内村鑑三全集3、322頁(英文除く)、4800円、1982.12.20
 
(v)  目次
 
 凡例
 
一八九四年(明治二七年)六月−一二月
 露国美術家ニコライ、ガイ……………………………………………………三
 豈惟り田村氏のみならんや…………………………………………………一二
 基督信徒の特徴………………………………………………………………一九
 世界歴史に徴して日支の関係を論ず………………………………………三〇
 JUCSTlFICATION FOR THE KOREAN WAR.……………………………三八
 世界の気候は炎熱を加へつゝある乎………………………………………四九
 流竄録…………………………………………………………………………五二
   白痴の教育(五二)  亜米利加土人の教育(九五)  新英洲学校生涯(七一)
 時事雑評二三………………………………………………………………一〇二
(E) 日清戦争の義(訳文)………………………………………………一〇四
 日蓮上人を論ず……………………………………………………………一一三
 日清戦争の目的如何………………………………………………………一四〇
 JAPAN AND THE JAPANESE〔本文は巻末169頁以下に収録〕……一四八
 ネルソン伝に序す…………………………………………………………一四九
 志賀重昂氏著「日本風景論』……………………………………………一五一
 
一八九五年(明治二八年)
 「清神的教育」を論ず……………………………………………………一五七
 HOW I BECAME A CHRISTIAN:OUT OF MY DIARY〔本文は巻末3頁以下に収録〕……………………………………………………………………………………一六二
 農夫|亜麼士《アモス》の言………………………………………………一六三
 宗教の必要……………………………………………………………………一七二
 何故に大文学は出ざる乎……………………………………………………一七七
 如何にして大文学を得ん乎…………………………………………………一八五
 
一八九六年(明治二九年)
 楽しき年涯……………………………………………………………………二〇五
(F) 西洋文明の心髄…………………………………………………………二一〇
 問答二三………………………………………………………………………二二四
 時勢の観察……………………………………………………………………二二六
   目次
   自序
   其一、公徳と私徳の分離
   其二、実益主義の国民
   其三、自賛的国民
   其四、国民の罪悪と其建築物
   其五、方針の定らざる理由
   其六、東洋の青年国
   其七、俗吏論
   其八、小なる日本
 世界の日本……………………………………………………………………二六〇
 永年の冀望……………………………………………………………………二六五
 『警世雑著』〔目次と改版自序のみ収録〕………………………………二六九
   改版に附する自序………………………………………………………二七一
 寡婦の除夜……………………………………………………………………二七三
 史学の研究……………………………………………………………………二七五
(G) 巻末 〔英文略〕
 
(3)    露国美術家ニコライ、ガイ
                     明治27年6月13日
                     『国民之友』229号
                     署名 京都に於て内村鑑三
 
   Nicolai Nicolaievith Gay. [入力者注。今回よりHTMLになり外字が入力できないので、そうなりそうなものは他字に置き換えたり、〓にしたりする。今の場合laiのi、頭の点が二つ。以下こういう注記もしない。] 彼は一千八百二十九年露国ホロネスタに生る、幼にして祖母某の懇切なる教訓に与かり、神を恐れ隣人を愛するの念を以て注入さる、創々より美術的傾向を顕はし、未だ小学生たりし時已にある劇場の装飾を以て依托せられしことありと云ふ、後キーフ聖彼得堡の大学に入り、数学を究めんと欲せしかども、終に彼の自然の意向に徇ひ専ら美術を修むる事に決せり、聖彼得埜美術学校に入り七年間全く彼の意を絵画の術に込めり、彼の絶世の天才は衆人の認むる所となり、該校評議員会議の推薦に依り官費を以て伊太利国留学を命ぜらる。
 祖母の注入せし宗教心は大学に入りてより仏国懐疑思想の為め破壊する処となり、彼の故国を去らんとする頃は彼は殆んど無神論者の位置に立てり、時に露国に於ては革新思想頓に勃興し已に其弊害を呈するに至りたれば、彼は旧を賤むと同時に亦た新に対して全く信を失ひ、彼の心霊は惨憺たる暗夜に彷徨して確信の堅岩より全く離れたりき。
 斯くて彼は美術家の楽園なる伊太利に至りぬ、美術の原動力たる宗教彼の心中より失せて彼は他に彼に理想を呈すぺき主義を求めんと苦心せり、彼は無宗教となりしと雖も正義公道を愛するの念は彼より脱却せず、故に彼(4)は自然と昔時羅馬時代の「ストア」主義に傾けり、而して彼の美術理想を現出せん事を勉め、「ビルジニヤの死」なる一額面を画かんとせり。
 然れども憂鬱を以て圧せられたる彼の思惟は彼に神来的の技工を許さず、彼は彼の心霊に大刺激を求めざる可からず、然からざれば彼の美術的の手腕は将さに萎靡せんとす、言憂鬱其極に達す、彼は美術を放棄せんと思へり、彼はフハウストの例を学び毒薬一杯を以て冀望なき彼の生命に訣別を告んとせり。
 時に彼の目は彼の坐側に横たはりし新約聖書一冊に触れたり、彼は愁悶の余り手を伸して之を取上げたり、彼は目的なしに之を開けり、而して彼の拇指の接せし処は約翰伝第十三章基督聖餐の章なりき、彼は覚へず一度び之を通読せり、嗚呼如何なる記事ぞ、其主人公……彼の愛、彼の慈、彼の優、彼の忍……弟子約翰の信、彼得の勇、ユダの虐……人生の最大幸福は克己献身にあり……基督……人類の模範は彼なり基督……人類の傚ふべきは彼なり……理想的の人……神の子……神……嗚呼我の画筆は何処にある、画地よ、色料よ、此神来の想像、我之を彩色を以て現はさゞる可からずと。
 彼は直に画筆を取れり、彼は画地に対て坐せり、彼の想像の活劇なる彼をして先づ下図を作るの必要あらざらしめたり、ミケル、アンジヱローが鑿を以て直に大理石に向ひ有名なる摩西の像を彫みしが如く、ガイは彩色を以て直に彼の画地に臨めり、如斯にして刻苦六ケ月にして彼の理想は画面に現はれたり、憂鬱の魔鬼は已に去て跡を留めず、而して露国画師の傑作中の一に算へらるゝガイの「聖餐」なる一面は世に出でたり、未だ全く完結せざりし彼の懐疑時代の作は彼は直に破棄したり、彼は基督信徒に復せり、彼は美術を放棄せざる可し。
 幾くもなくして彼は伊国を去り聖彼得堡に帰れり、恰もよし霧国絵画競進会の機に会したれば彼は彼の「聖(5)餐」を出品せり、万人は異口同音に之を賞讃して止まざりき、彼も亦真正の一美術を世に呈せしの満足を感ぜり、彼の技倆は欧洲に鳴渡《なりわた》りぬ、彼の政府は永久の賞与を以て彼を賞せんとせり、帝国美術学校教授の位置は彼に与へられぬ、然れども彼は官吏社会の束縛を厭ひたり、彼は曰へり「美術の発達は自由を要す」と、美術学校副教頭ガガリン公は彼に曰へり「我校の教授は皆睡眠しつゝあり………」公未だ語を終らざるにガイは笑て曰く「殿下は余を其仲間に引入れて鼾雷の声を益々高からしめんとするか」と、終に栄誉の椅子を辞し直に再び伊太利に赴けり。
 今や宗教画は彼の専門となれり、「復活の告知者」なる画は彼の第二の作なりき、然れども其実に迫る余り甚だしきと其趣向の時の「オルソドツクス」派の思惟と全く反対なりしは「聖餐」に於けるが如き讃賞を彼に与へざりき、露国政府は此画の公衆に示さるゝを許さず、彼は今は異端的の画師として見做さるゝに至れり。
 彼は大胆にも美術学校教授の椅子を辞せり、彼は栄誉と安楽とを棄てゝ貧と自由とを撰べり、然れども実際的の貧は彼の詩人的の想像に依りしが如き愉快なるものにあらず、貧は今は饑餓となり、適当なる工室の欠乏となり、日常品の不足となりて彼に迫り来れり、然れども彼は勇ましく之に堪えたり、彼は今や貧の功用を知り始めたり、即ち貧は満足に至るの捷径なることを、再び基督の模範的の生涯は彼の心中に浮び出ぬ、神来的の作は彼の胸中に画かれ始めぬ。
 貧に迫まりて彼はゲスセマネの園に於ける基督を想ひ出せり、而して是れ彼の第三の大作の題となりたり、彼は霊に充たされつゝ此画を終れり、然れども彼一日徐かに之を※[手偏+僉]するに彼の作の彼の理想に及ばざるを発見せり、彼は寸刻も此不完全なる基督に堪ゆる能はず、依て直に数ケ月の労力に成れる第一作を破毀せり、而して直に第(6)二作に取掛かれり、第二作は成れり、之を見し人は皆な秀作として之を賞讃せり、画師彼自身も稍々《やゝ》満足の躰に見へたり、然れども尚ほ熟思之を眺め見るに欠点一にして足らず、彼は理想に叶はざる基督を後世に伝ふるに忍びず、終に第二作も亦之を破毀せり、第三作は成れり、基督は頭を擡げ今や祈祷より起たんとす、月光薄く橄欖樹の枝葉を透して彼の右面にかゝりぬ、画師の理想は始めて実成されぬ、彼は此画を倫敦万国博覧会に出品せり、ガイの名今は世界に高く、名誉と賞嘆とは今は彼の身に蒐まれり。
 異郷に在ること十三年にして彼は故国に帰れり、時に露国の社会は革新進歩の冀望を以て浮かれつゝありし、ガイは直に此気運に乗じたり、是れ彼の社交的時代なりき、彼と彼の党派とは霧国に於て自由の新天地を夢想せり、厳格なる出版条例は緩《ゆる》められぬ、信仰の自由は与へられんとせり、国民は言へり「自由は役得大帝建国の大精神なり」と、大帝は実に進歩党の崇拝物となれり、ガイの画筆今は国民の理想的英雄を画出《ゑがきいだ》さんとせり、而して此時に成りし彼の傑作は「彼得大帝と其子アレツキス」なる一面なりき、此画出て露国全躰は感激せられたり、此画を一見せざるは靂国人の耻辱たるに至れり、時の皇帝アレキサンドル第二世大金を投じて之を購はんとせり、然れども已にモスコー府の豪家某の買収する所となり終に皇子ウラヂミヤ大公を遺はし直にガイに就て副対を依頼するに至れり、ガイの勢力今や政治界に及び、彼は進歩党の巨魁と見做さるゝに至れり。
 彼の成功は彼をして国民的人物を悉く彼の画筆に載せんとするの冀望を彼に起さしめたり、彼はカテリン女帝の像を以て彼得大帝の画に次げり、而して是又好評を博して止まず、殊に光線の配布に至ては彼の画作中他に之に優るものなしと云ふ、然れども彼は此時に当て進歩党の冀望は魯国北方三月の花の如く一時の狂花たりしを悟れり、保守の寒風は再び吹き帰り旧時の圧制露士亜とは成りぬ、此に至てガイの慧眼は抵抗の無益なるを見た(7)り、然れども社会を辞する前に紹一箇の風刺画を遺さゞるを得ず、故に彼は露国詩人プーシユキン禁錮の状を画き、盲目政府が高潔の士を虐待するの状を写し、之を社会への暇乞となし、南方露士亜の一僻村に田畑僅少を購ひ、此処に永住の居を定めたり、彼は彼の社交的時代を称して彼の像教《ペーガン》時代と言へり、そは彼の神聖なる画筆をば混濁たる世事の為めに弄せしを悔ひてなり。
 彼の田畝に退隠せんとするに先ち彼は再び伊国に赴き平和なる一生を美術と共に送らんと思ひたり、然れども熟々思ふに彼は圧制の下に困める彼の国人を後にして安逸を他国に求むるに忍びず、或は威力を以て彼の政府に抗し得ざるも、彼は彼の圧せらるゝ国民と運命を共にし、純白なる生涯を以て残忍政府の下に忍ばんと決心せり、彼の僻陬に退隠するや再び資の彼に給すぺきなし、貧困再び彼と彼の家族の身に迫り来り彼をして一層下民推察の念に富ましめ、彼の天職の何処に存するかを感ぜしめたり、時こそ宜けれ渠の帝国美術学校は再び招待状を彼に向て発せり、彼の政府は思へり、貧困は彼をして先年の彼の決心を変せしめ、首府に於ける美術の泰斗たるを肯ぜしむるに至らんと、之を受納するの誘惑は殊に強かりき、然れどもガイは再び之に勝てり、彼は云へり「安逸は何れの位置に於てするも渋滞なり、動かずして進歩と生命のあるなし」と、彼は生命を求むるが故に貧を択べり、彼は貧を彼の姉妹と呼べり、彼は彼の一子と共に耕耘に従事し正直なる労働より来る麁食を以て彼の清浄なる良心を養ふを以て最上の快とせり。
 退隠后彼の最始の画作は「慈悲」と題せし一面なりき、即ち馬太伝廿五草四十五節「爾曹わが此兄弟の最微者の一人に行へるは即ち我に行しなり」との意を画きしものなり、一貴婦人一手に銀杓を取り、乞児の体をなせる一貧者に一杯の冷水を恵みし状にして、被施者の面想自ら画師の理想的基督の貌あり、此画を聖彼得堡に展示(8)し、暗に貴族社会の無情を責め、基督教の真意を弁ぜり。
 ガイ一日モスコー府の某新聞を手にせり、内に貧者の惨状を記する一論文ありたり、其結論に曰く
  貧者を恵まんと欲するものは彼等の最も要する同情推察の心を彼等に給せざるべからず、冷水一杯又は貨幣の一片を彼等に投ずるは吾人の彼等に対する完全なる義務にあらず、又其肝要なる部分と称すぺからず、吾人は進て彼等の社会に入り、愛心を以て深く彼等の状態を研究し、吾人の同等なるものとして、吾人の兄弟として彼等を取扱ふぺきなり。
 ガイ一読して世に彼と理想と目的とを共にする人あるを知り欣喜禁ずる能はず、該論文の記者に会し、彼に謝し、彼と後来を計らんとするの念を起せり、此記者とは何人ぞ、露国貴族社会に卓立し、奮然身を下民と伍し、実行的基督教を以て自ら任ずる有名なるトルストイ伯なりき、而してガイの誠実なる此論文を読んで彼の前作「慈悲」の一面に堪ゆる能はず、後世に痴情的の慈善事業を教へんことを恐れ、彼の常例に従ひ此美術上大価直ある画面を破毀し、而後に旅程に上れり。彼は莫斯格府に至り直にトルストイ伯をその居寓に訪へり、待つこと一日にして主人に会す、ガイ曰く
  余は画工なり、南方より来るもの、閣下は余と主(基督を指す)を共にするものなり、然れども余の閣下に及ばざる数歩、閣下余に命ぜよ、余は何事たりとも閣下の指揮に従はん。
 曾て一面識なき両雄相会して竹馬の友の如し、霊、霊と交はり、心、心と合し、二人相ひ談じて時の移るを忘る、ガイ後日人に語て曰く「余は彼時に始めて生涯の真意、美術の淵源、真善の理想の何たるかを知れり、美術的新期限は此会合に依て余に開かれたり」と、(9) ガイは彼の田野に帰れり、而して新感動に罹る彼の理想を画き始めぬ、彼は先づ幼年の基督が聖殿に於て学者輩と相語るの一面に着手せり、彼の意蓋し陳腐神学者が神来の聖賢に接する時の様を写さんとせしにあらん、然れども暫時にして之を廃し彼の特愛の画題なる「聖餐」に転ぜり、今回は前作と異なり基督が約翰彼得の両忠僕を率ひ聖餐の席を去て門外に出でし時の状を写せり、基督の面貌に来らんとする苦痛の顕然と刻せるあり、約翰に師の安全を気遣ふ配慮あり、彼得に彼の自信の勇気に頼り凛然として前に進むの状あり、美術専門家は云ふガイの作にして此等三人物の真相を画きしものは此一面に優るものなしと。
 然れどもガイの最傑作は此后に出たり、即ち「ピラトの前の基督」なる一面なり。
 ガイの理想的基督は古代の画工の想像に成りしが如き柔和温雅、身より五光を発し、頭上に円光《ハロー》を戴く奇跡的人物に非らず、ガイの基督は純然たる一平民なり、彼は基督の神性を現はすに神人的の外装を要せず、中形の一男子、身に常人の麁服を纏ひ、頭髪乱れ、鬚剃らず、預言者以賽亜の言へる「我儕が見るべきうるはしき容なく、うつくしき貌なく、我儕が慕ふべき艶色なし」の状なり、唯見る痩衰の面貌に一対の眼光凛として法官ピラトを射るの状は吾人をして此の異躰の蔵する霊は人以上の霊たるを認めしむ。
 心霊的の基督に対し世俗的のピラトは肥満の一偉漢、官衣を服し、右手を伸べ、冷笑を唇辺に呈し、基督に向ひ「真理は如何なる者ぞ」との嘲弄を吐いて将さに去らんとするの状は実に真に迫り、世間に有り余る程存在する世俗才子の顔面を穿て余りあり。
 此画聖彼得堡に出て万人先を争ふて之を観たり、画師の技倆は争ふ可きにあらず、然れども彼の理想と趣向とに関しては世評区々たり、オルソドックス派の僧侶は云へり、是れ聖人物を凡化せしものにて其画師たるもの(10)は永遠の刑罰に渡さるぺきものなりと、然れどもガイの弁護せんとする被害正義の輩は流涕画に対して感激禁ずる能はず、無量の慰藉に与かりしもの挙て算ふ可からずと云ふ、露国政府は終に干渉せざるを得ざるに至れり、ガイの作をして美術館外に撤せしめ、公衆の展覧を禁止し、且つ其写真だも販売するを許さゞりき。
 露国より放逐せられて此画独逸諸邦に展示され、到る処賞賛喝采を得ざるはなし、其|漢堡《ハムボルグ》に至るや労働者は群をなして之を展覧し、其将さに他市に転ぜられんとするや、無資の労働者等金四千ルーブルを醵し之れをガイに贈り、再び漢堡に此画を持帰らん事を乞へり、以て其下民に与へし感覚の偉大なりしを知るぺし。
 ガイをして斯く下層衆民を感動せしめしの理由は得て探り難きにあらず、彼の思考に依れば人は神霊の宿る聖殿にして何人も彼の心に真善を蔵するあり、而して美術は此真善を現はすものなれば神霊を蔵する人にして何人も美術を味ひ得ざるものなしと、故に美術を以て美術家の特有物と見做し、美術的階級を作り、美術的秘密を守るが如きはガイの擯斥して止まざる所なり、彼は亦曰く「美術も政治宗教経済と均しく人世の幸福進歩の為めに使用すぺきものなり、美術は美術の為めに耕すべからず、美は真と善とより離縁すぺからざるなり」と 故に彼の画筆を採るや伝道師が説教壇に上る時の心得を以てし、同胞を益するを以て彼の着眼とせり、彼は曾て曰へり
  余の精神を込めて画作に従事する時と雖も若し乞食ありてその痛傷を包まん事を余に乞ふものあるか、又は盲人ありて余に隣村迄の案内を托することあれば、余は直に余の画筆を投じ、余の全身全力を尽して余の同胞の求めに応ぜざる可からず
と、劇切なる推察の情は彼の特質なり、如何程零落せしものと雖も人は人にして彼の眼には神聖なり、彼の美術的技倆は全く救世の要に供し、彼も又彼の天職の此に在るを信じ、彼の全身を此一事に消費す。(11)
 彼は今猶ほ南方露士亜僻陬の地に住し、衣食の料を右の両手の労働に得、彼の頭髪今や白霜を頂くと雖も彼の壮時の理想は彼を去らず、新約聖書一冊は常に彼の身を離るゝ事なく、清き良心と万人に対する愛とを以て彼の老年を慰藉し、農聖人の生を以て彼の生となしつゝあり、空名財貨に汲々たる近世の士は彼に就て大に学ぷ所ありて可なり。
 
(12)    豈惟り田村氏のみならんや
                    明治27年7月13日
                    『国民之友』232号
                    署名 内村生
 
 日本基督教会の牧師、有名なる「日本花嫁」の著者なる田村直臣氏は、彼の著書の故を以て近頃の同教会大会に於て彼の教職を剥奪せられたり、彼の罪跡は同胞を侮辱するにありたり、社交的の罪多分是より大なるはなかるべし、余輩は国運が彼の所業を等閑に附せざるに至りしを欣ぶものなり、余輩は深く田村氏のために之を悲しむと同時に、日本のために、其基督教会のために、彼に対する判決を以て大に満足するものなり。
 然れども世若し田村氏を以て此種の唯一の罪人と見做すものあれば余輩は大ひに氏のために弁ぜざるべからず、余輩の見る所を以てすれば田村氏は最も不幸なる人なり、彼の所為にして十年前の昔にありとせん乎、或は彼の同胞に対する観念にして啻に米国に於ける公会演説に述べられしに止て、著書となりて我国人の眼に接することなからん乎、売国奴の名称は彼の決して蒙るべきものならざるべし、そは氏の所業に類する行為は外国人の好意を求めんと欲する我国人の屡々取りしところ、資本募集の為めに彼国に赴きし者にして彼の落入りし誘惑に会せざるものは殆んどなかるべく、亦彼と共に之に陥落せざりしものは誠に実に少小ならんと信ずればなり。
 強者の前に立ち弱者の非を唱へて其歓心を求めんと欲するは人性一般の弱点なり、是れ基督信徒にのみ止まるの欠所にあらず、強大政府に向て自国の民の頑愚を唱へて其好意を買はんと欲する政治家、自己の撰挙民の非を(13)算へ立て政府の庇陰に与からんと欲する国会議員、皆悉く此類にあらざるはなし。弱を庇し強を挫くは勇者の快とする所、弱を譏て強に媚びるは仁者の耻となす所なり、余輩は我国人にして往々此辱を取るものあるを歎くものなり、世に自主的外交を唱ふるものゝ勃興せし理由は蓋し是等の辺に存するならん。
 名利を目的とする世俗男子にして此誘惑に落入ることは少しく恕するを得べしと雖ども、公義正道人倫の大理を唱道する宗教家にありながら此非国家的婦女子的幇間的の所業に出しものありしことは余輩の憤慨して禁ずる能はざる所なり、若し此非国家的行為に依るにあらざれば我国の生霊を救ふこと能はずとせん乎、余輩は寧ろ救はれざらん事を欲するものなり、宗教は国家観念の上に立つものなることは余輩の充分是認する所なり、然れども国家の名誉を犠牲に供し、国家を辱かしめて伝布する宗教は邪教なり、故に余輩は基督教を信ずると同時に成ぺく丈外国人との関係を避くるものなり、そは一方に向ては同胞の疑察を避けんと欲し、他方には吾人の信仰は吾人自由の撰択にありて外人の教化に出ざりし事を表白せんが為めなり。
 然るに我国の基督数信徒中学校或は教会建築の為に彼国に渡航せし人にして、田村氏に類する方法に依り、以て大に外人の賛助に与かりし者は決して尠しとせず、余輩は茲に余輩の実※[手偏+僉]に上りし実例の一を揚ぐべし、
 余輩曾て米国某神学校にあるや、余輩の級友の一人にして素と「ニューヨルク」青年会の書記生たりしもの一日余輩を新聞縦覧室に擁し、余輩に示すに国人某が曾て米国医士伝道会社の総会に於て日本に於ける医術に関する演説の報告書を以てせり、彼(級友)は余輩に告げて曰く「是非常の喝采を博せし演説なり、君一読せよ」と、余輩は直に之を手にして通読せり、通読し終て実に憤慨殆ど堪ゆる能はざりき、余輩は今該報告書を所持せず、然れども其大意は慥かに左の要点を含めり
(14)一、日本に於ける西洋風の医術は基督教宣教師の齎せし所のものにして、其彼等の手に依て輸入せられし前は日本人の病苦は実に憐むべき者なりき。
二、日本政府の設立にかゝる病院は信用するに足らず、其実例一を挙げんに、余(弁士)の母曾て病魔に犯されし時余は両三度使を医士に発し其来訪を乞へり、然れども時を移せども来らず、故に終に自身行て彼を訪へば彼は彼の妾と共に二階に於て戯れつゝありたり。
三、日本の医風斯の如し、諸君の早く彼国に行て余の同胞を助けられんことを願ふ。
余は憤慨の余り左の批評を附して報告書を余の級友に返附せり、
一、西洋風の医術は基督教宣教師の手に依りて日本に輸入されしものにあらずして、日本人自ら刻苦して和蘭人より学びしものなり、論者の云ふ所は明白なる虚言なり。
二、日本政府の設立に係る病院は論者の云ふが如き不始末なるものにあらず、余は屡々之に出入せしもの、余の友人にして之に奉職する医士多し、若し不幸にして論者の述べし如きものありとするも、彼を以て日本医士全躰を表せしめんとするは讒誣も亦た甚だしきものと言はざるべからず。
三、万一論者の述べし所にして事実なりとせん乎、自国の耻辱を海外に暴露する余の国人の心情は余の解する能はざる所なり。
四、若し論者の如き無謀人ありとするも、喝采を以て彼を迎へし米国の公衆は如何なるものぞ、愛国は彼等の尊ぶ所ならずや、自国の耻辱を外人の前に表白する人は彼等の大に卑むべき者ならずや。
余は級友に乞ふて此四ケ条を附記せる報告書を「ニユーヨーク」青年会の会合室の机上に置き汎く公衆の読覧(15)に供せんことを依頼せり、然るに彼は答ふるに語なく、之を彼のポケツト内に収め、粛然語を続けて曰く「余は君の愛国心を尊敬す」と。
 是れ其一例に過ぎざるなり、基督教国に於ける伝道雑誌に顕はるゝ我国に関する記事を熟読せよ、吉原の花魁道中の図を掲げて是れ日本に於ける市街の景況なりと云ひ、南無妙法達華経の旗を背負ひたる草艸紙の加藤清正の画を載せて是れ日本の建国者神武天皇の像なりと云ひ、仏教信者を巧みなる乞食と称し、帝国大学生徒を呼んで名利に汲々たる眼鏡紳士(Spectacled gentlemen)なりと云ひ、彼等基督信徒の歓心を買はんが為めには我同胞の欠点弱点を摘示するを以て得々たりし人は余輩海外在留中多く目撃せし所なり、余は曾て〇〇〇〇氏に書を寄せて曰く、
  若し我帝国大学の名誉を傷くるにあらざれば〇〇〇〇〇を起すこと能はずんば願くは閣下其設立を断念せられよ
と、而して重に米国人の資本に依て成りし我国にある多くの「ミツシヨン、スクール」なるものは米国人が我国人に対する如何なる感念より成りしものなるかは其未来の歴史が天下に発表する所なるべし。
 スペンサー氏彼の社会論に述べて曰く、
  牧師にして彼の受持の教会を拡張し、又は矯風事業を起さんとする時は、必ず先づ其四近風俗壊乱の様を張大にして社会に訴へ其資助を仰ぐを常とす
と、而して余輩の見る所を以てすれば、我国の基督教徒全躰が日本に於て該教の勢力を張らんとするに当て、此誤謬に落りし事は反抗すぺからざる事実なりとす。
(16) 余輩勿論外国の補助を拒むものにあらず、彼の狭隘なる「国家論者」が井底の蛙的の眼界を以て外国人の心情を裁判するが如きは余輩の全然排除する所なり、我れ彼を助けんと欲するが如く我も彼に助けらるゝの雅量なからざるぺからず、然れども我を卑下せしむるの補助は断じて受くべからず、贈物は礼を以てするを要す、彼若し我の欠を補はんことを欲し、我より問はざる我に与へんと欲せば、我は礼を尽し謝を呈して之を受くべし、然れども我より哀を彼に乞ひ、我の欠を示して彼の慈悲に与からんと欲することは、我を下落して彼を高ぶらすることなり、所謂伝道の精神なるものは「与ふるものは受くるものより福なり」の一言にあり、特別に我より彼に抵り、我の欠と弱とを暴露し、彼の援助に与からんと欲す、余輩は之に基督教伝道てふ高尚なる名を附する事を甚だ惜むものなり。
 然れども今日の実際より論ずれば外人の憐憫を乞はずして我国に於て基督教の盛大(目前の)を視んことは甚だ難事なるぺし、余輩米国にありて屡々伝道会なるものに出席し、其依頼に応じて一席の演説をなすや、言偶々我国人の美風美質に及べば、聴衆は甚だ不満の色を顕はすが如し、彼等は云へり「貴国の民にして如斯美質を有するとならば、何故にワザ/\宣教師を送りて基督教を伝播するの必要あらんや」と、余輩は如斯人士に答へらく、
  基督教にして若し志士仁人の求むる所にあらずんば、之を伝播せざるに若かず、余の国人にして悉く徳義を重ぜざる民ならん乎、彼等は基督教に接するも少しも之に感ぜざるべし
と、然れども米国人の多くは此単純なる事実を解せざるが如し、彼等は未信者(Heathen)の暗きを聞くを好んで其明徳を聞くを好まず、若し西郷隆盛の如き、中江藤樹の如き、我国固有の英雄君子を彼等の前に述べ立つれば、(17)彼等は冷評を以て之に接し、長く之に耳を傾くることを厭ふが如し。
 然れども米人悉く老婆的人士にあらず、彼等の内に真正の基督信者多し、即ち正義のために正義を愛する人士は乏しからず、彼等は余輩が基督信者なるが故に余輩に聴くにあらずして、正義を守るが故に余輩の事業に一臂を貸さんことを願ふものなり、彼等は哀を乞はれて返て余輩を斥くるもの、我を弁護して返て多量の推察同情を余輩に表するものなり、我等若し彼等の賛助を得るにあらざれば真正の基督教を我国に移植せんことは甚だ難かるべし、然れども勇者の心を得んがためには勇者の勇を以てせざるべからず、「花嫁」的の哀訴は彼国教会内の善男善女の喜捨を博するに足るべけれども、潔士の心に訴へ、仁者の賛同を得るに於ては全く力なきものとす。
 「花嫁事件」を以て旧来の哀訴的運動の最終たらしめよ、以来は欧米人の婦女的感情に訴ふるを廃して、其義侠豪雄に訴へしめよ、若し故さらに同胞の辱を暴らすにあらざれば今日の教会并に学校を閉鎖せざるを得ずとならば、余輩は返て其閉鎖するを喜ぶものなり、基督教は精神なり、此無気力、無精神、屈辱、軟弱を以て斯教を維持せんと欲す、自欺之れより大なるはなし、哀訴に依て建ちし教会、屈辱を以て成りし学校、是等が廃滅せざる間は真正の基督教は我国に建設せられざるなり。
  イエス起て之(パリサイ人)に曰けるは爾曹のうち罪なき者先づ彼(奸婬を犯せし婦人)を石にて撃つべし(約翰伝八草七節)
と、田村氏に侮辱罪を宣告せし人は氏に類する罪跡なき人たるを要す、氏の行為を譴責する我国の基督信者は氏の如く同胞の辱を外国人の前に述べ立てゝ彼等の歓心を得んことなきを要す、氏に売国奴の名を附する我邦人は強大政府に向て少しも媚びることなきを要す、余輩は田村氏を弁護せんことを勉むるものにあらず、余輩は世人(18)が彼に汚名を附せしと同時に彼に類する所行は痕跡をだも我国の社会に留めざらんことを欲す。
 余輩窃かに惟ふあり、我国の基督信者は其国家的問題を決するに於て非常の責任を有するものなりと、其今日に至るも此責に当るを得ざる所謂は彼等の中に「花嫁」的の心霊病が潜伏する故なり、今にして之を排除するを得、今にして国民的威厳と独立とを回復するに至らば、予想外の大事業は彼等の内より来るなるべし。
 
(19)    基督信徒の特徴
                     明治27年7月15日
                     『六合雑誌』163号
                     署名 内村鑑三
 
 特徴なる語は博物学上の語なり、一物を偽物より判別する要点を云ふ、爰に鯉魚の特徴あり、即ち左の如し、
  有脊椎動物なり、魚類に属す、硬骨にして軟鰭なり、円滑鱗を被り、上顎の側縁は中鰐骨より成りて口に歯を有せず、下鰓骨は強大にして十個の鈍歯を具ふ、鰾《うきぶくろ》は闊大にして二嚢に分る、口辺に四鬚あり、臀鰭は狭小にして一棘五刺を有す、腹鰭は九刺より成りて脊鰭の初部と相対し、胸鰭は十六刺、尾鰭は二十一刺を有す、
 以上を綜称して鯉魚の特徴と云ふ、宇宙万有の内此要点を有する者は鯉魚にして他物にあらず、其形の大小を問はず、或は琵琶湖に産せしと称する長さ一丈八尺の鯉魚も、或は畔の溜水中に游泳する幼稚三分に至らざる鯉魚も、鯉魚は鯉魚にして前記の要点を有す、赤色なるを緋鯉と云ひ、淡黒色なるを真鯉と云ふ、然れども両種共に鯉魚にして鮒にあらず、金魚にあらず、之を欧洲の産とせん乎、鯉魚は鯉魚なり、ダニューブの濁水に産するとも、ナイルの聖河に棲息するとも、之を揚子江の湲流に得しとも、琵琶湖の清水鏡の如き中に獲しも、鯉魚は鯉魚にして同一種なり、或は其外形の不完全異様なるあるも前述の特点を有する以上は鯉魚にして他物にあらず、独逸産の鏡鯉なる者は体の両面僅かに四五枚の鱗を有するのみ、然れども同じく是れ鯉魚なり、又獣皮鯉とて全(20)く鱗を有せざるものあり、然れども其体格の組織は其偽物ならざるを証す、或は不幸にして一鰭を損するあるも、或は一眼を失ふあるも、吾人は動物学的の鑑定に依て其鯉魚たるを証するを得べし。
 鯉魚に類似する魚にして鮒あり、而して鯉鮒共に相游泳する時は孰れを孰れと区別する事甚難し、然れども一度び動物学者の手に来れば鯉鮒直に判然するを得るなり、亦鯉魚族の一種にして「ニゴヒ」なるものあり、利根川に産す、其形状の「コヒ」に似る甚だ近きが故に斯く称するなり、然れども其鯉魚にあらざるは明かなり、其外形の類似点甚だ多きに関せず、其腹内の構造に至ては鯉魚と全く種族を異にするものなり、此に於てか鯉魚判然たる一種の動物なるを知るなり、吾人の之を他魚と混ずぺきなし、其特徴は現然たり、少しく意を注て学理的に之を※[手偏+僉]すれば鮒「ニゴヒ」の如きまがひ物を高尚なる鯉魚の群より全く排除するを得べし。
 基督信徒にも亦た特徴なきや、「何をかクリスチヤンと云ふ」、是れ実際的の問題なり、クリスチヤンの名濫用せられて今は何れを何れと判別し難きに至れり、若し天主教徒に此名を付すれば新教徒は何を以て称せん、若し近世のユニテリヤンをして謂はしむれば、独一無二の神を信ぜざるとも善を想ひ義を慕ふものは基督信徒なりと(“Blief in God is dogmatic”)或る論者は敬天愛民を以て基督信徒の特標となせり、聖書の神託説を主張し、「ウエスミンスター」表白を固持する基督信徒と相異なる何ぞ甚だしき、クリスチヤンなる語は曖昧模糊学術的の定義を附する能はざる語なるか、吾人が博物学に於てするが如く此語の意味に於て一致する事能はざる乎、初代の信徒がアンテオケに於て始めて自ら称してクリスチヤン(〓〓〓〓〓)と呼びし時は如何なる意義を以て此名を附せしや、是余輩の知らんと欲して止まざる処なり。
 此語の定義に於て吾人が一致せざるが故に今日の如き教派の分烈と競争とはあるなり、クリスチヤンにして同(21)一物ならんか、何故に吾人は兄弟姉妹の和睦と団欒とを維持し能はざるの理あらんや、信徒間の疑察乖離は今日より甚だしきはなし、これ他なし、彼等は同名を以て呼ばるゝも同一物にあらざればなり、吾輩を以て若し学理的に歴史的に此語に特別なる意味を附するを得せしめば是れ今日の乱麻を割くの一助たるを信ず、
 一、「クリスチセン」は人なり、
 此命題に関して何人か疑を懐くものあらんや、何人か「クリスチヤン」を人以下の動物内に求むるものあらんや、犬の忠なる鶏の順なるは吾人をして此名称を彼等に附与するの感を起さしめず、世には禽獣にも劣る人あり、而して吾人は彼が立返りて「クリスチセン」と成るを思惟し得ると雖ども、忠実なる猟犬が神をアバ父よと感ぜん事は吾人の思惟の外にあり、「クリスチセン」たり得るは人類の特権にして冀望なり、余輩は未だ「クリスチヤン」たり得ざる人類堕落の程度を知らず、人ならん乎、彼は「クリスチヤン」たり得るなり。
  「クリスチヤン」は人にして天使ならざるなり、彼の下等動物たらざるを疑はざる人も彼の行為を裁判するに当りて彼を天使と混同するもの多し、「クリスチサン」を以て完全無欠天使の如きものと見做す人は未だ「クリスチヤン」の何物たるを知らざる人なり、不完全なる人なればこそ「クリスチヤン」たり得るなれ、人類的の欠点は彼の特徴の一なりと云はざるべからず、曾て罪を犯せし事なき人、曾て自己の欠乏を感ぜし事なき人、曾て罪戻の矢に心を痛ましめし事なき人如何にして如斯人が「クリスチヤン」たり得る乎は余輩が推思せんと欲して能はざる所なり、姦婬罪に身を汚せしマグダラのマリヤなり、義者の迫害を以て国中に鳴り渡りしタルソの保羅なり、変節を以て主を売らんとせし彼得なり、硬骨の余り偏僻他人を害ふの術に巧なりし路錫なり、国王に死罪を申渡して后直ちに鷹狩に赴きしコロムウエルなり、是等が基督信徒たりしなり、天使に天使の栄光あらん、「クリ(22)スチヤン」の栄光は不完全中の完全なり、天に属する物の形体あり、地に属する物の形体あり、天に属する物の栄は地に属する物の栄に異なり。
 二、「クリスチヤン」は義人なり
 下等動物にあらず天使族にあらざる「クリスチヤン」は人類中義人の階級に属するものなり、世界の人口十五億之を義人と不義人とに区別し得ぺし、義人の謂勿論完全なる人の意にあらず、義人とは義を目的とする人を云ふなり、其失態誤謬の中に尚も義を充たさんと勉むるものなり、生涯の大部分を利の為めに費し、利に牽るゝこと義に牽るゝよりも強き人は之を義人の階級に編入する事能はざるなり、此に於てか「クリスチヤン」は人間小数の中に含有さるゝものなる事を知るなり、義を最大目的とせざる人の中に「クリスチヤン」ありとは余輩は宇宙が顛倒するとも信ぜざるなり、若し彼にして「クリスチヤン」の名を帯びんか、彼は明白なる偽善者なり、彼の雄弁は世界を圧倒し、彼の熱心は(外に現るゝ)満堂を靡かし、彼は教師牧師監督等の荘厳なる名称を以て冠せらるゝとも、名利を以て動く人は基督信徒にあらざるなり、吾人は彼の教会籍に依て審かず、吾人は彼の捺印せし信仰箇条に依て断ぜず、吾人は彼の教会的義務を果すの可否に依て判別せず、吾人は彼の生涯の傾向が名利にあるか義にある乎に依て決するなり、名利に依るものは不義者の階級に属す、義に依るものは義者なり、而して基督信徒は義人なり、是れ誤るべきにあらず。
 此大区別に重きを置かざるが故に基督教会に大腐敗を来せし事は枚挙するに遑あらず、世に非倫理的「クリスチヤン」なるものゝ存在せんとは信ずべからざる事実なり、若し如斯怪物の有りとせん乎、之を迷信の極と称せずして何をか称せん、市場に於ては虚言不実を以て主義とするも日曜日毎に教会に出席するが故に基督信徒な(23)り、貧者に物を施さずして之を戸外に追ひ払ひながら福音伝播に喙を容るゝが故に「クリスチヤン」なり、義に勇ならざるも外国宣教師に柔順なるが故に基督信者なり、………咄何等の言ぞ、余輩は天を指して誓はん、余輩は聖書に依りて誓はん、余輩は聖者に抵りて誓はん、彼等は基督信徒にあらざるなり。
 世に「倫理的基督教」てふものを唱ふる人あり、余輩は悉く其論旨に服する事能はずと雖ども、其今世に必要ありて来りしものなるを知る、「倫理的基督教」を呼び出せし者は「非倫理的基督教信徒」てふ怪物なり、正義善行の外に「クリスチヤン」たるの資格ありと信ずるものが世に存在すればなり、純粋倫理が教会内に唱道せらるゝは常に其堕落の徴候なりとす、世が預言者を要するの理由、新英洲にシオド、パーカーの起りし理由、英国がトマス、カーライルを喚起せし理由、共に此倫理的堕落にあり。
 基督信徒は義人なり、義を目的とせざるものは「クリスチヤン」にあらざるなり、然らば義人は悉く基督信徒なるか、吾人は「義人是れクリスチヤンなり」と曰ふを得る乎。
 世に義を目的とせざるものにして基督信徒と自称するもの多きが故に吾人は屡々義人を総称して「クリスチヤン」と云はんとする念慮を起すなり、義人已に人類中の最少数なり、之をして「クリスチヤン」と称せずして何をか称せん、基督信徒の名を負ふて不義の人たらんよりは斯名を去て義者たるに若かず、不義の人に冠するに此栄光ある名称を以てするよりは寧ろ義人を総称して「クリスチヤン」となすに若かず。
 然れども余輩は尚ほ問はんと欲す、義人必しも皆基督信徒なる乎と、正義公道を尊びし米のベンジヤミン、フランクリンは彼福音的基督教に甚冷淡なりしも「クリスチヤン」と称するを得る乎、自由と公義を愛し常に独一無二の神を識認して止まざりし.トマス、ペ−ンも彼の基督教に対するに常に反抗の位置を取りしに関せず基督(24)信徒と称すべきか、マーカス、オーレリヤスの高節慈仁たりしは彼が厳しく基督信徒を迫害せしに関せず彼を「クリスチヤン」と名付くるに足る乎、若し義人是れ「クリスチヤン」なりとの定義をして真理ならしめんか、我邦の豪傑、漢土の聖人、印度の聖者、波斯、亜拉此亜の勇壮純白の士は皆悉くクリスチヤンたらざるべからず、此に於てかクリスチヤンの定義は大に解し易きを得るが如し、基督教会を以て義者の団躰となす、何ぞ其宏闊にして寛大なるや。 然れども余輩は此定義に甘ずる能はざるなり、歴史的に攻究するも、科学的に思惟するも、亦心霊的実験に徴するも「義人是信徒」なる定義は弁別を欠くの定義なりと言はざるを得ず、余輩は此に於て第三の特徴に移る。
 三、基督信徒は義人の一種にして、義を自身の勤勉善行に求めず、神の供へ賜ひし義人耶蘇基督の功績に依りて義とせられん事を望むものなり。
 余輩は必しも基督信徒を以て最上の義人なりとは唱へざるべし、然れども彼の普通世に称する義人たらざるは争ふべきにあらず、今茲に二種の義人の実例を挙げんに、
 近江聖人中江藤樹は云ふ、
  吾人徳を修むることを思はゞ日々に善をせん而已、一善益す時は一悪損ず、日々に善をなさば日々に悪退くべし、是陽長ずる時は陰消するの理なり、久しく怠らずんば善人とならざらんや。
 使徒保羅は曰ふ、
  善なる者は我すなはち我肉に居らざるを知る、そは願ふ所われに在りとも善を行ふことを得ざればなり。
  我キリストと偕に十字架に釘られたり、もはや既に我生るに非ず、キリスト我に在りて生るなり、今我肉躰(25)に在て生るは我を愛して我が為に己を捨し者、すなはち神の子を信ずるに由て生るなり。
我は我に力を与ふるキリストに因て諸の事を為し得るなり。
 両者其目的物を異にす、前者は純粋道義に向て直行せんとし、後者は耶蘇基督を得んと欲す、其義となりて外部に現はるゝに於ては一なるべけれども、其之を行ふの途に於ては判然たる別あり、即ち「義人」は義を己の心中に求め、「クリスチヤン」は之を自己以外なる基督に得んとす、己れ義者たらんと欲するにあり、己れの罪人たるを是認し神の救に与からんと欲するにあり、基督教的義人は「赦されたる罪人」たるより他の者にあらず、尚ほ明細に二者の区別を述れば「義人」は授与者にして、「クリスチヤン」は受納者〔神に対して〕なり、前者は仁を尽さんとし、後者は仁〔神の〕に与からんとす、愛せんとするにあり、愛せられん〔神に〕とするあり、直に人を宥すにあり、神に赦されて自ら人を宥すにあり、「義人」は云ふ「クリスチヤン」の義は利慾的の義にして純粋の義にあらずと、其然らざるは余輩の実に弁明するを要せず、そは先づ義人たらんと欲する念慮の存せざる人は「クリスチヤン」たるを得ざればなり。
 二種の義人其義の源を異にするが故に其善行となりて外面に現はるゝや亦其趣きを異にせざるを得ず。
 一、「義人」の義は貴族的なり、彼は戦て之を得しが故に之を得ざる者を見るに多少侮慢の念を以てす、罪人を悪むの念は此種義人の一特徴なりとす、而して不義の人を鄙しむるの念は彼等をして罪悪社界より離乖せしめ、禅榻を尋ね、清風に臥し、真と善と美とに就て独り黙想するを以て清浄潔白の生涯なりと信ずるに至る、道義的善人に近づくぺからざるの権幕あり、余輩は距離を経て彼を拝せんと欲するも、行いて余輩の弱きを表白し、彼より悔改の教に与からんと欲せず、そは彼の詰責を恐るればなり。
(26) クリスチヤンの義は平民的なり、彼は之を己に得ず、故に義に達せざるものを見るに無量の同情推察を以てす、彼自身は「罪人の頭《かしら》」なり、何人か彼の与かりし恩恵に与かり得ざるものあらんや、罪人に同情を表するの念(憐むのみにあらず)は「クリスチヤン」の一特徴なり、彼は罪人の友なれば反て義人を去て罪悪社界に降り其救済に従事せんことを欲す、高踏退隠は彼の忌み避くる所、彼は自己の潔白を守らんと欲するよりも他を汚濁より救はん事を勉む、基督教的善人に近寄り易きの柔和なるあり、余輩は直に彼に抵り、余輩の弱きを吐露し、悔改の道を彼に授らんと欲す、そは彼の憐憫推察を慕へばなり。
 二、道義的善人の善は義務より来る、故に彼の善行は強迫的(Coercive)にして苦任なり、彼に機械的の常法あり、科学的の正式あり、彼の面貌に幾何学的の整斉あり、彼の言語に山嶽の動かすべからざるあり、余輩は其大を劇賞すると同時に其広狭角度を測量的に計算するを得べし、そは彼の巨大なるは単純なる倫理的法則の応要より来りしものにして、其中に超自然的の動力を発見し能はざればなり。
 クリスチヤンの善は愛より来る、故に彼の善行は発情的にして快楽なり、彼に生物的の自動性あり、彼の言語に秩序を欠く事多し〔保羅の書翰、コロムウエルの演説集を参考せよ〕、彼の行為に往々小児的の気儘なるあり、野草の昵み易きあり、余輩其美を讃賞するには非るべけれども、其形其香は科学的に定量すべきにあらず、そは彼の特美は已定の常式に依て造られしものにあらず、其何処より来り何処へ往くを知らざれば之を超自然的源因に帰するより他に解※[日+折]の求むべきなればなり。
 三、修業的義人には冷熱の変動甚だ尠し、彼の心中に道義的一模範の存するあれば、彼は彼の感情行為の其範囲を脱せざらん事を勉む、王陽明陣営に在て戦捷を聞て尚ほ徐かに聖学を講ず、
(27)  澄在(テ)2臚鴻寺(ニ)1倉居(ス)、忽家信至(ル)、言(フ)児(ノ)病危(シト)、澄心甚憂悶不v能v堪(ルコト)先生曰、此時正(ニ)宜(ク)v用v功(ヲ)、若此時放過、閑時講学何用、人正(ニ)要(ス)d在(テ)2此等(ノ)時(ニ)1磨錬(スルヲ)u云云、
 静寂は彼の欲する所、喜怒哀楽は彼の鄙んで遠くる所也。
 クリスチヤンは感情的たるを免かれず、悲哀の極彼は Les Miserables を吟じ、歓喜の極彼は Te Deum を謳ふ、
北軍をダムバーの郊野に破りて民軍の将讃歌をたゝへ、嬰児を喪ふて英雄の心腸まさに張り烈けんとす、神霊心を充たして歓喜喩ふるに物なく、疑雲天を覆ふて叫号明を望んで止まず、「クリスチヤン」の感情は圧抑せらるゝにあらずして益々鋭きを加ふ、彼の達せんと欲する処は静寂にあらずして永遠の歓喜なり、涙は彼の貴重なる所有品なり、之を憂愁の為めに注がざるに至れば歓喜の為めに流さんとす。
 四、工夫的義人は心の欠乏を知て之を掩はんと欲し、軟弱を見て怯なりとなし、己に叱咤して之を退けんと欲す、彼の勇気あるは耐忍と鼓舞との結果にして、歓喜と快楽との其内にある少し。
 クリスチヤンは自己の欠点を認めて之を掩はん事を勉めず、弱きは彼の特性なれば彼は弱くして強からん事を求む、彼の勇気は心中に涌き来る言ふべからざる歓喜と感謝の結果にして、苦痛が彼の神経を無感覚ならしめざる以上は彼は常に希望を懐ひて躍々然たり。
 以上はクリスチヤンの特徴五六に過ず、之を明細に記載せん事は本誌余白の許さゞる所なり、然れども余輩の茲に摘示せし所に依てクリスチヤンを他の人類より区別し得る事と信ずるなり、今短縮して之を記さんに、
 クリスチヤンは肉情を帯びたる人間なり、彼は義を慕ふ者にして、義を以て生涯の目的とする渾ての人々と共に義人の階級を造る、彼は其義をナザレの耶蘇基督の功績に求むるものなるを以て自己の欠点と軟弱と罪悪と(28)を識認す(以上を大特徴 Main characteristics と称す)。故に彼は悪を悪むと同時に悪人に同情推察を表す、彼に善行あれば是れ彼の自然性にして倫理的法則の強迫に依て出るに非ず、彼の感情は鋭敏なり、彼は涙を流す事を以て耻となさず、彼の挙動に小児的自然なるありて羸弱の中に抗す可らざるの勇気あり(以上を小特徴 Minor characteristic と称すべし)
基督信徒の完全なる人ならざるは余輩の已に論述せし所なり、彼亦た必しも倫理的義人に優らず、恰も鮒の大にして完全なるは鯉の小にして残害せられしものに優るが如し、然れども鯉は鯉にして鮒は鮒なり、二者に構造的の別ありて一物は他物と混同し得べきにあらず、孔子の大なるも彼に倫理学的の機械式なるあり、彼得の微弱なるも彼に基督教的の自然なるあり、前者は技術(Art)にして後者は生命なり、前者を挨及の三角塔なりとせば後者は山野を走る小山羊なり、三角塔大ならざるにあらず、山羊必しも大価直あるにあらず、然れども両者の別は殆ど死と生との別なり。
 以上の特徴を有するものは即ち基督信徒なり、彼の教籍、国民、人種、の如何に関せず、彼の皮膚は白たりとも黄たりとも黒たりとも、大と小との別なく、穆と頴との別に関せず、キリスト家の家族には一種異様の風ありて、彼等は兄弟たり、姉妹たり、同一血の彼等の心霊に流るゝありて彼等は相互を識認し得べく、彼等は自ら世と別物なるを知るなり、然れども鯉池に鮒の棲息するが如く基督教会内多くの似而非なるクリスチャンあり、其外貌の相似たるより一目して之を判別し能はざる事多し、而して大鮒は小鯉に勝りて市場に売価を有するが故に世は時には鮒を称して鯉に優れりとなす事あり、然れども余輩養魚家は知る、鮒を鯉池に飼育するは常に鯉種を下落せしむるものなる事を、其鯉鮒相混合して子を生むや之を Crucian Carp と称し、鯉にも及ばず鮒にも劣る(29)不要魚なるを、而して鮒にも劣るものは似鯉《ニゴヒ》(Barbus)なり、其形の鯉に類似するは鮒の及ぶ所にあらず、魚類学者にあらざる以上は反て之を鯉の親戚と見做し、鮒にも勝るものとせん、然れども「似鯉は惡魚なり」其肉は特種の臭気を帯びて喰ふに堪へず、「非倫理的クリスチヤン」は似鯉なり、彼をして池中に存せしむる勿れ。
 此実際的世界に在りては、此麦と稗子《からすむぎ》と、羊と山羊と、全く相分つの難き社界に於ては、鮒の一尾をも存せざる鯉池は望むべからず、クリスチヤンのみの教会も又然らん、然れども余輩は麦畑を変じて稗子畑となすべからず、鯉池をして鮒魚の押領する所たらしむべからず、基督教会はクリスチヤンの棲息所なり、其勢力はクリスチヤンの掌中に存せざるべからず、「非倫理的信徒」勿論一日も其内に潜むの権利を有せず、「倫理的信徒」なるものも若し其|翹翼《つばさ》の下に棲息せんと欲せば、彼は黙して静なるべきのみ、そは彼は客にして主人にあらず、鮒にして鯉にあらざればなり。
 
(30)    世界歴史に徴して日支の関係を論ず
                      明治27年7月27日
                      『国民新聞』
                      署名 内村鑑三
 
