内村鑑三全集28、岩波書店、472頁、4200円、1983.2.24

 

一九二三年(大正一二年)九月より一九二四年(大正一三年)一二月まで

 

凡例………………………………………… 1

一九二三年(大正一二年)九月―一二月

A Missionary Problem.宣教師問題 ……… 3

真の伝道師…………………………………… 5

神は侮るべからず…………………………… 7

愛の意義………………………………………13

天災と天罰及び天恵…………………………18

The Earthquake.地震に就いて ……………21

美と義 べテロ前書一章二四、二五節。ゼカリヤ書九章十三節。……23

末日の模型 新日本建設の絶好の機会……27

宗教と実際生活………………………………32

ソドムとゴモラの覆滅………………………38

 (其一) 創世記第十八章第十九章の研究

 其二 アブラハムとロト

     創世記第十三章の研究

 其三 天使の訪問 創世記第十八章の研究

 其四 ソドムの罪とロトの運命

     創世記第十九章の研究

Baptism of Holy Spirit.聖霊のバプテスマに就て……56

災後余感………………………………………58

震はれざる国 希伯来書十二章十八節以下について……60

理学と信仰……………………………………63

東京神田の焼跡に……………………………68

Prayer.祈祷に就て …………………………69

伝道師の慈善…………………………………71

基督信者の礼儀………………………………73

永遠変らざる者………………………………76

神に関する思考………………………………82

神の在る証拠

神の存在の証明

神と天然

父なる神

摂理の神

一九二四年(大正一三年)

Unitarianism.ユニテリヤン教に就て ……99

年頭の辞…………………………………… 101

人格的の神………………………………… 103

ヨセフの話………………………………… 106

 其一 青年時代の夢

     創世記第三十七章の研究

 其二 正しき歩み

     創世記第三十九章の研究

 其三 栄達の道

     創世記四十章、四十一章の研究

 其四 夢の実現

     創世記第四十二章より四十五章までの研究

イエスとヨセフ…………………………… 122

一九二四年を迎ふ………………………… 127

The Modern Man.近代人に就て ………… 128

苦痛か罪か………………………………… 130

神田乃武君を葬るの辞…………………… 134

医学士武信慶人君を葬るの辞…………… 142

テサロニケ書翰に現はれたるパウロの未来観…… 145

 其一 梗概

 其二 キリスト再臨の希望

     テサロニケ後書二章一-一二節。

 其三 人の子の兆

     テサロニケ後書二章の研究の続き。

 其四 復活と再会の希望

     テサロニケ前書四章十三-十八節。

Modern Theology.現代神学に就て……… 163

個人主義と自己主義……………………… 165

地位の満足………………………………… 167

清潔の道…………………………………… 170

真理と自由………………………………… 176

死の権威…………………………………… 182

誘惑に勝つの途…………………………… 188

決心を促す………………………………… 194

『苦痛の福音』〔序文・目次のみ収録〕…… 195

自序……………………………………… 196

China and Japan.支那と日本…………… 198

浅い日本人………………………………… 200

イスカリオテのユダ……………………… 202

イエス対ユダ……………………………… 208

伝道の可否………………………………… 214

支那伝道 他……………………………… 215

支那伝道

師道の転倒

The Exclusion Bill.排日法案 ………… 217

行詰と救拯………………………………… 219

鈴木錠之助君を葬るの辞………………… 221

米国人より金銭を受くるの害…………… 224

米国人の排斥を喜ぶ……………………… 226

米国に勝つの途…………………………… 228

“Grave Consequences.” ……………… 229

Exclusion Again.再び米国の排斥に就て…… 231

米国人の排斥を歓迎す…………………… 233

不死の生命に就いて……………………… 235

箴言の研究………………………………… 238

 第一章七-一九節

 知識と聡明の獲得 箴言第二章の研究

 長命と名誉と富貴 箴言第三章一-十節

 知識と聡明と智慧

  箴言第三章十三-二十節

 智慧第一 箴言第四章一-九節の研究

 心の防衛

 身の清潔 箴言第五章

 保証の危険 箴言六章一-五節

 蟻に学べ 箴言六章六-十一節

 邪曲の人 箴言第六章十二-十九節

 姦淫の世 箴第七章

 智悪は語る 箴言第八章一-十一節

 智慧の前在並に人格性 箴言八章二二-三二節

米国人の排斥に会ひて…………………… 276

宣言………………………………………… 278

米国風を一掃せよ………………………… 281

発刊の辞…………………………………… 284

米国人の排日憤慨………………………… 285

Whose Earth? 誰の世界乎 …………… 286

独立の途…………………………………… 288

人の三分性 一名、聖書心理学の大要… 290

三分性と復活……………………………… 296

キリスト教と愛国心……………………… 302

全き福音…………………………………… 305

争ひの後の平和 他……………………… 311

争ひの後の平和

米国と基督教

憤慨の弁明………………………………… 314

簡易生涯…………………………………… 315

樹を植ゑよ………………………………… 316

対米所感…………………………………… 317

海中の富…………………………………… 322

W・M・ヴォーリズ君を紹介す…………… 323

地理と歴史………………………………… 325

旧友オランダ……………………………… 326

Self‐Contradictions.矛盾に就て……… 328

救の範囲…………………………………… 330

拡張の横縦………………………………… 332

信仰と能力………………………………… 338

恵まるゝの道……………………………… 343

対米態度の維持…………………………… 346

傚ふべき国………………………………… 348

A Dialogue 日米対話 …………………… 351

『羅馬書の研究』〔序文・目次のみ収録〕…… 355

『羅馬書の研究』に附する序………… 356

To Be a Christian.基督者たるの途…… 363

言葉の宗教………………………………… 365

自由の解…………………………………… 367

愛の消極的半面=絶交必要の場合……… 370

来世期待の能力…………………………… 373

教派絶滅の途……………………………… 375

西洋の模範国デンマルクに就て………… 376

History and Prophecy.歴史と予言 …… 379

日本的基督教に就て……………………… 381

信仰の確証………………………………… 383

異人種の融合……………………………… 386

対米余録…………………………………… 389

Sectarianism.西洋人の宗派心に就て … 390

伝道成功の秘訣…………………………… 392

救の磐……………………………………… 394

日本の天職………………………………… 400

自分の事と他人の事……………………… 409

キリストは誰乎…………………………… 412

愛国心の欠乏……………………………… 415

Christmas 1924.クリスマス一九二四年…… 416

人生のABC ………………………………… 418

大正十三年を送る………………………… 425

別篇

付言………………………………………… 427

社告・通知………………………………… 429

参考………………………………………… 434

米国が日本につぎ込む金 年に数千万円に上る 私も曽つて誘惑されたと内村氏抱負を語る…… 434

排日移民法反対声明に関する断片…… 435

高橋すみ子を葬るの辞………………… 438

 

一九二三年(大正一二年)九月-一二月 六三歳

 

(3)     A MISSIONARY PROBLEM.宣教師問題

                         大正12年9月10日

                         『聖書之研究』278号

                         署名なし

 

      A MISSIONARY PROBLEM.

 

 I am often asked of my opinions on this question:“Should we missionaries stay in Japan or leave it?”To which I instantly answer as follows:“If you are in any doubt about that matter,leave at once;for,I understand,Christian mission is a matter of convictions and not of opinions. We stay when God tells us to stay;and leave,when God tells us to leave;we do not stay or leave according to men's opinions.”I think the question is after all a very foolish one;and I am surprised to find so many missionaries troubling themselves about such a foolish-question.Yet I understand,the question has been discussed among them for several years,and they have not reached any defunite conclusion yet! Are there no wise man among missionaries?

 

     宣教師問題

 

 余は度々次の間題に就て余の意見を徴せらる 曰く「我等宣教師は日本に留るべきや又は去るべきや」と。余(4)は直に之に答へて曰ふ「難し諸君にして此問題に就き疑念《うたがひ》を懐《いだ》くならば、諸君は宜しく速に日本を去るべし。余の解する所に従へば、基督教伝道は確信の事にして意見の事にあらず。基督者《クリスチヤン》は神が留るべしと命じ給ふ時には留まり、去るべしと命じ給ふ時には去る。基督者は人の意見に依りて留まりもせず、亦去りもせず」と。余の見る所を以てすれば此問題は要するに馬鹿らしき問題である。余は多数の宣教師が斯の如き馬鹿らしき問題に彼等自身を悩すを見て驚くのである。然るに余の聞く所に依れば、此問題は彼等の間に討議せられて既に数年に渉り、而して今に猶ほ的確なる解答を見ざると云ふ。宣教師の間に智者は一人も居ないのであらう乎。

 

(5)     真の伝道師

                         大正12年9月10日

                         『聖書之研究』278号

                         署名なし

 

〇真の伝道師に無くてならぬ者が三ある。|其第一は神に救はれたる実験である〔付○圏点〕。是れなくして彼の聖書知識は如何に該博なるも、彼の哲学的素養は如何に深遠なるも、彼は人を教へ、霊魂を救ふ事は出来ない。己れ先づ神に救はれたるの実験を有せずして、他を救拯の道に導くことは出来ない。

〇其第二は正直である。伝道に政略は無用である。無用であるのみならず有害である。「恥べき隠れたる事を棄て詭譎《いつはり》を行はず、神の道を混《みだ》さず、真理を顕して神の前に己を衆《すべて》の人の良心に質すなり」と云ふのがパウロの伝道法であつた(コリント後書四章二節)。己が良心を以て他の良心に臨む。我が信念有の儘を披瀝して、世の公平なる判断に訴ふ。伝道は戦争に非ず、之に戦略又は謀計があつてはならない。真理其物に勝る勢力はない。政略も智略も伝道に取ては大妨害である。失敗可なり、誤解可なり、唯神の道を混さゞらん事を恐る。正直なる心をもつて明白なる神の真理を伝ふ。夫れが為に教会は起らざるも可なり。牧師、宣教師等に嫌はるゝも可なり。成功を度外視して唯偏に真理の唱道者たるべきである。

〇|其第三は健全なる常識である〔付○圏点〕。事実は事実として之を採用し之に服従すべきである。前以て作れる説を以て万事を判断してはならない。進化論に真理あらん乎、臆せずして之を採用すべきである。高等批評に聴くべき所あ(6)らん乎、躊躇せずして之に聴くべきである。今の時代に於て何人と雖も科学の結論を無視する事は出来ない。若し科学に反対すべき点あらば、聖書の言を以てせずして科学を以て反対すべきである。哲学に応ずるに哲学を以てし、批評に応ずるに批評を以てすべし。信仰は無学の謂ではない。知識を以て潔めずして信仰は迷信に化し易い 信仰は単に信仰のみの事ではない、亦知識の事である。正直に、知識を以て鍛へたる信仰を伝へて、真の伝道が行はるゝのである。

 

(7)     神は侮るべからず

        (七月十五日、即ち有島事件の有つた後に、而して大震火災の起らざりし前に、柏木今井舘に於て述べた者であります)

                         大正12年9月10日

                         『聖書之研究』278号

                         署名 内村鑑三

 

  自から欺く勿れ。神は慢るべき者に非ず。そは人の種《ま》く所の者は亦その穫る所となればなり。(ガラテヤ書六章七節)。

〇ガラテヤ書の此一節は此日本訳の通りに解釈して貴い真理を私供に伝へます。「自分で自分を欺いて、誤謬《あやまり》を信じて真理なりと思ふ勿れ。神は慢ることの出来る者ではない。彼は人の思考《かんがへ》如何に拘はらず其聖旨を実行し給ふ」と、斯う解釈して文法的にも教理的にも間違は無いと思ひます。

〇然し乍ら此所に使用されたる二箇の受動々詞の意味を其儘に現はして、此一節を左の通りに訳することが出来ます。

 汝等人に惑はさるゝ勿れ、神は御自身をして人に慢られしめ給はず、そは人の種く所の者は亦その穫る所となれば也

と。そして此訳の方が遥かに明白で、能くパウロが教へんと欲する真理を私供に伝へると思ひます。

(8)〇「汝等人に惑はさるゝ勿れ」。初代の基督教会に於てキリストの昇天以後百年立たない内に、多くの誤謬の教師が出て、多くの誤謬を信者と世とに伝へました。其事は使徒等の書簡が明かに示します。そして是等の誤謬の教師等は大胆に明白なるキリストの福音の真理を混乱《みだ》し、自から欺き、信者を惑はしたのであります。パウロは此ガラテヤ書の初めに於て曰ひました「縦令我等にもせよ、天よりの使者にもせよ、若し我等が曾て汝等に伝へし所に逆らふ福音を汝等に伝ふる者は詛はるべし」と(一章八節)。神の真理は簡単明瞭である。之に反対又は変更の余地は無い。之に反対すれば唯詛はるゝまでゞある。縦令我れ自身が斯かる反対者であるとするも、其結果は同じである。即ち唯詛はるゝまでゞある。故に汝等是等の誤謬の教師等に惑はさるゝ勿れとの事であります。

〇「神は御自身をして人に慢られしめ給はず」。此はパウロの確信であり、又人類の歴史が明かに示す所の事実であります。然るに誤謬の教師等は之を信じないのであります。彼等は神は永久に沈黙を守る者、縦し在つても無きに等しき者、人が何を信じやうが、何を伝へやうが、何を行ふが少しも干渉せざる者、殊に罪を|怒ると云ふが如きは神には絶対に解き事、然り有つてはならぬ事と信じて〔付△圏点〕、安心して、大胆に、誤謬を伝へて意気揚々たるのであります。若し人あり「神の罰が当る」と言へば彼等は「撥は太鼓に当る」と答へて、斯かる忠告には一顧の注意をも払はないのであります。即ち神は人の作つた偶像、眼ありて視ず、耳ありて聴かず、人が為す儘に任かして、宇宙人生の進行に些《すこし》の干渉を試みざる、又試み得ざる者であると、是等の人達は見做すのであります。

〇然し乍ら事実果してさうでありませう乎。人生は果して人が為す儘に成る者であつて、変らざる神の聖旨と云ふが如き者は絶対に行はれないでせう乎。然らずとパウロは答へました。そしてパウロ以前の、又以後の偉人は同じやうに答へました。人生に神の刑罰なる者が行はると唱へし者はユダヤの預言者や使徒達に限りません。現(9)代人は無神論を唱へる事は基督教に反対する事であるとのみ思ひますが、夫れは大なる間違であります。現代芸術の源なる希臘の芸術家が、キリストより数百年前に、其模範的劇作に於て、明かに、又最も力強く、神罰実現の事実を描いて居ます。悲劇《トラゼデイー》の太祖は誰であります乎。キリスト降世前五百二十五年前に雅典《アデンス》の近くに生れしエースキラスではありません乎。彼は徹底的な有神論者、神の摂理を信じ、罪の遺伝を信じ、正義の勝利を信じ、其|敬虔《つゝしみ》に溢れたる思想を不朽の悲劇に現はした者であります。「神は御自身をして人に慢られしめ給はず」とは使徒パウロの曰うた言でありますが、其事実をドラマに現はし、芸術的発達の絶頂に達したる雅典の市民に伝へ、彼等を通うして後世の人類に伝へし者は、「劇聖」とも称すべき此エースキラスでありました。キリストの使徒パウロに従ひても、芸術の始祖エースキラスに従ひても、「神は己を人に侮らしめず」であります。神は人事に干渉しないとは日本現代の文士や学者の唱ふる所でありまして時の古今を問はず、場所の東西を問はず、人類第一流の教師はすべて其正反対を教へました。即ち「人世他なし、正義の審判の行はるゝ神の法廷である。神は人事の|すべて〔付△圏点〕に干渉し給ふ。凡て人の言ふ虚き言は其一言たりとも審判かれずしては通うらない」と教へました(マタイ伝十二章三六節)。

〇「そは人の種く所の者は亦その穫る所となれば也」。此の言を前後の関係より離して読んで何人も其の真理なるを疑ひません。此は天然の法則であつて、別に聖書に依て学ぶの必要あるものではありません。「瓜の蔓には胡瓜は成らない」と日本の諺で云ひます。然し此は天然の法則であつて、神が御自身をして人に侮らしめ給はない事の証拠であるとは、神の人を待つて人類が初めて学んだ事であります。「誰か茨より葡萄を取り薊より無花果を採る者あらんや。斯く、すべて善き樹は善き果を結び、悪しき樹は悪しき果を結ぶなり」とイエスは曰(10)ひ給ひました。此は天然の法則であつて、又神の為し給ふ所であります。然るに人は、現代人は現代の学者文学者は、天然の法則は認むるも神の存在は認めない、神は自分等の自由意志に対して何等の制裁をも加ふる事が出来ないと公言するのであります。

〇神は勿論忍耐深くあります。彼は容易に怒り給ひません。彼は其子の一人たりとも滅ぶる事を好み給ひません。然れども彼の怒が容易に現はれざるは、彼が絶対に怒り給はない訳ではありません。彼は時には其の恐るべき怒を表はし給ひて、彼が人に自己を侮らしめ給はない事を証拠立て給ひます。彼の震怒《いかり》の霹靂《いかづち》は時に降ります。そして彼の主権を復たび人の子の間に回復して彼等の為に救ひの途を備へ給ひます。此は或は神の為には不要である乎も知れませんが、人の為には確かに必要であります。神が時々其怒を表はして、明白なる正義を曲げて歓びとなす者を罰して下さるに非ざれば、それこそ世界は亡びて了ふのであります。|神が人類に降し給ふ大恩恵の一は、たしかに彼が御自身に叛いて得意たる者を、大なる審判を以つて審判き給ふ事であります〔付△圏点〕。使徒行伝十二章二十節以下を御覧なさい。

  ヘロデ、ツロとシドンの者に対ひて甚だしく怒を懐きければ、彼等心を合はせて其許に来り平和《やはらぎ》を求む……ヘロデその定めたる日に於て王服を着け、その位に座し彼等に対ひて語れり。民声を揚げ言ひけるは、此は神の声なり人の声に非ずと。ヘロデ栄を神に帰せざるに由り主の使者直に彼を撃しかば、彼は虫に噬れて気《いき》絶ゆ

とあります。そして其結果は如何であつたかと云ふに

  さて神の道《ことば》は益々広まり、バルナバ及びサウロは其職務を遂げをはりてヱルサレムより返れり

(11)とあります。神罰が神に叛く者に加はる事は真理の勝利と人類の幸福を持来します。

〇神の恵み深き摂理に由り斯かる場合は至つて稀れであります。然し乍ら神に叛きて其結果は直に現はるゝのであります。|それは聖霊の撤回であります〔付△圏点〕。ダビデは神に祈りて「あゝ神よ、汝の聖き霊を我より取り給ふ勿れ」と言ひましたが、神は自己に叛く者より此聖き霊を撤回し給ふのであります。是れ神として止むを得ないのであります。|そして聖霊を撤回されて其人の精神上に大変化が起ります〔付○圏点〕。彼の心に在りし所の歓びはいつの間にか失せて了ひます。讃美は彼の口より絶えます。彼は神の前を逐はれたるカインのやうに、面を臥せて地に吟行《さまよ》ふ流離子《さすらひゞと》となります(創世記四章を見られよ)。彼の容貌風彩が一変します。彼は何であつても歓喜満足の人ではなくなります。私は私の生涯に於て多くの斯かる実例を見ました。世に憐れなる者とて聖霊を撤回されたる堕落信者の場合の如きはありません。是れが同じ人である乎と疑はるゝ程であります。其変化たる一生忘るゝ事の出来ないものであります。其人の面に既に永遠の死が映つて居るのではないかと思はれます。

〇然し背教者は左程に背教の不幸を感じません。世は却て彼を歓迎します。彼に立身の途が開けます。彼よりピユーリタン的束縛が取除かれて、彼は一種の大なる自由を感じます。彼に霊と肉との戦ひが止みますから、彼に精神上の煩悶はなくなります。彼は徹底したる人に成ります。即ち肉情本意の人となりて、「宗教家のやうなる偽善者」でなくなります。彼は思ひます、神に叛きて得し所は失ひし所よりも遥に多しと。然し乍ら|聖霊の歓びは今は彼に有りません〔付○圏点〕。来らんとする世の能力と云ふが如き者は今はいくら望んでも得られません。彼は今は消極的にのみ強い偉らい人となりました。彼が好んで書き又語る事は死であります、反逆であります。ニイチエの哲学が殊に強く彼を引附けます。彼はカインとイスカリオテのユダを弁護し又讃美します。そして不思議なる事(12)には、神の愛を斥けし彼は頻りに異性の愛を讃へます。或ひは神の権能を斥けて、頻りに此世の権力を求めます。私は数個《いくつか》の背教の実例に接しました。然し其成行は千篇一律であります。

〇「エホバ曰ひ給はく悪しき者には平安あるなし」と預言者イザヤは繰返して曰ひました(イザヤ書四十八章廿二節等)。「悪しき者」とは神に叛いたる者の謂であります。|背教者に平安あるなし〔付△圏点〕、其事丈けは確かであります。彼に人望はありませう、天才はありませう、政権は与へられませう、金権に有附きませう。|然し平安はありません〔付△圏点〕。神は人の彼を侮る事を赦し給ひません。神を馬鹿にして災禍の身と心とに臨まざるを得ません。「活ける神の手に陥《おつ》るは畏るべき事なり」とヒブライ書十章卅一節にあります。信仰を棄て平然たる人は、自分が最大の危険を冒した者である事を知らないのであります。

 

(13)     愛の意義

        (今月は伝道附録の代りに此説教を載せます)

                         大正12年9月10日

                         『聖書之研究』278号

                         署名 内村鑑三

 

〇「神は愛なり」とは如何《どれ》程深い真理である乎は愛の何である乎が解つて解る事であります。唯愛と云うた丈けでは其の何たる乎が解りません 愛は種々であります。親子の愛もあります、夫婦の愛もあります、同類の愛もあります、動物の愛もあります、其他物の愛、知識の愛、芸術の愛、実に種々雑多であります。唯単に神は愛なりと云うた丈けでは神を如何様にも解することが出来ます。

〇夫れ故に聖書に神は愛なりと教へてありますれば、私共は聖書に依て神は如何なる者である乎を学ばなければなりません。私供自分勝手の愛の定義を以て、之を神に当箝めて神の何たる乎を勝手に定めてはなりません。そして聖書は明白に全く別な詞を以て神の何たる乎を示して、「神は愛なり」とは如何云ふ事を教ふるのである乎、其事を示して居ります。

〇そして其最も著名なる者は小福音と称せられて、私供が幾回となく研究を重ねし約翰伝三章十六節であります、曰く「それ神は其生み給へる独子を賜ふ程に世を愛し給へり」と。此処に神が其愛を施し給へる其途が示してあります。同じ事をもつと明確《はつきり》と示したのが約翰第一書四章九、十節であります、曰く

(14)  神はその生み給へる独子を世に遺はし、我等をして彼に由りて生命を得しむ、是に由りて神の愛我等に顕はれたり。我等神を愛するに非ず、神我等を愛し、我等の罪の為に其子を遣はして宥《なだめ》の祭物《そなへもの》となせり、是れ即ち愛なり

とあります。又パウロが信者に真の謙遜を教へし言葉に左の如き者があります。

  汝等キリストイエスの心を以て心とすべし。彼は神の実体にて居りしかども自ら其の神と匹《ひとし》くある所の事を棄難き事と思はず、反つて己を虚うし、僕の貌《かたち》を取りて人の如くなれり 既に人の如き形状《ありさま》にて現はれ、己を卑くし、死に至るまで順ひ、十字架の死をさへ受くるに至れり

と(腓立比書二章五-八節)。以上に併せてイエスが幾回《いくたび》となく繰返して述べ給ひし左《さ》の御詞に注意すべきであります

  その生命を得る者は之を失ひ、我が為に生命を失ふ者は之を得べし(馬太伝十章三九節。同十六章二六節。馬可《マカ》伝八章三五節。路加伝九章二四節参考)。

  その生命を悼む者は之を喪ひ、其生命を惜まざる者は之を存ちて永生に至るべし(約翰伝十二章二五節)。

 更らに又イエスの左の御言葉に注意するの必要があります。曰く

  人の子の来るは人を役ふ為に非ず、反て人に役はれ、又多くの人に代りて生命を与へ、その贖とならん為なり(馬太伝廿章二八節)。

〇以上に依て神の愛と云ひ、キリストの愛と云ふ者の如何なる者である乎が解ります。|愛は与ふるもの〔付○圏点〕、自己《おのれ》に属るものは勿論の事、自己其物を与ふる者であります。「其独子を賜へり」と云ふは神は御自身よりも貴き者を(15)賜へりとの事であります。「己を虚うし」とは欲望何一つとして之を己が裏に保留する事なくとの事であります。|神は愛なりとは神は永久に御自身を他に与ふる者との〔付○圏点〕意《こと》|であります〔付○圏点〕。与へて、与へて、永久に与へて止み給はずと云ふ者であります。さう云ふ者であるが故に彼は愛であると云ふのであります。

〇愛は自己を与ふる事、他の為に自己を棄る事或は自己を去る事であります。英語の Love《ラブ》は Leave《リーブ》と同じ詞であるとの事であります。ラブ(愛)するはリーブ(去る)する事である、そして自己を去る事、其事が Leave《リーブ》する事即ち Life《ライフ》(生くる事)であります。誠に美はしき三幅対であります。意味の深い三幅対であります。

〇是でキリストの御父なる真の神は愛であるとの意が明確すると思ひます。そして是が世の云ふ愛と正反対の者である事が解ります。「愛はすべてを要求する」と此世の人は云ひます。一人の男が一人の女を愛しまする時に、彼は彼女のすべてを要求します。そして若し彼女が彼の此要求に応じなければ、彼の愛は忽ち憎《にくみ》に化し、所謂「可愛さ化して憎さ百倍に成り」ます。人は愛されんと欲して愛します。そして愛を以て他を自分の有とする事の出来た時に之を愛の勝利と称します。然し神の愛、即ち真の愛は全く之と違ゐます。真の愛は永久に自己を予へんとします。そして予ふるを以て生命と認めます。神は永久に斯かる生活を営み給ふが故に、「神は愛なり」と云ふのであります。〇人は元来自分勝手の者、其事を認めて合理的の政治もあり、経済もあるとは、近代の学者が公然唱ふる所であります。然るに其自分勝手が悪いと云ふならば近代思想は其根本から壊れて了ふのであります。然し乍ら事実私共は皆んな自分勝手に造られて居るのではありません乎 然るに之を改めて自己を棄つる者となれと云ふのは、豹に向つて其斑を去れと云ふに等しくありますまい乎。

(16)〇茲に於てか人に更生又は改造の必要が起るのであります。人は生れながらにして自分勝手の者、如何なる教育も、周囲の感化も此性質を変へて、神の如くに愛する者、即ち神の子と成すことは出来ません。然し乍ら万物を造り給ひし者、暗黒《くらき》に命じて光あれと言ひ給ひたれば光ありし者、|彼は〔付◎圏点〕此自分勝手の人の子を化《かへ》て神の子即ち他に自己を予ふる者と成すことが出来ます「彼を接《うけ》てその名を信ぜし者には能力を賜ひて此を神の子と為せり」とあります(ヨハネ伝一章十二節)。パウロは曰ひました「人、キリストに在る時は新たに造られたる者なり、旧きは去りて皆な新らしく成る也」と(コリント後書五章十七節)。人が基督者《クリスチヤン》に成る時に、本当の意味に於ての改造が行はれるのであります。|自分勝手の人が愛の人と成るのであります。人の子が神の子と成るのであります〔付△圏点〕。単《たゞ》に其人の物の見方が変るに止まりません、其心の質が変るのであります。リビングストンや、ナイチンゲールや、ドロシー・ヂツクスのやうな人が出るのであります。即ち生れながらの人が獲《う》るに熱心であるやうに、与ふるに熱心なる人が出るのであります。私共は造化を目前に目撃するのであります。進化説も何も在つたものではありません。

〇然らば人は望んで愛の人即ち神の子と成る事が出来ませう乎。自分では出来ません、然し神に成して戴く事が出来ます。「人、キリストに在る時は」とあります。彼に学び、彼に傚はんと欲する時に「新たに造らる」るのであります。即ち其人に於て造化が新たに始まるのであります。私共はキリストを接けて、其聖名を信ずれば神の子たるの能力を賜はるとの事であります。是は単に聖書を学び、祈祷を以て彼に近よりまつる事のみではありません。彼に傚ひて|愛の練習〔付△圏点〕を為す事であります。愛の行を為して愛の人と成して戴くの下地を作る事であります。左すれば神は此努力に応じて、聖霊を注いで私共を其の御子と成して下さるのであります。

(17)〇肉の人は思ひます、若し愛とはそんな者であるならば、愛の人即ち神の子の生涯は何んと不満《つまら》い、困《くる》しい生涯ではない乎と。然し乍らすべて愛の生涯を送つた者は言ふのであります、「是れのみが送るの価値《ねうち》ある生涯である。己に求むるの生涯は意味の無い生涯である、又目的を達し得ざる生涯である。すべてを与へんと欲してのみすべてが与へられ、又自己を棄てゝのみ自己を発見するのである。自己修養と云ひ、自己満足と云ひ、何れも達し得られざる慾望である。|最も幸なる途は十字架の途である〔付○圏点〕。その生命を得る者は之を失ひ、キリストと其愛の福音の為に之を失ふ者は得べしとは深い明白なる真理である」と云ひます。

〇願くは神様、私共を愛する人と成して下さい。他のものを尽く戴いても愛する心がなくして私共はまだ貴神の子ではありません。「汝等視よ、我等称へられて神の子たる事を得、是れ父の我等に賜ふ何等の愛ぞ」とある其愛を私共に与へて下さい。(ヨハネ第一書三章一節)。

 

(18)     天災と天罰及び天恵

                       大正12年10月1日

                       『主婦之友』七巻一〇号

                       署名 内村鑑三

 

       ◇

 天災は読んで字の通り天災であります。即ち天然の出来事であります。之に何の不思議もありません。地震は地質学の原理に従ひ、充分に説明する事の出来る事であります。地震に正義も道徳もありません。縦、東京市は一人の悪人なく、其市会議員は尽く聖人であり、其婦人雑誌は尽く勤勉と温良と謙遜とを伝ふる者であつたとするも、地震は起るべき時には起つたに相違ありません。 然し乍ら無道徳の天然の出来事は之に遇ふ人に由て、恩恵にもなり又刑罰にもなるのであります。|そして地震以前の東京市民は著るしく堕落して居りました故に、今回の出来事が適当なる天罰として、彼等に由て感ぜらるゝのであります〔付△圏点〕。渋沢子爵は東京市民を代表して、其良心の囁《さゝや》きを述べて曰はれました。

  今回の震災は未曾有の天災たると同時に天譴である。維新以来東京は政治経済其他全国の中心となつて我国は発達して来たが、近来政治界は犬猫の争闘場と化し、経済界亦商道地に委し、風教の頽廃は有島事件の如きを讃美するに至つたから此大災は決して偶然でない云々。(九月十三日。『万朝報』所載) 実に然りであります。有島事件は風教堕落の絶下でありました。東京市民の霊魂は、其財産と肉体とが滅びる(19)前に既に滅びて居たのであります。斯かる市民に斯かる天災が臨んで、それが天譴又は天罰として感ぜらるゝは当然であります。

 昔時《むかし》ユダヤの預言者イザヤが其民を責めて発せし言葉に次の如き者があります。曰く『嗚呼罪を犯せる国人、邪曲《よこしま》を負ふ民、悪を為す者の裔……その頭《かしら》は病まざる所なく、その心は疲れはてたり、足の趾《うら》より頭に至るまで全き所なく、たゞ創痍《きず》と打傷と腫物とのみ、而して之を合はす者なく包む者なく、亦膏にて軟ぐる者なし』と。そして其一字一句を取つて悉く之を震災以前の東京市民に当はめる事が出来ます。其議会と市会と、其劇場と呉服店と、そして之に出入する輕桃浮薄の男女と、彼等の崇拝する文士思想家と、之を歓迎する雑誌新聞紙とを御覧なさい。もし日本国が斯かる国であるならば、日本人として生れて来た事は耻辱であります。震災以前の日本国、殊に東京は義を慕ふ者の居るに堪へない所でありました。

 然るに此天災が臨みました。私共は其犠牲と成りし無辜幾万の為に泣きます。然れども彼等は国民全体の罪を贖《つぐな》はん為に死んだのであります。彼等が悲惨の死を遂げしが故に、政治家は此上痴愚を演ずる事は出来ません。

 文士は「恋愛と芸術」を論じて文壇を擅にする事は出来ません。大《おほ》地震に由りて日本の天地は一掃されました。今より後、人は厭でも緊張せざるを得ません。払ひし代償は莫大でありました。然し挽回《とりかへ》した者は国民の良心であります。之に由て旧き日本に於て旧き道徳が復たび重んぜらるゝに至りました。新日本の建設は茲に始まらんとして居ます。私は帝都の荒廃を目撃しながら涙の内に日本国万歳を唱へます。

       ◇

 以上を記終りし後に、私は帝国劇場が一ケ年以内に復たび開場するとの事を聞きました。そんな事では東京市(20)の真個の復興を期する事は出来ません。普通の場合に於ても、親や近親が死んだ時には、少くとも一年の謹慎を守るではありませんか。然るに全市の三分の二を失ひ、同胞十数万人の死せし此際、先づ第一に劇場の復活を計るとは何たる薄情でありますか。私は劇場は絶対的に悪い者であるとは言ひません。然し乍ら劇場の復活を以て都市の繁栄を計るやうな心掛では、到底偉大なる帝都の出現を望む事は出来ません。先づ第一に計るべきは焼失せる無数の学校の復活であります。又新たに出来し多数の孤児を収容すべき孤児院の建設であります。是を先にして彼を後にするやうな心掛でなければ、此天災を変じて天恵となす事は出来ません。私は再び「虚栄の街《※[ワ]に濁点ニチー・フエヤー》」としての東京市を見んと欲しません。敬虔に満ちたる、勤勉質素の東京市を見んと欲します。

 

(21)     THE EARTHQUAKE.地震に就いて

                         大正12年10月10日

                         『聖書之研究』279号

                         署名なし

 

     THE EARTHQUAKE.

 

 The earthquake is a pbysical phenomenon attending the ever contracting earth;and as such, it will come regardless of goodness or badness of mankind that dwells upon the earth. It is therefore scientifically true that“we have not here an abiding city.”The earth is shaking,and with it everything that stands or lives upon it. But there is“a kingdom that cannot be shaked,”a kingdom that is not of the shaking earth. We can be the citizens of the unshaking kingdom,While living upon the shaking earth,and can remain even after the earth itself will be wiped out of existence. May we so live that we are not afraid of earthquakes,ever singing,“In the cross of Christ I glory,Towering o'er the wrecks of Time.”

 

(22)     地震に就いて

 

 地震は恒に収縮しつゝある地球に伴ふ天然的現象である。故に地上に棲息する人類の善悪如何に係はらず臨む者である。聖書に「我等此所に在りて恒に存つべき都城なし」とあるは科学の立場より見て真理である(ヒブライ書十二章十四)。地は震ひつゝある、そして地と共に地上万物は震ひつゝある。然れども茲に又震はれざる国がある、震ひつゝある地に属せざる国がある。そして我等は震ひつゝある此地に住みながら、此震はれざる国の市民たる事が出来る。地其物が拭ひ去らるゝ其後と雖も猶ほ生命を継続する事が出来る。願ふ我等は地震を恐るゝことなくして生活し得んことを、常に口に讃美を唱へつゝ

   荒れはつる世に  高く聳ゆる

   主の十字架にこそ 我は誇らめ

と(讃美歌第八十一番)。

 

(23)     美と義

        べテロ前書一章二四、二五節。ゼカリヤ書九章十三節。

        (八月十九日、軽井沢鹿島の森に於て述ぶ)

                        大正12年10月10日

                        『聖書之研究』279号

                        署名 内村鑑三

 

〇文明人種が要求する者に二つある。其一は美である、他の者は義である。美と義、二者熟れを択む乎に由て国民並に其文明の性質が全く異るのである。二者熟れも貴い者であるに相違ない。然し乍ら其内熟れが最も貴い乎、是れ亦大切なる問題であつて、其解答如何によつて人の性格が定《き》まるのである。〇国としてはギリシヤは美を追求する国でありしに対してユダヤは義を慕ふ国であつた。其結果としてギリシヤとユダヤとは其文明の基礎を異にした。日本は美を愛する点に於てはギリシヤに似て居るが、其民の内に強く義を愛する者があるが故に、其国民性にユダヤ的方面がある。伊太利、仏蘭西、西班牙等南欧諸邦は義よりも美を重んじ、英国、和蘭、スカンダナビヤ諸邦等北欧の諸国は美よりも義に重きを置く。美か義か、ギリシヤかユダヤか、其選択は人生重大の問題である。

〇美の実はしきは勿論言ふまでもない。殊に我等日本人として美を愛せざる者は一人もない。美は造化の特性である。神は万物を美しく造り給うた。花や鳥が美しくある計りでない。山も川も、海も陸《くが》も、天空《そら》も平野も、す(24)べて美しくある。そして単に美しいと云はるゝ者のみが美しいのではない。醜しと云はるゝ者までが美しいのである。克く視れば蛇も蟇蛙も美しくある。岩も礫《こいし》も美しくある。物として美しくない者はない。「諸の天は神の栄光を現はし、大空は其聖手の業を示す」と歌ひて、我々は造化に顕はれたる神の美を歌ふのである。讃美歌は神の美の讃美である。美はたしかに神の一面である。美を知らずして神を完全に解する事は出来ない。

〇然し乍ら美は主に物の美である。肉体の美である。花と鳥との美である。山水の美である。水晶と宝石の美である。即ち人間以下の物の実である。|然るに茲に人間と云ふ霊的存在者が顕はれた時に美以上の美が顕はれたのである〔付○圏点〕。|之を称して義と云ふ〔付◎圏点〕。義は霊魂の美である。物の美とは全く性質を異にしたる美である。そして霊が物以上であるが如くに義は美以上である。人間に在りては、其外形は醜くあるとも、若し其心が美しくあれば、彼は本当に美しくあるのである。予言者が最上最大の人格者を言表はしたる言葉に「我等が見るべき麗はしき容《すがた》なく、美しき貌《かたち》なく、我等が慕ふべき艶色《みばえ》なし……我等も彼を尊まざりき」とある(イザヤ書五十三章二、三節)。しかも此人が最も優れたる人であつたのである。ソクラテスは最も醜き人であつた。然るに彼はギリシヤ人中第一人者であつたのである。パウロは身長《せい》の低き、まことに風采の揚らざる人であつた。然し彼の主たりしイエスキリストを除いて、彼よりも大なる人は無つたと言ひ得る。其他すべて然りである。人間に在りては其美は内に在りて外にない。|人の衷なる美、それが義である〔付○圏点〕。茲に於てか義は美よりも遥かに大なる美である事が解る。

〇ゴールドスミスが其名著 The Vicar of Wakefield に於て曰うた「美を為す事是れ美なり」と。言葉を代へて言へば「義是れ美なり」と云ふ事である。|人間の美、即ち義は〔付○圏点〕、動物や木石の美とは全く質《たち》を異にしたる美である。人間に在りては義人が本当の美人である。所謂美人は低い意味に於ての美人である。人間が人間である以上、是(25)は止むを得ないのである。「羔の新婦は潔くして光ある細布《ほそきぬ》を衣ることを許さる、|此細布は聖徒の義なり〔付○圏点〕」とある(黙示録十九章八節)。聖徒の義、それが彼の美である。キリストの新婦の美は此世の新婦の美とは全然異ふ。

〇此の明白なる事実を弁へずして、義の道即ち道徳を語るは偽善者の為す事であるかの如くに思ひ、自分は宗教家でないから事の善悪を差別しないと云ふが如き、是れ人間が自分を人間以下の地位に置いて云ふ事である。文士の取扱ふ問題は芸術と恋愛に限られ、道徳と宗教とは措いて之を顧ざるが現代的であると思ふは、現代を以て人間の時代と見做さゞる最も誤りたる思想である。ギリシヤの弱きは茲に在り、ユダヤの強きは此思想に反対したる点に於て在るのである。美に足りて義に欠けて居たギリシヤは疾《とく》に亡び去つたに反し、義に強くして美に欠けたるユダヤは今に至るも失せず、愈々輝きを増して昼の正午《まなか》に至らんとして居る。義は現代文士が思ふが如くに既に過去に属する者ではない。義は今に猶ほ、然り永遠より永遠に至るまで世界最大の勢力である。万物の進化が逆行して、人間が再び獣類たるに至らばいざ知らず、人間が人間である以上、義が廃れて美のみが権威を揮ふ時の到りやう筈はない。義を追求するシオンの人々は今猶ほ振起《ふるひおき》て共に耽溺するギリシヤの人々と戦ひつゝある。英国の大思想家マッシュー・アーノルドは曰うた「人生の問題の十分の九は正義の問題である」と。然るに日本今日の思想家は正義は之を問題の外に追出して、たゞ芸術と恋愛とのみを語つて居る。実に恐るべき事である。

〇義は美以上である。然し義は決して美を退けない。義は美と両立しないやうに思ふは大なる間違である。真個の美は義の在る所に於てのみ栄える。世界第一流の芸術家は、極めて少数の者を除くの外は、凡て義を愛する人であつた。ラファエルも、ミケル・アンゼローも、レオナード・ダ・※[ヰに濁点]ンチも、すべて義に強い人であつた。世(26)界第一の劇作家は言ふまでもなくシェークスピヤである。そして彼の強い道徳的方面を見ずして、彼の劇を解することは出来ない。作曲家としてハンデルも、メンデルゾーンも、ベートーべンも尽く神を畏れ義を愛する人であつた。天主教徒がプロテスタント教徒を非難する時に常に後者に於ける芸術の欠陥を指摘するが、然しプロテスタント教徒は其芸術に於て少しも天主教徒に劣らざるのみならず、多くの場合に於て、後者の達し得ざる所に達する。レムブラントのやうな画家は天主教国に於ては起らない。

 

(27)     末日の模型

         新日本建設の絶好の機会

                         大正12年10月10日

                         『聖書之研究』279号

                         署名 内村鑑三

 

  主の日の来ること盗人の夜来るが如くならん。其日には天大なる響ありて去り、体質尽く焚毀《やけくづ》れ、地と其中に有る物皆な焚尽きん……神の日には天然え毀《くづ》れ体質焚鎔けん、然れど我等は約束に由りて新しき天と新しき地を望み待てり、義その中に在り(彼得後書三章三十-十三節)。

〇大なる災害は我東京並に其附近の地を襲うた 何十万と云ふ人が死し、何十万と云ふ人が傷つき、何十万軒と云ふ家が焼け、多分何十億と云ふ富が失せたであらう。実に悲惨の極、酸鼻の極、之を言語に尽すことは出来ない。之が為に神の存在を疑ふ人もあらう。人生の無意味を唱ふる人もあらう。然し在つた事は在つたのである。一日の内に大東京の枢要部は失せたのである。人間が何百年かゝつて作つた者を天然は一日にして滅して了つたのである。無惨と云はう乎、無慈悲と云はう乎。然し事実は事実であるのである。

〇曾てドクトル・ジヨンソンが一七五五年に起りし葡萄牙国の首府リスボンの地震の事を聞きし時に、常には強堅なる信仰を以て称へられし彼の信仰も、此時ばかりは動いたとの事である。其如くに私供も亦此惨劇を目前に見て、「神若し在りとすれば此事あるは如何」との問を発したくなる。然るに天に声なし地に口なしである。そ(28)して悲惨なる事実は儼然として私供を瞰《にらみ》つけるのである 私供は只之に対して「それ人は既に草の如く、其栄はすべての草の花の如し。草は枯れ、其花は落つ」と口の内に繰返すのみである。神の事は別として、人間の弱さが斯かる時に染々と感ぜらるゝのである。

〇日本国の華《くわ》を鍾めたる東京市は滅びた。然し何が滅びたのである乎。帝国劇場が滅びた。三越呉服店が滅びた。白木屋、松屋、伊東呉服店が滅びた。御木本の真珠店が滅びた。天賞堂、大勝堂等の装飾店が滅びた。実に惜しい事である。然し乍ら若し試に天の使者が、大震災の前日、即ち八月三十一日の夕暮、新橋より上野まで、審判の剣《つるぎ》を提《ひつさ》げて」通過したと仮定するならば、|彼は此家こそ実に天国建設の為に必要欠くべからざる者であると認めた者を発見したであらう乎〔付△圏点〕。私は一軒も無かつたであらうと思ふ。三越も白木屋も天国建設の為に害を為す者であつても、益を為す者でなかつたと思ふ。或人は問ふであらう「日本全国に聖書を供給する京橋尾張町の米国聖書会社は如何、内村先生の著書を出版し又販売する同町の警醒社書店は如何」と。私は之に答へて曰ふ「主は知り給ふ」と。多分天使は之をも火を以て潔むる必要を認めたであらうと思ふ。如斯くにして、人生が遊戯でない限り、正義の実現が万物存在の理由である限り私供は神が此虚栄の街《ちまた》を滅し給ひたればとて、残忍無慈悲を以て彼を責むる事は出来ない。単に新聞雑誌に現はれたる震災以前の東京市の状態を考へても、此災害が之に臨みしは誠に止むを得ないと言はざるを得ない。聖書に記すが如く、天使は此|状《さま》を見て曰うたであらう「然り主たる全能の神よ、爾の審判は正しく且つ義なり」と(黙示録十六書七節)。

〇之に附随して無辜《つみなきもの》の死の問題が起る。此たびの災禍《わざわひ》に於ても、他の災禍の場合に於けるが如くに、災禍を呼びし罪に直接何の関係なき多くの者が死し又苦しんだ。私供は無辜の苦患に関する人生の深き奥義を探ることは出(29)来ない。社会は一団体であつて、人は相互の責任を担ふやうに造られた者であるが故に、善人が悪人と共に苦しむは止むを得ないと云ひて、一部分の説明となす事が出来る。然し乍ら之を以て万事を説明する事は出来ない。奥義は依然として奥義として残る。私供は罪を審判き給ひし正義の聖手を義とするが、それと同時に、その犠牲となりし多くの人の為に泣く。|そして此事に関し最も甚しく痛み給ふ者は天に在ます父御自身であると信ずる〔付○圏点〕。彼は我等の知らざる或る方法を以て充分に此苦痛を償ひ給ふと信ずる。罪人に臨む滅亡は適当の刑罰であつて、無辜に臨む死は一種の贖罪の死である。神は同時に災禍を善悪両様の人の上に降して、災禍其物の内に恩恵贖罪の途を僑へ給ふのであると信ずる。

〇今回の災害は実に甚大であつた。日本に歴史在つて以来の最大の災禍と称すべきであらう。|然し乍ら之は世の〔付△圏点〕終末《をはり》|ではないと信ずる〔付△圏点〕。災害の区域は広くあるが、然し日本全体より見て局部的である。況んや世界全体より見て、一小局部に起つた災害たるに過ぎない。然し世界全体より見て小は小なるに過ぎないが、能く|最後に起るべき大審判の如何なる者なる乎〔付○圏点〕を示す。キリスト再臨の反対論者は常に言ふ、天然にも歴史にもカタストロフイー即ち激変なる者はない 万事万物尽く徐々に進化するのであると。然るに事実は然らずして、私供は茲に大激変を目撃したのである。一夜にして大都市が滅亡したのである。三百年間かゝつて作り上げられし所謂江戸文明が数分間にして毀たれたのである。是は確かにカタストロフィー(激変)ではない乎。大正十二年九月一日午前十一時五十五分に、江戸文明は滅びて、茲に善か悪かは未だ判明しないが、何れにしろ日本国の歴史に新紀元が開かれたのである。

〇「審判の災禍は不意に来る、故に備へせよ」と 此は決して無い事ではない。私供は事実其儘を目撃したので(30)ある。徐々たる進化に依頼して備を為さざる時には、激変忽に臨んで、我等をして之に応ずるの遑なからしむ。私は進化を信ずるが、激変の伴はざる進化を信じない。宇宙も人類も進化の間に激変を挟《さしはさ》みつゝ進み来つたのであると信ずる。

〇|私供を此たぴ見舞ひしカタストロフイーは全世界を最後に見舞ふべき大カタストロフイーの模型である〔付○圏点〕。今回の災害に於て私供は一日の中に大東京が燃え毀《くづ》れて焦土と化した惨劇を目撃した。然るに彼《か》の日には全世界が燃え毀れて、体質尽く焚鎔けんとの事である。此事があつて彼の事は無いとは言ひ得ない。神も天然も学者の学説や、文士の思想には何の遠慮会釈もなく其意ふがまゝを断行する。悲惨の極、酸鼻の極と歎いた所が其れまでゞある。私供は神の言に此事あるを示されて、常に之に応ずるの準備を為すべきである。即ち潔き行を為し、神を敬ひて神の日の来るを待つべきである。「人々平和無事なりと言はん時|滅亡《ほろび》忽に来らん、人々絶えて避ることを得じ」とテサロニケ前書五章三節にあるが如しである。

〇滅亡は度々人類に臨む。然し滅亡の為の滅亡ではない。潔めの為の滅亡である。救ひの為の滅亡である。世の終末と聞けば恐ろしくあるが|終末ではない。新天地の開始である〔付△圏点〕。最後に此世に臨む大破壊、大激変は此目的を以て臨むのである。それと同じく今回の此災害も亦此目的を以て臨んだのである。之に由て東京と日本とが亡びるのではない。|より善き、より〔付ごま圏点〕義しき|より〔付ごま圏点〕潔き東京と日本とが現れんとして居るのである。先づ第一に亡びたのは恋愛至上主義である。旧き日本に於て旧き道徳が再び権威を有つに至つた。此は実に有難い事である。有島事件と此震災と孰れが大なる災害でありし乎と尋ねらるゝならば、私は有島事件であると答へる。震災は物質並に肉体の喪失を生じたに過ぎないが、有島事件に現はれたる道徳の堕落は霊魂の滅亡を意味する。若し数十万人の(31)肉体の犠牲に由て数千万人の霊魂が拯《たすか》りたりとすれば、犠牲は決して過大なる者ではない。

〇此震災に由りて永く鎖されをりし同胞間の同情の泉が開かれた。日本人の胸中、猶ほ未だ熱き同情の存する者ありとは今回の災害に由て明かに示された。而已ならず、米国の日本に対する伝統的友誼が復活して、茲に危機に瀕せし日米関係が昔しの美はしき状態に復りつゝある。而已ならず、将さに敵国と化せんとしつゝありし隣国の支那までが、其防穀令を撤回して、数十万石の米穀を我国に寄贈しつゝあるとの事である。神は日本国に大なる傷を負はせ給ひて、其民の霊魂を覚し又全世界をして之に対して同情を注がしめて、所謂排日運動の根を絶ち給ひつゝある。|私供は茲に新日本建設の絶好の機会を与へられたのである〔付○圏点〕。(一九二三年九月九日)

 

(32)     宗教と実際生活

        (八月五日夜、軽井沢集会堂に於て一般公衆に向つて述べし所のもの)

                         大正12年10月10日

                         『聖書之研究』279号

                         署名 内村鑑三

 

〇人生は其れ自身にて完全である。地の富源は無窮である。克く之を開発すれば、生活のすべての欲求を充たして余りがある。生の理は深遠である。克く之を究めて之を実際に応用すれば、望《のぞみ》として達せられざるはない。人生に必要なるは能力と知識とである。是れあればすべての満足を得る事が出来る。何も神とか来世とか、信仰とか宗教とか、霊魂とか死後生命と云ふが如き、有つて無きが如き、人生以外の物を求めて、之に由て生存するの必要は少しもない、とは私が現代の多くの識者より聞く所であります。

〇そして一見して彼等の言ふ所に理があるやうに思へます。人生に多くの苦痛、多くの矛盾、多くの不満がありますが、是等は適当の方法を以て取除く事の出来ない者ではありません。其最も簡単なる者の一例を挙げますれば、気候に寒暑の変化があつて、冬は寒に苦しみ夏は暑に苦しみますが、是は勿論避け難い苦しみではありません。東京に本宅を構へ、熱海と軽井沢に別荘を設け、気候の変化に随つて家族を挙げて移転しますれば、寒暑問題は容易に解決せられます。又現代人が幸福の絶頂と見做す完全なる家庭生活の実現も亦達し難き志望ではありません。遺伝学の原理に基いて美《よ》き妻を択び、優生学《ユーゼニツクス》の教ゆる所に従ひて子を設け、幼稚園より大学に至るまで(33)最上等の教育を施しますれば、一家は美くしき愛の花園の如き者に成りまして、人生のすべての満足を其内に得ることが出来ます。其他すべてが如斯しであります。必要なる者は能力と知識であります。能力=金と知識とさへあれば人生に於て得られない者はない、故に吾人は宜しく能力を代表する富を作り、人類が蓄積せるすべての知識を取得して、人生を完全に且つ極度に楽しむべしと云ふのが現代人多数の唱道する所であります。

○然し乍ら実際の事実如何と尋ねまするに、是等の理想は容易に達せられないのであります。其内最も簡単なる避暑すらも、多数の人には実行し得ないのであります。其他の事に於て人生の不如意は何人も否む事は出来ません。最も明晰なる頭脳の所有者も多くの間違を為します。富豪の実行し得ない事柄は沢山に有ります。人生は其れ自身にて完全であるとは実現する事の出来ない理想であります。若し強ひて実現せんとすれば死を以て之に当るまでゞありまして、人は徹底と称して讃て呉れませうが、生命を滅して人生を楽しむとは矛盾の最も大なる者であります。而已ならず人生は其れ自身で完全であるとは正しい理想である乎、其事が疑問であります。若し私が全世界を私の所有としたならば、それで私は満足しませう乎。知識の進歩が其極に達したとして、それで人類は完全に幸福でありませう乎。爾うは思はれません。私供は富豪より多くの悲痛《かなしみ》を聞かされます。独逸は其優れたる国民的知識を以てして、今や殆んど滅亡の淵に沈みつゝあります。|人生は人生以外の生命を以て之を補ふにあらざれば〔付○圏点〕完成《まつたう》することが出来ないやうに見えます。

〇人の生命は一つである乎、二つである乎、問題は是であります。大抵の人は、文士識者と云ふ人までが「一つである」と答へます。生命に懸替がないと云ひて、若し此短かき人生に於て失敗すれば、恢復の途はないと云ひます。然るに少数の偉人、本当の識者は「生命は一つでない、二つである、そして人生と称する此肉の生命は|よ(34)り〔付ごま圏点〕劣りたる生命であつて、其外に、又其上に|より〔付ごま圏点〕高き|より〔付ごま圏点〕優りたる生命がある」と云ひます。それ故に、縦し其一つに於て失敗しても、他に於て償ふ事が出来る。肉の生命に於ける不足は霊の生命の充実を以て充分に補ふ事が出来る。恰かも脳髄は一葉でなくして二葉である。縦し其一を傷めても他を以て之を補ふ事が出来ると云ふと同じであります。又若し生命を家に譬へますならば、それは一室の家ではなくして二室の家である。一室の不足は隣室の完備を以て補ふ事が出来ると云ふと同じであります。そして私は生命二室説の万が一室説よりも遥に優りたる、且又道理と事実に合うたる説であると思ひます。

〇言葉を変へて云へば、人は一つの世界に住む者ではなくして、二つの世界に住む者であります。其第一は此世界でありまして、私は之を単に世界又は物質界と称しませう。其第二は霊の世界でありまするが故に、之を霊界と称して差支ないと思ひます。現世来世と云ふて来世は現世の後に来るのではありません。物界と霊界とは同時に存在するのであります。そして物界は廃れても霊界は残るのであるかも知れません。何れにしろ人は一つの世界に住むのではなく、二つの世界に住むのであります。故に一の世界に於て失敗しても失望するに及びません。殊に失敗せる世界が|より〔付ごま圏点〕劣りたる、暫時的の世界であると知れば、失望は更らに尠い訳であります。英国の文豪にして社会改良家なるチヤーレス・キングスレーと云ふ人が日ひました、My min to me a kingdom is.(私の心は私に取り一の大なる帝国である)と。若し克く之を開発すれば私共各自の心が「一の大なる帝国」と成るのであります。故に此世界に於てアレキサンドルやシーザーのやうに大帝国を得ずとも、自分の心の内に大帝国を築きて之に帝たり又王たる事が出来るのであります。

〇そして宗教とは元来何である乎と云ふに、此霊界に於ける生活に外ならないのであります。「神は霊なれば之(35)に事ふるに霊と真実を以てせざるべからず」とナザレのイエスは曰ひました。そして霊界に生くる道を教へし点に於て、古今東西未だ曾てイエスに勝《まさ》つた者はないと思ひます。然しそれは別問題として、霊の生命に充実して、人は容易に此世の不幸、不公平、不完全に応ずる事が出来ます。単に何人にも起る日々の煩慮《わづらひ》に勝つ事が出来るのみならず、時に身に迫る大困難に処して、平安なるを得るのであります。私の知る人の内にも、身は不幸の極に居るも、顔は歓喜を以て輝く者は尠くありません。有名なる女詩人座古愛子の如き確に其一人であります。齢二十歳にして身体の自由を失ひ、残余の生命を病の床の上に送つて居りますが、彼女に常人の知らざる生命が溢れて居りまするが故に、彼女に歌もあれば文もあります。病床に在りて彼女は人を指揮して社会改良を行ひます。彼女に不平の痕跡だも認むる事は出来ません。多くの人は彼女を慰めんとて彼女を訪ふて彼女に慰められて帰ります。そして彼女は決して単独の実例ではありません。

〇人には何人にも斯う云ふ世界が在るに拘はらず、之を耕さないのは大なる損失ではありません乎。恰かも日本に何処かに広い領土があるに拘はらず、人口稠密に苦しみながら之を棄て省みないと同じであります。今日程自殺の多い時はありません。精神病院は何処でも満員であります。或る程度の神経衰弱に罹つて居ない者は殆どありません。大抵の男と女とは皆んな「問題」を持つて居ます。そして其問題と云ふが大抵は生活問題か恋愛問題であります。そして此問題に窮して首を縊る者、毒を仰ぐ者、喉を突く者が日々絶えないのであります。是は抑々如何いふ理由であります乎。他に種々の理由もありませうが、今日の日本人の多数が一の世界の在るを知つて、他に|より〔付ごま圏点〕善き、且|より〔付ごま圏点〕大なる世界の在ることを知らないからではありません乎。若しキングスレーのやうに「私の心は私に取り一の大なる帝国である」との信念がありますならば、此んな事はない筈であります。人は(36)宗教は実際生活に超越して、之とは何の関係もない者であると云ひますが、それは全く違ゐます。人が人である以上は――彼の裏に肉なる彼と霊なる彼との在る以上は――霊の生命たる宗教は、彼の安寧幸福に何の関係も無い事でありやう筈はありません。其反対に宗教の闡明、進歩、発達に由り、肉の世界の不調が調和され、其多くの失望と悲痛《かなしみ》とが取除かれ、世は縦し暗黒の極に達するも、我心の一面に於て大なる光明に浴することが出来ます。〇而已ならず、霊の世界の開拓に由て、新たなる能力が肉の世界に臨みます。真の宗教は単に悲歎を取除くと云ふやうな消極的勢力ではありません。「我を信ずる者は其腹より生命の川流れ出て窮りなき生命に至らん」とありまして、真の信仰は活動のすべての方面に於て活気と新勢力とを加へます。其事は欧米の歴史のみならず、我国の歴史に徴して見ても明かであります。最も徹底的の社会改良は信仰の復興に由て起ります。今日の英国又は米国又は和蘭を生んだ者はピユーリタン運動と云ふ深い強い宗教運動であつた事は歴史の明かに示す所であります。霊界の大なる覚醒なくして、大なる美術も文学も哲学も、そして之に伴ふて来る人生万般の革新は起りません。人は霊的動物であります。彼は霊的に充実せずして健全なる発達を遂げ得ません。恋愛至上主義を唱ふる現代の日本人と雖も、まさか此主義に由て大国家が起り、家庭が清められ、清き義しき信仰の勇者が起りて、霊魂《たましひ》の根柢に永遠の生命を植附けやうとは信じまいと思ひます。

〇勿論宗教にも種々あります。高い宗教と低い宗教とがあります。宗教の腐つた者は武士《さむらひ》や女の腐つたやうに最も醜い者であります。然し乍ら物が腐ると云ひて其物が悪いと云ふ事は出来ません。其反対に、物は善い程腐り易いのであります。石や鉛は腐りませんが、百合花やダリヤは腐ります。腐敗は生命の特性であります。そして(37)宗教が政治以上に腐り易いのは政治以上の生命たる証拠であります。そして宗教が腐つた場合には之を棄てゝ、直に霊的生命の源に行いて新たに宗教を受くれば可いのであります。そして其源は今此所に在ります。諸君の心の内に在ります。私の宗教の経典たる聖書の内には斯う云ふ事が書いてあります、即ち

  嗚呼汝等渇ける者よ、尽く生命の水に来れ、金なくして貧しき者も来るべし、汝等来りて男ひ求めて食へ、金なく価なくして生命の葡萄酒と乳とを買へ、何故に糧にもあらぬ者の為に金を費し、飽くことを得ざる者の為に労するや。(イザヤ書五十五章一、二節)

 諸君の御参考までに申上げます。

 

(38)     ソドムとゴモラの覆滅

                     大正12年10月10日、11月10日

                     『聖書之研究』279・280号

                     署名 内村鑑三

 

    (其一) 創世記第十八章第十九章の研究 (九月三十日柏木聖書講堂に於て述ぶ)

 

〇ソドムとゴモラの覆滅はノアの洪水に次ぎ聖書に記されたる最も顕著しき出来事であります。二者共に神が人類の罪を罰せん為に時々送り給ふ天災の模型でありまして、克く之を究めて、天災の何たる乎、其道徳上の意義並に信仰上の教訓を覚ることが出来ます。神の審判は最も明かに之を以て現はれました。故に神の審判を説く時に之を参照するのが常であります。イエスも弟子達も屡々之を引いて、神の審判と之に備ふるの途を述べました。ノアの洪水は別として、ソドムとゴモラに関し、新約聖書の左の二箇所は人の克く知る所であります。

  路加伝十七章二十八節以下。又ロトの時にも如此ありき。人々飲食、売買、耕作、建築など為たりしがロトソドムより出し日に、天より火と硫黄を降らせて彼等を皆滅せり。人の子の顕はるゝ日にも亦如此あるべし。ロトの妻を憶へ。凡そ其生命を救はんと欲する者は之を失ひ、之を失はん者は之を存つべし。

  彼得後書二章六、七節。又ソドムとゴモラの邑を滅さんと定め、之を焼きて灰となし、後の世に於て神を敬はざる者の鑑とし、たゞ義しきロト即ち悪者の淫乱の行為を恒に憂へし者を救へり。

(39) 以上新約聖書の言は孰れも克く創世記の記事を説明する者でありまして、私供は之に由て、二市の堕落の程度、其の特に罰せられし罪の種類をも委しく知る事が出来ます。

〇先づ第一に知るべきは、両市に臨みし天災の性質であります。之を天罰として見ずして、かの地域にあり得べき天然的現象として見て、充分に説明する事が出来ます。パレスチナは日本と同じく地震国であります。之に幾回《いくたび》か大地震が臨みました。其内最も有名なるはユダの王ウジヤの治世第二十七年に起つた者でありまして、其事がユダヤの歴史に新紀元を劃して居ます。旧約のアモス書は左の言を以て始つて居ます。

  テコアの牧者の一人なるアモスの言。此はユダの王ウジヤ、イスラエルの王ヨアシの子ヤラベアムの世、|地震の二年前〔付○圏点〕に彼に示された者なり。

 同じ事がゼカリヤ書十四章四節五節に記いてあります。

  其日にはヱルサレムの東に当る所の橄欖山に彼の足立たん、而して橄欖山その真中《たゞなか》より東西に裂けて甚だ大なる谷を成し(裂罅《れつこ》を生じ)、その山の半は北に、半は南に移るべし。汝等は我山の谷に逃げん……汝等はユダの王ウジヤの世に地震を避けて逃し如くに逃げん。我神ヱホバ来り給はん。

 地質学上より見て所謂「ヨルダンの谷」は地震に由て出来た者であります。美はしきガリラヤの湖も亦、我国の葦の湖又十和田湖と等しく、地震火山の働らきに由て出来た者であります。ヨルダン河の南に尽くる所が死海でありまして、之は長さ四十六哩、幅十哩の深い溝であります。ヘルモン山の麓より死海の南端に至るまで、直径凡そ百哩、此は多分地質学上第三紀の初の頃、大地震を起したる地層大欠裂の結果として出来た者であらうとの事であります。そして今に至るも其形跡に歴然たる者がありまして、死海沿岸到る所に噴火又は地震に因る地(40)層大変動の跡を見る事が出来るとの事であります。故に若しソドムとゴモラとが死海の東北隅或ひは南部に在つたとすれば、其覆滅に関する創世記の記事は、科学的に充分に説明する事が出来ます。第十九章廿三節に「ロトゾアルに至れる時太陽地の上に昇れり」とあれば、時は日の出少し過ぎつ頃であつたでありませう。二十四節に「ヱホバ硫黄と火を天よりソドムとゴモラに降らしめ」とありますは、地震を起せし地層欠裂の結果として、地下に圧搾せられし瓦斯が放出し、之に押されて地中に堆積せし硫黄とアスフハルト(地瀝青)が点火された儘に空中に運ばれ、火の雨と成つて市《まち》の上に降つたのでありませう。二十五節に「其市と低地と其邑の居民及び地に生《おふ》る者を尽く滅し給へり」とあるは克く解ります。此場合に於ては今回の東京横浜の場合とは異なり、出火の原因は人為的ではなくして天然的であり、随て荒廃の程度も更に甚だしく有つたでありませう。二十六節「ロトの妻は後を回顧《かへりみ》たれば塩の柱となりぬ」とある、「柱」は「塚」と読むべきであると云ひます。焼失せし家恋しく、置棄し財貨欲しくして後を回顧しロトの妻は、地層の割目より放出せる濃厚の塩水の掩ふ所となり忽ちにして塩の塚と化したのであらうとの事であります。二十七節「アブラハム其朝夙に起きて、ソドムとゴモラ及び低地《くぼち》の全面を望み見るに、其地の烟竈の烟の如くに騰上《たちのぼ》れり」とあるは、高地より見たる低地全滅の有様を叙して余す所がありません。

○如此くにして、ソドムとゴモラの覆滅を地震国に於て起りし天然の出来事と見て何の不思議もありません。之に天罰とか神怒とか云ふ事を加へて解するの必要は少しもありません。地震の事は地震学者のみ克く之を知つて居ます。之を宗教家に問ふの必要はありません。創世記の此記事はヨルダン流域殊に死海窪地の地質を研究する為の材料としては価値の至つて多き者であります。然しながら民の罪悪を罰する為の神の行為として見るが如き(41)は、是は現代人の敢て爲さゞる事であつて、天然と道徳とを混同する無智の結果と云はざるを得ないと云ふが普通であります。

〇然し是は聖書の天然の見方ではありません。聖書は神の支配の手を離れたる者として天然を考へません。ヒブライ書一章七節は云ひます「神は風をその使者《つかひ》となし、火焔をその役者《つかへびと》となす」と。「風は己がまゝに吹く」と云ふは「風は勝手に吹く」と云ふ事ではありません。「風は人に構はず吹く」と云ふ事であります。人は風を支配することは出来ませんが、神は其聖意を行ふ為の使者として之を使ひ給ひます。旧約の士師記五章二十節にあります「天より之を攻むる者あり、諸の星其道を離れてシセラを攻む」と。神は己に逆らふ者を攻むるに方て天の星をも使ひ給ふと云ふ事であります。天然は神より独立して、惟り其法則に従ひて動くと云ふは、神を人の如き者と見ての云ひ方であります。人は天然に服従する者、神は天然を支配する者であります。若しさうでなければ神は神でありません。人の見たる天然が所謂天然であります。神の見たまふ天然は天然ではなくして摂理であります。そして人が己を神の立場に於て見る時に、天然は天然として見えずして摂理として見えます。之を称して信仰の立場と云ひます。そして聖書は神の立場より歴史と天然とを見たる記録でありまして、是は信仰を以て解すべき書であります。

〇そして信仰を以てする天然の見方は決して不合理の見方ではありません。天然の意味は科学的説明を以て尽きません。其事は天然が科学者以外、詩人にも、美術家にも、観察模倣の材料を供するに由ても解ります。ヲルヅオスの見たる天然と、ニユートンの見たる天然とは違ゐます。然し同じ天然であります。天然は科学者の専有物ではありません。そして信仰家も亦彼れ特有の天然観を有つのであります。彼は聖書の教に従ひ、風を神の使者(42)と見、火焔を其役者と見るのであります。そして有限の彼には天然界の一事一物を悉く神の聖旨の働きとして解することは出来ませんが、然し天然を全体として見る時に、又は其顕著き出来事に遭遇する時に、其内に鮮かに神の聖旨を読む事が出来るのであります。すべての真の予言者に此の能力があつたのであります。そして創世記の記者の如き其一人であつたのであります。彼は死海の沿岸に起りし此天然的大変動に明かに神の聖旨を読んだのであります。そして彼の読方の誤まらざりし事を、後世の我等は認むるのであります。

〇天災と罪悪との間に何か深い関係のある事は人が本能的に知る所であります。勿論人類の現はれざりし前に地震も噴火もあり、又今日と雖も勘察迦や南極大陸に於けるが如くに、人間の住まざる所にも起りまするが、然し乍ら|人類の行為と関聯して見て〔付△圏点〕、天変地異は道徳的意義を帯ぶるのであります。そして其顕著しき実例の一がソドムとゴモラの場合でありました。そして又其他にも同じ実例を見るのであります。紀元七十九年、今より千八百四十四年前、伊太利国ネープルス湾に臨み、ヴエスービアス火山の麓にポムべイとヘルキユレニウムと称する繁華なる二個《ふたつ》の市が、一夜の内に火山の噂火に由て跡方なしに滅びました。其廃滅たる実に完全なる者でありまして、其後千五百年間、其曾て在りし場所までが忘れらるゝに至りました。それが今より百五十年程前に発見されて、今は殆んど全部発掘されて昔の儘の市を今見る事が出来るのであります。其内のポムべイは羅馬上流社会の海浜遊興地でありまして、奢侈淫蕩を極めた所でありました。それが瞬間に軽石と火山灰とを以て埋まりて今日まで其儘に保存されたのでありまして、彼国に旅行者する者は、今日|目前《まのあたり》に昔時の羅馬人の所謂文化生活を見るのであります。そして其生活たる如何なる者であつた乎と云ふに、多分一言以て之を言尽す事が出来ると思ひます 即ち「恋愛と芸術」と。其壁画に美術上より見て貴重なる者が夥多《あまた》あるとの事でありますが、|画の題目〔付△圏点〕(43)に至ては到底紳士淑女の見ることを許さないとの事であります。「之より内婦人入るべからず」との掲示がありて幕を以て掩はれてあるとの事であります。ポムべイの癈墟を委しく調査した者は云ふのであります、此市にして此天災に遭ひたるは当然である。神は火山の噴火を以て此市を滅して、後世の懲戒《みせしめ》となし給うたのであると。勿論此場合に於ても他の場合に於けるが如くに、多くの辜なき者が罪ある者と共に滅びたでありませう。然し「市としてのポムべイ」は罪ある市であつた事は、其遺物が証明して余りあるのであります。天は火山の噂火を以てポムべイの市を滅したりと云ひて何人も異論を唱ふる事が出来ないのであります。 〔以上、10・10〕

 

    其二 アブラハムとロト 創世記第十三章の研究

 

〇天災は之を避くる能はずとは普通一般の見解である。天災は研究の結果終に之を避くるを得べしとは学者全体の所信である。天災は神の道に従ひて之を遅くるを得べしとは信者の信仰である。信者と雖も勿論天災を予知する事は出来ない、然れども万事を知り給ふ神の命に従ひて、彼は彼の罹るべからざる天災に罹らずして済むのである。アブラハムとロトの場合が克く其事を示すのである。アブラハムは寛大にして其甥に譲りて天災を免がれたのである。之に反してロトは慾に駆られ、己が欲するが儘を行ひて、罪人に臨みし天災に己が身を苦しめたのである。道徳と天然との関係は如斯くにして現はる。「驕傲《たかぶり》は滅亡《ほろび》に先だち、誇る心は傾跌《たふれ》に先だつ。謙遜《へりくだり》とヱホバを畏るゝ事との報は富と尊貴《たふとき》と生命となり」との真理が茲に天然の出来事を以て証明されたのである。

〇「アブラハム ロトに言ひけるは我等は兄弟なれば、請ふ我と汝の間、及び我が牧者と汝の牧者との間に競争《あらそひ》あらしむる勿れ。地は皆な汝の前に在るに非ずや。請ふ我を離れよ。汝若し左に往かば我れ右に行かん。汝若し(44)右に往かば我れ左に行かんと」。伯父が甥に対する申出としては最も謙遜又寛大なる者であつた。然るにロトは之に対して如何なる行動を取りし乎と云ふに、

  是に於てロト目を挙げてヨルダンの凡の低地を瞻望《のぞみ》たるに、ヱホバがソドムとゴモラとを滅し給はざりし前なりければ、ゾアルに至るまで遍く善く潤沢《うるほ》ひて、ヱホバの園の如く、エジプトの地の如くなりき。ロト乃ちヨルダンの低地を尽く撰み取りて東に徙れり。斯くて彼等相互に別れたり

とある。如此くにして伯父の謙遜なるに対して甥は傲慢であつた。伯父の平和を愛するに対して甥は快楽を求めた。ロトは其欲する所を撰んだ。彼は東の方、ヨルダンの低地にソドムとゴモラの繁栄を瞻望みて、自己《おのれ》も都会生活の快楽を味はんとて、家族を率ゐて其処に徙つた。|ロトに臨みし〔付△圏点〕災難《わざはひ》|は茲に始まつたのである〔付△圏点〕。然し彼は其時成功の途を取りたりと思うた。伯父のアブラハムを山地に残して、文化生活の快楽を夢みながら都会を指して下つたのであらう。

  アブラハムはカナンの地に住めり。而してロトは低地の諸邑《まち/\》に住み、其天幕を遷してソドムに至れり

とある。諺に曰く「神は田舎を造り、人は都会を作れり」と。無私無慾のアブラハムは田舎に止まり、自分勝手のロトは都会に徙つた。而して凡の幸福がアブラハムに臨みしに対して、凡の不幸はロトに来つた。|幸福は之を求めざる者に来る、之を求むる者は却て不幸に見舞はる〔付○圏点〕。アブラハムが敢て低地に起らんとしつゝありし天災を予知したのではない。謙遜無私の途を取りしが故に、自づから災害を免かれたのである。無慾に勝さる利益なしである。宜《うべ》たり「ロトのアブラハムに別れし後、ヱホバ アブラハムに言ひ給ひければ云々」とありて、恩恵の約束の新たにアブラハムに降りしとは。

(45)○而してロトは伯父を離れ、山地を去りて都会に出て、如何なる所に往いたのである乎。「ソドムの人は悪くしてヱホバの前に大なる罪人なりき」とある。ソドムに文明的快楽は有つたが、之と共に多くの大なる罪悪が行はれた。其市民は悪人であつて、神の目の前には大なる罪人であつた。然るに此世の成功と快楽とに憧憬れしロトの眼には、低地《くぼち》の状態《ありさま》は「ヱホバの園、即ちエデンの如く、エジプトの地の如く」見えたのである。如此くにしてロトは清風爽なるユダの山地よりも、湿気《しつけ》重苦しきヨルダンの低地を択んで、神の民と共に苦難《なやみ》を受けんよりも、暫く罪の愉楽《たのしみ》を享けんとしたのである(ヒブライ書十一章二五) ロトは信仰の家に生れ、信仰の父と伯父とに成育《そだて》られながら、此世の人に成つたのである。アブラハムがすべて信ずる者の父であつて、信者の好模範でありしが如くに、ロトは堕落信者の好模型であつた。彼は充分に現世を楽しまんと欲した。そして楽しむ事を悪事であると思はなかつた。そして其思想が彼を駆つて都会に送つたのである。そして都会に出て罪の愉楽に与つて、都会に臨みし天罰に与つたのである。後にソドムとゴモラの覆滅に会ふや、彼は妻を失ひ、所有の全部を失ひ、其二人の娘と共に僅かに身を以て逃れ、住むに家なく天幕すらなくして、ゾアルの市より遠からざる山の巌穴《いはや》に住みたりと云ふ(十九章三十節)。是れ彼に定まりし運命と称ふを得んも、彼の誤りたる心の状態より起りし誤りたる選択が終に彼をして茲に至らしめし事も亦見逃すべからざる事実である。

