内村鑑三全集33日記一、岩波書店、466頁、4300円、1983.5.24
日記一
目次
凡例
一九一八年(大正七年)‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥3
一九一九年(大正八年)‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥53
一九二〇年(大正九年)‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥195
一九二一年(大正一〇年)‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥333
日記一 【一九一八年(大正七年)八月より 一九二一年(大正一〇年)二月まで】
一九一八年(大正七年) 五八歳
『聖書之研究』219号、10月10日
斯かる者を書き始めて見た「毎月二十六日より翌月二十五日に至るまでの余の生涯の日々の記録である、若し読者を益するならば之を続ける、益さないならば直に廃める、試に二三回続けて見る。
八月二十六日(月)晴 此日まだ軽井沢ピヤソン氏方に居つた、午前二三の米国宣教師を訪問し午後二時の汽車で帰途に就いた、何だか一寸洋行したやうに感じた、洋食を食ひ、英語で話し、英語で演説まで為して何んだか三十年前の昔に帰り、ボストンかヒラデルヒヤに居つたやうな心持がした、而して余は再び洋行は為ない積りであるから四五年に一度位ひ軽井沢に行いて外国人の生活に親しむのも悪くはあるまいと思ふた、然し一日三度の洋食と寝床《ベツド》と英語とは余の耐へ得ない所である、余はやはり日本と日本人の生活とを愛する、夜八時半頃柏木の純日本式の家に帰つた。
八月二十七日(火)晴 「洋行中」に届きし手紙を処分した、随分の仕事である、四日間の不在が其前後の仕事にさし響くこと尠くない、而して雑誌の原稿〆切りが目前に逼つて居るのである、気が気でない、「洋行」はする者でない。
(4) 八月二十八日(水)晴 一生懸命で原稿に取掛つた、然し熱くつて思ふやうに書けない、演説は執筆には甚だ毒である、然るに今の伝道たるや主として語る事であるが故に書く事に同情を持てる人は滅多にない、大抵の伝道師は働く事と云へば語る事であると思ふて書く事の苦労を知らない、斯かる人等と伝道を共にする記者の苦心推察すべしである、而して余は飽くまでも書く事第一にして語る事を第二又は第三にする者である。
八月二十九日(木)晴 残暑を冒して原稿製作を続けた、実に辛らい事である、是れ皆な北海道並に軽井沢の祟であると思へば止むを得ない、幸にして藤井武君の大に余を援けらるゝあり 斯かる場合に君なかりせば『聖書之研究』は出ないのである、主筆も読者も深く藤井君に感謝せざるを得ない。
八月三十日(金)暴風雨夜に入りて晴る 漸くさつと原稿を書き上げた、聊か安心した、午後京都青木庄蔵君の来訪あり、夜有志の同君歓迎会が今井館に於て開かれた、青木君は君が再臨運動に加はるに至りし理由並に経路に就て語られ、一同君に和し、関東関西の同信の友今より力を協《あは》して働くべき事に就て語つた。
八月三十一日(土)晴 午後山室軍平氏の紹介に由り宮城女学校前校長にして一時帰国中なりし S・L・ワイドナー女史の訪問を受けた、彼女は日本国を愛すること強く、其一生を此国の為に尽さんとて再び来朝せられたのである、活溌なる正直なる、殊に又熱心なるキリスト再臨の信者なる事を見受けた、我等は初めて会して旧き友人であるかの如くに感じた、我等は引つ続きに三時間語つて尚ほ時足らず思ふた、余は神が此時に斯かる宣教師を再び日本に送り給ひし事を感謝した、余を知らざる宣教師等は余は宣教師の敵であると云ふ、然しそれは大なる謬《あやまり》である、余は宣教師の内に善き友人を有つた、又今尚有つて居る、余は信ず英米の宣教師にして日本武士(5)の心を解し得る者の甚だ稀れなることを、彼等の多くは唯 yes,yes《イエース /\)、と言はれんことを好んで、時たま大胆に No! と言ひ得る人があれば、其人は粗暴なる人である乎の如くに思ふ、余も亦キリストの僕《しもべ》である、故に正直なる公平なる謙遜なる忠実なる人は宣教師と雖も衷心より之を敬愛せざを得ない。
九月一日(日)晴 此日久し振りにて柏木に於て講義した、題をテモテ後書四章十三節に取つた、「汝来る時我がトロアスにてカルポの所に遺しゝ外衣《うはぎ》を携へ来れ」と老使徒は其弟子に書き贈つて言ふた、パウロの最期の状態を想ひやりて同情の涙禁じ得なかつた、青年時代に読みしカノン・フハラーの保羅伝が今に至りて余に用《よう》を為したのである、若し使徒パウロが今生きて居たならば彼は毎年軽井沢に於て避暑するであらうかと思ふた。
九月二日(月)晴 久し振りにて市中に行いた、汗と埃と厭気《いやき》に塗《まみ》れて帰て来た。瑞西《スヰツル》の学者ガウソンの旧著 Theopneustia を読み始めた、大に教へらるゝ所がある、偉大なる哉瑞西国、余は此小共和国に負ふ所甚大である、余の青年時代を天然に導きし者はルイ・アガシとアーノルド・ギヨーであつて彼等|両人《ふたり》ながら瑞西人であつた、而して余が瑞西の聖書学者ゴーデーに負ふ所多きは人の能く知る所である、カルビンを迎へし瑞西は永久に恵まれよかしである。
九月三日(火)晴 暑気猶ほ強し、雑誌校正最中である、在|紐育《ニユーヨルク》の友人より米国組合教会機関雑誌誌『コングリゲシヨナリスト』三冊を送り来る、孰《いづ》れも基督再臨反対号である、ユニオン神学校のブラウン博士、エール神学校の C・R・ブラウン博士、同ウォルカ一博士、孰れも反対の気焔を吐いて居る、依て知る組合教会は全体に再臨反対なるを、而して是等米国大博士の唱ふる所に日本に於ける反対論者の唱ふる所以外のものは見当らないの(6)である、大博士恐るゝに足らずである。
九月四日(水)晴 秋冷到り読書力大に増加す。ヒッバート雑誌七月号にツルーベツコイ公の「苦痛の意味」を読み大に感ずる所があつた、彼は曰ふ「歓喜の極は|歓喜の涙〔付●圏点〕である、而して歓喜の涙は苦痛が歓喜に化する時に流る」と、実に爾うである、苦痛を経由せざる歓喜は浅き歓喜である、死別の後に来る再会、それが歓喜の極である、失敗が成功として現はるゝ時に、其時に感謝の涙が零《こぼ》れる、エリエリラマサパクタニの声を発して後に始めて見神の歓喜がある。
九月五日(木)晴 家の青年が満洲旅行を終へて帰り其語る所を聞いて喜んだ、彼地に於ける多の教友が余を迎ふる心を以て彼を迎へられしを聞いて感謝に堪へない、彼は実《まこと》に幸福児である。終日信仰の生涯に就て考へた、我が義たり聖たる所のイエスを信ずる事是れ我が事業である、故に病床に臥する時も炎熱に苦しむ時も我は我が事業に従事する事が出来る、即ちイエスを信ずる事が出来る、我は今日の教会の事業事業と叫ぶ其信仰に服する事は能《でき》ない。蘇格蘭土の大思想家デビツド・ウルクハート曰く「余に取りては人一人は大宇宙なり」と One living soul is to me the universe.実に偉大なる言である、人一人を感化し之を義の人となすは大宇宙を改造する丈けの事業である、到底人力を以て為す能はず全能の神のみ能く此事を為すことが出来る、イエスは能く此事を知り給ふた、然るに今日の伝道はいかに? 人を塊団《マツス》として扱ひつゝある、大宇宙を塊団《マツス》として改造せんとしつゝある、狂か愚か?
九月六日(金)晴 秀英舎に往き雑誌校正を了る。此日五六人の来客あり、内に左近義弼君夫妻ありて我等は(7)育児法と玄米食とに就て語つた。初めてスコーフィールド編対照聖書を読んだ、実に有益なる書である、今日まで之を手にせざりしを悔いた、此書に教へられて終日「ユダヤ人の王なるイエス」に就て思ふた、馬太伝は預言者等の預言せるユダヤ人の王として生れ給へるイエスの伝記として見て最も明瞭に解することが出来ることが解《わか》つて感謝した。
九月七日(土)晴 家の主婦を青年に送らせて山に送つた、彼女に暫時の休養を与へんためである、日本婦人に取りては夏は冬の準備のために多忙である、「彼女は家人のために雪を恐れず」と箴言三十一章にあるが如しである、彼女が暑中に怠けて家人一同雪を恐れざるを得ない、而して冬と雪とに対する準備既に成りたれば我等は強て彼女を山に遣りて彼女に暫時の休養を取らしめたのである、人の山を去りたる頃ならでは山に行く能はざる我等は実に福《さいは》ひである。
九月八日(日)晴 残暑猶ほ強し、然し来会者多く、善き集会であつた、「羅馬教会の建設者」と題し羅馬書十六章一-十六節に就て講じた、此大教会の基礎を据えた者は使徒等ではなくしてプリスキラ、アクラ等の平信徒であつた、大福音がたしかに此一章の中に伝へられて居る。一方には戦争の拡大、物価の騰貴に由て人心は益々ザワ/\しつゝあるに対して、他の一方に於ては主の再臨を主題とする福音宣伝の為に同志一同活気立つて居る、戦争と福音、まことに善き対照である。
九月九日(月)雨 殆んど全日を手紙書きに消費した、内国人に外国人に、学者に平人に、限りなく手紙を書かねばならぬ、然かも大なる喜びであると同時に又善き伝道の機会である、手紙一本葉書一枚決してゆるがせに(8)すべからずである。此日又一人の其妻を失ひし人を見舞ふた、又多くの来客に接した、或人は大病院建設計画に就て、或る他の人は信仰箇条に署名するの可否に就て余の意見を聞く為に来た、甚だ多忙であつた、然し多少の読書を為した、アンダーソン氏の但以理《ダニエル》書論を読んだ。
九月十日(火)晴 雑誌九月号が出た、毎月《いつも》の通り祈祷を以て之を発送した、まことに不完全なる雑誌である、然れども神は之を完全に用ゐ給ふと信ずる、祈祷を以て書き、祈祷を以て校正し、祈祷を以て発送する、我が機関ではない、「彼」の機関である、「彼」が之を以て「彼」の聖意《みこゝろ》を読者に伝へ給ふと信ずる、紙価益々騰貴して次号より頁数を減ぜざるを得ざるを悲しむ、然れども神の言は簡潔である、字数の減少却て善き事であらう、聖霊の指導を要する益々切である。
九月十一日(水)好晴 昨夜遅く山に来た、空気軽く、谷風涼しく、読書慾|頓《にはか》に増した、ガウソンとツライチュケーとを読んだ、前者は聖書を弁護する学者、後者は独逸帝国を弁護する学者である、而して神を弁護するはたしかに国を弁護するに優さるの事業である、人の作り上げし大国家の草花の枯るゝが如くに亡び行くに比べて神の記し給ひし聖書は無窮に生存する、余はガウソンに傚《なら》ひてツライチュケーに学ばざりしを感謝する、「我は永《とこし》へにヱホバの宮に住まん」である。
九月十二日(木)半晴 真個の休日であつた、朝第一にイザヤ書第十一章にキリスト再臨の時の世界の状態に就いて読んだ、次にツライチユケーの戦争論を読んだ、彼は曰ふ「戦争なくして国家あるなし、吾人の知る国家といふ国家はすべて戦争に由て起りし者なり……戦争は神に由て定められし制度なり……戦争を世より絶滅せん(9)とするは無謀なるのみならず甚だ不道徳なり」と、斯かる学者の学説に授けられて成りし国家が今の独逸である、預言者イザヤに学ばずして独逸の国家学者に聴きて成りし国家は禍ひなる哉。
九月十三日(金)晴 昨夜旅館に三遊亭一座の講談の催《もようし》あり四十年振りにて之を聴いた、其変らざる能弁に驚いた、然し演題は依然として野卑である、然り不道徳である、我国倫理教育三十年の功績として改良の講談師の講談に及ばざりしを悲しむ、勿論娯楽に道徳を以てせよと言ふのではない、其無害にして優美《レフアインド》たらんことを欲するのである、醜行と不倫とに就て語るにあらざれば人を笑はす能はざるは低き拙き芸術である、日本にもセルベンテスやアンデルソンの輩の出る必要がある、笑はせながら慰め且つ教ふるの途がある、今や仏国戦場に於て有名なるハリー・ラウダーは彼の得意の可笑歌《コミツクソング》を以て聯合軍|豼貅数百万の頤《おとがい》を解きつゝある、深き温き基督教の我講演界に入らざるべからざるを感じた。
九月十四日(土)霧 夏が終つた、秋の仕事に取懸らねばならぬ、又元に還つて聖書の研究を始むるのである、演説と講演とは成るべく避くるのである、成るべく深く信じて成るべく静に働くのである、米国教役者等の流義に循つてワーク、ワーク(働け働け)と言ひて焦心奔走すべきでない、嗚呼忙がしい夏を過した事を悔ゆる、為すべからざる多くの演説と講演とを成せしを悔ゆる、余を演壇に引上げんとする友人(?)多くして余に静かなる時を与へんとする友人尠きを恨む。帰途高崎光明寺に先祖の墓を見舞ふた、前住職の遺族の貧困に泣くを見て同情に堪へず多少の慰安を与へて帰つた。
九月十五日(日)昨夜暴風雨 午前に至て晴る、好き安息日であつた、今井館は来会者を以て溢れた、前回に(10)引続き「羅馬教会の建設者」と題し羅馬書第十六章に就て講じた、講演終へて後に柏木兄弟団の署名式があつた、署名者九十余名、斯くて我等は内に堅く結び外に強く当らんと欲するのである、新たに教会を作つたのではない積りである、若し兄弟団が教会と化せし場合には之を壊《こぼ》ちて他に又新たに愛の兄弟団を起すべきである 主の為に共働せんための団体である、其他に目的あるに非ず。
九月十六日(月)快晴 愈々秋が来た、天下の秋が来た、軽井沢や日光に在る避暑客にのみ来る秋ではない、神の送り給ひし秋であつて天下万衆何人にも来る秋である、故に特に快いのである、今より大に読むべしである、大に書くべしである、又止むを得ざる場合に於ては高壇に上りて語るも辞さない、馬肥え我心も亦肥ゆ、碧空澄み渡りて我心の躍《おど》るを覚ゆ。
九月十七日(火)半晴 好き秋日和であつた、終日を手紙書と友人訪問に消費した、余の著書を丁抹語に翻訳して之を北欧人に紹介せしマリヤ・ウルフ女史の今年四月十八日に永眠せりとの報知を彼女の親戚に当る某女史より受取つた、余はウルフ女史に負ふ所が多い、近頃デンマルク人某に会ひし時に彼は真面目に余に告げて言ふた「デンマルク国にありては君の名は何《ど》の日本人の名よりも善く知られる」と、以て女史が彼国《かのくに》に在りて余の為に尽されし其度合を知ることが出来る、然るに今や此人亡し、此世は其れ丈け淋しくなつた、同時に又来らんとする神の国が其れ丈け慕はしく成つた。
九月十八日(水)雨後曇 村社の祭礼である、相変らず騒々しくある、我等は喜んで村費を負担する、然れども宗教的に又道徳的に何の意味も無い神社の祭礼に加はらない、祖先崇拝は善しとして何か意味のある者として(11)貰ひたきものである。此日福島県本宮町原瀬半次郎氏の訪問を受けた、正直なる正義に勇ましき愛すべき人である、彼は商人、我は士族上りの伝道師、而かも我等は十数年来肝胆相照らすの信仰上の友人である。
九月十九日(木)晴 南風にて蒸熱し、差したる事を為さず、自身のため他人のため小なる事を為せしのみ、然れども必要の読書は之を継続せり、殊にジエームス・H・ムールトン氏著「埃及の塵溜《ちりだめ》より」を読みて大に教へらるゝ所があつた、今や方法を講ずる者多くして真理を供する者尠き時に方て我等は零砕《れいさい》の時間を利用して新らしき智識を摂取すべきである、方法は拙《つたな》きも可なり、然れども真理は深遠ならざるべからず、読書豈怠るべけんやである。
九月二十日(金)半晴 聞く日本に於ける基督教会の合同は基督再臨並に聖書無謬説を信ずる者を除外して為されんとしつゝありと、誠に結構なる事である、斯くて余の如きは勿論除外せらるゝのであつて幸福此上なしである、俗化せる今日の教会と合同するは神と離絶するに均くある、彼等に除外せられて我等は神に受け納れらるゝのである、基督再臨を信ずるの利益甚だ多しと雖も今の教会に排斥せらるゝ事は其最も大なる者である、「天より声あり曰く汝等その中より出づべしと」、我等は此世に傚ふ今の教会より自から進んで出づべきであるに、彼等は我等の信仰の故を以て我等を彼等の中に受けざらんと欲す、何ものか之に優さるの幸福あらんやである(黙示録十八章四節)。
九月二十一日(土)曇 近頃木村清松君の再臨運動に対する態度の甚だ曖昧なるに由り書を贈りて其如何を問合せしに君より左の返辞が来た、
(12) 木村清松は主の十字架を説くべく恵まれたる人にて候、勿論再臨は木村清松の説く教の心髄骨子《しんずゐこつし》に候も少しく考ふる所有之候間中田兄や大兄との運動には暫らく参加申兼候間悪からず御思召被下度候。
去ると言ふならば止むを得ない、然し乍ら余の甚だ解し得ない事は「再臨は木村清松の説く教の心髄骨子に候」と明白に言ふ木村君が基督再臨の教は亡国的なり非聖書的なり非基督的なりと言ひて誹謗する組合の先輩方と運動を共にせらるゝ事である、自分の説く教の心髄骨子を非聖書的なり非基督的なりと誹る人等と運動を共にして福音師の地位が保てるものであらう乎、其事が余には解らない、斯く言ひて余は勿論木村君を恨むのではない、余は勿論木村君なくとも余の伝道を継ける事が出来る 然し乍ら木村君が余輩君の信仰の友を去りて君の信仰の敵と組みし給ふ其事が余にはどうしても解らない、伝道は情実の事ではない、又自分の便宜の為めではない、伝道は信仰の為である、然るに我が信仰を……而かも其心髄骨子を……嘲けり誹る人と与して其れで本統の伝道が出来るであらう乎、余には其事がどうしても解らない、木村君たる者は此事に関し長き間君を愛し君を信じ来りし余の心の疑問を晴らして給はるの必要があると思ふ。
九月二十二日(日)雨 秋期大運動第一回の聖書講演会を東京基督教青年会々館に於て開いた、来聴者五百名乃至六百名、盛会であつた、余は藤井武、平出慶一の両氏と共に登壇し、「聖書に対する吾人の態度」と云ふ題目に就て演じた、余は聖書は謬《あやまり》なき神の言であると断言して聖書有謬説を排して其理由二三を述べた、余の言は頗る激しくあつた、然し乍ら聖書を弁ずるに方て余は熱心ならざるを得ない、「爾の家を思ふ熱心我を食ふなり」である、余は聖書無謬説のために弁ずるを得て神に感謝する。
九月二十三日(月)雨 所謂「|青色の月曜日《ブルーモンデイ》」であつた、精神的疲労の結果万物が青色に見えると云ふ日であ(13)つた、日曜日の翌日は余は半病人である、而して斯かる特権に与ることを感謝しねばならない。此日多くの訪問者があつた、其内に宇都宮の青木義雄君、米国帰りの田島進君、横浜の斎藤梅吉君、京城の山県五十雄君があつた、而して又埼玉県粕壁町の信者二人来りて其地方に於ける教勢挽回策に就て相談を受けた、泣くべき事あり、憤るべき事あり、歎ずべき事あり、キリストの心を以て世に対し万事万物に深き感動が伴ふ、是れ又感謝すべき事であると言はねばならぬ。
九月二十四日(火)大暴風雨 家は動き家根は雨漏《あまも》り垣は倒れ戸は破る、脆《もろ》い我が生涯なる哉、天然は或時は残酷であるかのやうに思はれる、然し一年に一度の暴風雨《あらし》と思へば耐へ易く、暫時の仮の住居《すまゐ》と思へば意《こゝろ》に懸らない、来客なく校正と手紙書きとに平静なる一日を送つた。
九月二十五日(水)晴 大風の後の平静である、好き秋の日和《ひより》であつた、朝市中に二三の友人を訪《おと》づれた、其後差したる事を為さずして一日を送つた、信者に取り最も善き日は多くの事を為したる日ではない、最も深く主イエスを信じたる日である、何を為さずとも可いのである、彼を信ずれば足りるのである、信《しん》是れ最大の行《ぎやう》である、故に何をも為さゞる日、然り何をも為す能はざる日が多くの場合に於て信者に取り最も善き日である、主を信ずるの快楽、唯単に信ずるの快楽、信者は祈求《もとめ》て多く此快楽を取るべきである。
一日は一生である、善き一生がある如くに善き一日がある 悪き一生がある如くに悪き一日がある、一日を短かき一生と見て之を|ゆるがせ〔付ごま圏点〕にしてはならない事が解る。
(14) 九月二十六日(木)晴 十月号雑誌編輯に取掛り、原稿三分の二を纏めて印刷所に送つた。午後佐藤北海道大学総長の訪問を受けた、旧時と旧友に就て語つた、夜旧朝報社同僚二人と某所に会食し時事に就て語り衛生家事等に就て互に相教ふる所があつた、是れ我等が過去二十余年間継続し来りし殆んど毎月の例会である、余が此世の事に就て教へらるゝは主として此会合に於てゞある、故に余に取りては最も有益なる会合である、余は滅多に此会合に欠席したる事はない。
九月二十七日(金)雨 秋雨粛々たる一日であつた、雑誌の原稿六七枚書いた。今朝の『朝日新聞』米国通信に「華府のベルグソン」と題し、大哲学者の言として左の如き者が載せて有つた。
大戦が基督教に及ぼす効果如何に就ては一部に伝へらるゝが如き「基督再現説」を絶対に否定し「人類の多数が一様に理想的に向ふものでなければならぬ」といふ民衆主義であつて偉人出現の思想の如きは教授は故らにも厭はしいものゝ如くであつた。
之に由て見ればベルグソンは基督再臨には大反対であることが解る、然し敢て怪しむに足りない、余はベルグソンの哲学を愛し少しく之を読んで見たが未だ曾て一回も哲学者がキリストに対して尊敬の言を発せし文に接したことはない、思ふに彼は所謂近代人であつて福音の深い事には少しも接して居らないのであらう、如何にベルグソンと雖も福音の心髄を「直観」せずして福音は解らない、随て基督の再臨は解らない、之を単に偉人の出現と見るは極めて浅薄なる見方である、心霊的実験に於てはベルグソンは迚もカントに及ばない、ベルグソンの反対少も恐るゝに足らずである、彼の哲学とても亦暫時のものである 草は枯れ其の花は落つ、然れど主の言《ことば》は限りなく存《たも》つ也、ベルグソンの哲学は長くして百年にして廃《すた》れるであらう、然れども聖書と其伝ふる基督再臨の信仰(15)は永遠に継くのである、ベルグソン百人を合はしてもパウロ一人丈けの権威とはならない、余は哲学者の此言を読みて彼と彼の哲学とに対する余の尊敬が一時に衰へしやうに感ずる。
九月二十八日(土)昨夜大雨午後に至りて晴る 午後六時より府下中野神田男爵邸に於て柏木兄弟団有志の晩餐会を開いた、会する者男女四十名余り、最も恵まれたる会合であつた 二十年前に角筈に於て聖書研究会を開いて以来此夜程恵まれたる会合の催されし事を覚えない、まことに茲に愛を以て鎔和されたる霊的家庭の現出を見るに至つたのである、而して単に霊に於てのみならず智慧と知識に於て我等は大に恵まれたる事を実見した、散ずるに先だち一団手を繋ぎ愛の一環を作り乍ら一同「聖父《ちち》聖子《みこ》聖霊《みたま》の」を合唱し、感謝に溢れて各自家に帰つた。
九月二十九日(日)雨蒸熱し 第二回講演会を青年会館に於て開いた、来会者前回よりも少し多くして六百人余、坂田祐君第一に登壇して「永遠に生きんとする欲求」と題して演じ余は其後を受けて「聖書は神の書なり」と云ふ事に就て述べた 聖書は永久に変ぜざる書、其点に於ては猶太民族と同一である 聖書は深遠限りなき書、其点に於ては造化と同一である、神の書にあらずして斯かる素質を備へやう筈はないと、斯く演じて熱汗全身を潤《うるほ》し、白シヤツ一枚ベタ/\になつて了《しま》つた、誠に恵まれたる会合であつた。
九月三十日(月)荒れ模様 昨日寺内内閣倒れて原内閣がなつた、藩閥内閣が死んで政党内閣が生れたと云ひて喜ぶ者がある 或ひは多少の進歩であるかも知れない、然し乍ら別に喜ぶ程の事ではない、如何なる内閣が成るとも世は依然として罪の世である、暗黒の世である、野心欲望威を逞しうし競争暗闘絶ゆる間なしである、(16)「たゞ律法と証詞とを求むべし」である(イザヤ書八章廿節)たゞ聖書を求むべしである、真正の政治はキリストの再臨を待て始めて来るのである。此日明治学院のオルトマンス氏聖書学院の中田重治氏並に余の三人青年会館の一室に会し来る十一月八、九、十の三日を期し、東京に於て内外基督信者の基督再臨研究大会を開くことを決議した、多分事実となりて現はるゝのであらう、事は段々と大きくなりつゝある。
十月一日(火)雨 主婦の母の一周期である、萩餅を作り友人に頒ちて彼女を紀念した。札幌独立教会牧師竹崎氏の訪問あり大に北海道伝道に就て談じた、やはり余が最大の興味を有するは此問題である、余は何故に北海道を忘れることが出来ないのであらう乎。
十月二日(水)雨 十月号雑誌編輯を終る、随分骨が折れた、明治三十三年十月其第一号を出してより茲に満十八年、随分長い年月であつた、其間の恩恵を顧みて感涙の滂沱たるを禁じ得ない、独立と贖罪と再臨と聖書全部神言説、是等を主張し得ることは何等の恩恵ぞ、是れ日本国の総理大臣たるに勝さる幾層倍の名誉である、「準縄《はかりなは》は我が為に楽しき地に落ちたり、宜べ我れ善き嗣業《ゆづり》を得たる哉」である(詩十六篇六節)。
十月三日(木)雨 外電は勃牙利《バルガリヤ》国無条件降伏を伝ふ、之にて世界戦争の終熄近けりと観測せらる、まことに喜ぶべき事である 如何に国家存続の為であればとて世界を敵に持ち全人類の平安を紊《みだ》してまで戦争を継続するの理由はない、独逸は今や負けても恥ではない(軍事上より見て)、英国は勝ても名誉ではない、米国はその参戦に由て此世界的争闘に関し決裁投票《カスチングボート》を投入れたのであつて、此投票に由て勝敗は既に定まつたのである、独墺側は其時|潔《いさぎよ》く降伏すべきであつた、勿論戦争に由て正邪は判明らない、正邪の判明は神の最後の審判まで待つべ(17)きである、然し乍ら此罪の世に在ては万事を多数決に由て定むるを最も有効なりとする、一国が他国に負けて兄弟が兄弟に負けたに過ぎない、同じ人類である、独逸よ譲れよ負けよ、負けて素《もと》の旧き独逸と成れよ、海と陸とは之を他国に譲り、汝は霊界の覇者となれよ、全世界のため、ルーテルとカントとの独逸のため、余は此際独逸の負けることを祈る。
十月四日(金)曇 雑誌一七-三二頁の初校を終つた、殆んど半日の仕事であつた、終日パウロの「我はキリストの福音を恥とせず」との言に就て考へた、今や普通の基督教は社会に其勢力を認められて何の恥ずべき所なき者となつた、随て之を信じ宣伝するの興味甚だ尠きに至つた、再臨を中心とする福音は然らず、此福音は社会に無視せられ教会に嫌はる、此世の名士と称せらるゝ者は之に携はらんことを恐る、然れども是れ福音の特に貴き所以である、我は基督再臨の福音を恥とせずである、是れユダヤ人には躓く者、ギリシヤ人には愚なる者なり雖も、凡て信ずる者には神の大能また智慧たる也である、余は此際不人望なる福音を授けられしを神に感謝する、之を信じ得て余は信者らしき信者と成りしやうなる感がする。
十月五日(土)半晴 引継き雑誌の校正にて多忙である。在布哇 T・リチヤーズ氏に手紙を書いた、彼は平和主義者にして再臨信者である。
十月六日(日)半晴夜雨 第三回講演会を青年会に開く、塚本虎二君と高壇を共にす、君は高等批評の立場に就て、余は実験的に見たる聖書に就て述べた、来聴者六百余名、引続きかゝる盛会を与へられて感謝に堪へない、何事も愛と信仰である、政略方法は害ありて益なしである。殊に信者各自の私事に立入りて其伝ふる福音を私議(18)してはならない、人は其主張に由て共に働くべきである、私行は人の関する所ではない、神の主《つかさ》どり給ふ所である、此運動、神の恩恵に由り基督教界の此通弊を除去すに至らんことを。
十月七日(月)雨 午二時より青年会に於て基督再臨研究東京大会発起人会を開く、西洋人側よりは明治学院のオルトマンス氏、聖公会のバンコム氏、バプチスト教会のクラゲツト女史並に英国大使館のベンチク氏出席し、日本人側よりは中田重治、沢野鉄郎、平出慶一、坂田祐の諸氏並に自分が出席した、十一月八日より三日間を期して開会することに決議した、此間題の前には人種教派等の差別は全く滅《き》えて了ふ、神の御恵に由りて教義の会合でなくして愛のそれであらんことを祈る。
十月八日(火)半晴 在千葉町米国宣教師ピーターソン女史が彼地に於て説教会を開かんため其相談に見えた、瑞典《スエデン》生れの敬愛すべき老宣教師であつて熱心なる再臨信者である。午後青山学院内監督ハリス邸に於て数多の美以教会宣教師の為に設けられし接待会《レセプシヨン》に臨んだ、久振りにてメソヂスト信者と交はり甚だ愉快に感じた、此教会に一種独特の温味《あたゝかみ》がある、其中に所謂大人物なしと雖も日基教会に於て見るが如き佞悪の人、又は組合教会に於て見るが如き傲慢不遜の人を見ない、余は教義の点に於てメソヂスト信者と共なる能はずと雖も、感情の上に於て彼等に甚だ近く感ずる、聖父《ちゝ》の恩恵裕かにウエスレーに於て創始《はじめ》られし此教会の上に降らんことを祈る。
十月九日(水)半晴 校正終る。夜兄弟団の月並祈祷会が今井館に於て開かれた、出席者三十余人、まことに霊に充たされたる会合であつた、其内にワイドナー女史があつた、宣教師が我等の祈祷会に加はりしは是れが始めてゞある。
(19) 十月十日(木)晴後曇 岡山行旅装にて忙はしく、午後四時二十分品川発にて西下の途に就いた、中田重治君柴田鐫次君同行す、本年に入りてより第四回の関西行である、実に珍らしい事である、寝台を取てもらひ安き眠りに就いた。
十月十一日(金)雨後晴 午前五時半京都に於て青木庄蔵君一行に加はる、汽車中の談希望を以て溢る、午前十時四十分岡山駅に達した、数多の教友の出迎を受け、弓ノ町土居方に迎へられて其客となつた。午後七時より県会議事堂に於て第一回講演会を開いた、題は「世界問題としての基督再臨」来聴者五百余、北越より、九州より、出雲より、四国より、京阪神は勿論のこと目醒ましき会合であつた、我等励まされざるを得なかつた、斯かる会合が此時に方て此地に於て開かれしとは実に予想外であつた、聖霊たしかに我等の間に働らき給ひつゝある。
十月十二日(土)晴 午前東山公園並に後楽園に遊ぶ、中国の秋色に愛すべき者あり、午後一時より第二回講演会を開く、昨日同様五百余名の来聴者あり、題は「聖書問題と再臨問題」、中田兄の講演殊に有力であつた、夕有志晩餐会を開いた、来会者六十余名、斯かる会合としては少しく失敗であつた、中国人は余りに慧《かしこ》くある、為に単純なる福音は受納れ難いやうに見える、此地に多くの異端迷信の行はるゝを発見した、我等の説きし基督再臨の迷信的に解せらるゝを見て悲んだ。
十月十三日(日)晴 好き秋の日和である、朝飯前に独り後楽園内を逍遙し純日本式の庭園の秋色を賞した、旭川の流れ、浮田秀家の築きしと云ふ天主閣、強く余の心を動かした、園中小高き所に登りて朝の祈祷を捧げた、(20)特に岡山市の恵まれて此所に真の福音の栄えんことを祈つた。午後二時開会来聴者前日より少しく減少、中田君は「偽《にせ》キリストの出現」に就いて、余は「聖書の大意」に就て講じた、後《あと》で感謝献金二百円以上ありしと聞て我等の努力の無効ならざりしを覚つた、夕食を文学土石川練次君の新ホームに於て来会の柏木連と共にした、愉快なる会食であつた、会する者男六人女二人、ベーピー二個、「東山練次|寿子《としこ》の新ホーム、牛鍋《ぎうなべ》つゝく柏木の友」で万事が尽きて居ると思ふ、夜最後の集会として来会者中特志四十余名の感話祈祷会が開かれた、恩恵溢るゝ会合であつた。
十月十四日(月)晴 終日休養、午前九時教友と共に児島湾鉄道に由り岡山を発し宇野を経て瀬戸内海を渡り正午頃讃岐高松に着いた、余の生れて始ての四国行である、栗山公園を見、後屋島に行き談古嶺より古戦場を瞰視《みおろ》し感慨に堪へなかつた、源平当時の陣立《ぢんだて》が善く解《わか》り数十年来の疑問が解けて嬉かつた、夜九時高松を発し再び海を渡り夜半岡山に帰つた、山上より見たる瀬戸内海の風景は絶美である、松島如き者の及ぶ所でない、歴史と天然と希望の福音と三者具はりて我等三人の心は此日感謝と歓喜に溢れた。
十月十五日(火)雨 午前九時五十分岡山を発し、午後二時半播州須磨に着き、一ノ谷なる友人某の邸を訪ふた、或る重要なる信仰的援助を与へんが為である、昨日は屋島、今日は一ノ谷である、平家の運命の逆行である、勝利必然である、京都大阪より教友三人来りて余の行働《はたらき》を助けられた、寿永の昔し源平鬨の声を揚げて争ひし所あたりに最も恵まれたる会合が開かれ、一ノ谷の渓流、淡路島の遠景我等の讃美の歌を助けて古《いにしへ》の戦場は今の祈祷の殿《みや》と化した、此夜此所に客となり松林中に静かなる一夜を過した、薩摩守忠度の「行き暮れて木の下影《したかげ》を宿《やど》とせば花や今宵《こよひ》の主《あるじ》ならまし」とは打《うつ》て違《ちがひ》の幸福《さいはひ》である。
(21) 十月十六日(水)雨 午後三時まで一の谷に止まり、附近の景色を賞し又再臨の福音を語つた。蘆屋に友人を訪ふべくありしも時間足らずして遺憾ながら之を通過して夕暮頃余の大阪のホームなる安堂寺橋通り永広堂本店今井方に着いた、過去十数年間余は此家に客たりしこと幾回なるを知らず、故に大分気儘を語るの特権を与へられた、夜七時より上町《うへまち》基督信者集会所に於て同信の人たちの集会が催され之に出席して伝道信仰に就て述ぶる所があつた、乍然例の通り労働後の体《からだ》であつて碌な真理《こと》を語る事は出来なかつた、途中|序《ついで》ながらの講演は自今絶対的に廃止すべきである。
十月十七日(木)晴 午後大阪を辞して京都に到り四五の友人を訪問せしも、秋の好晴を利用して郊外に遊びしにや孰れも不在であつた、然し其れが為めに一日の静養を得、二条橋より秋光に輝く三十六峯を眺め、後便利堂主人と共に青木君に招かれて鴨川の畔《ほとり》に筑前名物鳥の|水たき〔付○圏点〕料理の馳走に与り、八時二十分発の夜行に乗り帰途に就いた、此夜十三夜の秋月明かに、石山寺の勢多川の遥か下流に月光を浴《あび》るを望み、浜名の月は睡夢の間に之を逸し、働らきを終へて後の家路、毎時《いつも》の如く楽しかつた。
十月十八日(金)晴 朝品川に着けば二人の婦人が出迎へて呉れた、其一人は言ふに及ばず、他の一人は余に「ノーテイー・ガール」と綽号《あだな》さるゝ者であつた、三人|連立《つれだち》て家に帰り伝道旅行の実見を語りて正午《ひる》に及んだ。相変らず多数の郵便物は余を待つて居た、或は余の再臨観を攻撃する者、或ひは岡山に於ける余の行為を非難する者、或ひは金銭的援助を乞ふ者、其他地方出演の依頼、結婚式施行の日取、感謝の辞、種々雑多である、米国ベル氏より相も変らざるダビデ対ヨナタン的書翰も其内に混《まじ》つて居た、之を尽《こと/”\》く処分するは二三日の仕事である、(22)伝道旅行|覿面《てきめん》の報《むくい》は常に疲労と文通の渋滞とである。
十月十九日(士)好晴 余が今度関西に行きて感じたる事の一は教会が無教会主義の故を以て余を悪む事の甚だしい事である、而して其数会の如何なる者である乎を見るに彼等は信仰に於て浅薄である、行為に於て放埒である、彼等は余が神と聖書とを尊ぶ程度に於て之を尊ばない、彼等は余が安息日を厳守する程度に於て之を守らない、彼等は世俗的である快楽的である、彼等は教会の事に熱心なる丈けであつて神と正義と福音との事には至て冷淡である、彼等が余を悪むは無理ならぬ事である、余は彼等に悪まるゝ事を以て大なる不幸であるとは思はない。
十月二十日(日)好晴 好き安息日であつた、第五回講演会を青年会に於て開いた、此日より余自身が主会する事にした、詩篇第一篇を講じた、後《あと》で自分ながら心持が快かつた、自分に取り聖書を講ずるに優さるの快楽はない、来会者五百余人。
十月二十一日(月)晴 午前横浜に行き米国聖書会社を訪ひオーレル氏に会ひ用事と信仰と時事に就て談じた、岡山行きの疲労がまだ全く去らない、故に仕事がまだ手に就かない、余りに用事が多くして何処《どこ》から手を下して宜しきや解らない、又例に依て信ずるのみである、信仰是れ事業である、何も為さずとも可い、只信ずれば可いのである。
十月二十二日(火)晴 雑誌原稿が始まつた、戦闘準備のために労働室(書斎)を整理した、コスモス開き山茶花(23)咲き、灯前夜静にしてペン走らんとす、但し旧時の憤慨はない、又階下にルツ子の声は聞えない、人生の責任は益々加はり読書の時間の減少せしを悲む、此日少しく天文学を復習した。
十月二十三日(水)雨 友人田島進君の幼児永眠し、牛込日本基督教会に於ける其葬式に列した。関西の或る読者より基督再臨にのみ熱中せずして広く基督教に就て述べよとの注文に接した、即ち基督の政治観、経済観、社会観、宇宙観、倫理観、平和観等に就て述ぶる所あれとの事であつた、何やらキリストを政治家か哲学者と見ての注文らしく聞えて甚だ奇異に感じた、而してキリストは斯かる問題に対して明白に答へ給ふのである「汝等先づ神の国と其|義《たゞしき》とを求めよ、去らば是等のものは尽く汝等に与へらるべし」と、贖罪と再臨とが能く解つて是等の問題はおのづから明白に成るのであると思ふ。
十月二十四日(木)曇 過般の岡山に於ける会合は我等同志に取りて大なる成功であり岡山県人(作州人を除き)に対しては大なる失敗であつたと言はざるを得ない、溢るゝ計りの感謝が同志より達すると同時に多くの不平冷評非難が同県人の手より余輩の所に来る、曰く「汝愛を説きしも自身愛に於て欠くる所あり」と、曰く「汝偽りの預言者の出現を憂ふると雖も自身其一人たるに非ずや」と、実に余の見し所に由れば岡山県人程批評眼の鋭き者はない、彼等は福音を聞くも自身が之に由て救はれんとは努めずして福音を批評し又其宣伝者を非難する、彼等は祈祷の精神に乏しく循て宗教を皮相的に解して其奥に達せんとしない、キリストの再臨を説けば既に之を解し居れりと云ひ、又キリストは既に臨りて岡山附近に在ると云ふ、まことに金光教黒住数等の発源地たる岡山県は宗教に最も熱心なるが如くに見えてキリストの福音には縁の最も遠き国であると言はざるを得ない、岡山県下に基督教が盛んであると言ふは組合教会式の政治的基督教が盛んであると言ふに止まる、然し是れ余が岡山(24)県を見限るの理由とはならない、其反対に余は特に彼地のために祈り且つ尽さねばならぬ。
十月二十五日(金)晴 此二三日来客なし秋冷快くして詩篇と天文書とを読んで居る。家の婦人二人まで流行西班牙感冒に罹り余も亦多少家事を助くべく余義せられた、庭の掃除をさせられた。物置の整理をさせられた、然し是れ又人生である、聖書を学び宇宙を究むるのみが人生ではない、「小なる仕事小ならず」である、下女の代りを為し、彼女の仕事を助くる事も又聖き、大なる事業である、而して此事を余に教へて呉れし人は米国ドクトル・ケルリンである、彼の恩や忘るべからずである。
十月二十六日(土)曇 冷気|頓《にはか》に加はり初冬の感あり、家の病人未だ癒えず家事渋滞多し、雑誌原稿二十一頁分を印刷所に送る、三四人の訪問客あり。世界の平和到らんとして到らず、米国は独逸が再び武器を以て起つ能はざるに至るを要求すると雖も自身は海軍大拡張を計りつゝあり、武器は独逸人の手に在りて危険にして米国人の手に在りて安全なるや、大なる疑問ならざるを得ず、若し武器の撤廃を主張するならば何故に自身も之を撤廃せざる、斯くて此戦争に由て戦争の息まない事は確実である、恐る戦後に米国が大圧制国となりて世界に臨まんことを、世界の平和は民主々義の勝利に由て来らない、キリスト再臨ありて人類を統治し給ふ時に来る。
十月二十七日(日)雨 第五回講演会を青年会に於て開いた、雨天と流行感冒とにて会衆は例会《いつも》よりも寡かつた、凡そ三百人位ひ、沢野鉄郎君と壇を共にした、題は「詩篇第十九篇の研究」先づ第一に星と大陽とに就て語つた、星は静かに、大陽は温かに、神の栄光を現はし其愛を伝ふる事に就て述べた、青年時代に読みしプロクターやフ(25)ラマリオンの天文書が此時に用を為した、福音を伝ふる者に取り不用の智識とてはない、天文と聖書との間には深い深い関係がある。
十月二十八日(月)好晴 休息の月曜日であつた、然し別に休息にならなかつた、用を達しに市中に行いた、大なるバビロンに対し嫌気《いやき》充満て家に帰つた、其書店と印刷所とを除いては大市街も我に取り何の用あるなしである、其|饒多《あまた》の人は何が欲しさに市街生活を営んで居るのであらう乎、若し彼等各自をして其言はんと欲する所を言はしむるならば何んと言ふであらう乎 彼等の中幾人が神のため真理のため霊魂のために興味《インテレスト》を持て居るのであらう乎、然し神は深き憐愍を以て人間の此|集団《かたまり》を臠《みそな》はし給ふであらう、我に用なき此大バビロンは神に用なき者でほない、故に我にも亦用ある者でなくてはならない(約拿書四章十一節)。
十月二十九日(火)曇 雑誌編輯にて多忙、原稿又原稿、何時《いつ》終ることにや。此日英国シユパンク会社より好本督君を経て外套を加へたる冬洋服一組に対する羅紗地を寄贈し来る、此物価騰貴の時に際して大助かりである、何を食ひ何を衣んとて思ひ煩ふに及ばない、必要の時には遠き未知の人より斯かる物を贈り来る、余は無給の伝道師であるが実は有給以上である、神は其字宙大の富を以て余を養ひ且つ装ひ給ふ、此事を思ふて終日言ひ難き歓喜に溢れた。
十月三十日(水)雨 引きつゞき原稿製作にて忙はしかつた、家は江原万里結婚準備のためにゴタツいた、然し原稿全部を纏めて之を印刷所に送つた、又費府預言大会の報告書を読んで大に益せらるゝ所があつた。夜金井清に招かれて東京駅楼上に夕食の馳走に与つた、二人九時まで種々の問題に就て談じた、清き愛すべき漢《やつ》で(26)ある、斯かる人を友人《フレンド》として又|弟子《デサイプル》として持ちたる余の特権は大である、同時に又余の責任は重くある、願ふ神の恩恵に由り彼が如き者に師として待《もてな》さるゝに足る価値ある者とならんことを。
十月三十一日(木)晴 此日住友社員法学士江原万里対黒崎祝子の結婚式を今井館に挙げた、余が司りし第十九回の結婚式である、我等の結婚式は簡単にして厳粛である、音楽なし儀礼なし只聖書と祈祷とを以て神の前に誓ふ、左に新郎が新婦に対して誓ひ誓約の言を掲ぐ。
我等の結ばれしは我等の救主イエスキリストの御心なるを信ず、彼は我等を世より選び別ち、来る可き栄光の御国の民たる事を約束し給へり、我等此世に在りて此望をもち主に在りて一体とせられたれば互に励まし信仰の善き証人たらむ事を誓ふ。我は主の我を愛し給ふ如く妻なる卿《をんみ》を愛して終生|渝《かは》らざる可く、其喜と苦とを共にし一身を捧げて共に神の御栄の揚らむ為めに用ゐられん事を願ふ。
基督再臨を表明したる初めての結婚式である、此信仰を以て結ばれし縁は陰府《よみ》の門も之に勝つべからずであると信ずる。
十一月一日(金)晴 少しく風邪に冒された、故に家に在て静養した、大責任を目前に控へて余は余の健康を害してはならない。余の友人中に余が基督再臨を高調するの結果として新たに一宗派を起すに至らずやと言ひて心配する者があると聞いた、然し其れは無益の心配である、再臨の信仰は宗派を根本的に合同する者であつて新たに宗派を作る者でない、殊に又此信仰なくして基督教はないのである、再臨除外の微弱なる基督教は終におのづから消滅するに至るは明かである。
(27) 十一月二日(土)曇夜雨 風邪未だ全く癒えず、終日家に在りて読書と校正とに従事す、旧き知人二人逝去の報に接した、不相変基督者ならざる者の死を慰むるに言葉なきに苦しむ、世に悲惨なるものとて不信者の死の如きはない、然かも是れ毎日の出来事である。
十一月三日(日)晴 第六回講演を青年会に開く、来聴者四百余名、流行感冒にて欠席者多し、題は前回の続き、宇宙の完全なるが如くに完全なる聖書に就いて語つた、特に青年学生が天然を研究するに方り其中に神を認むることの必要に就て述べた、此日より余一人にて講演を受持つことにした、為に正午後四時切上げとなり来聴者は満足であつたらしくある、時間を短縮するは大なる慈善である。桑港の友人より冬帽子一箇を贈り来る、鍔広く平民的にして詩人ホイツトマンの被りしやうな物である、余の満足此上なしである。
