内村鑑三全集28、岩波書店、472頁、4200円、1983.2.24

 

一九二三年(大正一二年)九月より一九二四年(大正一三年)一二月まで

 

凡例………………………………………… 1

一九二三年(大正一二年)九月―一二月

A Missionary Problem.宣教師問題 ……… 3

真の伝道師…………………………………… 5

神は侮るべからず…………………………… 7

愛の意義………………………………………13

天災と天罰及び天恵…………………………18

The Earthquake.地震に就いて ……………21

美と義 べテロ前書一章二四、二五節。ゼカリヤ書九章十三節。……23

末日の模型 新日本建設の絶好の機会……27

宗教と実際生活………………………………32

ソドムとゴモラの覆滅………………………38

 (其一) 創世記第十八章第十九章の研究

 其二 アブラハムとロト

     創世記第十三章の研究

 其三 天使の訪問 創世記第十八章の研究

 其四 ソドムの罪とロトの運命

     創世記第十九章の研究

Baptism of Holy Spirit.聖霊のバプテスマに就て……56

災後余感………………………………………58

震はれざる国 希伯来書十二章十八節以下について……60

理学と信仰……………………………………63

東京神田の焼跡に……………………………68

Prayer.祈祷に就て …………………………69

伝道師の慈善…………………………………71

基督信者の礼儀………………………………73

永遠変らざる者………………………………76

神に関する思考………………………………82

神の在る証拠

神の存在の証明

神と天然

父なる神

摂理の神

一九二四年(大正一三年)

Unitarianism.ユニテリヤン教に就て ……99

年頭の辞…………………………………… 101

人格的の神………………………………… 103

ヨセフの話………………………………… 106

 其一 青年時代の夢

     創世記第三十七章の研究

 其二 正しき歩み

     創世記第三十九章の研究

 其三 栄達の道

     創世記四十章、四十一章の研究

 其四 夢の実現

     創世記第四十二章より四十五章までの研究

イエスとヨセフ…………………………… 122

一九二四年を迎ふ………………………… 127

The Modern Man.近代人に就て ………… 128

苦痛か罪か………………………………… 130

神田乃武君を葬るの辞…………………… 134

医学士武信慶人君を葬るの辞…………… 142

テサロニケ書翰に現はれたるパウロの未来観…… 145

 其一 梗概

 其二 キリスト再臨の希望

     テサロニケ後書二章一-一二節。

 其三 人の子の兆

     テサロニケ後書二章の研究の続き。

 其四 復活と再会の希望

     テサロニケ前書四章十三-十八節。

Modern Theology.現代神学に就て……… 163

個人主義と自己主義……………………… 165

地位の満足………………………………… 167

清潔の道…………………………………… 170

真理と自由………………………………… 176

死の権威…………………………………… 182

誘惑に勝つの途…………………………… 188

決心を促す………………………………… 194

『苦痛の福音』〔序文・目次のみ収録〕…… 195

自序……………………………………… 196

China and Japan.支那と日本…………… 198

浅い日本人………………………………… 200

イスカリオテのユダ……………………… 202

イエス対ユダ……………………………… 208

伝道の可否………………………………… 214

支那伝道 他……………………………… 215

支那伝道

師道の転倒

The Exclusion Bill.排日法案 ………… 217

行詰と救拯………………………………… 219

鈴木錠之助君を葬るの辞………………… 221

米国人より金銭を受くるの害…………… 224

米国人の排斥を喜ぶ……………………… 226

米国に勝つの途…………………………… 228

“Grave Consequences.” ……………… 229

Exclusion Again.再び米国の排斥に就て…… 231

米国人の排斥を歓迎す…………………… 233

不死の生命に就いて……………………… 235

箴言の研究………………………………… 238

 第一章七-一九節

 知識と聡明の獲得 箴言第二章の研究

 長命と名誉と富貴 箴言第三章一-十節

 知識と聡明と智慧

  箴言第三章十三-二十節

 智慧第一 箴言第四章一-九節の研究

 心の防衛

 身の清潔 箴言第五章

 保証の危険 箴言六章一-五節

 蟻に学べ 箴言六章六-十一節

 邪曲の人 箴言第六章十二-十九節

 姦淫の世 箴第七章

 智悪は語る 箴言第八章一-十一節

 智慧の前在並に人格性 箴言八章二二-三二節

米国人の排斥に会ひて…………………… 276

宣言………………………………………… 278

米国風を一掃せよ………………………… 281

発刊の辞…………………………………… 284

米国人の排日憤慨………………………… 285

Whose Earth? 誰の世界乎 …………… 286

独立の途…………………………………… 288

人の三分性 一名、聖書心理学の大要… 290

三分性と復活……………………………… 296

キリスト教と愛国心……………………… 302

全き福音…………………………………… 305

争ひの後の平和 他……………………… 311

争ひの後の平和

米国と基督教

憤慨の弁明………………………………… 314

簡易生涯…………………………………… 315

樹を植ゑよ………………………………… 316

対米所感…………………………………… 317

海中の富…………………………………… 322

W・M・ヴォーリズ君を紹介す…………… 323

地理と歴史………………………………… 325

旧友オランダ……………………………… 326

Self‐Contradictions.矛盾に就て……… 328

救の範囲…………………………………… 330

拡張の横縦………………………………… 332

信仰と能力………………………………… 338

恵まるゝの道……………………………… 343

対米態度の維持…………………………… 346

傚ふべき国………………………………… 348

A Dialogue 日米対話 …………………… 351

『羅馬書の研究』〔序文・目次のみ収録〕…… 355

『羅馬書の研究』に附する序………… 356

To Be a Christian.基督者たるの途…… 363

言葉の宗教………………………………… 365

自由の解…………………………………… 367

愛の消極的半面=絶交必要の場合……… 370

来世期待の能力…………………………… 373

教派絶滅の途……………………………… 375

西洋の模範国デンマルクに就て………… 376

History and Prophecy.歴史と予言 …… 379

日本的基督教に就て……………………… 381

信仰の確証………………………………… 383

異人種の融合……………………………… 386

対米余録…………………………………… 389

Sectarianism.西洋人の宗派心に就て … 390

伝道成功の秘訣…………………………… 392

救の磐……………………………………… 394

日本の天職………………………………… 400

自分の事と他人の事……………………… 409

キリストは誰乎…………………………… 412

愛国心の欠乏……………………………… 415

Christmas 1924.クリスマス一九二四年…… 416

人生のABC ………………………………… 418

大正十三年を送る………………………… 425

別篇

付言………………………………………… 427

社告・通知………………………………… 429

参考………………………………………… 434

米国が日本につぎ込む金 年に数千万円に上る 私も曽つて誘惑されたと内村氏抱負を語る…… 434

排日移民法反対声明に関する断片…… 435

高橋すみ子を葬るの辞………………… 438

 

一九二三年(大正一二年)九月-一二月 六三歳

 

(3)     A MISSIONARY PROBLEM.宣教師問題

                         大正12年9月10日

                         『聖書之研究』278号

                         署名なし

 

      A MISSIONARY PROBLEM.

 

 I am often asked of my opinions on this question:“Should we missionaries stay in Japan or leave it?”To which I instantly answer as follows:“If you are in any doubt about that matter,leave at once;for,I understand,Christian mission is a matter of convictions and not of opinions. We stay when God tells us to stay;and leave,when God tells us to leave;we do not stay or leave according to men's opinions.”I think the question is after all a very foolish one;and I am surprised to find so many missionaries troubling themselves about such a foolish-question.Yet I understand,the question has been discussed among them for several years,and they have not reached any defunite conclusion yet! Are there no wise man among missionaries?

 

     宣教師問題

 

 余は度々次の間題に就て余の意見を徴せらる 曰く「我等宣教師は日本に留るべきや又は去るべきや」と。余(4)は直に之に答へて曰ふ「難し諸君にして此問題に就き疑念《うたがひ》を懐《いだ》くならば、諸君は宜しく速に日本を去るべし。余の解する所に従へば、基督教伝道は確信の事にして意見の事にあらず。基督者《クリスチヤン》は神が留るべしと命じ給ふ時には留まり、去るべしと命じ給ふ時には去る。基督者は人の意見に依りて留まりもせず、亦去りもせず」と。余の見る所を以てすれば此問題は要するに馬鹿らしき問題である。余は多数の宣教師が斯の如き馬鹿らしき問題に彼等自身を悩すを見て驚くのである。然るに余の聞く所に依れば、此問題は彼等の間に討議せられて既に数年に渉り、而して今に猶ほ的確なる解答を見ざると云ふ。宣教師の間に智者は一人も居ないのであらう乎。

 

(5)     真の伝道師

                         大正12年9月10日

                         『聖書之研究』278号

                         署名なし

 

〇真の伝道師に無くてならぬ者が三ある。|其第一は神に救はれたる実験である〔付○圏点〕。是れなくして彼の聖書知識は如何に該博なるも、彼の哲学的素養は如何に深遠なるも、彼は人を教へ、霊魂を救ふ事は出来ない。己れ先づ神に救はれたるの実験を有せずして、他を救拯の道に導くことは出来ない。

〇其第二は正直である。伝道に政略は無用である。無用であるのみならず有害である。「恥べき隠れたる事を棄て詭譎《いつはり》を行はず、神の道を混《みだ》さず、真理を顕して神の前に己を衆《すべて》の人の良心に質すなり」と云ふのがパウロの伝道法であつた(コリント後書四章二節)。己が良心を以て他の良心に臨む。我が信念有の儘を披瀝して、世の公平なる判断に訴ふ。伝道は戦争に非ず、之に戦略又は謀計があつてはならない。真理其物に勝る勢力はない。政略も智略も伝道に取ては大妨害である。失敗可なり、誤解可なり、唯神の道を混さゞらん事を恐る。正直なる心をもつて明白なる神の真理を伝ふ。夫れが為に教会は起らざるも可なり。牧師、宣教師等に嫌はるゝも可なり。成功を度外視して唯偏に真理の唱道者たるべきである。

〇|其第三は健全なる常識である〔付○圏点〕。事実は事実として之を採用し之に服従すべきである。前以て作れる説を以て万事を判断してはならない。進化論に真理あらん乎、臆せずして之を採用すべきである。高等批評に聴くべき所あ(6)らん乎、躊躇せずして之に聴くべきである。今の時代に於て何人と雖も科学の結論を無視する事は出来ない。若し科学に反対すべき点あらば、聖書の言を以てせずして科学を以て反対すべきである。哲学に応ずるに哲学を以てし、批評に応ずるに批評を以てすべし。信仰は無学の謂ではない。知識を以て潔めずして信仰は迷信に化し易い 信仰は単に信仰のみの事ではない、亦知識の事である。正直に、知識を以て鍛へたる信仰を伝へて、真の伝道が行はるゝのである。

 

(7)     神は侮るべからず

        (七月十五日、即ち有島事件の有つた後に、而して大震火災の起らざりし前に、柏木今井舘に於て述べた者であります)

                         大正12年9月10日

                         『聖書之研究』278号

                         署名 内村鑑三

 

  自から欺く勿れ。神は慢るべき者に非ず。そは人の種《ま》く所の者は亦その穫る所となればなり。(ガラテヤ書六章七節)。

〇ガラテヤ書の此一節は此日本訳の通りに解釈して貴い真理を私供に伝へます。「自分で自分を欺いて、誤謬《あやまり》を信じて真理なりと思ふ勿れ。神は慢ることの出来る者ではない。彼は人の思考《かんがへ》如何に拘はらず其聖旨を実行し給ふ」と、斯う解釈して文法的にも教理的にも間違は無いと思ひます。

〇然し乍ら此所に使用されたる二箇の受動々詞の意味を其儘に現はして、此一節を左の通りに訳することが出来ます。

 汝等人に惑はさるゝ勿れ、神は御自身をして人に慢られしめ給はず、そは人の種く所の者は亦その穫る所となれば也

と。そして此訳の方が遥かに明白で、能くパウロが教へんと欲する真理を私供に伝へると思ひます。

(8)〇「汝等人に惑はさるゝ勿れ」。初代の基督教会に於てキリストの昇天以後百年立たない内に、多くの誤謬の教師が出て、多くの誤謬を信者と世とに伝へました。其事は使徒等の書簡が明かに示します。そして是等の誤謬の教師等は大胆に明白なるキリストの福音の真理を混乱《みだ》し、自から欺き、信者を惑はしたのであります。パウロは此ガラテヤ書の初めに於て曰ひました「縦令我等にもせよ、天よりの使者にもせよ、若し我等が曾て汝等に伝へし所に逆らふ福音を汝等に伝ふる者は詛はるべし」と(一章八節)。神の真理は簡単明瞭である。之に反対又は変更の余地は無い。之に反対すれば唯詛はるゝまでゞある。縦令我れ自身が斯かる反対者であるとするも、其結果は同じである。即ち唯詛はるゝまでゞある。故に汝等是等の誤謬の教師等に惑はさるゝ勿れとの事であります。

〇「神は御自身をして人に慢られしめ給はず」。此はパウロの確信であり、又人類の歴史が明かに示す所の事実であります。然るに誤謬の教師等は之を信じないのであります。彼等は神は永久に沈黙を守る者、縦し在つても無きに等しき者、人が何を信じやうが、何を伝へやうが、何を行ふが少しも干渉せざる者、殊に罪を|怒ると云ふが如きは神には絶対に解き事、然り有つてはならぬ事と信じて〔付△圏点〕、安心して、大胆に、誤謬を伝へて意気揚々たるのであります。若し人あり「神の罰が当る」と言へば彼等は「撥は太鼓に当る」と答へて、斯かる忠告には一顧の注意をも払はないのであります。即ち神は人の作つた偶像、眼ありて視ず、耳ありて聴かず、人が為す儘に任かして、宇宙人生の進行に些《すこし》の干渉を試みざる、又試み得ざる者であると、是等の人達は見做すのであります。

〇然し乍ら事実果してさうでありませう乎。人生は果して人が為す儘に成る者であつて、変らざる神の聖旨と云ふが如き者は絶対に行はれないでせう乎。然らずとパウロは答へました。そしてパウロ以前の、又以後の偉人は同じやうに答へました。人生に神の刑罰なる者が行はると唱へし者はユダヤの預言者や使徒達に限りません。現(9)代人は無神論を唱へる事は基督教に反対する事であるとのみ思ひますが、夫れは大なる間違であります。現代芸術の源なる希臘の芸術家が、キリストより数百年前に、其模範的劇作に於て、明かに、又最も力強く、神罰実現の事実を描いて居ます。悲劇《トラゼデイー》の太祖は誰であります乎。キリスト降世前五百二十五年前に雅典《アデンス》の近くに生れしエースキラスではありません乎。彼は徹底的な有神論者、神の摂理を信じ、罪の遺伝を信じ、正義の勝利を信じ、其|敬虔《つゝしみ》に溢れたる思想を不朽の悲劇に現はした者であります。「神は御自身をして人に慢られしめ給はず」とは使徒パウロの曰うた言でありますが、其事実をドラマに現はし、芸術的発達の絶頂に達したる雅典の市民に伝へ、彼等を通うして後世の人類に伝へし者は、「劇聖」とも称すべき此エースキラスでありました。キリストの使徒パウロに従ひても、芸術の始祖エースキラスに従ひても、「神は己を人に侮らしめず」であります。神は人事に干渉しないとは日本現代の文士や学者の唱ふる所でありまして時の古今を問はず、場所の東西を問はず、人類第一流の教師はすべて其正反対を教へました。即ち「人世他なし、正義の審判の行はるゝ神の法廷である。神は人事の|すべて〔付△圏点〕に干渉し給ふ。凡て人の言ふ虚き言は其一言たりとも審判かれずしては通うらない」と教へました(マタイ伝十二章三六節)。

〇「そは人の種く所の者は亦その穫る所となれば也」。此の言を前後の関係より離して読んで何人も其の真理なるを疑ひません。此は天然の法則であつて、別に聖書に依て学ぶの必要あるものではありません。「瓜の蔓には胡瓜は成らない」と日本の諺で云ひます。然し此は天然の法則であつて、神が御自身をして人に侮らしめ給はない事の証拠であるとは、神の人を待つて人類が初めて学んだ事であります。「誰か茨より葡萄を取り薊より無花果を採る者あらんや。斯く、すべて善き樹は善き果を結び、悪しき樹は悪しき果を結ぶなり」とイエスは曰(10)ひ給ひました。此は天然の法則であつて、又神の為し給ふ所であります。然るに人は、現代人は現代の学者文学者は、天然の法則は認むるも神の存在は認めない、神は自分等の自由意志に対して何等の制裁をも加ふる事が出来ないと公言するのであります。

〇神は勿論忍耐深くあります。彼は容易に怒り給ひません。彼は其子の一人たりとも滅ぶる事を好み給ひません。然れども彼の怒が容易に現はれざるは、彼が絶対に怒り給はない訳ではありません。彼は時には其の恐るべき怒を表はし給ひて、彼が人に自己を侮らしめ給はない事を証拠立て給ひます。彼の震怒《いかり》の霹靂《いかづち》は時に降ります。そして彼の主権を復たび人の子の間に回復して彼等の為に救ひの途を備へ給ひます。此は或は神の為には不要である乎も知れませんが、人の為には確かに必要であります。神が時々其怒を表はして、明白なる正義を曲げて歓びとなす者を罰して下さるに非ざれば、それこそ世界は亡びて了ふのであります。|神が人類に降し給ふ大恩恵の一は、たしかに彼が御自身に叛いて得意たる者を、大なる審判を以つて審判き給ふ事であります〔付△圏点〕。使徒行伝十二章二十節以下を御覧なさい。

  ヘロデ、ツロとシドンの者に対ひて甚だしく怒を懐きければ、彼等心を合はせて其許に来り平和《やはらぎ》を求む……ヘロデその定めたる日に於て王服を着け、その位に座し彼等に対ひて語れり。民声を揚げ言ひけるは、此は神の声なり人の声に非ずと。ヘロデ栄を神に帰せざるに由り主の使者直に彼を撃しかば、彼は虫に噬れて気《いき》絶ゆ

とあります。そして其結果は如何であつたかと云ふに

  さて神の道《ことば》は益々広まり、バルナバ及びサウロは其職務を遂げをはりてヱルサレムより返れり

(11)とあります。神罰が神に叛く者に加はる事は真理の勝利と人類の幸福を持来します。

〇神の恵み深き摂理に由り斯かる場合は至つて稀れであります。然し乍ら神に叛きて其結果は直に現はるゝのであります。|それは聖霊の撤回であります〔付△圏点〕。ダビデは神に祈りて「あゝ神よ、汝の聖き霊を我より取り給ふ勿れ」と言ひましたが、神は自己に叛く者より此聖き霊を撤回し給ふのであります。是れ神として止むを得ないのであります。|そして聖霊を撤回されて其人の精神上に大変化が起ります〔付○圏点〕。彼の心に在りし所の歓びはいつの間にか失せて了ひます。讃美は彼の口より絶えます。彼は神の前を逐はれたるカインのやうに、面を臥せて地に吟行《さまよ》ふ流離子《さすらひゞと》となります(創世記四章を見られよ)。彼の容貌風彩が一変します。彼は何であつても歓喜満足の人ではなくなります。私は私の生涯に於て多くの斯かる実例を見ました。世に憐れなる者とて聖霊を撤回されたる堕落信者の場合の如きはありません。是れが同じ人である乎と疑はるゝ程であります。其変化たる一生忘るゝ事の出来ないものであります。其人の面に既に永遠の死が映つて居るのではないかと思はれます。

〇然し背教者は左程に背教の不幸を感じません。世は却て彼を歓迎します。彼に立身の途が開けます。彼よりピユーリタン的束縛が取除かれて、彼は一種の大なる自由を感じます。彼に霊と肉との戦ひが止みますから、彼に精神上の煩悶はなくなります。彼は徹底したる人に成ります。即ち肉情本意の人となりて、「宗教家のやうなる偽善者」でなくなります。彼は思ひます、神に叛きて得し所は失ひし所よりも遥に多しと。然し乍ら|聖霊の歓びは今は彼に有りません〔付○圏点〕。来らんとする世の能力と云ふが如き者は今はいくら望んでも得られません。彼は今は消極的にのみ強い偉らい人となりました。彼が好んで書き又語る事は死であります、反逆であります。ニイチエの哲学が殊に強く彼を引附けます。彼はカインとイスカリオテのユダを弁護し又讃美します。そして不思議なる事(12)には、神の愛を斥けし彼は頻りに異性の愛を讃へます。或ひは神の権能を斥けて、頻りに此世の権力を求めます。私は数個《いくつか》の背教の実例に接しました。然し其成行は千篇一律であります。

〇「エホバ曰ひ給はく悪しき者には平安あるなし」と預言者イザヤは繰返して曰ひました(イザヤ書四十八章廿二節等)。「悪しき者」とは神に叛いたる者の謂であります。|背教者に平安あるなし〔付△圏点〕、其事丈けは確かであります。彼に人望はありませう、天才はありませう、政権は与へられませう、金権に有附きませう。|然し平安はありません〔付△圏点〕。神は人の彼を侮る事を赦し給ひません。神を馬鹿にして災禍の身と心とに臨まざるを得ません。「活ける神の手に陥《おつ》るは畏るべき事なり」とヒブライ書十章卅一節にあります。信仰を棄て平然たる人は、自分が最大の危険を冒した者である事を知らないのであります。

 

(13)     愛の意義

        (今月は伝道附録の代りに此説教を載せます)

                         大正12年9月10日

                         『聖書之研究』278号

                         署名 内村鑑三

 

〇「神は愛なり」とは如何《どれ》程深い真理である乎は愛の何である乎が解つて解る事であります。唯愛と云うた丈けでは其の何たる乎が解りません 愛は種々であります。親子の愛もあります、夫婦の愛もあります、同類の愛もあります、動物の愛もあります、其他物の愛、知識の愛、芸術の愛、実に種々雑多であります。唯単に神は愛なりと云うた丈けでは神を如何様にも解することが出来ます。

〇夫れ故に聖書に神は愛なりと教へてありますれば、私共は聖書に依て神は如何なる者である乎を学ばなければなりません。私供自分勝手の愛の定義を以て、之を神に当箝めて神の何たる乎を勝手に定めてはなりません。そして聖書は明白に全く別な詞を以て神の何たる乎を示して、「神は愛なり」とは如何云ふ事を教ふるのである乎、其事を示して居ります。

〇そして其最も著名なる者は小福音と称せられて、私供が幾回となく研究を重ねし約翰伝三章十六節であります、曰く「それ神は其生み給へる独子を賜ふ程に世を愛し給へり」と。此処に神が其愛を施し給へる其途が示してあります。同じ事をもつと明確《はつきり》と示したのが約翰第一書四章九、十節であります、曰く

(14)  神はその生み給へる独子を世に遺はし、我等をして彼に由りて生命を得しむ、是に由りて神の愛我等に顕はれたり。我等神を愛するに非ず、神我等を愛し、我等の罪の為に其子を遣はして宥《なだめ》の祭物《そなへもの》となせり、是れ即ち愛なり

とあります。又パウロが信者に真の謙遜を教へし言葉に左の如き者があります。

  汝等キリストイエスの心を以て心とすべし。彼は神の実体にて居りしかども自ら其の神と匹《ひとし》くある所の事を棄難き事と思はず、反つて己を虚うし、僕の貌《かたち》を取りて人の如くなれり 既に人の如き形状《ありさま》にて現はれ、己を卑くし、死に至るまで順ひ、十字架の死をさへ受くるに至れり

と(腓立比書二章五-八節)。以上に併せてイエスが幾回《いくたび》となく繰返して述べ給ひし左《さ》の御詞に注意すべきであります

  その生命を得る者は之を失ひ、我が為に生命を失ふ者は之を得べし(馬太伝十章三九節。同十六章二六節。馬可《マカ》伝八章三五節。路加伝九章二四節参考)。

  その生命を悼む者は之を喪ひ、其生命を惜まざる者は之を存ちて永生に至るべし(約翰伝十二章二五節)。

 更らに又イエスの左の御言葉に注意するの必要があります。曰く

  人の子の来るは人を役ふ為に非ず、反て人に役はれ、又多くの人に代りて生命を与へ、その贖とならん為なり(馬太伝廿章二八節)。

〇以上に依て神の愛と云ひ、キリストの愛と云ふ者の如何なる者である乎が解ります。|愛は与ふるもの〔付○圏点〕、自己《おのれ》に属るものは勿論の事、自己其物を与ふる者であります。「其独子を賜へり」と云ふは神は御自身よりも貴き者を(15)賜へりとの事であります。「己を虚うし」とは欲望何一つとして之を己が裏に保留する事なくとの事であります。|神は愛なりとは神は永久に御自身を他に与ふる者との〔付○圏点〕意《こと》|であります〔付○圏点〕。与へて、与へて、永久に与へて止み給はずと云ふ者であります。さう云ふ者であるが故に彼は愛であると云ふのであります。