〇而して己が欲する儘を行ひて都会に出て身を滅さん計りの災禍に会ひしロトの運命に対して、謙遜己を持し、愛の命ずる所に従ひて歩み、山地に止まりて勤倹素樸の生涯を継続せしアブラハムの運命は如何であつた乎。ヱホバは幾回も彼に顕はれ給ひ、彼に広大の土地と、衆多の子孫を与へん事を約束し給ひ、而して彼の生涯も亦平穏にして、恩恵はいやが上にも彼と彼の家族とに加はつた。イエスが幾回も繰返して言ひ給ひし「その生命を得(46)んと欲する者は之を失ひ、我が為に生命を失ふ者は之を得べし」との真理は最も明かにアブラハムとロトの対照に於て現はれたのである。

〇私は此例を引いて、今回の大震災に於て、災禍を免かれし者はすべてアブラハムの如き忠実なる信者であり、之に罹りし者はすべてロトの如き堕落信者であると云ふのではない。委りし者の内に善人あり、罹らざりし者の内に悪人ありし事を私は疑はない。|然し乍ら罹災者の内に多くのロトに似たる人のあつた事も亦疑ふ事は出来ない〔付△圏点〕。今回東京横浜等に臨みし大惨事は、之を尽く天災の結果としてのみ見る事は出来ない。天災に加ふるに人の犯せし罪が加はつて、此悲惨の状態を呈したのである。多分何十万と云ふ市民は、ロトがソドムに行いたと同じ心掛を以て都会に集ひ来つたのであらう。彼等の多数は、彼等の父や伯父や先生の忠告に叛き、唯単へに己が意見を貫徹せんとして、平静なる山間の故郷を離れて、都会に出て苦しき生活を営んだであらう。又多くの基督者《クリスチヤン》と称する人達までが、信仰と文化生活とを混同し、此世の事業に成功するを以て神の恩恵に浴する事と信じ、天然を通うして天然の神に接する楽しき田園生活を棄て、都会に出て都会人士と共に軽佻奢侈の生涯を送つて無意義の快楽に耽つたであらう。而して斯かる人達が今回の災禍に会うて、今更らながらに彼等の取来りし生涯の方針の全然誤まりし事に気附いたであらう。アブラハムの如くに無私であり無慾であり、成功を追はず、栄華を求めずして、人は何人も多くの災禍より免かるゝ事が出来る。又縦し天災に会ふと雖も、其損害を最少限度に止むる事が出来る。信仰道徳は天災に関係なしと云ふは間違である。神の支配し給ふ此宇宙に在りて、信仰も天然も同一の目的を以て働く。アブラハムは己に求めずして、罪の街《ちまた》を避けて天災を免かれ、ロトは己が欲するが儘を行ひて、此世の罪人と行動を共にし、彼等に臨みし災難に与りたりと云ふ、創世記の此記事は、其内に深き真(47)理を蔵する者であると云はざるを得ない。

〇旧約聖書は模範《タイプ》を以てする神の真理の啓示である。故に之を学ぷに方て模範に多くの例外あるを忘れてはならない。世には義人にして災禍に罹り、悪人にして之を免かれた多くの場合がある。そして人の幸不幸に由て彼を審判かざらんが為にイエスは左の教訓を述べ給うたのである。

  シロアムの塔倒れて圧死されし十八人はヱルサレムに住める凡の人よりも勝さりて罪ある者と思ふや、我れ汝等に告げん、然らず、汝等も若し悔改めずば皆な同じく亡さるべし(路加伝十三章四節)

と。決定的裁判は世の終末に行はる。夫までの裁判はすべて例証的たるに過ぎない。(九月三十日)

 

     其三 天使の訪問 創世記第十八章の研究

 

〇人類の歴史は神の審判の歴史であると云ふ。然らず、神の恩恵の歴史である。審判は行はれないではないが、恩恵を施す為に行はる。恩恵は目的であつて、審判は手段である。恩恵は常に施されて、審判は稀に行はる。太陽は日々に照り、雨は屡々降る。暴風は稀に吹き、地震は滅多に来ない。人が神の審判に注意して、恩恵を思はないのは、彼が神を離れ、罪に沈んだからである。ソドムとゴモラの覆滅は恐るべき事であつた。然し是れ全世界に極めて稀にある事である。而して其事ですら主として恩恵を施さん為にあつたのである。「是れヱホバ、アプラハムに其の曾て彼に就きて言ひし事を行はん為なり」とある(十九節下半)。即ち「彼をして其後の児孫《こどもら》と家族とに命じ、ヱホバの道を守りて公義と公道を行はしめん為なり」とある。其目的を達せんが為であつた(同節上半)。|世界人類に、未来永劫に渉り、アブラハムと彼の子孫とを通うして、神の公義と公道とを教へん為に、覆(48)滅の災禍がソドムとゴモラとに降つたのである〔付○圏点〕。

〇或日の事であつた、三人の遠人《たびびと》がアブラハムの天幕の入口に現はれた。彼は彼等が普通の遠人であると思うた。そしてアラビヤ人特有の款待を以て彼等を接待《もてな》した。然るに彼は後に彼等が普通の人でない事を発見した。彼等は天使であつた。殊に其内の一人は天使の首であつて、「ヱホバの使者」と称せられてヱホバ御自身であつた。彼は茲に人が其友と語るが如くに、アブラハムと面を対《あは》して語り給うたのである。「ヱホバ、マムレの橡木《かしばやし》にてアブラハムに顕はれ給へり」とあるは其事であつた。そしてヱホバは茲にアブラハムに大なる約束を為し給うた。それは彼の妻サラが一年の後に彼に男子を生まんとの事であつた。此は彼が終生望んで止まざりし所の者であつた。然るに彼は此時齢既にに九十九歳に達し、サラ又老ひて、嗣子を得るの希望は全く絶えた。然るにヱホバは彼等に此不可能事の実現を約束し給うた。サラは蔭にて此事を聞いて笑つた。ヱホバは彼女に告げて言ひ給うた、「汝笑へり、其笑を憶へよ、我が言の成らん時に、汝が産みし子をイサク(笑ひ)と命名くべし」と。是れ不信の詰責ではない、御約束実行の保証である。アブラハム夫婦は老境に入りて、待望みし一子を授けられ、之にイサク即ち「笑ひ」の名を附けて、永久に「ヱホバに豈為し難き事あらんや」との事を記念したのである。

〇此恩恵の約束を為し給ひて後に、ヱホバはアブラハムに一の大なる開示を為し給うた。それは彼が|ソドムとゴモラとを滅し給ふ〔付△圏点〕との事であつた。アブラハムは之を聞いて驚いた又震へた。自分に恩恵を約束し給ひし者はソドムとゴモラに覆滅を宣言し給うたのである。同じ天使が同時に恩恵と呪詛と、救拯と滅亡《ほろび》とを示し給うたのである。自己の為に喜びしアブラハムは低地の両市の為に悲んだ。如何《いかに》かしてヱホバの此御計画を翻《ひるがへ》さん乎と思うた。彼はソドムの罪悪を知つた。彼は幾回か之を歎き、幾回か警告を発して悔改を促した。然し聴かれなかつた。(49)彼は斯かる審判の終に両市に臨むべきを予言した。而して今や其実現の宣告を聞いて今更ながらに悲しみ且つ驚いた。此は実に神の人の心である。罪を憎むも罪人を憐む。刑罰の到来を予言せざるを得ずと雖も、愈々到来せりと聞いて、其撤回又は猶予を希はざるを得ない。神御自身に此心がある。神に煩悶はないと云ふは間違である。|神に正義と慈悲との衝突より来る大なる煩悶がある〔付△圏点〕。そして神に有る此煩悶が人にもあるのである。アブラハムは今やソドム、ゴモラの覆滅の到来を聞いて此煩悶に襲はれたのである。

〇ヱホバの使者二人は審判執行の為に低地に下つた。そしてアブラハムは今や独りヱホバの前に立つた。茲に於てヱホバとアブラハムの間に左の問答が行はれたのである。

  ア。貴神は義人をも悪人と倶に滅し給ひます乎。勿論給はないと信じます。若し市の中に五十人の義人あらば、貴神は尚ほ其処を滅し給ひます乎。其中の五十人の義人の為に之を恕し給ひません乎。貴神が義人を悪人と倶に殺し給ふと云ふが如きは、是れ有るべからざる事であります。義人と悪人とを同様に扱ひ給ふが如きは有るべからざる事であります。天下を鞫く者は公義を行ふべきではありません乎。そして貴神は審判人の模範ではありません乎。

  ヱ。我れ若しソドムの市の中に五十人の義人を看るならば、彼等の為にその全市を恕すであらう。

  ア。私は塵と灰に等しき者でありまするが、貴神の御慈愛を楯に取りて申上げます。若し五十人の義人の中、五人欠けたりとしますれば、貴神は五人欠けたるが為に市を尽く滅し給ひませう乎。

  ヱ。我れ若し彼処に四十五人を看るならば滅さないであらう。

  ア。若し四十人でありましたならば如何でありませう。

(50)  ヱ。我れ四十人の為に為さないであらう。

  ア。主よ。請《どう》ぞ御怒りなくして私の言ふ事を恕して下さい。若し彼処に三十人在りたらば如何でありませう。

  ヱ。我れ若し三十人を彼処に看るならば行《な》さないであらう。

  ア。私は大胆に申上げます。若し彼処に二十人看えなば如何でありませう。

  ヱ。我れ二十人の為に之を滅さないであらう。

  ア。アヽ我主よ、怒り給はずして今一度申上ぐる事を許して下さい、若し彼処に十人看えますならば如何でありませう。

  ヱ。我れ十人の為に滅さないであらう。

 アブラハムは是れ以上を言ふ事は出来なかつた。故に問答は茲に止んで、神と神の人とは相別れて各自其所に帰つたとある。

〇実に驚くべき問答である。然し乍ら神が人の子の上に審判を実行し給ふ前に、如此き問答は天の宝座《みくらゐ》の前に常に行はるゝのであると信ずる。神は容易に審判を行ひ給はない。そして終に行はざるを得ざるに至るや、多くの代願者が宝位の前に立つのであらう。其第一は勿論罪の贖主イエスキリストである。彼は其流し給へる血に訴へて、罪人の為に執成し給ふであらう。第二はアブラハムであらう。彼はソドムとゴモラの為に願ひしと同一の熱心を以て将さに滅ぼされんとする市や人の為に願ひ求むるであらう。第三はモーセであらう。第四はパウロであらう。其他聖徒の全衆は悪人、背教者、反逆者等の為に執成すであらう。|実に天に於て悪人の滅亡が決定せらるゝまでには、長い謀議が行はるゝであらう〔付△圏点〕。減刑の上に減刑が要求せらるゝであらう。赦免の上に赦免が宣告せ(51)らるであらう。然し罪の酌量其極に達し、之を越ゆれば神の公義が立つ能はざるに至つて、茲に万々止むを得ず、審判が悪者の上に降るのであらう。そして爾《しか》あるに相違ない。

〇ヱホバとアブラハムとの間に此切迫せる問答が行はれつゝありし間に、ソドムとゴモラの市民は何を為しつゝあつたであらう乎。彼等は飲み食ひ、娶り嫁ぎ、売り買ひ、耕し、築きつゝあつたであらう。彼等は何を為しても、唯神と其審判と丈けは思はなかつたであらう。彼等に若し神と其正義を説く者あれば、彼等は其迷信を嘲けるか、然らざれば自分等を鞫く者として其行為を憤うたであらう(十九章九節を見よ)。彼等は当時のエジプト又はバビロンの物質的文明を謳歌し、之に由て現世を最大限度に楽しまんと欲したであらう。彼等は「別けて汚れたる情慾に循ひ、肉の慾を行ひ、主たる者(神)を藐視《かろん》じ」たりとあれば、其|状態《ありさま》に能く震災前の東京に似たる所があつたであらう(彼得後書二章十節)。そして此状態を見て天に在す者は言ひ給うたであらう「汝愚かなる者よ、今夜(或は明日)汝が霊魂取らるゝ事あるべし」と(路加伝十二章二十)。人が神は在るとするも無いと同然であると思ふ時に、神は恐るべき事実を以て彼が活きて働き給ふ事を示し給ふ。「活ける神の手に陥いるは畏るべき事なり」である(希伯来書十章三一)。(十年十四日)

 

     其四 ソドムの罪とロトの運命 創世記第十九章の研究

 

。二人の天使はアブラハムの天幕を出で、ユダヤの山地を去り、低地を指して下つた。ソドムの市の門に至るやロトの迎ふる所となつた。ロトも亦アブラハムと同じく旅人接待の義務を怠らなかつた。然し乍らロトは悪人の中に在りて、接待に大なる妨害を受けた。ソドムの市民は老若挙りてロトに迫りて客人の引渡しを要求した。ロ(52)ト之を拒みたれば、市民は彼を却けて曰うた「汝退け、此人等は他国人なるに恒に我等の審判人たらんとす。然れば汝若し彼等を庇ふならば我等彼等よりも先づ汝を処分せん」と(九節)。罪に沈みたるソドム人にはすべての義人は審判人として見えたのである。悪人が求むる事にして放任の如きはない。彼等は他人の注意又は警告はすべて之を審判として感ずる。彼等に取りては神は恐るべき最大の裁判官、天使は其下に働く司法官、然らざれば刑の執行人である。故に之を忌む事甚だし、機会あらば之を除かんと計る。彼等が神の使者なる預言者を憎み、屡ば之を殺せるは此れが為である。「此人は寄寓者の身なるに恒に士師《さばきびと》とならんとす」と。ユダヤ人がイエスキリストを十字架に釘けたのも此理由に因るのである。

〇抑々ソドム人の罪とは如何なるものであつた乎。茲に的確と記《かい》てはない。然しロト自身が感染した罪に由て、其何たりし乎を略ぼ知る事が出来る。いかに客人接待が大切であるとしても、自分の娘の節操を犠牲に供してまでも之を行はんとするは、過誤の極である。然しソドム人の間に在りては、此は別に悪事であるとは思はれなかつたのであらう。而して又後に至りてロトの二人の娘が父に対して為した背倫の行為は、彼等の堕落を示すと同時に、ソドムを首府とする低地全体の堕落の状態を現はすものと云はざるを得ない。即ち|ソドム人特別の罪は乱倫であつたのである〔付△圏点〕。その事が口碑に伝はり、彼得後書二章六節以下に現はれたのである、即ち

  又ソドムとゴモラの市を滅さんと定め、之を焼きて灰となし、後の世の神を敬はざる者の鑑となし、唯義しきロト即ち悪人の淫乱の行為を恒に憂へし者を救へり。如此く神は……汚れたる情慾に循ひ、肉の慾を行ひ、主たる者を藐視ずる者を罰する事を知り給ふ。

と。即ちロトの行為、彼の娘の行為、並に新約聖書の此言に照して見て、ソドム人特別の罪の、情慾の罪、近代(53)人の所謂性慾の罪でありし事が判明る。そして之が異邦人特別の罪でありし事は、歴史の充分に証明する所である。前回に述べし通り羅馬ポムべイ市の罪が之であつた。神がイスラエルの民に全滅を命じ給ひし所の、パレスチナ土着の民カナン人の罪が之であつた。其他滅亡に定められし凡ての民の罪が之であつた(羅馬書二章二四節以下参照)。即ち彼等の堕落が性慾の罪に現はるゝに至つて、彼等は滅亡に定めらるゝのである。ロトの娘の行為は、今日之をインセスト即ち近親間の姦婬と称し、身震ひする程の罪悪であるが、然し乍ら道徳の堕落が終に茲にまで至るは決して無い事ではない。此はエジプト人の間に行はれた事であり、又異教カナン人の間には普通に行はれた事であらう。そして斯かる罪悪が異教の民の間に盛んに行はれたるが故に、モーセは之に対し厳格なる律法を設けたのである。事は申命記第二十七章二十-二十四節に明かである。人が禽獣にまで堕落する事である。そしてソドムとゴモラは茲にまで堕落したのである。

〇我等日本人に此罪なしと云ふて我等は誇るであらう乎。実に我等はロトの娘が犯したやうな罪を犯した日本婦人の在つた事を聞かない。我等は此事の為に神に感謝する。然し乍ら日本人は震災以前に此堕落の極にまで近づきつゝあつたのではあるまい乎。他人の妻を奪ふて己が妻と做し、或は己が夫を棄て他の男に適くは明白なる姦姪の罪として、世界全体に認めらるゝに関はらず、震災以前の日本人は、之を罪として認めざるに至りし而已ならず、彼等の内の多くの識者と称する者までが之を称讃々美して憚らざるに至つたではない乎。斯くて「不義(姦姪)は死罪」との日本人固有の道徳は全く廃れて、「不義は悪事にあらず、恋愛芸術め立場より見て寧ろ讃美すべき事なり」と云はるゝに至つた。而して事茲に至て茲に止まるであらう乎。罪は奇を好む者である。益々出て益々奇なりとは罪の行為の特質である。普通の姦婬が罪悪ならず却て美徳として認めらるゝに至つて、其次ぎ(54)に来るは特殊の姦姪である。インセストは即ち如此くにして始まるのである。罪悪の美術鑑賞《ヂレタンテイズム》である。奇なる丈け夫れ丈け美しく見える。そしてロトは自から択んで罪悪の市に住んで、自から其良心を鈍らせしに止まらず、其娘をして|芸術的姪婦〔付△圏点〕たらしめたのである。震災以前の東京はソドム程は堕落しなかつたと言ひ得やう。然しソドムに近づきつゝあつたは事実である。「此|輩《ともがら》は胆太く自放《わがまま》なる者にして尊者《たふときもの》(神)を謗る事を恐れざるなり」との言は、ソドムに於ても東京に於ても文字通りに真であつた。「此輩は」、殊に東京に於ける、文士と称する人達は、常倫を破るに大胆であつた。彼等は自放であつた、即ち何よりも自分の思想を重んじ、之に反対する者あれば、旧式なり、圧迫なりと云ひて激昂した。彼等は特別に尊者即ち神を誇りて恐れなかつた。彼等の多数は背教者であつた。そして背教者の常として何よりも彼等が曾て信ぜし神を謗るに熱心であつた。彼等の背倫と謗※[言+賣+言]《ばうとく》とは同一の原因より出るのであつて、神を謗る其心は大胆に背倫を敢てする動機であつた。

〇ロトは義人であつて、ソドム人の中に在り日々その不法の行為を見聞《みきゝ》して己の義しき心を傷めたりと云ふ(八節)。然し夫れは比較的に云ふに過ぎない。|ロトはソドム人に較べて〔付○圏点〕義人であつたのである。然し乍ら伯父アブラハムに比べては確かに堕落信者であつた。「腐つても鯛の骨」である。|堕落信者も不信者の中に在りては義人である〔付△圏点〕。一たび神の義を味ひし者は、日々不信者の不法の行を見聞して義を以て養はれたる己が心を傷めざるを得ない。ロトの如き薄信の信者と雖も、ソドム人の中に在りては、彼等の警告たり訓誡たりであつたであらう。そして神も亦ロトを忘れ給はなかつた。彼は彼をソドム人と同様に扱ひ給はなかつた。天使を遣はして彼と彼の家族とを救ひ出し給うた。然し彼等は容易に救はれなかつた。彼の妻はソドム恋さに後を顧《ふりかへ》へりて塩の塚と化した。ロト自身も亦恋々の情禁じ難くして、天使の命ずるが儘に山に逃れずして、附近ゾアルの邑に止まつた。彼(55)等は救はれはしたるものゝ纔に身を以て免かるゝに止まつた。ロトはパウロがコリント前書三章十四節に於て言ひしが如くに「己は火より脱れ出る如く救はれ」たのである。漸くさつと救はれたのである。

〇ロトの運命は憐むべき者であつた。彼は悪人ではなかつた。然し此世に多く見る意志の弱い人であつた。彼は妻の慫慂《すゝめ》に逆ふ能はずして伯父の忠告を省みずして虚栄の街なるソドムに移住した。彼は又娘の気儘勝手を抑制する能はず、彼等をして自由に不信者の婿を択ましめ、ソドムの罪に感染して、終に父の身をまで汚さしめた。アブラハムに較べてロトは信仰の人に非ずして情の人であつた。循つて此世に善く受けらるゝ人であつた。而かも神の人の平安と彼に降る完全の恩恵に与るを得なかつた。

〇「各人の工は明にならん、夫日《かのひ》之を顕はすべければ也、此は火にて顕はれん、其火各人の工の如何を試むべし」とパウロは言うた(コリント前三章十三節)。ソドムを滅せし火はアブラハムとロトとソドム人と、其他の人々の実質を顕はした。災禍の要は蓋し茲に在るのであらう。信者は信者、堕落信者は堕落信者、不信者は不信者、それを明に顕はす者が天災其他の災難である。天災其物は善人をも造らず又悪人をも造らない。然れども悪は之に由て亡び善は之に耐へて存る。神は焼尽す火である。然れども神の火を以てしても焼尽されない者がある。我等はアブラハムと共に純金の信仰を神より戴いて、此世界に幾回となく臨む審判の火に耐えて、終に父の永への家へと移されんことを祈る。(十月廿一日) 〔以上、11・10〕

 

(56)     BAPTISM OF HOLY SPIRIT.聖霊のバプテスマに就て

                         大正12年11月10日

                         『聖書之研究』280号

                         署名なし

 

     BAPTISM OF HOLY SPIRIT.(A Karuizawa Experience)

 

 An American missionary asked me:“Have you received baptism of Holy Spirit?”To which I answered:“I do not know. I have been a Christian for 46years,and for 30years I have been engaged in distinctly Christian works. For all these years I have not received any help whatever from churches and missions;I earned my living and working expenses and that,you know,in this unchristian country. Do you think I was able to do all these without baptism of Holy Spirit in some form?”The missionary was not pleased with my answer;my idea of baptism of Holy Spirit was not exactly like his. Christianity is a matter of life-and-death question with me;I have no “pet doctrine”to preach.

 

     聖霊のバプテスマに就て

 

 今年の夏、或る米国宣教師が私に問うて曰うた「貴君は聖霊のバプブテスマを受けました乎」と。私は之に答へ(57)て曰うた「私は知りません。私は基督信者に成りてから今年で四十六年になります。其内三十年間私は基督教の伝道に従事しました。そして其間に私は教会又は伝道会社より未だ曾て何等の補助をも受けませんでした.私は自分の生活費と伝道費とを自分の労働に由て得ました。御承知の通り私は此非基督教国に於て此事を為したのであります。貴君は私が或る形に於て聖霊のバプテスマを受けずして此事を為し得たと御考へなさいます乎」と。かの宣教師は私の此答を喜ばなかつた。聖霊のバプテスマに関する私の考は彼のそれとは異つて居つた。私に取りては基督教は生くるか死ぬかの問題である。私は人に説くべき私独特の教義を有たない。

 

(58)     災後余感

                         大正12年11月10日

                         『聖書之研究』280号

                         署名なし

 

〇大なる地震は東京、横浜、横須賀等の地を震うた。之に由て多くの人は死し、多くの産は失せた。人は曰ふ、此事ありしが故に、多くの人は罪を悔ひて神を信ずるに至るであらうと。然し余はさうは思はない。人は恐怖に由て罪を悔いず又神を信じない。人に悔改を起す者は恐怖に非ず愛である。風も吹かず、地も震へず、天地静にして我れ独り神と相対して跪く時に、我が心の耳に囁く彼の微なる声を聞いて、我は己の罪を耻ぢて、彼の赦免を乞ふのである。地震に由て出来し信者は、地震の記臆の薄らぐと同時に消失する信者である。伝道は恒に為すべき事であつて、今、特別に為すべき事でない。地震も雷も人を信者に為さない。人を信者に為す者は、唯神より出る聖霊のみである。

〇地震は信者を作らない、然し地震に由て信者が顕はれた。凡て震はるべき物と、焼かるべき物とを失ひ、而して震はれざる焼かれざる物が存つて、茲に天災が審判の功を奏したのである。金は金、銀は銀、鉛は鉛、禾稿《わら》は禾稿と、之を試す者は地震と火事とであつた。神は特別に金を守り、禾稿《わら》を焼き給はなかつた。|金と禾稿とを一緒に焼き給うた〔付△圏点〕。そして金は自から残り、禾稿は自から焼けた。焼かるゝ事が災禍ではなかつた。焼かれて残らざる事が災禍であつた。神は焼尽す火であると云ふが、神の火を以てしても焼尽す事の出来ない者がある。それ(59)は純金の信仰である。己が罪を認めて、キリストの十字架に神の完全なる赦免《ゆるし》を看出す詭譎なき信仰である。此信仰の試験に耐へて、最後の審判の火も之を焼尽すことは出来ない。恐ろしかつた、悲惨であると不信者は云ふ。幸ひである、感謝すると信者は云ふ。そして余輩は今此二つの声を聞きつゝある。

〇七十年に一度起る大地震は熄んだ。今より後六十九年間恩恵の年は続くであらう。我等は傷けて又癒し給ふ恩恵の主を讃美しつゝ、彼の御園に於ける喜ばしき労働《はたらき》に勤《いそし》むであらう。

 

(60)     震はれざる国

         希伯来書十二章十八節以下について

                         大正12年11月10日

                         『聖書之研究』280号

                         署名 内村鑑三 述

 

 希伯来書十二章十八節以下は今回の如き大震災の時に読みて教へらるゝ所多きものであります。今それについて委しく説明する時がありません故、たゞ大切な事について学びたいと思ひます。

 二十一節に「その見しところ極て怖ろしかりければモーセも我れいたく恐懼戦慄《おそれおのゝけ》りと曰へり」とあります。これはシナイ山にてモーセがヱホバより律法を与へられた時の事を云ふのであります。事は出埃及記二十章に委しく記されてゐます。

  かくて三日の朝に至りて雷《いかづち》と電光および密雲、山の上にあり、又喇叭の声ありて甚だ高かり、営にある民みな震ふ……民、山の麓に立つにシナイ山すべて煙を出せり。ヱホバ火の中にありて其上に下り給へばなり。その煙竈の煙の如く立ちのぼり山すべて震ふ。

とあります。律法の啓示は実に此異常事を伴つたのであります。新真理の啓示と異常なる時変との間に離れ難き関係があると見ねばなりません。

 預言者アモスの預言は「ユダの王ウジヤの世、イスラエルの王ヨアシの子ヤラベアムの世、地震の二年前に彼(61)が示されたるもの」であります(アモス書一の一)。これはユダのウジヤ王の治世に起つた有名な大地震で、預言者ザカリヤも亦この地震について云うて居ります(ザカリヤ書十四の五)。アモスに依りて新啓示がイスラエルに臨み、そしてその二年後に大地震があつたのであります。これは実に震ふべきものを震ひ、残すべきものを残さんためであります。之によりて凡ての偽りの預言者、悪しき祭司等の教は亡ぼされて、独り神の真理のみが残されたのであります。

 キリストに依て啓示せられた福音も同様であります。この大真理が示されて大事変は起らざるを得ません。そして大事変といふのは現在の世界の終末的大破壊であります。即ち聖書にいふ「世の終末」であります。福音が啓示せられたと云ふ事は、すでに世の終末のあるべきを示してゐるのであ ます。私どもは神の真理啓示の慣用法に訴へてみて、此事を信ぜざるを得ないのであります。

 此事について我等は更に二十六、七節を見るべきであります。之は左掲の改訳聖書にある訳が正しいのであります。

  その時其声地を震へり。されど今は誓ひて言ひ給ふ「我れ尚一たび地のみならず天をも震はん」と。この「尚一たび」とは震はれぬ物の存らんために、震はるゝ物、即ち造られたる物の取り除かるゝことを表はすなり。

 「震はるゝ物、即ち造られたる物」とあります。被造物は悉く震はるゝもの、焼き尽されるもの、亡ぼさるべきものであると云ふのです。これ聖書の見方であります。天地万物を恒久の物と見ない、又人類が進化完成して完全なる世界が実生すると見ないのであります。人生の無常を喞つ人は往々にして天然世界の恒常を高調しま(62)す。しかし聖書はその滅亡焼尽を主張します。

 しかし現在の世界の壊滅は新しき世界の出現のためであります。震はるゝ物の震はるゝは「震はれぬ物の存らんため」であります。今の世界が亡びてその次に完全なる世界が生るゝと云ふのであります。謂ゆる万物の復興、新天新地の生起であります。今の世界は恰も「足代《あしろ》」の如きものであります。高き家を建つるには足代が要ります。無知の野蛮人が突然文明国に来て、それを見たならば、その足代を家そのものと思ひ誤つて、その内に包まれて出来上りつゝある本当の家に気がつかぬのでありませう。そのやうに今の人は此世界を永久の世界と思つてゐますが、それは足代を家と思ひ過まる野蛮人に似た無知であります。足代が暫時的のものであると等しく今の世界は暫時的のものであります。完全なる世界が別に出来つゝあるのであります。之が神の御計画であります。そして時来れば足代は取除かれざるを得ません。受造物は悉く滅ぼし尽されざるを得ません。これは世界的大地震であります。そして新天新地が輝くが如くに現はれ出づるのであります。「われ新しき天と新しき地を見たり。先の天と先の地は既に過ぎ去り海も亦あることなし」(黙示録二十一の一)とある如くであります。

 故に我等は畏るべきで、又喜ぶべきであります。「この故に我ら震はれざる国を得たれば恵に感じて(感謝しつゝ)虔み敬ひ、神の御心に通ふ所をもて之に事ふべし。それ我等の神は焼き尽す火なり」(二八、二九)とあります。震はれざる国を確く保つことが人生の最大事であります。震はるべき国に望と生命を置いて、幾度その改造、復興に努力してもそれは早晩滅尽するものであります。震はれざる国に凡ての望と生命を置いてこそ、震はるべき世界の擾乱、災禍、滅亡に驚くことなくして、新天新地に於ける永への生命に与かり得るのであります。(十月七日午後の集りに於て)

 

(63)     理学と信仰

                         大正12年11月10日

                         『聖書之研究』280号

                         著名 内村鑑三

 

  我は光を作り又|暗《くらき》を造る。我は平康を作り又禍害を造る。我はヱホバなり、我れすべて此等の事を為すなり(以賽亜書四五章七節)。

  邑にて喇叭を吹かば民愕かざらんや。邑に禍害の起るはヱホバの之を降し給ふにあらずや(亜磨士書三章六節)。

  凡の事は神の旨に依りて召《まねか》れたる神を愛する者の為に悉く動きて益をなすを我等は知れり(羅馬書八章廿八節)。

〇万事万物は之を二つの方面より解釈する事が出来ます。之を天然的に解釈する事が出来ます、又信仰的に解釈する事が出来ます。之に学者の見方があります、又信者の見方があります。原因結果の法則に依る自然の出来事として見る事が出来ます。又神の聖旨より出たる摂理として見る事が出来ます。そして学者の立場より見れば信者の見方は迷信のやうに見えます。信者の立場より見れば学者の見方は不信のやうに見えます。二者孰れが真理でありませう乎。私達は迷はざるを得ません。

〇然れども物事に出会ひて私供は是等二つの見方を免がるる事は出来ません。此世の万事は天然的に起るのであ(64)ります。仮令キリストの奇蹟と雖も之を天然の現象として見る事が出来ます。物事を天然的に解釈せんとするのは決して不信の行為ではありません。是は人としては止むを得ない事であります。此世は道理の世であります。故に道理に合はざる事のありやう筈はありません。風は己《おの》が儘に吹くのではありません、吹くべき理由があつて吹くのであります。万事は道理を以て説明さるべき者であります。

〇そして斯う見る時に宗教も信仰も無きものとなつて仕舞ひます。人は皆んな学者と成つて、神に頼り、其聖旨を探るの必要は全くなくなります。然るに人は信仰を棄んと欲して棄つる事が出来ません。驚異(wonder)は人の生れつきの性質でありまして、是れありて美術もあり、詩や歌もあるのであります。天然は不思議でないやうで、最も不思議であります。万物に説明がついて、之に対する驚嘆の念は少しも減じません。其反対に反つて増します。ニユートンやフハラデーのやうな学者が最も深い信仰家であるのであります。此事それ自身が最も不思議なる事であります。

〇宇宙も人生も説明が出来て説明が出来ない、知識の上に信仰の余地がある、最も当然の事が最も不思議である、人は常識を以て万事を判断しながら信仰を以て歩まねばならぬと云ふ、是れが人生であるのであります。そして私供は人生の此不思議……或は之を矛盾と称しませう乎……此不可解の状態に満足して生涯を送らねばならないのであります。

〇私は近頃コロムブスの伝を復習して大に感ずる所がありました。彼が今より四百年前に出でゝ新大陸発見と云ふ大事業を遂げた事は決して故なきに非ずであります。彼は一人で此事を為したのではありません。彼の時代が彼をして此事を為さしめたのであります。コロムプスの亜米利加発見は決して奇蹟ではありません。欧洲人の地(65)理学的進歩と航海術の発達とが彼をして此時此事を爲さしめたのであります。然し乍ら彼の

 

時に起り、彼が為したやうにかの事を為した事は実に不思議と称せざるを得ません。時も時、人も人、事も事であつたのであります。時は早からず又遅からず、人は南欧の熱血男子、理想に溢れて思慮に乏しく、発見者たるに適して開拓者たるに適しませんでした。そして発見の区域は西印度の島嶼に限られ、八年間に渉る彼の四回の大探検に於て、彼は僅かに両大陸の片端に触れたに過ぎませんでした。私は彼の事績に就て読んで、ヨブ記三十八章十一節の言を想出さゞるを得ません、曰く「此までは来るべし、此を越ゆべからず」と。コロムプスも亦、他の偉人と同じく、神に遣され、神の命じ給ひし事丈けを為して其一生を終りし者と見るより他はありません。

〇そして偉人ばかりではありません、何人の生涯も同じ事であります。イエスは曰ひ給ひました、「二羽の雀は一銭にて售《うる》に非ずや、然るに汝等の父の許なくば其一羽も地に隕る事あらじ……汝等は多くの雀よりも優れり」と(馬太伝十章二九、三〇節)。学問の立場より見て雀は別に貴き者に非ず、それが地に隕るには明白なる理学上の理由が在ります。其様に人一人は別に貴き者に非ず、其生くるも死するも差したる問題となすに足りません。然し乍ら信仰の立場より見て問題は全く其性質を異にするのであります。人は何人と雖も其の生まるゝに意味があり、死するに意味があります。全能の神の許なくして彼は生れもせず、死もせず、又何事をも為し得ないのであります。私供各自が神の定め給ひし特別の時に生れ、特別の事を為すべく命ぜられ、特別の時に死ぬのであります。学問の立場より見れば人は至て詰らない者でありますが、信仰の立場より見れば人は何人も最《いと》貴い者であります。

〇それでありますから私共は万事万物を知識信仰の二方面から考へなければなりません。試に疾病《やまい》に罹つたとす(66)れば、私供は其所謂理学的方面を研究し、之を癒すに理学的方法を取らねばなりません。然しそれ丈けでは足りません。其信仰的方面をも究めなければなりません。「邑に禍害の起るはヱホバの之を降し給ふに非ずや」であります。病疾に罹りしには何にか神の摂理上の意味があるのであります。之を探り、之を知るのは信仰上有益であるばかりでありません、病疾を取除く為に必要であります。病疾は単に不養生の結果、又は外部の刺戟からのみ臨んだのではありません、父なる神の警告として、又は我が誤りたる意志の抑制として来たのであります。其道徳的原因を知りて、之を改めて、神の御赦免を乞うて、彼に之を取除いて戴くのであります。其れが本当の医癒《いやし》であります。

〇人生の万事尽く然りであります。之に理学的理由があります、又信仰的理由があります。二者孰れも看逃す事は出来ません。そして孰れがより深い理由である乎と云ひますに、後者即ち信仰的理由の方がより深くあります。論理学の術語を藉りて言ひますならば、信仰は大前提であつて、理学は小前提であります。我等人類は神の摂理と云ふ大なる囲《かこひ》の内に在る道理の世界に棲息して居るのであります。若し理学的にのみ観ますれば人生万事行詰りであります。日本は人口稠密の為に国民は遠からずして居るに所なきに至ります。ラベンスタインと云ふ地理学者の説に依れば、世界目下の人口は十六億であつて、それが六十億に達すれば、全世界は其れ以上に人口を支ゆる事が出来ないと云ひます。|そして其時の至るは今より僅に二百年の後であると云ひます〔付△圏点〕。誠に心細い次第であります。御互各自の過去現在を理学的に観察しまして、失望の外に何もありません。其遺伝性、其弱点と欠点、之に加ふるに日に増すばかりの生存競争の劇烈、之を思うて我心は消え行くばかりであります。

〇然し乍ら理学の指示以上に信仰の告知があります。信仰の囁きは理学の申立を打消して言ひます、「ヱホバは(67)其聖手の事蹟

ます。神の聖旨が成りつゝあるのであります。世界の過去を顧みて有つた事はすべて悉く善き事であつた事が判ります。将来も亦さうであるに相違ありません。世に憤慨すべき事、又在つて欲しき事は沢山にありますが、然し過ぎて見れば成るべき事がすべて成つたのでありまして、神の聖旨が行はれたのであります。信仰の眼を以て視て、人類の歴史に於ても、亦私供各自の小なる生涯に於ても、神が預言者ヱレミヤを以て曰ひ給ひし言が事実となりて現はるゝのであります、即ち「我れ汝等を眷み我が嘉き言を汝等に為さん……我が汝等に向ひて懐く所の念は我れ之を知る、即ち禍害を予へんとに非ず、平康を予へんと欲ふ也、汝等我に※[龠+頁]はり祈らん、我れ汝等に聴くべし」と(耶利米亜記二十九章十節以下)。信仰は神の此御約束を信ずる事であります。そして実際に於て理学の結論が成るのでなくして神の聖旨が就るのであります。信仰は理学以上の真理であります。(七月八日柏木に於て)

 

(68)     〔東京神田の焼跡に…〕

                         大正12年11月10日

                         『聖書之研究』280号

                         署名なし

 

〇東京神田の焼跡に初めて開かれたバラツク式の古本屋に於て、第一に現はれしは職人体の男であつた。そして彼が買求めし者は聖書であつた。第二に はれし者が之も同じく職人体の男であつて、彼が買ひ求めし者は内村鑑三著「基督信徒のなぐさめ」であつた。此は作り話ではなくして、事実であると警醒社主人より聞いた。そして若し事実であるとすれば喜ばしき前兆である。荒廃せる東京に於て初めて売れし本が聖書、それを買ひし者が職人……嗚呼神はまだ日本を見捨て給はない。如此くにして復興せる東京市に神の恩恵は裕かに宿るであらう。

 

(69)     PRAYER.祈祷に就て

                         大正12年12月10曰

                         『聖書之研究』281号

                         署名なし

 

     PRAYER.

 

 I do not pray myself. I let God pray for me. God the Spirit dwellingwithin me,praying through me the will of God, often wit hgroanings that cannot be uttered,――that is my true prayer.philosophically incomprehensible but experimentally true,this prayer of God praying to God through and in His children. It is my prayer because I let Him do it for me;and precisely because its contents are not my wishes and desires but His holy will, is it acceptable in His sight,and is sure to be heard. Abnegation of self is necessary even when addressing God for help. We must pray God that He may pray for us.

 

     祈祷に就て

 

 私は自分自身で祈りません。私は神様に私に代つて祈つて戴きます。霊なる神様が私の衷に宿り給ひて、私を通うして神様の聖意を祈り求むる事、時には言ひ難き慨歎《なげき》を以て、それが本当の祈りであります。哲学的には不(70)可解であります、然し実験的には真理であります、此の神様が其子供の衷に在りて彼等を通うして神様に祈り給ふと云ふ事は。それは実に|私の〔付○圏点〕祈りであります、何故なれば私が神様に祈つて戴くのであるからであります。そして其祈りの内容が私の慾や望でなくして神様の聖き意《みこゝろ》であるが故に、必ず其聖前に受けられて、屹度聴かるゝのであります。自己を無きものとする事は祈願を以て神に言ふ時にすら必要であります。私供は神様に神様が私供に代つて祈つて下さるやうに祈らなければなりません。

 

(71)     伝道師の慈善

                         大正12牛12月10日

                         『聖書之研究』281号

                         署名 内村

 

 |伝道師が為し得る最大の慈善は〔付○圏点〕潔|き、正しき、独立の福音を説く事である〔付○圏点〕。使徒行伝三章六節に使徒べテロが曰へるが如く「金と銀とは我に有るなし、唯我に有るものを汝に予ふ。ナザレのイエスの名に依り起ちて歩め」である。真の福音を以て萎たる霊魂をして起ちて歩ましむ、其事が伝道師の職分である。衣食を給し、生活の欠乏を補ふ事は大なる貴き事業であるが、然し是は神が伝道師に命じ給ふ事業ではない。同六章二節に「十二使徒等、弟子等を召《よび》集めて曰ひけるは、我等神の道《ことば》(福音)を棄て飲食の事(慈善事業)に仕ふるは宜しからず」とあるが如し。慈善事業を為す人は別に在る。伝道師は福音を伝ふるに忠実又勤勉たるべきである。若し伝道師が慈善事業を行ふべしとならば、それは消極的であつて積極的でない。即ち|彼れ自身が成るべく他人、殊に信者の重荷にならざらん事である〔付△圏点〕。若し伝道師が何人よりも補助を受くることなくして伝道に従事し得るならば、是れ彼が為し得る最大最上の慈善である。然るに此事を為さずして、自分は他人又は教会の補給を受けて、而して他人に生活の物資を施すと雖も、此は他人の手より取りて又之を他人に渡すに過ぎない。|世に不似合の事とて被給伝道師の慈善事業の如きはない〔付△圏点〕。伝道師は慈善を為さずとも可い。唯慈善に与らざらん事を努むべきである。彼の説く福音の純潔ならんが為に彼は宜しく生活の絶対的独立を守るべしである。そして此事が彼が世に為し得る最大(72)の慈善事業である。人はパンのみにて生くる者に非ず、神の口より出る凡ての言に由て生くるのである。潔き、真の神の言を世に給する者は最大の慈善家である。そして此資格を獲んが為に、伝道師は宜しく生活の独立を計るべきである。そして若し完全に独立し得ざる場合には、部分的になりとも独立すべきである。他人に施さずと雖も自分に施すべきである。そして潔き福音は之を惜みなく多量に施すべきである。縦し之が為に物貿的の社会と教会とが彼を如何に評するとも、彼は少しも心配するに及ばない。

 

(73)     基督信者の礼儀

                         大正12年12月10日

                         『聖書之研究』281号

                         署名 内村鑑三

 

〇近代人、殊に青年は、礼儀と云へば虚礼であると思ひ、礼儀を省みざる事が誠実であり真摯であると思ふ。礼儀と称せらるゝ者の内に虚礼のある事は余輩と雖も疑はない。然し乍ら礼儀はすべて虚礼であつて、無礼が却て誠実であると思ふは大なる間違である。真の礼儀は人に対する尊敬である。人はすべて神の像に象《かたど》られて造られたる者、其資格に於てすべての人が吾人の尊敬を値する。殊に吾人の長者に対して、彼等が或る意味に於て神を代表して吾人に対する者であるが故に、吾人は神に対する尊敬を以て彼等に対しなければならない。そして実際の所、礼儀の無い所に誠実はない。適当の礼儀を欠いて、師弟の関係なり、友人の関係なり、其ほか人と人とのすべての正しき関係が永久に持続せられた例はない。縦例《たとへ》夫婦の関係と雖も礼なくして之を正当に維持する事は出来ない。|礼儀は耐久的関係の必要条件である〔付○圏点〕。

〇言ふまでもなく我等の主イエスキリストは礼儀の人であつた。「彼は神の実体にてありしかども自ら其の神と匹《ひとし》く在る所の事を棄がたき事と思はず、反て己を虚うし、僕の貌を取りて人の如くなれり云々」とある(ピリピ書二章六節)。謙遜は礼儀の精神である。真の謙遜の在る所に礼儀は在らざるを得ない。イエスは父母に対して孝でありしは勿論、年長者のバプテスマのヨハネに対して、少者が長者に対するの礼を欠かなかつた。「我は爾より(74)バプテスマを受くべき者なり」とのヨハネの辞退の言に対して彼は曰ひ給うた、「暫く許せ、如此凡ての義き事は我等尽すべきなり」と。イエスは己を殺さんと欲する祭司の長の前に立ちても、彼を敬ひ、然して彼の命に従ひ給うた。人類の王たる彼は、すべての人を神の子として扱ひ給うた。己の弟子の足を洗ひて耻とし給はざりし彼は礼儀を其根本に於て行ひ給ふ者であつた。

〇イエスの心を最も克く解せし所のパウロも亦礼儀を重ずる人であつた。「礼儀を以て相譲り」とは彼の教訓であつた(ロマ書十二章十節)。彼は神より委ねられし使徒たる職権を組持して譲らなかつたが、彼れ自身としては常に凡ての人の下に出で、其権利を侵さず、其感情を害はざるやうに努めた。ピレモン書に現れし彼の如き、実に今日の言を以て曰へば「完全なる紳士」であつた。彼も亦彼の主イエスと同じく祭司の長の前に立たせられた。使徒行伝二十三章一節以下の記事は此場合に於ける彼の挙動を記せるものである。

  パウロ議会に目を注ぎ、彼等を見て曰ひけるは、人々兄弟よ、我れ今日に至るまで凡てのこと良心に由りて神に事へたりと。祭司の長アナニア|側《かたはら》に立てる者に命じて彼の口を撃たしむ。是に於てパウロ彼に曰ひけるは、白く塗りたる壁よ、神は汝を撃ち給はん、汝が坐せるは律法に循ひて我を審ん為なるに、律法に違ひ命じて我を撃たしむる乎。側に立てる者ども曰ひけるは、汝、神の祭司の長を※[言+后]《のゝし》るや。パウロ曰ひけるは、兄弟よ我れその祭司の長なるを知らざりき、知らば然か言はざりし也、そは汝の民の有司《つかさ》を誹る勿れと録されたり。

 パウロは知らずして祭司の長を詰責した。そして其過失を示さるゝや、直に改めて己が無礼を謝した。パウロは福音の使者たるの権威を笠に被て、ユダヤ教会の首長を誹るが如き非を行はなかつた。

(75)○パウロのみならず、凡ての使徒等の教も同じであつた。彼得前書二章十七節が此事に関するべテロの教であつた、曰く「衆《すべて》の人を敬ひ、兄弟を愛し、神を畏れ、王を尊ぷべし」と。礼と云ふ文字は使うてないが、然し礼を教ゆる深い言である。「衆の人を敬ふべし」。そして心の在る所には行之に伴ふ。礼儀は虚儀ではない。敬虔の表現《あらわれ》である。

〇神の教は如此あるに係はらず、所謂基督教会は礼儀の行はるゝ所でない。私の知る範囲に於て、所謂基督教会は社会主義者の社会と同様、或る場合には之に劣りたる、礼儀の行はれざる社会である。殊に新教即ちプロテスタント教会に於て然りである。新教は其|創始《はじめ》より礼儀を軽んじた。パウロの再生と思はれしルーテルは、礼儀の一事に於てはパウロの正反対であつた。彼は旧教の首長を誹るを以て高徳であるかの如く思うた。「汚《けが》れたる豚」とは彼が羅馬法王を呼ぶ普通の名であつた。そして無礼に始つた新教会は今も猶ほ無礼である。ルーテル教会はカルビン教会を※[言+后]り、カルビン教会はルーテル教会其他すべての教会を※[言+后]る。監督メソヂスト、バプチスト等、其点に於ては少しも異はない。彼等は他教会を※[言+后]るのみならず、自教会内の相互を※[言+后]る。彼等は相互を呼んで「彼奴《きやつ》」と云ひ、「あの野郎」と称して憚らない。殊に教師相互の間の礼儀欠乏は殆ど言語道断である。そして尊敬と礼儀の欠乏せる基督教会内に愛なく信用なきは勿論である。故に我等若し真の基督者たらんと欲すれば教会の外に出るより他に途がない。

 

(76)     永遠《いつまでも》変らざる者

         イエスキリストは昨日も今日も永遠変らざる也(希伯来書十三章八節)。

         (一九二三年九月二十三日柏木に於て)

                        大正12年12月10日

                        『聖書之研究』281号

                        署名 内村鑑三

 

〇御承知の通り、私は毎年長き夏休暇に入らんとする最後の聖日に皆様に申上げました、「私供が此次ぎに再び相会するまでに何んな大事変が起るか判りません」と。そして昨年の秋までは其事なしに済みましたが、今年は其預測が当りて、私供は僅か三ケ月前に集まりし時と全く異つた世界に於て、今此所に集つたのであります。変れば変つた者であります。先づ第一に、私供が過ぐる満四年間私供の祈祷《いのり》の家として用ひ来りし所の、東京大手町大日本衛生会講堂は一撃の下に倒潰し、其残骸は猛火を以て焼尽されました。私供の讃美を助けしピヤノもオルガンも跡方なしに消失せました。斯くて私供は再たび七百余人の信仰の友と再び共に神を讃美する事が出来なくなりました。而已ならず、其貴き友の或者は、或は撃たれ、或は焼かれて、其唇は永久に閉ぢて、今や私供と全く別の世界に於て神を讃美するに至りました。然し是は私供自身に係はる事変であります。大東京は亡びたのであります。横浜は地の表面より拭はれたのであります。横須賀と鎌倉と小田原とは無きに等しき者となつたのであります。日本国の主脳が撃たれて、日本国の基礎が揺《ゆる》いだのであります。僅か数分間の震動に由て、数百年(77)間かゝつて日本人が作り上げた文明の主要部分が永遠の過去へと葬られたのであります。一九二三年九月一日は日本国の歴史を両分する境界標であります。震災以前の日本と震災後の日本との間に劃然たる区別があります。そして事か不幸か判然《わかり》ませんが、私供此|災禍《わざはい》に生存つた者は、急激的に旧日本より新日本へと移されたのであります。

〇変はりました、心が狂ふ計りに変りました。乍然私供聖書に由て養はれ来りし者は驚きません、驚いてはなりません。聖書は明かに斯かる急激の変動の来る事を教へます。預言者ヨエルの言にして、使徒べテロが引用せし者は次の如くでありました

  我れ上なる天に奇跡《ふしぎ》を現はし、下なる地に休徴《しるし》を示さん、即ち血あり火あり烟《けぶり》あるべし、主の大いなる顕著《いちじるし》き日の来らん前に、日は晦く月は血に変らん、凡て主の名を呼顧む者は救はるべし(行伝二章一九-二一節)。

 又預言者イザヤの言を引いて黙示録記者は曰ひました

  我れ観しに大なる地震あり、日は毛布の如く黒くなり、月は血の如くなれり。天の星は無花果の樹の大風に揺れて、未だ熟せざる其果の落るが如く地に隕ち、天は巻物を捲くが如く去りゆき、山々島々皆な移りてその処を離れたり。地の諸王、又貴人、富者、将軍、勇士、凡の奴隷、凡の自主、悉く洞に匿れ、山の巌の中に置れ、山と巌とに曰ひけるは、「願くは我等の上に落ち、我等を掩ふて、宝座《くらゐ》に坐する者の面と、羔の怒を避けしめよ」と。この羔の怒の大なる日すでに至れり、誰か之に抵るを得んや(黙示録六章十二節以下)。

 パウロも亦イザヤの言を引いて曰ひました

(78)  神は義を以て其言を断行し之を成竟《なしをは》り給ふべし。そは定め給ふ所の事は主速に此地に行ひ給ふべければ也

  (英語 finishing it and cutting it short を参考なさい。羅馬書九章二八節)。

 以上が神が時々其聖意を実行し給ふ途であります。神は決して急激に事を行し給はないと言ふは間違であります。地震、火事、一日にして大文明の破壊……是は今日まで幾何もあつた事であります。そして私供は今回其事を目撃したのであります。神は忍耐を以て、伝道者を遣はして其聖意を伝へしめ給ひますが最後に之を断行し給ふに当つては急速であります。私供伝道師が百年かゝつて為すことの出来ない事を神は五分間で成遂げ給ひます。文士も思想家もあつた者ではありません。神が悔改めざる罪人に対して最後に唱へ給ふ議論は地震であります、火であります。実に簡短明瞭であります。此議論に対しては、如何に厚顔の文士と雖も一言の返す言葉はありません。「嗚呼悲惨、嗚呼酸鼻」と彼等はたゞ呻くのみであります。平穏の時に勝手放題を唱へし彼等は、此際民の傷を癒すに足る一言の言葉をも持ちません。日本の人心を其奥底まで毒せし現代文士は此災害に遭ふて、其面を匿くすに至りました。夫れ丈けは実に有難い事であります。

〇万事は変りました。万物は毀たれました。然し乍ら茲に一つ変らない、毀たれない者があります。それはキリストとその十字架であります。私は今日荒野と化した旧い東京市の中央に於て大なる十字架を一本立たくあります、そして其横木に有名なるアイザツク・ワツトの作つた讃美歌の一句を書込みたくなります

  In the cross of Christ I glory,

  Towering o're the wrecks of Time.

 そして共立木に英訳文を書記《かきしる》したくあります

(79)   荒れはてし世に 高く聳ゆつ

   主の十字架にこそ  我は頼らめ。

 キリストの十字架が私供クリスチヤンの生命であります。是れありて、他の者はすべて消失せても、私供に猶ほ最大最善のものが残るのであります。銀座の滅亡、日本橋の滅亡、天賞堂三越の滅亡は私供自身には少しも損害として感ぜられないのであります。是等は何時《いつか》一度は亡ぼさるべきもの、今亡ぶるも後亡ぶるも変りはないのであります。亡びし東京全体、其他横浜、横須賀、鎌倉、小田原、熱海、執れも永久性を帯びたる霊魂の救拯の為には、必要欠くべからざる者ではありません。故に震はるべき者が震はれて、震はれざる者が残つたのであります。

  我れキリストと偕に十字架に釘けられたり。もはや我れ生けるに非ず、キリスト我に在りて生けるなり。今我れ肉体に在りて生けるは、我を愛して我が為に己を捨し者、即ち神の子を信ずるに由りて生けるなり

であります(ガラテヤ書三章二十節)。此生命を営むクリスチヤンには、何が失せても損失はありません。東京が在らうが在るまいが、縦し全地は海の下に沈み、宇宙は捲去られても、基督者は其宝と立場とを失はないのであります。キリストと其十字架……我が義、我が聖、我が贖は之に在ります。之を仰瞻て私供は四囲顛倒の裡に在りて心の平静を維持する事が出来るのであります。斯かる時に私供は世と共に周囲を眺めて歎声悲鳴を発しません。我が裡に宿り給ふ彼を念ひ、父の右に坐し給ふ彼を仰ぎて、人のすべて思ふ所に過ぐる平安を覚えます。

〇「イエスキリストは昨日も今日も永遠変らざる也」と云ひます。単《ただ》に彼が伝へし真理が変らないと云ふのではありません。彼れ御自身が変らざる者であると云ふのであります。彼は死して甦り、天に昇り、父の右に坐し(80)て万物を統治《すべをさ》め給ふと云ふのであります。其能力に変りなし、愛に変りなし、生命に変りなしと云ふのであります。斯う云ふ事の出来る者は彼を除いて他に、何人も亦何物もありません。最も偉らい人は暫らく現はれて直《ぢき》に消える蜉蝣《かげろふ》であります。世に頼るべき人とては一人もない事は、今日の如き場合に克く解ります。然らば地や岩が頼るに足る乎と云ふに、是れ亦頼るに足らざる事が克く解りました。今日の如き場合に於て私供何人も、震はるべき地より挙げられて、永久に天の父と偕に生き給ふ友なる救主を要求します。変らざるキリスト、人類永久の友、「我れ生くれば汝等も生くべし」と言ひ給ひし彼、彼れ在りて不安の世界に在りて、平安なるを得るのであります。そして使徒時代より今日に至るまで、人種を問はず、貴賎貧富を問はず、知識の有無《あるなし》を問はず、境遇の幸不幸を問はず凡て彼に倚頼みし者は、変遷窮りなき此世に在りて、彼と共に変らざるを得たのであります。今回の大激変に於ても、主は変らざる救主として彼の弟子等に現はれ給ひました。私は既に二三の兄弟姉妹に於て、驚くべき彼の恩恵を見ました。彼等の中の或一人の如きは、家を失ひ、職を失ひ、剰さへ其子の一人を失ひながら、特に感謝を述べん為に私を訪ひ、数百円の感謝の祭物《さゝげもの》を遺して行きました。今や多くの人達が泣いて居る最中に、尠からざるキリストの僕婢が同じ災に罹りながら「ハレルヤ、爾の審判は尽く義し」と云ひて神の行為を讃美しつゝあります。彼の施し給ふ恩恵に限りはありません。地震も火事も、死其物もイエスキリストに頼《よ》れる神の愛より彼に依頼む者を絶《はな》らすることは出来ません。夫れは我等が彼を愛する愛に因るのではありません、彼が我等を愛し給ふ愛に因るのであります。彼は昨日も今日も永遠生き給ふが故に、機《をり》に合ふ恩恵を彼を信ずる者に施し給ひて、彼が神の子たるの実を現はし給ふのであります。

〇東京と横浜とは失せました、然しイエスキリストは失せません。我等の或者は家と家具と衣類と書籍と、其他(81)有りと凡ゆる物を失ひました、然しイエスキリストは存り給ひます。彼在りて万物は存るのであります 彼に倚頼む事が真の窮りなき生命であります。故に私供の棲む周囲は全く変りましたが、私供は彼に在りて前と少しも変らざる同じ世界に棲むのであります。我等の主イエスキリストは震災以前と以後と少しも変りません。私供は彼に在りて繋がりて、同一の聖き交際を続け得るのであります。震はるべき者が震はれて、震はれざる国が私供に存《のこ》るのであります。

〇斯く唱へて私供は我と同胞とに臨みし此の甚大の苦痛に対し冷淡なるのではありません。私供は自己先づ磐《いは》なる彼に縋り、而して悩める人に対し救拯の仲立と成らんと欲します。今や共に泣くばかりが慰安の途でありません。私共は臨みし災禍の意義を示し、之を転じて福祉と為すべきであります。神は其福音の真理を証明し又確立せん為に此災禍を降し給うたのであると信じます。信者は之に由て其薄信を癒され、不信者は其不信を除かれん為に此災禍が降つたのであると信じます。自分に在りても、他人に在りても、永遠に変らざるイエスキリストが、其聖き義しき、恩恵に充ちたる権能を揮ひ給はんが為に、神は日本国に此大打撃を加へ給うたのであると信じます。

 

(82)     神に関する思考

                   大正12年12月10日、13年10月10日

                   『聖書之研究』281・291号

                   署名 内村鑑三

 

     神の在る証拠

 

  夫れ我等は彼に頼りて生き又動き又在ることを得るなり、汝等の詩人等も云へるが如く「我等は其裔なりと」(使徒行伝十七章廿八節)。

  我等信仰に由りて諸の世界は神の言にて造られ、此く見ゆる所の者は見ゆる所のものに由りて造られざるを知る(希伯来書十一章三節)。

〇私供は屡ば神の存在の証拠を人に要求されます。如何《どう》して之に応ずる事が出来ませう乎。

〇|神の存在の証拠を提供するの困難は、問題が余りに明白であるからであります〔付○圏点〕。神は第一に在る者であります。彼れ在つて万物があるのであります。我れ在り、人あり 天あり地あるが神在るの最も確実なる証拠であります。神は万物存在の基礎であります。若し神が無いとすれば、何物も無い筈であります。万物一として永久的なるはなく、完全なるはありません。故に夫れ自身にて存在する事は出来ません。恰も堅い地の無い所に波の揚りやうなく、雲の浮きやう筈が無いと同然であります。コロムブスは渺茫たる大洋の上に流木の浮ぶを見て陸地の在る(83)を知りました。其如く空間に浮ぶ流木の如き地球や月や星の在る事に由て、宇宙存在の基礎たる神の存在が知らるゝのであります。

〇然し乍ら斯う云うた所で人は私供の論証に服しません。宇宙万物を基礎として論じまする時に、神は無いとの説は、在るとの説丈け夫れ丈け容易に築く事が出来ます。神は見る事は出来ず、量る事は出来ず、理学的に其存在性質等を証明する事が出来ません。夫れ故に|在ると信じて〔付○圏点〕取掛れば其存在の証拠を何処にでも得ることが出来ますが、|無いと信じて〔付○圏点〕此問題に対しますれば神は、何処にも之を看出す事は出来ません。仏国有名の天文学者ラランドが曰うた事があります「余は大形の望遠鏡を以て天界隈なく探りしと雖も、未だ曾て神を見し事なし」と。「神を信ぜざる天文学者は狂人なり」と言ひし大天文学者ありと思へば、又ラランドのやうなる天文学者もあります。故に神は理学者の実験に由て知る事の出来る者でない事は確であります。

〇然らば神の存在は如何して知る事が出来る乎と云ふに、|夫れは信ずる事に依てゞあります〔付○圏点〕。そして信ずるとは、道理に反し、利害観念に強ひられ、無理に信ずる事ではありません。|信ずるとは我が衷に起る自然の声を真の声として受取る事であります〔付○圏点〕。嬰児《あかご》が母を慕ふ心は自然に湧く心でありまして、そして又深い、強い、真の心であります。私供が神を慕ふ心も亦人として私供に自然に起る心でありまして、之を迷信として受取らず、私供に植付けられし天然其儘の心として受取つて、茲に真の信仰が起るのであります。そして此信仰の心を以て万物に対しまする時に、万物は父の聖手の業として我眼に映り、私供は少しも道理に反くことなくして、万物を解し、其美を讃美する事が出来るのであります。信ずると信ぜざるとは学究的に何の差別は無いやうに見えますが、然し乍ら学究に熱心を供し、其興味を増し、すべての知識の調和一致を計る上に於て、信仰は遥かに不信仰以上の勢(84)力である事は、何人も呑む事は出来ないと思ひます。其証拠には、世に不信仰の学者は無いではありませんが、信仰の学者の勢力は遥に不信仰のそれに勝さります。古へより今日に至るまで、世界的大学者は大抵は熱心なる有神論者でありました。単に哲学者丈けに就いて曰うて見ましても、ソクラテス、プラトー、プロチナス、デカート、スピノーザ、ライプニツツ、ベーコン、カント等何れも神在りと信じて其存在並に活動を証明せんとして、終生の力を注いだ人達であります。

〇如斯にして、神の存在の証拠は信仰を基礎として立てらるゝ者でありまするが故に、其証明たるや主として部分的でなくして、全体的である事が解ります。恰かも大美術家の画いた絵のやうな者でありまして、其大天才は之を点や線に於て見る事は出来ません、其全体の構造、趣嚮に於て見るのであります。宇宙万物を片々《きれぎれ》に研究して、其内に神の聖意と云ふが如き者を読む事は出来ません。同じ事を個人の生涯に於ても見ます。信者の日々の生涯に於て別に神の意匠《デザイン》と云ふやうな者を見る事は出来ません。然し乍ら彼の全生涯を観察しまして、殊に百年二百年の後から之を見まして、其のまことに神に導かれた生涯であつた事を知ります。国の歴史に於て殊に然りです。其毎月毎年の出来事に由て、神の御手が其上に加はりつゝある事を知る事は出来ません。然し乍ら、百年又は千年の後より之を観察して、人間以上の意志が之を起し、之を維持し、終に之を亡した事を知る事が出来ます。丁度山水を遠方より望んで景色があり、近づいて之を見る時に、汚点のみ眼につくやうな者であります。哲学者は概ね信者であるに対して、科学専門家の内に不信者の多いのは此理に由るのであると思ひます。|信仰は人の衷に存する統一の精神であります〔付ごま圏点〕。之と相対して知識は分解の能力であります。人が知識にのみ依て万事万物を説明せんとする時に、彼は自《おの》づから無神論に傾きます。然し乍ら宇宙も人生も分解した丈けでは解りません。(85)之を一体として見て、部分と部分との関係を明かにして、其のまことにコズモス(整体)なる事が解ります。|人が神を信ずるに到りし時に彼は統一者になるのであります〔付ごま圏点〕。そして単に知識の方面から見まして、統一は分解丈けそれ丈け必要であります。

〇神の在る証拠は、神が在ると信じて、人の能力が非常に増す事に在ります。先づ第一に|創作〔付○圏点〕と云ふ事は神を知つて始まります。神の信仰のない所に創作と称すべき創作はありません。単に芸術丈けに就いて考へて見まして、神の信仰の無い所に大芸術の興つた例は何処に在ります乎。西洋に於ては芸術は希臘で姶つた者でありますが、希臘人が強き信仰の民であつた事は明かなる事実であります。希伯来人は信仰の民であつて、希臘人は文芸の民であると云ひて、希臘人は日本今日の腐敗文士のやうに無信仰不道徳の民であつた乎のやうに思ふは大なる間違であります。希臘芸術は強き高き深き宗教的観念を以て始つた者であります。其事に間違はありません。そして中古時代より近世紀の初期に方て、大美術を世に供した者は何んな人であります乎。ミケル・アンゼロー、ラフハエル、レオナード・ダ・ヴインチ、レムプラントと云ふて一人も無神論者は在りません。其反対に、孰れも哲学者スピノーザ同様「神に酔うたる人」でありました。美術と信仰の関係に就て述べんとすれば際限がありません。支那、印度、日本に於ても同じであります。信仰衰退の今日に於て美術の形は残つて居ます、然し何処にフイヂヤス、運慶等の大胆にして真に迫るの巨作があります乎。万物の霊なる神に接してのみクリエーション(創作)があります。神が万物を造り給ひし其能力の分与にあづかりて、人も神に似て或物を造り得るのであります。無神論が生みしと云ふ所謂「創作」は創作ではなくして破壊でありまず。否定が其特徴であります。否定、反逆、破壊、……無神論の強きは此にあります。肯定、順法、建設、創作の積極的能力は信仰に由て臨む者であります。

(86)〇そして事は単に芸術に止まりません。人生活動のすべての方面に於て、真の神に対する真の信仰は偉大なる積極的結果を生じます。私供が第二に考へて見たい事は、|大信仰に由らずして輿つた大国家は何処に在る乎、其事であります〔付○圏点〕。希臘人が素より信仰の民であつた事は前に述べた通りであります。エヂプトに大国家と大文明の起りしも其強い高い宗教に依りし事は疑ふに余地がありません。バビロン、アツシリヤ又然りであります。羅馬人は政治的の民であつて、希臘人程の敬神の民ではありませんですが、然し公義を愛し、法律を重んずる点に於て、確に信仰の実際的方面に長けて居ました。そして古代を去つて近代に至りまして、深遠なる政治運動はすべて深き宗教心を以て始まりました。カルビン主義の基督教が英国を立直し、和蘭共和国と北米合衆国を興した最大原因であつた事は何人も否定する事は出来ません。近代の代議政体がプロテスタント教の教義を以て始つた者であるとの英国法理学者ジエームス・マツキントツシユの説は深い観察に出た者であると思ひます。近代史に於て信仰を無視して起つた国家は仏蘭西共和国と農労露国であります。然し乍ら二者何れも危い立場に立つ者である事は認めざるを得ません。そして又政府は無宗教でありますが、仏人露人孰れも深い宗教心の民であります。両国の強味はやはり其信仰厚き民に於て在るのではありますまい乎。

〇そして日本国は如何ですか。日本国の建設者は不信仰の人でありました乎。|敬神愛国は日本建国の根本的精神ではありません乎〔付○圏点〕。日本が東洋諸国の内で優秀の国家を成して居る理由は其建設者の優秀の宗教心に在るのではありますまい乎。日本人は特に宗教的国民であります。何れの宗教も日本人の心に植附けられて、著るしき発達を遂げました。日本人から其宗教心を取除いて日本の国家が維持し得らるゝ乎、大なる疑問であります。

〇畢竟するに、神の存在の証明は2×2=4と云ふやうな性質の者ではありません。之は「善き樹は善き果を生じ、(87)悪しき樹は悪しき果を結ぶ」と云ふやうな論法に依る者であります。神の存在を|決定的に〔付○圏点〕証明することは出来ません。哲学者デカートは其事を試みて失敗しました。神を識るの途は義人や聖人を識るの途と同じであります。即ち自分が或る程度まで義人又は聖人に成らなければ識ることが出来ません。本当の義人は此世の人の多数には不義の人として認めらるゝ者であります。然るにも拘はらず彼は義人であるのであります。神も亦然りであります。神の心を慕ふて始めて神を識るのであります。人は誰でも2×2=4の真理なるを知ります。然し乍ら神の聖意を行《な》さんと欲する者のみが神の在る事、其聖意が絶対的真理である事を知ります。此は循環論法のやうであつて決してさうではありません。カントの有神論も亦是れ以外の者ではないと思ひます。(軽井沢に於て)

 

     神の存在の証明

 

〇事物を証明するに三ツの方法がある。其第一は数学的証明である。2×2=と云ふが如き、三角形内の角度は二直角に均しと云ふが如き、其他微分積分の妙理に至るまで、自明理に出発して、正確に証明する事が出来る。数学的証明は香定を許さぬ証明である。故に証明と云へば数学的性質を帯ぶるの必要がある。若し道義の正当も、神の存在も数学的に証明する事が出来るならば、人類の幸福此上なしと考へて、此事に従事した哲学者は尠くない。有名なるデカートの如きは其顕著なる一人である。彼は「我は思惟す、故に我は存在す」との自明理より出発して、宇宙万物を思惟的に組立んとした。

〇然し乍ら万物は之を数学的に説明する事は出来ない。生物と其器官の機能、其常性、行状等は、之を数学的に知る事は出来ない。生物を知るの途は観察である。植物又は動物に就て、吾人は数理的に「斯くあらねばならぬ」(88)と言ふ事は出来ない。連続せる注意深き観察の結論として、「斯くある」と報告するまでである。事の真偽は観察即ち研究の正否に由て定まるのである。若し同一の注意と観察とを以てするならば何人も同一の結論に達し得べしとは此証明法の前提である。

〇然し乍ら世には観察即ち外面よりする研究を以てしては知る事の出来ない者がある。それは人格、又は構神、又はべルソナリチーと称する者である。精神又は霊魂は数学的に其大さ又は重さを量る事が出来ない。又科学的に其性質又は行状を識る事は出来ない。人は之を研究室に収容して、科学的観察を施して知る事は出来ない。|人を識るの途は同情である〔付○圏点〕。研究者自身が同情を以て其人の心に入り、彼と共に感じ、計り、アスパイヤして、幾分なりとも其人を知り又解する事が出来る。霊を知らんと欲すれば霊と真とに依る他に途がない。

〇依て知る、物を知るに三ツの方法あることを。其第一は数学的方法、之は無生的物体に適用すべき方法である。其第二は観察的方法、之は有生的天然物に適用すべき方法である。第三は同情的方法、之は霊的実在者即ちべルソナリチーに適用すべき方法である。凡ての物は同一の方法を以て知る事は出来ない。星を知るの方法あり、花を知るの方法あり、鳥と獣を知るの方法あり、又人を知るの方法ありである。方法を誤まりて、如何に大なる熱心を以てするも其目的を達する事は出来ない。

〇人が神を知るの方法は、彼が相互を知るの方法でなければならない。彼は数学的に機械と計算とを以て相互を知る事が出来ないやうに、亦神をも知ることが出来ない。彼は亦草木や禽獣を知る方法を以て人を知る事が出来ないやうに、神をも知る事が出来ない。人を知るの方法は彼に同情するに在る。神を知るの方法も亦是である。自分が神の如く成らんと欲して、幾分なりとも彼を知る事が出来るのである。

(89)○そしてイエスが唱へ給ひし神を識るの途は是であつた。彼は曰ひ給うた「我が教ふる所は我が教に非ず、我を遣はしゝ者(神)の教なり、人もし我を遣はしゝ者の旨に従はゞ、此教の神より出るか又己に由りて言ふなるかを知るべし」と(ヨハネ伝七章十七)。此事を更にハツキリと教へしはヨハネ第一書四章七節八節に於ける言である、曰く「愛ある者は神に由りて生れ且神を識るなり、愛なき者は神を識らず、神は即ち愛なれば也」と。神を識らんと欲すれば人を愛せざるべからず、神は愛なれば愛せずして神を識る能はずと。即ち神は究理的に又は思索的に識る能はず、実行的に識るを得べしとの事である。そして是は凡ての霊を識るの途である。自分が幾分か聖人の道を体得するに非れば、縦令まの当り聖人に会ふとも、彼を聖人として認むることは出来ない。神を認むるの途も亦同じである。カント哲学の術語を以て曰ふならば、神を識るの知識は実際的知識である。神の旨に従つて初めて神と其教の何たる乎が判るのである。事物を識る上に於て人の同情心に確然たる価値あるを認めたるは近世哲学の大進歩である。(十一月四日)

 

     神と天然

 

  元始《はじめ》に神天地を造り給へり(創世記一章一節)。

  ヱシユルンよ、全能の神の如き者は他に有るなし、是は天に乗りて汝を助け、雲に駕して其威光を現はし給ふ(申命記卅三章廿六節)。

  林の諸の獣《けもの》は我有なり、山の上の千々の牲畜《けだもの》も亦然り。我は山のすべての鳥を知る、野の猛き獣は皆な我有なり(詩篇五十篇十、十一節)。

(90)〇天然は霊妙不思議である、然し天然は神でない。神が天然以上である計りでなく、人も亦天然の上に立つ。人が天然を神として仰ぐ時に彼は堕落し、之を僕として役ふ時に彼は上進する。而かも其広さは量り知るべからず、又之に現はれたる智慧と能力とは、人の想像以上である。人は終生研鑽を怠らずして草の葉一枚を知悉す事が出来ない。詩人ホヰツトマンが言ひし如く、鼠一疋が億々万の無神論者を|ヘコマ〔付ごま圏点〕すに足る。天然と称んで之を軽く視る者は自分で自分の無学を表はす者である。人は天然以上であると云ふは、天然は|ツマラ〔付ごま圏点〕ない者であるとの事でない、人は神に似て無限に尊くあると云ふ事である。

〇天然は神に非ず、然れども霊妙不思議にして、人の量知る能はざる者である。然らば天然は何である乎。|神が御自身を現はさんとて造り給ふたる者である〔付○圏点〕 或は神の御心の物に現はれたる者である。Nature is material representation of God.である。故に人の立場より見て、天然は神丈け広く又高く又深く、神丈け不思議で且驚くべくある。天然を神と見るは間違であるが、物を以てする神の表現と解して能く之を説明する事が出来る。

〇人は「神と天然」と云ひて、天然を神と離して考ふるが普通である。天然の法則と称して、神と雖も変更する事の出来ない、必然的法則である乎の如くに思ふ。然し乍ら所謂天然の法則は天然固有の法則でない、|天然に賦与せられたる法則である〔付○圏点〕。恰かも貨幣に現はるゝ彫刻は貨幣固有のものに非ずして、外より印刻せられた者であると同然である。其事は法則に多くの例外ある事に由て判る。或は一の法則が他の法則に由て超越せらるゝ事に由て判る。生物界を支配する法則は鉱物界を支配するそれとは全く異う。天然は千篇一律、唯一の法則を以て支配せらるるゝ者でない、法則の上に法則ありて、而かも夫れがすべて一大調和の下に働くのである。

〇|神は天然の如き者である〔付○圏点〕。人は天然を知て神を識る事が出来る。神の大さ、其能力、其智慧、悉く天然に於(91)て現はる。「それ神の見るべからざる永遠の能力と神性とは造られたる物(天然)により世の創《はじめ》より悟り得て明に見るべし」とパウロが羅馬書第一章二十節に於て言ひしが如くである。殊に神の恒久性を天然に於て見るのである。|天然の法則が永遠不易である乎の如くに人に思はるゝ程、神は永久に変らざる者である〔付○圏点〕。人は変り易き者である、彼は神に傚ひて神の如くに変らざる者となる。小人は変り易し、偉人は変らず。哲学者カントの運動時間に由てケニヒブルグの市民は其時計を正したりと云ふ。天然の法則が神の聖旨と離れて働くのでない、|法則其物が聖旨を表はすのである〔付○圏点〕。神の聖旨は正確である、彼は変り給はない、我等天然の法則に従ひて歩みて神と偕に歩みつゝあるのである。|天然は第二の聖書である〔付○圏点〕。第一の聖書は直に聖旨其物を伝へ、第二の聖書は覚官を通うして間接に同じ聖旨を伝ふ。神の律法と天然の法則とは其根本に於て一ツである。

〇同じ事を進化の法則に於て見る事が出来る。「初には苗、次に穂いで、穂の中に熟したる穀を結ぶ」とのイエスの御言葉は克く此事を語るものである。「神の挽臼は転る事遅し」と云ふ。神は事を為すに一定の順序に従ひ給ふ。美は醜に代り、善は悪に勝ち、完全は最後に来る。進化の途は神が事を為し給ふの途である。但し人が天然を神と混同せざらんが為に、神は時々天然に超越して働き給ふ。天然全体が神の表現《あらはれ》である。そして奇蹟はたしかに其一部分である。我等は此美はしき天然の内に在りて神の懐の内に抱かるゝのである。「我等は彼に頼りて生き又動き又在る事を得る」なりとのパウロの言は何れの方面より見るも真理である(十一月十一日)

 

     父なる神

 

  我は天地の造主、能はざる所なき父なる神を信ず(使徒信経)。

(92)  父が其子を憐むが如くヱホバは己をいるゝ者を憐み給ふ(詩篇百三篇十三節)。

  婦その乳児《ちのみご》を忘れて己が胎の子を憐まざる事あらんや、縦ひ彼等忘るゝことありとも我は汝を忘るゝことなし(イザヤ書四十九章十五節)。

  彼等の艱難《なやみ》の時にヱホバもなやみ給ひて其前の使者をもて彼等を救ひ、その愛とその憐憫とに由りて彼等を贖ひ、彼等を|もたげ〔付ごま圏点〕、昔時《いにしへ》の日常に彼等を抱き給へり(同六十三章九節)。

〇神は万物の造主、すべての智慧と能力の源であるとは信ずるに左程難くない。神在りとは人間自然の信念であつて、其事を絶対的に否定する者は実は殆んど無いのである。然るに基督教は単に超自然の神の存在を唱道するに止まらない、|父なる神〔付○圏点〕の存在並に活動を高調する。天地万物の造主は併せて愛なる父であると称ふ。茲に基督者の特質がある。信者は単に有神論者でない、神を父として仰ぎ、子として之に事ふ。此点に於て基督教は儒教、万有神教、自然神教等と異ふのである。

〇神は父であると云ふ、其証拠は何所に在る乎。聖書は明かに其事を教ゆと雖も、天然人生の事実に多く之に反する者あるに非ずや。「ピリボ、イエスに曰ひけるは主よ我等に父を示し給へ 然らば足れり」とヨハネ伝十四章八節にあるが如く、我等何人も若し天地の造主が実に我父であると云ふ事が解るならば、幸福此上なしであるであらう。

〇人は子を知るに依て父を知ることが出来る、父としての神を知る唯一の途は、子たるイエスを知るに在るとは聖書の示す所であつて、実に完全に父なる神を知るの途は之を除いて他にないのである。然れども天然は父として神を示さずと云ふは誤謬である。第二の聖書なる天然は、縦し第一の聖書程明確と、深刻に父を示さずと雖も、(93)然し乍ら深く天然を解して其内に父なる神を発見せぎるを得ないと思ふ。親が其子を思ふの心、此は|たしかに〔付ごま圏点〕天然性ではない乎。そして天然性の内で最も美はしい者ではない乎。我等は之を植物に於て見、亦動物に於て見、そして最も発達せる形に於て之を人間に於て見るのである。花の咲くも此為である、鳥の囀るも亦此ためである。天地万物より子を生むの機能、子を愛する親の心を取除いて其最善最美の者が取除かるゝのである。|天然は善き家庭と同じく子供本位である〔付○圏点〕。

〇そして此心は何処から来たのである乎。人は云ふ自然に発達した者であると。然し乍ら噴水は其源より高く昇らざるが如く、天然も亦其中に無い者を出すことは出来ない。若し天然は其物以上の者を出す事が出来ると云ふならば、天然は最大奇蹟であつて、天然でない。天然が天然である以上は法則に従はなければならない。無から有が出るとは反則である、不法である。そんな事こそ有りやう筈はない。|天然に親心の有るのは、万物の源なる神は父であり又母である最も善き証拠である〔付○圏点〕。天然は物を以てする神の表現である。そして其天然の内で、最も美くしい、最も貴むべき者は愛である。そして愛の最高の表現は親心である。其れ故に神は愛である、父であると云ひて決して迷信を語るのではない。最も高い、又最も深い、又最も美しい真理を語るのである。

〇人は今や性の研究に熱中する。誠に当然の事である。そして「最も善きものは最も腐れ易し」との諺に洩れず、此研究は最も濫用され易くある。然し乍ら正当に、潔き心を以て両性問題を研究して直に神性問題に到着せざるを得ない。「父が其子を憐むが如く、ヱホバは己を畏るゝ者を憐み給ふ」と云ひ、又「婦、己が胎の子を忘るゝ事あらんや、縦ひ彼等忘るゝことありとも、我は汝を忘るゝ事なし」と云ふ。此は聖書の言であつて、亦天然の教である。天然は明かに父なる神を現はす者であると信ずる。

(94)〇人間は下等動物より進化した着であると云ふは決して無神論でない。下等動物に多くの美はしき愛の発現がある。鯨や熊が其子を愛する愛に、人も及ばざる深いものがある。足れ亦神より出たる愛である。彼等を祖先として有ちたればとて決して恥辱でない。(十一月十八日) 〔以上、12・10〕

 

     摂理の神

 

  汝等公道を茵※〔草がんむり/陳〕に変じ、正義を地に擲つる者よ、昴宿及び参宿を造り、死の蔭を変じて朝となし、昼を暗くして夜となし、海の水を呼びて地の面に溢れさする者を求めよ、其名はヱホバと云ふ(アモス書五章七、八節)。

  二羽の雀は一銭にて售《うる》に非ずや、然るに汝等の父の許なくば地に隕ること有らじ。汝等の髪また皆数へらる。故に懼るゝ勿れ、

〇神が神である以上、其意志が行はれねばならぬ。其聖旨《みこゝろ》が成らねばならぬ。神は完全なる者であらねばならぬ。汝等は多の雀よりも優れり(馬太伝十章二九、三十節)。其意志も亦完全であらねばならぬ。其完全なる意志が行はれてこそ彼は神であるのである。我等は完全なる意志の実現に由て、神の存在を認むるのである。

〇そして神の聖意は天然、歴史、並に我身に於て行はれつゝあるではない乎。先づ天然に就て見んに、天然に莫大の破壊力あり、万物元始の混沌に帰るの可能性多きに係はらず、秩序と善美とは其内に現はれつゝあるではない乎。若し「暴力是れ力なり」であるならば、地上に花や鳥の現はれやう筈はなく、岩と水と空気とのみが全地を占領し居るべき筈である。地が徐々として美化されたと云ふ事、其内に蘭や石竹や薔薇の如き繊美なる花が現(95)はれて蕃殖すると云ふ事、其事が所謂盲目の天然力に反いて高い理想が行はれつゝあるとの証拠ではあるまい乎。強い者の勢力が徐々に減じて、弱い者の勢力が次第に増して行くと云ふ事は、霊は物と肉とに勝ち、神の聖旨が終に完全に行はるゝに至るべしとの最も確かなる証拠ではあるまい乎。天然物進化の途を辿つて、我等は聖書に「狼は羔と共に宿り、豹は小山羊と共に臥し、犢、牡獅子、肥たる家畜共に居りて小さき童子《わらべ》に導かれん……そは水の大洋を覆ふが如くエホバを知るの知識地に充つべければ也」と読んで少しも不思議に思はないのである(イザヤ書十一章九節)。

〇そして天然界に於て行はるゝ事が人類の社会に於ても亦行はるゝのである。社会は圧制に始つて自由に終らんとしつゝある。是れ当然であるやうで実は甚だ不思議である。勢力は常に圧制家の側に在る。之に対して自由は常に微力であつて、若し生存競争が勢力の問題であるならば、自由の勝利は少しも見込がないのである。然るに人類の歴史に於て、弱い自由が常に勝つて、強い圧制が常に負けたと云ふ事は大なる不思議と云はざるを得ない。自由又は正義に神が味方し給ふが故に、其勝利を見たのであつて、若し自然の成行に任かしたならば、暴力が永遠に勢力を揮つて止まないであらう。人類の歴史は正義実現、自由発達の歴史である。其事其れ自身が神の聖旨が行はれつゝある何よりも明かなる証拠であると思ふ。ベツレヘムの牛小屋に生れし弱き授けなきイエスが、終に人類の王として崇めらるゝに至つたと云ふ事で、神の存在を確かむる事が出来ると思ふ。

〇そして総て正義の為に戦つて勝つた者は此感を懐かざるを得ない。.不信者と雖も「天佑」を語るが常である。人力以外の有る力が彼等を助けた事を知るからである。殊に基督者は此感を深くせざるを得ない。真の基督者は常に世の弱者、社会の少数者である。パウロの所謂「世の汚穢また万の物の塵垢」である。彼は政府や社会に賎(96)しめらるゝのみならず、キリストの名を以て呼ばるゝ教会にまで嫌はれ又斥けらるゝが常である。世に憐れなる者とてキリストの真の弟子の如きはないのである。然るに彼の首《かうべ》が終に擡げられ、世は終に彼の実力を認めざるを得ざるに至る。実に斯んな不思議は無いのである。彼の場合に於て所謂生存競争は少しも働かないのである。若し天然力以外に力がないならば、彼が絶滅せらるゝのが当然である。彼に敵の「営塁《とりで》を破る程」なる戦の器はあるが、それは肉に属る器ではない。神が彼に在りて戦ひ給ふに非れば、彼の勝利は不可解である。政権と金権とを盛に利用して教勢の拡張を計る欧米の基督信者には此超自然的勢力を認むる事は出来ない。然し真の福音は如斯き此世の勢力を以て世に勝つた者でない。使徒ヨハネは曰うた「誰か克く世に勝たんや、我等をして世に勝たしむる者は我等の信なり」と。そして此信力こそ神より来る力であつて、此力を身に実験して神の存在並に活動を実感するのである。

〇神は実際の世界に於て今も猶ほ日毎に活動し給ふ。人と天然とは彼の目的を破る乎の如くに見えるが、神の目的は成就して人の目的は失敗に終る。深く探れば天然は神の聖旨《みこゝろ》の表現《あらはれ》であつて、歴史は彼の聖業《みわざ》の成行である。神は無しと云ふは宇宙人生の極く浅い見方である。何よりも確実なるは神の在し給ふ事である。 〔以上、大正13・10・10〕

 

一九二四年(大正一三年) 六四歳

 (99)     UNITARIANISM.ユニテリヤン教に就て

                           大正13年1月10日
                           『聖書之研究』282号
                          署名なし

     UNITARIANISM.