十一月四日(月)晴 休養の月曜日である、庭の小菊と山茶花が満開であつて大に我が疲れし霊を慰めた。此日三人の来客があつた、其一人は旧き農学士であつた、彼は人生の困憊に就て語つた、精神修養としては催眠術の使用に由ると述べた、彼は容易に何人をも神と成すを得べしと言ふた(催眠術を以て)、而して最後に余に金三百円の調達を求めた、余は勿論其要求に応じなかつた、余は彼に告げて言ふた「福音の宣伝者たる余の家には金銭の貸借は一切ない、我等は愛を以て贈り愛を以て受く、証文とか利息とか云ふ事は此家に於ては其文字の発音をさへ聞かない」と、彼れ去りて後に余は深き感慨に打たれた、余は第一に彼に対し深き同情を禁じ得なかつた、第二に真の精神教育を伴はざる実業教育の終に茲に至らざるを得ざるを思ふて悲んだ、事業、成功、蓄財と、噫農学校よ、汝は幾人の信仰的勇者を生みしぞ、汝の子等の多数は人生の失敗に斃れ又其成功に腐れつゝあるに非ずや、汝今にして自己《おのれ》に省み汝の途《みち》を改むるにあらざれば汝は無数の失敗児の母となりて終らん、噫農学校よ、(28)神を畏るゝは亦農学の始めなるを覚れよ。
十一月五日(火)雨 風邪未だ全く去らず陰鬱なる一日であつた、主なる仕事は雑誌の校正であつた。鰻の新研究に就て読んだ、余が魚類学を棄てより実に驚くべき進歩である、鰻の発生の大略が判明つたのである、多くの大学者が其闡明に従事した、其一人が日本人(丸川氏)でありし事は吾人の大に誇るべき事である、鰻が我等の食膳に上る前に六七年の生涯と三千余哩の移転旅行がありしとは驚くべき事実である、世に奇跡が無いと云ふほ偽《うそ》である、人の一生、鰻の一生共に奇跡である、後者に付き簡短明瞭なる事実を知らんと欲する者は余が曾て本誌に於て紹介せしJ・A・トムソン著『科学入門』第百五十頁以下を読むべしである、A・ミーク著『魚類移転論』の記事は詳細に渉りて面白くある。
十一月六日(水)雨 引続き陰鬱の天候である、近年稀れなる悪しき秋である、印刷所より校正の来るを待ちしと雖も来らず甚だ手持無沙汰であつた、少しく聖書の研究を為した、法学士岩永裕吉渡米に際し暇乞に見えた、久し振りに彼に面会して非常に嬉しかつた、彼に託して僅かばかりのクリスマス贈物《プレゼント》を米国の旧友に送つた、斯くて同時に二箇の旧き友誼を温めしやうに感じた、岩永の去りし後に医学士藤本武平二が見えた、彼も亦久し振りの訪問であつた、彼は我家の此夜の祈祷会に列した、後に彼と玄米食の利益に就て語つた、若き学士等と彼等各自の専門に就て語るは大なる快楽である。
十一月七日(木)曇 百年前には英国の敵は仏国であつた、而して英国は独逸と与して仏国に当り終に之を潰して了つた、一八一五年ワータールーの戦争に英のウエリングトン将軍が独のブルーヘル将軍と聯合して仏のナ(29)ボレオン大帝を敗りし時に歓呼の声は英独両国に於て悶時に揚つたのである、然るに百年後の今日に於ては英の大敵は独であつて、英は仏と与して二者の共同の敵なる独に当り而して米の之に加はるありて世界平和の撹乱者としてカイゼル治下の中欧帝国を斃さんとなしつゝある、而して彼等は多分其目的を達するであらう、独逸帝国の潰滅は今や時間の問題たるに過ぎない、然し今より百年後には如何に成行くであらう乎、昨日の味方は今日の敵である、今日の敵は又明日の味方となるのではあるまい乎、今や陸海軍の大拡張を行ひつゝある米国は独逸を敵に持ちし英国と衝突するに至るまい乎、海洋の自由は米国の唱ふる所にして英国の嫌ふ所である、百年後には、然り百年を待たずして此問題が「争闘の骨」となつて英米開戦するに至るのではあるまい乎、而して其時には復活せる独逸が米国の味方となりて英国を攻むるのではあるまい乎、歴史は繰返すと云ふ、そんな事は無いとも限らない、多分有るであらう、何れにしても今回の大戦争の終結を以て戦争は廃《すた》らない、其反対に此大戦争に由て更らに大なる戦争は醸されつゝある、聖書の教ふる所がやはり真実《まこと》である、戦争は人間の勢力に由ては止まない、大統領ウイルソン如何に偉大なりと雖も「鼻より息の出入する入」である、来るべき者来るまでは戦争は止まない、而して彼は必ず来り給ふ、而して平和は其時必ず地に臨むのである。以上は余が昨夜藤本医学士と共に語りし所である。
十一月八日(金)曇 基督再臨研究東京大会を青年会館に開いた、来会者昼は五百余名、夜は六百名、地方よりの来会者も多かつた、感冒大流行の此際、是れ丈けの会衆を得し事は大成功と称せざるを得ない、頌栄あり、証詞あり、外国宣教師の英語講演あり、ピアノあり、ヴハイオリンありて甚だ盛会である、余は開会の旨意を述べ、又夜に入りて「聖書と再臨」に就て語つた、此日会衆に最も強き感動を与へし者は京都松岡帰之氏の証詞であつた、聖書は神と人との間に成立せし契約、故に一点一劃之を尊重せざるべからずとは我等一同の主張であつ(30)た、我等は我国に於ける福音の「新規播直し」の責任を感じた、夜十時閉会、家に帰て床に就いたのは十二時であつた。
十一月九日(土)曇 数日の曇天続きには厭になつた、再臨大会第二日である、午後二時開会、群馬県富岡組合教会牧師住谷天来氏の証詞があつた、組合側の再臨信仰の告白として特に注意を惹いた、続いて聖公会英国宣教師バンカム氏の英語講演があつた、氏の英民族イスラエル説は大分問題となつた、其|後《あと》で余が英語講演を為すべくあつたが外国人の出席余りに少数なりしが故に余は其責任を免かれ余自身の国語を以て語ることゝなり大なる安意《レリーフ》を感じた、依て The Second Coming of Christ Viewed from Speculative Standpoint と題し英語を以て科学哲学の立場より基督再臨を論ぜんとする余の計画を止めて同一の論旨を馬太伝廿六章廿九節に依て述ぶる事にした、勿論聴衆の大多数はプログラムの此変更を喜んだ、日本に於ける会合に於て外国語を用ふる事は今回限り廃する事に決心した、外国宣教師の此会に対する態度は至て冷淡であつた、然し乍ら明治学院のオルトマンス氏、聖公会のバンカム氏並にミス・ボイド、北海道野付牛のミセス・ピヤソン、下関のコルテス氏、青山女学院のミス・スペンサー、千葉のミス・ピーターソン、聖書会社のオーレル氏、近頃来朝のミス・ワイドナー、其他二三の人々大なる同情と熱心とを以て此会に対せられ、其多数は三日間続けて昼も夜も出席せられて我等と天よりの祝福を頒たれた、是れ丈けあれば沢山である、是等の外国の兄弟姉妹等と共に主の再臨を証明して彼等に由て代表せらるゝ外国数百千万の同信の友と共に此信仰を証明したのである、午後七時再開、藤井武氏とコルテス氏とは「ユダヤ人と基督再臨」に就て、余は「地理学的中心としてのヱルサレム」に就て特別に聖書学院の教員諸氏に由て調製せられたる大地図を以て語り且つ説明する所があつた、来聴者昼夜共に昨日と多く異ならなかつた。
(31) 十一月十日(日)晴 久振りの好天気であつた、武蔵野の小春日和《こはるびより》は大に我等の讃美の心を励げました、午後二時開会、聴衆は階下に溢れ階上を充たし我等の感謝と熱心とは其頂上に達した、提題は「基督再臨と伝道」であつた、聖公会の後藤粂吉氏先づ豊富なる材料を以て此信仰のために証明し、次ぎに大阪の青木庄蔵氏平信徒の立場より此信仰の生命を賭して維持し且つ宣伝するの価値あるの理由を述べ、続いて平出慶一氏の講演あり、最後に余は苛林多前書第十五章五十節以下を以て再臨の信仰と伝道との間に密接なる関係のある事に就て語つた、語る者聴く者感極まり一時は数百の心霊は一体となりて満堂ために一人となりて動く乎の如き感があつた、五時十分一先づ休会、弁士事務員等合せて三十余名、内に外国の兄姉四名ありて共に附近の食堂に集り同一のテーブルを囲みて夕飯を共にした。七時再開宇津木中田(信蔵)両氏の証詞ありコルテス氏の有益なる講演あり最後に余も亦証明して大感謝の内に此大会を終つた。此日聴衆最も多く八百人もあつたらう、流行感冒猖獗を極め会合と云ふ会合孰れも衰微の状態を呈する時に方り此れ丈けの会合を此間題の為に設くるを得しは大感謝と称せざるを得ない、此日又此預言研究東京大会より来る廿六日より三日間に渉り米国紐育市に於て開かれんとする紐育大会に宛祝電を発するの決議を為した。
十一月十一日(月)好晴 大会の余熱未だ冷めず来会同信の友の来訪あり愉快であつた、午後五時より丸ノ内中央亭に於て大会出席者有志の晩餐会が催された、オルトマンス、コルテス両氏外六十余名の来会者があつた、|食卓の最上席は之を空席となし再来の主を迎ふる準備に当てた、彼に供し奉るべき食物は之を代価に換算し之を貧者に施して彼を歓ばし奉つた〔付○圏点〕、コルテス氏之を評して The most impressive scene in the whole meeting(全会合中に於ける最も感動せる光景なり)と言はれた、実に其通りであつた、我等食ふて彼れのみ除外さるべきでない、彼にも亦食を奉りて彼を歓ばし奉り又我等の間に彼の臨在を乞ふべきである、而して彼を饗応《もてな》すべき物を以て貧(32)者に与へて彼の御心を満足し奉る事が出来る(馬太伝廿五章三一-四〇節)、斯くて主我等の間に在まして我等は喜んで食ひ愛に充ちて相共に語り、自己紹介あり感話あり熱祷ありて此最も恵まれたる会合を終へた、我等は今後の標語として「新規播直し」せ採用した、又来年一月十七日より三日間大阪中之島大阪市公会堂に於て大阪大会を開くことを決議した、実に盛なりと云つべしである。
十一月十二日(火)晴 始めて静になつた、家庭的生涯を楽んだ、公会堂に於ける活動も宜ければ、小なる家庭に於ける和楽も宜い、ナヤガラの大瀑と木影の細流、孰れも楽しく孰れも感謝である、此日十一月号雑誌発送を終へた、家人其任に当り余は小園を|ぶらつき〔付ごま圏点〕、書斎に小事を所弁した。
十一月十三日(水)晴 大会の疲労発しウト/\として一日を送つた、此日の海外電報対独休戦条約調印を報じた、是にて戦争は一先づ止み、ビスマーク、ヴイルヘルムー世、モルトケ将軍等の努力は無効に帰し、独逸帝国五十年の歴史は一朝の夢として消えて了つたのである、実に墓ない者である、ツライチユケの政治論何処《いづこ》に在る、ニイチエの哲学何処に在る、人の建たものは人に由て毀たる、政治も哲学もあつた者ではない、然れどルーテルの説きし福音、其福音の示す天国、それは天地が尽くるとも尽きない、独逸帝国の亡びた事は世界人類のために善くある、|然り独逸其物の為に最も善くある〔付△圏点〕、但し今日此際独逸人中神と福音とを愛する多くの人等に対し多大の同情なき能はずである。余は神が独逸の犯せし多くの罪の為めに彼が為せし多くの善を忘れ給ふことなく、彼を以て亦大なる栄光を顕はし給はん事を祈る。
十一月十四日(木)午前大雨午後熄む 終日ピレモン書の復習に従事した。対独休戦条約の条件を読み欧洲人(33)に愛敵の精神の更らに無きを知て悲んだ、斯くて戦争が休止したのであつて平和が来つたのではない、真個の平和は敵を愛するの心より来る、敵を|たゝき〔付ごま圏点〕伏せて喜ぶやうでは平和は決して来らない、宣教師を異教国に送りて愛の福音を伝へしむる英米国人にもう少し愛敵の心が有つて欲しい、彼等は言ふ基督教の心髄はキリスト山上の垂訓にありと、然れども彼等は国家としては之を守らない、其点に於ては英米人も独逸人も何の異なる所はない、国としては彼等は純然たるヒーズンである。
十一月十五日(金)晴 在米岩本信二夫人タケ子渡米につき彼女を見送らんために横浜へ行いた、信二は彼地に在りて小なる仕事に従事しつゝこゝ十数年間|潜《ひそか》に聖書研究社の事業を援けて呉れた者である、今や彼が新ホームを作らんとしつゝあるに際し余は彼に対し感謝の意を表せざるを得ない。品川より横浜に至る電車中に米国宣教師にして基督教興文協会主事たるウエンライト氏と会合した、乗客多数のために席を得る能はず二人共桜木町まで立ち通しであつた、而して車掌台に立ち乍ら大に教勢を談じ教義を論じた、殊に基督再臨を論じた、ウエ氏は言ふた「此間題に関しては余は君と海老名君との中間に立つ者なり」と、依て余は氏に問ふて言ふた Which do you like better(兎《と》は言へ二者執れが貴意に叶います乎)と、氏は答へて言ふた Of course you(勿論貴君が)と、余は勿論得意であつた、家に帰りて見れば別稿左近義弼氏の公開状が届いて居た、メソヂスト教会と云へば大抵再臨反対と思ひしに豈計らんやウエンライト氏は同情的中立であつて左近氏は全然味方である、メソヂスト教会亦大に頼むに足るである、
十一月十六日(土)晴 家の青年の誕生日に当り赤飯を炊き彼の友人を招き一家挙《こぞり》て彼の強健を祝した、彼れ今第一高等学校に其野球団主将たり、今年は其投手として連戦連勝し殊に基督的家庭の出として能く禁酒を実行(34)し安息日を聖守した、我等一同彼の為に神に感謝せざるを得ない、願ふ聖父の恩恵彼に伴ひ彼に由りて此家の信仰の後世に継承せられんことを、我等全家を挙げて彼に委ね奉りし者、唯主の栄光を顕はさんが為に用いられんことを祈る、女子は死して栄光《みさかえ》を顕はせり、男子は生きて同じく顕栄《けんえい》の器として使用せられんことを祈る。
十一月十七日(日)雨 湿《しめ》ぽくして寒し、天候悪しきに拘はらず青年会に於ける講演に可なりの来聴者があつた、四百名位はあつたらう、始に吉岡弘毅老人約翰伝九章に依り氏の信仰的実験に就て証明する所あり、深き感動を聴衆に与へた、次いで余は腓利門書に就て講じた、大にパウロ先生の情的半面に就て弁じた積りである、講演終へて後に北見在留米国宣教師ピヤソン夫人を柏木の家に伴ひ来り夕食を共にし聊か今夏父子並に同行三人野付牛に於て受けし篤き友誼的待遇に報ゐんとする所があつた、法学士三谷隆信我等の群《むれ》に加はり四人食卓を囲んで愉快なる時を有つた、我等は宣教師の敵ではない、友である、彼に礼あり、我にも亦礼なからんやである、殊にキリストに在りて兄弟姉妹である、殊更にピヤソン夫人に於ては主再臨の希望を共にせらるゝあり、我等親しまざらんと欲するも能はずである。
十一月十八日(月)曇 天未だ晴れず悪しき秋である、東海の空《そら》に変化ありしやうに思はる、疲労の月曜日である、何事も為さず唯|徒《むな》しく疲労を癒さんと努むるのみ、対独休戦条約成立せりとて歓ぶ声が耳に響くと同時に軍団組織に由る陸軍対抗大演習が栃木県に於て行はれたりとの報を以て新聞紙は充たさる、斯くして「彼等は復た戦闘《たゝかい》の事を習はざるべし」との預言者の言は休戦条約成立を以て実現しないのである、待たるゝは矢張り主再臨の日である。
(35) 十一月十九日(火)好晴 久振りにて秋らしき天気となつた、午前警醒社を訪ひ全書出版につき編輯室設置の相談を為した、略ぼ京橋組合教会二階の一室を借受くることに定めた、それより築地八番にウエンライト氏を訪ひ種々の問題につき談話を交へた、我等は半英半和で語ることが出来て甚だ愉快であつた、我等の信仰に多少の相違なきに非ずと雖も其根本は一致して居ることが判明つた、余が今に至て知ることは信仰の堅固なる点に於て外国宣教師の大体に於て日本の教師等に遥かに勝る事である。
十一月二十日(水)晴 山形県飽海郡西遊佐村梅木達治君より例年の通り美事なる最上川の鮭一尾を送り来る、君は余が数年前に僅計りの好意を君に表せし事を忘れずして秋到る毎に此貴重なる礼物を贈らる、真実なる人なる哉、恐縮に堪へない、君今回一族八人を挙げて南米ブラジルに移住せらる、君の壮図を祝し神の恩恵裕に此勇ましき教友一団の上に下らんことを祈る。此日市外駒沢村に病める姉妹某を見舞ひ祈祷を共にして帰つた、一日の間に共に喜び共に悲む、是れ現世である、来世に於ては喜ぶのみであつて悲む事はないのである。
十一月二十一日(木)晴 東京市の休戦祝賀会が催された、自分は前約に循ひ午後三時五十分両国橋駅発汽車にて千葉町に至り彼地同盟協会々堂に於て講演を為し瑞典人ミス・ピーターソンの伝道を助けた、七時開会、来聴者五百余名、盛なる会合であつた、題は「世界戦争に現はれたる神の審判」出埃及記二十章五、六節を主題として語つた、基督者として休戦を祝するに最も適当なる途であつたと思ふ、其夜ミス・ピーターソンの客となる、其質素なる|瑞典〔付ごま圏点〕風の優待を受けて嬉しかつた。
十一月二十二日(金)曇 朝八時四十四分千葉を発し、木更津線に由り房州に行いた、鳴浜村の海保竹枚同行、(36)其目的は主として勝山町に於て孤独伝道に従事する今竹男《こんたけを》君を訪問せんが為であつた、先づ終点の那古船形《なこふながた》に到り鏡浦《かゞみがうら》の風景を賞し直に取て反《かへ》し勝山町|竜島《りやうしま》に今《こん)君を訪ひ、伝道の現況並に前途に就て語り祈祷を共にし、君と君の小女とに送られ、海岸に沿ふて徒歩|保田《ほた》町に至り、其所より汽車に乗り、夜九時柏木の家に帰つた、途中上総竹岡《たけがをか》村に線路に近く教会堂のあるを見た、是は今はメソヂスト教会に属すると雖も、其創設の名誉に与つた者は余自身である、明治廿四年の夏、かの有名なる第一高等学校不敬事件のありし翌年、余は先愛加寿子を失ひ続いて肉体の健康をひび、世には棄られ家庭は破れし後、今の鉄道院技師工学士飯山敏雄と共に此地に避暑し其時初めて信者の集会を開き、教会建設を議決した、而して其結果が幾多の変遷を経て今の竹岡メソヂスト教会となつたのである、世に余の無教会主義を怒る基督教信者多しと雖も、彼等は余が南総の基督信者の一団を勧めて始めに組合教会に、後にメソヂスト教会に入らしめたる事を知らないであらう、今回計らずも汽車の窓より余の勧論に由て始まりし教会堂を瞥見して今昔の感に堪へなかつた。
十一月二十三日(土)晴 新嘗祭である、家人を尽く鎌倉見物に送り出し独り家に在りて留守番の役を務めた、塚本善子来りて家事を見て呉れた、米国ベル氏より長き書面があつた、信書の意味と快楽とを知る者は矢張り西洋人である、雑誌編輯が始まり稍忙はしくなつた。
十一月二十四日(日)曇 青年会に於ける聖書講演不相変楽しくあつた、来聴者四五百名、大抵は聖書持参の者、之を見るさへ気持が好くある、腓利門書を続いて講じた、大伝道師の心情を示す書、友誼維持の秘密を伝ふる書、社会改良の根本義を教ふる書として之を講じた、若し基督教国の民等がパウロの精神を以て福音宣伝に従事したならば今回の大戦争を避け得たであらうと言ふた時には賛成の喝采暫し止まなかつた、誠に気持好き会合であつ(37)た。
十一月二十五日(月)晴 基督再臨研究東京大会の決議に基き自身東京中央郵便局に赴き明日より開催さるべき紐育大会に宛て祝電を発した曰く、Prophetic Conference, Carnegie Hall, New York. Greeting and Love、Tokio Conference《紐育カーネギー公会堂預言大会宛「祝意と愛を呈す」東京大会より)と、多分此言葉が明日開会劈頭に大会堂の高壇上より数千の会衆に向て朗読せらるゝ時拍手喝采に堂も崩れん計りであらう、信仰一、主一、|希望一〔付○圏点〕、此希望を一にして全世界の信者は一団となり茲に教会合同問題は其根本に於て立派に解決せられたのである、ハレルーヤ。
十一月二十六月(火)晴 雑誌編輯で多忙であつた、併せて多くの来客があつた、春洋丸桑港より帰航、太平洋岸の教友より喜ばしき音信と贈物ありしと同時に又一の悲報に接した、和歌山県の大鷲佐太郎十月廿九日加洲羅府に於て流行感冒にて斃れしとの事である、彼れ大に我社の事を思ひ功成りて大に之を援けんと欲したりしも其事成らずして逝きしは幾重にも残念である、天に在す父のみ万事を知り給ふ、彼の去りしも亦彼我の為に最善であつたに相違ない。
十一月二十七日(水)晴 昨日米国の友人より贈り来りし写声盤《レコード》の内にアルマ・グルツク並にルイザ・ホスマーの合唱に成りし Jesus, lover of my soul(我が霊魂《たましい》を愛するイエスよ)の音譜がある、之を蓄音器に懸けて聞いて我がハートは動き我が眼は涙を禁ずることが出来ない、我は此歌を聞き乍ら死に就きたく思ふ、我は主婦に語(38)て言ふた「嗚呼ルツ子に此歌を聞かしたかつた、然し彼女は今は是れ以上の歌を聞きつゝあるのである」と、キリストを信じ来世に関はる確信を懐くを得て我が情性は浄められて斯かる音楽を楽しみ得るに至る、我等に既に此世からして天国の快楽がある、我等の耳に既に天国の音楽が響く、何等の福《さいはひ》ぞ 〇此夜今井館に臨時祈祷会を開いた、会する者二十人。
十一月二十八日(木)半晴 雑誌原稿製作に全日を資した、甚だ気持が良かつた、近頃は何やら生きて居る其事が愉快である、年を取ることを知らない、日の経つことを知らない、何やら此儘神の国に移されるのではあるまい乎と感ずる、仕事は後《あと》へ後へと出来て来る、最早来年の仕事のプログラムが大略出来た、斯くして生命《いのち》が十あつても二十あつても足りない、余は天国に行いても斯る生涯を続けたい、Laborare est orare 働く事是れ拝する事である、而して不思議なる事には働かずとも宜いと云ふ余の信仰が余をして最も多く働かしむるのである。
十一月二十九日(金)晴 引続き雑誌編輯に全日を費した。東洋汽船の或る若き機関士より左の如き書面が来た、
前略 私共海に暮す者の信仰は至て単純です、海の深さを知り空の高さを仰ぎ、海の荒れと静かさを見て自然に神の大さと人の小さを今更の如く感じます、誠に我等の航海するのは目的の地に達せんとする事です、而して乗組む者は客も船員も愛する者と相逢ふ為です、其希望なくして苦しき航海に何で堪えられませふ、希望々々です、而して何時か必ず達し得らるゝ希望です、我々人生の航海も又斯くの如しと信じて疑ひません、キリスト再び来り給ふ……然り愛する者と再び相逢ふて……尽ざる生命……此希望なくして何で此いやな世に堪えられませふ云々
(39)「舟にて海に浮び大洋《おほうみ》にて事《わざ》を営む者はヱホバの聖業《みわざ》を見、又淵にてその奇《くす》しき事跡《みわざ》を見る」と詩人は歌ふて居るが実に其通りである、神学者や教師の見る事の出来ない天と霊との事を是等「大洋にて業を営む者」は見るのである(詩第百七篇廿三、廿四節)。
十一月三十日(土)晴 編輯終り少しく気が楽になつた、亜※〔麻/〓〕士書の復習をなして大に教へらるゝ所があつた。プーシーの小預言書註解は侮るべからざる良書である事を発見した 〇夜上野精養軒に法学士宇佐美六郎の結婚披露会に出席した、聖《きよ》くして楽しき家庭を作らんと欲せばナザレのイエスを其主人公として据まつるより他に途なしとの勧言《すゝめ》を為した。
十二月一日(日)半晴 此日青年会に於ける会合は盛なる者であつた、来聴者六七百人もあつた、法学士三谷隆信所感を述べ、次いで余は「国家的罪悪と神の裁判」と云ふ題に就て亜※〔麻/〓〕士書一章二章を引き述ぶる所があつた、露独墺の三国は今より百二十三年前何の理由なくして波蘭《ポランド》を分割せし其刑罰として今や国は亡び王朝は廃《すた》れし事を述べた、而して英仏米又多くの罰せらるべき国家的罪悪を犯せし事を語り、而して日本国も亦悔改めずして其犯せし又犯しつゝある国家的罪悪に対する適当なる刑罪より免《まぬか》るゝ能はずと断言した、非常に緊張したる講演であつた、聴衆は如何に感じたか解らない、余自身は能くも斯く思切つて言ひたりと思て反て愉快であつた、福音宣伝者は恩恵計りを述べてはならない、時には神の恚怒《いかり》を述べなければならない、英も米も日も恐るゝに足りない 〇講演終へて後に船長山桝と某所に夕食を共にして大に寛《くつろ》いだ。
十二月二日(月)雨 相変らず疲労の月曜日であつた、蓄音器にゼムブリツヒ、ジユリヤ・クルプ等の音楽を(40)聞いて疲れし霊を癒さんと努めた、午後宇佐美新夫婦の訪問に接し彼等の為に祝福を祈つた、夜中野神田男爵邸に於て将さに渡米せんとする法学士黒木三次の送別会を開いた、会する者二十余人、皆な深き信仰の友であつた、食後祈祷会を開き熱き祈祷が捧げられ、温かき感想が述べられた、実《まこと》に Blest be the tie that binds, Our hearts in Christian love である。斯かる美はしき送別会が他《ほか》の人に由て開かるゝであらう乎、最も真実なる親睦会は祈祷会に変ぜざるを得ない。
十二月三日(火)晴 寒し、新たに設けられし警醒社書店編輯室に行き終日を全書編輯の為に費した、今より十三年前朝報社の編輯室を去りし以来初めて一日を市内の一室に送り異様の感に打たれた、自分の著書を纏めて全書を作らんとするのである、六百頁位のものが十四五冊も出来やうと云ふのである、今日の如き紙価騰貴の時に際し斯る大冊を作るは確に一の罪悪ではあるまい乎、後世余を称して「無用の紙潰《かみつぶ》し」と云ふ者はあるまい乎、十五冊と云へば凡そ四百万字である、之を三度校正するとせば千二百万字読まねばならぬ、大事業である。
十二月四日(水)晴 雑誌校正にて全日を費した、|校正(後世)恐るべしである〔付△圏点〕、随分の仕事である、然し之を他人に任す事ほ出来ない、充分の注意と責任を要する仕事である。六号活字の校正は殊に閉口である。
十二月五日(木)晴 半日は校正に、半日は訪問者の接待に過した、訪問者の内に戦闘艦の機関長あり、貴顕の若夫婦あり、失敗せる事業家の夫人あり、朝報社時代の旧車夫あり、孰れも誠実の人たちであつて余に取りては彼等を遇するに何の差別はない、余は各自の要求に順ひ余の最善《ベスト》を為すべく試みた、又三四本の手紙を書いた、是れ又善を為すの善き機会である、余はキリストの僕としてすべての機会を利用して彼の聖旨《みこゝろ》を為すの特権を与(41)へられて神に感謝する 〇夜に入りて船長山桝来り快談に夕食後の一時間を過した。
十二月六日(金)晴 家の大掃除を行つた、之を家人と出入《でいり》の者に任し余は労働室に在りて校正と読書とに従事した、殆んど四十年振りにてランゲの註解書を手にした、農学校時代に彼の創世記を読みて以来今日まで之に手を触れなかつた、実に大著述である、マイヤー、ゴーデーと共に謹読すべき書である、最も深い信仰はやはり独逸に於て在る、其事は争はれない事実である、ベンゲル、ネアンデル、トールツク、ヘングステンペルグ、ランゲ、斯んな大聖書学者は英国や米国よりは出なかつた、|軍国主義の斃れし後の独逸は復た旧時の霊的偉大に還るであらう〔付○圏点〕。
十二月七日(土)晴 校正未だ終らず、一冊の雑誌を出すは容易の事業でない、〇初冬の夕陽相変らず美くしくある、之を外山《とやま》ケ原《はら》より望んで聖国《みくに》を偲ばざるを得ない、此夕新月碧空に懸り、富士山系以西の紅《くれない》と相対して得も言はれぬ好き景色である、斯《かゝ》る美はしき天然と死して永久に別れるのであると聞ては堪へられぬ悲みである、然し乍ら主再び来り給ふ時に我も亦愛する者と共に万物と共に栄光《さかえ》の自由に入るのであると聞て身が躍り立つ程嬉しくある、余は独り杖を曳き黙示録廿一章を暗誦《そら》んじながら原の真中《まなか》を横断《よこぎ》りて家に帰り感謝して家人と共に夕餉の膳に就いた。
十二月八日(日)晴 青年会に於ける聖書講演、不相変盛会であつた、聴衆五百余名、演題は「クリスマス準備講演其一イエスの系図」であつた、馬太伝一章一-十七節の研究であつて稍々神学校の講義に類して聴衆には気の毒であつた、然し偶《たま》には斯る講演は彼等の忍耐を試むるために必要である、講演は説教ではない、必しも面(42)白い者ではない、時には乾燥無味の講義に堪へ得る者でなくては聖書の真味を味ふことは出来ない。
十二月九日(月)晴 北風にて寒し、家に在りて休む。平和と言ひ一致と言ひ退いて自己《おのれ》を守らんと欲して成らない、進んで主の為に尽さんと欲して成る、我が為ではない、又我教会又は我団体の為ではない、我主イエスキリストの為である、彼の為には何人とも共に働き如何なる事をも為す、勿論不信の人、異端の人、根本的悪人とは共に働く事は出来ない、然れども然らざる以上は人択《ひとえらみ》を為してはならない、政略の為の宏量大度ではない、主の事業《みしごと》に対する熱心より出るそれである、後《あと》なる者を忘れ前なる者を望みて聖徒は自《おの》づから一致せざるを得ない 〇此日余は又決心した、余は一生の間決して教会堂を有つまいと決心した、会堂を有ちて余の信仰は固結せざるを得ない、信仰は自由にして流動的ならざるべからずである、故に会堂は信仰の大なる妨害である、故に大宗教家はすべて寺をも会堂をも有たなかつた、法然、親鸞、日蓮すべて然りである、余は小なりと雖も彼等に傚はざるべからずである、此決心を為して今日まで会堂建築の為に送来りし数千円の金を夫れ/”\寄附者に還附するの手段を取て、而して後に大なる安意を感じた、「畑は全世界なり」である(馬太伝十三章三八節)、而して若し|我が〔付○圏点〕会堂ありとすれば其れは木の蔭である、或は碧空《あをぞら》の下の緑野《みどりのゝ》である、教会堂、然り教会堂は伝道の妨害である、若し他人に取りて爾うでないならば余自身に取りては爾うである、主よ、余は汝が此事を此時余に示し給ひし事を汝に感謝し奉る。
十二月十日(火)晴 黒木三次欧米漫遊の途に就く、同志一同と共に彼を東京駅に見送つた、後に警醒社編輯窒に行き静なる一室に午後三時まで二十六年前に成りし旧著『伝道之精神』の訂正に従事した、恰も他人の著書を読むめ感がした、其時余はカーライルと詩人ローエルとの感化の下に書いたのである、故に人道的ならざるを(43)得なかつた、然し乍ら「無形の神は之を有形の人に於て拝せざるべからず」と書きし時に余に再臨のイエスを迎ふるの下地《したぢ》があつたのである、余の今日の信仰は今日始つたのでない、其萌芽は初よりあつたのである、自分の旧き著書を読んで今昔の感に堪へざる者がある。
十二月十一日(水)雪 雄誌成り発送した、大雪降り暖かき室に在りて静かな仕事を為した、紙とペンとインキと参考書とありて余の極楽世界がある、余の事業は福音宣伝である、余の慈善も夫れである、余の愛国も夫れである、余が神と人類と国と社会とに尽す途は之を除いて他《ほか》に無い、余は忠実に福音宣伝に従事して余の為すべき全部《すべて》を為したのである、此夜兄弟団の祈祷が催された、大雪にも拘はらず来り会する者二十余名。
十二月十二日(木)曇 人を信ずるは疑ふよりも善くある、信じて瞞《だま》さるゝは疑ふて安全なるよりも善くある、余は今日まで多くの信ずぺからざる人を信じて多くの苦痛を身に招いた、然し余を瞞した人は一人残らず消えて了つて瞞されし余は幸にして今日猶ほ希望の中に神の御事業に携はりつゝある、欺騙《だま》さるゝ事は耻辱ではない、之に反して人を信じ得ない事は大なる不幸である、真《まこと》の英雄、偉人、聖者はすべて人に瞞された、音楽者ベートーベンの如き騙《だま》されて破産したりと雖も彼は偉人たるを免がれない、然らば信ぜんかな、騙されても信ぜんかな。
十二月十三日(金)雪後好晴 昨夜横須賀伝道義会に来り一泊す、ミス・ホシダ外一同款待至らざるなし、一年に一回又は二回此所に来り相互の信仰に由りて相共に慰め又慰めらる、過去十七年間此|歓喜《よろこび》は連続して今日に至つた、余に亦余の団体以外に聖き交際のある事を多くの人は知らないであらう、朝飯を終へて後に伯母《アント》ホシダと共に久里浜《くりはま》に至り十八年振りにてペルリ上陸紀念碑を仰いだ、恰かも軍艦生駒の其巨体を現はして我等の前を(44)通過するあり、今より六十五年前に米国の黒船《くろふね》の此海に投錨せしを思ひ今昔の感に堪へなかつた、浦賀海峡を隔てゝ房総の風景を恣《ほしい》まゝにすること暫時《しばらく》にして徒歩平作川に沿ふて帰途に就いた、三浦半島の山々の初冬の日光に輝く所、稀に見る景色であつた、午後二時四十分横須賀を辞し鎌倉に下車し一人の「娘」を見舞ひ、夕暮れ過ぐる頃家に帰つた、洵に楽しき二十四時間であつた、到る所に「伯母」あり「娘」あり世界は我家の如くに感ぜらる。
十二月十四日(土) 晴 軍艦須磨乗組海軍少佐田中謙治より支那漢口発の書面が達した、彼の感想として左の一首を載す
濁りつゝ幾千代《いくちよ》を経し揚子江
君を待ちてや澄みわたるらん
雄大なる美はしき思想である、真の平和が禹域四百余州に臨むは其時である、支那問題の最後の解決は茲に在るのである、何んと優さしき勇ましき美はしき軍人の心ではない乎 〇此日接手せる紐育発行 Our Hope 雑誌に余が去る八月軽井沢に於て為せる英語演説の抜萃が載せてあつた、記者は之れに附記して曰く「余輩は此日本の兄弟の基督再臨に関する明白なる証詞に対してハレルヤと叫ぶ」と、余は余の微かなる声が海外にまで響き渡りしを感謝する 〇此日又英国よりA・プランマー著「馬太伝註解」が達した、是れ又福音書研究上の一大勢力である、爾今余を助くること尠くないと信ずる。
十二月十五日(日)晴 聖書講演不相変盛会、来聴者五百余名、益富政助君と高壇を共にす、君は青年会主事として聯合軍を慰問し其際に実見せる二三事実に就て語つた、君子国を以て自《みづ》から誇る日本の遠く英米仏に及ば(45)ざるを示されて、聴衆一同深き感に打れた、続いて余はクリスマス準備講演として「イエスの母マリヤ」に就て語つた、処女の心を能く了解せる路加伝第一章の記事に就て述べた、会終つて後に青年会宗教部主任と会見し、来年も亦引続き|同会主催の下に〔付○圏点〕此講演会を継続する事に決議した、余自身に取り方法は余の問ふ所でない、余は唯神の言の説かれん事を欲する、斯くて来年も亦善き高壇の余に与へられて余は深く神に感謝する。
十二月十六日(月)晴 歳末につき編輯を一週間早く始めた。旅行用具を買求めに三越に行いた、暈《めまひ》がする様な混雑であつた、三越呉服店は三越虚栄店である、但し買求めし鞄は可愛《かあい》くある 彼は来る十数年間余の旅行の友であらう、彼が先きに消磨《まゐる》のであるか、余が先きに消磨《まゐる》のであるか、何れにしろ面白い競争である、彼の中に福音は日本到る所に運ばるゝであらう、喜びの音信《おとづれ》を運ぶがために用いらるゝ彼れ鞄は幸福なる奴《やつ》である。
十二月十七日(火)曇 クリスマス週間である、一年中の交友時期である、多くの喜ばしき音信が諸方の友人より来る、宇都宮市の青木義雄君より左の書面が来た
拝啓、陳ば本日旅行鞄二個を送りました、右は先生が基督再臨之福音宣伝に東奔西走の御働きに随伴されて聊かなりとも御便宜を計りたき考からであります、願くは先生が父の大なる恩恵を得て人口十万以上の都市をめぐり悉《つく》して後、再たび当市に於て汝(鞄)を見ることを得ば幸福と存じ申候匆々、
友は我が要求を知つた、斯くて余は忽ちにして鞄大尽と成つた、余の買求めし者は小にして劣、友の送りし者は大にして優、大小共に霊的弾薬を詰込《つめこみ》て東奔西走に愉快なる時を有つであらう、希望多き歳の暮なる哉。
十二月十八日(水)晴 無風の好き日であつた、婦人会を今井館に於て開いた、来会者二十八人、気持の好き(46)会であつた、余は約翰伝十六章卅二節に就て話した、又『小供の聖書』の読方を伝習した後、歓談に移り五時解散した 〇此日各地友人より品々送り来る、其内最も気に入りしは和歌山県の唐橋君より送来りし自製の雨傘三本と又長崎県の原田君より送来りし雪中の八ケ岳に於て採集せし高山植物二種であつた、余は斯かる贈物に接して殊に有難く感ずる、恩恵|裕《ゆたか》に教友一同の上に加はらん事を祈る。
十二月十九日(木)曇 為したいことを為した時に幸福は来らない、義務に強いられて為したくない事を為した時に大なる幸福は来る、行きたくない祈祷会に行きて大なる幸福を得て帰り来る事がある、訪問したくない人を訪問して大なる感謝を以て帰る事がある、感情は当《あて》にならない指導者である、義務の命ずる所を行つて我等は誤らないのである、義務なる哉、然り義務なる哉 〇東京駅楼上に於て朝報社旧同僚二人と会食した、其一人は斯波貞吉君であつて今は万朝報の編輯長である、其他の一人は山県五十雄君であつて朝鮮京城スール・プレスの持主兼主筆、日本第一の英文記者である、而して余は『聖書之研究』の主筆であつて今猶「記者」の一人である、我等相識りてより茲に二十三年、紳士的交際を継続して今日に至りしを歓ぶ、礼あり情ありて人は宗教を異にするも善き友人たる事が出来る。
十二月二十日(金)雨 原稿製作にて多忙。午後今井館に於て高山※〔金+申〕吾夫人タミ子の葬式を執行した、彼女齢三十八歳、基督再臨の信仰を懐き希望を以て眠に就いた、快活にして同情に篤き婦人であつた、我等一同彼女を惜まざるを得ない。藤井君司会余はテサロニケ前四章十三節以下に就て説教した、再来、再生、再会を伝ふる聖語である、余は確信を以て此信仰を伝ふるを得て感謝する、死を慰むるに足る唯一の途は再会の希望を供するにある、確乎たる再会の希望なくして死の悲痛を癒す能はず、而してキリストの福音のみ此希望を供するのである。
(47) 十二月二十一日(土)曇 年将さに暮れんとして余に一大感謝がある、其事は余の生涯が敗北でなかつた事である、余は政府に頼らず教会に拠らずして余の生涯は必然失敗であると思ふた、余は来世に於ける成功を期した、然れども現世に於ては失敗を覚悟した、然るに見よ余の現世に於ける生涯までが敗北に非ずして勝利であることが日々に明かになりつゝある、余は此の世に圧伏《あつぷく》されずして此生涯を終り得るを神に感謝する、然し是れ余が世に勝つたのではない、既に世に勝ち給ひし主イエスが余の衷に在りて勝ち給ふたのである、カイゼル斃れ、軍国主義斃れ、帝国主義斃れて余は夜が明《あけ》たやうに感ずる、終《をはり》まで忍んで我等は勝たざるを得ない、然れども嗚呼夜の如何に長かりしよ、其事を思ふて余は感涙の滂沱たるを禁ずるを得ない。忙中閑を偸んで岩永氏へ蓄音器を聴きに行つた、ガリクルチの声楽を聴いて驚いた。彼女の声は人間の声とは思はれない、鶯か、オリオル鳥か、矢張り宇宙広しと雖も人間の咽喉に優るの楽器はないのである 〇此日一月分雑誌の原稿六分の五を印刷所に送つた、之で多分来月も日限通りに躾誌か発行《でる》のであらう、一先づ安心した、今からが真のクリスマスである。
十二月二十二日(日)雨 本年最後の会合であつた、来会者四百余人、余は路加伝二章十四節天軍讃美の歌に就て講じた、今や平和は到来したが是れ天使の告げし平和ではない、基督者の求むる平和は英国の首相や米国の大統領の供し得るものではない、是れ人のすべて思ふ所に過ぐる平和であつて神に|善く思はるゝ者〔付○圏点〕のみ享くる事の出来る者である、「地には和平、人には恩寵」と云ひて其意味を浅薄に解してはならないと語つた、講演終て後に講堂に於て有志のクリスマス晩餐会を開いた、会する者百三十余名、特に空席を設け主の座と定め彼に供すべき者を貧者に頒ちて彼を歓ばし奉つた、記憶すべき会合であつた、是れで今年の公的会合を終つた、一月六日第一安息日に同講堂に於て声を揚げし以来、北は北海道より南は岡山まで高壇に立つ事五十八回二万余人に福音を説(48)いた、其点に於て今年は余に取りレコード破りである、願ふ来年は更に之れ以上たらん事を。
十二月二十三日(月)雪 柏木兄弟団のクリスマス晩餐会を麹町宝亭に於て催した、会する者老若男女六十二名、
明治三十三年角筈に聖書研究会を開いて以来こんな恩恵に充ちたる晩餐会は無かつた、真実《まこと》の平和は我等の間に臨んだ、歓喜の感想は湧いて尽きなかつた、実に主イエスの降誕を感謝する聖なる歓ばしき会合であつた、倫敦では三鞭酒《シヤンペンシユ》を飲み尽すべしと云ひ、巴里《パリー》では新年までは殆んど踊り続け飲み続くべしと云ひ、我帝国ホテルに於ては一千余人の紳士淑女を招いて大舞踏会を開いて翌日の夜明け迄舞ひ尽し踊り果たすと云ふに、我等は主のために空席を供へて其周囲に握手の一鏈を作りて「ちゝ子みたま」の讃美を唱へた、実《まこと》に真個のクリスマスは倫敦や巴里や又は所謂基督教国を代表する外交官等に由て守らるゝに非ずして、我等低き卑しきクリスチヤンの間に記念せらるゝのである、主イエスは確かに彼等の内に在さずして我等の間に在し給ふのである。
十二月二十四日(火)曇 連日の集会つゞきにて疲れた、一月号雑誌編輯を終へた、然し未だ読書の快楽を貪ることが出来ない 全国の兄弟姉妹我等を臆《おぼえ》て呉れて如何にして之に酬ゐて宜いか其事に就て悩んで居る、我れ我が為すべき当然の事を為したるに之に酬ゐられて我は却て苦しいのである、毎年クリスマス到る毎に我等に此苦痛がある、「感謝の苦痛」である、世の人の知らざる苦痛である 〇京都大学講師富岡謙蔵氏の死を聞いて悲んだ、余は氏の英語の手解《てほど》きを為したる者、故に氏は余に対し終りまで師弟の礼を尽した、然し余は氏が余より英語を学んで更らに重要なる者を学ばざりしを悲む、願ふ天の父彼の霊を守り彼に平康《やすき》を腸はんことを。
十二月二十五日(水)曇夜雪 クリスマスデーである、午前を手紙書きに使つた、凡て感謝と謝礼の手紙である、(49)全国に散布する信仰の兄弟姉妹等は此際此日|親切《カインドネス》を以て余等を殺さん計りである、余は此一週間ばかりは毎日唯「感謝す」「有難う」と言ひ続けて居る。午後丸善書店へ行きマクス・ムラーの著書二冊を買求めた、一は友人に贈らんため、一は自身で此休暇中に読まんためである、ムラーの著書に接して旧き先生に会ふの感がする、三十年前始めて言語学の何たる乎、比較宗教の何たる乎を教へて貰ふたのは此英国帰化の独逸人からである、ムラーは大学者にして福音主義の基督教の有力なる弁護者である、彼の懐《なつ》かしきは是が故である、斯かる宗教学者は今は尽きてシカゴ大学やエール大学等の砂の如き乾燥せる学者のみ残つたのである。
十二月二十六日(木)晴 昨夜大雪、今朝四面銀世界と成る、校正始まり遊ぶこと出来ず甚だ困る、小間題に逐はれ大問題を閑却するの虞あり大に注意を要す、依てS・アーレニウス、A・ホルムス等の著書に依り宇宙創成論の復習を始む、新年早々始めんと欲する創世記講演に備へん為である、仕事《ワーク》、仕事《ワーク》と云ひて仕事に逐はれて大問題を閑却するに至るは大なる不幸である、余は素々学者である事を我は忘れてはならない亦|他《ひと》にも忘れて貰ひたくない。夜家族と共に蓄音器にハンデルの「メシヤ」を聴き大に我が噪《さわ》げる霊を静めた。
十二月二十七日(金)曇 在紐育竹田俊造氏より中田重治氏への通信に由り東京再臨大会の発せし電報が彼地開会の同大会に達し大拍手喝采を以て迎へられし由の報道あり甚だ嬉しかつた、斯くて我等の目的は達し此運動の世界的なる大証拠が挙つたのである、感謝、感謝、此電報料を単独にて負担せられし千葉県鳴浜村の海保竹松君に我等は深謝せざるを得ない。
(50) 十二月二十八日(土)曇 湿ぽい冷たい嫌な日である、咽喉痛み家に在り静養しながら働いた、不相変校正に従事した、主筆が表紙の広告までを校正すると云ふ状態である、然し乍ら如斯くにして雑誌の神聖を維持することが出来る、雑誌其物が伝道である、其内の論文のみに限らない、如何《いか》がはしき広告を載せて如何に高尚なる論文を掲ぐるも雑誌は人の霊魂を救ふための機関とならない。又多数の手紙を書いた、而して又宇宙人生の最大問題に就ても少しく学び且考ふる所があつた、歳の暮は物の贈答《やりとり》に忙はしくして我霊は自《おのづ》から塵《ちり》に就き易い、此時に方りて聖書研究は特に必要である。
十二月二十九日(日)晴 今年最後の安息日であつて同時に又高壇に立たざる唯一の安息日である、奇異なる感がする、然し悪くない、他人ばかりを養ふべきではない、我れ自身をも亦養ふべきである、今日の安息日は是れ|我が安息日〔付○圏点〕である、感謝 〇人あり余を訪ふて曰く「先生にして先生の所持せらるゝ書籍を尽く売払はれて其代価を貧者に施し而して先生御自身は一貫の体《からだ》となりて伝道せらるゝならば其効果は更に著るしかるべし」と、実に親切なる註文である、若し余が其註文に順ひて実行したならば人は或ひは余の清浄潔白を賞《ほ》めて呉れるであらう、然し余が終生を費して集めし書籍を売払ふとするも其代価たるや至て少額である、而して之を貧民に施すも彼等少数の一日の空腹を充たすに過ぎない、而して余が一貫の体となる時に『聖書之研究』の発行は止まるのである、嗚呼世人の註文は種々様々である、一々之に耳を貸して我が生涯は失敗に終らざるを得ない、我生涯の進路は我れ自身之を定むる、他人の之に喙《くちばし》を容るゝを許さない、「汝何人なれば他人《ひと》の僕を審判《さばき》するか、彼の或は立ち或は倒るることは其主に由れり、彼れ又必ず立てられん、神は能く之を立て得れば也」である(羅馬書十四章四節)。
