内村鑑三全集31、岩波書店、411頁、4200円、1983.4.22

 

一九二年(昭和三

 

凡例‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 1
1928年(昭和3年)
A Successful Life.成功の生涯‥‥‥‥‥ 3
愛国と信仰‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 5
イザヤ書の研究‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 7
其一 イザヤ書の紹介 一章一-十七節〇四十章一-十三節(7)

其二 イザヤと其時代 一章一節〇三十章十五節(10)

其三 イザヤの名に就て 一章一節。九章七節。五十九章十六節。六十三章(12)

其四 預言と異象 イザヤ書一章一節。約翰黙示録第一章(16)

其五 ヱホバの大訴訟 イザヤ書第一章上半部の大意(20)

其六 罪の本源 イザヤ書第一章二-九節(23)

其七 偽はりの宗教 イザヤ書一章十-十七節(27)

其八 罪の消滅 イザヤ書一章十八、十九節(30)

其九 審判と救ひ イザヤ書一章二十一-三十一節(32)

其十 平和実現の夢 イザヤ書二章一-四節〇ミカ書四章一-四節(35)

其十一 平和実現の途 イザヤ書二章二-四節〇同十一章一-九節(38)

其十二 繁栄と審判 イザヤ書二章六-十一節(41)

其十三 理想と実際 イザヤ書二章より四章までの大意(44)

其十四 実際のユダとヱルサレム イザヤ書二章六節以下(47)

其十五 ヱルサレムの婦人(上) イザヤ書第三章の梗概(50)

其十六 ヱルサレムの婦人(下) イザヤ書三章十三節以下〇エゼキエル書廿七章(53)

其十七 潔められしヱルサレム イザヤ書第四章(56)

其十八 イザヤの聖召(一) イザヤ書第六章草、ヱレミヤ記一章、出埃及紀三章(58)

其十九 イザヤの聖召(二) イザヤ書第六章(61)

英二十 イザヤの聖召(三) イザヤ書第六章(64)

英二十一 イザヤの聖召(四) イザヤ書第六章五-八節(67)

其二十二 イザヤの聖召(五) イザヤ書第六章(70)

ボーイス・ビー・アムビシヤス Boys be Ambitious‥‥74
惟一の宗教‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥81
誘惑と失敗 ヤコブ書一章十二―十六節‥84
信仰の始終 コリント後書五章十八、十九節‥‥88
Freewilling and Freedoing ‥‥‥‥‥‥92
The Humourless People ‥‥‥‥‥‥‥‥94
I March on and on ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥96
Surroundings and the Spirit.環境と聖霊‥‥97
芸術と救ひ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥99
人間の声‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 101
単独の勢力 イザヤ書六十三章一―六節‥‥ 103
Alone but not Alone ‥‥‥‥‥‥‥‥ 106
The Helpless Christian‥‥‥‥‥‥‥ 108
In Season out of Season ‥‥‥‥‥‥ 110
Be Unpopular‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 112
山本泰次郎・中島活子結婚式司式の辞‥ 113
My Strength.私の力‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 115
純福音に就いて‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 117
生けるキリスト 黙示録一章十八節‥‥ 119
教会問題に就て‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 123
総選挙終へて後に‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 131
Need of Re‐Reformation 宗教改革仕直しの必要‥‥ 132
カトリツクに成らず‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 134
感謝の心 詩篇第百三十六篇‥‥‥‥‥ 136
顕栄と世評‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 140
〔永井直治訳『新契約聖書』〕序言‥‥ 141
New Protestantism.新プロテスタント教‥‥ 144
効果ある伝道‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 146
復活祭の意義‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 148
故横井時雄君の為に弁ず‥‥‥‥‥‥‥ 151
伝道の忍耐‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 156
信仰五十年‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 164
結婚の意義 今井一、原タツ結婚式の辞‥‥ 165
Fifty Years Old in Christ キリストに在りて満五十年‥‥ 168
栄辱五十年‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 170
来世問題の研究‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 172
其一 人生の最大問題(172)

其二 聖書と来世問題(175)

其三 復活と其後の状態(176)

其四 永生の基礎(179)

其五 活動の来世(182)

其六 イエスの栄光体に就いて(上)(185)

其七 イエスの栄光体に就て(下)(187)

五十年前の信仰 其一 聖書に就いて‥ 191
生物学者を葬るの辞‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 194
独立五十年‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 197
Gospel and Philosophy.福音と哲学‥‥ 198
幸福の獲得‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 200
信仰の岐路‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 202
感謝の賜物‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 204
When Am I Surely a Christian? 私は何時確にクリスチヤンである乎‥‥ 205
天地の道と神の道‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 207
何西阿書の研究‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 209
其一 何西阿書の紹介 ホセア書二章十六、十七節。六章六節(209)

其二 イエスとホセア ホセア書二章。マタイ伝六章(212)

其三 家庭の不幸 ホセア書第一章(214)

其四 審判と救拯 ホセア書一章。同五章十四節-六章二節(217)

其五 人の愛と神の愛(220)

其六 神に効ふべし ホセア書第三章(224)

其七 曠野の囁き ホセア書二章十四-十六節(226)

其八 民と其祭司 ホセア書第四章(230)

其九 浅き悔改 ホセア書第六章(232)

其十 イスラエルの罪 ホセア書五章。同十一章(235)

聖書の中心に就て ロマ書三章廿一節以下。ヨハネ伝五章三九節‥‥ 239
誌上の夏期講演‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 242
第一講 聖書と基督敦 ヨハネ伝十七章十七節

第二講 聖書研究の一例 馬太伝一章一節の研究

効果に無頓着なる伝道‥‥‥‥‥‥‥‥ 251
純福音に就て‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 252
札幌独立教会の基礎‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 256
札幌の任務‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 259
To Be No.1.第一番に成る事 ‥‥‥‥‥ 262
人生最大の獲物‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 264
実利主義の基督教‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 266
伝道と信仰‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 269
近代人気質二つ 他‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 272
近代人気質二つ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 272
言葉を慎めよ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 273
宗教家の利用に就いて‥‥‥‥‥‥‥‥ 275
若き伝道師に告ぐ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 276
二種の信仰‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 279
The Universal Truth.普遍的真理‥‥‥ 281
積極的無教会主義‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 283
イエスは如何なる意味に於て神の子である乎 ヨハネ伝二十章三十一節‥‥ 285
波上の歩行 馬太伝十四章廿二―卅三節‥‥ 288
武士道と基督教‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 292
北海道特産物の一として見たる独立的基督教‥‥ 298
同志の弁護‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 304
柏木と羅馬天主教会‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 305
基督教道徳の大意 山上之垂訓の研究‥ 306
伊藤幸次郎君を葬るの辞‥‥‥‥‥‥‥ 311
Paradox of Faith.信仰の逆説 ‥‥‥‥ 316
世人と神人‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 318
オバデヤ書の研究‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 320
其一 オバデヤ書の紹介(320)

其二 エサウとエドム(322)

其三 テマンの智慧負け オバデヤ書八、九節(325)

其四 エドムの罪 オバデヤ書十-十四節(328)

其五 ヱホバの日 オバデヤ書十五-十八節(331)

其六 イスラエルの救と世の終末 オバデヤ書十九-廿一節(334)

聖俗差別の撤廃 ゼカリヤ書十四章二十、二十一節‥‥ 337
霊魂の独立‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 341
旧友広井勇君を葬るの辞‥‥‥‥‥‥‥ 344
死に関する聖書の教示 創世記三章、詩篇第十六篇等‥‥ 350
我が奉仕の途‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 356
広告を謹む‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 357
November the Sixth.十一月六日 ‥‥‥ 359
教理研究の必要‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 361
宇宙は善し‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 363
宗教の利用に就いて‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 364
米国に於ける羅馬加特利教の大敗‥‥‥ 369
私の弟子とは誰ぞ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 374
『十字架の道』〔序文・目次のみ収録〕‥‥ 375
序文‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 376
別篇
付言‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 379
社告・通知‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 381
参考‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 383
恒に変らざる者‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 383

一九二年(昭和三年) 六八歳

 

(3)     A SUCCESSFUL LIFE.成功の生涯

                           昭和3年1月10日

                           『聖書之研究』330号

                           署名なし

 

     A SUCCESSFUL LIFE.

 

  I do not do thingS;I let things be done by me. I am not a mover myself;I am one who is moved by others.Not however by outer circumstances,but by inner necessities;by the commanding voice of the Spirit,which carries with itself power to carry on the command. I am a vessel,an instrument,with no particular will of my own;I let Another take hold of me,and carry me whither I would not.And it is no shame to be thus controlled by forces other than my own;on the contrary,it is the greatest of all glories for the creature to be controlled by the creator. I know the success of my life depends upon how little I rely upon myself,and how much upon my Rightful Owner.

 

成功の生涯

 

〇私は自分で事を為さない、自分に由て事を為さしめらる。私は自分で動く者でない、他の者に由て動かさるゝ

 

(4)者である。而かも外部の境遇に由て動かされない、内心の必要に由て動かされる。大霊の命令に由て動かされる、其命令には実行の能力が伴ふ。私は自分の意志とては何も持たざる器具である、機械である。私は或る他の者をして私を捕へしめ、私の欲まざる所に私を伴れ行かしむる。そして自分以外の力に支配せらるゝは決して私の恥辱でない。其反対に名誉である。造られし者が造りし者に支配せらるゝは名誉の極みである。私は知る私の生涯の成功如何は、私がどれ丈け少く私自身に頼り、どれ丈け多く私の正当の持主に倚頼《よりたの》む乎に由て定まることを。ヨハネ伝二十一章十八節参考の事。

 

(5)   愛国と信仰

              昭和3年1月10日

                『聖書之研究』330号

                署名 内村

 

〇日本は私の国である、善くあるとも悪くあるとも私の国である。神が私に賜ひし国である。私の国とて日本を除いて他には無い。故に若し善くあれば私は之を更に善き国となさねばならぬ。若し悪くあれば之を善き国となさねばならぬ。悪いと云ふて私は日本を棄ることは出来ない。私は如何なる理由ありと雖も私の国を貶《けな》すことは出来ない。私は基督信者であるが故に、基督教国の米国や英国を誉めて、非基督教国の日本を貶すならば、私は日本人でないのみならず亦基督信者でもないのである。

〇そして日本は決して悪い国でない。凡ての点より見て、日本は最も善い国の一である。其地理学上の地位が善くある。其歴史が善くある。其国土の小なる割合に物産が豊富である。其陸は狭いけれども其海は広くある。陸に海を合せて日本の物産は其民を養ふに充分である。方法其宜しきを得ば、日本人は日本国丈けで充足する生涯を営む事が出来る。

〇然し乍ら日本の美点は其国土に於てよりも其国民に於てある。神は日本人に特殊の霊魂を賜うた。日本人は信義を重んずる、礼節を尊ぶ。日本人は利益を離れて正義を追求む。日本人が堪え得ぬ事は他人に迷惑を掛けながら自分独り安逸に在る事である。日本人は情に厚い。客を大切にする。殊に外国の客を大切にする 日本人は自(6)分の主張を抂げてまでも外来の客の感情を害はざらんと努む。此温情、此高誼は米欧人に於て見る能はざる所である。殊に礼節の点に於ては、日本人に比べて米国人は野蛮人である。政治哲学者ワルター・ベジヨウは其名著『理学と政治』に於て述べて曰く「礼節は亜細亜に於て最も善く、欧羅巴に於て少しく善く亜米利加に於て最も悪し」と。米国人は礼節の尊さをさへ知らない。|若し礼儀が文明の標準であるならば、米国人は純然たる野蛮人である〔付△圏点〕。

〇日本人は日本人として神の子イエスキリストを迎ふるであらう。其温情と礼節と信義とを以て彼を戴くであらう。其信仰に於て日本人は米欧人に傚はぬであらう。日本人は其霊魂の指導を暴慢なる米欧人に委ねぬであらう。最も悪しき日本人は米欧化されたる日本人である。純なる日本人は最も善き基督信者を作る。信仰は信義と礼節の上に築かざるべからず。成功と称して勢力と利益と快楽とを追求する信仰は信仰に非ず。我等は基督信者と成る前に先づ日本人と成るであらう 然れば最も善き基督信者と成り得るであらう。

 

(7)   イザヤ書の研究

 

                 昭和3年1月10日-6月10日

                『聖書之研究』330-335号

                 署名 内村鑑三

 

     其一 イザヤ書の紹介一章一-十七節〇四十章一-十三節

 

〇今日よりイザヤ書の研究を始めやうと欲ふ。イザヤ書は聖書中最大の書である。其嵩に於ても最も大きくある。馬太伝は二十八章、羅馬書は十六章、黙示録は二十二幸、旧約の創世記は五十章、約百記は四十二章 耶利米亜記は五十二章なるに、以賽亜書は六十六章であつて、聖書の中で最も長い書である。其量に於て聖書六十六巻の中で最も多く、共観三福音書を一に合はした程のものである。

〇そして其教ゆる所に至つては、其深刻なる点に於て或は羅馬書に及ばずと雖も、其規模の宏大なる、其思想の荘厳なる、其言葉の優美なる、到底他の書の及ぶ所でない。イザヤ書に親まずして聖書の雄大優美を知る事は出来ない。|聖書は世界最大の書であつて、イザヤ書は最大の聖書である〔ゴシック〕。若し羅馬書が聖書の中心であるならばイザヤ書は其本体である。旧約聖書はイザヤ書に於て其絶頂に達し、新約聖書は其源をイザヤ書に於て発して居る。イザヤ書を知らずして聖書は解らない。旧約と新約とは其中にある。モーセの律法とキリストの福音とはイザヤ書に於て合体する。イザヤ書は全聖書を縮めたる書と見て間違はない。

(8)〇聖書は六十六巻より成り、イザヤ書は六十六章より成る。巻と章とが其数に於て一致するは不思議である 其点に於てイザヤ書は聖書の縮写なりと言ひて間違はない。然し一致は茲に止まらない。|イザヤ書は明白に前後の二篇に区分せらる〔ゴシック〕。初めの三十九章が前篇であつて、終りの二十七章が後篇である。そして前篇の三十九章は旧約の三十九巻に当り、後篇の二十七章は新約の二十七巻に当る。是れ亦不思議の一致である。其意味に於てイザヤ書は聖書の縮図である。然るに一致は是れ以上である。イザヤ書の前篇は人の神に対する義を教へて律法の書である。後篇は神の人に対する義即ち恩恵を伝へて福音の書である。斯くの如くにしてイザヤ書其物の中に旧約聖書と新約聖書とがある。モーセの律法とキリストの福音とがある。其意味に於ても亦イザヤ書は旧新両約聖書の縮写である。其構造に於て、其内容に於てイザヤ書は小聖書である。

〇新約聖書の宗教たる基督教は主としてイザヤ書に由て起つた者である。イエスは旧約に精通し給うたが、特にイザヤ書を愛し給うた事は明かである。彼が「聖書」と言ひ給ひし場合は、大抵はイザヤ書を指して言ひ給うたのである。例へば馬太伝廿六章五四節、馬可伝十四章四九節に於て、

  此くあるべき事を録しゝ聖書に如何で応《かな》はん乎

と彼が言ひ給ひしはイザヤ書五十三章を指して言ひ給うたのである。即ち馬太伝の同章四十五節に言ふ所の「人の子罪人の手に附されん」との事であつて、此はイザヤ書五十三章所載の預言に応はせんが為なりとの事である。イエスが又、彼が生長せし所なるナザレに来りユダヤ人の会堂に入り、説明を試み給ひし聖書の言はイザヤ書六十一章一節以下であつた(路加伝四章十六-二一節)。其他新約聖書の中に引用せらるゝ旧約聖書の言の多数はイザヤ書より出たる者である。以てイザヤ書の感化のイエスと使徒達の上に如何に深かりし乎を知ることが出来る。(9)|イエスはイザヤ書の言の実行を其一生の目的と為し給うたのである〔ゴシック〕。我等は此書に於てイエスの理想を発見するのである。イザヤ書を以て養はれて彼は福音書が示せるが如き生涯を送り給うたのである。人なる彼は我等と異なることなく、或る理想を或る書に得て其実行を試みて、之を成就し給うたのである。そしてイエスの場合に於て其書は主としてイザヤ書であつた、殊に其後篇であつた。太平記なくして高山彦九郎、蒲生君平等の勤王家なかりしやうに、イザヤ書なくしてイエスなくパウロなしであつた。人は其理想を知らずして知る能はず、イザヤ書を知らずして主イエスキリストを知る能はず。イエスが精神を籠めて読み給ひしイザヤ書、彼に神の受膏者たるの理想を供せしイザヤ書、彼の生命の血たり肉たりしイザヤ書、此書を解せずしてイエスは解らない。

〇基督信者が常に口にする聖書の言葉の多くはイザヤ書の言である。

  汝等の罪は緋の如くなるも雪の如く白くなり、紅の如く赤くとも羊の毛の如くならん(一章十八節)。

  ヱホバは諸《もろ/\》の国の間を鞫き多くの民を責め給はん。斯くて彼等はその剣《つるぎ》を打かへて鋤となし、其鎗を打かへて鎌となし、国は国に向ひて剣を挙げず、戦闘《たゝかひ》の事を再び学ばざるべし(二章四節)。

  今苦難を受れども後には闇なかるべし……幽暗《くらき》を歩める民は大なる光を見、死蔭《しかげ》の地に住める者の上に光照らせり(九章一、二節)。

  聖なる哉聖なる哉万軍の主ヱホバ、その栄光は全地に充つ(六章三節)。

   (昭和二年十月二日東京青山日本青年館大講堂に於て)

 

(10)     其二 イザヤと其時代 一章一節〇三十章十五節

 

〇イザヤはユダヤ人であつてイスラエル人でなかつた 即ちユダ、ベンヤミンの二支族より成りし南方ユダヤ王国に属せし人であつて、其の他の十支族より成りし北方イスラエル王国に属せし人でなかつた。其点に於てホセアと異つた。ホセアは北方イスラエル王国に遣されし預言者であつた。イザヤはユダヤ人であつて、ヱルサレムの市民であつた。首都ヱルサレムが彼の活動の地であつた。彼は都人であつた。預言者アモスが農夫でありしと全然異うた。アモスの声は地方農民の声であつたに対して、イザヤの声は中央都人の声であつた。都人に彼れ特有の権威がある。イザヤの声は其点に於て、アモス其他の小預言者の声以上であつた。

〇イザヤはユダの王ウジヤ、ヨハム、アハズ、ヒゼキヤの時に預言したりと言ふ。彼が預言職に召されたのはウジヤ王の死たる年であるとの事であれば(六章一節)、そして其時多分彼は二十歳前後の青年であつたであらうが故に、彼は多分紀元前七百六十年前後に生れたのであらう。そして彼の活動がヒゼキア王の死まで続いたとして、彼は六十三四歳で、紀元前七百年より二三年後に死んだのであらう。何れにしても随分長い活動期であつた事が判明る。丁度私が明治天皇の明治十二年に伝道を始めて大正天皇の四年まで継続したと同じである。然るに私は更に昭和二年の今日まで、即ちイザヤよりも十二年も長く伝道したと思へば、其長きに此べて功甚だ尠きを思ふて実に慚愧に堪えない。即ち預言者イザヤは紀元前七百年の人と見て間違ない 同七百一年にはアツシリヤ王セネケリブがヱルサレムを包囲し、ユダの王ヒゼキア之を守り、イザヤの言に頼りて、降服を免かれし事は歴史上明白なる事実である。

(11)〇イザヤは紀元前七百年の人であつた。即ち神武天皇即位より更に半百年前に活動した人であつた。孔子よりも殆んど百五十年古く、釈迦よりも少し前の人であつた。ソクラテスよりも殆んど三百年古く、古い旧い昔の人であつた。然るに此人の発した言が二十世紀の今日、尚ほ人類の思想を導いてゐると云ふは実に不思議である。真理の不滅性は此事に由ても判明る。|人は真理を唱へて其名は不朽に伝はるのである〔ゴシック〕。

〇イザヤが発せし不朽の言は許多《あまた》あるが、其内最も広く知られたる者は三十章十五節である。

   主ヱホバ イスラエルの聖者は斯く曰ひ給へり

   汝立帰りて静かにせば救を得、

   平穏《おだやか》にして依頼《よりたの》まば力を得べしと。

 此はルーテル特愛の聖語であつて、彼を以つて起りしプロテスタント教の根本精神とも云ふ事が出来る。其詳しき解釈は後日に譲ることにして、其の何時頃、如何なる場合に於て発せられし言なる乎、其事を知るはイザヤの時代を知るに最も善き途である。

〇此事は紀元前七百三十五年頃に発せられし言と見て間違ない。其時ユダの王はアハズであり、アツシリヤの王はチグラスピレーゼル(プル)、エジプトの王はシヤバカ(ソー)であつた。当時の二大強国はアツシリヤとエジプトとであつて、前者は新興国、後者は老大国であつて、其間に介在せし小国に取り国是上の大問題は新旧孰れの強大国に附従せん乎に於て在つた。そしてユダ国はアツシリヤに附かんとせしに対し、周囲の小国はエジプトに従はんとした。殊に其内で比較的に強大なりしシリヤとイスラエルとは此方針を取つた、即ちエジプトに頼りてアツシリヤに敵対せんとした。此の外交的態度の相違よりしてユダ対シリヤ・イスラエルの反目が生じ、終にユ(12)ダの王アハズはシリヤの王レヂン、イスラエルの王ペカを敵として持たざるを得ざるに至つた。茲にシリヤ、イスラエルの聯合軍はユダ軍に対抗するに至り、ユダの首都ヱルサレムは危険に瀕した。此危機に際しユダの王アハズは預言者イザヤの意見を聞かんと欲し、計らずも郊外「布《ぬの》曝《さら》す野の大路」に彼に会ひ、其時預言者の発せし言が是れであつた(七章三節以下)。九節の

  若し汝等信ぜずば必ず立つことを得じ

とあるは三十章十五節の言を縮めたる者であつて、預言者が此時に発せし言は私が前に引用せし者であつたらうと思ふ。

〇斯くして今や人類の標語と成りし此言の起原が明白に成つたのである。是はユダの王アハズが周囲の事情に対し、去就に迷つた時に、彼に正道を示さんとてイザヤが発せし言である。即ち|アツシリヤにもエジプトにも頼る勿れ、又シリヤ、イスラエルの聯合軍を恐るゝに及ばず、唯主なるヱホバに立帰れ、心を静かにして彼に依頼め、然らば救と力とを得べし〔付△圏点〕との事であつた。即ち外交術を弄するに及ばず、神を信じて独り立つべしと云ふことであつた。而かもアハブは之に従ふ能はず、アツシリヤ王に援助を求め、聯合軍を破るを得しと雖も、此事がアツシリヤがユダの政治に干渉するの本となり、終に百五十年後にユダはアツシリアの後継者たるバビロンの亡す所となつた。(十月九日)

 

     其三 イザヤの名に就て 一章一節。九章七節。五十九章十六節。六十三章。

 

〇ヘブライ人の名はすべて信仰的に意味の深い名であつた。ハンナは彼女が生みし子をサムエルと呼んだ。「神、(13)我に聴き給へり」の意であつた。祈祷に由て得た子である、故に神に捧げたのである。天使は夢にヨセフに現はれ、其妻マリアが生む所の子をイエスと名づくべしと言うた。「そはその民を罪より救はんとすれば也」とある(馬太伝一章廿一節)。希臘語のイエスは希伯来語のイエシユア又はヨシユアであつて、「ヨ(ヱホバ)は救なり」の意である。イザヤの名も亦同じである。「イザヤ」は希伯来語のヱシヤイヤーを希臘語に直した者である。そしてヱサイヤーはヱシヤイヤフー(Yeshayahu)の略語であつて、「ヱホバ(Yahu)救拯を施し給へり」との意であると云ふ(デリツチに依る)故にイエスと云ひイザヤと云ひ其意味は大略同じである。即ち「救はヱホバに在り」との意である。

〇そして信仰篤き希伯来人は其名に己が天職を読んだのである。西洋の諺に Nomen est omen(名は兆《しるし》なり)と云ふがあるが、希伯来人はそれ以上に己が名に己が使命を認めた。イザヤ、ヱシヤイヤフー、ヱホバ救を施し給へり、……預言者は幾度となく其父アモツが己に附せし此名の意味に就て黙想したのであらう。そして之がやがて彼が宣伝へんする福音の標語となつた。|ヱホバ救を施し給ふ〔付○圏点〕。其意味は深遠無窮である。

〇救ひ、拯《たすか》り、罪の束縛より救出さるゝ事、人生実は之よりも望ましき事はない。幸福と云ひて新たに幸福を加へられる事ではない。聖書の教に循へば人は幸福に造られたのであつて、新たに幸福を求むるの必要はない。|或者が幸福を奪つたのである〔付△圏点〕。そして若し其「或者」を除くを得ば、或は其或者の束縛より人類を釈放《ときはな》つを得ば、それで人類は幸福に成るのである。其点に於て聖書の見方は近代人の見方と異なる。近代人は幸福増進の必要条件として|進歩〔付○圏点〕を要求するが、聖書は|救拯〔付○圏点〕を要求する。イザヤ書五九章一、二節に曰く

  ヱホバの手は短くして救ひ得ざるに非ず、

(14)   その耳は鈍くして聞えざるに非ず、

   唯汝等の邪曲《よこしま》なる業《わざ》汝等と汝等の神との間を隔て、

   又汝等の罪その面を覆ひて聞えざらしめたり。

 恩恵の神は永遠に存す、人をして其恩恵に与り得ざらしむる者は彼等の罪である。故に罪にして除かれん乎彼は今、直に神の恩恵、即ち最上の幸福に与る事が出来ると云ふが、イザヤ其他の聖書記者が力を籠めて唱ふる所である。

〇そして個人も国家も社会も人類も如此くにして救はるゝのである。|進歩は決して幸福でない〔付△圏点〕。其事は人類の歴史が明かに示す所である。蒸気も電気もラヂオも人類を幸福に為さなかつた。日々の新聞紙が明かに其事を示す。|真個の幸福は罪より救はるゝに由て来る〔ゴシック〕。真個の幸福に文明の利器の必要はない。汽車なく、電気なく、瓦斯なき所にも真個の幸福を見る。人が罪の束縛より放たれし所に讃美の声が揚がる。進歩ではない 文化ではない。救である、釈放である。イエスは其意味に於て世の救主であつた。イザヤは其意味に於て釈放の福音の預言者であつた。

〇然らば救拯は誰に由て行はるゝ乎。政治家か、学者か、哲学者か、宗教家か。然らずとイザヤは答ふるのである。|ヱホバ御自身之を施し給ふと云ふ〔付○圏点〕。ヱシヤイヤフーである。ヤフー、ヱホバ、彼が救を施し給ふと言ふ。其所に亦聖書の教の特質がある。聖書は国家又は社会の救済は個人又は団体の運動努力に由て行はると教へない。「救はヱホバに在り」と云ひて、|救は神特有の大権である〔ゴシック〕と教ふ。そしてイザヤは幾回となく繰回して此事を唱ふ。公平と正義とは完全に世界に行はるべしと云ひて、万国平和会議に由て行はるべしとは言はずして、「万軍のヱホ(15)バの熱心之を成し給ふべし」と云ふ(九章七節)。五十九章十六節に曰く

   ヱホバは人なきを見、中保《なかだち》なきを奇《あやし》み給へり、

   斯て其|臂《かひな》をもて自から拯け、

   其義をもて自から支え給へり。

 有名なる六十三章一-六節が此真理の有力なる唱道である。人なる救者《すくひて》に由らず、|神御自身〔ゴシック〕救を施し給ふと。若し「イザヤ教」なる者があるとすれば、其唱ふる中心的真理は是である。

〇「イザヤ」「ヱホバ救を施し給ふ」「イエス」「ヱホバは救なり」神御自身が人類の救を司り給ふ、然り、|彼れ御自身〔ゴシック〕が救である。「イエスは神に立られて汝等の智慧又義又聖又贖と成り給へり」とあるが如し(コリント前一章三十節)。基督信者の実験が凡て此事の真なるを示す。世界の歴史も亦福音の此真理を証明する。自分の力に由て救はれたと思ふ信者は一人もない。|神御自身〔ゴシック〕が救を施し給ふが故に救は貴いのである。自分でもない、他人でもない、神御自身、彼が我を憐みて救ひ給うたのである。故に言ひ尽されぬ感謝である。そして社会国家の救に就ても彼に俟たねばならぬ。祈祷の必要は茲に在る。|近代人が運動に頼るに対して基督信者は祈祷に依るのである〔付△圏点〕。十月十六日

 

       祈祷

〇主なる真の神様、御恵みに由り今日も亦、聖き日を賜はり、茲に愛する兄弟姉妹と共に貴神《あなた》の聖名を讃美し、貴神の聖書を学ぶ此楽しき機会を与へ給うて有難く存じ奉ります。洵に貴神の思《おもひ》は我等の思と異なり、貴神の道(16)は我等の道と異なります。我等は自己《おのれ》の如何にして造られ、如何なる恵みの裡に在るを知らずしてたゞひたすらに自己の運命を開拓せんと焦心《あせ》ります。然れども救拯は唯貴神にのみ在るのでありまして、我等の努力は唯|憂患《わづらひ》を増すに過ぎません。我等は我等の罪の故に自己を縛り、貴神《あなた》が予め我等の為に豊かに備え給ひし恩恵を目前に置きながら之に与かる事が出来ません。願くは父よ、此憐れなる貴神の子供を愍み給へ。貴神の救拯を我等に施し給へ。我等の眼を開き貴神の栄光を仰がしめ給へ。我等の心の戸を押開き、我等をして其処に貴神を迎へしめ給へ。我等をして其意味に凡てイザヤたらしめ給へ。貴神御自身に救拯を施さるゝ者たらしめ給へ。そして貴神御自身がまた我等の愛する此国を救ひ給へ。国民挙つて自己の拙き智慧に頼らずして、彼等をして貴神に頼らしめ給へ。此感謝と祈祷を主イエスの聖名に由て受納れ給へ。アーメン

 

     其四 預言と異象 イザヤ書一章一節。約翰黙示録第一章

 

〇イザヤは預言者中最大の者であり又模範的の者である。故にイザヤを知るは預言者を知るの捷路《ちかみち》である。預言は読んで字の如く「預め言ふ事」である、「前以つて言ふ事」である、英語の prophesy に此意味がある。Pro は「前」で phanai は「語る」である。Foretell と云ふと同じである。そして預言者は実に「前以て語る者」である。預言者は又「神に代つて語る者」である。Pro に「の為に」又は「代りて」の意味がある。「神に代りて語る者」それがブローフエツト、預言者である。

〇希伯来語で預言者を nabi と云ふ。「沸騰する者」又は「噴出する者」の意であると云ふ。ヱレミヤ記二十章九節が此事を示す。

(17)  我は重ねてヱホバの事を宜べず、又其名をもて語らじと言へり、然れどヱホバの言我心に在りて、火の我が骨の中に閉籠りて燃ゆるが如くなれば、忍耐《しのぶ》に疲れて堪へ難し。

 ヱホバの言我が心に臨み、我は沸騰せる鼎の如くなりて、熱湯を注出《そゝぎいだ》すと云ふ。或はヱホバの熱心我を駆りて、我をして、火山が火を吐くが如くに、彼の言を噴き出さしむと。沈黙に堪へずして語るの意である。ナビー、預言者は神に強いられて語らざるを得ざるが故に語る者である。

〇然し乍ら預言者の何たる乎は、定義に由らず、彼を知るに由て判明る。我等は初めに預言者に関する誤解を除く必要がある。預言者と云へば正義を唱へ罪を責むる者のみと思ふは誤解である。預言者は神に代りて語る者であるが故に、彼の正義と審判を述ぶると同時に其恩恵と赦免を伝ふ。神は預言者を以て我等の罪を責め、キリストを以て之を赦し給へりと云ふは大なる間違である。キリスト御自身が人の罪を責め給うた。預言者も亦多くの場合に罪の赦免の福音を伝へた。預言者は、怖《こわ》い者、イエス様は優しい方と云ふ者は、預者をもイエス様をも知らない者である。パウロ曰く

  神の仁慈《なさけ》と其|厳粛《きびしき》とを見よ

と(羅馬書十一章廿二節)。神に代りて語る預言者に仁慈と厳粛との両面がある。我等はイザヤ書一章に於て既に罪の赦しの福音を明かに読むのである。曰く

  汝等の罪は緋の如くなるも雪の如く白くなり、紅の如く赤くとも羊の毛の如くにならん(十八節)と。

〇預言者は語る者であるのみならず亦|見る者〔付○圏点〕である。預言者は先見者である。第一章一節が其事を示す。

  アモツの子イザヤに示されたる(が見たる)異象(18)とある。イザヤは異象を見て、之を世に伝へたとの事である。彼は神に就き思想を得て之を宣伝へたと云ふのでない。又は告知《しらせ》に接して之を告げたと云ふのでない。異象を示されて之を示したと云ふのである。異象《いしやう》とは夢である、幻である、画である、活画《タブロー》である。蜃気楼の如き者である。預言者は思想を伝へられた者でない、幻影を見せしめられたる者である。其点に於て詩人や哲学者と異う。(ナホム書第一章一章に「エルコシ人ナホムの異象の書」とあるを参考せよ》。

〇預言者が見たる異象の何たる乎は之を新約聖書に於て知る事が出来る。ダマスコの途上に於てパウロが見たる者はキリストの異象であつた。彼は彼所《かしこ》に復活せる栄光の主の異象を見たのである。彼は又第三の天に挈《たづさ》へられ、其処に人の語るまじき言を聞けりと言ふ(コリント後書十二章一-四節)。斯くて使徒パウロも亦イザヤ、ナホムと同じく預言者であつた。殊に新約最後の書たる約翰黙示録は純然たる預言書である。|黙示録は見象録である〔付○圏点〕。一章九節以下に曰く

  我れヨハネ主の日に霊《みたま》に由りてラツパの如き大なる声の我が後《うしろ》に在るを聞けり……我れ身を転《かへ》して我に語る声を観んとし、既に身を転せば金の七の燈台又其七の燈台の間に人の子の如き者あるを見たり

云々とある。其他第六章に記せる「四騎」の異象の如き(白馬、赤馬、黒馬、灰色馬《はいいろのうま》の異象)の如き、すべて此|類《たぐゐ》である。旧約に在りても新約に在りても、神は其の為さんと欲する事を、思想としてに非ず、異象即ち活画を以て示し給うたのである。

〇聖書が近代人に由て解され難き理由は茲に在る。近代人は欧洲人に学んで万事を理知的に、即ち思想として解せんとする。之に反して聖書記者は考へんとせずして見んとした。彼等は考へた結果即ち思想を伝へんとせずし(19)て、見た事即ち異象を示さんとした。「我等が聞き又目に見、懇切《ねんごろ》に観、我手|接《さは》りし所のものを汝等に伝ふ」とヨハネ第一書一章一節に曰ふ。神の黙示は元来実物的であつた、故にハツキリしてゐた。曖昧模糊たる所が少しも無かつた。故に預言者の言は自づから簡潔であつた。強堅であつた。

〇ラスキンが曰うた事がある「人生最大の事業は或る事を見て、見し事を簡単なる文字を以て伝ふるにあり」と。そして預言者はすべて此事業を遂げた者である。神は其聖旨を人に伝ふるに方て異象を以てして思想を以てし給はない。(十月廿三日)

 

       祈祷(此日大講堂を奪はれ中請堂に集まる)

〇宇宙万物の霊にして其造主にして亦其持主なる我等の父なる真《まこと》の神様、様々の故障ありしに係はらず今日も亦此の所に此の集会の場所を賜はり、此《こゝ》に愛する兄弟姉妹と共に毎時《いつも》の通り此聖日を守るを得て感謝し奉ります。臠《みそな》はす通り我等に我等すべてを容るゝに足るの会堂がありません、然し乍ら世には会堂ありて集まる人なきを歎《かこ》つ者多き此時に方り、人ありて堂なきを悲しむ此境遇に我等を置き給ひて感謝し奉ります。まことに諸々《もろ/\》の天の天も貴神《あなた》を容るゝに足りません。然し乍ら貴神は心砕けて謙《へりくだ》る者と偕に住み給ひます、謙る者の霊を活かし、砕けたる者の心を生かし給ひます。願くは我等、貴神を荘厳なる宮に於て求めんとせず、我等の衷に砕けたる悔いし心を備えて、其処に貴神を迎へ奉ることを得しめ給へ。殊に我等各自をして貴神に厳粛《きびしき》と仁慈《なさけ》を学び、自己に対して厳しくして、他に対して緩《ゆるや》かならしめ給へ。我等各自相応に貴神の黙示に与り、能力相応に預言者の任務を果さしめ給へ。そして此罪の世に在り汚穢《けがれ》を清め、悲痛《かなしみ》を慰むる器《うつは》たらしめ給へ。キリストの聖名に由て聴き(20)納れ給へ。 〔以上、1・10〕

 

     其五 ヱホバの大訴訟 イザヤ書第一章上半部の大意

 

〇イザヤの預言は一章二節を以て始まる。第一節は表題であつて本文に入るべき者でない。イザヤ全書の表題でない事は明かである。然らば第三十九章までの表題であるか、或ひは第十二章までの者である乎、註解者の説は区々《まち/\》である。孰れにしろ或る部分に附せられし表題が今や巻頭第一に置かれて全書の表題なる乎の如き観を呈して居るは、精密に言へば不当ならんにも、実際に考へて甚だ適当なりと言はざるを得ない。

〇イザヤ書第一章はイザヤに由て為されたる最初の預言でない。若し時代に由て記《しる》さるゝならば第六章を以て始めらるぺきである。其事は其章を研究する時に明かになる。第一章が初めに置かれたるは、是れが預言者の代表的預言なるが放であらう。イザヤの文体、棉神、預言の内容等が最も目立つて此の章に現はれてゐるが故に、預言全集の紹介文として、其初頭に置かれたのであらう。さう見て第一章の意味を解することが容易《たやす》くなる。孰れにしても能く第一章を学んでイザヤの預言の大意を知ることが出来る。若しイザヤ全集が巻頭の第一節に籠つてゐると云ふ事が出来るならば、その少しく精細なる者にして而かも意義簡潔なる者が第一章であると云ふ事が出来る。

〇|第一章はヱホバがイスラエルの民を相手取つて起し給へる大訴訟として見ることが出来る〔ゴシック〕。此場合に於て原告はヱホバ御自身であつて、被告はイスラエルの民である。そして神が審判を行ひ給ふに当て、御自身以外の者に判決を委ぬる事が出来ないから、原告の地位に在る彼れが判事長たるは止むを得ない。そして神に代つて被告の罪を訴ふ(21)る者が預言者であつて、此場合に於て彼れ預言者は検事の役を務むるのである。そして此外に立会判事並に陪審官があつて、其任に当る者が天と地とである。普通の裁判所に於て行はるゝ裁判に較べて見て、奇異なる感ありと雖も、人が人を裁くに非ずして神が人を審き給ふに方て、以上の如き役割は止むを得ない。

〇斯くして預言者なる検事の論告を以て大裁判は始まるのである。彼は口を開いて曰く

  天よ聞け、地よ耳を傾けよ

と。預言者は人に訴へずして天と地とに訟へたのである。此場合に於て人に訴ふるの益なきを知つたからである。今の人は最後の判断を社会又は国民の輿論に仰ぐと雖も、我等は輿論なる者の如何に微弱にして頼るに足らざるを知る。|寧ろ天地に訴へん哉〔付○圏点〕。天地に口なしと雖も能力がある。神は終に天地を以て世を審判き給ふ。黙示録六章十二節以下に曰く

  我れ見しに大なる地震あり、日は毛布の如く黒くなり、月は血の如くなれり。天の星は無花果の樹の大風に揺れて未だ熟せざるに其果が落るが如く地に隕ち、天は巻物を捲くが如くに去りゆき、山々島々皆な移りてその処を離れたり

と。天地は死物でない。スピノーザの如き大哲学者は天然是れ神なりとさへ曰うた。我等は天地に訴へて、冷たき星や、無感覚なる岩に訴ふるのでない。

〇預言者は神の大審判に於て陪審官の役を務むる大自然に対《むか》ひ、イスラエルの罪の数々を述べ立つた。其第一は不孝の罪であつた。預言者は神に代つて曰うた

   我れ子を養ひ育てしに彼等は我等に叛けり

(22)   牛は其主人を知り驢馬は其|主《あるじ》の厩《うまや》を識る、

   然れどイスラエルは識らず我民は悟らざるなり

と。そして其結果として堕落は国民全体に及び、「足の趾《うら》より頭《かしら》に至るまで全き所なき」に至れりと云ふ。

〇預言者の此論告に対しイスラエルは自己を弁護して曰うた、「我等はエホバに叛きしに非ず、其証拠に我等は祭事を怠らず、能く安息日を守り、犠牲《いけにへ》を絶たず、モーセの律法を厳守して遺漏なからんことを努む」と。之に対してヱホバは答へて宣はく「我は汝等の儀式に倦めり、我は汝等の供物を喜ばず、汝等が我が殿《みや》に詣《きた》るは其庭を践むに過ぎず、汝等の所謂信仰は偽善なり、我は之に堪へず」と。そして若し民に真の信仰あらんには、是れ公義、公平、仁慈の諸徳を以て現はるべきであると宣べ給うた(十-十七節)。

〇斯くて論告に対する弁護は終り、ヱホバは判決を下して宣べ給うた(十八-二十節)。

  我等は茲に弁論を終らん。汝等の罪は明白なり。故に悔改めよ。若し悔改めなば、汝等の罪は縦し緋の如くなるも雪の如く白くなるぺし、紅《くれなゐ》の如く赤くとも羊の毛の如くなるべし。汝等の罪を認めよ、之を認めて悔ゐよ、而して悔ゐて赦されよ。と

〇以上が第一章上半部の大略である。驚くべき記事である。イザヤの預言の好き模範である。荘厳である、深刻である、そして仁慈《めぐみ》深くある。神の厳粛《おごそか》と仁慈とが能く其内に現はれて居る。罰する為の審判《さばき》でない、罪を認めしめて之を赦す為の審判である。是れがイザヤ書全体を貫く精神である。一九二七年十月三十日。

 

       祈祷

(23)〇万国を支配し万民を鞫き給ふ真の神様、今日も亦何の妨害もなく、我等一同此堂に集まることを得、貴神が今より二千六百年前に貴神の預言者を以て語り給ひし聖語《みことば》を読み、其意味を探る貴き機会を与へ給ひし事を感謝します。まことに人は何人も皆な草であります、その栄華《はえ》は凡て野の花の如きものであります、草は枯れ花は凋《しぼ》みます、然し貴神の聖語は永遠《とこしえ》に存《のこ》ります。貴神の聖語の一節を知るは人の言葉の千篇を読むに勝さるの益があります。神よ願くは我等を鞫き給へ、義を以つて鞫き給ひて我等の罪と愆《とが》とを覚らしめ給へ。そして我等に真《まこと》の悔改《くいあらため》の心を起し給ひて、我等をして貴神の備へ給ひし救拯に与る事を得しめ給へ。貴神が我等を鞫き給ふは我等を罰せんが為ではありません、我等に己が罪を知らしめ給ひて我等を活かし給はんが為めであります。願くは我等、貴神に鞫かれ、罪を示されて、貴神を怖れ離るゝことなく、貴神の善き聖旨《みこゝろ》を悟りて貴神の潔めに与ることを得しめ給へ。神よ、今日又特に我日本国を恵み給へ。貴神が人類に賜ふ最善のものを此国に降し給へ。此国が内に聖められて外に強くある事を得しめ給へ。アーメン

 

     其六 罪の本源 イザヤ書第一章二-九節

 

〇律法と云ひ、預言と云ひ、福音と云ひ、其目的は一であつて、人を罪より救ふに在る。罪を責むるほ罪を知らしむる為である。そして罪を知らしめんが為に、罪の本源を示さねばならぬ。罪は単に過誤《あやまち》でない、又|科《とが》でない。世の所謂罪とは罪の結果であつて、罪其物でない。イザヤ書が罪の本源の指摘を以つて始まるは此書に最も相応はしい事である。

〇預言者はヱホバに代りイスラエルを訴へて曰く
(24)  我れ子を養ひ育てしに彼等我に叛けり

と。父が其子を訴ふる言である。イスラエルは其父ヱホバに対ひて不孝の罪を犯したりと云ふ。|罪は多しと雖も最大の罪は不孝の罪である〔ゴシック〕。子を持つて知る親の恩と云ふ。真に然りである。一人の子を育て上げる親の苦労心配、数へ尽す事が出来ない。そして其親に叛きて子は最大の罪を犯すのである。まことに「天よ聴け、地よ耳を傾けよ」である。若し子が親が己の為に尽せし心労辛苦を知るならば、之に叛き得やう筈がない。人なる親に於て然り、況んや神なる親に於てをや。神が人を造り給ひし努力は実に絶大であつた。近世科学は克く事を示す。所謂進化の課程が夫れである。地球の歴史、生物の歴史、人類の歴史が其事を明かにする。人は容易に成つた者でない、億万年の神の辛苦に成つた者である。万物の霊長であると云ふは、造化の最後の作であると云ふのである。其者が神に叛いたと云ふのである。神の御失望、御歎き、実に譬ふるに物なしである。人なる親の歎きは言ふも更なり、神なる父の御歎きは特別である。神にも亦堪え難き御歎きがある。親が其子の叛く所となりし歎きに千万倍したる歎きである。思ふだに恐ろしくある。イスラエルは此罪を犯したのである。そして人類全体が今尚ほ此罪を犯しつゝある。私も貴下《あなた》も此罪を犯したのである。

〇牛は其持主を知り、驢馬は其主人の供する槽《うまぶね》を知る 然れどもイスラエルは知らず、ヱホバの民は悟らない。禽獣且恩を知る、況や人に於てをや。然れども事実は然らずして、恩を知らざる事に於て人は禽獣に劣るのである。人は無神を唱へて耻ず、神に対する不孝は其常性である。まことに驚くの外なし。天よ聴け、地よ耳を傾けよである。

〇そして神を侮り、彼を棄し結果は如何。「全頭は病み、全心は疲る、足の趾《うら》より首《かうべ》の頂《いたゞき》に至るまで健全なる所な(25)し」と云ふ有様である。其本病みて其末病まざるはなし。まことに当然である。イスラエルはヱホバを棄て、其聖者を侮慢《あなど》り、彼と離絶したれば、此憐むべき状態に立至つたのである。そして惟りイスラエルに限らない、何れの人も、社会も、国家も、其造主なる神を離れて茲に至らざるはない。腐敗と云ひ、堕落と云ひ、外部《うはべ》の事でない、神に対する不孝の結果である。政治家並に社会改良家の過誤《あやまり》は茲に在る。彼等は罪の本源に触れずして、其表面を矯めんとするが故に其目的を果たさないのである。不孝の子に幸福は来らず、不信の徒に平和は臨まず。人を根本的に改めんと欲すれば彼に真の宗教を与へざるべからず。西洋の諺に日く Be right with God and all will be right(神と正しき関係に入れよ、然らば万事可ならん)と。|宗教は罪の本源を除く道である〔ゴシック〕。人の神に対する叛逆を癒して、彼の全部を善くする道である。

〇茲に至て知る、其根本の精神に於て基督教は儒教と異なる事なきを。儒教の本源は孝道に於てある。曰く

  夫れ孝は徳の本也。………親を愛する者は敢て人を悪まず。親を敬ふ者ほ敢て人を慢らず。愛敬親に事ふに尽して然して後徳教百姓に加托り、四海に刑《のつと》る(孝経)。

 即ち|孝なれば忠且仁なり〔付○圏点〕との意である。其内に深い真理がある。然し乍ら基督教は更らに深い所まで孝を運ぶ。|神に対する孝が諸徳の本なり〔ゴシック〕と教ゆ。「汝心を尽し、精神を尽し、意を尽して主なる汝の神を愛すべし」と教ゆ。諸《すべて》の善行は茲に発し、諸の福祉《さいはひ》は茲に起る。儒教の源に遡れば聖書の教に達せざるを得ない。「汝の父と母とを敬ふべし」との十誡第五条は|人の神に対する義務〔付○圏点〕として教へらる。神を愛するに由てのみ真の孝道は行はる。