 Unitarianism as a system of doctrines is shallow and incomplete,I think;but as a movement to counteract the errors of official Protestantism, it has a perennial value of its own.Unitarianism stands for freedom of thought,honesty of faith,supremacy of love,and brotherhood of mankind.No wonder that John Milton was Unitarianistic(Arian)in his last days,With all his reverence for the Divine Son of God.Unitarianism is not necessarily anti-Trinitarian.It is anti-dogmatic,anti-ecclesiastical and anti-theological.Certainly,it is negative in its good qualities;but as it is,it exists by God's appointment, and has right to claim our honour.“Nearer,my God,to Thee”was written by a Unitarian woman(Sarah Flower Adams);and she made Unitarianism a part and parcel of modern Christian life.

(100)     ユニテリヤン教に就て

 ユニテリヤン教は教義の一団としては浅い不充分なる者である、乍然教会的プロテスタント教の誤謬を打消す為の運動としては独特の永久的価値を有する教であると思ふ。ユ教は思想の自由と、信仰の公正と、愛の至上権と、人類同胞主義とを標標榜する。ジョン・ミルトンが其晩年に於て、彼がイエスを神の聖子として尊崇せしに関はらず、ユ教即ちアリヤン主義に傾きしと云ふは怪しむに足りない。ユ教は必しも三位一体の信仰に反対しない。その特別に反対する所のものは信条《ドグマ》である、教権である、信仰に代らんとする神学論である。真にユ教の美点は主として消極的である。然れども其の世に在るは神の指命に由るのであつて、我等より尊敬を要求するの権利を有す。「我の神に近かん」の讃美歌はサラー・アダムスと称するユニテリアン婦人の作である。彼女に依てユ教は近世基督信者の生命の一要素と成つたのである。

(101)     年頭の辞

                           大正13年1月10日
                           『聖書之研究』282号
                           署名 内村

〇大政治家とか、大宗教家とか、大数育家とか、大事業家とか、大の字の附くやうな者に自分は少しも成りたくない。唯|普通《あたりまへ》の人に成りたい。人生を楽しみ、仕事を喜び、生きて居る事を以て最大特権と見作做す、一人の人間に成りたい。そして基督者《クリスチヤン》とは畢立《つま》る所、斯かる者であると思ふ。
〇事業と云ひ、職業と云ひ、如何にも大切の事であるやうに大抵の人は思ふ。勿論大切であるに相違ない、然し最も大切の事でない。人生実は何を為しても左程|差違《ちがゐ》はないのである。人は事業でない。人は意志である、精神である、霊魂の状態である。彼の価値は何を目的に生くる乎に於て在つて、何を為して生くる乎に於てない。自分の為に生くる乎、自分以上又は以外の者の為に生くる乎、夫に由て彼の価値は定まるのでかる。如何《どう》なつても可い、何を為しても可い、唯「彼」の聖意の我に在りて成らん事を、唯「彼等」が我に由て祝福《さいはひ》せられん事をと、常にさう思ふてこそ我に心配も苦悶もないのであつて、人生の幸福は実は「他」の一字に於てあるのである。
〇人生に実は「我」と称する奴《やつ》ほど悪い奴はないのである。「我」の目的、「我」の理想、「我」の幸福、「我」の事業、我を禍ひする者は此奴《こやつ》である。人は「我」と称して自己を顧る時に其目は盲《くら》み、其心は狂ふのである。彼は「我」を敵として見、其奴《そやつ》を十字架に釘る時に、其目は瞭《あきらか》に、其心は康くあるのである。人は長生術を講じ
(102)て未だそれを発見しない。然し長生の術も永生の途も茲に在るのであつて、至つて簡短明瞭である。己《おの》が衷に在る「我」と云ふ蛇を殺せよ、然らば今日直に凡ての難問題を解決するを得て、幸福快活の人と成る事が出来る。日本の諺に「身を棄てこそ浮ぶ瀬もあれ」と云ふ事がある。身とは「我」である、自己である 人生の dead《デツド》weight《ウエート》(死に至らしむる重荷)である。此奴《こやつ》を棄て了ふて、我身は軽くなり、永久の自由と、無窮の幸福とは我有となるのである。
〇キリストの十字架、之を仰ぎ瞻て救はる。何故なぜ)? 何故なれば、神が其処(そこ)に我を毒する「我」なる蛇を釘(くぎ)にて打つけ給うたからである。「モーセ野に蛇(へび)を挙げし如(〔ごと〕)く人の子も挙げらるべし、凡て之を信ずる者に亡ること無くして窮りなき生命を受けしめんが為なり」とあるが如し(ヨハネ伝三章十四節)。自己の拡張自己の完成と称して、自己にのみ意を注ぎつゝあるは自分で択んで精神的自滅を計りつゝあるのである。

 

(103)     人格的の神

         (十一月二十五日午後青年等に語りし所のものである)
                           大正13年1月10日
                           『聖書之研究』282号
                           署名 内村

〇基督者《クリスチヤン》の神は天然、法則、能力と云ふが如き非人格的の者でない。彼は「アナタ」と云ひて呼び掛くる事が出来、又「我れ」と云ひて我等に臨み給ふ人格的の神である。此点に於て基督者の神は、哲学者の神、又は政治家の神とは全く異ふ。真の神は天地万物の造主であつて、恐るべき者、敬ふべき者、崇むべき者、事へ服ふべき者、然り愛すべき者である。故に若し神を何者にか此ぶべくんば、彼は星や山や風や電気や禽《とり》や獣《けもの》に此ぶべき者に非ずして、人に此ぶべき者である。|神は少くとも人以上である〔付○圏点〕。人に非ずと雖も、人に在る最善長美のものを無限に具へ給ふ者である。人間の立場よりして、神は人格者であると云ふより外に、彼の何たる乎を言表はすの言がないのである。
〇然らば人格とは何である乎。人格とは俗に云ふ人品ではない。英語の personality(ペルソナリチー)の訳字であつて、人たるの資格を云ふ。人格の何たる乎を知らんと欲せば、先づ個性 individuality(インヂヴイヂユアリチー)の何たる乎を知るの必要がある。個性は単独性である。一《ひとつ》より他《ほか》にない性質、又之を備へたる者である。同じ物の多くあるを「団栗の脊較べ」と云ふ。故に一箇の団栗に個性があると云ふ事は出来ない。団栗は種《しゆ》の一箇たるに過ぎない。然し乍ら生物が進化するに

(104)従ひて、其個性が顕明《あきらか》になる。犬や馬に至つて、一疋の犬は之を他の犬より判別し得るに至る。而して個性の最も発達せる者が人である。人は万人様々である。我は我れ一人であつて、我と同じき者は全宇宙に一人もない。類似は唯程度の問題である。我に|稍や〔付ごま圏点〕似たる者無きに非ず、然れども全然我れ如き者、我を二つに割つた者、斯かる者は全宇宙を探るも一人もないのである。依て知る個性は人に於て其発達の極に達せるを。

〇|人格は自覚せる個性である〔付○圏点〕、Personality is self-conscious individuality. 木の葉と雖も個性は絶対的に無いとは云ひ得ない。多少の相違はある、然れども僅少の相違である。高等生物に至つて相違は益々顕著になる、然れども其相違を自覚するに更に一段の発達を必要とする。而して人に至つて個性は其発達の極に達して、之に自覚が現はれたのである。即ち|個性が人格と成つたのである〔付○圏点〕。人なる我れ、日本人なる我れ関東人なる我れ、内村家に生れたる我れ、鑑三と名付けられし我れ、唯一人の我れ、善かれ悪かれ全宇宙に二とは無き我れ、それが人格である。そして万物発達の順序として人格は最後に現はれたる者である。之に絶大の淋しみが無いではないが、同時に又絶大の貴尊が伴ふ。|唯一つより外に無き者〔付○圏点〕、それ故に金剛石よりも、世界よりも、宇宙よりも貴き着である。嬰児《をさなご》一人の生命が全国の富よりも貴いと云ふ訳は之に由るのである、即ち其人格に由るのである。

〇そして人に人格があつて神に之が無いであらう乎。此頼りなき弱き微《ちい》さき私に此無上の性格が有るに拘はらず、神は単に非人格的の法則又は能力であるであらう乎。若し神が盲目の力《フホース》であると云ふならば、助けなき人格者なる私は誰に向つて私の苦痛を訴へて、其|援助《たすけ》を仰ぐであらう乎。神が若し人格者又はそれ以上の者でないならば宇宙は混乱である、暗黒である。そんなツマラない意味のない宇宙を想像することは出来ない。

〇茲に至て聖書の示す所の神の最も合理的にして、個人性を備へたる人類を完全に満足させる事の出来る神であ(105)

  唯彼独り天を張り海の濤《なみ》を履み給ふ。又北斗、参宿、昴宿、及び南方の密室を造り給ふ(ヨブ記九章八、九節)。

  我はエホバなり、他に一《ひとつ》もなし、我は光を作り又暗を造る、……我はヱホバなり、我すべて是等の事を為すなり(イザヤ書四十五章六、七節)。

  ヱホバ我に顕はれて曰ひ給ふ、我れ窮なき愛を以て汝を愛せり、故に我れ絶えず汝を恵むなり(ヱレミヤ記三十一章三節)

斯くて我等基督者の神は人の如き神である。我等が父と呼びまつり、主として仕へ、友として親しみ得べき神である。斯かる神が在《いま》し給ふが故に、我等各自は独り世に立ちて、寂しさに耐へ得るのである。そして彼に守られて我等は康く又喜ぶのである。

(106)     ヨセフの話

                            大正13年1月10日

                            『聖書之研究』㍑号

                            署名 内村鑑三

 

     其一 青年時代の夢 創世記第三十七章の研究

 

〇馬太伝一章二節に「アブラハム イサクを生み、イサク ヤコブを生み、ヤコブユダと其兄弟を生めり」とある。ヨセフは即ちユダの兄弟の一人にして、ヤコブの子にしてイサクの孫アブラハムの曾孫である。アブラハムは特に信仰の人であり、イサクは静粛の人であり、ヤコブは活動の人であつた。ヱホバは己をモーセに現はして曰ひ給うた「我は汝の父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神なり」と(出埃及記三章六節)。父子孫三人は同一の神の恩寵の下に三ツの全く異《ちが》つた性質を現はした。そして曾孫のヨセフに於て三人の性質が一人の性格となりて現はれた。神は天然の法則を以て働き給ふ。遺伝の法則は著しくアブラハムの家に於て働いた。ヨセフはアブラハム家の善き代表者であつた。アブラハムの子孫たる所謂ユダ人は、其光明的半面に於て善くヨセフの性質を現はして居る。ヨセフを知らずして選民の歴史を解する事は出来ない。ヨセフはイエスキリストの原型《プロチタイプ》である。ヨセフを高め、潔め、拡《ひろ》くした者が、神の子にして人類の王なるイエスである。|ヨセフの生涯は之をイエスの小伝として見ることが出来る〔付○圏点〕。

(107)○創世記三十五章二十三節以下に曰く、
 夫れヤコブの子は十二人なり、即ちレアに由て生れし子は、ヤコブの長子ルベン及ひシメヲン、レビ、ユダ、イサカル、ゼブルンなり。ラケルに由て生れし子はヨセフとベニヤミンなり。ラケルの仕女《つかへめ》ビルハに由て生れし子はダンとナフタリなり。レアの仕女ジルバに由て生れし子はガドとアセルなり。是等はヤコブの子にしてパダンアラムに於て彼に生れたる者なり。

 此外にレアに由て生れしデナと呼ばれし女子があつた。此女子がヤコブの子等に由て大なる悲劇を起すの原因となつた(第三十四章)。

〇此くしてヤコブに四人の妻があつた。然し彼が正妻として認めし者はラケルであつた。そして彼の十二人の子の内で彼が嫡子として認めし者は、此ラケルが生みしヨセフであつた。アブラハム家の祝福は長子ルベンならで、ベニヤミンを除いての末子なるヨセフに伝はるべきであつた。信仰の家に於ては家督の恩恵は|選び〔付ごま圏点〕に由るのである(羅馬書十一章五節を見よ)。イサク、ヤコブ、ヨセフ、孰れも「恩《めぐみ》の選《えらび》に由り」て信仰の家を嗣いだのである。此福音的真理を心に留めて、第三十七章二節の言を解する事が出来る。即ち「ヤコブの伝は是なり、即ち|ヨセフ十七歳〔付○圏点〕にしてその兄弟と偕に羊を牧ふ云々」と。即ちヤコブの伝はヨセフに繋がると云ふのである。そしてヨセフは彼の長き多事多難の生涯に於て、此伝統的恩恵を失はなかつたのである。神はアブラハムに為し給ひし約束を充たさんが為にヨセフを守り、彼をして其聖旨を為さしめ給うたのである。ヨセフの場合に於ても人の意志や計画が行はれたのではない、神の聖旨が行はれたのである。ヨセフが偉らかつたのではない、彼に在りて働き給ひしヱホバの神が偉らかつたのである。神の人の生涯はすべて如此しである。其点に於てモーセ、ヱレミヤ、パ(108)ウロ、ルーテル、コロムウエル、すべて異る所はない。

〇|ヨセフほ青年時代に夢を見た〔付○圏点〕。禾束《たば》の夢と星の夢とがそれであつた。青年はすべて|夢見る者〔付ごま圏点〕ある。コロムブスも秀吉も青年時代に夢を見た。そして其夢が彼等の生涯に於て事実となりて現はれた。夜の夢がある、昼の夢がある、そして殊に注意すべきは|昼の夢〔付○圏点〕である。預言者の夢、詩人の夢、美術家の夢はすべて|醒めたる時〔付ごま圏点〕の夢である。之を夢想と称して斥くる勿れ。|或る夢〔付ごま圏点〕は神より来る啓示《しめし》である。然し之は人に語るべき者ではない。語つて返つて彼等の誤解する所となる。ヨセフ其夢を兄弟等に語りしかば、「兄弟彼を嫉《ねた》めり、然れどその父は此言を憶え(心の中に秘め)たり」とある(第十一節)。若しヨセフが夢を何人《たれ》にも語らざりしならば、彼は多くの災害《わざはひ》より免かれたであらう。

〇ヨセフの兄弟等は自分等に甚だ不名誉なる夢を打消さんとした。即ち夢見る者を無きものにして、夢の災禍《わざはひ》を絶たんとした。彼等は彼を殺さんとした。然るに長兄ルベンの遮る所となりて彼を辱かしめ、※〔こざと+并〕《あな》に投じ、後に彼を引上げて異邦の商人に奴隷として彼を売渡すに止めた。骨肉の行為として実に残酷極まると云ふべきである。然し乍ら嫉妬は時に人を駆つて茲に至らしむ。兄弟は他人の初めであると云ふ。利益の為に兄弟相争ふは決して稀なる事ではない。我国の歴史に於て兄弟が位を争うて一が他を除きし場合はすくない尠くない。所謂宇都宮騒動の如きは其一例である。アブラハムの家にも亦此罪が行はれた。人はアブラハムの子孫と雖も生れながらにしては罪の人である。後に至りて、ユダヤ人が、ヤコブの子等と同じ精神を以て、ナザレのイエスを殺した。ヨセフに於てイエスが現はれ彼の兄弟等に於て民の長老と学者とパリサイの人が代表されたのである。罪の歴史は古今東西変らない。

(109)○ヨセフは銀二十枚にてイシマエル人に売られ商品としてエジプトに携へ行かれ、彼地にて終に国王パロの侍衛の長なるポテパルに売渡された。憐むべし青年ヨセフの夢は茲に全然破壊された。彼は多分ドタンよりシケムへ、ベテルより父の家なるヘブロンを経て、南の方エジプトへと駱駝の脊にて運ばれたであらう。叫ぶも呻くも今は無益である。彼は今は無慈悲なる運命の縄に縛られて、まだ見ぬ国へと運ばれたのである。彼の若き血は煮えたであらう。彼は独り思うたであらう、嗚呼我が父祖の神は何処に在る、彼は我を非道の手に渡し給へり、夢はやはり夢であつた、我は我が兄弟等に夢を語つて夢を破られて憂き目を見せられたと。此時彼は摂理の手に導かれて、理想実現の域へと連れ行かれつゝあるを知らなかつた。泣けるヨセフの上に恩恵の神は笑み給ひつゝあつた。人の怒は神の聖旨を壊つことは出来ない。神は御自身に逆ふ人達を以て其聖旨を遂げ給ふのみならず、更に進んで悪人自身の救ひをも行ひ給ふ。イスカリオテのユダがイエスを売んとて出行くや、イエスは弟子に告げて曰ひ給うた「今、人の子栄を受く、神亦彼に由りて栄を受くるなり」と(ヨハネ伝十三章一)。ヨセフの場合に於ても同じであつた。但し神の子ならぬヨセフは其兄弟に売られて「栄を受け、神亦彼に由りて栄を受る」とは知らなかつた。

〇愛子ヨセフの喪失はヤコブに取りても亦言尽されぬ痛撃であつた。彼の生涯の希望は今や懸つて此子にあつた。彼は最近最愛の妻ラケルに別れ、彼女の遺子として、又祖父アブラハムより伝来の神の祝福の承継者として、ヨセフは家の宝、老いたる父の倚頼む柱であつた。然るに親の心子知らずであつて、ヤコブの子等は其弟を売ると同時に其父を欺いた。「斯くて彼等ヨセフの衣を取り、牡山羊の羔《こ》を殺してその衣を血に濡《ぬら》し、之を父に送り遣はして曰ひけるは、我等之を得たり、汝の子の衣なるや否やを知れと」と(三一、三二節)。無情の極、無慈悲の極(110)実に言語道断である。然し是れ決して無い事ではない。斯かる例《ためし》は世にいくらもある。世に嫉妬《ねたみ》程恐ろしい者はない。自己《おのれ》にまさりて他を愛する者を怒るの心、それが嫉妬である。そして此心に駆られて、最も恐るべき罪悪が行はれた。嫉妬の焔の燃ゆる所に親子も兄弟も夫婦もない。「是れ汝の子の衣なるや否やを知れ」と。イエスの放蕩児の譬話に、兄が弟の帰りしを聞いて父に告げし言に曰く「此|汝が子〔付△圏点〕帰れば之が為に肥たる犢を宰《ほふ》れり云々」と(ルカ伝十五章三〇)。「汝が子」である、我が兄弟ではない。嫉妬は肉親の情を打消すの能力である。

〇然し乍ら「人の怒は神の義を行ふ事を為さず」とある(ヤコブ書一章二十)。ヤコブの希望もヨセフの夢も兄弟等の悪計《わるだくみ》に由て破砕されなかつた。神の約束は立て壊れず。神は異邦の商人を以て、大国の王と高官とを以て、而して大なる餓饉を以て終に彼に依頼む者を救ひ給うた。(十月廿八日)

 

     其二 正しき歩み 創世記第三十九章の研究

 

  ヱホバ ヨセフと偕に在す(二節)……ヱホバ ヨセフの為に其エジプト人の家を恵み給ふ、ヱホバの祝福彼が家と田に有《もて》る凡の物に及ぷ(五節)……然れば我れいかで此大なる悪をなして神に対し罪を犯すを得んや(九節)……そはヱホバ ヨセフと偕に在せばなり、エホバ彼の為す所を栄えしめ給ふ(二三節)。

〇ヨセフは悪人等の譎計《わるだくみ》に罹り大なる悲境に陥つた。然し絶望の故に為すべきの義務を怠らなかつた。彼は第一に神を恨まなかつた。第二に主人には主人として事へた。彼は多くの青年が為すが如くに、自分の理想を押立て境遇に逆ひて進まんとしなかつた。身は富家の生れであるに拘はらず、今は買はれし奴隷として、自分の利益を忘れて、主人の利益を計つた。斯くして披の為す事は悉く成功した。彼は第一に主人の完全なる信用を博した。

(111)主人は家と其財産を挙げて之を彼に委ねた。「彼れその有《もて》る物を悉くヨセフの手に委ね、その食ふパンの外は何をも顧みざりき」とある(六節)。「彼れ己が食ふパンの外は、何を有《もて》る乎を知らざりき」と訳すべきである。信頼の極である。ポテパルは其全財産を挙げて之をヨセフに委ね、其決算報告をすら聞くに及ばざるに至つたとの事である。此忠実と信頼とありて、所謂資本と労働との衝突の有りやう筈はない。主人の有《もの》は僕の有、僕の有は主人の有である。「ヱホバ ヨセフと偕に在ます……ヱホバ ヨセフの為に其エジプト人の家を恵み給ふ」とある。ヱホバ偕に在して、雇人と被雇人との間に此美はしき関係が成立するのである。神の臨在を乞はずして唯法律を以て定めし権利関係として、資本と労働との調和を計らんとするも、その失敗に終るは明白である。

〇伝道之書第九章に曰く「凡て汝の手に堪ふる事(凡て汝の手に来りし事)は力を尽して之を為すべし」と。凡て与へられし仕事は、その何たるに拘はらず全力を注いで之を為す、それが成功最大の秘訣である。凡の成功者は此途を取つた。そしてヨセフは其好き例であつた。彼はポテパルの家の宰として忠実であつた、獄舎に投ぜられ、囚人の首として忠実であつた、そして最後にエジプト国の総理大臣として忠実であつた。能く家を斉《とゝな》ふ者は亦能く国を治む。小事に忠なる者は大事にも忠である。「彼に曰ひけるは、あゝ善且忠なる僕よ、汝寡なる事に忠なり我れ汝に多くの物を督《つかさ》どらせん、汝の主人の歓楽《よろこび》に入れよ」との、馬太伝二十五章十二節に於けるイエスの御言はヨセフの如き者に適用すべきである。米国人にヨセフと呼ばれし新島登襄君の壮年時代の行為の如き、克くヤコブの子ヨセフのそれを例証すべきものである。

〇成功の途に就きしヨセフは再た新たなる災厄に遭うた。彼は悪しき婦人に誘《いざな》はれ、之を拒みし結果、主人の怒を買ふて獄に授ぜられた。誘惑と云へば男が女を誘ふ者の如くに思はるゝが、然し決してさうとは定まらない。

(112)男は必ず悪魔であつて、女は必ず天使であると思ふは間違である。ヨセフの場合に於て男は天使であつて、彼を誘ひしポテパルの妻は悪魔であつた。そしてヨセフは如何にして魔女の誘惑を斥けし乎と云ふに、|彼はヱホバに依て之を斥けたのである〔付○圏点〕。「我れいかで此大いなる悪を為して神に罪を犯すを得んや」と彼は此妖艶なるエジプト婦人に告げた。姦淫は何故に罪である乎、之を学理的に定むるは頗る困難である。日本文士の多数の如き、今日と雖も猶ほ姦淫の罪たるを明白に認めないであらう。ヨセフも亦、当時《そのとき》の倫理学者に問ふて、的確なる解答を得なかつたであらう。そして彼の兄姉等は此事を明かにせずして、多くの耻かしき罪を犯した。創世記第三十四章と、同第三十九章とは、ヤコブの家に於ける、男女関係の暗黒的半面を語る者である。然れどもヨセフは彼等と類を異にした。彼は身の清潔を守るに勇敢であつた。柔順温良の彼は罪に対しては峻厳であつた。そして彼はヱホバを信ぜしが故に斯くあるを得たのである。希伯来書十三章四節に曰く、「汝等婚姻の事は凡て之を貴むべし、……神は苟合《こうがふ》また姦淫する者を審判き給ふ」と。|姦淫は神に対して犯す罪である〔付△圏点〕。神は殊に此罪を憎み給ふ。故に神を歓ばせんと欲する者は此罪を避ける。イエスキリストの御父なる真の神に対する信仰と姦淫の罪とは如何にしても両立する事が出来ない。「我れいかで此大なる悪を為して神に対して罪を犯すを得んや」と三千年前のヨセフは曰うた。そして今日と雖も此罪を免かれ、身と魂との清潔を守らんと欲せばヨセフに傚ふより他に途がないのである。修養も鍛錬も、思索も研究も、此罪に勝つには余りに微力である。多くの英雄、多くの文士が、他の事に於ては世の尊敬を惹くに足りしかども此罪丈けには勝つ事が出来なかつた。ヱホバ我と偕に在してのみ、我は彼の潔きが如くに潔くあるを得るのである。

〇身の清潔を維持してヨセフは無実の罪に問はれて獄に投ぜられた。災厄の上の災厄である。彼は益々不幸の深(113)

其獄舎に投ぜられた。アブラハムの神何処に在す乎と彼は呟いたであらう。それは兎もあれ彼は又彼の境遇に安んじた。彼は監獄生涯を利用して彼の信仰を発揮した。監獄に在りても貴顕の家に於て在りしが如くに、ヱホバヨセフと偕に在して彼の為す所を栄えしめ給うた(二十三筋)。ヱホバ偕に在して、境遇の如何は問題にならない。すべての境遇が彼の栄光を顕はすに適してゐる。「義しき人は患難多し、然れどもヱホバは皆な其中より救出《たすけだ》し給ふ」とある。そして彼に正直勤勉の霊を与へて彼を救出し給ふ。境遇其物に救拯の途が備つてゐる。別に手段方法を講ずるに及ばない。置かれし地位に在りて、勤勉で、正直で、忠実で、彼に自から救拯の途が開かれるのである。ヨセフの生涯に於て特に注意すべきは、彼が神の愛子でありしに拘はらず、奇蹟の之に現はれざりし事である。彼の立身の途は平凡であつた。そしてヱホバ偕に在して、平凡の途は奇蹟以上の奇蹟である。(十一月四日)

 

     其三 栄達の道 創世記四十章、四十一章の研究

 

〇ヨセフは夢を見る者であつた。又夢を占ふ者であつた。彼は夢の人であつた。今日の言葉を以て言ふならば、理想の人であつた。彼はユダ人の善き代表者であつて、実行家であると同時に理想家であつた。彼は預言者であつた、同時に又政治家であつた。預言者イザヤの如き、政治家ダニエルの如き、其他聖書人物の跡を践んで、預言又は政治に従事した者に、此の反対性である乎の如くに見ゆる両面があつた。アブラハム族の偉大は茲に在る。彼等は理想の民であると共に実力実行の民である。四千年後の今日と雖も、彼等が其民族的精力を失はざる理由(114)は茲に在る。夢を見ざる民は古び、夢を行はざる民は滅ぷ。夢は詩である、哲学である、音楽である。実行は政治である、工業である、実業である。ユダ人は此両方面に於て偉大である。そしてヨセフが彼等の為に此の善き遺伝を作つたのである。

〇凡て不確実なるもの、之を夢と云ふ。「夢の浮世」と云ふ。「睡《ねぶ》間の夢、旅人の、一夜語りの話種《はなしぐさ》」と云ふ。夢ほど当にならぬ者はないと思はる。然るに近代の心理学の研究は此説を一変した。多くの革命的言語を発せし哲学者ニイチエは夢に就て曰うた「我れ自身の何たる乎を示す者にして、我の見る夢ほど確実なる者はない」と。夢は我が無意識的自我である。意志の抑制なき時の赤裸々の自我、それを自分に見るものが夢である。脳神経は機械の一種であつて眠る間も働く者である。そして或る刺激に由て之を意識する時に「夢を見る」のである。故に夢は悉く当にならぬ者でない。或る困難《むつかし》き数学上の計算を夢の裡に為した例がある。有名のアツシリヤ学者ヒルプレヒト氏は夢の告示《しらせ》に由つて或る判じ難き古代文字を読解したりと云ふ。夢は人の生涯に於ける不可思議の一である「痴人夢を語る」と称して、夢を尽く痴人の事と見るは、心理学研究の進歩せる今日の識者の為さゞる所である。

〇ヨセフは獄舎に在りて、彼と共に繋がれしパロの重臣二人の夢を解いた。彼の判断に違はず一人は赦され、一人は処刑せられた。夢其物に深い意味は無かつた。然しヨセフは之に由て神に依る判断の誤らざるを覚つた。神は又之に由つてヨセフを王に紹介し、彼の立身の途を開き彼を通うして、彼の兄弟及び父ヤコブの一族を救ふの機会を作り給うた。神の聖手に在りて小事は決して小事でない。小事は我等を大事に導くの径路として貴くある。

〇「ヨセフ彼等に曰ひけるは、(夢を)解く事は神に因るに非ずや、請ふ我に述べよ」と(八章)。ヨセフは何処ま(115)でも謙遜であつた。彼は自分で夢を解き得るとは思はなかつた。夢を起す者は神、之を解く者は神であると信じた。斯くて彼は普通の夢占ひではなかつた。夢を以てする神の黙示に与る者であつた。夢は黙示の手段に過ぎなかつた。貴きは示されし事実であつた。手段は文化の程度に由て異なる、然れども黙示と之に接する心の状態とは今も昔も同じである。ヨセフが夢を解きし如くに、我等は時に人生の謎を解かしめらる。そして神に依て其解釈を試みて我等も亦自他に関はる神の黙示に与る事がある。そしてヨセフの場合に於けるが如く「解く事は神に因るに非ずや」である。各自に臨む人生の謎は神が起せし者であつて、之を解くの智慧も亦神より出る者である。「神の情《こと》は神の霊の外に知る者なし」とパウロがコリント前書二章十一節に於て曰ひしが如くに、神より出し人生の謎は神の霊より外に之を解く者はない。

〇ヨセフは獄《ひとや》に在ること二年、彼に夢を解かれて、素の栄職に復せし酒人《さかふど》の長《かしら》は恩を忘れて、彼れヨセフの放釈を計らなかつた。然るに茲に彼を世に出すべき事件が起つた。それは王自身が解するに難き夢を見し事であつた。七頭の牝牛と、七穂の麦の夢は国の安否を思ふエジプト国の王が見さうの夢である。そして之に対するヨセフの解釈は何人が見ても適切である。「バロと其すべての臣僕《けらい》此事を善とす」とあるは爾《さう》あるべきである(四十一章卅七節)。七年の豊年に次で七年の凶年が来る、故に豊年の間に穀を蓄へて凶年に備へよとの建言である。事は至て簡短明瞭である。然れど此任に当る者は誰ぞ。ヨセフは勿論自分を推薦しなかつた。然れどもパロの眼にはヨセフこそ其適任者であつた。パロはヨセフに曰うた「神之を尽く汝に示し給ひたれば汝の如く慧く賢き者なかるべし、汝我家を宰るべし、我が民皆な汝の言に従はん、唯位に於てのみ我は汝より大なるべし」と(卅九、四十節)。バロに人を見るの眼があつた。国を思ふに厚き彼は民を治むるの才に長けた。|治国の術は他でない、適当(116)の人を適当の地位に置く事である〔付ごま圏点〕。パロはヨセフの風采言語に於て、殊に其謙遜の態度に於て、国を挙げて之を委ぬるに足るの資格を認めたであらう。君、君たれば臣臣たるべしと云ふが如く、パロ、明君たりしが故に、ヨセフは良臣たり得たのである。我等はヨセフの偉大を認むると同時に、パロの賢明を忘れてはならない。

〇ヨセフは何に由てバロの夢を正当に解するを得し乎。聖霊に由ると我等は言うであらう。然れども聖霊は如何にして斯かる解釈をヨセフに供し給うたであらう乎。|神を信ずるの結果として、神の造り給ひし万物に対し、厚く同情を寄する事に由つて〔付○圏点〕と、私は答へんと欲する。ヨセフは本能的に来らんとする七年の豊作と七年の凶作とを予知したのであらう。其点に於てヨセフは克く我が二宮尊徳に似てゐた。実に彼は尊徳にヱホバの霊の宿りし者であつたらう。尊徳も曾て凶年を予知して民をして之に備へしめた事がある。彼は秋に茄子《なすび》を味ふて翌年の凶作を知つたとの事である。彼は曰うた「十年の凶作に備ふるの貯蓄なき国は滅ぶ」と。そして尊徳をして農業的予言者たらしめし所以は、地と其産に対する彼の深厚なる同情に在つたのである。天然の秘密を知るの秘訣は、人の心を知るの秘訣と同じく、深き熱き同情である。パロをして斯かる夢を見せしめし者は民を思ふ切々の心であつた。そしてヨセフをして之を正当に解せしめし者は、神に対する信仰は勿論の事として、パロと其民と、彼等の国土とに対する熱き深き同情であつた。預言は単《たゞ》に未来を語る事でない 又王を責め民を罵る事でない。預言は熱き同情を以てする時勢の解釈である〔付○圏点〕。預言者は同情即ち愛の人である。愛を以て見る時に、夢に意味があり、風に真理が含まるゝのである。ヨセフが若し今日世に在つたならば、彼は夢を解ずして、イエスが曰ひ給ひし「時の兆候《しるし》」を解いたであらう。神は何れの時代に於ても明かなる「兆候」を供へ給ふ、唯之を読む者がないのである。
(117)○ヨセフはエジプトの王パロの前に立し時「十歳なりき」とある(四六節)。同じくヤコブの裔《すゑ》にしてヨセフよりりも大なりし者が世に現はれ給ひし時も亦二十歳でありしと記さる(ルカ伝三章廿三節)。二十にして立つと孔子も言うた。神に事へんと欲して早かるべからず、晩かるべからず、未熟の身を以てすべからず、老衰の体を以てすべからず、「その身を神の聖意に適ふ聖き活ける祭物《そなへもの》として神に献げよ」とある如く(ロマ書十二章一節)我等は我等の最善のものを彼に献ぐべきである。急ぐ勿れ、然ればとて後るゝ勿れ。大抵の場合に於て三十歳が時である。

〇神は終にヨセフを其多くの患難《なやみ》の中より救出し給うた。彼は其事を彼が設けし二人の男子の名を以て表明《あらは》した。曰くマナセ(忘れ)、曰くエフライム(多く生る)と。十七歳にして異邦の人に売られ、奴隷の生涯を送ること十三年、然かも一回も自から難より免かれんとせず、唯置かれし地位に在りて忠実に勤めた。彼は唯の一回も自分の立身栄達の為に運動しなかつた。唯一回|酒人《さかふど》の長《をさ》の夢を解いて、其|報《むくい》として、出獄の後に彼の放釈の為に力を尽さん事を頼みしも、それすら忘れられて、彼は更に二年間獄舎の生涯を続けた。|神が人を義とし給ふ時に人の手を藉り給はない〔付△圏点〕。彼大王と天地の力を用ひてヨセフの絏紲《なわめ》を釈き、彼を栄光の地位に置《す》ゑ給うた。我等も亦ヨセフに傚ひて成功を焦心るべきでない。(十一月十二日)

 

     其四 夢の発現 創世記第四十二章より四十五章までの研究

 

〇ヨセフの夢は終に事実となりて現はるゝに至つた。彼の兄弟達の禾束《たば》が立ちて彼の禾束を環《めぐ》りて之を拝せりとの夢は其通りに成つて現はれた。「ヨセフの兄弟等来りてその前に地に伏して拝す」とあり(四十二章六節)、「彼(118)等(兄弟等)身を(ヨセフの前に)屈めて礼をなす」とあり(四十三章二十八節)、「ユダと其兄弟等ヨセフの前に地に伏す」とある(四十四章十四節)。如此くにして預言は成就するのである。|如何に〔付○圏点〕成就する乎は成就した後でなければ判明らない。而してその成就するや、自然の成行として成就するのである。之に何の不思議もないやうに見える。然し乍ら実に不思議である。自然の成行其物が不思議である。其結果を見て、自然と奇蹟との間に区別はない。

〇ヨセフは茲に彼の兄弟等に対し復讐を行ひつゝあるのではない、彼等に悔改を促しつゝあるのである。兄弟等は自分等の上に、不幸の上に不幸が加はりつゝあるを見て、自分等が曾て辜なきヨセフの上に行ひし旧悪を憶起《おもひおこ》さゞるを得なかつた。彼等はヨセフの前に、彼が彼等の言語を解せざると思ひ、相互を責めて曰うた、「我等は弟の事によりて実《まこと》に罪あり、我等は彼が我等に只管に願ひし時にその心の苦しみを見ながら之を聴かざりき、故に此苦しみ我等に臨めるなり」と(四十二章卅一節)。苦しみた会ふて罪を悔ゆる者は福である、其人は既に赦しを得んとしつゝあるのである。ヨセフは既に其時彼の兄弟等が彼に対して犯せる罪を赦したのであらう。然し乍ら彼等が充分に悔改の果を結ひ、赦しの恩恵をして完全ならしめんが為に、更らに苦しみの鞭を当たのである。容易く赦す事決して恩恵でない。名医が抉る丈け抉て病気を取除くやうに、神と神の人とは苦しめる丈け苦しめて然る後に赦すのである。人を完全に赦すに多くの勇気と、確信と、忍耐とを要する。此場合に於てヨセフは彼の兄弟以上に苦しんだのである。「ヨセフその弟の為に心|焚《やく》るが如くなりしかば、急ぎてその泣くべき所を尋ね、室《へや》に入りて其処に泣けり、而して面を洗ひて出で、自から抑へて食を供へよと曰ふ」とある(四十三章三十、三十一節)。多情多感なるヨセフよ、彼は今は大政治家となり、強国の総理大臣と成りしも、彼の軟き心を失はな(119)かつた。彼に臨みし連続せる不幸艱難は彼を化して堅き心の人と成さなかつた。基督的政治家は今と雖も泣くことを耻としない。正義の為には獅子の如くに勇ましくあるとも、慈悲の為には婦人の如くに優さしくある。ヤコブの愛子ヨセフはすべての基督的政治家の好模範である。

〇苦しめられしはヨセフの兄弟に止まらない、彼の父ヤコブも亦然りである。実に彼等の中に在りて老いたるヤコブが最も苦む者であつた。彼れエジプトより帰れる其子等に曰ひけるは、「汝等は我をして子を喪はしむ。ヨセフは居らずなり、シメオンも居らずなりたるに、亦ベニヤミンをも取らんとす、是れ皆な我身にかゝる事なり(是等の事すべて我に不可なり)……我子は汝等と共に下るべからず、彼の兄は死て彼れ独り遺りたればなり、若し汝等が行く所の途にて災難《わざはひ》彼の身に及ばゞ、汝等は我が白髪《しらが》をして悲しみて墓に下らしむるに至らん」と(四十二章卅六節以下)。憐むべきヤコブよ、彼の多事多難の生涯の終りに於て、最大の患難が彼の身に及ばんとしつゝあつた。人生に患難絶えず。患難が万事の終りである乎の如くに見ゆ。而してヨセフは父の此心を知らざるに非ず、然れども父をも斯く苦しめざるを得ず、是れ単に人の子としては為す能はず、|神の子として、神に代りてのみ為すことの出来る事である〔付ごま圏点〕。ヤコブの苦しみが終らんが為には、彼も亦彼の子等と共に苦しまざるべからず。|苦しむは人生である〔付○圏点〕。始めにヨセフ苦しみ、次に兄弟等苦しみ、終りに老いたる父が苦しむ。そは人はすべて罪人であるからである。苦しまずして彼等は神の恩恵に入る事が出来ない。そして全家挙て苦んで、全家挙つて喜びに入るのである。

〇そしてヨセフは其兄弟等を如何に扱うた乎。彼等は今は彼の手中《てのうち》に在つた。彼等を活すも殺すも今は彼の自由であつた。彼等は曾て彼を殺さんと謀りし者、然り既に殺せりと思ひし者であつた。若し讐を復さんと欲するな(120)らば今であつた。骨肉の兄弟は必しも互に相赦す者でない 我国の歴史に於ても源頼朝が其弟範家義経等に対して取りし所置に就て考ふるも、復讐は骨肉の間にも有りがちの事である。希臘人の理想的人物として仰がるゝウリシスは、ヨセフに略ぼ似たる運命に陷つた者であるが、彼が勢力を得て、彼の敵人が彼の手中に陷るや、彼は彼等が曾て彼を扱ひしが如くに彼等を扱ひ、以て正義の何たる乎を後世に示せりと云ふ。ウリシスの場合は遥に頼朝のそれに優さると雖も、然し我等基督者の立場より観て決して誉むべき者でない。然し乍らヨセフは遥にウリシス以上である。ヨセフは前の敵を自分の手中に収めて、彼等に対し讐を復さず、心より彼等を赦した。聖書の記事の内で、創世記第四十五章は最も美はしき者の一である。世界の大文学の内で、何処に之に優さる者があるであらう乎。

茲にヨセフその側《かたはら》に立る人々の前にて自ら堪ゆる能はざるに至りければ「人々皆な我を離れ出よ」と呼はれり……ヨセフ声を揚げて泣けり……ヨセフ即ち其兄弟に曰ひけるは、「我はヨセフなり、我父は猶ほ生存《いきながら》へ居るや」と 兄弟等その前に愕き懼れて之に答ふるを得ざりき。ヨセフ兄弟に曰ひけるは「請ふ我に近づけ」と、彼等即ち近づきければ、曰ふ「我は汝等の弟ヨセフ、汝等がエジプトに売りたる者なり。然れども汝等我を此所に売りしを憂ふる勿れ、又|自己《おのれ》を責むる勿れ。神生命を救はん為に我を汝等の前に遣はし給へるなり……|然れば我を此所に遣はしたる者は汝等に非ず神なり云々〔付○圏点〕」と。而してヨセフ其弟ベニヤミンの頸を抱《かゝ》へて哭く、ベニヤミンも亦ヨセフの頸を抱へて哭く。ヨセフ亦其すべての兄弟に接吻し之を抱きて哭く。此後兄弟等ヨセフと言《ものい》ふ。
 是れ本当の罪の赦しである。そしてヨセフは|神に在りて
〔付○圏点〕斯くも完全に其兄弟等を許す事が出来たのである。(121)「我を此所に遣はせし者は汝等に非ず神なり」と云ふ。神は人の憎しみを以て其|愛《いつく》しみを行ひ給うたのである。斯く神の聖意を窺ひ知る事が出来て、何人も完全に其敵を赦す事が出来るのである。人は畢竟神の聖意を変へる事は出来ない。彼等は神に逆ひつゝある間に其聖意を成しつゝあるのである。我が生陛は我と人との関係ではない、我と神との関係である そして「凡の事……善も悪も……凡の事は神の旨に依りて召されたる神を愛する者の為に悉く動《はたら》きて益を為すを我等は知る」とある如く、敵も味方も悉く我に関はる神の善き聖意を為すために働きし事を知る以上、我等は敵を赦さゞらんと欲するも能はないのである。そしてヨセフは今より三千七百年前に此事を実験した。其点に於て我等今日の基督者も亦ヨセフの兄弟である。神の子等の復活の日に於て、我等も亦彼の兄弟として認められて、ベニヤミンと同じく彼に抱かれて、其歓迎を受けんことを祈る。

〇そしてヨセフの事に依り最大の恩恵は其父ヤコブに及んだ。ヨセフは尚ほ生きて居り、エジプト全国の宰《つかさ》となり居ると聞いてヤコブは之を信じなかつた。然れども其事が諸《すべて》の子等に由て繰返へさるゝを聞き、殊にヨセフが自分をエジプトにまで運ばんとて送り来りし車を見て、其疑ひ漸くにして解け、彼れ自己《おのれ》に復りて曰うた「足れり、我子ヨセフは尚ほ生き居る、我れ死なざる前に往きて之を視ん」と。親の喜びにして失ひしと思ひし子に再び会ふに勝る者はない。老いたるヤコブに此喜びが臨んだ。言あり曰く「神は其最大の恩恵を最後に現はし給ふ」と。イスラエルと称ばれしヤコブの患難《なやみ》多き長き生涯に於て、人生最大の恩恵はやはり最後に臨んだ。神に導かるゝ者の生涯は孰れも美はしきドラマである。ヤコブとヨセフの生涯はそれであつた。我等の生涯も亦それであらねばならぬ。(十一月十八日)

(122)     イエスとヨセフ

                           大正13年1月10日

                           『聖書之研究』282号

                           署名なし

 

  馬太伝廿一章三三-四六節。馬可伝十二章一-一一節。路加伝二十章九-一八節。

 

〇約翰伝五章三十九節に云ふ、「汝等聖書に永生ありと思ひて之を探索《しら》ぶ、此聖書は我に就て証《あかし》する者なり」と。即ち旧約聖書全体が預言である、殊にイエスに就て証する者であるとの事である。所謂預言書のみが預言でない、歴史も詩篇も箴言もすべてが預言である。イエスはまた言ひ給うた、「汝等もしモーセを信ぜば我を信ずべし、そはモーセ我事を書《しる》したれば也」と(同四十六節)。そして「モーセの第一書」と称せらるゝ創世記全部がイエスに関はるモーセの証明であると見て間違ないのである。アブラハムの一子イサクが神の独子イエスを代表し、モリヤの山に於ける彼の犠牲がゴルゴタの丘に於ける神の羔の購罪《あがなひ》の死を預言する者なる事は何人《たれ》にも判る。情の人なるヤコブはイエスの情的半面を表はし、彼が其妻ラケルを愛し、「ヤコブ七年の間ラケルの為に勤めたりしが、彼女を愛するが為に数日の如く見做せり」とあるは、キリストが其新婦なる教会を愛し給ふ其愛の預表であると多くの註解者は称ふ(創世記二十九章二十節)。其如くヨセフも亦イエスの御生涯の或る方面を現はして居るに相違ない。其方面如何、是れ我等の知らんと欲する所である。
(123)〇|ヨセフの生涯はイエスの御生涯の全体を示す者であると思ふ〔付○圏点〕。イエスの御生涯と云ひて地上の御生涯ではない。神の子としての御生涯であつて、地上に始つて今は天上に於て継続せられ、永遠無窮の未来に於て完成《まつとう》せらるゝ彼れ独特の御生涯を預表する者であると思ふ。如此くに見てヨセフの生涯に深い意味があり、又イエスの御生涯の普通人間の一生と全く其趣きを異にする事が判ると思ふ。即ちヨセフの伝を読む時に我等は|復活以後〔付○圏点〕のイエスの御|活動《はたらき》に目を注がねばならぬのである。

〇ヨセフがヤコブの愛子であつたやうに、イエスは神の愛子であつた。そしてヤコブが其子等の内にヨセフを送りしやうに、神は世人《よのひと》殊にユダヤ人の間にイエスを遣はし給うた。そしてヨセフの兄弟が彼を扱ひしやうに、ユダヤ人はイエスを扱うた。「我子は敬ふならんと謂ひて終に其子を遣はしゝに、農夫等その子を見て互に曰ひけるは、此は嗣子なり、いざ之を殺して其産業をも奪ふべしと、即ち之を執らへ、葡萄園《ぶだうぞの》より遂出して殺せり」とある譬話はヨセフにもイエスにも当はまる者である。イエスはヨセフの如くに其兄弟に売られ、遠き国なる死の里へと連行れたのである。

〇そして陰府《よみ》に止まる事三日にしてイエスは甦り給うた。「工匠《いへつくり》の棄たる石は家の隅の首石《おやいし》となれり」であつた。ヨセフがエジプト国の全権を握るに至りしやうにイエスは神より天の内、地の上のすべての権を賜はりて万物に主たるに至り給うた。屈辱の後に栄光が臨んだ。「彼は神の体にて居りしかども 自ら其の神と匹く在る所の事を棄がたき事と思はず、反つて己を虚うし僕の貌を取りて人の如く成れり、既に人の如き形状《ありさま》にて現れ、己を卑くし、死に至るまで順ひ、十字架の死をさへ受くるに至れり、此故に神は甚しく彼を崇めて諸《もろ/\》の名に超《まさ》る名を彼に予へ給へり、此は天に在るもの地に在るものをして悉くイエスの名に由りて膝を屈めしめ、且諸の舌をして悉(124)くイエスキリストは主なりと称揚《いひあらは》して父なる神に栄を帰せしめん為なり」とパウロがピリピ書二章六節より十一節までに於てイエスに就て述べし言は、之を或る範囲に於てヨセフに適用する事が出来る。|ヨセフは実に小なるイエスである〔付○圏点〕。

〇そしてヨセフの兄弟が終に彼の救援《たすけ》に与からざるを得ざるに至りしやうに、イエスを十字架に釘けし彼の兄弟も亦終に彼の足下に俯して、彼の赦免と援助とを乞はざるを得ざるに至る時が来るのである。其時が即ち「主イエスキリストの日」である(ピリピ書一章六節)。其時ゼカリヤ書十二章十節に云へる預言者の言が実現するのである、曰く「彼等はその刺したりし我を仰ぎ観、独子の為に哭《なげ》くが如く之が為に哭き、長子《うひご》の為に悲むが如く之が為に痛く悲しまん」と。然し彼等は容易に其罪を悔改めて、己が刺したる者の為に哭かないであらう。神は之が為に多くの困難を彼等の上に降し給ふであらう。地震、火事、饑饉、内乱、外患と色々な苦難《くるしみ》が彼等を見舞ふであらう。之に遭ふて彼等は互に言ふであらう、「我等は兄弟の事に由りて真に罪あり、我等はその心の苦しみを見ながら其願を聴かざりき、故にこの苦しみ我等に臨めるなり」と(四十二章廿一節)。イエスを十字架に釘けし事が人類が犯せし最大の罪である。彼等は此罪の為に苦しみ、此罪を悔ゆるに至つて初めて救はるゝのである。

〇そしてイエスは罪を悔改めし彼の兄弟を如何に扱ひ給ふであらう乎。彼はギリシヤのウリシスが其敵を扱ひしやうに扱ひ給ふであらう乎。即ち馬太伝廿五章五十一節に記すが如くに「之を斬穀《きりころ》して其報を偽善者と同うし」給ふであらう乎。然らずである、彼はヨセフが其兄弟を扱ひしやうに、彼を十字架に釘けし者を扱い給ふであらう。彼はヨセフの言を以て其時彼等を慰めて曰ひ給ふであらう、「汝等我を此所に売りしをもて憂ふる勿れ、又自ら身を責むる勿れ、神、生命を救はしめんとて我を汝等の前に遣はし給へるなり」と(四十五章五節)。イエスを(125)死刑に附《わた》せしは大なる罪であつた。然れども神の御摂理に由り、此罪が救の原《もと》となつた。イスカリオテのユダと、民の長老と、祭司の長《をさ》と学者等との詭譎《いつはり》と犯罪的行為となかりしならば、イエスの栄化と之に伴ふ万民の救はなかつたであらう。悪人も亦悪を行ひつゝある間に神の聖意を遂げつゝある。そして終末《おはり》の日に於て此事が判明し、悪人も亦其悪を認むるに至れば、茲に完全なる赦免が宣告せられて、イエスはヨセフの如くに心より其兄弟を赦し給ふであらう。ヨセフの兄弟は計らずも彼の前に引出されて、彼等が犯せし罪を鞫かれた。然れども審判は正義に依らずして恩恵に依つた。そしてイエスがヨセフに劣りやう筈はない。我等も亦イエスの前に引出されて、我等の罪を鞫かるゝ時に、イエスも亦我等を鞫くに、律法の正義を以てせずして、福音の恩恵を以てし給ふに相連ない。是れ罪人なる我等に取り大なる慰安《なぐさめ》である。神はヨセフと其兄弟との場合を以て、預め我等に罪の悔改を促し給ふと同時に、之に対する赦免の恩恵を約束し給うたのであると信ずる。

〇イエスを殺した者はユダヤ人である。故にヨセフと其兄弟との場合は最も克くイエスと其国人なるユダヤ人に当はまる者である。然らばユダヤ人以外、例へば日本人の如きには当はまらざる乎と云ふに、決して爾うでない。日本人はユダヤ人の如くにイエスの体を十字架に釘けなかつた。然れどもユダヤ人同様にイエスを嫌ひ、機会あれば彼を斥けた。日本人がイエスを侮辱した事は決して尠くなかつた。彼等は西洋文明と云へば競つて之を採用しながら真真髄とも称すべきイエスの福音は力を尽して之を排斥した。「ヤソ」の名は彼等の嫌悪《にくしみ》の目標であつた。其法律、教育、社会制度等、西洋文明中最も善きものに於て、キリストに負ふ所甚だ多きに拘はらず、之が為に彼に感謝を表せし事嘗て一回もなく、キリストを利用するも彼を崇めず、反て彼を※〔言+后〕《そし》り、斥け、侮辱し来つた。日本人がイエスを虐待せし事は決してユダヤ人に劣らない。故にイエスキリストの審判の日に於て、日本人(126)全体、政府当局者の立場は最も恐るべき者である。然れども其時彼等を鞫く者は讐《あだ》を復す者ではない。ヨセフの如くに兄弟の罪を赦す者である。此事を知るならば、日本人も今より其反逆の罪を悔いて、来らんとする審判《さばき》の日に備ふるであらう。(十一月廿五日)

 

(127)     一九二四年を迎ふ

                           大正13年1月10日

                           『聖書之研究』282号

                           署名 内村

 

〇茲に又新しき年を迎へます。私に取りては第六十三回の新年であります。私は一休和尚のやうに「冥土の旅の一里塚、嬉しくもあり嬉しくもなし」などゝは曰ひません、パウロと共に「信仰の初より更に我等の救は近し」と曰ひます。講堂の改築成り、私の活働を待つて居ます。所謂教勢拡張でもなければ、社会奉仕又は改造でもありません。古い聖書の研究であります。いくら行《や》つても尽きない仕事であります。然し楽しい飽きない仕事であります。切願《どうぞ》、馬車馬のやうに、斃れる時まで馬 を附けたなりに働きたくあります。そして神様は多分此事を私に許して下さるだらうと思ひます。

〇震災に禍ひせられて久しく世界伝道を怠りました。新年と共に之を復活したくあります。今年は主《おも》に日本領土内の異人種、即ち台湾土人、アイヌ、ギルヤツク、南洋土人等の福音化の為に力を尽したくあります。諸君の御協力を願ひます。

(128)     THE MODERN MAN.近代人に就て

                           大正13年2月10日

                           『聖書之研究』283号

                           署名なし

 

     THE MODERN MAN.

 

 The modern man is terrible. He is egoism in its most spiritual form. He has no doubt whatever about himself,and is thoroughly convinced that he is right in all things. He subjugates all things to himself,and is subjugated by none.He has his own morality,and his own God and Christ.Thus he is entirely opposed to the Christianity as handed down by the nineteen centuries of common Christian experience. The modern man is Civilization's spoiled child. His religion is selfness as opposed to the otherness of the traditional Cbristianity. He is indeed terrible,but we are not afraid of him,as he is not the first instance in history,and not his will but God's is done.

     近代人に就て

 

 近代人は恐ろしくある。彼は自己主義が極度に霊化したる者である。彼は自己に就て毛頭疑はない、而して万事に就て自己の判断の正しくあるを固く信ずる。彼は万物を自己に服従せしめんとする、然れども自己は何者に(129)も脱化しない。彼に彼れ自身の道徳がある、又彼れ自身の神とキリストとがある。如斯にして彼は千九百年間の基督信者の実験として伝へられたる基督教には全然反対である。実に近代人は近代文明の生んだ駄々ツ児である。彼の宗教は伝統的基督教の他者奉仕なるに反し、自己奉仕である。近代人はまことに恐ろしくある、然し乍ら我等は彼を恐れない。彼は歴史上最初の実例でない、彼に類したる者は今日まで幾度も世に現はれた。近代人の我儘勝手が行はるゝのではない、神の聖旨が成るのである。故に安心である。

(130)     苦痛か罪か

                           大正13年2月10日

                           『聖書之研究』283号

                           署名 内村鑑三

 

  一月六日「年頭の辞」と題して述べし所のものである。

 

〇我等が少しく注意して聖書を読む時に、一つ不思議に思はるゝ事がある。それは|福音を信ずるの結果として苦痛は少しも減ずることなく、反て大に増すとの事である〔付○圏点〕。唯一回、聖書最後の書なる黙示録に於て、其末尾より第二の章に於て、「神、彼等の目の涕を悉く拭ひとり、復た死あらず哀み哭《なげ》き痛み有ることなし」と記《かい》てあるが、それは此世が終つた彼の信者の状態《ありさま》に就いて示した事であつて、現在の信仰生活に就て述べた事でない。「汝等世に在りては患難あり、然れど雄々しかれ、我すでに世に勝てり」とはイエスが世を逝るに臨みて其弟子等に語り給ひし所である(ヨハネ伝十六章三三節)。其他新約聖書全体に響き渡る調子は、患難、苦痛、迫害、窮乏、其他有りと有らゆる此世の不幸である。世に宗教多しと雖も、基督教の如くに、明らさまに、其信者に患難を約束した宗教は他《ほか》にはない。

○それは如何いふ理由である乎、其説明は別として、私は茲に新年の劈頭に立つて、多くの所謂求道者に対ひ警告を発せざるを得ない、即ち|若し彼等がキリストの福音に於て、慰安、平安、平和、即ち人生のすべての〔付△圏点〕煩累《わずらひ》|よ(131)り免かるゝの途を発見せんと欲するならば、彼等は全然失望する〔付△圏点〕との事である。基督信者に成るとは、実際、自から進んで患難を求むる事であつて、此覚悟なくして、我等の罪の為に十字架に釘けられ給ひしイエスの御弟子と成る事の出来ない事は何人が見ても明かである。「若し我に従はんと欲《おも》ふ者は己を棄、その十字架を負ひて我に従へ」とは、イエスが其弟子たらんと欲する者より要求し給ふ第一の条件である。此条件を無視して基督教も聖書研究もないのである。諸君は此声を聞いて此会に加はりし乎、若し然らざれば大なる失望は諸君を|まのあたりに待つ〔付ごま圏点〕のである。

〇|基督敦の目的は苦痛を除くに非ず、罪を除くにある〔付○圏点〕。イエスは世の罪を負ふ神の羔であつた。パウロが羅馬書三章廿五節に於て「神はその血によりてイエスを立て信ずる者の挽回《なだめ》の祭物《そなへもの》とし給へり、そは神、忍びて已往の罪を寛容《ゆるやか》にし給ひしことに就て、今其義を彰はさん為め、即ちイエスを信ずる者を義とし、尚ほ自から義たらん為なり」と言へるは基督教の真髄である。|罪である、然り罪である、罪を除かん為の基督教である〔付△圏点〕。其点に於て基督教は仏教又は其他の宗教と全く異ふ。仏教は多くの点に於て美はしい、又論理的に見て深い宗教であることは疑はないが、然し乍ら詮じ詰める所、|其目的は人生の苦痛を除くにある〔付ごま圏点〕。苦痛を忘るゝなり、苦痛を脱するなり、苦痛に就て無感覚になるなり、其途は多かるべきも、其目的の人生の苦海より脱出するに在るは、少しく此教を研究した者の気の附く所であると思ふ。然れども基督教の目的は仏教のそれとは全く異ふ。基督敦に在りては苦痛は除かるゝも可し、除かれざるも可し、唯罪を除かれて神と和らがん事を求《ねが》ふ。「あゝ神よ、鹿の渓水《たにみづ》を慕ひ喘ぐが如く、我が霊魂《たましひ》も亦爾を慕ひ喘ぐなり」とは真個の基督者の叫びの声である。神と和がんが為に苦しむが必要ならば苦しむも可なり。唯罪より潔められて神の子と成らんと欲す。是れが基督者の唯一の祈求《ねがひ》で(132)ある。此事を弁へずして、基督教も仏教も帰する所は一なりと云ひ、イエスと釈迦との別は大小の差に過ずと云ふは、二者の根本を究めざる者の言ふ事である。斯く言ひて私は仏教を|けなす〔付ごま圏点〕のではない。私は釈迦牟尼を尊敬する点に於ては、何人の後《しりへ》にも落ちないと思ふ 釈迦が罪を処分する事の出来なかつたのは、彼の偉《え》らさが足りなかつた故《から》でない、彼が人であつた故である。罪は神に対する反逆である。そして神御自身のみが其子等の坂逆を癒すことが出来る。|イエスが罪を除き給うたと言ふこと、即ち我等の反逆を癒して我等を神に伴れ還り給ふと言ふこと、其事がイエスは人に非ず、神である最も善き証拠である〔付○圏点〕。世に宗教家多し、哲学者多しと雖も、彼等は罪を除くことは出来ない。我等の主イエスキリストのみ此事を為し得るのである。

〇そして仏教に限らない、|基督教も亦堕落する時苦痛を除くための宗教と成る〔付△圏点〕。そして近代の基督敦、殊に米国人の基督教は此《こゝ》まで堕落したのである。彼等は基督敦の目的も亦苦痛を除くにあると唱ふ。故に慈善事業、社会事業には非常に熱心である。彼等は贖罪の教義の如きはパウロのユダヤ思想より出た者であつて、今日の人類には何の必要もない者であると云ひて憚らない。然し慈善事業は人類の最も深い懊悩《なやみ》を癒さない。人には衣食足りて尚ほ充たすことの出来ない大なる空虚がある。之を充たされずして大世界を我が有とするも、我は貧しき憐むべき者である。神の子の十字架の上に流せる血が此深い傷を癒し、之を以て表はれし愛が此空虚を充たすのである。我等も亦慈善を重んずるが、慈善事業を以て基督教に代らしめんとしない。

〇内村聖書研究会は此信仰の上に立ちて行はるゝ者である。是は煩悶者の慰安会ではない。斯かる慰安を求むる者は他に行くべき所がある。私は此所に聖書を説いて諸君に慰安を与へんとしない。諸君をキリストに導いて彼に由りて諸君の罪の除かれんことを欲する。諸君が此会に列するの結果として、諸君の苦痛が減ぜずして、反つ(133)て増すことあるも、それは私の責任でない。若し神が諸君各自の罪を潔めんが爲に、苦痛の上に更に苦痛を加へ給ふならば、是れ神が善しと見たまふ所であると信じて之に服従するまでゞある。私は年の始に於て此言を繰返して更めて諸君の決心を促す。伊国愛国者マツチーニーが其兵士に告げて曰うた言が、私が今日諸君に告げんと欲する言である。曰く

  諸君、若し名誉と安楽とを欲するならば、余の後《あと》に従ふ勿れ。屈辱、窮乏、裸※〔衣+呈〕《はだか》、其他有りと有らゆる困難に堪へんと欲する者のみ余と偕に来れ。

(134)     神田乃武君を葬るの辞

         『日々の生涯』一月四日の記事参考。

                           大正13年2月10日

                           『聖書之研究』283号

                           署名 内村鑑三

 

〇「一たび死ぬる事と、死て審判を受くる事とは人に定まれる事なり」と聖書に在ります(希伯来書九章二十七節)。人は何人も一度は死ぬる者でありますが、死ぬる計りではない、死して審判を受くる者である、其事も亦死と共に彼に定められたる事であると云ふのが此聖語の意味であると思ひます。そして審判を受くるとは「刑罰に処せらる」と云ふ事ではありません。|其〔付○圏点〕値価《ねうち》|を定めらる〔付○圏点〕と云ふ事であります。人は善かれ悪しかれ其価値を定められずしては済まない。そして其価値を定めらるゝは彼が死んで後であると云ふのであります。

〇茲に我等の敬愛する神田乃武君は死なれました。そして其の体を遺族の手に委ねて、其霊魂は造物主《つくりぬし》の所に還りました。彼は某所に完全なる審判を受くるのでありまして、人は何人も其審判に携はるの権利を有しません。天に在す父なる神は、最も公平に、又最も寛大に、其造り給ひし人を審き給ふと信じます。私供は死せる者の死後の運命は、安心して之を愛の父なる真の神に委ねて可なりと信じます。

〇然し乍ら神に代つて審判くにあらずして、私供の知り又量り得る範囲に於て、故人の価値を量り知らんとするは私供に許されたる事であると信じます。是は彼を批判せんとするのではありません、彼に由て人生の真理を学(135)ばんとするのであります。|神田乃武君の一生を以て、神は私供に何を教へ給ひし乎〔付ごま圏点〕、私供は此事を知らんと欲するのであります。

〇人の価値を定むるの標準は四つあると思ひます。其第一は彼の此世に於ける所有《もちもの》の高であります。其第二は彼の知識程度であります。其第三は彼の事業の範囲並に性質であります。其第四は彼の品性即ち為人であります。其内第一は最も低い者でありまして、人の永遠の価値を定むるに方ては殆んど標準となすに足りない者であります。イエスは教へて曰ひ給ひました「戒心《こゝ》して貪心を慎めよ、夫れ人の生命は所蓄《もちもの》の饒なるに因らざる也」と(路加伝十二章十五節)。富める人の貴まるゝのは、大抵の場合は此世限りであります。「我等何をも携へて世に来らず、亦何をも携へて逝く能はざるは明かなり、故に衣食あらば之をもつて足れりとすべし」と聖書が教ふる通りであります(テモテ前書六章七節)。|死が何人の場合に於ても教ふる大真理の一は、此世の富の価値の至つて尠き事であります〔付○圏点〕。

〇知識はたしかに富以上の宝であります。子を教へざれば生まざるに若かずでありまして、人生の貴さの半面は、たしかに知識の獲得並に拡張に在ります。然し乍ら知識が最上の宝でない事は人の克く知る所であります。知識は主に天才又は境遇の賜物でありまして、何人も自から求めて学者たる事は出来ません。知識の上に事業があります。そして事業の上に品性があります。事業の成否は半ば境遇と時代とに因ります。如何なる大人物と雖も、所と時とを得ずして、事業を挙ぐる事は出来ません。人の価値を定むるに彼が成し遂げし事業を以てして、私供は彼の評価を誤まるの虞があります。

〇富と知識と事業、以上は孰れも貴い者でありますが、其上に更に貴い者があります。|それは品性又は為人であ(136)ります〔付○圏点〕。初めの三つは孰れも人の身に附いた者でありまして、人自身ではありません。之等は取て剥ぐことの出来る者でありまして、人にインヒヤ(固着)する特性ではありません。若し私供クリスチヤンが信ずるが如くに、人に死後の生命があるとしまするならば、某所有として存《のこ》るものは、唯品性の一であると思ひます。|人の永遠の価値は、彼が何を有つた乎、何せ知つた乎、何を為した乎に由て定まるものではなくして、彼が是等の事を為しつゝありし間に得し彼の品性又は為人に由て定まるのであると思ひます〔付ごま圏点〕。若し神田君をして其巧妙なる英語を以て言はしめしならば、Aman's value consists not in what he possesses, but in what he is. 人の価値は彼の所有《もちもの》に因らず彼の為人に因る。彼が何を有つた乎、何を知つた乎、何を為した乎に因らず、|彼が何んであつた乎に因る〔付○圏点〕。彼のポツゼツスシヨンに因らず、彼のビーイングに因る。是は人の価値を定むるに方て、最上最大の標準であります。

〇今神田乃武君の一生涯を以上の標準に照らして観察しまして、私供は何を学ぶでありませう乎。第一に君は養はれて名家の後《あと》を襲ひ、富豪とは称すべからざりしも、富の程度の高からざる此国に於て、中流以上の生活を営まるゝの地位に在りました。其点に於て君は幸福の人でありました。君は日本人多数が為すが如くに生活の為に奮闘するの必要がありませんでした。貧は決して耻づべき者に非ず、之に勝たんとして、品性上多くの益する所あるとしまするも、貧は決して望ましき者でありません。神田君の場合に於て、生活の資に裕かなりし事は君の紳士的気風を維持する上に有益であつたと思ひます。

〇知識に於ても神田君は普通以上の所有者でありました。君は或ひは大学者と称する質《たち》の人ではなかつた乎も知れませんが、君の知識は広汎で、好くバランスされし者でありました。君は我国に於て英語学の泰斗として知ら(137)れました。実に君に取りては英語は第二の国語でありしよりは、寧ろ第一の国語でありました。英語を解し得る者には君は英語を以て文通されました。君は英語の真髄に達せられ、英語を以て話し、英語を以つて考へられました。一口に英語と言ひますが、英語はマスターするに容易《たやす》い言語《ことば》ではありません。然るに君は米国アマスト大学在学中、日本人でありながら英語学第一等賞を贏《か》ち得られたのであります。君はたしかに英語を英米人に教ゆるの力量を持たれたと信じます。若し神田君が其一生を米国に於て送られしならば、彼は第一流の英語学者として彼国に持囃《もてはや》されたと思ひます。

〇君の事業としては、帝大に、商大に、外語に、学習院に、正則中学校に校長たり又教鞭を取られしこと、又英和字典、リーダー等の編纂に成功されし事は人の克く知る所であります。そして君が殊に力を注がれしは正則中学校であつたとの事であります。之は単に英 を教ゆる為の学校ではなかつたのであります。之は君が外山正一、元良勇次郎等の同志と共に君の理想の教育を施さんとの企図《くわだて》であつたと思ひます。然るに事は志に合《かな》はずして、君は大なる失望を感ぜられたとの事であります。君は米国育ちの学者でありました。君を教育せし米国マツサチユーセット洲アマスト・カレッジは新英洲精神の粋を鍾《あつ》めたる学校であります。此所に広汎にして正確なる知識が授けらるゝと同時に、高潔なる気品が養はれます。そして気品と知識と孰れが貴ばれる乎と云へば、勿論気品が貴まれます。教育とは良き専門家を作る事に非ず、先づ第一にゼントルマンを作る事であるとはアマスト教育の根本であります。徳育に於ては敬虔《パヤチー》と自由を重んじ、知育に於ては知識の広き堅き基礎を築かんとするのであります。私も幸にして神田君が去りし後にアマストに学んだ者でありまして、君と共に其特殊の教育に与りし者であります。そして神田君は此種の教育を日本に於て施さんとしたのであります。然るに時勢は君をして此(138)事を為すを許しませんでした。何人が唱へ出せし事かは知りませんが、明治二十二三年頃より、日本に於て、日本はすべての事に於て独逸に傚ふべし、英米殊に米国に傚ふべからずと唱へ出しました。独逸は帝国、米国は共和国、故に米国に傚ふほ我帝国の基礎を危くするの虞れありとの思想が一般に信ぜらるゝに至りました。そして其結果としてすべての事が独逸化せられ、教育も亦独逸に傚ふに至りました。茲に於てか米国に学びし者は一種の疑ひの眼を以て視られ、其手腕を揮ふの途が絶たれました。そして神田君も亦此災禍に遇ひし者の一人でありまして、君が君の地位と学識を以てして|より〔付ごま圏点〕大なる事業を挙ぐる能はざりしは是れ決して君の罪ではないと信じます、|若し日本に具眼者ありて、学ぶべきは独逸に止まらず、英米亦大に学ぶべきを主張し、神田君の如き者を起して大に其手腕を揮はしめしならば、日本人今日の状態に大に見るべき者があつたらうと思ひます〔付○圏点〕。殊に普通教育に於ては米国は世界の模範であります。デモクラシーは君国に逆く事でありません。人各自の価値を認めて之を充分に発揮する事であります。善きデモクラツトは共和国に在りては善良の市民であり、帝政国に在りては忠良の臣であります。神田君の一生が克く其事を証明して余りあります。君が最後の御奉公として、徳川公に随ひ、ワシントン会議に臨み、好く君国の為に尽した事は人の克く知る所であります。|極端なる社会主義や過激思は英国又は米国には起りません〔付△圏点〕。其理由は明かであります。|デモクラシーを危険思想と見る程浅い見方はないと信じます。神田君の一生が斯かる見方に対する最も有力なるポローテストであると信じます〔付△圏点〕。

〇如斯くして事業家としての神田乃武君は失意の地位に居られたのであると思ひます。君をして単に英語学界の権威として其為す有るの一生を終らしめしは国家の為に惜むべき事であると思ひます。然し乍ら人は事業ではありません。得意も失意も人生のアクシデントたるに過ぎません。人は人であります。人の本当の価値は彼の事(139)業に由るに非ず、彼の爲人に由て定まるのであります。彼の境遇と学識と事業とを離れて神田君は純情な人でありました乎。是れ君の価値を定むるに方て最上最大の問題であります。

〇|神田君は第一にゼントルマンでありました〔付○圏点〕。君は如何なる立場に立たれても、君の此特性を失ひませんでした。君は単に上品であつたのではありません。|彼の心がゼントルマンレーであつたのであります〔付ごま圏点〕。君は性格として下品なる事に堪えられませんでした。下品なる遊び、下品なる談話、下品なる交際に堪へられませんでした。君は社会上貴公子であつたに止まりません、性格上の貴公子でありました。|本当のノーブルでありました〔付○圏点〕。故に君は文明国孰れの社会に立ちても、其尊敬を惹きました。そしてゼントルマンたる事、決して容易なる事ではありません。すべての貴族が決して貴族でないのであります。其外部の風采、挙動、言葉使ひ等に於て紳士たる事は出来ない事ではありません。然れど|性格的紳士たる事〔付ごま圏点〕、此は至て得難きアツクウイジシヨンであります。そして神田君は日本紳士として世界到る所に光を放ちました。君に外交的手腕なしとて歎くに及びません。君は日本紳士として輝き、君の故国に対し文明世界の尊敬を惹きました。

〇|神田君は第二にデモクラツトでありました〔付○圏点〕。君のアマスト教育が然らしめたのではない乎と思ひます。私の知る貴族の内で、君ほど貴族らしくない人はありません。私は常に思ひました。若しすべての貴族が君の如くに平民的であつて下さつたならば、我等平民は如何に幸福であるであらうと。神田君は御自分の価値で立たれました。故に君は爵位を以て輝かずして爵位は君を通うして輝きました。実《まこと》に君は英国民が敬愛して止まざる平民的貴族の一人でありました。君自身が大平民でありまして、平民を代表して貴族の列に加へられしやうに感じました。

〇ゼントルマンであり、平民的でありし神田君は無私寡欲の人でありました。Nobleman is he that nobleness(140) does, であります。自己に求むること強き人は紳士に非ず、平民に非ず、又ノーブル即ち貴族でありません。そして時勢に逆ひて働くの無益なるを知りし後の神田君は其全力を子女の教育に注がれました。其目的を達せん為には君は何物をも惜まれませんでした。そして君は大体に於て其目的を達せられたと思ひます。君の有為なる子女達は、新らしき時世に於て君の理想を行はんとして居られます。其点に於て君は瞑して可なりと思ひます。

〇最後に起る問題は神田君の宗教如何、君はクリスチヤンなりし乎との問題であります。私は君と数回会談するの機会を与へられましたが、曾て一回も宗教の事に及んだ事はありません。諸君の御承知の通り西洋の紳士社会に於て語るべからざるものは宗教と政治の二間題であります。然し乍ら私は曾て一回も君が基督教を嘲けり又は攻撃せられた事を聞きません、而已ならず君は幾回《いくたび》も其広びやかなる中野の邸宅を私供の宗教的集会に提供し下され、私供が辞して去らんとする時、却て君より私供に対し礼を述べられました。然し乍ら私が明確に君の信仰を窺ふを得しは、十一月中旬、私が君を其病の床に見舞ひし時でありました。其時君は或る問題に関し君の意見を述べられるゝに方て、君も亦「宣教師養成学校」と称へられしアマスト大学の産であつて、君の心に植附けられしは新英洲独特のピユーリタン的基督教であることを示されて私は非常に嬉しくありました。そして死するの前日君の次男|八尺《やさか》君を私の許に送られ、私が君の葬儀を司るやうにとの希望《のぞみ》を伝へられました。翌日即ち臨終の五時間前に、私が君の枕辺を訪づれ、君の依嘱に従ひ君の葬儀は旧きアマスト流の信仰に由て行ふべしとの事を君の耳近くに述べし時に、君は「何分宜しく」との言を以て答へられました。そして是が君が此世に於て発せられし君の最後の一言であつたと、後に遺族の方より伺ひました。|実に神田君に於て君の新英洲の母校の信仰は、或は教義として、又は信仰箇条として表はれませんでした〔付ごま圏点〕、|然し性格として確かに明かに現はれました〔付○圏点〕。神(141)田君は単にゼントルマンであつたに止まりません、基督《クリスチヤン》的ゼントルマンでありました。君の母校を飾りしシーリー、ヒツチコツクス、タイラー等諸先輩の高潔なる信仰は神田君に在りて、広き温き謹厳なる性格として現はれたのであると思ひます。

〇是れ以上を私共は知りません。Baron Kanda has retured to his God and creator.He led a quiet,useful life,not seeking his own,but good of others. He was a nobleman in every respect,in his body and mind and spirit. Himself a son of tbe East brought up in the West,he was a strong bond of peace between the two.He was a Japanese Baron and an American Doctor of Laws. Both countries were proud of him,but he was quite unconscious of the honours conferred upon him. He was a born son of peace. Quarrels of all kinds were impossible with him. He was a peace-maker, and in that capacity he will be loved and remembered by the posterity.And He that said:“Blessed are the peace-makers:for they shall be called sons of God”,shall receive him and reward him according to that capacity. May his soul rest in peace!