 日支両国の関係は新文明を代表する小国が旧文明を代表する大国に対する関係なり、人類の進歩歴史に於て此関係を有する二国が相|対立《たいりつ》して終に衝突《しやうとつ》に至りし実例《じつれい》は一にして足らず、欧洲文明を代表する小希臘が亜細亜文明を代表する大|波斯《ペルシヤ》に対せし、共和主義を代表する小羅馬が豪族主義《がうぞくしゆぎ》を代表するカルタゴに対せし、新教主義を代表する小英国が旧教主義を代表する大西班牙に対せし、皆此関係なりき、二者|併立《へいりつ》して長く平和を保ち得ぺきにあらず、旧は大なるが故に新を侮り、小は新なるが故に旧を賤しむ、二者の衝突は免かるべからざる所、正流逆流の相接する処、之をして平和に経過せしめんと欲す、是れ宇宙の大理に反するもの歴史の趨勢に逆ふもの、平和を愛して進歩を憎むものなり。
 小希臘は大波斯と衝突《しやうとつ》せり、其源因は実に二者主義の相正反対するにありき、一は個人的権利《こじんてきけんり》を重んじ、自治制度《じじせいど》を施し、雑駁《ざつばく》の中に進歩を計らんとするにありき、他は人権を蹂躙《じうりん》し、郡県制度に則《のつと》り、万国を同性的一大団体と化し、一君主の擅断《せんだん》の下に世界を其|旧態《きうたい》に保存せんとするにありき、自由と圧制《あつせい》、冀望《きばう》と回顧《くわいこ》、進取《しんしゆ》と退守《たいしゆ》、欧洲主義と亜細亜主義、是等の反対性《はんたいせい》は希波両国を以て代表せられたり、二者の両立は望むべからざる所、一の存在成長《そんざいせいちやう》は他の廃滅短縮《はいめつたんしゆく》を意味せり、彼等は宥むべからざる敵なり、波斯斃れざる以上は希臘の膨脹は期す(31)可らず、希臘の存在を允して波斯は未だ其主義を実行せざるものなり、「我汝を殺し得ずんば汝必ず我を殺ばむ」とは希波両国が相対せし時の状なり。
 若し二者の大小を比較《ひかく》せんか、実に牛《うし》と鶏《にはとり》との比較なりき、紀元前五百年波斯帝国|最盛《さいせい》の時に当ては、其|広袤《くわうばう》は二百五十万方哩に達し、殆ど今日の欧大陸全土に髣髴《はうふつ》たりき、雪山の西斜面、地中海の東浜《とうひん》、北には裏海黒海を擁《えう》し、南は紅海亜拉此亜海に浜し、時の文明国と称するものは殆ど皆悉く此世界王国に吸収《きうしう》せられたり、全帝国之を二十三省(SatraPy)に分ち、各省に知事(Satrap)あり、軍務総督ありて直に帝王の属隷《ぞくれい》たり、同性的一大団体、一様の法律《はふりつ》は全帝国を支配《しはい》し、帝座は首府《しゆふ》スーザに在りて億万の生霊《せいれい》の低首遙拝《ていしゆえうはい》する所たりき。
 之に反して希臘は微々《びゝ》たる一小邦、其最大の時に於ても広袤《くわうばう》我の北海道に過ぎし事なし、(波斯帝国の百分の一)、海に瀕《ひん》し山に拠り、而も邦内区々に分裂《ぶんれつ》し、一中央権の之を統治《たうぢ》するなし、之を波斯帝国の能く統一するに比すれば二者の隔絶《かくぜつ》実に物の譬《たと》ふべきなし、希臘は一国と称せんよりは寧《むし》ろ主義を異にする小国の人種的集合と称するを可とす、分離せる小国を以て統一せる大国に当らんと欲す、物の数より論ずる時は勝敗の決する所已に明々白々たりしが如し。
 希臘の長所は単に精神的《せいしんてき》たりしのみ、自由を重んずるの念《ねん》なり、国を愛するの心なり、強に当るの快《くわい》なり、大を挫《くじ》くの楽なり、数と量とを以てせん乎、亜細亜の勝利《しようり》は疑ふぺきにあらず、精《せい》と貿《しつ》とを以てせん乎、冀望は欧羅巴に存せり、希波両国の衝突は肉と霊との衝突なりし、量と質との衝突なりし、数と術との衝突なりし。
 二国相|睥睨《へいげい》すること一百有余年、終に両国の間に介《かい》する小亜細亜半島ミレトスの擾乱《ぜうらん》を以て公然たる衝突を来たせり、半島《はんたう》の西海岸九十哩は希臘民族の占領居住《せんれうきよぢう》せし処、希臘本国の利益は対岸《たいがん》に於ける波斯の勢力を刪減《さんげん》す(32)るにありき、故に機会《きくわい》の乗ずべきあらば小亜細亜半島を大帝国の軛《やく》より脱《だつ》し、之に自由独立を供して本国の威力《ゐりよく》を張らんとするにありき、恰《あたか》も好《よ》しミレトス反して援《たすけ》を希臘に乞ひしかば雅典《アデン》ヱレトリヤは直に之に応《おう》じ、兵を半島に送り、リディヤ省の首府サルデスを陥《をとしい》れしを以て有名なる波斯戦争は起りたり。
 波斯帝|惟《おも》へらく、希臘は瑣々《さゝ》たる一小国、殊に邦内分裂して相|敵対《てきたい》す、一撃《いちげき》以て之を圧服《あつぷく》するに足ると、彼は一方には彼の巨大《きよだい》に頼み、他方には敵国の分裂《ぶんれつ》に頼めり、然れども彼は恐怖《きやうふ》なくして戦端《せんたん》を開かざりし、彼は希臘人の智《ち》と勇とを知れり、故に一小邦を侵《おか》すに大国の全力を以てし、雅典の一城を抜《ぬ》かん為めに二百万の甲兵《かうへい》を以てせり、大帝の心情《しんじやう》実に察するに足る。
 波斯|戦争《せんそう》は紀元前四百九十二年に始まり同四百四十七年に終れり、マルドニュスの率《ひき》ひし第一の遠征軍《ゑんせいぐん》はアソス岬角《かうかく》に風波の砕《くだ》く所となり、人力に依らずして天の四方に散乱《さんらん》せられたり、ダチスの率《ひき》ひし十万の陸兵はマラソンの戦場《せんぢやう》にミリタヤデスの旗下《きか》一万の雅典兵より殆ど鏖滅《おうめつ》の敗《はい》を取れり、而してダリヤス大帝は終生の怨恨《えんこん》を懐《いだい》て没し、ゼルキゼス大帝其後を襲《おそ》ふや、彼は先代の大志《たいし》を続ぎ、希臘の全滅《ぜんめつ》を以て彼の終生の企図《きと》となせり、彼は万国に徴《ちやう》して未曾有《みぞう》の大兵を起せり、歩兵《ほへい》一百七十万、騎八万、車二万輌、船艦《せんかん》一千二百艘、海兵五十一万七千六百人、(歴史家《れきしか》ヘロドートスの計算《けいさん》に依る)、是れ三万方哩に足らざる一小邦|征服《せいふく》の為めに送られし軍隊《ぐんたい》なり、大帝は壮と大とを装ふて希臘人を嚇さんと欲し、敵兵を逮捕《たいほ》して軍中を巡覧《じゆんらん》せしめ、放ち帰して波斯軍の尊大《そんだい》を希臘人に報ぜしむ、而して勝敗《しようはい》を数と量とに卜《ぼく》せし諸邦は争《あらそ》ふて款《かん》を波斯に通じ、土塊一握《どくわいいちあく》と井水一杯《せいすいいつぱい》を送りて服従《ふくじう》の意を表せり、今や欧洲文明は危機一髪の間に迫れり、希臘にして服せん乎、欧洲文明は其幼芽の時に摘み去られ、人類の進歩は全く停止せしならん、此時に当て世界の新精神を弾丸黒子の中に守り、蛮奴をして之(33)を蹂躙せしめざりしものは人類進歩歴史に於ける希臘人の大功と云はざるを得ず。
ヘレスポント海峡《かいけふ》横断《わうだん》せられ、四百万の大兵|蝗虫《くわうちう》が如くマケドニヤの原野を掩《おほ》ひ、ゼルキゼス大帝の黄金座を擁《えう》しながら徐々《じよ/\》として南下するや、希臘聯邦会議はコリントに開かれ、海陸の指揮《しき》はスパルタに委《ゆだ》ねられたり、同一の敵に対しては異主義を抱懐《はうくわい》する希臘聯邦も全く協同するに至れり、スパルタ雅典と合して勇は智に加へられたり。
 大軍マリヤ湾頭《わんとう》に達し、一群の防禦軍《ばうぎよぐん》の道を要するを見たり、使を遣《つかは》して武器の引渡を要求すれば彼等は言ふ、「戦て之を取れ」と、波斯軍の矢簇《しぞく》斉《ひと》しく放つ時は稠密《てうみつ》日光を遮《さへ》ぎるに至ると告るものあれば希臘人は曰ふ「然らば我等は清涼の中に戦ふを得べし」と、レオニダス彼の手兵三百を以て波斯の大軍をセルモペリーの峽道《けふだう》に向へ、希臘兵の真価直《しんかちよく》を証してより、雅典之が為めに振《ふる》ひ、スパルタ之が為めに激《げき》し、勝敗の決する所已に定まれり。
 大軍南下して雅典城を毀《こぼ》ち、猶進んでペロポネサスを犯さんとするや、同盟軍は之をコリント地峡《ちけふ》に向へ、サラミスの海戦に於て敵の艦隊《かんたい》を破砕《はさい》してより、大帝足を敵地に留むる能はず、一将を留めて敵《てき》に当らしめ、自身は遁《のが》れてスーザの宮殿《きうでん》に帰れり、後一年を経てプラテヤの大戦に於て波斯軍は再び起《た》つ能はざるに至り、希臘軍は進んで敵地を侵《をか》し、ミカレーの海戦に残余《ざんよ》の敵艦を海底《かいてい》に沈め、以て波斯軍をして再び欧土に寇《あだ》し能はざらしめたり。
 波斯戦争の結果は数と量とに対する精と質との勝利なりし、肉に対する霊の勝利なりし、禽獣力に対する人智の勝利なりし、小希臘勝て智と勇とは世界を支配するに至れり、大波斯敗れて人類は禽獣力に信用を置かざるに(34)至れり、希臘の勝利は人類進歩の為めの必要なりき、波斯の敗北は進歩歴史の要求する所なり、希臘は進歩歴史の趨勢に徇て勝ち、波斯は之に逆て敗れたり、軍の勝敗は此歴史的機運に乗ずるにあり、大兵|怖《おそ》るゝに足らず、武器の精良《せいりやう》亦深く恃《たの》むべからず、進歩を促すものは勝ち、之を妨るものは敗る、鑑るべし。
 希當民族の精《せい》と勇《いう》とを導くにセミストクレスの智とアリスタイデスの正ありて全勝《ぜんしよう》は希臘の有に帰せり、而して希臘の隆盛は実に此苦戦の後にありき、夫の希臘文明と称し、欧を化し米を度し、二千五百年後の今日に至るも尚ほ吾人の思想を導くものは実に波斯戦争の好結果として彼土に興りしものなり、アリスタイデスの正と直とは十数年の長き聯邦《れんぽう》の協同一致を保持《ほぢ》し、キモン彼の後を承け、地中海の東浜《とうひん》、黒海の全岸《ぜんがん》、希臘人の威光《ゐくわう》は行き渡りて、其|制度《せいど》と文物とは広く世界を化《くわ》するに至れり、尋《つ》ひでペルクリスの黄金時代《わうごんじだい》となり、フィディアス彼の神来の技を揮《ふる》ひ、波斯軍の遺《のこ》し去りし黄銅を以て女神アテナの像を鋳《い》り、彼女の金鉾《きんぱう》高く聳《そび》へてスニヤム岬頭の暗《やみ》を照し、永く城砦《じやうさい》の巓《いたゞき》に立ちて蛮奴《ばんど》の入寇《にふかう》を除《よ》くるが如し、「パンセオン」成りて国神悉く一荘殿の中に祠《まつ》られ、雅典此時より「神市」の名を以て聞ゆ、エースキラス、ソフホクレス出て悲劇《ひげき》を以て新希臘の冀望《きばう》と理想《りそう》とを演じ、ヘロドトス始めて国史を纂《さん》し、哲理的に波斯戦争の成行を叙《じよ》し、以て希臘民族の天職《てんしよく》を示す、雄弁術《いうべんじゆつ》起り、哲学|栄《さか》へ、斯民の潜勢力《せんせいりよく》は波斯戦争を経て一時に発芽《はつが》せり、大を挫いてのみ小は其真価直を智覚するに至る、希臘の発達は実に大波斯の破砕を要せり。 余輩は羅馬対カルタゴに就て、英国対西班牙に就て、長々しく読者を煩《わづ》はさゞるぺし、只一大|教訓《けうくん》の是等衝突より学ぶぺきあり、即ち新理想が其実果を結ぶは必ず先づ大強力に勝て而して後にある事是なり、恰かも天|斯人《このひと》に大任を下さんとするや必ず先づ其|心志《しんし》を労せしむるが如し、カルタゴの大強力に当り、之をカニーの大戦に破《やぶつ》(35)て羅馬共和国は始めて其|世界征服《せかいせいふく》の途に就けり、西班牙の大艦隊を海峡《かいけふ》に尽して英国は始めて海王たるの資格《しかく》を得たり、旧文明は大国の保護《ほご》する所となり、新文明は小国の発達伝布《はつたつでんぷ》する所となるは歴史の恒例《かうれい》なるが如し、而して二者|衝突《しやうとつ》して小勝ち大敗るゝも亦|歴史《れきし》の常則なりと謂はざるべからず。
 余輩は常に惟《おも》へらく、日本は東洋の希臘なりと、其大陸に対する地理学上の位置《ゐち》は余輩の曾て論ぜし所、(『地理学考』第九章参考)、而して両|民族気質《みんぞくきしつ》の酷《はなは》だ相似たる、其美に敏《さと》くして義に感じ易き、其|結合心《けつがふしん》に乏《とぼ》しきも外敵の横行を肯《がえん》ぜざる、日本を称して十九世紀の希臘となすは甚だ当然なりと信ずるなり、而して余輩《よはい》の観る所を以てすれば吾人は実に此|冀望《きばう》の位置に立つものなり、我に大理想あるも之を実行し能はざる所以のものは我未だ発達的試錬を経過せざればなり、我の黄金時代は旧文明を代表する大国と衝突し之に打ち勝て後にあり、余輩は流血《りうけつ》を好むものにあらず、然れども若し人類の幸福《かうふく》を増進せんが為めには此|血路《けつろ》を通過せざるを得ずとならば余輩は摂理《せつり》の声に聴かざるを好まず。
 余輩は歴史家として曰ふ、日支の衝突《しやうとつ》は避くべからずと、而して二者衝突して日本の勝利《しようり》は人類全躰の利益《りえき》にしてせ界進歩の必要《ひつえう》なりと、日本にして敗《やぶ》れん乎、東洋に於ける個人的発達《こじんてきはつたつ》は妨阻《ばうそ》せられ、自治制度は廃滅《はいめつ》に帰し、美術は失せ、文運は廃《はい》し、亜細亜的旧態は永く東洋五億万の生霊《せいれい》を迷夢《めいむ》の内に保持せんとす、日本の勝利は歴史の保証する所、人類進歩の促がす所、摂理の約する所、億兆の望む所なり。
 此冀望の位置《ゐち》に立ち、此冀望の時に際し、吾人何人か躊躇《ちうちよ》すべけんや、吾人は利慾《りよく》の為めに、争はんとするにあらず、吾人の天職を全ふせんため、吾人の潜勢力を発揚せんため、吾人の真価直を知覚せんため、而して隣邦五億万の生霊を救ひ出さんため、新文明を東洋全躰に施さんため、余輩は此|義戦《ぎせん》に従事せん事を欲するものなり、(36)吾人の目的豈一朝鮮の独立を保つに止まらんや。
 歴史家へロドトス曰く、
 高尚なる勇気を以て吾人の掛念する災害の半に陥るの危険を冒すは卑怯なる無頓着を以て恐怖の中に平安を求むるに優る
と、今や国民が其|栄光時代《えいくわうじだい》に進入せんとするに当て多少の災害《さいがい》は免かるぺからざる所、之を怖《おそ》れて逡巡《しゆん/”\》事に当らずんば国運《こくうん》何れの時を待てか開けん、歴史家は曰《い》ふ「ミリタヤデス波斯軍をマラソンの原野《げんや》に破て欧洲文明の基礎《きそ》を定め亜細亜的|弊政《へいせい》の延蔓《えんまん》を防止せり」と、吾人が東洋文明の基礎を定め、支那的弊政の延蔓を阻むの時は蓋し遠きにあらざるべし。
 然れども兵は国の大事にして支那は大国なり、吾人此大任に当らんとす、宜しく惧粛警戒《しんしゆくけいかい》すべきなり、吾人に「七年|戦争《せんそう》」に於けるフレデリツク大王の決心《けつしん》あらしめよ、彼は曰く、
  我邦内銃を肩にし得べき一人の男子と、砲を曳くに堪ゆる一疋の馬の存する間は、此戦争は継続せらるべし
と、単に商売的眼光《しやうばいてきがんこう》を以て吾人目前の大衝突に処せんとするものは此任と栄《えい》とに与《あづ》かり得ざるものあり。
 波斯大軍国境に臨み、国家|累卵《るゐらん》の危きに迫《せま》るや、雅典の義人、希臘の愛国者《あいこくしや》、アリスタイデスは彼の国人に告て曰く、
  何れの日に於けるも吾人は私怨を去て国に尽すぺきなり、殊に今日此時に際しては国人の競争は共国家に尽すの多少にありて他にあるべからず、
と、政党的|軋轢《あつれき》此時に去るべし、宗教的争闘此時に忘るぺし、吾人は犠牲《ぎせい》の多寡《たくわ》を以て争はん、勇怯《いうきよ》の比例を以(37)て競《きそ》はん、今は実に何人が最も多く日本を愛する乎を試むるの時代なり。
 嗚呼我等の内|智謀《ちばう》セミストクレスの如きはあらざる乎、厳正《げんせい》アリスタイデスの如きはあらざる乎、勇敢《いうかん》レオニダスの如きはあらざる乎、西亜二千五百年前の歴史今や将に東亜に於て重復せられんとす、西亜は栄光に終れり、東亜は耻を千載に遺す勿れ。
 
(49)    世界の気候は炎熱を加へつゝある乎〔易しい振り仮名は略す〕
                   明治27年8月15日
                   『国民新開』
                   署名 内村鑑三
 
 今年の炎熱は吾人何人も苦悶せし所、其原因の何処に存するかは未だ之を知るに由なしと雖も近年に至り世界の気候は年々炎熱を加へつゝありとは時々父老より聞く所にして亦た全く拠る所なきの言に非らず。
 気象学的観察が使用せられてより未だ幾干も経ざるが故に科学的に温度の増進を証拠立つる事は難しと雖も之を古代の記録に徴すれば殆ど疑なきが如し。 世界文学中最旧記と称せらるゝ旧約聖書|約百《ヨツプ》の書に左の韵句あり。
  氷は誰が胎より出るや、
  空の霜は誰が産む所なるや、
  水かたまりて石の如くになり、
  淵の面こほる。
 詩人ダビデは二千五百年の昔彼の国の冬景色を謡ふて曰く、
  エホバは雪を羊の毛の如くふらせ、
  霜を灰の如くにまきたまふ、
(50)  エホバは氷をつちくれの如くに擲ちたまふ、
  誰か其寒冷に堪ゆることを得んや、
二詩共に二三千年以前の西方亜細亜パレスチナに於ける冬期の気象を言ひしものなり、然れども今日のパレスチナは半熱帯国の気候を有し、ヨルダン河辺の鬱林、死海全岸の広野、氷雪の如きは全く見る能はざる所なり。
 古代の拉典文学亦た伊太利地方の気象に関する記事を載すること多し。
 詩人パージルは自身勤勉なる農家なりき、而して彼の詩作に於て彼は牛馬に関する冬期の手当を縷述せり、彼は亦た伊国の極南カラブリヤ州に於て年々河水の氷結することを記せり、然れども今日に至りては彼の居住せしマンチエア地方并に伊太利南部の全躰は冬期已に春暖を感ずる地方にして橄欖の緑葉終年小山を飾る処なり。而してバージル惟《ひと》り此類の記事を遺すに非らず、プリニーなり、ジユベナルなり、エーリアンなり、オーヴイツドなり、此点に於ては同一事を記するが如し。
 紀元四百一年に於て今の土耳古|君士斯堡《コンスタンチノープル》の近海氷結して牛車がその上を通行し得るに至りしは歴史上確実なる事実なり、然れども是れ今日彼地に住するものゝ殆ど信じ能はざる所なり。シーザル時代に於ては独逸西境のライン河が氷結し橋を架することなくして全軍河を渡りし事は決して奇異なる例に非らず、古代の独逸民族が戦ふに冬期を撰みし理由は此に在りしといふ。
 旧記の載する所如斯、而して東西何れの地方に質すも温暖の増加は一般の経験なるが如し、今其理由の何処に存するかに就て二三の臆説を記すれば左の如し
 一 太陽表面の変化(黒点の増加の如きもの)
(51) 二 山林の減少
 三 空気中塵埃分子の増加
 何れの原因に依るにもせよ此気候上の変化は歴史上社会上又遺徳上偉大の感化力を来たせしものと言はざるぺからず
 
(52)    流竄録
                   明治27年8月23日−28年4月23日
                   『国民之友』233−251号
                   署名 内村鑑三
 
    白痴の教育
 
 去る明治十七年の秋、余は奇異なる目的を以て米国に赴けり、そは他なし、余は不幸にして早くより基督教を信じ、実行的慈善事業に顕はるゝ基督教の結果を其本国に於て見んことを欲したりしなり。
 余の費府に至りしや、慈善事業を目的とする余の嚢中僅に四週日の糧を余すのみ、宗教の名を以ては食物を求めざるべしとの余の決心は余をして四週日後の食を得るの道を知らしめざりき、況んや余の目的とする視察事業に於てをや、青年の為す所概ね如斯くならざるはなし、其目的の高尚勇壮なる、其思慮の浅薄なる、家郷三千里を去て後に始めて余の無謀に驚きたりき。
 然れども余は失望せざりき、余の親父は余を横浜埠頭に送りて左の国詩一首を余に授けたり、
  聞しのみまだ見ぬ国に神しあれば
    行よ我子よなに懼るべき
 余は余の守護《まもり》として此一首を身より離さゞりき、余は何処にか暗夜に道の開かるゝを知れり。
(53) 費府を去る事西南十二哩にしてミヂヤの一市あり、デレウエヤ郡衙のある処、緑陰の裡、小邱の上に立てる一市街あり、此処に余の知友の知友ありと余は大胆にも彼処に赴けり、彼は尠からざる深切を以て漂泊の一外人を待遇せり、余は一夜を彼の家の五階楼上、雑貨の堆積せる内に過せり、明日の配慮は明日に譲り、余は万里の旅の疲労に依つて平安なる一夜を彼の屋下に過ごしたり。翌朝東天を望むに一窪地を経て彼方に石造の大廈巍々として羅列するあり、余は未だ其何物なるを知らず、病院か、学枚か、或は天主教の寺院ならんかは知らざれども、何れにしろ一見舞を与ふるの価値あるものと信ぜり、余は知らざりし此建築物こそ余に海外在留四年間の保護を与へ、爾来十年一日の如く彼が死に至る迄余の親友弁護者たるべき人を宿せし所なれとは。
 朝飯後余は友人と共に対谷の大廈を訪へり、是なん即ちペンシルバニヤ洲の洲立にかゝる、白痴院にして其院長ドクトル、カーリン氏なるものこそ神経病学専門家として、病院組織の先導者として米国刀圭社会に錚々の名ありし人なりけれ。
 余の彼を訪ひしや初冬寒未だ厳ならざるも薄雪已に近郊を覆ふの時なりき、院長は執務中の故を以て余に乞ふに暫時応接間に於て彼を待たんことを以てせり、然れども彼は閑々余と共に談ずるの事を欲すれば余の友人は先づ余を遺して去るべき様云はれたり、余の友人は去りぬ、余は独り広間に遺されぬ、事の如何に成り行かん乎、余は配慮して止まざりき。
 暫くして踏音高く応接間に人の近づくを聞けり、戸を開いて入り来りし人を見れば五十歳前後と覚しき一紳士にして唇辺に溢るゝばかりの愛嬌を含み、余に近づき握手して余の能く彼を訪問せしを語り、然る後余の手を(54)取りて南窓の下に横たはりし長椅子の上に導き、彼も直に余の左に座し、右手を伸して余の肩を抱き、然る後余に語りて曰く、
  君は何の目的を以て我国に来りしや
と、余は涙ながらに告ぐるに実を以てせり、彼は余の面を見詰めながら不完全なる英語を以て語れる余の来歴を聞けり、而して曰く、
  君今別に居るべきの家なからん、クリスマス祭已に近きにあり、君先づ一週間余と共に居れよ、君の荷物は直ちに馬車を遣して取寄すぺし、君は此処に居て可なり
と、余は彼の深切に奪はれたり、余は「イエース」の語より外に彼に返すの語なかりき。
 茲に於て余は彼の客となりたり、余は直に鍵一箇を授けられたり、そは院則として人の猥りに院内を彷徨するを得ず、役員に限り鍵を持するを得るなり、而して新客の余に此特権を附与せられしは其内に或る意味の含有せらるゝ事と覚えたり。
 夕飯の席に院長余に語りて曰く「曾て貴国の教育視察官田中不二麿氏当館を訪はれたり、其時本院の写真一枚を呈したりき」と、以て頻りに同情を我邦の教育に表せり、食終て彼は余を就眠前の「讃美会」に導びき行き、入院者四百余名の前にて日本より珍客あるを告げ、行為を正して外賓を迎へん事を以てせり、是れ実に一貧生の受くべからざるの待遇、余は夢の如きの感ありて惟心に耻づるのみなりき、斯くして余は数日彼と共に留りき、余はクリスマスの饗筵に与かりたり、余は略ぼ院規を悟るを得、已に余の目的の一部分を遂げしを歓べり、院長一日余を事務室に擁し、問うて曰く(55)
  事業を学ばんと欲せば先づ最下等の位置より姶むるの覚悟なかるぺからず、君は此位置に下るの謙遜を有するや
と、余は答へて曰へり、
  是れ余の最も欲する所、下賤の業を採るに於ては余の預め期せし所なり、閣下にして余を使役せらるゝの意あらば余の幸福之に勝るなし
と、依て即時に余はペンシルバニヤ州白痴院の雇人となれり、意志の存する処には途あり、余をして爰に至らしめしもの、嗚呼天とや云はん、神とや云はん。
 余は爰に慈善院(Institution)組織の一斑を述ぺざるべからず。
 院政は商議員会(Board of Trustees)の手に在り、是れ全責任を有する一団躰にして州中(殊に費府近傍)の有力者にして慈善事業の熱心家を以て組織せらる、有名なる慈善家ドクトル、ヱルウヰンの如き、富豪サムエル、コローザル氏の如き、日本贔屓を以て有名なりしウヰスター、モリス氏の如きは過去三十年間名を委員薄より絶ちし事なし、以て人民共同事業なる此慈善院にして其基礎の堅固なるを知るを得べし。
 院長は商議員会の指名する所、彼は直に此団躰に対し責任を有す、彼は院務全躰の総理にして院内に於ける無限の権力は彼の掌中にあり、彼は実に院内の船長なり、自由を以て世界に誇称する米国に於て如斯独裁者ありとは余輩東洋人の推測し能はざる所なり、彼は際内雇人百有余名の進退黜陟を自由にし得べし、彼は予算の許す限りは院領一千エークルの地面は如何に変更するも可なり、院内一千有余名の生命実に彼の手に在りと称するも(56)不可なきなり。
 院長に次で勢力あるものを院母となす、彼女は女子部の総理にして全院の母なり、彼女の権内に宏大なる洗濯室あり、裁縫室あり、衣類、靴、帽は悉く彼女の検閲を経ざるべからず、彼女の意に逆ふは危険なり、院長彼自身も時には彼女の譴責を蒙ればなり。
 院長の下に助手(医士)二名あり、院務を分担す、未来の院長多くは此助手より成る、故に薄給にして事務多端なるも忍んで十数年間を此卑賤なる位置に過すもの多し、現任の院長ドクトル、バー氏は余の在院の節は下役の一医員なりしなり。
 会計、書記、教員、等役員の最多数は婦人なり、惟り「クラーク」(番頭)のみ男子にして重に食糧品の調達に従事す。
 以上を称して役員となす、彼等に特種の待遇あり、膳部を異にし、各自房室を給せらる、以下を総称して「アツテンダント」と云ふ、普通病院の看病人の如きもの、監獄署の押丁と彷彿たり、彼等の職は直接に入院者に接するにあり、衣食の世話、寝室の気付け、所謂頭巓より趾尾に至る迄を注意す、故に普通教育を有するものにして此職にあるものは稀なり、多くは愛蘭人にして正直一方を除きては他に取るべきなきものゝ従事する所たるを見たり、看護人大凡七十名あり、入院者十名に付き一名の割合なり。
 以上は病院組織なり、然れども白痴其物が余の読者最多数の解せざる所ならんと信ず、白痴とは吾人の通常「馬鹿」と称するもの、欧洲に於ける古来の定則に依れば単数二十以上を算へ得ざるものを以て白痴となすと云へり、然れども是れ必ずしも然るにあらず、勿論数理的観念の欠乏は白痴の最大特徴なるに相違なし、其最下等(57)のものには四より以上を算へ得ざるもの多し。其最上等と称するものに簡易なる分数を解し得るものあり、三桁以上の徐算は余程困難なるが如し。
 仏国有名の白痴病専門家なる故エドワード、セグウヰン氏は白痴病の原因を以て神経機能発育の阻碍に在りとなせり、而して其阻碍たるや或は内部よりし或は外部よりし、或は聴、視、触等の特別感能に止まる事あり、或は神経組成全体に及び全身の不能を生ずるあり、故に白痴病なるものは其区域を定むる事甚だ難し、ユークリツドの第一書を自明理として解せしアイザツク、ニユートンより目すれば吾人普通人間も白痴患者の内に算入せられしやも計るべからず、普通智能を有せざる人……生来の愚人……人間の廃物……是れ白痴なり
 今入院者二三の状を記さんに、
 一はクラーレンス某なり、唖なり、年十六にして其智覚は五歳の小児に及ばず、彼の感覚は甚だ鈍なり、惟一感能の鋭敏傍人を驚かすあり、即ち彼の食慾なり、腹満ちて彼の顔貌常に喜楽あり、飯鐘響き渡りて人の食堂に向ふを見るや痴純なる彼に敏捷制すべからざるあり、彼は真正の製糞機械たるに過ぎず、彼を制するの道単に彼の食を減ずるにあるのみ。
 二はヲスカー某なり、唖なり、年十八九にして身の丈け十年未満の小児と見ゆ、彼の食慾はクラーレンスの及ぶ所にあらず、彼の食机に対するや先づ両手を以て自己の部分を喰ひ尽し、少しも之を咀嚼せずして呑下す、胃腑満つれば之を嘔吐し、嘔吐して後直に隣人の食に及ぷ、其猛烈の眼光余輩看護人をして戦慄せしむるに足る、然れども彼は全く愚ならず、彼に一の道楽あり、即ち女子の衣服より留め針を盗み来りて手の甲を刺し以て出血するを見て楽しむにあり、故に彼の看護人は常に目を注で彼の留め針を得ざらん事を勉む、然れども毎夜靴を脱(58)して床に就かんとするに際し彼の靴下を※[手偏+僉]するに四五本の留め針のあらざるはなし、余は数回彼が留め針を得るの術を傍観せり、彼は看護人の目を盗み白痴の女子にして最も軟弱なるものを目掛け、徐かに背後に至り、急に彼女の襟元を攫み、直ちに其胸間の留め針を奪ふなり、其手際の迅速なる、被害者の声を挙げて援を乞ふ時は獲物は已に小強盗の掌中にあり、彼は院中の魔鬼なりき、彼が食物渋滞の為め終に死に至りしや、余輩は摂理が早く彼の苦痛を去り又彼の同胞を累はさゞるに至りしを感謝したりき。
 三はハリー某なり、可愛の一少年、彼を知らざるものは彼を以て白痴と認むるものなし、彼の数学は分数の雑題を解するを得べし、彼亦音曲の技に富み、能く群童を導くの才あり、然れども彼は白痴なりし、彼は普通道徳を解するの力を有せざりき、即ち盗む事を以て悪事と信ずるを得ず、盗む事は罰を彼の身に来すを知るが故に看護人の目前に於ては盗まざるなり、然れども人目の達せざる所に於て一物の盗むべきあれば彼は盗むまでは止まざりき、彼の病は盗むにあり、彼は其悪事なるを解する能はず、彼は反つて盗むを以て悪事と見做す普通人間を疑ふて止まざりき。
 四はアンニー某なり、十三四の可憐弱思の一小女、其無害なる一も院内に止め置くの必要なきが如し、只見る時々人に面して彼女の心情を語るに際し、此世の悪に沈淪し人類が上帝に捨てられしを以てし、只未来の救済あるのみを歎ずるを聞くに及んでは、彼女自身が人類堕落の実証なるを以て聞くものをして坐ろに衣を沾さしむ。
 五はルーシー某なり、十六七歳肥満の女子、其面相は般若の化身と称するを以て最も適当ならん、彼女の両眼は釣り上りて西洋の画工の手に成りし日本人の眼の如し、彼女の口は裂けて耳より耳に至り、其稀薄淡色の毛髪は中央より別れて左右に垂る、殊に彼女の全躰より一種異様の臭芬の発するあり(余は日本の味噌の腐敗する臭(59)気なりと覚えたり、白痴患者に此臭気を発するもの甚だ多し)、彼女の気質亦忍ぶべからざるあり、彼女の心緒一たび乱るれば三人の看護人は彼女を制する能はず、其罵詈の声は全院に響き渡り、其醜状は見るものをして嘔吐せしむるに足る、世に醜婦てふものあれば彼女は是なり、然れどもルーシー全く不生産的にあらず、彼女の気分定かなる時は彼女は洗濯室に於ける有用なる助手なり、彼女亦た愛嬌なきにあらず、余は偶々新英洲より帰る、ルーシーは余を記臆せり、彼女は余を洗濯室の階下に擁して曰ふ「内村君よ余は君を思ふ久し、余は君に向て数回の書状を発せしと思ふ、君何故に余に返辞を賜はざりしや」と、余は曰ふ「ルーシーよ、余の不注意を免せよ、余は以来は汝の厚意を酬ゆる事を怠らざるぺし」と、ルーシー得々然たり、抱腹絶倒の内亦た無量の涙なき能はず。
 是れ入院者三四の例に過ぎず、如斯きもの七百一大家族となりて一院四棟の内に集まる、其日常の景況想ふべし、無限の悲嘆、無限の滑稽、院内亦一種異様の快楽なきにあらず。
 白痴院の目的は三なり
 一、是等神経機能発育の防阻せられし者を取り、特種の方法を以て此防阻を排除し、規定的発育《ノーマルデボレプメント》を促がすにあり。
 二、是等人類中の廃棄物を看守し、一方には無情社会の嘲弄より保護し、他方には男女両性を相互より遮断して彼等の欠点をして後世に伝へざらしむるにあり。
 三、是等社会の妨害物を一所に蒐め、一方には社会を其煩累より免がれしめ、他方には適宜の訓導の下に彼等をして其資給の一部を補はしむるにあり。
(60) 余は先づ看護人として本院に雇ひ入れられたり、余の職務は白痴二十二名を預かり、之に衣食寐浴の世話を与ふるにありき、而して余が白痴教育の原理に達せんが為めに院長は余をして独逸婦人某の助手たらしめ、彼女と共に最下級生(即ち単数四個以上を算へ得ざるもの)四十余名を分配して教授なさしめたり、余は明治十八年一月一日より此聖職に就けり、而して爾来三ケ月間は余の未だ曾て味はざる生涯の苦戦なりき。
 余は先づ教授上の実験より談ずべし、教授の課目は大凡左の如し、
 一、行状−重に静粛なるを教ふ、そは彼等は五分時と同時に平靖なるを得ざればなり、彼等をして十五分間手を組みて静粛ならしむるの教師は熟練のものと云はざるを得ず。
 二、色分け−青黄赤白黒の別を知らしむるにあり、白と黒とは容易に別つを得べし、然れども青と黒とは稍や難きが如し、紫と青の如き、黄と橙色《だい/\》の如きは最も難題なり、之を教ふるに色|紐釦《ぼたん》を以てす、彼等をして同色のものを一糸に繋がしむ。
 三、算数なり−最下等のものは四を超ゆる能はず、最上等のものは阻滞なしに二十迄算へ得るものあり、書物を取りて其四隅あるを知らしめ、男女を両別して互に英数を算へしむ、一時間を消費して先づ滞りなく十を算へしめたりと思ひ、尚ほ一時間を経て彼等を試むれば、八を五の前に置くあり、六を九の後に言ふあり、然れども疳癪は起すべからず、復た再び試みんのみ。
 四、指先の鍛練なり−釘を平板に穿ちたる穴に差し入れしむ、女子部に於ては針の穴に糸を通すの法を教ふるを以て専とす。
 其他概ね如斯、其気長の仕事たる察すべし、余の受持の級中余の特別の注意を惹きしもの二人ありき、一(61)は前述のオスカー某なる留針狂貪空漢なり、他はハリー某なる猿猴的小児なりき、余は非常の「インテレスト」を以て此児を研究せり、そは彼は猿が進化して人間となりしものにあらずして人間が退化して猿となりたるものなればなり、彼の面貌の猿猴的なるは一目瞭然たり、然れども彼の行為に於ては尚ほ一層其の然るを見たり、其床に就くや前方に身を鞠め、床衣を背部に纏ふを勉めて腹部に意を留めざるは慥かに猿猴的なり、彼の物を食するや先づ之を手にし、八方より之を眺め、然る後一意を之に注射して食するの状も猿猴的なり、而して彼の擬似的傾向に至りては彼の全く猿猴族の親類たるを証するに足れり。
 余は一日彼を試みんために余をして全く彼の自由に任じたり、而して彼が如何にして余を処する乎を見たり、彼は先づ余の頭を撫でて頻りに余の静粛にして彼の意に順ふを讃め立てたり、(余が常に彼に向て為すの状なり)、然る後に余を引立てたり、余は彼の命ずる儘に行けり、彼は余を伴ひて教場の附属室にして一日一回小児に分与すぺきパン菓子の貯へある所に連れ行けり、余に命じて曰く「汝夫の箱を取り卸ろせ」と、余は彼の命に従へり、彼は亦た大に余の従順を讃め立てたり、曰く「ユー、グー、ボイ」と、彼は夥多の菓子を彼の両|衣嚢《かくし》の中に取込みたり、而して余に向て曰く「汝に此一個を給す、温順《おとな》しくあれ」と、余は黙して彼の為さんとする所に注意せり、彼は面を余より反け、不知真似して菓子を取出し将に一々之を平らげんとせり、時に余は声を獅ワして日く「ハリーよ汝は盗賊なり、汝は之を食すべからず」と、彼は朱色を面に漲らして発怒せり、恰かも浅草の奥山に於ける猿に与へんとする菓物を転じて与へざりし時の状に少しも異なる事なし、余は試験を終りたり、怒れるハリーは沫を吹きながら彼の席に帰れり、而して彼の不気嫌は終日に渉りたり。
        *   *   *   *
(62) 余の看護的職務は以上の如く学術的の趣味を有せざりき、二十余の自己を顧みざる人間を取扱ふは決して安易の業にあらず、彼等は朝夕口を嗽ぐの要と快とを知らず(彼等大概十五歳以上なり)、故に傍に付き纏ひて一々口中を※[手偏+僉]査せざるを得ず、彼等は糞尿を床中に遺すも若し他人の注意を加ふるにあらざれば何日たりとも之に安ずるものなり、故に毎朝厳しく彼等の寐台を※[手偏+僉]めざるべからず、彼等は無理に浴中に投ぜらるゝにあらざれば何年間なりとも自己の垢に安ずるものなり、故に彼等を浴中に押し込み、刷子《ブラツシユ》もて彼等を擦らざるぺからず、而して無責任なる彼等にして看護人の不注意より疾病に罹るものありとせんか、其責は皆吾人の頭上に来りて彼等に来らず、朝夕房内の寒暖を調和せざるべからず、空気の流通に注意せざるべからず、蚤虱の征伐に従事せざるべからず、看護人は彼等の奴隷なり、彼等若し普通の病者にして身躰不自由の為めに病床にあるものならんか、吾人は能く彼等の為に忍ぶを得ん、然れども彼等は強壮なる一人前の人間なり、彼等の病は只に責任を知らざるにあり、於是てか真正の耐忍は要せらるゝなり、於是か論理的の徳義も宗教も無用に帰するなり、此場合に於て益を得しものは彼等にあらずして余自身なりき。
 院則として院長の許可なくして笞杖的の譴責を入院者に加ふるを得ず、故に如何に無礼を加へらるゝも、靴もて蹴らるゝも、唾吐かるゝも、小羊の如くに忍ばざるを得ず、責任を知らざるものを感化するに道徳的感化力を以てせざるべからず、殆んど無理相談と称して可なり、然りと雖も道徳的感化力は彼等に於けるも最大勢力なり、而して院規の此に出しものは確実なる経験に基きしものなり、費府の瘋癲院長故キルクプライド氏は彼の患者に接するに常に君子の礼を以てし、瘋癲者なるの故を以て彼等に対し虚言を吐きし事なく、亦た彼の配下に立つ役員雇人等に至る迄此規を固く守らしめたりと云ふ、白痴亦た然り、彼等の無智なるは彼等をして深切に対し無覚(63)ならしめざるなり。吾人一度彼等の依り頼む所とならん乎、彼等に優りて愛すべきものは余は未だ曾て知らざるなり、是れ白痴看護事業に於て希望の存する処なり。
 然れども彼等は容易に昵まざるなり、此故を以て本院の雇員にして三ケ月以内に解雇を願ひ出づるもの多し、そは彼等は未だ其苦のみを知て其快楽を知るに至らざればなり、然れども三ケ月以上を経て一たび白痴に愛せらるゝの快を知るに至らん乎、彼等は永々留まらん事を願ひて止まず、役員にして二十五年を院内に過ごせしもの尠なからず、看護人にして十年以上のもの亦た多し、戦争は最始の三ケ月なり、是れ白痴教育事業の皮切りなり。
 読者よ、一個の大和男子、殊に生来余り外国人と快からざる日本青年が直に化して米国白痴院看護人と成りしを想像せよ、彼は朝夕是等下劣の米国人の糞尿の世話迄命ぜられたりと察せよ、彼は舌も碌々廻らざる彼国社会の廃棄物に「ジャプ」を以て呼ばれしと知れ、而して彼は院則に依りて、軟弱なる同胞に対する義務に依て、彼の宗教其物に依て、抵抗を全く禁止されしを想ひ見よ、余は自身も白痴にあらざる乎を疑ひたり、余は狂気せしが故に酔興にも如此き業を選みしかと疑へり。
 一日日曜日なりき、余の当直日曜にして三十余名の最も御し難き白痴は終日看護の為に余に托せられたり、余は手を換へ晶を替へて此困難なる一日を消費せんと勉めたり、白痴を御するは羊群を導くが如し、全群列を正して歩を進むる時は一の難なるなし、然れども一頭迷ひて規道を失はん乎、全群の混雑名状すべからざるに至る、此日一児ありダニーと称す、其不敬不順延ひて全般に及ぼし、終日錯乱を極めて已みぬ、余の憤慨亦た常の如きにあらず、余は窃に彼を近郊の林中に引出し人知れずして鞭杖を彼に加へんと思へり、然れど日は安息日なり、怒るぺきの日にあらず、依て余は基督信徒の本性に立返れり、余は其日の混雑の責を余の身に引受け一回の断食(64)を行ふに決せり、依て全級に告げて曰く、
  今日のダニーの行状は厳罰を加ふるに価値す、然れども此日安息日に当り余は彼を罰するに忍びず、故に余は彼の為に今夕の食を断ちダニーを許さん
と、白痴の一群一人として余の言を信ずるものなし、彼等は平常の如く食堂に下り、満腹して帰り来り、ダヽをコネつゝ床に就けり。
 然るに賄方の役員余の皿に手の付き居らざるを怪み来りて病の故を以て食せざるやを問ふ、余は答ふるに其然らざるを以てす、此事院母の耳に達す、彼女は料理を調へて余の房に至り食を勧めて止まず、余は固く辞して受けざりき、余は終に夕飯なしに床に就きたり。
 翌朝に至り事院内の評判となれり、曰くダニーなるもの彼の看護人をして彼の為めに断食せしむ、不埒之より大なるはなしと、ダニー密かに余に来り其実なりしやを以す、余は其然るを答ふ、彼の窮迫今は言はん方なし、忽ちにして余は白痴の一群が会議を開くを見たり、依て近寄りて其議事を聞くに余とダニーとに関する件なりき、彼等の一人「眇目のジョージ」は議案を提出して曰く、
  我等の一人ダニーは自ら罪を犯して彼の看護人たる内村氏に断食せしめたり、我等は爾来如斯きものを我等の友と呼ぶ能はず、彼を院長に告訴し我等の級内より彼を放逐せんとするものは起立して同意を表すべし
と、全会一の異議なく総起立を以てダニー追放に議決す、彼等は「驢馬のヱベン」と称する一人を総代として議決の件を院長に奏せしむ、院長は直に之を受納し、即日ダニーを下級に落し、尚ほ一回の絶食を命じ、終に事の治まるに至れり。(米国人は白痴に至る迄事を議するに議院法に依る察すべし)余の此一回の絶食は余が在米四(65)年間のホームを造り出す基なりき、白痴の統御は今は全く自由なるに至れり、「ジヤプ」の名は全く止みぬ、余の命は悉く従はれぬ、余は命令の言のみを以て余の預かりし二十余の白痴を自由に指揮し得るに至れり。
 然れどもダニーと余との関係は爾来実に親密なるものとなれり、彼は毎朝余の寝台を掃はん為めに来る、彼は特別の注意を以て余の房を掃へり、彼は時々余に告げて曰ふ「渠の君をして断食せしめし事余は未だ忘れず余は未だ之を悔いて止まず」と、余は彼の行為の上に大変動の来りしを見たり、余と彼とは親友となりぬ、四年を経て余が日本に向て出立せんとするの前夕余は彼に会せり、余の告別の語に対し彼の心情如何に濃かなりしよ、一白痴、彼れ単一なる犠牲的行為に感動して爰に至れり、嗚呼白痴ならざる世間幾万の学生にして師を思ふに切なる彼の如きもの幾干かある。
 白痴教育の要は周囲の活動と快楽とに依り彼等の内に睡眠し居る精神を喚起するにあり、彼等の意志の微弱なる説勧的に彼等を訓致する甚だ難し、故に簡易なる手仕事あり、次序的機械運動あり、兵式躰操あり、音楽あり、智能発達の程度に徇ひ各々其特効あり、殊に手工教育に至りては其効益最も著し、故に白痴院なるものは病院又は学校と称するよりも白痴職工場と称する方却て適当なるが如し。
 女子部に於ては教ふるに普通西洋洗濯、簡易なる裁縫、庖厨の事を専とし、男子部に於ては靴の修繕、箒、毛褥の製造、簡易なる指物細工、普通農業等なり、入院者総数七百名にして内三百名は何れにか多少の職を採るを得べし、而して是等社会の妨害物も適当の指揮の下に使役すれば院内諸般の細事調達の外に一ケ年三千弗以上の収入を来たし、彼等を維持する社会に対して同額の返礼をなしつゝあり。
 余は出入り四年間を白痴院に消費せり、而して得難きの利益は余に与へられたり。
(66) 一 痴教育は余に教育の原理を伝へたり、其精神、方法は是等下劣の学生の薫陶に由りて余に指明せられたり、即ち教育の精神とは真実と耐忍と勉励とを以て躰中に秘蔵せられ居る心霊を開発するにあり、教育の目的必ずしも学生に衣食の道を授くるにあらず、劣を優となし、欠を完に進め、愚に注入するに智の幾分を以てするにあり、黒と青とを弁じ得ざるものをして終に之を識明し得せしむるに至りし教育上の功績は、普通学生に抛物形と双曲線形の別を識らしむるに優りて大なり、有名なる教育者ジエームス、ビー、リッチヤード氏は満壱ケ年を消費して一白痴に「ネール」(釘)なる一語を伝へ得たりと、而して教師の歓喜、父兄の満足、教育社会の賞讃は如何に大なりしや、教育事業にして学生を既定の標準迄進むるにあらざれば功を奏せざるものと見做すは誤謬の最も大なるものなり、教育の目的は進歩にあり、然れども進歩の度合は学生各自の特性に依て異なるなり、此単純なる理を解せざるが故に世に穎才と称するものを吹脹して誇大ならしめ、愚鈍なるものを圧抑して失望せしむ、古より識者が批難して止まざる賞誉の害は全く爰に存するを知らざるべからず、優勝劣敗主義を以て学生進歩を促すの最大勢力となすが如き教育者は未だ教育の大任の何処に存するかを知らざるものなり。
 教育の秘訣は至誠にありとは何人も能く唱ふる所なり、即ち法令に依るにあらず、学則に依るにあらず、権威に依るにあらずして之に従事するものゝ至誠赤実にあるなり、嗚呼、此言、演説に吐露せられ、論文に筆せられ、教育を耳にし口にするものは之を唱道せざるものあるを聞かず、然るに十九世紀今日の教育は至誠に最大価直を置くものなる乎、若し然りとすれば何ぞ教育に関する法令の煩はしきや、今日の教育は機械的にして法則的にして兵隊的にして模式的ならざるなきか、教育の秘訣は至誠なりとの大義は余は米国白痴院に入て始て学びしなり、其前之を知らざりき、其後之を見し事なし、至誠若し魯鈍彼等が如きものに貫徹するを得ば況してや普通感覚を(67)省は宜しく白痴院を設立し、之に堪ふるを以て教員の一大資格となすべし、教育事業の革新此時を以て まらむ。
 二 白痴教育は社界学上大問題を解析しつゝあり、罪悪問題なり、監獄間題なり、政治的に、哲学的に、宗教的に、是等難問に最後の判決を下すものは白痴教育ならざるべからず、人の罪行は必ずしも彼の意志の結果なるやとは近世の犯罪学者《クリミノロジスト》が疑て止まざる所なり、彼等の極端なるものは已に罪悪を病疾の中に組入れたり、余は已にハリー某の白痴なる所以を述べたり、即ち彼の生来の性は物を盗むにあり、若し彼が如きもの盗を働く時は社会は彼を罪悪人として取扱ふべきや、堕胎せんと欲して終に成功せずして生れし児は成長すれば殺人罪を犯すもの多しと、彼の罪は彼自身に帰すぺきか、又は堕胎を試みし彼の母に帰すべきか、有名なる米国ヱルマイラ監獄署長ブロックウェー」氏は長く入獄者を※[手偏+僉]して彼等に幾何的感念の欠乏を認めたり、世に数理に疎き人あるも社会は之を罰せざるなり、義理に疎きも若し天性なりとせば社会の之に対するの所置如何、貪慾発怒殆んど禽獣視せられし人が外科医の刀刃を以て脳骨中に突出せし一骨片を鑿除せしが故に善人に立至りしの例は仏国にありき、彼の貪慾は道徳的と称すべきか、医学と倫理学とは緻密なる関係を有す、未来の社会学と政治学と道義学と宗教学とは人身究理の堅固なる土台の上に基礎を定めざるべからず。
 故に白痴教育は吾人に宥恕と寛容とを教ふるものなり、吾人の欠点にして悉く吾人の意志の下にあらざるを知らば吾人は之を裁くに宥恕ならざるを得ず、若し罪悪は其原因如何に関せず、制裁と懲罰とを要するものなりとするも之を罰するに当て吾人に無量の推察と憐憫なかるべからず、罪を悪むの念は之を避け得べしとの念より来り、罪若し疾病の類なりとせば是れ悪むべきものにあらずして寧ろ憐むべきものなり、而して愛憐の念なき懲(68)罰は害ありて益なし、悔改を目的とせざるべからざる監獄制度にして之を執行するものに愛憐の念なしとせん乎、国家は其罪人を頑化しつゝあるものなり、白痴院亦た監獄官吏の最善養成所と称せざるを得ず。
 三 我国人は欧米人を称して貪慾人種と云ふ、或る点より観察すれば此名称彼等に最も適切なるが如し、彼等を市場取引の際に※[手偏+僉]せん乎、彼等は実に利慾の奴属なり、彼等を其教会に於て探らん乎、偽善の標本なるが如し、然れども彼等を彼等の有する無数慈書院に於て観察せよ、彼等は君子にして基督教信者なり、彼等の最善は是等建築物の壁内に於て顕はるゝものなり、彼等の慈悲嚢は我等の想像に越えて闊大なり、余は一の紹介状を有せずして褸衣単身彼等の門を叩けり、而して彼等の余を過する何ぞ夫れ慇懃なりしよ、而して是れ余一人に対する接待にあらざりしなり、印度人なり、支那人なり、暹羅人なり、彼等に来りて余の与かりし待遇に接せざるものはなかりき、山上に一村落を造り、七百の無辜の白痴と一百の慈善家が一家団欒の和睦の内に共に一生を送りつゝあるの景況を想ひ見よ、之を天国と称せずして何とか言はん、米国威力の淵源は是等慈善院にあり、其首府の倉庫に堆積する毎年の剰余金、是れ鰥寡孤独を省みざる民の有にはあらざるなり。
 慈善院に於ける最も幸なる時は「キリスマス」なり、是れ歓喜と涙の時節なり、幾百の貧児は分外の贈物を夢想しつゝあり、而して米国の社会は彼等を思ふ善人に乏しからざるなり、告げず問はずして贈物は輸送し来るなり、一婦人は書を寄せて曰ふ、
 小婦は一児を有せり、年の始めよりキリスマス祭に於て彼に晴衣を着せんが為に些少の金を醵しつゝありし、然るに神は三週間前に彼を取り去り賜へり、我児は今は青山の下に眠りぬ、醵金は今は彼に要なし、故に今之を閣下(院長)に送る、願くは閣下の保護の下にある父なき、母なき小児に贈れ、]婦より」(69)
院長ドクトル、ケルリン氏は非常なる人物なりき、若し彼をして我国に在らしめん乎、第一等の警視総監を作り、市民の帰服敬慕する所ならむ、彼をして県知事となさん乎、良千石彼に越ゆるものはなかるぺし、彼は能く洲会議貝を動かし彼の事業の為めに年々莫大の支出をなさしむるの技を有せり、彼は豪富の門を叩き、終に彼の保護者たる可憐の児童の為めに永く其金嚢の口を引絞る事能はざらしむ、彼は同時に七百の白痴の父なり、彼は一々彼等の名を記臆す、彼等の内愁を彼に訴ふるものは一人として聴かれざるはなし、彼等に物足て彼は足れり、清潔無垢の衣服を着し、健全なる面貌を以て七百の白痴軍が彼の前に整列する時に彼が家長的の豪気を以て彼等を※[手偏+僉]閲する時の彼の顔の美はしさよ。然れども彼の「アムビシヨン」は一山の白痴院を以て満足するものにあらざりき、彼はペンシルバニヤ洲に存在する九千の白痴を悉く彼の翹翼《つばさ》の下に庇保するの希望を有せり、彼の一生六十年は此目的に向て進めり、彼が三十歳の時院長となりし時は僅かに百人に足らざる入院者なりしかども本年一月彼が今世を去るの時は全院の人口千百名に登りたり、然れども是れ彼の目的の一小部分なり、彼は白痴を社会より根絶せしめん事を望めり、而して其法は彼等を全く社界より遮断するにあり、故に一大白痴殖民地を起し、先づペンシルバニヤ洲の九千を移し、広く其制度を世界に知らしめ、万国をして彼に則り、社会の此災害を全然排除せん事を勉めたり。
 彼は常に余に教へて曰く「余の愛する者よ、此一事を記臆せよ、余の信ずる所に依れば神は一人も無益なる人間を造り賜はざるなり」と、是れ実に彼の事実の秘訣なりき、十五歳以上の者にして世は如何に不要物と見做すと雖も彼の麾下に来るときは生産的人物とならざるものは殆んど稀なり、彼は二人の白痴に麺麭粉を捏《ね》るの法を(70)教へ込みたり、而して全院八百の人口は彼等の手製に係る麺包に依りて食する事爰に十数年なり、彼等は粉を捏るより外に一事を知らず、然れども此一事に於ては彼等は最上の専門家なり、彼は亦た一人の白痴にして無識無芸なるものを取り、之に二頭の驢馬を預けたり、名けて驢馬のヱベンと云ふ、ヱベン今は寝食を驢馬と共にし、両者相親んで離るぺからざるに至れり、驢馬を御するの術に至つては近隣ヱベンに及ぶものなし、其日常野に出で業を助くるに於ては彼の功績決して小少ならず、或は古靴の修繕なり、或は豚群の飼育なり、院内のもの各自天職のあるありて、其整理は深き思慮を要するものゝ外は全く是等魯鈍の手に依て成れり。
 故に院長の遠望は白痴殖民をして全く自給独立ならしむるにありき、彼は此点に関しては非常の確信を抱けり、若し彼の政府にして彼の要求に応じて充分の田畑と建築物とを以て彼に任せば、彼は九千の白痴を率ゐ、社会に依らずして独立すべしと主張せり、自給的白痴殖民は彼の終生の希望なりき。
 彼に尚ほ一つの希望ありき、即ち東洋の日本に於て白痴教育事業の起らん事是なりき、余が彼を訪ひし時早や已に此希望彼の心中に浮び居りしにあらざるなき乎、彼は常に余に告げて曰く「汝の余に来りしは神が導きしなり」と、而して余が辞して故国に帰りし後と雖も常に彼の希望を余に伝へて止まず、惟り憂ふ、余の不肖なる今日に至るも彼の意に酬ゆる能はざるを、彼は日本国に彼の理想の行はるゝを見ずして死せり、只僅かに教育博物館内彼が曾て我文部省に寄送せし彼の白痴院を写せし真景一面が壁上人目の達し難き処に懸りあるのみ。
 人は曰ふ今は国民的精神の発揚すべき時なりと、天下の志士は国威振張の策を講じつゝあり、而して彼等は富の増加、兵備の整頓を以て彼等の目的を達せんとしつゝあり、余輩は彼等の企図を喜ぶ、然れども慈善亦国権たる事を彼等は忘却すべからざるなり、慈善の功用は恵まるゝ者よりも恵むものに於て最も多し、穆たる君子の風(71)なり、優たる兄弟同胞の和なり、凛たる猛者の勇なり、是れ吾人が弱者を救はんとする時に当て吾人に来る美徳なり、議場の舌戦之を永遠まで打続くるとも国民の和合は来らざるなり。
 何故に世に貧者と弱者と痴者の多きや?
 社会が之を救助するに依て相燐推察の情を発揚し、肉慾的の喧争を去り、君子的の共同団結に進み、以て人類全躰が其理想の佳境に進まんが為めなり。〔以上、8・23〕
 