〇我国の今日は如何。政治、実業、教育、宗教、凡てが行詰りである。「足の趾より首の頂に至るまで健全なる所なし」とは亦我国今日の状態でない乎。そして其の由て来りし原因は何処に在る乎。基督教を信じないからであ(26)ると云ふならば、国民の多数は怒り又嘲けるであらう。然し天祖の恩を忘れたからであると云ふならば彼等と雖も否定する事は出来まい。|日本人も亦恩を知らざる民と成りつゝある〔付●圏点〕。其忠君は大抵口の先きの忠君である。今や子の叛逆に遭ふて歎く親は算なし。師たる者にして弟子の叛逆に遭はざる者は何処に居る乎。商家は忠実なる番頭を得るに苦しみ、恩を施すもその報いらるゝ例《ためし》は滅多になし。真の宗教が無いからである。万物の造主なる父なる神との和《やわら》ぎが無いからである。(十一月十三日)

 

       祈祷

〇我等の主イエスキリストの御父なる讃美すべき真の神様、御恵みに由り今日も亦何の故障もなく我等一同此の処に集まる事が出来、此の尊き御教に与る事が出来て感謝致します。貴神が預言者を以つてイスラエルの民の罪を責め給ひし其御言葉は一々我等に当ります。我等も亦貴神に養ひ育てられしに、貴神を忘れ、貴神に叛きました。まことに我等は其事に於て禽獣に劣ります。我等は何よりも先づ第一に自己《おのれ》を愛します。貴神より凡ての物を戴きながら貴神に感謝せず、自己の智慧と能力とに由て獲たりと思ひ、之を貴神に献げんとせず自己に用いんとします。そして偶々《たま/\》不幸が身に臨みますれば、自己の悪しきを念はずして、自己の不幸を憐みます。神様、どうぞ我等をして貴神の御教に従ひ、我等の罪の本源を悟らしめ給へ。又我等に臨む凡ての患苦《なやみ》の因《もと》を知らしめ給へ。貴神を識る事が智慧の初めであり、貴神を父として仰ぐ事が幸福の基である事を覚らしめ給へ。願くは我等も、社会も、国家も人類も仁慈《めぐみ》の父なる貴神に帰依する事に由て、凡ての傷と苦痛《いたみ》を癒され、まことの平和に入ることを得しめ給へ。救主イエスキリストの聖名に由て聴き給へ。

 

(27)     其七 偽はりの宗教 イザヤ書一章十-十七節

 

〇罪は神に対する不孝であるとの預言者の詰責に対しイスラエルは答へて曰うた「我等はヱホバを忘れず、熱心以つて之に事ふ。我等は祭事を怠らず、犠牲《いけにへ》は尽く之を捧げ、集会は欠けなく之を催し、祈祷も亦絶ちしことなし」と。然るにヱホバは民の此弁疏に答へて宣べ給うた「我は汝等の犠牲を悦ばず、集会も亦我が重荷なり、我は汝等の祈祷に耳を傾けず、汝等は我が名を涜し、祭事を弄ぶ者なり」と。祭事は神に事ふるの途に非ず、|正義を行ひ、仁愛を施すこと〔ゴシック〕、是れ神に事ふる唯一の途であると云ふ。

〇そして是れ惟りイザヤの主張に止まらず預言者全体の主張であつた。此事を更に端的明快に述べたものがアモスの言である。(アモス書五章廿二-廿四節)。

   汝等我に燔祭又は素祭を献ぐるとも我れ之を受けじ

   汝等の肥えたる犢の感謝祭は我れ之を顧みじ

   汝等の歌の声を我前に絶つべし

   汝等の琴の音は我れ之れを聴かじ

   |公道を水の如く正義を河の如く流れしめよ〔ゴシック〕。

と。今日の言葉を以つて云ふならば、「我れ礼拝を顧みず、讃美の声を聴かず、公道を歩み、正義を行ひて、汝等が我が礼拝者なるを証しせよ」と云ふのである。アモスの此言と併《なら》んで引用せらるゝものは預言者ミカの言である。ミカはイザヤと同時代の人であつて、同一の主張を以つてイスラエルの愆《とが》を責めたのである。

(28)   我れヱホバの前に何を持行きて高き神を拝せん乎

   燔祭の物及び当歳の犢をもて其前に到るべき乎

   ヱホバは数千の牡羊、万斛の油を悦び給はん乎

   我が愆の為に我が長子を献げん乎

   我が霊魂の罪の為に我身の産を献げん乎

   人よ、彼れ前《さき》に善事の何なる乎を汝に告げ給へり

   ヱホバの汝に要め給ふ事は唯此事なり、即ち

   |正義を行ひ憐憫を愛し謙遜《へりくだ》りて汝の神と共に歩む事なり〔ゴシック〕(米迦書六章六-八節)。

〇そして以上二人の言よりも更に深刻徹底的なるはヱレミヤの言である(耶利米亜記七章廿一-廿三節)

  万軍のヱホバ、イスラエルの神斯く言ひ給ふ………我れ汝等の先祖をエジプトより導き出せし日に燔祭と犠牲とに就いて語りし事なし又命ぜし事なし。唯我れ此事を彼等に命じたり即ち、汝等我が声を聴かば我れ汝等の神となり、汝等我が民とならん、且我が汝等に命ぜし凡ての道を歩みて福祉《さいはひ》を得べしと。

 若しヱレミヤの此言にして文字通り真事《まこと》なれば、利未記に録せる祭事の如き、是れ人の作りしものであつて神がモーセを以つて命じ給へりと云ふは誤謬であると云ふ事になる。或ひはさうである乎も知れない。然し乍ら縦しさうでなくとも神の目の前には祭事は小事であつて省くも可い事である、|必要欠くべからざるは正義である仁道である〔付○圏点〕、正義を怠りて祭事は反つて神を涜す事であると云ふのが預言者全体の主張である。

〇そしてイエスは預言者の流を汲んで祭事を軽んじて正義を重じ給うた。故に祭司階叔の憎む所となりて其の殺(29)す所となり給うた。イスラエルに初めより祭司階級と預言者階級とがあつた、そして前者は常に後者を迫害し、後者は常に前者を責めた。アモスに対してベテルの祭司アマジヤがあつた。ヱレミヤに対するに祭司インメルの子パシユルがあつた。其如くに預言者イエスに対して祭司の長のカヤパがあつた。イエスは預言者として殿《みや》を軽んじて曰ひ給うた「此殿を毀《こぼ》て、我れ三日にて之を建ん」と。彼は曾て一回も祭事に携はり給はなかつた。彼の主張にして彼が繰返して使ひ給ひしは預言者ホゼヤの言であつた、曰く

  |我れ矜恤《あはれみ》を欲《この》みて祭祀《まつり》を欲まず〔ゴシック〕

と(ホゼア書六章六節、馬太伝九章十三節、同十二章七節)。即ち「祭祀を廃めて、公平に孤児《みなしご》を鞫き、寡婦《やもめ》の為に弁護せよ」とのイザヤの主張である。如斯くにしてイエスを崇むるに儀式を以つてするが如き矛盾はない。イエスが何よりも嫌ひ給ひしものは寺である、坊主である。監督制度、祈祷文、聖餐、バプテスマの厳かなる儀式、イエスは之に堪へ得給はなかつたと信ずる。彼の忠実なる僕オリバー・クロムウエルが曾て英国々教会の集会に出席し、其無意味なる儀式に堪へずして足を摩りて反対を表し、壇上の教職に向ひ「君よ高壇より降り給へ」と云ひたりとの事は、イエスの此精神を現はしたるものであると思ふ。

〇第十三節に曰く「汝等は聖会に悪を兼ぬ」と。是れは激烈なる言である、然し無い事では無い。宗教の集会に明白なる悪事の行はるゝは決して珍らしい事でない。其実例を屡々今の教会に於て見る。プロテスタント教会に於て信者間の勢力争ひの為に激烈なる競争が行はれ、罵詈雑言至らざる無きは我等の幾度か目撃した所である。聖書朗読あり、讃美歌あり、祈祷ありて、然る後に直に痛罵面責が始まる。憐憫を愛し、謙遜りて汝の神と偕に歩む事が真の宗教であるならば、斯かる宗教の集会に於て宗教は無いと称して差支がない。「聖会に悪事」昔し(30)あつて今猶ある事である。十一月廿日

 

     其八 罪の消滅 イザヤ書一章十八、十九節

 

〇人は神の恩を忘れ、彼を離れ、彼に叛き、彼に対して不孝の罪を犯した。それが罪の源因である。罪と云ふ罪はすべて茲に始まる。そして罪の結果として種々《いろ/\》の苦難が彼の身に臨むや、人は神を宥《なだ》めんと欲し、彼に祭事《まつり》を奉り、犠牲を献げ、歌を以つて彼の御名を讃め、手を舒《のぺ》て彼に祈り、以つて再び彼の恵みに浴せんと欲す。是が所謂宗教であつて、之を司るに祭司あり僧侶あり、迷信とは知りつゝも之を廃する能はずして今日に至つた。然るに神御自身は祭事を欲み能はず、彼に事へんと欲するならば正義を行ひ仁慈を施すぺしと預言者を以つて告げ給うた。然れども事実如何と尋ぬるに人は依然として祭事を欲んで衿恤を欲まない。宗教が盛なる割合に正義は行はれない。其反対に多くの場合に於て宗教は明白なる不義と共に行はる。教会の内に於て仇恨、争闘、※〔女+戸〕忌、忿怒、結党、※〔女+冒〕嫉は絶えず行はる。神は正義憐憫を要求し給ふに人は儀式と教義と熱狂とを以つて之に代へんとする。斯くして真の礼拝は今に猶ほ行はれずして、偽はりの礼拝、即ち偽はりの宗教が盛に行はる。羅馬天主教会がユダヤ教会の跡を逐ひしやうに、プロテスタント教会が天主教会の跡に循うた。正義に代ふるに祭事を以つてする点に於て教会は寺院と異ならず、新教は旧教と違はない。

〇然し乍ら問題は更に起るのである、|人は神の要求に応じて正義を完全に行ひ得る乎〔付●圏点〕と。正義は神を悦ばし奉るの唯一の途たるは明かなりと雖も、之を行はんと欲してその難きを悟るのである。彼が正義よりも祭事を好む理由の一は確かに茲に在る。罪が単に罪の行為でないやうに、正義は単に正しき外面の行為でない。正義が真《まこと》に正(31)義たらんが為に義《たゞ》しき心が必要である。そして人は神に正義を要求されて此処まで迫窮《おいつめ》らるゝのである。心が潔められねばならぬ、然らざれば正義は之を行ふ能はずと。斯く自覚して人は己れ自から己を潔うする能はざるを知るのである。即ち自己の罪人なるを悟るのである。「噫我れ困苦《なやめ》る人なる哉、此死の体《からだ》より我を救はん者は誰ぞや」と、鋭き良心を有する人は誰人もパウロと偕に叫ばざるを得ない。

〇ヱホバが預言者を以つてイスラエルに対して起し給ひし大訴訟に於て、結論は終に茲に達せざるを得なかつた。被告人のイスラエルが弁護の辞に窮して口を閉づるを見てヱホバは言ひ給うた。

   率我等共に論》つらはん(第十八節)

と。「答ふべきの言あらば答へよ」とか、「茲に争論を止めん」との意味であらう、精細には解らない。何れにしろ第十八、十九の二節は訴訟の結果を示す言である。イスラエルは罪に定められた。彼は神に答ふるに言なきに至つた。彼が律法に問はれて罰せらるべきは当然である。然し乍ら神は人の罰せられん事を欲み給はず、故に救ひの途を設け給ふ。イスラエルを死に定めて救ひの途あるを宣告し給うた。

   縦令汝等の罪は緋の如くなるも雪の如く白くならん

   縦令亦|紅《べに》の如く赤くとも羊の毛の如くならん。

と。驚くべき意外の宣告である。然し事実である。|死刑を宣告せられし罪人が完全なる赦免と再び罪を犯さざる保証とを宣告せられたのである〔ゴシック〕。

〇|如何にして〔付○圏点〕罪の消滅が行はるゝ乎、其途に就て預言者は茲に言はなかつた、唯緋の如き罪は雪の如く白くせらるべしと言明した。神の言である、故に手段方法如何を問はずして信ずべきである。イザヤよりも尚ほ二千年前(32)のアブラハムは此事を信じた。「汝等の先祖アブラハムは我が日を見んことを喜び且之を見て楽しめり」とイエスはユダヤ人に告げ給うた(ヨハネ伝八章五六節)。神は終に人類の罪を取消し給うた、然し乍ら其時まで其事は単に約束として存した。

〇そして此事を明かに述べたものが羅馬書八章一節に於けるパウロの言である。「それ律法は肉の故に弱し、その能はざる所を神は為し給へり、即ち己の子を罪の肉の状《かたち》となして罪の為に遣はし、肉に於て罪を罰し給へり、是れ律法の義の、肉に従はずして霊に従ひて行ふ所の我等に在りて成就せん為なり」と。罪はキリストに在りて消滅して、義は完全に彼を信ずる者に由て行はるゝに至るとの事である。

〇罪の消滅は人を離れて、神の子にして人類の代表者なるキリストに在りて行はれた。そして人は信仰に由りて其恩恵に与る事が出来る。イザヤは其事を述べて言うた「若し汝等好んで順はゞ地の美産《よきもの》を食ふを得べし」と。「好んで順ふ」それが信仰である。神の御招きに応じ、罪の赦しを我に関はる事として信じて受くる事、それに由て我が罪は潔められ、我は完全に正義を行ふを得て、其報賞たる地の美物を食ふを得べし。罪の源は神に対する不従順である、そして神に順ふに由て罪は消滅する。然し乍ら唯順ふのみにて罪は赦されない。神が先づ其子に於て之を罰し、之を無きものとなし、そして人が神の其の限りなき御慈愛を信じて赦さる。イザヤは特に罪の赦しの福音の預言者である、そして其第一の預言を巻頭早々為したのである。 〔以上、2・10〕

 

     其九 審判と救ひ イザヤ書一章二十一-三十一節

 

〇一章十八、十九節に於ける罪の消滅の福音の宣言を以て、ヱホバが預言者を以つてイスラエルに対して起し給(33)ひし大訴訟は一先づ終りを告げた。イスラエルは審判かれ、罪に定められ、而して罪の赦しの約束に接して一先づ天地の大法廷より放免された。之で審判が済んだのではない、審判の経路《すじみち》が示されたのである。預言は預言、福音は福音である。そして其実行と通用とは別である。|国も人も言葉で審判かれない、又言葉で救はれない、人生の事実で審判かれ又救はれる〔付△圏点〕。

   シオンは正しき審判をもつて

   其|帰来者《かへりきたるもの》は公義をもつて贖はれん

   然れども悖逆者《そむくもの》と罪人とは同時に壊《やぶ》れ

   ヱホバを乗る者は亡び失せん

とあるは此事である(廿七、廿八節)。

〇そして現実のユダとヱルサレムとは如何なる者であつた乎と云ふに、実に憐むべき状態に於てあつた。市は妓女《うかれめ》となり、公義は失せて殺人其内に充つ。有司《つかさ》は盗人《ぬすびと》の侶伴《かたうど》となり、人は各々賄賂を喜び、贓物《おくりもの》を追ひ求むと云ふ状態であつた。名は神国、仁義の民であるが、実は婬乱国、収賄の民であつた。之に対しヱホバの恕は臨まざるを得ない。|事実を以つて行はるゝ罪悪は事実を以つて審判かれざるを得ない〔付△圏点〕。主言ひ給ふ

   噫我れ我が仇に向ひて我が念を晴らし

   我が敵に向ひて我が讐《あだ》を復へさん

   我れまた我が手を汝の上に加へ

   悉く汝の滓を洗ひ去らん……

(34)   然る後に汝は公義の市《まち》

   忠実なる市と称《とな》へられん。

 罪の赦しの福音の宣伝に由て雪の如く、羊の毛の如く白くなるのではない、事実を以つてヱホバに審判かれて公義の市、忠実なる市と称へらるゝに至ると云ふ。

〇ヱホバは如此くに其民を扱ひ給ふと聞いて、彼は無慈悲なりと云ふ者は誰乎。無慈悲に非ず、其正反対である。言葉のみに由て悔改めた民は何処に在る乎。若し神が警告の鞭を加へ給はないならば、己が罪に覚めて彼に帰来る者はない。是れ人類の実験であつて、また我等各自の実験である。福音の宣伝、説教、演説、と単に言葉の散布に由て人の救はれた例《ためし》はない。福音が伝へられて、之を証明するに事実の審判が臨んで、国も民も少しく目を醒ますのである。何にも二千五百年前のイザヤのユダとヱルサレムの跡を辿るに及ばない、大正昭和の我が日本と東京とに於て好き例証を見るのである。市は妓女となり、殺人其内に充ち、人各賄賂を喜ぶと聞いて、誰か今日の東京市を思出さゞる者がある乎。実に事実有の儘でない乎。上流婦人までが芸妓、娼妓の如くに装ふではない乎。小学校の校長に成るにさへ、視学官に贈賄せざれば成れずと新聞紙は明かに報ずるではない乎。殺人は日々の出来事であつて其点に於て日本の東京は米国の紐育又は市俄古に似たる市となりつゝあるではない乎。東京全市が遊廓であり、盗人の巣であると云ひて過言でないではない乎。唯斯く大胆に唱へ得る預言者が居ない迄である。

〇そして此場合福音の宣伝丈けに由て日本と東京とが救はれやうと誰が信ずる乎。|事実を以つてする審判が必要でない乎〔付△圏点〕。大地震が必要でない乎。財界の大動揺が必要でない乎。破産者相次いで生じ、昨日の貴族は今日の平(35)民となり、昨日までの富豪は、今日は社会の憐みを乞ふに至るの必要はない乎。まことに「シオンは義《たゞし》き審判を以つて、其|帰来者《かへりきたるもの》は公義を以て贖はる」である。|今や日本人が少しく真面目に神の福音に耳を傾くるに至りしは、少数の伝道者の言が彼等を動かしたからでない、父なる神の愛の審判が近年に至り頻々として彼等の上に臨んだからである〔ゴシック〕。

〇此事は勿論惟り日本に限らない、孰れの国に於ても然りである。米国の如き最も克く預言者の言に適中する国である。「如何なれば忠実なる国は妓女《うかれめ》とはなれる 昔しは義しき審判にて充ち公義其の中に宿りしに、今は人を殺す者とはなりぬ」と読んで、イザヤは特別に今日の米国に就て預言したのではない乎と思はれる。我等ピユーリタン思想旺盛時代の米国を知る者は今日の米国を見て実に今昔の感に堪えない。今日の米国が基督教国であるとは誰も信じない。米国は遥かに日本以上審判を以つて贖はるゝ必要がある。

〇然し乍ら審判は審判の為の審判でない、潔め救ふ為の審判である。神は許多《あまた》の患難《なやみ》を下して国と民とを再び御自身の所有と為し給ひつゝある。「公義を以て贖はる」とは此事である。そして日本に於ても引続く災難が少しく功を奏して、ヱホバの聖名が少しく其民の間に揚りつゝあるは感謝の至りである。

   その怒は唯|暫時《しばし》にして其|恵《めぐみ》は生命《いのち》と共に永し

   夜は終夜《よもすがら》泣悲むとも朝《あした》には歓び歌はん

とあるは此事である(詩三十篇五節)。十二月四日

 

     其十 平和実現の夢 イザヤ書二章一-四節〇ミカ書四章一-四節

 

〇イザヤ書第二章を以つて新らしき預言が始まる。

(36)  ユダとヱルサレムに関しアモツの子イザヤが見し所の言は是なり(一節)

とある。|見し所の言〔ゴシック〕と云ふ。言は聞くものであつて見るものでない。何故に見し所の言と云ふの乎。預言者はヱホバの言を聞いたと曰はずして|見た〔付○圏点〕と云ふ。一には之を異象《いしやう》に見たのであらう。恰かも活動写真に見るが如くに画に由て啓示《しめし》に接したのであらう。二には思想としてに非ず、|黙示〔付○圏点〕として伝へられたのであらう。その如何なる形を以つてした乎、今知る事は出来ない。然し|生々《いき/\》としたる、ハツキリとしたる形を以つて伝へられたる事は明確《たしか》である。若し我等の経験に於て之に類したるものを知らんと欲するならば、詩人の思想又は芸術家の理想の如き者であるに相違ない。所謂天来の思想であつて、何処《いづこ》より来り何処に往くを知らずと云ふ質《たち》の者である。忽然として現はれて深く脳裡に印象さる。悪魔に憑《つか》れると云ふが如くに思想に憑れる。天来の思想の捕捉する所となる。故に言はざるを得ずして言ふ、それが預言である。斯くて預言者は思想家と異なる。若し類を求むるならば預言者は詩人又作曲家の類である。そして詩人ダンテと作曲家ベートベンは大預言者であつた。|言を見る者〔ゴシック〕、神の聖意《みこゝろ》を生々したる事実として見る者、其者が預言者である。

〇そしてイザヤは茲に彼の愛するユダとヱルサレムに就て美はしき夢を示された。それは「末の日至らん時に」事実と成りて現はるゝ事であると云ふ。二節以下四節までの言がそれである。実に美はしい言である。預言其物が絶大の詩である。何人も之を読みて終生忘るべからざる印象を受けざるを得ない。殊に忘れ難きは第四節の言である。

   斯くて彼等はその剣《つるぎ》を打ちかへて鋤《すき》となし

   その鎗を打かへて鎌となし

(37)   国と国とは剣を挙げて相攻めず

   また重ねて戦争の事を学ばざるべし

と。実に美くしき偉大なる夢である。斯んな夢ならば何人も見たくある。痴人夢を語ると云ふが、此は智者ならざれば見る能はざる夢である。曾つて或る有名なるラビ(ユダヤ教の教師)が或る平和会議の席上に於て述べた事がある。

  キリスト降世より七百年前にイザヤが此預言を為して以来、平和会議は幾回失敗しても、人類は此預言に捕はれ、世界的平和の実現可能を信じて疑はない。又平和実現の暁まで平和会議を開いて止まない。

と。実に然りである。兵器の進歩、兵備の充実、未だ曾て今日の如きはなしと雖も、兵備撤廃の声は益々高くある。小なる丁抹は既に之を実行し、共産主義の露国は其世界的に実行せられん事を提唱した。そして之を痴人の夢として嘲ける者は聖公会の本国なる英国である。又一方平和を高唱しながら、他方に軍艦建造を急ぎつゝある米国である。|痴人の夢であると云ふ。然し聖書が明かに記す所の、神が預言者に示し給ひし異象である〔付△圏点〕。宣教師を異教国に遣り、聖書の採用を促しつゝある英と米との両国が世界的平和の実現を痴人の夢として嘲けるのである。

〇イザヤの預言と同じ預言を預言者ミカがなした。米迦書四章一-四節がそれである。前に曾つて述べた如くに、ミカはイザヤと同時代の預言者であつた。故にミカがイザヤの言を藉りたのである乎、或は亦、イザヤがミカの言を藉りたのである乎判明らない。或は此は其時代の預言者すべての共通の思想であつたと見る事も出来る。そして又ミカの預言にイザヤに無いものがあつた。それは最後の一句であつた。

(38)  皆な其|葡萄樹《ぶどうのき》の下に坐し其|無花樹《いちじくのき》の下に居ん、之を懼れしむる者なかるべし

と。即ち|世界的平和到来の時には、人は各自小地主となりて、己が手にて作りし物を食ひ、己が建し家に安んぜんとの事である〔付○圏点〕。言あり曰く「神は田舎を造り、人は都会を作れり」と。そして所謂文明は都会文明である。人が集合して相扶けて、最大限度に地上の生命を楽まんとする努力である。そして夫れが凡ての患難《なやみ》を生じ、競争を起し、戦争を産んだのである。人が人に頼らずして神に頼る時に彼は自づから独立に成る。直に天然に接して、天然を通うして天然の神に近づかんとする信仰の人は自《おの》づと都会を離れて田舎に住まんとする。己が葡萄樹の下に坐し、己が無花果樹の下に居る事は彼の理想である。|世界的平和は自作農業の発達を促す〔付○圏点〕。末の日に神の国が地上に建設せらるゝ時には、東京、大阪、名古屋と称するが如き人間の集合地は跡を絶ちて、之に代るに全国に渉る小地主の自作農業の繁栄を見るだらう。そして地上に未だシベリヤ、ブラジル、カナダ等の如き広大なる耕地の未墾の地として存するは、預言者の理想の実現を俟つ為であらう。其時社会問題あるなく、人は皆な己に足りて平和は水の大洋を掩ふが如くに全世界に漲るであらう。(十二月十一日)

 

     其十一 平和実現の途 イザヤ書二章二-四節〇同十一章一-九節

 

〇同じイザヤ書の中に、平和実現の夢は二箇《ふたつ》ある。第二章と第十一章とにある。第十一章は第二章よりも有名である。二者を合はせて夢は完全の者となる。第二章は平和実現の時期を示し、第十一章は其人物を現はす。何時《いつ》平和は実現する乎と云ふのと、何人に由て成る乎と云ふのである。更に又、第一の夢は消極的であるに対して、第二の夢は積極的である。第一の夢は結んで曰ふ

(39)   斯くて彼等はその剣《つるぎ》を打かへて鋤となし

   その鎗《やり》を打かへて鎌となし

   国は国に向ひて剣をあげず

   再び戦闘の事を習はざるべし。

と。即ち戦争終熄の夢である。第二の夢は結んで曰ふ。

  斯くて我が聖山の何処《いづこ》にても害ひ傷《やぶ》る事なからん

  そは水の海を掩ふが如くヱホバを知るの知識地に充つべければなり

と。即ち平和充実の夢である。

〇そして平和は末の日にエツサイの裔に由て実現すると云ふのである。「末の日」である、何時《いつ》でもでない。又エツサイの商に由てゞある、何人《たれ》に由てゞもない。|平和実現に神の定め給ひし時と人とがある〔付○圏点〕。時は末の日である、人間が其努力を試みつくした後である。又全地に平和実現の準備が成つた後である。イエスは其時に就て示して曰ひ給うた、

  天国の此福音を万国の民に証しせん為に普く世界に宣伝へられん、然る後に末期《おはり》到るべし。

と(馬太伝廿四章十四節)。そして今は未だ其時でない事は明かである。又其時には「ヱホバの家の山は諸《もろ/\》の山の頂に堅く立ち、諸の嶺よりも高く挙り」とあるが、今はまだ其時でない事も亦明かである。世の末期は其爛熟の時である。天使が収穫《かりいれ》の鎌を人類の畑に入れる時である。其時に神の敵は悉く亡びて、国は国に向けて矛《ほこ》を挙げず、再び戦闘の事を学ばざるべしと云ふのである。そして未だ其時でない事は明かである。

(40)〇そして世界の平和を来たすに唯一人の人がある、其人はエツサイの裔であると云ふ。エツサイはダビデの父でありたれば、此平和の君と称せらるべき人はダビデの裔でなくてはならぬ。そして其人がヨセフの子として生れしナザレのイエスであらねばならぬ事は何人が見ても明かである。簡短に云へば、|世界平和は政治家の策動に由て来らず、エツサイの裔なるイエスキリストに由て来ると云ふのである〔付○圏点〕。そして歴史が能く此事を証明する。平和は平和会議に由て来らず。我等は今年も亦ジユネーブ市に於ける英米日の軍縮会議を見た。其れが立派に失敗に終り、其結果として米国海軍の大拡張となり、人は第二次世界戦争の遠きにあらざるを予想するに至つた。戦争を廃止する為の戦争は其日的を達せずして、其正反対の結果を生じ、ヴエルサイユ会議は戦争発生の為の多くの種を播いた。故ウイルソン大統領も、クレマンソーも、ロイド・ジョージも、我が西園寺公爵も、斎藤総督も、世界平和を招来《もちきた》すには余りに微弱である。之を成就するには神の遣し給へる特別の人が要る。イザヤは其人を指して云うた

  エツサイの株より一つの芽出で、その根より一つの枝生えて実を結ばん

と。そして|此人に由りて〔ゴシック〕狼は小羊と偕に宿り云々と。そして預言者の此言明ありしに拘はらず、米国前々大統領ウードロー・ウイルソンに由て世界は民主化せられて、平和は地上に臨むべしと想ひし基督教会の愚かさよ。平和は臨まずして、人に頼みし教会が世界大戦以来頓に衰へしは当然の結果と称せざるを得ない。

〇平和は来る、必ず来る、然れども人に由て来ない、輿論に由て来ない。神に由て来る。「ヱホバの熱心之を為し給ふべし」とある(九章七節)。世界の平和は神の大能に由らずしては成らざる事業である。然るに|ヴエルサイユ会議に於て一回の祈祷の神に捧げられしを聞かず〔付△圏点〕、たゞ諸強国代表の相談に由て平和は実現すべしと思ひし二十(41)世紀の政治家達の愚かさは、バベルの塔を築いて諸民族の一致を計りし古代の政治家等の愚かさに少しも劣らない。実に所謂「バベルの混乱」は世界最初の平和会議である。エツサイの裔なる平和の君イエスキリストを崇めざる平和会議は、縦令パリ、ワシントン、又カルビンの市なるジユネーブに於て開かるゝとも、悉くバベルの会議として、混乱に終るは明白である。そして此明白なる事実を弁《わきま》へ得ざる所謂基督教国の行為は不審に堪えない。

〇平和は外部の圧迫より来らず、内心の調和より来る。武器の精巧、経済の逼迫に由て人類は戦争を廃《やめ》ない。|其心に歓喜の充つる時に人は争闘を嫌ふに至る〔ゴシック〕。戦争を悪事なりと知りて之を止めるのではない、戦争が嫌ひになりて之を全然廃するのである。私の日本武士の魂にイエスの霊が臨んだ時に、私は戦闘を嫌ふ平和好きの武士に成つたのである。人類が戦争を止むる途も亦同じである。人が死を嫌ふが如くに戦争を嫌ふに至る時に、世界に平和は臨むのである。十二月十八日

 

     其十二 繁栄と審判 イザヤ書二章六-十一節

 

〇イザヤ書二章は世界平和実現の夢を以つて始まり、世界裁判執行の|知らせ〔付ごま圏点〕を以つて終る。恰かも晴天白日を以つて始まりし日が大暴風雨を以つて終るが如し。希望を以つて始まり失望を以つて終るが如し。然し斯かる事は無い事でない。暴風の前の平穏は気象学上よく有る事である。又人類の歴史に於て大戦争の始まる前に平和繁栄の普く世に行渡る場合尠からず。人生は平和と戦争である、静止と活動である。戦争の後に平和が来る如く、平和の後に戦争が来る。同じイザヤ書廿一章十一節に曰く

  斥候《ものみ》よ夜は何時ぞ、斥候よ夜は何時ぞと、

(42)  斥候答へて曰ふ、朝来り夜亦来ると。

 夜は明けて朝が来る、然れども朝は永久に続かない、朝の後に亦た夜が来ると云ふのである。平凡の事を云ふやうであるが、然し平凡であつて平凡でない。其内に大なる真理が含まれてある。人生全部が救拯の途程である。平和があり裁判がありて、救拯は完成せらるゝのである。「シオンは公平を以て、帰り来る者は正義を以て贖はるべし」とあるは此事である(一章廿七節)。正義の在る所に裁判は免かれない。正義を以て贖はると云ふは裁判を以て救はると云ふと等しくある。平和実現の約束の後に裁判執行の|知らせ〔付ごま圏点〕が記載されたとて決して不思議でない。批評家がイザヤ書第二章を前後の関係なき記事の点綴であると云ふは謂はれなき事である。

〇第五節「ヤコブの家よ、来れ我等ヱホバの光に歩まん」は平和を裁判に繋ぐ言葉である。平和の約束に関して云へば奨励の言である。裁判の預告に関して云へば警告の言である。花咲く野辺を辿る時も、雪吹く暗夜《やみよ》に彷《さまよ》ふ時も、頼るべきは此光である。

  ヱホバ彼等の前に往き給ひ、昼は雲の柱を以て彼等を導き、夜は火の柱を以て彼等を照らし、昼夜行き進ましめ給ふ(出埃及記十三章廿一節)

とある其光である。或る註解者は此一節を前部の平和の約束に附し、他の註解者は之を以つて後部の裁判の預告を始む。以つて前後共通の訓誡なる事が判る。

〇「主よ汝は汝の民ヤコブの家を棄たまへり」と云ふ。そして其結果を記して云ふ

   彼等の国には黄金白銀満ちて財宝の数限りなし

   彼等の国には馬充ちて戦車の数限りなし

(43)と(七節)。神に棄られし結果茲に至れりと云ふ。|神に棄られて国富みて兵強し〔ゴシック〕と云ふ。此世の見る所とは正反対である。或は結果を原因として見る事も出来る。国富みて兵強くなりたれば、民は神を忘れ彼を離れたれば、終に神の棄つる所となれりとも解する事が出来る。然し乍ら神に棄られし結果が富国強兵であると見るが預言者の見方である。預言者ホセヤの言に曰く

  エフライムは偶像に結び聯れり、その為すがまゝに任せよ(ホゼヤ書四章十七節)

と。神が人を棄たまふ時に其欲するがまゝに任かし給ふ。国に金銀を有り余まる程与へ給ふ。昔は馬と戦車今は軍艦と軍用飛行機とを数限りなく持たしめ給ふ。そして無智の民は富めりと云ひて神に感謝し、強しと云ひて祝福に誇る。彼等は屠らるゝ前に肥さるゝを知らないのである。カーライルが或る箇所に、英国が急激に富を増せしは神に棄られし証拠であると記いたことを記憶する。「英国人の手を触るゝ所、悉く金に化せり」と云うた。イザヤは茲に同一の事を云ふてゐるのであると思ふ。|富国強兵に神の祝福を見ずして呪詛を見る〔付△圏点〕。それでこそ真の預言者である。軍旗を祝福し、軍艦にバプテスマの式を施す教会の監督こそ紛ふべきなき偽はりの預言者である。

〇ヱホバに棄られて国富み兵強し。そして有り余る富は主として外国貿易より来る。ユダの場合に於ては、ウジヤ王の時に紅海のエジオンゲベルに港を得て、此所に紅海沿岸、更らに進んで東方印度との貿易に従事した。第十六節に「タルシシの舟」とあるは、大海の航路に耐ゆる当時の大船を指して云うたのである。ユダの富の激増は、英国の富と等しく、印度貿易より得たらしくある。G・B・グレー氏に依れば第六節の後半は左の如くに訳されべきであると云ふ。

(44)   彼等の内に貿易商横行し

   彼等は外国人と手を打てり(売買の約束を為せり)

と。難解の半節であるが、斯く解して前後の意味が明瞭に成る。農民の国たりしユダが貿易商人の国と化せし時に、富が増せしと同時に信仰が衰へ、迷信が盛んになり、ヱホバの棄つる所となりて、大審判が其上に臨んだのである。

〇繁栄に誇る国民の上に、忽焉として天より声の響き渡るあり、曰く

  汝岩間に入り、又土に隠れ、ヱホバの震怒《いかり》と其|威稜《みいづ》の光輝《かゞやき》とを避けよ

と。大審判は大繁栄の上に落ち来る。ユダの場合のみならず、凡て他の国民の場合に於て然りであつた。此次ぎに審判かるゝは何国《どのくに》である乎。一月十五日 〔以上、3・10〕

 

     其十三 理想と実際 イザヤ書二章より四章までの大意

 

〇預言者は一面に於てはヱホバの代言人であつて、他の一面に於てはイスラエルの愛国者である。彼は最も高貴なる意味に於ての愛国者である。人類の歴史に於て多くの愛国者が現はれたが、イスラエルの預言者の如き愛国者は之を見る事が出来ない。預言者は愛国者の模範である。愛国を預言者に学んで国は根本的に救はれ、民は徹底的に潔められた。英米のピユーリタン運動はミルトン、クロムウエルの如き深く預言者の精神を汲みし人達に依て起されし運動である。希臘、羅馬、日本の愛国者の貴きは言ふまでもないが、然しイスラエルの預言者に比べて見て、全く質の異なりたる愛国者である。私自身が旧約の預言者を読むまでは愛国の何たる乎を知らなかつ(45)た。イザヤ、ヱレミヤ、エゼキエル、アモス、ホゼア等に学んで、私は愛国の決して狭い、賤しい者でなくして、キリストの僕として私が懐くべき心であつて、又行ふぺき道であることを知つたのである。

〇預言者は愛国者として愛国者共通の途を辿つた。彼等が普通の愛国者と異なるは神に導かれし点に於て在つた。そして愛国者は彼が愛する国に就いて高き理想を懐く者である。此理想ありて彼の心は燃え、彼の腕は鳴るのである。そして預言者イザヤにも此理想があつた。此は最も美はしいもの、壮麗此類なきものであつた。我等が「平和実現の夢」と題して研究した彼の言が夫れであつた。

   ヱホバの家の山は諸《もろ/\》の山の巓《いただき》に堅く立ち、

   諸の嶺に越えて高く聳え、

   而して万国は河の如くに之に流れ帰せん云々。

と云ふのであつた。此場合に於て「ヱホバの家」と云ふはイスラエル即ち神の民を指して云ふのであつた。イザヤに取りては彼が所謂「ユダとヱルサレム」を云ふのであつた。其国其民が凡ての国民の上に立ち、万国は河の如くに之に流れ入るべしとの事であつた。普通の言葉を以つて云ふならば、|イスラエルは世界第一の国となりて、万国は之に帰服するに至るべし〔付○圏点〕と云ふのであつた。而かもイスラエルは威力を以つて万国に王たるに非ず、神の道を以つて世界を導くのである。

   ヱホバ其道を(彼処に)我等に教へ給はん

   我等はその道に歩むぺし。

   そは律法はシオンより出で、

(46)   ヱホバの言はヱルサレムより出づべければなり。

とあるが如し。そして如此き国に由て如此くに導かれて、戦争は世界に止み、平和は地の極にまで漲るべしと預言者は想うた。そして彼は己が理想に刺戟せられて言うた「噫ヤコブの家よ、来れ、我等ヱホバの光に歩まん」と。(イスラエル、ヤコブの家、ユダとヱルサレムの同意語なるに注意せよ)。

〇以上がイザヤが己が国に関はる理想であつた。多分彼が青年時代に抱いた理想であつて、彼は終生之を棄なかつた。実に荘厳なる、宏大無辺の理想であつた。之に比べて見て我国愛国者の懐いた日本国に関はる理想の如き、及ばざること遥に遠しである。西洋文明を輸入し、彼の武器を得て彼を制せんと云ふ類ではない。神の言を以つて、|唯之のみにて〔付○圏点〕世界を治めんと欲するのである。聖か狂か、然れども預言者の偉大なる、彼は終生此理想に由て生きた。彼はヱホバと其律法とに由て、其他に何の威力を用ひることなくして国を起し得べし、世界人類を治め得べしと信じた。其点に於て欧米今日の政治家と雖もイスラエルの預言者に到底及ぶべくもない。若しイザヤが今日英国又は米国の議会に立ちて彼の此理想を述べたならば如何《どう》であらう。彼は直に議場の外に引づり出されて、更らに民衆の石打する所となるであらう。

〇イザヤの国なるユダとヱルサレムに関はる彼の理想は以上の如くであつた。然るに実際は如何に? 理想が明かなればなる程、実際は明かに見え、高かければ高き程、実際は醜く見える。イザヤは彼の懐ける崇高の理想を以つて現実の社会に臨んで、

  |ヱホバよ汝ほその民ヤコブを棄て給へり〔付△圏点〕

と叫ばざるを得なかつた。理想と実際との懸隔が余りに多かつた。茲に於てか彼に感情の激変が起つた。斯かる(47)民に就いて斯かる理想を懐いた乎と思ふて、彼は自己の醒覚をさへ疑うたであらう。茲に於てか希望は失望に変じた。祝福は呪詛に化した。恩恵の約束は審判の宣告と成つた。此天職を持てる民が此状態に在るを思ふて彼は怒り、泣き、驚かざるを得なかつた。彼の此心理的状態に我等を置いて二章六節以下の彼の言を解する事が出来る。彼は茲に何れの理想家にもある所謂「産の劬《くるしみ》」を実験したのである。初めに美しき理想の夢、次ぎに実際に醒めたる時の苦しみ、終りに信仰に由る二者の調和、イザヤも亦向上の此通路を過ぎたのであつて、彼が我等の親しき兄弟である理由は茲に在るのである。(一月二十九日)

 

     其十四 実際のユダとヱルサレム イザヤ書二章六節以下

 

〇理想のユダとヱルサレムに比べ、実際のそれは正反対であつた。ヱホバの道を以て万邦を率うべき国が富に頼り、強を誇り、剰へ偶像に事へてゐた。預言者は対照の甚だしきに驚いた。驚きの極に彼は叫んで云うた「主よ汝はその民ヤコブの家を棄給へり」と。国に在るものは公義と信仰と平和の器でなかつた。曰く

   彼等の国には金銀充ちて財宝の数限りなし

   彼等の国には馬充ちて戦車の数限りなし

   彼等の国には偶像充ちて皆己が作れる者を拝めり

と。有るものは正義に非ずして金銭、平和に非ずして軍馬と戦車、ヱホバの神に非ずして偶像との事であつた。預言者は之を見て憤らざるを得なかつた、故に曰うた「彼等を赦し給ふ勿れ」と。

〇而して審判の忽ち彼等の上に臨むべきを予想し、彼等を警めて曰うた

(48)   岩間に入り、土に隠れ、以てヱホバの震怒《いかり》と其威光の光輝《かゞやき》を避けよ。

  其日には高ぶる者は凡て卑くせられ、驕《おご》る人は屈《かゞ》められ、唯ヱホバのみ高く揚げられ給はん

と。大審判は彼等の上に臨むべければ之を避くるの途を講ぜよ。而して其結果はヱホバの聖名のみ崇めらるゝに至らんとの事である。審判は価値の判定である。貴き者が崇められ賤しき者が卑《ひく》くせらるゝ事である。金銀貴からずに非ずと雖も至上善として貴むべき物に非ず。兵力恐るべしと雖も、以て公道を維持するに足らず。人は如何に尊しと雖も神として崇むべからず。而して価値の転倒する所に必ず神の審判は臨み、其結果として真の神のみ万物の上に崇めらるゝに至るべし。人類の歴史はすべて此プロセス(順路)であつた。物質、威力、人間、孰れも頼るに足らず、唯神のみ倚るべき永遠の磐なりと、其事を証明する為の歴史であつた。史学の始祖と称せらる、希臘のヘロドータスは曰うた、|神は嫉む者にして他の何物も己れ以上に崇めらるゝを許さず〔ゴシック〕と。そして彼の有名なる世界歴史は凡て此立場より記かれたものであると云ふ。イザヤは神の立場より、ヘロドータスは人間の立場より、同一事を言うたのである。

〇凡ての物は卑くせられ、唯ヱホバのみ高く揚げらるべしと云ふのが審判の原理である。理想のヱルサレム即ちヱホバの家の山は諸の山の巓に立ち、諸の嶺に越えて高く聳ゆるに対し、ヱホバを棄たる実際のヱルサレムは凡て高ぶる者、自身《みづから》を崇むる者と共に卑くせらるべしと云ふ。即ち馬太伝二十三章十二節に録されたるイエスの御言葉の適用である。

  凡て自己《みづから》を高くする者は卑くせられ、自己を卑くする者は高くせらるべし

と。神を離れたる人類の歴史は之を「低くする経路」と称する事が出来る。引下げ運動、階級の民衆化、言方に(49)様々あるが、竟《つま》る所はイザヤが曰へる如く

  凡て高ぶる者、驕る者、凡て自己を崇むる者………是等は皆な其日に卑くせらるべし

と云ふ事である。英国革命、仏国革命、世界大戦争、事柄は異《ちが》ふが其結果は同じである。帝と称し、王と称して、人が高く崇められし者が卑くせられし運動であつた。斯くて最大の審判は最後に行はるゝが、同種類の審判は常に行はれつゝある。

〇我等は預言者が此所に曰ふが如き審判を近頃屡々我国に於て目撃した。昨日までの富豪は今日は貧者と成つた。鈴木、村井、高田、松方等、最近までは「レバノンの高く聳えたる香柏、バシヤンの岡の橿樹《かしのき》」と称せらるぺき者が、今は卑くせられ、屈められて見る影も無きに至つた。個人として彼等に対し深き同情なき能はずと雖も、富や権力に依て高くせられし者が低くせられしは止むを得ない。是れ神の聖旨であるとも、天然の法則であるとも云ふ事が出来る。殊に「タルシシの凡ての舟」も卑くせらると云ふに至つては、事実其儘を目前に示されたるが如くに感ずる。タルシシの舟とは当時の大船の称である。広く世界貿易に従事した船を斯く呼んだのである。その大船が卑くせらたと云ふ。解し難きに見えて然らずである。大船は富を作る為の第一の要具である。殊に世界大戦当時に在つては大船一艘を有するは富者たる事であつた。所謂|船成金《ふななりきん》は数多出来た。汽船会社は一躍して大勢力と成つた。然るに今は如何。タルシシの舟は審判かれて卑くせられたではない乎。其最も顕著なるものが国際汽船会社である。数十隻の大船を擁して、今や其処分に窮する状態である。其他、東洋汽船、山下汽船、何れも見る影もなき状態である。茲に第二十世紀の初めに当つて紀元前七百年の昔、イザヤの時代に於けるが如くに、タルシシの舟が審判かれて卑くせられたのである。

(50)〇然し凡てのものが卑くせられて唯一つのものが高くせられた。イエスキリストの御父なる其の神の聖名が高くせられた。富者や権者が卑くせらるゝ丈け神の聖名が高くせらる。我国に於ても今日程日本人がキリストを慕ふ事は未だ曾つて無かつた。(二月五日)

 

     其十五 ヱルサレムの婦人(上) イザヤ書第三章の梗概

 

〇社会は男と女とより成る。男が堕落して女が堕落せざるはない。女は「|より善き半分〔付ごま圏点〕」であつて、男は腐敗しても女は純潔を維持して社会の堕落を阻止すると云ふは主として米国人の唱ふる所であるが、それは女を男よりも罪深き者と見る東洋人の見方丈けそれ丈け間違つてゐる。男女同権であるが如くに男女同罪である。神は偏り見る者に非ずであつて、神の言葉なる聖書は貴賎貧富に対するが如くに男女に対しても亦公平である。女性崇拝は男尊女卑丈け反聖書的である。基督教は女性を高むる者なりと称して、之に一種の神聖を附与するに至りしは西洋文明の一大欠点と称せざるを得ない。

〇イザヤは実際のユダとヱルサレムに多くの欠陥を見た。ヱホバを離れし結果として多くの不幸災害が彼等の上に臨んだ。先づ第一に彼等の間より人物が絶えた 真の軍人、真の政治家、真の判士、真の預言者、凡そ真の人が絶えた。

   我れ童子《わらべ》を以て彼等の主《きみ》となし

   嬰児《みどりご》に彼等を治めしめん

とあるが如くに、柔弱低能の徒が彼等の政治家と成りて彼等を滅亡の途へと誘ふ。其結果として

(51)   民は互に相|虐《しへた》げ、隣人互に相圧し

   幼者は長者を侮り

   匹夫は貴人を辱かしむ

と云ふ。同胞相鬩ぎ、隣人相苦しめ、弟は兄に背き、弟子は師を売り、上下転倒して下は上を辱かしむ。礼節全く絶えて社会に秩序無し。此は決して無き事に非ず イザヤのヱルサレムに在りし事を今日の東京に於て見る。曾て在りし事を今亦見ると言へば夫れまでであるが、此は容易ならざる事態であると知りて、我等は寒心せざるを得ない。

〇心の状態は外に現はれざるを得ない。イスラエルの背信、腐敗、堕落は之を其民の容貌に於て見る事が出来る。曰く

   彼等の顔色は其悪事を証す

   彼等はソドムの如くに其罪を示して隠さず

と。預言者はヱルサレムの街を歩行いて、彼が行会ふ市民の顔に其惡事を読んだであらう。其の多慾、其陰険、其絶望、其悪徳、孰れも明かに其容貌に現はれてゐたであらう。人相は決して偽りでない。視る目を以つて之を見れば其内に心を読むことが出来る。預言者は同時に人相見であつて、視る者即ち人格の透視者であつた。勿論我等は預言者を気取りて人の容貌に由り漫りに彼等を審判いてはならぬ。「人は外の貌《かたち》を見、ヱホバは心を視るなり」とある(サムエル前書十六章七節)。然れども人の容貌が或る程度まで其心の状態を現はすは誤りなき事実である。

