内村鑑三全集31、岩波書店、411頁、4200円、1983.4.22

 

一九二年(昭和三

 

凡例‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 1
1928年(昭和3年)
A Successful Life.成功の生涯‥‥‥‥‥ 3
愛国と信仰‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 5
イザヤ書の研究‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 7
其一 イザヤ書の紹介 一章一-十七節〇四十章一-十三節(7)

其二 イザヤと其時代 一章一節〇三十章十五節(10)

其三 イザヤの名に就て 一章一節。九章七節。五十九章十六節。六十三章(12)

其四 預言と異象 イザヤ書一章一節。約翰黙示録第一章(16)

其五 ヱホバの大訴訟 イザヤ書第一章上半部の大意(20)

其六 罪の本源 イザヤ書第一章二-九節(23)

其七 偽はりの宗教 イザヤ書一章十-十七節(27)

其八 罪の消滅 イザヤ書一章十八、十九節(30)

其九 審判と救ひ イザヤ書一章二十一-三十一節(32)

其十 平和実現の夢 イザヤ書二章一-四節〇ミカ書四章一-四節(35)

其十一 平和実現の途 イザヤ書二章二-四節〇同十一章一-九節(38)

其十二 繁栄と審判 イザヤ書二章六-十一節(41)

其十三 理想と実際 イザヤ書二章より四章までの大意(44)

其十四 実際のユダとヱルサレム イザヤ書二章六節以下(47)

其十五 ヱルサレムの婦人(上) イザヤ書第三章の梗概(50)

其十六 ヱルサレムの婦人(下) イザヤ書三章十三節以下〇エゼキエル書廿七章(53)

其十七 潔められしヱルサレム イザヤ書第四章(56)

其十八 イザヤの聖召(一) イザヤ書第六章草、ヱレミヤ記一章、出埃及紀三章(58)

其十九 イザヤの聖召(二) イザヤ書第六章(61)

英二十 イザヤの聖召(三) イザヤ書第六章(64)

英二十一 イザヤの聖召(四) イザヤ書第六章五-八節(67)

其二十二 イザヤの聖召(五) イザヤ書第六章(70)

ボーイス・ビー・アムビシヤス Boys be Ambitious‥‥74
惟一の宗教‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥81
誘惑と失敗 ヤコブ書一章十二―十六節‥84
信仰の始終 コリント後書五章十八、十九節‥‥88
Freewilling and Freedoing ‥‥‥‥‥‥92
The Humourless People ‥‥‥‥‥‥‥‥94
I March on and on ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥96
Surroundings and the Spirit.環境と聖霊‥‥97
芸術と救ひ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥99
人間の声‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 101
単独の勢力 イザヤ書六十三章一―六節‥‥ 103
Alone but not Alone ‥‥‥‥‥‥‥‥ 106
The Helpless Christian‥‥‥‥‥‥‥ 108
In Season out of Season ‥‥‥‥‥‥ 110
Be Unpopular‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 112
山本泰次郎・中島活子結婚式司式の辞‥ 113
My Strength.私の力‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 115
純福音に就いて‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 117
生けるキリスト 黙示録一章十八節‥‥ 119
教会問題に就て‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 123
総選挙終へて後に‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 131
Need of Re‐Reformation 宗教改革仕直しの必要‥‥ 132
カトリツクに成らず‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 134
感謝の心 詩篇第百三十六篇‥‥‥‥‥ 136
顕栄と世評‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 140
〔永井直治訳『新契約聖書』〕序言‥‥ 141
New Protestantism.新プロテスタント教‥‥ 144
効果ある伝道‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 146
復活祭の意義‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 148
故横井時雄君の為に弁ず‥‥‥‥‥‥‥ 151
伝道の忍耐‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 156
信仰五十年‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 164
結婚の意義 今井一、原タツ結婚式の辞‥‥ 165
Fifty Years Old in Christ キリストに在りて満五十年‥‥ 168
栄辱五十年‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 170
来世問題の研究‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 172
其一 人生の最大問題(172)

其二 聖書と来世問題(175)

其三 復活と其後の状態(176)

其四 永生の基礎(179)

其五 活動の来世(182)

其六 イエスの栄光体に就いて(上)(185)

其七 イエスの栄光体に就て(下)(187)

五十年前の信仰 其一 聖書に就いて‥ 191
生物学者を葬るの辞‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 194
独立五十年‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 197
Gospel and Philosophy.福音と哲学‥‥ 198
幸福の獲得‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 200
信仰の岐路‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 202
感謝の賜物‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 204
When Am I Surely a Christian? 私は何時確にクリスチヤンである乎‥‥ 205
天地の道と神の道‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 207
何西阿書の研究‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 209
其一 何西阿書の紹介 ホセア書二章十六、十七節。六章六節(209)

其二 イエスとホセア ホセア書二章。マタイ伝六章(212)

其三 家庭の不幸 ホセア書第一章(214)

其四 審判と救拯 ホセア書一章。同五章十四節-六章二節(217)

其五 人の愛と神の愛(220)

其六 神に効ふべし ホセア書第三章(224)

其七 曠野の囁き ホセア書二章十四-十六節(226)

其八 民と其祭司 ホセア書第四章(230)

其九 浅き悔改 ホセア書第六章(232)

其十 イスラエルの罪 ホセア書五章。同十一章(235)

聖書の中心に就て ロマ書三章廿一節以下。ヨハネ伝五章三九節‥‥ 239
誌上の夏期講演‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 242
第一講 聖書と基督敦 ヨハネ伝十七章十七節

第二講 聖書研究の一例 馬太伝一章一節の研究

効果に無頓着なる伝道‥‥‥‥‥‥‥‥ 251
純福音に就て‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 252
札幌独立教会の基礎‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 256
札幌の任務‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 259
To Be No.1.第一番に成る事 ‥‥‥‥‥ 262
人生最大の獲物‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 264
実利主義の基督教‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 266
伝道と信仰‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 269
近代人気質二つ 他‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 272
近代人気質二つ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 272
言葉を慎めよ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 273
宗教家の利用に就いて‥‥‥‥‥‥‥‥ 275
若き伝道師に告ぐ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 276
二種の信仰‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 279
The Universal Truth.普遍的真理‥‥‥ 281
積極的無教会主義‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 283
イエスは如何なる意味に於て神の子である乎 ヨハネ伝二十章三十一節‥‥ 285
波上の歩行 馬太伝十四章廿二―卅三節‥‥ 288
武士道と基督教‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 292
北海道特産物の一として見たる独立的基督教‥‥ 298
同志の弁護‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 304
柏木と羅馬天主教会‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 305
基督教道徳の大意 山上之垂訓の研究‥ 306
伊藤幸次郎君を葬るの辞‥‥‥‥‥‥‥ 311
Paradox of Faith.信仰の逆説 ‥‥‥‥ 316
世人と神人‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 318
オバデヤ書の研究‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 320
其一 オバデヤ書の紹介(320)

其二 エサウとエドム(322)

其三 テマンの智慧負け オバデヤ書八、九節(325)

其四 エドムの罪 オバデヤ書十-十四節(328)

其五 ヱホバの日 オバデヤ書十五-十八節(331)

其六 イスラエルの救と世の終末 オバデヤ書十九-廿一節(334)

聖俗差別の撤廃 ゼカリヤ書十四章二十、二十一節‥‥ 337
霊魂の独立‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 341
旧友広井勇君を葬るの辞‥‥‥‥‥‥‥ 344
死に関する聖書の教示 創世記三章、詩篇第十六篇等‥‥ 350
我が奉仕の途‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 356
広告を謹む‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 357
November the Sixth.十一月六日 ‥‥‥ 359
教理研究の必要‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 361
宇宙は善し‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 363
宗教の利用に就いて‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 364
米国に於ける羅馬加特利教の大敗‥‥‥ 369
私の弟子とは誰ぞ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 374
『十字架の道』〔序文・目次のみ収録〕‥‥ 375
序文‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 376
別篇
付言‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 379
社告・通知‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 381
参考‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 383
恒に変らざる者‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 383

一九二年(昭和三年) 六八歳

 

(3)     A SUCCESSFUL LIFE.成功の生涯

                           昭和3年1月10日

                           『聖書之研究』330号

                           署名なし

 

     A SUCCESSFUL LIFE.

 

  I do not do thingS;I let things be done by me. I am not a mover myself;I am one who is moved by others.Not however by outer circumstances,but by inner necessities;by the commanding voice of the Spirit,which carries with itself power to carry on the command. I am a vessel,an instrument,with no particular will of my own;I let Another take hold of me,and carry me whither I would not.And it is no shame to be thus controlled by forces other than my own;on the contrary,it is the greatest of all glories for the creature to be controlled by the creator. I know the success of my life depends upon how little I rely upon myself,and how much upon my Rightful Owner.

 

成功の生涯

 

〇私は自分で事を為さない、自分に由て事を為さしめらる。私は自分で動く者でない、他の者に由て動かさるゝ

 

(4)者である。而かも外部の境遇に由て動かされない、内心の必要に由て動かされる。大霊の命令に由て動かされる、其命令には実行の能力が伴ふ。私は自分の意志とては何も持たざる器具である、機械である。私は或る他の者をして私を捕へしめ、私の欲まざる所に私を伴れ行かしむる。そして自分以外の力に支配せらるゝは決して私の恥辱でない。其反対に名誉である。造られし者が造りし者に支配せらるゝは名誉の極みである。私は知る私の生涯の成功如何は、私がどれ丈け少く私自身に頼り、どれ丈け多く私の正当の持主に倚頼《よりたの》む乎に由て定まることを。ヨハネ伝二十一章十八節参考の事。

 

(5)   愛国と信仰

              昭和3年1月10日

                『聖書之研究』330号

                署名 内村

 

〇日本は私の国である、善くあるとも悪くあるとも私の国である。神が私に賜ひし国である。私の国とて日本を除いて他には無い。故に若し善くあれば私は之を更に善き国となさねばならぬ。若し悪くあれば之を善き国となさねばならぬ。悪いと云ふて私は日本を棄ることは出来ない。私は如何なる理由ありと雖も私の国を貶《けな》すことは出来ない。私は基督信者であるが故に、基督教国の米国や英国を誉めて、非基督教国の日本を貶すならば、私は日本人でないのみならず亦基督信者でもないのである。

〇そして日本は決して悪い国でない。凡ての点より見て、日本は最も善い国の一である。其地理学上の地位が善くある。其歴史が善くある。其国土の小なる割合に物産が豊富である。其陸は狭いけれども其海は広くある。陸に海を合せて日本の物産は其民を養ふに充分である。方法其宜しきを得ば、日本人は日本国丈けで充足する生涯を営む事が出来る。

〇然し乍ら日本の美点は其国土に於てよりも其国民に於てある。神は日本人に特殊の霊魂を賜うた。日本人は信義を重んずる、礼節を尊ぶ。日本人は利益を離れて正義を追求む。日本人が堪え得ぬ事は他人に迷惑を掛けながら自分独り安逸に在る事である。日本人は情に厚い。客を大切にする。殊に外国の客を大切にする 日本人は自(6)分の主張を抂げてまでも外来の客の感情を害はざらんと努む。此温情、此高誼は米欧人に於て見る能はざる所である。殊に礼節の点に於ては、日本人に比べて米国人は野蛮人である。政治哲学者ワルター・ベジヨウは其名著『理学と政治』に於て述べて曰く「礼節は亜細亜に於て最も善く、欧羅巴に於て少しく善く亜米利加に於て最も悪し」と。米国人は礼節の尊さをさへ知らない。|若し礼儀が文明の標準であるならば、米国人は純然たる野蛮人である〔付△圏点〕。

〇日本人は日本人として神の子イエスキリストを迎ふるであらう。其温情と礼節と信義とを以て彼を戴くであらう。其信仰に於て日本人は米欧人に傚はぬであらう。日本人は其霊魂の指導を暴慢なる米欧人に委ねぬであらう。最も悪しき日本人は米欧化されたる日本人である。純なる日本人は最も善き基督信者を作る。信仰は信義と礼節の上に築かざるべからず。成功と称して勢力と利益と快楽とを追求する信仰は信仰に非ず。我等は基督信者と成る前に先づ日本人と成るであらう 然れば最も善き基督信者と成り得るであらう。

 

(7)   イザヤ書の研究

 

                 昭和3年1月10日-6月10日

                『聖書之研究』330-335号

                 署名 内村鑑三

 

     其一 イザヤ書の紹介一章一-十七節〇四十章一-十三節

 

〇今日よりイザヤ書の研究を始めやうと欲ふ。イザヤ書は聖書中最大の書である。其嵩に於ても最も大きくある。馬太伝は二十八章、羅馬書は十六章、黙示録は二十二幸、旧約の創世記は五十章、約百記は四十二章 耶利米亜記は五十二章なるに、以賽亜書は六十六章であつて、聖書の中で最も長い書である。其量に於て聖書六十六巻の中で最も多く、共観三福音書を一に合はした程のものである。

〇そして其教ゆる所に至つては、其深刻なる点に於て或は羅馬書に及ばずと雖も、其規模の宏大なる、其思想の荘厳なる、其言葉の優美なる、到底他の書の及ぶ所でない。イザヤ書に親まずして聖書の雄大優美を知る事は出来ない。|聖書は世界最大の書であつて、イザヤ書は最大の聖書である〔ゴシック〕。若し羅馬書が聖書の中心であるならばイザヤ書は其本体である。旧約聖書はイザヤ書に於て其絶頂に達し、新約聖書は其源をイザヤ書に於て発して居る。イザヤ書を知らずして聖書は解らない。旧約と新約とは其中にある。モーセの律法とキリストの福音とはイザヤ書に於て合体する。イザヤ書は全聖書を縮めたる書と見て間違はない。

(8)〇聖書は六十六巻より成り、イザヤ書は六十六章より成る。巻と章とが其数に於て一致するは不思議である 其点に於てイザヤ書は聖書の縮写なりと言ひて間違はない。然し一致は茲に止まらない。|イザヤ書は明白に前後の二篇に区分せらる〔ゴシック〕。初めの三十九章が前篇であつて、終りの二十七章が後篇である。そして前篇の三十九章は旧約の三十九巻に当り、後篇の二十七章は新約の二十七巻に当る。是れ亦不思議の一致である。其意味に於てイザヤ書は聖書の縮図である。然るに一致は是れ以上である。イザヤ書の前篇は人の神に対する義を教へて律法の書である。後篇は神の人に対する義即ち恩恵を伝へて福音の書である。斯くの如くにしてイザヤ書其物の中に旧約聖書と新約聖書とがある。モーセの律法とキリストの福音とがある。其意味に於ても亦イザヤ書は旧新両約聖書の縮写である。其構造に於て、其内容に於てイザヤ書は小聖書である。

〇新約聖書の宗教たる基督教は主としてイザヤ書に由て起つた者である。イエスは旧約に精通し給うたが、特にイザヤ書を愛し給うた事は明かである。彼が「聖書」と言ひ給ひし場合は、大抵はイザヤ書を指して言ひ給うたのである。例へば馬太伝廿六章五四節、馬可伝十四章四九節に於て、

  此くあるべき事を録しゝ聖書に如何で応《かな》はん乎

と彼が言ひ給ひしはイザヤ書五十三章を指して言ひ給うたのである。即ち馬太伝の同章四十五節に言ふ所の「人の子罪人の手に附されん」との事であつて、此はイザヤ書五十三章所載の預言に応はせんが為なりとの事である。イエスが又、彼が生長せし所なるナザレに来りユダヤ人の会堂に入り、説明を試み給ひし聖書の言はイザヤ書六十一章一節以下であつた(路加伝四章十六-二一節)。其他新約聖書の中に引用せらるゝ旧約聖書の言の多数はイザヤ書より出たる者である。以てイザヤ書の感化のイエスと使徒達の上に如何に深かりし乎を知ることが出来る。(9)|イエスはイザヤ書の言の実行を其一生の目的と為し給うたのである〔ゴシック〕。我等は此書に於てイエスの理想を発見するのである。イザヤ書を以て養はれて彼は福音書が示せるが如き生涯を送り給うたのである。人なる彼は我等と異なることなく、或る理想を或る書に得て其実行を試みて、之を成就し給うたのである。そしてイエスの場合に於て其書は主としてイザヤ書であつた、殊に其後篇であつた。太平記なくして高山彦九郎、蒲生君平等の勤王家なかりしやうに、イザヤ書なくしてイエスなくパウロなしであつた。人は其理想を知らずして知る能はず、イザヤ書を知らずして主イエスキリストを知る能はず。イエスが精神を籠めて読み給ひしイザヤ書、彼に神の受膏者たるの理想を供せしイザヤ書、彼の生命の血たり肉たりしイザヤ書、此書を解せずしてイエスは解らない。

〇基督信者が常に口にする聖書の言葉の多くはイザヤ書の言である。

  汝等の罪は緋の如くなるも雪の如く白くなり、紅の如く赤くとも羊の毛の如くならん(一章十八節)。

  ヱホバは諸《もろ/\》の国の間を鞫き多くの民を責め給はん。斯くて彼等はその剣《つるぎ》を打かへて鋤となし、其鎗を打かへて鎌となし、国は国に向ひて剣を挙げず、戦闘《たゝかひ》の事を再び学ばざるべし(二章四節)。

  今苦難を受れども後には闇なかるべし……幽暗《くらき》を歩める民は大なる光を見、死蔭《しかげ》の地に住める者の上に光照らせり(九章一、二節)。

  聖なる哉聖なる哉万軍の主ヱホバ、その栄光は全地に充つ(六章三節)。

   (昭和二年十月二日東京青山日本青年館大講堂に於て)

 

(10)     其二 イザヤと其時代 一章一節〇三十章十五節

 

〇イザヤはユダヤ人であつてイスラエル人でなかつた 即ちユダ、ベンヤミンの二支族より成りし南方ユダヤ王国に属せし人であつて、其の他の十支族より成りし北方イスラエル王国に属せし人でなかつた。其点に於てホセアと異つた。ホセアは北方イスラエル王国に遣されし預言者であつた。イザヤはユダヤ人であつて、ヱルサレムの市民であつた。首都ヱルサレムが彼の活動の地であつた。彼は都人であつた。預言者アモスが農夫でありしと全然異うた。アモスの声は地方農民の声であつたに対して、イザヤの声は中央都人の声であつた。都人に彼れ特有の権威がある。イザヤの声は其点に於て、アモス其他の小預言者の声以上であつた。

〇イザヤはユダの王ウジヤ、ヨハム、アハズ、ヒゼキヤの時に預言したりと言ふ。彼が預言職に召されたのはウジヤ王の死たる年であるとの事であれば(六章一節)、そして其時多分彼は二十歳前後の青年であつたであらうが故に、彼は多分紀元前七百六十年前後に生れたのであらう。そして彼の活動がヒゼキア王の死まで続いたとして、彼は六十三四歳で、紀元前七百年より二三年後に死んだのであらう。何れにしても随分長い活動期であつた事が判明る。丁度私が明治天皇の明治十二年に伝道を始めて大正天皇の四年まで継続したと同じである。然るに私は更に昭和二年の今日まで、即ちイザヤよりも十二年も長く伝道したと思へば、其長きに此べて功甚だ尠きを思ふて実に慚愧に堪えない。即ち預言者イザヤは紀元前七百年の人と見て間違ない 同七百一年にはアツシリヤ王セネケリブがヱルサレムを包囲し、ユダの王ヒゼキア之を守り、イザヤの言に頼りて、降服を免かれし事は歴史上明白なる事実である。

(11)〇イザヤは紀元前七百年の人であつた。即ち神武天皇即位より更に半百年前に活動した人であつた。孔子よりも殆んど百五十年古く、釈迦よりも少し前の人であつた。ソクラテスよりも殆んど三百年古く、古い旧い昔の人であつた。然るに此人の発した言が二十世紀の今日、尚ほ人類の思想を導いてゐると云ふは実に不思議である。真理の不滅性は此事に由ても判明る。|人は真理を唱へて其名は不朽に伝はるのである〔ゴシック〕。

〇イザヤが発せし不朽の言は許多《あまた》あるが、其内最も広く知られたる者は三十章十五節である。

   主ヱホバ イスラエルの聖者は斯く曰ひ給へり

   汝立帰りて静かにせば救を得、

   平穏《おだやか》にして依頼《よりたの》まば力を得べしと。

 此はルーテル特愛の聖語であつて、彼を以つて起りしプロテスタント教の根本精神とも云ふ事が出来る。其詳しき解釈は後日に譲ることにして、其の何時頃、如何なる場合に於て発せられし言なる乎、其事を知るはイザヤの時代を知るに最も善き途である。

〇此事は紀元前七百三十五年頃に発せられし言と見て間違ない。其時ユダの王はアハズであり、アツシリヤの王はチグラスピレーゼル(プル)、エジプトの王はシヤバカ(ソー)であつた。当時の二大強国はアツシリヤとエジプトとであつて、前者は新興国、後者は老大国であつて、其間に介在せし小国に取り国是上の大問題は新旧孰れの強大国に附従せん乎に於て在つた。そしてユダ国はアツシリヤに附かんとせしに対し、周囲の小国はエジプトに従はんとした。殊に其内で比較的に強大なりしシリヤとイスラエルとは此方針を取つた、即ちエジプトに頼りてアツシリヤに敵対せんとした。此の外交的態度の相違よりしてユダ対シリヤ・イスラエルの反目が生じ、終にユ(12)ダの王アハズはシリヤの王レヂン、イスラエルの王ペカを敵として持たざるを得ざるに至つた。茲にシリヤ、イスラエルの聯合軍はユダ軍に対抗するに至り、ユダの首都ヱルサレムは危険に瀕した。此危機に際しユダの王アハズは預言者イザヤの意見を聞かんと欲し、計らずも郊外「布《ぬの》曝《さら》す野の大路」に彼に会ひ、其時預言者の発せし言が是れであつた(七章三節以下)。九節の

  若し汝等信ぜずば必ず立つことを得じ

とあるは三十章十五節の言を縮めたる者であつて、預言者が此時に発せし言は私が前に引用せし者であつたらうと思ふ。

〇斯くして今や人類の標語と成りし此言の起原が明白に成つたのである。是はユダの王アハズが周囲の事情に対し、去就に迷つた時に、彼に正道を示さんとてイザヤが発せし言である。即ち|アツシリヤにもエジプトにも頼る勿れ、又シリヤ、イスラエルの聯合軍を恐るゝに及ばず、唯主なるヱホバに立帰れ、心を静かにして彼に依頼め、然らば救と力とを得べし〔付△圏点〕との事であつた。即ち外交術を弄するに及ばず、神を信じて独り立つべしと云ふことであつた。而かもアハブは之に従ふ能はず、アツシリヤ王に援助を求め、聯合軍を破るを得しと雖も、此事がアツシリヤがユダの政治に干渉するの本となり、終に百五十年後にユダはアツシリアの後継者たるバビロンの亡す所となつた。(十月九日)

 

     其三 イザヤの名に就て 一章一節。九章七節。五十九章十六節。六十三章。

 

〇ヘブライ人の名はすべて信仰的に意味の深い名であつた。ハンナは彼女が生みし子をサムエルと呼んだ。「神、(13)我に聴き給へり」の意であつた。祈祷に由て得た子である、故に神に捧げたのである。天使は夢にヨセフに現はれ、其妻マリアが生む所の子をイエスと名づくべしと言うた。「そはその民を罪より救はんとすれば也」とある(馬太伝一章廿一節)。希臘語のイエスは希伯来語のイエシユア又はヨシユアであつて、「ヨ(ヱホバ)は救なり」の意である。イザヤの名も亦同じである。「イザヤ」は希伯来語のヱシヤイヤーを希臘語に直した者である。そしてヱサイヤーはヱシヤイヤフー(Yeshayahu)の略語であつて、「ヱホバ(Yahu)救拯を施し給へり」との意であると云ふ(デリツチに依る)故にイエスと云ひイザヤと云ひ其意味は大略同じである。即ち「救はヱホバに在り」との意である。