〇愛は自己を与ふる事、他の為に自己を棄る事或は自己を去る事であります。英語の Love《ラブ》は Leave《リーブ》と同じ詞であるとの事であります。ラブ(愛)するはリーブ(去る)する事である、そして自己を去る事、其事が Leave《リーブ》する事即ち Life《ライフ》(生くる事)であります。誠に美はしき三幅対であります。意味の深い三幅対であります。

〇是でキリストの御父なる真の神は愛であるとの意が明確すると思ひます。そして是が世の云ふ愛と正反対の者である事が解ります。「愛はすべてを要求する」と此世の人は云ひます。一人の男が一人の女を愛しまする時に、彼は彼女のすべてを要求します。そして若し彼女が彼の此要求に応じなければ、彼の愛は忽ち憎《にくみ》に化し、所謂「可愛さ化して憎さ百倍に成り」ます。人は愛されんと欲して愛します。そして愛を以て他を自分の有とする事の出来た時に之を愛の勝利と称します。然し神の愛、即ち真の愛は全く之と違ゐます。真の愛は永久に自己を予へんとします。そして予ふるを以て生命と認めます。神は永久に斯かる生活を営み給ふが故に、「神は愛なり」と云ふのであります。〇人は元来自分勝手の者、其事を認めて合理的の政治もあり、経済もあるとは、近代の学者が公然唱ふる所であります。然るに其自分勝手が悪いと云ふならば近代思想は其根本から壊れて了ふのであります。然し乍ら事実私共は皆んな自分勝手に造られて居るのではありません乎 然るに之を改めて自己を棄つる者となれと云ふのは、豹に向つて其斑を去れと云ふに等しくありますまい乎。

(16)〇茲に於てか人に更生又は改造の必要が起るのであります。人は生れながらにして自分勝手の者、如何なる教育も、周囲の感化も此性質を変へて、神の如くに愛する者、即ち神の子と成すことは出来ません。然し乍ら万物を造り給ひし者、暗黒《くらき》に命じて光あれと言ひ給ひたれば光ありし者、|彼は〔付◎圏点〕此自分勝手の人の子を化《かへ》て神の子即ち他に自己を予ふる者と成すことが出来ます「彼を接《うけ》てその名を信ぜし者には能力を賜ひて此を神の子と為せり」とあります(ヨハネ伝一章十二節)。パウロは曰ひました「人、キリストに在る時は新たに造られたる者なり、旧きは去りて皆な新らしく成る也」と(コリント後書五章十七節)。人が基督者《クリスチヤン》に成る時に、本当の意味に於ての改造が行はれるのであります。|自分勝手の人が愛の人と成るのであります。人の子が神の子と成るのであります〔付△圏点〕。単《たゞ》に其人の物の見方が変るに止まりません、其心の質が変るのであります。リビングストンや、ナイチンゲールや、ドロシー・ヂツクスのやうな人が出るのであります。即ち生れながらの人が獲《う》るに熱心であるやうに、与ふるに熱心なる人が出るのであります。私共は造化を目前に目撃するのであります。進化説も何も在つたものではありません。

〇然らば人は望んで愛の人即ち神の子と成る事が出来ませう乎。自分では出来ません、然し神に成して戴く事が出来ます。「人、キリストに在る時は」とあります。彼に学び、彼に傚はんと欲する時に「新たに造らる」るのであります。即ち其人に於て造化が新たに始まるのであります。私共はキリストを接けて、其聖名を信ずれば神の子たるの能力を賜はるとの事であります。是は単に聖書を学び、祈祷を以て彼に近よりまつる事のみではありません。彼に傚ひて|愛の練習〔付△圏点〕を為す事であります。愛の行を為して愛の人と成して戴くの下地を作る事であります。左すれば神は此努力に応じて、聖霊を注いで私共を其の御子と成して下さるのであります。

(17)〇肉の人は思ひます、若し愛とはそんな者であるならば、愛の人即ち神の子の生涯は何んと不満《つまら》い、困《くる》しい生涯ではない乎と。然し乍らすべて愛の生涯を送つた者は言ふのであります、「是れのみが送るの価値《ねうち》ある生涯である。己に求むるの生涯は意味の無い生涯である、又目的を達し得ざる生涯である。すべてを与へんと欲してのみすべてが与へられ、又自己を棄てゝのみ自己を発見するのである。自己修養と云ひ、自己満足と云ひ、何れも達し得られざる慾望である。|最も幸なる途は十字架の途である〔付○圏点〕。その生命を得る者は之を失ひ、キリストと其愛の福音の為に之を失ふ者は得べしとは深い明白なる真理である」と云ひます。

〇願くは神様、私共を愛する人と成して下さい。他のものを尽く戴いても愛する心がなくして私共はまだ貴神の子ではありません。「汝等視よ、我等称へられて神の子たる事を得、是れ父の我等に賜ふ何等の愛ぞ」とある其愛を私共に与へて下さい。(ヨハネ第一書三章一節)。

 

(18)     天災と天罰及び天恵

                       大正12年10月1日

                       『主婦之友』七巻一〇号

                       署名 内村鑑三

 

       ◇

 天災は読んで字の通り天災であります。即ち天然の出来事であります。之に何の不思議もありません。地震は地質学の原理に従ひ、充分に説明する事の出来る事であります。地震に正義も道徳もありません。縦、東京市は一人の悪人なく、其市会議員は尽く聖人であり、其婦人雑誌は尽く勤勉と温良と謙遜とを伝ふる者であつたとするも、地震は起るべき時には起つたに相違ありません。 然し乍ら無道徳の天然の出来事は之に遇ふ人に由て、恩恵にもなり又刑罰にもなるのであります。|そして地震以前の東京市民は著るしく堕落して居りました故に、今回の出来事が適当なる天罰として、彼等に由て感ぜらるゝのであります〔付△圏点〕。渋沢子爵は東京市民を代表して、其良心の囁《さゝや》きを述べて曰はれました。

  今回の震災は未曾有の天災たると同時に天譴である。維新以来東京は政治経済其他全国の中心となつて我国は発達して来たが、近来政治界は犬猫の争闘場と化し、経済界亦商道地に委し、風教の頽廃は有島事件の如きを讃美するに至つたから此大災は決して偶然でない云々。(九月十三日。『万朝報』所載) 実に然りであります。有島事件は風教堕落の絶下でありました。東京市民の霊魂は、其財産と肉体とが滅びる(19)前に既に滅びて居たのであります。斯かる市民に斯かる天災が臨んで、それが天譴又は天罰として感ぜらるゝは当然であります。

 昔時《むかし》ユダヤの預言者イザヤが其民を責めて発せし言葉に次の如き者があります。曰く『嗚呼罪を犯せる国人、邪曲《よこしま》を負ふ民、悪を為す者の裔……その頭《かしら》は病まざる所なく、その心は疲れはてたり、足の趾《うら》より頭に至るまで全き所なく、たゞ創痍《きず》と打傷と腫物とのみ、而して之を合はす者なく包む者なく、亦膏にて軟ぐる者なし』と。そして其一字一句を取つて悉く之を震災以前の東京市民に当はめる事が出来ます。其議会と市会と、其劇場と呉服店と、そして之に出入する輕桃浮薄の男女と、彼等の崇拝する文士思想家と、之を歓迎する雑誌新聞紙とを御覧なさい。もし日本国が斯かる国であるならば、日本人として生れて来た事は耻辱であります。震災以前の日本国、殊に東京は義を慕ふ者の居るに堪へない所でありました。

 然るに此天災が臨みました。私共は其犠牲と成りし無辜幾万の為に泣きます。然れども彼等は国民全体の罪を贖《つぐな》はん為に死んだのであります。彼等が悲惨の死を遂げしが故に、政治家は此上痴愚を演ずる事は出来ません。

 文士は「恋愛と芸術」を論じて文壇を擅にする事は出来ません。大《おほ》地震に由りて日本の天地は一掃されました。今より後、人は厭でも緊張せざるを得ません。払ひし代償は莫大でありました。然し挽回《とりかへ》した者は国民の良心であります。之に由て旧き日本に於て旧き道徳が復たび重んぜらるゝに至りました。新日本の建設は茲に始まらんとして居ます。私は帝都の荒廃を目撃しながら涙の内に日本国万歳を唱へます。

       ◇

 以上を記終りし後に、私は帝国劇場が一ケ年以内に復たび開場するとの事を聞きました。そんな事では東京市(20)の真個の復興を期する事は出来ません。普通の場合に於ても、親や近親が死んだ時には、少くとも一年の謹慎を守るではありませんか。然るに全市の三分の二を失ひ、同胞十数万人の死せし此際、先づ第一に劇場の復活を計るとは何たる薄情でありますか。私は劇場は絶対的に悪い者であるとは言ひません。然し乍ら劇場の復活を以て都市の繁栄を計るやうな心掛では、到底偉大なる帝都の出現を望む事は出来ません。先づ第一に計るべきは焼失せる無数の学校の復活であります。又新たに出来し多数の孤児を収容すべき孤児院の建設であります。是を先にして彼を後にするやうな心掛でなければ、此天災を変じて天恵となす事は出来ません。私は再び「虚栄の街《※[ワ]に濁点ニチー・フエヤー》」としての東京市を見んと欲しません。敬虔に満ちたる、勤勉質素の東京市を見んと欲します。

 

(21)     THE EARTHQUAKE.地震に就いて

                         大正12年10月10日

                         『聖書之研究』279号

                         署名なし

 

     THE EARTHQUAKE.

 

 The earthquake is a pbysical phenomenon attending the ever contracting earth;and as such, it will come regardless of goodness or badness of mankind that dwells upon the earth. It is therefore scientifically true that“we have not here an abiding city.”The earth is shaking,and with it everything that stands or lives upon it. But there is“a kingdom that cannot be shaked,”a kingdom that is not of the shaking earth. We can be the citizens of the unshaking kingdom,While living upon the shaking earth,and can remain even after the earth itself will be wiped out of existence. May we so live that we are not afraid of earthquakes,ever singing,“In the cross of Christ I glory,Towering o'er the wrecks of Time.”

 

(22)     地震に就いて

 

 地震は恒に収縮しつゝある地球に伴ふ天然的現象である。故に地上に棲息する人類の善悪如何に係はらず臨む者である。聖書に「我等此所に在りて恒に存つべき都城なし」とあるは科学の立場より見て真理である(ヒブライ書十二章十四)。地は震ひつゝある、そして地と共に地上万物は震ひつゝある。然れども茲に又震はれざる国がある、震ひつゝある地に属せざる国がある。そして我等は震ひつゝある此地に住みながら、此震はれざる国の市民たる事が出来る。地其物が拭ひ去らるゝ其後と雖も猶ほ生命を継続する事が出来る。願ふ我等は地震を恐るゝことなくして生活し得んことを、常に口に讃美を唱へつゝ

   荒れはつる世に  高く聳ゆる

   主の十字架にこそ 我は誇らめ

と(讃美歌第八十一番)。

 

(23)     美と義

        べテロ前書一章二四、二五節。ゼカリヤ書九章十三節。

        (八月十九日、軽井沢鹿島の森に於て述ぶ)

                        大正12年10月10日

                        『聖書之研究』279号

                        署名 内村鑑三

 

〇文明人種が要求する者に二つある。其一は美である、他の者は義である。美と義、二者熟れを択む乎に由て国民並に其文明の性質が全く異るのである。二者熟れも貴い者であるに相違ない。然し乍ら其内熟れが最も貴い乎、是れ亦大切なる問題であつて、其解答如何によつて人の性格が定《き》まるのである。〇国としてはギリシヤは美を追求する国でありしに対してユダヤは義を慕ふ国であつた。其結果としてギリシヤとユダヤとは其文明の基礎を異にした。日本は美を愛する点に於てはギリシヤに似て居るが、其民の内に強く義を愛する者があるが故に、其国民性にユダヤ的方面がある。伊太利、仏蘭西、西班牙等南欧諸邦は義よりも美を重んじ、英国、和蘭、スカンダナビヤ諸邦等北欧の諸国は美よりも義に重きを置く。美か義か、ギリシヤかユダヤか、其選択は人生重大の問題である。

〇美の実はしきは勿論言ふまでもない。殊に我等日本人として美を愛せざる者は一人もない。美は造化の特性である。神は万物を美しく造り給うた。花や鳥が美しくある計りでない。山も川も、海も陸《くが》も、天空《そら》も平野も、す(24)べて美しくある。そして単に美しいと云はるゝ者のみが美しいのではない。醜しと云はるゝ者までが美しいのである。克く視れば蛇も蟇蛙も美しくある。岩も礫《こいし》も美しくある。物として美しくない者はない。「諸の天は神の栄光を現はし、大空は其聖手の業を示す」と歌ひて、我々は造化に顕はれたる神の美を歌ふのである。讃美歌は神の美の讃美である。美はたしかに神の一面である。美を知らずして神を完全に解する事は出来ない。

〇然し乍ら美は主に物の美である。肉体の美である。花と鳥との美である。山水の美である。水晶と宝石の美である。即ち人間以下の物の実である。|然るに茲に人間と云ふ霊的存在者が顕はれた時に美以上の美が顕はれたのである〔付○圏点〕。|之を称して義と云ふ〔付◎圏点〕。義は霊魂の美である。物の美とは全く性質を異にしたる美である。そして霊が物以上であるが如くに義は美以上である。人間に在りては、其外形は醜くあるとも、若し其心が美しくあれば、彼は本当に美しくあるのである。予言者が最上最大の人格者を言表はしたる言葉に「我等が見るべき麗はしき容《すがた》なく、美しき貌《かたち》なく、我等が慕ふべき艶色《みばえ》なし……我等も彼を尊まざりき」とある(イザヤ書五十三章二、三節)。しかも此人が最も優れたる人であつたのである。ソクラテスは最も醜き人であつた。然るに彼はギリシヤ人中第一人者であつたのである。パウロは身長《せい》の低き、まことに風采の揚らざる人であつた。然し彼の主たりしイエスキリストを除いて、彼よりも大なる人は無つたと言ひ得る。其他すべて然りである。人間に在りては其美は内に在りて外にない。|人の衷なる美、それが義である〔付○圏点〕。茲に於てか義は美よりも遥かに大なる美である事が解る。

〇ゴールドスミスが其名著 The Vicar of Wakefield に於て曰うた「美を為す事是れ美なり」と。言葉を代へて言へば「義是れ美なり」と云ふ事である。|人間の美、即ち義は〔付○圏点〕、動物や木石の美とは全く質《たち》を異にしたる美である。人間に在りては義人が本当の美人である。所謂美人は低い意味に於ての美人である。人間が人間である以上、是(25)は止むを得ないのである。「羔の新婦は潔くして光ある細布《ほそきぬ》を衣ることを許さる、|此細布は聖徒の義なり〔付○圏点〕」とある(黙示録十九章八節)。聖徒の義、それが彼の美である。キリストの新婦の美は此世の新婦の美とは全然異ふ。

〇此の明白なる事実を弁へずして、義の道即ち道徳を語るは偽善者の為す事であるかの如くに思ひ、自分は宗教家でないから事の善悪を差別しないと云ふが如き、是れ人間が自分を人間以下の地位に置いて云ふ事である。文士の取扱ふ問題は芸術と恋愛に限られ、道徳と宗教とは措いて之を顧ざるが現代的であると思ふは、現代を以て人間の時代と見做さゞる最も誤りたる思想である。ギリシヤの弱きは茲に在り、ユダヤの強きは此思想に反対したる点に於て在るのである。美に足りて義に欠けて居たギリシヤは疾《とく》に亡び去つたに反し、義に強くして美に欠けたるユダヤは今に至るも失せず、愈々輝きを増して昼の正午《まなか》に至らんとして居る。義は現代文士が思ふが如くに既に過去に属する者ではない。義は今に猶ほ、然り永遠より永遠に至るまで世界最大の勢力である。万物の進化が逆行して、人間が再び獣類たるに至らばいざ知らず、人間が人間である以上、義が廃れて美のみが権威を揮ふ時の到りやう筈はない。義を追求するシオンの人々は今猶ほ振起《ふるひおき》て共に耽溺するギリシヤの人々と戦ひつゝある。英国の大思想家マッシュー・アーノルドは曰うた「人生の問題の十分の九は正義の問題である」と。然るに日本今日の思想家は正義は之を問題の外に追出して、たゞ芸術と恋愛とのみを語つて居る。実に恐るべき事である。

〇義は美以上である。然し義は決して美を退けない。義は美と両立しないやうに思ふは大なる間違である。真個の美は義の在る所に於てのみ栄える。世界第一流の芸術家は、極めて少数の者を除くの外は、凡て義を愛する人であつた。ラファエルも、ミケル・アンゼローも、レオナード・ダ・※[ヰに濁点]ンチも、すべて義に強い人であつた。世(26)界第一の劇作家は言ふまでもなくシェークスピヤである。そして彼の強い道徳的方面を見ずして、彼の劇を解することは出来ない。作曲家としてハンデルも、メンデルゾーンも、ベートーべンも尽く神を畏れ義を愛する人であつた。天主教徒がプロテスタント教徒を非難する時に常に後者に於ける芸術の欠陥を指摘するが、然しプロテスタント教徒は其芸術に於て少しも天主教徒に劣らざるのみならず、多くの場合に於て、後者の達し得ざる所に達する。レムブラントのやうな画家は天主教国に於ては起らない。

 

(27)     末日の模型

         新日本建設の絶好の機会

                         大正12年10月10日

                         『聖書之研究』279号

                         署名 内村鑑三

 

  主の日の来ること盗人の夜来るが如くならん。其日には天大なる響ありて去り、体質尽く焚毀《やけくづ》れ、地と其中に有る物皆な焚尽きん……神の日には天然え毀《くづ》れ体質焚鎔けん、然れど我等は約束に由りて新しき天と新しき地を望み待てり、義その中に在り(彼得後書三章三十-十三節)。

〇大なる災害は我東京並に其附近の地を襲うた 何十万と云ふ人が死し、何十万と云ふ人が傷つき、何十万軒と云ふ家が焼け、多分何十億と云ふ富が失せたであらう。実に悲惨の極、酸鼻の極、之を言語に尽すことは出来ない。之が為に神の存在を疑ふ人もあらう。人生の無意味を唱ふる人もあらう。然し在つた事は在つたのである。一日の内に大東京の枢要部は失せたのである。人間が何百年かゝつて作つた者を天然は一日にして滅して了つたのである。無惨と云はう乎、無慈悲と云はう乎。然し事実は事実であるのである。

〇曾てドクトル・ジヨンソンが一七五五年に起りし葡萄牙国の首府リスボンの地震の事を聞きし時に、常には強堅なる信仰を以て称へられし彼の信仰も、此時ばかりは動いたとの事である。其如くに私供も亦此惨劇を目前に見て、「神若し在りとすれば此事あるは如何」との問を発したくなる。然るに天に声なし地に口なしである。そ(28)して悲惨なる事実は儼然として私供を瞰《にらみ》つけるのである 私供は只之に対して「それ人は既に草の如く、其栄はすべての草の花の如し。草は枯れ、其花は落つ」と口の内に繰返すのみである。神の事は別として、人間の弱さが斯かる時に染々と感ぜらるゝのである。

〇日本国の華《くわ》を鍾めたる東京市は滅びた。然し何が滅びたのである乎。帝国劇場が滅びた。三越呉服店が滅びた。白木屋、松屋、伊東呉服店が滅びた。御木本の真珠店が滅びた。天賞堂、大勝堂等の装飾店が滅びた。実に惜しい事である。然し乍ら若し試に天の使者が、大震災の前日、即ち八月三十一日の夕暮、新橋より上野まで、審判の剣《つるぎ》を提《ひつさ》げて」通過したと仮定するならば、|彼は此家こそ実に天国建設の為に必要欠くべからざる者であると認めた者を発見したであらう乎〔付△圏点〕。私は一軒も無かつたであらうと思ふ。三越も白木屋も天国建設の為に害を為す者であつても、益を為す者でなかつたと思ふ。或人は問ふであらう「日本全国に聖書を供給する京橋尾張町の米国聖書会社は如何、内村先生の著書を出版し又販売する同町の警醒社書店は如何」と。私は之に答へて曰ふ「主は知り給ふ」と。多分天使は之をも火を以て潔むる必要を認めたであらうと思ふ。如斯くにして、人生が遊戯でない限り、正義の実現が万物存在の理由である限り私供は神が此虚栄の街《ちまた》を滅し給ひたればとて、残忍無慈悲を以て彼を責むる事は出来ない。単に新聞雑誌に現はれたる震災以前の東京市の状態を考へても、此災害が之に臨みしは誠に止むを得ないと言はざるを得ない。聖書に記すが如く、天使は此|状《さま》を見て曰うたであらう「然り主たる全能の神よ、爾の審判は正しく且つ義なり」と(黙示録十六書七節)。

〇之に附随して無辜《つみなきもの》の死の問題が起る。此たびの災禍《わざわひ》に於ても、他の災禍の場合に於けるが如くに、災禍を呼びし罪に直接何の関係なき多くの者が死し又苦しんだ。私供は無辜の苦患に関する人生の深き奥義を探ることは出(29)来ない。社会は一団体であつて、人は相互の責任を担ふやうに造られた者であるが故に、善人が悪人と共に苦しむは止むを得ないと云ひて、一部分の説明となす事が出来る。然し乍ら之を以て万事を説明する事は出来ない。奥義は依然として奥義として残る。私供は罪を審判き給ひし正義の聖手を義とするが、それと同時に、その犠牲となりし多くの人の為に泣く。|そして此事に関し最も甚しく痛み給ふ者は天に在ます父御自身であると信ずる〔付○圏点〕。彼は我等の知らざる或る方法を以て充分に此苦痛を償ひ給ふと信ずる。罪人に臨む滅亡は適当の刑罰であつて、無辜に臨む死は一種の贖罪の死である。神は同時に災禍を善悪両様の人の上に降して、災禍其物の内に恩恵贖罪の途を僑へ給ふのであると信ずる。

〇今回の災害は実に甚大であつた。日本に歴史在つて以来の最大の災禍と称すべきであらう。|然し乍ら之は世の〔付△圏点〕終末《をはり》|ではないと信ずる〔付△圏点〕。災害の区域は広くあるが、然し日本全体より見て局部的である。況んや世界全体より見て、一小局部に起つた災害たるに過ぎない。然し世界全体より見て小は小なるに過ぎないが、能く|最後に起るべき大審判の如何なる者なる乎〔付○圏点〕を示す。キリスト再臨の反対論者は常に言ふ、天然にも歴史にもカタストロフイー即ち激変なる者はない 万事万物尽く徐々に進化するのであると。然るに事実は然らずして、私供は茲に大激変を目撃したのである。一夜にして大都市が滅亡したのである。三百年間かゝつて作り上げられし所謂江戸文明が数分間にして毀たれたのである。是は確かにカタストロフィー(激変)ではない乎。大正十二年九月一日午前十一時五十五分に、江戸文明は滅びて、茲に善か悪かは未だ判明しないが、何れにしろ日本国の歴史に新紀元が開かれたのである。

〇「審判の災禍は不意に来る、故に備へせよ」と 此は決して無い事ではない。私供は事実其儘を目撃したので(30)ある。徐々たる進化に依頼して備を為さざる時には、激変忽に臨んで、我等をして之に応ずるの遑なからしむ。私は進化を信ずるが、激変の伴はざる進化を信じない。宇宙も人類も進化の間に激変を挟《さしはさ》みつゝ進み来つたのであると信ずる。

〇|私供を此たぴ見舞ひしカタストロフイーは全世界を最後に見舞ふべき大カタストロフイーの模型である〔付○圏点〕。今回の災害に於て私供は一日の中に大東京が燃え毀《くづ》れて焦土と化した惨劇を目撃した。然るに彼《か》の日には全世界が燃え毀れて、体質尽く焚鎔けんとの事である。此事があつて彼の事は無いとは言ひ得ない。神も天然も学者の学説や、文士の思想には何の遠慮会釈もなく其意ふがまゝを断行する。悲惨の極、酸鼻の極と歎いた所が其れまでゞある。私供は神の言に此事あるを示されて、常に之に応ずるの準備を為すべきである。即ち潔き行を為し、神を敬ひて神の日の来るを待つべきである。「人々平和無事なりと言はん時|滅亡《ほろび》忽に来らん、人々絶えて避ることを得じ」とテサロニケ前書五章三節にあるが如しである。

〇滅亡は度々人類に臨む。然し滅亡の為の滅亡ではない。潔めの為の滅亡である。救ひの為の滅亡である。世の終末と聞けば恐ろしくあるが|終末ではない。新天地の開始である〔付△圏点〕。最後に此世に臨む大破壊、大激変は此目的を以て臨むのである。それと同じく今回の此災害も亦此目的を以て臨んだのである。之に由て東京と日本とが亡びるのではない。|より善き、より〔付ごま圏点〕義しき|より〔付ごま圏点〕潔き東京と日本とが現れんとして居るのである。先づ第一に亡びたのは恋愛至上主義である。旧き日本に於て旧き道徳が再び権威を有つに至つた。此は実に有難い事である。有島事件と此震災と孰れが大なる災害でありし乎と尋ねらるゝならば、私は有島事件であると答へる。震災は物質並に肉体の喪失を生じたに過ぎないが、有島事件に現はれたる道徳の堕落は霊魂の滅亡を意味する。若し数十万人の(31)肉体の犠牲に由て数千万人の霊魂が拯《たすか》りたりとすれば、犠牲は決して過大なる者ではない。

