である、気の毒である、行為は曰ふ我れ天に昇つて道を求めん、陰府に降て義を探らんと、恰もキリストは未だ降り給はず、未だ復活り給はざるが如くに思ひて……然れども天に昇るに及ばず地に降るに及ばず、「道は汝に近く、汝の口(57)にあり、汝の心にあり」である、道は簡単である、容易である、「汝口にて主イエスを告白《いひあら》はし又心にて神の彼を甦らしゝを信ぜば救はるべし」、簡単明瞭である、何人も為すことの出来る業である、ユダヤ人は此途を取らずして他の途を取りしが故に、即ち儀式と修養と思索と工夫とに由りて、信仰に由らざりしが故に救の恩恵を逸したのである(六−十一節)。
〇信仰の道は簡単である、同時に又普遍的である、之にユダヤ人又はギリシヤ人と云ふが如き区別はない、之に遺伝もなければ系統もない、「凡て主の名を呼求むる者は救はるべし」である、浄土門の仏教に謂ふ所の称名である、勿論機械的の百万遍ではない、口に言表はし心に信ずる意味に於ての称名である、アバ父よといふ小児の信頼である、而して神は其子イエスキリストに在りて御自身をすべての人に示し、彼等をしてイエスを信じて救の恩恵に与らしめんと為し給ふた、簡単である、明瞭である、高遠である、深遠である、而して余りに簡単なるが故にユダヤ人には礙く者、ギリシヤ人には愚かなる者の如くに見ゆるのである(十二−十三節)。
〇救は福音に因る、人は福音を聴き之を信じて救はる 聴く事と信ずる事である、福音士の幸福は茲に在る、「和平《おだやか》なる言葉を宣べ、又善き事を宣る者の、其足は美はしき哉」とあるが如し、伝達は教理の講釈でない、社会事業でない、福音の伝道である、「彼れ語り給ひたれば我も亦語る」と言ふのが伝道である、「彼れ告げ給ひければ我は其如く信ず」と云ふのが信仰である、簡単此上なしである、然れども信頼の途はすべての場合に於て簡単極まる者である(十四、十五節)。
〇福音は伝へられた、然れどもユダヤ人は聴き従はなかつた、彼等は又聖書に由て予め福音の何たる乎を教へられた、故に彼等は推※[言+委]《いひのが》るべきやうなし、不信の責任全然彼等に在り、彼等は救を逸したればとて神を恨み奉る(58)事は出来ない(十六−廿一節)。
〇ユダヤ人然り、今日の米国人又日本人また然り、彼等は何を為しても信仰丈けは為さない、宗教研究、社会事業、平和運動、文化生活……彼等は雑行《ぞうぎやう》に忙殺せられて正行《しやうぎやう》に就くの遑がない、米国人はキリストの十字架を仰瞻るの秘訣を忘れ、日本人に之を為すの謙遜と単純とがない、斯くて両者共にユダヤ人の如くに、義の律法(理想の実現)を追求めて之に追附かないのである。
 
    第四十五講約説 神の摂理 羅馬書第十一章大意
 
〇イスラエル人の多数は救はれなかつた、併し乍ら是れ神が其選民を棄たまひし訳ではない、パウロ自身が其一人である、「我も亦イスラエルの人アブラハムの裔にしてベニヤミンの支派《わかれ》なり」と彼は茲に言ふて居る、「我は第八日に割礼を受けたる者にてイスラエルの族《やから》ベニヤミンの支派、ヘブル人より生れたるヘブル人なり」と腓立比書三章五節に言ふて居る、即ちパウロ自身が生粋のイスラエル人であるに関はらず彼は神の召に与りキリストの僕となる事が出来た、一は十を示す パウロ自身の救はれたるは総のイスラエル人が救はれ得べき可能性を表はすものである、而してパウロ以来今日に至るまでユダヤ人にして忠実なるイエスの弟子となりし者は絶えなかつた、音楽家メンデルゾーン、詩人ハイネ、教会歴史家ネアンデル、有名なる基督伝の著者エーデルシヤイム等は孰れも純粋のユダヤ人であつて、熱心なる基督者《クリスチヤン》であつた、洵に神は御自身の為にバアルに脆かざる者七千人を存《のこ》し給ふた、ユダヤ人全部がキリストを斥けたのではない、彼等の内に少数なりと雖も「今も猶ほ恩恵の選に由る遺れる者」がある(一−十節)。(59)〇イスラエル人は少数を除いてはキリストに躓いた、〔然し是れ彼等が躓いて斃れんが為でなかつた、之に由て福音が異邦人に臨まんが為であつた、ユダヤ人に由て棄られし石は異邦人に由て家の隅の首石となつた、「是れ主の為し給へる事にして我等の目に奇《あたし》とする所なり」である(馬太伝廿一章四二節)、ユダヤ人は自から福音を斥けて実は世界教化の這を開いたのである、激励と競争は学校を支配し、国家を支配する、学問を支配し、信仰を支配する、神も亦之に由て人類を救ひ給ふ(十一−十六節)。
〇地中海沿岸の農夫は老齢に達して衰弱せる橄欖樹を若返らしめんが為に、其上に野生の橄欖樹を接木するを常とする、其如く神は古例旧慣に其霊気を喪失せるイスラエル人の上に生気旺盛なる霊界の野人異邦人を接木して福音の復興を行ひ給ふたのである、イスラエルの信仰の上にギリシヤの知識とローマの常識を接木して、前者は復興して後者は潔められた、是は両者に取りて善き事であつた、茲に所謂欧洲文明なる者が起つた、其宗教は猶太的、其学間は希臘的、其政治は羅馬的であつた、是は世界を征服すべき文明であつて、ユダヤ人自身も亦其恩恵に浴するに至つた、而してユダヤは何処までも其根であつて、ギリシヤとローマとは其枝であつた、ユダヤの産せし基督教が根となつて欧洲文明を保つのであつて、欧洲文明が基督教を保つのではない、異邦はユダヤに向て誇る事は出来ない、文明の元樹はやはりユダヤである(十七−廿四節)。
〇福音はユダヤ人を離れてギリシヤ人に臨んだ、然し是れ神が永久に其民を棄て給ふたからでない、是れ「幾分《いくばく》のイスラエルの頑梗《にぶき》は異邦人の数盈るに至らん時まで」である、救はるべき異邦人が悉く救はれて後に福音は再びイスラエルに帰り来るのである、「而してイスラエルの人悉く救はるゝを得」るのである、神は其選みし民を棄て給はない、「救者はシオンより出てヤコプの不信を取除く」のである、神の賜物と召とに易ることなきが故(60)に斯く成るべきが当然である、神が暫時イスラエルを棄て給ふたやうに見ゆるは最後に完全に彼等を救はん為である(廿五−三一節)。
〇「それ神はすべての人を憐まんが為に彼等すべてを不順の内に閉籠め給へり」、先づ一たび不信不順の内に閉籠め、彼等をして推※[言+委]るべき途なからしめて、然る後に恩恵を施して救の自由に入れ給ふ、人が自分に頼る間は救は何人にも臨まない、遁るべき途なきに至り暗黒の底より救を呼求むるに至て、神は憐憫を以て彼に臨み、大なる救を施し給ふのである、イスラエル人が祖先の功績に頼り自己に救はるべき権利ありと思ふ間は救は決して彼等に臨まない、縦令アブラハムの正統の子孫たりと雖も、其罪を糺され、不順の内に閉籠めらるゝにあらざれば憐まれて救に入ることが出来ないのである(三二節)。
〇「あゝ神の智と識との富は深い哉、其審判は測り難く其道は索め難し」である、神の為し給ふ所に矛盾があるやうに見ゆる、然し乍ら矛盾は思想上の矛盾であつて事実上の矛盾でない、神は其愛の行為に由て其すべての矛盾を調和し給ふ、神に至上意志あり、人に自由意志あり、而して二者は共に働きて神を愛する者の益と成る、茲に神の摂理がある、「摂理」は「整へ治むる」の意である、英語の providenceは 拉典語の pro と videre より成りし詞であつて、「前に見る」の意である、神は前より人類の未来を見透し給ひて、其先見の明に従ひて万事を摂理し、即ち統べ治め給ふのである、之を思ふて人は唯彼の前に平伏しヨブと共に言ふのである、「我れ知る爾は一切《すべて》の事を為すを得たまふ、又如何なる聖意にても為す能はざるなし、無知を以て道を掩ふ者は誰ぞや、斯くて我は自ら了らざる事を言ひ、自ら知らざる測り難き事を述べたり……是をもて我れ自ら恨み、塵と灰の中にて悔ゆ」と(ヨブ記四十二章二−六節)、万人の救はれん事は神の聖旨であつて、世界歴史は之に達するの道たるに(61)過ぎないのである(三三−三六節)。
 
    第四十六講約説 聖き活ける祭物 羅馬書第十二章一節
 
〇第十二章を以て羅馬書の第三区に入る、第一章より第十一章までは二区に別れて基督教の教義を論じ、第十二章より第十五章までは其道徳を述ぷ、教義が先にして道徳が後である、教養に根柢を置かざる道徳は弱くして消滅し易くある、教義に十一章を与へ、道徳に四章を配りしパウロの基督教に注意すべし、教義七分、道徳三分、故に其道徳は堅くして動かないのである。
〇「然れば兄弟よ、我れ神の諸の慈悲をもて汝等に勧む、その身を神の意に適ふ聖き活ける祭物として神に献げよ、是れ当然の祭なり」と、一言一句強い深い言辞である、「然れば」「是故に」希臘語の oun、英語の therefore である、第一章十七節以下、第十一章までを受けて言ふのである、「事実斯の如くであれば」、汝等は斯の如くにして義とせられ、斯くの如くにして潔められ、斯の如くにして救を完成《まつとう》せらるゝのであれば、汝等は其恩に酬いんが為に云々である、短い接続詞であるが意味の重い詞である、道徳を教義に結附る詞である、教義の坂を登り詰めて後を顧て発する詞である、「是故に」、只の道徳ではない、理由のある道徳である、同じ事を以弗所書に於て見る、其前の三章が教義の陳述であつて、後の三章が道徳の唱道である、而して其通徳が同じ詞を以て始つて居る、「|然れば〔付○圏点〕主に在りて囚人《めしうど》と成れる我れ汝等に勧む云々」と(三章一節)、同じ事を亦哥羅西書三章五節に於て見る、「然れば」「是故に」深い教義の上に立つ道徳である、意味の深い「然れば」である。
〇「兄弟よ」、情を籠めたる|話し掛け〔付ごま圏点〕の詞である、師が弟子に臨むの態度ではない、兄弟が兄弟に対する時の口調(62)である、パウロが「兄弟よ」と言ひ掛くる時に彼は必ず或る重大事を伝へんとする(七章一節、八章十二節 十章一節、十五章三十節、十六章十七節等)。
〇「我れ汝等に勧む」「命ず」とは云はない、「勧む」と云ふ、希臘話の parakalo、英語の exhort である、パウロは茲に基督教道徳を命令として強んとして居ない勧告として伝へんとして居る、兄弟の自由意志に訴へんとして居る、「勧む」は無きものを以て臨むのではない、既に在る者を喚起さんとするのである、パウロは教義を説いて道徳は信者の内に既に在るものと仮定して居るのである、或は説くの必要なからんも、説くは害なくして益ありとの態度である、道徳を見ること至て軽くある、道徳を教義の必然的結果と見るからである、基督教は律法でなくして福音である、パウロは茲にモーセの律法を繰返しつゝあるのではない、キリストの恩恵の福音を述べつゝある、故に道徳を説くに方ても「兄弟よ我れ汝等に勧む」と言ふのである。
〇「神の諸の慈悲(憐憫)をもて(に由て)」、「慈悲」、ギリシヤ語のオイクチルモンである、美はしい詞である 詩の百三篇十三節に「父が其子を憐むが如くヱホバは己を畏るゝ者を憐み給ふ」とある其憐憫を意味する詞である、救拯は神の憐憫に因る、阿弥陀の慈悲、ヱホバの憐憫、弱者を憐むの心に至ては同一である、但し我等の神は※[火+毀]尽す火であつて、其憐憫は義を以て現はる、故に|より〔付ごま圏点〕深い、|より〔付ごま圏点〕確実なる憐憫である、此憐憫に対する謝恩としての道徳である、宗教道徳が純道徳と異なる点は茲に在る。
〇「其身を……祭物として神に献げよ」基督教道徳の発端は茲にある、先づ己が身を祭物(生贄)として神に献ぐる事である、祭に種々ある、燔祭がある、素祭がある、罪祭がある、愆祭がある、酬恩祭がある、而して茲に云ふ祭物とは酬恩祭の祭物である、「人もし酬恩祭を献ぐるに当りて牛をとりて之を献ぐるならば牝牡に閑はらず(63)第三章に詳かである、酬恩祭は燔祭の後に来る、而して信者の場合に於ては燔祭は世の罪を己に任《お》ふて全き罪の犠牲となり給ひし神の供へ給ひし羔イエスキリストを以て献げられたのである、「爾犠牲と礼物を欲まず、唯我が為に体を備へ給ふ」と希伯来書十章五節に録されたる其体、即ちキリストの体である、神は我等の献ぐべき犠牲、即ち燔祭、罪祭、愆祭の犠牲を我等の為に備へ給ひて、之れを我が献ぐべき犠牲として納《うけ》たまふのである、斯くして我等の燔祭は既に献げられたれば、我等は今は酬恩祭の犠牲として我身を献ぐべしとの事である、謝恩の為の献身である、信仰を以てキリストの贖罪の恩恵に与り、之に酬ゐんが為に聖き生涯を送らんと欲するのである、信仰の結果たる道徳である、神に対し義しき関係に入つて、其の必然の結果として起る聖き義しき生涯である、是が基督教道徳である。
〇「神の意に適ふ聖き活ける生贄」と云ふ、神の悦び給ふ祭物、彼の受納る所となる者、而して神は聖くあり給へば彼が悦んで受納れ給ふ祭物も亦聖くなければならない、而して生贄は活ける者たるを要す、此点に於て新約の生贄は旧約のそれと異なる、旧約にあつては牛や羊や山羊は宰《ほふ》られて火祭としてヱホバの前に献げられたが、新約に於ては信者は其身を活る儘にてイエスキリストの御父なる真の神に献ぐるのである、活きて善行の善き果を結ぶ祭物として神に献ぐるのである、真個の人身御供である、生きながら聖き神の聖き器として使はれん為めの生贄である、是れ以上の尊き献身のありやう筈がない。〇「是れ当然の祭なり」、「合理的の祭なり」とも訳する事が出来る、基督信者にも祭礼がある、それは日々の生涯である、而して是は信者当然の祭であつて、又最も合理的の祭である、真の神を祭るに所謂祭礼に らず所謂(64)祭物を以てせずして聖き義しき愛の生涯を以てす、基督教を迷信と呼ぶ者は誰か、又神を礼拝すると称して日常の生涯は措て省ず、唯儀式儀礼に力を罩めて神を悦ばし奉らんと欲する者は誰か、パウロの此一言は道徳を宗教化すると同時に又宗教を実際化する者であつて、宗教的道徳と合理的宗教とを同時に説く者である。 〔以上、6、10〕
 
    第四十七講約説 基督教道徳の性質
 
〇基督教道徳の根柢は前講の通りである、即ち神の我等に施し給ひし諸の慈悲に対し、報恩の祭として我が身を活ける生贄として献げまつる事である、然らば其性質如何、是れ第二節の明記する所である、「又此世に効ふ勿れ、汝等神の全く且つ善にして悦ぶべき旨を知らんが為に心を化《かへ》て新たにせよ」と。
〇基督教道徳に両面がある、消極的と積極的である、消極的は「此世に効」はざる事である、積極的は「心を化て新たにす」る事である、此両面なくして孰れの道徳も健全なる事は出来ない、暗黒なき光明のなきやうに、汚穢を認めて之を避けんとせざる清潔の道はないのである。
〇「此世に効ふ」、此一句に対する最も好き註解は約翰第一書二章十五−十七節に於ける使徒ヨハネの言である、曰く「此世或は此世に在る者を愛する勿れ、人もし此世を愛せば父を愛するの愛其衷に在るなし、凡そ世に在るもの、即ち肉体の慾、眼目の慾、勢力より起る驕傲《たかぶり》、是等は皆父より出るに非ず世より出るもの也 此世と其慾とは過ぎゆくものにて、神の旨を行ふ者は永遠に存るなり」と、原語は suschematizesthe と云ひて世と其変り行く状(scheme)を共にする勿れとの意である、世と流行を共にする勿れ、婦人の衣裳装飾に日々に変り行く流(65)行あるが如くに、世の思想にも亦流行がある、戦争の流行する時、平和の流行する時、帝国主義の流行する時、デモクラシーの流行する時、労働運動の流行する時、雨して基督者は女も男も世と流行を共にする勿れと云ふのである、そは此世と其慾とは過ぎ行く(流れ行く)ものにして、永遠の生命を目的とする者の関はるべき者にあらざれば也、信者の堕落教会の腐敗は常に「世に効ふ」即ち世と流行を共にするより来るのである。
〇「心を化て新たにせよ」、最が基督教道徳の積極的半面である、「心」は此場合に於ては霊《スピリツト》ではない、心《マインド》である、判断力である、物の見方である、人生観と云ひ、宇宙観と云ふが如きものである、「汝の人生観を一変して之を改めよ」と云ふならば能く原語の意味を通ずるであろう、即ち世人と全然其人生の見方を異にせよとの謂である、原語の metamorphousthe は英語の transform である、形即ち型(form)を変へよとの意である、状《さま》は変る者、型は変らざる者、世の変り行く状に効ふ勿れ、キリストの変らざる型に由りて汝の人生の見方を一新せよと、勿論霊に於て更生《うまれかは》るに非れば心を化て新たにする事は出来ない、然し乍ら心が変らざれば、即ち人生観が変らざれば行為は改まらない、思想の変化は決して小事でない、霊は心(思想)を経て行に現はれるのである、先づ霊に於て新たに生れ、其結果として思想が一変せられ、然る後に霊の果即ち善行が挙るのである、聖霊に由り人生の見方が一変して此世に効はんと欲するも能はないのである。
〇認識の機関たる心(希臘語の nousu.英語の mind)を化へて新たにせよ、是れ書にして悦ぶべき(彼の悦び給ふ)全き神の聖旨を識別せん為である、神の聖旨を知つて之を行ふ、是が基督教的道徳である、而して其聖旨たるや善たり美たり且つ完全なる者である、「上よりの智慧は第一に潔く、次に平和、寛容、柔順、且つ矜恤と善果《よきみ》に充ち、人を偏視《かたよりみ》ず、亦偽りなき者なり」と雅各書三章十七節に云ふ、「神の旨は即ち是なり、汝等の潔からん事(66)なり」とテサロニケ前書四章三節に言ひ、「常に喜ぶべし、断へず祈るべし、凡の事感謝すべし 是れ汝等に要め給ふ神の旨なり」と言ふ(同五章十七節)、其他神の旨に就て聖書の教ふる所甚だ多し、而して此智慧を探り、此聖旨を知りて行ふべしと云ふ 茲に聖書の研究の必要があるのである、パウロは羅馬書十二章に於て信者の知的修養の必要を高調して居る、神を知るの智識は天然を知るの智識と等しく唯漠然として心に臨むのではない、是は潔められし智識に由て聖書の内に探るべき者である、然るに事実如何と云ふに、大抵の場合に於て、信者は深く神の聖旨を探らず、悪意なきを以て神の聖旨と認め、之を行つて神に仕へつゝあると信ず、然れども「ヱホバ宣はく、我が思は汝等の思と異なり、我が道は汝等の道と異なれり、天の地よりも高きが如く、我が道は汝等の道より高し、我が思は汝等の思よりも高し」と以賽亜五十五章八、九節に言ふが如し、而して其事を能く証明する者が羅馬書十二、十三章である、信者にして基督教的道徳は業《すで》に既に知悉せりと思ふ者が此等の章を研究して今更らながらに自己の無智に驚くのである、基督教会は聖書の研究を怠りて、聖旨ならざる者を聖旨なりと想像して、自己に無限の危害を招きつゝある。
〇「献げよ……効ふ勿れ……心を化よ」、「献げよ」は動調アオリスト動詞であつて、断然意を決して一時に身を神に献げよとの意である、「効ふ勿れ……化へよ」は中調現在動詞であつて、信仰的努力を継続せよとの意である、献身は一時的に決行すべきもの、行為と改心とは常時連続的に実行すべきものである、世に効はざるを以て習慣とせよ、日々に心を新たにして又日々に新たにせよと、決心の後に永久的努力が続くのである。
〇努力と云ひて自力の謂ではない、世の流行の致す所となる勿れ、聖霊の恩化に身を委ねて其聖化する所となれよと、中調動詞の意味は如斯くに解すべきである(英訳参考)、信者は如何にして心を化て新たにする事が出来る(67)乎、自己の奮闘努力に由りてゞはない、自己以外の感化力に由てゞある、哥林多後書三章十八節に曰へるが如し、「我等すべて※[巾+白]子なくして鏡に映すが如く主の栄を見、栄に栄いや増りて其同じ像に化はる也 是れ主即ち御霊に由りてなり」と、主の栄を仰ぐのは我である、茲に我が努力が要る、然れども我を化する者は聖霊である、我は彼を仰ぐに由て彼の化する所となるのである、「心を化へよ」と訳せられし原語は如斯くに解すべき者であると思ふ、パウロの伝ふる道徳は道徳であるが明白なる福音的道徳である、即ち主を仰瞻るに起る道徳である。
 
    第四十八講約説 基督教道徳 其一 謙遜
 
〇「我に賜はりたる所の恩恵に由りて汝等各自に告ぐ、汝等思ふべき所を超て自己を高く思ん勿れ、神の各人に賜はりたる信仰の量に従ひて公平に思ふべし」と(羅馬書十二章三節)、基督教的謙遜を教へたる言である、基督教的遺徳第一は謙遜である、「基督教は謙遜の宗教なり」とカーライルは言ふた、「汝等キリストイエスの心を以て心とすべし、彼は神の貌にて在りしかども自から其の神と匹く在る所の事を棄がたき事と思はず反て己を虚うし僕の貌を取りて人の如くなれり、既に人の如き形状《ありさま》にて現はれ、己を卑くし、死に至るまで順ひ、十字架の死をさへ受くるに至れり」とパウロは言ふた(腓立比書一章五−八節)、主イエスは弟子等に告げて言ひ給ふた、「我は汝等の師また主なるに猶ほ汝等の足を濯ひたり、汝等も亦相互に足を濯ふべし」と(約翰伝十三章十四節)、基督教以外の宗教又は道徳に於て謙遜は美徳として教へられないではないが、然し第一の美徳としては教へられない、羅馬人の間に在りては和訳聖書に「謙りたる心」と訳せられし原語の tapeinophrosune《タパイノフロスネー》は日本語の卑屈と云ふが如き低き卑しき詞であつた、然し乍ら十字架を以て代表されたる基督教に在りては此心こそ神の心であつ(68)て、之なくして人は他に如何なる美徳を具ふるとも基督者たる事は出来ない。
〇謙遜にも亦消極積極の両方面がある、「高く思ふ勿れ」と云ふが其一面であり、「公平に思ふべし」と云ふが他の一面である、自己を真価以上に思ふ勿れ、自己の何たる事を知れ、生れながらにして滅亡の子、恩恵に由りて赦されたる罪人、斯かる者は高ぶらんと欲するも能はず、人は先づ自己を知らざるべからずと言ふが、真実に自己を知れば何人も謙らざるを得ない、自己の内に何か善きものを発見せりと思ふ者は未だ真実に自己を知らない者である。
〇然し乍ら謙るのみが謙遜ではない、「高く思ふ勿れ、公平に思ふべし」である、自己の分限を知るべし、謙ると云ひて自己を無視してはならない、神に造られ又贖はれたる我等は零ではない、神は我等各自に信仰を賜ひて信仰に応《かな》ふ特殊の賜物を賜ふた、信仰の量に従ひ己が天分を認むる事は高ぶりではない、本当の謙遜である、謙遜の積極的半面は自覚である、自任である 自己に就いて思ふべき所を超て思はず、思ふべき範囲に於て、公平に、適宜に思ふ、それが本当の謙遜である。
〇基督者はキリストに在りて一体である、之を称してエクレジヤ(教会)と云ふ、而して之に多くの肢《オルガン》がある、眼がある、耳がある、口がある、心臓がある、肺臓がある、手がある、体の全部と認めず、又其主要部なりと思はず、眼たるの天分を知りて、足がある、而して眼の謙遜とは眼を以て物を視るの機関として全体の為に尽す事である、哲学者ライプニツツの有機体の定義に曰く「有機体《オルガニズム》は其各部が同時に手段にして又目的たる者なり」と、眼は全体に仕へ、全体は眼に仕ふ、それがオルガニズムである、又エクレジヤである。
〇而してキリストに於て一体たるエクレジヤの機関(肢《えだ》)として預言者がある、役者がある、教師がある、勧師が(69)ある、慈善家がある、統率者がある、慰藉者がある、彼等は一体であつて亦相互に肢である、即ち相互に助け又助けらる、事は哥林多前書第十二章に詳かである、此箇処の註解として精読を要す。
〇神より直接の啓示に与る者が預言者である、然れども預言は信仰の量に従ふを要す、信仰なくして啓示《しめし》に接する能はず、信仰なくして預言を解する事が出来ない、信仰不相応の預言は空想に走り易く、信仰を離れたる預言は偽はりの預言である、神は漸進家である、彼は其聖旨を人間に伝へ給ふに方て正当の順序を践み給ふ、「誡命に誡命を加へ、度《のり》に度を加ふ」である(以賽亜書廿八章十節)、信仰を基礎として信仰の範囲に為《す》る預言のみ真実の預言である、其他はすべて偽りの預言である。
〇|役者〔付○圏点〕は神の賜物を他《ひと》に頒つ者である、或は預言者を以て降りし神の言を頒ち、或は種々《いろ/\》の方法を以て賜はりし此世の物を頒つ、此意味に於て説教師も役者であれば執事も役者である。|教師〔付○圏点〕は教理を闡明して之を教ふる者である、今の神学者又は聖書学者は此部類に属する者である。|勧師〔付○圏点〕即ち「勧慰《すゝめ》をなす者」は信仰の奨励者である、今日の所謂|福音師《エバンジエリスト》であらう、教師が人の理知に訴ふる者たるに対して、勧師は其感情を動す者であらう、監督パトラーは教師の善き模範であつて、詩人カウパーは勧師の善き実例であらう。「※[貝+周]済《ほどこし》を為す者」とあるは今日の|慈善家〔付○圏点〕である、私産を投じて貧者を助くる者である、而して彼は「吝なく施すべし」と云ふ、原語は haplotes《ハプロテース》である、「単純」の意である。慈善を為すに方て愛を以て他を援けんと欲するの外、何の心を以て為すべからずとの意である、慈善に条件を附すべからず、汝の右の手の為す事を左の手に知らしむべからず、慈善は単純に、率直に為すべし。「治理《をさめ》を為す者」とは此場合に於ては善行の|統率者〔付○圏点〕である、愛の行為に一定の方針なかるべからず、無方針の慈善は益よりも害多し、而して此任に当る者は「懈らず」為すべしと云ふ、原語は spoude《スプーデー》であ(70)る、「熱心を以て」又は「興味を以て」の意である、役人風に為ずして、自分の事業を扱ふの心を以て、一生懸命に為すべしとの意である。「矜恤を為す者」とは施与以外のすべての救恤に従事する者を云ふ、慰藉者《なぐさむるもの》である、慰藉の術は容易でない、是れ亦天与の才能である、而して之に従事する者は「歓び」を以てすべしと云ふ、原語のhilarotes《ヒラローテース》である、英語の hilality《ヒラリチー》の語源である、浮立つばかりの歓びの意である、救恤は義務の念に強ひられて止むを得ず為すべからず、浮立つばかりの歓喜《よろこび》を以て為すべしと。慈善はハプロテース(単純)を以て、統率はスプーデー(熱心)を以て、すべての救恤はヒラロテース(歓喜)を以て為すべしと教へしパウロは能く基督教道徳の機密を解した人である、キリストの心を心としてのみ能く此機密に触れる事が出来る。
 
    第四十九講約説 基督教道徳 其二 愛
 
〇謙遜は何人にも必要である、然し殊に有力者に必要である、傲慢は特に才能に伴ふ罪である、故に第三節に於てパウロが謙遜に就て説き始むるに方て、「我れ受けし所の恩恵に由りて汝等各人に告ぐ、汝等心を高ぶり思を過すこと勿れ云々」と言ひたる其中に「汝等各人」と訳されし原語は「汝等の中の名ある者」又は「能ある者」とも訳する事の出来る詞である、英語に訳して言ふならば To all who are among you である、are とは単に「ある」と云ふ助動詞ではない、「在る者」は「存在を認めらるゝ者」即ち所謂教会の有力者である、加拉太書六章三節に「人もし有ることなくして自から有りとせば是れ自から欺くなり」とある其事である、「我れ汝等の中有る事ある者に告ぐ、高ぶる勿れ」と、パウロの用意周到を思ふべし。
〇謙遜は殊に有力者に取りて必要である、然れども愛は何者に取りても必要である、「愛の外何ものをも人に負(71)ふ勿れ」とありて、人に何の負ふ所なき基督者は、愛だけは之を何人にもも負ふのである、神が我を愛し給ふが如くに我は人を愛せねばならぬ、是れ我が義務である、責任である。
〇「愛は偽はること勿れ」、又は「愛に偽仮《いつはり》ある勿れ」と訳しても可い、愛は慈善と同じく単純なるを要す、愛愛と称ひて愛にも不純なる愛がある、「愛に|偽善〔付○圏点〕ある勿れ」と訳して原語の意味に最も近くある、英語の hypocrisy(偽善)と語原を同うす、愛は仮面を被る勿れ、又は愛は演劇的なる勿れ、愛を行ふに俳優の如くする勿れ、偽善(ヒボクリシー)は劇場に関する言葉である、而して基督者の愛は率直、赤裸々、自然的であつて、演劇的、粉飾を施したる者であつてはならぬとの教訓である。
〇単純の愛に更に定義を附すれば、是れ「悪を憎み善と親しむ」者でなくてはならない、愛にも亦消極積極の両面がある、悪を憎む方面と善と親しむ方面とがある、殊に注意すべきは悪を憎む方面である、愛は愛であつて悪をも之を憎んではならないと言ふ者は愛の何たる乎を知らない者である、本当に愛する者は同時に又本当に憎む者である、博士ジヨンソンの有名なる言として「強く憎まざる者は我が倶楽部員たること能はず」と云ふのがある、愛するにも心より愛し、憎むにも心より憎まざる人は本当の人でない、「悪を憎み」である、キリストもパウロもヨハネもダンテもルーテルもミルトンもすべて此種の人であつた、即ち|情愛の激しい人〔付○圏点〕であつた、真の愛の何たる乎は愛の使徒と称へらるゝ使徒ヨハネに於て見る事が出来る、彼は強く愛して強く憎みし人であつた。約翰伝又は黙示録を読んで真の愛と共に真の憎を学ばざる者は之を精読したる者でない。
〇「悪を憎み善と親しみ」と云ふだけで真の愛の記述として著るしい者である、然し乍らパウロの言葉はそんな弱い者でなかつた、之を直訳すれば「悪を見ては縮み上り善とあれば之に愛着す」となる、パウロは強い人であ(72)る、故に斯かる場合には強い言葉を使ふ、恐怖を以て縮みあがる、膠を以てするが如くに附着する、基督者に善悪に対して斯かる敏感がなくてはならぬ、悪を見ても平然たり、善に接しても左程に喜ばざるが如きは、其人が未だ真実に神の愛を感愛せざる証拠である、世には自から無抵抗主義者と称へて、悪を見ても怒らず、之と闘ひ、之を除かんと努めざる者がある、基督者は|暴力〔付○圏点〕を以ては争はないが、|霊力〔付○圏点〕を以ては勇敢に闘ふ、彼は悪は悪なりと称へて憚らない、友人の争ふを見て之に携はりて自己に損害の及ばんことを恐れ悪にも逆はず善にも与せず、自己は第三者の地位に立ちて単へに両者の好意を失はざらんと努む、是は愛ではない、自己中心の罪である、正直は最良の政略なりと云ふと同じく、愛の名を以てする自己利益の擁護である、真の愛は悪は憎んで之を排し、善は親んで之に与す、憎の無い愛は闇《くらやみ》の無い光と同じく有るが如きに見えて実は無い者である。
〇愛は純なるを要す、之に表裏あるべからず、其の外に現はるゝや悪は誠を以て之を憎み、善は心よりして之と親しむ、而して其内に働くや「兄弟の愛を以て互に愛し礼義を以て相譲る」と云ふ、汝等|肉親の情〔付○圏点〕を以て互に相愛すべしと、原語の philostergoi(フイロステルゴイ)に此意味がある、キリストの血に由て贖はれし者は骨肉も啻ならざる愛を以て互に相愛す、信仰の純正なる所に必ず此愛がある、「我等の心をキリストの愛に、繋ぐ其愛は祝ひなる哉」と云ふ讃美歌第三百二十三番の意である、「視よ、兄弟相睦みて共に居るはいかに善く、いかに楽しきかな」とある詩篇百三十三篇の情である、本当の兄弟姉妹の惰は之を基督者の間に於て見るべきである、然し事実は如何?
〇骨肉も啻ならざる愛と、之に併せて礼義が必要である、礼義又は敬意である、「礼義を以て相譲り」、愛は礼義に由て維持せらる、Familiarity begets contempt(狃れ過ぎて軽蔑生ず)と、礼義の欠くる所に愛は消え去る、而(73)して礼は虚礼でない、尊敬である、信者の間に在りては、各自の衷に宿り給ふ聖霊に対する尊敬である、此尊敬がありて真の愛が生《おこ》るのである、自分の救はれし実験に照らして見て、信者は相互を敬ひ愛せざるを得ないのである、「礼義を以て相譲り」、「各々謙りたる心を以て互に他を己に愈れりと為よ」、礼義を以て現はれざる愛は神より出たる愛でない。
〇「勤めて惰らず、心を熱くし、主に事へ」、愛は何時までも愛情として止まらない、必ず行為となりて現はる、奉仕せんとする、為ざるを恥とする、単に義務の念に駆られて勤むるのではない、熱心事に当らんとする、人に尽さんとしてに非ず、主キリストに事へんとしてゞある、|勤勉と熱心と報恩〔付○圏点〕、信者相互の間に行はるゝ愛の行為にこの特徴は免かれない筈である、古き昔の夢と云ふ乎、今日之を復興する事が出来る、「汝等主の恩恵深きを嘗《あぢは》ひ知れよ」、然れば今日再び之を実現するを得む。 〔以上、7・10〕
 
    第五十講約説 愛の表顕 羅馬書十二章十二−十八節
 
〇第十二節「望みて喜び、患難に耐へ、祈祷を恒にし」、特に兄弟に対する愛の発露《あらはし》に関して言ふ、彼れ過ちて改めざる場合ある乎、其改悛を望みて喜ぶべし、彼れ汝に患難を供《あた》へん乎、之に耐へよ、彼の為めに祈りて止む勿れと、「兄弟よ、若し計らずも過失《あやまち》に陥る者あらば、汝等の中|聖霊《みたま》に感じたる者(導かるゝ者)は柔和なる心をもて之を規正《たふぁす》べし、亦自己をも顧みよ、恐くは汝も誘はるゝこと有らん」とパウロは他の箇処に於て言ふた(加拉太書六章一節)、兄弟の堕落に失望してはならない、彼の回復を望み、信じ、祈るべきであると云ふ。
〇第十三節「聖徒の※[區の品が貴]乏《ともしき》を賑恤《にぎは》し、遠人《たびびと》を慇懃《ねんごろ》にせよ」信者相互の欠乏を補ふべし、「其中に一人の窮乏者《ともしきもの》なかり(74)き、そは地所或は家を有《もて》る者は之を售《うり》て其售りし所の価を携来《もちきた》り、使徒等の足下に置く、之を各々の用に従ひて分け与へしが故なり」とは基督教会創立当時の状態であつた(行伝四章三三、四)、「聖徒」は特に教師を指す、教師は窮乏《ともしき》が普通である、之を賑はすは信者の義務である、ピリピの信者がエパフロデトを遣はしてロマの獄屋にパウロの窮乏を賑はしたのが其好例である、腓立比書は此愛の贈物に対するパウロの感謝の礼状である。
〇「遠人を慇懃にせよ」、「異国人《ことくにびと》を愛する愛を発揮せよ」、philoxenia《フイロクセニヤ》他の国語には無い詞である、単に客人優待の意味ではない、一面識なき外国人を家に迎へて彼を家族の者の如くに待遇《もてな》すことを謂ふ、亜拉此亜人の間に行はるゝ美風である、今日猶ほ南阿ボアー人の間に、又メキシコ土人の間に、勘察加露西亜人の間に古代フイロクセニヤの遺跡を見る、初代教会間に於ける遠人接待(賓旅なる兄弟を接《うく》ること)の実行に就ては約翰第三書と、其濫用に就ては第二書を見るべし。
〇第十四節「汝等を害ふ者を祝し、之を祝して詛ふべからず」、異国人と云へばユダヤ人に取りてはモアブ人エドム人、カルデヤ人の如き害を己に加へし者を云ふ、他国人、他藩の人と言へば近来に至るまで同じ日本人の間に於ても互に相信じなかつた、然るにキリストの愛に由て人種的差別が徐々と取去られつゝある、「異国人を待遇べし、汝等を害ふ者を祝すべし」と云ひて同じ真理を説きつゝある、兄弟を愛するのみならず他人を愛すべし、見ず識らずの他国人を愛すべし、汝等に害を加ふる敵をも愛すべしと、愛に境界なし、万人に及ばざれば止まず。
〇第十五節「喜ぶ者と共に喜び哀む者と共に哀むべし」、汝等自身をして鋭敏なる同情同感の機関たらしむべしと、愛は自己忘却である、而して自己に対して冷淡と成る丈け他《ひと》に対して熱心になる、故に他の喜ぶを見ては自身其喜びを感じ、哀むを見ては自身其哀みを覚ゆ、而してキリストの愛に由てのみ殊に|他の喜びを頒つこと〔付○圏点〕が出(75)来る、同情と訳せらるゝ英語の sympathy は「哀みを共にする」の意である、洵に生れながらの人と雖も他人の哀みを感ずる事が出来る、然れども他の歓喜を頒つことの出来る人は誰乎、他の成功を見て神に感謝し得る基督者は何処に居る乎、然れどもキリストの愛に激《はげま》されて我等此事をも為し得るのである、父なる神は我等の立身、成功、繁栄を見て喜び給ふ、而して父の喜び給ふことは子も亦喜ぶべきである、本当の信仰の在る所に、教派間の嫉視、教師間の競争等の在るべき筈がない、喜ぶ者と共に喜び、哀む者と共に哀み、すべての人と笑を共にし、涙を共にして、初めてキリストの愛があるのである。
〇第十六節「相互に意を同うし」、思ふ所を一にして和合一致すべし、「即ち我等一体に多くの肢《えだ》あれども皆その用を同うせざるが如く、各人キリストに於て一体たれば亦互に其肢たる也」との意義を完全すべしである。「高きを思はず、反て卑微《ひくき》に就けよ」、高き地位又は職務に就かんとせず、反て卑微の人に牽かれて彼等と班を共にせよ、理事又は執事の職を狙ふて他と競争する勿れ、寧ろ好んで下駄番の職に就けよと、信者各自に此心ありて教会に平和が漲らざらんと欲するも得ない。「自己を智《さとし》とする勿れ」、箴言三章七節より引用せる言である、自分の智慮に信頼するの余り、他の意嚮を顧ずして、独り断行する勿れと、独断を誡めたる言である、相互に意を同うする以上は、独り定めずして衆議に由て決すべきである。各自に此の自己不信《セルフジストラスト》なくして団体の平和を維持する事は出来ない。然らば全体尽く誤りて自己独り正しと思はるゝ場合は如何、其場合には長く考へて容易に結論に達せざるが第一、|より〔付ごま圏点〕大なる輿論に問ふ事、即ち人類の経験の記録たる歴史の証明を得る事が第二である、所謂「単独の人」は実は単独の人ではない、人類の経験を背負ひて立つ人である、容易に自己を信ぜざる人、自己を疑ふこと深く、千思万考の後に、止むを得ず独り時の輿論に反して起つ人である、単独の人の模範たるモーセ、(76)イザヤ、エレミヤ等が非常に謙遜なる人でありし事は聖書の明に示す所である。
〇第十七節「悪をもて悪に報ゆる勿れ」、汝等を害ふ者を祝すべし、彼に対し悪意を懐く勿れ、復讐の行為に出る勿れ、目にて目を償ひ、歯にて歯を償ふの態度を取る勿れ。「万人の善《よし》とする所は心に記《とめ》て之を行すべし」、信者は世に傚ふてはならない、然し乍ら世人全体が善と認むる所は自から進んで之を行すべきである、是れ世に邀へられて其賛成を博せんが為でない、福音に関はる礙きを除いて彼等が之を受納るゝの機会を作らんが為である、エクレジヤは秘密団体ではない。人類最善の理想を掲げて其実現を図る者である(腓立比書四章八節を見よ)。
〇第十八節「行し得べき所は力を竭して万人と睦み親むべし」、譲るべき丈け譲るべし、名利の為には如何なる場合と雖も争ふべからず、縦し争はざるを得ざる場合に於ても防衛的たるべし、攻撃的たるべからず、守るべき者は唯信仰と霊魂とあるのみ、他は悉く敵に委ぬるも可なり、世界勢力たるを期して戦争を起せし独逸も英国も基督教国ではない、実は純然たる異教国である。
 
    第五十一講約説 謙譲と宏量 羅馬書十二章十六、十七節
 
〇第十六節「汝等高きを思はず、反て卑微に就けよ」、預言者ヱレミヤ其弟子バルクに告げて曰く「汝己の為に大なる事を求むるか、之を求むる勿れ」と(耶利米亜記四十五章五節)、信者に聖なる野心(holy ambition)なかるべからずと雖も、其野心たる神に事へんとの野心であれば、世の謂ゆる大志を懐くと云ふとは正反対の野心である、而してすべて謙遜なる人は為し得る限り人の誉を惹くが如き大事を避けて、小事を以て満足せんとする、(77)而して幸福なる途は常に高きを狙はずして低きに就くにある、詩人ハイネ言へるあり、曰く「汝の蝸廬をば谷に造れよ、山巓に於てする勿れ」と(Baue dein Hutttechen im Tal, und nicht auf dem Gipfel)、人の目に附かざる所、名誉と地位との伴はざる所、人の足を洗ふ所、其処に神は在し、其処に本当の幸福がある、上流社会と称して、位階又は勲章、財産又は学位の誇とせらるゝ所には虚偽があり虚栄がある、イエスと同じく身を中流以下に置いて最大多数と苦楽を共にする所に人生最大の幸福がある、イエスは人をして此幸福に与からしめ給はんとて、かの馬太伝十一章廿八節以下の慰安の言を発し給ふたのである、「凡て疲れたる者、また重きを負へる者は我に来れ、我れ汝等を息ません、我は心柔和にして謙遜者なれば我が軛を負ひて我に学べ、汝等心に平安を獲べし、そは我が軛は易く、我が荷は軽るければ也」と、板倉勝重が其子重宗の京都所司代職に任命せられしを祝し且つ誡めんとて、態々江戸より京都まで大長持の内に収めて唐傘一本を送りしと云ふ美談の意味は「上を見るな下を見よ」と云ふに在つた。高位高官の人が会員となりたればとて特に歓ぶ教会、此世の富豪又は政治家の援助を藉りて教勢拡張に従事する近代式米国流の基督信者、神学博士の学位に憧憬れて之を獲んとて運動し、獲たりとて祝賀会を開く神学者と牧師と伝道師、我れこそは義人なりと思ひて自己の義に倚《たよ》る古今のパリサイ人、我れこそは清潔の男女なりと称へて、人の過失に陥ゐるを見て、彼の穢れに此べて己の清きを祝する所謂清潔の徒《ともがら》、地位の高ぶり、知識の高ぶり、正義の高ぷり、信仰の高ぶり、何れも神の前に価《あたへ》いと卑しき者である、「汝等高きを思はず反て卑微に就けよ」、簡短にして明瞭、深い真理の言である、社会には無《なき》に等しき者として蔑視まれ、教会には異端変人として斥けられ、義人と清潔の徒とには汚穢の人として避けらるゝ所に、其処に本当の歓喜と幸福と人のすべて思ふ所に過ぐる平安とがある。
(78)〇第十七節「衆人の善とする所は心に記めて之を行すべし」、「十目の視る所、十指の指す所」と云ふ、「民衆の声は神の声なり」Vox populi est vox Deii. 輿論を重んぜよとの意である、パウロは他の所に於て曰ふた「兄弟よ我れ終りに是を言はん、凡そ真実なること 凡そ敬ふべきこと、凡そ公義きこと、凡そ潔清《いさぎよ》きこと 凡そ愛すべきこと、凡そ善き称《ほまれ》あること、凡て如何なる徳、如何なる誉にても汝等之を念ふべし」と(腓立比書四章八節)、パウロは本当の基督者でありしが故に広い人であつた、彼は其出所に由て善悪を定めなかつた、善は何人に由て唱へられても善、縦令不信者道徳なればとて道徳は道徳である、仏教にも善き所があれば之を取れ、儒教にも敬ふべき所があれば之に従へ、武士道に尊むべき所が多い、日本の基督者が武士道を離るゝ時に、聖書の明白なる教訓に悖るのである、「金銭を愛するは諸悪の根《もと》なり」とは聖書の教ふる所(テモテ前書六章十節)、而して是れ又武士道の精神である、金銭を愛して我等は聖書に反き武士道に悖るのである、パウロ又曰ふた「我が誇る所を人に虚くせられんよりは寧ろ死ぬるは我に善き事なり」と(哥林多前書九章十五節)、即ち死は恥辱に勝さるとの事である、卑しき米国宣教師の給するパンを食はんよりは寧ろ餓死するは我に善き事なりである、其他若し日本の基督者が宣教師の説教を聞く前に武士道の明訓に耳を傾けしならば彼等の伝道は数十倍の成功を見たであらう、「衆人の善とする所は心に記めて之を為すべし」、有難い教訓である、外国宣教師の伝へた所謂基督教の教ふる所の外は不信者道徳にして頼むに足らずと思ふ我国多数の所謂基督者は、パウロの此言を心に記めて之を為すべしである、正直なる事、公平なる事、勇敢なる事、独立なる事、世に阿らざる事、権者に諂はざる事、自己の信念に忠実なる事、逃ぐる敵を追はざる事 公明正大なる事、凡て正直なる信仰は我が信仰と異なると雖も之を尊重する事、其他枚挙するに遑がない、是等は特別に基督教道徳に非ずとするも、基督者たる者はすべて之を念ひ、(79)心に記めて之を行ふべしである、実に基督者は教会には変人として見らるゝも常識の世界には常人と認めらるべきである、「汝等異教人の中に在りて善行を為すべし、是れ汝等を謗りて悪を行ふ者と言へる彼等をして汝等の善行を見て、神を崇めしめん為なり」とあるが如し(彼得前書二章十二節)、神に逆ふ世人と雖も、善は善として認めざるを得ざる時が来る。
〇而して此事は彼等と平和を維持し 衝突を遅くる為に必要である、第十八節「為し得る限りは力を竭して人々と睦親《むつみしたし》むべし」とあるは十七節「汝等|衆人《ひと/”\》の善とする所を心に記て之を為すべし」の説明として見る事が出来る、基督者は無益に世の嫌悪を買つてはならない、為し得る限りは世人が善とする所を為して彼等と睦み親まねばならない、基督者は神の選民であると言ひて殊更に特殊の生涯を送るの必要はない、其事に就きパウロ彼れ自身が最も善き模範である(哥林多前書九章十九節以下を見よ)、彼は或る場合には合迎度に過ぐると思はるゝまでに世の風儀習慣に応じた、「彼れケンクレアに在りし時誓願に因りて髪を剪《それ》り」とあるが如き其一例として見るべきである(行伝十八章十八節)、是れ勿論世に譲歩して之と妥協せんが為ではない、為し得る限り彼等と睦み親んで彼等にキリストを伝へんが為である、愛は非礼を行はず、人の感情を害はず、愛は人々の善しとする所は出来るかぎり之を行ふ、これが愛の特性である。
 
    第五十二講約祝 愛敵の途 羅馬書十二章十九節以下
 
〇申命記三十二章三十五節に曰く「彼等の足の|よろめかん〔付ごま圏点〕時に我れ仇を復《かへ》し応報《むくい》をなさん、その災禍の日は近く、其が為に備へられたる事は迅速に到る」と、詩篇九十四篇一節に曰く「ヱホバよ、仇を復すは汝にあり、神よ仇(80)を報ゆるは汝にあり、願くは光を放ち給へ」と、孰れも敵を審判き給へとの祈願である、パウロは茲に旧約の古い言を新約の新しい精神を以て引用したのである。
〇「退きて主の怒を待《まて》」、原語には「怒に場所を与へよ」とあるのみである、「怒」は敵の怒とも亦神の怒とも見ることが出来る、敵の怒るがまゝに放任せよ、又は汝の怒を以てせず神の怒を以て敵の怒に応ぜしめよ、何れにせよ、無抵抗を勧めたる言である。
〇「汝の仇もし飢なば云々」、寢言二十五章廿一、廿二節より引きたる言である、「汝の仇もし飢なば之に糧を食はせよ、若し渇かば水を飲ませよ、汝斯くするは火を之が首《かうべ》に積むなり、ヱホバ汝に報い給ふべし」と、之に類したる教が神がモーセを以てイスラエルの民に伝へ給ひしものゝ中にある、曰く「汝もし汝の敵の牛或は驢馬の迷ひ去るに遭はゞ、必ず之を牽きてその人に帰すべし、汝もし汝を悪む者の驢馬のその荷の下に仆れ臥すを見ば之を棄去るべからず、必ず之を助けてその荷を釈くべし」と(出埃及記二十三章四、五節)、故に之は新い教ではない、旧い教である、之に類したる教が印度にも支那にもあつた、基督教のみの教ではない、婆羅門教も回々教も儒教も此事を教へた。
〇而してキリストは此事を教へしのみならず之を実行し給ふた、馬太伝五章四十三節以下は愛敵を教ふる有名なる言である、彼は彼を捕へんとて来りし祭司の長の僕にして彼の弟子の一人に其耳を削落されし者を憐み、「其耳に※[手偏+門]《さは》りて之を医したり」と云ふ(路加伝廿二章五一節)、彼は又己を十字架に釘けし者等の為に祈て曰ひ給ふた「父よ彼等を赦し給へ、彼等は其為す所を知らざれば也」と(路加伝廿三章卅四節)、而して此実際を目撃せしべテロは後に至り同信の輩を教へて曰ふた「キリスト汝の為に苦難を受け、汝等をして己が跡に随はしめんとて式《かた》(81)を汝等に遺し給へり、彼れ罪を犯さず又その口に詭譎《いつはり》なかりき、彼れ※[言+后]《のゝし》られて※[言+后]らず苦しめられて激しき言を出さず只義を以て己を鞫く者に之を託《まか》せたり、彼れ木の上に懸りて我等の罪を自ら己が身に任《お》ひ給へり」と(彼得前書二章廿一節以下)。
〇斯の如くにして基督教は徹頭徹尾無抵抗愛敵主義である、是れ果して実際的に可能なるや否やは問ふ所でない、基督教は斯く教ふる者である事は明白である、基督教国に由て公然と戦争が行はれ、教会は戦勝を祈り、監督は軍旗を祝福すると云ふが如き、斯んな矛盾はない、ヴイクトリヤ女王は聖書を阿非利加土人の酋長某に示し、英国は此書の上に立つと云はれたと云ふが、然し英国は其長き歴史に於て公々然として聖書の明訓に反き、剣を以て弱者を征服し、其領土を奪ひ而して今尚ほ其不義を継続しつゝある、一八三九年と一八五七年とに二回、支那に対して所謂阿片戦争を起し、無辜の民二万を殺し、阿片を強ひ、償金を課し、|国内に於て基督教の伝播を自由ならしむ〔付△圏点〕、日本の生麦に於て薩摩の武士が其商人二人を殺せしとの理由を以て軍艦を送つて鹿児島を砲撃せしめし英国は、支那や印度に幾万の民を殺して特別に罪の悔改の苦痛を感じないのである、|而して此英国が欧米諸国の中に在りて最も善き国であると云ふ〔付△圏点〕、或る英国の宣教師が日本の基督信者を評し、日本は基督教を受けてより未だ百年に充たず故に日本人は到底基督教を解する能はずと言ふたとの事であるが、日本人愚なりと雖も馬太伝五章四三節以下、羅馬書十二章十九節を解するに難くない、而して聖書の是等の言に照らし合せて英国が国として決して基督教国でない事を知るに難くない、若し英国派遣の宣教師が余輩に教ふるが如くに聖書は真に神の言であるならば……而して余輩は神の言であると信ずる……|英国は国として決して基督教国ではないのである〔付△圏点〕。
〇然し乍ら英国が基督教国でない事は我等が基督者たらざる理由とならない、我等は神の諸々の慈悲に由り我等(82)の敵に抵抗せざるのみならず、更に進んで彼を愛すべきである、悪をもて悪に報ゐざる丈けにては足りない、進んで善をもて悪に報ゆべきである、茲に至て愛は完成せられ、我等は天に在す我等の父の完全きが如く我等も完全く成り得るのである、愛敵は弱きが故でない、強きが故である、我等は争闘を万物の造主なる神に引渡して自から敵を苦しむるの必要が無くなるのである、「仇を復すは我に在り」と神は言ひ給ふ、而して神が我等に代て仇を報ゐ給ふ時に懼るべき者がある、故に我等は彼等の為に祈り、彼等に加へらるゝ刑罰の軽からん事を願ふのである。
〇「熱灰《あつきひ》を彼の首に積むなり」とは未来の裁判に於て重刑が我敵に加へらるゝ其因を作ると云ふ事ではない 恩をもて怨に報ゐられて赧顔《たんがん》に堪えざらしめむと云ふ事である、実に斯かる場合に於て熱湯を首に注がるゝが如くに感ずる、刑罰の熱火ではない、悔改に導く羞恥の赤面である。
〇「惑に勝たるゝ勿れ、善を以て悪に勝つべし」、悪意を以て心を占領せらるゝ勿れ、善意の充たす所となるべし、憎むは敗北である、赦して愛するが勝利である、米詩人ローエルの詩に有名なる Yussouf の一節がある、ユスーフ(ヨセフ)は亜拉比亜砂漠の酋長の一人であつて多分回教信者であつたらう、然るに彼は知らずして彼の一子を殺せし兇漢イブラヒムを優遇し、知つて之を赦し、恩恵の上に更に恩恵を積んで彼を送り還へした、回教信者たると基督信者たると神に於て択む所はない、神の訓誡を守る者、其者が神の子である、敵を愛する事が愛の絶頂である、キリストは神の敵なる我等の為に其生命を捨たまふた、我等も彼に効ふて彼と共に神の子たるべきである。 〔以上、8・10〕
 
(83)    第五十三講約説 政治と社会
 
〇此世の人に取ては政治は最大問題である、然し基督者に取ては最大問題は外に有る、「我国はこの世の国に非ず」とイエスは言ひ給ふた(約翰伝十八章卅六節)、彼はまた言ひ給ふた「汝等先づ神の国と其義とを求めよ、然らば此等のものは皆汝等に加へらるべし」と(馬太伝六章卅三節)、イエスは今日の基督信者が欲するが如くに、究づ政権を己が手に握りて而して後に民衆を済度せんとし給はなかつた、彼は政治には無頓着であり給ふた、ユダヤ人の独立運動に加はり給はなかつた、人あり来りて「税《みつぎ》をカイザルに納むるは宜しや」と問ふ者あれば、「カイザルの物はカイザルに納めよ而して神の物は神に納めよ」と答へ給ふた、キリストは孔子や孟子とは全然異なり、此世の政治には全然携はり給はなかつた、其所に彼の神らしき所がある、イエスはたしかに政治以上の人であつた(路加伝二十章廿二節以下)。
〇基督者は政治を無用視しない、彼は公義と平和を愛する、而して或る程度まで此世の公義と平和とを保証する者として確立せる政府を尊重し誠実を以て之に服従する、権能はすべて神より出たる者であれば、基督者は神に服従する心を以て政府に服従する、是れ「力を竭して人々と睦み親まん」為である(前章十八節)、基督者は何であつても所謂此世の革命者ではない、彼は何よりも騒擾を悪んで平和を愛す、政治の事又は社会の事に就ては彼は本質上よりして保守家である、パウロが其弟子テモテを勧めたる言に曰く
  我れ殊に勧む、万人の為に※[龠+頁]告《ねがひ》、祈祷、懇求《もとめ》、感謝せよ、王及び権威を有つ者の為には別けて之を行ふべし、是れ我等敬虔と端厳《うやうやしき》を以て静に安らかに世を渡らんが為なり。
(84)と(提摩太前書二章一、二節)、使徒べテロも亦同じ事を初代の信者に告げて曰ふた、
  汝等主の為にすべて人の立る所の者に服ふべし、或は上に在る王、或は悪を行ふ者を罰し善を行ふ者を賞る為に王より遣はされたる方伯《つかさ》に服ふべし……万人を敬ふべし、兄弟を愛すべし、神を畏るべし、王を尊ぶべし(彼得前書二章十三、十四、十七節)。
と、初代より今日に至るまで本当の基督者にして自から好んで王に背き、法を紊し、乱を為し、革命を計つた者はない、而して其理由は明白である、彼は此世に於て求むる所がないからである、「神を敬ひて足る事を知るは大なる利なり、我等何をも携へて世に来らず亦何をも携へて往くこと能はざるは明かなり、それ衣食あらば之をもて足れりとすべし、……財を慕ふは諸《すべて》の悪事の根なり、或人之を慕ひ迷ひて信仰の道を離れ 多くの苦害《くるしみ》をもて自ら己を刺せり、神の人よ之を避けて義しき事と神を敬ふ事と信仰と愛と忍耐と柔和とを慕ふべし」とある(提摩太前書六章六−十一節)、此心があつて今日の所謂政治運動、社会運動、労働運動に熱心ならんと欲するも得ない、「財を慕ふは諸の悪事の根なり」と云ふ、而かも今日の外交問題、政治問題、社会問題等、孰れも「財を慕ふ」より起る問題に外ならず、パウロの此言に照らして見て所謂基督教国の孰れもがキリストの国にあらざるは火を視るよりも瞭である、而して神の恩恵に由り「財を慕ふ」の心が絶えて我等は平和の民たらざるを得ない。
〇然し乍ら若し政治が腐敗して理不尽を行つて止まない場合には如何? 基督者は出来得る限り忍耐する、然れども不義不正が其極に達して忍耐する能はざるに至れば止むを得ず抗議する、我等は不義は不義なりと明言する、恰かもバプテスマのヨハネが分封《わけもち》の君ヘロデに向ひ、「汝は汝の兄弟の妻を娶るべからず」と言ひしが如くに言ふ、然れども|其れ以上に抵抗しない〔付△圏点〕、基督者は剣を抜いてまで生命財産を保護せんとしない、生命を賭して正義(85)を唱へる、而して正義を唱へしが故に此世の権者の殺す所とならば、神を信じて己を彼が為すまゝに任す、此点に於て希臘のソクラテスの為せし所は多くの基督者の為した所よりも遥に正しくある、此点に於てオレンジ公ウイリヤム、オリバー・コロムウエル、ジョージ・ワシントンは異教のソクラテスに及ばざる事遥に遠しである、而してイエス御自身が此途を取り給ふた、彼は己が身を護らんが為には十二軍余の天使を父に請ふて受くることが出来ると知り給ひしも、之を謂はずして、己を敵の手に附し給ふた、彼はピラトと祭司の長等に己を裁判かしめて而して彼等を裁判き給ふた(馬太伝廿六章五三節)、我等基督者も亦主キリストに傚ふて此途を践むべきである、英のコロムウエルも米のワシントンも此事に就て我等の模範となすに足りない、我等は寧ろ印度のガンヂーに傚ふべきである、敵に逆はず彼を愛し、而して独立は之を己が手に由て得ずして神より賜はるべきである、而して本当の革命は此如くにして達成せらる、英国革命、仏国革命、米国革命、近くは又露国革命、其孰れもが血を以て血に報いし革命でありしが故に、其目的を達し得なかつた、キリストの取り給ひし十字架の途のみが本当の独立と幸福と平和とを国と民とに持来らすものである。
〇「汝等互に愛を負ふの外凡の事を人に負ふ勿れ」、「何人にも何物をも負ふ勿れ、但し相互を愛する事は別なり」、政府にも社会にも隣人にも借金は禁物とすべし、但し愛は別なり、愛は永久に負はざるべからずと、税金も授業料も会費も規則正しく時を違へず納むべし、然れども物質的の義務を果したればとて義務を完成したりと思ふ勿れ、愛の義務は永久に存す、愛せよ、何時までも愛せよと。
〇「そは人を愛する者は法律を完全すれば也」、法律と云ふ法律、其目的は人々相互の権利を保護するに在る、而して人を愛するに由て法律の目的は完全に達せらる、人は人を愛して其権利を侵害せんとするも得ない、法律(86)は信仰と異なり人の外部に関する事である、然れども生命財産に関する事と雖も其所有者を愛せずして完全に之を尊重する事は出来ない、法律の遂行は国民相互の愛に待たざるを得ない。
 
    第五十四講約説 負債と其償却
 
  何人にも何物をも負ふ勿れ、但し相互に対する愛は別なり。(羅馬書十三章八節)
  是故に律法を完全する者は愛なり。(同十節)
〇人は負債を以て世に来り、負債の下に生長し、負債を償却して世を去る、然り償却して去るべきである、彼は国家に負ふ所あり、社会に負ふ所あり、父母に負ふ所あり、教師に負ふ所あり、友人に負ふ所あり、彼は独り生れず、独り生長せず、独り死せず、彼自身が社会と時代の産であつて、自己に顧みて「我は何人にも負ふ所なし」と言ふことは出来ない、而して是等の負債を承認して喜んで其の償却の任に当らんと欲する者、其者が愛国者であり、公人であり、孝子であり、弟子であり、友人であるのである、「汝、何人にも何物をも負ふ勿れ」と云ふ、是は広い意味の教訓である、「何人にも」である、「何物をも」である、単に世の所謂債主に対して債務を果たすべしと云ふ教訓ではない、すべての人、官吏、社会、公衆、父母、兄弟、師友、すべての人に対して何物をも負ふことなからんやうに務めよとの事である。
〇「汝等受くべき所の人には之を与へよ、貢を受くべき者には貢を与へよ、税を受くべき者には税を払へよ、畏服を受くべき者には畏服を予へよ、尊敬を受くべき者には尊敬を払へよ、何人にも何物をも負ふ勿れ」と云ふのである、負債は単に金銭物品に限らない、尊敬の負債がある、服従の負債がある、而して償ふべきは何人にも償(87)はなくてはならない、人たるの途は茲に在る、此道を践まずして、人は基督者でないは勿論、人でないのである。
〇正義何者ぞ、人と人との間に存立する此義しき関係に外ならない、義しき要求には悉く之に応ずる、其事が正義である、是れ一には我が義務を知るからである、二には他の権利を重んずるからである、義人は単に自己の潔白を楽まんが為に負債の償却に努めない、他の権利を重んじ其要求を充たさんが為に其任に当る、如斯くに見て負債償却は愛の行為である、すべての義しき人は義務の念に駆られてのみならず、愛の心に励まされて何人にも何物をも負はざらんとする。
〇負債の承認と其償却、是が人類の元始的道徳である、然るに近代道徳は如何、露国に於て労農政府が過去に於ける国家の負債を悉く否認したるが如くに、近代人も亦すべての負債を否認し、権利のみを主張して、義務はすべて之を顧みないではない乎、曰く自己存在の権利、自己発展の権利、享楽の権利、蕃殖の権利と、市民は其権利を国家に要求し、子は其権利を父母に要求し、弟は其権利を兄に、弟子は其権利を師に、労働者は其権利を資本家に要求する、何人にも他に要求すべき権利あるを余輩は疑はず、然れども負債は如何? 国家も社会も家庭も其代表者を通して要求すべき権利がある、而して愛は負債を念として権利を主張しない、「各々謙遜りたる心を以て互に他を己に優れりとせよ、又各々己が事のみを顧みず他の事をも顧みよ」と言ふ(腓立比書二章三、四節)、「愛は律法を完全す」、愛に由て負債は根本的に償却され、他人の権利は完全に保護され、亦自分の権利も充分に尊重せらる。
〇「何人にも何物をも負ふ勿れ、但し相互に対する愛は別なり」、負債は悉く之を償却すべし、但しすべてを償却する勿れ、或物を負ふて相互の間に関係を維持せよ、而して愛の義務は永久に之を果し了ること能はず、愛の(88)負債は永久に之を償却する能はず、愛は之を何人にも負はざるべからず、而して愛の負債を存して、人は互に相負ふて相互と親密の関係を維持する事が出来る。
〇法律に限りなし、憲法、商法、民法、刑法と、然れども之れを総括して「己の如く汝の隣を愛すべし」との一言を以て悉す事が出来る、愛は隣を害はず、法律の目的は権利の侵害を防ぐにあり、而して権利侵害の恐れなき所に法律の必要はない、「愛は律法を完全す」、愛ありて刑事訴訟法も民事訴訟法も全く用なきに至る、キリストの愛の福音が普く行はれて、法律は不用とたる、「医者いらず」の良薬あるが如く、「法律いらず」の明教がある、キリストの福音が其れである。
 
    第五十五講約説 終末と道徳
 
〇基督教道徳は愛である、而して愛は信と望との間に立つ、信の結果としての愛である、望に励さるゝの愛である、信愛望の三姉妹は互に相倚りて確立する、パウロは愛を説くに方て「然れば」又は「是故に」の接続詞を以て始めた(十二章一節)、人の救はるゝは行為に由らず信仰に由るとの理由の下に基督教道徳を説かんと欲したからである、信仰の基礎は神が其子を以て信者の為に遂げ給ひし贖罪の行為である、|是政に〔付○圏点〕信者は相互に対し、又此世の政府と社会とに対して愛の行為に出づべしと云ふのが十二章一節より十三章十節に至るまでのパウロの教訓《をしへ》である、然し乍ら信仰の上に立つ愛は希望を以て強めらるゝを要す、故に「此の如く行すべし、我等は時を知れり云々」とある(第十三章十一節)、第十二章一節の「然れば」又は「是故に」は一章十七節以下十一章までを受けて言ひしが如くに、十三章十一節の「此の如く」は十二章三節より十三章十節までを受けて言ふたのであ(89)る、パウロの書翰を研究するに方て簡短なる接続詞又は代名詞の意味に特別の注意を払ふ事が必要である、信仰の故に愛すべし、希望の故に怠るべからずと云ふのが十二章と十三章との大意である。
〇「我等は時を知れり」、今の時代の如何なる者なる乎を知れり、是れ所謂「福音の時代」であつて永久に続くべき者に非ず、やがて主キリストの再臨を以て終るべき者である、而して其時は刻々と近づきつゝある、故に「今は寐《ねぶり》より寤むべきの時」である、今や我等が初めて信じたりし時より其れ丈け我等の救は近く、暗黒の勢力が跋扈する夜の時代は既に其半ばを経過して、義の大陽が世を照らすべき時は近づけり、故に我等は暗黒の行を去りて光明の服《ころも》を衣るべきである、夜は未だ全く去らずと雖も我等は主にありて光の子輩《こども》又昼の子輩なれば行を端正《ただしく》して昼歩む如くすべし、暴飲暴食、淫縦放埒、分争結党等、公明を避け正大を嫌ふ暗黒の行為に歩むこと勿れ、汝等夜の衣を去りて光明の主なるイエスキリストを迎へん為に彼の纏ひ給ふ義の衣を着るべし、彼の再臨と共に過ぎゆくべき此世の状に傚ひて、肉体の慾を行はん為に汝等の心を奪はるゝ勿れ。
〇羅馬書は特に信仰に就て論じたる書である、故に希望に就ては多くを語らない、然し全然語らないではない、第八章は救の完成に就て論ずる希望の一章である、而して茲に又愛の奨励として世の終末に就て述べる、又十五章十三節に曰ふ「希望の神、汝等をして聖霊の能力に由るその希望を大ならしめ給はんことを願ふ」、と、希望なくして基督教は無い、而して|基督者の希望はキリストの再臨と之に伴ふ救の完成の希望である〔付○圏点〕、無限進化の希望ではない、徐々たる世の改良進歩の希望ではない、「此イエスは汝等が彼の天に昇るを見たる其如く再た来らん」と天使が弟子等に告げし其約束の成就である(行伝一章十一節)、事の真否は余輩の間ふ所でない、イエスと彼の弟子等が斯く信じ、而して其信仰に由て基督教の起りし事は疑ふの余地がない、此信仰の上にイエスの山上の(90)垂訓は説かれ、此希望を基礎としてパウロの愛の教訓は述べられたのである、キリスト再臨の希望なくして新約聖書は書かれなかつたと言ふ事が出来る。
〇然し乍ら「※[開の門構えなし]んな事が在り得る乎」とは古い旧い問題である、パウロが此言を発して以来既に千九百年、而かもキリストも来らず夜も明けないではない乎、彼の此希望は事実の裏切る所となり、今や新世界の出現は之を遅々たる万物の進化と之に伴ふ人類の努力とに待つより外に途なしと言はれる、而して斯く唱ふる者は此世の識者に限らない、多数の基督教会と更らに多数の基督信者は激烈にキリスト再臨の信仰に反対する、羅馬書の此箇所の如きは彼等に由て所謂霊的に解釈せらるゝに非れば、既に無用に帰したる古代の迷信として取扱はれる、今やキリスト再臨の信仰を(其他のすべての奇蹟と共に)除きたる基督教が此世の流行物である。
〇キリストは誠に未だ来り給はない、然し乍ら其れが為に聖書は壊れない、誠にべテロが言ひし如く神に在りては千年も一日の如しである、永遠の存在者より見てすべての有限の時は一瞬間である(a÷∞=0である)世の終末は近づきつゝある、其事は昔も今も事実である、「我等は時を知る」、此時代の何たる乎を知る、是は永久に続くべき者でない、始めがあつて終りがある者である、而して「信仰の初より更に我等の救は近」きに非ずや、信仰の初めを使徒時代と見て、二十世紀の今日は更に世の終末に近きに非ずや、一九一四年に起りし世界戦争後の世界の状態如何、世は果して進歩せしや、人類六千年間の所謂進歩の結果は如何、文明の中心と称へらるゝ欧洲今日の状態は如何、最善の基督教国と称せらるゝ米国は如何、一年間に(一昨一九二〇年の調査に因る)四百五十億円を贅沢品の為に消費して、僅に七千五百万円を伝道の為に使ふ米国民は果して其信仰を以て誇る事が出来る乎、禁酒法は公然として破られ、殺人自殺今日の如く多きはなし、誠に今や夜は中央である、Oswald Spengler(91)なる人が der untergang des abendlandes(西洋文明の衰落)なる書を著はして欧洲人の注意を惹きつゝある時代である、Vladimir Sorovief 並に Dmitri Mereschkovski 等欧洲近代の預言者的哲学者も亦世界の終末到来を高唱して止まない。
〇主は近し、故に何人にも何物をも負ふ勿れ、主は近し、故に飲食又は情熱又は※[女+冒]嫉の駆る所となる勿れ、|主は近し〔付△圏点〕、故に真面目なれ端厳なれ、「兄弟よ我れ之を言はん、時は迫れり、妻を有る者は有ざるが如く、哭く者は哭かざるが如く、喜ぶ者は喜ばざるが如く、買ふ者は買はざるが如く、此世を用ゐる者は用ゐざるが如き時到らん、そは此世の状は過逝けばなり」と(哥林多前書七章二九−三一節)。肉体と此世の事に淡泊なれ、|主は近し〔付△圏点〕、万物の終末《おはり》は近づけり、肉体の慾を行はんが為に其備をなすこと勿れ。
〇健全なる道徳に警誡が必要である、愛と恩恵とのみに依る道徳は放縦に流れ易し、浄土門仏教の歴史が其事を示す、プロテスタント教の一派に此傾向あるは人の能く知る所である、救は其半面に於て聖潔《きよめ》である、「神の聖旨は是れなり、即ち汝等の潔からん事なり」とある(テサロニケ前書四章三節)、「人潔からずば主に見ゆること能はず」とある(希伯来書十二章十四節)、而して|潔むるに火が必要である〔付△圏点〕、恐るべき主の日の到来を覚悟して我等は心の奥底より潔めらる、我等が神の恩恵に慣れて油断する時に悪魔の乗ずる所となる、茲に警誡の必要がある、「然れど主の日の来ること盗《ぬすびと》の夜来るが如くならん、其日には天大なる響ありて去り、体質悉く焚毀《やけくづ》れ、地と其中にある物みな焚尽ん ……然れば汝等神の日の来るを待ちて如何に潔き行を為し神を敬ふ事を為すべき乎、神の日には天焚毀れ体質焚鎔けん、然れど我等は其約束に因りて新しき天と新しき地とを望み待てり、義その中に在り、|是故に愛する者よ、汝等すでに之を望み待てば、主の前に〔付△圏点〕汚《しみ》|なく〔付△圏点〕疵|なくして安全ならん事を務めよ〔付△圏点〕」と(92)あるが如し(彼得後書三章十−十四節)。
〇世の終末は如何様にしても来る、次に来らんとする世界戦争に由ても来る、或ひはフリンダース・ピートリー氏に由て唱へらゝ文明循環期の終結に由ても来る、太平洋の周囲に火山国の連鎖を築きしが如き地中の大変動に由ても来る、南極に堆積せる氷塊の融解に由ても来る、地球と他の天体との衝突に由ても来る、大陽系の暗黒星雲通過に由ても来る、地球は今日までに幾回も大変動を経過して来た、一時は爬虫類全盛の時代があつた、今や貧弱なる蛇類、蜥蜴類に由て代表せらるゝ爬虫類が全世界を横領した時代もあつた、其れが今日の人類の占領する世界となつたのである、此世界が此れなりに永久に継続すべしとは信じ難い事である。
〇世の終末である、其破壊でない、神は御自身が造り給ひし物を蔑視み給はない、「神の日には天燃毀れ体質焚鎔ん、然れど我等は約束に因りて新しき天と新しき地を望み待てり、義その中に在り」である、世の終末は「死と陰府と火の池」とではない、「新らしき天と新らしき地」とである、罪人の存在を許さゞる正義の世界である、恰かも今の世界が蛇や蜥蜴の祖先たりし醜き恐ろしき大爬虫の存在を許さゞるが如く、来らんとする義の世界は今日世に跋扈する人等の活動存在を許さないのである、「今は汝等の時暗黒の勢力なり」とイエスの言ひ給ひし時代である、今は夜であつて、蝙蝠、梟、※[鼠+晏]鼠等、暗黒を愛する動物の跋扈活動する時代である、然れども鶏鳴一たび暁を告げて義の太陽の昇るに至れば所謂夜性の動物……夜間活動の動物は太陽の光輝《かゞやき》を避けて穴と洞とに隠れ、之に代りて雲雀は天を指して昇り、斑鳩《やまばと》の声は林に響き、翡翠は水に戯れ、宇宙は一変して昼の世界となる、「汝等は皆光の子輩昼の子輩なり、我等は夜に属ける者暗に属ける者に非ず 然れば我等他人の寝るが如く寝ることをせず醒めて慎むべし」とあるが如し、「汝等今主に在りて光れり、光の子輩の如く行ふべし」とある(93)が如し(以弗所書五章八節)。
 
    第五十六講約説 小問題の解説
 
〇羅馬書は第十三章を以て終つた者と見る事が出来る。人の救はるゝは何に由る乎? 信仰に由る。ユダヤ人の多数の救はれざるは何故乎? 万民が救はれんが為である。基督教道徳の根柢、性質、実行、奨励、是等の諸問題に徹底的解決を供してパウロは茲に筆を擱いて宜いのである。十三章十四節に次ぐに十五章卅三節……平和の神汝等すべての人と偕に在らんことを願ふアメン……の語を以て此書を終つて宜いのである。
〇然し乍らパウロにまだ言はんと欲する事があつた。それは福音の一般的真理を離れて、羅馬に於ける信者の身上に関はる事柄であつた。即ち教理問題、道徳問題、世界問題を離れて、信者の一身問題であつた。パウロは此問題に就て一言せずして此大書翰を終る事が出来なかつた。
〇何を食ふべき乎、如何にして聖日を守るべき乎、パウロ自身の伝道旅行の計画、羅馬に於ける諸友人に対する挨拶、信者相互の関係、彼等とパウロとの関係……問題は個人的である、小問題である。異邦人の使徒たるの使命を帯びたるパウロは斯る問題に携はるの必要は無いではない乎と。此世の人等は如斯くに思ふ。然し乍らキリストの心を持てる信者はさう思はないのである。
〇キリストは神人 God-Man であつた。神と人との両性を一体に於て有つ者であつた。信者も亦さうである。信者は此世を全然超越したる所謂聖人ではない。彼に神らしき所がある。同時に又彼は人らしき所を失はない。彼の最大の心懸りは勿論天に属ける事である。然れども彼は地に属ける事を忘れない。基督者《クリスチヤン》は intensely divine(94)(深刻に神らしく)たらんと欲すると同時に又 intensely human(深刻に人らしく)である。天に関し最大の興味を懐くに至りし彼は、地に関し最も熱心なる者である。ヒユーマニチーは地と人とに関する熱心である。之を|人間味〔付○圏点〕と訳すべきであると思ふ。Divinity と Humanity 神に関はる事と人に関はる事。神学と文学、完全なる人に必ず此両方面がある。
〇羅馬書は最大の神学書である。世に在りし又在らんとするすべての神学の模型である。然し乍ら神学のみでない。之に大なる|人間味が加はりて〔付○圏点〕乾操たり易き神学をして血あり涙ある者たらしむ。我等は第一章に於て同信の友に対するパウロの心情の一斑を窺つた。「兄弟よ、我れ屡々志を立て汝等に到らんとせしかども今に至りて尚阻げらる、我れ汝等が此事を知らざるを欲《この》まず」と(一章十三節)。是は神学ではない、友情である。而して一章十七節以下十三章末節に至るまで大神学論を続け来つて、パウロは又茲に彼の友人に向つて彼の心情を吐露せんと欲するのである。如斯くにして十四章以下十六章までは羅馬書の人間部であつて興味の最も多き部分である。神学を本体として見る時は其附属物たるに過ぎずと雖も、パウロの何人たる乎、基督者の何者なる乎を窺ふためには必要欠くべからざる部分である。
〇「或人はすべての物を食ふべしと信じ或人は弱くして唯野菜を食へり」。「或人は此日を彼日に愈《まさ》れりとし、或人は何れの日も皆同じとす」。問題は小問題である。如何でも可い問題でる。然し乍ら愛の立場より見て決して小問題でない。之を解決するにキリストに由りて神より来る愛のすべての能力と判断力とが要る。先づ第一に知るべきは問題に必要と不必要との別ある事である。前者は飽くまで争ふべし、後者は寛容すべし。人の義とせらるゝは律法に由らず信仰に由るとは肝要問題である。パウロは之が為にはべテロを面責し、ガラテヤ教会との(95)友誼的関係を賭して彼の主張を維持した。然し乍ら「或は飲むこと、或は食ふこと、或は節期、或は月朔、或は安息日の事により人をして汝等を議せしむること勿れ」と云ひて不要問題に就ては自由寛容不干渉を主張した(哥羅西書二章十六節)。是は為すも可なり為さゞるも可なりの問題である。生命に係はる問題に非ず、各人自由選択の問題である。パウロの著るしき常識は斯る場合に於て現はれたのである。
〇「如何でも宜い問題である。故に愛の為に譲らん」とはパウロ第二の教訓である。彼は曰ふ、我は主イエスに由りて凡のもの潔からざるなきを知り又信ず。然れども兄弟の内に若し或物を潔からずと思ふ者あらば、其物は其人に取りては潔からざる物であれば、我は愛の道に合はんが為に之を食はず、我より進んで彼の面前に之を食ふは彼をして憂へしむるの途なるが故に、彼も亦主が其血を以て贖ひ給ひし者であれば我は食物の故に彼を滅さゞらんと努む、我は愛の故に我が自由に制裁を加ふ、是れ即ち愛の道なりと(十四、十五節)。無益に兄弟の感情を害する事、是れ信者の大に慎むべき事である。小問題である。故に彼をして先づ之を放棄せしめんと為ない、我より進んで彼の嗜好に従はんとする。偉大なるパウロよ、彼に繊美《デリケート》なる貴婦人の注意があつた。巌の如くに堅き彼に其挟間に咲く百合花の如き美と香とがあつた。
〇「神の国は食ふ事又は飲む事に非ず、惟義と平和と聖霊に由る歓喜となり」(十七節)。神の国は肉の事に非ず霊の事なり。「イエス曰ひけるは、凡て口に入る者は腹を通りて厠に落つ、口より出るものは心より出づ、是れ人を汚すもの也」とあるが如し(馬太伝十五章十六−十八節)。何を食はうが(羅馬書の此場合に於ては一度偶像に供へられし肉を指すが如し)何を飲まうが其事は人を汚さない。基督者には所謂「汚らはしき物」はない。然しながら心より口を通うして出づる所のもの、即ち悪念、妄証、誘涜、是等は誠に人を汚す物である(同十九、二十節)。(96)然れば信者は肉の事に就て争つてはならない。霊の事は大問題である。肉の事は小問題である。小問題に熱心になりて大問題を忘れてはならない。
〇禁酒禁煙の事、観劇の事、土曜日を安息日として守る事、是れ皆小問題である。信者は之が為に相互を審判いてはならない。愛の為に之を譲りてキリストの愛を顕さねばならぬ。 〔以上、10・10〕
 
    第五十七講 羅馬書十五章十四−卅三節解訳
 
〇兄弟よ、私は茲に長々と福音の真理と其応用に就て諸君に書き贈つた。然し乍ら是れ決して諸君が愛と知識とに不足して居ると思ふたからではない。私は諸君が慈愛に満ち、すべての知識を以て充たされ、又相互を勧め得ることを能く知つて居る(十四節)。然し乍ら諸君よ。私は尚ほ諸君に諸君が既に善く知る事を憶ひ起させんが為に此所彼所に少しく憚らずして書き贈つたのである。斯く為せしは神が私に賜ひし所の恩恵に因る(十五節)。恩恵と云ふは他なし、私が異邦人の為にイエスキリストの役者《えきしや》となり、神の福音を以てする祭司の職に当り、聖霊に由て潔められて神の聖旨に通ふ供物として異邦人を献げん為に選まれしと云ふ其恩恵を云ふのである(十六節)。是所に私は他の事に就ては誇る事は出来ないが、神の事に関してはイエスキリストに由りて誇る事が出来ると信ずる(十七節)。即ちキリストが異邦人をして御自身に服従せしめんが為に私を以て働らき給ひしこと、言辞《ことば》と行動《はたらき》と、休徴《しるし》と奇跡の能力と、聖霊の能力とを以て私を以て働き給ひし事、而して斯の如くにしてヱルサレムより遍くイルリコに至るまで私をして福音を伝へしめ給ひし事、是等の事の外は私は敢て何事をも語らないであらう(十八、十九節)。其他に私に尚ほ一つの野心がある(philotimeomai) それは私が他人の置いた土台の(97)上に築かないと云ふ事である。私は基督の名の未だ称へられざる所に福音を宣伝ふるを以て私の方針と定めた(二十節) 即ち以賽亜書五十二章十五節に云へるが如し。
 未だ彼に就て宣伝を受けざりし者が見るであらう、未だ聞くことを得ざりし者が悟るであらうと(二十一節)。
〇斯かる次第であつて、私は幾度も阻げられて諸君に詣《いた》り得なかつた(廿二節)。然るに今や此等の地方に福音を伝ふべきの所なく、又私は年来諸君の所に往かんことを願へるが故に(廿三節)、何時にても私がヒスパニヤに往かん時に諸君の所に往くであらう。私は彼地に往かん其途中に諸君を見んと欲する。而して略ぼ意に満つるを得て後、諸君に送られて彼地に往かん上欲する(廿四節)。然れども今や私は聖徒に貢せん為にヱルサレムに往かんとして居る(廿五節)。其理由は、マケドニヤとアカヤの人々ヱルサレムに在る聖徒の内の貧者《まづしきもの》の為に寄附を為すことを喜悦としたからである(廿六節)。誠に彼等は喜んで此事を為した。彼等は彼等に負ふ所があるのである。そは若し異邦人たる彼等が猶太人たる彼等より霊に属けるものを享けたらんには、彼等は肉に属けるものを以て彼等に事ふるの義務があるからである(廿七節)。是故に私が此事を成就し此果を彼等に渡して後に私は諸君に詣り、又諸君に送られてヒスパニヤに往くであらう(廿八節)。そして私は知る、私が諸君の所に至らん時に、キリストの恩恵に満ちて至るであらうと(廿九節)。
〇斯かる次第であれば兄弟よ、私は主イエスキリストに由り、又聖霊の愛に由り諸君に願ふ、諸君が私の為に力を増して私と共に神に祈らんことを(三十節)。即ち私がユダヤに在る信ぜざる者の手より救はれ、又ヱルサレムに於ける私の奉仕が聖徒の心に適ひ(三十一節)、而して神の聖旨に由り喜悦をもて諸君に至り、諸君と共に安慰を得んことを(三十二節)。願くは平安の神、諸君と共に在さんことを、アーメン(三十三節)。
(98)〇以上に依てパウロの羅馬教会に対する態度が判明する。即ち羅馬教会はパウロの建た教会ではないのである。故に彼は之に対するに大なる遠慮を以てした。彼がガラテヤ教会に対して「愚なる哉ガラテヤ人よ」と言ひしが如く、又はピリピ教会に対して「我が愛する所、慕ふ所の兄弟、我の喜び我の見たる我が愛する者よ」と言ひしが如き言葉を以てローマ教会に対しなかつた。自分の建た教会でなかつた、故に之に対して適当の遠慮と礼節とをもて臨んだ。而して斯くなすのが当然である。「愛は非礼を行はず」と云ふ。他人の子を自分の子として扱つてはならない。之を称して「教職の礼儀」と云ふ。而して此礼儀の行はるゝ所にのみ伝道は成功するのである。
〇ヱルサレムよりイルリコまで。遠い距離である。直径にして千四百哩ある。丁度※[鹿/兒]島より青森までの汽車線路の哩数である。パウロは彼の三回の伝道旅行に於て少くとも之に四倍するの距離を通過したであらう。其間に数箇の大市があった。キリキヤよりアナトリヤ高原に達するに有名なる「キリキヤ門」の峡路があつた。黒海よりアドリヤ海までバルカン半島を横断する Egnatian Road の国道があつた。其間に多くの人種が住ひ、多くの国語が話された。曾てアドルフ・ダイズマンがパウロ研究を遂げんと欲して、彼の足跡を践まんとして大なる困難を感じた事がある。汽車汽船の使なかりし羅馬帝国時代に於ける困難は推量せられる コリント後書十一章廿五、廿六節を見よ。
〇パウロは謙遜と従順を旨とするキリストの僕であつた。然れども彼にも亦一の野心があつた。第二十節に「我れ慎みて」とあるは弱い訳字である。英訳には so have I strived(我れ努めて)としてあつて、欄外に being ambitious(又我が野心とする所は)と記入してある。希臘語の philotimeomai は字義なりに訳して「我れ名誉を好む」(99)である。故にパウロが茲に「我に野心あり」と云ふたと解して少しも差支ないと思ふ。そして其野心は何んであつた乎と云ふに、「我は他人の置《すえ》た土台の上に建じ」と云ふ事であつた。パウロは愛の人であつたと同時に名を重んじ恥を知るの人であつた。彼はコリント人に書き贈つて曰ふた「我が誇る所(名誉)を人に空しくせられんよりは寧ろ死ぬるは喜き事なり」と(哥前九の十五)。パウロに日本武士の魂があつた。彼は卑しい事は為し得なかつた。武士が「拾い首は取らない」やうにパウロも亦他人の功を奪はなかつた。「べテロに能力を予へて割礼を受けたる人の使徒と為しゝ者また我にも能力を予へて異邦人の使徒と為せり」と彼が言ひし通り彼は始めより彼の伝道の区域を定めた。そして此規定を厳守して彼は決して他の使徒等の領分に切込まなかつた。べテロはユダヤと其附近に、トマスは多分東の方印度へ、其他使徒等は各自それ/”\伝道の区域を割当られたのであらう。而してパウロの領分は当時の世界に於て最も文明に進みたる部分であつた。所謂「異邦」であつた。希臘文化の行渡りたる国々であつた。アカヤ、マケドニヤ、イタリヤ、ヒスパニヤ、地中海北岸の全部であつた。そして此広い区域にキリストの福音を宣伝ふる事と、之に併せて他人の置えた土台の上に築かざる事とが彼の伝道の方針であり、又基督者としての欲望即ち野心であつた。
〇羅馬に至らんとす。然れども長く止まらんとしない 西班牙に至らんとする序に之を訪はんとする。羅馬は異邦の首府である。故にパウロの領分に属する。然れども羅馬教会の土台は他人に由て置えられた。故に之に干渉するを好まない。之を重ずる、愛する、之を教へんが為に長き書翰を書き贈つた。然し之を自分の教会として扱はない。他人の権利を重じ其事業を尊ぶ。彼は帝国の首府は其伝道に先鞭をつけし人達に譲り、自分は世界の西端、ヒスパニヤに往いて、其所に十字架の福音を伝へんとした。偉大なる、ノーブルなる、男らしきパウロよ。(100)若しも梁川庄八正国の如き日本武士が基督教の伝道師となつたならばパウロの如くに行つたであらう。然れども嗚呼!
 
    第五十八講 羅馬書十六章一−一六節解訳
 
〇私は諸君に私等の姉妹フイベを推薦する。彼女はケンクレアの教会の女執事である。私は諸君に勧む、諸君が聖徒たるに応ふ道を以て主に在りて彼女を迎へ彼女が諸君より求むる所に循ひ、何事によらず彼女を援けられんことを。そは彼女自身も亦今日まで多くの人を授け、私自身も亦彼女の援助を受けたればなり(一、二節)。
〇キリストイエスに在りて私と共に働く者なるプリスキラとアクラに平安を問はれたし。彼等は私の生命の為に其の頸を剣の下に置いた。其れがために惟り私のみならず異邦人のすべての教会は彼等に感謝する。又彼等の家にある教会に其平安を問はれたし(三−五節)。
〇私の愛するエパイネトに其平安を問はれたし。彼はアジヤがキリストに献げし初穂である(五節)。
〇私等の為に多く努力せしマリヤに其平安を問はれたし(六節)。
〇私の血縁の者にして私と同様に囚人《めしうど》となりしアンデロニコとジユニヤに其|平安《やすき》を問はれたし。彼等は使徒の間に名声《きこえ》ある者である。彼等は又私より先にキリストを信じた者である(七節)。
〇主にありて私の愛するアムピリアテに其平安を問はれたし(八節)。
〇キリストに在りて私と共に働くウルバノ、又私の愛するスタクに其平安を問はれたし(九節)。
〇キリストに在りて鍛錬られたるアべレに其平安を問はれたし(十節)。
(101)〇私の血縁の者なるヘロデオンに其平安を問はれたし(十一節)。
〇ナルキソの家の属にしてキリストに在る者に其平安を問はれたし(十一節)。
〇主にありて努力せしテルパイナとテルポーサに其平安を問はれたし。彼等は主に在りて努力せし婦人である(十二節)。
〇愛せらるゝべルシーに其平安を問はれたし。彼女は主に在りて多く努力せる者である(十二節)。
〇主に在りて選ばれたるルポと其母とに平安を問はれたし。彼の母は又私の母である(十三節)。
〇アスキキリトとピリゴンとへレマとパトロバとヘレメと、又彼等と共に在る兄弟たちに其平安を問はれたし(十四節)。
〇ピロロコとジユリヤ、ネリオと其妹、オリムパ、並に彼等と共に在るすべての聖徒に其平安を問はれたし(十五節)。
〇諸君が聖き接吻を以て相互の平安を問はれんことを望む。キリストのすべての教会諸君に平安を問ふ(十六節)。
       以上の略註
〇以上はパウロの羅馬に於ける友人録とも、亦羅馬教会の役員録とも見る事が出来る。亦之より演繹して羅馬教会の組織如何を窺ふ事が出来る。固有名詞は確実なる事実を語る。羅馬書は生きたる人より生きたる人等に書贈られし書翰である。
〇茲に第一に注意すべきは婦人の名の割合に多い事である。挙げられし名は総て二十七人、其内九人が婦人であ(102)る。羅馬書をローマに携へし者がコリント市の港ケンクレアの女執事フイベであつた。パウロより挨拶を受けし第一の者が天幕製造業者アクラの妻なるプリスキラであつた。其他テルパイナとテルポーサ(彼等は多分兄骨の姉妹であつたらう、或は骨肉も啻ならざる親しき二人の友であつた乎も知れない)……主に愛せらるゝべルシー、特にパウロが「我母なり」と呼びしルポの母があつた。基督教は初めより婦人を迎へ、彼等を高め貴ぶ宗教である。男尊女卑の当時に在て実に著るしき事である。そして婦人は初代の教会に於て単に尊ばれたのみでない。彼等は男子に劣らず働いたのである。プリスキラは其夫と共に一時はパウロの為に其頸を断頭台の上に剣《つるぎ》の下に曝したのである。「我等の為に多く努力せしマリヤ」とありて彼女もまたパウロ一団の為に辛労危険を辞さなかつたのである。
〇二十七人、孰れも信仰の戦士であつた。其内に学者もあつた乎も知れないがパウロは其事を記さない。高位高官の人はなかつたらしく見ゆる。アリストプロの家の属、又ナルキソの家の属とありて、二人共に富者であつたらしくあるが、然し彼等自身が信者でありしに非ずして彼等の家の属(従属又は奴隷)の内に信者があつたのであるやうに見える。基督教会は信者の団体であつて、其内に貴ばるゝ者は学問又は位ではなくして信仰である。「キリストに在りて鍛錬られたるアべレ」とある。信仰の試練を経て之に及第したる者である。英語に所謂 approved in Christ である。キリストに在りて其信仰を試みられて(多くの患難と迫害とを以て)善しと認められたる者である。信仰の老兵《ヴエテラン》である。幾度か内外の悪魔と闘つて之に勝つの秘術を知つた者である。「キリストに在りて鍛錬られたるアべレ」斯かる者がパウロの友人であつて、羅馬教会の柱石であつた。神学と哲学とギリシヤ語とヒブライ語とを以てするも、鍛錬へられたる信仰を以てするにあらざれば信者の信頼を受くるに足りない。
(103)〇羅馬教会と云ふ。羅馬教会とは或る特別なる会堂を有ちたる団体であつたらうか乎。然らず。「プリスキラとアクラの|家にある教会〔付○圏点〕に其平安を問へ」とありて、天幕製造業者の家が羅馬教会の在つた所、或は其一であつたのである。初代の教会が各地の主なる信者の家に在つた事は疑ふに余地がない。使徒行伝十二章十二節、コロサイ書四章十五節、ピレモン書二節等が其事を証明する。斯く曰ひて余輩は教会堂の不必要を唱ふるのではない。|唯会堂は無くとも信仰があれば教会は在り得ると信ずるのである〔付○圏点〕。「二人三人我が名に託りて集まる所に、我れ其の内に在らん」とイエスは言ひ給ふた。余の知る最も善き教会は信者の家に在る教会である。我等は信仰に由りて我等各自の家を教会となす事が出来る。何故之を起さないのである乎。
〇今より殆んど十年前に余は此事に就て左の如くに述べた事がある(『聖書之研究』百五十一号)。
  羅馬帝国の首府にして人口四百万ありしと云ふローマの市に於て、基督教会は一人の天幕製造業者の家に在つたのである。普通の家であつた。高壇ありしに非ず、牧師館ありしに非ず、然かも教会はあつたのである。其処にパウロの親友なるプリスキラとアクラとは安息日毎に兄弟姉妹を招き、キリストに在りて鍛錬られたるアべレも其処に来り、ルポは其老いたる母の手を引いて至り、ピロロコは其妻ジユリヤと共に、ネリオは其妹と共に、テルパイナとテルポーサの姉妹は共に手を携へ、アリストプロの僕婢とナルキソの奴隷とは何の憚る所なくして名家の士女と共に一室に集ひし時に、キリストは彼等の内に在ましてプリスキラとアクラの家は地上の天国と化したのである。
〇すべての事に偉大なりしパウロは亦友誼に於て偉大であつた。彼は人の長所を見るの眼を持つて居た。友に挨拶を述ぶるに方て彼は単に名を呼ばずして之に加ふるに一言其特長を以てした。エパイネトはアジヤがキリスト(104)に献げし初穂であつた。アンデロニコはパウロに先だちてキリストを信ぜし者であつた。アべレは信仰鍛錬の戦士であつた。ルポは特に主に選ばれし者であつて、彼の母は又我が母なりと言ふた。殊に男子の場合に於ては「キリストに在りて我が愛するアンビリオト」と呼びて、女子の場合に於ては「愛せらるゝべルシー」と云ふが如き、注意到れり尽せりである。パウロに多くの弟子はあつたらうが、彼が特に誇りし者は彼に与へられし少数の友人であつた。そして彼は熱愛を以て彼等を愛した。
〇此書翰を書贈て後三年、紀元五十九年の春頃、彼は囚人《めしうど》としてローマに着いた。使徒行伝廿八章十五節に曰く「ロマの兄弟たち我等の事を聞きアツピー・ポロム及びトレスタベルネ(三館)と云へる処に来りて我等を迎ふ。パウロ之を見て神に感謝し、其心に力を得たり」とある。此時彼は是等の友人に会し、聖き接吻を以て相互の平安を問ふたであらう。
 
    第五十九講 羅馬書十六章十七節以下
 
〇羅馬書は終結《おはり》を告げつゝある。其主要部は十五章十三節を以て終つたのである。「希望を予ふる神の汝等をして聖霊の能力に由り、汝等の希望を大にせんが為に汝等の信仰より起るすべての喜楽《よろこび》と平康《やすき》を充たしめ給はんことを」の祈願《ねがひ》を以て此大書翰は終はつたと見る事が出来る。然るにパウロは自分の事に就き追書《おつてがき》を附するの必要を感じた。依て十四節以下卅一節までに彼の将来の伝道計画に就て書き加ふる所があつた。そして之を書き了て後に卅二節に於て「平安の神汝等すべての者と偕に在らんことを願ふ、アーメン」と書いて彼は茲に終結を告げんとした。然るに彼は更らに羅馬に於ける彼の友人を想ひ起した。彼等は何れも信仰の戦士であつた。彼等に対(105)して亦一言なかるべからずと思ふた.依て三たぴ彼の書記をして筆を取て書かしめた。それが十六章一節より十六節に至るまでの紹介並に挨拶の言葉である。そして之を終へて後に十七節より十九節までに於て異端の侵入に就て注意する所があり、第二十節に於て「平安の神汝等の足の下に於て速にサタンを砕くべし、我等の主イエスキリストの恩恵汝等と偕に在らんことを願ふ」と書きて茲に三たび此書翰を終らんとした。然るに彼は未だ終り得なかつた 彼と偕に在りしテモテ外三人、書記のテリテオ、全会の寓主《あるじ》ガヨス、コリント市の会計主任ヱラスト、外に兄弟クワルト、彼等も亦此機会を利用してキリストの愛を遠きローマの兄弟姉妹に送らんと欲した。文書交換の機会は尠かつた。此好機逸すべからずである。(二十四節「我等の主イエスキリストの恩《めぐみ》云々」は多分後世の記入であらう。改訳には除いてある)。
。三たび終へんとして終へざりし此大書翰は終に終結に達した。そして最後の一言は本文相当のものでなくてはならない。建築で云へば最後の冠石《かむりいし》(copestone)である。偉大で、宏荘で、総括的でなくてはならない。そして事実は想像に違はないのである。羅馬書結末の言は左の如しである。
  汝等を堅固《かたう》し得る者、我が福音とイエスキリストの宣伝に依り、即ち永き世の間隠れたりしも今顕はれ窮なき神の命に由り、預言者たちの聖書を以て、信仰の服従に入らしめんが為に万国の民に示されたる奥義の啓示《しめし》に依りて汝等を堅固し得る者、即ち独一睿智の神に栄光世々窮りなくイエスキリストに由りて在らんことを。アーメン。
実に偉大なる重い言葉である。最後に羅馬書を総括して余す所なき言葉である。
〇言は|まわりくどい〔付ごま圏点〕やうに見ゆるが其意味は簡短明白である。「我が宣べし福音を以て汝等を堅固し得る者、即(106)ち独一睿智の神に栄光世々限りなくイエスキリストに由りて在らんことを」と云ふのが此頌栄の辞の大意である。|くどい〔付ごま圏点〕と思はるゝ部分はパウロの宣べし福音の説明であつて、比較的に軽い言葉である。論理学上に所謂大前提と小前提とであつて、先づ大を解して小は自から釈けるのである。
〇此内で最も重い言葉は「得る者」である。ギリシヤ語に在ては dunameo と云ふ一語である。英訳には him-that-is-able としてある。然し四字であるが一字として読むべき者である。「為し得る者」又は「為す能力を有する者」の意である。勿論神の名称である。神は為し得る者、為すの能力を有する者である。即ちデユーナメノスである。パウロは福音を伝へ得た。然し乍ら其福音を以て人を救ひ得る者は神であると彼は信じたのである。我は語る者、神は為し得る者であるとパウロは言ふたのである。パウロ如何に大なりと雖も救拯の事を為し得やうとは信じなかつた。彼は自己を知つた。故に本当に謙遜であつた。「為し得る神に栄光あれ」と彼は讃へた。自分で信者を作り得ると信ずる近代人、人格境遇の力で人を基督者にする事が出来ると思ふ米国流の基督信者は大に茲に鑑みるべきである。
〇「為し得る者」、「堅固し得る者」、「信者の信仰を確立し得る者」、それは人ではなくして神である。偉大なりしパウロに於てすら此能力はなかつた。故に栄光神に在れである。そして其神は独一の神である。智慧の源である。人の場合に於ては智慧が有つても之を行ふの力なきが常であるが、神の場合に於ては全智に伴ふに全能がある。そして其智慧と能力とは殊に罪人の救拯の場合に於て現るゝのである。パウロは十一章の終りに於て「あゝ神の智慧と知識の當は深い哉」と言ひて万民の救拯に関する神の智識を讃美した。信者各自に取りても亦然りである。錯雑せる人生の関係の内に在りて神は我等各自を光明と自由とに導き出す道を知り給ふ、又能く此事を為すの力(107)を有し給ふ。故に栄光彼に在れである。
〇神は信者の信仰を確立し、彼の救拯を完成する事が出来る。そして彼はパウロに示し給ひし福音に由て此事を為し給ふ。即ち羅馬書に於て説かれし十字架贖罪の福音を云ふ。神は此福音を以て世を審判くと共に又世を救ひ給ふ。「此外別に救ひある事なし」とべテロが言ふた通りである。そしてパウロの福音は「イエスキリストの宣伝」である。彼の弟子ルカが伝へしやうなるキリストを宣伝する事、それが彼れパウロの福音であつた。パウロは今の神学者が唱ふるやうに、自分の伝へし福音とイエスキリストの生涯の出来事とを区別しなかつた。そして此福音は抑々如何なる者であつた乎と云ふに、是は「永き世の間隠れたりしも今顕はれ神の命に由り聖書を以て万国の民に示されたる奥義の啓示」である。即ちパウロの伝へし福音は彼の所謂創作でなかつた。是は永き間世に在りし者、然かも永の間隠れて覆はれし者、而して今に至りて顕はれし者であつた。是は又パウロが自分で欲《この》みて宣伝へし者ではなかつた。神の命に循ひ、預言者等の書《ふみ》即ち旧い聖書に基きて万国の民等に示されたる者であつた。自分の創作ではない。自分の伝道ではない。永き間奥義として人の眼より隠れありし神の聖旨を、神の命に循ひ、聖書を以て宣伝ふるのである。
〇汝等を堅固するの能力を有し給ふ者即ち独一睿智の神に「栄光窮りなく|イエスキリストに由りて〔付○圏点〕在らんことを」と。何故キリストに由らなければならぬ乎。是は省いても可い言ではない乎。然らずである。是は必要欠くべからざる言である。神はキリストを以て人に救拯を施し給ふ。人は又キリストに由りて神に還ることが出来る。神の栄光はキリストに由りて現はれ、又キリストに由りて彼の聖許《みもと》に帰る。キリストなくして救拯あるなし、永生あるなし、復活あるなし、勝利と栄冠あるなし。栄光はすべてキリストに由りて、即ち彼を通うして父なる神(108)に在れである。 〔以上、11・10〕
 
    羅馬書大観 (羅馬書研究第六十講として十月廿二日講演)
 
〇羅馬書を大観して第一に気の附く事は其れが|信仰の書〔付◎圏点〕である事である。「神の義は之に顕はれて信仰より信仰に至る。録して義人は信仰に由りて生くと有が如し」とある(一章十七節)。信仰が原因であつて、信仰が手段であつて、又信仰が結果である。信仰に始つて信仰に終る。思索ではない、修養ではない、自から潔うせんとする努力ではない。信仰である。信仰に由て義とせられ、信仰に由て潔められ、信仰に由て贖はる。唯仰ぎ瞻る事に由て救はる。「視よ僕その主の手に目を注ぎ、婢その主母《とじ》の手に目を注ぐが如く、我等は我神ヱホバに目を注ぎて、その我を憐み給はんことを待つ」とある其態度である(詩百廿三篇二節)。此態度に自己を置かずして羅馬書は解らない。羅馬書に臨むに単《たゞ》に哲学者の冷静と芸術家の敏感を以てして、其の特に貴き書なる理由を探る事は出来ない。
〇第二に気の附く事は其の|恩恵の書〔付◎圏点〕である事である。「それ人は皆既に罪を犯したれば神より栄を受くるに足らず、唯キリストイエスの贖に頼りて神の恩恵を受け、功《いさほし》なくて義とせらるゝ也」とあるが如し(三章廿三、廿四節)。救拯は神より出たる者にして、人が製出す事の出来る者でない。「爾、犠牲と礼物を欲《この》まず、唯我が為に休を備へ給へり」とあるが如し(ヒブライ書十章五節)。救拯は神に奉る犠牲と礼物とに対する神の報賞《むくひ》として我に臨むに非ず。神御自身が其無限の愛の故に我が為に備へ給ひし聖子《みこ》の体の故に我に授かるのである。犠牲を捧ぐる者は我に非ずして神である。「キリストは我等の尚ほ罪人たる時我等の為に死たまへり、神は之に由りて其愛(109)を現はし給ふ」とあるが如し(五章八節)。救拯の提供者は神である。人は只信仰を以て之に応ずるまでゞある。|恩恵は愛の自発的行為である〔付○圏点〕。人の恵まれんと欲するのを待つて恵むのは恩恵ではない。恵まるゝの資格なき者の為に福祉《さいはひ》を備ふる事、其事が恩恵である。そして羅馬書が新約聖書の他の部分と共に高調して止まざる所のものは罪人が受くるの資格なき神の此恩恵である。神の此愛を知りてパウロは叫ばざるを得なかつたのである。曰く「或は死、或は生、或は天使、或は執政《つかさ》、或は有能者《ちからあるもの》、或は今在る者、或は後在らん者、或は高き、或は深き、また他の被造物は、我等を我主イエスキリストに依れる神の愛より絶《はな》らすこと能はざるを我は信ず」と(八章卅八、卅九節)。罪を寛大に扱ふの道はあるが、己が一子を棄てまでも罪人の永久の福祉に備へ給ふとの神の愛は、彼れ御自身が無窮である丈けそれ丈け無窮である。我等は神の智慧と能力の限なきに驚くが、我主イエスキリストに由れる神の愛を知るに至りて、唯驚歎、為す所を知らないのである。「かみのめぐみの、はかりなや。あいのふかさぞ、しりがたき」とは我等の口より自から迸る讃美の歌である。(讃美歌五十五)。
〇羅馬書を研究して知る事は基督教の特性である。たしかドクトル、チヤルマースであつたと思ふ、曾て曰ふた事がある「基督教は宗教に非ず」と。其事は斯うである、即ち宗教とは人が神を探る者である。印度教、ギリシヤ教、其他宗教と云ふ宗教はすべで然らざるは無し。パウロの所謂「人をして神を求めしめ、彼等が或は瑞摩《さぐ》り得る事あらん為なり」とある其事である(行伝十七章廿七節)。然るに基督教丈けは其意味に於て宗教でない。基督教は人が神を探る事に非ずして神が人を求め給ふ事である。「我等神を愛するに非ず神我等を愛し我等の罪の為に其子を遣はして宥の供物とせり、是れ即ち愛なり」とのヨハネ第一書四章十節の言は羅馬書五章八節と共に此事を示して誤らないのである。故に基督教は惟り之を宗教と称せずして啓示と云ふのである。基督教は(110)religion ではなくして revelation である。人より求めざるに神より示されたる者である。故に揣摩し、攻究し、思索し、探求すべき者に非ずして、|唯信受すべき者である〔付○圏点〕。既に賜はりし者を感謝して摂取すれば、それで救拯るのである。羅馬書最後の言に「万国の民をして信仰の服従に入らしめんが為」とあるは此事を意《いふ》のである。所謂宗教に対しては研鑽努力が必要であるが、キリストの福音に対しては唯信仰の服従あるのみである。是は迷信でもなければ盲従でもない。福音の性質が然らしむるのである。恰かも夜の暗きを照らす為の蝋燭や電燈の光は之れを研究して改良するの必要があるが、昼の輝きをなす太陽の光は唯之に浴するより外に途がないと同じである。羅馬書は大議論であるが、論理的に人を説服せんとする宗教哲学の類ではない。神が罪人を救はんとし給ふ恩恵の福音の大提唱である。|近代人の所謂比較宗教の立場に立ちて基督教を解せんと欲するが如き者に対して羅馬書は光明を与へんとしない〔付△圏点〕。
〇羅馬書は信仰の書である、又恩恵の書である。宗教の書に非ずして福音の宣伝である。故に如何なる人に取り如何なる場合に於て役に立つ書である乎は一目瞭然である。問題は「人は如何にして神の前に義たらん乎」である。問題の要点は|神〔付◎圏点〕と|義〔付◎圏点〕とである。餓え渇く如く|神の義〔付◎圏点〕を慕ふ者に非れば此書を味ふ事は出来ない。「我が霊魂《たましひ》は渇ける如くに神を慕ふ、活ける神をぞ慕ふ。嗚呼何れの時にか我れ往きて神の聖前《みまへ》に出ん」と言ひて神を慕ひ喘ぐ者に取りて羅馬書は実に福音であるのである(詩四十二篇二節)。此切なる憧憬《あこがれ》なくして人は如何に深遠なる宗教哲学と該博なる言語学の知識を以て之に臨むと雖、彼の得る所は至て僅少である。神の聖前に出んと欲す、然れども我罪は我を遮りて我の彼に近くを許さず、而已ならず我罪は我を罪に定め、神の子たるべく造られし我をして神を目前に眺めながら呪詛の子たらしむ。此苦しき境遇に置かれて我はパウロと共に叫ぶのである「噫我(111)れ困苦《なやめ》る人なる哉。此死の体より我を救はん者は誰ぞや」と(七章廿四節)。そして羅馬書は此困苦より我を救出して過たないのである。哲学上の問題は解らない乎も知らない、社会学上の実際の問題に満足なる解決を与へない乎も知らない。然れども神と和がんと欲する罪人に彼の聖前に出る道を示すに於て、天が下に羅馬書に優さる書とては他にないのである。ジヨン・バンヤンが曾て羅馬書の姉妹篇なる加拉太書に就て言ふた事がある「是は傷める良心を癒す点に於て惟一の書である」と。そして此言は移して以て之を羅馬書に適用する事が出来る。羅馬書は罪の痛手に困苦《なやみ》て聖父の聖前に出づる能はざる者に取りて惟一の書である。そして此書成りて以来、幾人の人が之に由て其傷める良心を癒されたる乎、只天の父のみ能く其数を知り給ふ。実に夥多き数であらう。
〇然し今の人は言ふであらう、我等に斯かる困苦なし。我等に生活の困苦あり、恋愛の困苦あり、人生問題解決の困苦あり、然れども傷める良心と云ふが如き、活ける神をぞ慕ふと云ふが如き、死の体を如何せんと云ふが如き困苦はない。故に羅馬書を読み、其講義を開かされて、著者の熱心誠実には多少動されざるに非ずと雖も、ルーテルやウエスレーが之を読みて起しと云ふが如き熱信は我等には起らない。然らば我等は其研究の座に列なりて何の益をも受けざりし乎と。誠に近代人に欠けたる者にして神を慕ふ愛と罪に苦しむ困苦の如きはない。故に今の人は昔の人の如くに抑へ難き熱心を以て羅馬書又は加拉太書を研究しないのである。然りと雖も近代人と雖も亦人である。そして人である以上、何時か何処《どこか》で良心の苦悶と云ふが如きものを実験するであらう。或は事業に失敗し、名誉を剥《はが》れて、今世に何の頼るものなきに至つた場合か、或は死の間際か、或は今世に於ては神と和らぐの何の必要をも感ぜざるも、来世に於て身に在りて為せし事を悉く審判るゝ時に於て、眠れる良心は急に覚めて、己が不潔に堪へ得ざる時がないとも限らない。然り、人が人たる以上、斯かる覚醒は必ず一度は在ると(112)信ずる。そして斯かる時に羅馬書は何人にも役に立つのである。然り非常の役に立つのである。其時には博士の称号も、鉅万の富も、此世の凡ての知識も何の役にも立たずして、旧いパウロの書いた旧い羅馬書が我が救拯の頼となるのである。其時三章廿三−廿八節が我が千世経し磐となりて我を囲み、我をして※[火+毀]尽す審判の火より免かることを得しむるのである。其時此所に一年と六ケ月に渉りて羅馬書を研究した事の実益が現はるゝであらう。諺に曰ふ「最期の三分間に備ふる為に全生涯を用いるの価値《ねうち》がある」と。其如く最後の審判の日に備ふる為に全力を尽して羅馬を学んで置くの価値がある。
  人は皆罪を犯したれば神より栄光を受るに足らず。只キリストイエスの贖に由りて神の恩恵を受け、功なくして義とせらるゝ也。即ち神は忍びて已往《すぎこしかた》の罪を見遁し給ひしが、今己が義を顕さんとて、イエスを立て、その血に由りて信ずる者の宥の供物となし給へり。是れ自から義たらん為、又イエスを信ずる者を義とし給はん為なり。然らば誇る所安に在るや。在ることなし。何の法に由る乎。行の法か。然らず。信仰の法なり。故に我れ思ふに人の義とせらるゝは信仰に由る、律法の行に由らずと。 〔以上、12・10〕
 
(113)     随時雑感
                         大正11年1月10日
                         『聖書之研究』258号
                         署名 主筆
 
    日本人の宗教熟
 
 日本人は今や宗教の必要を認める、彼等は宗教なくして国家は立たず、家庭は斉はず、身は修まらざるを知るに至つた、然れども彼等は自から宗教伝播の任に当らんと欲しない、彼等自身は政治、経済、工業、科学、文芸等有利的事業に就き、宗教は|或る他の人〔付△圏点〕をして之を説かしめんと欲する、彼等は自身宗教伝播の犠牲を払ふには余りに怜悧である、彼等は「余は到底他を教ふるの任に堪へず」と言ひて謙遜するも、実は其任に当るの勇気なく、之を担ふの誠実なく、之を果すの確信がないのである、日本人は日本国の教化は之を外国人に委ねて顧みず、自身は経済的に安全にして、名誉を博するに易き位地に居る、実に賤しむべきは日本の知識階級である、日本国に千五百人の博士は有るが其一人だも伝道の責任に当らんとしない、其他無数の学士に至ては何れも自己中心の小人である、彼等は何れも腐儒の類である、自身は十字架を担ふの苦難を避けて、裕《ゆたか》に宗教の利益に与からんと欲する者である。(十月二十六日記)
 
(114)    平和会議と其の効果
 
 人類最初の平和会議はバベルに於て開かれた、而して其結果は所謂バベルの混乱であつた、彼等はシナルの野に巨大の平和塔を築いて諸民諸族の平和一致を計らんと欲して其|企図《くわだて》を全然失敗に終つた。
 人類最後の平和会議は仏国巴里に於て開かれた、而して其の結果はバベルの混乱以上の全世界の混乱である、之に臨みし大統領ウヰルソンの十四ケ条なるものは※[其/月]年ならずして人の忘るゝ所となり、今やヨリ大なる混乱を未発に防がんが為に華盛頓会議を開くの必要が起つた、巴里会議も亦バベル会議同様、其目的とする所は全然失敗に終つたのである。
 巴里会議の前に二回に渉りヘーグ平和会議が開かれた、カーネギーは之に平和宮を寄附して世界の争論はすべて其内に判決せらるべく期待せられた、然るに文明国全体の期待は裏切られて世界大戦争は平和会議の未だ終了せざる間に突発した、ヘーグの平和宮は今や第二のバベルの塔として二十世紀文明の虚偽なるを表明しつゝある。
 而して今や最後の平和会議は米国華盛頓に於て開かれんとしつゝある、其結果如何?、バベル会議以来すべての平和会議が失敗に終りしやうに、此会議も亦失敗に終る虞なきや、甚だ心細き次第である、平和は願はしくある、平和を願はざる者とては一人もない、然るに平和は得られずして平和会議が常に失敗に終る其理由は知るに難くないのである、平和を他人又は他国に待つが故に平和が得られないのである、戦争は最大の悪事である、故に他国の戦争を廃するを待たずして自から進んで之を廃すべきである、自から剣を鞘に収めずして他に兵器の放棄を要求するも効果なきは明白である、戦争は相談の結果廃する能はず、先づ自から独り之を廃すべきである、(115)然れども是れ肉の人と国との為し得る所に非ず、霊の人と国とのみ為すことの出来る事である、畢竟するに平和は政治家又は外交官の会議に由ては来らない、熱烈なる預言者の説教に伴ふ聖霊の降臨に由てのみ来る。(十一月五日記)
 
    自己修養に就て
 
 自己修養《セルフカルチユア》は甚だ大切である、我等は之を怠つてはならない、自己も亦神の賜物であれば、我等はすべての機会を利用し、之を磨き、其発達を計らねばならぬ、然し乍ら忘れてはならぬ事は自己は自己の所有でない事である 自己も亦神の賜物であつて、其所有権は神に属する、かるが故に自己の為にする自己修養は必ず失敗に終る、自己修養最後の到着点は自己より解脱し自己以外の或者の為に生くる事である、近代人の模範たる詩人ゲーテは自己修養の為に其の悲しき一生を終つた、彼の表白に由れば、彼は一生の間に三週間以上の幸福なる日を持たなかつたと云ふ、詩人ミルトンは遥かにゲーテ以上であつた、彼れ自己修養の為に伊太利に遊ぶや、遊学半ばにして故国に内乱の起るを聞き、奮然学を棄て国に帰り、自由と信仰の為めに戦つた、ミルトンに取りては国は自己よりも貴くあつた、義務は学問よりも重くあつた、彼は国と同胞と信仰と自由との為めには詩と文と哲学と学科とを棄つる事を少しも惜まなかつた、ミルトンが学識に於てはゲーテの如くに博からざりしも、其精神と人格とに於て遥かに優りたる理由は茲に在る、二者同じく自己修養を貴びしも、独逸人なるゲーテは自己の為にする自己修養を遂げ英国人なるミルトンは神と国との為にする自己修養を試みた、独逸文学が全体に人を自己中心主義に誘ひ、英文学が奉公主義に導く理由の一端を茲に見る事が出来ると思ふ。(十一月九日記)
 
(116)     JOHN THREE THIRTY SIX.約翰伝三章三十六節
                         大正11年2月10日
                         『聖書之研究』259号
                         署名なし
 
     JOHN THREE THIRTY SIX.
 