(51) 十二月三十日(月)曇 用事少しく片附き読書の時間を得て愉快であつた、歳末に際し種々の感が起るが一として感謝にあらざるは無しである、「準縄《はかりなは》は我がために楽しき地に落ちたり、宜《う》べ我れ善き嗣業《ゆづり》を得たるかな」である(詩十六篇六節)、日本人の中で我れ程恵まれたる者は無いやうに思はれる、キリストを信じたること、聖書研究に身を投じたる事、教会や宣教師の世話にならざりし事、是れ今となりては余に取り最も善き事であつた、神は余の生涯の始に於て余に多量の苦《にが》き酒を飲ましめ給ひしも其終りに近づくに順ひ多量の旨《うま》き酒を飲ましめ給ふ、「神は我が仇《あだ》の前に我がために筵《むしろ》を設け、我が首《かうべ》に膏《あぶら》を注ぎ給ふ、我が盃は溢るゝ也」とは一言一句尽く我が歳末の感である(詩廿三篇)。
十二月三十一日(火)好晴 世の所謂大晦日である、一年の総勘定日である、然し我等は至て平静である、借金取は一人も来ない、我等は愛のほか何人にも負ふ所はない、然し乍ら愛に於ては負ふ所無限である、我等の欠乏を補はんとて我等が乞はざるは勿論、謝絶するに関はらず友人は東西南北より此世の物に愛を籠《こめ》て之を贈りて我等の歳暮を賑はす、我等は何を以て之を謝して宜しきやを知らない、権利でもない義務でもない、凡《すべて》が愛である、天国の小なる雛形《ひながた》である、斯くして年は始まり年は終る、而して最後に神の国は来るのである、恵まれたる生涯なるかな 〇友人の援助に因り更らに優《すぐ》れたる蓄音器を購ひ居ながら世界の大音楽を楽しむ事が出来て感謝に堪へない。
(53) 一九一九年(大正八年) 五九歳
一月一日(水)曇 茲に又新年を迎ふ、取て五十九歳、少しく短気になつた丈けであつて別に老を感じない、否な、余の事業は今始つたやうに感ずる、今日までが長い長い間の準備であつた、而して今からが仕事である
〇支那流の年賀の虚礼を廃し今年よりは元旦に聖書の講義を為すことにした、午後二時より青年会館に於て青年会主催の下に新年礼拝会を開いた、来会者三百人余、此日旧友農学士伊藤一隆氏と共に演壇に登る、感無量、余は創世記第一章第一節に就て講じた、新年の題目として最も適当なる者であつた、元日の最も善き使用法である
一月二日(木)曇 昨夜暴風雨、友人に箱根へ誘はれたが辞して家に在り手紙書きと読書に従事した、マクス・ムラーの『宗教起原論』今更らながらに面白く読んだ、四五の来客に接した、或ひは勧め或ひは祈つた、新年の我家は教会のやうなる所である、数百通の年賀ハガキの内、其多数は「平和の新年」を賀する者である、然るに此日国際社華盛頓発電報として新聞紙に掲げらるゝ者に曰く「海軍卿ダニエル氏は海軍委員に告げて曰く仮令《たとひ》ヴエルサイユ講和会議が海軍拡張に同意せずとするも米国は世界無比の大海軍を設けざるべからず」と、若し之が事実であるならば「平和の新年」が来たのではない、新たに世界戦争が始つたのである、而して神拔《かみぬ》きの平和会議に由て恒久的の平和の来りやう筈はない、余の殊に怪んで止まない事は基督教の宣教師までがウイルソン大統領の斡旋の下に国際的聯盟と称するが如き純外交的手段に由て世界的恒久的平和が来る事と信じて其事を年賀状に書記《かきしる》して耻とせざる事である、此教師あり此政治家ありて世界は益々暗黒である、我等の恒久的平和の希望は(54)他《ほか》に在る、而して此等の宣教師は之を知らない、盲人を導く盲目的教師等よ。
一月三日(金)晴 野外運動を試みた、仙台より来りし一人の甥を伴ひ江の島に至り稚児ケ淵の崖上より富士山の雪景を望み、鎌倉に出で久振りにて鶴岡八幡、鎌倉神社、頼朝の墓等を見舞ひ、大に青年に教ふる所あり、六時柏木の家に帰つた、貴き一日を一青年の為に資して惜しくなかつた、彼の長き生涯の間に彼が此日の教訓を思出す時があるであらう、読まず書かず考へずの一日であつた、余の休養のためにも甚だ宜くあつた。
一月四日(土)晴 校正と年始状書きに一日資した、年始状は読んで字の通り年始に書くべき者であつて年末に書くべき者でない、年始状は年の始に方て友人の安否を問ふ者である、故に気の緩やかなるに至て心を籠て書くべき者である、然るに今の人は如何? 単に「謹賀新年」と、然かも活版刷りにて、然かも年末忙はしき際に、何んと不人情ではないか、実に世人の為す事は大抵悪しくある、|我等基督者は世人の為す事の反対を為して大抵は誤らないのである〔付△圏点〕、然るに今の俗化せる教会信者は万事に就きて世人に傚ふて普通の人情にすら逆ふのである、年始状の事が善く其事を示す、余は余の友人が明年より之を改められんことを勧告する。
一月五日(日)晴 青年会の聖書講演、不相変盛会、来聴者益々増加して六百余に及んだらしくある、長尾半平君と高壇を共にす、君は「霊的三形」に就て語り、余は創世記第一章に関し第二回の講演を為した。今の時に方りて宗教と科学の関係に就て語る、人は之を「旧《ふる》し」と曰ふならんも余は之を「必要なり」と曰ふ、創世記の記事は今も猶ほ永久的価値を有する者である、講演終て後に山県五十雄君に招かれて東京駅楼上に夕食の饗応に与かる、種々の問題に就て語りしも我等が最も深き興味を有するは|未来に於ける死者との再会〔付○圏点〕の問題であつた、(55)人生問題中何ものか之に優りて重要なる者あらんやである、古参の新聞記者二人相会して此間題に就て興味尽きざりしは実に奇異なる現象であつた。
一月六日(月)晴 家に在り休み且つ多の友人の訪問に接した。此日新聞紙は女優松井須磨子が其恋人の跡を逐ふて自殺を遂げたる事を報じた、多分此事が今日東京市民三百万の噂の主《おも》なる題目であらう、而して幾多の文学者、芸術家、其他近代流の紳士淑女等は彼女に対して賞讃の辞を手向けるであらう、然し乍ら余の立場より見て此事たる決して賞すべき事でない事は言ふまでもない、健全なる清党《ビユリタン》的信仰は斯かる演劇的行為を否認する、彼女の誠意は取るべしとするも是れ病的誠意と称せざるを得ない、彼女をして茲に至らしめしは彼女が屡々演ぜしと云ふ北欧文学が与りて力ありと言はざるを得ない、実に忌むべきは北欧文学である、徒らに情の強きを貴び意志の清浄なるを問はない、深刻であると云へば深刻である、然し神聖でない、其点に於ては英米文学は遥かに大陸文学に勝さる、斯くして問題は単《ただ》に一女優のそれではない、我国青年男女全体のそれである、北欧文学の感化に由り其一生を誤まりし日本人は決して尠くない、警誠すべきは実に此北欧文学である。
一月七日(火)晴 読書と応接に全日を資した。基督教の宣教師までが「平和の新年」を祝しつゝある間に四万の波蘭土軍は伯林市に迫りつゝあると報ぜられ、又米国海軍大臣ダニエルズ氏は議会に報告するに、若し国際聯盟にして成立せずんば米国は無比の大海軍を建造し、之を大西洋艦隊と太平洋艦隊とに両分して「世界の平和」を計るべしとの事を以てせりと云ふ、之に対して『倫敦デーリー・グラフイツク』紙は米国海軍大臣の海軍大拡張計画は故意に英国を侮辱すべく発案せられたる者なりと断言せりと伝へらる、而して同じ侮辱を感ずる者は惟り英国のみではあるまいと思はる、斯くして「平和の新年」に入りしも「戦争と戦争の風声《うはさ》」は絶えないのであ(56)る(馬太伝廿四章六節)、今や平和到来を祝すべき時ではない、基督再臨を唱ふべき時である、噫信なき教会と宣教師となる哉。
一月八日(水)晴 終日家に在りて来客に接し又読書した、マクス・ムラーの『宗教起原論』中の長い二章を読んだ。更に歯一本を失つた、残余の歯が段々少くなつた、然し心配するに及ばない、余の一生に食物を供給するに足る丈けの者は残るであらう、「我らが外なる人は壊《やぶ》るゝとも内なる人は日々に新なり」である。夜柏木兄弟団祈祷会あり、来会者僅に十二人、然し祈祷ほ熱心であつた。
一月九日(木)曇 桑港小林政助君来訪あり、彼地の教勢に就て聞き大に慰めるゝ所があつた、在紐育加納久朗君より書面あり彼地に於て余の身に変事ありしとの噂あり友人等は驚愕を感ぜられしと云ふ、事は桑港の某邦字新聞に「嗚呼内村先生」と題し余に関する論文の現はれしに原因するとのことである、「嗚呼」と聞いて其論文を読まずして余は死せりと解したのであると云ふ、此世に於ける余の天職を為し尽した後には余は召されて一先づ眠に就くであらう、然し其れまでは大丈夫である、リビンストンの曰ひしが如くに「人は其天職を終るまでは不死なるが如し」である。
一月十日(金)雨 全書編輯室に行いた、畔上賢造君千葉より東京に転居し全書を編纂担任することになつた、適任者を得て幸福である。米国より紐育再臨大会の報告達し、其盛大なりしに驚き且つ感謝した、東京大会より発せし祝電十一月二十六日午後会衆の前に朗読されし由記された、祝電を送りし者は外国よりは唯我等而已であつたらしくある、誠に善き思附であつて神に感謝する。大阪大会の期日近づき同志の心意益々緊張し来る、願ふ(57)天の戸開け聖霊の大雨我等の上に注がれんことを。
一月十一日(土)曇 ルツ子訣別の第八年である、美くしき花輪を購《あがな》ひ彼女の肖像を飾つた、朝より幾回《いくたび》か胸が一ぱいになつた 然し彼女の逝きしは善き事であつた、之ありしが故に我等に再臨の信仰が起り自分も覚め他人も亦醒めたのである、彼女は此ために世に生れ来つたのである、今になりて考へて彼女の十八年の生涯の意味深長なる者なりし事が明白に解《わか》る、然し生みの父母に取りては値へ高き犠牲であつた、誠実の生涯は孰れも悲劇である、然し其終りは感謝の喜劇である、実に「聖なる喜劇《デバインコメヂー》」である。ハンデルの「ラツパ鳴らん時」を聴いて沈める心を励まして主の命じ給ふ仕事に就いた。
一月十二日(日)曇 雨後の泥濘甚し、午前家族三人花輪を携へてルツ子の墓を雑司ケ谷の墓地に見舞ふた、家の親友蒲池春恵同道、墓前に祈り「千代へしいはや」を歌ふて後に直に青年会へと行いた、詩人テニソンの曰へるが如くに「すべてが墓に終るとならば人の世に在る何故ぞや」である、然し墓に終るのではない、永生に終るのである、墓は暫時の紀念碑である、地上の墓地が全部取払ひになる時がぢきに来るのである 〇午後の講演は不相変盛であつた、来聴者は七百人位ゐあつたらう、畔上と高壇を偕にした、彼は「罪の贖」に就て語り、余は創世記第一章に就て第三回の講演を試みた、「神言ひ給ひければ……夕あり朝ありて造化は益々完全に向て進んだ、而して最後に|神言ひ給ふて〔付△圏点〕愈々完全に達するのである、此世は未だ完全の世ではない、完全に近づきつゝあるのである、|神言ひ給ふて〔付○圏点〕キリスト栄光の体《からだ》を以て現はれ、造化の目的は完全に達せらるゝのである」と述べた。
(58) 一月十三日(月)曇 雑誌漸く発送を了る、今月の発行部数三千、昨年の一月よりは六百部の増加である、再臨高唱に由て部数は減ぜずして却て増加す、実に奇異なる現象である 〇柏木兄弟団有志晩餐会を市内某所に催した、会する者三十余名、内に角筈時代よりの旧株が八名あつた、彼等各自の「余が始めて先生に会ひし時」の感想があり、先生自身も尠からざる興味を以て之に耳を傾けた。
一月十四日(火)晴 昨夜大風、今朝寒気強し、午後三時より大阪大会祝福特別祈祷会が今井館に於て開かれた、会する者十五六名、中田重治君司会す、実に熱烈なる祈祷会であつた、司会者に由て供《あた》へられし聖語は黙示録六章二節であつた日く「彼れ常に勝てり又勝を得んとて出行けり」と、実に適切なる題辞《テキスト》であつた、我等は必勝を約束せられた、故に祈祷会は化して感謝会と成つた、会終へて後に余自身は心に大なる平安を感じた、茲に日本歴史に於て東軍は復たび西軍を破らんとて西下するのである、束西相対して東軍の勝たなかつた例《ためし》はない、一ノ谷、関ケ原の吉例は亦繰返へさるゝに定《きま》つて居る、感謝、感謝。
一月十五日(水)曇 国際聯盟か基督再臨か、世界の平和は二者孰れに由て来る乎、此間題に依て基督教界は今や二大流派に分れて居る、彼等は彼なりと曰ひ我等は是《これ》なりと曰ふ、旗幟は孰れも鮮明である、洵に気持良き競争である、然し我等は必勝を期して毛頭疑はない。
一月十六日(木)晴 山口県長府に於て発行する雑誌に『聖書之研鑽』といふ者がある、其体裁は善く本誌に似て居る、主《おも》に日本基督教会の先輩並に名士の論文を掲げて居る、福音の欠乏する今日如何なる名称の下になりとも聖書の真理の説かるゝことは余の感謝して止まざる所である、然し乍ら既に十数年来『聖書之研究』の存立(59)して居る以上、『聖書の研鑽』の名称は甚だ紛らはしいではない乎、殊に其体裁に於て後者の前者に善く似寄《により》たるに於てをや、斯かる事は勿論法律の問題でもなければ亦純道徳のそれでもない、合宜の問題である、基督教の問題と言はんよりは寧ろ武士道の問題である、日本の武士道は斯かる事を為さないのである、既に『聖書之研究』の成立するあり、何故に寛大を以て此名を余輩に譲り、自分は全然之と異なりたる名を択ばないのである乎、余は斯く言ひて戦を余の同業者に向て挑むのではない、唯同信の士に対して注意を促すまでゞある、『聖書之研究』は我国の社会が斯かる名を忌嫌《いみきら》ふ時に方て多くの血戦を経て贏《か》ち得し名称である、然るに今や世が之を迎ふる時に際して之に紛らはしき名を採用するは他人の耳にはいざ知らず余輩の耳には何やら男らしく聞えないのである、斯く言ひて余は繰返して言ふのである「如何なる名称の下になりとも余は聖書の真理の説かるゝ事を悦ぶ」と(ピリピ書一章十八節) 〇午後七時三十分中田重治、平出慶一、藤井武の三氏と共に大阪再臨大会へ出席のため東京駅を発す、源義経、熊谷直実、畠山重忠、梶原景季等轡を並べて西征の途に上つたのである。
一月十七日(金) 昨夜を東海道汽車中に過し午前九時大阪駅に達し数多《あまた》の友人の歓迎を受けた、不相変安堂寺橋通り永広堂今井氏の客となつた、午後二時より中之島公会堂に於て基督再臨問題研究関西大会を開いた、会堂は新築の東洋第一と称せらるゝ者、其高壇に立つかと思ひ少しく身に恐怖を感じた、会する者千余、平出、宇津木、松岡、藤井諸氏の証詞あり、続いて中田重治氏の講演ありて昼の会を終つた、予想外の盛会であつて一同感謝に満ちた、別に会堂の広きに過ぐるを感じなかつた、四時半一先づ閉会、談話を交へ、夕食を終へ、夜七時再び開会、林、森両氏の証詞あり、下関コルテス氏の東京に於けると同じ然り其れ以上の熱心の講演あり、午後九時に至りて高壇は余に譲られた、余は「万民に関はる大なる福音」と題し基督再臨の単に基督信者にのみ関はる問題に非ずして人と云ふ人、何人にも関はる問題であることに就て演べた、此夜来り会する者千六七百人、其半(60)数以上は確に未信者であつた、然れども彼等は水を打ちたるが如き静粛を以て余の言はんと欲せし所に耳を傾けて呉れた、大なる感謝である、我等は第一日に勝利を博してハレルヤの声を揚げた、夜半十二時床に就いた。
一月十八日(土)好晴 午前永広堂の二階に独り静かなる時を持つた。午後二時開会、来聴者千余、石川鉄雄、藤本寿作、猶太人ニユマク、藤井武の諸氏と共に高壇に立つ、ニユマタ氏の演説殊に有力であつた、若きタルソのパウロが我等の前に立ちしやうに感じた、言葉は簡粛で辞々力あり、洵に猶太式の有力なる証詞であつた、如斯くにして猶太人が基督者となりし時に最も有力なる伝道師が現はるゝのである、「若し彼等の錯失《あやまち》世の富となり其衰へ異邦人の富とならんには況して彼等の盛なるに於てをや」とのパウロの言を想出さゞるを得なかつた(羅馬書十一章十二節)、会衆一同の感動甚だしく、直に寄附金を募り猶太人伝道の資に供せんと諮《はかり》しに一同之に応じ百二十円余の献金ありたれば之をニユマク氏の手に渡し彼の同胞間に於ける福音宣伝の志に対し聊か同情の意を発した、余は此日昨日の続きを演じ基督再臨の証明として第一に聖書、第二に猶太人の歴史並にパレスチナの地理に就て述べた、五時一先づ閉会、七時再会、黒崎、森、河辺、中田、森本諸氏の証詞があつた、来会者千八百余、但し中には新築の公会堂見物の為に入りし者もあつたらしく、出入頻繁にして尠からず会の厳粛を妨げた、又講演者の間にも多少の思想の相違もあり少しく歩調の乱るる観があつた、止むを得ない、更に祈るまでである、十時閉会。
-月十九日(日)晴 昨夜雨、正午に至て晴る、午後二時開会、来聴者二千三百と註せらる、今日までに再臨問題研究会として開かれし最大の会合であつた、青木庄蔵、トリストラム女史、コルテス、平出、中田等諸氏の証詞並に講演あり、五時高壇は余に渡された、与へられし問題は「伝道と基督の再臨」であつた、余は馬太伝廿(61)八章十六節以下の抄訳を試み続いて再臨の信仰の伝道を賛《たす》くる事実と理由とに就て述ぶる所があつた、自分に取ては甚だ物足らぬ演説であつた、然し此日疲れし頭脳《あたま》と爛れし咽喉とを以て為し得る最善のものであつた、之にて感謝の裡に大阪大会を終り午後七時より隣家の大阪ホテルに於て来会者有志の晩餐会を開いた、会する者七十余名、例に由り「主の坐」を設け之に御料理代を募りしに献金五十三円を得たれば之を貧者に頒つことゝし不取敢教会内の貧者に一人に付き三円づゝを贈り彼等をして我等と共に歓喜《よろこび》を頒《わか》たしめた、午後十時時間の不足を惜みながら散会した、恩恵溢るゝの会合であつた。
一月二十日(月)晴 昨夜来風強く寒気厳し、大責任を終へて肩より重荷が落しやうに感じた、京都より便利堂主人来り相連れ立ちて和歌之浦見物に出掛けた、久振りにて住吉神社を見舞ひ其古風の社殿を賞し、南海電車にて泉南の平野を馳せ、茅渟海《ちぬのうみ》の波の荒ぶる状《さま》を眺めながら午後一時半和歌之浦に達す、此所に昼飯を認め旧友相共に旧《ふる》きと新らしきとを語り、寒風強きが故に思ふ存分に風景を楽しむ能はざりしも尠からず心志を慰むる所ありて七時大阪に帰つた、此夜久振りにて常習に傚ひ十時前寝に就くことが出来た。
一月二十一日(火)晴 風未だ歇まず、蘆屋に至り好本督《よしもとたゞす》君を訪ひ盲人伝道に関し君の相談を受けた、又江原万里の新家庭を見舞ひ新婦に会ふて我子に会ふが如くに感じた、大阪に帰り午後六時大阪クラブに至り住友吉左衛門氏の懇篤なる饗応を受けた、余が日本の富豪の饗応を受けたのは是れが生れて始めてゞあつた、令息寛一君との霊的関係が茲に至らしめたのである。
一月二十二日(水)半晴 近頃新婦を迎へし或る家庭を訪問し其上に祝福の加はらんことを祈つた、午後永広(62)堂主人に伴はれ宝塚に遊び鉱泉に浴し大阪に於ける疲労の一部分を洗ひ去つた、途に摂津の中山寺と清荒神とを見た、前者は聖徳太子以来の古剃、後者は近代式の流行神《はやりがみ》である、仏教にも基督敦に於けるが如く清俗の二種がある、大阪に帰り牛後七時二十二分発列車にて帰途に就いた、滞留五日、所謂東洋のマンチエスターの煙と塵《ほこり》とは厭々《あき/\》した、然し戦争は敗北ではなかつた、復たび来て攻撃を続けるであらう。
一月二十三日(木)好晴 夜は富士山下に明け、足柄山以東の原野は一点の曇なき晴天に輝きて我が帰るを迎へた、横浜に至れば社員、品川に至れば家人は我を待受け相携へて家に帰つた、頭脳《あたま》は疲れ咽喉は爛れ、苦戦の跡歴々たるものがあつた、二三日は休息である、休むに家ほど善き所はない、相変らず数十通の書翰が待つて居た、其内宮崎県都城町日本基督教会牧師園部丑之助君よりの信書の内に以下の如き言があつた、「吾が教会信者が皆吾人と同一信仰(再臨の信仰)に依りて従来養はれ来りしを感謝致し居り侯、当町に組合派も有之、過日の岡山御講演に出席して失望したと申さるゝは勿論に候が、同派信者中小生方へ参りて此の空所を充たさんと努力なし居る向きも有之候云々」と、分別《ぶんべつ》は何れの処に於ても始まつて居る、之を信ずる者と信ぜざる者と、基督教界は今や判然と二派に分れつゝある。
一月二十四日(金)曇 家に在りて終日休養、心地良き休日であつた。大阪大会有志晩餐会に於て述べられし多くの興味ある感想の内に最も強く余の心を動かせし者は下の如き者であつた、神戸在留広東《カントン》人張金棟君は日本語を能く語り得る支那人であるが、君の言に依れば君は今より三年前或る古本屋にて金五銭にて『求安録』の古本一冊を買求め、之を読みて自己の罪を悟り悔改めて基督信者と成り、続いて他の同国人を導き今や一小教会を設立するに至りしとのことであつた、余は此実験談を聞いて思ふた、為すべきは信仰的著述である、此一人の支(63)那人を救ふを得て我が著述の為めに費せし労力は尽く償はれたりと、何も何十版を重ねて世の熱狂的歓迎を博するに及ばない、此一人を救ふを得ば足りるのである、余が今回大阪に行て得し最大の獲物は此一事である、噫神よ今より二十六年前熊本市外託摩ケ原|槙樹《まきのき》の下に於て古き支那鞄を台にして書きし此書が今日此果を結ぶに至りしは如何なる恩恵《めぐみ》ぞ、感謝々々。
一月二十五日(土)雪 大阪大会の疲労今に至りて勃発し、炬燵に拠りウト々々として終日を送つた、精神的疲労の何たる乎を知らない者は世に甚だ多くある、是れ疲労中の最大なる者である、肉体の疲労であるよりは寧ろ霊魂の疲労である、全身全霊が堪へ難き空乏を感ずるのである、随て種々の肉体的疾病を併発するのである、而して其治療の任に当る者は常に家の主婦である、彼女は疲れし夫を引受けて之に力を回復せしめて再び活動へと送り出すのである、疲れては休み、休みては又疲る、何の為に乎、主イエスの福音を伝へて一人なりと多くの人を天国の民となさん為である、我等は此事を為さずには居られない、|然し精神的疲労! 之に罹り居る間は伝道は再び為すまいと思ふ〔付○圏点〕
一月二十六日(日)晴 遂に打《やら》れた、昨夜発熱三十九度に達し、顔面神経疼痛を感じ、医師を迎へて治療を受けざるを得ざるに至つた、唯耐へ難きほど残念なのは青年会に於ける講演を休まざるを得ない事であつた、然し止むを得ない、万事を神と兄弟等とに一任し自分は床中に在て静養した、茲に至て大阪講演のために払ひし代価の高き事が明分《わか》つた。
一月二十七日(月)曇 医薬効を奏し熱は昨夜より下り出し夜に至て平常に復した、善く寝ね善く休んだ、休(64)息は病気の大なる恩賜《たまもの》である、多忙にして寸刻を争ふ時に二日間たゞ床中に在りて休む、然れども是れ亦他に得がたき恩恵である、「ヱホバその愛する者に寝《ねぶり》を与へ給ふ」(詩百二十七篇二節)、此安眠は余の大阪に於ける劇働に酬ゐんとて与へられし恩賞である、若き婦人連交はる交はる入り来りて主婦を助けて余を看護し呉れた。
一月二十八日(火)晴 今日病気少しく快く、床を出て雑誌原稿十六頁を作り之を印刷所に送り而して又床に就いた、床中独り瞑想して大に得る所があつた、哲学思想が又勃興して来た、哲学書が読みたくなつた、直に丸善に一冊を注文した、如何《どう》見ても我救主イエスキリストの御父は万民の神であり給ふ、彼は我等少数の信者のみの神ではあり給はない、彼が我等を選み給ひしは特別に我等を愛し給ふからではない、特別に我等を以て万民を救ひ給はんが為めである、「アダムに在て(「属《つけ》る」ではない)衆《すべて》の人の死る如くキリストに在りて(「属る」ではない)衆の人は生くべし」とある(コリント前書十五章廿二節)、生くるに種々《いろ/\》と程度はあらう、然し|すべての人〔付○圏点〕がキリストに在りて生くるは事実であると思ふ、読まず語らず書かず独り床の中に在りて黙想して余に如上の思想は勃然として湧き来つた、是れ勿論新らしき思想ではない、幾回《いくたび》か起りし思想であつた、然し今日復たび新らしく之を感じた。
一月二十九日(水)晴 一度も床に就かずして済んだ、更らに原稿十六頁を作つて印刷所に送つた、疲労未だ去らずして困る、演説の注文頻りに到り一々之を断はるに尠からざる困難を覚ゆ、身は一個《ひとつ》である、而かも頑丈といふ身ではない、然るに事業は夥多である、斯る場合に処し如何にして最も有効的に我一生を送らん乎とは其解決に深き智慧を要する問題である、嗚呼得たきは静かなる読書と黙考の時である。
(65) 一月三十日(木)雪 病気稍全快、然し疲労未だ全く去らず原稿製作頗る困難である、再臨世界大会出席につき既に交渉あり、行きたくもあり行きたくもなし、或ひは米国再遊を夢み或ひは故国に在りて富士山下に夏期講談会を想ふ、孰れも可なり、惟天父の指導に一任す、未だ自分で確定する能はず。
一月三十一日(金)曇 書斎に籠りて終日雑誌製作に従事す。ロイテル電報に由れば巴里に在る米国人の意見を以てすれば大統領ウイルソンにしてカロリン、マーシヤル群島を日本に譲渡することに同意して本国に帰るが如きことあらば氏は必ず米国中部及び極西部の全投票を失ふに至らんとのことである、憐むべし大統領ウイルソン、外に正義公道を行はんとすれば内に投票を失はざるべからず、人に由て与へられし権能は人に由て奪はる、神に由て与へられし権能に由て行ふにあらざれば絶対的正義を世に施すことは出来ないウイルソン氏如何に偉大なりと雖も米国合衆国大統領としては世界を治むることは出来ない。
二月一日(土)曇 寒い嫌《いや》な日であつた、漸く雑誌原稿を終つた。芬蘭土宣教師ミンケネン氏の訪問あり、再臨とバプテスマと贖罪とに就て語り相互に大に教へられ且つ慰めらるゝ所があつた。
二月二日(日)朝晴午後曇 久振りにて東京の高壇に登り愉快であつた、来聴者五百余、詩篇第二十三篇を講じた、純福音を語るは地《ひと》の利益であつて我が歓喜《よろこび》である、之を伝へし後の感に此ぶべき満足はない。
二月三日(月)雪 雑誌原稿全部を印刷所に送り大に寛《くつろ》ぎ好き休息を得た、書斎にあり暖炉と相対し『ヒツバ(66)ート雑誌』十月号を手にして善き半日を費した、ボイス・ギブソン氏の論文「科学より宗教まで」殊に強く余の心に訴へた、余は時々純科学者となるの必要がある、宗教にのみ没頭して余の信仰が混乱するの虞《おそれ》がある、時には「乾きたる冷たき哲学の光線」を余の心に投入れて之を澄すの必要がある。
二月四日(火)晴 久振りにて日光を見て嬉しかつた、少しく編輯に従事し、又幾分かの読書を為した、申命記を読み馬太伝廿四章を研究した、若き婦人ども来り余に罪なき多くの世間話を聞かせる、悪しくはない、貴き時間を奪はるるとは知りながら之を聞いて笑ひ楽しむ、之も亦人生である。
二月五日(水)晴 寒気強し、半日を校正に、半日を読書に費した、夜三崎町バプテスト会館に於て神戸在留の英国猶太人ニユマク氏を招き猶太人問題研究会が催された、来会者堂に満ち六百人もあつたらう、中田重治君主会し、次いでニユマク氏の二時間余に渉る談話的講演があり大に教へらるゝ所があつた、最後に余も亦三十分間ほど余の猶太人観に就て述べた、猶太人と日本人とは其骨相に於て、其情性に於て、其思想の傾向に於て類似する所多し、故に猶太人に由て創始《はじ》められし基督教は欧米人に由りてよりは日本人に由りて|より〔付ごま圏点〕容易《たやす》く且つ|より〔付ごま圏点〕深く解せらるとの意見を述べた、但し咽喉未だ平常の如くならず殊に夜気に触れて語るに困難を感じ頗る苦しき演説であつた。
二月六日(木)晴 珍らしき好き日である、引続き校正に従事した、元気未だ快復せず、故に室に在りて読み書き又考ふ、却て幸福である、幸にして時々健康を奪はれ復たび素《もと》の書斎の人となる事が出来る、幸福此上なしである、独り媛炉と相対して世界大家の著書を手にして真理の饗応に与る時、余に何物も他に求むる所はない。
(67) 二月七日(金)晴 引続き校正、咽喉の痛み未だ全く去らず、冬が厭《いや》になり春が待たるゝ。
二月八日(土)大雪 引続き校正、渡米の可否に就て考へつゝある、友人は頻りに行くを勧む、行くも悪くはない、米国の山野が眼にチラ附く、アービエータス草の咲く頃ペンシルバニヤ洲エルウインに旧師の墓を訪《とむら》ふも悪くはない、或ひは夢が事実となりて現はるゝかも知れない、乍併強ゐて行きたくはない、ホームに勝る所はない、日本に在りても手に余る程の愉快なる仕事がある、今や「洋行」は少しも余を引附けない、「洋行」は少しも人を慧《かしこ》くしない、すべての善き智慧は「洋行」せずとも家に在て得られる。
二月九日(日)快晴 昨日来大雪、東京に於ては明治十六年以来の大雪であると云ふ、漸く雑誌校正を了《しま》つた、非常に困《くる》しい編輯であつた、遠方に演説に出掛くるの崇りは常に茲に至るのである。青年会に於ては箴言第三十一章「ユダの理想婦人」に就て語つた、来聴者四百人余、静かなる良き会合であつた、聖書を講ずるに勝る愉快なる有益なる仕事はない、宗教的事業も「伝道」となり「説教」となりては俗化して不愉快なる仕事となるのである、自今余は聖書を講ずるの外、何事をも為すまじと意を定めた。春洋丸桑港より帰航し彼地の友人より品々贈り来る、喜びに耐へず、又写音盤数枚到着し、之を聴いて霊感に打たる。商賈《あきうど》の船遠き国より糧《かて》を運ぶとは此事である(箴言三十一章十四節)。
二月十一日(火)半晴 紀元節である、憲法発布第三十周年である、其時余は東京小石川上富坂町に住んで居た、余の父も母も一緒であつた、大雪であつた、何にか珍事が起りはしまい乎と思つて居た、而して夕刻に至つ(68)て森文部大臣が西野文太郎に刺されたと云ふ事を聞いた、憲法が発布されて黄金時代が日本に臨んだやうに感じたる人が多くあつた、然し其れは夢であつた、其時以来日本は道徳的には段々と悪くなつた、殊に政治家の堕落、愛国心の減退は最も苦るしくある、如何に完全なる憲法なりと雖も国家を根本的に潔むる事は出来ない、法律と教育とで日本国を改築しやうと思ふた薩長の政治家等の浅薄さ加減、今に至りて嗤ふに堪へたりである、伊藤、井上、など人生の深き事には全然没交渉なりし政治家等に由りて作られし新日本が今日の如く浮虚軽薄の国に成りしは敢て怪むに足りない、悪き樹が悪き果を結んだのである、神は慢《あなど》るべき者に非ずである、我等は今より維新政治家どもの為さゞりし事、然り為す能はざりし事を為さなければならない、噫神よ我等の愛する此日本国を恵み給へ 〇夜八時在朝鮮京城高橋浜子永眠の電報に接した、彼女は我家の主婦唯一人の妹である、前者に対しては悲歎に、後者に対しては同情に耐へない、浜子は怜悧なる勝気《かちき》の婦《をんな》であつた、彼女の娘時代に於て久しく角筈の我家に客となり、恰かも『東京独立雑誌』廃刊の時に際したれば我等を慰むること尠からず、又『聖書之研究』発行の事に就て大に我等を励まして呉れた、彼女の其後の生涯は幸福なる者ではなかつた、然し彼女は能く奮闘してすべての困難に耐へた、今や少しく春風の彼女の生涯に吹かんとするに方て此世を去る、実に悲みに耐へない、彼女の最後の書面は希望と感謝に満ちて居た、彼女は死の準備が成つて死んだのであると信ずる、復活の朝に於て我等はルツ子同様亦彼女にも会ふであらう、悲哀の中の希望である。
二月十二日(水)晴 北風寒し。『哲学雑誌』二月号に於ては今岡信一良君(統一基督教弘道会幹事)、『六合雑誌』同月号に於ては三並良君、孰れも余の『基督再臨問題講演集』に対して批評を試みられた、両君共にユニテリヤン主義者であれば此間題に就て余に賛成されやう筈はない、乍併両君共に余に対して公平であり又親切であることを感謝する、ユニテリヤン主義者の貴きは其冷静なる研究的態度に在る、彼等の評論に大に傾聴すべき(69)所がある、余は茲に前記両君に対し厚き感謝を表する。モアブ婦人会の例会下谷杉江氏宅に於て開かる、我家の主婦出席する能はず余代りて参会し「ユダの理想婦人」に就て前日曜日の講演の不足を補ふた。
二月十三日(木)半晴 印刷所(秀英舎)で今日に至るも未だ今月号の雑誌を作つて呉れぬ、甚だ困つた、自《みづ》から往いて催促したが埒があかぬ、競争雑誌の多い中である、止むを得ない、忍耐するまでである。
二月十四日(金)雨 恐ろしいのは此流行性感冒である、去る一月十五日を以て終る十二週間に於て全世界に於て此病に由て斃れし者は凡そ六百万人であるとの事である、倫敦市に於てのみ一万人斃れ、其本元の西班牙に於てはバルセローナの一市に於て一日に千二百人の死亡者を出せる時があつたと云ふ、米国に於て五十万の死亡者あり、其内多数は出征軍人の内にありて、敵軍の銃丸に斃れし者よりも遥に多数なりと云ふ、其他亜細亜、阿弗利加、欧羅巴、濠洲、到る所此病に襲はれ惨憺の状を呈しっゝある、是れ実に世界的疫病である、「民起りて民を攻め国は国を攻め饑饉、疫病、地震有るならん」とありて世界的戦争に続いて世界的疫病が来たのである(馬太伝廿四の七)、而して此疫病に限つて不思議なるは人々の之に就て多く注意を払はない事である、東京市中に於て今日でも毎日二三百人の死亡者ありと雖も其市民は死の其門前に立ちつゝある事に気附かないのである、斯くて劇場は満場の盛況を呈し、政談演説会亦立錐の地なしとの事である、斯の如くに世界の審判は行はるゝのである、悪魔は人をして神の審判に無頓着ならしむ、恐るべき哉。
幽暗《くらき》には歩《あゆ》む疫病あり、日午《ひる》には害《そこ》なふ励《はげ》しき疾《やまひ》あり、然れど汝恐るゝことあらじ、千人は汝の左に仆れ、万人は汝の右に斃る、然れどその災害《わざはひ》は汝に近づく事なからん。
とある(詩九十一篇六、七節)、神を信じ彼の御用に従事して我等は安心して此疫癘の地に働くことが出来る。
(70) 二月十五日(土)快晴 稀に見る日和であつた、今朝漸く雑誌発送を終り心大にくつろいだ、発送の今度程遅れし事は未だ曾て無つた、久振りにて市中に行き書店と楽器店とに立寄り少く春風を我心に吹入れた 〇三並良君の余の基督再臨の信仰の批評に曰く「世界の大乱に激成せられて勃興した内村氏の再臨信仰も、世界が平和となるにつれて、再び以前の平静に復する事と思ふ。之は急に起つた狂爛怒濤であるが、鏡の様に平静となるぺき世界は氏の心地にも旧の如く春風が静に吹きそめん事を希望する」と。此は誠に親切なる言葉である、乍併真理を欠いて居る、元々基督再臨は世界の大乱に激成されて勃興したる信仰ではない、縦しまたさうであるとするも大乱が息んで世界が「鏡のやうに平静に」成つたとも亦成るとも思はれない、世界は依然として行詰《ゆきつま》りの状態に於てある、国際聯盟は大失敗《フイヤスコ》に終らんとし、世界は益々混沌たる状態に陥らんとしつゝある。「鏡の如き平静」どころではない、戦争、饑饉、疫病の続発である、其点から見ても再臨の信仰を抛《なげう》つことは出来ない、三並君と余とは再臨の信仰を異にするに止まらず世の観察を異にする、世が平和平和と唱へつゝある間に、滅亡は忽焉と世に臨むのであると余は聖書に順つて信ずるのである。
二月十六日(日)半晴 無風の好き日である、午後の聖書講演不相変盛会であつた、来聴者六百人、或ひは其れ以上であつたかも知れない、篠原、高山両氏の信仰証明は一同に強き感動を与へた、余は「イエスの終末観」と題し馬太伝第二十四章の研究を試みた、難解の章とて之を聴衆に解らしめんと欲して多くの努力が要つた、此日纔かに其緒言を試みた丈である、聖霊の導きに由り全章を説明し得るやうに祈る、恰も好し昨夜在紐育A・C・ゲーベライン氏より氏の著述に成る馬太伝註解の贈与に接し大に余の講演を授けられた、神は如斯くして常に我等を助け給ふ、遠方より機《をり》に合《かな》ふ援助《たすけ》を招き給ひて我等の不足を補ひ給ふ、感謝。
(71) 二月十七日(月)好晴 春日和の連続である、緊張せる我心までが緩和されしやうに感ずる、「春の日は琥珀の光を放ち」と自製の一句の自《おの》づから口から迸しるを禁じ得ない 〇近頃「日本基督教会同盟」なる者が成立して其宣言の一節に曰く「日本基督教同盟は茲に見る所あり、此際吾人が特にデモクラシーの要旨として主張努力すべき数点を掲示し、全国教会及信徒と共に此新局面に於ける精神的開拓に従事せんと欲す。一、神の父たる事並に人類の同胞たること云々」と、誠に結構なる事である、乍併余が宣言書を読んで怪んで止まざる事は、|其内にキリストの字も見当らない事である〔付△圏点〕(基督教と云ふの外)、是はデモクラシーを讃美する文字であつて神の子キリストを崇めんとする言葉ではない、而して是れが日本基督教会同盟の主張である、余が屡々唱へしが如く今の基督教会なる者は世を導く者に非ずして世に導かるゝ者である、社会の首《かしら》に非ずして其|尻尾《しつぽ》である、世が忠君愛国を唱ふる時は其声に和して忠君愛国を唱へ、世がデモクラシーを唱ふる時は又之に応じてデモクラシーを唱ふ、殊に「神の父たる事並に人類の同胞たる事」との宣言に至ては是れユニテリヤン信徒の信仰箇条第一である、何故に今日之を奪《と》つてオルソドツクス諸教会同盟の宣言第一条となすのである乎、而して聞く所に依れば此同盟はユニテリヤン教会及び其信徒を其内に受けないとの事である、他人の永らく唱へ来りし信仰箇条を奪つて之を我がものとし、而して之を唱へ来りし者を其内に受けないと云ふ是は甚だ卑劣ではない乎、余はユニテリヤン信徒のために憤慨に堪へない 〇盲人教師中村京太郎氏の訪問あり、彼が彼の同志(孰れも盲人)三十三名と偕に宣教師学校を離れ相助けて独立的信仰団を作りし実話を聞いて強き感に打たれた、盲人にすら此意気がある、世の見えて見えざる腰抜け信者輩は慚死すべきである。
二月十八日(火)雨 朝より来客あり又全書の校正と手紙書きとに従事した。南清梧州滞在の或る米国宣教師(72)より書面を寄せ来り、余に彼が支那人に読ませつゝある聖書の研究雑誌を毎月日本文に翻訳して之を日本人に読ませよとの註文であつた、傲慢無礼なるは相も変らず是等の米国宣教師である、彼等は我等日本の基督信者を見るに彼等の通弁又は翻訳者なりとし、我等が彼等に使役せらるゝ事を最上の名誉なりと思ふが如くに信ずる、余は彼に返辞して言ふた「余には余が過去二十年間発行し来りし余自身の聖書研究雑誌がある、余は君の雑誌の翻訳の任に当る能はず、余は又過去四十年間の信仰的生涯に於て未だ曾て一銭たりとも教会又は宣教師の補助を受けし事なし、君は多分余の如何なる人なる乎を能く究めずして斯かる書面を余に書き送りしならん」と、英米宣教師は余輩に対する常に此愛顧的態度に立つが故に余輩は彼等と深き友誼的関係に入ることが出来ないのである、余輩は堅く信じて疑はない余輩は彼等に何の劣る所はないと、余輩は彼等の友人又は兄弟たらんと欲する、彼等の被雇人たらんことを欲しない、彼等は東洋に於ける数十年間の経験に由て既に此事を知るべきである、然るに未だ此事を学ばない、頑愚にして高ぶりたる宣教師等よ、彼等は余輩に教ふる前に先づイエスの足下に跪いて基督的謙遜の何たる乎を学ぶべきである。
二月十九日(水)晴 終日眠が痛くなるまで読書に耽けつた、在紐育独逸種の米人A・C・ゲーベライン氏著『預言研究』を読み大に教へらるる所があつた、余は氏の如きを以てユニオン神学校、シカゴ大学等の教授連に遥に優さる聖書学者であると言ふ、氏は余の如く教会を離れ単独で聖書研究推誌を発行し併せて多くの著書を出版して居る、能くも似たる者が洋の東西に在ると思ふ、如何に寛大に見ても教会は今や純福音の根拠ではない、其反対に世界孰れの国に於ても教会は異端、俗化、腐敗の培養地である、やがて主の口より吐出さるゝ者である
〇此夜目下帰国中の在桑港教友小林政助君夫妻の歓迎感謝祈祷会を今井館に於て開いた、会する者三十余名、小林君の興味津々たる実見談あり、聞く者をして身自から米国太平洋岸に在りて我同胞に接するの感あらしめた、(73)余等が柏木に在りて為す小なる事業が斯くも海外に在りてまで大なる波動を起しつゝある乎を知りて感謝と歓喜とに堪へなかつた、又復恩恵溢るゝの会合であつた。
二月二十日(木)晴 或人より青山学院神学部(日本メソヂスト教会の本山)発行『神学評論』第六巻第一号(一月号)を送られ、大なる興味を以て其内に掲載せられたる富永徳磨氏の筆に成りし「基督再臨説と基督教」と題する長論文を読んだ、是れ蓋し日本文を以て書かれし最も痛烈なる、最も徹底せる、而して最も思ひ切つたる再臨反対論であらう、氏は曰ふ「基督は決して目に見ゆべく再来すべからず、聖書の言なりとて信ぜずともよし、基督の教にありたりとて信ぜずともよし、再来説は不道理なり不必要なり有害なり」と、斯くハツキリと言はれて富永氏と余との信仰的関係は断然絶えたのである、氏の言はるゝ通り「道同じからざれば相与に語らず」であつて、氏が斯く言はれし以上、勿論余は氏に対し余の信仰を弁明するの必要はないのである、実を言へば余は今日まで富永氏に対しては陰ながら尠からざる尊敬と同情を表し来りし者であつた、而して今日《けふ》の今まで氏の信仰と余のそれとの間に斯くも甚だしき懸隔があらうとは思はなかつた、然し止むを得ない、氏と余とは信仰の別天地に住む者なる事が今に至つて明白になつた、余が再臨信仰を発表せし以来、余に対して明白に反対を表せられし基督教界の名士の中に海老名弾正君あり、三並良君あり、内ケ崎作三郎君あり、今岡信一良君あり、杉浦貞二郎君あり、クレー・マツコレー君あり、E・H・ザウグ君あり帆足理一郎君あり、而して今又富永徳磨君あり、其他の諸君にしても若し其意見を発表せらるゝならば其大多数は同じく反対側に立たるゝであらう、斯くて余の基督再臨の信仰は基督教界名士の多数決を以て否決せられたのである、乍併何ぞ恐れんである、牧師神学者等は否決したれども平信徒は可決したのである、而已ならず富永君の言はるゝ「広き世間」は案外にも余と此信仰とを歓迎するのである、余の雑誌の発行部数は激増し、余の聖書研究会来聴者は再臨唱道以前に此べて或ひは三倍(74)し或ひは六倍し、余の同志の信仰は復興し、其愛は燃え、其結合は益々鞏固となつた、再臨の信仰は不道理であるかも知らない。乍併人の最も深き所に訴ふると見えて世の之を歓迎する事益々熱く且つ之を信受する者益々多いのである、余自身の生涯に於て今日ほど愉快なる時はない。余は今日メソヂスト教会の機関雑誌に此痛烈なる反対論を読んで奇異の感に打たれた、余は初めメソヂスト教会の宣教師より洗礼を受けて一時其会員と成つた者である、而して今日に至り斯かる背信教会より早く脱会せし事を神に感謝せざるを得ない、メソヂスト教会は明治の初年には余等に聖書を文字通りに神の言として信ぜよと教へて置きながら今日は其機閑雑誌を以て「聖書の言なりとて信ぜずともよし、基督の教にありたりとて信ぜずともよし」と教るのである。ユニテリヤン主義を以て余を責めしメソヂスト教会が今や此主義の先鋒隊となつた、面白い現象である。
二月二十一日(金)曇 原稿日が来た、終日雑誌編輯に従事した 〇近頃に至り再臨のキリストは私の恋人なりと言ひ来りし婦人が二人あつた、其一人の如きは余に聖書の研究を止めて自分と自分の恋人の研究に従事せよと言ひ来つた、困つたものである、乍併迷信を生む丈けの信仰でなければ取るに足りない、反対の好き材料であらう。
二月二十二日(土)雨 終日書斎に籠り全書校正と雑誌編輯に従事した、今より二十七年前に自分の著《かい》た『基督信徒のなぐさめ』の校正を終り今昔の感に耐へなかつた、自分は素《はじ》めよりヒユーマニタリヤンであり、贖罪信者であつたのである、自分の伝道なる者は決して社会改良又は教会建設を目的として始つた者ではない、少しなりとも人を助けたいと云ふ人情より始つた者である、余は素より宗教家と称せらるべき者ではない、弱い情の人である、預言者ヱレミヤの小なる者である、「噫我れ我が首《かうべ》を水となし、我目を涙の泉となし、我民の為に終夜泣(75)かんものを」と叫ぶ質《たち》の者である(ヱレミヤ記九章一節)、若し余の著述が『なぐさめ』を以て終つたならば余は甚だ幸いであつたらう、余が進んで教会の教師や伝道師が為す事を為した故に多くの不愉快が余の生涯に臨んだのである、宗教は素々《もと/\》深き情であり詩であり歌である、是が教会と変じ神学と化する時に最も忌むべき者となるのである、噫帰らんかな『なぐさめ』時代に!