〇此震災に由りて永く鎖されをりし同胞間の同情の泉が開かれた。日本人の胸中、猶ほ未だ熱き同情の存する者ありとは今回の災害に由て明かに示された。而已ならず、米国の日本に対する伝統的友誼が復活して、茲に危機に瀕せし日米関係が昔しの美はしき状態に復りつゝある。而已ならず、将さに敵国と化せんとしつゝありし隣国の支那までが、其防穀令を撤回して、数十万石の米穀を我国に寄贈しつゝあるとの事である。神は日本国に大なる傷を負はせ給ひて、其民の霊魂を覚し又全世界をして之に対して同情を注がしめて、所謂排日運動の根を絶ち給ひつゝある。|私供は茲に新日本建設の絶好の機会を与へられたのである〔付○圏点〕。(一九二三年九月九日)

 

(32)     宗教と実際生活

        (八月五日夜、軽井沢集会堂に於て一般公衆に向つて述べし所のもの)

                         大正12年10月10日

                         『聖書之研究』279号

                         署名 内村鑑三

 

〇人生は其れ自身にて完全である。地の富源は無窮である。克く之を開発すれば、生活のすべての欲求を充たして余りがある。生の理は深遠である。克く之を究めて之を実際に応用すれば、望《のぞみ》として達せられざるはない。人生に必要なるは能力と知識とである。是れあればすべての満足を得る事が出来る。何も神とか来世とか、信仰とか宗教とか、霊魂とか死後生命と云ふが如き、有つて無きが如き、人生以外の物を求めて、之に由て生存するの必要は少しもない、とは私が現代の多くの識者より聞く所であります。

〇そして一見して彼等の言ふ所に理があるやうに思へます。人生に多くの苦痛、多くの矛盾、多くの不満がありますが、是等は適当の方法を以て取除く事の出来ない者ではありません。其最も簡単なる者の一例を挙げますれば、気候に寒暑の変化があつて、冬は寒に苦しみ夏は暑に苦しみますが、是は勿論避け難い苦しみではありません。東京に本宅を構へ、熱海と軽井沢に別荘を設け、気候の変化に随つて家族を挙げて移転しますれば、寒暑問題は容易に解決せられます。又現代人が幸福の絶頂と見做す完全なる家庭生活の実現も亦達し難き志望ではありません。遺伝学の原理に基いて美《よ》き妻を択び、優生学《ユーゼニツクス》の教ゆる所に従ひて子を設け、幼稚園より大学に至るまで(33)最上等の教育を施しますれば、一家は美くしき愛の花園の如き者に成りまして、人生のすべての満足を其内に得ることが出来ます。其他すべてが如斯しであります。必要なる者は能力と知識であります。能力=金と知識とさへあれば人生に於て得られない者はない、故に吾人は宜しく能力を代表する富を作り、人類が蓄積せるすべての知識を取得して、人生を完全に且つ極度に楽しむべしと云ふのが現代人多数の唱道する所であります。

○然し乍ら実際の事実如何と尋ねまするに、是等の理想は容易に達せられないのであります。其内最も簡単なる避暑すらも、多数の人には実行し得ないのであります。其他の事に於て人生の不如意は何人も否む事は出来ません。最も明晰なる頭脳の所有者も多くの間違を為します。富豪の実行し得ない事柄は沢山に有ります。人生は其れ自身にて完全であるとは実現する事の出来ない理想であります。若し強ひて実現せんとすれば死を以て之に当るまでゞありまして、人は徹底と称して讃て呉れませうが、生命を滅して人生を楽しむとは矛盾の最も大なる者であります。而已ならず人生は其れ自身で完全であるとは正しい理想である乎、其事が疑問であります。若し私が全世界を私の所有としたならば、それで私は満足しませう乎。知識の進歩が其極に達したとして、それで人類は完全に幸福でありませう乎。爾うは思はれません。私供は富豪より多くの悲痛《かなしみ》を聞かされます。独逸は其優れたる国民的知識を以てして、今や殆んど滅亡の淵に沈みつゝあります。|人生は人生以外の生命を以て之を補ふにあらざれば〔付○圏点〕完成《まつたう》することが出来ないやうに見えます。

〇人の生命は一つである乎、二つである乎、問題は是であります。大抵の人は、文士識者と云ふ人までが「一つである」と答へます。生命に懸替がないと云ひて、若し此短かき人生に於て失敗すれば、恢復の途はないと云ひます。然るに少数の偉人、本当の識者は「生命は一つでない、二つである、そして人生と称する此肉の生命は|よ(34)り〔付ごま圏点〕劣りたる生命であつて、其外に、又其上に|より〔付ごま圏点〕高き|より〔付ごま圏点〕優りたる生命がある」と云ひます。それ故に、縦し其一つに於て失敗しても、他に於て償ふ事が出来る。肉の生命に於ける不足は霊の生命の充実を以て充分に補ふ事が出来る。恰かも脳髄は一葉でなくして二葉である。縦し其一を傷めても他を以て之を補ふ事が出来ると云ふと同じであります。又若し生命を家に譬へますならば、それは一室の家ではなくして二室の家である。一室の不足は隣室の完備を以て補ふ事が出来ると云ふと同じであります。そして私は生命二室説の万が一室説よりも遥に優りたる、且又道理と事実に合うたる説であると思ひます。

〇言葉を変へて云へば、人は一つの世界に住む者ではなくして、二つの世界に住む者であります。其第一は此世界でありまして、私は之を単に世界又は物質界と称しませう。其第二は霊の世界でありまするが故に、之を霊界と称して差支ないと思ひます。現世来世と云ふて来世は現世の後に来るのではありません。物界と霊界とは同時に存在するのであります。そして物界は廃れても霊界は残るのであるかも知れません。何れにしろ人は一つの世界に住むのではなく、二つの世界に住むのであります。故に一の世界に於て失敗しても失望するに及びません。殊に失敗せる世界が|より〔付ごま圏点〕劣りたる、暫時的の世界であると知れば、失望は更らに尠い訳であります。英国の文豪にして社会改良家なるチヤーレス・キングスレーと云ふ人が日ひました、My min to me a kingdom is.(私の心は私に取り一の大なる帝国である)と。若し克く之を開発すれば私共各自の心が「一の大なる帝国」と成るのであります。故に此世界に於てアレキサンドルやシーザーのやうに大帝国を得ずとも、自分の心の内に大帝国を築きて之に帝たり又王たる事が出来るのであります。

〇そして宗教とは元来何である乎と云ふに、此霊界に於ける生活に外ならないのであります。「神は霊なれば之(35)に事ふるに霊と真実を以てせざるべからず」とナザレのイエスは曰ひました。そして霊界に生くる道を教へし点に於て、古今東西未だ曾てイエスに勝《まさ》つた者はないと思ひます。然しそれは別問題として、霊の生命に充実して、人は容易に此世の不幸、不公平、不完全に応ずる事が出来ます。単に何人にも起る日々の煩慮《わづらひ》に勝つ事が出来るのみならず、時に身に迫る大困難に処して、平安なるを得るのであります。私の知る人の内にも、身は不幸の極に居るも、顔は歓喜を以て輝く者は尠くありません。有名なる女詩人座古愛子の如き確に其一人であります。齢二十歳にして身体の自由を失ひ、残余の生命を病の床の上に送つて居りますが、彼女に常人の知らざる生命が溢れて居りまするが故に、彼女に歌もあれば文もあります。病床に在りて彼女は人を指揮して社会改良を行ひます。彼女に不平の痕跡だも認むる事は出来ません。多くの人は彼女を慰めんとて彼女を訪ふて彼女に慰められて帰ります。そして彼女は決して単独の実例ではありません。

〇人には何人にも斯う云ふ世界が在るに拘はらず、之を耕さないのは大なる損失ではありません乎。恰かも日本に何処かに広い領土があるに拘はらず、人口稠密に苦しみながら之を棄て省みないと同じであります。今日程自殺の多い時はありません。精神病院は何処でも満員であります。或る程度の神経衰弱に罹つて居ない者は殆どありません。大抵の男と女とは皆んな「問題」を持つて居ます。そして其問題と云ふが大抵は生活問題か恋愛問題であります。そして此問題に窮して首を縊る者、毒を仰ぐ者、喉を突く者が日々絶えないのであります。是は抑々如何いふ理由であります乎。他に種々の理由もありませうが、今日の日本人の多数が一の世界の在るを知つて、他に|より〔付ごま圏点〕善き、且|より〔付ごま圏点〕大なる世界の在ることを知らないからではありません乎。若しキングスレーのやうに「私の心は私に取り一の大なる帝国である」との信念がありますならば、此んな事はない筈であります。人は(36)宗教は実際生活に超越して、之とは何の関係もない者であると云ひますが、それは全く違ゐます。人が人である以上は――彼の裏に肉なる彼と霊なる彼との在る以上は――霊の生命たる宗教は、彼の安寧幸福に何の関係も無い事でありやう筈はありません。其反対に宗教の闡明、進歩、発達に由り、肉の世界の不調が調和され、其多くの失望と悲痛《かなしみ》とが取除かれ、世は縦し暗黒の極に達するも、我心の一面に於て大なる光明に浴することが出来ます。〇而已ならず、霊の世界の開拓に由て、新たなる能力が肉の世界に臨みます。真の宗教は単に悲歎を取除くと云ふやうな消極的勢力ではありません。「我を信ずる者は其腹より生命の川流れ出て窮りなき生命に至らん」とありまして、真の信仰は活動のすべての方面に於て活気と新勢力とを加へます。其事は欧米の歴史のみならず、我国の歴史に徴して見ても明かであります。最も徹底的の社会改良は信仰の復興に由て起ります。今日の英国又は米国又は和蘭を生んだ者はピユーリタン運動と云ふ深い強い宗教運動であつた事は歴史の明かに示す所であります。霊界の大なる覚醒なくして、大なる美術も文学も哲学も、そして之に伴ふて来る人生万般の革新は起りません。人は霊的動物であります。彼は霊的に充実せずして健全なる発達を遂げ得ません。恋愛至上主義を唱ふる現代の日本人と雖も、まさか此主義に由て大国家が起り、家庭が清められ、清き義しき信仰の勇者が起りて、霊魂《たましひ》の根柢に永遠の生命を植附けやうとは信じまいと思ひます。

〇勿論宗教にも種々あります。高い宗教と低い宗教とがあります。宗教の腐つた者は武士《さむらひ》や女の腐つたやうに最も醜い者であります。然し乍ら物が腐ると云ひて其物が悪いと云ふ事は出来ません。其反対に、物は善い程腐り易いのであります。石や鉛は腐りませんが、百合花やダリヤは腐ります。腐敗は生命の特性であります。そして(37)宗教が政治以上に腐り易いのは政治以上の生命たる証拠であります。そして宗教が腐つた場合には之を棄てゝ、直に霊的生命の源に行いて新たに宗教を受くれば可いのであります。そして其源は今此所に在ります。諸君の心の内に在ります。私の宗教の経典たる聖書の内には斯う云ふ事が書いてあります、即ち

  嗚呼汝等渇ける者よ、尽く生命の水に来れ、金なくして貧しき者も来るべし、汝等来りて男ひ求めて食へ、金なく価なくして生命の葡萄酒と乳とを買へ、何故に糧にもあらぬ者の為に金を費し、飽くことを得ざる者の為に労するや。(イザヤ書五十五章一、二節)

 諸君の御参考までに申上げます。

 

(38)     ソドムとゴモラの覆滅

                     大正12年10月10日、11月10日

                     『聖書之研究』279・280号

                     署名 内村鑑三

 

    (其一) 創世記第十八章第十九章の研究 (九月三十日柏木聖書講堂に於て述ぶ)

 

〇ソドムとゴモラの覆滅はノアの洪水に次ぎ聖書に記されたる最も顕著しき出来事であります。二者共に神が人類の罪を罰せん為に時々送り給ふ天災の模型でありまして、克く之を究めて、天災の何たる乎、其道徳上の意義並に信仰上の教訓を覚ることが出来ます。神の審判は最も明かに之を以て現はれました。故に神の審判を説く時に之を参照するのが常であります。イエスも弟子達も屡々之を引いて、神の審判と之に備ふるの途を述べました。ノアの洪水は別として、ソドムとゴモラに関し、新約聖書の左の二箇所は人の克く知る所であります。

  路加伝十七章二十八節以下。又ロトの時にも如此ありき。人々飲食、売買、耕作、建築など為たりしがロトソドムより出し日に、天より火と硫黄を降らせて彼等を皆滅せり。人の子の顕はるゝ日にも亦如此あるべし。ロトの妻を憶へ。凡そ其生命を救はんと欲する者は之を失ひ、之を失はん者は之を存つべし。

  彼得後書二章六、七節。又ソドムとゴモラの邑を滅さんと定め、之を焼きて灰となし、後の世に於て神を敬はざる者の鑑とし、たゞ義しきロト即ち悪者の淫乱の行為を恒に憂へし者を救へり。

(39) 以上新約聖書の言は孰れも克く創世記の記事を説明する者でありまして、私供は之に由て、二市の堕落の程度、其の特に罰せられし罪の種類をも委しく知る事が出来ます。

〇先づ第一に知るべきは、両市に臨みし天災の性質であります。之を天罰として見ずして、かの地域にあり得べき天然的現象として見て、充分に説明する事が出来ます。パレスチナは日本と同じく地震国であります。之に幾回《いくたび》か大地震が臨みました。其内最も有名なるはユダの王ウジヤの治世第二十七年に起つた者でありまして、其事がユダヤの歴史に新紀元を劃して居ます。旧約のアモス書は左の言を以て始つて居ます。

  テコアの牧者の一人なるアモスの言。此はユダの王ウジヤ、イスラエルの王ヨアシの子ヤラベアムの世、|地震の二年前〔付○圏点〕に彼に示された者なり。

 同じ事がゼカリヤ書十四章四節五節に記いてあります。

  其日にはヱルサレムの東に当る所の橄欖山に彼の足立たん、而して橄欖山その真中《たゞなか》より東西に裂けて甚だ大なる谷を成し(裂罅《れつこ》を生じ)、その山の半は北に、半は南に移るべし。汝等は我山の谷に逃げん……汝等はユダの王ウジヤの世に地震を避けて逃し如くに逃げん。我神ヱホバ来り給はん。

 地質学上より見て所謂「ヨルダンの谷」は地震に由て出来た者であります。美はしきガリラヤの湖も亦、我国の葦の湖又十和田湖と等しく、地震火山の働らきに由て出来た者であります。ヨルダン河の南に尽くる所が死海でありまして、之は長さ四十六哩、幅十哩の深い溝であります。ヘルモン山の麓より死海の南端に至るまで、直径凡そ百哩、此は多分地質学上第三紀の初の頃、大地震を起したる地層大欠裂の結果として出来た者であらうとの事であります。そして今に至るも其形跡に歴然たる者がありまして、死海沿岸到る所に噴火又は地震に因る地(40)層大変動の跡を見る事が出来るとの事であります。故に若しソドムとゴモラとが死海の東北隅或ひは南部に在つたとすれば、其覆滅に関する創世記の記事は、科学的に充分に説明する事が出来ます。第十九章廿三節に「ロトゾアルに至れる時太陽地の上に昇れり」とあれば、時は日の出少し過ぎつ頃であつたでありませう。二十四節に「ヱホバ硫黄と火を天よりソドムとゴモラに降らしめ」とありますは、地震を起せし地層欠裂の結果として、地下に圧搾せられし瓦斯が放出し、之に押されて地中に堆積せし硫黄とアスフハルト(地瀝青)が点火された儘に空中に運ばれ、火の雨と成つて市《まち》の上に降つたのでありませう。二十五節に「其市と低地と其邑の居民及び地に生《おふ》る者を尽く滅し給へり」とあるは克く解ります。此場合に於ては今回の東京横浜の場合とは異なり、出火の原因は人為的ではなくして天然的であり、随て荒廃の程度も更に甚だしく有つたでありませう。二十六節「ロトの妻は後を回顧《かへりみ》たれば塩の柱となりぬ」とある、「柱」は「塚」と読むべきであると云ひます。焼失せし家恋しく、置棄し財貨欲しくして後を回顧しロトの妻は、地層の割目より放出せる濃厚の塩水の掩ふ所となり忽ちにして塩の塚と化したのであらうとの事であります。二十七節「アブラハム其朝夙に起きて、ソドムとゴモラ及び低地《くぼち》の全面を望み見るに、其地の烟竈の烟の如くに騰上《たちのぼ》れり」とあるは、高地より見たる低地全滅の有様を叙して余す所がありません。

○如此くにして、ソドムとゴモラの覆滅を地震国に於て起りし天然の出来事と見て何の不思議もありません。之に天罰とか神怒とか云ふ事を加へて解するの必要は少しもありません。地震の事は地震学者のみ克く之を知つて居ます。之を宗教家に問ふの必要はありません。創世記の此記事はヨルダン流域殊に死海窪地の地質を研究する為の材料としては価値の至つて多き者であります。然しながら民の罪悪を罰する為の神の行為として見るが如き(41)は、是は現代人の敢て爲さゞる事であつて、天然と道徳とを混同する無智の結果と云はざるを得ないと云ふが普通であります。

〇然し是は聖書の天然の見方ではありません。聖書は神の支配の手を離れたる者として天然を考へません。ヒブライ書一章七節は云ひます「神は風をその使者《つかひ》となし、火焔をその役者《つかへびと》となす」と。「風は己がまゝに吹く」と云ふは「風は勝手に吹く」と云ふ事ではありません。「風は人に構はず吹く」と云ふ事であります。人は風を支配することは出来ませんが、神は其聖意を行ふ為の使者として之を使ひ給ひます。旧約の士師記五章二十節にあります「天より之を攻むる者あり、諸の星其道を離れてシセラを攻む」と。神は己に逆らふ者を攻むるに方て天の星をも使ひ給ふと云ふ事であります。天然は神より独立して、惟り其法則に従ひて動くと云ふは、神を人の如き者と見ての云ひ方であります。人は天然に服従する者、神は天然を支配する者であります。若しさうでなければ神は神でありません。人の見たる天然が所謂天然であります。神の見たまふ天然は天然ではなくして摂理であります。そして人が己を神の立場に於て見る時に、天然は天然として見えずして摂理として見えます。之を称して信仰の立場と云ひます。そして聖書は神の立場より歴史と天然とを見たる記録でありまして、是は信仰を以て解すべき書であります。

〇そして信仰を以てする天然の見方は決して不合理の見方ではありません。天然の意味は科学的説明を以て尽きません。其事は天然が科学者以外、詩人にも、美術家にも、観察模倣の材料を供するに由ても解ります。ヲルヅオスの見たる天然と、ニユートンの見たる天然とは違ゐます。然し同じ天然であります。天然は科学者の専有物ではありません。そして信仰家も亦彼れ特有の天然観を有つのであります。彼は聖書の教に従ひ、風を神の使者(42)と見、火焔を其役者と見るのであります。そして有限の彼には天然界の一事一物を悉く神の聖旨の働きとして解することは出来ませんが、然し天然を全体として見る時に、又は其顕著き出来事に遭遇する時に、其内に鮮かに神の聖旨を読む事が出来るのであります。すべての真の予言者に此の能力があつたのであります。そして創世記の記者の如き其一人であつたのであります。彼は死海の沿岸に起りし此天然的大変動に明かに神の聖旨を読んだのであります。そして彼の読方の誤まらざりし事を、後世の我等は認むるのであります。

〇天災と罪悪との間に何か深い関係のある事は人が本能的に知る所であります。勿論人類の現はれざりし前に地震も噴火もあり、又今日と雖も勘察迦や南極大陸に於けるが如くに、人間の住まざる所にも起りまするが、然し乍ら|人類の行為と関聯して見て〔付△圏点〕、天変地異は道徳的意義を帯ぶるのであります。そして其顕著しき実例の一がソドムとゴモラの場合でありました。そして又其他にも同じ実例を見るのであります。紀元七十九年、今より千八百四十四年前、伊太利国ネープルス湾に臨み、ヴエスービアス火山の麓にポムべイとヘルキユレニウムと称する繁華なる二個《ふたつ》の市が、一夜の内に火山の噂火に由て跡方なしに滅びました。其廃滅たる実に完全なる者でありまして、其後千五百年間、其曾て在りし場所までが忘れらるゝに至りました。それが今より百五十年程前に発見されて、今は殆んど全部発掘されて昔の儘の市を今見る事が出来るのであります。其内のポムべイは羅馬上流社会の海浜遊興地でありまして、奢侈淫蕩を極めた所でありました。それが瞬間に軽石と火山灰とを以て埋まりて今日まで其儘に保存されたのでありまして、彼国に旅行者する者は、今日|目前《まのあたり》に昔時の羅馬人の所謂文化生活を見るのであります。そして其生活たる如何なる者であつた乎と云ふに、多分一言以て之を言尽す事が出来ると思ひます 即ち「恋愛と芸術」と。其壁画に美術上より見て貴重なる者が夥多《あまた》あるとの事でありますが、|画の題目〔付△圏点〕(43)に至ては到底紳士淑女の見ることを許さないとの事であります。「之より内婦人入るべからず」との掲示がありて幕を以て掩はれてあるとの事であります。ポムべイの癈墟を委しく調査した者は云ふのであります、此市にして此天災に遭ひたるは当然である。神は火山の噴火を以て此市を滅して、後世の懲戒《みせしめ》となし給うたのであると。勿論此場合に於ても他の場合に於けるが如くに、多くの辜なき者が罪ある者と共に滅びたでありませう。然し「市としてのポムべイ」は罪ある市であつた事は、其遺物が証明して余りあるのであります。天は火山の噂火を以てポムべイの市を滅したりと云ひて何人も異論を唱ふる事が出来ないのであります。 〔以上、10・10〕

 

    其二 アブラハムとロト 創世記第十三章の研究

 

〇天災は之を避くる能はずとは普通一般の見解である。天災は研究の結果終に之を避くるを得べしとは学者全体の所信である。天災は神の道に従ひて之を遅くるを得べしとは信者の信仰である。信者と雖も勿論天災を予知する事は出来ない、然れども万事を知り給ふ神の命に従ひて、彼は彼の罹るべからざる天災に罹らずして済むのである。アブラハムとロトの場合が克く其事を示すのである。アブラハムは寛大にして其甥に譲りて天災を免がれたのである。之に反してロトは慾に駆られ、己が欲するが儘を行ひて、罪人に臨みし天災に己が身を苦しめたのである。道徳と天然との関係は如斯くにして現はる。「驕傲《たかぶり》は滅亡《ほろび》に先だち、誇る心は傾跌《たふれ》に先だつ。謙遜《へりくだり》とヱホバを畏るゝ事との報は富と尊貴《たふとき》と生命となり」との真理が茲に天然の出来事を以て証明されたのである。

〇「アブラハム ロトに言ひけるは我等は兄弟なれば、請ふ我と汝の間、及び我が牧者と汝の牧者との間に競争《あらそひ》あらしむる勿れ。地は皆な汝の前に在るに非ずや。請ふ我を離れよ。汝若し左に往かば我れ右に行かん。汝若し(44)右に往かば我れ左に行かんと」。伯父が甥に対する申出としては最も謙遜又寛大なる者であつた。然るにロトは之に対して如何なる行動を取りし乎と云ふに、

  是に於てロト目を挙げてヨルダンの凡の低地を瞻望《のぞみ》たるに、ヱホバがソドムとゴモラとを滅し給はざりし前なりければ、ゾアルに至るまで遍く善く潤沢《うるほ》ひて、ヱホバの園の如く、エジプトの地の如くなりき。ロト乃ちヨルダンの低地を尽く撰み取りて東に徙れり。斯くて彼等相互に別れたり

とある。如此くにして伯父の謙遜なるに対して甥は傲慢であつた。伯父の平和を愛するに対して甥は快楽を求めた。ロトは其欲する所を撰んだ。彼は東の方、ヨルダンの低地にソドムとゴモラの繁栄を瞻望みて、自己《おのれ》も都会生活の快楽を味はんとて、家族を率ゐて其処に徙つた。|ロトに臨みし〔付△圏点〕災難《わざはひ》|は茲に始まつたのである〔付△圏点〕。然し彼は其時成功の途を取りたりと思うた。伯父のアブラハムを山地に残して、文化生活の快楽を夢みながら都会を指して下つたのであらう。