 “He that believeth on the Son has eternal life.”He:an indefinite“be,”any son of Adam,a publican or a sinner,any one.Believeth:accepts Him on His words,as the believer's substitute before God.The Son:the only begotten Son of the Father's love,the Lord Jesus Christ.Hath:possess;has in entire and complete possession;and that now(the present tense),just now,without waiting for the glorious future,in the daily continuous experience of the believing life.Eternal life:supersensuous, supernatural,never-dying,death-conquering life.Very simple,very deep and very true.That any one,by simply believing on the Crucified Son of God,Can have in entire possession, now in this life,a life that is life indeed,even the life of God,――oh,howgloriously and thankfully true,as Proved by the unerring experience of multihdes of believers called from among all the nations of the world!
 
(117)     約翰伝三章三十六節
 
 曰く「子を信ずる者は永遠の生命を有す」と。原文の順序に由て之を直訳すれば下の如くになる、「者は 信ずる 子を 有す 生命を 永遠の」と。「者は」 不定代名詞である、何人でも、アダムの裔たる者は何人たるを問はず、税吏《みつぎとり》でも罪ある人でも、誰でも。「信ずる」 聖子《みこ》の聖語其儘を信じ、神の御前に供へられし信者の身代りとして彼を受け奉る者は。「子」 聖父の生み給へる愛の独子、我等の主イエスキリスト。「有す」 保有す、完全に充分に保有す、而して今之を保有す、栄光の未来を待たずして、今、今日、信仰の生涯の日々の連続的実験として保有す、動詞の現在なるに注意せよ。「永遠の生命」 超感覚的にして超自然的なる、永久に死なざる、死に打勝つ所の生命を保有す。実に簡短にして深遠なる真理である、誰でも、十字架に釘けられ給ひし神の子を唯信ずるに由て、今此生涯に於て、生命らしき生命、即ち神に在る生命を完全に保有する事が出来ると云ふのである、嗚呼何んと祝ふべき有難い真理ではない乎、而かも全世界の諸《すべて》の国民の中より召かれし夥多《あまた》の信者に由て誤りなき人生の実験として証明されし真理である。
 
(118)     〔信仰の能力 他〕
                         大正11年2月10日
                         『聖書之研究』259号
                         署名なし
 
    信仰の能力
 
 人の救はるゝは信仰に因る行為に因らずと云ふ、誠に有難い事である、感情に因らず、論定に因らず、所謂救はれたりと云ふ実験に因らず、唯信仰に因る、神を信じ、彼の愛と憐愍を信じ、彼は不義者を義とし給ふ事を信じ、死者を復活らし給ふ事を信ず、信ずるのである、然り信ずるのである、さう感ずるから信ずるのでもなければ、さう判つたから信ずるのでもない、|唯信ずるのである、信じて信ずるのである〔付○圏点〕、感覚に反し、理論に反し、信じ難き事を信じて信ずるのである、是が信仰である、本当の信仰である、神が信ぜよと命じ給ふが故に信ずるのである、信ずるに最も困難なる事は神が罪を赦し不義者を義とし給ふと云ふ事である、神が宇宙を覆へし給ふと云ふ事は信ずる事が出来るが、彼が罪人なる我が罪を赦し義者として我を受納れ給ふと云ふ事は信ずる事が出来ない、然かも彼は斯く信ぜよと我に命じ給ふ、而して我は大胆に臆面なく斯く信ずるのである、而して神は此大胆なる信仰の故に我を救ひ給ふとの事である。而して此事を信じ得て他に信じ得ざる事は何もなきに至るのである、|神は不義なる我を義とし給ふ〔付○圏点〕と、然らば死者の復活も可能である、万物の復興、宇宙の改造も可能である、(119)然れど是れ信ぜずしては判らない事である、哲学も倫理も此事を我に首肯せしむる事は出来ない、唯神を信ずる信仰のみ之を信受せしむる事が出来る、故に我は信ずるであらう、我は我が感情に訴へぬであらう、我は我が推理に頼らぬであらう、我は唯神と其言を信ずるであらう、然り我は己に省みないであらう、己れに省みて人は何人も救はるべき何の理由をも発見する事が出来ない、ロトの妻が背後《うしろ》を振向きて滅びしやうに人は己に省みて死ぬのである、キリストと其十字架を仰瞻るのである、彼の流し給へる血に由て我を救ひ給ふと云ふ神の聖言を信ずるのである、其時に我に希望と勇気が起り、実貿的にも潔くなりし事を覚ゆるのである、信仰である、然り信仰である、信仰なくば神を悦ばす事能はずである。(希伯来書十一章六節)
 
    信仰の告白
 
 余の義とせらるゝは信仰に因る、潔めらるゝは信仰に因る、最後に救はるゝは信仰に因る、余は義とせられて信ずるのではない、潔められて信ずるのではない、救はれて信ずるのではない、凡ての場合に於て信仰は前にして恩恵は後である、信仰に因て義とせられ、潔められ、救はるゝのである、先づ義人となり先づ聖者となり先づ天国の民となりて信ずるのでない、神の御約束を信じ、不義の身此儘を以て、不浄の心此儘を以て、たゞ信ずるに由て救はるゝのである。
 
(120)     聖潔と聖別と聖化
                        大正11年2月10日
                        『聖書之研究』259号
                        署名 内村鑑三
 
〇聖潔《きよめ》は其の根本の意味に於て聖別である、此の世より別たれて神の聖き御用に供せらるゝ事である、此事を確然《はつきり》と心に留めずして聖書が教ふる聖潔の意味が判らない、「きよめ」は先づ潔められて、即ち諸の汚穢を洗はれ、完全き者となりて神の有となる事ではない、先づ神の属と認められて、其必然の結果として神の聖意の儘に潔き者と成る事である、此順序たる小事たるやうに見えて実は大事である、聖潔を聖別と見ずして実際に潔めらるゝ事もないのである。
〇神は先づ第一に我等を召し給ふ、而して我等は大胆に罪の身此まゝにて彼の御許へと行くのである、我等は其時身の汚穢の故に躊躇しないのである、我等は只言ふのである「貴神《あなた》が召き給ふが故に其御召きに応じて行きます」と、|是が聖別第一歩であつて、信仰的にも道徳的にも革命的一歩である〔付○圏点〕、此決心を敢行せし時に我は既に潔められたりと言ひて差支ないのである、勿論自己に顧みて多くの汚穢を見ざるに非ず、然れども此場合に紳は我等に自己を顧みる事を要求し給はないのである、神は繰返し繰返し高調して宣べ給ふのである「我を見よ、我を見よ」と、而して我等神を仰ぎ瞻る丈けにて即ち神を見詰める丈けにて、彼の属として受けられ神の子として取扱はるゝのである、其時我等は自己に顧みて罪が存《のこ》るや否やを知るの必要は少しもないのである、神の奉仕に入(121)つたのである(現代人の所謂社会奉仕ではない)、而してそれ丈けで聖別せられ即ち潔められたのである。
〇たゞ仰瞻る事に由て受けらるゝと云ふ、それには深き理由があるのである、神は罪を見逃し給ふ神でない、彼は何物よりも罪を憎み給ふ、故に彼は其独子を罪の肉の状《かたち》となして罪のために遣はし其肉に於て罪を罰し給ふたのである(羅馬書八章三節)、而して神は我等に此聖子を仰瞻るべく命じ給ふのである、神は己が義を彼(聖子)に於て現はし給ひ、聖子を仰ぐ者を子として受納れ給ふのである、故に神の側に在りて罪人を子として受納れ給ひたればとて少しも不義はないのである、神は世の罪は既に其聖子の肉体に於て罰し給ふたのである、而して人は何人も聖子キリストが其身に受け給ひし患苦を自分が当然受くべき刑罰と信じ、其信仰を以て神に近づけば、神は喜んで其信仰丈けで罪なき者として我等を受けて下さるのである。
〇実は是れ丈けにて聖潔も救拯も完成されたのである、信者は如何ほど潔められてもキリスト以上に潔められる事は出来ない、イエスは立てられて我等の義また聖また贖となり給へりである(コリント前書一章三十節)、我等の最終の審判に於て神の前に立つ時にイエスが我が為に我に代りて成就げ給ひし以上の聖潔を差出す事が出来ない、イエスの義即ち我が義である、今日さうである、明日さうである、永遠の将来に於てさうである、其意味に於て信者の義と聖とに上下優劣の差別はない、今日信者になつた許りの人の聖も、使徒ヨハネやパウロの聖も其間に何の差別はないのである、信者は総て尽くイエスの義と聖とを以て神の前に立つのである、此意味に於て信者はイエスを仰ぎ瞻し其瞬間に完全の聖徒となつたのである。
〇然し乍ら聖徒として認めらるゝと聖徒と成る事(聖徒となして戴く事)との間に確然たる差別がある、而して聖徒として神に認められて、其必然的結果として聖徒と成らざるを得ないのである、第一に我等はイエスを仰ぎ瞻(122)て終に其同じ像に化るのである(コリント後書三章十八節)、第二に我等イエスを仰ぎ瞻る時に神は其聖霊を我等に遣《おく》り給ふて直に聖化を始め給ふのである(ガラタヤ書三章二節参考)、斯くて我等の代人と成りて神に罰せられ給ひしイエスを仰ぎ瞻て自づから彼の像に化せらるゝのである、即ち先づ聖別せられて神の奉仕に入つて、然る後に聖徒に相応はしき者と成るのである。
〇是故に注意すべきは聖別と聖潔との前後の差別を弁へる事である、聖別は原因であつて、聖潔は結果である、先づ信じて救はるのである、救はれて信ずるのではない、信仰は信者の常時的《つねの》態度である、彼は不信者に傚つて内省に耽つてはならない、我が聖潔の程度如何と己に省みる其時に彼の聖化は止まるのである、仰ぐのである、上を仰ぎ瞻るのである、潔められつゝある乎否やに就て苦慮する事なく唯ひたすらに仰ぎ瞻るのである、さうすれば自づと潔まるのである。
〇内省、是は信仰の禁物である、内を看るのではない、上を瞻るのである、さうすれば知らず識らずの間に潔まるのである、|信仰を離れて高き品性の人と成らんと欲するのが現代人の陥りし最大の誤謬である〔付△圏点〕、是太陽には牽かれずして回転せんとする地球と同じである、又信仰を等閑《なほざり》にして聖霊の恩賜に与らんとするのが多くのバイプル信者の陥ゐる誤謬《あやまり》である、聖霊は信仰の賞報《むくい》として賜はる者である、信仰の冷えし時に聖霊降臨は止まるのである、基督教は信仰本位の宗教である。
 
(123)     強くなるの道
       新年の標語の説明として一月一日今井館に於て為せる講演の大意
                        大正11年2月10日
                        『聖書之研究』259号
                        署名 内村鑑三 述
 
  わが子よ汝キリストイエスにある恩《めぐみ》に堅固くなるべし(テモテ後書二章一節)
 
 これパウロが晩年に於て其弟子テモテに言ひおくりし語である、茲に注意すべきは「堅固くなるべし」の一語である、今以弗所書六章十節を見るに「我兄弟よ主及びその大なる力に頼りて剛健《つよ》くなるべし」とある、その「剛健くなるべし」は「堅固くなるべし」と同一の原語を用ひて居る、故に英訳聖書には共に be strong(強かれ)と訳してある。されば「堅固くなるべし」は「剛健くなるべし」と改める方比較的原意に近いのである。
 「汝キリストイエスにある恩に剛健くなるべし」と云ひ、「主及びその大なる力に頼りて剛健くなるべし」と云ふ、剛健くなるは固より必要なる事であり又我等の願である、エマソンは「青年よ強かれ」と叫んで多くの若き人を激励した、基督者の願は強くなることである、しかし強くなり得ざるが其歎きである、朝に心を堅くして夕に挫け、咋は決心を新たにせしも今は忽ち弛むが常である、強くあらんとして強く成り得ず、強くならんとの凡ての努力も唯いたましき失敗を持ち来すのみである、日々十字架を負ひて勇ましく主の跡を追ひ、此世のあら(124)ゆる誘惑を岩が矢を跳ね返す如く跳ね返さんとの決心を幾度立て直すも、依然として誘ひに負くる弱き己を見出すのみである、あゝ弱きかな我よ! 強くならんと願ひて強くなり得ざる此失敗、此苦痛、これを毎日、毎月、毎年繰返して遂に墓に至るのであるか。
 今原語聖書に於て右の二の節を見るとき「剛健くなるべし」といふ働詞が文法上受働(passive voice)である事を見出すのである、故に共に「剛健くせらるべし」と訳して初めて原意を正確に表し得るのである、以弗所書に於てパウロの言ふところは「主及びその大なる力に頼りて剛健くせらるべし」である、自己の力に於て剛健くなれではない、主の大なる力に頼りて剛健くせらるべし(強くせられよ)である、自力にては到底強くなり得ない、故に主の大なる力に頼りて強くして頂くのである、我には力が欠乏してゐる、我は到底己を強くなし得ない、故に自ら自己を強くするといふ空しき企てをやめて他より強くせらるゝ道を取るのである、そして基督者の頼るものはキリストと其大なる力である、この力を我に分ちて貰ふのである、この力の一部分を分与して頂くのである、そして強くして頂くのである、他に基督者の強くなる道は何処にもない、故に言ふ「主及びその大なる力に頼りて剛健くせらるべし」と、これ基督者の強くせらるゝ道である、又基督者の事実として味へる所である。
 併しながら此の以弗所書よりも尚ほ数年後に於て認められた提摩太後書の語は少しく意味を異にしてゐるのである、「剛健くせらるべし」と云ひて、自力を以て強くならんとせずして他より強くせらるゝと云ふ点は同一であるが、彼が「主及びその大なる力に頼りて」とあるに対して是は「キリストイエスにある恩に(よりて)」とある点が違つてゐる、主の大なる力によりて強くせらるゝは固より信仰上の事実であり、又もとより良き事である、併しながら我等の注意すべきは、以弗所書を認めたる当時のパウロと提摩太後書を認めたる当時のパウロとの間(125)の信仰である、提摩太後書はパウロの最後の作でないとするも、少くとも最後の作の一である、彼れはや御国に召さるゝ時近づきて、此世に於ける戦は勝利を以て終り、今や只管主よりの召しを待ちつゝあつたのである、「われ既に善き戦を戦ひ、既に馳《はし》るべき途程《みちのり》を尽し、すでに信仰の道を守れり、今より後ち義の冠我が為に備へあり、主即ち正しき審判をなす者其日に至りて之を我に与ふ」と彼は同じ捉摩太後書に於て言ふてゐる、偉大なる円熟、之は慥かに当時の彼の所有物であつた。
 故に「主及びその大なる力によりて剛健くせらるべし」よりは「キリストイエスにある恩恵によりて剛健くせらるべし」の方が信仰として慥に進歩し、且熟してゐるのである、たゞ力を受けて強くなり度しと願ふのではない、|充分に霊魂の上に恩恵を受けて〔付○圏点〕その結果として自から強くせらるゝと云ふが理想の状態である、まことに義とせられ、潔めらるゝの恩恵に接し、それに伴ふ歓喜と平康とが心に充ち、それに対する感謝が裕に心に漲るときは願はずして力は加へられるのである、然るに世の多くの基督者は此事を知らずして唯力力と云ひて哀求し、只強くなり度しなり度しと焦慮してゐる、そして強く成り得ずとの悲歎にくれてゐる、かくては哀求と焦慮と悲歎の中に一生を送るほかないのである、これ源泉を掘らずして徒らに霊の宝水を求むる類である、|まづ恩恵の裕なるに接せよ、まづ神の恩恵の大海に己を投げ入れよ、そして自から強くせらるゝの喜びに入れよ〔付○圏点〕、是が強くなる最上の道である。
 
(126)     信仰と寛容
                           大正11年3月1日
                           『霊交』6号
                           署名 内村鑑三
 
 人に信仰がなくてはなりません、信仰は彼の生命であります、是は死を以て守るべき者であります、彼に取りては絶対的真理であります、彼は何を譲つても信仰丈けは譲る事は出来ません。
 人に信仰と共に寛容がなくてはなりません、寛容は他の信仰を容すの心であります、他に臨むに自分の信仰を以てし、「貴方は私が信ずるが如くに信じなければならない」と言はない事であります、他の信仰を尊敬してのみ自分の信仰を固く守る事が出来ます、寛容は「己れ他に施《せら》れんとする事は亦他にも其如く施よ」とのキリストの訓誡を信仰の事に於て行ふ事であります。
 寛容は無頓着ではありません、我が信仰と異なる信仰の美点を認むる事であります、「汝等すべての事をして己が寛容なる事を知らしめよ」と言ひしパウロは言ひました、「兄弟よ終りに我れ是を言はん、凡そ真実なる事、凡そ敬ふべき事、凡そ公義《ただし》き事、凡そ清潔《いさぎよ》き事、凡そ愛すべき事、凡そ善き称《ほまれ》ある事、凡そ何なる徳、何なる誉にても汝等之を思ふべし」と(ピリピ書四章)、仏教でも、天主教でも、ユニテリヤン教でも、其中に善き事があれば之を認め、之を敬ひ、之を尊むべしとの事であります、此心は決して世に所謂「大風呂敷」ではありません、真理を愛し、我が信仰を楽しむより出づる美徳であります、愛は斯の如くにして働く者であります、寛容に欠け(127)たる人の信仰は如何に善き信仰であつても之に耳を傾ける必要はありません。
 自分の信仰を以て他に迫り、「貴方は斯く信じなけれぼならぬ」とか、「斯く信ずべき筈である」とか云ふが如きはイエス様の心を知らない心であると思ひます、信者はすべて自分の信仰を固く守り、他の信仰を尊敬し、世が自分の信仰を受くるまで謙遜して、忍耐して待つべきであります。
 
(128)     PERFECTION AND HUMILITY.完全と謙遜
                         大正11年3月10日
                         『聖書之研究』260号
                         署名なし
 
     PERFECTION AND HUMILITY.
 
 Perfection is the greatest possible attainment of life.But perfection has its dangers.Perfection may begets in us pride and self-satisfaction.Imperfection rightly used begets in us the Christian grace of humility.Because imperfect,we abase ourselves and take our refuge in the Cross of Christ.It must be for this reason that perfection is attained so very slowly in our actual experiemces.God said unto children of Israel through Moses:“I will not drive them(the Hivite,the Canaanite,and the hittite)out from before thee in one year, lest the land become desolate,and the beasts of the field multiply against thee.By little and little,I will drive them out from before thee,until thou be increased,and inherit the land,”Exodus xxiii.29,30.By little and little the Merciful Father will drive imperfections out from within our hearts,lest by becoming perfect too suddenly,worse imperfections may multiply against us than the imperfections of flesh and mind,and desolation relgnin domain of spirit. So then, in matter of perfection, as in every thing else,may His will bedone, and not ours.
 
(129)     完全と謙遜
 
 完全は人生最大の得物である、然し乍ら完全に危険が伴ふ、完全は吾人の心に高慢と自足を起すの虞がある、之に反して不完全は之を正当に使用すれば吾人の心に謙遜の基督教的美徳を生むの益がある、不完全なるが故に吾人は自己を卑下してキリストの十字架を吾人の避所《さけどころ》とする、吾人実際の生活に於て吾人が完全に達すること甚だ遅きは之が為めでなくてはならない、神はモーセを以てイスラエルの民に告げて曰ひ給ふた、
  我れ彼等(ヒビ人、カナン人及びヘテ人)を一年の中には汝の前より逐攘はじ、恐くは土地荒れ、野の獣増して汝を害せん、我れ漸々《だん/\》に彼等を汝の前より逐攘はん、汝は終に増して其地を獲るに至らん。
と(〔出埃及記廿三章 廿九、卅節)、「漸々」に恩恵に富み給ふ父は吾人の心の中より不完全を逐攘ひ給ふであらう、然らざれば余りに急劇に完全になる事に由て、肉と心の不完全よりもヨリ悪しき不完全が増し加はりて、荒廃が霊の領分を掩ふに至るであらう、然れば完全の事に於ても、他のすべての事に於けるが如くに、我が欲求《ねがひ》に非ず、聖旨をして成らしめ給へである。
 
(130)     現代日本人の宗教熱
                         大正11年3月10日
                         『聖書之研究』260号
                         署名なし
 
○日本国に宗教の必要なし、殊に基督教の必要なしと唱へ来つた日本人は、今や頻りに宗教を要求して止まず、宗教研究は今や日本人の流行となり、何人も宗教を語り、何人も宗教を漁るに至つた、之を三十年前の状態に比べ見て隔世の感なき能はずである、変り易きは人間であるが、|殊に変り易きは日本人である〔付△圏点〕、日本人の間に在りては、三十年を経過すれば国賊も愛国者となれば、逆臣も忠臣となる。
〇日本人は今や頻りに宗教を要求する、然し乍ら彼等が宗教を要求するは美術愛玩者《ヂレタント》が美術を要求すると同様である、彼等は宗教の真味を嘗ふには余りに浅薄である、彼等は悔改めて狭き門より天国に入らんとしない、唯自分は宗教の外に立ち、之を批評し之を愛玩し遥に之を望んで其美容に憧憬んとする、現代日本人の宗教熱なる者は之れ以上に達しないのである、故に宗教熱は幾干《いくら》昂《たかま》つても実際道徳は少しも高まらないのである、社会は依然として故《もと》の社会である、国民は依然として旧の国民である、西洋諸国に於て見るやうなリバイバル運動は日本に於ては起らないのである、夫は其筈である、|日本人の宗教熱は宗教道楽であつて宗教欲求でないからである〔付△圏点〕、樹は其果を以て知らるである、文学の一種として玩弄ばるゝ現代日本人の宗教が一人のムーデー又はスポルジオンを生まないのは当然である、西洋諸国に於ては信仰復興の結果として馬や犬の性質までが改まると聞いたが、日(131)本に於ける宗教流行の結果として何等の道徳的改革の起つた事を聞かない、是れ現時の宗教熱の浮虚軽薄、取るに足りない者である何よりも確かなる証拠である。
〇真個の宗教の特徴は強き罪念を喚起し、衷心の悔改を促すにある、自己の罪人たるを覚らしめざる宗教は偽はりの宗教である、「噫我れ悩める人なる哉、此罪の体より我を救はん者は誰ぞや」との叫びを起す宗教のみが真個の宗教である、宗教は思想問題に非ず、哲学問題に非ず、社会問題に非ず、正義問題であつて、先づ第一に自分の問題である、|自分を確実に罪より救つて呉れる宗教〔付○圏点〕、其れが真個の宗教である、故に真個の宗教は悟るに苦しい者であつて、読んで楽しい者でない、二十世紀の今日と雖も、天国に入るの途は唯十字架あるのみである。
 
(132)     死ぬるは益
                         大正11年3月10日
                         『聖書之研究』260号
                         署名なし
 
 腓立比書一章二十節を原文の儘に訳すれば下の如くになる、「我が生けるはキリスト、死ぬるは益なり」と、生けるはキリストの肢体として世の罪の為に苦しむ事、我身を以て彼の患難の欠けたる所を補ふ事である(哥羅西書一章廿四節)、即ち我が生けるはキリストと偕に十字架に釘けらるゝ事、即ち贖罪のキリストの一部分たる事である、故に死ぬるは益である、得である、死して初めて平安に入ると云ふのが此一節の意味であると思ふ、「我が生けるはキリスト」、小なるキリストとして此罪の世に立つ事、キリストに臨みしすべての患難を此身に受くる事、名誉である、然し楽しき事ではない、故に死ぬるは得である、然し自から死を急がない、意味の深い言葉である。
 
(133)     『約百記講演』
                         大正11年3月20日
                         単行本
                         署名 内村鑑三 著
 
〔画像略〕初版表紙188×128mm
 
(134)第一講 約百記は如何なる書である乎
第二講 ヨブの平生と彼に臨みし患難
第三講 ヨブの真実
第四講 老友エリパズ先づ語る
第五講 ヨブ再び口を啓く
第六講 神学者ビルダデ語る
第七講 ヨブ仲保者を要求す
第八講 ヨブ愛の神に訴ふ
第九講 神智の探索
第十講 再生の欲求
第十一講 エリパズ再び語る
第十二講 ヨブ答ふ(上) 終に仲保者を見る
第十三講 ヨブ答ふ(下) 遂に仲保者を見る
第十四講 ビルダデ再び語る
第十五講 ヨブ終に贖主を認む
第十六講 ゾパル再び語る
第十七講 ヨブの見神(一)
第十八講 ヨブの見神(二)
第十九講 ヨブの見神(三)
第二十講 ヨブの見神(四)
第二十一講 ヨブの終末
 
(135)     責任観念
                           大正11年4月1日
                           『霊交』7号
                           署名 内村鑑三
 
〇大抵の人は責任を嫌ひます、彼等は成るべく責任を避け、自分を気楽の地位に置かんと努めます、責任とは厭な者、自由と発達を妨げ、身体の健康を害する者であると思ひ、成るべく之を遅け、又避け難き場合には成るべく其の軽からん事を欲します、殊に信仰上の責任は人の最も嫌ふ者でありまして、自から進んで伝道の任に当り、悩める霊魂に永遠の平安を与へんと欲する事の如きは、近代人の最も忌嫌ふ所でありまして彼等は如何なる仕事に従事しても、報酬少くして(時には皆無にして)責任の無限なる伝道は絶対的に御免を蒙らんと言ひます。
〇乍併責任は悪い事ではありません、責任の人に於けるは底荷の船に於けるが如くであります、底荷なくして船は風波に揺れて落着ざるやうに、人も責任なくして重味がありません、責任は人を真面目にします、大人らしくします、神と人とに対し敬虔《つゝしみ》の態度を取らしめます、責任は決して苦痛でありません、人生の真の幸福は責任を担はずして之を楽む事は出来ません、責任に当らずして自分の衷に在る能力の程度を知る事が出来ません、自分は如何程強い者である乎は、責任を負はされて始めて知るのであります。|殊に責任は健康を害する者でありません〔付△圏点〕、喜んで責任に当る時に心に勇気が生じます様に、新たに身体に生気が加はりて一種言ひ難き快感を覚えます、常に病弱に苦しむ者は責任を恐れて気儘勝手の生涯を送る者であります、|殊に伝道上の責任は感謝して当る(136)べきであります〔付○圏点〕、永遠の福音を委ねられて初めて自分に永遠の生命の臨みしを感じます、此責任に当らずして福音の真個の価値《ねうち》は解りません、如斯くにして人生実は責任程貴き者はありません。責任を避くるは愚の極であります、偉人とは別人でありません、喜んで重き責任を担ふた者であります、我等感謝して責任に当つて他を益すると同時に自身の最大幸福を計るべきであります。
 
(137)     SELF-CONSCIOUSNESS.自己意識に就て
                         大正11年4月10日
                         『聖書之研究』261号
                         署名なし
 
     SELF-CONSCIOUSNESS.
 
 What is more criminal than self-consciousness? It is just the opposite of God-consciousness.Man forgets himself when he is full of God.“All things work together for good to them that love God.”Rom.viii.28.All things,i.e.God,Nature,and himself even,work together for good to him who loves God and forgets himself;and al lthings work for evil to him who loves himself and is conscious of himself,and plans and plots and schemes for himself,and meddles with the designs and workings of the beneficient Father of the Universe.Child-spirit is true and beautiful just because itis self-forgetful.The sickliness of modern civilization is shown nowhere more prominently than in its tremendous self-consciousness.
                                             自己意識に就て
 
 自己意識と云へば如何にも善き者である乎のやうに思はれて居る、然し乍ら実は自己意識ほど悪しき者はない(138)のである、人が神に叛きて罪を犯した時に、彼に自己意識が起つたのである、アダムとエバは罪を犯して初めて自己の裸なるを意識した、如斯くにして自己意識は恰度神意識の反対である、人は心の中に神を以て充たさるゝ時に自己を忘れるのである、「凡の事は神を愛する者の為に悉く働きて益を為す」と云ふ(羅馬書八章廿八節)、実に神も天然も、然り自己其物さへも、神を愛して自己を忘れる者には悉く働きて益を為し、之に反して、自己を愛し、自己を意識し、自己の為に計劃し、劃策し、工夫し、恩恵に富める万有の造主にして其父なる神の聖意と聖業《みしごと》とに干渉する者には万事万物は悉く働きて害を為すのである、小児の心が天真であり善美であると云ふ其理由は茲に在るのである、即ち小児に自己意識なく、彼は自己あるを忘れて居るからである、近代文明の如何に病的なる乎は、何処を見ずとも、其の著るしく発達したる自己意識を見れば一目瞭然である。
 
(139)     〔忿恚の時 他〕
                         大正11年4月10日
                         『聖書之研究』261号
                         署名なし
 
    忿恚《いきどほり》の時
 
 今や世は非常の速度を以て変りつゝある、人類は今や最大最後の革命に取掛りつゝあるやうに見える、世の識者と称する者が神の存在と基督教の真理に就て疑を懐きしは遠き過去の事に属し、彼等は今や道徳の基礎にすら信頼せざるに至つた、彼等は問題を設けて言ふ「何故に殺しては悪い乎」、「何故に姦婬しては悪い乎」、「何故に詐偽りては悪い乎」と、斯くて今や世にカントの所謂「無上命法」は其跡を絶たんとしつゝある、今や真理は成功に由て証明せられ、而して成功とは最も容易に最も多くの快楽を獲るを云ふ、神の声と云ふが如き、良心の命令と云ふが如きは真面目に考へられざるに至つた、斯くて今や宗教のみならず道徳を説くさへ無益である、此は実に堕落の絶下である、預言者イザヤが言へる如く「禍ひなる哉、彼等は悪を称《よび》て善とし、善を称て悪とし、暗《くらき》をもて光とし、光をもて暗とする者なり」である(以賽亜書五章廿節)、道徳其物が嘲けられて正義は其立場を失はんとしつゝある、茲に於てか神が再びシナイの巓より轟き給ふ必要が迫つたのである、「汝殺す勿れ」、「汝姦婬する|勿れ〔付△圏点〕」、「汝隣人を貪る|勿れ〔付△圏点〕」と、説明ではない、思索ではない、|至上権を以て臨む命令である〔付△圏点〕、戦争と(140)破滅を以て臨む神の審判である、而して斯かる審判は既に臨んだ、而して今猶ほ臨みつゝある、而して此時に際して我等神を畏るゝ者の為すべき事は彼が預言者を以て伝へしめ給ひし言である、曰く「我民よ往け、汝の室に入り其|背後《うしろ》の戸を閉て忿恚の過行くまで暫時《しばし》隠るべし、視よヱホバはその処を出て地に住む者の不義を糺し給はん」と(以賽亜書廿六章廿、廿一節)。
 
    破る者破らる
 
 人が神の律法を破ると云ふ、乍併神の律法は人に破らるべき者でない、人は神の律法を破りて自から己を破るのである、恰も人は磐に当て磐を砕くに非ずして自から己を傷けるが如くである、神の律法は堅牢不壊にして巌の如くに永久に屹立す、洵に感謝すべき事である、故に思想の変遷は少しも恐るゝに足りない、変つたのは人であつて神でない、我れ神と偕に在つて我は存つて世は消えるのである、人が神の律法を破ると云ふ、神は曰ひ給ふ「若し我が律法を破り我が誡命を守らずば、我れ杖をもて彼等の愆をたゞし、鞭をもてその邪曲《よこしま》をたゞすべし」と(詩篇八十九篇卅一、卅二節)、縦令破る者が英国人であらうと、仏国人であらうと、米国人であらうと、神は少しも人を偏視《かたよりみ》たまはない、世界の輿論と称へて我等は少しも之を憚るに及ばない、我等はたゞ神の律法に服ひ其誡命を守るべきである。
 
(141)     〔アベル族とカイン族 他〕
                         大正11年4月10日
                         『聖書之研究』261号
                         署名 内村
 
    アベル族とカイン族
 
 信者に二種ある、アベル型の信者とカイン型の信者と是れである、アベル型の信者とは創世記四章に於て示さるゝが如くに羊の初生《うひご》を供物としてヱホバに献ぐる者である、カイン型の信者とは土を耕して其産を献ぐる者である、|羊か土の産か〔付○圏点〕、之に由て信者の神に対する態度が定《きま》るのである、羊は神が定め給ひし犠牲であつて、土の産は入が選みし供物である、羊は代贖を意味し、土より出たる果は己が義を代表する、アベルは神の規定に循ひ、自己の罪を認め、之を羊の躯に託して燔祭の供物として神に献げたのである、カインは神の規定を省みず、己が義しと信ずる所に由り、己が手にて作りし物を携来《もちきた》り、神に報ゆるの心を以て之を献げたのである、然るに「ヱホバはアベルと其供物を看顧《かへりみ》たまひしかども、カインと其供物を眷み給はざりき」と云ふ。
 信者は神に何物をか献げなくてはならない、然れども何を献ぐべき乎は最大の注意を要する問題である、「神の要求め給ふ祭物は砕けたる霊魂《たましひ》なり」である(詩篇五十一節十七節)、故に祭物は此|霊魂を代表するものでなくてはならない、砕けたる霊魂、自己に何の善き事をも認めずして、「噫我れ苦困る人なる我、此罪の体より我を(142)救はん者は誰ぞや」と叫ぶ心、此心を代表する者が羊である、※[火+毀]尽す正義の神の前に己が身を投出して其赦しを乞ふの態度は最も明白に羊の初生の犠牲に於て現はるゝのである、アベルに此心があつた、カインに此心がなかつた、カインに有つたものは義務の観念、責任の観念、奉仕の観念であつた、是れ勿論貴き観念であつたが、最も貴き観念でなかつた、神はアベルに於て自己を虚うするの心、カインに於て己が義以上に義を求めざるの心を認め給ふた、故にアベルを悦びカインを否み給はなかつたのである。
 今の世に於てもアベル型の信者とカイン型の信者とがある、今やアベルの献ぐる祭物は獣の羊ではなくして世の罪を任ふ神の羔である、アベルは毎日此供物を献ぐる、彼の義はすべて其上に在る、彼はカインの如くに己が耕せし土の産を以て神に近づかんとしない、羔イエスは神が彼の為に立たまひし義また聖また贖である、羔イエス、アベルのすべては之を以て尽きて居る 彼は之を以て神に到り神は之に由りて彼に臨み給ふ、イエスに在りて神と人との間に完全なる交通が行はれる、而してアベル型の信者はすべて此一個の羔に由りて神に事へ、彼に在りて一体となり、彼を通うして相愛し、相交はる。
 カイン型の信者は之と異なる、彼等は彼等の運動努力に由りて成りし改良されたる社会と改造されたる世界とを神に献げて其嘉納に与からんとする、彼等は羔イエスの行為に傚はんとするも、其死を彼等の代贖的犠牲と認めない、而已ならず斯く認むるを迷信なり、猶太的思想の遺物なりと称へて嘲けり笑ふ、其意味に於て今も猶ほカインはアベルを殺しつゝある、然れども勝利はやはりアベルに帰するであらう、羔の血は終に世に勝つであらう、「我等の兄弟は羔の血に由りて勝てり」と記され(黙示録十二章十一節)、又「曩に殺されたりし羔は能力、尊敬、栄光、讃美を受くべき者なり」と録さる、我等の惟一の祭物は我が砕けたる霊魂の代表なる神の羔イエス(143)である。
 
    職責の完成
 
 彼は彼たり我は我たりと云ふ、まことに冷淡薄情の言であるやうに聞ゆる、恰もカインが其弟アベルに就て「我れ知らず我れ豈我弟の守者《まもりて》ならんや」と言ひしが如くである、乍併其内に又深い意味がある、人には各自に其独特の責任がある、彼は其責任を果すに方て他を顧るに及ばないのである、人は何を為すも亦為さゞるも我は我職責を充たすべきである、べテロがヨハネに就て「主よ斯人いかに」とイエスに曰ひし時に、彼は答へて言ひ給ふた「汝に何の干与《かゝはり》ありや、汝は我に従へ」と(ヨハネ伝廿一章廿一、二節)、此場合に於てヨハネはヨハネたり、べテロはべテロたりである、先づ自己の職責を尽すべきである、信者各自に対して主は曰ひ給ふ「汝は我に従へ」と、人生最大の事業は自分の職責を完成する事である。
 
    善悪の判断
 
 今の人はその日本人なると米国人なると、信者なると不信者なるとを問はず罪を犯して不味かつたと云ひて悪かつたと云はない、彼等は罪の罪たるを認むる能はずして只僅かに其不結果に終りしを歎ずる、彼等は実利主義教であつて行為其物の真価を探らずして其結果如何にのみ注意する、彼等に取り旨く行く事は善であつて不味く行く事は悪である、旨く行く以上は彼等は何麼無礼、何麼卑劣を為しても憚らない、而して斯る道徳的不能が基監教の名の下に外国殊に米国宣教師に由て我国に輸入されしは悲歎の極《きはみ》である、善悪を行為目前の結果に由て(144)判別するは道徳の根本的破壊である、儒教も仏教も基督教もあつたものではない、直感的に善悪を判別する鋭敏なる良心なくして福音を聴くも無益である、余輩は全力を挙げて商売根性を以て宣伝せらるゝ米国流の基督教に反対せざるを得ない。
 
(145)     『英和独語集』
                         大正11年4月15日
                         単行本
                         署名 内村鑑三 著
 
〔画像略〕初版表紙149×114mm
 
(146)     FOREWORD.
 
 These utterances were originally printed on the first pages of the successive numbers of a little magazine called SEISHO-NO-KENKYU(The Bible-Studies)edited by the author for more than twenty years.The writer's standpoint is pronouncedly antagonistic to all man-made systems and institutions,so much so that he was characterized as a“spiritual BoIshevick”by more than one ecclesiastical authority.Be it so;the utterances will stand or fall,as they accord with facts or not.The LORD God reigneth,and not men;and we may be free,brave and independent in all our utterances,“for the LORD seeth not as man seeth:for man looketh on the outward appearance,but the LORD looketh on the heart.”I Samuel,XVi,7.
                     Kanzo Uchimura.
  Tokyo,Kashiwagi,March,1922.
 
     序言
 
 此書は私が過る二十一年間編輯し来りし雑誌『聖書之研究』の第壱頁に掲げし英和対照文を蒐めて成つた者であります。元々外国人に私の思想を伝へんが為に綴つた者でありますから、英文が主であつて、和文は従であります。随つて、和文は必しも英文の直訳又は逐字訳でありません。意訳なるもあります、亦時には単に精神訳なるもあります。私は孰れの学派又は教派にも属しません。故に私が立つも斃れるも、私の言が事実に合ふや否や(147)に由て定まるのであります。私は判断を宇宙を治め給ふ主なる神に仰ぎます。而して彼は「我が視る所は人に異なり、人は外の貌《かたち》を見、我は心を観るなり」と言ひ給ひましたから、私は安心して独り立つて、恐れずに、自由に私の信ずる所を語ることが出来ます。(撒母耳前書十六章七節)
  一九二二年三月九日       東京市外柏木に於て 内村鑑三
 
(148)     PROTESTANT CHURCHES.プロテスタント教会
                         大正11年5月10日
                         『聖書之研究』262号
                         署名なし
 
     PROTESTANT CHURCHES.
 
 Protestant churches are self-contradictions.Protestantism is an assertion of spirit in man,and as such it ought have no visible organized churches to express itself. And the world War was judgement upon organized Protestantism.Germany, the seat of mistaken Protestantism, was first judged,and with her,all the rest of Protestant nations.The victors and the vanquished were convinced of the shallowness of the faith upon which they built,and now tbat they fell,the Roman Church is exultant over their ruins.But Protestantism is not dead.It was judged to divest it of the remnant of ecclesiasticalism which it could not cast off at once.Protestantism,unhhurched.will resume its pristine vlgor,and after four hundred years of checkered career,will now go forth conquering,and to conquer.
 
     プロテスタント教会
 
 プロテスタント教会と云ふは自家撞着である、プロテスタント主義はヨブ記に所謂人の衷には霊魂の在るあ(149)りと云ふ其真理の主張である、斯くてプロテスタント主義に之を表顕すべき眼に見ゆる制度化されたる教会があつてはならない、而して最近の世界戦争は此制度化されたるプロテスタント主義に対する神の審判であつた、誤りたるプロテスタント主義の中心たる独逸が先づ第一に鞫かれた、而して独逸と共に他のすべてのプロテスタント教国が鞫かれた、此戦争に由つて勝者も敗者も彼等が拠て起し信仰の浅薄なるを覚らしめられた、而して今や彼等の殪れしを見て、羅馬教会は其敵の敗壊に歓呼の声を揚げつゝある、然れどもプロテスタント主義は死んだのではない、之に附着せし教会制度の残部の取除かれんが為に鞫かれたのである、無教会化されてプロテスタント主義は其元始の勢力に還るであらう、而して四百年間の遅々たる進歩の後に、今や勝ち又勝を得んとて出行くであらう。
 
(150)     本当の宗教
         一九二二年四月十三日、宇都宮旭館に於て
                         大正11年5月10日
                         『聖書之研究』262号
                         署名 内村鑑三
 
〇日本に於て今日まで宗教は社会又は国家の問題にならなかつた、其識者と称する者は異口同音に言ふた、日本人に宗教は要らない、要るものは知識である、日本には日本固有の道徳がある、日本道徳に加ふるに西洋知識を以てして日本は世界第一の国となる事が出来ると、而して偶々人あり宗教の必要を説き、宗教なくして強固なる道徳あるなし、宗教なくして知識其物すらも深遠なる能はずと唱ふる者あれば、日本の政治家教育家、思想家、其他社会全体は耳を掩ふて斯かる言を聴かんと欲せず、彼等は無宗教を以て満足し、之を誇りとし来つたのである、河津祐之、中江兆民、加藤弘之等が彼等を代表して宗教を攻撃し、嘲けり、而して尠からざる同情と賛成とを全社会より博したのである、殊に日本人は深き疑ひの眼を注いで西洋の宗教なる基督教を視た、基督教は忠孝道徳を教へず、故に日本人固有の道徳を覆へす者、故に日本の国家を毀つ者 故に努めて排斥すべき者であると思ふた、彼等は言ふた、西洋の知識文物は之を輸入すべし、然れども其宗教たる基督教は断然排斥すべし、スべンサーの哲学、ダーウインの進化論、べンタムの経済論、マルクスの資本論は摂取すべきも、基督教は無用なるのみならず有害である、断然之を排斥すべしと唱へた。(151)〇然かし時代は変つた、余輩は今や宗教の必要を説くの必要が無くなつた、今や宗教は日本人の大流行となつた、変りも変つた者である、今日もし中江兆民の『一年有半』又は加藤弘之の『日本の国体と基督教』が世に出たならば如何であらう、今や最も良く売れる本は宗教本である、『出家と其弟子』、『新約』、『復活』と、日本人は一足飛びに無神論者より宗教熱心になつたのである、今や何でも宗教である、三十年前に餓死せんとした宗教家も今は成金となる事が出来る、実に変り易きは日本人である、三十年経ば万事が一変する、昨日の忠臣は今日の国賊、今日の売国奴は明日の愛国者……頼るべからざるは時代思想である、時代思想は婦人の衣裳の流行の如き者である、後から後へと変る者である、之に由て安心はない、而かも新聞と雄誌とは時代思想の代表者として存在し、世人の多数は之に由て其生涯を営みつゝある。
〇宗教は今日の流行物である、時代思想である、今や何人も宗教を語る、日本の国家までが或る種の宗教の必要を感ずるに至つた、日蓮と親鸞とは復活し、大正の日本は再び彼等の教化に与からんとしつゝある乎の如き観がある、イエスの名さへ文士に由て唱へられ、新約、旧約、復活等の基督教的術語さへが日本人日常の語となりつゝある、宗教、宗教、何人も宗教がなくてはならない、人生に徹底したい、神との徹底的交通に入りたい、人界に超越して霊界に※[行人偏+尚]※[行人偏+羊]したい、霊魂の不滅を確めたい、死後の生命を獲得したいと、是が日本人の今日の叫びである、僅々五六年前までは宗教の事には全然没交渉たりし日本人全体……殊に其知識階級……の態度として実に驚かざるを得ない。
〇宗教は実に必要である、然かし如何なる宗教が必要なる乎、宗教に種々ある、善き宗教がある、悪き宗教がある、真の宗教がある、偽りの宗教がある、鰯の頭も信心柄と云ひて宗教の種類を問はずと云ふ事は出来ない、言(152)ふまでもなく人は本当の宗教を求めなくてはならない、宗教は人の心の根本に関はるものであれば其選択の大切なるは言はずして明かである。
〇宗教は外形的儀式でない、又社交的習慣でない、宗教は人事以外、現世以外の事たるは今や一般に認めらるゝに至つた、然らば宗教は事実何である乎、先づ第一に其事を究むるの必要がある、宗教は夢に非ず現に非ず、空々漠々として無限を瞑想する事に非ず、或ひは又特種の心理状態に人て、神を観、霊と交はる事に非ず、宗教は魔法に非ず、妖術に非ず、霊感に触れて病を癒す事に非ず、宗教は所謂奇蹟に非ず、常識の人が常識を以て解し、感じ、実行し得る事である、本当の宗教は最大の偉人を作つた、最大の哲学者、最大の詩人、最大の美術家、最大の政治家、最大の実業家はすべて熱心なる宗教家であつた、日本人が今日まで唾棄して顧みざりし基督教がなかつたならば、今日の立憲政体も、銀行制度も、哲学も、文学も、芸術も、教育もなかつたのである、宗教は此世の事ではないが此世に関係の無い事でない、此世に嫌はれながら深く強く此世を感化する者である、世に実は宗教程確実なる者はないのである。
〇本当の宗教に本当の神がある、神は人の理想ではない、神は人の作つた者でなくして人を作つた者である パウロもルーテルもミルトンも神を案出したのではなくして、其実在を認め、其聖旨を探り、之に服従し奉仕したのである、神と称びて我が同輩でもなく、我が存在の仮定的対照物でもない、父母と称び、天皇陛下と称び奉るが如き、崇むべき、敬ふべき、服従すべき者である、神は自分の勝手になるべき者でない。※[開の門構え無し]んな者は神でない、神は自己を献ぐべき者、而して我と我が自由とを之に献げて自己存在の意義を知覚し得る者である、事徳秋水が神は「最大の暴君」であると云ひて能く一面の真理を語つたのである、所謂絶対的解放を要求する現代人は本当(153)の神に堪ゆる事が出来ない、故に彼等は神の死を唱へ、神の支配より解放せられて初めて本当の自由を得たりと思ふ、斯くて絶対的解放を要求する現代人に宗教の要求はない筈である、然るに解放と宗教とが同時に要求せらるのである、其処に現代人の大矛盾がある、而して其矛盾の底に虚偽がある 現代人は実は解放をも宗教をも要求して居ないのである、彼等の欲する者は唯自己満足、其れが解放並に宗教の美名を以て現はれたに過ぎない。
〇|本当の宗教に神の旨を伝ふる聖書が無くてはならない〔付○圏点〕、人の説は種々様々である、輿論は時代と共に変る、帝国主義とデモクラシーとが同一の国民に由て同時代に唱へらる、斯かる変幻常なき世に在りて、若し永久に変らざる神の言が無いと云ふならば、人生程頼りない者はない、是れ恰も羅針盤なくして大洋を航海するが如く、破船は当然、不安此上なしである、而かも多くの人は聖書に頼らずして宗教に徹底せんとして居る、不可能である、彼等は徹底したりと称して実は徹底して居らないのである、彼等の信仰は一時的流行に過ぎない、大本教、太霊道、其他目下流行しつゝある所の数多の所謂「新らしき宗教」、誰が此等の所謂宗教が数千年間に渉りて人類全体の運命を支配すると信ずる乎、多分唱道者自身も爾う信ずるのではあるまい 宗教は串戯でもなければ投機でもない、是は身を十字架に釘けてのみ建つる事の出来る者である、而して是は亦全人類数千年間の実験を以て証明さるべき者である、新宗教の発見とよ、宜し、己が身を殺して之を証明せよ、千年とは言はず、百年とも言はず、少くとも三十年五十年の間、之を文明世界の中心にさらけ出して、其批判攻究を仰ぎ見よ、而して若し能く之に堪えて生残り得るならば、我等は其時之に耳を傾けて謹聴するであらう、然らずして、今日出来て今日売出せし者、縦令其書は何百版売れたりとするも、我等は之に我等の現在の生命と未来永劫の運命を委ぬる事は出来ない、我等は旧い聖書に頼る、六千年前に其源を発し、人類活動の中心に入りて之を教へ導き来りて今日に至り(154)し旧き古き聖書に倚《たよ》る。本当の宗教に就て語るべき事は此他にまだ沢山にある、然し今日は之にて止める。
 
(155)     耶利米亜哀歌第三章
                         大正11年5月10日
                         『聖書之研究』262号
                         署名 内村鑑三
 
  是は改訳ではありません、既成の日本訳を希伯来語のABCに従ふ哀歌文体に書直した者であります、言語学上より見て何の価値も無い者でありますけれ共、此種の文学に乏しき我国に於ては有るは無きに優ると思ひます、元々自分の信仰養成のために綴つた者でありまして、之を茲に掲載するは本誌の読者諸君に幾分なりとも其の利益を頒たんと欲するに過ぎません。
       アレフ(一−三)
   我は艱難《なやみ》を見たる人なり、彼の怒の笞《しもと》の故に因る。
   彼れ我を牽《ひき》て暗黒《くらき》を歩ませ給へり、光明《しかり》を行かしめ給はざりき。
   実に彼は其面を我に反け給ふ、終日《ひねもす》我に対ひて英子を挙げ給ふ。
       ベース(四−六)
   彼は我肉と肌膚《はだへ》とを衰へしめ給へり、我骨を摧《くだ》き給へり。
   我に対ひて城塞《とりで》を築き給へり、患苦《くりしみ》と艱難とをもて我を囲み給へり、
   我をして暗処《くらきところ》に住ましめ給へり、長く死し者の如くに扱ひ給へり。
(156)       ギメル(七−八)
   我を囲みて出《いづ》る事能はざらしめ給へり、我が鏈索《くさり》を重くし給へり。
   実に我れ援助を呼求むる時に、我が祈求を締出し給へり。
   切石をもて我道を塞ぎ給へり、我行路を曲げ給へり。
       ダーレス(十−十二)
   彼の我に対し給ふや伏し窺ふ熊の如し、又潜み隠る獅子の如し。
   路傍に我を引裂き給へり、我を独り棄置き給へり。
   彼は弓を張り給へり、而して我を其矢の的となし給へり。
       ヘー(十三−十五)
   彼は其箙の矢を放ち給へり、而して我が腰を射ぬき給へり。
   我は我がすべての民の嘲罵《あざけり》となれり、終日其|笑種《わらひぐさ》となれり。
   彼は我をして苦《にがき》味に飽かしめ給へり、菌薩を飲ましめ給へり。
       ワウ(十六−十八)
   彼は砂利を以て我歯を摧き給へり、灰を以て我を蒙《おほ》ひ給へり。
   爾は我が霊魂をして平和より遠からしめ給へり 我は福祉を忘れたり。
   我れ自から言へり我が気力は失せぬ、ヱホバよりする我が希望は絶えたりと。         ザイン(一九−二〇)
(157)   願くは我が艱難と苦楚《くるしみ》とを心に留め給へ、菌※[草がんむり/陳]と胆汁とを記憶え給へ。
   爾は必ず是等の事を心に留め給ふべし、そは我が霊魂衷に沈めばなり。
   我れ斯事を心に想起せり、是故に我に希望起れり。
       ヘース(二二−二四)
   我等の尚ほ滅びざるはヱホバの仁愛《いつくしみ》に因るなり その憐憫の尽ざるに因るなり。
   是は朝毎に新たなり、爾の誠実は大なる哉。
   我が霊魂は言ふヱホバは我が分なりと、是故に我れ彼を待望まん。
       タウ(二五−二七)
   ヱホバは己を待望む者を善くし給ふ、己を尋ぬる者を善くし給ふ。
   人のヱホバを望むは善し、静に其救拯を待つは善し。
   人その若き時に軛を負ふは善し。
       アイン(二八−三〇)
   彼は独り座して黙すべし、ヱホバ之を負はせ給ひたれば也。
   口を塵につけて伏すべし、或は望あらん。
   己を撃つ者に頬を向くべし、充足れるまでに恥辱を受くべし。
       カツフ(三一−三三)
   そは主は永久《とこしなへ》に棄て給はざればなり。
(158)   彼は患難を送り給ふと雖も亦憐憫を施し給ふ、其仁愛の大なるに因りてなり。
   彼は故意に人の子を悩まし給はず、彼等を苦しめ給はざる也。
       ラーメド(三四−三六)
   彼は地の俘囚等を脚の下に蹂躙り給はず。
   至上者の前にて人の理を抂げ給はず。
   人の詞訟を覆すはヱホパの喜び給はざる所也。
       メム(三七−三九)
   主命じ給はずとも事成ると言ふ者は誰ぞや。
   至上者の口より禍災も福祉も来るに非ずや。
   己の罪を罰せられたればとて活ける人何ぞ怨言《つぶや》くべけんや。       ヌン(四〇−四二)
   我等|自己《みづから》の行を探り、省みてヱホバに帰るべし。
   我等天に在す神に対ひて手を挙ぐるが如くに心を挙ぐべし。
   我等は罪を犯したり叛きたり、而して爾は赦し給はざりき。
       サメツク(四三−四五)
   爾|震怒《いかり》をもて自ら蔽ひて我等を窘迫め給へり、殺して憐み給はざりき。
   爾雲を以て自ら蔽ひ給へり、是れ祈祷の通ぜざらんが為なり。
(159)       べー(四六−四八)
   敵は皆な我等に向ひて其口を張れり。
   恐懼と陥※[こざと+井]《おとしあな》とは我等に来れり、暴行《あらび》と滅亡とは我等に臨めり。
   我眼は涙の河として流る、我民の女《むすめ》の滅亡びしに因る。
       アイン(四九−五一)
   我眼は涙を注ぎて止まず、其絶る間《ひま》なし。
   ヱホバ天より臨み見て顧み給ふ時にまでに至らん。
   我眼は我心を傷ましむ、我|邑《まち》のすべての女等の故に因る。
       ツアーデー(五二−五四)
   我敵は故なくして我を追へり、恰も鳥を逐ふが如し。
   彼等は我生命を坑《あな》の中に絶り、我が上に石を投ぜり。
   水は我が頭の上に流れたり、我は言へり「我事休む」と。
       コツフ(五五−五七)
   我れ爾の名を※[龠+頁]び奉れりヱホバよ、深き坑の底より※[龠+頁]び奉れり。
   爾、我声を聴き給へり、我が哀願《なげき》と祈求《いのり》に耳を掩ひ給ふ勿れ。
   我れ爾を※[龠+頁]び奉りし時に爾は我に近寄り給へり「恐るゝ勿れ」と。
(160)       レツシユ(五八−六〇)
   主よ爾は我霊魂の詞訟を助け給へり、爾は我生命を贖ひ給へり。
   ヱホバよ爾は我が蒙りし不義を見たまへり、願くは我を正しく審判き給へ。
   爾は彼等が我に復讐なす其行為を見たまへり、我に対して謀む其謀計を見たまへり。
       シン(六一−六三)
   ヱホバよ爾は彼等の※[言+后]誹《そしり》を聞き給へり、我に対して謀りし共謀計を凡て聞き給へり。
   我に逆ひて立ちし者を聞き給へり、その終日我を攻め運す其謀計を聞き給へり。
   願くは爾彼等の起居を看守り給へ、我は彼等の笑種なり。
       タウ(六四−六六)
   ヱホバよ爾は彼等に報い給ふべし、彼等の手の為す所に循ひて酬い給ふべし。
   彼等に心の憂苦を与へ給ふべし、爾の呪詛を彼等に下し給ふべし。
   爾は震怒をもて彼等を追ひ給ふべし、ヱホバの天の下より彼等を断ち給ふべし。
       ――――――――――
「義き者は患難多し、然れどヱホバは皆なその中より救出し給ふ」とある、神と義しき関係に入りし基督者《クリスチヤン》には人の知らざる多くの深い強い患難が臨む、然し又之に相応する上よりの援助がある、耶利米亜哀歌は信者の此悲哀を歌ふたものである、悲哀実の絶頂と称せん乎。
 
(161)     長寿の実例
                         大正11年5月10日
                         『聖書之研究』262号
                         署名なし
 
 新聞紙の報ずる所に由れば、徳川時代に有名なる長寿の一家があつた、それは三河国宝飯郡小泉村の百姓万平と云へる人の一家であると云ふ、天保十五年(一八四四年)九月十一日、永代橋架換落成の時、渡初の光栄に浴したので有名である、其時万平は二百四十二歳、其妻タクが二百二十二歳、其子の万吉が古九十六歳、其妻モンが百九十三歳、孫の万蔵が百五十一歳、其妻ヤスが百三十八歳であつたと云ふ、万平は十一代将軍家斉公の時召し出されて大阪夏陣の模様のお尋ねを受けた、大阪の落城は彼が十四歳の時であつたと云へば彼は慶長七年(一六〇二年)の生れである、彼の死去の年月は知る能はずと雖も、彼は慶長七年(一六〇二年)より天保十五年(一八四四年)まで二百四十二年間生きた事は確かである、而して此事は聖書の研究に大なる参考となる、ヨブの齢はたしかに二百歳以上であつた(約百記四二章六節)、アダムは九百三十歳、エノクは三百六十五歳、其子メトセラは九百六十九歳|生存《ながら》へたと聖書に記してある 是れ有り得ない事であると言ふと雖も、今を去る八十年前に我日本に二百四十二歳の人の生きて居つた事を知つて、人類創造の始に方り、罪の結果の未だ深く人の身体に影響せざりし時代に於て九百歳の生命を保ちし者のありしを聴いて我等は少しも怪しまないのである、「我等が年を経る日は七十歳《なゝそぢ》にすぎず、或ひは壮かにして八十歳に至らん、然れど其の誇る所はたゞ勤労と哀苦《かなしみ》とのみ」とあるは、(162)罪の結果が身に現はれて、生存の期間が非常に短縮されし時代の有様を云ふたに過ぎない、「ヱホバ曰ひ給ひけるは我霊永く人と争はじ……彼の日は百二十年なるべし」とあるは(創世記六章三節)、罪の結果として人の生存の平均年数が百二十歳に縮められたとの事である。
 
(163)     CHRISTIANITY AS LOVE.愛としての基督教
                         大正11年6月10日
                         『聖書之研究』263号
                         署名なし
 
     CHRISTIANITY AS LOVE.
 
 Christianityis not church;neither is it dogma.Christianity is love;not love in general,but love in particular. Christianity is primarily and essentially love of enemies.God soloved the world,――the rebellious,apostate,God-hating world,――that He gave His only begotten son,etc:thatis Christianity. Without free,generous,joyous love of enemies, there is no Christianity to speak about.Then,how about hbose so-called Christian nations with all their churches,doctrines,theologies,bishops,doctors of divinities, foreign missions and social services,yet intensely hating their enemies, who are mostly“brother-Christians,”declaring war against one another,and exulting over the fall of their rivals, and preparing for another and next war? Should we not say that Cbristianity ha snever yet been tried on any large scale?
 
(164)     愛としての基督教
 
 基督教は教会でない、亦教義でない、基督教は愛である、而かも単に全般的の愛でない、特別の愛である、基督教は元来其本質上よりして敵を愛する事でぁる、神は其生み給へる独子を賜ふほどに世の人を愛し給へりと云ふ、即ち神に背き彼を去り彼を憎むその世の人を愛し給へりと云ふ、是が本当の基督教である、自発的にして寛大、喜んで敵を愛する事なくして基督教と称すべき者はない、果して然りとすれば、かの所謂基督教国なる者は何である乎、教会あり、教義あり、神学あり、監督あり、神学博士あり、外国伝道あり、社会奉仕ありて、然かも其敵を憎むこと甚だしく……而して其敵と称する者は多くは同信の所謂基督国である……相互に対し戦争を宣告し、競争者の墜落を見ては欣び、而して猶も盛んに武器を整へて来らんとする戦争に備ふ、基督教は未だ曾て個人関係以上、より大なる規模に於て試みられたる事なしと云ふも不可なきに非ずや。
 
(165)     〔基督者の徽章 他〕
                         大正11年6月10日
                         『聖書之研究』263号
                         署名なし
 
    基督者の徽章《バツジ》
 
〇「イエス曰ひけるは……汝等もし互に相愛せば之に由りて人々汝等の我が弟子なることを知るべし」(約翰伝十三章三五節)、我等が基督者《クリスチヤン》たり、イエスの弟子たる証拠は茲に在る、|キリストが我等を愛し給ひし愛を以て互に相愛すること〔付○圏点〕、是が基督者各自が身に佩る徽章である、之に由て世人は我等がイエスの弟子たることを知るのである、バプテスマを受けて教会に属したる事は基督者《クリスチヤン》たるの証拠にならない、又一定の教義を信奉したればとて、それで基督者であるとは判定ない、又伝道に熱心であればとて、其事を以てイエスの真実の弟子たる実証となす事は出来ない、バプテスマも、教義を、伝道も、愛以外の動機に由りて之を受くる事が出来、又之に従事する事が出来る、誤らざる基督者たるの証拠は彼が真に人を愛する事にある、愛する人が基督者である、愛せざる者は基督者でない、縦令其人が教会の監督であらうが、神学博士であらうが、牧師であらうが、伝道師であらうが、愛せざる者は基督者でない、縦し教会と其会員とは是等の人々を基督者と認むるとも、神と人々即ち世人は彼等をイエスの弟子として受けない、此一事に就ては神と世人とが一致する、神と世人とは儀式であるとか、教理で(166)あるとか、宣伝であるとか云ふ事に目を留めないで、世界最大の者たる愛と其表顕とに注意するのである。
〇勿論愛と謂ふて何人にも直ぐ判る者ではない、真の愛は時には愛でないやうに見ゆる場合がある、然るにも関はらず愛はやはり愛である、愛は他《ひと》の最善を謀る、愛は自分本位を恥とする、愛は復讐的でない、愛は謙遜である、愛は他の権利を侵害しない、然ればとて遠慮の籬を築いて我れ不関焉の態度に出でない、愛は自分の事に於けるが如くに他の事に熱心である、「人の子の来りしは人を役ふ為には非ず、反て人に役はれ又多くの人に代りて生命を予へ、その贖とならん為なり」とある其精神の実現に努力する。
〇斯く言ひて勿論、教会も教義も伝道も要らないと言ふのではない、是等は愛を起す為に要る、愛は目的であつて是等は手段である、我等は完全に愛し得るに至つて信仰の目的を達したのである、而して愛の試験石は敵である、心より敵を愛し、其善を図り得るに至て愛は完成せらるのである、聖霊下賜の結果も茲に至らざれば真正でない、神は愛であつて、聖霊は此愛の神の霊である、此霊の宿る所となりて愛は必然的に起らざるを得ない。
 
    隠顕の理
 
  掩はれて露はれざる者なく、隠れて知られざる者なし(馬太伝十章廿六節)。
  隠れて明瞭にならざるはなく、蔵みて露はれざる者はなし(馬可伝四章廿二節、路加伝八章十七節)。
〇是は普通審判の言葉として受取らる、隠れたる罪は其時発かるべしと、勿論其意味も其内に含まれて居るに相連ない、然し乍ら其れのみが其意味でない、馬太伝の記す所に循へば、イエスは此言葉を弟子等を慰むる為に用ひ給ふた、悪を為す者は悪の露はるゝを恐れ、善を為す者は善の彰はるゝを喜ぶ、人の行為如何に由てイエスの(167)此言は恐怖の言とも、亦慰藉の言ともなるのである。
〇是はまことに一般的真理である、神の聖旨《こゝろ》であるとも言ふことが出来、又自然の法則であるとも言ふことが出来る、隠れたる者は必ず現はると云ふ、宇宙の秘密、其隠れたる真理は何時か一度は必ず現はるべしと聞いて学者は大なる奨励《はげみ》を獲て、益々学究に従事するのである、宇宙は大なる謎である、然し解す能はざる謎ではない、人の衷に在る道理は宇宙を作り之を支ゆる道理である、宇宙の解釈はたゞに時の問題である。
〇而已ならず、万物の原則として外は必ず内と一致するものである、内が美しくあれば外も之に応じて必ず美しく、内が醜くあれば外も之に応じて必ず醜くあるべきである、然るに現在の場合には其原理が未だ充分に実現しないのである、否な、多くの場合に於て其正反対が事実である、内の醜きを裹むに美しき外の形があり、内の美くしきを掩ふに外の醜き体がある、内外は一致すべきであるに、未だ一致しないのである、然し是は永久に然かあるべきでない、体は心に合ふべきである、心は之に相応したる体に現はるべきである、隠れたるにして露はれざるはなし、美き心は美き体として露はれ、悪しき心は悪しき体として露はる、其処に慰安《なぐさめ》と恐怖《おそれ》とがある。
〇復活と云ふも実は此原理の実現に過ぎないのである 復活と云ひて死んだ体が活き復へつて来るのではない 霊魂《たましひ》相応の体が之に与へらるゝのである、或は霊魂がその性質に合ふ体を以て現はるゝのである、「神は種毎に其|各自《おの/\》の形体《かたち》を予へ給ふ」とある(哥林多前書十五章三十八節)、種に合ふ形体がある、形体は種に由て異なる、各人が其霊魂相応の形体を以て現はるゝ事、其事が復活である、決して不思議でなく、斯くあらねばならぬ、荊棘《いばら》の種から薔薇は生えぬ、春の温気《うんき》に会ひて荊棘の種が荊棘として露はれ、薔薇の種が薔薇として露はるゝ時に復活がある。
(168)〇斯くて復活は審判である、審判は内が明瞭に外に露はるゝ時である、但以理書十二章一節−三節に録されたる預言者の言は此事を示す。
  ……其時汝の民は救はれん、即ち書《ふみ》に録されたる者は皆救はれん、また地の下に眠り居る者の中多くの者目を醒さん、その中永生を得る者あり、また恥辱を蒙りて限りなく羞る者あるべし、穎悟者《さときもの》は空の光輝《かがやき》の如くに輝かん、又多くの人を義《たゞしき》に導きし者は星の如くなりて永遠に至らん
と、善人の善き心が善き形体を以て露はれ、悪人の悪しき心が悪しき形体を以て現はれ、偽善が不可能になる時に完全なる審判が行はるゝのである。
〇然らば基督者は其時の到るを恐るゝであらう乎、然らずである、イエスを信ずる我等は彼の霊を有てる者であるが故に、我等は我等として審判かるゝに非ずして、イエスとして受けらるゝのである、信仰の絶大の利益は茲に在る、復活の時に我等は醜き我等として復活するに非ずして我等の贖主として我等が受けしイエスとして復治するのである、其幸福如何ばかりぞやである、「我れキリストと偕に十字架に釘けられたり、最早我れ生けるに非ず、キリスト我に在りて生けるなり 今我れ肉体に在りて生けるは我を愛して我が為に己を捨し者即ち神の子を信ずるに由りて生ける也」とある、我が信仰に由りて受けし生命、其生命が其れに相応する形体を以て露はるゝのである、其事が基督者の復活である、其生命は或は芥種の如き最も微き種である乎も知れない、然れどもイエスの種である、「神は種毎に各々其の形体を予へ給ふ」とあれば、信仰を以てイエスの種を受けし者は其種の形体を予へられるのである、故に信者は復活を待望み、審判を恐れないのである、「善事《よきこと》を行《なし》し者は生命を得るに復活り、悪事《あしきこと》を行し者は審判を得るに復活るべし」とイエスは曰ひ給ふた(約翰伝五章廿九節)、我等自身の儘で(169)復活せしめらるゝならば罪の審判を得るに復活らせらるゝより外に途がない、然るに至大の善事を行し者即りイエスの霊が我に宿り給ふが故に、我等は生命を得るに復活る事が出来る。
〇「隠れたる者にして露れざるはなし」、今は我が衷に潜むキリストの霊が栄光の形体を以て外に露はるゝ時が来るのである、我等の希望また歓喜は其時である、「若しキリスト汝等に在らば体は罪に由りて死、霊魂は義に由りて生きん」とあるは此事である。
 
(170)     如何にして伝道に成功せん乎
                         大正11年6月10日
                         『聖書之研究』263号
                         署名なし
 
〇伝道とは教会を起し、信徒を収容し、教勢を張りて社会に雄飛する事ではない、伝道は神に対しては其聖旨を宣伝へ、人に対しては其霊魂を愛して之を神との義き関係に入れる事である、斯く見て伝道は至て簡短である、社会事業、教育事業、改造運動、労働運動と称するが如きは伝道事業の副業であつて、有つても宜し、無くつても宜いものである、神の聖旨を伝へて人の霊魂を救ふ事、其事が伝道である、伝道戌効の秘訣第一は先づ伝道の本領を判明にする事である。
〇而して神の聖旨は聖書に於て現はる、聖書即ち神の聖旨であると言ひて間違はない、故に聖書を知らずして神の聖旨は解らない、随て聖書を知らずして伝道は出来ない、人は生れながらにして神の道を知ると云ふのは誤謬《あやまち》である、神の道は良心の声を以て尽きない、天の地よりも高きが如く、神の道は人の道よりも高い 斯くて神の道は深く聖書を研究するに非れば解らない 熱心は知識の代理を務めない、先づ第一に静に深く聖書を研究するに非れば、伝道第一の要素たる神の聖旨を知ることが出来ない、伝道に成功せんと欲する者は先づ数年を聖書の深き研究に費さねばならない。
〇先づ聖書を了得して之を以て人の霊魂に臨む、是が伝道であつて、此の伝道は必ず成功する。
(171)  ヱホバの法は完全《またく》して霊魂を活き復らしむ。
  ヱホバの証詞《あかし》は確実《かたく》して愚者を智からしむ。
  ヱホバの訓諭《さとし》は直くして心を欣ばしむ。
  ヱホバの誡命は聖くして眼《まなこ》を快明《あきらか》ならしむ。
  ヱホバを惶《かしこ》み懼るゝ道 潔くして世々絶る事なし。
  ヱホバの審判 真実にして悉く正し。
とあるが如く(詩第十九篇)、「ヱホバの法」即ち聖書の言が霊魂を活き復らしむるのである、説教者の雄弁でも熱心でもない、「ヱホバの法」なる聖書である、是は所謂「聖霊の剣《つるぎ》」である(以弗所書六章十七節)、此剣を採り、之を使ふ事を学び、之を用ひて悪魔は滅び、霊魂は活き復るのである。
〇斯くて伝道に成功せんと欲して必しも伝道職に就くを要しない、何人も「聖霊の剣なる神の道」を学んで有力なる伝道師たることが出来る、職業的伝道に多くの弊害が伴ふ、故に信者は万々止むを得ざる場合を除くの外は之を避け、普通の事業に従事しながら伝道を実行すべきである、最も有力なる伝道は平信徒の伝道である、基督教が百年ならずして羅馬帝国を教化したのは主として此の静かなる平信徒の伝道に因つたのである。
〇「天より雨降り雪落ちて復かへらず、地を潤して物を生えしめ、萌を出さしめて播くものに種を与へ、食ふ者に糧を予ふ、其如く我が口より出る言も空しくは我にかへらず、我が喜ぶ所を成し、我が命じ遣りし事を果さん」と以賽亜五十五章にある、而して伝道成功の秘訣は此言に籠つて居る、|神の口より出る言〔付○圏点〕、霊魂を救ふ力は外にない、而して神の言を伝へて其の無効に終る事はない、必ず為すべきを為し、遂ぐべきを遂ぐ 故に真実の心を(172)以て神の真実の言を伝へし時に、其時に有効なる伝道が行はれたのである。
 
(173)     中調的道徳
                         大正11年6月10日
                         『聖書之研究』263号
                         署名 内村生
 
  羅馬書十二章二節の研究の補足としてハンナ組の組会に於て女学生達に述べしもの。
 
 欧羅巴語の文法に動詞の調(voice)と云ふ者がある 調とは動詞の働らきの性質を示す者であつて、之に普通三種ある、即ち動調(active voice)受動調(passive voice)及び中調(middle voice)是れである、『我れ行く』と云ふは動詞である、我れ自から欲んで自力を以て行くの意である、『我れ行かせらる』と云ふは受動調である、我れ欲するも亦欲せざるも、或る他の者に行かしめらると云ふのである、『我れ自から行かしめる』と云ふのが中調である、我に行くの力なきも自から欲んで或る他の者に己を任したれば彼に由て行かしめらをと云ふのである、簡短に之を言へば、動調は自力であり受動調は他力であり、中調は自力と他力との共同的動作である。
 汝等此世に効ふ勿れ(希臘語 suschematizesthe、英語 be ye not fashioned according to this world)と云ひ、心を化《かへ》て新にせよ(希臘語 metamorphousthe, 英語 be ye transformed by the renewing of your mind)と云ふ、此場合に於て『効ふ』も『化へる』も中調であつて、動調又は受動調でない、日本語で『効ふ勿れ』と言へば、動調に解せらるゝは勿論である、即ち汝等奮起努力して此世に効ふ勿れと解せらる、然れども是れ決して原語の意味(174)でない、然ればとて是れ亦汝等自から欲ふに及ばず、待てば必ず他力に由りて世に効はざるに至るべしと云ふ事でない、動詞でない又受動調でない、中調である、自力と他力との共働である、英語を以て言表はすならば Do not allow yourself to be conformed to this world である、汝自身を世に効はせらるゝやう許す勿れである、自力は何処に在る乎と云ふならば自己を神に委ぬる所にある、或は自己を世に許さない点に於て在る、而して他力は何処に在る乎と云ふならば神の御力を加へられて世に勝ち得る点に於て在る、任すは我が仕事であつて、我を通うして行ひ給ふは神である、自力のみの道徳と他力のみの道徳とは半道徳である、基督教道徳は中調的動詞を以て言表はさるゝものであつて信顆の自力に恩恵の他力を加へたる者である。
 汝等此世に効ふ勿れ、汝等神に倚り恩恵の力に由り此世に傚はざらしめよ、汝等心を化へて新たにせよ、汝等身を彼に委ね聖霊を受けて彼に由りて新たに造られよ、事は文法の細微に渡るやうであるが其内に深い大切なる真理が含まれてあると思ふ。
 
(175)     簡短なる伝道
                         大正11年6月10日
                         『聖書之研究』263号
                         署名なし
 
 伝道は神の言なる聖書を説く事であつて最も簡短なる事である、故に我等伝道に従事せんと欲して教会に入り、宣教師に附属して、其補助給養を仰ぐの必要はない、我等は平信徒として有力なる伝道に従事する事が出釆る、然り最も有力なる伝道は職業的伝道師の伝道に非ずして、唯の平信徒の伝道である、我等はパウロが斯かる伝道者……平信従たる伝道者……であつた事を忘れてはならない、其事はテサロニケ後書二章三節以下を読んで見れば判明る。
  また人のパンを価《あたへ》なしに食することなく、唯人を累はせざらん為に労と苦をなして昼夜|工《わざ》を作せり、是れ我等権威なきが故に非ず、たゞ自己を模楷《かた》とし、汝等をして傚はしめん為なり、我等汝等の中に在りし時、人もし工を作すことを欲《この》まずば食すべからずと汝等に命じたり
と、「工を作す」事、普通の労働に従事して普通の生活を営む事、伝道の根本は茲に在る、此事を為さずして本当の伝道を為す事は出来ない、伝道が職業となつた事が伝道廃頽の主なる原因である、教会又は宣教師に認めらるゝの必要は少しもない、我等は工を作しながら神の言なる聖零を教へて、有力なる伝道を為しつゝあるのである。
 
(176)     EVOLUTION.進化論
                         大正11年7月10日
                         『聖書之研究』264号
                         署名なし
 
     EVOLUTION.
 
 I do not believe in Godless evolution,――of course I do not.But evolution there is,nevertheless.Evolution is a gradual unfoldjng of a plan. God has not created the universe in a single day. They say it took from 400 to 500 million years to prepare the earth for man's babitation. Beit so. So much the more precious to me is the earth.If God waited 500 million years till man appeared and praised His holy name,should we not wait a life-time for our work to bear its fruit? Evolution,――it is a comforting truth to me. I cast in the earth a seed of truth,and wait in eternity for its growth,never doubting that it too will evolve or unfold itself,and show its result in beautiful flowers and luscious fruits.Yes,I am an evolutionist.
 
     進化論
 
 余は神の存在を認めざる進化論を信じない、勿論斯かる者を信じない、然れども進化の在る事は確である、進(177)化は或る計画の漸次的発展である、神は一日の内に宇宙を造り給はなかつた、学者の説によれば地球が人類の住所として準備せらるゝまでには四億年乃至五億年を経過したらうとの事である、さうであつたと仮定せよ、それが故に地球はそれ丈け余に取りては貴重である、若し神が人が現はれて彼の聖名を讃美するまでに五億年待ち給ひたりとの事であるなれば、我等も亦我等の仕事が其果を結ぶまでに全生涯の間待つべきに非ずや、進化とよ、余に取りては是は慰安に富める真理である、余は真理の種を地に投じ、永久に其成長を待つ、而て是も亦何時かは進化し即ち発展して麗はしき花と美味《あぢよ》き果と成りて現はるゝ事を信じて疑はないのである、実に然り、余も亦進化論者の一人である。
 
 
(178)     義理と人情
                         大正11年7月10日
                         『聖書之研究』264号
                         署名 内村鑑三
 
〇義理人情と称して義理と情とを同一視するは大なる間違である、義は正義であり、理は道理であり、情は人情であつて各々別である、勿論三者共に人の属性であつて、相離れて働くものではない、然し乍ら義は義であり、理は理であり、情は情であつて、互に相異なるは明白である、義は堅い者、理は冷たい者、情は温かい者、其性質から考へて見ても三者同一の者でない事は明瞭である。
〇然らば三者執れが最も肝要である乎と云ふに、第一は正義である、「汝等先づ第一に神の国と其義きとを求めよ」である、正義は知識よりも、亦情義よりも貴くある、先づ第一に正義、然る後に道理、最後に情実である、正義は動かざる磐である、明白なる正義の前に理論も情義も屈せざるを得ない。
〇|第二に道理である〔付○圏点〕、正義は直覚的なるに対し道理は思索的である、而かも道理が人類の永き実験に裏書せられて常識となりて現はるゝ時に、最も信頼すべき者である、道理は正義の如くに絶対的権威でない、然れども信仰を迷信より区別し、情義を諭して正義に服従せしむるに方て、最も有力なる者である、道理の働かざる所に情実は跋扈して正義は行はれない、人間は特に道理の動物である、文明と云ひ文化と云ふは人生に於ける道理の実現に外ならない。
(179)〇|第三は情である〔付○圏点〕。美くしき温かき人情である、詩となり歌となり、家庭と国家とを作る情である、然れども熱し易く御し難き惰である、情は人生の花であり実である、生命其物であるとも言ふことが出来る、然れども|情は情として単独で立つ事は出来ない、情は理に由て支配され、義に拠て立つ〔付△圏点〕、情は脆くある、変り易い、倚《たよ》り難き者にして情の如きはない、支那の詩人は歌ふて曰ふた「行路難し水に在らず山に在らず、只人情反覆の間に在り」と。
〇如斯くにして情は天然性であり、理は修得性であり義は信仰性である、情の人は生れながらの人である、理の人は修養の人である、義の人は信仰の人である、歌人は情の人である、哲学者は理の人である、預言者は義の人である、情の民は日本人に由て、理の民は希臘人に由て、義の民は希伯来人に由て代表さる、三者孰れが最も貴き乎、言はずして明かである。
〇日本人は特に情の民である、日本語は情を表はすに最も適して居る、日本人は義理と人情とを区別する事が出来ない、日本人の間に在りては不人情は不義である、忠孝道穂は情的道徳である、日本人は惰に勝つことの偉大なるを知らない、多くの日本人は毎年情の為に生命を棄てる、然れども学理の為に、又は信仰の為に、死する者は滅多にない、日本人を引きつくる最大の力は情である、道理を以て説く能はず、信仰を以て動かす能はざる日本人は、情を以てすれば容易に化《かは》る 日本人は信仰の磐でもなければ道理の法則でもない、朝日に香ふ山桜である、美くしくする、然れども頼る事が出来ない。
〇日本人に煩悶多きは是が為である、日本人は情と情との間に挟まれて煩悶する、曰く忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれは忠ならずと、日本人の最大多数は人情の傀儡である、日本人は風の吹き去る粃糠《もみがら》の如(180)くに人情に弄ばる、彼等は道理に由て人情に勝ち、又正義に由て情義を支配するの術をも知らず、能力をも有たない、日本人に多くの美点あるに係はらず彼等が偉大なる民能はざるは之が為である。
〇特に情の民である日本人は基督教が解らない、彼等は神の愛を感ずる、然れども情としての愛を感ずるに過ぎない、日本人は「神の義は現はれて信仰より信仰に至る」と聞いて其の何の事なるや解らない、彼等は「イエス涕を流し給へり」と読みて深く感ずるが、「我が(イエスの)名の為に兄弟或ひは姉妹、父母或ひは妻子を棄るにあらざれば神の国に入る能はず」と読みて唯呆然たるのみである、福音の真理を示されて|骨肉と謀る事なく〔付△圏点〕直に其宣伝に従事したパウロの行為の如きは日本人の許さゞる所である、日本人は神は何故に赦すべきの理由なくして罪人を赦し得ない乎其事が解らない、基督教は正義に基き道理に適ふ罪の赦しの道である、イエスキリストの御父なる真の神は「慈悲の父、すべての安慰《なぐさめ》を賜ふの神」であつて、「一人の亡ぶる事をも欲み給はず万人の悔故に至らん事を欲み給ふ」と雖も、彼は正義の神であれば、正義に由らずしては人を救け給はない、故に基督教を解るの第一の要素は正義である、正義の念に乏しくして基督教は解らない、罪の念が起らずしてキリストの福音は解らない、神は「罰すべき者を必ず赦すことをせず」とある其念が強くなる時に罪の念が起る、而して罪の念が起りて十字架に走り、其処に赦しの福音に接して歓ぶのである、基督教の神は厳父である、慈母でない、彼は正義に由らずして近づく事が出来ない、「神は公義《たゞし》き者なるが故に必ず我等の罪を赦し給ふ」とある(約翰第一書一章九節)。
〇人生の問題を解決するに方て、第一に考ふべきは正義である、第二が道理である、第三即ち最後が人情である、此順に従つて解決せん乎、万事は容易に解決せらる、義しき乎義しからざる乎、若し義しくば骨肉、社会、国家(181)が悉く反対するも之に従ふ、若し義しからずば全世界が我に迫るも之に循はない、問題は簡短明瞭である、利益、情実、便宜の問題でない、正義の問題である、情に動かされない、道徳に由て正義の正道を歩む、縦し其道は十字架を通過するとも。
〇日本人の如き特に情の民の間に基督教を説くに方て我等は激烈なる反対と、其結果としての孤独を覚悟しなければならない、多くの場合に於て厳粛なる正義の道は不人情の途の如くに見える、而して此世の人は、殊に日本人は何を許しても不人情を許さない、彼等は義人を貴むと称するも、義人は敬して之を遠ざけ、神として祭りこみ、遠方より之を拝む、其点に於て信者も不信者も別はない、彼等は情の人を近づけ、義の人を避ける、然れども彼等の友となりて我等は神の敵となるのである、神の人は義の人である、預言者はすべて義の人であつた、イエスも亦其一人であつた、情の人に愛せらるゝが如き者はすべて偽預言者である、義 然らざれば理、情は之を重んずるも最後に聴く、斯くして単独を期して神と共に歩む、其れが本当の基督者《クリスチヤン》である。
 
(182)     神の言
                         大正11年7月10日
                         『聖書之研究』264号
                         署名なし
 
  天より雨降り雪落ちて復其処に帰らず。
  地を霑して物を生えしめ萌《め》を出さしめ。
  播く者に種を供へ食ふ者に糧を給ふ。
  其如く我口より出る言は空くは我に帰らず。
  我が喜ぶ所を成し我が命じ遣《おく》りし事を果すべしとヱホバ言ひ給ふ(以賽亜書五五章十、十一節)。
〇人の言は無効に終る場合が多い、大政治家の宣言と雖も実行せられざるが常である、人の言は文字通りに言の葉である、至て軽い力の無い頼るに足らざる者である、神の言は然らず、夫は力其物である、「ヱホバ言ひ給へば成れり」とある(詩篇三三篇九)、彼は為さんと欲せざれば言ひ給はず言ひ給へば必ず成る、斯くて神の言はすべて成就さるべき予言である、彼の言にして既に成りし者あり、今成りつゝある者あり、而して後に成るべき者がある、而して空言とては一言もない 実に感謝である。
  我はヱホバなり、我れ我が言を出さん、我が言ふ所は必ず成らん(以西結書十二章廿五節)。
  我れ語りたれば必ず来らすべし、我れ謀りたれば必ず為すべし(以賽亜書四十六章十一節)。
(183) 大政治家の宣言は無効に帰して世は益々暗黒に陥りつゝある、人類は今や其の帰適する所を知らず五里霧中に迷ひつゝある、若し我等を導くに神の言がないとならば不安此上なしである。
 然るに神は其言を伝へしめて言ひ給ふた「視よ我は然り|我は〔付○圏点〕汝等を救はん」と、茲に磐よりも堅き神の約束がある、天地は失するも我が語りし言は失せじと宣ひしイエスの言がある、信頼すべき者は今猶ほ神の言を載せたる古い旧い聖書である。
 
(184)     DIVINE HEALING.神癒について
                         大正11年8月10日
                         『聖書之研究』265号
                         署名なし
 
     DIVINE HEALING.
 
 I believe in Divine healing. There is no incurable disease with God. But He heals only on one conditjon;i.e. that a man should believe on Him. Believe,not simply that He can heal,――even devils do believe that,――but believe in the sense that he delivers himself over to Him that God may be all in all in him;i,e. believe in moral and spiritual sense. God does and can heal only His own. He heals not that a man may enJoy his life,but that His will be done through him. As Livingstone said “a man is immortal till his work is done,” because God will not permit him to die till His sovereign and eternally good will is accomplished through him.
 
     神癒に就て
 
 余は神癒を信ずる、神に於ては癒す能はざる疾病はない、然れども神は一の条件の下にのみ癒し給ふ、即ち人が彼を信ずる場合に於てのみ癒し給ふ、而して信ずるとは単《たゞ》に神は癒すことが出来ると信ずる事ではない、其事(185)ならば悪魔も信ずる、信ずるとは自己を神に引渡すことである、而して我は無となりて神が我に在りて万事となることである、即ち知的信仰でなくして道徳的又は精神的信仰である、神は御自身に属する者をのみ癒し給ふ、又斯かる者をのみ癒す事が出来る、彼が癒し給ふは人が其生命を楽まんがためではない、彼に由りて神の聖旨《みこゝろ》が成らんが為である、リビングストンが曰へるが如くに「人は其事業を終へるまでは不滅である」、そは神は其至上至善の聖旨の彼に由りて成就せらるゝまでは、彼の死ぬことを許し給はないからである。
 
(186)     喜楽と平康と希望
                         大正11年8月10日
                         『聖書之研究』265号
                         署名 内村鑑三
 
  希望を予ふる神の汝等をして聖霊の能力に由りその希望を大にせんが為に、汝等の信仰より起る諸《すべて》の喜楽《よろこび》と平康を充たしめ給はんことを願へり(羅馬書十五章十三節)。
〇此はパウロの祈願《ねがひ》の一である、一読して意味明瞭を欠くの観ありと雖も、精読度を重ねて其が深き信仰の実験を語る言なる事を見過す事は出来ない、希望、聖霊、信仰、喜楽、平康等、其の使用する単語だけを見ても、容易ならざる言である事が解る。
〇原語に随ひ逐字的に直訳すれば左の如くになる。
  希望の神 信ずることに由て 諸の喜楽と平康を以て汝等を充たし給はんことを、是れ聖霊の能力に由りて希望を以て汝等を充ち溢れしめ給はん為なり。
〇第一に注意を惹くは神の名称である、希望の神と称ふ、能力の神、恩恵の神、慈悲の神と称ふは通常であるが、希望の神と称ふは稀である、希望に充つる神、又は希望を与ふる神、何れにしろ基督教は特に希望の宗教であつて、其神は特に希望の神である、宇宙と人類の将来結末に就て失望し給はず、其完全なる救拯を期待し給ふ、彼れ御自身が希望の神であり給ふが故に、彼は我等彼を信ずる者に裕に希望を与へ給ふ、神が我等の終極に就て失(187)望し給はずして希望を懐き給ふと知りて我等は自己に就て失望しないのである 「希望の神」まことに有難い、慰安に充ちたる名称である。
〇「信ずることに由りて」、此は人の為すべき事である、神は与へ、人は信じ、而して恩恵は人に降るのである、信は信仰的生活の発端である、先づ信ずる事なくして、信仰と之に伴ふすべての喜楽又は平康は始まらない、神の裕なる恩恵に与らんと欲して、人は唯全然受動的であつてはならない、彼も亦|或事〔付○圏点〕を為さなければならない、|信じなければならない〔付○圏点〕、而して信は第一に|信任〔付○圏点〕である、自己の無能を覚つて全然之を彼に任《まか》し奉る事である、自己は無きものとなり、神我に在りて我がすべてとなり給ふ事である、信は脳的動作ではない、心的行為である、先づ自己を神に信《まか》し奉る事である、而して其結果として神に関するすべての事を信じ得るに至るのである。
〇而して信の結果は喜楽と平康とである、和訳に「信仰より起る諸の喜楽と平康」とあるが如し、神に自己を任し奉りて信者にすべての喜楽と平康が起るのである、たゞ平康に就てのみ言はんに、平康にも種々ある、内なると外なるとがある、心に平安が臨んで教会に平和が臨む、「それ神は乱《みだれ》の神に非ず和平《やはらぎ》の神なり」とあるが如し(哥林多前書十四章卅三)、和平の神の臨む所に必ず平康がある、「人の凡て思ふ所に過ぐる平安」がある、而して是れ信ずるに由りて予へらるゝ者である。
〇希望の神は我等が自己を彼に信し奉る時に諸の喜楽と平康とを以て我等を充たし給ふ、恩恵は唯僅かばかり降るのではない、充分に降るのである、充たすのである、一杯になるのである、信ずることの結果として信者は、喜楽と云ふ喜楽、平康と云ふ平康を以て一杯に充たさるゝと云ふ、而して是れ単に約束の言ではない、夥多《あまた》の信者に由て実験されし事実である。
(188)〇信ずる事の結果は喜楽と平康とを以て尽きない、信其物は増大せられて聖霊の能力となり、平康の上に希望は加へられ、心を充たすに止まらずして、其中に|充ち溢るゝ〔付○圏点〕に至る、茲に明白なる進歩がある、信は進んで聖霊の能力となり、平康は進んで希望《のぞみ》となり、充たすは進んで充ち溢るゝに至る、「それ有る者は予へられて尚ほ余りあり」とは此事である(馬太伝十三章十二節)、信仰に応じて聖霊の能力は予へられ、平康の上に更らに希望は加へられ、而して充たすに止まらずして充ち溢れしめらる、「我等彼(キリスト)によりて今居る所の恩恵に入ることを得、且つ神の栄を望み、欣喜《よろこび》をなす」とあると同じ義である(羅馬書五章二節)。
〇茲に希望と云ふは基督信者特有の希望である、The hope である、神の栄を望むの希望である、再臨、復活、万物復興の希望である、たゞ単に完全を未来に期する希望ではない、聖書に示す所の明確《たしか》なる希望である、而して信者は信仰の進歩するに循ひて此希望を以て充ち溢れるに至るといふのである、即ち希望は信仰の初めに起る者ではない、最終の美として臨む者である、「患難は忍耐を生じ、忍耐は練達を生じ、練達は希望を生じ」とありて(五章三、四節)希望は信仰生活最終の産物である、即ち基督信者の希望は信仰を離れて獲らるゝ者ではない、信じて、困んで、耐へて、喜楽と平康とを味ひて、然る後に最大最後の賜物として彼の心に臨む者である、此事を知りて、|先づ確実なる信仰の実験を経ざる者がキリスト再臨の希望を嘲けるの資格なきことが〔付△圏点〕判明|る〔付△圏点〕、此希望は信仰の報賞《むくい》として神より臨む啓示《しめし》である、思索に由て獲らるゝ思想ではない、猶太宗教史の研究は該博を極むと雖も、之に由て此希望を懐いて喜ぶことは出来ない。
〇信ずることに由りて諸の喜楽と平康に充ち、聖霊の能力に由りて希望に充ち溢れると云ふ、信仰に聖霊が加はりて希望が起ると云ふのである、即ち、基督信者の希望……再臨復活の希望……を懐くに聖霊の能力が必要であ(189)る、此能力を感得して初めて復活の希望が起るのである、大抵の場合に於て聖霊の降臨とキリスト再臨の希望とが同時に起るのは之が為である、「彼(キリスト)と其復活の能力を知り、その死の状に循ひて彼の苦しみに与り、兎にも角にも死たる者の復活を得んことを」とのパウロの言に由て此事を知ることが出来る、所謂信仰の復活(リバイバル)と称して信仰に劃然たる進歩の臨む時に、聖霊の能力を確認し、再臨復活を強く感得するは信仰上の此理由に依るのである。
〇信じて喜び、和らぎ、終に望む、即ち信者の通常生活の道たる信、愛、望である、信は愛を生じ、愛は望を生ず、而して又望は信を強め、愛を増し、更らに又望を大にす、三姉妹は相援け、相励まし、相互の生長を助く、信は信として独り止まらず、必ず愛を伴ひ、望を喚起《よびおこ》す、愛と望とも亦同じである、彼等は又各自独り立つ能はず、一は必ず二者の援助を要す、特別の信と特別の愛と特別の望と、三者共に手を携へて立つにあらざれば基督信者は立ち得ないのである。
〇「希望の神、信ずることに由りて云々」、喜楽も平康も希望も、其他の諸の恩恵も、皆な「信ずること」に由て始まり又臨むのである、信が発端である、信が元始《はじめ》である、信が源である、信……自己を全部神に信し奉る事……是れありて凡の恩恵は順を逐ふて信者に臨むのである、愛に於て欠乏せん乎、信に顧みよ、愛は信の結果として臨むことを忘れてはならない、望が起らざらん乎、信に顧みよ、信なくして望は起らない、信である、信である、諸の善事の源は|信〔付○圏点〕である、愛を愛として求めんと欲する勿れ、望は望として起る者に非ず、信じて愛あり、愛して望ありである、常に|信の本源〔付○圏点〕に還りて愛と望とを恢復することが出来る。
〇パウロは多分殊更に此言を綴つたのではあるまい、是は多分彼の心の常時的状態であつた、斯かる言が自づか(190)ら彼の口より迸つたのであらう、彼は深い信仰の人であつた、故に斯かる深い言が自づと彼より流れ出たのである。
〇「此故に愛する者よ、汝等之を(新しき天と新らし地とを)望み待てば汚《しみ》なく疵なく主の前に安然ならん事を(主に由りて平康の内に発見せられん事を)務めよ」とある(彼得後書三章十四節)、基督信者特有の希望を懐いて、其結果として起る特殊の平康を享けつゝある間に、思はざる時に再臨の主に発見せらるゝやう務めよとの事である。(六月二十五日京都に於て)
 
(191)     ベツレヘムの星
                         大正11年8月10日
                         『聖書之研究』265号
                         署名なし
 
   みそらにきらめく 千よろづの星は
   御神のみいつを  うたひまつれど
   すくひのたよりと つみびとのあふぐ
   ひかりはひとつの ベツレヘムの星
○空に輝く星の数に限りありません、然し乍ら星の数は幾許あつても、其状態は如何に変つても、星は星であつて人の心を慰むるに足りません、星の事を知れば知るほど宇宙は恐ろしい所となり、随て人生の無聊を感ずること益々大であります、無限の距離と無限の時間、其事を知つて人は唯自分の小を知る丈けであります、天然を究むると称して星の事を幾許知つた所で其結果は悲歎と失望とのみであります。
〇然るに茲に一つの希望の星があります。それはベツレヘムの星であります、「我はダビデの根また其苗裔なり、|我は輝く曙の明星なり〔付○圏点〕」と言ひ給ひし世を照らす真の光であります(黙示録廿二章十六)、彼れ在して我等に真の平安があります、彼れ在して星が示す所の宇宙が恐ろしくない所となります、彼れ在して無限の宇宙が神の殿《みや》となります、彼れ在して罪人も子供となりて天然の庭に楽しく遊ぶ事が出来ます、ベツレヘムの星は他のすべての(192)星に意義を供します、彼は人生を聖むると同時に宇宙を潔めます、キリストは人類の首であつて宇宙の中心であります、彼に由て観て星も花も鳥も意義ある者となり、互に相関聯して一つの聖き目的を達する者となります、ベツレヘムの星を除いて星も天然も解りません。
 
(193)     文化生活と基督教
                         大正11年8月10日
                         『聖書之研究』265号
                         署名なし
 
〇文化生活は基督教でない、文化生活の目的は最も有効的に現世を楽しむにあるに対して、基督教の目的はキリストを以て与へられたる神の生命を享くるにある、二者の間に肉と霊と、天と地との差別がある、文化生活は基督教以前より在つたもの、又基督教以外に於て亦在り得る者である、異教の希臘に於て、回々教の亜拉此亜に於て、又実際的に基督教を棄てたる独逸に於て文化生活は盛に行はれた、文化生活と基督教とは同一の者でないのみならず互に相反対する者である、「シオンよ、我れヱホバ汝の子等を振起してギリシヤを攻めしめん」とあるは此反対性を示したる言である(撤加利亜書九章十三節、英訳の Thy sons,O Zion, against thy sons, O Greece を参考せよ)、基督教はシオンの子、文化生活はギリシヤの子である、而して神は時々前者を振起して後者を攻めしめ給ふのである。
〇基督教を文明の精神として我国に紹介せし米国宣教師は大害を此国に遺したのである、文明は異教的《べーガン》であつて基督教と其根本を異にする、今や文化生活を唱ふる者は、多くは基督教を棄てし者、或は其福音的真理を解せざる者である、基督教が現世化する時に文化生活となる、我国の基督教が其一例である、而して独逸に於て其基督教が独逸文化 Kultur に化せし時に国も教も亡びし如く、現世中心の所謂文化生活は肉と霊と両つながらを減す(194)者である。
 
(195)     BE SLOW.遅鈍なれ
                         大正11年9月10日
                         『聖書之研究』266号
                         署名なし
 
     BE SLOW.
 
 Be slow.Take ample time in doing things.Be satisfied with small things.Only do them well.“He that believeth shall not make haste.”Isa.28:16.God hath done for us in His Son what we ought to do for Him.It only remains for us to fill up here and there“that which is lacking of the afflictions of Christ.”Col.1:24. The Christian is God Almighty's gentleman〈orlady);and he is not a gentleman who is always in hurry. Salvation has been accomplished for us;the prize has been won;and blessed eternity lies before us.God is working with us,and we with God.Joy,joy! We need not be like modern Americans,and“living too fast,commit a speed suicide.”
 