     新英洲学校生涯
 
       其一 入校
 
 白痴院に留ること八ケ月にして予は其組織精神整釐の一斑を学ぶを得たれば、尚も予の流竄の区域を拡めんとし、新英洲に遊ぶに決せり、予の別を院長に告げんと欲するや、彼は笑て予の行を送て日く、
  汝最早や余の深切なる待遇に安ずる能はざる乎、余の見る所を以てすれば、地球面上平均一平方哩内に含有さるゝ利慾心の分量は新英洲を以て第一とす、汝之を心せよ、然れども余の門戸は常に汝の為めに開かるゝなり、汝漂流、家なきに至らば必らず我家を思へ
と、予は祝福を以て彼に送り出され、心大に安んずる所ありて新英洲に至れり。
 予は頻に大平洋の水に足を洗はん事を思へり、且つは予の道楽学問なる水産学を究めんが為めに予は 馬州の東端なるグロスター市に至り、三週の閑日月を其旅店に費せり、然れども先づ滞留の資を得んが為に「日本魂」と題する一篇を草し、之を一雑誌に寄送し以て僅に乏しからざるを得たり。
(72) 馬州の東岸勝地多し、グロスター漁港、サレムの市街、ネハント湾とベバリー圍、渠の「ノルマンの悲歎の岩」は新英洲文学より離るべからざるもの、此処に静居して霊肉共に健ならざるを得ず、大西洋岸に英気を呼吸する事三週日にして予は秋風立つの頃コンネチカット河岸アマストに抵れり。
 予のアマスト校を撰びし理由は一にして足らざりし、新英洲其広袤日本の半に過ずと雖ども有力なる大学を有する十有四校に達す、コンネチカツトの一流其上流にダートマスあり、下て馬州に入れば西岸遠からざる処にウヰリヤムスあり、東岸六哩翠峰に囲まれてアマストあり、下流コンネチカット州に入て西岸にツリニテー、ウエスレヤンの二校聳へ、其吐口より遠からざる処にヱール学院あり、一流南下七十里、七大学を其両岸に擁す、学事の旺盛羨むに堪へたり、尚ほロードアイランドにブラウン校あり、ボストンの近郊にタフト、ケムブリツヂあり、メーン州にボードインあり、バーモント州に仝州大学あり、新英洲に遊学を試みんと欲するものは各自の意向に従ひ其欲する所の校を撰ばざるべからず。
 無資の予勿論己の欲する処を撰ぶの権なし、然れども二校は予の撰定の為めに供せられたり、即ち「ケムブリツヂ」なり、「アマスト」なり、二者孰れに至るとも応分の援助は予に約せられたり、予は二校の優劣に就て多分の思惟を凝したり、而して遂に「アマスト」に決せり。
 純粋智識にして若し予の欲する所ならん乎、予は勿論「ケムブリツヂ」を撰ぶぺきなり、其規模の大にして其機関の整頓せる、其社交的勢力の強大にして其交際界の広闊なる、米国大学中「ケムブリツヂ」の右に出づるものなし、智を慕ふもの、名を好むもの、交を求むるものは「ケムブリツヂ」を撰びて他を省みず、米国青年の華は彼処にあり、富者権者智者才子の集合所、重に当世人士の眼を注ぐ処なり。
(73) 「アマスト」は全く其趣を異にす、地は僻、校は大ならず、其学風は古式を重んじ、突進を忌んで漸進を守る、其地翠巒繞囲の中にあり、南にホリヨークの火山脉巍々として列するあり、東はベラムの一脉蜿々として横たはるあれば、北にトビー「糖塊」の二嶺聳饗へ、西は河を経てベルクシヤ脈を望む、校は天造の円形劇場の中心にあり、美麗なる自然は其四面を護り、滔々たる濁流社会の中に此一仙郷を擁するが如し、市街雑沓の地を去る事遠く、校は周囲を支配して周囲は校を支配せず、所謂「カレツヂタウン」(校村)なるものは其成立を此肯の存在に帰し、校風四近を靡かして村落自から君子の風あり、「アマスト」の重んずる所は寧ろ徳にありて智にあらず、主義にありて事業にあらず、鍛錬にありて識量にあらず、人を離れて自然と自然の神とに交はるにあり、拠典《オーソリチー》に頼らずして独創の見を促がすにあり、高潔なる主義を慕ふもの、儼然たる独立を愛するもの、倹を好むもの、峻を悦ぶものは来て此校に学ぷもの甚だ多し、彼国青年間に行はるゝ諺に曰く
  「ケムブリツヂ」にある四年にして壮士演劇を学び、後「アマスト」に入り人となりて学位を受くべし
と、以て二校の赴く所を知るぺし。
 予を「アマスト」に牽付けし理由は之に止まらざりしなり、予は其校長シーリー氏に対し夙くより非常の敬虔を表せしものなり、未だ本国に在るの日予は屡々彼の著書に接し、之を誦読し之を愛吟するを以て無上の快を感ぜしものなり、彼が嘗て政文部大臣森有礼氏(時に米国全権公使)に送りし彼の日本国の教育に関する意見は早くより予の同情を奪ひしものなり、彼の進化論に対する持説は早くより予の注意を惹きしものなり、予は未だ彼を見ざるに已に業に彼の謙遜なる弟子の一人なりき、此人に会し此人の薫陶に与からんと欲するの念は予が未だ石狩の支流に釣を垂れし時に起りし予の願望なりき、今や思はずして予の敬慕の師に接し得るの機会を得たり、幾(74)多の便益を放棄するは予の決して辞せざる所、予に取ては彼に接するの幸福は凡ての幸福を得るに優れり。
 秋風已に北面の一枝を染め出せし頃予は漂然アマストに至れり、寂寥たる一夜を旅館孤燈の下に過し、翌朝直ちに予の尊師の門を叩けり、身は日本製の無意気なる洋服を纏とひ、衣嚢を※[手偏+僉]すれば七片の銀貨は予の此世に於ける凡ての所有品として珊々たるのみ、ギボンの羅馬史五冊を両手に分握し、眇然たる一小野蛮人、学と徳とを以て文明国に隠れなき一紳士を彼の寓居に訪ふ、階級的社会に涵養されし予は如何でか基督教的君子の風を知らんや、本国に在て予は数回貴人の門を叩ひて斥けられたり、日く「事務多端」、曰く「来客あり面晤し難し」、曰く「姓名と所用を聞かん」、縷衣を纏ひし一貧生が大学綜長の門を叩く、之をして予の本国に於てあらしめん乎、予は彼を訪問するの男気を有せざりしならん。
 予は応接間に導かれたり、暫くにして一紳士の入り来るあり、彼を見挙ぐれば齢已に耳順に近き老君子、躯幹大なるも別に威光あるにもなく、鼻高くして碧眼の一対深く眼腔内に潜むあり、眼光人を射るにあらずして眼球は推察涙の中に浸され、予は一見して彼は学者にあらずして人類の友なる事を悟れり、彼の温暖なる握手は言ふぺからざるの真情を漂流の異邦人に伝へ、瞬間にして予は一種異様の安逸を感じ、予をして彼を師と仰がんよりは友として交はらんとするの念を起さしめたり、彼は凡て柔和にして凡て謙遜なりき、基督教的の君子とは予は此時始めて肉眼を以て見るを得たり、後曾て聞けり、我国の文部官某始めて此人に会し、後人に告げて曰く、
  シーリー氏に会するは厳冬去て後に春風に会する感あり
と、然り暖和は彼の特性と称せざるべからず、彼の頭脳は大なりと雖ども彼の心臓の高且つ大なるに及ばず、彼に一面するは百巻の基督教証拠論を読むに優りて功験あり。
(75) 静粛なる談話半時ばかりにして予は彼に導かれて校舎に至りぬ、無資の漂流人如何にして高価を以て有名なる新英洲学校生涯を始むるを得んや、授業料は一年に百十弗なり、房室の借料は最下等にして三十五弗なり、食料は一週日三弗なり、室内の家具を購求せざるべからず、衣服時には整へざるべからず、洗濯料あり、書籍代あり、一ケ年金貨三百円以上の供給なきものは身を斯校に委ぬるの権利なきものなり、然るに東洋の一貧生、七弗の銀貨と羅馬史五冊とを以て此多費なる生涯を始めんと欲す、無謀なりし故に彼は大胆なりしなり。
 綜長は如何の方法によりしか予に二年間の授業料を免じ無賃にて寄宿舎の一室を予に貸与すぺきを伝へたり、彼は舎監某に命じ、寝台一脚布団二枚を整へしめ、予をして先づ旅館の苛税より免かれしめたり、予に与へられし房室は北寮五階楼上の一室、曩に同胞小矢野某の住せし処、絨氈は已に剥奪されて床の裸面夥多の釘痕を残し、家具として存せしものは抽斗已に去りし机一台と四隅一脚を欠きし椅子一個なりき、予は自費を以て洗面盤一個と洋燈一台を供へ、ぺンあり、紙あり、日本魂ありて、新英洲学校生涯は素められたり。
 
       其二 課目
 
 彼国に所謂「カレツヂ」なるものは我国に未だ其例なし、是を高等普通学校と称するも可ならん、略ぼ我の高等中学校に類するものにして其一段高尚なるものなり、専門家を養成するは「カレツヂ」の目的にあらず、然りとて之れを通過すれば独立生涯を創むるに難からず、「カレツヂ」の主眼は円満なる市民を養成するにあり、故に学課は汎く諸派に渉り、之を修むるに依て諸学相互の関係を了し、専門家たるに先ちて広闊なる智識の土台を造るにあり、「カレツヂ」的教育を称して liberal edducation(宏闊なる教育の意)と言ふは是に基けり。
 今最近の年報に依りアマスト大学の課目表を挙ぐれば大略左の如し、
(76) 第一年級
  希臘文学 Lysias, Herodotus, Homer.
  拉典文学 Cicero, Livy、Horace.
  数学 幾何、高等代数、三角術
  独、仏、文学
  修詞学、能弁術
  生理学
 第二年級
  希臘文学 Euripdes.Sophocles, Homer.
  拉典文学 Plautus, Tacitus, Pliny, Cicero.
  数学 解析幾何、微分、積分
 ×独、仏、文学
  修詞、能弁衝
 ×化学、解剖、生物
 第三年級
  希臘文学 Homer, Aristophanes, Theocrits, Plato, Thucydides.
  拉典文学 Seneca, Quintlian, Tacitus, Persius, Juvenal.
(77)  数学 クワタルニオンス
  独、仏、学
  伊太利語
  論理学
  歴史
  理化学
  生物学
  礦物学
  英文史
 第四年級
  希臘文学 Plato, AEschylis, Aristotle, Pindar.
  拉典文学 Lucretius, Cicero, Terturian, Justinian.
  梵語
  独、仏、伊、語
  英文史
  歴史
  哲学
(78)  倫理学
  経済学
  政治学大意
  万国公法大意
  理化学
  生物学
  星学
  聖書文学
  討論
 学課に義務科あり、自由科あり、前者は各生必ず経過するの義務あるもの、初め二ケ年は自由科は二三科に過ぎず(×を以て標す)、終り二ケ年は自由科のみにして義務科なし。
 「カレツヂ」的教育は重きを希臘拉典の両文学并に数学に置く、是に深遠なる理由の存すればなり。
 「カレツヂ」教育の主眼は円満なる市民の養成にあり、而して文明国の市民として希、拉、古文学の教育は左の肝要なる利益を有す、
 一、欧羅巴文明の淵源を知るにあり、其宗教を除ひては政治、文学、美術、習俗は悉く源を希臘羅馬の両文明に発せり。
 二、最も公平なる批評的観念は古文学の攻究より来る、其遠く時事問題を距るが故に吾人の之を討議するに(79)当て偏執的思想を挾むの憂なし、英の憲法学者スタツブス氏が彼の学生に向て十六世紀以後の歴史を講ぜざるは全く此考古的の観念に基くと云ふ、古典的教脊を欠く人は超時代的の観察甚だ難し。
 三、尤も健全なる「美」の観念は希拉両文学の攻究より来る、是を絵画彫刻の術に於けるも然り、是を文学に於けるも然り、是を日常の挙動に於けるも然り、科学は自ら殺風景なり、希伯来的宗教に雅訓あることなし、希拉両国民のみが思想事物の華麗(grace)文雅(elegance)を教へたり、故に所謂 Culture(修文)なるものは是を希拉古文学に求めざるべからず、正しく之を謂へば希拉古文学の教育を受けざるものは未だ野人なり、読者若し余輩の言を疑はゞ少しく斯学を覗ひ見よ、其吾人の醜を摘示して吾人に最美を慕はしむるの効果は歴然として明かなり。
 故に学者(Scholar)たらんと欲せば、批評家(critic)たらんと欲せば、君子(gentleman)たらんと欲せば、希拉古文学の攻究は最大必要なり、而して教育の目的たる啻に実際的人物を作るにあらずして、常に専門家の製造にあらずして、広量ある批評力、温雅なる風采、聡敏なる観察力の涵養にあれば、希拉古文学の攻究は決して忽がせにす可らざるものなり、「已に死したる言語」なるの故を以て斯学を怠るは皮相見の最も甚だしきものと言はざるべからず。
 古文学の攻究は人をして人情的たらしむ、然れども彼の理性は科学の攻究によりて発達す、而して数学は科学の原理にして其土台なり、数理的観念は科学の精神なり、人を知らんと欲せば古文学に拠らざるぺからず、自然を探らんと欲せば数理に倚らざるぺからず、而して健全なる智能の発達は人と自然とに関する健全なる智識より来るものなれば数理学の教育的個値は古文学に譲らず、古文学と相併んで数理学の教育上肝要なるは後者は自然(80)を吾人に開くの鑰なればなり。
 「カレツヂ」教育の半ば以上を数理学并に希臘拉典の両文学に消費するの理由斯の如し、教頭シーリー氏屡々余輩に告げて日く“Amhest aims to teach its student how to think for himself.”(アマスト大学は其学生に独り攻究するの術を教ふるを以て目的とす)と、ウヰリヤムス大学前教頭マーク、ホツプキンの説に依れば、彼の理想的の学生は十五分間留め針の頭を見詰め得るものなりと、即ち注聚的注意(Concentrated attention)に堪へ得るものなり、恰も理想的の兵士とは寒暖曝雨に能く堪へ得るものを謂ふが如し、教育の目的を以て事実の暗誦にありとするは誤謬の最も甚だしきものなり、吾人は学問せんが為めに学校に行くにあらずして学問する法を学ばんが為めに行くなり、学校を以て事実的智識の問屋と見做し、此に学ぶを以て学問の仕入をなす如く思ふ人あり、如斯人には古文学は勿論無益なり、数理の学亦た深く究むるの要なし。
 第三年級に入て課目は悉く自由科(Optional studies)となり、学生各其望む所に従ひ一週十四時間以上十八時問以下の受業を要求さる。
 自撰科を設くるの要と利は左の如し、
 一、専門大学に入るの前備をなすにあり、而して近来専門学課の数非常に増加せしに徇ひ其の之に応ずる為めの準備も亦従て多端なり、故に我国に於けるが如く法、医、文、工の諸部に別て高等予備学校を設くるも専門大学の要求に応ずること能はず。
 二、「カレツヂ」は専門大学に於ける事業を軽減し後者を以て専門一途の攻究に従事する処たらしむ、例へば史学を専門とするものは哲学を専門とするものと共に大学に入りてより再び共同的学科を修むるの要なく直ちに(81)其特撰の学科ににのみ從事するを得べし、即ち「カレツジ」は我邦の大学制度より其事業の半を削りしものなり。
 三、「カレツジ」は其物自身にて完全なる学院なれば之を卒ふるを以て実際的生涯を創むるを得べし、尋常学校の教師たらんと欲するもの、新聞記者たらんと欲するもの、其他健全なる常識に加ふるに各自意向の専門に就て土台的智識を以てせんとするものは「カレツヂ」教育を以て終るを常とす、「カレツヂ」は高等普通学校にして普通大学なり、而して自由科は専門大学の性質を之に供するものなり。
 四、自由科は学生各自天稟の技量を発見錬磨するの区域を広からしむ、自由撰定の為めに供せられし学科は総て二十余課目、之に義務科を加ふれば三十課目の多きに達す、宏闊此の如き智識的空気の中に浸されて学生の潜伏力の発顕発達せざるはなし、「カレツヂ」を通過して吾人各自の専修すぺき専門学課の撰定最も易し、「カレツヂ」は実に吾人各自の天職を指定するものなり、専門の誤定は実に狭隘なる普通教育より来る。自由科の設立勿論教師の多数を要し徇て経費の増額を要す、且又学生一般の程度にして高尚なるにあらざれば之を設くるは反て害あるべし、然れども資の之に耐ゆるあり、学生の自撰力の頼るべきあれば自由科は功を奏する最も多きが如し。
                          〔以上、12・3〕
 
       其三 課業
 
 予は本国に在て希臘拉典の両語学を修めざれば新英洲カレツヂに於ける正科を践むの資格を有せざりし、去りとて数学其他の普通学科に於ては再び之を此処に重複するの要なければ最下級に入るの無益なるを知れり、依て予は撰科生として第三年級に入れり、夫の賤むべき撰科生、級の厄介物、学生の半人前、業を卒へて卒業生にあらず、学んで学位の冀望なし、人生莫作撰科生、是れ晩学者が已むを得ざるに出る一途なればなり。
(82) 然れども予の日本人なる事と、教師の推察心に富む事と、級友の友情に厚き事とは余をして此耻辱を感ずる事甚だ徴なからしめたり、否な、暫時にして予は例外生たるの感を忘却したり、予は本科生同様の制服を着し、彼等の有する特権にして一として予に許されざるはなかりしを以て何人も予を目して撰科生となすものなきに至れり、予は基督教国の風俗として此一事を歎美して熄まず、夫の己れ本科生たるの栄誉を以て世に向て誇らんが為め、撰科生を常に厄介物視し、彼を卑下し、彼に永久の耻辱を感ぜしむることを以て自ら快となすが如き、余輩は之を評するに言なし。
 予の初年の学課は史学独逸語聖書文学の三科なりき、一週各四時間、他に躰操四時間ありたり、予は之に加ふるに仏蘭西語并に希臘話を以てし、以て予の学生たるの大欠乏を補はん事を努めたり。
 史学の事たる是れ本国に在るの日も予の決して観過せし学課にあらず、普通日本童児の誦読すべき支那日本の歴史類にして予の通読せざりしものはなかりき、英語を修めてよりは泰西の歴史は予の特愛の一課となり、パーレーの万国史の如きは予の通読殆んど十余回に及び、ギゾーの文明史は八回復読し、グードリッチの英国史 ロードの欧洲近世史の加きも幾回か予の全注意を惹起せしものなりき。
 然れども予は未だ史学の何物たるかを知らざりし、歴史的事実は絵画の小児に於けるが如く個々独立の印刻として予の脳裡に存せり、然れども一度び教授モース(Anson D. Morse)氏の教場に入て歴史的精神は予に吹入せられたり、死骨の如くに予の脳中に埋没せし歴史的事跡は今は一組織の下に整然列を為すに至れり、過去は今は活画として予の目前に浮べり、歴史は現世的趣味を有するものとして予に紹介せられたり。
 彼は第一回の講義に於て劈頭歴史の定義と目的とを述ぺて日く、
(83)  歴史は人類進歩の記録なり、此進歩を扶助せしもの或は之を妨害せしものが歴史的人物或は歴史的国民なり、チヤーレマンは文明の進歩を助け、アツラは之を妨げたれば同じく歴史的人物の名称を受くべし、国民に於けるも亦然り、其物自身にて完全なる国家あるなし、国民あるなし、国民の歴史は人類歴史の一小部分たるに過ぎず、国民は滅亡に帰するも歴史的に生存することあり、一国民興り人類全躰に対する其使命を尽して逝く、新国民起りて旧国民の後を嗣ぎ、旧文明に加ふるに其特質と所得とを以てし而して亦之を後進の国民に譲る、国民各々世界に供すべき寄贈物あり、国民は失す、然れども永久に渉るべき其印刻は決して消へず。
  歴史は過去の事跡の年代的配列、即ち事実の目録として考へられたり、然れども歴史の要は人類の発達を知るにあり、未来を感化せざりし事実は歴史的の価直なし、ナポレオンの言行の如きも今日の欧洲社界を感化せしものを除きては歴史的に価直あるなし。
 如何に平易にして如何に起題的《サゼツシーブ》なりしよ、是れ余に取りては実に歴史的新天啓なりし、日本を以て世界の中心と思ひし予、歴史を以て昔話の一種と思ひし予、英雄巨人の言行を学ぶを以て歴史の大目的と信ぜし予は此第一回の講義に参して長き迷夢より醒めしの感ありたり、予は直ちに予の無飾の室に帰り、新感激の失せざる前に予の三脚の椅子に寄り掛り、破れテーブルの上に教授の言を彼の単純なる英語にて其儘紙に写したり、モース氏の講義を筆記せしものは今は二冊となりて予の手にあり、是れ予の歴史的経典なり、予は史学の好味を創めて彼の教場に得たり、終生の快楽と慰藉とは斯くして予に供せられたり、エバルト、ミルマンに伴はれて宗教変遷の事跡を察し、モムセン羅馬の振起を談ずれは、ギボンは其敗壊を語り、ランカの健筆能く改革時代の豪気を写し、(84)モトレーの雄文新興国の精神を叙して余りあり、喜んで歴史を読み得るものは常にの快と楽とに与かるものなり、弱志男女と席を共にするにあらずして、道徳的危険を冒すにあらずして、父兄の財を浪費するにあらずして、常時活劇を観るの歓は予は予の新英洲学校に於ける歴史学教場内に於て授けられたり。
 
 独速語は予は教授リッチヤードソン(Prof. Henry B. Richardson)に受けたり、始めて彼に接して我国に於ける儒者の如き相を見る、然れども外面に老人むさく見ゆる彼は内心秋毫の邪気を留めず、予輩彼に就て学ぶ満二ケ年、予輩の課業怠慢に就て一回も譴責的言語の彼の唇上に顕はれしを見ず、彼は将励一法を以て彼の学生を導けり、予輩は終には彼の課業に充分の準備を加へざるを以て甚だ気の毒に感ずるに至れり、曾て東京なる大学予備門にあり、外国教師の下に学ぶに際して暗誦の不出来は碧眼先生の嚇怒を招き、毎日教場に出づる時は閻魔大王の前に引出さるゝが如き感ありて、戦々競々実に一日の平和を得る能はざりしを思ひ、彼も米人是も米人、天地も啻ならざるの差別あるを覚へたり、語学は数学に次ぎて最も乾燥無味なる学課なり、之を教ゆるに多量の堪耐を要す、教師の善悪は最も明白に語学攻究の際に識るを得べし、語学を面白く教へ得る教師は教師の職に堪ゆるものなり。
 予輩は Deutsch 氏の Colloquial German を以て始め二ケ月にして是を終れり、Brandt 氏の独逸文典之に尋ぎ、是れ亦た二ケ月を以て了る、此較的に博言学的に研究するにあらば意を言語の原理に留て其細目に及ばず、第二期に入りてレツシングの Emilia Gallotti を通読し、第三期に於てシルレルの Maria Stuart を究む、終り一年は全くゲーテ文学に消費し、殊にフハウスト劇は其多分を占めたり、僅々二ケ年間に独逸文学の大意を予輩に紹介(85)せんとするにあれば教授の苦心は察するに余りあり、故に彼は教場に於ける教授時間を以て足れりとなさず、秋冬の二期に於ては彼は彼の学生に供するに毎週一時間づゝの課業外時間を以てし、予輩より課業準備を要求せずして彼の指定せる独逸文学の講読に臨席せしめたり、是れ全く彼の好意に出て予輩は之に臨むの義務なしと錐も之に臨まざるものは殆んどなかりき、課業外時間に於て予輩に授けられしものは Hermann und Dorothea の愛歌と Wallensteins Tod の全編とにありき、学生を益せんとする彼の熱心は預想外の智識を予輩に供せり、教師の学生に忠実なる実に斯くあらまほし、身を一校に委ね置きながら職を校外の事業に求め、以て不利を受持の学生に来すが如き先生達はリ氏の行為に於て大に学ぶ所あるべし。
 ゲーテのフハウスト劇はリ氏の専門なりき、彼は真正なる独逸人の精神を感受し大詩人の名に対し殆んど崇拝的の専敬を表せり、故に彼のゲーテを評する時に或は予輩の賛成し能はざることありたり、然れども崇拝者のみが最も善く崇拝物の心を知るなり、リチヤードソン氏のゲーテ僻は彼をして最も善良なるゲーテ文学の述意者《エキスポネント》とならしめたり、三学期の長日月、彼はゲーテの弁護人として予輩の前に立てり。
 フハウスト劇は其れ自身にて智識的大世界なり、希伯来人の聖書を除ひて一巻の中に人事の凡てを尽せしものは此作を措て他にあるなし、是れ実に世界的聖書(Welt-Blbel)なり、是れ実に新紀元を報ずる暁鐘なり、是れ実に十九世紀の頼神なり、基督教的文明を人情化(humanize)せしものなり、世界の精神を弁護せしものなり、吾人は是れに依て人性の如何に憐れむぺきものにして如何に貴ぶぺきものにして如何に醜なるものにして如何に美なるものなるかを知るなり、フハウスト劇は吾人を人たらしむ、其益此にあり其害此にあり、吾人は(human)たるの大を知りて神(dlvine)たるの慾を棄つるに至る、人界の大をフハウスト劇は示せり、其作者は魔術家なり、彼(86)は羸弱罪深き人を以て彼れ自身に於て満足すべきものとして描きたり、妄信者を軟らぐるに偉大の功あり、衆生を導くに偉大の害あり、フハウスト劇に接して予は人として予の有する特権の大なるを悟て天祐の要を感ぜざるに至れり、ゲーテ彼れ自身が彼の読者に対するメフヰストーなり、予が単独自然と自然の神に向て、
   Erhabner Geist,du gabst mir,gabst mir alles,
   Warum icb bat! Du hast mir nicht umsonst
   Dein Angesicht im Feuer zugewendet;
   Gabst mir die herrliche Natur zum Ko※[ウムラウト]nigreich,
   Kraft, Sie zu fu※[ウムラウト]hlen, Zu geniessen; nicht
   Kalt staunenden Besuch erlaubst du nur,
   Vergonnest mir in ihre tiefe Brust,
   Wie in den Busen eines Freundes,Zu Schauen.
と叫ぶに対しフハウスト劇はメフヰストーの魔言を以て予輩の平和を破りて云ふ
   Habt ihr nun bald das Leben g'nug gefu※[ウムラウト]hrt?
   Wie kann's euchi in die Lange freuen?
   Es ist wohl gut,dass man's einmal probirt;
   Damn aber wieder zu was Neuen!
 此大著述を学び了して、泣て笑て評して論じて、世界的智識を探り終て、主人公フハウストの生涯はゲーテ自(87)身の称する durchi-stu※[ウムラウト]rmen たるに過ぎず、劇の発端に於けるフハウストの愁嘆は其結尾に達して予輩の発する愁歎の声なり、
   Habe nun ach! Philosophie,
   Juristerei und Medicin
   Und leider! auch Theologie
   Durchaus studirt mit heissem Bemu※[ウムラウト]hn.
   Da steh' ich nun, ich armer Thor,
   Und bin so klug als wie zuvor;…………
 予は予の尊敬する教師と説を異にしてフハウスト劇を読み了りたり、予は彼に対して言語外の感謝なき能はず、予は世界の精神を知れり、其美と妙とは爾来再び予を欺かざるべし。
 予が校を辞する前リ氏は予に命じて革政者ルーテルの青年時期に関する歴史的|単記《モノグラグ》を英文に翻訳せしめたり、三ケ月の勤勉に依て予は之を訳了して彼に奉ぜり、彼の歓喜と満足とは譬ふるに物なし、彼は云ふ「余の日本の学生是を為せり」と、予は実に彼の級中の最難物なりき、彼の特別の誘助に依るにあらざれば予は滞りなく彼の受持の学課を了へ能はざりしものなり、彼の歓喜は彼の労力の結果を表せしもの、予は漸愧の至りに堪へず、予が校を去てより後三年、予の知人某なる日本人が彼を訪ひし時彼は尚ほ予の英訳文を誇り居りしと、鈍愚予の如きものを教導し、其少しく進歩せしを見て喜悦誇て猶ほ未だ止まざるが如き、是を師情の極と称せずして何をか称せん、恩授の劇作今茲にあり、日常之を友とするに当て慈師の厚情を懐ふ切也。
(88) 聖書文学は特別科として予一人の為めに設けられたり、教授神学博士フイールド(Prof.Thomas P. Field)氏に閑余の時間ありし事と予の異邦人にして基督信徒たりし事が此特権を予に供せられし原因なりと知られたり、是れ余の請願に出でしに非ずして教頭と博士との相談より成りしなり、学生一人にして教授一人を持つ事なれば予に取りては無上の特典と云はざる可らず。
 教場は博士の家に於ける彼の勉強室なり、質問討議は予の勝手次第なり、此の如くにして氏の喘咳に接すること一年三学期に渉り、予の彼より得し所実に大なり、予は先づ彼と共にハリス氏の有神哲学論を読み、次にスミス氏の旧約史に移り、ブリツグス氏の聖書研究論を以て終りたり、然れども教科書は常にソツチヌケに為したり、我等二人は一年間宗教上の討論会を続けたり、博士の長所は此較宗教学なりき、而して余は素と儒教を以て育て上げられしものなれば博士に取りては予は得難き科学的標本なりき、是れ我等の討論会が屡々時間の経過の早きを歎じ、口泡を飛し、声は洩れて隣室の彼の善良なる妻君を驚かせし理由なり、予は彼が予の祖先の宗教なる仏教神道等を軽侮するを許さゞりし、予は無遠慮にも基督教会現時の腐敗を以て彼に迫りたり、齢已に古稀に達せし白髪の老先生は少しも先生振ることなく、快弁壮語を以て余に応答せり、予は彼に向て充分に異教(Heathenism)の美と真とを弁ぜしと信ず、然れども基督教の原理に就ては予は充分に彼の議論に服し、此点に関する予の確信は彼に由て益々鞏固なるを得たり、最も完全なる伝道は師弟膝を接して討議問答するにあり、米国高壇に於て錚々の名ある一神学博士と斯くも自由に面接するを得しは予に供せられし宗教的特典の最大なるものと云はざるぺからず。
(89) 三学期間の討論会は終には我等をして最も親密なる友人たらしめたり、博士は遂に予の衣食問題にまで干渉するに至れり、彼は種々の名義を附して予の数回の欠乏を補へり、彼は予の心事の解明者となれり、彼今逝て今世の人にあらず、予は報ゆる所なからざらんや、縦令へ高壇の上よりせざるも、縦令へ教師の聖職を帯びざるも、一種の基督教伝道は彼に対する予の義務也。                                       〔以上、12・13〕
 第四年級に入て予は礦物学と地質学とを教授エマソン氏に受けたり、彼は善人中の善人、彼の広闊なる頭脳は礦物と化石と馬洲の地質とを以て満ち充てり、彼は常に誇て曰ふ「アマスト近郊に於て余の識らざる石塊のあるなし」と、彼は数学攻究の為めに壮年の時已に頭髪半を失ひ、今は禿頭光を放ちて眩し、彼亦古文学に浅からず、彼はアマスト大学の忠実なる卒業生として曰ふ「古文学《クラシツクス》はカレツヂ教育の最要部分なり、予の児にして校にあるものは専ら意を此に注がしむ」と、金石学者の言として重んずべきの一言なり。 教科書として地質学に於てルコント氏の地質原論を用ひ、礦物学に於て博士デーナの著を用ひたり、最姶の四五回は彼は能く秩序的に予輩の課業を質したり、然れども暫時にして彼は詳明解析の為めに気を奪はれ日課あるを忘れし事屡々なりき、是れ彼の学生の最も悦びし所、課業の詰問より免かれんと欲する時は彼等は近郊の土塊数個を持ち来り彼の机上に並べ置き以て彼の解明を乞へば、彼は莞爾として標本に対し、其起原理化学的性質功用配布の精細は彼の脳裡より流れ出て止まる所を知らず、彼の析明に専心なる彼の生徒の或者が教場の一隅一幅の掛図に日光を遮ぎられて華胥の夢境に遊びつゝあるも彼は少しも意に留めず、教場内を奔走し、是に比し彼に照し、以て一石塊を弁明するの状は気の毒にもあり可笑しくもあり、時鐘鳴り渡りて彼は始めて日課に心附くも止を得ずして散級を命ず、而して一週問を出ざるに彼亦彼の学生に欺かるゝ事前日の如し。
(90) 二学期にして地質原論は纔かに其四分の一を終へしのみ、金石書は結晶論の一編を誦し終て後殆んど無用に帰したり、彼の教場の乱雑なる実に物の此すべきなし、岩塊化石礦物の類は室内到る処に狼藉たり、予輩は彼の教場に入りて学ばざらんと欲すれば学ばざるも可なるが如し、最も自由なる教授法、アマスト校に於ける地質学科は自由科中の自由科なり。
 然らば予輩はエマソン氏に就て少しも得し所なきか、否な然らず、全く然からず、彼は無頓着の如くに見へて決して無頓着ならざりしなり、彼は自然学を教ふるの最捷路を知れり、自然其物に就て予輩のインテレストを起さんとするが彼の目的なりしなり、而して是れ規則的に教科書を暗誦したればとて決して起るべきものにあらず、然り、多くの思慮なき教育者が紀律的に自然学を学生に強ひしが故に学生は終生の敵意を自然学に対して挾さむに至れり、自然其物が自由なり、アガシが瑞西国の淡水魚に於けるが如く、オーヂユボンが、米国の鳥類に於けるが如く、彼等は強ひられて自然と友誼を結ばざりしなり、詩人ロングフエローの言に由れば自然は幼時のアガシに歌て曰く
   And Nature,the old nurse,took
     The child upon her knee,
   Saying:“Here is a story-book
     Thy Father has written for thee.”
 
   “Come,wander with me,”she said,
(91)   “Into regious yet untrod;
   And read whatis still unread
     In thee manuscripts of God.”
 自然をして彼女自身の教師たらしめよ、曾て聞く有名なる博物学者アガシが米国ハーバード大学の教授たりし時一青年彼に来て動物学研究の方法を問へり、アガシは直に立て剥製の魚類一尾を持ち来り、之を青年の前に置き、黙然去て室外に出でたり、彼は暫時にして帰り来り青年に問ふて日く「君は何魚に就て何を見しや」と、彼は観察の儘を述べたり、ア氏曰く「君の見る処未だ足らず再び検して予の来るを待て」と、彼は再び室外に去りぬ、而して青年は彼に供せられし標本を手にして半日に渉り殆んど為すなきに苦しみたり、時に先生再び入り来り青年に告て曰く「自然を学ぶの法斯の如し、即ち独り直に自然物を※[手偏+僉]するにあり」と、青年大に悟る所あり感謝してア氏を去りしと云ふ、エマソン氏の精神とは実にアガシの此精神に外ならず。
 エマソン氏は書物教育を避けて標本教育を取りし如く、成るべく教場教育を避けて野外教育を撰べり、是れ亦彼の教育主義より来る自然の結果と云はざるべからず、故に彼は凡ての機会に乗じて予輩を近隣の山野に引き出したり、或はコンネチカツト河岸に砂礫層積の状を学び、或はホリヨーク火山脈に地皮皺縮の理を究め、「糖塊山《シユガローフ》」々腹の巌窟、トビー山頂の突岩、「帽野《ハツトフイルド》」の鉛礦、「緑野《グリンフイルド》」の砂原、アマスト近郊方十哩の地にして地質学的に趣味ある場所は予輩の跋渉せざるは尠し、ホリヨーク山頂北面して曲折蜿蜒たる銀河を望みし時、コネチカツト河辺鉄鎚一挺を腰にして岩面に古獣の蹄痕を探りし時は、予が西大陸の山野と親交を結びし時なりき、既に親密なりし自然は教授エマソンの紹介に依りて更らに親密なるものとなれり。
(92) 其他の学課に就ては予は多く言ふを要せず、希伯来語の二学期は予に神学研究の野望を起さしめ、校を卒へて後終に四ケ月の永き此非実用的の学問に予の頭脳を悩ましめたり、心理哲学の一学期は予の最も苦戦せし所、予は此学科に於て臍帯切て以来素めて落第てう厄難に会したり、予の全く之を解せざりしにあらず、予は予の心理的思想を言ひ現はすに言語を有せざりしなり、故に落第は予に取りては無慈悲の刑罰なりと信じ、一学期にして予は心理学を放棄したり、甘きものは甘し、苦きは苦し、然るに「何故に甘し」と問ひ、「何故に苦し」と究む、是を心理哲学と云ふ、故に此学に従事するものは終には甘きを称して苦しと為し、善を悪と称し悪を善なりと唱ふるに至る、人は獣か、獣は人か、宇宙と合躰するとか称して天を眺めながら泥中に落つ、心理学者とは斯の如きものを云ふなり、予の落第せしも亦無理ならんや(!)
 倫理哲学は最要最高の学科として最終学期に教頭より授けられたり、而して幸にして心理哲学に於けるが如く落第の悲運には会はざりしも予は余り好味を以て此学に臨まざりし、惟其内多くの高潔なる思想に接し、予の心霊を益せしこと尠なからず、「徳(Virtue)は勇気(Virtus)なり」との如き、「愛(Love)は捨つる(Leave)と同意義にして自捐なり」の如き、「人は高尚に独立して高尚に依頼せざる可らず(詩人ウオルヅオウスの言)」との如き、「汝の言行をして宇宙の運行と和合せしめよ」との哲学者カントの勧言の如きは予に取りては一言千金の価直ありて之を誦読服膺すれば別に倫理哲学を学ぶの要はなきものと考へたり、然り、予に取りては植物学又は金石学は倫理哲学に勝りて数倍の倫理的価直を有せり、詩人ウオルゾオス言はずや
   “One Impilse from a vernal wood,
(93)   May teach you more of man,
   Of moral evil and of good,
   Than all the sages can .”
 有名なる教育家フレーベルは曰へり
  水晶学は予に人たるの道と其法則とを示し、声なきも感じ得可き言語を以て人類の真正なる生涯を予に教へたり
と、而しで是れ亦予が教授エマソン氏の金石室に於ける経験なりと云はざるべからず、倫理哲学は思惟学の一科として攻究するの大個直ありと雖も之を以て実行的道徳を励まさんが為めにするは実益甚だ少し、世が倫理学に於て失望するの理由は之を機械学又は測地学の如き実用学と見做すもの多ければなり、予の失望も此に基けり。実徳の養成は倫理学教育に於て望むべからず。
 アマスト教育の一にして予輩の爰に特別の注意を要すべきものあり、即ち一学年間毎週一回づゝ上級生の為めに設けらるゝ教頭の質問会是れなり、其方法たるや生徒より有と有ゆる質問を提起し教頭より即席答弁を要むるにあり、質問の種類に制限なし、政治法律経済倫理哲学文学宗教学術勝手次第なり、疑問を以て満ち充ちたる百余名の壮年学者を相手に縦横微塵に彼等の攻撃を切り抜ける事なれば教頭たるものは非常の博識ならざるべからず。
 一日級友の一人予の日本人なるの故を以て教頭の日本に関する智識を試みんと欲し「日本の未来、現今、将来」なる問題を出して彼の答弁を乞へり、教頭は微笑しながら予を彼の眼鏡の上辺より眺め、曰く「此処に内村君あ(94)り、我等は此問題は彼に譲るぺし、然れども予は先づ予の知る所を述べ而る後彼の訂正を乞ふべし」と、言ひ了て彼は日本歴史の大意を述べたり、神武天皇に始め、仲哀神后の征西、天智の中興、藤原家の専横、封建制度の建設、頼朝尊氏家康の事跡より、終に明治の復興に及んで息みぬ、彼は云ふ「予の知る所僅に如斯のみ」と、心大に予の前に慚づる所あるが如し、予は驚けり、彼の陳述せる所にして予の知らざる所甚だ多し、殊に年代の記憶に至りては予の迚も及ばざる所なりし、予は彼の終るを待て起て予の意見を述べ教頭の説く所寸毫も予の説を異にする所なきを陳べたり、是れ其一例なり、以て彼国に於ける大学教頭なるものゝ学識の一斑を知るに足らむ。
 後日曾て予は彼を彼の家宅に訪ひし時彼に問ふに彼の日本に関する智識の出所を以てせり、彼れ曰く「予は十七年前世界漫遊の途次貴国に抵りたり、途上船中貴国の歴史を読むの快を得たり、爾来新聞紙上多く学ぶ所ありしと雖も予の得し所は重もに彼の時にありし」と、十七年前の日本歴史を諳ずる彼の記憶は予輩の想ひ及ばざる所、然れども彼は記憶力を以て学者社会に有名なるもなり。
 
 予はカレツヂ教育に依て学問の真味を知れり、学問は単に経済的にのみならず、人情的に心霊的に貴きものとして予に紹介せられたり、エマソンの所謂スカラー(Scholar)の観念は予に始めて此処に於て伝へられたり、学者必しもスカラーならず、スカラーとは真理の為めに真理を愛する人を云ふなり、哲人プラトーの精神、詩人ゲーテの精神、即ち真理を恋慕して身を其探究に委ぬる精神、是れスカラーの精神なり、カレツヂ教育若し予輩を実用的専門家たらしめずば予輩をして先づスカラーたらしむ。
 予はスカラーたるの資格を感じて後専門大学に入りて之を利用するを得ざりしを憾む、然れども予は二三の専(95)門を獲するに優りて此特権を附与せられしを喜ぶものなり。恰も二三の宝貨を獲るよりも宝蔵の鑰を有するの優れるが如し、カレツジ教育に依て独学の方法と精神とは予に供せられたり、学問は予の常性となれ、カレツジ教育の功果豈亦た偉大ならずや。
                               〔以上、12・23〕
 
    亜米利加土人の教育
 
 余が米国を去て帰国の途に就くの前週、余の恩人なる費府の慈善家ウヰスター、モリス氏は余に告て日く、
  君は我米国に於て多くの慈善事業を視たり、然れども当ペンシルバニア州カライル(Carlisle)に於ける土人教育事業を一見せざれば君の視察は完全せりと言ふべからず、其の監督者大尉プラツト氏(Capt. R. H. Pratt)は余の親友なり、余は君の為に彼地への往復旅費を弁ずべければ君往て彼を訪ふべし、余は信ず君の益する所決して尠少にあらざるべし
と、余は甘じて余の恩人の厚意を受け、旅装早々カライルに向て発せり。
 費府を西に走る百英哩にしで当洲の首府ハリスブルグに達す、此処に列車を転乗し、南の方メリランド洲の方面に向て走る事二時間余にしてカライル町に至る、南北戦争に於ける有名の劇戦場ゲチスブルグを去る僅かに十数哩、カンバランド開谷の中央に位し、當饒なる農産地なり、停車場に下車すれば銅色的一人士の叮嚀に余を迎ふるあり、曰く大尉プラツトは君を待てりと、蓋し注意深き余の費府の恩人は已に余の行を彼に通知し置きしなり。
 余はプラツト氏を始めて彼の事務室に見たり、見上る程の偉大漢、彼の体格は紛らふべきなき軍人なり、然れ(96)ども彼の容貌に軍人たりし一徴候の存するを見ず、柔顔温貌の一君子、上唇下顎共に一茎の鬚髭を留めず、謙厚にして甚だ交はり易き一平民なりき、彼はモリス氏の紹介の故を以てか知友の如くに余を迎へ、余の訪問を以て甚だ悦ぶ者の如し、彼は先づ余に問ふて日く、
  君は何日間余と共にあるを得るや
と、余は答ふるに二十四時間以内なるを以てす、彼は其甚だ短きに過ぐるを歎じ、語を続けて曰く、
  然らば我等は甚だ多忙なるべし、余は君に要めんと欲する所甚だ多し、故に我等は斯くなすべし、初めの十二時間は君余に供せよ、終りの十二時間は余君に呈せん
と、余は之を諾せり、而して我等の智識交換は始まれり。彼は先づ余に問ふに日本の教育制度を以てし而る後に其宗教慈善等に及べり、余は序に彼に告るに日本に「アイノ」人種なる者ありて其今日の日本人種に於けるは米国に於て銅色人種の白哲人種に於けるが如きなるを以てせり、此時余は彼の双眼が二倍の光輝を放てるを見受けたり、余は彼の特愛問題に当りしなり、是に優るの重要問題は彼に取ては他にあるなし。
  嗚呼呼然る乎、英数幾千?
  大凡一万六七千なり、北方蝦夷島に住す。
  日本政府は之を開明に導かん為に如何なる法方を取りつゝあるや?
  特別の法方とてあるを聞かず、普通小学教育を施しつゝあるも未だ遍く彼等の内に及ばざるが如し。
 問答は益々活※[さんずい+發]となれり、彼は「アイノ」人種退減の有様を聞て涙を流せり、彼は其「アリユート」人種に近きを聞て一層の推察を表せり、彼れ終に叫んで曰く、「余は一度びは必ず貴国に抵りて余の友人なるアイノを見(97)ん」と、蒙昧可憐のアイノ人、彼等は此処に推察に富める一友人を得たり。
 我等の話頭は転じて日本人種と亜米利加土人との人種的関係に及ぺり、米亜両大陸の地理学的に接近するより、両人種の容貌骨格の相類似するの甚しきより、廉耻を重んじ信義を厚ふする両者共有の特性より、日米両人種は相距る遠からざる親類なるを論究せり、談爰に至てプラツト氏の興味益々其深奥に達せり、彼は曰り
  君にして此言をなす、以て余の事業の益々多望なるを知る、余の国人(米国人を指す)は概ね銅色人種を見て殆んど禽獣に均しきものとなし、彼等を文明に導くの愚を嗤ひ、彼等を根絶するの利を説くものなり、然れども誰か日本人と均しき特性を有する斯民を以て文化に誘ひ得ざる者となす、君にして亜米利加土人と類似人種たるを公言するを耻となさず、君の義気土人の栄誉夫れ幾千ぞや。
と、余は信ずプラツト氏の日本を恋ひ慕ふの念は此時に始まれりと、彼は一生を銅色人種の弁護救済の業に委ねたり、彼は永く社会の嘲弄冷遇を斯不幸人種の為に忍べり、今や彼は彼の事業を弁明するの一大材料を得たり、亜米利加土人は日本人に類似する民なりとせば前者の開明は期して待つべしと。
 彼は彼の履歴の概略を語りて曰く、
  余は武官なり、夙くより土人征討に従事せしものなり、余は屡々彼等の領土に攻め入り兵を指揮して彼等の村落を焼き、彼等の勇者を殺戮せり、然るに曾て南方セミノール族を討ちし時余は料らずも土人の小児二人を生捕せり、余は之を見て惻隠の情に堪へず、意ふ是亦上帝の子供、余の同胞にあらずや、何ぞ之を殺すを熄めて教育誘導するを図らざると、新思想は今は余の全心を奪ひ去れり、日を経て余の確信は益々強固を加へたり、余は剣を放棄し土人の師父たるに決せり、是れ余の此救済事業の発端なり、
(98)と、而して彼は尚ほ語を続けて劣等人種撲滅の非理を説き、且つ経済的に算するも彼等を慈善的に誘導訓化するの遙かに優れるを伸べたり、彼の肺肝より流れ出づる是等の言は如何に余の全身全思を刺動せしよ、今や流浪を終り故山に帰らんとするに当て此人道的大福音を聴くを得たり、余は思はず感謝の涙に溢れたり。
 夕飯を彼の家族と共に喫し、尚ほ数刻の談話の後、鐘声全校に響き渡りて祈祷会の時間に至りぬ、プラツト氏は已に余を此夜の弁者と定めたり、彼に導かれて高壇に上れば余の目前には奇異なる面貌の配列するあり、教師職員は悉く敏腕屈指の白哲人種なり、然れども其生徒たるものゝ全躰、其軍服を着けたる軍曹下士の如きもの、是れ白色碧眼の人にあらず、其頬骨の角立ちたる、其頭髪の濃黒なる、其眼形の巴旦杏形なる、何ぞ我同胞に肖る酷だしきや、彼なるはアパチー族、フロリダ半島の沢中に住せしもの、是なるはチェロキー、チヨクトウ、チカソウの族、キマロン河辺に彷徨ひしもの、彼はロツキー山頂チエンに獲しもの、是は遠くアラスカより送り来りしもの、全群凡そ六百余名、銅色人種の全部を代表し、今余の不完全なる英語の演説を聴かんとて集ひ来りしなり、家郷を辞して茲に四年、邦人を見ること甚だ稀に、然るに今この類似の民に接す、嗚呼汝も白哲人種の横行に苦しみ、其掠奪を忍び、其貪欲の犠牲となり、今は逐はれて居を失ひ、山野林沢に幕を張るもの、我何ぞ相憐推察の情なからざらむや、天に正義の神あり、冀望の時は汝に幾し、日本起て亜細亜を救ふの時は亦汝の頭を擡げ得る時にして我今汝に接して我が責任の益々重且大なるを知る、余は二時間余の長演説に日本の位置と希望と天職とを述べ、心大に満足する所ありて壇を下れり。
      *
 初めの十二時間は過ぎぬ、余は寝室に送られぬ、プラツト氏は曰へり「明朝四時余は君を起すべし、余は十二(99)時間内に余の事業の渾てを君に紹介せざるべからず、我等は睡眠に多くの時間を消費するを得ず」と、客夢一睡するかと思へば、主人公は已に余の寝室の戸を敲けり、余は諾して起ち、燈光に早膳に与かり、直ちに巡覧の途に上る、彼は先づ余を導ひて食堂に抵り、数百の銅色男女が静粛に朝飯を喫するの状を見る、次に庖厨、次に※[麥+面]包焼場、次に洗濯窒、次に浴室、次に寝室、次に薬局、次に病室、次に新築の体操場に至れば、百余の躰格逞ましき壮士各々両手に棍棒を捧げ、我等の来るを待ち構へつゝあり、我等階段の上に立てば一令下りて二百の手腕は一時に挙り、動作整然勇壮言はん方なし、次で武器室、次に職工場――最も壮宏を極めたり、――終に教場に至れば新英洲より招かれし数人の女教師が簡易なる英語を以て叮嚀反覆普通教育を授けつゝあるを見たり、巡覧了てプラツト氏の事務室に至れば終り半日は僅かに二三時間を余すのみ。
 最も有益なる二十四時間は過ぎぬ、余は銅色の兄弟に送られて停車場に至り、ゲチスブルグよりの列車を取り、東走半日、再び費府に於ける余の恩人の家に投ぜり。
 一日にして数年の価値を有する一日あり、一年にして一日の価値を有せざる一年あり、プラツト氏と共にありし一日は余に取りては数年の価値を有する一日なりき、そは教育上の新思想は彼に依て此短時間内に余に伝へられたればなり。
 所謂プラツト氏の「カライル」主義とは他なし、心を訓化するに周囲の感化力を以てするにあり、プラツト氏は唯物論者にあらず、否な彼は熱心稀に見る所の基督信徒なり、彼の慈善事業は全く彼の宗教心の発動より来りしものなり、然れども武人たる彼は非常の実際家なり、彼は野蛮人を導くに教理のみを説くの全く無効なるを知れり、先づ開明的生活を供するにあらざれば開明的思想を注入するの難きを知れり、是れ彼の土人薫陶法の幾多(100)の理想家と全く趣を異にする所以なり。
 故に土蕃の一群の始めて彼の許に送付せらるゝや、彼は直ちに其頭髪叢林の如きものを調理せしめ、文明人の衣服を供し、堅く蕃語の使用を禁じ、各自適応の職業を授け、清潔なる、秩序ある生涯に就かしむ、而して周囲の空気が如何に是等土蕃を訓化するに力ある乎は本号に掲ぐる二個の肖像図の充分に例証するの所なり。〔写真二枚略〕
(101) 第一図はアパチー族の一群が南方フロリダ洲沼沢の辺より始めてカライルに達せし時の状なり、一見以て荒野の子供たるを知るに足る、殊に女児の顔貌に注意せよ、如何に躁暴にして男らしきに。
 第二図は同一の蕃群が斎戒沐浴して四ケ月間文明の空気を呼吸せし後の状なり、彼等の変化は衣服頭髪のみに止まらざるなり、彼等に紳士貴婦人の態度あり、彼等の眼光に聡明と希望とあり、殊に女児の面顔に注意せよ、如何に優さしく如何に女らしきに、何人か此一群を評して其幼時を水牛鰐魚と共に消費せしものとなす。
 然れども是れプラツト氏の事業の一斑を窺ふに過ぎず、彼の目的は米国土人三十万を化して悉く基督教的開明人種となすにあり、彼の訓育の下に成長せし銅色人にして今は医士と也代言人となりて白哲人種と生存競争をなしつゝあるものあり、彼は土蕃に供するに開明人を離れて居住の地を以てするの非を唱ふるものなり、人種的区別は米国人たる彼の政治思想と基督信徒たる彼の宗教心が共に激しく反対する所なり、「同一の境遇を供せよ然らば蕃人も開明人たるを得べし」とは彼の確信なり、而して彼は米人の輿論に抗し、開明の中真に土人学校を設け、開明的境遇の中に蕃児を訓化しつゝあり、プラツト氏の精神を有せざる教育者にして周囲の改良のみを以て人物養成を計るものは失望せん、然れども徒らに空理を講じ、神学と称して正直人士を欺き、尚武主義とか称して滋味の効、衣服の儀を怠るものは教育の実を挙ぐるを得ず、新英洲学校生涯は余に霊より肉に達するの道を教へたり、カライルに於ける一日は肉に依て霊を化するの原理を伝へたり、人を作るの術は実に此二法の適用にあるなり。
                   〔以上、明治28・4・23〕
 
(102)   時事雑評二三
                      明治27年8月24日
                      『基督教新開』578号
                      署名 内村生
 
     一、独立論
 
 独立を唱ふるは善し、然れども如何にして之を実行すべき乎、言ふを休めよ「汝我と共に独立する時は我も独立せん」と 独立とは「独り立つ」といふことなり、他人と共ならでは立ち得ざる人は独立には非らざるなり、独立を望むものは先づ独りで立つべきなり、而して独立の人相集て始めて独立の教会もあり、独立の国家もあるなり、集合的独立を望んで個人的独立を敢てせざるものは独立するとも独立の好結果に与かり得ざるなり、我等は厄介者と共に独立するを甚だ迷惑に感ずるなり、他人の独立する迄は依頼して他人の独立を待つて始めて独立せんとするものは何時迄待ても独立し得ざる人なり。
 
     二、一致の来る時は何時か
 
 是れ宗派的交渉の成りし時にあらざるなり、是れ神学的一致の来りし時に非ざるなり、真正の一致は吾人各々がその奉ずる所の主義を其儘実行する時にあり、約定上の一致は無益なり、我等をして之に信を置かしむる勿れ、(103)実行上の一致のみが頼むに足るの一致なり、自身の主義を実行し得ざる人は人情の秘密を会得し得ざるが故に他を容るゝ雅量を有せず、実際に真面目に生涯の真味を味ひし人のみが互に共に働き得る人なり 宗教を以て茶話席の活題となすに止まるものは言語的捺印的の一致を計れよ、然れども二つとはなき此の生命を捨ても真理の為めに尽さんと欲するものは斯の如き演劇的同盟に加はること能はざるなり、汝一致せんと欲する乎、先づ汝の主義を決行せよ、然らば其時汝は宇宙に存在する総ての誠実なる人と一致せしなり、一致の難は外が来て汝と一致せざるに非ずして汝の誠実ならざるにあり。
 
     三、真面目ならざる宗教家とは誰ぞ
 
 真面目ならざる宗教家とは、直接間接に外国伝道会社の補助に与かり居りながら外国宣教師を悪口批難するものなり、社界の先導者を以て自ら任じ居りながら社界に引摺られつゝ行くものなり、教会内に偽善者の潜伏し居るを知りながら其破壊を恐れて之を排除し得ざるものなり、教会独立を唱へながら世の賛同を得ざるが故に躊躇遁逃するものなり、犠牲だとか精神的教育だとか能弁的に社界に訴へながら自らは米国的安楽主義を採るものなり、即ち義を見て為し得ざる卑怯者なり、即ち脳髄と心臓と性質を異にするものなり、即ち唇と手と一致せざるものなり、即ち宗教を弄するものなり、即ち世の中に誠実てふものゝ実在するを信ぜざるものなり、即ち不実の人なり、即ち未だ真理を会釈せざる人なり。
 是等が真面目ならざる宗教家なり、彼等の存在は教会に害あり、排除すべき時なり。社界に害あり、国家に害あり、今日は彼等を排除すべき時なり。
 
(104)   日清戦争の義(訳文)
 