〇そして信仰篤き希伯来人は其名に己が天職を読んだのである。西洋の諺に Nomen est omen(名は兆《しるし》なり)と云ふがあるが、希伯来人はそれ以上に己が名に己が使命を認めた。イザヤ、ヱシヤイヤフー、ヱホバ救を施し給へり、……預言者は幾度となく其父アモツが己に附せし此名の意味に就て黙想したのであらう。そして之がやがて彼が宣伝へんする福音の標語となつた。|ヱホバ救を施し給ふ〔付○圏点〕。其意味は深遠無窮である。

〇救ひ、拯《たすか》り、罪の束縛より救出さるゝ事、人生実は之よりも望ましき事はない。幸福と云ひて新たに幸福を加へられる事ではない。聖書の教に循へば人は幸福に造られたのであつて、新たに幸福を求むるの必要はない。|或者が幸福を奪つたのである〔付△圏点〕。そして若し其「或者」を除くを得ば、或は其或者の束縛より人類を釈放《ときはな》つを得ば、それで人類は幸福に成るのである。其点に於て聖書の見方は近代人の見方と異なる。近代人は幸福増進の必要条件として|進歩〔付○圏点〕を要求するが、聖書は|救拯〔付○圏点〕を要求する。イザヤ書五九章一、二節に曰く

  ヱホバの手は短くして救ひ得ざるに非ず、

(14)   その耳は鈍くして聞えざるに非ず、

   唯汝等の邪曲《よこしま》なる業《わざ》汝等と汝等の神との間を隔て、

   又汝等の罪その面を覆ひて聞えざらしめたり。

 恩恵の神は永遠に存す、人をして其恩恵に与り得ざらしむる者は彼等の罪である。故に罪にして除かれん乎彼は今、直に神の恩恵、即ち最上の幸福に与る事が出来ると云ふが、イザヤ其他の聖書記者が力を籠めて唱ふる所である。

〇そして個人も国家も社会も人類も如此くにして救はるゝのである。|進歩は決して幸福でない〔付△圏点〕。其事は人類の歴史が明かに示す所である。蒸気も電気もラヂオも人類を幸福に為さなかつた。日々の新聞紙が明かに其事を示す。|真個の幸福は罪より救はるゝに由て来る〔ゴシック〕。真個の幸福に文明の利器の必要はない。汽車なく、電気なく、瓦斯なき所にも真個の幸福を見る。人が罪の束縛より放たれし所に讃美の声が揚がる。進歩ではない 文化ではない。救である、釈放である。イエスは其意味に於て世の救主であつた。イザヤは其意味に於て釈放の福音の預言者であつた。

〇然らば救拯は誰に由て行はるゝ乎。政治家か、学者か、哲学者か、宗教家か。然らずとイザヤは答ふるのである。|ヱホバ御自身之を施し給ふと云ふ〔付○圏点〕。ヱシヤイヤフーである。ヤフー、ヱホバ、彼が救を施し給ふと言ふ。其所に亦聖書の教の特質がある。聖書は国家又は社会の救済は個人又は団体の運動努力に由て行はると教へない。「救はヱホバに在り」と云ひて、|救は神特有の大権である〔ゴシック〕と教ふ。そしてイザヤは幾回となく繰回して此事を唱ふ。公平と正義とは完全に世界に行はるべしと云ひて、万国平和会議に由て行はるべしとは言はずして、「万軍のヱホ(15)バの熱心之を成し給ふべし」と云ふ(九章七節)。五十九章十六節に曰く

   ヱホバは人なきを見、中保《なかだち》なきを奇《あやし》み給へり、

   斯て其|臂《かひな》をもて自から拯け、

   其義をもて自から支え給へり。

 有名なる六十三章一-六節が此真理の有力なる唱道である。人なる救者《すくひて》に由らず、|神御自身〔ゴシック〕救を施し給ふと。若し「イザヤ教」なる者があるとすれば、其唱ふる中心的真理は是である。

〇「イザヤ」「ヱホバ救を施し給ふ」「イエス」「ヱホバは救なり」神御自身が人類の救を司り給ふ、然り、|彼れ御自身〔ゴシック〕が救である。「イエスは神に立られて汝等の智慧又義又聖又贖と成り給へり」とあるが如し(コリント前一章三十節)。基督信者の実験が凡て此事の真なるを示す。世界の歴史も亦福音の此真理を証明する。自分の力に由て救はれたと思ふ信者は一人もない。|神御自身〔ゴシック〕が救を施し給ふが故に救は貴いのである。自分でもない、他人でもない、神御自身、彼が我を憐みて救ひ給うたのである。故に言ひ尽されぬ感謝である。そして社会国家の救に就ても彼に俟たねばならぬ。祈祷の必要は茲に在る。|近代人が運動に頼るに対して基督信者は祈祷に依るのである〔付△圏点〕。十月十六日

 

       祈祷

〇主なる真の神様、御恵みに由り今日も亦、聖き日を賜はり、茲に愛する兄弟姉妹と共に貴神《あなた》の聖名を讃美し、貴神の聖書を学ぶ此楽しき機会を与へ給うて有難く存じ奉ります。洵に貴神の思《おもひ》は我等の思と異なり、貴神の道(16)は我等の道と異なります。我等は自己《おのれ》の如何にして造られ、如何なる恵みの裡に在るを知らずしてたゞひたすらに自己の運命を開拓せんと焦心《あせ》ります。然れども救拯は唯貴神にのみ在るのでありまして、我等の努力は唯|憂患《わづらひ》を増すに過ぎません。我等は我等の罪の故に自己を縛り、貴神《あなた》が予め我等の為に豊かに備え給ひし恩恵を目前に置きながら之に与かる事が出来ません。願くは父よ、此憐れなる貴神の子供を愍み給へ。貴神の救拯を我等に施し給へ。我等の眼を開き貴神の栄光を仰がしめ給へ。我等の心の戸を押開き、我等をして其処に貴神を迎へしめ給へ。我等をして其意味に凡てイザヤたらしめ給へ。貴神御自身に救拯を施さるゝ者たらしめ給へ。そして貴神御自身がまた我等の愛する此国を救ひ給へ。国民挙つて自己の拙き智慧に頼らずして、彼等をして貴神に頼らしめ給へ。此感謝と祈祷を主イエスの聖名に由て受納れ給へ。アーメン

 

     其四 預言と異象 イザヤ書一章一節。約翰黙示録第一章

 

〇イザヤは預言者中最大の者であり又模範的の者である。故にイザヤを知るは預言者を知るの捷路《ちかみち》である。預言は読んで字の如く「預め言ふ事」である、「前以つて言ふ事」である、英語の prophesy に此意味がある。Pro は「前」で phanai は「語る」である。Foretell と云ふと同じである。そして預言者は実に「前以て語る者」である。預言者は又「神に代つて語る者」である。Pro に「の為に」又は「代りて」の意味がある。「神に代りて語る者」それがブローフエツト、預言者である。

〇希伯来語で預言者を nabi と云ふ。「沸騰する者」又は「噴出する者」の意であると云ふ。ヱレミヤ記二十章九節が此事を示す。

(17)  我は重ねてヱホバの事を宜べず、又其名をもて語らじと言へり、然れどヱホバの言我心に在りて、火の我が骨の中に閉籠りて燃ゆるが如くなれば、忍耐《しのぶ》に疲れて堪へ難し。

 ヱホバの言我が心に臨み、我は沸騰せる鼎の如くなりて、熱湯を注出《そゝぎいだ》すと云ふ。或はヱホバの熱心我を駆りて、我をして、火山が火を吐くが如くに、彼の言を噴き出さしむと。沈黙に堪へずして語るの意である。ナビー、預言者は神に強いられて語らざるを得ざるが故に語る者である。

〇然し乍ら預言者の何たる乎は、定義に由らず、彼を知るに由て判明る。我等は初めに預言者に関する誤解を除く必要がある。預言者と云へば正義を唱へ罪を責むる者のみと思ふは誤解である。預言者は神に代りて語る者であるが故に、彼の正義と審判を述ぶると同時に其恩恵と赦免を伝ふ。神は預言者を以て我等の罪を責め、キリストを以て之を赦し給へりと云ふは大なる間違である。キリスト御自身が人の罪を責め給うた。預言者も亦多くの場合に罪の赦免の福音を伝へた。預言者は、怖《こわ》い者、イエス様は優しい方と云ふ者は、預者をもイエス様をも知らない者である。パウロ曰く

  神の仁慈《なさけ》と其|厳粛《きびしき》とを見よ

と(羅馬書十一章廿二節)。神に代りて語る預言者に仁慈と厳粛との両面がある。我等はイザヤ書一章に於て既に罪の赦しの福音を明かに読むのである。曰く

  汝等の罪は緋の如くなるも雪の如く白くなり、紅の如く赤くとも羊の毛の如くにならん(十八節)と。

〇預言者は語る者であるのみならず亦|見る者〔付○圏点〕である。預言者は先見者である。第一章一節が其事を示す。

  アモツの子イザヤに示されたる(が見たる)異象(18)とある。イザヤは異象を見て、之を世に伝へたとの事である。彼は神に就き思想を得て之を宣伝へたと云ふのでない。又は告知《しらせ》に接して之を告げたと云ふのでない。異象を示されて之を示したと云ふのである。異象《いしやう》とは夢である、幻である、画である、活画《タブロー》である。蜃気楼の如き者である。預言者は思想を伝へられた者でない、幻影を見せしめられたる者である。其点に於て詩人や哲学者と異う。(ナホム書第一章一章に「エルコシ人ナホムの異象の書」とあるを参考せよ》。

〇預言者が見たる異象の何たる乎は之を新約聖書に於て知る事が出来る。ダマスコの途上に於てパウロが見たる者はキリストの異象であつた。彼は彼所《かしこ》に復活せる栄光の主の異象を見たのである。彼は又第三の天に挈《たづさ》へられ、其処に人の語るまじき言を聞けりと言ふ(コリント後書十二章一-四節)。斯くて使徒パウロも亦イザヤ、ナホムと同じく預言者であつた。殊に新約最後の書たる約翰黙示録は純然たる預言書である。|黙示録は見象録である〔付○圏点〕。一章九節以下に曰く

  我れヨハネ主の日に霊《みたま》に由りてラツパの如き大なる声の我が後《うしろ》に在るを聞けり……我れ身を転《かへ》して我に語る声を観んとし、既に身を転せば金の七の燈台又其七の燈台の間に人の子の如き者あるを見たり

云々とある。其他第六章に記せる「四騎」の異象の如き(白馬、赤馬、黒馬、灰色馬《はいいろのうま》の異象)の如き、すべて此|類《たぐゐ》である。旧約に在りても新約に在りても、神は其の為さんと欲する事を、思想としてに非ず、異象即ち活画を以て示し給うたのである。

〇聖書が近代人に由て解され難き理由は茲に在る。近代人は欧洲人に学んで万事を理知的に、即ち思想として解せんとする。之に反して聖書記者は考へんとせずして見んとした。彼等は考へた結果即ち思想を伝へんとせずし(19)て、見た事即ち異象を示さんとした。「我等が聞き又目に見、懇切《ねんごろ》に観、我手|接《さは》りし所のものを汝等に伝ふ」とヨハネ第一書一章一節に曰ふ。神の黙示は元来実物的であつた、故にハツキリしてゐた。曖昧模糊たる所が少しも無かつた。故に預言者の言は自づから簡潔であつた。強堅であつた。

〇ラスキンが曰うた事がある「人生最大の事業は或る事を見て、見し事を簡単なる文字を以て伝ふるにあり」と。そして預言者はすべて此事業を遂げた者である。神は其聖旨を人に伝ふるに方て異象を以てして思想を以てし給はない。(十月廿三日)

 

       祈祷(此日大講堂を奪はれ中請堂に集まる)

〇宇宙万物の霊にして其造主にして亦其持主なる我等の父なる真《まこと》の神様、様々の故障ありしに係はらず今日も亦此の所に此の集会の場所を賜はり、此《こゝ》に愛する兄弟姉妹と共に毎時《いつも》の通り此聖日を守るを得て感謝し奉ります。臠《みそな》はす通り我等に我等すべてを容るゝに足るの会堂がありません、然し乍ら世には会堂ありて集まる人なきを歎《かこ》つ者多き此時に方り、人ありて堂なきを悲しむ此境遇に我等を置き給ひて感謝し奉ります。まことに諸々《もろ/\》の天の天も貴神《あなた》を容るゝに足りません。然し乍ら貴神は心砕けて謙《へりくだ》る者と偕に住み給ひます、謙る者の霊を活かし、砕けたる者の心を生かし給ひます。願くは我等、貴神を荘厳なる宮に於て求めんとせず、我等の衷に砕けたる悔いし心を備えて、其処に貴神を迎へ奉ることを得しめ給へ。殊に我等各自をして貴神に厳粛《きびしき》と仁慈《なさけ》を学び、自己に対して厳しくして、他に対して緩《ゆるや》かならしめ給へ。我等各自相応に貴神の黙示に与り、能力相応に預言者の任務を果さしめ給へ。そして此罪の世に在り汚穢《けがれ》を清め、悲痛《かなしみ》を慰むる器《うつは》たらしめ給へ。キリストの聖名に由て聴き(20)納れ給へ。 〔以上、1・10〕

 

     其五 ヱホバの大訴訟 イザヤ書第一章上半部の大意

 

〇イザヤの預言は一章二節を以て始まる。第一節は表題であつて本文に入るべき者でない。イザヤ全書の表題でない事は明かである。然らば第三十九章までの表題であるか、或ひは第十二章までの者である乎、註解者の説は区々《まち/\》である。孰れにしろ或る部分に附せられし表題が今や巻頭第一に置かれて全書の表題なる乎の如き観を呈して居るは、精密に言へば不当ならんにも、実際に考へて甚だ適当なりと言はざるを得ない。

〇イザヤ書第一章はイザヤに由て為されたる最初の預言でない。若し時代に由て記《しる》さるゝならば第六章を以て始めらるぺきである。其事は其章を研究する時に明かになる。第一章が初めに置かれたるは、是れが預言者の代表的預言なるが放であらう。イザヤの文体、棉神、預言の内容等が最も目立つて此の章に現はれてゐるが故に、預言全集の紹介文として、其初頭に置かれたのであらう。さう見て第一章の意味を解することが容易《たやす》くなる。孰れにしても能く第一章を学んでイザヤの預言の大意を知ることが出来る。若しイザヤ全集が巻頭の第一節に籠つてゐると云ふ事が出来るならば、その少しく精細なる者にして而かも意義簡潔なる者が第一章であると云ふ事が出来る。

〇|第一章はヱホバがイスラエルの民を相手取つて起し給へる大訴訟として見ることが出来る〔ゴシック〕。此場合に於て原告はヱホバ御自身であつて、被告はイスラエルの民である。そして神が審判を行ひ給ふに当て、御自身以外の者に判決を委ぬる事が出来ないから、原告の地位に在る彼れが判事長たるは止むを得ない。そして神に代つて被告の罪を訴ふ(21)る者が預言者であつて、此場合に於て彼れ預言者は検事の役を務むるのである。そして此外に立会判事並に陪審官があつて、其任に当る者が天と地とである。普通の裁判所に於て行はるゝ裁判に較べて見て、奇異なる感ありと雖も、人が人を裁くに非ずして神が人を審き給ふに方て、以上の如き役割は止むを得ない。

〇斯くして預言者なる検事の論告を以て大裁判は始まるのである。彼は口を開いて曰く

  天よ聞け、地よ耳を傾けよ

と。預言者は人に訴へずして天と地とに訟へたのである。此場合に於て人に訴ふるの益なきを知つたからである。今の人は最後の判断を社会又は国民の輿論に仰ぐと雖も、我等は輿論なる者の如何に微弱にして頼るに足らざるを知る。|寧ろ天地に訴へん哉〔付○圏点〕。天地に口なしと雖も能力がある。神は終に天地を以て世を審判き給ふ。黙示録六章十二節以下に曰く

  我れ見しに大なる地震あり、日は毛布の如く黒くなり、月は血の如くなれり。天の星は無花果の樹の大風に揺れて未だ熟せざるに其果が落るが如く地に隕ち、天は巻物を捲くが如くに去りゆき、山々島々皆な移りてその処を離れたり

と。天地は死物でない。スピノーザの如き大哲学者は天然是れ神なりとさへ曰うた。我等は天地に訴へて、冷たき星や、無感覚なる岩に訴ふるのでない。

〇預言者は神の大審判に於て陪審官の役を務むる大自然に対《むか》ひ、イスラエルの罪の数々を述べ立つた。其第一は不孝の罪であつた。預言者は神に代つて曰うた

   我れ子を養ひ育てしに彼等は我等に叛けり

(22)   牛は其主人を知り驢馬は其|主《あるじ》の厩《うまや》を識る、

   然れどイスラエルは識らず我民は悟らざるなり

と。そして其結果として堕落は国民全体に及び、「足の趾《うら》より頭《かしら》に至るまで全き所なき」に至れりと云ふ。

〇預言者の此論告に対しイスラエルは自己を弁護して曰うた、「我等はエホバに叛きしに非ず、其証拠に我等は祭事を怠らず、能く安息日を守り、犠牲《いけにへ》を絶たず、モーセの律法を厳守して遺漏なからんことを努む」と。之に対してヱホバは答へて宣はく「我は汝等の儀式に倦めり、我は汝等の供物を喜ばず、汝等が我が殿《みや》に詣《きた》るは其庭を践むに過ぎず、汝等の所謂信仰は偽善なり、我は之に堪へず」と。そして若し民に真の信仰あらんには、是れ公義、公平、仁慈の諸徳を以て現はるべきであると宣べ給うた(十-十七節)。

〇斯くて論告に対する弁護は終り、ヱホバは判決を下して宣べ給うた(十八-二十節)。

  我等は茲に弁論を終らん。汝等の罪は明白なり。故に悔改めよ。若し悔改めなば、汝等の罪は縦し緋の如くなるも雪の如く白くなるぺし、紅《くれなゐ》の如く赤くとも羊の毛の如くなるべし。汝等の罪を認めよ、之を認めて悔ゐよ、而して悔ゐて赦されよ。と

〇以上が第一章上半部の大略である。驚くべき記事である。イザヤの預言の好き模範である。荘厳である、深刻である、そして仁慈《めぐみ》深くある。神の厳粛《おごそか》と仁慈とが能く其内に現はれて居る。罰する為の審判《さばき》でない、罪を認めしめて之を赦す為の審判である。是れがイザヤ書全体を貫く精神である。一九二七年十月三十日。

 

       祈祷

(23)〇万国を支配し万民を鞫き給ふ真の神様、今日も亦何の妨害もなく、我等一同此堂に集まることを得、貴神が今より二千六百年前に貴神の預言者を以て語り給ひし聖語《みことば》を読み、其意味を探る貴き機会を与へ給ひし事を感謝します。まことに人は何人も皆な草であります、その栄華《はえ》は凡て野の花の如きものであります、草は枯れ花は凋《しぼ》みます、然し貴神の聖語は永遠《とこしえ》に存《のこ》ります。貴神の聖語の一節を知るは人の言葉の千篇を読むに勝さるの益があります。神よ願くは我等を鞫き給へ、義を以つて鞫き給ひて我等の罪と愆《とが》とを覚らしめ給へ。そして我等に真《まこと》の悔改《くいあらため》の心を起し給ひて、我等をして貴神の備へ給ひし救拯に与る事を得しめ給へ。貴神が我等を鞫き給ふは我等を罰せんが為ではありません、我等に己が罪を知らしめ給ひて我等を活かし給はんが為めであります。願くは我等、貴神に鞫かれ、罪を示されて、貴神を怖れ離るゝことなく、貴神の善き聖旨《みこゝろ》を悟りて貴神の潔めに与ることを得しめ給へ。神よ、今日又特に我日本国を恵み給へ。貴神が人類に賜ふ最善のものを此国に降し給へ。此国が内に聖められて外に強くある事を得しめ給へ。アーメン

 

     其六 罪の本源 イザヤ書第一章二-九節

 

〇律法と云ひ、預言と云ひ、福音と云ひ、其目的は一であつて、人を罪より救ふに在る。罪を責むるほ罪を知らしむる為である。そして罪を知らしめんが為に、罪の本源を示さねばならぬ。罪は単に過誤《あやまち》でない、又|科《とが》でない。世の所謂罪とは罪の結果であつて、罪其物でない。イザヤ書が罪の本源の指摘を以つて始まるは此書に最も相応はしい事である。

〇預言者はヱホバに代りイスラエルを訴へて曰く
(24)  我れ子を養ひ育てしに彼等我に叛けり

と。父が其子を訴ふる言である。イスラエルは其父ヱホバに対ひて不孝の罪を犯したりと云ふ。|罪は多しと雖も最大の罪は不孝の罪である〔ゴシック〕。子を持つて知る親の恩と云ふ。真に然りである。一人の子を育て上げる親の苦労心配、数へ尽す事が出来ない。そして其親に叛きて子は最大の罪を犯すのである。まことに「天よ聴け、地よ耳を傾けよ」である。若し子が親が己の為に尽せし心労辛苦を知るならば、之に叛き得やう筈がない。人なる親に於て然り、況んや神なる親に於てをや。神が人を造り給ひし努力は実に絶大であつた。近世科学は克く事を示す。所謂進化の課程が夫れである。地球の歴史、生物の歴史、人類の歴史が其事を明かにする。人は容易に成つた者でない、億万年の神の辛苦に成つた者である。万物の霊長であると云ふは、造化の最後の作であると云ふのである。其者が神に叛いたと云ふのである。神の御失望、御歎き、実に譬ふるに物なしである。人なる親の歎きは言ふも更なり、神なる父の御歎きは特別である。神にも亦堪え難き御歎きがある。親が其子の叛く所となりし歎きに千万倍したる歎きである。思ふだに恐ろしくある。イスラエルは此罪を犯したのである。そして人類全体が今尚ほ此罪を犯しつゝある。私も貴下《あなた》も此罪を犯したのである。

〇牛は其持主を知り、驢馬は其主人の供する槽《うまぶね》を知る 然れどもイスラエルは知らず、ヱホバの民は悟らない。禽獣且恩を知る、況や人に於てをや。然れども事実は然らずして、恩を知らざる事に於て人は禽獣に劣るのである。人は無神を唱へて耻ず、神に対する不孝は其常性である。まことに驚くの外なし。天よ聴け、地よ耳を傾けよである。

〇そして神を侮り、彼を棄し結果は如何。「全頭は病み、全心は疲る、足の趾《うら》より首《かうべ》の頂《いたゞき》に至るまで健全なる所な(25)し」と云ふ有様である。其本病みて其末病まざるはなし。まことに当然である。イスラエルはヱホバを棄て、其聖者を侮慢《あなど》り、彼と離絶したれば、此憐むべき状態に立至つたのである。そして惟りイスラエルに限らない、何れの人も、社会も、国家も、其造主なる神を離れて茲に至らざるはない。腐敗と云ひ、堕落と云ひ、外部《うはべ》の事でない、神に対する不孝の結果である。政治家並に社会改良家の過誤《あやまり》は茲に在る。彼等は罪の本源に触れずして、其表面を矯めんとするが故に其目的を果たさないのである。不孝の子に幸福は来らず、不信の徒に平和は臨まず。人を根本的に改めんと欲すれば彼に真の宗教を与へざるべからず。西洋の諺に日く Be right with God and all will be right(神と正しき関係に入れよ、然らば万事可ならん)と。|宗教は罪の本源を除く道である〔ゴシック〕。人の神に対する叛逆を癒して、彼の全部を善くする道である。