     遅鈍なれ
 
 遅鈍なるべし、事を為すに充分に時を取るべし、小事を以て満足すべし、唯善く為さん事を努むべし、「信ずる者は急がざるべし」と聖書は曰ふ(以賽亜書廿八章十六節)、神は其聖子を以て我等が為すべき事を我等に代り(196)て為し給ふた、今や残るは我等が此所彼所に於て其患難の欠けたる所を補ふ事のみである(哥羅西書一章廿四節参考)、基督者《クリスチヤン》は全能なる神の紳士(或は淑女)なりと云ふ、然かも常に急ぎつ、ある者は紳士に非ず、救拯は既に我等の為に完成せられた、目的物は既に獲られた、永生は我等の前に横たはる、神は我等と共に働き、我等は神と共に働きつゝある、快哉、快哉、我等は近代米国人の如くに余りに急速に生活して|速度自殺〔付△圏点〕を行ふの必要はない。
   惰らず行かば千里の外も見ん
    牛のあゆみのよし遅くとも。
               (徳川家康)
 
(197)     苦しみに勝つの途
                         大正11年9月10日
                         『聖書之研究』266号
                         署名 内村鑑三
 
  実に彼は我等の病患を負ひ、我等の悲歎を担へり、然るに我等思へらく、彼は責められて神に撃れ苦しめらるゝ也と、彼は我等の愆の為に傷けられ、我等の不義の為に砕かれ、自から懲罰を受けて我等に平安を与ふ、その撃たれし痍によりて我等は癒されたり、我等は皆な羊の如く迷ひて各々己が道に向ひ往けり、然るにヱホバは我等凡ての者の不義を彼の上に置き給へり(以賽亜書五十三章四−六節)。
  凡て行路人よ、汝等何とも思はざる乎、ヱホバその烈しき震怒の日に我を悩まして我に降し給へるこの憂苦《くるしみ》に等しき憂苦またと世にあるべきや、考へ見よ(哀歌一章十二節)。
  凡て労れたる者また重《おもき》を負へる者よ、我に来れ、我れ汝等を息《やすま》せん、我は心柔和にして謙透る者なれば我軛を負ひて我に学べ、汝等心に平安《やすき》を獲べし、そは我軛は易く、我荷は軽ければ也(馬太伝十一章廿八−卅節)。
〇人には何人にも苦難《くるしみ》があります、苦難は貧者にもあります、富者にもあります、下流社会の人にもあります、上流社会の人にもあります、人は如何に工夫しても苦難より免かるゝ事は出来ません、縦し世に苦難の尠ない人がありましても、最大の苦難なる死を免かるゝ人は一人もありません、人生は苦難の街《ちまた》であります、苦難は万人の共通性であります。
(198)〇然るに人は苦難を嫌ひます、如何《いかにか》して之を避けんとて種々の工夫を凝らします、或る苦難は之を避くる事が出来ます、然し多くの苦難は之を避くる事は出来ません、茲に於てか人力以上の力に頼らんとします、神仏に祈願を懸けます、或ひは秘伝を授かりて悪魔を追攘はんとします、然し苦難は依然として存ります、文明進歩の今日と雖も此世は昔と変らざる涙の谷であります。
〇茲に至てか苦難を除く他の方法を発見しなければなりません、苦難を除く事は出来ません、然し之に堪ゆる事は出来ます、死は之を廃する事は出来ません、然し之に堪へ之に勝つの能力を供せられて死は廃せられしと同然のものとなります、そして本当の宗教は此能力を供して苦難と苦難の王なる死とを亡ぼすのであります。
〇然るに大抵の人は此事が解りません、大抵の人は神様は苦難其物を除いて下さる者であると思ひます、そして若し神に祈願を籠めて苦難が除かれないならば、神は無いとか、在るも人を助くるの力が無いと思ひます。勿論万物を主宰し給ふ神に人の苦難を除くの力が有ります、そして或る場合に於ては人の祈願に応へて苦難を除きます、疾病を癒します、波浪を静めます、死者をさへ甦らします、然し是等は特別の場合であります、普通の場合に於ては所謂天然の法則が行はれまして、苦難は苦難として実現します、故に不信の人は疑問を起して曰ひます、若し神が在るならば何故苦難がある乎、神若し神たらば苦難は直に之を除くべきではない乎と。
〇神はたしかに在ります、苦難も亦在ります、而して苦難を廃せずして之に堪へ、更らに進んで之に打勝つの能力を賜ふて神は御自身の存在を証明し、人は又其奇しき能力の供給に与かりて神の実在を実験し、自分が神の愛に触れし其|祝福《さいはひ》を自覚するのであります、苦難は之を除いて戴かずとも可いのであります、之に堪へ之に勝つの能力を戴きますれば除いて戴いたと同然であります、否な、衷に耐ゆるの能力を戴くのは外に苦難を除いて戴く(199)より遥か以上の恩恵であります、苦難を除かれて直に神を忘れるの危険があります、然し乍ら苦難に勝つ能力を賜はりて我等は神の宿る所となるのでありまして、人生の幸福此上なしであります、若し苦みし事に由りて神と偕なるを得しならば、苦しみは人生最大の幸福であります、そして多くの聖徒は此幸福を実験して苦しみの内に在りて神を讃美しました。
〇そして苦難に勝つの能力はたゞ漠然として信者の心に臨むのではありません、慰安を持来す慰安者《なぐさめて》があるのであります、我等は苦しんで新たに友を得るのであります、たゞに此世の同情者を得るに止まりません、神を代表する神の子を友とするに至るのであります、イエスキリストが神の子である証拠は彼が人の中で最も多く、最も強く、最も深く苦しんだ事に於てあります、彼れ御自身が預言者の口を以て言ひ給ひました、「ヱホバが我に降し給へるその苦しみに等しき苦しみはまたと世にあるべきや」と、ゲツセマネの園に於て彼の苦しみは其極に達し、彼れ其弟子に曰ひけるは、「我心痛く憂へて死ぬばかりなり」と、又地に伏して祈り曰ひけるは「若し聖旨《みこゝろ》に適はゞ此時を去らしめ給へ」と(馬可伝十四章)、イエスキリストの伝記を読みし者は皆な彼が人間の内で最も不幸なる人でありし事を知ります、而かも此人が同時に又最も聖い最も義しい人でありし事を知りまして人生の苦難の決して神の刑罰としてのみ降る者でない事を知ります、苦しむ時に其事を知る丈けが大なる安慰《なぐさめ》であります、然し事はそれに止まりません、此の聖い義しい方が「我が軛を負へ」と曰ひ給ふのであります、「軛を負へ」とは「軛を共にせよ」と謂ふ事であります、軛は二頭の牛の上に置かるゝ者でありまして、軛を共にするとは二人で一箇の軛を負ふ事であります、之を称して軛仲間と云ひます(腓立比書四章三節に「労苦《はたらき》の侶《とも》」とあるは此事であります)、そして神の子イエスは言ひ給ふのであります、「凡て労れたる者また重を負へる者よ、我と軛を共(200)にせよ、我れ汝と共に同じ軛を頸に懸けて汝の牽ける重荷を牽かん」と、何んと大なる特権ではありません乎、神の子が私と併んで同じ軛を其頭に懸けて私の牽くべき荷物を牽いて下さると云ふのであります、そうなれば重荷は重荷ではありません、「汝等心に平安を得べし」とある其通りであります、彼は重荷を取除いて下さりません、然し私と併らんで重荷を負ふて下さります、二者何れが幸福でありませう乎、勿論後者であります、苦難に遭ふた結果として神の子と軛仲間となつたとすれば之に優さるの祝福はないではありません乎。
〇そしてイエスと軛を共にして重荷が軽くなる許りではありません、私供は彼に学び、彼が心柔和にして謙遜る如く、私供も彼の如くに成るのであります、彼と軛を共にして私供の頑強が打砕かれます、私供の傲慢が引下されます、二頭の牛は同等の力であり同様の性質でなければ能く同一の軛に堪へません、其のやうに神の子と同一の軛を負ふに至て私供各自も亦彼と力と性質を同じくするに至ります、如斯くにして苦難は之を除いて欲しくありません、之を好き機会として神の子の軛仲間となり、彼と苦難を共にして彼の能力の供給に与りたくあります。
〇如斯くにして苦難は人生に無くてはならぬ必要のある者であります、苦難に由て人は神と偕なるに至ります、肉に於て死して霊に於て生くるに至ります、即ち永生を己が有となすに至ります、そして此事を知つて苦難が人生より絶えない理由《わけ》が解ります、|苦難の無い世界〔付△圏点〕……それは実に堪えられない世界であります、神を知るは永生であります、そして神が其独子を以て私供と共に苦難を頒つて下さつて、私供は神を知りつゝ永生に入るのであります、苦難に之を除かれんと欲《ねが》はず、之に堪えまた勝つの途を取るべきであります、そして其途はキリストの福音に於て在ると信じます。
 
(201)     計算の罪
                         大正11年9月10日
                         『聖書之研究』266号
                         署名 内村鑑三
 
  撒母耳後書二十四章一−十七節、歴代史略上二十一章一−十七節を精読すべし。
〇普通の場合に於て計算は為さねばならぬ事である、凡そ正確を愛する人は精密に計算する、計算は自己の能力を知る為に必要である、イエスは教へて曰ひ給ふた、「汝等誰か城を築かんに先づ座して其費用此事の竣《な》るまでに足るや否やを計らざらん乎、恐くは基《もとゐ》を置て之を成し能はずば見る者皆嘲笑いて、此人は築き始めて成遂ざりしと言はん、また王出て他の王と戦はんに先づ座して此の一万人をもつて彼が二万人に敵すべきや否やを計らん乎、若し然ずば敵なほ遠くにある時に使者を遣はして和睦を求むべし」と(路加伝十四章二八−三二節)、茲に主は明白に我等が事を成さんとするに方て正さに計算すべき場合を示し給ふた。
〇然し乍ら信者の生涯に於て計算は明かに罪である場合がある、而してその最も著るしき者は聖書の示せるダビデの場合である、|計算は人が神に倚らずして自己に雷る時に罪と成る〔付△圏点〕、霊に頻らずして物に頼り、物の数に勢力を求むる時に計算は神の憎み給ふ所となる、そしてダビデの場合はそれであつた。
〇「茲にサタン起りてイスラエルに敵しダビデを感動してイスラエルを数へしめんとせり」と云ふ、ダビデは茲(202)に悪魔に誘はれて国勢調査を行はんとしたのである。何の為の調査であつた乎、自己の勢力を知り之を誇り之に頼らんが為であつた、彼は卑賤より身を起し、神の特別の恩寵に由り、多くの敵に打勝ちてイスラエルに王たるに至つた、ダビデの王国は今やイスラエル全国は勿論の事、アンモン、モアブ、エドムの諸国を併合し、西方亜細亜に一大勢力たるに至つた、是れダビデの場合に於ては神の特別の恩恵に由る事であつて、彼は此国を統御し其勢力を維持するに方て唯偏へにヱホバの指導恩寵に依るべきであつた、然るに成功はダビデをして神より離れしめんとした、サタンは後にイスカリオテのユダの心に入りし様に其時ダビデの心に入つた(路加伝廿二章三節)、彼も亦ネプカドネザル王の如くに己が鴻業を見て独り楽しまんと欲した、「此大なるバビロンは我が大なる力をもて建て京城となし之をもて我が威光を燿す者ならずや」と(但以理書四章三十節)、ダビデも亦言はんと欲したのである、「此大なるイスラエルの国は、是は我が大なる力を以て建てし者、我が威光を耀す者ならずや」と、而して此目的を以て彼は大将ヨアブに国勢調査を命じ、イスラエルとユダの中に剣を帯る者、即ち兵役に適する者の総数を報告せしめたのである、然るにヨアブは斯かる調査の無用なるを知り、王の不信を諌めて曰ふた「幾何あるとも願くはヱホバ民を百倍に増し給はんことを、陛下よ、是は皆な陛下の僕ならずや、然るに何とて陛下は此事を為さんと要め給ふや」と、然るに王は大将の諌言を聴かなかつた、而して強ひて調査を行はしめ、イスラエルの中には剣を帯る者一百十万人、ユダの中には四十七万人との報告に接して、心窃に己が勢力の偉大なるを喜んだのである、而して「此事神の目に悪しかりければ神イスラエルを撃なやまし給へり」とある、而して此不信の罪に対し神の降し給へる刑罰の如何なる者なりし乎は本文の明かに示す所である。
〇神を信じて事を為すに方て其結果を知るの必要はない、無いのみならず知るは却て有害である、「世界と其中(203)に住む者とは皆なヱホバの有なり」である(詩篇二十四篇一節)、彼は之を己を信ずる愛子に与へんと欲し給ふ、神の賜物に限りなし、我等は己が所有と称して特に之を数ふるの必要は少しもない、まことにヨアブが言へるが如く「幾何あるともヱホバ其の数を百倍に増し給はん」である、「或は三十倍、或は六十倍、或は百倍の実を結ぷなり」とあるが如し(馬可伝四章二十節)、我等は唯信じて沃壌《よきち》に善き種を播けば其余を知るの必要はない、「それ地は自から実を結ぶものにして初めには苗 次には穂いで、穂の中に熟したる穀を結ぶ」とあるが如し(仝廿八節)、成長増加は万物の法則である、神の道に循つて働いて我等の事業は増大せざるを得ないのである。
〇然るに神を信ぜず又万物の法則を信ぜず、己が力に頼り、己が勢力を測らんと欲す、茲に計算の必要が起るのである、国勢又は教勢調査を行はんと欲するの心が起るのである、我が信者の数は幾何、其財産は幾何、我が目下の勢力は幾何、将来拡張の目的如何と、然れども幾何あるとも是れ信者の関はる所ではない、我等は之を知るに及ばず、知つて却て神の怒を招くのである、「此事神の目に悪かりければ、神 |教会〔付△圏点〕を撃悩し給へり」と書直して多くの事実を語るのである、西洋の諺に曰く「神は統計表に興味を有ち給はず」と、然るに事実は如何、教会は統計を作り、之を愛し、之を誇るのである、計算は英米人の弊である、彼等は統計表に現はれざる実力を信じない、是れ彼等の伝道なる者が無効に終る主なる原因である、我等は英米人に傚つて計算の罪を犯してはならない。
 
(204)     虹の意味
                         大正11年9月10日
                         『聖書之研究』266号
                         署名 内村鑑三
 
  神言ひ給ひけるは、我が我と汝等及び汝等と共なるすべての生物との間に世々限りなく為す所の契約の徴は是なり、我れ我が虹を雲の中に起さん、是れ我と世との間の契約の徴なるべし、即ち我れ雲を地の上に起す時、虹、雲の中に現はるべし、我れ乃ち我と汝等及びすべて肉なるすべての生物の間の我が契約を念はん、水再びすべての肉なる者を滅す洪水とならじ、虹雲の中にあらん、我れ之を観て神と地に在るすべて肉なる者との間なる永遠の契約を念はん、神ノアに言ひ給ひけるは、是は我が我れと地にあるすべての肉なる者との間に立たる契約の徴なり(創世記九章十二−十七節)。
〇神の造り給ひし万物に尽く意義がある、夏の雲に現はるる美しき虹にも亦深い意義がある、雲は単に蒸発気の凝結したる者でない、虹はまた単に太陽の光線が水の細胞に当つて七色に分析されたる者でない、理学的の雲と虹とは心霊的の或る者を示す、其の何たる乎は此所に引用せる聖書の言の示す所である。〇雲は雨の貯蔵所である、その破裂して雨水を注出《そゝぎいだ》すや、地上に洪水起る、水は患難を意味す、「汝の大滝の響きによりて淵々呼び応へ、汝の波、汝の猛浪《おほなみ》悉く我が上を越えゆけり」とあるは大患難の襲ひ来りて我身を飲まんとする状を言表はせし言葉である(詩篇四十二篇七節)、「人は水と霊とに由りて生れざれば神の国に入るこ(205)と能はざる也」とのイエスの言は「人は患難と聖霊とに由つて生れざれば神の国に入ること能はず」と解すべきであると思ふ(約翰伝三章七節)、水は患難、雲は其発源地「それ我等の先祖は皆な雲の下に在り、皆な海を過《とほ》り、皆な要と海とにてバプテスマを受けてモーセに属けり」とのパウロの言は深い実験を語るものである(哥林多前書十章一、二節)。
〇太陽の光線が雲に当りて虹が起る、神の光輝《かゞやき》が人の患難を照らして恩恵生ず、光線其物は無色透明、眼は其光輝に堪へず、身は其熱に焼尽さる、神の光輝も亦同じ、人は直に之を仰いで其前に立つ能はず、タルソのパウロ、己が義を頼みて他を迫害し、ダマスコ途上直に神の光輝に接するや、「我れ天より光あるを見たり、日よりも輝きて我れ及び共に行ける者を環り照せり、我等皆な地に仆る」とある(行伝廿六章十三、十四節)、「誰か此の聖き神なるヱホバの前に立つことを得ん」である(サムエル前書六章廿節)、我等は肉眼を以て太陽を見る能はざるが如くに、亦霊眼を以てして聖き神なるヱホバを仰ぎ奉ること能はず、|日光が雲に当り、其反射分解する所となり、美くしき天の〔付○圏点〕懸橋|となりて現はるる時に、人は之と相対して其美を讃へ、其色を〔付○圏点〕賞|るが如くに、ヱホバの〔付○圏点〕光輝|も亦人の患難に触れ、其涙の〔付○圏点〕雫|に当り、憐愍恩愛の虹として現はるる時に、罪人も之を仰ぐを得て、共〔付○圏点〕和照《あたたまり》|に傷める霊を癒すのである〔付○圏点〕。
〇虹は神が罪に悩める人を救ひ給ふとの契約の徴である、洪水は歇み、罪は洗はれ、ノアはヱホバの為に壇を築きて燔祭を其上に献げた、ヱホバ之を受納し給ひて虹を雲の中に起して洪水を以て再び地上の諸生を滅さゞるべしとの契約の徴となし給ふた、神、人、生贄、雲、虹と云ふ、殊にヱホバ其|馨《かうば》しき香を嚊ぎ給ひて、我れ再び人の故に因りて地を詛ふことをせずと言ひ給ひしと言ふ、言葉は人類幼稚時代のそれであつて、神人同性説の迷信(206)を免れずと雖も、其内に深い心霊的真理が籠つて居を、罪は苦難を招き、苦難に由て罪を知る、而して我れ罪の挽回の生贄を以て神に近づけば、神は赦免《ゆるし》の恩恵を以て苦難の中に現はれ給ひて、再び同一の苦難を以て我を罰せじと誓ひ給ふ、事は人の宗教的実験に属することであつて、其内に少しも不思議はないのである。
〇而して基督者《クリスチヤン》の場合に於ては生贄は神の備へ給ひし羔イエスである、彼は我等の挽回《なだめ》の供物である、我れ彼に由りて改悔の涙を以て神に近づけば、神は彼の故に我を赦し、罪と罪の結果なる苦難《くるしみ》を聖め、恩恵の光を以て我を照し給ふ、故に云ふ、罪人は直に神の聖顔を仰ぐ能はず、「イエスキリストの面に輝く栄光」を見て喜ぶのであると(哥林多後四の六)、「夫れ我等の神は焼尽す火なり」とあるが、イエスキリストの面に輝く其栄光は罪を赦し、疾病を癒す慈光《めぐみのひかり》である、即ち虹である、見るに美はしき、仰ぐに快き七色の虹である。
〇此事を知りて黙示録四章二、三節の意味が解る、曰く「我れ天に一の宝座《くらゐ》設けありて其上に坐する者あるを見たり、其の顔は金剛石赤瑪瑙の如く、且つ其の宝座の四囲に緑の玉の如き虹あり」と、天に在して罪人の為に執成し給ふ羔は其の宝座の四囲に虹を纏ひ給ふと言ふ、単に栄光の徴として後光が指すと云ふに非ず、虹が輝くと云ふ、羔の放つ光は緑の玉の如き虹である、仰ぎ見て美しく、望み瞻て慕はしくある、「また城(聖城《きよきまち》なる新しきヱルサレム)に日月の照らす事を需めず、そは神の栄光之を照らし且羔城の燈なれば也」とある(廿一章廿三節)、神の国は彼の栄光の光輝なる羔イエスの照らす所であると云ふ、即ち虹の王国である、悔改めたる罪人の為に備へられたる慈光の光り渡る国である。(今年夏虹多き浅間山麓に於て述べし所)
 
(207)     伝道師の不足
                         大正11年9月10日
                         『聖書之研究』266号
                         署名なし
 
 イエス其弟子等に告げて曰ひ給ひました「収稼《かりいれもの》は多く働く者は少し、故にその稼主《もちぬし》に働く者を収稼所《かりいれば》に遣《おく》らんことを求むべし」と(路加伝十章二節)、是は実に我国今日の場合に最も適切なる言葉であります、日本人は今や真実の信仰を求めて止みません、而して国家も社会も先づ第一に本当の宗教を要求します、然るに之に応ずる者は殆んど無いと云ふても可い程尠ないのであります、日本人、殊に教育ある日本の青年は、自身宗教の必要を唱へながら自から其伝播の任に当らんとしません、而して彼等の父兄も亦其子弟が宗教事業に入ることを好みません、彼等は政治、経済、殖産、工業等此世の名誉と自己の利益を博するに足る事業には争つて就かんと欲しますけれども、自から十字架を担ふてイエスの足跡に随はんと欲する者の如きは彼等の内に殆んど見当りません、今や我国に千余の外国宣教師が居ます、而して彼等の多数は熟れも大学卒業の青年男女であります、彼等は其生涯を日本国教化の為に費さんとて此国に来て居るのであります、之に対して我国の大学卒業生の幾人が同胞教化の為に其心身を投じて居ます乎、之では日本人は自から選らんで精神的に外国人の奴隷となりつゝあるのではありません乎、日本人の耻辱此上なしであります。
 
(208)     黒岩涙香君を懐ふ
                           大正11年10月6日
                           『黒岩涙香』
                           署名 内村鑑三
 
 余は余の一生の間にたゞの一回新聞記者となつた、それは黒岩涙香君の下に万朝報に筆を執つた事である、初めは其英文欄を引受け、後には数年に亘り和文を以て余の感想を投書するの名誉に与つた、余は此の間に親しく涙香君と交はるの機会を与へられた、君の令兄四方之進君は明治の初年、札幌農学校に於ける同窓であつて今日に至るも猶ほ親交を継続する信仰の友である、君の令姉秦夫人も亦余の青年時代に於て是れ又信仰上の交際を重ぬるを得し貴き友である。四方之進君は稀れに見る基督教的紳士、秦夫人は同じく敬ふべき基督教的淑女、而して涙香君は彼等の愛する弟であつた、涙香君に君の兄姉の宗教的信仰はなかつた、然し乍ら何処かに黒岩家の高き貴き気品があつた、彼の外面にのみ注意せし世人は此気品を見逃したやうであるけれども、君に親しく接せし者は時々之を見留めざるを得なかつた、姉君は時々余に告げて『ドウゾ周六も信者にして下さい』と云はれた、然し是れ余の到底為す能はざる所であつた、君は君の兄姉の宗教にして又余の宗教なる基督に対して常に厚き尊敬を表せられた、君自身も亦信者たらん事を欲せられし時もあつたらうと思ふ、然し乍ら君に取り現世は余りに興味が多かつた、君は現世を棄てゝ来世を取らんとするには余りに多情であつた、其結果として『天人論』に現はれたる君の神観以上に神に接近する事が出来なかつた、是れ君に取り大なる損失ではなかつた乎と、君の令兄(209)と令姉と余とは思ふた、然し勿論君はさう思はなかつた。
 涙香君は所謂インテンス、キヤラクター(熱烈なる性格)であつた、即ち|若し神たらずんば悪魔たるも辞せず〔付△圏点〕と云ふやうな質《たち》の人であつた、故に君は何事にも第一番とならんと欲した、第一番に成り得ざる事には手を附けなかつた、五目列べの技に第一番と成らんと欲して君の生涯の貴重なる満二年を費した、哲学に没頭すれば寝食を忘れて其研究に従事し、一年ならずして一角の哲学者となられた、すべてが此類であつた、余は曾て君に勧むるに万朝報を我国第一の新聞紙となさん事を以てした、然れども品質的に第一番となさんと欲せば数量的には降らざるを得ずと言ふた、君は此提案を納れなかつた、品質的にも数量的にも第一番となさんと君は言はれた、斯の如くにして君は余りにアムビシヤスなる(慾高き)が故に屡々不可能事を計画した、余を以て見れば是れ君が生命を縮めし其の理由であると、絶対的完全は此世に於ては得られない、天を得んと欲すれば地を棄てざるを得ず、質に於て優らんと欲すれば量に於て劣らざるを得ずとは有限界を支配する避くべからざる法則である、然るに涙香君は此法則に超越せんとした、何事に於ても、亦何れの方面に於ても第一番にならんと欲した、余は此点に於て君が哲学的自己抛棄《フイロソフイカルセルフレナンシエーシヨン》の秘義に達せられん事を望んで止まなかつた。
 余は個人として涙香君に負ふ所が多い、君は余を知つて呉れた極めて少数者中の一人である、君の援助と奨励となかりしならば余の一生は或ひは隠遁の中に終つた乎も知れない、君は敵には辛く当つたが味方に対しては甚だ甘かつた、君の趣味は稍や粗雑であつた、然し君の心情は濃厚であつた、君は余が此世に於て交はるを得し最も著るしき人の一人であつた。
 
(210)     〔商人と宗教〕
                         大正11年10月10日
                         『商人と宗教』
                         署名 内村鑑三 稿
 
〇人の職業は種々であります。諸君は商人であります。私は基督教の教師であります。然し乍ら人は其職業ではありません。職業は衣類と同じく人の本然性ではなくして偶然性であります。衣類を剥げば其下に万人同性の身体があるやうに、職業の下に人間があります。永遠性を帯びたる霊魂があります。宗教は所謂宗教家のみの事ではありません、恰かも医術は医者のみの事でないと同然であります。医術が其職業如何に関はらず万人に必要であるが如くに宗教も亦何人にも必要であります。
〇「人はパンのみにて生くるに非ず」、政治家は政治のみにて生ず、美術家は美術のみにて生ず、商人は商品又は金銭のみにて生きません。人には何人にも霊魂があります。神らしき所があつて神を要求します。死があつて死後の問題が起ります。金銭を以てしても到底購ふことの出来ない多くの物の必要があります。斯くして商人も政治家も美術家も、幾度も自己の択びし職業を忘れて人たるの本然性に立帰ります。商人は商業を以て生命とすと云ふ人もありますが、人は何人でも此世の職業を以てして其すべての要求を充たす事の出来るやうな、※[開の門無し]んな浅はかなる、つまらない者ではありません。
〇如何なる時に斯ういふ問題が起りますか、大抵の人は失敗した時に宗教心を起します。そして失敗は何人も時(211)に免かるゝ事の出来ない事でありますれば、常に失敗に会ふ時の準備をして置くの必要があります。恰かも万一の災殃《わざはひ》に備へんが為に予め商品に海上保険又は火災保険を附して置くの必要があると同じであります。失敗に会ふて周章て宗教心を起して自己を慰めんとしても間に合ひません。常時の準備が必要であります。然るに事実如何と云ふに、商品に保険を附する事に怠らない商人にして失敗の時の準備を為して置く者は滅多にないのであります。商業の失敗は毎日ある事、然るに自分丈けには失敗は来らぬものと思ふて、之に処するの準備をして置かないのであります。是は大なる怠慢ではありません乎。而して本当の宗教は失敗の時に備ふる為の保険であります。或は之に由て失敗を未発に防ぐかも知れません。或は之に力を得て失敗を挽回するかも知れません。或は縦し商業は失敗に終つても、己が霊魂を守るを得て、希望の内に一生を終る事が出来ます。成敗常なく、危険極まる此世に在りて、宗教を以て人生の失敗に保険を附して置かずして宜しう御座いませう乎。
〇宗教の商人に取り必要なるは失敗の時に限りません。成功の時にも必要であります。成功の危険は失敗の危険丈けそれ丈け多くあります。世には商売が余りに旨く行つて其れが為めに潰れた家があります。成功の為に家庭の平和が破れます。家族の健康が害されます。主人並に店員の心が緩みて其結果として弊害が百出します。人生の意義を明かにせずして成功は大なる危険であります。而して成功をして成功せしむる為に宗教は必要であります。神を畏れるの心を以てして初めて成功に勝つことが出来ます。諸君は成功に憧憬れて成功の危険を忘れてはなりません。
〇而して縦し成功に負けないとしても、成功は決して至上善ではありません。試みに諸君が思ふ存分に儲けて、自由勝手に金が使へるやうになつたと仮定して御覧なさい。それで諸君の心は充たされませう乎、決してさうで(212)はありません。散《か》かる場合に於て諸君に第一に起る感覚は|人間の如何に卑しき者なる乎〔付○圏点〕、其事でありませう。金、金、金と云ひて、金を獲んが為には何でもする人を見て人が実際厭になるのであります。世に金の有る人ほど人間の汚点を見る者はありません。彼等には学者も芸術家も、時には宗教家までが、実に賎しい者として見えるのであります。若し真に人間美を見んと欲するならば金を有たざるに如くはありません。多くの金持が金を持ちながら人世に失望するは是が為であります。金を持つた為に本当の人が近づかなくなり、本当の人が見えなくなり、終に本当の人の存在までを疑ふに至るのであります。不幸此上なしであります。而して宗教に由て霊魂を潔めて我等は富みて人を見る眼の晴明を維持する事が出来ます。富みて人世の嘲笑家と成ることなく、賢を賢として之と交はるの心は之を平常の信仰的修養に待たざるを得ません。
〇富の本当の価値は死を思ふ時に解ります。富は死んで持つて行く事が出来ません、人の成功するは四十歳であるとして彼が之を楽しむ事の出来るは僅に二十年、長くて三十年であります。そんな物が貴い筈はありません。而して一生努力して得た者を世に遺して……或る場合には他人に遺して……自分は乞食同様裸体で逝かなければならないと知つて富の価値の尠ない事が解ります。然らば貴い物は何でありませう乎、|死んで持つて往く事の出来るものであります〔付△圏点〕。貴しと思はるゝものを義しき事の為に棄つることの出来る心、殊に棄てた事のある実験、それは霊魂に附く宝でありまして、死と同時に己を離れざるものであります。本当に、深く此心を起さしむる者は本当の宗教であります。浮雲の如き此世の富を永久の財《たから》たらしむる者も亦宗教であります。私は商人は宗教は要らないと云ふ人の心が解りません。宗教が解つて初めて商業に意味があるのであります。
 
(213)     CRITICISM AND ORTHODOXY.批評と正教
                        大正11年10月10日
                        『聖書之研究』267号
                        署名なし
 
     CRITICISM AND ORTHODOXY.
 
 I think this is true that Criticism is right in method and wrong in conclusions,and that orthodoxy is wrong in method and right in conclusions.(By orthodoxy,I mean eYangelical faith;not the orthodoxy of Rome or of the Church of England,which I hate from the bottom of my heart.)The ideal is evangelical faith through criticism;and I think the thing is possible. That intellect will eventually confirm the vision of heart is a well-established fact. What is faith but the supreme womanliness in man, and intellect,but the slow,plodding manliness in him! Man is bound to establish woman;else there is no lasting peace. That Western way of Criticism scoffing at Orthodoxy,and of Orthodoxy carping at Criticism is entirely absurd,and is not to be imitated in the East.
 
     批評と正教
 
 私は此の事が真理であると思ふ、即ち批評は方法に於て正くして結論に於て誤り、正教は方法に於て誤り結論(214)に於て正くあると。(正教と謂ひて私は福音的信仰を意味するのである、羅馬天主教会又は英国々教会の称する所謂正教即ちオルソドキシーを指して謂ふのではない、是れ私が私の心の奥底から嫌ふ所のものである)。私の理想とする所は批評の方法に由て達したる正教である。而して是れ不可能事ではないと思ふ。夫れ知識は終に心の幻想を確立するに至るべしとは既定の真理である。信仰何物ぞ、人の衷なる最美の女らしきものに外ならず。知識何物ぞ、彼の内に働らく遅々として歩を進むる男らしきものである。男性は終に女性を確立するに至る 然らざれば永久の平和はない。かの西洋諸国に於て、批評は正教を嘲り、正教は批評を譏るは全然不道理である。東洋は此事に於て西洋に傚ふてはならない。
 
(215)     パウロと神学者
                         大正11年10月10日
                         『聖書之研究』267号
                         署名なし
 
〇今やパウロ排斥は基督教界の流行である。英国に I・シンガーなる学者があつて、近頃『イエスとパウロの競争的哲学』なる書を著はし、新約聖書に思想の二大潮流があり、互に反対の方向に流る。イエスの思想とパウロのそれとは互に相反し、而して吾人は前者を取て後者を捨つべしと論じて居る。又米国クローザー神学校の教授にしてヘンリー・C・ヴェツダーなる学者があり、其人は『基督教の根本義』なる書を著はし、其内に「今日までの基督教はパウロに従つて来た、然し今後の基督教はイエスに従はねばならぬ」と論じて居る。此の他に同一の事を論じて居る書は沢山に在る。
〇是等の欧米の神学者に対してパウロ自身は左の如くに答ふるのである。
  我等にもせよ、天よりの使者にもせよ、若し我等が曾て汝等に伝へし所に逆ふ福音を汝等に伝ふるものあらば其人は|詛はれし者〔付△圏点〕なり。我等既に言ひしが今また重ねてその如く言はん、若し汝等が受けし所に逆ふ福音を汝等に伝ふるものあらば其の人は|詛はれし者〔付△圏点〕なり。……兄弟よ我れ汝等に告ぐ、我れ曾て汝等に伝へし所の福音は人より出でしに非ず、そは我れ之を人より受けず、亦教へられず、惟、イエスキリストの啓示《しめし》に由りて受けたれば也(加拉太書二章)。
(216)〇パウロを信ずべき乎、近代の欧米神学者を信ずべき乎、我等日本の基督者は二途孰れかを選ばねばならぬ。而して余自身はパウロを信じて是等神学者を信ぜざらんと欲する者である。パウロは明白に言ふ「我が伝へし福音に逆ふ者は|詛はれし者〔付△圏点〕なり」と。パウロの福音はイエスの福音に非ずと言ふ者、二者は互に相反すと言ふ者は勿論此名称に当る者である。即ち|詛はれし者〔付△圏点〕である。詛はれし欧米の神学者、殊に米国の神学者……我等は彼等より福音を聞くの必要はない。実《まこと》に「福音に非る福音」を彼等に受けて我等の霊魂は餓死するのである。
 
(217)     開会の祈祷
        (九月十七日、初秋第一回の講演会を開くに当つて)
                         大正11年10月10日
                         『聖書之研究』267号
                         署名 内村
 
〇我等の主イエスキリストの御父にして、天地万物の造主、其主宰者なる真の神様。御恵みに由り今日も亦我等此所に集ふことが出来、貴神《あなた》に見えまつり、貴神の聖言を学び、聖旨を探る此機会を与へ下さいまして誠に有難く存じ奉ります。我等久しく此聖き集会を閉ぢ、相互より離れ、共に貴禅を讃美し奉るの喜びを得ませんでしたが、今日はまた、秋の此初めの安息日に於て、我等の計画通り、此堂に一同集ふことが出来、誠に有難く存じ奉ります。貴神が私供に下し給ふ御恵みに数限りはありませんが、時を定めて私供一同貴神の前に集り、聖名を讃美し奉り、聖言を学び、私供の心の切なる要求を充たさんが為に、祈祷を以て貴紙の聖座に近づき得るの此特権は、是は貴神が貴神の子等に与へ給ふ最大の恩恵と信じまして、此恩恵に与る毎に貴神に私供の言ひ難き感謝を捧げざるを得ません。願くは今日も亦聖顔の光を私供の上に注ぎ給ひて、此所に亦人のすべて思ふ所に過る平安を私供一同の心の衷に宿らせ給へ。願くは今日より始むる今年の此聖書の研究の上に貴神の御導きを添え給ひて、私供をして益々深く貴神の聖旨の在る所を悟らしめ給へ。貴神は今日まで、長の間此集会を守り導き給ひ、此不信の国に於て、其都の中央《まなか》に於て、人の勢力《ちから》には何等頼ることなくして私供之を継続することを得て感謝に堪え(218)ません。猶ほ此上とも更らに御導きを続け給へ。嗚呼神様、貴神に頼り奉りて世に怖るべき事は何もありません。貴神の聖旨が終に成るのであります。諸々の国人は騒ぎ立ち、諸々の民は空しき事を謀るとも貴神の御計画を妨ぐる事は出来ません。願くは貴神が此|国民《くにたみ》に就て念ひ給ふ善き聖旨が私供に由て成遂らるゝやう貴神の御導きを続け給へ。
〇そして私供のみならず、すべて此国に於て、又世界万国に於て貴神の聖名が崇められ、貴神の聖旨が伝へらるゝ所には、同じ御恵みと御導きとを垂れ給へ。願くは此暗らき世界が一日も早く、光の世、イエスキリストの国となるやう貴神の御力を加へ給へ。悪魔と悪人との計画が悉く失敗に帰し、貴神の浄き義き聖意が全世界を統治《すべをさ》むるの日を早く来らせ給へ。
〇殊に又我等の愛する此日本国を恵み給へ。其内に多くの義人を起し給へ。そして此国が義の国となりて貴神が義を以て全人類を治め給ふ、その善き器と成らしめ給へ。そして我等各自、誠に弱くして取るに足らざる者でありますが、貴神に依りて強き者となり、貴神が此国と全世界とに成さんとし給ふ其大御心に副ふて働く忠且善なる僕たらしめ給へ。願くは我等各自、自分の弱きを理由として、貴神が我等の上に置き給ふ貴任を回避する事なく、進んで貴神の命に従ひ、生命を棄て生命を獲る、人生最大の幸福に与り得るやう弱き愚かなる我等を導き給へ。
〇殊に貴神の福音を解り得るやう天よりの智慧を下し給へ。貴神は幼児《をさなご》に貴神の智慧を授け給ひます。我等智慧ありと思ふ時に愚かなるのであります。我等自分の能力、知識、道徳に頼る時に貴神に遠かるのであります。貴神の求め給ふ祭物は砕けたる霊魂であります。願くは我等各自の衷に本当の謙遜を起し給へ。我等各自をして本(219)当の価値《ねうち》を知らしめ給へ。そして真に自分に何の善きものなきを知らしめ給ひて、貴神が我等の為に備へ給ひし最大の善、至上の義を、即ち主イエスキリストを我等の有となし得るやう御導きを垂れ給へ。キリストの外に誇るべき何物もなきやう我等の信仰を作り上げ給へ。
〇願くは今日此所に学ばんと欲する真理を誤らずして併し得るやう御導きを垂れ給へ。殊に又|例《いつも》の如く貴神の御愛を裕かに此集会の上に注ぎ給へ。我等此所に来りて人が我等に対し犯せしすべての罪を赦すことが出来、而して我等が貴神に対して犯せしすべての罪を赦さるゝことを得しめ給へ。又貴神が私供を愛し給ふ其の愛を以て相互を愛することを得しめ給へ。イエスキリストの聖名に由りて願ひ奉りますアーメン。
 
(220)     罪の贖主としてのイエスキリスト
         (八月二十日箱根平信徒夏期修養会に於て述べし所のものである。其後沓掛並に大手町に於て多少の変更を加へて繰返した。)
                         大正11年10月10日
                         『聖書之研究』267号
                         署名 内村鑑三
 
 イエスその弟子と共にカイザリヤ ピリピの村々へ往く。途にて其弟子に問ふて曰ひけるは、人々は我を曰ひて誰とする乎。答へけるは、或人はバプテスマのヨハネ、或人はエリヤ、或人は預言者の一人なりと曰へり。イエス彼等に曰ひけるは、汝等は我を曰ひて誰とする乎。べテロ答へけるは、汝はキリストなり。イエス彼等を誡めて我事を誰にも告ぐる勿れと命じたり(馬可伝八章廿七−三十節)。人の子の来るは人を役ふ為に非ず、反つて人に役はれ、且つ多くの人に代り、その命を予へて贖とならん為なり。(仝十章四十五節)。
〇基督教はキリスト中心であります。人がキリストに就て如何に思ふ乎、それに由て彼の信仰が定《きま》るのであります。キリストは人である乎又は神である乎、道徳の教師である乎又は罪の贖主である乎、是れ如何でも可い閑問題ではありません。実に重要問題であります、他の宗教に在りては教理は之を伝へし教主を離れて論ずる事が出来ませう。然れども基督教に在りては教主の誰なる乎が第一問題でありまして、彼の伝へし教理の価値如何は(221)第二又は第三問題であります。「汝等は我を曰ひて誰とする乎」と今日の信者も亦イエスに問はるゝのであります。而して此問に対して基督教会は今や何と答へつゝあります乎。
〇「汝等は我を曰ひて誰とする乎」のイエスの問に対し、第二十世紀当初の基督教会は概ね下の如くに答へます.曰く「ナザレのイエスは大なる教師である。然り多分人類が生みし最大の教師であらう。彼が人である乎神である乎、そは一箇の形以上学的問題に過ぎない。然れども何人も彼が大教師でありし事を疑ふことは出来ない。彼は愛を教へ、愛に基ゐする道徳を伝へた。神は父である、人類は神の子供である。故に人類は人が兄弟を愛する其愛を以て相互を愛すべきである。イエスの教訓にして服膺せられん乎、人は完全なる人たるべく、社会に黄金時代は実現すべし。イエスの教訓と其実行……個人の完成も世界の改造も之に由て行はる。イエスは誰であらうと、この事だけは異論はない。故に基智者《クリスチヤン》は従来の如くに各自の懐ける所謂|基督観《クリストロジー》に就て議論を闘はす事を廃めて、諸教会は一致団結して、然りユニテリヤンをも加へ、羅馬天主教徒をも迎へ、然り更らに進んで不信者をも誘ひて、新約聖書、殊に其四福音書に現はれたるイエスの大精神、大教訓の実現実行を力むべきである」と。大略斯のやうに答へます。
〇そして是れ勿論全然間違つたる見方ではありません。イエス御自身が曰ひ給ひました、「我を呼びて主よ主よと曰ふもの尽く天国に入るに非ず、之に入る者は唯我が天に在す父の旨に遵ふ者のみ也」と(馬太七の廿一)。世には所謂信仰に正しくして行為に正しからざる所謂信者が沢山あります。聖書は表紙より表紙まで信ずると称し、キリストの神性も、処女出生も、再臨も復活も悉く信ずると称する人にして、約束を守らず、借金を返へさず、自分の教会の建設には熱心なるも他人の教会と云へば之を毀つも省みず、如何にも普通道徳などは有つて(222)無きが如くに振舞ふ信者があります。そして斯かる信者の有る限り、イエスの教訓が重ぜられて、彼に関する教義が軽ぜらるゝのは決して無理でありません。イエスは確に信仰に正しくして行為に誤りたりたる学者パリサイの人よりも、信仰に誤りても行為に正しかりしサマリヤ人其他の異邦人を愛し給ひました。近代人が教義に厭果《あきは》てゝ純道徳に帰らんとしつゝある其事に対し私も亦厚き同情を禁じ得ません。ルーテル教徒がカルビン主義者を憎む事甚しく、カルビン主義者又相互を窘しめ、他教を排斥し、キリストの為には人を殺すも敢て辞せざる偽はりの熱心を発揮するに至つては、人誰か教義を嫌悪せざらん乎であります。若し基督者が斯かる者であるならば、我は寧ろ昔に還つて故の不信者たらんとは私自身も度々発する声であります。
〇そして見やうに由ては基督教は教義なしの宗教であるやうに見えます。教義は元々パウロに由て唱へられし者、パウロ微りせば基督教はイエスの伝へし純道徳として存つたであらう。勿論四福音書にも教義が在る。然し乍ら是はパウロの感化に由て書き加へられたものであつて、イエス御自身の口から出たものでない。畢竟《つま》る所新約聖書はパウロの感化に由る教義化されたる基督教を伝へたる者である。故に我等若し混和《まじり》なきイエスの教に達せんと欲せば、宜しく其記事を取捨選択してパウロの教義的外皮の内よりイエスの道徳心髓を取出すべきである。縦令聖書に何と書いてあらうとも、真理は真理であつて動かすべからず。我等はすべての束縛より解放せられたるが如く、亦聖書の束縛より解放せられざるべからずとは、今や基督教会全体が唱へて憚らない所であります。
〇然し乍ら近代人の此の見方は本当の見方でありませう乎。イエスは果して主として道徳の教師でありましたらう乎 新約聖書は果してパウロ感化の下に成つた書でありませう乎。私はさう信ずる事は出来ません。先づ第一に新約聖書に就て言ひませうならば、新約聖書はパウロ独舞台の書ではありません。勿論パウロは其大立物であ(223)ります。然し乍ら彼は初代の教会を独占しませんでした。彼の外にべテロがありました。ヨハネがありました。ヤコブがありました。そして彼等孰れも独立の人でありまして、信仰の要点に於て悉く一人のパウロに服従するやうな人ではありませんでした。そして贖罪の一事に就て見ましても、贖罪はべテロ書にも、ヨハネ書にも、ヤコブ書にも明かに記《かい》てあります。「彼れ木の上に懸りて我等の罪を自から身に任《お》ひ給へり、是れ我等をして罪に死て義に生かしめん為なり、彼の鞭打たれしに因りて汝等医されたり」と彼得一書二章廿四節にあります。そして其れは其筈であります。|贖罪の教義は新約を以て初めて世に出たものではありません。旧約に其源を発したものであります〔付○圏点〕。有名なる以賽亜書五十三章が能く此事を示します。「まことに彼は我等の病患《やまひ》を任ひ、我等の悲みを担へり……彼は我等の愆の為に傷けられ、我等の不義の為に砕かれ、自から懲罰《こらしめ》を受けて我等に平安を与ふ、その打たれし痍に由りて我等は癒されたり」とあります。其他贖罪に関する旧約の言葉並に表号《シンボル》に就て茲に之を引証するの時を持ちません。教義々々と称して教義をパウロの罪に帰するは浅い見方であります。又パウロに対し不公平極まる見方であります。パウロは贖罪の教義を発見しませんでした。彼は深遠なる信仰と明晰なる頭脳を以て旧約の教義を以てイエスの生涯を説明したまでであります。|パウロが無くつても贖罪の教義はあつたのであります〔付△圏点〕。神がアダムとその妻エバとを罪に誘ひし蛇に向つて「我れ汝と婦の間及び汝の苗裔と婦の苗裔との間に怨恨を置ん彼は汝の頭を砕き汝は彼の踵《くびす》を砕かん」と言ひ給ひし時に贖罪は暗示されたのであります(創世記三章十六節)。又アベルが其牧ひし羊の初生《うひご》と其肥えたる者を携へ来りてヱホバに供へしに、ヱホバ其供物を眷顧《かへりみ》たまへりとある時に贖罪の兆が見えたのであります。(仝四章四節)。贖罪はノアがヱホバの為に壇を築き諸々の潔き獣《けもの》と諸々の潔き鳥を取りて燔祭を壇の上に献げたりしにヱホバ其の馨《かうば》しき香を嗅ぎ給へりとある時にも亦(224)ほの見えたのであります(仝八章廿節)。殊にアブラハムが其一子を献げし時、神が別に牡羊を備へ給ひて以てイサクに代らしめ給ひし所に明かに贖罪が読まるるのであります。殊にヨブ記十九章に於けるヨブの叫びの如き、預言者ヱレミヤの生涯の如き、孰れも贖罪を予表します。斯くの如くにして縦しパウロが贖罪の教義を唱へずとも 初代の基督信者は旧約聖書の内から贖罪を案出したに相違ありません。
〇事実斯くの如くでありますれば、福音書にイエスが「我れ多くの人に代り、我が命を予へて贖とならん」と記いてあればとて、それはイエス御自身の言葉ではない、後世の基督信者がパウロに由て唱へられた贖罪の教義をイエスをして言はしめた者であるとの説は立ちません。贖罪はユダヤ人の祭事の心髄であります。旧約の利未記を以て養はれしユダヤ人にして、其|思念《おもひ》が贖罪に到らざる者とてはありませんでした。イエスがキリスト即ちメシヤたるを自覚し給ひし以上は彼が民に代り其罪を任ひ、其贖主たらんことを宣言し給ひたればとて少しも怪しむに足りません。
〇パウロよりイエスヘ、書翰より福音書へとは贖罪反対論者の合言であります。私は新約聖書が終始一貫したる一書であることを信ずる者の一人でありまして、書翰と福音書の反対性を認むる者ではありません。然し乍ら今試みに論者の説に従ひ、書翰、殊にパウロの書翰を全く離れて、福音書丈けに由て基督教を研究せんとしまして、其結果は果してキリストの贖罪を否認又は軽んずるに至りませう乎、其事に就いて考へて見たくあります。そして四福音書の中で、約翰伝は歴史的価値最も少しくとして之に頼らずとして、路加伝はパウロの弟子の記いた者であるが故に其パウロ的感化は当然なりとして之れを除くとして、馬太伝は最も多くイエスの教訓を伝ふると雖も、其目的が教訓的なるが故にイエスの生涯を伝ふるに方つて事実を誤るの虞れありとして之に触れずとし(225)て、残るは馬可伝、最も簡潔にして有の儘の事実を伝ふる観ある馬可伝……此馬可伝はイエスの生涯に就いて何を語る乎、其事に就て考へて見たいと思ひます。
〇馬可伝は僅に十六章より成るイエスの小伝記であります。イエス伝の梗概を記したる書でありまして、簡潔にして能く要領を尽して居ます。イエス伝の大要を知らんと欲して馬可伝に依るが最良の途であります。そして馬可伝はイエスを如何なる者として伝へます乎。馬可伝に依るイエスはたしかに道徳の教師であります。彼は人が彼の奇跡を見んよりは彼の教を聴かん事を欲し給ひました。|然し乍ら馬可伝を通読して不思議に感ずる事はイエスの教師としての〔付○圏点〕活動《はたらき》|の非常に短くあつた事であります〔付○圏点〕。ガリラヤ湖畔に一年足らず説教して民の内に彼を信ずる者の多からず、有司の間に彼に反対する者の益々多きを見たまひしや、彼は直に説教を切上げ、ガリラヤを去り、ツロ、シドンの地を遊歴し、ヘルモン山下に退き、専ら少数の弟子を教へ給ひました。そして教ゆる所は道徳ではなくして彼れ御自身に関する奥義でありました。べテロをして弟子等を代表して、彼のエリヤにも非ず、預言者の一人にも非ず、神の子クリストなるを告白せしめて後に、彼等に告げて言ひ給ひました、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司の長、学者どもに棄られ、且殺されて三日の後に甦るべし」と(八章卅一節)。此事のありしはヘルモン山より程遠からざるカイザリヤ ピリピの地に於てでありました。第九章三十  節は更らに其後の経過を記して言ひます、「彼等此処を去りガリラヤを過ぐ、イエス此事を人の知るを欲《このま》ざりき、そは其弟子に教へて人の子は人の手に付され、彼等に殺され、殺されて後第三日に甦るべしと曰ひ給ひしが故なり、其時弟子等此言を暁《さと》らず、亦問ふ事を恐れたり」と。そして此発表を為せし後のイエスの行動は簡短明瞭でありました。|彼は死を決したに止まらず死を選び給ひました〔付△圏点〕。エルサレムに上りて長老 祭司の長 学者等に憎ま(226)れて終に其殺す所とならん事は彼の自から求め給ひし所でありました。馬可伝は十六章より成る小著述でありますが、イエスの説教又は伝道に就て記す所は僅に八章、而して彼の死と之に伴ふ前後の事実に就て述ぶる為に残りの八章が与へられて居ます。|馬可伝はイエスの生涯に就て述ぶること簡単でありまして、其死に就て記す事精細であります〔付○圏点〕。イエスのヱルサレム上り、其途中に起りし出来事、彼の凱旋的入城、審判、死刑の宣告、十字架上の死、孰れも精細に記るしてあります。其内最後の一過問の如き、イエスの日記とも称すべき者が載せてあります。殊に最後の二十四時間に関しては細大洩らさず、記事は清細を極めて居ります。そして記事の此性質に於ては他の三福音書は孰れも馬可伝と一致して居ます。四福音書は孰れもイエスの生涯に就て簡略に記し、其の死に就て棉細に述べて居ます。此点に於て四福音書は他の伝記と全く性質を異にします。私は青年時代より好んで沢山の伝記を読みましたが、伝記と云ふ伝記はすべて人の生、即ち生涯の事業に就て述ぶること精はしくして、死に就ては僅に短き一事を与ふるが常であります。私が読みし最大の伝記なるカーライルのコロムウエル伝ですら此例に洩れません。然るにイエス伝丈けは全く違ゐます。新約聖書の内に収められたる四篇のイエス伝丈けは其主人公の生涯を叙するに方て、其半分を彼の死に関する記事に与へ、其三分の一を最期の一日の記事に供します。こんな伝記は他に何処にもありません。四福音書は殊にイエスの死に就て語る書であると称して少しも事実を誤りません。是は実に著しい事実ではありません乎。
〇事実斯くの如くでありますれば約翰伝を除く他の三福音書、所謂歴史的福音書の内にイエスが御自分を指して民の贖とならんと言ひ給ひしは唯一回でありとするも、福音書全体はイエスの死に重きを置いてイエスの此言を証明して居る事が判明ります。近代の基督信者がパウロを軽く視る理由として常に引用する所の彼の言は(227)哥林多後書五章十五、十六節であります。曰く「その凡の人に代りて死にしは生者をして以後《こののち》己がためならで己に代りて甦りし者の為に世を過さしめんとて也、|是故に今より後我等肉体に依りて人を識るまじ、我等肉体に依りてキリストを識りしかども今より後は斯の如くに之を識るまじ〔付○圏点〕」と。近代人は評して曰ひます、此言に依て見ればパウロは歴史的イエスを識らんと欲せず、唯死して甦りしイエスを識る丈けで満足した。パウロのキリスト観は当にならないと、然し乍らパウロの愛弟子の一人にして最後まで彼の身を護りし医師にして歴史家なりしルカが路加伝の著者でありし事を知つて、パウロが歴史的イエスに就て知らんと欲せざりしとの説は立ちません。然し其事は別として、|パウロのみならず初代の基督者すべてが重きをイエスの死に置いた事に就て疑ふの余地はありません〔付○圏点〕。イエスは新らしき教を伝へん為に特に神より遣はされたのではない、彼れ御自身が明示せられしやうに、多くの人に代り其贖ひとならんが為に世に臨り給ふたのであるとは新約聖書が明に示す所であります。此事に関してはパウロに限りません、使徒等一同が同一の事を唱へたのであります。福音書の伝ふるイエスは大体に於てパウロの書翰の伝ふるイエスと少しも異なりません。イエスは最も貴き教師でありました。然し乍ら教師以上「世の罪を任ふ神の羔」でありました。歴史的イエスは人の教師であり、社会改良者であつて、彼が人類の罪の贖主であるとの説はパウロの感化の下に後世の教会が編出した教義に過ぎないとの近代人の説は立たないと私は信じます。
〇|然し乍ら説は説として私供お互は教師の外に罪の贖主を要求しません乎〔付△圏点〕。若しイエスが最大の教師であり、彼の教が最高の道徳でありしとすれば、それで私供の霊魂は満足します乎。理想はまことに美はしくあります。然し乍ら理想は遠くより望むものでありまして、不完全なる人間の場合に於て理想は事実となりて現はれません。(228)人は夢見ることに由てのみ生存することは出来ません。まことに完全なるイエスと其数訓とを私供の理想として仰いで私供は其聖き感化を受けざるを得ません。殊に世の革正、社会の改良、公人の批評を行ふに方て、完全なるイエスの教訓は力強き標準であり、又武器であります。私供は基督者と称し、イエスを我理想我主と仰いで自身イエスと同じ者に成つたやうに感じます。然し乍ら仰ぐと成るとは全然別であります。富士山を遠くより望んだ者は之に登つた者ではありません。基督者は単にイエスを主よ主よと呼ぶ者ではありません。彼の言を守りて彼の如くに成る者であります。そして私供彼を理想として仰ぐのみで少しなりとも彼の如くに成ることが出来ます乎。
〇|イエスの教訓を以て世や人を鞫かずして自分を鞫いて御覧なさい〔付△圏点〕 是は決して楽しい事ではなくして苦しい事であります。「古への人に告げて殺すこと勿れ殺す者は審判に干からんと言へることあるは汝等が聞きし所なり、然れど我れ汝等に告げん、凡て其兄弟を怒る者は審判に干からん、又その兄弟を愚者《おろかもの》よといふ者は集議に干からん、又|狂妄《しれもの》よいふ者は地獄の火に干かるべし」と。是れイエスの教訓の一つであります。誠に聖い高い教訓であります。他を批評する者、罵詈悪口する者は殺人犯に問はれ地獄の火にて焼かるべしとの事であります。嗚呼然らば人殺しとは誰であります乎。高橋お伝であります乎。山田憲であります乎。嗚呼|基督者《クリスチヤン》よ、教師よ、伝道師よ、長老よ、執事よ、汝等兄弟を貶《おと》し、彼を無能者と称び、偽菩者と称し、彼の名誉を損ひ、事業を妨げつゝある時に殺人犯を行ひつゝあるを知る乎。イエスは明白に然りと教へ給ふ。而して我等は彼は最大の教師なりと云ふ。然らば我等は相互を鞫き譏りつゝある間に殺人犯を行ひつゝある。私供は自分の言を以て自分を殺人犯に定むるのであります。
(229)○同じことが姦淫の罪に就ても言はれます。「凡て婦を見て色情を起す者は心の中すでに姦淫したる也」と。然らば姦淫せざる者は何処に居ります乎。私供は姦淫を行ひし男と女に向つて悪評罵詈の石を投げます前に、私供自身が同じ罪を犯した者でない乎、其事を理想の教師イエスより学ぶべきであります。
〇教師たるイエスは人を審判き又私を審判く者であります。そして彼に審判かれて私は一言もないのであります。私は理想に憧憬がれて彼の許に行きましたが、其理想は私を審判いて罪人と定めました。私は彼に向つてべテロと共に彼の足下に伏して叫ばざるを得ませんでした「主よ我を離れ給へ我は罪人なり」と(路加伝五章八節)。斯くて私はイエスを私の教師としてのみ仰ぐに堪へません。|彼は私に取り教師以外の或者でなければなりません〔付○圏点〕。然らざれば彼と私とは離れざるを得ません。真面目にイエスに学ばんと欲する者は何時か何処で此心霊的危機に到達せざるを得ません。
〇「イエスの教訓は人が守らんが為である。彼は人の守り得ざる教訓を与へ給はず」とはトルストイの唱へし所であります。そしてトルストイは半ば正しくして半ば誤まりました。イエスは彼に罪を贖はれ再生の恩恵に与りし者の守ることの出来る教誡《いましめ》を与へ給ひました。然し乍ら生れながらにして罪の子なる此世の人等が自分の努力のみで守ることの出来る教訓を下し給ひませんでした。イエスの教訓は先づ初めに人に己の罪人なるを示して彼の裏に悔改の心を起す者であります。而して後に彼を贖罪の主に導き、其処に彼が罪の潔めと聖霊の恩賜に与り、謙遜りたる者となりて天に在す父の完全《まつたき》が如く完全くなるの途を示し、此世の人が不可能と見做す「神に真似る事」が出来るやうに彼を成す者であります。イエスの教訓其物が十字架上の罪の贖ひを指さす者であります。贖ひを離れて教訓は実際に無効に終るのであります。
(230)〇イエスは勿論私の教師であります。そして同時に又、然り其れ以上に私の救主であります。彼は私が聖き神に近づき得るの途を備へ給ひました。彼は私に代りて私の罪を任ふて死んで下さいました。そして其死に由りて私は彼の訓誡を幾分なりと守り得る者となりました。私の伝道の熱心は茲に萌す者であります。イエスの道徳と社会観丈けで伝道の熱心は起りません。人類の罪が彼に在りて贖はれ、人は彼に在りて神に到り、神は彼に在りて人に臨むと知つて茲に道徳の本源、世界改造の能力が世に供給されたのであります。「汝は我を言ひて誰となす乎」と彼に問はれましたならば、私供各自はトマスと共に答ふべきであります 「我主よ、我神よ」と(約翰伝廿贖廿八節)。
〇目下の所、世界第一番の歴史家は伊太利のグリエルモー・フェレロー(Guglielmo Ferrero)であると思ひます。彼は今や十九世紀の末に於て独逸のテオドル・モムゼンの占めた地位に居る者であると思ひます。故に彼の言ふ所に大なる権威があります。彼は近頃『古代文明の破壊と基督教の勝利』と称する書を著はしました。彼は其中に論じて言ひました、「古代の人、即ちギリシヤ人並にローマ人の理想は善良なる政治を布き、善良なる社会を作りて、人類に幸福を供するにあつた。然るに此理想は実現せられずして、其反対に政治は腐れ、社会は紊れ、人類は堕落するのみであつた。茲に於て大なる失望は全世界を覆ふた。文明は失敗であつた。頼りし羅馬帝国は廃れ、世は元始の暗黒に還つた。然らば人生の意義は何処にある乎。人は只飲んで、食ふて死を待つべきである乎と、彼等は己に問ふて言ふた。此時に当て基督教が現はれた。此混沌たる古代の社会に在りて基督教は声を揚げて曰ふた。否らず。人生の理想は善良なる政治にあらず、完全なる社会にあらず、|神に在り〔付○圏点〕、人は其欲求する完全を神に於で得る事が出来る。縦し文明は失せ、帝国は消へても、人は其最大幸福を己が衷なる霊魂に於て有(231)つことが出来ると。如斯くにして古代文明の破壊に由て古代人は尽く失望に沈みしも、基督者《クリスチヤン》のみは幸福を国家社会に求めずして、己が衷に宿り給ふ神に於て求めしが故に、彼等のみが此危機に際して喪心せずして世に対し、己を持する事が出来た。そしてノアの洪水を以てするが如くに、野蛮人の侵入に由て古代文明は一時全く拭ひ去られしと雖も、生命を裕に己が衷に蔵《かく》せし是等の基督者《く》に由て、新文明が旧文明に代て欧洲の天地に現はれたのである」と。是が現代史学の泰斗伊国グリエルモー・フェレローの唱ふる所であると云ふ。
〇人生の至上善は国家に於て在らず、社会に於て在らず、政治に於て在らず、経済に於て在らず、|神に於て在る。イエスキリストに於て神と偕なるを得て、人生最大の幸福は体得せらる1のである。此事を知つて人生は一変するのである。「我等に父を示し給へ、然らば足れり」とピリボがイエスに言ひし通りであります(約翰伝十四贖八節)。文明と云ひ、文化と云ひ、何んであつても「父を示す」ことではありません。そして父を示されずして人は何を供《あた》へられても満足しません。そして今や復び人類は旧文明の破壊を目撃しつゝあるのであります。旧帝国は亡び、旧社会は毀れ、旧思想、旧道徳は将さに地上に拭はれんとして居ます。より大なるノアの洪水が今や全地に臨みつゝあります。茲に於てか新説は限りなく提出され、改造、革新は到る所に唱へられつゝあります。乍然光明は何処にも見えません。声のみが聞こえて実は何処にも現はれません。然し基督者は恐れません、狼狽《あわて》ません。彼は己が衷に固き王国を有ちます。彼は政治にも社会にも頼みません。彼に頼むべき磐があります。それは彼を愛して彼の為に己を捨たまひし者、即ち禅の子イエスキリストであります。彼は単に基督者の道徳上の教師ではありません。其義、聖、贖、即ち万事《すべて》であります。イエスを有して基督者は文明は失せても望を失ひません。荒れ狂ふ現代の世の洪波《おほなみ》の中に在りて、彼れのみが足を浚《さら》はれずして堅き磐の上に強き碇を繋ぐ者であ(232)ります。そして古代文明が破壊せし時に基督教が人類を全滅の淵の内より救ひしやうに、今や近代文明が破壊されつゝある此時に際し、再び悩める世界を救ふのであると信じます。そして其能力は社会改良、社会奉仕と云ふが如き境遇を改め、肉慾を充たすの途に於て在りません。イエスキリストは其身に於て人類の罪を負ひ、之を十字架に釘け給へりと云ふ所謂「福音の愚《おろか》なる」所に在ります。世に頼らざる基督者のみが世と共に滅びず、又滅びし世を復活するの能力を有します。歴史は其れ自身を繰返しつゝあります。旧文明は破壊されて基督教は勝利を得つゝあります。博士フ立エローが唱へし通りに。
〇「工匠《いへつくり》の棄たる石は屋《いえ》の隅の首石《おやいし》と成れり」とあります。此世を棄、此世に棄られたるクリスチャンが幾度か毀れて世界を建直したのであります。政治や社会に最大の趣味を有する今日の所謂クリスチヤン、米国宣教師に宗教を学びし我国現代の現世的信者は世を救ひ得ざるは勿論の事、自分をも救ひ得ません。我国の俚諺《ことわざ》に「身を棄てこそ浮ぷ瀬もあれ」と云ふのがあります。先づ救主キリストに在りて自分と現世とに死するにあらざれば、身をも世をも救ふ事は出来ません。
 
(233)     海と神
                         大正11年10月10日
                         『聖書之研究』267号
                         署名 内村鑑三
 
  汝のパンを水の上に投げよ、多くの日の後に汝再び之を得ん(伝道之書十一贖一節)。
  ヱホバ統治め給ふ……ヱホバは高き処に在してその威力《いきほい》は多くの水の声、海の逆捲くに勝りて盛なり(詩篇九十三篇 四節)。
  人々怪みて曰ひけるは、此は如何なる人ぞ、風も海も之に従ひたり(馬太伝八贖廿七節)。
〇天然の力を呼んで盲目の力と称します。之に何の目的も無いやうに見えます。風は己が任《まゝ》に吹き、何処より来り何処へ往くを知らずとあります。天然は人の幸福を眼中に置かず、其れ自身の法則に従つて盲動す。我等風に訴ふるも無益であります。海に祈ふも聴かれません。人生は大海《だいかい》の一滴、浪と風とは人を省みず、我等は逆捲く洪波に翻弄せられて、大洋面上目的なしに漂ふ乎の如くに見えます。
〇然し乍ら聖書は神の存在を教へます。そして神が在し給ふと云ふは彼が万物を統御し給ふと云ふと同じであります。我等は神を呼んで「天地万物を支配し給ふ神」と称し奉《たてまつ》りて、天地を意義あるもの、万物を目的あるものと認むるのであります。神が有ると信じて、風は目的ありて吹き、波も亦目的ありて荒れるのであると信ずるのであります。有神論と称して単《たゞ》に一篇の議論ではありません。宇宙万物に対する我が態度を定むる主義でありま(234)す。詩人ホヰツチヤーが盲目と見えし天然力に対し「我れもはや懼れず」との声を発したのは此信仰に依るのであります。
〇近頃面白き話を読みました。英国宣教師にて副監督《アーチデイコン》デニスと云ふ人がありました。彼は永らく亜弗利加ナイゼリヤ地方に在りて伝道しました。彼は土人に完全に近き聖書を与へんとの祈願《ねがひ》を起しました。そして着々と其業を進めました。聖書の翻訳は大事業であります。先づ第一に土人の言語を充分に我有と為さずばなりません。此事の為に少くとも十年はかゝります。先づ土語の字典を作り、文法を究めねばなりません。然る後にイヂオム即ち国語特有の殊なる言ひ表はし方を暁《さと》らねばなりません。而して最後に聖書の原語と土語とを照らし合せて、土語を以て聖書の意味を言ひ表はさねばなりません。実に大変の事業であります。実に天才一代の事業であります。然るに其の困難なるに係はらず多くの人が此事を成し遂たのであります。ヘンリー・マーチンが彼斯語《べルシヤご》に、アドム・ジヤドソンが緬甸語に、其他多数の勇敢なる宣教師達に由て、聖書は今や七百有余の国語に訳されたのであります。単に文学的努力として見て聖書の世界各国に訳されし事業の偉大さは、他に之に此ぶべきものはありません。ダンテの神曲、沙翁の劇作、ゲーテのフハウスト、支那の経書、印度の仏典、大は大なるに相違ありませんが、其何れもが基督教の聖書に較べて、到底類を共にする事の出来ないことは日を視るよりも瞭かであります。
〇そして英国宣教師デニスも亦彼の生涯の事業として更らに一つの新たなる聖書の翻訳を、既に在る七百有余の翻訳の内に加へたのであります。彼が赤道直下の蕃域に在りて、努力何十年間に渉りて成りし翻訳の原稿は書き上つたのであります。彼は之を携へて帰国の途に上りました。英国に於て之を印刷に附せんが為でありました。(235)時に丁度世界大戦最中でありました。独逸潜航艇は英国近海到る所に跳梁し、遠くは地中海大西洋沖合にまで其猛威を振ひました。そして許多の聯合国の船舶は其襲撃に遭ひて水底深く打ち沈められました。そして宣教師デニスの便乗せし汽船も亦此残忍なる襲撃を蒙りし船の一でありました。そして宣教師は船と共に沈みて彼の生命も亦此残酷なる戦争が生みし許多《あまた》の犠牲の一に算へられました。然し乍ら彼の携へし聖書の翻訳……彼が一生の心血を注いで成りし亜弗利加ナイゼリヤ土人の語に訳せし神の言葉の原稿……其れは如何なりました乎。此翻訳の内に土人将来の霊魂の生命が籠つて居ました。独逸海軍の潜航艇は之をしも打沈める事が出来たのでありませう乎。
〇嗚呼風よ、波よ、軍人よ、潜航艇よ、水雷管よ。汝等は天然の法則に従つて動くと称し、汝等の眼中愛なし、神なし、福音なしである。然れども神は在し給ふ。風は己が任に吹き、波は己が任に荒れる。然れども「神の霊水の面を覆ひたりき」との旧い言は今も猶ほ事実である。著者は沈んだが原稿は淨いた。そして波に揺《ゆら》れ風に動かされながらナイゼリヤ語訳聖書の原稿は終に英国ウエルスの海岸に吹付けられた。其海岸に遊びし英国人は初めの間は其の何の書類なる乎が解らなかつた。然し流石は英国である。其の何たる乎が終に解つた。其れが倫敦なる英国聖書会社の本社に運ばれた。海上に漂ふこと三年、風波に由て散乱されず、又蕃地へと吹き戻されず、基督教国、而かも翻訳者の本国なる英国に吹き寄せられたりとは、奇ではありません乎、奇蹟ではありません乎。
〇汝のパンを水の上に投げよ。汝の霊魂の食物《しよくもつ》、即ち汝に託せられし神の聖言《みことば》を水の上に投げよ。之を世界の大海に投げよ。反対の風を懼るゝ勿れ、輿論の波を怖るゝ勿れ。神は必ず之を護り給ひて、多くの日の後に汝再び之を得ん。失はれしと思ひし聖言は有りて其実を結び、汝は裕かに其恩恵に与からん。
(236)〇ヱホバは統治め給ふ。天地万物は天然の法則に従ひつゝ実はヱホバの聖旨に従ふ。水力風力は抗し難く見ゆれども、ヱホバは高き処に在してその威力は多くの水の声、海の波の逆捲に勝りて勢力がある。神は風を其使となし、火焔《ほのほ》を其|役者《えきしや》となすとあるが如くに(希怕来書一章七節)、風も波も彼の命《めい》に従ひ、毀つべき者を毀ち、護るべき者を護る。人は之に抗し難し、神は能く之を制御し給ふ。人が手桶の水を扱ふ如くに神は大洋の水を使ひ給ふ。彼は大西洋の水に命じ、其潮流に下知して貴き聖言を安き湊へと吹寄せしめ給ふた。
〇世の動揺常なきを称して「風に撼《うごか》されて翻へる海の浪の如し」と云ふ(雅各書一章六節)。而して我等は我等の事業を此世の浪に託するのである。不安此上なしである。然し不安であつて不安でない。海を統御する者我等を護り給ふ。神は其聖業を護り給ふ。其聖言を護り給ふ。世の波は如何に荒れ狂ふとも、反対の風は如何に激しく吹くとも、聖言は安全である。縦し批評、悪口、毒筆の水雷は我等を社会の水底《みづそこ》に打沈めるとも、我等に委ねられし生命の聖言はノアの方舟の如くに水の面に漂ひて世と共に滅びないのである。「天地は失せん、然れど我言は失せじ」とイエスは曰ひ給ふた(馬太伝二十四章三十五節)。此世の輿論、政治、神学は日々に変る。唯変らざる者は聖言である。浪も之を呑むこと能はず、風も之を吹去ることが出来ない。聖言を我が事業となして、世は之を毀つことが出来ない。誠に福ひなる事である。
 
(237)     藤井喬子を葬るの辞
                         大正11年10月21日
                         『旧約と新約』29号
                         署名 内村鑑三
 
  それ人は既に草の如く、其栄は凡の草の花の如し。草は枯れその花は落つ、然れど主の道《ことば》は窮なく存つなり(彼得前書一章二四、二五節)。  我等の内己の為に生き己の為に死ぬる者なし、そは我等は生くるも主の為に生き、死ぬるも主の為に死ぬ、是故に或は生き或は死ぬるも我等は皆な主の有なり(羅馬書十四章七、八節)。
  我れ天より声ありて我に言ふを聞けり、曰く汝此言を書《しる》せ、今より後主に在りて死ぬる死人は福ひなり、御霊も亦曰ふ、然り彼等は其|労苦《はたらき》を止めて息まん、其功之に随はんと(黙示録十四書十三節)。
〇私共の愛し又尊敬する藤井|喬《のぶ》子は逝きました。彼女に性来《うまれつき》の美質がありました。近代に処するに足るの教育がありました。日本婦人特有の淑徳がありました。之に加へて神とキリストとを信ずる熱き信仰がありました。彼女は堅忍で、従順で、実直でありました。忠実なる妻であつて、慈愛深き母でありました。今茲に彼女を失ふは惜みても尚ほ余りがあります。私自身の実験より言ひまして、彼女は私が此世に於て知るを得し最も善き婦人の一一人でありました。
〇然るに今此婦人が齢未だ三十に足らざるに奪《と》られたのであります。死は孰れも人生の謎でありますが、若き淑(238)徳の婦人の死は最大の謎であります。神はなぜ斯かる者を取り給ふのである乎、何故其大能を以て彼女の如き者を癒し給はないのである乎。ヤイロの女を死より呼び起し給ひしキリストは何故茲にまた奇蹟を行ひ給はないのである乎。斯かる問題は斯かる場合に於てすべて信ずる者の衷に起ります。そして私共は斯かる問題を提《ひつさ》げて神様御自身を正義の法廷に訴へんとします。神よ何故に、何故にと。
〇懐疑はまことに深くあります。神は果して在るのである乎。在つても癒す能力がないのである乎。或は人の苦痛を他所に見て其祈りに耳を傾け給はないのである乎。……深い深い疑問であります。而して此疑問に対して満足なる回答は与へられずして私共は更に積重なる疑問に悶ゆるのであります。
〇然し乍ら神様にも亦申分があると信じます。そして斯かる場合に於て私共は神様の御言葉を聞き、其聖業を義とし奉るべきであります。「我等の内己の為に生き己の為に死ぬる者なし、そは我等は生くるも主の為に生き死ぬるも主の為に死ぬ」とあります。生くるが目的でありません。生くるも死ぬるも主の為にするのがクリスチヤンの目的であります。そして若し死ぬる事が生くる事よりも主の為になるのでありますならば我等は死なんことを欲するのであります。そして人生多くの場合に於て死ぬるは生くるに勝さりて神の御用に立つのであります。キリスト御自身の場合がそれでありました。多くの義人、多くの神の人は生を以てしてよりも死を以てして神の御栄を顕はしました。喬子さんの場合もさうではありますまい乎。私共少しく喬子さんの心を知る者は、彼女の心の切なる祈願《ねがひ》の那辺に在つた乎を知ります。第一は勿論夫君の伝道事業の挙らんこと、第二は子衆並に両親弟妹等のキリストの救に入らんことであつたと信じます。そして若し是等の祈願が遂げらるゝならば彼女は死を辞さなかつたのであります。そして神は彼女の祈願以上に彼女の祈願を聴かんが為に茲に彼女を御自身に取り給ふ(239)たのであると信じます。喬子さんは勿論生きて多くの事に於て藤井君の事業を助くる事が出来ます。然し乍ら彼女は死を以てして、生を以てしては到底為すことの出来ない援助を藤井君に為さんとして居るのであります。甚だ失礼の申分でありますが、私は私の実験より申上げます。喬子さんを天国に送つて藤井君は本当の伝道師に成られたのであります。藤井君は今よりは理想を語るに非ず、研究の結果を語るに非ずして、直に見し所のものを語らるゝに至り、其結果たる実に前日の比にあらざる事を実験せらるゝ事と信じます。今より後、ビヤトリスがダンテを助けしやうに喬子さんが藤井君を助けらるゝのであると信じます。喬子さんは決して己の為に死んだのではありません。主の為に死んだのであります。彼女の夫、御両親、又私共友人一同が彼女の死をして其目的を誤らしめざるやう今より大に努力せねばなりません。
〇死は最も悪い事でありません。人生、死よりも遥に悪い事が沢山にあります。故に為すべきを為し、信ずべきを信じ、高き目的の為に一生を終る。是れ悲しむべき事に非ずして実は感謝すべき事であります。無難に危険多き旅行を終つたのであります。我等に感謝の讃美が揚らざるを得ません。喬子さんに今や病の苦しみは止み、誘惑の心配は息み、天に在て神を讃美し、地に在る愛する者の為に祈るの喜びが存るのみであります。私共茲に彼女の為に感謝すべきではありますまい乎。
 
(240)     『但以理書の研究』
                         大正11年11月5日
                         単行本
                         署名 内村鑑三 述
 
[画像略]初版表紙182×127mm
 
(241)     緒言
 
 旧約聖書中の但以理書は如何に見ても世界的大文書の一である。記事の歴史なる乎将又仮作なる乎は別問題として、その実際的に人類の運命を支配せし点に於て、聖書以外に之に比ぶべき文書の在るを知らない。但以理書を知るは基督教を知る上に於て最も必要である。而して人類の運命は基督教を離れて考ふべからずとすれば、但以理書の研究の決して徒爾の業にあらざるは言はずして明である。此書は大正九年東京聖書研究会に於て為せる講演の筆記より成りし者である。聖書研究の一助たるを得ば幸である。
  大正十一年(一九二二年)十月十八日    内村鑑三
 
     〔目次〕
第一章 故治家的大預言者ダニエル
第二章 バビロン城市の荘観
第三章 偶像を拝せざりしダニエルの三友人
第四章 成功と驕傲
第五章 バビロン城の覆滅
第六章 獅子の穴に入れるダニエル
 
(242)     WOE! 禍ひなる哉
                         大正11年11月10日
                         『聖書之研究』268号
                         署名なし
 
     WOE!
 
 Time was when we sent our sons and daughters to America and Europe,that they may grow in faith and he established in it. Time is when we are afraid of sending our children ahroad,for many went away as good Christians,and returned home as reprobates and apostates.“It must needs be that offences come;but woe to that man by whom the offence cometh” Matt.18:7.Woe to America,woe to Europe,Who by their apostasy from the faith of their fathers,are causing our beloved ones to fall from the faith of their fathers and make them children of hell like themselves.Should we not say that“it were better for him that a millstone were hanged ahout his neck,and he cast into the sea,than that he should offend one of these little ones”? Luke17:2.
 
     禍ひなる哉
 
曩には我等は我等の子女を米国又は欧洲に送つて其信仰を強め且堅固せんとした。今や否らずである。今や(243)我等は我等の子女を外国に送るを懼る。そは彼等の多くは善き基督者《クリスチヤン》として出往しかども、背教者又は堕落信者として還来つたからである。「礙く事は必ず来らん、然れども礙きを来らす者は禍ひなる哉」と主は曰ひ給ふた(馬太伝十八章七節)。禍ひなる哉米国、禍ひなる哉欧洲、彼等は彼等の父祖の信仰より堕て、我等の愛する者を誘ひて其師父の信仰より落し彼等をして自己に似たる地獄の子等と成らしめつゝある。「是等の小さき者の一人を礙かするよりは磨石《ひきうす》を頸に懸けられて海に投入れられんこと其人の為に宜かるべし」との主の言は彼等に適用すべき者に非ずや(路加伝十七章二節)。
 
(244)     進化論と基督教
                         大正11年11月10日
                         『聖書之研究』268号
                         署名 内村
 
 進化論と基督教とは互に相反す、一を信じて他を排斥せざるを得ないと唱ふる者があると聞いて余輩は驚かざるを得ない。それは今より二百年前に、民主々義と基督教とは互に相反すと言ひて争ひし者ありしと同然である。勿論進化論者の内に無神論者のあるを疑はない。然し乍ら進化論は必ずしも無神論的に解釈すべき者でない。民主々義が勝利を得て基督教が滅ざりし而已ならず、反て勢力を増した如くに、進化論が識者全体の採用する所となりたればとて基督教は殪れない。否な、観やうに依ては進化論採用の為に基督教は益々其基礎を固くすると言ふことが出来る。茲に面白き歴史的事実がある。ダーウインが初めて彼の『種の原始』を公けにし、非難攻撃が四方に起りし時に、初めて彼の提唱に賛成を表せし者は誰であつた乎と云ふに、英国当時第一流の外科医にして、すべての学術に達せりと称せられしジヨナサン・ハツチンソンであつた。而して此大学者は有名なる友会信者《クエーカー》であつて、信仰と学術とを以て世に称せられし人であつた。ダーウインが英国の学界に於て初めて獲し彼の自然淘汰論の賛成家は此基督教的天然学者ハッチンソンであつたと云ふ。以て進化論が其原理に於て基督教の根本義に反する者に非る事が判明る。進化は神が万物を造り之を支持し給ふ途であると見れば夫れまでゞある。聖書は造化の結果に就て述ぶるのであつて、其手段方法に就て論ずるのではない。「ヱホバ神、土を以て野の諸《すべて》の獣と(245)天空の諸の鳥を造り給へり」との創世記の記事は少しも進化論に牴触しない。生物は皆塵より出て塵に帰る。如何にして生命が塵を摂《とり》て現はれし乎、其順序方法を究むるのが生物学である。進化論は造化説明の一に過ぎない。而して造化の原因と目的とに就て教ふる基督教は其説明如何に由て動かない。進化論は今日の所、其大体に於て真理であるやうに思はれる。然し乍ら基督教は進化論に依るも依らざるも真理である。今や二者の反対を論ずべき時でない。真理は真理として其実現を計るべきである。
 
(246)     世界伝道の特権
                         大正11年11月10日
                         『聖書之研究』268号
                         署名 内村鑑三
 
〇伝道と云へば人に福音の道を伝へて彼を信者に成す事であると思はれる。伝道は己に近き者を以て初めて終に遠きに及ぶものであるとせらる。己が家族より近隣へ、村へ、郡へ、県へ、国へと順を逐ふて為すべき事であると信ぜらる 先づ第一に己に信仰がなければ他に伝道は出来ないから、先づ第一に為すべき事は自己の修養である。自己に充足て然る後に他を化する事が出来ると。是が大抵の信者が伝道に就て懐く思考《かんがへ》である。
〇そして其結果として伝道は容易に始らないのである。大抵の信者は自分の修養に忙しくして他を化するの暇がないのである。彼等は言ふのである「私如き者は到底世を化する事は出来ません。若し自分一人の信仰を維持するを得ば頂上です。私は其れ以上を望みません」と。如斯くにして伝道は何時までも始らないのである。斯る信者は不信者同様自己中心の人である。彼等は他を化し得ないで自分も亦信仰に進み得ないのである。
〇そして縦し伝道心が起つたとするも、それは己が地方に限らるるのである。そして更に進んで全国を抱擁するに至れば其人の信仰は拡張の極度に達したかのやうに思はれる。日本国今日の基督者にして日本並に其属領地以外にまで福音の光を放たんと欲する者に未だ曾て会ふた事はない。自分の修養と我が教会の拡張……偶々天下を三分して其一を取らんと云ふ政治家的伝道師があるとすれば、其人は偉大なる基督教的経世家として賞讃《ほめたゝ》へらる(247)るのである。
〇然し乍ら是れ伝道の誤解である。基督者は神の子と成《せ》られた者であつて全世界を己が活働の区域となすべき者である。「万物は汝等の有なり」とある。「畑《はた》は此世界なり」とイエスは曰ひ給ふた(馬太十三章三八節)。キリストは「世(全世界)の罪を任ふ神の羔」であつた(ヨハネ伝一章二九)。「彼は誠に世(全世界)の救主」であつた(同四章四二節)。「神のパンは生命を世(全世界)に賜《あた》ふるものなり」とある(同六章三三節)。「神はキリストに在りて世(全世界)を己と和がしめ、其罪を之に負はせ給へり」とパウロは曰ふた(コリント後五章一七節)。復活せるイエスが地上に於て発し給ひし最後の言は左の如き者であつたといふ。
  汝等往きて万国の民を弟子とし、彼等にバプテスマして之を父と子と聖霊の名に入れ、且つ我が凡て汝等に命ぜし言を守れと彼等に教へよ。夫れ我は世の終末まで常に汝等と偕に在るなり、アメン。
と(マタイ伝末章末節)。イエスは世界伝道を弟子等に命じて昇天し給ふたのである。
〇以上に依て観て基督者《クリスチヤン》の義務又は責任、並に特権は世界伝道に在る事が判明る。彼は全世界と共に救はれたのである。彼の救主は万国民の救主である。彼は自分独りで救はれんと欲して救はれないのである。彼は勿論自分の救拯を完成しなければならない。彼の家族並に国家の救はれん為に努力しなければならない。然し乍ら夫れ丈では足りない。彼は又彼の主と共に全世界の福音化、万国民の救拯を欲《ねが》ひ、其為に尽力しなければならない。それは是れ彼の授かりし大《だい》なる特権である。彼は日本国の為にのみ救はれたのでない、全世界、全人類の為に救はれたのである。彼はキリストの福音を信受した時に世界人となつたのである。然れば彼の目的、祈祷、活動は狭き一国に由て限られてはならない。全世界が彼の畑《はたけ》と成らなければならない。メソヂスト教会の開祖ジヨン・(248)ウェスレーの標語は此聖旬であつたと云ふ。即ち The field is the world(我が活動の区域は全世界である)と。我は基督者《クリスチヤン》と成つて六大洲を神より戴いたのであると見て少しも間違ないのである。
〇そして全世界の為に祈り、其の為に尽して自分は世界大に成るのである。人の心は其目的の大なる丈け大なるものである。阿弗利加大陸千二百万平方哩も亦我が祈祷の領分であると知つて我は小心冥々たる小国の民たるを止めて世界の市民となるのである。パウロと共に世界伝道を我が主眼とするに至て、我が同情は世界大に拡張し、全人類を兄弟として愛することが出来るのである。其の幸福《さいはひ》たる実に言語に絶せりである。そして此事たる決して夢でも妄想でもないのである。我が能力の範囲内に世界人類の為に尽して我も亦或意味に於て世界の持主となると云ふ事は何人も実験することの出来る事実である。
〇然らば世界を思ふて自己と自国とを忘れる乎と云ふに、決してさうでない。自分は世界人となつた時に本当の自分となり、又本当の日本人と成るのである。人は世界の為に尽して益々多く自分と自国の為に尽すのである。論より証拠である。自己修養に熱中する人は何時になつても其修養を完成しない。然れども一朝其熱心を自己以外に注ぎ、遠き阿弗利加の黒奴《くろんぼ》又は北氷洋のエスキモー族の為に祈り、其の救拯に干《あづか》るに至つて、未だ曾て味ひしことなき平和と歓喜とは己が心に臨みて、修養以上の修養を遂《とぐ》る事が出来るのである。自分中心の基督教は偽の基督教である。基督教が世界的宗教である以上之を信ずる者は世界的ならずして其の与へんとする宏益を受くることは出来ない。
〇然れども人は言ふであらう、我は弱くして自分をさへ完成し得ざる者、我れ争で世界の為に尽すを得んやと。然り、勿論多く尽すことは出来ない、然れども我が能力相応に尽すことが出来る。我は先づ第一に世界の為に祈(249)ることが出来る。そして唯漠然として祈るに非ずして、或は支那楊子江上流四川省の民の為に、或はサハラ砂漠の南方ナイゼリヤ地方の民の為に、或ひは南洋フイジ又はニユーギニー島等の土蕃の為にと、区劃を定め、人種を選びて、特に彼等の為に祈りて幾分なりとも彼等教化の為に貢献することが出釆る。そして真実の祈祷は祈祷を以て止まない、更に進んで或る実物の寄与を為したくなる。そして最も簡易なる寄与は金銭を以てする寄与である。縦令十銭なり五十銭なり一円なりを是等速隔の地の民の為に寄与して我等は彼等に対する我等の同情を強め且確実にする事が出来る。高の問題ではない、貿の問題である。祈祷を添えて送りし一円は永久的に大なる事を為すのである。
〇斯かる目的を以て今回『|聖書之研究』読者世界伝道協賛会〔ゴシック〕なる者を創始《はじめ》た。そして其第一回を十月五日夜、大手町衛生会講堂に於て開いた。集まりし人は八十余人、集まりし金は四十八円余りであつた。聖霊は会衆一同に降《くだ》り、近頃にない恵まれたる集会であつた。自分が恵まれんとして集り来りし会衆は万国の民を恵まんとの心を起されて予想以上に恵まれて家に帰つた。私は望まざるを得ない。本誌の読者すべてが此会に加はらんことを。万国の民の為に祈る事と、紙より賜はりし物を割きて万国伝道の為に寄与するのが此会の目的である。
 
(250)     CHRISTMAS GREETING.クリスマスの祝詞
                         大正11年12月10曰
                         『聖書之研究』269号
                         署名なし
 
     CHRISTMAS GREETING.
 
 May God be with you! Yes,may GOD be with you! May He,and not men, not Churchmembers,not brothers and sisters falsely so-called,not sects and parties,but may GOD be with you! May you be so strong that you can be alone with God! In this age of propagandism and party-spirit,it is dangerous to try to have friends among men. Orthodox or heterodox, Fundamentalists or Higher Critics,――it is as dangerous to be on one side as on the other. May God be with me! May I be alone wjth God,as Moses His servant was with Him on the Holy Mount,for forty days and forty nights,eating and drinking nothing,when the dolatrous Israelites were worshipping a golden calf in the valley below! May the bliss of being alone witb God be yours and mine!
 
     クリスマスの祝詞
 
 神様が貴君と共に在さん事を祈ります。然り 人でなく神様が……教会員ではなく、世の所謂兄弟姉妹方では(251)なく 教派ではなく又党派ではなく、神様が貴君と共に在さん事を祈ります。私は貴君が人を離れて唯一人神様と共に居る事が出来る丈け強からんことを祈ります。党派心と党勢拡張の盛なる此時代に於て人の間に友を求むるは危険であります。正統派と云ひ異端派と云ひ、聖書全部信者と云ひ高等批評家と云ひ 二者何れに与するも危険であります。神様が亦私と共に在さんことを祈ります。私も亦神様と共に唯独り居らんことを祈ります。恰度紙の僕モーセが四十日四十夜、何も食ふことなく又飲むことなく、下の谷には偶像崇拝のイスラエルの民が金の小牛を拝みつゝありし間に、聖山《きよきやま》の上に唯独り神様と共に居りしが如くに、私も亦神様と共に唯独り居らんことを祈ります。唯独り神様と共に居るの幸福が貴君のものであり又私のものであらん事を祈ります。
 
(252)     〔幸福なる生誕節 他〕
                         大正11年12月10日
                         『聖書之研究』269号
                         署名なし
 
    幸福なる生誕節《クリスマス》
 
 今年も亦聖日毎に一回も休むことなく神の聖言を説くを得て幸福である。今年も亦無事に月毎に此誌を読者に頒つ事が出来て幸福である。今年も亦少数の友と離れたが、於《より》多くの新しき友を与へられて幸福である。人生の戦場に立ちて部分的の敗北は免れないが全体的の勝利を恵まれて幸福である。然し乍ら幸福中の最大幸福は更に深く主イエスキリストを識るを得た事である。神の子が苦難の人孤独の人であつて、すべての人を離れて神の義を行ひ給うた事を知るを得て我が幸福は其絶頂に達したと云ふ事が出来る。幸福は多くの人に愛せらるる事に非ず、却てすべての人に嫌はれ悪まれ、棄られ、独り十字架に就く事である事が解つて我が幸福の杯は溢るゝのである。然らば去れよ世よ。我主イエスは独り始めて独り終り給うた。我も亦独り始めしが故に独り終るであらう。此事が解つて我は他の事に於て恵まるゝも恵まれざるも、唯独りイエスと共に在る事が出釆て幸福である。
 
    羅馬書と福音書
 
(253) 羅馬書を去て福音書に入る。恰かも人造の大公園を去て天然の大森林に入るが如くに感ずる。パウロ偉大なりと雖も奮闘努力の人である。イエスは神の子にして天性の聖者である。羅馬書を読んで蒸溜水を飲むが如くに感ずる。福音書を学んで岩間に迸る清泉を汲むの爽快を覚ゆ。イエスに議論はない、香薫《かほり》がある。神学はない、抗し難き感化がある。何故なる乎を知らず、福音書にイエスの言行に就て読んで我は自から彼に同化せらるゝを覚ゆ。不思議なる人である、不思議なる書である。之を称してインスピレーションと云ふより他に言ひ様がないのである。信仰箇条を詮議するが如きは抑々末である。何故に然る乎。然るが故に然るのである。福音書にイエスに接して我はイエスの如くに成る。茲に至て教会、儀式、神学、信仰箇条は全然無用に帰し、鷲が日光に牽かれて翼を張りて天を指して昇るが如くに、我も亦地と自己とを忘れて純清の天へと引上げらるゝを覚ゆ。
 
    基督者《クリスチヤン》たるの証拠
 
 ルーテル曰く「基督者たる者基督者に非ず」と。基督者と称ばるゝ者、基督者なりと思はるゝ者は基督者でない。イエス御自身が当時の宗教家には悪魔の王と呼ばれ給うた。後世に於て亦然り。イエスの本当の弟子は常に教会と社会とに乱臣賊子と呼ばるゝ者の内に在つた。詩人ミルトンの如きが其好例である。彼の在世当時の人の内で彼れ程深くイエスを解した人は無かつた。然れども英国々教会(聖公会)は勿論の事、基督教界全体は彼がイエスの敬虔の弟子たる事を認めなかつた。而して今日に至るも猶ほ彼はアリヤン信者であつたとの譏は彼を去らない。教会は今日に至るも彼は信仰の大教師なりと認めない。然れども其事其れ自身が彼が本当の基督者である何よりも好き証拠である。イエスは曰ひ給うた「弟子は師より優らず。僕は主《あるじ》より優らざる也。弟子は其師の如(254)く僕は其主の如くならば足りぬべし。若し人主を呼びてベルゼブルと言はゞ況して其家の者をや」と(馬太十章廿五、廿六)。ベルゼプル、悪魔の王と呼ばれ給ひしイエスの弟子は悪魔と呼ばるゝが当然である。人に聖人よ、神学博士よと呼ばるゝ者はイエスの弟子でない。イエスは「教会の首長」でありと云ひて、羅馬天主教会、英国聖公会、米国組合教会又はメソヂスト教会の首長なりと思ふは、之よりも大なる間違はない。|イエスが今若し世に現はれ給うたならば前と同じく諸教会に悪魔の王と呼ばれ給ふは何よりも確実である〔付△圏点〕。弟子は其師の如くならざるべからず。イエスは当時の政府には乱臣と目せられ、教会には悪魔の王と呼ばれ彼れ死に就き給ふや彼の弟子さへ一人として彼の味方となりて彼と運命を共にする者はなかつた。イエスは斯かる人であつた。其弟子たる者はすべて彼と運命を共にする者でなければならない。政府と教会と弟子にまで棄られて悪人の首として死に附されし者、其人が基督者の模範である。斯くて世に幸福なる事とて人にイエスの如くに扱はるゝが如き事はない。斯くてこそ我は「身にイエスの印記《しるし》を佩び」て、死して彼と共にパラダイスに在る事が出来るのである。
 
    平和の途
 
 世に平和を計る程|満《つま》らない事はない。平和は計つて成る者でない。又平和を計つて成つた例はない。恰も米国前大統領ウイルソン氏が世界の平和を計つて反て世界に大擾乱の種を作つたと同じである。平和を計らんと欲せば義を行ふに如かず。平和を来す為の最善唯一の途は明白なる正義を行ふ事である。然らば平和は自から来る。正義の結ぷ果にあらざる平和は偽はりの平和である。戦争よりも遥に悪い平和である。斯かる平和を求むる時に家は紊れ品性は堕落し、国は亡ぷ。真に平和を愛する者は宜しく厳正なる正義の支持者又戦士となり、すべて(255)の情実を排して其実現を計るべきである。
 
    愛と義
 
 愛、愛と言ひて愛のみを高調して愛は冷える。愛は正義の無き所に栄えない。正義の無き愛は日光の無き湿気の如し。黴を生じて万物を腐敗せしむ。若し神が愛のみであつて、同時に亦光であり義であり給はないならば、宇宙は疾に滅び失せたのである。誠に若し基督教が愛のみを説く教であるならば之に勝さりて悪しき者は又と世に無いのである。イエス教へて曰ひ給はく「汝等心の中に塩を有つべし、又互に睦み和らぐべし」と。知るべし辛き正義の塩の無き所に真の和睦の無き事を。愛の甘味のみ要求せられて正義の塩の欠くる所に、愛は平和の果を結ばないのである(馬可伝九章五十節)。
 
    罪の赦し
 
 人の罪は之を赦すべきである。然れども義に依らずして真の赦しは無い。約翰第一書一章九節に曰く「我等もし己の罪を認《いひあら》はさば神は信実《まこと》にして正義き者なれば必ず我等の罪を赦し諸《すべて》の不義より我等を潔むべし」と。正義と罪の赦しとは離るべからざる者である。神は義に依て赦し給ふが故に彼の赦しは確実《やしか》である。神は憐愍の神であると云ひて彼を単に愛情の神と見るは大なる誤りである。神は第一に義の神である。義に由て赦し、義に由て恵み給ふ神である。そして我等彼の僕も亦人の罪を赦すに方て義に由て赦すべきである。是れが真の愛である。
 
(256)     基督者《クリスチヤン》と伝道
                         大正11年12月10日
                         『聖書之研究』269号
                         署名なし
 
 ルーテルが言ひし通り基督者たる者は基督者でない。其れと同じ様に伝道師たる者は伝道師でない。人たる者が基督者であつて基督者たる者が伝道師である。先づ第一に人たれよ、さらば汝は基督者たり得る。而して亦伝道師たり得る。伝道師でなくても可い、基督者たれば可なり。基督者でなくても可い、人たれば足るである。キリストに由り神に罪を赦されたる実験なくして、伝道師たるも全く無意味である。伝道師たらずば信仰を維持し得ないやうな者は未だ本当に福音を味はつた者でない。キリスと共に在る丈けで最大の満足を感じ得ないやうな者は、伝道師たるも人一人を本当に救ふ事は出来ない。
 
(257)     〔キリスト伝研究(ガリラヤの道)〕
                   大正11年12月10日−13年10月10日
                   『聖書之研究』269−291号
                   署名 内村鑑三
 
    第一回 福音の始 〔馬可伝〕第一章一節
 
〇孰の著書に於ても最も大切なるは巻頭第一の言である。其れは問題の提出であり、其解答の予告であり、其精神の発表であり、其全部の縮写でなくてはならない。大著述の特徴は其の深き、重き、短かき巻頭の一言に於てある。
〇そして此点に於て聖書六十六巻は何れも大著作の模範である。創世記第一章一節は創世記の縮写であつて、同時に又全聖書の予言である。故にユダヤ人は此書を称ぶに其巻頭第の詞なるバレシース(|始に〔付ごま圏点〕の意味)を以てする。出埃及記、民数紀略等皆な同じである。新約聖書に至つては、馬太伝第一章一節は全篇を予表し、有名なる路加伝の序文は著者のイエス伝の如何なるもの乎を紹介して余す所なし。約翰伝巻頭の一言に至つては、其の深さと広さとは全宇宙と其大さを共にすると言ふ事が出来る。若し聖書の大意を知らんと欲せば、各書巻頭第一の語を研究するに如ず。聖書が神の言なる証拠の一を此点に於ても亦見ることが出来る。
〇「神の子イエスキリストの福音の始」、是が馬可伝巻頭第一の言である。原語に於ては冠詞を合せて僅に七言、(258)四福音書中最も簡単なる緒言である。然し乍ら簡単ではあるが、意味深長にして、簡潔なる馬可伝に最も応はしき緒言である。馬可伝全体は此の短き一言の内に籠れりと云ふ事が出来る。
〇原語の順序に従へば「始、福音、イエスキリスト、神の子」である。何れも重い詞である。「始」「始に神天地を造り給へり」と創世記一章一節は言ふ。「始に道あり、道は神と偕に在り、道は即ち神なり」と約翰伝一章一節は言ふ。「始」は実に重い、意味の深い詞である。「始」は新らしい始である。未だ曾て在つたことの無いものが|在り始めた〔付○圏点〕と云ふ事である。万物に始が在つたと云ひ、福音に始があつたと云ふ。詞其物が有神論的である。無神論又は近代流行の唯物的進化論に「始」なるものはない。彼等は曰ふ「物として原因なきはなし。宇宙は原因結果の連続である。始とは宇宙以外より来る新勢力の注入である。斯かる事は在り得べからず」と。然るに聖書は言ふ「始あり」と。宇宙は神が始め給ひし者、キリストの福音も亦神が始め給ひし者、而して人が基督者と成るたび毎に新らしき創造が行はる1のであると。|聖書は無限に其れ自身を進化発達する宇宙の存在を認めない〔付○圏点〕。宇宙は造られしもの、故に始ありしもの。福音も亦歴史上の必要に強ひられて自づから現れし者に非ず。神の聖旨に従ひ、彼が選び給ひし時に於て、彼の遣し給ひし人に由て始つたものであるとは、聖書が明白に教ふる所である。事は哲学上の大問題である。然れども聖書の此|教示《おしへ》を受けずして信仰的生命なるものはない。祈祷と云ひ、摂理と云ひ、救拯と云ふは皆な神の特別の干渉を信ずるに依る事である。若し之れなからん乎、祈らざるに如かずである。神の存在を信ずる以上、宇宙を「永久に自から回転する機械」として見る事は出来ない。之に新しき勢力の注入がある。新しき活動の開始がある。之あるが故に我等に希望が起るのである。神はキリストの福音を始め給うた。而して今猶ほ之を続行し給ひつゝある。而して|始めの内に亦始めがあつて〔付○圏点〕、彼は基督者各自(259)の心の中心に善き工を始め給ひて之を主イエスキリストの日までに完成せんとし給ひつゝある(ピリピ書一章六節)。「此故に人キリストに在る時は新たに造られたるなり。旧きは去りて皆な新しくなる也」とあるは此の事である(コリント後書五章十七節)。進化論の言を以て言へば mutation である。絶対的新種の現はれである。而して天然界に此事あるや否やは未決問題であるとするも、心霊界に此実験あるは夥多《あまた》の基督者が証明して止まざる所である。
〇第二の重い詞は「福音」である。原語のユーアンゲリオン、「喜ばしき音信」の意である。歓天喜地の天来の音信である。福音の文字が甚だ軽く用ひらるゝ今の世に在りて我等も亦之を浅く解するの虞がある。然れども「福音」は重い深い詞である。クリスマスの夕、天使が牧羊者に告げて「我れ万民に関はる大なる喜びの音《おとづれ》を汝等に告ぐべし」と言ひしが此福音である。即ち神が人となり此世に現はれ、その罪を任ふて十字架の死に就き、死して甦り、而して再び来りて万物の復興を行ひ給ふと云ふ、其の事がキリストの福音である。斯くして福音と云ひて単に音《おと》ではない。キリストの福音は美(キよ)き音楽ではない。歌ではない。理想ではない。|歴史である〔付○圏点〕。固き事実である。確に在りし事である。喜ばしき事実の音信である。故に本当の福音である。故にイエスキリストの福音と云ひて、其歴史又は伝記と云ふも差支ないのである。馬可伝はキリストの生涯に関はる事実の記録である。而かも簡潔にして理想化されざる事実其儘の記録である。馬可伝の貴きは之が為である。之を仏教の経典に比べて見て天地の差がある。福音は比喩に非ず。又哲学に非らず。地上に於ける神の子の生涯を、人類歴史の一部分、然り其中心として録す者、其れがユーアンゲリオン即ち福音である。
〇福音の歴史的性質を認めて、之を解するに信仰のみならず又所謂史的感能の必要なる事が判る。能く史実の(260)真偽を弁別するの能力を有する者、其れが本当の史家である。英のフリーマン、独のモムゼン、伊のフエレロー等はすべて此能力を有せる人である。奇跡を載するが故に史実に非ずと断ずるは、史学ではなくして哲学である。史家は事実を判断する者である。故に在りし事実は史的事実として之を取扱ふ。言あり曰く「地理と年代とは歴史の両眼なり」と。キリストの歴史なる福音を研究するに方て、地理と年代とを怠る事は出来ない。我等は各自単に信仰養成の為のみに非ず、世界歴史修得の為に、各自相応の史的感能を利用して、福音書の研究に当る可きである。
〇第三に重い詞は「イエスキリスト」である。イエスは人名であつて、キリストは職名である。キリストなるイエスである。キリストは希伯来語メシヤの希臘訳であつて受膏者の意である。アブラハム以来、預言者等を以て、神が其選民イスラエルに就て約束し給ひしすべての約束が充たさるゝ者である。ダビデの子と称してイスラエルの民の理想の王である。イスラエルを贖ふ者と称して彼等に完全の独立と無窮の栄光とを与ふる者である。而してイエスキリストと称してナザレのイエスは此王であると云ふのである。事はイスラエルに取りては最大問題であつた。イエスは預言者の一人であるとは彼等は信じて疑はなかつた。然れども彼がキリストであるとは、昔も今もイスラエル人の多数が否定して止まざる所である。そしてべテロが十二弟子を代表してイエスに対つて「汝は神の子キリストなり」と言ひし時に彼は大告白を為したのである。イエスキリスト論は異邦人に取ては小問題であつたが、ユダヤ人に取ては最大問題であつた。而して今日と雖もユダヤ人と基督者との別かるゝ所は此点に於て在る。基督者はイエスはキリストであると云ひ、ユダヤ人は非ずと云ふのである。そしてマカは基督的歴史家として大胆に明白にイエスキリストと称して其驚くべき生涯の事蹟を記述したのである。
(261)〇第四に重き詞は「神の子」である。是は単にダビヂの子と云ふが如きメシヤ即ちキリストの別名でない。馬可伝の記事其物が明にイエスが人の子にあらずして神の子なる事を示すのである。若しイエスを神の子と呼びし者がマカ一人に限るならば、或は之をキリストの別名と云ふ事が出来る乎も知れない。然れども新約聖書は他の多くの箇所に於て明にイエスの神性を唱ふるのである。「道《ことば》は即ち神なり」と云ひ、「万物彼に由りて造られ又た彼に由りて存つ事を得るなり」と云ふ。其他イエスの先在並に万能性に就て述る言は多くある。|馬可伝は人なるイエスの伝記でない〔付○圏点〕。|神の子の福音である〔付◎圏点〕。さう見ずして難解百出、到底其真意を探ぐる事が出来ない。神の子の伝記である故に其内に奇蹟のあるは当然である。我等は其覚悟で研究に取掛らねばならぬ。
 
    第二回 先駆者ヨハネ 馬可伝一章二−八節。路加伝三章一−一八節。約翰伝一章一九−三七節。
 
〇バプテスマのヨハネ、彼は如何なる人でありし乎。イエスは彼に就いて曰うた「誠に汝等に告げん、婦の生みたる者の中に未だバプテスマのヨハネより大なる者は起らざりき」と(馬太伝十一章十一節)。即ち彼は人として最も大なる者であつたと。果してさうである乎。
〇|ヨハネは第一にイエスの紹介者であつた〔付○圏点〕。「世の罪を任ふ神の羔を視よ」と曰ひてイエスを世に紹介した者は彼であつた。紹介の任たる最も重い者である。先づ第一に紹介すべき人の誰なる乎を充分に知悉《しりつくさ》ねばならぬ。第二に己が全責任を担ふて紹介の任に当らねばならぬ。第三に彼と我と責を分ちて事業に臨まねばならぬ。紹介は容易に為すべき事でない。丙して為した以上は其責任を避けてはならない。ヨハネはイエスをキリストとして、彼の不信の国人に紹介した。其行為の大胆なる、後に至て弟子等が彼をキリストなりと認めて世に唱道したに遥(262)に勝さる者である。当時天下にイエスの誰なる乎を知つた者は唯ヨハネ一人であつた。偉人のみ偉人を知る。大工の子イエスを捉へて「我は屈て其履の紐を解くにも足らず」と言ひし彼は能くイエスを知つた人であつた。イエスは一人の知己を以て世に出で給うた。彼に取り如何に力強かりしよ。独り高壇に立つさへ苦しいのである。縦令イエスと雖も世に現はるゝに方て紹介者を要し給うた。其紹介の任に当りし者がバプテスマのヨハネであつた。彼はたしかに婦の生みし者の中に最も大なる者であつた。
〇|ヨハネは第二にイエスの先駆者であつた〔付○圏点〕。「野に呼べる者の声あり、曰く主の道を備へ、其道筋を直くせよ」と有る預言者の言に適ふ者であつた。是れ亦大役である。戦争で云へば先陣である。文化事業で云へば開拓者である。暗黒大陸発見の途に上りしコロムブスである。勇ましくもあればまた困難である。そしてバプテスマのヨハネは神の国建設の先駆者《さきがけ》であつたのである。単独で、勇敢で、世に一人の同情者あるなく、独り視て独り望み、独り歎きて独り泣く。「ヨハネ野に在りて駱駝の毛衣を着、腰に皮帯を束《つか》ね、蝗虫《いなご》と野蜜《のみつ》を食へり」と。当時の社会と教会とは彼に就て言うたであらう、彼は不平家である、隠遁者である、自から神の恩恵を斥けて無益に難行苦行する者であると。彼等は彼の不平の理由を知らなかつた。彼は世に容れられないとて歎かなかつた。王公貴族に愛せられないとて憤らなかつた。彼に不平があつたが夫れは聖い貴い不平であつた。彼は神の国を示された。其実現を望んだ。而して大理想、大希望に圧せられて平らかなること能はずであつた。人は彼が抱く理想の高き丈け其れ丈け孤独である。大なる詩人、宗教家、政治家は凡て孤独であつた。彼等は所謂|宇宙的悲歎《コスミツクソロー》に捉《とらは》れたる者である。今や社交的なるを以て文化生活第一要素と見做すと雖も、すべての大なる進歩又は向上又は発見は孤独の人によつて為されたのである。バプテスマのヨハネの真価の認められざる社会より大人物は決して起ら(263)ない。
〇ヨハネは如何にしてイエスの為に道を備へ其径筋を直くした乎。|厳格なる正義を唱へ、之を行ふ事に由てゞある〔付○圏点〕。「嗚呼|蝮蛇《まむし》の裔よ、誰が汝等に来らんとする怒を避くべき事を告げしや。然らば悔改に符《かな》へる果を結ぶべし。……今や斧を樹の根に置かる、故に凡て善果《よきみ》を結ばざる樹は伐られて火に投入らるゝ也」と(路加伝三章七−九節)。此は審判であつて恩恵でない。厳格なる正義の唱道であつて、罪の赦しの福音でない。然れども|正義の無き所に福音は有得ない。審判の無き所に罪の赦しは説き得ない〔付△圏点〕。斯くしてヨハネ有つてのイエスである。預言者なくしてキリストは世に現はれ給はなかつた。イエスとヨハネを比較て、二者の優劣を論ずるは無益の業である。神は先づヨハネをして厳格なる正義を説かしめて然る後にイエスを以て罪の赦しの福音を伝へしめ給うた。先づ美《よ》き土壌《つち》を作らしめ然る後に善き種を播かしめ給うた。故に三十倍、六十倍、百倍の果を結んだのである。
〇厳格なる正義の準備なき所にキリストの福音の栄えた例はない。其意味に於てヨハネのみならず、凡の預言者はイエスの先駆者であつた。神の子は恩恵の福音を漏らして、峻厳なる道徳の行はれざる所に現はれなかつた。モーセとエリヤとヱレミヤとバプテスマのヨハネとはイエスの現はるゝが為に必要であつた。旧約を排して新約は解らない。シナイ山の焔を以て※[火+毀]尽されずして、ガリラヤ湖の水の潤ひに与かり得ない。ピユーリタン道徳があって健全なる英米の基督教が有り得たのである。今や是れ無きに至つて真の福音は地を払ふに至つた。|日本に於ても最も善き基督者は厳格な武士の家に起つた〔付○圏点〕。「上のお情」あるを知つて、道の犯すべからざるを知らざりし所謂る町人百姓は、キリストの福音に接するも、唯愛の甘きを喜ぶに止つて、義の辛くして貴きに堪へ得ない。|其意味に於て純潔なる儒教と公正なる神道とはキリストの福音の善き準備であつた〔付△圏点〕。伊藤仁斎、中江藤樹、本居(264)宣長、平田篤胤等は日本に於て幾分にてもバプテスマのヨハネの役目を務めた者である。之と較べて、仏教、殊に浄土門の仏教は、阿弥陀の慈悲を唱ふる事余りに切なりしが為に却て神の義に基くキリストの福音を正解する上に於て多くの妨害を為した。
〇「鞭と譴責《いましめ》とは智慧を与ふ、任意《こゝろのまゝ》になし置かれたる子は其母を辱かしむ」とある(箴言廿九章十三節)。厳格なる父と母と師とを有たる子は福ひである。自由解放と称へて「鞭と譴責」とは之を其凡ての形に於て排斥する者は真理の饗筵《ふるまひ》に与る事は出来ない。近代人はバプテスマのヨハネを嫌ひ、彼を避け、彼に依らずして直にイエスに至らんと欲して其目的を達し得ない。先づ正義の小学に学ばずして福音の大学に入ることは出来ない。アンデレの如く先づヨハネの善き弟子でありし者が、イエスの最も善き弟子と成つたのである(約翰伝一章卅五節以下)。イエスの地上の御生涯が福音の始でありしが如くに其福音は又ヨハネの峻厳にして冒すべからざる生涯を以て始つた者である。 〔以上、12・10〕
 