二月二十三日(日) 雨歇み午後晴る 引続き好き日曜日であつた、聖書講演会不相変盛会、聴講者七百余と註せらる、但其の内には聯合軍慰問使日疋信亮氏が戦地より持帰へられし戦時参考品を観んとて会館に集ひ来し者の流れ込みし者が尠からずあつたらしくある、神聖なるべき基督教青年会が而かも聖安息日に於て斯かる人に見舞はるゝは歎ずべき事である、然し乍ら聴衆中一二の無礼漢の有りし外は至て静粛なる好き会合であつた、余は前回に引続き馬太伝廿四章に就て講じた。
二月二十四日(月)晴 春暖を催し気持良くある、昨日の労働に疲れて半日休んだ、久振りにてカイムのイエス伝を引出して読んだ、彼は余と聖書の見方を全く異にするも確かに大家である、イエスの人的方面を画いた書にして之よりも大なる者はあるまい、独逸流の乾燥無味の歴史研究ではない、生血《なまち》の流るゝやうなる伝記である、イエスに確にカイムの見たる一面があつた、基督者は其方面を見逃してはならない。
二月二十五日(火)晴 終日雑誌編輯に従事した、今に至るも猶ほ余は『聖書之研究』の持主にして主筆にして唯一人の編輯人である、ロイド・ガリソンの『解放《リベレートル》』と同じく純なる一人雑誌である、さうして其れが二十(76)有余年続いたのである、幸いである、余は是れ以外に他の仕事を求めない、余は之れがために生れて来たのである、二千乃至三千の日本人に二十年間毎月少しづゝ聖書知識を供給して来た乎と思へば感謝と満足の至りである、人生五十功なきを恥づではない、人生六十此事ありしを感謝すである、今ペンを執りつゝ死んでも惜む所はない。
二月二十六日(水)晴 雑誌編輯終り大に寛《くつ》ろいだ、英国百科字典を繙き鳥類学魚類学軟体動物学と漁《あさ》つた、終にトゲ魚の一項を読んで止めた、心を浄《きよ》うする者で天然学の如きはない、其点に於て天然学は遥かに神学に優る、天然学に神学に於けるが如き辛辣《しんらつ》なる攻撃はない、万事が嬰児《をさなご》らしくあつて其点に於て能くイエスの教訓に似て居る、懐《なつ》かしきは古き変らざる天然である。
二月二十七日(木)晴 半日を歯の治療に費した、辛かつた。午後二人の西洋婦人の訪問があつた、珍らしい事である、其一人は米国レホームド教会伝道会社派遣宣教師パイファー女史、他の一人は鉄道ミツシヨンのジレツト女史であつた、共に再臨信者である、前者は米国婦人であつて快活であり後者は英国婦人であつて温厚であつた、大に教へられ且つ慰めらるゝ所があつた、再臨の信仰は宣教師と余との間に設けられし乖離の墻《かき》を取除くに於て大に与りて力があつた、実に喜ばしき事である。
二月二十八日(金)晴 好き春日和であつた、教友|古崎彊《ふるさききよう》君危篤の報に接し見舞のため相州平塚に行つた、車中余は窃に思ふた今日は辛らき御用を務めねばならぬ、将さに死せんとする者を慰むるの責任は重大である、余は之に耐へ得るであらう乎と、斯くて昨夜来祈祷の準備を為して平塚海岸松林の中に彼の病床を訪ふた、彼の喜び譬ふるに物なく、余は彼を見て胸が一ぱいになつた、而して彼の元気と云ふたらば! これが死ぬる病人であ(77)らうとは如何《どう》しても思はれなかつた、微笑《えみ》は彼の満面に漲り、彼の語は時々滑稽を交へ、平常と少しも異ならなかつた、彼は曰ふた「私の心の中に平和の王国が既に築かれました、感謝です、感謝です、先生大に働いて下さい、此の福音は世界万民に伝へなければなりません」と、余は彼の此言を聞いて彼を慰むるの必要がなかつた、余は独り思ふた「若し之が死であるならば死とは何んと容易《たやす》い者である乎」と、余は彼の病床の側に坐して聖書を読んだ、約翰伝十四章一節より四節まで、テサロニケ前書四章十三節以下、コリント前書十五章五十節を読んだ、而して後に祈つた、然れども彼の為めに祈求むべきものは何にもなかつた、只感謝するばかりであつた、|死の床の側に坐して感謝の外に祈るべき言なしとは如何に幸いなる事ではない乎〔付○圏点〕、祈祷を終へて余は彼の疲労を虞れたれば彼を辞し去らんとした、然し非常に名残り惜しかつた、依て彼と訣別の握手を為した、我等は久しく握りし手を放たなかつた、余は彼に言ふた「君、復た確然《きつと》会ふよ、今度会ふ時には斯んな死ぬべき体を以てせずして、死なざる栄光の体を以て会ふよ、今度の別れも亦先般君が洋行した時の別れと同じよ、復た確然会ふよ」と、彼は低き声を以て判然《はつきり》と答へた「さうです、さうです」と、斯くて我等は地上に於ける最後の面会を終へた、余の心は何んとも言へぬ感を以て打たれた、余は今日まで幾回《いくたび》か死の床を訪ふた、然し古崎君のやうなる場合に遭遇したる事はない、之は死ではない、暫時の別れである、教会の神学者は曰ふ「基督再臨の信仰は不道理である不必要である有害である」と、或は然らん、然れども茲に我友は希望ある生涯を中途に挫かれながら何の歎げく所なく感謝感謝の声を以て死に就くを見て誰が彼の再臨の信仰が不必要である有害であると言ふことが出来るか、古崎君の信仰は最も温雅なる浄土真宗に始まりし福音的基督教である、彼は|勿論の事〔付○圏点〕キリストの体的再臨を信ずる、而して此信仰が死の真際《まぎわ》の時に彼をして此平和の人たらしめたのである、彼の家を辞して停車場に至れば発車時間までに未だ間ありければ大磯に行き春の海を眺め満開の梅を観て少しく我緊張せる心を和《やわ》らげ、午後二時四十分大磯発の汽車にて帰途に就いた、将さに死なんとする友を慰めんとて行きし余は自身大に慰められて家に(78)帰つた、実に恵まれたる一日であつた、神学雑誌に長論文を読むも到底得られざる真理を示された、信仰は議論ではない、確実にして明白なる実験である、余は永久に古崎彊君の平和と歓喜とに溢れたる死の状《さま》を忘れぬであらう。
三月一日(土)晴 久し振りにて田村直臣君の訪問があつた、二時間程話し続けた、宗教界並に政治界の事につき色々の事を聞いた、教会と社会との腐敗は余の思ふたよりも遥に甚だしい事を知らせられた、斯んな基督教界は一先づ転覆するが宜かろう、而して神は必ず之を転覆し給ふであらう、是は実に「盗賊の巣」である(馬太伝廿一章十三節)、教会合同もデモクラシーも基督再臨反対論もあつたものではない、不信者の内にさへ行はれない卑しき事、醜き事が基督教会内に行はるゝのである、余は田村君に一年に二三度位ゐ会ふが、会ふたび毎に君は此点に関し余の眼を明かにして呉れる。
三月二日(日)曇 北風にて寒し、午前中『ヒツバート雑誌』一月号を読み英人中亦智者尠きを歎じた、英国基督教的智識の最高権威が之であると知りて人間の智識の到底頼むに足りない事が判《わか》る。聖書講演不相変盛会、聴衆六百余人、小林政助君は「人種間題と在米日本人」に就て、余は「イエスの終末観」第三回を講じた、二者共に再臨信仰の証明であつた、我等を迷妄と嘲ける者に我等の有する希望と熱心とはない、一年以上に渉る日曜日毎の此盛会は何を意味するのである乎、我等の反対者は其反対説を以て之に類する会合を持続し得る乎、我等に唯感謝と讃美があるのみである。
三月三日(月)晴 昨日の講演で疲れた、月毎の雑誌校正が始まつた、斯くて月は満ち月は虧《か》く、然し最も満(79)足なる幸福の生涯である、余は何人とも余の位地を交換したくはない。
三月四日(火)晴 引続き好き春日和である、梅が咲き出した、愈々春が来た、如斯くにして最後の春が来るのであらう、甚《いた》く待たれる。昨夜来続いて三四人の貴婦人の訪問があつた、珍らしい事である、我家の門に自働車の附く時に甚だ不似合のやうに見える、然し歓んで何人をも迎へる、善人は何れの階級の内にも在る、然し特に貧者の友として生涯を送り来りし我等は貴人を迎ふるの途に疎《うと》くして大に心を配ばる、然し神は又其途をも教へ給ふ。
三月五日(水)快晴 日本女子大学校長成瀬仁蔵氏咋朝死去せりとの事である、新聞紙の報ずる所に依れば、氏は最初はクリスチヤンであつたが今日では基仏儒神全般の宗教を超越したる宗教、即ち宇宙の霊に合致する事に努力して居られたとの事である、而して余が氏に接触(寧ろ衝突)したのは今より三十一年前越後新潟に於て氏が熱心なるクリスチヤンたりし時に於てである、其時氏は|聖職〔付○圏点〕成瀬君(Rev.Mr.Naruse)であつて|米国宣教師の信任最も篤く〔付△圏点〕、而して余が宣教師に反対の態度に出づるや彼等の代言人となりて堂々不信異端の故を以て余を責めたのは此成瀬仁蔵氏であつた、余は其時に思ふた、「|悪魔は神の前に人の罪を訴ふる者であると言ふが彼は多分成瀬君の如き着であらう、人を悪人と思へば其人を悪人と為さずば止まない者は成瀬君である、余が若し将来小説を著はし悪魔を画く時には必ず成瀬君を画くであらう〔付△圏点〕」と、而して歳移り星変りて此米国宣教師の弁護者たりし成瀬君ほ基督教を棄てゝ、不信異端を以て君に責められし余は福音の主唱者として今|存《のこ》るのである、実に不思議である、余は思ふ成瀬君の一時の基督教の信仰は女子教育の為めであったのであると、大阪に於て新潟に於て君が米国宣教師の手を藉りて女学校を経営しつゝありし間は君はクリスチヤンであつたのである、然れども東京(80)に来り女子大学を設立するに方て大隈侯渋沢男等基督信者ならざる人等の援助を要する時に方ては氏は弊履の如くにキリストの福音を棄てたのである、是多くの日本の紳士学者の為す所であつて惟り成瀬君のみを責むべきではないが、然し最も恥づべき賤しむべき事である、何れにしろ宣教師の厚き信任を担ひし成瀬君は早く既に之を去り、彼等に嫌はれ君に不信異端の故を以て責められし余が今日福音の戦士として存るを得るは神の大なる摂理と称せざるを得ない、余は祈る余は何を為し得ずとも、教会を作り得ず大学校を建て得ずとも、終生キリストを棄ざらんことを、|宣教師の寵愛を蒙るは多くの場合に於ては薄信偽善の何よりも確かなる証拠である〔付△圏点〕、余は幸にして彼等の悪み嫌ふ所となりて神の撰択《えらみ》に与りしことを感謝する 〇子爵加納久宜氏亦逝去せらる、弔詞を述べんがために大森の邸を訪ふた、実に偉らい人であつた、忠実なる平民の友であつた、日本華族の模範として世界に示して恥ぢざる人物であつた、嗣子久朗君今は紐育に在り、余の十年来の善き信仰の友である、君並に遺族に対し同情に堪へない、主イエスキリストの日に老子爵の功労は充分に酬ゐらるゝであらう(馬太伝二十五章三一-四〇節)。
三月六日(木)朝晴夜大雨 古崎彊君昨日眠りし由遺族より電報があつた、然し葬儀は|仏式を以て行ふ由〔付△圏点〕、実に奇怪千万である、彼は明白なる基督教の信仰を以て死し、且つ彼の葬儀の今井館に於て彼の信仰に順ひて行はれん事を遺言した、然るに之を省ずして彼れ死して後二十四時間、仏式を以て彼の遺骸を葬りしと云ふ、非常識も亦甚だしと謂ふべきである、然れども死者をして死者を葬らしめよである、基督信者に其生ける霊魂を救はしめて其死せる体《むくろ》を葬りし仏教徒の心事の憐れさよ、余は常に仏教に対しては厚き尊敬を払ひ来りし者であるが、今回古崎君の遺骸に対する彼等の処置を見て「仏教滅亡」を叫ばざるを得ない、今や日本の仏教徒は生ける霊魂を救ひ得ずして死せる肉体を争ふのである、寺院は今は一の葬儀会社として存《のこ》るに過ぎない、憐むべきは仏教の(81)末路なる哉。
三月七日(金)晴 昨夜中野神田男爵邸に於て法学士高木八尺の渡米送別会に併せて結婚祝賀会を開いた、楽しき歓ばしき会合であつた。アキスリング氏の依頼に依り午前十一時より三崎町バプチスト会館に於て新来の宣教師四十余人に対し英語演説を為した、日本人の「義理と礼儀」に就て語つた、随分骨が折れた、然しアキスリング氏に対し友誼的奉仕を為すと思ひて最善を試みた、演説終つてア氏に伴はれ昼飯の馳走に与つた、余はたしかに宣教師の敵ではないと思ふ。
三月八日(土)曇 新聞紙は子爵三島弥太郎君の逝去を伝ふ、余の君を知りしは幼年時代に於て有馬学校に於て、又留学時代に於て米国アマストに於てゞある、余がアマスト卒業の日に礼服なきが故に君の最上等の日本服を借りて式を済ませしは今より三十一年前である、其後君との交際は全く絶え、君は日本銀行総裁として余はキリストの福音の宣伝者として各自人生の全く異なりたる径路を歩んだ、「一たび死ぬる事と死して審判を受くる事とは人に定まれる事なり」、|死と審判〔付○圏点〕、之を思ふて位階も勲章もあつたものではない、人生の暫時の微動を終れば人は皆な尽く平等である、神の平民である。
三月九日(日)半晴 青年会館に於る午後の集会不相変盛会、来聴者五百余名、新帰朝者笠原作三君は君が太西洋上波に浚《さら》はれ奇蹟的に救はれし聞いて身を慄《ふる》はすやうなる実験談を語り聴衆をして感動せしめ、余は馬太伝二十五章一-二二節に於ける「新郎《はなむこ》を迎ふる十人の童女の比喩」に就て語り基督再臨の信仰の今や教会を之を信ずる者と信ぜざる者との二つに両断しつゝある事に就て語つた、自身に取り快心の講演であつた、旧きドクトル・(82)ランゲの註解書は斯かる場合に於ける大なる援助《たすけ》である、此書は一八六一年の著であつて余が此世に生れ来りし年に世に出し者であるが其時既に基督再臨の信仰の強き唱道があつたのである、ホイブネル(Heubner)の唱道の如き殊に判然たる者であつたのである、「夜半ばに叫びて新郎《はなむこ》来りぬ出で迎へよと呼声《よぶこゑ》ありければ」とあるは実に彼等の声であつたのである、而して余の如きは今に至て漸く睡眠《ねぶり》より覚めたのである、然し乍らキリストを信じてより茲に四十一年、初めて明瞭なる了解を以て此比喩を解釈するを得て感謝に堪へない。
三月十日(月)曇 「青き月曜日」である、精神的疲労にてグヅ/\と一日を送つた。午後神田盾夫に伴はれて池袋聖公会神学校に師父《フハザー》ケリーを訪ふた、半天主教的の英国聖公会の教師である、英国の神学に就て質問し大に益する所があつた 〇三月号雑誌が出来た、発行日に出来上つたのは近来稀なる事である、然し急いで組んだ故にか誤植が多い、何か必ず一つの欠点がある、困つたものである。
三月十一日(火)半晴 「若し爾《なんぢ》口にて主イエスを言表はし又心にて信ずるならば救はるべし」との羅馬書十章九節の言に就て終日考へた、心に信ずるは易し、難いのは口に言表はす事である、社会に立て「我は主イエスを信ず」と表白し得る信者は甚だ稀である、実に信仰の表白は小事ではない、是れなくしては実は信仰は無いのである、「凡そ人の前に我を識ると言はん者を我も亦天に在す我父の前に之を識ると言はん、人の前に我を識らずと言はん者を我も亦天に在す我父の前に之を識らずと言ふべし」とのイエスの言の深き真理なる事は日本の如き不信者国に在て覚らるゝのである(馬太伝十章三二、三三節)。
三月十二日(水)曇 余の信ずる基督教に導くに最も困難なる人は偶像信者でもなければ又無神論者でもない、(83)所謂近代の高等教育を受けたる者である、キリストの福音を解するに難き人にして半西洋化されたる東洋人の如きはない、彼等は自分で自分の信仰を作て之を基督教と称するのである、而して偶々《たま/\》其誤謬を正《たゞ》さるゝや大なる迫害を受くるが如くに感ずる、実に人の霊魂を亡す者にして近代の西洋文学の如きはない、殊に乱暴なるは北欧文学である、之を信仰上の過激思想《ボルシエヴイズム》と称して可《よか》らう、基督教の敵にして之よりも嫌ふべき者はない、是は聖書に所謂不法の霊である。偽基督《にせキリスト》の精神である、現下の福音宣伝者を苦しめる者にして此霊此精神の如きは無い。
三月十三日(木)曇 昨夜今井館に月並《つきなみ》祈祷会あり、来会者三十人、馬太伝十章三四-三九節に依り信仰は真剣ならざるべからずと云ふ事に就き祈り且つ語つた、以来祈祷会は毎月二回開く事に定めた 〇此日全日を『全集』校正と米国友人への手紙書きに費した、我れ舌の人ならずしてペンの人なる時我は幸福である、爾今『内村全集』編纂が余の第一の事業であらう、是が余が後世に遺す唯一の遺物であらう、唯其価値甚だ尠きを耻づ。
三月十四日(金)曇 引つゞき『全集』校正に従事した、校正、又校正、我生涯の大部分は我が書きし物の校正に消費せらる、多分墓に下る時まで続くであらう、然し悪き仕事ではない、印刷職工を相手に単独《ひとり》で為す仕事である、カーライルやエマアソンが沢山に為した仕事である、何は兎もあれ独立の仕事である、牧師や神学者であるよりは遥に善い 〇午後丸善に行きペンとインキとを買ひ求む、我が商売道具である、一日も欠くべからざる物である、此日より見目洋君がクリスマスに贈られし金のペン先を使用し始む、来る数年間の机上の要具であらう。
三月十五日(土)大雨 |警視庁に呼出され三月号雑誌の記事に就て注意を受けた〔付△圏点〕、「聖書と現世」の一欄時事に(84)触れるの虞れありとの事であつた、謹んで御注意に順ひ此欄を廃することに決定《きめ》た、永遠の聖書を研究せんと欲する者が何も必しも時事に就て語るの必要はない、〇『全集』校正が毎日の仕事である、外に少しづゝ大問題に就て究め又パウロの所謂「諸《すべて》の教会の憂慮」に携《たづさ》はる、人として生き基督者として在る以上は是れ又免る能はざる所である。
三月十六日(日)晴 好き安息日であつた、午後の会合不相変愉快であつた、来会者六百余、「死後の生命」に就て語つた、今日丈けは聖書の講義であるよりは寧ろ人生哲学の講演であつた、然し次回より始むべき哥林多前書第十五章の研究の準備である、死後の生命問題は永久に其興味を失はざる問題である、故に語る者も聴く者も熱心ならざるを得なかつた、是れ確《たしか》に人生第一の問題である、すべての科学すべての哲学ほ此間題を確定せんが為であると云ふ事が出来る。
三月十七日(月)快晴 田村直臣君と共に中渋谷に旧友松村介石君を訪ふた、茲に久し振りにて三村の会合が開かれ旧きを語り新きを談じて時の立つのを知らなかつた、此会合に於て第一の喋り役は田村君であつて松村君之に次ぎ、余は主として聴者の地位に居つた、我等相知つて茲に三十五年、取りし途は異なりしと雖も心の底は同じである、各自の最善を尽して斯国斯民の為に尽さんとする点に於て一致して居る、|殊に松村君と余とは馬鹿正直なる点に於て善く似て居る〔付○圏点〕、昼飯の馳走に与り、拝天堂を観覧し、三人共に撮影して別れた、田村君は六十二歳、松村君は六十歳、余は五十九歳である、誠に紀念すべき会合であつた。松村君を辞して後に我等二人市中に出で、再び某所に会食し、連立《つれたち》て富士見町教会に行き博士ヂユエーの講演を聴いた、題は「デモクラシーの倫理的意義」至て平凡なる講演であつた、若し余が日本語を以て同じ事を述べたならば聴衆は大なる不平を漏した(85)であらう、然し乍ら博士は米国現今の第一位を占むる哲学者であると云ふので今回交換教授として我国に渡来したのである、多分彼は此夜彼の最善の状態に於て在つたのではあるまい、何れにしろ此夜博士の講演は大なる失望であつた、嗚呼米国よ!
三月十八日(火)快晴 日曜日の精神的疲労未だ癒ず差したる事を為し得ずして一日を送つた、午後友人瑞西普及福音教会宣教師フンチケル氏の訪問あり一時間余り快談した、ツリツヒ大学に神学を修めし彼は余が基督再臨を信ずるが如くに信ぜずと雖も深き同情と敬意とを以て此信仰を聴いた、「能く解ります、能く解ります」と彼は繰返して言ふた、|彼が驚きし事は余が再臨を信ずる事ではなかつた、メソヂスト教会、聖公会、日本基督教会、組合教会と称するが如きオルソドツクス教会の教師等が之を信ぜざるのみならず之に対して反対の態度に出づる事であつた〔付△圏点〕、さすがはツヰングリの生れし国に成長《そだち》し基督教の教師である、彼は再臨の信仰に対して米国の宣教師や日本の神学者が取るやうなる嘲弄的態度を取らない、彼は真面目なる信仰の価値を知る、故に彼と余とは信仰箇条を異にするも信仰上の善き友人たる事が出来る。
三月十九日(水)曇 春暖俄に催し桜花綻びんとするの気候である、ルツ子の誕生日である、彼女が生きて居る者として此日を紀念した、彼女も亦霊なる者として始《はじめ》ありて終《をはり》なき者である、殊にキリストに在りて寝れる者として彼れ再び臨り給ふ時に甦へらされて我等と再び会ふ事の出来る者である、信者の誕生日は永遠に生くる生命の第一日である、故に永遠に紀念すべき日である 〇近頃読みし書にして最も有益なる者の一は米国長老教会教師フホスヂック著『不朽生命確認論』である(The Assurance of Immortality by H.E.Fosdick)、僅々百十六頁の小著述ではあるが近世思想の立場に立ちて此旧き問題を論究せし所、嘆賞の外はない、死後の生命は決して(86)論証し難き事実ではない、宇宙を合理的実在物として見る以上、死後に生命の存続する事は避け難き結論である。
三月二十日(木)晴 原稿日には猶ほ一日あり未だ筆を採る気にならない、ルートハート著『約翰伝註解』第三巻を取出し第二十章イエスの復活に関する記事を研究した、遉《さすが》に聖書学の大家である、其見解に非凡なる所がある、米国の聖書学者などの及ぶ所でない 〇和蘭アムステルダム近郊ブツサム在住※〔ワに濁点〕ンエーデン氏に宛て手紙を書いた、彼は今や世界的に知名の思想家である、彼より達せし最近の書簡に依れば彼は目下「光の市《まち》に於ける神の殿《みや》」の計画最中にして其図案は既に出来上りしと云ふ、彼の計画に依れば先づ中立国所属の一島を選み、其内に一市を建設し「光の市」と称して世界各国より純潔崇高の人を招いて其市民たらしめ、而して市内中枢の地に「神の殿」を建築し、之を囲繞するに世界各宗教を代表する神殿仏閣の類を以てするに在ると云ふ、実に偉大なる計画である、而して※〔ワに濁点〕ンエーデン氏は彼の此計画に対し余の賛成をも求め来りたれば余は腹蔵なく余の意見を書いて彼に返答した、彼の思想たるや遠大にして彼の計画たるや嶄新なりと雖も余は其実現を疑はざるを得ない、其困難たるや国際聯盟に異ならず、言ふべくして行ふべからざる者である、イエスキリストの御父なる真《まこと》の神の殿を取巻くに仏教の寺院、神道の神社、回々教のモスクを以てする事の困難は我等非基督教国の日本に在る者の充分に解し得る所である、然かも斯かる事が出来得べしと思ふ欧洲宗教学者の想像は敬ふべくもあれば亦嗤ふべくもある、是れ詩篇九十七篇七節に謂ふ「もろ/\の神よみなヱホバをふしをがめ」とある言を今直に実現せんとする事である、余は諸宗教の統一は如斯くにして出来る者であると信じない、是は人の為し得る事でなくして神御自身が其定め給ひし時に於て為し給ふ事であると信ずる、我等基督者の今為すべき事は神の此御計画、此御約束を宣伝ふるに在る、人が神に代て此超人間的事業を成就せんと努力するに非ずと信ずる云々と余は※〔ワに濁点〕ンエーデン氏に書贈つた、此書簡が彼の手元に達する時に彼は如何思ふ乎余は勿論知らない、然れども察するに余(87)の書簡は蘭訳されて彼の主宰の雑誌なる『アムステルダメル』に掲載せられて多くの読者の批評を招くであらう、畢竟するに欧洲に於ける多くの思想家宗教家等は旧来の教会に慊らずして之を去ると同時に単純なるイエスの福音をも棄つゝあるは事実である、彼は旧教新教両つながらの教会堂を「神の殿」として認むる能はざるが故に新たに「光の市」を建設して其内に真の神の殿を築かんとしつゝあるのである、基督教が欧洲に於て衰へつゝあるは最も瞭《あきら》かなる事実である、高潔なる文士※〔ワに濁点〕ンエーデン氏の如きすら教会以外に「神の殿」を求めつゝあるのである、深く同情すべくある、同時に又大に警《いまし》むべくある。
三月二十一日(金)晴 昨夜四谷見附三河屋に於て太平洋教友会の晩餐会を開いた、催主は東洋汽船士官四人、主賓は目下在京中の桑港小林政助君夫婦、之に我等夫婦並に東京教友の代表者二人を加へて楽しき家庭的会合であつた、各自凡そ三人前の牛肉を平らげ健康状態に在るを証明した、如斯にして我等の友誼は繋がれ又強めらるゝのである 〇本月九日発行の純理主義の英字新聞ジャパン・クロニクル紙も亦基督再臨反対の論文を掲げて居るを見た、クロニクル紙は非戦論の事に付き今日まで余の賛成者で又弁護者であつたが、今度は明白《あからさま》に余の反対者として立て痛く余の信仰を攻撃した、斯くてオルソドックス、ユニテリヤン、純理主義者《ラシヨナリスト》、悉く余の反対者である、彼等宗教の事に関しては相互に大に説を異にするも再臨に反対するの一事に於て其歩調を共にする、「ピラトとヘロデ先には仇たりしが当日《そのひ》互に親しみを為せり」とあるが如く(路加伝廿三章十二節)、先の政敵教敵も福音の真理に対する時には互に親しみて同一の鉾を向けるのである、余等の名誉此上なしである。
三月二十二日(土)晴 原稿日来りペンの運び忙しくある。彼岸の中日である、主婦萩の餅を作つて呉れたれば大なる者七箇を平げた、彼女は外に技倆なしと雖も「お萩」を作る事に於ては日本第一なりと自分で自慢する、(88)而して余も亦此自慢を承認せざるを得ない、何れにしろ二十七年間毎年春秋二回づゝ規則正しく彼女手作の此甘味を供給せられて余の趣味と彼女の技倆とは合致せざるを得ない、寒いも暑いも萩の餅の出来るまで、今年も先づ是で寒気は去つて、真個《ほんとう》の春が来たのである。
三月二十三日(日)半晴 快き春日和であつた、午後の会合相不変楽しくあつた、来聴者六百乃至七百、其内に一人のヒヤカシがあつた、特に制裁を加へたれば彼は退場した、彼に取り最良の説教であつたらう、此日哥林多前書十五章の研究に入り、復活の何たる乎、基督|肉体〔付○圏点〕の復活は基督教の根本義である事に就て語つた、パウロの基督教と現代人のそれとの間に天地の差の在りし事に就て述べて甚だ満足であつた、何れにしろ聖書研究に対する聴衆の興味《インテレスト》の益々増進しつゝあるを感謝する。
三月二十四日(月)雨 無為無能の月曜日である、書店を廻り友人を訪ひ夕飯を強請し、雨を冒して夜九時家に帰つた、何も為さなかつた、然し何か為したのであらう。
三月二十五日(火)快晴 桜の蕾膨らみ鳥囀り、空は晴れ渡りて富士の白頂を書斎の窓より眺望す、復活の朝のやうなる春気色である、斯《かゝ》る朝に死者は甦り生者は栄化し、一同主の許に携へ挙げられて其所に歓極まるの再会があるのであらう、「天地《あめつち》を震動《ゆる》ぐラツパの一声《ひとこえ》に、甦へるらん春の曙」とは斯る日であらう。此日藤井と共に四月号雑誌原稿を纏めた、例月より五日早くある。
(89) 三月二十六日(水)晴 北風強くして寒し。夜祈祷会あり、田崎安栄の感話に強く余の心を打たれた、彼は曰ふた「キリストの受難と復活とに由り神は我等信ずる者のすべての罪を拭ひ去り給ふた、今や神の前に信者の罪なる者はない、信ずる我等は後日一度自分等の罪を曝露《さら》されて耐へ難き苦痛を覚ゆるの虞はない」と、是れ実に福音の深い真理である、イザヤ書四十三章廿五節に曰く「ヱホバ曰ひ給ふ我れこそ我れ自身《みづから》の故によりて汝の咎を消し汝の罪を心に記《とめ》ざるなれと」、神がキリストに在りて信者の罪を赦し給ふ其赦しは彼が罪を忘れ給ふ赦しである、感謝此上なしである、此|言信《おとづれ》を聞いて余の心は躍らざるを得ない、此赦しに与りて余は最早罪を犯すことは出来ない。実に近来稀なる有益なる祈祷会であつた。
三月二十七日(木)曇 校正と手紙書きにて全日を費した。米国行を断念した、此国に留つて夏中働くことに決心した、自分から洋行を計画したのではない、友人から頻りに勧められたのである、それが為に多くの気兼ねと心配とを為した、有難迷惑とは此事である、然し愈々行かないと決定《きめ》て心が晴々した、余の事業は此国に於てある、再び外遊するの必要は少しもない、神の事に関し永生の事に関し智識を求むるに外国に行くの必要はない、此国に在て充分に知ることが出来る、余には近頃の我国人の洋行|狂《マニヤ》の理由を発見する事が出来ない。或事に就き希伯来書十三章四節に就て終日考へた。
三月二十八日(金)雨 校正なし、全日を来客の接待と聖書の研究とに費した、終日路加伝六章二十節「汝等貧しき者は福なり神の国は即ち汝等の所有《もの》なれば也」との言に就て考へた、文字通りに真理である、金銭に貧しき者、知識に貧しき者、道徳に貧しき者、すべて福ひである、神の国は即ち彼等の所有であるからである、之に反して富める者の天国に入るは駱駝が針の孔を穿《とほ》るよりも難くある、貴族、富豪、学士、博士、我心に何の疚《やま》し(90)き所あるなしと誇る此世の聖人君子、彼等の天国に入るは実に駱駝が針の孔を穿るよりも難くある、余自身は到底「富める者」の教師でない事を悟つた、殊に高等教育を受けたりと称する男と女とが厭《いや》になつた、彼等の内|幾人《いくたり》が今日まで余を失望せしめたか判《わか》らない、彼等は到底イエスの※〔言+后〕※〔言+卒〕《そしり》を負ひて営外に出ることは出来ない(希伯来書十三章十三節)、「貧しき者は福ひなり」、実に其通りである。
三月二十九日(土)半晴 聖書研究に有益なる時を有つた、深い聖書学者はやはり欧洲人の内にある、米国人には霊の深い事は解らない、益々切に其事を感ずる 〇午後久方振りに独り郊外春の野に散歩した、梅は散り桃と梨と木蘭とは花咲き、水暖かにして蛙《かわづ》既に池の内に動く、「春」は「張る」の意であらう、英語の spring に能く似て居る、「張る」、「弾く」、「爆発す」、是れ皆な「春」の原意である、生命内に充ちて外に発するの意である、余は此日復活に関はる好き説教を春の野より聞いた。
三月三十日(日)晴 相変らず喜ばしき安息日であつた、電車沿道の桜花開き我が復活の講演に力を添へるやうに見えた、会衆五百人以上と見受けた、パウロの復活論第二回を講じ、肉体復活の教義を取除いて基督教は其根本より崩れざるを得ざる事に就て語つた、純福音の善き証明を為したと思ふ、集会終へて後に有志の祈祷会を開いた、止まる者百余人、霊に充たる会合であつた。
三月三十一日(月)晴 庭内の桜花開き我家の春である、午後家人と共に上野に七分咲きの桜を見た、老樹の多くは市中より吹送らるゝ煤煙のために枯れ、唯若樹《わかき》のみ咲き乱れたるを見て近世文明を詛はざるを得なかつた、花の都は煙の都と化した、是れ進歩ではない退歩である、而してすべてが此類である、憤慨に耐へない。
(91) 四月一日(火)晴 雑誌校正が主《おも》なる仕事であつた、午後七時より下渋谷平出慶一君の家に於て君に由て設立《たて》られし聖書学舎の開校祈祷会に臨んだ、募集に応ぜし生徒二十余名、何れも独立の平信徒である、此種の学校としては大なる成功と称せざるを得ない、余も幾分か之に関与する心算《つもり》である、其永続を祈る。
四月二日(水)快晴 桜花爛漫新春第一の日である、聞く一昨日青年会館に市内牧師の会合あり、出席百余名、余の日曜講演に関し激論ありたりと、主《おも》なる反対者は組合教会の耆宿小崎弘道氏並に日本メソヂスト教会監督神学博士平岩愃保氏であつて、両氏が余に反対する主なる理由は余が無数会主義者なるが故に若し余にして長く青年会の講壇を擅まゝにするならば市内教会の存在を危くするの虞れありとの事であると云ふ、誠に恐縮の次第である、余は人も能く知る如く現在の教会なる者には反対であるが、基督的ゼントルマンとして青年会の講壇より無教会主義は唱へない積りである、然れども孰れでも宜しい、青年会が止めると言へば何時でも止める、但し教会の先輩の反対丈けでは止めない、今や彼等の唱道するデモクラシイ(民本主義)の時代である、故に宜しく民の声に聴くべしである、平信徒の声に聴くべしである、教会監督の如き是れ独裁政治の遺物である 今の時に方りては全然廃止すべき者である、二十世紀の基督者は監督の声に傾ける耳を有たない、我等は神と平信徒とに訴ふるであらう、而して彼等の判決に従ふであらう。
四月三日(木)晴 紀元節である、満都の人花に酔ひ愛国も憂国もあつたものに非ず。午後田村直臣君の牧する巣鴨教会の献堂式あり之に列席した、洵に完備せる教会であることを知つた。家の青年の野球試合の期日近づき一同緊張せざるを得ない、遊戯でさへも斯くあるを知て真個の戦争のどうであるかゞ想ひやられる、勝敗何れ(92)に決するも我家の神の栄光彼に由りて揚らんことを祈る。
四月四日(金)晴 国際聯盟成功の希望益々細くなり預言の光の益々輝きを増すの感がする、デモクラシーと大統領ウイルソンを謳歌し来りし基督教の教師顔色なしである、巴里講和会議は近代の「バベルの淆乱」として終るであらう(創世記第十一章参考)、而して智者等は耻を取り神の栄光は上るであらう 〇基督教の諸雑誌は基督再臨の事に関し余に反対なるに、真宗大谷派の機関雑誌『無尽灯』の余並に再臨の信仰に対し満腔の同情を表するを見るは不思議である、其三月号に於て広瀬南雄氏ほ三頁半に渉る賛成同情の辞を聯ねた、其一節に曰く
私は現在、内村氏及び其一派の人々が基督教徒としてのかくの如き信仰に対して、大なる嘆美と深き同情とを禁じ得ない者なることを茲に告白する。そして私自身、氏等の信仰とその態度とより尠からぬ啓発を受けて、永き間遑々乎たりし自己の心裡に一点の燎火を与へられ、自己の奉ずる宗教と経典とに対する新しき眼の開かれたることを深く感謝する。
是れ余が再臨の信仰に関し今日までに受けたる最も温き同情の辞である、而して最も冷たき声が基督教の側より聞えて、最も温き声が仏教の側より響くとは不思議である、イエスの言ひ給ひし「多くの人々東より西より来りてアブラハム、イサク、ヤコブと偕に天国に坐し、国の諸子(教会信者等)は外の幽暗《くらき》に逐出され其処にて哀哭切歯《かなしみはがみ》することあらん」との言は斯る事を指して言ふたのであらう(馬太伝八章十一、十二節)。
四月五日(土)半晴 雨降らんとして歇む、一高対三高野球大試合の当日であり其勝敗に気遣《きづか》はれて碌に仕事が手に就かなかつた、親心と云はう乎信仰不足と云はう乎、然し之が人情であるとは確に言ふことが出来る。市川クニ石狩の山奥、五の沢より来り家事を助くる事に成つた、又函館の松下熊槌君、神戸の好本督君来り、遠来(93)の友を迎へ愉快であつた、二時間に渉り好本君の信仰実験談を聴き大に教へらるゝ所があつた。午後六時に至り野球大試合四対二にて一高勝利との報に接して、思はず万歳を叫んだ、事は遊戯であるが其内に主義が籠つて居る、我家の青年は基督教を告白し、絶対的禁酒、安息日聖守を固持して居る、而して彼が主将であり投手である此一戦に敗れては尠からず我家の唱道の名誉を傷けざるを得ない、故に此一戦丈けは勝つて貰ひたかつたのである、而して願ふ通りに勝つて我等はヱホバの神に感謝せざるを得ない、子の勝は父の勝を予表するのであらう、我家の唱ふる福音は勝つて神の栄光は更らに揚るのであらう。
四月六日(日)晴夜雨 野球戦勝利にて全家活気立ち歓喜限りなし、武士道万歳、独立的基督教万歳、今度の勝利も亦ヱホバの神の賜物なりと信ずる、我等は誇らない、感謝する、彼の聖名《みな》の揚りしを感謝する 〇午後の聖会不相変盛会、聴衆七百余、神戸の高谷道男、好本督の両君再臨の福音を証明し、続いて余は哥林多前書十五章二十節以下二十八節までに就て講じた、パウロの思想が其絶頂に達したる箇所であつて講ずるには甚だ困難であつたが然し甚だ幸ひであつた、「是れ神すべての者の中に在りてすべてたらん為なり」と、是れ宗教と哲学との終局である、之よりも深い闊い言葉のありやう筈はない、Panta en pasin 宇宙と人生とは之で尽きて居る、偉大なる哉。
四月七日(月)晴 朝独り市内の桜を見た、四谷見附より濠端に添ひ紀の国坂を下り赤坂見附に至り、それより永田町、三宅坂、半蔵門前、英国大使館前と到る所に咲き乱れたる花を観て嬉しかつた、歩いて見たる東京の市《まち》は電車の中より見たる者とは違ひ甚だ美くしい市である、其中に湖水に類したる池があり、天然林に似たる森がある、若し暫時たりとも電車と自働車との通行を禁《とど》めて独り此花を賞したならば理想的であらうと思うた、濠(94)の水に映る散りかゝりたる花を観て、歌人伊勢の「年を経て花の鏡となる水は、ちりかゝるをや曇るといふらむ」を口吟しながら家に帰つた 〇午后野球戦々勝祝賀会を開いた、赤飯を炊き友人を招き、我等と歓喜を共にして貰つた、全国の同志数千人が大なる同情を以て勝敗如何と待受け呉れたと思へば感謝に堪へない、野球競技は新式士道精神の表現である、我家の青年之に勝ちて福音化されたる武士道の上に立つ我家の長久を祝せざるを得ない。
四月八日(火)晴 談話は引続き野球戦勝で持切りである、祝詞が来り祝電が来り会ふ友人毎に「お芽出とう」を浴せらる、好い気持である、福島県原瀬半次郎君の左の祝詞は教友一同の意を尽したものであらう。
謹啓、御令息様又々光輝ある勝利を得られ候趣き大慶に存候、権威と能力とを有《もて》るもの常に我等の背後にあり給へば我等に敗れなるものある筈無之と存候、戦も亦我等の戦にあらず、至上者の栄光是によりて顕はるゝの具たるべきものと存候、此度《このたび》の勝利決して偶然にあらず全く摂理中の一現象たるを認められ侯、不取敢右御祝詞申上候敬具。
斯うなりては野球も遊戯ならずヱホバの戦《たゝかひ》である、何んだか旧約聖書にモーセかヨシユアの伝記を読むの感がする 〇夜平出氏の聖書学舎に於て聖書地理第一回の講演を為した。
四月九日(水)快晴 年中の第一日である、鶴の舞ひさうな好天気である、一重桜は散り初めて庭園に花の吹雪を見る、明治二十四年四月廿一日に嘉寿子を葬つた日も斯んな日であつた、同四十年四月十五日に父の遺骸を送りし日も斯かる日であつた、而して我等が再び互に相見る日も斯かる日であらう、楽しき哉 〇雑誌四月号が出た、発行日より一日早くある、爾今此分にて続けたいものである ○此夜兄弟団祈祷会不振。
(95) 四月十日(木)曇 一重桜未だ散り終らざるに八重桜将さに開かんとす、海棠山吹一時に咲乱れて衷なる感謝と相応じてエデンの園に在る乎の如くに感ずる 〇今井館に於て入間田悌吉対太田節子の結婚式を挙ぐ、静かなる質素なる好き式であつた、余が司りし第二十一回の結婚式である、入間田は宮城県船岡村の者、大阪医専出の医学士である、十数年に渉り信仰を共にし来りし者である、節子は大阪商人太田又七の長女である、彼れ亦信仰の同志である、新家庭は大阪に於て作られんとするのであつて我等又関西に於て新たに信仰の一堡塁を得たる次第である。
四月十一日(金)晴 北風にて寒し、山岸と共に警視庁に往き『聖書之研究』に於て時事問題を論じ得るの権利を得んがために保証金として千円を納め其手続を了つた、斯くして爾今本誌に於て国際聯盟、平和会議、世界改造等を論ずるも法律に触れるの虞なきに至つたのである、我等は此世の事に就て論じたくはない、然れども来らんとする神の国に就て論議するに方て時には此世に就て語るの必要がある、預言は神と信者の立場より見たる人類の歴史である、故に預言研究に従事するに方て時事問題を避くることは出来ない、新聞紙法に順て本誌を発行するの必要は茲に在る、実に止むを得ないのである。