〇茲に至て知る、其根本の精神に於て基督教は儒教と異なる事なきを。儒教の本源は孝道に於てある。曰く

  夫れ孝は徳の本也。………親を愛する者は敢て人を悪まず。親を敬ふ者ほ敢て人を慢らず。愛敬親に事ふに尽して然して後徳教百姓に加托り、四海に刑《のつと》る(孝経)。

 即ち|孝なれば忠且仁なり〔付○圏点〕との意である。其内に深い真理がある。然し乍ら基督教は更らに深い所まで孝を運ぶ。|神に対する孝が諸徳の本なり〔ゴシック〕と教ゆ。「汝心を尽し、精神を尽し、意を尽して主なる汝の神を愛すべし」と教ゆ。諸《すべて》の善行は茲に発し、諸の福祉《さいはひ》は茲に起る。儒教の源に遡れば聖書の教に達せざるを得ない。「汝の父と母とを敬ふべし」との十誡第五条は|人の神に対する義務〔付○圏点〕として教へらる。神を愛するに由てのみ真の孝道は行はる。

〇我国の今日は如何。政治、実業、教育、宗教、凡てが行詰りである。「足の趾より首の頂に至るまで健全なる所なし」とは亦我国今日の状態でない乎。そして其の由て来りし原因は何処に在る乎。基督教を信じないからであ(26)ると云ふならば、国民の多数は怒り又嘲けるであらう。然し天祖の恩を忘れたからであると云ふならば彼等と雖も否定する事は出来まい。|日本人も亦恩を知らざる民と成りつゝある〔付●圏点〕。其忠君は大抵口の先きの忠君である。今や子の叛逆に遭ふて歎く親は算なし。師たる者にして弟子の叛逆に遭はざる者は何処に居る乎。商家は忠実なる番頭を得るに苦しみ、恩を施すもその報いらるゝ例《ためし》は滅多になし。真の宗教が無いからである。万物の造主なる父なる神との和《やわら》ぎが無いからである。(十一月十三日)

 

       祈祷

〇我等の主イエスキリストの御父なる讃美すべき真の神様、御恵みに由り今日も亦何の故障もなく我等一同此の処に集まる事が出来、此の尊き御教に与る事が出来て感謝致します。貴神が預言者を以つてイスラエルの民の罪を責め給ひし其御言葉は一々我等に当ります。我等も亦貴神に養ひ育てられしに、貴神を忘れ、貴神に叛きました。まことに我等は其事に於て禽獣に劣ります。我等は何よりも先づ第一に自己《おのれ》を愛します。貴神より凡ての物を戴きながら貴神に感謝せず、自己の智慧と能力とに由て獲たりと思ひ、之を貴神に献げんとせず自己に用いんとします。そして偶々《たま/\》不幸が身に臨みますれば、自己の悪しきを念はずして、自己の不幸を憐みます。神様、どうぞ我等をして貴神の御教に従ひ、我等の罪の本源を悟らしめ給へ。又我等に臨む凡ての患苦《なやみ》の因《もと》を知らしめ給へ。貴神を識る事が智慧の初めであり、貴神を父として仰ぐ事が幸福の基である事を覚らしめ給へ。願くは我等も、社会も、国家も人類も仁慈《めぐみ》の父なる貴神に帰依する事に由て、凡ての傷と苦痛《いたみ》を癒され、まことの平和に入ることを得しめ給へ。救主イエスキリストの聖名に由て聴き給へ。

 

(27)     其七 偽はりの宗教 イザヤ書一章十-十七節

 

〇罪は神に対する不孝であるとの預言者の詰責に対しイスラエルは答へて曰うた「我等はヱホバを忘れず、熱心以つて之に事ふ。我等は祭事を怠らず、犠牲《いけにへ》は尽く之を捧げ、集会は欠けなく之を催し、祈祷も亦絶ちしことなし」と。然るにヱホバは民の此弁疏に答へて宣べ給うた「我は汝等の犠牲を悦ばず、集会も亦我が重荷なり、我は汝等の祈祷に耳を傾けず、汝等は我が名を涜し、祭事を弄ぶ者なり」と。祭事は神に事ふるの途に非ず、|正義を行ひ、仁愛を施すこと〔ゴシック〕、是れ神に事ふる唯一の途であると云ふ。

〇そして是れ惟りイザヤの主張に止まらず預言者全体の主張であつた。此事を更に端的明快に述べたものがアモスの言である。(アモス書五章廿二-廿四節)。

   汝等我に燔祭又は素祭を献ぐるとも我れ之を受けじ

   汝等の肥えたる犢の感謝祭は我れ之を顧みじ

   汝等の歌の声を我前に絶つべし

   汝等の琴の音は我れ之れを聴かじ

   |公道を水の如く正義を河の如く流れしめよ〔ゴシック〕。

と。今日の言葉を以つて云ふならば、「我れ礼拝を顧みず、讃美の声を聴かず、公道を歩み、正義を行ひて、汝等が我が礼拝者なるを証しせよ」と云ふのである。アモスの此言と併《なら》んで引用せらるゝものは預言者ミカの言である。ミカはイザヤと同時代の人であつて、同一の主張を以つてイスラエルの愆《とが》を責めたのである。

(28)   我れヱホバの前に何を持行きて高き神を拝せん乎

   燔祭の物及び当歳の犢をもて其前に到るべき乎

   ヱホバは数千の牡羊、万斛の油を悦び給はん乎

   我が愆の為に我が長子を献げん乎

   我が霊魂の罪の為に我身の産を献げん乎

   人よ、彼れ前《さき》に善事の何なる乎を汝に告げ給へり

   ヱホバの汝に要め給ふ事は唯此事なり、即ち

   |正義を行ひ憐憫を愛し謙遜《へりくだ》りて汝の神と共に歩む事なり〔ゴシック〕(米迦書六章六-八節)。

〇そして以上二人の言よりも更に深刻徹底的なるはヱレミヤの言である(耶利米亜記七章廿一-廿三節)

  万軍のヱホバ、イスラエルの神斯く言ひ給ふ………我れ汝等の先祖をエジプトより導き出せし日に燔祭と犠牲とに就いて語りし事なし又命ぜし事なし。唯我れ此事を彼等に命じたり即ち、汝等我が声を聴かば我れ汝等の神となり、汝等我が民とならん、且我が汝等に命ぜし凡ての道を歩みて福祉《さいはひ》を得べしと。

 若しヱレミヤの此言にして文字通り真事《まこと》なれば、利未記に録せる祭事の如き、是れ人の作りしものであつて神がモーセを以つて命じ給へりと云ふは誤謬であると云ふ事になる。或ひはさうである乎も知れない。然し乍ら縦しさうでなくとも神の目の前には祭事は小事であつて省くも可い事である、|必要欠くべからざるは正義である仁道である〔付○圏点〕、正義を怠りて祭事は反つて神を涜す事であると云ふのが預言者全体の主張である。

〇そしてイエスは預言者の流を汲んで祭事を軽んじて正義を重じ給うた。故に祭司階叔の憎む所となりて其の殺(29)す所となり給うた。イスラエルに初めより祭司階級と預言者階級とがあつた、そして前者は常に後者を迫害し、後者は常に前者を責めた。アモスに対してベテルの祭司アマジヤがあつた。ヱレミヤに対するに祭司インメルの子パシユルがあつた。其如くに預言者イエスに対して祭司の長のカヤパがあつた。イエスは預言者として殿《みや》を軽んじて曰ひ給うた「此殿を毀《こぼ》て、我れ三日にて之を建ん」と。彼は曾て一回も祭事に携はり給はなかつた。彼の主張にして彼が繰返して使ひ給ひしは預言者ホゼヤの言であつた、曰く

  |我れ矜恤《あはれみ》を欲《この》みて祭祀《まつり》を欲まず〔ゴシック〕

と(ホゼア書六章六節、馬太伝九章十三節、同十二章七節)。即ち「祭祀を廃めて、公平に孤児《みなしご》を鞫き、寡婦《やもめ》の為に弁護せよ」とのイザヤの主張である。如斯くにしてイエスを崇むるに儀式を以つてするが如き矛盾はない。イエスが何よりも嫌ひ給ひしものは寺である、坊主である。監督制度、祈祷文、聖餐、バプテスマの厳かなる儀式、イエスは之に堪へ得給はなかつたと信ずる。彼の忠実なる僕オリバー・クロムウエルが曾て英国々教会の集会に出席し、其無意味なる儀式に堪へずして足を摩りて反対を表し、壇上の教職に向ひ「君よ高壇より降り給へ」と云ひたりとの事は、イエスの此精神を現はしたるものであると思ふ。

〇第十三節に曰く「汝等は聖会に悪を兼ぬ」と。是れは激烈なる言である、然し無い事では無い。宗教の集会に明白なる悪事の行はるゝは決して珍らしい事でない。其実例を屡々今の教会に於て見る。プロテスタント教会に於て信者間の勢力争ひの為に激烈なる競争が行はれ、罵詈雑言至らざる無きは我等の幾度か目撃した所である。聖書朗読あり、讃美歌あり、祈祷ありて、然る後に直に痛罵面責が始まる。憐憫を愛し、謙遜りて汝の神と偕に歩む事が真の宗教であるならば、斯かる宗教の集会に於て宗教は無いと称して差支がない。「聖会に悪事」昔し(30)あつて今猶ある事である。十一月廿日

 

     其八 罪の消滅 イザヤ書一章十八、十九節

 

〇人は神の恩を忘れ、彼を離れ、彼に叛き、彼に対して不孝の罪を犯した。それが罪の源因である。罪と云ふ罪はすべて茲に始まる。そして罪の結果として種々《いろ/\》の苦難が彼の身に臨むや、人は神を宥《なだ》めんと欲し、彼に祭事《まつり》を奉り、犠牲を献げ、歌を以つて彼の御名を讃め、手を舒《のぺ》て彼に祈り、以つて再び彼の恵みに浴せんと欲す。是が所謂宗教であつて、之を司るに祭司あり僧侶あり、迷信とは知りつゝも之を廃する能はずして今日に至つた。然るに神御自身は祭事を欲み能はず、彼に事へんと欲するならば正義を行ひ仁慈を施すぺしと預言者を以つて告げ給うた。然れども事実如何と尋ぬるに人は依然として祭事を欲んで衿恤を欲まない。宗教が盛なる割合に正義は行はれない。其反対に多くの場合に於て宗教は明白なる不義と共に行はる。教会の内に於て仇恨、争闘、※〔女+戸〕忌、忿怒、結党、※〔女+冒〕嫉は絶えず行はる。神は正義憐憫を要求し給ふに人は儀式と教義と熱狂とを以つて之に代へんとする。斯くして真の礼拝は今に猶ほ行はれずして、偽はりの礼拝、即ち偽はりの宗教が盛に行はる。羅馬天主教会がユダヤ教会の跡を逐ひしやうに、プロテスタント教会が天主教会の跡に循うた。正義に代ふるに祭事を以つてする点に於て教会は寺院と異ならず、新教は旧教と違はない。

〇然し乍ら問題は更に起るのである、|人は神の要求に応じて正義を完全に行ひ得る乎〔付●圏点〕と。正義は神を悦ばし奉るの唯一の途たるは明かなりと雖も、之を行はんと欲してその難きを悟るのである。彼が正義よりも祭事を好む理由の一は確かに茲に在る。罪が単に罪の行為でないやうに、正義は単に正しき外面の行為でない。正義が真《まこと》に正(31)義たらんが為に義《たゞ》しき心が必要である。そして人は神に正義を要求されて此処まで迫窮《おいつめ》らるゝのである。心が潔められねばならぬ、然らざれば正義は之を行ふ能はずと。斯く自覚して人は己れ自から己を潔うする能はざるを知るのである。即ち自己の罪人なるを悟るのである。「噫我れ困苦《なやめ》る人なる哉、此死の体《からだ》より我を救はん者は誰ぞや」と、鋭き良心を有する人は誰人もパウロと偕に叫ばざるを得ない。

〇ヱホバが預言者を以つてイスラエルに対して起し給ひし大訴訟に於て、結論は終に茲に達せざるを得なかつた。被告人のイスラエルが弁護の辞に窮して口を閉づるを見てヱホバは言ひ給うた。

   率我等共に論》つらはん(第十八節)

と。「答ふべきの言あらば答へよ」とか、「茲に争論を止めん」との意味であらう、精細には解らない。何れにしろ第十八、十九の二節は訴訟の結果を示す言である。イスラエルは罪に定められた。彼は神に答ふるに言なきに至つた。彼が律法に問はれて罰せらるべきは当然である。然し乍ら神は人の罰せられん事を欲み給はず、故に救ひの途を設け給ふ。イスラエルを死に定めて救ひの途あるを宣告し給うた。

   縦令汝等の罪は緋の如くなるも雪の如く白くならん

   縦令亦|紅《べに》の如く赤くとも羊の毛の如くならん。

と。驚くべき意外の宣告である。然し事実である。|死刑を宣告せられし罪人が完全なる赦免と再び罪を犯さざる保証とを宣告せられたのである〔ゴシック〕。

〇|如何にして〔付○圏点〕罪の消滅が行はるゝ乎、其途に就て預言者は茲に言はなかつた、唯緋の如き罪は雪の如く白くせらるべしと言明した。神の言である、故に手段方法如何を問はずして信ずべきである。イザヤよりも尚ほ二千年前(32)のアブラハムは此事を信じた。「汝等の先祖アブラハムは我が日を見んことを喜び且之を見て楽しめり」とイエスはユダヤ人に告げ給うた(ヨハネ伝八章五六節)。神は終に人類の罪を取消し給うた、然し乍ら其時まで其事は単に約束として存した。

〇そして此事を明かに述べたものが羅馬書八章一節に於けるパウロの言である。「それ律法は肉の故に弱し、その能はざる所を神は為し給へり、即ち己の子を罪の肉の状《かたち》となして罪の為に遣はし、肉に於て罪を罰し給へり、是れ律法の義の、肉に従はずして霊に従ひて行ふ所の我等に在りて成就せん為なり」と。罪はキリストに在りて消滅して、義は完全に彼を信ずる者に由て行はるゝに至るとの事である。

〇罪の消滅は人を離れて、神の子にして人類の代表者なるキリストに在りて行はれた。そして人は信仰に由りて其恩恵に与る事が出来る。イザヤは其事を述べて言うた「若し汝等好んで順はゞ地の美産《よきもの》を食ふを得べし」と。「好んで順ふ」それが信仰である。神の御招きに応じ、罪の赦しを我に関はる事として信じて受くる事、それに由て我が罪は潔められ、我は完全に正義を行ふを得て、其報賞たる地の美物を食ふを得べし。罪の源は神に対する不従順である、そして神に順ふに由て罪は消滅する。然し乍ら唯順ふのみにて罪は赦されない。神が先づ其子に於て之を罰し、之を無きものとなし、そして人が神の其の限りなき御慈愛を信じて赦さる。イザヤは特に罪の赦しの福音の預言者である、そして其第一の預言を巻頭早々為したのである。 〔以上、2・10〕

 

     其九 審判と救ひ イザヤ書一章二十一-三十一節

 

〇一章十八、十九節に於ける罪の消滅の福音の宣言を以て、ヱホバが預言者を以つてイスラエルに対して起し給(33)ひし大訴訟は一先づ終りを告げた。イスラエルは審判かれ、罪に定められ、而して罪の赦しの約束に接して一先づ天地の大法廷より放免された。之で審判が済んだのではない、審判の経路《すじみち》が示されたのである。預言は預言、福音は福音である。そして其実行と通用とは別である。|国も人も言葉で審判かれない、又言葉で救はれない、人生の事実で審判かれ又救はれる〔付△圏点〕。

   シオンは正しき審判をもつて

   其|帰来者《かへりきたるもの》は公義をもつて贖はれん

   然れども悖逆者《そむくもの》と罪人とは同時に壊《やぶ》れ

   ヱホバを乗る者は亡び失せん

とあるは此事である(廿七、廿八節)。

〇そして現実のユダとヱルサレムとは如何なる者であつた乎と云ふに、実に憐むべき状態に於てあつた。市は妓女《うかれめ》となり、公義は失せて殺人其内に充つ。有司《つかさ》は盗人《ぬすびと》の侶伴《かたうど》となり、人は各々賄賂を喜び、贓物《おくりもの》を追ひ求むと云ふ状態であつた。名は神国、仁義の民であるが、実は婬乱国、収賄の民であつた。之に対しヱホバの恕は臨まざるを得ない。|事実を以つて行はるゝ罪悪は事実を以つて審判かれざるを得ない〔付△圏点〕。主言ひ給ふ

   噫我れ我が仇に向ひて我が念を晴らし

   我が敵に向ひて我が讐《あだ》を復へさん

   我れまた我が手を汝の上に加へ

   悉く汝の滓を洗ひ去らん……

(34)   然る後に汝は公義の市《まち》

   忠実なる市と称《とな》へられん。

 罪の赦しの福音の宣伝に由て雪の如く、羊の毛の如く白くなるのではない、事実を以つてヱホバに審判かれて公義の市、忠実なる市と称へらるゝに至ると云ふ。

〇ヱホバは如此くに其民を扱ひ給ふと聞いて、彼は無慈悲なりと云ふ者は誰乎。無慈悲に非ず、其正反対である。言葉のみに由て悔改めた民は何処に在る乎。若し神が警告の鞭を加へ給はないならば、己が罪に覚めて彼に帰来る者はない。是れ人類の実験であつて、また我等各自の実験である。福音の宣伝、説教、演説、と単に言葉の散布に由て人の救はれた例《ためし》はない。福音が伝へられて、之を証明するに事実の審判が臨んで、国も民も少しく目を醒ますのである。何にも二千五百年前のイザヤのユダとヱルサレムの跡を辿るに及ばない、大正昭和の我が日本と東京とに於て好き例証を見るのである。市は妓女となり、殺人其内に充ち、人各賄賂を喜ぶと聞いて、誰か今日の東京市を思出さゞる者がある乎。実に事実有の儘でない乎。上流婦人までが芸妓、娼妓の如くに装ふではない乎。小学校の校長に成るにさへ、視学官に贈賄せざれば成れずと新聞紙は明かに報ずるではない乎。殺人は日々の出来事であつて其点に於て日本の東京は米国の紐育又は市俄古に似たる市となりつゝあるではない乎。東京全市が遊廓であり、盗人の巣であると云ひて過言でないではない乎。唯斯く大胆に唱へ得る預言者が居ない迄である。

〇そして此場合福音の宣伝丈けに由て日本と東京とが救はれやうと誰が信ずる乎。|事実を以つてする審判が必要でない乎〔付△圏点〕。大地震が必要でない乎。財界の大動揺が必要でない乎。破産者相次いで生じ、昨日の貴族は今日の平(35)民となり、昨日までの富豪は、今日は社会の憐みを乞ふに至るの必要はない乎。まことに「シオンは義《たゞし》き審判を以つて、其|帰来者《かへりきたるもの》は公義を以て贖はる」である。|今や日本人が少しく真面目に神の福音に耳を傾くるに至りしは、少数の伝道者の言が彼等を動かしたからでない、父なる神の愛の審判が近年に至り頻々として彼等の上に臨んだからである〔ゴシック〕。

〇此事は勿論惟り日本に限らない、孰れの国に於ても然りである。米国の如き最も克く預言者の言に適中する国である。「如何なれば忠実なる国は妓女《うかれめ》とはなれる 昔しは義しき審判にて充ち公義其の中に宿りしに、今は人を殺す者とはなりぬ」と読んで、イザヤは特別に今日の米国に就て預言したのではない乎と思はれる。我等ピユーリタン思想旺盛時代の米国を知る者は今日の米国を見て実に今昔の感に堪えない。今日の米国が基督教国であるとは誰も信じない。米国は遥かに日本以上審判を以つて贖はるゝ必要がある。

〇然し乍ら審判は審判の為の審判でない、潔め救ふ為の審判である。神は許多《あまた》の患難《なやみ》を下して国と民とを再び御自身の所有と為し給ひつゝある。「公義を以て贖はる」とは此事である。そして日本に於ても引続く災難が少しく功を奏して、ヱホバの聖名が少しく其民の間に揚りつゝあるは感謝の至りである。

   その怒は唯|暫時《しばし》にして其|恵《めぐみ》は生命《いのち》と共に永し

   夜は終夜《よもすがら》泣悲むとも朝《あした》には歓び歌はん

とあるは此事である(詩三十篇五節)。十二月四日

 

     其十 平和実現の夢 イザヤ書二章一-四節〇ミカ書四章一-四節

 

〇イザヤ書第二章を以つて新らしき預言が始まる。

(36)  ユダとヱルサレムに関しアモツの子イザヤが見し所の言は是なり(一節)

とある。|見し所の言〔ゴシック〕と云ふ。言は聞くものであつて見るものでない。何故に見し所の言と云ふの乎。預言者はヱホバの言を聞いたと曰はずして|見た〔付○圏点〕と云ふ。一には之を異象《いしやう》に見たのであらう。恰かも活動写真に見るが如くに画に由て啓示《しめし》に接したのであらう。二には思想としてに非ず、|黙示〔付○圏点〕として伝へられたのであらう。その如何なる形を以つてした乎、今知る事は出来ない。然し|生々《いき/\》としたる、ハツキリとしたる形を以つて伝へられたる事は明確《たしか》である。若し我等の経験に於て之に類したるものを知らんと欲するならば、詩人の思想又は芸術家の理想の如き者であるに相違ない。所謂天来の思想であつて、何処《いづこ》より来り何処に往くを知らずと云ふ質《たち》の者である。忽然として現はれて深く脳裡に印象さる。悪魔に憑《つか》れると云ふが如くに思想に憑れる。天来の思想の捕捉する所となる。故に言はざるを得ずして言ふ、それが預言である。斯くて預言者は思想家と異なる。若し類を求むるならば預言者は詩人又作曲家の類である。そして詩人ダンテと作曲家ベートベンは大預言者であつた。|言を見る者〔ゴシック〕、神の聖意《みこゝろ》を生々したる事実として見る者、其者が預言者である。

〇そしてイザヤは茲に彼の愛するユダとヱルサレムに就て美はしき夢を示された。それは「末の日至らん時に」事実と成りて現はるゝ事であると云ふ。二節以下四節までの言がそれである。実に美はしい言である。預言其物が絶大の詩である。何人も之を読みて終生忘るべからざる印象を受けざるを得ない。殊に忘れ難きは第四節の言である。

   斯くて彼等はその剣《つるぎ》を打ちかへて鋤《すき》となし

   その鎗を打かへて鎌となし

(37)   国と国とは剣を挙げて相攻めず

   また重ねて戦争の事を学ばざるべし

と。実に美くしき偉大なる夢である。斯んな夢ならば何人も見たくある。痴人夢を語ると云ふが、此は智者ならざれば見る能はざる夢である。曾つて或る有名なるラビ(ユダヤ教の教師)が或る平和会議の席上に於て述べた事がある。

  キリスト降世より七百年前にイザヤが此預言を為して以来、平和会議は幾回失敗しても、人類は此預言に捕はれ、世界的平和の実現可能を信じて疑はない。又平和実現の暁まで平和会議を開いて止まない。

と。実に然りである。兵器の進歩、兵備の充実、未だ曾て今日の如きはなしと雖も、兵備撤廃の声は益々高くある。小なる丁抹は既に之を実行し、共産主義の露国は其世界的に実行せられん事を提唱した。そして之を痴人の夢として嘲ける者は聖公会の本国なる英国である。又一方平和を高唱しながら、他方に軍艦建造を急ぎつゝある米国である。|痴人の夢であると云ふ。然し聖書が明かに記す所の、神が預言者に示し給ひし異象である〔付△圏点〕。宣教師を異教国に遣り、聖書の採用を促しつゝある英と米との両国が世界的平和の実現を痴人の夢として嘲けるのである。

〇イザヤの預言と同じ預言を預言者ミカがなした。米迦書四章一-四節がそれである。前に曾つて述べた如くに、ミカはイザヤと同時代の預言者であつた。故にミカがイザヤの言を藉りたのである乎、或は亦、イザヤがミカの言を藉りたのである乎判明らない。或は此は其時代の預言者すべての共通の思想であつたと見る事も出来る。そして又ミカの預言にイザヤに無いものがあつた。それは最後の一句であつた。