  アブラハムはカナンの地に住めり。而してロトは低地の諸邑《まち/\》に住み、其天幕を遷してソドムに至れり

とある。諺に曰く「神は田舎を造り、人は都会を作れり」と。無私無慾のアブラハムは田舎に止まり、自分勝手のロトは都会に徙つた。而して凡の幸福がアブラハムに臨みしに対して、凡の不幸はロトに来つた。|幸福は之を求めざる者に来る、之を求むる者は却て不幸に見舞はる〔付○圏点〕。アブラハムが敢て低地に起らんとしつゝありし天災を予知したのではない。謙遜無私の途を取りしが故に、自づから災害を免かれたのである。無慾に勝さる利益なしである。宜《うべ》たり「ロトのアブラハムに別れし後、ヱホバ アブラハムに言ひ給ひければ云々」とありて、恩恵の約束の新たにアブラハムに降りしとは。

(45)○而してロトは伯父を離れ、山地を去りて都会に出て、如何なる所に往いたのである乎。「ソドムの人は悪くしてヱホバの前に大なる罪人なりき」とある。ソドムに文明的快楽は有つたが、之と共に多くの大なる罪悪が行はれた。其市民は悪人であつて、神の目の前には大なる罪人であつた。然るに此世の成功と快楽とに憧憬れしロトの眼には、低地《くぼち》の状態《ありさま》は「ヱホバの園、即ちエデンの如く、エジプトの地の如く」見えたのである。如此くにしてロトは清風爽なるユダの山地よりも、湿気《しつけ》重苦しきヨルダンの低地を択んで、神の民と共に苦難《なやみ》を受けんよりも、暫く罪の愉楽《たのしみ》を享けんとしたのである(ヒブライ書十一章二五) ロトは信仰の家に生れ、信仰の父と伯父とに成育《そだて》られながら、此世の人に成つたのである。アブラハムがすべて信ずる者の父であつて、信者の好模範でありしが如くに、ロトは堕落信者の好模型であつた。彼は充分に現世を楽しまんと欲した。そして楽しむ事を悪事であると思はなかつた。そして其思想が彼を駆つて都会に送つたのである。そして都会に出て罪の愉楽に与つて、都会に臨みし天罰に与つたのである。後にソドムとゴモラの覆滅に会ふや、彼は妻を失ひ、所有の全部を失ひ、其二人の娘と共に僅かに身を以て逃れ、住むに家なく天幕すらなくして、ゾアルの市より遠からざる山の巌穴《いはや》に住みたりと云ふ(十九章三十節)。是れ彼に定まりし運命と称ふを得んも、彼の誤りたる心の状態より起りし誤りたる選択が終に彼をして茲に至らしめし事も亦見逃すべからざる事実である。

〇而して己が欲する儘を行ひて都会に出て身を滅さん計りの災禍に会ひしロトの運命に対して、謙遜己を持し、愛の命ずる所に従ひて歩み、山地に止まりて勤倹素樸の生涯を継続せしアブラハムの運命は如何であつた乎。ヱホバは幾回も彼に顕はれ給ひ、彼に広大の土地と、衆多の子孫を与へん事を約束し給ひ、而して彼の生涯も亦平穏にして、恩恵はいやが上にも彼と彼の家族とに加はつた。イエスが幾回も繰返して言ひ給ひし「その生命を得(46)んと欲する者は之を失ひ、我が為に生命を失ふ者は之を得べし」との真理は最も明かにアブラハムとロトの対照に於て現はれたのである。

〇私は此例を引いて、今回の大震災に於て、災禍を免かれし者はすべてアブラハムの如き忠実なる信者であり、之に罹りし者はすべてロトの如き堕落信者であると云ふのではない。委りし者の内に善人あり、罹らざりし者の内に悪人ありし事を私は疑はない。|然し乍ら罹災者の内に多くのロトに似たる人のあつた事も亦疑ふ事は出来ない〔付△圏点〕。今回東京横浜等に臨みし大惨事は、之を尽く天災の結果としてのみ見る事は出来ない。天災に加ふるに人の犯せし罪が加はつて、此悲惨の状態を呈したのである。多分何十万と云ふ市民は、ロトがソドムに行いたと同じ心掛を以て都会に集ひ来つたのであらう。彼等の多数は、彼等の父や伯父や先生の忠告に叛き、唯単へに己が意見を貫徹せんとして、平静なる山間の故郷を離れて、都会に出て苦しき生活を営んだであらう。又多くの基督者《クリスチヤン》と称する人達までが、信仰と文化生活とを混同し、此世の事業に成功するを以て神の恩恵に浴する事と信じ、天然を通うして天然の神に接する楽しき田園生活を棄て、都会に出て都会人士と共に軽佻奢侈の生涯を送つて無意義の快楽に耽つたであらう。而して斯かる人達が今回の災禍に会うて、今更らながらに彼等の取来りし生涯の方針の全然誤まりし事に気附いたであらう。アブラハムの如くに無私であり無慾であり、成功を追はず、栄華を求めずして、人は何人も多くの災禍より免かるゝ事が出来る。又縦し天災に会ふと雖も、其損害を最少限度に止むる事が出来る。信仰道徳は天災に関係なしと云ふは間違である。神の支配し給ふ此宇宙に在りて、信仰も天然も同一の目的を以て働く。アブラハムは己に求めずして、罪の街《ちまた》を避けて天災を免かれ、ロトは己が欲するが儘を行ひて、此世の罪人と行動を共にし、彼等に臨みし災難に与りたりと云ふ、創世記の此記事は、其内に深き真(47)理を蔵する者であると云はざるを得ない。

〇旧約聖書は模範《タイプ》を以てする神の真理の啓示である。故に之を学ぷに方て模範に多くの例外あるを忘れてはならない。世には義人にして災禍に罹り、悪人にして之を免かれた多くの場合がある。そして人の幸不幸に由て彼を審判かざらんが為にイエスは左の教訓を述べ給うたのである。

  シロアムの塔倒れて圧死されし十八人はヱルサレムに住める凡の人よりも勝さりて罪ある者と思ふや、我れ汝等に告げん、然らず、汝等も若し悔改めずば皆な同じく亡さるべし(路加伝十三章四節)

と。決定的裁判は世の終末に行はる。夫までの裁判はすべて例証的たるに過ぎない。(九月三十日)

 

     其三 天使の訪問 創世記第十八章の研究

 

〇人類の歴史は神の審判の歴史であると云ふ。然らず、神の恩恵の歴史である。審判は行はれないではないが、恩恵を施す為に行はる。恩恵は目的であつて、審判は手段である。恩恵は常に施されて、審判は稀に行はる。太陽は日々に照り、雨は屡々降る。暴風は稀に吹き、地震は滅多に来ない。人が神の審判に注意して、恩恵を思はないのは、彼が神を離れ、罪に沈んだからである。ソドムとゴモラの覆滅は恐るべき事であつた。然し是れ全世界に極めて稀にある事である。而して其事ですら主として恩恵を施さん為にあつたのである。「是れヱホバ、アプラハムに其の曾て彼に就きて言ひし事を行はん為なり」とある(十九節下半)。即ち「彼をして其後の児孫《こどもら》と家族とに命じ、ヱホバの道を守りて公義と公道を行はしめん為なり」とある。其目的を達せんが為であつた(同節上半)。|世界人類に、未来永劫に渉り、アブラハムと彼の子孫とを通うして、神の公義と公道とを教へん為に、覆(48)滅の災禍がソドムとゴモラとに降つたのである〔付○圏点〕。

〇或日の事であつた、三人の遠人《たびびと》がアブラハムの天幕の入口に現はれた。彼は彼等が普通の遠人であると思うた。そしてアラビヤ人特有の款待を以て彼等を接待《もてな》した。然るに彼は後に彼等が普通の人でない事を発見した。彼等は天使であつた。殊に其内の一人は天使の首であつて、「ヱホバの使者」と称せられてヱホバ御自身であつた。彼は茲に人が其友と語るが如くに、アブラハムと面を対《あは》して語り給うたのである。「ヱホバ、マムレの橡木《かしばやし》にてアブラハムに顕はれ給へり」とあるは其事であつた。そしてヱホバは茲にアブラハムに大なる約束を為し給うた。それは彼の妻サラが一年の後に彼に男子を生まんとの事であつた。此は彼が終生望んで止まざりし所の者であつた。然るに彼は此時齢既にに九十九歳に達し、サラ又老ひて、嗣子を得るの希望は全く絶えた。然るにヱホバは彼等に此不可能事の実現を約束し給うた。サラは蔭にて此事を聞いて笑つた。ヱホバは彼女に告げて言ひ給うた、「汝笑へり、其笑を憶へよ、我が言の成らん時に、汝が産みし子をイサク(笑ひ)と命名くべし」と。是れ不信の詰責ではない、御約束実行の保証である。アブラハム夫婦は老境に入りて、待望みし一子を授けられ、之にイサク即ち「笑ひ」の名を附けて、永久に「ヱホバに豈為し難き事あらんや」との事を記念したのである。

〇此恩恵の約束を為し給ひて後に、ヱホバはアブラハムに一の大なる開示を為し給うた。それは彼が|ソドムとゴモラとを滅し給ふ〔付△圏点〕との事であつた。アブラハムは之を聞いて驚いた又震へた。自分に恩恵を約束し給ひし者はソドムとゴモラに覆滅を宣言し給うたのである。同じ天使が同時に恩恵と呪詛と、救拯と滅亡《ほろび》とを示し給うたのである。自己の為に喜びしアブラハムは低地の両市の為に悲んだ。如何《いかに》かしてヱホバの此御計画を翻《ひるがへ》さん乎と思うた。彼はソドムの罪悪を知つた。彼は幾回か之を歎き、幾回か警告を発して悔改を促した。然し聴かれなかつた。(49)彼は斯かる審判の終に両市に臨むべきを予言した。而して今や其実現の宣告を聞いて今更ながらに悲しみ且つ驚いた。此は実に神の人の心である。罪を憎むも罪人を憐む。刑罰の到来を予言せざるを得ずと雖も、愈々到来せりと聞いて、其撤回又は猶予を希はざるを得ない。神御自身に此心がある。神に煩悶はないと云ふは間違である。|神に正義と慈悲との衝突より来る大なる煩悶がある〔付△圏点〕。そして神に有る此煩悶が人にもあるのである。アブラハムは今やソドム、ゴモラの覆滅の到来を聞いて此煩悶に襲はれたのである。

〇ヱホバの使者二人は審判執行の為に低地に下つた。そしてアブラハムは今や独りヱホバの前に立つた。茲に於てヱホバとアブラハムの間に左の問答が行はれたのである。

  ア。貴神は義人をも悪人と倶に滅し給ひます乎。勿論給はないと信じます。若し市の中に五十人の義人あらば、貴神は尚ほ其処を滅し給ひます乎。其中の五十人の義人の為に之を恕し給ひません乎。貴神が義人を悪人と倶に殺し給ふと云ふが如きは、是れ有るべからざる事であります。義人と悪人とを同様に扱ひ給ふが如きは有るべからざる事であります。天下を鞫く者は公義を行ふべきではありません乎。そして貴神は審判人の模範ではありません乎。

  ヱ。我れ若しソドムの市の中に五十人の義人を看るならば、彼等の為にその全市を恕すであらう。

  ア。私は塵と灰に等しき者でありまするが、貴神の御慈愛を楯に取りて申上げます。若し五十人の義人の中、五人欠けたりとしますれば、貴神は五人欠けたるが為に市を尽く滅し給ひませう乎。

  ヱ。我れ若し彼処に四十五人を看るならば滅さないであらう。

  ア。若し四十人でありましたならば如何でありませう。

(50)  ヱ。我れ四十人の為に為さないであらう。

  ア。主よ。請《どう》ぞ御怒りなくして私の言ふ事を恕して下さい。若し彼処に三十人在りたらば如何でありませう。

  ヱ。我れ若し三十人を彼処に看るならば行《な》さないであらう。

  ア。私は大胆に申上げます。若し彼処に二十人看えなば如何でありませう。

  ヱ。我れ二十人の為に之を滅さないであらう。

  ア。アヽ我主よ、怒り給はずして今一度申上ぐる事を許して下さい、若し彼処に十人看えますならば如何でありませう。

  ヱ。我れ十人の為に滅さないであらう。

 アブラハムは是れ以上を言ふ事は出来なかつた。故に問答は茲に止んで、神と神の人とは相別れて各自其所に帰つたとある。

〇実に驚くべき問答である。然し乍ら神が人の子の上に審判を実行し給ふ前に、如此き問答は天の宝座《みくらゐ》の前に常に行はるゝのであると信ずる。神は容易に審判を行ひ給はない。そして終に行はざるを得ざるに至るや、多くの代願者が宝位の前に立つのであらう。其第一は勿論罪の贖主イエスキリストである。彼は其流し給へる血に訴へて、罪人の為に執成し給ふであらう。第二はアブラハムであらう。彼はソドムとゴモラの為に願ひしと同一の熱心を以て将さに滅ぼされんとする市や人の為に願ひ求むるであらう。第三はモーセであらう。第四はパウロであらう。其他聖徒の全衆は悪人、背教者、反逆者等の為に執成すであらう。|実に天に於て悪人の滅亡が決定せらるゝまでには、長い謀議が行はるゝであらう〔付△圏点〕。減刑の上に減刑が要求せらるゝであらう。赦免の上に赦免が宣告せ(51)らるであらう。然し罪の酌量其極に達し、之を越ゆれば神の公義が立つ能はざるに至つて、茲に万々止むを得ず、審判が悪者の上に降るのであらう。そして爾《しか》あるに相違ない。

〇ヱホバとアブラハムとの間に此切迫せる問答が行はれつゝありし間に、ソドムとゴモラの市民は何を為しつゝあつたであらう乎。彼等は飲み食ひ、娶り嫁ぎ、売り買ひ、耕し、築きつゝあつたであらう。彼等は何を為しても、唯神と其審判と丈けは思はなかつたであらう。彼等に若し神と其正義を説く者あれば、彼等は其迷信を嘲けるか、然らざれば自分等を鞫く者として其行為を憤うたであらう(十九章九節を見よ)。彼等は当時のエジプト又はバビロンの物質的文明を謳歌し、之に由て現世を最大限度に楽しまんと欲したであらう。彼等は「別けて汚れたる情慾に循ひ、肉の慾を行ひ、主たる者(神)を藐視《かろん》じ」たりとあれば、其|状態《ありさま》に能く震災前の東京に似たる所があつたであらう(彼得後書二章十節)。そして此状態を見て天に在す者は言ひ給うたであらう「汝愚かなる者よ、今夜(或は明日)汝が霊魂取らるゝ事あるべし」と(路加伝十二章二十)。人が神は在るとするも無いと同然であると思ふ時に、神は恐るべき事実を以て彼が活きて働き給ふ事を示し給ふ。「活ける神の手に陥いるは畏るべき事なり」である(希伯来書十章三一)。(十年十四日)

 

     其四 ソドムの罪とロトの運命 創世記第十九章の研究

 

。二人の天使はアブラハムの天幕を出で、ユダヤの山地を去り、低地を指して下つた。ソドムの市の門に至るやロトの迎ふる所となつた。ロトも亦アブラハムと同じく旅人接待の義務を怠らなかつた。然し乍らロトは悪人の中に在りて、接待に大なる妨害を受けた。ソドムの市民は老若挙りてロトに迫りて客人の引渡しを要求した。ロ(52)ト之を拒みたれば、市民は彼を却けて曰うた「汝退け、此人等は他国人なるに恒に我等の審判人たらんとす。然れば汝若し彼等を庇ふならば我等彼等よりも先づ汝を処分せん」と(九節)。罪に沈みたるソドム人にはすべての義人は審判人として見えたのである。悪人が求むる事にして放任の如きはない。彼等は他人の注意又は警告はすべて之を審判として感ずる。彼等に取りては神は恐るべき最大の裁判官、天使は其下に働く司法官、然らざれば刑の執行人である。故に之を忌む事甚だし、機会あらば之を除かんと計る。彼等が神の使者なる預言者を憎み、屡ば之を殺せるは此れが為である。「此人は寄寓者の身なるに恒に士師《さばきびと》とならんとす」と。ユダヤ人がイエスキリストを十字架に釘けたのも此理由に因るのである。

〇抑々ソドム人の罪とは如何なるものであつた乎。茲に的確と記《かい》てはない。然しロト自身が感染した罪に由て、其何たりし乎を略ぼ知る事が出来る。いかに客人接待が大切であるとしても、自分の娘の節操を犠牲に供してまでも之を行はんとするは、過誤の極である。然しソドム人の間に在りては、此は別に悪事であるとは思はれなかつたのであらう。而して又後に至りてロトの二人の娘が父に対して為した背倫の行為は、彼等の堕落を示すと同時に、ソドムを首府とする低地全体の堕落の状態を現はすものと云はざるを得ない。即ち|ソドム人特別の罪は乱倫であつたのである〔付△圏点〕。その事が口碑に伝はり、彼得後書二章六節以下に現はれたのである、即ち

  又ソドムとゴモラの市を滅さんと定め、之を焼きて灰となし、後の世の神を敬はざる者の鑑となし、唯義しきロト即ち悪人の淫乱の行為を恒に憂へし者を救へり。如此く神は……汚れたる情慾に循ひ、肉の慾を行ひ、主たる者を藐視ずる者を罰する事を知り給ふ。

と。即ちロトの行為、彼の娘の行為、並に新約聖書の此言に照して見て、ソドム人特別の罪の、情慾の罪、近代(53)人の所謂性慾の罪でありし事が判明る。そして之が異邦人特別の罪でありし事は、歴史の充分に証明する所である。前回に述べし通り羅馬ポムべイ市の罪が之であつた。神がイスラエルの民に全滅を命じ給ひし所の、パレスチナ土着の民カナン人の罪が之であつた。其他滅亡に定められし凡ての民の罪が之であつた(羅馬書二章二四節以下参照)。即ち彼等の堕落が性慾の罪に現はるゝに至つて、彼等は滅亡に定めらるゝのである。ロトの娘の行為は、今日之をインセスト即ち近親間の姦婬と称し、身震ひする程の罪悪であるが、然し乍ら道徳の堕落が終に茲にまで至るは決して無い事ではない。此はエジプト人の間に行はれた事であり、又異教カナン人の間には普通に行はれた事であらう。そして斯かる罪悪が異教の民の間に盛んに行はれたるが故に、モーセは之に対し厳格なる律法を設けたのである。事は申命記第二十七章二十-二十四節に明かである。人が禽獣にまで堕落する事である。そしてソドムとゴモラは茲にまで堕落したのである。

〇我等日本人に此罪なしと云ふて我等は誇るであらう乎。実に我等はロトの娘が犯したやうな罪を犯した日本婦人の在つた事を聞かない。我等は此事の為に神に感謝する。然し乍ら日本人は震災以前に此堕落の極にまで近づきつゝあつたのではあるまい乎。他人の妻を奪ふて己が妻と做し、或は己が夫を棄て他の男に適くは明白なる姦姪の罪として、世界全体に認めらるゝに関はらず、震災以前の日本人は、之を罪として認めざるに至りし而已ならず、彼等の内の多くの識者と称する者までが之を称讃々美して憚らざるに至つたではない乎。斯くて「不義(姦姪)は死罪」との日本人固有の道徳は全く廃れて、「不義は悪事にあらず、恋愛芸術め立場より見て寧ろ讃美すべき事なり」と云はるゝに至つた。而して事茲に至て茲に止まるであらう乎。罪は奇を好む者である。益々出て益々奇なりとは罪の行為の特質である。普通の姦婬が罪悪ならず却て美徳として認めらるゝに至つて、其次ぎ(54)に来るは特殊の姦姪である。インセストは即ち如此くにして始まるのである。罪悪の美術鑑賞《ヂレタンテイズム》である。奇なる丈け夫れ丈け美しく見える。そしてロトは自から択んで罪悪の市に住んで、自から其良心を鈍らせしに止まらず、其娘をして|芸術的姪婦〔付△圏点〕たらしめたのである。震災以前の東京はソドム程は堕落しなかつたと言ひ得やう。然しソドムに近づきつゝあつたは事実である。「此|輩《ともがら》は胆太く自放《わがまま》なる者にして尊者《たふときもの》(神)を謗る事を恐れざるなり」との言は、ソドムに於ても東京に於ても文字通りに真であつた。「此輩は」、殊に東京に於ける、文士と称する人達は、常倫を破るに大胆であつた。彼等は自放であつた、即ち何よりも自分の思想を重んじ、之に反対する者あれば、旧式なり、圧迫なりと云ひて激昂した。彼等は特別に尊者即ち神を誇りて恐れなかつた。彼等の多数は背教者であつた。そして背教者の常として何よりも彼等が曾て信ぜし神を謗るに熱心であつた。彼等の背倫と謗※[言+賣+言]《ばうとく》とは同一の原因より出るのであつて、神を謗る其心は大胆に背倫を敢てする動機であつた。

〇ロトは義人であつて、ソドム人の中に在り日々その不法の行為を見聞《みきゝ》して己の義しき心を傷めたりと云ふ(八節)。然し夫れは比較的に云ふに過ぎない。|ロトはソドム人に較べて〔付○圏点〕義人であつたのである。然し乍ら伯父アブラハムに比べては確かに堕落信者であつた。「腐つても鯛の骨」である。|堕落信者も不信者の中に在りては義人である〔付△圏点〕。一たび神の義を味ひし者は、日々不信者の不法の行を見聞して義を以て養はれたる己が心を傷めざるを得ない。ロトの如き薄信の信者と雖も、ソドム人の中に在りては、彼等の警告たり訓誡たりであつたであらう。そして神も亦ロトを忘れ給はなかつた。彼は彼をソドム人と同様に扱ひ給はなかつた。天使を遣はして彼と彼の家族とを救ひ出し給うた。然し彼等は容易に救はれなかつた。彼の妻はソドム恋さに後を顧《ふりかへ》へりて塩の塚と化した。ロト自身も亦恋々の情禁じ難くして、天使の命ずるが儘に山に逃れずして、附近ゾアルの邑に止まつた。彼(55)等は救はれはしたるものゝ纔に身を以て免かるゝに止まつた。ロトはパウロがコリント前書三章十四節に於て言ひしが如くに「己は火より脱れ出る如く救はれ」たのである。漸くさつと救はれたのである。

〇ロトの運命は憐むべき者であつた。彼は悪人ではなかつた。然し此世に多く見る意志の弱い人であつた。彼は妻の慫慂《すゝめ》に逆ふ能はずして伯父の忠告を省みずして虚栄の街なるソドムに移住した。彼は又娘の気儘勝手を抑制する能はず、彼等をして自由に不信者の婿を択ましめ、ソドムの罪に感染して、終に父の身をまで汚さしめた。アブラハムに較べてロトは信仰の人に非ずして情の人であつた。循つて此世に善く受けらるゝ人であつた。而かも神の人の平安と彼に降る完全の恩恵に与るを得なかつた。

〇「各人の工は明にならん、夫日《かのひ》之を顕はすべければ也、此は火にて顕はれん、其火各人の工の如何を試むべし」とパウロは言うた(コリント前三章十三節)。ソドムを滅せし火はアブラハムとロトとソドム人と、其他の人々の実質を顕はした。災禍の要は蓋し茲に在るのであらう。信者は信者、堕落信者は堕落信者、不信者は不信者、それを明に顕はす者が天災其他の災難である。天災其物は善人をも造らず又悪人をも造らない。然れども悪は之に由て亡び善は之に耐へて存る。神は焼尽す火である。然れども神の火を以てしても焼尽されない者がある。我等はアブラハムと共に純金の信仰を神より戴いて、此世界に幾回となく臨む審判の火に耐えて、終に父の永への家へと移されんことを祈る。(十月廿一日) 〔以上、11・10〕

 

(56)     BAPTISM OF HOLY SPIRIT.聖霊のバプテスマに就て

                         大正12年11月10日

                         『聖書之研究』280号

                         署名なし

 

     BAPTISM OF HOLY SPIRIT.(A Karuizawa Experience)

 

 An American missionary asked me:“Have you received baptism of Holy Spirit?”To which I answered:“I do not know. I have been a Christian for 46years,and for 30years I have been engaged in distinctly Christian works. For all these years I have not received any help whatever from churches and missions;I earned my living and working expenses and that,you know,in this unchristian country. Do you think I was able to do all these without baptism of Holy Spirit in some form?”The missionary was not pleased with my answer;my idea of baptism of Holy Spirit was not exactly like his. Christianity is a matter of life-and-death question with me;I have no “pet doctrine”to preach.