       ――――――――

  附記 神田君病革まりて再び起つ能はざるを知るや、其家人に告げて曰く、泣く勿れ Death is not death.but transition(死は死に非ず移動なり)と。此はたしかに死後生命の存在を確認せし者の言である。長く君の胸中に蔵《かく》れしアマスト時代の信仰が、死に臨んで現はれたものであると思ふ。感謝である。

(142)     医学士武信慶人君を葬るの辞

                           大正13年2月10日

                           『聖書之研究』283号

                           署名 内村鑑三

 

  汝は我が臓腑《はらわた》を造り又我母の胎に我を組成《くみなし》たまへり。我れ故に感謝す、我は畏るべく造られたり、汝の事跡《みわざ》は悉く奇《くす》し、我|霊魂《やましひ》はいと詳かに之を知れり(詩篇百三十九篇十三、十五節)。

  人の衷には霊魂の在るあり、全能者の気息彼に聡明《さとり》を与ふ(ヨブ記三十二章八節)。

  誠に実に汝等に告げん、死し者神の子の声を聞く時来らん、今は其時なり、之を聞く者は生くべし(ヨハネ伝五章廿五節)。

〇近世医学と宗教とは到底調和すべからざる者であると多くの人は思ひます。前者は論理並に天然の法則に従つて行はるゝ研究の上に成立する者、後者は本能又直感よりして起る信仰を基礎とする者であります。二者其発足点を異にするが故に、其調和は永久に不可能であるとは、私供が医学者の側より常に聴かせらるゝ所であります。然るに議論の可否は別としまして、医学も在ります、宗教も在るのであります。科学全体、殊に医学の進歩に由て宗教は廃れず、又宗教の拡張に由て医学は衰へないのであります。医学も宗教も人生の争ふべからざる事実であります。多くの大医が熱心なる信仰家であり、又多くの信仰家が医学の奨励者又は研究家であるのであります。反対者であらねばならぬが如くに見ゆる医学と宗教とは、実際の所、親密なる友、又和合せる共働者であるので(143)あります。

〇私供が今日此所に其死を悲む所の私供の友人|武信慶人《たけのぶよしと》君は其一例であります。君が忠実なる医学の研究者でありし事は、君の先生並に同窓の克く知る所であります。医学、殊に生理学は君の生命でありました。私供君の友人は曾て一回も、君が医学以外に、君の活働の場所を求めんとの希望あるを聞いた事はありません。然るに此人が稀に見る熱心の基督者であつたのであります。中学時代より大学卒業後、君が世を去るに至るまで、其熱心は変らなかつたのであります。而已ならず、君は医学研究者として基督教の信仰に対し、深い疑を懐いた事もないらしく、如何にも君の自然性らしく、医学と信仰とを二つながら同時に受けられたやうでありました。其点に於て、私は武信君に於て、ニユートン、ダルトン、フハラデー等の大学者に在つたやうな調和を見ざるを得なかつたのであります。武信君は生理学着であり、同時に基督者であるとは、君自身は勿論、私供君の友人一同は毫頭《もうたう》疑はなかつたのであります。其点に於て君は誠に幸福なる人でありました。君は近代人が経験する恐ろしき懐疑の煩悶なくして科学者たると同時に信仰家たり得たのであります。

〇武信君の如き場合に於て私供は知るのであります、人は自己を欺くことなくして科学者であると同時に信仰家であり得ることを知るのであります。そして其事は人は物質である計りでなく、又精神であることを示すのであります。若し医学と信仰との間に衝突があると言ひますならば、其衝突は天然其物の衷に在るのであります。少なくとも人間の衷に在るのであります。昔の信仰家が自己の体を見て、「我は畏るべく造られたり、神よ汝の事跡は悉く奇し」と叫びしやうに、今日の学者も亦人体を研究して、その到底人智を以て究め尽すことの出来ない機関である事を知るのであります。そして又自己に省みて、自己は単に血でなく、プラズマでなく、ホルモーンで(144)なく、スピリツト(霊)であることを知るのであります。「人の衷には霊魂の在るあり」。如何に物質的の科学者と雖も、時には此事を自覚せざるを得ないのであります。彼が「精神一到何事か成らざる」と云ひて奮起する時に此事を認むるのであります。医学者が医学の為に斃るゝ時に、自分に自分の肉体以上の生命あるを認むるのであります。如何にして肉体、精神の共存を説明せん乎とは心理学、生理学、精神医学の大問題であります。そして満足なる説明は既に与へられたりとは、如何なる学者も未だ告白し得ません。然し乍ら説明は別として、人間は肉体であると同時に霊魂であるとは、是れ否むべからざる事実であります。

〇武信君病革まり、最早摂生の必要なきに至り、医師は家人に、君が欲する者は何なりと与ふるも差支なしとの許可を与へました。家人は君の耳近く、「何が欲しくあります乎」と訊きました。衰弱の結果、声が細りて、殆んど語り得ざりし君は、此時急に力を得たらしく、声を励まして言ひました、「天国」と。是が武信君の此世に於ける最後の一言でありました。欲しき者は食にもあらず、水にもあらず、其他此世此肉につける何物にもあらず、「天国」であると。そして是れが真の人の欲望《のぞみ》ではありません乎。死して死なざる生命を営むことの出来る所の天国、正義と聖善とが完全に行はるゝ所の天国、霊の国なる天国、私供何人も之が欲しくありません乎。そして武信君は天国を求めて之を得たと私は信じます。武信君は其短かき生涯に於て人生の目的を達したと信じます。(一九二三年十一月廿二日)

 

(145)     テサロニケ書翰に現はれたるパウロの未来観

                           大正13年2月10日

                           『聖書之研究』283号

                           署名 内村鑑三

 

    其一 梗概

 

〇初代の基督者の信仰は如何なる者であつた乎、殊にパウロが説いたる福音は如何なる者であつた乎、其事を最も顕著《あきらか》に示す者はテサロニケ書翰である。此はパウロの書いた書翰として存る十三通の内で、最も古い者、即ち最も前《さき》に書かれたる者であつて、彼が伝道の首途に於いて説いた福音の記録であると云ふて差支ないと思ふ。其内に議論はない。所謂「パウロ神学」は見当らない。凡てが深い熱い情である。そして信仰は単純なる者であつて、今日の教会で云ふ信仰箇条即ちドグマと云ふが如き者は少しもない。教会は最も簡短なる愛の団体である。パウロは使徒として之に臨まず、倍者を呼ぶに唯「我が愛する兄弟」と云ふ。実に「テサロニケ人の教会」であつて(前一章一節)、テサロニケに在る教会ではなかつた。即ち世界的一大教会があつて、テサロニケに其支部があつたのではない。其処に二人《ふたり》三人《さんにん》主イエスキリストの名に由りて集つた者があつたのである。前書二章十七節以下に於て現はれたるパウロの彼等に対する愛情の如き、之をば称して初代基督者の特徴と云ふべきであらう。

 兄弟達よ、私等今暫時諸君と離れて居るのである、面で離れて居るだけである、心ではない。私等は切に願(146)ふ、急いで諸君の面を見んことを。私等は諸君の所に行かんと欲した。然り私パウロは殊に此事を願うた。一次《ひとたび》のみならず二次《ふたゝび》行かんと欲した。然るにサタンが私等を妨げた。嗚呼諸君、私等の望《のぞみ》また青《よろこび》また誇《ほこり》の冕《かんむり》は何である乎、諸君でない乎。我等の主イエスキリストの臨《きた》らん時にその前にて諸君はさう成るのでない乎。嗚呼諸君よ、諸君は私等の栄えまた喜びである。

 心情有の儘である。基督者は素々《もと/\》如此くに相互を愛した者である。我等今日の信者は之を言現はすに足るの言をさへ持たない。

〇そして|初代基督者の信仰は特に来世的であつた〔付○圏点〕。此信仰を以て書かれたるテサロニケ書翰は、之を|来世的又は再臨的書翰〔付○圏点〕と称することが出来る。此は特に基督者の希望を伝へたる書翰である。基督者の希望の何たる乎、之を最も明かに示したる者が是等二通の書翰である。此希望に燃えたればこそ、パウロは伝道師として起つたのである。而してまた此希望があつたらばこそ強い固い基督者と基督教会とが起つたのである。基督者独特の希望の何たる乎を知らずして基督教の起源を知ることは出来ない。|基督教は希望を以て始つた宗教である〔付ごま圏点〕。|或る特別なる希望〔付△圏点〕を以て始つたる宗教、寧ろ運動である。

〇其希望とは如何なる者であつた乎。前書一章九節十節に云ふ「汝等偶像を棄て神に帰へり、活ける真の神に仕へ、|其子の天より臨るを待つ〔付○圏点〕。彼は即ち神が死より甦へらし給ひし所の者、我等を|来らんとする怒より救ひ給ふ所のイエス〔付○圏点〕なり」と。此処にイエスの復活と再臨、而して又再臨と共に行はるゝ審判とが示してある。救とは今日我等が思ふが如き単に罪より潔めらるゝ事ではない、審判の日に於て神の怒より免かるゝ事である。そして審判はイエスの再臨を待つて行はるゝのである。|再臨と審判と赦免の希望〔付○圏点〕、それがパウロに依て伝へられし復員の(147)真髄である。信者の信仰も愛も此の希望と相関聯して在つたのである。前書一章三節に云ふ「汝等の信仰に由る行、愛に由る苦労、我等の主イエスキリストを望む希望に由る忍耐」とは此事を云ふのである。

〇信者の善行はすべて此希望の実現を目的《めあて》に行はれた者である。前書三章十二、十三節にあるが其一例である。曰く「願ふ主汝等をして相互に対し又すべての人に対し愛を増し且満たしめ給はん事を、即ち我等が汝等を愛するが如くならしめ給はん事を、|是れ我等の主イエスが〔付○圏点〕諸《すべて》|の聖徒と偕に来り給はん時に、汝等をして我等の神なる父の前に潔くして責むべき所なからしめん為なり〔付○圏点〕」と。キリストの台前に立ちて推※〔言+委〕《いひのが》るべき道あらんが為に、汝等の行を潔うし、愛を増すべしとの事である。

〇そして何人にも起る|愛する者との再会〔付○圏点〕の欲望である。是は信者に取り、如何にして、何時、何処で満たさるゝのである乎との質問に対してパウロが答へた者が前書四章十三節以下に於ける彼の有名なる言である。曰く

  兄弟よ、我等汝等が既に寝《ねむ》りたる者に就て知らざるを欲《ねが》はず、即ち希望なき世人の如く歎かざらんことを欲《ねが》ふ。我等もしイエスの死して甦りし事を信ずるならば、イエスに在りて寝りし者をも亦、神彼と偕に携へ来らんことを信ずべき也。我等主の言に依りて此事を汝等に告ぐ、即ち主の臨らん時に至り活きて存《のこ》れる我等は既に寝れる者に先だゝじと。主、号令と天使の長《をさ》の声と、神の※〔竹/孤〕《らつぱ》を以て自から天より降り給はん、其時キリストに在りて死《しに》し者先づ甦り、然る後に活きて存《のこ》れる我等彼等と偕に雲に携へられ、空中にて主に遇ふべし。斯くて我等いつまでも主と偕に居らん。是故に汝等此等の言を以て互に相慰むべし。

 即ち再会は必ず行はる、キリスト再臨の時に行はる、其時主に在りて死し者先づ甦り、活きて存れる者は其儘化せられて天に昇り、其所に死者と生者とは相会して、永遠に主と偕に在り、又相互と偕に在るのであると。そ(148)して是がテサロニケに於ける初代の基督者の死後再会の希望であつて、又基督信者全体の希望である。

〇然らばキリストの再臨は何時行はるゝのである乎、又其前兆如何との質問に対しパウロが答へし者が、後書二章三節より十二節に至るまでの言である。

  ……汝等欺かるゝこと勿れ、そは先に道を離るゝ事なく、又罪の人即ち淪亡《ほろび》の子現はるる事なくば其日来らざるべし。彼れ凡て神と称《とな》ふる者また人の拝む所の者に敵し、その上に立ちて己を尊くし、神の殿《みや》に坐して自から神なりと做すに至らん。……彼をして其時に至りて現はれしめん為に、今彼を抑《おさ》ふる者あるを汝等は知る。実に不払の隠密の勢力既に働けり、唯今は之を抑ふる者あり、その除かるゝ時至らん。其時に至りて不法の者現はるべし。主イエス其口の気《いき》を以て彼を滅《ほろぼ》し給ふべし、彼が臨る時に発《あらは》し給ふ所の栄光を以て彼を無きものと為し給ふべし。彼はサタンの行動《はたらき》に循ひて様々の偽はれる能力《ちから》と休徴《しるし》と奇跡と、又不義のすべての詭譎《まどはし》を以て淪亡《ほろぶ》る者に顕はる。彼等は救はれざらんが為に真理を愛するの愛を受けざる者なり。是故に神、彼等が虚偽《いつはり》を信ぜんが為に迷惑《まどひ》を彼等に送りて其中に働かしめ給ふ。是れ凡て真理を信ぜず不義を好む者の罪に定められん為なり。

 不法の霊、罪の人として現はれ、世が真暗黒と化して後に神の子現はれ、其発する所の栄光を以て暗黒《くらやみ》の主《ぬし》を滅《ほろぼ》し給はんと。恰かも黎明の東天に現はるゝ前に夜は其暗黒の極に達するが如しであると。其他前書五章二節、同二十三節、後書一章七節、同二章二節等に於て同一の信仰が記《しる》されてある。

○以上は初代の信者の迷信として現代の我等は之を黜くべきであらう乎。|唯一事は明白である、彼等に此ハツキリとしたる来世観があつたらばこそ彼等は世に勝ち、己に勝ち、今人の到底及ばざる聖き愛の生涯を送り得たの(149)である〔付△圏点〕。古人の迷信を嘲けるは易くある、然れども其行為に傚ふは難くある。迷信が高徳を生んだと云ふのである。茲に近代人を困《くる》しめる大なる謎がある。初代基督者の行為は欲しい、然し彼等が懐きしと云ふ希望は解らない、之を棄て彼を採りたいと云ふのが近代人、殊に近代の基督信者の努力である。然し乍らハツキリとしたる来世観がなくして現世に勝つことは出来ない。来世抜きの宗教は宗教の用を為さない。社会奉仕、社会改造を以て最大の目的とする現代の基督教会は其日的とする奉仕改造をすら行ふ事が出来ない。我等は初代信者の希望其儘を受けて「信者たるの大任に当るべきではあるまい乎。(十二月二日)

 

     其二 キリスト再臨の希望 テサロニケ後書二章一-一二節。

 

〇黙示録はヨハネの黙示録であつて、テサロニケ書翰はパウロの黙示録である。新約聖書に二箇の黙示録があつて、パウロの黙示録を小黙示録と、ヨハネのそれを大黙示録と称する事が出来る。ヨハネの黙示録は難解の書であると云ふが、其原理に於てテサロニケ書翰と異なる所はない。克く小を解して大を解する事が出来る。大は小を敷衍したる者に過ぎない。テサロニケ書翰の研究は黙示録の研究の予備として必要である。

〇パウロがテサロニケに於て伝へし福音は一言を以て言尽事が出来る、「偶像を棄て神に帰して活ける真の神に事へ、その子の天より臨るを待つ」と《前書一章九、十節》。即ち|真の神に事ふることゝ、キリスト再臨を待望むことゝの二箇条であつた〔付○圏点〕。至つて簡短であつた、然し其結果は遠大であつた。かの時代に在つて(今日の日本に於ても同じである)偶像を棄るは此世を棄ると同じであつた。そして此世を棄て彼世《かのよ》を待望んだのである。そして彼世《かのよ》はキリストの再臨を以て始まると彼等は信じたのである。斯くて彼等に取り人生は患難と希望とであつ(150)た。彼等に取り生くるはキリストと共に十字架に釘けらるゝ事であつて、善き事はすべ 未来に存した。「汝等今神の国の為に患難を受く」とある(後書一章五節)。神の国は主イエスが其聖徒と偕に臨り給ふ時に現はるゝ者、そして之に入らんが為に我等は此世に於て患難《なやみ》を受くるのであるとパウロは教へ、テサロニケ人は信じたのである。即ち彼等の基督教は現代人のそれとほ全然異なり、現世的でなくして来世的であつた。彼等は現世には何の希望をも繋がなかつた。「我等の主イエスキリストを待望むに因りて忍ぶ」と云ひ、「その子の天より臨るを待つ」と云ひ、「我等の主イエスその諸《すべて》の聖徒と偕に臨らん時汝等をして神なる父の前に云々」と云ひ、「此事(報《むくひ》)は主イエスがその能力《ちから》ある使者等と偕に天より顕はれん時にあり」と云ふ。何事に関してもキリストの再臨を言うた。再臨、再臨、此事なくしてパウロとマケドニヤに於ける彼の信者とにキリストの福音は無かつたのである。

〇キリストの再臨と、之と共に起る信者の復活、是がテサロニケ人の教会に於ける二大問題であつた。死者は何時甦る乎、死者と生者との再会は何時、如何にして行はるゝ乎。殊に|再臨は何時ある乎〔付○圏点〕、其時は今既に切迫せしにあらずや。彼等が特に知らんと欲せしは此事であつた。そして復活と再会とに就て教へし者が前書第四章であり、再臨に就て示せし者が後書第二章である。そして我等今日の信者に取り、再臨は復活よりも解し易くあるが故に、先づ再臨に就て述べんと欲す。

〇キリストの再臨は何時行はるゝ乎。其時と期とを知る者は我父のみとイエスは曰ひ給うた。然し之に判然たる前兆があるとパウロは教へた。「先きに道を離るゝ事なく、又罪の人即ち淪亡の子現はるゝ事なくば其日来らざるべし」と教へた。即ち信仰の大堕落あり、伺時に罪の権化(受肉)たる偽《アンチ》キリスト現はるゝに非れば再臨なしとの事である。世がキリストの国と化し、基督者が其全権を握り、信仰が興り、正義が栄ふるに至つてキリストが(151)臨み給ふのではない。信仰の大堕落があり、悪魔の独子とも称すべき偽キリストが現はれ、罪悪を其の最も隠密なる形に於て行ふに至つて、真のキリストが顕はれ給ふのである。即ち暗黒が其極に達するに非れば光は臨まないと云ふ。そして其事を実に悉《くわ》しく述べた者が四節以下である。そしてパウロが茲に教へし所のものはキリストの教へ給ひし所と一致して居る。馬太伝廿四章十節以下に曰く

  ……此時多くの者|礙《つまづ》き且つ互を附《わた》し互に憾《うら》むべし。又偽預言者多く起つて多くの人を欺くべし。又不法|満《みつ》るに因りて多くの人の愛情冷かになるべし……其時もしキリスト此処に在り彼処に在りと汝等に言ふ者あるとも信ずる勿れ、そは偽キリスト偽預言者等起りて大なる休徴と異能を行ひ、選ばれたる者をも欺くことを得ば之を欺くべければ也……其時人の子の兆《しるし》天に現はる。

 実《まこと》に驚くべき言である。誰か之を信ずるを得んや。今日の所謂基督信者の多数は之を信じない。縦し信ずるとするもキリストやパウロの言の儘には信じない。彼等は之を自分の人生観を以て説明し去らんと欲し、若し能はずんば、此は旧きユダヤ思想なりと称して公然と之に反対する。故に彼等はテサロニケ書翰を読んで、其単純なる信仰を賞讃せざるを得ずと雖、其信仰の因て起りしキリスト再臨の希望に対しては明白なる反対を唱へて憚らない。彼等は曰ふ、其熱信や尊重すべし、然れども其未来観たるや迷信時代のそれであると。

〇果して然る乎。問題は「世は道徳的に進化する乎退化する乎」とのそれである。そして万物悉く進化するが故に道徳も亦進化すると思ふが普通である。果して然る乎。道徳は果して進化する乎。文明とは果して道徳進化の謂《いひ》である乎。人類の歴史は此事に関して我等に何を教ふる乎。文明の最も進歩せる時が道徳の最も退歩せる時ではない乎。希臘文明、羅馬文明、伊太利文明、仏蘭西文明、独逸文明、皆な其揆を一にするではない乎。そし(152)て|明治大正の日本文明は例外である乎〔付△圏点〕。日本今日の社会に於て最も高い道徳は何処に於て在る乎。貴族階級か、知識階級か。欧米文明の最も盛んに行はるゝ所が最も堕落せる所でない乎。文士と芸術家とは職工、農夫、労働者等の道徳的模範である乎。言ふを休めよである。事は余りに明白である。文明と道徳とは並行しない、|逆行する〔付△圏点〕。斯くありてはならないと何人も言ふ。然し乍ら斯くあることを何人も認むる。そして聖書は事実を教へる、議論を語らない。社会は進歩せざるべからずと文士と思想家とは唱ふ(自身堕落しつゝある間に)。然れども神に依らずして社会は堕落する……時には禽獣以下にまで……と聖書は示す。そして歴史は聖書の言を証明する。|世は文明に進歩しつゝある間に、道徳的には暗黒の極へと進む〔付△圏点〕。

〇さらば教会は如何と云ふに、是れ亦社会と異らない。社会に道徳が衰ふるが如くに教会に信仰が衰ふ。テサロニケ人の教会の信仰は今日之を英国人又は米国人の教会に於て見る事が出来ない。若し「テサロニケ人のアリスタルコ又はセクンド」と云ふ様な信者が(行伝二十章四節)紐育か市俄古の基督教会に現はれたとするならば、彼等は「之でも基督教会である乎」と言ひて驚くであらう。変れば変つた者である。千九百年を経て初代教会の信仰は殆んど跡を留めざるに至つた。信仰は初めに善くあつて、後に段々悪しくなる。日本に於ても明治初年の信仰は大正今日の信仰よりも遥かに善くあつた。私の信仰をユニテリヤン的なりと云ひて責めたメソヂスト教会や組合教会は今や公然とユニテリヤン教義を唱へて居る。教会今日の信仰的状態を見て、我等の信仰も愛情も冷《ひえ》ざるを得ない。

〇此先き如何。真暗黒である。多くの偽預言者現はれ多くの人を欺く。罪の人即ち淪亡の子現はれ、不法の勢力既に働く。明白なる姦婬の罪すら罪に非ずと唱へらるゝに至つた。然らば失望すべき乎。否なと聖書は教へる。(153)是れが、此暗黒がキリストキリスト再臨の前兆であると〔付◎圏点〕。其時人の子の兆《しるし》天に現はると云ふ。其時「主イエス其の気《いき》を以て彼を滅し給ふべし……容易《たやす》く滅し給ふべし……彼が臨る時に発《ぁら》はし給ふ所の栄光を以て彼を無きものと為し給ふべし」と云ふ。クリスチヤンの希望は茲に在る。故に謂ふ「終りまで忍ぶ者は救はるべし」と。我等は社会の堕落と教会の腐敗を見て失望落胆すべきでない、反つて喜び感謝すべきである。主が預め此事あるを示し給うたのである。そして此暗黒こそ光明の先駆《さきがけ》であるのである。テサロニケの信者に此信仰、此希望があつたが故に、彼等は多くの患難に堪へ、信仰の行為《おこなひ》と、愛の労苦《くるしみ》と、主イエスキリストの再び臨り給ふを待望む希望に由る忍耐とが彼等にあつたのである。此は決して旧い時代後れの信仰でない。|実際の世に処する実際の信仰である〔付○圏点〕。(十二月九日)

 

     其三 人の子の兆《しるし》 テサロニケ後書二章の研究の続き。馬太伝二十四章参考。

 

〇「先に道を離るゝ事なくば」とある。是れがキリスト再臨の前兆の一である。「道を離るゝ事」とは今日の言葉を以て言へば「背教」である。背教は不信者の為す事ではない、信者の為す事である。一度福音の光に接し、之を納《うけ》て救はれし者の歓喜《よろこび》に入りし者が、之を棄てゝ故《もと》の不信者の生涯に帰る事である。ペテロ後書二章二十節に云へる「我等の救主イエスキリストを識るに由りて世の汚《けがれ》を脱《のが》れ、復たび之に累《まとは》れて勝たるゝ」事である。我国の基督教界に於て沢山に在つた、又在る事である。日本の政治界、文学界、教育界、其他に於て道を離れし者即ち背教者は沢山に居る。之を思ふて我等の心は痛み、我等の熱心は冷却せざるを得ない。然れども聖書は明かに示して云ふ、|背教はキリストが再び現はれ給ふ前兆である。先に道を離るゝ事、即ち背教が盛に行はるゝにあら(154)ずば其日来らじとある〔付△圏点〕。信仰が益々盛にして、光明が世に充ちて、天国が地上に建設せらると云ふのは、聖書の示す所でない。|背教者続出して、暗黒世を掩ふに至つて光明の主が現はれ給ふと云ふのである〔付△圏点〕。人の思ふ所と神の示し給ふ所と斯くも相違して居る。故に安心すべきである。|背教者続出は信仰復興の前兆である〔付△圏点〕。そして事実は其通りである。

〇また「罪の人即ち淪亡《ほろび》の子現はるゝ事なくば」とある。「罪の人」とは単に「罪人」と云ふ事ではない。罪が人の形体《かたち》を取りて現はれたる者、罪其著の示顕《じげん》とも称すべき者である。愛の化身があるが如くに罪の化身がある。罪の完全なる表現である。第八節に「其時に|不法の者〔付○圏点〕現はるべし」とある其者と同じである。彼は如何なる者である乎、其事を悉《くは》しく示す者がヨハネの黙示録である。茲には其宗教的一面を示すに止まる、即ち「彼れ凡て神と称《とな》ふる者また人の拝《おが》む所の者に敵し、之より超《すぎ》て己を尊くし、神の殿《みや》に座して自ら神なりと為るに至る」とある(四節)。罪を其最も隠密なる形に於て行ひ、道徳と宗教とを無視し、自己を神の地位に置く者、其の者が罪の人又不法の者である。彼の何たる乎を知るは決して容易の事でない。彼は決して世に謂ふ罪人又は悪人でない。世が見て以て罪人と見做す者は決して深い罪人ではない。罪の人即ち不法の者は悪を悪と知りつゝ之を行ふ者ではない。斯かる罪人は「罪の人」と較ぶれば軽い罪人である。|罪の人とは善ば悪なりと信じ〔付△圏点〕、悪を善と認むる者である。預言者イザヤが云へる「禍ひなる哉、彼等は悪を呼びて善となし、善を呼びて悪となし、暗をもて光とし、光をもて暗となす者よ」との言に合《かな》ふ者である(イザヤ書五章二十節)。即ち神を無視するのみならず道徳に超越し、善悪の差別を撤廃して、自己の意志又は気分を万事の標準となす者である。「神々の死」と唱へて、基督教の神を初めとして、「凡て神と称ふる者また人の拝む所の者」の存在並に権威を否定し、宗教は勿論のこと、尊(155)崇(worship)の念を其根本に於て絶たんと欲する者である。即ち純然たる無神諭者であると同時に純然たる無宗教家又無道徳論者である。即ち自己以外又は以上に何等の法則又は権能あるを認めず、自己の欲する所を行ふ事を以て人生最大の目的と見做す者である。即ち「己を尊くし、神の殿に坐 て自から神なりと称ふる者」である。自己中心主義 である、自己崇拝論者である。自己、自己、自己、己を尊重し、自己を拡張し、自己を完全す。彼の全努力は一に自己に注集さる。斯くて彼等は「価値の変更」を唱ふ。神愛、義、そんな者は価値ある者でない、価値ある者は自己である。自己を棄て他に仕ふるが如きは是れ奴隷道徳であると彼等は謂ふ。一見して実に勇ましき、徹底したる人生観である。

〇然し乍らキリストの教と相対して見て是は罪の絶頂、其極致である。彼は教へて曰ひ給うた「若し我に従はんと欲する者は己を棄て、十字架を負ひて我に従ふべし、そは生命《いのち》を全うせんとする者は之を喪《うしな》ひ、我がため且福音の為に生命を喪ふ者は之を得べければ也」と。茲に云ふ「生命」は近代人の云ふ「自己」であつて、之を喪ふが之を全うする道であるとイエスは教へ給うたのである。そして是が基督教の根本であつて、又すべての道徳の基礎である。然るに罪の人は此基礎を覆《くつが》へさんとするのである。|彼はすべての革命の終極として道徳の革命を行はんとするのである〔付○圏点〕。道徳は道徳に非ず、自己を完全に実現する事是れ道徳であると称ふるのである。単に此罪彼罪を犯して神と道徳に逆らうのではない。自己を以て神と道徳に代らんとするのである。最も大胆なる計画である。シザー、ナポレオン、秀吉の計画の如き到底之には及ばない。天下を取らんとするが如き、そんな低い卑しい計画でない。|自分が神に成らんとする計画である〔付△圏点〕。神を滅《ほろぼ》し、道徳を廃し、己れ其上に立たんと欲す。人間として生れし以上、茲に達して初めて生れし甲斐があるのであると彼等は云ふのである。
(156)〇斯くて「罪の人」は悪人として世に接《う》けられないのみならず、却て最も徹底せる人、嶄新なる思想家、尊敬すべき紳士として迎へらる。彼の罪は余りに深くして、却て徳の如くに見える。サタンは神の敵であつて、神に克く似たる者である。彼が世を欺くは是が為である。そして罪の人即ち不法の者は「サタンの行為《はたらき》に循ひて様々の偽はれる能《ちから》と徴と奇跡と、不義のすべての詭譎《まどはし》を以て顕はれ」、世の尊敬を自己に惹きながら、人を淪亡に導くと云ふ。そして此人が現はれて、然る後にキリストは再び臨《きた》り給ふと云ふ。そして我等二十世紀の初期に生存する者はパウロの此言を読んで少しも怪まないのである。「不法の隠れたる者既に働けり」である(七節)。最後に現はるべき罪の人其人は未だ現はれずとするも、彼の使者又は後従者は既に現はれたのである。我等はニイチエの哲学に於て、カール・マルクスの経済論に於て、不法の霊の働きを見るのである。所謂「近代の恋愛観」も亦其一面の表現に過ぎない。無神論は既に過ぎて今や無道徳が盛に唱へられて、世の歓迎を受けつゝある。社会も国家も其根柢に於て壊《くづ》れつゝある。思へば実に恐ろしくある。然れども聖書は教へて云ふ、「罪の人現はるゝ事なくば其日来らじ」と。世界の改造、光明の充溢は此事ありて後に来ると。

〇罪の人一名不法者(anomos《アノモス》)は将さに現はれんとして居る。然るに彼を抑へて今直に現はるゝ事能はざらしむる者がある。「彼をして己が時に至りて顕はれしめん為に、彼を阻《はゞ》めをる者を汝等は知る。不法の秘密は既に働けり、然れど此はたゞ阻め居る者の除かるゝまでなり」とあるは此事である(七、八節改訳)。抑ふる音叉は阻める者(katechon《カテコン》)は何である乎。それは|もの〔付ごま圏点〕であつて、|人〔付ごま圏点〕でない。アノモスの現はるゝことを妨ぐる或る制度又は慣例又は主義又は信念である。大抵の政府は多くの欠点弊害の之に伴ひしに拘はらず、普通道徳丈けは之を重んじて其維持に努めた。其点に於て政府は今日まで不法背倫の抑制者であつた。社会の慣例も亦同じ役を務めた。(157)そして外に制度慣例の不法を矯むるあれば、衷に|良心〔付○圏点〕の之を照らすありて、其横行を阻《はば》めた。然れども是等制裁力の緩《ゆる》み又絶ゆる時が来るのである。其時に不法の霊は秘常に働かずして、公然と権威を揮ふに至る。そして斯かる時は刻々と近づきつゝあるのである。今や神は人が作りし者、良心の命は人の張りし縄の如き者、之を飛越えたればとて何の不可あるなしと唱ふる者あるも、政府も社会も敢て之を咎めざるに至つた。今や普通道徳に対し制裁は日々に緩みつゝある。他人の利益を妨げざる以上、何を為すも道徳的非難を蒙らざるに至つた。|問題は善か悪かのそれではない、利益か不利益か、愉快か不愉快かのそれである〔付△圏点〕。米国の如き自称基督教国に於てすら貞操は多数青年男女の間に重要視せられず、老人の生命は社会公益の上より見て、特に尊重するの必要なしと唱ふる著さへあるに至つた。

〇思へば実に恐ろしくある、然れども恐るゝに足りない。「主イエス其口の気《いき》を以て彼を滅さん」とある(八節)。一言以て之を滅すべしとの事である。事の容易なるを「プツト一吹き」と云ふ。天の内、地の上のすべての権を天父《ちゝ》より賜はりしイエスが、己に逆ふて立つ者を滅すは唯|一吹《ひとふき》の業《わざ》である。地の一隅を震ふ地震を起せば足りるのである。天より見て蟻の巣に等しき人の築きし市《まち》を焼尽《やきつく》せば済《す》むのである。彼は罪の人の威力を怖れて其|腕《かひな》を現はし給はないのではない。一面には神の子の信仰を練らんが為に、他の一面には悪人をして其思ふ存分を行ひて罪の罪たるを知らしめんが為に其|聖手《みて》を控へ給ふのである。斯くて「罪の人」は「淪亡《ほろび》の子」である。彼は淪亡に定められたる者である。そして彼れ不義の諸《すべて》の詭譎を以て現はるゝや、神の子は「其|発《あらは》す所の栄光を以て之を廃し給ふ」と云ふ。恰も梟や蝙蝠が光に照らされて其跡を絶つが如しである。

〇斯くてキリスト再臨の預言は世の終末を説く失望の音信《おとづれ》ではない。日々深くなる世の暗黒に処して希望を失は(158)ざらんが為の神の啓示である。此啓示なくして、我等は罪の人即ち不法の者の出現に際会して、神を疑ひ、道に迷ひ、失望落胆の結果、終に永生の冕《かんむり》を逸するの虞がある。然れども是れ預め神の示し給ひし所にして、其派はし給へる使徒等が「我等の中に在りし時に既に此事を語りし」を知りて、我等は事に当りて迷はざるのである。背教者続出し、無神論は臆面なく唱へられ、道徳は嘲けられ、人倫は無視せられ、価値は転倒して、昔の悪は今の善として讃美せらるゝ時に、我等は愕《おどろ》き又狼狽してはならない。是は時の兆《しるし》である。此事ありて最大の光明は臨まんとして居るのである。イエスは教へて曰ひ給うた、「夫れ汝等は無花果樹《いちじく》に由りて譬を学べ、其枝すでた柔かにして葉|萌《めぐ》めば夏の近きを知る、此の如く汝等も凡て此等の事を見ば時近く門口に至ると知れ」と《馬太伝廿四章三二、三三節》。我等の間に多くの不可解の事が信ぜられ又行はるゝは、是れ神の預言が成就されんとする前兆である。|此世の万事が聖書が示す通りに進行しつゝあるのである〔付○圏点〕。黎明近きが故に暗黒は益々甚しいのである。只暫時の忍耐である。(十二月十六日)

 

     其四 復活と再会の希望 テサロニケ前書四章十三-十八節。

 

〇此は聖書の言である、そして之に類したる言は他の箇所にもある。コリント前書十五章は人の克く知る所である。そしてパウロのみならず、イエスもヨハネも同じ事を教へた。イエスが祭司の長《をさ》に告げて曰ひ給へる言も亦人の克く知る所である「我れ汝等に告げん、此後人の子大権の右に坐し、天の雲に乗りて来るを汝等見るべし」と《馬太伝廿六章六四節》。イエスは又曰ひ給うた「凡て父の我に賜ひし者を我れ一をも失はず、|終の日に之を甦すべし〔付○圏点〕……凡て子を見て之を信ずる者は窮りなき生命を得、我れ|終りの日之を甦らすべし〔付○圏点〕……我に就《きた》りし人は(159)|終の日に我れ之を甦らすべし〔付○圏点〕」と(ヨハネ伝六章)。其他再臨の事に就き、復活の事に就き、聖書が記す所の言は之を茲に掲《かゝ》ぐるの遑がない。問題は我等が之を信じ得るや否やに於てある。

〇近代人の立場に立ちて聖書の是等の言を信ずるの困難を私は克く知つて居る。復活が疑問である。再臨が疑問である。雲に乗りて来ると云ふが疑問である。空中に於て主に遇ふと云ふが疑問である。近代人に取り奇跡又は之に類する事は凡て疑問である。故に死後生命は在るとしても、イエスやパウロが言ひし様に在るのではない。彼等は当時のユダヤ思想に囚《とら》はれて斯く言うたのであつて、我等近代の基督者は斯かる問題に就て聖書の言其儘を信ずるに及ばないとは、我等が近代の神学者等より屡々説聞せらるゝ所である。

〇果してさうである乎。テサロニケの信者は近代人の説明を聞いて死に就て慰められたであらう乎。彼等は単に「霊的生命は死と共に滅びず」と聞いた丈けで死別の涙を拭はれたのであらう乎。さうは思へない。復活の方法と時期、復活其物の事実、単に霊的存在に非ず、霊が死に由て失ひし体を与へらるゝ事、故に我等再び相遇ふ時に相互を識別し得ると云ふ事、夫等の的確なる事実が主の言に託りて彼等に告げ知らされしが故に、彼等は寝《ねぶ》れる者に就て憂戚《なげか》ざるを得たのである。初代の基督者は死後生命に就ては明確《はつきり》としたる思考《かんがへ》を持つて居たのである。漠然たるギリシヤ人の霊魂不滅説ではない、ユダヤ人の希望に合《かな》ひたる死者復活の事実である。彼等は之を握るを得て死後に関し確実なる希望を懐く事が出来たのである。我等は此事に関しパウロの言全部を其儘に受けて、初代信者の信仰生活を解する事が出来る。之を哲学的に説明し去らんとして、希望其物が消失するのである。故に問題は是れ果して真理なる乎否乎ではない、我等も亦初代信者と同じく之を信じ得る乎否乎である。そして之を信じ得て確実なる希望があり、信じ得ずして基督信者独特の死後復活の希望は到底得られないのである。

(160)〇説明は別として、今日に至るまで夥多《あまた》の基督者がパウロが茲に記《しる》せる言を文字通りに信じて、自分の死に就き、又愛する者との死後の再会に就き、初代信者が持つたと同じ希望を持ち、喜んで死に就き、喜んで死者を送つたのである。基督者が墓の前に立ち、世の人の如くに憂戚《なげか》ず、涙の底に深い強い喜びを湛《たゝ》ゆるは是れあるが故である。復活の朝の再会! 斯んな美はしい希望《のぞみ》と歓喜《よろこび》とは天が下に他《ほか》には何処《どこ》にも無いのである。|多分〔付○圏点〕霊魂は生きて居るであらうとか、|多分〔付○圏点〕再び遇へるだらうと云ふが如き半信半疑の望みではない。天の内、地の上の凡ての権を握り給ふ者が「号令と天使の長の声と神の喇叭《らつぱ》を以て自から天より降り給はん其時、キリストに在りて死し者先づ甦り、然る後に生きて存《のこ》れる我等、彼等と偕に雲に携へられ、空中に於て主に遇ふべし」と云ふのである。|即ち奇跡を行ひ得る者が奇跡を行ひ給ひて、我等を甦らし給ふと云ふのである〔付○圏点〕。之を信ずるのが信仰であり宗教である。科学的説明を得るに非れば信じないと云ふは信仰でもなければ宗教でもない。宗教は神の力に由りて奇跡を信ずる事であつて、死後生命獲得の希望は信仰の力に由て獲らるゝ者である。

〇再臨復活の事につき、学問の立場よりして多少の説明を供し得ないではない。然し乍ら学理に由て信仰は起らない、信仰の上に立つ希望は生れない。|希望は信仰と同じく神の賜物である〔付○圏点〕。そして人間の側《かは》に在りて信仰を助くるものは境遇である。テサロニケ前書に於けるパウロの此言の如き、当時彼等が立ちし境遇に身を置いて、我等も亦幾分か其意味を解する事が出来るのである。彼等は偶像を棄て活ける神に帰つた。此世と絶ちて、聖国《みくに》の現はれん事を待望んだ。迫害は彼等の日々の実験であつた、然れどもキリストは待てども臨《きた》り給はなかつた。其間に彼等の内の或者は慰めを得ずして死んだ。彼等は信仰の事に就て欺かれたのではあるまい乎。外にはすべての物を失ひ、内には何の得る所なし。患難《なやみ》は多くして希望は充たされず、彼等の状態は、パウロがコリント前書(161)十五章十九節に於て曰へるが如く、「若しキリストに由れる我等の望たゞ此世のみならば、衆《すべて》の人の中にて我等は最も憐むべき者なり」とある其状態であつた。そして此状態に於て在りし彼等に取りては、パウロの此言は一言一句尽く身に滲渡《しみわた》る深い真の言であつた。彼等は然り然りと言ひて之に応じたに相違ない。是は誠に彼等に取り慰安《なぐさめ》の言であつた。

〇そして我等今日の信者も彼等と同じく、又は似寄りたりり境遇に立ちてパウロの此言を真理として受納れる事が出来る。|書は之を読む場所に由て其意味が〔付○圏点〕異《ちが》|ふ〔付○圏点〕と詩人ホヰツトマンが曰ひしやうに、パウロの此言も亦、之を適当の境遇に於て読んで、其意味が明白に成るのである。尠くとも愛する者の死に際会して、其死体を前に置いて新たに作られし墓の入口に立ちて、此言を読んで其意味の深さと美しさとが知らるゝのである。平穏の時に於て行はるゝ平静の思想に由て深い真理は得られない。眼は熱い涙に浸《ひた》さるゝ時に、最も深く又最も遠く視るの能力を供せらる。世の迫害と死の悲歎《かなしみ》とが同時に我身を悩ます時にパウロの此言は誠に大なる真理である。|如何なる程度に於て真理なる乎〔付○圏点〕は預言の実現を俟つて判明するであらう。然し乍ら実現は預言の文字以上であるに相違ない。キリストの再臨と共に、天地に大変動が起り、信者は或は起り、或は生きながら昇天し、地上以外の或る所に於て、主に遇ひ奉り、又相互と会し、斯くして永遠《いつまでも》偕に在るべしとは、聖書に由て示されし明かなる事実である。

〇クリスマスに際して、死と死者とに就て語るは縁起悪《えんぎわる》しと言ふ者がある乎。それは不信者の言ふ事であつて信者の言ふ事でない。|クリスマスは殊に友人を思ふの時である〔付ごま圏点〕。そして我等の友人の内で多くは既に主に在りて寝つたのである。我等は地上に残されてクリスマスを守るも、彼等が我等と偕に居らざるが故に堪へ難き憂戚《なげき》を感(162)ずるのである。我等と偕に楽しきクリスマスを守りし者は今は其愛する姿を我等の間に見せないのである。其事を思ふて楽しきクリスマスは楽しくなくなるのである。そして斯かる時にパウロの言が一層強く我等の心に響き渡るのである、「兄弟よ汝等の憂戚《なげき》は他人《世人》の如くならざらん事を欲《ねが》ふ」と。我等は愛する者に別れて地上に淋しきクリスマスを守ると雖も、それは何時《いつ》までも続く事ではない。「イエスに由れる所の既に寝れる者を神、彼と偕に携へ来り給はん」と。何と大なる慰めではない乎。我等は再び彼等と偕に楽しきクリスマスを守る事が出来るのであると云ふ。|天国に於けるクリスマス〔付○圏点〕、それが本当のクリスマスである。「神、彼等の涕を悉く拭ひ取り、復た死あらず、哀み痛みある事なし」と云ふ状態の下に守らるゝクリスマス、それと較べて今日のクリスマスは、楽しとも喜ばしとも称するに足りないのである。而して又、本当のクリスマスの我等を俟つあるを知るが故に、仮のクリスマスが楽しくあるのである。ハバガル夫人の歌に曰く

   あゝクリスマスよ、汝、再び来りし乎。

   汝の凡ての喜びと、又凡ての悲《かなしみ》を以つて。

と。そして其すべての悲しみを打消す者はテサロニケ前書に於けるパウロの慰めの言である。げに待たるゝは逝《さり》にし愛する者との再会の日である。(十二月廿三日)

(163)     MODERN THEOLOGY.現代神学に就て

                           大正13年3月10日

                           『聖書之研究』284号

                           署名なし

 

     MODERN THEOLOGY.

 

 Modern Theology dwells chiefly upon the personality and inner life of Jesus,and not upon His incarnation,resurrection,ascension and coming again, as Old Theology does.The modern is essentially subjective,“looking at one's own navel”,as Carlyle expressed it,and intensely self-conscious;hence unfree and unexpansive. Salvation consists chiefly in liberation from self-consciousness;but Modern Man with his Modern Theology is chaining himself to the very bondage,from which he is trying to extricate himself. The true faih is objective,not subjective;looking unto Him who was crucified for our sins,and not into our sinful selves,in wbich“dwelleth no good thing.”Rom.Ⅶ.18.Materialism with its insistence upon the reality of the outside world,is far better than Modern Theology with its sickly occupationwith self-consciousness.

(164)     現代神学に就て

 

 現代神学はイエスの人格並に内的生命を以て其の研究の主題とする。旧神学の如くに彼の受肉、復活、昇天、再臨等に注意しない。現代神学は其根本に於て主観的である。「己が臍《へそ》を見詰《みつめ》る者である」とカーライルが曰ひし如くである。過度に自己を意識する。故に自由でない、又膨脹しない。救拯とは主として自己意識より脱する事である。然るに現代人は其の現代神学を以て、自分が離れんとして努めつゝある束縛に自分を繋《つな》ぎつゝある。真《まこと》の信仰は客観的であつて主観的でない。我等の為に十字架に釘けられしイエスを仰ぎ見る事であつて、我等の罪に満ちたる自己を顧ることでない。「善なる者は我れ即ち我肉に居らざるを知る」とパウロは曰うた(ロマ書七章十八節)。外なる世界の実在を主張する唯物論は、自己意識の病的探求に没頭する現代神学に勝《まさ》ること数等である。

 

(165)     個人主義と自己主義

                           大正13年3月10日

                           『聖書之研究』284号

                           署名なし

 

〇大抵の人は個人主義と自己主義とを混同する。然し二者は全然別の者である。前者は尊い者であつて、後者は卑しい者である。余輩は個人主義は尊奉するが、自己主義は全然之を排斥する。

〇個人主義は個人を尊重する。自分を尊重すると同時に亦他人をも尊重する。人が自分を尊重せんことを要求するが如くに、自分も亦他人を尊重する。自分の権利是れ亦他人の権利である。他人の権利の侵害せらるゝ事は我が権利の侵害せらるゝ事である。故に他人が虐待せらるゝ時に自分が虐待せらるゝが如く感ずる。|真正の個人主義に自他の差別はない〔付○圏点〕。個人=ペルソン=それが尊いのである。自分の個人性を主張する其熱心を以て凡の人の個人性を主張する。個人主義は基督信者として之を保持して決して耻かしき者でない。

〇自己主義は全く之と異なる。自己主義は自己本位である。凡てを他人より要求して他人の要求には成るべく応ぜざらんとする。自分に絶対的自由を要求しながら、他人の自由は之を顧みない。自分、自分、……自分が全宇宙の内で最も大切なる者である。宇宙は自分一人の所有であるかの如くに働く。何物も自分を束縛することを許さない。然かも自分が他人を束縛することは悪事であると思はない。自己の発達を計る事、自己を完成する事、自己を拡張して全世界をして自己に服従せしむる事、夫れが自己主義の傾向であつて、又其最後の目的である。

(166)〇言ふまでもなく基督敦と自己主義とは両々相納れざる者である。自己主義は悪魔の精神である。神ならざるに神として自分を万物の中心に置き、之を統御せんとする心の状態である。個人主義の自分を社会の一員として見て、万人と共に自己を達成せんとするとは全く其根本の精神を異にする。個人主義は尊重すべしまた採用すべし、自己主義は全力を挙げて之を排斥すべきである。

 

(167)     地位の満足

                           大正13年3月10日

                           『聖書之研究』284号

                           署名なし

 

〇人には各自に天職がある。之を知りて之に就くは当人に取り、社会全体に取り、最も幸福なる事である。人生の成功とは実は他の事ではない、自分の天職を知つて、之を実行する事である。若し教育が完全に功を奏するならば、人は悉く己が天職を知つて、失敗の生涯とては一もないであらう。当人は勿論、父兄、教師其他青年指導の任に当る者は、子弟の天職発見の為に其全注意を払はねばならぬ。聖書の言を以て曰ふならば「我等|各人《おの/\》にキリストの賜ふ所の量に循ひて恩《めぐみ》を賜ふなり」とのことである(エペソ書四章七節)。茲に恩と云ふはギフト即ち天賦の才能である。神は一人として特殊の才能を具へざる者を世に遣はし給はない。

〇然るに事実如何と云ふに、人の天職を発見するは最も困難である。縦し又之を発見したりとするも、之を実行するは是れ亦困難である。そして大抵の場合に於ては天職は発見せられず、又実行せられずして、人は己が欲せず又己に適せざる事を為しつつ其一生を終るのである。人生に悲惨事多しと雖も才能の浪費又は濫用の如きはない。多分多くのラフハエル又は応挙は一枚の画を書かずして其一生を終るのであらう。多くの百合花が其香を認められずして、岩間に枯果つるが如くに、多くの天才は己を発揮する能はずして、空しく消失するのであらう。

〇然らば我等失望すべき乎と云ふに決して爾うではない。|第一に記憶すべきは神の〔付○圏点〕聖業《みわざ》|の決して無効に終らざる(168)事である〔付○圏点〕。今世ばかりが人世でない。神が其聖業を悉く実現し給ふ時が必ず来ると聖書は教ゆる。「神の諸子《こたち》の顕はるゝ事」とは此事である(ロマ書八章十九節)。冷酷なる世は我等の天才を蔽ふて却て喜ぶと雖も、神は斯かる事を決して許し給はない。神は各人を其の定め給ひし職に就かしめずば止み給はない。天国即ち神の国の美はしさと慕はしさの一面はたしかに茲に在る。我等は我等の天職の実現を望んでヘブライ書の記者の言を藉りて曰ふ「我等此所(此世)に在りて恒に存《たも》つべき城邑《みやこ》(社会)なし、惟来らんとする城邑を求む」と(十三章十四節)。此不完全極まる社会又は国家に在りて我が天賦の才能の完全なる発揚を望めばこそ不平もあれ懊悩もあるのである。此所は罪の世、神の聖旨の滅多に行はれざる所、偽君子、偽善者、偽天才が跋扈横行する所であると知れば、我等所を得ざればとて、又自己の発展を遂げ得ざればとて深く悲まない。我等の国は他《ほか》に在る。之を望んで喜ぶのである。

〇此事を心に留めてコリント前書七章二十-廿四節に於けるパウロの言を読んで其意味が克く判明《わか》る。

  各人その召されし時に在りし所の分(職)に止まるべし。汝奴隷にて召されし乎、思ひ煩ふ勿れ、然れどもし釈さるゝ事を得ば寧ろ之を受くべし。兄弟よ各人召されし時に在りし分に止まりて神と偕に居るべし

 即ち各人其職に止るべし、強ひて之を転ぜんとする勿れ、惟「神と偕に居るべし」との事である。此は如何にも宿命説のやうに聞えるが決して爾うではない。此世の何たる乎を知りて之に処するの途を示したる言である。此世は理想の行はれ難き所、不公平は其特徴である。故に敢て運命の発展を求めない。若し他人に譲るべきあれば喜んで之を譲る。|惟神と偕に在る〔付○圏点〕。そして彼が我を顕はし給ふ時を待つ。彼は時には我を此世に於て顕はし給ふ。其場合には「寧ろ之を受くべし」である。然れども彼は彼の聖国に於て|必ず〔付○圏点〕我を顕はし給ふ。我れ其事を思(169)ふて敢て此世に於て顕はれんことを欲しない。我は此世に於ては我が置かれし地位に満足する。此世に於ては神を知り彼と偕に居る丈けで充分である。其他の事は来世まで待つ、キリストが顕はれて我を我が定められし地位に置き給ふ時まで待つ。

  附言 此態度に心を置いて我等は現世に於ても最大の成功を遂げ得るのである。エピクテートスは奴隷であつたが、彼は性来《うまれつき》の哲学者でありしが故に、奴隷でありながら大真理を世界に伝へた。彼に比べてセネカはネロー大帝の教師でありながら、不平不満の間に其一生を送り、終に自殺して其身を終らざるを得なかつた。|自己を完成する上に於て、平安の心ほど大切なる者はない〔付○圏点〕。性来の芸術家は俗務に従事しながら芸術家たる事が出来る。所謂レーマンと称して宗教学を修めざる者の内に、最も尊敬すべき信仰家あるも亦、同一の理に由るのである。|此世は一たび之を棄てゝ然る後に之を我有となす事が出来る〔付△圏点〕。

〇惟避くべきは懶惰である。我が天職を得ざればとて無為に年月を送つてはならない。何事をも為さゞるは悪事を為すなりと西洋の諺は云ふ。「人もし工《わざ》を作すことを欲せずば食すべからず」とはパウロの主義であつた(テサロニケ後書三章十節)。

(170)     清潔の道

                           大正13年3月10日

                           『聖書之研究』284号

                           署名 内村鑑三

  テサロニケ前書一-八節。ヘブライ書十三章四節。

 

〇パウロを初めとして、其他の使徒等の眼中に重大視せられた一問題があつた。それは何れの世にもある問題であつた。即ち人の身の聖潔に関はる問題であつた。パウロはコリント前書六章第十八節に於て曰うた、「汝等淫を避けよ、人のすべて行ふ罪は身の外にあり、然れど淫を行ふ者は己が身を犯すなり」と。キリストの福音が人の罪を救ふの結果として、第一に現はるゝは身の清潔である。神と不潔とは両立することが出来ない。「人潔からざれば神を見ること能はず」と云ふは殊に此事を云ふのであると思ふ。そして神の福音のみが真に身を潔むるの能力を有す。仏教も儒教も神道も、此世の哲学ほ勿論のこと、淫行を征服するの能力を有たない。玄妙なりと称せらるゝ仏教の所謂極意を聞かせられて我等は時に驚かざるを得ない。印度並に西蔵に於ける仏教の変態に我等の予想だもする能はざる所のものがある。基督教はいくら堕落しても其処までは堕落しない。人の惰性を其根柢に於て清むるは全能の神のみ為し能ふ事である。|人は其すべての智慧と能力とを傾倒して本当の意味に於ての清き男と清き女とを作る事が出来ない〔付△圏点〕
(171)〇使徒等は克く此事を知つた。|福音宜伝は其一面に於ては淫行征服であつた
〔付○圏点〕。当時の希臘と羅馬とは今日の日本の如くに、文明に於ては進んで居たが、男女道徳に於ては非常に低く又紊れて居つた。如何にして潔き家庭と社会とを作らん乎、是れ当時の識者の最大問題であつて、之を解決するの途は何処にも見当らなかつた。然るに使徒等は大胆に其途を提供したのである。彼等が伝へしイエスキリストの福音が此事を為し能ふと唱へたのである。そして彼等は誤らなかつたのである。彼等に由て伝へられし福音に由て、人類は初めて聖きホームを見たのである。イエスの在し給ふ所に於てのみ、不浄不潔は絶対的に不可能である。人は如何に奮闘努力しても、自分で自分の身を潔くすることは出来ない。或ひは思想を変へることは出来やう、或ひは聖潔を装ふ事は出来やう。然れども|潔く成る事〔付○圏点〕、婦を見て色情を発せざる事、発せし場合には自己に耻ぢ自己を責め、自己の潔からん事を切に願ふの心、此はイエスと偕に在りてのみ為し得る所であつて、其意味に於てイエスの感化力は特別である。如何なる思想家も、宗教家も、道徳家も、イエスに有る此能力を有たない。|イエスと偕に在りて淫行は不可能である〔付○圏点〕。

〇此事を心に置いて、テサロニケ前書四章の意味を解する事が出来る。パウロは此所に信者の実際生活に関する重大問題に就て言はんと欲して居る。然し問題は甚だ語りにくき問題である。彼は之に就て語りたくない。然れども語らざるを得ない。是れ彼の言葉の甚だ廻りくどい理由である。「兄弟よ、終りに我等主イエスに頼りて汝等に求め(願ひ)且つ勧む云々」と。パウロは此デリケートの問題につき、自分一個人の使徒たるの権威を以て借者に臨まない。「主イエスによりて汝等に願ひ求む」と云ふ。「又益々之に進むべし」と云ひて、彼等が既に此事に関し大に努力しつゝあるを認め、此上とも更らに彼等の勇行を促して居る。そして長き前おきの後に「神の旨は是なり、即ち汝等の潔からん事なり」と云ひて問題を切出して居る。そして「潔からん事」とは一面に於ては(172)姦淫せざる事又は淫行を慎む事であり、他面に於ては、「各人己が妻(器《うつは》)を得て之を潔く貴く」する事であると説いて居る。神は人を男女に造り給うた、故に一人の男が一人の女を迎へて夫婦となりて一生を送るは、神の聖旨《みこゝろ》に合ひたる規定《ノーマル》の生涯である。然れども是れ以外の両性の関係はすべてポールナイヤ(姦淫)である、アカサルシヤ(不潔)である。此罪を犯して人は其身を犯し霊魂を汚すのである。神の定め給ひし両性の関係に於て潔からずして人は神を見ることは出来ない。神がアダムとエバを造り給ひて之を置き給ひしエデンの園は美しくあつたが、彼はまた「ケルビムと自《おのづ》から旋転《まは》る焔《ほのほ》の剣《つるぎ》を置きて生命《いのち》の樹の途を守り給ふ」とある(創世記三章二四節)。男女の関係は美しき極であるが、是は厳格なる神の誡命《いましめ》の内に於てのみ行はれ、又美しくあるのである。|愛は神聖であると云ふは、神の神聖なる律法の内に行はるべき者であるからである〔付○圏点〕。

〇更らに曰ふ、「神を知らざる異邦人の如く情慾を放縦《ほしいまゝ》にせず、又此事に就て兄弟を欺き且害せざらん事を要《もと》め給ふ」と。不潔の罪に二つある、|苟合と姦淫〔付△圏点〕とである。苟合は閨門以外の男女の関係である、姦淫は閨門を破る罪である。神が最も嫌ひ給ふ罪は後者即ち姦淫の罪である。「汝姦淫する勿れ」とは此罪に対する誡《いましめ》である。|隣人の閨門を犯す罪〔付△圏点〕 是れ殺人に等しき罪である。而かも不信の世は之を左程に重い罪と見做さないのである。他人の妻を奪ひ、又は夫を誘ふの罪 不信の世に於て屡々行はるゝ罪である。昔の希臘、羅馬に於て、今日の欧洲日本に於て、最も多く刺戟を発《おこ》す恋愛小説は此の罪を画《ゑが》いた者である。そしてパウロは此恐るべき而かも不信者の社会に於ては稀ならざる罪に就て曰うたのである、「神は此事に就て兄弟を欺き且害せざらん事を要め給ふ」と。兄弟とは此場合に於てほ隣人のことであらう。パウロは茲にテサロニケに於ける信者が相互の間に斯かる罪を行ふて居ると曰うたのではない。此は神の要め給ふ所であれば、汝等之に注意せよと曰うたのであると思ふ。然れ(173)どもその恐るべき罪であるが故に、そして又罪の此世に於ては其恐ろしさが認められざるが故に、信者の注意を喚起するの必要を認めて、彼は殊更に茲に此事を書贈つたのであると思ふ。

〇此事は|何故に悪い乎〔付△圏点〕、パウロは其説明を与へんとしない。恋愛は自由であつて、其要求を充たすが自己を完成《まつた》うするの途である。我が愛する者が我が有である 我は人が作りし制度習慣に従ひ愛の自然の要求を拒むべきでないと曰ひて理由を成さないではない。汝盗む勿れ、汝殺す勿れとの誡を倫理学的に証明するは随分困難である。|何故に他人の妻又は夫を奪つてならない乎〔付△圏点〕、是れ亦哲学的に証明するに至つて困い問題である。然れどもパウロは之に対して曰うた「凡て此等の事を行ふ者は主報い給ふ」と。ヒブライ書の記者も亦曰うた「神は苟合また奸淫する者を審判き給ふ」と。パウロは又つゞいて曰うた「(此教を)慢《あなど》る者は人を慢るに非ず、聖霊を汝等に賜ひし神を慢るなり」と。|問題は倫理学的に考へて正か不正かの問題ではない、神が之を善しと見たまふか否やのそれである〔付△圏点〕。そして神に審判かるゝ時に人は如何ともする事が出来ない。|神は事実を以て審判き給ふ〔付ごま圏点〕。善き樹は善き果を結び、悪しき樹は悪しき果を結ぷ。神の証明は法律家の弁論とは異なり、現世並に来世に於て現はるゝ各人行為の結果である。

〇基督者は何に依て事の善悪を定むる乎。道徳の標準に依てゞほない、又必しも聖書の文字に順つてゞはない、彼の基督的感覚《クリスチヤンセンス》に依てゞある。|我主イエスは此事を如何に見たまふ乎〔付○圏点〕、彼は之を好み給ふ乎嫌ひ給ふ乎、それに由て定むるのである。「視よ僕その主に目を注ぎ、婢《しもめ》その主婦に目を注ぐが如く、我等は我神エホバに目を注ぐ」とあるが如くに、基督者は其主イエスキリストに目を注ぎ、彼が我が行為を是認し給ふ乎、又は否認し給ふ乎と、其事にのみ注目するのである(詩百二十三篇三節》。ニイチエ並に近代人は之を呼んで「奴隷道徳」と云ふであら(174)う。誠に其形は奴隷的である、然し実質は自由である。|自由の主を仰ぎ見て自由にせらるゝのである〔付○圏点〕。即ち情慾の羈絆より脱するのである。パウロがコリント後書三章十七節に於て「主(キリスト)の霊ある所には自由あり」と云うたのは此事である。基督教道徳は其感化力は深遠であるが、其方法は最も簡単である。|主イエスを仰ぎ見ることである〔付○圏点〕、然らば万事足りるのである。従順の子が其母の顔にすべてを読むが如くに基督者は主キリストの聖顔《みかほ》にすべてを知るのである。彼がほゝ笑み給ふ事が善事、顔を顰《しか》め給ふ事が悪事である。|そして是が実は世界を支配する最大道徳である〔付○圏点〕。

〇基督教道徳を称して禁慾道徳と云ふ者がある。然し是れ基督教を知らざる者の言ふ事である。「汝等婚姻の事を貴むべし、又閨門を汚す勿れ」と云ふ、是れ決して世の所謂禁慾主義ではない。基督教に在りては「娶ることを禁」ずるは異端である(テモテ前書四章三節を見よ)。「婚姻の事を貴むべし……然れど神は苟合または姦淫を審判き給ふ」と教へるのである。然らば如何にして此調和を計ることが出来る乎と云ふに、|それはイエスを仰ぎ見ることに由てである〔付○圏点〕。男女関係の如きデリケートの問題に於て、一定の規則を設けて之を解決することは出来ない。此《こゝ》からが清潔、此《こゝ》からが不潔と称して劃然たる境界線を引くことは出来ない。唯|聖者《きよきもの》の臨在を乞ふて、正不正を示して戴くまでゞある。そして主イエスを家庭に迎へて其すべてが潔くせらるゝのである。彼を主として仰いで禁慾放縦の両極端に走るの虞がないのである。ピユーリタンの家庭が全体に厳粛であつて幸福なるは是れが為である。ビユリタン神学の泰斗ジヨナサン・エドワードの子孫が米国の社会の諸方面に於て、其数何百人と云ふが、何れも重要なる地位を占めて居ると云ふ一事を以てしても、最も善き意味に於ての子孫繁栄が、厳格なる福音の信仰に伴ふ事を知る事が出来るのである。
(175)○今や不法の霊全世界に充ちて我等の家庭の根柢までが覆《くつが》へされんとして居る。此時に当りて自己を守り、子孫を守り、延いては国家を守るの必要を切に感ぜざるを得ない。そして所謂新道徳に対し、我等は更に新道徳を発見するの必要はない。旧い福音の道が亦今日に処する為の唯一途である。キリストの福音は人類の堕落を救ふに方つて、幾回《いくたび》か試めされたる良薬又は武器である。我等は主の名に由りて、今日の暗黒にも勝つことが出来る。「神の聖旨《みむね》は是なり、即ち汝等の潔からん事なり」。聖旨《みむね》の在る所に能力が在る。我等は信仰に由りて其能力を受けて、潔くなるべきである、又潔くなる事が出来る。(一月十三日)

(176)     真理と自由

                           大正13年3月10日

                           『聖書之研究』284号

                           署名 内村鑑三

 

  汝等|真理《まこと》を識らん、真理は汝等に自由を得さすべし(ヨハネ伝八章三二節)。

 

〇イエスが発し給ひし言は悉く意味の深い言であるが、ヨハネ伝八章の此言の如きは殊更に深い意味の言である。|真理、識る、自由〔付○圏点〕、孰れも意味深長の語である。そして之を此一節の如くに繋ぎ合せて其意味は一層深遠に成るのである。

〇之を普通の知識に適用して、その真理なる事は明瞭である。数学の問題を解決せんとするに方て、真理に合《かな》ひたる解答を得て、学生は其事に関し、絶対的自由の上に立つのである。其時教師も教科書も、然り宇宙何物も彼の此自由を奪ふことは出来ない。誠に「汝等真理を識らん、而して真理は汝等に自由を得さすべし」である。私の学生時代の経験に於て、曾て有名なるガノーの物理学書の中に、或る代数学上の公式《フホームラ》に関し文字の誤植のあつた事がある(滅多に無い事である)そして私等を教へし外国教師某は此事に気が附かず、或る優等生が教科書其儘を暗記せし時に、教師は之を賞して彼に満点を与へた。然るに一人の学生は之にお対し異存を申立た。そして彼は常に此教師に嫌はれた学生でありしが故に、教師は此学生の不法を責めた。然し学生は少しも驚かなかつた。(177)彼は教科書其物に誤謬《あやまり》のあるを発見した。故に諄々として彼の説明を試みた。彼は真理を握りしが故に、教師をも、教科書をも恐れなかつた。そして終に、彼が正しくして、教師と教科書との誤りたるを証明せしや、教師は彼と全級の前に赤面して自己の誤謬を謝せざるを得なかつた。而して亦、所謂優等生も彼が贏《か》ち得し満点を取去られて零点を課せらるゝに至つた。「真理は汝等に自由を得さすべし」である。真理の在る所に我等を支配する権威はない。自由は誠に真理の賜物である。

〇そして学問進歩の歴史に於て同じ事が幾回《いくたび》も繰返へされたのである。コペルニカスが太陽中心説を唱へし時、ガリレオが地球廻転説を維持せし時、ゼンナーが当時の英国医学界全体の反対を受けながら、種痘の有効なるを主張せし時に、此事が繰返へされたのである。真理である、真理は教権又は政権よりも、社会の輿論よりも、整然たる議論よりも強くある。|深き静かな古宇宙の真理〔付○圏点〕、之を握りて人はまことに世界の王《キング》である。真理の与ふる自由に較べて見て、政治又は社会運動に由て獲たる自由、天才又は多数の喝采に由て得たる自由は、価値《ねうち》いと賤き者である。学問の貴きは之が為である。真理に達して真《まこと》に自由ならんと欲するに在る。ソクラテス、プラトー、アリストートルが永久に人類の尊敬を惹いて止まざる理由は、彼等に此精神があつたからである。即ち真理に達して自由ならんと欲する精神があつたからである。貴き真理である、而して亦、貴き自由である。

〇イエスの此言は勿論学問の真理にも当はめる事が出来る。米国ジヨンス・ホツプキンス大学の大講堂の入口のアーチにイエスの此|言《ことば》が刻まれてあるとは誠に当然の事である。然し乍らイエスの此言は哲学者又は科学者を指導する為に発せられたる者ではない。是はユダヤ人にして、神を探り求めんと欲せし者に対して発せられし言である。故に之はプラトーやアリストートル等、ギリシヤ的学者の立場に立ちて解すべき者ではない。イザヤ、ヱ(178)レミヤ、エゼキエル等、ユダヤ的信仰家の心を心として覚《さと》るべき者である。故に「真理」又は「識る」と云ひて今日の学者や学生が云ふ意味に於ての語《ことば》ではない。又「自由」と云ひて、今日の政治家、法律家、思想家、社会改造家が唱ふる者とは全く異《ちが》ふ。我等はイエスの此貴き言を解せんと欲して、新約聖書全体の立場に立ちて其意味を探らなければならない。