(38)  皆な其|葡萄樹《ぶどうのき》の下に坐し其|無花樹《いちじくのき》の下に居ん、之を懼れしむる者なかるべし

と。即ち|世界的平和到来の時には、人は各自小地主となりて、己が手にて作りし物を食ひ、己が建し家に安んぜんとの事である〔付○圏点〕。言あり曰く「神は田舎を造り、人は都会を作れり」と。そして所謂文明は都会文明である。人が集合して相扶けて、最大限度に地上の生命を楽まんとする努力である。そして夫れが凡ての患難《なやみ》を生じ、競争を起し、戦争を産んだのである。人が人に頼らずして神に頼る時に彼は自づから独立に成る。直に天然に接して、天然を通うして天然の神に近づかんとする信仰の人は自《おの》づと都会を離れて田舎に住まんとする。己が葡萄樹の下に坐し、己が無花果樹の下に居る事は彼の理想である。|世界的平和は自作農業の発達を促す〔付○圏点〕。末の日に神の国が地上に建設せらるゝ時には、東京、大阪、名古屋と称するが如き人間の集合地は跡を絶ちて、之に代るに全国に渉る小地主の自作農業の繁栄を見るだらう。そして地上に未だシベリヤ、ブラジル、カナダ等の如き広大なる耕地の未墾の地として存するは、預言者の理想の実現を俟つ為であらう。其時社会問題あるなく、人は皆な己に足りて平和は水の大洋を掩ふが如くに全世界に漲るであらう。(十二月十一日)

 

     其十一 平和実現の途 イザヤ書二章二-四節〇同十一章一-九節

 

〇同じイザヤ書の中に、平和実現の夢は二箇《ふたつ》ある。第二章と第十一章とにある。第十一章は第二章よりも有名である。二者を合はせて夢は完全の者となる。第二章は平和実現の時期を示し、第十一章は其人物を現はす。何時《いつ》平和は実現する乎と云ふのと、何人に由て成る乎と云ふのである。更に又、第一の夢は消極的であるに対して、第二の夢は積極的である。第一の夢は結んで曰ふ

(39)   斯くて彼等はその剣《つるぎ》を打かへて鋤となし

   その鎗《やり》を打かへて鎌となし

   国は国に向ひて剣をあげず

   再び戦闘の事を習はざるべし。

と。即ち戦争終熄の夢である。第二の夢は結んで曰ふ。

  斯くて我が聖山の何処《いづこ》にても害ひ傷《やぶ》る事なからん

  そは水の海を掩ふが如くヱホバを知るの知識地に充つべければなり

と。即ち平和充実の夢である。

〇そして平和は末の日にエツサイの裔に由て実現すると云ふのである。「末の日」である、何時《いつ》でもでない。又エツサイの商に由てゞある、何人《たれ》に由てゞもない。|平和実現に神の定め給ひし時と人とがある〔付○圏点〕。時は末の日である、人間が其努力を試みつくした後である。又全地に平和実現の準備が成つた後である。イエスは其時に就て示して曰ひ給うた、

  天国の此福音を万国の民に証しせん為に普く世界に宣伝へられん、然る後に末期《おはり》到るべし。

と(馬太伝廿四章十四節)。そして今は未だ其時でない事は明かである。又其時には「ヱホバの家の山は諸《もろ/\》の山の頂に堅く立ち、諸の嶺よりも高く挙り」とあるが、今はまだ其時でない事も亦明かである。世の末期は其爛熟の時である。天使が収穫《かりいれ》の鎌を人類の畑に入れる時である。其時に神の敵は悉く亡びて、国は国に向けて矛《ほこ》を挙げず、再び戦闘の事を学ばざるべしと云ふのである。そして未だ其時でない事は明かである。

(40)〇そして世界の平和を来たすに唯一人の人がある、其人はエツサイの裔であると云ふ。エツサイはダビデの父でありたれば、此平和の君と称せらるべき人はダビデの裔でなくてはならぬ。そして其人がヨセフの子として生れしナザレのイエスであらねばならぬ事は何人が見ても明かである。簡短に云へば、|世界平和は政治家の策動に由て来らず、エツサイの裔なるイエスキリストに由て来ると云ふのである〔付○圏点〕。そして歴史が能く此事を証明する。平和は平和会議に由て来らず。我等は今年も亦ジユネーブ市に於ける英米日の軍縮会議を見た。其れが立派に失敗に終り、其結果として米国海軍の大拡張となり、人は第二次世界戦争の遠きにあらざるを予想するに至つた。戦争を廃止する為の戦争は其日的を達せずして、其正反対の結果を生じ、ヴエルサイユ会議は戦争発生の為の多くの種を播いた。故ウイルソン大統領も、クレマンソーも、ロイド・ジョージも、我が西園寺公爵も、斎藤総督も、世界平和を招来《もちきた》すには余りに微弱である。之を成就するには神の遣し給へる特別の人が要る。イザヤは其人を指して云うた

  エツサイの株より一つの芽出で、その根より一つの枝生えて実を結ばん

と。そして|此人に由りて〔ゴシック〕狼は小羊と偕に宿り云々と。そして預言者の此言明ありしに拘はらず、米国前々大統領ウードロー・ウイルソンに由て世界は民主化せられて、平和は地上に臨むべしと想ひし基督教会の愚かさよ。平和は臨まずして、人に頼みし教会が世界大戦以来頓に衰へしは当然の結果と称せざるを得ない。

〇平和は来る、必ず来る、然れども人に由て来ない、輿論に由て来ない。神に由て来る。「ヱホバの熱心之を為し給ふべし」とある(九章七節)。世界の平和は神の大能に由らずしては成らざる事業である。然るに|ヴエルサイユ会議に於て一回の祈祷の神に捧げられしを聞かず〔付△圏点〕、たゞ諸強国代表の相談に由て平和は実現すべしと思ひし二十(41)世紀の政治家達の愚かさは、バベルの塔を築いて諸民族の一致を計りし古代の政治家等の愚かさに少しも劣らない。実に所謂「バベルの混乱」は世界最初の平和会議である。エツサイの裔なる平和の君イエスキリストを崇めざる平和会議は、縦令パリ、ワシントン、又カルビンの市なるジユネーブに於て開かるゝとも、悉くバベルの会議として、混乱に終るは明白である。そして此明白なる事実を弁《わきま》へ得ざる所謂基督教国の行為は不審に堪えない。

〇平和は外部の圧迫より来らず、内心の調和より来る。武器の精巧、経済の逼迫に由て人類は戦争を廃《やめ》ない。|其心に歓喜の充つる時に人は争闘を嫌ふに至る〔ゴシック〕。戦争を悪事なりと知りて之を止めるのではない、戦争が嫌ひになりて之を全然廃するのである。私の日本武士の魂にイエスの霊が臨んだ時に、私は戦闘を嫌ふ平和好きの武士に成つたのである。人類が戦争を止むる途も亦同じである。人が死を嫌ふが如くに戦争を嫌ふに至る時に、世界に平和は臨むのである。十二月十八日

 

     其十二 繁栄と審判 イザヤ書二章六-十一節

 

〇イザヤ書二章は世界平和実現の夢を以つて始まり、世界裁判執行の|知らせ〔付ごま圏点〕を以つて終る。恰かも晴天白日を以つて始まりし日が大暴風雨を以つて終るが如し。希望を以つて始まり失望を以つて終るが如し。然し斯かる事は無い事でない。暴風の前の平穏は気象学上よく有る事である。又人類の歴史に於て大戦争の始まる前に平和繁栄の普く世に行渡る場合尠からず。人生は平和と戦争である、静止と活動である。戦争の後に平和が来る如く、平和の後に戦争が来る。同じイザヤ書廿一章十一節に曰く

  斥候《ものみ》よ夜は何時ぞ、斥候よ夜は何時ぞと、

(42)  斥候答へて曰ふ、朝来り夜亦来ると。

 夜は明けて朝が来る、然れども朝は永久に続かない、朝の後に亦た夜が来ると云ふのである。平凡の事を云ふやうであるが、然し平凡であつて平凡でない。其内に大なる真理が含まれてある。人生全部が救拯の途程である。平和があり裁判がありて、救拯は完成せらるゝのである。「シオンは公平を以て、帰り来る者は正義を以て贖はるべし」とあるは此事である(一章廿七節)。正義の在る所に裁判は免かれない。正義を以て贖はると云ふは裁判を以て救はると云ふと等しくある。平和実現の約束の後に裁判執行の|知らせ〔付ごま圏点〕が記載されたとて決して不思議でない。批評家がイザヤ書第二章を前後の関係なき記事の点綴であると云ふは謂はれなき事である。

〇第五節「ヤコブの家よ、来れ我等ヱホバの光に歩まん」は平和を裁判に繋ぐ言葉である。平和の約束に関して云へば奨励の言である。裁判の預告に関して云へば警告の言である。花咲く野辺を辿る時も、雪吹く暗夜《やみよ》に彷《さまよ》ふ時も、頼るべきは此光である。

  ヱホバ彼等の前に往き給ひ、昼は雲の柱を以て彼等を導き、夜は火の柱を以て彼等を照らし、昼夜行き進ましめ給ふ(出埃及記十三章廿一節)

とある其光である。或る註解者は此一節を前部の平和の約束に附し、他の註解者は之を以つて後部の裁判の預告を始む。以つて前後共通の訓誡なる事が判る。

〇「主よ汝は汝の民ヤコブの家を棄たまへり」と云ふ。そして其結果を記して云ふ

   彼等の国には黄金白銀満ちて財宝の数限りなし

   彼等の国には馬充ちて戦車の数限りなし

(43)と(七節)。神に棄られし結果茲に至れりと云ふ。|神に棄られて国富みて兵強し〔ゴシック〕と云ふ。此世の見る所とは正反対である。或は結果を原因として見る事も出来る。国富みて兵強くなりたれば、民は神を忘れ彼を離れたれば、終に神の棄つる所となれりとも解する事が出来る。然し乍ら神に棄られし結果が富国強兵であると見るが預言者の見方である。預言者ホセヤの言に曰く

  エフライムは偶像に結び聯れり、その為すがまゝに任せよ(ホゼヤ書四章十七節)

と。神が人を棄たまふ時に其欲するがまゝに任かし給ふ。国に金銀を有り余まる程与へ給ふ。昔は馬と戦車今は軍艦と軍用飛行機とを数限りなく持たしめ給ふ。そして無智の民は富めりと云ひて神に感謝し、強しと云ひて祝福に誇る。彼等は屠らるゝ前に肥さるゝを知らないのである。カーライルが或る箇所に、英国が急激に富を増せしは神に棄られし証拠であると記いたことを記憶する。「英国人の手を触るゝ所、悉く金に化せり」と云うた。イザヤは茲に同一の事を云ふてゐるのであると思ふ。|富国強兵に神の祝福を見ずして呪詛を見る〔付△圏点〕。それでこそ真の預言者である。軍旗を祝福し、軍艦にバプテスマの式を施す教会の監督こそ紛ふべきなき偽はりの預言者である。

〇ヱホバに棄られて国富み兵強し。そして有り余る富は主として外国貿易より来る。ユダの場合に於ては、ウジヤ王の時に紅海のエジオンゲベルに港を得て、此所に紅海沿岸、更らに進んで東方印度との貿易に従事した。第十六節に「タルシシの舟」とあるは、大海の航路に耐ゆる当時の大船を指して云うたのである。ユダの富の激増は、英国の富と等しく、印度貿易より得たらしくある。G・B・グレー氏に依れば第六節の後半は左の如くに訳されべきであると云ふ。

(44)   彼等の内に貿易商横行し

   彼等は外国人と手を打てり(売買の約束を為せり)

と。難解の半節であるが、斯く解して前後の意味が明瞭に成る。農民の国たりしユダが貿易商人の国と化せし時に、富が増せしと同時に信仰が衰へ、迷信が盛んになり、ヱホバの棄つる所となりて、大審判が其上に臨んだのである。

〇繁栄に誇る国民の上に、忽焉として天より声の響き渡るあり、曰く

  汝岩間に入り、又土に隠れ、ヱホバの震怒《いかり》と其|威稜《みいづ》の光輝《かゞやき》とを避けよ

と。大審判は大繁栄の上に落ち来る。ユダの場合のみならず、凡て他の国民の場合に於て然りであつた。此次ぎに審判かるゝは何国《どのくに》である乎。一月十五日 〔以上、3・10〕

 

     其十三 理想と実際 イザヤ書二章より四章までの大意

 

〇預言者は一面に於てはヱホバの代言人であつて、他の一面に於てはイスラエルの愛国者である。彼は最も高貴なる意味に於ての愛国者である。人類の歴史に於て多くの愛国者が現はれたが、イスラエルの預言者の如き愛国者は之を見る事が出来ない。預言者は愛国者の模範である。愛国を預言者に学んで国は根本的に救はれ、民は徹底的に潔められた。英米のピユーリタン運動はミルトン、クロムウエルの如き深く預言者の精神を汲みし人達に依て起されし運動である。希臘、羅馬、日本の愛国者の貴きは言ふまでもないが、然しイスラエルの預言者に比べて見て、全く質の異なりたる愛国者である。私自身が旧約の預言者を読むまでは愛国の何たる乎を知らなかつ(45)た。イザヤ、ヱレミヤ、エゼキエル、アモス、ホゼア等に学んで、私は愛国の決して狭い、賤しい者でなくして、キリストの僕として私が懐くべき心であつて、又行ふぺき道であることを知つたのである。

〇預言者は愛国者として愛国者共通の途を辿つた。彼等が普通の愛国者と異なるは神に導かれし点に於て在つた。そして愛国者は彼が愛する国に就いて高き理想を懐く者である。此理想ありて彼の心は燃え、彼の腕は鳴るのである。そして預言者イザヤにも此理想があつた。此は最も美はしいもの、壮麗此類なきものであつた。我等が「平和実現の夢」と題して研究した彼の言が夫れであつた。

   ヱホバの家の山は諸《もろ/\》の山の巓《いただき》に堅く立ち、

   諸の嶺に越えて高く聳え、

   而して万国は河の如くに之に流れ帰せん云々。

と云ふのであつた。此場合に於て「ヱホバの家」と云ふはイスラエル即ち神の民を指して云ふのであつた。イザヤに取りては彼が所謂「ユダとヱルサレム」を云ふのであつた。其国其民が凡ての国民の上に立ち、万国は河の如くに之に流れ入るべしとの事であつた。普通の言葉を以つて云ふならば、|イスラエルは世界第一の国となりて、万国は之に帰服するに至るべし〔付○圏点〕と云ふのであつた。而かもイスラエルは威力を以つて万国に王たるに非ず、神の道を以つて世界を導くのである。

   ヱホバ其道を(彼処に)我等に教へ給はん

   我等はその道に歩むぺし。

   そは律法はシオンより出で、

(46)   ヱホバの言はヱルサレムより出づべければなり。

とあるが如し。そして如此き国に由て如此くに導かれて、戦争は世界に止み、平和は地の極にまで漲るべしと預言者は想うた。そして彼は己が理想に刺戟せられて言うた「噫ヤコブの家よ、来れ、我等ヱホバの光に歩まん」と。(イスラエル、ヤコブの家、ユダとヱルサレムの同意語なるに注意せよ)。

〇以上がイザヤが己が国に関はる理想であつた。多分彼が青年時代に抱いた理想であつて、彼は終生之を棄なかつた。実に荘厳なる、宏大無辺の理想であつた。之に比べて見て我国愛国者の懐いた日本国に関はる理想の如き、及ばざること遥に遠しである。西洋文明を輸入し、彼の武器を得て彼を制せんと云ふ類ではない。神の言を以つて、|唯之のみにて〔付○圏点〕世界を治めんと欲するのである。聖か狂か、然れども預言者の偉大なる、彼は終生此理想に由て生きた。彼はヱホバと其律法とに由て、其他に何の威力を用ひることなくして国を起し得べし、世界人類を治め得べしと信じた。其点に於て欧米今日の政治家と雖もイスラエルの預言者に到底及ぶべくもない。若しイザヤが今日英国又は米国の議会に立ちて彼の此理想を述べたならば如何《どう》であらう。彼は直に議場の外に引づり出されて、更らに民衆の石打する所となるであらう。

〇イザヤの国なるユダとヱルサレムに関はる彼の理想は以上の如くであつた。然るに実際は如何に? 理想が明かなればなる程、実際は明かに見え、高かければ高き程、実際は醜く見える。イザヤは彼の懐ける崇高の理想を以つて現実の社会に臨んで、

  |ヱホバよ汝ほその民ヤコブを棄て給へり〔付△圏点〕

と叫ばざるを得なかつた。理想と実際との懸隔が余りに多かつた。茲に於てか彼に感情の激変が起つた。斯かる(47)民に就いて斯かる理想を懐いた乎と思ふて、彼は自己の醒覚をさへ疑うたであらう。茲に於てか希望は失望に変じた。祝福は呪詛に化した。恩恵の約束は審判の宣告と成つた。此天職を持てる民が此状態に在るを思ふて彼は怒り、泣き、驚かざるを得なかつた。彼の此心理的状態に我等を置いて二章六節以下の彼の言を解する事が出来る。彼は茲に何れの理想家にもある所謂「産の劬《くるしみ》」を実験したのである。初めに美しき理想の夢、次ぎに実際に醒めたる時の苦しみ、終りに信仰に由る二者の調和、イザヤも亦向上の此通路を過ぎたのであつて、彼が我等の親しき兄弟である理由は茲に在るのである。(一月二十九日)

 

     其十四 実際のユダとヱルサレム イザヤ書二章六節以下

 

〇理想のユダとヱルサレムに比べ、実際のそれは正反対であつた。ヱホバの道を以て万邦を率うべき国が富に頼り、強を誇り、剰へ偶像に事へてゐた。預言者は対照の甚だしきに驚いた。驚きの極に彼は叫んで云うた「主よ汝はその民ヤコブの家を棄給へり」と。国に在るものは公義と信仰と平和の器でなかつた。曰く

   彼等の国には金銀充ちて財宝の数限りなし

   彼等の国には馬充ちて戦車の数限りなし

   彼等の国には偶像充ちて皆己が作れる者を拝めり

と。有るものは正義に非ずして金銭、平和に非ずして軍馬と戦車、ヱホバの神に非ずして偶像との事であつた。預言者は之を見て憤らざるを得なかつた、故に曰うた「彼等を赦し給ふ勿れ」と。

〇而して審判の忽ち彼等の上に臨むべきを予想し、彼等を警めて曰うた

(48)   岩間に入り、土に隠れ、以てヱホバの震怒《いかり》と其威光の光輝《かゞやき》を避けよ。

  其日には高ぶる者は凡て卑くせられ、驕《おご》る人は屈《かゞ》められ、唯ヱホバのみ高く揚げられ給はん

と。大審判は彼等の上に臨むべければ之を避くるの途を講ぜよ。而して其結果はヱホバの聖名のみ崇めらるゝに至らんとの事である。審判は価値の判定である。貴き者が崇められ賤しき者が卑《ひく》くせらるゝ事である。金銀貴からずに非ずと雖も至上善として貴むべき物に非ず。兵力恐るべしと雖も、以て公道を維持するに足らず。人は如何に尊しと雖も神として崇むべからず。而して価値の転倒する所に必ず神の審判は臨み、其結果として真の神のみ万物の上に崇めらるゝに至るべし。人類の歴史はすべて此プロセス(順路)であつた。物質、威力、人間、孰れも頼るに足らず、唯神のみ倚るべき永遠の磐なりと、其事を証明する為の歴史であつた。史学の始祖と称せらる、希臘のヘロドータスは曰うた、|神は嫉む者にして他の何物も己れ以上に崇めらるゝを許さず〔ゴシック〕と。そして彼の有名なる世界歴史は凡て此立場より記かれたものであると云ふ。イザヤは神の立場より、ヘロドータスは人間の立場より、同一事を言うたのである。

〇凡ての物は卑くせられ、唯ヱホバのみ高く揚げらるべしと云ふのが審判の原理である。理想のヱルサレム即ちヱホバの家の山は諸の山の巓に立ち、諸の嶺に越えて高く聳ゆるに対し、ヱホバを棄たる実際のヱルサレムは凡て高ぶる者、自身《みづから》を崇むる者と共に卑くせらるべしと云ふ。即ち馬太伝二十三章十二節に録されたるイエスの御言葉の適用である。

  凡て自己《みづから》を高くする者は卑くせられ、自己を卑くする者は高くせらるべし

と。神を離れたる人類の歴史は之を「低くする経路」と称する事が出来る。引下げ運動、階級の民衆化、言方に(49)様々あるが、竟《つま》る所はイザヤが曰へる如く

  凡て高ぶる者、驕る者、凡て自己を崇むる者………是等は皆な其日に卑くせらるべし

と云ふ事である。英国革命、仏国革命、世界大戦争、事柄は異《ちが》ふが其結果は同じである。帝と称し、王と称して、人が高く崇められし者が卑くせられし運動であつた。斯くて最大の審判は最後に行はるゝが、同種類の審判は常に行はれつゝある。

〇我等は預言者が此所に曰ふが如き審判を近頃屡々我国に於て目撃した。昨日までの富豪は今日は貧者と成つた。鈴木、村井、高田、松方等、最近までは「レバノンの高く聳えたる香柏、バシヤンの岡の橿樹《かしのき》」と称せらるぺき者が、今は卑くせられ、屈められて見る影も無きに至つた。個人として彼等に対し深き同情なき能はずと雖も、富や権力に依て高くせられし者が低くせられしは止むを得ない。是れ神の聖旨であるとも、天然の法則であるとも云ふ事が出来る。殊に「タルシシの凡ての舟」も卑くせらると云ふに至つては、事実其儘を目前に示されたるが如くに感ずる。タルシシの舟とは当時の大船の称である。広く世界貿易に従事した船を斯く呼んだのである。その大船が卑くせらたと云ふ。解し難きに見えて然らずである。大船は富を作る為の第一の要具である。殊に世界大戦当時に在つては大船一艘を有するは富者たる事であつた。所謂|船成金《ふななりきん》は数多出来た。汽船会社は一躍して大勢力と成つた。然るに今は如何。タルシシの舟は審判かれて卑くせられたではない乎。其最も顕著なるものが国際汽船会社である。数十隻の大船を擁して、今や其処分に窮する状態である。其他、東洋汽船、山下汽船、何れも見る影もなき状態である。茲に第二十世紀の初めに当つて紀元前七百年の昔、イザヤの時代に於けるが如くに、タルシシの舟が審判かれて卑くせられたのである。

(50)〇然し凡てのものが卑くせられて唯一つのものが高くせられた。イエスキリストの御父なる其の神の聖名が高くせられた。富者や権者が卑くせらるゝ丈け神の聖名が高くせらる。我国に於ても今日程日本人がキリストを慕ふ事は未だ曾つて無かつた。(二月五日)

 

     其十五 ヱルサレムの婦人(上) イザヤ書第三章の梗概

 

〇社会は男と女とより成る。男が堕落して女が堕落せざるはない。女は「|より善き半分〔付ごま圏点〕」であつて、男は腐敗しても女は純潔を維持して社会の堕落を阻止すると云ふは主として米国人の唱ふる所であるが、それは女を男よりも罪深き者と見る東洋人の見方丈けそれ丈け間違つてゐる。男女同権であるが如くに男女同罪である。神は偏り見る者に非ずであつて、神の言葉なる聖書は貴賎貧富に対するが如くに男女に対しても亦公平である。女性崇拝は男尊女卑丈け反聖書的である。基督教は女性を高むる者なりと称して、之に一種の神聖を附与するに至りしは西洋文明の一大欠点と称せざるを得ない。

〇イザヤは実際のユダとヱルサレムに多くの欠陥を見た。ヱホバを離れし結果として多くの不幸災害が彼等の上に臨んだ。先づ第一に彼等の間より人物が絶えた 真の軍人、真の政治家、真の判士、真の預言者、凡そ真の人が絶えた。