 

     聖霊のバプテスマに就て

 

 今年の夏、或る米国宣教師が私に問うて曰うた「貴君は聖霊のバプブテスマを受けました乎」と。私は之に答へ(57)て曰うた「私は知りません。私は基督信者に成りてから今年で四十六年になります。其内三十年間私は基督教の伝道に従事しました。そして其間に私は教会又は伝道会社より未だ曾て何等の補助をも受けませんでした.私は自分の生活費と伝道費とを自分の労働に由て得ました。御承知の通り私は此非基督教国に於て此事を為したのであります。貴君は私が或る形に於て聖霊のバプテスマを受けずして此事を為し得たと御考へなさいます乎」と。かの宣教師は私の此答を喜ばなかつた。聖霊のバプテスマに関する私の考は彼のそれとは異つて居つた。私に取りては基督教は生くるか死ぬかの問題である。私は人に説くべき私独特の教義を有たない。

 

(58)     災後余感

                         大正12年11月10日

                         『聖書之研究』280号

                         署名なし

 

〇大なる地震は東京、横浜、横須賀等の地を震うた。之に由て多くの人は死し、多くの産は失せた。人は曰ふ、此事ありしが故に、多くの人は罪を悔ひて神を信ずるに至るであらうと。然し余はさうは思はない。人は恐怖に由て罪を悔いず又神を信じない。人に悔改を起す者は恐怖に非ず愛である。風も吹かず、地も震へず、天地静にして我れ独り神と相対して跪く時に、我が心の耳に囁く彼の微なる声を聞いて、我は己の罪を耻ぢて、彼の赦免を乞ふのである。地震に由て出来し信者は、地震の記臆の薄らぐと同時に消失する信者である。伝道は恒に為すべき事であつて、今、特別に為すべき事でない。地震も雷も人を信者に為さない。人を信者に為す者は、唯神より出る聖霊のみである。

〇地震は信者を作らない、然し地震に由て信者が顕はれた。凡て震はるべき物と、焼かるべき物とを失ひ、而して震はれざる焼かれざる物が存つて、茲に天災が審判の功を奏したのである。金は金、銀は銀、鉛は鉛、禾稿《わら》は禾稿と、之を試す者は地震と火事とであつた。神は特別に金を守り、禾稿《わら》を焼き給はなかつた。|金と禾稿とを一緒に焼き給うた〔付△圏点〕。そして金は自から残り、禾稿は自から焼けた。焼かるゝ事が災禍ではなかつた。焼かれて残らざる事が災禍であつた。神は焼尽す火であると云ふが、神の火を以てしても焼尽す事の出来ない者がある。それ(59)は純金の信仰である。己が罪を認めて、キリストの十字架に神の完全なる赦免《ゆるし》を看出す詭譎なき信仰である。此信仰の試験に耐へて、最後の審判の火も之を焼尽すことは出来ない。恐ろしかつた、悲惨であると不信者は云ふ。幸ひである、感謝すると信者は云ふ。そして余輩は今此二つの声を聞きつゝある。

〇七十年に一度起る大地震は熄んだ。今より後六十九年間恩恵の年は続くであらう。我等は傷けて又癒し給ふ恩恵の主を讃美しつゝ、彼の御園に於ける喜ばしき労働《はたらき》に勤《いそし》むであらう。

 

(60)     震はれざる国

         希伯来書十二章十八節以下について

                         大正12年11月10日

                         『聖書之研究』280号

                         署名 内村鑑三 述

 

 希伯来書十二章十八節以下は今回の如き大震災の時に読みて教へらるゝ所多きものであります。今それについて委しく説明する時がありません故、たゞ大切な事について学びたいと思ひます。

 二十一節に「その見しところ極て怖ろしかりければモーセも我れいたく恐懼戦慄《おそれおのゝけ》りと曰へり」とあります。これはシナイ山にてモーセがヱホバより律法を与へられた時の事を云ふのであります。事は出埃及記二十章に委しく記されてゐます。

  かくて三日の朝に至りて雷《いかづち》と電光および密雲、山の上にあり、又喇叭の声ありて甚だ高かり、営にある民みな震ふ……民、山の麓に立つにシナイ山すべて煙を出せり。ヱホバ火の中にありて其上に下り給へばなり。その煙竈の煙の如く立ちのぼり山すべて震ふ。

とあります。律法の啓示は実に此異常事を伴つたのであります。新真理の啓示と異常なる時変との間に離れ難き関係があると見ねばなりません。

 預言者アモスの預言は「ユダの王ウジヤの世、イスラエルの王ヨアシの子ヤラベアムの世、地震の二年前に彼(61)が示されたるもの」であります(アモス書一の一)。これはユダのウジヤ王の治世に起つた有名な大地震で、預言者ザカリヤも亦この地震について云うて居ります(ザカリヤ書十四の五)。アモスに依りて新啓示がイスラエルに臨み、そしてその二年後に大地震があつたのであります。これは実に震ふべきものを震ひ、残すべきものを残さんためであります。之によりて凡ての偽りの預言者、悪しき祭司等の教は亡ぼされて、独り神の真理のみが残されたのであります。

 キリストに依て啓示せられた福音も同様であります。この大真理が示されて大事変は起らざるを得ません。そして大事変といふのは現在の世界の終末的大破壊であります。即ち聖書にいふ「世の終末」であります。福音が啓示せられたと云ふ事は、すでに世の終末のあるべきを示してゐるのであ ます。私どもは神の真理啓示の慣用法に訴へてみて、此事を信ぜざるを得ないのであります。

 此事について我等は更に二十六、七節を見るべきであります。之は左掲の改訳聖書にある訳が正しいのであります。

  その時其声地を震へり。されど今は誓ひて言ひ給ふ「我れ尚一たび地のみならず天をも震はん」と。この「尚一たび」とは震はれぬ物の存らんために、震はるゝ物、即ち造られたる物の取り除かるゝことを表はすなり。

 「震はるゝ物、即ち造られたる物」とあります。被造物は悉く震はるゝもの、焼き尽されるもの、亡ぼさるべきものであると云ふのです。これ聖書の見方であります。天地万物を恒久の物と見ない、又人類が進化完成して完全なる世界が実生すると見ないのであります。人生の無常を喞つ人は往々にして天然世界の恒常を高調しま(62)す。しかし聖書はその滅亡焼尽を主張します。

 しかし現在の世界の壊滅は新しき世界の出現のためであります。震はるゝ物の震はるゝは「震はれぬ物の存らんため」であります。今の世界が亡びてその次に完全なる世界が生るゝと云ふのであります。謂ゆる万物の復興、新天新地の生起であります。今の世界は恰も「足代《あしろ》」の如きものであります。高き家を建つるには足代が要ります。無知の野蛮人が突然文明国に来て、それを見たならば、その足代を家そのものと思ひ誤つて、その内に包まれて出来上りつゝある本当の家に気がつかぬのでありませう。そのやうに今の人は此世界を永久の世界と思つてゐますが、それは足代を家と思ひ過まる野蛮人に似た無知であります。足代が暫時的のものであると等しく今の世界は暫時的のものであります。完全なる世界が別に出来つゝあるのであります。之が神の御計画であります。そして時来れば足代は取除かれざるを得ません。受造物は悉く滅ぼし尽されざるを得ません。これは世界的大地震であります。そして新天新地が輝くが如くに現はれ出づるのであります。「われ新しき天と新しき地を見たり。先の天と先の地は既に過ぎ去り海も亦あることなし」(黙示録二十一の一)とある如くであります。

 故に我等は畏るべきで、又喜ぶべきであります。「この故に我ら震はれざる国を得たれば恵に感じて(感謝しつゝ)虔み敬ひ、神の御心に通ふ所をもて之に事ふべし。それ我等の神は焼き尽す火なり」(二八、二九)とあります。震はれざる国を確く保つことが人生の最大事であります。震はるべき国に望と生命を置いて、幾度その改造、復興に努力してもそれは早晩滅尽するものであります。震はれざる国に凡ての望と生命を置いてこそ、震はるべき世界の擾乱、災禍、滅亡に驚くことなくして、新天新地に於ける永への生命に与かり得るのであります。(十月七日午後の集りに於て)

 

(63)     理学と信仰

                         大正12年11月10日

                         『聖書之研究』280号

                         著名 内村鑑三

 

  我は光を作り又|暗《くらき》を造る。我は平康を作り又禍害を造る。我はヱホバなり、我れすべて此等の事を為すなり(以賽亜書四五章七節)。

  邑にて喇叭を吹かば民愕かざらんや。邑に禍害の起るはヱホバの之を降し給ふにあらずや(亜磨士書三章六節)。

  凡の事は神の旨に依りて召《まねか》れたる神を愛する者の為に悉く動きて益をなすを我等は知れり(羅馬書八章廿八節)。

〇万事万物は之を二つの方面より解釈する事が出来ます。之を天然的に解釈する事が出来ます、又信仰的に解釈する事が出来ます。之に学者の見方があります、又信者の見方があります。原因結果の法則に依る自然の出来事として見る事が出来ます。又神の聖旨より出たる摂理として見る事が出来ます。そして学者の立場より見れば信者の見方は迷信のやうに見えます。信者の立場より見れば学者の見方は不信のやうに見えます。二者孰れが真理でありませう乎。私達は迷はざるを得ません。

〇然れども物事に出会ひて私供は是等二つの見方を免がるる事は出来ません。此世の万事は天然的に起るのであ(64)ります。仮令キリストの奇蹟と雖も之を天然の現象として見る事が出来ます。物事を天然的に解釈せんとするのは決して不信の行為ではありません。是は人としては止むを得ない事であります。此世は道理の世であります。故に道理に合はざる事のありやう筈はありません。風は己《おの》が儘に吹くのではありません、吹くべき理由があつて吹くのであります。万事は道理を以て説明さるべき者であります。

〇そして斯う見る時に宗教も信仰も無きものとなつて仕舞ひます。人は皆んな学者と成つて、神に頼り、其聖旨を探るの必要は全くなくなります。然るに人は信仰を棄んと欲して棄つる事が出来ません。驚異(wonder)は人の生れつきの性質でありまして、是れありて美術もあり、詩や歌もあるのであります。天然は不思議でないやうで、最も不思議であります。万物に説明がついて、之に対する驚嘆の念は少しも減じません。其反対に反つて増します。ニユートンやフハラデーのやうな学者が最も深い信仰家であるのであります。此事それ自身が最も不思議なる事であります。

〇宇宙も人生も説明が出来て説明が出来ない、知識の上に信仰の余地がある、最も当然の事が最も不思議である、人は常識を以て万事を判断しながら信仰を以て歩まねばならぬと云ふ、是れが人生であるのであります。そして私供は人生の此不思議……或は之を矛盾と称しませう乎……此不可解の状態に満足して生涯を送らねばならないのであります。

〇私は近頃コロムブスの伝を復習して大に感ずる所がありました。彼が今より四百年前に出でゝ新大陸発見と云ふ大事業を遂げた事は決して故なきに非ずであります。彼は一人で此事を為したのではありません。彼の時代が彼をして此事を為さしめたのであります。コロムプスの亜米利加発見は決して奇蹟ではありません。欧洲人の地(65)理学的進歩と航海術の発達とが彼をして此時此事を爲さしめたのであります。然し乍ら彼の

 

時に起り、彼が為したやうにかの事を為した事は実に不思議と称せざるを得ません。時も時、人も人、事も事であつたのであります。時は早からず又遅からず、人は南欧の熱血男子、理想に溢れて思慮に乏しく、発見者たるに適して開拓者たるに適しませんでした。そして発見の区域は西印度の島嶼に限られ、八年間に渉る彼の四回の大探検に於て、彼は僅かに両大陸の片端に触れたに過ぎませんでした。私は彼の事績に就て読んで、ヨブ記三十八章十一節の言を想出さゞるを得ません、曰く「此までは来るべし、此を越ゆべからず」と。コロムプスも亦、他の偉人と同じく、神に遣され、神の命じ給ひし事丈けを為して其一生を終りし者と見るより他はありません。

〇そして偉人ばかりではありません、何人の生涯も同じ事であります。イエスは曰ひ給ひました、「二羽の雀は一銭にて售《うる》に非ずや、然るに汝等の父の許なくば其一羽も地に隕る事あらじ……汝等は多くの雀よりも優れり」と(馬太伝十章二九、三〇節)。学問の立場より見て雀は別に貴き者に非ず、それが地に隕るには明白なる理学上の理由が在ります。其様に人一人は別に貴き者に非ず、其生くるも死するも差したる問題となすに足りません。然し乍ら信仰の立場より見て問題は全く其性質を異にするのであります。人は何人と雖も其の生まるゝに意味があり、死するに意味があります。全能の神の許なくして彼は生れもせず、死もせず、又何事をも為し得ないのであります。私供各自が神の定め給ひし特別の時に生れ、特別の事を為すべく命ぜられ、特別の時に死ぬのであります。学問の立場より見れば人は至て詰らない者でありますが、信仰の立場より見れば人は何人も最《いと》貴い者であります。

〇それでありますから私共は万事万物を知識信仰の二方面から考へなければなりません。試に疾病《やまい》に罹つたとす(66)れば、私供は其所謂理学的方面を研究し、之を癒すに理学的方法を取らねばなりません。然しそれ丈けでは足りません。其信仰的方面をも究めなければなりません。「邑に禍害の起るはヱホバの之を降し給ふに非ずや」であります。病疾に罹りしには何にか神の摂理上の意味があるのであります。之を探り、之を知るのは信仰上有益であるばかりでありません、病疾を取除く為に必要であります。病疾は単に不養生の結果、又は外部の刺戟からのみ臨んだのではありません、父なる神の警告として、又は我が誤りたる意志の抑制として来たのであります。其道徳的原因を知りて、之を改めて、神の御赦免を乞うて、彼に之を取除いて戴くのであります。其れが本当の医癒《いやし》であります。

〇人生の万事尽く然りであります。之に理学的理由があります、又信仰的理由があります。二者孰れも看逃す事は出来ません。そして孰れがより深い理由である乎と云ひますに、後者即ち信仰的理由の方がより深くあります。論理学の術語を藉りて言ひますならば、信仰は大前提であつて、理学は小前提であります。我等人類は神の摂理と云ふ大なる囲《かこひ》の内に在る道理の世界に棲息して居るのであります。若し理学的にのみ観ますれば人生万事行詰りであります。日本は人口稠密の為に国民は遠からずして居るに所なきに至ります。ラベンスタインと云ふ地理学者の説に依れば、世界目下の人口は十六億であつて、それが六十億に達すれば、全世界は其れ以上に人口を支ゆる事が出来ないと云ひます。|そして其時の至るは今より僅に二百年の後であると云ひます〔付△圏点〕。誠に心細い次第であります。御互各自の過去現在を理学的に観察しまして、失望の外に何もありません。其遺伝性、其弱点と欠点、之に加ふるに日に増すばかりの生存競争の劇烈、之を思うて我心は消え行くばかりであります。

〇然し乍ら理学の指示以上に信仰の告知があります。信仰の囁きは理学の申立を打消して言ひます、「ヱホバは(67)其聖手の事蹟

ます。神の聖旨が成りつゝあるのであります。世界の過去を顧みて有つた事はすべて悉く善き事であつた事が判ります。将来も亦さうであるに相違ありません。世に憤慨すべき事、又在つて欲しき事は沢山にありますが、然し過ぎて見れば成るべき事がすべて成つたのでありまして、神の聖旨が行はれたのであります。信仰の眼を以て視て、人類の歴史に於ても、亦私供各自の小なる生涯に於ても、神が預言者ヱレミヤを以て曰ひ給ひし言が事実となりて現はるゝのであります、即ち「我れ汝等を眷み我が嘉き言を汝等に為さん……我が汝等に向ひて懐く所の念は我れ之を知る、即ち禍害を予へんとに非ず、平康を予へんと欲ふ也、汝等我に※[龠+頁]はり祈らん、我れ汝等に聴くべし」と(耶利米亜記二十九章十節以下)。信仰は神の此御約束を信ずる事であります。そして実際に於て理学の結論が成るのでなくして神の聖旨が就るのであります。信仰は理学以上の真理であります。(七月八日柏木に於て)

 

(68)     〔東京神田の焼跡に…〕

                         大正12年11月10日

                         『聖書之研究』280号

                         署名なし

 

〇東京神田の焼跡に初めて開かれたバラツク式の古本屋に於て、第一に現はれしは職人体の男であつた。そして彼が買求めし者は聖書であつた。第二に はれし者が之も同じく職人体の男であつて、彼が買ひ求めし者は内村鑑三著「基督信徒のなぐさめ」であつた。此は作り話ではなくして、事実であると警醒社主人より聞いた。そして若し事実であるとすれば喜ばしき前兆である。荒廃せる東京に於て初めて売れし本が聖書、それを買ひし者が職人……嗚呼神はまだ日本を見捨て給はない。如此くにして復興せる東京市に神の恩恵は裕かに宿るであらう。

 

(69)     PRAYER.祈祷に就て

                         大正12年12月10曰

                         『聖書之研究』281号

                         署名なし

 

     PRAYER.

 

 I do not pray myself. I let God pray for me. God the Spirit dwellingwithin me,praying through me the will of God, often wit hgroanings that cannot be uttered,――that is my true prayer.philosophically incomprehensible but experimentally true,this prayer of God praying to God through and in His children. It is my prayer because I let Him do it for me;and precisely because its contents are not my wishes and desires but His holy will, is it acceptable in His sight,and is sure to be heard. Abnegation of self is necessary even when addressing God for help. We must pray God that He may pray for us.

 

     祈祷に就て

 

 私は自分自身で祈りません。私は神様に私に代つて祈つて戴きます。霊なる神様が私の衷に宿り給ひて、私を通うして神様の聖意を祈り求むる事、時には言ひ難き慨歎《なげき》を以て、それが本当の祈りであります。哲学的には不(70)可解であります、然し実験的には真理であります、此の神様が其子供の衷に在りて彼等を通うして神様に祈り給ふと云ふ事は。それは実に|私の〔付○圏点〕祈りであります、何故なれば私が神様に祈つて戴くのであるからであります。そして其祈りの内容が私の慾や望でなくして神様の聖き意《みこゝろ》であるが故に、必ず其聖前に受けられて、屹度聴かるゝのであります。自己を無きものとする事は祈願を以て神に言ふ時にすら必要であります。私供は神様に神様が私供に代つて祈つて下さるやうに祈らなければなりません。

 

(71)     伝道師の慈善

                         大正12牛12月10日

                         『聖書之研究』281号

                         署名 内村

 

 |伝道師が為し得る最大の慈善は〔付○圏点〕潔|き、正しき、独立の福音を説く事である〔付○圏点〕。使徒行伝三章六節に使徒べテロが曰へるが如く「金と銀とは我に有るなし、唯我に有るものを汝に予ふ。ナザレのイエスの名に依り起ちて歩め」である。真の福音を以て萎たる霊魂をして起ちて歩ましむ、其事が伝道師の職分である。衣食を給し、生活の欠乏を補ふ事は大なる貴き事業であるが、然し是は神が伝道師に命じ給ふ事業ではない。同六章二節に「十二使徒等、弟子等を召《よび》集めて曰ひけるは、我等神の道《ことば》(福音)を棄て飲食の事(慈善事業)に仕ふるは宜しからず」とあるが如し。慈善事業を為す人は別に在る。伝道師は福音を伝ふるに忠実又勤勉たるべきである。若し伝道師が慈善事業を行ふべしとならば、それは消極的であつて積極的でない。即ち|彼れ自身が成るべく他人、殊に信者の重荷にならざらん事である〔付△圏点〕。若し伝道師が何人よりも補助を受くることなくして伝道に従事し得るならば、是れ彼が為し得る最大最上の慈善である。然るに此事を為さずして、自分は他人又は教会の補給を受けて、而して他人に生活の物資を施すと雖も、此は他人の手より取りて又之を他人に渡すに過ぎない。|世に不似合の事とて被給伝道師の慈善事業の如きはない〔付△圏点〕。伝道師は慈善を為さずとも可い。唯慈善に与らざらん事を努むべきである。彼の説く福音の純潔ならんが為に彼は宜しく生活の絶対的独立を守るべしである。そして此事が彼が世に為し得る最大(72)の慈善事業である。人はパンのみにて生くる者に非ず、神の口より出る凡ての言に由て生くるのである。潔き、真の神の言を世に給する者は最大の慈善家である。そして此資格を獲んが為に、伝道師は宜しく生活の独立を計るべきである。そして若し完全に独立し得ざる場合には、部分的になりとも独立すべきである。他人に施さずと雖も自分に施すべきである。そして潔き福音は之を惜みなく多量に施すべきである。縦し之が為に物貿的の社会と教会とが彼を如何に評するとも、彼は少しも心配するに及ばない。

 

(73)     基督信者の礼儀

                         大正12年12月10日

                         『聖書之研究』281号

                         署名 内村鑑三

 

〇近代人、殊に青年は、礼儀と云へば虚礼であると思ひ、礼儀を省みざる事が誠実であり真摯であると思ふ。礼儀と称せらるゝ者の内に虚礼のある事は余輩と雖も疑はない。然し乍ら礼儀はすべて虚礼であつて、無礼が却て誠実であると思ふは大なる間違である。真の礼儀は人に対する尊敬である。人はすべて神の像に象《かたど》られて造られたる者、其資格に於てすべての人が吾人の尊敬を値する。殊に吾人の長者に対して、彼等が或る意味に於て神を代表して吾人に対する者であるが故に、吾人は神に対する尊敬を以て彼等に対しなければならない。そして実際の所、礼儀の無い所に誠実はない。適当の礼儀を欠いて、師弟の関係なり、友人の関係なり、其ほか人と人とのすべての正しき関係が永久に持続せられた例はない。縦例《たとへ》夫婦の関係と雖も礼なくして之を正当に維持する事は出来ない。|礼儀は耐久的関係の必要条件である〔付○圏点〕。

〇言ふまでもなく我等の主イエスキリストは礼儀の人であつた。「彼は神の実体にてありしかども自ら其の神と匹《ひとし》く在る所の事を棄がたき事と思はず、反て己を虚うし、僕の貌を取りて人の如くなれり云々」とある(ピリピ書二章六節)。謙遜は礼儀の精神である。真の謙遜の在る所に礼儀は在らざるを得ない。イエスは父母に対して孝でありしは勿論、年長者のバプテスマのヨハネに対して、少者が長者に対するの礼を欠かなかつた。「我は爾より(74)バプテスマを受くべき者なり」とのヨハネの辞退の言に対して彼は曰ひ給うた、「暫く許せ、如此凡ての義き事は我等尽すべきなり」と。イエスは己を殺さんと欲する祭司の長の前に立ちても、彼を敬ひ、然して彼の命に従ひ給うた。人類の王たる彼は、すべての人を神の子として扱ひ給うた。己の弟子の足を洗ひて耻とし給はざりし彼は礼儀を其根本に於て行ひ給ふ者であつた。

〇イエスの心を最も克く解せし所のパウロも亦礼儀を重ずる人であつた。「礼儀を以て相譲り」とは彼の教訓であつた(ロマ書十二章十節)。彼は神より委ねられし使徒たる職権を組持して譲らなかつたが、彼れ自身としては常に凡ての人の下に出で、其権利を侵さず、其感情を害はざるやうに努めた。ピレモン書に現れし彼の如き、実に今日の言を以て曰へば「完全なる紳士」であつた。彼も亦彼の主イエスと同じく祭司の長の前に立たせられた。使徒行伝二十三章一節以下の記事は此場合に於ける彼の挙動を記せるものである。

  パウロ議会に目を注ぎ、彼等を見て曰ひけるは、人々兄弟よ、我れ今日に至るまで凡てのこと良心に由りて神に事へたりと。祭司の長アナニア|側《かたはら》に立てる者に命じて彼の口を撃たしむ。是に於てパウロ彼に曰ひけるは、白く塗りたる壁よ、神は汝を撃ち給はん、汝が坐せるは律法に循ひて我を審ん為なるに、律法に違ひ命じて我を撃たしむる乎。側に立てる者ども曰ひけるは、汝、神の祭司の長を※[言+后]《のゝし》るや。パウロ曰ひけるは、兄弟よ我れその祭司の長なるを知らざりき、知らば然か言はざりし也、そは汝の民の有司《つかさ》を誹る勿れと録されたり。

 パウロは知らずして祭司の長を詰責した。そして其過失を示さるゝや、直に改めて己が無礼を謝した。パウロは福音の使者たるの権威を笠に被て、ユダヤ教会の首長を誹るが如き非を行はなかつた。

(75)○パウロのみならず、凡ての使徒等の教も同じであつた。彼得前書二章十七節が此事に関するべテロの教であつた、曰く「衆《すべて》の人を敬ひ、兄弟を愛し、神を畏れ、王を尊ぷべし」と。礼と云ふ文字は使うてないが、然し礼を教ゆる深い言である。「衆の人を敬ふべし」。そして心の在る所には行之に伴ふ。礼儀は虚儀ではない。敬虔の表現《あらわれ》である。