〇真理と訳せられしギリシヤ語の alaetheia の意味は|真理〔付ごま圏点〕であるよりは寧ろ|実体〔付○圏点〕である。物にはすべて影と実とがある。影は変るむの、又は失する者である。之に対して実体は永久に変らず又|存《のこ》る者である。そして人は常に影を逐うて実を求めざる者である。偶像はすべて影である。旧約の預言者等は偶像を呼んで「虚《むなし》き者」と云うた。之に反して真《まこと》の神は真に在る者、唯一の実在者、エホバ即ち「在りて在る者」である。故に「汝等|真理〔付○圏点〕を識らん」と云うた丈けでは足りない。神は勿論真理の源であるが、然し数学的真理の如くに、非人格的真理でない。神は実体である。そして|実体に接して真の自由がある〔付○圏点〕と云ふのである。

〇然らば「識る」とは何んである乎と云ふに、「識る」とは読書、思考、思索の結果として識ると云ふ事ではない。聖書殊にヨハネ伝に在りては「識る」とは意味の深い語である。男女が夫婦になるを「識る」と云ふ。人が神の子と成るを「神に識らる」と云ふ。我等日本人に取りても「士は己を識る者の為に死す」と云ふ場合に、「識る」とは単に知識的の識ると云ふ事ではない。「識る」とは深く人格に触れる事である。之を|霊的知識〔付ごま圏点〕と称して稍や其意味を通ずる事が出来る。識るとは人と人との間に於ては意気相投ずる事である。神と人との間に於ては、人が己の意志を放棄して、神の意志を以て己が意志となす事である。故に茲に「識る」と云ふは学問の事でない、信仰の事である。頭脳《あたま》のことでない、心《ハート》のことである。学者が学究的に神を識り得て自由になると云ふのではな(179)い。|信者が信仰的に神を認めて自由になると云ふのである〔付○圏点〕。

〇故にヨハネ伝の此箇所に於て「汝等真理を識らん」と云ふと、テサロニケ前書一章九節に於て「汝等偶像を棄て神に帰して活ける真《まこと》の神に事へ」とあると、其意味に於て異なる所はないのである。|偶像、影、空虚、慾、空想、自我、政権、金権、神ならざる万物〔付△圏点〕……|すべて是等のものを棄てゝ、真の実在物なるヱホバの神に帰り、之に神として仕ふる事、其事がヨハネ伝の此所に云ふ「真理を識る」と云ふ事である〔付△圏点〕。

〇そして此知識は自由を与ふるのである。然れども其自由たるや、政治上又は思想上の自由でない。近代人が賞讃して止まざる恋愛実行の自由でない事は言ふまでもない。|神を識るの知識が与ふる自由は神の聖旨を知り之を実行することの出来る自由である〔付△圏点〕。イエス御自身が其説明を与へて曰ひ給うた、「誠に実に汝等に告げん、凡て悪を行ふ者は悪の奴隷なり、奴隷は恒に家に居らず、子は恒に居る、是故に子もし汝等に自由を賜《あた》へなば汝等まことに白由を得べし」と(八章三四、三五節》。悪と知りつつ悪を行ふ、是は悪の奴隷である。そして神を識らざる人はすべて此の憐むべき状態に於て在るのである。彼等は何人の奴隷でなくとも、罪の奴隷である。慾の奴隷である。情の奴隷である。倣慢《たかぶり》の奴隷である。|つまらなき〔付ごま圏点〕思想の奴隷である。偏見の奴隷である。自家専門の奴隷である。之等に反対して彼は善と知りても善を行ふことが出来ない。立派な紳士、立派な学者、時には立派な信仰家でも、此|羈絆《なはめ》より脱する事が出来ない。思想の自由を以て誇る思想家が時には最《いと》も無価値《つまらな》き者の奴隷となりて其身を果つる場合の尠からざる事が此事を証《あかし》して余りあるのである。そして斯る者は、斯かる奴隷は「恒に家に居らず」と云ふ。自由の神の家庭に在らず又自由の生涯を営まないのである。然れども子、即ち独子イエスキリストは此自由に居り給ふ。即ち悪は必ず之を斥け、善は必ず之を行ひ給ふのである。そして此自由の主なるキ(180)リストが自由を賜《あた》へ給ふ所に真《まこと》の自由があると云ふのである。

〇そして此自由が人間が追求《おひもと》むべき至上善ではない乎。悪を憎みて之を斥くるの自由、善を愛して之と親しむの自由、此はまことに最上最大の賜物であつて、人生の獲物《えもの》として之に優さる者はない。哲学者カントは力を込めて幾回《いくたび》か曰うた「宇宙最大のものは善き意志である」と。善き意志と之を行ふの能力《ちから》、是れさへ得れば人生、実は他に何ものを得ずとも、其目的を達したのである。

〇「汝等真を識らん、真は汝等に自由を得さすべし」と。汝等万物の実体たる真の神と父子主従の深き関係に入るを得ん、而して此関係は汝等をして罪の束縛より脱《のが》れしめ、悪を避け善を行ふに自由ならしむべしと云ふのである。実に偉大なる宣言である、神の子ならずば発することの出来ない宣言である。然かも是れ空漠なる誇大の宣言でない。事実に現はれたる、而して今尚ほ現はれつゝある宣言である。神の子はまことに自由を与へ給ふ、悪を憎み善と親しむの心を与へ給ふ。罪の此世に在りて善を実行する最大の勢力は今尚ほ昔と異なることなくナザレのイエスの聖名である。哲学も論理も、如何なる思想も文学も、罪を其根本に於て潔むるの能力を有たない。「癩病の者来りてイエスを拝して曰ひけるは、主もし聖旨《みこゝろ》に適はゞ我を潔くなし得べしと、イエス手を伸べ彼に接《つけ》て曰ひけるは、我が旨に適へり、潔くなれと、癩病直に潔まれり」とある(馬太伝八章二、三節》。此奇蹟を実験せし者は此癩病患者に限らない、後世幾多の基督者が、文字通りに此事を実験した。イエスは罪なき者である、故に罪を取去る事が出来る。
○如何にして神を識るを得ん乎。其途は唯一つある。「永遠《かぎりなき》生命とは是なり、即ち唯《ただ》一《ひとつ》の真の神なる汝と、其遣はしゝイエスキリストを識る事なり」とある如し(ヨハネ伝十七章三節)。神はイエスを通してのみ識ることが(181)出来る。誠にイエスは途である真(alaetheia 実体)である、生命《いのち》である、人は彼に由らずして父の所に往くこと能はず、イエスを識るは神を識る事である(同十四章六、七節)。イエス御自身が真即ち実体である、そして彼を識りて真の自由がある。我等彼の体の肢《えだ》となりて、彼の生命を我等に受け、我等の罪に勝ち、慾と情とを征服するを得て、其の自由の人と成ることが出来る。そして此自由ありて、其必然の結果として、他の自由があるのである。初めに霊魂の自由があつて、次ぎに思想と身体の自由があるのである。深い深い、而かも何人も解し得る真理である。「汝等真を識らん、真は汝等に自由を得さすべし」と。すべての健全なる改革は其源を此に発せねばならぬ。

(182)     死の権威

         (十二月九日午後、女子学院講堂に於て)

                           大正13年3月10日

                           『聖書之研究』284号

                           署名 内村鑑三

 

  我れ天より声ありて我に言ふを聞けり、曰く此言を書《しる》せ、今より後主に在りて死ぬる人は福ひなり、御霊《みたま》も亦曰ふ、然り彼等は其|労苦《はたらき》を止めて息まん、其功之に随はんと)黙示録十四章十三節)。

〇今日は女子学院同窓追悼会が催さるゝので私にも出席して何か感想を述べろとの御申附でありました。名誉ある長い歴史を有せらるゝ学院の事でありますれば、其同窓の内より天に召さるゝ者の毎年尠くない事は止むを得ざる次第であります。私も過去四十六年間の基督信者としての生涯に於て、直接間接に御校並に其前身たりし桜井女学枚並に新栄女学校と、多少の関係を有たざるを得ませんでした。御校同窓生並に之に関係せられし方の内に、私の敬愛する方は尠くありません。故桜井君は明治の初年函館以来の知友でありまして、女子教育に就ては夙くより君の御意見を聞いて居りました。又近頃に到り故黒崎夫人高木スミ子は私が知るを得し日本的基督教婦人の好模範でありまして、実際の所、私は彼女を知つて後に、女子学院に関する私の誤解が取去られました。西洋の教師方の内にツルー、ガーヂナ一等の方々がありまして、個人としては別に御交際は致しませんでしたが、其御信仰の性質に於て、私のそれと殆んど一致して居る所から、今日に至るも常に蔭ながら御慕ひ申す次第であ(183)ります。夫故に今日の追悼会に於て私も亦自分の追悼を以て列席したのでありまして、幾分なりとも皆様と共通の悲歎《かなしみ》を懐くのであります。

〇私供は常に死と死者とに就て思ひます、然し乍ら御互に今年程死に就て思はせられた事はありません。大正十二年は殊に「死の年」でありました。恋愛の為に死んだ人、地震の為に死んだ人、火事の為に死んだ人、只でさへ死は人生を支配するに、今年は特に其猛威を振ひました。人は|人生〔付○圏点〕と云ひて人生は生きる事であると云ひますが、然し乍ら過ぐる半ケ年のお互の経験に由て考へて見ますれば、|人生是れ死ぬる事である〔付○圏点〕との感を起さゞるを得ません。死は何処《どこ》にでも私供を待ちます。朝《あした》に別れし夫婦や親子は夕《ゆうべ》に必ず会ふとの保証はないのであります。私供の棲息する此の地球はいつ何時《なんどき》破壊する者である乎判明ないとは学者が常に私供に教ふる所でありますが、然し乍ら其学説の如何に真《まこと》である乎を私供は今年充分に教へられたのであります。私供は実際不安の世に在るのであります。地其物が破壊の危険に居る者であります。其上に生を営む私供が死に就て考ふるは当然の事であります。

〇昔は宗教と云へば人が死後に備ふる為の途でありました。そしてエジプト人の如きは其一生を死の準備の為に送りました。そして今日と雖も西蔵人の如きは生くるよりも死ぬることを以て人生の目的となして居ます。然るに死に就て余り多く考ふる事の、進歩を妨げ、幸福を害ふと云ふ理由からして、現代人は他の極端に走りて、死に就ては真剣に思ふ事を避け、注意の全部を生に払ふに至りました。「我れ未だ生を知らず、焉《いづく》んぞ死を知らん」との孔子の言は又現代人の主張でありまして、今や宗教家と雖も、死に就て確信を懐くと称するが如きは、妄想独断なりとして顧みられざるに至りました。然るに今や死は再び私供の前に現はれて其エニグマ(謎)の解決を以(184)て私供に迫るのであります。私供は之を避けんと欲して避くる事は出来ません。生は甚だ不安なる者、而して死は最も確実なる者……真面目に考へて死は生よりも大なる者、死に就て明瞭なるを得て生に就て明瞭なるを得、死を問題外に撤して生は何時までも暗黒であるのではありません乎。

〇研究は後廻しとして、実際の所、死者は生者よりも勢力があるではありません乎。私供は今日死者追悼の為に集りたりと云ひて、悼み悲み憐む者は私供生者であつて、悼まれ悲まれる者は死者である乎のやうに思ひますが、然し事実は果してさうでありませう乎。私供は自分の心に問ふて果して死者を慰むるの資格があると思ひます乎。貴女方ほ今ツルーさんガーヂナーさん等の霊に向つて「貴女は死んでお気の毒であります、私は尚ほ生き居て幸福であります」と言ひ得ます乎。其反対が事実であると信じます。死せる彼等が生ける私供を支配し、導き、教へ、慰むるのであります。彼等が座せし椅子は今は空《から》でありますが、其空の椅子こそ彼等が今占むる権威の宝座《スローン》でありまして、私供は之に対して尊敬を表し、服従を呈するのではありません乎。実《まこと》に私供が彼等を悼《いた》むのではりません、彼等が私供を悼むのであります。彼等は死して其権威の位に即いたのでありまして、私供は生きて其命令に従ふのであります。|今の〔付○圏点〕校長、教頭、理事、職員、すべてが遺産の管理人でありまして、其持主は今は去りて其休息に入つたのであります。|追悼会は実は死者生者の交通会であります〔付ごま圏点〕。そして此会合に於て死者は上座を占めて生者に対し、生者は死者を迎へて其指導教訓に与かるのであります〔付○圏点〕。

〇死は斯くも貴きものであります。キリストは其十字架の死を以てすべて彼を信ずる者の罪を贖ひ給ひたりと云ひ、「今より後主に在りて死ぬる死人《しにん》は福《さいは》ひなり」とあります。死は恐怖の王、不幸の極と云はれますが、死其物は決して悪事でないと聖書は明に示します。悪い者は死の外に在ります、其ものが死をして不幸の極たらしむる(185)のであります。之に当るに正当の途を以てしますれば、死は実は幸福に入るの門であります。現代人が死の問題を避くるは此道を知らず又知らんと欲しないからであります。イエスは其前に置かれたる所の享楽《よろこび》の故に因りてその恥をも厭はず十字架の死に堪へ給へりとあります(ヒプライ書十二章二節)。死後の喜楽《よろこび》を知つて死は決して厭な避くべき問題ではありません。

〇そして死より其恐怖を奪ひ、之をして権威たらしむる者は何であります乎。哲学です乎。神学です乎。其他の種々《いろ/\》の智識です乎。社会事業です乎。政治です乎。道徳です乎。私は死に臨んで、後《あと》を顧みて心に何の疚しき所なきに至つて死に勝つ事が出来るのです乎。さうであると人は思ひます。今や多くの基督信者と称する人達までがさう唱へます。然し乍ら|死を実験〔付ごま圏点〕した者はさう言はないのであります。|すべて死に勝つた人は死に勝ち給ひし神の独子に由つて勝つたのであります〔付○圏点〕。「キリスト死を廃《ほろぼ》し福音を以つて生命と壊《くち》ざる事とを明著《あきらか》にせり」とは人類の実験を以て証明されたる聖書の言であります。「此外別に救《すくひ》ある事なし、そは天下の人の中に我等の依頼《よりたの》みて救はるべき他の名を賜はざれば也」とのペテロの言は単に教会の信仰箇条ではなくして、人生の真面目の事実であります。そして今回の震災に依りまして、此の事実が許多《あまた》提供されました。死は信者にも不信者にも臨みました。単に災禍《わざはひ》として見て、震災と火災とは何人に取りても災禍でありました。然し乍ら之を受けし心の状態、又死者の場合に於ては、其死が生者に及ぼせる感化力に於きましてほ、信者と不信者との間に天地の差があります。或る信者は被服廠跡に於て、猛火に包まれつゝある間に、罪の悔改を唱へながら死に就きました。私の友人の横浜の斎藤梅吉君は煉瓦の下敷となり、遁るべからざるを知るや、友人に老母の後事を委ね、祈祷を口にしながら焼死《やけしに》ました。多分斯かる例は沢山に在ると信じます。そして死を免かれし場合に於ても、真の信者が失望落(186)胆する者に私は今日まで一人も出会ひません。皆な良き火のバプテスマを受けたと云ひて感謝して居ります。此際特に感謝の祭物《さゝげもの》を献げたしとて、焼残りし財布の内より少からぬ献金を齎らして来た者が、私の所丈けでも二三人ありました。天罰なる者果して有りやとか、若し神が愛であるならば何故に斯かる災難を下し給ふやとか云ふ問題は斯かる人達には無いのであります。彼等は唯羔の血に由て死に勝つ事が出来たのであります。死の哲学的説明ではありません。そんな物は有り得ません、|実験的解決であります〔付○圏点〕。そして実際的に勝つを得て、私供何人も哲学的証明を得んとて煩悶しないのであります。

〇そして女子学院が其生徒に与へんと欲した者は死に勝つの此力であると私は信じます。女子学院は我国に於ける女子教育の率先者となり多くの有為なる女流を産出した事は何人も疑ひません。|然し乍ら日本の文化を助くるのが女子学院第一の目的でない事は私は信じて疑ひません〔付△圏点〕。私は教会としても役員としても御校には何の関係もない者でありますが、然し乍ら基督者として基督者の心を知ります。基督者は教育を重じますが、教育よりも信仰を重じます。女子学院の建設者、又其教導の任に当りし方々の主眼とせし所が西洋文明の輸入に非ずして、主イエスキリストの福音の注入にありし事を私は寸毫疑ひません。若し今日此席にツルーさんなり、ガーヂナーさんなりが居られましたならば……そして居られますと私は確かに信じます……是等の教師方は必ず私に言はれると信じます Mr.Uchimura,that is true;do please emphasize that fact;do, please do! と。故に私は僭越ながら是等の死せる兄弟姉妹方に代つて皆様に申上げて可からうと思ひます、「皆様女子学院の根本を忘れないで下さい。是は聖書に示されたるキリストの福音であります。キリストは死に勝ち、死して甦り、今は天に在りて万物を統治《すべおさ》め給ひ、そしてやがて時到れば再び臨《きた》りて死せる者と生残れる者とを審判き給ひます。永遠に生き給ふ(187)イエスキリスト、彼を信ずる事が真の生命であります。そして彼を信じて地震も火事も、死其物も私供の真の生命に何の危害をも加ふる事は出来ません。皆様、女子学院が特に皆様に教へんと欲した事は此事であります」と。そして今回の震災に由て此福音が日本国に取り何よりも大切なる者になりました。今より後日本国を開発する者は西洋文明ではありません。霊魂の光にして其生命なるキリストと其福音であります。どうぞ皆様、女子学院の卒業生として、皆様が受けられし此宝を此際特に用ひて下さい。是が今日の此追悼会を最も意味深き者たらしむる事であると信じます。

(188)     誘惑に勝つの途

                           大正13年3月10日

                           『聖書之研究』284号

                           署名 内村鑑三

 

  我等を試誘《こゝろみ》に遇《あは》せず悪より拯出《すくひいだ》し給へ、国と権《ちから》と栄とは窮りなく爾の有なれば也(マタイ伝六章十三節)

  汝等が遇ひし試誘は人の常ならざるはなし、神は信《まこと》なる者なり、汝等を耐忍ぶこと能はざる試誘に遇せじ、汝等が其試誘を耐忍ぶことを得ん為に其れに添えて逃るべき途を備へ給ふべし(コリント前書十章十三節)。

  誘《さそ》はるゝ者は神我を悪に誘ふと言ふ勿れ、神は悪に誘はれず、亦人をも悪に誘ひ給はず、人の悪に誘はるゝは己の慾に引かれて誘はるゝ也(ヤコブ書一章十三、十四節)。

〇人は何人も誘惑に遇《あ》ひます、そして之に勝つと負けるとに由て彼の運命は定まります。強い人には強い誘惑が臨みます。弱い人には弱い誘惑が臨みます。そして誘惑に対する時に人は何人も己が弱きを感じます。シエークスビヤの『ハムレット』劇に Frailty, her name is woman.(弱い事其名を称して婦《をんな》と云と云ふ言がありますが、弱い者は婦に限りません、男も亦弱くあります。コロムウエルも誘惑に遇ひました、彼は神に頼りて之に勝つことが出来ました。ナポレオンも誘惑に遇ひました、彼は自己に頼《たよ》りしが故に之に負けました。縦令《たとへ》コロムウエルと雖も自分の意志に頼て彼が遇ひし誘惑に勝つことは出来ませんでした。況んや我等凡人に於てをやであります。
○誘惑の何たる乎を私供は実験に由て知ります。誘惑は霊に対する肉の要求であります。義に対する美の要求で(189)あります。道理に対する快楽の要求であります。未来に対する現在の要求であります。|より〔付ごま圏点〕高き者に対する|より〔付ごま圏点〕低き者の要求であります。何者かは知りませんが、私供が高きに止まらんとする時に、強き力を以て低きに引下げんとします。私供はその真《まこと》に誘惑なるを知ります。然るに其快感に誘はれて、高きを去つて低きに就くのであります。私供は其時自分の腑甲斐《ふがひ》なきを知ります、然るに自分で何か理由を附して、低しと知りつゝ低きに就きます。是が誘惑であります、堕落であります。私供は日々の生涯に於て此実験を経つゝあります。誘惑に勝つた時に自己の価値が上がつて悦びます、負けた時に下がつて悲しみます。そして敗北を重ぬる場合には、それが当然であると思ひ、人は下がるが自然で、上がるが不自然である、自分も下がつたが故に、他《ひと》も下がるべきであると主張して、他《ひと》の堕落を見て悦び、更らに進んで其前に躓《つまづ》きの石を置いて其堕落を促します。

〇人は弱い者でありまして、誘惑に遇へば之に負けるが常であります。私供は他人が誘惑に遇ふて負けし場合には其意気地なきを責めますが、自分が之に会ふ場合には自分の弱きを以て人間通有の弱きと見做し、自分を憐みて、他人の自分に対する同情を求めます。然し乍ら誘惑はどう見ても善き者ではありません。之に勝つが人たる者の当然の義務でありまして、之に負けるは罪であります。縦し世に一人もすべての誘惑に勝つた者はないとしましても、負けるは明白なる罪であります。私供は人情の弱きを唱へて、堕落に同情し、背倫を謳歌してはなりません。

〇誘惑は大なる力を以て人に臨みます。故に之を勝つ者が本当の勇者であります。ソロモンは曰ひました、「自己の心を治むる者は城を攻取る者に愈《まさ》る」と(箴言十六章卅二節)。即ち誘惑に勝つは城を政取る以上の勇気を要するとのことであります。此言を発せしソロモン自身が婦人の誘惑に勝つことが出来ずして、神の怒を己が身に(190)招きました。英国第一の勇者と称せらるゝネルソン提督は、ツラフハルガーにナポレオンの大艦隊を殄滅《てんめつ》することが出来ましたが、ハミルトン夫人と称する、他人の妻と不義の関係に入ることを抑《おさ》ゆる事は出来ませんでした。人の子のすべての智慧も能力も彼に臨む誘惑に勝つ力としては頼むに足りません。誘惑を軽く見る程の危険はありません。人は誘惑に陥いるも我自身は立派に勝つて見せんと称するは、是れ自己を知らざるの最も甚だしき者であります。

〇然らば如何にして誘惑に勝つを得ん乎。自分の力で勝つことは出来ません。ソロモンやネルソンさへ勝つことの出来なかつた敵に私供が勝つことが出来ると思ふは僭越であります。|誘惑に完全に勝つた人は全世界に只一人あつた丈けであります。主イエスキリストのみ唯一人、誘はれて罪を犯さなかつたのであります〔付○圏点〕。其点に於て彼はユーニク(無此)であります。其他の人は、縦し誘惑に負けないとしても、世を逃げ隠れて誘惑を避けました。イエスのみは誘惑に真正面に対《むか》ひ、之と戦ひ、之を打平らげ給ひました。所謂「野の試誘」は其一例であります。彼は終りまで誘惑と闘つて、終りまで之勝ち給ひました。その一事に於て彼は人類の王として仰ぐに足ります。イエスに就て非難攻撃を加ふる近代の文士論客の内の一人も、此点丈けは彼れイエスに及びません。私供の知る大政治家、大実業家、大哲学家、大著述家……彼等の内の誰がイエスの如くに自己に勝つたことが出来ました乎。此事に於て丈けでも、彼等はイエスを嘲けるを廃めて、兜を脱いで彼に降参すべきではありません乎。

〇そして|此イエスのみが私供にも亦私供に臨む誘惑に勝つことを得しめ給ふのであります〔付○圏点〕。彼に依り頼みてのみ人は何人も自己に臨む誘惑に勝つことが出来るのであります。イエスを信ずるの利益は無限でありますが、其第一にして最も著るしき者は此力であります、即ち誘惑に勝つの力であります。私供が彼に頼り、彼が其聖霊を以(191)つて私供に宿り給ふ時に、私供はソロモンよりも、ネルソンよりも、ナポレオンよりも、遥に偉大なるのであります。其時誘惑は私供に対し全然無能なるのであります。其時政府も教会も、富豪も学者も、私供を誘ふ事が出来ません。私供はシオンの山の如くに堅くあります。イエスが世に勝ち給ひしやうに、私供は|イエスに頼りて〔付○圏点〕世に勝つことが出来ます。ヒブライ書四章十四節以下に言へるが如くであります。

  然れば我等に雲霄《そら》を通りて昇りし大なる祭司の長《をさ》、即ち神の子あり。故に我等信ずる所の教を固く持つべし。そは我等が弱きを思ひやること能はざる祭司の長《をさ》は我等に在るに非ず。彼は凡の事に於て我等の如くに誘はれたれども罪を犯さゞりき(之に負けざりき)。是政に我等|恤《あはれみ》を受け、機に合ふ助けとなる恩恵《めぐみ》を受けん為に、憚らずして恩寵《めぐみ》の座に来るべし。

 世にイエスの如き方の助けを要せざる人は何所《どこ》に在ります乎。此世の教師、文士、思想家、彼等孰れも私供が誘惑と闘ふ時には全然不用であります。彼等自身が此|戦闘《たゝかひ》に於ては敗北者であります。彼等は勿論誘惑の戦闘に於て我等を助けて呉れることは出来ません。

〇信者に取りては信仰是れ道徳であつて、不信是れ不徳即ち罪であります。一寸聞いて甚だ不道理であるやうに聞えます。不信は父なる神に対する不孝であると解して、其罪たることを弁明することが出来ますが、其事を離れて見て、不信は実際罪であるのであります。即ち不信は罪に終るのであります。私供は不信の結果として終には罪を犯すに至るのであります。不信はイエスとの関係を絶つことであります。そしてイエスと関係を絶ちて彼に在る力が私供に臨まなくなります。其結果として誘惑が私供に臨む時に、私供は自分の力で之に勝つ能はずして、罪と知りつゝ罪に陥ります。其意味に於て不信は明白に罪であります。神が誘惑の行はるゝやうな世界に私(192)供を置き給へりと言ひて呟《つぶや》く人がありますが、それは呟くのが無理であります。誘惑に遇ふは人の常でありますが、神は之に勝つの途を備え給ひました。そして其途に従へば誘惑は立派に勝つことが出来るのであります。そして人が自分で誘惑に勝ち得ないのは、彼が神の子であつて、神に頼らねばならぬからであります。頼るべき者に頼つて人生は安全なるのであります。然るに弱き人でありながら、自ら強いと信じて、頼るべき者に頼らざるが故に、彼は人生の戦闘に敗北するのであります。信仰は人が人として取るべき適当の態度であります。人の絶対的独立と称するが如き、赤児の絶対的独立と称すると同じでありまして、寧ろ笑ふべきであります。

〇斯く曰ひて信者は絶対的に誘惑に陥らない乎と言ふに、さうではありません。此弱き体を以て此罪の世に在る限り信者も亦度々罪を犯します。然し其場合に彼は罪は止むを得ない者と認めません。信者は罪を犯して、近頃或る日本の文士が明白なる罪を犯しながら世に表白して言ひしやうに、「私はそれは善か悪か知りません」とは言ひません。信者は罪は自分が犯したればとて罪は罪であると認めます。そして神に還りて其罪を赦して戴いて再び之を犯さゞるやうに努めます。信者は罪を犯したればとて、アダムやカインのやうに神を離れません。彼の罪の身其儘を以て神に還ります。ヨハネ第一書二章一節が此事に就て私供に教ゆる神の言であります。

  人もし罪を犯せば我等の為に父の前に保恵師(仲裁人)あり、即ち義なるイエスキリストなり、彼は我等の罪の宥《なだめ》の祭物《そなへもの》なり

と。私供はキリストを通うして神と繋りて罪を犯さないのであります。神より離れし時に私供は既に罪を犯して居るのであります。故に罪に由て不信を自覚せしめられて、私供は信仰を以て神に帰るべきであります。私供は不信者や背教者に罪を指摘せられたればとて神より離れません。神は私供の滅ぶるのを好み給ひません。|罪其物(193)も私供をキリストに顕はれたる神の愛より〔付△圏点〕絶《はなら》|する事は出来ません〔付△圏点〕。放蕩児《はうたうむすこ》の如くに、罪を犯したる時には、「起ちて我父に往かん」と言ひて父の許に帰ります。私供は神を信じまするが故に、人類に就ても自分に就ても失望しません。誘惑多き此世に在りて、私供は世に勝ち給ひし者を主として仰ぎますが故に安心であります。栄光窮りなく彼にあれであります。(去年八月廿六日軽井沢に於て)

   身《み》を浚ふ誘惑《まどい》の浪は荒くとも

      頼《たの》む誓約《ちかい》の磐は動《ゆる》がじ。

(194)     決心を促す

                           大正13年3月10日

                           『聖書之研究』284号

                           署名 主筆

 

〇神が神である以上は彼は第一であらねばなりません。第一以下に位ゐする者は神でありません。人が若し神を信ずると称して彼を自分の思想又は職業の下に置きますならば、其人は神を涜すの罪を犯す者であります。然るに事実如何と云ふに、多くの人々は神を自分の生活の便利の為に信じます、自分の修養の為とか、思想涵養の為とか、苦痛芟除の為とか称して、神に仕ふるのでなくして、神を使ふて別に悪い事を為して居ると思ひません。私供の所に聖書を研究しに来る人々の内にも屡々斯かる人を発見します。彼等が非常に宗教に熱心であると思へば、其熱心は実は自分の事業の為の熱心でありまして、或は社会事業とか、教育事業とか云ふ事に基督教を研究して置く事が、凡ての方面より見て便利であると信ずるから、熱心に其研究に従事するのを見受けます。又学者は其各自の専門に資せんが為に芸術家は信仰の美を探らんが為に、幾年も熱心に聖書を研究します。然し斯かる人達に聖書の本当の意味の解らないのは勿論であります。彼等は自分では解りませんが、基督信者ではなくしてキリストの敵であります。キリストの台前に自分の思想も職業も、専門も、芸術も、然り自分全体を捧げ得ない者は彼の弟子ではありません(195)

 

(195)     『苦痛の福音』

                             大正13年3月30日

                             単行本

                             署名 内村鑑三

 

初版表紙191×132mm

(196)     自序

 

 此書に収むる所の文は余が書いた者である、之を蒐集した者は畔上である、そして之を出版した者は警醒社書店である。三者は各自其責任を負はねばならぬ。

 此は旧い『東京独立雑誌』並に今猶ほ発行を続けつゝある所の『聖書之研究』雑誌所載の文を拾集《ひろひあつ》めて一書となした者であるが故に、著書と称するよりも寧ろ「雑誌の雑誌」と称すべき者である。随つて『苦痛の福音』の題名の直接に当はまらざる文が多い。載する所は多くは聖書の研究である、故に聖書に親まざる者は之を読んで興味を感じないであらう。余は普通の日本人を慰めんが為に是等の文を書いたのでない事を茲に明白に告白する。

 然れども全編を通しての根柢の思想の、幾分なりとも苦痛を慰むるに足るの福音であることを信じて疑はない。而して其慰めたるや浅い慰めでないことを信ずる。人に依らずして神に頼るの生涯を勧むる言であるが故に、何人も之を読んで幾分なりとも其心の深き所に於て、永遠の父と相見ゆるの聖き歓びを感ずるならんと思ふ。著述流行の今日に方り新たに著書を世に提供するは何人も大に慎まざるべからざる所なりと雖も、然かも此小著の如き、縦し有益の書たらずとするも、無害の書の部類に属すべき者なるを自認して可なりと信ずる。

 何れにしろ今日の日本に於て社会の熱狂的歓迎を受くるは著者に取り大なる恥辱である。腐敗せる社会に歓迎せらるゝ者は自身腐敗せる者である。願ふ此小著、数ふるに足らざる者なりと雖も、今日の日本人の多数に由て読まるゝが如き不幸に遭遇せざらんことを。詩人ミルトンの要求せし
   Fit audience, though few.
(197)   僅少なりと雖も我が意に合《かな》ふ読者を得て、共に聖き深き慰安を分たんことを。

大正十三年(一九二四年)三月十九日             内村鑑三

〔目次〕

苦痛の福音(予定の教義)

単独の讃美

苦しみに勝つの途

悲歎と慰藉

勝利の生涯

享楽と平康と希望

伝道の目的

本当の宗教

霊なる神

罪の贖主としてのイエスヰリスト

聖霊に関する研究

基督再臨の二方面

ペンテコステの出来事

聖霊の降臨に就て

信仰復興の真偽

聖潔と聖別と聖化

隠顕の理

神の道と人の道

義理と人情

パリサイの麪酵

計算の罪

虹の意味

ピルグリム祖先の信仰

(198)     CHINA AND JAPAN.支那と日本

                           大正13年4月10日

                           『聖書之研究』285号

                           署名なし

 

    CHINA AND JAPAN.

 

 Geographically considered,China and Japan form one country:the latter an outpoSt of the former in the Pacific ocean.The two are related to each other as the trunk to its branches;and the China-Japan tree must grow together,else it dies.This is Nature's arrangement and God's will,and no settlement made by politicians can change this eternal appointment. Let politicians scheme as they will;but we God's children will give no heed to tbeir dark counsels,and walk by His light.As for me,my country for which I pray extends from Pamir eastward to the Pacific Ocean,to where the majestic Fuji catches the first ray of the Rising Sun as he begins to shine upon the dark earth,new eVery mornlng.

     支那と日本


 地理学的に観て支那と日本とは一国を形成する。後者は太平洋中に見張する前者の前哨である。二者の関係は(199)幹が枝に対する関係である。而して日支の大樹は共に生長せざれば枯死す。是は天然の配列であつて又神の聖意である。政治家輩の如何なる決定も天の此の永久的指定を変更することは出来ない。政治家輩をして自由勝手に策略を弄せしめよ。我等神の子供は彼等の暗らき謀議に耳を傾けない、神の御光《みひかり》の指示《しめし》に由て歩む。余自身としては、余の祈祈の題目たる余の国はパミール高原以東太平洋に至るまで、荘厳なる富士の峰が朝な朝な新たに暗らき世界を照らさんとて、指し登る朝日の曙光《ひかり》を受くる所にまで達する東方亜細亜全体に亘る大国である。

   我国は天山以東揚子江

     秋津島根を濤洗ふまで。

(200)     浅い日本人

                           大正13年4月10日

                           『聖書之研究』285号

                           署名なし

 

 日本人は浅い民である。彼等は喜ぶに浅くある、怒るに浅くある。彼等は唯|我《が》を張るに強くあるのみである。忌々《いま/\》しいことは彼等が怒る時の主《おも》なる動機であつて、彼等は|深く静に怒ること〔付○圏点〕が出来ない。まことに彼等の或者は永久に深遠に怒ることの如何に正しい神らしい事である乎をさへ知らない。故に彼等の反対は恐ろしくない。彼等が怒りし時には、怒らして置けば其れで宜いのである。電気鰻が其貯蓄せる電気を放散すれば、其後は無害に成るが如くに、日本人は怒る丈け怒れば、其後は平穏の人と成るのである。若し外国人が日本人の此心理を知るに至らば、彼等は日本人を扱ふの途を知つて彼等を少しも恐れなくなるであらう。此点に於て日本の社会主義者も無政府論者も恐るゝに足りない。抵抗せずして放任して置けば彼等の熱心は暫時にして醒めるのである。日本人は牡羊と同じく唯正面より反抗する時にのみ強くある。後方より情実を以て押す時は御すること至つて容易である。而して此は実に歎《なげ》かしい事である。De profundis と称へて深淵の底より湧出る喜《よろこび》と悲《かなしみ》と怒《いかり》とのなき民は浅い小なる民である。彼等の中より偉大と称すべき何物も起らない。深く怒らざる者にキリストは勿論のこと、エレミヤもダンテもミルトンもワルヅワスも解らない。而して人を深くする者にして聖書の教の如きはない。イスラエルの民がモーセ及び其他の預言者等に由て深くせられたるが如くに、彼等の言を収むる聖書が基督教国の(201)民を深くしたのである。欧米人よりイスラエル人の感化を取除いて彼等も亦日本人同様に浅い民である。「深遠、深遠に応《こた》ふ」と彼等の詩人は歌うた(詩篇四十二篇七節)。人は何人もヱホバの神に深くして戴くまでは浅い民である。欧洲にニイチエのやうな基督教に激烈に反対する思想家の起つた理由は茲に在るのである。彼等は基督教に由て深くせられて、其深みを以て基督教を嘲けり又政撃するのである。東洋の儒教や仏教を以てしては到底深い人間を作ることが出来ない。

(202)     イスカリオテのユダ

                           大正13年4月10日

                           『聖書之研究』285号

                           著名 内村鑑三

 

  馬太伝二十六章六-十六節。同四七-五四節。同二十七章三-十節。ヨハネ伝十二章一-八節等。

 

〇イスカリオテのユダとはカリオテ人なるユダの意である。カリオテはユダヤ南方の一邑であつた。故にユダは十二弟子の内に唯一人ガリラヤ人に非ずしてユダヤ人であつた。其事も亦彼の為人を知る上に於て大切である。

〇キリスト伝の研究に於てイスカリオテのユダの経歴は特殊の地位を占むる者である。弟子を知るは師を知るの途であつて、其点に於てペテロ、ヨハネ、マタイ、ユダ等何の異なる所はない。若しイエスを太陽に譬ふるならば、弟子達は之を中心として廻転する遊星である。其各自の放つ光は異なれども、同じ太陽の光を放つのであつて 之を綜合すれば又稍素の光に成るのである。勿論ユダの場合は他の弟子等の場合と性質を異にし、光を放つに非ずして、反つて之を薇ふなれども、然れども月が太陽の光を遮りて日蝕の現象を起す場合に、我等が他の場合に於て見る能はざる事を見るが如くに、ユダの場合に於て、我等は主イエスキリストに就き、他の弟子等を以てしては知る能はざる事を知るを得て感謝する。ユダの暗らき生涯も亦神の子を顕はす上に於て必要欠くべからざる者であつた。
(203)〇第一に起る問題は、ユダは何故にイエスに来りし乎、又はイエスは何故に彼を十二弟子の内に加へ給ひし乎、それである。其内に今日の我等には到底解し難き理由があつたとするも、ユダも亦他の弟子等と同じく、ナザレのイエスに於て、ユダヤ民族共通の理想的人物を見たと思ふから、彼の後に従うたに相違ない。アンデレが其兄弟ペテロに遇ふて「我等メツシヤに遇へり」と告げ、又ビリポが其友ナタナエルに遇ふて「我等|律法《おきて》の中にモーセが載せたる所、預言者等の記しゝ所の者に遇へり、即《〔すなわ〕》ちヨセフの子ナザレ.のイエスなり」と言びたりとあるは、克く弟子等全体の初めてイエスに来りし時の心を語る言《〔ことば〕》であつて、ユダが初めてイエスに来りし時も亦此心を以つて来たりし事はたしかである《ヨハネ伝一章四一節並に四五節》。ユダヤ民族に自由を与へ、彼等を率ゐて神の国を地上に建設するの資格と能力とを具へたる人物即メツシヤ、イエスは新《〔この〕》人であると思うたから、彼等は孰れも家を棄て、友を去りて彼の弟子と成つたのである。其点に於てユダにも亦愛すべき所があつた。イエスが彼を愛して随身の弟子の一と為し給ひし事は無理からぬ事である。

〇而して亦、弟子全体が長らくの間イエスを誤解した事も明なる事実である。彼等はイエスを|彼等が思ふ如きメツシヤ〔付△圏点〕として見た、即ち絶大の政治家又愛国者又改革者として見た。彼等も亦時代の子供であつて、時代の眼を以てイエスを評価した。其点に於てユダもヨハネも同じであつた。馬可伝十章三十五節以下の左の記事の如きが、克く彼等の此の心の状態を語る者である。

  ゼベダイの子ヤコブとヨハネ、イエスに来りて曰ひけるは、師よ、願くは我等が求むる事を我等に為し給へ。イエス彼等に曰ひけるは、汝等我が何を為さん事を願ふや。彼等曰ひけるは、汝栄に就き給はん時に、我等の一人を汝の右に、一人を左に坐せしめよと………十人の弟子等之を聞きてヤコブとヨハネを憤れり。

(204) 即ち弟子等全体がイエスを大なるダビデ王の如き者なりと思ひ、彼が功成りて位に即き給ふ時は其左大臣たり又右大臣たる事を夢想したのである。憐れと云へば憐れである。馬太伝二十章廿二節に由れば、イエスが彼等に答へて、「汝等は己が求むる所を知らず」と曰ひ給へりとある通り、イエスは彼等の此浅ましき心に甚く失望し給うたのである。師の心弟子知らずであつて、弟子等は十字架の悲劇が演ぜらるゝまで、イエスの何たる乎を解し得なかつたのである。

〇斯くして弟子等の失望はイエスの失望に劣らなかつた。而してユダの失望は殊に甚しかつたのである。彼は彼の理想がイエスに由て終に実現せられざるを見て、悲憤慷慨措く能はざるに至つたであらう。彼は時にはイエスに欺かれたやうに感じたであらう。又時にはイエスを刺戟して、彼が期待せし事業を遂げしめんと思うたであらう。時にはイエスを怒つたであらう、又時には彼を愛するの余り、彼の逡巡怠慢を惜んだであらう。彼は幾度か独り窃に地だんだ踏んで泣いて曰うたであらう、「我が先生は何故に起たざる乎、彼は終に我等の期待に叛き、イスラエルを救はずして止むのであらう乎」と。其心情や実に推察すべき者がある、然し乍らイエスとしてはユダの望に従ふ事は出来なかつた。彼は彼(ユダ)の衷に大危険の潜むを知り給うた。然し彼は天に在す彼の父の聖旨《みこゝろ》に従はねばならぬ。ユダの心の此状態を見透し給ひしイエスに亦堪へ難き悲哀があつたに相違ない。

〇そしてイエスとユダとの分離が終に起つた。事はベタニヤのマリヤのイエスに対する行為を以て始つたのである。彼女が価高きナルドの香膏《あぶら》を以てイエスの頭《かうべ》と足とを塗しに対し、ユダは反対を唱へ、「此香膏を何ぞ銀三百に売り貧者に施さゞる乎」と曰うた。之に対してイエスは答へて曰ひ給ふた「彼女に干与《かゝは》る勿れ、我が葬の日の為に之を貯へたり、貧者は常に汝等と偕に在り、然れども我は汝等と偕に在らず」と。(馬可伝十四章三節以下、(205)ヨハネ伝十二章一節以下を見よ)。茲にイエスとユダとの間に思想上の大相違のある事が明かに現はれたのである。イエスは御自身の死に世を救ふが上に至要の意義の存するを認め給ひしに対して、ユダは救拯を世の常の意味に解し、貧者に施し、社会の生活状態を改むる事と信じた。即ちイエスに取りては救拯は霊魂の事、主として未来の事、そして其途は神の子の贖罪の死を信ずる事であるに対して、ユダに取りては肉体の事、社会国家の事、現在の事、そして其途は神の国を地上に建設して、世界万民を治むる事であつた。二箇の思想は実際的に到底両立し得べき者でない。ユダは茲に自己に覚めた。彼がイエスに望みし事はイエス自身が遂げんとする事とは全く異なる事が判明した。彼の失望は其極に達した。而して堪へ難き悲憤は之に伴うた。如何にして之を癒さん乎と彼は千々に彼の心を砕いたであらう。彼の立場に立ち彼に対し深き同情なき能はずである。

〇イエスに係はるユダの大失望が彼を駆つて彼の大叛逆に逐ひやつたのである。事は悲惨の極である。人類の歴史に於て演ぜられし最大悲劇は此事である。悪人が善人を売つたのではない。善人が善人を売つたのである。イスカリオテのユダは如)見ても後世の教会が想像に画いたやうな悪人ではなかつた。ヨハネ伝十二章六節の「彼が如此言へるは貧者を顧《おも》ふに非ず、窃者《ぬすびと》にて且|金嚢《かねいれ》を帯《も》ち、其の中に入りたる物を奪ふ者なれば也」との言は多分後世の記入であつて本文に属すべきものではあるまい。ユダは愛国者であつて、人類の友であり、イスラエルの復興に由て世界の平和統一を期した者であつたと思ふ。然るにイエスが此理想に副はざるに失望して、かの恐るべき過失に陥つたのであらう。彼が必しも悪意を以て彼の師を売りたりとは思へない。彼は或は心の中に独り言うたであらう、「我れ彼を彼の敵に渡して或は彼の最後の決心を促すに至るやも知れず。彼は屡々奇蹟を行ひたれば、奇蹟を以て己が身を救ふであらう。彼を危険に導くも危険が彼の身を害ふの虞はない」と。彼はイエ(206)スに失望せしも最後まで彼を信じたであらう。然るに事の成行は彼の想像に反し、終に髑髏山上に彼の先師の十字架に懸るを目撃して、彼は失望の上に更に失望を重ね、イエスを売りし銀三十を殿に投棄て、其処を去りて自から溢れ死んだのであらう(馬太伝廿七章五節)。

〇然らばユダの罪は何処に在つた乎。|それは彼が余りに強く自己を信ずる事に在つた〔付◎圏点〕。彼は最後まで自己の思想を変へ得なかつた。其点に於て彼は他の弟子等と異なつた。イエスを初めに誤解せし点に於て十二弟子等は皆な同じであつたが、ユダを除く外は、イエスの教訓に順ひ、徐々と自分等の誤り居るを悟り、イエスの思想を以て自分等の思想と成すに至つた。然るにユダ一人には此転換の能力がなかつた。彼は自己を信ずる事余りに強くして、最後まで自己の意見を押通した。彼は「救拯は斯くあらねばならぬ、メツシヤたる者は斯く為さねばならぬ」と信じて、寸毫もも其信仰を変へなかつた。徹底と云へば徹底である。然れども頑固と云へば頑固である。西洋の諺に「智者は変はる」と云ふが、ユダは其意味に於て智者でなかつた。彼はイエスの許に来つて、イエスに教へられんとせずしてイエスを以て自己の思想を実行せしめんとした。是れ彼の陥りし最大の誤謬《あやまり》である。そして従順ならざる徹底は大なる罪悪である。徹底と云へば立派に聞えるが、其源は傲慢である。自己を慧《さと》しとする事である。そして人に此心が残りて彼は終に滅亡《ほろび》に往かざるを得ない。人になくてならぬものは教へられんと欲する心である。ユダに此心が無つた、故に彼は滅びた。他の弟子等に此心があつた。故に誤謬の中より救出されて、永生の幸福に与る事が出来た。
○近代人は如何に? 自己を信ずるの強きが其特徴ではない乎。教へられんと欲して師を求めず、自己の思想の実現を期して彼に到る。其点に於て彼等はユダと同じである。そして彼等の最後も亦ユダのそれと変異ならない。彼(207)等は自分の理想の実現を他に於て見んと欲して、失望悲憤の中に其一生を終る。彼等は自分を信ずる事余りに強くして、他人の思想の自由を重ずるの余裕さへない。万事を自分の思想に依て行はんとする、故に事に当つて砕けるのである。我等すべてにダビデの謙遜がなくてはならぬ、曰く「ヱホバよ、汝の大路《おほぢ》を我に示し、汝の径《みち》を我に教へ給へ、我を汝の真理《まこと》に導き給へ。汝は我が救の神なり、我れ終日汝を俟望む」と(詩篇二十五篇四、五節)。正直であり誠実である斗りでは足りない、砕けたる心の人と成らねばならぬ。ユダはイエスより直に教を受けて終にコンボルシヨン(心の改造)の経験を有たずして終つたのである。彼は信仰的流産の悲しむべき実例である。(三月二日)

(208)     イエス対ユダ
                           大正13年4月10日
                           『聖書之研究』285号
                           署名なし

  馬太伝二十六章。同二十七章一
——一〇節。ヨハネ伝十三章。其他四福音に散在するユダに関する記事を参照すべし。
〇我等は前回の講演に於てユダのイエスに対する態度に就て考へた。今回はイエスのユダに対する態度に就て研究せんと欲する。我等何人もユダたり易く、又何人もユダを持《もた》せらる。我等ユダたらざらんと欲して努めねばならぬと同時に、又ユダを持せられし場合には主の御足《みあし》の跡に従ひて試みられて罪に陥らぬやう努めねばならぬ。此世は坂道の世である。人は何人も坂道に処するの途を学び置く可きである。
〇第一に注意すべきは、イエスが唯の一回もユダに向つて怒を発し給はざりし事である。其点に於てユダはペテロと違ふ。ペテロも亦ユダと同じくイエスを誤解し、自分の思考《かんがへ》を以てイエスに押附けんとした。彼がイエスを引止めて十字架の死を避けしめんとせし時に、イエスは反顧《ふりかへ》りて彼を責めて曰ひ給うた、「サタンよ、我が背後《うしろ》に退け、汝は神の事を思はず人の事を思へり」と(馬太十六〇廿三》。イエスにサタンとまで呼ばれし者は十二弟子の内ペテロ一人であつた。然れども真《まこと》のサタンは別に居たのである。そして真のサタンは唯の一回もサタンと明らさまに呼ばれなかつたのである。イエスのユダに対する態度に最後まで一種の遠慮があつた。彼は幾回か忠告(209)を彼に与へた、然れども其忠告はすべて一般的であり又間接的であつた。「躓かさるゝ事必ず来らん。そを来らす者は禍ひなる哉、躓かするよりは磨石《ひきうす》を頸《くび》に懸けられて海に投入れられんこと其人の為に宜るべし」との言の如き、たしかに其一であつたらう(路加十七〇二)。ガリラヤ巡廻中に、未だ死の影さへも彼の身に副ふとは思はれざりし頃、イエスは弟子等に告げて曰ひ給うた「人の子人の手に附《わた》され且つ殺されて第三日に甦るべし」と(馬太十七〇廿二)。而して彼の死の近づくに循ひて預告は益々明白になつた。彼れ弟子等を伴れてヱルサレムに上る途中に、人を離れて特に十二弟子等に告げて曰ひ給うた「我等エルサレムに上り、人の子は祭司の長と学者等に売られん、彼等之を死罪に定め云々」と(同二十〇十七)。そして最後に晩餐の夜に彼ははつきりと曰ひ給うた、「我れまことに汝等に告げん、|汝等の内一人〔付△圏点〕我を売《わた》すなり」と(同廿六〇廿一)。然れども売す者はユダなりとは終りまで明言し給はなかつた。そしてサタン既にユダの心に入り、其決心の動かすべからざるを知り給ふや、彼は多分低声にて、他の何人にも聞えざるやうに、殆んどユダ一人に囁《さゝや》くばかりに曰ひ給うたのであらう「汝が為さんとする事は速に為すべし」と(ヨハネ十三〇廿七)。
〇此は果して義《たゞ》しき途であつたらう乎。愛の途であつたらう乎。イエスがユダに対し幾分なりと遠慮し給ひし事が、彼が終に彼に叛くの原因となつたのではあるまいか。若しイエスがペテロに対せし態度を以てユダに対し、サタンの彼を誘《いざな》ひし場合には明らさまに彼をサタンと呼び、明々白々、彼をしてイエスの前に自己を隠すこと能はざらしめしならば、彼は自己に恥ぢて罪を悔い、信仰の生涯を完成《まつとう》するを得たではあるまい乎 斯う思ふで思へない事はない。然れども事はイエスの内的生命に関する事であつて、他人の悉く之を窺ひ知る能はぎる事である。唯我等の知る事は|信頼はすべての場合に於て信頼を喚起さない事である〔付○圏点〕。信頼すべき者を信頼して彼の悔(210)改を促し、信頼すべからざる者を信頼して却て彼を沈淪《ほろび》に導く。サタンと呼ばれて自己に覚むる者があり、怒りて離れ去る者がある。ペテロは前者であつてユダは後者であつた。イエスの目的は勿論ユダに悔改を起すにあつた、故にユダはユダとして扱はざるを得なかつた。特にペテロを愛して、特にユダを悚《うと》んじたと云ふのではない。病人に循つて薬を投ずるのであつて、ユダを救ふの途はペテロを救ふの途と異つたのである。
〇|悔改は自分より起らねばならぬ〔付○圏点〕。如何なる圧迫も之に加へてはならぬ。神と雖も人を悔改に導くに決して圧迫を加へ給はない。イエスは神の子の権能を以てして何人をも悔故に導かなかつた。然り導き得ないのである。教へる、忠告する、暗示する、すべての方法を以て悔改を助ける、然れども人に代つて悔改を起さない、然り起し得ない。人に白由意志のある以上、此は止むを得ない事である。人の尊きは茲に在る、神さへも人の自由を重んじ給ふ。イエスは最後までユダに悔改の機会を供し給うた。「我れ一撮《ひとつまみ》の食物を濡《つけ》て与ふる人は其人なり」とまで曰ひて「汝は其人」なりと言はん計りに曰ひ給うた。然れどもユダは悟らず、終にイエスの思ふ所に従はずして、己が思ふ所を行はんとした(ヨハネ十三章廿六、七)。イエスの努力、ユダの頑強、両つながら驚かざるを得ない。
〇茲に於てか第二の問題が起るのである。イエスは何故に早くユダの叛逆を看破し、彼を斥けて御自身と弟子等の安全を計り給はざりし乎。救ひ得る者を救はんとして忍耐努力するは可なりと雖も、到底救ひ得ざる者を終りまで寛《ゆる》して、彼は無益の災害《わざはひ》に御身を委ね給はざりし乎。忍耐にも程度があつて、御自身を滅さしめてまでも反逆者を忍ぶの必要ある乎と。そして若し他人がイエスの立場に立つたならば多分斯く為したであらう。先んづれば人を制し、後るれば人に制せらる。日本は露国に敵意あるを看破したれば、開戦の宣告を待たずして旅順港に(211)露国艦隊を撃破した。独逸も亦同一の理由の下に、白耳義国の中立を犯して仏国に侵入した。自分の権利も時には之を尊重せざるべからず。イエスのユダに対する態度は此点から見て没常識ではあるまい乎。
〇然れども天の地よりも高きが如く、神の道は人の道よりも高くあるのである(イザヤ書五五章九)。人はさう思へども神はさう思ひ給はないのである。ユダ一人の為に斯くも忍耐努力し給ひしイエスは、之を最善の道と思ひ給うたのである。ユダを退くるは易くあつた 然れども之れは愛の道でなく神の聖旨でない。人の子は悪人の手に売られ十字架の苦難《くるしみ》を味はねばならぬ。そして其飲む杯が苦くあり得る丈け苦からんが為に、彼は敵ならずして友に売られねばならぬ。此は彼に就て予め定められし事であつて、彼は父の降し給ふ杯を辞してはならない。ユダは人の子が贖罪の死を遂げん為の神の器《うつは》なるやも知るべからず、若し然りとすれば彼を退くるは死を辞するに等し。何れにしろ悪は拒むべからず、明白に悪として顕はるゝまで待つべし。神の人が人と争ふ時に最後の打撃は敵をして之を加へしむべし、我より進んで之を敵に加ふべからず。是れ蛇の頭を砕く唯一の途である。悪を以て悪に報ゆるは神の道にあらず、又蛇を絶《たや》すの途にあらず。イエスは終りまでユダを忍びて彼が神の独子たるの途を完うし給うたのである。
〇まことにイエスに取りユダは大なる心配の種であつたに相違ない。|友を扱ふは易し、敵を扱ふは難し〔付△圏点〕。彼の最善を計らざるべからず、然れども彼の意思に従ふ事は出来ない。憎んではならず、さればとて情に於て愛する事は出来ない。ユダはまことにイエスを苦しむる身中の刺《とげ》であつたに相違ない。然れども心配は終に取れた。ユダの正体がおのづから明かになつて、彼は退けられざるに自《みづ》からイエスの許を去つた。「さてユダは一撮《ひとつまみ》の食物を受けて直に出で往けり、時は既に夜なりき」とある(ヨハネ伝十一章三十)。而してユダ去りて、弟子団は潔《きよ》き疵(212)なき者となつた。 エスは今は心置なく寛ぎて彼の心中を弟子等に明かす事が出来た。長く待たれし楽しき時は終に来つた。他人入らずの師弟の団《まどゐ》である。今は何を語るも誤解せらるゝの虞はなかつた。「思ふどちまろゐする夜は唐錦、断たまく欲《を》しきものにぞありける」である。「汝等心に憂ふること勿れ、神を信じ亦我を信ずべし。我が父の家には第宅《すまひ》多し、然らずば我れ預て汝等に之を告ぐべきなり、我れ汝等の為に所を備へに往く云々」と。ユダが祭司の長、学者等とイエス売渡の交渉を重ねつゝありし間に、茲にイエスと弟子等との間に愛の筵《むしろ》は開かれて、神の子が其地上の生涯に於て発し給ひし最も美はしき辞が述べられたのである。然れども楽しき時は僅に半夜……ユダの偕に居らざりし半夜、イエスの口より愛の辞の迸りし半夜、ヨハネ伝十四章より十七章までが与へられし半夜、実に貴い半夜である。ユダが如何にイエスの伝道を妨げしかは、彼れ去りし後の半夜の出来事に由て推量する事が出来る。然し妨害ではなかつた、成就であつた。人の罪は神の聖旨を打消す事は出来ない。ユダの叛逆は神の子が原罪の血を流すの機会となつた。然れども罪は罪であつて、功績《いさほし》でない。ユダは責むべきである乎、憐むべきである乎。我は知らずと雖も、但だ彼を憎んではならない。イエスは終りまで彼を愛し給うた。我等も亦我等に叛く者を扱ふにイエスがユダを扱ひ給ひしが如くに為さねばならぬ。
〇ユダの生涯に一つ惜むべき事がある。それは彼が自己に対して取りし最後の所置である。彼れ自己の非を悟りしや、祭司の長《をさ》長老等の所に到り、イエスを売りし銀三十枚を返し、その受けられざるを見るや、之を殿《みや》に投入れて、其処を去りて自から縊死した(馬太二十七章一
——十節》。是れ彼が為すべからざる事であつた。彼は茲に彼に供せられし救の最後の機会を失つたのである。|彼は此時祭司の所に往かずして、髑髏山上のイエスの十字架の下〔付△圏点〕に走るべきあ。そして彼に彼の罪の赦しを乞ふべきであつた。其時イエスは如何ばかり喜び給うたであ(213)らうか。彼は勿論直に彼を赦し給うたであらう。そしてユダの悔改を此世の最後の喜びとして彼の気息《いき》を引収り給うたであらう。そしてユダは悔改めて赦されし罪人の模範として再び十二使徒の仲間に入り、多分パウロの働きに異ならざる働きを為したであらう。実に惜しい事であつた。|ユダは此事を為し得なかつたが》、他のユダ等は勇んで此事を為すべきである〔付○圏点〕。悔改むるに遅過《おそすぎ》る時はない、又悔改は大なる勇気を要する。神が喜び給ふ事にして悔改の如きはない。悔改は傲慢の正反対である。ユダは傲慢の為に最後まで悔改め得なかつたのである。(三月九日)

(214)     伝道の可否

                           大正13年4月10日
                           『聖書之研究』285号
                           署名なし

〇人の為を思ふて伝道は為す可きである乎、為す可からずである平、判明しない。伝道に由て信者に成る者は甚だ少ない、而して其少数者の内で、信仰を持続する者は更に少ない。多数は信ぜず、信ぜし者の内の多数は背教する。此事を思ふて伝道の熱心は全く絶え、伝道は為す可からずとの結論に達せざるを得ない。然し乍ら伝道は人の為ではない、神の為である。神が伝道せよと命じ給ふが故に為すのであつて、人や社会や国家の為に為すのではない。福音は或人を救ひ、或人を滅す。そは止むを得ない事である。「此嬰児はイスラエルの多くの人の頽《ほろ》び且つ興らん事と誹駁《いひさからひ》を受けん其|号《しるし》に立らる」と老ひたるシメオンはイエスの母マリヤに告げて曰うた(路加二章三四)。即ちイエスに由て多の人が興つたのみならず又頽びたのである。そして真理と其体現者とは斯くあるが当然である。故にパウロも自己を神に献げらるゝキリストの馨《かうば》しき香《にほひ》に譬へて曰うた
  沈淪音《ほろぶるもの》の為には死の香《にほひ》にて彼等を死に至らしむ、然れども救はるゝ者の為には生の香にして彼等を生に至らしむ
と。福音に由て救はるゝ人があり、滅ぶる人がある。其事は何も伝道の善悪に由るのではい。福音の性質が然らしむるのである。

(215)     〔支那伝道 他〕

                           大正13年4月10日
                           『聖書之研究』285号
                           署名なし

     支那伝道

 本誌読者の有志に由て組織せらるゝ世界伝道協賛会は支那内地伝道会社の事業に参与する事を許され、此たび山西省平陽府に於けるウイルソン紀念病院に勤務する支那人医師張氏の給料を負担する事に成つた。年額僅に八百円にして実に赧顔の至りなりと雖も、為さぬに勝さる事業であると思ふ 猶ほ会員諸君の賛助を待ちて、更に二人三人と、同様の医師伝道師を支那内地に配置するに至らん事を祈て止まない。茲に読者諸君の広き伝道心に訴ふる次第である。

     師道の転倒

 日本人にして自《みづ》から人の弟子なりと称しながら其人に向ひて「我に斯く教へよ」と命ずる者が尠くない。彼等は斯く為して自から師の師と成りし事に気附かない。師たり弟たるは彼等の自由である、然れども弟たる以上、師に教へられんと欲し、師に教へんと欲してはならない。彼等はまた師の師たらんと欲する時は、先づ明白に己(216)がもはや弟たらざる事を告白し、然る後に先きに師として仰ぎし人を教ふべきである。然るに此事を為さずして、自分は依然として責任軽き弟の地位に居り、責任重き師を諧へ且つ指揮せんと欲す。此は不義であるよりも寧ろ卑怯である。殊に「君面を冒して諌む」と云ふが如き旧き東洋道徳は、彼等が近代人たる名に対しても、今日直に抛棄すべきである。今の世に勘当もなければ破門もない。唯紳士道あるのみである。就《きた》るも去るも彼等の自由である。紳士的に就り、紳士的に去れば、それで万事は済むのである。

(217)     THE EXCLUSION BILL.排日法案
                           大正13年5月10日
                           『聖書之研究』286号
                           署名なし
 
    THE EXCLUSION BILL.

 The Exclusion Bill passed through the American Congress. Politics may not be Religion,but Exclusion and Christianity seem to go ill together.“There cannot be Greek and Jew,barbarian,Scythian, bondman,freeman,”says the Bible.But God too hath the Exclusion Law.It reads as follows:
      “And I say unto you,that many shall come from the east and the west, and shall sit down with Abraham, and Isaac,and Jacob,in the kingdom of heaven:but the sons of the kingdom shall be cast forth into the outer darkness:there shall be the weeping and gnashing of the teeth.”
  In the Golden Gate of heaven,many shall be excluded who excluded otbers on earth.We need not retaliate,but wait.

(218)     排日法案

 排日を主とする東洋人排斥法案は米国議会を通過した。政治は宗教でないかも知れない。然し乍ら排斥と基督教とは一致せざる様に見える。「ギリシャ人とユダヤ人、或は夷狄《えびす》或はスクテヤ人、或は奴隷或は自主の別なし」とは聖書の教ふる所である(コロサイ書三章十一節)。然かはあれども神にも亦排斥の法律がある、即ち左の如し
  我れ汝等に告げん、多くの人々東より西より来りてアブラハム、イサク、ヤコブと偕に天国に坐し、国の諸子《こども》は外の幽暗《くらやみ》に逐出されて其処にて哀哭《かなしみ》切歯《はがみ》する事あらん
と(馬太伝八章十一、十二節)。天国の「金門」に於て、地上に於て異人種を排斥せし多くの人等は排斥せらるゝであらう。我等は復讐するに及ばない、唯待ち居れば可い。

(219)     行詰《ゆきつまり》と救情《たすけ》

                           大正13年5月10日
                           『聖書之研究』286号
                           署名なし

 

   There is wideness in God's mercy,
   Like the wideness of the sea.
   神の恵みは広きかな、
   海の広きが如く広し。
 神に行詰はない。行詰は人の事であつて、神の事ではない。神が時々人をして行詰らしめ給ふは人が彼(神)に依りて新たに運命を開かん為である。「神は凡ての人を憐まんために凡ての人を不順(反逆)の中に取籠《とりこ》め給へり」とあるが如し(ロマ書十一章三二節)。人が自分で自分を援け得ると思ふ間は、次第次第に窮境へと逐詰めらる。然れども一たび自分に助けなき事を悟り、上を仰いで神の助を祈り求むれば、恩恵の道は彼の前に開けて、彼は無限の神の園に、無限の自由を楽しむに至る。「此苦しむ者叫びたればエホバ之を聴き、その凡ての患難《なやみ》より救ひ出し給へり」とあるが如し(詩篇三十四篇六節)。
〇人に於て然り、国に於て亦然りである。日本の今日の如き、実に八方塞りである。全世界は日本人に対して其門を閉ぢ、友邦米国すらも排日を其の国是となすに至つた。そして外に発展の途を閉ぢられし日本人は、内に(220)風紀紊れ、精神萎靡し、愛心衰へ、同胞相苦しめて些少の快楽を貪るに至つた。此状態にして継続すれば五十年を経ずして亡国は確実である。然し乍ら失望するに及ばない。日本人も亦神の造り給ひし民である。求むるに途を以てすれば大恩恵は彼等にも亦加はるのである。|神が日本人の途を塞ぎ給ひしは、彼等をして神を求めて更らに偉大なる国民たらしめん為である〔付○圏点〕。神の救拯の聖手《みて》は今猶ほ緩まない。日本を救ふの道は幾らでもある。我等神を信ずる者は日本今日の窮境に彼の愛の指導を認むる。此は曙を知らす真暗黒である。日本を真の神国となす時が近いたのである。神に倚りて排日何かあらん。紅海の岸に立《たて》るモーセ、ダンバ戦争前のコロムウエルが想出さる。神は近き将来に於て日本に於て大に聖栄《みさかへ》を揚げ給うであらう。

 

(221)     鈴木錠之助君を葬るの辞

                           大正13年5月10日
                           『聖書之研究』286号
                           署名 内村鑑三

 

  エノク六十五歳に及びてメトセラを生めり。エノク メトセラを生みし後三百年神と偕に歩みて男子女子を生めり。ユノクの齢はすべて三百六十五歳なりき。エノク神と偕に歩みしが神彼を取り給ひければ居らずなりき(創世記五章二一-二四節)。

  信仰に由りてエノクは死《しな》ざるやうに移されたり。神彼を移しゝに因りて人見出すことを得ざりき。彼れ未だ移されざる先に神に悦ばるゝ者と証《あか》しせられし也(希伯来書十一章五節)。

〇聖書がエノクに就て記《しる》す所は至て僅少《わづか》であります。然し乍ら其僅少の内に深い意味が含まれてあります。エノクの生命は短かくありました。(父ヤレドは九百二十六歳、子メトセラは九百六十九歳と記さる)。彼の為した事は簡単、随て彼に関する記録は僅少でありますが、彼は神の人としてアブラハム、モーセと共に数へらるゝ人でありまして、信仰の勇者として其名を人類の歴史に留めた者であります。

〇エノクの一生は一言を以て之を言尽すことが出来ます。彼れ「神と偕に歩みて男子女子を生めり」と。普通の生涯でありました。之ぞと云ふ目立つた事を為さず、静粛にして勤勉、父母に孝、友人に信、為すべき事を忠実に為して其短き一生を終つたのであります。誠に無為平凡の生涯のやうに見えます。然し平凡でなかつた大事な(222)一点がありました。夫れは彼が神と偕に歩んだと云ふ事であります。彼は洪水以前の不信の世に於て、すべての人間が肉慾に耽りつゝありし間に、独り世の人と行為を共にせずして、神と共に歩みました。彼の日々の生涯が、当時の社会に在りて異様でありました。人は多分彼を変人と見做しましたらう。然し彼に対して尊敬を払はずには居られなかつたでありませう。彼の行為其物が教訓であり警告でありましたらう。彼は別に預言者として民の罪悪を責めなかつたでせうが、然し彼の沈黙の生涯が有力なる説教であつたに相違ありません。

〇そして彼の生涯が静であつたやうに、彼の死が静でありました。「神、彼を取り給ひければ居らずなりき」とあります。人は彼が何時《いつ》如何《どう》して死んだか知りませんでした。只彼が此世に居らなくなりしを見て、彼が死《しに》しことを知りました。預言者の生涯にあらず、又殉教者の死にあらず。静なる一生を終る静なる死でありました。人の眼より見て味の無い生涯でありましたが神の御眼より見て価値《あたひ》いと貴き生涯でありました。

〇我が鈴木錠之助君はエノク型《かた》の人でありました。君の生命は短くありました。君は世間に持囃《もてはや》さるゝやうな大事業を為しませんでした。外見に現はれたる君は普通の日本人でありました。故に深く君を知らざる人は君に何等の特異点を発見することが出来ませんでした。然し乍ら明治大正の日本に於て君は稀に見る人でありました。彼は神を信じ、一生神と偕に歩みました。君の為した事は平凡でありましたが、其下に非凡の精神がありました。君はキリストの御父なる真《まこと》の神に悦ばれん為に凡《すべて》の事を為しました。君が君の家を嗣いで日本人として家長の任を尽せしも此精神に因りました。君が慶応大学の教授として学生に教へしも此精神に因りました。君が村の事に鞅掌せしも此精神に因りました。君の友人関係、教会関係、社会関係すべてが皆な此精神に因りました。故に君に変化がなかつたのであります。鈴木錠之助君は何時でも鈴木錠之助君でありました。私供君の友人は君を信(223)頼して誤りませんでした。君は近代教育を受けた人でありましたが、所謂「近代人」ではありませんでした。君の為せし事に調子外れはありませんでした。若し明白なる正義の道があれば、君は唯の一人となりても其通を歩みました。私は十数年間の君との交際に於て、君に不意を打たれた事は一度もありません。普通の道を以て君に臨めば君の賛成は何時《いつ》でも得られました。

〇そして鈴木君の生涯がエノク型でありしが如くに、君の死も亦エノク的でありました。君は死の苦痛を味ふことなく一瞬間にして霊の世界に移されました。「神鈴木君を取り給ひければ居らずなりき」と云ふが君の死を記す為の最も適当の言であります。君は今年復活祭の前日、午前四時三十分不意に居らずなりました。君は其前の安息日に、例《いつも》の如く柏木聖書講堂に現はれ、我等と偕に神を讃美し、聖書を学び、其次ぎの安息日には居らずなりました。|はか〔付ごま圏点〕なしと云へば|はか〔付ごま圏点〕なくあります。然し平穏の極《きはみ》であります。今の世に在りて死に非ずして「移さるゝ」と云ふは鈴木君の死方《しにかた》であります。美《うる》はしの白百合花《しろゆり》に似たる美はしの死であります。私は茲に鈴木錠之助君を我が柏木信仰団のエノクとして葬りたくあります。そしてエノク死して後にノアの洪水が臨みしやうに、鈴木君移されて後に水ならぬ洪水が臨むかも知れません。然し我等イエスを信ずる者はすべて最後の復活の朝を待望みます。其時までサヨナラ我が敬愛する鈴木錠之助君よ!

(224)     米国人より金銭を受くるの害

                              大正13年6月1日

                              『国民新聞』

                              署名 内村鑑三

 

〇米国《べいこく》に有るものは金である。金を除いて米国に有るものは殆ど無い。哲学らしき哲学はない、美術らしき美術は無い。曾て有りし高貴なる精神は今は消えて殆ど跡なしである。文明国として米国マイナス金はゼロであると云うて差支は無い。

〇斯かる金銭国の民より金銭の補給を受くるの害は言はずして明かである。然るに事実如何と云ふに、多くの日本人は今日まで米国人より金銭を受くる事を大なる利益と心得、資金募集と云へば米国に眼を向くるを常とし来つた。基督教主義の学校、慈善団体は勿論の事、宗教に何の関係も無い者までが米国人の金に垂涎して敢て耻としないのである。斯かる次第であれば米国人が段々と日本人を軽蔑するに至りしは少しも不思議はないのであつて、今回の侮辱の如き其一部分は確かに日本人自身が招いた者であると言はざるを得ない。

〇曾て米国の富豪カーネギーが其故国なるスコツトランドに図書館建設の為に数百万弗の金の寄附を申込んだ事がある。其時スコツトランド人は何何した乎と云ふに、彼等は挙国一致して之を拒絶した 彼等は曰うた「若しスコツトランド人が図書館を必要とするならば自身之を建設する、殊更に米国人の寄附を仰ぐに及ばない」と。之に比べて日本人は何うした乎。早稲田大学を初めとして、競うて寄付をカーネギーに乞うたではない乎、実に(225)恥かしい事である。

〇私は米国が今回日本に与へし侮辱を機会として、日本人が米国人り金を受くる事を絶対に廃止したい。学校、教会、青年会、其他の公私の団体に於て、米国人の金を使ふ事を大なる耻辱又は危険と信ずるに至つて欲しい。|まことに我が日本魂を腐らすものにして米国人の金の如きはない〔付△圏点〕。我等日本人は、米国人が我等を嫌ふ以上の嫌ひを以て米国人の金を排斥すべきである。

(226)     米国人の排斥を喜ぶ

                             大正13年6月2日

                             『東京日日新聞』

                             署名 内村鑑三

 

 米国人に排斥された事は不愉快千万であり、また種々の点においても多少の不利益はまぬかれないがしかし、よく考へてみて、これは少しも悲むべき事でなくして、かへつてよろこぶべきである。

       *     *     *     *

 日本人は、よし、物質的に多少米国人に益)せられたにもせよ、精神的には、彼れ等より多大の害毒をかうむつてゐる。日本人が今日の如くに、物質慾の奴隷となつたその原因をたづねてみれば、主として米国人の悪感化による事は、何人も否む事は出来ない。

       *     *     *     *

 米国在留の日本人にして、何よりも金を重んじ、金を得る為には、手段方法は措いて問はざるものゝおほきは、これまた著名なる事実である。
       *     *     *     *
 また、米国人のキリスト教なるものは、おほくは浅薄きはまるものであつて、物質的で、党派的で、その根本の精神においては、キリストの精神と全く異なるものである。

(227)       *     *     *     *

 米国宣教師の感化によつて日本人の家庭が破壊され、少しもかへりみられない実例は決して少くない。米国人は、全体として決して日本人の益友ではない。彼れ等が与ふる害は、益よりもはるかにおほいと恩ふ。ゆゑに彼れ等に排斥せらるゝは、大体において大なる幸福である。

       *     *     *     *

 私は、日本人がこの際大いにさとるところがあつて、米国人にたよる事をやめて、友を他に求めんことを切望する。今回米国人が日本人に対してなしたる事の如き、彼れ等の気質としてかゝる場合には彼れ等が当然なすべき事であつて、敢て怪とするに足りない。

       *     *     *     *

 悪友に排斥されたのである。日本人は感謝すべきである。

(228)     米国に勝つの途

                              大正13年6月3日

                              『国民新聞』

                              署名 内村鑑三

 

〇米国の主権者は誰であると思ふ乎。議会? 然らず。大統領? 然らず。マムモン即ち財神である。即ち金である。此神を射殺《いころ》して米国に勝つ事が出来る。我等の戦争《たゝかひ》は夫である。

〇然らば如何にしてマムモンを斃す事が出来る乎と云ふに、|之を先づ我等日本人の心の中に殺してゞある〔付○圏点〕。我等の心の中に米国人の金が欲しくなくなつて、我等は既に米国に勝つたのである〔付△圏点〕。我等は米国に対し戦争を宣告するの必要は少しもない、我等は自己と戦つて、米国人以上の人間と成りて、容易く米国に勝つ事が出来る。

〇夫には第一に精神修養が要る。第二に我国の経済政策の変革が要る。今日まで施されしやうな教育や、行はれ来りし殖産法では到底米国に勝つことは出来ない。茲に於てか対米問題が実は内治問題である事が判明る。精神的にも実際的にも米国が我に不必要に成るまでは、我等は米国に勝つことは出来ない。

〇聖書に曰く「金銭を慕ふは諸悪の原なり」と。日本今日の場合に於ては|米国人の金銭〔付△圏点〕を慕ふが諸悪の原である。日本人たる者は今日此際、先づ第一に米国不必要の態度に自己を置き、先づ衷に米国に勝ちて、然る後に外に勝つの途を講じなければならぬ。

(229)     “GRAVE CONSEQUENCES.”