                      明治27年9月3日
                      『国民之友』234号
                      署名 内村鑑三
 
  (欧米人に向つて我の義を明かにせんと勉めたる此一編は我邦人に取て新議論ならざるは勿論なり、且つ其論旨の欧米的にして文詞の訳読的なるは読者の推諒を乞ふ、)
 人類が地球表面に正義を建つるの目的を以て戦場に趣きし時代は早や既に過ぎ去りしが如し、此物質的時代の人は、其戦争の悉く慾の戦争たるを承認すると同時に、戦争の避く可からざるを知るが故に、終には慾を以て戦争の正当なる唯一理由なりと信じ、慾に依らざる戦争とは全く彼等の思惟に上らざるに至れり、「義の為めの戦争」とは今時代の人に取りては清党時代の旧習古俗と均しく全く廃弛せらるゝに至り、人は義戦を口にして之を信ずるものなし、故に吾人の手に取りし目下の戦争を評するに同一の精神を以てし、吾人の朝鮮占領を以て吾人の邪念に出づるものとなし、傲慢無礼なる吾人の隣邦と干戈を交ゆるに至りしを見て帰するに野心を以てするものあるは決して怪むに足らざるなり。
 然れども歴史上義戦のありし事は何人も疑ふ能はざる所なり、彼のギデオンがミデアン人を迎へ、「神と彼との剣」とを以て敵軍の十有二万人をヨルダン河辺に穀戮せしは義戦なりしなり。彼の希臘人が波斯の大軍を迎へ、之をマラソン、サラミス、プラテア、に擁し、鏖滅の敗を以て彼等を破り、亜をして再び欧を蹂躙すること能は(105)ざらしめしは義戦なりしなり。彼のグスタヴス、アドルフハスが独逸の中真に進入し、之を天主教徒の圧制より救ひ出せしは義戦なりしなり。若し戦争の多分は慾より来るとするも渾ての戦争は慾の戦争に非らず、利慾を以て戦争唯一の理由と見做し以て神聖なる人類性の価値を下落せしむる勿れ。
 吾人は信ず日清戦争は吾人に取りては実に義戦なりと、其義たる法律的に.のみ義たるに非らず、倫理的に亦た然り、義戦たるものは此種の義に因らざるべからず、如此の戦争は吾人の知らざりし戦争に非らず、是れ吾人固有の教義に則るものにして吾人の屡々戦ひし所なり、基督教国已に義戦を忘却する今日に当りて非基督教国たる日本の之に従事するを怪むものあらん、然れども非基督教国若し無智ならば彼等は未だ誠実なり、基督教国が其迷信と同時に忘却せし熱心は吾人の未だ棄てざる所、吾人に一種の義侠あり、死を知らざりし希臘の豪強を挫きし羅馬の勇は今尚ほ吾人の有する所、西洋已にその熱心時代を過ぎしとするも東洋は尚ほ未だその中に在り、義戦は未だ吾人の忘却せざる所なり。
 今回の衝突たるや吾人の自ら好んで来たせしものならざるは我邦近来の状況を知るものゝ充分に承認する所なるべし、吾人を導くに戦争を非常に嫌ふ内閣あり、加るに内治の改革将にその緒に就かんとし、隆盛其極に達せんとす、若し利慾にして吾人の最大目的たらん乎、戦争は吾人の最も避く可きもの、非戦争こそ吾人の最終最始の政略たるべきなり、然るに過ぐる二十余年間支那の我に対するや其妄状無礼なる事殆んど吾人の忍ぶ可からざるあり、大西郷已に此に見る所あり、即時に其罪を問はんとする彼の熱血的希望は実に彼の生命を捨しむるに至り、我邦も之が為に悲惨なる内乱の害に遇へり、吾人は実に吾人の血肉を殺して隣邦との衝突を避けんとせり、吾人の平和を望む如此なりし、然るに明治十五年以後支那の我邦に対する行為は如何なりしや、朝鮮に於て常(106)に其内治に干渉し、我国の之に対する平和的政略を妨害し、対面的に我に凌辱を加へて止まざりし、我は朝鮮を開んとするに彼は之を閉んと欲し、朝鮮に課するに彼の満洲的制度を以てし、永く属邦として之を維持し、支那其れ自身が世界の退隠国なる如く朝鮮もその例に倣ひ、世界の進歩に逆抗せしめん事を勉めたり、過る十年間朝鮮を世界に紹介せし日本は京城朝廷に於ては邪魔者の位置に居り、我に後れて来りし支那は韓廷統御の座を占めたり、是れ社交的無礼の最も甚しきもの、隣人の交誼を妨げ、其愛を奪て己に収めんとするの例なり、吾人は十年の長き之を忍べり、吾人は彼等の妄を以て国際的平和を破るは児戯に類する行為と信じて黙視せり、而して支那干渉の結果たるや東洋に於ける一昇星と望みし朝鮮は今日尚ほ未だ隠星の一たるに過ぎず、生産挙らず、収斂行はれ、非政は白昼に横行しつゝあり。人情を有するものにして何人か近頃朝鮮人金某氏に加へられし暴虐に堪ゆるを得んや、彼は長く日本国民の客たりしもの、然るに支那本土に於て支那制御の下にある朝鮮政府の教唆に依て暗殺せられ、彼の死躰は暗殺者と共に支部帝国の軍艦を以て朝鮮国に護送され、死躰は肉刑の残害を経て広く国内に暴露され、暗殺者は渾ての栄誉を以て冠せられたり、支那は社交律の破壊者なり、人情の害敵なり、野蛮主義の保護者なり、支那は正罰を免かるゝ能はず。
 而して支那干渉より来りし非政の結果として東学党の南朝鮮に起るや、直ちに傀儡政府に諭して援兵を支那本国に乞はしむ、其目的たるや恩誼を以て益々羸弱政府を縛らんとするにありしは反乱の案外にも微弱にして外人の手を借りずして直に鎮圧するに至りしを以て証すべし、支那は朝鮮の不能を計り、之をして永く其依頼国たらしめん事を欲せり、吾人外交歴史を閲するに未だ曾て如此卑劣政略に接せし事なし、是れ残虐なる娼家の主人が其読計の中にある扶助なき可憐少女に対して常に執行する政略なり、頑是なき人霊一千五百万は世界の最大(107)退歩国の悋気を満たさんが為めにのみ無智無防の位置に在り、是れ自由を愛し人権を尊重するもの、一日も忍び得べき所に非らず、吾人は怪めり、此積悪に対し非難の声を挙ぐるものは吾人日本人に止まりし事を、基督教国を以て誇称する欧米諸国が此世界の大患を地球面上より排除せん為め吾人に率先せざりし事を。
 爰に至て法律論者は吾人を擁して云はん、日本の朝鮮に干渉する権利を有せざるは支那と異なる事なし、曰く日本の出兵は支那の出兵と同じく譴責すぺきものなり、曰く平和の破裂は日本より来れりと、吾人は之に答て云ふ。
 一、干渉其物は悪事に非らず、経済学に所謂放任主義(Laissez-faire)なるものは或る区域内にのみ真理なりとす、吾人は吾人の隣人が吾人と異なる宗教を信ずればとて、吾人と異なる商業に従事すればとて、吾人と異なる嗜好を有すればとて、吾人は彼等に干渉する権利を有せず、然れども隣人が餓死に瀕する時、強盗隣人を犯す時、明白なる吾人の常識が隣人が非常の速度を以て滅亡の絶壁に向て走りつゝありと示す時は、吾人は干渉の権利を有し、又実に干渉せざる可からず、若し放任主義なるものにして隣人の総ての苦厄に対する無情無感覚を意味するものとせん乎、是れ悪主義なり、直ちに之を放棄して可なり、若し此意味の放任主義にして永遠の天則なりとせん乎、基督釈迦の世に存せし理由、リビングストン、ジョン、ハワルドの世に来りし理由は何処にあるや、放任の終る処と干渉の始まるべき処を定むるに一定の法則はなかるべし、然れども世に放任すぺきの境遇と干渉すべきの境遇あるは何人も疑ふこと能はざる所なり、瑞典王グスタブス、アドルフハスが独逸政治に干渉し、フエルヂナンド、バレンスタインの輩をして彼等の邪意を彼土に逞ふする事能はざらしめしは高尚義侠の干渉と云はざるを得ず、ルツセン戦場の勇者は人類中最も聖きものゝ一人なりき、新教主義の独通が今尚ほ崇拝に近き(108)尊敬を以て彼の威名を慕ふは宜べなり、英のクロムウエルが伊太利政治に干渉し、彼の威力を扶助なきピードモント人に貸し、残忍なるサボイ公をして無辜の民に害を加へ得ざらしめしは高尚なる基督教的の干渉なりしなり、英人の推察心は其時実に其絶頂に達し、歴史は盲詩人の言を録し「アルプス山上に凍死せる聖者の散骨」を慰して止まず、世が今日の経済的時代に入りてより如此高尚なる干渉は全く跡を絶つに至れり、然れどもその西洋政治に於て廃弛に帰せしは東洋政治に於て用ゆ可からざるの理由に非らず、吾人の朝鮮政治に干渉するは彼女の独立今や危殆に迫りたればなり、世界の最大退歩国が其麻痺的蟠屈の中に彼女を抱懐し、文明の光輝已に彼女の門前に達するにも関せず惨虐妄行の尚ほ彼女を支配すればなり、吾人は隣人の健全なる平和を妨ぐるの権利を有せず、然れども彼女を救はんが為には、白々日を見るよりも明かなる弊害より彼女を脱せしめんが為めには、吾人の強く彼女に干渉するは吾人の有する神聖なる隣友の権利なりと信ずるなり。
 二、朝鮮出兵は明治十八年の天津条約の明文に依れり、故に何人も之に関して吾人に批難を加へざるべし、然れども尚ほ吾人に質すに我邦派遣の兵数は彼地在留の帝国臣民の保護の為には余り多きに過るを以てするものあらば、吾人は論者に向ひ、些細なる反乱鎮圧の為に送られし支那派遣の兵数と、明治十五年に於ける支那兵の暴状を委細に調査されん事を望むのみ、而して清兵幕を牙山に張るに際して、我兵の直に京城に入りしの弁解を求る者あらば、吾人は過去の経験によりて、清国政治家の信用す可らざるを知りたれば、茲に詭騙の徒に対する正当防禦に備へしなりと答ふるのみ、若し我邦の所置は到底疑惑を免がるゝ、能はざるものなりと云ふ人あらば、吾人は如斯批評家に問て曰はんのみ「足下若し我の位置にあらば如何に所置し給ふや」と、吾人は未だ吾人の朝鮮出兵に関して吾人の過失の何処にあるかを知る能はざるなり。
(109) 三、豊島近海に於ける最始の海戦に於て日清孰れが先に発砲せし乎は今日未だ判決するを得ざるべしとせん、吾人は彼より発砲せしと信ず、然れども愛国的偏心が此事に関する吾人の判決を誤まらしめん事を恐る、然れども是れ彼我の義を決するに於ては小問題たるに過ぎず、孰れが戦争を促がし孰れが戦争を避けんとせしや、是れ最要問題なり。
 爰に吾人の論者に注意すべきことあり、即ち今回葛藤の始まりしより平和の破裂に至りし迄殆ど満二ケ月の長きに渉りし事是なり、吾人は始終一徹朝鮮の独立と保安とを維持し北京政府を促がすに我と協力して半島政治の改良に従事せん事を以てせり、如何に吾人の平和的議案が押柄にも卻けられしか、如何に京城朝廷にある其使役者が吾人の改良的方針に妨害を加んとせし乎、如何に斯くなしつゝありし間彼は熾に兵備を整へ海陸共に我に当らんと用意せし乎は何人も疑ふ可らざる所、若し外人を欺くの支那人の偏僻の最も著しき実行を見んと欲せば一千八百九十四年の八月一日以前八週日の間に於ける彼等の日本国に対せし所置に於てするを得べし、吾人は固く信ず、彼等は未だ曾て斯くも自由に外国人を欺きし事はあらじと、若し彼等の対敵にして彼等の温良なる東洋の隣人に非ずして西洋強国の一なりとせん乎、彼等は長時日を待たずして鉄丸已に彼等の身に及び、詐欺と虚言の価値をば早や已に充分に学び居りしならん、孔子を世界に供せし支那は今や聖人の道を知らず文明国が此不実不信の国民に対するの道は唯一途あるのみ、鉄血の道なり、鉄血を以て正義を求むるの途なり。
 然れども今法理的弁論を去て(吾人は之を軽視するに非らず)、歴史的考察に移らんに、日支の衝突は免かる可からざる者ならずや、新文明を代表する小国が旧文明を代表する大国と相隣して二者終に必死の衝突に来らざる事は歴史面上未だ曾て其例を見ず 希臘対波斯、羅馬対カルタゴ、エリザベス女王の英国対フヒリツプ二世の(110)西班牙、――是等は吾人が此所に記載する双対の著しき例なり、而して両者衝突してマラソン激戦となり、ザマ血闘となり、常勝艦隊《インビンシブルアルマダ》の入寇となりし事は両主義の和合すべからざるが如く避く可からざる事なりき、而して人類の進化歴史に於て摂理は常に小をして新を代表せしめ、大をして旧を代表せしめたり、是れ蓋し肉に対して霊を試み、量に対して質を練らんが為めなるぺし、而して二者衝突するや幾多の運命循環の後に勝利の冠は常に小にして新なるものゝ上に落ちたり、是れ蓋し人類が活ける霊を貴び死する肉に頼らざらんが為なるべし、今や再び世界絶東の地に於て同一の大教訓は人類に示されんとす、新にして小なる日本は旧にして大なる支那と衝突せり、朝鮮戦争の決する所は、東洋は西洋と均しく進歩主義に則るべきや、或は曾て波斯帝国の保護する所たりし、カルタゴの方針たりし、西班牙の奨励せし、而して十九世紀の今日満洲的支那政府が代表する退歩の精神は東洋全躰を指揮すべきやにあり、日本の勝利は東洋六億万人の自由政治自由宗教自由教育自由商業を意味し、日本の敗北と支那の勝利は其結果たる吾人の言を煩はさずして明かなり。
 此重大なる関係を有する戦争に於て何人か人類の友を以て任ずる者にして日本の味方たらざるものあらんや、北米合衆国をして此衝突に関する其去就を決せしめよ(――合衆国は始に吾人を文明の光輝に導きしもの恰も今日吾人が朝鮮を誘導しつゝあるが如し)、其清党祖先の精神、其リンコルン、サムナー等、其数知れざる勇者の霊は異口同音挙て日本主義を賛せんのみ、英国をして同一問題を決せしめよ、其自由の率先者なるモントフオート公サイモンを始め、其ハムプデン、コロンウエル、其清党時代の聖人、其ウヰルバフオス、コブデン、ブライト、自由と正義を愛せし其渾ての高潔の士は皆な悉く日本の味方たらんのみ、仏国をして仝一の問題を決せしめよ、其ラフハエット、ミラボーなり、其近世のユーゴーなり、其コリニーとヒユーゲノー党なり、其義侠に富める圧(111)制政治の激烈なる反対者は挙つて小にして新なる日本に与みせんのみ、独逸をして仝一の間題に答へしめよ、其ルーテルとシルレルとレツシング、光を求めし不滅のゲーテ、其忠実なる「父国」の保護者は東洋に於ける日本の勝利を望んで止まず、伊国をして仝一の問に答へしめよ、其ダンテとサバナローラ、リエンジとアルノルド、ガリバルヂとビクトル、エンマヌエル、其吾人の仰慕する熱誠の凡ての士は無学と圧制の下に東洋を繋がんと欲する支那に与みするものならんや、終に吾人の善良なるスラーブ的隣人をして此問に答へしめよ、其の獄刑の厳に過ぎるに関せず、其印刷条例の寛ならざるを問はず、人類の開明は其偉大なる建国者の精神ならずや、彼得大帝の露西亜は吾人の親友なり、亜細亜の文化を促さんとする吾人今日の行為に対して彼は協賛せざるを得ず、然り、宇宙をして此問題に答へしめよ、造化は人類の半数を満洲的政治の下に置き、支那的文明の惰眠の裡に永く沈淪せしめんとするか、匈牙利の愛国者故ルイ、コスート曾て曰へるあり、「余の見る所を以てすれば十九世紀の二大英雄とは独のビスマーク公と日本皇帝陛下なり」と、彼をして此言を発せしめしものは吾人の尊戴する皇帝が其臣下に施せし偉大の事業に止まらずして亜細亜の億兆が将にその余沢に浴せんとしつゝあればなり、日本は東洋に於ける進歩主義の戦士なり、故に我と進歩の大敵たる支那帝国を除くの外日本の勝利を望まざるものは宇内万邦あるべきに非らず。
 吾人が爰に世界の国民に向つて吾人の義を明かにするの理由は吾人目前の衝突に於て彼等の援助を乞はんが為めに非らず、吾人は此の栄光を他の国民に分与するを欲せず、吾人は単独終極迄戦はんことを欲す、今日吾人の欲する所は彼等の推察的中立を以て足れり、今は日本が世界に尽すの時なり、日本已に世界の恩沢を享くるや久し。
 
 
      (112) 吾人は朝鮮戦争を以て義戦なりと論定せり、其然るは戦争局を結て後に最も明白なるべし、吾人は貧困に迫りし吾人の隣邦の味方となりたり、其物質的に吾人を利する所なきは勿論なり、又支那と雖も壊滅は吾人の目的に非らず、彼等をして吾人流血の価値を購はしむれば足れり、吾人の目的は支那を警醒するに在り、其天職を知らしむるにあり、彼をして吾人と協力して東洋の改革に従事せしむるにあり、吾人は永久の平和を目的として戦ふものなり、天よ此義戦に斃るゝ我同胞の士を憐めよ、日本国成てより国民未だ曾て今日の如き高尚なる目的を以て燃ゑず、今や吾人は一団となり吾人の讐敵に当らんと欲す、
   たとへ絞台の上にするも、
   たとへ戦陣の頭にするも、
   死するに高尚なる場所は、
   世を救はんが為め死する場所なり。
 
(113)    日蓮上人を論ず
                     明治27年9月3日−10月3日
                     『国民之友』234−237号
                     署名 外教生
 
       (一)
 日蓮上人は日本歴史に於ける最大疑問物なり、彼の特性の峻険劇烈なる、彼の行為の大胆不敵なる、彼は大奸物として視るを得べく、大英雄として許すを得るなり、彼の如きは非常なる仰慕者を有すると同時に激烈なる夥多の敵を有するものなり、我邦の歴史的人物にして彼の如く激賞を得しものはなかるべく、亦た彼の如く忌避されしものはあらざるべし、彼若し善人ならん乎、多分彼の仰慕家が称するが如き完全人物にはあらざるぺし、彼若し悪人ならん乎、彼の宗敵が示すが如き奸物にはあらざりしならん、真正の日蓮は最も画き難き人物なり。
 然れども彼を解するの難きは彼の特性の奇異なるのみに非らずして、我が国民の特性たる彼が如き人物を解するに最も不適当なるものなるが故なり、穏便柔和は東洋国民全躰の性質なり、劇性は彼等の最も厭ふ所、彼等の歴史は之を示せり、彼等の美術は其証なり、国民は風雅礼節を以て世界に誇る、故に偶々峻険豪胆日蓮の如き人物の出で来らん乎、彼は国家異例の産物として見做され、彼を解するに前例あるなく、彼を量るに標準あるなし、彼は単独歴史紙面に卓立し、激賞激貶せられつゝ今日に至れり。
 然れども史学の区域全世界を掩ふに及んで彼の如きも亦た単独の人物たらざるに至れり、余輩は彼の類似を万(114)国歴史に見るに及んで彼を解するに大に易きを感ずるなり。
 余輩の爰に彼を論ぜんとするは彼に関する歴史的新事実を読者に供せんとするに非らず、余輩の目的は通常世間に知れ渡りたる彼に関する事実を以て比較的に彼の人と為りを攻究せんとするにあり。
 日蓮は悪人なり、大山師、政治的失敗者の宗教家となりしもの、我邦に於ける野望家の張本……是れ余輩が彼に関して幾多の批評家より聞きし所なり、彼は神道家の嘲弄物なり、基督教信徒の鄙視して止まざる所、仏教他宗の憎悪の中心点なり、彼の頭上に積まれし憎悪、嘲弄、凌辱、傷毒の形容詞は多分日本語中に存する凡てを尽せしならんと信ず、宗教的大山師、是れ彼に対する彼の敵人の感念を一括せし言なり、彼れ若し英雄ならん乎、彼は夫のクラレンドンがクロムウエルを評せし如く Great bad man「悪しき巨人」なりしなり、彼の心事已に悪なり、故に彼の大事業は渾て悪業なりしとなり。
 余輩は彼に関する歴史的事実の真偽を明かにして彼の心事の善悪を判ぜざるぺし、若し夫の竜ノ口法難なるものにして彼の弟子の捏造に係かる妄語なりとするも、若し又た法難に際して彼が之を免るゝを得しは奇跡的天変に依るにあらずして彼の大敵たりし良観和尚の歎願に出でしとするも、佐渡海上の曼荼羅現出は迷信時代の想像に依るとするも、彼の元寇に関する預言は後日の附托《コジツケ》説なりとするも、一事吾人の彼に関して少しも疑ふ能はざるあり、即ち彼の生涯と彼の事業是なり、東海僻陬の一出家が終に天下を震動するに至り、彼死して後六百年、彼に帰依するものは百十万を以て数へられ、多くの正直なる、多くの豪勇なる、多くの勤勉なる我が国の人士が彼に師事するの一事は是れ亦た歴史的大事実と云はざるべからず、而して浮虚に依て身延山興り、瞞着に依て池上成り、野望を慕ふて日昭服し、山師を想ふて日親動きしとせん乎、余輩は云ふ、是れヒーマニチー其物を疑ふ(115)事にして批評的歴史の解剖刀は如何に鋭くあるにもせよ吾人の人性に於ける此信仰は容易に動かし得べきに非ず、トマス、カーライル叫んで曰く、「虚人宗教を建てしと云ふか、余は汝に告げん、虚人は土壁をも建つる能はず」と、野望の人が人心を収攬せしの例なきに非らず、然れども虚人が多くの真面目なる人の心を収攬して綿々六百年後の今日に至りし事は世界の歴史未だ曾て其例を見ず。
 抑も宗教的事実たる、其無形の心霊に関するが故に之を全く歴史的記録に存する事は甚だ難し、宗教は究むるよりは感ずるを要す、故に文明国の宗教なる基督教に於ても之に関する最後の証拠は信徒の心霊的実※[手偏+僉]を以てす、其経典たるバイブル(特に新約聖書)は歴史的批評に最も能く耐ゆるもの、然れどもバイブル歴史に依てのみ基督を認めんと欲する者は彼を解し得ざるものなり、是れルナン、ストラウス等博識の士が基督を誤解せし理由なり、基督を解せんと欲せば彼の教訓を実行し彼の精神を吸収同化せざるべからず、故に基督彼自身も彼の弟子に教へて曰ふ、
  人もし我を遺しゝ者の旨に従はゞ此の教の神より出るか又た己に由りて言ふなるかを知るべし
 即ち彼の教の真理を知らんと欲せば之れを実行せざるべからずとの意なり、基督教証拠論の磐石は実に其心霊的感化力にあるなり。
 宗教家日蓮を解せんとするも亦た日蓮彼自身に接せざるべからず、記録に存する記事を以てのみ彼の為人を評せんとするものは真正なる彼を識認する能はず、是れ何人に於ても然りとするも宗教家に於ては更に然りとす、史学の冷眼のみが彼を円満に解し得べしと信ずる人は明白なる心理学上の事実を否定するものにして霊物の長たる宗教家を評するに当て禽獣木石を研究すると同一の方法を採るものなり、日蓮も基督も均しく彼の批評家に告(116)げて曰はん、「我を識らんと欲せば我が言を守れ」と。
 日蓮悪人説は最も信じ難き説、恰もモハメツト偽預言者説が業に已に歴史家の思惟外に撤去せられしが如し、余輩は彼の事業を再録して彼を弁ずるの要なし、歴史家ランカが天主教徒に向つて十六世紀の宗教の改革者を弁護せし同一の論法、トマス、カーライルが二百五十年間大逆無道として英国人の脳裡に存せしオリバー、クロムウエルを弁ぜし同一の考察法は日蓮上人を宗教的山師てふ浅薄無情の批評に対し充分に弁護するを得べし。
 然らば彼は如何なる人物なりしや、余輩は若か云ふ、彼は亜拉此亜の預言者モハメツトの如き、伊国の改革者リエンジの如き、班のイグネシアス、ロヨラの如き、独のマルチン、ルーテルの如き、英のジヨージ、フオツクスの如き、激烈の性を帯びたる熱誠の宗教家たりしなりと、彼の行為に不合過失の多き、彼の言語の粗暴乱雑なる、急にして怒り急にして泣き、敵に劇にして友に優なる、強者に対して頑なる、弱者に対して脆き、其志望の荘速なる、其手段の極端なる、一として吾人の今日称する Intense character(激性)たるの証に非らざるはなし、彼の如きは世界歴史に於ても稀に見る所、特に平穏柔順を旨とする我が邦人の中に於ては実に奇異中の奇異なり、彼を彼の同類と此較してのみ少しく彼を解し得るも、彼一人として彼を量らんには煩混錯雑たる反対性の集合躰、忽ちにして秀麗の山水を望むかと思へば忽にして開豁の曠野の現はるゝあり、巍々たる山嶽が洋々たる海面に出没するの状、孰れが彼にして孰れが彼ならざる乎、吾人採らんと欲して得ず、感ぜざらんと欲して感ず、彼の如きは実に不合中の合、反対中の調和なり、彼を正解すれば無比の美なり、彼を誤解すれば無比の醜なり、彼を解するの難実に彼の劇烈なる反対性にあり。
 故に凡人にして彼を解せんとする乎、只二途あるのみ、彼れを迷信的に崇拝するのみ、彼を恐怖的に排斥する(117)のみ、彼の如きは敵たらざれば友とすべきもの、友たらざれば敵とすべきものなり、彼れ人に対して冷淡なる能はざりし如く人も亦た彼に対して冷淡なる能はず、リエンジ然り、サボナローラ然り、ルーテル然り、彼の如きはマコーレー卿の称する能く愛して能く悪むものなり。       〔以上、9・3〕
       (二)
 日蓮を以て激誠の宗教家となさん乎、彼の一代の事跡にして余輩の解し能はざるものは殆んどあるなし、彼の幼少時代に関する記事は措て問はず、彼れ歳已に十七、自覚の時期に達し、宗教的疑問に悩まされ、祈願を虚空蔵菩薩に込めて其解疑を求めんとする時、一日憂悶措く能はず、御堂の階段を下らんとするに際し、胸膈気逼りて多量の生血を吐きて其場に絶倒するに至り、同寮所化の介抱に依りて復活するに至りしとの一事は余輩が彼に就て疑はんと欲するも能はざる所なり、此記事に接して何人か欧洲歴史に載するマルチン、ルーテルの青年時代の経歴を思ひ出さゞるものあらんや、同じく是れ激誠の好青年、宗教的疑問は彼の心思を圧し、彼れその解明を望んで得ず、一日憂悶其極に達し、彼の宿房内に絶倒し、終に同寮の援け起す所となれり、東西二例の相符合する実に一は他の模写に係るが如し、モハメツドが砂漠の岩窟に蟄居して煩悶の中に明を求めしが如き、ロヨラが時々憂鬱の余り身を楼上より投ぜんとせしが如き、コロムウエルが夜中屡医師を呼寄せて鬱憂症の治療を乞ひしが如き、激誠の士が真理を探究するの際此病理的苦痛を感ぜし例は宗教歴史上決して尠からず、日蓮にして此心霊的激戦を経過せずして安心立命の位置に達せしとせん乎、彼の確信の緩漫なる、彼は平凡的僧侶として彼の一生を終りしのみ。
 彼の宗教的疑問は余輩の同情を表する所、熱誠彼が如きものにして如何にして疑問なからざるを得んや、仏に(118)八宗あり、孰れか世尊釈迦如来の真意に通ひしものぞ、本師は一人なるに何故に八宗十宗の別あるや、釈迦の宗旨とは真言か、はた華厳なるか、禅宗なるか、大海の潮に二味あるなし、如来の教法に二道あるべからず、嗚呼釈迦の仏教なるものは何処にあるや、是れ彼の疑問の第一なりし、是れ尚ほ今日吾人を苦むる疑問なり。
 仏は八宗に止まらずして四万八千宗ありとて吾人の思惟を嚇すものあり、然れども熱誠日蓮の如きものにして如何で斯の如き誇大的威嚇に服すべけんや、吾邦人にして基督教を信ずる者の邂逅する第一の疑問も亦た其宗派の分離にあらずや、而して彼等宣教師輩が多くの附托説を設け此大躓石を除き去らんとするも誠意該教を探らんと欲するものに一として満足を与へしことなし、基督の基督教なるものは何処に在るや、是れ尚ほ吾人の問題ならずや、日蓮は疑問の当然なり、余輩世間幾多の宗教家が彼の如き疑問を起さゞるを甚だ怪むなり。
 日蓮を苦めし第二の疑惑は彼の宗教思想に最終の判決を与ふぺき経典の撰択なりき、是れ彼の最も難とせし所なるが如し、他の宗教に於ては此問題を定むること最も易し、回々教に於ては「コラン」を除ては他に憑拠的経典のあるべうもなし、波斯教に「ゼンドアベスタ」あり、印度教に「リグビダ」あり、而して路錫が同一問題を以て困めらるゝや、彼は彼の寺院内に鎖を以て繋がれありし拉典訳「バイブル」を見て彼の心に満足するを得たり、然れども仏教に於ては全く然らず、先づ小乗大乗の別あり、而して大乗中憑拠的経典として各派の奉戴する所のもの甚だ多し、天台は般若法華に拠り、禅宗は重きを楞伽に置き、真言は大日金剛楞厳に基づく、其他華厳経あり、大集経あり、涅槃経あり、一切経七千三百九十九巻、其解く所矛楯齟齬する事多きは決して他宗教の経典に於て見る能はざる所なり、今日の仏教学者が此点に関する他宗の攻撃を免がれんが為めに仏教一貫論を唱道すると雖も直白なる批評家を満足するに甚だ困しむを以て知るべし。
(119) 熱誠の日蓮如何で運逕的附托論を以て満足すぺき、彼は仏教経典論に就て最も簡単なる最も明白なる鮮明を要せり、彼の如きの性は両元論を以て耐ゆる能はざるもの、単簡なる一元論のみが彼を満足し得べし、故に彼が一日無量義経を繙き、諸経の年代的順序と権実両教の別を示さるゝや、混沌たりし彼の思惟は今は整然たる模型を取るに至り、八万四千の仏説も簡明なる組織的仏学となりて彼の脳中に収まるに至れり、是れ実にニウートンの思惟界に引力説の浮び出て駁雑なる天躰運動を一単元理を以て悉く解釈するに至りし時の快と楽に此すべきもの、僧日蓮に取りては絶大のレベレーション、無限の新真理、彼を迷霧の中より救ひ出せしもの、彼に安心を供せしもの、彼の生命を救ひしもの、宗教家の歓喜雀躍とは実に如斯ものを云ふものにして此種の経験なきものゝ迚も推量し能はざる所なり、涅槃経は彼に教へて曰く「依法不依人」と、日蓮今は人言に依らざるべし、印度の菩薩たれ、支部の大師たれ、日本の高僧たれ、彼等の百万言は聖法の一言に及ばず、宗派の分離実に此に基けり、彼等が人を信じて法を信ぜざればなり、仏徒の無気力此に存す、彼等が変幻浮雲の如き学説に頼て万世不易の仏の金言に頼らざればなり、我は法に依て立たん、而して法華経は如来出世の本懐を述べられしもの、此経を以て他経を解し、此経を以て我が信仰の土台石となすならば我に誤謬の恐れあるなし、怒涛捲き来りて我を撃つとも何かある、我は万世の岩に頼めり、政権懼るゝに足らず、学識憚るに足らず、我は宇宙の真理を握るもの、我れ法に在り法我にありて法の貴きが如く我貴しと、無限の勇気、無限の責任、無限の自重心は今は彼の全心を襲へり、羸弱世に譬ふべきなき彼は法に依るに依て勇敢世に此すべきものなきに至れり。
 ルーテルの経験も斯くありし、「聖語に依るにありて人に依るに非らず」と、サボナローラの経験も斯くありし、「人説極なきが故に神は之に最終の判決を与へんが為に人類に聖書を賜へり」と。
(120) 日蓮の結論が近世批評学者の承認する所たるや否やは彼の心事を解するに当て全く不用なる問題なり、彼の尊崇して以て万世の宝典となせし妙法の蓮華経なるものは仏滅後五百年の作にして而も印度国外バクトリアの蛮土に於て始めて編せられしものなりとは余輩が輓近の批評学者より聞く所なり、而して彼の神学思想を形造るに於て最肝要の手引となりし無量義経なるものはバクトリア産の不経的《アポクリフハル》著作を弁護せんが為に作られしものにして其法華経を賛するは理の最も覩易きものなりとの説あり、余輩は爰に此の批評学上の問題を決せんとするものに非らず、余輩は知る日蓮は十三世紀の始に東洋の日本安房の一隅に生れしものなる事を、彼に梵語を以て批評的に印度文学を研究するの機会と便利とは供へられざりしなり、彼の結論の不当なりしは彼の時代と境遇と教育との然らしめし所にして、之を以て彼を責むるは十六世紀の神学の不完全なるを以てルーテルを責むるが如きもの、十七世紀の科学の不合理なるを以てガリリオを責むるが如きものなり、日蓮の神学の粗漏不完全なりしは彼の偽善者たりしの証に非らず、恰も近世の歴史家が「コーラン」に妄譚の多きにも関せずモハメツドの誠実を疑はざるに至りしが如し。
 日蓮の解脱は彼の十九歳の時にありき(ルーテルは二十二歳サボナローラは十九歳)、然れどもその発表は尚ほ十数年の後にありき、彼は鎌倉に遊び、叡山に学び、帝都高野に教勢を察せり、彼の叡山に在るや法華経を以て彼の専門と定め、天台章安妙楽の釈疏を熟覧し以て大に彼の最始の確信を鞏国ならしめたり、激誠彼の如きものは一度信ぜし事は容易に変更せず、彼の青年時代に於て理性の最も過敏にして印刻し易き時に受けし彼の感動は消滅し得べからざる印象として彼の心に存せり、故に彼の遊学は彼の青年時代の信仰を強むるに止まつて彼を広闊ならしめざりし、彼は既定説を以て諸経を閲したれば諸経は彼の自説に貢を払ふに止て之を変化するの力を有(121)せざりし、如斯の心理的現象は決して日蓮一人に止まらざるなり、ルーテルなり、マリア、テラツサなり、スウヰーデンボルグなり、熱誠なる宗教家の経験にして如斯ならざりしは稀なり、日蓮は他の宗教家と同じく熱心なりし比例に狭隘なりしなり、高くして尖く、深くして狭く、鋭くして寛ならざりしは彼の特性なり、然れども狭隘なりしと雖も彼は無謀ならざりしなり、彼は世の所謂猪武者にあらざりしなり、涙脆き彼は生れながらにして寧ろ憶病者と称するも猛勇の性には非らざりしなり、是れ彼の父母に対する感情恩人に送りし彼の書翰の充分に証する所なり、彼の勇気は単に彼の宗教心より来りしものなり、故に彼は十九歳にして彼の解脱に達せしと雖も孤独立て彼の確信を天下に発表するに至りし迄は幾多の躊躇と反省と錬磨とを要せり、余輩は信ず、「時来れり」の声は彼の叡山留学中幾回となく彼の心中に湧き来りしならんと、然れども彼の分別は彼の熱心を抑へ、彼の肉情は屡彼の感慨に抗せしならん、吾人の所謂「曠野の試練」なるものは彼に取りては十有二年の長きに亘りたり、強ひられざれば起たざるは英雄の一特徴なり、日蓮の激熱性を以て此長年月を忍びしの一事は彼の巨人たるを証するに足る。
 彼は留学を終て故郷安房に帰りたり、彼は先づ彼の非凡の冀望を彼の父母に告げ、彼の行路の多難なるを示し、彼より普通僧侶の安逸生涯を望むべからざるを乞へり、彼の心は已に決せり、予言者は故郷人には受けられざること恒とすれども、日蓮も他の予言者と同じく彼の革新的思想の発表を彼の郷里の人の前に於てせり。
 人に告るに先て彼は先づ宇宙に向て彼の新主義の宣告をなせり、建長五年四月二十八日、如来の滅後二千二百一年、即ち末法に入てより二百有一年、西暦一千二百五十三年、ダンテ日光を見る十三年の前、第六「十字軍」の終りし前年、即ち欧洲の熱心と迷信とは其極度に達し、智識的に暗くして心霊的に最も高尚なりし頃、日(122)蓮は独り安房の東端大平洋に突出する高角の上に立ち、大陽が黄金色の雲装を纏ふて光輝と生命とを暗黒世界に供せんが為め波浪的水平上に顕はれし時、僧日蓮は東面して一言高らかに唱へて曰く
   南無妙法蓮華経
と海は彼を聞けり、而して彼の足下に怒音を呈して彼の勇壮なる冀望を賛せり、山は彼を聞けり、而して彼の背後の松樹に琴瑟の微音を奏でゝ彼の心底の祈願に和せり、彼は今厳粛なる儀式を以て宇宙に向て彼の誓約を立てたり、彼の行路已に定まれり、彼れ宇宙の賛助を得て彼一人は世界より大なり、戦は宣せられぬ、戦闘之より甚だ劇しかるぺし。
 彼の起つや彼れ年三十二、基督釈迦の出世に後るゝ事二年、エマルソン氏の所謂「丈夫の起つぺき年齢」なりき、彼は彼の里人に向ひ彼の独特の宣言をなせり、曰く「正法千年像法一千已に過ぎ去て今は末法に入りてより二百年法華経の流布さるべき時は至りぬ」、日く「念仏は無間に堕る悪法、禅宗は天魔の眷属、真言は国を滅す邪法、律宗は国賊なり」、曰く「諸宗無得道堕地獄、法華独一の利益に依るに若かず」、曰く「今は法華経流布の時代我は是れ如来の使なり」と、彼に忿怒あり、熱涙あり、狂ならざれば信、信ならざれば狂、聴衆の多数は狂と決せり、予言者は故郷より逐ひ出されぬ。
 嗚呼是れモハメツドが始めて彼の沈思の結果を彼の故人に告げてメツカを逐はれてメヂナに遁れし時の状、是れキリストが彼の使命を彼の村人に告げし時 会堂にありしもの之を聞て大に憤り、起てイエスを邑の外に出し投下さんとて其邑の建ちたる崖にまで曳き往けり、
(123)との様なり、人物に大小の別あらん、然れども激烈なる誠実の士が世に現はるゝや同一の待遇は免かれざる所、日蓮の罵詈的説法の適否は余輩は知らず、然れども一人の激に過て愆つものあれば千万の優柔に過て悪弊を摘示し能はざるあり、余輩は日蓮の勇気を歎賞するの余り彼の他宗駁撃の度に過ぎしを恕せん事を欲す。
 迫害今は彼の身に迫り来りぬ。然れども是れ彼の覚悟の上なり、故郷を逐はれて彼は時の日本国の都会なる鎌倉に赴けり、彼れ曾て曰へり「鎌倉は当時日本の大都会なれば法を弘むるには宜しく道を学ぶに益なし」と、是れ実に深遠なる観察、彼れのナポレオン的眼光は法敵を衝くの焼点を彼に示せり、彼は山に於て法を究め都に於て之を流布せり、彼の冀望は已に天下を併呑せり。
 余輩は常に惟へらく日蓮の最大なりし時は実に此時にありしと、彼の立正安国論は彼れ已に同意者を得て彼の勢力已に天下を靡かすに至りし時にありき、彼の佐渡流竄は彼れ已に天下の注目する所となり彼の退譲は衆人の許さゞる所となりし時にありき、然れども彼れ年始めて三十二、無名の脚僧独り大志を懐き、飄然鎌倉に入り、地を名越の山に卜し、土を均し地を坦め、「杣木の柱に竹掻ひわたし、尾花を苅りて屋根を葺き」、妙法一巻を懐にして彼の立脚地を此処に定む、独立なるかな彼、天下を教化せんと欲するものは先づ彼の如くならざる可からず、彼の林間に峙つ建長寺何かある、政権に恃み虚威に誇り、七堂伽藍高く聳て、衆愚の帰依する所たるも、是れ空中の楼閣たるに過ぎず、彼の大仏殿何かある、天下の富を投じて銅像を鋳る、是れ何人も能ふ所、下民の救済是より来るなし、我に一片の心あり、至誠山をも衝くぺし、我に政権に依るの要なし、我に富貴に屈するの要なし、我は独り立て世界を化せん、我は世尊本師の使者、彼れ我と共にありて我一人は世界よりも強し、
  “With one voice、O wold、though thou deniest、
(124)  Stand thou onthat side−for on this I am!”
 日蓮を笑ふものは笑へ、然れども彼の独立を真似よ、彼は彼の宗義を拡むるに当て富貴と威力とに依らず、彼は空海最澄の如く朝権の庇保に与からず、彼は今日の基督教徒の如く資を外国に仰で伝道に従事せず、彼は精神の実力を知れり、彼は宗教の本躰を解せり、宜なるかな彼に無限の生命力ありしや、他年身延となり、池上と立ち、宏殿巨刹空に聳へ、五千の寺院国内に起り、二百有余万の平民的信徒を蒐め、四千有余の僧侶を使役し、日本的仏教として我邦土を化するに至りしものは実に名越の草庵内に籠りし至誠の一塊なりとす、エマルソン云へるあり曰く
  人若しその本能の示す所に拠り其上に屹立せば大世界は来て彼を補翼すべし
と、日蓮は彼の本能の上に立てり、故に二百万人の日本人は彼に帰依せり、彼の俗世界の嗜好に投ぜんとし、彼の外国の補助に与からんとする宗教家は日蓮と日を同ふして語る可きものに非らず、余輩は合理的宗教を唱へて卑屈軟弱なる近世の宗教家千百を有せんよりはバクトリヤ的経典に依り頼みし一日蓮を得んことを望むものなり。 〔以上、9・13〕
       (三)
 天下の宗敵に対して孤陣を名越の山腹に張りし僧日蓮は尚ほ一年間沈黙を守れり、彼は鶴ケ岡の経蔵に入り独学独考して彼の心思を養へり、此時に当て摂理は彼に一人の貴重なる共働者を供せり、即ち叡山の学僧成弁と称するもの、齢は日蓮に一歳を加へ、沈毅温良静寂の士、志望学説の同賛を慕ふて遠路鎌倉に抵りしものなり、二者性を異にして目的を共にせり、成弁は守るに善くして日蓮は戦ふの人なり、前者は内を整へて後者は外に張り、(125)前者は柔に失し後者は剛に過ぎ、一は他の補充性にして一を欠て他は其目的を達する能はず、成弁名を改めて日昭と称し、日蓮第一の弟子なれり、日蓮宗の建設は実に二者の共同事業なり、世が日蓮を称して日昭を思はざるは前者は多く外に現はれて其行為の顕著なりしが故のみ、恰も独逸宗教改革事業に於てルーテル現はれてメランクソン隠るゝが如し。
 ノーバリス曰く「若し一人の余に賛同するものある時は余の確信は千百倍の強を致す」と、求めずして得たる日昭の賛同は如何に日蓮の確信を強からしめたりしよ、彼れの進取的運動は実に日昭を得て後に始まれり、彼は今は建設事業を悉く日昭に委ね、回顧の配慮を去て専心他宗の攻撃折伏に従事せり、彼は実に我邦に於ける路傍説教の率先者なり、彼は日々鎌倉辻町の東小町往還の路に立て「諸宗無得道堕地獄」を叫び、彼の独特の宗義を伝布せり、人あり彼に往還に法を説くの非礼を責むるものあれば、彼は云ふ、「人間は坐して食するを礼とすれども乱軍急場の場合に於ては立て食するも非礼ならず」と、彼の激烈なる他宗駁撃を非難するものに向て彼は云ふ、「出家の身は元来仏の使なり、世を畏れ人に媚て之を云はざるは道に非らず」と、彼は戦時の感念を宗教に適用せしもの、余輩彼の例を求めんと欲すれば旧約時代の預言者に非らざればルーテル彼自身に抵らざるべからず、詩人リヒテルがルーテルを評して「彼の言語は戦争なり」と云ひしは我の日蓮に通用すべきものなり、自重抱負日蓮の如きは彼を措て他に我が国史の載せざる所、基督教国に於けるジヨン、ノツクス、ジヨジ、フホツクス等の勇敢熱心に此してのみ日蓮の当時を思ひ得るなり。
 彼は路傍説教に依りて多くの有力なる信徒を得たり、四条頼基なり、進士善春なり、工藤吉隆なり、池上宗仲なり、荏原義宗なり、南部実長なり、皆な忠武を以て聞へし東国異数の武士なり、北条時代の日本人は今人の如(126)く宗教に冷淡ならざりしなり、彼等は身は豪族の中に算へられ政府枢要の位置を占めしものなりと雖も、路傍説教に耳を峙て、一度び真理と信ずるに至れば世の嘲弄誹謗を顧みず、直に彼等の信仰を表白するに躊躇せざりしなり、試に思へ、工藤吉隆は房州天津の領主なりし事を、四条頼基は北条の一門江馬遠江守の近臣たりし事を、池上宗仲は東国屈指の豪族たりし事を、而して日蓮の恩人にして終に彼に信服するに至りし富木播磨守胤継は諸侯の一人なりし事を、是等が名越の貧僧を信じ彼に師事するに至りしなり、日蓮の豪と邁とは感ずるに余りあり、然れども是等豪直の士の行為は我邦今日の社会に於て求めんと欲して能はざる所、余輩の祖先も一時は真面目なる宗教家なりしなり、彼等に不人望なる味方に組するの勇気ありしなり、彼等は交際社会の批評を恐れざりし、彼等は宗教的熱心を以て耻となさゞりし、明治の日本には鉄道あり、電信あり、シャムペーン酒あり、花骨牌あり、然れども建長文永時代の誠実熱心真面目は其封建政治と共に今は全く失せて迹なし、今日は批評の時代なり、宗教哲学時代なり、「新神学時代」なり、然れども名誉生命を悉く賭して一宗教に帰依するが如きは今人の敢てせざる所、僧日蓮は狂人なり、彼の徒弟は迷信家なり、如何となれば彼等は今日の眼鏡的批評学者の如く冷淡にして無情ならざりしが故に、彼等は真面目なりしが故に、彼等は実に誠に宗教を信ぜしが故に。
 直接伝道に従事すること六年、彼の信徒の益増加するに及びて彼の確信は益強きを加へたり、彼の心中に十数年間存せし彼の仮説は今は生霊の上に試みられて其実菓を結ぶに至れり、諸宗無得道説 仏法惟一説は今は多くの賛同者を得て全く疑ふべからざるに至れり、時に康元元年関東に大洪水あり、其年六月十四日には鶴ケ岡八幡宮の社震動せり、同日白昼に飛星を見たり、翌正嘉元年には月蝕日蝕共に異例なり、五月十八日大地震と共に海水泥に変じたり、夏旱魃甚しく田畑涸乾て野に一株の生草なし、八月再び地大に震ひ人畜死傷夥し、十月(127)天に五色の雲現はれ鉾の如き電光八方に散乱す、翌正嘉二年奇異の現象尚ほ息まず、五月廿八日※[螢の虫が火]星現はれ一天の星皆な光を奪はる、春悪疫流行し秋大風大洪水あり、諸国の大飢饉は延て翌正元元年に渉り、鎌倉市内に人其児を啖ふものあるに至る、是れ何等の徴候ぞ、日蓮未だ気象学を識らず、地質天文の諸学は彼の未だ夢にもせざる所、異現を解するに彼は単に彼の宗教あるのみ、故に彼も亦た多くの宗教熱心家と同じく自然的現象の註釈を古代聖経の中に求めんとせり、彼は彼の凡ての経文学に徴して自然的異変の意味を探究せり、而して尚も彼の考察を確めんため彼は弟子日昭を従へ、駿州富士郡岩本実相寺に至り、其経蔵に就て彼の意見に経典的証拠を求めたり、而して彼の黙思と考察との結果は有名なる立正安国論と成れり、是れ日本文学中惟一の書、之に比すべきものは世界文学中伊国サボナローラの著「哈基《ハガイ》の預言の註釈」あるのみ、二者同一の眼光と同一の攻究法を以て自然的現象と社会的変動を論ぜしもの、歴史家シモンドが彼れの有名なる「伊太利文学復興史」に於てサボナローラの著を評して「是れ心理学的異象(Apsychological phhenomenon)なり」と云ひしは亦た立正安国論の適評なるべし。
 立正安国論の要たる先づ金剛明経大集経仁王経薬師経の四経に拠て、災異の来るは世の正に背き人の悪に帰し、善神は去り正法は蔽はるゝより悪魔視Sの来つて為す所なることを明し、次に法然が選択集を破斥して正法を蔽ふものなることを弁じ、啻に浄土を冀ひて三部経の他の余経をば捨閉閣抛の四字に付するの甚しく非なるを喝叱し、次に正法を謗るの大罪過なるを説き、次に法華経の真実教 大乗教 最勝教たるを説き、結末に法華を尊信し念仏を抛下せずんば災異は今よりも猶ほ多く釆らんことを示して終るまでを問答躰に書き成りしなり、(幸田露伴氏の「少年文学」に於ける明晰なる解剖に依る)。
(128) 是れ日蓮の論法、中古時代の欧羅巴人の論法、即ち所謂「依法不依人」的論法にして科学以前の人には惟一の論法なりしなり、「是れ我が言にあらずして釈迦牟尼世尊金口の仏説なり」と、古代誠実の士は如斯論法を以て満足せしなり、日蓮は自然的災異は日本人が彼の尊崇する法華経を奉戴せざるが故なりと論定せり、而して猶ほ「自界叛逆難」と「他国侵逼難」とは彼等の不信の結果として彼等の頭上に落ち来らんとすと預言せり、余輩は彼の中古的教育が経典以外に自然的現象を解することを彼に許さゞりしを惜む、然れども日蓮は全く誤らざりし、学術の進歩を以て誇称する吾人は彼の非科学的なりしを笑ふと同時に彼に吾人の有せざる心霊的本能《スピリチユアルインスチンクト》の存せし事を許さゞるべからず。
 自然界は心霊界と全く域を異にするものにあらず、道徳的源因は自然的結果として現はれ、人は客観的現象を以て主観的動静を察するを得べし、此観念たる人類の有する本能の一にして科学の進歩は容易に之を吾人の脳裡より排除する能はず。
 吾人目前の災異にして現然たる罪悪の結果たるものは枚挙するに遑あらず、旱魃と洪水とは常に相伴ふて来るもの、而して二者共に山林の濫伐に基く事は已に何人も承認する所ならずや、洪水は人類の貪慾が他人に率先せられん事を恐れて先を争ふて山野の林装を剥奪するより来るものなり、洪水と罪悪との関係は実に最も近きものなり、疫癘と道徳との関係に至ては更に明瞭緻密なるもの、勿論之に罹るものは皆な悉く其犯せし罪の刑罰に依ると言ふを得ず、然れども社会として国家として人類として之に悩さるゝは現然たる道徳的源因よりする事は理の最も睹易きものなり、幾多の火災は不平怨恨嫉妬より起りしよ、幾多の饑饉は非政の結果なるよ、人は災害を己に帰せずして天を恨む、然れども災害の多分は人為を以て排除し得べきものなり。
(129) 日本の颶風は其地理学上の位地に因るものなり、其震災は其地質的構造の然らしむる所なり、吾人は改悔懺悔するも是等災害より免るべきに非らずとせん。
 地震颶風は道徳的に避くるを得ず、然れども道徳的に其災害を減少し得るなり、恐怖の念は苦痛の極なり、恐怖は不幸を張大ならしむるもの、恐怖去るに及んで人生の苦痛の過半以上は去りしなり、而して恐怖は罪悪の直接の結果なり、恐怖の民は災害を最も多く感ずるものなり、故に仁政行はれ民各其天職に安んずる時は※[螢の虫が火]星顕るゝと雖も之に意を留むるものなく、震災の犯す所となるも損傷を感ずる尠し、古昔より噴火震災が罪悪に沈める社界を警醒せし実例甚だ多し、有名なるソドム、ゴモラの両市が陥落して今日の「死海」と成りし事、ベスビアス山の噴裂に依てボンペイ、ヘルクユレーニユムの填塞せし事、千七百五十五年のリスボン府の大地震、近くは欧洲賭博の中心なるリビエラ沿岸の破壊、是等は地動的災害が罪悪に伴ひ来りし著名なる実例なり、余輩は天が殊別に積悪の民に災害を下し給ふや否やを知らず、然れども天災は刑罰として積悪の民に最も強く感ぜらるゝの一事は明言するに躇躇せざるなり。
 客観的に主観的に災害は日本人民を悩ませり、日蓮は詩人にして科学者に非らず(宗教家は概ね然り)、彼の道徳は仏教なり、彼の仏教は法華経なり、故に自然的災害を以て法華経流布の障害より来りしものとなせり、是れ彼の前提より来る自然の結論なり、誤謬は彼の前提にありて彼の論法にあらざりしなり、災害は道徳的原因の結果として見るを得べし、或る意味より言へば吾人改悔の為め天の送りし警戒と見て可なり、然れども是を以て法華経流布の妨害より来りしものとなせしは日蓮の偏見なり、恰も基督教徒が国難の起るを以て其宗教の伝播せざるが故なりとし、新教徒が伊国の震災を以て天主教徒の跋扈に帰するが如し、立正安国論は日蓮の深と隘とを同(130)時に示すもの、「国は法に依て栄へ法は人に依て立つ」、是れ何人も抗言する事能はざる所、「正法に背けばその国に七難起る」、是れイザヤもエレミヤもルーテルもカントもソクラテスも承認する所、然れども正法(真理)を以て彼の法華経と同意義ならしめし事は彼の狭隘と無学と固執とを示せり。
 日蓮の元寇予言は屡非難を受けしもの、其当否は純粋歴史の問題にして余輩の爰に論ぜんと欲する所に非らず、然れども日蓮の性を以て異国の侵迫を前視せりとは余輩の信ずるに躊躇せざる所なり、そは感能過敏彼の如きものが将来を未発に前知せし事は其例決して尠なからざればなり、予知は詩人特有の感能なり、詩人ゲーテに其著しく発達せし事は彼の記録に存して明なり、加奈太オンタリオの人医学博士アール、エム、バツク氏曾て Cosmic consciousness(宇宙的感能)てふ論題に付て彼の研究の結果を某学会に報じたる中に、彼は人心が発達して終に宇宙の事物を未発に知覚し得るに至るを述べたり、而して其実例を挙げ、使徒保羅、シエークスピア、仏の小説家バルザツク。(Honore※[アクサンテギュ] de Balzac)、独の神私学者ベーメー(Jacob Boeme)、英の画工詩人ウヰリヤム、ブレーク等を以て最著名なる者となせり、瑞典国の神秘的哲人スウヰデンボルグの未来予言が能く適中して彼の学敵哲学者カントを驚かせし事は能く知れ渡りたる事実なり、然れども僧日蓮の予言と最も相似寄りたるものは伊国フローレンスの宗教改革者サボナローラの予言なり、彼は彼の国人の罪悪を責めて其現罰として他国の入寇あらん事を予言せり、而して彼の宣言果して違はず、千四百九十四年仏王カール第八世の攻入を見たり、是れ何人も疑ふ可からざる歴史上の事実なり、日蓮サボナローラ両雄の相似たるは些事に止まらず、激熱なる彼等の特性、呪語に富める彼等の弁舌、燃ゆるが如き彼等の誠実、抗す可からざる彼等の勇気………日蓮を東洋のルーテルと称するは不可なり、日蓮は東洋のサボナローラと称すべし。
(131) 日蓮の元寇予言は比類なき心理的現象に非らず、然れども彼が是を以て法華経尊奉を国民に強ひしは彼の偏見妄想と言はざるを得ず、余輩の已に論述せしが如く彼は已に彼の前提に於て誤まれり、超自然的の彼の天才は彼の智識的欠乏の為に屡曲用せられたり。〔以上、9・23〕
       (四)
 立正安国論は日蓮を時の政治と衝突せしめたり、彼は今は宗敵に政敵を加へたり、陳腐僧侶と政治家とは恒に相提携して革新家に当るものなり、両者の存在と安逸とは社会の奴隷的服従を要す、革新家は彼等の最も厭ふ所、盲唖的に彼等を尊信拝崇するものを彼等は指して忠臣と称し、信心家と呼び、彼等の迷信闇愚に逆ひ、彼等の拙政劣略に喙を容るゝものを彼等は異端と呼び、不忠と名づく、日蓮に良観と時宗ありしは基督にカヤフハスとピラトあり、モハメツドにコレーシユの族《やから》あり、ルーテルに法皇レオ第十世と独帝カール第五世ありしが如し、真正の革新家として此二種の讐敵を有せざるはなし、薄弱なる平凡人間は敵なきを以て善人の徴候となす、曰く「彼は何人にも愛せられたり」と、彼等は大なる善人の資格を知らず、大敵を有せざる人に余輩は巨人の名称を附せず。
 文応元年(一二六〇)安国論を執権北条時頼に納れてより文永十一年(一二七四)佐渡流竄を赦されし迄十四年間は特に日蓮の迫害時代なりし、彼れ一生の四大厄難なる小松原の襲撃、竜ノ口の剣難、伊豆佐渡の謫流は実に此時代にありき、激烈なる迫害此の長時間に亘りて日蓮の大望計に些少の撓屈をも加ふる能はず、法華経勧持品は彼の特愛の一巻なりしが如し、彼は笞杖謫流剣難の彼の身に迫り来るを見て法華経の使徒たる彼の天職を益々確認するに至れり、如何に太古の殉教者の生涯が彼を幽裡に慰めしかは彼の書翰の一に見へたり、
(132)  付法蔵二十五人は仏を除き奉りては皆な仏のかねて記し置き玉へる権者なり、其中第十四の提婆菩薩は外道に殺され、第二十五の師子尊者は檀弥栗王に頸を刎ねられ、其他仏駄密多竜樹菩薩なんども多くの難に値へり………正像猶かくの如し、中国又然り、これは辺土なり末法の姶なり、かゝる事あるべしとは先に思ひ定めて期をこそ待ち候へつれ云々、
 是れ同じく初代基督信徒の慰藉なりしなり、
  我れ更に何を言はんや、若しギデオン、バラク並にサムソン、イピタ、ダビデ並にサムエル及預言者等の事を言はんには時足らざる也………或人は嬉笑を受け鞭打たれ、騾絏と囹圄の苦を受け、石にて撃たれ、鋸にてひかれ、火にて焼かれ、刃にて殺され、綿羊と山羊の皮を衣て経あるき、窮乏して艱苦めり、世は彼等を居くに堪へず、彼等は曠野と山と地の洞と穴とに周流たり、………是故に我儕………耐忍て我儕の前に置かれたる馳場を趨るべし、
 日蓮を以て詭計詐偽の徒と見做すものは深く彼を識らざる人にあらざれば自身彼の邂逅せし艱難に会せざりし人なり、偽善者は十五年間の騾絏周流に忍ぶ能はず、利慾は社会の大勢力なりと雖も誠実の堅忍不抜なるに及ばず、艱難は真偽を判するための自然的淘汰法なり、余輩日蓮を嘲罵する人を見るに多くは是れ偸安的腐儒の輩、宗教学者にして宗教家ならざるもの、基督教の聖書に所謂「未だ血を以て争ひし事なき人」なり。
 日蓮は能く迫害に堪へしのみならず彼は能く迫害に勝てり、謫流二回、彼は謫地を彼の宗義に教化せり、伊東在留の三年は伊豆一ケ国を彼の宗領に加へたり、佐渡流寓五年、彼は亦た越佐を得たり、彼に接して彼に化せられざるは稀なり、彼を放つは疫癘を放つが如く危し、彼が脚迹を遺せし処は彼の教義に感染せざるはなく、如何(133)なる権力制裁と雖も彼の伝教者たるを妨ぐるを得ざりき。
 文永十一年三月廿六日彼は赦免を得て鎌倉に帰れり、仝五月二日宗門弘通の免許は下りぬ、時に日蓮齢已に五旬を超へ、彼の確信は天下の政権に勝てり、社会の尊信と長敬とは今は彼の身上に鍾れり、余輩は云ふ、日蓮宗の危期は竜ノ口に非らずして実に宗門公許の此時にありしと、僧日蓮の大は再び著しく此時に顕れたり、彼は権門に倚り顆むの愚と険とを知れり、彼は良観 良忠 道隆の輩が権門に媚ぶるの醜態を目撃せり、彼は彼の身に政教協同の毒害を受けたり、政府の許可を得るを以て最上の特権と見做す日本人中惟り日蓮は之を軽視せり、執権北条氏は日蓮の厚意を求めて日蓮は北条氏を卻けたり、宗教家たるものゝ自信と権幕とは斯くあらまほし、法王レオ三世が蛮王アラリツクの羅馬侵入を拒みし、アムブロースが大帝セオドシユスを擁してミランの教堂に入るを許さゞりし、サボナローラが仏王カールを叱咤してフロレンス城より退去を命ぜし、ジヨン、ノツクスがマリア女王を面責せし、皆な宗教家の好例として伝へらる、我邦の宗教家は動もすれば政権の庇保に与かりしを以て誇る、知らずや是なん我邦に於ける仏教衰退の大源因なるを、帝王の帝王(Imperium in imperio)、監督の監督(Episcopus Episcoporum)、是れ真正なる宗教家の位置なり、宗教政権に依り頼んで腐敗せざるはなし、日本の仏法然り、西洋の基督教然り、日蓮は執権時宗の黒印ある免許状を棄却して身延の草庵に隠退せり。
 隠退後の日蓮に就ては余輩の多言を要せず、彼を野望的失意家と見做すものは身延に於ける彼の生涯を学ぶべし、住居は柱十二本三間四面茅屋の草堂、食は藜《あかざ》の羮《あつもの》野菜の塩煮粟稗に乾蕨を炊き雑へたるもの、帰依檀越の布施を受けず、法弟と共に鋤を取り粟を蒔き菜を植へ榧栗等の山菓を蓄へ以て無慾の彼の欠を補へり、彼の快楽は全く心霊的なりしなり、
(134)  たち渡る身のうき雲も晴れぬべし
   妙の御法の鷲の山風
 貧居は宗教家の義務に非らず、然れども真実なる宗教家は貧居を撰ぶものなり、そは彼は内に足りて外に需むるの要なければなり、否な外に満て内に渇する事を懼るればなり、モハメツドが西亜の半を切り従へて猶ほ自ら衣服を繕ひしが如き、聖ベルナードが貧を呼で「我の最愛の姉妹」と云ひしが如き、ルーテルの大なるも時々日用品の欠乏を告げしが如き、僧日蓮も仝一の境遇と云はざるを得ず、幸福なる「ホーム」を作ると称して肉躰の快楽を得るに汲々たる宣教師と彼等の信徒、身は高貴も及ばざる栄華に居て如来の化現なりと自ら欺く仏家、宗教末世の現像、是れを愁歎の極と称せずして何とか称せん、西諺に曰く Church is purest When it is poorest(教会は最も貧なる時に最も清し)と、日蓮の貧居は実に敬すべきに非らずや、汝玻璃室内に在て安楽椅子上に宗教問題を考究するものよ、僧日蓮は汝の会得外に在り。
 弘安五年(一二八二)十月十三日彼は武州池上に入滅せり、彼れ失せて以来日本国に大宗教家出でず、彼は最終最大のものなり、我邦の仏教は十三世紀の終に当て其絶頂に達せり、…………………………………………………………
 誠実と忍耐と勇気と確信と先見とに於ては余輩は我国の宗教歴史上日蓮と比すべきものあるを見ず、彼に真正の宗教的知覚ありし、宗教を以て治国平天下の一方便と見做すもの多き我国人中日蓮のみは宗教的に真面目なりし、彼の敵人は彼を以て穢多の子なりとせり、其然るや否やは余輩の知る所に非らずと雖も彼は純然たる一平民たりしは彼自ら表白する所なり、彼は彼の天職の高きを識ると同時に彼の社会的身分の下劣なるを認めて耻ぢざりし、「日蓮は日本国東夷東条安房の国海辺の旃陀羅の子」なりとは彼が自ら書せし所、彼に若し貴むべきあれ(135)ば是れ彼の遺伝の故に非らずして全く世尊釈迦如来の勅命に依る、
  我はかひなき凡僧なれども法華経を弘むれば釈尊の御使なり、梵天帝釈も我が左右に事へ、日天月天も我が前後を守り、天照八幡も頭を垂れて我を敬ふぺし、
 是れ彼が本間重遠に語りし所、実に彼の宗教的生命力の泉源たりしなり、
  人よりに非らず、亦た人に由らず、イエス、キリストと彼を死より甦へらしゝ父なる神に由て立てられたる使徒ポーロ、
とは保羅が自身の威厳を告白せしの言なり、
  大陽我の右に立ち、大陰我の左に立ち、我に沈黙を命ずるとも我は従はじとはモハメツドが彼の叔父アブダレフに答へし言なり、大宗教家に悉く此自念ありし、即ち人権以上より来る勅命を領し之れに事ふるを以て最大義務と信ぜし事なり、日蓮又た言へり、
  日本国の万民は悪まば悪め、釈迦多宝十方の諸仏にだに誉られまゐらせば其面目よろこび身に余れり
と、是れ宗教家が事に当る時の惟一の慰藉なり、世の褒貶に眼を留め其讃譏を事とするが如きものは宗教家の籍に身を列すべからず、社会の賛同を獲んが為めに孜々として止まざる今日の宗教家は大に日蓮に学ぶ所ありて可なり。
 日蓮の誠実は疑ふべきに非らず、然れども誠実の意は完全の意に非らずとは余輩の已に論述せし所なり、而して若し日蓮の欠点を摘示すれば一にして足らざるべし。
 彼の大欠乏は寛裕の美徳なりしなり、「諸宗無碍道堕地獄」は彼の説法中最も聞き悪き恒言なり、彼は「折伏」(136)と称して他宗攻撃を専らとせり(彼の宗義は多くは消極的なりし、彼は法華経を盛り立てんが為に他宗の※[王+占]欠を剥露するの必要を感ぜり、是れ彼の熱心の凝固して此に至りしものなりとするも慥に彼の狭隘を示し彼も亦た彼の時代と人種の上に逍遥すること能はざりしを表せり、我の説を固持すると同時に他人の美と長とを識認し得る是を寛裕といふ、我も宇宙の一部分なれば我に独特の観あるは当然なり、然れども人たる我に抱全的世界観ありとなすは誤認の最も大なるものなり、天我を愛するが如く人をも愛す、我に一真理を供するが如く人にも供す、我は全真理を抱合すとは宇宙の主宰を除くの外は何人も云ふ能はざるの言なり、日蓮の確信は敬すべし、彼の「折伏」非謗は傚ふ可からず。
 宗教的寛裕たる余輩は是を基督教の特産物と云はざるを得ず、而して欧米諸国に於ける該精神の発達は実に僅々過去百年間にありたり、自由信仰主義に則る基督の教訓すら千八百年の永き其信徒たるものゝ内に此美徳を発揚するを得ざりき、然れども世が十八世紀に入りてより寛裕の精神は頓に勃興し、レツシングは彼の有名なる劇作 Nathan der Weise(智者ナタン)を以て痛く時の神学者流の狭量を駁し、欧洲人の最も忌み嫌ふ猶太人を捉へ来り、その美質を称揚して異教人種の高徳を賛せり、ジヨン ハヮルドの慈善事業、リビングストンの亜非利加伝道、ウヰルバフオース、ガリソンの奴隷廃止運動は全く此の宇宙的推察の感念より来りしものなり、仏のラコーデヤ(Lacordaire)は熱心なる天主教徒として宗教的寛裕を賞揚し、英のテニソンは超宗派的の句調を以て直ちに人類の普通感情に訴へ、米のホヰツテイヤ、ローエルは各自断乎たる独特の確信を有しながら対他的寛裕の美を謳へり、英のヂーン スタンレー、米の監督フヰリツプス、ブルツクスは大西洋の両岸に於ける寛裕論の使徒として現はれたり、宗派論未だ全く西洋諸国に絶ゑず、然れども己れの宗派外の人を目して無碍道堕地獄となすも(137)のは今は中古的妄想者として彼等の社会に容れられざるに至れり。
 寛裕の欠乏は宗派撲滅の目的を以て起ちし日蓮をして最も頑固なる宗派の設立者たらしめたり、日蓮の精神は実に宗派的精神なりし、何となれば宗派なるものは其奉ずる主義を以て無比惟一のものと見做より来るものなればなり、ラコーデヤ曰く「寛裕とは他人の確信に専敬を置く事なり」と、日蓮は他人の確信を賤しめたり、寛裕殆んど全く彼にあるなし、而して日蓮の信徒は多く其師に倣へり、所謂「固まり法華」なるものは我国の宗教家中最も頑固なる旁門者《セクタリアン》なり。
 確信欠乏して吾人に気骨なし、寛裕欠乏して吾人に雅量なし、二者は真理の両面なり、反対性の如くにして仝一物の両性なり、日蓮は他の多くの宗教熱心家と共に確信の一方に著しく発達して寛裕の方面に萎縮せり、完全なる宗教は両面の発達にあり、吾人は己れに足りて人を恕すべし、真理は宇宙大なり、我れ一人の掩ふべきに非らず、然れども我も宇宙の一部分なり、我の立つ所は我の有なり、他人をして之を侵さしむべからず、是れ寛裕の哲理なり、僧日蓮は此理を解せざりしが如し。
 日本に於ける仏教改革は日蓮の大目的たりしなり、而して余輩は信ず彼はその目的の一部分を達せりと、彼は厭世的なる仏教をして実用的たらしめたり、彼は印度の宗教なる仏教を日本的たらしめたり、彼は僧侶的仏教を平民的ならしめたり、我国の宗教歴史に於ける日蓮の功績は決して尠少ならず。
 然れども彼の宗教改革は中途にして止みぬ、彼れ死してより六百年後の今日の日蓮宗は他の仏法諸宗と運命を共にせり、日蓮の遠望は先づ日本を教化し而る後朝鮮支那に弘通して終に釈迦の本土なる印度に及ぼさんとするにありき、而して偶々日持聖人の如きありて法華経を異域に伝ふるものありしと雖も日蓮宗は日本の宗教として(138)終り、日本人少数(比較的)の宗教として終はんぬ、而かのみならず彼れ日蓮が大言して「高十六万八千仞の須弥山を刳凹めて硯となし、大千世界の草の葉を筆に結び、大海を硯水として之を記すとも書き尽し難し」と讃め立てたる法華経の功徳も今は彼の宗教に帰依するものゝ普通道徳をも維持し得ず、池上の聖地は穢汚男女の祈願を込むる処となり、或は清正公崇拝の迷信と化して婬夫婬婦の帰依する所となり、或は蓮門教会となりて明治の昭代に闇を生ぜり、日蓮宗は宗教的熱心を喚起せしも倫理的に日本を教化せず、日蓮の改革事業は実に教法的たるに止て倫理的たるに及ばざりし、彼は法を崇むるの余り法典崇拝家(Bibliolater)と成りて止みぬ、彼の意勿論法の実行を忽にするに非ざりしは明なり、彼が弟子日朗を讃質するの語に曰く、
  世間に法華経を読は口ばかり詞ばかりは読とも心に読まず、心に読めども身に読まず、貴辺(日朗を指す)身と心とに読み給へば父母並に一切衆生を助け給ふべき御身なり、
由此観之れば日蓮在世の時早や已に「口ばかり詞ばかり」に法華経を読むもの多かりしを知るべし、法華経の功徳は是を身に実行するに非ざれば得る能はずとは普通感念に照して明なり、然るに此実行的法華経に重を置かずして経典其物を尊戴し、其名を唱ふるを以て善行に価するものと見做すに至りしは誤謬の最も甚しきものと謂はざるを得ず、南無妙法蓮華経なる題目は門徒の南無阿弥陀仏、天主教徒の「アベマリア」と均しく倫理的に一の価値を有せず、法然上人の念仏を排撃して之に換ふるに彼の発明の題目を以てせしは一の迷信を以て他の迷信に換へしに過ぎず、是れ日蓮の改革事業の根本的たらざりしを証し、其早く腐敗の途に就きしの理由なりと言はざるを得ず、マホメツトの改革サボナローラの改革の稍や健全なりし理由は全く彼等の宗教事業に倫理的分子の多かりしが故なりとす。
(139) 然れども経典崇拝は偶像崇拝に優る、若し人類の技工にして拝すべきものありとすれば書物《ブツク》は最も崇拝の価値を有するものなり、故に木石を拝するを止めて経典を拝するに至り人に依らずして法に依るに至りしは宗教的思惟上非常の進歩と謂はざるを得ず、モハメツドが天隕石の崇拝を痛撃して之に換ふるに「コーラン」を以てせしが如き、ルーテルが天主教のマリヤ崇拝を棄却して「バイブル」に縋りしが如き、皆な進歩的行為と言はざるを得ず、日蓮は木石崇拝の仏法を去て経典崇拝の仏法を造り出だせり、彼は改新家の名を負ふて可なり。
 然り吾人何人か完全なる改革者たり得る者ぞ、人生の墓なき 彼は進歩に歩一歩を加へて去るのみ、日蓮は彼の時代の宗教に彼の力量に応ずる改革を加へたり、今日の改革を要す、明治の改革は文永の改革に非らず、十九世紀の要する改革者と見做が故に日蓮に多くの瑕欠あり、然れども十三世紀の日本人としては余輩は彼に非常の敬慕の念を表す、彼は吾人に誠実の真価値と実力とを教へたり、彼は独立伝道の実例を与へたり、日蓮上人を産せし日本はルーテル、サボナローラを出すに難からず、余輩は彼の如き人物の我国史に存するを感謝す、噴火山の如き激熟、地震の如き撼動力、詩人の最も高きもの、大和魂の霊化せしもの、日蓮は純粋なる日本的宗教家なり、彼に寛裕の分量を加へ、十九世紀の教育を施さば、彼の如きは今日の日本を化して世界を化するに至るもの、リエンジ、ラコーデヤ、ルイ コスートの如き人は日蓮の性に世界の大気を吹き込みしものなり。             〔以上、10・3〕
 