(52)〇  禍ひなる哉彼等ほ害を己れに招けり。

   汝等義人に就て言へ、彼に善事ありと。

   禍ひなる哉悪人、彼に悪事来らん。

 平凡の理のやうに見える、然れども深い真理である。神の光に照らされざれば知る能はざる真理である。普通一般の人は思ふ、悪心必しも悪事を招かず、善心必しも善事を以つて報いられず、人の心と境遇とは比例するものに非ずと。然れども預言者は神の旨を受けて曰ふ「然らず、義人に善事あり、悪人に悪事来る」と。善悪は幸福に関係なき者に非ず、経済は道徳宗教と離して論ずべき事に非ず。徳は得なり。人は神の旨に反いて害を己れに招くのである。人生の実験は何人にも此事を示す。夫れにも係はらず人は明白なる義務を怠り、唯才智に由りて幸福を獲得せんと計る。運は運として求めて来らず、神を求め、其聖旨を奉じて来る。簡短にして深遠なる真理である。

〇又曰ふ(第十二節)

   あゝ我民よ、童子《わらべ》は彼等を虐《しへた》げ

   婦人は彼等の上に権を揮ふ

と。子を支配する能はず、その支配する所となる。男は女の首《かしら》たるに、女は男の上に権を揮ふ。神を棄し結果として万事が狂ひ、父父たらずして子子たらず、夫夫たらずして妻妻たらざるに至る。今日の社会が夫れである。親は子の暴虐に泣き、夫は妻の気儘勝手に悩む。米国最も甚だしく、日本も米国の跡に従ひつゝある。昔のユダとヱルサレムに此事があつて其国は終に亡びた。同じ原因は同じ結果に終らざるを得ない。

(53)〇そして男の上に権を揮ふ女は如何に鞫かるべき乎、其事を示すのが十六節以下二十六節までゞある。実に著しき記事である。之に依て預言者イザヤが如何に鋭き眼を以つて当時の社会を観察した乎が判明る。彼は単に国家人類の大事にのみ心を寄する人でなかつた。家庭の細事にまで眼を注いで、其処に人生の機微に触れた。彼の当時の婦人の衣服装飾に関する知識に驚くべきものがある。是れが万国を審判く大預言者の観察であらうとは如何《どう》しても思はれない。然れども彼の偉大さは細事にまで及んだ。彼が大偉人でありし所以である。(二月十二日)

 

     其十六 ヱルサレムの婦人(下) イザヤ書三章十三節以下〇エゼキエル書廿七章

 

〇圧制と奢侈とは同時に行はる。一は他の者の原因と成り亦結果と成る。奢侈に耽けらん為に圧制を行ひ、圧制に由て得し物を奢侈に使ふ。|奢侈は掠奪に由らずして行はれず。盗んで得し物は之を浪費す〔付△圏点〕。そして奢侈は主として婦人を以つて現はる。虚栄は婦人独特の弱点である。弱きが故に飾らんとする、飾りて其弱きを掩はんとする。婦人は晃子をして自己を飾らしむ、そして男子は婦人を悦ばせんが為に虐《しへたぐ》る。ヱゼベルのアハブに於けるが如し。預言者が奢侈を憤るは圧制に由て行はるゝからである。

〇大抵の人は奢侈贅沢は辜《つみ》の無い事、又軽い罪の事であると思ふ。然らずである。|奢侈は掠奪である〔付△圏点〕。一人の婦が身分不相応の装飾《かざり》を爲さんが為には、多くの他の婦が彼女の為に苦しまざるを得ない。若し労働が正当に報いらるゝならば、働く者が絹を着て、働かざる者は粗服に甘ずべきである。然るに単に良家の妻女たるが故に働かざるに美服を纏ふは働く著の報いを奪ふてゞなくてはならぬ。都会の女子は知らずして農村の女子の労働の結果を奪ひつゝ綺羅に其身を|やつ〔付ごま圏点〕しつゝある。昔し支那の詩人が歎じて言うた通りである。

(54)   昨日城郭に到り 帰来れば涙巾に満つ

   遍身綺羅の者  是れ蚕を養ふ人にあらず

 実に真を穿ちて謬りなしである。故に聖書に由れば奢侈は十誡第八条を以つて誡むべき罪である。汝盗む勿れと、汝他人をして汝の為に働かしめて、其労働の結果を奪ひて、汝の身を飾り、肉を楽しましむる勿れ。

〇イザヤ時代のユダ人は不正の商売に従事し、不正の富を獲て、之を不正に使用して身と魂に災を招いた。之を称して文明の罪悪と云ふ。勿論ヱルサレムの婦人のみを責むべきでない。又ユダ人のみ此罪を犯したのでない。此は社会の罪なるのみならず世界の罪である。人類全体が文明の恩化に与ると称して神の賜物を濫用し、生命を毒しつゝあるのである。イザヤ時代は決して野蛮時代でなかつた。文明は驚くべき程進歩してゐた。貿易は盛んに行はれた。技術は進歩し、製造は大規模に行はれた。ツロ、シドンが世界的貿易市場であつて、其大船は東は印度より西は今の英国まで通うた。クリート島、エジプト、バビロンが文化の三大中心であつて、此所に凡ゆる技芸が栄え、芸術品が盛んに産出せられた。そしてヱルサレムの婦人が其身を飾らんが為には、主としてツロ、シドンの商人の手を経て、外国の製品を仰いだのであらう。恰かも今日の日本婦人が其装飾品を巴里紐育に仰ぐと同じである。貿易は国を富ますの途であると云ふが、同時に亦国を亡すの途である。殊に未開国に於て然りである。入来る物は大抵は不用品である、贅沢品である。今日の巴里が其流行を以つて世界を毒しつゝあるが如くに、イザヤ当時のエジプト、バビロンがペニケの貿易商を通うして世界を堕落せしめたのである。

〇イザヤ当時のツロが世界貿易に従事した其広さと品目とを知らんと欲せばエゼキエル書第二十七章を読むべきである。其十六節に曰く

(55)  汝(ツロを指して云ふ)…汝の製造品の多きが故に、スリヤ汝と商売をなし、赤玉、紫貨《むらさき》、繍貨《ぬひとりもの》、細布《ほそぬの》、珊瑚及び瑪瑙を以て汝と交易す。

 又二十二節に曰く

  シバとラアマの商人汝と商売を為し、諸の貴き香料と諸の宝石と金をもて汝と交易せり。

 近頃シプラス島並にサルヂニヤ島に於いて発掘されしペニケ人居留地の遺物に由り、当時の身遍装飾の術の一斑を窺ふ事が出来る。其内にイザヤ書の此箇所に記せる瓔珞がある、手釧がある、耳環がある、又指環がある。殊に水晶に刻込《ほりこま》れたる香盒《かうがう》がある。以つて此記事の当時の真相を写せしものなる事が判明る。

〇依て知る今日文化は進歩したりと云ふも必しも然らざるを。昔あつた事を今繰返しつゝあるに過ぎない。ヱルサレム婦人を今猶ほ巴里、倫敦、東京に於て見るのである。近代式《モダーン》は近代式ならず、旧式である、二千六百年旧くある。絶対的に新らしき者は唯一つ、神に新たに造られし霊魂、其他はすべて旧くある。今の東京婦人にして紀元前七百年のツロ、ヱルサレムの婦人丈け華美《はでやか》に装ひ得る者は多分一人もあるまい。それを思ふても装飾に身をやつすの愚かさが一層深く感ぜらる。

〇斯く云ひて装飾を絶対に拒否するのではない。美を愛するは人の天性である。天然の美を発揮し之を維持するやうに何人も努むべきである。敢て殊更らに|むさくる〔付ごま圏点〕しく見せるに及ばず。マダム・ギヨンが夫の心を矯めんが為に改革に烙鉄《やきがね》をもて己が麗顔を焼きたりとの事は決して誉むべき事でない。少女には少女の美があり、老人には老人の美がある。美も亦神の賜物であれば神聖に之を保存し使用すべきである。そして奢侈は却つて真美を損ふ。装飾度を過ぐれば美は変じて異形《いぎやう》(grotesque)と成る。天使の眼より見て着飾りたる婦人は美人としてに非(56)ずして、寧ろ変化《へんげ》として見ゆるであらう。二月十九日 〔以上、4・10〕

 

     其十七 潔められしヱルサレム イザヤ書第四章

 

〇理想のヱルサレムに対して実際のヱルサレムがあつた。理想は美しくありしに対し実際は醜くあつた。実際を見て預言者は失望せざるを得なかつた。彼は之に対し神の大なる審判《さばき》の臨むべきを預言した。実際のヱルサレムは尊きも卑しきも、男も女も保存さるゝの必要なきまでに腐つた。イザヤは何の顧慮する所なく思ふ存分に当時のユダとヱルサレムとを呪うた。

〇然し乍ら失望は絶望でなかつた。審判は殲滅を意味しなかつた。審判は潔めらるゝ事であつた。ユダとヱルサレムとを滅び尽さん為の審判にあらずして、救ひ拯けん為の審判であつた。其処に預言者イザヤの強い信仰があつた。彼は其長子を名づけてシヤルヤシユブと云うた(七章三節)。之を訳せば「残れる者還るべし」との意であつた。更に之を説明すれば「その残れる者、ヤコブの残れる者は大能の神に還るべし」との意であつた(十章廿一節)。即ち審判かれて善しと認められて残りし者はヱホバに還りて其恩恵に与るべしとのことである。審判を其一面より見れば是である。残れる者の現はれんが為である。滓が焼き尽されて純銀のみが残らんが為である。そして神の選び給ひし民は悉く滓でなかつた。其内に必ず純銀があつた。「我悉く汝を滅さじ」と彼は幾度か預言者を以つて彼等に告げ給うた。故に預言者の憤怒に常に際涯《はてし》があつた。彼等は暴風の後に常に晴天を望んだ。ヱルサレムは審判を以つて贖はるべしと云うた。滅ぶべしとは云はなかつた。

〇イザヤ書第四章は小黙示文学である。約翰黙示録を縮めたやうな者である。此世の終末に就て示した者である。(57)文字通りに解釈すべきではないが、大体の事実は明白である。其内の中心的真理は|残れる者は救はるべし〔付○圏点〕と云ふのである。「逃れ残れる者、シオンに残れる者、ヱルサレムに留まれる者」と云ふのがそれである。即ちシヤルヤシユブである。そして凡ての恩恵は彼等の上に降ると云ふ。第一に地は改造せられて其産は豊かになり残れる者に貢ぐであらうとの事である。「ヱホバの枝は栄え、地より生産する実は優れ且美はしく」と云ふは此事である。所謂万物の復興である。第五節は神の臨在を示す、「凡ての物の上に栄光の覆庇《おほひ》あるべし」と云ふ。黙示録二十一章三節に

  神の幕屋 人の間《なか》に在り、神 人と共に住み、人 神の民となり、神亦人と共に在して其神と成給ふ

とある其事である。第六節は如斯くにして恵まるゝ民に隠家《かくれが》の供へらるゝ事を示す、「一つの仮廬《かりいほ》」とあるがそれである。仮家《かりや》が暴風雨を避くる所とならうとは受取り難いが、それが黙示文学である。文字通りに解すること能はずと雖も其内に深い意味を見出す事が出来る。救はれたる者と雖も避難所を要すと云ふのである。罪人は救はれても猶ほ「怒りの子」である、何時審判の霊に吹捲《ふきまく》られて其立場を失ふ乎も知れない、其場合に避難所が要る。信者に取りてはキリストの十字架がそれである。詩篇九十四篇廿二節に「神は我が避所《さけどころ》の磐《いは》なり」とあるそれである。

〇そして恩恵は凡てが審判かれて後に降ると云ふ。

  そは主 審判する霊と焼き尽す霊とをもてシオンの汚《けがれ》を洗ひ、ヱルサレムの血をその中より注ぎ給ふ時到るべければ也(第四節)

とある。恩恵は全体が審判かれて後に残れる者に降ると云ふ。|審判を経ずして恩恵は降らずと云ふ〔付△圏点〕是れ亦預言(58)者全体の主張であつた。審判に由て汚穢《けがれ》を洗はれて然る後に恩恵は降ると云ふ。そして此は神が人に恩恵を降し給ふに方つて取り給ふ変らざる途である。不変の法則であると云ひて実際に間違はないと思ふ。人が人である間は審判が必要である。審判は洗浄であり、試練である。そして汚物が焼き尽されて残部が拯るのである。国家も人類も社会も個人も此途を経て救はるゝのである。|審判なくして救拯はない〔付△圏点〕。「凡ての物は血を以つて潔めらる、血を流す事あらざれば赦さるゝ事なし」と云ふは人生の全部に渉る大真理である。

〇斯くてユダとヱルサレムに限らず我等各自も亦審判の霊の働きに由り凡ての汚《けがれ》を洗はれて、我等の衷に残れるものを以て救はるゝのである。我が全部が救はるゝに非ず、焼かれざる者が残りて其物が拯かるのである。「ヱルサレムに存《ながら》ふる者の中に録《しる》されたる者は聖と称《とな》へらるべし」とある。生命の書の中に録されたる者は救はるべしと云ふと同じである。偶然に、幸にして焼け残つたのではない、生命の書の中に予め録されたる者が神の聖旨《みこゝろ》に循ひ残るを得たのである。残る事其事が神の恩恵である。神は恵まんと欲する者を恵み、憐まんと欲する者を憐み給ふとの福音的真理が此所にも亦示されてあるを見る。そして審判は様々の形を取りて我等に臨む。或は誘惑となつて、或は威嚇として臨む。我等之に勝たん乎、或物を失ひて或物が残る、そして其残る物の上に神の恩恵が降る。死が最後の審判である、我等の汚を焼尽す最も熱き火である 「そして残れる者は救はるべし」である。二月二十六日

 

     其十八 イザヤの聖召(一) イザヤ書第六章、ヱレミヤ記一章、出埃及記三章

 

〇人は神に召されずして信者たる能はず、預言者たる能はず、伝道師たる能はず。神の器《うつは》は神自身が選び給ふ者(59)であつて、人が自から進んで神職に就いたのでない。神の真の僕はすべて此事を知る。神に召され、彼に囚へられてその僕となつたのである。故に止むを得ないのである。その模範的実例は預言者アモスである。ペテルの祭司アマジヤが王城の地なるペテルに於て再び預言する事を禁ぜし時に、アモスは答へて曰うた

  我は預言者に非ず、また預言者の子にも非ず、我は牧者なり、桑の樹を作る者なり。然るにヱホバ羊に従ふ所より我を取り、往きて我民イスラエルに預言せよと我に宣へり(アモス書七章十四、十五節)。

と。此時既に預言を職業とする者があつた、又世襲的預言者があつた。故にアモスは言うたのである「我はその孰れにもあらず、惟ヱホバ我に預言せよと命じ給ひたれば、我は其命に服《したが》ひて預言するのである、故に人なる祭司の命に聴いて預言を廃する能はず」と。信者の確信も預言者の権威も直接に神に召されたるより来るのである。基督信者に最もよく知られたる実例は使徒パウロの場合である。

  人よりに非ず、又人に由らず、イエスキリストと彼を死より甦らしゝ父なる神に由りて立られたる使徒パウロ………我が母の胎を出し時より我を選びおき恩恵をもて我を召し給ひし神、其子を異邦人の中に宣べしめんが為に聖心《みこゝろ》に善しとして彼を我心に示し給へる其時云々(ガラタヤ書一章)。

 之に依て観るに、パウロは今の多くの教会の伝道師の如くに、或は外国宣教師に勧められ、或は其他の情実に余儀なくせられて異邦人の使徒に成つたのでない。或は又社会改造、国家救済を目的に伝道に従事したのでない。発意は総て神に在つて人にも自分にも無かつた。自から立つたのではなくして神に押立られたのである。故に辞する事が出来なかつた、又如何なる妨害に会ふとも廃める事が出来なかつた。聖召は信仰、聖職の発端であり、原因であり、持続遂行の原動力である。パウロの場合然り、イザヤの場合然り、我等各自の場合然りである。

(60)〇旧約聖書に於て著名なる聖召は三つある。其第一は出埃及記三-四章に録されたるモーセの聖召、其第二はイザヤ書六章の預言者イザヤの聖召、其第三はヱレミヤ記第一章の預言者ヱレミヤの聖召である。三者相似て相異なる。何れも顕著《いちじるし》き記事であつて、聖書以外に如此きものを見ることは出来ない。モーセの場合に於てヱホバは棘《しば》の裡《うち》の火炎《ほのほ》の中にて彼に現はれ、棘は火に燃ゆれどもその棘《しば》焼《やけ》ず、即ち神 棘の中よりモーセよモーセよと呼び給へりと云ふ。場面は当時モーセが滞留せしミデアンの沙漠であつて、此所にヱホバは辞退《いやが》るモーセを駆つてイスラエルの民を救はん為にエジプトの地へと逐ひ給うた。第三のヱレミヤの場合に於て、場所は録してないが、聖召の性質が能く召されし者の性質を現はしてゐる。預言者中で最も勇敢なりしヱレミヤは生れつき最も内気なる臆病の貿《たち》の人であつた。而かも此人が胎に造られざりし先きより神に聖められ、万国の預言者として定められしが故に、彼の言に由つて国と民とは或は立ち或は覆《たふ》るべしとの事であつた。そして彼の生涯が彼が自己に就て想ひしとは正反対の生涯であつて、彼の場合に於ても亦召されし者の欲《このみ》に非ずして召し給ひし者の聖旨《みこゝろ》が成つたのである。ロマ書九章十一節参考。

〇イザヤはモーセと異なり沙漠の人に非ずして神殿の所在地なる都の人であつた。故に彼の聖召は神殿に於て行はれた。モーセが棘の裡に燃ゆる焔の中にヱホバを見しに対してイザヤは高く上がれる御座に坐し給ふ彼を拝した。イザヤは亦モーセ並にヱレミヤと異なり聖召を辞退せずして謹んで御受けした。

  我またヱホバの声を聞く、曰く「我れ誰を遣さん、誰が我等の為に往くべき乎」と。我れ曰ひけるは「我れ此に在り我を遣はし給へ」と。

 イザヤは他の二人に此べ従順《すなほ》であり落着《おちつい》てゐた。同時に彼の罪の観念が深かつた。モーセが|訥弁〔付○圏点〕を恐れ、ヱレ(61)ミヤが|弱き〔付○圏点〕を怖れしに対し、イザヤは強く|穢れ〔付○圏点〕を感じた。ヱホバは特に聖き神として彼に見えた。彼は

  聖なる哉聖なる哉聖なる哉万軍のヱホバ

と天使が讃《たゝ》ゆるを聞いた。所謂 TRISAGION 聖名三重頌の声である。聖にして又聖にして又聖なる神である。其能力に於て智恵に於て慈愛に於て聖なる神である。罪の人の近づく能はざる神である。然れども御自身|謙遜《へりくだ》りて罪人に近づき給ふ神である。

  茲にセラピムの一人、鉗《ひばし》をもて壇の上より取りたる熱炭を手に携へて我に飛来り、我口に触れて曰ひけるは、視よ此火汝の唇に触れたれば、既に汝の悪は除かれ汝の罪は潔められたりと。

 イザヤが落着の人、また熱情の人、清浄正義の人でありし所は以上に由て判明る。彼は預言者中で最も|円満且偉大なる者である〔付○圏点〕。三月四日

 

     其十九 イザヤの聖召(二) イザヤ書第六章

 

〇時はキリスト降世前七百四十年頃であつた。預言者イザヤは多分二十歳を超ゆる事多からざる青年であつたらう。彼は大なる異象を見た。此異象に由て彼の生涯の方針は定まつた。彼の生涯に於ける最大の出来事であつた。パウロがダマスコ途上に栄光に輝くイエスに会うたに対比すべき出来事であつた。イザヤは此前にも後にも多くの異象を見た、然し是れが最大の者であつた。是れが彼が蒙りし聖召であり、又彼に臨みしコンボルシヨン(改信)であつた。是に由て彼の生涯は一変した。此時より彼は特別の意味に於てヱホバの預言者と成つた。

〇此年にユダヤの王ウジヤが死んだ。彼は南方王国中興の王であつた。彼は十六歳にて位に即き、彼の治世は五(62)十二年続いた。彼は信仰正しく、国政を愆《あやま》らず、国威を四囲に及ぼし、南の方エドムを征服し、紅海エラトに港を築き、紅海沿岸より延びて印度波斯と貿易した。彼の治下にユダヤは再び強国と成つた。

   彼等の国は黄金と白銀とにて充ち、

   其財宝ほ際限あるなし

   彼等の国は亦馬にて充ち

   其|戎軍《いくさぐるま》の数限りなし

と預言者が前に言うた通りであつた(二章七節)。事は歴代志略下二十六章に審かである。

○比王が死んだのである。そして此年にイザヤが此大異象を見たのである。此れと彼れとの間に大なる関係なかるべからずである。|ウジヤ王の死は我が明治天皇の崩御に此ぶべき者である〔付○圏点〕。盛んなる長き治世の終りである、国民全体が大なる衝動《ショツク》を受け、大なる失望に沈んだ。恰かも太陽が西山に没せし観があつた。行末如何ならんと思ひて人々疑倶の念に襲はれた。そして全国諒闇に入りし時にイザヤは此異象に接したのである。夜か朝か、暗黒か光明か。彼は諒闇に光明に接した、而かも其の光明は暗黒を示す者であつた。彼が後に聞きし声を、彼は今|異象《まぼろし》に見たのである。

  斥候《ものみ》よ夜は何時ぞ。答へて曰ふ朝来り夜亦来る。

と(二十章十一、十二節)。彼の霊眼には朝と夜と、救拯と審判とが交互に往来した。

〇地上の大王は逝いた、其時天上の大王が現はれ給うた。恰かも太陽が没して蒼穹の森羅万象が現はるゝが如しである。地上の栄華は天上の栄光を覆ひ隠くす。我国の明治時代がそれであつた。国は外に国威を発揮し、内に(63)急激の進歩を為して、日本人の霊性は頓に退歩し、天上の光を失ひて、大正昭和の霊的暗黒を招いた。ユダヤに於ても同じであつた。ウジヤの治世は外に善くあつて内に悪しくあつた。国は黄金と白銀と馬と戎軍とに充ちて、ヱホバは其聖顔を隠くし給うた。人が高くせられて神が低くせられた。そして其人が取去られて、国民挙つて憂愁の雲に包まれし時に、ヱホバは預言者に顕はれ給うたのである。

  ウジヤ王の死たる年に、我れイザヤ、ヱホバの其の高く上がれる御座《みくら》に坐し給ふを見たり

と。実に偉大なる事実である、然し人類の歴史に於て幾度か繰返さるゝ事実である。外の損失は内の利得である。人生の出来事にすべてコムペンセーシヨン(代償)がある。神は御自身を以つて此世のすべての損失を償ひ給ふ。此償ひを知らずして、損失をすべて損失と見做す民は禍ひなる哉。

〇ヱホバは聖殿に降りて御自身を預言者に顕はし給うた。然れどもイザヤの拝し奉りし者は彼の聖顔に非ずして其|衣据《もすそ》であつた。彼は大王を其|足台《あしだい》に於てのみ拝した。地上の臣下が其王に近づくに方つて、顔と顔と相対せずして唯其足下に平伏す。況して人が神に近づかんとする時に於てをや。僅かに其衣裾を拝し得るは当然である。イザヤは多くの近代人が為さんと欲するが如くに所謂見神の喜楽に耽らんとしなかつた。彼は馴々《なれく》しく神に近かんとしなかつた。彼が神を見たりしと云ふは其衣裾を拝したりと云ふのであつた。そして此謙遜なくして神を識り得ない。「若し其衣の裾にだにも※〔手偏+門〕《さは》らば癒えん」と言ひし十二年血漏を患ひし婦人の信仰と謙遜とである(馬太伝九章二一節)。是れなくして神は見えない。哲学を以つて神を見ん、神学を以つてキリストを解らんと欲する近代の若人《わかうど》が神をもキリストをも解し得ざるは、彼等に若きイザヤに有りし此謙遜が無いからである。

〇神の御姿《みすがた》にして拝するを得しものは其衣裾であつた。他は彼を包み奉る周囲であつた。「セラピム其上に立つ」(64)とある。天使に二班ありて其一班はケルビムであり、他の一班はセラピムであると云ふ。ケルビムは神の威厳を守る天使であり、セラピムは其神聖を守る天使であると思はる。創世記三章末節に云ふ「神、其人を逐出し、エデンの園の東にケルビムと自から旋転《まは》る焔の剣《つるぎ》を置きて生命の樹の途を守り給へり」と。彼と是と比べて見て二班の別が解る。「上に立つ」は「上を被ふ」又は「上を隠す」である。唯衣裾を現すのみであつて、其余は天使が被《おほ》ひ奉れりと云ふのである。

 

     其二十 イザヤの聖召(三) イザヤ書第六章

 

〇セラピム各自に三対の翼《つばさ》があつた。其一対をもて面を掩ひ、其他の一対をもて足を掩ひ、残りの一対をもて飛翔けた。面を掩ひしはヱホバの栄光の眩《まばゆ》さに堪えなかつたからである。足を掩ひしほ聖前を憚りてである。斯くて天使は謙遜であつた。面を上げて聖顔を拝し得なかつた。足を露はして聖前を涜すを恐れた。礼節は偽善に非ず、謙遜の表現である。天使にすら礼儀がある、況んや人間に於てをや。低いプロテスタント主義は米国流の低い民主思想を生み、其結果として礼節地を払ふに至りしは歎ずべきの極みである。

〇ヱホバの神聖を守るにセラピムの二班があつた。或は一対であつた乎も知れぬ。二班は相互に呼はりて曰へりと云ふ。音楽で云ふアンチホーン即ち答唱歌である。彼れ歌ひて我れ之に和するの類である。

  聖なる 聖なる 聖なる万軍のヱホバ

と第一班が唱ふれば

  その栄光は全地に盈つ

(65)と他の一班が和して歌うたのであらう。荘厳極まる天使の組織せる唱歌隊の合唱である。地上の作曲家は僅かに之に傚ふに過ぎない。ハンデルも、ハイデンも、ベートーベンも僅かに之を模倣したまでゞある。ヨブ記三十八章七節に、天地の基《もとゐ》が置かれし時に

   かの時にほ晨星《あけのほし》相共に歌ひ

   神の子たち皆な歓びて呼はりぬ

とあるはアンチホーンの他の例である。

〇「聖なる、聖なる、聖なる」と三度繰返して曰ふは、聖《せい》を高調するの言方であつて、|完全に聖なる〔付ごま圏点〕の意である。或は義にして恩恵《めぐみ》ある能力《ちから》ある完全の神と解して解し得られざるに非ず。基督教会は之を TRISAGION 聖名三称と称し三位一體の神を讃えし言葉なりと唱へ来つた。意味は深遠にして|いか〔付ごま圏点〕様にも之を解する事が出来る。聖に「近づくべからざる」の意味がある、亦純正の意味がある。「ヱホバの聖眼は悪を見るに堪へず」と云ふ其聖である。心の聖を意味する詞である。単に儀式的の聖でない、倫理的、道徳的の聖である。

〇  聖なる 聖なる 聖なる万軍のヱホバ

   其栄光全地に盈つ。

 「万軍のヱホバ」とは森羅万象の神と解するが最も適切であると思ふ。戦争の神でない、造化の神である。彼は昴宿《ばうしゆく》の鏈索《くさり》を結び、参宿の繋縄《つなぎ》を解き、十二宮を其時に順ひて引出し、また北斗と其子星を導き得る者である(ヨブ記三十八章三一、三二節)。そして此造化の神が聖であると云ふ。信望愛の神であると云ふ。父が其子を憐むが如くに己を畏るゝ者を憐み給ふ神であると云ふ。偉大なる思想である。神を小なる愛の神と見る者はある、(66)亦大なる能力の神と見る者はある。然れども|宇宙の神、是れ聖なる神、即ち愛と憐愍の神〔付○圏点〕と見た者はイスラエルの預言者の外に無い。「聖なる 聖なる 聖なる 万軍のヱホバ」、是は信仰の目標であつて哲学の究極である。此神を発見した時に宗教も哲学も其終極に達するのである。

〇「其栄光全地に盈つ」と云ふ。預言者はヱホバの衣据《もすそ》の聖殿に充つるを見た。然るにセラピムは曰うた「其栄光全地に盈つ」と。天使は預言者よりも|より〔付ごま圏点〕以上を見た。そして天使の見た所が真理である。其栄光は全地に盈つ、其隅々に盈つ。北極より南極まで、海にも陸にも、水の一滴にも土の一塊にも、原子エレクトロンに至るまで彼の栄光は充ち溢れてゐる。宇宙の神は地上の神である。外在《マネント》の神は内在《イマネント》の神である。そして同じく聖なる神であると云ふ。神に関する思想は之で尽きてゐると云ふ事が出来る。二千年に渉りて哲学者が努力して発見する能はざりし神を、二千六百年前の昔、イザヤは天使が彼に伝ふるを聞いた。

〇「斯く呼はる者の声に由りて閾《しきゐ》の基《もとゐ》揺動《ゆりうご》き家の内に煙満ちたり」とある。天使合唱の声は大きくして聖殿の閾の基動き、其内に塵煙満てりと云ふ。多分男声の太きものであつたらう。荘厳なるはソプラノーに非ずしてベースである。殿《みや》の閾の基礎《もとゐ》を揺《ゆる》がし、それが為に砂煙《すなけぶり》が揚りしと云ふ。ヱホバを讃えまつるに如斯き声が揚らねばならぬ。音楽礼拝も茲に至つて有力である。而かも是れ芸術であつてはならない、聖書に所謂「讃美の献物《さゝげもの》」でなくてはならない。

〇偉大なる光景なる哉。言葉は簡短である、然れども叙述は完全であつて、毫も補足の必要を感じない。荘厳無比の光景である。「ヱホバは其聖殿に在ます、世界の人其前に静かにすべし」と云ふ光景である(ハバクク書二章二十節)。イザヤは如何にして如斯き異象に接したのであらう乎。是は単に彼の想像であつたらう乎。或は彼が(67)聖殿の祭事を理想化した者であらう乎。さうとは思へない。彼が見し光景が余りに壮大である、又其忠義が余りに深遠である。是は特に神が彼に示し給ひし異象と見るが適当である。是は活画を以つて与へられし啓示《しめし》である。勿論画は彼の解し得る者であつた。然し彼れ自身が描いた者でなく、神が彼の為に特に描きし者であつた。四月八日 〔以上、5・10〕

 

     其二十一 イザヤの聖召(四) イザヤ書第六章五-八節

 

〇異象を見てイザヤは神を見た事に気附いた。茲に於てか大なる恐怖の襲ふ所と成つた。彼は曰うた、

  禍ひなる哉、我れ亡びなん……我が眼は万軍のヱホバなる王を見たり

と。ヱホバは曾てモーセに告げて曰ひ給うた

  汝は我が面を見ること能はず、我を見て生くる人あらざればなり(出埃及記三三章二〇節)

と。故にイスラエル人は誰も神の面を見ることを恐れた。サムソンの父マノアはヱホバの使者を待遇《もてな》し、神を見たりしと思ひ、恐れて其妻に告げて曰く

  我等神を視たれば必ず死ぬるならん

と(士師記十七章二二節)。斯くてイスラエル人に取つては神を視るは幸福《さいい》に非ずして禍ひであつた。彼等に取り神は声であつて形でなかつた。神の聖姿《みすがた》に接せんとは誰も欲《おも》はなかつた。そしてイザヤの場合に於て彼は僅かに其衣裾を拝したのである。マノアはヱホバの使者に接したのである。そして彼が御自身を人に顕はし給ふに方りては、彼は聖子をして人の貌《かたち》を取り、人の如き形状《ありさま》にて現はれしめ給うた(ピリピ書二章六-八節》。イスラエル(68)人は決して|見神〔付○圏点〕を軽々しく取扱はなかつた。其処に彼等の宗教の森厳《おごそか》さがある。

〇|真の見神に罪の自覚が伴ふ〔付○圏点〕。神の聖きを拝して自己の汚《きたな》さが判明る。罪の感覚を起さゞる見神は偽はりの見神である。恍惚として神の御姿を拝したりと云ふが如きは自己の理想を夢に見たるに過ぎない。神は道義的実在者《モウラルビーイング》である、故に彼に接して道義的変化を起さゞるを得ない。ペテロが初めてイエスの神性を認めし時に、彼は其足下に平伏《ひれふ》して曰うた

  主よ我を離れ給へ、我は罪人なり

と(ルカ伝五章八節)。イザヤも此処にヱホバの栄光を拝して、先づ彼に起りしは強き罪の観念であつた。

  我は穢れたる唇《くちびる》の民の中に居りて穢れたる唇の者なるに、我が眼は万軍のヱホバを見たり

と。彼は殊更に彼の唇の穢れを感じた。彼は今まで強き言葉を以つて彼の国人の罪を責めた。然るに今、聖にして聖なるヱホバの御姿の一端を拝して、己が唇の穢れを痛感した。人の罪を責めし我が此唇、是れ穢れたる唇なりと彼は覚《さと》つた。「我は聖言《みことば》を語る資格なき者なり」と彼は叫んだであらう。そして是れ当然の叫びである。イザヤも亦多くの神の僕と共に自己の罪に気附く前に他人の罪を責めた。人の悪しきを知つて自己の悪しきを知らなかつた。然るに神に接して、自己の罪人の首《かしら》なるを知つた。「禍ひなる哉、|我れ〔付○圏点〕亡びなん」と曰うた。亡ぶべきはユダとヱルサレムではない。|我れ自身〔付○圏点〕である。見神の直接の結果は卑下である、謙遜である。すべて偉大なる事、すべて深遠なる事は、此深甚の謙遜より始まるのである。

〇預言者は己が罪に覚めて唇を緘《とぢ》られた。我は再びヱホバの名を以つて語らじと心を決たであらう。然り、彼が自から語るの時は過ぎた、今より後はヱホバに代りて語るべくあつた。神は彼の唇を潔むる事が出来る、そして(69)彼が潔めの事実を感得せんが為に茲に亦一つの異象が与へられた。

  爰にかのセラピムの一人、鉗《ひばし》をもて祭壇の上より熱炭《あつきひ》を手に携へて我に飛び来り、我が口に触れて曰ひけるは、「視よ、此火汝の唇に触れたれば汝の悪は既に消え、汝の罪は贖はれたり」と。

 火は潔むるもの、「我等の神は焼尽す火なり」と云ふ(ヒブライ書十二章二九節》。祭壇の熱炭に触れて預言者の唇は潔められたりと云ふ。半ば譬喩にして半ば事実である。譬喩的に示されたる事実なりと云はん乎。罪を天に得て訴ふる所なしと云ふが、罪を神に赦されて訴ふるの人なしである。ロマ書八章三三、三四節参考。|如何にして〔付ごま圏点〕赦されし乎は別問題として、イザヤは茲に確かに罪を赦されしを知りて、神の前に立つを得て、再び語るの勇気を得たのである。罪を示され、罪を深められ、そして神の人たるの資格を賜はる。「凡ての事神より出づ」である。預言者たるは凡て神の業《わざ》である。

〇時にヱホバの声を聞く、曰く

  我れ誰をか派さん、誰が我等の為に往かん

と。潔められし若き預言者は此声に応へて曰く

  我れ此所にあり、我を遣はし給へ

と。イザヤに今や疑懼躊躇はなかつた。彼は預言の大任に当らんとて自己を提供した。罪を潔めらるゝの結果は人をして常に茲に至らしむ。彼は竦《すく》まない、後退《あとじさ》りしない。|公的責任の辞退は主として罪の除かれざるより来る〔付△圏点〕。罪を除かれて、自己に求むる心を取去られて、人は大胆になり、快活になる。人をして小人たらしむるものは罪、偉人たらしむるものは罪の芟除《さんじよ》である。「我れ此所に在り、我を遣はし給へ」と。此世に在りて担ふべき(70)責任は許多ある。唯之に当る者がないのである。何れも罪に妨げられて自己を棄てゝ大責任に当り得ないのである。|就職難〔付○圏点〕は常にあるが、|当職難〔付○圏点〕は曾つてあるなしである。四月廿二日

 

     其二十二 イザヤの聖召(五) イザヤ書第六章

 

〇若き預言者はヱホバの聖召《みまねき》に応じた。彼はその命令に従はんと申出た。然るに其命令たる奉ずるに甚だ難きものであつた。|国の滅亡と民の俘囚とを宣告する事であつた〔付△圏点〕。愛国者に取り斯んな辛らい事はない。預言者は往きてユダとヱルサレムとに斯く告ぐべく命ぜられた(九、十節)

   汝等聞きて聴くべし然れども悟る勿れ、

   汝等見て視るべし然れど識る勿れ。

   汝、此民の心を鈍《にぶ》くせよ、

   其耳を盪《とろ》くせよ、其眼を閉ぢよ、

   恐くは彼等其眼にて見、其耳にて聞き

   其心にて悟り、翻《ひるがへ》りて癒さるゝことあらん。

と。是は絶望的状態である、民は救はるゝの望み無しと云ふのである。聞くも悟らざるべし、見るも解《わか》らざるべし、然れども語るべし示すべしと云ふのである。而かも悟らせん為に語るに非ず、心を鈍くし、耳を盪《とろ》くし、眼を閉ん為に語り又示すべしと云ふのである。即ち彼等を救はんが為に非ず、彼等を滅さんが為に伝道すべしと云ふのである。未だ曾つて斯んな命令の神より人に降つた事はない。如何に絶望的状態に於てあるとも、民を殲《つく》さ(71)ん為の伝道とは未だ曾つて試みられしを知らず。イザヤは此声を聞いて神の声として之を受取つたであらう乎。ヱホバは憐愍の神でない乎。ヱホバはシナイ山にてモーセに告げて曰ひ給うた

  ヱホバ、ヱホバ、憐憫《あはれみ》あり、恩恵《めぐみ》あり、怒ること遅く、恩恵《めぐみ》と真実《まこと》の大なる神、恩恵を千代までも施し 悪と過《とが》と罪とを赦す神

と(出埃及記三十四章六、七節)。斯かる神が斯かる言を発しやう筈はないと若き預言者は想うたであらう。然れども神の言は神の言である、人は之を揣摩《しま》してはならない。彼れ滅亡を宣告し給へば真の預言者は滅亡を伝へねばならぬ。実に辛らい役目《やくめ》である。イザヤは茲に預言職の如何に難き乎を覚つたに相違ない。故に彼は恐れながら問返して曰うたのである

  主よ何時まで斯くあらん乎

と。「神様、何時まで斯んな恐ろしい預言を為さないではならないのです乎」と。之に対するヱホバの答は更らに峻烈なる者であつた。

  邑《まち》は荒廃《あれすた》れて住む者なく、家には人なく、国は寂寞の極に達し。

  ヱホバ人々を遠き国に徙《うつ》し、国の中央《まなか》に空漠の地多きに至らん。

  若し其中に十分の一の残存者《のこるもの》あらば、彼等も亦|殲《つく》さるべし

と。即ち殲滅せられずば止まずとの事であつた。

  備考〔ゴシック〕 「恰かもテレビントの樹云々」は多分後世の記入であらう。ヱホバの言の余りに峻烈なるより之を緩和せんが為に、後世の学者が茲に此記入を為したのであらうとは、チーネ、グレー、其他の旧約聖書学者の(72)意見である。

〇如斯くにしてイザヤ聖召の異象は終つた。見神に始まり神命に終つた。茲にイザヤは完全に|ヱホバの預言者〔付○圏点〕と成つた。自己は失せて、神の意志是れ彼の意志と成つた。之を称してコンボルシヨンと云ふ。所謂|霊魂《たましい》の入替《いれかへ》である。アモツの子イザヤは死て神の人イザヤが生れたのである。彼は完全にヱホバの俘虜と成つた。彼は今より後、「何故」と問ふべきでない、唯順ふて死すべきである。恰かも模範的軍人が理由を質《たゞ》すことなくして唯大将の命に殉ずると同じである。自己の神観又は人生観があつてはならない、神の命令を一々己が理性に訴へて判断してはならない、彼の命惟|維《こ》れ従はねばならぬ。茲に預言者の偉大なる所がある。此|絶対的服従〔付○圏点〕があつたればこそ彼等は大事を為したのである。イザヤ、ヱレミヤ、エゼキエルは勿論の事、ルーテル、ノツクス、コロムウエル等も此種の人でありしが故に、彼等が永久に人類を利益したのである。彼等は所謂情と涙との人でなかつた。己が欲するまゝに神を愛と解して、其愛に準じて万事を行はなかつた。彼等は鉄の如き、磐の如き人であつた。唯ひたすらにヱホバの命を伝へた。故に残酷無慈悲の人と呼ばれた。彼等は浅く民の傷を癒す偽はりの預言者でなかつた。国民の存在を賭して其罪を除かんとした。ユダヤに此種の預言者ありしが故に、一度は亡びて再び復興し、他の国民は悉く亡びしも、彼等のみ生存して、永久に人類の大教師として存するのである。試みに思へ、若しスコツトランドにジヨン・ノツクス出ざりしならば如何と。我が北海道大の小国に僅かに六百万の人口を以つてして、英国を教へ、世界を導きつゝある理由はたしかにイザヤ型の預言者ノツクスの事業に在るではない乎。神は愛である、故に時には殺し又亡し給ふのである。ヨブ曰く「神我を殺し給ふとも我は彼に依頼まん」と(ヨブ記十三章十五節)。我等は信仰に由り神は愛なりと信ずるのである、神は斯くあるべし斯くあるべからずと註(73)文する近代人は神を識らず其愛を覚り得ないのである。四月廿八日 〔以上、6・10〕

 

(74)     ボーイス・ビー・アムビシヤス Boys be Ambitious

                    昭和3年1月10日

                    『聖書之研究』330号

                    署名 内村鑑三 講演 梅木馨 筆記

 

     筆記者自す。九月二十七日(火)午後二時半より内村鑑三先生は母校北海道大学中央講堂に於て「ボーイス・ビー・アムビシヤス」の題下にて一時間半に渉る講演をせられ、堂を満して余りある全校二千の聴衆に向つて先生独特の親みある熱弁で類のない激励のお言葉を与へられ、この大多数の教授学生の会衆は恰も水を打ちたる如く静粛そのもので咳一つするものなく一同を深く霊感させられ、非常の反響を喚起せられた。

 

 只今総長佐藤先生から御丁寧な御紹介の辞を戴きましたが、先生の御言葉の中に大切な言葉が一つ抜けてゐる。それは私は|農学士内村鑑三〔付○圏点〕であるとの事であつて、私が此処に立つのは懐つかしい母校に帰つて諸先生並に多くの後輩諸君と顔を合せるのであつて、特別に有難く思ふ次第である。

 私は此の題を掲げましたが、私はウイリアム・エス・クラーク先生が五十年前此校を去るに臨んで、島松の原頭に馬上一鞭あてて、あとに従ふ学生一同に向つて叫ばれた「ボーイス・ビー・アムビシヤス」といふ簡単な言葉を如何なる意義によつて残されたかを考へて見たい。

 此言は果してクラーク先生の創始の言であつたかを調べた処、是は決してさうではないと思ふ。然しそれであるからと云つて先生のオリジナリチーを失はないのである。

(75) キリストの聖言でも其総てが決してキリストの独創の言葉ではなく、其多くは之を古来の予言者の言の中に見出すことが出来るのであつて、斯く云ふことは決してキリストから彼のオリヂナリチーを奪ふことにならない。キリストの貴い所以は古い言葉の精神を自家薬籠中のものとなし、之に新しき生命を与へて発表した点に在るのである。厳密なる意味に於てのオリヂナリチーといふことは古今あることではなく、日の下には新しき者あらざるなりである。

 「ボーイス ビー アムビシヤス」の精神は当時のニユーイングランドの文献を調べて見れば既に各州に発表されてあつたことは疑のない事実であつて、クラーク先生が此の言を発せらるるに至つた経路を考へるに先生の生国即ちニユーイングランドにはこの精神が充ち満ちてゐて、その精神的環境の中からブライアント、トロー、エマースンの如き偉人を生み、又先生を生んだのである。

 そのニユーイングランドのピユーリタンの意気が先生を透して此言葉となつたのであつて、此の簡単な言葉の背後に全ニユーイングランド在るを考へる時に、是れ実に意味深い言葉となるのである。|札幌の今日あるを得たはクラーク先生を通してニユーイングランドの気風が大いに貢献した処あるを思ふときに札幌は一層貴いものになる〔付○圏点〕。

 先づ「ボーイ」とは何を指すのであるか、此の言葉の意味を研究してみたい。普通ボーイと云へば二十五歳以下の青少年を指すのであるが、此処に云ふ「ボーイ」は決して是に限らないと思ふ。「ボーイ」とは実に「アムビシヨンを有する人」の謂で、前途の希望に邁進してゐる者は年は六十を超えても尚「ボーイ」である。二十歳前後の人々のみを目指して先生が「ボーイ」と謂はれたのではないと思ふ。私自身は未だアムビシヨンを持つて(76)ゐるから自分が「ボーイ」であることを確信してゐる。

 人が「ボーイ」であるか、「マン」であるか、「オールドマン」であるかは其人の心持によつて決まるものであつて、私は今年六十七歳、宮部先生は六十八歳、佐藤総長は吾々より遥に上で七十二歳であると聞いてゐるが、諸君から見れば老人の老人で、もう引退してもいゝ頃だと思ふだらうが、吾々自身は未だ是からする仕事の沢山ある「ボーイ」だと思ふてゐる。斯く云ふは何も私が旧い友達を弁護して彼等を此の学校に永く置いてやつて下さいと諸君にお頼みする訳でほない。(大笑)

 次にアムビシヤス又はアムビシヨンに就て考へて見たい。日本語に訳せばまあ「野心」であらう。「野心」と謂ふて太閤秀吉やナポレオンの様な軍略的又は政治的な野心を考へせられるから、「大望」と云ふた方が良いと思ふが、解り易く申せば、|将来自分が成し遂げてやらうとする仕事をしつかり決める精神〔付○圏点〕を云ふのである。

 夫れに就て今思ひ出すのほ、エマーソンの言葉に“Hitch your wheels to the star”(汝の車を星につなげ)と謂ふのがあるが、これは「望を高く抱け」と謂ふ心をクラーク先生が「ボーイス・ビー・アムビシヤス」と平易に云ふた事を詩的に云ぴ表はしたのであつて全く同精神に出でゝゐる。

 高いアムビシヨンを持つのは低いアムビシヨンを持つより遥に善き事である。或人の云うた如くに「失敗は罪ではない、目的の低いのが罪である」。高い目的を持つことが人生を最も有意義に用ふる所以である。

 私は五十年前の丁度九月札幌農学校に入る為に小樽に上陸して陸路馬で来たのであつた。今日私の息子が此の大学に御世話になるやうになつたのも実に奇ぎな縁で感謝に堪えない。私は息子を札幌に送るに当り札幌を一北海道の都と考へずして、北日本の都、更らに世界の都と迄行かなくとも少くとも|バイカル湖以東の東方亜細亜〔付○圏点〕)の(77)都位ゐには考へて欲しいと云ふたことである。

 先年熊本のリツデル女史が私に向つて「内村さん、日本はこれでも文明国と謂はれますか」と云はれた。彼女の語られた処に依れば、英国では昨年全国に七人の癩病患者があるといふて問題になつてゐるのに、日本には未だ二十万人も癩病患者があり、隔離も治療も行き届かず、到る処自ら苦しみ他人に不快な思をさせてゐる有様である。英国の如き今年は僅々四人に減じたと云ふ、この日本の状態で以て文明国であると云ひ得ますかと、この言葉には如何とも弁解の余地がなかったのである。

 諸君、済々たる多士を輩出し ゐる此北大医学部の中に誰かこのレプラを全治せしむるといふ先人未踏の境地を開拓するのアムビシヨンを持つ人はなきや。是れ諸君の持ち得るアムビシヨンの一例である。

 難いかも知れない。生涯を献げて成功しないかも知れない。然し乍ら「失敗は罪ではない」。あとから来る人々の成功の道案内たることが出来れば、それ実に尊いことである。「汝の車を星につなげ」である。