〇神の教は如此あるに係はらず、所謂基督教会は礼儀の行はるゝ所でない。私の知る範囲に於て、所謂基督教会は社会主義者の社会と同様、或る場合には之に劣りたる、礼儀の行はれざる社会である。殊に新教即ちプロテスタント教会に於て然りである。新教は其|創始《はじめ》より礼儀を軽んじた。パウロの再生と思はれしルーテルは、礼儀の一事に於てはパウロの正反対であつた。彼は旧教の首長を誹るを以て高徳であるかの如く思うた。「汚《けが》れたる豚」とは彼が羅馬法王を呼ぶ普通の名であつた。そして無礼に始つた新教会は今も猶ほ無礼である。ルーテル教会はカルビン教会を※[言+后]り、カルビン教会はルーテル教会其他すべての教会を※[言+后]る。監督メソヂスト、バプチスト等、其点に於ては少しも異はない。彼等は他教会を※[言+后]るのみならず、自教会内の相互を※[言+后]る。彼等は相互を呼んで「彼奴《きやつ》」と云ひ、「あの野郎」と称して憚らない。殊に教師相互の間の礼儀欠乏は殆ど言語道断である。そして尊敬と礼儀の欠乏せる基督教会内に愛なく信用なきは勿論である。故に我等若し真の基督者たらんと欲すれば教会の外に出るより他に途がない。

 

(76)     永遠《いつまでも》変らざる者

         イエスキリストは昨日も今日も永遠変らざる也(希伯来書十三章八節)。

         (一九二三年九月二十三日柏木に於て)

                        大正12年12月10日

                        『聖書之研究』281号

                        署名 内村鑑三

 

〇御承知の通り、私は毎年長き夏休暇に入らんとする最後の聖日に皆様に申上げました、「私供が此次ぎに再び相会するまでに何んな大事変が起るか判りません」と。そして昨年の秋までは其事なしに済みましたが、今年は其預測が当りて、私供は僅か三ケ月前に集まりし時と全く異つた世界に於て、今此所に集つたのであります。変れば変つた者であります。先づ第一に、私供が過ぐる満四年間私供の祈祷《いのり》の家として用ひ来りし所の、東京大手町大日本衛生会講堂は一撃の下に倒潰し、其残骸は猛火を以て焼尽されました。私供の讃美を助けしピヤノもオルガンも跡方なしに消失せました。斯くて私供は再たび七百余人の信仰の友と再び共に神を讃美する事が出来なくなりました。而已ならず、其貴き友の或者は、或は撃たれ、或は焼かれて、其唇は永久に閉ぢて、今や私供と全く別の世界に於て神を讃美するに至りました。然し是は私供自身に係はる事変であります。大東京は亡びたのであります。横浜は地の表面より拭はれたのであります。横須賀と鎌倉と小田原とは無きに等しき者となつたのであります。日本国の主脳が撃たれて、日本国の基礎が揺《ゆる》いだのであります。僅か数分間の震動に由て、数百年(77)間かゝつて日本人が作り上げた文明の主要部分が永遠の過去へと葬られたのであります。一九二三年九月一日は日本国の歴史を両分する境界標であります。震災以前の日本と震災後の日本との間に劃然たる区別があります。そして事か不幸か判然《わかり》ませんが、私供此|災禍《わざはい》に生存つた者は、急激的に旧日本より新日本へと移されたのであります。

〇変はりました、心が狂ふ計りに変りました。乍然私供聖書に由て養はれ来りし者は驚きません、驚いてはなりません。聖書は明かに斯かる急激の変動の来る事を教へます。預言者ヨエルの言にして、使徒べテロが引用せし者は次の如くでありました

  我れ上なる天に奇跡《ふしぎ》を現はし、下なる地に休徴《しるし》を示さん、即ち血あり火あり烟《けぶり》あるべし、主の大いなる顕著《いちじるし》き日の来らん前に、日は晦く月は血に変らん、凡て主の名を呼顧む者は救はるべし(行伝二章一九-二一節)。

 又預言者イザヤの言を引いて黙示録記者は曰ひました

  我れ観しに大なる地震あり、日は毛布の如く黒くなり、月は血の如くなれり。天の星は無花果の樹の大風に揺れて、未だ熟せざる其果の落るが如く地に隕ち、天は巻物を捲くが如く去りゆき、山々島々皆な移りてその処を離れたり。地の諸王、又貴人、富者、将軍、勇士、凡の奴隷、凡の自主、悉く洞に匿れ、山の巌の中に置れ、山と巌とに曰ひけるは、「願くは我等の上に落ち、我等を掩ふて、宝座《くらゐ》に坐する者の面と、羔の怒を避けしめよ」と。この羔の怒の大なる日すでに至れり、誰か之に抵るを得んや(黙示録六章十二節以下)。

 パウロも亦イザヤの言を引いて曰ひました

(78)  神は義を以て其言を断行し之を成竟《なしをは》り給ふべし。そは定め給ふ所の事は主速に此地に行ひ給ふべければ也

  (英語 finishing it and cutting it short を参考なさい。羅馬書九章二八節)。

 以上が神が時々其聖意を実行し給ふ途であります。神は決して急激に事を行し給はないと言ふは間違であります。地震、火事、一日にして大文明の破壊……是は今日まで幾何もあつた事であります。そして私供は今回其事を目撃したのであります。神は忍耐を以て、伝道者を遣はして其聖意を伝へしめ給ひますが最後に之を断行し給ふに当つては急速であります。私供伝道師が百年かゝつて為すことの出来ない事を神は五分間で成遂げ給ひます。文士も思想家もあつた者ではありません。神が悔改めざる罪人に対して最後に唱へ給ふ議論は地震であります、火であります。実に簡短明瞭であります。此議論に対しては、如何に厚顔の文士と雖も一言の返す言葉はありません。「嗚呼悲惨、嗚呼酸鼻」と彼等はたゞ呻くのみであります。平穏の時に勝手放題を唱へし彼等は、此際民の傷を癒すに足る一言の言葉をも持ちません。日本の人心を其奥底まで毒せし現代文士は此災害に遭ふて、其面を匿くすに至りました。夫れ丈けは実に有難い事であります。

〇万事は変りました。万物は毀たれました。然し乍ら茲に一つ変らない、毀たれない者があります。それはキリストとその十字架であります。私は今日荒野と化した旧い東京市の中央に於て大なる十字架を一本立たくあります、そして其横木に有名なるアイザツク・ワツトの作つた讃美歌の一句を書込みたくなります

  In the cross of Christ I glory,

  Towering o're the wrecks of Time.

 そして共立木に英訳文を書記《かきしる》したくあります

(79)   荒れはてし世に 高く聳ゆつ

   主の十字架にこそ  我は頼らめ。

 キリストの十字架が私供クリスチヤンの生命であります。是れありて、他の者はすべて消失せても、私供に猶ほ最大最善のものが残るのであります。銀座の滅亡、日本橋の滅亡、天賞堂三越の滅亡は私供自身には少しも損害として感ぜられないのであります。是等は何時《いつか》一度は亡ぼさるべきもの、今亡ぶるも後亡ぶるも変りはないのであります。亡びし東京全体、其他横浜、横須賀、鎌倉、小田原、熱海、執れも永久性を帯びたる霊魂の救拯の為には、必要欠くべからざる者ではありません。故に震はるべき者が震はれて、震はれざる者が残つたのであります。

  我れキリストと偕に十字架に釘けられたり。もはや我れ生けるに非ず、キリスト我に在りて生けるなり。今我れ肉体に在りて生けるは、我を愛して我が為に己を捨し者、即ち神の子を信ずるに由りて生けるなり

であります(ガラテヤ書三章二十節)。此生命を営むクリスチヤンには、何が失せても損失はありません。東京が在らうが在るまいが、縦し全地は海の下に沈み、宇宙は捲去られても、基督者は其宝と立場とを失はないのであります。キリストと其十字架……我が義、我が聖、我が贖は之に在ります。之を仰瞻て私供は四囲顛倒の裡に在りて心の平静を維持する事が出来るのであります。斯かる時に私供は世と共に周囲を眺めて歎声悲鳴を発しません。我が裡に宿り給ふ彼を念ひ、父の右に坐し給ふ彼を仰ぎて、人のすべて思ふ所に過ぐる平安を覚えます。

〇「イエスキリストは昨日も今日も永遠変らざる也」と云ひます。単《ただ》に彼が伝へし真理が変らないと云ふのではありません。彼れ御自身が変らざる者であると云ふのであります。彼は死して甦り、天に昇り、父の右に坐し(80)て万物を統治《すべをさ》め給ふと云ふのであります。其能力に変りなし、愛に変りなし、生命に変りなしと云ふのであります。斯う云ふ事の出来る者は彼を除いて他に、何人も亦何物もありません。最も偉らい人は暫らく現はれて直《ぢき》に消える蜉蝣《かげろふ》であります。世に頼るべき人とては一人もない事は、今日の如き場合に克く解ります。然らば地や岩が頼るに足る乎と云ふに、是れ亦頼るに足らざる事が克く解りました。今日の如き場合に於て私供何人も、震はるべき地より挙げられて、永久に天の父と偕に生き給ふ友なる救主を要求します。変らざるキリスト、人類永久の友、「我れ生くれば汝等も生くべし」と言ひ給ひし彼、彼れ在りて不安の世界に在りて、平安なるを得るのであります。そして使徒時代より今日に至るまで、人種を問はず、貴賎貧富を問はず、知識の有無《あるなし》を問はず、境遇の幸不幸を問はず凡て彼に倚頼みし者は、変遷窮りなき此世に在りて、彼と共に変らざるを得たのであります。今回の大激変に於ても、主は変らざる救主として彼の弟子等に現はれ給ひました。私は既に二三の兄弟姉妹に於て、驚くべき彼の恩恵を見ました。彼等の中の或一人の如きは、家を失ひ、職を失ひ、剰さへ其子の一人を失ひながら、特に感謝を述べん為に私を訪ひ、数百円の感謝の祭物《さゝげもの》を遺して行きました。今や多くの人達が泣いて居る最中に、尠からざるキリストの僕婢が同じ災に罹りながら「ハレルヤ、爾の審判は尽く義し」と云ひて神の行為を讃美しつゝあります。彼の施し給ふ恩恵に限りはありません。地震も火事も、死其物もイエスキリストに頼《よ》れる神の愛より彼に依頼む者を絶《はな》らすることは出来ません。夫れは我等が彼を愛する愛に因るのではありません、彼が我等を愛し給ふ愛に因るのであります。彼は昨日も今日も永遠生き給ふが故に、機《をり》に合ふ恩恵を彼を信ずる者に施し給ひて、彼が神の子たるの実を現はし給ふのであります。

〇東京と横浜とは失せました、然しイエスキリストは失せません。我等の或者は家と家具と衣類と書籍と、其他(81)有りと凡ゆる物を失ひました、然しイエスキリストは存り給ひます。彼在りて万物は存るのであります 彼に倚頼む事が真の窮りなき生命であります。故に私供の棲む周囲は全く変りましたが、私供は彼に在りて前と少しも変らざる同じ世界に棲むのであります。我等の主イエスキリストは震災以前と以後と少しも変りません。私供は彼に在りて繋がりて、同一の聖き交際を続け得るのであります。震はるべき者が震はれて、震はれざる国が私供に存《のこ》るのであります。

〇斯く唱へて私供は我と同胞とに臨みし此の甚大の苦痛に対し冷淡なるのではありません。私供は自己先づ磐《いは》なる彼に縋り、而して悩める人に対し救拯の仲立と成らんと欲します。今や共に泣くばかりが慰安の途でありません。私共は臨みし災禍の意義を示し、之を転じて福祉と為すべきであります。神は其福音の真理を証明し又確立せん為に此災禍を降し給うたのであると信じます。信者は之に由て其薄信を癒され、不信者は其不信を除かれん為に此災禍が降つたのであると信じます。自分に在りても、他人に在りても、永遠に変らざるイエスキリストが、其聖き義しき、恩恵に充ちたる権能を揮ひ給はんが為に、神は日本国に此大打撃を加へ給うたのであると信じます。

 

(82)     神に関する思考

                   大正12年12月10日、13年10月10日

                   『聖書之研究』281・291号

                   署名 内村鑑三

 

     神の在る証拠

 

  夫れ我等は彼に頼りて生き又動き又在ることを得るなり、汝等の詩人等も云へるが如く「我等は其裔なりと」(使徒行伝十七章廿八節)。

  我等信仰に由りて諸の世界は神の言にて造られ、此く見ゆる所の者は見ゆる所のものに由りて造られざるを知る(希伯来書十一章三節)。

〇私供は屡ば神の存在の証拠を人に要求されます。如何《どう》して之に応ずる事が出来ませう乎。

〇|神の存在の証拠を提供するの困難は、問題が余りに明白であるからであります〔付○圏点〕。神は第一に在る者であります。彼れ在つて万物があるのであります。我れ在り、人あり 天あり地あるが神在るの最も確実なる証拠であります。神は万物存在の基礎であります。若し神が無いとすれば、何物も無い筈であります。万物一として永久的なるはなく、完全なるはありません。故に夫れ自身にて存在する事は出来ません。恰も堅い地の無い所に波の揚りやうなく、雲の浮きやう筈が無いと同然であります。コロムブスは渺茫たる大洋の上に流木の浮ぶを見て陸地の在る(83)を知りました。其如く空間に浮ぶ流木の如き地球や月や星の在る事に由て、宇宙存在の基礎たる神の存在が知らるゝのであります。

〇然し乍ら斯う云うた所で人は私供の論証に服しません。宇宙万物を基礎として論じまする時に、神は無いとの説は、在るとの説丈け夫れ丈け容易に築く事が出来ます。神は見る事は出来ず、量る事は出来ず、理学的に其存在性質等を証明する事が出来ません。夫れ故に|在ると信じて〔付○圏点〕取掛れば其存在の証拠を何処にでも得ることが出来ますが、|無いと信じて〔付○圏点〕此問題に対しますれば神は、何処にも之を看出す事は出来ません。仏国有名の天文学者ラランドが曰うた事があります「余は大形の望遠鏡を以て天界隈なく探りしと雖も、未だ曾て神を見し事なし」と。「神を信ぜざる天文学者は狂人なり」と言ひし大天文学者ありと思へば、又ラランドのやうなる天文学者もあります。故に神は理学者の実験に由て知る事の出来る者でない事は確であります。

〇然らば神の存在は如何して知る事が出来る乎と云ふに、|夫れは信ずる事に依てゞあります〔付○圏点〕。そして信ずるとは、道理に反し、利害観念に強ひられ、無理に信ずる事ではありません。|信ずるとは我が衷に起る自然の声を真の声として受取る事であります〔付○圏点〕。嬰児《あかご》が母を慕ふ心は自然に湧く心でありまして、そして又深い、強い、真の心であります。私供が神を慕ふ心も亦人として私供に自然に起る心でありまして、之を迷信として受取らず、私供に植付けられし天然其儘の心として受取つて、茲に真の信仰が起るのであります。そして此信仰の心を以て万物に対しまする時に、万物は父の聖手の業として我眼に映り、私供は少しも道理に反くことなくして、万物を解し、其美を讃美する事が出来るのであります。信ずると信ぜざるとは学究的に何の差別は無いやうに見えますが、然し乍ら学究に熱心を供し、其興味を増し、すべての知識の調和一致を計る上に於て、信仰は遥かに不信仰以上の勢(84)力である事は、何人も呑む事は出来ないと思ひます。其証拠には、世に不信仰の学者は無いではありませんが、信仰の学者の勢力は遥に不信仰のそれに勝さります。古へより今日に至るまで、世界的大学者は大抵は熱心なる有神論者でありました。単に哲学者丈けに就いて曰うて見ましても、ソクラテス、プラトー、プロチナス、デカート、スピノーザ、ライプニツツ、ベーコン、カント等何れも神在りと信じて其存在並に活動を証明せんとして、終生の力を注いだ人達であります。

〇如斯にして、神の存在の証拠は信仰を基礎として立てらるゝ者でありまするが故に、其証明たるや主として部分的でなくして、全体的である事が解ります。恰かも大美術家の画いた絵のやうな者でありまして、其大天才は之を点や線に於て見る事は出来ません、其全体の構造、趣嚮に於て見るのであります。宇宙万物を片々《きれぎれ》に研究して、其内に神の聖意と云ふが如き者を読む事は出来ません。同じ事を個人の生涯に於ても見ます。信者の日々の生涯に於て別に神の意匠《デザイン》と云ふやうな者を見る事は出来ません。然し乍ら彼の全生涯を観察しまして、殊に百年二百年の後から之を見まして、其のまことに神に導かれた生涯であつた事を知ります。国の歴史に於て殊に然りです。其毎月毎年の出来事に由て、神の御手が其上に加はりつゝある事を知る事は出来ません。然し乍ら、百年又は千年の後より之を観察して、人間以上の意志が之を起し、之を維持し、終に之を亡した事を知る事が出来ます。丁度山水を遠方より望んで景色があり、近づいて之を見る時に、汚点のみ眼につくやうな者であります。哲学者は概ね信者であるに対して、科学専門家の内に不信者の多いのは此理に由るのであると思ひます。|信仰は人の衷に存する統一の精神であります〔付ごま圏点〕。之と相対して知識は分解の能力であります。人が知識にのみ依て万事万物を説明せんとする時に、彼は自《おの》づから無神論に傾きます。然し乍ら宇宙も人生も分解した丈けでは解りません。(85)之を一体として見て、部分と部分との関係を明かにして、其のまことにコズモス(整体)なる事が解ります。|人が神を信ずるに到りし時に彼は統一者になるのであります〔付ごま圏点〕。そして単に知識の方面から見まして、統一は分解丈けそれ丈け必要であります。

〇神の在る証拠は、神が在ると信じて、人の能力が非常に増す事に在ります。先づ第一に|創作〔付○圏点〕と云ふ事は神を知つて始まります。神の信仰のない所に創作と称すべき創作はありません。単に芸術丈けに就いて考へて見まして、神の信仰の無い所に大芸術の興つた例は何処に在ります乎。西洋に於ては芸術は希臘で姶つた者でありますが、希臘人が強き信仰の民であつた事は明かなる事実であります。希伯来人は信仰の民であつて、希臘人は文芸の民であると云ひて、希臘人は日本今日の腐敗文士のやうに無信仰不道徳の民であつた乎のやうに思ふは大なる間違であります。希臘芸術は強き高き深き宗教的観念を以て始つた者であります。其事に間違はありません。そして中古時代より近世紀の初期に方て、大美術を世に供した者は何んな人であります乎。ミケル・アンゼロー、ラフハエル、レオナード・ダ・ヴインチ、レムプラントと云ふて一人も無神論者は在りません。其反対に、孰れも哲学者スピノーザ同様「神に酔うたる人」でありました。美術と信仰の関係に就て述べんとすれば際限がありません。支那、印度、日本に於ても同じであります。信仰衰退の今日に於て美術の形は残つて居ます、然し何処にフイヂヤス、運慶等の大胆にして真に迫るの巨作があります乎。万物の霊なる神に接してのみクリエーション(創作)があります。神が万物を造り給ひし其能力の分与にあづかりて、人も神に似て或物を造り得るのであります。無神論が生みしと云ふ所謂「創作」は創作ではなくして破壊でありまず。否定が其特徴であります。否定、反逆、破壊、……無神論の強きは此にあります。肯定、順法、建設、創作の積極的能力は信仰に由て臨む者であります。

(86)〇そして事は単に芸術に止まりません。人生活動のすべての方面に於て、真の神に対する真の信仰は偉大なる積極的結果を生じます。私供が第二に考へて見たい事は、|大信仰に由らずして輿つた大国家は何処に在る乎、其事であります〔付○圏点〕。希臘人が素より信仰の民であつた事は前に述べた通りであります。エヂプトに大国家と大文明の起りしも其強い高い宗教に依りし事は疑ふに余地がありません。バビロン、アツシリヤ又然りであります。羅馬人は政治的の民であつて、希臘人程の敬神の民ではありませんですが、然し公義を愛し、法律を重んずる点に於て、確に信仰の実際的方面に長けて居ました。そして古代を去つて近代に至りまして、深遠なる政治運動はすべて深き宗教心を以て始まりました。カルビン主義の基督教が英国を立直し、和蘭共和国と北米合衆国を興した最大原因であつた事は何人も否定する事は出来ません。近代の代議政体がプロテスタント教の教義を以て始つた者であるとの英国法理学者ジエームス・マツキントツシユの説は深い観察に出た者であると思ひます。近代史に於て信仰を無視して起つた国家は仏蘭西共和国と農労露国であります。然し乍ら二者何れも危い立場に立つ者である事は認めざるを得ません。そして又政府は無宗教でありますが、仏人露人孰れも深い宗教心の民であります。両国の強味はやはり其信仰厚き民に於て在るのではありますまい乎。

〇そして日本国は如何ですか。日本国の建設者は不信仰の人でありました乎。|敬神愛国は日本建国の根本的精神ではありません乎〔付○圏点〕。日本が東洋諸国の内で優秀の国家を成して居る理由は其建設者の優秀の宗教心に在るのではありますまい乎。日本人は特に宗教的国民であります。何れの宗教も日本人の心に植附けられて、著るしき発達を遂げました。日本人から其宗教心を取除いて日本の国家が維持し得らるゝ乎、大なる疑問であります。

〇畢竟するに、神の存在の証明は2×2=4と云ふやうな性質の者ではありません。之は「善き樹は善き果を生じ、(87)悪しき樹は悪しき果を結ぶ」と云ふやうな論法に依る者であります。神の存在を|決定的に〔付○圏点〕証明することは出来ません。哲学者デカートは其事を試みて失敗しました。神を識るの途は義人や聖人を識るの途と同じであります。即ち自分が或る程度まで義人又は聖人に成らなければ識ることが出来ません。本当の義人は此世の人の多数には不義の人として認めらるゝ者であります。然るにも拘はらず彼は義人であるのであります。神も亦然りであります。神の心を慕ふて始めて神を識るのであります。人は誰でも2×2=4の真理なるを知ります。然し乍ら神の聖意を行《な》さんと欲する者のみが神の在る事、其聖意が絶対的真理である事を知ります。此は循環論法のやうであつて決してさうではありません。カントの有神論も亦是れ以外の者ではないと思ひます。(軽井沢に於て)

 

     神の存在の証明

 

〇事物を証明するに三ツの方法がある。其第一は数学的証明である。2×2=と云ふが如き、三角形内の角度は二直角に均しと云ふが如き、其他微分積分の妙理に至るまで、自明理に出発して、正確に証明する事が出来る。数学的証明は香定を許さぬ証明である。故に証明と云へば数学的性質を帯ぶるの必要がある。若し道義の正当も、神の存在も数学的に証明する事が出来るならば、人類の幸福此上なしと考へて、此事に従事した哲学者は尠くない。有名なるデカートの如きは其顕著なる一人である。彼は「我は思惟す、故に我は存在す」との自明理より出発して、宇宙万物を思惟的に組立んとした。

〇然し乍ら万物は之を数学的に説明する事は出来ない。生物と其器官の機能、其常性、行状等は、之を数学的に知る事は出来ない。生物を知るの途は観察である。植物又は動物に就て、吾人は数理的に「斯くあらねばならぬ」(88)と言ふ事は出来ない。連続せる注意深き観察の結論として、「斯くある」と報告するまでである。事の真偽は観察即ち研究の正否に由て定まるのである。若し同一の注意と観察とを以てするならば何人も同一の結論に達し得べしとは此証明法の前提である。

〇然し乍ら世には観察即ち外面よりする研究を以てしては知る事の出来ない者がある。それは人格、又は構神、又はべルソナリチーと称する者である。精神又は霊魂は数学的に其大さ又は重さを量る事が出来ない。又科学的に其性質又は行状を識る事は出来ない。人は之を研究室に収容して、科学的観察を施して知る事は出来ない。|人を識るの途は同情である〔付○圏点〕。研究者自身が同情を以て其人の心に入り、彼と共に感じ、計り、アスパイヤして、幾分なりとも其人を知り又解する事が出来る。霊を知らんと欲すれば霊と真とに依る他に途がない。

〇依て知る、物を知るに三ツの方法あることを。其第一は数学的方法、之は無生的物体に適用すべき方法である。其第二は観察的方法、之は有生的天然物に適用すべき方法である。第三は同情的方法、之は霊的実在者即ちべルソナリチーに適用すべき方法である。凡ての物は同一の方法を以て知る事は出来ない。星を知るの方法あり、花を知るの方法あり、鳥と獣を知るの方法あり、又人を知るの方法ありである。方法を誤まりて、如何に大なる熱心を以てするも其目的を達する事は出来ない。

〇人が神を知るの方法は、彼が相互を知るの方法でなければならない。彼は数学的に機械と計算とを以て相互を知る事が出来ないやうに、亦神をも知ることが出来ない。彼は亦草木や禽獣を知る方法を以て人を知る事が出来ないやうに、神をも知る事が出来ない。人を知るの方法は彼に同情するに在る。神を知るの方法も亦是である。自分が神の如く成らんと欲して、幾分なりとも彼を知る事が出来るのである。