   我れ童子《わらべ》を以て彼等の主《きみ》となし

   嬰児《みどりご》に彼等を治めしめん

とあるが如くに、柔弱低能の徒が彼等の政治家と成りて彼等を滅亡の途へと誘ふ。其結果として

(51)   民は互に相|虐《しへた》げ、隣人互に相圧し

   幼者は長者を侮り

   匹夫は貴人を辱かしむ

と云ふ。同胞相鬩ぎ、隣人相苦しめ、弟は兄に背き、弟子は師を売り、上下転倒して下は上を辱かしむ。礼節全く絶えて社会に秩序無し。此は決して無き事に非ず イザヤのヱルサレムに在りし事を今日の東京に於て見る。曾て在りし事を今亦見ると言へば夫れまでであるが、此は容易ならざる事態であると知りて、我等は寒心せざるを得ない。

〇心の状態は外に現はれざるを得ない。イスラエルの背信、腐敗、堕落は之を其民の容貌に於て見る事が出来る。曰く

   彼等の顔色は其悪事を証す

   彼等はソドムの如くに其罪を示して隠さず

と。預言者はヱルサレムの街を歩行いて、彼が行会ふ市民の顔に其惡事を読んだであらう。其の多慾、其陰険、其絶望、其悪徳、孰れも明かに其容貌に現はれてゐたであらう。人相は決して偽りでない。視る目を以つて之を見れば其内に心を読むことが出来る。預言者は同時に人相見であつて、視る者即ち人格の透視者であつた。勿論我等は預言者を気取りて人の容貌に由り漫りに彼等を審判いてはならぬ。「人は外の貌《かたち》を見、ヱホバは心を視るなり」とある(サムエル前書十六章七節)。然れども人の容貌が或る程度まで其心の状態を現はすは誤りなき事実である。

(52)〇  禍ひなる哉彼等ほ害を己れに招けり。

   汝等義人に就て言へ、彼に善事ありと。

   禍ひなる哉悪人、彼に悪事来らん。

 平凡の理のやうに見える、然れども深い真理である。神の光に照らされざれば知る能はざる真理である。普通一般の人は思ふ、悪心必しも悪事を招かず、善心必しも善事を以つて報いられず、人の心と境遇とは比例するものに非ずと。然れども預言者は神の旨を受けて曰ふ「然らず、義人に善事あり、悪人に悪事来る」と。善悪は幸福に関係なき者に非ず、経済は道徳宗教と離して論ずべき事に非ず。徳は得なり。人は神の旨に反いて害を己れに招くのである。人生の実験は何人にも此事を示す。夫れにも係はらず人は明白なる義務を怠り、唯才智に由りて幸福を獲得せんと計る。運は運として求めて来らず、神を求め、其聖旨を奉じて来る。簡短にして深遠なる真理である。

〇又曰ふ(第十二節)

   あゝ我民よ、童子《わらべ》は彼等を虐《しへた》げ

   婦人は彼等の上に権を揮ふ

と。子を支配する能はず、その支配する所となる。男は女の首《かしら》たるに、女は男の上に権を揮ふ。神を棄し結果として万事が狂ひ、父父たらずして子子たらず、夫夫たらずして妻妻たらざるに至る。今日の社会が夫れである。親は子の暴虐に泣き、夫は妻の気儘勝手に悩む。米国最も甚だしく、日本も米国の跡に従ひつゝある。昔のユダとヱルサレムに此事があつて其国は終に亡びた。同じ原因は同じ結果に終らざるを得ない。

(53)〇そして男の上に権を揮ふ女は如何に鞫かるべき乎、其事を示すのが十六節以下二十六節までゞある。実に著しき記事である。之に依て預言者イザヤが如何に鋭き眼を以つて当時の社会を観察した乎が判明る。彼は単に国家人類の大事にのみ心を寄する人でなかつた。家庭の細事にまで眼を注いで、其処に人生の機微に触れた。彼の当時の婦人の衣服装飾に関する知識に驚くべきものがある。是れが万国を審判く大預言者の観察であらうとは如何《どう》しても思はれない。然れども彼の偉大さは細事にまで及んだ。彼が大偉人でありし所以である。(二月十二日)

 

     其十六 ヱルサレムの婦人(下) イザヤ書三章十三節以下〇エゼキエル書廿七章

 

〇圧制と奢侈とは同時に行はる。一は他の者の原因と成り亦結果と成る。奢侈に耽けらん為に圧制を行ひ、圧制に由て得し物を奢侈に使ふ。|奢侈は掠奪に由らずして行はれず。盗んで得し物は之を浪費す〔付△圏点〕。そして奢侈は主として婦人を以つて現はる。虚栄は婦人独特の弱点である。弱きが故に飾らんとする、飾りて其弱きを掩はんとする。婦人は晃子をして自己を飾らしむ、そして男子は婦人を悦ばせんが為に虐《しへたぐ》る。ヱゼベルのアハブに於けるが如し。預言者が奢侈を憤るは圧制に由て行はるゝからである。

〇大抵の人は奢侈贅沢は辜《つみ》の無い事、又軽い罪の事であると思ふ。然らずである。|奢侈は掠奪である〔付△圏点〕。一人の婦が身分不相応の装飾《かざり》を爲さんが為には、多くの他の婦が彼女の為に苦しまざるを得ない。若し労働が正当に報いらるゝならば、働く者が絹を着て、働かざる者は粗服に甘ずべきである。然るに単に良家の妻女たるが故に働かざるに美服を纏ふは働く著の報いを奪ふてゞなくてはならぬ。都会の女子は知らずして農村の女子の労働の結果を奪ひつゝ綺羅に其身を|やつ〔付ごま圏点〕しつゝある。昔し支那の詩人が歎じて言うた通りである。

(54)   昨日城郭に到り 帰来れば涙巾に満つ

   遍身綺羅の者  是れ蚕を養ふ人にあらず

 実に真を穿ちて謬りなしである。故に聖書に由れば奢侈は十誡第八条を以つて誡むべき罪である。汝盗む勿れと、汝他人をして汝の為に働かしめて、其労働の結果を奪ひて、汝の身を飾り、肉を楽しましむる勿れ。

〇イザヤ時代のユダ人は不正の商売に従事し、不正の富を獲て、之を不正に使用して身と魂に災を招いた。之を称して文明の罪悪と云ふ。勿論ヱルサレムの婦人のみを責むべきでない。又ユダ人のみ此罪を犯したのでない。此は社会の罪なるのみならず世界の罪である。人類全体が文明の恩化に与ると称して神の賜物を濫用し、生命を毒しつゝあるのである。イザヤ時代は決して野蛮時代でなかつた。文明は驚くべき程進歩してゐた。貿易は盛んに行はれた。技術は進歩し、製造は大規模に行はれた。ツロ、シドンが世界的貿易市場であつて、其大船は東は印度より西は今の英国まで通うた。クリート島、エジプト、バビロンが文化の三大中心であつて、此所に凡ゆる技芸が栄え、芸術品が盛んに産出せられた。そしてヱルサレムの婦人が其身を飾らんが為には、主としてツロ、シドンの商人の手を経て、外国の製品を仰いだのであらう。恰かも今日の日本婦人が其装飾品を巴里紐育に仰ぐと同じである。貿易は国を富ますの途であると云ふが、同時に亦国を亡すの途である。殊に未開国に於て然りである。入来る物は大抵は不用品である、贅沢品である。今日の巴里が其流行を以つて世界を毒しつゝあるが如くに、イザヤ当時のエジプト、バビロンがペニケの貿易商を通うして世界を堕落せしめたのである。

〇イザヤ当時のツロが世界貿易に従事した其広さと品目とを知らんと欲せばエゼキエル書第二十七章を読むべきである。其十六節に曰く

(55)  汝(ツロを指して云ふ)…汝の製造品の多きが故に、スリヤ汝と商売をなし、赤玉、紫貨《むらさき》、繍貨《ぬひとりもの》、細布《ほそぬの》、珊瑚及び瑪瑙を以て汝と交易す。

 又二十二節に曰く

  シバとラアマの商人汝と商売を為し、諸の貴き香料と諸の宝石と金をもて汝と交易せり。

 近頃シプラス島並にサルヂニヤ島に於いて発掘されしペニケ人居留地の遺物に由り、当時の身遍装飾の術の一斑を窺ふ事が出来る。其内にイザヤ書の此箇所に記せる瓔珞がある、手釧がある、耳環がある、又指環がある。殊に水晶に刻込《ほりこま》れたる香盒《かうがう》がある。以つて此記事の当時の真相を写せしものなる事が判明る。

〇依て知る今日文化は進歩したりと云ふも必しも然らざるを。昔あつた事を今繰返しつゝあるに過ぎない。ヱルサレム婦人を今猶ほ巴里、倫敦、東京に於て見るのである。近代式《モダーン》は近代式ならず、旧式である、二千六百年旧くある。絶対的に新らしき者は唯一つ、神に新たに造られし霊魂、其他はすべて旧くある。今の東京婦人にして紀元前七百年のツロ、ヱルサレムの婦人丈け華美《はでやか》に装ひ得る者は多分一人もあるまい。それを思ふても装飾に身をやつすの愚かさが一層深く感ぜらる。

〇斯く云ひて装飾を絶対に拒否するのではない。美を愛するは人の天性である。天然の美を発揮し之を維持するやうに何人も努むべきである。敢て殊更らに|むさくる〔付ごま圏点〕しく見せるに及ばず。マダム・ギヨンが夫の心を矯めんが為に改革に烙鉄《やきがね》をもて己が麗顔を焼きたりとの事は決して誉むべき事でない。少女には少女の美があり、老人には老人の美がある。美も亦神の賜物であれば神聖に之を保存し使用すべきである。そして奢侈は却つて真美を損ふ。装飾度を過ぐれば美は変じて異形《いぎやう》(grotesque)と成る。天使の眼より見て着飾りたる婦人は美人としてに非(56)ずして、寧ろ変化《へんげ》として見ゆるであらう。二月十九日 〔以上、4・10〕

 

     其十七 潔められしヱルサレム イザヤ書第四章

 

〇理想のヱルサレムに対して実際のヱルサレムがあつた。理想は美しくありしに対し実際は醜くあつた。実際を見て預言者は失望せざるを得なかつた。彼は之に対し神の大なる審判《さばき》の臨むべきを預言した。実際のヱルサレムは尊きも卑しきも、男も女も保存さるゝの必要なきまでに腐つた。イザヤは何の顧慮する所なく思ふ存分に当時のユダとヱルサレムとを呪うた。

〇然し乍ら失望は絶望でなかつた。審判は殲滅を意味しなかつた。審判は潔めらるゝ事であつた。ユダとヱルサレムとを滅び尽さん為の審判にあらずして、救ひ拯けん為の審判であつた。其処に預言者イザヤの強い信仰があつた。彼は其長子を名づけてシヤルヤシユブと云うた(七章三節)。之を訳せば「残れる者還るべし」との意であつた。更に之を説明すれば「その残れる者、ヤコブの残れる者は大能の神に還るべし」との意であつた(十章廿一節)。即ち審判かれて善しと認められて残りし者はヱホバに還りて其恩恵に与るべしとのことである。審判を其一面より見れば是である。残れる者の現はれんが為である。滓が焼き尽されて純銀のみが残らんが為である。そして神の選び給ひし民は悉く滓でなかつた。其内に必ず純銀があつた。「我悉く汝を滅さじ」と彼は幾度か預言者を以つて彼等に告げ給うた。故に預言者の憤怒に常に際涯《はてし》があつた。彼等は暴風の後に常に晴天を望んだ。ヱルサレムは審判を以つて贖はるべしと云うた。滅ぶべしとは云はなかつた。

〇イザヤ書第四章は小黙示文学である。約翰黙示録を縮めたやうな者である。此世の終末に就て示した者である。(57)文字通りに解釈すべきではないが、大体の事実は明白である。其内の中心的真理は|残れる者は救はるべし〔付○圏点〕と云ふのである。「逃れ残れる者、シオンに残れる者、ヱルサレムに留まれる者」と云ふのがそれである。即ちシヤルヤシユブである。そして凡ての恩恵は彼等の上に降ると云ふ。第一に地は改造せられて其産は豊かになり残れる者に貢ぐであらうとの事である。「ヱホバの枝は栄え、地より生産する実は優れ且美はしく」と云ふは此事である。所謂万物の復興である。第五節は神の臨在を示す、「凡ての物の上に栄光の覆庇《おほひ》あるべし」と云ふ。黙示録二十一章三節に

  神の幕屋 人の間《なか》に在り、神 人と共に住み、人 神の民となり、神亦人と共に在して其神と成給ふ

とある其事である。第六節は如斯くにして恵まるゝ民に隠家《かくれが》の供へらるゝ事を示す、「一つの仮廬《かりいほ》」とあるがそれである。仮家《かりや》が暴風雨を避くる所とならうとは受取り難いが、それが黙示文学である。文字通りに解すること能はずと雖も其内に深い意味を見出す事が出来る。救はれたる者と雖も避難所を要すと云ふのである。罪人は救はれても猶ほ「怒りの子」である、何時審判の霊に吹捲《ふきまく》られて其立場を失ふ乎も知れない、其場合に避難所が要る。信者に取りてはキリストの十字架がそれである。詩篇九十四篇廿二節に「神は我が避所《さけどころ》の磐《いは》なり」とあるそれである。

〇そして恩恵は凡てが審判かれて後に降ると云ふ。

  そは主 審判する霊と焼き尽す霊とをもてシオンの汚《けがれ》を洗ひ、ヱルサレムの血をその中より注ぎ給ふ時到るべければ也(第四節)

とある。恩恵は全体が審判かれて後に残れる者に降ると云ふ。|審判を経ずして恩恵は降らずと云ふ〔付△圏点〕是れ亦預言(58)者全体の主張であつた。審判に由て汚穢《けがれ》を洗はれて然る後に恩恵は降ると云ふ。そして此は神が人に恩恵を降し給ふに方つて取り給ふ変らざる途である。不変の法則であると云ひて実際に間違はないと思ふ。人が人である間は審判が必要である。審判は洗浄であり、試練である。そして汚物が焼き尽されて残部が拯るのである。国家も人類も社会も個人も此途を経て救はるゝのである。|審判なくして救拯はない〔付△圏点〕。「凡ての物は血を以つて潔めらる、血を流す事あらざれば赦さるゝ事なし」と云ふは人生の全部に渉る大真理である。

〇斯くてユダとヱルサレムに限らず我等各自も亦審判の霊の働きに由り凡ての汚《けがれ》を洗はれて、我等の衷に残れるものを以て救はるゝのである。我が全部が救はるゝに非ず、焼かれざる者が残りて其物が拯かるのである。「ヱルサレムに存《ながら》ふる者の中に録《しる》されたる者は聖と称《とな》へらるべし」とある。生命の書の中に録されたる者は救はるべしと云ふと同じである。偶然に、幸にして焼け残つたのではない、生命の書の中に予め録されたる者が神の聖旨《みこゝろ》に循ひ残るを得たのである。残る事其事が神の恩恵である。神は恵まんと欲する者を恵み、憐まんと欲する者を憐み給ふとの福音的真理が此所にも亦示されてあるを見る。そして審判は様々の形を取りて我等に臨む。或は誘惑となつて、或は威嚇として臨む。我等之に勝たん乎、或物を失ひて或物が残る、そして其残る物の上に神の恩恵が降る。死が最後の審判である、我等の汚を焼尽す最も熱き火である 「そして残れる者は救はるべし」である。二月二十六日

 

     其十八 イザヤの聖召(一) イザヤ書第六章、ヱレミヤ記一章、出埃及記三章

 

〇人は神に召されずして信者たる能はず、預言者たる能はず、伝道師たる能はず。神の器《うつは》は神自身が選び給ふ者(59)であつて、人が自から進んで神職に就いたのでない。神の真の僕はすべて此事を知る。神に召され、彼に囚へられてその僕となつたのである。故に止むを得ないのである。その模範的実例は預言者アモスである。ペテルの祭司アマジヤが王城の地なるペテルに於て再び預言する事を禁ぜし時に、アモスは答へて曰うた

  我は預言者に非ず、また預言者の子にも非ず、我は牧者なり、桑の樹を作る者なり。然るにヱホバ羊に従ふ所より我を取り、往きて我民イスラエルに預言せよと我に宣へり(アモス書七章十四、十五節)。

と。此時既に預言を職業とする者があつた、又世襲的預言者があつた。故にアモスは言うたのである「我はその孰れにもあらず、惟ヱホバ我に預言せよと命じ給ひたれば、我は其命に服《したが》ひて預言するのである、故に人なる祭司の命に聴いて預言を廃する能はず」と。信者の確信も預言者の権威も直接に神に召されたるより来るのである。基督信者に最もよく知られたる実例は使徒パウロの場合である。

  人よりに非ず、又人に由らず、イエスキリストと彼を死より甦らしゝ父なる神に由りて立られたる使徒パウロ………我が母の胎を出し時より我を選びおき恩恵をもて我を召し給ひし神、其子を異邦人の中に宣べしめんが為に聖心《みこゝろ》に善しとして彼を我心に示し給へる其時云々(ガラタヤ書一章)。

 之に依て観るに、パウロは今の多くの教会の伝道師の如くに、或は外国宣教師に勧められ、或は其他の情実に余儀なくせられて異邦人の使徒に成つたのでない。或は又社会改造、国家救済を目的に伝道に従事したのでない。発意は総て神に在つて人にも自分にも無かつた。自から立つたのではなくして神に押立られたのである。故に辞する事が出来なかつた、又如何なる妨害に会ふとも廃める事が出来なかつた。聖召は信仰、聖職の発端であり、原因であり、持続遂行の原動力である。パウロの場合然り、イザヤの場合然り、我等各自の場合然りである。

(60)〇旧約聖書に於て著名なる聖召は三つある。其第一は出埃及記三-四章に録されたるモーセの聖召、其第二はイザヤ書六章の預言者イザヤの聖召、其第三はヱレミヤ記第一章の預言者ヱレミヤの聖召である。三者相似て相異なる。何れも顕著《いちじるし》き記事であつて、聖書以外に如此きものを見ることは出来ない。モーセの場合に於てヱホバは棘《しば》の裡《うち》の火炎《ほのほ》の中にて彼に現はれ、棘は火に燃ゆれどもその棘《しば》焼《やけ》ず、即ち神 棘の中よりモーセよモーセよと呼び給へりと云ふ。場面は当時モーセが滞留せしミデアンの沙漠であつて、此所にヱホバは辞退《いやが》るモーセを駆つてイスラエルの民を救はん為にエジプトの地へと逐ひ給うた。第三のヱレミヤの場合に於て、場所は録してないが、聖召の性質が能く召されし者の性質を現はしてゐる。預言者中で最も勇敢なりしヱレミヤは生れつき最も内気なる臆病の貿《たち》の人であつた。而かも此人が胎に造られざりし先きより神に聖められ、万国の預言者として定められしが故に、彼の言に由つて国と民とは或は立ち或は覆《たふ》るべしとの事であつた。そして彼の生涯が彼が自己に就て想ひしとは正反対の生涯であつて、彼の場合に於ても亦召されし者の欲《このみ》に非ずして召し給ひし者の聖旨《みこゝろ》が成つたのである。ロマ書九章十一節参考。

〇イザヤはモーセと異なり沙漠の人に非ずして神殿の所在地なる都の人であつた。故に彼の聖召は神殿に於て行はれた。モーセが棘の裡に燃ゆる焔の中にヱホバを見しに対してイザヤは高く上がれる御座に坐し給ふ彼を拝した。イザヤは亦モーセ並にヱレミヤと異なり聖召を辞退せずして謹んで御受けした。

  我またヱホバの声を聞く、曰く「我れ誰を遣さん、誰が我等の為に往くべき乎」と。我れ曰ひけるは「我れ此に在り我を遣はし給へ」と。

 イザヤは他の二人に此べ従順《すなほ》であり落着《おちつい》てゐた。同時に彼の罪の観念が深かつた。モーセが|訥弁〔付○圏点〕を恐れ、ヱレ(61)ミヤが|弱き〔付○圏点〕を怖れしに対し、イザヤは強く|穢れ〔付○圏点〕を感じた。ヱホバは特に聖き神として彼に見えた。彼は

  聖なる哉聖なる哉聖なる哉万軍のヱホバ

と天使が讃《たゝ》ゆるを聞いた。所謂 TRISAGION 聖名三重頌の声である。聖にして又聖にして又聖なる神である。其能力に於て智恵に於て慈愛に於て聖なる神である。罪の人の近づく能はざる神である。然れども御自身|謙遜《へりくだ》りて罪人に近づき給ふ神である。

  茲にセラピムの一人、鉗《ひばし》をもて壇の上より取りたる熱炭を手に携へて我に飛来り、我口に触れて曰ひけるは、視よ此火汝の唇に触れたれば、既に汝の悪は除かれ汝の罪は潔められたりと。

 イザヤが落着の人、また熱情の人、清浄正義の人でありし所は以上に由て判明る。彼は預言者中で最も|円満且偉大なる者である〔付○圏点〕。三月四日

 

     其十九 イザヤの聖召(二) イザヤ書第六章

 

〇時はキリスト降世前七百四十年頃であつた。預言者イザヤは多分二十歳を超ゆる事多からざる青年であつたらう。彼は大なる異象を見た。此異象に由て彼の生涯の方針は定まつた。彼の生涯に於ける最大の出来事であつた。パウロがダマスコ途上に栄光に輝くイエスに会うたに対比すべき出来事であつた。イザヤは此前にも後にも多くの異象を見た、然し是れが最大の者であつた。是れが彼が蒙りし聖召であり、又彼に臨みしコンボルシヨン(改信)であつた。是に由て彼の生涯は一変した。此時より彼は特別の意味に於てヱホバの預言者と成つた。

〇此年にユダヤの王ウジヤが死んだ。彼は南方王国中興の王であつた。彼は十六歳にて位に即き、彼の治世は五(62)十二年続いた。彼は信仰正しく、国政を愆《あやま》らず、国威を四囲に及ぼし、南の方エドムを征服し、紅海エラトに港を築き、紅海沿岸より延びて印度波斯と貿易した。彼の治下にユダヤは再び強国と成つた。

   彼等の国は黄金と白銀とにて充ち、

   其財宝ほ際限あるなし

   彼等の国は亦馬にて充ち

   其|戎軍《いくさぐるま》の数限りなし

と預言者が前に言うた通りであつた(二章七節)。事は歴代志略下二十六章に審かである。

○比王が死んだのである。そして此年にイザヤが此大異象を見たのである。此れと彼れとの間に大なる関係なかるべからずである。|ウジヤ王の死は我が明治天皇の崩御に此ぶべき者である〔付○圏点〕。盛んなる長き治世の終りである、国民全体が大なる衝動《ショツク》を受け、大なる失望に沈んだ。恰かも太陽が西山に没せし観があつた。行末如何ならんと思ひて人々疑倶の念に襲はれた。そして全国諒闇に入りし時にイザヤは此異象に接したのである。夜か朝か、暗黒か光明か。彼は諒闇に光明に接した、而かも其の光明は暗黒を示す者であつた。彼が後に聞きし声を、彼は今|異象《まぼろし》に見たのである。

  斥候《ものみ》よ夜は何時ぞ。答へて曰ふ朝来り夜亦来る。

と(二十章十一、十二節)。彼の霊眼には朝と夜と、救拯と審判とが交互に往来した。

〇地上の大王は逝いた、其時天上の大王が現はれ給うた。恰かも太陽が没して蒼穹の森羅万象が現はるゝが如しである。地上の栄華は天上の栄光を覆ひ隠くす。我国の明治時代がそれであつた。国は外に国威を発揮し、内に(63)急激の進歩を為して、日本人の霊性は頓に退歩し、天上の光を失ひて、大正昭和の霊的暗黒を招いた。ユダヤに於ても同じであつた。ウジヤの治世は外に善くあつて内に悪しくあつた。国は黄金と白銀と馬と戎軍とに充ちて、ヱホバは其聖顔を隠くし給うた。人が高くせられて神が低くせられた。そして其人が取去られて、国民挙つて憂愁の雲に包まれし時に、ヱホバは預言者に顕はれ給うたのである。