 今年日本を訪れた北極探険の成功者那威人アムンゼンは洵に幸運児で、彼は南極探険に成功して居り、彼に次いで英人のスコットも南極を究めたが、彼等に先立つて南極探険を企てたシヤクルトンは洵に気の毒な人であつた。南緯八十八度二十三分といふ南極近くまで接近しながら如何にしても其の先へ入ることが出来ず、二度試みて二度とも失敗したのである。遂に目的に成功しないで死ぬるに際し、家族に遺言して自分の骨は今後南極探険を企てる人々の通路に当る箇所に葬つて呉れと云ふた。その遺志に依つて彼の遺骸はサウス・ジヨージヤ島に葬られた。実に彼は自らは成功しなかつたけれども後進の途しるべとなる事に甘んじたのである。事実彼の探険の経験は後の成功者の貴重な参考となつたのであつた。此の精神でアムビシヨンを持つことである。

(78) 農学科の諸君もアムビシヨンを有つことが出来る。日本には農耕地が欠乏したとの訴を聞くとき、北海道樺太はまだ/\開拓の余地を見出すのではないか。遥かに海を距てた沿海州には無限の良水田地を開く可能性があるのである。よしやつて見やうと云ふ是れ亦立派なアムビシヨンである。

 夫れなら貴下はどうであるかと諸君は云はれるかも知れない。我々は自分の車を夫々種々な星につないでどうにかこうにか或処まで、若い時に抱いたアムビシヨンを成し遂げて来て居ることを諸君に御話しする事が出来る。

 先づ第一に|佐藤総長〔ゴシック〕である。今日この札幌に於て広大な大学の組織が完備に近いて来たのは偏に総長閣下の努力の賜である。ドクトル佐藤は今日尚「アムビシヤス ボーイ」であつて彼の車を繋いだ星にます/\近づかんとして居られる。

 |宮部先生〔ゴシック〕と私とは同窓同室の最も親しい友人であつて、嘗つて一度も喧嘩したことのない君子であるが、世界植物学者と伍して遜色のない立派な方であることは諸君既に熟知のことである。Dr.Miyabe hitched his wheel to the botanical star である。

 |南先生〔ゴシック〕は我国農学界の権威者にして其恩人なることは何人も異論ない処であつて、尊敬すべき多くの弟子を国の内外に持つて居らるる。

 |新渡戸稲造君〔ゴシック〕は学校時代より何か為すだらうと期待されたものであるが、ジネーブで国際聯盟の理事長の仕事をつとめられ、各国人の中に伍しながら令名を博せられた。ドクトル新渡戸も亦彼の車を善い星につないだのである。

 南日本に於て教育に従事し立派な仕事をやつた私の尊敬する友人|岩崎行親〔ゴシック〕君の如き皆々最も良き星に彼の車を(79)つないだのである。

 偖不肖私が私の生涯の車をつないだ星は実は二つあつた。其の一は魚類学であつて私は学校では水産に趣味を持ち、卒業論文には Fishery as Science を書いたのである。魚類学に次いで私は漁撈学を学んだ。之を今日迄持続して居つたならば或は当大学の水産学の講座を受持つやうになつて居つたかも知れない。処が幸か不幸か私はもう一つ他の星に私の車をつないで居つたのであつて、その星とはキリスト教を純日本人のものとなし、是を以て日本を救ひ且世界に於け日本国の使命を果さしめんとするアムビシヨンであつた。そして此方がとう/\本物になつて了つて、今日になつて見ると私も亦自分の若い時に抱いた理想をどうにかこうにか実現することが出来たと諸君に申上げることが出来るのである。私の書いた『余は如何にして基督信徒となりし乎』と ふ英文の小さな書物は独逸、フインランド、スウエーデン、デンマーク等の国語に訳され、今でも盛んに読まれてゐると云ふ次第である。

 亦昨年私が The Japan Christian Intelligencer を発行して、日本の基督教、殊に日本そのものを世界に向つて紹介し、我々の立場を広く識者の間に問ふた際に先頃亡くなられた独逸の老大哲学者ルードルフ・オイケン博士の如き早速深厚の同情を表して下さつたのであつた。

 私共の永年唱へ来つた事柄は今や世界の趨勢となりつゝあるのであつて、多くの人々が私共に賛成し共鳴して|キリスト教はほんとに日本人のものになりつゝある〔付○圏点〕。是れ五十年前の日本には想像するだに無謀と思はれた所のものであつて、私も自分の車をつなぐべき星を大いにあてたと云ふべきであらう。この十月から東京明治神宮外苑日本青年館に於て連続の聖書の講演を毎日曜日に開くことになつてゐる。仲々隠居どころではなくて、益々私(80)の青年時代に抱いたアムビシヨンに向つて前進して行くのである。

 諸君よ、諸君も亦今の時代に諸君の車を星につなぐべきである。今此講堂の前に胸像となつて居らるゝクラーク先生が仮に私の姿として此壇上に諸君に向つて立つて居るとして、私は先生に代つてもう一度諸君に向つて叫ぷ……|ボーイス、ピー、アムビシヤス!〔ゴシック〕

  内村生曰ふ。自分の為した演説は、之よりもモー少し強い、元気ある演説であつたと思ふ。然し筆記者として梅木君が為して呉れた以上の忠実なる筆記を何人も為すことは出来ないと信ずる。君の厚意に対し謝するの言葉がない。実に此演説は自分が為した最も会心の演説であつた。自分の母校の先輩、同輩後輩に向つて為したのであれば、家人に語るが如くに思はれ、思ふ存分に自分の意見を陳ぶる事が出来た。自分に此好き機会を与へて下さつた旧き同窓の友なる総長閣下佐藤昌介君に対し深厚の感謝を捧げざるを得ない。自分に取り自分の母校と称すべき者は唯一つ旧札幌農学校があるのみである。それが成長して今日の北大と成つたのであつて、五十年を経て我が旧家に帰つて来て、万感胸に迫り来りしは止むを得なかつた。

 

(81)     惟一の宗教

                           昭和3年1月10日

                           『聖書之研究』330号

                           署名 内村鑑三

 

  それ神は一位《ひとり》なり、又神と人との間に一位の中保《なかだち》あり、即ち人なるキリストイエスなり(テモテ前書二章五節)。

〇基督教は宗教である。世界に在る多くの宗教の内の一であつて、その優《すぐ》れたる宗教であるには相違ないが、然し独特無二の宗教であると云ふ事は出来ない。此事を拒むは如何にも狭量で、学者らしくないやうに見える。

〇然し乍ら学者らしくあることは必しも真理でない。真理は外見《みえ》でもなければ装飾《かざり》でもない。真理は事実有の儘である。|問題は基督教に在る者が他の宗教にもある乎〔付○圏点〕其れである。例へば仏教又は儒教又は神道は基督教の代用を為すことが出来る乎。敢て他宗を譏るのではない、私は正当なる問題として之を掲ぐるのである。

〇私は憚らずして曰ふ、|基督教にキリストが在る〔付○圏点〕。神と人との間に中保として立つイエスキリストがある。是は他の宗教に無い者である。中保とは実に中保である。単に神を人に紹介する者ではない。故に大教師又は大預言者でない。|神と人との接触点である〔付○圏点〕。聖《きよ》き神が罪の人に接し給ふ所である。即ち神が人類の為に備へ給ひし殿《みや》であつて、此殿に於てのみ神は人に臨み、人は神に近づきまつる事が許さるゝのである。即ち神人両性を備へ給へる人なるキリストイエスである。そして神が一位であるが如くに彼も亦一位である。キリストは一位以上は無い(82)のである、又有り得ないのである。釈迦も孔子もモハメツトもキリストの職《つとめ》を果す事は出来ない。|深くキリストの何たる乎を究めて見て彼と同じ者を他の宗教に見る事が出来ない〔付○圏点〕。

〇そして此は宗教学者の研究を待つて解決する事の出来る教義上の問題でない、何人に取りても実際上の大問題である。宗教問題を弄《もてあそ》ぶ近代人はいざ知らず、宗教を人生の最大問題として真剣に之を探り求むる者に取りてキリストの有ると無いとは生と死との問題である。聖なる神の在る事が判明《わか》り、又自分の罪人なる事が判明つて、如何にして此神を自分の神とする事が出来る乎と云ふ最も六ケ敷い問題が起るのである そして此間題に対し他の宗教が与ふる解決法は千篇一律である、即ち「汝先づ神の如く成るべし、然らば神は己が僕として汝を受くべし」と云ふのである。「人が神の如き者と成らんとするの道」それが世の所謂宗教である。そして多くの人が、然り多くの基督信者と自から称する人までが、基督教も亦さう云ふ教であると思ふ。

〇然し乍ら実際の所、人は自から努めて神の如くに成り得ないのである。自分の聖化を待つて神に到らんとするは、百年河清を待つが如くであつて、其目的は到底達し得られないのである 茲に於て何か罪の我れが聖き神に到るの道が無くてはならない、然らざれば我が失はるゝのは明確《たしか》である。そして神はキリストを以て此道を備え給うたのである。神はキリストに在りて充分に我等人類の罪を罰し、キリストは正当の罰として之を受け給ひしが故に、彼に在りて人類の罪は完全に赦され、神人交通の道は開けて、神の恩恵は無礙《むげ》にキリストを通うて人に降るに至つたのである。然し人が人である以上、此の恩恵は無意識に彼に降る者でない。人は先づキリストを信ぜねばならぬ。即ち彼の苦しみを我が苦しみとして認めねばならぬ。我は彼の如くに罰せられねばならぬ、そして我は彼の如くに其罰を正当と認めて之に当らねばならぬ。然し是れ弱き汚れたる我の為す能はざる所であるが(83)故に、我は|キリストを以て〔付○圏点〕我罪を認《いひあら》はし、其罰に当るのである。是がキリストに於ける信仰である。そして此信仰の故を以て、神はキリストに在りて我を赦し、我はキリストに在りて神をアバ父よと呼びて彼に近づきまつる事が出来るのである。是が限りなき生命《いのち》である。人の最大幸福は如此くにして得らるゝのである。

〇そして此んな明白な、確実な救の道は他の宗教には無いのである。|基督教はキリストである〔付○圏点〕 キリストの教ありての基督教に非ず キリストなる独特の性格と行為とありての基督教である 基督教に他の宗教に無い者がある。其意味に於て基督教は宇宙惟一の宗教である。

 

(84)     誘惑と失敗

                           大正3年1月10日

                           『聖書之研究』330号

                           署名 内村鑑三

 

  ヤコブ書一章十二-十六節

 

〇試誘《こゝろみ》は人生の附物である。試誘の無い人生とてはない。主イエスに有つた、我等各自に有る。試誘は意志の選択の試みである。より高き物とより低き物、肉と霊来世と現世、神と此世、キリストとサタン、孰れも明白なる対照物であつて、人と云ふ人、信者と云ふ信者は、何時か一度は、然り幾度も、二者孰れを選ぶ乎と試みらるゝのである。そして上なる物を選びし時に上り、下なる物を選びし時に下る。人生の成功と失敗は此選択如何に由て定まる。如斯くに見て人生は試誘の連続である。人生是れ試験である。及第か落第か。試験地獄は之を人生其物に於て見るのである。

〇使徒ヤコブは曰ふ「忍びて試誘を受くる者は福也」と。「試誘に耐ゆる者は福なり」と読む方が意味が明白である。福ひ者は試誘に会はざる者でない、或は又之を避くる者ではない、|之に会ふて耐ゆる者である〔付△圏点〕。敵に会ふて之に勝つ者である。何故かと云ふに「そは試誘を経て善しせらるゝ時は生命の冕《かんむり》を得べければ也」とある。冕は勝利の褒美として与へらると云ふ。凡ての試験に及第して人生卒業の証書を賜はると云ふ。そして此事は人(85)生の事実である。天国に於て最後に戴く冕は未だ知らずと雖も、生命の冕は我等が此世に於て試誘に耐ゆるたび毎に我等に与へらる。神に善しとせらるゝ事、其事だけが既に大なる報賞《むくひ》である。そして之に加へて生命の新たなる供給に与かる、更に新たなる試誘に勝つの力を与へらる。此の試誘の世に於て我等は試誘に勝ちつゝ天に向つて昇るのである。

〇斯くして試誘其物は悪い者であるが、善き用を為す者である。我等は試誘を足の下に踏《ふま》へつゝ段々と高くせらるゝのである。使徒ヤコブが此所で言ひしと同じ事を使徒ペテロは曰うた(ペテロ前書一章七節)

  汝等の信仰を試みらるるは壊《くつ》る金の火に試みらるゝよりも貴くして、汝等イエスキリストの顕はれ給はん時に称讃《ほまれ》と尊貴《とうとき》と栄《さかえ》を得るに至らん。

と。神の生命は教会に出席し、其儀式に与り、教を聞いた丈けで得らるゝ者でない。試誘に勝つて其報賞として賜はるものである。信者に日に日に臨む試誘は向上顕栄の機会である。彼は克く之を利用して、神に近づき、己が救を完うすべきである。

〇人は何故に誘はるゝのである乎。勿論神が彼を誘ふのではない。神は悪に誘はれず、故に人を誘ひ給はない。恰も正直の人は人を欺かず、又欺き得ないと同じである。人を誘ふ者は悪魔である。|そして人が悪魔に誘はるゝは其人に慾があるからである〔付△圏点〕。人に慾なくして悪魔の誘惑は失敗に終る。故に言ふ「慾孕みて罪を生《な》し」と。「罪を宿す」と云はん乎。慾は婬婦であり、悪魔は誘惑者である。彼は誘はれて彼女は罪てふ胎児を宿せりと云ふ。そして其罪が成長して死と云ふ児と成りて生まると云ふ。そして事実は其通りである。人が純潔なれば悪魔は彼に近づき得ず、随つて彼が罪を宿すの危険がない。罪を犯さず、死に至らざらんと欲せば慾を除かなければなら(86)ない。|慾が内憂であつて悪魔が外患である。外患に応ずるに内憂があつて、茲に国は亡び、人も亦永遠に死ぬるのである〔付△圏点〕。

〇試誘、誘惑は免かるべからず、故に内なる慾を排して誘惑の危険を除くべきである。茲に人生に於ける信仰の必要を見るのである。慾を絶つの必要がある、然れども慾は絶たんと欲して絶つ能はず、神に之を絶つていたゞくより他に途がない。慾は自分より強き者でなければ之を絶つ事が出来ない。主が曰ひ給ひしが如し(ルカ伝十一章廿二節)

  若し更に強き者来りて之に勝つ時は、その恃とする武具を奪ひ、且分捕物を分つべし。

と。神、キリストに在り、聖霊を以つて我霊を占領し給ふ時に、我が慾は絶たれ、悪魔の襲撃を受け、其誘惑に遭ふも我は安全である。

〇今や我等は世に多くの失敗者を見る。事業の失敗者商家の破産者、品性の破壊者、地位の失墜者……挙げて数ふべからず。そして其内に多くの基督信者を見る 曾つて信者たりし人を見る。彼等の失敗に対し我等は深き同情なき能はず。失敗は彼等のみの罪でない。彼等以外の多くの物が彼の失敗を助けた。然し乍ら彼れ亦罪なき能はずである。然り、彼れ自身が失敗の責任を負はねばならぬ。彼は慾を蔵《かく》した。彼は慾なる蛇の子を殺し得なかつた。彼は慾を甘く見て、之を絶つて戴かん為に神に縋らなかつた。畢竟するに彼は信仰を離れた。此世の人等と共に慾を正当の権利として抱いた。其事が主なる原因と成りて、彼は誘惑に遭ふて其呑み尽す所となつた。試験に落第して人生の落伍者と成つた。|まことに信仰を棄つるは小事でない〔付△圏点〕。恰かも疫癘の地に在りて衛生を怠るが如しである。死は必然の結果として来る。「人、誰か慾なからんや」と世の智者は曰ふ。そして信者と称する(87)者までが此言を信じて疑はない。そして其慾が彼を亡すの因を成すのである。「我が愛する兄弟よ、欺かるゝ勿れ」である。世と偽はりの教師に欺かるゝ勿れである。十一月六日


(88)     信仰の始終

                           昭和3年1月10日

                           『聖書之研究』330号

                           署名 内村鑑三

 

  コリント後書五章十八、十九節

 

〇宗教に二種ある、実は二種以上はない。第一種は人より神に達せんとする宗教である、第二種は神が人を求め給ふ宗教である。そして此世の宗教はすべて第一種に属する者である。人ですべての工夫を凝らし、神に達せんとする、それが此世の凡ての宗教である。エヂプト教、バビロン教、ギリシヤ教、印度教、支那教 日本教、すべて然らざるはなし。然るに茲に一つ以上と全く異《ちが》つた途を取る宗教がある、それは基督教である。|基督教丈けは凡ての宗教の内に在りて、人より神に達せんとする宗教に非ずして、神が人を求め給ふ宗教である〔ゴシック〕。其意味に於て基督教は第二種に属する宗教であつて、一宗教を以つて一種を形成するのである。

〇「キリストは我等の尚罪人たる時我等の為に死たまへり、神は之に由りて其愛を彰はし給ふ」とある(ロマ書五章八節)。又曰ふ「我等神を愛せしに非ず、神我等を愛し、我等の罪の為に其子を遣はして宥《なだめ》の供物《そなへもの》とせり、是れ即ち愛なり」と(ヨハネ第一書四章十節) 即ち人が神を求むる前に神が人を求め給うたと云ふのである。基督教は人が神の愛を促す為の宗教に非ずして神が既に彰はし給ひし愛に応ずるの道である。

(89)〇「一切のもの神より出づ」。宇宙万物然らざるはなしと雖も、殊に信仰救拯の事に於て然りである。人の救はるゝは一切神に由ると云ふのである。信仰其物も人が自から起すに非ずして、神が人の衷に起し給ふのである。第十八節以下は左の如くに読むべき者である。

  一切《すべて》のもの神より出づ。彼れ(神御自身)キリストを以つて我等をして己れ(御自身)と和《やはら》がしめ、且その和がしむる職(伝道の職)を彼(神)は我等に授け給へり。即ち神御自身キリストに在りて世を己と和がしめ其罪を之に負せず、且和がしむる言を我等に委ね給へり。……神御自身我等を以つて汝等を勧め給ふ……御自身罪を識らざる者を我等に代りて罪人と為し給へり云々。

 即ち我等の救拯に関はる万事の発意はすぺて神に在るとの事である。彼御自身が救拯の途を備え、彼御自身が福音の使者を起し、彼御自身が人に信仰を起し給ふと云ふのである。即ち「一切のもの神より出づ」るのである。名づけて之を神の恩恵の福音と云ふは是が故である。一切が神より出づ、故に恩恵である。我等の救拯に閲し我等は自己に就て誇るべきもの何もなし、救拯は神に始まつて神に終ると云ふのである。

〇そして是は事実である。真《まこと》に救拯を実験した者は何人も此事を知る。真の基督信者にして、自分が求めて救はれたりと思ふ者は一人もない。パウロ自身が其好模範である。彼の言として伝へらるる者は左の如し。

  キリストイエス罪人を救はん為に世に臨《きた》れりとは、信ずべく亦疑はずして受くべき言なり、罪人の内我は首《かしら》なり、然れども我が憐愍《あはれみ》を受けしはキリストイエスいや先きに我に寛容を悉く彰はし、後に彼を信じて永生を受くる者の模楷《かた》となし給へる也

と(テモテ前書一章十五、十六節)。信者と云ふ信者で此言を己が言として読まない者は無い筈である。

(90)〇そして基督教が基督教でなくなる時に、第一種の宗教、即ち人より進んで神に達せんとする宗教に成るのである。宗教改革以前の羅馬天主教が之であつて、名のみ基督教で、実は此世の宗教と化したのである。そして一度改革せられし基督教が復たび|人間教〔付△圏点〕と成りつゝあるを見る。今日の米欧人の所謂基督教、即ち社会奉仕教、是れ形は旧い羅馬天主教と異ると雖も、其精神は同じである。即ち一切が人に始まる宗教である。運動、宣伝、事業、一切が人の働きである。即ち人に訴へ、人を動かし、人をして神らしき業《わざ》を為さしめて神に似たる者たらしめんとする、彼等の所謂宗教である。人が伝道師となるも、彼が政治家又は実業家と成ると同じく、自から択んで、自から成るのであつて、神御自身より職を授けられたのではない。彼等の所謂宗教は人が己を救ふ事であつて、人の意志に始まつて彼の実行に終る者である。故に聖書に示す基督教とは其根本を異にする者であつて、難行苦行に由つて神と合体せんとする婆羅門教と其精神を一にする宗教である。「一切のもの神に出づ」と聖書は明白に言ふ。之に反して近代人は言ふ「一切のもの人に出づ」と。|米国人今日の基督教は純然たる行の宗教であつて、第二の羅馬天主教と称して差支ない者である〔付△圏点〕。

〇救拯は神より出て恩恵の賜物である。故に唯感謝を以て受くべき者である。心の此態度を称して信仰と云ふ。詩人は此態度を歌ふて曰うた(詩百廿三篇)

   見よ僕その主の手に目を注ぎ

   婢女《はしため》その主婦の手に目を注ぐが如く

   我等は我神ヱホバに目を注ぎて

   その我等を憐み給はんことを待つ

(91)と。そして此の態度がやがて苦るしき活動と成りて現はるゝは言ふまでもない。而かも神に達せん為の活動でない。彼に救上げられて、歓喜の余り自然に出る活動である。一九二七年十一月六日


(92)     FREEWILLING AND FREEDOING

            昭和3年1月10日

            The Japan Christian Intelligencer Vol.Ⅱ,No.11.

            署名 The Editor.

 

 They say:You must do that;you must not do that・But I say to them:I cannot do as you say,and I cannot not do as you say.Yea,I cannot do and cannot not do as I say to myself. Somebody mightier than you and I say to me:Do that and do not do that.His voice I must obey,and not your voice or mine. You may be the Roman Pontiff, or the Archbishop of Canterbury,or the great Doctor of Divinity in this part of the world;but your words of command or advice are not so authoritative to me as that Voice which speaks within me. What I do or do not do may not be pleasing to you, but shikataganai(I cannot help it);I am not your servant but His. I maybe a little worm or a poor heathen convert in your eyes,but a man I am;and as a man,I have a will of my own, which will,in my case,is mine to make it His. The Holy Apostles defied the command of the Sanhedrin saying:Whether it is right in the sight of God to hearken unto you rather than unto God, judge ye(Acts 4:19);and why cannot I sometimes defy the commands or advices of the reverend bishops and doctors of divinity of the present day,Who,I know,make many mistakes themselves,causing many a shipwreck of the faith of the churches under their own pilotage? Woe is me, if I am bound to follow their guidance always;especially in (93)the country of my birth,where I am at home,and they are strangers. I do not say,of course,that I am perfectly sound and unerring;I do make mistakes,and I am humbled thereby. But I say to my meddling advisers,as Job said to his friends:I am not inferior to you(Job 12:3). I must work upon my own responsibility,and make free choice of the advices offered to me by those who consider themselves to be my spiritual superiors. It may not be advantageous to me,as they often warn me,to be “too independent”;but advantage or disadvantage is a matter of no concern to me;I must be true to myself and to my Master.A microcosmos I am,though a tiny one ; and I must revolve as a little a little planetoid around the Sun of Righteousness, and not round the Jupiter of Prudence,or of the Saturn of Self-love. They in one way or another helped me to be a Protestant;and in accordance with their own teaching,I sometimes protest against them,as they,or rather their worthy ancesters,protested against、the Roman Pontiff and his ecclesiastical court.I aim to be a consistent Protestant like John Milton or Oliver Cromwell;and that is the reason why I sometimes choose my own way,and not the ways of otbers who presume to be superior to me in wisdom and faith.

 Truly,in this age of easy yielding for the sake of“advantage,”I think it is no mean virtue to say No! for the sake of what a man believes to be true.I like that line of Poet Lowell:

      The brave Luther answered No!

      And that No! rocked the whole Europe.


(94)     THE HUMOURLESS PEOPLE

             昭和3年1月10日

             The Japan Christian Intelligencer Vol.Ⅱ,No.11.

             署名 The Editor.

 

 There are people who are entirely humourless. To them every word has but one meaning. They call spade,spade,and attach no other meaning to it. When we tell them that spade sometimes means honest labour,or independence,or peace as plowshare does in a famous prophesy of Isaiah,they laugh us to scorn,call us mystics and dreamers,and even dangerous men. They are proud of their literal interpretation of the Bible;and when they read in it that “they shall beat their swords into plowshares and their spears into pruninghooks,”or that “the lion shall eat straw like the ox,”they believe that these words shall be literally fulfilled. Poetry to them is no fact. Indeed,they have no poetry. All is prose to them;literature to them means statute books,book-keepings,and statistics,and nothing more. Verses and rhymes,beautiful dreamings,and speaking by contrasts and covert words are foolishness to them. They judge men and women by words and actions,and cannot look behind the veil and read kindness in wrath,love in fierce words,piety in seeming blasphemy,brotherliness in contentious deeds,and tears in iron-fists. They are prosaic;they call spade, spade,heretic,heretic,orthodox,orthodox. So it is very easy to deceive them. We wear the robes of orthodoxy,and we take us for good orthodox. We join the Methodist Church,and they (95)take us for good Methodists. We become Episcopalians and we are trusted by bishops and deacons. We allow ourselves to be baptized or“dipped”into water,and we are considered to be good Baptists. And so forth. But truth is,Truth refuses to show itself so plainly. Truth like a modest maiden likes to hide herself;she sometimes assumes the form of a vixen even,that she may ward off the touch of rudeness.Truth hates nothing so much as vulgarity;she tries every means in her power to frighten, scare,and drive away the sacrilegious touch of familiarity and the worse profanity of patronage. And Truth is poetical. Indeed,Poetry is Truth in the highest form, and so is meaningless to the prosaic and humourless.


(96)     I MARCH ON AND ON

             昭和3年1月10日

             The Japan Christian Intelligencer Vol.Ⅱ,No.11.

             署名 kanzo Uchimura

 

  I march on and on.

  I do not look behind,I look before,-I march on and on.

  Let dogs bark and critics criticize,-I march on and on.

  Whether I fail or succeed,I do not care,-I march on and on.

  In the battle of life,I do not look bebind like Lot's wife;

  God will make me too a pillar of salt by the Dead Sea,if I look behind.  God is marching on and on, and His Universe too;

  And I must march on and on,if Iam to live with Him.

  Forgetting all things that are bebind me,I march on and on.

  Years out,years in,I march on and on.

  As a living child of the Living God,I march on and on.

  That is the life and crown,the marching on and on.

 

(97)     SURROUNDINGS AND THE SPIRIT.環境と聖霊

                           昭和3年2月10日

                           『聖書之研究』331号

                           署名なし

 

     SURROUNDINGS AND THE SPIRIT

 

 Not surroundings but the Holy Spirit. Surroundings however perfect can never makea Christian,while the Holy Spirit can make Christians out of most imperfect surroundings. This faithless generation thinks it possible to make Christians in mechanical ways,by providing what they call Christian surroundings;but Christians they thus make are no Christians at all,but imitations,manufactured articles as lifeless as any piece of fabrics that comes out of their factories. Money and equipments and educational systems cannot make Christians,while God by His Holy Spirit hath made many true Christians outside of mission-schools.“The Spirit bloweth where it listeth,and thou hearest the sound thereof,but cannot tell whence it cometh,and whither it goes:so is every one that is born of the Spirit.”-John 3:8. The Spirit can and does make Christians regardless of their surrounding. The so-called“influences”have but very little to do in making Christians.

 

(98)     環境と聖霊

 

〇環境に非ず聖霊である。環境は如何に完全であるとも信者を作らない。之に対して聖霊は最も不完全なる環境の中より信者を作る。不信の現代人は彼等の所謂基督教的環境を供することに由りて機械的に基督信者を作り得ると思ふ。然れども彼等が如斯くにして作りし信者は少しも信者ではない、信者の真似事である。恰かも彼等の製造所が産する織物の断片《きれはし》の如きものである。金と設備と教育の方法に由て信者は出来ない。同時に神は其聖霊を以つて伝道学校以外に於て多くの真の信者を作り給うた。

  霊は己が任《まゝ》に吹く、汝其声を聞けども何処より来り何処へ往くを知らず、凡て霊に由りて生まるゝ者は此の如し

とある。聖霊は環境如何に拘はらず信者を作る そして今猶ほ作りつゝある。所謂影響感化なるものは、基督信者を作るに方つて、其の為す所至つて僅少である(ヨハネ伝三章八節)。

 

(99)     芸術と救ひ

                           昭和3年2月10日

                           『聖書之研究』331号

                           署名なし

 

〇今や芸術万能時代である。何事も芸術である。宗教道徳までが芸術化せらる。芸術を以つてする世界改造が唱道せられ又計画せらる。芸術に対しては社会全体の共鳴があり渇仰がある。自分も楽しみ、人をも楽しましめながら人格の向上、人類の改造が行はれ得ると云ふ。此んな好い事はない。故に俳優が最良の伝道師であり、芸人が有力の説教師であると云ふ。神学校を起すに及ばず、俳優学校を設くべきである。音楽学校と美術学校とありて師範学校は廃するも可なりである。到る所に国立劇場を設けて、寺院、教会等に代り、民衆教化の任に当らしむべきである。

〇斯かる思考《かんがへ》を懐いた人は今日までも無いではなかつた。然し其目的を達し得なかつた。芸術は理想の表現である。表現の術であつて理想其物でない。故に理想なき者にも或る程度まで之を真似る事が出来る。ハンデルの信仰なき芸術家にも或る程度まで「メツシヤ」の譜を奏する事が出来る。ハンデル、ベートーベンたる能はずと雖も、或る程度まで彼等の作曲を演ずる事が出来る。如斯くして芸術家は甚だ自己を欺き易くある。形や音の美に捉はれて其精神を逸し易くある。芸術家に劣等の人物多きは是が為である。彼等は偽はりの宗教家以上に「白く塗りたる墓に似たり、外は美はしく見ゆれども内は骸骨と様々の汚穢《けがれ》にて充つ」である(マタイ伝廿三章廿七節)。

(100)畢竟するに芸術の美は天才の美であつて意志の美でない。美は美なれども劣等の美である。そして多くの場合に於て道徳を離れたる美である。故に芸術の盛んなる時代は大抵は道義の衰へたる時代である。我国の奈良朝時代、元禄時代が其実例である。芸術を主として国の改つた実例を未だ曾つて聞いた事はない。

〇其反対に社会民心の徹底せる改革は芸術に反対せる運動に由つて起つた。一時英米を風靡せしピユーリタン運動が其善き実例である。誠実の熟する時に外観の美を厭ふ。其時人は真摯たらんと欲して優美たらんと欲しない。理想の人は「我等が見るべき麗はしき容《すがた》なく、美くしき貌《かたち》はなく、我等が慕ふべき艶色《みばえ》なし」である(イザヤ書五十三章二節)。預言者全体、イエス彼れ自身、パウロ、ルーテル孰れも芸術の人でなかつた。芸術は勿論悪いものでない。然れども芸術に由て人は救はれない。然り高い道徳と強い信仰となくして芸術は起らない。起つた芸術までが衰へる。芸術万能主義の流行は国家衰退の兆候である。

 

(101)     人間の声

                           昭和3年2月10日

                           『聖書之研究』331号

                           署名 内村

 

〇或る婦人の手紙に、その弟の死状《しにざま》が記いてあつた。

  ……午後一時五分頃でした。私だけに来てくれと申しました。「姉さん喜んで下さい」と涙を流して言ました。「私の様な者、罪人の首、地獄の真ん中に往くべき私の様な者をもエス様に依りて救つていたゞける事が解りました。半日聖書を読み祈つてゐました。詩篇とローマ書を……アヽ有難い、勿体ない、エスクリストの十字架の血により救つていたゞけるのです。私は恥かしい事ですが二ケ月床について死にたくないと思ふてゐました。地獄が恐ろしくて、恐ろしくて。然し自分は地獄に落ちる価しかない者であるし……今日不思議に内村先生の研究会で伺うたローマ書の三章廿三節だつたと覚えてゐますが、この罪のまゝ何の功なくして御救に与かれると云ふ事が詩篇を読んで祈つて居る時に光の如くに私の魂に解つたのです。アヽもう精神の苦痛がなくなりました。すべて神様の御手に委ねます。只残るは病苦だけです。今まで恥かしいが精神の苦痛が病苦より大きかつたのです。もし此病気が御旨ならば善くなる乎も知れません。此世の医術の最上の方に見せて下さい。アヽ何気なく衛生会館で伺ふてゐた此の神の言葉が先生の御声その儘で私の胸に響いた。アヽ有難い」と私の手を握つて云ふのでした。そして「折があつたらどうか此の何の学問もない一信(102)徒が救ひの確信を与へられた事を先生に申上げて宜しく御礼申上げ感謝して下さい」と言ひました云々

 此は実に「人間の声」である。此声を聞いて自分も奮ひ起たざるを得ない。説くべきは十字架の福音である。斯ういふ結果を持来すからである。教会の教師等に何んと誹られやうと、縦令一人なりとも自分の聖書講演を聴いて、斯う云ふ様に死んで呉れたと思へば、凡ての苦労を償ひ得て余りがある。神学博士や老宣教師等に「汝が聖書を説くは他の宗派を仆して汝の宗派を建ん為である」と言はれて、自分はそんな悪い事を為してゐるの乎と自分で自分を疑はしめらるゝことありと雖も、此一人の平信徒が自分の説きし福音に由りて安らかに死に就きしを聞いて、自分はやはり神の御指命の下に働いてゐる事を知りて感謝に堪へない。多分他にも斯かる人があるであらう。そして遠からずして霊の世界に於て彼等に会うて讃美を共にするであらう。霊魂を救ふ為の伝道である。此世の勢力と云ふが如きは塵埃に等しき物である。

 

(103)     単独の勢力

                           昭和3年2月10日

                           『聖書之研究』331号

                           署名 内村鑑三

 

  イザヤ書六十三章一-六節

 

〇今や何人も事を為さんとするに於て、多数に依て為さんとする。多数の賛同を得るのが成功第一歩であつて、此賛同なくして何事も為し得ないと今の人は信ずる。茲に於てか宣伝の必要が起るのである。宣伝の目的は多数の賛成喚起に於てある。社会の輿論を喚起し、自分の説に賛成して貰つて、而して後に其実行を期待するのが、今の人が事を為す唯一の途である。政治界に於て政党の必要が唱へられ、宗教界に於て教会の必要が主張せらるゝも之が為である。人が単独の力を信ぜず、多数に依らざれば何事も為す能はずと思ふからである。今の人に取りては多数是れ勢力である。議会に多数を制するまでは、大真理と雖も之に実力は伴はないのである。

〇然るに不思議なる事には聖書は多数の勢力を認めないのである。聖書は先づ第一

に神の勢力を認め、然る後に神に頼る個人の勢力を認む。多数は弱き人の多数であつて、偉大なる事が彼等に為し得られやうと信じない。「それ人は既に草の如く、其栄は凡ての草の花の如し」と云ふは単に王公貴族をのみ指して云うたのではない、凡ての人を指して云うたのである。政党も教会も、団体も組合も、人と云ふ人は、其数は如何に多くとも、凡て(104)草の花の如しと云ふのである。聖書は君主政治をも代議政体をも信じない。聖書は多数に依るにあらざれば事を為す能はずとは決して教へない。

〇そして聖書に依れば、神は大事を為すに方て多数の勢力を以つてせずして、単独の力を以てし給うた。イスラエルの人々をエジプトより救出すに方て、民族的運動を起さしめずして、モーセ一人を選び、彼を遣はして、彼れ一人を以つて奴隷の民に自由を与へ給うた。更らに溯りて聖き民を作らんとするに方て、或る民族を選びて之を聖め給はずして、カルデヤのウルにアブラハムを選び、彼れ一人を以つて聖民四千年の歴史を始め給うた。イスラエルの王アハブの世に預言者エリヤは唯一人、王とバアルの預言者四百人とを相手に、信仰革正の実を挙げた。其他イザヤも一人、ヱレミヤも一人、エゼキエルも一人、アモスも一人であつた。一人が改革の勢力であつた。王に頼らず、祭司に頼らず、亦民衆にも頼らず、唯一人、大堕落、大腐敗に対して闘ひ、根本的の革正を遂げた。まことにイスラエルの歴史は国民の歴史ではなくして英雄の伝記である。民衆の奮起を待たずして、神に依頼む信仰の勇者が独り立つて救拯を施した、其事蹟の記録である。

〇如斯くにしてイスラエルを救ひし神は、同じ方法を以つて世界を救ひ給うた。

   我は単独《ひとり》にて酒※〔木+窄〕《さかぶね》を践めり

   諸々の民の中に我と偕にする者なし

とは世の救主が発せる声であつた(イザヤ書六十三章三節)。イエスは唯一人、世の罪を身に担ひて、十字架の上に之を除き給うた。イスラエルの民族的運動ではなかつた。イエス一人の贖罪の生涯と死であつた。人類は之に由つて救はれたのである。そしてイエスに傚ふてステパノは独り殉教の死を遂げ、彼に励げまされて、パウロは(105)独り世界教化の途に就いた。ダンテも独り、サボナローラも独り、ルーテルも初めは独りであつた。大運動会はすべて民衆の集会に於て始らずして、信者個々の密室に於て姶つた。世界改造の実力は一人の霊魂が神の霊に接する所に於て在る。集会々々と称して、多数の勢力を待つて事を為さんとするは聖書的でない又基督数的でない。

〇会議又会議、大会又大会である。此日本に於ても既に世界青年会大会を見、又世界日曜学校大会を見た。そして其結果として教勢は少しも揚らず、信仰は少しも進まない。聞くものは依然として教勢不振の声である。そして今や亦、ヱルサレムに於いて全世界の基督教信徒の大会が催されんとして居る。其信仰的に何の永久的結果の見るべき者なきは今日までの例に照して見て明かである。多数に於て勢力を認むるは米国人の癖である。民衆は彼等の偶像である。民衆に受け納れらるゝを彼等は称して成功と云ふ。彼等は明かに聖書の教に逆らつて、聖書の教を世に布かんとしてゐる。深く聖書を究めずして、唯広く聖書を頒布して世界教化を計りつゝある。我等は彼等に傚つてはならない。一人のエリヤ、一人のヱレミヤの起らん事を祈るべきである。神の聖旨ならば自分が其一人なる事を辞せずとの決心を抱くべきである。遥々ヱルサレムまで其会議に列なる為に行く必要は少しもない。此日本に在りて、此富士山を眺めながら、此多摩川の水を飲みつゝ、万軍のヱホバの声を聞き、其聖霊を授かつて力ある者と成る事が出来る。我れ神と偕に在りて我れ一人は全世界よりも強くある。斯く云ふは決して誇大的妄想でない。真面目なる事実である。多数に倚るは馬と戎車に頼る丈けの背信である、我等は集会好きの米国宗教家に傚ふ事なく、アブラハム、モーセ、エリヤに傚ひ、先づ独り神の友と成り、彼 に力附けられて、大衆を救ひ得る能力の源と成るべきである。一月廿二日。 

 

(106)     ALONE BUT NOT ALONE

             昭和3年2月10日

             The Japan Christian Intelligencer Vol.Ⅱ,No.12.

             署名 The Editor.

 

 What if I am the only Christian in the world? That does not mean that I am the only perfect man in the world,――just the opposite is ture.That does mean that I am the chiefest of sinners,and God saved me,or made me a Christian“that in me first Jesus Christ might show forth all longsuffering,for a pattern to them which should hereafter believe on him to life everlasting.”I Tim.1:16. In that case,i.e. if I am the only Christian in the world,it is all very natural that all things in the world appear very strange to me,and I appear very strange to the world.The Christian,I nnderstand,is not a world-man,and Christianity is not intended to be a world-religion,as I am told it is by many famous theologians. After all,there are not many Christians in the world, and Christianity is intended for these very few. As in the time of Isaiah,so now,“Only the remnant shall be saved,”and“the remnant”means a very small minority. The attempt to make the whole world Christian is unbiblicaland unchristian. Yea,it is an impossibility:the world which crucified the Lord Jesus Christ will never become Christian.The world as a whole is essentially anti-Christian,-the so-called Christian nations included,-and it is“kept in store,reserved unto fire against the day ofjudgment and perdition of ungodly men.”Ⅱ Pet.3:7.Not because God (107)hateth the world,-the contrary is true,-but because the world loves itself,and hates God who is all love and is opposed to all that the world thinks and does.

 Then,what am I to do for this world? Simply to witness for the truth of the Gospel of Jesus Christ by my deeds and words. It makes no difference to me whether I am the only witness in the world,or many like me witness for the same truth;I have to witness whether alone or with many. One with God is greater than the whole world;and I need not,and must not,wait till I am convinced that I am not the only witness in the world.I have my post of duty to keep,and I alone can keep it. Democracy,or rule by many,does not rule in the kingdom of spirits. There,one with God is mighty to save,and many without Him is equal to zero. The glory of that kingdom is,that there every citizen is a king without country and people,sufficient in himself,or rather in“Him that filleth all in all.”

 

(108)     THE HELPLESS CHRISTIAN

             昭和3年2月10日

             The Japan Christian Intelligencer Vol.Ⅱ,No.12.

             署名 The Editor.

 

 Jesus said:My Father worketh hitherto,and I work.……The Son can do nothing of himself,but what he seeth the Father do:for what things soever he doeth,these also doeth the Son likewise. John 5:17,19.So does every one of His disciples. I can think of no more helpless man than the disciple of Jesus Christ.He is not permitted to have any will of his own;indeed,he has been deprived of his will when he was called to His service,and he has no strength to do his will,even though he had it.His will is given him,and with it,strength to do it;his will is not his,but the Father's. So,he knows not what the purpose oh any particular willing caused in him is;he simply does it,not asking why and wherefore. Sometimes,it is a pleasant business he is called upon to do.Then he sings with the Psalmist:

       My heart overfloweth with a goodly matter,

        I speak the things which I have made touching the king:

       My tongue is the pen of a ready writer.

 But at other times,it is entirely otherwise. Then he shudders before the task,prays that he may be spared from it;but compelled by heavy hands laid upon him,he accepts it, and executes (109)it with the strength given him for the purpose. The conscious believer,working as if unconscious of himself,as he is constrained to do Another's will,-that I understand is the Christian life,the noblest life because it can belived as the result of dying to self,or rather death to it,inflicted by the Mighty Conqueror that He might lead“captivity captive”for His own glory. Ephes.4:8.

 Let not,therefore,the reader of this little magazine ask its editor why he joined it when it was started two years ago,and why he ends it now.That which was done was done,for some good purpose of His will,-so the editor sincerely believes.

 

(110)     IN SEASON OUT OF SEASON

             昭和3年2月10日

             The Japan Christian Intelligencer Vol.Ⅱ,No.12.

             署名 The Editor.

 

                2 Tim.4:2.

     If I am told I shall live one hundred years,

        I will preach the gospel of Christ.

     If I have thirty more years to live,

        I will preach the Gospel of Christ.

     If I have only five years more to live,

        I will preach the Gospel of Christ.

     If I am told I shall die this year,

        I will preach the Gospel of Christ.

     If Death's call will come the next month,Or the next week,

        I will preach the Gospel of Christ.

     I wish to draw my last breath,

        Preaching the Gospel of Christ.

 “For God soloved the world,that He gave His only begotten Son,that whosoever believeth on (111) Him should not perish,but have eternal life,”……it is a news altogether too good to believe,but it is true.

 

(112)     BE UNPOPULAR

             昭和3年2月10日

             The Japan Christian Intelligencer Vol.Ⅱ,No.12.

             署名 The Editor.

 

 Oh be unpopular, be purposely unpopular. It is a shame to be popular,these days. To be popular means to be superficial,democratic,American;it is to be of earth,earthy,clinging to the dust. Oh be entirely unpopular, out of the reach of the mass,unearthly,ethereal,Speaking in“dark parables,”so that only the elect few can understand. In an age like this,pride in one form is a virtue,to keep oneself intact from the stain of vulgarity. To be the most popular man, whether to be a president of a republic or of a cabinet,is to be a near relative of the Adversary of mankind usually called Satan.Oh be unpopular like God Himself,for He is the most unpopular person in this generation,because He makes so little of business and prosperity, and so much of holiness and eternal life.

 

(113)     〔山本泰次郎・中島活子結婚式司式の辞〕

                             昭和3年3月1日述

                             手稿

                             署名なし

 

〇山本泰次郎君に申します。アナタは今茲に中島活子さんを娶りてアナタの妻となし、聖書の教に従ひ、又アナタが日本人として祖先より授かりし徳義に基き、彼女を愛し、労はり、敬ひ、弱き器として、又共に生命の恵みを嗣ぐ者として、終生渝らざる誠実を以つて、彼女に対し夫たるの義務を尽し、指導の任に当る事を茲に神と親戚と友人との前に誓ひますか。

〇中島活子さんに伺ひます。アナタは今茲に山本泰次郎君に嫁ぎて彼をアナタの夫となし、長の間アナタが神の御言葉なる聖書より学びし教に従ひ、又アナタが日本婦人として践むべき道に依り、彼を愛し、敬ひ、アナタの首として彼を仰ぎ、終生彼と苦楽栄辱を共にし以つて誠実なる妻たるの義務を尽さん事を、茲に神と親戚と友人との前に誓ひます乎。

〇天に在します父なる真の神様、アナタの御恵みと御導きに由り、今茲に此若き男と若き女とを引合はしてアナタの前にアナタの御|規定《さだめ》に従ひ、夫婦たるの誓約を為すための此聖き厳かなる式を挙ぐる事を許し給ひてまことに有難く存じ奉ります。願くは今彼等両人がアナタの前に立てし約束を見そなはし給ひて、彼等がアナタの御助けに由り能く之を実行し得るやう彼等の上にアナタの御能力を注ぎ給へ。又彼等がアナタの聖名に由りて今より(114)作らんとする其家庭を福ひし給ひてそれをアナタの宮となし、アナタの御慈愛と御|訓誡《いましめ》とが常に其内に宿り、此暗らき冷たき罪の世に在りて、聖き温かき家庭として光り輝くやうアナタの御導きを其上に加へ給へ。又此等両人の代表する家族並に親戚一同の上に茲に更めてアナタの御恵みを注ぎ給へ。茲に又新たなる家庭の彼等の間に現はれしに由り新たなる祝福を彼等の間に降し給へ。新たなる愛と、之に伴ふ新たなる平和と親密とを以つて彼等を結び給へ。又彼等と親しき関係に於て在る我等 彼等の友人一同を恵み給へ。我等も亦此新らしき家庭の成るに由りて新らしき祝福に与かる事を得しめ給へ。そして亦此祝福が多くの他の人にまで及びて、多くの人がアナタの尊き聖名を崇むるに至らしめ給へ。今此切なる感謝と祈祷を、尊き救主 アナタの独子イエスキリストの聖名に由りて納け給へ。       アーメン


(115)     MY STRENGTH.私の力

                           昭和3年3月10日

                           『聖書之研究』332号

                           署名 The Editor主筆

     MY STRENGTH.

 

 My strength comes not from my health;not from my will-power;not from my inborn or inherited character;but from my faith in the Living Son of God. He working in me,maketh me strong in spite of my weakness;so that,as in the case of Brother Paul,“my strength is made perfect in weakness.”2 Cor.12;9.Ⅰ,looking up unto Him in my weakness,am supplied with strength which is neither of flesh nor of earth;and in this strength,mysterious yet intensely real,I work,outside of myself,as it were,but in full possession of my consciousness,Himself merged in myself,or rather He working through me,as me,-the greatest of all condescensions on His part,and the highest of all glories on mine. This is the alchemy of faith,experienced by every Christian who experienced the goodness and greatness of his Living Saviour.