(140)    日清戦争の目的如何
                      明治27年10月3日
                      『国民之友』237号
                      署名 内村鑑三
                                    日清戦争宣告せられて勝敗の帰する所は已に定まれり、之を兵の精鋭に徴するも、之を国民の意嚮に質すも、之を宇内の気運に問ふも、之を歴史の趨勢に照すも、日本の勝利は疑ふべきにあらず、余輩の是を云ふは余輩の愛国的偏執に依るにあらずして、公平なる歴史的観察と静寂なる哲学的黙考とが斯く云はしむる事を余輩に許すなり。
 故に戦場に於ける勝敗は余輩の配慮にあらず、配慮は戦争の結果に存するなり、遼東を蹂躙して而后如何、北京を占領して而后如何、言を換へて言はゞ我等は支那を如何すべきや、是れ問題中の問題なり、此最要問題が決せられずして我等の流血に目的なきが如し、我等の方針に着点なきが如し、我等の外交政略に名分なきが如し、余輩の考察亦た全く無益ならざるべし。
 日清戦争の目的如何、此問題に関し余輩に供せられし答案は、要するに左の三項に過ぎざるべし、
  一、朝鮮の独立を確定するにあり、
  二、支那を懲誡し之をして再び頭を擡げ得ざらしむるにあり、
  三、文化を東洋に施き、永く其平和を計るにあり、
(141) 一、朝鮮独立の確定を以て日清戦争の目的と見做すものは事に我邦人中少数を占むるのみ、其直接原因の此に基きしが故に朝鮮に確固たる独立を供すれば吾人の事は足れりと思ふ人は僅かに東洋問題の皮相を覗ふものにして、以て其目的とする朝鮮の独立だも供する事能はずして熄むものなり、此説たる一時の経済的恐惶を慄れ、或は欧洲が終に吾人の東洋政略に干渉せん事を慮かり、一日も早く罷戦の実を挙げんと欲する射利的自屈的偸安的人士の中にのみ行はるゝ説にして、深く余輩の注意を価せざるの説なり、余輩は我邦人の透察已に如斯皮相見の上に達するに至りしを甚だ喜ぶものなり、
 二、朝鮮の独立は懲誡を支那に加へて而して後に成るべしとは賛成の大多数を占むる議論なるが如し、論者の言ふ所を聞けば支那を倒すは朝鮮を立つるの途にして支那の勢力衰ふるにあらざれば朝鮮の保安は計るべからず、而して隣邦独立の妨害者として、東洋進歩の讐敵として、支那を砕くは吾人今日遠征の目的なりと、余輩は論者の壮図を欣ぶ、興国の民焉んぞ斯の如きの意気なからざらんや。
 支那に大打撃を加ふるの必要(特に日本人の手を以て)は余輩も充分に認むる所なり、余輩は我が軍隊が此事に関しては些少の遠慮と遺漏なからん事を欲す、彼の懲罰を要するは天人共に許す所、吾人は正義の剣を以で彼れ積年の罪悪を問はんと欲す、吾人の外征に加刑的の性ある事は吾人何人も疑はざる所なり。
 然れども余輩は論者に問はんと欲す、支那の討滅は実に吾人の目的なる歟と、吾人は支那を滅さんと欲するか果た亦支那を救はんとするか、支那を倒さんと欲するか支那を起さんと欲する乎、支那を殺さんと欲するか支那を活さんと欲する乎、若し戦争の目的は必ず敵を殺すにありとするものあらん乎、余輩は是れ其直接の目的にして終局の目的たらざる事を弁ぜざるべからず、余輩は尚ほ問はんと欲す、朝鮮の独立は支那の廃頽より来る乎、(142)日本の興起と安全とは支那の衰弱より望むべき乎、東洋の平和は支那の滅亡より生ずる乎と。
 支那の興廃は東洋の安危に大関係あるは吾人の言を要せずして明なり、東洋若し東洋として宇内に独歩せんと欲すれば支那の独立は日本の独立と均しく必要なり、余輩は吾人目下の大敵たる支邪人に就て斯く言ふ事を甚だ好まざれども支那人は吾人の隣人にして吾人の彼に於けるは欧米人に於けるよりも親且密なる事を吾人は須臾も忘るべからざるなり、支那の安危は吾人の安危にして支那敗頽に帰して其禍の吾人に及ばざるはなし、支那を斃して而後日本立つべしと信ずる人は宇内の大勢に最も暗き者と称せざる可らず、東洋の平和は支那を起すより来る、朝鮮の独立日本の進歩共に支部勃興(真正)の結果として来るべきものなり。
 試に惟へ吾人が朝鮮政治に干渉するや吾人は自衛の一手段として此所置に出でたり、曰く若し朝鮮にして其独立を失すれば日本の独立又保すべからずと、今同一の論法を以て之を支那に通用し見よ、日本の独立は朝鮮の独立を要するが如く朝鮮の独立は亦支那の独立を要す、支那斃柴れて其余響の直に日本に及ぶは理の最も睹易きものなり、故に吾人の利益は朝鮮の独立を計るに止まらずして亦支那の独立を画するにあり。
 余輩は故に云ふ、東洋の平和と安全とを支那の廃滅に求むるものは自欺の最も甚だしきものなりと、支那衰へて欧洲の之に乗ぜざるはなし、欧洲支那を有して朝鮮の独立は空言のみ、支那の敗壊に吾人の隆興を望むは恰も骨肉の貧に依りて吾人の富を増さんとするが如きものなり、吾人外征の目的若し支那の討滅にあらば栄光反りて悲惨の基たらんことを懼る。
 三、由て観る支那討減論は迂謬の最も甚だしきものなる事を、是れ吾人の目的を達せんと欲して反て之を破るの論なり、吾人の目的は文化を東洋に敷き永く其平和と進歩を計るにあり、而して東洋の平和は支那を活かすよ(143)り来る、是れ実に日清戦争の大目的ならずや。
 敵国の屈辱若し戦争の目的にあらずとすれば戦ふの要は何処にあるや、敵人の利を計りて戦ふものは古今未だ其例を見ず、若し支那の安全と昌隆とを欲するならば何故に直に師を還さゞる、汝夢想を語るを息めよと、是れ蓋し余輩の反対論者が余輩に向つて言はんと欲する所なるぺし。
 余輩は斯く答ふ、余輩は外科医が截断器を以て病躰治療に従事する時の念を以て清国に臨むものにして、強盗が刀を提げて富家を侵す時の心を以てせず、余輩は活かさんが為めに截たんと欲するものにして殺さんが為めに刺すものにあらず、若し劇療を今日支那に施すは之を死に至らしむるの懼れありと言ふものあれば、余輩は之に答へて云ふ、彼の活路は単に彼れの隣人なる日本が彼に割断的治療を施すにありて、彼を今日の腐敗の儘に放任するの危険は吾人が一刀を彼に加ふるよりも大なりと、而して彼の死は東洋の死を意味し、彼の壊乱は亜細亜の廃亡を招くの懼れあれば、吾人は生を賭し、否な国を賭して此大業に従事せし也。
 言を休めよ仁愛に基く戦争に勇気なしと、世界に歴史有てより勇敢未だ曾てコロムウエルと彼の鉄甲軍の如きはあらじ、而して彼等の勇気は全く彼等博愛の真情に基けり、弱者を愛憐する彼等の誠実が悪人に対する烈火の憤怒と化せしなり、瑞典王ガスタバス、アドルフハスと彼の二万の親兵とが隣邦救援の為めに赴き、終に維也納《ウヰンナ》政府をして暴威を独逸国に逞うする事能はざらしめしものは単に彼等の公憤に依るにあらずして何ぞや、清兵は支那国其物の公敵として殲すべし、文明の障害物として排除すべし、勇気此に基くにあらざれば吾人の勇気は畏るゝに足らず、利益の為めに戦ふものは雇兵なり、愛の為めに戦ふもの、是れのみ真正の勇者なり、我の討清軍に此至高至大の勇気なからざらんや。
(144) 日本の利は支那を扶け起すにありとすれば吾人の支那に対するは朝鮮に対するが如くならざるべからず、即ち其弊政を釐革し之をして儼然たる東洋の一国民たらしむるにあり。
 吾人は半島政府より闇愚暴虐野蛮の徒を駆逐せしが如く大陸政府より常に世界の進歩に抗して亜細亜的圧制と醜俗とを永遠にまで維持せんと欲する蒙昧頑愚の徒を排除せざるべからず、然り若し清朝にして到底文明的政治を支那全土に施すを得ずんば吾人は之を斃し之に代うるに人道と開明とに基く新政府を以てするも可なり、吾人が閔族の横行を憎んで朝鮮国其物を庇保せしが如く清朝の愚者を悪むと同時に支那其物を憐まざるべからず、吾人は支那其物と戦ふにあらずして、其吾人の同胞を窘する、其文明の光輝を吾人の同胞に供せざる、其亜細亜的虐政の下に同胞四億万人を永久の幽暗に置かんと欲する北京政府と戦ふなり。
 然り吾人は亜細亜の救主として此の戦場に臨むものなり、吾人は既に半ば朝鮮を救へり、是れより満洲支那を救ひ、南の方安南暹羅に及び、終に印度の聖地をして欧人の羈絆より脱せしめ、以て始めて吾人の目的は達せしなり、東洋の啓導を以て自ら任ずる日本国の冀望は葱嶺以東の独立振起より小なる能はず、軟弱支那の如きを困窘せしめ其衰頽より吾人の名誉と富強とを致さんと欲す、余輩は論者の聖望に乏しきを惜まざるを得ず。
 実際的達眼を以て自ら任ずる余輩の批評家は云はん、是れ詩人的理想としては甚だ賛すぺし、然れども実際的方針として嗤ふに堪へたりと、彼れ批評家は欧洲諸強国の政略が悉く優勝劣敗主義に基くを見て余輩の提する仁愛的政略を非難するものなり、彼は日本も英や仏や露に傚ひ彼等の東洋侵略主義に則とり吾人の権力を拡強せよと云ふものなり、彼は君子国の日本に生れて他の時に於ては常に禽獣国を以て評する欧米諸国に此時に於ては傚ふべしと吾人に勧むるものなり、彼は朝鮮国に関しては世界に向て義戦を宣言しながら支那に関しては掠奪主(145)義を自白するものなり、オー批評家よ、余輩若し「日本君子国」なる汝の恒言は汝の確念より出づるに非らずして汝が外教攻撃の際汝の言語を飾らんが為めの一時の仮説なりとするも汝は口を開くべからず、若し世界が汝の揚言する義戦なるものを以て汝の虚託に出るとなし、汝の目的は矢張り朝鮮掠奪にありとするも汝は何を以て答へんとするや、君子国の民は何処迄も君子たらざるべからず、義戦は何処迄も義戦たらざるべからず、利を目的とする君子、権柄を目的とする義戦、余輩は其何物たる乎を解するに甚だ困しむなり。
 嗚呼理想なる哉、理想なる哉、仁愛的大理想なくして大国民の起りし例は未だ曾てあらざるなり、四囲の蛮土に希臘的文明を敷かんと欲するペリクリースの理想が彼の雅典共和国を造れり、世界の凡ての国民を公道の下に支配せんと欲する羅馬人の理想が不朽の名誉を以て歴史に伝へらるゝ彼等の大帝国を造れり、世界に於ける新教国の戦士となり、之を天主教国の迷信暴虐より救ひ出さんと欲するコロムウエルの理想が彼の大英国を造れり、今や日本国は世界の大国民たらんと欲す、是に大理想なからざらん乎、然り吾人の理想は亜細亜に独立と文化を供せんとするにあり、朝鮮半島は吾人の慈悲心を充たすに足らず、満洲政府の下に迷ふ黄河揚子江の水域に住する四億万の民なり、南崙以南に国を建つる孱弱半ば已に属隷国の悲運に沈む可憐の安南暹羅なり、而して喜馬拉亜脈の南に在り、曾て吾人に仏教を供し、世界文化の淵源なりしも今は欧奴の制を受くる二億四千万の可愛の同胞、是等は皆悉く吾人の推察と教導とを要するもの、東洋の平和は彼等凡ての振起独立より来る、彼等の一が他国の属隷国たるは吾人の威厳を減ずるものなり、彼等は吾人の援助を望んで止まず、風来山人は東洋人の冀望を謳へり、
   さしのぼる朝日の本の光より
(146)    高麗もろこしも春をしるらん
 支部を救はんとするが日清戦争の目的なりとせば此戦争に於て吾人の取るべき方針は最も簡単にして最も明瞭なり。
 一、吾人は北京政府をして吾人の真意の存する所を知らしむることを勉むべし(戦ひつゝある間も、縦令彼等が悔悟するの望は今は殆んどなきにもせよ)、是れ少くとも彼等が吾人に抗する名義を減却するの功力あり。
 二、吾人は宜しく支那国民に向て北京政府今日の醜状を訴へ、其政略たる悉く自己を利するに在て支那国の安福を計るにあらざるを示し、十九世紀の今日若し国家を挙げて之を其軟弱為すなきの手に委ね置くは亡国の悲運を招くの途なるを諭し、彼等支那人をして大に自ら省みる所あらしむべし、而して吾人の教示に因るか、或は時機の危運に迫りて若し彼等の内に清朝に代りて進歩的政略を以て支那を開明の域に導くに足るべき新王朝の起るあれば、吾人は喜んで其輔弼となり、恰も朝鮮に於て支那党を駆逐して開化党に政権を握らしめしが如く、支那に於ても北京の頑愚党を排除して支那開化党の振興を幇助し、何処迄も支那の auto[no]my(自治)を促がすべきなり。
 三、吾人は文明諸国に向ひ充分に吾人の志を明かにし、吾人自ら此戦争より自利的結果を望まざるが如く、諸強国も亦近輓露土戦争に於けるが如く交戦国の流血より中立国の強大を致すが如き事なからしむべし、否な吾人の目的は全く敵国の釐革改造にあれば諸強国は吾人の志望を賛し、平和的手段を以て吾人の為さんと欲する所を扶け、清廷に促して革命的大改革を実行せしめ、若し之を為す能はずんば徳義的強迫を以て清朝の政権を進歩的新政府に譲らしむべし。
(147) 公明正大天地に耻ざる吾人の此聖望にして諸強国の承認する所となり、吾人の目的を貫徹せしむる方針に依りて日清間に中裁を試みんと欲するものあらん乎、吾人は必しも全く之を謝絶するを要せず、要は支那を覚醒するにあり、武を以て之を為すに至りしは止を得ざるに出でしなり、或論者の如く屈辱を支那に加ふるを以て我出師の目的と做し、打撃彼れ頭を擡ぐる能はざるに至らざれば我事息まずと為すが如きは我に雅量の欠乏を示し、我を目するに敵国の弱に乗じて我の利慾を計るものとするものあるも我は之れに答ふるの言なし、中裁は慎むべし、然れども絶対的に拒絶すべからず、我に透明なる宏遠の目的あるありて小成的の中裁を納るの危険あるなく、亦我の大成を扶くる為め公義より来る中裁を卻くるの頑を要せず、仁愛の道は最善の政略なり、厳と寛とは適宜の比例に自ら其内に含有するあり、已に朝鮮の独立を扶助して吾人の大義今は宇内に洽し、敵国支那を救ふに至りて吾人の余徳は世界を化せん、誰か云ふ仇恨は大和民族の特性なりと、吾人の武勇は大慈より来るなり、望み見る旭日旌旗が北京城上に翻がへる時は、新紀元が暗黒世界を照す時にして、日本国が起ちしより、歴史は新方向を取り、劣者は優者の為めに亡びず、敗者は勝者に依りて立たむ、
   天の命ありて日本始めて、
   青海原より起ちし時、
   その特職なればとて、
   守護《まもり》の神は讃へて曰く、
   日本国よ東に覇たれ、
   日本人は讐《あだ》を挫かじ、
 
(148)
   〔『日本と日本人(英語)』の写真2枚〕
 明治27年11月24日刊
 単行本
 第1頁と奥付
 
(149)    ネルソン伝に序す
                  明治27年12月8日
                  戸川残花著『水師提督ネルソン伝』
                  署名 内村鑑三
 
   天の命ありて英国始めて、
   青海原より立し時、
   其特職なればとて、
   守護《まもり》の神はたゝへて曰く、
   不烈巓国よ波に覇たれ、
   不烈巓人は奴隷ならじ。
 是れ英人の理想を謳ひしもの、而して提督ネルソンは最も善く此理想を代表せし人なり、彼はシヱクスピヤの如き宇宙的人物にあらず、彼にクロムウエルの如き深遠なる宗教的観念ありしを見ず、彼は忠実なる英国の子供にして彼の単一の目的は英国の利益と栄光とにありき、偉大なる彼は特別に英国人の専有物なり。
 然れども国民の声は神の声なり、国民の理想に循ひしものにして天理に反きしものは甚だ稀なり、能く国民の志望を充たせし人は常に能く人類の幸福を増進せし人なり、ネルソンは英国民の理想に応ひて世界進歩に偉業を呈せり、英国に忠実なりし彼は人類全躰の恩人なり。(150)然れどもネルソンの勲績は主として英国海軍の発達にあり 而して彼は戦艦の改良、武器の進歩に於て之をなせしにあらずして、軍人の本分を知らしめし事に於て、即ち徳義的に、精神的に、英人の海軍的思想を振ひ起したり、陸にウエリングトン公あり、海に提督ネルソンありて『義務』の念は永久に英国軍人の脳裡に打ち込まれたり。
 今や軍国の時に際してネルソン伝は吾人の切望せし所、此書亦た我国人目下の要求に応ぜしものと言はざるべからず。
  明治廿七年十一月            京都に於て 内村鑑
 
(151)    志賀重昂氏著『日本風景論』
                     明治27年12月15日
                     『六合雑誌』168号
                     署名 内村鑑三
 
 六合雑誌記者は此書の批評を以て余輩に嘱せらる、此近世の名著作、何ぞ特別に爰に余輩の賞讃を要せんや。今を去る半百年前、英のジ∃ン、ラスキンが自然画の泰斗ジヨセフ、ターナーの技工に刺動を受けて、彼の有名なる「近世の画工」(Modern Painters)を著はしてより、文明世界は始めて美を自然に読むの眼を開かれたり、日本風景論を読んで余輩は著者に「日本のラスキン」なる名称を呈することを吝まず、彼は我国特産の松を叙して曰く、
  松栢科植物は然らず(桜に此して)独り隆冬を経て凋衰せざるのみならず其の矗々たる幹は天を衝き上に数千鈞の重量ある枝葉を負担しながら孤高烈風を凌ぎて扶持自ら守り節操雋邁庸々たる他植物に超絶するが上に其態度を一看せば幾何学的に加うるに美術的を調和する所誰れか品望の高雅なるを嘆ぜざらん 想う松栢の矗々天を衝くは本性たり 而かも其根を托するの土壌や少量に四囲の境遇も亦逆ならんか仮令其幹をして天を衝かしむる能はざるも豪気竟に屈せず 断岸絶壁石面稜層の上と雖も猶ほ且つ根を硬着し幹や枝や葉や四時克く勁風に抗し他の生平艶を競ひ媚を呈せる軟弱の植物は枯死し尽くすも独り堅執して以て生存し而して会々斧を以て斬伐せられんか些の未練を遺すなくして昂然斃るゝ所他の花木の企つべきにあらず 真に(152)日本人の性情の一標準となすに足れり
 是れラスキン最善の記事と比較し得べきもの、余輩は爰にラ氏の青苔に対する考察を挙げむ、
  “Lichens and mosses,−how of these? Meek creatures!−the first mercy of the earth,veiling with trusted softness its dintless rocks,creatures full of pity,covering with strange and tender honour the scarred disgrace of ruin, laying quiet finger on the trembling stones to teach them rest. *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *    “And as the earth's first mercy,so they are its last gift to us. *  *  *  The woods,the blossoms,tbe gift−bearlng grasses,have done their parts for a time,but these do service forever.
Tree for the builder's yard−flowers for the bride's cbamber−corn for tbe granary−moss for the grave.
  “Yet as in one sense the humblest,in another they are the most honoured of the earth−cbildren;unfading as motionless,the worm frets them not and the autumn wastes not. Strong in lowliness, they neither blanch in heat nor plne in frost.To them, slow-fingered,constant-hearted is entrusted the weavlng of the dark,eternal tapestries of the hills;to them,slow-pencilled,iris-dyed, the tender framlng of their endless imagery. Shaving the stillness of the unimpasssioned rock,they share also its endurance;and while the winds of departing sprlng scatter the white hawthorn blossom like drifted (153)show,and summer dims on the parched meadow the droop1ng of its cowslip,−gold far above,among the mountains,the silver lichen-spots rest,starlike,on the stone;and the gathering orange stain upon the edge of yonder western peak reflects the sunsets of a thousand years.”
 是は桜花爛漫たる東土の作、彼は煙霧陰鬱たる西土の感、余輩は我邦の此好詩人を産するありて人生の楽観的半面を歌はしめしを喜ぶ。
           *
 国粋保存論の提起者志賀氏は純粋の日本人なり、彼は此東洋の彩花島内に於て世界の凡ての美なるものを見るなり、目下吾人の讐敵なる支那本土に対する彼の敵愾心の如何に激烈なるよ、彼は曰へり、
  支那の如き北方は一面第四世期地層に係り平々たる水成岸延縁すること無慮四万二千万里(日本全面積の一倍七強)所謂「黄土」と称し黄河の濁江汪々として其間に曲折し注ぎて黄海に入り満眸皆な黄色克く一山一峰の此際に聳起するものなく其風物の単一同様なる真個に行客を倦殺せしむと 況んや若し夫れ北風直に蒙古より到るや千里之を遮断するものなく所謂「黄風北来雲気悪」(李夢陽)黄塵紛々戸障に入り木葉を蔽ひ田園に累り泉水亦た黄濁殺風景の極を尽くす 是れ支那詩人の動もすれば「黄塵万丈」の語を為す所因敢て日本の如き火山岩国の浄山澄水の間に使用すべからざるの語蓋し「野曠天低日欲西、北風吹雪雁行低、黄河古道行人少、一片寒沙没馬蹄」(屠隆) 是れ実に支那北方の景象を描きて余薀なきもの
 イブセンの諾威ダンテの伊太利共に日本に劣る数等、「浩々たる造化其の大工の極を吾が日本に鍾む」と、余輩は彼れの此言に抗して再び不敬人の賊名を蒙らんことを懼る、然れど著者自身も言へり「脆きは人の情なり(154)誰か吾郷の殉美を謂はざらん」と、哲学者スペンサーをして曰はしめん乎、是れ Patriotic Bias(愛国偏)なり、布哇の小島にキローワあり、米にヨセミテ、ニヤガラあり、諾にロフホデン、トレムソーあり マタホンの宏壮なる亦たパイロン、コレリツヂの心琴を撥つに足れり、旅行者は曰ふ亜拉此亜の砂漠其物が絶大絶妙なる天工なりと、
   エホバの道は旋風にあり
   雲は其足の塵挨なり
との如き壮句は渺々千里に渉る彼地に於てのみ発するを得ん、日本は美なり、園芸的に美なり、公園的に美なり、然れど吾人をして他洲に譲る所あらしめよ、アヲスタよりモンテローサを見るの像、ダーヂンルンよりエベレスト山を望むの観、即ち偉大なる美、是れ日本風景の欠乏ならずや、我国の風景は人を酔はしむるものなり(細工に過ぎて)、人を高むるの美、即ち自己以上に昇らしむるの美は吾人は汎く之を万国に求めざるべからず、余輩は信ず志賀氏の之を言はざりしは彼の文学的技術の然らしめし所ならんと、然れども余輩の爰に之を言ふは批評家としての義務ならん、愛国心上騰の今日に方て此非国家的の言を発す批評家の任亦難かな。
 
   一八九五年(明治二八年) 三五歳
 
(157)   「精神的教育」を論ず
                   明治28年1月23日
                   『国民之友』245号
                   署名 内村鑑三
 
 教育已に精神的事業なり、然るに殊更に之に精神的なる形容詞を加ふ、是れ自我の宗教を真宗又は正教と称するの類、世が愚昧にして正邪を顛倒するにあらざれば之を唱ふる者の自足自尊を示すもの、如斯熟語が世に現はるゝに至りしは国家の為め決して賀すべきの事にあらず。
 何をか精神的教育と謂ふ、
 学生に束縛的礼拝堂出席を命じ、バイブル教育を課し、凡ての手段を以て荐りに彼等に改宗を勧め、以て精神的教育となすものは重もに外国宣教師の助力に由て成りし我国に於ける基督教的諸学校なり。
 我国固有の道徳を養成すると称して支那の聖人の書を講じ、和漢古代の忠臣孝子の事跡を誦し、愛国心を発揚すると称して頻りに我国の美を賛して外国を卑下し、以て精神的教育となすものは国家主義を以て世に誇る我国今日数多の学校なり。
 然れどもバイブル教育必しも精神的教育ならず、世界精神の経典なるバイブルも之を学科的に義務的に圧制的に強ひて全く其利と用とを失するに至る、自由の領土にのみ徳性あり、精神を束縛的に吹入せんと欲するものは拷問庭の制度を以て宗教を強ひし古代の天主教徒の類のみ、故に往々にして精神的教育を以て自任する基督教的(158)学校にして最も非精神的最も無気力的最も屈辱的たるに至る事あるは余輩の屡々目撃する所なり 義に勇なるに勝て礼拝堂の出席は賞美せられ、正直なるに勝て聖書の字句的暗誦は重んぜられ、軟弱能く外人の鼻息を伺ひ得て彼等の老婆的意気に投ずるを以て善人なりと称せられ、熱心家と崇められ、聖書の教訓を実行せざるも常に出るに聖経一冊を小脇に挟み、語るに聖語を引用し、寝るに聖書に枕し、亦時には小牧師の様を演じ、世人に向て彼等の愚想を説けば精神的教育の目的は達せられし事となす、自欺の極、誤謬の極、宜なるかな我国人の本能は能く是等基督教学校の拙と劣とを観破し、其職員の高識なるに関せず、其数具の整備するに関せず、世の有望高潔の士にして来て此に学ぶものは年に減少するの徴あるは、宣教師の目的は宗教伝播にあり、其教育事業に従事するは宗教伝播を扶けんが為めなり、此目的を以て教育に従事する已に非精神的なり、彼等の教育事業の挙らざるは宜なり、彼等は精神的教育の名を借りて彼等の宗教的教育を施さんと欲するものなり、之を宗教と称せずして精神と言ふ、彼等は社界を欺かんと欲するか、将た社界の忌避を懼れて此|双関的《アムビグユアス》名称を用ひしか、精神的教育の語今は世人の戯語となりて存す、其此惑を起さしめしものは何人か最も与かりて力あるぞ。
 宗教家の非精神的教育に対して国家教育者の狭量機械的なるあり、二者全く其発表する主義を異にするもの、前者が博愛を唱ふるに反して後者は愛国を以て誇り、前者が柔和を求むれば後者は剛強を貴とび、前者の音楽会に対して後者の剣舞会あり、前者讃美歌を奏して後者は軍歌を叫ぶ、前者は国民教育が養徳を欠きし時に興りしもの、後者は国家思想の廃頽を憤て起ちしもの、二者共に反動の子供なれば其外観を全く異にするに関せず其本質に於ては相類似する所甚だ多し。
 束縛的に支那の論語教育を課し、機械的に忠臣孝子の伝を暗誦せしめ、兵隊的に敵愾心を喚起し、以て東洋の(159)君子を作り出さんとする、是れ今日我国に称する国家教育の真想なり、故に国自慢は愛国心としで信ぜられ、儀式的服従者は忠臣孝子として誉め立らる、十九世紀の今日延喜の菅公延元の正成を其儘模範とするにあれば古哲の心は解せられずして其言行は傚ふに難し、此種の教育亦た宗教的教育に類して偽善者養成に最も屈強なる機関なり、そは二者共に外より内を抑へんとし、無限の膨脹力を有する心霊を人為的模型の内に圧嵌せんと勉むるものなればなり、ジ∃ン、スチユーワート、ミル曰く
  内部の確信に基く道徳が外部の標準に訴ふる道徳に対する争闘は、進歩的道徳が停滞的道徳に対する争闘にして、是れ実に道理と理論とが時流の意見と俗習とに対する争闘なり
と、是れを希伯来人の聖書にするも、是を支那人の経書にするも、道徳の標準を吾人の確信以外に取るは停滞的道義なり、媚俗的倫理なり。
 何をか精神的教育と言ふ、
 精神に盈ち充ちたる教師が学を授くる是れ精神的教育なり、精神は感ずべくして学び得べからざるもの、是を学課的に授けんと欲す、是れ古来より今日に至る迄精神の美と善とを知て之を己に有せざる教育家が常に取り来りし方法なり、フハラデーの理化学は精神的なりしなり、リツテルの地理学は精神的なりしなり、アガシの動物学は精神的なりしなり、彼等が精神的教科書を用ひしにあらずして彼等自身が精神的なりしが故に精神的教育は行はれしなり、教師精神に欠乏して聖経昼夜の誦読も以て其功徳を一学童に及ぼす能はず、教師精神に盈ちて木石に声あり山河に心あり、彼に接するは精神を感受する事にして彼れ在て精神的教育あり、彼去て万巻の聖書と神皇正統記と太平記とは一聖人と一愛国者とを造る能はず、「生は生を生む」てふ生物学上の単原理は亦た教育上(160)の常則なり、精神精神を生む、余輩は此単元明に過ぎるの一事が未だ充分に教育者の脳裡に徴透せざるを見て常に驚愕に堪へざるなり。
 抑々精神的教育の誤解たるや精神其物の誤解より来れり、精神とは必しも悲歌慷慨大言壮語して吾人の感情にのみ訴うるを謂はず、精神とは物の霊なり、則ち宇宙を繋ぐ正気なり、即ち物理(Physical law)として物質界に現はれ、生(Life)として動植物に働き、道として霊なる人を支配するものなり、即ち詩人ウォズウォスの所謂
     A spirit that impels
   All thinking thimgs, all object of all thought
   And rolls throug all things.
なり、而して吾人の心志此宇宙の大気に接して吾人の思惟は万物と和し、吾人の行為は自然に洽ひ、乾坤我を扶けて我は天地と共に動くに至る、哲学者カントの所謂「汝の行為をして宇宙の運行と和合せしめよ」との言は此意を謂ひしに外ならず、故に物理学を学理的に攻究する亦精神的なり、精密に正直に動植物の特性を探る亦均しく精神的なり、歴史を学ぶに事実を重んじ伝説口碑を輕ずる亦同じく精神的なり、精神的たるは正直なるなり、正義に勇なるなり、真理に忠なるなり、真面目なる謙遜なる大胆なる心を以て宇宙万物に対するを謂ふなり、即ち物に拠て物の理を究め、物の為めに物を究めざるを謂ふなり、之を精神的教育と謂ふは外形的虚式に反して謂ふなり、利慾的意嚮に反して謂ふなり、凡て醜なるもの、凡て粗なるもの、凡て陋なるもの、凡て卑なるもの、凡て不実なること、凡て浮虚なること、皆な悉く非精神的なり、教師の不深切なる、学生の懶惰なる、学事の挙(161)らざる、研究の進まざる、皆な悉く非精神的なり、精神的教育ならん乎、即ち正実なる教育なり、余輩の精神的教育を解する如斯。
 
(162)  HOW I BECAME A CHRISTIAN:OUT OF MY DIARY
〔写真二枚省略〕    明治28年5月10日刊 単行本
 第1頁と奥付
 
(163)    農夫|亜麼士《アモス》の言
                   明治28年6月13日
                   『国民之友』253号
                   署名 内村鑑三
 
 余輩の今茲に訳出し、之に余輩の註訳を附し、以て読者の一読を乞はんと欲するものは今人今世の作にあらず、著者は自ら称して「テコアの牧者の一人なる亜麼士」なりと曰ふ、テコアは西方亜細亜の一小邦パレスチナの首府エルサレムを距る南十里に在る一小村なり、著者の時代は「猶太亜《ユダヤ》王ウジアの世|以西羅耳《イスラエル》王ヤラペアムの世」なりとあれば、紀元前八百年頃にして今を距ること凡そ二千七百年、我神武天皇紀元より尚ほ二百年前の昔なり、故に此著作にして今世今時の時事に一つの関係を有するなく、之を掲載する雑誌にして発行停止の厄運に遭遇するの危険なきは勿論なり、否な、常に新に媚び旧を疎んずる「国民之友」雑誌が其掲載を肯ずるや否やは尚ほ余輩の疑問に存す、訳者は政治嫌ひの一人なり、彼は好古的精神を以てのみ此の旧記の編幕を試みしなり、若し其内に多少の隠語の存するあれば之れ読者の臆察より来りし者なるべし、読者心して之を読まれよ。
作者は先づ冒頭左の美厳なる詩歌的語調を以て彼の憂慮を述べたり、
  ヱホバジヲンより号び、
  エルサレムより声を出したまふ。
(164)  牧者の牧場は哀げき、
  カルメルの巓は枯る。
之を思想の発達を以て誇る十九世紀の日本人の語調を以て言はん乎、即ち左の如くなるべし、
 宇宙の法則と真裡とは吾人の心裡に訴へて曰ふ、悲哀は吾人の邦土に※[草がんむり/(さんずい+泣)]めり、芙蓉の巓に妖雲現はる。彼先づ此悲声を発して而る後近隣諸邦の未来を予言せり。
 余輩の前に述べし如く、猶太亜は西方亜細亜の一小邦にして、農夫亜麼士の時代に於ては稍其極盛の時を過ぎしと雖も、時の文明国中第二等とは下らざりし国なりき、西南に埃及の富国を控へ、東北にアツシリヤの強国ありて、両者の間に介して其国民的独立を維持せんとするは決して容易なる業にあらざりしなり。猶太亜に境して北にスリヤあり、其首府ダマスコは西方亜細亜の楽園と称し、王者の常に垂涎せし所なり。東にアンモン、モアブの二小邦あり、共に其民の兇悍を以て聞ゆ。南にエドムあり、其|旅隊《カラバン》貿易の衝路に当るを以て永く殷富を以て響けり。西南にペリシテあり、西亜の農産国と称す。東北地中海に浜する所をフヒニシヤとなす、其ツロとシドンとは太古世界の貿易国なり。以上は西方亜細亜の邦国にして其独立と威厳とは常にナイル、ユーフラット両河の岸に建設されし貪婪国よりの危険に接し、一歩国是を誤まれば其蚕食を免かれざるの運命に立てり。
 テコアの農夫は此危険を知れり、故に彼は黙するに忍びざりき、彼はスリヤ人の罪を唱へて曰へり、「彼等は鉄の打禾車を以てギレアデを打てり」と、即ち敵国の民を過するに残忍なるを憤り、其天罰として「スリアの民は捕へられてキル(アツシリヤ)に行かん」と曰へり。彼は又ペリシテ人の罪悪を数へて曰ふ、「彼等は浮囚を悉く曳き行きて之をエドムに売れり」と、而して敵国俘囚の虐待の厳罰として彼は此国民の運命を唱へて曰く、(165)「ペリシテ人の遺れる者も亡ぶべし」と、即はち其国全滅して遺跡なきに至るべしとなり。彼はフヒニシヤ人の罪を責めて曰く、「彼等は兄弟(友邦)の契約を忘れたり」と、依てツロ、シドンの燼滅を予言せり。彼はエドムを責むるに其「全く憐憫の情を絶ち恒に怒りて人を害し永く憤恨を蓄ふる」を以てし、アンモンに問ふに「其国境を広めんとてギレアデ(隣邦)の孕める婦人を剖り」しを以てせり。モアブ亦「エドムの王の骨を焼き灰となせし」の故を以て詰問され、三国各共適応の天罰を課せらる、猶太亜の隣邦六ケ国多くは其残忍の故を以て永く其の国運を全ふする能はざるを示さる。
 農夫の言は茲に一の註解を要す、勿論残忍其物のみが是等隣邦滅亡の源因にあらざりしなり、残虐は人心腐敗の結果にして国憲敗頽の徴候たるに過ず、恰も十九世紀の朝鮮に於て官其政敵を処するに四肢分断の刑を以てし、支那に於て友邦日本の契約を忘れ俘囚を虐遇殺戮するに至りしは、其内政の腐乱、貴族の驕恣、奸悪横行の徴なるが如し、国家の状態如斯なるに及んで其滅亡の機運は遠からず、西方亜細亜に於て然り、東方亜細亜に於ても亦然らん。
 農夫亜麼士は熱心燃るが如き愛国者なり、彼が此記を作るの目的は隣邦の積悪を矯んが為に非ずして彼の特愛の生国なる猶太亜国を警誡せんとするにありき、西方亜細亜に於ける昔時の猶太亜人は東方亜細亜に於ける今日の日本人の如く、彼等は特種の歴史と国風とに誇り、異邦の民を見るに常に劣等人種の念慮を以てし、曰ふ我等は神国の民なり、列国亡ぶるに至るも我国の危殆に陥るの虞なしと、彼等は常に隣邦の腐敗残虐を算へ上げ、其厄運に遭ふを以て天罰の然らしむる所となせり、彼等の政治家と新聞記者とは異口同音筆を揃へて自国の仁と義とを称し、他国の暴と虐とを掲げり、然れども亜麼士は農夫にして新聞記者にあらず、彼は真面目にして正直な(166)り、彼は天道の此民に優にして彼民に酷なるを信ずる能はず、スリヤ、モアブ、エドムの族は不徳の故を以て滅亡に帰するの徴あり、猶太亜若し其内に非倫非理の行為を蔵するあれば亦同一の運命を免がるゝ能はず、天に特愛の民あるなし、猶太亜若し改めずんば亦敗懐を免れざるべしと、彼は語を続けて曰へり、
  猶太亜に三の罪あり四の罪あれば我(神)必ず之を罰して赦さじ、
と、而して其罪として算へ立られし者は隣邦異邦人の罪と全く質を異にし、残虐、兇暴、狼悪てふ如き外部に現はるゝ罪過にあらずして多くは之れ人心の密奥に蔵せらるゝ道徳的心霊的罪悪なりき。
   汝等はエホバの律法を軽んじ
   その法度を守らず、
 徳義地に落ち信義跡を絶ちしを言ふ。
   汝等は義者を金のために売り、
   貧者を鞋一足のために売る、
 諂媚と甘言とは広く社会に行はれ、貧者は土塊視せられ、金銀は正義に勝りて力あり。
   父子共に一人の女子に行き我聖名を汚す、
 売淫は盛に行はれて人は廉耻を忘る。
   預言者に命じて預言する勿れと言ふ、
 若し義人ありて公然自国の弊を唱ふるものあれば、治安妨害とか愛国心の欠乏とか称して其口を鎖す。
   彼等は誡しむる者を悪み、
(167) 隣邦の弊は言ふべし、我国の弊は語るべからずと。
   汝等は貧しき者をふみつけ、
   贐物を之より取る、
   ヽヽヽヽヽヽヽヽ
   汝等は義者を虐げ賄賂を取る、
 軍夫募集を請負ひ、貧者の膏血を絞るの類、御用商人の蕃殖、媚俗的才子の立身。
   是故に今の時は賢き者黙す、
   是悪しき時なればなり、
 義者と賢人と真面目なる人とは沈黙を守らざるべからず、彼口を開けばヽヽヽヽヽヽヽヽ、是実に悪しき時なり。
 而して世に称する紳士紳商の生活の状は如何、
   彼等は災禍の日を以て尚ほ遠しとなし、
   ヽヽヽヽヽヽヽヽ
   自ら象牙の牀に臥し、
   寝台の上に身を伸し、
   群の中より羔羊を取り、
   琴の音に合せて歌ひ噪ぎ、
(168)   大※[(口+口)/わ冠/斗]《さかづき》を以て酒を飲み、
   最も貴き膏(今の香水)を身に抹り、
   ヨセフ(国民)の艱難を憂へざるなり、
 彼等は又「鑿石の家を建つ」と謂ふ、西方亜細亜に於ても然る乎、紀元前九百年の昔に於ても然りし乎。
 以上は特種の歴史と国鉢とを以て誇る猶太亜国民の罪過なり、暴虐表面に表はるゝに非れども内に陰険にして不実なり、其習は優、其俗は雅なりと雖も民淫行を愛して、薄情なり、賄賂盛に行はれ、賢者口を閉ぢ、上流社会の人は口に正義と愛国とを唱へ、貧者を虐待げ、淫佚に耽けり、モアブ、アモンの残忍狼悪は罰すべし、猶太亜の隠悪も免ずべからず、天道は素之れ公明正大、罪過は何れの形を取るも正義の神は仮借せざるぺし。
 是れ農夫亜麼士の論法なるが如し、故に彼は語を続けて自国の運命を歎じて曰く、
  敵ありて此国を攻め囲み
  其権力を取り下さん、
  ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ
  我(神)又冬の家(紳士紳商の冬別荘)及び夏の家(同夏の別荘)を打たん、
  象牙の家亡び大なる家失せん、
  彼(神)は滅亡を忽然強者に臨ましむ
  滅亡終に城に臨む、
(169)  神前の目的物は重に「強者」即ち貧者の膏血を絞る富豪家なり。
   視よ至らんとす、
   其時我(神)饑饉を此国におくらん、
   是はパンの乏しきに非ず水の渇くに非ずヱホバの言を聴く事の饑饉なり。
   彼等は海より海とさまよひ歩き、
   北より東と奔り廻りてヱホバの言を求めん然れども之を得ざるべし、
 如何なる饑饉ぞ、「ヱホバの言」とは直言なり、明白なる真理なり、(今日我国に称する耶※[蘇の草がんむりなし]教と仝視する勿れ)、国人悉く「オベツカ」使ひと化して一人の直言真理を語るものなし、真理の饑饉、賢人の饑饉、国家の災害実に之より大なるはなし、嗚呼天よ願くば吾人に此饑饉を下す勿れ。
   ××××××××
   ××××××××
 農夫亜麼士は予言者なり、然れども彼は宿命論者にあらず、彼は猶太亜の積弊を責め、其恐るべき結果を予言せり、然れども彼は未だ此国を以て全く救ふぺからざるものとなさず、彼に救済策あり、改良策あり、簡短にして明白なり。
   正道を水の如く、
   正義を尽きざる河の如く流れしめよ、
 彼は外国同盟を語らず、内閣変更を説かず、国権の淵源は民の道徳にあり、国家の救済は公義の施行にあり、
(170)   汝等善を求めよ、悪を求めざれ、然らば汝等生くべし、
 軍艦を増すも益尠なし、海防を厳にするも力弱し、先づ善(英語のgood)を求めよ、信義を厚ふせよ、貧民を撫育せよ、誠実にして真面目なる教育を施せよ、税率を公平にせよ、而して凡ての手段を以て国民の涙と渋苦とを拭へよ、「悪を求めざれ」、御用商人を却けよ、ヲベツカ便ひを退治せよ、官吏登用法を改めよ、収賄の弊を根絶せよ、淫縦の俗を洗ひ去れ、「然らば汝等生くぺし」、国家衰頽の患あるなし、国民共同一致して外侮を受けざるに至らん、殖産復興し、富強必ず至らん。
 亜麼士の救済策は左の美厳なる聯句に臻て其絶頂に達せり、
   汝等公道を茵※[草がんむり/陳](苦味)に変じ、
   正義を地に擲つ者よ、
   昴宿(星の名)及び参宿(同)を作り、
   死の蔭を変じて朝となし、
   昼を暗くして夜となし、
   海の水を呼んで地の面に溢れさする者を求めよ、
   其名をヱホバといふ、
 之をカント哲学の語調に訳すれば「人類の行為は宇宙の運行と調和するを要す」、と言ふに均しからん、即ち、国是を定むるに当て三百代言的の政治家に聞く勿れ、「当世の才子」は最大危険物なり、空天に掛る星に問ふべし、彼若し答へずんば汝の心底に隠るゝ良心の声に聴け、「エホバを求めよ」といふは之を言ふなり、今日世に(171)称する耶※[蘇の草がんむりなし]を信ぜよと言ふに非ず。
 以上は余輩が旧記を解する所、勿論意義深重にして余輩の能く伺ひ識るぺからざる事多し、余輩は僅かに此太古の記事を読者に紹介するの労を取りしのみ、セミチツク語を解し得る読者は尚ほ原本に就て其蘊奥を探るを得べし、其英訳亦勇壮の語気を存し、感激する少なからざるべし、其日本訳の如きは著しく改良を要すべしと雖も尚敗徳社会を警醒するの字句を有する事と信ず、余輩は重複す、農夫亜麼士の言は西方亜細亜に於ける紀元前九世紀の作なりと、其十九世紀に於ける東方亜細亜に何の関係を有する乎は余輩の全く知る所にあらず。
 
(172)    宗教の必要
                   明治28年6月15日
                   『六合雑誌』174号
                   署名 内村鑑三
 