  ウジヤ王の死たる年に、我れイザヤ、ヱホバの其の高く上がれる御座《みくら》に坐し給ふを見たり

と。実に偉大なる事実である、然し人類の歴史に於て幾度か繰返さるゝ事実である。外の損失は内の利得である。人生の出来事にすべてコムペンセーシヨン(代償)がある。神は御自身を以つて此世のすべての損失を償ひ給ふ。此償ひを知らずして、損失をすべて損失と見做す民は禍ひなる哉。

〇ヱホバは聖殿に降りて御自身を預言者に顕はし給うた。然れどもイザヤの拝し奉りし者は彼の聖顔に非ずして其|衣据《もすそ》であつた。彼は大王を其|足台《あしだい》に於てのみ拝した。地上の臣下が其王に近づくに方つて、顔と顔と相対せずして唯其足下に平伏す。況して人が神に近づかんとする時に於てをや。僅かに其衣裾を拝し得るは当然である。イザヤは多くの近代人が為さんと欲するが如くに所謂見神の喜楽に耽らんとしなかつた。彼は馴々《なれく》しく神に近かんとしなかつた。彼が神を見たりしと云ふは其衣裾を拝したりと云ふのであつた。そして此謙遜なくして神を識り得ない。「若し其衣の裾にだにも※〔手偏+門〕《さは》らば癒えん」と言ひし十二年血漏を患ひし婦人の信仰と謙遜とである(馬太伝九章二一節)。是れなくして神は見えない。哲学を以つて神を見ん、神学を以つてキリストを解らんと欲する近代の若人《わかうど》が神をもキリストをも解し得ざるは、彼等に若きイザヤに有りし此謙遜が無いからである。

〇神の御姿《みすがた》にして拝するを得しものは其衣裾であつた。他は彼を包み奉る周囲であつた。「セラピム其上に立つ」(64)とある。天使に二班ありて其一班はケルビムであり、他の一班はセラピムであると云ふ。ケルビムは神の威厳を守る天使であり、セラピムは其神聖を守る天使であると思はる。創世記三章末節に云ふ「神、其人を逐出し、エデンの園の東にケルビムと自から旋転《まは》る焔の剣《つるぎ》を置きて生命の樹の途を守り給へり」と。彼と是と比べて見て二班の別が解る。「上に立つ」は「上を被ふ」又は「上を隠す」である。唯衣裾を現すのみであつて、其余は天使が被《おほ》ひ奉れりと云ふのである。

 

     其二十 イザヤの聖召(三) イザヤ書第六章

 

〇セラピム各自に三対の翼《つばさ》があつた。其一対をもて面を掩ひ、其他の一対をもて足を掩ひ、残りの一対をもて飛翔けた。面を掩ひしはヱホバの栄光の眩《まばゆ》さに堪えなかつたからである。足を掩ひしほ聖前を憚りてである。斯くて天使は謙遜であつた。面を上げて聖顔を拝し得なかつた。足を露はして聖前を涜すを恐れた。礼節は偽善に非ず、謙遜の表現である。天使にすら礼儀がある、況んや人間に於てをや。低いプロテスタント主義は米国流の低い民主思想を生み、其結果として礼節地を払ふに至りしは歎ずべきの極みである。

〇ヱホバの神聖を守るにセラピムの二班があつた。或は一対であつた乎も知れぬ。二班は相互に呼はりて曰へりと云ふ。音楽で云ふアンチホーン即ち答唱歌である。彼れ歌ひて我れ之に和するの類である。

  聖なる 聖なる 聖なる万軍のヱホバ

と第一班が唱ふれば

  その栄光は全地に盈つ

(65)と他の一班が和して歌うたのであらう。荘厳極まる天使の組織せる唱歌隊の合唱である。地上の作曲家は僅かに之に傚ふに過ぎない。ハンデルも、ハイデンも、ベートーベンも僅かに之を模倣したまでゞある。ヨブ記三十八章七節に、天地の基《もとゐ》が置かれし時に

   かの時にほ晨星《あけのほし》相共に歌ひ

   神の子たち皆な歓びて呼はりぬ

とあるはアンチホーンの他の例である。

〇「聖なる、聖なる、聖なる」と三度繰返して曰ふは、聖《せい》を高調するの言方であつて、|完全に聖なる〔付ごま圏点〕の意である。或は義にして恩恵《めぐみ》ある能力《ちから》ある完全の神と解して解し得られざるに非ず。基督教会は之を TRISAGION 聖名三称と称し三位一體の神を讃えし言葉なりと唱へ来つた。意味は深遠にして|いか〔付ごま圏点〕様にも之を解する事が出来る。聖に「近づくべからざる」の意味がある、亦純正の意味がある。「ヱホバの聖眼は悪を見るに堪へず」と云ふ其聖である。心の聖を意味する詞である。単に儀式的の聖でない、倫理的、道徳的の聖である。

〇  聖なる 聖なる 聖なる万軍のヱホバ

   其栄光全地に盈つ。

 「万軍のヱホバ」とは森羅万象の神と解するが最も適切であると思ふ。戦争の神でない、造化の神である。彼は昴宿《ばうしゆく》の鏈索《くさり》を結び、参宿の繋縄《つなぎ》を解き、十二宮を其時に順ひて引出し、また北斗と其子星を導き得る者である(ヨブ記三十八章三一、三二節)。そして此造化の神が聖であると云ふ。信望愛の神であると云ふ。父が其子を憐むが如くに己を畏るゝ者を憐み給ふ神であると云ふ。偉大なる思想である。神を小なる愛の神と見る者はある、(66)亦大なる能力の神と見る者はある。然れども|宇宙の神、是れ聖なる神、即ち愛と憐愍の神〔付○圏点〕と見た者はイスラエルの預言者の外に無い。「聖なる 聖なる 聖なる 万軍のヱホバ」、是は信仰の目標であつて哲学の究極である。此神を発見した時に宗教も哲学も其終極に達するのである。

〇「其栄光全地に盈つ」と云ふ。預言者はヱホバの衣据《もすそ》の聖殿に充つるを見た。然るにセラピムは曰うた「其栄光全地に盈つ」と。天使は預言者よりも|より〔付ごま圏点〕以上を見た。そして天使の見た所が真理である。其栄光は全地に盈つ、其隅々に盈つ。北極より南極まで、海にも陸にも、水の一滴にも土の一塊にも、原子エレクトロンに至るまで彼の栄光は充ち溢れてゐる。宇宙の神は地上の神である。外在《マネント》の神は内在《イマネント》の神である。そして同じく聖なる神であると云ふ。神に関する思想は之で尽きてゐると云ふ事が出来る。二千年に渉りて哲学者が努力して発見する能はざりし神を、二千六百年前の昔、イザヤは天使が彼に伝ふるを聞いた。

〇「斯く呼はる者の声に由りて閾《しきゐ》の基《もとゐ》揺動《ゆりうご》き家の内に煙満ちたり」とある。天使合唱の声は大きくして聖殿の閾の基動き、其内に塵煙満てりと云ふ。多分男声の太きものであつたらう。荘厳なるはソプラノーに非ずしてベースである。殿《みや》の閾の基礎《もとゐ》を揺《ゆる》がし、それが為に砂煙《すなけぶり》が揚りしと云ふ。ヱホバを讃えまつるに如斯き声が揚らねばならぬ。音楽礼拝も茲に至つて有力である。而かも是れ芸術であつてはならない、聖書に所謂「讃美の献物《さゝげもの》」でなくてはならない。

〇偉大なる光景なる哉。言葉は簡短である、然れども叙述は完全であつて、毫も補足の必要を感じない。荘厳無比の光景である。「ヱホバは其聖殿に在ます、世界の人其前に静かにすべし」と云ふ光景である(ハバクク書二章二十節)。イザヤは如何にして如斯き異象に接したのであらう乎。是は単に彼の想像であつたらう乎。或は彼が(67)聖殿の祭事を理想化した者であらう乎。さうとは思へない。彼が見し光景が余りに壮大である、又其忠義が余りに深遠である。是は特に神が彼に示し給ひし異象と見るが適当である。是は活画を以つて与へられし啓示《しめし》である。勿論画は彼の解し得る者であつた。然し彼れ自身が描いた者でなく、神が彼の為に特に描きし者であつた。四月八日 〔以上、5・10〕

 

     其二十一 イザヤの聖召(四) イザヤ書第六章五-八節

 

〇異象を見てイザヤは神を見た事に気附いた。茲に於てか大なる恐怖の襲ふ所と成つた。彼は曰うた、

  禍ひなる哉、我れ亡びなん……我が眼は万軍のヱホバなる王を見たり

と。ヱホバは曾てモーセに告げて曰ひ給うた

  汝は我が面を見ること能はず、我を見て生くる人あらざればなり(出埃及記三三章二〇節)

と。故にイスラエル人は誰も神の面を見ることを恐れた。サムソンの父マノアはヱホバの使者を待遇《もてな》し、神を見たりしと思ひ、恐れて其妻に告げて曰く

  我等神を視たれば必ず死ぬるならん

と(士師記十七章二二節)。斯くてイスラエル人に取つては神を視るは幸福《さいい》に非ずして禍ひであつた。彼等に取り神は声であつて形でなかつた。神の聖姿《みすがた》に接せんとは誰も欲《おも》はなかつた。そしてイザヤの場合に於て彼は僅かに其衣裾を拝したのである。マノアはヱホバの使者に接したのである。そして彼が御自身を人に顕はし給ふに方りては、彼は聖子をして人の貌《かたち》を取り、人の如き形状《ありさま》にて現はれしめ給うた(ピリピ書二章六-八節》。イスラエル(68)人は決して|見神〔付○圏点〕を軽々しく取扱はなかつた。其処に彼等の宗教の森厳《おごそか》さがある。

〇|真の見神に罪の自覚が伴ふ〔付○圏点〕。神の聖きを拝して自己の汚《きたな》さが判明る。罪の感覚を起さゞる見神は偽はりの見神である。恍惚として神の御姿を拝したりと云ふが如きは自己の理想を夢に見たるに過ぎない。神は道義的実在者《モウラルビーイング》である、故に彼に接して道義的変化を起さゞるを得ない。ペテロが初めてイエスの神性を認めし時に、彼は其足下に平伏《ひれふ》して曰うた

  主よ我を離れ給へ、我は罪人なり

と(ルカ伝五章八節)。イザヤも此処にヱホバの栄光を拝して、先づ彼に起りしは強き罪の観念であつた。

  我は穢れたる唇《くちびる》の民の中に居りて穢れたる唇の者なるに、我が眼は万軍のヱホバを見たり

と。彼は殊更に彼の唇の穢れを感じた。彼は今まで強き言葉を以つて彼の国人の罪を責めた。然るに今、聖にして聖なるヱホバの御姿の一端を拝して、己が唇の穢れを痛感した。人の罪を責めし我が此唇、是れ穢れたる唇なりと彼は覚《さと》つた。「我は聖言《みことば》を語る資格なき者なり」と彼は叫んだであらう。そして是れ当然の叫びである。イザヤも亦多くの神の僕と共に自己の罪に気附く前に他人の罪を責めた。人の悪しきを知つて自己の悪しきを知らなかつた。然るに神に接して、自己の罪人の首《かしら》なるを知つた。「禍ひなる哉、|我れ〔付○圏点〕亡びなん」と曰うた。亡ぶべきはユダとヱルサレムではない。|我れ自身〔付○圏点〕である。見神の直接の結果は卑下である、謙遜である。すべて偉大なる事、すべて深遠なる事は、此深甚の謙遜より始まるのである。

〇預言者は己が罪に覚めて唇を緘《とぢ》られた。我は再びヱホバの名を以つて語らじと心を決たであらう。然り、彼が自から語るの時は過ぎた、今より後はヱホバに代りて語るべくあつた。神は彼の唇を潔むる事が出来る、そして(69)彼が潔めの事実を感得せんが為に茲に亦一つの異象が与へられた。

  爰にかのセラピムの一人、鉗《ひばし》をもて祭壇の上より熱炭《あつきひ》を手に携へて我に飛び来り、我が口に触れて曰ひけるは、「視よ、此火汝の唇に触れたれば汝の悪は既に消え、汝の罪は贖はれたり」と。

 火は潔むるもの、「我等の神は焼尽す火なり」と云ふ(ヒブライ書十二章二九節》。祭壇の熱炭に触れて預言者の唇は潔められたりと云ふ。半ば譬喩にして半ば事実である。譬喩的に示されたる事実なりと云はん乎。罪を天に得て訴ふる所なしと云ふが、罪を神に赦されて訴ふるの人なしである。ロマ書八章三三、三四節参考。|如何にして〔付ごま圏点〕赦されし乎は別問題として、イザヤは茲に確かに罪を赦されしを知りて、神の前に立つを得て、再び語るの勇気を得たのである。罪を示され、罪を深められ、そして神の人たるの資格を賜はる。「凡ての事神より出づ」である。預言者たるは凡て神の業《わざ》である。

〇時にヱホバの声を聞く、曰く

  我れ誰をか派さん、誰が我等の為に往かん

と。潔められし若き預言者は此声に応へて曰く

  我れ此所にあり、我を遣はし給へ

と。イザヤに今や疑懼躊躇はなかつた。彼は預言の大任に当らんとて自己を提供した。罪を潔めらるゝの結果は人をして常に茲に至らしむ。彼は竦《すく》まない、後退《あとじさ》りしない。|公的責任の辞退は主として罪の除かれざるより来る〔付△圏点〕。罪を除かれて、自己に求むる心を取去られて、人は大胆になり、快活になる。人をして小人たらしむるものは罪、偉人たらしむるものは罪の芟除《さんじよ》である。「我れ此所に在り、我を遣はし給へ」と。此世に在りて担ふべき(70)責任は許多ある。唯之に当る者がないのである。何れも罪に妨げられて自己を棄てゝ大責任に当り得ないのである。|就職難〔付○圏点〕は常にあるが、|当職難〔付○圏点〕は曾つてあるなしである。四月廿二日

 

     其二十二 イザヤの聖召(五) イザヤ書第六章

 

〇若き預言者はヱホバの聖召《みまねき》に応じた。彼はその命令に従はんと申出た。然るに其命令たる奉ずるに甚だ難きものであつた。|国の滅亡と民の俘囚とを宣告する事であつた〔付△圏点〕。愛国者に取り斯んな辛らい事はない。預言者は往きてユダとヱルサレムとに斯く告ぐべく命ぜられた(九、十節)

   汝等聞きて聴くべし然れども悟る勿れ、

   汝等見て視るべし然れど識る勿れ。

   汝、此民の心を鈍《にぶ》くせよ、

   其耳を盪《とろ》くせよ、其眼を閉ぢよ、

   恐くは彼等其眼にて見、其耳にて聞き

   其心にて悟り、翻《ひるがへ》りて癒さるゝことあらん。

と。是は絶望的状態である、民は救はるゝの望み無しと云ふのである。聞くも悟らざるべし、見るも解《わか》らざるべし、然れども語るべし示すべしと云ふのである。而かも悟らせん為に語るに非ず、心を鈍くし、耳を盪《とろ》くし、眼を閉ん為に語り又示すべしと云ふのである。即ち彼等を救はんが為に非ず、彼等を滅さんが為に伝道すべしと云ふのである。未だ曾つて斯んな命令の神より人に降つた事はない。如何に絶望的状態に於てあるとも、民を殲《つく》さ(71)ん為の伝道とは未だ曾つて試みられしを知らず。イザヤは此声を聞いて神の声として之を受取つたであらう乎。ヱホバは憐愍の神でない乎。ヱホバはシナイ山にてモーセに告げて曰ひ給うた

  ヱホバ、ヱホバ、憐憫《あはれみ》あり、恩恵《めぐみ》あり、怒ること遅く、恩恵《めぐみ》と真実《まこと》の大なる神、恩恵を千代までも施し 悪と過《とが》と罪とを赦す神

と(出埃及記三十四章六、七節)。斯かる神が斯かる言を発しやう筈はないと若き預言者は想うたであらう。然れども神の言は神の言である、人は之を揣摩《しま》してはならない。彼れ滅亡を宣告し給へば真の預言者は滅亡を伝へねばならぬ。実に辛らい役目《やくめ》である。イザヤは茲に預言職の如何に難き乎を覚つたに相違ない。故に彼は恐れながら問返して曰うたのである

  主よ何時まで斯くあらん乎

と。「神様、何時まで斯んな恐ろしい預言を為さないではならないのです乎」と。之に対するヱホバの答は更らに峻烈なる者であつた。

  邑《まち》は荒廃《あれすた》れて住む者なく、家には人なく、国は寂寞の極に達し。

  ヱホバ人々を遠き国に徙《うつ》し、国の中央《まなか》に空漠の地多きに至らん。

  若し其中に十分の一の残存者《のこるもの》あらば、彼等も亦|殲《つく》さるべし

と。即ち殲滅せられずば止まずとの事であつた。

  備考〔ゴシック〕 「恰かもテレビントの樹云々」は多分後世の記入であらう。ヱホバの言の余りに峻烈なるより之を緩和せんが為に、後世の学者が茲に此記入を為したのであらうとは、チーネ、グレー、其他の旧約聖書学者の(72)意見である。

〇如斯くにしてイザヤ聖召の異象は終つた。見神に始まり神命に終つた。茲にイザヤは完全に|ヱホバの預言者〔付○圏点〕と成つた。自己は失せて、神の意志是れ彼の意志と成つた。之を称してコンボルシヨンと云ふ。所謂|霊魂《たましい》の入替《いれかへ》である。アモツの子イザヤは死て神の人イザヤが生れたのである。彼は完全にヱホバの俘虜と成つた。彼は今より後、「何故」と問ふべきでない、唯順ふて死すべきである。恰かも模範的軍人が理由を質《たゞ》すことなくして唯大将の命に殉ずると同じである。自己の神観又は人生観があつてはならない、神の命令を一々己が理性に訴へて判断してはならない、彼の命惟|維《こ》れ従はねばならぬ。茲に預言者の偉大なる所がある。此|絶対的服従〔付○圏点〕があつたればこそ彼等は大事を為したのである。イザヤ、ヱレミヤ、エゼキエルは勿論の事、ルーテル、ノツクス、コロムウエル等も此種の人でありしが故に、彼等が永久に人類を利益したのである。彼等は所謂情と涙との人でなかつた。己が欲するまゝに神を愛と解して、其愛に準じて万事を行はなかつた。彼等は鉄の如き、磐の如き人であつた。唯ひたすらにヱホバの命を伝へた。故に残酷無慈悲の人と呼ばれた。彼等は浅く民の傷を癒す偽はりの預言者でなかつた。国民の存在を賭して其罪を除かんとした。ユダヤに此種の預言者ありしが故に、一度は亡びて再び復興し、他の国民は悉く亡びしも、彼等のみ生存して、永久に人類の大教師として存するのである。試みに思へ、若しスコツトランドにジヨン・ノツクス出ざりしならば如何と。我が北海道大の小国に僅かに六百万の人口を以つてして、英国を教へ、世界を導きつゝある理由はたしかにイザヤ型の預言者ノツクスの事業に在るではない乎。神は愛である、故に時には殺し又亡し給ふのである。ヨブ曰く「神我を殺し給ふとも我は彼に依頼まん」と(ヨブ記十三章十五節)。我等は信仰に由り神は愛なりと信ずるのである、神は斯くあるべし斯くあるべからずと註(73)文する近代人は神を識らず其愛を覚り得ないのである。四月廿八日 〔以上、6・10〕

 

(74)     ボーイス・ビー・アムビシヤス Boys be Ambitious

                    昭和3年1月10日

                    『聖書之研究』330号

                    署名 内村鑑三 講演 梅木馨 筆記

 

     筆記者自す。九月二十七日(火)午後二時半より内村鑑三先生は母校北海道大学中央講堂に於て「ボーイス・ビー・アムビシヤス」の題下にて一時間半に渉る講演をせられ、堂を満して余りある全校二千の聴衆に向つて先生独特の親みある熱弁で類のない激励のお言葉を与へられ、この大多数の教授学生の会衆は恰も水を打ちたる如く静粛そのもので咳一つするものなく一同を深く霊感させられ、非常の反響を喚起せられた。

 

 只今総長佐藤先生から御丁寧な御紹介の辞を戴きましたが、先生の御言葉の中に大切な言葉が一つ抜けてゐる。それは私は|農学士内村鑑三〔付○圏点〕であるとの事であつて、私が此処に立つのは懐つかしい母校に帰つて諸先生並に多くの後輩諸君と顔を合せるのであつて、特別に有難く思ふ次第である。

 私は此の題を掲げましたが、私はウイリアム・エス・クラーク先生が五十年前此校を去るに臨んで、島松の原頭に馬上一鞭あてて、あとに従ふ学生一同に向つて叫ばれた「ボーイス・ビー・アムビシヤス」といふ簡単な言葉を如何なる意義によつて残されたかを考へて見たい。

 此言は果してクラーク先生の創始の言であつたかを調べた処、是は決してさうではないと思ふ。然しそれであるからと云つて先生のオリジナリチーを失はないのである。

(75) キリストの聖言でも其総てが決してキリストの独創の言葉ではなく、其多くは之を古来の予言者の言の中に見出すことが出来るのであつて、斯く云ふことは決してキリストから彼のオリヂナリチーを奪ふことにならない。キリストの貴い所以は古い言葉の精神を自家薬籠中のものとなし、之に新しき生命を与へて発表した点に在るのである。厳密なる意味に於てのオリヂナリチーといふことは古今あることではなく、日の下には新しき者あらざるなりである。

 「ボーイス ビー アムビシヤス」の精神は当時のニユーイングランドの文献を調べて見れば既に各州に発表されてあつたことは疑のない事実であつて、クラーク先生が此の言を発せらるるに至つた経路を考へるに先生の生国即ちニユーイングランドにはこの精神が充ち満ちてゐて、その精神的環境の中からブライアント、トロー、エマースンの如き偉人を生み、又先生を生んだのである。

 そのニユーイングランドのピユーリタンの意気が先生を透して此言葉となつたのであつて、此の簡単な言葉の背後に全ニユーイングランド在るを考へる時に、是れ実に意味深い言葉となるのである。|札幌の今日あるを得たはクラーク先生を通してニユーイングランドの気風が大いに貢献した処あるを思ふときに札幌は一層貴いものになる〔付○圏点〕。

 先づ「ボーイ」とは何を指すのであるか、此の言葉の意味を研究してみたい。普通ボーイと云へば二十五歳以下の青少年を指すのであるが、此処に云ふ「ボーイ」は決して是に限らないと思ふ。「ボーイ」とは実に「アムビシヨンを有する人」の謂で、前途の希望に邁進してゐる者は年は六十を超えても尚「ボーイ」である。二十歳前後の人々のみを目指して先生が「ボーイ」と謂はれたのではないと思ふ。私自身は未だアムビシヨンを持つて(76)ゐるから自分が「ボーイ」であることを確信してゐる。

 人が「ボーイ」であるか、「マン」であるか、「オールドマン」であるかは其人の心持によつて決まるものであつて、私は今年六十七歳、宮部先生は六十八歳、佐藤総長は吾々より遥に上で七十二歳であると聞いてゐるが、諸君から見れば老人の老人で、もう引退してもいゝ頃だと思ふだらうが、吾々自身は未だ是からする仕事の沢山ある「ボーイ」だと思ふてゐる。斯く云ふは何も私が旧い友達を弁護して彼等を此の学校に永く置いてやつて下さいと諸君にお頼みする訳でほない。(大笑)

 次にアムビシヤス又はアムビシヨンに就て考へて見たい。日本語に訳せばまあ「野心」であらう。「野心」と謂ふて太閤秀吉やナポレオンの様な軍略的又は政治的な野心を考へせられるから、「大望」と云ふた方が良いと思ふが、解り易く申せば、|将来自分が成し遂げてやらうとする仕事をしつかり決める精神〔付○圏点〕を云ふのである。

 夫れに就て今思ひ出すのほ、エマーソンの言葉に“Hitch your wheels to the star”(汝の車を星につなげ)と謂ふのがあるが、これは「望を高く抱け」と謂ふ心をクラーク先生が「ボーイス・ビー・アムビシヤス」と平易に云ふた事を詩的に云ぴ表はしたのであつて全く同精神に出でゝゐる。