(116)     私の力

 

〇私の力は私の健康より来ない、私の意志の力より来ない、私の生れつきの又は私が遺伝に由て譲受けし性格より来ない、私が神の活ける独子を信ずるより来る。彼は私の衷に働きて私の弱きに拘はらず私を強く為し給ふ。斯くして兄弟パウロの場合に於けるが如くに「私の力は私の弱き時に完成《まつたう》せらる」。私は弱きに在りて彼を仰瞻《あふぎみ》る、其時私に力が加へらる、それは肉の力でなく又地の力でない。そして此力を以つて私は働く。如何にも私は自分を離れて働くやうであるが、然し私は充分の自覚を以つて自分として働くのである。奇《ふし》ぎである然し事実である。神は御自身を私の内に没し給ふ。否な寧ろ彼は私と成りて私を通うして働き給ふ。実に彼に在りては最大の謙遜であり、私に在りては最大の光栄である。是れが信仰のアルケミーである、即ち銅を化して金と成すの術を人生の実際に適用したるものである。

 

(117)     純福音に就いて

                           昭和3年3月10日

                           『聖書之研究』332号

                           署名なし

 

〇純福音とは何ぞ? 純福音とは十字架の福音である。罪の赦しの福音である。「キリストは我等の猶ほ罪人たる時我等の為に死たまへり、神は之によりて其愛を彰《あら》はし給ふ」と云ふ福音である(ロマ書五章八節)。又「彼れ我等を救ひ、聖き召しを以つて我等を召し給へり、是れ我等の行ひに由るに非ず、唯神御自身の旨と世の成らざりし前よりキリストイエスの中に我等に腸ひし恩恵に由るなり」と云ふ福音である(テモテ後書一章九節)。故に之を称して「神の恩恵の福音」と云ふ(行伝二十章二四節)。神の子の|いさほし〔付ごま圏点〕の故に我が凡ての罪を赦さるゝ神の善き聖旨を伝ふる音信である。斯んな喜ばしい有難い音信は復と再び有り得ない。故に之を称して福音と云ふのである。

〇然るに多くの場合に於て純福音と唱へらるゝ者が福音でないのである。神より来る喜ばしき音信でないのである。多くの場合に於て|罪の赦免に非ずして罪の摘指詰責が純福音の名の下に唱へらるゝのである〔付△圏点〕。然し乍ら言ふまでもなく、純福音は純道徳でない、或は亦純律法でない。モーセの律法を欠けなく守る事でない。此は守らんと欲して守る能はざる事である。純福音ほ我が理想を実行する事でない。先づ第一に我が罪を赦さるゝ事である、そして自から赦されて自由に人を赦し得るに至る事である。赦しに始まつて赦しに終る、それが純福音であ(118)る。赦さるゝ事と赦す事の無い所に、他に何が有つても、純福音はない。

〇勿論赦しは単なる心理作用でない、赦さるゝにも赦すにも正当の途がある。或る種の律法は赦しに必要である。然し赦しの為の律法であつて律法の為の赦しでない。赦しは目的であつて律法は方法である。赦されんが為に律法を説くのであつて、律法を律法として説くのでない。基督信着は律法道徳を経過して目的の罪の赦しに達した者である。律法に無関係の者ではない、律法が其威力を揮ふ能はざるに至つた者である。

〇故に福音は喜ばしき者であらねばならぬ。純福音は純歓喜であらねばならぬ。神の義を喜ばざるに非ずと雖も義よりも更に彼の愛を喜ぶ者であらねばならぬ。純福音の在る所に純歓喜、純讃美があらねばならぬ。純福音の在る所に罪の摘発、無慈悲の審判がありてはならぬ。純福音は全赦免の唱道である、故に往々にしてオリゲンの場合の如くに全人類の救拯を唱ふるに至る。純福音が若し誤る事があれば、慈悲多きが故であつて、公義に過ぐるが故でない。

 

(119)     生けるキリスト

                           昭和3年3月10日

                           『聖書之研究』332号

                           署名 内村鑑三

 

  黙示録一章十八節(昨年のクリスマス演説)

 

〇今日はクリスマスであつて、キリストの誕生を祝する日である。然るに彼は果して十二月の二十五日に生れ給ひしや、大なる疑問である。之に確実なる歴史上の証拠はない。我等は古い教会の言伝へとして此日を記念するに過ぎない。多分我等はキリストの誕生日を知るの必要が無いのであらう。若し有るならば聖書は必ず明確《はつきり》と之を録したであらう。更らに進んで、聖書が其事を録さゞる内に何か深い理由があるのであらう。或る場合に於て沈黙に言語以上の真理がある。キリストの誕生日を知るの必要なきが故に聖書は之を明記しないと見るは善き見方である。

〇キリストの誕生日を明記せざる聖書は彼の復活日を記して誤らない。彼は逾越節の「週の首の日」に復活し給ひたりとは四福書が揃うて記す所である。之に由て我等は毎年ユダヤ人の暦に照らし見てキリストの復活日を確定する事が出来る。此は実に著るしき事実である。誕生日に就て録す所なくして復活日に就て明かに録すと云ふのである。之に何か深い意味がなくてはならない。そして其意味は探るに難くないのである。

(120)〇コリント後書五章十六節にパウロは曰うた。

  此故に今より後、我等肉体に由りて人を識るまじ、我等肉体に由りてキリストを識りしかども、今より後は此の如く彼を識るまじ。

と。即ち|信者は肉体のキリストに就て識るに及ばず、復活昇天せるキリストを識れば足る〔ゴシック〕との事である。キリストは何時何処に生れ給ひし乎、其家庭、教育、生長等は実際上知るも益なき事である。知らねばならぬ事は彼が今生きて働き給ふ事である。「我れ生くれば汝等も亦生く」と言ひ給ひ、「天の内、地の上の凡ての権を我に賜はれり」と宣べ給ひ、「我はアルパなりオメガなり始なり終なり」と告げ給ひしキリスト、我等は其キリストを知るの必要がある。今生き給ふ霊なるキリストを知りし以上、千九百年前にベツレヘムに生れし嬰児イエスを知るの必要はないのである。

〇今や何人も歴史的イエスを知らんと欲する。是れ決して悪い事でない。我等は空想のキリストを信ずるのでない、事実人として世界に現はれし神の子を信ずるのである。其事を確かめる為に史的イエスを知るの必要がある。然し歴史は歴史であつて人の編んだものである。故に多くの点に於て正確を欠くは止むを得ない。我等は歴史を重んずるが之に頼る事は出来ない。所謂歴史的信仰なる者は微弱たるを免かれない。我等の信仰は現実的なるを要す。今生き給ふキリストを知るを要す。「視よ、我は世の終まで常に汝等と偕に在るなり」と宣べ給ひし彼を知るを要す。信仰は如此くにして生ける信仰となる。過去を顧みて憧憬に耽ける信仰に非ずして、今日に処して活躍する信仰となる。歴史的イエスに憧憬れ、彼を崇むるを以て信仰の本領とする教会が今日の睡眠的状態に入ったのは当然である。我等は茲に過去のイエスを祭るを廃めて、今生き給ふ彼に事へ奉りて、機《おり》に叶ふ其援助に(121)与るべきである。

〇そしてキリストは実に生き給ふのである。約翰黙示録が示すが如く彼は今ま世を征服し給ひつゝある。|信者の眼より視て、人類の歴史は昇天せるキリストの実行録である〔ゴシック〕。彼の敵は亡びつゝある。彼の僕は崇められつゝある。神は「審判は凡て子に委ね給へり」とヨハネ伝五章廿二節に在るは単に教会の教義でない、毎日世に行はるゝ事実である。黙示録に於て見るが如き審判を我等は毎日目撃しつゝある。似而非基督教国の破壊、似而非基督教会の衰退は、神の子が行ひ給ふ此審判に外ならない。復活昇天して父の右に座して世を審判き給ふキリストは教会の神学者が作つたキリストでない、事実有の儘のキリストである。信者は彼を畏れ、彼を愛し、彼に事へまつらんと欲するのである。

〇そして我等は今年も亦、我国に起りし出来事に於て生けるキリストの聖業《みわざ》を拝見した。日本に於ても、今年も亦、人は審判かれて正義の神が崇められた。富、富、富を作る為の実業とのみ高く唱へられし其富が審判かれて其価値なき事が証拠立られた。

  人もし全世界を得るとも其生命を失はゞ何の益あらんや、また人何を以て其生命に易へん乎。

  斯くて霊魂に向ひて言はん、霊魂よ多年を過す程の多くの貨財《たから》を有ちたれば安心して食ひ飲み楽めよと

  然るに神彼に曰ひけるは、無知なる者よ、今夜汝が霊魂取らるゝことあるべし、然らば汝が備へし物は誰が有になる乎と(ルカ伝十二章十九節)。

 以上のキリストの言を、昭和二年に日本に於て有りし事に昭らし合はせて何人かイエスの遥かに我国最大の政治家以上の智者なる事に気附かざらん乎。イエス、ヤソ、耶蘇教、そんな物は要らない。要る物は富、是れあり(122)て国は富みて兵強しと我等は言ひ聞かされたのである。昔しは羅馬皇帝ジヤステニアン、終生イエスの名を絶たんと欲して闘ひ死に臨んで曰うた「ガリラヤ人よ、汝終に我に勝てり」と。明治大正の日本の政治家達も同じ歎声を発せざるを得まい。十二月廿五日

 

(123)     教会問題に就て

                     昭和3年3月10日・4月10日・5月10日

                     『聖書之研究』332・333・334号

                     署名 内村鑑三

 

〇教会問題で困つて居る人が沢山に有ると聞く、誠に困つたものである。此問題に就て第一に考ふべき事は|此問題は単に日本の基督信者をのみ悩ます問題でない事〔付△圏点〕である。今や欧米の旧い基督教国に於て此問題に悩む沢山の信者があると聞く。日本に於ては無教会信者と云へば「内村党」の人に限られてゐるやうであるが欧米諸国に於ては教会を離れたる基督信者が沢山にある。カーライルや、エマスンや、トルストイのやうな人はどう見ても立派な基督信者であつたが、彼等が教会所属の信者でなかつた事は何人も能く知つてゐる。其如く欧米諸国には数多の小カーライル、小エマスン 小トルストイ、そして是等の大文士よりも遥かに福音的の無教会的基督信者がある。此事は決して私の憶説でない。私は此事を長く彼国に滞在した信者の日本人より聞いた。教会に出入しないから此人は不信者であらうと思ひ、親しく其人に接して見れば、謙遜なる忠実なる信者でありて、家庭に在りては祈り聖書を学び主イエスキリストの聖名を崇めて聖き平安の生涯を送る者に度々出会すると云ふ。

〇勿論教会側では曰ふ「教会外に救ひなし」と。さう曰はなければ教会は立たないのである。然れども教会も様々であつて、羅馬天主教会より見れば新教諸教会も無教会であり、又新教諸教会の内より所謂分離教会が数多出た。孰れが本当の教会である乎は神のみ知り給ふであつて、或る教会に属してゐると云ふ事は、凡ての基督教(124)会に信者として認めらるゝ理由とはならない。今や教会合同の気運は大に進んで昔日の観なしと云ふ者あれども、聖公会の如きは自教会を中心とせざる合同は断然拒絶し、天主教会と新教々会との合同の如き、百年河清を待つ以上の|希望なき希望〔付ごま圏点〕と称せざるを得ない。其れ故に我等日本の基督信者が始めて基督教を信じた時に真面目に教会に対したならば、其孰れを択ぶべき乎は、今日所属教会に対し去就を決するよりも遥かに六ケ敷い問題であつたに相違ない。然れども何人も諸教会の優劣を究めて然る後に最も優れたる者を択んだのではない。自分に関係の最も近い者を択んだに過ぎない。メソヂスト教会の宣教師よりバプテスマを受けたるが故にメソヂスト教会に入り、初めに組合教会に接したるが故に組合員と成りたるの類である。如斯くにして|教会問題は今起るべき問題でない、信仰の初めに起るべき問題である。初めに解決して置かなかつた故に、今になりて其解決に困しむのである〔ゴシック〕。

〇然し乍ら教会問題をして今日の如くに困難ならしめし者は信者に非ずして教会其物である。過去三十年間に教会は一変した。今の教会は前の教会でない。其変化たるや皮相的でない、根本的である。今より四五十年に私の如きは聖公会やメソヂスト教会の信者達にユニタリヤンとして斥けられた者である。当時ユニタリヤンは異端の別名であつた。キリストの神性を否定し聖書を文字通りに信ぜずと云ふ類を指して云ふ名称であつた。然るに今日は如何と云ふに、前に私等をユニタリヤンと誹つた人達は今はユニタリヤン以上(又は以下)の人達となつた。彼等に取りキリストの神性の如きは問題たらざるに至つた。聖公会の立派な教師にしてキリストの奇跡的出生問題を嘲笑的に取扱ふも監督より其非を責められざるに至つた。米国に在りては聖公会の若き教師にして死後生命の実在を疑ふ者許多ありと聞いた。メソヂスト教会は更に甚だしと云はざるを得ない。信仰の事に就てはメソヂスト教会は全然ユニタリアン化した。然り遙にユニタリアン以下に降つた。今のメソヂスト教会に昔の福音的(125)信仰を見ることは出来ない。私の知る旧いメソヂスト教会は常に組合教会の反対に立つて福音救霊を主張した者であつたが、今は然らずしてメソヂスト教会は組合教会に能く似寄りたる教会と成つた。そしてメソヂスト教会の此革命的大変化は該《その》教会の忠実なる信者の明かに認むる所である。我国在留の或る有力なる宣教師は言うた

  今やメソヂスト教会の信者たる者は此教会を去るが正直である、我等其内に残る者は不正直の譏《そしり》を免れない、云々

と。|今日のメソヂスト教会の教師達の唱ふ所を三四十年前に唱へたならば、一日もその教会に留まることは出来なかつた〔付△圏点〕。時勢の変遷とは称するものゝ変はれば変る者である。私自身は夙く既にメソヂスト教会を離れた者であるが(札幌独立教会建設必要上)、然し若し今日まで繋がつて居たとすれば、私の信仰を以つて如何して其内に留まり得やうか、実に困つた問題であるに相違ない。教会を離れては悪いと云ふ其教会が自己が教へ来りし教義を離れたのである。即ち教会に残れと云ふ教会其物が無理を云ふのでない乎

〇無教会主義者を打ち、攻め、誹るは容易である、然れども教会は自己を弁明する必要がある。教会は自己の信仰を裏切つたのである。斯かる教会を信頼する能はずと其信者に言はれても教会に弁明の途がないのである。|教会其物が今や大なる苦境に立つ着である〔ゴシック〕。 〔以上、3・10〕

〇私の考ふるに教会問題の中心は是れである。即ち

  |所謂基督教会は果してキリストの教会なる乎〔付△圏点〕

 キリストの教会と云ふはキリストの弟子と云ふと同じである。キリストの弟子と云へば彼の御心を以つて己が心とし、彼の御足の跡に従はんと欲する者である。簡短に云へば山上の垂訓を日常生活の規範とせんと欲する者(126)である。キリストの教会も亦同じでなくてはならない。彼が弟子より要求し給ふ以下を教会より要求し給ふ筈がない。キリストの属《もの》は弟子たると団体たるとを問はず、彼の明白なる訓誡を守る者、縦し完全に守る能はずとするも守らんと欲して努力する者でなくてはならない。そして其訓誡を破りし場合には、自己を責め、過誤《あやまち》を悔ゆる者でなくてはならない。

〇然るに事実如何と問ふに、基督教会はキリストの明白なる訓誡を守らんと欲して懸命に努力せず、又之を破りし場合に於て特に自己を責めず、また改めんとも欲しないのである。恰かも個人としては為すことを許されざる事を国家としては公然為すが如くに、弟子として為せば非キリスト的行為として責めらるゝ事を、教会として為せば差したる悪事として認められないのである。キリストが憎み給ふ事にして我《が》を張るが如きはない。人は自己に求むる所があつてはならない、為し得る限り自己の利益を拗棄して他人に譲るべしとは、彼の明白なる教である。

  柔和なる者は福ひなり、其人は地を嗣ぐ事を得べければなり……憐愍ある者は福ひなり、其人は憐愍を受くべければ也

と。「柔和なる者」とは軽く云へば「権利を主張せざる者」であり、重く云へば「践つけらるゝ者」である。キリスト御自身が最も柔和なる方であつて、其弟子たる者は何はさて措き柔和であらねばならぬ。若し基督信者と称する人が、世人同様に自己の権利を主張し、自己拡張を計り、他人を排斥してまで自己の勢力を扶殖せんと為るならば、其人は信者として認められず、キリストと縁なき者と称せられて一言の申訳が無いのである。然るに基督教会は全体に於て如何とと問ふならば、何人も思ひ半ばに過ぐるであらう。自己の権利を主張せざる、自己拡張(127)を計らざる教会は何処に在る乎。教会が熱心を以つて従事する所謂伝道なる者は多くは是れ自己拡張ではない乎。キリストのため、同胞のためには熱心を起さゞる教会員も「我教会」のためとあれば万事を棄て之に当るではない乎。「教会」の為には誹り、撃ち、傷め、苦しめ、或る場合には斃し殺しても悪事なりとは思はないではない乎。若し一人の信者が斯かる悪事を為したならば、重き罪に問はるれども、教会の為に為すならば却つて其「忠勤」を誉めるではない乎。恰かも個人として為す殺人は罪悪として罰せらるゝも、国家の為に為す殺人は軍功として賞せらるゝと同然である。教会としての理想の、信者としての理想よりも遥かに低い事は何人も認めざるを得ない。基督教会の弱味は確かに茲に在る。|教会は信者以下に非キリスト的である〔付△圏点〕。愛の道に信者を導くべき教会が自身愛の道に反して行動して自己をも責めず、世も亦之を怪しまないのである。

〇斯く云へば教会は直に私に向つて言ふのである「然らば汝は如何」と。即ち私自身が不完全であるが故に私は教会の不完全を責むるの資格がないと言ふのである。然し其詰責は当らない。私は教会を詰《なじ》るのでも鞫《さば》くのでもない。私は自明理を述ぶるのである。人を導かんと欲する者は其人よりも|より〔付ごま圏点〕高き|より〔付ごま圏点〕正しき者でなくてはならない。私は私が基督信者として為す事を憚る事を敢て為す所の教会に私並に私の家族を委ぬる事は出来ない。尾崎行雄氏の如き政治家が党利第一を主眼として行動する政友会や民政党に加入し能はざると同じ理由である。「我教会」を盛んにする事を最も善き事と思ふ教会に、私はキリストの賤しき僕として加はり得ないのである。私の主義は主義として之に忠実ならざるを得ずと雖も、其事は私と主義信仰を異にする人達を尊敬し、愛と寛容とを以て之に対し、機会あらば之を助くる事の妨害とならない。敵を愛してこそキリストの弟子も教会も彼の属《もの》たるを表明するのである。そして教会が過去千八百年間、今日に至るまで為し来つた事は此の反対である。教会(128)歴史は決して決して柔和なる者の歴史でない、自我主張者の歴史である。世に名の附け損《ぞこな》ひ(misnomer)と云ふ事があるが、キリストの教会ならざる者を基督教会と名附けし程の名の附け損ひはない。教会は無教会主義者を我儘勝手を以つて責むる前に、先づ自己の競争者並に敵対者に対し取り来りし其態度行動を省みて、茲に断然之を改めねばならぬ。教会は地上に於けるキリストの代表者であれば、其大体の方針に於てキリストに傚はねばならぬ。完全不完全の問題でない理想と努力の問題である。キリストの如く為す能はざる場合には悔い且改めねばならぬ。故に私は曰ふ、|信者の教会に対する態度は教会のキリストに対する態度に由て決せらる〔付○圏点〕と。 〔以上、4・10〕

〇対教会問題の解決は至つて簡短である。|教会がキリストの教会ならん乎〔付○圏点〕、我等何人も之に入らんと欲し、又既に入りし者は出んと欲しない。真のキリストの教会を離るゝ者はキリストを離るゝのであつて、基督信者に取り不幸此上なしである。然れども|教会がキリストの教会ならざらん乎〔付△圏点〕、其会員たる者は之をキリストの教会たらしむべく努力奮闘すべきである。然れども教会が改めず、又改めんとも欲せず、自己拡張運動を善き事と認め、信者の信仰を高めず徳を進めざる場合には止むを得ない、之を去るまでゞある。コリント後書六章十四節以下の言は斯かる場合に適用すべき者である、曰く「義と不義と何の侶《とも》なる事かあらん、光と暗と何の交はる事かあらん………汝等彼等の中より出て之を離れ、汚穢《けがれ》に※〔手偏+門〕《さは》る勿れ」と。斯く云ふは何も我が潔白を装ひて、教会に罪を着せるのでない。神は我等より潔めを要求し給ふが故に、我等は止むを得ず汚れより離れんとするのである。

〇そして教会がキリストの教会である乎を見定めんと欲して我等は其使徒連続性を見定むるまでもない、又其奉ずる信条の正統的なるや否やを究むるまでもない。是れ何人も為す能はざる所であつて、神学者ならぬ平信徒の(129)判定する能はざるは言ふまでもない。|キリストの教会は彼の御心を心となす者であるに相違ない〔付○圏点〕。柔和なる、和平を求むる、自己に求むる所なくして、他に奉仕せんと欲する教会であらねばならぬ。他の宗教を斃して己が宗教を以つて之に代はらんと欲し、他の教会の信者が己が教会に入来りたればとて凱歌を揚ぐるやうな教会は、そんな教会は此世の教会であつて、キリストの教会でない事は最も明白である。斯かる教会は名は何んであらうがキリストの教会でないから、自から罪を覚りて悔改めんとせざる限りは、キリストの真の僕婢たる者の永く留まるべき所でない事は明かである。|キリストらしくない人は基督信者でないと同様に、キリストらしくない教会はキリストの教会でない〔付△圏点〕。斯く云ひて私は教会を誹るのでない、何人も認むる明白なる真理を語るのである。

〇私の此言に対して人は言ふであらう、そんな理想の教会は何処に在る乎。理想を求めて得る能はずとて現在の教会を離るゝが如きは軽率の至りであると。然らずである。私は理想の教会を求むるのでない、理想を実現せんと欲して努力する教会を求むるのである。理想の教会と、|平和の時にのみ平和運動に従事し、戦争の時に際して世に雷同して、然り世に率先して戦争を謳歌する教会との間には雲泥の差がある〔付△圏点〕。理想は何事に関はらず此世に於て求むる事は出来ない。理想の教会が無いと等しく理想の人も基督信者もない。然し乍らキリストの弟子が在り得るやうにキリストの教会が在り得る。柔和にして和平を愛し、最善を尽して後に尚ほ益なき僕たるを感ずるクリスチヤンと基督教会とが在り得る。理想は到底之を行ひ得ざるが故に、信者は何を行ふても可いと云ふ申分は立たない。|教会が其教敵を衷心より愛し得るに至るまでは、之をキリストの教会と称する事は出来ない〔付○圏点〕。

〇私は斯く云ひて特に日本現在の教会に就いて云ふのでない。基督教会全体の歴史が非キリスト的歴史であつた。教会の悪事は既に使徒時代を以つて始つた。信者が愛を以つて働く所の信仰以外にキリストの属《もの》たるの証明を求(130)めた時に所謂「教会」が始つたのである。キリストの福音を思想化したる時に、儀式化したる時に、文字化したる時に、制度化したる時に、今日米欧の所謂基督教国に現存する所の所謂基督教会が始つたのである。茲に於てか我等日本に於てキリストの弟子と成りし者は、信仰の事に就ては米欧人に学ぶを廃めて直にキリストに学ばねばならぬ。|紀元一千九百二十八年を以てキリストの教会を初めて地上に実現せん為に祈り且努力せねばならぬ〔ゴシック〕。「教会頼むに足らず」とは今や西洋諸国に於て識者の間に揚りつゝある声である。貴むべきキリストの愛の福音は「教会の故に」信用と実用と実力とを失ひつゝある。|茲に新たに日本に於て教会ならぬ教会、即ちキリストの教会を起す必要がある〔付○圏点〕。即ち世を愛し、相互を愛し、キリストと偕に十字架に釘けらるゝとも敢て厭はざる真の教会を起すの必要がある。それはカトリツク教会、又はプロテスタント教会と称する血腥き歴史を有ちたる教会とは全然素質を異にする教会である。

〇|そして斯かる教会の出現を待つまでもない、若し二人三人同信の友があれば相結んで「キリストの教会」たるべきである。然れども若し友とすべき者他に一人もなければ自分一人でキリストの弟子たるべきである。教会なくして信仰を維持する能はずと云ふは誤謬である。愛の福音は一人で之を信じ得る又実行し得る。キリストの福音は世を征服する道に非ず、之に奉仕する道である。キリストの王国を建設するとは、彼の聖名を以つて世に王たるの道に非ず。彼が弟子の足を洗ひ給ひし心を以つて世に臨むの途である。 〔以上、5・10〕

 

(131)     総選挙終へて後に

                           昭和3年3月10日

                           『聖書之研究』332号

                           署名 内村

 

〇「当選御礼」と云ふビラが投込まれる。何の事やら私には解らない。代議士たるは名誉であり利益であるとのみ思はれて責任であると思はれないらしくある。そして其の如何に重大なる責任である乎を知るならば、御礼どころではなくして迷惑千万であるべき筈である。御礼は選挙人より被選挙人に述ぶべきものであつて、当選代議士より選挙人に陳ぶべき筈のものでない。当選御礼を述ぶるやうな代議士が国家民衆の為に大事を為し遂げやう筈がない。斯くて今日の所謂代議政治なるものは根本的に聞違つてゐる。ソクラテスやプラトーが民衆政治を最悪の政治と称したのは之が為である。

〇自分の子供が基督教を信じたりとて之を彼等に伝へし該教の教師を怨む親達が日本には甚だ多い。信仰自由は憲法の保障する所なりと雖も日本人の多数は未だ之を認めない。彼等が信仰の自由を認めないのは自身未だ自由の何たる乎を知らないからである。そして自由の何たる乎を知らざる民の選択は意味の無い選択である。代議政治が斯かる民に由て行はれ得る乎、大なる疑問である。畢竟するに日本人の大多数は極く卑《ひく》意味の政治家である。自分の利益に成る事は之を可とし、利益に成らざる事は之を不可とする人達である。彼等が基督教に反対するも全く此立場からである。故に厭《いや》に成つて了ふ。

 

(132)     NEED OF RE-REFORMATION.宗教改革仕直しの必要

                           昭和3年4月10日

                           『聖書之研究』333号

                           署名なし

 

     NEED OF RE-REFORMATION

 

 The world needs Re-Reformation of the Christian Religion. The Reformation of the sixteenth century ended as an arrested movement. Protestantism institutionalized was a return back to the discarded Roman Catholicism.We need another Refomation to bring Protestantism to its logical consequences. The new Protestantism must be perfectly free without a trace of ecclesiasticism in it,-a fellowship,not an institution,-free communion of souls,nota system or an organization. Practically,it will be churchless Christianity,calling no man bishop or pastor,save Jesus Christ,the Son of God.And who can say that God doeth not intend Japan to be the country where such Christianity is to appear,the new experiment to be tried in the spiritual history of mankind,to begin christianity anew in the Land of the Rising Sun?

 

     宗教改革仕直しの必要

 

(133)〇世界は宗教改革の仕直しを要求する。第十六世紀の宗教改革は阻止されたる運動として終つた。プロテスタント主義は制度化せられて放棄せられし羅馬カトリツク主義に後戻りした。我等はプロテスタント主義を論理的結論にまで持行く再度の宗教改革を要求する。新プロテスタント主義は完全に自由にして其内に教会主義の痕跡だも留めざる者であらねばならぬ。制度ならずして親交であり、組織又は団体に非ずして、霊魂の自由なる交際であらねばならぬ。実際的に言へば、それは神の子イエスキリストならぬ何人をも監督又は牧師と呼ばざる、教会を要せざる基督教であらねばならぬ。そして神は此日本国に於て斯かる基督教の現はれん事を欲し給はずと誰が言ひ得る乎。人類の霊的向上の歴史に於て試みらるべき此新らしき試み、即ち日出る国に於て基督敦の根本に溯り、之を新たに始めんとする大なる試みは、我等日本人の間に試みらるべきにあらずと誰が言ひ得る乎。神よ我等に聖霊を注ぎ、我等の衷に大望を起し、我等をして此大事に当らしめ給へ。

 

(134)     カトリックに成らず

                           昭和3年4月10日

                           『聖書之研究』333号

                           署名 主筆

 

 

〇今や新教諸教会の混乱堕落に堪へずして旧教に往く者往々にして有りと聞く。そして私の如き、常に前者に対し不平を懐く者は、或は彼等の後に随《つ》いて旧きカトリツク教会に入りはせぬ乎と揣摩する者ありと聞く。然し斯かる憶測は全く不要である。私は如何なる事ありと雖も羅馬天主教に行かない。私は有名なるビスマルクの言を繰返して言ふ「我等は再びカノーサに往かず」と。私はプロテスタント主義が生んだ子である。ルーテル、カルビン、ミルトン、カーライル等に育てられて今日に至つた者である。私の生きたる信仰の先生はアマスト大学前総長ジユリウス H・シイリーであつた。私は日本人として師弟の信義を重んずる。今に至つてカトリツク信者と成りて何の顔ありて天国に是等の諸師に見えんや。私をプロテスタント主義より奪はんとするは幼児を母の懐より奪はんとする丈け難くある。私の日本魂は私をして決して私の母教の反逆者たらしめない。

〇プロテスタント主義の子でありながらプロテスタント諸教会に反対するは其敵たるカトリツク教会に憧憬れるからでない。彼等がプロテスタント主義を離れてカトリツク主義に後戻りしたからである。私が新教諸数会に於て嫌ふものは其カトリツク的精神である。自由の信仰を制度化したる其矛盾せる行為である。私は英語を以つて曰ふ I hate Protestant Churches because they are not Protestant enough(私はプロテスタント主義に徹底せざ(135)るが故にプロテスタント教会を嫌ふのである)と。そして私は日本に於て本当のプロテスタント教会を見んと欲するのである。私は今日の欧米の半プロテスタント教会に堪へないのである。私はルーテルやカルビンがカトリツク教会に反対した其精神を以つて今日のプロテスタント教会に反対する者である。私はプロテスタント教会が未だ全く脱却し得ぬカトリツク主義より全然脱却せんと欲する者である。

〇斯かる私が如何でカトリツク教に入り得んや。今や第二十世紀の中半である。カント、ヘーゲル、レツシング、フイヒテの後を受けて人類が完全の自由に入らんとする時代である。其時に「教会の権威」に頼りて生涯せんとするが如き、私は思惟する事さへ出来ない。生命は永久的進歩に在る。振回りて後を顧みて我等はロトの妻と共に亡ぶ。今はカトリツクに帰るべき時でない、プロテスタント以上に進むべき時である。

 

(136)     感謝の心

                           昭和3年4月10日

                           『聖書之研究』333号

                           署名 内村鑑三

 

  詩篇第百三十六篇

 

〇感謝は信仰の主要分子である。感謝の心なくて真の信仰はない、又真の信仰のある所には必ず感謝が溢れる。信仰これ感謝の心であると云ひて決して言過ぎでない。理解があり、熱心があり、活動がある所にても感謝のない所に、生きたる温かい寛《くつろ》いだる信仰はない。義務に逐はれる信仰であつてはならない、感謝に浮ぶ信仰でなくてはならない。努めざるに自《おの》づから歌となり、善行となりて外に現はるゝ信仰でなくてはならない。

〇聖書に讃美歌の多き事よ。天地の創造なりし時に

  晨星《あけのほし》相共に歌ひ、神の子等皆歓びて呼はりぬ

とある(ヨブ記三十八章七節)。宇宙其物が窮りなき讃美の題目である。見るべき目を以つて見れば、我等は此世界に在りて既に讃美の里に在るのである。故に詩人は讃美を勧めて云うたのである。

   智恵をもつて諸《もろ/\》の天を造り給へる者に感謝せよ。

   地を水の上に布き給へる者に感謝せよ。

(137)   巨大《おほい》なる光を造り給へる者に感謝せよ。

   昼を司らする為に日を造り給へる者に感謝せよ。

   夜を司らする為に月と諸の星を造り給へる者に感謝せよ(詩第百三十六篇五-九節)

と。此は単に人類の幼稚時代の意味の無い繰言でない 深い真理の言葉である。ハーシエルのやうな大天文学者、E・ヒチコツクのやうな大地質学者、アガシのやうな大天然学者は、すべて聖詩人の言葉の意味を強く感じたのである。日其物、月其物、地其物、水其物が深く之を究むれば究むる程讃美の種である。近代の科学の如く、天然を究めて敬崇の念の起らざるは、まだ天然の心に達しないからである。

〇人類の歴史、又国民の歴史、又世界日々の出来事、是れ亦克く見れば同じ感謝の種である。今より二十万年前に人類が初めて地上に現はれし以来、今日に至るまでの其発達の歴史は、深く静かに之を考へて見て、驚きと歎美の歴史ならざるはなしである。人類学の研究は基督信者の信仰を壊つと云ふ者が多いが、私は決してさう思はない。私の知る範囲に於て、人類学も亦以つて讃讃歌の題目となすに足る。其他国民の歴史を総合すれば、是れ亦大なる感謝の種である。そして罪悪に充満ちたるやうに思はれる目前の日々の出来事の内にも神の奇しき聖旨が現はれて、之を見て我等は讃美の声を揚げざるを得ない。詩篇第百三十六篇十節より廿二節までがイスラエルの歴史に現はれたる神の恩恵を讃美した歌であつて平凡の繰返しのやうに見えて決して然らず、尽きざる感謝の言葉である。

   アモリ人の王シホンを殺し給へる者に感謝せよ、

    その憐憫は永へに絶ゆることなければなり。

(138)   バシヤンの王オグを誅し給へる者に感謝せよ、

    その憐憫は永へに絶ゆることなければなり。

と云へるが如き、単に執念深い復讐の言葉と見てはならない。神の恩恵を讃える言葉である。神の敵が亡びたのであつて福音進歩の妨害物が除かれたのである。人類全体の幸福増進の上より見たる感謝の言葉である 敵を悪み其没落を悦ぶ無慈悲の言葉でない。

〇そして我等各自が信仰の立場より己が過去を顧みて何人も感謝を禁じ得ないのである。私自身が殊に然うである。私自身が時に「あゝあつたら善かつたらう、かうあつたら善かつたらう」と思ふ事ありと雖も、信仰に落附いて考へて見る時に、有つた事は皆んな善き事であつて、悪い事と思はるゝ事は、実は一つも除く事の出来ない事であつたことが判明るのである。最も巧なる技術師が私の生涯を設計し、之を建造したのであつて、出来上がつて見れば、其意匠の巧妙なるに驚かざるを得ないのである。私は私の生涯を顧みて詩人と共に讃えざるを得ない。

   我は汝に感謝す、我は畏るべく奇しく造られたり

   汝の事跡《みわざ》は悉く奇し、我霊魂はいと審《つばら》に之を識れり

と(詩百三十九篇十四節)。私のみならず、神に導かれた者は何人も此言葉を発せざるを得ない。私の生涯其物が最も確実なる讃美の題目である。

〇そして感謝に溢れて真の祈祷が出るのである。神は感謝の伴はない祈祷を聴き給はない。

  何事も思ひ煩ふ勿れ、唯|毎事《ことごと》に祈り、願ひ求め、且感謝して己が求むる所を神に告げよ、去らば神より(139)出て人のすべて思ふ所に過ぐる平安は汝等の心と意《おもひ》をキリストイエスに由りて守らん

とパウロは言うた(ピリピ書四章六、七節)。感謝は効果ある祈祷の要素である。|恩恵は不平の人に降らない〔付△圏点〕。感謝は恩恵の容器である。恩恵は感謝の容量に循つて降る。感謝なくして|いくら〔付ごま圏点〕熱心に祈つても恩恵は降らない。所謂「恩寵に進む」の秘訣は茲に在る(ペテロ後書三章十八節参考)。感謝と其捧物を増して、恩寵を増し加へらるゝにある。信者は各自「貧しきに似たれども富める者」である。そして富者たるの態度を以て、人に対し、神に対して更らに富める者とせらるゝのである。ヱホバに感謝せよである。一月一日

 

(140)     顕栄と世評

                           昭和3年4月10日

                           『聖書之研究』333号

                           署名 主筆

 

〇神の栄光を顕はすと云ふは世間の好評を博すると云ふ事ではない。人に誹られ、教会に嫌はれた人で神の栄光を顕はした人が沢山に有る。クロムウエルは三百年の間彼の国人には乱臣賊子と呼ばれ、英国々教会には偽善者の模範として嫌はれしも、神が歴史家カーライルを起して彼れクロムウエルを弁明せしめし以来、彼は今や英民族が産せし最大偉人、キリストの僕の最好模範として全世界に尊ばるゝに至つた。今世に於て社会や教会に誉めらるゝ事は小の小なる事である。否な、彼等に誹らるゝ事が名誉の至りであつて、神は却つて彼等の誹謗に由て其栄光を顕はし給ふ。神は宇宙万物の造主であつて、キリストの教は神の教である。此神を信じ此教に従ふ者は何であつても小人であつてはならぬ。然り小人であり得ない。「小なる善人」は悪人と見て差支ない。小人の牧師、小人の基督信者が神の子供でありやう筈がない。我等何人もミルトン的、クロムウエル的たるべきである。三百年間誤解の墓に葬られながら静に神の栄光の我等に由て顕はれんことを待つ者であらねばならぬ。「民衆の声是れ神の声なり」と言ふは浅薄なる米国人の言ふ所である。我等は彼等の言に耳を傾くる必要は少しもない。神は神である、世界と教会とを鞫き給ふ者である。我等は人の批評は少しも意に留めず、神御自身が我等を以て其栄光を顕はし給ふ時を信じて待つぺきである。

 

(141)     〔永井直治訳『新契約聖書』〕序言

                              昭和3年4月25日

                              『新契約聖書』

                              署名 内村鑑三

 

 聖書は神の書である、故に世界の書であり人類の書である、それ故に亦日本人の書である。真理は普遍的なると同時に個別的である。世界の書なるが故に我書なりと称し得る書のみが神の書であり又真理の書である。

 聖書を日本人の書と為すは至難の業である。先づ之を原本に於て原語に由りて|読みこな〔付ごま圏点〕さざるべからず。而して其精神信仰を我有と為さざるべかららず。我れ自身が聖書人と成らざるべからず。而して自身が聖書化せられ、聖書が自身に在りて日本化せられて後に、之を解し易き日本語を以つて言表はさゞるべからず。まことに「誰か之に堪へんや」である。善き言語学者で、善き基督信者で、善き日本人であるに非れば為す能はざる事業である。

 永井直治君が果して以上の三資格を備えられしや否やは今日直に之を断定する事は出来ない。然し乍ら君が篤学の士として二十余年間を新約聖書希臘語の研鑽に費され、又日本基督教会の牧師として其霊魂にキリストの福音を実験せられ、而して又純日本人として君の母語を以つて聖書を訳述せられし所に君の長所を認めざるを得ない。君の訳は在来の所謂「委員訳」と全然異なる。数人の作に非ずして一人の作である。西洋人が原語を解して日本人が之を日本語に綴りしものに非ず。又数人の信仰見解を綜合して其平均を取りし者にあらず。大著述は如此くにして成らず。摂取も熔解も鋳造も一個の鎔炉、即ち一人の霊魂の内に行はれざるべからず。|ル〔ゴシック〕ーテル(142)の独逸訳聖書、|チ〔ゴシック〕ンデールの英訳聖書に不朽の価値の存するは之が為である。即ち訳書とは称するものゝ実は原著である故である。聖書の独逸化又は英国化であつた故である。如此くにしてユダヤ人の著なりし聖書が独逸人又は英国人の書と成つたのである。

 依て知る永井君は茲に大事を試みられし事を。君は世界第一の書なる聖書の日本化を試みられたのである。|ル〔ゴシック〕ーテルが独逸国の為に、|チ〔ゴシック〕ンデール、|コ〔ゴシック〕バデールが英国の為に為せし事を日本国の為に試みられたのである。此は信仰的事業であると同時に愛国的事業である。其永遠性より考へて人が従事し得る最大の事業である。そして永井君が果して其事業に成功せられしや否やは後に到つて見なければ判明らない。君の日本訳新約聖書を日本国民の上に試みて、その果して日本人の聖書として存《のこ》るや否やが決定せらるるのである。物の真価値は時間に由て決定せらる。聖書其物の価値が時間に由て決定せられた。其訳も亦同じである。永井君が日本訳を以つて、|ル〔ゴシック〕ーテルが独逸訳を以つて成功せしが如くに成功せらるるや否やは少くとも将さに来らんとする五十年間の日本人の精神的歴史に由て決定せらるるのである。

 然し乍ら成功すると否とは何人に取ても問題でない。人は何人と雖も最善を試みて其結果は之を神に委ねまつれば可いのである。最善を試みた事、其事が既に恩恵である。殊に大事を試みた事、其事が大恩恵である。大事を試みて失敗するは小事を試みて成功する以上の恩恵であり又幸福である。此事を思ふて永井君は茲に君の終生の事業を終へて神に感謝すべきである。君は日本人として聖書の日本化の最初の試みを為したのである。吾人同志は君の為に大に祝すると同時に大に君を羨まざるを得ない。人はその携はる事業の如し。小事業に従事して小なり、大事業に従事して大なり。永井君は最も難き最も大なる事業に従事して、縦し其事業は失敗に終るも君自(143)身は大なる恩恵に与り、大なる利益を収められたのである。

 そして君の事業は決して失敗に終らないのである。縦し君の訳が日本人の聖書として存らざるとも、君は日本人の聖書日本化の先鞭を着けられたのである。自今君に傚ふて此事業に従事する者が日本人の内に続々として現はるゝであらう。そして彼等は孰れも君に学び、更らに善き日本人の聖書を作らんとして試むるであらう。そして神の聖旨に適ふ時に至つて完全なる日本人の聖書が現はるるであらう。大事業は一人の業でない。諺に「個人は消えて世界は愈々大なり」とあるが如くに、聖書の民族化と称するが如き大事業に於て、個人は唯之に一石を寄与すれば足るのである。然れども其一石の基礎の一石ならんことを欲す。そして永井君の此事業はたしかに此貴き一石なるを信じて疑はない。茲に君の為に祝し、合せて此拙き序言を寄贈するの名誉を与へられしを感謝する。

  昭和三年(一九二八年)三月九日    東京市外柏木に於て 内村鑑三

 

(144)     NEW PROTESTANTISM.新プロテスタント教

                           昭和3年5月10日

                           『聖書之研究』334号

                           署名なし

     NEW PROTESTANTISM.

 

 Protestantism is above Catholicism as faith is above works. But Protestantism is mostly faith in a formula,a noble and grand fomula though it undoubtedly is. The New Protestantism must be faith in the Living Saviour,and so be raised above the Old Protestantism. It is not the Bible that saves us,but the living,personal Saviour.“If therefore the Son shall make you free,ye shall be free indeed.”-John 8:36.Neither the Church nor the Bible can make us free,but the Son can. New Protestantism is nothing more or nothing less than faith in Jesus Christ,the resurrected,living Son of God. And the world is rlpe. I believe, for such a faith,and the movement for its acceptance will begin in the land where Christianity is free and untrammelled as in its pristine days,nineteen centuries ago.