 我若し神ならんか、宗教の要我になかるべし、我若し禽獣ならんか、我は宗教なくして可ならん、我は人なればこそ我に宗教の要はあるなれ。
 そは神は彼自身にて完全なるものなり、彼は彼の理想に応ずるの力を有し、彼れ思ふて事成り、言ふて物造らる、絶対孤立自得の彼は他に拠るの要なきが故に宗教の要あるなし。
 禽獣は彼の力に応ぜざる慾と望とを有せず、彼は力の及ぶ丈け欲し、彼の慾望は彼の力量を以て限らる、故に彼亦彼自身にて満足し得るもの、他に求むるの要なきが故に宗教の要を感ぜざるなり。
 然れども人は平均を欠くの生物なり、彼の理想は常に彼の力量に勝り、彼は彼の能はざる事を望み、彼の及ばざる所を欲す、禽獣的の器に容るゝに天使的の霊を以てせしものなれば、彼の両性が化合して一が他を同化するに至る迄は彼に宗教の要あるなり。
 余輩宗教を解する如此、人の宗教とは彼の人生問題の解釈なり、人生てふ密偈、彼若し何れにか之を解せざれば彼の一生は苦痛の極なり、彼の禽獣性を以て人生の最大原理と見做さん乎、是れ亦一つの解題にして全く耐ゆべからざるの宗教にあらず、鼠小僧の宗教は此の如きものなりし、石川五右衛門の宗教も亦た然り、彼等は霊(173)性の存在を否定し、良心の譴責を人性の※[立心偏+(而/大)]弱に帰し、徳義は迷信の一種と解し、彼等の禽獣性を高めて彼等の霊能智能をして悉く之に服従せしめたり。
 彼等は人生を解して曰ふ「人とは智能を備へたる禽獣なり、彼の犬猿に勝るは犬猿が魚鳥に勝るに同じ、禽獣に力の加へられしもの是れ人なり、故に同一律の二者の行為を支配すべきありて、人は殊更に禽獣に異なるの律を守るの要なし」と。
 是れ石川五右衛門と彼の教会の信仰箇条なりし、鼠小僧之を固守して刑せられ、ルッソー之を唱へて仏国革命起り、ナポレオン之れに和して欧洲震ひ、而して其優想麗詞の裡に物質的哲学として世に唱導せらるゝや、ジェイ、グールド出て鉅万の富を致し、盗賊紳士白日に横行して義者は口を閉するに至る、禽獣教利慾主義、是れ亦世界の大勢力なり、人生問題の解析を斯教に求るもの開明の今日決して尠しとせず。
 禽獣教は極端主義なり、其直截的に人生を解すると同時に之を尊信実行するには非凡の勇気と胆力とを要す、故に世間之に心服するもの多しと雖ども之を唱道決行するものは至て稀なり、世人の多くは極端主義を忌むものなり、彼等は天使的良性に超越権を附与するの勇気を有せざると同時に亦た全く禽獣性に服従することを敢てせざるものなり、故に彼等が人生問題に対するや之を不問に措かん事を勉む、而して会々不幸艱難の身に迫るありて其解析を彼等に促すあれば彼等は彼等の内に存する彼等の疑問性を悩殺せん事を勉む、彼等は曰ふ
  人生問題は到底解し得ぺきものにあらず、古今の大人君子一人として満足なる解釈を之に与へしものなし、何ぞ我独り之を解するを得んや、麻糸の長し短かし六つケ敷しや、有無の二つを如何で分たん、若かず此の如き問題に心を労せざるに、天運苟(モ)如(シ)v此、且(ツ)進(メン)2盃中(ノ)物1。(174)と、余輩は云ふ、是れ亦一種の宗教にして人生を解すべからざるものと解せしものなりと、彼等の祭礼に催眠的薬剤を要する多し、酒精は其最も緊要なるもの、煙草之に次ぎ、楽器小説亦要具なり、彼等は物の変化の内に霊肉両性の衝突を忘却せんと勉むる者なり、春若し長久に春ならん乎、彼等は苦痛を感ずるものなり、秋は長く秋たるべからず、寒暑の変動は彼等の無聊を癒すものなり、彼等は旱天に降雨を祈りて雨来りて復た晴天を欲するものなり、彼等の生涯は全く消極的なるが故に断腸の憂を感ぜざると同時に上天的の歓喜に触るゝ事なし。
 無頓着教信者は世の最多数を占むるが如し、彼等は羽翼を褫られたる鳥の如く、登らんと欲して登り得ざるもの、彼等は危険を恐れて人類の特権を放棄せしものなり、人生の難問題は放棄せられんが為めに吾人に供せられしものにあらず、恰も教師が難題を以て学生を試むるや、其之を不問に措かんが為めにあらずして、其之を解し、解するに依て智能の鍛錬を増し、以て此世に処するの道を会得せんが為めなるが如し、人生問題放棄せられて人生は其真味を失ふに至る、否な其結果は爰に止まらざるなり、人生問題を解せざるものは人世に於ける落第生なり。彼は之を解せざるが故に死するものなり、聞く昔時希臘にスフィンクスなる女神ありて彼女の提出せし質問に答へざるものは、直に擒て殺せしとかや、人生問題に答へざるものは、之に誤謬の答弁を与へしものなり、解せざらんか殺さるべし、無頓着主義は常に死滅の前兆なり。
 此に於てか吾人は真正の宗教を要するなり、即ち吾人人類の理想を信じて之を実行するにあり、即ち吾人の霊性の要求する所を以て吾人処世の標準となし、禽獣性の之に矛盾するあれば之を圧し、之をして終に霊性に同化せしむるにあり、是れ普通感念を有するものは何人も承認する所なれども、其難きが故に多くは避くる所なり、余輩の宗教の定義は甚だ簡短なり。
(175) 即ち正義の実行是なり、之を人と宇宙との関係なりと云ひ、神と人との関係なりと云ふと雖ども、之を實際的に解すれば余輩の定義に外ならざるべし。
 正義の実行、是れ難中の難なり、而して宗教は吾人の迷夢を排し、吾人の弱きを助け、吾人の冀望と命数とを示し、吾人に正義実行の道を開くものなり、宗教必ずしも善行を平易ならしむるものにあらず、然れども其純粋倫理学と異なる所以は後者は人道の何ものなる乎を示すに止て前者は之を行ふの動機と快楽とを供す、正義其物は強迫的にして其実行は苦任なり、宗教は正義を美ならしめ、其実行を楽しからしむ、故に宗教を称して審美的倫理となすも可ならむ。
 此に於てか説をなすものあり、曰く、道義已に美なり、何ぞ宗教の之を装飾するを要せん、且つ之を楽しからざらしむるに非れば実行し得ざる人は卑怯の最も甚しきものなり、之れ苦薬を服するに甘味の調合を要するものたりと。
 是れ方便的宗教に対しては勢力ある議論なるべし、然れども事実其物を不問に附して勉めて苦任に当らんとすることは是れ智にあらず、勇にあらず、宗教は人の本分を明かにし彼の正義を行ふべきの所以を示す、之を知て之を行ふは之を正しく行ふことなり、正義行はざるべからず、然れども勉めて之を苦行たらしむるの要なし、若し其理を究めずして実行するを勇なりとせば闇冥の裡に国法に屈服する未開人は其理を明かにして之に服従する開明人に優て勇なり、若し勉めて苦行するを以て勇なりとせば、※[さんずい+氣]車の便利に依らずして歩行するものは勇なり、宗教の要は正義を美ならしむるにあり、而して其之をなすは外形的装飾を捏造附着するにあらずして其真美を発揚するにあり、宗教は倫理の上達せしもの、二者の関係は鉱鉄鋼鉄との関係なり、金剛石地を出で未だ技工に接(176)せざるものと錬磨已に成りて光を王冠の上に放つものとの関係なり、吾人宗教を要する所以は正義を其粋に於て求めんが為なり。
 
(177)    何故に大文学は出ざる乎
                     明治28年7月13日
                     『国民之友』256号
                     署名 内村鑑三
 
  時勢と文学 以太利復活の大風雲はダンテを産せりアリオストを産せりタツスを産せり日本大膨脹の下一の大文豪を産するなき耶(国民新聞第千六百十九号)
 大文学は出ざる乎、大文学は出ざる乎、吾人は希臘の古哲に傚ひ、日中提灯を燈して都の大路を廻り歩くも大文学者に接せざるなり、日清戦争始て大文学出でず、連戦連勝して大文学出でず、戦局を結んで大文学出でず、大政治家あり(?)、大新聞記者あり(?)、大山師あり(然り)、大法螺吹きあり(然り)、然れども大文学者はあらざるなり。
 出るものは仏国革命時代の所謂「三十銭文学」なり、否な、二十銭文学なり、十銭文学なり、六銭文学なり(国民之友の定価なり但し割引あり)、掃溜雑誌なり、法螺吹き雑誌なり、乾燥礫を噛むが如き理屈雑誌なり、青年文学とか称する懶惰書生の寝言なり、大文学なきのみならず中文学なし、小文学なし、然り若し文学とは思惟の創作を言ふならば今日の日本に文学ありと言ふを得る乎、王子の製紙会社の収益多きは必しも文運隆盛の徴にあらず、活版星の小僧の多忙なるは必しも思想界の繁劇を証せず、或人今日の文学を称して反古紙製造なりとなし、著述業を呼んで活版屋の奉公なりと曰へり、余輩は此言の全く虚妄ならざるを知るなり。
(178) 那威の小なるも尚ほイブセンを有するに非ずや、洪牙利は吾人と人種を同ふして尚ほモリッツを有するに非ずや、露国の未だ代議政躰を有せざるに已にプーシキン、レルモントフの誇るべきあるに非ずや、然るに膨脹的大日本に一大世界的文学者あるなし、宜なり日本膨脹論者が彼の持説を吹聴するに当て痛く此大欠乏を感じ、声を張り挙げ筆を尖らかせ、毎日毎号大文学者の産生を絶叫するや。
 然れどもオヽ日本膨脹論者よ汝は大文学者を得ざるなり、汝の声は野に呼べる人の声なり、余は恐る汝世の終りまで絶叫するとも今日の儘の日本よりは一ダンテ一ゲーテはさて置き一ポーポ一ゴールドスミスをも得ること難からん、乞ふ余をして爰に汝の失望の理由を述べしめよ。
 文学とは高尚なる理想の産なり(汝の能く知る如く)、文字を美術的に併べ立てたとて文学にはあらざるなり(汝の能く知る如く)、故に理想なき処には文学はあらざるなり(汝の能く知る如く)、大文学は吾人の誇る富士山の如きもの、園芸師の細工にはあらざるなり、天の霊来りて吾人の心霊に宿り、之を擾乱し之を鎔解し、之に形を与へ、終に憂悶苦痛の中に吾人をして之を産出せしむ、内に大魂の動くあり外に大気の応ずるありて、始めて大文学は産るゝなり、之を出すのプリンシプルなく、之を受るの社界なくして大文学は如何にして産るゝを得るや。
 敢て問ふ過る十年間の日本は如此原動力を養ひつゝありしや、吾人は愛国心の養成と称して吾人の青年に多くの和文を暗誦せしめたり、故に彼等は源氏物語に傚て能く艶文を綴り得るなり、温良なる民を作ると称して吾人は彼等に兵隊的服従を教へたり、故に彼等に独創の意見あるにもせよ彼等は謹んで口を開かざるなり、否な、彼等は多くの実例を以て独創の意見を懐くの不利と危険とを教へられたれば、彼等は平凡的多数と歩むを知て反(179)俗的小数と共にせざるなり、吾人は吾人の冀望通りに吾人の青年を仕立たり、彼等は能く吾人の命令に聴けり、故に彼等はダンテ、シルレル、カーライルたる能はざるなり、否な決して能はざるなり。
 抑も大文学なる者は世界的思想の成体なり、ダンテの作は「欧州十一世期間沈黙の弁護なり」と云ふ、シエクスピヤの作は「人情の福音」なりと云ひ、ゲーテのフハウスト曲は「世界的聖書」(Welt-bibel)なりと称す、個人的精神の上に、国民的精神の上に、世界的精神なるものありて、之を吸収し、之を消化し、之を形成して世界的文学は出るなり、常に下界に彷徨し、世俗と交はり、平々凡々他と異ならざらん事を求むる者にして、如何で能く雲層を貫き、三階の天上に登りて其美音を採り来り得んや、肉に由て生るゝ者は肉なり、霊に由て生るゝ者は霊なり、ダンテ、アリオストの世に出しは豈偶然の事ならんや。
 然るに日本今日の思想界を視よ、世界的思想なるものは何人に由て何処に於て吹き入されつゝあるや、博愛は愛国に害ありなどゝ云ふ戯言が堂々たる学堂に於て説かれつゝあるに非ずや、吾人の注意は国文攻究の上に留まれり、支那学の上達は吾人の羨む所なりし、余輩は甚だ之を喜ぶ、之れ吾人の正になすぺき事なればなり、然れども所謂世界文学なる者の攻究に至ては吾人の殆んど全く怠たりし所、幽邃なる印度思想の吾人の中に存するにもせよ、是れ仏家少数の専有物たるに止て国民全躰の思惟に上らず、而して世界の公評が許して以て世界思想の泉源なりと称する希伯来文学は吾人の中に何程の価直を有するや、ダンテを学ぶ者吾人の中に幾人かある、ホーメル、ヱスキラスは吾人の研究する所なるが、沙翁の名今や何人の唇にも上ると雖ども吾人の中幾人が彼のハムレット劇を解し得るや、ゲーテ、ゲーテと叫ぶと雖ども民友社の十二文豪を除きて此夥しき我国の近刊中彼を論述せし書は何処にあるや、吾人はテニソンの心を解するや、吾人はローエルの秘密を探りし乎、イプセン、プ(180)ーシキン、トルストヰの作は我国読書社会の嗜読物なる乎。
 此国民に向て世界的大文豪出でよと叫ぶ、オヽ日本膨脹論者よ、汝は木に向て魚を出せよと叫びつゝあるなり、※[草がんむり/疾]藜《あざみ》に向て無花果を与よと叫びつゝあるなり、日本国は世界的精神を養はざりしなり、故に世界的大文学は彼より出ざるなり。
 オヽ日本膨脹論者よ、汝は高尚天外に響き渡るが如き凱旋歌を求むる事切なるが如し、予は今茲に之を汝に供すべし、
  日本勝た、日本勝た、支那負た。えらい奴ぢや、台湾取た、えらい奴ぢや、償金取た、負なよ、えらい奴ぢや(大坂人士の祝勝歌)。
 是れ実に夫のミリヤムの凱歌に此敵すぺきもの、詩人ブライアントの「自由」の一句も実に之には及ばざるべし、日清戦争は義戦、人類の為の戦争、文明の為の戦争、東洋救済の為の戦争、即ちグスタフ、アドルフの独逸戦陣の如き者、ワシントンの米国革命軍の如きものなりとすればこそ、吾人の心琴に天の美楽の触るゝありて高尚美厳の言語は出るなれ。
 吾人は然か言ふ、吾人の浮気なる事は大文学の吾人より出ざるの一大理由なりと、Das Leben ist ernst、「人生は真面目なり」、是れ余り堅気とは称すべからざりし詩人ゲーテの精神なりし、ラベナの人は詩人ダンテを指して曰へり「自身地獄に到りし人を見よ」と、而して惨憺たる彼の画像に対して誰れか無量の悲涙と憂苦とを認めざるものあらんや、シエクスピヤの常に※[立心偏+亢]爽なるに関せず、彼の曲作に憂愁言ふべからざるあるは人の能く知る所なり、ミルトンの作を解せんとするものは先づ彼とピユリタン派の宗教を解せざるべからず。
(181)  “I live,you know where,――in Meshec,Which tbey say signifies Prolonging:in Kedar which signifies Blackmess:Yet the Lord forsaketh me not.”
  余の住家は君は知る、我は遅延と称するメシエクに在り、暗冥と称するケダルに住す、然れども神は余を見捨たまはざるなり、
 是れクロムエルの宗教なりし、而してミルトンの傑作は此憂憤愁悶の情を韻文に綴りしもの、彼の淵源に透達してのみ是の浄泉は湧き出しなり。
 文人とは「粋なる人」を言ふにあらず、彼は花柳に遊ぶを要せず、否な決して遊ぶべからず、文学とは真面目なる職業なり、男者の職業なり、文学は戦争なり、醜に対する戦争なり、不義薄情媚俗ゴマカシ主義に対する戦争なり、筆硯の業を以て隠居仕事と見做し、文人を目して閑雅風流の人となす社界に於ては大文学は出ざるなり、カーライル曰へるあり「雄編大作は常に憂鬱の気を帯ぶ」と、ユーゴの作然り、イブセンの作然り、レツシングの作然り、カーライル自身の作甚だ然り、ダンテの作非常に然り、山陽の作も然り、司馬遷の作亦た然り、深く憂へざる民は大文学を有つ能はず。
 大文学の出ざる理由斯くの如し、然れども試に吾人の中に一ダンテありと仮定めよ、而して彼は「聖劇《デイビナ、コメヂヤ》」を草したりと仮定めよ、オヽ大日本膨脹論者よ、汝は今日の日本読書社界は其世界的大傑作たるを認め得ると信ずるや、よし民友記者の如き先見卓識の人士ありてダンテのダンテたるを識別し得るにもせよ、記者の常に喜ばせんと勉めつゝある日本の思想界はダンテを歓迎するの用意ありや、今彼の「聖劇」を繙き其二三の句を引て此点に関する論者の高説を聴かんと欲す、
(182)  (余は十九世紀末期の日本に生れ来りてダンテを彼の原語に於て読む能はざるを恥づ)、
  To rear me was the task of power divine,
  Supremest wisdom and prlmeval Love.
                 (ケリー氏の英訳に依る)
  余を育つるは大能者の業なりし、
  最上の智慧と原始の愛の、
 吾人の「ゑらい奴」は如何なる感覚を以て此一句に接するや、「宇宙の全力」是れ如何なる隠語なるぞ、「最上の智慧」とは国会議員の多数決にはあらざるべし、「原始の愛」是れ今日の日本人を楽ましむる文字なる乎、ダンテよ汝の寝言を休めよ、吾人は汝を解せざるなり。
  So I beheld united tbe bright school
  Of him the monarch of sublimest song,
  That o'er the others like an eagle soars.
 ダンテよ、汝詩聖ホーメルを吾人に語るも益なし、そは我等日本人は未だ希臘文学を以て野蛮人の文学の如くに思ひ、未だ国民一般に之を研究せざればなり。
  For I am pressed with keen desire to hear
  If heaven's sweet cup,or poisonous drug of hell,
  Be to their lips assigned.
(183) 天の香はしき盃」、「陰府の苦き毒杯」……ダンテよ、我等はスペンサーを読み、バツクルを愛し、ベンタムを誦す、天よ陰府よと言ふことは我等は全く信ぜざるなり、足れりダンテよ、汝の詩歌は三味線に合す能はざるなり!
 斯くてダンテの折角の「聖劇」も書店の厄介物となりて存せん、「お菊」「三日月」の類は七版を尽し八版を呼ばん、天下の同情は「お菊」の七八版を重ねぬ、然れどもダンテの「聖劇」は塵埃の裡に蟄居せん。
 ダンテ曾てカングランデ公の宴席に招かる、主客相対して飲むの際、幇間某頻りにその「オベツカ」を併べ立てゝ彼等を娯ましむ、主公はダンテに向て曰へり、
  彼れ幇間能く娯楽を此席に添ふ貴君の才能を以て吾人に一の快楽を供せざるは如何、
 ダンテ冷笑公に答へて曰く、
  人は凡て己に能く酷たる者を喜ぶなり
と、彼はカングランデ公を喜ばす能はざりき、彼は今日の日本人を喜ばし得る乎。
 然りダンテの「聖劇」は今日の日本に於ては大々失敗なり、余は彼が十三世紀の伊太利に出て十九世紀の日本に出でざりしを彼の為めに賀するなり、縦令深切なる批評家愛山生の如きありて彼の著を社界に紹介するも社界は「お菊」「三日月」の類に行て「聖劇」をば問はざるべし、ダンテ若し今日の日本に在らば彼は無要の長物ならん。
 大文豪を出すの思想なく、彼を迎ふるの社界なし、大文学の出ざるは明々白々たり、種子なくして果樹生ずべけんや、田圃なくして穀実らんや、膨脹子よ、大文学を打ち出す大黒天の財槌は此の宇宙には存せざるなり、奇(184)蹟の時代は已に過ぎたり、今は原因結果の世なり、矢鱈に大文学を叫んで余輩に無益の心配を掛る勿れ。
 然れども失望する勿れ膨脹子よ、吾人の今日大文学を有せざるは之を永久に産出し能はざるの理由にあらず、「ニーブルンゲンリート」を作り得し独逸民族は「フハウスト」曲を生じ得たり、エダ(Edda)作者の子孫はイブセン、ビヨルンステルンを出したり、
   むらさめの露もまだひぬまきの葉に
     きりたちのぼる秋の夕ぐれ
を吟せし大和民族は無辺の宇宙を歌ひ得るなり、
   梅の花春よりさきに咲にけり
     見る人まれに雪はふりつ1
 是れウォルヅオスの「岩間の蓮馨花」の精神ならずや、
   言の葉の玉ひろはゞや秋の夜の
     月に明石の浦つたへして
 清浄斯の如きの情、是れゲーテ、バーンスの心ならずや。
 大文学の地質吾人にあり、確かにあり、要は世界精神の涵養と注入とにあるのみ、如何にして之を為さん乎、是れ余輩の次回の論題なるべし。
 
(185)    如何にして大文学を得ん乎
                    明治28年10月12・19日
                    『国民之友』265・266号
                    署名 内村鑑三
 
 大文学を有するは国家の栄光にして威厳なり、英国は其印度帝国を以てするよりも其チヤウーサー、シエークスピヤを以て誇り、セルバンテースを有する西班牙は尚ほ世界の尊敬を惹て止まず、カモヱンスの「ルシアツド」あるが故に葡萄牙国は賤められず、イブセン出て区々の那威も学者の注意に上り英国語は競て究めらるゝに至れり、歴山王の事蹟は消へてピンダー、アリストフハニスは猶ほ世界を感化しつゝあり、武力の及ぼす所は狭くして短かし、文力の及ぼす所は広くして永し、兵を増さん乎、文を修めん乎、我若し永久に宇内を斫り從へんと欲せば我は文を修めんのみ。
 大文学は天賜なり、吾人欲して之を得る能はず、若し求めて之を得べくんば何物か其価ならん乎、
   智悪は何処よりか覓め得ん、
   明哲の在る所は何処ぞや、
   人その価を知らず、
   ……………………
   精金も之に換ふるに足らず、
(186)   銀も秤りてその価となすを得ず、
 博士と政治家とは禄と爵とを以て招くを得べし、而も詩人は神の特賜なり、彼は祈て得べし、招きて求むべからず、曾て聞く亜拉此亜人は彼等の中に詩人の降るあれば郊祭を設けて天に謝せりと、只講座を設くるを知て天才を遇するを知らず、空功を賞するに急にして実徳を認むるに鈍き国民にして、焉んぞ能く大文学を産むを得ん乎。
 然も吾人の天より是を授かるの途なきにあらず、大文学を得るの途は吾人を詩神の器となすにあり、我に天来の思惟に接するの資格なかるべからず、之を写出するの技倆なかるべからず、我にして此資と技とを有せん乎、宇宙は皆な咸く聖楽、我の心琴一たび天の美音に触れて雅韻我より流れて止まず、詩人ダンテは曰へり、
  余は愛の書記なり、彼れ語る時に余筆を執り、彼の言ふ所を余は記載す、と、然り愛の書記たるなり、如何にして愛の書記たるの資格を得ん乎、是れ余輩の実際の問題なり。
 
    文躰
 
 ゲーテ曰へるあり「孰れの美術も多少の機械的鍛錬を要す」と、美術の長たる文学にして此用意習練を要する事は言ふまでもなし、大高源吾の「鶯の初音を聞く耳は別にしておく武士かな」は其意に於ては已に高尚絶妙の詩歌なりと雖ども未だ美術的文字と称するを得ず、其後彼の技彼の心に応じて「武士の鶯聞て立にけり」となるに及んで勇壮絶美の俳句は世に出たり、文はかざりなり、生硬無飾の思想に文学の名を附すべからず。
 然れども今は文飾欠乏の時代にあらず、今や社界は言語の下痢症と思想の結塞病とを患ひつゝあり、人は美文(187)家を羨んで思考象を尚ばず、然り吾人の思惟は言語饒多の為めに圧せられつゝあり、曰く誰の文躰、誰の配字法と、流暢華奢の筆を弄し得れば何人も文人たるを得べしと考へらる、此時に方て余輩は多く修文術の緊と要とを語らざるべし、文字素是れ思惟の産なり、思惟を養ふの術是れ根本的修文術なり。
 或人曾て英国の論文家ジェームス、フルードに問ふて曰く「君の優雅流麗の文、君夫れ何れの文躰に依るや」と、フ氏答へて曰く「余は余の知る事実を最も解し易き英語を以て記するのみ別に文躰の依り学ぶべきなし」と、言語は「ことば」(事端)なり、我に言はんと欲する事実ありて之を言ひ顕はすの語に乏しからず。
 
    世界文学の攻究
 
 世に世界文学なるものあり、是れ一国の産にあらずして世界の共有物なれば然か称するなり、希伯来の聖書の如き、ホーメルの二大作の如き、ダンテの聖劇の如き、シエークスピヤの劇作の如き、世界聖書(Welt-bibel)と称せらるゝフハウスト曲の如き、其数多分一手の指を以て算すべし、是れ実に人類の有する至大の珍宝、帛玉山を築くも其一の価に当らず、人生は実に是れあるが為めに貴し、太古時代にして其バイブルを世界に供せざらん乎、七大帝国の興廃は収めて春宵の一夢に過ぎず、アリヤン人種の起原と冀望とは籠めて盲詩人の二作にあり、幽暗千百年の長きに亘りて欧人叫号の声はダンテの三編一百章となりて存す、海の洋々たるは沙翁の宏闊なるに及ばず、新文明三度世紀を重ねてヴハイマー詩人を産めり、高からんと欲せば希伯来聖書に行き深からんと欲せばダンテの跡を践み、広からんと欲せば沙翁の眼に頼り、英気をオデシー、イリヤットに汲み、包格をゲーテのフハウストに覓めん、五書を知るは世界を知るなり、是を解するは人生を解するなり、天地の大気は粋然として此書(188)に鍾まる、大文学の志望あるものは深く此泉に汲まざるべからず。
 希伯来聖書は其物自身にて一大文学なり、其記載する事実の真偽は措て問はず、其文の簡潔透明なる、其意の美厳なる、ダンテ其句を借りて天国を画き、ミルトンの魔族亦た其記事に依る、マコーレーの文勢は彼の著しき聖書的智識より来れり、リヒテル、ノバリスの奥妙も此の旧記の供する所たり、シエークスピヤなり、ゲーテなり、カーライルなり、コレリッヂなり、彼等は皆咸く緻密なる聖書学者なりし、我邦の文士にて彼等の宗教的偏執に阻げられて此世界文学に接するもの尠きを悲しむ、是を其原語にて学ぶは吾人多数の為し能はざる所なるべしと雖も、吾人に数種の支那訳と雅訓頗る味ふべきの日本訳の供せらるゝあり、之を其英訳に於てするは同時に標準的英語を学ぶの稗益あり、其ルーテルの独逸訳は近世独逸文学の泉源なりと称せられ、其仏訳は流利にして最も能く原意を写すと云ふ、是を究むるの途此の如く備はる、余輩は大方文士の攻学を促がす。
 ホーメル文学亦た広且つ深し、原語を解せざる者の為めにはグラツドストーン氏のホーメル入門あり、プツチエル(S.H,Butcher)氏の纂訳あり、ラング、ポープ、ウォースレー等の英訳あり、長く読書社界に賞賛さる、余は未だ其独訳仏訳を知らず。
 ダンテは余は重にケーリー(Henry Francis Cary)氏の英訳に依れり、カーライルの校閲を経し有名なる繙訳なり、文に気骨ありて稍原詩人に接するの感を党ゆ、又詩人ロングフエローの英訳あり、簡易明晰にして解し易し、余は近頃ヰルスタツチ(John A.Wilstach)氏の英訳に接せり、韻を踏み声を正し、勤めて原意を写さんとするにあるが如し、字句稍機械的たるを免れずと雖も、其殆んど全く直訳的たるは返て能く本元を(189)透察するの便益を供するが如し、註鮮亦豊かに、以て能く邦人の需めに敵することゝ信ず。
 シエークスピヤ学に就ては我邦幸に早苗田逍遥氏の自ら以て斯学に任ずるあり、読者彼に就て学べば足れり。
 フハウスト文学の混と雑とよ、或は曰ふ審美的批評の絶頂なりと、或は曰ふ合理的宗教の福音なりと、是を論ぜしもの是を評せしものを悉く蒐むれば以て一大文庫を作るを得べし、著者に対する無限の尊敬は年に月に讃美の声を増しつゝあり。
 フハウスト曲の英訳はテーラー(Bayard Taylor)氏の韻訳尤も著名なり、スワンヰツク(Anna Swanwick)婦人の繙訳亦た広く用ひらる、其他の英訳は枚挙するに暇あらず。余輩は五大書を持て他に大著作なしと言はず、歴史に於てはヘロドートス、政治に於てはアリストートル、悲劇に於てはエースキラス、歓劇に於てはアリストフハニス、宗教に於てはアウガスチン、能弁に於てはピンダー、デモセニース、近世に下りてはセルベンテスの諧謔竭きざるあり、リヒテルの豊饒量るべからざるあり、カライルの圭角峻峭俗人の胆を寒からしむるあり、余輩は必しも旧を尚んで新を疎ぜざるべし、要は大著作を読むにあり、小著作を忌み嫌ふにあり、聞く現今世界に於て出板出綴さるゝ無数の書中出版後第一年の終りを見るものは千中三百五十に過ぎず、百五十は三年の終りに消へ、僅かに五十が七年の終りを見るを得べしと、(大なる日本は例外なり!!)、故にデクヰンシーは曰へり「年は其文学の葬式を行ふ」と、ホヰツプルは曰へり「人は思想の製造者たらずして書物の製造者たるを得べし」と、若し世に存する標準的文学を読み悉さんと欲せば三千年の時日を要すと、吾人の生命に限りあり、書物の製造に限りなし、然るに吾人は常に多く何を読みつゝあるか、バイブ(190)ルか、ダンテか、若しくは………………
 
    自然の観察
 
 思想は思想を透して来る、治めに天よりの直感あり、後は天啓の註釈詳明に止る、ホーメル一度歌て吾人の之に改善の加ふべきなし、吾人は僅かに新譜調を以て彼の秘曲に和するのみ、倫理は猶太亜に於て悉き、美術は希臘を以て達せり、言ふ勿れ凡ての進歩は未来にありと、創作は過去にありて完美は未来にあり、古き真理、新らしき学術、是れ進歩なり、全智識なり。
 大文学を読むの要此にあり、自然を究むるの要亦た此に存す、前者は精神を供し、後者は事実を給す、ダンテの人生解は永遠の真理なり、彼の宇宙観は今は中古時代の陳腐科学たるに過ぎず、彼の精神を新学名を以て綴らんとする、是れ吾人の事業なり。
 自然に関する智識の張大は十九世紀の特功偉業なり、遠きは恒星星雲に及ぼし、近きは地層海底に到り、一茎の草一塊の土、顕微鏡的攻究を経ざるは稀なり、科学は自然の極美と無限大とを示せり、詩歌の区域今や宇宙の極辺に達せり。
 昔は山を吟じ川を歌ひたり、今は一滴の水千句の好題目たるべく、一塊のアメーバは哲学的詩歌百篇の価直あり、彗星の運行恒星の配列共に高遠なる新詩題なり、若し地質学を歌はん乎、岩に韻あり化石に雅楽あり、豺狼蝮蛇を讃歌に編し、血液循環を雅曲に謳ふに至るも未だ以て知るべからず、花を咏ぜんとするものは吉野に遊ぶを要せず、野辺の雑草に全智の穿つべからざるあり、敬虔以て自然に接する者は石として雅韻ならざるはなく、(191)草として詩題ならざるはなし、悲むべし当代淤文墨の士、古人を友とする多くして自然と交はること尠きや。
 故に大詩人は常に注意深き自然の観察者なりき、詩の最も古くして最も大なるものは希伯来聖書の約百記なり、是れカーライルが評して「高潔なる書、万民の書」と絶呼せしもの、古来より高調未だ曾て是に及ぶものなし、何物か左の壮句に優るものあらんや。
   爾昴宿の和気を縛し得るや、
   参宿の帯を解き得るや、
   爾十二宮を其時に応じて出し得るや、
   北斗と其子星を導き得るや。          〔以上、10・12〕
 ダンテに至ては中古時代の地理天文博物心理の諸学にして一つとして彼の大作に編入せられざるはなし、例せば
  群鶴列を乱さず、悲鳴を唱へて空を※[皐+羽]るが如く、余は霊魂が泣き叫びつ、其悲境に向て進み行くを見たり。
 地文学的の密察左の如きものあり
  夫のアデイヂの河岸トレントの辺、乱石自練を肩にする処、山裂けて柱石の支ゆるなく、醜岩谷を埋めて僅かに一径を余すのみ。
 若し中古時代の天文学に脳を悩まさんことを望む読者あらば左の一句の如きは好的例なるべし(余はケリー氏の英訳の儘を載す)。
   Were Leda's offspring now in company
(192)   Of that broad mirror,that high up and low
   Imparts his light beneath,thou mightst behold
   The ruddy Zodiac nearer to the Bears
   Wheel,if its ancient course it not forsook.
ゲーテが非凡の解剖学者にしてダーウヰンに先つ五十年已に進化論の枢点に達せし事は人の能く知る処なり、然れども彼の特技は気界の現象を叙するにありしが如し、
   Der alte Winterin seiner Schwache
   Zog sich in rauhe Berge zuruck.
   Von dorther sendet er,fliehend,nur
   Ohnmachtige Schauer kornigen Eises
   In Streifen uber die grunende Flur.〔ウムラウトはすべて略した、入力者〕
   冬已に老ひて力尽き、 山里指して逃げ去れり、
   只をり/\にいと脆き、 其射る雹の後ろ矢に、
   青き野原は白みけり、
 北地氷雪の裡に寒を送るものにして誰か此句の適切至当を感ぜざるものあらんや、ハルツ山中の夜嵐、アルプス山腹の朝霧はゲーテの描写を以て物理学的原理を詳明するに足る。
 然れども自然の専門詩人は英の詩伯ヰリヤム、オルドオスなり、彼に因て自然は新註解を得たり、単に例証と(193)して引用せらるゝにあらずして、僅かに景を供ふるに止まらずして、自然其物が精霊を有するものとして世に紹介せられたり、人は神に像りて造られ自然は神の可覚的自現(Seelf-revelation of God)なり、神は心霊の奥殿に於て拝するを得べく、亦自然の外殿に於て其聖貌を伺ふを得べし、此天此地素と是れ浄土、我儕は神の聖殿に棲息す、世界の人其前に静かなるべしと、是れ余輩が解してオルヅオス主義となす処、其吾人の自然に関する思惟を聖化し、吾人をして乾坤抵る所神に接するの感あらしむるや実に大なり、シエークスピヤの所謂「草木に声あり川流に著作あり」との言はオルヅオスに於て事実となれり。
 此心を以て自然に接す、自然何物か詩歌ならざらんや、彼曾て杜鵑を開て左の句あり、
   Often as thy inward ear
     Catches such rebounds,beware――
   Listen, ponder,hold them dear;
     For of God−of God they are.
   意を留めよ爾の心の耳朶に、反響此の如きものゝ触るゝ時、静聴熟思して心に収めよ、是れ神の声――神の声なればなり、
春寒漸く去るの候、路傍に蓮馨花の咲けるを見て左の壮句あり、
   Sin-bligbted though we are,We too,
     The reasoning Sons of Men,
   From our oblivious winter called
(194)     Shall rise,and breathe again,
   And in eternal summerlose
     Our threescore years and ten.
   罪に枯死する我等と雖も、亦た道に憑る人の子なり、苦寒堅氷の冬より呼ばれ、起て陽和の正気に沐し、清爽限りなき夏に、古稀の憂慮を没せざらんや、
 一茎の野草、七十の老詩人に此冀望の讃美歌を供す、有名なる The Excursion, Laodamia, Evening Ode 等皆な此類なり、「全地は冀望の美を装ふ」、詩人オルヅオス出て自然は霊化されしの感あり。
 オルヅオスは千八百五十年ライダル山に於て世を逝れり、後九年にしてダーウヰンの大著作「動植物原種論」出たり、此書一たび出てより自然の秘密は全速度を以て追究せられたり、十九世紀後半期に於ける自然学の進歩は人類の歴史過去六千年間に於ける其進歩に優ると謂ふぺし、地質学は改造され、動植の二学は新たに生れしの観あり、礦物結晶水理の諸学、生理解剖組織の諸科、一として絶大の張大を見ざるはなし、斯くて物学は心学を圧するに至り、詩学は科学に呑了せられたり、吾人は自然に於て詩歌的意識を認めざるに至りしのみならず、詩歌に施すに科学的解剖を以てするに至れり、余輩は言ふ詩歌の零落実に今日の如きはなしと、人は迷信的たらん事を怖れて詩歌的羽翼に駕してイマジネーシヨンの飛翔を試むるものなし、歌へば夏の蝗虫《ばつた》の如く臭士に頭を突き入れて微かに悲鳴を発するのみ、然れども人は尚ほ人なり、彼は万物の霊にして自然の奴隷にあらず、オルヅオスが彼の時代の科学を詩化せし如く吾人もダーウヰン、ライエルの学を謳歌すべきなり、保羅彼得の思想は進化論者の学語を以て叙述すぺからざるか、ダンテの聖劇は近世科学を以て編すべからざるか、天よりの黙示は杜(195)鵑と蓮馨花のみに存してアメーバ、バッチルレンスに存せざるか、勇めよ、我が詩歌の友よ、ダンテに勝る名誉の業は吾人の肩に掛るにあらずや。
 師父ゲルべ−(Abbe Gerbet)曰く
  用なき抽象の塵は払はれ、昔時の信仰は斯科学の円光を以て顕はれん
と、而して此冀望や今已に実成されつゝあるなり、テニソンの詩作に諸科学の芳味あるは人の能く知る処なり、ダーウヰンの学友進化論の泰斗たるアルフレツド、ワラス氏は彼の自然淘汰第三百六十八頁に左の一詩を引用せり、
   God of the Granite and the Rose!
     Soul of the Sparrow and the Bee!
   The mighty tide of Being flows
     Through coumtless channels,Lord,from thee.
   It leaps to life in grass and flowers,
     Through every grade of being runs;
   While from Creation's radiant towers,
     Its glory flames in stars and suns.
   花崗石と薔薇の神よ、   燕雀と蠅蜂の霊よ、
   生命の潮流は汝より出て、 無数の受器に充ち、
(196)   碧草玉花となりて迸り、 生類各種の中に奔流す、
   又日となり星となりて、 造化の高塔に耀輝を放つ、
 W.R.Gilder 氏の作に係る左の単編の如きは近世の造化説を歌ひしものなり、原文の儘を記す、
        T.
   Star-dust amd vaporous light,−
     The mist of worlds unborn,−
   A shuddering in the awful night
     Of winds that bring the morn.
        U.
   Now comes the dawn−the circling earth,
     Creatures that fly and crawl;
   And man,that last imperial birth,
     And Christ the flower of all.
 言を休めよ詩歌は科学の反対にして前者の優雅なるに対し後者の乾燥無味なるありと、科学勿論柔軟文学者の気健勝手を許さず、科学に紀律あり厳則あり、然れども厳なるが故に愈優なり、婀娜なる小女の美を賞するは「粋人」の業なり、電光に噴火山に地震に颶風に愛と調和とを探ぐるは詩人の職なり、詩歌を科学に求るは愛を律に求るなり、即ち造化の中心に達し変を無変に解するなり、詩人の天職爰にあり、カーライル曰く「深く探れ(197)よ万物悉く美曲なり」と、未来の大文学は敬虔を以てする自然の密察より来る。
 
    品性の修養
 
 万巻の書を読み悉し乾坤を隈なく探り悉して吾人は大文学者たるを得る乎、若し然らば大文学は時日と勉学との結果なり、若し然らば百科全書は詩の最も大なるものなり、若し然らば大文学は貧乏人より望むぺからず、若し然らばダンテは奇蹟なり、シエクスピヤは例外なり。
 然り然らざるなり、大文学は気魄なり、大人物筆を採りて大文学出づ、吾人身自ら英雄たらざる以上は博士の年金も大学院の攻究も一雄編一大作を生む能はず。
 人たることなり、人の面を怖れざることなり、正義を有の儘に実行することなり、輿論と称する 呶々の喃に耳を傾けざることなり、富を覓めざることなり、爵位を軽んずることなり、是れ大文学者の特性として最も貴重なるものなり、是有て彼の美文は教化の具なり、是無くして彼の修辞は詐偽の術なり、是有て自然は彼に賛歌を供し、是無くして造化は怪異たるに過ぎず、才あり筆ありて尚ほ未だ大欠乏の充すぺきあり、正しく之を評すれば非徳の文は文にして文にあらず、英語の word は worth(真価)なり、我に真実の語るべきありて我は言語を発すぺきなり、我は咸く胡魔化しにして、我に不抜の確信なくして、我能く文を綴り得たりとて、是れ文にあらず、語にあらず、是れ荒唐なり、虚誕なり。
 噴水は水源より高く上らず、詩は詩人より大なる能はず、ダンテ其人は聖劇よりも大なり、文の大なるは其著者の大なるが故なり、ビクトル、ユーゴー自白して曰く
(198)  余は半百年間散文に韻文に歴史に哲学に戯曲に落首に余の思想を発表したり、而して余は尚ほ未だ余の中に存する思想の千分の一だも言ひ尽す能はず。
 エマソンはカーライルを評して曰へり、
  彼に接せざれば彼の気力と技倆とを量るべからず、彼を知て彼の著述は僅かに彼の小部分なるを知る。
 コツブス夫人詩人テニソンに接して曰く、
  テニソンの詩は彼れ自身なり、彼と面晤して彼の詩の益々貴重なるを覚ゆ。
 ゲーテを見よ、彼の四十巻の著作は彼の自伝と見て可なり、アポロの如き彼の容貌の下に口以て語るべからず、筆以て叙すべからざる心霊的大戦争は闘はれしなり、
   Vom Halben zu entwohnen,und in Ganzen,
   Guten,Shonen resolut zu leben. 〔wo、Shoのoにウムラウト〕
   半成より脱却し、完全、完善、完美の生涯を送るに決す
と、是れ彼の一生の苦闘なりし、彼の著書は此戦闘録の一部のみ、
   Wie das Gestirn
   Ohne Hast,
   Aber ohne Rast,
   星の如く、急ぐことなく、休むことなく、
 彼の使命を全ふして彼の事終はんぬ、彼の心霊的歴史を知らざるものは彼を以て単に天才の寵児となせり、然(199)れども天才のみは「ヴヰルヘルム、マイストル」「フハウスト」を作らざりし、心霊的実験なり、心霊的勝利なり、是れ吾人が彼の著に於て最も貴ぶ所、是なからんか、ゲーテはシェリー、パイロンの輩と類を同ふせしのみ。
 カライルを見よ、リヒテルはルーテルの語を評して「半ば戦闘なり」と曰へり、カライルの語も亦然り、文学は彼の甚だ賤しみし所、彼他に活動の道を得る能はずして止むを得ず文筆に従事せしなり、「著書の業亦細事のみ、大なるは勇猛なる生涯のみ」と、彼れ曾て文壇の秘訣を述べ七曰く、
  汝の心より凡ての浮虚と泡沫とを全く拭ひ去れ、人何人か勉めて自由なる公明なる謙遜なる心を得ること能はざらんや、汝之を得んが為に弛まず戦ふべし、語らざるを得ざるの場合にあらざれば如何なる場合に於ても語る勿れ、報酬を思ふ勿れ、単に汝の語らんとする真理を思へ。
 彼の「法党論」「過去及び現在」は懶惰貴族に対する下民の弁護なり、彼の「仏国革命史」は摂理を義とする大説教なり、彼のコロムウエル伝は誤解英雄の弁明なり、彼のフレデリツキ伝は時の不断政治を憤りてより成れり、大義に強ひらるゝにあらざれば彼の筆は動かざりき、彼は筆を以てせし慈善家なり、筆の為めに慈善を装ふ当世流の文学者にあらず。
 プーシユキンを見よ、イブセンを見よ、ヂツケンスを見よ、愛と正義に動かされずして大文学の世に出でし実例ありや、心は脳に勝る観察者なり、才学の見る能はざる所を愛心は透観す、学は機械なり、情は生命なり、学有て文飾あらん規則あらん、然れども熱情の之を鎔解形造するにあらざれば詩歌なし音曲なし。
 文学的偽善、万言立ろに成て一行挙らず、説を提するを知て之を行ふの実力なく、言語の下痢症、実行の結塞病、小説家の歓迎、実記者の冷遇、文界此の如くにして大文学は迚も望むべからず、「粋人」は社界に賤視せられ(200)て其頭を擡げ得ざるに及んで、「風流人」は月花に愚歌を呈するを止めて、国人悉く誠実を尚び、品性は文に優りて尊敬さるゝに及んで、始て世界を風靡する大文学は吾人の中より望むべきなり、先づ人たれよ、文の友よ、ダンテを読まざるも屈辱の奴族たる勿れ、文若し汝を虚飾に誘はゞ取て之を捨てよ、至誠汝を動かすにあらざれば大思想大文学は汝の有にあらず。
 汝知らずや、名工利刀を鍛ふるに方て彼は潔斎沐浴し、淫を速け、儀を正し、精を尽して鉄砧に対するに非ずや、筆は刀に勝る利器なり、汝の筆頭墨汁に染みて汝の志意を描かんとする時は是れ実に厳粛なる時ならずや、汝は世を誑らかさんとする乎、汝は社界に媚んとする乎、汝は名誉を買はんとする乎、将た亦た世を救はんとする乎、無辜を弁ぜんとする乎、正理を説かんとする乎、天意を尽さんとする乎、裁判の神をして汝の座側に在さしめよ。
 インスピレーシヨン、神来の思想、天意は電気の如く理化学的工夫を以て招くべからず、是に接するに惟清浄潔白天地に恥ぢざる心あるのみ、「心の清きものは幸福なり其人は神を見ることを得べければなり」、是れ豈惟り宗教に於てのみ然らんや。
 美学、美文学、美は其物自身に於て究むべし、倫理宗教の啄を容るゝ所にあらずと、故に身を不浄の巷に汚がしても美を探るべし、心に正義を慕はざるも美は論ずべしと、嗟呼美の観念斯の如くにしてダンテは無用人物なり、希伯来聖書何の価かある、二十銭文学にて足れり、絵入小説にて足れり。
 Beautiful is that beautiful does 美を為す事是れ即ち美なり、善行を称して美事と言ふは是れなり、大石蔵之助を演ぜんとする俳優すら尚ほ一七日の坐禅的生涯を試るにあらずや、醜行は直に浄瑠璃語りの音声に影響し彼
(201)の技倆を傷るにあらずや、文学者独り放恣にして美を求め得るの理あらんや、然り比倫非徳無主義無節操の文学者は忌み避くべきものなり、彼の文躰の麗利にして彼の句調の優美なるは返て彼の大危険物たるを示す。
 古人の大著を究むるにあり、自然に真理を探るにあり、自己を清ふして天来の思想に接するにあり、是れ余輩の信ずる大文学を得るの途なり、余輩は此大問題を悉せしと言はず、然も余輩の論ぜし所の全く無益ならざるを信ず。   〔以上、10・19〕
 
(202) DIARY OF A JAPANESE CONVERT
〔How I BECAME A CHRISTIAN のアメリカ版〕
      表紙
         1895(明治28)年刊
    189×130mm
 
 一八九六年(明治二九年) 三六歳
 
(205)    楽しき生涯
        (韻なき紀律なき一片の真情)
                      明治29年1月4日
                      『国民之友』277号
                      署名 鑑三
 
  我の諂ふべき人なし
  我の組すべき党派なし
  我の戴くべき僧侶なし
  我の維持すべき爵位なし
  我に事ふべきの神あり
 
  我に愛すべきの国あり
  我に救ふべきの人あり
  我に養ふべきの父母と妻子あり
 
  四囲の山何ぞ青き
(206)  加茂の水何ぞ清き
  空の星何ぞ高き
  朝の風何ぞ爽《さは》き
 
  一函の書に千古の智恵あり
  以て英雄と共に語るを得べし
  一茎の筆に奇異の力あり
  以て志を千載に述るを得べし
 
  我に友を容るゝの室あり
  我に情を綴るゝのペンあり
  炉辺団坐して時事を慨し
  異域書を飛して孤独を慰む
 
  翁は机に凭れ
  媼は針にあり
  婦は厨に急はしく
(207)  児は万歳を舞ふ
 
  感謝して日光を迎へ
  感謝して麁膳に対し
  感謝して天職を執り
  感謝して眠に就く
 
  生を得る何ぞ楽しき
  讃歌絶ゆる間なし
 
(208)    寒中の木の芽
                    明治29年2月22日
                    『国民之友』284号
                    署名 内村鑑三
 
一、春の枝に花あり
  夏の枝に葉あり
  秋の枝に果あり
  冬の枝に慰あり
 
二、花散りて後に
  葉落ちて後に
  果失せて後に
  芽は枝に顕はる
 
三、嗚呼憂に沈むものよ
  嗚呼不幸をかこつものよ
(209)  嗚呼冀望の失せしものよ
  春陽の期近し
 
四、春の枝に花あり
  夏の枝に葉あり
  秋の枝に果あり
  冬の枝に慰あり
 
(210)    西洋文明の心髄
                     明治29年7月25日・11月10日
                     『世界之日本』1・8号
                     署名 内村鑑三
 
 文明とは一国民又は一人種の物的智的并に心霊的啓発の総計を云ひ、西洋文明とは欧羅巴人種に因て得達せられし此啓発の合称なり。
 欧洲文明に一種異様の特質あり、是を古代の埃及希臘文明に対照して明かなり、是を東洋文明に比較して歴然たり、露人勿論英人と全く相均しからず、然れども彼の政治的思想に於て、宗教的観念に於て、人生哲学に於て、露人は英人の親戚にして支那人の他人なり。
 文明に三元素あり、人種的地質其一なり、智識的系統其二なり、心霊的同感其三なり、而して三者の交互的働作より異種の文明来る、蒙古人種に施すに殷周の学を以てし之に吹入するに孔孟の家長主義を以てしたれば支那の回顧的文明は出で来れり、アリヤン人種に東洋的思想を注入して印度文明あり、匈奴に欧洲的教育を施してコスート、バッティヤニの洪牙利国あり、文明は解し難きの顕象にあらず、其元を知て其末を量る易し。
 西洋文明の地質はアリヤン人種なり、其元は或は天山脈の西麓にありと云ひ、或はスカンヂナビヤ半島にありしと云ふ、歴史以前既に東は印度半島より西は氷島に至る迄の地を占領せし人種なり、今はケルト人種として愛蘭土ウエールスに存し、チユートン人種として北欧枢要の地を領し、ギリシヤ=ローマ人種として南欧を保ち、(211)スラープ人種として東欧に張り、イラン人種として波斯に古代の文明を保持し、印度人種として羈絆の恥辱に沈む、新大陸一千五百万方哩はアリヤン人種に新故郷を供し、南洋四百万方哩亦英領土となりて存す、亜非利加一千二百万方哩も今や全く其分割する所たらんとし、亜細亜の大半既に其有に帰し、残半亦終に永く其侵略を蒙らずして止まざるべし、世界の主権今や彼等の掌中にあるが如く、若し新勢力の天外より臨み来るありて彼等を抑圧するに非ざるよりは、余輩は彼等の膨脹力を限るに地球面上一つの防碍物あるを認むる能はず。
 アリヤン人種の特性は其強健なる抽象力にあり、彼等は物に接して物の理を探るの慾念を有し、蒙古人種の如く眼を僅かに事物の実用に留めず、又セム人種の如く直感を以て足れりとなさず、故に希臘に於ては早くより審美哲学となり、科学的造化説となり、合理的宗教となり、波斯に於ては始めて法律の念を発起し、善悪二元論の秘密に達せり、若し夫れ雪嶺の南、恒河の岸、叢蕀鬱林千里に亘る処に在らしめば、幽邃探り難き印度教となり、釈迦牟尼仏の大慈悲教となりて東亜六億万の衆生を済度せり、欧洲文明未だ生れざる先にアリヤン人種は已に蓋世の気運を示せり。
 アリヤン人種の抽象力に加ふるに彼等の服律の特性あるあり、彼等は自主独立を愛する民なるが故に人の臣下たるを好まざりし、然も彼等は懌んで律に服し法に膺り、秩序規条を守るの民として知られたり、セム人種の法律なるものは重に宗教律にして、希伯来人の摩西律の如き、亜拉此亜人のコーランの如き、今日吾人が称して法律となす物とは全く質を異にす、蒙古人種の法律なるものは治国平天下の為めに設けられし禁令制規の類に過ぎず、人と人との自然的関係を明かにし、天賦の権利を論じ、自由平等の大義を指示する法律に至りては是れアリヤン人種の特産物と称せざるべからず、波斯文明に早く已に此服律の性ありしは余輩の前に述べしが如し、然れ(212)ども羅馬人に由て其著しき発達を見るに至り、シイザー、ジヤスチニヤンの手を経由せし羅馬律なるものは今尚ほ無比の法典として文明世界に称揚せらる、武を以て謂はん乎、匈奴鉄勒は欧亜を征服するに至れり、然れどもタイバー河辺七丘の民にして終に太古の七大帝国を併呑するに至りし事は単に彼等の尚武性にのみ帰すべからず、兵は応変の具にして法は常治の道なり、アリヤン人種の服律性は世界の競争場裡に於ける最終の勝利者として彼等を指定せしが如し。
 以上は余輩が目してアリヤン人種の特質の最も顕著なるものとする所なり、而して西洋文明に此誤まるべからざるアリヤン性の存する事は何人も疑ふべからざる事実なり。
 而れども西洋文明はアリヤン文明と称すべからず、そはフイン人洪牙利人の如く蒙古人種にして西洋文明を継承発揚するものあれば、印度人波斯人の如くアリヤン人種にして東洋的文明に沈淪するものあればなり、テヘラン、イスパハンに崇火教の迷信の熾に行はるゝあれば、フィンランドのヘリシングフオースに欧洲屈指の大学の栄ふるあり、西欧の文化に比対しカース、アルメニヤの尚ほ半開明の迷夢を脱せざるあり、又希臘羅馬の如く、一時は彼等のアリヤン性の啓発に依り、宇内を風靡するに抵りしも、終に全く消滅に帰して国民としては今や全く跡を留めざるあり、アリヤン人種は優等人種たるに相違なし、然れども今日吾人の称する西洋文明なるものはアリヤン人種附随の文明と見做すべからざるは日を暗るよりも瞭かなり。
 