 高いアムビシヨンを持つのは低いアムビシヨンを持つより遥に善き事である。或人の云うた如くに「失敗は罪ではない、目的の低いのが罪である」。高い目的を持つことが人生を最も有意義に用ふる所以である。

 私は五十年前の丁度九月札幌農学校に入る為に小樽に上陸して陸路馬で来たのであつた。今日私の息子が此の大学に御世話になるやうになつたのも実に奇ぎな縁で感謝に堪えない。私は息子を札幌に送るに当り札幌を一北海道の都と考へずして、北日本の都、更らに世界の都と迄行かなくとも少くとも|バイカル湖以東の東方亜細亜〔付○圏点〕)の(77)都位ゐには考へて欲しいと云ふたことである。

 先年熊本のリツデル女史が私に向つて「内村さん、日本はこれでも文明国と謂はれますか」と云はれた。彼女の語られた処に依れば、英国では昨年全国に七人の癩病患者があるといふて問題になつてゐるのに、日本には未だ二十万人も癩病患者があり、隔離も治療も行き届かず、到る処自ら苦しみ他人に不快な思をさせてゐる有様である。英国の如き今年は僅々四人に減じたと云ふ、この日本の状態で以て文明国であると云ひ得ますかと、この言葉には如何とも弁解の余地がなかったのである。

 諸君、済々たる多士を輩出し ゐる此北大医学部の中に誰かこのレプラを全治せしむるといふ先人未踏の境地を開拓するのアムビシヨンを持つ人はなきや。是れ諸君の持ち得るアムビシヨンの一例である。

 難いかも知れない。生涯を献げて成功しないかも知れない。然し乍ら「失敗は罪ではない」。あとから来る人々の成功の道案内たることが出来れば、それ実に尊いことである。「汝の車を星につなげ」である。

 今年日本を訪れた北極探険の成功者那威人アムンゼンは洵に幸運児で、彼は南極探険に成功して居り、彼に次いで英人のスコットも南極を究めたが、彼等に先立つて南極探険を企てたシヤクルトンは洵に気の毒な人であつた。南緯八十八度二十三分といふ南極近くまで接近しながら如何にしても其の先へ入ることが出来ず、二度試みて二度とも失敗したのである。遂に目的に成功しないで死ぬるに際し、家族に遺言して自分の骨は今後南極探険を企てる人々の通路に当る箇所に葬つて呉れと云ふた。その遺志に依つて彼の遺骸はサウス・ジヨージヤ島に葬られた。実に彼は自らは成功しなかつたけれども後進の途しるべとなる事に甘んじたのである。事実彼の探険の経験は後の成功者の貴重な参考となつたのであつた。此の精神でアムビシヨンを持つことである。

(78) 農学科の諸君もアムビシヨンを有つことが出来る。日本には農耕地が欠乏したとの訴を聞くとき、北海道樺太はまだ/\開拓の余地を見出すのではないか。遥かに海を距てた沿海州には無限の良水田地を開く可能性があるのである。よしやつて見やうと云ふ是れ亦立派なアムビシヨンである。

 夫れなら貴下はどうであるかと諸君は云はれるかも知れない。我々は自分の車を夫々種々な星につないでどうにかこうにか或処まで、若い時に抱いたアムビシヨンを成し遂げて来て居ることを諸君に御話しする事が出来る。

 先づ第一に|佐藤総長〔ゴシック〕である。今日この札幌に於て広大な大学の組織が完備に近いて来たのは偏に総長閣下の努力の賜である。ドクトル佐藤は今日尚「アムビシヤス ボーイ」であつて彼の車を繋いだ星にます/\近づかんとして居られる。

 |宮部先生〔ゴシック〕と私とは同窓同室の最も親しい友人であつて、嘗つて一度も喧嘩したことのない君子であるが、世界植物学者と伍して遜色のない立派な方であることは諸君既に熟知のことである。Dr.Miyabe hitched his wheel to the botanical star である。

 |南先生〔ゴシック〕は我国農学界の権威者にして其恩人なることは何人も異論ない処であつて、尊敬すべき多くの弟子を国の内外に持つて居らるる。

 |新渡戸稲造君〔ゴシック〕は学校時代より何か為すだらうと期待されたものであるが、ジネーブで国際聯盟の理事長の仕事をつとめられ、各国人の中に伍しながら令名を博せられた。ドクトル新渡戸も亦彼の車を善い星につないだのである。

 南日本に於て教育に従事し立派な仕事をやつた私の尊敬する友人|岩崎行親〔ゴシック〕君の如き皆々最も良き星に彼の車を(79)つないだのである。

 偖不肖私が私の生涯の車をつないだ星は実は二つあつた。其の一は魚類学であつて私は学校では水産に趣味を持ち、卒業論文には Fishery as Science を書いたのである。魚類学に次いで私は漁撈学を学んだ。之を今日迄持続して居つたならば或は当大学の水産学の講座を受持つやうになつて居つたかも知れない。処が幸か不幸か私はもう一つ他の星に私の車をつないで居つたのであつて、その星とはキリスト教を純日本人のものとなし、是を以て日本を救ひ且世界に於け日本国の使命を果さしめんとするアムビシヨンであつた。そして此方がとう/\本物になつて了つて、今日になつて見ると私も亦自分の若い時に抱いた理想をどうにかこうにか実現することが出来たと諸君に申上げることが出来るのである。私の書いた『余は如何にして基督信徒となりし乎』と ふ英文の小さな書物は独逸、フインランド、スウエーデン、デンマーク等の国語に訳され、今でも盛んに読まれてゐると云ふ次第である。

 亦昨年私が The Japan Christian Intelligencer を発行して、日本の基督教、殊に日本そのものを世界に向つて紹介し、我々の立場を広く識者の間に問ふた際に先頃亡くなられた独逸の老大哲学者ルードルフ・オイケン博士の如き早速深厚の同情を表して下さつたのであつた。

 私共の永年唱へ来つた事柄は今や世界の趨勢となりつゝあるのであつて、多くの人々が私共に賛成し共鳴して|キリスト教はほんとに日本人のものになりつゝある〔付○圏点〕。是れ五十年前の日本には想像するだに無謀と思はれた所のものであつて、私も自分の車をつなぐべき星を大いにあてたと云ふべきであらう。この十月から東京明治神宮外苑日本青年館に於て連続の聖書の講演を毎日曜日に開くことになつてゐる。仲々隠居どころではなくて、益々私(80)の青年時代に抱いたアムビシヨンに向つて前進して行くのである。

 諸君よ、諸君も亦今の時代に諸君の車を星につなぐべきである。今此講堂の前に胸像となつて居らるゝクラーク先生が仮に私の姿として此壇上に諸君に向つて立つて居るとして、私は先生に代つてもう一度諸君に向つて叫ぷ……|ボーイス、ピー、アムビシヤス!〔ゴシック〕

  内村生曰ふ。自分の為した演説は、之よりもモー少し強い、元気ある演説であつたと思ふ。然し筆記者として梅木君が為して呉れた以上の忠実なる筆記を何人も為すことは出来ないと信ずる。君の厚意に対し謝するの言葉がない。実に此演説は自分が為した最も会心の演説であつた。自分の母校の先輩、同輩後輩に向つて為したのであれば、家人に語るが如くに思はれ、思ふ存分に自分の意見を陳ぶる事が出来た。自分に此好き機会を与へて下さつた旧き同窓の友なる総長閣下佐藤昌介君に対し深厚の感謝を捧げざるを得ない。自分に取り自分の母校と称すべき者は唯一つ旧札幌農学校があるのみである。それが成長して今日の北大と成つたのであつて、五十年を経て我が旧家に帰つて来て、万感胸に迫り来りしは止むを得なかつた。

 

(81)     惟一の宗教

                           昭和3年1月10日

                           『聖書之研究』330号

                           署名 内村鑑三

 

  それ神は一位《ひとり》なり、又神と人との間に一位の中保《なかだち》あり、即ち人なるキリストイエスなり(テモテ前書二章五節)。

〇基督教は宗教である。世界に在る多くの宗教の内の一であつて、その優《すぐ》れたる宗教であるには相違ないが、然し独特無二の宗教であると云ふ事は出来ない。此事を拒むは如何にも狭量で、学者らしくないやうに見える。

〇然し乍ら学者らしくあることは必しも真理でない。真理は外見《みえ》でもなければ装飾《かざり》でもない。真理は事実有の儘である。|問題は基督教に在る者が他の宗教にもある乎〔付○圏点〕其れである。例へば仏教又は儒教又は神道は基督教の代用を為すことが出来る乎。敢て他宗を譏るのではない、私は正当なる問題として之を掲ぐるのである。

〇私は憚らずして曰ふ、|基督教にキリストが在る〔付○圏点〕。神と人との間に中保として立つイエスキリストがある。是は他の宗教に無い者である。中保とは実に中保である。単に神を人に紹介する者ではない。故に大教師又は大預言者でない。|神と人との接触点である〔付○圏点〕。聖《きよ》き神が罪の人に接し給ふ所である。即ち神が人類の為に備へ給ひし殿《みや》であつて、此殿に於てのみ神は人に臨み、人は神に近づきまつる事が許さるゝのである。即ち神人両性を備へ給へる人なるキリストイエスである。そして神が一位であるが如くに彼も亦一位である。キリストは一位以上は無い(82)のである、又有り得ないのである。釈迦も孔子もモハメツトもキリストの職《つとめ》を果す事は出来ない。|深くキリストの何たる乎を究めて見て彼と同じ者を他の宗教に見る事が出来ない〔付○圏点〕。

〇そして此は宗教学者の研究を待つて解決する事の出来る教義上の問題でない、何人に取りても実際上の大問題である。宗教問題を弄《もてあそ》ぶ近代人はいざ知らず、宗教を人生の最大問題として真剣に之を探り求むる者に取りてキリストの有ると無いとは生と死との問題である。聖なる神の在る事が判明《わか》り、又自分の罪人なる事が判明つて、如何にして此神を自分の神とする事が出来る乎と云ふ最も六ケ敷い問題が起るのである そして此間題に対し他の宗教が与ふる解決法は千篇一律である、即ち「汝先づ神の如く成るべし、然らば神は己が僕として汝を受くべし」と云ふのである。「人が神の如き者と成らんとするの道」それが世の所謂宗教である。そして多くの人が、然り多くの基督信者と自から称する人までが、基督教も亦さう云ふ教であると思ふ。

〇然し乍ら実際の所、人は自から努めて神の如くに成り得ないのである。自分の聖化を待つて神に到らんとするは、百年河清を待つが如くであつて、其目的は到底達し得られないのである 茲に於て何か罪の我れが聖き神に到るの道が無くてはならない、然らざれば我が失はるゝのは明確《たしか》である。そして神はキリストを以て此道を備え給うたのである。神はキリストに在りて充分に我等人類の罪を罰し、キリストは正当の罰として之を受け給ひしが故に、彼に在りて人類の罪は完全に赦され、神人交通の道は開けて、神の恩恵は無礙《むげ》にキリストを通うて人に降るに至つたのである。然し人が人である以上、此の恩恵は無意識に彼に降る者でない。人は先づキリストを信ぜねばならぬ。即ち彼の苦しみを我が苦しみとして認めねばならぬ。我は彼の如くに罰せられねばならぬ、そして我は彼の如くに其罰を正当と認めて之に当らねばならぬ。然し是れ弱き汚れたる我の為す能はざる所であるが(83)故に、我は|キリストを以て〔付○圏点〕我罪を認《いひあら》はし、其罰に当るのである。是がキリストに於ける信仰である。そして此信仰の故を以て、神はキリストに在りて我を赦し、我はキリストに在りて神をアバ父よと呼びて彼に近づきまつる事が出来るのである。是が限りなき生命《いのち》である。人の最大幸福は如此くにして得らるゝのである。

〇そして此んな明白な、確実な救の道は他の宗教には無いのである。|基督教はキリストである〔付○圏点〕 キリストの教ありての基督教に非ず キリストなる独特の性格と行為とありての基督教である 基督教に他の宗教に無い者がある。其意味に於て基督教は宇宙惟一の宗教である。

 

(84)     誘惑と失敗

                           大正3年1月10日

                           『聖書之研究』330号

                           署名 内村鑑三

 

  ヤコブ書一章十二-十六節

 

〇試誘《こゝろみ》は人生の附物である。試誘の無い人生とてはない。主イエスに有つた、我等各自に有る。試誘は意志の選択の試みである。より高き物とより低き物、肉と霊来世と現世、神と此世、キリストとサタン、孰れも明白なる対照物であつて、人と云ふ人、信者と云ふ信者は、何時か一度は、然り幾度も、二者孰れを選ぶ乎と試みらるゝのである。そして上なる物を選びし時に上り、下なる物を選びし時に下る。人生の成功と失敗は此選択如何に由て定まる。如斯くに見て人生は試誘の連続である。人生是れ試験である。及第か落第か。試験地獄は之を人生其物に於て見るのである。

〇使徒ヤコブは曰ふ「忍びて試誘を受くる者は福也」と。「試誘に耐ゆる者は福なり」と読む方が意味が明白である。福ひ者は試誘に会はざる者でない、或は又之を避くる者ではない、|之に会ふて耐ゆる者である〔付△圏点〕。敵に会ふて之に勝つ者である。何故かと云ふに「そは試誘を経て善しせらるゝ時は生命の冕《かんむり》を得べければ也」とある。冕は勝利の褒美として与へらると云ふ。凡ての試験に及第して人生卒業の証書を賜はると云ふ。そして此事は人(85)生の事実である。天国に於て最後に戴く冕は未だ知らずと雖も、生命の冕は我等が此世に於て試誘に耐ゆるたび毎に我等に与へらる。神に善しとせらるゝ事、其事だけが既に大なる報賞《むくひ》である。そして之に加へて生命の新たなる供給に与かる、更に新たなる試誘に勝つの力を与へらる。此の試誘の世に於て我等は試誘に勝ちつゝ天に向つて昇るのである。

〇斯くして試誘其物は悪い者であるが、善き用を為す者である。我等は試誘を足の下に踏《ふま》へつゝ段々と高くせらるゝのである。使徒ヤコブが此所で言ひしと同じ事を使徒ペテロは曰うた(ペテロ前書一章七節)

  汝等の信仰を試みらるるは壊《くつ》る金の火に試みらるゝよりも貴くして、汝等イエスキリストの顕はれ給はん時に称讃《ほまれ》と尊貴《とうとき》と栄《さかえ》を得るに至らん。

と。神の生命は教会に出席し、其儀式に与り、教を聞いた丈けで得らるゝ者でない。試誘に勝つて其報賞として賜はるものである。信者に日に日に臨む試誘は向上顕栄の機会である。彼は克く之を利用して、神に近づき、己が救を完うすべきである。

〇人は何故に誘はるゝのである乎。勿論神が彼を誘ふのではない。神は悪に誘はれず、故に人を誘ひ給はない。恰も正直の人は人を欺かず、又欺き得ないと同じである。人を誘ふ者は悪魔である。|そして人が悪魔に誘はるゝは其人に慾があるからである〔付△圏点〕。人に慾なくして悪魔の誘惑は失敗に終る。故に言ふ「慾孕みて罪を生《な》し」と。「罪を宿す」と云はん乎。慾は婬婦であり、悪魔は誘惑者である。彼は誘はれて彼女は罪てふ胎児を宿せりと云ふ。そして其罪が成長して死と云ふ児と成りて生まると云ふ。そして事実は其通りである。人が純潔なれば悪魔は彼に近づき得ず、随つて彼が罪を宿すの危険がない。罪を犯さず、死に至らざらんと欲せば慾を除かなければなら(86)ない。|慾が内憂であつて悪魔が外患である。外患に応ずるに内憂があつて、茲に国は亡び、人も亦永遠に死ぬるのである〔付△圏点〕。

〇試誘、誘惑は免かるべからず、故に内なる慾を排して誘惑の危険を除くべきである。茲に人生に於ける信仰の必要を見るのである。慾を絶つの必要がある、然れども慾は絶たんと欲して絶つ能はず、神に之を絶つていたゞくより他に途がない。慾は自分より強き者でなければ之を絶つ事が出来ない。主が曰ひ給ひしが如し(ルカ伝十一章廿二節)

  若し更に強き者来りて之に勝つ時は、その恃とする武具を奪ひ、且分捕物を分つべし。

と。神、キリストに在り、聖霊を以つて我霊を占領し給ふ時に、我が慾は絶たれ、悪魔の襲撃を受け、其誘惑に遭ふも我は安全である。

〇今や我等は世に多くの失敗者を見る。事業の失敗者商家の破産者、品性の破壊者、地位の失墜者……挙げて数ふべからず。そして其内に多くの基督信者を見る 曾つて信者たりし人を見る。彼等の失敗に対し我等は深き同情なき能はず。失敗は彼等のみの罪でない。彼等以外の多くの物が彼の失敗を助けた。然し乍ら彼れ亦罪なき能はずである。然り、彼れ自身が失敗の責任を負はねばならぬ。彼は慾を蔵《かく》した。彼は慾なる蛇の子を殺し得なかつた。彼は慾を甘く見て、之を絶つて戴かん為に神に縋らなかつた。畢竟するに彼は信仰を離れた。此世の人等と共に慾を正当の権利として抱いた。其事が主なる原因と成りて、彼は誘惑に遭ふて其呑み尽す所となつた。試験に落第して人生の落伍者と成つた。|まことに信仰を棄つるは小事でない〔付△圏点〕。恰かも疫癘の地に在りて衛生を怠るが如しである。死は必然の結果として来る。「人、誰か慾なからんや」と世の智者は曰ふ。そして信者と称する(87)者までが此言を信じて疑はない。そして其慾が彼を亡すの因を成すのである。「我が愛する兄弟よ、欺かるゝ勿れ」である。世と偽はりの教師に欺かるゝ勿れである。十一月六日


(88)     信仰の始終

                           昭和3年1月10日

                           『聖書之研究』330号

                           署名 内村鑑三

 

  コリント後書五章十八、十九節

 

〇宗教に二種ある、実は二種以上はない。第一種は人より神に達せんとする宗教である、第二種は神が人を求め給ふ宗教である。そして此世の宗教はすべて第一種に属する者である。人ですべての工夫を凝らし、神に達せんとする、それが此世の凡ての宗教である。エヂプト教、バビロン教、ギリシヤ教、印度教、支那教 日本教、すべて然らざるはなし。然るに茲に一つ以上と全く異《ちが》つた途を取る宗教がある、それは基督教である。|基督教丈けは凡ての宗教の内に在りて、人より神に達せんとする宗教に非ずして、神が人を求め給ふ宗教である〔ゴシック〕。其意味に於て基督教は第二種に属する宗教であつて、一宗教を以つて一種を形成するのである。

〇「キリストは我等の尚罪人たる時我等の為に死たまへり、神は之に由りて其愛を彰はし給ふ」とある(ロマ書五章八節)。又曰ふ「我等神を愛せしに非ず、神我等を愛し、我等の罪の為に其子を遣はして宥《なだめ》の供物《そなへもの》とせり、是れ即ち愛なり」と(ヨハネ第一書四章十節) 即ち人が神を求むる前に神が人を求め給うたと云ふのである。基督教は人が神の愛を促す為の宗教に非ずして神が既に彰はし給ひし愛に応ずるの道である。

(89)〇「一切のもの神より出づ」。宇宙万物然らざるはなしと雖も、殊に信仰救拯の事に於て然りである。人の救はるゝは一切神に由ると云ふのである。信仰其物も人が自から起すに非ずして、神が人の衷に起し給ふのである。第十八節以下は左の如くに読むべき者である。

  一切《すべて》のもの神より出づ。彼れ(神御自身)キリストを以つて我等をして己れ(御自身)と和《やはら》がしめ、且その和がしむる職(伝道の職)を彼(神)は我等に授け給へり。即ち神御自身キリストに在りて世を己と和がしめ其罪を之に負せず、且和がしむる言を我等に委ね給へり。……神御自身我等を以つて汝等を勧め給ふ……御自身罪を識らざる者を我等に代りて罪人と為し給へり云々。

 即ち我等の救拯に関はる万事の発意はすぺて神に在るとの事である。彼御自身が救拯の途を備え、彼御自身が福音の使者を起し、彼御自身が人に信仰を起し給ふと云ふのである。即ち「一切のもの神より出づ」るのである。名づけて之を神の恩恵の福音と云ふは是が故である。一切が神より出づ、故に恩恵である。我等の救拯に閲し我等は自己に就て誇るべきもの何もなし、救拯は神に始まつて神に終ると云ふのである。

〇そして是は事実である。真《まこと》に救拯を実験した者は何人も此事を知る。真の基督信者にして、自分が求めて救はれたりと思ふ者は一人もない。パウロ自身が其好模範である。彼の言として伝へらるる者は左の如し。

  キリストイエス罪人を救はん為に世に臨《きた》れりとは、信ずべく亦疑はずして受くべき言なり、罪人の内我は首《かしら》なり、然れども我が憐愍《あはれみ》を受けしはキリストイエスいや先きに我に寛容を悉く彰はし、後に彼を信じて永生を受くる者の模楷《かた》となし給へる也

と(テモテ前書一章十五、十六節)。信者と云ふ信者で此言を己が言として読まない者は無い筈である。

(90)〇そして基督教が基督教でなくなる時に、第一種の宗教、即ち人より進んで神に達せんとする宗教に成るのである。宗教改革以前の羅馬天主教が之であつて、名のみ基督教で、実は此世の宗教と化したのである。そして一度改革せられし基督教が復たび|人間教〔付△圏点〕と成りつゝあるを見る。今日の米欧人の所謂基督教、即ち社会奉仕教、是れ形は旧い羅馬天主教と異ると雖も、其精神は同じである。即ち一切が人に始まる宗教である。運動、宣伝、事業、一切が人の働きである。即ち人に訴へ、人を動かし、人をして神らしき業《わざ》を為さしめて神に似たる者たらしめんとする、彼等の所謂宗教である。人が伝道師となるも、彼が政治家又は実業家と成ると同じく、自から択んで、自から成るのであつて、神御自身より職を授けられたのではない。彼等の所謂宗教は人が己を救ふ事であつて、人の意志に始まつて彼の実行に終る者である。故に聖書に示す基督教とは其根本を異にする者であつて、難行苦行に由つて神と合体せんとする婆羅門教と其精神を一にする宗教である。「一切のもの神に出づ」と聖書は明白に言ふ。之に反して近代人は言ふ「一切のもの人に出づ」と。|米国人今日の基督教は純然たる行の宗教であつて、第二の羅馬天主教と称して差支ない者である〔付△圏点〕。

〇救拯は神より出て恩恵の賜物である。故に唯感謝を以て受くべき者である。心の此態度を称して信仰と云ふ。詩人は此態度を歌ふて曰うた(詩百廿三篇)

   見よ僕その主の手に目を注ぎ

   婢女《はしため》その主婦の手に目を注ぐが如く

   我等は我神ヱホバに目を注ぎて

   その我等を憐み給はんことを待つ

(91)と。そして此の態度がやがて苦るしき活動と成りて現はるゝは言ふまでもない。而かも神に達せん為の活動でない。彼に救上げられて、歓喜の余り自然に出る活動である。一九二七年十一月六日


(92)     FREEWILLING AND FREEDOING

            昭和3年1月10日

            The Japan Christian Intelligencer Vol.Ⅱ,No.11.

            署名 The Editor.