 

     新プロテスタント教

 

(145)〇信仰が行為《おこなひ》に優るが如くにプロテスタント教はカトリツク教に優る。然れどもプロテスタント教は今や主として信仰箇条を信ずる事に成つて了つた。信仰箇条は如何に高貴荘大なりと雖も人を救はない。新プロテスタント教は生ける救主を信じて旧プロテスタント教の上に出ねばならぬ。「是故に子もし汝等に自由を賜《あた》へなば汝等誠に自由なるべし」とあるが如し。教会も聖書も我等に自由を与へない、聖子《みこ》のみ惟り我等を自由に為し給ふ。新プロテスタント教は復活せる今生き給ふ神の子イエスキリストを信ずる事以外の事でない。そして私は信ずる、世は既に斯る信仰を受くるの時期に達してゐる事を。そして斯かる信仰を推奨するの運動は、千九百年の昔、基督教が其元気旺盛の時代に、自由にして何の束縛をも受けざりし其状態に於てある今日の我国の如き国に於て始まるであらうと、私は信ずる(ヨハネ伝八章三十六節)。


(146)     効果ある伝道

                           昭和3年5月10日

                           『聖書之研究』334号

                           署名なし

 

〇伝道の方法は沢山に講ぜらる、然れども伝道の何たる乎を知る者は尠いやうに見える。伝道は読んで字の如く道を伝ふる事である、そして基督教に在りては道は福音の道である、故に福音を知らずして伝道は始まらない。方法は如何に宜しきを得るとも福音の無き伝道に効果の挙りやう筈がない。伝道成功の秘訣は先づ福音を知るに在る。福音が判明《わか》つて伝道は既に九分通り成功したのである。

〇福音は単に神は愛なりと云ふ事でない。又神は人類の父にして、人は相互の兄弟なりと云ふ事でない。先づ神の何たる乎、愛の何たる乎を知るの必要がある。基督教の神はイエスキリストの父なる真の神である。キリストを知るにあらざれば彼が父と称び給ひし神は判明らない。又基督教の愛は漠然たる全般的の愛でない、特別の愛である。ヨハネ第一書四章十節に

  我等神を愛せしに非ず、神、我等を愛し我等の罪の為に其子を遣はして宥《なだめ》の供物《そなへもの》と為し給へり、是れ即ち愛なり(愛は其事の中に在り)。

とあるが如し。此事を知らずして神の愛は解らない。愛にも種々《いろ/\》ある。人が人を愛するの愛がある、親が子を愛するの愛がある、そして之にも優さりて神が人を愛し給ふ愛がある、殊に罪人を愛し給ふ愛がある。此最高の愛(147)を知るまでは愛は判明らない。そして自身此愛を体験して之を世に伝ふる、それが基督教の伝道である。此体験なくして其方法は如何に巧妙なるも基督教の伝道は無い。然り、伝道は方法でない、真理の体験である。福音の真理を身に体して、方法は講ずるまでもなく、真理は「其中に在りて泉となり湧出て永生に至るべし」とある(ヨハネ伝四章十節)。

〇方法又方法、会議又会議、ヱルサレム会議、全国大会と、方法は議せられて伝道は行はれない。如かず福音の真理の燈火《ともしび》と成りて努めずして四囲の暗黒を照らさんには。中江藤樹は三百年の昔、西江州の寒村に在りて広く天下を教化したではない乎。真理の在る所には伝道は自から行はる。|宣教を騒ぎ立つるは真理を握らざる何よりも確かなる証拠である〔付△圏点〕。

〇故に真理へ、真理へ、静かなる深き聖書の研究へ、心霊の奥殿へ、人生の実験室へ。パウロ曰く「道は汝に近く、汝の口にあり、汝の心にあり、是れ即ち我等が宣る所の信仰の道なり」と(ロマ書十章八節)。伝道は商売に非ず、広告宣伝の必要なし。真理に真理の威権あらしめよ。坐して世を教化するの能力あらしめよ。

 

(148)     復活祭の意義

                           昭和3年5月10日

                           『聖書之研究』334号

                           署名 内村鑑三

 

  主実に甦り給へり(ルカ伝廿四章三四節)。

 

〇今日は今年の復活祭であつて、全世界の基督信者は挙つて此日を記念してゐる。之に多くの迷信が伴ひ、多くの厭ふべき習慣が加はるに係はらず、基督教国の大礼祭として、世界至る所に此礼祭が行はるゝのである。キリストは甦り給へりと信者は口々に唱ふるのである。我等は此声を聞流しにしてはならない。

〇キリストの復活に就て聖書が録《しる》す所は甚だ多い。復活を聖書より抜取つて其主要部分を抜取るのである。キリストの復活を否定して基督教が維持されやうと私には思へない。度々聞かされた事であるが、若しアリマテアのヨセフが供せし墓が空虚に成らなかつたならば基督教は起らなかつたのである。

〇キリストの復活は歴史的事実として取扱はるゝが常である。そして是れ能く証明されたる事実であると私は信ずる。其一つ一つを取つて見れば或は疑はしき点なきに非ず、然れども聖書が提供する凡ての事実を綜合して累積せる証明は之を拒否する事は出来ない。

  キリスト我等の罪のために死し、葬られて第三日に甦り、ケパに現はれ、後十二の弟子に現はれ、後五百の(149)兄弟に現はれ、此後ヤコブに現はれ、又凡ての使徒に現はれ、最後に我に現はれ給へり

とはパウロの証言である(コリント前書十五章三-八節)。若し此証言をも信ずる能はずと云ふならば、我等はパウロを偽証者と見做すのである。

〇然し乍ら我等近代人は歴史的証拠は如何に強くあるとも、自身之を検定する事の出来ない事実は信じないのである。キリストの復活は縦し事実であるとしても遠き昔しにあつた事であつて、今之を信じ、其上に我が信仰を築く事は出来ないと云ふが近代人の申分であつて、之に相当の理由ありと云はざるを得ない。過去の出来事に現在の信仰と未来の希望を築けと命ふは、近代教育を受けたる者に対しては無理な要求であつて彼等が之を容易に受けざるに対して我等は同情なき能はずである。

〇然し乍ら|キリストの復活は単に過去の事実でない〔付○圏点〕。彼が単に「死して葬られし」ならば、彼は凡ての人と同じく過去の人と成つて了つたのであつて、其後の彼は彼の伝へし教訓と感化力とを以つて後世を導くに過ぎない。是れ彼の如き大人格者に取りては大なる事業たるに相違ないが、然し生者の実訓と死者の感化との間に大なる相違あるは云ふまでもない。然し乍らキリストの場合に於ては夫れが普通の人と全く異うのである。彼は死して葬られ第三日に甦り給うたのである。彼は過去の人と成り了らなかつた。彼は其存在を続け給うたのみならず、更らに新らしき生活状態に入りて、|より〔付ごま圏点〕強く人を導き、|より〔付ごま圏点〕能く世を治むるに至つたのである。復活後の彼は復活前の彼よりも遥かに有力なる実在者である。復活に由りてナザレのイエスは人類の王と成つた。其時彼が弟子等に語りて「天の内、地の上の凡ての権を我に賜はれり」と言ひ給へりとある其通りである(馬太伝廿八章十八節)。其時より彼は|永久に現在〔付○圏点〕の人と成つた。而かも世界を司る人と成つた。彼は歴史の人たるに超越して歴史を作(150)る人と成つた。復活に由りて人たるの凡ての制限は取除かれて、彼は神と等しく普遍的霊的実在者と成つた。

〇そして斯く言ひて我等は空想を述べてゐるのではない。事実を語つてゐるのである。|キリストは今、生きて世を治め給ひつゝある〔付○圏点〕。キリスト復活後の人類の歴史は彼の活動録である。聖霊を以つてする彼の世界征服の歴史である。彼は先づ大なる反対を冒して羅馬大帝国を征服した。続いて全欧羅巴は彼に服従し、彼に導かれて全人類は今日に至つた。国家は仆れ、教会は消えてもキリストは存《のこ》る。彼の栄光は益々揚りつゝある。国はキリストを迎へて起り、彼を斥けて亡ぶ。彼は世を照らす真の光である。彼を拒んで暫時栄えし国と人と無きにしも非ずと雖も、永久に栄えし例はない。国家の興亡、実は此一事に懸るのである。「イエスキリストを受くる乎受けざる乎」と。人類の運命はキリストの掌中《たなごゝろ》に存《のこ》るのである。

〇キリストは甦り給へり。それ故に勝利は確実である 彼の世界征服は今我等の目前に行はれつゝある。彼の敵は今猶ほ絶えない。不信の勢力は到る所に強大である。然れども何んぞ恐れん。「彼れ凡ての敵を其足下に置く時までは王たらざるを得ず」とある。不信の勢力が今日以上に強かつた時が今日までに幾回もあつた、然れども彼は美事に之に打勝ち給うた。ヨハネ黙示録は復活せるキリストが彼の敵に勝ち給ふ其途程を示す書である。彼は福音の使者を助くるに天然人事の諸《すべて》の勢力を用ひ給ふ。地震も戦争も恐慌も悉く福音助長の為に使用せらる。斯くてキリストは復活せりと云ふは単に過去の事実でない、目前の事実である。信者は日々の生涯に於て復活せる活けるキリストを実験する。そして又社会、国家、世界の出来事に於て彼の驚くべき御業《みわざ》を拝見する。|復活祭はキリスト復活の記念祭でない、彼の実在の証明日である〔付○圏点〕。四月八日

 

(151)     故横井時雄君の為に弁ず

     是は去る四月十四日、東京青山会館に於て催されたる同君の追悼演説会に於て為せる演説の草稿である。

                         昭和3年5月10日・6月10日

                         『聖書之研究』334・335号

                         署名 内村鑑三

 

〇横井君の永眠直後でありました、私は大阪の或る新聞で君の生涯に就き次ぎの如き意味の批評を加ふるを読みました。

  横井氏は学者として失敗し、宗教家として失敗し、又政治家として失敗した。氏は何事にも貫徹せずして其の一生を終つた。

と。そして此は横井君に就て多くの人が下す判断であります。そして外部に現はれたる君の生涯を顧みて一面の真理を語る者であると見て差支ありません。然し乍ら此失敗には理由があります。そして私供君の友人に取りては、君の此失敗こそまことに君の為人を語るのであります。

〇横井君は成らうと欲《おも》へば学者、宗教家、政治家孰れにも成り得たのであります。君は其才能に於て明治時代の日本人の何人にも劣りませんでした。然し乍ら君は学者、宗教家、政治家孰れにも成り得なかつたのであります。君の性質が然らしめたのであります。君は第一に生れつき正直でありました。第二に強き愛国心が遺伝性として(152)君に在りました。第三に君は早くキリストを知り、熱心なる基督信者に成りました。|正直と愛国と信仰、此の三つが君の特性でありました。そして此の三つが揃ふて同時に君の心に宿りしが故に、君は三者の孰れにも成り得なかつたのであります〔付○圏点〕。

〇|横井君が学者に成り得なかつたのは君の基督教の信仰に因ります〔付ごま圏点〕。若し君がキヤピテン・ジエンス氏より基督教を受けなかつたならば、君は直に熊本を去り上京して開成学校に入り、明治の十四年か十五年に法学士又は文学士と成り、海外に留学し、博士となりて大学教授の椅子に君の身を落附けたでありませう。然し乍ら君は当時新たにキリストの御顔に現はれたる神の栄光を認め、其光りを同胞に頒たん為めには何物をも棄つるを辞せずとの熱心に燃えました。そして其熱心に駆られて東京に止らずして京都に行きました。開成学校を終らずして同志社神学校に入りました。そして卒業して一個の若き牧師と成りました。学界に取り実に惜むべき事でありました。|横井君は基督教の為めに学者たるの野心を放棄したのであります〔付○圏点〕。勿論横井君に就いて言ひ得る事を君の同級生の多数に就いて言ひ得ます。故山崎君に就て、海老名君に就て、小崎君に就て、其他の諸君に就て言ひ得ます。是等の諸君はキリストの為に、又日本国の為に、学者たるの野心を放棄したのであります。まことに貴き放棄であります。斯んな放棄を為す者は日本青年中に滅多に在りません。今日の青年の内に、大学に入り得るの資格を備えたる者にして、大学に入らずして伝道師と成らんと欲する者は何処に居ります乎。|斯くして横井君の学者に成り〔付△圏点〕損|ひは君に取り決して耻でありません。否な大なる名誉であります。君は福音と国の為に学者に成りそこなつたのであります〔付△圏点〕。

○其横井君が何うして宗教家に成り得なかつた乎、是は一見して解し難いやうに見えます。然し乍ら横井君を知(153)る者は其理由を知るに困みません。|君の信仰が君をして学者に成らしめなかつたやうに、君の愛国心が君をして宗教に終始一貫たらしめなかつたのであります〔付○圏点〕。君は伝道に多大の功績を挙げました。君の今治伝道は明治年間の我国地方伝道の内で鏘々たる者でありました。そして同一の伝道を中央に於いて試みんと欲して、君は高壇に、文壇に多大の功績を挙げました。若し横井君が普通の伝道師であつたならば、君は之を継続して終つたに相違ありません。然るに君には他にアムビシヨンがあつたのであります。ホーレーアムビシヨンがあつたのであります。|君は日本国を救はんと欲したのであります〔付○圏点〕。而かも|早く、君の一生の内〔付ごま圏点〕に救はんと欲したのであります。そして伝道に従事すること二十年、功績の見るべき者ありしと雖も、而かも君の理想を離るゝこと遥に遠しでありまして、君は|ジレツタク〔付ごま圏点〕なつたのであります。私が君の口より聞いた最も悲しき言葉は是でありました。君は一日私供に告げて言はれました。

  |君!伝道ではとても駄目だよ〔付○圏点〕、僕は………

 僕ほ伝道を止めて政治を試みるよとの事でありました。噫、横井君、あの時を憶ふて僕は今尚ほ涙がこぼるゝ。あの時は君のライフのクライシスであつた。噫あの時僕等君の友人は何故君を引き止め得なかつたであらう乎。然し僕等にもドロウバツク(ひけめ)があつた。僕等も伝道の効果を疑ひ出してゐた。信者は内に相争ひ、共同一致の見込なく、基督教界の此憐むべき状態を以つてして伝道を以つて日本国を救ひ得やうとは僕等自身も信じ得なくなつた。君と相前後して金森君も当分伝道を止め、松村君も方法を改め、押川君も他に方向を転じました。此時有為の士は悉く伝道界を去りて、残る者は皆なヤクザ者計りであるやうな観が致しました。|私は思ひます、若し私に横井君にありし才能と家柄と引きがあつたならば、私も君と共に政治界に入つたでありませうと〔付ごま圏点〕。然し(154)乍ら今から思へば君に取つては不幸、私に取りては幸福にして、私に君の如き門閥なく、又伊藤公とか西園寺公とか云ふやうな此世の権力者の引きも知遇もありませんでした。故に横井君は直に代議士と成り、勅任参事官と成ることが出来ましたが、私には駄目とは思ひながらも旧き古き福音を宣伝ふるより他に途がありませんでした。

〇然し乍ら此時私共は横井君と離れましたが唯一の事に於ては深い一致がありました。それは「日本国の為に」と云ふ事でありました。横井君も私供も、明治の初年に於て基督教を信じたのは自分の霊魂を救はれんが為よりも、寧ろ日本国を精神的に救はんが為でありました。|イエスと日本国、二つのJ〔付△圏点〕、其内何れが貴きやと訊かれたならば、ドツチがドツチとも答へ得なかつたのであります。斯かる次第でありますれば、|基督教の宣伝終に日本国を救ふ能はず〔付ごま圏点〕と云ふ考へに達しますれば、之を廃して他に方法を試みたのは少しも不思議でありません。国の為に伝道に努力した横井君が終に国の為に伝道を止めて政治に入つたのは君の立場としては少しも矛盾でありません。君は充分に良心の承諾を得て此途を取つたのであります。故に私供君の友人は君を引止むる事は出来ませんでした。|信仰が君を同志社に逐ひやつたやうに愛国心が君を政治界に逐ひやつたのであります。そして後の結果に由て私供は愛国心が君を禍ひした事を思ふて悲んだのであります。

〇横井君は愛国心に逐ひやられて政治界に入りました。そして其処にも亦君の成功を妨ぐる者が君の心の内にありました。それは君の|正直〔付○圏点〕でありました。殊に|基督教の信仰に由りて鋭くせられたる正直〔付○圏点〕でありました。|日本の政治界は泥海であります〔付△圏点〕。其内に君の如き清士が入つたのであります。清水に魚住まずと云ひますが、泥水に鮎やヤマベのやうな清水を愛する魚は住みません。|横井君が日本の政治界に入りしは多摩川の鮎が過つて東京市内の〔付ごま圏点〕溝泥《どぶどろ》に落ちたと同じであります〔付ごま圏点〕。鮎は死なざるを得ません、正直なる横井君は瀕死の状態に陥りました。悲し(155)みの極みであります。然し横井君は泥海に在りても清士の如くに振舞ひました。君は何事も包み隠しませんでした。他人の罪は之を自分に担ひました。「横井時雄君の入獄」とは明治歴史の悲劇《ツラゼデイー》であります、然し君ならでは演ずる事の出来ない悲劇であつたと思ひます。|私は天上の裁判に於て地上の裁判が君に言渡せし罪の大部分は取消さるゝだらうと思ひます。政治に由て日本国を救はんと欲して政治は君を精神的に殺しました。悪むべきは日本今日の政治ではありません乎〔付○圏点〕。

〇如斯くにして横井君の生涯の失敗は之を説明する事が出来ると思ひます。横井君は信仰|+《プラス》愛国|+《プラス》正直のコムビネーシヨン(加合)でありました。そして其各々に妨げられて君は孰れにも徹底し得ませんでした。そして君の失敗は君の免かる能はざる失敗であつたと思ひます。人の過失《あやまち》を見て其仁を知ると云ひますが、私共は横井君の過失を見て横井君を知るのであります。横井君が同時に信仰家で愛国者で正直の人でありしが故に此過失に陥ゐつたのであると思ひます。

〇政治界を退いて君の公的生涯は終りました。見やうに由ては是れで君の生涯其物が終つたと云ひ得ませう。|然し乍ら神は知り給ひます君自身に取りては其残りの生涯が最も大切なる生涯であつた事を〔付○圏点〕。君の長所であつて亦短所であつた事は、君が余りに国家社会を思ふて自身を思はなかつた事であります。君の信仰までが国家的でありました。私は其点に就いて屡々君と議論を闘はしました。私は霊魂の救ひの大切を唱へましたに、横井君は国家人類の救びの大切を説かれました。舞子の浜に開かれし青年会の夏 学校に於て、横井君が|現世的基督教〔付ごま圏点〕を主張せられし後を受けて、私は同じ高壇に立ちて|来世的基督教〔付ごま圏点〕を主張しました。至つて仲は善くありましたが、宗教論を闘はすたび毎に議論は終に物別れになりました。要するに君は外に広がらんと欲し、私は内に深からん(156)と欲したのであります。そして世が見て以つて君の失敗と見做すものは君の此傾向に由つたのであると思ひます。君の快闊なる、オプチミスチツク(楽天的)なる 到底陰鬱なる私のピユリタン的信仰に堪へなかつたのであります。然し一得一失であります。|君も亦内省的信仰を要しました〔付○圏点〕。日本国をも救ふべくありましたが、君自身の霊魂をも救ふべくありました。そして君の終りの二十有余年の生涯が君に取り此為の生涯であつたと思ひます。君は此間に神の栄光を君自身の衷に拝しました。現世は頼むに足らずして来世に真の安息を得られました。キリストは君の霊魂の救主として新たに君に顕はれ給ひました。君は其生涯の終りに於て、君が青年時代に看出《みいだ》せし神の子イエスキリストを君の心に迎へて、今や此世の知識も、政治も、宗教も、君の清き心を誘ふなく、英語を以つて

   Nearer my God to Thee

     Nearer to Thee

と歌ひつゝ静かに眠つて呉れたと信じます。 〔以上、5・10〕

 

     伝道の忍耐

 

  此稿は前号所載の故横井時雄君弁護の演説の後篇として草したものであります。時間の不足の故に壇上に之を演べ得ませんでしたが故に茲に之を掲げます。

〇伝道を以つてしては国は果して救ひ得ないでせう乎。政治を以つてして救ひ得ない事は今は明白に成りました、宗教を以つてしても駄目でせう乎。勿論宗教にもヨリケリであります。国を救ふの能力のない宗教があります。(157)又基督教の如き強い宗教でも、其方法を誤まれば国を救ふ事は出来ません。|然し乍ら宗教を以つて国を救はんと欲すれば、宗教相応の途を取らなければなりません〔付ごま圏点〕。政治や経済を以てする方法を以つてすれば失敗するに定つてゐます。宗教は霊魂に関する事でありまして、それが効果を奏するに至るには長き年月が掛ります。西洋に於ても基督教が社会的又は国家的効果を挙ぐるには千年以上の間断なき伝道を要しました。日本に於て仏教が社会的勢力として現はれしは、其渡来後百年であつたと記憶します。宗教は劇薬のやうに利くものではありません。水か空気のやうにその効果の著るしきに係はらず、効果の現はるゝまでに長年月の連続的使用を要します。此事に気附かずして一時代に一国を教化し了らんとするが如きは、宗教の何たる乎を弁へざる見方であります。勿論新宗教輸入の当時に方りて其効果に関して過大の希望を抱くは止むを得ませんが、然し冷静に世界の宗教歴史を調べて見て、私供は宗教に対して日光に対して懐くやうな期待を持たねばならぬ事が判明ります。茲に於てか、横井君が基督教の伝道を試むる事僅々二十年にして、……私は「僅々」と云ひて憚りません……|伝道では駄目だ〔付△圏点〕と見限られしは、君の貴公子然たる短気を現はして愛すべきではありますが、短気に逸つた譏りを免かるゝ事は出来ません。君は特に歴史を愛されましたが、此点に就ては君の研究が足らなかつたのではない乎と思ひます。

〇猶ほ一つ伝道の効果に就いて注意すべき事があります。|それは伝道は単に人の業でない事であります〔付○圏点〕。伝道は人と神との共同事業であります。「神と偕に働く所の我等」とパウロが言ひしは此事であります(哥後六の一)。|伝道師がすべてを為すのではありません、彼が一部を為して神が残りの大部分を為し給ふのであります〔付ごま圏点〕。

  我は植え、アポロは灌《みづそゝ》ぐ、長《そだ》つる者は惟神なり(哥前三の六)

とパウロが言ひし通りであります。伝道師は種を播いて、水を灌いで、あとは神に委《まか》しておけば宜いのでありま(158)す。そうすれば神は適当の時に適当の方法を以つて之を生育《そだて》、果を結ばせ給ひます。彼は内より聖霊を以て其生長を促し、外より種々の出来事を以て其発達を助け給ひます。戦争も地震も財界の恐慌も其意味に於て益を為し、福音の進歩生長を助けます。斯くして|思ふよりも遥かに速かに〔付○圏点〕神の聖名が揚り、社会民衆の教化が行はれます。種を播いても春が来らなければ花が咲き葉が萌え出て生長が始まらないと同じであります。そして人は種を播く以上に春を呼び来ることが出来ないやうに、福音を説く以上に其生長を計ることが出来ません。此事を忘れて人が神に代りて急激の生長を計らんと致します故に、生長を見ずして失望するのであります。伝道に就いて斯かる間違つたる考を私供に伝へし者は米国宣教師であります。彼等は何事も人に出来得ると思ひます。所謂運動に由て急速に国家を基督教化し得ると思ひます。それ故に|彼等米国人は何事にも「急げ、急げ」であります〔付△圏点〕。金を注ぎ込んで馬力をかければ、一時代の内に日本を米国と同じ様な国に為すことが出来ると思ひます。謬りも亦甚だしであります。そして横井君の多血性に加へて君が米国人の伝道法を学ばれしが故に、君の伝道の効果が思ひしやうに速かに挙らざりしが故に、失望して伝道を止めて政治に行かれたのであります。実に惜みても尚ほ余りありであります。

〇斯く云ひて私に先見の明があつて横井君に無つたと言ふのではありません。前にも述べました通り伝道に失望した事に於ては私も横井君も其他の諸君も同じでありました。故に私供は横井君が政治界に入つた事に就て君を責むる事が出来ないのであります。私の如きは君と離れて殆んど三十年後の今日初めて此事に気附いたのであります。横井君も亦長き間の病床に在りて能く此事に気附かれたらうと思ひます。故に問題は誰れ彼れの問題でありません。私供の後に来る若き伝道師の問題であります。彼等は私供に学びて私供が為した過失《あやまち》を繰返してはな(159)りません。|彼等は伝道は忍耐を要する事業、そして又神と偕に働く事業である事を知りて急いではなりません〔付○圏点〕。又米国流の運動を起して其の成功を促してはなりません。日本に於ける伝道法に就ては私供日本のクリスチヤンはムーデーやサム・ジヨーンズに学ばずして、伊藤仁斎や中江藤樹に学ぶべきであります。神は我等と偕に働き給ひます。真理の種を忠実に忍耐を以つて播いてさへ置けば、神は適当の時に適当の方法を以つて速かに其生長を遂げ果を結ばせ給ひます。

〇明治の中頃、日本の基督信者を悩ませし問題は「我国の国体と基督教」と云ふ問題でありました。そして基督教は我が国体に合《かな》はずとの理由の下に私供は強い攻撃に遭うたのであります。そして私自身が或事よりして特に攻撃の的《まと》と成り、それが為に尠からず同信の友を苦しめたのであります。私が特に横井君の御世話に成りしは此時でありました。君は大に私の為に社会に向つて弁護して下さいました。然し乍ら社会は私供の弁明に耳を藉して呉れませんでした。私の如きは「不敬漢」の一言の下に社会の水平線下に葬られました。二十年間「前科者」として教育界思想界に取扱はれました。その当時に基督教が日本の社会の此オヂアム(汚名)より如何にして脱出し得ん乎とは到底解決の見込なき問題でありました。私供は日本をもキリストをも棄てる事は出来ません、然し乍ら私供に係はる日本人全体の疑を晴らす途がなかつたのであります。然し乍ら時は急激に変化しました。忠君愛国の声は静まりました。新聞と雑誌とは其文字をさへ使はざるに至りました。日本人全体が愛国を忘れて恋愛至上主義に耳を傾くるに至りました。茲に於てか忘れられし私供が再び愛国を唱ふるに至りました。そして私供クリスチヤンに最も鋭き攻撃の矢を放ちし某氏の如きは、彼れ自身が日本開闢以来の最大不敬漢なりとの故を以つて永平面下に葬らるゝに至りました。今や日本に於て不忠不敬の故を以つて基督教信者を攻むる者はありま(160)せん。時勢が此問題を解決して呉れました。私供クリスチヤンは|神御自身が此難問題を私供の為に解決して下つた〔付○圏点〕と申します。

〇如此くにして横井君は伝道の効果に就て失望するの必要はなかつたのであります。君はその儘伝道を継続して政治に入らずして居られたなれば宜かつたのであります。然し神は万事を知り給ひます。何が善つた乎悪かつた乎は最後の審判の時に至らざれば判明りません。少くとも君自身の為に計りて政治を試むるは善かつたと思ひます。政治に失敗して君の眼が外界に向つて閉ぢられて、君は内を探り上を仰ぐに至りました。|失礼の申分でありますが横井君が救はるゝ為には君が政治界に失脚するの必要がありました〔付ごま圏点〕。君に此失脚ありしが故に私供君のクリスチヤンフレンヅは天国に於て再び君と相会ふの確かなる希望を有します。そして又横井君の伝道は決して失敗でありませんでした。君の伝道に由て救はれて今尚ほ信仰的生涯を送つて居る者を所々に見ます。今回の此の追悼演説会を開く運びに至りましたのも全く横井君の伝道に由つて救はれし卜部幾太郎君の御尽力に由るのでありまして、横井君の感化の如何に深かりし乎、其一端を覗ふに足ります。|死に臨んで人を慰むるに足る唯一の事業は伝道であります〔付○圏点〕。軍功も政治も文献も人を死に臨んで慰むるに足りません。|唯一つ伝道〔付◎圏点〕、一人の霊魂に永遠の生命を供するの機関たりしの自覚、是れのみが臨終の時の慰め又力である事は、多くの人の死方《しにかた》に由て知られます。そして横井君にも亦たしかに人生最大の此慰めがあつたのであります。「僕が洗礼を授けてやつた人達は大抵信仰を持ちつゞけてゐる」とは君の追懐であつたと聞きました。誠に然りであります。其点に於て横井君は決して失敗者でありませんでした。明治時化の如何なる政治家も死に臨んで此満足を懐き得ませんでした。所謂成功を以つて人生最大の月的と見做す者はクリスチヤンの此満足、此喜びを知りません。横井君を失敗者と見(161)做す者は君が青年時代に於て君の霊魂の奥に貯へし此宝に着目し得ざる者であります。そして君は生涯の終りに於て再び之を取出し、之をキリストの光に照らし、信仰を以つて之を磨き、感謝を以つて天父の懐へ帰へられたのであります。

 

       附言

〇伝道は畢竟成功を期して従事すべきものでありません。「成功」はアメリカ人特愛の言葉でありまして、伝道の如き神の御事業に当らんと欲して、口に唱へてはならない言葉であります。|昔の預言者にして成功した者は一人もありませんでした〔付○圏点〕。イザヤもヱレミヤもホゼアも其伝道には尽く失敗者でありました。彼等は南方のユダヤ王国をも亦北方のイスラエル王国をも救ひ得ませんでした。彼等は其事を思ふて度々失望しました、然し乍ら終生預言(伝道)を廃めませんでした。|彼等は亡国を預期しつゝ伝道を続けました〔付△圏点〕。ヱホバはイザヤに命じて曰ひ給ひました。

   往きて此民に如此くに告げよ、

   汝等聞いて聴けよ、然れども悟る勿れ

   汝等見て視よ、然れど識る勿れと。

   汝、此民の心を鈍くせよ、

   其耳を盪《とろ》くせよ、其眼を閉よ、

   恐くは彼等其眼にて見、其耳にて聞き、

(162)   其心にて悟り、翻《ひるがへ》りて癒《いや》さるゝ事あらん

と。即ち民を救はん為に預言する勿れ、|彼等が救はれざらんが為に預言せよ〔付△圏点〕との事でありました。そして何時《いつ》まで如此き預言を為さねばなりません乎と預言者がヱホバに間ひ返せし時に、ヱホバは答へ給ひました。

   邑《まち》は荒廃《あれすた》れて住む者なく、家には人なく、

   国は寂寞と成り、ヱホバ民を遠き国に徙し給はん

 其時まで預言すべしとの事でありました(イザヤ書六章九節以下)。此は預言者に取り実に辛らい役目でありましたが、然し神の命なれば、彼は其通りに実行したのであります。イザヤの一生涯は、他の預言者等のそれと同じく

  イスラエルに就ては「我れ終日《ひねもす》手を挙げて悖《もと》り順《したが》はざる民に向へり」と言へり

とパウロが其言を引いて曰ひしが如くに、絶望的生涯でありました(ロマ書十章二一節)。

〇まことに伝道を慈善事業の一種と見るが、その成功せざる理由であります。神の聖意《みこゝろ》を伝ふるに方りて、人が之に由つて救はれやうが或は救はれまいが、国が之に由つて興らうが或は亡びやうが、そんな事を眼中に置いて有効なる伝道は出来ません。|人の為の伝道ではありません、神の為の伝道であります〔付○圏点〕。惻隠の心に動かされての伝道でありません、神に余儀なくされての伝道であります。故に強いのであります。浅く民の傷を癒さなくつて深く生命《いのち》を彼等の心に打込んだのであります。故に彼等の預言(伝道)に由つて国は政治的には救はれませんでしたが、精神的に基礎づけられて、亡びて復た興り、終に永久に亡びざる民と成つたのであります。成功を期待するやうな伝道の効果は知るべきのみであります。人は救はれずとも可い、国は亡びても可い、正義なるが故に唱(163)ふ、神の聖意《みこゝろ》なるが故に伝ふと云ふ底《てい》の伝道でなければ人をも救はず国をも起しません。成功を期して政略を免れません。眼中人なし唯神あるのみと云ふ質《たち》の人のみ真の伝道に従事し得るのであります。

〇イエス御自身が決して伝道の成功者ではありませんでした。彼は彼の伝道の首途《かどで》に於て夙く既に成功の希望を絶ち給ひました。悪魔は彼を高き山に伴《つ》れ行き世界の国々を示して之を救ふの策を彼に授けんとしました。然るに彼は之を斥けて言ひ給ひました

  サタンよ退け、主たる汝の神を拝し、惟之にのみ事ふべしと聖書に録されたり

と(マタイ伝四章八-十節)。

 伝道の此失敗者、其人が我等の救主イエスキリストであります。 〔以上、6・10〕

 

(164)     信仰五十年

                           昭和3年5月10日

                           『聖書之研究』334号

                           署名 主筆

 

〇私にも「信仰五十年」が来ました。私は明治の十一年、即ち|一八七八年六月二日〔付ごま圏点〕に、北海道は札幌創成川の畔《ほとり》に在りし外国教師館に於て、米国宣教師 M・C・ハリス氏よりバプテスマを受けし者であります。私は其時は旧札幌農学校の初年生でありまして、同級生の宮部金吾、太田(新渡戸)稲造、藤田九三郎、広井勇、足立元太郎、高木玉太郎の六君と共にクリスチヤンに成つたのであります。其内藤田、足立、高木の三君は既に召されて、宮部、新渡戸、広井の三君に加へて私が第五十年に達するを得たのであります。芽出度しと云へば芽出度くあります。そして受洗者七人の内で、伝道とか聖書研究とか云ふ坊主臭き職務に就くべく余儀なくせられた者は私一人であります。私は此事を思ふて度々歎きます。耶蘇教の坊主に成りて私は誰にも喜ばれませんでした。政府の人も教会の人も肉親の者も喜んで呉れませんでした。唯或る何者かに強ひられて斯く成つたのであります。但し私自身としては不幸の生涯を送つたとは思ひません。私は或る隠れたる人達に或る種の慰安を与ふるの器《うつわ》と成つたと思ひます。其喜びに比べて他の喜びは数ふるに足りません。此世の凡ての名誉を取そこなひ、全世界を敵に有つても、一人の小さき者に生命の水一杯を与へ得たと思へば感謝満足此上なしであります。別に五十年祝賀会はありません。唯当日青山墓地に花を以つて故ハリス君の墓を飾らうと思ひます。

 

(165)     結婚の意義

         今井一、原タツ結婚式の辞

                    昭和3年5月23日 述

                    昭和七年版『内村鑑三全集』19巻より

                    署名なし

 

〇初めに神 天地を造り給へり。

〇神 言給ひけるは、我らに象《かたど》りて我らの像《かたち》の如くに我ら人を造り、之に海の魚と天空《そら》の鳥と、家畜と、全地と、地に匍ふ所の諸《すべて》の昆虫《はふもの》とを治めしめんと。神 其像の如くに人を造り給へり、即ち神の像の如くに之を造り、之を男と女とに造り給へり。神 彼等を祝し、神 彼等に言ひ給ひけるは、生めよ、殖《ふえ》よ、地に満てよ、之を服《したが》はせよ、又海の魚と天空の鳥と、地に動く所の諸の生物《いきもの》を治めよ。神 言ひ給ひけるは、視よ、我れ全地の面に在る諸の草と諸の樹とを汝等に与ふ。之は汝らの糧となるべし。神 其造りたる諸の物を視たまひけるに甚だ善かりき、夕あり朝ありき、是れ六日なり。

〇ヱホバ神 言ひ給ひけるは、人独りなるは宜しからず、我れ彼に適ふ助者《たすけ》を彼の為に造らんと。是に於てヱホバ神 アダムを深く眠らしめ、眠りし時其胸の骨の一を取り、之を以て女を造り、之をアダムの所に伴ひ来り給へり。アダム曰ひけるは、此こそ我が骨の骨、我が肉の肉なり、此は男《イツシ》より取りたる者なれば之をイツシヤーと名くべし。是故に人は共父母を離れて其妻に合ひ、二人《ふたり》一体となるべし。

(166)〇結婚は神の定め給ひし律令《おきて》でありまして、人生の必要であります。神は人を男女に造り給へりとあります。即ち人を男女に分ちて造り給へりとの事であります。男女は何れも人の半分でありて、二者相合して一人の人と成るとの事であります。男丈けにて人にあらず、女と偕になりて一人の人となり、女も亦然りとの事であります。簡短にして深い真理又人生の事実であります。

〇故に結婚は単に幸福の点より考ふる事は出来ません。又血統伝承の必要より論ずる事は出来ません。結婚は人格完成の必要より考ふべきであると思ひます。或る特別の場合を除くの外は、結婚は男女孰れに取りても其本分を完うする為に必要であるのであります。結婚に由り男は更らに男らしく成り、女は更らに女らしくなるのであります。之に幸福の伴ふは之に此人格養成上の必要があるからであります。神は人を男女に分ちて造り給ひて、単独生活並に自己満足の害を矯めて、共同生活並に相互信頼の道を設け給うたのであります。「神 言ひ給ひけるは人独りなるは宜しからず。我れ彼の為に彼に適ふ助者《たすけ》を造らん」とあるは此事であると思ひます。「助者」は補充者であります。欠けたる所を補ふ者であります。

〇補充者であります。故に対等であります。但し単なる法律上の対等でありません。実質上の対等であります。女が男に負ふ丈け、それ丈け男は女に負ふ所があるのであります。対等であります。故に相互に対し尊敬があります。本当の愛は尊敬の在る所にのみ在ります。神はアダムの胸の骨を取りてエバを造り給へりとは此事を示します。女は勿論男の首でありません。然ればとて其手足ではありません。女は男の胸であります。※〔ワに濁点〕イタルであります。生命の中枢であります。之を敬ひ、弱き貴き器として之を保護すべきは之が為であります。

○対等であります。然し神の定め給ひし順序があります。「女の首は男なり、男は女より出しに非ず 女は男より(167)出しなり、男は女の為に造られしに非ず、女は男の為に造られし也」とあります。男は神の代表者として造られ、女は男の補助者として造られたのであります。共に神に事ふべきであります。然し男は指導者として、女は|助けて〔付ごま圏点〕として事ふべきであります。此場合に於て妻が夫に従ふは神に従ふの途であります。従ふは従はるゝ丈けそれ丈け神聖であり又名誉であります。神の律法に従ふ所に於てのみ真の自由があります。男は神を首《かしら》に戴いて真の自由を得、女は神の代表者なる男を首に戴いて、是れ亦真の自由を得るのであります。

〇如此くにして、結婚は単に一人の男と一人の女との為に行はるゝ事でありません。家の為、社会の為、国の為であり、更らに神の為、世界人類の為であります。人は何人も己が為に生きず又死なずとありまするが故に、結婚も亦己が為にのみ行ふのではありません。之に由りて社界の幸福を増進せんが為め、又神の御栄光を顕はさんが為であります。そして結婚を公的に解して、結婚生活を公益の為に営まんと努むる所に、そこに神の祝福が裕かに加はりて本当の幸福が宿るのであります。願くは私共が今茲に行はんとする此結婚が其意味に於て恵まれたる幸福なる結婚たらんことを祈ります。

 

(168)     FIFTY YEARS OLD IN CHRIST キリストに在りて満五十年

                      昭和3年6月10日

                      『聖書之研究』335号

                       署名 Kanzo Uchimura 内村鑑三

 

     FIFTY YEARS OLD IN CHRIST

 

  Just fifty years ago,on the second day of June,1878,in the now city of Sapporo,When I was a lad of seventeen years of age,I received the rite of the Christian Baptism from the Rev.M.C.Harris,an American missionary who then was stationed in the port of Hokodate. Thus I am just fifty years old in Christ,an old Christian in this country,where Protestant Christianity is not yet one hundred years old.For fifty years I have somehow kept the faith;by the grace of God I am what I am;and I believe,as in Paul so in me,His grace which was bestowed upon me was not found void,but I was made to labour more abundantly than my comrades in faith. Thanks be unto God for His unspeakable mercy.

 

     キリストに在りて満五十年

 

○丁度今より五十年前明治十一年(一八七八年)六月二日、今の札幌市に於て、私が十七歳の青年でありし時に、(169)私は当時函館港に在住せし米国宣教師 M・C・ハリス教師より基督教のバプテスマの式を受けた。されば私は今日でキリストに在りて丁度満五十歳である。プロテスタント主義の基督教渡来以後未だ百年ならざる此国に在りては私は古い基督信者の一人である。五十年の間私は兎にも角にも私の信仰を維持し来つた。神の恩恵に由り私は今日あるを得た。そしてパウロの場合に於けるが如くに私の場合に於ても私に賜はりし彼の恩恵は空しからずして私は私の古い信仰の仲間の人々よりも多く福音宣伝の為に労苦《はたら》かしめられた。私は今日此時特に言尽されぬ神の慈愛に因りて私の神に感謝する(コリント前書十五章十節、同後書九章十五節)。

 

(170)     栄辱五十年

 

                           昭和3年6月10日

                           『聖書之研究』335号

                           署名 内村鑑三

 

〇キリストに在りて満五十年! 楽しくもあつた、苦しくもあつた。思へば嬉しくもある、悲しくもある。

〇信仰生活の苦しみを知らない教会の宣教師並に信者たちは、人がバプテスマを受くるに会へば「お芽出たう」と言ひて祝詞を述ぶ。彼等は何を言ふ乎を知らないのである。何故に「同情を表します」と言はないの乎。イエスはゼベダイの子等に問ふて曰ひ給うた

  汝等は我が飲まんとする杯を飲み、又我が受けんとするバプテスマを受け得る乎(馬太二十章二二節)

と。バプテスマは苦がき杯である、キリストの栄光《さかえ》に入るの第一歩ではあるが、直接に臨むものは栄光にあらずして恥辱である。十字架の恥辱である。此世の人等(教会の教師信者達をも含む》に嫌はれ、嘲けられ、斥けらるゝ事である。真のバプテスマを受けて来るものは此世の善き事に非ずして悪しき事である。不孝の子として父母肉親の者に嫌はれ、国賊として国人に斥けられ、異端の徒として教会より逐はる。人を此処まで逐ひやらざるバプテスマは偽はりのバプテスマである。まことに苦がき杯である。之を思ふて之を我が愛する者に授けんと欲する心は起らない。私は五十年前にバプテスマを受けて知らずして十字架の途に就いたのであつた。顧みて万斛の涙なき能はずである。

(171)〇然し乍ら私は苦がき杯をキリストの手より受けた事を悔ゐない。其内に窮りなき生命があつた。私は十字架の|キリストにまでバプテスマされて〔付○圏点〕、其処に尽きざる神の生命の泉に達した。杯の苦味は生命《いのち》の甘味である。深い遠い歓楽である。虚空の彼方に潜む星の光の如きものである。口には言ひ得ず、筆には表はし得ぬ深い深い歓楽である。新約聖書を|我書〔付○圏点〕として読み得る歓楽である。ダンテ、ミルトンに共鳴し得る特権である。我罪の為に神に呪はれ給ひしキリストの聖顔に神を拝し得る福祉《さいはひ》である。噫、私はバプテスマを受けてキリストの※〔言+后〕※〔言+卒〕《そしり》を負ひて此世の囲《かこゐ》の外に出て善き事を為した(ヘブライ書十三章十二節》。苦難は出埃及の苦難であつた、又再び俗悪の世に還らざらんが為の苦難であつた。神の国に生きんが為に此世に死せんが為の死の苦難《くるしみ》である。福ひなる恵まれたる苦難であつた。

〇然れば此記憶すべき日に於て私ほエベネゼル(助けの石)を建つるであらう、そしてサムエルと共に言ふであらう「ヱホバ是まで我を助け給へり」と。此くして私は此不信国に在りて、多くの苦難《くるしみ》に会ひながらも、基督信者に成りし事を神に感謝する。

 

(172)     来世問題の研究

                         昭和3年6月10日・7月10日

                         『聖書之研究』335・336号

                         署名 内村鑑三

 

     其一 人生の最大問題 路加伝十六章十九節以下

 

〇人生に問題はいくらでもあります。政治、経済、社会、教育、産業、交通と、数へ来れば際限《はてし》がありません。其内どれが最大問題である乎は時と場合に由て異《ちが》ひます。然し夫れ等すべてが似たり寄つたりの問題でありまして、孰れを大とするも小とするも畢竟る所は同じであります。即ちすべてが人生問題でありまして、僅か百年足らずの地上の生涯に係はる問題であります。即ち地上を離れては無い問題でありまして、各個人に取りては死ねば消ゆる問題であります。

〇人間には果して人生問題以上に問題がないのでありませう乎。「無い」と現代人は答へます。今や基督信者と称する人までが地上の生命以外に注意を払ひません。近頃の事でありました、米国アマスト大学の歴史学の教授某は曰ひました「我等の祖先は神学に由り来世を究めんとしたれども、現代の我等は然らずして、歴史、経済、社会、心理等の諸学に由りて七十は古来稀なりと云ふ此短かき生涯を幸福に成さんとして努力する云々」と。此アマスト大学とは米国に於て宗教的精神の最も濃厚なる学校として認められ、伝道師養成学校の綽名をさへ取つ(173)た学校でありまして、我国の新島襄君を出し、私自身も学んだ事のある学校であります。然るに此学校に於てすら現世以上に学者の攻究すべき問題なしと、其教授に由て公然唱へらるゝに至つて、今や人類全体が、殊更らに世界の指導を以つて自から任ずる米国人が、其全注意を此小さき地球と、其上に営まるゝ短かき生涯とに払ひつゝある事が能く判明ります。今や若し「人生の最大問題は何か」との質問を掲げて世界に質《たゞ》しますならば、千人が千人、万人が万人まで、産業間題、産業を基とする幸福増進問題と答ふるに相違ありません。そして基督教会までが此「世界精神」に捉《とら》はれて、孰れも「此世を善くする事」を以て宗教家特別の任務であると思ふやうになりました。

〇然し乍ら是れ果して人生の本当の見方でありませう乎。欧米諸大学の教授、基督教会の監督、長老、博士等は何んと言はふともキリスト御自身はさう御考へなさらなかつた事は明確《たしか》であります。キリスト御自身は明白に言ひ給ひました

  生命を保全《まつとう》せんとする者は之を失ひ、我が為に其生命を失ふ者は之を得べし。若し人、全世界を得るとも其生命を失はゞ何の益あらん乎、また人何を以つて其生命に易へんや(馬太伝十六章廿五、廿六節)

と。茲に主は明白に曰ひ給ひました、世に生命よりも貴きものがある、それはキリスト即ち御自身である、世界よりも貴きものがある、それは真の生命、即ち世界が失せても失せざる生命であると。そして其生命の主なる彼を信じ、窮りなき生命に入る事、其事が人生第一の目的であると彼は明かに教へ給うたのであります。四福音書を読んで見てイエスの此精神を見落すことは出来ません。近代人が基督教を現世改善の機関である乎のやうに見做すは全然間違つたる聖書の見方であります。地上の生命以外に生命ある乎否は別問題として、|イエス並に使徒(174)等が来世本位の人達であつた事は疑ふの余地はありません〔付○圏点〕。新約聖書の何処を開いて見ても来世気分は充溢れてゐます。|アマスト大学の教授が持つやうな気分は初代の基督信者には全然ありませんでした〔付△圏点〕。来世本位、来世に備ふる為の現世、現世の意義は其処に在つたのであります。イエスは番頭の譬話に教訓を附して曰ひ給ひました

  我れ汝等に告げん、不義の財を以つて己が友を得よ 此は乏しからん時に彼等、汝等を永遠の住宅《すまゐ》に迎へんが為なり(路加伝十六章九節)

と。不義の為に便はれ易き財産を以つて、未来永遠の生命に入るの準備を為よとの教であります。|来世本位の財産観であります〔付△圏点〕。近代人のそれとは全然異なります。最大限度に現世を楽まん為の財産であるやうに見る米国人の見方はイエスの到底許容し給はざる所であります。

〇私が茲に引用せる路加伝十六章十九節以下の言葉、即ち富者と貧者ラザロとの話は、譬話である乎、事実談である乎、能くは判明りません。来世は事実上茲に記されてあるやうの者ではないと思ひます。然し乍ら来世の有るを実感せざる者が斯かる光景を描きやう筈はありません。イエスが若し自から証し給ひしやうに地に属する者に非ずして天より降りし者であるならば彼は我等が地の事を知るやうに、明かに天の事を知り給ひしに相違ありません。故に彼は茲に御自身が目撃し給ひし事を語つてゐ給ふのであると思ひます。「天より降り天に居る人の子の外に天に昇りし者なし……彼は自ら其見し所、聞きし所の事を証す」とあるが如し(ヨハネ伝三章十三節、同卅二節)。そして地に在りて天の事を証するに地の言葉を以つてするは止むを得ません。乞食ラザロの話は文字通りには事実でなくも、原理としては真理である相違ありません。来世の有るは確実であります。二月五日

 

(175)     其二 聖書と来世問題

 

〇テモテ後書一生十節に曰く「キリスト死を廃《ほろぽ》し、福音を以て生命と朽ちざる事とを明かにせり」と。キリストに由りて人の不死不滅が明かに示されたりとの事である。キリスト降世以前と雖も死後生命は在るものとして考へられたりと雖も、彼の教と生涯とに由りて其事が明かに成つたのである。死後生命は今や漠然たる憶測でない、確実なる事実である。真面目に考へ、且つ研究し得る問題である。キリストに由りて天の門は開かれ、現世と来世とを隔つる幕は取除かれて、我等は此世に在りて彼世を窺ひ得るに至つた。キリストの福音は単に品性を高め、此世を善くする為の教であると云ふのは極く浅い見方である。彼は墓の彼方を明かにし、之に達するの途を備へ、死の恐怖を除き、永生の希望を供して、人生の意義と其可能性を示し給うた。彼の福音が現世を善くするは、人に此希望を与ふるが放である。此事を解せずして、基督教を文明の紹介者として見、文明の幸福を未開の民に供するを以て其天職と見做すが如き、誤解も亦甚だしと云ふべきである。「未来は如何でも可い、現世をさへ善く過せば、未来が在るものならば、求めずして自《おのづ》から之に入るを得べし」と云ふが如きは、イエスと其弟子達とが唱へた事でない。彼等に取り来世問題は主要問題であつた。「外の幽暗《くらき》に逐出され、其処にて哀哭《かなしみ》切歯《はがみ》する事あるべし」とはイエスが繰返し幾回《いくたび》も述べ給ひし所であつた。又パウロの世界伝道の如き、決して近代人が思ふが如き、所謂世界教化の為でなかつた。

  如此く我等主の恐るべきを知るが故に人に勧む

とは彼の伝道の精神であつた(コリント後書五草十一節)。人をして神の子の審判に堪へ得べき者たらしめんと欲(176)して、彼ほ万難を冒して世界伝道に従事したのである。パウロの書簡の何処を開いて見ても、彼の伝道の目的が現世を善くする事に非ずして、人が之に由て来世の栄光に与らんが為であつた事が判明る。

  キリストは汝等が望む所の栄《さかえ》の望《のぞみ》なり。我等彼を伝へ、凡ての人を勧め、様々の智慧をもて凡ての人を教へ、彼等をしてキリストに在りて完全《まつたき》を得て神の前に立たしめんとす。我れ之が為に力を竭《つく》して労するなり(コロサイ書一章二七-二九節)

と云ふのがパウロの伝道の精神であつた。彼は如何見ても近代式の宣教師でなかつた。来世本意の信仰に於て、我国の法然や親鸞の方が、今の米国宣教師よりも遥かにイエス、パウロに近くあつた。二月十二日 〔以上、6・10〕

 

     其三 復活と其後の状態【馬太伝二十二章廿三-卅三節〇馬可伝十二章十八-廿七節〇路加伝二十章廿七-卅八節。】

 

〇イエスは組織的に宗教を説き給はなかつた。彼は死後生命なる題目を掲げて之に関する彼の御意見を述べ給はなかつた。其事に関し彼はソクラテス又は釈迦と異つた。彼等に長い又は深い宗教論があつたが、彼にはそれがなかつた。彼は時に臨み機に触れて彼の所信を述べ給うた。死後生命に関する彼の教示《をしへ》は凡てそれであつた。来世を説かんが為の来世観ではなくして、信仰を証明せん為の来世観であつた。それ故に特に貴いのである。|まことに来世問題は道徳問題を離れて論ずべきものでない〔ゴシック〕。道徳問題の一部分又は根本として論ずべき者である。来世問題を道徳と離して取扱ふ時にツマラない、そして多くの場合に於ては可笑しき問題と成り了るのである。我等はイエスより此問題の取扱ひ方に就いて学ばねばならぬ。|此は浮虚軽薄の人の解し得る問題に非ず、彼が最も真剣(177)なる時に於てのみ窺ひ知る事の出来る問題である〔付○圏点〕。

〇サドカイ人は茲に所謂「問題」として之をイエスに提出したのである。困難《むづかし》い面白い問題であつて、彼等はイエスが如何に之を釈くか、聞いて楽まんとしたのである。然るにイエスは面白い問題を真面目なる問題に化し給うたのである。七人の夫を持つた女は死後何人の妻たるべき乎と云ふが如き、そんな滑稽じみたる問題に非ず、死者は如何にして復活し得べき乎、又復活して如何なる生存状態に入る乎、深遠重大なる問題である。故に彼は先づ言ひ給うた

  汝等聖書をも神の能《ちから》をも知らず、故に謬れり

と( 二九節)。イエスの質問者は、パリサイ人もサドカイ人も、復活を口にして未だ復活の何たる乎を知らないのである。|復活は死者が元の肉体を以つて復たび活くると云ふ事ではない〔付△圏点〕、聖書はそんな粗雑なる復活を教へない。復活ほ神の大能に由る事であつて、新たに造らるゝ事である。旧い肉体に依るならんも、其儘には非ずして、之に新たなる造化を施したるものである。復活は復旧に非ず進化である。故に曰ふ