四月十二日(土)快晴 父の命日である、彼れ逝きてより茲に十二年、感懐に堪へない、彼の霊主に在りて安からんことを祈る、再会の時を待つ 〇田村直臣君欧米漫遊の途に就きたれば彼を東京駅に見送つた、他に五六の名士の出発あつたらしく、停車場は混碓を極めた、洵に盛んなる事である、然し余自身は少しも羨ましくない、余に欧米行きの欲は今は少しも無い、余は『全集』校正と、雑誌編輯と日曜日聖書講演とで日本に、然り東京に、(96)然り柏木に止つて居たくある、余は欧米に行くも柏木の書斎に在て学び得る以上の事を学び得やうとは思はない、行かんと欲する者は行けよ、余は行かざらんと欲する者である、余の世界は柏木のホームである、其処に余の王国がある、労働の園 Task-garden がある、地上の天国がある、何を選んでデモクラシーの本場たる米国や過激思想の培養地たる欧洲を訪はんや。
四月十三日(日)快晴 八重桜の満開である、復活問題の研究の好時節である、今年程善き了解を以て哥林多前書十五章を読み且講じたる事はない、基督再臨の信仰は確に聖書了解の鑰《かぎ》である、今に至り蘇蘭土の聖書学者A・ブルースが如何在《どれほど》余の信仰を誤りし乎が解つた、彼の著書のために投ぜし金は無益でありしよりは寧ろ有害であつた、蓋し同じ事がG・A・スミスの著書に就ても言ふことが出来やう、何れにしろ英米両国には瑞西国の聖書学者ゴウデー、ガウスンの如き学者は見当らない、如何《どう》見ても英米両国はデモクラシーの本場丈けあつて信仰的には其れ丈貧弱である 〇午後の青年会の講演会引続き盛会であつた、来会者七百名以上あつたらしい、医学士藤本武平二、医学上より見たる断食の効力、善を為すための機関としての身体に就て語り、多くの貴き暗示を与へた、余は哥林多前書十五章二十九節以下四十一節までに就て講じた、復活の方法並に復活体の性質に就きパウロの主張を近世科学の立場より弁護せんと努めた、茲に天然学者としてのパウロに会合して会心の至である、彼は彼の有せる科学的思想を以て彼の信仰を説明せんと試みた、我等二十世紀の基督者も亦彼に傚ふて大胆に信仰の科学的説明を試むべきである 〇小崎牧師平岩監督等に由て始められし余に対する排斥運動はまだ止まない、実に苦々《にが/\》しい事である、彼等余を排斥する者は自分等の教会に於て常に排斥されつゝある者である、排斥又排斥、|排斥運動の行はれて居ない教会は何処に在るか〔付△圏点〕、彼等公然と余の唱ふる福音に反対し得ずして青年会の役員に迫りて余の講演を中止せしめんと計る、浅墓なる人等なる哉、余の講演に由て倒れるやうな教会は倒れる方が宜い(97)のである、而かも余の講演に由て倒れるのではない、教会に生命の福音が絶えしが故に倒れるのである。真の教会は「陰府《よみ》の門も之に勝つ能はず」と云ふではない乎(馬太伝十六章十八節)。
四月十四日(月)半晴 朝雑司ケ谷の墓地に父の墓を見舞ふた 〇『宗教通信』、『時事新報』等に由て青年会事件が終に世間に公けになつた、『時事』の見出に曰く「教会打破の内村氏が教会での伝道は矛盾だと小崎弘道氏が抗議=組合教会と青年会の紛擾」と、何れにしろ斯かる問題が東京の大新聞に大活字を以て掲げらるゝに至りしは基督教のために賀すぺきである、余は青年会に抗議せる小崎氏に対し深き同情を表せざるを得ない、余は勿論基督教的ゼントルマンとして青年会の講壇より無教会主義を唱へざる積りである、然し乍ら余の如き者が純然たる教会者《エクレジアスチツク》なる小崎氏又は平岩氏等の眼に危険人物として映ずるは無理ならぬ事である、事は信仰の相違であつて如何ともする事は出来ない、余は福音をさへ説き得れば宜いのであるから何時たりとも青年会の講壇を去る、講壇は他にも之を得ることが出来る、唯此際平和的に青年会と別れんと欲する、永久の提携は多分不可能であらう。
四月十五日(火)曇風雨 少しく暇《ひま》を得たれば荒川堤に五色桜を見んとて家の者を伴ひて出掛けた、然れども人と塵とに悩まされて花を見ずして帰つた、月の十五日の事なりければ東京市民が総出となつて花見に出掛けたやうである、其陋態を見ては人種的差別の撤廃も甚だ覚束ないやうに見えた、歓楽甚だ可なりと雖も殊更らに狂するには及ばない、明治政府五十年間の教育事業の我国民を文明化する能はざりしを見て悲んだ 〇青年会事件引続いて問題である、余自身に取りては良き信仰の試練である、小崎牧師平岩監督の余に対する反対は甚だ自家撞着であるやうに思はれる、小崎氏は曾て氏の経営せる神学校に余を招いて講義せしめた事がある、又平岩監督(98)に於ては氏が甲府メソヂスト教会の牧師たりし時に態々《わざ/\》余を東京より招いて三日間に亘りて余をして氏の教会に於て応援演説を為さしめた事がある、而して両氏が斯の如くに余を使用せしは余の無教会主義が能く知れ渡りたる時であつた、自分等の便利なる時には余を招いて事業を援けしめ、而して今に至りて余の青年会の講壇に立つを非難す、利己主義も甚だしいではない乎、然し今の基督教の牧師とは大抵は斯んな者である、困つた者である。
四月十六日(水)快晴 柏木の春は美しくある、青葉の内に八重桜と梨花とが混《まじ》る、年に一回地は天国の装《よそほ》ひに輝く、楽しきかな 〇例に由て校正に半日を送る、夜兄弟団の相談会があつた、教会の反対に対し我等はイエスが取り給ひしやうな態度を取ることに決議した、会する者二十余人、皆働き盛りの人達であつて見るさへ気持が好くあつた。
四月十七日(木)曇 今朝の『時事新報』は青年会高壇使用に関する余の弁明の寄書を載せた、斯かる事が社会問題として取扱はるゝに至りしことを喜ぶ、余は教会に訴ふるも無益である、直に広き社会に訴へる、斯くなして基督教を狭き教会のものとなさずして広き国家社会のものと為すことが出来る、正義は公明を愛する、教会の暗黒を排ふの途は公然之を社会問題となすにある。
四月十八日(金)晴 今日も亦沢山に自分の書いたものを読んだ、即ち『全集』の校正を為した、余り愉快なる仕事ではない、然し腐敗せる教会の干渉を受けて伝道するよりも遥に優《まし》である、若し余の教会があるとすれば余の著書である、之に何人も干渉する事が出来ない 〇午後市中に或る富者の家を訪うた、一つ羨ましい物があつた、其れは邸内に築かれし天然の林である、市内屈指の地に熊笹の繁茂するを見るは振つて居る、神が若し余(99)に巨万の富を給ひしならば余も亦同じ物を築いたであらう、然し必しも富者と成るに及ばない、余の今日の身分其儘にて山に行いて天然の林を見ることが出来る、結局余は今の儘にて幸福である。
四月十九日(土)曇 昨日の『国民新聞』は其論説欄に於て青年会事件に関し余と余の信仰に対し深き同情を表し、痛撃を余の反対に立つ牧師等に加へた、実に不思議なる事象である、『国民新聞』は組合教会とは因縁《いんゑん》浅からざる者と全体に解せらるゝに関はらず此新聞にして此態度に出づ、教会の運命已に定まれりと謂つべしである、然し戦《たゝかひ》は余のものではない、神のものである、神は民の声を以て其聖旨を教会と牧師等に伝へ給ひつゝある、其聖名は讃むべきかな 〇内村嘉寿子永眠の日である、彼女逝て以来茲に二十八年、所謂「第一高等学校不敬事件」に引続き彼女の永眠は余に取り彼女に取り言ひ難き悲痛であつた、之を思ふて熱涙の湧き出るを禁じ得ない、然し神は我等と共に在し給ふた、彼女と共に勝利を讃美する時は直《ぢき》に来る、其時彼女は「国賊」の妻としてに非ず、恵まれし者の※〔耕の偏+偶の旁〕者《とも》として聖者の前に立つであらう。
四月二十日(日)快晴 復活祭である、小崎牧師、平岩監督等の反対に会ひしに関はらず今日も亦広き青年会の講堂は余に供せられて余はパウロの復活論第五回を其高壇より講ずるの名誉と歓喜とを有つた、来聴者堂に満ち九百乃至千人も有つたらしくある、|実に開講以来の盛会であつた〔付○圏点〕、教界の元老等に排斥せられて却て公衆に歓迎せらる、元老諸君余を排斥して却て余の伝道を授けて呉れたのである、感謝、感謝。閉会後|客室《パーラー》に於いて理事日疋信亮君と会見し、教会革正に就き大に議論を闘はした、君と余とは精神を共にして方法を異にする事を発見した、陪席者十余名と共に祈祷を捧げ堅き握手を交へて別れた、誠に信者らしき会見であつた、如斯くにしてこそ我等は説を異にしながら相互を敬愛することが出来るのである 〇昨日船長山桝の家に女児が生れた、余は彼(100)女を勝子《かつこ》と命名して我等近来の勝利の連続を祝した。
四月二十一日(月)快晴 午前義弟横浜水哉と共に先愛嘉寿子並に祖父長成君の墓を見舞ふた、之を仏寺に託するも善き良心を以て之に詣で、花を以て之を飾り、住職に対し厚き敬礼を表し、死者を紀念して其|福祉《さいほひ》を祈ることが出来る、我等の「ヤソ」たる事は我等が仏寺に墓参することを少しも妨げない。
四月二十二日(火)南風曇 世に図々しい者とて教会と教会者の如きはない、彼等は自分等の腐敗堕落を摘指せらるゝや曰ふ「腐敗はあらん然れども人は皆な不完全なる者なり、殊に愛は凡そ事覆ひ包むと云ふ、腐敗を摘指するが如き是れ愛の途に非ず」と、斯く云ふ彼等が愛の人である乎と云ふに其正反対である、彼等は其教敵を追窮して止まず、嫉妬陥※〔手偏+齊〕至らざるなしである、彼等は相互の事業を妨げ、他人の批評悪罵は彼等日常の食物である、然るに自身其腐敗を摘指せらるゝや聖書の言を引き「凡そ事覆ひ包み」と云ひて白分の腐敗の覆ひ包まれんことを要求する、彼等は自身人を愛せず而して自分等の人に愛せられんことを要求する、洵に味を失ひたる塩とは彼等の事を称ふのである、故に彼等は途に棄てられて不信者にまで足にて践まるゝのである。
四月二十三日(水)曇 余は福音を説きたくある、説かずには居られない、「若し我れ福音を宣伝へずば実に禍なり」である、然れども余は今の腐敗せる教会、其監督神学博士等と関聯して聖き福音を説くことは出来ない、「光と暗と何の交《かゝ》はること有らん、キリストとベリアルと何の合ふこと有らん」である(コリント後六章十四節)、「死し蠅は和香者の膏を臭《くさく》す」とあるが如く教会の監督神学博士等と関聯して受膏者の香《かぐは》しき福音は穢されざるを得ない(伝道之書十章一節)。
(101) 四月二十四日(木)晴 余は今年に入りてより青年会の高壇より三回に亘りて創世記第一章を、四回に亘りて馬太伝第二十四章を、六回に亘りて哥林多前書第十五章を、其他詩篇第十九篇同く第二十三篇を福音主義の立場より講じたのである、是れ随分の努力でありしことは此事に従事したる者の能く知る所である、然るに小崎老牧師平岩監督等東京の牧師達は青年会に於ける余の事業を評するに方て一言の是等福音的努力に及ぶ事なく唯余が無教会主義者なりとの故を以つて余の講演に対し抗議を申込みたりとは余の解するに甚だ困しむ所である、畢竟するに是等牧師達の眼中に只教会ありて福音の真理あるなしである、彼等は己が教会内に如何なる異端が説かれやうが、其事には全く無頓着であつて、唯教会の勢力、否な己が勢力の維持せられん事にのみ汲々たるのである、而して諭より証拠である、彼等の率ゐる教会と神学校との不振俗化が何よりも明白に彼等の不信を証《あかし》するのである、若し今イエス様が日本に現はれ給ふならば、彼は是等牧師監督神学博士等に向つて言ひ給ふに相違ない「噫禍なる哉偽善なる学者とパリサイの人よ、そは汝等天国を人の前に閉ぢて自《みづ》から入らず且入らんとする者の入るをも許さゞれば也」と(馬太伝廿三章十三節)、良《まこと》に問題は教会対無教会ではない、再臨対非再臨である、偶《たま/\》基督再臨の信仰が無教会主義者に依りて提唱せられ信仰界を感動するに至りしが故に非再臨の教会が今更の如くに目を醒まし、彼等が今日まで不問に附し来りし無教会主義を駆逐せんとて微動を始めたのである 〇此日第一高等学校雄弁部に頼まれて大学青年会講堂に於て演説した、題は「新武士道」であつて学生凡そ三百人程の来聴があつた、終て後、二十九年振りにて高等学校の門を潜り運動場並に寄宿舎を参観した。
四月二十五日(金)快晴 藤、躑躅の花盛りである、森は新緑を以て輝き、生々の気天地に充ちて実《まこと》に新天地を目撃するのである。五月号雑誌原稿大略成り、夫婦諸共に近所の或る友人の家に夕食に招かれ旧き友人四五と(102)会し楽しき一夕を送つた、神と天然と友人とは我等を援けて呉れる、我は安心して聖書の講演を続けるであらう。
四月二十六日(土)晴 藤井と共に碓誌原稿を纏め印刷所に送つた、自づから教会反対号となつた、止むを得ない。中田重治君九州関西より帰り教勢を伝へ大に我志を強うした、再臨の信仰が全国を動かしつゝあるは何よりも感謝すべきである。夜我家に法学士三谷隆信の広島県赴任送別祈祷感話会を開いた、会する者二十四五名、何れも一騎当千の士であつて見るさへ気持が好くあつた、官に就きて赴任する者、官を退きて伝道せんとするもの、一室に相会して神の栄光の揚らんことを祈る、斯かる美はしき兄弟団が全国何処に在る乎、我等は讃美歌第三百二十一番〔たゞ神のむすぶ愛の友あり〕を歌ふて感謝を以て別れた。
四月二十七日(日)晴 好き安息日であつた、午後の集会、益々盛会、会衆八百余、旧友伊藤一隆司会、余の反対者等に対し大に余の為に弁じて呉れた、彼は言ふた「青年会の理事会が内村君を断はる時は余が理事を辞する時である」と、会衆は拍手喝采の連続を以て彼の熱弁を迎へた、余は感謝の涙を禁じ得なかつた。続いて余は「人類最初の平和会議」と題し創世記第十一章一-九節を講じた、神を認めず彼を王の王、主の主として仰がざる会議のバベル即ち混乱に終るは当然なりと述べた、余は此講演を日本東京に於て為ずして仏国巴里に於て為したく思ふた、巴里の平和会議も亦神を崇めずして人類の幸福をのみ計りしが故に今や大なる混乱《みだれ》として終りつゝある。
四月二十八日(月)晴 脳休めのため独り郊外|蒲田《かば》)に散歩し、菖蒲園を訪ひ、藤と牡丹の花盛りを見て大に慰むる所があつた、薔薇一鉢を買ふて家苞とし其の蔓延《はびこ》りて我が小園を蔽ふに至らん日を期しつゝ帰つた、人類の(103)最善の友はやはり草木と動物とである 〇新聞紙は益々国際聯盟デモクラシーの失敗を伝ふ、失敗は当然である、是れが人類救済の福音であると唱へし基督教の教師等は今より後|如何《どう》する乎、神は偽予言者等をして政治的偶像たる大統領ウイルソンを拝《おが》ましめ、彼(大統領)の計画を失敗に終らしめて同時に彼等(偽予言者偽牧師等)を仆し給ふのであるやうに見える、何れにしろ今や大なる審判《さばき》は基督教国と基督教会との上に臨みつゝある。
四月二十九日(火)晴 二三日前よりJ・A・ザイス著「黙示録註解」を読み始めて非常に愉快である、茲に又新たに一大著述を発見したやうな感がする、苦々《にが/\》しき教会談牧師評を聞く間に崇高なる思想に接するは沙漠の中に清き泉より飲むが如くに感ずる、噫主よ、余を牧師監督教職等より救ひ出し給へ。
四月三十日(水)小雨 新緑滴るばかり、愛すべき晩春の一日である。校正一先づ終り我を追窮する仕事あるなし、自《おの》づから読書に耽り、愉快極りなし。新聞紙は英米二国に対して悪罵を放て止まない、去年の今日とは天壌の相違である、大統領ウイルソンとデモクラシーとは今や甚だ不人望なる名である、之を唱へても誰も耳を傾けない、「それ人は既に草の如く、其|栄《はえ》はすべての草の花の如し、草は枯れ其花は落つ、然れど主の言は窮りなく存《たも》つなり」である、「民本主義は吾人が唱へ来りし基督教の真髄なり」と表白せし教会同盟は今や何に由て其調和せんと努むる世に立つであらう乎、人に依て起たんとせし教会が人と共に斃れるのは止むを得ざる次第である、気の毒である、然し自業自得である。
五月一日(木)曇 引続き無為平穏である、ロバート・ロー、A・E・ブルツク等の著書に由りヨハネ第一書を研究し大に教へらるゝ所があつた。米国費府世界予言大会委員より電報達し、大会に宛て祝辞を郵送せよ(104)との事であつた、日本に於ける再臨運動が斯くまで認めらるゝに至りし事は感謝すべきである。
五月二日(金)雨 引続き読書、外に米国友人へ宛て三通の手紙を書いた、其内一通はアマスト在学中の同室の友C・H・マンウオーレンに宛てたる者である、一八八六年六月彼と別れてより茲に三十三年、此日突然目下フロリダ州に在る彼より書簡に接し懐旧の感に耐へなかつた、余は或る事に関し彼と議論を闘はし彼に対し不穏の言を発したりし事を思出し、赦免《ゆるし》を乞ふの言を彼に書送し大に肩の軽きを感じた、イエスに由りて繋がれし交友は年と共に消ゆるものではない、我等復活の朝に相会する時、互の罪を赦して歓喜の生涯に入るであらう。
五月三日(土)晴 同志相議り来る十三日夜青年会館に於て基督教界革正演説会を開くことに定めた。発起人の内に平信徒にして錚々たる森村市左衛門翁、伊藤一隆、青木庄蔵、長尾半平、矢沼伊三郎、土岐孝太郎、高岩義政等の諸氏がある、愈々革正運動が始つたらしくある、之で基督教界が一掃されて光と生命《いのち》が信者の中に臨むであらう、聖霊の指導を仰ぐ。
五月四日(日)快晴 午後の集会益々盛である、来聴者は復活祭のそれよりも更に多かつたらしくある、久振りにて中田重治君高壇に立たれ、「荊棘中の百合花」と云ふ題に就て熱弁を揮はれた、余はヨハネ第一書四章七-十二節に依り「神の愛」に就て語つた、愛に就て語るは義に就て語るよりも自分ながらに甚だ快くある、聖書に示さるゝ神の愛に就て講じて自分が最も不完全なる基督者である事を感ずる、神よ此愛なき者を憐み給へと云ふのみである。
(105) 五月五日(月)快晴 書店に行き再臨反対の書二冊を購ひ来つた。米国地理学雑誌に博士グロスヴノルの筆に成る欧洲人種論を大なる興味を以て読んだ、民族自決主義の唱へらるゝ今日此研究は逸すべからざる者である。人は皆神の子であつて相互に兄弟であるとの信仰の懐かるゝ欧米に於て今日人種民族の差別が高調せらるゝは奇異なる現象である、我等は民主々義主張の下に文明の逆行を目撃しつゝある、実に不思議である。
五月六日(火)晴 校正と読書と手紙書き。
五月七日(水)晴 日曜講演の良き題目を求めんとて独り井之頭公園に遊んだ、而して清き水辺《みぎは》に木蔭を歩みつゝある間に創世記三章「人類の堕落」に就て語るべく決定した、多分好き撰定であつたらう。青年会事件未だ定《きま》らず甚だ不愉快である、教会に接触して斯かる不愉快を免かるゝことは出来ない、是れ其内に大なる腐敗の潜む確かなる証拠である、教会と絶つにあらざれば純福音を説くことは出来ない、久し振りにて教会に接触して其《その》相も変らず狐と蝙蝠の巣であることが今更らながらに解つた。
五月八日(木)晴 創世記第三章を研究した、其伝ふる深き真理が更に深く解つて有難かつた。夜高輪に伊藤一隆を訪ひ過去を語り将来を計りて非常に嬉しかつた。旧札幌団が再び結合して福音の為めに尽さんことを期し、故W・S・クラークの写真の前に祈祷を共にして別れた。
五月九日(金)晴 書を全国の内外友人に飛《とば》して来らんとする革正演説会の為に祈らんことを懇請した、成功の秘訣は祈祷に在る、我等斯かる時に於て多数友人の祈祷の援助を乞はざるを得ない 〇自分で芥溜《ごみため》の掃除を為(106)した、其底を浚《さら》ひ之を日光に当て腐敗の根を断つた、斯の如くにして社会も教界も革正すべきである、日光である、日光を入れて腐敗と暗黒とを駆逐すべきである。午後七時半より淀橋ホーリネス教会に於て革正演説会準備祈祷会を開いた、出席者十二名、熱信と謙遜と愛とに充ちたる会合であつた、斯る準備を以て臨む演説会は成功ならざるを得ない。
五月十日(土)晴 南風強し、家の青年一高野球団主将として早稲田大学と闘ひ六対四にて敗る、然し病後の彼としては大出来と称せざるを得ない、昨年来の勝越《かちこし》にて久し振りにて敗る、負ける事を知るも亦必要である、我等は左程に落胆しない。船長山桝来り例の通り種々《いろ/\》の事を談じた。
五月十一日(日)晴 聖書講演不相変盛会、来会者七百余、創世記第三章「人類の堕落」に就て語つた、ナカシ(蛇)は神言を変更してエバを欺いた、堕落の初めは神言其儘を信ぜざる事である、聖書神言の真理は明かに此章に現はれて居る。此日高輪教会執事高岩義政君登壇し、余の為に弁護せられた、結局余は自分より進んで青年会の高壇を去らない事に定めた、神が余を其所に置き給ふ間は牧師も監督も余を去らしむる事は出来ない、余に反対する人達には気の毒である、然れども神の声には従はざるを得ない、余に取りては青年会問題は当分の間之で決定したのである、余は唯忠実に聖書を講ずれば其れで余の責任は済むのである。
五月十二日(月)雨 静かなる好き休日であつた、京都より青木庄蔵氏見え、教会の現状、伝道の将来等に就て語つた。五月号雑誌が出来た、常例《いつも》の通り祈祷を以て之を発送した、月毎《つきごと》の感謝である。
(107) 五月十三日(火)曇 午後に至りて晴る、北海道帝国大学総長佐藤昌介氏を訪ひ「謝恩奨学資金」献納の事に就て相談した、余の差出せし趣意書に曰く「旧札幌農学校明治十四年度(第二期)卒業生内村鑑三、校恩を謝する為に茲に少金額を母校の後身たる北海道帝国大学に納め、聊か後進奨学の資に供す、身は伝道の職に在り、金銀我に有るなし、唯与へられし少許《わづかばかり》を献じ謝恩の表徴《しるし》となす云々」、総長は喜んで受納せられ余の満足此上なしであつた、夕飯の馳走に与り歓喜を湛へながら当日開設の「基督教界革正大演説会」の会場たる青年会館に至れば聴衆已に堂に満ち東京に曾て見ざる会衆であつた、伊藤一隆司会、青木庄蔵、土岐孝太郎、中田重治の諸氏の燃るが如き演説あり、最後に余は起て「基督教界革正の必要」なる題下に語つた、爽快極まり無き演説会であつた、聴衆は堂に溢れ千七八百人も居つたらう、全会衆は大拍手大喝采を以て現今の基督教界革正の必要を認めた、茲に教界革正運動の火蓋が斫られた、新たに革正教会が起るまで進むであらう、余自身に取りては新たに大責任を負ふたやうに感ずる、然し止むを得ない、神の命である、聖旨を成らしめ給へである。
五月十四日(水)晴 『内村全集』第壱巻が出来た、天金洋布製の美本である、余の著書が斯る表装を以て現はれたのは今度が始めてである、一冊に付き二円五十銭を読者より請求するは甚だ済まなく感ずる、祈る此新装に由りて現はれたる此書が更らに救霊の御用を務めんことを 〇『全集』第一巻出て一大出版事業其緒に就きたれば警醒社主人の招待にて我等夫婦箱根|小涌谷《こわきだに》に遊んだ、山上の新緑愛すぺく、山躑躅の真盛《まつさかり》であつた、昨夜の大活動に引替へて今日の静粛、実に天壌も啻ならざる対照であつた、『全集』第一に収めたる『基督信徒の慰め』は彼女が始めて我家に来りし時に著はされたる書であつた、其れが二十七年後の今日、十七版を重ねて茲に『全集』巻頭第一に現はるゝに至りしは実に感謝の極である、而して我等同棲して茲に二十七年、共に遊山の快を貪《むさぼ》りしは今回が始めてゞある、人生苦しみ多くして楽み少くある、然し真個の楽しみは其中にある、感謝すべき哉。
(108) 五月十五日(木)雨 終日旅館に立籠り、幾回となく湯浴《ゆあ》みし、食事と睡眠とに一日を消費した、働くのみが人生ではない、斯る日も亦意味ある一日である、山を下れば大責任が待ちつゝある、然し郵便も来らず訪問客も無き一日は此世の一日ではないやうに思はれた。
五月十六日(金)晴 昨夜大雨、今朝快晴、相模灘より昇りし旭の光りに驚かされて床を離れた、目映《まばゆ》き日光を浴びながら杖を曳いて散歩した、鶯の声谷に響き、秀峰碧空に聳えて、エデンの園の我目前に開展せられしが如き感がした、午後二時山を下り五時間にして黄昏《たそがれ》に柏木の家に帰つた、内外の郵便物は大束《おほたば》となりて我を待つて居た、四十八時間、世と事業とを忘れて茲に復た多忙の人となつた。
五月十七日(土)曇 一高対慶応の野球大試合あり。一対零にて一高が敗れた、甚だ惜しくあつた、然し我家の青年の為には善き試錬であることを思ふた、遊戯以外の事に於て第一に為て貰はねばならぬ、彼が全戦全勝を以て彼の野球的生涯を終らなかつた事は我等一同に取り大なる幸福であると云はねばならぬ、実に過去三年間尠からざる心配を為した、然し六度び勝つて三度負け、絶対的禁酒並に安息日聖守を実行して茲に最後の大試合を終りし事は大なる感謝である、栄光《みさかえ》の幾分なりとも彼に由て挙りしことを感謝する。
五月十八日(日)晴 不相変好き安息日であつた、午後の講演、来会者七百乃至八百、余は「最初の福音」と題し創世記第三章の後半に就て語つた、アダムと其妻とが罪を犯して神より離れしや否や神が新たに回復の途を開き給ひ、彼等其約束を信じて救はれたりし事を語つて自分ながらに甚だ愉快に感じた、聖書は徹頭徹尾福音で(109)ある、勺之を語るに優さるの歓喜他に有る事なしである。
五月十九日(月)晴 好き休日である。台湾古谷ハル子母子の来訪あり、友あり遠方より来る又悦ばしからず耶の感がした。又目下満洲伝道中の木村清松君より端書頻りに至り、君のために又自分のために甚だ喜んだ、君が腐敗せる異端教会との関係を絶ち、純福音宣伝のために努力せられん事を祈らざるを得ない 〇教会の腐敗は之を認むる、然れども之を公然攻撃するは愛の途に非ずとは牧師と教会信者とが我等の革正運動に対する唯一の非難の声である、然れども敢て問ふ教会は公的団体ではないか、公的団体の腐敗を攻撃したればとて何の非難すぺき所がある乎、殊に教会の腐敗は余輩の公表を待たずして世間に能く知れ渡りたる事実である、例へば同志社前校長排斥事件の如き、其詳細に至るまで此世の新聞雑誌に由て曝露されたる事実である、然るに余輩に要《もと》めて教会の腐敗を沈黙に附し置くべしと云ふ、斯る場合に於て沈黙が愛の途なりと云ふならば愛は愚である盲である、基督教の尊きは外界の攻撃を待たずして内より進んで其腐敗を矯むるにある、然るに既に世間に知れ渡りたる腐敗を自《みづ》から矯正する能はずと云ふならば基督教は自身を救ふ能はざる者であつて、斯かる宗教は世を救ふの資格も実力も無い者である、而して現今の基督教会が世を救ふに方て無能なるは愛よ愛よと囁《さゝや》いて自身の腐敗を公表して之を矯正し得ないからである。余輩は又人身攻撃を為さない、余輩は監督又は牧師の職に在て信者が為す其行為を攻撃する、監督の職に在る者が其配下の牧師が「聖書の天啓たるや論語の天啓たると其性質に於て異なる所はない」と唱ふる明白なる異端に対して一言の非難の声を発せざる場合に於て監督の行為を責むるは是れ人身攻撃ではない、是は職責怠慢の詰責である、是れキリストも使徒等も為したる攻撃であつて福音の真理を愛する者の何人たりとも為すことを許さるゝ攻撃である、而して若し此攻撃をも為してはならないと云ふならば真理の擁護は到底為すこと能はずである、「汝の室《いへ》の為の熱心我を蝕《くら》はん」とある(約翰伝二章十七節)、余輩は某々を(110)攻撃しない、彼等自身に対しては多大の愛心を懐く積りである、然れども|牧師として〔付○圏点〕又は|監督として〔付○圏点〕の彼等の行為にして教理上又は牧会上明白に非難すべき所があれば余輩は福音の真理の為に止むを得ず痛撃を加へる、其他是等の事に就て言ふべき事は沢山ある、然し今日は是で擱筆する。
五月二十日(火)曇 山桝儀市東洋汽船会社新造船朝洋丸の船長と為り近日処女航に就かんとする、依て彼と船との上に祝福を祈らんがために横浜に到り、港内に碇泊せる同船を訪ひ、船長室に於て余と船長と山村一等運転士三人共に静粛なる祈祷を捧げた、我等は此商船の恵まれて多くの人々に多くの幸福を齎らすの器《うつは》として使用せられん事と、其新船長が之を運転して過失《あやまち》なからん事とを祈つた、洵に適当なる祈祷会であつた、我等はすべての新造船が斯の如くにして其処女航に就かん事を願はざるを得ない。或る思ひ掛けなき手蔓に由りH・A・
W・マイヤーの大註解書九冊我手に入り歓喜に堪へない、斯くして彼の新約聖書註解書全部二十冊が揃ふて余の書斎に列《なら》んだのである、大数師の我が側《かたはら》に座を占めて呉れたやうに感ずる、マイヤーに勝る註解書はない、マイヤーとベンゲルとあり之にゴーデーとランゲとを加へて新約聖書に関する智識の生粋は之を我手に収めたのである、然し乍ら是れ初学者に解し得らるゝ書類ではない、希臘語と拉典語とを解するにあらざれば充分に利用することの出来ない書である。
五月二十一日(水)雨 兼ての計画に従ひ久振りにて栃木県に入つた、宇都宮にて青木義雄と会合し、黒磯に下車し、自働車にて午後四時半那須温泉に着いた、桜は散つた斗り、杜鵑の声聞こえ、橙色の躑躅花鮮かに、誠に静なる好き休息であつた、其設備は摂津の宝塚、相模の箱根に遠く及ばずと雖も、其素朴なる所に愛すべき点がある、関東平原が東に尽る那須山の麓は余の気質に好く適《かな》ふたる所である。
(111) 五月二十二日(木)曇 寒し、火鉢に凭掛《よりかゝ》りて一日を過《すご》した、然し好き休日であつた、那須与一の祈願所たりし那須神社の境内に入れば野州花咲乱れ、禽鳥囀り、愛すべき静粛の天然であつた、殊に稍大形の懸巣鳥《かけす》の枝より枝へと飛ぶ状は石狩原野の昔を偲ばしめて独り快笑を禁じ得なかつた、宿に在りてはザイス博士の黙示録註解を読み絶大の慰安に与つた、余は其四章三節を称して世界最大の詩なりと云ふ、他日詳述する所があらう。
五月二十三日(金)晴 雲晴れ旭日|目映《まばい》く、白雲綿の如くに関東平原を覆ひ、我等は其上に在りて日光を浴びつゝ下界を下瞰《みおろ》す、恰も天国に在りて地を望むが如し、快無窮、此荘景を見る丈けに此所に来る価値がある、朝食を終へ乗合自働車にて山を下る、四里九丁を四十分にて黒磯に達す、爽快極りなし、汽車にて西那須野に下車し、原野の中央赤田の双美園に果樹栽培を見る、梨と林檎とは実を結んだばかり、桜桃は未だ熟せず、唯艸苺のみ少しく熟したれば園主之を摘取《つみと》りて我等を饗す、果樹栽培、果物販売等に就て語り、款待を謝して去る、之より駅まで一里余、農事を観察しながら徐歩す、同伴の青木義雄曰く「銀行の支配人を従僕として旅行する先生は豪らい哉」と、余は彼に答へて曰く「此世の所有《もちもの》に於ては余は君に及ばず、然れども余に君の有せざるもの有り、差引するに余は君以上の資産家なるべし」と、彼れ曰く「さうかな」と、斯く語りつゝ人間を神として祭る三島神社を見、水車を利用する小工業を視察し、北海道的田野の那須平原の逍遙を終り、再び汽車に乗りて宇都宮に至る、此処に有志三十余名の会合を催し、余は現代に処する途に就て語る所あり、旅宿山下館に目下召集中の文学士関東学院長、柏木兄弟団前団長坂田祐君と同宿す、宇都宮の教勢に著しき進歩あるを見て喜んだ。
五月二十四日(土)晴 午前十時柏木に帰つた、午後中野長尾邸内に於て鉄道ミツシヨン三十年紀念会が開か(112)れ余も出席した、長尾半平氏に次で余も一場の感話を述べた、興味多き会合であつた、京都の青木庄蔵君来り夕食を共にした。警醒社書店より『内村全集』第壱巻初版既に売切れの報に接した、一週間を出ざるに初版の売切れとは余の長き著述生涯に於て初ての事である、此時に際し読書社会の此歓迎ありとは不思議である、何やら大なる聖手《みて》が余を導き給ひつゝあるやうに感ずる、此日内務大臣の仏神基三教の宗教大家の招待があつた、余は勿論内務大臣に招かるゝの名誉に与らない、然るに広き日本の社会が余の旧き著書を新たに歓迎するに会ふて今や神のみならず人までが余を迎へつゝあるを感ずる、内務大臣の招待に与らずとも可なり、然れども此時に際し広き社会の此歓迎なかるべらずである、感謝、感謝!!
五月二十五日(日)晴 不相変好き安息日であつた、午後の会衆七百余、田島進君「我国初代仏教徒の熱誠」と題し恵心僧都法然上人の生涯の大略に就て話した、誠に好き「教界革正演説」であつた、初めに仏教を我国に植附けし人々は今の教会の牧師監督等よりも遥かに熱誠の人等であつた事を示されて我等は大に感激せざるを得なかつた、次いで余は「天国の市民と其栄光」と題し腓立比書三章廿、廿一節を講じた、自分ながらに保羅の言に励されざるを得なかつた、此所に明白なるキリスト再臨の教義がある」聖書の言を信ずる者は之を疑はんと欲して疑ふ事が出来ない、茲に又「彼は万物を己に従はせ得」るとありてイエスキリストは万物の支配者即ち造主であると示してある、キリストの神性と再臨、此の二つは相関聯する聖書の教義である、此信仰なくして使徒等の信仰はなかつたのである。
五月二十六日(日)晴 此日珍客二人の訪問があつた、其一人は札幌の同窓内田君であつた、彼れ今は白髪(113)の老紳士である、然し学校の荒《あば》れ仲間であつたのは昨日であつたやうに感ずる、彼に十三人の孫さんがあると聞いて嘘のやうに思はれた、人生過ぎて見れば一場の夢であると言はう乎、然し夢ではない、事実である、貴重なる意味ある事実である、余は旧き友人に会ふ毎に余が此世に生れ来りしことを感謝せざるを得ない。内田君去りて間もなく同じく札幌時代の旧知小野琢磨君が訪問された、君と相見ざること三十年以上、別世界に於ける会合の如くに感じた、然し「旧《もと》の心を知る人ぞ汲む」である、我等相互に変つて変らない、殊に余に於ては仕事は今始つた斗りである、今日までが準備であつて今からが実行である、愉快である、感謝である 〇藤井と共に六月分雑誌原稿の大部分を纏め之を印刷所に送つた、毎月果たすべきの義務である、恰も借金を払ふが如くである、之れのみは怠つてはならない、而して過去二十年間未だ一回も此義務を怠たりし事なきを神に感謝する。
五月二十七日(火)晴 朝青年会主事荒川哲次郎氏の訪問あり、昨夜の理事会の決議を齎らして|今日限り〔付○圏点〕余が青年会に於て聖書講演を為す事を断はるとの事であつた、之に何の理由の伴なふのでなく、|唯今日直に断はる〔付○圏点〕と云ふのであつて千余の聴衆に大なる迷惑を掛くる事には少しも頓着しないのである、実に乱暴なる申出《まうしいで》である、教会信者等の相互の間に於て常に取り来れる途であるが故に別に怪むには足らずと雖も、教会の腐敗も亦茲に至て益々甚しきを認めざるを得ない、依て次回講演の会場の撰定に取り掛り藤井の尽力に由り丸之内日本私立衛生会々堂を借受くることに定めて安心した、夜長尾半平氏の訪問あり、氏並に伊藤一隆氏の青年会の余に対する処置に反対して其理事たるを辞せし事を聞いて気の毒に感じた、然し止むを得ない、問題の火の手は益々揚るであらう、革正実行の途として止むを得ない。此日京都の青木庄蔵氏、岡山県の松本郷一氏、兵庫県の好本督君等の訪問があつた。
(114) 五月二十八日(水) 晴 朝長尾半平氏と共に青年会を訪ふた、咋朝主事の齎せし報告の未だ理事会の決議として認むべき者にあらざる事を発見した、故に其公表を明後日まで見合はす事に定めた、万事が乱脈である、何が何やら少しも解らない、唯教役者の重なる者が余を青年会の高壇より駆逐せんと欲する事だけは明白である、而して此目的を達せんが為には彼等は手段も方法も択まないのである、然かも彼等は明白に「我等は内村を嫌ふ」と云ひ得ない、故に有耶無耶の内に余を放逐せんとするのである、卑劣なる彼等なる哉。夜東京駅楼上に於て『やまと新聞』の松井柏軒氏、『万朝報』の斯波貞吉氏、京城『セウルプレス』の山県五十雄氏、外に神戸の好本督氏と共に会食した、最も楽しき会合であつた、青年会事件、朝鮮事件、米価騰貴問題等に就て語り、最後に来世存在問題に就て談じ次回の会合を約して別れた、宗教家の陰険手段に気持を悪しくしつゝありし此際、旧き新聞記者仲間との会合は殊に楽しく感じた、耐へ難き者は基督教界の小政治家等である、雅歌二章十五節に言へるが如く「我等の為に|狐〔付○圏点〕を捕へよ、かの葡萄園を害ふ|小狐〔付○圏点〕を捕へよ」である、神の葡萄園たる教界を害ふ者にして聖書も知らず信仰もなく唯少し斗りの俗智を有する小政治家即ち小狐の如きはない、君子の居る能はざる所は是等小狐の跋扈する目下の基督教界である。
五月二十九日(木)晴 朝信仰の友人なる朝鮮京城金貞植民の訪問があつた、三年振りにて彼と相会して甚だ懐かしく感じた、彼が組合教会に働くも其信仰に染《そま》ざるを知つて喜んだ、彼が故国の事を語るに方て眼に涙を浮べるを見て余も貰ひ泣きを為さゞるを得なかつた、二人祈祷を共にし再会を約して別れた 〇藤井武、柏木兄弟団を代表し青年会事件に付き江原素六翁と会見し帰り来りて翁の立場を報告した、翁の信仰の人に非ずして純然たる政治家なるを聞いて尠からず失望した、左もあらう、信仰の人が長年の間日本メソヂスト教会の会員にして(115)政友会総務であり得やう筈はない、翁が余輩の立場を解し得ず教会の監督牧師等の言を信じて余輩を乱暴人視するは怪むに足りない、翁はその天保時代の観察を述べて云うたさうである「大岡越前守が裁判するに最も手古摺つた者は坊主である」と、余は言はんと欲す、|キリストと其十字架を解するに最も困難なる者は政治家である〔付○圏点〕と、江原素六翁は到底余の味方でない、断念する、悲まない。
五月三十日(金)晴 今朝の『東京朝日新聞』は余と塚本虎二の肖像を掲げ二人の理想に就て述べて三段に及んだ、柏木兄弟団の名が天下に挙つたと云ふ次第である、我等に反対者の多き今日此頃大新聞の斯る記事は尠からざる援助である 〇昨日以来新聞記者の応待にて忙はしくある、『朝日』と『万朝』とは記者を送て青年会事件に就て委細を尋ねた、山県五十雄は『中外新論』『セウル・プレツス』『ヘラルド・オフ・エシヤ』等を代表して日本教化の事に関する余の意見を聞取つた、社会全体は余の味方で余の反対者の反対であるやうに見える 〇此日青年会との関係が全く絶えた、何やら永らく岸に繋がれし船が其|纜《ともづな》を絶ちて大海に乗出したやうに感じた、今より後理事だとか主事だとか監事だとか云ふ厭な名を聞く必要がないのである、今より後自由に些少《すこし》の遠慮なしに福音を説くことが出来るのである、今年一月以来長尾半平氏の好意に対し好ましからざる青年会との提携を維持し来りしは尠からざる苦痛であつた、然し神と余の排斥者等とに感謝す、余は再び自由の人となつた、暗らき基督教界との関係が絶えて余は明《あか》るき身と成つた、最早陰鬱なる牧師や長老等の顔を見るの必要がないのである、あゝ愉快、あゝ感謝、『全集』は売れる、新高壇は与へられる、夜が明けた、狐や狸と縁を絶ちて雲雀と共に囀る時が来た、あゝ愉快!!!