 智識的系統より謂へば西洋文明は希臘哲学の末流なり、希臘は太古の智識を綜合し、美術をバビロン、埃及に承け、文学をタイア、シドンに学び、ナイル河辺の科学を継ぎ、イウフラツト沿岸の技芸に習ひ、是に施すに彼(213)等の霊明を以てしたれば、古今未だ曾て其例を見ざる智識的開明は希臘人に依て世に出たり。
 希臘文明の上達に就ては今日吾人の殆んど推測し能はざるものあり、円満完備せるプラトーの哲学は今尚ほ西人の及ばざる所となり、アリストートルは理財学の師父として仰がるゝのみならず、彼のポリチックスは今日尚ほ模範的政治論として貴ばる、フイヂヤス、プラクステレスの美術は万世の亀鑑として存するなるべし、ゼノフホン、ヘロドータスの歴史は其哲理的観察に於て、其端厳高荘なる文躰に於て、後世是に優るの作は見るべからざらむ、エースキラスの悲劇、アリストフハニスの戯劇は十九世紀の智識の程度を以てするも尚ほ能く咀嚼歓享する難しと、遺伝論を以て有名なるフランシス、ガルトン氏の言に依れば、
  雅典人種の智能の平均は最も低く見積るも吾人今日の程度に二段を加へたるものならざるべからず、即ち吾人の彼等に於けるは亜非利加土蛮の今日の欧羅巴人に於けるの比例なり
と、六千方哩に足らざる小邦にして其智能の発達に於ては二千五百年の昔今日の英独を凌駕する事数等、文明の標準若し智能の発達にありとすれば吾人は未だ希臘人に及ばざる遠し。
 希臘文物に清爽新精気を流伝するが如きあり、是に接するは屍体を復活せしむる事なり、枯木に花を咲かしむる事なり、灰燼に点燈する事なり、頭脳の刺戟力としては天下是に優るもの他にあるなし。
 故に世界歴史に於て希臘思想の輸入は常に教化の復活振興を意味せり、歴山王の西亜征服は希臘文物の撒布を来し、忽ちにしてスリヤ、バビロンの沙漠は雅典文化の春を呈せり、死せる埃及すらも尚ほ此女巫の幻術に抗し難く、ポトレミー王統の下に新プラトーの学派を生み、五世紀間の長き其歴山市は世界智識の枢府たりき、下て十三世紀に至り、欧洲を其長き迷夢より喚起せしものは亦紀元以前の希臘文物なりき。
(214) ダンテの詩作、ジヨツトーの美術、コロムプスの探検、ルーテルの改革、共に所謂「古文復興」の余波と称せざるを得ず、欧洲社界の智識的一面は確かに希臘文教なり其風儀、美術、文学、政治、学術、技芸に於て古き小なる希臘は文明世界を教導しつゝあり。
 而れども西洋文明は希臘文明の継続者にあらず、両者自ら其本質と経歴とを異にす、前者は後者を吸収同化せしに止て之に併呑せられしに非ず、前者は異人種の相互的働作より来りし社界の有機的生長の結果にして、後者は天才に富める一人種の智能的得達に過ぎず、前者若し大明の蒼穹に懸り、年毎に光を加ふるに比すべくんば、後者は飛光閃々暗瞑の裡に金蛇を画く流星なり、希臘文明はアリヤン人種の開花時期として見るを得ぺし、其根底生命と称すべからず。
 希臘文明は智的文明なり、美術文学政治哲学の発達なり、其埃及文明の単に実用的たるに此して、其フィニシヤ文明の商売的たるに較べて遙に優等たりしには相違なし、然れども社界の保存力としては、人情の啓発力としては、甚だ微弱たるものなりし、美麗雅飾の念は其養生する所たるも公義仁慈の感は其奨励する所にあらず、文学的安逸は人の追求する所となりて、労働は賤められ犠牲的生涯は嘲けらるゝ至る、大学の崇拝は徳義の衰退を来たし、秀才世に跋扈して剛と直とは頭を擡げざるに及ぶ。
 故に希臘文明は希臘其物をも救ふ事能はざりき、雅典の文化其極に達して、其武は消尽し、其徳は減滅し、学者は文を操つるを知て民を導くを知らず、人生は戯劇と化して敬長端粛の念は全く迹を絶てり、智的文明は個人の修養を促がすと同時に其慾心を高め、其廉恥の念を鈍くし、自己を意ふこと切にして他と公衆とを念はざらしむ、国家と社界とを思はざる個人主義とは智的文明の特産なり、慾は学理的に弁護せられ、徳は哲学的に嘲弄せ(215)られ、社界各層各部を緊束するの力は失せて、其離散は免かるべからず、人類は智に於て別れ、情に於て合する者なり、希臘文明は智能の特達なり、分裂と破壊と死滅とは其特性と称せざるを得ず。
 希臘本国に於て然り、プトレミー王統の下の埃及に於て、十三世紀の伊太利に於て、革命以前の仏蘭西に於て、希臘文明は上流社界の開明者として現はれしも国民の精気を復活し、社界の成実を促がし、文明其物の保存と発達とを援くること能はざりし、希臘文明の復興は常に道徳の紊乱を以て終れり、無神論と優柔なる哲学とを産せり、常に識者の自由を讃して下民の抑圧無学を来たせり、所謂「文学復興」なるものは自由平等の復興を意味せず、大志想の産出を助けず、大発明大探見の原動力とならず、希臘文明は欧洲人の装飾たるに過ぎず、是に交際的儀式あり、文学的光彩あり、政治的秘訣あり、哲学的真理あり、然れども人と人との関係、人生の真意味、社界存生の土台的原理、………是れ人類が希臘人より学び得し者にあらず。
 故に西洋文明を其発芽時代に於て北方蕃人の手より救ひし者は希臘文明にあらざりし、独逸民族の開明馴化は希臘文明の力にあらず、ラフエル、アンジエローの美術は其模範を希臘に取りしも其理想は希臘人より来らず、ダンテの大作は模形を羅馬の古典に借りしも其精と神とは他の泉源に於て汲めり、コロンブスの発見は其立証をアリストートルの言に求めしも其主眼は希臘文明の拡張にあらざりし、ルーテルはプラトーの名を以て起たず、和蘭、瑞西に於ける自由の勃興は雅典哲学の促がせし者に非ず、英国の憲法政治は依るに希臘の古典を以てせず、新イングランドの建設者はソクラテスの崇拝家にあらず、ガリレオ、ニュートンの発見は科学以外の示導に依りし事を記憶せざるべからず、而して降てアダム、スミスの経済論に至るも、モルトケ将軍の軍備的設計に至るも、カント倫理説に至るも、ビクトル、ヒユーゴーの小説に至るも、西洋文明の最大主動力は希臘文明以外に求めざ(216)るべかず、希臘文明は希臘其物をさへ維持すること能はざりき、況んや欧洲と世界をや、西洋文明を以て単に智的文明の発達なりと信ずる者は皮相見の最も甚しきものと言はざるを得ず、智は之を使役するの意志を要す、智は智其物をも保存発育する能はず、無究の発達力は智性に存ぜずして霊性に在り。
 アリヤン文明にあらず、希臘文明にあらざる西洋文明は基督教文明なり、余輩の是を唱ふるは余輩の宗教的偏執に依るなからん事を欲す、余輩の提議に確実なる科学的理由と歴史的立証なかるべからず、又余輩は社交力として某督教を賛するに当て其基督教会の名称の下に西洋文明に加へし幾多の残害を忘るべからず、余輩は西洋歴史に顕はるゝ基督教土台教義の働作を究めて特種の神学説の弁護を試みざるべし、余輩は亦欧人の人種的特性と智識的系統を軽んずべからず、余輩の攻究は緻密と分別を要する多し。
 基督教に定義を附する難し、然れども余輩の称する其土台的教義なる者は之を指定するに難からず、基督は彼の総ての教訓を左の二大箇条に収めたり。
  第一、爾心を尽し意を尽し主なる爾の神を愛すべし。
  第二、己れの如く爾の隣人を愛すべし。
 前者は道徳の泉源を示し、後者は其実行を教ゆ、人生の最大目的は利を得るにあらず、智を楽むに非ずして神を愛し彼に事ふるにあり、而して神に事ふることは特種の礼式に参するにあらず、乳香没薬を捧ぐるに非ずして人類同胞を己れの如く愛するにあり、若し他の教義の尊戴履行すべきあれば是れ此二大箇条の実践を援けんが為めなり、若し礼典の守るべきあれば是れ此二大箇条の実行を翼せんが為めなり、純粋なる基督教なるものは此二(217)大箇条の遵命に外ならず、アタナシアスの三位一躰論も、グレゴリー法王の荘厳なる礼拝式も、ルーテル、カービンの自由神学説も此二大箇条の循行に外ならず。
 勿論希臘文学に敬天愛人の教訓を具へざるに非ず、アリヤン人種の本性に仁慈の念の存ぜざるに非ず、然れども人生の最大最終目的を以て此二大箇条の実成に定めしものは基督教を措て他にあるなし、希臘人は智を先にし、独逸民族は力を拝せしに、基督教は其信徒の崇拝物として謙譲温和なるナザレの耶※[魚+禾]基督を供したり、基督教に由てのみ欧羅人は平和の貴ぶべきを知れり、貧の卑むべからざるを知れり、慈悲の大功力を覚れり、人類の平等を学びたり、希臘人の理想は錬磨せる完全なる智能にありき、独逸民族の理想は強健なる我意の遂行にありき、基督信徒の理想は悪意なき心にあり、我意を殺して神意を充たすにあり、希臘人は学者を尊び、独逸民族は強者に服し、基督教徒は弱者と平民とを敬ひたり、基督教が欧洲社界に大変動を来せしは主として此自損的推察性に因れり。
 希臘文明を承継ぎし羅馬帝国は希臘と同一の理由を以て仆れたり、智学の欠乏の故に非ずして、詩歌彫工の衰頽の故にあらずして、政治的技倆の消滅の故に非ずして、徳性の腐蝕の故を以て、社交力の放脱の故を以て、家庭紊乱の故を以て上流少数の富と智識に対し下流大多数の貧と迷信の故を以て、奴隷制度の拡張の故を以て、黴毒蔓延の故を以て、公義心敗頽の故を以て、永久の世界王国として仰がれたる大なる羅馬は壊滅に帰したり、若し法典の倚るべきあれば世界は未だ曾て羅馬律の類を見ず、若し軍隊の頼むべきあれば武勇鍛錬羅馬兵の如きはあらじ、然れども其人生観の誤れるが故に其社界組織の弱きが故に、羅馬は自身を支ゆる能はず、其栄光を敗牆残礎に留めて世界の女主は過去の墳墓に葬られたり。
(218) 然れども羅馬の敗滅未だ全からざるに新社交力は已に世に臨めり、羅馬は憲法国を名として貴族制度を実行せり、自由平等を唱へて階級的社界を維持せり、法律面に人権の重きを述べて千万の奴隷を使役せり、詩文に勤倹の美徳をたゝへて万邦を挙て共奢侈の料に供したり、羅馬は其理想を実行すること能はずして亡びたり、而して羅馬の忌み嫌ひし基督教は羅馬の理想の実行者として顕はれぬ、社界下層の開発は実に基督教の来臨を以て※[日+方]まれり、其二大教義は同胞の虐待使役を許さず、奴隷解放は千八百年間に亘る基督教の事業なりき、然れども其端緒は已に羅馬時代に始まれり、下流多数の幸福を犠牲に供して上流少数の智と富とを致さん事は希臘文明の傾向なり、階級的制度を破壊し人類をして悉く上帝の前に同等たらしむる事は基督教の結果なり、基督教が羅馬の社界に投入せられてより世界歴史は全く新方向を取れり。  〔以上、7・25〕
 文明の字甚だ惑はし易し、文明は文教の進歩開発に限らず、英語の Civilization は能く文明の真意を表はせし語なり、シビリゼーシヨンは拉典語の Civis(市民)より来り、元 Civility に作れり、即ち市民各其貴任を重んじ義務を全ふするの状態を示せし語なり、即ち文明の民 Civis とは相依て以て市(Civitas,city)を作り得る資格を有する者を言ふなり、即ち共同一致に堪ゆる民を言ふなり、故に文明の民とは和合の民と称するを得べし、文明(Civilization)は共同(Association)と同意義なり、即ち之を近世社会学の語を以て言へば文明は完全なる社界組織なり、個性を有する人類が相依て以て作りし兄弟的団合を言ふなり。
 是れ文明の真意義たるは今日世に称する文明の恩沢なるものゝ起因を探て明瞭なるを得べし、文学とは他なし、人類相互思惟の交換より来りしものなり、人、孤立して文字の要あるなし、南洋の孤島より大文学は望むべからず、感を同類に頒たんと欲して音楽起る、無情の民に美曲の用なし、誰か法理を穴居の民に向て講ずる者あらん(219)や、理財の学は隠士に益なし、我独り電気の利用を了《さと》りたれとて何の為す所ぞある、孤独※[さんずい+氣]関に駕して走る者は竜馬に鞭て独り千里を走る者よりも愚なり、技芸文学科学の進歩は其起因を人類の同情性に覓めざるぺからず、進歩は和合と一致とにあり、亜非利加蛮奴の中に天才なきに非ず、而も其社界組織の不完全なるが故に、天英物を下す事あるも、彼の社界に彼を利用するの途なければ、彼の英と才とは放棄せられて社界は彼に依て進まず、彼にして米国に生れしめん乎、或はフレデリック、ダグラスとなりて合衆国の政治界に駆馳し、或はマテオとなりて玖瑪《キユバ》に革命の軍を指揮す、生を東洋の一隅に享けし近松門左衛門は僅かに偏境の一光明となりて終はんぬ、彼にしてダンテ、ボクカクシオの精を汲み、彼を待つにベーコン、ラレイの社界あらしめん乎、日本は世界の三大詩人に猶ほ一人を加へしならん、平賀源内の発明力ありしも彼を狂人視せし日本の社界は彼に依て少しも益せられず、天若しワツト、モースを吾人の中に下す事ありしも蒸気電信の大発明は吾人の中より出ざりしならん、完全なる社界は天才を識認利用承継する社界なり、進歩は天才の増長逐加に外ならず。
 宗教の人世を利するは功力ある社界の組成を助くるにあり、個性を有する人類の団合和親を促すにあり、慾心を排除し、名誉心を刪減し、献身奉公の念を起すにあり、慾は破壊的なり、真正の進歩は競争より来らず、民衆を利せんとするの公義心なり、真理を歓迎するの公共心なり、此二者に欠乏して進歩文明は望むべからず。
 而して余輩の見る処を以てすれば基督教は最も善く此社交力を供する者なり、其二大教義は能く人類の本性に訴へて其兄弟的団合を促す者なり、我邦の洋学者にしてドレーバー氏の『宗教と学術の衝突』なる書を読みし者は基督教を以て学術進歩の大障碍と見做す者多し、然れども少しく欧米社会の真相を※[虚+見]ふ者は西洋科学の進歩なる者は基督教を以て組成されし彼国社会の養成保育せし者なる事を発見するに難からじ、ドレーバー氏はバク(220)タット、アラハムブラに於ける回々教徒の学術進歩を嘆賞せり、然れども亜拉此亜人の学術が僅かに医数二学に痕跡を留むるに止て後世の承継する事なきに至りし理由は那辺に存するや、支那文明の回顧的にして常に転々歩を進むる事なきは亦其回顧的社界組織に帰せざるべからず、我に賀川玄悦ありて西洋医学に先ずる数十年、産科学上の大発見ありしと雖も、日本医学は彼に依て著しく進歩せしを聞かず、嫉妬と名誉心とは多くの学士と博士とをして真理の専売家たらしめ、己れ得て人に施さず、人得て恨み、他人の研究の結果を盗み来りて自己の発見と称して世に誇ることあり、名利を目的とする学問に永久の発達なし、真理は徳義的なり、宇宙は愛の発現なり、之を究めんとする者は愛と誠実とを以てせざるべからず、若し面白きが故に学ぶとならば理を探ると狐を狩ると何の異なる所ぞある、哲学究むべし、面白ければなりと、宗教講ずべし、面白ければなりと、学問は遊び事として従事さる(民の膏血より成りし国費を以て)、ニユートンは然かせざりしなり、ガリリオは然かせざりしなり。 真理と真理の神を愛する念なり、是れコペルニカスをして彼の時代の潮流に抗して天躰観察の業に従事せしめし最大動機なりし、フハラデーの電気学研究に慈善家の博愛的事業の如き観あり、米のジヨセフ、ヘンリー氏は七大発明を特許を得ずして世に公けにしたり、人或はダーウヰン、ヘッケル氏等の宗教を卻けて大科学家たるを見て科学の進歩に宗教の不必要を唱ふる者あり、然れども是れ挿枝に花の開くを見て根と幹との不用を論ずるの類なり、ダーウヰンに基督教的の遺伝と教育と社界とありしが故に彼の新学説は世に出しなり、彼の挙動は確かに基督教的君子の風彩を示し、彼は単に学理的に該教を解せざりしに止て其徳義と教訓とは彼の勉めて実行せし処なり。
 基督教は学者をして真理を社界に供するに吝ならざらしめしと同時に、亦社界をして之を享受するに敏から(221)しめたり、新真理は勿論抵抗なくして世に納れられす、宗教と学術の衝突は二者の性質上より避くべからざるものなり、然れども能く新科学の光輝に耐え、是を吸収同化して益々社界の生命力を強ふせしめし者は余輩は基督教を除て他に宗教あるを見ず、迷信の多少は人類の附着性なり、而も基督教徒は常に最も開導し易き民なり、不動に参し呑竜に詣する公衆に対し進化を説き啓発を論ずる事は殆んど絶望的事業なり、然れども羅馬に法王の足を接吻する徒と雖も基督教の宇宙観を有する者はラプラスの星雲説を聴て驚かず、ダーウヰンの生物源姶説を聴て終に首肯するに至る(彼等の宗教を放棄せずして)、迷信と共に破毀せらるゝ宗教を有する民は進歩発達の民に非ず、基督教は千九百年の長き学理の開発と共に其信仰を維持し来れり、ヒユームの懐疑説に遭ふて社界組織の乱紊を来たさず、ワット、スチープンソンの大発明を受けて未だ全く利慾の民と化せざる欧米社界の生命力は主として其二千年間尊信し来りし基督教の功効に起因せざるべからず。
 
 西洋文学なる者は判然たる基督教的文学なり、聖書其物が欧米人の最大文学なり、聖書は彼等の『国民の書』なり、年毎に数十百万部を売尽くして尚ほ欠乏を告ぐる者は聖書也、新著述の増加は未だ曾て聖書の需要を障げし事なし、女王ビクトリヤは英国民の基本也として此書を愛読し、宰相ビスマークは此書を懐にして陣頭に臨み、小説家オルター、スコットは此書の朗読を聴きながら死縟に就き、詩人ジヨアキン、ミラーは唯一の詩歌的標準として此書に頼り、評論家マコーレーの文躰は此書より来り、哲学者ハイネは基督教会に倦厭たりしも此書の絶大絶妙を叫んで止ざりき、聖書は王侯の宮殿に於て粛読され、樵夫の茅屋に於て嗜読さる、其改正訳成るや倫敦は四日にして二百万部を売り尽くし、紐育一書店すら数日にして三十六万五千部を消尽せり、シカゴは紐育よ(222)り三十六時間の郵送を待ち得ずして五本の電信線を貸切り新約聖書十壱万八千語を一夜の中に電受し、之を翌朝の二大新聞に載せて其読者の熱望に応ぜり、如何なる小説も如何なる詩編も如何なる政治論もまた曾て聖書の如き熱心熱読を呼びしものなし、英語の粋は其所謂「雅各《ヤコブ》王の聖書」にあり、独逸文学は路錫《ルーテル》の聖書翻訳を以て始まれりと称す、国語の性質は其聖書の翻訳を以て定まるとは西洋人の恒言なり、聖書の言語と句調とは深く西洋思想に浸染し、聖書に暗くして西洋文学を解するの難きは何人も実※[手偏+僉]する所なり。
 ダンテの大著作は模形を羅馬の古典に採りて中古時代の基督教的信仰を歌ひし者なり、バンヤンの「天路歴程」は別に美文麗句の賞すべきなしと雖も出版後三百年の今日尚ほ昔時の民寵を失はず、トマス、ケムピスの「基督の模範」は聖書に次ぐの経典として敬読せられ、彼を産出せし和蘭国が彼の為めに誇るは伊国が其ダンテの為めに誇るが如し、アウガスチンの「表白」なる書が彼の死後千五百年の今日尚ほ欧米人の特愛物たる事は彼等の基督教的好趣を知るに足る、ベムタム、スペンサーを出せし英国は尚ほオルヅヲス、テニソンに聴て歇まず、“In Memoriam“を誦し、“Excursion”を諳んじ、以て来生の冀望を楽しみ、心霊の不滅に安んず、カライルに猶太預言者の句調と烈火あり、ラスキンの作は基督信者の天然の観察なり、米のウヰッテヤは宗教的詩人を以て自ら任じ、其ロエルは清党時代の健想強思を伝へし者あり、基督教を解せざる者は西洋文学の心と髄とを探る能はず、之を沙翁の劇作に於てするも然り、ゲーテ、シルレルの著作に於てするも然り之を「ドンキホーテ」の如き戯作に於てするも亦然り、余輩は此事の余り明瞭に過て爰に之を論証するの無用なるを感ず。
 誰か基督教を離れて西洋美術を論ずる者ぞある、ジヨツトーは近世絵画の祖先として仰がる、彼は詩人ダンテの親友にして彼の神学と信仰とは大詩人の大著作に於て窺ひ知るを得べし、ミケル、アンジエロー彼自身が彫刻(223)家としてよりは宗教家として大なり、彼は師として改革家サボナローラを仰ぎ、彼の「摩西」に「ロレンゾー」に彼の激熱なる宗教的理想を刻めり、レムブラントの画作はカービン神学の美術的発表なりと称へ、トルバルトセンの「十二使徒」は八歳の幼児をして知らず識らずの中に其前に跪かしめたり、ハンデル天の美音に触れて「サムソン」「救主」の楽譜は世に出たり、バツヒ、モザート、メンデルゾンの楽も亦一として宗教的感動に由らざるはなし。
〔以上、11・10〕
 
(224)    問答二三
                     明治29年8月14日
                     『福音新報』59号
                     署名 内村鑑三
 
 客《かく》あり余に問ふに左《さ》の二三の事項を以てせり、而して余は爾か答へぬ。
 問、足下は日本の基督教は今より何年を期して復興すると考へらるゝや。
 答、教会は草木又は動物の如き自然物にあらず、草木は時期を定めて花を有ち菓《み》を結び、小児は或る時期を経過すれば成人して智力の啓発に至るべし、然れども教会は人為的なり、復興せんと欲せば明日、今日、之を復興するを得べし、而して其復興の方たるや、安楽椅子に倚り罹り、或は柔軟なる膝褥の上に跪き如何程祈祷叫号するも無益なり、暑を山上に避けながら眼下に群住する憐れなる数万の異教徒の為めに祈願を込めるも無益なり、教会復興の方策とは教導師先づ躬から身を捐つるにあり、彼の家族の安楽を犠牲に供するにあり、若しミツシヨンより金を貰ふ事が精神上彼と彼の教会の上に害ありと信ずれば直に之を絶つにあり、我れ饑ゆるとも可なり、我の妻子にして路頭に迷ふに至るも我は忍ばん、真理は我と我の家族より大なり、此決心を実行あらん乎、教会は直に復興し姶むべし、是れなからん乎、復興は世の終まで待つも来らざるべし。
 問、足下は尚ほ何時迄も著述に従事せれんとする乎(基督信徒に他人の仕事を気にする者多し)。
 答、余は基督の兵卒なり、兵卒は其時の来る迄は何をなすべきかを知らず、主の命ならん乎、余は高壇に立つ(225)事もあるべし、官海に身を投ずるやも計られず、基督信者は目的なき者なり、自から一の目的を定め、万障を排し、終生一徹其目的点に達せんと勉むるが如きは余の不信仰時代の行為なりき、主の命維れ徇ひ、今日は今日の業《げふ》を成す、是れ余の今日の生涯なり、余に計画なる者あることなし、何と愍《あはれ》むべき(羨むべき)生涯ならずや。
 問、他人に道を説くに如何なる方法を採るべきや。
 答、余は曾て如此き事を試みし事なし、否な試みて其甚だ馬鹿気切たる事を認めたれば全然之を放棄せり、道を行ふ事是れ道を説く事なり、殊更に勉めて他人を教化せんとするが如きは是を為す者の僭越を示し、無智無謀を証す、余は知る大陽は勉めて輝かざるを、星は吾人の教化を計て光を放たず、光からざるを得ざれば光るなり、我れ主に倚り、主我れに宿る時は我は勉めずして光を放つなり、而して世は我より出る主の光を見て我を信ぜずして主を信ずるに至る、是れ余の信ずる基督教的伝道なる者なり。
 客又問はず、余を辞して去る。
 
(226)    時勢の観察
                       明治29年8月15日
                       『国民之友』309号
                       著名 内村鑑三
 
(Facit indignatio versum.)
〔義憤は韻文を助く〕
 
    目次
 
 一、公徳と私徳の分離
 二、実益主義の国民
 三、自賛的国民
 四、国民の罪悪と其建築物
 五、方針の定らざる理由
 六、東洋の青年国
 七、俗吏論
 八、小なる日本
 
(227)   自序
 
 今や日本国民は上は博文侯より下は博文館主人に至る迄皆な悉く八方美人とは化しぬ、或は若し八方美人に非ずとするも少くとも四方美人又は半面美人たらざるはなし、此に於てか余輩の如き八方醜婦生の世に出るの必要は来りしなり、彼女の本職は病犬の如く何人にも何党派にも噛み付くにあり、梟の如き眼を以て暗中の穢れを探るにあり、彼女は敵とのみ争はず、知人とも朋友とも拳闘すべし、彼女は「愛国者」を嫌ひ「尊王家」を卑しむ、彼女の如きは実に「不敬事件」を醸すに足るべき人物なり。
 往時米国の批評家トロー氏トマス、カーライルの「過去現在」なる書を読て拍手大喝天を仰ぎて曰く「英国は仍ほ大なる未来を有す」と、英国を罵りしカーライルは大なり、然れどもカーライルを許し、カーライルに聴きし英国はカーライルより大なり、カーライルを有せし英国にして仍ほ大なる未来を有すとあらば八方醜婦生を有する日本も亦多少の冀望を有して可ならん。
 
    其一、公徳と私徳の分離
 
 酔枕美人膝、醒握天下権とは何時の頃何人に依て伝へられし福音かは知らねども日本国民が数百年来信じ来りし大教訓なるが如し、其実例を探らんと欲せば遠く延元平治の昔に溯るを要せず、明治の今日、明治廿九年の今日、吾人の目前に数個の好適例の供へらるゝあり。
 吾人之を云ふは日本人は必ずしも理論上如斯背理を許す者なりと云ふに非ず、新聞記者が其紙面に於て日本(228)仁義国論を唱ふる時は大に政治家たる者の私行を誡しむる事あり、国会議員が議場に潔白を装ふに際して公徳私徳の分離を歎ずる事あり、日本人は理屈上私徳の真価を知る、然れども実際上敗徳の政治家を許し、彼をして其位置を保たしめ、或は若し一時の恥辱に陥らしむる事あるも社会は躊躇せずして再び彼を迎へ、私徳の欠乏の故を以て彼の社会上の勢力を奪はず、寛大なるは実に日本人民なるかな。
 而して是れ政治家に於て然るのみならず、実業家に於て然り、文学者に於て然り、日本国に於ける大なる実業家とは能く金を儲ける人を謂ふなり、摩西の十誡を以て蓄財術の秘訣と信ぜしロートシルト第一世の如きは我国の実業界に於ては馬鹿者なり、官人に諂ぶるも可し、軍夫に重き頭分税を課するも問はず、能く短少時期に法律の明文に抵触せずして財産を作るものあれば彼は我国に於ける実業界の英雄なり、彼に新聞記者の賛辞あり、社界は彼が如き者を挫くの勇気と確信とを有せず。
 日本人の大なる文学者とは二十年の長き貧と孤独とを忍びしカーライルの如きを謂ふにあらず、又は「善人」たるを以て終生の目的となせしオルター、スコツトの如きを謂ふにあらず、若し能く文を綴り得れば之を妓楼に於て為すも可なり、文学者の敗徳は彼の著述の売上高に一つの影響を及ぼさず、品性は日本の文壇に於ては一文の価直なし。
 由是観之、四千万口の日本人は挙て皆政治家なる事を、彼等に二種の道徳あり、国家的道徳と称して政治上の道徳其一なり、個人的道徳と称して私行上の道徳其二なり、而して後者は前者の為めに問はれず、大なる経綸を蓄ふるものは友に薄きも可なり、情に鈍きも問はず、曰ふ「大丈夫天下の事を計る何ぞ私事を問はん耶」と。
 是れ実に驚くべき事実なり、吾人は外国に於ても二種道徳の区別なしと言はず、然れども試にグラッドストン(229)氏が国家危殆に逼るの時に際して汚穢売女を落籍せしと仮定せよ、彼の政略の如何に適切にして如何に高潔なるに関せず、彼は一日も英国に於ける彼の位置を保つべからざるは明瞭なり、亦た英国民が挙て彼の職責を問はんとするあれば、彼の汚行は詰問の大条目たるは論を待たず、政治家の私行を政治問題外に撤去するは日本国民の一特徴なるが如し。
 クロムウエルの大なりしは彼の強硬なる外交政略にあらずして彼の温和なる剛直なる私行にありし、ワシントンは勇なるよりは直なりし、米人は品性の高潔なりしが故に種々の政治上の失敗の中にリンコルンを信じたり、私行はモルトケ、ビスマークの大砲塁なりし、米国の或る鉄道会社に於て酒を嗜む機関士は如何なる技量を有するとも傭雇せざるが如きは今日の日本人の迚も信ずる事能はざる所なるべし。
 然れども吾人は問はんと欲す、公徳は私徳を離れて論じ得べき乎と、酔て美人の膝に枕する者は醒て天下の権を握り得べき乎と、酒間客と共に禽獣的談話を楽しむ者に天下の経綸を議するの資格ある乎と、人間とは政治的機能と個人的機能との配偶より成りし二元的動物なる乎と、吾人の哲学にして愆らずんばペルソナ(本身)は最も明白なるインデイヴイジユアル(個躰)なり、個人的偽善者は又政治上の偽善者なり、私行上の虚言家《うそつき》は亦政治上の虚言家なり、政治は人類唯一の職業に非ず、政治的に大なればとて必しも大なる人に非ず。
 人の真価を定むるに当て政治的に国家的に密にして私行的な個人的に疎なる日本人の観念を以て吾人は健全なるものと称ふるを得ず。
 私徳と公徳の分離は確信と実行との分離を意味す、而して信ぜざる事を行ひ、義を名として利(国と人とを問はず)を求むるものを吾人は称して偽善者と云ふなり。紙上に天下の大義を唱へ、内閣攻撃を専門とするも、情に鈍(230)く私節に脆き新聞記者は偽善者なり。著書に理想的人物を画き、自らは其理想を追はず、患者に薬を盛りながら自身不摂生を誇る医士の如き文学者は偽善者なり。勅語に低頭せざればとて売国奴の名を附して人を困しめながら、自身は売女の真像を以て充たされたる小説を嗜む学生は偽善者なり。国家の利益と称して私利を営む実業家は実業家に非ずして虚業家なり。隣邦の独立を扶植すると称して干戈を動かし、功成りし後は自国の強大のみを計て終に孱弱国をして立つ能はざるに至らしめし国民は偽善者なり。即ち偽善者とは面を被る役者なり、彼は英雄の真似をなす者なり、愛国者の人形なり、彼等は人生を歌舞伎座の舞台の如くに見做す者なり、彼等は皆悉く団十郎菊五郎たらんと望むものなり、議会と新聞紙とは彼等の仮面を顕はす所なり、嗚呼若しアスモヂユスの秘術ありて彼等の楽屋に入るを得るならば…………………………………………………………………
 
   正義は口にあり、
  政略は腹にあり、
  義は名の為に求め、
  名は利の為に貴ぶ。
 
  身は党則に縛られて自由を唱へ、
  心は利慾に駆られて愛国を叫ぶ、
  衆愚の声に震へ、
(231)   寡婦の涙に動かず.
 
   野の獣に断あり、
    彼に断なし、
   空の鳥に情あり、
    彼に情なし。
 
   風と共に飛び、
   草と共に靡き、
   偽善者の偽善者、
   奴隷の奴隷。
 
    其二、実益主義の国民
 
 瑞西の地理学者アルノルド、ギヨー氏曾て蒙古人種の特性を叙して曰く「彼等の脳髄は事物の実益を見るに敏にして抽象的真理の攻究に及ばず」と、即ち蒙古人種は事物の真価を定むるに当て実益上に現はるゝ其結果よりして其中に含容せらるゝ真理に依らずとなり、即ち蒙古人種は実利の民にして主義信仰の民に非ずとなり、即ち(232)蒙古人種は主義其物を評するにも其実益を以てして其原理を問はずとなり。
 余輩はギヨー氏の此観察の悉く当れりとは云はず、我等の祖先に主義の人ありし事は余輩の常に誇る所なり、楠正成は少くとも主義の人なりし、彼は勝敗の赴く所を知りながら義務と責任とを避けざりし、大石内蔵之助は主義の人なりし。彼は国法を犯しても彼の人生観を実行せり、西郷隆盛は主義の人なりし、彼は国家にまさりて正義を愛したり、然れども明治今日の日本人に至ては彼等は全く蒙古人種の本性を顕はす者と云はざるを得ず。
 見よ如何にして今日の日本人が宗教の真偽を評する乎を、彼等は言ふ基督教に真理なきに非ず、然れども是れ国家に害あれば排すべしと、曰く仏教に迷信多し、然れども国家に利益あれば保存奨励すべしと、即ち彼等は宗教問題を決するに於てすら之を治国平天下的即ち政治的に考へて抽象的探理的に究めず、而して是れ凡俗の依り頼む論法なるのみならず、其博士と哲学者とが此非科学的考究法を用ひて恬として恥づる所なきが如し。
 宗教哲学問題に於て然り、況や政治外交問題に於てをや、自由主義採るべし、之に実益あればなり、保守主義拡むべし、之れ国家の実益なればなりと、故に憲法国を以て誇る今日の日本に於て政治家なるものは皆悉く政治屋にして、国家を十露盤的に済度せんとする者のみ、一人のグローシヤス、ホッブスの如きありて、宇宙の真理に訴へ、恒星の配列に考へ、人性の原則に溯りて自由又は改進又は国権の大義を考究唱道する者なし、故に政党の軋轢なるものも利益と感情との軋轢にして主義の討議に非ず、大義の争論に非ず、故に議会の舌戦なるものは概ね党人の小戦闘《こぜりあひ》にして大義正論の発表に非ず。
 新聞記者は余輩に報じて曰ふ「日本の議会に未だ一人の雄弁家なし」と、是れ日本の政治家に大信仰を有する者なきの証に非ずして何ぞ、人、宇宙の大真理に動く時にのみ雄弁あり、十露盤玉的政治家より天火の洗礼は来(233)らず。
 之を近来の日本の外交に於て見よ、同一の実利主義の実行を見ん、何故に朝鮮は救はざるべきや、曰く朝鮮の独立は日本国の利益なればなりと、何故に支那を撃つべきや、曰く充分の勝算あればなりと、彼等は日清戦争を義戦なりと唱へり、而して余輩の如き馬鹿者ありて彼等の宣言を真面目に受け、余輩の※[しんにょう+回]らぬ欧文を綴り「日清戦争の義」を世界に訴ふるあれば、日本の政治家と新聞記者とは心密かに笑て曰ふ「善哉彼れ正直者よ」と、義戦とは名義なりとは彼等の智者が公言するを憚らざる所なり、故に戦勝て支那に屈辱を加ふるや、東洋の危殆如何程にまで迫るやを省みる事なく、全国民挙て戦勝会に忙はしく、ビールを傾くる何万本、牛を屠る何百頭、支那兵を倒すに野猪狩を為すが如きの念を以てせり、而して戦局を結んで戦捷国の位置に立つや、其主眼とせし隣邦の独立は措て問はざるが如く、新領土の開鑿、新市場の拡張は全国民の注意を奪ひ、偏に戦捷の利益を十二分に収めんとして汲々たり、義戦若し誠に実に義戦たらば何故に国家の存在を犠牲に供しても戦はざる、日本国民若し仁義の民たらば何故に同胞支那人の名誉を重んぜざる、何故に隣邦朝鮮国の誘導に勉めざる、余輩の愁歎は我が国民の真面目ならざるにあり、彼等が義を信ぜずして義を唱ふるにあり、彼等の隣邦に対する深切は口の先きに止て心よりせざるにあり、彼等の義侠心なるものゝ浅薄なるにあり、或人は肥後人を評して「逃る敵を追ふに妙を得たる武士なり」と曰へり、今日の日本人は皆悉く肥後人と化せしにあらざるなき乎!!!
 今日の日本人の真面目ならざるは其無数の新聞紙を以て徴すべし、新聞紙に自由主義、国権主義、改進主義、革新主義、実業主義あるは鳥に毛色、足軽に旗色あるが如し、而して彼等の或者は政府の失態を駁撃するを以て商売となし、或者は改進党巾着切を叫び、或者は自由党変節を呼ぶ、然れども能く彼等を解剖し見よ、自由党(234)必しも自由の大義を信ずるに非ず、改進党必しも改進の秘訣を守るに非ず、国権党必しも愛国者に非ず、自由党の変節は彼等の信ずる実益(国家并に自党の)より来り、非政府党の合同一致も又同じく実益より生ず、主義と原理との争に非ずして実益と之に伴ふ感情の争なれば彼等を代表する新聞紙は反対党を駁するを知て其他を知らず、日本人四千万は其無数の新聞紙に依て政府党并に非政府党の悪口を学ぶに止りて其他を学ばず、政府に過失あらんか、吾人は直に之を知るを得べし、責任派に過失あらん乎、「日々」「東京」の類は其摘発に甚だ敏なり、然れども日本人全躰に過失あらん乎、無私公平を以て誇る新聞紙は沈黙を守り、英国に「タイムス」あるが如く、罪悪は何処に潜伏するも筆鋒を向くるに憚からざるが如きは日本の新聞に於て未だ曾て見ざる所なり。
 そは他なし、社会は新聞屋の花主なればなり、伊藤内閣の憤怒を買ふも可なり、然れども輿論大明神の震怒に触るべからず、新聞紙の実益は社会の産商賛賞を得るにあり、故に彼等は日本を誉め立て、日本人を盛り立つるを以て本職となす、反対党を駁する是が為なり、主義の看板を掲げるも亦是が為なり。
 然り今日の日本の新聞記者は昔時の猶太の偽預言者の如し、彼等は浅く民の傷を癒し、平和なきに平和々々と呼ぶものなり、彼等の多くは政治的薮医者なり、彼等は奮輿剤と甘露水とのみを以て国難を治せんとする者なればなり、彼等に信仰なし、勇気なし、彼等は社会を詰責する能はず、故に社会の教導者としては一厘の価値なし。
 
    其三、自賛的国民
 
 個人の品性に於て自賛ほど見困しきものはなし、社界は自賛の人を信ぜず、君子は深く自賛を慎む、自賛は空乏浮虚の結果なり、深淵は躁がず、麒麟は角に肉有て猛き形を顕はさずとかや、自賛は謙遜の正反対なり、謙は(235)
黙し自賛は饒舌《しやべ》り、謙は公見を憚り、自賛は盛に新聞紙に広告す、自賛の人を認めよ、彼は高慢の人なり、虚栄を好む人なり、偽善者なり、パリサイ人は自賛の人なりし、ニーロ帝も自賛の人なりし、英碓に自賛なし、自賛は小人と悪魔の業なり。
 個人に於て然り、個人の集合躰たる会社又は institution に於ても亦然り、自賛する商会の広告を信ずる勿れ、そは彼等は偽物を鬻ぐものなればなり、自賛する学校に学ぶ勿れ、そは健全なる徳義心の其中に存する事なければなり、自賛する新聞紙を読む勿れ、そは彼等は虚偽を伝ふるものなればなり、広告と自賛とに依らずして米国の読書社会はホートンミフリン商会の出版物に劣作なきを知る、設立以来未だ曾て一回の新聞広告に顧りし事なきアマスト大学は米国に於ける最も高尚高潔なる学校として認めらる、「タイムス」新聞は自賛に依るに非ずして単に正直と勉強とに依て今日の勢力を致せり、今は自賛と広告の世なり、個人と会社と政治家と新聞記者と博士と商売人とは皆悉く広告を利用す、曰く処世の秘訣は先づ第一に名を売るにありと、曰く某は名を売りて已に財産を作れりと、嗚呼君子国、嗚呼仁義国、広目屋の繁昌を見よ、広告料の直上げを見よ、而して余輩に日本君子国の証跡を示せよ。
 自賛已に個人并に個人の集合躰に於て非徳なり、国家に於て亦然らざらん乎、吾人が常に支那人を賤しむは彼等の国家的自賛の故に非ずや、曰く大清国、曰く中華の民と、吾人は常に彼等の井底蛙的無識を嘲けり、彼等の誇大を笑ふに非ずや、外国人の眼よりすれば支那人の国自慢ほど見困しきものはなし、背後に豚尾を振りながら君子国を以て自ら気取る、若し打拳《げんこつ》一個を値するものあれば実に此国自慢の豚尾漢ならずや。
 支那人に於て然り、日本に於て然らざらん乎、支那人の国自慢にして賤しむべくんば日本人の国自慢にして敬(236)すべきの理あらん乎、国自慢若し愛国心ならば支那人は最も敬ふべき愛国者ならずや、然り余輩は信ず、支那人が国自慢の故を以て世界の侮慢を招きしが如く日本人も亦同一の理由に由て宇内の信望を失はんとしつゝある事を、 否な此に止らず、支那人の国自慢に敬すべき所あり、彼等は自国に於て誇るのみならず外国に於ても彼等の虚栄を張る事を憚からず、支那人は紐育に於ても倫動に於ても支那人なり、支那人は国民としての虚栄家たるのみならず、一個人として又然り、支那人の自賛に勇気あり確信あり。
 日本人の国自慢に至ては全く然らず、東京に於ける日本人の国自慢と倫動に於ける彼の国自慢とに大差別あり、東京に於て傲然として日本国の武と文とを賛賞する者は必しも伯林紐育に於て同一の賛賞を述べ立つる者に非ず、東京に於て宗教と教育との衝突を述べし愛国的哲学者は欧洲婦人の前に於て日本婦人の欠所を摘発せし者なりと、日本の「愛国者」に「家の前の痩犬」的の行為多きは余輩の屡々目撃せし処なり、愛国若し唱へ可くんば何ぞ之を内国同胞人の前に於てせずして外国異邦人の前に於てせざる、余輩の見ん事を欲する者は伯林に於て独逸文を以て出版されし「宗教と教育の衝突」論なり、曾てビーチヤー氏がリバープールに於て為せしが如き倫動に於ける日本人の英人駁撃演説なり、威張るならば外国に在て外国人の前に威張るべし、日本人の前に日本国を誇る、之をなん若し大和魂と称するならば大和魂とは如何に卑怯未練なるものぞ。
 余輩をして今少しく日本人の国自慢の理由を攻究せしめよ。
 一、日本人は愛国心に富むとの自慢は已に前に述べしが如く拙し、国民の愛国心に訴へて強迫的手段を以て鋳鉄会社を起し、然る後輦轂の下に百万の同胞を欺きし者も矢張り日本人なりし、国民拳て血と財とを供して隣邦(237)族なりし、外人の勝地買収を憤る「愛国者」あれば無数の大和女郎花は身を赤髯奴に任すあり、士重2信義1軽2末利1との東海散士の「我所思行」は余輩は横浜神戸等の貿易場に於て日本人の為めに高吟するを憚る。
 二、日本人は勤王心に渥しとの自慢も亦た訂正を要すべきものならずや、上古の事は措て問はず、藤原氏政権を握りてより以来日本人は実に王室に対して忠良なりし乎、成る程将門を誅するに貞盛ありしに相違なし、清盛の暴逆を挫くに義仲頼朝ありしと云はん、然れども過去八百年間の日本歴史は王朝衰退武臣跋扈の歴史ならずして何ぞや、日本人は北条氏九世の長き如何に王室に侮辱を加へしよ、五百の忠魂が天下の輿論に抗し千早の城に籠りし時は八十万人の日本人は賊臣高時の命の下に此等孤独の勤王家を圧伏せんと試みしに非ずや、楠氏の主従七百騎、七生の冀望を約して陣に臨むや、三十万の九州人は乱臣足利直義の旗下に隷属し、義人を湊川の辺に屠りしに非ずや、阿蘇山中に一群の忠士の潜むあれば少弐大友の輩を始めとして九州一円は乱臣賊士の巣窟と化せしに非ずや、而して下て慶応明治の王政復古の時に際するも、全国民の勤王は長征の失敗、鳥羽伏見の戦捷の後に※[日+方]まれり、勤王を以て諤々たる明治維新後の日本人は高山彦九郎をして失望の極自殺せしめ、平野次郎を倒し、僧月照を海に沈めし佐幕党の嗣子ならずや、湊川に詣し、四条畷に参し、楠公の名を繰り返すを以て宗教的義務の如くに信ずる今日の日本人の多くは楠公を殺せしものゝ子孫なる事を記臆せよ、高山彦九郎を賞し、平野次郎の為めに石碑を建つる者は伏見の戦争以前は勤王を口にする事をさへ懼れし者なる事を覚へよ、公平なる歴史的観察を以て王室に対する日本臣民の去就を照らし見よ、吾人は勤王を誇るを止めて不忠を恥て地に哭す可きに非ずや。
(238) 三、我が歴史の万邦の歴史に秀でゝ卓越なるに至ては余輩は之を悉く日本国民の忠勇にのみ帰する能はず、日本の歴史は多分は其地理学的天恵の為めなりと云はざるを得ず、陸半球の囲辺に横たはり、東方は一面の大洋にして外敵の防ぐべきなく、支那とは五百哩の海を距て相対し、朝鮮半島は我に此敵すべき国民を造るの地に非ず、此天賜の要害地に在て二千年間の独立は吾人の誇るべき偉業に非ず、欧洲諸強国の間に介し、西班牙に抗し、英吉利と争ひ、差々たる小邦を北海の辺に定めし和蘭人は彼等の独立を誇るも可なり、前面に墺の勁敵に当り、背後に露の侵略に会し、一週年の血戦の後終に敵国に降りし洪牙利人は敗衄の故を以て世界に賤しめられず、亦国民自らも自尊の念を失はずして今は再び昔時の自由と独立とを快復せり、日本人は未だ血を以て其自由独立を争ひし事なし、元寇を博多に破り(颶風の援助ありしと伝ふ)、遼東に豚尾漢を追ひし外は未だ対抗的に外敵と鋒を交へし事なし、而して日本人挫折の例も亦尠なからず、英、米、蘭三国の為めに馬関を撃破せられ、英艦に薩南の砲塁を砕かれしが如きは宜しく吾人を清醍すべき実例ならずや、未だ曾て英を卻けし事なく、未だ曾て仏を挫きし事なく、支那に硬にし露に軟なる日本人にして武勇は未だ以て誇るべきに非ず。
 故に余輩は言ふ国自慢を止めよと、誇るは実力の消費なり、孱弱の民も謙遜なるが故に勇なる事あり、勇猛の民も尊大の故を以て怯なる事あり、過る二年間戦捷会を以て酔倒れし日本人は今や実に誡心すべき時に非ずや。
 
    其四、国民の罪悪と其建築物
 
 不善を顕明の中になす者は人得て之を誅し、不善を幽暗の中になす者は鬼得て之を誅すとかや、然れども幽暗の不善にして終に顕はれざるは稀なり、民心の腐敗は其事業に於て顕はれ、待合茶屋の譎計は法廷の公判に上る。
(239) 英語にシンセリチー(Sincerity)なる語あり、誠実を意味す、拉典語の Sine(無し)Cera(蝋)の二字より成る、誠実とは「蝋の無き」事なり、一単語、能く其内に大教訓を含むあり。
 そは羅馬の末世に当て国民の道徳は支ふべからざる迄に堕落し、人は愛国を口にするも誠実を信ぜず、宗教は嘲弄され、徳義は政治家と新聞記者と商売人との玩弄物たるに及んで何事もゴマカシの世とはなりにき、而して羅馬政府は未だ其威権を保持しっゝありし間に、其軍隊は海の彼辺に大功を奏しつゝありし間に、其詩人は拉典民族の栄光を歌ひつゝありし間に、其政治家は猶も膨脹を画しつゝありし間に、腐敗は彼等の住する家屋に顕はれ、水道は水を洩らし、タイバーは河岸に溢れ、宮殿は外装に美なるも基礎に鞏固ならざるに至れり、そは他なし、羅馬の建築技師と大工と左官とは時の社界の腐敗に感染し、築くに目前の利を以てし、建つるに外面の美を以てせり、建築の麁漏となり、石材の麁悪となり、終には白蝋を以て欠損せる大理石を塗蔽し以て外観の美と堅とを装ふに至れり、此に於てか羅馬の市民は石屋を築かんとするに当て先づ請負大工と特約を結ぶに必ず無蝋の石材を用ふべきを以てするに至れり、是れより蝋なきことは誠実を意味するに至りしと云ふ、Sine cela、蝋の無き事、風雨に堪ゆる材、水力に堪ゆる鉄管、意義何ぞ深澳。
 人の建築物を示せよ、余輩は彼の人物を定めん、大坂城は大閤秀吉を表し、熊本城は加藤清正なり、国民の建築物を示せよ、余輩は其社会道徳を卜せん、霜星七百歳を消費してコロンの天主堂を建立せし独逸人の徳性に敬歎敬慕すべきあり、和蘭人の剛気と耐堪力とは彼等の驚くべき海水堤防に於て現はる、民心強固にして其土木事業は質素にして堅固なり、民心浮薄にして其土木事業は華美にして軟弱なり、両者の相互的関係は決して謬るべきに非ず。
(240) 此定規を以て今日の日本人の道徳的程度を測り見よ、其新聞紙は大膨脹を呼ぶに関せず、其愛国者は君子国を唱ふるに関せず、其教育家は西洋禽獣国を教ふるに関せず、其近来の建築物と土木事業とは民心の強固と正直と謙退とを示すものなる乎、横浜築港工事は日本は和蘭に優る君子国なる事を証するに足る乎、尾濃震災の結果に照らして明治の日本人は慶長明和の日本人に優る国民として誇り得る乎、洪水毎に洗ひ去らるゝ鉄道工事は鉄道会社其物の不義不徳を暴露するものならずや、国民の愛国心に訴へて成りし鋳鉄会社の運命は今日我邦に於て高唱せらるゝ愛国心なる者の怪物《ばけ》の皮を剥《む》きしものにあらずや、某鉄道会社の土方某が己れの築きし随道は危険を懼れて決して通過せざるとの実談は能く今日の社会道徳の真想を穿ちし善話ならずや、「白く塗りし墓」とは昔時猶太亜に於て偽善者を形容せし語なり、「ペンキを以て白く塗りし家」とは今日の日本人を評するに最も適当なる辞句ならずや、何事も速成を貴び、何事も外観を貴び、何事も今日を貴ぶ、真堅を思はず、子孫と未来とを慮からざるは我国今日の土木事業なり。
 
    其五、方針の定らざる理由
 
 現政府に確乎たる外交の方針なしとは反対党の首領より田舎の村会議員に至る迄斉しく唱ふる所なり、而して少しく時事を解する者にして此不平を懐かざる者あらんや、明治政府は内を制するに厳なり、能く新聞記者の筆を抑へ、能く在野政治家の口を箝し、能く学校教員の良心に制裁を加へ、能く学者の自由攻究(神道に関する)を妨げ、能く外教を排して本願寺を助け、能く鋳鉄会社を成立たしめ、能く軍夫請負人に利益を供したり、其他内治に関する其事績にして見るに足るべきもの甚だ尠なからず。
(241) 然れども其外交政治に於ては一として余輩の賛詞を呈するに足るぺきものあるを見ず、其以て天下に誇る所の改正条約なるものは未だ紙の上の成功に止て実行を見る場合に至らざれば、余輩平民の眼よりすれば未だ之に与かりし外交官の爵位を増進するの要あるを見ず、千島艦の事、朝鮮の事、遼東の事、台湾の事は皆以て現政府の外交的政策の好適例にして、余輩の如き素人の観察より以てするも、之をビスマーク、ヂスレリーの手際とは信ずる能はず。
 政府に外交の方針なし、然らば民間の政治家にして大方針を有する者ある耶、若しありとするも余輩は未だ之を聞かざるなり、無数の新聞紙と三百の代議士と四千万の「政治家」とは異口同音に政府の外交的方針を聞かん事を欲す、而して之を聴く能はずして憤慨し、政府を責むるに竜頭蛇尾を以てし、優柔不断を以てす、然して余輩の常に怪んで止まざる事は四千万顆の頭脳中一として確固たる方針を蓄ふる者なき事是なり、彼等は自己の空乏を政府に向て訴へつゝあるなり、彼等は彼等の常に賤視する彼等の政治家より彼等自身の有せざる大方針を求めつゝあるなり、オヽ新聞記者よ、余輩は先づ汝より聞かん事を欲す、如何にして朝鮮を露国の羈絆より救ひ出さん乎を、オヽ在野党の策士よ、余輩に告るに此一島国を以て独り欧洲の強と堅とに当るの途を以てせよ、何人も方針を求れども之を供する者は一人もあるなし、政府の方針を尋問すれば其男爵博士は答て云ふ、外交は秘密なり答弁の限りに非ずと、新聞記者に迫るに同一の問題を以てすれば彼は答へて曰ふ、「吾人は正義を唱ふるも方策を語らず」と、無言と沈黙とは今日の日本人総躰が金城鉄壁として頼む最上の隠れ場所ならずや、責任は内閣大臣のみならず今の日本人全躰が忌み避くる所ならずや、責任なしの栄華と権力とは今まの日本人が何人も追求する所ならずや、確固たる方針を表白する事は自己の弱点を敵に向て示す事と信ぜらるゝに非ずや、然り沈黙(242)……沈黙は今の日本の社界に於ては成功と金儲けの秘訣に非らずや、政府が方針を語らざるは(若し有とするも)今の日本人の常識に則りつゝあるに非ずや‥……………………………………………………………
 
 方針の定らざるは国民と其政治家の中に存する道徳念の欠乏に源因す、義にまさりて利を愛する者、天理にまさりて国を愛する者に大方針のあるべき筈なし、渠の利慾の人を認めよ、彼は新聞紙の物価表を見て彼の一身の方針を定め、紳士紳商の意嚮を窺ふて然る後に彼の方向を定む、彼に聖経を究むるの要なし、彼は永遠の策を講ぜず、彼は谷川の水の如し、抵抗の最も少き所に向て流る、週囲は彼を支配して、彼は週囲を化せず、彼は時の子供にして、境遇の傀儡なり、社界を導く者に非ずして、社界に引摺られつゝ行く者なり。
 主義の人は之に異なる、彼は教導を良心の声に求め、古代の人なればとて聖賢の教を軽せず、彼は勘定の人に非ずして信仰の人なり、彼の国家を愛するは正義と人類との為めなり、彼は海中に孤立する岩石の如し、満潮と共に進まず、乾潮と共に退かず、彼は恒星の示導に頼る船長の如し、海流気流を利用する事あるも船を流動躰の変幻に任かせず、彼は山を穿つ事あり、彼は大河を潜る事あり、寡婦の涙に動く事あるも衆愚の声に震へず、彼は時代の産にあらずして時代を作る者なり、彼の人世を通過するは彗星が長尾を率ひて暗空を過るが如し。
 利慾の人なり、主義の人なり、利慾の政治家なり、主義の政治家なり、前者は諸強国の意嚮を窺ふて然る後に彼の外交的政策を定む、恰も風と潮流とに船を放任する船長の如し、彼は弱国に対して硬にして強国に対して軟なり、恰かも砂岸を押し流し得るも岩石に当て挫ける谷川の如し、彼は輿論と共に動き、西洋熱の盛なる時は舞(243)蹈会を奨励し、保守主義の反動に会すれば外教徒を迫害す、彼は恰かも波上に浮ぶ鴎の如し、水と共に動き風と共に飛ぶ、船舶彼の如きに御せられて破砕沈没の恐れあり、国民彼が如きに導かれて麻痺睡眠を以て終らむ。
 仏のリシエリアは彼の類なりし、彼は第一に己れを愛し、己れの為めにブールボン皇統を愛し、ブールボン皇統の為めに仏国を愛せり、彼に主義の守るぺきなく、方針の依るべきなし、彼は勤王を名として諸侯の兵権を王室に収め、治国を名として自由教徒を圧せり、然れども人心の収攬すべきあれば彼は国母を監禁する事を憚らず、独逸国に於て自由教徒を援くるに吝ならず、彼は其弱きに乗じて隙を仏国従来の同盟国なる墺国と開き、其強きが故に敵国英国の好意を求めて止まざりき、彼は十八年の長き彼の無方針の政略を続けたり、彼は一時の栄誉と平和とを以て仏国民を眩惑せり、然れども惨憺たる革命に仏国を供へし者は彼なり、仏国百年の恥辱と流血とを招きし者は彼なり。
 主義の政治家は宇宙自然の理に基ゐて国是を定む、彼は地理に依て天の摂理を察し、歴史に依て国民の天職を考へ、時と所に処するに彼の良心と信仰を以てす、彼は国運を恒星の示導に繋ぎ、成否を上帝の聖意に任かす、彼は詩人の大なる者なり、理想を衆生の口に謳ふ、彼は画伯の秀なる者なり、雄志を地球面上に画く、彼は正義の為めに人類全鉢の幸福を欲し、人類の為めに国家を愛し、国家の為に凡て国家に属ける者を愛す、故に彼は争闘を慎しむも衝突を懼れず、公義を正すに敵の強弱を考へず。
 英のオリバー、コロムウエルは此種の政治家なりし、水の大洋を掩ふが如く正義の地上を掩はん事は彼の最大最終の目的なりし、彼は彼の愛する英国を以て上帝の定め玉ひし正義拡張の機関なりと信じたり、故に彼は大胆にも時の最強国なる西班牙に当り、ブレーク、モンテーグの猛将を指揮して其暴虐を挫きたり、彼はサボイ山民(244)の虐殺を憤り、強く大陸の政治に干渉し、仏国をして彼の政府に免を乞はしめたり、彼は北方の弱国瑞典を援け、該国に於ける仏と墺との干渉を卻けたり、僅々五年間に亘る彼の強硬政略は欧洲大陸を震動せしめたり、公平なる歴史家は曰ふ「コロムウエルは英国に於ける憲法政治の基礎を定め、其大膨脹の端緒を開けり」と、剣に血塗るに憚からず、国家の存在をも犠牲に供せしオリバー、コロムウエルは英国百年の栄光と平和とを来し、地球表面六分の一を英の領土に加ふるの開路者となりぬ。
 蘭のオレンジ公ウヰリヤムも亦此種の政治家なりし、摩西カルビンの美厳なる理想を彼の愛する和蘭に実成せん事は彼の雄大なる志望なりし、故に彼は平和の切望者なりしと雖ども国運の強いるあれば大責任を彼の双肩に担ふ事を辞せず、僅々一万二千方哩の小国を以て時の世界の半を有せし西班牙に叛き、国家を累卵の危きに置て懼れず、百敗に屈せず、千衄に撓まず、終にラインの下流沼沢の中に自由と博識の楽園を開きたり、後、雄を海上に英国と争ひ、日本に数倍する領土を東洋に得るに至りし和蘭共和国は此理想的政治家の雄図に出たり、余輩は曰ふ、蘭の美術家レムブラントの作は其政治家オレンジ公ウヰリヤムの事績の絶妙絶美なるに及ばずと。
 米のワシントンも此種の政治家なりし、彼の理想は自由の佳境を人類の為めに彼の愛する米国に於て開くにありし、独のモルトケも此種の政治家なりし(余輩は彼を政治家と呼ぷ)、彼の理想は彼の愛する独逸に強堅無比の武力を備へて欧洲の千戈を止めんとするにありき、其他チヤタム公なり、グラッドストン氏なり、彼等は皆今日我国に於て称する政略家にはあらざりしなり、試に彼等の草せし政治論を繙き見よ、牧師の説教を聞くの感あり、彼等は詩人なり、理想家なり、彼等は天と自然に訴へて人に聴かず、彼等に大方針大政策ありしは是が為めなり。
 我の西郷隆盛も此種の人なりし、彼の左の一言は如何に巨人的にして如何にコロムウエル的なりしよ、
(245) 是れ彼の内治外交に皓々雪よりも白き一定不易の方針ありし所謂なり、余輩は信ず、彼の政策は今の御利口連の嘲ける所たるに関せず、若し日本にして復興の時機に会するあれば、必ず志士の服膺する所と成らん事を、彼れ秋風と共に骨を故郷の山に埋めて以来、日本国は彼の称せる商売国とは成りぬ、商売国は客の足元を見て其商策を定む、朝変暮更は其免かるべからざる所、西郷の復活を待つに非れば日本国の未来に冀望なし。
 嗚呼信仰なき国民、嗚呼確信なき国民、嗚呼方針なき国民、嗚呼勇断なき国民、富士山よ、恥よ、我等は漂流の民と化しぬ、吉野は芳香を放つを止めよ、詩歌と理想は我等を去れり、我等は利益に依て歩み、不変の上に冀望を築かず。
 