    第三回 イエスのバプテスマ 馬可伝一章九−十一節。馬太伝三章十三−十七節。路加伝三章廿一、廿二節。約翰伝一章卅二−卅四節。
 
〇バプテスマはヨハネ又は基督教を以て始つた者ではない。是は古代民族の間に広く行はれし儀式であつた。そしてユダヤ人の間に在ても亦入会又は入門の式として一般に行はれた。異邦人がユダヤ教に入る時に此式が行はれた。又ユダヤ人にして凡俗以上の新生涯に入らんと欲する者は此式を受けた。故にヨハネはバプテスマを施して其当時一般に行はれし入門式を採用したに過ぎなかつたのである。彼の特徴はバプテスマの式に於て在つたのではない。式の目的に於て在つたのである。将さに顕はれんとせし神の国に納《うけ》られんが為に罪の悔改を表する為(265)のバプテスマであつたのである。夫故に之を称して「罪の赦しを得させんが為の悔改のバプテスマ」と云うた。
又は単に「ヨハネのバプテスマ」と云うた(行伝十八章廿四節)。そしてイエスは茲に此|ヨハネのバプテスマ〔付○圏点〕を受けんとしてガリラヤのナザレよりヨルダンに来り給うたのである。
〇故に問題は「イエスは何故に|ヨハネのバプテスマ〔付○圏点〕を受け給ひし乎」と云ふに在る。イエスはキリストであつて神の子であつた。彼に悔改むべき罪はなかつた。馬太伝は此事に関し記して言ふ「斯時イエス、ヨハネにバプテスマを受けんとてガリラヤよりヨルダンに来り給ふ。ヨハネ辞みて曰ひけるは我は汝よりバプテスマを受くべき者なるに汝反つて我に来る乎。イエス答へけるは暫く許せ、如此凡て義しき事は我等尽す可きなりと。茲に於てヨハネ彼に許せり」と(三章十三−十五節)。
〇「凡の義しき事は我等尽すべきなり」と。「義は凡て応に之を行ふべし」との意である。純聖のイエスがヨハネの施せる罪の赦しのバプテスマを受くるは善事《よきこと》である、故に彼は之を受け給うたのである。(聖書の語法に由れば|善〔付○圏点〕はすべて|義〔付○圏点〕である。義しき事と云ふは善き事と云ふと同じである)。第一にヨハオは独り天下に向つてイエスをキリストとして紹介した。イエスは之に対してヨハネと彼のバプテスマを認めざるを得ない。是れ友誼の命ずる所、義である、善である。|イエスは神の子たるの栄光を賭してヨハネの伝道に裏書きし給うたのである〔付△圏点〕。イエスは最良の友人《フレンド》であつた。故に友誼に酬ゐるに厚くあつた。ヨハネは其預言者たるの名誉を賭して大工の子イエスを神の子、イスラエルの王として世に紹介した。彼の此勇敢なる行為に対して酬ゐる所なからざるべけんや。茲に於てか|イエスは神の子たるの栄光を賭してヨハネよりバプテスマを受けて彼と彼のバプテスマとの神より出たる事を〔付△圏点〕証《あか》|し給うたのである。世には自分の地位の傷けられん事を虞れて、善とは知りつゝも、公然立つて(266)友人と彼の事業とを証する者甚だ尠きに省みて、イエスの此行為の美はしさが思ひやらるゝのである。衆人の間に隠れて窃に彼を讃美するのではなく、人知れずして同情の寄附を為すに止まらず、公然身を以て彼の教訓指導に与る。矛盾と云へば矛盾である。純潔は洗はるゝの必要なしと云へば云へやう。然れども友誼には友誼の法則がある 義を見て為ざるは勇なき也。|イエスは此場合に自己を忘れてヨハネのバプテスマを受け給うたのである〔付△圏点〕と信ずる。而してヨハネはイエスの此行為に由て如何に力附けられしょ。イエス一人の証明を受くるはユダヤ全国の承認を受くるよりも力強く感じたに相違ない。神の人は如此くにして相互を援くべきである。世の認めざる者を認め、其事業に参加し、以て神の栄光の宣揚を計るべきである 然れども事実は如何。「君不(ヤ)v見管飽貧時(ノ)交、此道今人棄(テ)如(シ)v土(ノ)」と杜子美の詩に云ふが、イエスとヨハネとの聖き交も亦今の基督信者は棄てゝ泥の如しではない乎。
〇第二に、イエスがヨハネの施せる罪の赦しのバプテスマを受け給ひしには他に猶ほ理由があつた。罪を知らざりしイエスに悔改のバプテスマを受くるの必要はなかつた。乍然ら彼は「世の罪を任ふ神の羔」として世に現はれた者であつた。故に其資格を以てしてヨハネのバプテスマに与り給うたのである。「神は罪を識らざる者を我等の代りに罪人となせり、是れ我等をして彼に在つて神の義となる事を得しめん為なり」とパウロが曰ひしが如くに、イエスは此場合に於ても亦罪人に代り彼等を代表して罪の赦しのバプテスマを受け給うたのである(コリント後書五章廿一節)。|死するの必要なき者が罪人に代つて死にしやうに、悔ゆるの必要なき者が茲に悔改を表し給うたのである〔付△圏点〕。是れ彼に取り至大の謙遜であつた。然れども謙遜は彼の全生涯の特徴であつて、此場合にのみ限つたことではない。イエスのバプテスマは彼の十字架上の死の前兆であつた。彼は聖書の神の子なるに自(267)から選んで罪人と運命を共にし給うた。イエスのバプテスマの意義と其美しさとは茲に在るのである。〇此意義あるバプテスマ、之を受けて「水より上れる時天裂け、御霊鴿の如く己に降るを見給ふ。且天より声出づ曰く汝は我が愛子なり我れ汝を悦ぶと」。是は事実文字通りにあつた事である乎、或は霊的実験を物的事実として書記《かきしる》した者である乎、之を確定する事は出来ない。然れども其確実なる事実でありし事は確である。茲に勇敢なる信仰的行為が遂げられたのである。そして之に対して父なる神の嘉尚があつたのである。父は子の行《わざ》を嘉し、聖霊に由て二者の関係が一層密接にせられたのである。「天裂け」と云ふ。今まで閉されし天が神の子の贖罪的行為に由て急に開かれ、恰かも天幕の覆ひに裂目を生じ、日光が之を通うして幕内を照せしが如くであつた。|殊に美はしきは聖霊鴿の如くに降れりと云ふ事である〔付○圏点〕。静かに、湿やかに、ヘルモン山の露がヱルサレムに降るが如くに、此時聖霊がイエスの上に降つたのである。聖霊の降臨と云へばべンテコステの日に於けるが如くに、「天より迅風《はやかぜ》の如き響ある焔の如きもの現はれ分れて各人の上に止まる」と思はるゝのが常である(行伝二章二、三節)。然るにイエスの此場合に於ては之と全く異なり「聖霊《みたま》鴿の如く己に降るを見給ふ」とある。そして聞き給ひし語はべテロに由て引用されし「我れ上なる天に奇跡を現はし、下なる地に休徴《しるし》を示さん。即ち血あり火あり烟あるべし」との預言者ヨエルの言にあらずして、「汝は我が愛子、我れ汝を悦ぶ」との父の声であつた。聖霊の降臨の必しもべンコステの日のそれに傚ふ者にあらざる事はイエスの此場合に依て見て明白である。
〇そして如何にして我等も亦此静かなる聖霊の降臨に与る事が出来る乎と云ふに、其途は明瞭である。|即ちイエスの跡に従ひ、彼が行ひ給ひしやうに行ふ事に由てゞある〔付○圏点〕。即ち己が地位と名誉とを賭して友人の高貴なる事業に参与し、又他人の罪を己が身に担ひて彼に代りて苦しむ事に由て、我等も亦父なる神の喜尚に与り、「汝は我が(268)愛子なり」との彼の賞辞に接する事が出来るのである。聖霊は神が人の祈求に応へて与へ給ふ最大の賜物である。そして祈祷に言葉を以てすると行為を以てするとの二がある。そして若し言葉を以てする祈祷に応ふるにべンテコステの日に於けるが如き迅風烈火の如き聖霊の降臨があるならば、高貴なる行為を以てする祈祷に応ふるにヨルダン河の畔に於けるが如き鴿の如き聖霊の降臨があるのではあるまい乎。私は在ると信ずる。私の短き信仰的生涯に於ても斯かる降臨が幾度となく私相応にあつたと信ずる。耻を忍んで弱者の為に尽す時に、神の愛に励されて少許りの隠れたる善を為す時に、殊に自分は別に罪を犯したりと思ふ覚えなき時に、或は他 の為に或は同胞の為に、或は祖先遺伝の為に、彼等に代りて苦しみを受くる時に、而して苦しみて呟かず、我を鞭ち給ふ父の聖名を頌讃ふる時に、静かなる鴿の如き聖霊の降臨を実験した事があると信ずる。
〇是に由て観れば、人はバプテスマの式に依て救はるゝのではない。之を受けし精神に依て救はるゝのである。バプテスマの式はどうでも可い。キリストの精神を以て人生に対する、それが本当のバプテスマである。
 
    第四回 野の試誘《こゝろみ》(上) 馬可伝一章十二、十三節。馬太伝四章一−十一節。路加伝四章一−十三節。
 
〇他の福音書に較べて、馬可伝の特徴は第一に順序的なる事、第二に簡潔にして写実的なる事である。其事は最も明白に野の試誘の記事に於て現はる。イエスはバプテスマをヨハネより受けて新たに聖霊と能力を授かり給うた。そして其後直に彼に臨みし者が野の試誘であつた。「斯くて御霊直にイエスを荒野に逐ひやる」とあるが如し。能力が加はりて後に試誘、其れがイエスの場合に於て順序であつた。すべての人の場合に於てさうである。此順序其物が大なる真理を我等に伝へる。
(269)〇馬可伝の記事は簡潔である。故に之を補ふに他の福音書の記事を以てするの必要がある。そして馬太伝の記事は路加伝の記事と其要点に於て一致する。只試誘の順序に於て、馬太伝が第二として録す者を路加伝は第三として掲げる。そして此順序の変化に由て試誘の意義に多少の変化を生ずる事に就ては後に至て述べやうと思ふ。私は茲に三福音書の記事を綜合してイエスの御生涯に於て最も重大なる此出来事に就て成るべく丈け精細に考へて見やうと思ふ。〇ドストエフスキーが曾て言うた事がある、若し試にイエスの言行に関はる記事が尽く消滅せらるゝとも、若し荒野の試誘の記事が残るならば基督教は世に存るであらうと。即ち野の試誘是れ基督教であると見ても差支ないとの事である。又詩人ミルトンが『楽園の回復』を歌ふに方て彼は野の試誘以外に渉るの必要を感じなかつた。彼に取りても亦野の試誘は基督教のすべてであつた。イエスは之を以て世に勝ち悪魔を滅し給うたと信じたのである。序に曰ふが私の知る範囲に於てミルトンの『楽園の回復』は野の試誘に関する最大最良の註解である。其文の荘高優美なるは言ふに及ばず、其信仰は英国清教徒の信仰の最高潮に達した者であつて、多分此場合に於けるイエスの心理状態を最も正確に窺うたものであると思ふ。
〇先づ馬可伝の記事に就て述べんに、「直に」とは前に言うた通りである。「御霊イエスを逐ひやる」とは種々に解する事が出来る。イエスは自身好んで荒野に入り給うたのではない。聖父の霊に強ひられて他動的に往き給うたのである。外部の圧迫を云うたのである乎、又は内心の刺戟を指したのである乎、勿論知る事は出来ない。彼が此時大問題に遭遇して其の解決を得んが為に人を避けて聖父《ちゝ》とのみ共に在らん事を求め給うた事は確である。或人が言うた事がある「イスラエルの歴史は荒野を離れて考ふべからず」と。荒野は実にイスラエルの偉人の(270)養成所であつた。モーセもエリヤもアモスもバプテスマのヨハネも、其他すべて親しく神と交はりし者、深く人生に就て考へし者は荒野に之を探ぐるが恒であつた。誠に荒野は生産的には無用の地であるが、信仰的には最も有用の域である。ヱルサレムより東南数十哩に渉り、急傾斜をなして死海に下る所、是れ所謂「ユダの荒野」であつて、神が己を探ぐる者の為に備へ給ひし天然の修道院であつた。貴きは磽※[石+角]不毛無人の地なる荒野である。
〇「聖霊イエスを荒野に逐ひやる」と云ふ。神の霊亦度々イエスの弟子を荒野に逐ひやり給ふ。或は大責任を彼に担はせ、或は大思想を彼に与へ、或は大鹿問を彼の衷に起して、彼をして止むを得ず寂寞の内に光明を探らしめ給ふ。荒野は時には深山である。沙漠である。或は人の作りし修道院である。而して亦山に退かずとも、又は寺に隠れずとも、心の内に荒野を作られて、身は都会雑沓の地に在ると雖も、霊は荒野に彷復て悪魔に試みらるるのである。基督信者は誰でも一度は必ず荒野に逐ひやられるのである 其時彼は何となく不安に感ずる。人生が懣《つま》らなくなる。恐れる。戦慄く。真暗になる。其時種々の囁《さゝやき》が心の耳に聞える。実に彼に取り|永生の危機〔付△圏点〕である。私は偉人の伝記を読み、事の茲に至る時、彼の将来に就て大なる疑懼を懐かざるを得ない。荒野の試誘‥彼にも有つたとカアライルは彼の『衣服哲学《サーターレターサス》』に於て曰うて居る。ワルヅワスにも有つた事は彼の名作『序言《プレルード》』に明かである。「貴女は私は今何処に居る乎を知る。私は今メセクに宿る。メセクは|長引く〔付○圏点〕を意味すると云ふ。私は又ケダルに居る。ケダルは|暗黒〔付○圏点〕の意であると云ふ」と彼の従妹に書贈りしコロムウエルはたしかに此時荒野に居つたのである。我等はすべて各自一度は荒野に逐ひやられるのであると知つて、孤独寂寞を感ずると雖も決して失望してはならない。
〇「荒野にて四十日の間サタンに試みられ、獣と共に居たまふ」とある。モーセがエホバと共に四十日四十夜(271)シナイの山の顛に於て居りしが如くにイエスも亦此所に四十日悪魔に試みられて荒野に居つたのである。然し「サタンに試みられ」とは何の事である乎。罪あればこそ悪魔に試みられるのである。イエスが試みられたりとあるは彼も亦罪人であつた証拠ではない乎と云ふ者がある。之に対し私は後に答ふる所あらんと欲する。今は唯希伯来書第四章十五節以下を引用するを以て足れりとする、曰く「我等の荏弱《よわき》を思ひやること能はざる祭司の長《をさ》は我等に有らず、彼はすべての事に於て我等の如くに誘はれたれども罪を犯さざりき。是故に我等憐愍を受け機《をり》に合ふ助けとなる恩恵を受けん為に憚らずして恩寵の座に来るべし」と。自身罪なきに罪の赦しのバプテスマを受けしイエスは|罪人に同情を寄せん為に〔付△圏点〕サタンに試られ給うたと云ふのである。彼は自から試みられて、試みらるゝ事の何たる乎を知り給ひ、又試みに勝つの途を示し給うた。彼は如何に試みられて如何に勝ち給ひし乎は他の福音書の示す所である。私は順に従ひて其事を説明しやうと思ふ。
〇「獣と共に居給ふ」とは何である乎。荒野に棲息せし野獣と共に居給へりと云ふ事である乎。若しさうであるとすれば、轡子がダニエルを傷けざりしやうに、ユダの荒野特産の御子や熊や蠍や蝮が柔和なる聖きイエスに何等の害を加へなかつたと云ふ事であらう 或は「獣」とはサタンの種々の現化《あらはれ》ではなかつたらう乎。事は宗教心理学の領分に属することであつて、単に之を物理的にのみ説明すべきでない。そして荒野が荒野に非ざる場合に於て、獣も亦獣でないのである。コロムウエルの如くに|長引く〔付○圏点〕メセクの地に|暗黒〔付○圏点〕のケダルの幕屋の内に宿る時に、我等は獣の如き人又は獣より悪しき人等と偕に居るべく余儀なくせらるるのである。試誘の辛さは荒野に在り、又荒野の獣に在るのである。彼等は我等を嘲けり、罵り、偽はりて様々の悪しき事を言ふ。然れども天の父の許なくして寸毫《すこし》たりとも我等を傷くる事が出来ない。
(272)〇荒野に在りてサタンに試みられ獣と偕に居ると云ふ。すべてが暗黒である、すべてが凄愴である。然れども「御使たち之れに事へぬ」とある。茲に光明がある、歓喜がある。天使は美はしき形を以てイエスの目に見えたであらう乎。或は静かなる細き声として彼に囁くに止まつたであらう乎。是れ亦私の知る所でない。然し乍ら形の問題でない、事実の問題である。|神は御自分を愛する者を〔付○圏点〕御使|たちを遣して守り給ふと〔付○圏点〕云ふのである。そして其事はイエスの此場合に於て事実であつた。多くの聖徒の場合に於て事実である。基督者には人の知らない味方がある。サタンが其全軍を率ゐて彼を攻め、社会にも教会にも亦彼の同志と称する者の内にも一人の同情者なき時にも、御使たちは彼を護り、神命一たび降れば助けて彼をして安全ならしむ。馬可伝の記事にイエスが如何にしてサタンを撃退し給ひし乎其事は書いてない。然し乍ら天使が彼に事へたとあつて、我等はサタンの試誘は全然失敗に終つた事を知るのである。記事は甚だ簡短である。然れども大家の撃に成りし絵の如くに、一点一画悉く要点を描いて、真相の目前に躍如たるを見る。
〇「天使たち彼に事ふ」とある。天使は時には嬰児《みどりご》である。其|微笑《えみ》に天父の愛が読まれて憂愁の悪魔の散ずるを見る。或は預言者エリヤを助けしが如き貧しき寡婦である。彼女の信仰に懐凝の雲は晴る。天使は何処《いづこ》にも居る。
 
    第五回 野の試誘(中) 馬太伝四章一1十一節。
 
〇イエスの野の試みを研究するに方て二三の先決問題がある。其一は人は果して四十日間断食し得るやである。其二はサタンなる者は果して実在する乎である。其三は奇跡は果して行はれし乎である。然し今は是等の問題を研究する場合でない。我等は聖書の記事其儘を事実として受けて目前の研究に取掛るべきである。
(273)〇試みはすべての人に臨むが、人に臨む試みは其人に由て違う。青年には青年の、大人には大人の、老人には老人の、男には男の、女には女の試みが臨む。そしてイエスにはイエス相応の試みが臨んだのである。所謂「野の試み」はイエスの試みとして臨んだのであつて、我等は先づ之をイエス特有の試みとして研究すべきである。而して後に其内に試みの通有性を発見して、之を我等各自に臨む試みに適用して機に合ふ教訓に与るべきである。
〇イエスはヨハネのバプテスマを受けて水より上りし時に「此は我が心に適ふ我が愛子なり」との天よりの声に接した。今日の言を以て云ふならば、彼は此時確かに神の子たる事を自覚したのである。然るに悪魔は此声を打消さんとしたのである。是が試みの要点である。|イエスは天よりの声を信ずるや否や〔付○圏点〕。其事を試みられんが為に彼は荒野に逐ひやられたのである。故に悪魔は先づ第一に曰うたのである、「汝若し神の子ならば此石をパンと為よ」と。「汝若し神の子ならば……」「若し」は疑ひの言である。イエスは確かに「汝は我が愛子なり」との神の言に接した。然るに悪魔は彼に疑を懐かしめんと欲して「汝若し神の子ならば」との語を以て言ひ掛けた。而かも要点は食物問題にある乎の如くに見せかけて、イエスの注意を他に惹かんとした。其巧みや実に驚くべきである。「汝若し神の子ならば此石をパンに為よ」と。餓を充たすは悪事に非ず、イエスに今や石をパンに為すの能力が在つた。彼は今何故に此能力を用ひて、パンを作り彼の貴重なる生命を保存せざる。然れどもイエスは直に悪魔の暗示の真意を看破し給うた。是は彼の生命を助けんとの助言ではない。之を毀たん事は彼れ悪魔の最大の希望である。|悪魔の目的はイエスが神の命を待たずして、悪魔の言に耳を傾けて、彼をして茲に正当の理由ある奇蹟を行はしめて、神とイエスとを離間せんとするに在つた〔付△圏点〕。故にイエスは之に答へて曰ひ給うた、「人はパンのみを以て生くるに非ず、神の。より出る凡の言に由る」と。(「〔惟神の口より」と旧訳にある「惟」の字を(274)除くべし)。イエスは茲に旧約聖書申命記八章三節の言を引いて答へ給うたのである。其の意味は普通に解せらるゝが如く「人は肉体を養ふパンのみを以て生くるに非ず、霊魂を養ふ神の言を以て生く」と云ふ事ではない。イエスの此言の意味は「人はパンを以て生くるがパン丈けで生くるのではない、神の口より出る凡の言、即ち|神の命に由て与へられたるパン〔付○圏点〕を以て生くるのである」と云ふのである。パンはパンでさへあれば其出所を問はず、其の之を得る方法を間はず、パンは道徳問題又は信仰問題を離れて考ふべきであると云ふ世間普通の考へに対しイエスは此言を発し給うたのである。イエスは此時飢えて非常にパンを要求し給うた。そして彼に亦之を造るの能力があつた。然れども神の口より出る言を聞かずして此能力を使用する事は出来ない。神の許し給はざるパンを食ふは餓死するに若かずと彼は堅く立つて動き給はなかつた。|要は神に対し子たるの関係を維持するにあつた〔付○圏点〕 神の敵なる悪魔の言とあれば縦令正当の理由あるものと雖も断然之を斥くるにあつた。神との聖き関係を保つ為に悪魔との関係を断つにあつた。「汝は我が愛子なり」との神の言を信じて動かざらんが為に、イエスは茲に餓死を決心し給うたのである。
〇悪魔は第一の試みに於て失敗した。故に第二の試みを試みた。彼はイエスをヱルサレムに携へ行き、聖殿の頂上に立たせて曰うた、「汝若し神の子ならば己が身を下に投げよ云々」と。其目的は前回と同じく天よりの声に対し疑を懐かしめ、父と子とを離間せんとするに在つた。然し目的は同じであつたが方法は異つた。前にはイエスをして己の能力を試さしめんとしたが、今は彼に対する父の愛を試さしめんとした。此場合に於て試みは父の愛の試みであつた。そして是れ亦正当の試みであるまい乎。イエスは神の愛子であると云ふ。然し此事を伝へし者は声たるに過ぎない。声に誤りなしとせず、声は其事実を試みるの必要あるに非ずやと悪魔は茲にイエスに囁いた(275)のである。聖書は録すに非ずや、汝若し高き所より落ちん時、神は天使を遣りて汝の身を支へ、汝をして石の上に落つるも無難ならしめ給ふと。聖書の此言を実験的に試みて然る後に救世の途に就く、是れ志を固め、確信を以て働くの途に非ずやと云ひて、悪魔はイエスの大業を翼賛するが如くに見せかけて、彼に冒険を促したのである。
○然れどもイエスの之に対する答も亦明白であつた。悪魔は詩篇九十一篇十一節に依りてイエスを誘ひしがイエスは申命記六章十六節を以て之に答へ給うた。曰く「主たる汝の神を試むべからず」と。其意味は「神は其言に由りて信ずべし、之を試むるの必要なし、神の言を聞けば足る、奇蹟と休徴を見るにあらざれば信ぜずと云ふは、是れ不信なり、罪なり」と云ふのである。イエスは既に明かに天よりの声を聞き給うた。其事実を試すに及ばず。人間の場合に於てすら其言を信ぜずして其証拠として実物を要求するは無礼である。況して神に対してをや。親しき家庭の関係はすべて信用に由て維持せらる。然るに神の子が父なる神の言を信ずる能はずして、其証拠を奇蹟に求むるに至る、茲に三位の聖き関係が其一方に於て破れるのであつて、イエスに取りては此上なき重大事件である。イエスの聖眼(烱眼と云はず)能く悪魔の譎計《いつはり》を見抜き給うた。故に一言以て之を喝破し給うた。
○悪魔はイエスを試みて二度失敗した。彼はイエスの神に対する子たるの態度を少しも動かす事の出来ない事に気附いた。茲に於てか全然手段方法を変へてイエスに臨んだ。悪魔はイエスに曰うた、「汝の神の子たる事、イスラエルの王キリストなる事を我を認む。而して我も亦世界万民と共に汝の大業の成らん事を願ふ。然れども事は難事である。而して民は塗炭に困んで一日も早く救はれん事を望んで止まず。善は急げ。汝の場合に於て成功一日の遅滞は万邦百年の災厄に当る。何ぞ少しく我を利用して汝の成功を早めざる。短時日の間に国を救ひ世を治むるは政治に由るに若かず。汝の天職と才能とを以てしてイスラエルを率ゐて世界を統御するは易々たるべし。(276)見よ全世界は汝の蹶起を待つに非ずや。先づ兵力、外交、内治を以て世界を統一して然る後に汝の救世的事業を行ふ。是れ最も早く、又最も容易く世を救ふの道に非ずや。たゞ少しく我に聴き、我を重じ、我を用ひれば足る。
汝、我が此揚言を採用せずや」と。
〇イエスは悪魔の此囁きを聞きて別に之に答ふるの必要はなかつた。悪魔は茲に悪魔たるの正体を表はした。一言之を叱咤すれば足る。「サタンよ退け。主たる汝の神を拝し、唯之にのみ事ふべしと録されたるに非ずや」と。神の国を建設するに方て悪魔の力は寸毫之を藉るに及ばず、只神の力、即ち義と愛とを以てのみ行ふべし。時は縦し長くかゝるとも、道は縦し遠くして難くとも、神の国は神の示し給ふ道に由てのみ建つる事が出来る。前にはネブカドネザル、アレキサンドル、シーザー、後にはシヤーレマン、ナポレオン、カイザルの取りし途、是はサタンの示す道にして誤りたる途である。イエスは神の子にして、寸毫悪魔の途、即ち此世の途に由らずして神の国の建設を始め給うた。嗚呼聖き偉大なるイエスよ、若し汝の弟子と称する者が悉く汝の取り給ひし道を取り来りしならば、世は今頃は既に神の国と成つたであらう。然るに事実は之と正反対である。基督教会と称する者は此世即ちサタンの道を取りて世界教化を計りつゝある。憤慨何ぞ堪えん。 〔以上、大正12・1・10〕
 
 馬可伝研究として始めし此研究を以後キリスト伝研究と改題する。但し馬可伝を骨子として馬太、路加両伝を以て之を補ふは最初の計画通りである。
 
    第六回 野の試誘(下) 路加伝四章一−十三節。
 
(277)○所謂「荒野の試誘」は神の子イエスキリストに臨みし試誘であつた。故に之に普通の人に臨む試誘がなかつた。悪魔はイエスの|利欲〔付△圏点〕に訴へて彼を試みなかつた。斯く為すも無益であると知つたからである。悪魔は亦イエスの|情欲〔付△圏点〕に訴へなかつた。是れ特に注意を要する事である。大抵の人の場合に於て「試誘」と云へば情欲の試みを云ふ。釈迦牟尼の場合に於てすら試みは此形を取つたと記されて居る。悪魔は美人の形を取つて聖者に顕はれたとは凡て名僧聖人伝の録す所である。然るにイエスの場合に於ては此試みがなかつた。彼は此試誘を以て試みらるゝには余りに聖くあつた。ミルトンの『楽園の回復』に魔界の王サタンがイエス誘惑の方法に就き、魔族の意見を叩きし時に、色魔ベリアルは助言を提して曰うた「彼の眼に婦人を示せよ。彼の行く所に婦人を据よ。人の子の内に最も美しき婦人を求めて之を彼の前に置けよ」と。然るにサタンはイエスの場合に於て此の方法の全然無効に終るを説いた。イエスの目的は余りに高く、彼の眼は余りに聖くして、彼は到底情欲の誘惑を以て近づくべからざるを陳べた。そしてサタンをして此陳述を為さしめしミルトンは能く主イエスの心を知つたのである。其点に於て仏人ルナンがその小説的イエス伝に於て、イエスをしてナザレに残せし彼の恋人を懐はしめし一段は、小説とは云へ、能く著者自身の心理状態を暴露し、信仰の事に於て仏国文豪の到底英国詩人忙及ばざるを示して余りあるのである。
〇イエスに低い卑しい惰は無つた。然し乍ら彼に高い貴い惰は有つた。彼は婦人の内に愛人を持ち給はなかつたが、彼には婦人以上の愛人があつた。|それは神の民であつた〔付○圏点〕。神に選ばれし人の子等であつた。彼は彼等を思ふこと熱く、彼等に惹かれ、彼等の救拯の為に動かされた。如何にして疲等を救はん乎。其手段方法如何。此問題を心に蔵《かく》して彼は荒野に往いたのである そして路加伝のイエスの野の試誘に関する記事は此方面より見たる記(278)事であると思ふ。イエスの心を占領せし者は唯二つであつた。其第一は神に対する愛であつた。其第二は神の民に対する愛であつた。|そして野の試みをイエスの神に対する愛の試みと見た者が馬太伝の見方である 人、殊に神の民に対する愛の試みと見た者が路加伝の見方であると思ふ〔付○圏点〕。勿論同一の試みが同時にイエスの愛の両方面に訴へたのであるが、両伝の著者は各自己に最も強く訴へた方面を記録《かきしる》したのであると思ふ。
〇イエスは餓え給うた。そして餓え給ひしと同時に感じ給ひし事は飢餓の苦痛と食物の要求とであつた。悪魔は其時イエスの心裏に囁《さゝや》いて曰うたのである。「汝神の子たるの能力を以て石を化してパンと成し、先づ汝自身の蛾を癒し、然る後にすべて汝の民を養うては如何。人生最大の問題は食物問題である。先づ民を養はずして何事も始まらず。見よ世に飢餓に苦しむ民の如何に多きを。餓えたる民に良政を施す能はず 餓えたる民は福音を聞く為の耳を有せず。食物に豊富ならずして順良高徳の民あるなし。故に汝若し神の子ならば茲に意を決して食物の供給者となれよ。是れ最も実際的の意味に於ての世の救主たる事なり」と。そして斯かる誘惑は愛情鋭敏なりしイエスを強く動かしたに相違ない 空の鳥の養はるゝを見て喜び給ひし彼は、人の子の食物足らずして苦しむを見て如何計り苦み給ひしよ。然れども彼の深き愛は浅き愛に勝つた。彼は聖書の言を思出し給うた「人はパンのみにて生《いく》る者に非ず」と。パンは確に必要である。然し乍ら人はパン丈けにて生る者に非ず。パン以外に猶ほ多くの必要物がある。政治も必要である。思想も必要である。殊に神を知るの知識は最も必要である。人各自其天職あり。食を民に給するの業は之を他人に譲らん。我は神の子として、天の父を人に示し、彼の義と愛とを世に伝へて、永遠に生くるに必要なる生命のパンとなりて終らんと。イエスは大略如斯に曰ひて悪魔の此誘惑を撃退し給うたのであらう。
(279)〇茲に於て悪魔は第二の救世手段をイエスに提言したのである。即ち|大政治家と成つて世を救へ〔付○圏点〕と云うたのである 政治必しも悪事に非ず。世に神聖なる政治なきに非ず。ダビデ王自身が大軍人であつて同時に大政治家であつた。イエスは何故に神が「我が心に適ふダビデ」と称び給ひし彼の大なる祖先ダビデに傚ひて王たらざる乎。世を救ふの捷径は王たるに在り。前には波斯王クロス、バビロンを滅し、世界に王たりて神の民を救ひ、良き平和を広き国土に施した。イエスは何故に、神が預言者以て「彼は我が牧者すべて我が好む所を成らしむる者なり」と曰ひ給ひしクロス王に傚ひ、|より〔付ごま圏点〕大なるクロスとなりて万民を救はざる(以賽亜書四十四章廿八節)。世の所謂政治家の野心を離れて、神の政を世に施して民を救はんとの心の時にイエスに起つた事は疑ひない事である。
〇然し乍ら政治は政治であつて此世の事である 循つて文字通りに悪魔を伏拝むには及ばずとするも、彼を利用するは免かる能はざる所である 最も神聖なる政治家と雖も此意味に於て或種の罪を犯さずして功を遂げ名を挙げたる例《ためし》は無い 縦し又完全なる政治を行ひ得るとするも、政治は民を其外部に於て済ふに止まり、其内心を潔むるに至らない。心に奴隷の民たる者は、縦し政治的に自由たるも、尚ほ依然として故《もと》の奴隷の民である。神の子は悪魔と何等の関係なき途に由り、人の衷なる霊魂の深き所に福祉《さいはひ》と自由とを与へざるべからず。イエスは人類の霊魂の王たらんが為に、茲に亦世界の王たれとの悪魔の囁を打消し給うたのである。
〇然らば霊の王たらんと欲して其途如何は次に起る問題である。そして此途に就て又悪魔はイエスに示す所があつた。彼を「ヱルサレムに携れ往き、聖殿の頂に立せて曰ひけるは云々」とあるは悪魔がイエスに示せし伝道法を録した言である。即ち民衆注視の間に、殊に祭司、長老、民の学者等の前に於て奇蹟を行ひ、彼等を驚かし、(280)彼等の心志を奪ひ、彼等をして彼に跪伏せざるを得ざるに至らしめて然る後に彼等に道を説く、是れ彼等の霊魂を救はんが為に最も有力にして確実なる途であると、悪魔はイエスに教へたのである。然し乍らイエスは亦此途を斥け給うた。是れ神を試むる途であると知り給うたからである。神を試むるとは神を悩まし奉る事である。申命記六章十六節に「汝マツサに於て試みし如く汝の神ヱホバを試むる勿れ」とある其意味に於て神を試み奉る事である。即ち救拯《たすけ》の奇蹟を神に迫りて彼の御心を悩まし奉る勿れとの訓誡《をしへ》である。|イエスは茲に伝道用としての奇蹟を断然排斥し給うたのである〔付△圏点〕。
〇世を救ふの手段方法として悪魔はイエスに第一に慈善、第二に政治、第三に奇蹟を勧めた。然し乍ら何れも拒絶せられて此上彼に施すべき手段が無くなつた。茲に於て「悪魔是等の試誘をみな終りて暫く彼を離れたり」とある。然り「永久に」ではない、「暫く」である。後にはまたべテロを以て、イスカリオテのユダを以て、最後には十字架の死を以て彼を試みた。然しイエスは最後まで勝ち給うた。|イエスは弱き人類を救ふに方て其弱点に乗じ給はなかつた。却て人の強所に訴へて彼をして強からしめ給うた〔付○圏点〕。イエスこそは本当の世の救主である。
〇慈善に由らず、政略を用ひず、奇蹟を以てせずして、イエスは何に由て世を救はんとし給ひし乎。|単純なる神の言を以てしてゞある〔付○圏点〕。そして之を証明するに御自分の生命を以てしてゞある。誠に「生命に入るの門は狭く、其道は細し」である。悪魔の勧を尽く拒絶してイエスに残るは唯一本の道であつた。即ち|十字架の道であつた。神の言と之に印するに己が血を以てす〔付△圏点〕、之より外に彼の取るべき救世の道はなかつた。偉大なるイエスよ。
 
    第七回 伝道の開始 馬可伝一章十四、十五節〇馬太伝四章十二−十七節〇路加伝三章廿三節〇同章十六−卅一節。
 
(281)〇「ヨハネの囚れし後イエス ガリラヤに至り神の国の福音を伝へて曰ひけるは、期《とき》は満り神の国は近けり、汝等悔改て福音を信ぜよ」と。〇イエスは神の国の何たる乎、之を宣伝ふる方法如何を野の試誘に由て確め給うた。神の国とは人が神に対し子たるの関係を維持する事である。此事を言に表はしたる者が福音である。此事を世に伝ふるが伝道である。福音は簡短、之を宣伝ふる途も亦簡短、大真理はすべて簡短である。真理中の最大真理たるイエスの福音は最も簡短である。唯之を信じ、之を行ひ、之を他に伝ふるに強き決心が要るのみである。思想が簡短に成るまでは活動は始まらない。其点に於てニユートンもアインスタインも、ルーテルもカントも皆な同じである。そしてイエスは「神は我父、我は我が生命を賭して此関係を維持すべし」との簡短極まる思想に達して今や起たざるを得なかつたのである。
〇路加伝の記事に従へば「時にイエス年凡そ三十にして福音を宣べ始む」とある。人の三十歳は彼の自覚の時期である。肉体が其発達を遂ぐるも此時、意気が其旺盛を極むるも亦此期である。神の子も人として生れ給ひて人の取る常道に傚ひ給うた。世には三十歳以下にして大事を成就た人が無いではない。歴山王《アレキサンドル》は二十二歳にして欧亜征服の途に就いた。ウイリヤム・ピツトは二十四歳にして英帝国の総理大臣と成つた 然れども是れ皆な例外である。神の子は齢三十に達するまでは世に現はれ給はなかつた。今は時なりと自から定めて身心共に熟せざるに社会教化の途に就く者はイエスに学ぶ所なかるべからず。早くも三十歳、四十歳に達するも遅からず。神の命を待つて起つ。準備は充分なるを要す。福音の真髄を解し、悪魔を先づ己が心の衷に征服し、然る後救世の途に就く。神の子の取り給ひし途は我等の取るべき途であらねばならぬ。米国人の勧言《すゝめ》に従ひ「王の事は急なるを要(282)す」とのサムエル前書廿一章八節に於ける人なる王に就て曰へる言を引いて、之を神なる王に応用して、彼が招き給はざるに彼の御事業《みしごと》に就きてはならない。
〇「ヨハネの囚れし後」イエスはガリラヤに於て伝道を始め給へりと云ふ。此はイエスがヨハネの例を恐れ、ユダヤを避けてガリラヤに退いたのであると解する註解者がある。然し私はさう思はない。|イエスのガリラヤ伝道は彼の主義に依つたのである〔付○圏点〕。ヨハネの投獄はイエスの伝道開始を促したのであつて、其方針を変へしめたのでない。ヨハネはガリラヤの分封《わけもち》の君ヘロデの囚ふる所となりて彼がイエスの紹介者、其先駆者たるの天職を終りたるのである。而して福音宣伝は中絶を許さず、先陣斃れて後陣之に代つたのである。ヨハネ囚はれてイエス起ち給ふ。福音宣伝は勇者の従事すべき事業である。徒らに時勢に省み、危険は成るべく之を避け、水の低きに就くが如くに成るべく抵抗尠き途を取る。是れ近代伝道師の為す所なりと雖も、主イエスの為し給ひし所でない。英国人の阿弗利加伝道に一人のハンニングトン斃れて数人の彼に代る者ありしが如きが本当の基督教伝道である。「ヨハネの囚はれし後イエス、ガリラヤに到り神の国の福音を宣伝ふ」とある。我が斃れし後我に代りて起つ者は誰ぞ。
〇|イエスは伝道をガリラヤに於て始め給うた。ヱルサレムに於て始め給はなかつた〔付○圏点〕。彼の能力を以てして直に効果最も多き中央伝道を開始し得ざりし理由はない。然れども是れ彼の選び給ひし途でなかつた。彼は田舎伝道を以て始め給うた。ガリラヤに始め給うた。而かも其首府たるチベリオに於てにあらず、小都会たるカべナウムに於て始め給うた。そして是が本当の順序である。諺に曰く「神は田舎を造り、悪魔は都会を作る」と。我等田舎伝道の経験を有ちし者はすべて知る、最も確実なる信仰は田舎に起て都会に起らざる事を。イエスの世界教化(283)が「ガリラヤより何の善きもの出んや」と云はれし其ガリラヤより始まりしを知て、我等も亦中央伝道と称して多くを之より望み、過大の重きを之に置いてはならない。
〇そしてイエスの伝道は福音即ち神の御言の宣伝を以て始つた。奇蹟を以て始らなかつた。福音の要部は御言である。奇蹟は其|附添《つきそへ》たるに過ぎない。イエスは其伝道に於て決して奇蹟を重要視し給はなかつた。彼は悪魔の誘ひに従ひ、先づ奇蹟を行ひて人の注意を惹き、後に彼等に道を説き給はなかつた。「時は満てり、碑の国は近づけり、汝等悔改めて福音を信ぜよ」と。是がイエスの伝道の真髄である。「悔改めて福音を信ぜよ」。神に対して反逆の罪を継け来りし態度を改めて、天の父は汝の帰り来るを待ち受け給ふとの言を侶ぜよと。是が福音の真髄である。
〇「時は満てり」。人類が世に現はれてより長い時があつた。人類学者は云ふ多分今より二十万年前であつたらうと。旧石器時代に既に神を探るの兆候が現はれた。エジプト、ギリシヤ、バビロンと長い時代が続いた。そしてイスラエルの間に在りて神は昔し多くの区別をなし、多くの方法をもて預言者たちにより先祖たちに告げ給ひしが、終にこの末日《すえのひ》に於て其子に託《よ》りて語り給うた(ヒブライ書一章一、二節)。人類発達の極は人が神に対し子たるを自覚する事である。そして此自覚が最も鮮にイエスに於て現はれた。詩人ゲーテが曰ひし通りに、人類の発達は如何なる程度に達するも、其道徳的優秀の点に於てイエス以上に達する事は出来ない。イエスが其福音を齎してガリラヤ湖畔に伝道を開始し給ひし時に、人類の到達すべき最高巓が見えて、神の国は地上に臨んだのである。事は後に到りて明かである。
〇「神の国は近けり」。神を父として有つ心、其れが神の国である。イエスに其心が有つた。悪魔はイエスの此(284)心を動かさんと欲して反つて彼の確信を強めた。死すとも父の命に順ふべし、父の言を試みんとて奇蹟を要求せざるべし、悪魔の途は一切取らざるべしとの決心ありて、神の国は既にイエスの心に臨んだのである。故にイエスに在りては神の国は近づいたのではない、既に臨んだのである。彼は己が衷に神の国を齎して世に臨み給うたのである。
〇神の国はイエスに於て在つた。そしてイエスを以て世に近づきつゝあつた。後に彼が「神の国は顕はれて来る者に非ず、此所に見よ彼所に見よといふべき者に非ず、神の国は汝等の内に在り」と云ひ給ひしは此事を意《い》うたのである。(路加伝十七章廿、廿一節)。「汝等の内」とは「心の内」と云ふ事ではない。「汝等の間」と云ふ事である。神の国はイエスを以てパリサイの人等の間に在つたのである。彼等は悔改めて、即ち心を変へて彼の言を信ずれば、それで神の国は彼等にも亦臨んだのである。
〇そして今日の我等に取つても神の国は近くあるのである。今や神の国は肉体となりて顕はれし神の子を以て我等の間に在らずして、神の言なる聖書として我等の手の内に在る。其内に神の国は明かに示して在る。取て以て我有となす事が出来る。イエスの野の試誘は明かに神の国の何たる乎を我等に示した。然し其れ丈けでは足りない。試みは悪魔に対する試みであつて、主として神の国の消極的方面を示した。今より後我等は英領極的方面を窺ふであらう。然し何れの方面より見るも神の国はイエスを離れてはない。|イエス即ち神の国である〔付○圏点〕。
〇「悔改」は新約聖書中の深い辞である。単《ただ》に罪を悔ゐて之を改むる事でない。原語の metanoia《メタノイア》は心意一変の意味である。人生観の一変と解して間違がなからう イエスの御父なる真の神を識ずして人生観全部が誤つて居るのである。故に心を変へて福音を信ぜよと云ふは、福音を信じて心を変へよと云ふと同じである。イエスは万(285)物の見方を一変せよと教へ給うた。彼は単に心《ハート》を新たにせよとのみ教へ給はなかつた。万物の見方即ち意《マインド》を変へよと告げ給うた。茲に於て所謂「悔改」は単に情の事でなく又知識の事である事が判明る。悔改は万物を見る心眼の一新である。「福音を信ぜよ」。神の御心を現はしたる其言を信ぜよ。神が万物を観たまふ其見方を以て観よ。神と心意を共にする者となれよ。
 
    第八回 弟子の選択 馬可伝一章十六−二十節○馬太伝四章十八−廿二節 ○参考 路加伝五章一−十一節。約翰伝一章卅五−五十一節。
 
〇神の国は宣言せられて将さに建設せられんとす。イエスは其保有者であり又其建設者であつた。そして此場合に於て国の建設者が其王であつた。神の国は臣下の援助に依てに非ず王一人を以て始つた者である。神の国は初めより共和国に非ず王国である。其建設も維持も完成も王一人の能力に因る。仏国の大王ルイ第十四世は「国家即ち朕なり」と云うたが、此言は其厳密なる意味に於て唯神の子イエス一人のみに当篏る者である。神の国即ちイエスである。此事が解らずして基督教は解らない。
〇王は其臣下を選びて之を召し給うた。そして第一に其選択に与つた者が二対の兄弟であつた。第一対はシモン(べテロ)と其兄弟(多分兄)アンデレ、第二対はヤコブと其兄弟(多分弟)ヨハネであつた。イエスは唯彼等に命じて曰ひ給うた「我に従へ」と。そして其声に応じて「彼等直に之に従へり」とある。茲に唯命令に対する服従がぁったのである。主権者と市民との間に協約が成立したのではない。又は弟子が師の門に入りて師弟の関係を結んだのではない。|王が其至上権を以て臣を召して、臣は其服役に就いたのである〔付○圏点〕。如斯くにしてイエスは国の王として無類の王である。人の師として無類の師である。イエスは単に我等の支配人でない。又先生でない。神の(286)子にして受膏者キリストである。彼を人として見る時は彼は最大の圧制家である。神の子として見てのみ彼の至大の権能を承認する事が出来る。
〇そして基督者《クリスチヤン》は凡て此権能を以てキリストに選ばれ又召されたる者である。「汝等我を選ばず我れ汝等を選べり」と彼が言ひ給ひし其言は信者何人にも当篏る者である(約翰伝十五章十六節)。そして神の子に選ばれて何人も辞退する事は出来ない。恰かも天皇陛下の召集を受けて日本臣民何人も之を拒む事が出来ないと同然である。そしてイエスに召さるゝは最大の名誉又幸福である。彼に召されてガリラヤ湖の漁夫は人類の教師、世界の改造者となつた。然れども世人はそう思はないのである。イエスに召さるゝは貧に居り、恥を忍び、悪戦苦闘の間に一生を送る事であるとのみ彼等は思ふ。彼等はイエスの臣下たるの患苦《くるしみ》をのみ見て其栄光を知らないのである。イエスに召されん乎、我等も亦稼業を棄、然り日本臣民が陛下の召集に接して家を棄て国家の難に赴くが如くに、我等も亦すべてを棄てゝイエスの聖召《みまねき》に応ずべきである。
〇イエスは如何なる階級より其弟子を選び給ひし乎。イスラエルの師は所謂有望の学生の間より其弟子を選んだ。ガマリエルの門下にタルソのサウロが有しが如きが其一例である。日本が貴族国であるやうに、イスラエルは祭司国であつた。故にイスラエルの師たる者は其弟子を祭司階級又は之に従属する者の内より選ぶを常とした。然れどもイエスは全く其教を異にした。故に全く異なりたる階級より其弟子を選び給うた。彼は後に教へて曰ひ給うた「新しき葡萄酒を旧き革嚢に入るゝ者あらじ 若し然せば新しき葡萄酒はその嚢を破裂《はりさき》きて葡萄酒洩れ出で革嚢も亦|壊《すた》るべし。新しき葡萄酒は新しき革嚢に盛るべき也」と(二章廿二節)。イエスの教即ち福音は新しき葡萄酒であれば、之は旧き革嚢なる祭司、パリサイの人、民の学者等に注入すべき者に非ず。若し然せば福音はそ(287)の嚢を破裂き、福音は失せ、之を授かりし人々も亦亡びるであらう。福音は福音に相当する器に注込《つぎこま》ねばならぬ。そして其器は所謂宗教家に非ず、神学者聖書学者と云ふが如き類に非ず、|漁夫を以て代表されたる労働の子供である〔付△圏点〕とは、最初の弟子選択に関する記事が明に示す教訓である。イエスは其弟子を選ぶに方て之を博士、学士、書を読むを以て最高の業なりと思ひし人等の間に探り給はずして、之をガリラヤ湖畔に漁業に従事せし漁夫の間に求め給うたと云ふのである。イエスが伝へ給ひし基督教の何たる乎、彼が作り給ひし基督信者の如何なる者なりし乎は此一事に由て見て一目瞭然である。
〇真理は眼を通してよりは手を通して入り易しとはフレーベル幼稚園教育の原理である。そして神の子供は大となく小となくすべて最も善く手を通して教へらる。読書は真理を知る道として決して最上の者でない。真理は最も善く手を通うして、手を以て働いて、手を以て神の天然に触れて知る事が出来る。是れ労働に教育上最大の価値ある理由である。殊に福音の真理に於て然りとする。キリストの教丈けは、書を読んだ丈けでは解らない。神学校は決して最上の神学校ではない。|最上の神学校は田園である。漁場である。神の指導の下に働く工場である〔付△圏点〕。神は働いて知る事が出来る。読んで、考へて、議論して解る者でない。イエスは其最初の弟子を労働者の内より選び給うた。彼はフレーベル以上の教育家であり給うた。故に彼の福音を主として労働者に委ね給うた。キリストの教は何《ど》の方面から見ても神学者、聖書学者、言語学者等の解し得る教でない。誠に基督教を最も甚だしく誤解し又曲解する者は是等の人々である。
〇イエスの最初の弟子は労働者であつた。乍然彼等は今日所謂プロレタリアト即ち無産階級の人でなかつた。ヤコプとヨハネとはイエスに召されて直に「其父ゼベダイを傭人《やとひびと》と共に船に遺して彼に従へり」とある。傭人を(288)使ひ舟を所有し得し彼等は決して単の労働者ではなかつた。シモンも亦アンデレと共に一家を構へし人であつて彼等も亦今日世に称する労働者ではなかつた。彼等は皆な中流独立の民であつた。富まず貧しからず自己の正直なる労働に由て尊敬すべき生涯を送る者であつた。そしてイエス御自身が此地位に在る人であつて、彼は又其弟子を此階級より選び給うたのである。基督教は其初めより特に中流階級の宗教であつた。是れ今日に至るも、一方には貴族富豪に納れられず、他の一方に於ては過激派社会主義者等に嫌はるゝ理由である。〇イエスは漁者なるシモンとアンデレを見て言ひ給うた「我に従へ我れ汝等を人を漁る者と為さん」と。私も青年時代には北海の漁者であつた。水産を起して我国富強の基を築かんとは私の青年時代の理想であつた。然るに私もべテロと同じくイエスに見出され、其召す所となつた。彼は私にも告げて曰ひ給うた「汝網と舟とを棄て我に従へ、我れ汝を人を漁る者と成さん」と。然し私はベテロの如くに直に彼に従ひ得なかつた。私はイエスの声を私自身の声であると思うた。故に永の間彼の命を拒み、何を為しても人を漁る者と成るまじと努めた。然し乍ら彼の命は到底拒み難くあつた。イエスは遂々私を彼が欲ふが儘に成し給うた。そして今日此所に於て彼がガリラヤ湖畔、カべナウムの町に於て伝へ給ひし喜びの音を私の国人に伝ふる者となつた。「父よ然り、それ此くなるは聖旨に適へる也」である(馬太伝十一章廿六節)。然し乍ら「人を漁る者」と成りたればとて私は教会の牧師、伝道師とは成らなかつた。私の場合に於て「人を漁る」とは信者を作りて之を教会に収容する事ではない。「人を漁る」とは其本当の意味に於て人にイエスの言を伝へ彼を其忠実なる臣下又は弟子となす事である。私は此事業に召されし事を最上の喜び又最大の名誉なりと信ずる。そして人を漁る者と成りたればとて私は今日に至るも魚と之を漁る業を忘れない。魚と聞いて私の興味の振ひ起るを覚ゆ。ガリラヤ湖に二十二種の魚が蕃殖して其内(289)七種がクローミス属であつて阿弗利加ナイル系に属する河湖に産する魚類であると知つて人の知らざる興味を感ずる。馬太伝十三章四十七、四十八節に魚に善き者と悪き者があつて、其善き者は以上のクローミス属であつて、悪しき者とは我国の鯰の類であつて其長さ時に五尺に達する者があると聞いて、身自からべテロ、ヨハネと共に網を湖水に打つが如くに感ずる。私は彼等と同じく会堂や神学校に於てに非ずして、海の畔に於てイエスに召されしことを最大の名誉又幸福なりと認むる。そして私のみでない、神が私を以て召き給ひし最も善き信者は海か畑に於て神を知つた者である。学校、殊に神学校は私に縁の遠い所である。 〔以上、大正12・2・10〕
 
    第九回 ガリラヤ湖畔の一日 馬可伝一章廿一−卅四節。馬太伝八章十四−十七節。 路加伝四章卅一−四十一節。
 
○世に果して奇跡ありやとの質問に対し私は答へて言ふ「有り」と。見る眼を以て視れば万物悉く奇跡である。自然其物が不思議である。鉄が不思議である。鉛が不思議である。地が不思議である。天が不思議である。我が存在其物が不思議である。天然の法則と称する者は人類の経験を説明する為の仮定的法則に過ぎない。今や奇跡は有り得ないと云ふ者は寧ろ宗教家又は神学者であつて、理学者又は天然学者でない。人類が天然に就て知る事は余りに僅少である。此僅少なる知識に基いて如何なる学者と雖も奇跡は有り得ないとの断定を下す事は出来ない。
〇万物は不思議である。之に併せて人の能力は無限である。「人は弱き者なり」と云ふは罪を犯し神を離れたる人に就て云ふのであつて、罪を知らず能力の源なる神に繋がる人に就て云ふのでない。人は如何にして造られし乎は別問題として、人が人と成りし時に彼は超自然者と成つたのである。神に象り其像の如くに造られし人は神(290)に似て自然を支配すべき者であつて、自然に支配せらるべき者でない。天地万物悉く不思議であるが、其内最も不思議なる者は人である。彼は神の子として造られたる者である。故に神に似て神の為す事を為し得べき筈の者である。然るに事実如何と云ふに、人は神に似るよりもより多く獣に似て、神の子と称するよりも寧ろ獣の子孫と称すべき者である。然れども是れ人の天性が然らしむるに非ずして、彼の犯せし罪が然らしむるのであると聖書は明白に教うるのである。罪を犯さゞる人、神が造り給ひし其儘の人、父の懐より出し神の子、即ち純清なる人の能力は無限である。斯かる人は人心を支配し得るのみならず天然をも支配し得るのである。人は罪を犯して天性の能力を失うたのである。罪是れ能力の消滅者である。仏国革命史に於て偉人ミラボーが、勢力の絶頂に達して、自己の能力の不足を歎じ、其壮年時代に於て身の清潔を守り得ざりし事を痛く悔いて止まざりしとの一事は以て此事を証明するに足る。人の可能性は単に彼の肉体の健全と頭脳の強健とを以て計る事は出来ない。彼が其人格に於て聖き神の子と成るを得し時に、彼は本当の意味に於て万物の霊長となり、一言以て病を癒し、一声以て波を静め得るのである。
〇イエスは神の子として生れ、野の試誘に打勝ちて更に能力の供給に与つた。「イエス聖霊の能力を以てガリラヤに帰り」と路加伝は記して云ふ(四章十四節)。彼は自己に充溢れる此能力を以て伝道を始め給うた。先づ第一に四人の弟子を召して彼等をして聖業の目撃者又共働者たらしめ給うた。そして多分其次ぎの安息日に公然メシヤたるの御事業を始め給うたのであらう。朝はカべナウムのユダヤ人の会堂に入りて教を為し、其処に汚れたる鬼に憑れたる人ありたれば、権威の一言を以て其鬼を逐ひ出し給うた。其日の午後にはシモン、アンデレの家に至り、シモンの岳母《しうとめ》の熱を病みて臥し居るを見たまひしや、彼れ彼女の子を取りて起したれば、熱直に去りて、(291)彼女は起て彼の一行を接待した。夕暮になりたれば、人々すべての病を患へる者、鬼に憑れたる者をイエスに携へ来る。その邑《まち》こぞりて門に集り、彼れ多くの人々を医し、又多くの鬼を逐出せりとある。実に忙はしき一日でぁった。盛なる伝道の首途であつた。此事を最も生々と画いた者がレムブラントの作「キリスト病者を起し給ふ」である。見れば見る程其意味の深さが見取れる。何人も其一葉を室内に掲ぐべきである。
〇何の為の奇跡であつた乎。勿論人を驚かす為の奇跡でなかつた。若し然りとすればサタンの勧めに従つて僻陬のカべナウムに於て為さずして首都のヱルサレムに於て為したであらう。又人心を収攬する為の奇跡でなかつた。若し然りとすれば彼は其の広く世に知られん事を求めたであらう。|イエスの奇跡は自発的に彼の善意より出たる者である。彼に医すの能力ありたれば、彼は病者を見て同情に堪へず、前後を忘れ、利害を顧みず、為さんと欲する事を為し給うたのである。是れすべての善人の為す所であつて、別に教理的又は哲学的意義の其内に在つたのではない。普通の善人とイエスとの異なる点は、不思議を行ふ能力の有無に在つて、善を行ふ動機に於ては二者何の異なる所はない。善を為さんと欲するの心、是れすべての善人に在る所の者であつて、殊に著るしくイエスに於て在つたのである。「イエスは神より聖霊と能力を沃《そゝ》がれ周く遊《めぐ》りて善事を行ひたり」と後にべテロが言ひしが如くに、イエスは此日又人々に善事を行ひ給うたのである(行伝十章三十八節)。斯くしてガリラヤ湖畔の一日は奇跡の一日として見るべきに非ずして、善行連続の一日として解すべきである。此記事は特にイエスの奇跡を示す者にあらずして、神の子としての彼の聖善の霊の働きを録す者である。
〇神はすべての人に奇跡を行ふの能力を与へ給はない。然し乍ら其他の種々の才能を与へ給ふ。或は美を観るの能力を与へ給ふ。斯かる者を称して美術家と云ふ。或は天然の秘密を探ぐるの能力を与へ給ふ。之を称して天然(292)学者と云ふ。其他文学者あり、政治家あり、工学者あり。賜物は異なれども聖霊は一なりである。そして如何なる動機に由りて是等の才能を用ひん乎。問題は茲に存するのである。そして神よりイエスの霊を受けて、人は各自イエスが奇跡を行ひ給ひしと同じ精神を以て其才能を顕はすのである。即ち善心に駆られて、苦しむ者に対する同情に堪へずして、自発的に、多くの場合に於ては利害を省みず、前後を忘れ、唯、善を為すの嬉しさに之を為すのである。カイムはイエスの此時を称して「ガリラヤの春時」と云うた。其理由は一にはイエスの伝道開始が多分紀元の三十四年春の弥生の頃であつたが故に、二には人としてのイエスの発育が其頂点に達し、愛は動けども反対は未だ起らず、能力は溢れて恩恵周くガリラヤ湖畔に行渡つたが放である。そして我等も亦神の聖旨に従ひ、悪魔と戦つて勝ちし後に、聖霊我等の霊に降り、筋肉は躍り、頭脳は明晰に、詩人は其歌を以て、音楽者は其楽と声とを以て、医師は其医術を以て、其他各自、其の賜はりし才能を以て神と人とに仕ふる時に、我等にも亦我等相応の「ガリラヤの春」があるのである。奇跡はイエスの本職でなかつた。彼の本職は別に在つた。神の御言を伝へ之に殉ずる事であつた。然し乍ら聖父より奇跡を行ふの能力を賜はりて彼は愛の為に之を使用せざるを得なかつた。即ちイエスに取り奇跡は第一必要ではなかつた。然れども神の子たる彼に在りては奇跡は之を行はざるを得なかつた。我等も亦其精神を以て神より賜はりし各自の才能を用ふべきである。
〇注意すべきはイエスの行為の徹底的なる事である。彼れ鬼を逐出し給へば鬼に憑れたる者は完全に癒さる。彼れ熱を癒し給へば病者は起ちて直に彼に仕へぬ。其他すべてがさうであつた。彼の癒しは迅速にして完全であつた。其故は彼に能力が充溢れたからである。そして今も猶ほ天に在りて彼は其癒しの奇跡を継続し給ふ。多くの信者は迅速に完全に其困難き肉体の病を癒された。そして神の深き聖旨の故に肉体の病は癒されざる場合に於て(293)も、霊魂の病の癒し、人としての生命の根本を犯す病の癒しは同じく迅速にして完全に行はれた。唯彼を仰瞻る事に由て完全なる平和は彼に臨んだ。唯信ずる事に由て恐怖と不安は完全に取除かれた。奇跡は有り得る乎と近代人は問ふて云ふ。そして「有る」と基督者は答へて曰ふ。彼は身に奇跡を行はれた者である。彼も亦身に「ガリラヤの春」に遭うた看である。故に氷雪天地を閉す此冷たき社会に在りて幾分か温かき春風を起し得るのである。奇跡問題は畢克《つま》る所実験問題である。身に恩恵の奇跡を施されし者は哲学又は神学又は心理学の説明なくして容易にイエスの奇跡を信じ得るのである。
 
    第十回 伝道と奇跡 馬可伝第一章三十五−四十五節。馬太伝八章一−四節。 路加伝四章四十二、四十三節。同五章十二−十六節。
 
〇イエスの目的は宣教に在つた。「我は教を宣伝ふが為に来れり」とは彼が御自分の天職に就て深く自覚し給へる所であつた。然るに彼に充溢れる能力があり、抑へ難き同情在りしが故に、恩恵……多くは治癒《いやし》……の奇跡が宣教に伴うた。然れどもイエスに取りては教が主であつて奇跡は従であつた。彼は民が先づ其霊魂を救はれんことを欲し給ひて、其肉体の癒されん事は彼の主なる目的でなかつた。茲に於てイエスと民との間に要求の衝突があつた。民は教を伝へられんよりも奇跡を施されんと欲し、霊魂を救はれんよりも肉体を癒さんと欲した。イエスの欲ふ所は民の求むる所でなかつた。斯くて失望の影は伝道開始第一日に既に彼の心を曇らせた。ガリラヤの春は日本の春の如くに短くあつた。三日見ぬ間の桜かなである。ガリラヤ湖畔の一日は失望を以て終つた。
〇「昧爽《よあけまへ》にイエス早く起き人なき所に往き其処にて祈祷りせり」とある。早起きは多分イエスの習慣であつたらぅ。然し此場合に特に其の必要があつたであらう。神の子と雖も能力の消尽なくして不思議なる業《わざ》を行ふ事は出(294)来ない。然り、伝道は最大の努力を要する。是は自己を他に与ふる事である。単に筋肉又は脳髄の疲労を感ずるに止まらず、自己中心の消耗を覚ゆる。而して之を癒し又充たす者は唯神のみである。斯かる場合に於て祈祷は祈求でない、霊の交通である。我が霊、神の霊に接して、我が空しきを神の充足れるを以て充たさるゝ事である。イエスの場合に於ても常に此の霊の再充実の必要があつた。朝早く起きて人なき処に往きて祈る。人に能力を奪はれて神に之を補はる。神の人は如斯くにして其事業を継続するのである。
〇イエスは人を避けて寂しき処に独り神と偕に在り給うた。而してシモンと其仲間とは彼の跡を逐ふて往いた。「慕ひて」ではない。「跡を逐ひて」である。恰かも警官が犯人の跡を逐ひかけしが如き熱心を以てゞある。イエスが其影を隠し給ひし後の群集の状態が読まれる。彼等はイエスを見失ひて絶望に瀕した。弟子等は彼等を静めんと欲して能はず、茲にイエスを探し出して彼等の不穏に備ふるの必要を感じた。日く「人みな汝を尋ぬ」と。福音を聴いて霊魂を救はんが為に非ず、奇跡を施されて肉体の病を癒されんが為に彼等は血眼になつてイエスを尋ねたのである。|実に危険なる事とて神癒の恩恵を施すが如き事はない。之が為に伝道の目的は全く誤解せられ、民は其施行を要求して止まず、若し其要求に応ぜざらん乎、彼等の怨みと憤りとを買はざるを得ない。イエスは此の危険を冒して恩恵の奇跡を施し給うた。彼は他の苦しむを見て助けざるを得なかつた。彼の愛は強くして自己の利害を顧るの遑がなかつた。然し乍ら彼の施せし恩恵の事業が終に民をして彼に叛かしめ、彼れ御自身の死を早むる原因となりし事は明かなる事実である。神の心とは斯くも美はしき者、人の心とは斯くも穢き者である。
〇イエスは彼を逐ひかけ来りしシモン等に告げて日ひ給うた「我れ今より再びカべナウムに往くの要なし、教を宣伝へん為に汝等と偕に附近の村々に往くべし、我は是が為に出来りし也」と。伝道が我が目的である。我に(295)治癒の奇跡を要求する者の許に還るの必要はない。我がカべナウムを出来りしは是が為である。即ち其民が生命の言葉を求めずして、肉体の平安を欲するからであると。憐むべき哉カべナウム、彼等は生命の主の最初の伝道を受けながら、福音を聴かんと欲せずして肉体を癒されんと欲した。主は彼等に就て失望し給うた。後に至りて彼をして彼等に就き悲痛の言を発せざるを得ざらしめた、曰く「既に天にまで挙げられしカベナウムよ又陰府に落さるべし」と(馬太伝十一章廿三節)。恩恵に遭ふは特権にして又危険である。慎むべきである。
〇カべナウムを去り、コラジン、ベテサイダ等附近の村々に伝道し給ひつゝありし間に、癩病患者の一人イエスに来りて跪き願ひて曰うた「汝若し聖意に適はゞ我を潔く為し得べし」と。彼は「是非癒して下さい」とは曰はなかつた。「聖意ならば貴神《あなた》は私如き者を癒す事が出来ると信じます」と曰ひてイエスに対する彼の信仰を言表はした。イエスは癩病患者の此の態度を甚く喜び給うた、同時に又彼の強き憐愍の心が動いた。彼は前例に懲りずして茲に復た癒しの奇跡を行ひ給うた。「我が意に適へり、潔くなれと言ふや否や直に癩病はなれ其人潔まれり」とある。癒すに最も困難なる癩病が神の子の一言に由つて直に完全に癒えたのである。
〇「イエス厳しく戒しめ……彼をして去らしめたり」とある。何れも激げしき言葉である。「睨み附けて突き出したり」と訳して稍や原語の意味を通ずるであらう。イエスは何故に御自分の癒し給ひし者に対して斯くも激烈なる態度を取り給うたのである乎。茲に我等は「優きイエス様」を見ずして、手荒き短気の先生を見るではない乎。然し事実は覆ふべからずである。イエスは茲に確かに怒り給うたのである。然し何を怒り給うたのである乎。私は思ふ、|御自分の思慮なきを怒り給うたのであると〔付△圏点〕。歓喜と憐愍とに駆られて癒しの奇跡を行ひたりとは雖も、其結果の御自身の御事業に取り決して好ましき者にあらざる事を後に至りて悟り給うた。「此恩恵は施さゞりし(296)ものを」と彼は御自身に応へて言ひ給うた。然し乍ら能力は既に出て病者は癒された。恩恵はもはや撤回する事は出来ない。茲に於てか荒々しき態度を以て癒されし者を戒め、此事を何人にも告げてはならぬ、唯自然に癒されしが如くに装ひ、旧約の律法に従ひ、祭司に己が身を示し、献ぐべき物を献げて、嫌ふべき病を癒されたりし公認を得よと言ひ給うたのである。そして斯く言ひて後に御自身手を下して会堂より其人を突出し給へりとある。
〇矛盾であると云へば矛盾である。然しイエスたる者が如斯き事を為すべき筈はないと誰が曰ひ得る乎。|感謝す福音記者は大抵の基督信者よりも遥に正直である事を〔付△圏点〕。彼はイエスが怒り給し時には怒れりと記いて居る。そして其正直なる記事に由て我等はイエスの御心中を窺ふ事が出来るのである。人として生れ給ひし彼は神の子であつて同時に又人の子であつた。彼は或時は過失《あやまち》に陥り給うた。然し乍ら罪の人が陥るやうな過失に陥り給はなかつた。愛の為に、真個の信仰に遭ふて嬉しさの余りに、抑へ難き同情の念に駆られて、後に至つて「為さゞれば宜かりしに」と思ふ善事を行ひ給うた。支那の聖人さへ「人の過失を見て其仁を知る」と曰うた。|イエスの陥り給ひし幾多の善行の過失、其れはイエスの仁のみならず又其聖をも示す者でない乎〔付△圏点〕。私はさうであると思ふ。近代人の言葉を以て云ふならば、道徳にも静止的(static morality)なると活動的(dynamic morality)なるとの二種がある。所謂道徳、教会の道徳、牧師伝道師の説く道徳は大抵は前者即ち静止的道徳である。即ち神学者と道徳家とが座して考ふる道徳である。即ち実際の場合に於ては行はれざる道徳である。而してイエスの此場合に於ける行為の如き、是は後者即ち活動的道徳と見て、機《をり》に合《かな》ひたる最も美はしき行為として受取る事が出来る。
〇そしてイエスが怒り給ひし理由は事実に由て証明された。彼は癒されし人に沈黙を命じ給ひしも、其人は其命に従はず、「彼れ出て先づ此事を大に言ひ伝へ、語り広めければ、イエス此後あらはに邑に入る能はず、独り人(297)なき所に居給ひしかば、人々四方より彼に来れり」とある。是れ確かに伝道の大妨害である。癒されし人は今日の多くの浅薄なる基督信者が為すが如くに「証明」と称して誇り顔に己が癒されし事を「大に言ひ伝へ語り広めた」のであらう。然しイエスは此事を嫌ひ給ふ。彼の福音は福音として、即ち神の真理として宣伝へらるべき者である。そして時に奇跡の伴ふあるも、是は単に信者の信仰を強むる為の者である。不信者に信仰を勧むる為の者でない。イエスが沈黙を命じ給ふ場合に我等は之を公言してはならない。
 
    第十一回 赦しと癒し 馬可伝二章一−十二節。馬太伝九章一−八節。路加伝五章十七−廿六節。
 
〇イエス一たぴカべナウムを去り、附近の村々に伝道し給ひしが、復た舟にて故の邑に帰り来り、べテロの家を己が家と定めて其所に居たまうた。其事邑に聞えければ直に多くの人々集り来り、門の内外に立つべき場所さへなきまでに詰合《つめあ》うた。イエス彼等に教を宜べ給うた。神の国の福音を伝へ給うた。彼が到る所に於て先づ第一に為し給ひし事は此事であつた。
〇時に人あり、※[病垂/難]瘋《ちゆうぶ》を病みたる者を四人に舁せ、癒されんとてイエスの所に来た。然るに群集の故によりて近づき難かりければ、彼の居る所の家の屋根を破り、※[病垂/難]瘋患者を床のまゝに釣下してイエスの前に置いた。即ち如何なる非常手段を取りても癒されざれば止まずとの決心を示した。イエス彼等の信仰を見て患者に対ひて曰うた「我子よ、汝の罪赦されたり」と。彼は前の癩病患者の場合の如くに、憐愍に動かされて直に病を癒さなかつた。「汝の罪赦されたり」と曰ひ給うた。病を癒す前に罪の赦しを宣告し給うた。而かも単に「汝」と曰はずして「我子よ」と呼掛け給うた。彼が如何に此病人を愛し給ひしかが窺はれる。「我子よ、汝の罪赦されたり」と。(298)若し此病人に本当の信仰が有つたならば彼は是れ丈けで満足したであらう。罪を赦さるゝは病を癒さるゝ以上の恩恵である。而かも唯信ずる事に由て赦さるゝと云ふ。福音の根本が茲に示されたのである。
〇然るに此所に数人の学者、即ち職業的宗教家が坐して此事を目撃して居つた。彼等はパリサイ派の人であつてガリラヤの諸郷《むら/\》、ユダヤ、ヱルサレムより来れる者なりと路加伝は録して曰ふ(五章十七節)。彼等はイエスに教へられんと欲して来たのではない。彼の欠点を看出し、過失を捉へ、民の心を彼より引離さんとて来たのである。職を宗教に執る者に此忌はしき心の在る事は古今東西異なる所なしである。彼等はイエスの※[病垂/難]瘋患者に対する言を聞き心の中に云うた「此人は何を曰うか、彼は神を涜すのである」と。何事も善意に解せずして悪意に解する是等の宗教家はイエスの此言に褻涜の罪を看出したのである。此発見を為して彼等は得意然として心の中に云うたであらう、「ナザレのイエス何者ぞ、神を涜す者たるに過ぎず」と。而してイエスも亦聖者に非らずと解つて彼等は大に安心したであらう。
〇然るにイエスは直に彼等の心中を見透《みとう》し給うた。今や彼等と議論するも無益である。唯事実を以て彼の言の空言にあらざる事を彼等に示すまでである。※[病垂/難]瘋の人に対つて「汝の罪赦されたり」とは彼等と雖も言ふ事が出来やう。然し乍ら「起て汝の床を取りて行け」とは神より権威を賜はりたる者でなければ言ふ事が出来ない。そしてイエスは世の所謂「宗教家」と異なり、言葉の人に非ずして権威の人である事を彼等に示さんが為に、即ち彼れ人の子は神に代り地にて罪を赦すの権威あることを彼等に知らせんが為に、遂に※[病垂/難]瘋患者に対ひて言ひ給うた「我れ汝に告ぐ、起きて床を取り汝の家に帰れ」と。而して其声に応じて彼は直に起きて床を取り、衆人の前を通りて出行いた。之を見し群衆は皆な騒いた。彼等は神を崇めて曰うた「我等は未だ曾て斯の如きことを見ず」(299)と。治癒《いやし》は例の通り即時的で且完全であつた。患者は立所に完全に癒されて歓び勇さんで家に帰つた。実に神に相応き治癒の業であつた。
〇此処に多くの大切なる事が教へらる。第一に疾病は罪の結果であると云ふ事である。少くとも此人の場合に於てさうであつた。而して又多くの人の場合に於てさうである。故に完全に根本的に疾病を癒されんと欲せば、先づ罪を赦されなければならない。罪を赦された時に疾病の根本が絶たれたのであつて、其の何時か必ず癒さるゝは最早疑ひないのである。「ヱホバは汝のすべての不義を赦し、汝のすべての疾を癒し給ふ」とあるが如し(詩篇百三篇三節)。そして多くの場合に於て、縦し疾の癒しを見る能はざるも、罪の赦しを実験した丈けで、基督者はヨブの如くに癒しを未来の希望として存して、疾に耐へ、死に就くことが出来るのである。
○第二はイエスに罪を赦すの権力があると云ふ事である。イエスは単に最大の宗教家、最高の道徳の教師でない。彼は神の子にして人の罪を赦す者である。其れ故に彼は疾を癒す事が出来るのである。神は彼に由りて義に由りて人の罪を赦すの途を設け給うた。そして又彼にすべての人を審判くの権能を授け給うた。べテロが曰へる如く「此ほか別に救ある事なし、そは天下の人の中に我らが依頼みて救はるべき他の名を賜はざれば也」である(行伝四章十二節)。事は良心に関はる問題である。理論は別として、人は未だ曾てイエスに依らずして我罪は確に赦されたりとの確信と之に伴ふ欣喜《よろこび》とを得た事はないのである。我等が羅馬書三章二十五節の研究に於て学んだ通りである。
〇|第三は罪の赦しと之に伴ふすべての恩恵は信仰に由ると云ふ事である〔付○圏点〕。信仰に由て救はるとはパウロが初めて教へた事でない。初よりイエスが教へ又行ひ給うた事である。信仰にも勿論程度がある。「若し聖意ならば汝我(300)を潔く為し得べし」と言ひし癩病者の信仰も信仰であつた。「唯一言を出し給へ、然らば我僕は癒えん」と言ひし百夫の長の信仰も信仰であつた。何れにしろ信仰は信仰であつて、「信仰なくして神を悦ばすこと能はず」である(希伯来書十一章六節)。人の救はるゝは信仰に由る。知識に由らず、学究に由らず、又所謂道徳倫理に由らず、信仰に由る。神あるを信じ、且神は必ず己を求むる者に報賞《むくい》を賜ふ者なるを信じて神に来る者に赦しと癒しと、其他すべての恩恵が下るのである。若し学問の秘訣が考証であるならば、宗教の秘訣は信仰である。依頼む心である。此心ありて神を動かす事が出来る。そして神に依りて宇宙を動かす事が出来る。宗教に在りては信仰第一である。〇そして信仰は必しも自分の信仰でなくとも可い。他人の信仰も亦我身を助くるのである。※[病垂/難]瘋患者を四人に舁せてイエスの所に携れ来りし者等(多分其親戚であつたらう)の信仰に感じて彼は此病人を癒し給うた。百末の長の信仰に感じて其僕を癒し給うた。サイロピニケの婦の信仰に感じて其女を癒し給うた。斯くして我等は自分の信仰を以て他人を助くる事が出来る。又他に乞ふて其信仰を以て自分を助けて貰ふ事が出来る。何故に然る乎、其|理由《わけ》は判らない。人はすべて相対的の者であつて、すべての事に於て相互に関聯する者である。神は絶対的個人主義を認め給はない。誠に有難い事である。
〇信ずる者と相対して疑ふ者があつた。パリサイ派の学者等はイエスの欠点を探らんとて遠くユダヤ、ヱルサレムの地より来た。彼等は病人が癒されたとて歓びて神を崇めなかつた。彼等はイエスが神の名を涜したりとて彼を貴めた。彼等は後に安息日を涜したりとて、又は罪ある者と共に食したりとてイエスを責めた。彼等は全然消極的人物であつた。善事は見えず、悪事にのみ気が附いた。神は預言者ホゼヤを以て「我れ矜恤を欲みて祭祀を(301)欲まず」と曰ひ給ひしが、是等の学者達は其反対に祭祀の細事にのみ意を注いで、義と愛と信とに重きを置かなかつた。イエスと彼等との間に天地雲泥の差があつた。二者の分離衝突は此時に始つた。そして終に十字架に達した 矜恤か祭祀か、信仰か神学か、二者の相違は根本的であつて、到底調和し得べきでなかつた。
〇イエスと病人と宗教家、癒し得る者と、癒されんと欲する者と、疑の眼を以て傍観する者と。此の三つは常に在るのである。そして牧師、伝道師、神学者等、宗教を本職とする者の陥り易き危険は、以上第三者の地位に立つ事である。信仰は神を動かす力であつて、懐疑は神を敵に持つ心である。温き心は萎へ、熱き信仰は失せ、唯冷たき鋭き批評の眼のみ存りて、人はパリサイの人となりて、イエスを敵に持ちて終に彼を十字架に釘けるに至るのである。
 |馬可伝二章五節〔ゴシック〕 「汝の罪赦されたり」。原語に依れば「汝の罪は赦されつゝあるなり」である。英語の Thy sins are forgiven を参考せよ Thy sins are being forgiven と訳せば更に精密である。今や汝の罪は赦さるゝの途程に於て在りとの意である。イエスは此言を御自分に就て曰ひ給ひし乎、或は病人に就て曰ひ給ひし乎、判明ない。十字架は未だ未来の事であつたが故に斯く曰ひ給ひし乎、又は病人の疾が今や将さに癒されんとしつゝありしが故に斯く曰ひし乎判明ない。何れにしろ患者の罪が赦されて彼の疾が癒されし事は確実である。そして我等今日の信者の場合に於ては、|罪は既に十字架の上に赦されたのであつて、其結果が我等の身に於て現はれつゝあるのである〔付○圏点〕。過去であると同時に現在である。我等の場合に於ては完成されたる罪の赦しの実現である。日本訳の通り「汝の罪赦されたり」である。恩恵の極である。感謝の極である。何が有難いとて罪を赦さるゝが如き事はない。此恩恵はイエスに由てのみ下るのである。 〔以上、大正12・3・10〕
 
(302)    第十二回 税吏マタイの聖召 馬可伝二章十三−十七節。馬太伝九章九−十三節。 路加伝五章廿七−卅二節。
 
〇人類の信仰的革命が湖水の畔《ほとり》より始まりし例は二つある。其一つは勿論ガリラヤ湖畔に始まりし基督教の発祥であつて、其第二は瑞西《スヰツツル》国ジネバ湖畔に於けるカルビン主義の濫觴である。先づ第二のものに就て云はんに、ジネバ湖はガリラヤ潮に比べて其広さに於ても深さに於ても、又風光の明媚に於ても遥かに勝さる湖水である。而して其湖水尻に建られしジネバの市にジヨン・カルビンが来りしより、茲にガリラヤ湖畔に於て始められしイエスキリストの福音が近世紀の初期に於て復興し、其生命の水は流れて和蘭に及び、英国に渡り、終に大西洋を横断して亜米利加大陸にプロテスタント教の大勢力を作るに至つた。第十六世紀以後の世界歴史はジネバ湖とカルビン主義とを離れて論ずる事は出来ない。ジヨン・ノツクスは茲にカルビンより純福音を授かり、彼は之を齎して故国スコツトランドに帰り、其民の間に之を播きたれば、美種《よきたね》は沃壌《よきち》に播かれて六十倍百倍の果を結び、今や英国、米国、濠洲《アウストラリヤ》、其他英民族の到る所に、カルビン主義の隆盛を見るに至つた。
〇ジネバ湖に此べてガリラヤ湖は遥に劣りたる湖水である。然れども其畔に始まりし世界運動は其結果たる永久的にして亦宇宙的である。人類の歴史に於て最も広く知られたる名は此小なる湖水に漁業に従事せし漁夫の名である。べテロとヨハネ、其兄弟アンデレとヤコプ、彼等はガリラヤ湖の漁夫であつた。彼等はイエスに召かれて其弟子となり、福音の宣伝を委ねられしが故に、人類の教師、世界の儀表となつた。基督教徒の迫害者を以て有名なる羅馬の大帝ジュリヤンは死に臨んで叫けんだとの事である「ガリラヤ人よ汝我に勝てり」と。誠に世界はガリラヤ人に由て、キリストの福音を以て征服され、又征服されつゝあるのである。ガリラヤ湖は其長さは十(303)三哩、幅は八哩、深さは百五十呎を越えず、湖水としては最《いと》小き者の一なりと雖も、其世界的感化力たるや実に無類絶倫である。
〇そしてガリラヤ湖畔は更に尚ほ一人の世界的人物を貢献した。其人はマタイと称ばれしアルパヨの子レビであった。彼は身はユダ人でありながら、敵国羅馬の政府に雇はれて己が国人より税を徴収する業に従事する者であった。国を売り民を売り信仰を売りて耻とせざる最も卑しき者の仲間に入つた者である。故に当時卑しき者と云へば「税吏《みつぎとり》と娼妓《あそびめ》」と云うたのである(馬太伝廿一章卅一節「イエス曰ひけるは誠に汝等に告げん、税吏と娼妓は汝等より先に神の国に入るべし」とを参考せよ)。然るにイエスは此税吏の内より彼の弟子の一人を選び、後に彼を挙げて十二使徒の一人となし給うたのである。大胆と云へば大胆、物好と云へば物好である。「人もあらうに」と人はイエスの此行為を評したであらう。特に漁夫を選んで其弟子となした事さへ訝しきに、更に税吏を召きて随身の一人となすに至つては、狂か偏か、唯驚くの外ないのである。而かもイエスは敢て此事を為し給うたのである。彼れ湖畔を歩み給ひしに、レビ(一名マタイ)と云ふ者の税吏の役所に坐し居たるを見て我に従へと曰ひければ彼れ起ちて従へりとある。茲に確に税吏はパリサイの学者等に先ちて神の国に召かれたのである。
〇「神は偏らざる者なり」である(行伝十章卅四節)。神は顔に由て人を受け給はずとの意である。「ヱホバ、サムエルに曰ひけるは……我が視る所は人に異なり、人は外の貌を見、ヱホバは心を観るなり」とある(撒母耳前書十六章七節)。人の職業何者ぞ、其外の貌に過ぎない。遺伝、階級、是れ亦肉の事であつて外の貌である。人の人たる価値《ねうち》は其心即ち霊魂に於て在る。人の見るマタイは税吏であつて最も卑しき者であつた。然し乍ら神の子イエスの視たまひしマタイはアブラハムの裔《こ》であつて神の国の福音を委ぬるに最も適したる器であつた。税吏た(304)ればとて此貴き器を棄つべきでない。故にイエスは「我に従へ」と云ひて此賤しめられし者を己が弟子として召き給うたのである。
〇そして此召きに与りしマタイの喜びは非常であつた。彼は茲に生れて初めて自己を知つて呉れる者に遭うたのである。彼は元来人が見る如き卑しき者でなかつた。彼は或る境遇に強ひられて止むなく羅馬政府の官吏となつたのである。然れども彼の心には真の愛国心が燃えて居つた。イスラエルの贖はれん事は彼の衷心の祈願であつた。彼は人知れず神の人の来つて彼を召かん事を待つて居た。然るに計らざりき茲に大教師イエスの、自分の名を呼んで「我に従へ」と言ひ給ひしに会した。彼の歓喜に物の譬ふべきがなかつた。彼は「我時至れり」と思うた。故に路加伝の記すが如くに彼れ一切を捨て起てイエスに従つた。茲に召きしイエスの大さに併せて召かれしマタイの貴さが読まれるのである。
〇そして此マタイが後に何を為した乎、其事に就て聖書に何の録す所がない。唯彼の名が十二使徒の名簿録に存するのみである。然し乍ら第一福音書が彼の名を以て後世に伝へられしが故に、彼は世に最も広く知れ渡りたる人の一人となつた。縦し所謂「馬太伝」は使徒マタイの筆に成りし書に非ずとするも、彼に或る密接の関係ある書である事は明かである。マタイの如何なる人なりし乎は馬太伝に由て略ぼ知る事が出来る。「マタイの福音書は、すべての点より観察して、基督教が産み出せし最大切なる書である。未だ曾て是れ以上の書の世に出しことなし」とはルナンの批評である。斯かる書に其名を結附けられしマタイの性格は推して知るべしである。彼は厳格の人であつた。特にイエスの教訓に意を注いだ人であつた。イエスをユダヤ人の待望みしメシヤと見たが、彼に亦人類の王たる権能を認めた。マタイは何を為さなくとも、馬太伝を世に出すの原動力又は史料の供給たりし(305)丈けにて永久的大事業を為した。税吏マタイに由らずして馬太伝の世に出でざりし事を知つて、イエスは彼を召きてガリラヤ湖畔の砂の中より価値いと貴き一個の真珠を発見し給ひし事を知るのである。
〇マタイはイエスに知られ彼に召かれて後は税吏の職に止まらなかつた。彼は一切を捨てイエスに従つた。而已ならず彼は公けに彼の税吏廃業の宣言をなした。即ち留別の筵《ふるまひ》を設け、旧友同僚を之に招き、之にイエスの出席を乞ひて、彼を彼等に紹介して自己の改信を告白すると共に、彼等の為に伝道の途を開いた。誠に愛すべき男らしき行為である。信仰は心の事であると称して之を世に告白せざるは誠実の人の潔しとせざる所である。
〇そしてマタイは筵を設けて別を世に告げてイエスに従つた。彼は仏徒が出家する時のやうに涙を以て世と別れなかつた。新婦が新郎の家に往く時のやうに賀筵を設けて新生涯に入つた。「レビ己の家にてイエスの為に豊盛《おほひ》なる筵を設く」とある。マタイは大宴会を開いて世を去てイエスに就いたのである。痛快此上なしである。
 
    第十三回 旧き人と新しき人 路加伝五章廿七−爭九節〇馬可伝二章十五−廿二節。 馬太伝九章九−十三節。
 
〇イエスは人として最も著るしき人であつた。故に彼は到る所に著るしい言を発し給うた。彼がヤコブの井《ゐど》の畔にてサマリヤの婦に語り給ひし言は永久不変の真理であつた。其如く彼がマタイが設けし宴会の席上に発し給ひし二三の言は、是れ又偉大深遠の言であつた。実に恩恵の言は甘露の如くに到る所に彼の口より落ちた。そして之を記録した福音書は人類が有する価値《あたへ》いと貴き智慧の宝庫である。
〇そしてイエスより著るしき言を引出すに方て最も有力なりし者は常に彼の批評家として彼の跡に随ひ、彼に何か落度あれかしと批評の眼を※[目+爭]つて彼の言行に注目せしパリサイ派の人々、並に其学者達であつた。イエスが発(306)し給ひし最も驚くべき言は是等の職業的宗教家に答へ、又彼等を誨へんが為に発せられし者であつた。世に実は批評家程有益なる者はないのである。彼等の疑察又は攻撃があつて深い真理は打出され、芳ばしい香は放たるゝのである。人類が有する貴き真理の半ば以上は反対の批評に答ふる為に世に出し者なるを知つて、真理闡明の為に批評反対の如何に必要たる乎が推量かるゝのである。
〇悔改めし税商マタイが設けし宴会の席上に於て学者とパリサイの人はイエスの弟子に怨言《つぶや》いて曰うた「汝等税吏また罪ある人と共に飲食するは何故ぞ」と。民の教師を以て自から任ずる者が俗吏俗人と共に飲食するは何故ぞとの詰問である。之に答へてイエスは曰ひ給うた「康強《すこやか》なる者は医者を要せず惟病ある者之を需む」と。是は諷刺であつて同時に教訓である。汝等パリサイの教師等は健康者である。故に我を要せず、税吏マタイは病人である、故に我を需むとの意である。然し是は確かにアイロニー(反語)である。本当の病人は是等の宗教家であつて、比較的健全なるはマタイと其同僚とであつた。イエスは茲に確にアイロニー(皮肉)を語り給うたのである。皮肉必しも悪事でない。預言者は多く之を用ひた。寝れる良心を喚起す為に皮肉は度々有効である。強康なる者、我は罪を犯したる覚えなければ必ず大往生を遂ぐるを得べしと言へりと云ふ故大隈侯の如き人、其他罪の赦しの福音を聞くも何等の喜びをも感ぜざる我国多数の所謂紳士と淑女、斯かる人等に向つてイエスは同じ事を言ひ給ふ「我は汝等に用なし、我は己が罪に悶えて赦しを需めて泣叫ぶ者を訪はん」と。そして若し是等の「俯仰天地に耻ず」と言ふ自称君子がイエスに向つて「我は果して医者を要せざる強康なる者である乎」と問ふならば、彼は答へて曰ひ給ふであらう「汝は強康なりと言ふが故に病人である。汝等の罪は存れり」と(ヨハネ伝九章四一節参考。)
(307)〇次ぎは断食問題である。バリサイの人等はイエスが俗吏俗人輩と飲食を共にする所に彼の欠点を見た。彼等は又彼が豊盛なる饗宴に招かれ快飲飽食する所に欠点を見た。欠点又欠点である。彼等の眼は欠点を見るに鋭くある。彼等はイエスに問ふて曰うた「ヨハネの弟子は屡断食をなす、我等パリサイの弟子も亦然り、然るに汝の弟子は飲むこと食ふことを為すは何故ぞ」と。言を代へて云へば「汝の宗教には節制断食なき乎」との問ひであつた。そしてイエスは之に答へて曰ひ給うた「無し、我が宗教に規則として、又は修養手段として、神の特別の恩恵に与る途としての断食はない。神の国は難業苦行して得らるゝ者でない。即ち|断食に何の功徳もない〔付△圏点〕。然れども為さゞるを得ざるが故に為す断食がある。新郎の朋友が新郎と別かるゝ時に悲哀の極に飲食を廃するが如き断食はある。即ち自然的の断食はある、人工的の断食はない。そして我が弟子が其新郎なる我と別かるゝ時は必ず来る。其時汝等は彼等が本当に断食するを見るであらう」と。(馬太伝十七章廿一節、馬可伝九章廿九節に「祈祷と断食」とある「断食」の二字の改訳聖書に除かれてあるに注意せよ。)
〇パリサイ人並に学者等のイエスの行為に関する敵意的枇評は何を示す乎。|イエスと彼等との間に根本的相違のある事を示す〔付△圏点〕。イエスは新らしき人なるに彼等は旧き人である。故に彼等はイエスの教を受くる能はず。イエスが弟子として彼等を選ばず却つて漁夫並に税吏を選びしは之が為である。若し強ひて彼等を弟子とせんか、是れ彼の不幸にして又彼等の不幸である。恰も新しき布を以て旧き衣を補《つくろ》ふが如く、又は新しき葡萄酒を旧き革袋に盛るが如し。新旧相合ざるが故に害あつて益なし。イエスの福音はパリサイ人並に学者、今日の言葉を以て言ふならば官僚的宗教家並に学閥的神学者と相合はず。此は好く政府又は教会を離れて、普通の生涯を送る者、即ち平民又は平信徒に適する者であるとの事である。
(308)〇新と云ひ旧と云ふ。霊の事に於ては時の問題に非ずして質の問題である。説の新旧を云ふに非ず、勿論流行の新旧を云ふに非ず、霊肉の関係を云ふのである。霊は永久に新しき者、肉は永久に旧き者である。「儀文の旧きに由らず霊の新しきに由りて事ふ」とパウロが曰ひしが此区別である。政府と云ひ教会と云ひ、規則と云ひ儀文と云ひ、教派と云ひ学派と云ひ、是れ皆肉の事であつて旧い事である。之に霊の自由はない。永久に生々したる所はない。パリサイ人如何に熱心なるも、其熱心たる主義又は教義の熱心であつて、生命の温き所がない。霊に比べて肉は尽く機械的である。人工的である。朋党的である。因襲的である。其奉ずる主義は如何に新しくあるとも、其維持する説は最新の説なりと雖も、主義《イズム》と云ひ、法式と云ひ、系統と云ひて、閥を作り、派を為す者はすべて肉に属する者にして旧くある。之に反して霊は永久に生きて永久に新しくなる。生命は之に定義をすら附する事が出来ない。如何なる党派も生命を専有する能はず、如何なる学説も生命の意義を言尽す事能はず。霊は霊である。生命は生命である。理化学の術語を以て生命を言表さんと欲して能はざるが如く、教義又は神学を以て霊を説明する事は出来ない。生物に対して礦物並にすべての無生物は旧くある。霊に対して肉並にすべての肉性は旧くある。
〇以上の意味に於てパリサイ人並に学者は旧くあつた。同じ意味に於て今日のすべての政府者並に教会者、学者並に博士、文学博士、法学博士、神学博士、牧師、宣教師、社会主義者、ボルシェビスト、皆な悉く旧くある。彼等は其奉ずる主義を異にし、其拠て立つ主張を異にすると雖も、其根本の精神に於て同じである。即ち彼等はすべて肉の人であつて旧くある。神に反きしアダム丈け、兄弟を殺せしカイン丈け旧くある。恰もパリサイ人とサドカイ人とヘロデ党とが党を異にしながら根本の精神を共にせしが故に、イエスに対して一致したと同じであ(309)る。
〇そして此世の政治家、宗教家、学者、主義者は尽く旧くあるに対してイエス一人は常に新しくある。世に本当に新人と称すべき者は唯イエス一人である。彼は純なる霊の人、永遠の生命の保有者であるからである。今や新説は数限りなく唱へらるゝが、人として恒に新しき者は唯イエス一人である。他は悉く旧くある。団体を作り、多数を其内に引入れて、勢力を世に張らんと欲する者は悉く旧くある。旧神学も旧くある、新神学も旧くある。肉は悉く旧くある。此世は恒に旧くある。新しき者は唯一つ、霊なる神是れである。そして此の霊を迎へ之を心に宿したる者のみが本当の新人である。他は悉く旧式である。霊界のバンカラである。旧きアダムの旧き子供である。
〇斯く曰ひてイエスは旧き人達に向つて一片の同情なき能はずであつた。「旧き葡萄酒を飲みて直に新しき葡萄酒を好む者は有らじ、是れ旧きは最も好しと云へばなり」と。旧人は直に新人たる能はず、旧きを慕ふは人の自然である。旧宗教に縋る人、旧思想に捉はるゝ人、彼等に対して同情なき能はずである。イエスは御自分が新人の模範であつたとて、旧式の人を蔑むが如き狭き人でなかつた。彼は彼等が彼の福音を容易に解し得ざる理由を克く解し給うた。彼は敵に対してさへ深き同情を懐き給うた。
 
    第十四回 安息日間題 馬可伝二章二三−二八節。馬太伝十二章一−九節。路加伝六章一−五節。
 
〇イエスは霊の人であつて新しき人であるに対して、パリサイ人は律法的規則的の人であつて旧き人であつた。故に両者の衝突は免れなかつた。既に罪の赦しに就て、弟子の選択に就て、俗人と飲食を共にする事に就て、断(310)食の事に就て意見の衝突があつた。そして今又安息日の事に就て衝突が起つた。信仰の根本に於て相違があつて、人生すべての事に於て衝突が起らざるを得ない。
〇十誡第四条に曰ふ「安息日を憶えて之を聖く守るべし」と。安息日聖守の必要に就ては十誡研究の時に述べたから今は之を繰返さない。然れども如何に之を守るべき乎は決して容易い問題でない。そして之を律法的に解釈するのが当時のユダヤ人の立場であつて、精神的即ち霊的に解釈するのがイエスの主張であつた。当時のユダヤ人の規則に従へば人は安息日に二千キュビット(八丁二十間)以上の距離を旅行してはならない。之はシナイの荒野に於てイスラエルの民が彼等が住ゐし天幕より神の幕屋に到りし距離であつた。人は安息日に麦を苅つてはならない、又|打穀《うつ》てはならない。野に在りて麦を摘《つま》みて食ふは苅つて打つに等し。故に安息日に之を為すは同時に二つの罪を犯すのである。人は安息日に普通行はるゝ事以外の事を為してはならない。例へば歯痛を病む場合に、水を以て嗽ひするは可なれども、痛を止めんとて酢を以てしてはならない。安息日に特別療法を行ふは罪である。其他すべてが此類である。安息日の聖守に関し三十九ケ条の禁令があつて、其各条に又細則が附せられたと云ふ。其煩瑣たるや思ふべしである。
〇如斯くにして、歓喜の日、感謝の日、讃美の日であるべき安息日が、重荷の日、困苦《くるしみ》の日、憂悶《うれひ》の日であるに至つた。人を救はん為に世に現はれ給ひし神の子は安息日を偽善者の手より救出《すくひいだ》して之を元始の平安に還すの必要があつた。天地の成りし時に「晨星《あけのほし》相共に歌ひ、神の子たち皆な歓びて呼はりぬ」とあるに(ヨブ記三十八章七節)何故に之を記念する日に感謝と歓喜とを以て溢れざる。|安息日を聖むると云ふは之を歓呼の日と為す事である〔付○圏点〕。望むは其一面に於て言祝《ことほ》ぐである。英語に在ても hallow は「望む」を意味し、又「叫ぶ」の意である。
(311)〇安息日に天然を楽しむは罪でない。安息日に痛みを去り病を癒すは神の喜び給ふ所である。安息日は神の子たちの祝日である。是は規則を以て人を縛る日でない。自由を与へて彼を放つべき日である。安息日は神が此自由、此歓喜を人に与へんために設け給ひしものである。そして人の子は人の主であるが故に、同時に安息日の主である。「安息日は人の為に設けられたる者にして、人は安息日の為に設けられたる者に非ず。然れば人の子は安息日にも主たる也」と云ふ。実に深い言である。
〇此世の国の場合に於ても法律は民の為であつて民は律法の為でない。故に法律が民の安寧幸福を妨ぐる場合には国王は其至上権を以て、之を変更する事も、中止する事も、或ひはまた廃止する事も出来る。神の国の律法に於ても同じである。神の子にして人類の王なる人の子キリストは其至上権を以て神の国の律法を変更する事も改正する事も出来る。そして斯く曰ひてキリストは御自身に就て驚くべき事を曰ひ給うたのである。|安息日間題は茲に至てキリスト神性問題に移つたのである〔付○圏点〕。
。四福音書の記す所に依ればイエスは七回ユダヤ人の安息日に係はる法則を破つて、故意に此問題に就き彼等に戦を挑み給ひしやうに観える。|然し乍ら是れ戦を好んでの挑戦ではなくして自己証明の為の最良手段であつたと思ふ〔付△圏点〕。安息日問題はイエスの神の子としての至上権を証明確立する為に最も適当なる問題であつた。彼は事実を以て安息日に主たる事を証明して、御自身が誠に神の独子、旧約の撤廃者にして新約の設置者、人の義とせらるゝは律法の行に依らず信仰に依ると云ふ、所謂「新しき誡」を世に齎す為に臨りし者なる事を証明し給うたのであると信ずる。
〇私は主の此言に由りて私が過去千九百年間基督信者が取り来りし慣例に従ひ、日曜日を以て私の安息日と定め、(312)之を守りて今日に至りし私の立場を弁明する。基督信者の安息日は一週の第一日、即ち日曜日なりとは明白の事であつて、別に其可否を論議する必要なき事と思ひしに、近頃米国より末世之福音なる者入り来りて、此在来の慣例に反対し、安息日は第七日即ち土曜日である、日曜日を安息日として守る者は聖書に戻り神に反く者であると唱へ、其攻撃の鉾を私にまで向ふるを見る。米国は教派の発生地であつて、其処に起りし教派は数百を以て算へらる。孰れも我こそは聖書的であつて、他は尽く異端であると唱へ、福音の平和を乱せし事実に甚だしい。末世之福音の如き米国基督信者の意見の一と見ればそれまでゞある。只我国人中、安息日問題の為に悩まされ、部分的問題を以て全体問題と見做し、無用の波乱を我国信者の間に起すは最も悲むべき事である。私は基督信者の安息日は日曜日であると信ずる。|其理由はキリストは週の第一日即ち日曜日の朝墓より復活し給うたからである〔付○圏点〕。聖書に他の何の証言がなくとも此明かなる事実に由て、基督信者がユダヤ人の安息日なる土曜日を守るを止めて、日曜日を聖日として守るに至つた理由は充分である。私は日曜日を守りてキリストの復活を紀念するのである。そして安息日に主たるキリストが、安息日を廃するに非ずしてユダヤの土曜日を改めて基督信者の日曜日と為し給ひたればとて少しも不思議はないのである。是れ人が為したる事ではない、安息日に主たる者が為し給ひし事である。神の御眼より見たまひてキリストの復活は天地の創造以上の出来事であつた。そして造化完成を紀念する為の安息日を改めてキリスト復活を紀念する為の安息日と為し給ひしとは、キリストの御父なる真の神の御事として最も応はしき事である。
〇私は基督信者の安息日として週の第一日を守る。然し乍ら守ると言ひてユダヤ人が第七日を守りしやうに律法的には守らない。罪を赦されたる恩恵の子供として感謝と歓喜を以て之を聖守する。「神の律法の命ずる第七日(313)安息日」と云ふが如き者は基督信者としての私の安息日ではない。末世之福音信者は例規《さだめ》又は律法、又は法度《のり》又は誡命《いましめ》と云ふが如き言葉を使ひて第七日安息日の聖守を以て我等に迫ると雖も、是は全く旧約の言葉であつて、新約に在りては誠に意味の軽い言葉である。畢竟するに英米人、殊に米国人は実利主義の民であつて、何よりも外面的の秩序即ち律法を愛するのである。故に彼等の信仰が何時となく律法に後戻りするのである。メソヂソト教会がアルミニアン主義であつて信仰よりも行を重んずる傾きある、ユニテリヤン主義、ホリネス運動、而して又此第七日安息日聖守の主張、其唱ふる教義は異なれども其根本は英米人の律法的思想である。我等はパウロに傚ひ、是等の律法的信者に言ふべきである「汝等何ぞ今弱き賤しき小学に返りて復び之に僕たらんことを欲ふや。汝等慎みて月と日と節と歳とを守る。我れ汝等に就て危む」と(ガラタヤ書四章九、十節)。末世之福音信者は「ヱホバ言給ふ、新月毎に、安息日毎に万の人我が前に来りて崇拝をなさん」とのイザヤ書六十六章廿二、廿三節を引いて余輩に土曜日聖守を迫ると雖も、余輩の彼等に訊ねたきは彼等は同時に新月(月朔《ついたち》)の聖守を主張するのである乎。畢竟するに彼等の信仰は新約より旧約への背馳《あともどり》である。余輩は単に安息日問題に就て彼等と意見を異にするのではない。信仰の根本を異にするのである。聖書を尊び、キリストの再臨を信ずる点に於て彼等と信仰を同うするやうに見ゆれども、此は単に外面の類似に過ぎない。余輩は再びパウロの言を引いて此問題に関する余輩の立場を明かにする、曰く「是故に或は飲む事、或は食ふ事、或は期節、或は月朔(新月)、或は|安息日の事に由り〔付△圏点〕、人をして汝等を議せしむる勿れ」と(コロサイ書二章十六節)。 〔以上、大正12・4・10〕
 
(314)    第十五回 山上の垂訓 馬太伝五章より七章まで。路加伝六章二十節より四十九節まで。
 
〇「ヨハネの囚はれし後イエス、ガリラヤに至り神の国の福音を伝へ」たりと云ひ(馬可一章十四節)、「カべナウムに至りイエス安息日に会堂に入りて|教を為し〔付○圏点〕」たりと云ひ(同廿一節)、「イエス※[行人偏+扁]くガリラヤの国を経めぐり其会堂にて|教を宣べ〔付○圏点〕」たりと云ひ(同卅九節)、「イエス復びカべナウムに来りしに彼の家に居ること聞えければ直に多くの人々集ひ来れり、イエス彼等に|教を宣ぶ〔付○圏点〕」と云ふ(二章一節)。「イエスまた海辺に往きしに人々彼に来りければ是等を|教ふ〔付○圏点〕」と云ふ(同十三節)。教ふるのがイエスの第一の目的であつた。然るに馬可伝はイエスの教に就て多くを伝へない、主として彼の行働《はたらき》に就て録す。故に教は之を他に求めなければならぬ。そして馬太伝と路加伝とは馬可伝の此欠乏を補ふものである。
〇イエスの教の最も善き模範は|山上の垂訓で〔付○圏点〕ある。馬太、路加両伝が之を伝ふ。馬太の分は其五章より七章に至り百七節より成る。路加の分は其六章二十節より四十九節に至り二十九節を以て了る。故に一読して其大意を知らんと欲せば路加伝に依るを宜《よ》しとす。然し普通「山上の垂訓」といへば馬太伝所載のものを指して云ふ。その諄々として天国の市民の|資格、義務、警誡〔付○圏点〕を説く所、他に其類を見ず。基督信者の大憲章《マグナカルタ》と称ばれ、至大至重の文字である。
〇山上の垂訓を研究するに方て、先づ第一に我等の心に留め置くべきは、其れが天国の福音であつて、キリストが宣告し給ひし新しき律法ではない事である。多くの人は之を天国の律法と見るが故に全然其意味と取違へるのである。是はイエスが伝道の首途に於て、ガリラヤの春に際し、歓喜の余りに述べ給ひし福音即ち喜びの音信で(315)ある。其事は明かに其発端の言葉に由て示さる。「福なり心の貧しき者は」。「福ひなり、福ひなり」とイエスは口を開くや否や八回繰返し給うた。聖アムブロースは之を音楽の八音を鳴らす八箇の美はしき鐘の音に譬へた。「福ひなり」を以て始められた此大説教が人を威嚇《おど》し又は審判く者でないに相違ない。モーセの律法はシナイ山上、火と煙の揚る所に雷鳴を以て授けられた。之に反してイエス山上の垂訓は、ガリラヤ湖畔の風涼しき所に、青葉萌出る小山の上に与へられた。山上の垂訓をより厳きイエスの律法と見る者は全然之を誤解する者である。我等は恩恵の主より恩恵の言葉に与かるの態度を以て其研究に取掛からねばならぬ。
〇馬太伝所載山上の垂訓は三章百七節より成る大説教である。そして其一字一句が悉く重要文字であるが、然し其内にまた軽重の差なき能はずである。何れの説教にもあるが如くに、イエスの此の大説教にも亦|頂点《クライマツクス》があつた。そして其の頂点を知るに由て其全体を窺ふ事が出来る。そして其頂点は七章十二節である。即ち
  是故に凡て人に為られんと欲ふ事は汝等また人にも其如く為よ
と。「福ひなり」との喜ばしき一声を以て麓を発足せし此信仰的大登山は、黄金律《ゴオルデンルール》として全世界に讃えらるゝ此一節に到て、巓の頂点に達したのである。之を富士山に譬へん乎、八箇の祝福は之を麓の八湖と見て可らう。そして登り登つて登り詰めたる所、即ち富士山で云へば剣ケ峯と云ふ所が、山上の垂訓に於ける黄金律である。其間に胸突《むねつき》八町と云ふが如き絶壁に類したる所もある。律法もある。審判もある。然し乍ら山は恩恵の山であつて、其麓は祝福の湖、其巓は愛である。我等は中間の巨巌凄愴たるに気を奪はれて全山の麗姿を見逃してはならない。
〇第五章初の二節は此大説教が為されし場合を記した者である。イエスの声名四方に拡りければ、ガリラヤ、デ(316)カポリス、ヱルサレム、ユダヤ、ヨルダンの外《むかふ》より多の人々来りて彼に聴かんとした(四章末節)。今やカべナウムに於けるべテロの家は此群集を受くるには余りに狭くあつた。又邑と湖《うみ》との間に彼等を容るるの場所がなかつた。此有様を見てイエスは彼等を導きて背後の山に登り給うた。そして原語に在りては山は特別の山、即ち|かの〔付○圏点〕山であれば、イエスが祈祷の為め、又は四方展望の為に屡々登り給ひし彼れ特愛の山であつたらう。彼は其処に|坐し〔付○圏点〕給うたとあれば、彼は暫く彼等を教へんとて着席し給うたのである。聴衆山上の高台に群り、弟子等は彼の足下に坐す。春既に半ばにして青草軟き敷物を給《あた》へ、花は笑ひ、鳥は囀りて、垂訓最良の材料を供した。此聴衆と天然とありて、彼は口を開き、粛然沈黙を破つて語り出し給うた「福ひなり」云々と。
〇五章三節以下十二節までは垂訓の序言として見ることが出来る。福音の紹介の辞であると同時に其縮写又は梗概である。若し基督教を凝結したる者が山上の垂訓であるならば、其|精要《エツセンス》は其冒頭を飾る是等祝福の辞である。
  (一) |福なり〔ゴシック〕心の貧き者は、天国は即ち其人の有なれば也。
  (二)|福なり〔ゴシック〕哀む者は、其人は安慰《なぐさめ》を得べければ也。
  (三)|福なり〔ゴシック〕柔和なる者は、其人は地を嗣ぐことを得べければ也。
  (四)|福なり〔ゴシック〕饑え渇く如く義を慕ふ者は、其人は飽くことを得べければ也。
  (五)|福なり〔ゴシック〕矜恤ある者は、其人は矜恤得べければ也。
  (六)|福なり〔ゴシック〕心の清き者は、其人は神を見ることを得べければ也。
  (七)|福なり〔ゴシック〕和平《やはらぎ》を求むる者は、其人は神の子と称へらるべければ也。
  (八)|福なり〔ゴシック〕義き事の為に責めらるゝ者は、天国は即ち其人の有なれば也。
(317)〇以上祝福の辞は八節である。孰れも驚くべき言である。初めて之を聴きし者は驚駭の感に打たれたであらう。祝福は慕ふべくあれども、其条件が意外である。イエスが福ひなりと称へ給ひし者は孰れも此世が不幸と見做す者である。此世は云ふ、富める者は福なり、位ある者は福なり、智慧ある者は福なり、学識ある者は福なり、天才ある者は福なり、権力ある者は福なりと。然れどもイエスは其何れをも福と称し給はなかつた。其反対にイエスが福と称へ給ひし者は此世が不幸と称ふる者であつた。貧しき者、哀む者、人に責めらるゝ者、饑え渇く如く富貴ならで義を慕ふ者、柔和なる者、斯かる者が福なりと云ふ。愚か狂か聖か、聴者は其意味を探るに窮したであらう。而かもイエスは権威を以て是等の言を発し給うたのである。是は勿論イエスの確信であつたのである。即ち世の云ふ幸福は不幸である。世の云ふ不幸は幸福である。此の世と天国とは全然性質を異にするとイエスは教へ給うたのである。垂訓発端の言が既に革命的である。誰か之に堪へ得る者ぞ。世が之に堪へ得ないは勿論の事、所謂基督教会さへ之を聴くも信じない。貧の幸福、悲哀の幸福、饑渇の幸福、迫害の幸福、イエスは開口一番斯かる幸福を述べ給うた。山上の垂訓の何たる乎は此驚くべき序言に由て略ぼ推測する事が出来る。
〇山上の垂訓又は説教の名は英語の The sermon on the mount 又独逸語の Die Bergpredigt の訳字である。然し是れ適当の名ではない。馬可伝が記すが如く「神の国の福音」と称ぶが本当である。訓誡又は説教でない。福音である。イエスが天上より持来り給ひし喜ばしき音信である。名は実を示すを要す。之を福音と称せずして垂訓と呼びしが故に多くの有害なる誤解を招いたのである。
〇「イエス許多《おほく》の人を見て山に登り」とある。「見て之を避けて」と解する事も出来る。即ち群衆を避けて弟子等を伴ひて静かなる山に登り、其所に彼等(弟子等)を教へ給へりと解する事も出来る。私も曾て此解釈を取り之を(318)本誌に紹介した事がある。然し乍ら遠き国々よりイエスに聴かんとて来りし聴衆が、彼が山に登り給ひたればとて麓に残り居やう筈がない。故に「見て」は「伴《つれ》て」と解するのが当然であると思ふ。正誤の意味にて此事を附記する。
 