                                  大正13年6月8日

                                『国民新聞』

                                           署名 Kanzo Uchimura.A graduate of Amherst College of the class of 1887.
 They say,that away at Washington,On the Potomac River,in the United States of America,the phrase“grave consequences”means“declaration of war”,and that its use in diplomatic circles is a covert threat of one nation to the other.But,here in Japan,after toilsome study of the English language with the help of the best dictionaries published in England and America,we can get no other meaning from the phrase than grave consequences”.Consequences areg“rave”when they are“weighty,deserving serious consideration”(Webster).Hence,among its many meanings,a very important one is a possible loss of a trusted friend. Loss of a friend is grave indeed,be he the weakest of mortals,as we all know in our life-experiences.
 Thirty-seven years ago,during my stay in America,trying to suck in all the good things that the land could offer,one day I picked up the following beautiful lines from the pages of the Indianapolis Journal,under the title of“Thy Friend”:
  Thy friend will come to thee unsought,
  With nothing can his love be bought,
(230)  His soul thine own will know at sight,
  With him thy heart can speak out right.
  Greet him nobly,love hi mwell,
  Show him where your best thoughts dwell,
  Trust him greatly and for aye:
  A true friend comes ut once your way.
  I wonder the Journal which furnished such beautiful lines to its readers,still lives. I always pried the gem,translated it into my mother-tongue,and thousands of my countrymen shared my joy and comfort. Now let the Americans read the poem of their own making,and see whether they did not commit a very grave offence through their government by offending“a true friend who comes but once their way”, For America in all her history,has had and shall have no better friend than Japan,Who for the last three-quarters of a century,looked up to her as“a friend,guide and philosopher”,and never proved untrue to a pledge of loyal friendsbip.The consequences of the act of the American Congress,now confirmed by the President,are grave indeed,involving as it does loss of a friendly nation,a true friend,I believe,who came once in America's history.No words can express my pain and sorrow(and indignation,too,)at the grave and disastrous consequences of what I cannot but characterize as the mad and thoughtless act of the American Government in its dealing with the Japanese question.

(231)     EXCLUSION AGAIN.再び米国の排斥に就て

                           大正13年6月10日
                           『聖書之研究』287号
                           署名なし

     EXCLUSION AGAIN.
 Excluded from America, but not excluded from the grace of God! Yea,excluded from America that we may be included in pure,unmixed,unamericanized love of God! How extremely thankful! Excluded from America's shallow democracy, low materialism,and pseudo-Christianities of all sorts, we are truly gainers in this exclusion. The Light of the Sun, the Light of the Gospel, God,Truth,the indigenous Oriental piety,are still ours,and more so by this exclusion.
 Excluded from America,but not from all America! Excluded from its soil,its unenviable citizenship,and its liberties of doubtful characters,butnot excluded from its true Christian hearts! God hath not forsaken America to the extent of utter godlessness. Excluded from America,we include her in our prayers and loving remembramces.

(232)     再び米国の排斥に就て

 

〇米国より排斥された。然し神の恩恵より排斥されたのではない。まことに然り、米国より排斥されたのは神の清き、純粋なる、米国化せられざる愛に懐かれん為である。まことに感謝の至りである。米国の浅薄なる民主々義、下劣なる唯物論、多種多様の偽はりの基督敦より離れんが為であつて、我等は此排斥に由て得る所多大である。太陽の光と、福音の光と、神と真理と、東洋人固有の敬神の念とは猶ほ依然として我等の有である。而して米国の排斥に遭ふて一層確実に我等の有たらんとしてゐる。

〇米国より排斥された、然し乍ら米国全部より排斥されたのではない。其土地より、其羨ましからざる市民権より、其疑はしき性質の自由より排斥された、然れども其内に存する真のクリスチヤンの愛心より排斥されたのではない。神は米国より信仰の全部を取上げ給ふ程に、まだ彼国を見離し給はない。故に米国は我等を排斥するも、我等は心の衷に彼を排斥しない。却て彼の為に祈り、愛を以て彼を記憶する。

   雪をさへ厭はで開く梅の花

     ふるアメリカを何か恐れん。

 

(233)     米国人の排斥を歓迎す

                           大正13年6月10日

                           『聖書之研究』287号

                           署名なし

 

〇今回の米国の日本人排斥は最も歎ずべき事である。之に由て国際的道徳は地を払ふに至り、国は自国の利益の為には友国に対してさへも、何を為しても可なるに至るのである。斯くて七十年かゝつて築き上げられし日米両国の友誼は一朝にして破壊せられて、今より後、太平洋岸の二大国は敵国とまでは行かずとも、|他人国〔付△圏点〕となりて存《のこ》るであらう。

〇然し乍ら是れ出来た事であつて、神の許し給ひし事であると信ずる外はない。そして暗を転じて朝と為し給ふ神は、此暗黒状態の内より大なる光明を招来し給ふと信ずる。政治経済の事は措いて問はずとして、単に信仰の一事よれ観るも、米国よりの疎遠は日本に取り決して悪い事ではない。由来米国人は決して信仰の民ではない。彼等の信仰なる者は此世の慾心を混へたる不純極まる者であつて、其点に於て我等日本人は遥かに彼等以上に神に恵まれたる者である。余輩が屡々本誌に於て論じたるが如く、信仰の事に就て米国人に教へらるゝは、政治の事に就て小児に教へらるゝと同じである。日本人は米国人の宣教を受けて何程《いかほど》害毒を受けた乎、計り知る事が出来ないのである。米国宣教師に由て日本人固有の家庭は破壊され、信仰は俗化され、伝道までが商買の一種と化したのである。米国人は性来《うまれつき》の俗人である。彼等は地の人であつて、為す所思ふ所悉く地的である。純理想主(234)義の一種なる日本の武士道の如き、彼等が解するに最も難しとする所である。斯かる者を我等の信仰の教師と仰いで、我等は自から選んで滅亡の途に就くのである。今や彼等に排斥されて、我等は自己に覚むる事が出来て、此上なき幸福である。敢て米国人を敵とせよと言ふのではない。彼等の中に真の義人善人の有つた事を我等は認むる。然し乍ら|国民として〔付△圏点〕の米国人は我等の益友でない。今より後、我等は彼等に依らずして、亜細亜人として現はれ給ひし神の子ナザレのイエスの|直接の御導き〔付○圏点〕に与かるであらう。

〇実に基督教は素々亜細亜に起つた宗教であつて東洋教である。イエス御自身が東洋人であり、彼の教が東洋流である。然るにも関はらず、斯教を西洋人、而かも其内で最も非信仰的なる米国人より之を教へられ来つた事は、変則此上なしである。今や神の慧《かしこ》き御摂理に由り、米国人より離るゝに至つて我等は益々キリストの奥義に入らんとして居る。如何計りの感謝ぞ。

 

(235)     不死の生命に就いて

                           大正13年6月10日

                           『聖書之研究』287号

                           署名 内村鑑三

 

〇若し不死の生命が有るとすれば、それは有るが故に有るのであつて、有つて欲しいが故に有るのでない。真理は欲を離れて求めざれば得られない。死にたくないが故に死後に生命があると云ふのであると云ひて、此間題は初めより問題となすに足りないのである。不死の生命は必しも有つて欲しいものではない。煩悩は生命に伴ふものである。故に煩悩を絶たんと欲せば生命を絶つに如くはない。我等は睡眠の如何に善きものなる乎を知る。そして死は之を永遠の睡眠と見て甚だ慕はしきものである。世に自殺者多きは此事を証明する。|若し人類多数の欲望から云ふならば、不死の生命は決して望ましきものではない〔付△圏点〕。我をして永久に我が墓に眠らしめよとは多数の祈願《ねがひ》である。此事を最も強く言ひしものはヨプ記三章二十節以下である。曰く「如何なれば艱難《なやみ》に居る者に光を賜ひ、心苦しむ者に生命を腸ひしや、斯る者は死を望むなれども来らず、之を求むるは蔵《かく》れたる宝を掘るよりも甚だし、若し墳墓《はか》尋ねて獲ば大に喜び楽しむなり」と。そしてヨブと祈願《ねがひ》を共にする者は世に幾万人あるか判明《わから》ない程多い。故に若し欲が問題を定《きめ》るならば、不死の生命は有ると云ふよりも寧ろ無いと定らるゝであらう。

〇死後生命の存在を実験的に証明することが出来るとは今や多くの学者の唱ふる所である。其内最も有名なるはサー・オリバー・ロツヂである。彼れ並に彼の同志は、此は既に科学的事実であると称して居る。注意深き哲学(236)的神学者W・L・ウオーカー氏の如きすら、彼は確かに死せる彼の妻と交通を有つたと唱へて居る。所謂|心霊研究《サイキカルレサーチ》は今や一笑に附すべき研究でない。之に多くの謹聴すべき深き真理と固き事実とがある。問題はたゞ我が信仰を其上に築き得るや否やである。

〇然し乍ら基督者の立場から見て死後生命の有無は至て小なる問題である。我等が今日享有する此生命は、死後に継続するも、せざるも基督者は意に留めないのである。彼はキリストと偕に十字架に釘けられし者であつて、此生命に対しては既に死んだ者である。彼は新らしき生命を求むる者であつて、旧い生命の延長を願ふ者でない。彼の求むるものは生命以上の生命である。即ち永生、窮りなき生命である。新約聖書の所謂 Zoe aioniosは是である。之を|永生〔付○圏点〕と訳するも、永くつゞく生命を云ふのではない。|時間に関係なき生命〔付○圏点〕を云ふのである。即ちキリストに在りて現はれたる超時間的生命であつて、時間的生命とは別種別類の生命である。時間を超越したる生命であるが故に無窮であると云ふのである。而かも信者は特に其永きを喜ばないのである。神の生命であつて其聖きを貴むのである。彼は新生又は神生を求むるのであつて、必しも永生を求むるのでない。西洋の諺に「欧洲の一年はカセー(支那)の百年に優さる」と云ふ事がある。新生命の一年は旧生命の百年に優さる。朝に道を聞いて夕に死すとも可なり。縦令一瞬間なりと雖もキリストの生命を身に宿して、我は永久に消去るも可なりである。我等は永きを願ふのではない、聖きを求むる。そして神はキリストに由りて御自身に来る者に此生命を賜ふのである。

〇そして此生命は神の生命であるが故に死ないのである。不死の理由はそこに在るのである。「我れ生《いく》れば汝等も生くべし」と主は曰ひ給うた。神の生命を賜はりて人は神と偕に生くるに至る。即ち永久に生くるに至るので(237)ある。そして此は空望に非ず、空論に非ず、基督者の実験である。イエスは居ひ給うた「我言を聞き我を遣しゝ者を信ずる者は永生を有す、且つ審判に至らず、|死より生に遷れり〔付○圏点〕」と。使徒ヨハネは居うた「我等兄弟を愛するに因り既に|死を出て生に入りしこと〔付○圏点〕を自から識る」と。人の生命は神の生命に較べて死である。死後生命問題と基督教生命問題とは全然別問題である。

〇基督教の永生を学問の立場より説明する事は出来ないではない。生命は機械力の上に新たに加へられたる能力である。生命は如何にしても之を機械力として説明する事は出来ない。生命と機械力は全然其根本を異にする。此事を最も力強く論ずる者はハンス・ドライシユ博士の生命哲学《バイタリズム》である。そして生命に低いのと高いのとがある。哺乳動物の生命はたしかに昆虫類や軟体動物のそれよりも高くある。そして生物進化の問題は別として、人類が今日享有する生命以上の生命が無いとは何人も断定することは出来ない。猿顆の生命の上に人類の生命があるやうに、人類の生命の上に更らに其れ以上の生命があるとは、誠にありさうの事である。そしてキリストを以て人類に臨みし生命が斯かる生命ではあるまい乎。彼が其弟子に就て「我が来るは羊をして生命を得、且つ豊に之を得しめん為なり」と曰ひ給ひしは、此事を云ふのであると思ふ(ヨハネ伝十章十節)。そして此生命が永遠性を帯ぶるのである。脆き瞬間的の生命が基督者の生命に達して、強き永遠的の生命と化したと云ふ事が出来る。

(238)     箴言の研究

                     大正13年6月10日-大正14年5月10日

                     『聖書之研究』287-298号

                     署名 内村鑑三

 

     第一章七-一九節

 

  内村生曰ふ、此は余が五月第三日曜日の夕、青年諸氏に語りしものを、其中の一人なる横山喜之君が余の為に筆記して呉れたものである。

 前回は「ヱホバを畏るるは智識の本なり」に就いて語つた。これは実に驚くべき言葉である。人の多くは考へる、ヱホバを畏るゝは|信仰〔付○圏点〕の本なり、ヱホバを畏るゝは|道徳〔付○圏点〕の本なりと。けれども其丈では足りない。ヱホバを畏るるに至つて、人は初めて宇宙万物の統一並びにその相互関係を悟るのである。散漫なる智識は其の智識としての価値無きものであつて、|智識相互の関係統一〔付○圏点〕があつてこそ、智識は生きて来る。そして又人はヱホバを畏るゝ心を抱かせらるるに至つて初めて謙遜に成るのである。傲《たかぶ》る人に真の学者はない。己知れりと思ふ人程実は無知の人はない。余の生涯に於いて知りし最大の学者の中にはかゝる人は無かつた。philosopher とは所謂哲学者ではない。|知ることを愛する人〔付ごま圏点〕、其れが真の philosopher である。これは大切な事である。諸君の注意を促し度い。英国の大政治家グラドストンが年七十歳に達した時に、原語を以てイプセンを読まんとて、諾威語の研究を始め(239)たといふ。日本にこんな人が居る乎。単なる智識慾ではない、信仰上の深い処から来て居るのである。

 次に「愚なる者は智慧と訓誨《をしへ》とを軽んず」。之は上半節に対するものでゝ両者相俟つて一句を成す。従つてその間に意味の連絡がある。箴言の中に「愚なる者」といふ言葉が多く使はれて居る。そして同じく愚なる者と訳するも、その原語は必ずしも同一ではない。此処では evil(エヴイール、英語イーヴルではない)といふ字が用ゐられて居る。肉つきよく、馬鹿太りにドシツとして理解のない人、英語の stupid に相当する言葉である。故に人はヱホバを畏れて智識を得、従つて智慧と訓誨とを重んずるに至るに反し、愚なる者はそれを軽んずる結果、無智無識の人と成つてしまふ。

 次に此の語を一般的に解し得るが、又特別の意味に於いて解する事ができる。一般的には、人から教へられんとせず、自ら進んで智識を得んともせずして甘んじて居る人の愚を言つて居るが、特に又これを、神に教へられんと為《し》ない者の愚と解することが能《でき》る。そして、後に学ぷ如く神は色々の諭訓《さとし》と啓示《しめし》とを人に向つて与へ給ふ。神の論訓と啓示とを受け容れない者、それは最大の馬鹿者である。具体的に言へば、神の言葉なる「|聖書〔付○圏点〕」の示す訓誨《おしへ》と諭訓《さとし》とを軽んずる者こそ愚者である 人の価値は、其の人が神の示し給ふ智慧と訓誨とを如何に受け容るゝかに依つて決する。如何に学問に深くとも、博士であつても、哲学者であつても聖書を捨てゝ顧みないならば、そは人生に於ける最も重要なる一事を軽んずる浮愚の人と言はなければならぬ。そして我々多少なりとも光明を認めし者には、彼等が誠に愚なる者である事が解る。人生に於ける実験を通して初めて解するを得る事実である。

 次に我々を戒むる深い意味ある一句が待つ、「我が子よ、汝の父の教をきけ、汝の母の法《おきて》を棄ることなかれ、こ(240)れ汝の首《かうべ》の美《うるは》しき冠となり汝の項《くび》の装飾とならん」。紀元前千年の当時には書物といふものは無かつた。すべては oral tradition(口碑)であつた。殊に今日知識を授くる学校の教師なるものは全く無く、其の位置に立つものは実に父母であつた。アラビヤ人は今も然ると聞く。恐らくイエスも、旧約聖書の多くを、その父母より教へられし事であらう。人生最大のもの、特に神に対する信仰の心、之は実に父母より来るので、之丈けは書物も学校も与へることは出来ない。米国の大統領が其の職に就く時は、多くの場合先づ群衆の目前に於て誓約をするが、その時は常に己が老母の聖書に接吻《キツス》するといふ。何たる impressivie ceremonial であらう! 過ぐる年の夏、その老父の家にあつて、共に百姓生活をしてゐた現米大統領クーリツジ氏の許に「ハーデイング死去、後任者は貴下なり」といふ電報が達した。日の涼しき頃尚畠にありし彼の父は、彼を伴ひつゝ家に入り、多年読み古した己が聖書を取り手を其の上に置いて言つた、「汝の父の聖書此処に在り。其上に汝の手を置いて誓ふべし」。斯うして此の偉大且敬虔なる父子は、静かな※〔ワに濁点〕アーモント洲の田園の夕《ゆふべ》に、祈祷を共にしたのである。これ亦実に荘厳厳粛なる劇的場面《ドラマチツクシーン》ではないか。これがあつてこそ、大国の運命を一任し得るのである。|此の世に於ける最大幸福は、基智者の父母を持つことである〔付○圏点〕。――会員中にかゝる幸福者が四、五名あつた。

 信者の父母は誠に尊《たつと》くある。子たる者は全く従はねばならない。併し程度の差こそあれ、尊きことに於ては、不信者の父母とて何等の変化《かはり》はない。余の父は余より後に信仰に入つたけれども、余に最も大切な訓誨《おしへ》を与へて呉れたのは実に余の父であつた。即ち武士《さむらひ》としてふむべき道、――武士道を。親ほど真実を人の子に語る者はない。父は現世に於て子に対する神の代表者である。「汝の神ヱホバの汝に命じたまふごとく汝の父母《ちゝはゝ》を敬へ。」所謂「新人」を以つて自ら任ずる近代人その父母を古し、頑固なりといひて軽んじて顧みず、嘲りて辱しむる彼等(241)人の子よ。彼等をして斯くまで邪悪に至らしめし責《せめ》は抑々誰の上にある乎。慨嘆すべきは新聞紙上の広告記事である。如何《どう》して斯くまで狂つたのであるか。彼等は曰ふ、道徳とは何ぞ。適当に自己の慾望を満すために作られたる他人との約束ならずや。宇宙の存在するは自己の為なり、天地の主は我なりと。かうして彼等は我と自《みづ》から人生最善の智慧《ちゑ》より永久に縁を絶つてしまふのである。父母より離れて人の子は、決して起ち得ない。殊に人生の根本問題に於いて然《さ》うである。これは誤謬《あやまり》ない事実である。「我が子よ、汝の父の教をきけ、汝の母の法《おきて》を棄ること勿れ」斯く言ひて我等はソロモンの口より論語を聞かされる。そして是《これ》が基督教である。基督教に忠孝なしと言ひし者は誰である乎。

 ヱホバを畏るゝは智識の本なりと教へたソロモンは父の教をきけ、母の法《おきて》を棄るなかれ、これ亦智識の本なりとは語らなかつた。即ち第九節に読める通りである。「これ汝の首の美しき冠となり汝の項の装飾とならん」。ヱホバを畏れ父と母とに従ふことが、智識に於て貢献することよし僅少なりとするも、其の事が其の人の生涯を何《ど》れ程飾るかわからない。偉い学者達がその父母に仕へるに従順の徳を以てする程美しいことがあらうか。度々話したジヨン・アダムスの話を此処に又繰返へさう。米国第六大統領ジヨン・クインシー・アダムス氏が、大統領の職を退いて後代議士として居りし頃の事である。当時の代議士は今と異り、特に日本の其れと異り、頗る質素であつた。或時彼は数人の同僚と同じ旅館の同じ部屋に宿泊することになつた。夜寝の床に就かんとして彼が、跪いて床《ベツト》の上に頭をのせ声高らかに祈つたのは「主の祈り」であつた。傍《かたはら》に在つた同僚は或は驚き、或は笑つたが、彼は曰つた「これは我が母の祈りなり。余の幼児の頃より一日も欠《かゝ》さず我と共に祈りくれし我が母の祈りなり。我は此の年に至るまで如何しても斯く祈らざるを得ず」と。かく語つて微笑《ほゝえ》む彼の首《かうべ》に余は輝く金の冕《かんむり》(242)を見ざるを得ない。すべての智識と智慧との上に此の心があつて、その人を真に装飾《かざ》るのである。世には装飾《かざり》などは無くても宜いと言ふ人があるが、立派な学者、博士であつて、此の点に於いて堪へ難い程|醜《みにく》き人がある。一人の人が「その父の教をきゝ、母の法《おきて》に従つて」立つ時、それは誰が見ても美《うるは》しき人生の装飾《かざり》である。 〔以上、6・10〕

 

     知識と聡明の獲得 箴言第二章の研究

 

〇貴きはヱホバを畏るゝの暁得《さとり》、神を知るの知識である。然し此は欲《この》んで得らるゝものでない。一生懸命に求めて与へらるゝものである。故に曰ふ「若し知識を呼求め、聡明《さとり》を得んと汝の声を揚げ、銀の如く之を探り、秘《かく》れたる宝の如く之を尋ねなば」と(三、四節)。真理を学ばんとせば熱心が要る。毎日京都より叡山へ通ひし仏教信者がある。今より三百年前に伊藤仁斎に学ばんとて津軽、秋田より京都堀川の彼の陋屋を訪《おと》づれた昔の日本人があつた。ソロモンの智慧を学ばんとて、シバの女王は遥々《はる/”\》アビシニヤよりヱルサレムまで往いた。容易《たやす》く得たものは容易く失ふ。今日の基督信者に背教者多きは、今や基督敦を学ぶに余りに容易いからである。一生懸命に成つて高価を払つて欲しい、さうすれば決して棄てない。

〇知識と聡明は人が発見するのでない。神より与へらるゝのである。「ヱホバは智慧を与へ給ふ……彼は義しき人の為に聡明《さとり》を貯へ、直《なほ》く歩む者の盾《たて》となる」とある(六、七節)。真理を得るに研究丈けでは足りない。祈祷が要る。大学者の多数が敬虔《つゝしみ》ある信者であつた理由は茲にある。ニユートン、ケルビン卿、デビツド・ブリユスター、パスカル、ルイ・アガシ等は研究に従事する時に祈祷に従事した者である。世は彼等の発見を称揚するが、(243)彼等自身は神の啓示を感謝した。まことにすべて大発見は上よりの啓示《しめし》であつた。発見を誇る学者の如き者は学者と称するに足りない。

〇たゞに知識計りでない、公義、公平、正直と称せらるゝ道義も亦神の賜物である。「そは(神)公平の途を保ち、その聖徒の途筋《みちすぢ》を守り給へばなり」とあるが如し(八節)。我等は信仰のみならず、普通道徳まで神に与へられ、守つて戴かねばならない。|普通道徳と称して決して簡易道徳でほない〔付△圏点〕。公義、公平、正直を守るの如何に難きよ。茲に義人も亦謙遜でなくてはならぬ理由がある。

〇「謹慎《つゝしみ》汝を守り、聡明《さとり》汝を保ちて云々」とある(十一節)。我等が道徳を使ふ時に道徳は弱くある。道徳が我等を支配して、我等がその守り導く所となつて、我等の道徳は強くなるのである。「謹慎汝を守り」と云ふ。「|謹慎の霊〔付○圏点〕汝を守り」と云ふ事であらう。謹慎を擬人化した所に言葉の強味がある。謹慎と聡明汝を守りて「悪しき途より汝を救ひ、虚偽《いつはり》を語る者より汝を拯《たす》けん」と云ふ(十二節)。自分の智慧と能力丈けで悪と虚偽より免かるゝ事は出来ない。聖霊の能力が必要である。「我等を試誘《こゝろみ》に会はせず反つて悪より救出し給へ」である。自分で立派に悪に勝つて見せると傲語した者はすべて美事に之に負けた者である。

〇「彼等は直き途を離れて幽暗《くら》き路を歩み」とある。「彼等」は勿論ヱホバに倚らずして自分に頼む者である。傲慢にも種々あるが、最も拙きは道徳的傲慢である。人は如何なる人と雖も、我れ立てりと思ふ時に仆れるのである。

〇「聡明はまた汝を妓女《あそぴめ》より救ひ、言をもて諂ふ婦より救はん」と云ふ(十六節)。妓女は必しも芸娼妓に限らない。|すべての不真面目なる婦は妓女〔付△圏点〕である。人世を遊楽の場所と心得、多く遊び楽しんで一生を送らんと欲する(244)婦はすべて妓女である。而して斯かる婦の如何に多きよ。虚栄の婦《おんな》と称する者の如きすべて是れである。ダンスに紳士の交際を求めて夜を更《ふ》かす者はすべて是れである。人目《ひとめ》を惹くが如き服装をなして得意たる者、天然の美よりも人工の美を愛する者、実質よりも外形を尊ぶ婦、彼等はすべて妓婦又は遊女である そしてヱホバを畏るゝの聡明《さとり》は人を是等の婦より救ふと云ふ。実に小なるが如くにして小ならずである。幾たりの男子が此種の婦に由りて其身を滅せし乎、数へつくす事が出来ない。義貞、秀吉、ネルソン、皆な此|災害《わざはひ》に罹つた者である。クレオパトラは妓女の女王となりし者であつて、シーザーも一時は其捕虜となり、アントニーは終に其亡す所となつた。人世実は妓女《あそぴめ》程恐ろしい者はない。そしてヱホバを畏るゝの聡明のみ之に勝つことが出来ると云ふ。まことに然りである。Beautiful is that beautiful does.(美を為す者是れ美人なり)と云ふ。そして聡明は行為《おこなひ》の美に眼を注いで形の美に誘はれない。神に導かるゝの幸福多しと雖も其最大のものは妓女に欺かれない事である。今や日本の社会に妓女は到る処に居る。有島武郎の如き、神を棄てし結果として妓女の誘ふ所となりて其滅す所となりしに過ぎない。

〇妓女《あそびめ》! 彼女は言をもて諂ふ婦、若き時の侶《とも》(夫)を棄て、その神に契約せしことを忘れ、その家は死に下り、その途は陰府《よみ》に趣くと云ふ(十六-十八節)。まことに文字通りに事実である。日本の今日に幾多の実例を見る。

〇妓女の反対は「賢《かしこ》き女」である。之を讃へた者が同じ箴言三十一章十節より三十一節までゞある。就いて読むべしである。(六月八日夜青年に語りし所) 〔以上、8・10〕

 

     長命と名誉と富貴 箴言第三章(一-十節)

(245)〇長命の途はヱホバの法《のり》を忘れず、心に其|誡命《いましめ》を守るにあると云ふ(一、二節)。一見して俗世界の教訓であるかのやうに見える。然しさうでない。第一に長命其物が大なる恩恵である。十誡第五条に曰く「汝の父と母とを敬へ、是は汝の神ヱホバの汝に賜ふ所の地に汝の生命の長からん為なり」と(出埃及記二十章十二節)。長命の目的は長く地上の生命を楽まん為でない。長き生涯の経験を以て神と人とに仕へんが為である。衛生の目的は茲に在らねばならぬ。そして長命術の第一はヱホバの法《のり》に従ひ其誡命を守るに在る。そして大体に於て、此は人類の実験に由て証明されたる事実である。養生法は許多《あまた》ありと雖も神を畏るゝに勝さるものはない。猶太人が今日と雖も長命を以て有名なること、欧米諸国に於て医師、法律家、牧師の三階級の内で、最も長命なるは牧師階級である事は克く知れ渡りたる事実である。私の如き、学校時代に於ては同級生中第一番に墓に下るべき者と認められし者が、今日猶ほ健康を保ち、且つ意気の若き事に於ては同級生中第一であることは、全く自分の択びし事業のヱホバの法《のり》と其誡命との研究伝播に因るのであると信ずる。勿論信仰を守るの結果として生命を棄《すて》又は縮めざるを得ざるの場合あるは言ふまでもない。然し乍ら彼と此《これ》とは全く別の問題である。

〇長命然り名誉亦然りである。「さらば汝、神と人との前に恩寵《めぐみ》と好名《ほまれ》とを得べし」とある(四節)。名誉に悪いものと善いものとがある。讃美歌に云ふ所の「此世の君等の花の冠《かむり》」は決して慕はしき者ではない。政府の授くる位階勲章に多くの疑はしき者がある。然し乍ら人の授くる名誉の外に神の授け給ふ名誉がある。此は天下何者も奪ひ去ることの出来ない名誉であつて、慕ふべき者、尊むべき者である。イエス御自身に此名誉が伴うた。路加伝二章五二節に記して曰ふ「イエス智慧も齢《よわい》もいや増《まさ》り、神と人とに益々愛せられたり」と。義しき途を歩みて、神に愛せらるゝは勿論、|終に〔付○圏点〕人にも敬まはれる。罪の此世も|終に〔付○圏点〕は義人を敬はざるを得ない。其名誉は慕ふべき(246)名誉である。多くのクリスチヤンが縦し現代には認められざるも、後世必ず我を義とする者あるを信じて死に就いた。コロムウエルの如きも其一人であつた。名誉と云へば一概に之を排斥するは大なる間違である。札幌のクラーク先生が、彼の愛する学生と別るゝに方て発せし一語は有名である、曰く Boys, be ambitious! 青年よ大なる野心を懐くべしと。名誉を得んと欲せず、又名誉を傷けるゝも憤を発せず、斯かる事は非キリスト的行為なりと信ずる今日幾多の基督教青年は、未だ神の嘉し給ふ高貴なる生涯の何たる乎を知らざる者である。

〇第五節。「汝心を尽してヱホバに倚頼め、自己の聡明に倚ること勿れ」。第七節「自から看て聡明とする勿れ」。自分と自分の判断に倚頼む勿れ、自分を標準として万事を断定する勿れとの誡命である。自己過信は青年の陥り易き罪である。殊に近代人特有の罪である。そして罪であると同時に大危険である。之に反して「汝すべての途にてヱホバを認 よ」である。ヱホバと其|法《のり》を離れて何事をも判断する勿れとの教である。普通、親孝行が孝子の処世上大なる利益である事は克く知れ渡りたる事実である。況して万事に於てヱホバの実在を認め、其聖旨に従はんと努むるに於てをや。此は信仰の実益を教へた言である。そして信仰は直接に利益はないが間接には非常にある。単独で事を行ふにあらず、神に諮《はか》りて(祈りて)事を為すのである。そこに信者の強味と安全とがあるのである。

〇「汝の貸財《たから》と汝がすべての産物の初生《うひなり》をもてヱホバを崇めよ、さらば倉庫は充ちて余り、汝の酒槽《さかぶね》は新しき酒にて溢れん」とある(九、十節)。いかにも利己主義の信仰奨励の言であるやうに聞える。然れども是れ亦人生の事実なるを如何せん。ヱホバに献ぐるに所有の最良のものを以てす、然らばヱホバも亦其最善のものを以て報ひ給ふと。斯かる教訓は考へて解ることでない、行つて見て判明することである。長命、名誉と同じである。確実(247)なる富も亦ヱホバの賜物である。信仰の生んだ富のみが永久不朽の富である。|大実業家は大政治家大科学者と同じく大抵は大信仰家である〔付○圏点〕。欧洲最大の富豪ロスチヤルド家の富はモーセ律の厳守より成つたものであるとは其の首長の宣言せる所である。我国に於ても三井、住友等の起原を尋ねて見れば、其内に深い道徳的理由を発見するのである。たしか三井中興の祖先であつたと思ふ、其言に曰く「一に人物、二に場所、三に資本」と。事業成功の要素は「一に人物」である。神と人類とに事へんと欲する心なくして確実なる富をなす事は出来ない。茲に至つて実業も伝道も其根本の精神に於て異ならない事が判明る。アダム・スミスの『富国諭』は倫理哲学の一篇として著はされたる者であることを忘れてはならない。(六月十五日夜青年の為に述べしもの) 〔以上、10・10〕

 

     知識と聡明と智慧 箴言第三章十三-二十節

 

〇知識に三階段がある。其第一が知識、第二が聡明、第三が智慧である。文字を列《なら》べた丈けでは其意味は解らない。殊に訳字に於ては然りである。我等は事の何たる乎を知つて、然る後に其意味を文字の内に読込まねばならぬ。文字は畢竟《つま》る所表号に過ぎない。

〇茲に|知識〔付○圏点〕と云ふは観察的知識である。物を見て其実状を知るの知識である。試に雀を見ん乎、其如何なる鳥なる乎、其大さ、色、習慣等、単に鳥の一種として探り得たる知識である。人として見たる人に係はる知識、天然として見たる天然に係はる知識、事物の大小を問はず、他の物より離して一物を見て得し知識、それが単なる知識であつて、基礎的知識と称すべきものである。此知識が確実なればなる程他の知識が確実なるのである。天然(248)学者は此種の学者である。ダーヰンは其最も優秀なる者であつた。又個人を知るは社会と人類を知るの前提である。伝記に精通せずして歴史を解する事は出来ない。

〇知識の後に|聡明〔付○圏点〕が来る。聡明は関係的知識である。一物の他物に対する関係を知る知識である。雀は鳥である。之に似たる鳥がある、之と異なりたる鳥がある。又鳥として他の動物に対する関係がある。雀を知つた丈けでは雀は解らない。宇宙万物との関係を明かにして雀の意味が解るのである。雀然り況や人に於てをや。自分を知つた丈けで自分は解らない。日本人として、亜細亜人として、アダムの裔として自分を見て、自分の存在の意義が解るのである。そして自分に係はる此種の知識が聡明である。自分の大も小も、義務も責任も、権利も運命も、自分に係はる関係的知識即ち聡明を得て、自分に初めて自覚するのである。

〇知識あり聡明ありて然る後に|智慧〔付○圏点〕があるのである。智慧は|実際的知識〔付○圏点〕である。知識の応用之を智慧と云ふ。先づ物を知り、物と物との関係を知り、然る後に其知識に由て行ふて、我等は過誤《あやまち》なきを得るのである。|凡ての知識の目的は正しく行ふに在る〔付○圏点〕。我等が学ばんと欲する凡ての学問の目的は、我等が神の前に正しき、人らしき生涯を送らんが為である。

〇知識の三階段を現代の言葉に訳して言ふならば、第一が科学であつて、第二が哲学、第三が道徳である。科学の為の科学でない、哲学を通うして道徳に達せん為の科学である。そして智慧の書なる箴言は当時の科学と哲学との上に築かれたる道徳を教ゆる書である。著者ソロモンが如何に博学の人なりし乎は列王紀略上四章三十節以下の言に由て明かである。

  ソロモンの智慧は東方の人々の智慧とエジプトの凡ての智慧よりも大なりき……彼れ箴言三千を説けり、(249) 又其詩歌は一千五百篇なりき。彼れ又草木の事を論じてレバノンの香柏より墻《かき》に生《はゆ》る苔にまで及べり。彼れ亦獣と鳥と匍行動物と魚の事を論じたり。

 今日で言へば、ソロモンは博物学着で、哲学者で、同時に又倫理学者であつたのである。最も健全なる学者であつて、我等何人も傚ふべき者である。

〇以上の説明を心に留めて第三章十三節以下二十節までを読めば、其意味は克く解るのである。

   福《さいは》ひなる哉智慧を求めて之を得し者は、

   智慧を己が所有とせし者は福ひなる哉。

   そは智慧を得るは銀を得るに愈《まさ》り、

   その利益は金よりも善ければなり。

 

   智慧は珊瑚よりも貴し、

   之に此ぶべき宝あるなし、

   長寿は其の右の手に在り

   其の左の手に富と尊きと在り。

 

   其道は愉楽《たのしみ》の途なり、

   其の径《こみち》は悉く平康《やすき》なり。
(250)   此は之を握る者には生命の樹なり、
   之を抱いて離れざる者は福ひなる哉。

   ヱホバは智慧を以て地を置え給へり

   聡明を以て天を支え給へり。

   其の知識に由りて水は湧出《わきい》で、

   雲は露を降すなり。

〇智慧は最善の所有《もちもの》、智慧は最大の宝、智慧は最上の楽しみ。其れは其の訳《わけ》である。天地万物はヱホバの智慧に由て成りし者であるからである。泉の湧出るも、露と雨との降るのもヱホバの智慧に依る。人の智慧を以て神の智慧に応ずる、其れが道徳である。天然の法則と称へて道徳と離れたる者ではない。凡ての知識は其究極に於て智慧即ち道徳であると。是れ聖書の見方である。果してさうである乎。其事を究むるのが学問の目的である。学問を非道徳にするのが近代知識の傾向である。之に反して基督教は其|創始《はじめ》より有神的であつて道徳的である。(十月十二日夜)

 

     智慧第一 箴言第四章一-九節の研究

 

〇父と云ひ子と云ふ、単に血肉の関係である計りでない。本当の父は肉の父であると同時に霊の父であらねばならぬ。即ち子に肉の生命を与へしと共に霊の生命を与ふる者であらねばならぬ。即ち信仰の伝達者であらねばな(251)らぬ。そしてヘブライ人の間に在ては是れが事実であつた。ヘブライ人と同種族なるアラビヤ人の間に在りては今も猶ほ然りである。家長は父であり、祭司であり、教師であり、預言者である。アブラハム、イサク、ヤコブの事蹟が克く此事を語る。父は単に肉の父であり、子は父と思想信仰を異にするも差支なしとは西洋思想であつて又近代思想である。其の果して真理なる乎は未だ証明せられざる問題である。敢て父の為に言はず、子の為に言ふ。子は果して肉体以外の事に於て父より何物をも授かるの必要なき乎。若し然りとすれば子の不幸此上なしである。「我父我を教へたれば我れ教を汝に授く」と。智慧は伝統的である。人生の経験は各自之を繰返すに及ばず、又繰返す能はず。父祖の経験は智慧として之を承継《うけつ》ぎ、我は其上に立ちて新方面に向つて発展すべきである。其事其れ自身が大なる智慧である。善も悪も自分が新たに実験するにあらざれば認めずと称するは、自由と称するよりも寧ろ愚である。近代人は自から善悪の樹の価値を定めんと欲して大なる危険を冒しつゝある。そして彼等の多数が其評価を誤りて身を滅し霊《たましひ》を失つた。

〇「智慧は第一のものなり」。道、信仰、人類の実験を以 証明されし神の啓示、即ち此に謂ふ所の智慧である。是れ第一なりとソロモンは云ふ。親が子に伝ふべき第一の宝は是れ、子が親より求むべき第一の資産は是れ、智慧に較べて見て此世のすべての富も貴尊《たふとき》も、学問も才能も数ふるに足りない。智慧ありての富、智慧ありての権能《ちから》である。国も人も智慧なくしては、凡て他のもの有りと雖も永くは保たない。智慧は富と貴尊《たふとき》とを生むが、富と貴尊とは智慧の代用を為さない。財産と学問とは無くとも可い、然し智慧は無かる可らずである。

〇智慧を福音の信仰と解して、其至大の価値を近世史の多くの事実を以て例証する事が出来る。西班牙は一時は富を以て溢れたが、智慧に欠けしが故に今日の衰退を来した。独逸は学術を以て世界に覇たりしが智慧を失ひし(252)が故に今日の屈辱を招き、今日の困難を来した。今日の日本も亦神を知るの知識を養はざりし結果として、其他の事に於ては優秀の国なりと雖も、凡ての事に於て行詰りつゝある。国然り人また然りである。|人の成功はその信仰に因る〔付○圏点〕。大成功者はすべて信仰の人である。主イエスキリストが其最大の実例である。彼に学問なく、財産なく、有つたものは神を信ずるの信仰であつた。「誰か能く世に勝たん、我等をして世に勝たしむる者は我等が信なり」である(ヨハネ第壱書五章)。若し世に本当の意味に於ての基督教文明なる者があるとすれば、其れは信仰を以てする世の征服である。武力又は知能を以てする征服は浅い暫時的の征服に過ぎない。

〇勿論斯かる人世の見方は斯世の人に嘲らる。智慧の真価は智慧の人にのみ認めらる。「智慧は智慧の子に義《たゞし》とせらる」とイエスは曰ひ給うた(マタイ伝十一章十九節)。浅い文士や、小利口の政治家に尋ねずして、深く人生を味ひし人に問ふならば、彼等は孰れもソロモンの此言の誤らざるを証《あかし》するであらう。「智慧は第一なり、何を得ずとも智慧を得よ、凡て汝の得たる物を捧げても智慧を得よ」と。マタイ伝十三章四十四節以下に於けるイエスの言がソロモンの此言の最善の註解である。

  天国は畑に蔵《かく》れたる宝の如し、人、看出さば之を秘《かく》し、喜び帰り、其所有を尽く売りて其畑を買ふなり。

  天国は又好き真珠を求めんとする商人《あきうど》の如し、一の値高き真珠を看出さば、其の所有《もちもの》を尽く売りて之を買ふなり。

 智慧は何故に斯程に貴き乎、そは人生の実験に依て知らる。

   智慧を棄る勿れ、彼女は汝を守らん、

   彼女を愛せよ、彼女は汝を保たん、

(253)   彼女を尊べ、彼女は汝を高く揚げん、

   若し彼女を懐かば、彼女は汝を栄えしめん、

   彼女は美はしき花冠《はなのかんむり》を汝の首《かうべ》に置かん、

   栄《さかえ》の冠冕《かんむり》を汝に予へん。

 言は至つて平凡であるやうであるが、其意味は深長である。即ち其意味は此世の安全又は成功を以て尽きない。事は永遠に係はる問題である。智慧を単に智慧として解せず、人生の実験より得たる有効的知識として取らずして、最高の智慧即ちイエスキリストに在りて神を識るの活ける真の知識と解して、天上天下之に優さりて貴きものはない。其意味に於て智恵第一である。諸君は何を捨てゝも之を得んと欲する乎。此は商売の暇《ひま》、又は勉強の間に得んと欲して得らるゝ者でない。凡ての代価を払ふて求むべき者である。(十月十九日夜)

 

     心の防衛

 

  凡ての守るべき物より勝さりて汝の心を守れ、そは生命《いのち》の流《ながれ》これより出ればなり(箴言四章廿三節)。

〇人生は戦争であつて半ば攻撃であつて半ば防衛である。攻防の二術に長ぜずして勝利は得られない。此《こゝ》は防衛に就て語るのである。

〇守るべき者は種々ある。健康も守らざるべからず、智力も守らざるべからず、貞操も守らざるべからず、人に依ては財産も地位も門閥も守らざるべからず。油断大敵である。「汝が有つ所の者を堅く保ちて汝の冠《かんむり》を人に奪はるゝこと勿れ」と主は我等何人にも告げ給ふ(黙示録三章十一節)。

(254)〇神が賜ひし者は何ものをも奪はれてはならない。而かも其内に最も大切に守るべき者は心である。之を奪はれて全部を奪はるゝのである。心は人の本営である。作戦計画はすべて此《こゝ》に講ぜらる。敵に本営を犯されて全軍は敗北したのである。今川義元の桶狭《をけはざま》に於けるが如く、本営が敗れて全軍が亡びたのである。

〇事は平凡の真理であるやうに見える。然し平凡であつて大事である。而して国民の歴史に於て桶狭は滅多に無い事であるが、個人の生涯に於ては最も普通に有る事である。心を敵に奪はるゝ事、此災難に遭はない人は何処に在る乎。我心を死に至るまで我有として保つ人、之を他人に与へざるのみならず、悪念をして之を汚《けが》さゞらしむる人、其人は偉人である、聖人である、而かも其人のみが独立の人、人たる資格を有する人である。

〇天才にして利慾に其心を奪はれたる人、英雄にして色慾の奴隷と成れる人、又は名誉に其の一身を亡せる人、……英雄天才は尠からずと雖も心を守り通す人は最も尠い。ネルソン将軍の勇気胆力を以てするも一婦人に其心を奪はれて、トラフハルガーの大勝は彼女の汚す所となつた。心を守るは最も大切である、而して最も難くある。箴言十六章三十二節に云へるが如しである、「己の心を治むる者は城を攻取る者に愈る」と。

〇然らば如何にして己が心を守らん乎と云ふに、先づ|第一に罪に近づかざる事である〔付○圏点〕。罪は伝染的である、之に近づきて悪感化を受けざるはない。「罪に近づくも可なり之に陥らざれば足る」とは偽はりの教である。ソロモンは曰ふ、「邪曲《よこしま》なる者の途に入ること勿れ、悪しき者の路を歩む勿れ、|之を避けよ、過ぐること勿れ、離れて去れ〔付△圏点〕」と(四章十四、十五節)。悪を知るの必要はない、然り悪を知るは危険である。社会研究と称して悪事の研究に従事して自身悪しき者となつた例《ためし》は甚だ多い。此点から見て演劇ダンス等には近寄らざるが安全である。劇場が紳士熟女の避くべき所なるは、改心せる俳優の屡々告白せる所である。禁酒禁煙の利益も茲に在る。悪事の媒(255)介者たる酒を絶ちて、悪其物を避くるのである。低級文学に目を触れざる事も亦一大要件である。此は読んで益なきもの、知る必要なき知識の供給物である。今日の雑誌と新聞紙の多数は人類日々の罪悪史として見て差支ない。彼等は人心の腐敗を歎じながら腐敗促進の大機関である。

〇悪を避けて|善と親しむ〔付○圏点〕。其れが第二の途である。善き人があり、善き仲間があり、善き文学がある。必しも基督教に限らない、基督教以外にも多くの善き人と善き物とが在る。此事に関しピリピ書四章八節に於けるパウロの勧言《すゝめ》に注意すべきである。

  兄弟よ我れ之を言はん、凡そ真実なる事、凡そ敬ふべき事、凡そ義しき事、凡そ愛すべき事、凡そ善き称《きこえ》ある事、すべて如何なる徳、如何なる誉《ほまれ》にても汝等之を思ふべし

と。希臘の哲人ソクラテス伝を読みて如何に熱心なる基督者と雖も多く教へらるゝ所なき能はずである。

〇然し乍ら心は単に悪を避け善と親しむ丈けで守られ得る者でない。善き感化丈けで心は清浄なる事は出来ない。|心は衷に聖き者を迎へて聖く成ることが出来る〔付○圏点〕。聖人の書を読む丈けでは足りない。自身聖人と成らねばならぬ。そして神に我心に宿つて戴いてのみ我は真《まこと》の聖人に成ることが出来る。茲に於てか聖書に謂ふ所の|聖霊降臨〔付○圏点〕の必要があるのである。神御自身に我心を守つて戴くのである。然れば我は安全である。而して神は此事を凡て彼を信ずる者に約束し給うた。

  イエス答へて曰ひ給ひけるは、若し人我を愛せば我言を守らん、且我父は之を愛せん、|我等来つて彼と偕に住むべし〔付○圏点〕

と(ヨハネ伝十四章廿三節)。三位の神が我心に臨在して下さると云ふ。斯くて我心の安全は保証さるゝのである。(256)而して彼れ臨《きた》り給ふ時に我が過去の罪までが洗はれ、我は新たに造られて、彼が完全きが如く完全く成ることが出来るのである。「汝の罪は緋の如く赤くとも雪の如く白くなり、紅《くれなゐ》の如く赤くとも羊の毛の如くならん」との預言者の言が、罪に汚れし我が裏に於て実現するのである(イザヤ書一章十八節)。

〇「そは生命の流は之より出れば也」と。人の一生は畢竟《つま》る所其心の如くに成るのである。其運命は心の如何に由て定まる。(十月廿六日夜)

 

     身の清潔 箴言第五章

 

〇娼妓、|あそびめ〔付○圏点〕、「娼妓の口唇は蜜を滴らし、其口は脂よりも滑なり。然れど其終は茵※〔草冠/陳〕の如くに苦く、両刃《もろば》の剣《つるぎ》の如くに鋭《するど》し」と(三、四節)。人類有つて以来、娼妓の無つた時は無し、無つた所はない。西洋にある、東洋に有る、米国に有る、日本に有る。娼妓を以て汚されざる国とては天が下に一ケ国もない。殊に伊勢の山田、又は京都の島原(東本願寺の隣り)等神聖たるべき地に之れあるを見て、社会は其根柢まで之を以て毒されて居る事が判明る。言ふエバがアダムと共に罪を犯してエデンの園を逐はれし時に娼妓は始つたのであると。或は然らん。人が神より離るゝ時に其惰性が汚れて、堕落男女と成るのである。多分キリストの再臨に由りて此世が化してキリストの国に成るまで娼妓は此世より絶えぬであらう。

〇そして男子が娼妓に其身を汚す時に彼は身と共に霊魂を汚すのである。パウロは曰うた「人の凡て行ふ罪は身の外にあり、然れど淫を行ふ者は己が身を犯すなり」と(コリント前書六章十八節)。即ち身を其中心即ち霊魂に於て犯すのである。罪は何れも恐るべしと雖も娼妓に由て犯す罪、即ち姦淫程恐るべき罪はない。此は単に放蕩(257)又は道楽として看過すべき者でない、重大なる罪である 之に由て生命の根本が毒さるゝのである。単に人類の健康状態より考ふるも、淫行は疾病十分の九の原因である。直接に花柳病として現はるゝ者に止まらず、それが原因と成りて種々雑多の疾病に現はるゝは人の能く知る所である。世に娼妓が絶ゆる時に疾病《やまひ》の十分の九は絶ゆるのである。実に梅毒に由て滅びた国家は多数《あまた》ある。布哇の如きは其最も悲しむべき実例である。今より百五十年前に、カピテン・クツクが初めて之を発見せし時には、布哇群島は強健なる土人四十万を有する幸福なる国であつた。然るに彼の探検隊が遺せし病毒が原因をなして、百年を経ざるに島民の健康状態は著るしく悪化し、死亡率は激増し、終に国として独立を維持する能はずして今日見るが如くに米国の領土と成つたのである。布哇国に宣教師を遣りて其教化を計りし前に、基督教国は酒と梅毒とを送りて此太平洋の楽園を化して娼妓悪徒の国と成したのである。同じ事が西此利亜に於けるロシヤ人に由て行はれたのである。ロシヤ人の感化に由て強健なる西此利亜民族にして絶滅せし者尠からずとの事である。西比利亜土人は基督敦を称してロシヤ人の宗教と云ひ、ヴオドカ(焼酎の一種)を称してロシヤ人の酒と云ひ、梅毒を称してロシヤ人の病と云ふとのことである。|ロシヤ人の宗教とロシヤの疾病〔付△圏点〕、矛盾か、皮肉か、実に戦慄すべきは淫行の害毒である。

〇事実斯くの如くであれば、人は何人も淫行を避けねばならぬ。男子は娼妓に近いてはならぬ。「汝の途を彼女より遠く離れしめよ、其家の門に近づくこと勿れ、恐らくは云々」とあるは適当の訓誡《いましめ》である。パウロは之を繰返して曰うた「汝等淫を避けよ」と。即ち淫行は之を避けよ、之に近づく勿れとの教訓である。娼妓ほ危険物である、之に近いて危険を冒す勿れとの事である。之に近よるも可なり、接すべからずとか、或ひは之に接するも可なり、之に溺るべからずと云ふが如きは人生の此危険に陥らざる途でない。社会研究と称して遊里に入るは死(258)に近づくのである。そして入つて身と霊魂を滅せし人は無数である。又社会の暗黒面を知るの必要は少しもない。世に吉原通なる者ありと雖も、其人は決して人生を解する者でない。人生は神の光明に接して解る、世の罪悪に接して少しも解らない。自から罪悪の街《ちまた》に入つて罪悪学者と成る必要は少しもない。斯かる者は大抵は罪悪の捕虜と成りて其一生を終るのである。

〇淫に陥らざるの途は淫を避くことに在る。即ち淫に近づかざるに在る。然し其れ丈けでは足りない。身を慎しむ丈けでは身は潔まらない。身を潔めんと欲すれば神に身を潔めて戴かねばならない。即ち聖霊に宿つて戴かねばならない。淫行は重い罪である丈けに亦強い罪である。之は人の努力丈けで抵抗するは甚だ困難である。神に助けて戴いて完全に之に勝つことが出来る。茲に於てコリント前書六章十九節の意味が解かるのである、曰く「汝等の身は汝等が神より受ける汝等の衷に在る聖霊の殿《みや》にして汝等は汝等の有に非ざる事を知らざる乎」と。我身を聖霊の殿として戴いて我は完全に淫行を避くることが出来るのである。小事に神の能力を拝借するやうに見えて甚だ勿体なく思ふ人もあるならんも、事は小事に非ずして大事である。娼妓《あそびめ》の背後にサタン彼れ自身が働いて居ることを知つて、之と戦ふに方て大能の力に頼るは決して不当でない。

〇淫を避くるは生を絶つのではない。神に身を潔められて初めて家庭の幸福と子孫の繁栄とを計る事が出来る。邪淫流行の国に人口は減少し、男女関係清潔の国に民は増殖す。身の清潔は人生の幸福を其すべての方面に於て楽しむ為に必要である。慎むべきは愛の濫費である。(十一月二日夜、青年に) 〔以上、12・10〕

 

     保証の危険 箴言六章一-五節

(259)〇「我子よ、汝もし朋友の為に保証をなし、他人の為に汝の手を拍《うた》ば、汝はその言によりて罠にかゝり、その口の言によりて囚《とら》へらるゝなり」と。又曰ふ「他人の為に保証《うあひ》をなす者は苦難《くるしみ》を受け、保証を嫌ふ者は平安なり」と(十一章十五節)。即ち「保証は容易に為すべからず」との事である。保証を為すは危険である。之が為に身と身代とを亡ぼせし者挙げて数ふべからず。然るに事実如何と問ふに、大抵の人は容易く保証するのである。他人の金銭借用証書に裏書《うらがき》するのである。之に.捺印して連帯責任を誓ふのである。而して彼等は之を為して人を援け、義侠の精神を表はすのであると思ふ。然し乍ら保証するは易くして責任を充たすは難くある。而して責任に当らねばならぬ場合に遭遇して耻を取り、時には身を亡すのである。故に智者は容易に保証しない。紹介書をすら容易に書かない。|自分に其責任に当る為の充分の用意あるを認めざる以上は、保証は如何なる場合に於ても為さないのである〔付△圏点〕。

〇此は人に対し不親切であるやうなれども決してさうではない。人は何人も他人の保証を受けざれば為す能はざる事は之を為さゞるを可とす。彼は何事も自分の信用に依て為すべきである。他人の信用を借りて為すべきでない。朋友の為に保証するは我が信用を以て彼の信用を補はんとするのであつて、此は彼の独立を弱くし、成功を危くするの途である。そして大抵の場合に於て保証は此悪結果に終るのである。

〇基督信者として我等が保証を拒む理由は他に在る。即ち我等は我等の未来を知らないからである。我等は自分の事に於てすら明日の事又は明年の事を誓ふ事は出来ない、況して他人の事に於てをや。此事に就き明かに我等に教ふる者は雅各書四章十三、十四節である。

我等今日明日某の邑《まち》に往き、彼処にて一年止まり、売買して利を得んと言ふ者よ、汝等明日の事を知らず。(260)汝等の生命《いのち》は何ぞ、暫く現はれて遂に消ゆる露也。故に汝等の言ふ事に易へて此く言へ、主もし許し給はゞ我等活きて或は此事或は彼事を為さんと。

 聖書の此精神を解する者は自己に就て誓はず、又他人に就て保証しないのである。
〇保証する勿れ、然れども既に為したる場合には如何すべき。往きて自ら謙《《へりくだ》り只管《ひたすら》友に求め、|保証を取消して貰ふべきである〔付△圏点〕。其れが為に多少の損害は顧みるに及ばず。若し身を亡さざれば幸びである(三、四節)。

 

     蟻に学べ 箴言六阿六-十一節

〇蟻は勤倹と共に勤勉を教ふ。「惰け者よ、蟻に往きて其為す所を観て智慧を得よ」と云ふ。天然は最良の教師である。今や天然科学の進歩に由り我等は天然物に於て蟻以外に多くの良き教師を発見した。プリンス・クロポトキンの名著『天然界に於ける相互援助』の如き、此種の教訓を豊富に供給する者である。
〇蟻に学べ、働くべき時に働いて怠る勿れ。懶惰は愚である、罪である。懶惰の結果として人生は全然失敗に終るとはソロモンが茲に教ふる所である。そして人が懶ける理由を考ふるに、彼は明日在るを測つて今日怠るのである。今年為すべき事を来年に延ばして今年遊蕩の夢を貪るのである。然し此は理由なき妄想である。今日は二度来らないのである。今年は去つて再び来らないのである。歳二十にして為すべき事は 十一歳に達して為し得ないのである。之を学問の事を以て例証せんに、語学の習得の如き二十五歳を過ぐれば完全を期する事殆んど不可能である。脳髄の未だ固まらざる前に学ぶべき事は学ばざるべからず。既に習得の時期を過ぎて熟達せんと欲するも能はずである。十代に為すべき事がある、二十代に為すべき事がある。三十代、四十代、五十代、六十代(261)すべて同じである。二十代に為すべき事を三十代に為す事は出来ない。人生は多忙である、其一年一日をも忽《ゆるが》せにする事は出来ない。其れ故に懶けてはならないのである。然るに事実如何と問ふに、「蟻は夏の中に食を備へ、収穫《とりいれ》の時に糧《かて》を斂《あつ》む」と雖も、人は準備時代に準備 ず、故に完成時代に完成し得ないのである。夏働かずして秋に収穫なく、冬は空乏である。故に来世復活の春は来ない。
〇此事に就て我等は聖書の教を待つまでもない、古い東洋道徳が克く此事を教へる。朱文公勧学文として私が青年時代に暗誦せる者は左の如しである。

  謂ふ勿れ今日学ばずして来日有りと、

  謂ふ勿れ今年学ばずして来年有りと、

  日月逝きぬ歳我と延びず、

  嗚呼老ひたり是れ誰が愆《あやまち》ぞや。

 そして人生の真面目さを充分に闡明するキリストの教に接して、古い支那人の教の意味が一層深く味はれるのである。懶惰の悔いは今世に於ては充分に感じられないであらう。主の台前に立ちて委ねられし財貨《タレント》の使用に就て鞫かるゝ時に、我等は無意味に消費せし年月の如何に身を禍ひする者なる乎を覚るであらう。

 

     邪曲の人 箴言第六章十二-十九節

 

12邪曲《よこしま》なる入、悪しき人、

 彼は虚偽《いつはり》の言を事とす。

(262)13眼をもて※〔目+旬〕《めくば》せし脚《あし》をもて知らせ

 指をもて合図《あひづ》し

14心に悪を計り

 常に争端《あらそひ》の種を播く。

15此故に禍害俄かに来り、

 立どころに亡びて援助なし。

16ヱホバの憎み給ふもの六あり

 其心に嫌ひ給ふもの七あり。

17驕ぶる目、虚偽《いつはり》を言ふ舌、

 辜《つみ》なき人の血を流す手、

18悪しき謀計《はかりごと》をめぐらす心、

 速かに悪に趨る足、

19虚偽を述べて証する人、

 兄弟の内に争端を起す者

   是れなり。

(263)〇イエスは教へて曰ひ給うた、「善き人は心の善き庫《くら》より善き物を出し、悪しき人はその悪しき庫より悪しき物を出す、それ心に充つるより口は物言ふ也」と(ルカ伝六章四十五節)。此事を能く教ふるのが箴言の此数節である。
〇「邪曲なる人」、「邪曲の人」と読む方が良い。原詩は「ペリアルの人」とある。コリント後書六章十五節に「キリストとベリアルと何の合ふ所かあらん」とある其辞である。「ベリアルの人」とは道徳的に最下級の人である。神に呪はれたる人、救はるゝ希望の絶えた人である。滅亡《ほろび》に定められたる人である。彼を一名「悪しき人」、或は「悪の人」と云ふ。其根本に於て悪しき人を云ふ。「悪其物」と称して可なる者である。
〇斯かる人は在る乎。又は在り得る乎と問ふ人がある。人の性は善なりと唱ふる者は如此き人の在ることを否定する。又神の愛を高調する信者は「滅亡に定められたる人」ありと聞いて強き反対を表する。|誰が〔付○圏点〕斯かる人である乎其事は判明らない。然し斯かる人の在る事は確実である。我等は自分の学説又は感情に由て、神の御言葉を拒んではならない。
〇「邪曲の人、悪の人」、彼は如何なる人である乎。樹は其実を以て、人は其|行為《おこなひ》を以て知らる。「ベリアルの人」の為す事は下の如し。(一)「彼ほ虚偽《いつはり》の言を事とす」。「虚偽《いつはり》に歩む」と意訳する事が出来る。虚偽が其生命である。彼の言のみならず全身が虚偽である。(二)故に彼は「眼にて※〔目+旬〕《めくばせ》し、脚《あし》をもて知らせ、指を以て合図《あいづ》し」と云ふ。眼も脚も指も悉く虚偽の器として働くと云ふ。彼の全身が虚偽にて充つるが故に、其|肢《えだ》は悉く虚偽の機関となりて働く。(三)悪は彼の常性であれば悪を匠《たくら》むが彼の心の常態である。故に彼は到る所に「争端《あらそひ》の種を播く」。神の子供が平和の子であるに対してベリヤルの子は争端《あらそひ》の子である。彼の在る所に争端は必ず醸さる。
〇邪曲《よこしま》の人は公然と顕《あら》はに悪を行はない。心に悪を計り、眼と脚と指とを以て自己を隠くしつゝ人の平和を擾《みだ》す。(264)然れども隠れたる罪が顕《あら》はに罰せらるゝ時が来る。禍害《わざはひ》は俄に思はざる時に来る。而して彼は立どころに亡びて彼を援起《たすけおこ》す者なし。彼の滅亡は完全である。彼は斃れてまた起たず。白蟻に柱の心《しん》を食まれし家の如く、心は腐れて形骸のみ残れる彼は、禍害の一撃に遭ふて再び起つ能はざる程度に崩潰するのである。
〇斯かる人は果して無き乎。有ると私は信ずる。私の生涯に於て私は斯かる人を見た。寔に茲に記《かい》てある通りの人を見た。私は彼に何か善き所なき乎と思ひ探つて見た。然し何の善き所をも発見する能はずして失望した。彼は自己の姿を隠して罪を行ふ。彼が平和の擾乱者であることを発見するまでには長き時日と多くの辛らき実験を要する。私は度々彼を疑ふてはならないと思ひ、幾回《いくたび》も彼を信頼して彼の誠実に接せんとした。然し乍ら全然誠実に欠乏する彼の心の門は信頼を以てして開く事が出来なかつた。彼は到る所に争端《あらそひ》の種を播いた。そして彼と絶縁して後に平和は私の身に臨んだ。実に不思議である、然し事実である。彼はベリヤルの人である。サタンの占領する所となつた人である。何故に彼が斯かる人に成りし乎、私は知るに苦しむ。然し事実は否むべからず。ベリヤルの人はベリヤルの人である。
〇若し不幸にしてベリヤルの人に遭遇せん乎、之に勝つ途は唯一つある。即ち神の審判《さばき》を待つのみである。彼は悪を行ふに巧みにして到底人の力を以てして彼を除くことは出来ない。「此類は祈祷と断食に非ざれば出ることなし」とイエスは曰ひ給うた(マタイ伝十七章廿一節)。祈祷は信者が悪人と戦ふ時の唯一の武器である。そして神が我等に代つて戦ひ給ふ時に勝利は完全である。「禍害俄かに来り、立ろに亡びて援助なし」である。敢て我敵の滅びんことを祈るのではない。我が場合を神に委ねまつり、彼の審判を待つのである。
○第十六節以下十九節までに神の嫌ひ給ふ者が列挙してある。「六つあり、七つあり」と云ふ。数々あり、其内最(265)も嫌ひ給ふ者は最後の者なりとの意である。驕《たかぶ》る眼、虚偽《いつはり》を言ふ舌等何れも嫌ひ給ふと雖も、ヱホバが特に嫌ひ給ふは「兄弟の内に争端を起す者」である。神が嫌ひ給ふ者にして之に勝さる者はない。山上の垂訓に云ふ、「和平《やはらぎ》を求むる者は福ひなり、其人は神の子と称へらるべければ也」と。ベリヤルの人は神の子と正反対である。彼は和平を憎んで争端を愛す。彼の在る所に友人は離反し、兄弟は散乱す。彼が喜ぶ事にして人の平和の壊《こび》たるゝが如き事はない。親密なる夫婦の仲を割くを最上の楽しみとする近代婦人ありと聞いた。故に我等は祈らざるを得ない。|世にベリヤルの男女ある理由は確かに我等に祈りを教へんが為であるに相違ない。故に我等は恐るゝに足りない。「我等が戦の器《うつは》は肉に属する者に非ず、営塁《とりで》を破るほど神に由りて能《ちから》あり」とあるが如し(コリント後書十章四節)。ベリヤルの人と雖もクリスチヤンの祈祷には敵することは出来ないのである。
〇ベリヤルの人、根本的悪人、生れながらの悪人とも称すべき人、若し斯かる人ありて我等を苦しめん乎。我等は悪を以て悪に抗せず、善を以て悪に勝たんとする。即ち|祈祷を以て之に応戦する〔付△圏点〕。そして彼が悔ひて神に還り、我と和する場合がある。其時の我が喜びは譬ふるに物なしである。然れども彼れ若し悔いずして反抗を継けん乎、彼は「禍害俄かに来り立どころに亡びて援助なし」である。「俄かに」とあるは「不意に」との意である。彼が意《おも》はざる時に、彼が勝利を誇りつゝある時に、彼が我を無きに等しき者と見做し、其軽侮、凌辱を継けつゝある時に、滅亡彼に到り、彼は倒れて我は援かるのである。斯くて無抵抗主義と称して甚だ意気地なく見ゆると雖も、実は之に勝さりて完全なる勝利の途はないのである。人に此忍耐と戦の武器なくして彼はクリスチヤンでない。祈る、祈る、祈つて神が我に代つて我を苦しむる者を審判き給ふを待つ。「神は昼夜祈る所の選びたる者を久しく忍ぶとも終に救はざらんや。我れ汝等に告げん、神は速かに(俄かに、不意に)彼等を救ひ給はん」とイエスは此(266)かる場合に於て在る信者を慰めて言ひ給うた(路加伝十八章七、八節)。実に有難い事である。神は活きて在まして其審判を行ひ給ふ。此世に於ても勧善懲悪は確実に行はる。義人は少しも失望するに及ばない。

 

     姦淫の世 箴言第七章

〇箴言は娼妓に就て語る所が多くある。第五章全部が夫れである。第六章の後半部が夫れである。更に又第七章全部が夫れである。諄々《くど/\》しき程に細密に渉り、今日の紳士淑女の前に読むを憚かる箇所なきに非ずである。娼妓は単に公娼に止まらず、すべて婬婦を指して云ふなるが如し。彼等は文字通りに|あそびめ〔付ごま圏点〕である。人生を遊楽視する女である。厳粛味に全く欠けたる女である。所謂一生を面白可笑く送らんと欲する女である。そして斯かる女が何れの時代にも亦何れの国にも在るは事実である。彼等に由て家は倒れ、国は亡び、戦争は起る。言あり曰く「若しクレオパトラ女皇の鼻にして少しく低くあつたならば世界の歴史は全然|異《ちが》つたであらう」と。そしてクレオバトラは埃及国を支配せし女王であつたが、実は娼妓であつたのである。若し新田義貞を誘ふに勾当内侍がなかつたならば、我国の王政復古は今より五百年前に行はれたであらう。そして彼女に亦娼妓性のあつた事を疑ふ事が出来ない。而して箴言の著者なりとして伝へらるゝソロモン彼れ自身が同一の誘惑に陥りて、ダビデ王国滅亡の因を作つた。人生に於ける娼妓の害毒は我等が想像するよりも遥かに甚大である。彼女に由て流されし涙の量は計り知ることが出来ない。聖書が娼妓に就て多く語るは理由なきに非ずである。
〇私は殊に我国に於ける娼妓の害毒の甚しきを思はざるを得ない。日本を称して東海の美姫国と云ふは決して名誉の名称でない。日本人が世界に雄飛する能はざる主なり理由は確に茲に在ると思ふ。第一に日本が娼妓の供給(267)国であることは恥づべきの極みである。南はシンガポールより北はニコリスクに至るまで日本の娼妓の居らざる所はない。娼妓は日本の有利なる輸出品の一である。国家の不名誉此上なしである。第二に娼妓は日本人の活力を消摩すること非常である。「淫婦は人の貴き生命を求むるなり」とあるが其通りである(六章二六節)。何十万人と云ふ公娼私娼が吸血蝙蝠《ちすひかうもり》の如くに我国民の貴き生血《いきち》を吸ひつゝある。娼妓に由て其貴き天才を壊《こぼ》たれし日本人の数は挙げて算ふべからずである。日本国の富は其土地に於てあるのではない、其人民に於てあるのである。そして天資の才能に於て優れたる日本人を其生命の根本に於て害する者は日本国の基礎を壊つ者である。「そは彼女は多くの人を傷けて仆せり、彼女に殺されたる者ぞ多かる」である(七章二六節)。事は単に品行問題でない、国家の存亡問題である。日本人がキリストの福音を受けて、之に由て其淫風を一掃するまでは、強健有力なる民となる事は出来ない。
〇更に考ふべきは|神を離れたる此世が大な奸る遊里であつて、娼妓が此世の精神の表現であることである〔付△圏点〕。イエスは此世を呼んで「邪曲にして不義なる代」と云ひ給うた(マタイ伝十二章三九節改訳)。「不義なる」は「姦淫する」である。此世は姦淫する世である。即ち淫婦であるとのことである。此事を委しく述べた者がヨハネ黙示録第十七章である。  
  七の金椀《かなまり》を持てる七人の天使の一人来りて我に語りて曰ひけるは、来れ我れ汝に多くの水の上に坐する大淫婦の審判を示さん。地の王等之と淫を行ひ、地に住める者その淫乱の酒に酔ひたり。我れ霊《みたま》に感じ携へらて野に行き、絳色《あかいろ》の獣《けもの》に乗る婦を見たり。……此婦、紫と緋の衣をまとひ、金と宝石と真珠を以て身を飾り、手に憎むべきもの及び己が奸淫の穢れを盛れる金の杯を持ち、その額《ひたひ》に名を書せり、曰く「奥義、大なるバ(268)ビロン、淫婦と地の憎むべき者の母」と。我れ此婦の聖徒の血に酔ひ、イエスの証しを為しゝ者等の血に酔ひたるを見たり。我れ此婦を見て大に駭き異《あやし》めり云々。

 以上「淫婦」とあるは「娼妓」である。此世全体が大なる娼妓《あそびめ》である。彼女は箴言第七章に示すが如き姿と飾《かざり》と言《ことば》とを以て聖徒を誘ふ。一たび彼女の毒手に罹れば彼女と偕に滅亡に終る。「その家は陰府の途にして死の室に下り往く」とあるが如し(七章二七節)。

〇此世は大淫婦である。之に対してキリストは潔き新郎《はなむこ》である。彼は淫婦を妻として迎ふる事は出来ない。茲に於てか彼女を潔め、彼に適したる新婦《はなよめ》となすの必要がある。そして斯く潔められしものがエクレジヤ即ち教会である。此世に在りて此世に属せざる者、其奸淫の穢れを拭はれたる者である。クリスチヤンはエリコの娼妓ラハブの如き者である。此世に叛いて神の民と与みして、其潔めに与りし者である。

〇淫婦に対し貞淑たる新婦《はなよめ》がある。基督信者と基督教会とは其れでなくてはならない。「羔の婚姻の期既に至り、其嫁既に自から備へを成し終れり。嫁は潔くして光ある細き布を衣ることを許さる。此如き布は聖徒の義なり」とある(黙示録十九章七、八節)。此世は娼家、エクレジヤはクリスチヤンホーム、故に曰ふ「此世に効《なら》ふ勿れ、汝等神の全且善にして悦ぶべき旨を知らんが為に心を化へて新たにせよ」と(ロマ書十二章二筋)。 〔以上、大正14・3・10〕

 

     智慧は語る 箴言第八章一-十一節

○此世は不義の世即ち姦淫の世である、之を大なる遊郭と見て差支ない。そして娼妓は其精神の代表者である。(269)遊廓に等しき此世に在りては万事が秘密に行はる。其市民はすべて暗黒を愛す。彼等は常に「黄昏《たそがれ》に半宵(よひ)夜半《よは》に黒暗《くらやみ》に在る」を好む(七章九節)。彼等が好んで語る事はすべて内証事《ないしようごと》である。「夫は家に在らず遠く旅立して手に金嚢《かねぶくろ》をとれり、望月《もちづき》ならでは家に帰らじ」と(同十九節)。パウロの所謂「恥づべき隠れたる事」である。而かも此世の人等の語る事は多くは是れである、即ち恥づべき、公明を憚かる事柄である。必しも妓楼又は待合茶屋に限らない。政党、会社、時には教会に於てさへ、議せらるゝ事は多くは隠密に属する事である。「家内の隠密」と称して、此世の人等には隠密ならざる所に幸福はないのである。

〇智慧は然らずである。神の智慧は隠密を嫌ふ。彼女は雲雀の如くに光明を愛する。|娼妓は不義の此世の代表者であつて、ホクマ即ち智慧は神の国の代表者である〔付○圏点〕。同じく女性であるが二者の間に雲泥の相違がある。娼妓が「室《いへ》の※〔片+(戸/甫)〕《まど》に倚り櫺子《れんじ》よりのぞきて一人の智慧なき者を誘ふ」に対して、智慧は公然街衢に立ちて叫ぶ。

   一、智慧は呼はらざる乎、

     聡明《さとり》に声を出さゞる乎、

   二、彼女は道の側《かたはら》の高処に、

     又|街衢《ちまた》の中に立ちて叫ぶ、

   三、邑《まち》の入口に其門の傍に

     門の入口に立ちて声高く呼はる。

 娼妓は薄暗き室の内に婉《なまめ》きたる言を囁き、智慧は市民集合の場所たる邑《まち》の門に高き声を揚ぐ。「女らしくない」と云ふであらう乎。彼女は余りに清くして秘すべき事がないのである。此は「お転婆」ではない、玲瓏玉の如き(270)心の状態である。己が芸術に頼む声楽者が公衆の前に歌ふを好むが如く己が清浄を疑はざる智慧ホクマほ公然人の前に立ちて大義を唱へて喜ぶのである。

〇娼妓は愚かなる者を一人々々に待《あしら》ふに対して、智慧は万人を相手に語る。

   四、人々よ我れ汝を呼ぶ、

     我声を揚げて人の子等を呼ぶ。

   五、拙き者等よ汝等|聡明《さとり》を学べ、

     愚かなる者よ汝等智慧を得よ。

 智慧の喜ぶものは真理と公義とである。故に彼女は之を万人に伝へんと欲する。彼女は万人に訴へ、万人を教へ、万人を導かんと欲する。斯くするは彼女が傲慢であるからでない、彼女が普遍的真理を懐くからである。殊更に大衆を求むるからでない、万人の通有性に訴へんと欲するからである。全人類と幸福を共にせんとするが智慧の特有性である。
〇智慧の道は公明である。世界的人類的である。故に彼女に確信がある。人は己の為に求むる時に疑ひ、世の為に求むる時に躊躇《ためら》はない。彼女は己が主張を公表して曰ふ。

   六、汝等聞け、我は善き事を語り、

     我が唇は正しき事を述ぶればなり、

   七、我が口は真実を伝へ、

     我が脣は悪しき事を憎めばなり、

(271)   八、我が口の言は悉く正し、

     其内に虚偽と邪曲とあるなし。

   九、此は皆な智き者には真《まこと》とせられ、

     知識を得る者には正しとせらる。

〇我言に誤謬《あやまり》なし、而して之を証明する者は智者と識者となりと云ふ。「智慧は智慧の子に義しとせらる」とあるは此事である(馬太伝十一章十九節)。高ぶりの言の如くに聞えて然らざる理由は茲に在る。真理は自証者である。真理を証明する者は真理其物である。智慧即ち人生の実際的真理を証明する者は之を実験的に獲得したる者である。智慧は福音の真理である。此は公明にして正大、万人の良心に訴ふべき者、之を伝ふる時に我が口の言は悉く正しく、其内に邪曲《いつはり》と虚偽《よこしま》とあるなし。而して其真理たるを証明する者は此世の輿論ではない。大学者も亦其鑑定を誤まる場合甚だ多し。智慧を義《たゞし》とする者は智慧の子である。十字架の福音を神の真理として認むる者は福音の子即ち信者である。ヘロデ王の配下に立てる神学者等に認められざりし嬰児イエスが、老いたるアンナとシメオンとに由て迎へられしと同然である。

〇更に又、智慧は金銀を排して自己を提供す。

   汝等教を受けよ銀を受くる勿れ

   精金よりも寧ろ知識を得よ、

   それ智慧は真珠に愈り、

   凡ての宝も之に此ぶるに足らず。

(272)今や智慧と云ひ知識と云へば金銀を得る為のものである。然れど其の知識は金銀以上である。(十二月十四日)

 

    智慧の前在並に人格性 箴言八章二二-三二節

 

  ヱホバ古へ其|御業《みわざ》を始め給はざりし前に

  其|御仕事《みしごと》の初めとして我を造り給へり。

  元始《はじめ》より地の在らざりし前より、

  永遠より我は立られたり。

 

  未だ海あらざりし時に、

  未だ大なる水の泉あらざりし時我れ既に生れたり

  山未だ定められざりし前に、

  陵《おか》未だ有らざりし前に我れ既に生れたり。

  此は神未だ地をも野をも、

  地の塵《ちり》の根元《こんげん》をも造り給はざりし前なり。

 

  彼れ天を造り給ひし時、

  海の面に蒼穹《おほそら》を張り給ひし時、

(273)  彼れ上に雲気《そら》を固く定め給ひし時、

  淵《ふち》の泉を塾め給ひし時、

  海に其|限界《かぎり》を立て給ひし時、

  地の基を定め給ひし時

 