(89)○そしてイエスが唱へ給ひし神を識るの途は是であつた。彼は曰ひ給うた「我が教ふる所は我が教に非ず、我を遣はしゝ者(神)の教なり、人もし我を遣はしゝ者の旨に従はゞ、此教の神より出るか又己に由りて言ふなるかを知るべし」と(ヨハネ伝七章十七)。此事を更にハツキリと教へしはヨハネ第一書四章七節八節に於ける言である、曰く「愛ある者は神に由りて生れ且神を識るなり、愛なき者は神を識らず、神は即ち愛なれば也」と。神を識らんと欲すれば人を愛せざるべからず、神は愛なれば愛せずして神を識る能はずと。即ち神は究理的に又は思索的に識る能はず、実行的に識るを得べしとの事である。そして是は凡ての霊を識るの途である。自分が幾分か聖人の道を体得するに非れば、縦令まの当り聖人に会ふとも、彼を聖人として認むることは出来ない。神を認むるの途も亦同じである。カント哲学の術語を以て曰ふならば、神を識るの知識は実際的知識である。神の旨に従つて初めて神と其教の何たる乎が判るのである。事物を識る上に於て人の同情心に確然たる価値あるを認めたるは近世哲学の大進歩である。(十一月四日)

 

     神と天然

 

  元始《はじめ》に神天地を造り給へり(創世記一章一節)。

  ヱシユルンよ、全能の神の如き者は他に有るなし、是は天に乗りて汝を助け、雲に駕して其威光を現はし給ふ(申命記卅三章廿六節)。

  林の諸の獣《けもの》は我有なり、山の上の千々の牲畜《けだもの》も亦然り。我は山のすべての鳥を知る、野の猛き獣は皆な我有なり(詩篇五十篇十、十一節)。

(90)〇天然は霊妙不思議である、然し天然は神でない。神が天然以上である計りでなく、人も亦天然の上に立つ。人が天然を神として仰ぐ時に彼は堕落し、之を僕として役ふ時に彼は上進する。而かも其広さは量り知るべからず、又之に現はれたる智慧と能力とは、人の想像以上である。人は終生研鑽を怠らずして草の葉一枚を知悉す事が出来ない。詩人ホヰツトマンが言ひし如く、鼠一疋が億々万の無神論者を|ヘコマ〔付ごま圏点〕すに足る。天然と称んで之を軽く視る者は自分で自分の無学を表はす者である。人は天然以上であると云ふは、天然は|ツマラ〔付ごま圏点〕ない者であるとの事でない、人は神に似て無限に尊くあると云ふ事である。

〇天然は神に非ず、然れども霊妙不思議にして、人の量知る能はざる者である。然らば天然は何である乎。|神が御自身を現はさんとて造り給ふたる者である〔付○圏点〕 或は神の御心の物に現はれたる者である。Nature is material representation of God.である。故に人の立場より見て、天然は神丈け広く又高く又深く、神丈け不思議で且驚くべくある。天然を神と見るは間違であるが、物を以てする神の表現と解して能く之を説明する事が出来る。

〇人は「神と天然」と云ひて、天然を神と離して考ふるが普通である。天然の法則と称して、神と雖も変更する事の出来ない、必然的法則である乎の如くに思ふ。然し乍ら所謂天然の法則は天然固有の法則でない、|天然に賦与せられたる法則である〔付○圏点〕。恰かも貨幣に現はるゝ彫刻は貨幣固有のものに非ずして、外より印刻せられた者であると同然である。其事は法則に多くの例外ある事に由て判る。或は一の法則が他の法則に由て超越せらるゝ事に由て判る。生物界を支配する法則は鉱物界を支配するそれとは全く異う。天然は千篇一律、唯一の法則を以て支配せらるるゝ者でない、法則の上に法則ありて、而かも夫れがすべて一大調和の下に働くのである。

〇|神は天然の如き者である〔付○圏点〕。人は天然を知て神を識る事が出来る。神の大さ、其能力、其智慧、悉く天然に於(91)て現はる。「それ神の見るべからざる永遠の能力と神性とは造られたる物(天然)により世の創《はじめ》より悟り得て明に見るべし」とパウロが羅馬書第一章二十節に於て言ひしが如くである。殊に神の恒久性を天然に於て見るのである。|天然の法則が永遠不易である乎の如くに人に思はるゝ程、神は永久に変らざる者である〔付○圏点〕。人は変り易き者である、彼は神に傚ひて神の如くに変らざる者となる。小人は変り易し、偉人は変らず。哲学者カントの運動時間に由てケニヒブルグの市民は其時計を正したりと云ふ。天然の法則が神の聖旨と離れて働くのでない、|法則其物が聖旨を表はすのである〔付○圏点〕。神の聖旨は正確である、彼は変り給はない、我等天然の法則に従ひて歩みて神と偕に歩みつゝあるのである。|天然は第二の聖書である〔付○圏点〕。第一の聖書は直に聖旨其物を伝へ、第二の聖書は覚官を通うして間接に同じ聖旨を伝ふ。神の律法と天然の法則とは其根本に於て一ツである。

〇同じ事を進化の法則に於て見る事が出来る。「初には苗、次に穂いで、穂の中に熟したる穀を結ぶ」とのイエスの御言葉は克く此事を語るものである。「神の挽臼は転る事遅し」と云ふ。神は事を為すに一定の順序に従ひ給ふ。美は醜に代り、善は悪に勝ち、完全は最後に来る。進化の途は神が事を為し給ふの途である。但し人が天然を神と混同せざらんが為に、神は時々天然に超越して働き給ふ。天然全体が神の表現《あらはれ》である。そして奇蹟はたしかに其一部分である。我等は此美はしき天然の内に在りて神の懐の内に抱かるゝのである。「我等は彼に頼りて生き又動き又在る事を得る」なりとのパウロの言は何れの方面より見るも真理である(十一月十一日)

 

     父なる神

 

  我は天地の造主、能はざる所なき父なる神を信ず(使徒信経)。

(92)  父が其子を憐むが如くヱホバは己をいるゝ者を憐み給ふ(詩篇百三篇十三節)。

  婦その乳児《ちのみご》を忘れて己が胎の子を憐まざる事あらんや、縦ひ彼等忘るゝことありとも我は汝を忘るゝことなし(イザヤ書四十九章十五節)。

  彼等の艱難《なやみ》の時にヱホバもなやみ給ひて其前の使者をもて彼等を救ひ、その愛とその憐憫とに由りて彼等を贖ひ、彼等を|もたげ〔付ごま圏点〕、昔時《いにしへ》の日常に彼等を抱き給へり(同六十三章九節)。

〇神は万物の造主、すべての智慧と能力の源であるとは信ずるに左程難くない。神在りとは人間自然の信念であつて、其事を絶対的に否定する者は実は殆んど無いのである。然るに基督教は単に超自然の神の存在を唱道するに止まらない、|父なる神〔付○圏点〕の存在並に活動を高調する。天地万物の造主は併せて愛なる父であると称ふ。茲に基督者の特質がある。信者は単に有神論者でない、神を父として仰ぎ、子として之に事ふ。此点に於て基督教は儒教、万有神教、自然神教等と異ふのである。

〇神は父であると云ふ、其証拠は何所に在る乎。聖書は明かに其事を教ゆと雖も、天然人生の事実に多く之に反する者あるに非ずや。「ピリボ、イエスに曰ひけるは主よ我等に父を示し給へ 然らば足れり」とヨハネ伝十四章八節にあるが如く、我等何人も若し天地の造主が実に我父であると云ふ事が解るならば、幸福此上なしであるであらう。

〇人は子を知るに依て父を知ることが出来る、父としての神を知る唯一の途は、子たるイエスを知るに在るとは聖書の示す所であつて、実に完全に父なる神を知るの途は之を除いて他にないのである。然れども天然は父として神を示さずと云ふは誤謬である。第二の聖書なる天然は、縦し第一の聖書程明確と、深刻に父を示さずと雖も、(93)然し乍ら深く天然を解して其内に父なる神を発見せぎるを得ないと思ふ。親が其子を思ふの心、此は|たしかに〔付ごま圏点〕天然性ではない乎。そして天然性の内で最も美はしい者ではない乎。我等は之を植物に於て見、亦動物に於て見、そして最も発達せる形に於て之を人間に於て見るのである。花の咲くも此為である、鳥の囀るも亦此ためである。天地万物より子を生むの機能、子を愛する親の心を取除いて其最善最美の者が取除かるゝのである。|天然は善き家庭と同じく子供本位である〔付○圏点〕。

〇そして此心は何処から来たのである乎。人は云ふ自然に発達した者であると。然し乍ら噴水は其源より高く昇らざるが如く、天然も亦其中に無い者を出すことは出来ない。若し天然は其物以上の者を出す事が出来ると云ふならば、天然は最大奇蹟であつて、天然でない。天然が天然である以上は法則に従はなければならない。無から有が出るとは反則である、不法である。そんな事こそ有りやう筈はない。|天然に親心の有るのは、万物の源なる神は父であり又母である最も善き証拠である〔付○圏点〕。天然は物を以てする神の表現である。そして其天然の内で、最も美くしい、最も貴むべき者は愛である。そして愛の最高の表現は親心である。其れ故に神は愛である、父であると云ひて決して迷信を語るのではない。最も高い、又最も深い、又最も美しい真理を語るのである。

〇人は今や性の研究に熱中する。誠に当然の事である。そして「最も善きものは最も腐れ易し」との諺に洩れず、此研究は最も濫用され易くある。然し乍ら正当に、潔き心を以て両性問題を研究して直に神性問題に到着せざるを得ない。「父が其子を憐むが如く、ヱホバは己を畏るゝ者を憐み給ふ」と云ひ、又「婦、己が胎の子を忘るゝ事あらんや、縦ひ彼等忘るゝことありとも、我は汝を忘るゝ事なし」と云ふ。此は聖書の言であつて、亦天然の教である。天然は明かに父なる神を現はす者であると信ずる。

(94)〇人間は下等動物より進化した着であると云ふは決して無神論でない。下等動物に多くの美はしき愛の発現がある。鯨や熊が其子を愛する愛に、人も及ばざる深いものがある。足れ亦神より出たる愛である。彼等を祖先として有ちたればとて決して恥辱でない。(十一月十八日) 〔以上、12・10〕

 

     摂理の神

 

  汝等公道を茵※〔草がんむり/陳〕に変じ、正義を地に擲つる者よ、昴宿及び参宿を造り、死の蔭を変じて朝となし、昼を暗くして夜となし、海の水を呼びて地の面に溢れさする者を求めよ、其名はヱホバと云ふ(アモス書五章七、八節)。

  二羽の雀は一銭にて售《うる》に非ずや、然るに汝等の父の許なくば地に隕ること有らじ。汝等の髪また皆数へらる。故に懼るゝ勿れ、

〇神が神である以上、其意志が行はれねばならぬ。其聖旨《みこゝろ》が成らねばならぬ。神は完全なる者であらねばならぬ。汝等は多の雀よりも優れり(馬太伝十章二九、三十節)。其意志も亦完全であらねばならぬ。其完全なる意志が行はれてこそ彼は神であるのである。我等は完全なる意志の実現に由て、神の存在を認むるのである。

〇そして神の聖意は天然、歴史、並に我身に於て行はれつゝあるではない乎。先づ天然に就て見んに、天然に莫大の破壊力あり、万物元始の混沌に帰るの可能性多きに係はらず、秩序と善美とは其内に現はれつゝあるではない乎。若し「暴力是れ力なり」であるならば、地上に花や鳥の現はれやう筈はなく、岩と水と空気とのみが全地を占領し居るべき筈である。地が徐々として美化されたと云ふ事、其内に蘭や石竹や薔薇の如き繊美なる花が現(95)はれて蕃殖すると云ふ事、其事が所謂盲目の天然力に反いて高い理想が行はれつゝあるとの証拠ではあるまい乎。強い者の勢力が徐々に減じて、弱い者の勢力が次第に増して行くと云ふ事は、霊は物と肉とに勝ち、神の聖旨が終に完全に行はるゝに至るべしとの最も確かなる証拠ではあるまい乎。天然物進化の途を辿つて、我等は聖書に「狼は羔と共に宿り、豹は小山羊と共に臥し、犢、牡獅子、肥たる家畜共に居りて小さき童子《わらべ》に導かれん……そは水の大洋を覆ふが如くエホバを知るの知識地に充つべければ也」と読んで少しも不思議に思はないのである(イザヤ書十一章九節)。

〇そして天然界に於て行はるゝ事が人類の社会に於ても亦行はるゝのである。社会は圧制に始つて自由に終らんとしつゝある。是れ当然であるやうで実は甚だ不思議である。勢力は常に圧制家の側に在る。之に対して自由は常に微力であつて、若し生存競争が勢力の問題であるならば、自由の勝利は少しも見込がないのである。然るに人類の歴史に於て、弱い自由が常に勝つて、強い圧制が常に負けたと云ふ事は大なる不思議と云はざるを得ない。自由又は正義に神が味方し給ふが故に、其勝利を見たのであつて、若し自然の成行に任かしたならば、暴力が永遠に勢力を揮つて止まないであらう。人類の歴史は正義実現、自由発達の歴史である。其事其れ自身が神の聖旨が行はれつゝある何よりも明かなる証拠であると思ふ。ベツレヘムの牛小屋に生れし弱き授けなきイエスが、終に人類の王として崇めらるゝに至つたと云ふ事で、神の存在を確かむる事が出来ると思ふ。

〇そして総て正義の為に戦つて勝つた者は此感を懐かざるを得ない。.不信者と雖も「天佑」を語るが常である。人力以外の有る力が彼等を助けた事を知るからである。殊に基督者は此感を深くせざるを得ない。真の基督者は常に世の弱者、社会の少数者である。パウロの所謂「世の汚穢また万の物の塵垢」である。彼は政府や社会に賎(96)しめらるゝのみならず、キリストの名を以て呼ばるゝ教会にまで嫌はれ又斥けらるゝが常である。世に憐れなる者とてキリストの真の弟子の如きはないのである。然るに彼の首《かうべ》が終に擡げられ、世は終に彼の実力を認めざるを得ざるに至る。実に斯んな不思議は無いのである。彼の場合に於て所謂生存競争は少しも働かないのである。若し天然力以外に力がないならば、彼が絶滅せらるゝのが当然である。彼に敵の「営塁《とりで》を破る程」なる戦の器はあるが、それは肉に属る器ではない。神が彼に在りて戦ひ給ふに非れば、彼の勝利は不可解である。政権と金権とを盛に利用して教勢の拡張を計る欧米の基督信者には此超自然的勢力を認むる事は出来ない。然し真の福音は如斯き此世の勢力を以て世に勝つた者でない。使徒ヨハネは曰うた「誰か克く世に勝たんや、我等をして世に勝たしむる者は我等の信なり」と。そして此信力こそ神より来る力であつて、此力を身に実験して神の存在並に活動を実感するのである。

〇神は実際の世界に於て今も猶ほ日毎に活動し給ふ。人と天然とは彼の目的を破る乎の如くに見えるが、神の目的は成就して人の目的は失敗に終る。深く探れば天然は神の聖旨《みこゝろ》の表現《あらはれ》であつて、歴史は彼の聖業《みわざ》の成行である。神は無しと云ふは宇宙人生の極く浅い見方である。何よりも確実なるは神の在し給ふ事である。 〔以上、大正13・10・10〕

 

一九二四年(大正一三年) 六四歳

 (99)     UNITARIANISM.ユニテリヤン教に就て

                           大正13年1月10日
                           『聖書之研究』282号
                          署名なし

     UNITARIANISM.

 Unitarianism as a system of doctrines is shallow and incomplete,I think;but as a movement to counteract the errors of official Protestantism, it has a perennial value of its own.Unitarianism stands for freedom of thought,honesty of faith,supremacy of love,and brotherhood of mankind.No wonder that John Milton was Unitarianistic(Arian)in his last days,With all his reverence for the Divine Son of God.Unitarianism is not necessarily anti-Trinitarian.It is anti-dogmatic,anti-ecclesiastical and anti-theological.Certainly,it is negative in its good qualities;but as it is,it exists by God's appointment, and has right to claim our honour.“Nearer,my God,to Thee”was written by a Unitarian woman(Sarah Flower Adams);and she made Unitarianism a part and parcel of modern Christian life.

(100)     ユニテリヤン教に就て

 ユニテリヤン教は教義の一団としては浅い不充分なる者である、乍然教会的プロテスタント教の誤謬を打消す為の運動としては独特の永久的価値を有する教であると思ふ。ユ教は思想の自由と、信仰の公正と、愛の至上権と、人類同胞主義とを標標榜する。ジョン・ミルトンが其晩年に於て、彼がイエスを神の聖子として尊崇せしに関はらず、ユ教即ちアリヤン主義に傾きしと云ふは怪しむに足りない。ユ教は必しも三位一体の信仰に反対しない。その特別に反対する所のものは信条《ドグマ》である、教権である、信仰に代らんとする神学論である。真にユ教の美点は主として消極的である。然れども其の世に在るは神の指命に由るのであつて、我等より尊敬を要求するの権利を有す。「我の神に近かん」の讃美歌はサラー・アダムスと称するユニテリアン婦人の作である。彼女に依てユ教は近世基督信者の生命の一要素と成つたのである。

(101)     年頭の辞

                           大正13年1月10日
                           『聖書之研究』282号
                           署名 内村

〇大政治家とか、大宗教家とか、大数育家とか、大事業家とか、大の字の附くやうな者に自分は少しも成りたくない。唯|普通《あたりまへ》の人に成りたい。人生を楽しみ、仕事を喜び、生きて居る事を以て最大特権と見作做す、一人の人間に成りたい。そして基督者《クリスチヤン》とは畢立《つま》る所、斯かる者であると思ふ。
〇事業と云ひ、職業と云ひ、如何にも大切の事であるやうに大抵の人は思ふ。勿論大切であるに相違ない、然し最も大切の事でない。人生実は何を為しても左程|差違《ちがゐ》はないのである。人は事業でない。人は意志である、精神である、霊魂の状態である。彼の価値は何を目的に生くる乎に於て在つて、何を為して生くる乎に於てない。自分の為に生くる乎、自分以上又は以外の者の為に生くる乎、夫に由て彼の価値は定まるのでかる。如何《どう》なつても可い、何を為しても可い、唯「彼」の聖意の我に在りて成らん事を、唯「彼等」が我に由て祝福《さいはひ》せられん事をと、常にさう思ふてこそ我に心配も苦悶もないのであつて、人生の幸福は実は「他」の一字に於てあるのである。
〇人生に実は「我」と称する奴《やつ》ほど悪い奴はないのである。「我」の目的、「我」の理想、「我」の幸福、「我」の事業、我を禍ひする者は此奴《こやつ》である。人は「我」と称して自己を顧る時に其目は盲《くら》み、其心は狂ふのである。彼は「我」を敵として見、其奴《そやつ》を十字架に釘る時に、其目は瞭《あきらか》に、其心は康くあるのである。人は長生術を講じ
(102)て未だそれを発見しない。然し長生の術も永生の途も茲に在るのであつて、至つて簡短明瞭である。己《おの》が衷に在る「我」と云ふ蛇を殺せよ、然らば今日直に凡ての難問題を解決するを得て、幸福快活の人と成る事が出来る。日本の諺に「身を棄てこそ浮ぶ瀬もあれ」と云ふ事がある。身とは「我」である、自己である 人生の dead《デツド》weight《ウエート》(死に至らしむる重荷)である。此奴《こやつ》を棄て了ふて、我身は軽くなり、永久の自由と、無窮の幸福とは我有となるのである。
〇キリストの十字架、之を仰ぎ瞻て救はる。何故なぜ)? 何故なれば、神が其処(そこ)に我を毒する「我」なる蛇を釘(くぎ)にて打つけ給うたからである。「モーセ野に蛇(へび)を挙げし如(〔ごと〕)く人の子も挙げらるべし、凡て之を信ずる者に亡ること無くして窮りなき生命を受けしめんが為なり」とあるが如し(ヨハネ伝三章十四節)。自己の拡張自己の完成と称して、自己にのみ意を注ぎつゝあるは自分で択んで精神的自滅を計りつゝあるのである。

 

(103)     人格的の神

         (十一月二十五日午後青年等に語りし所のものである)
                           大正13年1月10日
                           『聖書之研究』282号
                           署名 内村

〇基督者《クリスチヤン》の神は天然、法則、能力と云ふが如き非人格的の者でない。彼は「アナタ」と云ひて呼び掛くる事が出来、又「我れ」と云ひて我等に臨み給ふ人格的の神である。此点に於て基督者の神は、哲学者の神、又は政治家の神とは全く異ふ。真の神は天地万物の造主であつて、恐るべき者、敬ふべき者、崇むべき者、事へ服ふべき者、然り愛すべき者である。故に若し神を何者にか此ぶべくんば、彼は星や山や風や電気や禽《とり》や獣《けもの》に此ぶべき者に非ずして、人に此ぶべき者である。|神は少くとも人以上である〔付○圏点〕。人に非ずと雖も、人に在る最善長美のものを無限に具へ給ふ者である。人間の立場よりして、神は人格者であると云ふより外に、彼の何たる乎を言表はすの言がないのである。
〇然らば人格とは何である乎。人格とは俗に云ふ人品ではない。英語の personality(ペルソナリチー)の訳字であつて、人たるの資格を云ふ。人格の何たる乎を知らんと欲せば、先づ個性 individuality(インヂヴイヂユアリチー)の何たる乎を知るの必要がある。個性は単独性である。一《ひとつ》より他《ほか》にない性質、又之を備へたる者である。同じ物の多くあるを「団栗の脊較べ」と云ふ。故に一箇の団栗に個性があると云ふ事は出来ない。団栗は種《しゆ》の一箇たるに過ぎない。然し乍ら生物が進化するに

(104)従ひて、其個性が顕明《あきらか》になる。犬や馬に至つて、一疋の犬は之を他の犬より判別し得るに至る。而して個性の最も発達せる者が人である。人は万人様々である。我は我れ一人であつて、我と同じき者は全宇宙に一人もない。類似は唯程度の問題である。我に|稍や〔付ごま圏点〕似たる者無きに非ず、然れども全然我れ如き者、我を二つに割つた者、斯かる者は全宇宙を探るも一人もないのである。依て知る個性は人に於て其発達の極に達せるを。

〇|人格は自覚せる個性である〔付○圏点〕、Personality is self-conscious individuality. 木の葉と雖も個性は絶対的に無いとは云ひ得ない。多少の相違はある、然れども僅少の相違である。高等生物に至つて相違は益々顕著になる、然れども其相違を自覚するに更に一段の発達を必要とする。而して人に至つて個性は其発達の極に達して、之に自覚が現はれたのである。即ち|個性が人格と成つたのである〔付○圏点〕。人なる我れ、日本人なる我れ関東人なる我れ、内村家に生れたる我れ、鑑三と名付けられし我れ、唯一人の我れ、善かれ悪かれ全宇宙に二とは無き我れ、それが人格である。そして万物発達の順序として人格は最後に現はれたる者である。之に絶大の淋しみが無いではないが、同時に又絶大の貴尊が伴ふ。|唯一つより外に無き者〔付○圏点〕、それ故に金剛石よりも、世界よりも、宇宙よりも貴き着である。嬰児《をさなご》一人の生命が全国の富よりも貴いと云ふ訳は之に由るのである、即ち其人格に由るのである。

〇そして人に人格があつて神に之が無いであらう乎。此頼りなき弱き微《ちい》さき私に此無上の性格が有るに拘はらず、神は単に非人格的の法則又は能力であるであらう乎。若し神が盲目の力《フホース》であると云ふならば、助けなき人格者なる私は誰に向つて私の苦痛を訴へて、其|援助《たすけ》を仰ぐであらう乎。神が若し人格者又はそれ以上の者でないならば宇宙は混乱である、暗黒である。そんなツマラない意味のない宇宙を想像することは出来ない。

〇茲に至て聖書の示す所の神の最も合理的にして、個人性を備へたる人類を完全に満足させる事の出来る神であ(105)

  唯彼独り天を張り海の濤《なみ》を履み給ふ。又北斗、参宿、昴宿、及び南方の密室を造り給ふ(ヨブ記九章八、九節)。

  我はエホバなり、他に一《ひとつ》もなし、我は光を作り又暗を造る、……我はヱホバなり、我すべて是等の事を為すなり(イザヤ書四十五章六、七節)。

  ヱホバ我に顕はれて曰ひ給ふ、我れ窮なき愛を以て汝を愛せり、故に我れ絶えず汝を恵むなり(ヱレミヤ記三十一章三節)

斯くて我等基督者の神は人の如き神である。我等が父と呼びまつり、主として仕へ、友として親しみ得ぺき神である。斯かる神が在《いま》し給ふが故に、我等各自は独り世に立ちて、寂しさに耐へ得るのである。そして彼に守られて我等は康く又喜ぶのである。

(106)     ヨセフの話

                            大正13年1月10日

                            『聖書之研究』㍑号

                            署名 内村鑑三

 

     其一 青年時代の夢 創世記第三十七章の研究

 