    第十六回 祝福の辞(上) 馬太伝五章三−十節。路加伝六章二十−二十三節。
 
〇祝福の辞は八音である。其|各個《おの/\》が美しくある。其全体が美しくある。或は巧みに刻まれたるダイヤモンドの如くに、福音の光は燦然として其各面より照り輝き、全面は相互に調和して一大宝石を形成する。
〇「福なり」と言ひてイエスが神の子たるの権威を以て祝福を宣告し給うたのである。其人が祝福を感じたのではない。彼は哀み、饑え渇きつゝあるのである。然し人が(彼れ自身も其一人である)不幸と思ひつゝある時に、イエスは「福なり」と宣告を下し給ふたのである。誤らざるイエスの御意見である。祝福は実現したのではない。預言され約束されたのである。人の評価ではない、神の宣言である。故に信仰を以て受くべき者である。
〇「心(又は霊)の貧しき者は福なり」と云ふ。心より貧しき者、霊魂の根柢より貧しき者を云ふ。物に貧しくして心に騎る者がある。此世の貧者に此類が多い。然し乍ら本当の貧者は物にも霊にも貧しき者である。即ち「我に頼るべき何物もなし」と感ずる者である。清貧を楽しむ者の如き此種の貧者でない。我に誇るべき義も愛も信も、徳は勿論の事、何物もないと感ずる者、即ち根本的に貧しき者、斯かる者は福なりとイエスは宣告し給うたのである。此一節の最も善き註解は路加伝十八章九節より十四節までゞある。就いて見るべしである。
〇「天国は即ち其人の有なれば也」。「天国」は神が人に与へ給ふ幸福の全体である。其半面は心の状態であり、(319)他の半面は境遇の実現である。天国は完成されたる霊魂と完成されたる宇宙とより成る。故に天国は今既に在る者であつて、又後に現はるべき者である。「神の国は汝等の内に在り」とのイエスの言に鑑みよ。そして心の貧しき者には天国は今、此世に於て与へらるべしとの事である。未来の事ではない、現在の事である。心の空虚《むなし》き者、根本的に謙遜なる者は、今、未来に於ける神の国の実現を待たずして、天国を共有とする事が出来るとのイエスの宣言又は約束である。「神の国は飲食に非ず義と和と聖霊に由る歓楽《よろこび》にあり」との羅馬書十四章十七節に於てパウロが称へしものを云ふ。此は確かに信者が今の生涯に於て戴き得る天国である。天国の全部ではないが然し天国たるに相違ない。
〇「哀む者は福なり」と云ふ。すべての悲哀が福なるのではない。「それ神に循ふ憂(悲しみ)は悔なきの救を得るの悔改に至らしむ。然れど世の憂は死に至らしむる也」とある(コリント後書七章十節)。事業失敗の悲しみ、罪悪露顕の悲しみ、其他此世のすべての悲しみ、是は皆な肉を減し、骨を枯らし、死に至らしむる悲哀である。そして之に対して神に循ふ悲哀がある。己が罪を悲み、欠点多きに悶え、光を仰ぎながら猶ほ暗きに彷徨ふを歎く。又世が何時までも神に叛き、其結果として何時までも禍患困窮の内に苦しむを悲む。己が為に悲み、世の為に悲む。斯かる者は福なりとイエスは宣べ給うたのである。所謂高貴なる悲哀(noble sorrow)である。然れども高貴なるが故に其れ丈け深くある、激しくある。ルーテル、コロムウエル、バンヤン等がすべて実験せし所の悲哀である。幾年も真暗黒に彷徨ふ苦痛である。自分としては不幸の頂上である。此世の冷笑、教会の疑察《うたがい》を受くるに至らしむる悲哀である。然るにイエスは宣べ給うたのである「其人は福なり」と。
〇「其人は慰安を得べければ也」と。人間の言葉として「なぐさめ」は意味の軽い詞である。日本語の「なぐさ(320)め」は「投ぐ」又は「和《お》ぐ」より出た詞である。「憂《うさ》を投げ」又は「和《やはら》ぐる事」、即ち「憂晴し」、其れが「慰め」である。即ち悲哀《かなしみ》の宥《なだ》め又は緩和である。之を取除く事でない。然し乍ら神に在りて慰めは深い重い意味の詞である。|本当の慰めは悲みの〔付△圏点〕取除《とりのぞき》|である〔付△圏点〕。悲哀の源因を取去りて之に代るに歓喜を以てする事である。そして神は如斯くにして悲む者を慰め給ふとの事である。実に偉大なる御約束である。罪を悲しむ者に其罪を取除き之に代るに義を以てし給ふとの事である。死を哀む者に死を滅して之に代るに再び死なざる生命を以てし給ふとの事である。是が本当の慰めである。「歎き悲み、甚く憂ふる声ラマに聞ゆ、ラケル其|児子《こども》を歎き、其児子の無きによりて慰めを得ず」とある(マタイ伝二章十八)。そしてラケルを慰むる唯一の途は、彼女が失ひし児子を再び彼女に与ふるにある。其れ以外の途を以て彼女を慰むる事は出来ない。そして神は此意味に於てラケルを慰め給ふとの事である。そしてラケルのみならず、すべて児子を失ひて歎き悲み、甚く憂ふる此世の母と父とを慰め給ふとの事である。子を再び其親の懐に返して彼等を慰め給ふのである。茲に於てか復活の希望、キリスト再臨の希望、万物復興の希望が、イエスの伝道の初期に於て既に提示されたのである。
〇故に「慰めを得べければ也」である。未来動詞である。天国は此世に於て今与へらると云ふに対して、慰めは未来に於て施さると記さる。勿論此世に於ても信者に慰めがないではない。然し乍ら是れ約束の慰めである。「神彼等の日の涕を悉く拭ひ取り復た死あらず哀み痛み有るなし」との慰めの御言葉である(黙示録廿一章四節)。然し御言葉であつて事実ではない。そして神の約束の御言葉が事実となりて現はるゝ時に、其の時に本当の慰安があるのである。
〇「柔和なる者は福なり」。註解者は言ふ、茲に云ふ柔和は神に対する柔和であつて、人に対する柔和でないと。(321)即ち原語の praus は宗教的の詞であると。若しさうであるとすれば、「柔和なる者」とは呟くことなくして神の降し給ふ凡ての困苦を受くる者を云ふのである、即ちイエス御自身が此意味に於ての柔和なる者の模範であつた。「彼は苦しめらるれども自から謙下りて口を開かず、屠場《ほふりば》に引かるゝ羔の如く、毛をきる者の前に黙《もだ》す羊の如くして其口を開かざりき」と彼に就いて預言せられしが如くに彼は行ひ給うた(イザヤ書五十三章七節)。愛の神を信じながら身に災禍が臨むも能く之に堪へ、反て神を讃美するの心、それが柔和の心である。そして斯かる心を持つた者は福であるとの事である。
〇神に対して柔和なる者は勿論人に対しても柔和である。黙して神の鞭を受け給ひしイエスは亦黙して人の※[言+后]《そしり》をも受け給うた(べテロ前書二章廿一−廿四節を見よ)。故に柔和なる者は此世に於て虐げらるゝ者、常に劣敗者の地位に置かるゝ者である。然るにイエスは宣告して言ひ給ふ「其人は地を嗣ぐ事を得べければ也」と。茲に明かにイエスの終末観が示されてゐる。信者は単に霊的にのみ恵まるゝ者ではない。物的にも亦終には世界の持主となるのであると 驚くべき宣告である。神が為し給ふがまゝに自己を委ぬる者、此世に在りては本当の意味に於ての無産階級、常に割の悪い地位に居る者、其者が終には全地を神より賜はると云ふのである。此事を知るが故に本当の基督者は財産争ひをしない。又殊更に社会主義を唱へて貴族や富豪に富の分配を迫らない。信者は静に神が全世界を彼に賜ふ其時を待つのである。
 
    第十七回 祝福の辞(中)
 
〇「饑え渇く如く義を慕ふ者」。「義に饑え又渇く者」と訳すべきである。利に饑え慾に渇くが人の常である。(322)稀れには知識に饑え渇く者がある。然れども義に餓え渇く者は更に稀である。人に義人として崇められんと欲するのではない。又自分の良心を満足させんと欲するに止まらない。神の前に義たらんと欲するのである。是れ人が懐き得る最高の欲望である。そして此欲望ありて初めて本当の宗教心があるのである。宗教他なし、完全の義に達する事である。「天に在す汝等の父が完全きが如く汝等も完全く成るべし」と云ふのがイエスが其弟子より要求し給ふ所である。そして此要求に応ぜんとして努力奮闘した者があつた又あるとは実に人類の名誉である。「鹿の渓河を慕ひ喘ぐが如く我が霊魂は汝を慕ひ喘ぐなり。我が霊魂は渇ける如くに神を慕ふ。活ける神をぞ慕ふ。何れの時にか我れ往きて神の聖前に出ん」とイスラエルの詩人は歌うた(詩四十二篇)。そして単に遠方より義の神に憧憬るゝのみならず、直に其台前に達せんと欲して勇進した者があつた。そして其の最も好き例がタルソのパウロである。羅馬書第七章は最も鮮かに此精神的状態を示す者である。「噫我れ困苦《なやめ》る人なる哉、この死の体より我を救はん者は誰ぞや。是れ我等の主イエスキリストなるが故に神に感謝す」と。そしてルーテル、バンヤン、コロムウエル、ブレナード等に皆な此困苦があつた。近代人の知らざる困苦である。彼等の所謂 Sturm und Drang とは質を異にし、自己の完成を欲求する困苦に非ずして神に肖んと欲する努力である。人類の奮闘史に於て、クリスチヤンが神の義に達せんと欲して闘ひし其戦よりも激烈なるものはない。
〇如斯き者に対してイエスはまた「其人は福なり」と宣告し給うたのである。此は無益の奮闘に非ず、無謀の欲求に非ずと彼は教へ給うたのである。実に驚く可き、思ひ切つたる宣告である。義に饑え、完全《まつたき》に渇する者は、其欲求通りに飽く事を得べしとの宣告である。
〇人は問ふであらう、然らば人は望んで完全の義人たり得るのである乎と。「然り」と聖書は答ふるのである。(323)そして多くのクリスチヤンほ其事の実である事を実験した。義に飽く途に二つある。其第一は義とせらるゝ事、即ち義人ならざるに義人として認めらるゝ事である。其第二は実質的に義たらしめらるゝ事である。第一は罪の此世に於て、罪の身此儘にて、信仰の故に由りて、義とせらるゝ事である。第二は信仰の結果として栄化復活の恩恵に与り、神の子キリストが完全きが如く完全くせらるゝ事である。第一は現世の事であり、第二は来世の事である。そして神の為し給ふ事なるが故に二者何れも確実なる事である。罪の此身に宿る間、我等は完全に義たる事を得ない。然れども我が罪を十字架に釘け給ひしキリストを仰瞻る事に由りて、彼の義を我が義となす事が出来る。又神はキリストに在りて我等を看たまうが故に、我等信仰を以て自己をキリストの衷に置く時に、神は我等の罪を定め給はない。事は理論ではない、実験である。神の義に逐立られてキリストの十字架の影に隠るゝ時に、罪はもはや我を困しめず、我が心は平安なるを得るのである。義に饑え渇くの必然の結果は十字架贖罪の信仰である。そして此信仰を得て、此世此体に在りながら我は義に飽く事を得るのである。
〇然し乍ら信仰に由る義は完成せられたる義ではない。信者は今世に於て信仰的に義とせられて、来世に於て事実的に義とせらるゝのである。「汝等の心の中に善き工を始め給ひし者、之をイエスキリストの日までに全うすべし」とある(ピリピ書一章六節)。「我等の命なるキリストの顕はれん時我等も之と偕に栄の中に顕はるゝ也」とあり(コロサイ書三章四節)、又「愛する者よ我等今神の子たり、後いかん未だ露はれず、彼れ顕はれん時には必ず神に肖んことを知る」とある(ヨハネ第一書三章二節)。信者の義は未だ完うせられたのではない。之はキリストの再臨を待つて全うせらるゝのである。斯くして義に饑え渇く事は決して無益の欲求でない。天然の万事に於て欲求は充足の預言である。視る物がある故に視る眼があるのである。聴く音がある故に聴く耳があるのであ(324)る。人に義の欲求あるは、其の充たさるゝ証拠である。そして罪に沈みし人類は義の実現を不可能視するが故に、イエスは此の驚くべき宣言を為して義の追求と実行とを奨励し給うたのである。
〇「矜恤ある者は福なり云々」。其字義は明瞭である。事実果して如何が問題である。此世に在りては矜恤ある者は必しも福であるとは言ひ得ない。多くの場合に於て矜恤ある者は不幸である。そして大抵の場合に於て矜恤ある者は損である。矜恤は成功するの途でない。自分の利益を省みずして他人の利益を計りて此世に於ける成功は甚だ覚束ない。殊に国家の外交政略に於て矜恤は禁物である。弱国を憐れみ、其貴尊利益を思ふて富強を致した国家は一つもない。其点に於て英国、伊国、仏国、米国、日本、孰れも撰む所はない。外交的に見て矜恤ある者は不幸なり、其国は侮辱せらるべければ也である。そして今や基督教会に於てすら矜恤は矜恤を以て報ひられない。弱き他教会を壊して強き自分の教会を盛にする事は別に悪い事であるとは思はれない。優勝劣敗が進化の理であると信ぜらるゝ今日、矜恤は軟弱であつて排斥すべきである。ニイチエの哲学が近代人に歓ばるゝ理由の一は確に矜恤と称するが如き女性的性格の排斥に於てあるのである。
〇然るにイエスは教へ給ふ「矜恤ある者は福なり、其人は矜恤を得べければ也」と。憐む者は憐まれる。誰に? 何処で? 此世に於ても多少はさうである。|然れども殊に著るしく、神に、未来の裁判の場に於てである〔付△圏点〕。「憐むことをせざる者は鞫かるゝ時また憐まるゝこと無からん。矜恤は鞫に勝つなり」と使徒ヤコブが教へし通りである(雅各書二章十三節)。そして信者は何よりも此鞫きを恐れ、安全に之を通過せんと欲するのである。此は無用の恐怖であると言ふ者は誰か。自分の罪に覚めた者は此恐怖を懐くが当然である。「汝の僕の審判に関係《かゝづら》ひ給ふ勿れ、そは活ける者一人だに聖前に義とせらるゝはなし」とは聖詩人の叫びであつた(詩百四十三篇二節)。そ(325)してすべての聖徒に此叫びがあるのである。「神は※[火偏+毀]尽す火なり」とは狂人の脳裡に画かれたを想像ではない。睡眠状態より覚めたる時の人の実験である。そして自身審判かるべき地位に在る者は他人を審判くに寛大ならざるを得ない。此審判を目前に置いて人に対する矜恤は自然に起る。損益又は成功失敗の問題ではない。我が霊魂永遠の運命に関はる問題である。そして本当の矜恤は未来裁判の観念より起る者である。強き未来観念のなき所に本当の深き同情は起らない。情は人の為ならず自分の為である。審判を父に委ねられ給ひしイエスは宣べ給うた「矜恤ある者は福なり、其人は審判るゝ時に矜恤を得べければ也」と。ダビデは曰うた「ヱホバよ、汝は矜恤ある者には矜恤ある者となりて現はれ給ふ」と(詩篇十八篇廿五節)。人は自分の如くに神に扱はるゝのである。 〔以上、大正12・5・1。〕
 
    第十八回 祝福の辞(下)
 
〇「福なり心の清き者は。其人は神を見ることを得べければ也」と。神は清くある、彼に接するに心の清きを要す。「人もし潔らずば主に見ゆることを得ざる也」とある(希伯来書十二章十四節)。主に見ゆるの資格は是れ。冥想も、工夫も、難行苦業も、心を清くせずして神を見ることは出来ない。人は曰ふ清水に魚棲まずと。魚は棲まない、然れども神は宿り給ふ。「心の清き」とは清浄潔白、一点の汚なきを云ふのではない。もし爾《さう》なれば神を見ることの出来る者は一人もない。或は曰ふ是れ性的に純潔なるの意であると。即ち男子としては修道士の、そして女子としては童貞(尼)の生涯を送る事であると。然れども僧尼必しも心の清き者でない事は多くの事実に由て証明せらる。其反対に多くの清き生涯は結婚生活に依て営まれた。性的関係を不潔と見るは多くの不潔を醸す(326)の原因となる。「汝等婚姻の事を凡て貴め、神は苟合又奸淫する者を審判き給ふ」とある(希伯来書十三章四)。聖書は清潔と独身生活とを同一の事として見ない。
〇「|心の清き者」とは心に偽はりなき者である〔付○圏点〕。其好き例はナタナエルである。「イエス彼の己が所に来るを見、彼を指して曰ひけるは「真のイスラエル人にして其心詭譎なき者ぞ」と」(ヨハネ伝一章四七節)。斯かる人は日本人の内にもある。「真の日本人にして其心詭譎なき者ぞ」と称して間違なき者がある。其人は勿論基督者ではない。然し基督者たるの最も善き資格を有する者である。世人は彼を呼んで「正直者」と云ふ。正直である事の外に何の取所なき者として賤視めらる。然れどもイエスは彼を祝して曰ひ給ふ「汝は福なり」と。
〇「神を見る」とは現世に在りてはイエスキリストの面にある神の栄光を拝する事である(コリント後書四章六節)。其結果として来世に在りては面前再臨のキリストに接する事である。「彼《か》の時には面を対せて相見ん」とあるが如し(同前書十三章十二)。所謂「見神」と称へて漠然として神を冥想する事ではない。歴史的イエスに師事することゝ、再び顕はれ給ふ彼に主として事ふることである。
〇「和平を求むる者は福なり、其人は神の子と称へらるべければ也」と。「|平安(和平《やはらぎ》)の神〔付○圏点〕汝等凡の者と共に在さんことを願ふ」とはパウロが屡々用ひし言葉である(ロマ書十五ノ三三、コリント後十三ノ十一、ピリピ四ノ九等)。「我等の主イエスキリストを死より甦らしゝ|平安の神〔付○圏点〕」とヒブライ書記者は言ふ(十三章二十節)。又「神は混乱の神に非ず和平の神なり」とパウロは曰うた(コリント前十四ノ三三)。イエスキリストの御父なる真の神は特に和平の神である。戦争、争闘は彼の忌み嫌ひ給ふもの、故に争闘を好む者にして彼の子たることは出来ない。勿論時には義の為に争はざるを得ずと雖も、それは和平を求むる為の争ひであつて、争ひの為の争ひでない。(327)和らぎは最も神らしき行為である。
〇「和平を求む」は「和平を行ふ」である。「平和を計る」と云ふのが普通である。人と人との間の、国と国との間の平和を計るが常である。然し乍ら|最も貴き和らぎは神と人との間の和らぎである〔付○圏点〕。福音他なし此の貴き和らぎである。
  一切《すべて》のもの神より出づ。彼はキリストに由り我等をして己と和らがしめ且その和らがしむる職《つとめ》を我等に授け給へり。即ち神キリストに在りて世を己と和らがしめ、其罪を之に負はせず、且和らがしむる言を我等に委ね給へり。是故に我等召されてキリストの使者《つかひ》となれり、即ち神我等に託《よ》り汝等を勧め給ふが如し。我等キリストに代りて汝等に求《ねが》ふ。汝等神と和らげよ。
と(コリント後書五章十八以下)。是れが本当唯一の和らぎである。此和らぎがありてすべて他の和らぎがあるのである。そして和平《やはらぎ》を求むる者はすべて福であるが、茲に示されたる和平を求むる者は特に福である。伝道の福は是である。神が提出し給ひし条件の下に人をして彼と和らがしむる事、其事が伝道である。そして此事に従事する者は福である。所謂信者が出来やうが出来まいが、社会が改まらうが改まるまいが、事其事が福である。「喜びの音信を伝へ、平和を告げ、善き音信を伝へ、救ひを告げ、シオンに向ひて汝の神は統治め給ふと曰ふ者の足は山の上にありて如何に美はしき哉」とあるは此事に従事する者の福祉を述べたる言である(イザヤ五二章七 ロマ書十章一五)。伝道にも種々あらうが、神と人との間の平和を計る為の伝道……世に之に優りて幸福なる者はない。そして此事を行ふ者は神の子と称へらるべしと云ふ。父母の志を遂げんとするが子の志望である。地上に在りて神の子と称へらるべき者を見んと欲せば本当の伝道師を尋ぬべきである。天上に於ける彼の福祉に(328)就ては言ふまでもない。
〇「義の為に責めらるゝ者は福なり」。すべての義に就てさうである。然し次節に「我が為に人汝等を※[言+后]※[言+卒]《のゝしり》又|迫害《せめ》」とあれば、特に神の義たるキリストの福音を指していうたに相違ない。「福音を信じ之を唱へしが為に責めらるゝ者は福なり」との意である。「凡てキリストイエスに在りて神を敬ひつゝ世を渡らんと志す者は窘《せめ》(迫害)を受くべし」とある(テモテ後書三章十二節)。迫害は真福音の附随物である。是れパウロの所謂「身に佩びたるイエスの印記」である(ガラタヤ書六章十七節)。真の信仰に生《いく》る証拠は身の内に於ては聖霊の結ぶ所の果たる仁愛、喜楽、平和、忍耐、慈悲、良善、温柔等である。そして身の外に於ては不信者並に偽《いつはり》の信者より受る迫害である。前者は主観的証拠、後者は客観的証拠である。内に在る者は外に現はれざるを得ない。真信仰が伝つて迫害の起らざりし例はない。迫害は我が信仰の実質を確むる者である。故に或る種の迫害に遭はずして人はまだ本当の基督者でないのである。故に「福なる哉義の為に責めらるゝ者は」である。其反対に、ルカ伝に示すが如くに「凡て人汝等を誉めなば禍なる哉」である(六章廿六節)。真福音は肉の人には必ず嫌はるゝ素質を帯びたる者である。所謂「世に歓迎せらるゝ宗教」は悪魔の宗教である。其事に就ては古今東西変ることなしである。
〇天国は心の貧しき者の有たり又義の為に責めらるゝ者の有たりと云ふ。心の空虚、即ち絶対的謙遜は基督者《クリスチヤン》の内的状態の総称。義の為に責めらるゝ事、即ち迫害は外的状態の総称である。内に謙遜にして外に責めらるゝ者、其人が天国、即ち神が人に降し給ふ福祉の総を、今、此世より受くる事の出来る者である。そして天国は今世に始つて来世に完成せらる。そして基督者のすべての欲求は天国の実現と共に充され、其苦しみも亦之と共に慰めらる(除かる)。祝福の辞は基督者を八方より観察し、又天国を八方より説明して、両者の符合一致を示す者であ(329)る。誠に基督教の縮写図と称すべきもの、福音的真理の宝玉である。基督者は世の所謂聖人、俯仰天地に恥ぢざる人ではない。己が空乏を感じ、罪を哀み、柔和にして平和を愛し、義に餓え渇き、心詭譎ず、而して世に嫌はるゝ者であると示されて、我等の人生観は一変するのである。同時に又キリストの基督教と教会のそれとの間に大なる差違《ちがゐ》のある事が判明る。
 
    第十九回 塩と光 馬太伝五章十三−十六節
 
〇祝福の辞を以て其の何たる乎を示されたるイエスの弟子は、一面に於ては地の塩であると云ひ、又他の一面に於ては世の光であると云ふ。塩であり又光であると云ふ。反対性を佩びて而かも必要欠くべからざる者であると云ふ。基督者の世に対する地位を語る言葉にして之よりも深いものはない。
〇塩は地に普通なる者の一である。海水の三、三三%は塩であつて、若し全世界の海水を煮詰めて其塩分を固めるならば、四百五十万立方哩の塩の魂が出来るだらうとの事である。即ち欧羅巴大陸を十四箇半作り得る丈けの量であると云ふ。其他岩塩として存するもの無量、土中に、水中に、動植物の体中に存在せざるなきは塩である。人畜の生活に必要欠くべからざる物とて水と日光とを除いて塩に及ぶものはない。「汝等は地の塩なり」と宜べ給ひてイエスは彼の弟子の、地に取り此必要性を佩ぶる者なる事を明に示し給うたのである。世は信者を要せず信者は世を要せずと云ふが如きは、イエスの全然承認し給はざる所である。
〇そして古代人の生活に於て、塩は現代人のそれに於けるよりも遥に重要なる地位を占めた。塩は第一に味を附けるもの、第二に腐敗を防ぐものであつた。即ち古代人惟一の味料であり又防腐剤であつた。彼等に取り塩なく(330)して生活は絶対的に不可能であつた。彼等は今日の我等の如くに塩に代るべき何物をも有たなかつた。故に塩の塊は貨幣として用ひられた。今日給料を Salary《サラリー》と云ふは其事の遺跡である。塩在て物に味あり、塩在て腐敗を防ぐ。そして基督者は地に在りて塩の役目を為す者であると云ふ。人生に意味を与ふる者、其腐敗を防ぐ者、真の基督者なくして人生は無味淡々、又腐敗百出して其底止する所を知らず。事は歴史が証明して余りあり。我国今日の状態の如き、亦イエスの此言に多くの説明的事実を提供する者である。
〇塩は地の加味剤又防腐剤、実に生命其物である。然れども塩若し其味を失はゞ如何? 何を以てか故の味に復へさん? 後は用なし外に棄られて人に践まるゝ而已とイエスは宣べ給うた。塩が味を失ふとは塩より其塩分を去りたらばとも、又は塩若し塩たるの効力を失ひたらばとも解する事が出来る。原語の意味を強き日本語に訳するならば、「塩若し|馬鹿に〔付△圏点〕ならば」と云ふが最も適当であると思ふ。塩若し腐敗物に接する余りに長きに渉りて、自体腐気を佩びて加味防腐の用を為さゞるに至らば如何、世に塩に味附ける物なし、故に「馬鹿に成りたる」塩は外に棄られて人に践まるゝ而已である。イエスは当時のガリラヤ人の日常生活に於ける塩に関する事実有の儘を語り給うたのである。そして塩に関する事実は亦基督者に関する事実である。信仰を失ひたる基督者は味を失ひたる塩である。後は用なし人に践まれんのみである。人即ち不信者に践まれん而已である。|世に憐れなる者にして俗化せる信者の如きはない〔付△圏点〕。
〇塩は如何にして永久に味を保存するを得る乎。|塩の上に無限に塩を加ふるに由てゞある〔付△圏点〕。糠味噌の保存法が亦信仰の保存法である。塩の上に塩を加へて糠味噌が永久に其効力を失はざるが如くに(反て旧い丈け善くなるが如くに)、信仰の上に信仰を加へて信者ほ永久に信仰を持続し、而己ならず旧い丈け其れ丈け善くある。|聖書の(331)研究も続けず祈祷会にも出席せずして社会運動にのみ従事する信者は、味を失ひたる塩の如くに、用なくして社会其物にさへ棄てらるゝに至る〔付△圏点〕。
〇地の塩である信者は又世の光である。塩は地にありて之を加味し其腐敗を防ぐもの、然るに光は世を離れて遠く上より之を照す者である。信者は世に在りて世の属に非ずとの真理を更に明白に説明したる譬である。信者は世に接触せざるべからず、然れども世を解脱して高きより之を教へ導かざるべからず。常に塩たるべからず又|常に〔付○圏点〕光たるべからず。塩たると同時に光たるべきである。
〇信者は世の光たる者である。故に公聞公視を避けてはならない、又避くる事が出来ない。山の上に建てられたる城は隠るゝことを得ず。燈を燃《とも》して斗《ます》の下に置く者はない、必ず燭台の上に置いて家に在るすべての物を照らさしむる。神は人を召して信者となして彼を社会の隅に隠し置き給はない。彼を人の観る所に置きて世の暗きを照さしめ給ふ。公開を憚り、之を忌嫌ふ信者は神が自分を信者と成し給ひし其聖旨を弁へざる者である。世に燈を然して之を斗の下に隠すが如き愚者なきに、多くの所謂信者は自分が天の光を受けて其輝の器と成りしは、独り人なき所に隠れて其光輝を楽しまん為であると思ふ。斯くして彼等は神様を愚人扱ひするのである。神の賜物はすべて|神の為の賜物〔付△圏点〕である。之を我が為の賜物として楽しまんとする時に、神は直に之を撤回し給ふ。神の最大の賜物たる信仰も亦神の為に用ふべきである。自から神の置き給ふ所に立ちて世を照し教へ導くべきである。然かせずして謙遜を装ひて逃げ隠れ、何よりも公開を嫌ひ、信仰は窃に之を懐き、窃に信じ窃に父の懐に往かんと欲す。是は謙遜ではない自分勝手である。神は斯かる者に長く信仰を授け給はない。或る程度までの警誡を加へて之に応ぜざれば、彼より信仰の賜物を撤回して、彼を故の暗黒の器と成し給ふ。世に天の光に点ぜられし者(332)尠からざるに関はらず、世は依然として暗黒の世なるは何故なる乎。是等の人達が人に見られん事を恐れて逃げ隠れ、信仰の証明を為さず、伝道の矢面に立たず、自分は信者なるに努めて不信者を装ひ、如何にもして人の注意を避けんとして怖惑《おぢまど》ふからである。神の御歎き、信者自身の不幸此上なしである。
〇「此の如く人々の前に汝の光を輝かせよ」。山の上に建られたる城の如くに、又燭台の上に置かれたる燈の如くに汝の光を燿かせよ。然り|汝〔付△圏点〕を燿かせよと曰はず、汝の衷に点ぜられし汝の|光〔付△圏点〕を燿かせよと言ふ。之を包み隠して己れ一人其光を浴びんと欲する勿れ。然かすれば人々汝等の放つ光を仰いで、汝等を誉めずして、天に在す汝等の父を栄《あが》むるであらうと。
〇基督者はすべて世の光である。彼等なくして、或は彼等が其光を燿かさずして世は暗黒である。試に思へ、若しすべての基督者が、多くの信者が為すが如くに絶対的沈黙を守りたらば其結果如何と。然らば貴下も私も福音の歓喜を知らずして世を終つたに相違ない。彼等が大胆に其信仰を唱へて呉れたればこそ我等は今日の福祉に居るのである。何故に授けられし光を蔽ひながら世の暗黒を歎くのである乎。「起きよ、光を放てよ、汝の光きたり。ヱホバの栄光汝の上に照出たり。視よ、暗きは地を覆ひ、闇は諸の民を蔽ふ、然れど汝の上にはヱホバ照出たまひ、其栄光汝の上に顕はる」とある(イザヤ書六十章一、二)。神は其遣はし給へる人を以て今猶ほ此事を我等に告げ給ふ。若し全世界のクリスチヤンが一緒になつて戦争に反対するならば戦争は立所に止むであらう。若し日本中のクリスチヤンが一斉に起て福音を唱へるならば日本国は数年ならずしてキリストの国と成るであらう。
 
    第二十回 キリスト復活の実証 =復活祭の音信=
 
(333)  キリスト聖書に応《かな》ひて我等の罪のために死《しに》、また聖書に応ひて葬られ、第三日に甦り給へり(甦りて今日に至り給へり)。コリント前書十五章三、四節。
〇基督教はキリスト復活の事実の上に立つ宗教である。此事実なくして基督教は起らず、又維持せられず、又今日在るを得ないのである。パウロが曰ひし通り「キリスト若し起らざりしならば我等の宣る所(福音)は徒然《むなしく》、また汝等(信者)の信仰も徒然らん……若しキリスト甦らざりしならば汝等の信仰は空しく、汝等は尚ほ罪に居らん」である。使徒等の伝へし基督教は誠に一目瞭然である。
〇然るに今の人は言ふ、キリスト復活の事実は有つても可し、無くつても可し。|無くつてならぬものはキリストの精神である〔付△圏点〕。是れさへあれば、キリストが葬られ、其肉体が墓の内より甦りたりと云ふが如きは、信ずるも可なり、又信ぜざるも不可ならずと。其点に於て現代人の基督教と使徒等の宣べし元始の基督教との間に根本的の相違がある。教会歴史の泰斗ハーナツクは言ふ「我等現代の基督信者に復活祭の信仰はある、然し乍ら復活の事実の信仰はない」と。そして今や復活の事実の信仰なくとも立派なる基督信者たり得るのである。
〇然し乍らキリストの復活は単に教義又は信仰箇条ではない。是は道理と実験とに反し無理に信ずる事ではない。是はまた歴史家の研究を待て証明せらるゝ、単《たゞ》の歴史的事実ではない。是は信者の今日の実験、今日人類の間に働く所の否認し難き事実である。キリストは釈迦や孔子、又はソクラテスと称ふが如き、一度在つて今は過去に属する人物である乎。さうでないと基督者は信ずるのである。|キリストは今生きて人類の間に強く働き給ふと我等は信ずるのである〔付○圏点〕。「我れ生れば汝等も生くべし」と彼は曰ひ給うた(ヨハネ伝十四章十九節)。また「夫れ我は世の終末まで常に汝等と偕に在るなり」と言ひ給うた(馬太伝末章末節)。べテロは曰うた「汝等イエスを見ざ(334)れども之れを愛し、今見ずと雖も信じて喜ぶ」と(べテロ前書一章八節)。イエスは今尚ほ生きて居たまふ。我等と偕に在りて働き給ふ。眼に見えずと雖も其存在は確実であるとは、基督信者全体が信じて疑はない所である。斯く云へば多くの人には不思議に聞えるが、然し|現在生き給ふキリストなくして活動の基督教は無いのである〔付○圏点〕。有名なるジヨン・ワナメーカーは渋沢子爵を彼のヒラデルヒヤなるベサニー日曜学校に迎へ、キリストと孔子を較べて曰うたとの事である、「孔子は死して墓に在り、然れども我がキリストは生きて今や此堂に在し給ふ」と。実に儒教と基督教との間に此根本の相違があるのである。前者は孔子の遺訓である。後者はキリスト|直接の指導である〔付○圏点〕。死せる教師と生ける救主、孔子とキリストとの問に死と生との〔付△圏点〕差違《ちがゐ》|がある〔付△圏点〕。
〇若しキリストが生きて在まさないならば彼の福音は決して発展しないのである。此世の腐敗に伴ふに所謂基督教会其物の腐敗を以てして、如何して基督教の如き超自然的宗教を維持して行く事が出来よう。我日本に於ける基督教の如き、維持するに最も困難である。米国人の金ぐらゐを以て到底之れを維持する事は出来ない。然し乍ら復活せるキリストが御自身で其伝道を指揮し給ふのである。夫れ故に内に教会はいくら腐敗しても、外には文学博士、理学博士と称して反対者が何百何千人出でゝも真の基督教は少しも恐れないのである。キリストは今日此堂にも在し給ふ。我等彼を見ざれども之を愛し、今見ずと雖も信じて喜ぶ。其快楽は言ひ難く、且つ栄光ありである。|キリスト復活の証拠は現在に活働し給ふキリストである〔付○圏点〕。此活ける証拠があるが故に我等は聖書の復活に関する記事を読んで之を信ずる事が出来るのである。此事実を実験せずして神学の泰斗と雖もキリストの復活を証明する事が出来ない。復活祭に会して我等は此希望を回復すべきである。 〔以上、大正12・6・10〕
 
(335)    第二十一回 基督教対旧道徳 馬太伝五章一七−四八節。
 
〇イエスは初めに天国の民の何である乎を教へ給うた。天国の民は心の貧しき者、柔和なる者、義に饑え又渇く者云々である。又世に対しては塩又は光たる者であると教へ給うた。イエスは次に天国の何でなき乎を示し給うた。其理想を在来のそれと較べて遥かに優る者たるを示し給うた。「我れ汝等に告げん、学者とパリサイの人の義しきよりも汝等の義しき事勝れずば必ず天国に入る事能はじ」と教へ給うた。
〇先づ第一に注意すべきはイエスが権威を以て語り給へることである。我が来れるは律法と予言者を廃する為に非ず成就せん為なりと曰ひ給うた。唯の人の曰ひ得る事でない。「古の人は言へり……然れど|我れ〔付△圏点〕汝等に告げん」と繰返して言ひ給うた。御自身を当時のすべての教師、又昔時のすべての預言者等に較べて、彼等以上の権威ある者として教へ給うた。「人々その教に駭き合へり、そは学者の如くならず権威を有る者の如く教へ給へば也」とある通りである(馬可伝一章廿二節)。イエスは茲に御自分の何である乎を説明し給はなかつた。然れども神の子の如くに語り給うた。「我れ来れり」と云ふは「生れたり」と云ふと異なり彼の|先在〔付○圏点〕を示す。イエスは「来るべき者」、イスラエルの民が待望みし者であるとは彼れ御自身が自覚し給へる所である。我等は茲に彼に於てイスラエルの教師の一人を見るのでない。律法と預言者に超越して之を成就する者を拝するのである。
〇第二に注意すべきは旧約聖書の権威である。「我れ誠に汝等に告げん、天地の尽きざる中に律法の一点一画も遂げつくさずして廃ることなし」とイエスは言ひ給うた。一の権威が他の権威を証明したのである。神の子が神の言を証《あかし》したのである。聖書は天壌と無窮を共にする書であると云ふ。果して然る乎。現代の所謂高等批評家は(336)此点に於てイエスと意見を異にする。天地丈け其れ丈け確実なる聖書! イエスの聖書は斯かる聖書であつた。我等の聖書は如何。
〇イエスは破壊者に非ず、建設者なり、建設者たるに止まらず、完成者なりと云ふのである。イエスは安息日を破りたるに非ず、|本当に〔付○圏点〕之を守り給うた。其他すべて然りである。律法を成就するとは文字通りに之を実行すると云ふ事ではない。|文字以上に〔付△圏点〕実行する事である。其の精神を体得して之を実現することである。語を代へて言ふならば、天に在す我等の父の完全きが如く完全くなる事である。そして愛は律法を完全すと云へば神に対し人に対し愛の人と成る事である。最高の程度に於て義を行ふ人と成る事である。律法を成就すると云ふ。実に人として懐き得る最大最高の欲望である。そして粛然として其実行を宣言せしイエスは人ではない、神の子である。
〇律法の成就を説明せん為に五箇の実例を挙げ給うた。十偕第六条の「殺す勿れ」、同第七条の「姦淫する勿れ」、之に加へて「偽の誓を立る勿れ」、「目にて目を償ひ歯にて歯を償へ」、「汝の隣を愛みて其敵を憾《うら》むべし」との在来の誡命の解釈説明是れである。勿論完全なる律法は之を以て尽きない。然し乍ら其の何たる乎を示すには之で充分である。新道徳の旧道徳に優るは、其箇条の多きに於てはない、其精神の徹底したるに於て在る。地球面上何れの地点より井《ゐど》を穿るも終に其中心に達するが如く、律法を何れの箇条より究むるも終に其中心たる愛に達せざるを得ない。山上之垂訓は|より〔付ごま圏点〕高き律法又は道徳ではない、律法の精神である。故に新しき誡である。之に律法を見んと欲してはならない、福音を探らなければならない。
〇殺す事勿れとは憎む事勿れと云ふ事である。憎む者は殺す者である。憎《にくみ》を去り之に代ふるに愛を以てするまでは殺す事は止まないとイエスは教へ給うたのである。
(337)〇姦淫する事勿れとは心に邪念を蔵《かく》す勿れと云ふ事である。婦(他人の妻)を見て色情を起す者は心の中に既に姦淫したる也との事である。即ち心を清くするにあらざれば、姦淫の罪を避くること能はずとの教である。〇神に祈るに方て誓を立る勿れと云ふ。然れど誠実の神に誓を立るの必要はない。|言葉丈けで充分である〔付△圏点〕。然り然り、否な否な、此より過ぐるは悪より出る也である。
〇悪に報ゆるに悪を以てすべしと云ふは誤りである。悪に敵する勿れ。悪人の要求はすべて之を納れよ。是れ悪に勝つ最善の道である。自己《おのれ》の所有《もちもの》に対し慾の絶ゆる時に悪に対する反抗心は無くなるのである。〇隣人は愛すべし敵人は憎むべしと云ふは足らず。|すべての人を愛すべし〔付○圏点〕。敵も亦隣人である。神の心を以て心とすべし。神は其日光を善者にも悪者にも照らし、雨を義しき者にも義しからざる者にも降せ給ふ。此心に成りてこそ我等は神の子と称へらるゝの資格を得たのである。|神は愛である。我等は愛の人と成りて神の〔付○圏点〕完全|きが如く完全く成ることが出来るのである〔付○圏点〕。
〇以上がイエスの教訓《をしへ》である。簡短明瞭である。問題は唯「是れ果して実行し得る乎」である。実行し得と云ふが一方の見方である。トルストイの如きがそれである。実行し得ずと云ふが他方の見方である。そして基督教国並に基督教会全体は此見方を取つて、実際上之を無視するに至つた。然し乍ら此はイエスの教訓であつて其弟子たる者の理想である。そして理想は何れの場合に於ても可能不可能を以て取捨すべき者でない。美術家は実現し得ないとて其理想を棄てない。失敗するに関せず之に向つて勇進する。基督者も亦然かすべしである。
〇そして可能不可能は|能力の問題〔付○圏点〕である。人としては為す能はざる事も神としては容易く為す事が出来る。「我れ汝を棄ず、我れ汝を助く」と神は言ひ給ふ。我は律法を成就せん為に来れりとキリストは曰ひ給うた。律法を(338)成就する者は彼である。我等彼の弱き弟子でない。彼は我等に在りて律法を成就する事が出来る。そして今日まで多くの信者がキリストに在りて自身為す能はざる事を為した。キリストは我等を単に責任者と見て、彼の此高遠なる誡命を実行し得ざる者は之を地獄に堕して永遠の刑罰に委ぬべしとは曰ひ給はない。「我を仰瞻よ而して救はれよ」と曰ひ給ふ。悪人にも日を照らし雨を降らす者が、今日直に彼の誡を実行し得ないとて我等を減しやう筈はない。
〇又神は我等の弱きを知り給ふ。又此世の罪の世なるを知り給ふ。道徳は相対的である。完全なる道徳は完全なる世に於てのみ行はる。罪の世に在りて罪の人と共に行ふ道徳は基督者の道徳と雖も不完全ならざるを得ない。
〇「是故に天に在す汝等の父の完全きが如く汝等も完全くすべし」とあるは「完全く成るべし」と訳すべきである。|命令ではない。未来の希望である〔付△圏点〕。神に依頼まば終には神の如くに完全き者と成して下さるとの御約束である。完全は今既に行はれつゝありてかの日に成就せらるゝのである。「汝等の心の中に善き工を始し者之を主イエスキリストの日までに全うすべしと我れ深く信ず」とのパウロの言を参考せよ(ピリピ書一章六節)。
〇信者は終に完全く成るべき能力を既に己が衷に蓄ふる者である。彼の完全は主イエスキリストに於て在る。イエスは信者の義また聖また贖、即ち完全である。彼が彼を信ぜし時に、彼は聖霊を賜はりて完全即ち全き救拯を約束せられたのである。故に彼はまだ完全の域に達しないが、日に日に完全に向つて進み行きつゝある者である。即ち彼はまだ実質的には完全でないが、信仰的には完全である。完全を望み、之に達するの能力を賜はり、そして日に日に完成せられつゝある者である。イエスは神の子にして天に在す彼の父が完全きが如く完全き者である。そして信仰を以て彼に繋がる信者は終に彼が完全きが如く完全ならざるを得ない。イエスは人より完全を要求し(339)給ひて、完全に達するの途を備へ給うた。彼は単の厳格なる立法者ではない。己が定め給ひし律法を行ふの途を備へ給ひし者である。
 
    第二十二回 隠れたる宗教 馬太伝六章一−十八節。
 
〇「汝等は世の光なり。山の上に建られたる城は隠るゝ事を得ず」とイエスは其弟子に曰ひ給うた(五章十四節)。同じイエスは又曰ひ給うた「汝等人に見せん為に其義しきを人の前に行す事を慎むべし」と。即ち隠るゝことを得ず、隠るべしとの事である。|父を世に示さん為には隠るゝ勿れ、自己を世に示さゞらん為に隠れよとの事である〔付ごま圏点〕。信仰に公的なると私的なるとの両面がある。隠れてはならない場合がある、隠れずばならない場合がある。隠るべからざる時に隠れて信仰は萎靡して振はず、隠るべき時に隠れずして信仰は放散して消失す。イエスは弟子等に信仰の此両面を示して其の健全を計り給うたのである。
○「義」は善行である。善行はすべて隠れて行ふべしとの事である。支那人の言葉を以て曰ふならば徳はすべて|隠徳〔付○圏点〕として施すべしとの事である。そして其事を説明せん為にイエスは茲に三ツの場合を摘示《てきし》し給うた。施済《ほどこし》(慈善)、祈祷、断食、是れである。施済は人に対する善行、祈祷は神に対する行為、断食は自己に対する行動でぁる。慈善、祈祷、断食と称して善行の全部を云ふことになる。そして孰れも隠れて為すべしとの事である。施済を為す時に右の手の為す事を左の手に知らせざる程秘密に為すべしとの事である。又祈る時には厳密《ひそか》なる室《へや》に入り戸を閉ぢて隠れたるに在す汝の父に祈るべしとの事である。復た断食する時には面を洗ひ首《かしら》に膏を塗り、汝の断食状態を人に見られざらん様に為すべしとの事である。即ち|善行はすべて善行と意識せずして為すべし〔付△圏点〕と(340)の事である。
〇善行の場合に於ても理想の場合に於けるが如く、「是れ果して行ひ得る乎」との問題が起る。而して我等は此問題に対しても他の問題に対するが如くに、「是れ人には能はざる所なり、然れど神には能はざる所なし」との主御自身の御言葉を以て答ふるのみである(馬太伝十九章廿六)。人は道徳的努力に由て此完全に達する事は出来ない。然し乍ら神よりキリストの霊即ち聖霊の恩賜に与りて斯かる心の状態に成る事が出来る。世には実際に右の手の為した事を左の手の知らざる慈善家がある。而して斯かる慈善家がキリストの霊に触れたことのない人の内に在る乎、是れ大なる疑問である。少くとも私自身はイエスの弟子以外に斯かる人に会うた事はない。如何なる形に於ても報賞を要求する慈善は慈善でない。唯為す事を喜ぶ慈善、其れが本当の慈善である。慈善は最大の贅沢である。そして世に贅沢に対し報賞を要求する者はない。そして慈善を贅沢にするまでには聖霊の力強き御働きを要する。先づ己が罪人の首なるを示され、又此罪を赦さるゝ途を示され、其上に更に信仰を賜はりて贖罪の恩恵を我有となし得るに至りて、我は初めて慈善を最上の贅沢として楽しみ得るに至るのである。徳でもない、義務でもない、グレースである。恩恵として始まり、優美に、深切に行はれ、行為其物に最大の報賞を認むる事、其事が基督者の善行である。コロムウエルが曰うた事がある「我れ既に神より沢山に給料の前払を受けたれば、何を為しても之を償ふ事は出来ない」と。そして此心に成りて何人も施済を為して之に対して何等の報賞をも求めざるに至る。イエスは我等に誡命を下して単に我等に其実行を迫り給はない。之を実行し得るの途を設け、又其途に歩むの力を下し給ふ。|イエスの誡命はすべて恩恵下賜の御約束として解すべきである〔付◎圏点〕。
〇今や善行は益々組織化又は制度化されて、隠れたる善の実行は益々稀れになった。薯行はすべて事業と成り(341)つゝある。慈善事業、伝道事業、社会事業、すべてが此類である。故にすべてが公的であつて、秘密的なるは益々尠くなつた。是れ能率を増す為であると云ふ。然し乍ら慈善は単に空腹を充たし、裸体を掩ふ為めばかりではない。寂寥を慰め、冷淡を温むるも亦慈善の目的である。然り其主なる目的である。|慈善は物を以てする愛の伝達である〔付○圏点〕。而して此目的を達せんが為には現代の社会事業としての慈善は甚だ微弱である。恰かも社会化されたる家庭の如くに、家庭が家庭でなくなるのである。斯く言ひて私は社会事業の不用を唱へない。之を補ふに旧式の施済を以てする必要を主張する。そしてすべての大慈善家は慈善家たる前に貧者の善き友人であつた。先づ善きサマリヤ人たるを得て、然る後に、善き慈善家又は社会改良家たり得るのである(路加伝十章廿五−卅七節を見よ)。
〇祈祷に就て曰はんに、世には祈祷専門の行者がある。又所謂「お祈りの上手なる」信者がある。祈祷は宗教に無くてはならぬ者、故に自づから信仰を言表はす機関として使用せらる。パリサイの人の祈祷の一例としてイエスの挙げ給ひし者に曰く「神よ我は他の人の如く強奪《うばひ》不義姦淫せず、亦此税吏の如くにも有らざるを謝す、我れ一週に二次《ふたゝび》断食し、又すべて獲たる者の十分の一を献げたり」と(路加伝十八章十一、十二節)。是れ神に対して為せる演説である。又感謝の辞を藉りて為せる自己賞讃である。そして今日教会に於て為さるゝ祈祷に之に類したる者が尠くない。善き祈祷を献ぐる事は決して容易い事でない。
〇すべての公的祈祷は決して偽書でない。多人数相会して共同の祈求《ねがひ》を神に献ぐる時に公的祈祷の必要がある。「天に在す我等の父よ」と云ふ。此任に当る者は熱誠を罩めて会衆を代表して祈るべきである。実に祭司の任に当るのであつて、彼に対して篤き同情と尊敬とを表すべきである。そして人は祭司の任に当りて大なる危険を冒(342)すのである。自己の信仰が職業化せられ、其職務が芸術化せらるゝの虞がある。誠に同情すべき地位である。彼の偽善を責むるよりも彼の為に祈るべきである。聖職に偽善多きは聖職其者のみの罪でない。
〇祈祷の幸福は独り神と相対する所に在る。又は二人三人主の名に由りて集まる所に在る。神と霊魂との関係は恋愛の言葉を以てするより他に之を説明《ときあか》すの言葉がない。「我が愛する者は我に属き、我は彼に属く、彼は百合花《ゆり》の中にてその群を牧ふ」とあるが如し(雅歌二章十六)。人間が綴りし文字の内で、其切なる事に於て、己に覚めし霊魂が其造主なる神を慕ふの情を言表はせし文字に勝るものはない。此点に於て如何なる恋愛文学も到底アウガスチン、パスカル、デビツド ブレナード等の祈祷の言葉に及ばないのである。神を本当に愛して偽善は全然不可能である。彼と相対して語る時に、厳密なる室に入り戸を閉て、隠れたるに在ます天の父に語るは当然である。「昧爽《よあけまへ》にイエス早く起き人なき所に往き其処にて祈祷《いのり》せり」とある(馬可伝一章卅五節)。祈祷せん為に朝早く起る価値がある。登山も之が為に為すべし、旅行も之が為に企つべし。|神と密会の場所〔付△圏点〕|を〔付▲圏点〕|選む〔付△圏点〕、是れ信仰養成の為の大要件である。河の畔、山の嶺、海の岸、孰も神と語るに宜し。幸にして人は社交を求めて都会に集合す。我等は此機を逸せず、僻陬人なき所に往き、天然を通うして天然の神と交はるべきである。天然も亦信者の祈祷を以て聖められて一層其美はしさを増すのである。
 附言〔ゴシック〕 「主の祈祷」はイエスが山上之垂訓の一部分として此処に弟子等に教へ給ひし者ではないと思ふ。路加伝十一章一節以下十三節までが彼が之を彼等に授け給ひし場合を記して明かである。馬太伝記者は祈祷に関する主の教訓を掲ぐる序に之を此所に記入したのであると思ふ。故に七節以下十五節までを除いて読て六章前半部の意味は明白になるのである。前の施済と後の断食に関する教訓は何れも「隠れたるに鑑《み》たまふ汝の父は明顕《あらは》に(343)報い給ふべし」との言を以て終つて居るを見れば、祈祷に関する教訓も亦同一の言を以て終ると見るが当然である。そして如斯くに見て一節以下十七節までが「汝等人に見られん為に其|義《たゞしき》を人の前に行ふ勿れ」との一定の教訓を伝ふる者であることが判明る。「主の祈祷」の尊きは言ふまでもない。然し之は之として別に研究すべきである。此はまことに基督者の祈祷の模型《かた》である。自己の為に祈るに非ずして神の為に祈るのである。故に必ず聴かるゝのである。
 
    第二十三回 空の鳥と野の百合花 馬太伝六章一九−三四節 路加伝十二章一三−三四節
 
〇十九−廿一節。此世に絶対的安全はない。金庫製造術は如何に進歩せるも、之を破るの術も亦同時に進歩した。アセチリン瓦斯を使用して鋼鉄を切ること洋刀を以て蝋を切る丈け容易である。銀行制度は如何に完備せるも、銀行破綻は決して珍らしい事ではない。殊に独露の場合の如く国家其物が破産する場合には蓄財は国家と共に消滅する。此世其物が甚だ危険なる者である。之に我が生命財産を託して我は不安ならざらんと欲するも得ない。然れども物は移り世は変れども動かぬは天国である。我等は絶対的に安全なる天国に我が財貨《たから》を積みてのみ絶対的に安全なることが出来る。死は近し。岩崎も安田も其積める鉅万の富を遺し、自身は一銭をも運び得ずして此世を去つた。故にイエスは教へ給うた 「我れ汝等に告げん、不義の財を以て己が友を得よ、此は乏しからん時彼等汝等を永遠の宅《すまひ》に接《むか》へんが為なり」と(路加伝十六章九節)。我等は勿論慈善を以て天国を購ふ事は出来ない。天国は神の子が其血を以て購ひ給ひし者であつて、我等は信仰に由りて之を彼より授かるより他に途がない。然れども天国に入るに空手にて入ると、貯蓄《たくはへ》を持つて往くとの別がある。彼所に我等を接ふる者あると無きとの別(344)がある。|天国の財貨とは救はれし霊魂である〔付○圏点〕、拭はれし涙である。我等は天国に入るに信仰が要る。天国を楽しむに善行が要る。財の在る所に心が在る。何故にもつと組織的に、一生懸命に来世の事を研究し、其幸福を得ん為に計画し又努力せざる乎。伝道会社設立の如き、其点から見て必要でない乎。
〇廿二、廿三節。身の光は眼なり。身の明るきも暗きも眼如何に依る。霊魂も亦同じである。若し中なる光、即ち霊魂の眼が暗らからば、其暗らきこと肉眼の暗らきに此ぶべくもない。|人生を如何に見る乎〔付○圏点〕、何人に取りても之に勝さりて大切なる問題はない。利慾の眼を以て見る乎、正義の眼を以て見る乎、信仰の眼を以て見る乎。見る眼に由て宇宙人生は一変する。哲学宗教の必要は茲に在る。其目的は人に瞭なる善き眼を供するにある。其意味に於て、人は何人も生れながらにして瞽《めしい》である。彼はキリストに眼を開かれて初めて見る事を得るのである。約翰伝第九章を見よ。
〇廿四節。健全なる瞭なる眼は単純なる眼である。希臘語の haplous《ハプルース》は此意味である。「若し汝の眼単純にして、単一の目的に向つて注がるゝならば」と訳することが出来る。英訳の If thine eye be single を参考せよ。瞭なる善き眼は単純の眼であつて、暗らき悪しき眼は不純なる複雑なる眼である。即ち両つ或は両つ以上の目的に向つて注がるゝ眼である。かるが故に人は二人の主に事ふること能はずである。神と財(財神《マムモン》)とに兼ね事ふる能はずである。若し事へんと欲するならば彼の眼は暗らくなる。所謂「慾に晦《くらま》されて」其身を誤まる。天国にも往きたし、金も欲しいと云ふ。是れ二夫に見ゆるの女、二君に事ふる士の意《こゝろ》である。神は何よりも弐心《ふたごゝろ》を嫌ひ給ふ。彼れ御自身が単純であり給ふが故に、彼に父とし事ふる者の単純なるを要求し給ふ。然るに事実は如何?
〇廿五節。「是故に……思ひ煩ふ勿れ」。地上の万事尽く不安にして、神のみ惟《ひと》り信《たよ》るべき者なれば、汝等思ひ(345)煩ふ勿れとの事である。全く思ふ勿れとは言ひ給はず、思ひ煩ふ勿れと言ひ給ふ。「思ひ煩ふ勿れ」と三十一節までに三度繰返して言ひ給ふ。腓立比書四章六節「何事をも思ひ煩ふ勿れ云々」のパウロの言を参考せよ。原語の merimnao は意を分つ、心を配る、心配するの意味である。何を食ひ何を衣んとて汝の意を、地と天と、財と神との間に分つ勿れとの事である。神が助け護り給ふ事は確実《たしか》である、生命が神より出たる事は確実である。之を養ふ為の糧を賜はざらんや。神が身体を護り給ふは確実である。之を被ふ為の衣を賜はざらんや。既に|より〔付ごま圏点〕大なる生命と身体とを賜へる者が、争で|より〔付ごま圏点〕小なる賜物を賜はざらんや。「衣食は人間の附物である」との諺を信仰的に言表はしたる言である。
〇廿六節。「汝等空の鳥を見よ」。路加伝には「鴉を見よ」とある(十二章二四節)。最も普通にして卑めらるゝ鳥なるが故に、特に之を選んで言ひ給うたのであらう。鴉は稼《まか》ず穡《から》ず倉をも納屋をも有せず、然れども汝等の天の父は之を養ひ給へり、況して汝等をやと。此は鴉に傚ひて耕す勿れ蓄ふる勿れといふ意ではない。之に傚ひて|思ひ煩ふ〔付△圏点〕勿れとの意である。鳥に夫々本能あるが如く人にも亦それがある。耕作と貯蔵は人の本能である。而して鳥が其本能に循ひて思ひ煩はざるが如くに、人も亦其本能に循ひて思ひ煩つてはならない。そして人は神の命に循つて決して食物に不足しない。南洋諸島並に南米諸国に於ては今日と雖も食物問題なるものはない。そして欧米諸国に於ても食物問題は大戦争を以て始つたのである。日本に於ても平和主義を執り、酒と煙草とを廃止するならば今日直に国民に有り余るの食物を供給する事が出来る。そしそ個人と雖も大抵の場合に於て食物に欠乏する事はない。殊に福音の為に働いて日本の如き基督教反対の国に於てすら、神は其僕婢をして饑えしめ給はない事を私自身が実験した。
(346)〇廿八節。衣の事に関しても亦同じである。イエスは此時春の小山に於て遥にヘルモン山を望み、足下にガリラヤの湖を瞰下ながら教を垂れ給ひつゝあつたのである。そして谷となく丘となくパレスチナの春の野に咲乱れつゝありしアネモネ、学名 Anemone coronaria を指して、或は其一輪を手に取りて此美はしき教を述べ給うたのであらう。大王ソロモンが其栄華の極みの時に装ひたりと云ふは、昔の王衣たる緋の外袍であつたらう。其の染料は海螺《うみたにし》の一種より取りたるフイニシヤ国持産の色素であつて、当時世界に鳴渡りたる者であつた。而かもイエスは曰ひ給うたのである。人工の極を尽したる大王ソロモンが玉座に即きし時の服装も、此アネモネの花の一輪に及ばなかつたと。イエスは誠に天然を見るの眼を有し給うた。彼は野草を見上げて大王を見下げ給うた。そしてイエスの眼は誤らなかつたのである。我等今日の天然学者は顕微鏡下にアネモネの一輪を置いてイエスの此言の真理なるを証明するのである。
〇「今日野に在りて明日炉に投入れらるゝ」と云ふ。克く所謂「地中海沿岸地方」の天然を語りたる言である。彼得前書一章二四節「それ人は既に草の如く、共栄は凡て草の花の如し、草は枯れ其花は落つ」を参考せよ。聖書の此言を心に蔵《かく》して三越又は白木屋に行けよ。イエスや使徒等を待たずして路傍の野草が此世の流行男女を辱かしむるであらう。外を飾る者は大抵は内に浅い者である。内なる美に憧憬るゝ時に人は自づと外に質素に成る。野のアネモネにソロモンの栄華以上の美を認め給ひしイエスは御自身人類の王であつた。王の臣下が王以上の生活《くらし》を為すは恥辱である。イエスは御自身簡易生活を営み給ひて其の神の子に最も相応はしき者なる事を教へ給うた。 〔以上、大正12・7・10〕
 
(347)    第二十四回 基督信者の簡易生活 馬太伝六章十九節以下の再研究
 
〇イエスの垂訓に対し反対を試みて試み得られない事はない。先づ第一に鳥は稼くことなく、穡ることを為さず倉に蓄ふることなしと云ふがそれは必しも事実でない。成程烏や雀は蓄へないが、蓄ふる鳥はないではない。伯労《もづ》は蛙の干物を作りて之を保存する。梟も亦其巣に食物を貯ふると云ひ、米国産の啄木鳥に其彫りし木の洞《うろ》の内に橡実《どんぐり》の類を蓄ふる者ありと云ふ。其他カケス、ヒガラ、ゴジフガラの類に貯蓄性の発達してゐる事は鳥類学者の伝ふる所である。殊に又鳥類全体に貯蓄性の乏しきは之に飛翔機が供へてあるからである。鳥類に移転力が在る故に彼等に一定の場合に食物を蓄ふるの必要がない。故に人に鳥に傚へと云ふは無理であると云ふ事が出来る。然し乍ら是れ垂訓の主意を解せざるより出る反対である。|主意は貯蓄に於て在るのではない。思煩ひ即ち心配に於て在るのである〔付△圏点〕。用意貯蔵の必要に就ては、イエスは箴言第六章に於けるソロモンの言を忘れ給はなかつた。曰く
  惰者よ蟻に行き其為す所を観て智慧を得よ。蟻は首領《かしら》なく有司《つかさ》なく君主《きみ》なけれども夏の中に食を供へ、収穫《かりいれ》の時は糧を斂む。惰者よ汝何れの時まで臥息むや、何れの時まで睡りて起きざるや。……然らば汝の貧窮は盗人の如く来り、汝の欠乏《ともしき》は兵士《つはもの》の如く来るべし
と。神の嫌ひ給ふ事にして浪費濫用の如きはない。余る物を貯へて後日の用に供す、此は決して悪い事ではない。但し貯蓄は神を信ぜざるより起る将来を慮る心より出るものであつてはならない。「た|め〔付△圏点〕る」のではなくして「た|ま〔付△圏点〕る」のでなくてはならない。「少しも廃《うしな》はざるやうに其の余りの屑を拾集めよ」とのイエスの言に従ひて(348)行ふものでなくてはならぬ(約翰伝六章十二節)。世には高貴なる貯蓄があるのである。
〇「誰か能く思ひ煩ひて其生命を寸陰も延べ得んや」とは果して事実なる乎。人は衛生養生に由て其生命を延す事が出来るではない乎。人の命数に定限があると云ふならば、彼は向ふ見ずになつて死を早むるではない乎と。イエスの此言が文字通りに真理である乎否やを定むる事は出来ない。然し乍ら其身を神に委ねし信者は神の聖旨以上に生きもせず又それ以内に死にもしない事を知る。「二羽の雀は一銭にて售るに非ずや、然るに汝等の父の許しなくして其一羽も地に隕ることなし……故に懼るゝ勿れ汝等は多くの雀よりも勝れり」とのイエスの言は克く信者の確信を語る者である(馬太伝十章廿九、卅一)。此確信ありてこそ彼に真の勇気が起るのである。「人は其天職を終るまでは不滅であるが如くに見ゆ」とのリビングストンの言を参考せよ。何も科学的に一分一秒も延ばすことが出釆ないと云ふのではない。実際的に人の生命は、|殊に信者の生命は〔付○圏点〕、神の御手に於て在るのである。然ればとて信者が衛生を怠らないは云ふまでもない。誠に真の衛生思想は福音が信ぜらるる所に起る。〇以上を述べた後に、「野の百合花は労めず紡がず」に就て語る必要はない。|要するにイエスは弟子等に簡易生活を勧め給うたのである〔付○圏点〕。チャールス・ワグナーが其名著『簡易生活《シムプルライフ》』を以て近代人に此生活を鼓吹せし前に、イエスは更に深い意味に於ての簡易生活を示し給うたのである。そしてイエスのみならず、すべての偉大なる人たちは簡易生活の実行者又唱道者であつた。ソクラテス、スピノーザ、ワーヅワス(低き生活と高き思想)、トロー(ワルデン湖畔の生活)、ニコライ、孰れも簡易生活の人達であつた。誠に簡易生活は偉大の特徴の一である。人は衷に足りて外に簡略ならざるを得ない。大思想にあらざれば大希望、是れありて其余の事は如何でも可のである。文明の進歩と唱へて生活の益々複雑になるは決して真の進歩でない。複雑なる近代生活の内に懼るべき革(349)命と之に伴ふ破滅が孕まれて居る。単に生存競争の立場より見るも、簡易生活の民が常に複雑生活の民に勝ち、之に代り来つたのである。若し我等の信仰が我等の生活を簡易にしないならば、此は偽りの信仰であると云ひて間違はない。
〇然しイエスは単に慾を減じて生活を簡易にせよと曰ひて、消極的簡易生活を教へ給はなかつた。彼は曰ひ給うた「汝等先づ神の国と其(神の)義とを求めよ。然らば此等のものは皆な汝等に加へらるべし」と。此は簡易生活の原理を説いて其働きを示す言である。即ち積極的簡易生活と称すべき者である。簡易にも程度がある。帝王の簡易生活は平民のそれとは違ふ。労働者の簡易生活を以て学者に迫ることは出来ない。簡易生活は外側の問題でない、内心の問題である。簡易生活に標準はない。然し之を支配するの原理がある。そしてイエスの此言がそれである。
〇神の国と其義とを目的として生活は自と簡易になるのである。即ち見る眼を瞭かにして、即ち単純にして、生活は自づから単純即ち簡易ならざるを得ないのである。人生は一種の込入りたる機械である。之を各部別々に運転せんと欲して複雑を極む。然れども動力を其中枢に注集して、全部が簡単容易に運転する。全注意を神の国と其義とに払うて人生の機械も亦円滑無碍に運転する。イエス御自身の御生涯が此意味に於て簡単円満であつた。そして此意味に於て彼の忠実なる弟子等の生涯が単純であつた。アルフレツド大王は基督的国王《クリスチヤンキング》として簡易生活を営んだ。哲学者カントは基督的哲学者として簡易生涯を送つた。或は芸術家として、或る特別の場合に於ては俳優としてさへも、基督者は簡易生活を送るを常例とする。|神の為の〔付△圏点〕政治、|神の為の〔付△圏点〕学問、|神の為の〔付△圏点〕芸術、|神の為の〔付△圏点〕すべての事業……簡単ならざらんと欲するも得ない。外を簡単にせんと努めて無理がある。時には偽善が生(350)ずる。然れども内を簡単にして万事が調和的に簡単になる。そして此簡単は又単調にならない。無限の変化の内に美はしき一致を維持する。即ち自由なる生命の進化発達である。
〇「神の国と其義とを求めよ、然らば此等のものは皆な汝等に加へらるべし」と云ふ。生活上の必要物は信者が自から進んで求むべきものではない。異邦人即ち不信者は爾か為すが信者は爾か為してはならない。此等はすべて神より信者に加へられべきものである。自から求めざるに神より賜はるべきものである。斯くて信者に生活難又は生存競争はない筈である。そしてすべて真の神に頼りし者は生活上の此安定を実験した。独逸ピーチスト派祖先の一人なる A・H・フランク、彼に傚ひし英国のジョージ・ムラー、支那内地伝道の創立者ハドソン・テーラー等は皆な著しき程度に於て此真理を実験した。ヱホバヱレー、神は備へ給ふ。生活問題に心を配ばるに及ばない。只神の国と其義とを求めて、此問題は自然に解決せらる。
〇そして之は決して個人に限る事でない。国家に取り社会に取り亦同様である。国が神と其義とを求むる間は其国は物質的にも栄ゆる。是を求めずして彼を求める時には、窮乏は早かれ遅かれ必ず之に臨む。是は旧い経済学であるが誤らない経済学である。我国に於ては二宮尊徳、佐藤信淵等に由て唱へられたる経済論であつて万世不易の真理である。宗教道徳の上に立ざる経済学は砂上に建たる家である。和蘭、英国、米国が今日の繁栄に達したのも此理由に依る。国民が何を信ずる乎は経済学的に考へて決して小問題でない。実に最大問題である。アルゼンチン共和国大統領の一人が嘗て彼国駐在の米国公使に曰うた事がある。曰く「貴国の建設者は神を求めて米大陸に来た。然るに弊国の建設者は金を求めて此地に来た。貴国と弊国との間に経済的に今日の懸隔あるは之が為である」と。実に其通りである。神を求むる者は終に金を加へられ、金を求むる者は終に之をも失ふ。(351)神と金、日本人は今何れを求めつゝある乎。神の福音は無くとも可し、只我等に富を与へよと其識者と称する者さへ叫びつゝある。識者にして尚ほ且つ然り、まして一般の民衆の心の如何に低きかは想像するにあまりある。日本の将来に寒心すべき者がある。
 
    第二十五回 審く勿れ 馬太伝七章一−五節。路加伝六章三七、三八節。
 
〇大体の意味は明白である。然し乍ら明白なるが故に誤解され易くある、又無視され易くある。之を文字通りに解して如何なる審判をも行はざる人がある。又実行不可能の教訓と解して自由に之に反く人がある。聖書の言を前後の関係より離して読んで其意味を取違へ、其目的を誤り易くある。
〇第一節。「汝等審く勿れ、審かれざらん為なり」と云ふ。「審く」とは広い詞である。批評、批判、判断、審査、鑑定、孰れも「審く」である。そして「審く勿れ」を文字通りに解して以上孰れにも従事する事が出来なくなる。斯くして法律上の裁判を初めとして、文学美術上の批評、道徳上善悪の判別までが罪悪視せらるゝに至る。誠に若し審いて悪いならば、人類の進歩改善は直に止るのである。哲学は知能の審きであり、道徳は行為の審きであり、宗教は心の審きである。我等は常に審き又審かれつゝあるのである。そして進歩しつゝ又救はれつゝあるのである。所謂「批評の火」の燃えざる所に生命も進歩もないのである。
〇然れども我等が為してならぬ審きがある。それは|自から神の座に上りて人を罪に定める事である〔付△圏点〕。希臘語の katakrinein《カタクリナン》英語の condemnation《コンデムネーシヨン》の意味に於ての審きである。是は神の権能に属する事、人の為してはならぬ事、又為すことの出来ない事である。即ち人の意志を審き、或は神の人として救拯に定め、或は罪の人として滅亡《ほろび》に(352)定むる事である。而かも是れパリサイの人の為した事、又多くの宗教家の為す事であつて、|特に宗教家の陥り易き罪である〔付△圏点〕。此種類の人に対してパウロは曰うた「汝何人なれば他人の僕を審判《さばき》するか、彼の或は立ち或は倒るゝは其主に由る、彼れ又必ず立られん、神は能く之を立得れば也」と(羅馬書十四章四節)。使徒ヤコブも亦曰うた「律法を立、人を議する(審判く)者は惟一なり。彼は救ふこと滅すことを為し得る也、汝何人なれば隣を議する(審判く)乎」と(雅各書四章十二節)。人は何人も「他人の僕」即ち神の属である。故に神以外の者が彼を罪に定めてはならない。
〇第二節。審く如くに審かれる。人世に於ても亦此の如し。世に天罰なる者がある。己に出て己に帰る。人世は己が反射鏡である。赦す者を赦し、赦さゞる者を赦さず。ルカはイエスの此言を此意味に解した(路加伝六章三八節)。然し乍ら世の反響は不完全である。又不公平である。神は然らず、神は希臘人のネメシス以上の報復の神である。ダビデが歌ひし如くである。曰く「矜恤ある者には汝矜恤ある者の如くし、完全き者には完全き者の如くし、潔き者には汝潔き者の如くし、邪曲《まがれ》る者には汝厳しき者の如くし給ふ」と(サムエル後書廿二章二五節)。或る意味に於て人は己の如くに神を化《かへ》ることが出来る。慈愛の神ともなす事が出来る。残酷の神とも為すことが出来る。「矜恤は審判に勝つなり」とありて、他に対する矜恤の行為に依て神の己に対する審判を翻す事が出来る。誠に有難い事である。
〇第三、四節。塵と訳されし希臘語の karphoos は木層又は木片《こつば》とも訳する事が出来ると云ふ。然し意味は大同小異である。そして人は何人も自己に醒めて、先づ第一に自己の罪の大なるを知る。他の罪は個々に之を見るのであつて木片たるに過ぎない。然れども己の罪は塊として見ゆるが故に梁木《うつばり》である。客観的に見る他人の罪と、(353)主観的に見る自己の罪との間に此別あるは当然である。パウロが己を称して「罪人の首」なりと云ひしは決して偽りの謙遜ではない。すべての義しき人は最も多く己の罪に就て知る。故に他人の罪を審くの興味を感じない。自分は罪人の首、今は恩恵に由りて神の子と称せらる、然れども赦されたる罪人たるに過ぎない。故に人を罪に定むるの資格は絶対にない。バンヤンが刑場に牽かるゝ罪人を見て「若し神の恩恵に依るにあらざれば、彼所に性く者はジヨン・バンヤンなり」と云うたとの事は克く基督信者の実験を語る者である。
〇第五節「偽善者《ヒポクリテース》」。「仮面を被る者」、俳優の意である。舞台の上に神の人を演ずる者である。即ち他を審いて己が完全を装ひながら、自分は罪に満ちて審く資格毛頭なき者である。「噫汝等禍ひなる哉偽善なる学者とパリサイの人よ、汝等は白く塗たる墓に似たり、外は美しく見えれども内は骸骨と諸《さまざま》の汚穢にて充つ」とイエスは後に言ひて偽善者の何たる乎を明かにし給うた(馬太廿三章二七節)。彼は山上の垂訓を述べ給ひし時に眼中既にパリサイの人を置いて、彼等に対して此言を発し給うたのではあるまい乎。「先づ己の目より梁木を取れ」と云ふ。「取りて試よ」である。而して取る能はずして神に還り、彼に由て取除かれて、而して後初めて兄弟の目より木片を取り得るよう明かに見るべしとの事であらう。謂ふ意は|罪を赦されたる者のみが正当に罪を審く事が出来る〔付○圏点〕との事である。信者がキリストと偕に世を審くとか、十二使徒がイスラヱルの十二の支派を審くとか云ふは此意味に於てゞあるに相違ない。矜恤|を受けたる者が矜恤ある者と偕に世を審くと云ふ〔付○圏点〕。キリストの審判たる者の、此世の裁判官や、教会の役員たちの施す審判と如何に異なる者なる乎は此一事に由て解る。
〇我等は人として又基督者として審きを絶対に辞する事は出来ない。然し乍ら我等は第一に審きを好まない。第二に審かざるを得ざる場合に於ては己も亦審かるゝ者として審く。故に無慈悲なる審きを為さゞるやうに努むる。(354)第三に人を罪に定めない、即ち最後の裁判を下さない。人の下す裁判はすべて仮定的であらねばならぬ。最後の裁判は神がキリストを以て下し給ふ。「夫れ審判は神イエスキリストを以て人の隠微《かくれ》たる事を鞫かん日に成るべし」とあるが如し(羅馬書二章十六節)。何れにしろ審きは慎むべきは言ふまでもない。批評、評判、悪口、陰口は縦し審きにあらずとするも、之に近き者である。プロテスタント教が所謂個人的判断を許した結果として信者相互を自由に批判するに至り、今日の教会内の冷酷、暗闘、紛争を引致するに至りしは明白なる事実である。
〇「審く勿れ、審かれざらん為なり」とは未来の裁判を示されて神より降る訓誡である。「審く勿れ、審くこと能はざれば也」とは自分の判断力に限りあるを知て自から覚る真理である。深きは人の個性である。「各自の衷の意と心とは深し」と詩篇六十四篇六節に在るが如し。又遺伝の無限に複雑なるあり。人一人を完全に知り得る智者も学者もあることなし。人物批評にして当れる者一もあるなし。批評は批評家自身の告白たるに過ず。人は人を審かんとして不可能を企つるのである。〇審きは教会特有の罪である。人が人を審く時に聖霊は彼を去り給ふ。信仰を冷却する者にして審判並に之に近き人物批評の如きはない。学者とパリサイの人とがイエスを評して「此人は鬼の王《かしら》ベルゼブルを役ふに非れば鬼を逐出すことなし」と云ひしに対し、彼は彼等に告げて曰ひ給うた「人々の凡て犯す所の罪と神を涜すことは赦されん、然れど人々の聖霊を涜す(罵る)ことは赦さるべからず」と(馬太伝十二章二十四節以下)。之に依て観るに、恐るべき聖霊を涜すの罪は人を審く罪の一種である事が判明る。其れが如何なる程度に達して此罪となる乎は知る能はずと雖も、すべて人を審くの罪は之に類する罪である事は明かである。縦し絶対的に赦されざる罪でないとしても、神が非常に之を嫌ひ給ひ、此罪を犯す人と教会とより聖霊を取り去り給ふ事は事実である。多く(355)の場合に於て教会衰退の原因が茲に在る事は確かである。我等が兄弟を議する事を廃むるにあらざれば聖霊は再び我等に還り給はない。米国に於ける急激の信仰墜落の如き、其原因は国を挙げて敵国独逸=実は信仰上の兄弟国=を審きし事に在るのであるまい乎。戦争中に於ける米国の独逸に対する憎悪と悪口とは、実に激烈の極と云ふべきものであつた。何れにしろ人を審くは審く人に取り危険極まる罪である。而かも教会の教師も信者も自由勝手に此罪を犯すのである。私が教会を避けるのは之が為である。私が此のパリサイの麪酵《おあんだね》に化せられざらんが為である。
 
    第二十六回 豚に真珠 馬太伝七章六節。
 
○審く勿れ、覚大なれ、神が汝を扱ひ絵ふが如くに他を扱ふべし。然れども人に由て善を行ふべし。鴿の如く馴良《おとなし》かれ、同時に又蛇の如く智くあれ(十章十六節)。犬に聖き物を与へざるやう、また豚の前に真珠を投げざるやう慎むべしと云ふのが此教訓である。
〇此一節は左の如くに排列して読むべし。
  犬に聖物を与ふる勿れ、
   又豚の前に真珠を投与ふる勿れ、
   恐らくは足にて践み、
  振返りて汝等を噬破《かみやぶ》らん。
足にて践みつけるのは豚である。噬破るのは犬である。パレスチナ地方の犬の情性を克く語つて誤らざる言であ(356)る。「猫に小判」と云ふが如くに豚に真珠である。然れども野犬よりも悪しき東方の犬は聖物の自己に用なきを見るや、振返りて之を与へし者に噬つくのである。言ふ意は不当の慈善を行ふべからずとの事である。人を見て法を説くが如くに、人を見て善を行ふべしとの教訓である。
〇聖物とは神の道である。真珠とはキリストの福音である。「天国に好き真珠を求めんとする商人の如し一つの値高き真珠を見出さばその所有を尽く売りて之を買ふなり」とある真珠の宝玉である(馬太伝十三章四五、四六節)。之に対して豚は慾に支配されたる肉の人を指して謂ふのであらう。そして犬は豚よりも更らに悪しき者であつて、|背教者即ち堕落信者〔付△圏点〕と解すべきであらう。豚は聖物の価値を知らざる者、即ち此世の俗人である。犬は福音を忌嫌ふ者即ち堕落信者である。豚は践みつけ、犬は怒る。二者の間に明白なる程度の差別がある。
〇豚は賤しき穢れたる動物である、故に之を避くべしと雖も憎むべきでない。故に聖書は豚を以て悪人を言表はさない。「美はしき婦の謹慎なきは金の環の豚の鼻にあるが如し」と云ひてヒユーモーを以て語る(箴言十一章廿二節)。犬に就ては然らず。犬は偽善者である、背教者である。悪と知りつゝ之を行ふ者、善と知りつゝ之を棄る者である。「汝等犬を慎めよ、悪を行ふ者を慎めよ、割礼を行ふ者を慎めよ」とパウロは叫んだ(腓立比書三章二節)。又「犬は城《まち》の外に居るなり」とありて聖き城なる新しきヱルサレムに偽りの聖者の入る能はざる事が示されてある(黙示録廿二章十五)。豚は肉の罪人を、犬は意志の罪人を代表する。罪人に此二種あるは明かである。
〇人を称《よぶ》に獣の名を以てするは悪しき習慣である。イエスが茲に此言を発し給ひたればとて我等は彼に傚うてはならない。父より審判を委ねられ給ひし彼と、審判かるべき我等との間に大なる差別がなくてはならない。そしてイエスは又茲に殊更に人を称ぶに獣の名を以てし給うたのではない。之は多分当時民間に普通用ひられし諺(357)であつて、イエスは其儘を取つて一の大切なる真理を教へ給うたのであると思ふ。恰も我国に於て「猫に小判を与ふる勿れ」と言ひたればとて、悪しき感じを惹起さないと同然である。イエスが人を呼ぶに獣の名を以てし給ひし事は唯一回ある。それはパリサイの人々曾て来りて「ヘロデ王汝を殺さんとす」と曰ひて威嚇せし時に彼は答へて曰ひ給うた「汝等往きて其狐に告げよ云々」と。然し之には深き理由があつた。茲には之を言はない。唯イエスに取つて大胆極まる言であつた事だけは何人にも判明る。(路加伝十三章三十一節以下)。
〇然し用語の問題ではない、事実の問題である。そして世には豚と犬とを以て代表されたる人のある事は事実である。そして肉の人に神の道を説けば践つけられ、一たび信仰に入りて後に之を棄てし人に福音を語れば、其忌み嫌ひ、罵詈讒謗する所となるも亦事実である。福音は人を救ふの能力であるが故に何人にも説くべしであると云ふは誤りである。|福音を説くに人を択まねばならぬ〔付△圏点〕。豚の前に真珠を与ふれば其践附ける所となる。豚に何の益を与へず、真珠は損はれる。其如く、真理の価値を弁へ難き人に真理を説けば、人は之が為に悟らず、真理は之が為に蔑視まる。犬に至ては更に甚だしきものがある。犬は聖物を践附けるに止まらない、之れを蹴る、呪ふ。|福音を嫌ふ者にして背教者の如きはない〔付△圏点〕。彼等は之を聞かされて己を審判かるゝが如くに感ずる。使徒べテロは其状態に就て書記して言うた、
  彼等もし我等の救主イエスキリストを識るに因りて世の汚を脱れ、また之に累《まとは》れて勝たるゝ時は、其後の状態《ありさま》は前に愈りて更に悪しかるべし。彼等義の道を識りて尚ほその伝へられし所の聖き誡命を棄んよりは、寧ろ義の道を識らざるを美とす。犬返り来りて其吐きたる物を食ひ、豚洗ひ潔められてまた泥の中に臥すと云へる諺は真にして彼等に応へり(彼得後書二章廿節以下)。
(358)と。強い言葉ではあるが、その事実なるを如何せんである。
〇人を択まずして為せる伝道、是が今日の教勢衰退を持来せし重なる原因の一である。ニイチエが「基督教は凡の物の内で最も悪しきものである」と断言せしは此理由に依るのである。基督教を無能ならしむる者にして所謂 promiscuous preaching |見さかい〔付ごま圏点〕なき、|やたら〔付ごま圏点〕の伝道の如きはない。福音は神のものである。故に大切に扱ふべき者である。之を安売りしてはならない。俗人、悪人、背教者の侮蔑、嘲弄に曝してはならない。昔のイスラエル人が神の契約の櫃《はこ》を扱ひしが如くに、敬虔《つゝしみ》と恐惶《おそれおのゝき》とを以て扱はなければならない。斯く云ひて我等は不信者と背教者とを憎みて彼等を罪に定むるのではない。彼等は彼等として愛し、時と機会とを見て彼等を教へ導くべきである。我等は殊更に犬と呼んで彼等を斥けず豚と呼んで彼等を賤しめない。唯神が我等に為し給ひしやうに彼等に為さんと欲する。即ち我等自身が犬たる時に、又豚たりし時に、我等を憐みて、機に叶ひて我等を導き給ひしやうに、我等も亦彼等相当の途に従ひ真理より真理へと、恩恵より恩恵へと、彼等の手引きたらんと欲す。
〇そしてイエス御自身が与ふべき場合には犬に聖物《きよきもの》を与へて惜み給はなかつた。彼がツロとシドンの地に往き給ひし時に、異邦カナンの婦の一人が来りて、彼女の女子《むすめ》の鬼に憑れたる者を癒さんことを願うた。然るに彼は彼女の願を斥けて曰ひ給うた「イスラエルの家の迷へる羊の外に我は遣はされず。……児女《こども》のパンを取りて犬に投与ふるは宜しからず」と。之に対し婦は答へて曰うた「主よ、然れど犬もその主人の膳より落る屑を食ふなり」と。イエスは此信仰と謙遜とに対し恩恵の蔵の戸を開かずには居られなかつた。彼は答へて曰ひ給うた「婦よ汝の信仰は大なり、汝が願ふが如くに汝に成るべし」と。そして其時より彼女の女は癒たりとある(馬太伝十五章(359)廿一−廿八節)。犬と呼ばれ豚といはるゝも人は人である。彼の内には霊魂のあるありて彼にも亦恩恵を受くるの資格の与へらるゝ場合がある。此場合に遭うて我等は傲然起て彼等に対し永久の呪ひを宣告してはならない。但しイエスに傚ひ|犬には犬たるを自覚せしめて〔付ごま圏点〕然る後に聖物を授与すべきである。
〇然れども最も扱ひ難きは茲に犬と呼ばれし背教者である。彼等は背教を以て誇りとし、今は真珠以上の宝石を握れりと自信する。彼等は反て信者を憐み、我等を誨へんとして我等に教へられんとしない。何れの宗教に於ても其宗教の最大の敵は其背教者である。人あり曾てモハメツトに問うて曰うた「神の最も好み給ふ者は何である乎」と、答へて曰うた「悔改たる罪人なり」と。更に又問うて曰うた「神の最も嫌ひ給ふ者は何である乎」と、答へて曰うた「背教者なり」と。そして欧米諸国に於て多くの背教者が出たのみならず、我国に於ても亦既に多くの背教者を出した。多くの学士、博士、高等官、所謂民間の敏腕家は神の最も嫌ひ給ふ背教者である。我等は彼等を憎まない。時に彼等の為に祈る。然れども彼等に復び福音を説かない。彼等を彼等が選みし不信に委ぬる。そして不信の必然の結果たる耐え難き寂寥が彼等を再び父の懐に追返す其時を待つ。 〔以上、大正12・8・10〕
 
    第二十七回 黄金律 馬太伝七章七−十二節。路加伝六章 一節。同十一章五−十三節。
 
〇第七、八節。「求めよ、然らば与へられん。尋ねよ、然らば見出さん。門を叩けよ、然らば開かれん。そはすべて求むる者は得、尋ねる者は見出し、門を叩く者は開かるべければ也」。求めて得ざれば尋ねよ、尋ねて得ざれば叩けよと云ひて、イエスは茲に「人の恒に祈祷して沮喪《きをおと》すまじき」事を教へ給うたのである(路加伝十八章(360)一節以下参考)。然し此は何人が何物を求めても与へらるべしとの事ではない。後節に云へるが如く、子が父に対する態度を以て善物を求むる時に之を与へらるべしとの教である。我等は第一に善物の何たる乎を知るべきである。而して後に弛《たゆ》まざる熱心を以て之を祈り求むべきである。路加伝十一章十三節の「天に在す汝等の父は求むる者に|聖霊〔付○圏点〕を予へざらん乎」とあるに注意すべし。聖霊が人が神に求むべき至上善である。
〇第九、十節。鳥獣且つ恩を知る、況んや人に於てをやと云ふ。人ですら其子に善き物を与ふるを知る。況んや神に於てをやとイエスは曰ひ給うたのである。石はパンに似、蛇は魚に似る。より悪しき物を与へず、其反対により善き物を与ふ。茲に「蛇」と云ふはガリラヤ湖産の鯰を指すと云ふ説がある。或はさう乎も知れぬ。親が子を思ふ心が神が人を思ふ心であると云ふ。神は愛なりとの事を親子の愛情を以て言表はしたる言葉である。
〇第十一節。「汝等悪しき者なるに」と云ふ。イエスは人は生れながらにして悪者なる事を言ひて憚り給はなかった。此は勿論人には善きもの絶対に無しと云ふ事ではない。親子の情の如き善性の一である。然るにも係はらず神の子の御眼より見て、人はすべて悪者である。自己中心である。吝嗇である。己が子にさへ予ふるを惜む者である。然るにその汝等さへ善物を其子に予ふるを知る、況して天に在す汝等の父に於てをやと云ふのである。人に在る善心が神に無き筈はない。「父が其子を憐むが如くヱホバは己に頼る者を憐み給ふ」と曰ひて聖詩人は神の此心を歌うたのである。
〇第十二節。「是故に凡て人に為られんと欲ふことは汝等また人にも其如くせよ」。此は有名なる黄金律 Golden Rule である。山上の垂訓の登り詰めたる所、其絶頂である。随つて亦基督教道徳の極致である。神に対する義務は別として人に対する義務、即ち道徳は之にて尽きて居るのである。其大体の意味は明瞭である。そして之に(361)由て想出すは「己の欲せぎる所、之を人に施す勿れ」との孔子の教である。そして孔子の教と同じ事がキリスト以前のユダヤ人の教師に由ても、亦希臘羅馬の哲学者等に由つても教へられた。然し乍らキリストの教と、是等の教師のそれとの間に明白なる差違がある。前者は積極的なるに対して後者は消極的である。そして此場合に於て積極消極の差違は天地の差違である。「為すべし」の内に「為すべからず」は入つて居るが、「為すべからず」の内に「為すべし」は入つて居ない。「悪を避けて善を行ひ」との教訓《をしへ》は同一の事の繰返でない。善を行ふ者は悪を避くるが、悪を避くる者は多くの場合に於て善を行はない。論より証拠である。東洋道徳は悪を遅くるに於て有効であるが、善を行ふに於ては至て微弱である。人に迷惑を掛けざらんとは努むるも、進んで善を為さんとはしない。故に活溌なる慈善又は社会改良は行はれない。外国伝道の如き、見るに足るべき者はない。自分の安全を計り、他人に迷惑を掛けざれば、それにて人生足れりと思ふが東洋人全体の気風である。
〇然れどもキリストの教は全く之と異なる。彼の弟子たる者は進んで隣人を愛せねばならぬ。己の欲する所、之を人に施さねばならぬ。愛は活動的である。隣人を初めとして全人類をして神の恩恵に与らしめねば止まぬ。人に迷惑を掛けざるは勿論である。彼をして幸福ならしめんと努むる。キリストの福音を信じて人の人に対する態度が一変する。単に四海皆兄弟なりと言ひて哲学的平安に耽らない。兄弟たるの実を挙げんとする。リビングストン、ジヤドソン、エリザベス・フライ、フローレンス・ナイチンゲール等の如き人を起して、神の愛を以て全人類を抱擁せんとする。
〇更に悉《くわ》しく黄金律の文字を研究する必要がある。日本訳の儘に読んで之を誤解するの虞がある。此は人に為られんと欲する事は凡て(何でも)人に為よ」と云ふ事ではない。若しさうならば多くの害を為す。此教訓の重心は(362)「其如く」なる文字に於て在る。「凡て人に為られんと欲することは汝等も亦人に為すべし」ではない。「其如く人に為すべし」である。汝等が欲する其心を以て為すべしとも解する事が出来る。問題は為す事ではない、事を為す心の状態である。簡短に云へば「愛を以て為すべし」と云ふ事である。己を愛するが如く隣人を愛すべしと云ふと同じである。
〇然し乍ら意味はそれを以て尽きるであらう乎。尽きないと思ふ。「其如く」は七節より十一節までを掛けて云ぅた言葉であると思ふ。神が汝等を扱ひ給ふが如く、汝等も亦人を扱ふべしとの事であると思ふ。即ち天に在す父の完全きが如く汝等も完全くなるべしと云ふと同じである。信者の模範はキリストである、そしてキリストは神の子である。神に傚ふが信者の本分である。「汝等の父の憐憫むが如く汝等も憐憫むべし」と云ひ(路加伝六章三六節)、「汝等愛せらるゝ子の如く|神に傚ふべし〔付○圏点〕」と云ふ(以弗所書五章一節)。神に傚ふて人に為すべし。「凡て人に為られんと欲する事は汝等|神が汝等に為し給ふが如く〔付○圏点〕に人に為すべし」と云ふのが黄金律の意味であると思ふ。そして如斯くに解する者は私一人ではない。有名なる註解者ベンゲルも斯く解したのである。そして如斯くに解して其意味が一層深く、宏く、高くなるのである。
〇神に傚ふとは到底人の及ぶ所でないと云ふのが普通である。然し乍ら道徳其物が到底達し得ざる理想である、其故に尊いのであると哲学者カントは曰ふ。而已ならず神は傚ふに最も易き者である。我等は智慧と能力とに於て神に傚ふ事は出来ない。然し乍ら愛に於て傚ふ事が出来る。神の愛を以て、即ち神が我等を愛し給ふ其愛に傚ひて人を愛する事が出来る。そして是れ決して難い事でない。「神の誡を守るは是れ即ち神を愛する事なり、その誡は難からず」とヨハネが曰うた通りである(約翰第一書五章三節)。
(363)○此は万人に当はまる教である。然しイエスは之を特に彼の弟子等に説き給うたのであつて、此は特に|信者道徳〔付○圏点〕として解すべき者である。基督者は人に何を為られんと欲する乎。財産を頒けて貰はんとは欲しない。其他身に関する世話をして貰はんとは欲しない。彼等に己が罪を赦して貰はんと欲する。そして更に進んで神の真理《まこと》を伝へて貰はんと欲する。是故に、彼は先づ人の罪を赦す。又己が受けし神の恩恵を彼等に頒たんと欲する。そして此事を為すに方て、其精神と方法とは神が彼を扱ひ給ふ精神と方法とである。「其如く」である。「神に傚ふ」てゞある。神が我が罪を赦し、我を恵み給ふ其精神方法に従ひて人の罪を赦し、彼等を恵み助けんと欲する。是が黄金律の特別の教訓であると思ふ。
〇そして神が我等を恵み給ふ方法を我等は克く知る事が出来た。神は老婆が其孫を愛するが如くに我等を愛し給はない。或時は其聖顔を隠し姶ふ。或時は痛き鞭を加へて我等を懲らし給ふ 彼は多くの場合に於て、恵む露に非ずして※[火+毀]尽す火である。それであるに係はらず彼は愛である。然り、真の愛であるが故に彼は如斯くに我等を扱ひ給ふ。我等も亦神の|其愛〔付△圏点〕を受け、|其方法〔付△圏点〕に由りて人を愛すべきである。そして斯かる愛は大抵の場合に於て人に喜ばるゝ愛でない。然れども其愛が真の愛として人に認めらるゝ時は必ず来る。黄金律は行ふに容易き教でない。それが為に或種の十字架に上らねばならぬ。|人に憎まるゝまでに人を愛せねばならぬと云ふのが人生の最大悲劇である〔付△圏点〕。
 
    第二十八回 生命に入るの門 馬太伝七章十三、十四節。路加伝十三章二十二−二十四節。
 
〇山上之垂訓は七章十二節黄金律の宣言を以て終る。凡そ人に為られん事を神が汝等に為し給ふ心と方法とを以(364)てまた人にも為よと云ひて実践道徳は其絶頂に達したのである。詩人ゲーテが曰ひし如く、人類の知識は如何程進歩しても其通徳はイエス以上に達し得ないのである。之を称して|神の国の福音〔付○圏点〕と云ふ。即ち|天国に入るの道で〔付○圏点〕ある。之をまた|生命に入るの門〔付○圏点〕と称する事が出来る。
〇第十三節以下は垂訓の追加である。福音の性質、之を看出すの途、之を行ふの必要を述べたる言である。而してイエスの言なるが故に、例に依て簡短明瞭にして、其意味は深遠である。即ち左の如し。
  |狭き門より入れよ〔ゴシック〕。沈淪《ほろび》に至る門は広く、其路は闊《ひろ》し、而して此より入る者多し。
  生命《いのち》に至る門は狭く、其路は窄し。而して之より入る者少し。〇第十三節。「狭き門より入れよ」。イエスの言として驚くべき言である。神の愛は天の闊きが如く闊し。故に生命の源なる神に至るの道も亦広大無辺ならざるべからずとは何人も思ふ所である。君子は行くに小路に由らずと云ふ。狭きは正さに小人の道である。然るにイエスは其弟子に教へて「狭き門より入れよ」と曰ひ給ふ。彼はまた後にパリサイの人等に告げて曰ひ給うた「誠に実に汝等に告げん|我は〔付○圏点〕即ち羊の門なり」と(ヨハネ伝十章十七節)。此はまことに神の道は狭し、我も亦狭しと云ふに等し。之を聞いて何人か驚かざらんやである。
〇而して其反対は如何と云ふに、沈淪に至る門は広く、其路は闊しと云ふ。生命に入るの門と路とは狭く、其反対の永遠の死滅《ほろび》に入るの門と路とは広しと云ふ。茲に於てか狭隘はイエスに由て称揚せられ、広闊は却て貶斥せられしを見る。宏量大度を以て誇りとする東洋の君子豪傑また顔色なしである。
〇而して事実は如何? 真理は常に狭くして誤謬は常に広くあるではない乎。此世に在りては真理は僅に少数にのみ歓迎せられ、誤謬は常に多数に喜ばるゝではない乎。迷信の勢力の如何に強き乎を見よ。之に反して明々(365)白々の真理は世の所謂識者にまで顧みられないではない乎。真理は最後の勝利であると云ふが、其最後の来る何ぞ遅きや。|事物の真偽を多数決に由て定むる程間違つたる方法はない〔付△圏点〕。盗賊のバラバと神の子イエスと孰をか釈さんとピラトが会衆に尋ねし時に、一同は声を合せて曰うた「バラバを釈せ、イエスは之を十字架に釘けよ」と。而して千九百年後の今日、開明の日本に於ても、亦所謂基督教国の英国又は米国に於ても同一の事が行はるゝのである。聖書の明訓に従ひ戦争の害と悪とを唱ふる者あれば全国挙つて之を圧迫し、其基督教会までが監督、牧師、神学博士等の指導の下に戦争を謳歌し、流血を義としたではない乎。而して此は不信の日本に而已あつた事ではない。今より僅か七八年前に、熱信のピユーリタンを祖先として有すと云ひて誇り、我等東洋人が暗きに迷ふを憐むと称して我等に許多《あまた》の宣教師を送る所の米国人に由て為されたる事である。平和の道は狭くして戦争の道は広くあつた。而して今や戦争は其目的と正反対の結果を生みしことを覚るに至りしも、平和論者は崇められず、主戦論者は罰せられないのである。そして此は世界第一の基督教国と称せらるゝ米国に在つた事であると知つて、他は推して知るべしである。罪の此世に在りて、社会多数に真理として歓ばるゝ道は偽はりの道であり、其少数者のみが看出し得る道が真の道であると解して間違はないのである。
〇沈淪に至る門と路とは狭し、生命に至る門と路とは広しと云ふ。此は地獄は広い所、天国は狭い所であると云ふのではない。イエスは「我父の家に第宅《すまひ》多し」と曰ひて天国の広さを示し給うた。イエスの此言は狭き地獄に至る路は闊くして、広き天国に至るの路は狭しとの事を教ゆるのである。偽善者の門は広くして厳《いかめ》し。医者の門構と云ふ。薮医者の特徴である。罠と網との入口は広し。獣《けもの》と魚とを捕へんが為である。内の狭き者は外を繕ひて人を引かんとする。之に反して内の広き者は外を狭くして、入る者を淘汰せんとする。此はすべて自然の法則(366)である ソクラテス、ダンテ、カント、カーライル、彼等はすべて内に広くして充満して居た故に、外は狭く又見すぼらしくあつた。然れども一たび其狭き醜き門を排して内に入らんか、金玉の殿堂、宝石の山、我を迎へて尽きないのである。
〇人なる教師に於て然り、況して神の子に於てをや。真のイエスは近づくに難く、其福音は看出すに難くある。「其路は窄く、其門は小さし」である。政府も社会も之を示して呉れない。智者も学者も之を説かない。其前に十字架が横たはる。恰かも「之より内入るべからず」との標札を見るが如しである。父兄も親戚も之を喜ばない。立身の途が阻止せらるゝが如くに思はる。然れども、嗚呼然れどもである。此狭き門の内に、更に窄き路を過ぎて、其奥に真の自由、真の生命、真の幸福があるのである。「之を看出す者少なし」と云ふ。門の狭きが故に、其余りに見すぼらしきが故にである。
〇天国即ち生命に入るの門は斯く狭くあるべき者であるに、之を広くなして多数を収容せんと計る者は誰乎。天国の門は広からざるべからずと云ひし者はイエスキリストではない。彼の弟子なりと自から称する此世の智者、即ち俗人である。彼等は曰ふ「教会の門戸を広くせよ」と。而して広くせられし門戸を通うして入来りし者は誰か。俗人である。神の恩恵の何たる乎を知らず、此世の智慧を神の智慧なりと解し、之を伝ふるを伝道なりと称す。世界各国、殊に米国に於て、而して重に米国人に由て基督教を伝へられし我日本に於て、今日の信仰堕落はイエスの此明白なる教訓に背きしより来たのであると信ずる。
〇斯く云へば或人は私に糺問するであらう「然らば少数者のみ救はれて多数は亡びるのである乎」と。イエス御在世当時に同じ質問を以て彼に迫つた者がある。路加伝十三章廿二節以下に曰く「イエス教へつゝ町々村々を過(367)ぎヱルサレムに向ひて旅行し給へる時、或人曰ひげるは、救はるゝ者は尠き乎と、イエス彼等に日ひけるは、汝等力を尽くして窄き門より入れよ、我れ汝等に告げん、入らん事を求めて能はざる者多しと」。イエスの御意は多分左の如くであつたらう。
  汝等何故に此質問を我に向つて発するや。是れ汝等に取り何の関係なき問題に非ずや。我れ汝等に曰ふ、汝等は斯かる問題に頭脳を用ふるに及ばず、只行いて|汝等自身〔付△圏点〕が窄き門より生命に入らんやう努力せよ、そは努力の足らざるより入らんと欲して入る能はざる者多し。汝等が斯かる質問を発する其事が汝等の心に緩みあるの証拠である。汝等にして若し真実に生命に入らんと欲する熱心あらば斯かる問題に心思を労する暇なき筈である
と。多数が救はれやうが救はれまいが、そは尋ねて益なき問題である。されど我は救はれざるべからずである。「|汝等〔付△圏点〕……然り|汝ら自身〔付△圏点〕は力を尽くして窄き門より入れよ」である。他人は如何でも可い。そして此努力を為す者のみ他人をも亦生命に導き得るのである。キルケゴード曰く「基督教は信ずるに最も難き宗教である。人は容易に其信者たる能はず。然れども其事は余が基督信者たり得ずとの理由とは成らず。|若し未だ曾て一人の基督信者ありしことなしとならば余は最初の基督信者と成るであらう〔付△圏点〕」と。真の熱心は常に人をして此態度に居らしむるのである。
〇狭い点に於てはイエスの教はパリサイのそれと異ならない。唯狭い種類が違うのである。後者は人種的に、儀式的に狭くあるに対して、前者は道徳的に、実行的に狭いのである。|低い狭隘と高い狭隘との差別である〔付△圏点〕。そして其差別は無限的である。
(368)〇生命に入るの途は十字架の途である。
 
    第二十九回 偽はりの預言者 馬太伝七章十五−二十節。路加伝六章四三−四五節。
 
〇山上之垂訓に附録として三つの訓誡が加へられた。其第一が「狭き門より入れよ」と云ふ事である。第二が「偽はりの預言者を慎めよ」と云ふ事である。第二は第一の続きと見る事が出来る 預言者は真理の門衛である。真の預言者は狭き門を守り、偽はりの預言者は広き門を守る。故に沈淪に至る広き門より入る勿れと云ふと、偽はりの預言者を慎めよと云ふと其根本の意味は同じである。乍然門と門衛とに就て注意を加へて注意は一層深く成るのである。
〇預言者とは前以て預め言ふ者に限らない。神の聖旨を伝ふる者はすべて預言者である。牧師 伝道師、監督、神学者、すべて預言者たるべきである。茲に偽はりの預言者と云ふは偽はりの基督教の教師を指していふのであるとドククトル マイヤーは言ふ。イエスは茲に彼の名を以て称ばるゝ教会の内に斯かる者の起るべきことを御自身が預言者として預言し給うたのであると(馬太伝廿四章廿三−廿八節参考)さう見るのが多分真理であらう。
〇偽はりの預言者は如何なる者である乎と云ふに「彼等は綿羊の姿にて(衣を着て)来れども、内は残《あら》き狼なり」と。外面は罪なき柔和なる羊のやうに見ゆれども内面《うちがは》は貪婪《たんらん》飽くことを知らざる狼であると。即ち外は真の預言者のやうに見えて内は神の敵であると。そして偽はりの預言者に限らず、偽はりの忠臣、偽はりの愛国者すべて然りである。仙台萩に於ける原田甲斐、加賀騒動に於ける大槻伝蔵はさうであつた。彼等は最も忠臣らしく見ゆる人であつた。然れども実は大逆無道の臣であつた。基督教の教師も亦同じである。最も柔和なる、愛の現化《ごんげ》其(369)物である乎のやうに見える人で、基督の敵、信仰の破壊者である者は世に決して尠くない。然れども之に依る者多しであつて、キリストと彼に特別に選まれし者のみ、彼等が偽はりの預言者である事を知る。更に注意すべきは|偽はりの預言者は果して己が偽はる者である事を自覚するや否やの問題である〔付○圏点〕。狼は己の残忍なるを知らない。残忍は彼の生れつきの性質である。唯狼以外の者が之を知り悪み恐れるのである。其如く真個の偽善者は自分の偽善者たるを知らない。彼等は或時は神の民を殺して自から神に事ふると意ふ(ヨハネ伝十六章二)。偽善は彼の生れつきの性質である。彼は真個の偽善者である。常に自己の偽善に気附きて神と人の前に震へる者は決して偽善者でない。真の偽善者に徹底したる所がある。彼が克く人を欺き得るは彼の統一せる思想と始終一貫したる行為に因る。
○偽書者は自分の偽善者なる 知らない。故に人は彼を真の善人として受取り易くある。然れども神は彼の偽善者なるを知り給ふ。神は彼に就て宣告し給ふ「彼は忠実なる神の僕の如くに見ゆれども実は残き狼なり」と。恰も哀む者は自分は不幸なる者なりと思へどもキリストは其人は福ひなりと宣告し給ひしと同じである。人の何なる乎は其|表現《エキスプレツション》では判明らない。亦其自覚でも判明らない。神のみ之を知り給ふ。そして其生涯が結ぶ果に由てのみ人は此事を知ることが出来るのである。
〇「その果に由て知るべし」。「彼等の結ぶ果に由て汝等彼等を知るに至らん」。「夫れ樹は其果に由て知らるゝなり」とイエスは後に曰ひ給うた(十二章三三節)。|果は生涯の総括である〔付○圏点〕。単に事業と云ふては足りない。悪人が善事を為す事もあり、善人が過つて悪事を為す事もある。誠に事業は偽書者が人を欺く為に用ゆる最良の手段方法である。「その果に由て知るべし」。其生涯の大方針に由て、其事業の性質に由て、殊に|最後の裁判に於ける神(370)の判決如何に由て知るべしである〔付○圏点〕 「知るべし」は未来動詞である。Shall know である。今は知る能はざるも後に明白に知るを得べし。「夫日《かのひ》之を顕はすべし、此は火にて顕はれん、其火|各人《おの/\》の工《わざ》の如何を試むべし」とパウロが曰ひしが如くである(コリント前三章十三節)。其時までは我等は確然《はつきり》と教師の真偽を判別つ事が出来ないのである。故に又曰ふ「主の臨らん時まで、時未だ至らざる間は審判する勿れ」と(同四章五)。
〇確然と判断を下すことは出来ないが大略は判る。先づ第一に果は樹の種類に由て違う。茨より葡萄を取る者なく、薊より無花果を採る者はない。其如く仏教より基督教の果を摘むこと能はず、此世の哲学より神の福音の結ぶ果を望むことは出来ない。宗教は何でも可し、教育さへあれば信仰の有無を問はずと称して、純福音と其基礎の上に行はれたる教育との結びしと同じ果を望むも失望に終るは当然である。種類が違うのみならず性質も亦違う。同じ種類の樹にても善悪の違ゐがある。善き(健全なる)樹は善き(健全なる)果を結び、悪き(羸弱なる)樹は悪き(羸弱なる)果を結ぶ。樹の良否に由て成る果が異なる。そして善き果を結ばざる樹は斫れて火に投入らる。
〇預言者又信仰の教師も亦斯の如し。其神学又は教会関係は如何であるとも、聖霊に由て導かるゝ人と否らざる人との間には茨と葡萄樹との相違がある。又同じ信仰の教師の内にも強いと弱いと、生命に溢れたると涸れたるとの相違がある。そして其事は皆な其結ぶ果に於て顕はる |その果に由て知るべし〔付○圏点〕。其雄弁に由てに非ず、其風彩に由てに非ず、其標榜せる信仰箇条に由てに非ず、其所謂事業に依てに非ず、|其果に由て〔付○圏点〕、其感化の力に由て、聖霊が彼に在りて結び給ふ所の果、即ち仁愛、喜楽、平和、忍耐、慈悲、良善、忠信、温柔、※[手偏+尊]節に由て知るべし(加拉太書六章二二)。之を除いて他に預言者即ち教師の真偽善悪を見分くるの途はない。
〇教師の真偽は、すべての信者の真偽と共に最後の審判を待たずしては判明しない。故に我等は此事に関し其時(371)まで最後の判決を下してはならない。然し乍ら神は偽はりの預言者を|慎む〔付△圏点〕丈けの途を備へ給うた。神は聖書に於て多くの預言者の実例を示し給うた。真なる者と偽なる者との模範を挙げ給うた。イザヤ、ヱレミヤ、エゼキエル、アモス、ミカ等は孰れも真の預言者であつた。そしてヱレミヤに対しパシユルがあり、アモスに対しアマジヤがありしやうに、真の預言者と相対して偽の預言者を示し給うた。そして真の預言者は如何なる者である乎と云ふに、先づ第一に自から預言者たらざらんことを求めた者である。第二には自己の弱きを知り、到底其任に耐えざる者である事を自覚したる者である。第三に神に倚る外全然人に頼らず、政府又は教会より何の保護をも受けざる者である 之と相対して偽の預言者は政権の弁護者であつて教権の維持者であつた。パシユルは祭司インメルの子であつてヱホバの室《いへ》の宰《つかさ》の長であつたと云ふ(ヱレミヤ記二十章一節)。アマジヤはベテルの祭司であつて王ヤラベアムの配下であつたと記さる(アモス書七章十節)。真預言者と偽預言者との別は一目瞭然である。旧約聖書学の泰斗A・B・デビツドソンが曰うた事がある、「偽はりの預言者は当時の愛国者であつて、真の預言者は其反対に当時の乱臣国賊である」と。今日でこそヱレミヤ、アモス等を真の預言者の模範として仰ぐが、彼等が預言せし当時には乱臣として獄に投ぜられ、国賊として逐放せられたる者である。偽の預言者に関するイエスの此|訓誡《いましめ》を解する為に我等は旧約の預言者等の精しき研究を必要とする。
〇沈淪に至る門は広く、偽の預言者は羊の姿を装ひ、謙遜、柔和、温良の君子として現はれて人を欺くと云ふ。此世はまことに許誘の世である。そして試誘を経て善《よし》とせらるゝ時に生命の冕を与へらるゝのである。試誘は神を識る為に、又|霊魂《たましひ》を完成《まつとう》する為に必要である。人生万事尽く不安なりと雖も唯一の安全なる者がある。それは神が据たまひし救拯の磐である。人は尽く我を欺くも彼は欺き給はない。我等はダビデの言を藉りて歌はん。
(372)  我心くづほるゝ時地のはてより汝を呼び奉らん、願くは我を導きて我よりも高き磐に至らしめ給へと。汝は我が避所、我を仇より遁れしむる堅固なる櫓なり(詩篇六十一篇二、三節)。
偽はりの預言者を避くる事は出来ないが、彼が欺くことの出来ない所に己を置く事が出来る。 〔以上、大正12・9・10〕
 