五月三十一日(土)晴 昨日に比べて静かなる好き日であつた、金井菊子小供を連れて訪来り、共に蓄音器を(116)聞いて楽んだ。『万朝報』夕刊は「基督教会の暗流」と題し、青年会事件に関し余と江原素六翁との談話を掲げた、江原氏の分は氏が一昨日藤井に語りしものとは全く別の意見である、是れが多分老政治家たる翁の翁たる所以であらう。此日此件につき多くの慰問の手紙を貰つた、牛込教会牧師旧友田島進君の言に曰く「御通知に接し驚き入り申候、然しルーテル、法然、ウェスレーは皆先生と御同様の運命を経来り申候、今後は益々聖書の真理の宣伝に全力を尽されん事を祈り候云々」と、又女子学院教頭三谷民子女史よりの慰藉の言に曰く「先生、青年会の為に悲しみます、彼等が此の大なる間違を行つた事は彼等の為には耻ぢ、神の国の為には勝利で御座います云々」と、又聴衆の一人O・K氏は慰めて曰く「此の事あるべきは既に明白の事にて却て此の方気兼ねなくして我等同志にとり好結果なるべく候、かくして純日本的独立基督教は建らるべく、束縛なくして主の御福音を説き且聴くを得べく、何も彼も主に在りては唯感謝に御座候」と、孰れも我意を得たりである、今日まで反対はすべて我が利益に終つた、此大反対は必ずや大利益となりて現はるゝであらう、感謝、感謝。
六月一日(日) 此日講演会を丸之内日本衛生会の講堂に於て開いた、青年会館よりは日光に於ても空気流通に於ても、はた又全体の設備に於ても遥に優りたる会場であつた、聴衆は七百人位ゐ、相も変らざる盛会であつた、此日の献金壱千〇六十三円余、以て熱心の程度を窺ふ事が出来る、青年会より逐はれし事は我等に取りどの点より見るも善き事であつた、我等は深く我等の排斥者に感謝せざるを得ない、田島進君前回の続きを述べ、余は「信仰の三角形」と題しヨハネ第一書の根本義に就て語つた、我等六月中日曜日毎の講堂借用料を前納し、先づ当分の間講堂欠乏の心配が無くなつた、誠に感謝の至りである、神の御手が実現するやうに見え、言ひ難きの喜びであつた、逐はれる事と負ける事は最も善き事である、斯くして我等は大勝利を得るのである。
(117) 六月二日(月) 晴 家の番犬病み、其治療のために尠からざる労力を要した、犬と雖も家族の一人である、其苦痛を除いてやらねばならぬ、人情であつて又義務である 〇有力者某の来訪あり、伝道の機運熟したれば大に力を効すべく約束せらる、此時に際し大なる奨励であつた。
六月三日(火)晴 疲労未だ去らず、終日ボンヤリとして居た。博士E・F・スコツトの The Kingdom and the Messiah(神の国とメシヤ)を読んだ、苦しい再臨反対論である、余の再臨信仰を強むること尠くなかつた。主婦と共に買物に行つた、初めて乗合自働車に乗り愉快であつた、其他の事は判断つかず只彼女の言ふが儘に従ふのみであつた、品物の選定、其評価等に就ては余は全然無智無能である、聖書の講演の外に余が確信を以て為し得る事は他に何もないやうである。愛犬終に死し其屍体の処分に尠からず心を労した、一年間生育の労空しくして彼れ終に死す、良き一人のフレンドを失ひしやうに感じて悲しかつた。京城の金貞植氏来訪、夕食を共にして信仰と時勢に就て語つた、彼は主イエスキリストに在りて余の良き兄弟である。
六月四日(水)晴 改築の立前《たてまへ》にて混雑を極めた、|十字架を高く〔付○圏点〕棟|の上に挙げて愉快であつた〔付○圏点〕。職人への大振舞を為した、之も亦善き慈善である。高橋海軍大佐外数人の来訪あり、人生の種々の方面に就て学ぶ所があり有益であつた。雑誌校正始まり、相変らず面倒であつた。約翰第一書の研究、引続き興味深し。
六月五日(木)雨 会場使用のオルガンを求めん為に吉沢重夫君と共益商社に落合ひ、彼れ是れ撰択の後、西川製中形のものを求むることに定めた、吉沢君は逝かれし母君の縁故に由り爾今我等の音楽指導者なるべく約束せられ、茲に又新たに楽器を与へられて我等の伝道機関は益々整頓せられつゝある、「エホバエレー」、「エホバ備(118)へ給ふ」、我等が求めざる前に彼は大となく小となく我等に無くてならぬ物を備へ給ひつゝある。
六月六日(金)晴 改築の棟に掲げし十字架の両面に「一九一九年六月四日、此日東京基督教育年会より逐はれ、福音の先鋒として丸之内に入る、ハレルヤ勝利」と和英両文にて記載し、之を屋根下《やねした》に釘付《うちつ》けた、後日家を毀《こぼ》つ者ある時に此事を知らんが為である 〇芥屋《ごみや》に特別に拾銭与へた、彼の渋面《しぶがほ》に微笑の浮ぶを見て嬉しかつた、前日余自身が芥溜《ごみため》の掃除を為して彼に対し同情が起つたのである、彼も亦人の子である、同情に遇ふて喜んだのである、僅か拾銭で良き慈善を為した、金の額《たか》ではない、之を与ふる同情の心である、而して自身其業に当らなければ真の同情は起らない、余は此小慈善を為して何やらイエス様が余の背後《うしろ》に立ちて其聖手《みて》を挙げて余を祝福して下さつたやうに感じた。
六月七日(土)晴 暑し。海軍々令部清川大佐並に同大学高橋大佐の訪問があつた、我等は信仰と武士道とコロムウエルとアドミラル・ブレーキと、英米の物質的戦術と日本の精神的戦法とに就て語つた、余の信仰が両士の如き軍人紳士に少しなりと解せらるゝに至りし事は感謝の至りである、国に陸海軍の必要ある以上(而して罪の此世の続く限り其の全廃せらるゝ時の来るを思考《かんがへ》る事が出来ない)其の真《まこと》の信仰に由て潔めらるゝの必要あるは云ふまでもない、信仰の陸海軍に必要なるは政治、実業其他の業務に於て必要なると少しも異ならない、余は日本に日本特有の大軍人大英雄が起りて聖戦を以て敵に勝ち国を潔むる時の到らん時を待つ。
六月八日(日)晴 丸之内に於て第二回の聖書講演を為した、聴衆六百余、前回よりも落附いたる集会であつた、此日より吉訳重夫君其令妹と共に音楽を受持ち呉れる事になつた、集会の為めに大に荘厳を増した、何事も(119)感謝である、会後伊藤一隆と共に銀座に会食した、四十年前の信仰の友と中央に在りて共に主の聖名の為に働くに至りしは大なる摂理であり大なる感謝である、我等談話の標語は故クラークの遺せし Boys be ambitious(青年よ大志を懐けよ)であつた、我等は主の為に大志を懐き大事を為すであらうと語つた、実に愉快である。家の主婦足を病み尠からず心配した。
六月九日(月)晴 旧き母校へ僅かばかりの寄附を為すために銀行へ二度も通《かよ》はせられ、折角の休日も全潰《まるつぶ》れとなつた、然し悲まない、青年時代に沢山世話に成つた学校の為に少しなりと報恩の徴《しるし》を為すことが出来るかと思へば非常に有難たい、銀行への途中、在校時代の事共種々追想し嬉しかつた 〇夜|瑞西《スヰツル》宣教師フンチケル氏に夕飯に招《よば》れ、時事と伝道とに就て語り面白かつた、欧洲大陸人は英米人とは異なり我等日本人を解するに遥に深くある、故に共に語て共鳴する所が多い、フ氏は青年会事件の真相を聞いて呆れて居た、彼は曰ふた「欧洲に於て昔しはそんな事があつた、然し今は断じて無い、若し今そんな事が瑞西に於てあつたならば大変である」と、而して彼は余が青年会の高壇より逐はれし事に就て余を祝して呉れた、序に言ふ、彼は両三回青年会館に来り親しく余の講演を聴いた、彼と余とは神学上或る意見を異にするも彼は余の熱心なる賛成者である。
六月十日(火)雨 梅雨到り鬱陶敷くあつた。又復講堂建築問題が持上り尠からず頭脳《あたま》を悩ました、余は聖書を講ずる事の外、斯かる事に携はりたくない、然し止むを得ない、祈る、主が教会の教師等に妨げらるゝ事なく多くの人に福音を説くための場所を与へ給はん事を 〇『全集』第弐巻の編纂に取掛つた、亦一仕事である。
六月十一日(水)半晴 陸中花巻町斉藤宗二郎君より例年の通り同君自耕の草苺《いちご》が到着した、実に天下一品で(120)ある、毎年恵送に与ること茲に十数年、名誉の至りである、北上河畔の砂礫混交《こいしまじり》の土壌と東北中部の乾燥せる気候とを利用し、之に加ふるに斉藤君の熱誠を以てしたれば茲に天下稀に見る所の美果を産するに至つたのである、神祐け人働きて茲に美《よ》き果《み》を見るのである、草苺《いちご》然り、況して霊魂に於てをや。夜柏木兄弟団有志の相談会があつた、花巻産の草苺を頒《わか》ちて共に其珍味を賞した。
六月十二日(木)雨 左の如き叮嚀なる書状が手許《てもと》に達した、
粛啓、霧雨の候に相成候処御恩寵の下に益々御健勝の段奉大賀候、陳れば今般は御厚志により当青年会福音宣伝の為め金百円也御献金を辱ふし奉感謝候、甚だ略儀には候へ共右以書中御厚礼申上度如此に御座候、敬具 大正八年六月十一日 東京基督教青年会理事長江原素六※〔□の中に印〕 内村鑑三殿侍史
是は御礼儀である、恐縮に堪へない、余の聴講者の献金を余に渡されしものを余より改めて伝道費として青年会に寄附したのであつて別に御礼状に与る理由はないのである、斯くして此不愉快なりし青年会事件も表面なりとも礼儀を以て終るを得て感謝に堪へない、是で此事は万事忘れるであらう 〇六月号雑誌が出た、祈祷を以て之を発送する、印刷費騰貴のために紙質の大に下落せしを悲む。
六月十三日(金)曇 『内村全集』第一巻再版売切れ三版成る、教会と青年会との反対強き此時に際し社会の此歓迎は奇と謂つべし、教会は余より高壇を奪ふことが出来る、然しながら紙上の此高壇……是は余の独専であつて教会の狐等は之を如何ともする事が出来ない、重々の感謝である 〇帝国五分利公債千円券一枚を北海道帝国大学に宛発送した、謝恩奨学資金に充ん為である、永の間心掛けし事が今日始めて事実となりて現はれて歓喜感謝に堪へない、『内村全集』の印税として書店より送られし最初の一千円を此目的に当てたのである、五十九年間(121)の生涯に於て余が纏めて一千円を得たのは今度が初てゞある、而して之を青年時代に世話になりし母校に献じて言ひ難き満足を感ずる、是れで四十年来の肩の重荷が大部分|下《お》りしやうに感ずる。
六月十四日(土)雨 半休半読、馬太伝六章十一節の研究が面白かつた、マイヤー、ブリンガー、グリム等各々説を異にし、孰れを採るべきや自分も大に迷ふた、「日用の糧」なるや、「明日の糧」なるや、「上より来る糧」なるや、言語学上の難問題である、新研究に由り明解の到る日を俟つ 〇改築捗らず気が気でない、「此世の子等は光の子等よりも巧《たくみ》なり」である(路加伝十六章八節)、余は大工に騙される、左官に騙される、屋根屋に騙される、職人と云ふ職人に皆んな騙される、余の作る家は普通の家よりも何割も高価《たか》くなる、然し止むを得ない、余は騙されると知りつゝも職人を信ずる、余は彼等に対し深き同情なき能はずである、彼等は他人の家を作るも自身は一生借家住ゐにて終る、彼等が多少の利を貪るは恕すべきである、故に騙されるは彼等に対する一種の慈善と思ひ喜んで之に応ずる、神は必ず余の損失を償ひ給ふであらう。
六月十五日(日)半晴 好き安息日であつた、丸之内に於ける午後の集会は相も変らず盛んであつた、来会者五百人以上、其内に多くの珍らしき貴むべき人があつた、余は主の祈祷の解釈を試みた、自分ながらに大に教へらるゝ所があつた、講演終つて後に有志の親睦会を開いた、来会者百五十名、讃美あり祈祷あり感話あり、洵に生命に充ちたる会合であつた、何れにしろ講演会のインテレストは少しも衰へない、実に不思議である。
六月十六日(月)陰雨 午前主婦を伴ふて京橋古宇田病院を訪ふた、或る科学的新治療を受けんが為である、薬品を用ゐざる治療法は之を歓迎せざるを得ない、医術は悪魔の発見であると云ふは間違である、明白に天然の(122)法則に合ふと信ぜらるゝ治療は感謝し且つ祈りて受くべきである 〇面白い噂を聞いた、青年会をして余を断はらしめ、田島進氏が余の講演を助けたりとて彼を詰責せし(以上は確かなる事実である)教会は更に進んで警醒社書店をして余の著述の発行を止めしめんと試みつゝあるとの事である、教会は斯かる事を為して縦し余の事業を壊ち得るとするも、終に自ら亡びざるを得ない、何故に正々堂々と議論を以て戦はないのである乎、何故に婦女子が為すが如くに蔭に廻りて卑劣手段を弄するのである乎、余は彼等の為に悲まざるを得ない、余は元来教会の人ではない、故に教会に憎まれたればとて少しも痛痒を感ずる者ではない、講堂は青年会館以外にも沢山ある、余の援助者は田島君一人に止まらない、又警醒社のみが唯一の書店ではない、余は教会信者を目的《めあて》に筆を執らない、少くとも日本全国民が余の読者である、噫憐むべき教会よ、汝等は総掛りとなりて余一人を斃すことが出来ない、唯注意せよ汝等自身の斃れざらんことを、汝等の多数は外国の伝道会社が日本より手を引くことあれば直に斃れる者ではない乎、外国人の御慈悲に由て存立する汝等が一人の独立信者を発し得ざるは勿論である、噫教会よ、余は恐る汝等は自己の滅亡の時期の近づきつゝある事を、余は汝等を憎まない、汝等が余に反対すると同じ熱心を以て汝等自身の異端と俗化とを革《あらた》めん事を欲す。
六月十七日(火)陰鬱 『地人論』の訂正に従事した、二十五年前に成りし自分の著述を読んで尠からず教へらるゝ所があつた、地理学に辜《つみ》はない、之に監督、長老、執事、牧師、伝道師等の干渉はない、今に至て地理学者とならずして聖書学者となりし事を悔ゐざるを得ない、詩人シルレルが言し如く「自由は山に在り、腐敗の気は未だ曾て其新鮮なる気流を汚せしことなし、あゝ自然は到る所に完全なり、唯人のみが憂苦を以て之を毀損す」と、然り自由は山に在り海に在り、教会になし、神学校になし、青年会になし、あゝ人よ青年よ、汝等の自由を求めんと欲せば教会と神学校とに往く勿れ、寧ろ山と海と地理学とに行けよ ○松村介石君の紹介に由り大隈侯(123)主宰雑誌『大観』の記者池田君の訪問を受けた、同君が暹羅《しやむ》語学者であるより暹羅語に就て、大隈侯に就て聞く所あり、大に教へらるゝ所があつた、余は新聞雑誌記者の訪問を受くる時、彼等より聞かんと欲して彼等に聴かれんとはしない、是れ記者を迎ふるに最良の方法なる事を近頃発見した。
六月十八日(水)半晴 午前八時山岸と共に柏木の家を発し、三等汽車、那須軌道のガタ汽車、塩原山道のガタ馬車にて午後四時栃木県塩原の温泉宿に着いた、大に疲れた、三十年間続いて忠実に勤め呉れし彼と共に久振りに山に遊んで言ひ難き快楽を覚えた、彼れ初て来りし時は紅顔の青年、今は頭《かしら》に白髪を戴く、我も彼も共に老いたのであらう、共に箒川の畔《ほとり》に宿り、彼に肩を揉んで貰ひながら昔を語り今を談じた。
六月十九日(木)曇 時々雨ふる、山岸は名所見物に出掛けて居らず、余は独り清流に面して旧著『地人論』の訂正に従事した、恰かも他人の作を校閲するの感がした、文は拙である、然し乍ら想は雄大である、曰く「亜細亜論」、曰く「欧羅巴論」、曰く「亜米利加論」と、世界の地理を一大詩篇として見たる作である、余は此著述を為して置きし事を感謝する、米国アマストに於ける地歴研究二年間の結果である。
六月二十日(金)半晴 山岸去り、余は独り残され、箒川の流声を聞きながら終日『地人論』の訂正に従事した、日本天職論最後の結論たる「東西南洋我に於て合す、パミール高原の東西に於て正反対の方向を取りて分離流出せし両文明は太平洋中に於て相会し、二者の配合に由りて胚胎せし新文明は我より出でゝ再び東西両洋に普《あまね》からんとす」との我言を読み終つて余は一大思想を世に供せしことを感謝せざるを得なかつた、後世之を読みて我思想を政治的に世界に行ふ者があらう、或ひはキリストが再び来り給ふ時に彼は我と我が同志とを以て此理想(124)を実現し給ふのかも知れない。
六月二十一日(土)半晴 『地人論』訂正を終つた、随分の骨折りであつた、然し為す甲斐のある努力であつた、其文は拙劣なれども想は雄大である、此著は此儘にして葬らるべき者ではない、訂正を施して再び世に出すべき充分の価値があると認むる、此事を為すために四日間山中に留まりし事を悔ゐない、尚ほ引続きて『興国史談』の改訂を此の静かなる所に於て行ひたくある、然し明日の義務が余を東京に召出《よびいだ》すのである、高原の涼風は惜くある、然し止むを得ない、数百の信仰の友が丸之内に余を待つて呉れると思へば山を下るの勇気が出る、サヨナラ箒川、有難う、君の清流に励まされて困難い仕事を為すことが出来た、復た来るよ。午後三時半山を発し、帰途は人力車と二等汽車にて大分楽であつた、宇都宮にて停車場に彼地教友一団の迎送を受けた、彼等は余に恵むに最上等の夕食弁当を以てした、一首を賦して彼等の厚意に酬ゐた、「塩原や那須の入浴《ゆあみ》の帰り途、鰻弁当嬉しかりけり」と、十一時柏木の家に着いた、良き労働旅行であつた。
六月二十二日(日)暴風雨 午後の会合、風雨にも関はらず相変らず盛であつた、来聴者五百余、近くに中央停車場を望みながら讃美歌第二百三十五番を会衆一同と共に合唱するは得も言はれぬ福祉《さいはい》であつた、余は先づ詩篇第百廿七篇第一第二節に拠り「安全週間の出来事」に就て語つた、ヱホバ守り給ふにあらずば社会の共同的努力も以て安寧を維持するに足らずと述べた、続いて主の祈祷につき前回講演の不足を補ふた、実に気持良き会合であつた。
六月二十三日(月)晴 空晴れ北風涼しく、休息静止の心地好き月曜日であつた、長椅子に寝転び新聞雑誌を(125)楽読するの外何事も為さなかつた、斯くして昨日失ひし活力を回復せんとするのである、一二時間の講演より来る疲労は癒すに三十時間の休息を要するのである、高価なる労働である、然し為す甲斐のある労働である、故に廃められない。
六月二十四日(火)晴 久振りの晴天である、気分最も宜し、『興国史談』の訂正を始めた、又少し使徒行伝と箴言とを研究した、又午後は平出氏の聖書学舎に於てパウロの旅行地理に就て講義した、其他一二親友の来訪あり心置きなく此世の細事に就て談話した、善き平和の一日であつた。
六月二十五日(水)晴 珍らしき好天気であつた、「四時変らぬ涼しき夏の、光り輝く讃美の里に」と云ふやうな気持好き日であつた、家の青年は大学入学試験準備の為に学友と共に那須へ行いた、在米国ネバダ州エルコーの関矢君より甘《うま》き西洋菓子を送つて呉れた、ロツキー山中の甘味を東京柏木に於て味ふのは大なる特権又恩恵である 〇米国独立宣教師T・B・ソーントン氏の訪問を受けた、氏は過る十日間昼夜に渉り市ケ谷日本基督教会に於て純福音を説いた、而して氏の説く所は余の説く所と全然一致して居る、故に教会は彼を嫌ひ、三年前彼より神戸ユニオン教会の牧師の地位を奪ふたとの事である、故に氏は強き同情を余に対して懐いて呉れる、而して此人が、ソーントン氏が近頃余を青年会の高壇より追出すに最も尽力せられし|日匹信亮氏所属の教会なる市ケ谷日本基督教会〔付○圏点〕の招聘を受け、其高壇より十日間に渉り余が説くと同じ福音を説き、而已ならず二回まで余の名を挙げて余の立場を弁護せられたりとの事をソーントン氏自身の口より聞いて余は奇異の感に打たれた、何やら神が特別に氏を神戸より呼出し、此際特に余の為に弁護せしめ給ひしやうに思はれた、余の排斥者なりし日匹氏が長老たるその教会に於て余の弁護者が十日間に渉り熱弁を揮ひしとは……而かも此際! 不思議である、人の業《わざ》(126)とは思はれない。
六月二十六日(木)雨 『内村全集』第一巻第三版を売尽し第四版印刷に取掛りたりとの書店よりの通知に接した、重ね々々の感謝である 〇七月号雑誌原稿大略成り之を印刷所に送つた、過去二十年間、未だ曾て一回も原稿締切日に原稿を送らなかつた事はない、又勘定日に支払を怠つたことはない、事は細事のやうであつて細事でない、|宗教事業に従事して約束を守らざる事は大なる悪事である、原稿と勘定〔付△圏点〕、二者を怠つて如何なる明論卓説も何の用をも為さない、而して神に依頼《よりたの》みて我等は能く責任を充たす事が出来る。
六月二十七日(金)半晴 少し斗り筆を執つた。講和条約調印成らんとし、戦勝国は孰れも祝勝会準備に忙はしき時、米国電報は伝へて言ふ「加州選出米国上院議員フイーラン氏は日本移民の絶対禁止を要求し述べて曰く「米国の次の戦ひは太平洋上に勃発すべく、東洋の独逸人(日本人)は既に襲来して加州到る処に蟠居し更に南米に侵入し云々」と、斯くて前の戦争は今や将さに終らんとする時に後の戦争は預言されつゝある、平和来を叫ぶも只の一時である、神に叛きし人類は相互に対して戦はざらんと欲するも能はない、為すべき事は福音宣伝の外にない事が益々明瞭になりつゝある。
六月二十八日(土)曇 雑誌原稿三頁分を書いた。混乱せる世なる哉、平和条約調印成らんとするに際して伊太利に親独派起りて伊国を駆つて独逸に併合せしめ以て大独逸帝国の後援を得んとする運動を試むると云ふ、又米国財団は大に独逸に放資して独逸人と利益を頒たんとすと云ふ、利益の為には盟約を破り利益の為めには国を(127)も売て辞せず、戦争も利益のため、平和も利益の為である、斯くて成りし平和は平和に非ず、何時再び大戦争が始まるか分らない。
六月二十九日(日)半晴 今年上半年最後の安息日である、丸之内に於ける講演会不相変盛会、来聴者六百余人、献金六拾円以上、青年会に於ける平均献金の約三倍である、余は箴言第一章七節、「ヱホバを畏るゝは智慧の本なり」の聖語に就て語つた、ヱホバを畏れて初めて本当の学者になることが出来る、改信(コンボルシヨン)の確実なる証拠の一は知識欲勃興であると云ふことに就て述べた、而して茲に九月第三安息日まで此会を閉づる事を宣告し讃美歌第三百九十二番「また会ふ日まで」を歌つて散会した、洵に感謝の極みである、昨年九月青年会館に於て此講演を始めし以来、余は唯一回風邪に冒されて休みし外、曾て一回も高壇を空しくせる事なく、又基督教会の排斥に会ひて一時高壇を奪はれしも更らに直に|より〔付ごま圏点〕善き高壇を与へられて聖業を継続するを得て感謝の言葉が無い、大日本衛生会講堂は引続き借受くる事に約束整ひたれば来る九月以後、引続き帝都の中央に於て福音宣伝を継続する事が出来る、何事も感謝である、すべてが勝利である、「爾わが仇の前に我が為に筵を設け、我が首《かうべ》に膏を注ぎ給ふ」と云ふ事は斯かる事を云ふのではない乎と思はれる、ハレルーヤ、ヱホバを讃美せよである。
六月三十日(月)曇 今暁大雨。I・M・ハルデマン氏著「橄欖樹の枝」を読んだ、斯かる説教師の腐敗堕落せる米国今日の基督教界に今尚存せるを知て心強く感じた。有島武郎君の訪問を受けて喜んだ、君は正直なる愛すべき人である、君の近頃の信仰の大変化に対して同情に堪へない、君は不徹底の教会の基督教に堪へずして君の今日の立場に到つたのである、教会の基督教を厭ふの点に於ては余は君と少しも異ならない、但し余は君と正(128)反対の方向に切抜けたのである、君が進化論の帰結に走つたに対して余は進化論を棄てゝ宇宙万物の顕現的解釈(Apocalyptic explanatiOn)に移つたのである、方向は異なつた、然し微温《なまぬる》き教会の基督教を脱した其気分に於ては我等は少しも違はない 〇夜、海上ビルヂング楼上中央亭に於て柏木兄弟団の晩餐会が開かれた、来会者五十余名、交歓十時に至て止んだ、「主の御料理代」として三十六円余の献金あり、楽しき上半年最後の会合であつた。
七月一日(火)半晴 平和克復祝賀会にて市中は賑ふた、恰も好し我等の旧き友人にして今は第五高等学校独逸語数師なるヴイルヘルム・グンデルト君上京中なれば君を夕飯に招き茲に日独平和回復祝賀会を我家に於ても開いた、君と相会せざる事茲に五年、其間に世界は一変して別世界に於て再び相会するが如き感がした、我等は相互に対して尊敬を失はずして此大戦争を経過せし事を感謝する、然し乍ら我等は其間に信仰上非常に変化した、余は明確《はつきり》とキリストの再臨を認むるを得てグンデルト君の祖父《をぢい》さん祖母《をばあ》さん等の握られし信仰に入ることが出来た、それと正反対に君は古き独逸人の信仰を去て近代人の信仰に這入られた、此事を知て余は非常に悲しくあつた、余が漸くさつとチンチエンドルフやフランケーの信仰に入つた時にはグン君は既に之を去つて其所に居たまはないのである、実に悲しかつた、是が此戦争が我等二人に及ぼした変化であつた、余を再臨の信仰に導き、君を再臨の信仰より引出《ひきいだ》した、斯くして我家の小なる祝賀会ほ大なる悲歎《かなしみ》を以て終つた、嗚呼近代思想、是れが単純なる聖書の福音を淆乱《みだ》す者である、其の誘ふ所となりて信仰的に余より離れし友人はグン君一人に止まらない、多くの文学者、多くの思想家はグン君の取られし途を取つた、然し止むを得ない、余は一人で踏み止まるであらう、全欧羅巴が新社会主義に走るとも余は独り旧き聖書の福音に止まるであらう、而して余の愛する日本をして欧や米に傚ふ事なくしてキリストと其使徒等の言に従はしむるやう努力するであらう。
(129) 七月二日(水)雨 黙示録の研究と『全集』の編暮と手紙書きとに一日を費した。長尾半平氏の『東京基督教青年会副理事長辞職顛末』なる小冊子が出た、青年会対余の事件が因をなしたのである、理事長江原素六氏、理事日疋信亮氏、監事小崎弘道氏、同元田作之進氏等が之に対して如何なる答弁を為さるゝかゞ見物《みもの》である。
七月三日(木)霧雨 読書と編纂と手紙書きと来客接待と其他の小事にて多忙、聖書に絶大の真理を学びながら此世の細事に鞅掌す、是が基督者の生涯である。
七月四日(金)細雨 主《おも》なる仕事は雑誌の校正、機械的の仕事である、然し肝要なる仕事である、之を疎漏《そろう》にして記者たるの義務は済まない。希臘哲学者プラトーの事を思ひ出し彼の伝記を復読して大に力附けられた、大宗教家と並び尊むべき者は大哲学者である、而して古今東西プラトーに優る哲学者は無いのである。
七月五日(土)晴 久振りに空晴れ気持宜し。朝、札幌時代の旧友にして前の鹿児島第七高等学校々長、今は鹿児島県下福山村に理想的私立中学校敬天塾を経営し着々功を奏しつゝある農学士岩崎行親氏の訪問を受けた、清い立派なる人物である、日本国の文部大臣として最も適当なる教育家である、然し彼れ今官を退き一平民として青年薫育に従事しつゝある、彼は余と違ひ基督信者とならざりしと雖も、其品性に於て信者以上の紳士である、我等久振りに相会して時の移るを知らなかつた、愛国の熱情に於て、教育の根本義に於て、彼と我とは全然一致して居る、旧き同級生の中より彼の如き高潔独立の人の出たことは感謝の至りである。
(130) 七月六日(日)半晴 時々雨ふる。久振りに自由の安息日であつた、本年に入りてより東京の高壇に登るの義務より釈放されしは今日が初めてゞある、然し此日を無益に消費すべきにあらざれば畔上《あぜがみ》賢造の伝道地なる千葉県東金に往きかの地方の教友を訪づれた、会する者五十余名、歓喜極まりなしであつた、畔上先づ説教し、余は其後をうけて余が彼地に伝道を開始して以来茲に二十四年、思想の変遷、信仰の上進に就て述べた、顧みれば余が彼地に入りしは明治二十九年故田口卯吉君と共に社会演説を為さんがために土地の有志家に招かれしを以て始まり、爾来二十四年間霊的関係を継続して今日に至つたのである、午後四時演説を終り、九十九里|鳴浜《なるはま》村に至り教友|海保《かいほ》竹松の家に泊つた、今や子女悉く成長して信仰的第二の時代を作らんとしつゝある、伝道は忍耐を要する事業である、然し成つて見れば之よりも愉快なる事業はない、福音一たび土地に根ざせば果を結んで永久に至る、神の恩恵に由り我等の千葉県伝道は成功であつたと言はざるを得ない。
七月七日(月)雨 朝、海保方に於て集会を開き、聖書を講じ、祈祷を共にし、午前九時同氏を辞し、成東駅より乗車、二時柏木の家に帰つた、誠に歓喜に充ちたる伝道旅行であつた。
七月八日(火)晴 爽快なる日であつた、雑誌校正を終り之で又一先づ安心である、然し乍ら仕事は後《あと》より後《あと》へと待つて居る、全き休息を得るは当分の間目当がない、然し悲まない、我が休息は主イエスキリストに於てある、彼を信ずること是れ休息である、其意味に於て余は永久に休息する者である 〇布哇島ホノルル市発行彼地組合教会機関維誌『フレンド』六月号は本誌四月号掲載英文「余の宗教」を転載し、米国人に勧むるに福音の単純に還るべきを以てす、『フレンド』誌の主筆セオドル・リチヤード氏は熱心なる基督再臨信者であつて亦余の誠実なる友人である。
(131) 七月九日(水)晴 丸善に行き安価なる英書数冊を求めた、近刊書類にして余の読みたき書《もの》は殆ど無い、余の探らんと欲する者は永久不変の真理である、而して近代人は之を与へない、故に彼等の著作は余に取りては不用である、近刊の雑誌中『中外新論』、『大観』、『日本魂』、『日本一』、孰れも信仰に関する余の談話を掲載す、基督再臨の信仰が世間一般の注意を基督教に対して喚起《よびおこ》した事は確実《たしか》である、而して之を罵る者は此世の論者に非ずして教会の教師神学者等なる事は奇異なる現象である。
七月十日(木)晴 午前七時柏木の家を出、主婦に送られて東京駅に至り、八時三十分発の特急列車にて西下した、東海道を半睡半読の問に過ぎ、午後五時大垣に下車し米国独立宣教師ミス・ワイドナーに迎へられ、其家に入つた、心よりの接待に与り、又市内信者十数名の訪問を受け、十時旅宿に到り床に就いた。
七月十一日(金)晴 午前七時ワイドナー女史と共に養老鉄道に由り大垣を発し、車中にて米国流の弁当の御馳走に与り、伝道と信仰とを語りながら三十分にして養老に達し、其所に有名なる滝を見、其下に立ち、尾濃の広原を遥かに望みながら二人首を垂れて朝の祈祷を共にし、山を下り、十時再び大垣に帰つた、誠に聖き楽しき朝の散歩(Morgen Spaziergang)であつた。十一時女史に送られて大垣を発し、京都、大阪、神戸に於て友人の出迎を受け、六時摂津一の谷、松林の中より海を隔てゝ淡路島を望む神田《かうだ》氏の家に迎へられて其客と成つた、友の愛と静かなる天然とに擁せられて近頃になき熟睡の一夜を此所に過ごした。
七月十二日(土)晴 旅の疲れを取除かんが為に午前と午後とは友人の家に在りて休んだ、敦盛塚附近|戦之浜《たゝかひのはま》(132)に沿ふての散歩は気持好くあつた、七時神戸に出、中山手通七丁目神戸日本基督教会々堂に於て青木澄十郎君と共に説教した、来会者四百余名、聴衆の性質|判明《わか》らず思ふやうに話し得ず甚だ不満足であつた、主は万事を善きに取計らひ給ふ、十一時一ノ谷に帰り安き眠に就いた。
七月十三日(日)晴 暑気強し、林中の休息殊に有難かつた、而して信仰を以てする主に在るの休息は天然の供する休息以上の休息である、「主は其の愛する者に(休息の)眠《ねむり》を与へ給ふ」(詩篇百二十七篇二節)、是れ主を愛する者の何人も何処に於ても得る事の出来る者である。昨日同様、神戸に於て説教した、ヨハネ第一書三章初の三節の解釈を試みた、聴衆は数に於て昨日同様、質に於ては遥に優つて居た、恵まれたる会合であつた、夜、満月の光を浴びながら須磨の浦つたへに鉄拐山下の友人の家に帰つた、聖書講演に時には詩的趣味がある、夫れが其の大なる報酬の一である。
七月十四日(月)晴 暑気強し、朝、江原万里と共に住友寛一氏を住友須磨別邸に訪問した、海に臨み石を以て築き上げられたる荘宏なる邸宅である、富豪生活の一斑を窺ふことを得て善き見学であつた、斯かる邸宅の二つや三つ日本に有ても少しも差支ないと思ふた、殊に旧家の趣味の甚だ控目《ひかへめ》なるにほ敬服した、昼飯の御馳走に与り一時半辞し、汽車にて西ノ宮に至り、堀兄弟を訪ひ、先般青年会より逐はれし際、氏が遥に少からざる物質的援助を与へられし其厚意を謝した、七時神戸に至り有志晩餐会に出席した、食卓に就きし者四十二名、主、我等と食を共にし給ひて不相変美はしき会合であつた、十時散会、「主の御料理代」四十五円を得て之を神戸貧民病院に寄附して彼を悦ばし奉つた、市中は祇園祭にて賑ふた、物質的神戸の発達に驚くべき恐るべきものを見る、此肉的元気がありて昨年の米騒動は敢て怪しむに足りない、敦盛忠度の福原の旧都は米国シカゴ化しつゝあるの(133)である、阪神人は確実《たしか》に米国人の後を追ふて財神崇拝を其信仰として採用しつゝある、是は進歩ではない、大堕落である、彼等は奈落の底へと大速力を以て突進しつゝある。
七月十五日(火)晴 友人の家に止まり終日休息した、暑気強く、茅渟海の水面静かにして帆船動かず、時々霞晴れて遥に淡路島を望む。午後江原若夫婦の訪問あり、彼等を停車場に送り月光を踏んで帰る。
七月十六日(水)晴 午前九時一ノ谷|神田《かうだ》方を発し、十二時半京都に到る、ドクトル佐伯方に迎へらる、七時半より京都基督教青年会々館に於て聖書講演会を開く、暑気強く、祇園宵祭なるに拘はらず聴衆四百余あり、夏期に在りては得難き会合であつた、余は「健全なる宗教」に就て述べた、信仰は内省的ならずして仰瞻《かうせん》的ならざるべからず、同時に経典を神の言として受け、又強き来世観を懐く者ならざるべからずと説いた、説き終れば全身汗に浸《ひた》り、蒸風呂の中に在りしやうに感じた、熱い苦しい演説会であつた。
七月十七日(木)晴 引続き暑気強し、午後加茂神社糺の森に接し加茂川の清流に沿ひたる佐伯氏の別邸に納涼した、七時半前夜同様基督教育年会に於て講演した、炎熱灼くが如く講者も聴者も大なる苦痛であつた、聴衆昨夜よりも少しく多く、其熱心に酬ゆる能はずして遺憾であつた、京都青年会は東京青年会とは異なり悦んで余を迎へて呉れた、両夜とも静粛を維持せんが為に殊更に柔道撃剣部を休みて講演の成功を助けて呉れた、すべてが感謝である。
七月十八日(金)曇 蒸熱し、時々雨ふる、午前六時蛤御門前佐伯氏方を出で、多数教友に送られて京都駅を(134)発し、午後二時半浜松駅に下車し、故土屋民司の未亡人を訪づれ、彼女と共に彼の墓を見舞ふた、土屋は天竜川運輸会社の社員であつて、其乏しき中より幾回《いくたび》か『聖書之研究』の経営を助けて呉れた、而して五年前に主に召されてパラダイスに入つた、余は彼に何の酬ゆる所なくして彼を喪ひし事を常に心苦しく思ふた、依て今回西下の機会を利用し、茲に彼の墓なりと訪づれたのである、余は未亡人と共に墓前に立ち二人首を低《たれ》て我等の父なる天に在ます神に祈つた、而して復活の日に於ける再会を期して淋しき彼女を独り遺して去つた、実に感慨無量であつた、死は我等を離さない、却て我等を近づける、神が土屋の如き援助者を多く賜ひしが故に本誌は今日あるを得たのである。静岡にて亦下車し、二十年来の信仰の友なる茶業家原崎渡作氏を訪ひ、快談三時間にて三たび車中の人となり、仮眠の中に箱根を越えた。
七月十九日(土)曇 昨日同様の温気、夜は横浜に到て明けた、五時品川着、山手線電車に乗替へ、渋谷駅に到れば松村介石君の珍らしくも洋服姿で乗込み来るに会した、「ヤー何処へ」、「君の国の群馬県へ行んだ、君は何処へ」、「僕は今帰つたんだ、大垣、神戸、京都、浜松、静岡と云ふ順さ」、「君は近頃丈夫だね-」、「有難う、一時間半位ゐ講演《やつて》も疲れないよ」、「夫れはさうと青年会の事は僕の予言した通りに成つたではない乎、基督教会に佞漢《わるもの》が多いよ、用心し給へ、アハハハ……」、「僕も知つて居る、然し君は何故逃出したのだ、踏留まつて斬魔の剣を揮つて呉れゝれば宜いのに」、「僕は嫌《いや》だ、あんな奴等と争ふと自分の身が穢れる、故に窃《そつ》と逃出したのだ、押川も田村も岩本も同じ事よ、君も用心しろよ」、「僕は大丈夫な積りだ、僕は教会の人でない、故に僕を※〔乍/心〕《どう》する事も出来まい」、時に電車は新大久保駅に着いた、余は周章て鞄を網棚より取卸した、松村君は手伝つて之を車外に卸して呉れた、「ヤー失敬、又会つて緩々《ゆつくり》話さう」、ピー発車、此方は俥で帰宅。
(135) 七月二十日(日) 晴 久振りにて自宅に於て聖会を開いた、会する者十二三名、懐かしき集会であつた。午後四時半今井館に於て法学士松田寿此古の葬儀を行つた、彼れ歳二十八、普通の場合ならば不幸短命を欺きつゝ世を逝るべきに、彼は希望満々、春海に船を行るが如き心持を以て、『聖書之研究』七月号を一瞥し、之を最後のリーヂング(読書)として霊の世界に入つた、再臨復活の希望に燃えたる彼に生ありて死はなかつた、教育ある彼に多くの牧師伝道師に在るが如き聖書の明示に対する批評的態度は無つた、我等彼の友人一同は大に彼に由て励された、彼と同病同信同国の青年小出義彦、彼の計音に接し、病床より一句を遺族に打電して曰く「残されて聖国恋しき暑さかな」と、是は死ではない、溌剌たる生である、若し余の唱ふる福音が人をして斯くも勇ましく死に面せしむるならば之を害物視する理由は何処に在る乎、古崎と云ひ、松田と云ひ、小出と云ひ、皆我が福音の善き証明者である、此証明ありて教会の反対は幾許《いくら》ありても余は安心して余の福音を宣伝する事が出来る。
七月二十一日(月)晴 主婦は昨日より鎌倉へ行いて不在、一人で家事を見て面倒限りなしであつた、旧友大島正健氏の訪問あり、久振りの会合とて談柄不尽、快談五時間に打続いた、我等はすべての問題に就て語つた、殊に興味ありしは聖書解釈問題とダーウイン以後の進化論と言語学上より見たる日本人猶太人種問題とであつた、近頃米国ジヨンス・ホツプキンス大学数授ドクトルR・A・ステワート氏の発表に成りし日本古事記の単語のヘブライ語と語根を同うすとの説に就て君の意見を質したる所、問題は言語学者たる君の趣好に触れて談話は益々佳境に入り夏の暑さと時の移るのを知らなかつた、貴きは旧き学友である、信仰を共にし学問を同うして友情の一層深きを覚ゆるのである。
七月二十二日(火)晴 終日労働室に閉籠り雑誌編輯に従事した、伝道金の内より金三拾八円を投じて軽便オ(136)ルガンを買求めた、之を携へて山に行き同志と共に此夏讃美歌の稽古を為す積りである、其事を思ふて甚だ嬉しかつた、聖書と天然科学と音楽と、之に少し斗りの哲学を加へて、其外は何をも思はず又語らずして楽しき辜なき生涯を送る事が出来やう、而して今や此パラダイス的生涯は余の送り得ない者ではない。
七月二十三日(水)晴 非常に多忙なる一日であつた、雑誌原稿は草せざるべからず、明日那須行きの旅装は整へざるべからず、其他女中に熱を病む者あり、友人の結婚問題の解決すべきあり、信仰的大疑問を以て訪来る人あり、大工と石屋と植木屋と井戸屋と交渉せざるべからず、慰むべきあり、諭すべきあり、責むべきあり、恕すべきあり、嗚呼紛雑、然し平安である、我が義はすべて十字架上のキリストに於てある、彼を彼処《かしこ》に仰瞻《あふぎみ》るのが余の唯一の事業である、すべての問題が此一|瞻《せん》で決せらるゝのである、多忙なる感謝の一日であつた。
七月二十四日(木)晴 午前八時若き姉妹三人と共に那須に向て出発した、主婦は当分留守居役である、余がトランクの中に運びし書籍は字典四冊、ベルグソン哲学三冊、聖書註解二冊、天然科学書二冊であつた、是で一ケ月の心霊の糧《かて》に充てんと欲するのである、赤羽に於いて再び汽車中に於て松村介石君と会ふた、内務省の嘱託にて浦和町へ演説に行かるゝとの事であつた、我等一行は黒磯を経て二時半那須山腹の休養所に着いた、其所に京都便利堂主人の余を待つあるに会し甚だ嬉しかつた、彼に関東の山野を背景として三四枚の写真を撮られた、夜来会者七人と共に讃美歌の声を静粛の四隣に響かせ祈祷を以て安き眠に就いた。
七月二十五日(金)晴 昨夜千葉県海保竹松来り、今朝便利堂主人京都に帰る、山晴れ、野花鮮かに、鳥の声涼しく、大分天国に近く感ずる、身は祈祷の空気に浸り居るやうに思はれ別に声を放つて祈る気にならない。
(137) 七月二十六日(土)那須曇 我が家の青年試験に及第して東京帝国医科大学に入学せりとの報に接して喜んだ、願ふ神の恩恵に由り彼が書き医師となりて世の苦痛の一部分を除くに至らんことを、祈る我家が伝道師と医師との交はる交はる出る所とならん事を、霊魂を救ふ術と体を癒す術、之に優さるの事業は無い、イエスは医師であると同時に預言者であり給ふた、伝道師に非れば医師、願ふ内村家が世々代々善き伝道師と医師とを出す家たらんことを 〇午後山上より瞰下《みおろ》して関東平原は大雷雨であつた、神の慈雨八州を潤《うるほ》して雷鳴は歓呼の声として轟く、爽快極りなし。
七月二十七日(日)曇 時々雨降る。夜警醒杜若主人東京より来り、同社発行『基督再臨説を排す』に係はる広告文の事に就て相談した、事は容易なるが如くに見えて実は困難である、基督教界に斯かる難問題が幾箇《いくつ》もある、著者が書店の名を以て再臨説と其唱道者を罵つたのである、而して其責任を担ふ者は書店であつて著者ではない、責任は問はざるべからず、然し名義上の責任者は事実上無罪である、問題の困難は茲に在る、之を思ふて基督教界は益々|嫌《いや》になる、元々愛が無いから斯かる問題が持上るのである、然し我国今日の基督教の教師に愛を要求するは野暮の極である、結極無理が通れば道理が引込むまでゞある 〇旅館の裏座敷に於て説教会を開いた、会する者六十余名、巻姻草を銜へながら素見《ひやか》しがてらに聴く者尠からず、然し一二の共鳴者が有て嬉しかつた、福音の種は斯かる機会をも利用して播き置くべきである、何時《いつ》か其一二粒が成長して実を結ぶに至るであらう。
七月二十八日(月)雨 終日家に籠り原稿十七枚を書き之を東京の藤井に送つた。摂津蘆屋の江原祝子より書(138)面あり其内に下の如き愛らしき一節があつた、曰く「先生の(神戸へ)お出下さる前私はどれほど御待ち申したかとても申上げる事さへ出来ません、そして其の待ち望む心にて大なる不思議なる力が働いてどんな事でも容易に出来るので御座います。其の上結果は少しの労も出ないのです。先生よりもより以上待ち望むべきエスキリストを私はこんなに痛切にお待ち致して居りませんでした、然し二晩の御講演を承り、ことに二日目の晩以後、心の奥底にまで新しい望が満たされました、あの救の望を持ち得た幸福は持ち得たクリスチヤンの外には解らないと存じます」と、日本武士の家に育てられ、学士の家に嫁したる此若き婦人の此清き希望、之を「世を惑はし基督教を誤る」と誹《そし》る神学者は何人である乎、彼は其徹底せる論法を以て此希望を粉砕し尽して痕迩だになしと言ふであらう、然し乍ら如何なる論法も此清き心の希望を破壊する事は出来ないのである、少女マーガレツトが哲学者フハウストに遥かに勝さる真理の鑑定者でありしが如くに、此若き婦人の実験が却て神学者の基督再臨排斥論を粉砕し尽して痕迩だになからしむるのである、基督再臨不必要論者は数多《あまた》の再臨信者の此美はしき心理状態を如何に取扱ふのである乎、余自身に取りては斯かる清き婦人一人の賛成を得るは百千人の神学者の攻撃反対を打消す丈けの充分の効力がある。
七月二十九日(火)大雨 『東京朝日新聞』欧洲通信は其特派員の前独帝訪問記の内に下の如き一節を掲げた、曰く「巴里《パリー》を出る時例のボーツマウス条約のウヰツテの懐刀と目指されたヂロン老博士から和蘭一流の著述家フレデリツクフアンエーデンと云ふ先生の許へ一本つけて貰つた、紹介状には『貴君の住所を忘れたれど和蘭は貴君を見出すべし……』など書いてある程余程偉らい先生と見え、アムステルダムへ来て尋ねて見ると直《すぐ》判《わか》つた一体和蘭へ来て非常に意外であつたことは誰もカイゼルの事に就て些《いさゝか》かも興味を持つて居ないことだ……フハンエーデン先生の如きもカイゼル会見の一件を持ち出しても話の途中で急に『斯う云ふ日本人を知つて居る(139)か』などと絵葉書にした写真を机の抽斗から取り出したりしてカイゼルなどもう何でも可いではないかと云つたやうな調子である、序に其日本人の写真といふのを見ると積重ねた書物の上に頬杖をついた長い顔が映つて居る、其下には和英両文で『内村鑑三と其著書』と印刷してある云々」と、是れ実に余に取ては興味ある記事である、那須火山の麓に在て和蘭国アムステルダム郊外ブツサムの地に居住する尊敬する思想上の友人ドクトル・F・フアンエーデンが遥に余を思ふて居て呉れる真情有の儘を紙上に読みて飛び立つ程嬉しかつた、フアンエーデン氏とは三四年前から文通して居る、彼は余のadmirersの一人であつて余がそれ以上彼のアドマヤラーである事は勿論である、彼は広く余の思想を欧洲人に紹介して呉れた、彼は大学者であるが小児の如き謙遜なる人である、母君と共にアムステルダム市郊外生活をして居るらしい、莱因河中の一島に世界的聖人郷を建設せんとの計画を為して居る、愉快なる偉大なる思想家である、斯かる人にカイゼル以上に思はれて居る余の名誉幸福譬ふるに者なしである、教会の牧師や神学者等に何と思はれても構はない、此世界的偉人に友として取扱はるゝ光栄に比べて見て教会信者の誹謗の如き之を糞土視して可なりである。