 

 They say:You must do that;you must not do that・But I say to them:I cannot do as you say,and I cannot not do as you say.Yea,I cannot do and cannot not do as I say to myself. Somebody mightier than you and I say to me:Do that and do not do that.His voice I must obey,and not your voice or mine. You may be the Roman Pontiff, or the Archbishop of Canterbury,or the great Doctor of Divinity in this part of the world;but your words of command or advice are not so authoritative to me as that Voice which speaks within me. What I do or do not do may not be pleasing to you, but shikataganai(I cannot help it);I am not your servant but His. I maybe a little worm or a poor heathen convert in your eyes,but a man I am;and as a man,I have a will of my own, which will,in my case,is mine to make it His. The Holy Apostles defied the command of the Sanhedrin saying:Whether it is right in the sight of God to hearken unto you rather than unto God, judge ye(Acts 4:19);and why cannot I sometimes defy the commands or advices of the reverend bishops and doctors of divinity of the present day,Who,I know,make many mistakes themselves,causing many a shipwreck of the faith of the churches under their own pilotage? Woe is me, if I am bound to follow their guidance always;especially in (93)the country of my birth,where I am at home,and they are strangers. I do not say,of course,that I am perfectly sound and unerring;I do make mistakes,and I am humbled thereby. But I say to my meddling advisers,as Job said to his friends:I am not inferior to you(Job 12:3). I must work upon my own responsibility,and make free choice of the advices offered to me by those who consider themselves to be my spiritual superiors. It may not be advantageous to me,as they often warn me,to be “too independent”;but advantage or disadvantage is a matter of no concern to me;I must be true to myself and to my Master.A microcosmos I am,though a tiny one ; and I must revolve as a little a little planetoid around the Sun of Righteousness, and not round the Jupiter of Prudence,or of the Saturn of Self-love. They in one way or another helped me to be a Protestant;and in accordance with their own teaching,I sometimes protest against them,as they,or rather their worthy ancesters,protested against、the Roman Pontiff and his ecclesiastical court.I aim to be a consistent Protestant like John Milton or Oliver Cromwell;and that is the reason why I sometimes choose my own way,and not the ways of otbers who presume to be superior to me in wisdom and faith.

 Truly,in this age of easy yielding for the sake of“advantage,”I think it is no mean virtue to say No! for the sake of what a man believes to be true.I like that line of Poet Lowell:

      The brave Luther answered No!

      And that No! rocked the whole Europe.


(94)     THE HUMOURLESS PEOPLE

             昭和3年1月10日

             The Japan Christian Intelligencer Vol.Ⅱ,No.11.

             署名 The Editor.

 

 There are people who are entirely humourless. To them every word has but one meaning. They call spade,spade,and attach no other meaning to it. When we tell them that spade sometimes means honest labour,or independence,or peace as plowshare does in a famous prophesy of Isaiah,they laugh us to scorn,call us mystics and dreamers,and even dangerous men. They are proud of their literal interpretation of the Bible;and when they read in it that “they shall beat their swords into plowshares and their spears into pruninghooks,”or that “the lion shall eat straw like the ox,”they believe that these words shall be literally fulfilled. Poetry to them is no fact. Indeed,they have no poetry. All is prose to them;literature to them means statute books,book-keepings,and statistics,and nothing more. Verses and rhymes,beautiful dreamings,and speaking by contrasts and covert words are foolishness to them. They judge men and women by words and actions,and cannot look behind the veil and read kindness in wrath,love in fierce words,piety in seeming blasphemy,brotherliness in contentious deeds,and tears in iron-fists. They are prosaic;they call spade, spade,heretic,heretic,orthodox,orthodox. So it is very easy to deceive them. We wear the robes of orthodoxy,and we take us for good orthodox. We join the Methodist Church,and they (95)take us for good Methodists. We become Episcopalians and we are trusted by bishops and deacons. We allow ourselves to be baptized or“dipped”into water,and we are considered to be good Baptists. And so forth. But truth is,Truth refuses to show itself so plainly. Truth like a modest maiden likes to hide herself;she sometimes assumes the form of a vixen even,that she may ward off the touch of rudeness.Truth hates nothing so much as vulgarity;she tries every means in her power to frighten, scare,and drive away the sacrilegious touch of familiarity and the worse profanity of patronage. And Truth is poetical. Indeed,Poetry is Truth in the highest form, and so is meaningless to the prosaic and humourless.


(96)     I MARCH ON AND ON

             昭和3年1月10日

             The Japan Christian Intelligencer Vol.Ⅱ,No.11.

             署名 kanzo Uchimura

 

  I march on and on.

  I do not look behind,I look before,-I march on and on.

  Let dogs bark and critics criticize,-I march on and on.

  Whether I fail or succeed,I do not care,-I march on and on.

  In the battle of life,I do not look bebind like Lot's wife;

  God will make me too a pillar of salt by the Dead Sea,if I look behind.  God is marching on and on, and His Universe too;

  And I must march on and on,if Iam to live with Him.

  Forgetting all things that are bebind me,I march on and on.

  Years out,years in,I march on and on.

  As a living child of the Living God,I march on and on.

  That is the life and crown,the marching on and on.

 

(97)     SURROUNDINGS AND THE SPIRIT.環境と聖霊

                           昭和3年2月10日

                           『聖書之研究』331号

                           署名なし

 

     SURROUNDINGS AND THE SPIRIT

 

 Not surroundings but the Holy Spirit. Surroundings however perfect can never makea Christian,while the Holy Spirit can make Christians out of most imperfect surroundings. This faithless generation thinks it possible to make Christians in mechanical ways,by providing what they call Christian surroundings;but Christians they thus make are no Christians at all,but imitations,manufactured articles as lifeless as any piece of fabrics that comes out of their factories. Money and equipments and educational systems cannot make Christians,while God by His Holy Spirit hath made many true Christians outside of mission-schools.“The Spirit bloweth where it listeth,and thou hearest the sound thereof,but cannot tell whence it cometh,and whither it goes:so is every one that is born of the Spirit.”-John 3:8. The Spirit can and does make Christians regardless of their surrounding. The so-called“influences”have but very little to do in making Christians.

 

(98)     環境と聖霊

 

〇環境に非ず聖霊である。環境は如何に完全であるとも信者を作らない。之に対して聖霊は最も不完全なる環境の中より信者を作る。不信の現代人は彼等の所謂基督教的環境を供することに由りて機械的に基督信者を作り得ると思ふ。然れども彼等が如斯くにして作りし信者は少しも信者ではない、信者の真似事である。恰かも彼等の製造所が産する織物の断片《きれはし》の如きものである。金と設備と教育の方法に由て信者は出来ない。同時に神は其聖霊を以つて伝道学校以外に於て多くの真の信者を作り給うた。

  霊は己が任《まゝ》に吹く、汝其声を聞けども何処より来り何処へ往くを知らず、凡て霊に由りて生まるゝ者は此の如し

とある。聖霊は環境如何に拘はらず信者を作る そして今猶ほ作りつゝある。所謂影響感化なるものは、基督信者を作るに方つて、其の為す所至つて僅少である(ヨハネ伝三章八節)。

 

(99)     芸術と救ひ

                           昭和3年2月10日

                           『聖書之研究』331号

                           署名なし

 

〇今や芸術万能時代である。何事も芸術である。宗教道徳までが芸術化せらる。芸術を以つてする世界改造が唱道せられ又計画せらる。芸術に対しては社会全体の共鳴があり渇仰がある。自分も楽しみ、人をも楽しましめながら人格の向上、人類の改造が行はれ得ると云ふ。此んな好い事はない。故に俳優が最良の伝道師であり、芸人が有力の説教師であると云ふ。神学校を起すに及ばず、俳優学校を設くべきである。音楽学校と美術学校とありて師範学校は廃するも可なりである。到る所に国立劇場を設けて、寺院、教会等に代り、民衆教化の任に当らしむべきである。

〇斯かる思考《かんがへ》を懐いた人は今日までも無いではなかつた。然し其目的を達し得なかつた。芸術は理想の表現である。表現の術であつて理想其物でない。故に理想なき者にも或る程度まで之を真似る事が出来る。ハンデルの信仰なき芸術家にも或る程度まで「メツシヤ」の譜を奏する事が出来る。ハンデル、ベートーベンたる能はずと雖も、或る程度まで彼等の作曲を演ずる事が出来る。如斯くして芸術家は甚だ自己を欺き易くある。形や音の美に捉はれて其精神を逸し易くある。芸術家に劣等の人物多きは是が為である。彼等は偽はりの宗教家以上に「白く塗りたる墓に似たり、外は美はしく見ゆれども内は骸骨と様々の汚穢《けがれ》にて充つ」である(マタイ伝廿三章廿七節)。

(100)畢竟するに芸術の美は天才の美であつて意志の美でない。美は美なれども劣等の美である。そして多くの場合に於て道徳を離れたる美である。故に芸術の盛んなる時代は大抵は道義の衰へたる時代である。我国の奈良朝時代、元禄時代が其実例である。芸術を主として国の改つた実例を未だ曾つて聞いた事はない。

〇其反対に社会民心の徹底せる改革は芸術に反対せる運動に由つて起つた。一時英米を風靡せしピユーリタン運動が其善き実例である。誠実の熟する時に外観の美を厭ふ。其時人は真摯たらんと欲して優美たらんと欲しない。理想の人は「我等が見るべき麗はしき容《すがた》なく、美くしき貌《かたち》はなく、我等が慕ふべき艶色《みばえ》なし」である(イザヤ書五十三章二節)。預言者全体、イエス彼れ自身、パウロ、ルーテル孰れも芸術の人でなかつた。芸術は勿論悪いものでない。然れども芸術に由て人は救はれない。然り高い道徳と強い信仰となくして芸術は起らない。起つた芸術までが衰へる。芸術万能主義の流行は国家衰退の兆候である。

 

(101)     人間の声

                           昭和3年2月10日

                           『聖書之研究』331号

                           署名 内村

 

〇或る婦人の手紙に、その弟の死状《しにざま》が記いてあつた。

  ……午後一時五分頃でした。私だけに来てくれと申しました。「姉さん喜んで下さい」と涙を流して言ました。「私の様な者、罪人の首、地獄の真ん中に往くべき私の様な者をもエス様に依りて救つていたゞける事が解りました。半日聖書を読み祈つてゐました。詩篇とローマ書を……アヽ有難い、勿体ない、エスクリストの十字架の血により救つていたゞけるのです。私は恥かしい事ですが二ケ月床について死にたくないと思ふてゐました。地獄が恐ろしくて、恐ろしくて。然し自分は地獄に落ちる価しかない者であるし……今日不思議に内村先生の研究会で伺うたローマ書の三章廿三節だつたと覚えてゐますが、この罪のまゝ何の功なくして御救に与かれると云ふ事が詩篇を読んで祈つて居る時に光の如くに私の魂に解つたのです。アヽもう精神の苦痛がなくなりました。すべて神様の御手に委ねます。只残るは病苦だけです。今まで恥かしいが精神の苦痛が病苦より大きかつたのです。もし此病気が御旨ならば善くなる乎も知れません。此世の医術の最上の方に見せて下さい。アヽ何気なく衛生会館で伺ふてゐた此の神の言葉が先生の御声その儘で私の胸に響いた。アヽ有難い」と私の手を握つて云ふのでした。そして「折があつたらどうか此の何の学問もない一信(102)徒が救ひの確信を与へられた事を先生に申上げて宜しく御礼申上げ感謝して下さい」と言ひました云々

 此は実に「人間の声」である。此声を聞いて自分も奮ひ起たざるを得ない。説くべきは十字架の福音である。斯ういふ結果を持来すからである。教会の教師等に何んと誹られやうと、縦令一人なりとも自分の聖書講演を聴いて、斯う云ふ様に死んで呉れたと思へば、凡ての苦労を償ひ得て余りがある。神学博士や老宣教師等に「汝が聖書を説くは他の宗派を仆して汝の宗派を建ん為である」と言はれて、自分はそんな悪い事を為してゐるの乎と自分で自分を疑はしめらるゝことありと雖も、此一人の平信徒が自分の説きし福音に由りて安らかに死に就きしを聞いて、自分はやはり神の御指命の下に働いてゐる事を知りて感謝に堪へない。多分他にも斯かる人があるであらう。そして遠からずして霊の世界に於て彼等に会うて讃美を共にするであらう。霊魂を救ふ為の伝道である。此世の勢力と云ふが如きは塵埃に等しき物である。

 

(103)     単独の勢力

                           昭和3年2月10日

                           『聖書之研究』331号

                           署名 内村鑑三

 

  イザヤ書六十三章一-六節

 

〇今や何人も事を為さんとするに於て、多数に依て為さんとする。多数の賛同を得るのが成功第一歩であつて、此賛同なくして何事も為し得ないと今の人は信ずる。茲に於てか宣伝の必要が起るのである。宣伝の目的は多数の賛成喚起に於てある。社会の輿論を喚起し、自分の説に賛成して貰つて、而して後に其実行を期待するのが、今の人が事を為す唯一の途である。政治界に於て政党の必要が唱へられ、宗教界に於て教会の必要が主張せらるゝも之が為である。人が単独の力を信ぜず、多数に依らざれば何事も為す能はずと思ふからである。今の人に取りては多数是れ勢力である。議会に多数を制するまでは、大真理と雖も之に実力は伴はないのである。

〇然るに不思議なる事には聖書は多数の勢力を認めないのである。聖書は先づ第一

に神の勢力を認め、然る後に神に頼る個人の勢力を認む。多数は弱き人の多数であつて、偉大なる事が彼等に為し得られやうと信じない。「それ人は既に草の如く、其栄は凡ての草の花の如し」と云ふは単に王公貴族をのみ指して云うたのではない、凡ての人を指して云うたのである。政党も教会も、団体も組合も、人と云ふ人は、其数は如何に多くとも、凡て(104)草の花の如しと云ふのである。聖書は君主政治をも代議政体をも信じない。聖書は多数に依るにあらざれば事を為す能はずとは決して教へない。

〇そして聖書に依れば、神は大事を為すに方て多数の勢力を以つてせずして、単独の力を以てし給うた。イスラエルの人々をエジプトより救出すに方て、民族的運動を起さしめずして、モーセ一人を選び、彼を遣はして、彼れ一人を以つて奴隷の民に自由を与へ給うた。更らに溯りて聖き民を作らんとするに方て、或る民族を選びて之を聖め給はずして、カルデヤのウルにアブラハムを選び、彼れ一人を以つて聖民四千年の歴史を始め給うた。イスラエルの王アハブの世に預言者エリヤは唯一人、王とバアルの預言者四百人とを相手に、信仰革正の実を挙げた。其他イザヤも一人、ヱレミヤも一人、エゼキエルも一人、アモスも一人であつた。一人が改革の勢力であつた。王に頼らず、祭司に頼らず、亦民衆にも頼らず、唯一人、大堕落、大腐敗に対して闘ひ、根本的の革正を遂げた。まことにイスラエルの歴史は国民の歴史ではなくして英雄の伝記である。民衆の奮起を待たずして、神に依頼む信仰の勇者が独り立つて救拯を施した、其事蹟の記録である。

〇如斯くにしてイスラエルを救ひし神は、同じ方法を以つて世界を救ひ給うた。

   我は単独《ひとり》にて酒※〔木+窄〕《さかぶね》を践めり

   諸々の民の中に我と偕にする者なし

とは世の救主が発せる声であつた(イザヤ書六十三章三節)。イエスは唯一人、世の罪を身に担ひて、十字架の上に之を除き給うた。イスラエルの民族的運動ではなかつた。イエス一人の贖罪の生涯と死であつた。人類は之に由つて救はれたのである。そしてイエスに傚ふてステパノは独り殉教の死を遂げ、彼に励げまされて、パウロは(105)独り世界教化の途に就いた。ダンテも独り、サボナローラも独り、ルーテルも初めは独りであつた。大運動会はすべて民衆の集会に於て始らずして、信者個々の密室に於て姶つた。世界改造の実力は一人の霊魂が神の霊に接する所に於て在る。集会々々と称して、多数の勢力を待つて事を為さんとするは聖書的でない又基督数的でない。

〇会議又会議、大会又大会である。此日本に於ても既に世界青年会大会を見、又世界日曜学校大会を見た。そして其結果として教勢は少しも揚らず、信仰は少しも進まない。聞くものは依然として教勢不振の声である。そして今や亦、ヱルサレムに於いて全世界の基督教信徒の大会が催されんとして居る。其信仰的に何の永久的結果の見るべき者なきは今日までの例に照して見て明かである。多数に於て勢力を認むるは米国人の癖である。民衆は彼等の偶像である。民衆に受け納れらるゝを彼等は称して成功と云ふ。彼等は明かに聖書の教に逆らつて、聖書の教を世に布かんとしてゐる。深く聖書を究めずして、唯広く聖書を頒布して世界教化を計りつゝある。我等は彼等に傚つてはならない。一人のエリヤ、一人のヱレミヤの起らん事を祈るべきである。神の聖旨ならば自分が其一人なる事を辞せずとの決心を抱くべきである。遥々ヱルサレムまで其会議に列なる為に行く必要は少しもない。此日本に在りて、此富士山を眺めながら、此多摩川の水を飲みつゝ、万軍のヱホバの声を聞き、其聖霊を授かつて力ある者と成る事が出来る。我れ神と偕に在りて我れ一人は全世界よりも強くある。斯く云ふは決して誇大的妄想でない。真面目なる事実である。多数に倚るは馬と戎車に頼る丈けの背信である、我等は集会好きの米国宗教家に傚ふ事なく、アブラハム、モーセ、エリヤに傚ひ、先づ独り神の友と成り、彼 に力附けられて、大衆を救ひ得る能力の源と成るべきである。一月廿二日。 

 

(106)     ALONE BUT NOT ALONE

             昭和3年2月10日

             The Japan Christian Intelligencer Vol.Ⅱ,No.12.

             署名 The Editor.

 

 What if I am the only Christian in the world? That does not mean that I am the only perfect man in the world,――just the opposite is ture.That does mean that I am the chiefest of sinners,and God saved me,or made me a Christian“that in me first Jesus Christ might show forth all longsuffering,for a pattern to them which should hereafter believe on him to life everlasting.”I Tim.1:16. In that case,i.e. if I am the only Christian in the world,it is all very natural that all things in the world appear very strange to me,and I appear very strange to the world.The Christian,I nnderstand,is not a world-man,and Christianity is not intended to be a world-religion,as I am told it is by many famous theologians. After all,there are not many Christians in the world, and Christianity is intended for these very few. As in the time of Isaiah,so now,“Only the remnant shall be saved,”and“the remnant”means a very small minority. The attempt to make the whole world Christian is unbiblicaland unchristian. Yea,it is an impossibility:the world which crucified the Lord Jesus Christ will never become Christian.The world as a whole is essentially anti-Christian,-the so-called Christian nations included,-and it is“kept in store,reserved unto fire against the day ofjudgment and perdition of ungodly men.”Ⅱ Pet.3:7.Not because God (107)hateth the world,-the contrary is true,-but because the world loves itself,and hates God who is all love and is opposed to all that the world thinks and does.

 Then,what am I to do for this world? Simply to witness for the truth of the Gospel of Jesus Christ by my deeds and words. It makes no difference to me whether I am the only witness in the world,or many like me witness for the same truth;I have to witness whether alone or with many. One with God is greater than the whole world;and I need not,and must not,wait till I am convinced that I am not the only witness in the world.I have my post of duty to keep,and I alone can keep it. Democracy,or rule by many,does not rule in the kingdom of spirits. There,one with God is mighty to save,and many without Him is equal to zero. The glory of that kingdom is,that there every citizen is a king without country and people,sufficient in himself,or rather in“Him that filleth all in all.”

 

(108)     THE HELPLESS CHRISTIAN

             昭和3年2月10日

             The Japan Christian Intelligencer Vol.Ⅱ,No.12.

             署名 The Editor.

 

 Jesus said:My Father worketh hitherto,and I work.……The Son can do nothing of himself,but what he seeth the Father do:for what things soever he doeth,these also doeth the Son likewise. John 5:17,19.So does every one of His disciples. I can think of no more helpless man than the disciple of Jesus Christ.He is not permitted to have any will of his own;indeed,he has been deprived of his will when he was called to His service,and he has no strength to do his will,even though he had it.His will is given him,and with it,strength to do it;his will is not his,but the Father's. So,he knows not what the purpose oh any particular willing caused in him is;he simply does it,not asking why and wherefore. Sometimes,it is a pleasant business he is called upon to do.Then he sings with the Psalmist:

       My heart overfloweth with a goodly matter,

        I speak the things which I have made touching the king:

       My tongue is the pen of a ready writer.

 But at other times,it is entirely otherwise. Then he shudders before the task,prays that he may be spared from it;but compelled by heavy hands laid upon him,he accepts it, and executes (109)it with the strength given him for the purpose. The conscious believer,working as if unconscious of himself,as he is constrained to do Another's will,-that I understand is the Christian life,the noblest life because it can belived as the result of dying to self,or rather death to it,inflicted by the Mighty Conqueror that He might lead“captivity captive”for His own glory. Ephes.4:8.

 Let not,therefore,the reader of this little magazine ask its editor why he joined it when it was started two years ago,and why he ends it now.That which was done was done,for some good purpose of His will,-so the editor sincerely believes.

 

(110)     IN SEASON OUT OF SEASON

             昭和3年2月10日

             The Japan Christian Intelligencer Vol.Ⅱ,No.12.

             署名 The Editor.

 

                2 Tim.4:2.

     If I am told I shall live one hundred years,

        I will preach the gospel of Christ.

     If I have thirty more years to live,

        I will preach the Gospel of Christ.

     If I have only five years more to live,

        I will preach the Gospel of Christ.

     If I am told I shall die this year,

        I will preach the Gospel of Christ.

     If Death's call will come the next month,Or the next week,

        I will preach the Gospel of Christ.

     I wish to draw my last breath,

        Preaching the Gospel of Christ.

 “For God soloved the world,that He gave His only begotten Son,that whosoever believeth on (111) Him should not perish,but have eternal life,”……it is a news altogether too good to believe,but it is true.

 

(112)     BE UNPOPULAR

             昭和3年2月10日

             The Japan Christian Intelligencer Vol.Ⅱ,No.12.

             署名 The Editor.

 

 Oh be unpopular, be purposely unpopular. It is a shame to be popular,these days. To be popular means to be superficial,democratic,American;it is to be of earth,earthy,clinging to the dust. Oh be entirely unpopular, out of the reach of the mass,unearthly,ethereal,Speaking in“dark parables,”so that only the elect few can understand. In an age like this,pride in one form is a virtue,to keep oneself intact from the stain of vulgarity. To be the most popular man, whether to be a president of a republic or of a cabinet,is to be a near relative of the Adversary of mankind usually called Satan.Oh be unpopular like God Himself,for He is the most unpopular person in this generation,because He makes so little of business and prosperity, and so much of holiness and eternal life.

 

(113)     〔山本泰次郎・中島活子結婚式司式の辞〕

                             昭和3年3月1日述

                             手稿

                             署名なし

 

〇山本泰次郎君に申します。アナタは今茲に中島活子さんを娶りてアナタの妻となし、聖書の教に従ひ、又アナタが日本人として祖先より授かりし徳義に基き、彼女を愛し、労はり、敬ひ、弱き器として、又共に生命の恵みを嗣ぐ者として、終生渝らざる誠実を以つて、彼女に対し夫たるの義務を尽し、指導の任に当る事を茲に神と親戚と友人との前に誓ひますか。

〇中島活子さんに伺ひます。アナタは今茲に山本泰次郎君に嫁ぎて彼をアナタの夫となし、長の間アナタが神の御言葉なる聖書より学びし教に従ひ、又アナタが日本婦人として践むべき道に依り、彼を愛し、敬ひ、アナタの首として彼を仰ぎ、終生彼と苦楽栄辱を共にし以つて誠実なる妻たるの義務を尽さん事を、茲に神と親戚と友人との前に誓ひます乎。

〇天に在します父なる真の神様、アナタの御恵みと御導きに由り、今茲に此若き男と若き女とを引合はしてアナタの前にアナタの御|規定《さだめ》に従ひ、夫婦たるの誓約を為すための此聖き厳かなる式を挙ぐる事を許し給ひてまことに有難く存じ奉ります。願くは今彼等両人がアナタの前に立てし約束を見そなはし給ひて、彼等がアナタの御助けに由り能く之を実行し得るやう彼等の上にアナタの御能力を注ぎ給へ。又彼等がアナタの聖名に由りて今より