    第三十回 言表と実行 馬太伝七章廿一−廿七節。路加伝六章四六−四九節。
 
〇(一)広き路に由らず狭き路に由るべし。(二)偽の教師に由らず真の教師に由るべし。(三)自身言表者とならず実行者となるべし。イエスは曰ひ給うた「我は道なり真なり生命なり」と(ヨハネ伝十五章六)。イエスは真の道、真の教師、又生命即ち真理の実行者なりと彼の此言の意味を解することが出来る。単に真の教師に従ふ丈けでは足りない、彼の教の実行者たるべしとの事である。
〇真理は聞いた丈けでは解らない、実行(実験)して見て初めて解る。すべての真理に於てさうである。殊に信仰の真理に於てさうである。|まこと〔付ごま圏点〕は|事〔付○圏点〕であつて|言〔付○圏点〕でない。最も確かなる真理は手を以て触れたる真理である。聞くのみにして行はざる者は終生真理を解し得ずして終る。カーライル日く produce, produce(生産せよ、生産せよ)と。生産せずして、尠くとも真面目に生産せんと努力せずして真理は解らない。己が弱きを標榜して実行を避くる者は真理を解し得ないまでゞある。読書又は聴講を以て真理把握の唯一の途となす者は終生真理を把握し得ずして終る。イエス曰ひ給はく「人もし我を遣しし者の旨に従はゞ(行はゞ)此教の神より出るか又己に由りて言ふなるかを知るべし」と(ヨハネ伝七章七)。基督教を自己に証拠立つる唯一の途は之を行ふに在る。
(373)○「行ふ」とは必しも「完全に実現する」と云ふ事でない。イエスは茲に「我が汝等に伝へし父の旨を完全に体現せずば天国に入る能はず」と教へ給うたのではない。「行ふ者」であつて「行ひし者」ではない。行を主眼とし、目的とし、努力とし、又習慣性とする者である。即ち信仰を言語的に又は思想的に解せんとする者 対して実行的に解せんとする者を指して云ひ給うたのである。斯かる者は真に彼の教を解し、又之を実行するを得、或は実行するの力を与へられ、而して終に天国に入るを得べしと教へられたのである。読書家又は弁論家又は宣言者は天国に入る能はずして、着実なる実行者のみ入るを得べしと教へ給うたのである。そして事実其通りである。
〇言表必しも無効でない。イエスの聖名其物に大なる能力が伴ふ。不信者も偽信者もイエスの聖名を唱へ、彼の教を伝へて多くの善事を為す事が出来る。かるが故に彼等は己を欺き又|他《ひと》を欺くのである。鳥は自から計らずして種子伝播の機械となる。偽信者も亦自分は救はれずして他人を救ふ為の機械となる事が出来る。イエスの名は美はしくある。其福音は美はしくある。我等は単に美的観念に駆られて頗る好き伝道者たる事が出来る。然れども人は其美的観念に由て救はれない。美の実行、即ち霊性の美化に由て救はれる。ゴールドスミスが曰ひしが如く Beautiful is that beautifil does(美を為す者即ち美なり)である。「人を教へて自から棄られん事を恐る」とパウロが曰ひしが如くに、我等人に福音を説きながら、自分は其救に与り得ざるの立場に立つの虞がある(コリント前九章二七節)。
〇「多からん」。「多くの人々其日我に語りて云々」と読むべし。最後の審判の日に於て斯かる人々は多かるべしとの事である。言表的信者は多かるべし、実行的信者は寡かるべしとの事である。そして実際の所、今日と雖も信者と云ふ信者、教会と云ふ教会、基督教国と云ふ基督教国は其多分は言表者であつて実行者でない。キリスト(374)神性論、聖書神言説等は彼等に由て喧《かまびす》しく且つ熱心に唱へらるゝと雖も、一朝実行と云ふ場合には彼等の多数は不信者と異ならず、然り屡々不信者以下に下るのである。其事は最も明白に戦争の時に現はる。其時に山上之垂訓も何もあつた者に非ず。米国に於ては平和を唱へし牧師は信者に家を焼かれ、或は郊外に引出されて木に括られた。敵を愛する所ではない敵を憎まざる者は基督者でないやうに思はれた。誠に「多かるべし」である。彼等は外国に伝道するも、渡り鳥が無意識に種子の播布を行ふが如くに、異教の民を教へて自からは棄らるゝのである。
〇最後に審判が来る。そして審判く者はイエス御自身である。「それ父は誰をも鞫かず審判は凡て子に委ねたり」と彼は曰ひ給うた(ヨハネ伝五章二二)。イエスは御自身が人類最後の審判主である事を毛頭疑ひ給はなかつた。「人の子己の栄光をもて諸の聖使を率ゐ来る時は其栄光の位に坐し云々」と彼は後に曰ひ給うた(馬太伝廿五章三十一節以下)。是れ人なる教師の到底曰ひ得る事でない。我等は勿論イエスを人類の審判者としてのみ見ない。彼は救主であり、慰主であり、又|助者《たすけて》である。然し乍ら我等は彼が審判主である事を忘れてはならない。イエスに此恐るべき方面があつた。夫れ故に彼の恩恵の辞が深く聴衆の心に沈んだのである。イエスは慈悲一方の阿弥陀様でない 彼に羔の怒があつた。山上之垂訓はイエスの此方面を示さずしては終らなかつた。祝福の辞を以て始まりし此大説教は大審判の予告を以て終つた。「我等主の恐るべきを知るが故に人に勧む」とパウロは曰うた(コリント後五章十一節)。イエスも亦御自身の恐るべきを知り給ひしが故に此教訓を垂れ給うたのである。
〇そして審判は或は水を以て、或は火を以て臨む。水は壊ち火は尽す。初めに壊倒の審判があり、終りに燼滅の審判が臨むのである。然れども水と云ひ火と云ひて、敢て物質的の水又は火を指して云うたのではないと思ふ。(375)未来の事に関してイエスは表号を以て教へ給うた。又表号を以てするより他に途がないのである。別政界の事を語るに方て何人も此世界の事を以て語るより他に途がないのである。然れども|表号は想像でない、確実なる事実である〔付○圏点〕。唯言表はすに辞なきが故に、此世の事実を以て言表はさんとするのである。其事が表号である。イエスの最初の説教に於て氏に此種の辞を見るのである。
〇雨降り大水出で云々は克く小亜細亜シリヤ地方の気象を語る言である。事実其通りであるとの事である。建築も農業もすべて此事実を基礎として行はるゝと云ふ。イエスは表号を使ひつゝある間にも事実を変へ給はなかつた。御自身真であり給ひし彼は、天然の事実を述ぶるに方ても精密であり給うた。
〇審判は必ず来る。「自づから欺く勿れ、神は侮るべき者に非ず」とある(ガラテヤ五章六節)。其時言表又は思索に由て得し信念は役に立たぬ。唯愛に由て働く所の信仰のみ益ありである。勿論外面に現はれたる行為が救ふと云ふのではない。善き行為を生ずる様な信仰が救ふと云ふのである。そして斯かる信仰は読書して、黙想して、思索して得らるゝ者でない。行つて見て得らるゝ者である。人は行為に由らず信仰に由て義とせらると云ふ信仰は、一生懸命に行はんと欲する者に神より賜はる信仰である。信仰は行為の精粋《エツセンス》である。思索ならで行為に出発して到達したる霊魂の状態である。
〇イエスは伝道の初めに於て審判を宣言し給うた。然し乍ら宣言を以て此め給はなかつた。彼は人が審判に応ずるの途を設け給うた。彼の御生涯と死と復活と昇天とはすべて人が彼の審判に会ふて滅びざらんが為の途であつた。イエスは真理なると同時に道であり又生命である。永生に入る必要条件として完全なる行為を要求し給ひし彼は又此条件を充たし要求に応ずるの途を設け給うた。山上之垂訓を聖書の他の部分より惟り離して読む時に、(376)モーセの律法の更に厳格なる者の如くに聞える。然れども「律法を立るは罪を増さん為なり、然れど罪の増す所には恩《めぐみ》もいや増せり」とあるが如くに(ロマ書五章十二節)|より〔付ごま圏点〕厳しき律法に応ぜんが為には|より〔付ごま圏点〕大なる恩恵の途が備へられたのである。神の怒の声に触れて我等はたゞ怖《おぢ》てはならない。更に高き磐へと走らねばならない。山上之垂訓は之をキリストの十字架の下に立つて読んで、其恐怖は化して奨励と成り、其威嚇の辞は希望の声となりて聞ゆるのである。訓誡は十字架を指《ゆびさ》し、十字架は訓誡を説明する。そして訓誡と十字架の間に立ちて、我等は神の恩恵に狎れず、又其怒に圧せられず、謙遜りて其恩恵に与り、感謝しつゝ其聖旨に従ふことが出来る。 〔以上、大正12・10・10〕
 
    〔三一〕 イエスの奇蹟と其模範 馬太伝八章、九章。同八章一−四節。馬可伝一章四〇−四五節。路加伝五章一二−一六節。
 
〇イエスは奇蹟を行ひ給うた。イエスの場合に於ては奇蹟は単に不思議なる行《わざ》ではなかつた。又精神療法とか暗示療法とか称して、心理学的に説明する事の出来るものでなかつた。又当時の奇蹟であつて、学術進歩の後世に於ては、科学の示す方法に従ひ、何人にも繰返す事の出来る事蹟ではなかつた。イエスの場合に於て奇蹟は「神の作為《わざ》」であつた(ヨハネ伝九章三節)。神ならでは為す能はざる作為であつた。「若し我れ神の指をもて悪鬼を逐出したるならば神の国は既《もは》や汝等に来れり」と彼が曰ひ給ひしが如くに、イエスの指は神の指であつて、彼の作為は神が造化に於て現はし給ひし作為であつた。如斯くに奇蹟を見て、イエスの奇蹟が解るのである、又彼の奇蹟が彼が神たるを証しするのである。イエスの教訓を重く視て、彼の奇蹟を軽く視るは聖書の視方でない。教訓は奇蹟を説明し、奇蹟は教訓を証明する。奇蹟を行はざるキリストは真のキリストでない。我等イエスの奇蹟(377)に就て読んで之に躓く間は、未だ彼を識らないのである。
〇馬太伝は五睾より七章までに、主としてイエスの教訓を伝ふ。八章と九章とに於て、主として彼の奇蹟を記す。彼は多分茲に録せるが如くに、一時に連続して九回の奇蹟を行ひ給うたのではあるまい。是等は多分記者マタイがイエスの代表的奇蹟として茲に之を編輯した者であらう。イエスは肉体を宰り給ふ、天然を支配し給ふ、霊界を統治《をさ》め給ふとは是等の奇蹟が示す所である。彼は此外に多くの奇蹟を行ひ給うた。然れども是等は其の最も代表的のものである。馬太伝第八章九章の研究はイエスの奇蹟を総括的に知らんと欲するに方て最も有益である。
〇イエスが癩病の者を癒し給ひし事に就ては我等は既に馬可伝一章四〇−四五節に依て述べた(本研究第十回。今之を馬太伝の記事として見る時に、其内に別の意味がある故に、重複を顧ず再び之に就て述べる。此は馬太伝に依ればイエスが初めて行ひ給へる奇蹟である。彼は「民の中なる諸の病諸の疾《わづらひ》を医しぬ」とあるが(四章二三節)、其最初のものが此癩病であつたのである。最初の奇蹟でありしが故に、最も代表的であつた。奇蹟とは、此目的を以て、此の如くに行はれたと教ふるのである。
〇癩病は今日と雖も不治の病である。布哇産大楓子油が其特効薬であると称せらるゝが、未だ其必治は保証されない。所謂熱帯病の一であつて、最も頑固なる、最も素質的の疾病である。多分医学が癩病に打勝つ時に、其最後の凱歌を挙ぐるのであらう。然るにイエスは今より千九百年前に、唯手を触れた丈けで、即時に此難病を癒し給うたのである。此は大喝一声、以て精神病者を癒したと云ふとは全く類を異にする。此はたしかに「神の作為」である。奇蹟を越えて改造である。医学の進歩が其極に達しても斯くは癒し得ないのである。イエスは容々と即座に医して給うた。彼は「康強《すこやか》なる者は医者の助を需めず」と曰ひて御自身を医者に譬へ給ひしと雖も、彼は人(378)なる医者でなかつた。彼は肉体の疾病を癒すに当つても、神が癒すが如くに癒し給うた。
○そして人には癩病よりも更に頑固なる、更に素質的なる疾病がある、それは罪である。罪は人の生命の根本を犯す疾病である。善ならんと欲するも善なる能はず、悪を憎みながら之を行ふ。「人の心は万物の中にて最も偽はる者にして甚だ悪し、誰か之を知るを得んや」とのヱレミヤの言は、深く人生と自己とを究めし者の何人も為す偽はらざる告白である。「噫我れ困苦める人なる哉、この死の体より我を救はん者は誰ぞや」とは癩病患者の叫びであつて、同時に亦、己が罪に覚めたる者の叫びである。そして罪の人が「来りて拝し、主よ若し要旨に適ふならば我を潔くなし得べし」と言ふ時に、イエスは手を伸べ、彼に接《つ》けて我が旨に適へり、汝潔くなれと曰ひ給ひて、癩病に等しき罪は直に潔くなるのである。事は議論でない。実験である、自分が不治の疾病に罹り、人の援助《たすけ》の効なきを知りて、神の子の足下に伏し、謙遜以つて治癒《いやし》を求むる時に、此実験があるのである。「若し聖旨ならば」である。無理に祈求《ねが》ふに非ず、既に罪を犯せる者は救を要求するの資格なし、然し若し聖旨ならば爾は我を潔くなし|得べし〔付○圏点〕、爾に能力の在ることを我は信じて疑はずと云ふのである。そして人が神に対して此態度に立つ時に、神は彼に対して奇蹟を行ひ給ふのである。神に於ける能力の有無の問題ではない、人に於ける信仰の有無の問題である。人に信仰ありて神の能力の表現は確かである。すべての奇蹟が此条件の下に行はる。此条件を欠いて奇蹟を見ることは出来ない。此意味に於て此奇蹟は模範的である。信仰の無い所に奇蹟は起らない。
〇イエスは肉体の医者に非ず、霊魂の医者である。「其名をイエスと名づくべし、そは其民を罪より救はんとすれば也」とあるが如し(馬太伝一章廿一節)。そしてイエスの奇蹟はすべて此事を証明せん為である。そして此事(379)を証明せんが為に、癩病は最も好き実例であつた。癩病は多くの点に於て罪を例証する疾病《やまひ》である、故に癩病を癒し得る者は罪を除き得ると信じて多く誤らないのである。故にイエスは幾回《いくたび》か癩病を癒し給うた。馬太伝十章八節、同十一章五節、同二十六章六節、殊に路加伝十七章十二節以下等が此事を証するのである。癩病を潔くせらると云ふ、罪を潔めらると云ふ。罪なき者として神の前に立つことを得しめらると云ふ。人としての最大幸福又最大特権である。そして容易く癩病を潔め得る者のみが人に此事を為し得るのである。此点から見るも亦、イエスの最初の奇蹟は模範的であつて、意味深長である。
〇「慎みて人に告ぐる勿れ」と曰ひ給うた。神の恩恵は軽々しく広告すべき者でない。之を語るに人を択むべきである。豚の前に真珠を投げて、真珠は汚され、又失はるゝの虞が多い。「救ひの証しを為す」と称して広く恩恵を人に告げて、之を失ひし例は決して尠くない。信仰は秘伝ではないが但し奥義である。此は何人にも解るものではない。「慎んで人に告ぐる勿れ」である。絶対に告ぐる勿れと云ふのではない。慎んで語る勿れ又語れと云ふのである。所謂リバイバル運動にイエスの此訓誡が守られない事は甚だ歎ずべきである。
〇「唯往きて己を祭司に見せ云々」。イエスも亦モーセの律法を重んじ給うたのである。彼は時には律法を充たす為に之に超越し給うたが、然し普通の場合に於ては、よく之に服従し給うた。此場合に於ても、癩病に手を触るのは律法の禁ずる所であるが、然し病者を癒さんが為には敢て此禁令を犯し給うた。然れども癒されし者に対しては規定の法則を守るべく命じ給うた。是れ矛盾の如くに見えて少しも矛盾でない。すべての健全なる改革者に此両方面がある。彼は進歩家であつて同時に保守家である。必要、止むを得ざる場合には古例旧慣に超越することありと雖も、大抵の場合には之を重んじ、之に服従する。「愛は律法を完全す」である(ロマ書十三章十節)。(380)愛の命ずる時に律法に超越することありと雖も……|叛き〔付ごま圏点〕又は|破る〔付ごま圏点〕のではない……命ぜざる時には敢て自から之を犯さんとしない。儀式其物は決して悪い者でない。之を形式と称して一概に之を排斥すべきでない。「凡て義しき事は我等尽す可きなり」とイエスは洗礼のヨハネに告げ給うた。凡て敬ふ可き事は汝等心に留めて之を為すべしとパウロは教へた。基督者は反抗を愛する不法の民ではない。律法は為し得る限り之に服従する。「往きて己を祭司に見せ、且モーセが命ぜし礼物《そなへもの》を献げて彼等に証拠せよ」とイエスは彼に由て癒されし癩病患者に告げ給うた。愛を行ふの外は普通の人たれとの意である。騒擾《エキサイトメント》を避けよ、奇を好む勿れ、成るべく丈け世と共に歩むべしとは聖書全体の教ふる所である。パウロがテサロニケの信者に教へて「汝等|安静《しづか》ならんことを務め、己の事を行ひ、手づから工を為すべし、此は汝等外人(世人)に向ひて正しく行ひ、亦自から乏しきことなからん為なり」と書贈りしは、信者たる者の此態度を示したる者である。(二月三日)
 
    〔三二〕 軍人の信仰 馬太伝八章五−十三節。路加伝七章一−十節。使徒行伝十章。
 
〇馬太伝の記事に依れば、第一に癒されし者はユダヤ人であつて、其疾病は癩病であつた。イエスは之に手を按《つけ》て癒し給へりと云ふ。之に次いで第二に癒されし者は異邦人であつて、彼は羅馬軍隊に属する百夫の長の僕であつた。そして其疾病は※[病垂/難]瘋であつて、イエスは遠くより言葉を以て之を癒し給へりと云ふ。同じく神の能の表現であつて、天の内、地の上のすべての権能を聖父より賜はりし神の子の行《わざ》として見て少しも不思議はないのである。|問題は奇蹟ではない、之に伴ふ事実である。奇蹟を以て現はれたるイエスの性格、主義、信仰である〔付ごま圏点〕。
〇百夫の長は今日で云へば小隊長又は中隊長である。訓練されたる羅馬軍隊に於ける少尉又中尉である。低級士(381)官ではあつたが、克く羅馬軍人の精神を現はし、規律正しく、威権あり、厳粛であつて、克く上官の命に服すると同時に又、部下をして克く己が命に従はしめた。羅馬帝国の偉大は此厳粛なる軍隊に由て得られ又維持せられたのである。軍隊は必しも圧制の道具でない。克く之を使用して平和は確立せられ又支持せらる。羅馬帝国四百年の平和は其面に於て慥かに其有力なる軍隊の賜物であつた。其保護ありしが故に使徒等は比較的短時日に当時の文明世界を福音化する事が出来たのである。秩序法律は基督教の重ずる所である。随つて其維持の任に当りし羅馬軍人は自づから福音に惹かされ、其尊崇家又は求道者であつた。福音書の此場合に於けるのみならず、使徒行伝十章に於ける百夫の長なるコルネリヲの場合の如き、同廿二章に於けるパウロを保護せし百夫の長並に千夫の長の場合の如き、其他二十三章、二十四章、二十八章等に現はれたる百夫の長は、すべて福音の保護者であつた。使徒等殊にパウロが彼等を重んぜしに深き理由があつたのである。斯くしてイエスは軍人を愛し、軍人はイエスを愛した。軍人が若し真の軍人ならば斯くあるが当然である。馬太伝に由て伝へられし第二の奇蹟を研究するに方りて此事に注意するが必要である。
〇此異邦人、而も此異邦の軍人に、稀に見る篤き信仰があつた。そして其信仰たる簡短極まる者であつた。まことに軍人の長所はその簡短なるに在る。命令に従ひ、命令を行はしむれば、それで万事は足りるのである。理窟と議論の必要は少しもない。命維れ従ふ、それが軍人の生命である。詩人テニスンの「軽騎兵の突撃」の歌に云へるが如く、「我等は何故と問ふに及ばず、我等は従うて死すれば足る」と云ふのである。百夫の長は此精神を以てイエスに臨んだのである。
  百夫の長、人を遣はしてイエスに曰はしめけるは、主は自から御出下さるに及ばず。貴師《あなた》を我が家《やね》の裏《した》に入(382)れ奉るは恐れ多し。私が貴師の前に出るも亦恐れ多し。唯一言を発《いだ》し給へ、然らば我僕は癒ゆべし。そは私も亦権威の下に属る者にして、私の下にも亦兵卒ありて、私が此に往けと命ずれば往き、彼に来れと命ずれば来る。私が僕に之を為せと命ずれば即ち為せばなり(路加伝七章六−八節)
何事も命令と服従とを以て行はるゝ軍隊に生くる者は、何人に対しても此精神を以て臨むのである。そしてイエスは此精神を愛《めで》たまうた。百夫の長の此言を聞いて彼は従へる人々に曰ひ給うた「我れまことに汝等に告げん、イスラエルの中にても未だ斯かる信仰に遇はざるなり。我れ汝等に告げん、多くの人々東より西より来りてアブラハム、イサク、ヤコブと共に天国に坐し、国の諸子《こども》は外の幽暗《くらやみ》に逐出されて其処にて哀哭切歯《かなしみはがみ》すること有らん」と。イエスは羅馬軍人の武士道を愛で給ひて此言を発し給うたのである。
〇そしてイエスの此言を聞きしユダヤ人、殊に其宗教家等は如何に怒つた事であらう。異邦人が、而かも異邦の軍人等が、東より西より来りてアブラハム、イサク、ヤコプと共に天国に坐り、ユダヤ国民は外の幽暗に逐出されるであらうと云ふ。是れ約束の地と其民を侮辱するの言であつて、其無礼や赦すべからずであると云ひて彼等は甚く憤つたであらう。然し乍らイエスのイエスたるは茲に在る。彼は真善を愛するに方て国の内外、民の異同を問はなかつた。善き事は何人に由て何処に行はれても善き事である。イエスの道徳は彼の愛国心に超越した。羅馬人たれサマリヤ人たれ善人は善人である。ユダヤ人たれパリサイ人たれ悪人は悪人である。イエスは人類の教師である。特にユダヤ人に遣されたる所謂「民の学者」ではない。イエスの此人類的態度は彼の奇蹟丈けそれ丈け偉大である、然り奇蹟以上に偉大である。
〇そしてイエスは茲に彼の理想を発表し給うたに止まらない。彼は先づ直に百夫の長の僕の疾病《やまひ》を癒して彼の言(383)を実行し給うた。そして当時《そのとき》より今日に至るまで東西の軍人階級より許多《あまた》の忠実なる弟子を選び給うて此言を実行し給うた。キリストの地上の教会を称して Church militant(戦闘の教会)と云ふ。基督教の信仰は言ふまでもなく戦闘の一種であつて、闘志なき者の維持する事の出来ない者である。其意味に於て教会は軍隊の一種である。此は法律家や思想家の弁論会でない。汝往けと命ずれば往き、来れと命ずれば来る者の衆合である。即ち権威の行はるゝ所であつて、議論の行はるゝ所でない。茲に於てか其の指導の任に当りし者は多くは軍人の家に生れし者か、又は軍人気質の人であつた。今茲に其二三の例を挙ぐれば、使徒以後の初代の基督教会に於て、信仰学識一頭地を抜いて、既に腐敗せる教会に於て、純福音の信仰に拠て動かざりしジヨン・クリソストムは羅馬将軍の遺子であつて、又母としては武士気質の賢婦人アンツーサを有つた人であつた。クリソストムの一生涯が実に武士的基督教の好模範であつて、其の当時並に後世に及ぼせる感化力たる殆んどパウロのそれに匹敵すべきものがある。又近くは英国の説教師にして今に至るも尚ほ多くの景慕者を有し、日本の基督信者にして其感化を蒙りし者も亦尠からざるフレデリツキ・W・ロバートソンは陸軍砲兵士官の子であつて、彼の一生涯がキリストに仕ふるに軍人の精神を以てした者である事は彼を知る者の克く知る所である。カトリツク教会に在りてはゼスート派の創設者イグナチウス・ロヨラは軍人が宣教師に化した者であつて、彼の精神を受けて有名なるザビエーは遠く我日本に伝道し、我国に於て初めてキリストの聖名が称へらるゝ其基ゐを開いた者である。其他数ふるに遑がない。そして我国に於てプロテスタント主義の基督教が伝へらるゝや、初めて之を受けて其信者となりし者が鍋島の臣であつた村田若狭と云ふ武士であつた。其後同じく福音を受けて日本国の教化に其一身を委ねし者に新島襄君本多庸一君等、同じく武士の家に生れし人々があつた。そして更らに不思議なるは、日本に福音を伝ふるに(384)方て、其感化力の最も偉大なりし者の二人は自身軍職を身に帯びし人であつた。即ち熊本のカプテン・ジエーンス、札幌のコロネル・クラークがそれであつた。即ち日本に在つても、福音は軍人に由て伝へられて、軍人に由て受けられたのである。まことに「多くの人々東より西より来りてアブラハム、イサク、ヤコブと偕に天国に座し」である。イエスは平和の君であるが、其部下として忠実なる軍人を求め給ふ。そして軍人が福音の戦士と化せし時に、最も有力なる平和の使者と成るのである。
〇そして其理由は知るに難くない。福音は簡短である、明瞭である。そして多くは命令に由て行はるゝ事である。イエスが昇天に際し最後に弟子等に語り給ひし言は馬太伝末章の終りに記されたる左の言である。
  天の内、地の上の凡ての権を我に賜はれり、是故に汝等往きて万国の民にバプテスマし、之を父と子と聖霊の名に入れて弟子となし、且つ我が凡て汝等に命ぜし言を守れと彼等に教へよ、夫れ我は世の終末まで常に汝等と偕に在るなり
と。此は大将軍が部下に発する命令である。我は大権を賜はれり、我が命令を全世界に伝へよとの言である。此は「何故に」と云ひて問題を設けて攻究すべき言でない。預言者イザヤの如くに「我れ茲に在り、我を遣し給へ」と曰ひて直に服従すべき命令である。基督教は哲学的宗教なりと称し、先づ其の哲学的根柢を究はめて然る後に起つと言ふ者の如きは、到底イエスの忠実なる弟子たる能はざる者である。百夫の長は一面してイエスの何者なる乎を知つた。彼は直に其足下に伏して曰うた「主よ我れ汝を我が屋下《やねのした》に入れ奉るは恐れ多し、唯一言を出し給へ、然らば我が僕は癒ゆべし云々」と。真の信仰は如斯くにして起るのである。|イエスに遭ひ奉りし其日其時に起るのである〔付○圏点〕。福音書の記す所に従へば、べテロと其兄弟アンデレ、ヤコブと其兄弟ヨハネがイエスに従ひ(385)しも亦瞬間的決心に依れりとの事である(馬太伝四章十七節以下)。法学士又は思想家又は芸術家が一生かゝつてイエスを究めて彼を識る能はざるは、彼等に軍人其他凡ての偽はりなき人々にある此信頼の心がないからである。「イエス、ナタナエルの己の所に来るを見、彼を指して曰ひけるは、視よ真のイスラエルの人にして其心詭譎なき者ぞ」と(ヨハネ伝一章四七節)。そして真の羅馬人、真の希臘人、真の英国人、真の日本人は凡て如斯くにしてイエスの許に往いたのである。諄《くど》い理窟と、廻り遠い議論と、煩はしい説明とは武士の禁物である。敢て哲学を恐るゝに非ず、科学は之を歓迎する、然れども真理は真理、一目瞭然たりである。君命維れ従ふの外、何事をも知らざる心を以てイエスに臨んでこそ、彼がまことに神の子、人類の王、我が全身を捧げて誤らざる者である事が判明するのである。
〇此点から見て貴きは日本の武士道である 武士道は福音を接木するに最も良き台木である。此木に接ぐに此嫩枝を以てして、良き果を結ばざるを得ない。日本に於ける武士道の衰退は福音のために最も歎かはしき事である。此は日本の精華であつて、多分亜細亜文明が生んだ最善のものであらう。願ふ其の全く絶えざるに方て福音を接受するに至らん事を。(二月十日) 〔以上、大正13・4・10〕
 
    〔三三〕 家事の祝福 馬太伝八章十四、十五節。馬可伝一章二九−三一節。 路加伝四章三八、三九節。
 
〇イエスがべテロの妻の母の熱病に悩めるを癒し給へりとは初代の教会に於て甚だ大切なる事であると思はれたと見え、三福音書共に其記事を掲げて居る。其内で馬可が最も委しく、路加之を次ぎ、馬太が最も簡短である。イエスは無暗に奇蹟を行ひ給はず、之を行ふに深き理由の有りし事を知り、三福音書が挙りて此奇蹟を伝ふるを(386)見て其内に何か深き意味の有つた事が推量せらるゝのである。そして其意味を探るに方て最も善き手引となる者が簡短なる馬太伝の記事である。記者がイエスの行ひ給ひし許多の奇蹟の内より代表的の九箇を択び其内に此奇蹟を加へしに由て見て、その何の為の奇蹟であつた乎を略ぼ知る事が出来ると思ふ。勿論我等に取り奇蹟はまことに奇蹟であつて、近世科学を以て説明し去るべき者でない事は言ふまでもないのである。
〇第一に注意すべきは癒されし者のベテロでもなく、又彼の妻でもなくして、彼の妻の母即ち岳母《しうとめ》であつた事である。即ちイエスに取り縁の速い者であつて、彼の伝道事業には関係の至て尠い者であつた。我等は唯一回此所に於て彼女に会ふのみであつて、其後の彼女の生涯に就て聖書は何の記す所がないのである。べテロの妻は彼と偕に伝道に従事したとはコリント前書九章五節に於けるパウロの言に由て知るを得ると雖も、イエスに癒されし彼女の母は如何に成行きしや、杳として消息なしである。彼女は伝道史上甚だ小なる地位に立つた者である。
〇然るに此婦に此奇蹟が行はれたのである。そして其すぐ後に記さるゝ奇蹟がイエスが大風を静め給へりと云ふ宇宙制御を表号する奇蹟であつた事を知つて、我等は此小なるが如くに見ゆる奇蹟の内に、深き大なる意味を発見せねばならぬのである。イエスはガリラヤ湖畔の活動の一日、彼が本陣と定め給ひしべテロの倹《つゝまし》き家庭に於て多分其炊事の任に当りし彼の妻の母が、其地の風土病なる熱病に悩まされ居るを見て同情に堪へず、手を伸べて之に※[手偏+門]り給ひければ、熱は直に退きて、彼女は直に起きて彼等に事へたりと云ふ。事はヱルサレム郊外ベタニヤに於けるマルタ、マリヤの姉妹に関はる記事と同じく、イエスの家庭味を示すものであつて、之を美はしき家庭小説の一節と見て純金の価値があると云ふことが出来る。然し乍ら神の子にして人類の主なるイエスが為し給ひし事であれば、之にはモツト深い意味がなくてはならない。其意味を探るのが我等の義務又歓喜である。
(387)○私は思ふ主は家事を祝福する爲に此奇蹟を行ひ給うたのであると。恰も結婚を祝福する爲に、カナに於て水を葡萄酒に変へるの奇蹟が行はれたと同じである。イエスは素々家庭の人であり給うた。彼の細《さゝや》かなるナザレの家庭は彼の地上の天国であつた。彼は克く家庭の勢力を知り給うた。是は国の基、教会の礎である。イスラエルの歴史はアブラハムの天幕の内より姶つた者である。そして家事整理の任に当る者、其者は地上に於ける神の国の揺籃を司る者である。そして母と妻とが其任に当るのであつて、其意味に於て人類は繊弱き婦人の手に委ねられたのである。そしてべテロの家の場合に於て此任は彼の妻の母の担ふ所であつた。彼女は何れの国に於ても見る事の出来る忠実やかなる老熟の婦人であつた。彼女あるが故に家庭は清潔に、秩序があり、家人全体が飢えず又凍ないのである。ソロモンが彼女を讃えし言に曰く
  彼女は羊の毛と麻とを求め、喜びて手づから働く、
  彼女は商買《あきうど》の舟の如し、遠き国よりその糧を運ぶ、
  彼女は夜の明けぬ先に起き、その家人に糧を与ふ、
  彼女は其手に捲糸竿《いとまき》を執り、其指に紡錘《つむ》を握る、
  彼女は家人の為に雪を恐れず、そは彼等は皆|紅《くれない》の衣を着れば也。
と(箴言三十一章)。彼女ありて家庭あり、彼女なくして家庭はないのである。そして|神の前に彼女が特に貴くある理由は、彼女自身は己の〔付○圏点〕貴尊《とうとき》|を思はず、世も亦全体に彼女の貴尊を認めざるが故である〔付○圏点〕。炊事である裁縫である。是れ雇人の為し得る所、敢て主婦たる淑女の之に当るを要せずと云ふ者がある。然し乍らイエスは其ナザレの家庭に於てその然らざるを克く知り給うた。|炊事も愛を要し、裁縫も愛を要す〔付○圏点〕。愛なき食物に味はなし、(388)愛なき着物に温味なし。味なき冷たき社会の根柢に於て味と熱とを供する者は家庭であつて、其源は主婦である。世は「お媼《ばあ》さん」「お神さん」と称して彼女を賤しむるも、すべての真の幸福は彼女の手より出るのである。此事を克く知り給ひしイエスは、湖畔の伝道を終へてべテロの家に帰り、彼の岳母の熱に悩むを見たまひしや、彼が神たるの能を現はし、彼女を癒して彼女の仕事を祝福し給うたのである。是れイエスならずば為さゞる行である。世界の任を身に担ひ給ひし主が、家庭の小事に一身を委ぬる賤しき婦人に意を留め給ふ理やあると問ふが世の人の常である。然し乍ら人類の救主であるが故に彼は彼女に能を注ぎ給うたのである。そしてイエスの当日の場合に於て、べテロの岳母は最も重要なる地位に立つた者である。「彼女直に起きて彼等に事」ふとある。イエスと其弟子とに食を供し平息《やすみ》を与ふる者は彼女を措いて他に無かつたのである。伝道は単に思想あり弁舌ある所謂伝道師の事ばかりではない。彼等を養ひ、彼等に安き住居《すまゐ》を供ふる者も亦、伝道の大任に当る者である。イエスは此日世界教化の重要機関としての婦人後援の必要を認め、之を祝福せんが為に此奇蹟を行ひ給うたのであると思ふ。イエスの御生涯に於て此事がやゝ大規模に現はれたのが路加伝八亞一−三節である。就いて見るべし。
〇イエス、べテロの妻の母の病を癒し給ふ。前には羅馬軍人の信仰を愛し、其僕の病を癒し給ひ、後にはガリラヤ湖面に吹き荒ぶ大風を静めて弟子等の生命を救ひ給うた。事は相関聯して主イエスの御心と其御教との性質を示して誤らないのである。万物を主宰し給ふ彼に人種国民の差別はなく、又事業尊卑の相違はないのである。彼の目には最も賤しく見ゆる者が最も尊く、必要ならずと見ゆる者が必要である。イエスが其母マリヤに対して孝養を尽したりと別に聖書に記いてないが、然し乍らベテロの岳母に施し給へる奇蹟の如き、たしかにマリヤに対する尊崇の念を発表せしものと見て間違ないと思ふ。ルーテルが宗教改革を起したのではない、彼を生み、彼に(389)温き家庭を供せし彼の母マーガレツトが起したのである。ウエスレー兄弟に由てメソヂスト教会が起つたのではない、彼等の敬虔《つゝしみ》ある母なるスーザンナに由て起つたのである。そしてべテロの妻の母を癒せしイエスは今尚ほ多くの隠れたる妻と祖母とを癒し給ひつゝある。イエスは宇宙の主であると同時に又台所の神である。彼の眼は其所に注がれ、彼の愛は其所に働く所の者の上に現はれる。事は小事に非ずして大事である。初代の基督信者がイエスの此奇蹟を重要視した理由は此に在つたと信ずる。|基督教は台所の宗教である〔付ごま圏点〕と聞いて笑ふ者は未だ其の如何なる宗教である乎を知らない者である。台所は之を下女任かせにして自分は書を読み文を作り、楽を奏するを以て高尚なる女であると思ふ者は未だマリヤの子なる主イエスの心を知らざる者である。貴きはイエスの御教と御業とである。其すべてが意外である。之を聞いて喜ぶ者はすべて世に虐げられし者又賤しめられし者である。そして喜ばざる者はすべて世に持噺されし者又尊まれし者である。此奇蹟一つが世のすべての下女下男、其他ドメスチツクスと称して家庭の小事に日も亦足らずして其一生を委ぬる人の妻又母等に取り慰安に充つる大福音である。家庭の改良は勿論のこと、社会の改良も国家の改造も此福音なくしては始まらないのである。台所に働くお母さんとお祖母さんを尊敬せよ、又自分もそれに成ることを耻とする勿れ。べテロの妻の母を憶《おも》へよ。主は彼女を恵みて、すべて彼女と地位を同うする者を祝福し給へりとは、三福音書が特に此記事を掲げて後世を教へんとせし所以であると思ふ。
       ――――――――――
〇キリスト伝を研究するに方て大抵の人の陥る誤謬は彼を世の所謂偉人と見て、彼が恰かも大革命を起し給ひしやうに思ふことである。イエスは決して「偉人」でなかつた。彼は革命を起さなかつた。寧ろ革命は彼に由て起(390)つたのである。彼は当然の事を教へ、当然の事を行ひ給ひしに過ぎない。其意味に於て彼は凡人であつた。然るに世が拳つて不当の事を行ふが故に、イエスが不思議の人に見え、彼に躓き、彼に刺戟せられて大革命が始まつたのである、イエスは決して世に戦を挑み給はなかつた。|世が若し世ならば、即ち罪の世に非ずして、義の世でありしならば、彼はガリラヤの工匠として、其平和なる一生を終り給うたに相違ない〔付ごま圏点〕。人なるイエスの立場に立ちて、世が彼に就て騒ぎ立ちし事を見て、彼は不思議に思ひ給ひしに相違ない。彼は家庭の人、労働の人、信仰の人、平和の人、満足の人であつた。世に騒動を起すが如きは彼の最も忌み給ふ所であつた。然るに世が彼と正反対であつた故に、彼は平和を来たさずして、剣《つるぎ》を来す原因となりし事を見て、彼は非常に其心を痛め給ひしに相違ない。
〇キリストがさうであつた。基督者《クリスチヤン》も亦さうである。彼は何よりも平和を愛して、何よりも騒動を嫌ふ。然るに世が彼に当つて騒動が起るのである。自国人同様に外国人を愛すると聞いて愛国者が怒り立ち、神の恩恵は台所に臨んで、深窓や化粧室に臨まないと聞いて奥様や令嬢が騒ぎ立つのである。イエスは貴族でもなく、富豪でもなく、又学者でもなく、|唯の人であつた〔付○圏点〕。そして余りに人らしき人でありしが故に、世は彼を祭り上ぐる乎、然らざれば彼を十字架に釘けたのである 然し乍ら世は如何であるとも我等は何処までも基督者であらねばならぬ。|即ち徹底したるたゞの人たるべく努めねばならぬ〔付○圏点〕。(二月十七日)
 
    〔三四〕 宇宙の制御 馬太伝八亞廿三−廿七節。馬可伝四亞卅五−四一節。 路加伝八亞廿二−廿五節。
 
〇イエスは奇蹟を以て病人を癒し給うた。たゞ手を按《つ》けた丈けで癩病患者を癒し給うた。遠方より声を発した丈(391)けで百夫の長の僕を癒し給うた。是れ丈けでも大なる奇蹟であつた。然し彼の奇蹟は之に止まらなかつた。彼は亦大風を静め給うた。鬼を逐出し給うた。罪を赦し給うた。即ち宇宙を制御し、霊界を支配し、良心を主宰するの権能あるを示し給うた。|イエスは単に個人の救主でない。宇宙の主宰者である〔付○圏点〕。「或は天に在り、或は地に在る万物をキリストに於て一に帰せしめ給ふ」とありて、|彼は天上天下、万物の中心的勢力である〔付○圏点〕(エべソ書一章十節)。
〇イエスは果して斯かる絶大の奇蹟を行ひ給ひし乎。彼が病人を癒し給ひたりとは信ずるに難くない。大人格の精神的感化に非常なる者があるが故に、之が原動力となりて終に肉体の疾病が癒ゆるに至りしと聞いて我等は別に怪まないであらう。然し乍ら一言を以て人の病を癒すと、一言を以て海の浪を静むるとは全然別種の事《わざ》である。前者は之を信ずるに難からずと雖も、後者は事実として受取る事は出来ない。イエスが天然界に施せりと云ふ奇蹟は、此は事実としては有り得べからざる者と見て差支ないと云ふが、多くの有力なる神学者の意見である。有名なるカイム先生の如きは此説の維持者である。
〇事実果してさうである乎。福音書の記事其物が全然写実的ではない乎。之に何の無理なる所がない。装飾もなければ形容もない。事実有の儘である。颶風《おほかぜ》の起りし時にイエスは※[舟+肖]《とも》の方にて枕して寝て居たまうた。弟子等危険の己が身に迫るを見たれば、彼を起して曰うた「師よ我等が溺るゝをも顧み給はざる乎」と。此声を聞きてイエスは立上り、風を斥《いまし》めて曰ひ給うた「静まれ、口を鍼《とぢ》よ」と。茲に於て風止みて大に和たりと云ふ(馬可伝の記事に依る)。是れ丈けである。斯かる絶大の奇蹟を記るすに方て何んと簡短極まる記事ではない乎。若し他の人が斯かる大奇蹟を行うたとするならば、其記事に数万語を費すも尚ほ足りないであらう。預言者エリヤがカル(392)メル山上に雨を祈りし記事ですら、列王紀略上第十八章全部に渉つて居る。日蓮上人の相州|田辺池《たなべがいけ》に於ける雨乞ひの記事の如き、血沸き魂躍るの概がある。然れども神の子が湖上の颶風を鎮むるの状は全く之と異なる。「イエス起きて風を斥め、海に対ひて静まれ口を緘よと曰ひければ凰止みて大に和ぎたり」と云ふに過ぎない。恰かも権威ある父が其子に静粛を命じて其命が行はるゝと同然である。宇宙の主宰者が風と海とに静粛を命じて、其如くになつたのである。当然の事である。之を録すに長きを要せず簡短の記事にて足る。然れども弱き人間の眼を以て見て、簡短にして荘大である。我等も亦之を読んで使徒等と同じく「風と海さへも順ふ、是れ誰なる乎」と言はざるを得ないのである。
〇而して又イエスは斯かる事を為し得る者であるべきではない乎。彼は神の子であり、人類の王であり、万物を復興し、死者を甦らす者であると云ふのが聖書の主張である。彼は小なる救主ではない、大なる救主である。彼は孔孟釈基と称して孔子や釈迦と類を同うする者ではない。彼は神が肉体を取りて現はれ給うた者であつて、世の基の置かれざりし前より聖父と栄光を共にし給ひし者である。斯かる者であり給ふが故に、世を救ひ又我をも救ひ得る者である。人なる教主は幾人あつても世をも我をも救ふ事は出来ない。孔子は偉人なりといふが、彼が世界はさて措き、彼の生国たる支那をも救ひ得ない事は何人も認むる所である。死に臨んで「太山|壊《くづれ》なん乎、梁柱摧けなん乎、哲人|萎《やみ》なん乎」との悲鳴を発せし彼が如き者に東洋の運命を託する事は出来ない。プラトー、アリストートル、カント、ヘーゲル、ミル、スべンサー、執れも偉大は偉大なりとするも「鼻より息する人」たるに過ぎない。彼等は天然を学びし者であつて、天然を支配せし者でない。そして斯かる者より救拯を望む事の出来ない事は何人が見ても明かである。人類は一度は米国前大統領ウイルソンより世界の救ひを期待した。然る(393)に彼の事業は大失敗に終り、彼れ自身すら失意失望の終焉《おはり》を遂げた。レニン、クレマンソー、ロイド・ヂヨージ、人類の救主としては如何に弱き人達であるよ。|唯一人ナザレのイエスは宇宙を制御するの能力あるが故に人類をも我をも救ふ事が出来る〔付○圏点〕。彼に頼つて我等は失望しない。彼に任かせて我等は安全である。彼は風と海とを鎮むるの力あるが故に、我は彼が末《おはり》の日に我を甦らし給ふと信ずる。万物彼の命に従ふが故に、我は新しき天と地とが現はれて、神我等の目の涕を悉く拭ひとり復死あらず、哀み突《なげ》き痛み有ることなき福ひなる状態《ありさま》の実現する事を信ず。イエスを信ずる我等に取りては、此奇蹟は有つてはならぬ奇蹟に非ずして、無くてはならぬ奇頗である。
〇斯かる信仰の今日の日本人全体に由て受けられない事を私は克く知つて居る。日本人のみならず西洋人の多数も亦之を信じない。然り今や基督教会に於てすら此信仰を唱ふる者は甚だ尠い。然れども是が聖書の信仰であること、又今日まで基督教会全体の信仰でありし事は疑ふの余地がない。我等はヨハネ伝発端の言が此信仰を伝ふる考である事を知る。曰く「太初に言あり言は神と偕に在り、言は即ち神なり。此言は太初に碑と偕に在りき。万物之に由りて造らる、造られたる者にして一として之に由らずして造られしは無し」と。そして第八節に至りて「言肉体と成りて我等の間に寄《やど》れり」とあるを見て、以上のすべてイエスキリストに就て云へる言なるを知る。イエスは万物の造主であるとの信仰である。驚くべき信仰である。然れども凡ての基督者の信仰である。そして此信仰が新約聖書を貫徹して居るのである。殊にエべソ書、コロサイ書、ピリピ書はパウロの信仰として此信仰を高調し、ヨハネ伝並に黙示録はヨハネの信仰として此信仰を伝へて居る。キリストを単に偉大なる人格者と見る丈けで聖書は解らない。「我はアルパ也、オメガ也、首先《いやさき》なり末後《いやはて》なり、始なり終なり」とは彼が己に就て曰ひ(394)給ひし言であつて、千九百年問の基督信者全体は此言を文字通りに信じ来つたのである。
〇物質科学の立場よりして此信仰を説明するは難くある。然れども徹底せる信仰生活は此信仰の上にのみ行はる。我が救主は宇宙万物の主宰者である。物として彼に由らずして造られたるはなし、事として彼に由らずして行はるゝはなしと解して、我に真個の平安があるのである。風の吹くも、浪の立つも、地震の起るも、雷霆《かみなり》の鳴るも、皆な彼の知食す所、彼れ之を起し、彼れ之を止め給ふと知りて、我は危険多き此世界に在りて 永遠の平安《やすき》に居ることが出来るのである。信者は「神と天然」と称して、天然を神の対手として見ないのである。「彼は風を使者《つかひ》となし、火焔を役者となす」とありて、天然を神の使者又役者と見るのである(ヒブライ書一章七節)。故に天然を恐れず、却て之を征服せんとするのである。今の人は天然の征服と云へば天然科学を以て始つた者であると思ふが、事実は然らずして、基督教の信仰を以て始つた者である。「誰か能く世に勝たん、イエスを神の子と信ずる者に非ずや」との使徒ヨハネの言は、人類の思想発達史より見て意味深き者である(ヨハネ第一書五章五節)。「世」は原語のコスモスであつて、天然界をも含む辞である、まことにイエスを神の子と信ぜし者が天然界に勝つを得て、近代科学の基礎を据えたのである。天然科学が、仏教国の印度や、儒教国の支那に起らずして、基督教国の欧米に起り又栄えし事は、其内に深き信仰上の理由が在つて存するのである。又ヨハネ伝十六章三三節に於ける「汝等世に在りては患難を受けん、然れど懼るゝ勿れ、|我れすでに世に勝てり〔付○圏点〕」との主イエスの言の如き、単に霊的にのみ解すべきでない、亦物的即ち天然的にも解すべきである。イエスは天然に勝ち給うた。故に我等所謂天災に遭ふとも懼るゝに及ばない。天災も亦彼の掌中に存す。彼の許可《ゆるし》なくしては起らず、又我等を害ふことは出来ない。イエスが天地万物を主宰し給ふと信じて、我も亦彼と共に大風荒れすさぶ浪の上に静かに枕して(395)寝り得べき筈である。
〇基督信者の此信仰に対して人は言ふであらう、「若し然りとすれば今度の地震の如きは之を如何《どう》見る乎。之も亦イエスが起したとする乎、縦し之を起したのでないとするも、何故に彼は之を止め得なかつたのである乎」と。若し斯かる質問をパウロに掛けたならば、彼はロマ書九章十九節より二十九節までの言を以て答へたであらう。「あゝ人よ汝何人なれば神に言ひ逆ふや、造られし者は造りし者に向ひて汝何故に我を此く造りしと云ふべけんや云々」と(二十節)。イエスは人であつて又神である。そして神の見る所は人の見る所と異る。人は目前の事の外に見る事が出来ない。神は永遠の未来を見透し給ふ。我等信者と雖も神が何故に此災害を日本に下し給ひし乎を知らない。然れども我等の心の深い所に於て、「之には深い意味がある、日本の為に計り、人類全体の為に慮りて此くあるが善しと御欲召されしが故に此くあつたのである」と信ずる。然り信ずるのであつて、判つたのではない。我等自身にも此事につき多くの疑が起るが、然し聖書の教に循つて此く信ずる。そして此信仰は誤らないと|信ずる〔付○圏点〕。最後の審判を待たずして、今より百年又は二百年を経て後を振返つて見て、思慮ある日本人は悉く此大地震の意味を明かに悟るであらう。そしてパウロと共に叫んで曰ふであらう「あゝ神の智と識との富は深いかな、其審判は測り難く、其|踪跡《みち》は索ね難し。誰か主の心を知りしや。誰か彼と共に謀ることを為しや。誰か先づ彼に与へて其の報いを受けんや。そは万物は彼より出、彼に倚り、彼に帰ればなり、栄光窮りなく彼にあれ、アーメン」と(羅馬書十一章三十三節以下)。(二月廿四日)
 
(396)    〔三五〕 ガダラの出来事 馬太伝八章二八−三四節。馬可伝五章一−二〇節。 路加伝八章二六−三九節。殊に馬可伝の記事に注意せよ。
 
〇イエスは単に大なる教師でなかつた。又大なる有能者であつた。彼に天然を支配する能力があつた。又霊界を主宰るの権能があつた。風も海も彼に従うた。悪鬼も亦彼に従はざるを得なかつた。イエスは単に其高潔なる教訓を以て人を導き、世を感化したに止まらない。彼は神の大能を以て疾病を医し、悪鬼を征服し給うた。「若し我れ神の指をもて悪鬼を逐出したるならば神の国は既《もは》や汝等に来れり」と彼は曰ひ給うた(路加十一章二十)。我等イエスを学ばんと欲して彼の此方面を忘れてはならない。彼を単に道徳の教師なりと思ふて彼を活世界より葬り去りてはならない。「是故に我等矜恤を受け、機に合ふ助となる恩恵を受けん為に憚らずして恩寵《めぐみ》の座に来るべし」である。
〇茲に此驚くべき記事がある。記事其物の意味は至つて明瞭である。其地理歴史等は当時の状況其儘である。豚の群が山坡《がけ》より海に落ちて溺れしと云ふ所は、今はケルサと称へられて湖水に直面せる断崖である。「デカポリスに言揚《いひふら》し」と云ふは|十市〔付ごま圏点〕と称へられてガリラヤ湖の東南に当り、希臘風の小都会十市が一団をなして一地方を形成せし所である。茲に行はれし不思議の事《わざ》を除いては、記事其物の内に不自然なる所は少しもない。故に問題は単に行はれし事の事実如何のそれである。斯かる事は果してありし乎、或は有り得る乎、単にそれである。
〇而して私は此事は福音書の記すが如くに有つたと信ずる。悪鬼に憑れるとは今は無い事であるが故に、其時にも有りやう筈は無いと言ふは当らない。之を単に精神病の一種と見做すも、斯かる精神病が其時に限りて有つたと信ずるは少しも迷信でない。多くの疾病が地理的であり又時代的である。阿弗利加内地に流行する睡眠病の如(397)き、熱帯地方以外に之を見ないやうに、千年前に流行した疾病にして今は消えた者がある。|殊に精神病は主として文明病である〔付ごま圏点〕。故に異なる文明に依て異なる精神病がある。今日の日本に流行する恋愛病の如き、此はたしかに時代的疾病である。此は日本人の情性に、日本近代の特殊の文明を施せし結果として起つた者であつて、多分他の国又は他の時代に於て見ることの出来ない疾病であると思ふ。其如くに ECHE IN DAHMONlON(悪鬼に憑れる)とは其当時ユダヤ地方に突発せし精神病の一種と見て、医学上何の不思議はないと思ふ。
〇然し乍らガダラの狂人は単の狂人ではなかつた。彼は単に精神病患者と称して、精神又は神経の狂ひし者ではなかつた。彼は鬼に憑れし者であつた。或る他の霊が彼の衷に入り来りて、彼の身体を占領し、彼をして己が(其霊の)欲するが儘を行はしめんとせし場合であつた。そして斯かる場合が他にも多くあつた事は聖書の明に示す所である。所謂「鬼に憑れたる者」を悉く精神病者と解して聖書の此事に関する記事を解するは非常に困難である。鬼に憑れたる者は文字通りに鬼に憑れたる者である。鬼とは悪い霊であつて、それが人の霊に宿りて之を己が儘に使役せんとしたのである。そして斯かる事は有り得ないと誰が言ひ得る乎。精神病其物が近代医学の未解の大問題である。精神は神経の作用であつて、神経さへ健全ならば精神病は有り得ないと云ふは医学上のドグマに過ぎない。多くの精神病学者は神経の作用以外に、或る他の勢力の働きを認むる。それが果して聖書の記すダイモニオンである乎、其事は別として、神経丈けを以て精神を説明する事の出来ないこと 明かである。そして聖書は明かに示して言ふ、「人の衷には霊の在るあり、全能者の気息(霊)人に聡明《さとり》を与ふ」と(ヨブ記三十二章八節)。此は勿論善き霊に就て言うたのである。パウロは曰ふ、「汝等悪魔の奸計を禦がん為に神の武具を以て装《よそ》ふべし、我等は血肉と戦ふに非ず、政事また権威また此世の闇黒を宰る者、また天の処に在る悪の霊と戦ふな(398)り」と(エべソ書六章十一、十二節)。此は悪魔と其眷族とに就て言うたのである。そして聖書の此見方は旧い見方であつて、今や心理学の研究に由て学者の否定する所となりたりと云ふと雖も、事実は容易に斯かる否定を許
さないのである。悪魔《さたん》なる者はある。悪鬼なる者はある、悪の霊なる者はある。そして人を欺き、国民を欺き、学者を欺き、大戦争を起し、文明を壊ち、世界の破滅を早めたではない乎。トライチユケー、ヒンデンベルグ、クレマンソー、大統領ウヰルソン、西園寺公爵……彼等は皆な|或者〔付ごま圏点〕に欺かれて、世界戦争の大悲劇を演ずるの媒介者と成つたではない乎。世に悪魔は無いと断言し得る者は何処に居る乎。「此世の暗黒を宰る者また天の処に在る悪の霊」は今猶世界到る所に於て働いてゐるではない乎。人類の最大努力を以てしても絶滅することの出来ない此暗黒の勢力、人類が今日有する知識を以てしては説明する能はずと雖も、そのたしかに悪の最大勢力である事は疑はんと欲するも能はずである。
〇そして此暗黒の勢力が、光の主なるイエスキリストが世に現はれ給ひし時に、特別の勢力を以て世に現はれたのである。そして其現はれの一が「鬼に憑かれる」事であつたと見るが当然であると思ふ。そしてガダラの出来事は其一であつた。それが福音書の此所に記されたるが如くに起つたのである。
〇所謂「豚事件」に就て辞を費すの必要はない。此は有名なるグラツドストン翁が『十九世紀雑誌』紙上に於て博士ハツクスレーと数回に渉り議論を闘はせし問題である。今や人は斯かる問題は之を一笑に附するに止まる。然れども四十年前の当時に在つては、真剣なる問題であつた。大学者が全勢力を注いで聖書の此記事を弁護した時代が在つたと思ふと、当時を回想して今昔の感に堪へない。
〇而して豚事件よりも大切なるは豚の如き人の心である。ガダラの人等はイエスの此事蹟を見て彼に「其境を出(399)んことを求め」たとある(馬可五章十七)。|彼等に取りては豚は人よりも大切であつた〔付○圏点〕。人の癒されしを見て喜ばずして、豚の失はれしを見て悲んだ。そして財産を毀ちし理由を以てイエスの彼等が土地を去らんこと 求めた。憐むべき哉ガダラ人よ。然し斯かる人は世界何れの所にも在る。|然り日本にも在る〔付○圏点〕。イエスに由て自分の子等を救はれしを感謝せずして、自分の財産の多少損害せられしを悲しみ、イエスと其使者との己が家を去らんことを求めた日本人を私は幾人も知つて居る。|神の子よりも豚〔付○圏点〕、それが此世の人等の心である。ガダラ人等に断はられ給ひしイエスは船に乗て復たカべナウンの方へと帰り給うた。其時の彼の心は如何であつたらう。「父よ彼等を赦し給へ。彼等は何を為す乎を知らざれば也」とは彼が此時にも亦発し給ひし祈祷であつたらう(路加廿三章三四節)。
〇更に大切なるは我等自身に係はる問題である。我等も亦度々悪鬼に憑かれるのである。何処より来る乎知らずと雖も、悪しき思想又暗示が我等の心に臨むのである。そして之を逐へども去らず、抑へんと欲して能はず、我等は甚く其悩ます所となる。又思ひ掛けなき悪人が我等の間に現はれ家庭を紊し、教会を毀ち、兄弟相鬩ぎ、友人相反くに至る。我等其説明を得んと欲して能はず、罪を相互に帰して自から責任を免れんとするも当らざる場合多し。|何に由て然る乎。我等の内の或者が悪鬼に憑れたりと見るが最も正当の見方である〔付○圏点〕。故に信者の生涯に於て悪鬼に注意するは最も大切である。「是れ我等サタンに勝れざらん為なり、我等彼の詭計《はかりごと》を知らざるに非ず」とパウロが曰ひし通りである(コリント後書二章十一)。|信者は神を知ると同時に悪鬼を知るを要す〔付○圏点〕。敵を知らざるは敗北の基である。我等はサタンと其詭計とを知らずして常に失敗を重ねつゝある。サタンは無しと云ひ、人に悪意を帰するは罪なりと称して、我等は時には明白なる罪を是認する。又サタンの罪を彼に憑れし人に帰して(400)其の人を誤解する。是れ皆なサタンと其詭計とを知らざるより来る過誤である。斯かる場合に於てイエスは単刀直入、其原因を示して曰ひ給ふ「敵人《あだびと》之を為せり」と(馬太十三章二八)。此所に「敵人」とあるは悪鬼の首《かしら》なるサタンである。
〇斯かる場合に処して我等如何にして敵に勝つことが出来る乎。敵は人よりも遥かに強くある。クレマンソー、ウイルソン、大隈侯をさへ欺くを得しサタンは容易に我等を欺く事が出来る。ガダラの悪鬼にイエス其名を問ひ給ひしに「我等多きが故に我名をレギヨンと云ふ」と答へたりとある。レギヨンは羅馬軍隊に於ける六千人より成る一軍団である。魔軍は其数に於て又其強さに於てレギヨンであるといふのである。そして我等何人が此大軍に勝つことを得んや。茲に於てかルーテルの信仰が必要になるのである。
   若し我等の力に頼まば 我等は直に失はれん
   然れど一人の聖き者の 我等の為に戦ふあり
   彼れ何人と尋ぬる乎  イエスキリスト其人なり
   サバオスの神にまして 彼の他に神あるなし
   彼れ我等と共に戦ふ。  (『愛吟』より)
サタンは強くある、然れどもキリストはサタンよりも強くある。彼が人類の救主たる証拠は主として茲に在る。「誰にても勇士《つよきもの》の家に入りて其家財を奪はんとせば先づ勇士を縛らざれば能はじ、縛りて後その家を奪ふべし」とある(馬可三章二七)。此所にて「勇士」はサタンであり、之を縛る者はキリストである。そして彼にサタンを縛つて戴いて我等に真の平安があるのである。|故に人の側に在りては悪鬼を逐出すの途としては唯祈祷あるのみ
(401)である〔付ごま圏点〕。「此|族《たぐひ》は祈祷と断食とに由るに非ざれば遂出すこと能はざる也」とあるが如し(同九章二九)。そして此祈祷の如何に必要なる乎は人生の如何に困難なる乎を知る者の何人も切に感ずる所である。そは所謂人世の行路難の大部分はサタンと其詭計に由るからである。(三月十六日)
 
    〔三六〕 ヤイロの娘 馬可伝五章二一−四三節。馬太伝九章一八−三一節。 路加伝八章四〇−五六節。
 
〇イエスが会堂の宰ヤイロの女を死より甦らせ給へると云ふ聖書の此記事は多くの親達を慰めしと同時に又多くの親達を苦しめし記事である。病める子を有つ多くの親達は之に由て力を得、ヤイロと同じくイエスの足下に伏し、切々《ひたすら》に其癒えしことを祈求めて、其|祈願《ねがひ》の聴れしに会うて喜んだ。それと同時に又、此奇蹟に励まされて、病める我子の癒されんことを求め、力を籠め、意力《こゝろばせ》を注いで祈りし甲斐なく、其子の死するに会うて大なる失望に陥り、神を疑ひ祈祷を蔑《なみ》し、終に信仰を棄つるに至つた親達も尠くない。此は恩恵の記事であつて、同時に又呪詛の記事である。ヤイロの女の場合をよく究めずして、我等は信仰上、大なる危険に陥る虞がある。
〇此はイエスの為し給ひし事であつて、彼が「周く遊《めぐ》りて善事を行ひ」給へる其善行の一と見れば其れまでであって、我等は其れ以上の深い意味を此記事の内に探るに及ばないと云ふ事が出来る(行伝十章三八節)。イエスに疾病を癒すの能力があつた。そして彼は茲に一人の女を失はんとする親の苦境に在るを見て、同情の念に禁ずして、治癒《いやし》の能力を露して彼等を救ひ給へりと解すれば、此事に関し其れ以上に彼の聖意を忖度するの必要はない。イエスの同情発露の一例と見て、ヤイロの娘の場合は彼の美はしき性格の一面を我等に示すものである。我等は之を知らされた丈けで感謝満足しなければならぬ。
(402)〇然し乍ら子を持ちし親の心はそれ丈けでは満足しないのである。若しイエスがヤイロの娘を癒すことが出来たならば何故に我子を癒すことが出来ない乎。彼は今猶ほ活き給ふ者であつて、「若し汝等何事にても我名に託りて求はゞ我れ之を行さん」と彼は弟子等に約束し給うたではない乎(ヨハネ伝十四章十四節)。人の切なる祈求にして、其子の生命の助からんことを欲するに勝さる祈求はない。此祈求にして聴かれざらん乎、他の祈求は聴かれざるも可なりである。此はまことに一生懸命の祈求である。祈祷のテストは茲に在る。主は果して信者の祈祷を聴き給ふ乎。祈祷は果して有効である乎。信仰上の此大問題を解決する者は此場合である。
〇イエスはヤイロに乞はれて彼と共に往いた。然し途中、十二年の間|血漏《ちろう》を患へる婦に会ひ、彼女を癒すが為に大分に手間取り給うた。一刻を争ふ此場合に此猶予はヤイロに取り絶望的であつた。果して会堂の宰の家より使者は来りて曰うた「汝の娘既に死たり、何ぞ師を煩はす乎」と。他の婦を癒さんが為に我が女は手後《ておくれ》に成りて死んだのである。残念である、然し止むを得ない。我れ一人の為の先生ではない。我は諦むるより他に途がないと、ヤイロは心の内にて言うたであらう。然るにイエスは使者の言に耳を傾けずして会堂の宰に曰ひ給うた「懼るゝ勿れ唯信ぜよ」と。|信仰を持続せよ〔付ごま圏点〕との謂である。生命の主の彼と偕に在るあり、死は敢て懼るゝに足らずとのことであつた。主の此言に励されて、ヤイロは唯|兢々《おそる/\》彼の後に従《つ》いて往いたであらう。
〇イエスはべテロとヤコブ及びその兄弟ヨハネの外は誰にも共に往くことを許し給はなかつたとある。何故に然る乎。他の弟子等は将に行はれんとする奇蹟を目撃するに堪へなかつた故であらう。奇蹟は何人が見ても益ある事でない。之を見て益する人がある、又躓く人がある。イスカリオテのユダの如き、彼をして若し此場に在らしめしならば、彼の叛逆を一層早めたであらう。奇蹟は単に不思議なる業ではない、神の奥義を示すがための表号《しんぼる》(403)である。|イエスは茲に単にヤイロの娘を助けんとして居たまうたのではない、彼の女を以て大なる奥義を三人の弟子等に示し、而して彼等を通じて後 すべて彼を信ずる者を救はんとし給うたのである〔付○圏点〕。後に変貌の山に於て彼が以上の三人に限り、彼が将さに取らんとする栄光の容貌《すがた》を拝するを得しめ給ひしも亦此理由に因るのである。三人は此時たゞ不思議なる業を見て人々と同じく甚だ駭いたであらう。然し乍ら後に至り此奇蹟の意味が解つて、此は単に一の慈善事業でない事を悟つたであらう。
〇そして其意味とは是 ある。|即ちイエスは生命の主であつて、彼はその聖旨のまゝに之を何人にも与ふる事が出来ると云ふ事である〔付○圏点〕。即ち彼は「我は復活《よみがへり》なり生命なり」と云ひ給ひし者それである。又「凡そ子を見て之を信ずる者は永生を有す、我れ復た之を末の日に甦らすべし」と云ひ給ひし者それであるとの事である(ヨハネ伝十一章廿五節、同六章四〇節等)。此事を示さん為の此奇蹟であつた。そして其奥義が会堂の宰のヤイロの娘の場合に於て示されたのである。|即ち第一に弟子等を教へん為の奇蹟であつて、女を救ふは第二の目的であつた〔付ごま圏点〕。すべてイエスを信ずる者に永遠の希望を懐かしめんとするが此奇蹟の主眼であつた。ヤイロを目的とする奇蹟であると思ふが故に、我等は之に由て、或は自分の祈祷がその如くに聴かれたりと思ふて得意がり、聴かれずと思ふて失望するのである。
〇斯く云ふ私自身が一度ヤイロの立場に立つた者である。そして聖書の此記事に就て深く考へざりし私は、ヤイロの実験が必ず私の場合に於て繰返さるゝ事であると信じた。私は私の娘の不治の疾病が必ず癒さるゝ事と信じた。故に医師に見放さるゝも私は見放さなかつた。危篤に迫るも危篤は却て御栄を顕はすの機と成ることゝ信じた。私の耳に響きしは唯イエスの言であつた。「恐るゝ勿れ唯信ぜよ」と。然れども私の信仰は終に無効に帰し(404)た。私の娘は医師の診察の通りに死んだ。ヤイロの実験は私の実験と成らなかつた。私は非常に失望した。私には其時に世の神を信ぜざる人に無い苦痛があつた。それは懐疑の苦痛であつた。私の信仰は其根柢より動ぎだした。私は暗黒の淵へと投込まれた。そして教会の批評家は一層私の此苦痛を増した。彼等の或者は曰うた、「彼にまだ神に赦されない罪が存る故に此苦痛が臨んだのである」と。或る他の者は言うた「彼の信仰に大なる欠点あるが故に彼の祈祷が聴かれなかつたのである」と。其他種々雑多の批評を加へられて私は血ばしる傷の上に熱鏝《あつごて》を当らるゝやうに感じた。実に一生忘るゝことの出来ない辛らい経験であつた。
〇然し乍ら私は後に独りで静に考へた。私よりも遥に信仰の高い人で私と同じ経験を有つた多くの人の実験を読み又聞いた。殊に又更に深く聖書を研究した。そしてヤイロの娘の此場合は決して何人にも繰返さるゝ者でない事が解つた。|此は信者の復活の教義を示す為の大なる奇蹟である事が解つた〔付○圏点〕。路加伝七章にあるナインの邑《まち》の※[釐の里が女]《やもめ》の独子を甦らし給ひしが他の例である。ヨハネ伝十一章に記さるゝ死せるラザロの復活の場合は其最も著しき者である。何れもイエスに祈る者に死の苦しき経験はないと云ふ事を教へん為でない、「末日に我れ之を甦らすべし」との教訓の実物教訓であることが解つた。即ち私の娘の場合に於ても私の祈祷が聴かれなかたのではない、聴かれつゝあるのである。|末日に於てイエスがすべて彼を侶ずる者を甦らし姶ふ時に、彼は私の娘に向つてもタリタ・クミ、娘よ起きよと曰ひ給ふのである〔付○圏点〕。而して娘は此声に応じて甦り、彼女が再び私等夫婦の手に渡さる\のである。其時までは批評家が何と言はうと私は懼れず唯信ずべきである。勿論私が斯く云へば世人は勿論のこと、教会の人までが哂笑《あざわら》ふであらう。然し私はイエスを信ずる。「我に就《きた》りし人は末日に之を甦らすべし」と曰ひ給ひし主イエスの言を信ずる。而して斯く信じて日に日に其歓喜の日の到るを待つ。
(405)〇そして是が本当の解釈であらねばならぬ。イエスの奇蹟はすべて奇蹟以上の高き真理を教ふる為であつた。パン五と小魚二を以て五千人を養ひし奇蹟は、肉の食物を以て人を養はんが為の奇蹟に非ずして、「我は生命のパンなり」と云ふ御自身に係はる大なる真理を教へんが為であつた(ヨハネ伝六章を見よ)。ヤイロの娘の復活に於て、すべての信者は其祈祷に由て其の愛する者の疾病を癒され、死者を甦らさるべしと解するは、すべての信者は奇蹟的に其肉体を養はるべしと信ずると同じである。死は末日まで取去られないのである。故に今此肉体に於て甦らさるゝも再び死を味はねばならぬは勿論である。ヤイロの娘もベタニヤのラザロもイエスに死より甦らされて永久に死を免がれたのではない。朽つべき肉体の復活は最も望むべき復活ではない。最も望むべき復活は再び死ぬることなき復活である。そしてイエスは己に此能力あるを示さんが為に此奇蹟を行ひ給うたのである。
〇然し乍ら此奇蹟は末日の復活を教ふる為の作話ではない。此はまことに有つた事である。其事は記事其物が証明する。イエスは此時にアラメヤ語を用ひてタリタ・クミと言ひ給ひしとの如き、殊に最後の一節に又「娘に食物を与へよと命じたり」とあるが如き、此は目撃者に由つて伝はりし事実其儘と見るより他に見方がない。イエスは神の子であつて同時に又人の子であつた。彼に人間味がたつぷりと有つた。彼は多くの宗教家が為すが如くに呪術を少女に施し給はなかつた。彼女の解し得る言葉を以て彼女に言掛け給うた。娘に食物を与へよと命じ給うた。|神らしき人らしき彼である〔付○圏点〕。夫故に我等如き弱き者を救うて之を御自身に肖たる神の子供となすことが出来るのである。而して又有つた事である、故に又と復たび有り得ない事ではない。イエスは今猶ほヤイロの娘に施し給ひし治療《いやし》と同様の治療を施し給ふ。我等は彼の能力を末日に限つてはならない。然し乍ら末は大であつて今は小である。|我等にヤイロ以上の信仰がなくてはならない。即ち我娘は癒さるゝも癒されざるも、最後の癒し(406)即ち救を信じ、感謝して其日を待たねばならない〔付○圏点〕。我等愛する者の死に面して此の信仰を抱くは甚だ難くある。然れども神は我等の信なきを憐み給ふ。「主よ信なきを助け給へ」との祈りに応へ給ふ(馬可九の二四)。(三月廿三日) 〔以上、大正13・5・10〕
 
    〔三七〕 眼を開かれ舌を釈かる 馬太伝九章二七−三四節。馬可伝八章廿二−二六節。 同十章四六節以下。同九章十四節以下。
 
〇ナザレのイエスは如何なる人でありし乎。彼が偉大、高潔なる人格者でありしは云ふまでもない。彼は義しい、聖い、疵なき人であつた。何人も彼に於て道徳的欠点を指すことが出来なかつた。然し彼は其れ丈けではなかつた。|彼は徳の人でありしと同時に又能力の人であつた〔付○圏点〕。彼の身体の中に我等の推量ることの出来ない能力が籠つて居た。彼れ手を按《つく》れば病者は癒え、死者は甦り、風と波とさへも其命に服した。斯かる事はあり得べき乎と我等は疑ふ。有り得ると神はイエスを以て答へ給うたのである。イエスは御自身を「人の子」と呼び做し給うた。「狐は穴あり天空の鳥は巣あり然れど|人の子〔付○圏点〕は枕する所なし」と。「それ|人の子〔付○圏点〕地にて罪を赦す権(能力)あることを知らせんとて云々」と。「人の子」は単に「人」と云ふことである。模範的の人である。完全なる人である。罪に汚されざる人である。第二のアダムである。人はすべて素々イエスの如き者であつた筈である。即ち神の子であつて神に肖て自己の中に万物を支配するの能力を有つた者である。然るに罪の結果として、即ち能力の源なる神を離れし結果として、今日我等が見るが如き弱き授けなき者と成つたのである。然し神は素々斯んな弱い者として人を造り給うたのではない。アダムが若しアダムであつたならば、即ちサタンの声に聴かずして神の命に従ひしならば、彼と彼の子孫とはイエスの如き者であり得たのである。イエスは罪の世に在りて人の子の中の唯
(407)一の例外であるが、神の創始《はじめ》の御計画は凡ての人がイエスの如き者であるべき筈であつた。即ち|罪を知らざるのみならず能力に充ち溢れたる者であつた〔付○圏点〕。天然の子として地上に現はれしも天然の上に立ち天然を支配するの権能を具へたる者であつた。まことにイエスは人の子であつて人の模範である。人の如何に尊き乎はイエスを知りて知ることが出来る。即ち人は疾病や死の奴隷に非ずして之に打勝つことの出来る者である。詩人テニソンの所謂
   The Strong Son of God.
   Thou Immortal Love.
   汝、死なざる愛の所有者なる
   能力ある神の子よ
とある其者、イエスがそれでありしが如くに人は元来さうなる筈の者である。而して「彼を接《う》けその名を信ぜし者には能力を賜ひて神の子と為せり」とあるが如くに、人はイエスを信じて彼の如き者となるのであるとは聖書の明に示す所である。我等はイエスの行し給へる奇蹟の記事を読むに方て此心を以て読まなければならぬ 主は能力ある者、而して我等彼を信じて彼と同じく能力ある者と成るのである。
〇人類は知識を研き、科学の力に由て天然を支配する事が出来る、其意味に於て人は神の子であるとは、我等が常に聞かさるゝ所である。然し神の子の能力は単に其知識に於て在るに非ずして|彼自身に於てあるのである〔付○圏点〕。方法に由らず機械を用ひずして、イエスの如くに自身に能力を具へ自由に之を使用し得るに至つて人はまことに神の子らしくなるのである。斯かる事を述べて私は夢を語るやうに思はるゝであらう。然し乍ら夢でない。人の(408)如何に強き乎、又如何に強く成り得べき乎は未だ研究されざる問題である。然し信仰の結果が単に道徳の改善に止まらずして、能力の増加を来すことは幾度か実験されたる事実である。そして幾分なりとも此事を科学的に証明する者が最近の心理学ではない乎 マインド(心)の能《ちから》、此は実に著るしい者である 理化学者は既に物質の偉大なる力を認むるに至つたが、心理学者は今や精神の能力に気附いたのである。人の今既に有する構神の能力に驚くべき者がある。罪を除かれたる人の精神に奇蹟的能力の籠るを察するに難くない。神は霊である、そして霊は聖《きよい》ばかりでない又能力である。そして人は神を信じクリスチヤンと成りて単に聖い者となつたのではない、能力ある者と成つたのである、然り成らなければならない、然り成るべきである。「|能力〔付○圏点〕を賜ひて神の子と為せり」とある。「聖霊汝等に臨むに因りて汝等|能力〔付○圏点〕を受くべし」とある。「神の国は言に在るに非ず能力に在り」とある。|能力〔付○圏点〕! 神はキリストを以て我等に能力を賜はんとし給ひつゝあるのである。自己に勝つの能力、患難に堪ゆるの能力凡て善事を為すの能力……我等はキリストに由り神より之を賜はることが出来る。イエスの奇蹟の記事を読んで単に之を霊的にのみ解してはならない。人の子の能力の表現《あらはれ》として、其幾分なりとに我等も亦与からんと欲するの祈求を以て其研究に当らなければならない。
〇ヤイロの娘を癒し給ひし後にイエスは二人の瞽者《めしひ》を癒し給うた。「イエス彼等の目に手を按け給ひければ其眼開けたり」とある。眼は外界の印象を受くる為の器官である。「身の光は眼なり 若し汝の眼瞭ならば全体も亦明かなるべし」とありて、人の見る外界の如何は其眼の如何に因るのである。神に眼を開けて戴くこと、又瞭かに見る眼を戴くこと、之に勝さるの必要又幸福はない。そしてイエスは瞽者の眼を開き給ひし其能力を以て多くの明盲の眼を開き給ふ。万物を見るの眼は単に其形と色とを見るに止まらず、其意味を見るの眼でなくてはなら(409)ぬ.聖書の文字を読むの眼は幾多《いくら》でもあるが、之を理解的に読むの眼は滅多にない。是を思ふて我等何人も「ダビデの裔《こ》よ我を憐み給へ」と叫ばざるを得ない。そして多くの人は此祈願を受納れられて其眼を開かれたのである。実に不思議である。先輩の説明を聞きしに非ず、大なる註解書を読みしに非ず、唯熱心に祈りしに由りて今日まで不可鮮の文字も深き真理を伝ふる者として現はれ、感謝の涙に咽ぶのである。天然亦然りである。花は単に花に非ず、詩である又福音である。本当に花を観る眼を有つ者は至つて稀である。聖書あり天然あるも大抵の人は之に対して盲人である。ダビデの裔なるナザレのイエスに眼を開けて戴くの必要がある。ブラウニングと云ひ、ワズワスと云ひ、特別の人ではない。凡の人が眼を開かるれば詩人ならぬ詩人と成るのである。之を他人の事と思ふ勿れ、|イエスを信じて求めて見よ、開眼の奇蹟は我等何人にも施さらるゝであらう〔付○圏点〕。〇瞽者を癒して後にイエスは鬼に憑れたる暗唖《おふし》を癒し給うた。暗唖は叫ばんと欲するも能はず人に携《つれ》られて来た。「鬼逐出されて暗唖ものいへり」とある。眼は外界の印象を受くるの器官であつて、咽喉と舌とは衷なる思想を外に表はす器官である。眼に由て外の者は内に入り、舌に由て内の者は外に出づ。今日の言葉を以て云ふならば眼は impression(印象)の器官、舌は expression(表現)の器官である。そして人は誰も眼を癒さるゝと共に舌を癒さるゝの必要がある 単に受納れる計りでは足りない、又吐出すの能力が必要である。そして多くの人は受くるに鋭くして表はすに鈍くある。彼等は沈黙の美徳と利益とを知つて、沈黙の時には罪悪であり損失であることを知らない。神に恵まるゝも其恩恵を言表はすの心も言もなく、沈黙の悪鬼に其舌を縛られて、神を讃美せず其恩恵を他に頒たんとしない。他の事に於ては立派の基督者にして人の前に語る事丈けは絶対に為さず、牧師 伝道師をして其事を為さしめて、自分は所謂「黄金の沈黙」を守る人が多い。彼等は曰ふ信仰は心の内の事にして外に(410)現はすべき事に非ず、故に沈黙は真の信仰の特徴であると。然らば福音の宣伝者は如何。彼等は物好きに喋るのである乎。人望を博せん為の演説説教である乎。喋べるべく雇はれしが故に止むを得ず喋るのである乎。如斯き人は無いとは言はない、然れども本当の伝道師はそんな者ではない。彼は救はれしが故に其救を宣伝ふるのである。彼は多くの場合に於て沈黙又は訥弁の人であつた。然るに神に其鈍き舌を鋭くせられて大伝道師又大説教師となつたのである。神の人モーセが其一人であつた。彼は伝道を辞して曰うた「主よ我はもと言辞に敏き人に非ず、我は口重く舌重き者なり」と(出埃及記四章十節)。預言者ヱレミヤも亦預言を辞して曰うた「あゝ主ヱホバよ、我は語る事を知らず」と(耶利米亜記一章六節)。其他近代に於てビーチャー、ブルックス等何れも生れつきの訥弁家であつた。彼等が神に其訥弁を癒されて大教師大説教師と成つたのである。信者の内に|もの言はぬ悪鬼に憑れたる唾者〔付ごま圏点〕何ぞ多きやである。彼等は歓喜に溢れて大声を揚げて神を讃美する能はず、又人の前に立ちて己が施されし恩恵の数々を語る能はず、唯沈黙、表顕さゞるを以て自分の職分なりと信じ、乞はれても勧められても内なる恩恵を外に表はさんとしない。そして事茲に至つて沈黙は美徳に非ずして不具である。言語は人間の名誉である。獣類に言語なし。人類は神を讃美し、相互を励まし慰むる為に言語の才能を賜はる。之を適宜に使はでやあるべき 我等は眼と耳とを通うして外より受くるのみであつて、口を通うして内より与ふる能はざる状態に在つてはならない。「我れ常にヱホバを祝ひまつらん、その頌歌《たゝへうた》は我口に絶えじ」と詩人は曰うた(詩三十四篇一節)。又曰うた「ヱホバは新しき歌を我口に入れ給へり、此は我等の神に捧ぐる讃美なり」と(同四十篇三節)。「我口を開く時言を賜はり憚らずして福音の奥義を示さんことを」とはパウロの祈祷であつた(エベソ六章十九節)。願くは我等見る眼を賜はると同時に語る舌と唇とを賜はらんことを。
(411)○「イエス遍く郷邑《むらさと》を廻り其会堂にて教をなし天国の福音を宣伝へ、諸《すべて》の病、諸の疾《わずらひ》を癒せり」とある。そして其能力ある者が今猶ほ我等と偕に在し給ふと云ふのが聖書の教である。我等は内に省みて自己の弱きを歎くに及ばない。直に彼の許に往いて眼を開かれ、舌を釈れんことを求むべきである。教を為せし主は病を癒せし主である。我等は医者としてのイエスを忘れてはならない。彼はたゞに我等の教師ではない、救主であつて能力の供給者である。彼は我等のいと近き援助者である。我等はイエスの奇蹟を否認して彼を弱き救主と成してはならない。天の内、地の上の凡ての権を握り給ふ者として彼に頼り、聖き教に添えて強き力を彼より賜はるべきである。(三月三十日)
 
    〔三八〕 ミツシヨンの開始 馬太伝九章三五節以下
 
〇ミツシヨンは英語であつて既に日本語と成つた者の一である。之に特別の意味がある。其第一は|派遣〔付○圏点〕である。遣《をく》る者あり遣らるゝ者ありてミツシヨンがあるのである。一国の主権者が他国の主権者に使節を遣るをミツシヨンと云ふ。其第二は|奉仕〔付○圏点〕である。単に遣るのではない、好意を表せん為に、愛を施さん為に遣るを云ふ。故にミツシヨンに権威が伴ひ、同時に又愛が伴ふ。美はしい辞である。キリストの福音の出現を待つて初めて成りし辞である。其の何である乎を明かに示す者は羅馬書十章十四、十五節に於けるパウロの言である、曰く
  未だ信ぜざる者を何で※[龠+頁]求《よびもと》むる事を得んや。未だ聞かざる者を何で信ずる事を得んや。未だ宜る者あらずば何で聞く事を得んや。若し遣されずば何で宣る事を得んや。録して平和《おだやか》なる言を宣べ、又善き事を宣る者の其足は美はしき哉とあるが如し。(412)真の福音の在る所にミツシヨンは必ず行はる。今や世界到る所に福音のミツシヨンが行はる。之を伝道と称して誤解され易い。道を伝ふるは其一部分である。愛を施すが主眼である。そして此尊き事業はイエス御自身が創姶め給ひし所の者である。
〇イエス御自身が遣されし者即ちミシヨナリー(宣教師)であつた。彼が宣教師の模範である。そして彼は此時まで御一人で宣教に従事し給うた。弟子達は其傍観者たるに過ぎなかつた。然るに今神に遣されし彼が人を遣さねばならぬ時が到来した。「牧者《かうもの》なき羊の如く衆人悩み又|流離《ちり/”\》になりし故に之を見て憫み給ふ」とある。救拯を要する人は衆多《おほく》ある、そして彼等孰れも悩み、傷を負ひ、甚く虐げられ、而已ならず一群となつて豺狼の徒に当る能はずして、流浪離散して其の困惑する所となる。之を見てイエスの心は痛まざるを得なかつた。世に憐むべき者にして羊の如きはない。彼に自衛の武器あるなく只牧者の保護に依てのみ安全である。そして人はすべて羊である。天国の市民たり得べき性質を有する者は殊に然りである。そして人の場合に於ては彼は自分が憐むべき者でありながら、其事を知らず、其反対に、自分は強くある安全であると思ふ点に於て、羊よりも一層憐むべき者である。此状態を見て霊魂の牧者なるイエスの心に強き憐愍の情は起らざるを得なかつた。|牧者が離散せる羊に対する憐愍の情〔付○圏点〕……それが動機と成りて茲に十二使徒の派遣即ちクリスチャンミツシヨン、今日所謂基督教伝道が姶つたのである。
〇牧者なくして悩み離散せる羊に対するイエスの憐愍の心(希臘語の splanchna 脾臓、古人に由て情の出所として思はる)より基督教伝道は始つたのであると此所に記さる。そして此の清き泉より発して、凡ての伝道は清く又有効的である。そして此泉以外より発する伝道は凡て濁り随て無効である。今や冷静なる頭脳《あたま》が何よりも貴(413)まるゝが、頭脳より出たる伝道は効尠くして失敗に終るが常である。況んや教勢拡張の為の伝道、国威宣揚の為の伝道、社会奉仕の為の伝道、其他すべて政治家的野心を雑へたる伝道、今日此世に行はるゝ多くの所謂伝道……是等のすべてがイエスの開始し給へる伝道と全く性質を異にするは言はずして明かである。|内臓の深き所より湧き出づる憐愍の情〔付○圏点〕……世に実は之に勝さりて深き清き動機はないのである。「父が其子を愍むが如くに、ヱホバは己れを畏るゝ者を憐み給ふ」とある(詩百三篇十三節)。父なる神の憐愍の心……人類の救拯は此心を以つて始つたのであつて、ミツシヨン即ち今人の所謂伝道も亦此心を以て始まらねばならぬ。〇そしてイエスの心を以て今日の世界を看て憐愍の心は起らざる乎。敢て野蛮人と云はず、所謂文明国の民なる者が祝すべき幸福なる者である乎。更に問ふ 我等自身が憐愍を要せざる者である乎。我等は自由を誇ると雖も、其自由たるや真の自由に非ずして奴隷や囚人が束縛に慣れて之を自由と称するに至りしの類ならずや。其証拠には我等何人も福音に由て自己に覚めて、まことに悩み又虐げらるゝ者なるを悟るのである。殊に流離散乱の状態に至つては何人も其事実なるを否む事は出来ない。牧者を離れたる我等はテンデンバラバラである。隣人相知らず、兄弟相援けず、一団となりて動くの利益と快楽とを知らない。天より此状態を見て神は我等を憐み給はないであらう乎。殊に基督信者の離散に至つては実に憐愍の極である。此世の狼等に追立られながら彼等は相共に援けて自己を護り敵に当るを知らない。甚だしきに至つては相互を苦しめて其疲労困憊、失敗に泣くを視て喜ぶの状態である。洵に離散せる人類は牧者を要す。我等相互に一つの牢《をり》の内に一の群と成らんが為に一人の善き牧者を要す。神は其目的を以て其独子を世に遣はし給うた。イエスも亦其目的を以てミツション即ち宣教を開始たまひて今日に至つたのである。
(414)〇憐愍の情に動かされてイエスは弟子等に曰ひ給うた「収稼《かりいれ》は多く工人《はたらくもの》は少し、故に其収稼の主に工人を稼場に送らん事を願ふべし」と。多くの人はイエスの此言を通読して其意味の在る所に注意しない。抑も収稼とは|誰のもの〔付○圏点〕である乎。我等のもの、我が教会のものと多くの人は思ふ。教勢拡張の機会多し、然し之を利用するの人物に乏しと彼等は主の此言を解せんとする。然し勿論さることではない。「収稼の主」は神である。神は己が田圃《はたけ》の収稼を要求し給ふ。此は正当の要求であつて、之を拒むは人の罪、又彼の大なる不利益である。事は馬太伝廿一章三三節以下、其他に於て記されたる葡萄園《ぶだうばたけ》の主人の場合である。神は己が設けし果園の果を要求し給ひつゝある。然るに人は之を拒んで、持主のものを己がものと為さんとしつゝある。此状態を目撃して神の為に熱心(聖憤)の起るべきが当然である。而してイエスはガリラヤ湖畔に於ける数ケ月に渉る伝道の結果として此熱心を起し給うたのである。羅馬の軍人百夫の長、鬼に憑れたるガダラ人、彼に癒されたる癩病患者、瞽者、唖者等、何れも神の善き収稼たらざるはなし。之を放棄し置けば異邦人、狂人、不具者として人に賤視められ、践みつけらるゝのみ。然れども之を援け導けば神の倉庫に収めらるべき貴き収獲物である。之を思へば神に対する熱心に駆られて、更に宣教《ミツシヨン》を継続し又拡張せざるを得ないと云ふのがイエスの此御言葉の意味である。即ち|人に対しては憐愍の情、神に対しては忠誠の心〔付○圏点〕、此の二つが動機となりてイエスの宣教は始つたのである。
〇「収稼は多く工人は少し」、「少《まれ》なり」と読むべし。収稼の材料は何れの処にも存す。「邑《まち》の衢巷に往きて貧者、癈疾、跛者、瞽者などを此所に携来れよ」と主は曰ひ給うた(路加伝十四章廿一節)。彼等は何れも貴き収稼として父の倉庫に収めらるべき者である。之を思ふて金銀宝石の我が足下に転がるの観ありである。所謂求道者の少きを歎つ必要は毫もない。「目を挙げて観よはや田《はた》は熟《いろづ》きて収獲時になれり」とイエスが他の所に於て言ひ給ひ(415)しが如くである。救はるべき者、救はれんと欲する者は幾多でもある、唯工人が少なるのである。全く無いではないが、甚だ稀なるのである。イエスの心を以てミツシヨンに従事する者が少ないのである。夫故に収獲が挙らないのである。所謂伝道師はイエスの時代に於ても、今の時代に於けるが如くに多くあつた。然れども彼等は孰れも雇はれたる牧羊者であつて、己が収獲を計る者であつて、神の収獲を目指す者でない。故に羊は其声に従はず、田は熟けるも収獲はないのである。人に対する憐愍と神に対する熱心とに励まさるゝ工人、即ち真の伝道師、此はまことに稀れである。そして収獲の多きに対して工人の少きは実に悲歎の極みである。
〇茲に於てか切なる祈願が起るのである、「収稼の主が工人を収稼場に送らん事」をとの其祈祷である。単に善き伝道師の起らん事ではない、神が善き伝道師を起して、之を御自身所有の園に果を収めん為に送り給はん事である。伝道師は求めて得べからず、祈つて与へらる。路加伝六章十二節以下に依れば、「イエス祈祷の為に山に往き終夜《よもすがら》神に祈れり、夜明けて彼れ弟子を呼びその中より十二人を選びて之を使徒と称く」とある。イエス御自身が祈祷に由りて十二使徒を得給うたのである。況して我等に於てをや。
〇人の立場より見るも、又神の要求し給ふ所に因るも、真の伝道師の出現ほど必要なる者はない。我等之が為に祈るは当然である。|然れども更に適切なる祈祷は我等各自が自身神の選びに当らん事である〔付○圏点〕。或は我が子、我が娘が其選びに与らん事である。預言者イザヤの場合の如くに、我れ若しヱホバの声として「我れ誰を遣はさん、誰か我等の為に往くべき乎」との言を聞かば、我も亦若き預言者と共に心に答へて曰ふべきである「我れ此にあり、我を遣はし給へ」と(イザヤ書六章)。欧米諸国に於て多くの有為の青年男女が此声を聞いて如此くに答へた。そして彼等の或者は万難を排して、或は北氷洋の沿岸に、或は阿弗利加、支那、蒙古等、人生の幸福と称すべき(416)何物も在らざる所に往きて、神の収稼の業に従事した。偉大と称すべし、名誉と謂ふべしである。単に一葦帯水を隔つる我が隣邦支那を視るも、数千の欧米人は福音の使者として、政治上、商業上、何の目的とする所なくして、霊魂の収獲に従事しつゝある。誠に羨ましき至りである。「故に収稼の主に工人を収稼場に送らん事を祈り求むべし」。而して其工人の自分なる事を祈るべし、或は自分の最も愛する者なる事を祈るべし。そして此は犠牲であつて決して犠牲でない。歓喜の極である。「獲る者は其|工銭《あたひ》を受けて永生に至るべき実を積《あつ》む、斯くて播く者(神)と穫る者と同《とも》に喜ばん」と主は曰ひ給うた。人生の幸福は結婚と成功となりとの近代人の思想の如き、イエスの眼の前には一顧の価値なき者である。私は断言して憚らない、人生最大の幸福は、人に対する清き憐愍の情と、神に対する熱き忠誠の心とに駆られて、イエスの如くに天国の福音を宣伝へ、又民の中なるすべての病、すべての疾《わづらひ》を癒すことである事を。(四月六日)
 
    〔三九〕 十二使徒の選任 馬太伝十一−四節。馬可伝三章十三−十九節。路加伝六章十二−十六節。
 
〇馬太伝十章二節は左の如くに読むべきであると思ふ。
  十二使徒の名は左の如し。第一にべテロと呼ばれしシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブと其兄弟ヨハネ、ピリボとバルトロマイ、トマスと税吏マタイ、アルパイの子ヤコブとタツダイ、カナン党のシモンとイスカリオテのユダ、是れ即ちイエスを売りし者なり。
兄弟二組、シモン二人、ヤコブ二人、また路加伝六章十六節に「ヤコブの兄弟ユダ」と云ふ名を見れば、ユダも亦二人あつた事を知る。十二人の中に、よく知られたる者はべテロ、ヨハネ、その兄弟ヤコブ、並にイスカリオ(417)テのユダの四人である。少しく知られたる者はアンデレ、ピリポ、マタイ、トマスの四人である。少しも知られざる者はバルトロマイ、アルパイの子ヤコブ、タツダイ(ヤコブの兄弟ユダの別名であらう)、カナン党のシモンの四人である。十二使徒の中にすら其名の外に行為功績の少しも伝へられざる者が四人あつた事を知りて、無名の信者も亦神の前に無為無能の信者でない事が判る。使徒は重職なりと雖も神の器たるに過ぎず。崇むべきは神であつて、器でない。其功績の現はるゝと否とは小なる問題である。イエスは其弟子等に告げて曰ひ給うた「悪鬼の汝等に服しゝ事は喜びとする勿れ、|汝等が名の天に録されしを喜びとすべし〔付○圏点〕」と(路加十章廿節)。イエスの十二使徒として其名を天に録されし事が、最大の名誉又特権である。新らしきヱルサレムの「城《まち》の石垣に十二の基址《もとゐ》ありて、其上に羔の十二使徒の名あり」と云ふ(黙示録廿一章十四節)。天の記録に於ては、使徒中第一位を占めしシモンべテロも、無名に等しきカナン党のシモンも其賜はりし栄光は同じである。乾燥無味なるが如くに見ゆる使徒名簿録の中に、慰安の福音の伏在するを見る。
〇西洋の諺に曰く「我に人の友人を示せよ、我は之に由て其人の何たる乎を示さん」と。即ち|人は其友人に由て知らる〔付ごま圏点〕との事である。同じく師は其弟子に由て知らる。イエスの選びし十二弟子に由て、イエスと其教の何たる乎かゞ明かに示さる。|第一に明かなるは、十二使徒の中に一人の学者又貴族又富者又宗教家のなかつた事である〔付○圏点〕。執れも労働又は事務の人、平民又中流以下の人、特に信仰篤き平信徒であつた。其中の四人はたしかに漁業家、日雇の漁夫ではなかつたが、自から漁撈に従事した者であつた。マタイは税吏であつて小官吏であつた。其他の者に関して其職業を知る能はずと雖も、べテロを首に有ちし使徒団の中に専門の学者又は宗教家が在つたと思はれない。而かも時代は決して無学の時代ではなかつた。キリキヤのタルソに於て、エジプトのアレキサンドリヤ(418)に於て、盛なる大学があつて、哲学、文学、政治、経済、芸術が其最高の形に於て攻究せられた。殊に国都ヱルサレムに於て、高遠なるユダヤ神学は、ヒレル、ガマリエル等の碩学に由て講ぜられ、衆多の学生は其足下に座して天啓の奥義に達せんとした。イエスは其弟子を学者の中より選ばんとして、適材を得るに決して難くなかつた。然し乍らイエス御自身が学者でなく、彼の福音が学者に合はなかつた。御自身が労働の人であつて、其福音が労働に由てのみ解せらるべき者であつた。彼は彼の福音が此世の智者又は識者に由て受けられずして、却て無識階級に由て迎へられしを喜びて曰ひ給うた「天地の主なる父よ、此事を智者《かしこきもの》と達者《さときもの》とに隠して赤子《をさなご》に顕はし給ふを感謝す、父よ 然り、それ此の如きは聖旨に適へるなり」と(路加十章廿一節)。学問を軽んじ労働を重ずる点に於てイエスは例外である。釈迦も孔子も、プラトーもアリストートルも、弟子と云へば学問の弟子でありしに対し、イエスのみは弟子は学問を離れて行為の人であつた。イエスの弟子と称して彼の|門下生〔付ごま圏点〕ではなかつた 彼と偕に働く者、彼の如くに行む者、彼の如くに神に事ふる者であつた。彼は弟子を召くに方つて「我に従へ」と云ひ給うた。我れと思想を共にせよ、我が人生観、宇宙観、芸術観を懐けよとは云ひ給はなかつた。べテロとヨハネとマタイ 彼等を以て代表せらるゝ人が彼の意に通ふ人であつた。
〇基督教会は素々十二使徒を以て始つた者である。故に文化的でなく、学問的でなく、勿論芸術的でなく、ガリラヤの田舎漢《いなかもの》を以て代表されたる団体であつた。彼等の中カリオテ人のユダ一人がユダヤ成育《そだち》の者であつて、其者が師を売りし者であつた。然るに今は如何。今の基督教会はガリラヤ人の教会である乎。その然らざるを何人も知る。「先づ第一にべテロと呼ばれしシモン」と云ふ。然し乍らべテロは今の教会の首たり得べき者ではない。其監督、牧師、伝道師 執事、長老は孰れも漁夫又は税吏の階級に属する者ではない。イエスの設け給ひし教会と(419)今日のそれとの間に天地雲泥の相違がある。
〇十二使徒の一人をカナン党一名ゼロデ党のシモンと称した。カナン党とは今日で云ふ過激派であつた。過激手段に訴へて革命を実行せんと計つた党派であつた。其中の一人がイエスに召されて其弟子となり、終に選ばれて使徒の一人と成つたのである。勿論クリスチヤンと成りて過激思想を継続したのでない。然れどもイエスは彼が過激派の一人でありしの故を以て彼を斥け給はなかつた。其手段は誤つて居た、然れども其精神に採るべき所があつた。聖霊の恩化に由り過激派のシモンもイエスの温良なる使徒となつた。過激の人と云へば蛇蝎の如くに忌み嫌ふ今日の基督教会は、此点に於ても大に省みる所がなくてはならぬ。
〇イエスは斯かる人等を以て世界教化の大事業を始め給うた。此事に関しパウロは曰うた「兄弟よ、召を蒙れる汝等を視よ。肉によれる智慧ある者多からず、能ある者多からず、貴き者多からざる也。神は智者を愧しめんとて世の愚なる者を選び、強き者を愧かしめんとて弱者を選び給ふ……是れ凡ての人の神の前に誇る事なからん為なり」と(哥林多前書一章廿六−廿九節)。神が事を為し給はんが為には、学問、教養、地位、所有は却て妨害である。真の天才は却て器の劣りたるを以て現はるゝが如くに、神の能は却て平凡無能の人を以て揚るのである。
〇そして今日に於ても猶ほ真の教会はガリラヤ人の教会である。即ち世の賤しき者、藐視《かろしめ》らるゝ者、即ち無きが如き者を以て成る教会である。キリストの教会は依然として平信徒の教会である。智者、学者、教会者は之に与する能はず、彼等は教会を主宰すると称して実は其外に立つ者である。若し彼等が真の教会に加はらんと欲せば、先づ其智慧と知識と才能と、之に由て得し地位とをキリストの台前にさゝげて、自から赤子《をさなご》と成りて彼の祝福に与からねばならぬ。無学は勿論誇るべきに非ずと雖も、学問も亦頼るべきでない。そして多くの誤謬が学問に由(420)て伝へらる、今日、我等は学問を過重視してはならない。最も健全にして確実なる知識は眼又は耳を通うして来らずして、手と足とを通うして来る。最良の教育は信仰を以て行はるゝ筋肉労働である。イエスが其福音をガリラヤの労働者に委ね給ひしは、其中に深き理由が在つて存す。世界が今や労働者の手に帰しつゝあるは、イエスの御手に帰しつゝある前兆である。英国に於ける労働党の勝利の如き、此点より見て意味深長である。今日まで政治と云へば牛津、剣橋両大学の出身者に限られた者が、今はたゞの労働者の手に渡つたのである。そして彼等の為す所が遥に政治学専門家の為す所に勝さると云ふ状態である。宗教に於ても同じである。今や宗教は神学者即ち宗教専門家の手を離れて、是れ亦平信徒の手に渡りつゝある。|大学の教授に重きを置くの時代は去りつゝある〔付△圏点〕。ナザレのイエスを主として仰ぐべテロ、ヨハネ、ヤコブの徒が世界を支配せんとしつゝある。人類の幸福此上なしである。人世 も頼るべきものは学校と書籍とより得たる知識ではない、活動と実験とより得たる常識である。思想家に導かれて国は亡びて了ふ。(五月四日) 〔以上、大正13・6・10〕
 
    〔四〇〕 伝道師と其責任 馬太伝十章五−十五節路加伝十章一−十二節
 
〇十二使徒は模範的信者であり、又模範的伝道師である。彼等は専門的宗教家に非ずして平信徒即ち普通の信者であつた。知識階級の人に非ずして労働階級の人であつた。彼等は孰れも不完全の人であつて、性来の聖人又は君子でなかつた。|殊に注意すべきは彼等が自から択らんで使徒と成つた事でない事である〔付○圏点〕。彼等は今日の所謂伝道志願者でなかつた。「イエス山に登りて其意に適ふ所の者を召びしかば来りて彼に就り」とある(馬可三章十三節)。「汝等我を選ばず我れ汝等を選べり」と彼は明確と言ひ給うた(ヨハネ伝十五章十六節)。使徒はアポスト(421)ロス、「遣はされし者」の意である。パウロが自己を「イエスキリストの僕、召されて使徒となり」と称せしは此ことである。使徒等は召されし事に就ては自己に責任がなかつたのである。唯委ねられし職責を全うする事に於て彼等の責任は存したのである。「この世に在りて家宰に求むる所はその忠信ならん事なり」とパウロが言ひし通りである(コリント前書四章二節)。此事を弁へずして使徒の何たる乎、基督教伝道師の何たる乎が解らない。伝道師は慕ふべき敬ふべき理想的人物ではない。又人の万事に干渉して其指導者たるべき者でない。|伝道師の責任は彼を選びて遣はし給ひし神に対して在るのであつて、遣されし人に対して在るのでない〔付△圏点〕。伝道師の謙遜又勇気又安心又権威は茲に在る。
〇|八節〔ゴシック〕。「汝等|価《あたへ》なしに受けたれば価なしに施すべし」。伝道師は真理の受次人である。神より授けられしものを人に授くる者である。第二十七節に於て「我れ幽暗《くらき》に於て汝等に告げし事を光明《あかるき》に於て述べよ。耳をつけて聴きし事を屋上《やねのうへ》に宣播《いひゝろ》めよ」とあるが此事である。自分の理想又研究の結果を宣播めるのでない。神の言を宣伝ふるのである。旧約の予言者が「ヱホバ斯く曰ひ給ふ」と言ひし其権威を以て人に臨むのである。故に之に世の所謂報酬のありやう筈がない。福音は無代価である。伝道師の報酬は神御自身が之を払ひ給ふ。然れども価なしに施すと云うて「施し」即ち慈善事業でない。神の御言葉の伝達である、故に神を畏れて人を憚らない。パウロが曰ひし如くである「我等神の選びを得、福音を伝ふる事を託ねられたるに因りて語るなり、此は人を悦ばするに非ず、我が心を察し給ふ神を悦ばする也」と(テサロニケ前書二章五節)。伝道師は人の友である前に先づ神の僕である。故に人の批評を恐れない、又其好意に投ぜんとしない。
〇九節。「汝等金又は銀又は銭を帯る勿れ。旅嚢《たびぶくろ》二枚の下衣、履《くつ》、杖も亦然り、そは労働人の其食物を得るは(422)適当なれば也」。|衣食の準備は為すに及ばず。之を求道者より仰ぐべしとの事である〔付○圏点〕。糧は之を敵に仰ぐのがナポレオンの軍略である。前には価なしに施すべしと命じ給ひ、直ぐ後には糧を徴発すべしと教へ給ふ。矛盾の如くに見えて矛盾でない。福音を売るのではない、之を求むる者に与ふるのである。而して喜んで伝道師を迎へざる者は福音を求むる者でない。求道者に取りては物資の提供は義務であるのみならず、福音要求の証拠である。故に斯かる者を尋ねて道を説くべし、若し普通の待遇をも拒む者あらば足の塵を払ひて其家を去るべしとの事である。是れ苛酷なるが如くに見えて実は最も賢明なる途である。如此にして犬に聖物を与へ、豚の前に真珠を投与ふるの危険を遅くる事が出来るのである。イエス御自身が決して福音の安売りを為し給はなかつた。彼を信ずる者には惜みなく与へ給ひしと雖も、信ぜざる者には慎んで御自身を顕はし給はなかつた。「彼等が信ぜざるに由りて多くの異《ふしぎ》なる能《わざ》を此(ナザレ)に行し給はざりき」とあるが如し。
〇斯くて基督教伝道は其初めより自給伝道であつた。ナポレオンが戦争をして其れ自身の代価を払はしめしやうに、イエスは伝道をして其れ自身の代価を払はしめた。福音は大勢力である。之を伝ふるに方て必要なる物資の欠乏を告ぐるが如き事のありやう筈がない。父の園に働くのである。故に金銀又は衣類食糧を特別に準備して労働に従事する必要はない。「労働者が其食物を得るは適当なり」。|そして神は労働に与かる者をして其代価を払はしめ給ふ〔付△圏点〕。斯くして播く者も穫《か》る者も共に喜ぶのである。そしてイエス御自身が此伝道法を採用し給うた。使徒も亦此途に依て働いた。彼等は今日の伝道師が為すが如くに教会より既定の俸給を受けて之を頼りに伝道しなかつた。彼等の倚頼《たより》は彼等に託ねられし神の言に在つた。是れありて彼等は聖霊が導く儘に行き、何の不自由なくして伝道に従事した。今日の伝道に失敗多きはイエスの示し給ひし此簡単なる途を採らないからである。
(423)○神は伝道師を養ひ給ふ。|好き求道者を起して彼等を以て彼を養ひ給ふ〔付○圏点〕。恰かもザレプタの※[釐の里が女]を以て預言者エリヤを養ひ給ひしが如く、又プリスキラとアクラを起してパウロを其家に迎へしめ給ひしが如くである。不信者も亦神の掌※[たなごゝろ]の中に在る。彼は容易く不信者を以て伝道師を支え給ふ。
〇福音を安く売る勿れ、福音を安く買ふ勿れ。真理の価値は払ひし代価に由て定まる。多く払ひし者は多く之を貴び、少なく払ひし者は少なく之を貴ぶ。高き代価を払ひて福音を求め得し者にして之を棄し者のあるを聞かない。|背教者は大抵は安く福音を買ひ求めし者である〔付△圏点〕。(五月十一日)
 
    〔四一〕 迫害の途 馬太伝十章十六−廿三節。馬可伝十三章九−十三節。 路加伝廿一章十二−十九節。
 
 |第十六節〔ゴシック〕。「視よ、我れ汝等を遣はすは羊を狼の中に遣はすが如し。故に蛇の如く智く、鴿の如く素直なれ」。実に著しき言である。羊と狼、蛇と鴿、四の動物を以て現はされたる二の対照である。天然は最良の表号的文字である。羊と云ひ狼と云ひて深い広い意味が言表はされる。人は狼、信者殊に伝道師は羊、故に或る場合には蛇の如く、或る他の場合には鴿の如くに行ふべしとの教である。
〇人に狼であると云ふ。果して爾うである乎。世には少数なりと雖も真の善人が有るではない乎。不信者社会を一概に狼と称するは酷評の甚だしき者ではない乎。然り人は普通の場合には其狼性を現はさない。自分が強者で弱者に対する時には慈悲良善の性を具ふるが如くに見える。然し乍ら一朝自分の利益を侵害せらるゝ乎、殊に|其罪を指摘せらるゝ時は〔付△圏点〕、忽ちにして狼と化し、其悪魔性を発揮する。慈愛に富める父母も其子がキリストを信ずるに至りし時に、之を窮迫するの状態は、狼が羊を窘める状態に異ならない。|人の如何に悪しき乎はキリスト(428)者は魂と身とを地獄に滅す者である。其者は何である乎、判明らない。或人は神であると曰ひ、或る他の人は悪魔であると曰ふ。然れども其の何れであるにもせよ恐るべき者は是である。|即ち身と共に魂を減す者である〔付○圏点〕。不義、利慾、怯懦、是れ何れも魂を滅す者である。餓死は恐るゝに足りない、恐るべきは餓死を恐れて言ふべき事を言はず、為すべき事を為さない事である。今回の対米問題の如きも、此精神を以て当らなければならない。博士アレキサンダー・ブルースは「此は安逸を欲する悪魔である」との解釈を下して居るが、此際殊に注意を要する解釈であると思ふ。
〇|第三は不時の災難に遭ふを恐るゝ勿れとの諭しである〔付○圏点〕。災難は何人にも臨る。然れども災難其物は天罰ではない。悪人に臨めば天罰である。善人に臨めば恩恵である。殊にイエスを信じて神の子とせられし信者に取りて、無意味に災害の臨む理由はない。「二羽の雀は一銭にて售るに非ずや、然るに汝等の父の許しなくして其一羽と雖も地に隕ることなし、汝等の頭の髪また皆な数へらる、故に懼るゝ勿れ、汝等は多くの雀より優れり」。実に深い美はしい諭しである。(五月二十五日)
 