  死人の中より復活に応《ふさ》はしと為らるゝ者は云々

と(路加伝二十章三十五節新訳参照)。先づ第一に人は何人も復活するに非ず、神に「復活に応はし」と認めらるゝ者のみ復活するのである。即ち復活は自然の成行に非ずして、神が施し給ふ恩恵の賜物である。此事を知らずして、死者必ず復活すと思ひしイエスの質問者等は聖書を知らざるが故に謬れりと彼は曰ひ給うたのである。|復活には道徳的条件が要る〔付○圏点〕。之に応はざる者は復活の恩恵に与る能はずと。

〇そして神の大能に由りて復活せられし者は如何なる生活状態に入る乎と云ふに

(178)  復活に相応《ふさは》しとせらるゝ者は娶《めと》り嫁《とつ》ぎすることなし 彼等は復たび死ぬること能はざればなり。天使に等しく復活の子供にして又神の子供たる也

と(路加伝二十章三五、三六節)。簡短に言へば、|人は復活して〔付○圏点〕(復活の恩恵に与りて)|天使の状態に入るのである〔付○圏点〕と。イエスは茲に期せずして天使の何たる乎を我等に示し給うたのである。

〇天使なる者在りとは聖書が到る所に示す所である。天使の存在を否定して聖書は解らない。そして天使の如何なる者なる乎はイエスの此言葉に由て少しく覗ふ事が出来る。天使は娶り嫁がずと云へば、人間と生活の根本を異にする事が判明る。即ち肉体を通うして作らるゝ者に非ずして、直に神に造られし者である。我等の知る生物は凡て生殖機関に由て生れる者であるが天使は一人々々直に神の聖手《みて》に由て成りし者である。故に特に「神の子供」と称せらるべき者である。其生活状態に就て委しく知る能はずと雖も、朽つぺき肉体に由らずして、直に神の御手の工《わざ》に成りし者であれば、「死ぬる事能はず」とあるが如くに、其本然の性として不死不滅であるとのことである。生命は生物に限らない。生物にも植物があり又動物がある、そして動物の中で人間は動物であつて動物以上である。「人の魂は上に昇り獣《けもの》の魂は下に降る」とあるが如くに、人には獣に無い物がある。そして獣の上に人が有る如くに人の上に天使があると云ひて少しも無理でない。そして人が人たるの道を尽せば、彼に更らに神の能が加はつて天使の如き者(天使ではない、天使の如き者、原語の isoangelos)と成ると云ふは甚だ見易き道理である。そして死後生命は在肉生命の継続であると同時に其進化発達であれば、之を天使的状態と称するが最も適当でない乎。

○そして我等信者は肉に在る間も既に此状態を実験するではない乎。我等は最も聖き状態に在る時に天使の如き(179)者でない乎。即ち肉の関係は悉く失せて霊の関係のみ残るではない乎。即ち夫婦は夫婦でなくしてキリストに在る兄弟姉妹と成るではない乎。聖人聖女は凡て実に性の境を越えた人でなかつた乎。復活の子供は天使の如き者であるとは然もあるべきでない乎。

 

     其四 永生の基礎 路加伝二十章三七、三八節

 

〇イエスに此馬鹿らしき質問を掛けし人はサドカイ派の人であつた。使徒行伝二十三章八節に云へるが如く「サドカイの人は復活また天使また霊を無し」と言うた。彼等は特にモーセを信じ、モーセの五書に此事を録せざるが故に信ぜずと主張した。然るにイエスは之に対して復活と天使の有る事、そして復活後の信者は天使の如き者である事を説き給うた。斯くてイエスの立場は大体に於てサドカイ派の反対に立ちしパリサイ派のそれであつた。故にイエスの説明を側に聞きゐたりしパリサイ派の人々は敵ながらもさぞかし満足を表したであらう。

〇イエスは更に進んでモーセを説明し給うた。彼の質問者がモーセを引きしが故に、彼も亦モーセに由て答へ給うた。モーセが復活を信ぜずと云ふは謬りである。出埃及記第三章即ち「棘《しば》中の篇」に何と記いてある乎。其第六節に曰く

  我は汝の父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神なり

と。ヱホバがモーセに語り給ひし此言葉の内に復活永生が示さるゝではない乎。アブラハムの神なりと言ひ給ひしに由りて彼が今猶ほ生きてゐる事が示さるゝでない乎。アブラハムの神で|あつた〔付○圏点〕のでない、で|ある〔付○圏点〕のである。生きたる神が死たる者の神で|ある〔付○圏点〕と言ひ給ふ筈がない。殊に|神〔付○圏点〕である、|造主〔付○圏点〕であると言ひ給はなかつた。神は人(180)格的である。霊に対し霊的関係を保ち給ふ者である。彼が「我はアブラハムの神なり」と言ひ給ひしは「我は彼の友なり」と言ひ給ひしに異ならず ヤコブ書二章二十三節に曰く

  彼(アブラハム)また神の友と称れたり

と。永遠に生き給ふ神が其神また其友なりと宣べ給ひしアブラハム、其者が死んでゐやう筈がない。神に斯く言はれし事が彼が猶ほ生きてゐる何より善き証拠であるとイエスは茲に宣べ給うたのである。実に深い聖書の見方である。人は未だ曾つて如此くに聖書を解しなかつた。此は言葉を弄ぶ所謂「聖書道楽」の見方でない。真理を穿つた見方である。神は其御言葉を|ゆるがせ〔付ごま圏点〕にし給はない。彼は「我はアブラハムの神なり」と言ひ給へば其通りに意味し給ふのである。若し私が誠実の人であるならば、我が其の友であると云ふならば、私の凡ての信用を賭して云ふのである。そして私の能力のあらん限り私は彼を助け彼を保護する。況んや神に於てをや。神が「我は彼の神なり」と宣べ給ひし者、其者が神と偕に生きてゐるは当然である。故にイエスは続いて言ひ給うた

  それ神は死せる者の神に非ず生ける者の神なり

と。実に生ける神が死せる者の神であり得やう筈がない。恰も善人が悪人の友であり得ないと同然である。アブラハムとイサクとヤコブとは神に「我は彼等の神なり」と言はれて其永生を証明されたのである。

〇馬太伝に「人々之を聞いて其教に驚けり」とあるが左もあるべきである。イエスの此見解に由て、モーセの五書を初めとして旧約聖書全体が全く新らしき書に化したのである。旧約聖書は復活来世を説かずと云ふが如きは全く意味なき事に成つた。神の在し給ふ所に永生がある、神は生命の源であるからである。人は神を信じ、神の友と成りて、神と偕に限りなく生くるに至る。教義又は信仰箇条の問題でない、事実の問題である。旧約聖書は復(181)活来世の教義は説かざりしも、真の神を伝へて窮りなき生命を伝へたのである。

〇故に旧約時代の信者は神と交はりて知らず識らずの間に不死不滅永生を感じたのである。詩篇第十六篇の作者の如きが其好き一例である。

   我れ常にヱホバを我が前に置けり

   ヱホバ我が右に在せば我れ動かさるゝ事あらず。

   この故に我心は楽しみ我が栄は悦ぶ、

   我が身もまた平安《やすき》に居らん。

   そは汝我が霊魂を陰府《よみ》に棄置き給はず、

   汝の聖者を墓の中に朽しめ給はざる可ければ也。

 茲にたしかに復活の希望が述べられてある。故に使徒ペテロは後の日に詩篇の此言を引いてイエスの復活を証明したのである。使徒行伝二章三一節を見よ。

〇如此くにして復活永生はイエスが神の子たるの権威を以つて我等に圧附け給ふ信仰箇条でない、明白なる道理に基ける信念である。|生命の源に繋がる、故に死せず〔付○圏点〕と云ふのである。イエスが弟子等に曰ひ給ひしが如し「我れ生くれば汝等も生きん」と(ヨハネ伝十四章十九節)。電線が発電所と繋がる間は電燈は消えずと云ふと同じ道理である。故に永生は死して後に始まるのでない、此世に於て始まり来世に継続せらるゝのである。人が初めて真の神を信ぜし其時に永生は始まるのである。イエスは歳三十にして千九百年前の昔に此近代的大真理を述べ給うたのである。シユライエルマヘルは近世哲学を代表して曰うた「有限の真中《まなか》に在りて無限なる事、今此瞬間よ(182)り永遠的なる事、此れが真の宗教が供する不死の生命である」と。二月廿六日

 

     其五 活動の来世 馬太伝十八章十節。路加伝十九章十二節以下

 

〇来世の在る事と之に達する途に就てイエスは重ねて説き給うた。之を「永遠の住宅《すまゐ》」と称して人に勧め給うた。然し乍らその如何なる所である乎、亦之に入る者の如何なる状態を以つて生存する乎に就ては多く語り給はなかつた。(一)には語るは殆んど不可能の事であるからである。彼がイスラエルの宰ニコデモに曰ひ給ひしが如くに

  若し我れ地の事を言ふに汝等信ぜずば況して天の事を言はんには如何で信ずる事を為んや

であつて、地とは全く状態を異にする天に就て地に在る人に語るは、困難の境を越えて不可能であるからである(ヨハネ伝三章十二節)。(二)には来世に就ては詳細を語るは害多きが故である。之に由て人の好奇心を挑発し、徒らに憧憬に耽りて目前の義務を怠るの危険に彼を陥らしむるの虞がある故である。来世は其在る事をさへ確かめらるれば其他を知るの要なく、知つて反つて害多しである。基督教は其点に於て仏教並に回教に勝さる。基教の来世に関する比較的沈黙は、他二教の詳細に渉る説明に比べて、合理的であつて有効的である。恵信僧都の『往生要集』の天道篇に左の如き言を読んで、我等はその詞の美はしきに引かるゝも、反つて其事実を疑はしめらるゝのである。

  かの西方世界は楽しみを受くる事極まりなし。人と天人と交はりて、倶に相見る事を得たり。すべていづれも慈悲心に薫じて、互にひとり子の如くに愛を為し、諸ともに瑠璃の地の上をゆきかへり、同じく栴檀の林(183)の間に遊びたはむれ、宮殿より宮殿に至り池より池、林より林に至る。若し静かならん事を思へば、風の声浪の音、管絃のしらべ耳に隔たり、若し見んと思ふ其時は深山《みやま》がくれや谷川の珍らしき境地まで目の前に現はれて、見まじと思へば其境地去りて目に隔たる。香をかぎ味をなめ身にふれ、法を説述る事も亦然り。或は雲の梯《かけはし》を渡り、楽《がく》を奏して舞ひ遊び、或は虚空に揚りて神通を現じ、或は他方の大士に従ひて迎へ送り、或は天人|聖衆《しやうじゆ》に伴ひて遊覧し、或は宝の池の畔に至り、新たに生し人を訪ひ慰めて「汝知るや否や此所をば、極楽世界と名づけ此界の主をば弥陀仏と申奉る、今まさに帰依すべし」などゝ云ふ。云々

と。此美はしき詞の内に貴き真理の籠らざるに非ず、然れども形容は事実に過ぎて、読む者をして詞に囚はれて実を逸せしむるの虞が多い。勿論基督教に在りても、ヨハネ黙示録に於て、ダンテの神曲に於て此種の形容を見ざるに非ず。或種の形容は来世を説くに方て必要欠くべからずである。然れども形容は少い丈けそれ丈け善くある。真剣真面目なりしイエスは最少限度に形容詞を使ひ給うた。

〇馬太伝十八章十節即ち

  汝等慎みて此の小さき者の一人をも侮る勿れ、そは我れ汝等に告げん彼等の天の使者等《つかひたち》は天に在りて天に在ます我父の顔を常に見ればなり

とのイエスの御言葉は特に死後生命に就いて教へん為に発せられたる者でない。然し乍ら其内に天使に就て告ぐると同時に、天使に等しき状態に入る復活者に就て知らしむる所があると思ふ。即ち死後生命は決して静止安息の生命に非ずして活動奉仕のそれであるとの事である。天使が天に在りて地上の幼児の為に執成し其祝福を計るが如くに、我等も天使に等しき者と為られて、彼等に等しき働きを為さしめらるとの事である。イエスが彼と共(184)に十字架に釘けられし盗賊の一人に「今日汝は我と共に楽園に在るべし」と言び給ひたれば、来世とは今世とは異なり無為安楽の世界であると思ふは間違である。イエスは金ミナの譬を以て明かに然らざるを教へ給うた(ルカ伝十九章十二節以下)。来世は現世の継続であつて、現世に於て少《わづか》なる物に忠実なる者は来世に於て大なる物を委ねらるとの事である。ダンテが「我は死して|より〔付ごま圏点〕高貴なる戦闘に入るのである」と言ひしは此意である。勿論罪の世の戦闘ではないが「高貴なる戦闘」は健全なる生命の必要条件として存せざるを得ない。「我が来るは羊をして生命を得しめ、更らに豊かに之を得しめん為なり」と主は宣べ給うた。豊かに生命を賜はりて活動は免かるべからず。死後生命は|より〔付ごま圏点〕高き、|より〔付ごま圏点〕能力《ちから》ある、|より〔付ごま圏点〕充実せる生命であらねばならぬ(ヨハネ伝十章十節)。

〇事は空想の如くにして然らず。人の希望に由て其生涯は決定《さだ》まる。|仏法の涅槃寂滅を望む者は世を避け山に入らんと欲し、基督教の活動的天国を志す者は終りまで奉仕活動の生涯を送らんと欲する〔付ごま圏点〕。詩人ヰツチヤーの『雪籠り』に彼の去りにし妻を想ふ一句がある 曰く

   I cannot believe thou art far

   Since near at need angels are.

   我は汝は我を離れて在りとは信ずる能はず

   危き場合に授けん為に天使は我側に在るに非ず耶

 天に在りて相互を助け、亦地に在る者をも助くる事が出来る。それが真の死後生命である。三月四日

 

(185)     其六 イエスの栄光体に就いて(上) 路加伝四章一六-三二節。馬可伝九章二-九節。

 

〇イエスが言葉を以つて来世に就いて教へ給ひし場合は至つて少くある。我等は彼の御言葉より所謂来世訓を編まんと欲して編む事が出来ない。然し乍らイエスは言葉を以つてしてよりも行為を以てして明かに永生を示し給うた。其点に於て彼はたしかに「生命と壊《くち》ざる事とを明著《あきらか》にせり」であつた(テモテ後書一章十節) 永生は彼の衷に働いてゐた、故に彼の為す事がすべて永生的であつた。即ち死者を甦らすに足るの生命が彼を動かした。まことに彼れ御自身が其生命であつた。窮りなき生命の何たる乎はイエスを識るに由つて解る。彼の御生涯其物が無窮の生命である。

〇聖書は道徳を離れて宗教を教へない。其処に聖書の聖書たる所以がある。聖書は道徳を離れて来世を教へない。キリストの如き聖き行為があつてキリストの如き復活があり、不死の生命があると教ふ。故に福音書に於て徳行と不思議とが併《なら》んで記してある。イエスの行為が彼の奇跡を証明し、彼の奇跡が彼の行為を証明する。世にイエスの教訓を是とするも彼の奇跡を非とする者の多きは此事を認めざるが故である。イエスの教訓は彼の奇跡丈けそれ丈け不思議である。彼の教訓の超自然的なるに気附きし者は彼の奇跡を疑はない。

〇路加伝四章一六-三二節の記事の如き明かにイエスの此両方面を示す。茲に彼は其公生涯の首途《かどで》に於て彼の何者なる乎を示し給うた。彼が聖書に精通し給ひし事、彼が旧約の預言の彼に於て充たされし事を自覚し給ひし事、又「人々その口より出る所の恩恵《めぐみ》の言を奇《あやし》み」とありて、彼の風采に神らしき所のありし事等を録《しる》し、而して後に預言者の権威を以つて村人を警め給ひたれば、全村挙つて大に憤り、起ちてイエスを村の外に引出し其村の建(186)たる山の崕《がけ》より投下さんとした。

  然るにイエス彼等の中を通過して去りぬ

と記《か》いてある。此は簡短なる記事であつて多くの人の気附かざる所であるが、然し其内に尋常《つね》ならざる行動を認めざるを得ない。若かき大工が聖書を引いて此言を発したるが不思議なりしに加へて、その去り方が不思議であつた。イエスは此場合に逃げなかつた、又身を隠さなかつた。荒れ狂ふ暴徒の中を独り通過ぎて去り給うた。関ケ原の戦争に於て島津兵庫頭が取つた途であつて、兵法から言ふても最も大胆なる、最も男らしき途である。何がイエスをして斯く勇敢ならしめたのである乎。勿論彼に義人たるの確信と権威とがありて彼に此道徳的勇気を与へたに相違ない。然るに彼は「大工ヨセフの子」であつて村民より何の尊敬をも受けてゐなかつた。其彼れに此権威ありし事、其事が既に不思議である。今日我等の目前に此事が行はれたとして我等は其理由の説明に苦しむであらう。

〇此場合に|キリストの身より御光がさしてゐて、暴民は彼に手を触れ得なかつたと見れば説明が出来る〔付○圏点〕。或は彼の身に普通の生命以外の生命が働いてゐて、夫れが物理的法則を超越して働いたと解して解する事が出来る。何れにしろ此場合も亦奇跡と見るが適当である。若し純奇跡でないにしても奇跡に類したる行為であつた事を否む事は出来ない。

〇聖書に度々栄光と云ふ詞が使はれてゐる。洵に広い意味の詞であつて、今一々之を指摘する事は出来ない。栄光はギリシヤ語の doxa《ドクサ》ヒブライ語の kabod《カーボート》であって聖書特有の詞である。之に物的の意味もあれば、霊的の意昧もある。ベツレヘムの夕、天使が救主の降誕を牧者等に告げんとする時に「主の栄光彼等を環照《めぐりてら》しければ」と(187)あるは物的即ち自然の光であつたと見るが適当である。其他パウロがダマスコ途上、眩きイエスの御顔を拝したりと云ふも亦彼の肉眼に映ぜし強き光と解せざるを得ない。然し乍ら多数の場合に於ては栄光は道徳的栄光即ち霊的栄光である、或は半物的半霊的栄光である。コリント後書三章末節に於て

  我等|※〔巾+白〕子《かほおほひ》なくして鏡に照《うつ》すが如くに主の栄を見、栄に栄いや増さりて其同じ像に《かたち》化《かは》る也

とパウロが曰ひし場合に於て、栄光は物的でもあり亦霊的でもある、即ち、|聖書に在りては光に物的霊的の区別なくして、霊的栄光是れ物的光輝である〔付○圏点〕。

〇以上の見方に因り共観三福音書が録す所の変貌の山に於けるイエスの栄化を少しなりとも説明する事が出来ると思ふ。此はたしかに在つた事であるは三福書が揃ふて録してゐるに由ても判明る。そして或る聖書学者が為すが如くに、単なる自然的現象として解するは余りに浅薄である。曰く、レバノン山中腹に、春未だ寒くして残んの雪に彼等が囲まれし時に、電光閃き渡りたれば、「イエスの容貌変り、其衣輝き、白きこと甚だしくして雪の如く、世の布晒も斯く白く為し能はざる」程であつたと(馬可伝九章三節)。西洋近代の学者は斯く解するより他に此記事を解し得ないのである。然し乍ら是れ浅薄なる、不完全なる解釈であると云はざるを得ない。何故之をイエスの栄光体の現はれとして解しないのである乎。三月十一日

 

     其七 イエスの栄光体に就て(下) 馬可伝九章二-八節。馬太伝十七章一-八節。

 

〇前回の講演に対し聴者の一人より、昨年の八月『生理学研究』誌上に見えし論文の一部を送つて呉れた。

  物質的医学も大切だが、それよりも心霊医学の研究が必要であると学生時代より専心之が研究に没頭してゐ(188)る、愛知医科大学精神科教室の磯部虎雄学士は老人と子供との関係、即ち子供が老人によく親しみ老人は子供を理性なきまでに愛するは何故かと云ふ問題に対し興味ある研究を発表した。同氏の説に依れば、人間は各々霊気即ち霊光又は霊衣と称する光を有してゐる。キリスト釈迦の像に御光を描きしが如く、人は必ず善悪に依らずこの霊衣を有する者である。如何に学識あり、名才あり、金力ある学者政治家富豪と雖も、心に悪しき魂を有する者の霊衣は弱く、色は甚しく穢れてゐる。之に反し目に一丁字なき野人と雖も善良なる清き霊を有する人の霊衣は光り強く、色頗る鮮かであつて、之が実験は硝子にデシヤニンと称する薬液を塗り、之に人間を写し出せば容易に判別する事が出来る。之によりて老人を見れば老人の霊衣は破れ、幼童の霊衣は光り鮮かに量多く真に神を想像するが如き霊衣を見る。茲に於て、老人は自己の穢れた霊衣を幼童の清き霊衣に依りて清めると同時に光り少きを補足し、幼童は自己の量多く光り鮮かなる霊光を老人に与へる喜びを有す。之に依りて老者と幼童とが普通考へることの出来ない程の親しみを感ずるのであると云ふ。

 洵に興味多き研究である。之を以つて幾分なりとも変貌の山に三人の使徒が目撃せし驚くべき現象を説明する事が出来る。

〇然し乍らイエスの栄光は単に勢力旺盛の故の栄光でなかつた、心霊聖浄の故の栄光であつた。彼の光りは愛の光りであつて、其光りが肉体に現はれたと見るが当然である。之に似たる光が聖フランシスにも在りしと伝へられ、其他純然たる無私の状態に入りし者が一種特別の光を其面より放つは人のよく知る所である。ヨハネ書翰に|光〔付○圏点〕と|生命〔付○圏点〕と|愛〔付○圏点〕とが同意義の詞として用ひらるゝに依て見ても此事が判明る。

(189)〇変貌山の現象に於て解し難きはイエスの身が光りを放ちし事に非ずして、エリヤとモーセとが共に使徒等に現はれてイエスと語りゐたりと云ふ事である。茲に二人はイエスの如くに輝きたりとは記いてない、唯「現はれたり」と録してある。又「彼等に現はれて」とあれば、使徒がさう思うたと解しても差支ない。即ち栄化は特にイエスに在つた事で、他の者に在つたとは明記してない。然し若しエリヤとモーセとが事実現はれたりとするなれば、彼等の霊性が茲に或種の形体を取つて現はれたと見るまでである。そして二人に或る程度までイエスに似たる所があつた。彼等は単に厳格なる旧約の預言者又は律法家でなかつた。エリヤにシドンなるサレプタの一人の寡婦の子を祈祷を以つて甦らすの熱愛があつた。モーセにも亦、背けるイスラエルの民の為に執成して

  若し聖意に叶はゞ彼等の罪を赦し給へ、然らずば、願くは汝の書き記し給へる書の中より我名を抹去《けしさ》り給へ(出埃及記三十二章三十二節)。

と言ひし真心があつた。此愛と真心とが形態を成して茲に現はれたと見て解し難い事はない。

〇竟《つま》る所、復活体は死後に初めて与へらるゝものでない、今世に於て其構成を始むる者であると思ふ。初めて母の胎に宿りし時に復活体は其存在を始むるのであらう。我等は毎日我等の復活体を作りつゝあるのであらう。そして秋の末に葉が落ちて草木が長き冬の眠りに就く時に、既に来年の葉も花も果も其元形を完成するが如く、人間も死に就く前に其復活体の基礎を作り上ぐるのであらう。そして罪も徳も其内に摂取同化されて、

  善を為し者は生命に甦り、悪を行ひし者は審判に甦るべし(ヨハネ伝五章二十九節)

とイエスが言ひ給ひしが如くに、人各自が己が作り上げし復活体を以つて甦るのであらう。そしてイエスの場合に於ては彼の強烈なる復活体が変貌の山に於て眩き光りを放ちたりとは解するに難くないと思ふ。精神科学の進(190)歩に由り、復活体を写真に撮る事が出来るに至ると聞いて私自身は少しも不思議に思はない。

〇問題は決して奇を好む所謂「面白い問題」でない、最も真面目なる問題である。心が形に現はると云ふのである。善人に取り此んな嬉しい事はないと同時に、悪人に取り此んな怖ろしい事はない。是れが本当のクリシス審判《さばき》である。イザヤが当時のヱルサレムの市民を責めて「彼等の顔色は其悪事を証す」と言ひしが如くに(イザヤ書三章九節)、衷なる心は現世に於ても外なる顔に現はるゝのである。我等イエスの弟子たる者の祈り求むべき事は、イエスの心を戴いて、それに合《かな》ふ彼の栄光体を授からん事である。斯くて死後生命問題は決して閑問題でない。今日目前の問題である。我等は今日如何なる復活体を作りつゝある乎。三月十八日 〔以上、7・10〕

 

(191)     五十年前の信仰

                           昭和3年6月10日

                           『聖書之研究』335号

                           署名 内村鑑三

 

     其一 聖書に就いて

 

〇私は今より五十年前、私が十七歳の青年であつた時に基督教の信仰に入つた者である。私はその時※〔乍/心〕う云ふ信仰を懐いた乎、そして今また※〔乍/心〕う云ふ信仰に生きてゐる乎、其事に就いて話して見たいと欲《おも》ふ。

〇|私は聖書は神の語であると信じた〔ゴシック〕。

 此事に就て私の信仰は五十年後の今日と雖も変らない |聖書は一言一旬悉く〔付○圏点〕神の言であると云ふは理論として受納るに甚だ難くある。人間の書いた書であつて、人間に由て伝達されたる書であるが故に、縦し元始《はじめ》は神より出たる言であるとしても、それが人間の手に渡つて以来、多くの誤謬を混へるに至つたとは、受取り難い説でない。それ故に私は多くの興味を以つて聖書の近代的評論を読んだ、そして学ぶ所が甚だ多かつた。私は高等批評と称して一概に之を斥けない。高等批評に多くの貴いものがある。私の小類の内で、其内半分位ゐは高等批評の立場より書かれたる者である事を否み得ない。

○然し乍ら私は今日と雖も、大抵、而かも其精神に於て私の五十年前の信仰を維持する。|理論に於て高等批評に(192)譲る所ありと雖も〔付ごま圏点〕、|実際に於て私は高等批評以前の旧い信者である〔付○圏点〕。高等批評は私の信仰の根本に就て何物をも新たに教ゆる所はない〔付△圏点〕。私の信仰は substantially(実質的に)五十年前の信仰である。聖書は神の言である。神に就き、生命に就き、救拯に就き、審判に就き、復活に就き、再臨に就き、万物の復興に就き、私は明かに聖書が教ゆる通りに信ずる。私はダーウヰン、ワラス、スペンサー等の進化論を沢山に読んだが それで私の元始《はじめ》の信仰を強められこそすれ、少しも弱められなかつた。進化論の与へた解釈は唯僅に宇宙人生の表面的解釈に過ぎない、即ち現象的宇宙の解釈に過ぎない。之に反して聖書は絶対的権威を以つて神と自由と永生とに就て教ふる。そして其教ふる所は直覚的であつて深遠である。物質界の如何なる研究も精神界の此|啓示《しめし》を覆《くつがへ》へす事は出来ない。

〇言葉を替へて云へば、|私は神の特別の啓示の在つた事を信ずる〔付○圏点〕。其事に就て私はダーウヰンやワラスの説に服従する事は出来ない。私は天然是れ真理の唯一の示顕なりと信ずる事は出来ない。宇宙人生の或る事に就ては人は自力で天然の研究丈けで之を知る事は出来ない。或る枢要なる事に就ては人は神よりの特別の啓示を必要とする。そして聖書は斯かる啓示を伝ふる書である、故に特別に貴いのでない。世には聖書に由らざれば他に知る途のなき真理があるのである。そして此真理を知らずして人生は意味を為さないのである。そして一たび此真理に触れて人の万物の見方が根本的に変るのである。古い書であるが実に驚くべき書である。旧くして永久に新しき書とては、聖書を措いて他に無いのである。

〇そして聖書を如斯き書として見て、即ち宇宙人生に就き神の特別の啓示を伝ふる書として見て、其解釈は近代の学者が思ふ程困難でないのである。批評家の所謂「本文の腐敗」なるものは多くは|腐敗〔付ごま圏点〕即ち誤伝に非ずして、批評家自身の信仰の足らざるより起る謬見である。聖書記者の立場に自分を置いて見て聖書の大抵の難句難節は、(193)明かに且美事に解釈する事が出来る。聖書解釈の困難の十分の九は語学の不足、又は歴史、哲学、考古学等の知識の欠乏に由るに非ずして、信仰の不足に由る。神が我等に伝へんと欲し給ふ通りに聖書を解せんと欲して、聖書は大体に、今日在る文字通りに解釈して最大の満足を我等に与ふるのである。

〇如斯くにして五十年前の聖書は其儘神の言として私の手に存《のこ》る。之に代はるべき書を私は未だ発見しない。是れのみは五十年間読み繼けて少しも厭きない書である。五十年間に科学、歴史、詩歌、哲学と私の熱心は移動した、然し其何れもが生涯の終りに方りて私に平和と満足とを与へない。人生の Eternal Verities(永久的真実)を教ゆる点に於てダーウヰンも、ギボンも、ヲルヅヲスも、カントも、ヨブの友人同様

   Miserable comforters are ye all

   汝等皆な人を慰めんとして却つて人を煩はす者なり(ヨブ記十六章二節)。

である。|如何なる生物学者と雖も「種の起原」を懐いて死なんとしない〔付△圏点〕。|若し世に懐いて死ぬべき書があるとすれば、それは古い旧い神の聖書である〔付○圏点〕。

〇私が明治の十五年に、芝の日蔭町の古本屋に於て買うた英語聖書の表紙の裏に、私は英語を以つて詩人ハイネの言を記入《かきいれ》た。之を訳すれば左の如し

  何んと云ふ書であらう! 世界丈けそれ丈け大きく且つ広く、造化の底に根ざし、蒼穹《あをぞら》の高き所に在る深宮にまで聳ゆ。日出《ひので》と日入《ひのいり》と、約束と充実と、生と死と、人類のすべての夢は此書の中に在り。

 実に其通り。此書の故に国家が起り、健全なる文化が栄え、偉大なる事業が為され、死其物が打勝たれて、多くの人が讃美を唱へつゝ死に就いたのである。

 

(194)     生物学者を葬るの辞

         四月五日故農学士木村徳蔵氏の葬儀にて述ぶ

                           昭和3年6月10日

                           『聖書之研究』335号

                           署名 内村鑑三

 

〇|生物学が生に就て教ゆる所の第一は死の勢力であります〔付○圏点〕。出生は死の始めであります。人はすべての生物と共に死ぬる為に生まるゝのであります。宇宙全体を観察して私供は生は暫時的の、一局部に限られたる現象である事を知ります。虚空はすべて死の所在地であります。海は死を蔵《かく)します。陸も十尺以下はすべて死であります。私供は毎日毎時死に直面してゐます。故に生は危きもの、脆《もろ》きもの、風前の燈の如きものであります。天然の少しの狂ひで死は万物を呑み去るの可能性があります。斯かる宇宙に在りて死ほど確実なるものはありません。その死を恐れ、悲しみ、其襲ふ所となりたればとて驚くのは何んと不用意の事でありません乎。冷静に生物学を研究して私供は死に遭ふて、生が其必然の帰結に達せしを知り、反つて喜ぶべきであると思ひます。

〇之に対し、|生物学が生に就て教ゆる所の第二は生の勢力であります〔付○圏点〕。生の歴史を研究して私供は其根強いのに驚きます。生は如何にして無生の地球に達せし乎は大なる問題であります。或は他の世界より芽胞《スポア》として虚空《スペース》を通過して達したりと云ひ、或ひは太陽の光線の内に生は含まれてあると云ひます。何れにしろ生は今日まで永い永い間の危険極まる生存を続けたのであります。そして単に生存したのみならず駕くべき発達を遂けたのであり(195)ます。単一の細胞が終に生物となりて全世界を蓋ふに至つたのであります。何んと云ふ偉大なる勢力ではありません乎。何億々万年死と戦つて生は亡びざりしのみならず、増加し、生長し、発達したのであります。生の其力と云ふものは実に遥かに死以上であります。まことに詩人ブライアントが歌ひし如くに

              Life mocks the idle hate

   Of his arch-enemy Death-yea seats himself

   Upon the tyrant's throne-the sepulchre,

   And of the triumphs of his ghastly foe

   Makes his own nourishment.

であります。生は其大敵なる死の意味なき悪《にくみ》を嘲り、彼が坐する座位《くらゐ》に坐し、墓を足下に踏《ふま》へ、此青白き敵より得たる獲物を以つて己が成長を計る為の営養となすとの事であります。如斯くにして死が生を呑尽すのでなくして生が死を征服するのであります。|恐るべきは死ではなくして生であります〔付△圏点〕。

〇斯く考へて私供が今茲に葬らんとする死せる敬ふべき生物学者に対しますれば、私供は死が彼に在りて生に打勝ちたりと信じ得ないのであります。生は其存在の始めより死に打勝つて来たのであります。今彼に在りて死に負けて其呑尽す所と成つたのでありませう乎。私はさう信ずる事は出来ません。聖書の言葉を以つて曰ひまするならば、神ほ御自身が造り給ひし物を棄給はないのであります。|進化億々万年の結果なる生が終に死の呑みつくす所となるとは私は生物学の立場に立ちて信じ得ないのであります〔付○圏点〕。

〇勿論生物学丈けで来世は解りません。「キリスト死を滅し生命と朽ちざる事とを顕明《あきらか》にせり」であります。復(196)活と永生とは人類が研究の結果として知つた事ではありません。是は上から示された事であります。キリストに由て来世が明かに示されて、人類は死に勝つの途を示されたのであります。そして今や生物学が神の此啓示に共鳴するのであります。私供は今や生物学者として無神論者に成り、基督教を棄つるの必要は少しも無いのであります。進化の原理は決して優勝劣敗ではありません。最上の生命は倫理的生命であります。自己に死して自己に生くるの生命であります。そして此生命を実験せし者は肉体の死と共に死せずと云ふのであります。

〇斯くして私供は今や遺骨と成りて残る私供の友人は死せずと云ふのであります。神がキリストを以つて示して下さつた事を、我が友人の立場より、即ち生物学の立場より信じ得るのであります。今やサー・オリバー・ロツヂや、アルフレツド・ワラス等の老大学者は人の死後存在は科学的に証明されたる事実であると唱へます。神の子の証明に、之に加ふるに今日まで世に生れ出し大偉人の多数の証明を以つてし、更らに加ふるに近世生物学の結論を以つてして、私供は死後の生命と其発達とを信じて間違はないと信じます。

〇「愛は死よりも強し」と云ひます。そして愛は生命の精《エツセンス》であります。神に聴き、天然に学びて私供は失望の人たる事は出来ません。今私供の友人の遺骨に対してキリストが其友ラザロの死体に対して言ひ給ひし言葉を繰返して宜しいと思ひます。

  我等の友ラザロは寝ねたり……我は甦りなり、生命《いのち》なり、我を信ずる者は死ぬるとも生くべし

と(ヨハネ伝十一章十一、廿五節)。我等の友木村君は生物学者として終りまでキリストを信じたのであります。

 

(197)     独立五十年

                           昭和3年6月10日

                           『聖書之研究』335号

                           署名 内村生

 

〇私は信仰の初めより独立を決心した。基督教は之を信ずるも外国宣教師の指揮の下に信ぜじと決心した。殊に外国人の金銭的援助を受けて伝道せざるべしと決心した。そして五十年後の今日に至るまで大体に於て此決心を実行し来つた。そして日本人にして基督教の伝道を助けて呉れる者は至つて少数であるが故に、実際の所、私は私自身に頼るより外他に途が無つた。饑餓に瀕した事は幾回もあつた。|三度餓死の決心を為した〔付△圏点〕。常に思うた、人の援助を仰がずば伝道を為す能はずとならば伝道を止むるに如かずと。そして餓死もせず、何人にも頭を下げずして兎にも角にも信仰を維持して今日に至つた事は感謝の至りである。独立は実に私の信仰の基礎である。独立に由つて私は人生の興味を知り、神の有難さを解し、彼が実際に活きてゐまして彼に倚頼む者を奇蹟的に助け給ふ事を実験した。独立に困難なきに非ずと雖も依頼よりも遥かに安楽なる事を知つた。既定の収入あるに非ずして、広き宇宙の何処からか月々援助が来ると信じて待つことの快楽は譬ふるに物なしであつた。今は|餓死線〔付△圏点〕より遠かりて月末毎に奇蹟を待つの必要なきに至つて人生の興味がそれ丈け減じた訳である。餓死の決心は今や誇り話として残る。その当時は随分|悽《すご》かつた。私は私に教を受けた者の誰も私と同じく独立を決心し之を実行して神の裕なかる恩恵に与らん事を勧告する。

 

(198)     GOSPEL AND PHILOSOPHY 福音と哲学

                           昭和3年7月10日

                           『聖書之研究』336号

                           署名なし

 

     GOSPEL AND PHILOSOPHY

 

 Next to the Gospel of Jesus Christ,which is the gospel of the Love of God, there is nothing in the world or outside of the world, greater than Philosopby,which is the love of Truth for Truth's own sake. Indeed,the Gospel,apart from Philosophy,is altogether too liable to become no-gospel. The warm life of the Gospel needs to be constantly kept pure by the dry light of Philosophy;else it will degrade into a religion,which is something semi-sensual,semi-legal,and largely mystical,and not entirely spiritual,“full of grace.”Philosophy's need of the Gospel is as great,if not greater. The two are twin-sisters,the Gospel, an angel from heaven,and Philosophy,a chaste virgln from earth.

 

     福音と哲学

 

○神の愛の福音である所のイエスキリストの福音の次ぎに、此世に於ても此世以外に於ても、真理の為に真理を(199)愛する所の哲学より大なる者はない。まことに哲学を離れて福音は福音ならざる者と甚だ成り易くある。福音の温き血は常に哲学の乾きたる光を以つて潔めらるゝの必要がある、然らざれば福音は堕落して所謂宗教と成る虞れがある。半ば内的にして半ば律法的なる、主として神秘的なる、純霊的たらず、恩恵に充ちたる福音たらざる所謂宗教に化し易くある。同様に福音は哲学に必要である、多分より以上に必要であらう。哲学と福音とは同腹の姉妹である。福音は天より降りし天使であつて、哲学は地より生れし淑徳の処女である。

  |附言〔ゴシック〕 神は相並びて大なる二小国を起し給うた。哲学のギリシヤと信仰のユダヤとを起し給うた。恰かも哲学と信仰との離るべからざる者なる事を示さんが為なる乎の如くに。

 

(200)     幸福の獲得

                           昭和3年7月10日

                           『聖書之研究』336号

                           署名なし

 

〇幸福は如何して来る乎? 幸福は幸福を断念して来る 苦痛とは全たい何である乎? 苦痛とは幸福を求めて得られない事である。或は幸福と思ひし物を失ふ事である。故に若し幸福を求めなければ苦痛はないのである。幸福是れ苦痛の因と称する事が出来る。「人生の目的は幸福を得るにあり」と教へた人は、その何人たるを問はず、最大の誤謬を教へた人であつて、憎むべき偽はりの預言者である。凡ての苦痛、凡ての不幸は此誤謬より起つたのであつて、世界人類は此誤謬を受いれしが故に修羅の巷と化したのである。「人生の目的は幸福を得るに在り」とよ! とんでも無い間違である。人は豚でない。「豚の目的は幸福を得るに在り」と云ふて聞違でない。豚は善き物を多く食ひ、善き子を多く産み、善き欄《をり》の内に長く生きて、其生存の目的を達するのである。然し人は豚と異《ちが》ふ。彼の目的は霊性を養ふに在る。忍耐、慈愛、良善、忠信、温柔、※〔手偏+尊〕節と云ふが如き霊性を獲るに在る。即ち幸福を棄てゝ幸福ならぬ幸福を獲るに在る。イエスが教へ給ひしやうに、生命を喪ふて生命を獲るに在る。此世の人等が追求むる幸福の正反対を獲んとするに在る。故に不幸却つて幸福であるのである。

〇まことにカアライルが言ひしが如くに|近代文明之を豚文明〔付△圏点〕と称して間違ない。其最大の目的は最大幸福を得て最大限度に之を楽まんとするに在る。そして其目的を達し得ずして世界挙つて悶え苦しむのである。前世紀の終(201)りに於て、進化説の提唱者アルフレツド・ワレスは曰うた、「過去五十年間の凡ての発明は人類の真の幸福に何の貢献する所がなかつた」と。第二十世紀に入りても此事は少しも変らない。幸福を増す為の凡ての発明は不幸不平を増す為の因《もと》と成つた。世界始まつて以来、今日程苦痛の多い時代はない。幸福を増す為の機械が完備すればする程不幸が増して来る。

〇茲に至りて我等は復たび古き預言者の声に耳を傾くる必要がある、曰く

  噫汝等渇ける者よ、水に来れ。金なき者よ来れ。何故に糧《かて》にもあらざる物の為に金を出すや、飽くことを得ざる物の為に労するや。我れヱホバに聴従へ、去らば汝等|美物《よきもの》を食ふを得、脂《あぶら》をもてその霊魂を楽まするを得ん(イザヤ書五十五章一、二節)。

幸福は幸福を断念して得らる。故に幸福は今、此所に此儘にて得らる。幸福を断念し、身を捨てゝ得らる。何故に煩悶する乎?

 

(202)     信仰の岐路

                           昭和3年7月10日

                           『聖書之研究』336号

                           署名 主筆

 

〇イエスは教師なる乎、救主なる乎、二者孰れに解する乎に由て信者の信仰は定まるのであります。イエスを教師と解して決して間違ではありません。世にイエスの如き教師はありません。彼を模楷《かた》とし彼に効はんとして人の一生は改まるに相違ありません。

〇然し乍らイエスを教師として仰ぐ間は徹底せる信仰は起りません。如此くにして人は己に就き常に不満足を感じます。彼は支那の聖人の如くに常に戦々兢々として薄氷を践むが如き生涯を送ります。常に己に省みて不満なき能はずであります。常に己が不徳を歎きます、世の腐敗を悲しみます。そして己をも世をも良くする事が出来ずして悶えます。イエスを教師として仰いで消極的信者たるを免れません。ユニテリアン主義の信者に道徳があつても熱心がないのは是が為であります。

〇イエスを救主と仰ぐ時に信者の信仰は一変します。イエスの降世の目的は完全なる生涯の模楷を示すに止まらずして、主として罪を除くにありました。彼は私の罪を任ふ神の羔でありました。神は彼に在りて私の罪を審判き、彼の功績《いさほし》に由て私を赦し給ひました。其事が解つて私の全生涯が一変するのであります。私は今は赦されたる罪人であつて、故《もと》の罪人ではないのであります。罪なる刺《とげ》の痕は残りますが、刺其物は已に抜取られたの(203)であります。茲に於てか悪を避け善を為すのが前よりも非常に楽になるのであります。罪の羈絆を解かれて私は自由の身と成るのであります。今まで私の衷に在りて罪の圧迫の下に窒塞せる凡ての才能が解放されて、私は思ひしよりも遥かに力ある智慧ある者である事を悟るのであります。私が若し医者であれば|より〔付ごま圏点〕善き医者と成り、商人であれば|より〔付ごま圏点〕善き商人となり、自分が自分でありながら自分でなくなり、救主イエスが自分の内に来りて自分に代つて働き給ふを覚ゆるのであります。又イエスを救主と見て聖書が善く解るのであります。彼の奇跡的生涯に深き意義を見出すのであります。奇《ふしぎ》なる生れ方、復活、昇天、再臨と聞いて少しも疑はなくなるのであります。

〇イエスは教師か救主か、人か神か、信仰の岐路《わかれめ》は茲に在ります。そして問題の出発点は我罪の処分であります。|イエスのみ惟り完全に罪を除くの能力を有します〔付○圏点〕。此能力に触れて私は救はれ、亦人をも救はんと欲する熱心が起るのであります。イエスを救主として知るは幸福の絶頂であります。

 

(204)     感謝の賜物

                           昭和3年7月10日

                           『聖書之研究』336号

                           署名 内村鑑三

 

〇私の信仰五十年に際し私が神より賜はりし最大の賜物は私の若き信仰の友七人より贈られし『|内村鑑三先生信仰五十年記念基督教論文集〔ゴシック〕』である。私より前に信仰五十年に達した基督教界の名士は尠からずと雖も、私の記憶する所に依れば、如此くにして此日を記念せられし者は未だ曾て無かつたと思ふ。真理闡明に努力したる者に取り、其後継者たるべき若き友人より其研究の結果を贈らるゝに勝さる名誉はない。此点に於て私は此国に於て最も恵まれたる者の一人であると思ふ。七人の内、畔上君ほ早稲田大学文科の出身である。其他は凡て東京帝国大学出の法学士である。|一人の神学士なく、一人の外国仕込の宗教家はない〔付△圏点〕。孰れも純然たる平信徒であつて、而かも基督教に就き造詣至つて深き人々である。如此くして私が私の終生の事業として私の国人に与へんと欲せしものが、茲に七士を以つて代表されて五十年の後に私の許に還つて来たのである。即ち日本国に自生せる深き思考に基礎づける福音的信仰、其産物を以つて神は此日私を祝福して下さつたのである。私としては是れ以上のものを戴かんと欲しない。そして大なる褒美なりと雖も是れ賜物の一部分に過ぎないのである。宗教研究の外に、農学に、医学に、理学に、工学に、其他殆んど凡ゆる学科に於て、私の信仰の友は特殊の貢献を為しつゝあるを知る。神の御恵みに由り私の生涯が無益でなかつた事を感謝する。

 

(205)     WHEN AM I SURELY A CHRISTIAN?

     私は何時確にクリスチャンである乎

                           昭和3年8月10日

                           『聖書之研究』337号

                           署名なし

 

     WHEN AM I SURELY A CHRISTIAN?

 

 Not when I am accepted as a good Christian by churches and missionaries;not when T believe I have believed in this and that doctrine;but when I can do that which Jesus commannded me to do.That is to say,when I can turn my left cheek when a man smites me on my right cheek,when I can love my enemies and pray for them that persecute me;when,in a word,I can be perfect even as my heavenly Father is perfect. Like as the true artist always aims at perfection, though he knows perfection is unattainable;the true Christian ought to endeavor to be perfect,even though no one except One,has ever attained perfection. May be,my heavenly Father accepts my endeavor to be perfect as perfection,and admits me to His kingdom where all are perfect.