  我は其傍に在りて創造者となり、

  日々に欣び恒に其前に楽しめり。
   その地にて楽しめり

  又世の人を喜べり。

 

〇以上は決して完全なる翻訳ではない、然し大体の意味を通じて間違ないと思ふ。謂ふ意《こゝろ》は智慧は人《ペルソン》として万人よりも前に造られ、地未だ在らざりし時、地の塵の根元《元素?》さへも造られざりし時に既に生れたりとのことである。然り、地は勿論の事、天さへも未だ成らざりし時に、智慧は神の傍に在りて其進化の御業《みわざ》に携《たづさ》はり、子が其父の傍《かたはら》に在りて遊び楽しむが如くに、彼が造り給ひし地を楽しみ、其上に置かれし人を喜べりとの事である。

〇箴言の此言の示す所のものは、第一に|智慧〔付○圏点〕の|前在〔付○圏点〕である、第二に其|人格性〔付○圏点〕である。其第一に就て曰はんに、先きに智慧があつて、万物が成つたのであつて万物があつて其内から智慧が現はれたのでない。即ち智慧は進化の(274)原因であつて其結果でない。我等が三章十九節に於て読んだ通りである。

   ヱホバ智慧をもて地を定め

   聡明《さとり》をもて天を置《すへ》たまへり

と。そして是が真《まこと》の哲学であらねばならぬ。宇宙は如何に観ても偶然に出来た者でない。是は、或る計画の上に確乎たる目的を以て成つた者である。そして智慧が其基礎的計画である。宇宙は神の善き聖旨《みこゝろ》を成就せんが為に成つた者である。其事は単一の事を見た丈けでは解らない。然し宇宙全体並に其成行の方向を見れば判明る。昔の人が之をコズモスと称したのは其故である。是は|整体〔付○圏点〕である。|完備せる全体〔付○圏点〕である。混沌に始つて完全に終る者、部分的には不完全なるも、全体的には完全なる者である。恰も美術家が美術品を作るが如くである。彼は確乎たる意匠を握らずして製作に取掛らない。然れども或る美はしき理想に駆られて、画布《カンバス》又は大理石に対するや、彼は万難を排して其理想を実現する。ラフハエル又はミケル・アンゼローは神の小なる模型に過ぎない。然れども彼等の創作は神の創造を代表して誤らないのである。作家あり、理想ありて作品が有るのである。神あり智慧ありて宇宙が有るのである。然るに作品を見て作家と其理想とを賞讃する人は、宇宙を見て神と其智恵とを讃美しないのである。而已ならず宇宙は偶然の作であつて、智慧は宇宙の産であると云ふ。背理も亦甚しからずや。人の宇宙観如何は其人に取り小問題ではない。之に依て彼の品性並に一生の方針が定まるのである。そして古き箴言の宇宙観は近代人多数のそれに優さり遥かに健全で深遠である。諺に曰く「神を信ぜざる天文学者は狂人なり」と。惟り天文学者に止まらず、生物学者、哲学者、文学者 法学者すべて然りである。宇宙と人生とに神の智慧を探るのが凡ての学問の目的であらねばならぬ。
(275)〇第二に学ぶべきは智慧の人格性《ペルソナリチー》である。智慧は神が万物を造りし前に生み給ひし者であつて、彼は彼(神)の傍に在りて創造者と成れりと云ふ。即ち神の場合に於て智慧は作家の場合に於ける理想たるに止まらずして、造化の相談相手又共働者であつたと云ふのである。言は単に此喩《アレゴリー》として見る事が出来ない。其内に深い真理がある。有名なるヨハネ伝発端の言に曰く。

  元始《はじめ》に道《ことば》あり、道は神と偕に在り、道は即ち神なり。此道は元始に神と偕に在りき。万物之に由りて造らる。造られたる者に一として之に由らで造られしは無し。
 箴言の「智慧」はヨハネ伝の「道《ことば》」である。そして道はイエスキリストであつたと云ふ。驚くべき言である。然れども使徒等は冷静に此事を唱へて憚らなかつた。|神の智慧は人、其人はナザレのイエス〔付○圏点〕と。遠大なる真理である。(十二月廿一日) 〔以上、大正14・5・10〕

(276)     米国人の排斥に会ひて

                           大正13年6月10日

                           『聖書之研究』287号

                           署名 内村

 

 米国人の排斥に会ひし以上、日本人たる者は米国並に米国人に対し、左の態度に出るの必要がある。

  第一 成るべく米国に行かない事。

  第二 成るべく米国品を使はない事。

  第三 成るべく米国人の援助を受けない事。

  第四 成るべく米国人の書いたものを読まない事。

  第五 成るべく米国人の教会に出入しない事。

 米国人は真理の人であるよりは寧ろ党派の人である。彼等は余輩がキリストの信者と成りたればとて少しも喜ばない。余輩が彼等の教派の人となりし時に、初めて兄弟たるの愛を現はす。米国人の伝道なるものは異教徒を其の神に導かん為の伝道ではない、自分の教会の勢力を拡張せん為の伝道である。故に彼等の伝道に与かりし日本人の多数は、彼等に傚ひ、彼等以上の教派の人と成つた。信徒相互を憎み、嫉み、排斥する者にして、米国宣教師の伝道を受けし日本の基督教信者の如き者の他に在るを知らない。斯くて米国宣教師は多数の日本人を化して「地獄の子供」と成した(馬太伝二十三章十五節)。今回の米国人の日本人排斥の如き、米国諸教会派遣の宣教(277)師等が相互を排斥する其精神を他国民に向つて現はした者に過ぎない。|米国人自身が日本人以上に罪の悔改を必要とする〔付△圏点〕。|そして今回の彼等の行為が彼等に此望ましき悔故を起すに至らば感謝此上なしである〔付○圏点〕。

(278)     宣言

                           大正13年6月16日公表

                           手稿

                           署名 内村鑑三 提出

 

  邑《まち》に災禍《わざはひ》の起るはヱホバの之を降し給ふならずや。アモス書三章六節

 

 我等下名の日本基督敦界の教師役者平信徒は、日本の基督教会、基督教育年会、基督教主義の諸学校、並に社会改良、慈善団紡が、此際米国の教会、伝道会社、基督教育年会、並に其他の基督教主義の諸団放と関係を絶つことの適当なるを認む。此は内に対しては福音の宣伝並に一般的教化事業を容易ならしめ、外に対しては米国民が今回其政府を通うして日本国民に加へたる大侮辱に対し、我等の反対公憤を表はす上に於て最も有効なる途なりと信ず。依て我等は各自の勢力範囲に於て出来得る限りの力を尽し、此目的を達せんことを期し、茲に署名して我等の意志を内外に宣言す。

  但し以上の目的を連せんが為に、出来得る限りの平和手段を取り、在留米国宣教師の身の安全を計るは勿論、彼等が今日まで日本教化の為に尽せし功労をして有効ならしむるやうに努力すべく、又彼等に対し深甚の同情を表し、彼等の日本退去をして名誉あるもの、又成るべく愉快ならしめんことを努むべし。又今後と雖も、彼等の内に日本に留まりて伝道を継続せんと欲する者に対しては出来得る限りの援助を供し、又我等と協同(279)を欲する者は喜んで其要求に応ずべし。又米国に於ける信仰の兄弟姉妹にして個人として、或は労力を以て、或は物資を以て、我等の伝道並に教化事業に参与せんと欲する者は、歓んで之を迎へ、感謝して之を受くべし。我等は日本国民として米国民が共政府を通うして今回日本国民に対して加へし侮辱を憤ると雖も、米国に在る主に在る兄弟姉妹に対しては旧来の厚誼を失はず。我等は事の茲に至れるを甚だ悲しむと雖も、是れ主の為し給へることにして、我等相方の最善の為に行はれ、其最後の結果の必ず主の栄光に終ることを確信し、茲に涙を飲んで我等の決心を表明す。

 

     説明

 

〇今日の如き場合には自分達の情実や利害を顧みずして国家の体面を意《おも)はなければなりません。

〇既に米国に於て法律と成りて現はれし以上、今後の緩和や訂正を予測して姑息手段を取つてはなりません。

〇宣教師は既に日本に於て信用を失つて居るのでありまして、今回の米国政府の不信的行動に由て日本に於ける彼等の勢力は致命傷を負はせられたと称して差支ありません。此上彼等が日本に滞在するも彼等は差したる事を為す能はず、又日本の信者は彼等の援助の下に伝道して利する所甚だ尠くして、害せらるゝ所、甚だ多くあります。

〇在米の同胞に対しては同情に堪えません。我等は彼等の境遇に対して全力を尽して其緩和を計るべきであります。然れども十万の同胞の安全の為に七千万の同胞の名誉人権を犠牲に供することは出来ません。我等は忠実なるキリストの僕婢として、斯かる場合には我等が国家に負ふ重大なる義務があると信じます。米国人が日本人を(280)排斥するを以て国の為に可《よし》と認むるやうに、我等は此際宣教師と絶つを以て国の為に可と認むるのであります。但し我等ほ国としての米国の行為を憎むの故を以て、個人として彼等を憎まず、成るべく親切に彼等を扱はんと欲するが如くに、我等は米国人も亦成るべく親切に彼国在留の日本人を扱はんことを欲します。此は決して悪を以て悪に報ゆるのではありません。我が正当の権利を主張せんと欲するのであります。我等が国民を代表して他の国民に対する時に、我等は個人として人に対する時の態度に出る事は出来ません。私は諸君が此際、米国の対英独立戦争の時に米国の熱心なるクリスチヤンが英国に対して取つた態度に鑑みられんことを望みます。パトリック・ヘンリーの Gentlemen cry,peace, peace, when there is no peace.…Give me liberty or give me death. の言、又プリンスト大学第六の総長 John Witherspoon が彼の国人の或者が We are not ripe for revolution. と唱へし時に、断然立つて Not ripe! sir.We are not only ripe, but rotting. と云ひし言を思はれんことを願ひます。パウロは教へて「|悪を憎み〔付△圏点〕、善と親しみ」と教へました。是が本当の愛の道であります。私供は今回米国人が其政府を通うして日本に対して為した悪を憎まなければなりません。此はやがて米国人と本当の平和に入る途であります。私は信じて疑ひません、米国堕落したりと雖も今日猶ほ私供が米国に対して為さんと欲する事に対して心からの尊敬又同情を払ふ者が尠からずあると信じます。独立は米国本来の精神であります。私供は這般此米国に対して教会の独立を宣言せんとするのであります。本当の米国人は私供の此行為を心から喜ぶべきであります。

 

(281)     米国風を一掃せよ

                             大正13年6月17日

                              『国民新聞』

                             署名 内村鑑三

 

〇悪い物は米国品《べいこくひん》ばかりでない、それよりも更に一層悪いものがある。それは米国風《べいこくふう》である。日本人は知はらず識らずの間に米国化されたのである。日本の新聞紙が一斉に其最も貴重なる第一面を商売用の広告に供するのは、是れ全く米国風である。又其記事が多くはセンセーシヨナルなるも亦米国風である。其点に於て英国風は遥に米風に優さる。日本の新聞紙が此際ロンドン・タイムスやマンチエスター・ガーデヤンの質素着実なるに傚はんことを切望する。

〇過去四五年来我国に流行する文化運動なるものは実は米化運動であると思ふ。文化生活とは成るべく多く地上に於て肉の生活を楽しまんと欲する努力であつて、是れ亦現代の米国人の理想とする所であつて、甚だ嫌ふべきものである。論より証拠である、文化生活の主唱者は多くは米国仕込みの男女である。故に所謂文化生活を一掃する時に米国品の必要は大減するのである。

〇第三に米国風の宗教を一掃すべきである。是は浅い、現世的の、人の霊魂を救ふには無能無効の宗教である。敢て宣教師を排斥せよと云ふのではないが、キリストがパリサイのパン種を慎むべしと教へしやうに、我等は米国人の宗教ならざる宗教を慎しむべきである 其他今回米国人の日本人排斥を好機会として日本人の間に浸潤(282)したる卑賤俗悪の米国人の気風を一掃すべきである。

 

(283)                          大正13年6月20日

                             『柏木通信』創刊

 

〔画像略〕『柏木通信』創刊号 第1頁 317×230mm


(284)     発刊の辞

                            大正13年6月20日

                            『柏木通信』 1号

                            著名 内村鑑三

 

〇内村聖書研究会は今日五百人以上の一大家族であります。随つて会員間の親睦を保つは必要であると共に困難《むつか》しくあります。依て茲に小機関を作つて其目的の一部分を果さんと欲するのであります。会員諸君に於て何分進んで御賛成を願ひます。

〇申上ぐるまでもなく聖書を研究するのみにて愛を実行せざれば聖書は解りません。そして愛は相互の接触を要します。私共は愛するの機会を与へられざれば愛を知ることが出来ません。自分が愛せられん為ではありません。他《ひと》を愛して愛を知り、神を愛して神に愛せられん為であります。『柏木通信』は其機会を会員諸君に供《そな》へんが為に作られるのであります。此暗らき世に在りて同信の友が相互を知り、又援くるは無上の幸福又感謝であります。此小機関に由りて相互が一層親しくなり、信仰の家族たるの実を拳ぐるに至らんやう、私は切に祈ります。

 

(285)     米国人の排日憤慨

                             大正13年7月9日

                              『国民新聞』

                              署名 内村鑑三

 

 今度の日米間題で最も熱烈なる憤慨を発した者は、私の知る範囲に於ては、日本人ではなくして米国人である。私 の三十七年来の親友で、フイラデルフイヤ市の有名の医師某君の如きは、此事に就て非常に怒《いか》り、排日法《はいにちほふ》を制定したやうな米国は五十年以内に亡びて了うであらう、そしてエジプト バビロンと共に世界亡国史に其名を留むるであらうと私の所へ言うて来た。又ミルウオーキー市の或人の如きは(其筆蹟より見て高級労働者らしくある)、私が基督教界の元老と共に日本基督教の独立を計画すると東京電報を読んで、私等に対し大賛成を表し、同情の徴《しるし》にとて金二十弗を送つて来た、又或る婦人の如きは、日本人は決して異人種ではない、英民族と同人種である、日本人を排斥するは兄弟を排斥するのであると云ふ事を、聖書に照らして論じた長文を送つて来た。其他私の米国の友人は何《いづ》れも此間題に就ては激烈なる日本人の味方であつて、日本人多数の甚だ微温《なまぬる》い態度に較べて見て、慚愧の至りである。何も日本人を辱めたとか、亜細亜人種を侮辱したとか云うて憤るのではない、宇宙の公道を蹂躙したとて怒るのである。それが本当の深い清い憤慨である。此人類的、宇宙的憤慨があつてこそ、斯る大問題に当つで永久に挫けないのである。(七月七日)

(286)     WHOSE EARTH? 誰の世界乎

                           大正13年7月10日

                           『聖書之研究』288号

                           署名なし

 

     WHOSE EARTH?

 

 “The earth is the Lord's,and the fulness thereof.”The world does not belong to the Anglosaxon race,neither do the American continents to Americans.The earth is God's,and it belongs to the people to whom He giveth it. No law enacted by human governments,however strong,can change this fundamental law of possession.The righteous sball inherit tje earth;and the unrighteous shall be dispossessed of their possessions.If History teaches us anything,it teaches us this truth.What then are hundreds of billions of gold,mighty navies,and inexhaustible resources,if that nation's heart is not right with God? In Heaven's court,they are disinherited already;and the land that flows with milk and honey is promised to the true Israelites of God. Blessed be His name!

 

     誰の世界乎

(287)〇「全地とそれに充つるもの、世界とその中に住むものとは皆なヱホバのものなり」とある(詩篇二十四第一節)。世界はアングロ・サクソン民族に属せず、又米大陸は米国人に属せず。全地は神の有であつて、神が与へ給ふ民に属す。人間の政府に由て制定せられたる如何なる法律も、其政府は如何に強大なるものなりと雖も、地の所有権に関はる此根本的法則を変更する事は出来ない。義者は地を嗣ぐべし、不義者は其所有を奪はるべし。若し世界歴史が明白なる一事を教ゆるならば、此一事を教ゆる。然らば若し其民の心にして神の前に義しからずば、幾千億の金貨何かあらん、大海軍、無限の資源何かあらん。天の法廷に於ては彼等は既にその所有権を剥奪せられたのであつて、乳と密との流がるゝと云ふカナンの土地は、神の真のイスラエル人に与へらるべく約束せられたのである。彼の聖名は讃むべき哉。

(288)     独立の途

                           大正13年7月10日

                           『聖書之研究』288号

                           署名なし

 

〇独立に達する第一の途は神に倚頼む事である。人は弱き自己《おのれ》に頼りて立たんと欲するも能はず、惟全能者に頼りてのみ立つことが出来るのである。我れ独り立つに非ず、神に支られて立つのである。それが本当の独立である。ミルトンも、クロムウエルも、ピユーリタン祖先等も、皆な此途を取りて最も強固なる独立に達したのである。独立は自由と共に神の賜物である。神に頼る心なくして独立は獲られない。又神に頼りて人は自《おのづ》から他に頼らずして独り立つに至る。畢竟《つま》る所独立の有無は信仰有無の問題である。

〇第二は自己に頼る事である。人は他に倚頼む間は自分の強さを知らない。我は弱し弱しと云ふ者は何時までも弱くある。人は弱くあるが彼が思ふ程弱くはない。彼は自己《おのれ》に頼つて見て、神が彼に与へ給ひし能力《ちから》の強さを覚るのである。繊弱《かよわ》き婦人も夫に死別れて、独りで家を支え、子女を教育するのである。神は独りで立つ能はざるやうに人を造り給はなかつた。独立は自己能力の識認又試験である。自己に頼りて見よ、自己の如何に強き乎を悟らん。眼を外に注ぐを廃めて衷《うち》に注ぎ見よ、其処に宝貨《たから》の山の在るを知らん。

〇第三は人を信ずる事である。人は信頼を以て接すれば信頼を以て応ずる。人を疑つて其賛同を得ることは出来ない。彼に援助を乞ふのではない、真理と公義の為に正当なる其力を要求するのである。そして社会も国家も終(289)に此要求に応ずるに至る。信頼は信頼を生む。人の我を信ぜざるは多くは我の彼を信ぜぎるに因る。勿論信頼は忍耐を要す。我れ今日彼を信じて彼は直に我を信ぜず。然れども我れ忍耐を以つて永く彼を信じて彼は終に我を信ずるに至る。日本人は異教徒なりとの故を以て、彼等に信頼せずして、彼等は基督信者たる我等を信じない。彼等も我等も同じ日本人である。宗教の異なる故を以つて我等は彼等を疑うてはならない。我等はパウロに傚ひ、「真理を顕はして神の前に己を衆《すべて》の人の良心に質《たゞ》す」べきである(哥後四の二)。独立は衆人の公認に在る。我れ神の真理を以て世に臨んで世は終に我を公認せざるを得ない。此忍耐と誠実とありて、我は異教の人の内に在りて、我が独立を獲得維持する事が出来る。

〇独立に節倹が必要である。伝道に装飾は要ない。聖書と信ずるの心とあれば充分である。「衣食あれば足れりとすべし」である。独立の秘訣は簡易生活に在る。大事業を為さんと欲するが故に独立が困難いのである。

(290)     人の三分性

         一名、聖書心理学の大要

                           大正13年7月10日

                           『聖書之研究』288号

                           署名 内村鑑三

 

  テサロニケ前書五章廿三節の研究

 

  願くは平安の神自ら汝等を全く潔し、又汝等の|全霊全生全身〔付○圏点〕を守りて、我等の主イエスキリストの臨らん時に咎なからしめ給はんことを(旧訳)。

  願くは平和の神、みづから汝らを全く潔くし、汝らの霊と心と体とを全く守りて、我らの主イエス・キリストの来り給ふ時責むべき所なからしめ給はん事を(新訳)。

〇聖書は人を如何なる者として見る乎、其事は聖書を解する上に於て最も大切である。聖書は人を救はん為の神の道を示す書であつて、人に関する観察に於て深奥を極め、克く其心理を明にして誤らないのである。恰かも名医が身体の構造を知悉するが如くに、神は人の心を見透して精細を究め給ふ。「それ神の言は活きて能あり、両刃《もろば》の剣《つるぎ》よりも利く、精気と霊魂、関節《ふし/”\》と骨髄を刺《とう》して之を剖《わか》ち、心の念《おもひ》と志望《こゝろざし》とを鑒察《みわく》るものなり」とあるが如し(ヒブライ書四章十二節)。|人の心の構造如何は聖書に依らずして知ることは出来ない〔付○圏点〕。すべての科学と哲学とが(291)其源を聖書に於て発するが如くに、近代の心理学も亦其発端は聖書に在るのである。聖書は今も猶ほ最も深遠なる心理学書である。経験に富める基督者は心理学者以上の心理学者である。彼は大学の心理学教室に於て学ばずと雖も、神の学校《スクール》に於て、自己の何たる乎、そして自己を通して人の何たる乎を明かに示されたのである。

〇そして聖書心理学を紹介する上に於て最も適当なるは我らが此所に選びし本文である。即ちテサロニケ前書五章廿三節である。此は愛に満ちたるパウロの此書翰の結末の辞の一節であつて、彼の心より自然と流れ出たる真情の表現《あらはれ》である。パウロは勿論此所に彼の学説を発表して居るのではない、彼の信仰を露出して居るのである。然れども彼の心より偶然に洩れ出し此言が、吾人今日の言を以て曰ふならば「パウロの心理学の大要」を吾人に示すものである。パウロは平常如此くに考へ居りしが故に、此場合に於て如此くに言表はしたのである。

〇此は言ふまでもなくパウロの祈願の言葉である。「願くは平安の神……平安の源にして之を人に賜ふの神……汝等を全く潔くし給はん事を」と云ふのが祈願の要点であつた。此内に高調して読むべきは「全く」の一語である。「全く」、「全然」、「何の欠くる所なく」、「完全」に潔め給はんことをと云ふのである。パウロは何事に於ても徹底を要求する人であつた。彼は自他の部分的完全を以て滴足しなかつた。彼はテサロニケの基督者が完全の人と成らんことを要め又祈つたのである。

〇然らば人の完全とは何を意味するかと云ふに、|其霊、其心、其体〔付○圏点〕の完全を云ふのであるとパウロは信じたのである。故に全く潔められん事を祈ると云ひて、更に別の言を以て同じ意《こゝろ》を述べて曰うた「汝等の霊と心と体とを守り給はん事を」と。言を替へて曰へば、人は|霊〔付○圏点〕と|心〔付○圏点〕と|体〔付○圏点〕との三部より成る者であるが故に、全く潔められんと欲すれば是等の部分より成る全部を潔められねばならぬと云ふのである。霊と心と斗りでは足りない、体をも潔(292)められねばならぬと云ふのである。大胆なる、徹底せる言方《いひかた》である。然し乍ら基督者の祈求《ねがひ》は之れ以下を以て満足しないのである。

〇人は霊と心と体との三部より成ると云ふ。即ち人に三分性ありと云ふ。果して然る乎。人に体の有る事は何人も承認する。体は肉体である、人が物質界に接する機関である。此点に於て人は動物又植物と異ならない。彼は飲み、食ひ、生長し、生殖する。人は其体に於て猿、犬、豚、鳥、牛等と著るしく似て居る。古いギリシヤの哲学者が「人は羽毛を有せざる二本足の動物なり」と云うたのは洵に適切なる定義である。斯く云ひて勿論人は価値《つまら》ない動物であると云ふのではない。人間の身体は造化巧妙の極致である。聖詩人が歌ひし通りである「我れ爾に感謝す、醜は畏るべく奇《くす》しく造られたり、爾の事跡《みわざ》は悉く奇し。我霊魂はいと詳《つばら》に之を識れり」と(詩百三十九章十四節)。数百年に渉り解剖学者が精力を傾注して之を研究せしも猶ほ其少部分を知り得しに止まる。五尺の身体は微妙極まりなき小宇宙である。そして我等各自が此小宇宙の所有者であると思へば、何人も己が貧弱を歎つべき筈はないのである。肉を卑しく見るは霊と心とが卑しいからである。神の霊を以て潔められて、朽つべき肉體も聖霊の殿《みや》と化するのである。

〇肉の上に、或は其内に心がある。希臘語のサイケー、英語のマインド又はソールは、如何なる辞を以て日本語に訳して宜しきや、翻訳者の常に迷ふ所である。或は神《しん》と訳し精神と訳し、気と訳し血気と訳す。コリント前書十五章四四節に「血気の体にて播かれ霊の体に甦さる、血気の体あり霊の体あり」とあるは此辞である。今仮りに之を心と訳する。要は文字に非ず、意味にある。サイケー即ち心は何である乎。此は普通に知情意と称するものであつて、肉体を支配する意志思想の所在地である。五感の働き以上、すべての意識感情の行はるゝ所であ(293)る。人が泣き、笑ひ、怒るも心に於てゞある。彼が研究を積んで科学者又は哲学者に成る 此所に於てゞある。彼が策略を弄し、競争者を仆して、自身当選の栄に与り、政治家として虚偽の生涯を送らんと欲するも亦其心に於てゞある。或は近代人として恋愛と芸術に人生の至上善を認め、自分、自分と称して、何事も自分本位に行ふのも亦其サイケー即ち心に於てゞある。すべての計算、策略、思念、獣類が有する以上の心的動作はすべて此所に行はる。斯くして心も亦体と同じく驚くべき神の賜物である。之を善用すればニユートン カントと成り、悪用すれば我国今日の政治家又は実業家の如き者と成る。我等はマインドの研磨修養を怠つてはならない。教育とは其大部分が心の教育である。之を広め、強め、潔むるは何人に取りても重要問題である。

〇然し乍ら人は体と心とを以て丈けでは足りない。心以上に彼に霊がある。霊は心の一部分でない。体が其れ以下であるが如くに霊は其れ以上である。心と霊とを混同して大なる誤謬に陥らざるを得ない。体の内に心の宿るが如くに心の内に霊が宿る。人を昔のユダヤ人の神殿に較べて見て、体は外の庭にして、心は聖所、霊は至聖所である(ヒブライ書九章参照)。即ち体は外の物質界に接する所であつて、霊は内の霊界に接する所である。そして二者の間に心が在つて、或は体を以て物質に接し、或は霊を以て神と交はるのである。心は人の中心であつて、彼が自己を自覚する所である。之に対し彼は体を以て外の世界即ち物質界を感得し、霊を以て内の世界即ち神を感受するのである。斯くして人は物と神との間に介在する存在者である。其足は地の上に立ち、其頭は天の内に達し、自己は二者の間に在りて、或ひは地に降りて俗人即ち地の属《もの》となり、或ひは天に昇りて聖徒即ち天の属《もの》となる。彼の生涯は昇る乎降る乎、二者孰れを択む乎を決する為のものであつて、冒険の最も大なるもの、最大の努力を要し、厳粛の極と称すべき者である。

(294)〇そして普通の場合に於ては霊は死せる乎、然らざれば寝《ねむ》つて居るのである。其肉体は活動し、其マインド(血気)は旺盛なるも、其霊は「愆《とが》と罪とに死」んでゐるのである。故に彼等は霊と云へば心の動作《はたらき》であると思ひ、心と霊との区別が甚だ漠然たるのである。人が霊に覚むるは彼がキリストの御父なる霊の神に接した後であつて、其時彼は初めて彼に霊性の在る事をすら判然と知り得るのである。誠に「神の言は両刃の剣よりも利く気(心)と魂(霊)とを刺《とう》し剖《わか》つ」とあるが如くであつて、神の言に依てのみ心と霊とは判別せらるゝのである。恰かも物に触れずして物の感じが起らざるが如くに、霊なる神に接せずして霊感は起らないのである。人は神を識らずして物質界に活動して大実業家と成ることが出来る。又政治界に活動して大政治家と成る事も出来る。更に亦学問界に奮闘して大学者と成る事も出来る。芸術界に飛翔して大芸術家と成る事も出来る。実業家たり政治家たり学者たり芸術家たるに神を信じて霊界に覚むるの必要はない。不信者其儘にて、或は更に背教者又は堕落信者にて大実業家又は大文士と成る事が出来る。我等は其多くの実例を現代の日本に於て見た。信仰は此世に於て偉大なるの必要条件ではない。ナポレオン、ニイチエ、伊藤博文公、大隈重信侯等は不信者でありながら此世の偉人であつた。

〇然らば人は其霊性に覚むるの必要なき乎と云ふに決してさうではない。人は其霊性に覚めて新宇宙を発見するのである。恰かも性来《うまれつき》の瞽者《めしい》が眼を開かれて眼に見ゆる此宇宙を獲たと同じである。神は真の宇宙である。唯一の実在者である。其無限なる、豊富なる、変化に富む事、此現象的宇宙の到底及ばざる所である。神を迷信と云ふは自《みづ》から神に触れた事がないからである。寧ろ金や銀や土地や家屋が迷信であると云ふが適当である。「神は霊なれば拝する者も亦霊と真《まこと》を以て之を拝すべきで也」と主は曰ひ給うた。霊なる神は心を以て識る能はず、勿論(295)体を以て探る事は出来ない。霊を以て、人の実在の基礎なる霊的意識を以てのみ識り又仕ふる事が出来る。そして神を識りて宇宙何物も我等を彼より絶《はな》らする事は出来ない。深い哉深し、美なる哉美である。彼を仰いで所謂 beatific vision(直覚の見神)に惹かれて、人は地を離れて天に昇るのである。今まで塵に着《つき》し心は自から上に惹かれて天の属となるのである。此は迷信でもなければ偽善でもない。事実中の最大事実である。

〇斯くて人は体と心と霊との三部より成る。彼が全く救はれんが為には、三部合せて救はれねばならぬ。そして神は福音を以て人を初めに其寝れる霊に於て覚めしめ、然る後に心を潔め、最後に体を改造して、茲に完全に彼を救ひ給ふのである。明白なる深い貴き真理である。そして斯かる徹底的の救ひが基督者の内に行はれつゝあるのである。殊に感謝すべきは我等の霊性の覚醒並に挽回である。我等は茲に新らしき宇宙を与へられて新たに活動の世界を得たのである。旧き世界は此世の人等の専有に帰して我等を容るゝに場所なしと雖も我等は歎かないのである。(四月十三日)

(296)     三分性と復活

                           大正13年7月10日

                           『聖書之研究』288号

                           署名 内村鑑三

 

  羅馬書八章十、十一節。腓立比書三章十、十一節の研究

 

〇人は三分性であつて、霊、心、体より成るとは前回に述べたる所である。勿論地殻に於て見るが如くに三性は劃然たる三層を成して居るのではない。然れども人の生命に以上の三性のある事は明かである。如何なる関係にて三性が結合して一個人を為す乎は心理学上の秘密であつて、何人も其奥義を闡明する事は出来ない。此事に関しても我等は秘密は秘密として存して、事実は事実として之を受取るべきである。

〇茲に三分性を説明するに恰好なる事実がある。それは|酩酊の事実〔付△圏点〕である。酒は毒であり、酔酒は罪悪であるが、人の三分性を説明するものにして酔酒の現象の如く明かなるはない。酒精は写真術に於ける顕像剤の如きものであつて、之に由て隠れし象《かたち》が明確《あきらか》に顕はれるのである。|人が酒に酔うて生ずる第一の結果は彼の自制心の痲痺である〔付△圏点〕。即ち微弱ながらも彼に残存する霊性の動作休止である。酩酊に依り酔酒肴は霊性即ち良心の制裁より免かるゝを得、茲にサイケー即ち自己の自由を得て、言ひ尽されぬ快感を覚ゆるのである。而して更に酩酊の度を進むればサイケー其物が痲痺して、理性を初めと七て、感情其他の心的動作が中止するに至る。此時彼は視て見え(297)ず、聴いて聞えず、彼の言語は前後の聯絡を絶ちて、単に断片的発音たるに至る。斯くて第一に霊性死し、第二に心性死し、残るは体《からだ》のみである。所謂泥酔は是である。泥酔者は霊性心性の二性を失つて体即ち肉性をのみ留むる者である。酩酊更に度を進めん乎、酔酒者は其肉体をも痲痺されて終に生命を失ふに至るであらう。然れども幸にして彼の心性の動作休止の結果として、其手も唇も動かずなり、飲まんと欲して飲む能はざるに至る。若し試に人ありて、彼の飲欲を助け、彼の口に注ぐに更に酒精を以てせん乎、酔酒者は続々として酔死を迷ぐるであらうとの事である。

〇如斯くにして酒精の人に及ぼす動作《はたらき》に聖霊のそれに似たる所がある。即ち霊に始つて体に終る其動作の順序に至つては二者は同一である。但し聖霊は人を活すに対して酒精は之を殺すの根本的相違のあるは云ふまでもない。故にパウロは曰うたのである「酒に酔ふこと勿れ、之をなすは放蕩なり、宜しく聖霊《みたま》に満さるべし」と(エペソ書五章十八節)。酒に酔ふと聖霊に満たさるゝと外面的に似たる所がある。然れども酒は人を死より死に至らしめ、聖霊は生より生に至らしむ。然れども生死、何れも霊に始まり、心に及び、体に終る、其順序に至ては二者同一である。而して聖霊に満たさるゝ場合の甚だ稀れなるに対して、酒に酔ふの場合は最も普通である。|我等は同胞の間に毎日毎夜行はるゝ酔酒酩酊の現象に於て、人は三分性なりとの聖書の見方の誤らざるを知るのである〔付○圏点〕。

〇さて死は肉体の死である。そして人の場合に於て、死は罪の結果である。即ち彼が霊に於て神より離れし結果である。「体は罪に縁《よ》つて死し」とは此ことである。然し乍ら体の死は必しも霊の死を意味しない。酔酒の場合に於て霊は死するも体は生きて居るが如くに、体は死するも霊は生きて居る場合なきに非ずである。即ち人は死するも生くるも部分的に死し又生くる事が出来るのであつて、此は彼を救はんための神の智《かしこ》き排列である事が判《わか》(298)る。そして基督者の場合に於ては体は罪の結果として死に定められしも、霊はキリストの義に縁りて生くるに至つたのである。即ちイエスを甦らしゝ者の霊、即ち聖霊が彼に住むに至りしが故に、キリストを死より甦らしゝ者は、その彼(信者)に住む所の霊を以て彼の死すべき肉体をも生かすべしと云ふのである。事は至て明白である。神の生命が聖霊として人の霊に宿れば、其結果として霊が復活する而已ならず、心も復生し、終に休も復活するに至ると云ふのである。即ち人の死が霊に始つて体に終りしが如くに、生も亦霊に始つて体に終ると云ふのである。而して生命を穀粒《つぶ》に譬ふるならば、霊は核《かく》であつて、心は内乳《エンドスペルム》、体は外皮に当るが故に、新生命の核に加はりし以上は、外皮も亦縦へ一度は廢《すた》るも再び復興すると云ふのである。まことに明白なる見方であつて、之に何の不思議も迷信もないのである。問題は単に霊的生命の有無強弱のそれである。人の霊に強き生命が宿りて彼の全体が復興せぎるを得ない。肉体の復活は霊の復活の必然の結果であつて、肉体の復活を持来さざる霊の復活は微弱にして取るに足らざる者なりと云はざるを得ない。

〇故に聖書は肉体の復活を単に物的現象として見ずして、道徳的行為即ち霊的生命の動作の一面として見るのである。イエスに霊的生命が充溢れて居た、故に彼は肉体に於ても死すべからざる者であつた。「神は其の(イエスの)苦しみを釈きて之を甦らせ給へり、|そは彼は死に繋れ在るべき者にあらざれば也〔付○圏点〕」とペテロがユダヤ人に告げしは此事である(行伝二章廿四節)。「神は之に霊《みたま》を賜ひて限量《かぎり》なければ也」とありて、イエスは無限に聖霊を其霊に宿し給ひしが故に肉体の死は彼に取りては不可能であつたのである(ヨハネ伝三章三四節)。そして事はたゞイエス一人に限らない、すべて彼を信ずる者は同一の経験を其身に於て繰返すのである。イエスに託《よ》りて神の霊を其霊に受けて、信者はイエスの如くに甦らさるゝのである。彼の霊の復活は肉の復活に終るのである。信者が(299)復活を希望するは「死にたくない」と云ふ低き生活慾に駆られて為《す》るのではない、肉体を復活せしむるに足る強烈なる霊的生命を獲んと欲する聖き高き要求より此希望を懐くのである。ピリピ書三章十、十一節に表はれたるパウロの復活の希望の如き、明かに此精神より出たるものである、曰く

  又彼(イエス)と其|復活《よみがへり》の能力《ちから》を知り、その死の状に循ひて彼の苦しみに与り、兎にも角にも死たる者の甦ることを得んが為なり。

と。イエスに働きし能力は復活の能力である。之を知り即ち実験するが信者の生涯である。之に信者特有の苦難《くるしみ》が伴ふ、然れども其終極は死者の復活である。願ふ斯かる生命の恩賜に与からんことをと云ふのがパウロの此祈願の意味であると思ふ。

〇如斯くにして肉体の復活は教理ではない、実験である。此は道理を無視して、教会が課する信仰箇条として奉戴すべきものでない。信者の日々の生涯に於て実験する事実の上に築かれたる確実なる希望である。信者は日に日にイエスの復活の能力を実験しつゝある。彼が徐々と自己に死つゝある時に、彼が幾分なりと其身に於て神に肖たる者となりつゝある時に、殊に彼がイエスの聖名の故に苦しみつゝある時に、彼をして終に肉体の復活に至らしむる神の生命が彼の衷に働きつゝあるのである。「兎にも角にも」である。何は兎もあれ、自分も亦死者の復活の恩恵に与らんことを祈求《ねが》び且つ努力《つとむ》るのである。|生命の中心に神の霊を受けて体をも含む生命全部の復活を得んと欲するのである〔付○圏点〕。

       ――――――――

〇今日は今年の復活日であつて、全世界の基督信者が主イエスキリストがアリマテアのヨセフの墓より甦り給ひ(300)し日を紀念する日である。我等は此日イエスが聖書に記すが如くに死より甦り給ひし事を信じて疑はない。我等に取りイエスの復活は或る原理を説明する為の譬談《たとへばなし》ではない。此は実に在つた事であつて歴史的事実である。我等は聖書の此中心的事実に就て些少《すこし》たりとも疑を挟《さしはさ》む者ではない。然し乍ら単に昔し在つた事としてのみ之を信ずるのではない、今猶ほ行はるゝ事として之を受取るのである。復活は信仰箇条ではない、生命の基礎である。復活は主イエスに取りては過去の事であり、我等信者に取りては未来の事であると同時に又、現在我等が実験することの出来る能力である。そして我等何人か此能力を要求せざらんや。我等は皆な愆《とが》と罪とに死せる者、故に心暗く、体重く、願ふ所の善は之を行ふ能はず、反つて願はざる所の悪は之を行ふ。噫我れ困苦《なやめ》る人なる哉、この死の体より我を救はん者は誰ぞや。是れ我等の主イエスキリストなるが故に神に感謝す(ロマ書七章二十節以下)。復活せるイエスは其復活生命(Resurrection-lfe)を我等の霊に注いで我等を活かし給ふ。之に接して、我等は霊に於て甦るのみならず、思想は明晰になり、感情は鋭敏になり、才能までも著るしく上達するを覚ゆ。而して重苦《おもく》るしき肉体までが愛の器《うつは》と化して軽くなり、生命ほ苦痛ならずして、快楽なるに至る。復活の教理を解した丈けでは足りない、其能力を知り即ち実験せねばならぬ。然らざれば聖書の研究は徒らに知識を増し、之を楽しみ誇るに止まる。復活日はイエスの復活を紀念すると同時に我等の復活を祈るべき日である。

〇今や人は能率の上らざるを悲む。能率を増すの途は種々あるべし、然れども其最も有効なる者は肉に死して霊に生くるに在る。真の宗教は生命を絶つの途に非ず、益々之を旺盛《さかん》ならしむる途である。「肉の事を念ふは死なり霊の事を念ふは生《いのち》なり平安《やすき》なり」。個人も国家も社会も肉の事を念ひて肉に於て死し、霊の事を念ひて亦肉に於ても生きる。是は人類の歴史が証明して誤らざる所である。国家の繁栄を物資の増加に於てのみ求むる程、誤(301)りたる国家政策はない。物理学者は曰ふ、地の富は大なりと雖も空中の富は更に大なり、未来の富は地を距る数十哩、空気上層の内に在るべしと。而して之と相対して聖書は教へて曰ふ、体力は大なり、智力に驚くべき者あり、然れども霊力は吾人想像の上にありと。人は霊に活きて神と連なり、神の力を己が力となす事が出来る。人力の可能性は無限である。然れども夫れは霊の復活を待たずして達する事は出来ない。復活は最大の奇蹟であるが、神の霊に充溢れたる人に起る事と見て、之に少しも不思議はない。我等今日切に祈り求むべきはイエスの復活《よみがへり》の能力である。之を以て白己に勝ち、世に勝ち、死に勝つ事が出来る。願ふ此講堂が此能力の充つる所となり、此団体が此能力の動かす所とならん事を。イエスと其復活の能力を実験し、何は兎もあれ、死たる者の甦ることを得んことを。(四月二十日)

  我が霊魂は塵につきぬ、爾の言に従ひて我を活かし給へ(詩篇百卅九篇廿五節)。

(302)     キリスト教と愛国心

                           大正13年7月10日

                           『聖書之研究』288号

                           署名 内村鑑三

 

  モーセ、ヱホバに言ひけるは嗚呼この民の罪は大なり、彼等は自己の為に金の神を作れり、然《され》ど聖旨《みこころ》に合《かな》はゞ彼等の罪を赦し給へ、然らずば願くば汝の書記《かきしる》し給へる書の中より我名を抹《けし》さり給へ(出埃及記三十二章、卅一、卅二節)。

  イエス十二人を遣さんとして命じて曰ひけるは、異邦の途に往く勿れ、又サマリヤ人の邑にも入る勿れ、唯イスラエルの家の迷へる羊に往け、往きて天国は近づけりと宣伝へよ(馬太伝十章五-七節)。

  噫ヱルサレムよヱルサレムよ、預言者を殺し、汝に遣さるゝ者を石にて撃つ者よ、母鶏《めんどり》の雛《ひな》を翼の下に集むる如く我れ汝の赤子を集めんとせしこと幾次《いくたび》ぞや、然れど汝等は欲せざりき(同廿三章卅七章)。

  我に大なる憂あり……若し我が兄弟、我が骨肉の為にならんには、キリストより絶《はな》れ沈淪《ほろび》に至らんも亦我が願なり(ロマ書九章二、三節)。

  我れ更に何を言はんや、若しギデオン、バラク又サムソン、イピタ、ダビデ又サムエル及び預言者等の事を言はんには時足らざる也(ヒブライ書十一章三二節)。

〇キリスト信者には愛国心がないと云ふ者は間違つて居る。又愛国心は偏狭なる心であつて、信者には相応《ふさは》しか(303)らざる者、人類愛こそキリストの心であつて、特別に自分の国を愛すると云ふが如きは、キリストの精神に反き、信者が為してはならない事であると思ふ、今日の多数の信者の思考《かんがへ》も間違つて居る。キリスト信者に愛国心がある。又愛国心に広いのと狭いのと、深いのと浅いのとがある。キリスト御自身にも強い深い愛国心があつた。モーセを初めとしてサムエル、ダビデ、ギデオン、バラク、其他真の預言者はすべて一人残らず熱烈なる愛国者であつた。精《くは》しく聖書を読んだ者で愛国者たり得ない筈はない。近代人の称する人類愛……少くとも夫れのみが……新約聖書の精神であると云ふ者の聖書知識の程度は知るべきである。

〇聖書人物に限らない、此世界に在りて大事業を為した人の大多数は大愛国者であつた。ルーテルもノツクスも、ダンテもサボナローラも、コロムウエルもミルトンも、米国独立戦争時代の大人物も、悉く熱烈なる愛国者であつた。愛国心を取除いて此世に貴い者として何が残る乎。若しキリスト教に愛国心がないと云ふならば、此教は早く既に消えて了つたのである。誠に其のキリスト教の起る所に愛国心は起り、又潔き愛国心を以てせずしてキリスト教は解らないのである。

〇全世界は我国の為に存在するもの、我国こそ世界に覇たるの運命を有すと思ひて行動するは誤りたる愛国心である。我国は世界の為に存在する者、之をして其天職を全うせしむるは、是れ全人類をして神の定め給ひし福祉に入らしむる為の必要にして欠くべからざる途である。我は我国の為に尽して世界全人類の為に尽すのである。人類が完全の域に達せんが為には英国米国仏国伊国露国独逸西班牙葡萄牙が悉く必要であるが如くに、日本印度支那波斯が悉く必要である。其一を欠いて人類の完全を期する事が出来ない。人に個性が必要なるが如くに、国に国民性が必要である。之を以てして人も国も世界人類の為に尽すことが出来ると云ふのが聖書の見方であると(304)信ずる。

〇我等は日本人である。神は日本国を要し給ふ。日本国なくして神の聖旨は完全に地上に行はれない。若し日本国が亡ぶるやうな事があれば、人類の大不幸であり、神御自身の大失望である。神は一人の霊魂の滅びんことを欲し給はざるが如くに、それよりも遥かに一国の亡びんことを欲し給はない。日本国の代理を務むる国は他にないのである。夫れ故に神の為に、世界人類の為に日本国の為に尽さなければならない。

〇愛国心はまた人が自分自身を救ふ為に必要である。人は単独で救はるゝのでない、彼の属する家族又は国家又は人類と共に救はるゝのである。人に個人性と人類性とがあると同時に又国家性がある。彼は国家人たらざらんと欲するも得ない。イエスは最良のイスラエル人でありしが故に人類の救主であり給ふのである。コロムウエルは模範的の英国人であつた、故に人類自由の進歩に貢献する所が甚大であつた。我等も亦善良なる日本たらずば善良なる世界人たり得ない。愛国心を欠きたる人類愛は偽の人類愛と称せざるを得ない。

〇真の愛国者は他国の権利を重んじ、其発達を希望する。神の定め給ひし範囲に於て各国が其発達を遂げて神の聖旨が世界に行はるゝに至るのである。米国政府の今回の行為の如き、真の米国人の到底為し得ない事である。日本の利益は米国の利益であり、米国の名誉は日本の名誉である。此際正当に日本の権利を主張するは日本のみならず米国の為にも必要である。箴言に曰く「義は国を高くし罪は民を辱かしむ」と。国の為に尽すに方て義を進むるに勝さる途はない。故に伝道は愛国的事業として為すべきである。(六月廿二日)

 

(305)     全き福音

                           大正13年7月10日

                           『聖書之研究』288号

                           署名 内村鑑三

 

  我は天地の造主全能なる父の神を信ず。我は其独子我等の主イエスキリストを信ず。彼は聖霊に因り処女《をとめ》マリヤより生れ、ポンテオピラトの時|苦《くるしみ》を受け、十字架に釘《つ》けられ、死して葬られ、第三日に甦り、天に昇り、父なる神の右に坐し、又死者と生者とを審判《さば》かん為に彼処《かしこ》より来り給ふを信ず。(使徒信経)

〇福音と云ふて一箇条ではありません、数箇条であります。神は天地万物の造主《つくりぬし》であつて我等人類の父であると云ふは大なる福音であります。然し乍ら福音は之を以て尽きません。人類はすべて神の子であつて、人はすべて兄弟姉妹であると云ふ事も亦大なる福音であります。然し乍ら福音は之を以て尽きません。キリストは我等の救主であつて、彼に学び、彼の弟子たるに由て、人生の意義を完成《まつた》うする事が出来ると云ふのも大なる福音であります。然し乍ら福音は更らに夫れ以上であります。福音は人のすべて思ふ所に過ぎて高く又深く又広くありますが故に、私供は其一部に接して全部に接したやうに感じます。神と云へば強い者、聖い者、凡人の近づき得ざる者と思はるゝが常であるに、彼は 等の父であると聞いて私供の心は飛立ちます。私供は其上別に聞くの必要がないと感じます。キリストのやうな人が私供の兄弟であると聞いて、私供の価値《ねうち》が急《きう》に上《あが》つたやうに感じます。「神は我等の父である、人類は我等の兄弟である」と云うた丈けで基督教の全部が言ひ尽されたやうに思はれな(306)いではありません。基督敦の一派なるユニテリヤン教は此の二箇条を以て立つ教《をしへ》でありまして、まことに簡単明瞭にして、尊敬すべき教であると云はざるを得ません。然し乍ら基督教ほ之れ丈けではありません。福音は以上の二箇条を以ては尽きません。ユニテリヤン教は尊敬すべき教でありますが、完全なる福音であるとは言ひ得ません。基督教はユニテリヤン教の教義以外に多くの事を教へます。

〇基督教は神は人類の父であると教へます。キリストは神の独子であつて、人類を救はん為に神に遣はされて世に降り給へる者であると教へます。更らに又キリストは人類の罪を担《にな》ひて十字架に釘《つ》けられ、彼を信ずる者のために救拯《すくひ》の途を開き給へりと教へます。キリストの死と復活と昇天とを教へます。彼は今は父と偕に在して信者のために執成《とりな》し給ふと教へます。そして父の定め給ひし時に於て再び顕はれ給ひて、すべて彼を信ずる者を御自身《おのれ》に肖《に》たる者と成し給ふと教へます。聖霊の存在と活動《はたら》きを教へます。聖霊を以て繋がる信者の聖き交際を教へます。信者の復活と窮りなき生命《いのち》を教へます。万物の改造を教へます。キリストに由て行はるゝすべての人の審判を教へます。神の国の完成と、新天新地の実現を教へます。是等を総合した者が福音であります。其の一つ丈けが私供の小さき希望《のぞみ》を満たして余りありますが、然し神様はそれを以て満足し給ひません。「小さき群《むれ》よ、汝等の父は喜びて国を汝等に予へ給はん」とイエスが其弟子等に曰ひ給ひしが如くに、神は御自身《おのれ》を愛する者に完成《まつと》うせられたる宇宙を与へ給はずしては満足し給はないのであります(ルカ伝十二章卅二節)。福音に小なる者と大なる者と、部分的なる者と全体的なる者とがあります。私供は小さき私供の心を以て神の愛を量《はか》つてはなりません。神には神相応の愛があります。私供は神の従順なる子供として、神が与へんと欲し給ふものを感謝して受くべきであります。

(307)〇神の在ることは大抵の人が信じます。キリストが完全な人であつた事は信ずるに難くありません。然し乍ら彼の死が唯《たゞ》の人の死でなかつた事、之に贖罪の意味があつた事、殊に彼が死して甦りたりとの事、そして今は天に在つて万物を統治《すべおさ》め給ふとの事、そして再び顕はれて救拯を完成うし給ふとの事は、信ずるに甚だ難い事であります。然し乍らそれは聖書が明かに示す所でありまして、之を信ずる事が出来て、初めて神の愛の高さ深さ広さを暁《さと》る事が出来るのであります。神は愛であると云うた丈けでは足りません。|どれだけの愛〔付○圏点〕である乎其事を知らなければなりません。「神は我等を恵みて天より雨を降《ふ》らせ豊穣《ゆたか》なる時候《とき》を与へ、糧食《しよくもつ》と喜楽《よろこび》を以て我等の心を満たしめ給ふ」と云うた丈けで神の愛は尽きません(行伝十四章十七節)。「神の己を愛する者の為めに備へ給ひしものは目未だ見ず耳未だ聞かず人の心未だ念《おも》はざる者なり」と云ふが真理であります(コリント前書二章九節)。子は親の愛を知らないやうに、人は神の愛を知りません。神は如何程《どれだけ》人を愛し給ふか、それは人の側《がわ》からは解《わか》りません。人は神より此世の幸福を戴けばそれで充分であると思ひます。然しさう思ふて自分で自分を知らないのであります。人は百年に足らざる短き生命を楽しまんと欲します。神は人に永生即ち窮りなき生命を賜はんと欲し給ひます。そして|福音は神が御自身の立場よりして人を恵まんと欲し給ふ其途を示した者であります〔付○圏点〕。そして天の地よりも高きが如く、神が人を念ふ心は、人が自分を念ふ心よりも高くあります。福音は解し難しと云ふは、道理に反するからではありません。子が親の愛を量り得ないやうに、人が神の愛を測り得ないからであります。私供は福音全部を信ずるを得て、神の愛の深さ広さを測り知ることが出来るのであります。

〇「イエスは我等が罪の為に附《わた》され、又我等が義とせられんが為に甦へらされたり」とあります(ロマ書四章廿五節)。イエスの死は我等の罪を贖ふ為の死であり、彼は又我等が義とせられんが為めに甦らされたりと云ふ。

(308》此は福音の大切なる箇条であります。一見して人類の幸福には何の関係も無い事柄のやうに思はれます。其れ故に多くの人は之をドグマ(教条)と称して、教会が信徒に押附《おしつ》ける無用の信仰箇条であると思ひます 然しさうではありません。人には何人にも死の問題があります。そして死の問題は罪の問題と離れて考ふる事は出来ません。先づ罪を滅《ほろぼ》して然る後に死を無きものとすることが出来るのであります。そして死と其恐怖とが取除かれざる間は、人に本当の幸福がないのであります。|キリストの死は人の罪を取除く為に必要であつたのであります〔付△圏点〕。彼の復活《よみがへり》は罪の消滅の証拠として必要なるのであります。今其事に就て委《くわ》しく論ずるの時はありません。何れにしろキリストの死と復活とが人の永遠の幸福を齎す為に必要欠くべからざる者である事は確実《たしか》であります。キリストの死を普通《あたりまへ》の人の死と同一に視、彼の復活を後世の信者が提造《ねつぞう》した偽談《つくりはなし》と解して、福音の大要点が失せて了ふのであります。キリストは復活し給へりと云ふ事は、我が罪は赦されて、我も亦彼の如くに復活するのであるとの事でありまして、此事を聞かされて歓喜此上なしであります。復活は非科学的の迷信であると断言して、福音の福音たる価値《ねうち》が無くなつて了ふのであります。

〇其他の事も亦同じであります。キリストは昇天して、今は父と偕に在《いま》して我等の為に執成《とりな》し給ふと云ひます。何やら幽玄界に逍徉して夢を語るが如くに聞えます。然し夢ではありません、事実であります。若しキリストが単に過去の人でありますならば、私供に救主は無いのであります。私供は人生日常の戦闘《たゝかひ》に於て、活ける強い援者《たすけて》を要求します。私供はキリストが遺《のこ》し給ひし教 す。彼は昇天するに当りて其弟子等に告げて「視よ我は世の末《おはり》まで常に汝等と偕に在るなり」と言ひ給へりと聞いて、私供は非常に慰められ又強めらるゝのであります。病を癒し波を静め給ひしキリ(309)ストは今猶ほ生きて我等を護り、我等を以て此罪の世に於て其|聖業《みわざ》を行ひ給ふと云ふのであります。此はまことに大なる福音ではありません乎。孔子は聖人であり、釈迦は大教師であると云ふても過去の人たるに過ぎません。キリストは彼等と異《ちが》います。キリストは昔在り今在り永遠にまで在る者であります。それでこそ本当の救主であるのであります。神が斯かる救主を人類に与へ給うたと云ふ、それこそ真《まこと》の福音ではありません乎。福音はキリストの伝へた教訓《をしへ》に於て在る、彼の復活とか昇天とか云ふ事に於て在るのでないと云ふは、何やら学者らしく聞えまするが、然し福音をして小なる者たらしむるのであります。真の福音はキリストの教訓に於てよりは、彼れ御自身に於て在るのであります。復活せるキリストが昇天するに方り「天の内地の上の凡の権を我に賜はれり、是故に汝等往きて万国の民に我が凡て汝等に命ぜし言を守れと教へよ」と言ひて神の許《もと》へと帰り給へりと聞き、此事を信じて伝道の熱心と勇気とが起るのであります。キリストの教が孔子や釈迦の教と異なり、何時《いつ》までも古びずして、常に古び易き此世の革新の力として存する其理由は何処《どこ》に在るのです乎。能力ある神の子が御自身世を統べ治め給ふからであります。福音と云ひて単《たゞ》に音《おと》ではありません。「神の国は言《ことば》に非ず能《ちから》に在り」とパウロが言うた通りであります。

〇キリスト再臨も亦同じであります。之も亦福音の大箇条であります。之なくして福音は完全でありません。再臨は救拯の完結であります。絵括《そうくゝ》りであります。

  我れ新しき天と新しき地を見たり。前《きき》の天と前の地は既に過ぎさり、海も亦有ることなし。我れ聖き城《まち》なる新しきヱルサレム、備へ整ひて神の所《もと》を出て天より降るを見たり、その状《さま》は新婦《はなよめ》その新郎《はなむこ》を迎へん為に飾りたるが如し。我れ大なる声の天より出るを聞けり、曰く、神の幕屋人の間《なか》にあり、神人と共に住み、人神の(310)民となり、神また人と共に在して其神と成り給ふ。神彼等の目の涕を悉く拭ひとり、復《また》死あらず、哀《かなし》み哭《なげ》き痛み有ることなし、そは前《さき》の事すでに過ぎ去れば也(黙示録二十一章一-四節)。

 福音は是等を総《すべ》て合《あは》した者であります。其一を欠いて福音は福音でありません。私供は現代人の反対を恐れて福音の一部分を以て満足してはなりません。完全なる福音、聖書全部を信じ得る信仰、「凡そ事信じ」と云ふパウロの信仰、是が私供の信仰でなくてはなりません。私供の信受する基督教は深い強い無限大なる基督教でなくてはなりません。(昨年八月軽井沢に於て)

 

(311)     〔争ひの後の平和 他〕

                           大正13年7月10日

                           『聖書之研究』288号

                           署名なし

 

     争ひの後の平和

 

〇対米問題は今日の所、不愉快極まる問題である。旧い友人を責め、之に対して一種の戦争を宣告せねばならぬ事件である。然し乍ら不愉快の裏《うら》に快楽がある。|此戦争を経て後に真の平和が来るのである〔付○圏点〕。米国人が日本人を解らないが故に、此国際上の大過失を為したのである。彼等は何の惜気《おしげ》もなく最良の友人を斥けたのである。そして此際我等日本人が、殊に日本の基督信者が、正当の反抗を試みないならば、彼等は我等に関する誤解を継続して、真の平和は永久に来らないのである。今や浅く民の傷を癒して満足すべきでない。責むべき丈け責め、闘ふべき丈け闘ひて、彼等をして目覚《めざめ》しめ、心より我等を尊敬せしめ、愛せしむるやう努力せねばならぬ。|日米間の今日までの交際は決して対等でなかつた〔付○圏点〕。彼は常に恩人の位置に居り、我は常に受恩者の立場に立つた。是れでは深い永久的友誼は結ばれない。彼が我に与へ得る丈け我も亦彼に与へ得るに至つて彼と我とが永世不朽の和親を取結ぶ事が出来るのである。今や米国の背信的行為に由て両国の友誼は傷けられた。此は友情の大なる試練である。然し乍ら此試練を経ずしては真のフレンドシツプに入ることは出来ない。|一時は別れて然る後に結んで(312)真の一致が実現するのである〔付○圏点〕。日本基督信者の独立は之が為に必要である。我等が彼等の補助を受けながら彼等と対等の交際を続けることは出来ない。縦令キリストの愛に居るキリスト信者なりと雖も、常に恩に与りながら我が威権を維持することは出来ない。先づ独立、然る後に真の平和である。|日本人が余りに米国人に頼りしが故に、今回の大侮辱を蒙つたのである〔付△圏点〕。独立は絶縁ではない。肉に於て絶ちて霊に於て繋がるの途である。相方が独立人たらずして深い真の友人たる事は出来ない。此事を最も克く知る者は米国人自身であるべき筈である。真の米国人は此際我等の独立運動を聞いて喜ぶに相違ない。我等は今や米国人に反対しながら、真の和親へと進みつゝあるのである。

 

     米国と基督教

 

〇米国は基督教国である、英米国が日本に対し今回の如き不義不信を行つた、故に基督教は悪い宗教であるとは、邦人の多くが今日懐く思考《かんがへ》である。然しそれは間違つて居る。余輩が今日まで幾回となく本誌に於て唱へしが如くに、米国は決して基督教国でない。今より三四十年前、基督教が米国に於て旺盛を極めし時と雖も、信者は其人口の五分の一に過ぎなかつた。今日は多分十分の一にも達すまい。米国人の多数は不信者である。彼等の普通の社会に於て信仰を語るは滅多に無い事である。米国人は誰でも基督信者であると思ひて彼地に往けば大失望に陥らざるを得ない。而已ならず最悪の無神論は彼等の間に行はる。神とキリストの聖名を涜すを以て最大の快楽となす者を余輩は屡々米国に於て見た。罪悪の盛なることに於て日本は到底米国に及ばない。斯かる次第であれ(313)ば、今回の如き悪事が米国の政治家に由て行はれたればとて少しも不思議はないのである。基督教は米国と運命を共にする者ではない。米国は亡びても基督教は亡びない。或は神は米国が亡びざる前に基督教を我等日本人に託し給うたのである乎も知れない。何れにしろ今や真の基督教を米国人の内に求むべき時ではない。我等は直に之を己が霊魂の深き所に求め、神に在りて独立し、彼れ若し許し給はゞ我れより米国に伝道する時の至らんことを待つも決して不当でないと思ふ。

(314)     憤慨の弁明

                           大正13年7月10日

                           『聖書之研究』288号

                           署名 内村

 

〇私が今回米国に対して取りし態度に就て種々の非難を申込まるゝ人があります。此は歯にて歯を償ひ、目にて目を償ふ復讐的態度であつて、基督信者の取るべからざる態度であると云ふのが其一であります。甚だしきに至つては「汝は汝が悪魔たるの本性を表はしたのであるから今より宗教家たるを止めてゴロツキに成れ」と云ふのもありました。久し振りにて罵詈讒謗を浴びせられまして、甚だ愉快であります。私は自分は或る人々が思ふやうな完全なる聖人でない事を充分に認めます。然し乍ら私の解らない事は私を此事に就て罵る人が、|米国が今回日本に対して為したことの如何程悪い事である乎〔付△圏点〕、其事を確めない事であります。私は世界の外交歴史に於て、今回基督教国を以て自から任ずる米国が、日本に対して為した事の如き不義不信の行はれた事のありしを知りません。此はたしかに神の怒り給ふ事でありまして、私共は此事に就て神の御怒りを表はすのであります。「誰か辱《はづか》しめられて我れ燃えざらんや」とパウロは云ひました(哥後十一の廿九)。米国は今回友邦の信義を蹂躙《ふみにぢ》つたのであります。之に対して私は燃えざらんと欲するも得ないのであります。キリストは決して怒らざる人ではありませんでした。彼は御自分の為には怒り給はざりしも、神の為め公義の為めには甚だしく怒り給ひました。|人が米国に対する私の行為を怒る前に先づ米国の日本に対する行為を怒らん事を欲します〔付△圏点〕。

 

(315)     簡易生涯

                             大正13年7月12日

                             『国民新聞』

                             署名 内村鑑三

 

〇奢侈品輸入防止と云へば消極的経済政策であつて、退嬰的である乎のやうに聞える。併し乍ら簡易生活の奨励であると解すれば健全でもあるし勇ましくもある。此は詩人ワーヅワスの唱へし「低き生活と高き思想」に還ることであつて、大人物も大国民も其興起の源因はすべて此種の生活に於てあつたのである。我等に今回大侮辱を加へし米国人の如き、其精神的全盛時代に於ては同じく簡易生活実行の民であつたのである。然るに彼等の生活が高くなると同時に彼等の思想が低くなり、終に今日の如き構神的劣等の民と化したのである。我等は今より彼等と闘はんとするに方つて日本人特有の簡易生涯に還るべきである。若し合理的に簡易生活を実行するならば、小なる日本の国土を以てして今よりも更に二倍三倍の人口を養ふ事が出来る。私は此際我国人が、簡易生活の研究者兼予言者たる左近義弼君《さこんよしすけくん》に学ばん事を望む。米国成育の君は深く此生活の原理を穿つた人である。君に学んで我等何人も貧しくして同時に健康幸福である事が出来る。米国人は多くの事に於て我等を欺きしも、生活の事に於て殊に然りである。米国人に傚ひて所謂「高き生活」を営めば先づ第一に霊魂が滅びて了ふ。茲に彼等に排斥されしを機会として「何を食ひ何を衣んとて思慮ふ事なく、まづ第一に神の国と其正義とを求めよ」と云ふキリストの教に循つて、身を修め国を興すべきである。(七月十一日)

(316)     樹を植ゑよ

                             大正13年7月17日

                             『国民新聞』

                             署名 内村鑑三

 

〇国を興さんと欲せば樹を植よ、殖林是れ建国である。山林は木材を供し、気候を緩和し、洪水を防止し、田野を肥し、百利ありて一害なし。謂ふ若し日本の山野を掩ふに森林を以てすれば、之より生ずる利益に由りて、民より租税を徴する事なくして其政府を維持するを得べしと。今や日本は其親友たりし米国よりすら排斥せられて外に発展するの途は当分絶えたりと云ふも差支なし。此時に方て内を開発して新たに領土を増すの必要がある。そして其方法として最も容易なるは国内到る所に存する禿山に植《うゆ》るに樹を以てする事である。小なるデンマーク国はプロシヤと戦ひて敗れ、其領土の半を奪はれしも、国内の荒地に殖林して失ひし以上の富を得た。臥薪嘗胆は如此くに実現すべきである。此上米国の不義不信を憤るも益は無い。憤慨を有利的に現はさんが為めに私は挙国一致の殖林を提言する。文部省は宜しく殖林日(Arbor Day《アーボルデー》)を定め、一年に一日全国の小学校生徒をして、一人一本づゝの苗木を植ゑしむべし。此は上杉鷹山公が米沢の瘠地《せきち》を化して東北第一の沃土と成した方法である。我等は日本全国を緑滴る楽園に化して全世界の排斥に応ずる事が出来る。製造商業励むべしと雖も忘るべからざるは農の国本たる事である。そして農の本元は森林である。山に樹が茂りて国は栄ゆるのである(七月十三日、日光に於て)

 

(317)     対米所感

                          大正13年7月19日-31日

                          『万朝報』

                          署名 内村鑑三

 

     (一)

 

〇人は私を呼んでアメリカ嫌ひの急先鋒と云ひます、然し私は唯無暗に理由なしにアメリカを嫌ふのではありません、それには深い理由があるのであります、其すべてを今茲に算へ上げる事は出来ませんが、然し普通の日本人で親しくアメリカ人に接した者は、彼と我との間に調和し難き反対性を発見せざるを得ません、勿論私自身が少数なりと雖もアメリカ人の内に親友を有つ者でありまして彼等の美点を知らないではありません、然し乍ら親交は双方の努力に由つて維持せらるゝのであります、そして大抵の場合に於て、我が彼を解する方が彼が我を解するよりも遥に多いと思ひます、アメリカ人にして日本語を解する者は滅多にありません、随つて我より彼を解せんと欲するにあらざれば相互諒解の途はありません、|私は信じます、日米七十年間の親交は主として日本人の謙譲に由て維持せられたのであると〔付○圏点〕、日本人が若しアメリカ人が為すやうに其主張を曲げないならば二者の衝突は何時でも起つたと思ひます、故本多庸一君が常に言はれたとの事であります、『世界中にアメリカ人程自分勝手の民はない』と、そして本多君は最も克くアメリカ人を知つた日本人であります、君は如何程気儘勝手のアメ(318)リカ人に苦しめられた事でありませう、思ひ出すだに同情に堪へません

〇アメリカ人が日本人を解しやうとしない証拠は、彼等が全体に日本語を学ばんとて努力しない事であります、私の知るアメリカ人で、日本に三十年以上住んで今尚ほ日本語を知らず又知らうとして努めない者があります、其他日本在留十年又は二十年で碌な日本語を話し得ず、日本人は英語を学んで自分達に学ぶべきである乎のやうに思うて居るアメリカ人を大分に見ます、勿論彼等の内に日本文を読み得る者とては殆どなく、日本文を草し得る者は皆無と云うて差支ありません、斯かる次第でありますからアメリカ人が正当に日本人を解し得やう筈はありません 誤解は当然であります、そして其誤解が積り積つて今回の大事件を生んだのであると思ひます 〔以上、7・19〕

 

     (二)

 

◇アメリカ人に日本人に就て一つ解らない事がある。それは『礼儀』と云ふ事である。礼儀は彼等の謂ふ所のセレモニーではない。単に表面の儀式ではない。日本人特有の遠慮より出《いで》たる他人殊に外国人に対する謙譲の表現《あらはし》である。日本人が何よりも恐るゝ事は他人に対して礼を欠かん事である。彼等が大抵の事にはイエース、イエースと云ひて滅多にノーと云はないのは是が為である。然るにアメリカ人には此心が非常に欠けて居る。彼等は遠慮と云ふ事を知らない。私が曾てあるアメリカの宣教師に頼まれて彼の主幹するミツシヨン学校に演説に行つた事がある。演説終るや彼はポケツトより古紙幣《ふるさつ》三枚を取出し、剥出《むきだし》のまゝ之れを私の方に向けて曰うた『是で沢山です乎』と、私は彼の悪意から出たのでない事を知つて居たから之を突返しもせず厭々ながら之を受取つ(319)て帰つた。然し其後彼から再び演説の依頼があつたが、決して応じなかつた。然し之れがアメリカ流なのである。其時私が彼に向ひ『之れでは不足です。増して下さい』と云うても彼は悪く思はないのである。然し日本人は死すともそんな事は曰はない。故にアメリカ人は日本人は彼等の為すことに常に満足して居ると思ふのである。即ちアメリカ人は日本人の礼儀を知らないのである。そして常に日本人を怒らしつゝ来つて今日に至るも未だ其事に気が附かないのである。

◇|今回の事たる全くアメリカ人が日本人の礼儀を解らないより起つた事であると信ずる〔付△圏点〕。彼等は日本人が何故に此事に就て怒るか解らないのである。排日法に由つて日本人が蒙る実際上の損害は至つて僅少である。然るに日本人は国を挙つて怒るのである、|それはアメリカ人が礼儀を無視したからである〔付△圏点〕。利益の問題ではない。信義を表する礼儀の問題である。アメリカは今回国として日本に対して明白なる無礼を行つたのである。然しアメリカ人には此事が判らない 若し今日までに彼等が日本人の礼儀のサイコロジー(心理)を解したならば、此んな事を為さずして済んだのである。然し彼等はわからうとしないのである。 〔以上、7・23〕

 

     (三)

 

 「日米伝統的親善」と云ふ。そんなものが果してある乎甚だ疑問である。

 多くの日本人は、米国は日本の恩人国であると云ふ。多くの米国人も亦同じ事を云ふ。若しさうであるならば日米の親善は対等国の親善ではなくして、施恩国の受恩国に対する親善である。米国は常に与ふる者、日本は常に受くる者斯くの如くにして親善が七十年間継続したのであると云ふ。
(320) 然し乍ら真個の親善は斯の如くして成立する者でない。相互に何か負ふ所なくして深い親善は永く続かない。然るに米国は日本に与ふるのが本分、日本は米国より受くるのが本分である乎の如くに双方に於て思はれて居たのであれば両国の親善が終に破るゝに至つたのは少しも不思議はないのである

 然らば如何にして此壊たれし親善を快復するを得ん乎と云ふに、|日米両国が対等の態度に立つに至つてゞある〔付△圏点〕、日本に於ては米国より受くる丈けを与へよ。若し与ふる能はずんば受くるを廃めよ。米国より一千人以上の宣教師を遣《おく》られ、毎年数百万円の金を施されながら、それで彼我対等の交際が行はると思ふは正 の沙汰と云ふ事は出来ない。私は此点よりして私の四十年以上の基督信者としての生涯に於て米国人其他の外国人の補給を拒絶した。それは何も好意より出づる彼等の寄附を悪いものと認むるからではない。私が彼等と対等の態度に立ちて彼等と真の交際に入《い》らんと欲するからである。真の親善は互恵主義の上に於てのみ行はる 彼を恩人国として仰ぎ、我は被恩者の位地に満足して永久的親善の行はれやう筈はない。日米今日までの交際は片務的であつた。故に永く続かなかつた。今より之を改め、彼より与ふる丈け我に与へて、彼我永久の親善を計らねばならぬ。そして之を為すに於て第一に必要なるは日本の基督教の独立であると私ほ信ずる。此は米国人を憎むからではない。真正に彼等を愛するからである。 〔以上、7・30〕

 

     (四)

 

 私の知り又聞きし所に依ればアメリカ人は日本に就き多くの飛でもない事を信じて居るのである。例へば、彼等は日本は全然《まつたく》アメリカが開《ひら》いた国であつて、ペルリ来航以前の日本は暗黒の野蛮国であつた。然るをアメリカ(321)が宣教師を送り、ジヨーセフ新島と云ふアメリカ仕込の日本人を以て同志社と云ふ学校を起し、此に学びし学生が終に大革命を起し、其結果が明治維新であつて、新日本は茲に始まつたのであると。私はアメリカの或「信用ある」雑誌に斯かる記事の載てあつた事を確に記憶する。私は曾て或るアメリカ人が日本の医学は元々米国宣教師が伝へた者であると云うた故に、私は其誤謬を正し、之は日本人自身が長崎に於て和蘭人より学んだものであると告げし所、彼は甚だ不興であつた。アメリカ人の多数は日本に周有の高い堅い道徳のある事を知らない。仏教神道儒教悉く迷信であると信じ、憐憫の情に堪へずして彼等は宣教師を日本に派遣するのである。そして私の如き者が、彼等に日本人は決して斯かる劣等の民にあらざる事を弁明すれば、彼等は却つて斯かる弁明を好まず日本人は憐むべき民であつて、彼等はアメリカ人が来つて彼等を助くるを待つと云ふ言方を好むのである。私がアメリカ在留中最も憤慨に堪へなかつた事は、多くの日本人がアメリカ人の好意を買はんが為に、思ふ存分に自国の暗黒面を彼等の前にさらけ出す事であつた。私はアメリカ人の日本伝 なるものが、ドレ丈け日本国の耻辱を種にして行はれたものである乎 其事を思ひて今尚ほ血が煮えるのである。米国宣教師は今回の排日法制定に就ては彼等も彼等を送りし教会も何の責任なしと称ふると雖も私は其申分を其まゝ受納るゝ事は出来ない。勿論直接の責任なき事は何人も認むる。然れども日本を彼等の本国に誤解せしめし点に於ては彼等は間接に大なる責任を担ふべきである。かの憎むべき政治家輩にヒーゼンジャパン(異教的日本)の観念を植附けし者は誰である乎。私は宣教師諸氏に此事に関し再思三考を煩はさゞるを得ない。 〔以上、7・31〕

(322)     海中の富

                             大正13年7月20日

                             『国民新聞』

                             署名 内村鑑三

 

〇日本は小国である。台湾と朝鮮を除き、日本々土の面積は十五万平方哩、其内に六千万近くの民が住んで居る。人口の密度は其極度に達せんとして居る。然し忘るべからざるは我に陸と共に海の有る事である。そして海の産は陸の夫に譲らない。能く海を開拓して陸の不足を補ふ事が出来る。和蘭は鰊の骨の上に建られたる国であると云ふ。日本も亦海産の上に建直す事が出来る。殊に凍蔵術の進歩せる今日、日本は自国の民は勿論、全世界の民を養ふに鮮魚を以てする事が出来る。夫を為すに先づ第一に必要なるは好き漁港である。日本政府は沿岸到る処に漁港を築くべきである。一般の巡洋艦を建造するの費用を以て三百の漁港を築く事が出来る。斯して国家は居乍らにして戦はずして領土を拡張する事が出来る。日本人は生れ乍らの漁夫である、そして日本近海は世界第二位に下らざる漁場《ぎよぢやう》である。何を苦しんで嫌はるゝアメリカにまで出稼ぎするのである乎。我は我が熟達せる漁夫と改良せる漁港と漁具漁船とを以て太平洋に王たる事が出来る。国の小なるを歎ずるの必要は少しもない。「海よ海よ我を広くせよ」である。区々たるアメリカ人の排斥何かあらん。彼に大陸あれば我に大洋あるに非ずや。海に王たれよ我が愛する同胞よ。(七月十七日日光にて)

 

(323)     W・M・ヴォーリズ君を紹介す

                             大正13年7月21日

                             『吾家の設備』

                             署名 内村鑑三

 

 文化生活研究会発行『吾家の設計』竝に『吾家の設備』の著者ヴォーリズ君は世に稀に見る建築術の天才であり、又深く正しく日本を解し之を愛する米国人の一人であります。我等日本人は米国が今回日本に加へし大侮辱を痛く憤ると同時に、我国在留の米国人中の中にヴォーリズ君の如き者のあるを忘れてはなりません。君は日本に在りて独力で働いて独力で教化的難事業に従事しつゝあります。何人でも近江八幡に行いて彼の伝道竝に慈善事業を視る者は、其目的の遠大にして基礎の確実なるに驚かざるを得ません。私は日米関係の如何に成行くに関せず、君の如き米国人の日本を去らざらんことを切望してやみません。そして又君の如き人は如何なる事が起つても日本を去らないと思ひます。何故ならば彼等は自国同様に日本を愛し、又彼等が日本に来りしは、自《みづか》ら求めて来りしに非ず、神に遣されて来れりと固く信ずるからであります。

 ヴォーリズ君の持つやうな精神を持つて、又君の取るやうな方法を取りて、如何なる外国人と雖日本に留まりて日本人の信頼尊敬を受けざるを得ません。私は今回米国政府が日本に対して為せる不信的行為を憤る点に於て何人にも譲らない積りでありますが、それと同時に又ヴォーリズ君の如き米国人を私の友人として世に紹介する事の出来るを喜び又誇りとする者であります。

(324)  大正十三年七月二日             内村鑑三

 

(325)     地理と歴史

                             大正13年7月25日

                             『国民新聞』

                             署名 内村鑑三

 

〇地理は歴史を語る。日本の山脈は支那山脈の延長である。日本の港湾の主なるものは凡て西南に向つて開く。鹿児島、長崎)、門司、神戸、大阪は勿論の事、伊勢湾、東京湾、仙台湾、室蘭、釧路まで然らざるは無し。そして日本の歴史は此山脈と港湾との方向に循つて動いた。文明も改革もすべて西南より始まつて、東北に向つて進んだ。日本人は初めて西南より来たらしく、又支那文明、印度文明、西洋文明はすべて此方面より入来つた。アメリカのペルリが日本に来たのも、東の方太平洋を横断して来たのではない。喜望峰を廻り、印度洋を経て、西南より日本に来航したのである。

〇日本の開発は西南より始つた。日本の発展も亦西南に行はれねばならぬ。東の方アメリカに目を注いだのは、天然の指図に反いて居た。天然は日本に東方に伸びよと命じて居らぬ。日本の幸運はすべて西南に於て在る。支那、馬来群島、其処に日本を数十個容るゝに足るの場所がある。其住民は我等と血を共にする。而かも多くは未開の地である。愛と平和と勤勉とを以て之に臨めば、天然も人も我等を歓迎するに定《きま》つて居る。幸ひにして東の方《かた》アメリカに於て排斥に会うた。此は方針を西南に変へよとの神の声である。何故《なにゆゑ》に此声に従はざる乎。世界は広し。アメリカ許りが世界でない。嫌はるゝ国に往く必要は毫《すこし》もない。東方を抛棄せよ。西南に方向を転ぜよ。

(326)     旧友オランダ

                          大正13年7月30日・31日

                          『国民新聞』

                          署名 内村鑑三

 

〇アメリカは日本唯一の友邦であるとは多数の日本人が今日まで信じ来り、又今尚ほ信ずる所である。或はさうであるかも知れない。然れども日本にはアメリカよりも旧い友邦があつた。それは勿論オランダであつた。オランダは日本に取りアメリカよりも二百年程旧い友邦であつた。そして若しアメリカが日本の恩人国であると云ふならばオランダは更に大なる恩人国である。西洋文明を初めて日本に輸入した者はオランダであつた。然りアメリカに日本を紹介せし者はオランダであつた。オランダ人に依りて欧米は日本と其文物とを知つたのである。シーボルト、ツーンベルグ等《ら》の日本紹介者はオランダ人にあらざれば、オランダ人の手を藉《か》りて日本を研究した者である。今日に至るも日本古代の文明を組織的に学ばんと欲せば、東京、京都に於てせずしてオランダのレイデン府の博物館に於て為すべきであると云ふ。

〇然るに日本は此旧友を如何に取扱うた乎。日本は旧友を捨て新友に就いたではない乎。殆んどオランダを忘れて了つたではない乎。オランダは小なる国、交はるにも学ぶにも足らざる国、時代後れの国であると思うて之を省みないで今日に至つたではない乎。噫如何なる不信ぞ、如何なる忘恩ぞ。|此不信忘恩を罰せんが為に、天はアメリカをして今回日本に対してかの大不信を行はしめたのではあるまい乎〔付△圏点〕。

(327)〇オランダは多くの日本人が思ふが如きつまらない国ではない。成程其面積は僅に一万五千平方哩人口は六百万である。アメリカに較べて見て※〔草がんむり/最〕爾たる小国である。然れども此小国に世界有数の四箇の大学校がある。又此小国は熱帯地方に八十万平方哩、即ち自己に五十倍する領地を有す。人口一人の有する富は遥かに英人又は米人以上である。そして其歴史は名誉ある者である。世界の自由はオランダに於て生れたと云ふ事が出来る。オランダなくして英国又は米国に於る大改革は起らなかつた。アメリカにピユーリタン祖先を送り出した者は英国ではなくしてオランダであつた。オランダは世界第一の立法学者にして最初の非戦論者なるグローシウスを生んだ。欧洲第一位の画家レムブラントも亦オランダの産であつた。其他哲学に神学に考古学に工学にオランダは文明世界の率先者であつた。斯んな偉い国を日本は一時は唯一の親友として有つたのである。然るにアメリカに発見せられて以来、此国を殆ど忘れて了つたのである。愚なる日本よ。汝は汝を棄てしアメリカを責むる事は出来ない。汝自身が曾て汝の最良の友人を棄てたのである、今に至つて悔ひよ、覚めよ。汝の旧き友人に帰れよ。オランダに学べよ。若し出来得るならば其広大なる領地の開発に参与するの特権を得よ。諺に曰ふ「古き木は焚くに宜し、古き書《ほん》は読むに宜し、古き友は信ずるに宜し」と。旧きオランダは日本人が信ずるに最も良き国である。 〔以上、7・31〕

(328)     SELF-CONTRADICTIONS.矛盾に就て

                           大正13年8月10日

                           『聖書之研究』289号

                           署名なし

 

     SELF-CONTRADICTIONS.