    〔四三〕 愛の衝突 馬太伝十章三四−三九節。
 
〇キリストが世に降り給ひし目的の一はたしかに「地に平和を出さんため」であつた。クリスマスの夕、牧羊者は天使の歌ふを聞いた「地には平和《おだやか》、人には恩寵あれ」と。然るに主は茲に「地に平和を出さん為めに我れ来れりと意ふ勿れ、平和を出さんとに非ず、刃を出さん為に来れり」と曰ひ給うた。矛盾であるやうに見える、然し矛盾でない。平和は最後の目的であつて、刃は之に達するの途である。そして其途上に在る時に、信者は主の降(429)世は刃を来す為ではなかつた乎と思ふのである。「十字架なき所に冠冕なし」との言の如き此事を云ふのである。「婦、子を産まんとする時は劬《くるし》む、然れど已に生めば前の劬を忘る、世に人の生れたる喜びに因りて也」と主の言ひ給ひしも亦此の事を教へん為である(ヨハネ伝十六章廿一節)。平和は高価である。刃を通うらずして真の平和は来らない。
〇茲に刃とあるは戦争の意ではないと思ふ。勿論宗教戦争なる者はなかつたではないが、然し信者が進んで刃を取つて不信者と戦ふと云ふ事のありやう筈がない。路加伝十二章五一節に依れば、イエスは此場合には「刃」とは言ひ給はずして「分争」と言ひ給うたとある。即ち「我は安全を地に与へんとて来ると意ふや、我れ汝等に告げん、然らず、反つて分争《わかた》しむ」とある。そしてヒブライ書四章十二節に両刃の剣《つるぎ》の克く物を断つことが記されてあるが如くに、馬太伝の此場合に於て|刃は分争〔付○圏点〕と解するが正当であると思ふ。有名なる和蘭の公法学者にして聖書学者なるグロウシウス(Grotius)が此辞を鮮釈して non lellum sed dissidium(戦争に非ず分裂なり)と云ひしは誠に当を得たる者である。イエスの世に来り給ひし結果として、人の間に一致が破れて分争の起るのは信者何人もが実験し又目撃する所である。此は実に止むを得ないのであつて、此途を通らずして真の平和は地に臨まないのである。
〇|第三五節〔ゴシック〕。「夫れ我が来るは人を其父に背かせ、娘を其母に背かせ、娘を其姑に背かせんが為なり」とある。甚だ穏かならぬ言である。「背かせ」の訳字は強過ぎる、改訳の「分たん」の方が真意に近い。子を其父より、娘を其母より、※[女+息]を其姑より分たん為なりと云ふが原語の意味であると思ふ。そして注意すべきは、子、娘、※[女+息]等の|より〔付ごま圏点〕若き者が、父、母、姑等|より〔付ごま圏点〕老いたる者と分かるゝに至るとの事である。イエスは御自身の説き給ひし(430)福音を新しき布又は新しき葡萄酒に譬へ給ひしやうに、此は元来若き心に受納れられ易き者である。古今東西を問はず基督教は特に青年男女の宗教である。是れ其の常に生気溌溂たる所以である。儒教が老爺に喜ばれ、仏教が老媼に迎へらるゝとは全く其性質を異にする。故に子は其父より分れ、娘は其母より分るゝに至るのであつて、寔に止むを得ない次第である。そして基督教に限らない、すべての進歩思想が爾うである。改革は常に青年より始まる。縦し齢に於ての青年ならずと雖も、心に於ての青年を以て始まる。実に歳は取りたくない者である。そして永遠に生き給ふ復活《よみがへ》れるキリストと共に在りて、我等は常に若くして、世の老人等と相対することが出来る。
〇|第三七節〔ゴシック〕。「我よりも父母を愛する者は我に協はざる者なり」と。斯く言ひ得しイエスは唯の人ではない。|人に父母以上の権威を以て臨む者は神の権能を具へたる者でなくてはならない〔付○圏点〕。イエスは地上に於ける神の代表者、故に彼のみ、|惟り彼のみ〔付○圏点〕、父母に対する以上の服従を人より要求することが出来る。此はまことに重い言である。先づイエスの何人たる乎を深く究めずしては解することの出来ない言である。信仰の故に父母より分れざるを得ざる子も、亦其故に子を責むる父母も、先づ深く此事を究めなければならない。然る後に問題は容易に解決せらるゝのである。〇「父母を愛し、子女を愛す」と云ふ、何れも希臘語の phileo であつて agapao でない。前者は情の愛であつて、後者は道理の愛である。イエスは茲に、父母又は子女に対する|情愛〔付△圏点〕の故に我に服はざる者は、我が意に協はざる者なりと日ひ給うたのである。実に然りである。アシシのフランシスが父に分れ、ルーテルが父の命に従はざりしは、全人類の為に最も善き事であつた。勿論情は容易に傷けべきものでない。然し道理はたしかに情以上である。今回の対米運動の如き此明白なる教に従つて従事すべきである。情に於ては多くの忍び難き所がある。然し(431)明白なる正義の道が蹂躙せられし其の場合に、我等は愛情に惹かされて為すべき事を避けてはならない。|クリスチヤンは情の人であるよりは道理の人である〔付△圏点〕。パウロが言ひしが如くに「我等真理に逆ひて能力なし、真理に順ひて能力あり」である(コリント後書第十三章八節)。そして「我は真理なり」と言ひ給ひしイエスは我等より絶対的服従を要求し給ふ。今日の場合に、主は我等の内の多くの者に曰ひ給ふと信ずる、「我よりも米国又は米国人を愛する者は我に協はざる者なり」と、愛情は|より〔付ごま圏点〕低い愛である。信者はアガベー即ち聖愛に従つて歩まねばならない。
〇|第三八節〔ゴシック〕。「其十字架を任《とり》て我に従はざる者は我に協はざる者なり」。|十字架他なし、情を棄て道に従ふ事である〔付○圏点〕。イエスの十字架も亦他の事ではなかつた。情愛か聖愛か、二者の内孰れを択むべき乎、人の永遠の運命は其選択如何に依て定まるのである。此世の平和は情愛に従ふことに由て得られ、神の国の平和は聖愛に身を献ぐる事に由て与へらる。十字架は此に在る。之を担はずして我等の父なる神及び主イエスキリストより恩寵と平和とを賜はることは出来ない。人生は辛らくある、然れども栄光は十字架に在りである。十字架である、剣でない。悪に耐ふる事であつて、之に抗する事でない。悪は自滅的であれば我れより進んで之を滅すに及ばない。然れども悪に従うてはならぬ、明かに之を悪と称ばねばならぬ。さうして悪の犠牲となりて其絶滅を計らねばならぬ。是がキリストの十字架である。
〇義と情と、二者孰れを選ぶべき乎。婦人と小児と小人とは情を選び、偉人とクリスチヤンは義を択ぶ。|不人情なるが如くに見ゆる義人〔付○圏点〕、それが本当の人である。我等何人も斯かる人たるべく努めねばならぬ。(六月一日) 〔以上、大正13・9・10〕
 
(432)    〔四四〕 冷水一杯 馬太伝十章四〇−四二節 馬可伝九章四一節
 
〇信者に患難多し。彼は世人に不忠の臣、不孝の子、逆臣、国賊、悪魔の族とさへ呼ばれる。彼は其家の者をさへ敵として持たねばならぬ。彼の生涯は十字架である。常に聖愛の為に情愛を殺さねばならない。然し乍ら彼は全然孤独でない。徳孤ならず必ず隣ありと東洋道徳が云ふが如くに、信仰孤ならず必ず友ありである。信者を接《うく》る者がある。福音の使者を迎ふる者がある。我等は単独を歎《かこ》つべきでない。
〇そして感謝すべきは神御自身が信者と利害栄辱を共にし給ふ事である。「汝等を接る者は我を接る也、また我を接る者は我を遣はしゝ者を接るなり」と主は曰ひ給うた。|信者とキリストと父なる神とは同体である〔付○圏点〕と云ふ。如何計りの栄誉、如何計りの福祉ぞ。其事を示された丈けで充分である。そして勝利は既に我有である事が判明る。信者はキリストと苦難を共にするが故に、亦栄光をも共にするのである。
〇そして主は信者を接る者に報ひ給ふ。信者は神の使者であれば、使者を犒ふの報賞《むくひ》は、神御自身之を担ひ給ふ。そして人は種々の資格に於て神の使者を接ける。或は預言者として、或は義人として、或は福音の伝達者として彼を接ける。そして接くる資格の如何に由て報賞は異なると云ふのである。伝道者が世人に如何に接けらるゝ乎、其事はイエスが預め告げ給ひし所である。
〇人は多くの場合に於て福音の使者を預言者として接ける。イエス御自身が彼の国人に預言者として接けられた。イエス其弟子に問ふて「人々は人の子を誰と言ふや」と曰ひければ、彼等は答へて曰うた、「或人はバプテスマのヨハネ、或人はエリヤ、或人はヱレミヤ又預言者の一人なり」と(馬太伝十六章十三、十四節)。神の聖旨を伝(433)へ、公義に由て世を審判く者、聖憤に燃ゆる人、罪悪を仮借せざる者、イエスと彼の使者とは斯かる者であると思ひ、其資格に於て彼等を接くる者がある。そして彼等は誤らないのである。福音の伝達者は其一面に於てはたしかに預言者である。彼は罪を憎み、悪を嫌ふ。イエスの為し給ひし事に「爾の室《いへ》の為の熱心我を蝕《くら》はん」との言に適ひし者があつた(ヨハネ伝二章十二節以↑)。そして預言者として伝道者を接くる者は預言者の報賞を受くと云ふ。即ち預言者より学び得る事を彼より学ぶを得べしと云ふ。イエスをバプテスマのヨハネと同じ者と見る者は、ヨハネの弟子が其師より与りしと同じ感化と教訓とにイエスより与ることが出来る。然し乍らイエスは預言者であると同時に亦それ以上であつた。彼は罪の贖主であつた。永生の供給者であつた。彼を単に預言者と視て僅かに英一面を見るに過ぎない。然れども一面たりとも見るは遥に見ざるに勝さる。イエスと其使者とを預言者として接けて、之に相応する恩恵が伴ふ。
〇人はまた多くの場合に於て福音の使者を義人として迎へる。即ち道徳の先生として尊敬する。是れまた誤りたる見方でない。伝道師(信者全体も亦然り)は其一面に於てたしかに道徳家である。そして道徳家として彼を接くる者は潔き高き道徳に就て大に彼より教へらる。然し乍ら伝道師は単に道徳家でない。彼は罪の赦しの福音の伝達者である。神と人との和平の美《よ》き音《おとづれ》の告知者である。福音の使者より道徳を学んで満足する者は、未だ彼の与へ得る最大最善の物を受けざる者である。然れども道徳と雖も受くるは受けざるに勝さる万々である。基督教道徳は最高最美の道徳である。之を学んで多くの人が基督教のすべてを知り悉したりと思ふは怪しむに足りない。義人なるの故を以て信者と伝道師とを接くる者は、之に相応する報賞を受くべしである。 然し乍ら預言者としてのみならず、又義人即ち道徳家としてのみならず、|福音の使者としてイエスの弟子を迎(434)へ〔付○圏点〕、之に冷水一杯なりとも与ふる者は、必ず之に相応する報賞を神より受くべしとの事である。|冷水一杯とは小慈善と云ふ事ではない。世に嫌はるゝ者に好意を表する事であつて、小に肖て実は大なる善行を指して云ふのである〔付△圏点〕。世にベルゼブル、国賊、逆臣と称せらるゝ者に、イエスの弟子なるの故を以て、此弱き小さき者の一人に、冷水一杯を恵む者は必ず其報賞を失はじとイエスは力を籠めて述べ給うたのである。そして斯かる人は実際に甚だ稀である。世と共に讃め、共に譏るが人情である。然るに輿論に反し、大胆にイエスの弟子に対し同情を表する者は、神の子御自身に仕へまつるのであつて、斯かる者は其行為に相応する報賞に与るべしと云ふのである。そして其報賞とは何かと問ふに、|イエスを知るの知識是れである〔付○圏点〕。そして彼を知るは窮りなき生命である。援助《たすけ》なきイエスの弟子を援けて、其報賞として永生の恩賜に与ると云ふ。冷水一杯の報賞としては過大なるが如しと雖も、神の子を労はりまつりし報賞と思へば決して過大ではないのである。
〇まことに福音の使者は預言者であるが、而かも預言者以上である。義人即ち道徳家であるが而かも道徳家以上である。彼は神に遣されし平和の使者である。パウロが曰ひしが如くに「神キリストに在りて世を己と和がしめ、其罪を之に負せず、且つ和らがしむる言」を委ねられたる者である。斯かる者として彼を接けし者が、神より最大の恩恵に与るべしとの事である。(六月八日)
 
    〔四五〕 イエス、バプテスマのヨハネに疑はれ給ふ 馬太伝十一章二−六節 路加伝七章十八−廿三節
 
〇空の鳥囀り、野の百合花の咲くガリラヤ湖畔の楽しき福音宣伝は長く継かなかつた。完全き人イエスの生涯に於ても蔭の映る時が来た。そして其蔭は段々と濃くなつて、終にはゲスセマネの園の暗き夜となつたのである。(435)然し今はまだ夜が来たのではなかつた。然し乍ら蔭は蔭であつて夜の来る予兆《しらせ》であつた。そして煌明々《くわうめい/\》たるイエスの御身に取りては蔭は如何に辛らくあつたであらう。況んや其疑の蔭が彼を最も善く解したりと思はれしバプテスマのヨハネに由て投げられしに於てをや。|イエスは先づ彼の親友に疑はれたのである、そして終に其弟子の裏切る所となりて十字架の死を遂げ給うたのである〔付ごま圏点〕 悲惨と云へば悲惨である。然し乍ら復活の朝に遭はんが為には是が必要であつたのである。
〇「偖ヨハネ獄《ひとや》にてキリストの行《なし》し業を聞きその弟子二人を彼に遣はして言はせけるは、来るべき者は汝なる乎、又我等他に待つべき乎」と。ヨハネが分封《わけもち》の君ヘロデに由て獄に投ぜられし事に就ては馬可伝六章十四節以下に審かであれば茲には語らない。彼は義を唱へし結果として死海の東岸マケーラス城内の暗らき牢獄へと授ぜられたのである。彼は彼所に繋がれて種々の思案に耽つたであらう。そして其内最も大なるものは、彼がキリストとして彼の国人に紹介せしイエスに関する事であつた。彼は思うた「イエスは果してキリストである乎。若しさうならば何故キリストたるの実を挙げないのである乎。何故彼は大能を現はして異邦人の政を滅して国をイスラエル人に還さないのである乎。罪は依然として世に跋扈するではない乎。ヘロデ・アンチパスの如き劣等の人が王として国を支配するではない乎。イエスが世に現はれて以来、差したる大改革は国に行はれないではない乎。「手には箕を持ちて其|禾場《うちば》を浄め、麦は斂めて其倉に納れ、糠《から》は熄《きえ》ざる火にて焼くべし」とはヨハネがキリストに就て述べし言ではない乎(馬太伝三章十三節)。然るにイエスの為せる所を見るに此言に適ひし所なく、義人は崇められず、悪人は罰せられず、世は依然として罪の世として存るではない乎。殊にヨハネ自身に就て思ふに、彼れ義の為に獄に入れられしも、イエスは彼の為に一臂の力を貸すことなく、彼を悪人が扱ふが儘に任かして顧(436)みず。此は果してキリストの行為として見ることが出来る乎。自分が神の羔として世に紹介せし者を疑ふは恐るべき罪である。然れども疑は疑として感ぜらるゝを如何せん」と。ヨハネは斯く思うて、罪とは知りつゝも、意を決して二人の弟子を遣はしてイエスの解答を求めたのである。彼の心中たるや実に推察すべきである。
〇此疑問に対してイエスは答へて曰ひ給うた、「瞽者は見、跛者は歩み、癩病人は潔まり、聾者は聞き、死たる者は甦され、貧者は福音を聞せらる」と。言は簡短である。此が我がキリストたるの証拠である。此事を聞き又見て我を疑はざる者は福ひなりとイエスはヨハネに言ひ遣はし給うた。其意味は「我は奇跡を行うた、我が奇跡を見て我がキリストなるを信ずべし」と云ふ事ではない。此場合に於て奇跡は問題でない、奇跡を施されし人の種類が問題である。瞽者、跛者、癩病人、聾者、之を総称すれば|貧者彼等〔付○圏点〕が癒され、福音を聞かせらる、是はたしかにキリストが顕はれし証拠ではない乎。王とか政治家とか、大臣とか、県知事とか、学者とか博士とか、富者とか、高位高官の人とか、そんな人達が顧みられずして、|貧者〔付○圏点〕が恵まれしと云ふ事、其事がキリスト出現の誤りなき証拠ではない乎とイエスはヨハネに言ひ遣はし給うたのである。
〇「婦の生みたる者の中に未だバプテスマのヨハネより大なる者は起らざりき」とイエスは後に曰ひ給うた。然れども此最大の偉人ヨハネと雖も人たるの範囲を脱し得なかつた。彼の理想も亦人間的であつた。彼も亦今日の多くの所謂基督信者の如くにキリストより此世の驚天動地的の大改革を要望した。然し乍ら真のキリストはそんな者ではない。彼が目を注ぎ給ふ所は世の見る所と全く異なる。|貧者〔付○圏点〕、即ち病人、不具者、此世と此世の教会とが無きに等しき者と思ふ者、救を彼等に施すのがキリストのキリストたる所以である。ヨハネは未だ此事を覚らなかつた。今日の信者も此事を覚るに甚だ難くある。「傷める葦を折ることなく、煙れる麻を熄《け》すことなし」(437)と云ふのがキリストである(十二章二十節)。嗚呼我等も亦ヨハネと共にキリストを大改革者、大政治家、大活動家と解して彼を誤解し、彼に就て躓くのである。〇言ふまでもなくキリストの感化力は普遍的である。彼は世の光であつて、人として彼の和煦《あたゝまり》を蒙らざるはない。然れども彼の感化は最下層より始まる。故に我等彼の恩恵に与らんと欲すれば自身貧者とならなければならない。即ち謙下りて瞽者たり唖者たるを自覚しなければならない。(六月十五日)
 
    〔四六〕 イエス、ヨハネを弁護し給ふ 馬太伝十一唖七−十五節 路加伝七唖廿四−廿八節
 
○イエスがヨハネの死者を接け給ひしも、又其質問に答へ給ひしも、彼が群衆と共に在つて彼等を教へ給ひつゝありし間であつた。そして「彼等の帰れる後」、正確に言へば、使者が帰途に就くやいなや、未だ彼等の姿が消えざる間に、彼はヨハネの弁護を始め給うた。イエスの言の簡短にして深刻なりしは、彼がヨハネを軽視《さげす》んだからではない。其反対が事実であつた。|ヨハネはイエスを疑うたが、イエスはヨハネを疑ひ給はなかつた〔付○圏点〕。表《あらは》に彼を責めながら、裏には彼を弁護し給うた。真の友人はすべて如此し。人が其友を弁護せし言にして、イエスのヨハネの弁護に優さるものはない。
〇第七節。「汝等何を見んとて野に出で往きしや 風に動さるゝ葦なるか」。ヨハネの勢力が一時は非常に偉大なりしが故に、彼の説教を聞くことが一種の流行となり、誰も彼も彼を見んとて曠野《あれの》に往いた。然し彼等の多くはヨハネの誰なるを知らなかつた。ヨハネはヨルダン河の畔に風に動かさるゝ葦の如き者ではなかつた。彼は世論に動かされて起つた説教師でなかつた。約翰伝一唖第六節に「茲に神の遣はし給へるヨハネと云へる者あり」と(438)あるが如くに、彼は誠に神の人であつた。人の要求に由て動かず、神の聖旨に由て行ふ人であつた。彼を「風に動かさるゝ葦」、即ち此世の人望家の如くに見しは大なる誤解である。
〇第八節。風に動かさるゝ葦に非ず、然らば権者に阿る懦夫でありし乎。然らずとイエスは答へ給うた。「軟き(|美くしき〔付ごま圏点〕ではない)衣を着たる者は王の宮に在り」と彼は曰ひ給うた。原語のまゝに訳すれば「軟《やはき》を纏ふ者は権者の家に在る」となる。そしてバプテスマのヨハネはたしかに軟弱、他に諂《こび》るの人ではなかつた。彼は此世の権力の庇保の下に動く説教師ではなかつた。彼は義の為には王を面責して憚からざる剛直、磐の如き人であつた。
〇風に動く葦に非ず、権に阿る弱者に非ず。然らば何乎。預言者なる乎。然り預言者以上である。彼は婦の生みたる者の中、即ちアブラハムの裔の中にて、最も大なる者であつた。最後に現はれし預言者であつて、旧約に終りを告げて新約を紹介せし者である。キリストの前に現はるべく言はれしエリヤである。彼に由て天国はイスラエルに紹介され、彼に教へられて多くの人々は励みて天国に入らんとし、又入ることを得たのである。実に偉大人物、神の使者である 然るにイスラエルは彼を如何に扱ひし乎。其王は己が不義を覆はんが為に彼を獄《ひとや》に投じた。其氏の多数は奇《めづ》らし半分に彼の教を聞き、暫らくは彼を誉立《ほめたて》て、直に彼を忘れ、彼を棄てた。「耳ありて聴ゆる者は聴くべし」である。彼等は神がイスラエルに与へ給ひし此偉大人物、此大光明を如何に扱ひし乎。深く己に省みて耻ぢ、改むべきであると。イエスは如此くにバプテスマのヨハネを弁じて、彼の国人を詰責し給うた。まことにイエスを知りし者はヨハネ、ヨハネを知りし者はイエスである。ヨハネにして若し自己に関はるイエスの此弁護の言を聞きしならば彼は感謝の涙に咽びて、嘗て一回たりともイエスのキリストたりし事を疑ひし軽率浅慮を堪へ難き程に耻ぢたであらう。
(439) 寛大なるイエスよ。彼は如此くにして我等各自を神と人との前に弁護し給ふ。彼は我等の悪しきに由て我等を鞫き給はず、善きに由て我等を執成し給ふ。彼は今日の宣教師や教会信者の如くに、我等の欠点を捉へて我等の価値を定め給はない。面前に在りては強く我等に当り給ふと雖も、蔭になりては強く我等を弁護し給ふ。彼は友人の模範である。彼の如くにして、|世の所謂友人〔付△圏点〕を多く有つ能はずと雖も、本当の友人は如此くにして有つことが出来る。我等はイエスが我等各自を扱ひ給ふが如くに、相互を扱はなければならない。
〇イスラエル人としてのヨハネに欠点の指摘すべき所はなかつた。彼は預言者以上の預言者、エリヤの再生とも称すべき者であつた。「然れども天国の最も小なる者は彼よりも大なり」とイエスは曰ひ給うた。最も小なる者は最も大なる者よりも大なりと云ふ。此はヨハネを小くなさんが為に発せられし言ではない、神の子の救ひに与りし者の光栄如何に大なる乎、其事を告げんが為に、ヨハネ賞讃の辞の内にイエスが加へ給ひし言である。そして此は事実を誤らないのである。まことに天国の最小なる者はヨハネよりも大なるのである。そはヨハネは婦の生みたる者であるに対して、天国の子供は霊に由て生れし者であるからである(約翰伝三唖参考)。質が全然異ふのである。「人、キリストに在る時は新たに造られたる者なり」とパウロが言ひし通りである(哥林多後書五章十七)。恰かも最も卑しき人と雖も、最も高価なる馬又は犬よりも貴くあるが如しである。|ヨハネ自身も多分、殉教の死を遂ぐる前に此光栄に与つたのであらう〔付ごま圏点〕。然し此は彼と雖も自から励みて達し得る境涯ではない。神の恩恵に由り入ることの出来る福祉《さいはひ》である。「汝等恩恵に由りて救を得、是れ信仰に由りてなり、己に由るに非ず、神の賜なり」とパウロが曰ひし通りである(エベソ書二章八節) 縦へヨハネと雖も、恩恵に由る信仰に由らずしては天国の民となることは出来ないのである。クリスチヤンは最大の人よりも大なりと曰ひてイエスは深い大なる真(440)理を述べ給うたのである。(六月二十二日) 〔以上、大正13・10・10〕
 
(441)     クリスマス演説 勝利の生涯
         (伝道附録に代へ今月は此文を掲げます。九月一日沓掛に於て為した演説の筆記であります。)
                         大正11年12月10日
                         『聖書之研究』269号
                         署名 内村鑑三
 
  我れ是等の事を汝等に語りしは汝等をして我に在りて平安を得させん為なり、汝等世に在りては患難を受けん、然れど懼るゝ勿れ、我れ既に世に勝り(約翰伝十六章卅三節)。
  然れども我等を愛し給ひし者に由りてすべて是等の事に勝ち得て余りあり(羅馬書八章卅七節)。
〇信者の生涯は勝利の生涯であります、如何なる意味に於てさうである乎。其事を簡短明瞭に示す者が約翰伝十六章三十三節、殊に其後半であります。
〇「汝等世にありては患難を受けん」とあります。「汝等」とはイエスの弟子を指して云ふのであります。「世」とは此世、「患難」とは人生あらゆる患難と之に併せて信者特有の患難とを指して言ふのであります。即ち人はイエスの弟子となりて即ち基督者《クリスチヤン》となりて患難より免かるることは出来ないと云ふのであります。神を信ずるの必然の結果は幸運幸福、患難は罪に対する神の刑罰であるとは人が自づから思ふ所であります。然るにイエスは茲に神の遣はし給へる其独子を信ずる者は多くの患難を受けんと言ひ給うたのであります。
〇「汝等此世に在りては患難を受けん、人一倍に人に憎まれん、人の知らざる困苦に遭はん、|然れど懼るる勿れ〔付○圏点〕」(442)との事であります。「驚く勿れ、不思議に念ふ勿れ、恐れて退く勿れ」との事であります。然しイエスが茲に語り給ひし言葉は其れ丈けの意味ではありません。英訳には Be of good cheer とありて、「力を落す勿れ、快活なれ」と云ふやうな意味であります。然し希臘語の tharseite《サールサイテ》は勇ましい言葉であります。「雄々しかれ、勇進せよ」と云ふやうな言葉であります。イエスは茲に弟子達に告げて言ひ給うたのであります、「汝等我が弟子となりて此世に在りて多くの患難を受けん、然れど勇進せよ、勝利は確実なり、我れ既に世に勝てり」と。
〇「我れ既に世に勝てり」と。是は著るしい言葉であります。イエスは今や弟子の一人に売られて敵の手に附されんとして居たまうたのであります。勝つ所ではありません、負けて殺されんとして居たまうたのであります。然るに「我れ既に世に勝てり」と言ひ給うたのであります。是れ修辞学で謂ふ所の誇張法《ハイパーボール》ではありますまい乎。
〇まことに此時イエスは未だ全く世に勝ち給ひませんでした。十字架はまだ未成の事業として彼の前に横たはりました。然し全勝は確実でありました。曠野《あれの》の試誘に悪魔に勝ち給ひし以来、彼は常に勝ち又勝たんとて進み給ひました。彼が最後に父の恩恵に由り十字架の死にさへ勝ち給はんとは彼の寸毫疑ひ給はざる所でありました。而して事実は彼の信仰を確めました。彼は全然、立派に世に勝ち給ひました。そして今日の我等に取りてはイエスの此の御言葉の儘が事実であります。彼は業に既に世に勝ち給ひました。それ故に我等患難に会ふとも歎いてはならない、其反対に欣び勇み進むべしとの事であります。
○イエスは既に世に勝ち給ひました。彼の勝利はただ始まつた丈けであつて、猶ほ多くの奮闘の後に完成せらるべきであると謂ふのではありません。彼は今や勝利の途に在り給うのではありません。既に世に勝ち給うたのであります。戦は既に勝つて勝鬨を挙げつつ昇天し給うたのであります。そして此事を知つて我等此世に在りて(443)患難を受くるも悲しまないのみならず反つて勇気が出るのであります。キリストは我等信者を以て悪魔と闘ひ、彼を征服せんとて努力し給ひつゝあるのではありません。彼は業に既に彼れ御自身で世と悪魔とに勝ち給うたのであります。そして我等彼の弟子等はたゞ僅かに彼が打ち滅し給ひし敵の跡始末を為しつゝあるに過ぎません。敵は既に致命傷を蒙りて算を乱して逃げ走りつゝあるのであります。そして我等は北《にぐ》る敵の後を逐うて勝利が上にも更らに勝利を収めつゝあるのであります。
〇何故に私供は少し許りの患難に挫けます乎。何故に失敗に失望し、無能に落胆します乎。何故に信仰の熱心なく、伝道の勇気が出ません乎。「我れ既に世に勝てり」と云ふイエス様の言を其儘に信じ得ないからであります。私供は思ひます。イエス様は今猶ほ私供を以て悪魔と闘ひ給ひつゝある。故に私供の敗北はイエス様の敗北である。そして私供は日に日に敗北を重ねつゝあるが故に、神の国は依然として停滞の状態に於てある。「嗚呼 暗黒は今猶ほ此世の勢力である。之に抵抗するの力はない。信者は少数。我は弱卒。勝利の見込みなし。我は退いて我が孤城を守らんのみ」と。斯かる悲鳴が信徒各自の口より揚るのであります。然るにイエスは言ひ給ひました、「汝等世に在りて患難を受けん、然れど懼るゝ勿れ、勇奮せよ、|我れ既に世に勝てり〔付○圏点〕」と。汝等を待たずして我れ……我れ独り、既に、千九百年前に、世に、此暗黒の罪の世に、勝てり、勝ち了せりと。
〇既に勝つたのであります。故に勝利の実《み》は着々と挙りつゝあります。キリストは人の為にのみ死に給うたのではありません。|神の為にも、然り特に神の為に死に給うたのであります〔付○圏点〕。キリストの贖罪の死に由りて神が世に対し給ふ其御態度が一変したのであります。之に由て斬らしき恩恵の能力が彼より出《いづ》るに至つたのであります。神がキリストに在りて世を見たまふ時に、罪は世より全然取除かれたのであります。斯くてキリストに由りて恩(444)恵《おんけい》の春は既に世に臨んだのであります。彼の故に、|然り彼の故に、我等彼の信者と称する者が何を為さうと又た為すまいと〔付△圏点〕、新らしき天と新らしき地とは終に現はるべく定められたのであります。然り|彼の故に〔付○圏点〕であります。万事万物は人を待たずして聖父《せいふ》と聖子《せいし》との間に定められたのであります。そして聖子が既に世に勝ちて、彼は誠に世に勝ち給うたのであります。人の子の世の征服は既成の事実であります。此事を知りて此大勝利に与るべく召されたる我等に大なる勇気、大なる歓喜、大なる感謝が起るのであります。恩恵の春は既に臨んだのであります。人は努力して之を防止する事も出来ず、又促進する事も出来ません。唯|春風《しゆんぷう》に吹かれ、花鳥を楽しみ、春相応の仕事に就くまでゝあります。そして其心に成りて此恩恵の時代に対すれば物として我等に宜からざるはなしであります。そして斯くしてこそ我等は歓喜に溢れ、勇気に燃え、常に充実して恒に活動する生涯を送ることが出来るのであります。斯くしてこそ又平安は彼に於てのみあるのであります。彼に在りて万事が成就されたからであります。我が為すべき事は既にキリストに在りて成就られて我等は只其|功績《いさほし》に与るのみであります。そして斯う思ふ時に勇気も熱心も勃然として起り来るのであります。
〇パウロは曰ひました「常に我等をしてキリストに在りて勝を得しめ且つ彼を識るの香《にほひ》を我等をして遍く示し給ふ神に感謝す」と(哥林多後書二章十四節)。実に其通りであります。
 
  一九二三年(大正一二年) 六三歳
 
(447)     TO MY GERMAN FRIENDS.余の独逸国の友人に告ぐ
                         大正12年1月10日
                         『聖書之研究』270号
                         署名なし
 
     TO MY GERMAN FRIENDS.
 
     Preface to the New Edition of the German Translation of How I Became a Christian.
 That a new print of my little book“Wie ich ein Christ wurde”is to appear in New Germany is to be greatly thankful. During the World-War,my sympathy was always with Germany as Germany,not indeed as Germany of militant Kaiserism,but as Germany of Evangelical Faith and Idealistic Philosophy.And now that the old regime is gone,and the new is come,my love.for,and faith in Germany,is not changed in the least. Germany has always been great in times of its great humiliations;andit will be great again in this time of its very great humiliation. Germany shorn of its navy and colonial possessions appears to me as true to its nature, since its true sphere of action is not on land or sea,but in mind and spirit.And what an honour to me to be permitted to have a share,though minute,in the fate of the new,resurrected Germany,through a new edition of my little hook! Again I quote the words of Walt Whitman, and send my renewed love to my dear,old Germany:
(448) “Have you heard that it was good to gain the day?
 I also say it is good to fall,battles are lost in the same spirit in which they are won.”
                   Kanzo Uchimura.
  Nov.30.1922.Tokyo.Japan.
 
     余の独逸国の友人に告ぐ
 
  『余は如何にして基督信者となりし乎』独逸訳改版に附する序文として出版者に送りし英文原稿の訳文。
 余の小著『余は如何にして基督信者となりし乎』の新版が新らしき独逸に於て出んとするとは大に感謝すべき事である。世界戦争中に余の同情は常に独逸と共にあつた。余が之に同情せしは独逸として之に同情したのである。軍国的カイゼル主義の独逸としてゞはない、福音的信仰と唯心的哲学の起源地なる独逸としてである。然るに今や旧き制度は去りて新しき制度の代る所となりて独逸に対する余の愛と信願とは少しも変らない。独逸は其過去の歴史に於て大なる悲境に陥し時に常に偉大であつた。彼はまた其甚大なる今日の悲境に処して偉大であるであらう。独逸は其海軍と海外植民地とを剥れて余の眼には真の独過に成つたやうに見える。そは独逸特有の活動の区域は陸又は海に於て在らずして、心又は霊に於て在るからである。而して此新しき復活せる独逸の運命に、余が余の此小著の新版を以て縦令|微少《すこし》なりと雖も参加し得るとは余に取り如何に大なる名誉たるよ。余は茲に復た詩人ワルト・ホイットマンの言を引き、余の愛する古き独逸に向けて余の新たにせる愛を送る。曰く
  汝は戦に勝つは善事なりと云ふを聞いた。
(449) 我は言ふ負るも亦 善事なりと。我等は戦に勝と同じ精神を以て負るのである。
  一九二二年十一月三日       日本東京 内村鑑三
 
附記 英文『余は如何にして基督信者となりし乎』は米国に於ては初版五百部を漸くにして売尽して後に絶版となつた。英国に於ては何れの会社も其出版を引受けなかつた。独逸に於ては数版を重ねて茲に亦新版を見んとして居るのである。
 
(450)     〔神の義 他〕
                         大正12年1月10日
                         『聖書之研究』270号
                         署名なし
 
    神 の 義
 
 何時説いても害なくして益ある者は神の義である。恩恵を説けば恩恵に狎るの虞がある。愛を説けば愛に溺れるの危険がある(神の愛と雖も亦然り)。奇蹟を説けば迷信に陥り易し。再臨を高調すれば多くの再臨狂を生ず。然れども神の義に至ては常に健全であつて恒に合理的である。勿論愛も恩恵も奇蹟も再臨も時には之を説かなければならない。然れども其内何れなりと雖も、特に之を高調して之に害の伴はざるはない。之に此べて義は日光又は空気又は穀類の如き者である。常に之に浴し、之を吸ひ之を食して害なくして益がある。而已ならず義の無き所に愛は行はれず、恩恵は降らず、奇蹟も亦現はれない。故に奇蹟は時々之を説き、愛と恩恵とは刻々之を唱ふべしと雖も、常に唱道して怠るべからざるは義である。今日の基督教会が不健全にして居るに堪へ難き理由は全く茲に在るのである。即ち其内に憐愍と教義と熱心と神学が説かれて、神の公義が説かれず又行はれないからである。
 
(451)    義の意義
 
 浅薄なる基督信者は云ふ「義は人の罪を発いて彼を審判く事である」と。決して然らずである。義は人の神と人とに対する義き関係である。此関係に於て在らずして善事は何事も行はれないのである。神は人の罪を赦すに義に由て赦し給ふ。人を恵むにも亦義に由て恵み給ふ。彼は義の神であつて、義に由らずしては何事も為し給はない。神の僕も亦さうである。彼も亦其主に似て義に由らずして何事をも為さない。神も神の人も唯は赦さず、唯は恵まない。誠に唯赦し唯恵むは最大の不義又最大の無慈悲である。義の要求する赦しの条件は罪の悔改である。恵みの条件は信頼である。絶対的の愛と称して悔改めざるに赦し、信ぜざるに恵むは愛に非ず又恩恵に非ずである。キリストの愛と阿弥陀の慈悲とは此点に於て全然異なる。キリストに「羔の怒」がある。即ち罪に対する深き嫌悪がある。此怒は罪人の悔改に由てのみ宥めらる そして其後に完全なる赦しと遠大なる恩恵が降るのである。
 
    個人主義
 
 近代人は極端なる個人主義者である。彼は先づ第一に自分の事を思ふ。其次に自分の関係者の事を思ふ。我が事と彼の事。(大抵の場合は彼|女〔付△圏点〕の事)。其他の事を思はない。世界の事を思はない。国の事を思はない。神の事を思ふと云ふは実は自分と自分の愛する者との幸福を思ふに過ぎないのである。近代人はモーセにあつたやうな自分は滅びても国人の救はれん事を欲《ねが》ふと云ふが如き心、キリストやパウロにあつたやうな神の義が成らんが為(452)には十字架の死をさへ敢て受くると云ふやうな心は毛頭ない。言を代へて云へば、近代人に全然欠乏する者は本当の意味に於ての公的精神である。彼等は宇宙は滅びても一人の罪人の救はれん事を欲し、之を称して無限の愛といふ。誠に個 は貴くある。然れども神と其聖旨(法則)とは個人よりも貴くある。そして個人が聖旨に逆ふ場合に於ては個人を減して聖旨を維持し給ふ。個人は神の為であつて神は個人の為でない。近代人は此事を覚らざるべからず。
 
    伝道成功の秘訣
 
 伝道成功の秘訣とて別にない。神の御言なる聖書を説くことである。さうすれば伝道の功は必ず挙る。さうしないで幾ら大挙伝道、倍加運動、社会事業と焦心るとも伝道の効果を見ることは出来ない。神が預言者イザヤを以て曰ひ給うた通りである。♂艪ェ口より出る言は空しくは我に還らず。我が喜ぶ所を成し、我が命じ遺りし事を果さん″と(以賽亜書五五章一一節)。御言其物が大なる力である。人の雄弁又は技工を加へずして霊魂を活かし之を永遠の道へと導く。汝教会を起し之を盛にせんと欲する乎? 聖書を解して之を説くべし。聖書は教会を起し之を盛にするであらう。英国人の諺に曰く“Letus build railroads and railroads will build the country”(我等をして鉄道を作らしめよ、然らば鉄道は国を作るであらう)と。其如く♂苴凾して聖書を説かしめよ、然らば聖書は教会を興すであらう″。先づ深く聖書を究め、然る後に生命を賭して之を説けば個人も社会も国家も人類も救はるゝは必然である。只憾む唯此事のみ行はれざる事を。
 
(453)    平凡の道
 
 平凡に上等なると下等なるとがある。下等なる平凡は凡俗と万事を共にする事である。其中に勇敢なると高貴なる事なく、何事も凡俗が為すが如くに行ふ。是れ決して誉むべき事でない。然れども平凡に亦上等なる者がある。それは天然自然の道を取る事である。此意味に於て神の為し給ふ事はすべて平凡である。神は容易に奇蹟を行ひ給はない。四季の循環、草木の生長等すべてが平凡である。我等も亦神に傚ひて行ふべきである。人は基督者と成りたればとて異様の人と成つたのではない。当前の人と成つたのである。故に当前の人として行ふべきである。$lのパンを価なしに食する事なく、唯人を累はせざらん為に労苦して昼夜働けり″と言ひしパウロは平凡の人であつた(テサロニケ後書三章八節)。偉人はすべて平凡の人であつた。英国のジヨンブライト、米国のリンコルン、我国の西郷隆盛等皆然りである。我等も亦努めて偉大なる凡人たるべきである。
 
(454)     支那伝道の義務
         十二月七日 柏木今井館に於ける世界伝道会例会に於て読む。
                         大正12年1月10日
                         『聖書之研究』270号
                         署名 内村鑑三
 
〇支那は大国であります。支那本土に満洲、蒙古、伊黎《イリー》、青海、西蔵を合せて、其面積は四百三十万方哩であります。是は属領地を除いたる日本帝国の二十七倍以上でありまして、欧羅巴大陸よりも遥かに大きくあります。即ち亜細亜大陸の四分の一、全世界陸面の殆んど十三分の一であります。そして其人口は四億何千万と云ふのでありまして、世界総人口の四分の一であります。斯かる国柄でありますれば、其運命が全世界の運命に大関係のあるは云ふまでもありません。
〇そして此大国が我日本と最も近い関係に於て在るのであります。人は支那と云ひて外国である乎のやうに思ひますが、それは只政治的にのみさうであるのでありまして、地理的にも、人種的にも、人文的にも、支那と日本とは決して別国ではありません同国であります。単に大小の関係から云ひますならば、日本の支那に対するは、八丈島か小笠原島が日本本土に対する関係であります。そして八丈島が日本を離れて独立する事の出来ないやうに、日本は支那を離れて完全なる独立を保つ事は出来ません。日本は支那の一部分と見るが本当であります。日本の国土は支那を太平洋中に延長した者に過ぎません。日本文明は支那文明の進歩した者と見るが真であります。(455)日本人は支那人の血族である事は誰が見ても明白であります。私共日本人は同胞六千万と云ひますが、実は同胞|四億〔付△圏点〕六千万と称すべきであります。|我国〔付△圏点〕は秋津洲八百余島ではありません。東は東海の浜より西は天山、パミール高原に至るまで、北はシベリヤ国境より、南はヒマラヤ山脈に至るまでの大国であります。斯かる大国を与へられながら、なぜ私共は「我は日本人なり」と言ひて島国《たうこく》根性に自分を卑下して居るのであります乎。
〇支那を御覧なさい、支那を御覧なさい。其四川省の一省は其面積と富源とに於て日本国以上ではありません乎。其雲南省亦略ぼ日本大でありまして、立派の一国を成すに足るの国土であります。楊子江は其長さに於て多分世界最大の河でありまして、其沿岸の生産力は、ミシシピ アマゾンのそれ以上であります。そして斯んな国を我国と呼ぷ事が出来ると思へば、我が特権も亦大なりと云ふべきではありません乎。私共日本人は今日まで欧米の富強に憧憬れて隣邦ならで、|我国〔付△圏点〕支那を忘れて居つた事は実に恥づべき事ではありません乎。
〇然らば如何して支那を我国と成す事が出来ます乎。太閤秀吉のやうに支那を撃つて之を我が領地と為してゞあります乎。決してさうではありません。英国や、仏国や、独逸や、伊太利が自から基督教国と称しながら、支那を蚕食して其所に其勢力を扶植せんとしたのは大なる間違であります。我国の軍人が又是等欧洲の偽善国に傚ひ、支那を獲《う》るに兵力を以てせんとせし事は、実に歎はしき事であります。|国を獲るの道は唯一つあります。それはキリストの愛であります〔付○圏点〕。兵力や金力を以てゞはありません、福音の力を以てゞあります。|支那人を愛せずして支那は得られません。そして支那人を愛して私共は未だ支那に寸地を獲ずとも、既に私共の心に於て支那を我国として獲たのであります〔付○圏点〕。
〇然るに事実は如何であります乎。日本人は果して支那人を愛します乎。若し愛すると云ふならば其証拠は何処(456)に在ります乎。私共は日本人が支那に利権を得たとか得るとか云ふ事を聞きました。然れども支那に宣教師を送り、其|暗《やみ》を照らし、其病を癒《なほ》し、其苦を慰むる道を取つた乎、其事を聞きません。日本人は支那を経済的に見るより外に、博愛的にも、兄弟的にも見ません。其結果として支那は日本に最も近き国でありながら、最も遠い国として存つて居ます。実に耻かしい事ではありません乎。
〇支那に取り隣邦の日本は遠方の米国又は英国よりも遥に縁の遠い国であります。米国も英国も、仏国も、然り小なる瑞西又は丁抹も、支那を愛する点に於て遥に日本以上であります。御覧なさい、英国人の支那伝道の盛なる事を。英国は曾て支那に対し、阿片戦争と云ふ大罪悪を犯しました。然し乍ら其罪悪を償はんとて、多くの英国人は其生命と財産とを捨てゝ支那人の救済に従事して居るではありません乎。有名なるロバート・モリソンは百十五年前に広東に来り先づ支那語に精通し、浩翰六冊に渉る支那字典を著はし、学校を設け、薬局を開きて支那伝道の基礎を作り、其貴重なる生涯の全部を支那人の為に献げました。支那内地伝道の創設者ハドソン・テーラーも亦支那人の大恩人であります。今や彼の後を嗣いで支那内地に伝道する英国人は一千人以上に達するとの事であります。其他蘇蘭土宣教師W・C・バーンス、蒙古人の使徒と称へられしジエームス・ギルモア、実に枚挙するに遑がありません。同じ事が又米国宣教師に就いて云はれるのであります。羅馬天主教会も亦早くより其力を支那伝道に注ぎ、今や改信者として百万人以上を算ふるとの事であります。雲南、四川、甘粛等商人の行かざる所にも福音の宣伝者は行いて居ます。大砲や軍艦を以てする支那征服は止んでも、平和の福音を以てする支那占領は息みません。我国の軍人や政治家が夢想だもする事の出来ない方法を以て欧米人は支那征服を行ひつゝあります。即ちキリストの福音を以て支那人の心を占領しつゝあります。是は単に政治上から見ても、日本(457)国に取り小事ではありません。況んや同胞の義務として日本人の怠慢は実に赦すべからずであります。
〇然れども愛の無い人に愛を訴ふるも無益であります。外国人と云へば支那人までも我に関係なき者と見る今の日本人の多数に支那伝道を謀るも何の反響なきは勿論であります。然れども私共は幸にしてキリストの愛を知らしめられました。私共は日本人同様支那人を、然り亜弗利加の黒人を、亜米利加の銅色人種を愛し得る事を神に感謝します。故に先づ隣邦の支那に対し少許の愛を表する事を許していたゞき之に合せて支那人の為に祈りたく欲ひます。先づ今年のクリスマスを以て『聖書の研究』読者世界伝道協賛会より其最初の献金一百円を上海なる支那内地伝道会本部に送り、其事業に九牛の一毛に当る参加を許して貰ひます。誠に小額赤面の至りなりと雖も無きに勝さると信じます。そして之を初めとして年毎に参加の度を増して終には私共の代表者を支那億兆の内に送るに至らん事を祈ります。私は支那伝道を外国伝道として見ません。之を内地伝道の一部と認めます。支那人は私の肉の肉、骨の骨であります。私に仁義の道を教へて呉れ、私をしてキリストを識る前に、少しなりと人らしき者を成して呉れた者、此支那人に対して私は報恩の義務を負ふ者であります。
 
(458)     BETTER THAN THE BEST.最善よりも善きもの
                        大正12年2月10日
                        『聖書之研究』271号
                        署名なし
 
     BETTER THAN THE BEST.
 
 Said John Wesley:The best of all things is,God is with us. I say:Better than the best of all things is,God forgives our sins. And the same God did and does forgive our sins in the Son of His love,through His cross. Our sins all wiped out in Him,――What an exceeding great mercy! In Him,not anywhere else,in Christ who suffered for our sins,is no sin;and we by faith, can live and move and have our being in this sinless atmosphere,the heavenlies of the spiritual life. A mystery,but a reality,and sweetly reasonable,――God's forgiveness guaranteed by His righteousness,――is not the message altogether too good for sinners,――an evangel indeed, better than the best of all things!
 
     最善よりも善きもの
 
 ジヨン・ウエスレーは曰うた「最も善き事は神我等と偕に在し給ふと云ふ事である」と。私は曰ふ最も善き事よりも更に善き事は神我等の罪を赦し給ふと云ふ事であると。誠に此神は其愛子に在りて、彼の十字架の死を以(459)て、我等のすべての罪を拭ひ去り給うた。恩恵の樋とは此事である。彼に在りては(彼れ以外に此事なし)、我等の罪の赦されんが為に苦しみ給ひしキリストに在りては、罪なる者はないのである。而して我等は信仰に由りて此罪なき境涯に在りて生き又動き又|存《あ》ることが出来るのである。誠に霊的生命の天国とは此境涯である。奥義である、然れども事実である。美はしき道理に合うたる事実である。是は誠に罪人に取り善きに過ぎたる音信である。福音である。喜ばしき音信《おとづれ》である。最も善きものよりも更に善きものである。
 
(460)     〔普通の生涯 他〕
                         大正12年2月10日
                         『聖書之研究』271号
                         署名なし
 
    普通の生涯
 
 善物はすべて普通の物である。「犬れ天の父は其日を善者にも悪者にも照らし、雨を義き者にも義からざる者にも降らせ給へり」とあるが如し(馬太伝五章四)。日と雨とは無くてならぬもの、故に最も善き物である。そして神は之を何人にも与へ給ふ。富者又は貴族又は学者にあらざれば獲られぬ者は決して善きものではない。何人にも容易く獲らるゝ者が最も価値ある者である。十字架の福音の貴きは是がためである。是は獲るに最も容易く、又何人も獲る事の出来るものである。善者も悪者も、義者も不義者も唯信ずるに由て己が有とする事の出来るものである。人生は不公平であると云ふ者は誰乎。人生最も貴きものは唯仰ぎ瞻ることに由て獲らる。金と銀と宝石と、爵位と学位と僧位とは、得難きが故に貴からず。日と雨と永生とは得易きが故に尊し、故に普通なる者を求めよ。普通の人たらんことを努めよ。平民として神を信じて普通の生涯を営む。之に優るの特権又幸福他に在るなしである。
 
(461)    詩篇第百篇
 
   一 全地よヱホバに向ひて喜ばしき声を揚げよ。
   二 欣喜《よろこび》をもつてヱホバに事へよ。
     歌ひつゝ其前に来れ。
   三 知れヱホバこそ神にまします事を。
     彼は我等を造り給へる者、我等は其属なり。
     我等は其民、其|草苑《まき》の羊なり。
   四 感謝しつゝ其門に入れよ。
     讃美しつゝ其大庭に来れ。
     彼に感謝を奉り其聖名を讃《ほ》めよ。
   五 そはヱホバは恵み深し。
     其憐愍は窮りなく、
(462)     其|真実《まこと》は万世《よろづよ》に及ぶべければなり。
 
〇「全地よ」 イスラエルも異邦人も、信者も未信者も、世界万国の民よ 〇「喜ばしき声」 黙する莫れ。念ずるにては足らず。声を揚げよ。喜ばしき声を揚げよ。楽に合はして歌へよ。
〇「欣喜をもて……事へよ」 事ふるのみにては足らず、欣喜をもて事へよ。其聖前に出るのみにては足らず、歌をもて出でよ。ヱホバは何よりも感謝の供物を愛し給ふ 〇「知れ」 過去に於ける恩恵の事実に顧みよ。実験的にヱホバの神なるを知れよ 〇「我等を造り給へる者」 我等を土より造り給ひしに止まらず、我等を導き、我等に再生の恩恵を施し給へる者、故に我等は自己の属に非ず、ヱホバの属である。我等は神の民である。其草苑の羊である。全然彼に導かるゝ民である。摂理の産である。
〇「感謝して其門に入れよ」 ヱホバを知らざる者に言ふ「ヱホバに来れ」と。縦し我等の如くに彼に事へずとも、縦し彼の僕、其羊たらずとも、其門に入り、其大庭に来りて、彼に感謝を献げ、其聖名を讃めよ。縦し我等の如くに其深き聖旨を知るの恩恵に与らずとも、天地の聖殿の大庭よりヱホバの聖名を讃め奉れよ。
〇「そはヱホバは恵み深し」 其性は善なり。彼は愛なり。イスラエルにも異邦にも、基督者にも非基督者にも、彼は恩恵を施し給ふ。而してヱホバの善たるや無窮であり又不変である。「憐愍」は恵まんと欲する熱情を云ひ、「真実」は其永久に変らざるを云ふ。それ故に何人もヱホバを讃め称ふべきである。〇信者は自己に神の恵を充分に実験し、欣喜と感謝に溢れて、世をして之に感染せしむべきである。此世に満溢るゝ者は不平の声である。失望の呻である。之を打消すに神の民の讃美の声を以てせざるべからず。我等にして(463)喜ばざらん乎、誰か欣ばん。「讃美は直き者に適はしきなり」とあるが如し(詩篇卅三篇一節)。我等は我国と全世界とを讃美化するの責任を担ふ者である。
〇欣喜と感謝は基督教の基調《キーノート》である。信者の生涯を通うして一貫する者は感謝である。善き事も悪しき事も感謝の種である。人生最大の感謝は神我と偕に在し給ふ事である。「汝神を有す、亦何をか要せん」とあるが如し。
 
    二種の進化論
 
 進化論に二種ある。無神的進化論と有神的進化論と是れである。無神的進化論は天地は其れ自身にて、より大なる能力と智慧の指導なくして、無限に進化すると云ふのである。之に対して有神的進化論は云ふ、天然に其れ自身を発達するの能力はない。天然自体が自働体でなくして受働体である。|進化は神が万物を造り給ふ途である〔付◎圏点〕と。そしてダーウイン自身が無神的進化論者でなくして有神的進化論者であつた。『種の起源』の最後の一言が此事を証して余りある。彼は造物主に由て生命が数箇又は一箇の種類に吹入され、それが進化して千貌万態の生物と成つたのであると言ひ、其故を以て造物主の懿徳を讃へて居る。又ダーウインと殆んど同時に自然淘汰を唱へしワラスは或点に於てはダーウイン以上の学者であつて、確に彼れ以上の信神家である。其他米国第一の植物学者アサ・グレー、進化哲学者ジヨン・フイスク、地質学者ル コント等は孰れも進化論者であつて熱心なる基督者《クリスチヤン》であつた。余の見る所を以てすればスべンサー自身が決して非基督的唯物論者ではない。彼が熱烈なる非戦論者であり、現代文明の呪詛者でありしを見ても、彼の信仰の何たりし乎を推測する事が出来る。其他有力なる進化論者にして敬虔《つゝしみ》ある有神論者たりし者は枚挙するに遑がない。唯不幸にしてダーウインの弟子にして彼の敬虔な(464)き者が多かつた。英国に在りてはハツクスレーが国教会の圧迫を憤りて其教義に対抗して進化説を唱へ、独逸に在りてはヘツケルが明白《あからさま》に無神的進化論を叫んだ。而して真の神を嫌ふ此世の人等は有神論よりも無神論に対し|より〔付ごま圏点〕多く耳を傾くるが故に、後者の声は前者の声よりも|より〔付ごま圏点〕高く聞こえるのである。若し読者が『科学大系』の著者アーサー・トムソンの著書に由て進化論を学ぶならば、彼等は近代進化論の何なる乎と共に、神の存在を認めつゝも深き進化論者たり得るの道を教へらるゝであらう。進化論を納れて基督教を棄つるの必要は少しもない。
 
(465)     執筆満三十年
                         大正12年2月10日
                         『聖書之研究』271号
                         署名 内村鑑三
 
 小著『基督信使のなぐさめ』初版の発行は明治二十六年二月二十五日であつて、今年は其満三十年に当るのである。其間に版を重ぬること二十一回、原版磨滅して改版すること三回に及んだ。今や人として著書なき者殆んど無き時に方て、三十年の生命を保ち得る著書あるを得しは大なる幸福又恩恵と謂はざるを得ない。此書初めて出て之を第一に歓迎して呉れた者は当時の『護教』記者故山路愛山君であつた。君は感興の余り鉄道馬車の内に在りて之を通読したりと云ふ。然し其他に基督教界の名士又は文士にして其価値を認めて呉れた者は一人もなかつた。或は「困苦の問屋である」と云ひて冷笑する者もあり、或は「国人に捨てられし時」などゝ唱へて自分を国家的人物に擬するは片腹痛しと嘲ける者もあつた。然し余は教会と教職とに問はずして直に人の霊魂に訴へた。而して数万の霊魂は余の霊魂の叫びに応じて呉れた。余の執筆の業は此小著述を以て始つた者である。此著を以て余は独り基督教文壇に登つたのである。而して教会並に教職の援助は勿論のこと、其の同情も賛成も少しも余に伴はざりしと雖も、神の恩恵と平信徒の同情との余に加はりしが故に、余は今日に至るを得たのである。教会の援助同情ゐ信仰的事業の成功に何の必要も無き事は此一事を以ても知るらゝのである。余は復た茲にエベネゼル(助けの石)を立て、サムエルと共に曰ふ「ヱホバ茲まで我を助け給へり」と(撒母耳前書七章十二節)。
 
(466)     『世界伝道の特権』
                         大正12年2月28日
                         単行本
                         署名 内村鑑三 著
 
〔画像略〕初版表紙129×87mm
 
(467)  〔目次〕
  世界伝道の特権………………………………………二四六
   附、支那伝道の義務………………………………四五四
 
(468)     FAITH AND PERFECTION.信仰と完全
                         大正12年3月10日
                         『聖書之研究』272号
                         署名なし
 
     FAITH AND PERFECTION.
 
 I may be good,I may be bad;but Ineed not mind about that.I have only to look unto Jesus and believe in Him. In God's sight,I am good when I am in Him,and bad when I am not in Him.Christ is my goodness,and apart from Him there is no goodness in me. My nature,my heredity,my acquired character have nothing to do with my goodness in God's sight.Only my faith does count;and as I look upon my crucified Saviour with eyes of faith,am I transformed into His image from glory to glory. I do not try to build my character,but by constantly looking unto Him,am I graadually made like Him. Faith is the secret of the Christian's perfection.
 
     信仰と完全
 
 私は善くある乎又は悪くある乎を知らない。私は其共事に就て顧慮するに及ばない。私は唯イエスを仰瞻て彼を信ずれば宜いのである。神の御前には、私は私がイエスの裡に在る時、即ち信仰を以て自分を彼の裡に置く時に(469)善くあるのであつて、私が彼の裡に在らざる時に悪くあるのである。キリストは私の善其物である。彼を離れて私に善なる者はないのである。私の性質私の遺伝、私が努力の結果私の有とせし私の品性、孰も神の御前に於ける私の善なる事には何も関係がないのである。唯私の信仰のみが価値あるのである。そして私が信仰の眼を以て十字架に釘けられし私の救主を仰瞻る時に、私は栄より栄へと彼の像《かたち》に化せらるゝのである。私は私の品性を築き上げんとしない。唯|断《たえ》ずイエスを仰瞻ることに由て私は段々と彼の如くに成るのである。信仰は基督者《クリスチヤン》が完全に達するの秘訣である。
 
(470)     満六十二歳の感
                         大正12年3月10日
                         『聖書之研究』272号
                         署名 内村鑑三
 
〇私は文久元年(一八六一年)二月の生れでありまして、今年は満六十二歳になります。人生の半ば以上を既に過ぎたのでありまして、今や其夕方に近づいて来たのであります。神は此上猶ほ幾年私を此世に置て使ひ給ふか私は勿論知りません。然し乍ら彼が私に対ひ「汝の筆を棄、汝の唇を閉て我が許に来れ」との命令を降し給ふ時は余りに遠くはあるまいと思ひます。
〇然らば六十二歳の今日私は如何感ずる乎と人に問はれますならば私は大体左の如くに答へるだらうと思ひます。
 私は世に生れて来た事を少しも悔いません。又基督信者に成つた事を少しも悲みません。私の生涯は其大体に於て恵まれたる生涯でありました。神は私に私相応の患難を下し給ひましたが、其れは孰も私に無くてならぬ患難でありまして、私は其のすべての故に神に感謝します。殊に此不信国に生れて来て、イエスキリストの福音を信ずる事が出来、之を三十年の長き間、私の同胞に伝ふる事の出来た事は、実に光栄の至りであります。私が此事を為したのは、政府に命ぜられ、或は教会に頼まれて為したのではなく、唯私以上の「或者」に強ひられて為したのであると思へば、感謝は一層深くあります。私は私の生涯に臨みし神の恩恵の数々を想ひて感謝の涙に咽(471)ばざるを得ません。然し乍ら私の生涯の誇は私が為す事を許されたる少しばかりの事業ではありません。|イエスキリストの十字架であります〔付○圏点〕。私は十字架の深き意味を少しなりと解《わか》らせられて実に感謝措く能はずであります。其事を思ふて私は或時は日本人中私程幸福なる者はあるまい乎と思ひます。|是れさへ有れば〔付△圏点〕人生のすべての苦痛を償ふを得べく、又|是れさへあれば〔付△圏点〕恐れずして死の河を渡る事が出来ると信じます。私は勿論自分が偉い者であり、又は聖人であるとは思ひません。私の信頼は私の徳でも行でもありません。私の信仰であります。神の子が私に代つて受けて下さつた十字架上の死、其れが私の信頼《たより》であります。そして之を念ふ時に、墓の暗黒が私の眼の前より取去られます。私は西山に大陽が舂《うすづ》く所に、黄金の光の目映《まばゆき》を見るやうに、墓の彼方に新らしきヱルサレムの栄光を認めます。私は或時はカナリヤ鳥の声が彼国の歌ではない乎と思ひます。愛する者との再会が待たれます。然らば此世の事を忘れる乎と云ふに決してさうでありません。彼国の夢が覚むるや否や、直にまた命ぜられし此世の仕事に就きます。六十二歳の春を迎へて私は決して失望の人ではありません。詩と歌と科学と哲学とはまだ沢山に私に存つて居ります。今日の所隠居するの心は少しも起りません。唯眼や歯が段々と弱り行くのを見て、世人の言ふ老境に自分も入つたの乎と気が附くのみであります。其ほか全体の気分に於ては青年時代と少しも変りません。
〇私は今は政治や社会や交際には少しも興味を有ちません。其れはこには私の性質が然らしむるの乎も知れません。然し其他に深い理由が有ると信じます。此世の事はすべて表面の事であつて、其れは実は如何成つても可い事であります。人生万事は実は政治や外交や社会運動に由て定《き》まりません。神と人との関係如何に由て定まります。そして私の此意見に裏書して呉れる者は、今日まで此世に現はれしすべての大預言者、大詩人、大哲学者、(472)大と称せらるゝすべての人であると信じます。|私は偉人を以て代表されたる人類の輿論に従つて歩まうとして居ます〔付△圏点〕。故に今日の新聞記者や政治家又は宗教家等の言には少しも耳を傾けません。私は単独でありますが、然し少しも淋しくはありません。日々の仕事が最大の喜びであります。教会其他の此世の団体には少しも関係しませんが、「世界の市民」の一人として神とも人類ともに事へて甚だ愉快であります。
 
(473)     永遠に変らざるイエス
                         大正12年3月10日
                         『聖書之研究』272号
                         署名なし
 
  イエスキリストは昨日も今日も永遠変らざるなり(ヒブライ書十三章八節)。
 
〇時は変ります。歳は去て又還りません。人は変ります。去年居つた人で今年居らない者があります。去年友人であつた人が、今年は敵に成つて居る者があります。世は変ります。今日の世界を十年前のそれに較べて見て、全く別世界の感が致します。「此世の形状《ありさま》は過逝く也」とパウロが言ひましたが実に其通りであります(コリント前七の三一)。来年の今日までに世界にどんな大変動が来るか解りません。実に不安なるは人生であります。私の知つて居る人で、昨年の暮は大富豪であつた入で、今日は私よりも遥に貧しい人と成つた人があります。大銀行大会社と雖も、潰れる時には束の間に潰れます。百年前の富豪にして其富を今日まで維持して居る者は実に寥々たるものであります。安心と云ふは単に比較的の事であります。其事を思ふてクリスマスも新年も少しも芽出度くありません。
〇然らば人生は不安なる者と諦めてそれで安心が出来ませう乎。或人は出来ると云ひます。何事も諦め一つであると云ひます。然し諦めは忘却であります。我等は諦めて喜ぶ事は出来ません。|本当の安心は忘れる事ではあり(474)ません。思ひ出す事であります〔付○圏点〕。或る一つの確実なる事実がありて、それを信じ、それを憶ひ起して、本当の安心があるのであります。|変り行く世に在りて或る一つの変らざる者に依穎みて、初めて本当の安心があるのであります〔付△圏点〕。
〇そして其安心はイエスキリストに於て在ります。彼は「昨日も今日も、永遠変らざる也」とあります。其事は単に彼の説き給ひし真理は永遠に変らざる真理であると云ふ事ではありません。或は又彼を以て実現されたる理想は永遠に変らないと云ふ事でもありません。|イエスキリスト御自身が永遠の存在者であつて〔付○圏点〕、其愛と義と誠実とを以て永遠に変り給はないと云ふ事であります。基督信者に取りキリストは単に一個の歴史的人物ではありません。彼は死して甦へり天に昇り今は父の右に座して永遠に世を治め給ふ者であります。其意味に於て彼は昨日も今日も永遠《いつまで》も変り給はないのであります。彼はアルフハにして亦オメガ、昔在り、今在り、後在らん者であります。即ち我等信者はイエスキリストに在りて永遠に変らざる救主を有つ者であります。「我れ生くれば汝等も生くべし」と彼は言ひ給ひまして、彼の永遠に変り給はざる事が我等も亦永遠に変らざる者たり得るの理由となるのであります。我が生命の主は変り給はない。然らば何が変つても私供は安全なるのであります。「我は生者《いくるもの》なり、前《さき》に死し事あり、視よ我は世々|窮《かぎ》りなく生きん」と言ひ給ひし者、其キリストが我が救主であると知りて、歳は去り歳は来り、人と世とは間断なく変り行くも我等は主と共に変らないのであります。
〇一休和尚の「門松は冥途の旅の一里塚、嬉しくもあり嬉しくもなし」とは人情其儘を歌つたものであります。然し其内に永生を望むの心の籠つて居る事は誰でも認むる事が出来ます。|人は何人も不変的生命を要求します〔付△圏点〕。是れ人に永遠性の在る何よりも善き証拠であります。然るに宇宙万物すべてが変り行くのであります。其処に人(475)生の淋しみがあるのであります。然るに神の子は人の形を採りて現はれ、死に勝ち、永生を獲得して、又之を人に与ふるの道を開き給ひました。「キリスト死を廃《ほろぼ》し、福音を以て生命と壊《くち》ざる事とを明著にせり」とあります(テモテ後一の十一)。斯くして人生の淋しみは完全に取除かれたのであります。キリストを信じて除夜の鐘は其悲しき調子を失ふのであります。我等は喜びを以て旧きを送りて新しきを迎へます。(一九二二年十二月三十一日今井館に於て。)
 
(476)     マダガスカーの場合
                        大正12年3月10日
                        『聖書之研究』272号
                        署名 内村鑑三
 
 
〇世界で一番大きい島は東印度のニユーギニーであります。其次ぎが之も亦東印度のボルネオであります。そして第三番がマダガスカーであります。マ島は印度洋の内に在りて阿弗利加大陸の東南に位します。其面積は二十二万八千平方哩でありまして、属領地を除いたる日本帝国の一倍半であります。殆んど大陸に類したる一個の大なる島であります。其地位並に地勢がよく台湾に似てゐます。大陸の東南に位する事、台湾が赤道の北にある丈けマ島が其南に在る事(夏至線は台湾を通過し、冬至線はマ島を通過してゐます)。其形が南北に長く、東西に短く、北に尖り、南に円い事、殊に山脈が中軸の東方に位して南北に走り、為に東方大洋に面する傾斜が急にして、西方大陸に面するそれが緩かなる事、其他の事に於て両の島はよく相似て居ます。故に台湾を十七倍大にして之を印度洋に移した者、それがマダガスカーであると見まするならば、我等日本人には解り易くあります。
〇台湾を拡大したやうな島であるマダガスカーに凡そ三百万の民が住つてゐます。即ち両の島は其人口は殆んど同じであります。又其人種も似た所があります。マ島は阿弗利加に属しますが其人種は黒色人種ではなくしてマレー人種であります。即ち台湾土蕃と同人種であります。随つて其言語に於てよく似てゐるだらうと思ひます。そして我等日本人の内にマレー人種の混つて居る事は確実でありますから、日本人とマダガスカー人とは縁の無(477)い人民でない事が判ります。日本の地名人名にA音の多い事は誰にも気が附きます。Asamayama、Arakawa,Asakusa と云ふが如きが其れであります。そしてマダガスカーの地名人名も同じであります。其国の名が Madagascar であります。母音は皆んなAであります。其首府を Antananarivo と云ひます。A音が多数を占めてゐます。其主なる港を Tamatave と云ひます。其最も高《かう》い山を Ankaratra と云ひます。最も広い地方を Sakalava と云ひます。有名なる国王を Radama と称し、女王を Ranavalona《ラナバローナ》と呼びました。A音の多い事一目瞭然であります。
〇そしで此国に夙くより基督教が入つたのであります。一八一〇年にラダマ一世が位に即きて国に大改革を行ひました。其改革の一として基督教の宣伝が奨励せられ、一八二〇年に倫敦外国伝道会社に由て公の伝道が首府アンタナナリボーに於て開始せられました。国語のマラガシー語は羅馬字を以て書記され、聖書は翻訳せられ、学校は起され、教会は建てられ、数年ならずして布教上大成功を見るに至りました。然るにラダマ王死して女王ラナバローナ一世の嗣ぐ所となりて、基督教に対し大反動起り、信者は或ひは逐はれ、或ひは獄に投ぜられ、殉教の死を遂ぐる者二百人に達したとの事であります。そして迫害は三十三年間継続しましたが、信仰は進むとも退かず、女王死して福音は其深き根をマ島の国土に下《おろ》したのであります。次ぎに来りしがラダマ二世、其次ぎが女王ラナバローナ二世、孰れも基督教の奨励者でありました。そして女王は更に進んで自ら信者となり、其夫と共にバプテスマを受け、礼拝を宮庭に行ひ、偶像を壊ち、迷信を排し、一躍して基督教国の班に入りました。茲に於てか基督教に対し反動の反動が起り、上の為す所下之に傚ひ、マダガスカー人は国王に傚ひ、バプテスマを受けて基督教会に入りました。宣教師の得意が思ひやられます。統計に依れば一八六九年には三万七千人の信者(478)がありましたが、其翌年には激増して二十五万人に成りました。誠にマ島伝道の失敗は茲に在つたのであります。後十三年を経て仏国の保護国となるや、仏蘭西流の不信冷淡の輸入と共に、教勢忽ち衰へ、倫敦伝道会社配下の信者二十五万人は四万八千人に激減したとの事であります。女王ラナバローナ一世は三十三年間基督信者を迫害してマ島に福音を植附くるの機会を与へ、同二世は自ら信者と成りて信仰衰退の因を作りました。宗教に取り政府や国王に迫害せらるるは幸福でありまして、歓迎採用せらるるは不幸であります。欧洲に於ても基督教の腐敗はコンスタンチン大帝の信仰を以て始まり、日本に於ては仏教の腐敗は徳川政府の仏教保護並に奨励を以て始まりました。布哇に於ても基督教伝道が功を奏し、其国王を教会員として算へるに至りし時に、信仰は衰へ、国は亡びて宣教師の本国たる米国の属国と成つて了ひました。宗教、殊に基督教は何時までも政府や為政家には関係なく、彼等の迫害は受けないまでも、保護は全然拒絶すべきであります。宗教が国教と成りし時に其葬式の鐘が鳴つたと見て間違ありません。マダガスカーの場合に省みて我等は日本に於て大に慎むべきであります。
〇マダガスカーに於て伝道した者は第一が倫敦伝道会社、之に次いで英国福音伝播会社、那威並に米国ルーテル教会、英国|友会《フレンド》、並に仏国新教徒伝道会社でありまして、孰れも成功して居ります。最近の調査に由れば教会の数は二千三百十二、信者は新教徒のみで三十四万以上であるとの事であります。天主教徒は其五分の一に過ず、マ島は国として新教国であります。
〇然るに此新興の新教国は今は欧洲の旧教国、否寧ろ無神国なる仏蘭西の属国となつたのであります。一八八三年には既に其保護国たるの観あり、一八九九年に至て女王は国外に逐はれ、国は全然独立を失ひ、無神論者が多数を占むる巴里《パリー》政治家の支配を受くるに至りました。一九〇六年にはすべての宗教学校は門を閉《とづ》るべく余儀なく(479)せられ、仏国流の無神論的教育は全島に布かるゝに至りました。多分福音の真理を解せざる民とて仏蘭西人の如きはありますまい。斯かる国の属国となりてマダガスカー人は、イスラエルの民がバビロン人の囚ふる所となつたやうな運命に陥つたのであります。
〇然し神はマダガスカーを守り給ふと信じます。自国の女王に迫害せられ、其次に来りし女王に誘はれ、最後に似而非《にてひ》なる基督教国の属国となりて、マ島は政治的には重々《かさね/”\》の不幸に遭ひました。信仰を常に誤まる者は政治家であります。其点に於て阿弗利加の女王も仏蘭西の政治家も何の異なる所はありません。信仰は信仰、政治は政治であります。神は政治家に構はず霊魂を救ひ給ひます。そして政治家は政治家として罰し給ひます。民族自由を標榜して独逸に対して戦ひし仏蘭西はマダガスカー始め数多の民族の自由を奪つた者であります。識者は曰ひます、負けし独逸の亡ぶる前に勝ちし仏蘭西が亡ぶるのであらうと。そして其れは当然であります。マ島に播かれし福音の種が生長して、クレマンソウとか、ポアンカレーとか云ふ信仰なき政治家等の勢力を断切る時は必ず来ると信じます。私はマ島の基督者に対し厚き同情を表します。同時に亦我等が此国に在りてマダガスカーに臨みし災厄の我日本を見舞はざらん事を祈ります。
 
(480)     〔崔泰k『日本に送る』〕序言
                           大正12年3月20日
                           『日本に送る』
                           署名 内村鑑三
 
 英米人が日本人を見下すが如くに日本人は朝鮮人を見下す。然し神は人を偏見《かたよりみ》る者に非ず。彼は善しと見たまふ者をすべての民族の内より選び、之に天国の福音を示し給ふ。神は朝鮮人の内より多くの本当のクリスチヤンを起し給ひて彼等を見下す者を辱め給ふ。崔泰k君は神に特別に恵まれたる朝鮮人の一人である。君の伝道に依て多くの日本人は天の神を父として認むるの喜びに入つた。君は更に同じ喜びを更に多くの日本人に伝へんと欲する。是れ此書の在る所以である。真理は何人より受けても利益がある。神は将来に於て朝鮮人を以て大いに日本人を教へ給ふであらう。我等は謙遜を以て其教に与るべきである。
  大正十二年(一九二三年)三月一日  東京市外柏木に於て 内村鑑三
 
(481)     BELIEVING.事業としての信仰
                        大正12年4月10日
                        『聖書之研究』273号
                        署名なし
 
     BELIEVING.
 
 When I can do nothing,I blieve;and believing is doing,the greatest and best of all doings.To the question:What shall we do,that we might work the works of God? Jesus answered:This is the work of God,that ye believe on Him whom He hath sent. John 6:28,29.Believing is the greatest work,and all other works are the fruits of this one work. I turn away from the busy,soulharassing Christianity of Europe and America,especially of the latter,――the Christianity of soul-winning and incessant agitations,revivals,reforms,reconstructions,and betterment of the world,――and find peace and vitalizing energy in the primitive gospel of Jesus and his disciples,the gospel of quiet restin God's works for us,and no tin our futile works for Him.
 
     事業としての信仰
 
 私は何も為す事の出来ない時は神を信ずる。そして信仰は事業であつて、凡の事業の内にて最大最善のもので(482)ある。「我等神の業を行はんには何を為すべきか」との問に対してイエスは答へ給うた「神の業はその遣し給へる者を信ずる是なり」と(約翰伝六章廿八、廿九節。改訳)。信仰は最大の事業である。其他のすべての事業は此の唯一の事業の結果である。私は欧米人の忙《せは》しき心を擾《みだ》す基督教より面《かほ》を背ける。殊に米国人の基督教に耐え得ない。此は所謂霊魂捕獲と之に伴ふ間断なき運動と、リ※[ワに濁点]イ※[ワに濁点]ルと改良と改造と世界改善事業との基督教である。私は斯かる基督教より面を背けてイエスと其御弟子達との唱へし原始的福音を信じ、之に真の平安と我が内心に精気を加ふる能力とを看出す。此福音は神が我等の為に成し給ひし聖業を信じ、静に之に頼る事である。人が神のために為さんとする無益の事業に依る事でない。
 
(483)     私の基督教
         三月十八日大手町に於て
                         大正12年4月10日
                         『聖書之研究』273号
                         署名 内村鑑三
 
  夫れ神は其生み給へる独子を賜ふほどに世の人を愛し給へり、此は凡て彼を信ずる者に亡ること無くして永生を受けしめん為め也(ヨハネ伝三章十六節)。
  愛し給へり、神は、世を、其生み給へる独子を賜ふほどに、此は凡て信ずる者に、彼を、亡ることなくして、其反対に、生命を、永久の、受けしめん為なり(逐字訳)。
〇「神は愛なり」と云ふは神は愛其物なりとも、又は愛の頂上なりとも解することが出来る。漠然たる愛ではない。確然としたる熱烈の愛である。抽象的の愛でない、具体的の愛である。或る明白なる歴史的事実として現はれたる愛である。
〇「愛し給へり」である、「愛し給ふ」でない。特別なる時に、特別なる方法を以て其愛を現はし給へりと云ふのである。基督教は歴史的宗教なりと云ふは此事である。
〇「神は愛なり」と云ふが驚くべき報知《しらせ》である。然し乍ら神は|世〔付△圏点〕を愛し給へりと云ふは更に驚くべき音信《おとづれ》である。神に叛ける世、光よりも暗を愛する世、其遣し給へる預言者を殺し、不義と虚偽とを伝ふる偽《いつはり》の預言者を歓迎す(484)る世、〔何れの点より見るも憎むべくして愛すべからざる世、……然るに神は世を愛し給へりと聞いて我等は驚かざるを得ない。此言を記《かき》し使徒ヨハネは曰ふに非ずや「此世或は此世にある物を愛する勿れ、人もし此世を愛せば父を愛するの愛その衷に在るなし」と(第一書二章十五節)。然るにも拘はらず神は此世を愛し給へりと云ふ。矛盾するが如くに見ゆるほど驚くべき愛である。
〇そして此憎むべき世を如何程愛し給ひし乎と云ふに、其独子を賜ひし程に愛し給へりと云ふ。此は驚駭の絶頂である。人としては最も為し難きことを、為すの最も価値《ねうち》なき者の為に、神は為し給へりと云ふ。此はたしかに愛の奇跡である。最も信じ難き事である。人が其敵の為に自分の子を、然かも其独子を与へたと聞いて誰が信ずるであらう乎。然かも夫れが神が御自身に叛きし世の為に為し給へる事であると云ふ。無限の愛とは斯かる愛を云ふ。万物の造主に此愛ありと聞いて、我等の宇宙観も人生観も一変せざるを得ないのである。
〇然し神の愛は是れで尽きない。神が其独子を与へ給ひしは人を救はん為である。そして其救ひの条件たるや簡短の極である。「此は凡て信ずる者には」と云ふ。信ずるのが神の救ひに与る為の唯一の条件であると云ふ。「凡て」、誰でも、|信ずる者には〔付△圏点〕、亡ることなくして云々とある。|最も簡短なる方法に由りて最も大なる恩恵に与る事が出来ると云ふ〔付○圏点〕。驚くべき愛である。愛の奥に愛がある。宇宙の無限なるに匹敵するの愛である。〇「彼を信ずる者に」である。神を信じ其愛を信ずと云ふ。然れども天の高きに在す神、宇宙の広きが如き其愛、如何にして之を信ずる事が出来る乎。|信仰は明確なる目的物を要す〔付△圏点〕。そして神は亦之をも具へ給うた。彼が世に賜ひし其独子が是である。歴史的のイエスキリスト、人として現はれ給ひし神の独子、我等の罪を担ひて十字架に上り、死して甦り、今は父の右に座して我等の為に執成し、後に再び来りて我等の救拯を完成し給ふ者、|彼(485)を信ずる〔付△圏点〕事に依て救はると云ふ。簡短の上に更に簡短である。恰も饗応《ふるまひ》は供へられて、神御自身が箸か又は匙を取りて、我等を養ひ給ふが如くである。そして之が救ひの条件であるに拘はらず、之をしも拒む者は、如何に処分せらるゝが適当である乎、人は他に問ふまでもなく自分で判断すべきである。神が今人より要求し給ふは唯是れ丈けである。「我等神の(嘉し給ふ)業を行はんには何を為すべき乎」との問に答へてイエスは曰ひ給うた「神の(嘉し給ふ)業はその遣はし給へる者を信ずる是なり」と(ヨハネ伝六章廿八、廿九節)。|神が世に賜ひし其独子を信ずる事、神が人より要求し給ふは唯此一事、人が神の愛に入りて其最上最大の恩恵に与からん為の行為は唯此行為である。即ちキリストを|信ずるの行〔付△圏点〕である。
〇「亡ることなくして」「亡る」とは強い辞である。ギリシヤ語の apollumi は英語の annihilation であつて絶滅の意である。人が絶対的に其存在を失ふ事である。そんな事は在り得ない、愛の神がそんな事を為し給ん筈がないと唱ふる者は誰乎? 若し其事が在るならば如何? 生命に死の危険が伴ふ。死の危険の伴はない者は生命でない。罪の価は死なり。霊魂に絶滅の危険がある。是れあるは神が無慈悲であるからでない。生命の特性として爾うあるのである。生命の源なる神より離れて霊魂は死ぬる。人をして此危険より免かれしめんが為に神は其独子を遣はして救ひの途を設け給うたのである。我等は肉体の死の恐しさを知る、然れども霊魂の死の恐しさを知らない。そして神は能く之を知り給ふが故に、茲に非常手段を設けて、即ち愛の奇跡を行ひて、救ひの途を備へ給うたのである。永遠の刑罰と云ふ事は決して無い事でない。すべて鋭き良心を有つた人は此事あるを感じた。そしてキリストの贖罪に由りて此刑罰より免かるゝを得て感謝に溢るゝ凱旋の声を掲げた。
〇「反対に永生を受けしめん為なり」神は生命の源である。彼は生命の失せんことを好み給はない。彼は一人の(486)亡ぶるをも欲み給はず衆人の悔改に至らんことを欲み給ふ(べテロ後書三章九節)。親は子を死より救はんが為には何でも為る。全能の父は己に像りて造り給ひし人の亡びざらんが為に茲に示すが如き非常手段を講じ給はざらんや。|子を持つて知る親の恩を、子を失つて知る神の愛を〔付○圏点〕。「汝等視よ、我等称へられて神の子たる事を得たり、父の我等に賜ふ何等《いかばかり》の愛ぞ」と(ヨハネ第一書三章一節)。天の父は其子等を救はんが為に其独子を彼等に賜ひ、すべて彼を信ずる者は亡ることなくして、之に永生を授け給へりとは、少しも不思議でないのである。
〇終りに「賜ひて」の一字に注意せよ。「賜ひて」は単に「降して」又は「遣はして」ではない。「賜ひて」は「与へて」である。自分より絶《はな》して他人の有とするを「与ふる」と云ふ。そして此意味に於て神は其独子を世に賜うたのである。|聖子は人と成つて而して今尚ほ人として存し給ふのである〔付○圏点〕。基督教神学に「神の受肉と云ふ事である。事としては不可思議の極である。然し乍ら愛の行為としては考へ難き事ではない。国王は其叛ける民を愛し、彼等を再び己に引戻さんが為に其一子を庶民に下したと云ふのである。そして全能の神は実際此事を為し給うたと云ふのである。そして其事を伝へ、之を信じ、其信仰に由て行ふのが基督教である。神の愛、世の罪、人を救はんとて取り給ひし神の手段、聖子の降世、十字架の死、復活、昇天、再臨、彼を信ずるの信仰、永遠の死に対する永遠の生命、……是が基督教である。少くとも私が信じ私が此所に唱ふる基督教である。是は旧いと云ひ、迷信であると思ふ人たちは直に私を去つて貰ひたい。私には此他に基督教は無いのである。〇「夫れ神は其生み給へる独子を賜ふほどに世を愛し給へり、此は凡て彼を信ずる者に亡ることなくして永生を受けしめんため也」と。誠に貴い文字である。其内に無用の文字は一字もない。孰も重い意味深長の文字である。神の愛とは斯くも確実なるもの。斯くも明瞭なるもの、誤解と冥想とを許さゞる者である。奔りながらも読む事(487)の出来る程明白なる者である。
 
(488)     簡短なる大福音
                         大正12年4月10日
                         『聖書之研究』273号
                         署名なし
 
 時々思ふ、最も感謝すべき事は此宇宙はやはり正義の行はるゝ宇宙であると云ふ事である。正義はやはり宇宙を支配する最も根本的の法則であつて、正義に拠らずして永久的の事は何も無いと云ふ。実は世に此んな嬉しい、愉快な、慰安に富める福音は無いのである。正義は必ず行はると。然らば俗物が跋扈して政権が其掌中に帰したればとて少しも驚き又は憂ふるに及ばない。又は陋劣なる人が富を山と積みたればとて少しも悲み又は憤るに足りない。正義は宇宙の法則である。故に日の照る毎に正義は実現し、風の吹く毎に正義は進捗す。唯恐るべきは不義に依りて勢力を揮ひ、不義に依りて財を積む事である。神を信ずるまでもない。宇宙が正義の概関であると信じて我等は躍り喜ばざるを得ない。そして世に最も愚かなる者は此簡短なる原始的信仰を懐き得ざる者である。実に有難い事である。正義は必ず行はると。我等は唯忍んで待ば可いのである。此宇宙はやはり希望に充てる宇宙である。
 
(489)     朝の祈祷
         三月十一日大手町に於て為せるもの。
                        大正12年4月10日
                        『聖書之研究』273号
                        署名なし
 
〇天の高きに在すと同時に、すべて謙遜る者の心に宿り給ふ真の霊なる神様、御恩恵に由り復過ぐる週間も無事に終ることが出来、茲にまた新らしき週間を迎へて、毎週《いつも》の通り愛する兄弟柿妹と共に此処に貴神《あなた》の御前に集ふ事が出来て有難く存じ奉ります。貴神の御手に導かれて日々を送る事はまことに福祉《さいはひ》であります。此世の多くの人々が神なくキリストなく、無窮《かぎりな》き生命を戴くの希望なくして其一生を送りつゝあるを見まして、私共貴神に頼り、貴神を父様として仰いで日々に生《いく》る幸福の如何ばかり大なる乎を思はざるを得ません。茲に重ねて貴神の大なる御恩恵に就て御礼を申上げます。
〇願くは今日も亦毎時の通り貴神の御恩恵を垂れ給へ.今日も亦我らの心を開き其内に貴き福音の真理を注ぎ給へ。是は人の智慧を以てしては到底量り知る事の出来ない者であります。貴神御自身が我等各自の霊に臨み之を教へ導き給ふにあらざれば、我等縦令福音の内に浸さるゝと雖も、之れを我が有とする事が出来ません。願くは天の父様、今日私共が語り又聴く所の聖語《みことば》を祝し給ひて、私共をして之に由りて覚め、真の生命に生る事の出来るやう、私共の弱きを助け給へ。願くは聖語が鋭き刃の如くに私共の心に臨み、私共に自分の罪を知らしめ、(490)又貴神に由て之を赦され、潔められ、新たに生るの道を示し給へ。
〇願くは今日、世界万国何れの所に在りても、すべて真の心を以て貴神を探り求め、又貴神の聖旨を伝ふる者の上に貴神の御導きと御祝福とを加へ給へ。全世界は今や暗黒の内に在ります。願くは貴神の無窮き愛を以て之を包み、之を化して貴神の御子イエスキリストの国と成し給へ。貴神は貴神の造り給ひし物を輕視め給はず。私共は貴神の造り給ひし此世界が、貴神の御力に由り、御栄を顕はすの器となることを信じて疑ひません。願くは其福ひなる時を早め給へ。
〇願くは我等の愛する此日本国を恵み給へ。又近頃之に併はせられし台湾と朝鮮とを恵み給へ、樺太と千島と、之に住する憐れなる土人を恵み給へ。隣邦の支那を恵み給へ。其民に平和と一致とを与へ給へ。印度を恵み給へ。南洋諸島を恵み給へ。満洲と蒙古と西此利亜を恵み給へ。亜細亜全体が主イエスキリストを救主として仰ぐに至る其日を早め給へ。そして我等各自小にして数ふるに足らぬ者でありますが、貴神の子として称ばるゝ以上、貴神の聖旨を我心とし、我等の能力相応に貴神の大なる聖業に参与し奉る事を許し給へ。又私共を憎む人、※[言+后]《そし》り罵り嘲ける人を恵み給へ。彼等の罪を赦し、彼等をして亦一日も早く私共と偕に貴神の聖名を讃美し奉るその幸福なる時を迎ふるに至らしめ給へ。
〇此恵まれたる集会を始むるに方り、我等のこの感謝と切なる願とを、我等の罪の贖主イエスキリストの聖名に由りて受け納れ給へ。アーメン。
 
(491)     北氷洋沿岸の民
                         大正12年4月10日
                         『聖書之研究』273号
                         署名 内村鑑三
 
〇世界に三大陸と四大洋とがあります。大陸は亜細亜=アウストラリヤ大陸、欧羅巴=阿弗利加大陸、亜米利加大陸であります。大洋は大西洋、太平洋、印度洋、北氷洋であります。其他に南氷洋があつたと思はれましたが、それは最近の探険の結果、大洋ではなくして大陸である事が判明りました。故に精密に云へば世界は四大陸と四大洋とより成るのであります。但し南極大陸(ANTARCTlCA《アンタークチカ》と称します)は無人大陸でありますから、之は私共の思考《かんがへ》の外に置いて宜いのであります。
〇四大洋の内で最も早く歴史の舞台に現はれたのが大西洋であります。其次が印度洋、最後が太平洋であります。太平洋が国民の競争場と成つたのは極く最近の事であります。そして北氷洋に至つては今猶其地理学的存在が認められて居る丈けでありまして、其文化的価値は全体に否認せられて居ります。今や北氷洋に注意する者は極く少数の学者並に冒険を愛する旅行家であります。之に人類の幸福に貢献すべき何か大なる富源があらうとは大抵の人は思ひません。北氷洋は氷の海、有つて無きに等しき所であるとは大抵の人の思ふ所であります。
〇然し乍ら信仰の立場より考へて見まして爾あつてはならないのであります。神の造り給ひし物に無益の物はありません。北氷洋《ほくひようやう》の面積は三、六〇〇、〇〇〇平方哩でありまして地球の表面の五十分の一であります。こんな(492)広い場所が無益でありやう筈はありません。殊に又北氷洋の排水地域は甚だ広くあります。亜細亜、欧羅巴、亜米利加の北部は皆其水を北氷洋に送ります。故に北氷洋系に属する河にして世界的大河が尠くありません。シベリヤのオビ、レナ、エニセイの如き、ロシヤのドウイナ、べチョラの如き、カナダのマッケンジイの如き、孰も滔々たる大河であります。其他すべての点より見て北氷洋は未来の大洋であります。故に今や識者は眼を北方に注ぎます。カナダとシベリヤとが開発せらるる時に人類の食料問題は解決せらるるだらうとの事であります。一時は世界第一の捕鯨湯であつて、欧米人の暗夜を照らす蝋燭の原料たる鯨油の供給所でありしスピッツベルゲン群島は、全島尽く鉄と石炭とであつて、未来の世界は此二大鉱物を北氷洋の此群島より仰ぐのであらうとの事であります。又シベリヤの北岸より程遠からぬ所に新シベリヤ群島があります。其南方のリヤコフ島は古世の巨象《マモス》の遺せし象牙の産地でありまして、其近海の底までが多量に之を産するとの事であります。又|亜米《あべい》両大陸に渉り、北極圏内外の広大なる平原は馴鹿の牧場として無限の富源たるべく、又カナダの北部、北氷洋に面する部分には馴鹿の外に麝牛を飼育して更に生産の増加を計る事が出来るとのことであります。科学の進歩に由りて阿弗利加其他の熱帯地方を征服せし人類は、同じ手段を以て北氷洋並に其沿岸の地を征服するだらうと思ひます。新文明の花が北極圏内、北光の閃《きらめ》く所に咲くは遠き未来の事ではあるまいと思ひます。
〇北氷洋並に其島嶼及び大陸沿岸に多くの富が蔵れてゐます。然し私共に取り興味最も深きは勿論其住民であります。年内数十日又は数ケ月に渉り連続する夜を有ち、氷の絶ゆる時とてはなく、所に依りては堅き永久的の氷の岩は地下数百尺の深さに達し、気温時には華氏の零度以下七十度乃至九十度に達する所……斯かる所にも人が住つて居やうとは想像以外でありますが、然し事実は其通りでありまして、北極圏内八十三度の所に至るまで人(493)間の居住を見るのであります。先づ欧州より始めて、スカンヂナビア半島の北端には比較的に文明に進みたるラップ人が居ます。それより東に進み、ロシヤ並にシベリヤの北方にはサモイデスと称し、ラップ人に似て文明に於ては遥に劣りたる民が居ます。それより更に東に進み、オスチアク、ユーラック、ツングス、ヤクーツ等の諸族が居ます。以上諸族は孰も蒙古人種でありまして、其容貌、骨格、風俗、宗教等に於て相互に克く似て居ます。シベリヤの東北地方、コリーマ河の河口より亜細亜大陸の東北端|東岬《イーストケープ》に至るまでの所に有名なるチュークチス族が居ます。是はサモイデス族とは多くの点に於て異り、寧ろ北米北岸の民エスキモーに似て居ます。如斯くにして欧洲の北端|北岬《ノースケープ》より亜細亜の東端東岬に至るまで数千哩に渉り蒙古人種に属する数種の種族が住つて居ます。彼等何れも多くの点に於て我等日本人に似た民でありまして、我等の厚き同情に値ひする者であります。其内にはオンキロン又はオモカイと称して、一時は比較的優秀なる民であり、シベリヤの東北、インヂギルカ並にコリーマ河の河口附近に住つて居ましたが、西洋人の持来りし酒(ボドカ)並に黴毒の毒する所となりて其種を断つに至りし者もあります。若し早く真の福音を以て臨むにあらざれば残る種族も同一の原因よりして消失するであらうとの事であります。
〇米大陸北氷洋沿岸の民は欧亜大陸のそれとは全く人種を異にします。彼等は有名なるエスキモー族であります。Eskimoの名はアメリカ土人の Askikamo より来りし者で、「海豹喰」の意味であるとの事であります。即ち彼等は海豹《かいへう》を主食とする者であつて生で其肉を食ふとの事であります。エスキモー族は西はベーリング海峡より東はラボレドー半島に至るまで二千哩の沿岸に散在します。そして其一派はバフィン湾を越えてグリンランドに住つて居ます。彼等は孰も強健の民であり、克く厳烈の寒気に堪へ、酷薄の天然と闘ひ、此較的に幸福なる生涯を(494)営んで居ます。エスキモー族の内にて最も有名なる者は「北氷洋高地の民」と称せらるる者でありまして、グリンランドの西北岸、北緯七十七度以北に住つて居ます。人間の適応力は実に恐しい者であります。斯かる所に於てさへ生存し得る人類は地球面上何処にも住ゐ得るに相違ありません。そして其処にも亦道徳あり、勇気あり、犠牲あり、恋愛ありと聞いて、人類はやはり一種であつて、四海皆兄弟である事が判明ります。
〇そして此エスキモー人種の間にも福音が説かれました。其事に第一に着手して成功せし者は独逸モラビヤ教会の派遣せし宣教師でありました。彼等は一七三三年に丁抹領グリンランドに渡り、エスキモー人の間に伝道を開姶しました。そして多くの困難の内に美事に其目的を達しました。又カナダの北氷洋沿岸に於て英国宣教師は多くの確実なる効果を収めました。伝道の点に於て露西亜人は遠く英国人に及びません。シベリヤ土人の間に、酒は霹西亜人の飲料、黴毒は露西亜人の疾、基督教は露西亜人の宗教として知らるるに由て見て事の一班を窺ふことが出来ます。私共は千島より勘察迦に渡り、其れよりシべリヤ北部の民に伝道したくあります。
 
(495)     DOES FAITH SAVE? 信仰は果して人を救ふ乎
                         大正12年5月10日
                         『聖書之研究』274号
                         署名なし
 
     DOES FAITH SAVE?
 
 “Of course,it does,”says the popular Protestantism;“only faith does save,and nothing else.”But it is evident that faith by itself does not save.It is the object of faith that saves. It is the Lord Jesus Christ who saves,and not our faith.Therefore,faith need not be great,if rightly placed. To the request:“Increase our faith,”the Lord replied:“If ye have faith as a grain of mustard seed,etc.”Luke 17:5,6.Even a slender faith is enough if placed in the right object. The bane of Protestantism is in its overestimate of faith.Much of so-called fait his not faith but work.Hence so much boasting of one's own faith,and criticism of otber's faith. Only by honouring the Lord more, and estimating faith less,are we truly saved unto the life which abounds in love.
 
     信仰は果して人を救ふ乎
 
〇「人の義とせらるゝは信仰に由る、律法の行に由らず」とある(羅馬書三章廿八節)。又「アブラハム神を信ず、(496)其信仰を義とせられたり」とある(加拉太書三章六節)。是等の聖語に依りて我等は思ふ我等は信仰に由て救はると。即ち信仰と云ふ心の働きに依て救はると。茲に於てか信仰は称揚せられ、信仰の強き人と弱き人との区別が立られ、信仰其物が如何にも大なる力である乎の如くに信ぜらる。そして希伯来書十一章に於て古への人たちが信仰に由て為せる夥多の偉業に就いて読んで、我等は益々此感を深くせらる。曰ふ「噫信仰なる哉、信仰なる哉」と。
〇然れども信仰其物が人を救ふのでない事は確実である。若しさうであるならば人は信仰を誇る事が出来る。そして多くの所謂信者は自分の信仰を誇り他人の信仰を責める。彼等のいふ信仰は信仰でなくして行為《おこなひ》である。誠に我等は信仰に由て救はるゝのでない。或者又は或事を信ずるに由て救はるゝのである。救ふのは信仰でなくして信仰の目的物である。アブラハムは神を信じた。其信仰、即ち約束の神を信じたる其信仰に由て義とせられたのである。彼を救うた者は彼の信仰ではなくして彼の信じたるヱホバの神である。
〇基督者はイエスキリストを信ずるに由て救はるゝのである。「人の義とせらるゝは律法の行に由るに非ず、惟|イエスキリスト〔付○圏点〕を信ずるに由る」とあるが如し(加拉太書二章十六節)。信仰の力は如何に大なりと雖も、其目的物を誤りて、救はれざるのみならず反つて滅びるのである。之と反対に、信仰は如何に弱くとも、信ずべき者を信じて、救はるゝ事は確実である。茲に於てか「我れ誠に汝等に告げん、若し芥種の如き信仰あらば此山に彼処に移れと命《い》ふとも必ず移らん、又汝等に能はざること無かるべし」との主イエスの御言葉の意味が判明るのである(馬太伝十七章二十節)。唯の信仰に此偉力が在るのではない。偉大なる神の子と其聖業とに寄する信仰は縦令芥種の細微なるが如くに小なりと雖も、之に山を移す程なる能力があるとの事である。信仰の能不能は何を信ず(497)る乎に由て定まるのである.神の子を信ずるに由て小なる信仰と雖も大なる事を為すのである。恰も細き電線も之を強き電池に接いで大なる能力を伝へ得べしと云ふと同じである。福ひなるは大なる能力《ちから》の源なる神の子を示されて、之に我が弱き信仰を寄せ得る事である。我に臨む能力は我が信仰の強弱に依らない、彼に宿る無限の能力に依る。十二年血漏を患ひたる婦は恐る懼る殆ど半信半疑の間にイエスの衣に※[手偏+門]《さは》りしが、其信仰……誠に芥種の如き信仰に依りて、彼女の重き疾は直に癒えた。イエスが彼女に向ひて「汝の信仰汝を救へり」と曰ひ給ひしは、奇跡の力を彼女の信仰に帰してゞはない。御自身の聖徳を蔽隠して彼女の信仰を奨励し給ひてである。我等はイエスの謙遜の言葉を取て其上に我等の信仰箇条を築いてはならない(馬可伝五章二五−三四節を見よ)。
 
(498)     〔聖書は読まざるべからず、…〕
                         大正12年5月10日
                         『聖書之研究』274号
                         署名なし
 
 聖書は読まざるべからず、然れども聖書のみ読むべからず。聖書と共に哲学、科学、文学、歴史を読むべし。聖書のみ読みて|聖書狂〔付△圏点〕となるの虞あり。此は最悪の頼神病である。
 
(499)     伝道回避の弁疏
                      大正12年5月10日−6月10日
                      『聖書之研究』274・275号
                      署名なし
 
    (其一)
 
〇自分は訥弁であるから直接伝道に加はる事は出来ないと云ふのが最も普通である。然し乍ら説教又は演説に雄弁を揮ふのが伝道ではない。斯く言ひて伝道を雄弁家に一任するのは、福音を主に言葉の事と認むるのであつて、福音の低評と称せざるを得ない。福音は人を救ひに至らしむるの能力である。そして伝道は此能力の証明である。故に如何に訥弁の人と雖も此の証明を為し得ない人はない筈である。そして多くの訥弁の人が信仰の熱心に溢れて、己の訥弁に打勝ちて、有力の説教者となつたのである。有名なる米国の大説教師フイリツプ・ブルツクスの如きが其最も好き実例である。而已ならず熱心を以て語る時に訥弁其物が大なる雄弁である。語り得ざるに語る時に言葉に大なる力がある。本当の基督者は何を為さなくとも主の恩恵を語らんと欲する。若し自分が唖者であるならば手真似を以て語らんと欲する。訥弁雄弁は問ふに及ばない。唯語り得ば足りるのである。神は容易く訥弁を※[病垂/全]す事が出来る。「爰に鬼に憑れたる瞽の※[病垂/音]なる者をイエスに携来りければ之を医して言ひ且見ゆるやうに為せり」とある(馬太十二の廿二)。況して訥弁をや。
 
(500)    (其二)
 
〇自分は伝道する事は出来ない、夫れ故に金を儲けて金を寄附して伝道を助けるであらうとは多くの日本基督信者の言ふ所である。誠に殊勝なる申出であつて伝道者の意を強うするが如くに見ゆる者である。然し乍ら事実如何にと云ふに、如此き約束を為した人で之を履行した者の在るを知らない。多くの場合に於て彼等は金を儲け得ない。そして儲け得し少数の場合に於て惜げなく之を伝道の為に寄附した者の有るを知らない。彼等は儲け得ざれば失望の人となり、儲け得ば享楽の人と成りて、伝道の為には何等かの理由を附して容易に又は決して寄附しない。世に当にならぬものとて、成功を条件にする基督信者の伝道金寄附の約束の如きはない。伝道は今為すべきである。寄附も亦力に応じて今為すべきである。将来の成功を期しての約束は為さゞるを可とする。余自身の場合に於ても、斯かる約束を為した友人は決して尠くなかつた。然し乍ら其一人だに其作りし産を抛棄て余の伝道を助くる者は無かつた。多分他の伝道師の場合に於ても同じであると思ふ。伝道は金が無くとも出来る。伝道の責任に代ふるに成功後の寄附金約束を以てすべからずである。 〔以上、5・10〕
 
    (其三)
 
〇伝道は大切であるが信者と云ふ信者が悉く伝道に従事するならば、世に伝道師以外の基督信者なきに至る。信者は宜しくすべての方面に於て活動すべし。伝道にのみ熱中して他の事業を怠るべからずと。斯く云ひて多くの教育ある日本の基督信者は伝道に入らず又伝道を去つて、実業又は経済又は政治又は法律に入つた。そして彼(501)等は国の為に、又基督教の為に善き事を為したと思うた。
〇そして其結果は如何にと見るに、有為の人にして伝道に入る者は殆んど無きに至つた。伝道師と云へば世のヤクザ物、普通教育すら受け得ざりし者、白痴に近き無能人物、そして有為の人物は政治又は経済又は実業へと入つたのである。信者は|悉く〔付△圏点〕伝道に入つてはならないと唱へしが故に、有為の信者は一人も伝道に入らなくなつた。そして伝道に従事して居つた者までが伝道を棄てゝ此世の事業へと走つた。是が日本今日の伝道界の実況である。信者は悉く伝道師になつてはならないとは、此世の小才子の言ふ事であつて、神と神の人との言ふことではない。実に神の人モーセは曰うた「ヱホバの民の皆な(|すべてが〔付△圏点〕)預言者とならんことを、又ヱホバのその霊を之に降し給はんことを願ふ」と(民数紀略十一章廿九節)。ヱホバの民の皆が、即ち基督信者のすべてが伝道師とならん事こそ願はしけれ。其一人もが政治家又は経済学者又は実業家とならずばとて、世は損害を被らないのである。伝道師はいくら在つても足りないのである。試に思へ、若し今日我国に在ると云ふ三十万人の基督信者が悉く神の聖語の伝達者であるとするならば、是は此国に取り不幸の事であつたらう乎。決して爾うでない。其反対に最も幸福の事であつたに相違ない。若し三十万人の日本の基督信者が熱心に伝道に従事し来つたならば、日本の実業又は政治又は経済、其他国家社会全体が今日の如き憐むべき腐敗の情態に於て無かつたであらう。国を誤まる者にして此世の智者の如きはない。信者は宜しく世に入つて世を救ふべしと唱へし彼等は、自身世を救ひ得ざりしのみならず、又他が世を救ふの邪魔を為した。凡の有為の基督信者が率先して伝道に入つて、国も救はれ 教会も栄ゆるのである。日本の基督教界に余り多くの此世の智者 worldly wIsemen の在る事は最も歎すべきである。彼等は十字架教の使者たるを避けて、文学博士、法学博士、理学博士又は工学博士と成りて自身をも国家をも救(502)ひ得なかつたのである。 〔以上、6・10〕
 
(503)     MYSTERY.最大の奥義
                        大正12年6月10日
                        『聖書之研究』275号
                        署名なし
 
     MYSTERY.
 
 The mystery of all mysteries is the mystery of evil. That evil does good is a sure fact of experience;yet evil is not good,and good is not evil. The very Satan is needed to make the very God a god;yet Satan is Satan,and God is God. How could that be is pbilosophically inexplicable,but morally and spiritually true.The worst man I have ever met in myl ife was one who did most to uplift me to God;and the hottest tears I ever shed were dews which gathered heavenly light into my soul. On the mystery of life,the mystery of evil! I simply believe it,and praise God for it,――all the while,without ceasing tO hate evil and love good.
 