七月三十日(水)雨 雨未だ歇まず霧深く甚だ鬱陶敷くある、『全集』第弐巻の校正が始つた、是れ亦随分の仕事である。旧き信者の一人なる千葉県木更津町の医師牧野友蔵氏よりの文通の一節に曰く「聖書の研究にて又講演にて福音宣伝(殊に主の再臨問題)被遊候為め小生始め全国多数信徒は従来|半円形の福音〔付○圏点〕を聞かされ候者が|全円形の福音〔付○圏点〕に接して漸く歓喜と希望に満ちたる信仰生活に入りて非常なる能力を賜はり伝道の精神溌剌と相成候間御悦び被下度候」と、常識の平信徒にして斯の如くに再臨の宿仰を受くる者のある間は此信仰は粉砕し尽されたりと云ふ事は出来ない、余は神学者に呈する福音を有たない、然し乍ら平民の友として平民を援くるに足る福音は之を唱へざるを得ない。
(140) 七月三十一日(木)暴風雨 日光を見ざる事茲に三日、凄い程の大雨である、新聞紙は米国上院に於て日米戦争論を盛に唱ふる議員あるを伝ふ、雑誌は「世界は再び修羅場」を論ず、恐しき世界なる哉、国際聯盟成りしに由りて戦争は歇みし筈なるに、其盟主たる米国が其友邦たる日本に向つて戦を挑むと云ふ次第である、仮りにキリストは再臨し給はないとして、永久的平和は人に由て来らない事は確かである、聖書の言は其事だけでも真理である。
八月一日(金)曇 靄深し、日光を見ざること茲に四日、甚だ不愉快である、読書と手紙書きに半日を消費した、対警醒社事件を仲裁に附する事に決し其事を書送して心持が善くなつた、自分に関る事は自分には解らない、殊に疑心充溢する基督教界に於ては何事も悪意に解せらるゝが常なれば自分に関する事は第三者の判断に任かすを以て上策とする、実に面倒なる事である。午後一時山を発し、三時半黒磯発の列車を取り八時少し前柏木の家に着いた、関東平原の北端より其中央まで半日にて達する事が出来る、広き善き平原である、以て余の一生の活動区域となすに足る。
八月二日(土)雨 蒸熟し. 昨日より職工の同盟罷工に由り東京中の諸新聞が揃て休刊し、茲に日本国に新聞紙ありて以来初めて見る奇観が演ぜられた、人は言ふ灯火《ともしび》が消えしが如しと、然し新聞紙の無い事は決して大いなる不幸ではない、日々の世界の罪悪史を読まされずして社会人心の之に由て汚されざる事甚大である、新聞紙の害は其益よりも遥に大である、新聞紙がなくなりて我等は却て平穏に一生を送る事が出来る、願ふ永久に新聞紙の休刊せん事を、然しさう余輩の註文通りには行くまい、困つたものである。
(141) 八月三日(日)曇 雨夕刻に至て漸く晴る、新聞紙は未だ出ず、朝今井館に於て小集会を開いた、路加伝十七章末節に就て講じ愉快であつた。警醒社書店へ『内村全集』発行中止を申込んだ、之にて一難題が解決せられて非常に気持が好くなつた、余は到底余の著書を教会の人等と同一の書店より発行する事は出来ない、基督教青年会より断はられし余が自今警醒社書店に余の著書の発行を託せざるに至りしは当然の事である、同じく是れ「基督教界」である、二者孰れも余の居るべき所でない、然し長き年月の関係上、最後の決心を為すまでに凡そ十日間を要した、実に辛かつた、然し余の採るべき途である、基督教界に於ては普通の不信者社会に於て行はるゝ普通道徳さへ行はれない、是れ紳士の居るべき、又は居ることの出来る社会ではない、一日も早く逃出すべき社会である。
八月四日(月)晴 久振りにて日光を仰いで愉快であつた、対警醒社問題が満足に余の心に解決せられて是れ亦終日愉快であつた、余は余の権利と利益を抛棄し余の反対者のそれを保護してイエスの弟子たる者の途を取つたと信ずる、勿論如何なる善事もすべて之を悪意に解するのが教会信者の常習《つね》であるが故に余の此行為と雖も思ひもよらざる悪意に解せらるゝは覚悟の上である、然し乍ら自分の良心の歓諾を得て単独《ひとり》で喜ぶだけでも得《とく》である、教会信者と争ふ時は譲るのが唯一の途である 〇英国より博士T・C・エドワーヅ著『寄林多前書註解』が達し、大教師を迎へたるが如くに感じ愉快極まりなしである、博士は神学者であるよりは寧ろ希臘学者であつてヒユーマニタリヤンである、故に彼の註解に心血の迸るが如き観がある、彼は洵に人らしき基督教の先生である ○何処よりともなく一尾の亀我門内に迷び込んだ、御幣担をして言はしむれば是れ福祉我門に入れりと云ふであらう、然し我家の場合に於ては祝福既に裕《ゆたか》に其上に宿るのであれば亀の入来りしは吉兆ではなくして善証で(142)あらう、一日之を飼ひ置いて翌日放してやつた。
八月五日(火)晴 昨夜来暴風。朝八時主婦と共に那須へ向つて出発した、途中宇都宮に下車し、用を弁じ昼食を済まし、三時黒磯着、四時過ぎ那須に着いた、空気清涼、東京とは全然別世界である、束京に陰険人物の多いのは其重苦るしき空気に由ると思ふ、斯かる所に都を定めしは思想上精神上大なる過誤《あやまち》であつた、寧ろ之を那須原野に置くべきであつた、然らば|より〔付ごま圏点〕清き、|より〔付ごま圏点〕楽しき思想は日本全国に行渡つたであらう。夜|空《そら》晴れ、半月濃藍色の蒼穹に懸り、星光輝々として碧玉に金剛石を鏤《ちりば》めしが如し、神の宇宙は元来斯の如き者である、之を下界に於て望むが故に其荘大純美は到底解らないのである。
来り観よ那須野ケ原の夏の月
深青玉《サピオ》の海に浮ぶ神鏡《みかがみ》
八月六日(水)快晴 武総常野の風景を双眸の内に収むるの所に在りて書を読み筆を執る時に頭脳《あたま》の能く働く事驚くぺし、読むものは尽く肉となり、書く者は尽く血となる、斯くて避暑は余に取りては損ではない得である。此日新潟の大橋正吉氏来り会す、外に今は横浜の坂田祐君あり、千葉の海保竹松氏ありて男女十二名である。
八月七日(木)晴 教友五人と共に大丸《おほまる》温泉に遊んだ、湯の川に浸《ひた》り湯の滝を浴び天然の子供と成つて楽しく遊んだ、面白き一日であつた、外に読書少し許り、手紙三本書いた。
八月八日(金)晴 好き休養の一日であつた、エリヤ研究甚だ面白かつた、旧約馬拉基書四章五節の意味が解(143)つて非常に嬉しかつた、再臨信仰の鍵《キー》を以て聖書の宝庫に臨む時に新らしき物と旧き物とを其庫より取出すを得て愉快極まりなしである(馬太伝十三章五二節)。
八月九日(土)晴 昨夕驟雨あり今朝晴れ爽快極まりなし、鶯、杜鵑の声渓谷に響いて我身はエデンの園に在るが如くに感ずる 〇余は余の生涯に於て多くの苦しい目に遭ふた、然し其一つとして余を益せざる者は無かつた、多くの敵は起りて余を苦しめた、然し其一人として余を余の神に追ひやらない者は無かつた、敵と患難とは余が余の神に救はれんが為めに必需《なくてなら》ぬ者である、「凡《すべて》の懲治《こらしめ》今は(其当時は)悦ばしからず、反つて悲しと思はる、然れど之れに由りて鍛練する者には後に至りて、義の平康《おだやか》の果《み》を結ばせり」とある聖書の言は文字通りに真理である(希伯来書十二章十一節)。
八月十日(日)晴 昨夜と今朝聖書講演小集会を開いた、昨夜はテモテ前書六章一-十一節、今朝はペテロ後書三章一-十三節に就て、来会者十五六名、「財を慕ふは諸《すべて》の悪事の根なり」と云ひ、「末日《おはりのひ》の至らば嘲笑者《あざけるもの》出で来りて基督再臨の信仰を嘲けるべし」と云ふ、孰れも今日に適切なる問題であつた、楽しき好き安息日であつた。
八月十一日(月)晴 本当の休息である、少しく働いて多く眠る、杜鵑の声涼しく、山百合花《やまゆり》の香《かほり》高く、駄句を弄び少女を笑はす、其他之れぞと云ふ用事なし。米国エルウイン白痴院長ドクトル・バーより手紙が届いた、三十五年間の旧き友人である、藤本医学士に託して余に紫水晶入の指環を贈つたとの事である、優しきお医者様なる哉、斯くして余も齢五十九歳にして初めて指環を嵌るべく余義なくせられたのである、精神病学の世界的泰斗より宝石入りの指環を贈らるゝ余を羨む人は尠くないであらう。
(144) 八月十二日(火)晴 山を下る者多し、残る者僅に五人甚だ静寂である、読書と編纂と筆録能く捗る、新聞紙は英国リヴアプールに於ける暴徒の商店襲撃を伝ふ、「楽器店よりは幾台かのピアノ引出され、掠奪者は街道にて音楽会を催したり」と、之は揮《ふる》つた暴動である、人生、一面より之れを見ればすべてが喜劇である、笑ふは怒るよりも遥に増しである。
八月十三日(水)曇 読書と散歩と雑談の外何事も為さず、漸く場所に慣れて家に在るが如し、山中牛の歩むを見て感じた、彼は強くして遅くある、重荷を負ふて徐々《しづ/\》と進む、我れも牛と成るであらう、「牛の歩行《あゆみ》の縦し遅くとも」、大貴任を担ふて毎日少しづゝ進むであらう。
八月十四日(木)雨 外出できず読書と午睡に一日を費した、完全の休日である、咋日来同志と共に悪魔研究を始めた、洵に興味多き題目である、我等は神を知ると同時に悪魔を知るの必要がある、彼の譎計、彼の粁策、能く之れを知悉《しりつく》して彼に打勝つことが出来る。
八月十五日(金)晴 正午山を発し、一時黒磯発汽車にて柏木の家に帰つた、鸚鵡ローラ不相変元気で安心した、南米線安洋丸帰港、一等運転士坂本栄尋ね来り、太平洋彼岸の情況に就き多く聞く所があり面白かつた、墨国|加洲《カリホルニヤ》の諸友人より種々の珍奇《めづらし》き贈物あり有難かつた、清水繁太郎より送り来りし墨国土人の使用する湯沸し土瓶《どびん》は殊に珍しかつた、之を以て土人の飲料のチヨコレートを作りて飲むは興味多き事である、柏木に在りて世界の珍味を味ふの快楽は是亦特別である。
(145) 八月十六日(土)曇 急に冷気催し平地に在る者の幸福、山に在る者の不幸である、英国オクスホードの友人より間着服地《あひぎふくぢ》を送り来る、恐縮に耐へない、墨国より送られしチヨコレートを飲み英国より送られし羅紗を着る、是れで 独立伝道師の地位は決して辛《つら》い者ではない、唯恐る伝道が余りに楽になつて其熱心の消失《きえう》せんことを、今や飢渇凍裸《うゑかほきこごえはだか》の患難《なやみ》絶えて余は信仰的に堕落しつゝあるのではあるまい乎、主よ余を棄給ふ勿れ(コリント後書十一章廿七節参考)。
八月十七日(日)曇 朝小集会を今井館に於て開いた。不相変人生の小間題に就て尠からず心を悩ました、自己中心主義の今の世に在りて凡の人に対し平和を維持するは非常に困難である、斯かる場合に処して平和の生涯を送らんと欲せば成るべく簡易生活を営みて他人との関係を最少限度に止むべきである、「汝等|各自《おの/\》其隣人に心せよ、何れの兄弟も信ずる勿れ、兄弟は皆|詐欺《あざむき》を為し隣人は皆|讒《そし》りまはれば也」とは実に今日の世の中である(ヱレミヤ記九章四節)、不愉快極なしである。
八月十八日(月)細雨 久振りにて少しく聖書の研究を為した、寄林多前書三章十三節に関するエドワーヅ、マイヤーの註釈、大なる興味を以つて読んだ、「夫日《かのひ》之れを顕はすべければ也」とある|夫日〔付○圏点〕は「ヱホバの大なる日」即ち神の子の再臨の日を指して云ふのである、此の一節の如き黙示録の光を以つて読んで初めて其意味が明かになるのである。
八月十九日(火)晴 思ひ掛けなき寄附がありたれば其半分を同志に頗ち、他の半分を以つて丸善書店に行き(146)聖書、哲学、文学、科学に関する書籍五六冊を買求めて嬉しかつた、余は余の信仰を打壊すやうな強き議論を読む事を好む、而かして最も強い反対論は之れを西洋人の内に求むべくして日本人の内に見当らない、而かして亦西洋の学者には日本の学者に有るやうな厭味がない、故に反対論を読んでも甚だ愉快である、近頃余が読し書にして最も面白く感ぜしは英国の碩学 Gilbert Murray《ギルバート マレー》氏の著《かい》た『ユーリピデスと其時代』である、彼の雅典《アテンス》が強大に成りし理由を読みし時に余は余の『興国史談』の続篇を書いて見たくなつた、「希臘人は波斯が王を尊ぶよりも|より〔付ごま圏点〕以上法律を貴ぶ」との言を聞いて希臘の偉大なりし理由が判由《わか》る、希臘史並に希臘文学大に研究すべきであるとの感を禁じ得なかつた。
八月二十日(水)晴 留守居出来ず山へ行くこと能はず、田舎より迎へし一少女の処置に就き尠からず心配した、神を信ずる者に取りては万事《すべて》が大問題である、尠からざる静思の妨害である、然し止むを得ない、斯の如くにして神と人生とに就いて益々深く学ぶのである。家の青年鳴尾の野球大試合より帰る、彼れの指導を受けし長野師範、神戸一中に破られ、残念至極の体《てい》であつた、多少気の毒であつた、然し野球は此位にして今より後は宇宙の大問題の研究に取掛つて貰はなければならない、余も今より彼れと共に学生に成り四十年の昔に還り医学の研究を始むる積りである。
八月二十一日(木)半晴 朝六時柏木を出で十二時また那須に来た。
八月二十二日(金)曇 山静にして読書に宜し、朝悲劇家ユーリピデスの芸術と思想とに就いて学び大に共鳴する所があつた、真正のデモクラツト(民主々義者)は|汚されざる天然有の儘の人の心を以つて己が心と為す者で(147)ある〔付○圏点〕との言を読んで余も亦其意味に於て自分がデモクラツトである事を表明せざるを得ない、二千三百年以前の希臘に於て真且大なるデモクラツトを見たのである。
八月二十三日(土)曇 本当の休日であつた、読み且つ書き且つ寝る、ほかに何にも為さなかつた、ザイス著『黙示録講義』第二巻を読了《よみおは》つた、聖書知識の宝庫である、聖書は聖書を以つてのみ完全に解釈し得る者である、サイスの如きは其の意味に於て第一流の聖書学者である。
八月二十四日(日)半晴 時々驟雨 朝聖書小講演会を開いた、会する者二十名、哥林多前書一章四-九節に就いて学んだ、「神は誠信《まこと》なる者也」と、彼は変らざる者である、故に其善き聖旨を変へ給はない、彼れ我等を召して其子イエスキリストの交際《まじはり》に入れ給へり(九節)、故に其目的を達せずしては止み給はない、信者の救拯は神の誠信《まこと》に由つて保証さるゝのである、故に安心である、若し我等の救拯が我等の意志又は努力に由る者ならば不安極りなしである、「神は誠信なる者也」と示されて我等は初めて安心するのである。
八月二十五日(月)半晴 「うれひの雨は 夜のまにはれて つきせぬよろこび 朝日とかがやかん」、讃美歌第二百三十五番文字通りの朝であつた、独り杖を曳いて茶臼山の中腹に添ふて散歩した、多くの美《うる》はしき思想が胸中より湧出した、途に放牧《はなしがひ》の馬に対して厚き同情を表した、「自由なる友よ」と余は彼等に向つて言掛た、余も今日限りすべての束縛を脱して放牧の人となるであらう、一生懸命に聖書を学び之を教ふるの外何事も為さぬであらう、他人《ひと》の世話を焼かぬであらう、人生の小事に携はりて余の天職を空うしないであらう、小善を為すに汲々として大善を怠るの愚を演じないであらう、嗚呼今に至つて此事に気が附いて時期の甚だ遅れしを恨まざる(148)を得ない、然し乍ら It is not too late to repent 悔故に適せざる時期とてはない、今より慧き人となりて満《つまら》ない事に貴き月日を資すを廃めて充実せる有効的生涯を送るであらう、無限の宇宙に放牧せらるゝ馬の如き者となりて自由に活溌に働くであらう、来らんとする秋の野に神の善き軍馬となりて勝を得んとて出行くであらう。
八月二十六日(火)半晴 栃木県那須温泉に滞在す、九月号雑誌終りの八頁の原稿を纏めて之れを東京の印刷所に送つた、涼しき山上の編輯至て楽《らく》であつた、柏木に於ける同志の暑に苦しむを思ふて同情に堪へない、世に愉快なる事とて我仕事《マイワークス》の如きはない、之れありて暑さも忘れる、人世の細事悉く念頭を去る、之れなくして生くる甲斐はない、之れありて最大の幸福がある、我仕事《マイワークス》、神が我に命じ給ひし仕事、我ならでは為す能はざる仕事、人の我より奪ふ能はざる仕事、之れありて我は王《キング》である。
八月二十七日(水)雨 終日家に在りて雑誌原稿製作に従事した、小出義彦永眠の報に接して悲しかつた、「ガイセンヲシユクスハレルヤ」と弔電ならぬ祝電を発した、彼の死は実《まこと》に天国への凱旋であつた、彼の如きは我同志の誇りである 〇聞く近頃東京に於て開かれし地歴講習会の席上に於て「歴史上より観たる大戦の帰結」といふ題目の下に長瀬鳳輔氏が述べられし言の中に下の如き一節があつたと、「抑々亜細亜は世界の有らゆる宗教の起源地なり、而して今仏教は印度になくして日本に在り、儒教も今支那になくして日本に在り、耶蘇教も亦真正の者は西洋に無し、西洋には形骸のみ残れり、而して日本に在り、日本に於てもメソヂスト教会、組合教会、何々教会といふ教会の内になくして、聖書の内に真理を求むること内村鑑三さんの如き者の所に在る云々」、長瀬氏は余の一面識なき人である、然れども歴史家としての立場より下されたる氏の此観察に対して余は深き感謝なき(149)能はずである、氏は少くとも余の理想とする所を語られたのである、余は謹んで此理想に合《かな》はん事を努むるであらう。
八月二十八日(木)晴 清秋到り関東平野青海の如くに眼前に横たはる、終日原稿製作に従事し、筆勢|弛《ゆる》む間《ひま》なし、暫時《しばらく》にして帝都の中央再び壇上の人たるを想ひ筋骨の躍るを禁じ得なかつた、我れ若し福音を宣べ得ずば禍ひなる哉である、我が勢力の続かん限りは我は聖書を講ずるであらう、来れ活動の秋よである。
八月二十九日(金)晴 初秋の美はしき日であつた、原稿一先づ片附き塚本善子と共に北湯《きたのゆ》温泉に往いた、崖ょり落る湯滝《ゆだき》に掛つた、紅葉し始めし草木を賞した、二三の植物学上の問題を提供して女子大学出の彼女を苦しめた、谷間より見上ぐる旭岳は殊に美はしかつた、空腹《すきばら》を抱へて正午《ひる》少し過ぐる頃宿に帰つた、楽しき清遊の一日であつた。
八月三十日(土)晴 午前九時山を発し、十時黒磯発車、宇都宮に下車し、五時柏木の家に帰つた、山に木枯に類する秋風に吹かれて東京は燬《や》くが如き炎熱である、家に帰れば鶏冠草は真紅の頭《かしら》を現はし、朝顔は小輪の晩花を開くのみ、鸚鵡ローラ不相変元気である、留守居の青年と共に四方山の談話《はなし》に一夕を面白く過した、外《そと》に遊ぶ最大の利益は家《ホーム》の楽さを覚らしむるにある、山よりも海よりも更に善き所は小なる見苦しき我ホームである。
八月三十一日(日)晴 暑気強し、午前十時今井館に於て小出義彦の葬儀を行つた、坂田祐司会し、余が説教した、二十七歳の此青年は最も美しき勇ましき死を遂た、彼は余の信仰を死を以て試みて呉れた、而して人をし(150)て安らかに死に就かしむるに足ると証明して呉れた、余を初めとして同志一同彼に負ふ所が多くある、古崎と松田と小出と孰れも智識と常識とに富める人等であつた、而して孰れも基督再臨を希望の根柢となし、勇み進んで死の河を渡つた、死を以て試《ため》された真理のみ神の真理である、神は此際特に斯かる信仰的勇者を与へ給ひて我等の信仰を実験的に証明せしめ給ひしを感謝する 〇此日米国医学博士《ドクトル》バー氏より贈られたるアメシスト入り金の指環が届いた、アメシストは「怒らぬ石」の意であると云ふ、余の如き怒りつぽい者は常に此宝石を指に嵌めて憤怒の罪を避けよとのことであらう乎、但し金の重味《おもみ》余りに多くして長く指に嵌め置くことが出来ない、矢張り生涯|箱中《さうちう》の宝として存《のこ》るのであらう。
九月一日(月)晴 暑気引続き強し、埼玉県粕壁町大工にして級友なる者来りて今井館改築を手伝つて呉れる事になつた、東京の職人に手古摺て居る此際大なる援助である、彼等の主《おも》なる者は熱心なる基督再臨信者である、単純なる平信徒の信仰に愛すべく敬すべき多の点がある、彼等と共に働いて雇主も被雇人もあつた者でない、主キリストに在りて真《まこと》の兄弟である 〇神戸座古愛子女史の新著述に附すべき序文を書いた、大なる名誉と感ずる。
九月二日(火) 晴 暑気引続き強し。下女を休養の為に山に遣り家は男子のみ残りて純然たる男所帯となつた、簡短で甚だ良くある、明朝如何にして飯を炊んか其事さへ不明である、然し一向平気である、女は家の賛沢品と見て可いのであらう乎、何れにしろ男斗りなれば生活は簡易ならざらんと欲するも得ない、回顧すれば明治は十四年の秋より冬へ掛けて故農学士藤田九三郎と共に札幌に於て自炊生活を営みし事を、食事は一日に二回に減じ、一週の初めに其週間内に要する朝夕の副食物を定め、二人順番に之を調理して食ふた、而して其の主《おも》なる目的は如斯くにして食費を節約して英国百科字典を買はんとするにあつた、其目的は達せられなかつた、然し其楽しか(151)りし経験は今に至て忘れる事が出来ない、而して今日久振にて家の青年と共に自炊生活を試みて去りにし旧き友を思出さゞるを得ない、腹は空ても彼れ帰らざれば独り食ふ事が出来ない、雪積る家根の下に立ちて彼が官衙より帰るを待ちし状《さま》は昨日の事のやうに思はれて独り思ふて独り笑《わらひ》を禁じ得ない、二人其後各々妻帯して此快楽を失つた、而して彼れ今は札幌郊外豊平川の畔《ほとり》に眠りて復活の日を待ちつゝある、此事を回想して家の青年が彼れ藤田である乎のやうに思はれる、悲しい哉又楽しい哉。
九月三日(水)晴 自炊生活を継続した、二三の婦人が助力を申込んだが断はつた、昨日より煮豆を二度買つて二度とも腐らした、今日は朝は冷飯、昼はパン、夕は親子共に親子|丼《どんぶり》を|やつつけ〔付白ごま圏点〕た、最後の者は非常に嘗《うまか》つた。或る一人の病める兄弟を見舞ふた、読書としてはヘフヂングの『宗教哲学』中「原始的並に現代的基督教」の一章と、J・ロイスの『霊魂不滅論』の半分を読んだ、暑いけれども面白い一日であつた。
九月四日(木)晴 主《おも》なる仕事は雑誌の校正であつた、不相変面倒であつた、然し人生 drudgery《ドラツゼリー》(面倒なる器械的仕事)も亦必要である、之に耐へ得る者のみ能く大事に当ることが出来る、余は余の生涯の大切なる部分を校正の為に費せし事を恥としない。
九月五日(金)晴 暑気強し、読書出来ず、唯僅か斗り雑誌の校正を為したのみである。神戸座古愛子より左の二首を送り来つた、時節がら大なる慰めであつた。
〇内村先生の御再臨説にて詠める
いづこより種やおちけむめづらしき
(152) 変り花咲く庭の朝顔
〇内村先生の御著書に反対の書の出でしを聞きしかば斯く信じ侍りて
落葉して細谷川のせかるとき
流すは風のちからなりけり
茲に云ふ「風」とは勿論天より吹き来る聖霊の風を指して云ふのであると思ふ(約翰伝三章八節)、異端を排する力は之を措いて他にないのである。
九月六日(土)晴 暑気強くして読書も執筆も出来ず、唯雑誌校正十頁為した斗りである、小出未亡人娘二人と共に隣家へ転居し来り我等の為にも幸福である。家の青年主婦を迎へに山へ行いた、同時に女中山より帰り来り余は四日間の自炊生活より解放された、平々凡々の生涯の内に又一種の興味があつた。
九月七日(日)晴 今井館に小講演会を開いた、来会者二十人余り、腓立比書四章四-九節の解釈を繰返した、此日大工三人に安息日を与へた、余が彼等三人の食費を払ふべしとの取極である、斯くして職人の安息日問題の解決を得て喜んだ。東洋汽船朝洋丸桑港、より帰航、其船長の訪問を受くる前に其持来りし彼地友人よりの贈物加洲産果物の缶詰二ダース半が届いた、彼等は余が非常の甘党であると思ふと見える、何れにしろ米国西部産の果物は世界一品である、之に我血を潔められて清き思想を出さねばならぬ、東向して彼等に対し遥かに感謝《ありがたう》を叫んだ。
九月八日(月)晴 暑気少しく緩み読書欲少しく起る、雑誌校正来たらず,内外友人への手紙書きに終日を費す、(153)山桝船長太平洋週航を終りて帰り、多くの面白き実験談を齎す、彼に由りて太平洋教友団の益々鞏固なるを知り感謝に耐へず、東は墨西哥エスキントラより西は馬来半島新嘉坡まで、随分広い区域である。
九月九日(火)半晴 少しく荒模様である。家の者山より帰り久振りにてホームが又復ホームらしくなつた、男所帯ではホームに成らない、女は賛沢品ではない必要物である、茲に台所は女性に引渡し自分は元の通り書斎に引込んで自分の天職に就いた、ホーム、楽しきホーム。
九月十日(水)雨 久振りの雨にて草木と共に復活した、別に為すことなく、唯ヘフヂングの『宗教哲学』六七十頁を読んだ、至て詰らない書である、宗教を有《もた》ない哲学者が宗教を論ずるのである、故に壊《こぼ》つこと多くして建つること尠いのである、然し著者彼れ自身が所謂近代的宗教学者の好模範である、欧米に於ける基督教は今や斯んな詰らない者に成つて了つたのである。
九月十一日(木)雨 『地理学考』の校正を為したる外に何も差したる事を為さなかつた。倫敦なる新渡戸稲造より手紙と書籍とが届いた、珍らしい事である、彼と宮部金吾と余とは旧き札幌同窓中殊に親しい者であつた、然し信仰と仕事を異にしたるが為に我等相通ふこと稀にして幾年にも文通を交はしたる事もない、然し我等は青年時代の親交を忘れない、何時か何処かで再び相提携する事もあらう、彼れ今や後藤男と共に倫敦に在りて余を思ふて呉れる、感謝に耐へない、神の守護《まもり》我が旧き友と共にあれ。
九月十二日(金)雨 栃木県へ行く筈であつたが雨強くして行かれず家に在りて少し斗りの用事を為した、九(154)月号雑誌成り其発送を了つた。在華盛頓工学士石本恵吉より左の如き面白き書面が達した。
七月号を旅行に携帯して読んで居ます、其の内の「人類の堕落と最初の福音」の内に「メキシコの如き文明より離隔したる国に於て云々」とありますが、小生約三ケ月前メキシコを旅行したので多少其の国に関する本も読み、人間も実際に見ましたので一言申上たいと思ひます、近世の学者の研究によればメキシコ人は失はれたる人種なる Atlantis種族がグリーンランドより北米を経てあの高原に十四五世紀頃移住したものと信じられて居ます、故に彼等はアリアン種族であつて顔の如きは全くそれを表はして居ります(色は黒いです)、又エヂプトと同等のピラミツドを多数有し、文字あり、天文あり、冶金学あり、すべてのものを有して居たのです、故に今日中南米を通じて欧米人と相対して土人が敗《まけ》ずにやつて居るのはこのメキシコの土人とペルウ国のインカ種族であります、現に有名なりし大統領デイアズも亦今の大統領カランザも土人であります、故に彼等が白人と同等の口碑を持つのは偶然でないのです。序に申上たいと思ひますのは、米国の文明と申しますか、アングロサクソンの文明と申しますか、これが米国で栄えて居る土台は黒人《ニグロー》とロシヤ人とハンガリー人と独逸人等の奴隷の上に建つたものであると思ひます、随分酷い事を沢山して居ます、黒人を見まする時にイスラエル人がエヂプトの奴隷であつた時の様な気がします、而して彼等の内に段々と善き信仰が起りつゝあります、戦争中どの教会も皆米国旗を揚げました、一つ揚げなかつたのは黒人の教会であります、其の牧師は「|教会の旗は一つあるのみ、十字架のみ〔付△圏点〕」と云ひました。かくしてアングロサクソン人種は段々と衰へつゝある様に思ひます、其の主なる理由は(1)彼等が自ら働く民でなくなつた事、(2)深き本を読まざる事、(3)中華中国の気分になれる事、(4)彼等の賛沢なる事、の四つであります。
誠に面白い観察である、「教会の旗は一つあるのみ、十字架のみ」との黒人牧師の宣言は実に痛快である、今や米国基督信者は黒人にも及ばないのである、殊に又米国に在る英民続衰滅の兆の一として彼等が深き書を読まざる(155)事は注意すべき事実である、米国人は文明国民中最も浅薄なる民である、彼等に教へられて我等も亦彼等の衰滅の跡を追はざるを得ない。
九月十三日(土)雨 未だ歇まず鬱陶敷くある、久振りにてイエス様にお目に懸り何よりも嬉しかつた、行為《おこなひ》、行為、仕事、仕事と云ひて道徳を以て自分で自分を迫立るが故に遂に宗教が重荷と成り神が恐ろしく成る時に、十字架上のイエス様が我が霊眼に現はれ給ひて「我を仰ぎ見よ」と言ひ給ふ時に言ひ難き歓喜《よろこび》と平康《やすき》とがある、然り彼である、彼が我が善行である、我が事業である、彼の衷に我がすべてが蔵《かく》れ在るのである、而して愚かなる余は度々此事を忘れる、余自身が余の最も嫌ふユニテリヤンと成るのである、善行を以て人を追立てる教会信者と成るのである、然し福ひなる哉余は遂に元のイエス様に還るのである、euretho en auto「彼の衷に発見せらる」である(ピリピ書三章九節)、余が自身神に其子として認めらるゝに非ずしてキリストの衷に在りて其所に彼が神の愛子であるが如くに余も亦同じ愛子として認めらるゝのである、キリストの衷に在りて愛子として神に発見せらるゝ事、之に勝さるの幸福とては全宇宙に復たと二つないのである、此福祉に与りて余に神より出て人のすべて思ふ所に過ぐる平康がある、而して此平康は山に行ても海に行ても得られない、唯十字架上のイエス様を仰ぎ見て得ることが出来る、初秋《はつあき》の静かなる一夜、此旧くして常に新しき恩恵に与りて独り飛立つばかりの歓喜と感謝とを禁じ得ない。
九月十四日(日)晴 朝今井館に於て小講演会を開いた、腓立比書三章七-十一節に就て講じた。昨日に引続き終日主イエスキリストを楽んだ、彼を知るは洵に窮りなき生命である、人生に悲痛が多い、然し其どん底に於て神はキリストなる大愛を以て之を支へ給ふ、斯くて結局我等は愛の上に立て居るのである、人生キリストを知(156)るに至て何の呟《つぶや》くべき所はない、すべてが大感謝大満足である、此事を忘れて敵に勝ったとか領土を得たとか云ひて歓喜雀躍する欧米の教会信者どもは実に憐むべき奴等である。
九月十五日(月)雨 昨夜より暴風雨、牛後に至て漸く歇む。家の小事に携はり差したる事を為さず、東京聖書講演準備の為にモーセの十誡の研究を復習して有益であつた。新聞紙は米国ボストン市の警官罷業のため無政府状態に在るを報ず、清教徒《ピユーリタン》の首府にて白昼掠奪が行はると云ふ、他は推して知るべしである、世界改造どころではない、其破壊である、人類が自己を救ふ能はざる事は益々明白になりつゝある。
九月十六日(火)雨 晴雨定まらず、時々驟雨あり、書斎の仕事としては『地理学考』四十八頁の校正を為した、屋外の仕事としては比較的に大なる※〔鼠+晏〕鼠《もぐら》の穴二箇を填めた、仲々の仕事であつた、鼠族内には器具を損《そこな》ひ外には庭園を害す、時に之を撲滅す、余の甚だ好む所である、政界教界の鼠族も同様断絶したいものである。
九月十七日(水)半晴 『地理学考』の校正を了つた、『内村全集』発行中止のため張合抜けがしたが、然し今之を訂正して置いて決して悪くはない、自分ながら此無邪気なる幼稚の作を愛せざるを得ない 〇余の旧き弟子の一人にして先頃妻子あるの身を以て基督教研究の為に海外留学の途に上りし農学士逢坂信吾が太平洋上、船中より書き贈りし情を罩めたる書翰の中に下の如き一節があつた、曰く「生は二十年間先生の教を受けつゝ遂に先生の信仰に従ふ能はざるを真心より遺憾に存じ候、生は黙示録末章二十節-主イエスよ来り給へ-の大憧憬に衷心より共鳴致し候、又羅馬書八章に於てパウロが天地の新興万物の救済に関して叫ぶ大信仰に対し生は心の奥底よりアーメンと叫び候、然り生の心に負へる手痍を癒す可く主の再臨せん事を望み候、乍然如何にするも主が(157)肉体又は霊体を以て再臨し給ふとは信ずる能はざる者に御座候、而して生は主の聖霊を生の心に内住せしむるの意味に於ての再臨を心より確信致し候、乍然これが先生の再臨に非ざるは論を待ず候、故に所詮生は先生の大なるハートに敬服し乍ら遂に先生と信仰を異にせざるを得ざる次第、二十年間教を仰ぎし生に取りては此上なき遺憾に御座候云々」と、余は之を読んで泣かざるを得なかつた、主が余の眼を開き給ひしやうに何時か彼の眼をも開き給はん事を祈つた、乍然再臨は単独問題ではない、之は罪並に贖罪に最も緻密なる関係を有する問題である、罪の罪たるを知つて終に再臨の信仰に達せざるを得ないと思ふ、再臨を単独に研究して多くの疑問に逢着せざるを得ない、余は再臨問題研究の前提として Julius Mueller の大著 The Christian Doctrine of Sin(大冊二巻)の精読を勧めざるを得ない 〇他に一通不思議なる書翰を手にした、大連日本 教会より来年四五月頃を期して講演のために渡満し呉れとの切なる依頼であつた、東京に於けるすべての教会の教師たちに満場一致の否決排斥を蒙りし余は日本全国の諸教会より同一の排斥を蒙りしものと心得、其心算にて万事を計画せし所、曩の日には宇都宮の諸数会より、続いて信州飯田の諸教会より、而して今又大連の日本基督教会より斯かる懇切なる招待を受けて余は心に大に迷はざるを得ない、然らば東京諸教会の意嚮は全国諸教会のそれを代表する者に非る乎、殊に日匹信亮君の指導する日本基督教会の中に余の賛成者ありとは不思議千万である、日匹君、小崎老教師、平岩監督等は何故に全国の諸数会に檄し、彼等をして無教会主義の余を講師として招くことなからしめないのであるか、是れ諸教会の利益であると同時に又余自身の幸福である、余は以上の諸君が必ず此労を取られん事を望む。
九月十八日(木)半晴 午後三時半柏木を発し七時宇都宮に着いた、着けば直に商業会議所旭館へ引き往かれ演説せよとの事であつた、寝耳に水の注文であつて腹も立つたが辞《ことは》る事も出来ない、二百人余の聴衆篠を突くが如き雨を冒して堂に集まり既に先着の畔上の演説を聞いて居る最中であつた、依て止むを得ず小言《こごと》は後廻しとし(158)直に「世界の現状と基督の再臨」なる題を掲げしめ何の用意もなくして登壇した、兎に角一時間余り弁じ汗ビツシヨリに成つて終つた、それから旅宿に帰り大に発起人等を詰問した、事は悪い事ではないが予め弁士の承諾を受けて置かずに基督教大演説を開いたのは乱暴でもあれば無謀でもある、然し神の御恵みに由り事なくして済みしは幸福である、地方に行くと種々な事に遭遇する、怒《おこ》る訳にも行かず笑つても済まず、出抜の不意打を食ひ随分周章る事がある、序に記す、此日の主催者は宇都宮諸教会と下野教友会とであつた。
九月十九日(金)半晴 雨歇み天気模様悪しからず、依て昨夜の粗忽の謝罪且慰安の為とあつて発起人二人案内者となり弁士二人を塩原温泉に伴ふた、西那須野に到り自働車を雇ひ、秋の那須野ケ原を一直線に走り、昼少し前頃古町楓川楼に達し、清泉に浴し涼風に吹かれ、不平も大分癒された、余は一人一室を貰受け昨夜の睡眠不足を補ふた、委員接待至らざるなく、依て善意に出たる此粗忽を全然赦す事に決定した、後は笑談に一夕を過し軽い心を以て眠に就いた。
九月二十日(土)晴 朝食前に独り箒川の岸を沿ふて散歩した、橋上に立て朝の祈祷を捧げた、「私は聖訓《みおしへ》に順《したが》ひ先づ第一に天国と其義しきとを求め、其他に就ては一切顧慮しません」と祈りし時、山と川とは「然り、然りアーメン」と応へて我が祈求《ねがひ》を聖前に運び呉れしやうに感じた、同行各自自由行動を取り余と青木(義雄)とは午後三時山を下り、彼は氏家《うじいへ》の彼の家に、余は柏木の家に帰つた、是れで今年の夏期休養は終つた、休養としては余り成功ではなかつた、然し乍ら無益に時を過さなかつた、多少の善事を為すを得て感謝である、明日よりは又復活動である、愉快である。
(159) 九月二十一日(日)晴 好き秋日和であつた、午後二時より丸之内衛生会講堂に於て今秋第一回の聖書講演会を開いた、準備善く調ひ申分なき会合であつた、聴衆は確に七百人以上あつた、有識階級の人士にして全家族を挙げて出席せられし者をも見受けた、彼等は如何見ても余に惑はさるゝが如き人達ではない、藤井先づ登壇し黙示録に就て講ずる所あり、余は其後を受けてモーセの十誡の大要に就て述べた、洵に会心の講演会であつた、第一回が之であれば来らんとする日の恩恵の程度は推量かられる、祈る余自身は愈々小なる者となりて我主の栄光のみ揚らんことを。
九月二十二日(月)快晴 終に秋が来た、涼風身に滲《しみ》て気持好くある、無為の一日であつた。
九月二十三日(火)快晴 近頃米国より帰りし或る貴婦人よりの書翰の内に曰く「私を東《イースト》の方へ伴れて行つて下すつたクエーカー派の上院議員《セネーター》で有名であつたチエース氏の娘さん(娘さんと申しましても六十二歳ですが)などはミスター内村の様な人がアメリカへキリスト教を伝道に来て下さる事を待つて居ますなどゝ仰つて居ました云々」と、余はチエース老嬢の名を記憶しない、然し之に由て観ると神の言を聴くの饑饉は日本に限らず米国に於て同様であると見える、勿論余は其器に非ずと雖も、基督教を日本より米国に逆輸入する時が遠からず到来すると信ずる、余の若き同信の友等は今より其準備を為して置くべきである。
九月二十四日(水)曇 彼岸の中日である、普通《いつも》ならば萩の餅と云ふ所であるが主婦湯当りにて臥床、其|運《はこ》びに至らず甚だ物足らなく感じた。
(160) 九月二十五日(木)雨 秋雨粛々静なる日である、十月号十六頁分を編輯した、読書身に滲込《しみこ》み知識欲頓に増進す、秋の楽しきは第一に此事である、ブツジ著バビロン史並にエヂプト史を取出し、之を復読して今更ながらに興味の尽きざるものがある。
九月二十六日(金)晴 聖書の研究と雑誌の編輯と家庭の細事に全日を費した、大事も為さず大思想も起らず、平々凡々の一日であつた、主よ此無益なる僕を憐み給へと云ひて床に就いた。
九月二十七日(土)晴 雑司ケ谷墓 に父 とルツ子の墓を見舞ふた。岩波書店発行『基督再臨問題講演集』少部数第五版として出版になつた、再臨説は其反対者の唱ふるが如くに未だ「粉砕し尽されて痕跡だになし」までには至らないと見える。
九月二十八日(日)快晴 午後の日曜講演不相変盛会であつた、来聴者六百人もあつたらう、前回同様藤井先づ講じ次いで余は十誡第一条並に第二条に就て講じた、問題が余りに遠大でありし為にや思ふ存分に語り得ずして甚だ物足りなく感じた、神は一なりと云ひ、神は霊なりと云ふ、此二大問題に就て老若男女を雑へたる聴衆に対して判明《わか》り易く語るは容易でなかつた。
九月二十九日(月)晴 後曇る、秋の水を楽まんと欲して独り江戸川堤に往き鴻之台と常磐線鉄橋との間を往復散歩した。人は稀れに流れは静かに、東京附近としては得難き逍路《プロムナード》である ○台湾阿※〔糸+侯〕松田英二より手紙が(161)あつた、彼れ小学教員の身を以て、熱心なる基督再臨信者である、而して今や一角の博物学者である、彼の通信に曰く「小弟本夏も亦蕃地二百九里の旅を終り、死すべかりし躯《からだ》を提げて又古巣に帰り候、只今は山なす標本の間に没頭いたし整理いたし居り候、昨年、一昨年の分の採集品の名称が明かになり、四五十種の新種を出し清浄なる喜びを感じ居り候、其内重なる者は Dentella Matsudai 外七種に有之候、又当地産の淡水魚の内にも Lissochilichthys Matsudai 外三種の新種を出し候、神が門外漢たる小生を使ひ給ひて此島の天然を明かにし給ふこと奇《くす》しくも亦感謝に有之候」と洵に胸の下《さが》るやうな喜ばしき通信である、此心を以てしてキリストの再臨は解《わか》るのである、天然学は聖書の最も善き註解である。
九月三十日(火)雨 雑誌編輯と月末支払とにて多忙、物価非常の騰貴なるにも関はらず何人にも何の負ふ所なくして又此月をも送ることが出来て感謝に耐へない。日独開戦以来、五年振りにて独逸より葉書一枚達した、非常に懐《なつか》しく感じた、我が多くの信仰の友は此大戦の結果何《どう》なつたのであらう乎、英米人に悪魔の如くに書立《かきたて》られし独逸人に対して余は常に同情に堪へなかつた、独逸人罪なきに非ず、然れども英米人以上の罪人であるとは何《どう》しても思はれない、神は必ず誣《しひ》られし独逸人を恵み給ふであらう、而して多くの事に就て故意に世を欺きし英米人を罰せでは置き給はぬであらう、比較的に正直なる独逸人は精神界に於て思想界に於て人類の指導者たるの地位を失はないであらう。
十月一日(水)雨 小なる腫物が出来て診て貰ひに医師の所へ行いた、彼れ曰く「既に毒を散し得る時は過ぎたれば今は之を膿《うま》して くまでゞある」と、而して其手当を為して呉れた、余は思ふた、罪も亦同じである、罪も其初期に於ては之を消す事が出来る、乍然或る時間を過ぐれば之を膿して然る後に之を除くのみである、而(162)して今や世は挙つて其状態に於て在るのである、人類は罪を重ねて之を消す能はず、而して神は最後の手段として世の罪の膿むのを待ち給ひつゝある、而して罪は膿みて膿潰《のうくわい》は近きにある、其時罪の毒は除かれて社会は元始《はじめ》の健康体に復するのである、治療は難くある、痛みは強くある、然し乍ら健康に復するは嬉しい。
十月二日(木)晴 秋来りて頭脳《あたま》が能く働くやうになつた、読み、書く、筆勢甚だ急なりである、旧約の研究新約の研究大分|行《や》る、『信仰日記』の校正が始つた、『全集』中止の後を受けて多少の慰安である。
十月三日(金)晴 夏未だ全く去らず稍蒸熱くあつた、校正と待客とが重なる仕事である、日本基督教会の大会明日始まる由聞いた、先輩の排斥運動盛んなりとの事である、実《まこと》に苦々しい事である。
十月四日(土)曇 我等の仲間にては政治家となるは信仰堕落の如くに認めらる、角筈時代の仲間の一人にて信仰上の進歩面白からず、其後実業界に入り這般《この》府県会選挙運動に打て出で首尾よく成功当選せし者に就て彼の友人よりの書簡の端に下の如き観察が書き添えられた、「〇〇〇〇今度県会議員と相成申候、ソレデも議員中にては(滑稽の様には候得共)最上の者の方に有之候、角筈に廃《すた》りたる屑も此の世には存外用に立つ様に候、ケチを附けられるは先生のみにて与へられたるものは其の人には最上のものとして残る様に見受けられ候云々」と、政治必しも悪事ではない、只此の世の人が思ふが如き尊むべき慕ふべき者で無いのみである、余は余の福音を聴きし者が政治家となりたればとて別に腹を立てない、但し政治に走りしと同時に余の許に出入するを止むるを常例とする、余の説く福音と日本今日の政治とは両立せざる者であると見える。
(163) 十月五日(日)曇 夜に至りて風雨となる。日曜聖書講演不相変盛会、堂内に一個の空椅子は無つた、星野医学士と高壇を共にした、余は十誡第三条に就て述べた、ヱホバの名は ehyeh asher ehyeh より来り、|在らんとして在らんとし給ふ者〔付○圏点〕、即ち|無窮に御自身を顕はし給ふ者である〔付○圏点〕、斯かる至大至高至深の意味を有する此聖名は妄《みだり》に口に上ぐべからずとの縡《こと》を述べた、自分も大に励まさるゝ所があつた、此日近くに宮城を望み我日本皇帝陛下の為に祈らざるを得なかつた、而して祈て後に言の不敬に渉りはせざりし乎と思ふて心配した、一度不敬事件に懲りて以来陛下の御名を口にする度び毎に大なる恐怖を覚ゆる、然し時に真情の抑へ難きものがある、余は時には大なる危険を冒しても陛下の為に祈らざるを得ない。
十月六日(月) 雨 家に在りて休んだ。基督者は神の寵児である、乍然此世の事に関しては彼の被憎子《にくまれご》の如くに取扱はる、キリスト御自身が十字架に上げられて罪人の首《かしら》の如くに扱はれ給ふた、神は此世の事に関しては基督者を例外的に扱ひ給はない、否な普通人以下に扱ひ給ふ、其の基督者は此世の不幸児と見て差支ないのである、然れば我身の幸《さち》を祈らじである、唯如何なる境遇に置かるゝとも神を愛し彼に信従するの心を賜はらん事を祈るべきである、神の恩恵を此身に臨む幸福を以て試みんと欲して我等は懐凝に陥らざるを得ない、基督者は模範を預言者ヱレミヤに取るべきである、最も不幸なる人、而して最も恵まれたる人、愛すべき哉ヱレミヤ! 慕ふべき哉ヱレミヤ!