 

(206)     私は何時確にクリスチャンである乎

 

〇それは私が善きクリスチヤンとして教会又は宣教師に受けらるゝ時ではない、又私が此の教義又は彼の教義を信じたりと信ずる時ではない |イエスが私に為すべく命じ給ひし事を為し得る時である〔付○圏点〕。即ち人が私の右の頬を批ちし時に左の頬をも向け、私の敵を愛し、私を虐遇する者の為に祈り得る時である。一言もつて云へば、天に在す私の父が完全なるが如くに私も完全になり得る時である。真の芸術家は完全は達し得ずと知ると雖も完全を志して止まない。其如く真のクリスチヤンは唯一人を除くの外に完全に達せし者一人もなしと知ると雖も、完全ならんとして努力すべきである。多分天に在す私の父は完全ならんとする私の努力を完全として認め私を凡てが完全なる彼の聖国に受けて下さるのであらう。

 

(207)     天地の道と神の道

                           昭和3年8月10日

                           『聖書之研究』337号

                           署名 主筆

 

〇天地の道は公明正大であつて人の践むべき道であると云ふ。まことに然りである。我等は各自小なる自己の判断に由つて歩まず、日月と光りを一にし、山河と行ひを共にすべきである。天地は無私である、公平である。道を天地に得て、人は其一生を誤らないのである。曰く天地正大の気、粋然として神州に鍾《あつま》ると。

〇然れども天地の道は最上の道でない。天地は無私であると同時に無情である。公平であると同時に冷淡である。天地は法則に由て動く、愛を以つて働かない。天地の道に則りて人は冷静で、律法的たるを免かれない。殊に生物進化の道に則りて彼は私利に駆られて残酷に成り易くある。天然と云ひて美くしい者計りでない。董も天然であれば蝦蟇《がまがへる》も天然である。孔雀も天然であれば巨蛇《うはばみ》も天然である。天然に則りて人は木葉蝶の如く偽善を装ふことも出来る、杜鵑の如くに自分の生んだ子を棄て之を他人をして育てしむる事も出来る。進化説を基礎として築上げられしニイチエ哲学は世界戦争を惹起すの原因となつた。天地の道も之を解しやうに由つては破壊の道、殺伐の道と成る。

〇茲に於てか我等は天地の道に超越して神の道に依る必要がある。神の道は法則の道に非ずして恩恵の道である。自分が生きんと欲する道に非ずして、自分は死して他を救はんと欲する道である。天然に愛の現はれなきに非ず(208)と雖も、神の道に於けるが如くに愛は最大勢力として働かない。神の道に天然の法則として到底行はれ難いものがある。

  悪に敵する勿れ、人汝の右の頬を批ば亦他の頬をも転《めぐ》らして之に向けよ。汝を訟へて下衣を取らんとする者には外服《うはぎ》をも亦取らせよ。汝に求むる者には予へ、借らんとする者を却《しりぞ》くる勿れ(馬太伝五章)。

と。此は神の道であつて天然の教ゆる道でない。宇宙広し雖も其内に斯かる教を看出す事は出来ない。

〇依て知る人は天地に学ぶよりも神に学ぶべき事を。彼は天然の子供である以上に神の子であらねばならぬ 月や星の如くに唯規則正しい計りでは足りない、キリストの如くに愛に燃えねばならぬ。董や雛菊の如くに唯美しい計りでは足りない、パウロの如くに愛の故に苦しまねばならぬ。我等は星雲説や進化論に由つて我等の人生哲学を作つてはならぬ。自《みづ》から罪なきに人の罪を負ひて十字架の死を味ひ給ひし神の子を模楷として我等の歩行《あゆみ》を定めねばならぬ。人は天地の産たるに止まらず、天地を超越したる神の子である。

 

(209)     何西阿書の研究

                    昭和3年8月10日・9月10日・10月10日

                    『聖書之研究』337・338・339号

                    署名 内村鑑三

 

     其一 何西阿書の紹介 ホセア書二章十六、十七節。六章六節

 

〇モーセに五書があり、福音書に五書があるやうに、預言書に五書がある。

  福音書の五書と云ふはマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの外に使徒行伝を云ふ。使徒行伝はキリスト伝の続きであつて、キリストが使徒等を以つて為し給へる行績《みわざ》の記録である。使徒行伝一名之を「聖霊の福音」と云ふ。

 預言書の五書はイザヤ、ヱレミヤ、エゼキエル、ダニエルの外に「十二預言書」である。普通之を四大預言者と十二小預言者と云ふが、此名称は甚だ人を誤らし易くなる。第一に預言者に大小の別はない。小預言者と称せらるゝ者の内に、アモス、ホセヤはどう見ても大預言者である。第二に預言書は何れも|預言集で〔付○圏点〕あつて、一人の預言者が書き著はした着でない。例へば「イザヤ書」と云ふはイザヤが著はした書でないのみならず、彼れ一人の預言を集めた書でもない。|イザヤ書はイザヤ系統の多数の預言者の言を集めた〔付○圏点〕書であつて、之をイザヤ書と称するは、彼が其内の主《おも》なる預言者であるからである。他の預言書に就ても同じ事を言ひ得る。そして十二預言書(210)は元は一書と見做された者である。十二箇の別々の書に非ずして、十二人の預言者の言を一書に纏めた者であつた。我国の「先哲叢談」が幾人かの先哲の伝を一書に纏めた書であるが如き者である。故に之を称して「十二預言者の書」と云うた。如斯くにして預言の五書は左の如くに成るのである。

  一、イザヤ預言書。二、ヱレミヤ預言書。三、エゼキエル預言書。四、ダニエル預言書。五、十二預言書。

〇ホセア書は十二預言書の第一巻である。年代的に云へばアモス書が前であるが、然し何かの理由でホセア書が第一に置かれたのである。或は十二預言書中で最も長い書であるからである乎も知れない。(ホセア書とザカリヤ書とは各十四章である、他は何れもそれ以下である)。然し其他に深い理由があると思ふ。ホセアは何れの点より見ても大預言者である。彼はイザヤ、ヱレミヤと匹敵すべき大人物である。故に所謂「小預言者」の中に置かれて其第一位に置かるべきは勿論である。|十二預言の最善最美はホセア書に在りと云ふも過言でないと思ふ〔付○圏点〕。人は全体に預言者に目を注ぐこと尠く、注ぐとも多くはイザヤ書又たはダニエル書に止まるが例なれども、一たびホセア書を味ひて、思はざる所に新福音に捜するの感なき能はずである。茲に|福音書以前の福音書〔付○圏点〕がある。或は旧約の内の新約と称する事も出来る。神の無限の愛を説く書にして、旧約の内に之を及ぶ者はない。其事はイエスが幾たびかホセア書を引き給ひしに由つても判明る。イエスの特愛の聖語の一は預言者ホセアの左の言であつた。

  我は愛情《いつくしみ》を歓びて犠牲《いけにへ》を喜ばず

と(六章六節)。福音書はイエスが二度ホセアの此言を引き給ひし事を録してゐる。旧き邦訳聖書は之を左の如くに訳してゐる。

(211)  我れ矜恤《あはれみ》を欲《この》みて祭祀《まつり》を欲まず

と(マタイ伝九章十三節、同十二章七節)。イエスは此ほかにも度々此語を用ひ給うたであらう。彼の御精神を言表はす言葉にして是れ以上に適切なる者はなかつたに相違ない。之を新約の根本的精神と称して可なりである。「犠牲」又「祭祀」は宗教の儀式である。教会制度である、教職階級である、信仰箇条である。信仰を機械化したる者である。之に対して「愛情」がある、「衿恤」がある、何れも熱き優しき心である。そして|神は儀式よりも愛情を歓び給ふ〔付○圏点〕と云ふのである。当然の事であるが、然し人が容易に受け納れない真理である。儀式はいくらでも精密にする、厳粛にする、然し衿恤は容易に行はない。教会は何れも教義と儀式を守るには火の如くに熱心である。然し愛に於ては、殊に他教会の人々に対する愛に於ては、氷の如くに冷淡である。此宗派的僧侶的精神に対して預言者ホセアは二千六百五十年前の昔に此信仰的大真理を投附けて言うたのである「ヱホバは愛情を歓びて犠牲を喜び給はず」と。実に偉大なる宣言であつた。そして預言者より七百五十年後にイエスは此言を取上げて言ひ給うた。

  我れ矜恤を欲みて祭祀を欲まず

と。そしてイエスの弟子が今日と雖も教会制度又は僧侶階級に対して闘ふ時には、常に預言者ホセアの此言を繰返して言ふのである。

〇私自身の生涯に於て、私はホセア書の二節に由て我の生涯の危機より救はれたる者である事を告白する。それは二章十六節、十七節の言である。ホセアの此言に由つて救はれたる者は私の外に許多あると信ずる。まことに心の傷を癒す霊薬にして是れ以上のものありとは思はれない。ギレアデに乳香あるにあらずや。如何にして(212)我民は癒されざる乎とヱレミヤが叫びし其乳香はホセア書の此所に在ると思ふ(ヱレミヤ記八章二二節)。(四月廿二日)

 

     其二 イエスとホセア ホセア書二章。マタイ伝六章

 

〇イエスとホセアとの間に年代に於ては凡そ七百五十年の|へだたり〔付ごま圏点〕(隔)があつた。即ち我等と法然上人との間ほどの隔があつた。然し乍ら年代は異つたが国は同じであつた。イエスはホセアの同国人であつた。即ち北パレスチナの人であつた。ソロモンの子レホボアムの時にダビデの王国は南北に分れた。南なるをユダヤと云ひてヱルサレムに都し、北なるをイスラエルと云ひてサマリヤに都した。そして其天然性に於て二者の間に大なる相違があつた。南なるは砂漠に連りて荒漠の地多く、所謂「ユダの曠野《あれの》」は預言者に善き修養の処を供する外、生産上何の益なき所であつた。之に反して北なるは風光明媚、物産豊富の国柄であつた。エスドレーロン平野、ガリラヤの湖水は北パレスチナの誇りであつて、南パレスチナの岩石の原、鹹水《しほみづ》の海と比べて、二者の間に殆んど生死の別がつた。そして人はその住む国土の如しであつて、南方のユダヤ人の全体に沈鬱なるに比べて北方のイスラエル人は軽快であつた。南方が強い意志の人を産したに対して北方は熱い情の人を生んだ。アモス、イザヤは間違なき南方の人であつてペテロとホセアとは紛ふべきなき北方の人であつた。此事を知るはユダヤ民族の歴史を知る上に於て非常に大切である。殊に基督教の起原を知る上に於て大切である。南方のユダヤ人は北方のガリラヤ人を賤視《いやし》めて言うた「ナザレより何の善者《よきもの》出んや」と(ヨハネ伝一章四六節)。北方に善き穀物はあらん、善き葡萄と無花果とはあらん、然れども善き人物は出ずと彼等は固く信じた。然るに其北方よりイエスが出、ペテロ、(213)ヨハネ、ヤコブ等主なる弟子達が出たのである。「工匠《いへつくり》の棄たる石は家の隅の首石《をやいし》となれり」との聖書の言はイエスと其弟子達の場合に於て最も明白に実現した。

〇そして|著明なる預言者中ホセアのみ惟り北方イスラエルの産であつた〔付○圏点〕。其点に於て彼は特別にナザレの大預言者の先駆者であつた。彼は南方の人なるバプテスマのヨハネとは全く性質を異にせる人であつた。ヨハネは意の人なるに対し、ホセアは情の人であつた。そしてホセアがヨハネと異なりしが如くにイエスも亦異なり給うた。「ヨハネ来りて食ふこと飲むことを為さず……人の子来りて食ふことを為し飲むことを為す」とあるに由て二者の相違が判明る。そしてホセアがイエス型《タイプ》の人でありし事は彼の預言に由て判明る。彼が旧い予言者中に殊に我等クリスチヤンに懐かしく思はるゝは是が為である。ホセアはイエスの同国人であつて彼と情性を共にする人であつた。愛に燃え、天然を愛し自《みづ》から無名の一平民でありしが故に自《おのづ》から平民の友であつた。南方のユダヤはイザヤ、ヱレミヤ、エゼキエルの如き大預言者を産せしに対し、北方のイスラエルはホセアを産し、七百年を経て後にイエスを出してユダヤ民族に止まらず全人類を今猶ほ教へ導きつゝある。

〇預言者に於て稀なるは天然を愛するの愛である。神を恐れ畏《かしこ》む心は沢山に在つた、然れども天然に親しむの情は極めて稀であつた。ホセアの先輩なる預言者アモスがイスラエルを誡むる言に曰く

  昴宿及び参宿を造り、死の蔭を変じて朝となし、昼を暗くして夜となし、海の水を召《よび》て地の面に溢れさする者を求めよ、その名をヱホバと云ふ(アモス書五章八節)。

と。此は天然を愛する心に非ずして大天然に現はれたる神を畏るるの心である。之に対してホセアは曰ふ

  その日には我れ我民の為に、野の獣《けもの》、空の鳥及び地の昆虫《はふもの》と誓約《ちかひ》を結ばん。ヱホバ曰ひ給ふ、その日には我(214)れ応《こた》へん、我れ天に応へん 而して天は地に応へん、地は穀物と葡萄と橄欖とに応へん、而して是等の物はヱズレルに応へん(ホセア書二章十八節、同廿一、廿二節)

と。アモスの神は高く天に在して万物を宰り給ふ神である。之にしてホセアの神は地に降り、地の要求に応じて産を出し、民を恵み給ふ神である。所謂外在の神と内在の神とである。昴宿参宿を率ゆる神と、野の獣と鳥と誓約を結び給ふ神である。同一の神であるが、親しむべき神はホセアの神であるは言ふまでもない。そして彼にも勝さりて我等の主イエスキリストは曰ひ給うた。

  汝等|天空《そら》の鳥を見よ、……野の百合花は如何にして長《そだ》つかを思へ、我れ汝等に告げん、ソロモンの栄華の極みの時だにも其|装《よそほひ》この花の一に及ばざりき

と。ガリラヤ人はユダヤ人と異なり全能の神を天空の鳥、野の百合花に於て見た。そして又神の愛を父が子を愛する愛に於て、又夫が妻を愛する愛に於て見た。路加伝十五章に於けるイエスの放蕩児の譬話が彼の福音の中心であるが如くに、ホセア書一章と三章とに於けるホセアの背ける妻に対する態度が、彼の預言の根本である。イエスが苦難《くるしみ》に由て万民の全き救主と成り給ひしが如くに、ホセアも亦苦難に由てイスラエルの善き預言者と成つた。イエスとホセアとはヒプライ語に於て同名であるが如くに、二者は同質の預言者であつた。四月二十九日

 

     其三 家庭の不幸 ホセア書第一章

 

〇神の人に凡て神の|みまねき〔付ごま圏点〕聖召)があつた。神の聖召に与らずして何人も神の|みわざ〔付ごま圏点〕(聖業》を行ふことが出来ない。|偉人必しも神人でない。神に特別に招かれて偉人も凡人も神人となるのである〔付○圏点〕。

(215)〇聖召の方法は種々ある。招かるべき人に由て異なる。モーセはミデアンの地に於て、棘《しば》の裡の火焔《ほのほ》の中に彼に現はれ給ひしヱホバに由て招かれた(出埃及記三-四章)。「棘は燃ゆれどもその棘|燬《や》けず、即ち神、棘の中よりモーセよモーセよと呼び給へり」とある。其他、イザヤ書六章にイザヤの聖召が録され、ヱレミヤ記一章にヱレミヤの聖召を見る。パウロがダマスコの途上キリストの聖召に与つた事は我等の克く知る所である。

〇そしてホセアにも亦|みまねき〔付ごま圏点〕があつた。そして彼の場合に於て聖召は奇態なる形を採つた。彼は家庭の実験に由つて預言の職に招かれた。ヱホバ、ホセアに宣はく

  汝往きて淫行の婦人を娶るべし

と。「是に於て彼れ往きてデブライムの女ゴメルを妻に娶れり」とある。「淫行の婦人」とは不貞の女である。貞操の何たる乎を知らざる婦人である。娼妓性の婦人である。ヱホバほ果して斯かる婦人を娶るべくホセアに命じ給うたのであらう乎。爾う受取る事は出来ない。茲に神の命令として録さるゝとは事実の成行を記すものである。ホセアは知らずして淫婦ゴメルを娶りて、後に至りてその神の命なりしことを知つたのである。|有つた事は凡て神の聖旨なり〔付ごま圏点〕とはヘブライ人の人生の見方であつた。|ホセアは誤つて淫婦を娶り、其為に堪へ難き苦難を嘗め、恥辱を忍びて、後に至りて、その凡て神の聖旨に出しことを悟つたのである〔付△圏点〕。

〇ホセアに臨みし家庭の不幸は尋常一様のものでなかつた。彼の妻は三人の子を生みしと雖も、その父系は何れも怪しかつた。彼はその何れをも彼の実子として認め得なかつた。故に彼等各自に不祥の名を附けた。長子は之をヱズレルと称んだ。イスラエルに臨まんとする神の審判を預表してゞある。次ぎに生れし女子をロールハマと称んだ。「憐まれぬ者」の意であつて、其父不明なるが故に、父の憐愍を受けずとの意である。三子は男子であつ(216)て、彼は之をローアンミと呼んだ。己が子にあらざる事明白なれば「我が子に非ず」と称んだのである。若き預言者の悲憤悲痛、いか計りなりしならんと思ひ、察するに余りがある。人生に不幸多しと雖も結婚の|やりそこなひ〔付ごま圏点〕の如きはない。是は大抵の場合に於て家庭の破壊に止まらずして生涯其物の破壊である。殊に多情多恨ホセアの如き人に取り堪へ難き苦痛であつたに相違ない。失恋は多くの若人《わかうど》を死に逐ひやつた。ホセアも此時死と墓とを慕うたであらう。軽薄なる婦人、デブライムの女ゴメルは如何なる夫を持ちしかを知らなかつた。彼女は彼女の淫行の剣《つるぎ》を以つて彼の心臓を刺しながら差したる悪事を為したりとは思はなかつたのである。

〇然し乍ら神はホセアと偕に在り給うた。彼は淫婦の淫行を以つて彼を御自身に招き給ひつゝあつた。聖霊の|しめし〔付ごま圏点〕《示)に由りホセアほ己が身に臨みし不幸難難の意味を了つた。彼は第一に不幸は彼れ一人に限らざるを悟つた。彼の家庭に臨みし不幸は社会道徳紊乱の一兆候に過ぎざるを知つた。如何なる重荷と雖も多数と共に之を担へば甚だ軽くなる。ホセアは己が不幸を国民の不幸として感じた。イスラエルに婦徳絶えしが故に彼の家庭は破壊されたのである。彼は己が不幸を歎くよりも先づ国の不幸を歎くべしと思うた。そして|社会道徳紊乱の主因は誤れる宗教の流行に在る〔付△圏点〕。淫祠の盛なる国家社会に於て堅固なる男女道徳は期待すべからず。ホセアの家庭に此悲惨事ありしはイスラエルに真の信仰が絶えたからであると、聖霊は斯く彼に示し給ひ、彼は克くその訓示《おしへ》を解した。

〇ホセアは第二に神の御心を察し奉りた。彼は辛らき自身の実験に由て姦淫の意味を了つた。妻が夫に背くの心は民が神に背くの心であるを知つた。神と民との関係は親子の関係であるよりも寧ろ夫婦の関係である。親子は血で繋がる者、故に切つても切れぬ関係に於て在る。之に対して夫婦は愛を以つて繋がる者である。故に愛の絶(217)ゆる場合に其繋ぎは断たる。愛は強い者、然し同時に脆い者である。果を結ぶ為の花の如き者であつて、美しき丈けそれ丈け繊弱である。そして民は愛を以つて神に繋がるのであつて、愛を棄てゝ神との関係は絶えるのである。|背教は姦淫である〔付△圏点〕。他神《あだしがみ》に事ふるは間夫《まぶ》に行くと同じである。そしてホセアは其妻の姦淫に由つてイスラエルの民がヱホバに背きてバールに事へし其罪の深さと恐ろしさとを知つた。

〇斯くてホセアは己が身の不幸に打勝つた。彼は国家的不幸の一端として之を見た。又神の御歎きを己れに実験して聖名の為に起たざるを得なくなつた。斯くて彼の不幸は彼が神に召されて其預言者と成るの機会と成つたのである。五月六日。

 

     其四 審判と救拯 ホセア書一章。同五章十四節-六章二節。

 

〇預言に三綱領がある。其一が審判である、其二が悔改《くいあらため》である、其三が救拯《すくひ》である。預言は多しと雖も其要領は以上の外に出ない。其点に於てキリストの福音も亦之を預言として見ることが出来る。山上の垂訓の如き、明白なる預言である。「雨降り大水出で風吹きて其家を撞てば」とあるは審判である。「偽善者よ、先づ己れの目より梁木《うつばり》を取れ、然れば兄弟の目より物屑《ちり》を取り得るやう明かに見るべし」とあるは悔改である。「心の貧しき者は福ひなり、天国は即ち其人の有なれば也」とあるは救拯である。其順序は一様でない。初めに救拯の幸福を述べ、次ぎに之に達するが為の悔改を述べ、終りに悔改を促す為の審判を述ぶる事がある。山上の垂訓は此順序に依る。然し審判、悔改、救拯が普通の順序である。

〇ホセア書一章二節より二章三節までが一預言である。審判は彼の妻ゴメルに生れし三人の子の名を以つて表は(218)された。ヱズレル、ロールハマ、ローアンミと。

  汝その名をヱズレルと名づくべし、暫らくありて我れヱズレルの血をヱヒウの家に報ひ、イスラエルの家の国を滅すべければ也(列王紀略下十章参考)。

  汝その名をロールハマ(憐まれぬ者)と名づくべし、そは我れもはやイスラエルの家を憐まず又決して赦さざるべければ也。

  汝其名をローアンミ(我民に非ず)と名づくべし、そは汝等は我民に非ず、我は汝等の神に非れば也。

 茲に審判は三段に示さる。|罰せらるべし、赦されざるべし、棄らるべし〔付ごま圏点〕と。神の厳粛《おごそか》なる事が遺憾なく示さる。如何にも無慈悲の神なるが如くに見える。

〇場面は一転する。神の厳粛に対して其慈悲が示さる 「神の慈愛《いつくしみ》と厳粛《みおごそか》とを観よ」とのパウロの言が想出される(ロマ書十一章二十二節)。其中間の悔改が示されない。審判と救拯。正義の現れと愛の現れ。ホセアは熱情の人であつた、故に審判を宣告して直に救拯を伝へずしては居られなかつた。悔改は人が救拯に与るための必要条件なるを知ると雖も、之を述ぶるの暇《いとま》がなかつた。急転直下は彼の預言の特徴である。熱情の愛国的詩人として彼の言に論理的連絡はなかつた。

  然れどイスラエルの子等の数は浜の真砂《まさご》の如くなりて量ることも数ふることも得ざるぺし。而して前には「汝等我民に非ず」と言はれし其処に於て「汝等は活ける神の子なり」と言はるべし。斯くてイスラエルの子等とユダの子等とは共に集まり、一人の首《かしら》を立てゝ其地より上り来らん。ヱズレルの日は大なるべし。汝等の兄弟に向ひてアンミと言へ、汝等の姉妹に向ひてルハマと言へ。

(219) 棄られし民は拾ひ上げられ、育《そだて》られ、繁殖し、活ける神の子として養はれ、而して一時は分離せしユダとイスラエルとは一団となりて一人の首に率ゐられて帰り来るべし。其時ヱズレルは審判の野に非ずして、其字義通りにヱホバの播き給ひし園と化すべし、而して人々相互をアンミ(我民)またルハマ(憐まる)と呼ぶであらうと。

〇審判に姶つて救拯に終る。預言書を始終一貫する主張は是れである。之を預言の基調と云はん乎。

   我れエフライムに獅子の如くならん

   ユダの家に若き獅子の如くならん

   我は、然り我は抓劈《かきさ》きて去らん

   掠め往きて救ふ者なかるべし。

   我は往きて我が処にお帰らん

   彼等其罪を悔ひて我面を求むるまで来らじ。

   彼等は艱難の故に我を尋ぬるならん。

 

   来れ我等ヱホバに帰るべし

   彼れ我等を抓劈きたれども医《いや》し給はん

   我等を撲《う》ちたれども傷を包み給はん

   彼は二日の後に我等を活かし

   第三日に我等を起《たゝ》せ給はん(五章十四節-六章二節)

(220) 茲に審判悔改救拯と三綱領揃ひたる小預言がある。

〇そして救拯は凡ての場合に於て如斯くにして行はる 審判が行はれずして救拯は無い、同時に審判は滅亡として終らずして救拯に終る。神は愛なるが故である。愛なるが故に必ず罪を看逃し給はない。「罰すべき者をば必ず赦す事をせず」とある(出埃及記三十四章七節) 重き物が地に着くが如くに、審判は必ず救拯に終る。|何が確実であるとて神に打たれし後に医しの来る事程確実なる事は無い〔付○圏点〕。ホセアは克く神の此御心を解した。此は真の父の心、真の夫の心である。怒りは愛の故に怒る時に最も激しくある。而して其去るや速かにして其終りや美はしくある。何故に爾うある乎我等は其理由を知らない。我等は人生の実験として其事を知る。

   ヱホバの怒は唯|暫時《しばし》にして其恵は生命《いのち》と共に永し

   夜は夜もすがら泣き悲しむとも朝《あした》には歓び歌はん

 愛の怒と其の結果とは凡て如斯しである(詩篇卅篇五節)。五月十三日 〔以上、8・10〕

 

     其五 人の愛と神の愛

 

   我民は|ともすれば〔付ごま圏点〕我より離れんとす、

   人、之を招きて上に在る者に属《つか》しめんとするとも

   身を起す者一人だになし。

   エフライムよ我れ争《いか》で汝を棄んや、

   イスラエルよ我れ争で汝を附《わた》さんや、

(221)   我れ争で汝をアデマの如くせんや、

   争でゼホイムの如くせんや。

   我心我衷に転《かは》りて我|愛憐《あはれみ》尽く燃え起れり、

   我れ我が激しき震怒《いかり》を施すことをせじ、

   我れ重ねてエフライムを滅すことをせじ。

   我は人に非ず神なればなり、

   我は汝の中に在す聖者なり、

   寛恕をもて臨まじ。ホセア書十一章七-九節。

 

   天の地よりも高きが如く

   ヱホバを畏るゝ者に彼が賜ふその愛憐《あはれみ》は大なり。

   東の西より遠きが如く

   彼は我等より我等の愆《とが》を遠け給へり。

   父が其子を憐むが如く

   ヱホバは自己《おのれ》を畏るゝ者を憐み給ふ。詩篇百三篇。

   キリストは我等の猶ほ罪人たる時我等の為に死たまへり、神は之によりて其愛を彰はし給ふ(ロマ書五章八節)。

(222)   我等神を愛するに非ず、神我等を愛し、我等の罪の為に其子を遣はして宥《なだ》めの祭物《そなへもの》とせり、是れ即ち愛なり(ヨハネ第一書四章十節)。

〇人は自《おの》づから自己を以つて神を揣摩し奉る、そは彼は神の像《かたち》に象《かたど》りて造られたる者であるが故に、自己に在る者は神に在ると思ふからである。神は人の如くに愛し赦し怒り給ふと思ふは自然である。故に云ふ「人の信ずる神は其人の如し」と。更に云ふ、「神が人を造りしに非ず、人が自己の想像に循つて神を造つたのである」と。人の神は其理想である、人は神を拝すると称して実は己が理想を拝しつゝあると。

〇預言者ホセアも亦初めは己が実験に依つて神を識つた。彼は己が家庭の不幸に由つて神の苦痛《くるしみ》を知つた。彼の妻が彼に背きしやうにイスラエルは神に背いた。イスラエルの背信は不貞の罪、姦淫の罪であるを知つた。そして彼が彼の妻に対して怒りしやうに神がイスラエルに対して怒り給ふを知つた。彼は大体に間違はなかつた。神を識るに身の実験ほど確実なるものはない。子を持つて知る親の恩である。人生の凡ての実験は神を識る為に必要である。ホセアは彼の家庭の辛き実験に由つて人一倍に神の深き御心を知る事が出来た。

   汝等の母とあげつらへ、論弁《あげつら》ふて止む勿れ、

   彼女は我妻にあらず我は彼女の夫にあらざるなり……

   我れ彼女を剥《はぎ》て赤体《あかはだか》にし其|生出《うまれいで》たる日の如くし

   また荒野の如くならしめ潤《うるほひ》なき地の如くならしめ

   渇きに由りて死なしめん(二章二、三節)。

 此は預言者が己が嬬に対して述べし言葉を神に移して語つたのである。ホセアは神の悲痛《かなしみ》を己が悲痛として感(223)じ、己が持たせられし経験に由り神に代りて語るの資格を与へられたりと思うた。

〇如此くに思ふて彼は半ば中《あた》りて半ば外《はづ》れた。彼は神は自己に似て遥かに自己以上である事を知らしめられた。彼の愛情は深刻であつたが、到底神の愛に比べやうも無き事を覚つた。神は預言者が其背ける妻を怒るが如くに背けるイスラエルを怒り給うた。然し乍ら|預言者が赦し能はざる所を神は自由に赦し給うた〔付○圏点〕。ホセアの妻ゴメルに其夫に赦さるべき何の理由もなかりしが如くに、ヱホバの民イスラエルに其神に赦さるべき何の理由もなかつた。然るに神は預言者をして其民に宣べて告げしめ給うた。

  |ヱホバ言ひ給ふ〔付△圏点〕、その日には汝再び我をバアル(主人)と呼ばずしてイシ(我夫)と呼ばん……我れ我が為に彼を地に播き(ヱズレル――ヱホバ播き給ふ者)、憐まれざりし者を憐み、我民ならざりし者に向ひて「汝は我民なり」と言はん、而して彼等は「汝は我神なり」と言はん(十六、二三節)。

 「我れ我が為に」である、|イスラエルに憐まるべき資格今は全く絶えたりと雖も、神は御自身の愛の為に、抑へられぬ愛の故に、此の愛するの価値なき民を愛せんとの事であつた〔付○圏点〕。ホセアは神の此|告知《しらせ》に与りて初めは之を肯《うけが》はなかつたであらう。そして神の聖旨《みむね》なるを知りて自己に逆《さから》ひて之を伝へたであらう。恰かも預言者ヨナが異邦ニネベの市の罪の赦しを伝へねばならなかつたと同じ立場に置かれたであらう。茲に至つて彼は悟つたのである、人は神の御心を忖度してはならない、天の地よりも高きが如く神の思念《おもひ》は人の思念よりも高くある。神は人の赦し得ない罪を能く赦し給ふ。人の愛は決して神の愛の標準に非ず。神が御自身の為に愛を施し給ふ時に、其愛は人の凡て思ふ所に過ぎて無限であると。ホセアは茲に神の愛に就て新たに知る所があつた。五月二十日

 

(224)     其六 神に効ふべし ホセア書第三章。

 

  愛する者よ、如此く神我等を愛し給へば我等も亦互に相愛すべし(ヨハネ第一書四章十一節)。

  汝等愛せらるゝ子供の如く神に効ふべし、また愛を以て行ふべし、キリストの我等を愛し、我等に代りて己を礼物《そなへもの》となし、犠牲《いけにへ》となして神の前に馨ばしき香《にほひ》あらしめんとて献げ給ひしが如くすべし(エペソ書五章一、二節)。

〇人は人を愛して神の愛を知るのである。愛なき者は神を知らずであつて、愛なき者が神の愛を知り得やう筈がない。其意味に於て罪の赦しに関はるイエスの教は真理である(馬太伝六章十四、十五節)

  汝等もし人の罪を赦さば天に在す汝等の父も汝等の罪を赦し給はん。然れど若し人の罪を赦さずば汝等の父も汝等の罪を赦し給はらざるべし

と。神は彼を拝する人に循つて御自身を顕はし給ふ。

  汝は憐愍《あはれみ》ある者には憐愍ある者となり

  僻《ひが》む者には僻む者と成り給ふ

とあるが如し(詩十八篇二五、二六節)。

〇然し乍ら神の愛は人の愛を以て量る事は出来ない。神は単に人を拡大したる者でない。人は愛を以つて神を識つて神より愛を学ばなければならない。其事を最も確然《はつきり》と実験した者は預言者ホセアであつた。彼は己が愛に由て神の愛を知つた。人が其最愛の妻を愛する愛を以つて神が其民を愛し給ふを知つた。然るに彼の妻が彼に背き、(225)其愛を他に転《うつ》せし時に、彼の愛は憎みに変じ、茲に夫婦の愛情は絶えて、彼女は最早彼の妻に非ず、彼は彼女の夫たらざるに至つた。そしてヱホバも亦其如くに其民を扱ひ給ふならんと思うた。然るにヱホバがホセアをしてイスラエルに告げしめ給ひし言は全然預想の外であつた。「我れ我が為に公義と公平と慈愛と憐愍とを以つて再び汝を娶らん」との事であつた(二章十九節)。ホセアは茲に彼が到底及ばざる愛をヱホバに於て発見した。|人の愛には限りがあるが神の愛には限りの無い事を発見した〔付○圏点〕。神が御自分の懐き給ふ愛の故に愛し給ふ時に、如何なる悪人も其愛に洩れない事を発見した。茲に於てか預言者の人に対する愛が一変した。そして其新らしき愛が先づ彼に背きし彼の不貞の妻に対して現はれた。

〇ヱホバの言は再びホセアに臨んで云うた。

  我れヱホバに愛せられながら彼に背きて他神《あだしがみ》に事ふるイスラエルの民を我が愛するが如くに、汝も亦汝に愛せられながら他の人に往きて姦淫を行ひし汝の前の妻たりし婦人を愛せよ(三章一節)

と。此は預言者に取り服従し難き命令であつた。然し今に至り之を拒む事が出来なかつた。故に銀十五枚と大麦一ホメル半とを以つて彼女を其持主より贖ひたりと云ふ(彼女の堕落や思ふべし)。然れども縦へ預言者なりと雖も此れ以上に彼女を愛する能はず、彼女を贖ひて彼女と同棲せずして彼女をして独り別れて居らしめたりと云ふ。此は此場合に於てホセアの取り得る唯一の途であつて、彼に対し深き同情なき能はず。

〇即ちホセアは茲に於て神に効うたのである、神に|真似る者〔付ごま圏点〕(ギリシヤ語のミメータイ)と成つたのである。|人を標準とせずして神を標準として行つたのである〔付○圏点〕。赦すべからざるを赦したのである、亦|赦し得た〔付△圏点〕のである。そして新たに神の愛を知つてイスラエルの将来につき赫々たる希望を抱き得るに至つたのである。民の現状を観れば(226)絶望、其罪は限りなし、其堕落や底止する所を知らず。前を見ても失望、後を顧みても失望、然れども、嗚呼然れども上を仰げば神の愛の無限無窮なるあり。|希望はヱホバに存す〔付○圏点〕、彼は己が故に己が造りし者を棄たまはず最後に之を救ひ給ふと、ホセアは終に斯く信ずるを得たのである。

〇ホセア然り、我等また然らざらん乎。人を標準として、縦し其人が世が聖人又は大教師として仰ぐ者であらうが、人を標準として我等は行ふてはならない。|クリスチヤンは神に効ふ者である〔付○圏点〕、神に真似る者である。神を師表として仰ぐ者である。そして神が其量るべからざる愛の故に我が罪を赦して下さつたが故に、我も亦其愛に効ひて凡ての人を赦し愛せんとする者である。神以下の者を師表とする人の道徳は知るべきのみ。所謂倫理道徳が実際道徳として甚だ微弱なるは是が為である。イエスが曰ひ給ひしが如く「預言者の書《ふみ》に人皆な教を神に受けんと録されたり」とある、其事が実現する場合にのみ高き道徳が実際に行はるゝのである(ヨハネ伝六章四十五節、イザヤ書五十四章十三節)。

〇ヱホバがイスラエルを愛し給ひし愛は分外、失当、過当の愛である。理由の無い愛と称して可からう。人の眼を以つて見て説明の出来ぬ愛である。然し親が子を愛する愛は此種の愛である。正義もある、勿論ある。震怒《いかり》もある、|然れども其下に無限の愛がある〔付○圏点〕、そしてやがては此愛が審判に勝つて最悪の罪人までが救はるゝのである。神の愛は不可解であると云へば夫れまでである。然れども万物が其愛の呑み尽す所となるのであつて、|愛すべき不合理である〔付ごま圏点〕。五月二十七日

 

     其七 曠野の囁き ホセア書二章十四-十六節

 

(227)   それ故に視よ我れ彼女を誘ひて曠野に導き

   そこに彼女の心に囁《さゝや》き語らん。

   そこを出るや我れ彼女に其葡萄園を与へん

   アコル(患難《なやみ》》の谷を望の門となして与へん。

   彼女はそこに歌はん彼女の若かりし時の如くに

   エジプトの国より上り来りし時の如くに歌はん。

   その日には汝再び我をバール(主人)と称ばじ

   我をイシ(我夫)と呼ばんとヱホバ言ひ給ふ。

〇是は神とイスラエルとの関係を述べたる恋愛の言葉である。聖書は此関係を述ぶるに恋愛の言葉を用ひるに躊躇しない。キリストは花婿であり教会は花嫁であると云ふが夫れである。ソロモンの雅歌はユダヤ人が見て以つて聖書の最高点と見做す者であるが、夫れが濃厚熱烈なる恋愛文学なるは人の能く知る所である。我等は聖書に於て文字通りの|恋愛の神聖〔付○圏点〕を見るのである。神に在る此愛が人に現はれて夫れが恋愛と成つたのである。そして預言者ホセアは神の此愛を、即ち神の恋愛を人に伝へたのである。

〇「それ故に」。イスラエルはヱホバを離れて他の神に往きて真の神を忘れたれば、|それ故に〔付ごま圏点〕。「視よ」勿驚。ヱホバも亦イスラエルを棄て彼を忘るゝが当然なりと雖も、驚く勿れ、神は人と異り、自己を離れし者を取戻さんとて労し給ふとの事である。

〇彼女を寂《さび》しき曠野に誘《おび》き出し、其処に彼女の心に優しき言葉を囁き給ふと。叛けるイスラエルを再び己が有《もの》と(228)為さんとて世の恋人が取る途を取り給ふとの事である。そして其通りにヱホバは行ひ給うた。彼はイスラエルを曠野に伴れ出し給うた。それは異邦であつた、異邦に俘囚たる事であつた。そして故国を離れ、其悪しき習慣と周囲とを離れ、歓楽尽きて寂漠に堪ふる能はざるに至りし時に、ヱホバは彼女に再び現はれて彼女の心に旧き愛を囁き給うた。ホセアが預言せし北方のイスラエルに取り南方のユダヤの場合の如くに、此預言は明確に適中せざりしと雖も、彼等が逆境の曠野に誘き出されて其処に新たにヱホバの愛を知るに至りしは疑ふべくもない。曠野を離れてイスラエルの歴史なしと言ふが、孤独寂漠の曠野に入らずして人は何人も〔付○圏点〕神の愛を識る事は出来ない。

〇曠野に入りて神の細き静なる声を聞き、其処に其古き愛を確められてより、イスラエルは復たび其失ひし葡萄園(国土)を与へられ、更に又アコルの谷、患難の谷、涙の谷を希望の門となして与へられんとの事である。アコルの谷に就てはヨシユア記第七章を見るべし。神に叛きて国を逐はれ、曠野に彷徨《さまよ》ふて其処に復たび彼に還り、復たび神を獲て再び国土を与へられ、更らに事の此に至りしまでの患難其物までが希望の基《もとゐ》となるべしとの事である。神を失ふて諸物《すべて》を失ひ、神を取返して諸物《すべて》を取返し、而已ならず患難《なやみ》悲痛《かなしみ)までが希望の歌と化すとの事である。人生の実験其儘である。イスラエルの実験が凡ての国民の実験であつた。凡て神を信ずる者の実験であつた。

〇神に誘《おび》き出されて曠野に入り、其処に彼に会ひ、彼に子として又は妻として認められて、失ひし物を復たび与へられ、悲痛《かなしみ》は転じて歓喜《よろこび》と成る。其時讃美の声が揚る。「彼女の若かりし時、彼女がエジプトを出し時に彼女が歌ひしが如くに歌はん」と。事は出埃及記十五章に詳かである。イスラエルの民が紅海を横断してシナイの(229)地に上りし時に、モーセ及びイスラエルの人々は歌をヱホバに謡ふて曰うた、

   我れヱホバを歌ひ頌めん彼は高く挙げられ給へり。

   彼は馬と乗者《のりて》とを海に擲《なげう》ち給へり

と。此は彼等に取り信仰高潮の時であつた。恰かも花嫁が花婿の家に輿入りする時の歓喜《よろこび》であつた。そして一たび叛きしイスラエルが復びヱホバに嫁入りする時に此歓びあるべしとの事であつた。

〇そして此再嫁の喜びは民が求めて来るに非ずして、神が其無限の愛よりして其民を愛し給ふより来るのである。|彼れ我を忘れしが故に我れ彼を愛せん〔付△圏点〕と云ふのである。Amazing Love 喫驚《びつくり》させる愛とは是れである。而かも其愛は曠野を通うして来るのである。曠野に孤独の旅路を辿り、悔恨《くやみ》の涙に袖を潤し、我神恋しとの痛感に我心を傷めし後に来る。喜びは朝来るが、其前に夜は終夜《よもすがら》泣き通さゞるを得ない。

〇神に結ばれて人は再び彼をバール(主人)と呼ばずしてイシイ(我夫)と呼び奉る。天帝、造物主と呼ぶは敬して彼より遠かるの途である。我父、我夫と呼びて彼に近づきまつらねばならぬ。神がキリストに在りて我等を御自身に近づけ給ふ時に我等は遠くより彼を拝し奉らない、彼の懐に入りて彼の恩寵に与る。宇宙万物の造主が我父と成り我夫と成る。大帝を我父と呼ぶ以上の特権である。真のクリスチヤンに凡て此実験がある。そして此特権に与る為の曠野の彷徨《さまよひ》である。懲誡《こたしめ》の鞭である。人生の凡ての苦痛《くるしみ》を此の意味に解する事が出来る。愛の神が己が造りし人類を復び己が民となして之に恩恵を注がん為に、其手段として下し給ふ苦痛である。六月三日

 

(230)     其八 民と其祭司 ホセア書第四章

 

  イスラエルの子等よヱホバの言を聴け、ヱホバは此|国民《くにたみ)と争論《あらそ》ひ給ふ。そは国に誠実なく愛情なく神を知る事なければ也。詛ひと偽はりと凶殺と盗みと姦淫とのみなり。彼等は境を越え血は血と相接す。此故に地は憂に沈み民は衰ふ、野の獣《けもの》も空の禽も亦然り。然り海の魚も亦絶えん。《(一-三節)

〇言葉は簡短である、然れども意味は深遠である。国乱れてヱホバは民を離れて彼等を真理の法廷に訴へ給ふと云ふのである。イザヤ書第一章と趣向《おもむき》を共にする。民は神を知らず、其結果として衷に誠実なく愛情なく、外には隣人相互に詛ひ偽はり殺し盗み姦淫す。道義律法の境を越えて生存競争は到る所に行はる。此故に国土は憂へ国民は衰ふ。衰退の状、畜類にまで及ぶ、海の魚も亦絶ゆと。即ち人は万物の中心であつて、人衰へて万物共に衰ふ。そして人の中心は其心であつて、人の心に誠実絶えて社会は乱れ国は亡ぶ。そして心に誠実と愛情とを起す者は神を知るの知識である。神を知る事なきに至つて個人も社会も国家も国土の産に到るまで悉く衰へ終に亡ぶと云ふのである。預言者の倫理、社会観、国家観、天然観、悉く収めて此等数節に在りと謂ふべきである。

〇哲学者ヘーゲル曰く、「国の運命は其民の神に関はる思想に由て定まる」と。民は其拝する神の如しと云はん乎。低く神を解する民は低く、高く神を解する民は高し。近代人は神は最後に解すぺき者、亦解するの必要なき者なりと云ふと雖も、預言者ホセアは哲学者プラトーと同じく、神は最初に、第一に解すべき者、神を知るの必要は人生第一であると唱へた。神を知つて万事悉く可なり、知らずして悉く非なりと教へた。其点に於て古人は正しく今人は誤つてゐる。ヱホバを知るは智慧の初めである。神を知るの知識なくして道徳も政治も殖産も無しと云(231)ふ。海の魚も亦絶ゆと云ふ。

〇そして是れ迷信に非ず、独断的教義に非ず、人類の歴史に由て充分に証明されたる事実である。個人道徳社会道徳、国家道徳が純良なる宗教なくして成立する能はぎるは言ふまでもない。それが故に殖産衰へ、物資減じ、海の魚までが絶えた例は決して尠くない。多分人間の感化の達せざる所とて大海の如きはない。縦し人類は陸を荒し尽すと雖も、海丈けは天然の儘にて残るであらうと大抵の人は思ふ。然れども事実は然らずである。人の罪悪の結果は海にまで及ぶのである。「神を知る事なし、其結果として海の魚絶えん」と云ひて決して迷信を語るのでない、真面目なる事実を語るのである。神を忘れたる欧洲の猟師は北大西洋並に北氷洋より貴重なる鯨類を殆んど絶《たや》したのである。一時は国家を建つるに足ると思はれし鰊は頓《とみ》に減じて、和蘭、英国等は狼狽《あわて》て其保存蕃殖を講ずるに至つた。米国の東海岸に於て海老類の絶ゆるの虞れあり、其保存の為に特別の法律が設けられた。そして海産物減退は我国に於て最も甚しくある。石狩の鮭の収獲は五十年前の十分の一に過ぎない。後志の鰊漁の衰退甚しくして一村為に餓死に瀕せりとの報あり。其地全国に渉り鰹、鰯の減少甚しく、網を廃せし所多し。堕落は濫漁となり、濫漁は絶種となる。人類の水産歴史は水産国ならざりしイスラエル国の預言者ホセアの言を証明して余りがある。

〇それ故に国家に祭司が必要なのである。祭司は民に神を教ゆる者である。故に祭司が堕落して、無学であつて民は衰へ国は亡びざるを得ない。ヱホバ宣はく

  我民は知識なきに由りて亡ぼさる、汝、知識を棄るに由りて我も亦汝を棄て我が祭司たらしめじ、汝、己が神の律法を忘るゝに由りて我も亦汝等の子等を忘れん(六節)

 

 

 

 

 

 

(324)「人は其友に由つて知るを得べし」との諺があるが、「人は其|敵〔付○圏点〕に由つて知るを得べし」とも言ひ得る。エサウを知るはイスラエルを知る為に必要である。オバデヤ書の価値は茲に在る。ヱレミヤ記四十九章七節以下、エゼキエル書廿五章十二-十四節も亦之が為に研究を要する。

〇エドムは地名である。新約聖書時代にイヅーミヤと称ばれた。嬰児《をさなご》イエスを殺さんとせしヘロデ大王はエドム人であつた。エドムは死海の南端より紅海の東叉アカバ湾の頭に至るまでの地の総称であつて、南北百哩、東西三十哩乃至五十哩に渉る地域を指して云うた。其地位より云へば古代の文明世界に於て貿易上最も有利の処に在つた。地中海沿岸と紅海印度洋沿岸との貿易はエドムを通過せざるを得なかつた。ツロ、シドンの商人にしてアラビヤ、印度、束方アフリカの産物を獲んと欲せばアカバ湾の北に尽くる所のエドムのエジオンゲベル港に依るより他に途がなかつた。エルサレムに栄華を極めし大王ソロモンがオフルの地より金を輸入せしも此途に依つたのである。列王紀略上九章廿六節に曰ふ

  ソロモン王エドムの地紅海の浜に於てエラテの辺《ほとり》なるエジオンゲベルにて船数隻を造れり………彼等オフルに至り其処より金四百二十タラントを取りて之をソロモン王の所に持来る

と。其他象牙、猿猴及び孔雀などをも此途を経て印度地方よりヱルサレムに輸入したりと云ふ(十章二二節) 以つてエドムの地が南北貿易の要路に当りて如何に枢要なる地位を占めし乎を覗ふ事が出来る。そして之に加ふるに亦東西貿易があつた。アラビヤ内地の商人にして当時文化の中心たりしエジプトに貨物を送らんと欲せば、砂漠の舟と称せらるゝ駱駝の背を藉りて、之れ亦アカバ湾頭を経て送るより他に途がなかつた。故にエドムのエジオンゲベルは当時のせ界貿易の十字街に当り、海には舟を浮べ、陸には駱駝を駆りて、百貨輻湊の盛況を呈した(325)のである。此地位に在りしエドムは坐して世界の商権を握り、富は自《おのづ》から其懐へと流れ込んだのである。世に若し幸運の国があつたとすればそれはエサウの子孫が築きしエドムであつた。

〇好き地位と共に好き地形を以つて恵まれた、エドムは山嶽起伏の国であつた。故に入るに難くして防ぐに易くあつた。其都市は凡て山中懸崖の間に築かれた。セラ、ボズラ、テマン等は凡てそれであつた。そして其家屋は主として岩石に彫込《きぎみこ》まれた巌窟であつた。故に三千年後の今日と雖も猶其元形を存して変らない。今やオバデヤの預言の通りに民は絶たれて其跡を留めずと雖も、「山崖《がけ》の巌屋《いはや》」は依然として存して古きエドムの栄葦を語るのである。そして其上にかてゝ加へて、山間の地は沃饒であつて凡て必要なる食糧を産した。四通八達の地に在りて、安全無比、生活自足と云ふのであつた。此んな完全なる国土とては世界に二つとは無かつた。而かも|時到ればエドムも亦亡びたのである〔付△圏点〕。(十月二十一日) 〔以上、11・10〕

 

     其三 テマンの智慧負け オバデヤ書八、九節。

 

〇地の利を占め、地形の宜しきを有して、エドムは座して此世の凡ての恩恵に与つた。世界の富は自から此の山国へと流れ込んだ。そして富あり平安ありて知識は発達せざるを得ない。民はユダヤ人と同じくアブラハムの子孫である。才能第一と称せらるゝセム民族の一派である。彼等の間に深き知識の発達を見しは怪むに足りない。エドムは智慧を以つて世界に鳴るに至つた。アテンスが未だ世界知識の中心と成らざりし前に、キリキヤのタルソにギリシヤ風の大学起りて、パウロと同時代の人にてアセノドラスと称ばれし大学者を産出せしより遥か一千年も前に、死海の南岸、エドムの東北テマンの地に学問は盛んに攻究せられ、人生天然の諸問題は識者の議題と