     最大の奥義
 
 奥義中の奥義は悪に関する奥義である。悪が善を為すは確実なる実験の事実である。然れども悪は其れが故に善なるに非ず、又善は其れが故に悪なるに非ず。サタン彼自身が神御自身を神と成すが為に必要である。然れば(504)とてサタンはサタンであつて、勿論神でない。如何して其事が有り能ふ乎、哲学的に説明する事は出来ない、然れども道徳的に又信仰的に真である。私が私の生涯に於て出合ひし最悪の人が私を最も高く神にまで引上げた人であつた。又私が流せし最も熱き涙が天の光を集めて之を私の霊魂に投入るゝ鏡玉《レンズ》の役目を為す露の滴《したゝり》であつた。是は誠に人生の奥義である。悪に関する奥義である。私は単に是れあるを信ずる。而して神を讃美し奉る。而して此事を為す間に、悪は之を憎み、善は之を愛する事を廃《やめ》ない。
 
(505)     神の言《ことば》としての聖書
                         大正12年6月10日
                         『聖書之研究』275号
                         署名なし
 
 聖書は神の言である。私は其事を疑はない。然し乍ら|如何なる意味に於て神の言である乎〔付○圏点〕、其事を説明するの必要がある。聖書の内に神の言でないらしき者が尠くない。例へば創世記十九章三十節以下三十八節までの如き、之を前後の関係より離して見て、其の神の言でない事は何人が見ても明である。之を神の言と解して如何なる非倫をも行ふを得べく、又聖書は神の言に非ずとの立論の基礎とも為すことが出来る。聖書の内より或る章節を集めて最も不道徳なる一書を作ることが出来る。言あり曰く「聖書の言を引用して如何なる説をも立証するを得べし」と。聖書が神の言たる理由は、其の個々に独立したる言に於て無い事は明である。
 聖書が神の言たる理由は、其全体の主意、精神、目的に於てある。神が世を救はんとて取り給ひし手段方法、而して之に由て顕はれし神の御心、其事を明に示す者が聖書である。故に聖書全体を知らずして、其の確かに神の言であることは解らない。同じ事が天然に就ても言はれるのである。天然は神の御作《みわざ》であることを我等は疑はない。然れども天然物を個々に検見《しらべみ》て、愛の神の作として受取り難いものが許多《あまた》ある。天然物の内より凡て醜きもの、凡て恐ろしきものを集めて、美はしき神の宇宙ならで、嫌ふべき悪魔の世界を画くことが出来る。然るにも係はらず我等は天然全体の、智慧に富み給ふ神の御作《みわざ》なる事を信じて疑はないのである。
(506) 聖書は神の言なりと言ふは易くある。然れども|覚る〔付○圏点〕は難くある。而して研磨鍛錬の結果、神に悟道の眼を開かれて其の実に神の言たるを知るに至るや、其の歓び言ひ難しである。此《こ》は盲目的に、或人の権威に服して唱ふる主義主張ではない。道理を以て証明せらるゝ事実の上に立つ確信である。聖書の完全は宇宙の完全と等しく深き考究を要する問題である。完全は不完全を以て顕はる。又完全に達する途として不完全は完全である。天然も聖書も此事を語る。
 
(507)     残る者と残らざる者
         一九二三年五月十日宇都宮に於て
                         大正12年6月10日
                         『聖書之研究』275号
                         署名 内村鑑三
 
〇「それ人は既に草の如し、其の栄は凡の草の花の如し、草は枯れ其花は落つ 然れど主の道《ことば》は窮りなく存《たも》つなり」とは基督教の聖書の言であります。之に似たる言が仏教思想を基礎として書かれたる平家物語の発端の文字であります。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を現はす云々」と。そして に類したる言は東西の文学に数多あります。かの鴨の長明が源頼朝の墓の前にて詠みしと云ふ「草も木もなぴきし秋の霧消えて、むなしきこけをはらふ山風」の一首は最も痛切にお互の心を打つものであります。
〇此れは旧い思想であります。人生を悲観して起りし思想であります。そして悲観は進歩の妨害であるとの理由より近代人の甚く嫌ふ思想であります。近代人は死や老に就て語る趣味を持ちません。彼等の興味は青春の一事に集注します。然し乍ら事実は事実であります。自称天才文学者がいくら嫌つても死と老とは遠慮なく来ります。聖書と経文の言は真理でありまして、文学者の言は虚偽であります。人は草の如きものであります。其栄華は花の如き者であります。其事を知るは益であります。其事を知らざるは、知らざる真似をするは損であります 人生は真面目に之に当るを善しとします。そして死と老とを認め、之に打勝つの道を講ずべきであります。
(508)〇「それ人は既に草の如し、其の栄は草の花の如し」。遠い昔の事は措いて問はずとして、私の短き一生の間に此真理を証明して余りある多くの事実を目撃しました。私は少年時代に徳川幕府の倒れるを見ました。青年時代に薩長藩閥政府の全盛を見 壮年時代に之と闘ひ、老境に入ると同時に其衰退を目撃するの喜びを持ちました。若し其実例を海外に求めますれば更に著るしき者が数多あります。ナポレオン三世の下に仏国が衰へ、ビスマークの下に独逸が起つたのは私が十歳の時であります。其独逸帝国がまた私の六十歳の時には跡方なきが如くに消えて了つたのであります。明治二十四年に津田三蔵なる者が大津に於て露国皇太子に傷を負はした時に日本全国は震動しました 然し今日露西亜の名を聞いて震へる者が何処に居ります乎。清朝李鴻章の名を聞いてさへ震へる時があつたと思へば笑止千万の感が致します。西域牙が其海外の領土全部を失つて世界勢力たらざるに至つたのも極めて近頃の事であります。私が地理学を学んだ時には土耳古はバルカン半島を全部支配し、其他エジプト、シプラス、トリポリ等皆な其領土でありまして世界勢力として第四位を下らなかつたのであります。それが次第に縮少して今は小亜細亜のアンゴラに其政府を置かねばならぬに至りました。其他列挙すれば際涯《はてし》がありません。それ人は草の如し、其栄は草の花の如しであります。大国家でも大帝国でも散る時が来れば花の如くに散ります。実に脆い拙い者であります。
〇国家然り、況して個人に於てをやであります。百年前の大阪の金持の番附を見ますと、住友の如きは十番以下であつて、其上に立つて居た者で今栄えて居る者は一軒もないとの事であります。同じ事が宇都宮に就ても言へやうと思ひます。過去二十年内に、三十万、五十万と云ふ身代の倒れたのを私自身さへ幾個《いくつ》も見ました。一昨年の暮に百万の富を持つて居た人で今年は無一物になつた人を私は知つて居ます。銀行の破産は決して珍らしい事(509)ではありません.積善銀行、報徳銀行、四谷銀行と御互の目前に倒れつゝあるのであります。今より百年の後に、三井と三菱と安田とは今日の地位を保つて居るでせう乎、甚だ疑はしくあります。
〇そして変り行くものは国家と個人とに限りません。思想も亦転々として変り行くのであります。曾て仏国の宣教師リギヨール氏が曰ひました。「日本程思想の変る国はない。同一の思想家ですら数年ならずして幾回か其説を変へる。現に文学博士某氏の如きは十年間に十二たび説を変へた」と申しました。是はリギヨール先生の観察であります。忠君愛国の高調されたのは今より僅に三十年前でありました、然るに今や此文字さへ新聞雑誌の上から絶えて了ひました。私は東京で多くの学生に接する者でありますが、彼等の内に無い者は愛国の心であります。今や愛国を語る事さへ野暮である乎のやうに思はれます。基督教と社会主義とが混同せられ、国賊視されたのは極く近い頃であります。然るに今や堺枯川君は世の尊敬を惹く名士の一人であります。尾崎行雄君が共和政治を口にしたりとて大臣の椅子を失はれし直《ぢ》き後で、世界大戦争が始まり、日本も亦民主々義の味方となりて戦ふに至りました。デモクラシーと云へば害が無いやうでありますが、少しく英語を解する者はデモクラシーは共和政治より遥に過激な詞である事を知つて居ります。そして今は如何かと云ふに、今は遥にデモクラシーを通り抜けて、非道徳、非法律までが臆面なく唱へらるゝのであります。変りも変つたものであります。今や文壇は宗教と恋愛とで持切りであります。来年は如何変るのでありませう? 其他新聞、雑誌、著書の流行盛衰に就て語るの時はありません。朝顔の朝咲いて昼枯るゝの類です。
〇然からばです、然らば万事万物尽く変り行くのです乎。此問題に就て仏教と基督教との間に大なる差違があると思ひます。「諸行無常」と仏教は教へます。「神の道《ことば》は窮りなく存つなり」と基督教は唱へます。物として変(510)らざるはなく、説として移らざるはなき間に、唯一つ世と共に変らざる者があります。|それは神の道であります〔付○圏点〕。或は宇宙の真理であると云ても差支ない乎も知れません。然し漠然たる真理ではありません。具体的の一冊の書《ほん》であります。即ち私が茲に手に持つ書であります。それは永久に変らないと云ふのであります。そんな事の有りやう筈はないと諸君は言はれるだらうと思ひます。然し乍ら其事が事実であるを如何せんであります。
〇之は旧い書であります。其の或る部分は今より四千年前に書かれました。其の最も新らしき部分とて今より千八百年前に書かれた者であります。其れが今日猶ほ殆んど著者の手を出た其儘に残つて居るのであります。そして単に古書古物として残つて居るのではなく、七百有余の国語に翻訳せられ、人に最も多く読まるゝ書として存るのであります。此書を攻撃した書は悉く廃れました。然し此書丈けは残つて居ります。西洋に於ても我国に於ても同じであります。明治の初年に於て河津祐之と云ふ当時の西洋学者がありまして、甚く此書を攻撃しました。然し攻撃に用ひた著書の名まで忘れられ、極めて少数の人のみが河津祐之の名を覚えて居ます。其後東京帝国大学総長文学博士男爵加藤弘之先生が彼の有する大権威を以て此書を攻撃しました。多分其時大抵の日本人は思うたでありませう、是れで日本に於て基督教は粉砕せられ、聖書は永久に葬られたのであると。然るに事実は如何《どう》であります乎。加藤大先生が聖書攻撃の為に著はされた『日本の国体と基督教』と云ふ書は何処で之を獲る事が出来ます乎。東京の古本屋を漁りても其の一本を獲る事は至て六ケ敷くあります。然るに聖書は如何であります乎。東京には米国聖書会社があり、神戸には英国聖書会社がありて、刷つても刷つても日本人の需要に応ずる事が出来ないのであります。而已ならず先生の御孫さんの内にさへ熱心なる聖書の研究者が在ると聞きました。加藤先生は明治の日本に於ける偉大なる学者でありましたが、先生の聖書攻撃丈けは大失敗に終りました。近頃(511)また北海道大学昆虫学教授理学博士松村松年と云ふ人が加藤先生と同じ筆法を以て聖書を攻撃しました。然し加藤博士が壊つ事の出来なかつた者を松村博士が覆へし得やうとは思はれません。私共は少しも博士の攻撃の結果に就て心配しません。恰かも男体山が大砲の丸を二つや三つ喰つても少しも動かないやうに、昆虫博士の攻撃位ゐには聖書はビクとも致しません。何れにしろ松村博士の論文は既に忘れられて、他の問題が日本人の頭脳《あたま》を占領しつゝあります。其他すべて此類であります。
〇神の道《ことば》は永久に動きません。其れと同時に此の道に倚《たよ》る者も亦永久に動きません。此事も亦人類の過去四千年間の歴史に依て証明されました。世界で一番旧い国民は誰であります乎。日本は旧い国でありますが、其歴史は三千年に達しません。然るにユダヤ人は四千年の而かも正しい記録に因る歴史を有します。近頃日本人の大歓迎を受けしニユートン以来の世界的大学者と称せらるゝアインスタイン博士も亦此国民の一員であります。西洋に於ては古代の国民は悉く滅びましたがユダヤ人のみは残つて居ます。何故でせう乎。神の道を託されし国民であるからと彼等自身は曰ひます。近代に至つて何故英民族が一番に鞏固なる、信用厚き国民でありませう乎。此問に対し英国の前総理大臣ロイド・ジヨージも、米国の現大統領ハーヂングも明白に答へて曰ひます「我等に聖書があるからだ」と。世界を広く見渡して御覧なさい、聖書の最も多く読まるゝ国が最も堅い国であります。そして国然り人亦然りであります。人は人として甚だ弱い者であります。然し乍ら倚る者に依て強くなる事が出来ます。動かざる者に倚りて動かなくなります。私のやうな弱い者でも聖書に倚りしが故に、此反基督的の日本に於て、而かも所謂基督国の民より何の助をも受けずして、過去三十何年間に渉り私の信仰を持続ける事が出来ました。二十四年前に私が『聖書之研究』を初めて出した時に私を攻撃し嘲つた雑誌は沢山ありました。其内に大隈(512)侯主宰『大帝国』といふ雑誌もありました。然るに其内今日残つて居る者は一つもありません。皆な消えて了ひました。そして『聖書之研究』はまだ生きて居ます。何に由て然るのでありませう乎。「磐を其礎となせば也」であります。私は動かざる神の言なる聖書に倚りましたが故に今日まで動かずして居る事が出来ました。諸君も亦此の変遷常なき世に在りて動かざらんと欲すれば此書に倚るより他に途がないと信じます。
 
(513)     日本の国体と基督教
         或る高位高官の人たちに此問題を提出されたとして私は大略左の如くに答へるであらう。
                      大正12年6月10日−7月10日
                      『聖書之研究』275−276号
                      署名 内村鑑三
 
〇此問題は已に決定したものと思ひます。若し基督教が日本の国体と相容れざるものならば、日本政府は已に基督教を禁じて居る筈であります。斯かる重大問題を個人の解決に待つが如きは国家の危険此上ありません。|開国以来已に七十年、基督教の禁制なき以上、国民は基督教と日本の国体とは併立し得る者と見て差支ないものと信じます〔付○圏点〕。
〇而已ならず今日まで日本政府の官吏の内にも、又は国会議員の内にも有力なる基督教信者を見ました。法官としては渡辺暢君の如き、事務官としては長尾半平君の如き、教育家としては佐藤昌介、宮部金吾、新渡戸稲造君の如き、議員としては片岡健吉、江原素六、根本正、田川大吉郎の諸君の如き、何れも隠れなき基督教信者でありました。現に〇〇〇〇〇官の如き御自身は信者でないとしても其御家族の熱心なる信者であることは好く知れ渡りたる事実であります。若し基督教が日本の国体と相反するならば日本の政府並に国家が是等の人々を官吏又は公人として使用する筈はありません。|日本政府は其行為に於て明かに基督教の日本の国家に於ける地位を認めて居ると信じます〔付○圏点〕。
(514)〇殊に又日本が英国の如き純基督教国と最も親密なる国家的交際を結ぶを見まして、亦天皇陛下御自身が世界日曜学校大会に大金を寄附し給ひし事に照らして見ましても、日本の皇室が基督教を有害視し給はない事を証して余りあります。斯かる歴然たる証拠あるに拘はらず基督教と日本の国体とは互に相容れざる乎の如き疑を懐くが如きは、是れ日本政府の誠意を疑ふの行為であると思ひます。故に此質問は是れ私供の如き弱き小さき基督教信者に質すべき者に非ずして、政府当局者の答弁に待つべき者であると思ひます。|基督教は日本の国体と相反せずとは日本国の政府が其国民並に全世界に向つて弁明すべき者であると思ひます〔付△圏点〕。
〇そして若し基督教と日本の国体とが互に相容れざる者でありまするならば、其れこそ世界の大事件であります。御承知の通り基督教は所謂文明世界の宗教でありまして、之に反する事は全世界に反する事になります。そして今や文明世界の有力なる一員となりし日本国が世界の宗教たる基督教と其存在の根本を異にしやう筈はありません。斯く云ひて私は欧米を恐るゝに非ず、又彼等の勢力を藉りて私の立場を強うしやうとは致しません。然し事の実際上重大なるは何人が見ても明かであります。|世界平和の立場より見て、基督教と日本の国体との調和を計るが最も望ましき事であります〔付○圏点〕。故らに二者の反対を唱ふるが如きは甚だしき危険を犯すことであると思ひます。
〇日本の国体と基督教、二者孰れも大問題であります。是は長き研究を積むにあらざれば容易に解らざる問題であります。御承知の通り西洋諸国に於ては基督教研究の為に特別に多くの大学校が建られました。オクスフホード、ケムブリツヂ、ハーバード、エール、チユービンゲン、ハレー、ツーリツヒ、バーズル、其他屈指の大学は皆な基督教研究を第一の目的として建られた者であります。故に之は一朝一夕にして知ることの出来る者ではありません。試に其概略を知らんが為に英国百科字典所載ジョージ・ノツクスのべンに成りし「基督教」の一項を(515)読んで御覧なさい。其の如何なる問題である乎が判明ります。そして日本人は日本の国体は之を知り悉して居るとしまするも、其相手の基督教の何たる乎を知るは容易でありません。之を斥くるも迎ふるも勝手でありまするが、有識の士は斯かる大問題に対して容易に判断を下しません。
〇斯く云ひて私は答弁の責任を回避せんとするのではありません。私は唯此問題は単に基督教信者としての私のみの問題に非ず、日本国民並に其政府を代表せらるゝ諸君の問題である事を予め明白にして置きたいのであります。|私は此問題に関し諸君に審判かるゝの地位に在る者ではありません 諸君と同じく其解決を為すべき責任を負ふ者であります〔付ごま圏点〕。若し私をして幾分なりとも諸君の解決を助けしめよと申さるゝならば其要求に応じます。然し乍ら若し諸君が私に向て「汝は基督教信者なり、我は否らず、汝我が前に汝が日本国民として同時に基督教信者たり得る其理由を弁明せよ」と言はれるならば私は之を辞退します。そして若しも諸君が私を追窮して止まざるならば、私は先づ諸君より前述の諸問題に関する諸君御自身の説明を聞き、然る後に私の意見を述べます。
〇序に申上げます 所謂基督教信者の中より国体に反く行為に出たる者が出たとて、基督教を非難する事は出来ません。乱臣は何れの宗教よりも出ました。殊に日本に於ては基督教が西洋思想と同視されます。そして二者同一でない事、社会主義、過激思想等は基督教の反対である事は諸君の能く知らるゝ所であります。 〔以上、6・10〕
〇私は更に諸君に伺ひたいのであります、諸君は今にして基督教を日本より絶す事が出来ると思ひ給う乎。日本は盛んに西洋文明を採用したのであります。そして西洋文明と基督教との関係の切つて切れぬ深い関係である事は諸君の能く知らるゝ所であります。西洋文明は之を採るも基督教は採らずと云ふは、果は採るも樹は採らずと(516)云ふと少しも異なりません。近代の代議政体のカルビン主義の基督教の産たる事は疑ひない事であると思ひます。サー・ジエームス・マキントツシが言ひました「近代の代議政体は人の救はるゝは行為に由らず信仰に由るとの教義を以て始まりし者である」と。|誠に基督教抜きの代議政体は未だ試みられざる試験であります〔付△圏点〕。其他思想に於て、文学に於て、哲学に於て、所謂文化生活に於て基督教は既に沢山に日本の社会に浸込んで居ります。今に至りて之を取除くは不可能であります。|何故それよりも直に進んで日本国を基督教国の一と成さんとしないのであります乎〔付○圏点〕。私は政治家の立場に自分を置いて斯く言ふのであります。今日に至り日本国より基督教を除かんと欲する事は不可能であるのみならず愚策であると思ひます。|私供は日本を世界第一の基督教国と成さんと努めて居ます〔付◎圏点〕。 〔以上、7・10〕
 
(517)     WILLS,EAST AND WEST.東西両洋の意志
                         大正12年7月10日
                         『聖書之研究』276号
                         署名なし
 
     WILLS,EAST AND WEST.
 
 Terrible are Anglo-Saxon,Or Teutonic, or Gothic wills,――the wills of Europeans and of their American descendants. They will have theirwills to be accepted by others,and they call such an acceptance“conversion.”No Oriental can withstand the onslaught of these titanic wills;we simply stand aside,and let them pass. Or better,we let their wills be opposed by other wills of their own kind:Protestantism opposed by Catholicism, Calvinism opposed by Arminianism,Bibucism opposed by Evolutionism,etc., and be neutralized by themselves. We stand aloof from the conflict of these mutually destructive wills of the Western peoples,and go directly to the Father,“Who will have all men to be saved,and to come unto the knowledge of the truth.”I Tim.2:4.
 
     東西両洋の意志
 
 恐るべきは英民族の意志、独逸民族の意志、北欧蛮人遺伝の意志である。即ち欧洲人と米国に於ける彼等の子(518)孫の意志である。彼等は自己の意志が他人に受けられざれば止まない、そして受けらるゝ事を称して改宗と云ふ。此強大なる意志の進撃に遭うて如何なる東洋人と雖も之に堪ゆる事は出来ない。我等は唯其道を避けて之をして通過せしむるのみである。或は夫よりも好き方法は、彼等の意志をして相互に反対せしむる事である。即ち教会主義をして個人主義に反対せしめ、メソヂスト主義をしてカルビン主義に反対せしめ、進化論をして聖書主義に反対せしめ、而して彼等をして互に相殺《さうさつ》せしむる事である。我等は西洋人の此の恐るべき自滅的衝突の外に立ち、彼等に由らずして直に「万人救を受け、真理を暁《さと》るに至らん事を意志とし給ふ」父なる神に到るであらう(テモテ後書二章四節)。
 
(519)     武士道と基督教
         五月十八日司法、外務、陸海軍諸省の高等官に由て組織せらるゝ某会の席上に於て述べし所のもの。
                        大正12年7月10日
                        『聖書之研究』276号
                        署名 内村鑑三
 
〇〇〇中佐を以て私に御会に於て何かお話しを致せとの御依嘱でありました。私の目下の専門は基督教の研究でありまして、之れ以外の事に就て確信を以てお話しを致す事は出来ません。然ればとて諸君の如き御歴々の前に於て所謂伝道説教を為すことを憚ります。依て中佐と篤と御相談の上に此題を選み、少しばかり私の研究の結果を諸君の前に述べんと欲する次第であります。
〇武士道と基督教と申しまして、二者孰れも大問題であります。二者孰れも一言を以て其何たる乎を言尽す事が出来ません。お互は武士道の何たる乎を知つて居ますが、若し外国人が我等に対つて武士道の定義を与へよと云ひますならば、之に応ふるの言葉に窮します。若し本居宣長の歌を引いて「朝日に香ふ山桜である」と答へた所で、彼等は其何たる乎を解する事が出来ません。同じ事が基督教に就ても言ひ得ます。基督教は大問題であります。御承知の通り欧米の大学なる者は其の最も旧い巴里大学を初めとして、大抵は元々基督教の研究を主なる目的として建られた者であります。そして其研究は今猶ほ廃らないのであります。伯林、牛津、剣橋、エール、(520)ハーバード等に於て基督教は昔しと少しも変らざる熱心を以て今猶ほ研究されつゝあります。聖書は全世界で最も多く読まるゝ書であります。七百有余の国語に訳されて、世界各国到る所に研究されつゝある書であります。其の基督教を一言にして言尽すことの出来ないのは勿論であります。基督教も武士道と同じく精神であります。そして精神は幾何学の定理の如くに文字を以て言表はす事は出来ません。香料の嗅別《かぎわけ》を為すが如きものでありまして、唯熟練の鑑定家のみ之を判別し又比較することが出来るのであります。
〇然らば鑑定家ならざる素人が如何にして二者を比較し得る乎と云ふに、二者の結果を見ることに依て略ぼ其目的を達することが出来ると思ひます。勿論精神は理想でありまするが故に其完全なる実現を不完全なる人世に於て求むる事は出来ません。然れども完全に最も近き者、或ひは普通一般に代表的実例と称せらるゝ者を選んで、之を比較して優劣を論ずる事が出来ます。そして実例は之を文明、国家、社会、個人の内に選む事が出来ますが、最も簡短にして解し易きは|代表的個人〔付○圏点〕の観察並に研究に於て在ると思ひます。之を称して|伝記的研究〔付○圏点〕と云ひます。宗教、哲学、其他の主義思想を研究するに方りて伝記的研究は比較的簡易にして、趣味最も多き者であります。(序ながら申上げます。諸君の内に、短時間に基督教の何たる乎を知らんと欲せらるゝ方に、私は『英国百科字典』内の Christianity の一項を御勧め致します。宣教師として長く我国に滞在せしジョージ・ノツクス氏のべンに成りし者でありまして、大論文と称せざるを得ません。又同字典内の Sociology の一項を御勧め致します。之は有名なる社会哲学者ベンジヤミン・キツドのべンに成りし者でありまして、基督教を社会的勢力として見たる最も公平なる論文であると思ひます。ノツクスもキツドも決して宗教の偏狭的熱心家ではありません。冷静なる学者であります。安心して彼等の説を聞くことが出来ます。)
(521)〇若し私が|武士道の模範として西郷隆盛〔付○圏点〕を選み、|基督教のそれとして英国のオリバー・クロムウエル〔付○圏点〕を択みますならば、御会々員の方々に武士道と較べて基督教の何たる乎を御紹介致すに最も便利であらうと思ひます。西郷は武士の好模範にして新日本建設の基礎的人物、クロムウエルは基督者《く》の好例にして英帝国創設の原動力であります。二者に類似の点多く、同時に又相違の点が尠くありません。二者の比較は興味多き研究の題目であります。私は之を述ぶるの時間の短きを歎じます。
〇時間を節約する為に西郷に関する評論を略します。お互日本人は克く彼の短所と長所と、過失と功績とを知ります。そして彼の功績は過失を償うて余りあります。彼は確かに世界的偉人であります。常に東洋人を見下せし当時の英国公使ハリー・パークスが西郷のみには敬服し又信顧したの一事を見て彼の偉大さが推量せられます。私は英文を以て西郷を外国人に紹介するの名誉を有ちました。其小著述が三四の欧羅巴語に訳せられて、西郷の如何なる人物なる乎が広い欧洲大陸の人等に知らるゝに至りました。先日独逸大便ゾルフ博士に会ひました時に、大使は私に言うて呉れました「我等独逸人はすべて西郷を愛す、是れ主として君の著書に依る」と。私の名誉此上なしであります。
〇クロムウエルは西郷よりも二百年前の人でありました。彼が英国に生れたのは一五九九年でありまして、我が慶長四年、豐臣秀吉薨去の翌年、関ケ原役の前年でありました。斯くて彼の生涯は徳川幕府の初期に当るのでありまして、其時既に英国に於て憲法政治の根本が討議せられ、自由の為に血が流がされ、英帝国の基礎が据えられたと思へば実に羨望に堪へません。そしてクロムウエルは此大事業に於ける主動者であつたのであります。是は誠に英国の維新でありまして、彼は我国の維新に於ける西郷の地位に立つた者であります。勿論維新は一人の(522)事業ではありません。国家的運動であります。然れども其運動が一人の生涯に鮮かに現はれたのであります。二人の場合に於て各自の伝記は国民の歴史と一致するのであります。
〇|クロムウエルは第一に軍人でありました〔付○圏点〕。そして軍人として瑞典のアドルフス、仏国のナポレオン、独逸のモルトケと併び称せらるゝ者であります。彼は田舎紳士でありまして、四十三歳の時まで軍事の何たる乎を少しも知らない人でありましたが、一朝国家の危機に臨み、剣を取るに至りましては、其勇気、軍略、共に遥に専門の軍人を凌ぎました。私は軍事には全く暗い者でありますが、専門家の批評に依るに、クロムウエルの戦略並に戦術は実に模範的の者であるとの事であります。彼は又一度も負けた事がありません。彼の勝利は又すべて決定的でありました。彼は克く戦争の目的を解し、壊つべきは完全に壊ち、敵をして再び立つ能はざるに至らしめました。
〇理想的の軍人たりし彼は又理想的の政治家でありました。彼に依て英国は世界第一等国の列に加はりました。彼は時の最大強国の西域牙に当り、幾何か其高ぶりの鼻を挫きました。仏蘭西をして彼の政府を恐れしめ、其欲する所を行はしめました。和蘭と戦ひて之に勝ち、和して共同の敵なる西班牙に当りました。地中海に於て、西印度に於て、又加奈太に於て、英国の威力を揮ひました。そして彼の此事業を助くるに、彼と殆んど同齢の人にして、主義、信仰、技能を共にせる提督《アドミラル》ブレークがありました。|陸軍にクロムウエル、海軍にブレーク〔付ごま圏点〕、彼等ありて英国は内外に威を振はざるを得ませんでした。
〇内治に於て英、蘇、愛の併合を固めました。法廷は清められて法律は厳格に執行されました。風儀は改まり、民心は一変しました。すべての点に於て大ブリテンは厳粛の国となりました。但し彼に対し政治家の反対は絶え(523)ませんでした。彼は時に応じ実際的政治を行はんとしたに対し、彼等は不可能の理想を行はんとしました。彼は曰ひました「若し各自が其理想的政治を行はんと欲するならば、国は一日も立つ能はず」と。故に彼は数回議会を解散すべく余儀なくせられました。憲法学者の眼より見て彼は非立憲的圧制家でありました。然し乍ら歴史は彼の政策の能く時の必要に応ひし者なる事を証明しました。|大政治家の例に洩れず、クロムウエルも亦法律の文字を超越して其精神を守りました〔付○圏点〕。彼の如き秩序を愛する者に取り、是は為すに甚だ辛らい事でありました。然し乍ら彼は国と正義の為めには文字や情実に縛ばらるゝが如き薄志弱行の人ではありませんでした。彼は二百年間に渉る己が国人の誤解を顧ず、立憲的政治家の美名を賭して、議会の政治家等と關つて其横暴を抑へました。彼の心事たるや実に推察すべきであります。
〇クロムウエルは日本人の眼より見て、大逆無道の罪を犯しました。彼は議会派に味方しまして、時の国王チヤールス第一世の首を刎るの罪に与りました。是は彼が政権を掌握する前に行はれし事でありまして、彼れ一人の犯したる罪でありません。然し是れ彼の是認したる行為である事は疑ひありません。故に法律並に道義の法廷に於て鞫かれて彼は弑逆者《レジサイド》の汚名を辞する事は出来ません。然し乍ら歴史は彼れ並に彼の党派の此行為を弁明し、其罪を赦すに非れば甚しく之を輕減しました。ガーヂナー、カーライル、モーレー、ハリソン等の大歴史家が出まして、時の状態に照らして、是れ止むを得ざるに出た事である事を弁明しました。そして英国人は今や彼の此罪を赦して、ウエストミンスター議事堂の前に彼の肖像を立てゝ、英国憲法支持者の天使として彼を崇むるに至りました。而已のみならず|英国の王室までが彼の功績を認めざるを得ざるに至りました〔付△圏点〕。彼と彼の同僚の行為に由り英国の王室は欧洲の王室中最も安固なる者たるに至りました。英国は今より二百八十年前に既に憲法的戦争(524)を闘ひ了つたのでありまして、恰も人が麻疹《はしか》、チブスを患ひしと同様再び之に罹るの危険がなくなつたのであります。仏国は百年後れて此疾に見舞はれ、大革命の悲劇を見ました。露国は今日我等の目前に於て更に大なる悲劇を演じつゝあります。独と墺とに就ては語るに及びません。欧洲に於ては各国孰れも此大破壊に遭遇せずして新時代に入る事が出来ませんでした。そして英国のそれは比較的に非常に軽くあつたのであります。他の諸国に在ては王室は倒れて了ひましたが、英国に在ては再び興きて、今や国家と共に栄ゆるに至りました。是にはクロムウエルの功績与りて力あるのであります。そして欧洲に在つた此事を我国に於て繰返すの必要なきは言ふまでもありません。二者其建国の基を異にします。|クロムウエルが若し日本に現はれたとしまして 彼が英国に於て為した事を為さなかつた事は、当時の英国歴史を読んで克く解ります〔付ごま圏点〕。
〇此クロムウエルが稀に見る熱心の基督信者であつたのであります。彼は軍人であるよりも、亦政治家であるよりも、殊更に強き深き熱き基督信者でありました。彼は祈祷の人でありました。何よりも多く聖書を読んだ人でありました。人と社会の罪を責むる前に強く己を責めた人でありました。彼は第一に神を畏れました 神の忠実なる僕たらん事が彼の人生第一の目的でありました。彼の軍略も政策もすべて彼の信仰より出た者であります。見やうに由てはクロムウエルは解するに最も容易き人物であります。彼の信仰の立場に立ちて見まする時に彼の為した事はすべて明瞭になります。私の知る歴史的大人物の内でクロムウエル程透明なる人物はありません。
〇西郷と較べまして、クロムウエルは其天稟の性に於て劣つて居つた乎も知れません。然し彼はより広き活動の舞台を持ちました。又より深き宗教を信じました。キリストは確に王陽明よりも偉大なる人類の教師であります。それ故にクロムウエルは西郷の為し得ない事を為しました。彼は第一に自己に勝ちました。情に負けませんでし(525)た。正義の為には己の部下、同僚、友人と戦ひました。彼は又英国人でありながら英国の為に戦ひませんでした。|英国を以て世界人類の為に戦ひました〔付○圏点〕。西郷も亦「正義の為には国家を犠牲に供すべし」と曰ひましたが、クロムウエルは西郷の此言を実行したのであります。そして英国が今日の強大をなすに至つた其深い原因はクロムウエル並に彼の同僚の此高尚なる理想に在つたのであると思ひます。クロムウエル以後にクロムウエルは出ませんでしたけれども彼れ以後の英国並に米国の政治家にして、少しなりとも英民族の地位を高めた者は、すべてクロムウエルの此理想に依て行動した者であると信じます。
〇申上ぐるまでもありませんが、宗教は人の意志に係はる問題であります。哲学者の所謂第一原因に係はる問題であります。文明は如何に進歩し、機械制度は如何に改良されましても、之を用ふる者は人であります。故に人を其根本の意志に於て清め又強むるにあらずして、其他の進歩改良は益を為さずして反て害を為します。宗教が何人に取りても常に最も大切なるは之が為であります。As is religion, so is man(人の如何は其宗教に因る)であります。又 As is religion, so is country(国の如何は其宗教に因る)とも云ふ事が出来ます。
 
(526)     背教者としての有島武郎氏
                       大正12年7月19、20、21日
                       『万朝報』
                       署名 内村鑑三
 
     (一)
 
〇私は有島君に基督教を伝へた者の一人である。彼は一時は誠実熱心なる基督信者であつた。私は彼の顔に天国の希望が輝いて居た時を知つて居る。其時彼は歓喜に溢れる人であつた。彼も私も同じ札幌農学校の卒業生であつた上から、人も私も彼が私の後を嗣いで、日本に於ける独立の基督教を伝ふる者と成るのではないかと思ふ程であつた。有島君はたしかに一度は、信仰のエデンの園に神と共に歩んだ人であつた。彼は彼の親友森本厚吉君と共に基督教の大宣教師デビツド・リビンストンの伝記を著した。彼は又私の『聖書の研究』に投書して呉れた。彼と私とは数年間に渉り、信仰の善き友人であつた。
〇然るに此人が急に信仰を棄てゝ了つた。たしか明治四十一年であつたと思ふ、私は札幌に於て彼に会うた其時の彼は前の彼とは全く別人であつた。前にはオプチミスト(楽観家)なりし彼は其時はべシミスト(悲観家)に成つて居た。彼の顔に輝きし光を今は認める事が出来なかつた。我等彼の旧い友人は、彼の為にも亦我等の為にも非常に悲しんだ。我等は有島が不信者に成つたとは如何しても信ずる事が出来なかつた。
(527) 故に彼自身は『変つた』と告白せしも、我等は『変らざる者』として彼を扱つた。或日の事であつた、私は信仰の事に就て彼と語る為に、私が客たりし宮部理学博士の家に彼に特別に来て貰つた、我等は二人殆ど二時間、相対して信仰の事に就て論じた、有島君の心は既に定《き》まつて居つて、彼は私の言《げん》は少しも納れなかつた。私は『有島は最早我等の有にあらず』と諸友人に報告せざるを得なかつた。其時の我等友人一同の悲歎は非常であつた。私は今日に至るまで多数の背教の実例に接したが、有島君のそれは最も悲しき者であつた。それより二三日後で、私は彼の札幌郊外|苗穂《なへぼ》村の家に招かれ昼飯の饗応に預つた。其処に新夫人も居られ、鄭重なる待遇を受けたが、我等相互の心の底には堪へ難き苦痛があつた故に、談話に興味の乗らなかつた事は今でも忘れる事は出来ない。
 有島君が何時何処で基督教を棄てた乎、其事は能く解らない。私は彼が米国ハバフホード(ハーバードに非ず)在学中、新渡戸夫人の令兄エグレストン氏に書贈つた英文の手紙を見せて貰つた事がある、其内には彼の信仰は燃えて居つた。聞く所に依れば、有島君は後に英国《えいこく》に渡り、倫敦に於て露国亡命者プリンス、クロポトキンに会ひ、其感化に依つて基督教を棄てたとの事である。或は其事が事実である乎も知れない、何れにしろ私に取つては、洋行後の有島君は、其前の彼とは全然別人であつた、勿論彼の性格に変りはなかつた、彼は正直なる、コンシエンシヤス(良心の声に忠実なる)人であつた、然し乍ら前の如くに天を望んで地を楽む人ではなかつた 其時たしかに人生は重荷になつて彼に存つたやうに見受けた、そして其重荷は彼の最後の日まで取除かれなかつたのであると思ふ。 〔以上、7・19〕
 
(528)     (二)
 
〇帰朝後の有島君は札幌農科大学に於て英文学を教へて居た。後札幌を辞し、東京に移り久しく閑散の生涯を送つて居たが、忽ちにして彼の著作家としての声名が挙つた。何事を為しても第一位を占めざれば止まざる彼の事であれば、是れ彼に取つては当然の事であつた。唯然し彼の著作がエデンの園の歓喜を伝ふる者でなくして、楽園を離れしアダムが他の方面に於ける楽園回復の努力の発表でありしことは疑ふ事が出来ない。曰く『カインの裔《すゑ》』『叛逆者』『死』と著作の題目からが凄味を帯びて居た。小説嫌ひの私は之に目を触れなかつた。私の眼に残りし有島君は元の晴々しい顔をしたる歓喜に溢れたる人であつた。我等彼の旧き信仰の友は常に彼に就て言うた、『有島は永く今日の立場に立つて居る事の出来る者でない。彼は必ず再び元の所に帰つて来るであらう』と。我等の彼に対する信用は非常に深かつた。我等は望に反して望んだ。我等は我等の心の中より如何しても彼を棄去る事が出来なかつた。
〇然るに彼は段々と我等より遠ざかつた。彼は我等に友人として取扱はるゝを迷惑に思ふやうに見えた。彼の友人の種類は一変したやうに思はれた(二三の親友を除いては) そして特に信仰に由つて繋がれし私の如きは、今は僅かに遥に彼と好意を交換するに止まつた。信仰の目的物を異にするに至つて、彼と私とは相互より遠ざからざるを得なかつた。故に其後の彼に就て私の知る所は至つて僅少《わづか》である。唯私が従事するキリスト福音宣伝事業に彼が全く興味を有せざるに至りし事は明瞭であつた。
〇其後に彼の最愛の妻が死んだ。そして旧友一同の同情は翕然《きふぜん》として彼の上に集まつた。我等は其時彼が棄教著(529)である事を忘れた。私は丁度其時那須温泉に療養中であつて、彼女の葬儀に列する事は出来なかつた。然し私の同郷同信の友にして、有島君旧友団の一人なる田島進牧師が式を司り、基督教に由つて彼女の亡骸を葬つた。私は帰京後直に有島君を訪問した。彼は其時非常に昔懐しさうに見えた。我等は其時思うた、此大なる打撃に由つて、彼は旧い札幌式の信仰に帰つて来るのではないかと。彼等は何処までも有島君を要求して止まなかつたのである。
〇有島君は後に詩人ホヰツトマンの専門家と成つた。私は此事を聞いて非常に喜んだ。ホヰツトマンは英米詩人中の畸形児であるが、然し英詩人であつて、所謂大陸詩人とは全く異ふ。ホヰツトマンは天然人《なちゆらるまん》であるが、同時に又強き常識の人であつた。此詩人に私淑して有島君は余りに遠く私より離れない。私は何時か再び信仰上の兄弟として彼を私の心に迎ふる事が出来るであらうと思うた。
   My rendezvous is appointed, it is cerain,
   The Lord will be there and wait till I come on perfect lerms,
   The great Camerado, the lover true for whom l pine will be there.
 
若し詩人ホヰツトマンに在つた此信仰が有島君に在つたならば、彼は自殺せずして済んだのである。 〔以上、7・20〕
 
     (三)
 
〇有島君に大なる苦悶があつた。此苦悶があつたらばこそ彼は自殺したのである。そして此苦悶は一婦人の愛を(530)得んと欲する苦悶ではなかつた 此は哲学者の称するコスミツクソロー(宇宙の苦悶)であつた。有島君の棄教の結果として、彼の心中深き所に大なる空虚が出来た。彼は此空虚を充すべく苦心した。彼は神に依らず、キリスト其他の所謂神の人に依らずして自分の力で此空虚を充たさんとした、此が彼の苦悶の存せし所彼の奮闘努力は茲に在つたと思ふ。然し乍ら有島君如何に偉大なりと雖も、自分の力で此空虚は充たし得なかつた。而已ならず、充たさんと努むれば努むる程、此空虚が広くなつた。彼は種々の手段を試みた。著作を試みた。共産主義を試みた。そして多くの人、殊に多くの青年男女の渇仰を得て、幾分なりとも此空虚を充たし得たと思うたであらう。然し乍ら彼は人の賞讃位で満足し得らるゝ人ではなかつた。彼は社会に名を揚げて益す孤独寂寥の人となつた。彼は終に人生を憎むに至つた。神に降参するの砕けたる心は無かつた。故に彼は神に戦ひを挑んだ。死を以て彼の絶対的独立を維持せんと欲した 自殺は有島君が近来屡ば考へた事であらう。但し其機会が無かつたのである。
〇そして其機会が終に到来した。一人の若き婦人が彼に彼女の愛を献げた。著作に於ても、社会事業に於ても、衷《うち》なる空虚を充すの材料を発見する能はざりし有島君は、此婦人の愛に偽りなき光を認めた。彼は歓んだ。満足した。此は棄教以来初めて彼に臨んだ光であつた。寔に小なる光であつたが、永の間|暗黒《くらき》に彷徨せし彼に取りては、最も歓迎すべき光であつた。彼は既に人生を忌し者、而して婦人は夫有る身であつた。此光りは逸すべからず、然ればとて此世に於て之をエンジョイする能はず 故に二人相併んで自ら死に就いたのである。正直なる有島君としては為しさうな事である、然し彼は大に誤つたのである。
〇『人は自分の為に生きず又死せず』と有島君の棄た聖書に記いてある。生命は自分一|人《にん》の有であると思ふは大なる間違ひである。若し基督信者が信ずるやうに、生命は神の有でないとするとも、之は人類の有、国家の有、(531)家族の有、友人の有である。有島君は基督教を棄て、此簡単明瞭なる真理をも棄てたのである。背教は決して小事でない。神を馬鹿にすれば神に馬鹿にせらる。有島君はダンテやミルトンが神の子、人類の王として崇めしキリストを棄て、一婦人、而も夫ある婦人を選まねばならぬ運命に陥つた。有島君の為に計つて、愛をキリストに献ぐるは、某女に与ふるよりも遥かに益《まし》であつた。有島君は神に叛いて、国と家と友人に叛き、多くの人を迷はし、常倫破壊の罪を犯して死ぬべく余儀なくせられた。私は有島君の旧い友人の一人として、彼の最後の行為を怒《いか》らざるを得ない。
   人の子の智慧も才能《ちから》もなにかせん
     神を棄れば死ぬばかりなり。 〔以上、7・21〕
 
(532)     ホームの建設と基督教
         六月廿四日夜、東京基督教女子青年会に於て述べし講演の原稿
                         大正12年8月1日
                         『文化生活の基礎』
                         署名 内村鑑三
 
〇近頃に至つて日本が著るしく世界化されつゝある事は誠に慶ぶべき事であります。過ぐる二箇月間に我等は世界的三大偉人の百年期を紀念しました。其第一は五月十四日に、種痘の発見者エドワード・ゼンナーの永眠第百年祭が全国の医師達に由て執行はれました。其第二は六月五日に、近代経済学の始祖と称へらるゝアダム・スミスの誕生百年紀念会が、是れ又全国の経済学者達に由て催されました。そして今や其第三が日々に増し行く我国の音楽愛好者等に由て紀念されつゝあります。それは有名なる世界的平民歌『ホーム・スヰート・ホーム』の発行第百年紀念であります。其作者はジヨン・ハワード・べインと称し、米国紐育洲ロングアイランド、イーストハムプトンの人でありました。ゼンナーは英国人、スミスは蘇蘭土人、べインは米国人でありました。揃ひも揃つて広い意味の英国人であつた事は、特に我等の注意を惹くべき事であります。そして又三人が三人共平和の術を以て世界人類を永久に益した事も亦不思議と言はざるを得ません。
〇そして其の他に又三人の共通点があります。それは|三人共に英国人特有のホームの産であつた事であります〔付○圏点〕。ゼンナーは牧師の子でありまして、彼の医学上の大発見は彼が彼の父母より受けし深き宗教心に基ゐたものであ(533)ります。アダム・スミスは全然「母の子」でありました。彼の父は彼が母の胎内に居る内に死にまして、彼は母一人の手に由て成育つた者であります。べインも亦母の崇拝家でありました。彼の歌はホームを歌つたものでありますが、実は彼の母を歌つたものであります。斯くして三人が三人其善き母の功績として世に出で、人類を感化した者でありました。私供は彼等人類の三大恩人の事業を紀念する時に、実は彼等を育みし彼等の母を紀念しつゝあるのであります。
〇たしかフランクリンであつたと思ひます、言うた事があります、「若し永久に世を感化せんと欲せば善き歌を作るべし」と。ジヨン・べインは別に是ぞと云ふ大事業を為しませんでしたが、唯『ホーム・スヰート・ホーム』の短い歌を作り、彼の芳名を万世に垂るゝと同時に全人類を永久に慰めつゝあります。此一篇の歌に較べて見て、大著述も、大哲学も、亦政治上並に経済上の大経綸も、実に語るに足りないのであります。曾て米国の大説教家ヘンリー・ワード・ビーチヤーが曰うた事があります、「私は大説教家たらんよりは、かの『我が霊魂《たましひ》を愛するイエスよ』の作者たらんと欲す」と。チヤールス・ウエスレーはかの一篇の讃美歌を作つて、如何なる神学者又は聖書学者も及ばざる、信仰的感化を全世界の基督者《クリスチヤン》に及ぼしつゝあります。神に最も恵まれたる者は詩人であります。人間の心を簡短明瞭なる言葉に綴りて、之を万人に歌はしめて、彼は人類の教師たる事が出来ます。そしてジヨン・ハワード・べインは此の恩恵に与つた者であります。
〇ホーム。ホームとは何んであります乎。之を家庭と訳した所で其意味は通じません。曾てビスマークが言うた事があります、「英語に羨ましい詞が二つある。其一は gentleman《ゼントルマン》であつて、其二はホームである」と。独逸語の das Haus は到底英語のホームに及びません。ホームに家が要ります。然し家丈けではホームになりません。(534)家庭団欒というた所でホームたるには足りません。ホームには家が要ります。親しき肉親の関係が要ります。住み慣れたる土地が要ります。山と川と丘とが要ります。打解けたる隣人が要ります。そして其の他に、然り、其上に一つの貴い者が要ります。べインの歌に Cbarm from skies seems to hallow us there とあります。「天に人を引附くるの力が其処に我等を潔むるが如し」とあります。天よりの風が吹いて其霊気に家族が触れて、其処にホームが現れるのであります。ホームは聖化されたる家庭であると言ひて、稍其の何たる乎を言表はす事が出来ると思ひます。斯かる者は自身其霊気に触れるにあらざれば、其の何たる乎は到底解りません。ホームを見たいと言うて見ることは出来ません。恰かも武士の魂を見たいと言ふと同じであります。自身武士に成らざれば武士の心は解りません。
〇それ故にホームは世界何処にも在る者ではありません。独逸にダス・ハウスは在ります。日本に家庭は在ります。然しホームは之を看出すに甚だ困難であります。ホームは或る特別の境遇の下に出来た、又出来る者であります。『ホーム・スヰート・ホーム』の作者を生んだ国を知つて、如何なる境遇がホームを作つた乎が解ります。紐育洲のロングアイレンドは新英洲の南に当り、其一部分として見るを得べき細長い島であります。此辺はホームの現はるべき所であります。健全なる天然的状態に加へて、健全なる霊的状態が備へられた所であります。新英洲に於て特殊の天然と歴史と信仰とが一致してホームなる特殊の制度を生んだのであります。ホームは羅馬天主教国の伊太利又は西班牙には現はれず、無神国の仏蘭西には起らず、知識的の独逸に栄えず、神秘的の露西亜に出ずして、自由と常識と信仰とが併び耕されし新英洲に於て其の最も美はしき発達を遂げました。|新英洲はホームの本場であります。そして其新英洲〔付○圏点〕からジヨン・ハワード・べインが生れて、ホームの歌を作つて、(535)其歌が世界全人類にホームを鼓吹しつゝあるのであります。
〇ホームは抑々何時初めて世に現はれた者である乎と云ふに、或人曰く「是は今から四千年の昔し、カルデヤのウルに於て、アブラハムがサラを娶つた時に、初めて出来た者である」との事であります。其事は多分本当でありませう。|ホームはアブラハム族特有のものであると思ひます〔付○圏点〕。私共は旧約聖書に於て度々ホームに出会ひます。或人がユダヤ人の歴史は国家又は国民の歴史に非ずして、ホームの歴史であると言ひましたが、実に其の通りであると思ひます。そしてユダヤ人のホームはナザレの村に於けるヨセフの家に於て最も鮮かに現はれました。其内に神の子にして人類の王が貧しきホームの一員として成人しました。そして彼に由てホームは一層潔められ、固うせられて再び世に供せられました。そして彼の教の伝はる所に聖き楽しきホームが起りました。パウロの伝道の伴侶テモテは斯かる家庭に成育つた人でありました。テモテ後書一章五節にあります、「我れ汝の偽なき信仰を念ふ。此信仰は前に汝の祖母ロイスに在り、又汝の母ユニケに在り、今汝にも在る事を信ずる也」と。福音的神学の始祖と称ばるゝ聖アウガスチンに其母モニカの在りし事は人の克く知る所であります。聖クリソストムをして初代の基督教界に於て絶大の信仰的勇者たらしめし者は彼の母アンスーサでありました。其他グレゴリー、セオドレート等初代の教会の柱石たりし者は、何れも其信仰の堅き基礎を、信仰篤き彼等の母に据えられた者であるとの事であります。コロムウエルの優しき、人道的部分はすべて彼の母より来た者であると云ひます。カーライルをしてコロムウエル伝を書かしめし者も亦信仰篤き彼の母であつたと云ひます。実に基督的母《クリスチヤンマザー》があつて基督的《クリスチヤン》ホームがあり、基督的ホームがあつて、基督的偉人が出たのであります。若し人類の進歩歴史より基督的母の事跡を引去るならば残る所は至つて僅少《わづか》であらうと思ひます。世に何が貴いとて、基督的母と基督的ホーム(536)に勝さる者はありません。
〇さて日本にホームがあります乎。日本に大なる、立派なる第宅があります。然し乍ら貴顕紳商の築きし大第宅はゼンナー、アダム・スミスを産出す場所でありません。日本の家庭に芸術と礼儀とがあります。然し温かい心と博い愛とがありません。日本の家庭に稀れに厳粛なる正義が行はれます。私供は是れあるが為に神に感謝します。然れども斯かる家庭は段々と減じつゝあります。そして稀れにある所謂厳粛なる日本人の家庭はホーム・スヰート・ホームではありません。聖くして然かも楽しく、愛と正義が同時に行はるゝホームは我国に於て何処に見ることが出来ます乎。私は斯く云ひて私の愛する此日本国を呪ふのではありません。唯人生の至上善と称すべきホームの無きを見て、少くとも実に稀れなるを見て、我国の為に歎き、之を建設するの必要を痛切に感ずるのであります。
〇基督教女子青年会の事業……それは種々様々であります。日本の女子をすべての点に於て引上げねばなりません。然し乍ら我国今日の状態に顧みて、国にホームを供給するに勝さるの事業がありませう乎。ホーム・スヰート・ホームを歌つて、之を外国に在る者として羨むのでなくして、「是れ我がホームを歌ひし者である」と言ひて心より之を歌ひ得る多くの青年男女を作るに勝さる事業がありませう乎。日本の社会の最大要求はホーム、即ち基督的ホームではありません乎。今やホームは作られない計りでなく、既に在る日本流の家庭までが盛んに破壊されつゝあります。堕落せる文士と、堕落せる新聞雑誌とが協同して家庭の基礎を壊しつゝあります。聖い楽しいホームの無い所に大人物も起らず、大国家も現はれません。「私の装飾《かざり》は是れであります」と言ひて己が二人の男子を指せしグラカス兄弟の母コルネリヤのやうな女が在つた故に大羅馬帝国が起つたのであります。英帝国(537)の今日在るも亦同一の理由に因るのであります。国家の建設を政治家や軍人にのみ委ねて置いてはなりません。之を敬虔《つゝしみ》ある信仰の婦人に待たなければなりません。私は簡短に申上げます、|世界最大唯一のホーム〔付○圏点〕建設者《ビルダー》|はマリヤの子イエスであります〔付○圏点〕。彼を心に迎へて基督者《クリスチヤン》があります。彼を家に迎へて基督的ホームがあります。彼の崇められざる所に基督者もホームもありません。先づ第一に彼を崇めなさい。彼に反対する者には反対なさい。|彼れ第一であります〔付◎圏点〕。除《あと》の事は後の事であります。何も必しも今日の米国に傚ふの必要はありません。日本に最上の基督的ホームを作つて、我国を救ひ、又世界を救はうではありません乎。
〇序に書き加へます。近頃起りたる有島武郎君の死には私は勿論大反対であります。私は有島君に此事ありしを悲しみ、社会国家の為に憤慨に堪へません。
 
(538)     The Suicide Cult
                        1923年8月1日
                        The Japan advertiser
                        署名 KANZO UCHIMURA
 
 To the Editor:
 I was surprised to read Baroness Ishimoto's contribution on the shameful shinju affair of the late Mr.Arishima and his paramour. It shows that the Japanese nobility in some of its quarters is corrupt to the core. Would the old samurai family of the Baroness tolerate her views had they read the article? I think not.The samurai's conscience is wholly against the view set forth in that article.Arishima died an ignoble death.Think of a samurai's son hanging himself with another man's wife,using instead of the rope,the woman's shigoki(under-belf).No more shameful way of dyhg can be conceived.Japan's highest and best sentiment rebels against it.And to say that this is“Hellenism,philosophy oflove and beauty”! And one who knows anything about Hellenism, knows that it is not such a shallow thing.The true Hellenism is noble,heroic,moral.To sacrifice one's plain duties for the sake of mere“love and beauty,”is no Hellenism at all. I cannot conceal my disgust at the man and the woman who deliberately committed suicide for such a philosophy,and my amazement at a representative of the Japanese nobility who defends and justifies and extoIs such a deed.Happily for Japan, its national conscience is too deeply established to be moved by the deeds and utterances(539) of some of its so-called“advanced men and women.”
                       Very sincerely yours,
                       KANZO UCHIMURA
 Karuizawa,July 29,1923.
 
 
(540)     同胞に告ぐ 死ぬな
                           大正12年8月6日
                           『万朝報』
                           署名 内村鑑三
 
縦令文士が死なうが、人格者が死なうが汝は死ぬなと余は余の国人に対つて云ふ。『人生は受け難し、仏法は会ひ難し』である。仏法は別として、人生は貴くなる、是は容易に棄つべき者でない。是は正義の為め人類の為め、国家の為め、社会の為め、同胞の為めに大切に保存して、最も有効的に用ふべき者である。人生の価値は最も明かに之を真理又は同胞の為に用ふる時に現る。自己決定と称して、自分の勝手に生命を棄つる者は、大なる罪悪を犯す者である、余の先師たる故シーリー先生が言うた事がある、『自殺する者は己が勤務に耐へずして逃亡する番兵と同じである。人生の苦痛に堪へずして、其責任を棄てゝ死す、卑怯此上なしである』と。実に其通りである、忠勇国に報ゆるのが日本人特有の美質である。そして勇気は之を戦争の時にのみ現はすべきでない。平和の時にも亦之を出して社会同胞の為に尽すべきである。そして日本今日の如く勇気実行の必要なる時はない。不義軟弱は社会何れの方面に於ても行はる。斯かる時に際して、善は善なりと唱へ、悪は悪なりと道ふに多くの勇気を要する。故に若し棄つべき生命があるならば、之を恋愛の為に棄つる勿れ。公義の為に捨てよ。そして生命を棄つるとは或る種の日本人が思ふやうに、他人を殺して自分も死に就くことではない。
 義を唱へて甘んじて義の犠牲たる事である。
(541) 是が最大の勇気である、余は繰返して言ふ『死ぬな、死ぬな』と。生命は貴重である。老いたる親のために幼《いとけな》き小児《せうに》の為に、世に多く在る不幸者の為に、之を保存して之を用ひよ。死は易くして、生は難くある。人生実は自殺に勝る恥辱は無いのである。本当の国賊は自殺を謳歌する者である。死ぬな、死ぬな。成るべく長く生きて成るべく多くの義務を果せよ。
 
(542)     FAITH.信仰の途
                        大正12年8月10日
                        『聖書之研究』277号
                        署名なし
 
     FAITH.
 
 Faith is believing,and believing is leaving:leaving one's self to leave it in the hand of others. It is essentially a passive state of mind,in contrast to an active,doing state,with which it is very often confounded.But faith,rightly placed in the right object,begins to be active at once. It produces goodworks as naturally as good trees produce good fruits. Ever passive, and therefore always resting,but ever productive of goodworks,――faith is an ideal state of existence. And it is a state into which the Gospel of Christ introduces all men, who receive Him and believe on His name. So many miss faith by trying to attain it,when the true way to faith is to cease trying, and to leave one's self as it is in His hand.
 
(544)     狂気と正気
                         大正12年8月10日
                         『聖書之研究』277号
                         署名 内村鑑三
 
 自分は絶対的真理を握る者である。故に縦ひ全世界が自分に反対するとも自分は動かない。自分は他の説を聞くの必要がない。自分の意見、是れ宇宙の真理である。世は自分の意見に従ふべきである。自分は世の制裁は如何なる形に於ても之を受けない。此事を称して絶対的自由と云ふ。そして自分は此自由を保有する者であつて、人は自分に就て如何に思ふとも、自分は世界のアウトクラツト(独裁君主)であると。斯う思ふのが狂気である。而して斯かる思想を懐いて精神病院に治療を受けつゝある者は許多《あまた》ある。
〇自分は真理の一部分を示されて神に感謝する。自分は日に日に少しづゝ真理を教へらる。自分が知る所は僅少であつて、知らざる所は無限である。自分は知識の嬰児《をさなご》である。暗夜にありて光欲しさに泣く赤子である。自分は神に導かれんと欲す、人に教へられんと欲す。人類全体の実験は最も貴き教訓であれば、自分は之に従つて歩まんと欲す。自分は自分の無智無学を告白する。神よ、自分の暗愚を憐み給へ、そして貴神《あなた》の完全なる智慧へと導き給へと。斯かる心の状態に於て在るのが正気である。そしてソクラテスでも、ニユートンでも、テニソンでも、すべて人類の大教師として仰がるる人は終りまで心の此状態に於て在つた者である。
〇然るに神を離れて気狂《きぐる》ひたる多数の人達は狂人の始終一貫して徹底的なるを嘆美し、彼を崇拝し、彼に傚つて(545)生き又死なんと欲す。彼等は自己を信ずるの厚きを以て最上の性格なりと信じ、自己を疑ひ、容易に確信に達せざるを以て、誠実欠乏の徴候なりと思ふ。|自分は狂人ならずと確信するが狂人たるの確証である。自分は狂人ならざる乎を疑ふが精神的健康の誤りなき徴侯である〔付△圏点〕。人類の経験を蹂躙して憚らず、神の言に叛いて恐れず、真理は初めて自分を以て世に臨み、新時代は自分を以て始まると思ふは、此は狂気の最も甚しき者である。人は凡て真理に忠実ならざるべかず。然れども人たるを知て真理の占有を以て自ら任じてはならない。
 
(546)     信仰増大の途
         使徒たち主に曰ひけるは「我等の信仰を増し給へ」と(ルカ伝十七章五節)。
                         大正12年8月10日
                         『聖書之研究』277号
                         署名 内村鑑三
 
〇「夫れ神は其独子を賜ふ程に世の人を愛し給へり、此は凡て彼を信ずる者に亡ぶること無くして窮りなき生命を受けしめん為なり」との約翰伝三章十六節の言葉は私が今日まで幾回も此講壇から説明を試みたものであります。然し斯かる言葉は其意味深遠でありましてその我等に教へんと欲する所は幾回学んでも尽きないのであります。此は神の愛を説くもの、人の救を説くもの、愛と救の方法を説くものとして、其一字一句が悉く深く信者の心に訴ふるものであります。然しそれ丈けではまだ意味が尽きないのであります。此は更に|愛の性質、其働らきの限界〔付○圏点〕を示す言葉であります。即ち重きを其内の文字孰れに置いて見ても、神の愛の内容が覗はれるのであります。
〇神は「世の人」を愛し給へりとあります。原文にはコスモスとありまして、世とか世界とか、或は更に進んで「宇宙」とも解することの出来る詞であります。「神は其独子を賜ふ程に全人類を愛し給へり」と読むのが本当の読方ではない乎と思ひます。そして此は実に驚くべき言葉であります。殊に信者の立場に立て考へて見て驚くべき言葉であります。|神は全人類を愛し給へり、彼が共独子を〔付ごま圏点〕遣《をく》|りて施し給へる救は元々全人類の救を目的とし(547)て施されたる者であると〔付ごま圏点〕。さう聞くと多くの信者の心から其信仰が冷却するのであります。彼等は神を|自分の神として見る事を好み、殊に自分を愛して下さつた神に感謝し、自分を救つて下さつた神を讃美します。然るに其神の愛は元々全世界の人の救を目的として現はれた者である事を聞かされて、愛が全般的になりしが故に其の強さと深さとが失せて了ふやうに感ずるのであります。
〇然し乍ら神の言葉は動かないのであります。神は先づ第一に其独子を遣りて全人類を救ふの途を設け給うたのであります。全世界を救はん事、此世界を化してキリストの世界と成さん事、其事が神が其独子を遣はして遂げんとし給ひし御事業の目的であつたのであります。そして斯かる目的に出でし福音であつたらばこそ、御互各自が之を信じて、亡ぷることなくして、窮りなき生命を受くることが出来るのであります。若し之が少数を救ふ為の福音であつたならば、私供各自は其救に漏るゝ虞があるのであります。全人類の為に設けられし救であるが故に、人類の一員として生れ来りし私にも、其救に与るの資格があると信じて、私は大胆に恩恵の座に近づくことが出来るのであります。
〇茲に至つてキリストの救、随て基督者の信仰の如何なる者なる乎が解るのであります。私供各自の信仰は是れ神が特別に私供を愛し給ふが故に特に私供に賜はつたものではありません。是は神が世即ち全人類を救はんとの御目的を遂げんが為に、私供各自に賜ひし者であります。即ち私供の信仰は私的のものでなくして公的のものであります。全人類が主であつて私供は従であります。そして斯かる性質のものでありまするが故に、私供の信仰は自分の為に使はんと欲して消え、神と人類の為に使はんと欲して益々熾んになるのであります。そして此事を知つて信仰養成の途が瞭かに成るのであります。「主よ我等の信を増し給へ」とは信者全体の祈祷であります(548)が、|信が増すとは御互各自の裡に個々別々に信が燃ゆるに至るのではありません、自分以外の者に向つて自分の信が拡がるのでありまして即ち全人類を救はんとの神の〔付△圏点〕聖旨《みこゝろ》|に幾分なりとも適ふに至る事であります〔付△圏点〕。故に私供は信仰の増さん事を祈ると同時に、全人類に向つて私供の心を向けなければなりません。信仰を増すの手段方法として先づ第一に人を離れ、神在りて人在るを知らざる状態に己を置かんと欲するのが、私供が常に取る途でありまするが、然しそれは根本的に間違つたる途である事はキリストの此御言葉に照して見て明かであります。
〇イエスは曰ひ給ひました、「汝等若し我を愛するならば我が誡を守るべし」と。又「我が汝等を愛する如く汝等も亦互に愛すべし、是れ我が誡なり」と(ヨハネ伝十四章十五、同十五章十二)。此はイエスに対する愛は相互に対する愛と同じ物であるとの教であります。即ち私供の信仰生活に於て私供は単独的に私供の愛又は信仰を維持又継続する事が出来ないとの教であります。私はいくら努力しても私一人で居て私の信仰を強むる事が出来ないのであります。私の愛も信仰も私の同情の広さに比例するのであります。私は私以外の一人の人を愛して私の信仰は二倍するのであります。十人を愛して十倍し、百人を愛して百倍し、全国を愛して全国大になり、世界を愛して世界大になるのであります。神の愛は全人類を救はんとして全世界に漲つて居りまするが故に、私は私の愛を拡げれば拡げる程私の愛と信仰とを拡げることが出来るのであります。此事を「自己の拡張」と称して可らうと思ひます。誠に簡短明瞭なる事であります。
〇人類と云ひ、ヒユーマニチーと云へば余りに大きくて、到底普通の人には及び得ないと思はれます。然しさうではありません。|自分以外の人がすべて人類であります〔付◎圏点〕。神が其独子を賜ふ程に愛し給ひしと云ふコスモス即ち世であります。私供は自己と云ふ狭い密房を出て人類に接するのであります。今日此堂に集りし六百人乃至七百(549)人の聴衆は人類の一部分であります。然しそれも大き過ぎるならば貴下方各自の隣席《となり》に坐わる人が人類の好き代表者であります。貴下は其一人を愛して貴下の自己を二倍大に拡張することが出来ます。貴下は信仰の弱きを歎きます乎。独りで天を仰いで叫ばずして、側に在る人に心を傾け、彼の重荷を幾分なりと荷つて御覧なさい。忽ち貴下の心に信仰の熱の加はるのを覚えます。其れは神が人類の為に施し給ひし救の力がそれ丈け多く貴下の心に入つたからであります イエスは曰ひ給ひました、「二人三人我名に由りて集れる所に我も亦其中に在る也」と。是はイエスは大集会よりも小集会を好み給ふといふ事ではありません。彼の臨在は人が人と共に彼の聖名を※[龠+頁]びまつる所に於て期して待つ事が出来ると云ふ事であります。論より証拠であります、一人の祈祷に感応がないと云ふのではありませんが、二人三人、或はそれ以上の信者が心を共にして祈る所に、特別の熱心の加はる丈けにても、主が我等に近く居たまふ事が判明ります。
〇曾て或人が曰ひました、「信仰は直線ではなくして三角形である」と。即ち神と信者との直接の関係の外に信者相互の関係を加へたものであると。即ち健全なる信仰を養はんと欲すれば、神より直接に来る信仰に、友を通うして間接に来る信仰を加へなければなりません。人間相互の関係に於ても直接の関係丈けでは断たるゝ虞があります、之に間接の関係が加はつて、其永続が保証せらるゝのであります。神との関係も亦同じであります。信仰の友と共に神に繋がるに非ずして、私供の信仰は絶えるの危険があります。そして多くの信者は此注意を取らずして信仰の破船に遭遇しました 最も慎むべき事であります。 〇今や又夏が来まして私供は当分の間此集会を閉ぢんとして居ます。そして如何にして信仰的に夏を利用せん乎とは今やお互の間に考へらるゝ問題であります。或は天然に接して直に天父の聖旨を覗ふのも好くあります。或(550)は平生読む能はざる書を読んで信仰を堅うするのも宜くあります。然し乍ら私供は夏を交友の時期として用ふる事を忘れてはなりません。天然が暑気を送つて私供をして家に居るに堪へざらしむる時に方て私供は自己の狭き密房を出て、広き世界に広く同信の友を求むべきであります。是は何にも所謂交際社会に出よと云ふのではありません。長き間此堂に於て学ばれしキリストの福音を実際的に試みられよと云ふのであります。即ち「凡て人に為られんと欲ふことは汝等も亦人にも其如くせよ」との黄金律を実際に試みられよと云ふのであります。
〇そして之を為すの途はパウロが為したやうに「神の道を混《みだ》さず真理《まこと》を顕はし神の前に己を人の良心に質す」事であります(コリント後四章二節)。即ち福音を以て注がれたる愛を以て直に人の良心に臨む事であります。此は真の友を得る唯一の途であります。そして縦し或人は之を受けず、反て之を嘲けり斥ける乎も知れませんが……斯かる人は禍ひなる哉であります……縦し斯かる人が在ても失望してはなりません。若し貴下が真の信仰の友一人を得たならば、貴下は生涯の友、然り永遠の友を得たのであります。之を得るに多くの冒険を試むる充分の価値があります。貴下は彼の霊魂を救ふと同時に貴下の霊魂を活かすのであります。私自身は過去数年間神の御導きに由りて斯くの如くにして夏を使ふことが出来ました。今年も亦同じ御恵みに与らんとして居ます。今年の夏も亦貴下方と高壇の上よりの御交際に加へて林の間に、又は小川の畔に、共に祈るの御交際を以てするを得ば、幸福此上なしであります。其の為に貴下方も亦多少の入費と時間とを惜み給はざらんことを願ひます。
〇要するに|神の御恵みは最も著るしく団体の上に下るのであります〔付○圏点〕。いくら無教会信者であつても此明白なる事実を疑ふことは出来ません。其の何よりも書き証拠は大手町の此集会であります。私供は過去四年間此の所に於て神の著るしき御働きを拝見し又実験したではありません乎。此集会に来りし者は来らざりし者の到底想像する(551)ことの出来ない恩恵に与つたではありません乎。それは何にも説教が特別に善かつたからではありません。世を救はんと欲し給ふ神が、多数の者が相集りて彼に救はれんと欲する其心を嘉し給ひて此所に臨在して下さつたからであると信じます。私供は暫らく相離れまするが、各自此集会の為に祈り、同時に又個人個人に固く結ばれて神が全世界全人類を救はんと欲し給ふ其|御欲召《おぼしめし》に応《かな》ひたくあります。(六月十七日 本学期最後の聖日に当り、東京大手町大日本衛生会講堂に於て満員の聴衆に向つて演ぶ。)
 
(552)     棄教者の申分
                         大正12年8月10日
                         『聖書之研究』277号
                         署名なし
 
〇日本の社会に基督教の棄教者は甚だ多い。多くの文士、政治家、実業家、高等官吏等は、一度はバプテスマを受けて教会に入り、或ひは更に進んで伝道に従事し、縦し又教会に入らざるも、基督信者たるを自認して、此腐敗せる社会に在りて、比較的に高き清き生涯を送つた者である。然るに一朝基督教の信仰が彼等の身を世に処するに方て妨害なる乎、或は要なきを知るや、何の惜気もなく之を棄去り、今は不信者たるを悲まざるは勿論、却て誇りとするのである。斯かる日本の「紳士」時には「淑女」はいくらでも有る。余輩は敢て彼等を審判かんとしない。彼等には彼等が信仰を棄去つた相当の理由があるのであつて、之を聞き、之に就いて考ふるは、余輩未だ信仰を棄ざる者に取り大なる利益があるのである。余輩は本誌に余白の有る限り、棄教者が信仰と余輩とを棄去るに際し、余輩に漏せし言を輯録せんと欲する。何れにしろ、|日本に在りては、キリストの福音は多数の所謂識者に由て否決されしは事実である〔付△圏点〕。日本に於ては基督教を棄つるは少しも不名誉でない。其反対に之に止まるは無智である。余輩は反つて棄教者等に審判かるゝ者である。
 
(553)     別篇
 
  〔付言〕
 
 浦口文治「峰の紅葉」への付言
           大正11年2月10日『聖書之研究』259号
 内村生附記して曰ふ イエス曰ひ給ひけるは「汝等世に在りては患難を受けん、然れど懼るゝ忽れ、我れ既に世に勝てり」と(ヨハネ伝十六章卅三節)、我等世を見て悲憤慷慨に堪へない、自己に省みて慚愧不安に堪えない、然れどもイエスを仰ぎ見て感謝歓喜に堪えない、彼れイエスに在りて我が救拯を含める万物の完成は既に実行されたからである、我等は神の子に既に征服せられし世に在るのであつて、我等が受くる患難と云ふも実は致命の傷に|もがく〔付ごま圏点〕怪獣が我等に負はする擦傷に過ぎないのである、華府会議に於ては世界の平和は僅に十年間、而かも危険極まる条件の下に約束されたに過ぎないが、三位の神 会議に於ては世の基の置かれし時より屠られ給ひし羔に由て永遠の平和は業《すで》に既に確定されたのである、故に我等は神の羔なるイエスキリストに在りて喜ぶのである、人のすべて思ふ所に過ぐる平安は彼に於て在るのである、「我れ平安を汝等に遺《のこ》す、我が平安を汝等に予ふ、我が予ふる所の平安は世の予ふる所の者の如きに非ず」と彼が言ひ給ひしが如くである(同十四章廿七節)。
 
  工学博士芝浦製作所技師田中龍夫「科学と安心」への付言
           大正11年2月10日『聖書之研究』259号
 内村生曰ふ 田中君より此言を聞いて喜びに堪えない、物質あるなし、すべてがエネルギーであると、それで物質主義は宗教の反対を俟たずして科学の立場より完全に倒れたので(554)ある、而して更らに研究を進めて行くならばエネルギー即ちライフ(生命)なりと云ふ所に達するであらう、何れにしろ人が科学の名を以て宗教を嘲ける時はもはや既に過ぎ去つたのである、万物悉く不可思議《ミステリー》である、生物のみが不可思議ではない、有機体、無機体悉く不思議である、生物学を理学的に研究し、細胞は水晶の一種なりと云ふ所まで漕附て、近代の所謂物理的生物学者は今や水晶の説明に察して居る 水晶は細胞丈け其れ丈け不可思議的《ミステリアス》である、細胞は水晶なりと言ひて一の不可思議を以て他の不可思議を説明せんと努めたに過ぎない、畢竟《つま》る所万物悉く不可思議である、物質はエネルギーである、エネルギーは生命である、生命は愛である、愛は神である、而して神はイエスキリストとして現はれ給ふたのである。
 
  藤井武「代贖を信ずるまで」への付言
           大正11年3月10日『聖書之研究』260号
 内村生白す、茲に復たび藤井君の論文を迎ふるを得て歓喜に堪へない、事の原因は本誌第百八拾八号、(大正五年三月)所載『単純なる福音』と題せられし藤井君の論文に於て在つたのである、余は君と贖罪の事に於て信仰を異にするを悲しみ、次号に於て『神の忿怒と贖罪』と題して余の立場を明かにした、爾来我等二人は此重要点に於て所信を異にし、尠からざる悲しき経験を味ふべく余儀なくせられたのである、然るに神は我等を憐み給ひ、余の愛する信仰の友に、余に賜ひし 同じ信仰を賜ふて余は感謝するに辞がないのである、贖罪は基督教の枢軸《バイヴオツト》である、贖罪に就て信仰を異にして我等はすべて他の事に就て所信を異にせざるを得ない、然れども贖罪に就て信仰を共にせん乎、遅かれ早かれ万事に就て一致するに致るべし、誠にキリストは我等罪人の為にのみ死に給ふたのではない、亦|神の為に死に給ふたのである〔付○圏点〕、然り特に|神の為に死に給ふたのである〔付◎圏点〕、神は人類丈けそれ丈け、然り其れ以上にキリストの死を要求し給ふたのである、而して父なる神は今やキリストの死の故に罪人を赦し得て喜び給ふのである、此事が解つて初めてキリストの有難さが解かるのである、キリストは人の受くべき罰を御自身に受け給ひて、父なる神をして「イエスを信ずる者を義とし尚ほ自から義た」らしむるの途を開き給ふたのである(羅馬書三章廿六)、斯く(555)してキリストは人に対して最良の友人であり給ふに止まらず 神に対して最大の孝子であり給ふ、彼は ことに「宥《なだめ》の供物」である、彼に由て罪に対する神の正当の怒が取除かれて罪の根柢が絶たれたのである。我等の言尽れぬ感謝は茲にあるのである。
 
  独逸チユービンゲン大学教授カール・ハイム「欧洲戦後の信仰」への付言
           大正11年7月10日『聖書之研究』264号
〔冒頭に〕
 編者曰ふ、此一編はハイム先生が中央聖書講演会に於て述べられし言を高田整三君が特に本誌の為に書取つて下さつたものであります。
〔末尾に〕
 内村生曰く 余が今回ハイム君と友誼を交はす事を得しは余の生涯に於ける最も楽しき経験の一である、君は学者であるよりは寧ろ基督者《クリスチヤン》であつた、而して更に意外に感じたのは君が熱烈なる基督再臨信者であつた事である、英米人の見る独逸人とは全く違つた独逸人であつた、余は独逸と自分の為に神に感謝した。
 
  三谷隆正「カントの有神論」への付言
           大正12年6月10日『聖書之研究』275号
 主筆曰ふ。法学士三谷隆正君は岡山第五高等学校の教授である。篤学の士であつて、多くの点に於てカントの様なる人である。君は学ぶ事を好んで語る事を好まない。余の切なる慫慂に従ひ、漸く本誌に投稿する事を引受けた次第である。
 我等クリスチヤンは大に哲学を学ぶの必要がある。哲学は勿論信仰を供へない。然れども之を清め、強め、堅くする。神は特にその為に人に理性を賜うたのである。神の真理は聖書を読む丈けでは解らない。恰も天然を眺むる丈けで宇宙の理が解らないと同じである。我等が受けし印象を精査し、比較し、統一して、其奥に潜む所の真理を発見し得るのである。真の哲学は神の智慧に対する人の智慧ではない、神の智慧の一面である。プラトー曰く「哲学者とは永遠にして不変なる者を把握し得る者を称ふ」と。基督者も亦之に他ならないのである。パウロ曰く「我等顧みる所は見ゆる者に非ず、見え(556)ざる者なり。見ゆる者は暫時にして、見えざる者は永遠に至るなり」と。哲学と信仰とは其の探求の目的物に於て一致する。随つて二者共同の敵は「其行為の結果に就いて苦慮する」近代人である。然り、好き結果を見んと焦心《あせ》る米国流の基督信者である。
 哲学の研究を怠りて人は迷信に陥り易くある。或は真理の一面にのみ熱中するの余り其全局を見遁し易くある。哲学は健全なる常識を養成する為に、即ち円満にして冷静なる心理状態を備ふる為に必要である。
 
  三谷隆正「再びカントに就いて」への付言
           大正12年7月10日『聖書之研究』276号
 編者曰ふ。先づ基督者《クリスチヤン》たるに非れば神学者たる能はず。先づ人たるに非ざれば哲学者たる能はず。然り若し人たらば哲学者たらざるも可なり。世に不似合の事とて、低き卑しき人が哲学を究め且講ずるが如きはない。
 
  「初号よりの読者(一)」への付言
           大正12年8月10日『聖書之研究』277号
 主筆白す。青木君は初号発刊当時|二十ケ年分〔付△圏点〕の前金を払込まれた方であります。研究社は此前金に対する雑誌全部を発送することが出来、更に又君より前金の払込みを受けし事を感謝します。
   △猶ほ続々と御申越を乞ふ▽
 
(557)     〔社告・通知〕
 
 【大正11年2月10日『聖書之研究』259号】
   御一読を乞ふ
 
〇印刷費並に紙代が少し下りました、之に応ぜんが為に今月号より本誌全部をポイント組に改めました、之に由て字数に於て六千字、頁数に於て七頁乃至八頁増す勘定です、其丈け多く福音を説くを得ば幸です。
〇印刷費は下りましたが外国行き郵便税は上りました 昨年まで四銭のものが今年よりは八銭になりました、依て海外の読者諸君には其れ丈け負担して戴かなければなりません。即ち海外行は昨年まで十二冊分前金郵税共に参円五拾銭であつたものを、今年よりは|四円〔付◎圏点〕に改めましたから其旨御承知を願ひます。
〇御承知の通り本誌は決して拡張を計りません、此非基督教国に於て既に三千以上の読者を有することは予想以外の事であります、乍併若し読者諸君にして他に購読を欲する者あるを知らるゝならば御紹介の労を取られん事をお願ひします、「進呈」は極めて必要なる場合の外は為さゞるを可とします、「恵送」は一切致しません、信仰の安売りは努めて避くべきです、乍併福音の紹介は為す可きであります、適当なる場合に適当の人に本誌を紹介下されまして彼我共に益せられます、此事に関し何分の御助力を願ひます。
         東京市外柏木九一九 聖書研究社
 
 【大正11年3月10日『聖書之研究』260号】
   三月号謹告
 
〇本月号で第二百六十号であります、我国に於ける月刊雑誌の寿命としては短い者ではありません、其創刊当時に三歳の童子であつた我家の男児《をのこ》が今は大学四年生であるを知つて、我が第二の男児なる本誌の齢も算へられます、過去二十二年間に多くの雑誌は現はれて又消えました、多くの思想は栄えて又枯れました、而して消えもせず枯れもしない者は「永遠《かぎりなく》ある所の福音」であります(黙示録十四章六節)、忠実に此福音を説いて我等は世と共に変りません、我等は旧い古い福音を唱へて常に若く恒に新らしく感じます、今より後更に二十年之を唱ふるも倦怠を感じやうとは思ひません、其事其れ自(558)身が此福音が永久不変、宇宙唯一の真理である証拠ではあり
ません乎。
〇地方読者諸君にして上京中、東京聖書研究会の講演を傍聴せんと欲せらるゝ方は前以て研究社に御申込みありて傍聴券を請求し置かるゝ必要があります、毎回提供する枚数に限りがあります。成るべく早く御申出を願ひます。且又必ず聖書御持参を願ひます、聖書持参なき方は聴講の資格なき者と御承知を願ひます。
  一九二二年三月          内村鑑三
 
 【大正11年5月10日『聖書之研究』262号】
   躑躅咲く頃
 
〇『基督信徒のなぐさめ』が第二十一版を見ました、明治二十六年の出版でありまして、今年で第二十九年、明年で版権が絶えると云ふ次第であります、勿論一年ならずして何百版を見ると云ふ今日流行の宗教書類に此べて見て数ふるに足らぬ書《もの》でありますが、然し変幻常なき日本の思想界に於て、何しろ三十年近くの存在を持続し来りし事は不思議と称せざるを得ません、『なぐさめ』の生存中、多くの名著述が出て又消えました、無神無霊魂を唱へた中江兆民居士の『一年有半』の如き、一時は洛陽の紙価を高からしめた書も今は殆んど世に忘れられました、其他出ては消え、咲いては散りし所謂大著述は挙げて数ふべからずであります、斯かる時代に在りて、最《いと》も微《ちいさ》き者等に冷水一杯づゝを供しながら今日に至りし『なぐさめ』はたしかに神に恵まれたる書の一つであります、著者自身は此小著述一冊を書いた丈けで他に何事を為さずとも生れて又苦んだ甲斐があるやうに思ひます。
〇故郷越後に帰りし元の事務主任山岸壬五は今は新潟市県立図書館に勤めて居ります、彼地に三十年来の信仰の友の一団があります、彼等に由て信仰の火が彼地に再び揚る事と思ひます、感謝です。
  一九二二年五月          内村鑑三
 
 【大正11年7月10日『聖書之研究』264号】
   仲夏広告
 
〇六月十八日を以て一先づ東京聖書講演会を閉ぢました、神(559)若し許し給はゞ来る九月第三日曜日即ち十七日午前十時を以て再開する積りであります。〇東京聖書講演会は以来|内村鑑三聖書講演会〔ゴシック〕と改名します、此旨御承知を願ひます。
〇此たび黒崎幸吉君一身上の都合に由り十字架書房を閉づる事になりましたから雑誌『霊交』並に『約百記講演』は聖書研究社に於て引受けて発行を継続する事になりました、依て自今御注文はすべて研究社宛にて願ひます。
〇私共は商売には全く素人でありまして其繁雑なる掛引きに堪へません、就ては諸君にして研究社発行の書籍を購入せられんと欲する方は成るべく振替便を以て|直接に〔付◎圏点〕本社に御注文を願ひます、斯くする事は亦諸君と私共と接近する為にも利益があります、私共真理を確実に世に頒たんとするに方ては小にして竪き途を取るより外に方法はありません、今日まで其方法を取り来りしことゝ信じまするが、然し今後は更に確実に之に依らんと欲します、単独は私共の本領であります、諸君が私共をして成るべく此世と交はる事なくして私共の小なる仕事を継続せしむるやう御援助下さらんことを願ひます。
  東京府下淀橋町柏木九一九 聖書研究社
            振替東京七四九八番
 
 【大正11年9月10日『聖書之研究』266号】
   秋風到る
 
〇天父の御許しの下に来る九月十七日(第三日曜日)午前十時より東京丸の内、内務省正門前大日本衛生会講堂に於て、引続き聖書研究会を開きます、会員諸君は例刻に御出席を願ひます、会員は殆んど満員であります、然し猶ほ四五十名増員の余地があります、今後は入会者より一人に付き金壱円づゝの入会金を戴きます 又毎会三十名以上五十名までの傍聴を許します、而して一人に付き一回金三十銭づゝの傍聴料を戴きます、金銭を以て会員を制限するは決して快き事ではありませんが、然し斯くするより他に目下の所会場を整理するの途を知りません、不悪御承知を願ひます。
〇本誌来る十月号より四頁乃至八頁の伝道附録を加へます、是は一には雑誌『霊交』を本誌に合併せんが為であります、二には必然来るべき定価値下げに備へんが為であります、故(560)に頁数増加の故を以て本誌の定価を増しません、之が為に要する費用は本社が喜んで負担します。
〇独逸訳『余は如何にして基督信徒となりし乎』が着しました、一冊に付き壱円参拾銭であります。
                  聖書研究社
 
 【大正11年12月10日『聖書之研究』269号】
   祝詞
 
 茲に本誌発刊以来第二十三回のクリスマスを祝します。悪を憎むの心と、善に親しむの情と、サタンを斥くるの勇気と、神に縋るの熱心との、我が愛する読者諸君の心に溢れん事を祈ります。
  一九二二年十二月          内村鑑三外一同
       ――――――――――
 
    御交際に就き謹告
 
 小生に対し反対の態度を取らるゝ人と御交際を継けらるゝ方々は、自今小生に対し御交際御遠慮下さい。尚ほ又斯かる方々に対しては小生よりも御交際御遠慮申上げますから不悪御承知下さい。是れ紳士たる者の取るべき普通の道であると存じます。且又斯く為すは友誼の純潔を維持する為に必要であります。                      敬具
  大正十一年十二月         内村鑑三
       ――――――――――
 
    年賀状に就き御注意
 
 年賀状は有難く拝受仕るべく候。但し成るべく有意義の者にして戴き度存候。年内御発送は小生に対しては御免を被りたく候。元日に数百枚同時に配達相成候為に自然御好意を無にする虞有之候。新年に入りてよりユツクリと御認めあり、旧年の御感想簡潔に御書贈り下さるやう偏に願上候。印刷の「謹賀新年」を年賀郵便に託して送るが如きは誠実の人の好まざる所と存候。右御注意までに申上候。   匆々敬具
  大正十一年十二月         内村鑑三
 
(561) 【大正12年1月10日『聖書之研究』270号】
   御交際に就き広告
                                    小生に対し公然反対の態度を取らるゝ人と御交際を継けられる方は、自今小生に対し御交際を御断はり致します。尚ほ又斯かる方々に対しては小生よりも御交際致しませんから左様御承知を願ひます。|之は何にも反対者を憎むからではありません。友誼の純清を維持せんが為であります〔付○圏点〕。故に西洋諸国に於ては紳士道徳として一般に行はるゝ所であります。敵と味方とを判明して初めて本当のフレンドシツプが成立するのであります。日本人の間に之がないのは此道が欠けて居るからであります。私は自今努めて此道を実行しやうと思ひます。御賛成を願ひます。        内村鑑三
       ――――――――――
   御面会に就き謹告
 
 御面会は必要の場合にのみ之に応じます。日、月、土曜日には御面会致しません。其他の日には午後四時より五時までの間に致します。御一身上の御相談には応じません。愛を以てする御交際、伝道救済の為の御相談には喜んで応じます。|教会には一切関係しません〔付△圏点〕。  内村鑑三
 
 【大正12年3月10日『聖書之研究』272号】
   遠大の計画
 
〇『基督信徒のなぐさめ』発行満三十年紀念特別版発行に就き広告しました所、或は電報を以て、或は書留別配達を以て応募を申込まらるゝ者引きも切らず、忽にして定数又は定数以上に達した事は感謝の至りであります。就ては少しく御約束に反きまするが、定数以上の御申込に対しては「番外」として之に応ずる事に致し、以て諸君の御好意に酬いやうと思ひます。そして売上代金の内より印刷製本其他の支払代金を引去り、私が書店より受取るべき金額の全部は之を三菱銀行に預け入れ、遅かれ早かれ必ず建築せられねばならぬ東京聖書講堂の建築費の第一寄附として之を献じやうと思ひます。其費用が百万円であると致しまして、家の青年の計算に依りますれば、百五十円の預金も百八十一年の後には其額に増殖(562)するとの事であります。信仰の眼より見て百八十年は決して長い時間ではありません。況して元金は必ず今回の売上代金の分配を以て止まない事を信ずるに於てをやであります。現に友人某君の如き、此挙を聞いて直に百円を寄附して呉れました。日本帝国の中央に於て聖書大講堂を建てんとの計画であります。其の為の第一寄附として『なぐさめ』紀念版所得の全部を献げます。此事を為すことを得しめし応募者諸君の御好意を茲に謝します。
  一九二三年二月二十五日        内村鑑三
 
 【大正12年4月10日『聖書之研究』273号】
   御返事と伝道
 
〇本誌読者の方、又読者にあらざる方より御質問又は御依頼の書面を沢山に受取ります。然し再々此欄で申上げて置きました通り是等の御書面に対し一々御返事を出す事は出来ません。御承知の通り私は毎月五十二頁凡そ五万字の雑誌を作らなければなりません。此中多分は私自身がべンを執るのであります。外に毎月四回乃至五回の講演を致さずばならず、之に附随する事務と共に多大の時間と精力とを要します。其他にもまだ多くの公的事業がありまして、個人的の御交際に与ふる時間は殆どありません。|神と真理と永生〔付△圏点〕、此三つに就て少しなりと諸君を教ふるを得ば、之が私が諸君に為し得る最大の奉仕であります。其他の事に就ては成るべく私を御使ひなきよう偏へに願ひます。
〇有志諸君の御賛成に依り世界伝道協賛会が着々と歩を進めつゝあるを感謝します。此度支那内地伝道会社に託し、西洋医術の教育を受けたる一人の支那医師に協賛会の代表者として働いて貰ふ事になりました。一ケ年八百円あれば宜いとの事であります。其半額は既に送りました。引続き御寄附を願ひます。                     内村鑑三
 
 【大正12年5月10日『聖書之研究』274号】
   様々なる報告
 
〇『基督信徒のなぐさめ』特別版更に三十部提供します(番外七十一番より百番まで)。御入用の方は御申越し下さい。代価は送料共五円十五銭であります。代金到着の順にて発送(563)します。但し定数以上に達する時は返金と共に御断り致します(聖書研究社)。
〇聖書研究会は読んで字の通り聖書研究の為の会であります。教会ではありません。其の積りで御入会を願ひます。私共は私共の有する最善の聖書知識を供する以外に、会としては責任を負ひません。
〇引つゞき匿名又は変名の攻撃又は冷笑めきたる書面が達します。此は送らるゝ方に取り甚だ卑劣であります。御止め下さい。殊に伝道に従事せらるゝ方が此事を為さるゝは言語道断であります。基督信者として而已ならず日本人として万事公明正大なるを要します。
〇支那内地伝道会社に向け送りし金四百円に対し社長より感謝に充ちたる礼状が達しました。誠に幸ひなる事であります。引続き読者諸君より御寄附を願ひます。又教会が少しも手を附けざる所に於て、日本内地に於ても伝道を始めたくあります。諸君の御賛成を願ひます。是は御互の最大の愉楽であります。(内村)
 
 【大正12年6月10日『聖書之研究』275号】
   杜鵑花咲く
 
〇夏が来ました。中央聖書講演会は六月十七日(第三日曜日)を以て閉ぢます。神の御恵みに由り来る九月二十三日(第四日曜日)を以て引続き開きたく存じます。大正六年の暮、ルーテル紀念講演会を開きし以来、市内の講演会は閉ぢんと欲するも能はずして今日に至りました 何時まで続くのであるか先きを見れは際涯《はてし》がありません。唯行く所まで行く丈けであります。世には会堂があつて集まる人がないのに、私供には集まる人があつて会堂が無いのであります。幸にして大日本衛生会が其座り心地好き講堂を貸与し呉れて不足ないのであります。感謝です。
 
 【大正12年7月10日『聖書之研究』276号】
   柏木だより
 
〇私は『聖篭之研究』初号よりの読者でありますと云ふ人に時偶《ときたま》会ふ事があります。其時の愉快は譬ふるに物なしであり(564)ます。二十三年来の主義と信仰の友であります。この長の年月同じ信仰に生きて来た者であります。骨肉も啻ならざる霊魂の兄弟であります。そして斯かる者は多分千人近くもあらうと思へば、私供は孤独を歎ずべき理由は一つもありません。信仰を離れた人も無いではありませんが、然し離れない人も亦沢山に在ります。若し本誌初号よりの読者諸君にして其御姓名と御住所とを私供の所に御通知下さるならば幸福此上なしであります。御互の間に霊交の途を開きたくあります。
〇『基督信徒のなぐさめ』特別紀念版がまだ四五冊残つて居ります。御入用の方は御申越し下さい。一冊に附き五円拾五銭送つて下さい。
〇又盲人基督信仰会の発行にかゝる『基督信徒のなぐさめ』盲人用点字版が出来ました。定価六拾銭、郵税十五銭であります。本社に於て受次ぎます、実費販売でありまして、盲人会々員の献身的労働に成る者であります。イエス様の喜び給ふ出版物であると思ひます。
     東京市外淀橋町柏木九一九番地 聖書研究社
 
(565)  〔参考〕
 
     欧洲戦後の信仰
                         大正11年6月10日
                         『聖書之研究』263号
                         署名なし
 
  独速チュービンゲン大学教授カール・ハイム氏が五月廿一日東京聖書研究会に放て述べし所の要点
 
〇余は国を出てより今日で二箇月である、然れども今日程愉快なる時はない、余は今日は余と信仰を共にする人々と共に一堂の内に在るを知る、実に大なる感謝である。(編者曰ふ、ハイム先生は北京世界基督教学生大会に出席せん為に今回東洋に来られたのである)。
〇大戦に由て基督教は独逸に於て亡びない、其反対に本当の信仰は復興しつゝある、曾て戦争中に一人の青年詩人にして基督教に対しては反対の意見を懐きし者が、戦争の惨劇を目撃しつゝ言ふた「此戦争に於て唯一の勝者は荊棘《いばら》の冠を被らされて十字架に上げられし者なり、其他は悉く敗者なり」と、誠に其通りである、此大戦争に由てイエスは其の失ひし栄光を回復し、再び欧洲人の霊魂の上に至上権を揮いつゝある。
〇曾て露国の文豪ドストエフスキーが言ふた事がある、若し基督教の聖書が悉く失はるゝとも、若し曠野《あらの》に於けるキリストの試誘の一節が残るならば世に基督教は絶えざるべしと、まことに其通りである、キリストは世を救はんとて富を以てせず、奇蹟を以てせず、政権を以てせず、唯単に愛を以てし給ふた、何等の圧迫をも加へずして唯単に愛の力を以てして理想国の建設を計り給ふた、是れ実に驚くべき企図《くわだて》である、世の到底解し得ざる所である、商業的競争に由て富を致さんとし、武力的圧迫に由て威を揮はんとし、政治的権能に由て民を服はせんとする此世の手段方法を全然否認排斥し給ふたのである、故に彼は世の憎む所となり、彼の本当の弟子等も彼と等しく人に悪まるゝのである、世は愛以外の勢力を以て人を征服せんとし、キリストは愛のみを以て世に勝たんとし給ふ。
〇而してキリストの此精神が今や欧洲人の中に行渡りつゝある、近頃の事であつた、一人の露国人が独逸に在留中にイエスの此精神に接した、彼は故国に帰て此道を伝へしも彼の(566)言に耳を傾くる者がなかつた、唯一人彼の精神を受けて彼と共にイエスの弟子に成つた、村人は彼等を憎むこと甚だしく、遂に彼等を村の外に誘出だし、彼等二人を空井《からゐど》の中に投じ、上より石を投じて彼等を殺した、然るに彼等怨嗟の声は一声だも発することなく、井底に在りて彼等を欺き殺せし者の為に祈り、二人相擁して死に就いた、数日後に彼等の屍を引上げて検べしに、其顔面に苦悶の痕跡をも留めず微笑を湛えて居たとの事である。
 
     商人と宗教
                          大正11年9月1日
                          『霊交』12号
                          署名 内村鑑三述
 
  大正十一年六月十五日夜、宇都宮市、下野実業銀行内に於て同地木曜会主催にて基督教講演会がありました。狭い会場であつたにも係らず六十余名の聴衆がありました。先づ畔上賢造氏の四十分にわたる講演があつたのち、内村鑑三氏は「商人と宗教」と題して約五十分ほど詢々として説かれました。左掲はその大意であります。
 
 私は今晩は講話をするために参つたのではなく、実は仕事の疲れを休めるため日光に遊ばうと思つて参つたのであります。併しながら宇都宮は前から度々講演に参りました所の特別の馴染の地でありますから、此処をだまつて通過することは、どうも私の感情のゆるさぬ所であります。依てこゝに又皆様にお話をすることになつたのであります。
 さて皆さまの多くは商業人、実業家であります故、私は今晩は商人と宗教の関係についてお話し致さうと思ひます。まづ此問題に関係をもつてゐる聖書の句を挙げて見ますと幾つ(567)もありますが、その中最も著しい句で且人の多く知つてゐるものを茲に二三読んで見ませう。
  人はパンのみにて生くる者に非ず、唯神の口より出るすべての言に由る(馬太伝四章四節)。
  何を食ひ何を飲み何を衣んとて思ひ煩ふ勿れ……汝等先づ神の国と其義しきとを求めよ、然らば此等のものは皆汝等に加へらるべし(同六章卅一−卅三節)
  人もし全世界を得るとも其生命を失はゞ何の益あらん乎、また人何を以て其生命に易《あた》へんや(同十六章廿六節)。
  汝等主イエスキリストを衣よ。肉体の慾を行はんが為に其備をなす事勿れ(羅馬十三章十四節)
 之等の聖句の主意は一読して明瞭であります。即ち人は何よりも先づ信仰を第一とすべきものであると云ふのであります。決して飲食のことの為に思ひ煩つてはならない、肉体の慾を行ふ事を以て人生の最大事となしてはならない、偏に神の国とその義きとを求むること、主イエスキリストを衣る事に力を尽さねばならない、そして此外の物質上の事は神より与へらるゝを以て満足せねばならないと云ふのであります。
 さて人を区別して商人とか農夫とか教師とか官吏とか致しますが、之れは決して人を根本的に区別するものではありません。職業といふものは決して人の本然性《ほんねんせい》ではありません。その証拠には此世に生れるとき職業を持て生れて来る者は一人もありません。又職業は衣の如く之を脱いでしまふ事も出来、又これを他のものと変へることも出来るのであります。故に人間の本性は職業ではありません、霊魂であります、万人共通の霊魂であります。之は職業を持つてゐる人でも持つて居らぬ人でも、大人にも小児《こども》にも、男子にも女子にも共通のものであります。即ち人といふものは必ずその本性として持つてゐるものであります。そしてこの霊魂のことを取扱ふものが宗教であります。故に宗教とは決して宗教家だけのことではありません。|霊魂が万人にある以上、宗教も亦万人になくてはならぬ性質のものであります〔付○圏点〕。
 さうです、『人はパンのみにて生くるものに非ず』です。人は職業のみに由て生くるものではありません。職業のみを以て満足して居る人が何処にありますか。多くは職業のほかに何かを求めて居るではありませんか。之は人の霊魂の要求が充たされぬよりして起る所の不満であります。永遠性を帯ぷる霊魂は何かしら永遠的のものを慕ひ求めてやまないので(568)あります。故に或る場合に於ては商人も、政治家も、美術家も、その職業は忘れてしまつて一個の人なるの天真に立ちかへつて、その本性たる霊魂の働きを見るに至ることがあります。そして移りやすき人生の中に、何かしら悠久なるものを探し且あこがれるのであります。或は生死の問題に想到し、或は宇宙人生の秘義に思ひを凝らさんとします。人は決して職業に従ふだけで満足するものではありません。人とはそんなつまらぬ存在者ではないのであります。
 然らば如何なる場合に右の如き霊魂の覚醒が起るでせうか。多くの人は此世の事業に失敗した場合にこの宗教心を起します。事業が栄え商売が繁昌してゐる時は得意満面、宗教を老人婦女子の事と嘲つてゐる人も一朝にして失敗しますると宗教に依て慰められようとします。平生は私共を身向きもしなかつた人が、困つて来ると訪ねて来て「先生どうか貴下の宗教の力で私を慰め、救つて下さい」と要求します。人は苦しくなると神だのみをするのです。併し実は失敗に逢つたからとて急に宗教心を起しても、仲々間に合はぬのであります。
之は戦を見て矢をはぐのたぐひであります。故に平生から失敗した時の用意として宗教心を起して置かねばなりません。そして宗教研究に相当の時と力とを献げて置かねばなりません。私ども自分の家に何時火災があるか判らぬため、平生無事の時これに保険をつけます。又商人は店の商品にどういふ禍が来るかも知れませんから、平生これに保険をつけて置きます。これ皆災禍の時を慮 つてのことであります。そして人生に於ても失敗といふ災禍は何時来るかも知れぬのであります。然るに何故その準備として平生人生に保険をつけて置かぬのですか。家屋や商品にばかり保険をつけて、もつと大切な人生といふ者になぜ保険をつけて置かぬのですか。|人生の保険とは即ち宗教的信仰であります〔付○圏点〕。平生から之を養つて置けば、一朝失敗が来たとき之に依て充分慰めることが出来るのであります。之がために或は失敗を未然に防ぎ、或は失敗が来るも禍を転じて幸《さひはい》となすことが出来、或は少くとも心に慰めを得、力を得て失敗や痛苦に打ち勝つことが出来ます。然るに多くの人が失敗してから慌てゝ宗教、宗教と云つて騒ぐのは愚かなことゝ云はねばなりません。
 けれども宗教は決して失敗に備ふるだけのものではありません、成功の時こそ尚ほ宗教の必要な時であります。成功といふものは実は頗る危険なるものであります。げに人生の致(569)富成功は浮雲の如く消えやすきものであります。よし成功の状態が長く続きましても、物の成功のために心の失敗を遂げた例は此世に幾つもあるのであります。私自身さういふ人を幾人も知つてゐます。即ち或家は商売があまり旨くゆき過ぎて却つて失敗します。人々の心に得意と怠慢とが生れて、思はぬ所から家運の衰頽を招きます。千丈の堤も蟻の一穴より崩ると云ふ通り、ちよつとした心の緩み又は高ぶりが失敗の源《もと》となります。或は成功が却て主人の操行を傷け、家族の間に分離を生み、物質的には一同が肥えても精神的には一同が大《おほい》に瘠せることがあります。此際の如きは、貧しくも陸じい方が富んで不和なるよりも優ると云ふ場合であります。かく成功といふものには当然伴ふ危険があります。そして此危険を除くの道は宗教に拠る外ないのであります。即ち人は無信仰を以ては成功に負けやすきものであります。信仰を以てして初めて成功に勝ち得るのであります。失敗の時には失敗に勝ち、成功の時には成功に勝つもの、これ即ち宗教の力であります。
 商人が成功したと云へば金を沢山儲けたと云ふことになりますが、金を沢山儲けたと云ふ事は決して儲けぬ人の思ふほど幸なものではありません。否それは或意味に於て却て不幸なことであります。富者であるといふ誇りの中にあつて得意の人もありますが、凡そ人が其有する物質を以て誇る時には其人の品性は甚だしく下落したのであります。そして富は人と人との関係を不純ならしむるものであります。富者に対しては大抵の人が諂諛と卑屈と虚偽《いつはり》を行ひます。うはべだけ富者を尊敬します。気に入りさうな事を行つたり、言つたりします。けれども腹の中では悪く思つてゐます 従つて誰でも実意といふものを示す人はありません。富者は人々から形の上だけで敬はれて、心では遠ざけられるのであります。従つて世に富者ほど孤独なものはないと思ひます。且また富の前に沢山の人が屈従するのを見て、富者は人間が如何に卑きものなるかを感ずるのであります。金の前に拝跪する人間の醜さを痛切に見せられるのであります。即ち富者は人間の中のつまらぬ人のみが目につきます。言ひかへれば金は人を卑く見せしむるものであります。かくして人生に何も貴いものが見えなくなれば、人生に失望してしまふだけの事であります。此世に人らしい人は一人もないと言ふ感じを起して、益々自分の孤独を痛切に感じ、人生といふ者に対しての興味を早く(570)失ふのであります。成功と云ふものはかくも人をして人生に倦怠せしむるものであります。
 故に宗教は成功の時に特に必要であります。當に処しても信仰を第一とすれば、右の如き失望に陥ることはありません。神に仕へるを第一とすれば富にあつても之を誇ることなく、又真に人を愛することが出来る故孤独に陥ることなく、且人を正しく見るの明を与へらるゝ故人の故を以て人生に失望することはありません。神を信じ、又信ずるに足る人を信じて人生は楽しき場所であります。神の治むる世界について失望する理由は少しもありません。神を本位とすれば、成功にありても亦その成功を益々有意義ならしめる事が出来るのであります。
 尚ほ最後に考ふべきは富の値《ねうち》であります。人は必ず死するものであります。そして裸で生れ来りし如く、又裸で死にゆかねばなりません。その時百万の富も之を携へゆく事は出来ません。その時になつて富に何の値がありますか。その時は富者も乞食と全く同様であります。死んで持てゆく事の出来ぬものは、その時何の役にも立ちません。|その死んで持つてゆく事の出来るものだけが貴いのであります〔付○圏点〕。されば富を何か善い事のために献げた事のある人、世を益するために財を使ふた事のある人、この種の人はその善を行つたと云ふ事を霊魂の宝として来世《あのよ》まで持つてゆくことが出来るのであります.富は此世にある限りの一時的の宝、美しき心は永久に尽きぬ宝であります。そして人に此心を強く、又深く与へるものは宗教であります。神を信じて能く富を集め又よく之を世のために使ふことが出来ます。これ即ち成功に敗れざる道であります。富の用ひ方も亦神を信ぜずしては正しく知り得ぬものであります。神を信ぜぬ富者の富の用ひ方を御覧なさい 私欲のためか、何かつまらぬ事のために用ふるだけではありませんか。神を信ずる者は富を人生最貴のものと考へず、神より一時委託せられたものと考ふる故、これを能く人のために使用するを得て、その美はしき経験を以て心を肥して気持よく此世を去つてゆくことが出来るのであります。
 以上の如く考へますれば、商人にも亦宗教が必要であります。失敗した時にも成功した時にも、又平生の場合に於て常に必要であります。一個の人として必要であるは勿論、商人として亦必要であります。商業家も他の職業の人と同様に、平生から宗教心を涵養し、宗教の研究に時と力とを用ひねば(571)なりません。私は商人諸君に敢て此事をおすゝめ致します。
 
     東京講演余録
                         大正11年12月10日
                         『聖書之研究』269号
                         署名 畔上賢造 編
 
  「東京講演余録」は内村の東京講演を基として畔上が自己の研究、意見等をも加へて編纂したものである。
 
    羅馬書第六十講余録 (十月二十日講)
 凡て書物を読みたる後に於て忘れ得ざるものは大体の印象である。勿論その中の重要なる箇処も亦忘れ難きものではあるが、最も強く又永く我心に留るはその全体の空気である。恰も百花咲き匂ふ春野を逍遥せし後に於て、個々の花の忘れ難きもあれど、むしろ花の野に身を浸してその香に酔うたといふ事その事が最も強き記憶として残るたぐひである。羅馬書を読み了へし後の感も亦同様である。その三章後半、或は七章後半、或は八章全体と云ふ如き著しき箇所が我等の記憶に強く残ることは事実である。けれども尚ほ強く我等を動かすものは、大体の印象である。今こゝに此大体の印象を述べて置きたい。これ即ち羅馬書大観である。
(572) 羅馬書全体に関する事を講述の題目とする時は尚他にも多い。二三の例をあげれば、羅馬書の世界歴史に於ける影響と云ふ如きは確かに面白き題目である。ルウテルの宗教改革の如き歴史的大革進が、彼の聖書研究、殊に羅馬書研究に源を発せし如きその最大なるものである。その他此書の研究は幾度も史的革進の源泉となつたのである。或は又幾人かの|偉人傑士の羅馬書観〔付○圏点〕==此書に対する見方或は此書より得し印象等==を学ぶことも確かに興趣深き事である。その他この書について学ぶべきことは多いけれど、今は暫くこれを省略して置く。
 羅馬書を読了して受くる|第一の印象は〔付○圏点〕、|それが信仰第一の書であると云ふ事である〔付◎圏点〕。信仰によりて義とせられ、信仰によりて潔められ、信仰によりて栄化せらる。信仰より始つて信仰を以て進み信仰を以て終る。これを説いたのが羅馬書である。羅馬書は勿論愛を説く、又望を説く。その愛を説きし十二、十三章の如き、その望を説きし八章の如き、いづれも著しき所ではあるが、しかし羅馬書全体に漲れる空気は|信第一〔付○圏点〕のそれである。パウロは律法に信仰を対立せしめて、後者を以て前者を打ち破つたのである。かくして旧き律法時代に暇を告げて、新しき信仰時代の到来を公宜したのである。これが即ち羅馬書である。此書は実に信仰時代の曙を告げる暁の鐘の音である。
 |第二に受くる印象は〔付○圏点〕、|此書が恩恵の書であると云ふことである〔付◎圏点〕。神の人に対する道は絶対的恩恵である。神はたゞ恩恵を以て人を義とし、人を救ひ給ふ。「キリストは我等のなほ罪人たる時われ等のために死に給へり、神は之によりて其愛を彰はし給ふ」(五の八)とあるは羅馬書の大主張である。我等が罪人であることは少しも神の恩恵の発動を妨げない。否罪人を救はんためにこそ彼はその独子を世に賜ひて、彼をして十字架上に人類の罪を贖はしめて、以て罪人の赦され且救はるゝ道を開き給うたのである。事は何等人の功に由らない、又人の願に由らない、たゞ専ら神の自発的行動に属してゐる。故に絶対的恩恵である。此事を極力闡明するのが羅馬書である。
 神はかく只恩恵を以てのみ人に対し給ふ。人の功なくて救はるゝの道は既に備へられてゐる。故に人は只此のまゝ神に立ち帰りて信徒の生活に入りさへすれば宜い。実に簡易の極とは此事である。然るに多くの人は此事を知らない。神が手(573)を開いて宝物を与へんとしつゝあるを知らない。故に此の恩恵の中に己を投げ入れようとしないのである。又信者と雖もこの福音の中心的生命の所在を充分に知らない。故に信仰生活を以て努力作善の連続と誤想する。そして其のために早くも既に疲憊しつくして信仰生活の弛緩無力を生むのである。これ一に神の恩恵の真性質を知らぬ事に起因する。まことに今日の基督信者はたゞ恩恵々々と叫ぶのであつて、その恩恵の何であるかを知らないのである。パウロは信仰中心の人であつたが、その基ゐに神の恩恵、神の愛を置いた人であつた。即ち神が先づ愛を以て人に対するが故に之に感激して人が信仰を起すのであると彼は説く。実に恩恵なくして福音はないのである。羅馬書が神の恩恵を何よりも先に立つる書であることを忘れてはならない。
 基督教と云ふからとて之を他の謂ゆる宗教と同一列に置くは誤つてゐる。|基督教は謂ゆる宗教ではない、神より人への啓示である〔付○圏点〕。宗教は人が神を求むるものであるが、基督教は神が人を求むるものである。故に前者は人の努力、工夫、攻究、修養、論理、修道に重きを置くに反し、後者はたゞ神の恩恵の受納を主眼とするのである。自己が種々の方法をめぐらして神に近よりゆくのが普通の宗教であつて、たゞ恩恵を受けて感謝喜悦に入るのが基督教である。かく此世の宗教と神よりの啓示たる福音は相違してゐる。地の産と天の産との間には或根元的の相違があるのである。然るに人は多く此区別を知らずして、或は此較宗教学の立場より、或は努力修養の道より、或は論理攻究の道よりして福音の生命に達せんとする。これドクトル・ヂヨンソンの謂ゆる|牡牛より乳を搾取せんと願ふ〔付△圏点〕の類である。赤子の心を以て謙だりて神の与へ給ふ生命を受くること、之が唯一の救ひに入る道である。神は人を求めつゝある。人が努力修道の険路を経て近より来るを静かに待ち給ふ神ではない。神は常に人を求めつゝある。両手に珠玉を満載して人々が手を伸ばして受取るのを待ちつゝある。人は信仰を以て之を受けさへすればよい。それより真の生命は臨むのである。
 羅馬書は以上の如き事を伝ふる書である。従つて信仰を以て此恩恵を受くる態度を人々に要求する書である。しかしながら斯かる態度に入るに当つて先づ必要なるは、如何にして神の前に義たらんかとの問題を心に強く抱くことである。自己の積罪汚濁に堪へ兼ねて聖き神の前に己を置くに堪へず、(574)神の刑罰に当然値することを認めて苦悩重く心を圧し、いかにして神の前に義たらんかとの問題に悩む人、かゝる人に取りては羅馬書は絶好の伴侶である。羅馬書は要するに此の人生の最難問題に対して明確にして最後的の解答を与へ以て心の重き苦悶を取去りて晴天白日の境に人を引き出だすものである。即ち人の提供する義にあらずして神の提供する義、人にある所の義にあらずしてキリストにある所の義、この義を凡て信ずる者に賜ふことを羅馬書は教へて、人々をして動かざる歓喜の世界に入らしむるのである。パウロはピリピ書に於て此事を述べて「信仰に基づきて神より出づる義、即ち律法に因れる己が義にあらず、キリストを信ずるに由れる所の義をもちて」と云うた(三の九)。この義を人に与へて人の罪の苦悶を取去るのが羅馬書に謂ゆる福音である。故に羅馬書は此むづかしき問題に苦悩せる人の読むべき書である。
 然し乍ら如何にして義たらんかと云ふ如き問題を抱かぬと云ふ人が此世には数かぎりなく在る。しかし乍ら其事は決して此書の普汎的価値を損ずるものではない。何となれば人が真に人生に目ざめし時、真に自己の実相を知りその最深の要求を探りあてし時、人が最も真面目になりし時、かゝる時に必ず心に湧起するものは此一問題であるからである。故に誰人も羅馬書を読むべきである。今日のために又は他日に備ふるために誰人も此書を読むべきである。そして此書に示されし如き福音の道を経て此書に示されし如き生命に入るべきである。これ此世に生を享けし人が他の凡ての事柄にまさりて全注意を献ぐべき人生第一の業である。
 尚ほ注意すべき一事がある。「イエスキリストの僕パウロ」を以て始まりし此書は、最後に「独一容智の神」を讃美して終つた。彼は先づキリストの僕として自己を全く彼の下に隠して出し、そして最後には神を讃美するのみにて少しも自己を顕はさない。もとより強き特徴を有つてゐた彼の事であるから至る処に彼の精神は鮮かにあらはれ、殊に七章後半の如き痛烈なる自己一身の告白などありて、此書を読みし後ちに於て著者たるパウロ彼自身が可成り強く読者の心に残るは自然である。しかし是れ求めて為せし所ではない。彼は偏に自己を顕はさじと努めたのである。彼は「我名によりてバプテスマを施すと人に言はれんことを懼れ」(コリント前一の十五)て、つとめてバプテスマ施行を避けた人であつた。また「言と智慧のすぐれたるを以て……神の証を伝へ」なかつた。(575)これ自己の力を以て人を福音に惹くを虞れたからであつた。「そは汝等の信仰をして人の智慧によらず神の能に由らしめんと欲へばなり」と彼は言うてゐる(コリント前書二章一節−五節)。彼はかく常に注意して己を隠して神とキリストとを顕はさんとした人であつた。故に羅馬書を読みて彼の姿が可成り強く見ゆるとは云ふものゝ、それにも増して――然り幾十倍も増して強く見ゆるものは|神とキリストの姿〔付○圏点〕である。実に此書に於て神の愛とキリストの救とはパウロの凡べての特徴を押しのけて立つてゐる。然り神とキリストは満天の輝きを受けし如き鮮さを以て立つてゐるのである。故に此書を読んで更に知り度く思ふはパウロではなくして、神とキリストである。パウロが極力自己を隠して顕はさんとした、此の神、このキリストは何であるか、その愛、その救について尚ほ深き知識は如何にして得べきかと、人々は此研究に対する熱心を燃やすのである。この意味に於て羅馬書は大なる伝道書であると云ふべきである。
 之を要するに世界最大の書と云へば、之を羅馬書のほかに求むることは出来ない。此世に大作と云はるゝもの、名著と云はるゝものは少なくないが、羅馬書に此しては其光を失ふのである。ゲーテのフワウストの如きを近代人の聖書と云ふ人あるも、到底羅馬書と比することは出来ない。其他ダンテの神曲と云ふもシエークスビヤのハムレツトと云ふも、尚ほ之等と比肩するに足るべき大作といふも、到底羅馬書と光を争ふことは出来ない。誰か臨終の時に当つて世の謂ゆる大作に依て慰められ得ようか。しかし乍ら死に処しても生に処しても如何なる場合にも常に人生の最大伴侶たるは羅馬書である。故に之にまさる貴き書物は此世にないのである。
〔2023年11月17日(金)午前9時33分入力終了〕