    其六、東洋の青年国
 
 馬琴は彼の「夢想兵衝」に於て貪婪国少年国等の記事を載せたり、然れども可惜青年国を省きたれば余輩の拙を以て茲に彼の欠を補はんと欲す。
 海東国あり青年国と名く、男子生れて二十歳、少しく筆を廻すの技倆に加ふるにエマソン論集を少しく読み了れば、彼は新聞記者となりて時事に喙を容るゝを得べし、批評家となりて何れの著述をも評し得べし、或は何々山とか何々川とか地理学的の名称の下に小説を試みて多少の読者を得るに難からず、会ふて是と談ずれば眇たる未熟の一青年、然れども彼を紙上に窺へば中々の老先生なり。
 彼れ或は認可法律学校を卒業し、政談演説会に臨んで少しくシセロ、デモセニスの句調を学べば、彼は田舎に(246)帰りて政治家となるを得べし、彼の時事を口にする事は有志家の名称を彼に附与し、彼はブラキストンを知らずして英吉利法律を唱へ、ペンタムを読み得ずして頻りに最大幸福を叫ぶ、昼は時事を談じ、夜は宴席に連なり、政治学とは認可学校の三年を以て究め尽せりと信じ、日刊新聞と国民之友雑誌を読むの外は新たに大家の著書を購ふ事をなさず、奔走と称して貴重の時間を訪問と遊説との中に消費す。
 或は宣教師学校の予備科を卒業し、馬太伝と羅馬書とを少しく嚼《かじ》り得ば、彼は憚からずして地方伝道と出掛け、田舎の間暇《ひま》人と懶惰《なまけ》書生とを駆り集め、神だとか宇宙だとか、愛だとか救だとか、出鱈目次第を吹き散らし、以て伝道師を気取るあり、而して彼れ漸くにして外国宣教師の庇蔭を以て神学校を卒り得ば、彼は直に理想的ホームの組織に急はしく、社界改良を唱へ、教会政治を論じ、未だ牧すべきの信者もなきに牧会の聖職を語り、未だ己れの給料さへも碌々仕払へざる教会に向て慈善事業を要求す、齢未だ二十を越ゆる三四に過ざるに彼は眼鏡的青白顔の教導職となりて社界に現はる。
 壮士芝居あり、基督教徒青年会あり、自由党青年団あり、青年文学あり、何事も青々、社界は恰かも晩春の野の如し、青々然たり、緑々然たり。
 然れども彼等の青年時期は永くは続かざるなり、彼等の老衰するは甚だ速かなり、齢既に三十を越へ、少しく信用の位置を得れば、彼等の青年時期は終りしなり、彼の書生論に換へて彼の実務論あり、彼の理想に換へて彼の処世秘伝あり、彼は国民新聞を放棄して時事新報を購ふ、彼は勉学の習慣を忘却し、彼の思想的消化力は新聞紙の社説より固きものに堪ゆる能はざるに至る。
 見よ如何に彼等の多くが彼等の学校時代に於て学び得し欧羅巴語を忘れ去りしを、是れ彼等が智識の泉源に溯(247)りて渇を癒すの欲望を絶ちし所謂に非ずして何ぞ、故に此 metamorphossis(変形)を経過せし後の彼等は返て青年の敵となり、青年を嫌らひ、青年を卻け、青年と会食するをさへ深く謹慎するに至る、青年国の戯劇は実に斯の如く面白し。
 然れども青年国の華はドコ迄も青年なり、其政治家は之を知るが故に盛に彼等を利用す、曰く「諸君は未来の大臣なり」と、国会議員の当撰は青年の力に依らずして望むべからず、政治家の人望とは濁酒とビールとの灌漑に依て得たる壮士青年の評判と称して可ならむ。
 著述家と書店とは亦重もに青年を目的として商売をなす、小説は必ず小女の彩色画を挿まざるべからず、是れ青年を目的として出版するものなればなり、青年の嗜好に投ぜざる雑誌は失敗なり、著述は必ず青年の小使銭を標準として其価を定めざるべからず、而して偶々正直真面目なる著述家ありて、彼の畢生の思考と観察と実※[手偏+僉]とを草して世に公にするあれば、青年文学者は之を評して曰ふ「吾人は如斯好読物の吾人青年の為めに供せられしを喜ぶ」と、斯くて著述とは全く青年の為めにするものと信ぜられ、著者とは青年の幇間《たいこもち》の如くに認めらる、余輩は曾て東洋の青年国に於ける批評なるものを詠じて曰く、
  涙もて綴りし文はのぼりけり
    懶惰《なまけ》書生の筆のすさみに
青年国に於ける青年の勢力は其彼等を教育(?)すると称する学校に於て最も著しく顕はる、尊長主義とは彼等の口の先きの広告に止まり、実際は生徒尊拝主義を採る者の如し、学校の管理とは生徒の感情を綾釣る事を云ふなり、薫陶とは青年の血気を煽り立つる事を云ふなり、学生の求むる所は半睡半醒の中に学士の称号を得るにあ(248)り、学校の勉むる所は此涅槃的教授法を施さんとするにあり、故に業を授くるに必ず講義を以てせざるべからず、是れ労を全く教師に移して生徒をして単に受動的たらしめんが為めなり、生徒は質問反抗の特権を有して、教師に応答弁鮮の義務あり、生徒は常に攻戦的にして教師は常に守戦的なり、即ち引き出さるゝ者(拉典語の educatio)は教師にして生徒に非ず、青年国の学校に於ける薫陶鍛錬の徳沢は教師の受くる所にして生徒の受くる所にあらず。
 彼等の学校は智識の販売所にして生徒は其の御客様なり、厳格なる課業を強ひ、厳粛なる学則を施行せんとする学校は閉店の悲運を覚悟せざるべからず、見よ其教授課目の如何に完全にして如何に該博なるを、教課書は歴史に於てはギゾーの文明史、数学に於てはスミス、シヨベネーの作、物理に於てはガノー、ダニエルスを下るべからず、僅々五年間に亘る尋常中学の課程を経過すれば東西両洋の学理にして一として究めざるものなきが如し、余輩は知るギゾーの文明史は米国コロムビヤ大学に於る最終学年の歴史教課書なる事を、然るに東洋の青年国に於てはスウヰントンの訳読も未だ了らざるに直に此高等史論を繙くを得ぺし、歴史の事実は彼等の知らんと欲する所にあらず、ギゾーを読みしとの名義、是れ実に彼等の切望する所なり。
 殊に注意すぺきは彼等の授業時間の多きに関せず彼等に閑暇時間の多き事是なり、余輩の米国に於ける経験に依れば彼国高等普通学校に於る一週十六時間の課業は学生に日曜日を除くの外は殆んど時間の余裕なからしむ、然れども青年国に於ける一週三十時間の課業も尚ほ多分の安逸を生徒に供し、或は学業の外に月琴尺八の独稽古を嗜むあり、或は楊弓大弓の妙術を授かるあり、或は茶の湯花カルタに春宵の短きを歎つあり、下読みなしの課業とは青年国に於ける外は余輩の未だ曾て聞知せざる所なり。
(249) 青年の勢力此の如し、学校の御客様、文学界の主権、政治界の活動力、青年国の智識界思想界は全く青年の跋扈する所たり、然れども彼等の為めに固く門戸を鎖さる一社界あり、即ち金銭界是れなり、是れ老人の占領に帰して容易に青年の侵入を許さず、東洋の青年国に二種の階級あるのみ、即ち青年なり、老人なり、少年なし、中年なし、男子十二歳にして已に巻煙草を吹かし、三十歳にして早や已に勉学を放棄す、思想界は青年に属し、金銭界は老人に属す、一は他を省みず、後者は前者を賤しむ、青年に理想あるは彼は貧棒なるが故なり、彼の財嚢にして少しく満たされん乎、彼は已に老人界に籍を移せしなり、而して少しく彼れ青年の心事を穿ち見れば、彼が理想を唱へ、革新を絶叫するは彼が青年界を脱して老人界に受け納れられんとするの冀望に出るが如し、第一の維新とは元治慶応の青年が旨くも時の老人界を奪ひ取りし事を云ひ、第二の維新とは明治の青年が同一の掠奪を操り廻さんとするにあるが如し、羅馬の歴史は貴族と平民との争闘なりしと云ひ、未来の米国史は農民と製造業者との軋轢ならんと云ふ、東洋青年国の歴史は青年と老人との喧嘩にあらざるなき乎。
 嗚呼、欲しき者は老青年と青年らしき青年ならずや、齢九十歳になんなんとするグラッドストン氏が尚ほ毎朝二時間づゝの希?古典学の攻究を怠らざるが如きは実に老青年の好標本ならずや、米国ウヰリヤムス大学前教頭マーク、ホップキンス氏は曰へり「余の理想的学生とは十五分間の長き針頭に視線を蒐め得る者なり」と、学生とは一心不乱に学問をする者を云ふなり、尺八月琴に注意を奪はるゝ者を云ふに非ず。トマス、カーライル曰く「汝樽を被て二十五歳に至れ」と、哲人ダイオゼニスに傚て黙思修養せよとの謂なり、人は語れば失ひ、述れば消る者なり、沈黙に優る貯蓄法のあるなし、何故に青年国に浮虚軽薄の人多き乎、彼等は聞くに遅くして饒舌るに早く、蓄ふるに短くして散ずるを急ぎ、内部の富饒にまさりて外形の虚栄を求むればなり。
(250) 青年の跋扈は国家進運の善兆なりと云ふを得ず、昔は預言者イザヤ猶大国衰退の状を伸べて曰く、
  民は互に相虐げ、各人その隣人を虐げ、童子は老たる者に向ひて高ぶらん、
と、チエルシー哲人も亦曰へり。
  革新を励まし之を指導する者は如何なる人物ぞ、法学生なり、新聞記者なり、熱頭未熟の狂信家なり、或は劇烈なる破産せる絶望家なり、彼等は衆の不平に乗じて彼等を煽り立つ、是れ吾人の注意を惹くべき今の時の現象にあらずや、青年……時には童子……が人世の時事に関して斯の如き勢力を得るに至りし事は未だ曾てあらざるあり、Senior(長老)なる語を以て Lord(尊者)に応用せし時代に此すれば如何なる変化ぞ。
 
    其七、俗吏論
 
 俗吏或は属吏に作る、普通判任以下の官吏を指すの語なり、然れども余輩の目的は学術的に博物学的に俗吏の特質を研究するにあれば余輩は此通俗的定義に満足する能はず。
 何者をか俗吏と云ふ、此の緊要なる問題に答へんとするに当て余輩は先づ其実例を拳ぐるの便と益とを感ず。
 余輩の知人に二十年の長き某県庁に奉職する属官某あり、余輩は曾て久闊の後彼に会し、彼の健康を祝すると同時に、彼に問ふに彼の斯くも長く彼の位置を保ち得るの秘訣を知らん事を以てせり、時に彼は口を啓て曰へり、
  君知らずや、人は苦味を嫌ふと同時に亦珍味玉食の持長に堪へざる事を、鰻魚に高味ありと雖ども誰か三度の糧として蒲焼に堪ゆる者あらんや、吾人が米を常食となして終生倦厭たる事なきは之に特別の珍香住味なきが故なり、余の如きも亦然り、今や全庁前の県庁にあらず、県知事去り、課長去り、同僚去り、残るは余(251)と、余輩は彼に聞て始て属官の真相を悟り、俗吏の定義は稍や明瞭なるを得たり。
 俗吏とは何ぞや、意志のなき人なり、或は意志を使用せざる人なり、或は意志を抑圧する人なり、余輩は俗吏は獣類なりと曰はず、そは獣に虎あり獅子ありて人類の有するが如き撰択的意志を有せざるも其我慾を貫徹する点に至ては全く俗吏と性質を異にすればなり、俗吏は人なり、人の機械と変ぜし者なり、人に躰力あり、智能あり、意志あり、第三者を取り除きて見よ、彼は甘味もなき苦味もなき者となりて亦最も便利なる機械と変ずるなり。
 馬は車を曳くに便なり、然れども吾人は令して馬を使役する能はず、馬を馭するは独り歩むより難し、※[さんずい+氣]関車は能く重量列車を運ぶ、然れども彼は無感にして指導に便ならず、然れども人力車に至りては便の便なるものなり、一命の下に市街の屈曲を走り、乗者は眠りながらにして其目的地に達するを得べし。
 天工の中に人間ほど便利なる機械あるなし、故に大政治家が世に出て政治機関を運転せんとするに当て、属吏の制度を定め、万物の長たる人間を捕へ来り、彼を馴致するに彼の自由意志の圧抑を以てし、終に彼をして唯々諾々馬車馬の最も便なる者とならしむるに至りし事は決して怪むに足らざるなり。
 俗吏若し人間の機械と化せし者ならば余輩は彼の地理学的配布を探ぐるに当て必しも下等判任官の区域内に於てのみせざるべし、機械的人物の存する処是れ俗吏の存する所なり、彼の官等を問はず、彼の爵位を論ぜず、犬の天賦の自由意志を利用せずして、草の風に靡くが如く、小舟の波に漂ふが如く、週囲と頭上の威力に全く支配せらるゝ者あれば、彼は余輩の定義に従て俗吏なり、又俗吏は必しも官海に游泳するを要せず、夫の自由人権を(252)唱道する在野の党派に於ても、自己の意見を党議に任かし、或は衆愚の諤々の為めに良心の志嚮を変ずる者の如きは皆な俗吏として博物学的階級を定むべきものなり、或は定価を約して御味方新聞の社説を請負ふの類、或は仏教徒を後楯として教育と宗教の衝突を叫ぶの哲学者、或は其属する教会の為めに信仰を左右せらるゝ基督教の牧師伝道師、是等も亦俗吏の標札を附して社界の博物場裡に陳列すべき者なり。
 爰に於て読者は余輩に問て曰はん「若し汝の定義にして異ならんには日本国民何人が俗吏ならざらん乎」と。
 然り、余輩も時には斯く信ぜざるに非ず、或人曾てトマス カーライルに問ふに英国民に関する彼の判断を以てせしに、カ氏は之に答へて「二千七百万、多分は是れ白痴なり」と曰へり、余輩も時には日本国民を評して「四千万、多分は是れ俗吏なり」と言まほしき事なきにあらず。
 然れども余輩の観察は多くの意志を有する人物を日本臣民の中に見るなり、夫の山間僻陬の地に蓬舎を結ぶ農夫を見よ、岩を砕き蕪を排し、荊棘の中に小楽園を造り、仰ぐに日光と膏雨あり、頼るに両腕の筋肉あり、自然に生命の糧を得て、心に上天の黙示に接し、童花《すみれ》は彼の為めに笑ひ、野鳥は彼の為めに弾ず、瀑布断壁に轟て濁思を圧し、渓水山谷を洗ふて信念清し、政治を聞かず、社説を読まず、株式に手を出さず、貴族の門に出入せずして独立生涯を営む者は蜻※[虫+廷]洲中未だ全く跡を絶たず。
 嗚呼読者よ、汝も何ぞ其一人たらざる、知らずや男子一人の正直なる労働は八人の家族を養ひ得べしとは普通の計算なる事を、此地球小なりと雖ども五千二百万方哩の地面を有す、是を其人口十五億に分配するも尚ほ一人に付き二十三エークル(二万七千六百坪余)の容地あるに非ずや、太陽は未だ輝て止まざるなり、春雨秋霧の尚ほ未だ吾人の労働を援くるあり、吾人若し俗吏たらざらんと欲すれば能ふなり、自由は北海の野に存す、何ぞ行て(253)耕さゞる、海面至る所束縛なし、汝の断を待つや久し、若し又筆に自活を求めんとする乎、必しも書記生又は新聞屋の丁稚となるの必要はなかるぺし、社界の真意に訴へて見よ、社界は未だ全く誠実を見捨てず、汝の正直なる声は聞かるゝなり(遅かれ早かれ)、ゴマカシと虚飾とを歇め汝の真実を語りて見よ、社界は終に汝の直筆の為めに酬るに至らん。
 尚ほ一つの面白き問題の余輩の為めに残るあり、即ち俗吏は社会の必要物なる乎と。
 若し然らば自然は特別に意志なき人間を造りしものを、意志を有せざる人とては政治家の之を製造するにあらざれば自然に存在せざるを見れば俗吏の存在は国家生存の為めに必要にはあらざるが如し。
 然り君子の政治に俗吏の必要なし、エリサベス女王、オリバー、コロムウエル、上杉鷹山の如き政治家を見よ、彼等は俗吏の要を感ぜざりき、感ぜざりしのみならず彼等は其下僚に自由と意志とを供したり、自由の念は責任の念に伴ふて来る、故に責任を知るの政治家は必ず自由を重んず、我の天賦の特技を認め、我を信じて我に我の天職を授くる者は我に自由を供する者なり、此時に当て我に妾宅の穿鑿を命ずる者なし、我は人間として指導せらるゝにして幇間として使役さるゝに非ず、如斯政府に於ては何人も総理大臣(彼の責任区域内に於て)なり、余輩は言ふ、余輩の理想的政府は俗吏の存在せざる政府なりと、即ち俗吏の存在し得ざる政府なりと。
 
    其八、小なる日本
 
 人は皆斉しく日本の大を称ふ、余輩は惟り其小を唱へんと欲す。
 日本の小は其面積に於て見ん、吾人の称する大日本なるものは亜細亜の東岸に横たはる十五万方哩余の群島よ(254)り成る、是れ世界の陸面の三百五十分の一にして、畳一畳に対する婦人の糸絡《いとまき》一枚の比例なり、或は日本にして若し国民之友大ならん乎、世界は十八畳の坐敷にして其陸面は尚ほ五畳敷の広さに亘る、英国は世界の六分の一を有して日本の六十倍なり、霧国は世界の七分の一を有して日本の五十倍なり、米国合衆国は三百六十万方哩を有して日本の二十四倍なり、吾人の誇る大日本なる者は米の一州アイダホたるに過ぎず、其テキサスは殆んど二個の日本帝国を容るに足る。
 日本の小は其地理学上の位置に於て見ん、陸地の中心は倫敦巴里の間に有り、若し倫敦を以て中心点となし、地球の週囲九十度を以て半径となし、円環を地球面上に画くあれば是を陸水の二半球に分つを得べし、而して日本の位置は陸半球の辺端に在て世界の田舎の位置にあり、日本の如き不便なる位置を保つ者は濠洲と南亜米利加の南端を除ては地球面上他にあるなし。
 日本の小は其耕地の少きに於て見ん、耕耘に堪ゆる面積とては其一割五分に過ず、是を仏蘭西の六割一分に此し、英吉利の六割四分に較ぶれば我彼の優劣自から明かなり、ミシシビ河の水盤は日本の七倍に亘る一面の膏田なり、支那の黄土、露西亜の黒壌は共に日本に数倍するの沃壌なり、加奈太に日本に十倍するの豊饒無比の麦畑あり、恒河《ガンジス》の両岸は日本に三倍するの膏腴の地なり、生産的日本は世界の陸面二千分の一に過ぎず、是れ実に小なる葡萄牙の面積にして其産出力は伊太利の半に及ばず。
 日本の小は亦其土性の比較的に痩瘠たるに於て見ん、其稲茎の矮小なる是を印度柴混の産に比すれば僅に三分一に過ず、我の麦穂を以て米濠の産を評する者は寸を以て尺を量る者なり、亜米利加の蜀黍畑に叢林の如き観あり、牛豚其内に没して是を索る難し、灌木大の印度産の棉花草は矮々たる我の産を恥かしむるに足る、甘蔗は(255)竹林の如きを称ふなり、我の中国の産の如きは艸茎の稍大なる者たるに過ず、日本にフアーム(Farm)なし、日本の田畑は皆悉く菜園たるに過ず。
 日本人は皆悉く富士山を以て誇る、言不得名不知《イヒモカネナツケモシラニ》と、勿論其世界の名山の一なるには相違なけれども、是に優る名嶽大山あるを知らざるが如き感を懐くに至ては蛙的の譏は免れざるべし、見よ布哇は我の四国に及ばざる小邦なるに一万三千尺以上(富士よりも高き事一千尺)の秀峰二個を有するに非ずや、メキシコのオリザバは一万七千尺の高きに聳へて火山の最も威厳ある者と称せらる、各二万尺の高きに達して三対の偉観を呈する南米のコトパキシ、シンボラゾ、アンチサナは吾人の想像に上りし事ありや、ダージリングよりガウリサンカーを望むにあらざれば大山の何たる乎は知るを得じ、人は彼の崇拝物より大なる能はず、富士よりも高きを望むにあらざれば日本人の志望は知るべきのみ。
 日本に大河なし、其三大河なる者は黄河揚子江の細支流たるに過ず、坂東太郎何物ぞ、僅かに小※[舟+可]を浮ぶるに足るのみ、騎して之を渡るを得べし、泳で之を横ぎるを得べし、松江《スンガリー》の小なるも尚ほ能く満洲一円の通路たるを得べし、ラインは大河たらざるも永く国防として存す、日本人は未だ川を知らず、アマゾンの洋々として東に流るゝ所、ミシシピの混々として海に注ぐ所、是れ木曾に誇り、天竜を讃する者の予想の外にあり。
 国の大小は共有する港湾の広狭を以て量るぺしとは地理学の恒則なり、大国に大港あり、小国に小港あり、上海は支那の広を示し、紐育は米国の大を証す、横浜の規模の小なるは其小邦の関門なるを表白し、神戸の狭隘なるは其一地方の輸出港なるを露はす、函館は北海の投錨地たるに過ず、長崎は西海の避難所たるのみ、河口を溯る百哩にしてカルカッタは大船を泊するに足る、桑港に世界の艦隊を悉く泊し得るの余地あり、英吉利は(256)小なれども其倫敦は世界の中心市場たり、白耳義の小なるも其アントウエルプは今や大陸の関門たらんとす、香港桑港に檣林の壮観を見て横浜に寂寞たる埠頭に接する日本人の心さびしさよ。
 小なる日本国、小なる日本人、彼の躰格は蝦夷土人の躰格にも及ばず、支那人の鈍愚なるも其筋骨は吾人の羨むべきあり、北英山民の側に立たしめば日本人は侏儒なり、コサック兵に鉄筋石骨の如きあり。
 矮小なる必しも悲しむに足らず、ナポレオンは偉漢にあらず、而も彼の志望は寰宇を呑めり、小国なる必しも歎ずるに足らず、我の北海道大なる希臘は最大文明を世界に供せり、悲歎は思想の狭隘なるにあり、慾望の拘制せらるゝにあり、理想の低きにあり、目的の卑しきにあり。
 余輩の観を以てすれば太閤秀吉を除くの外は日本国に抱世界的の英雄なし、征服すべき邦土の尽きし故を以て流涕せし歴山王の如き、欧亜各半を斫り従へて尚ほ不満を訴へしチモールの如きは日本人中未だ曾て其類を見ず、日本人の最大志望は東洋の盟主たらんと欲するにあり、未だ馬を恒河に飲まし、旗を此麻拉亜巓頭に建てんとするの図謀を懐きし者なし、矧んや亜を呑み欧を併するの大斗に於てをや、日本人の天下とは絶東一連鎖の島嶼を称ふに過ず、是に覇たるを得ば心願此に尽き、小心翼々とか称して蝸牛殻大の邦土内に踞まり、瑣細の情実に搦まれるを以て志士の本分を尽せし如くに信ず。
 政治家然り、美術家と文学者とも亦此島国的根性を去る能はず、日本に特種の美術ありと言はん、其極美と絶妙とは世界の賞讃を博するに足るとせん、然れども日本の美術に偉大なる事なし、能く桃殻に猫や狸を刻み得るも、能く大理石を錬りて「摩西」「ローレンゾ」を彫み出すの富想なし、画けば花下の美人なり、山端の明月なり、皇天怒て霹靂山嶽を撃つの状は彼等の撰ぶ画題にあらず。
(257) 日本の詩歌は彼等の有する自然にも及ばず、其富士山を詠ぜしものを見るに庭園の築山として是を詠ぜしものに過ずして、其威厳と畏敬とは彼等の詩感に触れし事なきが如し、八景を石山の秋月に求めて、美を淡海の怒濤に探らず、須磨明石の小景は万句を呼んで、鳴戸に詩神の声を開かず、其浅間と霧島とは惰夫の痴情を動かすに止て、阿蘇に地中の錬火を窺はず、優柔ならざれば悲憤、東山の軟花と志賀の漣、自然を皮相に解して其心髄に入らず。
 美術的に小なり、詩歌的に小なり、倫理的に宗教的に小ならざるを得んや。 彼等は日本的倫理を称す、如何なる背理ぞ、世に英国的数理なるものありや、仏国的究理なるものあるを聞かず、宇宙の理なればこそ是を理と称ふなれ、理に翳すに日本なる形容詞を以てす、此事已に狭を示し小を表はす。
 モハメットの妄誕なるも彼の宗義を以て万邦の服膺すべき教理なりとし、是を世界の民に課するを以て彼の天職なりと信ぜしに非や、彼は説くに亜拉此亜的倫理を以てせず、宇内を亜拉比亜化せん事は彼の図謀にあらざりしや明かなり、彼は上帝の最上最終の預言者として世に出たり、宜なり彼の領土は一時は文明世界の半に亘り、今尚ほ二億の生霊は西は大西洋の沿岸より東は直隷湾頭迄彼の教徒として算せらるゝや。
 所謂日本的倫理なる者は世に称する西洋倫理なる者に対する反抗主義たるに止まらざれば、其功果たる全く消極的なり、其敵愾心となりて国民を刺撃するや、支那兵を満州の野に破り得しも、仁慈の情となりて隣邦の独立を扶植するに適せず、慷と慨とを学生に伝へて謙と遜とを養ふ難し、外教を排するに力ありて仏教の腐敗を防止するに足らず。
 日本に富豪尠からず、而も一人の大慈善家を見ず、一人のスチープン、ジラードの如きありて巨資を孤児の(258)教育に投ぜし者あるを聞かず、一人のジヨンス、ホップキンスありて独力大学を設けし者あるを知らず、一人のリビングストンありて異邦の民の為めに鞠躬尽瘁せし者あるを見ず、一人のジヨン、ハワードありて監獄改良に従事せし者あるを耳にせず、二百万の人口を有する東京の大都市に於て幾千の慈善事業は行はれつゝありや、盲唖院は官立の者唯一個あるのみ、慈善癲狂院あるなし、養老院あるなし、白痴院あるなし、産科院あるなし、余輩は都城に抵る毎に、其兵営の巍々たるを見て、其官庁の※[山/將]々たるに接して、其貴紳の壮屋を眺めて、是に比対する博愛的事業の欠乏を意ふて未だ曾て愁息せざるはなし。
 年々五千万円の巨額を其慈善事業の為に消費する倫敦は禽獣国の首府なりと云ふを得ず、該事業の完成を以て世界に名高き米国のヒラデルヒヤは特別に米国的倫理を以て誇らず、然るに仁義国を以て騒々愕々たる日本にして其博愛事業に一として見るに足るべき者なし、仁、誠に仁なる乎、或は広告的の仁なる乎。
 小なる倫理、小なる宗教。
 迷信にあらざれば冷淡、導くに政略的牧師僧侶あれば、従ふに妄信的信徒あり、其神学者と教導師とは信仰の功力を讃し、是を衆人に勧むる事あるも自身は信仰だも信ずる能はず、宗教を以て僅に社界改良の具なりと信じ、治国平天下の機関なりと惟ふ、故に宗教の繁盛とは俗世界の賛同を意味し、政治家の奨励を云ふに過ず、宇宙的の性を有すべき宗教を国家的範囲内に圧縮し、終に宗教をして宗教の用を全くなさしめざるに至る、彼等の海外伝道なる者の成功せざるは是が為めなり、深沈防圧すべからざる人類的同情より来りし者に非ずして、或は政治家の策略を助けんが為め、或は国家的虚栄を張らんが為めにする者多ければなり、日本的倫理なし、日本的宗教あるぺからず、真理は国家より大なり、真理に順服せずして真理を利用する者は終に真理の捨児となる、日本人(259)は宗教を利用する事を勉めて是に帰服する事を卑しむ、彼等の宗教的観念に貧乏なるは全く是が為めなり。
 
 叙し来り叙し去れば日本の誇るべき者は何物か、吾人の有するものにして世界の有せざるものあるなく、吾人の有せざる者にして世界の有する者多し、日本は猶太印度の如く大宗教を世界に供せず、日本は希臘の如く大文学を有せず、日本は羅馬の如き大法典を編みし事なし、日本は西班牙の如き大探見家を生まず、日本は和蘭の如く人権自由の為めに戦はず、日本は白露《ペルー》の如き高山を有せず、日本に露西亜の如き大平原なし、嗚呼吾人は何を以てか誇らむ、東山の美妓を以てか、東海の八方美人を以てか。
       *   *   *
   這裡赤心元可重 由来藍面亦何憎
           村上仏山の西瓜に題する句
 
(260)    世界の日本
                    明治29年9月10日
                    『世界之日本』4号
                    著名 内村鑑三
 
 世界の日本、嗚呼吾人の是を識認する何ぞ遅き、日本は世界の一部分にして世界は日本の支部にあらず、日本の山脈は支那山系の延長なり、日本の海岸を洗ふ潮流は印度洋より来る、西此利亜よりする寒風は日本の西北諸州を侵し、日本の鳥類は柬察加と此律賓群島との間に往来す、日本の魚類に印度洋産の者多く、亦地中海の産に類似する事甚だ邇し、日本は孤立して地球面上に存在せず、世界を知らずして日本を知らんとするは体を知らずして眼や鼻を知らんとするの類なり、如何に専門の世の中なればとて如此は愚の極、無智の極と言はざるを得ず。
 余輩は勿論国粋保存の必要を知る、眼を嘆賞するの余り鼻の用を省みざる者は余輩の排斥して止まざる所なり、眼の長所あり、鼻の長所あり、然れども我れ鼻なればとて全体悉く鼻の如くなるべしと云ふ、是れ今日世に称する愛国者の僻論ならずや。
 能く鼻を保存し、能く其※[鼻+臭]神経を鋭からしめ、能く完全無欠の鼻となして交際社界に誇らんとする者は必しも耳鼻専門医の治療を要せず、身体の健全は鼻の健康を保つ為めの大必要なり、鼻のみに注意し、是を捻り、是に膏らし、是れのみに全心全力を込むれば終には世界無二の鼻たり得べしと信ずる粧扮子は交際社界の嘲弄物(261)ならずや.
 余輩が世界の日本を叫ぶの理由は実に明々白々日光を睹るよりも瞭かなる此一事を我が同胞の頭脳に印刻せんが為めなり、即ち鼻は体の一部分にして体は鼻の属にあらざる事是れなり、即ち日本は世界の日本にして世界は日本の属にあらざる事是れなり、而して余輩の是をなすは我が邦人が此一事を忘るゝが故に多くの馬鹿らしき迷信に陥り、多くの危険なる妄想を懐き、終には多くの不利と失敗とを招きし事と信ずればなり、昔しは地球は宇宙の中真なりと信ぜられ、此説に抗する者あれば不信不敬不遜の者として迫害されにき、然るにコパルニカス出て旧説の誤謬を正し、ケプラー、ガリリオ是に和して以来、ニユートンの引力発見となり、ハーシェルの天躰配列論となりて、今は小学生徒も地球中真説の愚と昧とを笑ふに至れり、愛国論の運命も亦同一の者たらざるを得んや。
 我国は世界の中真なり、世界は我国に貢を払ふ為めに造られしなり、我に世界を併呑するの武勇あり、金甌無欠の君子国「地膏腴、生嘉禾、人勇敢、長干戈、衣食足、貨財多」と、如此が愛国論なり、視線を一途に我が邦土に蒐め、其美を嘆じ、其長を讃して止まざる、是れ忠臣なり、愛国者なり。
 然れども真理は愛国心より大なり、我れ如何に威張りたればとて黒潮の進行を堰《あへ》き難し、世界に大勢なるものあり、四千万人の愛国心も此大勢を如何ともする能はず、是れ人為に出し者にあらざればなり、英人之を作らず、仏人露人之を生まず、是れ天の定めし進化の恒則にして、国家の盛衰は単に此大勢に循ふと逆ふとに因るなり。
 余輩は必しも世に所謂世界主義を採る者なりと曰はず、世界主義と云ひ、国家主義と云ひ、若し公平に、学術的に、哲理的に、之を攻究すれば其帰する処は一なり、正当に解釈すれば体の為めにする衛生論は鼻の為めにす(262)る衛生論なり、余輩は世界主義を取る者なり、日本を世界の一部分として見ればなり、余輩は国家論者なり、日本の利益発達を正当自然の観察点より攻究せんと欲する者なればなり。
 宇宙の真理は余輩に教へて曰ふ、善く全躰に尽す部分は栄ふと、善き葉とは全植物の養汁を悉く汲収消尽する葉を云ふにあらずして、善く植生全鉢の発育を助くる者を云ふなり、善き手とは全体の血液を呼び、人をして手あるを知て体あるを知らしめざる手を云ふにあらず、善き手は善く全躰の衛養働作を助け、躰をして手ある事を知らしめざる者を云ふなり、善き市民とは一国の財貨を挙げて其快楽の料に供し、国家を挙げて名利を博するの具となす政事家博士新聞記者の類を云ふに非ず、善き市民とは自己あるを忘れ、国家あるを知て自己あるを知らざる献身奉公の士を云ふなり、善き大なる国家とは最も多く人類進歩の為めに尽し、世界の改造を助け、大真理と大思想と大事業とを最も多く全世界に寄附せし者を云ふなり、印度帝国と濠洲と加奈太とを以て英国の富を称する者は※[衍/心]まれり、英国の富は其シエークスピヤにあり、其ベーコンとニュートンとにあり、其ハワードの監獄改良事業にあり、其ウヰルバーフホースの奴隷廃止運動にあり、独逸の勢力を唱ふるに其五十万の常備軍を以てする者は※[衍/心]まれり、其強と大とは其ルーテルの偉業に依れり、其ゲーテとシルレルとフイヒテとシエリングとの感化力に依れり、希臘は我の北海道に及ばざる小邦なりと雖ども其プラトーとフイディアスとアリストートルを以て今尚ほ文明世界を教導しつゝあり、一時は欧亜の半を斫り従へしチモールの帝国は今何処にある、曾て東欧の大半を奪略し、武威を欧亜の間に振ひし土耳古は今は東方の病人として纔に気息淹々たるのみ、一時は世界の女主と呼ばれ、欧の最良部分に加ふるに米の殆んど全部を以てし、銀鉱金穴数ふるに遑なく、世界の貴金属を悉く邦内に収めてんとの希図を懐きし西班牙は、一大思想を人類に供せし事なく、一大博愛的事業を以て宇内を(263)益せず、只武勇維れ誇り、奪取維れ恣にし、自由の進路を妨げ、思惟の発達を害せり、故に今や国運衰滅の域に迫り、其全力を挙て尚ほ一領土の反民をも鎮撫する能はず、十七世期の最大強国は今は傲慢国敗頽の実例を以て世界の国民を警誡しつゝあり、仏国の武勇の故を以て其国疆をライン河以西に拡張するを得ざりき、国民の歴史を鞫め見よ、其強弱栄辱は大略其世界に供せし人情的事業の多寡に比例す。
 世界の日本は世界を益する事を以て其目的となさゞるべからず、平和と進歩と開明とを供する事を以て其方針となさゞるべからず、口に君子国を唱へて心にミル、ベンタムの粗暴なる優勝劣敗主義を保持するが如き偽善を脱却せざるぺからず、義戦を宣言して掠奪を実行するが如き形迹を根絶せざるべからず、世界の日本たるは大なる日本たる事にして、大なる日本たる事は先づ倫理的に思想的に大なる事なり、兵を増すは是が為めならざるべからず、武に誇らんが為めに非ずして義を強ひんが為めなり、富を増すは是が為めならざるべからず、快楽を増進せんが為めに非ずして真理の発揚を補はんが為めなり。
 世界の日本は其天職を認む、日本は世界の小部分(世界陸面の三百五十分の一なり)なりと雖も世界は日本なくして其発育開明の域に達する能はず、日本は世界に対して重大なる責任を背負ひ、世界は将さに日本に負ふ所甚だ多からんとす、東西両洋の間に介し、西を招き、東を弁じ、前者の暴を和らげ、後者の迷を解き、二者の配合を計るは日本を措て他に国民あるを知らず、余輩は信ず泰東六億の生民は我等日本人の蹴起活動を促しつゝありと、日本は亜細亜の正門を守るの国なり、我等の一挙一動は亜細亜の威厳に関する事多し。
 大国の民は利を語らず、ペルクリスは彼の雅典の民に富を説かず、英国の大は七十億の財を消費して欧洲を那帝の圧制より救ひ出せし後其戦勝の権利を悉く放棄せし時にありき、富は義務の実行に伴ふて来るを要す、(264)富の為めにする富は富にして富にあらず、徳は得なり、日本の最大利益は勉めて其天職を全ふするにあり、地を遼東に略して返て之を失ひ、利を朝鮮に求めて返て之を他邦に譲る 日本の為めにして日本は不利を招き、世界の為めにして日本は始めて実利を博するを得べし、余輩は世界の日本を唱へて日本の実益を謀らんと欲す、日本の日本又は日本の世界を叫んで俗論に媚ぶるを耻とす。
  因に日ふ、二三の新聞紙は余を以て此雑誌の主筆の一人の如くに報ず、然れども是れ誤伝なり、余は余自身の意見を寄贈するに止て其方針編輯には一切関係なし。
 
(265)    永生の冀望
                      明治29年11月13日
                      『福音新報』72号
                      署名 内村鑑三
 
 孔子曰く「我未だ生を知らず焉んぞ死を知らん」と 基督曰く「明日の事を憂ひ慮《わづら》ふなかれ、明日は明日の事を思ひわづらへ、一日の苦労は一日にて足れり」と、フランクリン曰く、「一つの今日は二つの明日に勝りて価値あり」と、フヰリツプベイレー曰く「吾人の歳月は功業の多寡を以て算すべし、年数を以てすべからず、……最も高く感ぜし人、最も多く働らきし人が最も永く生きし人なり」と。
 人の生涯は今日にありて将来にあらず、未来に着念して現世を怠る人は縦令未来あるにもせよ未来を承続《うけつぐ》べき人にあらず、義務は吾人の指南車なり、縦令地獄の底に抵《いた》るも義務の指命は我れ逆はじ、善の善たると義の義たるとは未来の存すると存せざるとに些少の関係を有せず、死後の快楽の為めに今世に於て労するは老後の快楽の為めに其子を教育すると等しく利己的現金的の精神なり、義の為めにせん乎、霊魂全滅に帰するも可なり、神も未来をも失ふも可なり、粉身砕骨斯国と斯民とに尽さんとするに当て吾人に寸毫の私心あるべからず、天国と謂ひ、極楽と謂ひ、是の吾人が吾人に死して利慾の羈絆より脱せし時の状にあらずや、生命を保全せんとする者は之を矢ひ、義の為めに之を失ふものは之を得べし、後世《ごせい》の娯楽に与からんと欲するものは即ち後生を失ふものなり、先づ捐つるにあらざれば得べからず、此生然り、永生亦た然らむ。
(266) 由て知る純粋倫理に未来観念の必要なきを 未来を知るの要は吾人の勇行を励ますにあり吾人の思惟を高むるにあり、吾人の渋苦を慰むるにあり。
 宗教は審美的倫理なり、単に勇なるのみならず高尚に勇ならしむ、単に忍ぶのみならず喜ばしく思はしむ、未来観念は大美術家の手に作りし絵画楽譜の如きもの、是を生活の必要品と称すべからざるも是を有して吾人の態度に温雅なるあり、吾人の行為に優麗なるあり、吾人の思惟に美麗なるあり、否な是に止まらずして美術は勇より勇を生み、壮をして益々壮ならしむ、マーセーユの楽譜始めて仏の南方に響きて全国挙て革命の民となれり、国歌陣頭に奏せられてウォータローの戦場は英軍の有に帰せり、路錫曰へるあり「余の笛声響き渡て悪魔去て跡を留めず」と、敵を殪すは銃にあり、勇を鼓するは楽にあり、美術亦た重要なる交戦具なり。
 吾人に尚ほ来るべき理想的生涯ありと仮想せよ、完全無欠の社界、吾人の聖望を尽く充たさるべき処、私慾の痕跡だも留めざる処、水の大洋を淹ふが如く正義の盈ち満ち渡る処、涙の悉く乾く処、哀み突き痛みあることなき処、生命の水の流るゝ処、生命の樹の実る処、凡て潔からざる者、凡て憎むべきもの凡て不義なるもの、凡て※[言+荒の異体字]《いつはり》をいふ者の入ることを得ざる処、即ち詩人ゲーテの言ひし「歓、斯に満ち、望斯に成る処、」……如斯……世界の猶ほ今世《こんせい》の後に在るありて吾人は是に入るの特権を有し、亦た是に入るの途の吾人に供へられしと仮想せよ、斯くの如きの感念が如何に吾人の思想を高尚美厳ならしめ、死を軽ぜしめ、義を重ぜしめ、善をなすに敏ならしめ、悪を避くるに捷ならしめ、涙を拭はしめ、愁苦を散ぜしむる乎は余輩の言を待ずして明かなり、宜なる哉アイサック、ワットの言や、
   若し天上の名簿の録に
(267)   我は懼怖に別を告げて
   流るゝ涙を拭はん。
 然り人類に供せられし奨励慰籍の内に未来存在の応承の如きはあらじ、若し之を詩人の夢想に成りしものとするも其人世を益せしこと実に大《おほひ》なり。
 然れども来世問題は其実利を離れて攻究するを要す 是れを勧善懲悪の用に供し、善を励ますに其賞を以てし、悪を誡しむるに其罰を以てするが故に未来感念は愚者凡夫の畏懼信頼する所となり、義人傑士の軽慢放棄する所となるなり、余輩は是れを宇宙の真理として探究するを要す、善悪自然の結果として攻察するを要す、余輩は自身其賞に与からんが為めに其存在を確めんと欲するにあらずして、余輩に勝る正義の士にして今世に於て彼等の受くぺき応報に与からざりし者の未来の有様を知らんと欲するなり、即ち此世の事実は以て天道是乎非乎の大問題を決するに足らざるが故に、余輩は神の義を建んが為めに造化の隠語を解せんが為めに、今世以外に生霊の存在を索《さぐ》るものなり、而して余輩の探求の結果として、之を人世の冀望に徴して、之を偉人の証言に照して之を自然の働作に問ふて、之を造主の本性に質して、之を吾人の自覚に証して、生は現世に止まらずして今世以後尚ほ来世あるを解《さと》り、吾人の称して死となすものは死滅の謂にあらずして単に変世なるを知らば、吾人の此世に処するに当て、吾人の厄を忍ぶに際して、吾人に大影響を来すは理の最も睹易きものなり。
 未来永生の冀望は実に現世の不調より発するなり、此れ佞姦の士が忠臣義士視さるゝの世なり、此れ高節の士が害迫窘逐さるゝ世なり、壮士百年の計図を懐《いだ》ひて死し、衰老死を望んで至らず、節婦薄命にして奸人寿を以て(268)終る、時に媚びて成り、世に抗して敗る、志士は身を殺して仁を為し、懦夫は命を存して仁に与かる、播くものは刈るものにあらず、賞罰褒貶の配布不公平たる現世の如きはあらじ、「天道不知是歟非、陰雲漠々日光微」、「世上毀誉軽似塵、人間百事偽乎真」、木戸松菊は斯く歎ぜり、西郷南洲は斯く疑へり、静思人世を考ふるものにして何人が此感なからざらんや。
 天道は是なり、非なる能はず、然れども現世は非なり、吾人の懐疑は現世の是ならざるが故にして天道の非なるに因らず、爰に於て未来感念の哲学的必要は起る也、現世は吾人存在の一部分として解するを得べし、其全部として解する能はず、吾人の未来を知らんとするは吾人の思惟に責められてなり。
 未来存せざれば可し、吾人は憂を呑んで忍ばん、然れども実に存せん乎、吾人の之を知らんと欲する切なり、断腸の思ひを以て永遠の訣別を告げし吾人の愛するものは今猶ほ存する乎、義者義の為めに死して義の冠を頂く処ある乎、鬱勃として吾人の胸中に湧き来る聖思聖想の行はるべき処ある乎、佞人の棲息し得ざる世界ある乎、人世の冀望実に之より大なるはなし。
 然れども吾人は実験的に其存在を確かむる能はず、吾人|推度《インフエレンシヤル》的にのみ之を知るを得るなり、余輩は巨人に抵《いた》りて問はん、余輩は自然の指示を受けん、余輩は神の本性に質さん、余輩は余輩の自覚に問はん、吾人は死して死せざる乎、永生の冀望は頼むべき乎と。
 
(269)    『警世雑著』
                      明治29年12月5日刊
                      単行本
                      署名 内村鑑三著
 初版表紙188×128mm
 
(270)    警世雑著目次〔本巻収録頁を示す〕
 
時勢の観察…………………………二二六
 其一、公徳と私徳の分離………………………二二七
 其二、実益主義と国民…………………………二三一
 其三、自賛的国民………………………………二三四
 其四、国民の罪悪と其建築物………………二三八
 其五、方針の定らざる理由…………………二四〇
 其六、東洋の青年国……………………………二四五
 其七、俗吏論…………………………………………二五〇
 其八、小なる日本…………………………………二五三
流竄録(一)
 白痴の教育………………………………………五二
流竄録(二)
 新英洲学校…………………………………………七一
流竄録(三)
 亜米利加土人の教育…………………………‥九五
何故に大文学は出ざる乎………………………一七七
如何にして大文学を得ん乎………………………一八五
日建上人を論ず(一)……………………………………一一三
 同     (二)………………………………………一一七
 同     (三)…………………………………一二四
 同     (四)………………………………………一三一
 
(271)〔『警世雑著』改阪明治33年5月14日刊〕
 
   改版に附する自序
 
 曾て京都に在り、社会は余を要せず、余も亦た社会を要せず、余は独り鴨河の水と語り、叡山の巌と談ぜし頃、忽ちにして朝鮮京城に於ける日本人大失態の飛報に接す、余は悲憤措く能はず、決然筆を執て起ち、叱呵鞭撻一週日にて成りしものを『時勢の観察』と為す、後之を『国民之友』雑誌に掲ぐるを得て少しく天下の賛同を惹きたりき。
 余は余の思想を綴るの文を有せず、余は唯だ余の見し事、聞きし事の有の儘を語り得るのみ、『流竄録』亦た此類なり、余の当時の日記より謄写せしものに過ぎず。
 一の高貴なる目的を有せざりし日清戦争の結果として我国に大文学の出でん事の到底望むべからざるは戦争当時の余の宿論なりし、果して不幸にも余の予言は適中して戦後五ケ年の今日に至るも大文学は未だ邦人の中に出でざるなり、高貴なる思想は高貴なる行動に伴ふて来るべきものなり、日清戦争は大軍艦を作つて大文学を作らざりし、是れ其不義の戦争なりし十分なる証明なり。
 日蓮上人は日本に於ける平民的宗教家の一人なり、余は彼の勇胆を愛し、堅信を慕ふ者、京都在留中彼の伝記を探つて大に余の孤独を慰むるを得たりき、此篇を作るに方て余の友人なる牧師吉岡弘毅氏は尠からざる援助を余に与へられたり、茲に記して氏の厚意を謝す。
(272) 此書元と民友社の手に在りしもの、今その著者の手に帰れるを見て、余は母が其愛子を再び懐にするの感なき能はず、児は疑もなく豚児ならん、然れども愛子は永く他人の手に托すべからざるなり、余は窃に彼の再生を祝し聊か感を述ぶること爾り。
  明治三十三年五月端午の日 東京市外角筈村に於て 内村鑑三
 
(273)    寡婦の除夜
                       明治29年12月25日
                       『福音新報』78号
                       署名 内村鑑三
 
  月清し、星白し、
  霜深し、夜寒し、
  家貧し、友尠し、
  歳尽て人帰らず、
 
  思は走る西の海
  涙《なんだ》は凍る威海湾
  南の島に船出せし
  恋しき人の迹ゆかし
 
  人には春の晴衣
  軍《いくさ》功《いさほ》の祝酒
(274)  我には仮りの 侘住《わびずまひ》
  独り手向《たむく》る閼伽の水
 
  我空しふして人は充つ
  我衰へて国栄ふ
  貞を冥土の夫に尽し
  節を戦後の国に全ふす
 
  月清し星白し、
  霜深し夜寒し、
  家貧し、友尠し、
  歳尽きて人帰らず。
 
(275)    史学の研究
                  明治28−29年〔推定〕
                  『小憤慨録』上(明治31年刊)より
 
 我は過去の結果にして未来の源因なり、人、人のみは進歩的動物なれば、彼は考古的にのみ解するを得べし、我に元始的祖先の純白無害なるあり、熊襲八十梟の狂烈馴致し難きあり、我曾て守屋となりて外教を排し、清麿となりて妖僧を逐ふ、我は時宗の断を賛し、西海の怒濤に胡氛を殲せり、我は桜井の遺訓に与かり、民舎に七生の冀望を懐けり、豊公絶大の志望は我の慾なり、清正八道の蹂躙は我の功なり、我は聖徳を湖西の藤樹に学び、農理を嶺東の専徳に聴けり、我は鷹山の為めに誇り、南洲ありて我は世界に大なり、我は実に日本二千年間の作なり。
 而して細瑣たる東洋一孤島の民たるに安ぜず、自ら進みて世界の市民たるに及びて、我は益々広闊雑駁なる我となれり。我は猶太人に依りて我神を拝し、希臘人に依りて思惟し、羅馬人の律に従ひ、独逸人に思惟信仰の独立を得、英吉利人に憲法を享け、法蘭西人に文化を施かる、耶利米亜は我が為に哀歌を謳へり。プラトーは我が為めに哲理を講ぜり、レオニダス我が為めに虐王の暴威を挫けり、シーザー我が為めに北欧の蛮奴を化せり、ダンテ我が為めに三界の苦楽を味ひ、ゲーテ我が為めに新紀元の理想を示せり、ルーテル我が為めに宗教的自由を供し、我亦ボルテヤ、ルッソーの輩に負ふ所尠からず、我れ今日憲法国の民たらんが為めには、グラカイ兄弟(276)は殺戮せられたり、モントフホート公サイモンは、イープスハムの戦場に斃れたり、コリニエーはギース族の残害に遭へり、ライデン城は灌せられて其市民の過半は饑餓に死せり、ハムプデン銃丸に斃れざるべからず、クロムウエル「白殿」に泣かざるべからず、ワシントン剣を抜かざるべからず、而して世の掌権者の頑愚なる、仏国革命も米国独立も彼等の瞑を開くこと能はざるが故に、世が十九世紀に入りてより尚も仁人勇者の奮起を促し、伊にマヂニ、ガルバルヂ立ち、霧にヘルツェン起り、仏にレドルーローリン出で、洪にルイ、コスートありて民の悲運を唱へて高く、流竄困苦生を弱者の救済に供して僅かに今日あるを得しめたり。憲法的日本は世界の日本なり、之を正解せんとするに神皇正統記を以てのみ為すべからず、シーザー之に与かりて力あり、コリニー之が為めに血を流せり。明治の日本を以て日本のみの日本と做す、無識之より大なるはなし、世界偉人の協同に由りて成りし日本、之を知るに全世界の歴史的智識を要す。
 我にして斯の如し、我国にして斯の如し、故に我を知るに過去の全世界を知るを要す。哲人エマルソンの言実に然り。
   “ I am owner of the sphere,
   Of the seven stars and the solar year,
   Of Caesar's hand and Plato's brain,
   Of Lord Christ's heart and Shakespeare's strain.”
   我は世界の持主なり、
   森羅万象我物なり、
(277)   シーザの手腕プラトの脳
   イエスの心も沙翁の技も
 歴史を知らざるものは目前目下の人なり、社会の現象は個々独立して彼の耳目に触れ、小児が絵画に対するが如く、庸医が病を察するが如く、事物を判するに僅に目前当時の動勢を以てす、彼の観察は枝と葉とに止まり幹と根とに達せず、其結果たるや彼は往々にして狂信的夢想漢となり、改革家と称して急劇なる社会の改造を画し、其彼の意に従はざるあれば、忽ち憤激して社会の怠慢を忿り、進みて挫折するにあらざれば退きて鬱死するに至る、彼の挙動の小児的なるは彼の観察の目前的なるより来る、現在は過去の結果なれば之を治するに古を考へざるべからず、恰も名医の病を治するに方りて発熱に対して必ずしも下熟剤を用ひず、苦痛を去るに必ずしも鎮痛剤に依らず、先づ病根に溯りて其排除に従事するが如し。歴史を知ると知らざるとは、学と無学との別なり。学(science)何者ぞ、源因結果の智識ならずや。英語の history(歴史)なる語は、希臘語の historia より来り、単に「学」の意なり。歴史は人生社会の学なり、歴史に暗き事は社交的に野蛮人たる事なり。
 歴史を知らざるものは狭隘の人なり、彼は人類の一団体なるを知らず、彼は個人的又は国家的生涯あるを知りて、世界的人類的生涯あるを知らず、恰も鰌魚麦魚の類が、小池あるを知りて大洋大河あるを知らざるが如し。知らずや濁流溢れ来りて小魚の巣穴を犯す時は、潦雨遠山の柴深を湿し、暴流断橋を没する時なるを。一国の利害は宇内の利害にして、人類に関する事項にして遂に我身に及ばざるはあるなし。歴史は人類各部の関係を教ふるもの、歴史に依りて吾人は人類の聯結(consolidarity of man)てふ哲学的大原理を知るなり。自大的国家主義は常に歴史教育の欠乏より来るなり。我をして謙虚の民とならしむるもの、我の真価を覚り、他を敬ふを知りて(278)自己の専厳を維持せしむるものは、宏量なる歴史的攷究と観察とより来る。
 倫理学的例証としての歴史の効用に就ては、余輩の言を俟たずして明かなり。過去は其儘に繰り返すものにあらず、然れども同様の源因は、必ず同様の結果を来す。同一の倫理的法則は、古今を通じて働きつゝあり。歴史は実例を以て教ふる倫理哲学なり。小島法師の太平記序文は史学日進の今日尚ほ変更すべからざる確言なり。
  蒙窃採2古今之変化1、察2安危之来由1、覆而無v外、天之徳也。明君体v之保2国家1、載南無v棄。地之道也。良臣則v之守2社稷1。若夫其徳欠則雖v有v位不v持。所謂夏桀走2南巣1。殷紂敗2枚野1。其道違則雖v有v威不v久。曾聴趙高刑2咸陽1、禄山亡2鳳翔1。是以前聖慎而得v垂2法於将来1也。後昆顧而不v取2誡於既往1乎。
 若し夫れ歴史の快楽に就ては、余輩の実に多く曰ふを要せず、喜びて歴史を読み得るものは、恒に観劇の快と楽とに与かるものなり。弱志男女と席を共にするにあらずして、道徳的危険を冒すにあらずして、父兄の財を浪費するにあらずして、常時活劇を観るの歓を有するものなり。世に事実に勝る悲劇戯劇のあるなし。吾人若し人情の奥意を知らんと欲せば、何ぞ殊更に劇作者の劇曲に倚るの要あらんや。歴史は実に志士の快楽なり。英の批評家ウヰリヤム、ハツリツト(William Hazlitt)は云へり。
  若し劇場は吾人に示すに人の仮面と世の外装とを以てするなれば、書籍(殊に歴史を云ふ)は、吾人を彼等の清神に導き、吾人心底の蘊奥を吾人の為めに開くものなり。
 万世の智恵と技芸と心情とは歴史に込めり、之に臨むは宝化の山に入る事にして、世界の賢人君子と交を結ぶ事なり。歴史は、幼時の教導者、老年の知客、寂寞の時の吾人の慰藉、吾人の憤怒を静むるもの、憂慮を愈する(279)もの、.失望を除くものなり。
 
    歴史の定義并に区域
 
 歴史は人類進歩の記録なり。
 一個人の発達進歩を叙記せしもの之を伝記(Biography)と云ふ。
 国家を一個独立人と見做し、其発達進歩を録せしものは、国家歴史(National History)なり。
 人類を団体的一個人と見做し、其発達進歩を論述せしものは、之を世界歴史(Universal History)と云ふなり。
 国家の進歩に関係なき個人の生涯は、国家歴史に編入せず、世界の進歩に関係を及ぼさゞりし国民の歴史は、世界歴史の材料にあらず。歴史的人物とは、人類全体の進歩を助け、或は碍げし人なり。歴史的国民亦然り、ワシントンは歴史的人物なり、彼の生涯は人類進歩に関する大なればなり、武蔵坊弁慶は歴史的人物と称ふを得ず、彼は日本人中著名の人物なれども、彼の生涯の感化力は人類全体に及ばず。希臘人は小国民なれども歴史的国民なり、其世界文化を翼けしこと著大なればなり、シベリヤは大国なれども歴史的国家と称ふを得ず、其今日に至る迄人類進歩に拘はる皆無なればなり。世界進歩の大流に加はるに及びて個人并に国民は歴史的たるに至る。伊太利戦争以前のナポレオンは未だ歴史的人物にあらず、ミランの一戦墺軍を挫きてより、彼は世界の注目に上れり。維新以前の日本人は歴史的(世界)国民にあらず、然れども奮然蹶起して世界に仲間入りするに及びて歴史的国民となれり。
 人類進歩を河流に譬へんか、歴史は幹流、国民は枝流、個人は枝流に注ぐ細流なり。枝流細流共に幹流に合し(280)て後始めて歴史的たるに至るなり。枝流の幹流に合するに前後あり、希臘、羅馬の如きは、幹流水源を発して未だ幾許ならざるに已に之に注入せしものなり。米国、日本の如きは、本流の水源を距る遠き下流に於て之に合せしものなり。人類の大流が洋々として海に注入する時は、世界の国民が悉く之に合流せし後にあらむ。日本は英、仏、独等に後れて本流に入れり、故に吾人は歴史的に後進国なり。前後は天の命なり、利根の枝流吾妻は先に入りて混濁下流を汚し、碓氷は後に来りて全流為めに冽し、事物の前後は依りて其優劣を判せず、之を小児の嬉戯と謂はずして何ぞ。
 幹流に合し之を感化するに方りて、枝川全流の歴史は、幹流の歴史を解するが為めに必要なるに至る。波斯戦争以前の希臘は、世界的国民と称ふを得ず。然れども世界文明が此小国民に負ふ所多きが故に、其起源、発達、思想、美術は、歴史的に緊要なるなり。文明世界が我日本歴史を訪査推究するに至るは、吾人の思惟が宇内を感化し、人類の進歩が吾人の行為に負ふ所ありて後にあり。愛国的詩人シルレル曰く。
  最強国民と雖も、一小片たるに過ぎず、故に其運命にして人類全体の進歩に関係を及ぼさゞる事項は、吾人を感激するに足らず。
 故に歴史家の着眼点は人類の進歩なり。如何に自ら大を誇るも、如何に自ら尊きを飾るも、世界を益せざる国民は、歴史の裁判廷に於ては小国なり、矮民なり。
 
    歴史の両眼
 
 歴史は人類が演ずる劇(Drama)なりと曰ふを得べし。康煕皇帝は吟じて曰へり。
(281)  日月燈、江海油、風雷鼓板、天地間一大戯場、堯舜旦、湯武末、莽曹丑浄、古今来許多脚色
 歴史に時代的順序あるは、劇に齣と幕とあるが如し。而して邦土は歴史の舞台なり、時代と地理とは歴史を正解するの二大眼なり、故に此二者を称して歴史の両眼と云ふ。
 世界歴史の紀元は、耶蘇基督生誕の年なり、是れ第六世紀の頃、仏国の僧デオニシヤス(Dionysius)の定めし所にして、羅馬建国の七百五十三年、希臘「オリムピヤル」祭第百九十四回の第四年、バビロン王ナボナサー即位より七百四十七年に相当す。即ち普通吾人の使用する年表に依れば、西洋紀元は我の垂仁天皇三十年にして漢の平帝元年なり。僧デオニシヤスの定めし紀元は、基督実際の生年より四年の後にあり。然れども習慣の久しき今日之を改むるの要なきより、歴史家は誤謬を認めつゝ之を使用し来れり。要は確実なる時の標点を得るにあり。之を我に取らずして彼に取るは、単に便益上よりなすなり、恰も英国の子午線によりて我の時間を度るの類なり、吾人の愛国心は斯くの如き細事の為めに滅却せず。
 地理学と歴史の関係に就ては、余は爰に喋々するの要なし、余は拙著「地理学考」に於て之を詳論せり、此講義録の読者にして彼の書を一読するの労を取られん事は余の切望する所なり。そは世界歴史の一面は、彼の書に依りて読者に紹介せらるべければなり。
 善良なる年代記と万国輿地図とは、歴史攷究者の座右を離るぺからざる必要具なり。若し不知の年代又は地名に接するあれば、之を探らずして経過する勿れ。時と処とを確めざる歴史的思想は、漠として拠るぺきなし、史学の嫌悪は意を此点に注がざるより来ること多し。
 
(282)    歴史の区分
 
 歴史は人類発達の記録なれば、之に判然なる段落のあるべきなし、故に所謂歴史の区分なるものは、多少任意的なるを免がれず。然れども史学攻究の便益上より、之を時代(Age)時期(Period)等に区分するを常とす。
 世界歴史普通の区分は左の如し。
 一、古代史――人類創造の時より紀元四百七十六年西羅馬帝国の滅亡に至る。
 二、中古史――紀元四百七十六年より一千四百五十三年君斯担堡の陥落に至る。
 三、近世史――紀元一千四百五十三年より今日に至る。
 英国の歴史家博士フリーマン氏の区分は左の如し。
 一、羅馬以前史(Ante-Roman History)
 二、羅馬史(Roman History)
 三、羅馬以後史(Post-Roman History)
 是れ能く歴史的哲理に合ひし区分なりと信ず。そは泰西の歴史は、羅馬に中心し羅馬より分枝せしものなればなり。
 欧洲思想発達史の著者なる博士ドレーパー氏は左の区分を賛せり。
 一、質問時代或は幼年時代。
 二、信仰時代或は青年時代。
(283) 三、理論時代或は或は壮年時代。
 四、老衰時代或は老年時代。
 是れ人類全体を一個人と見做して論ぜしもの、故に歴史を称して社会の伝記(The Biography of Society)となせり。
 以上何れの区分法に従ふも大差なし。然れども余は歴史家の常規に依り、第一の区分法に従はんと欲す。           (普通学講義録)
               〔2020年9月9日、午前11時50分、入力終了〕