 

 Said Walt Whitman:“I have self-contradictions, because I am large.” And God the Largest is the most self-contradictory of all beings. He loves,He hates. He is love itself,and a consuming fire at the same time.And His true children are always like Him.Paul,Luther,Cromwell,――what combinations of self-contradictions,of mother-loves and father-angers. They never were perfect,but conspicuously imperfect. They were not like pink-flowers worn on girls' breasts,but were like rugged mountains fitted for Titans' dwellings. And because they were imperfect and rugged.they were mankind's true friends. They demolished inequalities,banished unrighteousnesses,andlaid the foundations of the Lord's kingdom on earth. Alas for modern Christians,and “nothing-but-loVe” Christianity! Because they are “perfect,round, smooth,harmonious,and altogether too lovable,”are they unfitted to drive deep into human souls,and conquer nations for the Lord's possessions.

(329)     矛盾に就て

 

〇詩人ワルト・ホヰツトマンが曰うた事がある「私に矛盾が多い、それは私が大きいからである」と。其如くに神は最も大きい方であるから、矛盾の最も多い者である。彼は愛し給ふ、又憎み給ふ。彼は愛であると同時に又焼尽す火であり給ふ。そして彼の真の子供はいつでも克く彼に肖る者である。パウロ、ルーテル、クロムウエル、彼等孰れも何たる矛盾の組合でありしよ。彼等に母の愛と父の怒とが同時に宿つた。彼等は決して完全でなかつた。其反対に目立つ程に不完全なる者であつた。彼等は少女の胸を飾る石竹の花の如き者でなかつた。巨人の住居に適したる岩角多き山の如き者であつた。そして彼等が不完全であり、多角的であつたが故に、彼等は人類の真の友であつたのである。彼等は世の不公平を毀ち、不義を迫ひやりて、地上に主の聖国の基礎を据えたのである。あゝ近代の基督教徒と「愛の外に何ものもなき」基督教の悲しさよ。彼等は「完全で、円満で、円滑で、克く調和されて、まことに愛すべくある」が故に、然りそれが故に彼等は人の霊魂に深く突入りて、諸の国民《くにたみ》を征服して主の属となすに適しないのである。


(330)     救の範囲

                           大正13年8月10日

                           『聖書之研究』289号

                           署名なし

 

〇救と云へば大抵の信者は人の霊魂の救に限ると思ふ 霊魂の貴い事は言ふまでもない。然し乍ら神の御眼より見て救は霊魂に限らない。神の救の御計画の内には国家あり、人類あり、世界あり、宇宙ありである。神は万有の救の一部分として我等に霊魂の救を命じ給ふのである。そして神と偕に働く我等は更らに進んで国家、人類、世界の救に従事するのである。基督者たるの幸福又特権は茲に在るのである。言 り曰く「我はクリスチヤンである。故に人と天然とに関する事にして我の関係せざる事はない」と。此見地より見て人世の万事万物悉く神聖である。政治は国家の救に関する事なるが故に神聖である。農業工業は地球の改造完成に関する事なるが故に神聖である。其他商業法律医術一として然らざるなしである。世界と人類とは伝道師に由て丈けでは救はれない。凡ての基督者が伝道師と同じ精神を以て、各自の命ぜられし職に従事して、神の御計画に合《かな》ふ救が行はるゝのである。然り、其の伝道師は個人と社会と国家と人類と世界と宇宙の救を以て其目的とする者である。

〇そして此《これ》が聖書の救拯観《きうじようくわん》であるは凡て聖書に親しみし者の克く知る所である。聖書の明かに示す所に依れば、神が人を救ひ給ふは人の為に人を救ふのではない 人を以て世界を救ひ、世界を以て万物を完成し給はんが為である。造化は人を以て一先づ其終りを告げしが如くに、其完成は人の栄化を待て実現するのである。個人の救と(331)万物の完成との間に緻密なる関係ある事は旧約の預言書並に新約の羅馬書、哥羅西書、黙示録等の明かに示す所である。故に深く聖書に親しみし基督者は凡て広い意味に於ての伝道師であつた。霊魂を愛すると共に国を愛し、人類を愛し、天然を愛し、宇宙万物の復興栄化を待望む者であつた。「霊魂の収穫《ソールウイニング》」と称して伝道を個人の救に限るものは未だ深く聖書を究めたる人でないと言はざるを得ない。

〇余輩の知る範囲に於て聖書以外に於て最も高遠なる伝道観を懐きし者はクロムウエルの外交書記官たりし詩人ミルトンであると思ふ。彼に於て余輩は基督者又預言者又神聖なる政治家又偉大なる伝道師を見るのである。ワルヅワスは「ミルトンよ今日の英国は汝の再現を要す」と歌うたが、余輩も亦「今日の日本も亦然り」と和せざるを得ない。今日の基督教界に必要なるは聖書研究と共にミルトン研究である。ミルトンは広い、深い、熱《あつ》い。彼に傚うて浅薄狭隘冷淡なる事は出来ない。

(332)     拡張の横縦《よこたて》

                           大正13年8月10日

                           『聖書之研究』289号

                           署名 内村鑑三

 

〇拡張に二種ある、平面的なると立体的なると是れである。即ち横にする拡張と縦にする拡張とである。そして世の所謂拡張とはすべて横にする拡張である。即ち水平面に循つて為す拡張である。英国の拡張と云へば、英国が地球の表面に為した拡張である。阿弗利加大陸の半ば、濠斯太拉利亜《アウスタラリア》の全部、亜細亜と亜米利加の大部分を占領した拡張である。其他会社の拡張と云ふも、個人の拡張と云ふもすべて此種の拡張、即ち横にする平面的の拡張である。事業の拡張土地の拡張と称するも実は横に伸びたる拡張にして、孰れも限りある拡張である。地球の表面は総て一億九千二百万方哩であつて、拡張が此広袤《くわうばう》に達すれば其極に達するのである。如何なる国も、如何なる人も之れ以上に拡張する事は出来ない。

〇そして地球は唯一つであつて、拡張せんとする国と人とは無数である。茲に於てか競争が起るのである。何人も世界に王たらんと欲するに拘はらず、王たるべき世界は唯一つである。世に外交あり、国際聯盟あるは此簡短なる理由に因るのである。|若し国又は人の数丈け世界があるならば外交も戦争も直に絶ゆるのである〔付△圏点〕。無限の慾を懐く十六億の人に対し有限の表面を有する唯一の地球あるが故に、此地は修羅の巷である。

〇然し乍ら拡張は横にのみ限らないのである。横なる拡張に対して縦なる拡張がある。そして前者の有限なるに(333)対して後者は無限である。地球は唯一つ有るのみであつて、其面積は至つて狭い者であるが、空間は無窮であつて、其容積は無限である。故に国なり人なり若し垂直的に拡張せんと欲するならば、拡張の区域たる亦無限である。人が若し縦に伸びんと欲するならば彼は隣人と衝突するの虞は少しもない。彼は首《かうべ》に無限の青空を戴き、足には地球の中心に達する土石を践む。彼は横に伸びんと欲して無数の競争者を有すると雖も縦に拡んと欲して、何人も彼の道を遮る者はない。人が拡張を横にのみ計るが故に争闘憎悪は常に止まないのである 然れども横は喜んで之を他に譲り、己は縦に拡張発展せんと欲して、永久の平和が地に臨むのである。

〇そして縦なる拡張は空しき無意味の拡張でないのである。神の造り給ひし宇宙である。故に縦は横丈けそれ丈け豊富である。人が縦の富を知らずして、横の富にのみ注目するが故に、彼は横に発展し得ざればとて貧を感じ平面的膨脹に成功せし国と人とを羨むのである。然れども眼を挙げて視よ、縦なる富の如何に大なる乎を。南阿の金剛石鉱を有する英国人の富は富たるに相違なしと雖も、然れども天上に輝く無数の星に較べて見て、地上の宝石何かあらんである。オライオンとプライアデス、参宿と昴宿、アンドロメダスとペゲーサスの美と富、誰か之を知りて瓦礫に等しき此世の富者等の誇りとする宝玉に眼を注ぐ者あらんや。頭《かしら》に金剛石の冠冕《かんむり》を戴いて誇らんと欲する者は勝手に誇るべし。我に「北冠」の我頭上に懸るありて、神の子たるの栄光を我に加ふ。而して縦なる富は上に在り又下に在りである。我が足下に践つける岩石の一片は幾多の美くしき水晶より成り、又其内に潜在する力を遊離せしめて大動力を獲る事が出来る。若し国として考ふるならば、敢て天上を覗《のぞ》くに及ばず、其山は悉く富源であり、其海も亦無限の富を蔵す。日本の如き小国と雖も、其山に悉く植林して、更に一個の新らしき日本を作ることが出来る。又其海を開拓して国土に数倍する新領土を得ることが出来る。林産と水産とは(334)日本人の企業《きげう》を待つ富源である。山の高きを耕し、海の深きに漁《すなど》りて日本人は他国と少しも競争することなく、優《いう》に自由に拡張することが出来る。是れまた縦にする拡張である。人の之に注目せざるを怪しむ。

〇余は茲に鉱山の開鑿、空気の利用等に就て語らない。水力の使用も亦垂直的拡張の部類に属する。其他日光の貯蔵、風浪の使用等、数ふるに遑なしである。若し日本が英国又は仏国に傚ふて横に拡張せんとせずして、神の指導に従つて縦に拡張せんと努むるならば、居ながらにして大国又富国と成ることが出来る。敢て他国の嫉視を冒して所謂海外発展を計るに及ばない。縦に発展して横の発展の困難を償ふ事が出来る。

〇然し国は国であり我は我である。斯く云ひて我は国の事には不関焉《かんせずえん》であると云ふのではない 然し今日の日本国の場合に於て、殊に私の如き者の立場に在りて、国の為に計るも何の効もないのである。日本に輿論なる者はない、又輿論を起す事も出来ない。夫れには深い理由があるのである。日本人はまだ自個を発見しないのである。そして自覚せざる民に確乎たる意見はない。彼等の所謂輿論は雷同である。道理に訴へて善悪真偽を定むるのではない。外の勢力と内の慾心に動かされて万事を決するのである。斯かる民に真理を提供するも、彼等は真理として之を受取らない。然り受取り得ないのである。多数の為す事が善事、己が利益になる事が美事である。絶対的真理と称するが如きは、彼等に取り文字其物が不可解である。

〇故に横なる拡張は之を彼等に譲り、我は惟り縦なる拡張を計るべきである。彼等は土地を得んと欲す、地盤を作らんと欲す、商品を売弘めんと欲す。而して宗教家の間に於てすら、天下を四分して其一を取らんとするの計画が謀議せらる。是れ皆な横なる拡張である。必然的に競争を伴ふ拡張である。然れども本当の基督者は斯かる拡張に携《たづさ》はらない。「天より降り天に在る人の子の外に天に昇りし者なし」とイエスは曰ひ給うた。又曰ひ給う(335)た「我れもし地より挙げられなば万民を引きて我に就らせん」と(ヨハネ伝三章十三節、同十二章三二節)。此は孰れも上下運動を示して縦なる拡張を促す言である 更に適切なるはエペソ書四章九、十節に於けるパウロの言である、曰く「既に上に昇れりと謂へば先づ地の下に降りしに非ずや、降りし者は即ち諸《もろ/\》の天の上に昇りし者なり、彼れ万《よろづ》の物に満たんとす」と。実に高い深い、そして|広い〔付○圏点〕言である。キリストは降りて昇り、昇りて今や広く万物に満たんとして居たまふのである。我等彼の僕も亦此途を取らなければならない。

〇先づ第一が降る事である。自己の奥底に降つて、其処にその何たる乎を発見すべきである。自己は腐れたる者、善なる者の在らざる所、暗らき罪の塊《かたまり》である。此事を知るが凡ての発展の初めである。自己を発見せずばならず、そしてその自己の正体を究めねばならぬ。実に深い辛らい探険である。そして自己の深海に降り、其処に居るに堪へずして、上なる神の光を仰いで、茲に恩寵と信仰とに依り、上へと昇り初めるのである。そして罪人の友なるイエスに導かれて諸《もろ/\》の天の上に昇るを得て、其処に歓喜満足の人となりて、然る後に再び地に降り来りて神の許し給ふ範囲に於て「隣人を少しも妨ぐることなくして、万《よろづ》の物に満つることが出来る。即ち我れ相応の横なる拡張を遂ぐることが出来る。是れ基督者の拡張の筋道《すぢみち》である。彼は横なる世界に目を注がない。先づ自己の深い底を見る 然る後に天の高きを望む。そして下と上に新たなる領土を得て彼は其他に拡張せんとしない。然れども此豊満の地位に置かれて彼と雖も亦横に拡張せざるを得ない。然れども是れ神の指導に由る自然なる拡張である。循つて最も確実なる拡張である。「降りし者は即ち諸の天の上に昇りし者なり、彼れ万の物に満たんとす」と。基督者の実験通りである。

〇斯くして基督者は世人と競争して有限の地上に拡張を計る必要は毫もない。又教勢拡張と称して他の信者又は(336)教会と競争して己が信仰の拡張を計らない。然り計つてはならない。横なる拡張はすべて之を此世と此世の人等に譲り、己は主に傚ひ、降りて昇り、然る後に万物に満つるやうに神に使役せらるべくある。そして基督者の縦なる拡張に千変万化、多趣多様、永久に汲んで尽きざるものがある。白己を知る事、是れ深い、困難《むつかし》い、而かも最も有益なる知識である。又上なる天に在す神を知る事、此知識其物が限りなき生命である。内に顧み、上を仰ぐ、それ丈けにて意義ある一生の事業である。そして斯かる知識を有する人が一人ありて一国の大なる富又栄である。百人あり千人あり万人ありて、国は泰山の安きに在るのである。カーライルが曾て曰うた事がある、「英国は印度帝国を棄てゝもシェークスビヤ全集を有するが故に富国である」と。カント一人が大帝国である。彼を有して独逸は其国外の領土全部を失ひて永久に亡びない。我も亦寸地を有せずと雖も、衷に己が霊魂を発見し、天に我が救主を獲て、三井、三菱、安田等の迚も及ばざる富豪である。慾に渇せる世は我が途を遮りて、我が横なる拡張を許さずと雖も、縦なる拡張の途は開けて、我が自由の発展を待ちつゝある。

〇神は預言者を以て曰ひ給うた「禍ひなる哉、彼等は家に家を建《たて》つらね、田圃に田圃を増し加へ余地を存《のこ》さず、己れ独り国に住まんとす」と(イザヤ書五章八節)。此世の富豪、実業家等の為す事はすべて是である。そして世界の所謂強国の為すことも之と異ならない。土地に土地を増し加へて己れ独り国に住ひ、世界を横領せんとす、即ち横に、平面的に大地主又は世界の王と成らんと欲す。然れども天に在す神は斯かる者を呪ひて曰ひ給うた「禍ひなる哉」と。そして禍《わざは》ひなる者に対して福《さいは》ひなる者がある。己が罪を悔ひて天に貸《たから》を積む者は福ひである。「智慧と知識の蓄積は一切キリストに蔵れある也」とあるが如し(コロサイ書二章三節)。横に伸びる者は禍ひなり、縦に伸びる者ほ福ひなりとの事である。そして「柔和なる者は福なり、其人は地を嗣ぐ事を得べければ也」(337)とあるが故に、柔和にして地上に在りては何物をも要求せざる者が終には地をも与へらるべしとの事である。我等は縦に伸びてあれば、神は終に我等を横に伸ばし給ふのである。先づ自己《おのれ》に足りて然る後に横に拡張する事が出来る。而して如何なる場合に在りても自給自足の途は縦にする拡張である。此ほ障礙《せうげ》のない平和的拡張である。神は縦に伸びし者を横に伸ばし給ふのである。

  附録 地球の表面ほ一億九千二百二十万方哩、其二割八分強が陸地であつて、其面積が五千五百万方哩である。之を日本の町歩に換算すれば凡そ百四十二億町歩である。今之を世界の人口十六億に平等に分配するとすれば、一人分の割当は八町九反弱である。然し陸面の大部分は砂漠、氷原、山岳等であれば、耕地として人類に賦与せらるべき分は其三分の一に過ぎまい。即ち一人の割前三町歩と見て多く誤りあるまい。然れども今や分配は甚だ不公平にして、有つ者は何千町歩を有し、有たざる者は寸地を有たない。而して何人も亦、若し許さるゝならば全世界に主たらんと欲す。地の公平の分配はキリスト再臨の時に行はるゝであらう。而して今や忍耐待望の時である。横なる拡張は此世の人等に譲り、我等は縦に伸びて、深く自己に穿ち、高くキリストに達し、以て彼の再び降り給ひて、地に公平を布き給ふ時を待つべきである。此は今は平和の途、後には栄光に達するの道である。

(338)     信仰と能力

                           大正13年8月10日

                           『聖書之研究』289号

                           署名 内村鑑三

 

  彼を接けその名を信ぜし者には権《ちから》を賜ひて之を神の子と為せり(ヨハネ伝一章十二節)。

〇信仰と云ふ事を困難《むつかし》い事に思うて居る人が沢山に有ります。信仰とは自分が努力して得る者、そして得た以上は万難を排して守る者、それが信仰であると思ふが普通であります。それ故に信仰の人と云へば、強い偉らい人、非凡の人、努力奮闘、克く己に勝ち、世に勝つ人として崇めらるゝが常であります。パウロがコリント前書十三章二節に、「仮令《たとひ》我に山を移す程なる諸《もろ/\》の信仰ありと雖も云々」と云ひましたのは、斯う云ふ信仰を指して云うたのでありまして、昔も今も本当に信仰の生涯を送つた事のない人が、信仰に就て思ふ所に差異《ちがひ》はありません。

〇然し乍ら信仰は決してそんな者ではありません。本当の信仰は世に謂ふ所の信仰と正反対であります。実は世に信仰ほど容易《たやす》い者はないのであります。信仰の文字其物が能く其事を示します。信《しん》は「マカス」であります。仰《かう》は「アフグ」であります。上を向いて信《まか》すであります。それが信仰であります。信仰は思索《しさく》でもなければ、努力でもありません。此身此儘を我よりも強い者に任かす事であります。即ち自己を受動的状態に置く事であります。我れと云ふ本城を我よりも高い者に開放して、其すべての要求に応ずる事であります 見やうに由ては甚だ意気地《いくぢ》のない事であります。然し信仰は降参である事は否む事は出来ません。

(339)〇人は何故《なぜ》信仰と云ふやうな状態に己を置かなければならないのであります乎。彼は何故《なぜ》絶対的に自主たり得ないのでありますか。自由独立は彼の名誉であり、又特権であるではありませんか。|それは彼が人であるからであります〔付○圏点〕。神は御自身の理想に適ふ能力を有ち給ひます。故に信仰の必要はありません。獣《けもの》は己が力以上の欲《よく》を有ちません、故に彼にも亦信仰の必要はありません。然し乍ら人丈けは自分の能力不相応の欲と思想とを有ちます。故に信仰の必要があるのであります。即ち己より高き且つ強き者に己を委ねて、彼に由て己の理想を行ふの必要があるのであります。さう為《す》るに非れば彼に心の平安はありません。信仰なくして人は、半信半疑の不愉快極まる生涯を送るか、然らざれば自殺を行ふの外ないのであります。多くの正直なる人が、他に何の理由なくして自殺を行ふは、人が人たるの特有性に出るのであります。何故に人は斯くも調和を欠ける者である乎、其理由は解らないとして、人は斯くある者である事は事実であります。世界三大著作の一として数へらるゝ詩人ゲーテの作『フハウスト』は正直なる、高貴なる、博学多才の人の生涯を画《ゑが》いた者でありまして、彼が終に自殺を決心し、昇天日の歌を聞いて自殺は思ひ止まりしと雖も、不義の姦婬を犯し、其の愛人と彼女の母と兄とを殺すに至りし其筋道を記《か》いた者が、此有名なる著作であります。信仰の途を取らずして、自己修養に由てのみ人生の完全に達せんと欲する者は、フハウストの通りし途を避くることは出来ません。各自性格の強弱に由り、受くる苦悶の差こそあれ、苦悶はやはり人たるの苦悶であります。人として生れ出し以上、信仰なくして調和せる平和の生涯を送ることは出来ません。

〇「彼を接《う》け、その名を信ぜし者には権《ちから》を賜ひて之を神の子となせり」と云ふ。「神の遣はし給へる其独子を斥くることなくして之を迎へ、彼の何たる乎を知りて彼を信じ仰ぎし者にほ神の子たるの特権を賜へり」と解して(340)間違は無いと思ひます。信仰は必要であります けれども、其効力は之を寄する目的物に由て異《ちが》ひます。信仰さへあれば何を信じても違《ちがひ》はないと云ふのは大なる間違であります。神は人間の唯一信仰の目的物として其独子を世に遣はし給ひました。イエスキリストが其れであります。そして彼に信仰を寄せ奉りし者は、神の子たるの特権を賜はると云ふのであります。人は此《これ》は独断的の教義であると云ひて斥けます。然し乍ら事実は聖書の此詞の通りである事を証明します。|キリストを信仰して人は神の子と成るのであります〔付○圏点〕。其事は今日まで世に起りし数多《あまた》の基督者の生涯に依て明かに知る事が出来ます。

〇人の子が神の子と成ると云ふのであります。不調和の人の子が調和の神の子と成ると云ふのであります。「汝の能力《ちから》は汝の齢《よはひ》に従ふべし」と云ふ福《さいは》ひなる状態に私供が入る事が出来ると云ふのであります。祝福《さい托ひ》此上なしであります。|生れながらの人は人の子であつて神の子でありません〔付△圏点〕。彼は神の独子イエスキリストを信ずるに由て神の子と為《せ》らるゝのであります。

〇神の子とは抑々如何なる者であります乎。|彼は第一に平和の人であります〔付○圏点〕。隣人と利益や名誉の為に争はざるは勿論のこと、神に対しては罪の苦痛《くるしみ》より免かれ自分に取りては内心の分離即ち心の煩悶を取除かれて茲に初めて歓喜《よろこび》の人となります。欲《ねが》ふ事を為す能はず 為す能はざる事を欲《ねが》ひて何人にも平和はありません。然るに我が全部を神に信《まか》せ奉りて此不調和は全く取除かれます。恰かも破産に瀕したる小銀行が、其財産全部を有力なる親《をや》銀行に引渡して之に其整理を託したると同様に、不安と苦悶は全然取去られます。

〇|神の子は第二に能力の人であります〔付○圏点〕。自己を神に引渡して、神より新たなる能力が臨みます。小銀行の整理を引受付し親銀行は、自分の信用を維持する時と同じ熱心を以て、小銀行の回復を計ります。全能の神が人の子の(341)整理を引受けて、其実行は易々たる業《わざ》であります。単に霊の事ばかりでありません、肉の事に於ても、信者は預想外の給与を神より授かります。|神を信じ仰ぐ者に行詰りはありません〔付△圏点〕。神は機《をり》に合《かな》ふ助を信者に下して、すべての患難《なやみ》より彼を援出《すくひいだ》し給ひます。

〇|神の子は第三に活動の人であります〔付○圏点〕。受動の人が活動の人であるとは大なる逆説《パラドツクス》のやうに聞えますが、此は所謂神の逆説《パラドツクス》の一でありまして、不思議であるやうで、実は少しも不思議でないのであります。信仰の結果として自分に有|余《あま》る能力《ちから》が与へられて、活動せざるを得ないのであります。何物をも有たざるが如くに見えてすべての物を持つとは此事を言ふのであります。身に一物なくして多くの人を富ますのであります。自分は丁度水道の鉄管の如き者となりて、自分を通うして天より出づる生命の水が多量に渇ける人に注がるゝのであります。信仰の人は常に休んで常に働く者であります。自分の能力を消費するのでありませんから少しも疲れません。然し実際に自分を通うして能力が人に臨むのでありますから、自分は働らいて居ると同然であります。此《これ》が理想的生涯ではありません乎。「休まずに急がずに」とゲーテの作つた有名なる詩に在りますが詩人の理想以上の事を基督者は毎日実験して居るのであります。信ずれば新たなる能力が加はり、新たなる能力を以て凝《ぢつ》として居る事が出来なくなるのであります。ヨハネ伝七章三十八節に、イエスが呼はりて「我を信ずる者は聖書に録しゝ如くに其腹より活ける水川の如くに流れ出づべし」と言ひ給ひたりと記《かい》てありますが、事実は共通りであります。本当にキリストを信じて、即ち全身全霊を彼に信《まか》せて、彼は生命の水の貯水池となりて衆多《おほく》の渇ける霊魂を潤《うるほ》すのであります。

〇今は煩悶の時代であります。自殺の多き事今日の如きはあまりません。しかし煩悶|刈除《かいじよ》の途は今も昔と同じで(342)あります。神の遣はし給へる其独子を接け、彼に我が全部を引渡し、新たなる能力の供給を受けて、神の子と成ることであります。(大正十二年七月二十三日軽井沢に於て)

 

(343)     恵まるゝの道

                           大正13年8月10日

                           『聖者之研究』289号

                           署名 内村鑑三

 

〇信仰の道は竟《つま》る所是れであります。即ち|恵まれて然る後に献げん乎、

献げて然る後に恵まれん乎〔付○圏点〕、是れであります。そして大抵の人の思ふ所は前者であります 即ち恵まれて而して後に献げんと欲するのであります 儲《もうか》つたらば必ず献げませうと彼等は曰ひます。又神が働けるやうに為して下さつたならば働きます、それまでは待ちますと。夫れ故に彼等は下さい、下さいと祈つて止みません。沢山に献金の出来るやうに儲けたい、熱心に伝道の出来るやうな信仰が欲しい、然しながら今や事業も栄えない、信仰も足りない、故に恩恵の降るのを待つて居る、と彼等は言ひて、唯得んとのみ欲して献げんと欲しません。

〇そして斯かる人が実際に其目的を達する乎と云ふに達しないのが普通であります。私の生涯に於て、儲つたらば君の伝道を助けると言ひて約束して呉れた友人は多数ありましたが、彼等のすべてが私を失望させました。第一に彼等の大抵は儲けませんでした。第二に儲けた者は寄附しませんでした。彼等は曰ひます、まだ足りない、もつと儲けてから寄附すると。そして彼等は寄附せずして其生渡を終るのであると思ひます。

〇そして金銭の事に限りません。信仰の事も同じであります。常に学ばんとのみ欲して、少しも他に伝へざる者はいくら学んでも足りません。彼等は曰ひます、まだ解らない、まだ解らないと。そして其うちに宗教が|つまら(344)なく〔付ごま圏点〕なり、彼等の多くは背教者となりて信仰を棄てました。彼等はパウロの所謂「常に学べども真理《まこと》を知るに至ること能は」ざる者であります(テモテ後書三章七)。得んとのみ欲して与へざるが故に、終に得しものまでをも失ふに至ります。

〇如斯にして第一の道、即ち恵まれて然る後に献げんとの途は常に失敗に終ります。此道を辿つて永久に恵まれ、又多く施し又は献げし人とては未だ曾て一人もないと思ひます。唯不思議なるは失敗と知りつゝ大抵の人が此道を辿ることであります。

〇然らば成功の道は何乎と云ふに、それは第二の道であります。即ち|今既に与へられしものを献げて、更に神の恩恵を仰ぐことであります〔付○圏点〕。儲かるのを待たずして、今日有るものを献げて、神の恩恵を感謝することであります。又信仰の今以上に強くなるを待たずして既に与へられし信仰を感謝して、自分相応の伝道に従事する事であります。如斯くにして恩恵は益々我が事業にも霊魂にも加はりて、私共は外にも内にも益々富める者と成るのであります。そして大慈善家又は大信仰家はすべて此道を取つた者であります。彼等は初めより常に献げて常に恵まれた者であります。彼等は与ふるの福《さいはい》を知りしが故に、常に与へらるゝの幸《さいはひ》を味つた者であります。

〇ヱホバは預言者マラキを以て曰ひ給ひました。

  我が殿《みや》に食物あらしめん為に汝等|什一《じふいち》をすべて我倉に携へ来れ、而して是をもて我を試みよ、我が天の窓《まど》を開きて容るべき所なきまでに恩恵《めぐみ》を汝等に注ぐや否やを見るべし。万軍のヱホバ之を曰ふ。

と(馬拉基書三章十節)。ヱホバに献げて彼の恩恵を試みよとの詔勅《みことのり》であります。我等に与へられし物の十分の一を献げて見よ、神は天の窓を開いて恩恵を汝等に注ぎ給はんとの事であります。大雨《だいう》沛然として乾《かわ》ける地に臨む(345)が如くに恩恵は裕かに降りて容るゝに所なきに至るべしとの事であります。勿論此事は「物に対するに物を以てする」経済学上の原理に基ゐて行はるゝのでありません。人が先づ為すべきを為して、然る後に神も亦為すべきを為し給ふとの恩恵下賜の常道を示した聖語《みことば》であります。まことに道理に適《かな》ひたる道徳上並に信仰上の真理であります。

〇即ち恵まるゝの道は是であります。先づ我等より与へられし者を感謝の供物《さゝげもの》として献ぐるのであります。然らば神は天の窓を開いて容るゝに所なきまでに恩恵を注ぎ給ふと言ふのであります。そして是れはすべての基督者の実験する所であります。此上更に恵まるゝまで待たないのであります。生きて居る丈けが恩恵であります。神を知る事を得し丈けが大なる恩恵であります。之を感謝し、与へられし物の什一《タイス》を献げて感謝を表するが当然であります。然らば神も亦之に応じて恩恵の上に恩恵に注ぎ給ふのであります。

〇斯くて恩恵に与《あづ》かる道は至て簡短であります。即ち神の命令《いひつけ》に従ふ事であります。神を信じて彼が為せと命じ給ふ事を為す事であります。さうすれば恩恵は|必ず或る形に於て〔付○圏点〕降ります。縦し外なる恩恵は降らずとも内なる恩恵が降ります。今日直に試して御覧なさい。此事に就ては神の方より「我を試みよ」と云ひ給ひます。新たる恵みの降るを待たず、信仰の新たに増すを待たず、今ある儘にて神に仕へて御覧なさい。神は活きたる神である事を必ず実験せらるゝ事と信じます。そして神に仕ふるとは彼の聖名に由りて人の為に尽す事であります。(三月九日)

(346)     対米態度の維持

                           大正13年8月10日

                           『聖書之研究』289号

                           署名なし

 

〇余輩は米国の排日に対し余輩の取るべき態度として五ケ条を宣言した。之に対して非キリスト的なりとの非難が多くの信者の内に挙つた。或はさうである乎も知れない。然し余輩にも申分が無いではない。余輩は未だ之を取消すことは出来ない。

〇第一は「成るべく米国に行かぬ事」であつた。此は勿論の事である。嫌はるゝ国に行くべきでない。行くは亦無礼である。米国人は日本人を「好ましからざる民」とし入国を禁止したのである。其国に行かざる事は日本人として紳士として当然である。

〇第二は「成るべく米国品を使はない事」である。其理由は明白である。単に国家経済の上から見ても、今日の日本人たる者は、何人も此途を取るべきは言はずして明かである。

〇第三は「成るべく米国人の援助を受けない事」である。之も亦当然の事である。日本人を市民権獲得不能の民と定めたる国の人より援助を受くるの人間らしくない事は言はずして明かである。斯かる事に就て基督教道徳に訴ふるの必要は毫《すこし》しもない。普通の人が斯かる場合には斯く為すのである。

〇第四に「成るべ米国人の書いたものを読まない事」である。之には理由がある。余輩は主として宗教書類に(347)就て言ふのである。近代の米国人が其信仰に於て著しく堕落せし事は彼等自身の承認する所である。其新派なると旧派なるとに関らず全然金力の圧する所となり金力に対しては如何なる宗教家も大胆に声を揚げ得ないのである。故 聖書的なりと云ひ然らずと云ふも、畢竟《つま》る所は物質的なるのであつて、純信仰の立場より見て全然無価値である。余輩自身は過去数年間米国近刊の宗教書類には一切目を触れないが、毫も損失を感じない。唯時には『紐育ネーシヨン』の如き政治雑誌にして宗教雑誌の敢てせざる大胆の声を揚ぐるに会して、昔し懐かしさに堪えずして之を愛読するは事実である。

〇第五は「成るべく米国人の教会に出入しない事」である。之は此場合我国民に対し当然の遠慮である。米国人にして礼儀の何たる乎を知る者は、少くとも当分の間は其教会を閉づるが当然である。斯くしてこそ彼等は日本人の信用を博し得るのである。前記『紐育ネーシヨン』の如きは此際支那日本に在る米国宣教師の引上を強烈に主張して居る。此は宣教師排斥でない、彼等の本国に辱められし我国に対する適当の遠慮である。

○何れにしろ「成るべく」である、「絶対的に」ではない。又余輩一個人の注意である。勿論神の誡命《いましめ》の宣言ではない。之に従ふと従はざるとは勿論読者各自の自由である。唯一事更らに注意を加へたき事がある。|それは信者が斯かる場合に於て国民たるを忘れない事である〔付○圏点〕。我等は神の子であると同時に日本人である。故に国と共に喜び又悲み又憤るは止むを得ない。

(348)     傚ふべき国

                         大正13年8月19・20・21日

                         『国民新聞』

                         署名 内村鑑三

 

〇傚ふべき国は英国でない、仏国でない、勿論米国でない、所謂第一等国でない。軍備充足し、広大なる属領地を有する国は決して幸福なる羨やむべき国でない。僅か十年前には世界の脅威でありし独逸帝国、露西亜帝国、墺洪帝国は今は何処に在る乎。日本政府が一時は建国術の至上権として仰ぎしトライチユケー・スタインの本国は今は消えて跡なしである。阿弗利加大陸の半分以上を有し、其他亜細亜に、南亜米利加に広大なる領地を有する仏国は借債の多きを以て世界に冠たる国であるではない乎。其黄金多きが故に其霊魂を失ひし米国を羨む者は我日本には一人もない筈である。米国の前途は既に見えて居る。戦つて之を斃すの必要はない。米国は自分で亡ぶるの状態に於て在る。米国自身の識者が此事を予言して憚らない。彼が今日漂ふ黄金の海に彼を放任して置けば米国は独りで亡ぶるのである。彼の為に之を悲しむ。然し乍ら是れ彼れ自身が択みし運命である。米国は思ふ存分に世界の富を自己に吸収して、死毒を己が体内に蓄へたのである。

。一等国の運命すべて此の如しである。今に始めぬ事である。エジプト、アツシリヤ、バビロン、ペルシヤ、ローマ、皆一等国と成りて亡びたのである。歴史の此明訓あるに拘はらず、我日本国を一等国の列に加へんとせし政治家》は誰乎。一等国たるの夢より覚むる処に、日本国永久の繁栄と鞏固と光栄とが存するのであると私は信ず(349)る。 〔以上、8・19〕

〇世界人類に最高文明を供せし国は孰も小国であつた。預言者を出して人類の到達すべき終極の目的を示せしユダヤはバビロンとエジプトとの間に介《はさま》る小国であつた。科学、哲学、美術の基礎を定めしギリシヤは欧亜両大陸の間に位ゐせし、是れ亦※〔草がんむり/最〕爾たる小国であつた。欧洲人の自由は仏とか独とか云ふ大国に於て生れずして、瑞西又は和蘭と云ふやうな小国に於て起つた。人類の今日あるは小国、即ち歴史家の所謂 Borderland《ぼーだーらんど》境界国の賜物である。小国の名誉また大なる哉である。

〇そして日本は此地位に在る国である。束には西洋の西端なるアメリカと云ふ大国を控へ、西には東洋の東端なる支那と云ふ大国に接して居る。日本は両洋の間に介る境界国である。自然的に大国たるの地位に居らず、資格を具へず、而も小国として自から治め、世界を感化し得る地位に在る。ギリシヤ、ユダヤ、瑞西、和蘭等小にして大なる国たるの資格を備へて居る。此事を忘れて、バビロン、アツシリヤ、アメリカ等の所謂強大国に傚はんと欲す。其事が日本が今日の行詰り状態に於て在る主なる原因であると思ふ。アメリカの大と日本の大とは大たるの根本の精神を異にする。彼の大は物質的のバビロン的である、我の大は精神的のユダヤ的、又は理想的のギリシヤ的であらねばならぬ。日本はアメリカに傚はんとして、自己存在の理由を否定する者であると思ふ。 〔以上、8・20〕

〇若し今の世界に日本が傚ふべき国があるとすれば、其一は確にオランダである。前にも述べた通り、オランダは其面積に於ても、亦人口に於ても、我日本の十分の一である。而も侮るべからざる世界の一勢力である。彼は自己に数十倍する属領地を有するが、彼の大なるは之に由らない。彼に大海軍なし、大陸軍なし、若し武力を以(350)て彼を征服せんと欲せば、何れの強大国と雖も容易に此事を実行することが出来る。然れども前《ぜん》のカイゼルですらオランダに手を触れる事が出来なかつた。オランダは彼女を支配する女王の如くに貞潔である。彼女を犯す者は自から己を涜すのである。若し国の独立を維持するに其富に相当する武力が必要であると云ふならば、オランダは早く既に亡びて居るに相違ない。オランダは小なりと雖も自給自足の国である 若し土地が不足すれば海を埋立て之を獲る。他を犯さんとしない。故に自から犯されない。平和と公平と正直と勤勉と、自由なる信仰と該博なる知識とを以て其国是と定む。故に一等国たらずと雖も、幸福なる、平安なる、鞏固なる国である。

〇傚ふべき国は他に丁抹がある瑞西《すゐつゝる》がある、然し他に傚ふまでもない。日本は文字通りに君子国であつて欲しい、所謂紳士協約は君子協約であつた。外交の事に於ては日本が君子的であつたことを喜ぷ。其他の事に於ても、我国がアメリカの政治家などが近づくことの出来ない程度の君子国であつて欲《ほ》しい。 〔以上、8・21〕

(351)     A DIALOGUE 日米対話

                         大正13年9月1日

                         『文化生活の基礎』4巻9号

                         署名なし

 

     A DIALOGUE

 

   Between Christian America and Heathen Japan.Composed by KANZO UCHIMURA in his Alien English.

 

             AMERICA.

 That I kicked you and gave you an insult,I acknowledge to be true. But you must be patient, and behave yourself accordiqg to the Sermon on the Mount. You must not return a kick for a kick,an eye for an eye,a tooth for a tooth. I smote you on your right cheek;but you as a good Christian must turn to me the Other also. Oh,do not lend your ears to“a few Chrjstian leaders”among you, who urge you to ask my missionaries to go away on account of this insult which I gave you.These leaders are un-Christian,and I understand they do not represent the majority of the Christians among you. Oh, be patient toward me at this moment, and prove yourself to be a great nation. I may repent in some future day of the evil I have done to you, and may remedy (352)it,though I cannot make you definite promise on that matter.Only be patient,meek,quiet,and show yourself to be a great nation.That is the best way to win the praise of the world.

 

      JAPAN.

  I see. But I cannot understand why you label me as“an undesirable heathen”while you advise me to behave as a Christian. Is it not more reasonable for you to repent in ashes and sackcloth for the evil you haVe done,than for you to advise me not to be overcome of evil, but overcome evil with good? Do you really mean fo rme to heap coals of fire on your head?

 

       AMERICA(impatiently)

 Do you not understand? Do you not see the possible disaster to your trade and finance,if you do not care my advice? Why stick to your Bushido nonsense,and endanger your very existence?

 

        JAPAN(in bewilderment)

  I am in a strait betwixt the two. What course to take,I do not know. Only this one thing seems to be evident:You are a Christian in name and heathen in deed,and I am just the opposite. We certainly live in a strange world,just now.

     日米対話

 

(353) 基督教国の米国と異教国の日本との間に行はれし対話を|内村鑑三※〔ゴシック〕が彼の馴れざる英語を以て綴りし者である。

 

       米国

 私、アナタ足で蹴ました。無礼加へました。其事悪い。私、承知あります。然しアナタ堪《こら》える宜しい。キリスト山の上の説教従ひ行ふ宜しい。アナタ蹴られても蹴る宜しくない。目にて目を償ひ、歯にて歯を償ふ、宜しくない。私、アナタ右の頬《ほゝ》打つありました。アナタ良きクリスチヤンあります。他《ほか》の頬私に向ける宜しくあります。アナタ日本キリスト教先生言ふ事聴く宜しくありません。アメリカ日本に無礼加へたから私国《わたくしくに》宣教師皆んな帰れと言ひます。それ間違《まちがひ》あります。その先生達皆んな本当信者ありません、又アナタ方の良き代表者ありません。アナタ方今アメリカ堪《こら》える宜くあります。アナ夕方偉い国成る宜くあります。私、アナタ為した悪い事悔ゆる時ありませう、然し私共事確か約束出来るありません。アナタ方たゞ堪《こら》える宜しい、従ふ宜しい、静にする宜しい、それアナ夕方大国民見せるあります。世界アナタ方讃める一番良き途あります。

 

       日本

 成程、私には如何しても解らないのであります。アナタは私に「好ましからざる異教徒」と云ふ札を附けながら、私に基督信者の行為《おこなひ》をなせと云はるゝ其事が私には解らないのであります。それよりもアナタ御自身が先づアナタが私に為されし悪事に就て灰を被《かぶ》り麻の衣を着《つけ》て悔ゆるのが本当ではありません乎。アナタが此際私に聖書の教に従ひ悪に勝たるゝ勿れ、善をもて悪に勝つべしと要《もと》めらるゝは道理に合ほないではありません乎。それ(354)ともアナタは聖書の教ふる通りに、アナタの首に熱炭《あつきひ》を積めと私に仰せらるゝのであります乎。

 

       米国(少しく立腹の状態にて)

 アナタ、私解りません乎。アナタ、私言ふ事聴かないありますならば日本商売困るあります。金なくなります。武士道馬鹿あります。棄る宜しい。日本亡ぶあります。

 

       日本(返答に窮して)

 私は何の途を取つて宜しき乎解りません。私は二つの間に介《はさ》まりて困しみます。然し唯一つの事は明かであると思ひます。アナタ米国は名は基督教国であつて実は異教国であります。私は丁度其反対であります。我等は確かに今は不思議なる世界に住んで居るのであります。

 

(355)     『羅馬書の研究』

                            大正13年9月10日

                            単行本

                            署名 内村鑑三 著

 

〔画像略〕初版表紙 228×166mm

(356)     デディケーシヨン

 

  余と同時にキリストを信じ、一生涯を通うして信仰を共にし来れる、同校同級同室の友なる、北海道大学教授理学博士ドクトル宮部金吾君に旧友の渝らざる愛を以て此書を献ず。

 

   『羅馬書の研究』に附する序

 

 余に一生の志望があつた。それは日本全国に向つてキリストの十字架の福音を説かん事であつた。此志望は余が明治の十一年、札幌に於て始めてキリストを信ぜし時に起つた者である。爾来星霜四十年、其実現の機会を待つも到らず、時に或は志望は夢として消ゆるのではあるまい乎と思うた。

 然れども機会は終に到来した。神は余の為に所を備へ給うた。それは東京市の中央、内務省正門前、近くに宮城を千代田の丘に仰ぐ所、大日本私立衛生会の講堂であつた。余は此所に大正八年五月より同十二年六月まで満四年に渉り、日曜日毎に聖書を講ずるの自由を許された。建物は独逸式の宏荘なる者、設備完全にして、震災以前の東京市に於て他に得る能はざる者であつた。聴衆は凡ての階級を網羅し、基督教各派の信者、教会以外の信者、又自から信者と称せざる者、又仏教の僧侶さへをも其内に見た。実に日本に基督教が伝へられて以来、未だ(357)曾て見たことのない聴衆であつたと思ふ。其熱心に至つては、彼等の内に或は宇都宮より、或は名古屋より、毎回列席せる者ありしに徴しても判明る。余自身に取りては余の生涯の最高潮に達した時であつて、五十九歳より六十三歳に至るまでの間、此楽しき事業に従事するを得て感謝此上なしである。

 余は大手町に於て、ダニエル書、ヨブ記、羅馬書、並に共観福音書の一部を講じた。其内余が最も深く興味を感ぜし者は羅馬書であつた。使徒パウロに依て口授せられし此書は基督教の真髄を伝ふる書である。此書を解せずして基督教を解することは出来ない。又余の四十七年間の信仰の生涯に於て、余が最も注意して研究したりと思ふは此書である。余は羅馬書を講じて実は余自身の信仰を語つたのである。故に六十回に渉りし此講義は余に取りては快楽の連続であつた。之を百回又は二百回となすも余は倦怠を覚えなかつたであらう。神の恩恵の福音の講述である。キリストに現はれたる天父の愛の宣伝である。之に優るの愉楽《たのしみ》の他に在りやう筈はない。余は第六十回の最後の講義を為し終つた時に、惜別の涙を禁じ得なかつた。

 著者なる余自身が此書の不完全を最も痛切に感ずる者である。余は編纂者と共に最善を尽したつもりであるが、其結果たる理想に遠く及ばざるを遺憾とする。「我等この宝を瓦器《つちのうつは》に蔵《もて》り」とあるが如く、パウロの遺せし本文は宝玉であるが、我等が之に与へし註釈は瓦器に過ぎない(哥林多後書四章七節)。但し器は無きに勝るべし。敢て之を世に提供する所以である。

 余は茲に過去六年の間、余の講演の席に列り、直接に間接に此聖業に参加せられし多数の聴講者諸君に心よりの敬愛を表す。又藤井武君、黒崎幸吉君、時田大一君、畔上賢造君等、余と講壇を共にせられし諸君に感謝す。又其音楽的天才を以て会衆一同を讃美の歌に導かれし故吉沢重夫君の好意を記念す。殊に又聴講者の一人なる古(358)賀貞周君が本書出版の費用を負担せられしを感謝す。人生は短かし真理は永し。我等此の短き生涯に於て幾分なりとも神の福音の真理の為に努力して、其永久性の分与にあづかりしことを感ぜざるを得ない。願くは栄光限りなく聖霊に由りイエスキリストの御父なる真の神に帰せんことを。

  大正十三年(一九二四年)七月五日    内村鑑三

 

   例言

一 大正十年一月より同十一年十月に至るまで、二年に近き間、六十回に亘りて本書の著者内村は、東京市大手町所在の私立大日本衛生会講堂に於て、羅馬書の講解をなした。そして畔上はその講解を基礎として、之に少しく自己の研究又は意見を加へて、整理し編暮し、許さるゝだけの自由を以て之を文にし、且内村が之を修補し、以て『聖書之研究』誌上に連載した。此度それに多少の修正を加へて一書に纏めたるものが即ち此書である。故に本書の内容は大部分内村のものであり、その文章は大部分畔上のものであること、云ふまでもない。

一 附録として収めたる『羅馬書講演約説』は、第三十五講以下に於て内村の用ひたる講演の草稿にして、内村の自ら起稿したるものである。

一 巻末の『索引』は本書を羅馬書の註解として用ふる人の便宜のために、畔上の編したるものである。一章、(359)一箇処、一句、一語の意義を探らんとする場合には、此索引を利用せられんことを望む。

 

〔目次〕

第一講 羅馬書の大意

第二講 パウロの自己紹介(一)

     一章一-七節の研究

第三講  同      (二)

     一章一、二節の研究

第四講  同      (三)

     一章三、四節の研究

第五講 

     同      (四)

     一章五-七節の研究

第六講 羅馬訪問の計画

     一章八-十五節の研究

第七講 問題の提出(一)

     一章十六、十七節の研究

第八講  同      (二)

     一章十六、十七節の研究

第九講  同      (三)

     一章十六、十七節の研究

第十講 異邦人の罪(一)

     一章十八-三二節の研究

第十一講 同      (二)

     一章二十八-三十二節の研究

第十二講 ユダヤ人の罪(一) 二章の研究(上)

第十三講 同    (二) 二章の研究(下)

第十四講 人類の罪(一)

     三章一-二十節の研究(上)

第十五講 同  (二)

     三章一-二十節の研究(下)

第十六講 律法の能力 三章十九、二十節の研究

第十七講 神の義(一) 三章二十一節の研究

第十八講  同 (二) 三章二十二節の研究

第十九講  同 (三)

(360)          三章二十三、二十四節の研究

第二十講  同 (四)

             三章二十五、二十六節の研究

第二十一講 永世不変の道

第二十二講 神の殿

第二十三講 アブラハムの信仰 四章の大意

第二十四講 義とせらるゝ事の結果(一)

             五章一-十一節の研究(上)

第二十五講 同        (二)

             五章一-十一節の研究(下)

第二十六講 アダムとキリスト(一)

             五章十二-二十一節の研究(上)

第二十七講 同      (二)

             五章十二-二十一節の研究(下)

第二十八講 潔めらるゝ事(一)=バプテスマの意義

             六章一-十四節の研究

第二十九講 同    (二)=僕役の生涯

             六章十五-二十三節の研究(上)

第三十講  同    (三)=恩恵の支配

             六章十五-二十三節の研究(下)

第三十一講同     (四)=律法の廃棄

七章一-六節の研究

第三十二講同     (五)=律法の性質

七章七-十四節の研究

第三十三講 同    (六)=パウロの二重人格

七章十四-二十五節の研究

第三十四講 救の完成(一) 八章全体の大意

第三十五講 同  (二) 八章一節の研究

第三十六講  同  (三) 八章一-十一節の研究

第三十七講 同  (四) 八章五-十三節の研究

第三十八講  同  (五) 八章十四-十七節の研究

第三十九講 同  (六)

八章十八-二十二節の研究

第四十講 同 (廿)

              八章二十二-二十七節の研究

第四十一講 同  (八)

              八章二十八-三十節の研究

第四十二講  同  (九) 八章三十一節以下の研究

第四十三講 ユダヤ人の不信と人類の救(一)

 九章一-五節の研宋

(361)第四十四講 同     (二)

              九章十章の大意

 

第四十五講 同     (三)

               十一章の大意

第四十六講 基督教道徳の根柢 十二章一節の研究

第四十七講 基督敦道徳の性質 十二章二節の研究

第四十八講 基督教道徳の第一 謙遜

               十二章三-八節の研究

第四十九講 基督政道徳の第二 愛(一)

               十二章九、十節の研究

第五十講 同     愛(二)

十二章十一-十五節の研究

第五十一講 同     愛(三)

               十二章十六-十八節の研究

第五十二講  同       愛(四)

 十二章十九-二十一筋の研究

第五十三講 基督教道徳の第三 政府と国家に対する義務 十三章一-七節の研究

第五十四講 基督敦道徳の第四 社会の一員としての愛 十三章八-十節の研究

第五十五講 日は近し    十三章十一-十四節の研究

第五十六講 小問題の解決  十四章以下の精神

第五十七講 パウロの伝道方針

 十五章十四節以下の研究

第五十八講 パウロの友人録

 十六章一-二十四節の研究

第五十九講 終結=頌栄の辞

             十六章二十五節以下の研究

第六十講 羅馬書大観

 

   附録 講演細説

第三十五講約説 罪より免かるゝ事

第三十六講約説 死より免かるゝ事

第三十七講約説 禁欲と霊化

第三十八詩的説 神の子と其光栄

第三十九講約説 天然の呻きと其救ひ

(362)第四十講約説 三つの呻き

第四十一語約説 救はれし理由

第四十二講約説 救の凱歌

第四十三詩的説 パウロの愛国心

第四十四講約説 イスラエルの不信

第四十五講約説 神の摂理

第四十六講約説 聖き活ける祭物

第四十七詩的説 基督教道徳の性質

第四十八講約説 基督教道徳其一 謙遜

第四十九講約説 基督教道徳其二 愛

第五十講約説  愛の表顕

第五十一講約説 謙遜と宏量

第五十二講約説 愛敬の途

第五十三講約説 政治と社会

第五十四講約説 負債と其償却

第五十五講約説 終末と道徳

第五十六講約説 小問題の解決

第五十七講約説 パウロの伝道方針

第五十八講約説 パウロの友人録

第五十九講約説 終結=頌栄の辞

第六十講約説  羅馬書大観

 

(363)      TO BE A CHRISTIAN.基督者たるの途

                           大正13年9月10日

                           『聖書之研究』290号

                           署名なし

 

     TO BE A CHRISTIAN.

 

 A man,a doctor,asked me:“What is to be a Christian?”I answered him:“To be a Christian is to trust in God,and to deliver all things unto Him,your sins and transgressions incIuded.It is to do unto God as you would your patient do unto you;i.e.would confide in you and leave his sick body entirely in your care. No more and no less. It is not necessarily to join any particular church,to pass through any set of ceremonies,to sign any fom of doctrines.Faith in God,the Heavenly Father,――that is the one thing needful,and all other good things folIow as necessary consequences”.The man said:“Then I too can be a Christian.”I said:“Be one,RIGHT NOW.”



    基督者たるの途

 

〇或人が私に問うて曰うた(彼は医師であつた)、「如何すれば基督者《クリスチヤン》に成れます乎」と。私は彼に答へて曰うた「基智者に成るとは神に信頼する事であります、彼に万事を引渡す事であります。貴下《あなた》の罪も過失も合せて之を

(364)彼に引渡す事であります。丁度貴下が貴下の患者が貴下を信頼して彼の病体を全部貴下に引渡さんことを欲せらるゝやうに、貴下が神に対して為さるゝ事であります。其れ以上でありません、其れ以下でありません。基督者と成るとは何も必しも或る特別の教会に入る事ではありません、又或る一定の儀式に与る事ではありません、又或る一定の信仰箇条に署名する事ではありません。|天に在ます父なる神を信ずる事〔付○圏点〕、必要なるは此一事であります。其他のすべての善事《よきこと》は其必然の結果として臨むのであります」と。彼は曰うた「然らば私も亦基督者と成る事が出来ます」と。私は答へて曰うた「今直ぐに御成りなさい」と。

 

(365)     言葉の宗教

                           大正13年9月10日

                           『聖書之研究』290号

                           署名なし

 

 英国前総理大臣ロイド・ジヨージが曰うた「議会政治は言葉の政治である」と。即ち語ること多くして為すこと尠き政治であるとの意である。其如く、ルーテル、カルビンを以て始められ、欧米に拡まり、其遣りし宣教師に依て我国に伝へられしプロテスタント主義の基督敦も亦之を「言葉の宗教」と称することが出来る。之も亦語ること多くして為すこと尠なき宗教である。若し羅馬天主教が儀式の宗教であるならば、新教即ちプロテスタント教は議論の宗徽である。議論、議論、議論である。議論に由て別れ、議論に由て合ふ。議論を以て攻め、議論を以て守る。議論を以てせずしては何事も行はれず。然り大抵の事は議論を以て終り、実行を見ないのである。新教に在りては、言葉是れ信仰、言葉是れ伝道、言葉是れ事業である。我等はプロテスタント教徒の集会に臨んで言葉の海に浴するのである。

 プロテスタント教に教派多きは主として之が為である。言葉は浅くある、誤解され易くある。精密に言葉を以て言表はさるゝ真理はない。真理は事実である、故に行つてのみ之を識ることが出来る。キリストは神なりとの真理の如き、之を言葉を以て証明することは出来ない。|然しキリストを実験した者〔付○圏点〕はすべて識るのである、彼は人にあらざる事を、而して実験を重ねて終に彼を「我が主、我が神」と称びまつり得るに至るのである。物理学(366)の真理ですら実験に由らずして之を知り又証明する事は出来ない。況して真理の最高位を占むる信仰上の真理に於てをや。先づ信じて然る後に語る。其場合に於て言葉は尠くして足る。言葉多きは信仰浅きを証明する。言葉が事実の表現なる場合に一致は容易に得らるゝのである。

〇曰く説教、曰く演説、曰く講演、曰く著述、曰く雑誌、是等は皆な言葉の事業である。時と場合に依り必要なる事業である。然れども最も確実なる、最も貴重なる事業でない。神の最も悦び給ふ事業は語ること又は書くことでない、|行ふ事である〔付○圏点〕。真理を信じ、世の反対と誹謗とを冒し、独り静かに之を行ふ事である。真理は如斯くにして自己に証明せられ、他に推奨せらるゝのである。信仰の勇者は「皆な信仰の実行に由りて証明を得たり」とある(ヘブライ書十一章三十九節)。言葉の宗教は実行の宗教と化さねばならぬ。美はしき言葉と思想とを以て神を崇むるに非ずして、美はしき勇ましき行為《おこなひ》を以て彼に仕へまつるに至つて、信者の間に真の平和と一致とが臨むのである。

(367)     自由の解

                           大正13年9月10日

                           『聖書之研究』290号

                           署名 内村鑑三

 

〇ノーバリスと云ふ独逸の青年文士の言に「哲学はパンを焼く能はず、然れども自由と神と不死の生命を供す」と云ふのがある。哲学が果し是等三者を供し得る乎は疑問であるが、然 是等三者が人類の最大追求物であることは明である。「自由と神と不死の生命」、その何たる乎、之を得るの途如何、此問題に答ふるのが哲学最後の目的である。

〇自由とは何か。|自由は勿論気儘勝手でない〔付○圏点〕。気儘の人は自由の人に非ずして、其反対に束縛の人である。彼は己が気まゝの外は何も為し得ないのである。善と知りても善を行ひ得ず、義務に会ふとも義務を果たし得ないのである。只自分の欲するがまゝを為し得るのであつて、赤子と同じく所謂「境遇の子供」である。此意味に於て野蛮人はすべて自由の人である。彼等は天然の子供であつて、己が欲するまゝを行ふ。然れども彼等は自由の人でないことは何人も知る所である。「イエスは此事に就て曰ひ給うた 凡て悪を行ふ者は悪の奴隷なり」と(ヨハネ伝八章三四節)。己が思ふ事は何んでも行ふ者は猷《けもの》と多く異なる所はない。イエスは又曰ひ給うた「子は父の行ふ事を見て行ふの外は何事をも行ふこと能はず」と(同六章十九節)。此意味に於てイエス御自身が最も不自由なる人であつた。

(368)〇自由は又単に自己以外に何等の束縛をも受けないと云ふ消極的境遇でない。此世の所謂自由が斯かる種類の自由であることは明である。政治上の自由は外国又は貴族又は富豪等の圧迫又は制裁を受けざる事であり、思想上の自由は教会又は学閥、又は古典等の規範に従はざることである。故に此世の自由は結極前述の気儘勝手に終るのである。昔のイスラエルの無政府時代を記したる言に曰く「此時にはイスラエルに王なかりければ、人々己の目に是《よし》と見ゆることを行へり」と(土師記十七章六節)。

〇|真の自由は消極的状態に非ずして積極的能力である〔付○圏点〕。何事をも為し得る状態又能力でない。或る事を為さずして、或る他の事を為すの能力である。善悪を判別して、悪を避けて善を行ふの能力である。

〇真の自由は第一に|発意〔付○圏点〕である。境遇上の必然の結果として起る者は自由でない。自由が自由である以上、すべての境遇に超越したる者でなくてはならない。即ち unconditinal(無境遇)でなくてはならない。純なる意志の純なる発意でなくてはならない。斯かる者は有り得る乎と多くの学者は問ふ。然し乍ら若し有り得ないとするならば自由は無いのである。そして此意味に於ての自由なくして義務も責任も道徳も無いのである。真の自由を否定する時に人は人でなくなるのである。造化の初に於て「神、光ありと言ひ給ひければ光ありき」とある時に真の自由があつたのである。

〇其の自由は第二に|正しき選択〔付○圏点〕である。或物は之を取り、或物は之を捨つ。そして選択を行ふに霊性本来の標準に従ふ。生物各々が其本来の性に従ひて外物の取捨を行ふて、其成長発達を遂ぐるが如くに、霊的生物なる人間も亦、同様の取捨選択を行ふて其生存の目的を達するのである。|霊的生命達成〔付○圏点〕の途、之を称して自由と云ふといひて間違ないと思ふ。

(369)〇其の自由は第三に善き意志を|行ふ能力〔付○圏点〕である。自由は理想に非ず、境遇に非ず、|能力である〔付○圏点〕。此世の事に放ても実力の無い所に真の自由はない。法律はいくら完全でも、実力の無い所に自由は行はれない。I can do that which is right,(我は正しき事を為し能ふ)、其事が真の自由である。依て知る自由は外に於てするよりは内に於て求む可きであることを。白由はまことに積極的能力(positive power)である。

〇故に真の自由は神より来る。「子若し汝等に自由を与へなば汝等誠に自由を得べし」とある如し(ヨネ伝八章三六節)。神が其子イエスキリストを通うして人又は国家に与へ給ふ時に本当の自由があるのである。英国人の自由が他の諸国のそれに較べて健全鞏固なるは是が故である。


(370)     愛の消極的半面=絶交必要の場合

                           大正13年9月10日

                           『聖書之研究』290号

                           署名 内村鑑三

 

〇愛は愛する事である、即ち無限に与ふる事である、無条件に赦す事である、何物をも己に要求せざる事であるとは、大抵の人、然り大抵の基督信者と称する人までが思ふ所である、彼等は真の愛は怒りもする、憎みもする、非常の場合には殺しもすると聞いて、驚くか然らざれば甚《いた》く憤激するのである。彼等は愛の半面は憎《ぞう》であるとの説には到底堪へ得ないのである。

〇説の如何は別として、聖書の示す愛が、人の称する愛とは全く異なる事は明かである。ヱホバの神は愛の神であるが故に、怒り給ふ神であるとは聖書の明かに示す所である。「我れヱホバ汝の神は我を悪む者に向ひては父の罪を子に報いて三四代に及ぼし云々」とあり、又ヱホバは「罰すべき者をば必ず赦すことをせず」とある。そして是は単《たゞ》に旧約の教にあらずして、新約にも亦同じ事が説いてある事は、聖書を熟読する者の克く知る所である。基督教の神は浄土宗の阿弥陀如来とは全然異なる。彼は悪人を悪人としては決して受け給はない。彼に先づ義の衣を着せて、然る後に義人とし彼を迎へ給ふ。彼の目は清くして悪を観るに堪へず(ハバクク書一章十三節)、彼はすべて邪曲《よこしま》を行ふ者を憎み給ふ(詩五篇五節)。基督教の神は愛憎の強き神である。博士ジョンソンは|克く憎む者〔付ごま圏点〕に非れば己が属する倶楽部に人の入るを許さなかつたと云ふが、基督教の神の愛し給ふ者は、克く愛すると(371)同時に又克く憎む者である。

〇此事の最も好き証拠は使徒ヨハネである 彼は特にキリストの愛を説いた者であつて、それが故に「愛の使徒」と称せらる。「愛する者よ我等互に相愛すべし、愛は神より出れば也。凡そ愛ある者は神に由て生れ、且神を識る也。愛なき者は神を識らず、神は即ち愛なれば也」と言うたのは彼である(ヨハネ第一書四章七、八節)。然るに此人が悪と悪人に対して最も激しい怒を発した者である。黙示録を読む人は「羔の怒」を知る。「この羔の怒の大なる日すでに到る、誰か之に抵《あた》ることを得んや」とある(六章十七節)。そしてヨハネ自身が克く此怒を体験した者であつて、彼も亦パウロと同じく「主の恐ろしさを知るが故に」彼の所謂愛の福音を唱へたものである。

〇此ヨハネが書いた言の内に左の如きものがある。若し之が彼の言であると録《しる》してないならば人は之を彼より出しものとして受取らないであらう、曰く

  凡そキリストの教に居らずして人を導く(誘ふ)者は神を有《もた》ず、キリストの教に居る者は父及び子を有《もて》り。|人もし此教を有ずして汝等に来らば之を家に納るゝこと勿れ、彼に安かれと言ふ勿れ、彼に安かれと言ふ者は其悪しき行に与する也〔付△圏点〕

と(ヨハネ第二書九、十節)。此は如何に見ても普通の意味に於ての愛の教ではない。キリストの教を有たざる者と|絶交せよ〔付△圏点〕との教である。冷たい教である。而かも是が明白にヨハネ書の内に記いてあるのである。

〇然し克く考へて見て是が本当の愛である事が判《わか》る。愛は無差別でない。「悪を憎み、善と親しみ」である。悪を憎まざる愛は善と親しむ愛でない。神を愛すると称して、神を憎む者を愛する愛は偽りの愛である。聖詩人は歌ふて言うた、「我れ爾(神)を憎む者を憎むに非ずや、我れ甚く彼等を憎みて我が敵《あだ》とす」と(詩百三十九篇廿一(372)節)。明白なる誤謬を唱へ、之を行ふて憚らず、幾回《いくたび》か忠告せらるゝも悛《あらた》めざる者を兄弟として迎ふるは是れ神に対する不忠、自己と他人に対する不義である。斯かる者を家に接《う》け、之に安かれと言ふは、たしかに其悪しき行に与《あづか》る事である。不義に対する此峻厳なる態度があつて、人は何人も正義に対して忠実に、其愛に信用を置くことが出来るのである。

〇そして斯かる言を発せし者は惟りヨハネに止まらない。パウロも亦同じ事を言ふて居る。テサロニケ後書三章十四節に曰く、「若し此|書《ふみ》に云へる我等の言に従はざる者あらば之を愧《はづか》しめん為に其人を録《しる》して相交はる勿れ」と。此は随分と強い言である。然れどもパウロは強い愛の故に斯かる言を発して憚らなかつた。信者は信者の為に貴いのではない、神と聖国《みくに》の為に貴いのである。故に神を褻《けが》し聖国を毀ちて止まらざる者は之と交際を絶つも止むを得ないのである。

〇神が最も嫌ひ給ふ罪は姦淫の罪である。そして姦淫は愛の無差別分与である。神とバールとを同じく愛する事である。明白なる不義に対し霊魂の貞操を守り得ざる事である。そして此貞操に欠くるが故に、今日の社会にも教会にも信頼すべき真の愛がないのである。世には絶交よりも悪しき事が許多《あまた》ある。偽善である。不信である、不義を不義として明白に発表し得ざる意志の薄弱である。|堪へ難き社会とて敵と味方の判明せざる社会の如きはない〔付△圏点〕。そして今の社会は斯かる社会である。我等はキリストの愛に励まされて、悪を憎んで居心地《ゐごゝち》の良き社会を作り出さねばならぬ。

 

(373)     来世期待の能力

                           大正13年9月10日

                           『聖書之研究』290号

                           署名 内村鑑三

 

  若しキリストに由れる我等の望たゞ此世のみならば凡ての人の中にて最も憐むべき者なり(コリント前書十五章十九節)。

〇宗教と云ふ宗教で来世存在の希望を供せざる者はない。来世の無い宗教は神の無い宗教と同じであつて、宗教と称すべからざる者である。明確《はつきり》と神と来世とを示してこそ宗教は宗教であるのであつて、来世を不問に附する乎、或は現世を高調するの結果として、来世は微に之を認むるが如き宗教は、実際的に宗教の用を為さないのである。宗教の目的は此世に勝つにある。而して明確《はつきり》と来世を握るに非ずして、此目的を達することは出来ない。来世観に微弱なる宗教は、味を失ひたる塩と同様に、此世に於て何の用もない者である。

〇此明白なる理由あるに拘はらず、近代人の称《とな》ふる基督教に来世の希望の無い事、縦し有るとするも甚だ微弱なるに驚かざるを得ない。近代人は万々止むを得ざる場合に至らざれば来世を語らない。彼等の宗教なるものは、政治、法律、経済と等しく全然現世的である。社会改良の為の宗教である。人物養成の為の宗教である。自己と人類との幸福を増進する為の宗教である。墓の彼方《かなた》に光の国を認むると云ふが如き、肉を離れて主に見《まみ》えまつると云ふが如き、愛する者との死後再会を楽しむと云ふが如きは、彼等は詩に於て之を読み音楽に於て之を聞くを(374)好むと雖も、之を信仰の大問題となし、努力の大目的となすが如きは、彼等近代人は努めて避け、避くるを以て科学的なり、文化的なりと称して喜ぶのである。実に不思議なる者にして近代人の宗教の如きはない。然るに何れの大教会も今や喜んで此宗教を迎へ、来世抜きの基督教を以て、最も進歩せる、最も科学的なる信仰なりと見做すのである。

〇然し乍ら人が人である間は、明白なる来世の希望を供せざる宗教を以て満足しない。彼等は斯かる宗教を教ふる教師に向つてヨブの言を以て曰ふ、「汝等は皆な人を慰めんとして却つて人を煩はす者なり」と(ヨブ記十六章二節)。堅き来世の希望を供せざる宗教にして根本的に人格を高め、社会を改めた例はない。基督教が此事に就て殊に勢力のありし理由は茲に在る。「キリスト死を廃《ほろ》ぼし、福音を以て生命と壊《くち》ざる事とを著明《あきらか》にせり」とある(テモテ後書一章十節)。此事実ありてこそ福音は福音であるのである。

 

(375)     教派絶滅の途

                           大正13年9月10日

                           『聖書之研究』290号

                           署名 内村

 

〇基督信者は凡てキリストに在りて兄弟姉妹たるべき筈の者であります。然るに激烈なる競争、排斥、分争、争闘を経て来りし欧米人の宣教を受けて信仰に入りし我国の基督信者は彼等の感化を受けて、彼等に肖て分争、※〔女+戸〕忌、仇恨の人となりました 是れ最も悲むべき事でありまして、我等の不幸、基督教其物の不名誉此上なしであります。私は日本に於て教派の弊害を絶つ最も良き途は、教派を伝へて今尚ほ之を維持する欧米の教会と絶つにあると信ずる者でありますが、然し此意見は教会間に在りては到底行はれ得ない事を認めます。依て我等日本の基督信者にして、欧米の信者に傚はず、実に主に在りて兄弟姉妹たらんと欲する者は、日本人特有の信義公明を重んじ、何事を為すにも私しを去りて公けに就き、凡て陰険なるを避け、人の悪しきを思はず、善きを念ひ、キリストの為、国の為とならば、凡ての情実に打勝ち、一団となりて動くの精神を養ひたくあります。|祈り求むる所は、日本に在りて、西洋に起りし基督教の教派を絶滅せん事であります。日本の基督教界は西洋 それとは全く異なり、地上の天国であつて欲しくあります。而して斯くあらんが為には、我等は善良なる基督信者たる前に先づ善良なる日本人と成り、日本人として恥づべき事は決して之を為さゞるやう相互に努めたくあります。

(376)     西洋の模範国デンマルクに就て

                          大正13年9月19日・21日

                          『国民新聞』

                          署名 内村鑑三

 

 私は蘇峰先生並に其他の諸君に依つて、西洋の理想国なるデンマルク国が、『国民新聞』を通して我が国民に紹介されしことを甚だ喜びます。実は私も亦デンマルク国を愛する日本人の一人であります。今より十五年前に、或る事に感激して私は『デンマルク国の話、一名信仰と樹木とを以て国を救ひし話』と題する小冊子を発行しました。所が此小冊子が思ひ掛けぬ所に於て、思ひ掛けなき人に依て読まれまして、今日まで私の知る範囲に於て、此小冊子に感激して幾人かの同胞が起ち、或は己が所有の土地に樹木を植るあり或は官職に在りて一層植林を奨励する者がありました。多分此小冊子の感化に由りて、日本内地並に朝鮮に於て何百万本と云ふ樹木が植ゑられたらうと思ひます。此は私が日本国の為に為すを得し最善の事業でありまして、今より百年後には私如き者が此国に何千万円と云ふ富を提供するの基となると思へば、独り窃に会心の笑を浮べざるを得ません。更に又此小冊子に感激せられて親しくデンマルク国に農業視察に行つた志士も在ると聞きました。又今尚ほ米国に在りて特に植林術を研