〇馬太伝一章二節に「アブラハム イサクを生み、イサク ヤコブを生み、ヤコブユダと其兄弟を生めり」とある。ヨセフは即ちユダの兄弟の一人にして、ヤコブの子にしてイサクの孫アブラハムの曾孫である。アブラハムは特に信仰の人であり、イサクは静粛の人であり、ヤコブは活動の人であつた。ヱホバは己をモーセに現はして曰ひ給うた「我は汝の父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神なり」と(出埃及記三章六節)。父子孫三人は同一の神の恩寵の下に三ツの全く異《ちが》つた性質を現はした。そして曾孫のヨセフに於て三人の性質が一人の性格となりて現はれた。神は天然の法則を以て働き給ふ。遺伝の法則は著しくアブラハムの家に於て働いた。ヨセフはアブラハム家の善き代表者であつた。アブラハムの子孫たる所謂ユダ人は、其光明的半面に於て善くヨセフの性質を現はして居る。ヨセフを知らずして選民の歴史を解する事は出来ない。ヨセフはイエスキリストの原型《プロチタイプ》である。ヨセフを高め、潔め、拡《ひろ》くした者が、神の子にして人類の王なるイエスである。|ヨセフの生涯は之をイエスの小伝として見ることが出来る〔付○圏点〕。

(107)○創世記三十五章二十三節以下に曰く、
 夫れヤコブの子は十二人なり、即ちレアに由て生れし子は、ヤコブの長子ルベン及ひシメヲン、レビ、ユダ、イサカル、ゼブルンなり。ラケルに由て生れし子はヨセフとベニヤミンなり。ラケルの仕女《つかへめ》ビルハに由て生れし子はダンとナフタリなり。レアの仕女ジルバに由て生れし子はガドとアセルなり。是等はヤコブの子にしてパダンアラムに於て彼に生れたる者なり。

 此外にレアに由て生れしデナと呼ばれし女子があつた。此女子がヤコブの子等に由て大なる悲劇を起すの原因となつた(第三十四章)。

〇此くしてヤコブに四人の妻があつた。然し彼が正妻として認めし者はラケルであつた。そして彼の十二人の子の内で彼が嫡子として認めし者は、此ラケルが生みしヨセフであつた。アブラハム家の祝福は長子ルベンならで、ベニヤミンを除いての末子なるヨセフに伝はるべきであつた。信仰の家に於ては家督の恩恵は|選び〔付ごま圏点〕に由るのである(羅馬書十一章五節を見よ)。イサク、ヤコブ、ヨセフ、孰れも「恩《めぐみ》の選《えらび》に由り」て信仰の家を嗣いだのである。此福音的真理を心に留めて、第三十七章二節の言を解する事が出来る。即ち「ヤコブの伝は是なり、即ち|ヨセフ十七歳〔付○圏点〕にしてその兄弟と偕に羊を牧ふ云々」と。即ちヤコブの伝はヨセフに繋がると云ふのである。そしてヨセフは彼の長き多事多難の生涯に於て、此伝統的恩恵を失はなかつたのである。神はアブラハムに為し給ひし約束を充たさんが為にヨセフを守り、彼をして其聖旨を為さしめ給うたのである。ヨセフの場合に於ても人の意志や計画が行はれたのではない、神の聖旨が行はれたのである。ヨセフが偉らかつたのではない、彼に在りて働き給ひしヱホバの神が偉らかつたのである。神の人の生涯はすべて如此しである。其点に於てモーセ、ヱレミヤ、パ(108)ウロ、ルーテル、コロムウエル、すべて異る所はない。

〇|ヨセフほ青年時代に夢を見た〔付○圏点〕。禾束《たば》の夢と星の夢とがそれであつた。青年はすべて|夢見る者〔付ごま圏点〕ある。コロムブスも秀吉も青年時代に夢を見た。そして其夢が彼等の生涯に於て事実となりて現はれた。夜の夢がある、昼の夢がある、そして殊に注意すべきは|昼の夢〔付○圏点〕である。預言者の夢、詩人の夢、美術家の夢はすべて|醒めたる時〔付ごま圏点〕の夢である。之を夢想と称して斥くる勿れ。|或る夢〔付ごま圏点〕は神より来る啓示《しめし》である。然し之は人に語るべき者ではない。語つて返つて彼等の誤解する所となる。ヨセフ其夢を兄弟等に語りしかば、「兄弟彼を嫉《ねた》めり、然れどその父は此言を憶え(心の中に秘め)たり」とある(第十一節)。若しヨセフが夢を何人《たれ》にも語らざりしならば、彼は多くの災害《わざはひ》より免かれたであらう。

〇ヨセフの兄弟等は自分等に甚だ不名誉なる夢を打消さんとした。即ち夢見る者を無きものにして、夢の災禍《わざはひ》を絶たんとした。彼等は彼を殺さんとした。然るに長兄ルベンの遮る所となりて彼を辱かしめ、※〔こざと+并〕《あな》に投じ、後に彼を引上げて異邦の商人に奴隷として彼を売渡すに止めた。骨肉の行為として実に残酷極まると云ふべきである。然し乍ら嫉妬は時に人を駆つて茲に至らしむ。兄弟は他人の初めであると云ふ。利益の為に兄弟相争ふは決して稀なる事ではない。我国の歴史に於て兄弟が位を争うて一が他を除きし場合はすくない尠くない。所謂宇都宮騒動の如きは其一例である。アブラハムの家にも亦此罪が行はれた。人はアブラハムの子孫と雖も生れながらにしては罪の人である。後に至りて、ユダヤ人が、ヤコブの子等と同じ精神を以て、ナザレのイエスを殺した。ヨセフに於てイエスが現はれ彼の兄弟等に於て民の長老と学者とパリサイの人が代表されたのである。罪の歴史は古今東西変らない。

(109)○ヨセフは銀二十枚にてイシマエル人に売られ商品としてエジプトに携へ行かれ、彼地にて終に国王パロの侍衛の長なるポテパルに売渡された。憐むべし青年ヨセフの夢は茲に全然破壊された。彼は多分ドタンよりシケムへ、ベテルより父の家なるヘブロンを経て、南の方エジプトへと駱駝の脊にて運ばれたであらう。叫ぶも呻くも今は無益である。彼は今は無慈悲なる運命の縄に縛られて、まだ見ぬ国へと運ばれたのである。彼の若き血は煮えたであらう。彼は独り思うたであらう、嗚呼我が父祖の神は何処に在る、彼は我を非道の手に渡し給へり、夢はやはり夢であつた、我は我が兄弟等に夢を語つて夢を破られて憂き目を見せられたと。此時彼は摂理の手に導かれて、理想実現の域へと連れ行かれつゝあるを知らなかつた。泣けるヨセフの上に恩恵の神は笑み給ひつゝあつた。人の怒は神の聖旨を壊つことは出来ない。神は御自身に逆ふ人達を以て其聖旨を遂げ給ふのみならず、更に進んで悪人自身の救ひをも行ひ給ふ。イスカリオテのユダがイエスを売んとて出行くや、イエスは弟子に告げて曰ひ給うた「今、人の子栄を受く、神亦彼に由りて栄を受くるなり」と(ヨハネ伝十三章一)。ヨセフの場合に於ても同じであつた。但し神の子ならぬヨセフは其兄弟に売られて「栄を受け、神亦彼に由りて栄を受る」とは知らなかつた。

〇愛子ヨセフの喪失はヤコブに取りても亦言尽されぬ痛撃であつた。彼の生涯の希望は今や懸つて此子にあつた。彼は最近最愛の妻ラケルに別れ、彼女の遺子として、又祖父アブラハムより伝来の神の祝福の承継者として、ヨセフは家の宝、老いたる父の倚頼む柱であつた。然るに親の心子知らずであつて、ヤコブの子等は其弟を売ると同時に其父を欺いた。「斯くて彼等ヨセフの衣を取り、牡山羊の羔《こ》を殺してその衣を血に濡《ぬら》し、之を父に送り遣はして曰ひけるは、我等之を得たり、汝の子の衣なるや否やを知れと」と(三一、三二節)。無情の極、無慈悲の極(110)実に言語道断である。然し是れ決して無い事ではない。斯かる例《ためし》は世にいくらもある。世に嫉妬《ねたみ》程恐ろしい者はない。自己《おのれ》にまさりて他を愛する者を怒るの心、それが嫉妬である。そして此心に駆られて、最も恐るべき罪悪が行はれた。嫉妬の焔の燃ゆる所に親子も兄弟も夫婦もない。「是れ汝の子の衣なるや否やを知れ」と。イエスの放蕩児の譬話に、兄が弟の帰りしを聞いて父に告げし言に曰く「此|汝が子〔付△圏点〕帰れば之が為に肥たる犢を宰《ほふ》れり云々」と(ルカ伝十五章三〇)。「汝が子」である、我が兄弟ではない。嫉妬は肉親の情を打消すの能力である。

〇然し乍ら「人の怒は神の義を行ふ事を為さず」とある(ヤコブ書一章二十)。ヤコブの希望もヨセフの夢も兄弟等の悪計《わるだくみ》に由て破砕されなかつた。神の約束は立て壊れず。神は異邦の商人を以て、大国の王と高官とを以て、而して大なる餓饉を以て終に彼に依頼む者を救ひ給うた。(十月廿八日)

 

     其二 正しき歩み 創世記第三十九章の研究

 

  ヱホバ ヨセフと偕に在す(二節)……ヱホバ ヨセフの為に其エジプト人の家を恵み給ふ、ヱホバの祝福彼が家と田に有《もて》る凡の物に及ぷ(五節)……然れば我れいかで此大なる悪をなして神に対し罪を犯すを得んや(九節)……そはヱホバ ヨセフと偕に在せばなり、エホバ彼の為す所を栄えしめ給ふ(二三節)。

〇ヨセフは悪人等の譎計《わるだくみ》に罹り大なる悲境に陥つた。然し絶望の故に為すべきの義務を怠らなかつた。彼は第一に神を恨まなかつた。第二に主人には主人として事へた。彼は多くの青年が為すが如くに、自分の理想を押立て境遇に逆ひて進まんとしなかつた。身は富家の生れであるに拘はらず、今は買はれし奴隷として、自分の利益を忘れて、主人の利益を計つた。斯くして披の為す事は悉く成功した。彼は第一に主人の完全なる信用を博した。

(111)主人は家と其財産を挙げて之を彼に委ねた。「彼れその有《もて》る物を悉くヨセフの手に委ね、その食ふパンの外は何をも顧みざりき」とある(六節)。「彼れ己が食ふパンの外は、何を有《もて》る乎を知らざりき」と訳すべきである。信頼の極である。ポテパルは其全財産を挙げて之をヨセフに委ね、其決算報告をすら聞くに及ばざるに至つたとの事である。此忠実と信頼とありて、所謂資本と労働との衝突の有りやう筈はない。主人の有《もの》は僕の有、僕の有は主人の有である。「ヱホバ ヨセフと偕に在ます……ヱホバ ヨセフの為に其エジプト人の家を恵み給ふ」とある。ヱホバ偕に在して、雇人と被雇人との間に此美はしき関係が成立するのである。神の臨在を乞はずして唯法律を以て定めし権利関係として、資本と労働との調和を計らんとするも、その失敗に終るは明白である。

〇伝道之書第九章に曰く「凡て汝の手に堪ふる事(凡て汝の手に来りし事)は力を尽して之を為すべし」と。凡て与へられし仕事は、その何たるに拘はらず全力を注いで之を為す、それが成功最大の秘訣である。凡の成功者は此途を取つた。そしてヨセフは其好き例であつた。彼はポテパルの家の宰として忠実であつた、獄舎に投ぜられ、囚人の首として忠実であつた、そして最後にエジプト国の総理大臣として忠実であつた。能く家を斉《とゝな》ふ者は亦能く国を治む。小事に忠なる者は大事にも忠である。「彼に曰ひけるは、あゝ善且忠なる僕よ、汝寡なる事に忠なり我れ汝に多くの物を督《つかさ》どらせん、汝の主人の歓楽《よろこび》に入れよ」との、馬太伝二十五章十二節に於けるイエスの御言はヨセフの如き者に適用すべきである。米国人にヨセフと呼ばれし新島登襄君の壮年時代の行為の如き、克くヤコブの子ヨセフのそれを例証すべきものである。

〇成功の途に就きしヨセフは再た新たなる災厄に遭うた。彼は悪しき婦人に誘《いざな》はれ、之を拒みし結果、主人の怒を買ふて獄に授ぜられた。誘惑と云へば男が女を誘ふ者の如くに思はるゝが、然し決してさうとは定まらない。

(112)男は必ず悪魔であつて、女は必ず天使であると思ふは間違である。ヨセフの場合に於て男は天使であつて、彼を誘ひしポテパルの妻は悪魔であつた。そしてヨセフは如何にして魔女の誘惑を斥けし乎と云ふに、|彼はヱホバに依て之を斥けたのである〔付○圏点〕。「我れいかで此大いなる悪を為して神に罪を犯すを得んや」と彼は此妖艶なるエジプト婦人に告げた。姦淫は何故に罪である乎、之を学理的に定むるは頗る困難である。日本文士の多数の如き、今日と雖も猶ほ姦淫の罪たるを明白に認めないであらう。ヨセフも亦、当時《そのとき》の倫理学者に問ふて、的確なる解答を得なかつたであらう。そして彼の兄姉等は此事を明かにせずして、多くの耻かしき罪を犯した。創世記第三十四章と、同第三十九章とは、ヤコブの家に於ける、男女関係の暗黒的半面を語る者である。然れどもヨセフは彼等と類を異にした。彼は身の清潔を守るに勇敢であつた。柔順温良の彼は罪に対しては峻厳であつた。そして彼はヱホバを信ぜしが故に斯くあるを得たのである。希伯来書十三章四節に曰く、「汝等婚姻の事は凡て之を貴むべし、……神は苟合《こうがふ》また姦淫する者を審判き給ふ」と。|姦淫は神に対して犯す罪である〔付△圏点〕。神は殊に此罪を憎み給ふ。故に神を歓ばせんと欲する者は此罪を避ける。イエスキリストの御父なる真の神に対する信仰と姦淫の罪とは如何にしても両立する事が出来ない。「我れいかで此大なる悪を為して神に対して罪を犯すを得んや」と三千年前のヨセフは曰うた。そして今日と雖も此罪を免かれ、身と魂との清潔を守らんと欲せばヨセフに傚ふより他に途がないのである。修養も鍛錬も、思索も研究も、此罪に勝つには余りに微力である。多くの英雄、多くの文士が、他の事に於ては世の尊敬を惹くに足りしかども此罪丈けには勝つ事が出来なかつた。ヱホバ我と偕に在してのみ、我は彼の潔きが如くに潔くあるを得るのである。

〇身の清潔を維持してヨセフは無実の罪に問はれて獄に投ぜられた。災厄の上の災厄である。彼は益々不幸の深(113)

其獄舎に投ぜられた。アブラハムの神何処に在す乎と彼は呟いたであらう。それは兎もあれ彼は又彼の境遇に安んじた。彼は監獄生涯を利用して彼の信仰を発揮した。監獄に在りても貴顕の家に於て在りしが如くに、ヱホバヨセフと偕に在して彼の為す所を栄えしめ給うた(二十三筋)。ヱホバ偕に在して、境遇の如何は問題にならない。すべての境遇が彼の栄光を顕はすに適してゐる。「義しき人は患難多し、然れどもヱホバは皆な其中より救出《たすけだ》し給ふ」とある。そして彼に正直勤勉の霊を与へて彼を救出し給ふ。境遇其物に救拯の途が備つてゐる。別に手段方法を講ずるに及ばない。置かれし地位に在りて、勤勉で、正直で、忠実で、彼に自から救拯の途が開かれるのである。ヨセフの生涯に於て特に注意すべきは、彼が神の愛子でありしに拘はらず、奇蹟の之に現はれざりし事である。彼の立身の途は平凡であつた。そしてヱホバ偕に在して、平凡の途は奇蹟以上の奇蹟である。(十一月四日)

 

     其三 栄達の道 創世記四十章、四十一章の研究

 

〇ヨセフは夢を見る者であつた。又夢を占ふ者であつた。彼は夢の人であつた。今日の言葉を以て言ふならば、理想の人であつた。彼はユダ人の善き代表者であつて、実行家であると同時に理想家であつた。彼は預言者であつた、同時に又政治家であつた。預言者イザヤの如き、政治家ダニエルの如き、其他聖書人物の跡を践んで、預言又は政治に従事した者に、此の反対性である乎の如くに見ゆる両面があつた。アブラハム族の偉大は茲に在る。彼等は理想の民であると共に実力実行の民である。四千年後の今日と雖も、彼等が其民族的精力を失はざる理由(114)は茲に在る。夢を見ざる民は古び、夢を行はざる民は滅ぷ。夢は詩である、哲学である、音楽である。実行は政治である、工業である、実業である。ユダ人は此両方面に於て偉大である。そしてヨセフが彼等の為に此の善き遺伝を作つたのである。

〇凡て不確実なるもの、之を夢と云ふ。「夢の浮世」と云ふ。「睡《ねぶ》間の夢、旅人の、一夜語りの話種《はなしぐさ》」と云ふ。夢ほど当にならぬ者はないと思はる。然るに近代の心理学の研究は此説を一変した。多くの革命的言語を発せし哲学者ニイチエは夢に就て曰うた「我れ自身の何たる乎を示す者にして、我の見る夢ほど確実なる者はない」と。夢は我が無意識的自我である。意志の抑制なき時の赤裸々の自我、それを自分に見るものが夢である。脳神経は機械の一種であつて眠る間も働く者である。そして或る刺激に由て之を意識する時に「夢を見る」のである。故に夢は悉く当にならぬ者でない。或る困難《むつかし》き数学上の計算を夢の裡に為した例がある。有名のアツシリヤ学者ヒルプレヒト氏は夢の告示《しらせ》に由つて或る判じ難き古代文字を読解したりと云ふ。夢は人の生涯に於ける不可思議の一である「痴人夢を語る」と称して、夢を尽く痴人の事と見るは、心理学研究の進歩せる今日の識者の為さゞる所である。

〇ヨセフは獄舎に在りて、彼と共に繋がれしパロの重臣二人の夢を解いた。彼の判断に違はず一人は赦され、一人は処刑せられた。夢其物に深い意味は無かつた。然しヨセフは之に由て神に依る判断の誤らざるを覚つた。神は又之に由つてヨセフを王に紹介し、彼の立身の途を開き彼を通うして、彼の兄弟及び父ヤコブの一族を救ふの機会を作り給うた。神の聖手に在りて小事は決して小事でない。小事は我等を大事に導くの径路として貴くある。

〇「ヨセフ彼等に曰ひけるは、(夢を)解く事は神に因るに非ずや、請ふ我に述べよ」と(八章)。ヨセフは何処ま(115)でも謙遜であつた。彼は自分で夢を解き得るとは思はなかつた。夢を起す者は神、之を解く者は神であると信じた。斯くて彼は普通の夢占ひではなかつた。夢を以てする神の黙示に与る者であつた。夢は黙示の手段に過ぎなかつた。貴きは示されし事実であつた。手段は文化の程度に由て異なる、然れども黙示と之に接する心の状態とは今も昔も同じである。ヨセフが夢を解きし如くに、我等は時に人生の謎を解かしめらる。そして神に依て其解釈を試みて我等も亦自他に関はる神の黙示に与る事がある。そしてヨセフの場合に於けるが如く「解く事は神に因るに非ずや」である。各自に臨む人生の謎は神が起せし者であつて、之を解くの智慧も亦神より出る者である。「神の情《こと》は神の霊の外に知る者なし」とパウロがコリント前書二章十一節に於て曰ひしが如くに、神より出し人生の謎は神の霊より外に之を解く者はない。

〇ヨセフは獄《ひとや》に在ること二年、彼に夢を解かれて、素の栄職に復せし酒人《さかふど》の長《かしら》は恩を忘れて、彼れヨセフの放釈を計らなかつた。然るに茲に彼を世に出すべき事件が起つた。それは王自身が解するに難き夢を見し事であつた。七頭の牝牛と、七穂の麦の夢は国の安否を思ふエジプト国の王が見さうの夢である。そして之に対するヨセフの解釈は何人が見ても適切である。「バロと其すべての臣僕《けらい》此事を善とす」とあるは爾《さう》あるべきである(四十一章卅七節)。七年の豊年に次で七年の凶年が来る、故に豊年の間に穀を蓄へて凶年に備へよとの建言である。事は至て簡短明瞭である。然れど此任に当る者は誰ぞ。ヨセフは勿論自分を推薦しなかつた。然れどもパロの眼にはヨセフこそ其適任者であつた。パロはヨセフに曰うた「神之を尽く汝に示し給ひたれば汝の如く慧く賢き者なかるべし、汝我家を宰るべし、我が民皆な汝の言に従はん、唯位に於てのみ我は汝より大なるべし」と(卅九、四十節)。バロに人を見るの眼があつた。国を思ふに厚き彼は民を治むるの才に長けた。|治国の術は他でない、適当(116)の人を適当の地位に置く事である〔付ごま圏点〕。パロはヨセフの風采言語に於て、殊に其謙遜の態度に於て、国を挙げて之を委ぬるに足るの資格を認めたであらう。君、君たれば臣臣たるべしと云ふが如く、パロ、明君たりしが故に、ヨセフは良臣たり得たのである。我等はヨセフの偉大を認むると同時に、パロの賢明を忘れてはならない。

〇ヨセフは何に由てバロの夢を正当に解するを得し乎。聖霊に由ると我等は言うであらう。然れども聖霊は如何にして斯かる解釈をヨセフに供し給うたであらう乎。|神を信ずるの結果として、神の造り給ひし万物に対し、厚く同情を寄する事に由つて〔付○圏点〕と、私は答へんと欲する。ヨセフは本能的に来らんとする七年の豊作と七年の凶作とを予知したのであらう。其点に於てヨセフは克く我が二宮尊徳に似てゐた。実に彼は尊徳にヱホバの霊の宿りし者であつたらう。尊徳も曾て凶年を予知して民をして之に備へしめた事がある。彼は秋に茄子《なすび》を味ふて翌年の凶作を知つたとの事である。彼は曰うた「十年の凶作に備ふるの貯蓄なき国は滅ぶ」と。そして尊徳をして農業的予言者たらしめし所以は、地と其産に対する彼の深厚なる同情に在つたのである。天然の秘密を知るの秘訣は、人の心を知るの秘訣と同じく、深き熱き同情である。パロをして斯かる夢を見せしめし者は民を思ふ切々の心であつた。そしてヨセフをして之を正当に解せしめし者は、神に対する信仰は勿論の事として、パロと其民と、彼等の国土とに対する熱き深き同情であつた。預言は単《たゞ》に未来を語る事でない 又王を責め民を罵る事でない。預言は熱き同情を以てする時勢の解釈である〔付○圏点〕。預言者は同情即ち愛の人である。愛を以て見る時に、夢に意味があり、風に真理が含まるゝのである。ヨセフが若し今日世に在つたならば、彼は夢を解ずして、イエスが曰ひ給ひし「時の兆候《しるし》」を解いたであらう。神は何れの時代に於ても明かなる「兆候」を供へ給ふ、唯之を読む者がないのである。
(117)○ヨセフはエジプトの王パロの前に立し時「十歳なりき」とある(四六節)。同じくヤコブの裔《すゑ》にしてヨセフよりりも大なりし者が世に現はれ給ひし時も亦二十歳でありしと記さる(ルカ伝三章廿三節)。二十にして立つと孔子も言うた。神に事へんと欲して早かるべからず、晩かるべからず、未熟の身を以てすべからず、老衰の体を以てすべからず、「その身を神の聖意に適ふ聖き活ける祭物《そなへもの》として神に献げよ」とある如く(ロマ書十二章一節)我等は我等の最善のものを彼に献ぐべきである。急ぐ勿れ、然ればとて後るゝ勿れ。大抵の場合に於て三十歳が時である。

〇神は終にヨセフを其多くの患難《なやみ》の中より救出し給うた。彼は其事を彼が設けし二人の男子の名を以て表明《あらは》した。曰くマナセ(忘れ)、曰くエフライム(多く生る)と。十七歳にして異邦の人に売られ、奴隷の生涯を送ること十三年、然かも一回も自から難より免かれんとせず、唯置かれし地位に在りて忠実に勤めた。彼は唯の一回も自分の立身栄達の為に運動しなかつた。唯一回|酒人《さかふど》の長《をさ》の夢を解いて、其|報《むくい》として、出獄の後に彼の放釈の為に力を尽さん事を頼みしも、それすら忘れられて、彼は更に二年間獄舎の生涯を続けた。|神が人を義とし給ふ時に人の手を藉り給はない〔付△圏点〕。彼大王と天地の力を用ひてヨセフの絏紲《なわめ》を釈き、彼を栄光の地位に置《す》ゑ給うた。我等も亦ヨセフに傚ひて成功を焦心るべきでない。(十一月十二日)

 

     其四 夢の発現 創世記第四十二章より四十五章までの研究

 

〇ヨセフの夢は終に事実となりて現はるゝに至つた。彼の兄弟達の禾束《たば》が立ちて彼の禾束を環《めぐ》りて之を拝せりとの夢は其通りに成つて現はれた。「ヨセフの兄弟等来りてその前に地に伏して拝す」とあり(四十二章六節)、「彼