十月七日(火)大雨 小なる腫物未だ癒えず引続き医師に通つて居る。校正又校正、雑誌の校正、著書の校正、|校正〔付△圏点〕実に恐るべしである、今より三十四年前、米国華盛頓市に於て『米国に於ける日本人』著者チャールス・ライマン氏方に客たりし時、夫人より著述家の生涯の大部分の校正に費さるゝを聞いて訝《いぶか》しく思ひ、其事が我生涯(164)の事とならんとは夢にも知らなかつた、著述家は最も多く自分の書いた者を読ませらるゝのである、不愉快此上なしである、然し著者に此不愉快があればこそ読者の快楽があるのである。
十月八日(水)快晴 引続き校正。旧約但以理書研究甚だ面白くある。秋来り諸方の読者より山野の産を送り来る、梨、柿、粟、松茸、家は秋の香《かほり》を以て充たさる、喜ばしき事である、中国産の大栗殊に美しくある、斯んな雑誌記者が他に有るであらう乎。
十月九日(木)秋晴 新聞紙はウイルソン大統領発狂の兆あるを伝ふ、憐むぺき人類なる哉、世界の平和を双肩に担ひて立し此人彼れ自身が精神的破滅に終らんとすとは、人に由て企てられし平和は斯くも脆きものである、人類は誰に由て其欲求して止まざる永久的平和を実得せんとするのである乎、「彼等(エジプト人)のイスラエルの家に於けるは、葦の杖の如くなりき」とある(以西結書二十九章六節)、人は偉人と雖もすべて葦の杖である、之に依頼みて仆れざるを得ない、ウイルソン大統領に由て与へられし世界の平和は彼の破滅と共に破滅せざるを得ない。
十月十日(金)晴 漸く十月号雑誌校正を了つた。此日又J・A・ザイス著 Voices from Babylon を読み了つた、但以理書註解である、余が近頃読みし最も興味多き書である、著者にカーライルの熱誠がある、若しカーライルが聖書の註解を書たならば如斯きものを書たらうと思はれる、著者は一八七九年に此書を著はして一九一九年の今日を明かに預言して居る、著者自身が預言者である、故に此書を預言者の預言の註解と見て間違ないと思ふ。
(165) 十月十一日(土)快晴 雑誌校正終り寛いだ、加洲のトーリー博士を訪問せんと欲し横浜に行き埠頭《はとば》に繋ぎありし西伯利亜《サイベリヤ》丸に入り船中を探せしも見当らず其儘帰つて來た、甚だ殘念であつた、横浜附近の発展に驚くべきものがある、東京と聯絡して東洋の大バビロンを形作りつゝある 〇家に働く大工曰く「ヤソは無欲である、他《ひと》に物を与《くれ》ることを好む、俺たち普通の日本人は然らず、稼いで成るべく多く儲けんとする」と、洵に興味ある観察である、彼等はヤソは欺き易く、又慈悲深き者なるを知る、而して自分等日本人とは全く質《たち》の異《ちが》つた者であると思ふ、「儲ける」のが彼等の人生唯一の目的である、而して彼等に倣ふて此事を為さゞるが故に我等は日本人で無いと云ふ、憐むべき小なる愛国者等よ。
十月十二日(日)秋晴 午後の聖書講演不相変講堂充満の盛況であつた、畔上と壇を共にした、余は十誡第四条に就て講じた、安息日問題非常に六ケ敷くある、而かも非常に広い且大切なる問題である、聴衆水を打ちたるが如き静粛を以て聴いて呉れた、聴衆中婦人の比較的に多数なる、又有力なる政治家並に実業家を認むるは奇異なる現象である、帝都中央の場所に於て斯かる集会を継続し得るは大なる不思議と謂はざるを得ない。講演終りて後に階下の中講堂に於て田中竜夫工学士号授与祝賀を兼ねて、柏木兄弟団有志晩餐会を開いた、神が我が兄弟団中に斯かる人物を起し給ひ彼に天然の大秘密を示し給ひしことを一同心より感謝した、斯くて我等は霊に於てのみならず亦知識に於て恵まるゝものである、キリストの福音は最大の知識の刺戟者なることを今更らながらに感ぜしめられた。
十月十三日(月)雨 昨日の二回の集会で今日は大分疲れた、近郊の散歩と寝椅子の上の横臥とにて殆んど全(166)日を終つた、独り自ら思ふ、自分は大小の差こそあれエリヤ又はエレミヤの如くに単独に働くべく造られたる人間なる事を、単独で働く時に反対も起らず至て平穏で我も満足彼も満足と云ふ状態である、然るに一朝他の人又は他の団体と組んで働くや大騒動が持上るのである、余は其理由を知るに苦しむ、乍然是れ余の生涯に於て否むべからざる事実である、余自身は共同を愛して単独を憎むが故に今日まで幾回となく共同を試みしと雖もすべてが失敗に終つた、依て今後は共同を断念しやうと思ふ、単独雑誌を二十年間継続して最も幸福なる記者の生涯を送りしやうに、爾今は之に単独講演を加へて更に幸福なる説教師《プリーチヤー》の生涯を味はふと思ふ、是れ余に定まれる運命であつて自身如何ともする事が出来ない、斯くて無教会は余の生来《うまれつき》の立場である、余は感謝して余に定まれる此地位を守るであらう、但し同志の援助を受くるは勿論である。
十月十四日(火)晴 十月号推誌が漸くサツト出た、労働不足のために印刷所は大混雑である、何時元に還るものなるにや、原稿は早く廻して置くに係はらず発行は斯く遅るゝのである、すべての印刷物が爾うである、我慢するまでゞある 〇今に至て『内村全集』発行中止の最も善き事であつた事が判明つた、神聖なるべき信仰的著述が書店の商品として扱はるゝは堪え難き事である、又之に由て著者が過分の利益に与るは神に対し人に対し済まざる事である、是が故に神は反対者を起し書店の名義を以て余の信仰を罵らしめ余に大なる厭気を生ぜしめて余をして発行中止を断行せしめ給ふたのである、実に大なる恩恵である、今や中止も反対も悔むべきではない、大に感謝すべきである。
十月十五日(水)秋晴 雑誌発送を了り少々寛ぎ動物学の復習を為した、学ぶべき者は神の聖書《みふみ》と聖作《みしごと》なるを感じた ○少し許りの傷を負ひ今更ながらに我|身体《からだ》は我れならざるを覚つた、我体は我が欲《おも》ふやうに癒らない、(167)体には体の法則があつて我は極く間接にのみ之を支配する事が出来る、依て知る|我は体に宿る者であつて体と同体にあらざる事を〔付○圏点〕、故に体は壊《くつ》るとも我は壊る者でない、霊魂不滅は我等日常の実験に照して見て明白である。
十月十六日(木)晴 招かれて埼玉県粕壁町へ行いた、同所に於て今年一月組織せられし信仰団体羊会主催の講演会に臨み一場の講演を為した、来会者六十余名、実《まこと》に真面目なる聴衆であつた、余は主として宗教の何たる乎に就て語つた、宗教とは外的生命に対する内的生命である、而して之を完全に供給する者はキリストの福音であると述べた、講演会終りて後に有志の懇親晩餐会を開いた、食膳を共にせる者二十余名、信仰と伝道とに就て語り熱切なる三四の祈祷を以て別れた、杉戸 和戸の旧き信者来り会し、旧きを談じ、新きを謀り、近隣結合して再び該地方に十字の聖旗《みはた》を挙げん事を勧め且つ祈つた、久喜 和戸 杉戸 粕壁 越ケ谷と教会の散在する有りと雖も近年教勢振はず悲むべき状態に於てある、聖霊の火の点ぜられて信仰の焔《ほのほ》の揚らんことを祈る、此夜此地に一泊した。
十月十七日(金)晴 好き秋の日和であつた、朝八時旅宿を出で、古利根川、岩槻川等の秋色を賞し、関東平原の中央に実の秋の酎なる間を過ぎ、岩槻城址を訪ひ、大宮に出て家に帰つた、気持好き伝道旅行であつた。
十月十八日(土)晴 静かなる善き土曜日であつた、終日家に在りて明日の為に休みて精力を蓄へんと試みた。改築殆んど終了《おはり》を告げた、四月上旬に始め、漸くさつと終つた、差したる普請に非ず、大工は曰ふ「下の上」なりと、然るに労働不足と、我等の馬鹿正直にして欺かれ易きが主因となりて斯くも手間取つたのである、「ヤソは欲がない、他に物を与る事を好む、普通の日本人とは違ふ、日本人は如何かして成るべく多く儲けんとする」と(168)は大工共の唱ふる所、斯く彼等に異人扱ひにせられては堪つたものではない、然し我等は彼等の違約と怠業とに耐へた、実に感謝である、殊に埼玉県粕壁町の信仰の友にしてイエス様と同じやうに木匠《たくみ》を業とする者二人来りて我等を援け呉れるありて、我等をして信ずる工人と信ぜざる工人との間に天地の別のあるを知らしめしは大なると感謝と教訓とであつた、不信者社会に在りて信者の生涯を送る事の如何に困難なる乎は小なる工事を行はんとしてさへ充分に知悉《しりつく》さるゝのである。
十月十九日(日)晴 講演会引続き盛会、六百名以上の聴衆があつた、内務省参事官前田多門と高壇を共にした、彼は欧米漫遊中め感想を述べ、所謂基督教国の醜的半面と美的半面とに就て語つた、而して美的半面の尚未だ其跡を絶たざるを述べて大に吾等の志を強うした、余は十誡第五条に就て語り、其意味の日本人に由て世界に向つて闡明せらるべきを論じて基督教の忠孝道徳を紹介した。
十月二十日(月)曇 家族と共に田中竜夫夫婦に招かれて夕飯の馳走に与つた、彼等二人我家に出入して茲に二十年に近く、彼は近頃電気学上世界的大発見の故を以て工学博士を授けられ、彼の名誉、我等彼の友人一同の誇りである、然るに彼の家に到りて見るに工学書よりも宗教書類が多くある、彼の如きはニユートン、フハラデーと等しくヱホバを知るの智識に助けられて天然の秘密を知るを得し者である、神が我等同志の内より斯かる謙遜なる学者を出だし給ひし事を感謝せざるを得ない。
十月二十一日(火)晴 豊川|和《かず》子の葬儀を司どつた、彼女生れて一日、聖父に召されて其の懐に還る、人の目より見て最も短き生涯である、然し千年を一日の如くに見給ふ神の御目より見て特別に短き生涯であると思はれ(169)ない、余は馬太伝十八章十節に就て語つた、此嬰児に由りて多くの人々に福音を語るの機会を与へられて感謝であつた。
十月二十二日(水)曇 大阪控訴院勤務法学士宇佐美六郎より左の如き書面があつた。
午後(日曜日)から富永徳磨氏の『基督再臨説を排す』といふ本を読みました、其感想を申上げたく思ひます、同氏の信仰といひ神といふ考へは私共のそれとは異つて居ることを知ります、従つて同氏の議論は先生の説を排するつもりで居乍ら先生の説の最も深い処にタツチして居ないのではないかと思ひます、私は富永氏の攻撃が最もよく当つてゐる再臨信者があることを知つて居ります、其人達にはこの議論は手痛い議論でありませう、然し乍ら先生の説かれる再臨の信仰に対する駁論としては正に Miss its mark だと思ひます、何故でせうか、私は思ひますこの人は true conversion を経てゐないのであると、true conversion なしに再臨を信ずると告白してゐる人があります、そういふ人達こそ富永氏のよい相手なのです、先生の信仰の最も深い所にタツチ出来なければ先生と真の論敵とはなれません、而してそれが出来る位の人は恐らく一人として先生に反対する人はないと思ひます、皆な sympathetic vibration をすると思ひます、そうなると先生は天下無敵です、訴訟法に|争点決定〔付○圏点〕といふ事があります、訴訟の判断をするには双方当事者の争が或る一点に落ちてこなければ判断は出来ないのです、争つてゐるつもりで、争になつて居なければ判断は出来ません、何故ならば結局「争ひ」はない事に帰するからです、一角《ひとかど》相撲してゐる積りで一人相撲にしかなつてゐないといふのは可笑しな事であります。唯私が見逃すことの出来なかつたのは所々に僻見に基づく先生に対する人身攻撃があることです……又この人身攻撃はこの議論全体の価値を著しく低下せしむるものだと思ひます、何故ならばこの人の信仰とか宗教とかいふのはすべて主観的自分本位でゆくのですから、その御自分の口から(170)こんな悪口が出るようではこの人の宗教信念其物にあまり敬意を払へなくなるからです。然し最後まで読んで結局この人も conversion は経験してなくとも悪人ではないのだから前のような悪口は要するに誤解、先生をよく知らないからだらうと考へて胸をさすりました云々
宇佐美の如き法学者の冷静なる頭脳《あたま》を以ての此批評の批評は此際余に取りては甚だ有難くある、余は人も知る如く長の間、緻密なる学者として富永氏を蔭ながら尊敬し来りし者である、其人に今回突然打つて懸かられて一時は甚だ惑ふた者である、而して余も亦宇佐美と同じ見やうに由りて氏に対する余の態度を定むる事が出来て今は平静なる者である。序に記す、余は畔上が反駁論を書く事には初より反対であつた、土俵を異にするが故に相撲にならぬ相撲を取る要はない、若し富永氏が余が氏に答へざるの理由により「彼は負けたり」と云ふならば余は氏が言ふが儘に存《のこ》して置く、時と事実とをして我等の審判官たらしめよである。
十月二十三日(木)曇 夜雨降る。午後千葉町に行き、其地同盟基督協会々堂に於て瑞典《スエデン》宣教師ピーターソン老女史の為に応援講演を為した、来聴者堂に溢れ木更津、東金、銚子等よりも来り会する者がありて、盛なる集会であつた、余は先般宇都宮に於けると同じ題に就て語つた、『世界の現状と基督の再臨』、信者と来信者とに対して此信仰の実際的に重要なる事に就て述べた、余自身に取り甚だ気持好き講演会であつた、終へて後に瑞典流の滋味に富みたる夕食の饗応《もてなし》に与り、老女史の感謝と祝福とを担ひて十時柏木の家に帰つた。
十月二十四日(金)雨 休息。久振りにて市中へ行つた、今回横浜より移転せし米国聖書会社を銀座尾張町に訪ふた、其副社長オーレル氏は米国帰化の瑞典人であつて余と基督再臨の信仰を共にする者である。
(171) 十月二十五日(土)雨 秋雨粛々淋しき秋の日であつた、雑誌編輯と『信仰日記』校正とが重なる仕事であつた。
十月二十六日(日)晴 講演会相変らずの盛会、聴衆六百余、献金五十六円、此日より全然新聞紙広告を廃し、成るべく聴衆を精選する策を取つた、心霊的事業を為すに方て此世の評判に上るに勝さるの害毒は無い、新聞広告は極めて必要の場合を除くの外は使用すべきでない、余は此日十誡第六条「汝殺す勿れ」に就て講じた、随分骨の折れる講演であつた。
十月二十七日(月)晴 大分に疲れた、千葉の講演に引続き昨日のそれが利いたのであらう、終日家に在りて休んだ、動物学の復習が大なる快楽である。
十月二十八日(火)雨 身体の具合少しく悪しく、終日家に在て休んだ、十一月分雑誌編輯大略終つた、動物学の復習を続けた、興味多き研究である。日曜聖書講演に対し隠然たる妨害運動の行はるゝを聞いた、苦々しき事である。然し之れ宗教界の常であつて敢て怪しむに足りない、「我ら自己《おのれ》を宣べず唯キリストイエスの主たる事を宣る也」である(哥林多後書四章五節)、若し妨害其効を奏して中央の伝道を廃せざるを得ざるに至らば再び柏木に立籠《たてこも》つて旧《もと》の仕事を続けるまでゞある、余は主に余儀なくせられて市中に出たのであれば無理に強ひて市中伝道を継続しやうとは思はない、然し今日の所では些《ちつと》や卒土《そつと》の妨害運動で余を柏木の古巣に追還し得やうとは思はれない、余は当分の問今の儘にて働かねばなるまい、聖旨《みこゝろ》をして成らしめよである。
(172) 十月二十九日(水)半晴 雑誌十一月号の編輯を終つた、邸内改善の為に忙しかつた、井《ゐど》の改築を行ひ嬉しかつた、生命の水の源《みなもと》を清くするに勝さる大切なる事はない、清水を家人に供するは主人たる者の大責任である、今日思ひ通りに井水の清浄を行つて大なる慰安を心に感じた、人生実に責任の重且大なる事である。
十月三十日(木)半晴 少し許り職人の手伝を為した、其他別に何にも為さなかつた、又復信仰的状態に還つた、学ばう為ようと焦心《あせ》るが故に疲れるのである、「彼」を仰ぎ、信じ、頼りて我心は安く、我に力が加はるのである、信者が為すべき最も善き事は|唯信じて依頼む事〔付○圏点〕である。在米の或る兄弟より下の如き通信があつた、「米国では巡査と牧師の給金値上げの為のストライキがありました、議会では山東問題や朝鮮問題の為に数ケ月に渉り議論を闘はしながら、紐育、市俄高、オマハに於ける白《しろ》ん坊《ばう》が黒ん坊を数十人殺し、其上街上自働車で引廻しても誰一人正義の声を揚げる者もありません、先月埃及で数百人の埃及人が英軍の為に殺されても英国政府に頼まるれば通信さへも止《や》める有様です、黒ん坊殺しも止みますまい、日本人排斥も止《よ》しません、ストライキも止みません、たとひ給金が倍になりましても。然し総ての事悉く働きて皆我等の益となります、是等の悲むべき日々の出来事は我等の信仰に確かなる希望を与へ、来るべき世と共に現在の生を楽ませ生き甲斐ある者となします、総てが感謝の種であります」と、然り、其通りである、暗黒は光明の先駆《さきがけ》である、世は聖書の予言通りになりつゝある。
十月三十一日(金)雨 天長節祝日である、すべての仕事を中止して敬意を表した。山形県西遊佐村梅木達治支那青島に於て永眠せし由の報知に接して悲んだ、彼は旧《ふる》き教友の一人である、誠実にして情に篤く愛すべき人物であつた、彼(ノ)最近の書面に曰く「私不幸にして七月三日より肋膜炎兼腹膜炎に罹り一時心地とかりしが今度(173)再発困難罷在候、『研究』誌読了せる時、内に吾がこの皮この身の朽果ん後云々の言有之……」と、斯くて彼は「我れ肉を離れて神を見ん」との義人ヨブの希望を懐いて就眠したらしくある、彼れ全家族を挙げて南米に移住を企てしも、其目的を達せずして中途にして逝く、然し握るべき者を握て逝いたのであれば人生の目的は確に達したのである。
十一月一日(土)曇 後雨降る、差したる事を為さず、丸善に行き動物学書二冊買求む、基督再臨の信仰を懐くを得て聖書の意味が判明せし以来、多くの神学書を読むの必要なきに至り、金と時間と精力との余裕を生じたれば、再び青年時代の科学熱を復興し、時々天然の研究に没頭し得るに至りしは感謝の極である、聖書と天然、世に確実《たしか》なる者は此の二つである、其他の哲学、神学、文学、是等は接触《さわ》らない方が遥に利益である。
十一月二日(日)好晴 憂《うれひ》の雨は夜の間《ま》に晴れて、今朝も亦朝日と成りて輝いた、不相変楽しき安息日であつた、午後の講演会通常以上の盛会であつた、階上階下聴衆を以て充たされた、藤井と高壇を共にした、余は十誡第七条「姦婬する勿れ」に就て講じた、講ずるに甚だ困難なる問題であつた、姦婬する勿れとは他人の家庭を破壊する勿れ、|他人の妻又は夫を盗む勿れ〔付△圏点〕との意であると述べて此誡の原意を明にせんと努めた、家庭の根柢が破壊されつゝある今日、此事に就て語るの切要を感じた。
十一月三日(月)晴 家に在りて休んだ、近所の友人の家二軒を訪問して楽しかつた 〇今や世界は改造されつゝあると謂ふが実は破壊されつゝある、米国に於ては大同盟罷業絶えず其国家的存在さへ危くせられつゝある、オムスク政府は斃れんとして亜細亜大陸が過激化されんとする虞がある、実に眼を此世にのみ注いで吾等は疑懼(174)失望せざるを得ない、然し之を聖書が明記する基督再臨の前兆と見て吾等は歓喜雀躍せざるを得ない、「主よ臨《きた》り給へ」と云ひて吾等の今日言はんと欲する所は悉く言ひ尽くさるゝのである。
十一月四日(火)雨 終日家に在り雑誌校正のほか何事も為さなかつた、米国地理学雑誌今年第八月号所載『蒼穹 栄光の探検』の一篇を大なる興味を以て読んだ、近世天文学の進歩に実に驚くべき者がある、天文学者の望遠鏡に映ずる星の数実に八百万、而して其各が太陽であると云ひ、而して又宇宙は之を以て尽ずと云ふ、神の力と愛とは無限であると云ふが、無限の何たる乎を実見する者は天文学者である、無限を|語る〔付△圏点〕者は神学者であつて無限を|見る〔付△圏点〕者は天文学者である、羨むべきは実に普通人の見えざる所に宇宙の深遠を探る天文学者である。
十一月五日(水)晴 待受けし校正刷来らず、依て横須賀に行きホシダのお伯母さんの病気を見舞ふた、帰化せる彼女の熱烈なる愛国心(我日本国に対する)に驚いた、彼女を慰むるよりは反て大に慰められて帰つた、米国宣教師中稀には彼女の如き潔士烈婦がある、我等日本人たる者彼等に対し深き尊敬と感謝とを表せざるを得ない。
十一月六日(木)雨 午後晴。楓樹紅葉を始め、山茶花、コスモス、菊の真盛である、春に優さる秋の小春である、内外平穏、精力に余裕を生じ、聖書の研究以外に天然の研究に興味多し、何故に斯かる平穏の生涯を初めより送り得なかつたのであるか、今に至て不思議に思ふ、一つは教会と関係したからであらう、他の一つはキリストの再臨が解らずして基督教が解らなかつたからであらう、若し初めより再臨が解つて教会と関係しなかつたならば余の信仰的生涯は平和の連続であつたらう、然し苦む事も善くあつたのであらう、万事が善に向つて働いたのであらう。
(175) 十一月七日(金)晴 雑誌校正を終る。今や社会改造、労働問題が万人の叫声《スローガン》である、此声を揚げざる者は人にして人にあらざるが如き観がある、救世軍と青年会とは勿論のこと、教会も牧師も宣教師も皆此声を揚げて居る、恰も二三十年前社会挙つて愛国を叫びしと同然である、而して今の時に当りて十字架の福音を唱ふるが如き時勢後れの最も甚だしきものゝ如くに思はれる、然し余は構はない、余は今も尚十字架の外何をも語るまじと心を決る、他《ひと》は他である、自分は自分である、自分は禁酒運動にも改造運動にも加はる必要は更に無い、自分は十字架を中心とし再臨を終局とする立場よりして聖書を説く、時を得るも時を得ざるも聖書を説く、殊に教会を離れて聖書を説く、其所に余の平和がある、自今此世と教会とは何を叫ばうとも余は彼等の声に耳を傾けずして単《ひとへ》に旧き古き聖書を説く。
十一月八日(土)晴 庭の菊花美しく咲きければ之を切取り死者に頒たんために雑司ケ谷の墓地を訪れた、尠からざる心の慰安であつた 〇昨年基督再臨問題研究大会を開いてより茲に満一年、種々と感想の浮び出るを禁じ得なかつた、再臨の高唱は善き事であつた、殊に余自身に取りて最も善き事であつた、是で余の信仰が固まつた、宗教界に於ける余の地位が定まつた、敵も味方も判然と別つた、唯怪しむのは余が少数の同志と共に之を唱へざれば他の人等が之を唱へざる事である、何故に再臨を信ずる多数の宣教師が余等の率先を待たずして之を唱へないのであるか、再臨は余等少数者独専の信仰ではない、多数信者共有の信仰である、然るに余等にのみ其の高唱の任に当らしめて自身は黙して語らざるの観あるは福音の此の大真理に対して忠実なる途であると思はれない、然し余は呟《つぶや》かない、責任は重くある、同時に又之に伴ふ栄光と恩恵とは重くある、余は基督再臨の信仰を終りまで唱道して止まぬであらう。
(176) 十一月九日(日)半晴 昨夜雨、気遣はれし天候朝に至つて回復す、主は特別に其聖日を恵み給ふやうに見える、午後の聖書講演会来聴者五百人程。十誡第八条「窃む勿れ」に就て講じた、気候の激変に際し講堂の空気流通を誤りしが為に急性咽喉炎を起し、講演の中途に声が詰り甚だ困つた、漸く大意だけを演ぜしも甚だ不満足であつた、不時の災難なりと雖も不注意の致せし所であつて聴衆に対し甚だ申訳がなかつた、自今注意を怠らぬであらう。
十一月十日(月)曇 冷たき厭な日であつた、咽喉の故障去らず家に在て休んだ。W・C・D ホエツタムの小著『科学の基礎』を読み大に教へらるゝ所があつた、返すがへすも聖書に次いで学ぶべき者は天然である事を感ずる 〇物価の騰貴は恐ろしくある、世界はどうなるのであらう乎、果して動物学的に進化して行くのであらう乎、或は進化其物にカタクリズム(大破壊)が伴ふのではあるまい乎、何れにしろ非常の時が来りつゝある、若し聖書の世界観が誤謬《あやまり》であるならば暗黒の背後《うしろ》に光明は見えない、而して誤謬であらうとは如何しても思へない。
十一月十三日(木)曇 労働室の移転を行《や》つた、十三年間書き読み祈りし室を去ることは甚だ名残り惜くあつた、新らしき温かき明るき室《へや》に移るとは知りながら残り惜しく感ずるのである、此世を去る時も同じであらう、高き善き世界へ行くとは知りながら此低き悪しき世が慕はしく思はるゝであらう、然し思ひ切つて移て見れば光明溢るゝ室である、此に又幾年か働いて然る後に今度こそは永久に移らざる天の室にと行くのである、イエスを信ずる身の幸福、何事につけても思ひ出して感謝の極《きはみ》である 〇午後七時より衛生会小講堂に於て聖書講演会出席者の祈祷会を開いた、出席者五十余名、善き霊的会合であつた、教会所属の信者多く、何れも教会に於て得る(177)能はざりし者を講演会に於て得たとの告白を為した、教会の為と、東京全市の為と、日本全国の為とに就て祈りて九時少し過ぎ此有益なる会を閉ぢた。
十一月十四日(金)雨 陰鬱なる厭な日であつた、家に在りて書籍の整理を為した、聖書註解書類最も多く、次ぎに聖書神学書類、次ぎは哲学書類、次ぎは文学書類、次ぎは科学書類と云ふ順であつた、部数は大小合せて凡そ千冊余である、思ふたよりも尠くある、勿論読んだ書物の総てゞはない、然し是れ丈け読んだならばもう少し慧くなりさうな者であると思ふた。
十一月十五日(土)曇 数日来の陰雨午後に至て漸く霽れた、天文学の復習が重なる仕事であつた、夜に入り晩秋の空晴れ渡りオライオン星の一座の森然《しんぜん》として東天より昇るを見る、「荘なる哉《サブライム》」の嘆声を禁じ得なかつた、聖書の研究に最も適応《ふさは》しき者はやはり天文学である、哲学者カントの「我が上の星の天《そら》と我が衷の道徳の法《のり》と」なる標語を思ひ出さゞるを得ない、而して内外相応じて神の無限を証明するのである。
十一月十六日(日)晴 久振りの晴天にて感謝であつた、午後の講演会不相変盛会、此日一人にて高壇を持切り「前座」に代ふるに会衆一同の祈祷会を以てした、大なる祝福を受けた、十誡第九条「汝その隣人に対して虚妄《いつはり》の証拠《あかし》を立る勿れ」に就て講じた、前会と異なり滞りなく講ずる事が出来て感謝であつた、講演終へて中央停車場に向へば晩秋の夕《ゆふべ》、空晴れ、富士山系を背景に千代田の城高く聳え言ひ難き景色であつた、福音を説いて家に帰る時の楽しさは此経験を持ちし人ならでは知ることが出来ない。
(178) 十一月十七日(月)雨 又復雨となる、終日家に在て休んだ、旧友理学博士宮部金吾夫人|保《やす》子永眠の報に接し驚き且悲んだ、博士目下外遊中であり、去りし者、遺されし者に対し同情に堪へない。
十一月十八日(火)雨 引続き湿つぽい厭な天気であつた、終日家に在りて読書と手紙書きとに従事した、有名なる英国生物学の大家トマス・ハツクスレーの伝記を読み非常に面白かつた、彼に対し深き同情と敬意を表せざるを得なかつた、彼は最も正直なる学者であつた、然し乍らダーヰンの進化説を信じ不可思議論を唱へし故を以て英国国教会の誤解、追窮、迫害する所となり、其一生涯は僧侶階級に対する奮闘の継続と称して可なる者であつた、実に残忍、薄情、冷酷なる者にして僧侶階級の如きはない、余は神に感謝す余は英国に生れざりしことを、余が若し英国に生れしならばハクスレー、チンドール、スペンサーの人等の如くに教会に叛くと同時に基督教を棄てたであらう、余の同情は今も尚ほ英国々教会に窘《くる》しめられし不可思議論者のハツクスレー無神論者のチヤールス・ブラツドロー等の上に在る、余は何に成つても英国々教会の監督の支配を受くる基督信者と成ることは出来ない、Church of England. 其 Bishops とDeans と Canons と Priests. 余は縦し基督敦を棄つることがあるとも是等を以て組織せらるゝ僧侶階級の教権の下に余の霊魂を置くことは出来ない、久振りにて第十九世紀下半期に於ける英国科学界の歴史を読みて余の反教会熱は一層高まらざるを得なかつた。
十一月十九日(水)晴 漸く雨晴れ秋の碧空を仰ぐ、独り杖を曳いて井之頭公園に遊ぶ、人は稀れに、楓は紅葉し、池の周囲を一週し、櫟林の中を独歩し、気持好き朝の散歩 Morgen Spazielgang であつた、ポケツトの中に星体理化学大家ウイリヤム・ハツギンスの小伝を運び、之を読みながら往復した、家は改築への移転、講堂の大片附で大混雑であつた、然し余は之に関係することを免《ゆる》して貰つた、頭脳《あたま》を冷《ひやゝ》かにして善く働かん為である。
(179) 十一月二十日(木)晴 引続き講堂の大掃除を行つた、今日は余も手伝はざるを得なかつた、腰掛の配置、百科字典の処分は大抵でなかつた、斯かる事に貴き一日を費すは甚だ惜しく感じた、然し之も亦人生である 〇余の信仰上の長兄なる京都松岡|帰之《きし》君より書面あり甚だ有難かつた、君は由緒ある神官の家に生れ国学に精通し、長らく司直の職に在り、明法官を以て人に敬せらる、此人にしてイエスの謙遜なる弟子と成らる、我国に於て得難き仁である、君の書翰に曰く
……『聖書之研究』十月号ノ十誡ノ総論、次デ本月号五条ノ御講演ハ何トモ讃様《タヽヘヤウ》ナキ渾身渾霊ノ歓喜、手ノ舞足ノ踏ムヲ知ラズ、実ニ我国ノ殊更ナル神ノ幸ハ此孝道ノ根柢扶植ニ有之コトヽ信ジ候、古《イニシエ》我国ニ宣伝セシ彼ノ孝経ハ天子諸侯ヨリ卿大夫庶人ニ至ルマデ皆階級的ノ孝道ニシテ未ダ全人類一致シテ天父ノ栄名ヲ表スベキ宇宙ノ大孝道ヲ説キタルモノナク候、実ニ御説ノ如ク父母ヲ敬フハ神ニ対スル義務ニシテ人ナル父母ヲ神ノ代表者ナリト見ルハ実ニ尊キ教ニ有之候。コヽニシノビ候事有之、ソハ小生ノ故師矢玄道翁ニ有之候、翁ハ古陋ナル国学者デナク、孝明天皇ニ祭政一致ノ大本ヲ進講申上シ人ニテ、其進言(慶応元年中)ニ西洋ノ教化書(当時支那訳聖書ナラン)ハ天子必読ノ書ナリト申上ラレ候。翁の歌に「ふみまよふ人の心やいかならむ、外国にすら道たどる世に」又「神ろぎの神のみことの道をゝきて、道てふものは世になきものを」、又小供ニ授ケシかず歌ニ「二人の親に君と神よく仕ふるが道のもと」、彼ノ日来ラバ翁ハ必ズ先生ヲ徳トシテ御挨拶致サルコトヽ信ジ候、今ノ世ハ何ニモカモ神ヌキニ致シ候故斯様ニ堕落致シ候コトヽ存候、而シテ此孝道ノ真理ヲ開明シ我国ノ使命ヲ成就シ我王道ノ無窮ヲ翼賛スル先生ノ事業ト先生ノ御健康ノ上ニ神ノ祝福アラン事ヲ祈候アメン、十一月十七日
是は寔に有難い言辞《ことば》である、余は年長者松岡君に先生と呼ばるゝの資格なき者である、然し純日本人たる君に斯(180)く余の主張を賛成せられて余は大に自ら心を強うする者である。
十一月二十一日(金)雨 重なる仕事は星学の復習であつた、神学又は宗教哲学の研究よりは遥かに興味多く且つ有益である、科学は証明し得る確実なる事実である、神学や哲学の異説紛々たるとは全く趣きを異にする、|明白なる神の啓示と確実なる天然の事実〔付○圏点〕、其他の事は学ぶの要なし、ブルース、バイシユラーグ、サバチエー等|許多《あまた》の神学者等に今日まで心思を乱されし事を悔ゐざるを得ない 〇家の青年の第二十二回の誕生日を祝した、彼れ今医科大学生たり、生理を究め、生命に関する深き真理を闡明せんことを祈る。
十一月二十二日(土)曇 午後に至りて晴る。田村直臣君を訪問し、欧米漫遊中の実見に就て聞く所あり、甚だ有益であつた、世界は改造されつゝあるのではない、破壊されつゝある、而して夫れで宜いのである、破壊はキリスト再臨の前兆である、人の改造が悉く失敗に終つて神の改造が始まるのである、汝等ヱホバを讃めまつれである。
十一月二十三日(日)晴 講演会不相変盛会、十誡第十条「貧る勿れ」に就て講じた、之で先づ十回に渉り十誡を講じ終つて大なる感謝であつた。
十一月二十四日(月)雨 終日家に在り天文書を読んで楽み且休んだ、最上の快楽である、下界の紛擾を忘れ、億万里外に思ひを馳せ、大宇宙の構造と運行とに就て学ぶ、聖書に神の聖意を知り天文に神の聖業を見る、此快楽此歓楽、何者か之に比ぶべけんやである ○朝洋丸船長山桝義市第二回太平洋週航を終り桑港より帰港す、(181)不相変物的に心的に多くの土産あり言ひ尽されぬ感謝であつた、太平洋彼岸の教友の霊肉共に栄ゆるを聞いて喜んだ、余の霊的家族は世界に散在し彼等の余に対して誠実なるを知つて己が富と幸福とを深く感ぜざるを得ない。
十一月二十五日(火)晴 雨漸く霽る、今年も亦昨年同様十一月の小春が殆んど全潰《まるつぶ》れである、世界の気候に大変動があつたやうに見える。雑誌編輯始まる、悪くない、読書に耽り、自分にのみ智識を詰込みて智識の食傷する虞がある、之を他人に頒つの義務がある、編輯は智識分配の仕事と見て辛らくない。雑誌発行部数目下の所|正味三千四百部〔付○圏点〕である、|再臨唱道以来一千二百部の増加である〔付△圏点〕、而して毎月少づつ(〔ママ〕)ゝの増加がある、十数年来三千部を理想として進み来りしも今年は終に其理想を超過して大感謝である、相変らず新聞紙には一切広告しない、拡張は一切之を読者の紹介に一任する、而して最小数の千八百部より今日の三千四百部に達せしは全く神と友人との援助に由るのである、余輩はたゞ純福音を説けばそれで余輩の職分は済むのである、余事は顧るに及ばない、神が善きやうに取扱ひ給ふ、「汝(福音の)道を宣伝ふべし、時を得るも時を得ざるも励みて之を務め、各様《さま/”\》の忍耐と教誨《をしへ》を以て人を督《たゞ》し戒め勧むべし」とパウロが其弟子テモテを誨《をし》へし言は一字一句余輩の服膺せんと欲する者である。
茲に一九一九年を送る、雑誌生涯に入りてより二十二年、随分長い事である、読者との交際は益々親密に興味は益々湧きて尽きない、斯る生涯ならば何度繰返しても可いやうに思はれる。感謝、感謝。
十一月二十六日(水)半晴 雑誌編輯に全日を費した、井戸の屋根を修繕した、之にて先づ数十年来希望せし理想の井戸が出来て嬉しかつた、人生生命の水を清うするに勝さる大切な事はない、|井戸と便所〔付△圏点〕、之を清潔にして(182)万事が清潔である、Cleanliness is next to Godliness(清潔なる事は神聖なる事の次である)と云ふ、実に肉体に於て清潔なるは霊魂に於て神聖なるを助くる事大である、衛生と信仰とは離るべからざる者である。
十一月二十七日(木)晴 午後一時より東中野長尾邸に於て東京聖書研究会出席有志婦人の懇親会が催された、出席者三十余名、誠に恵まれたる喜ばしき会合であつた、余も藤井と共に列席し、羅馬書第十六章初代信者間に於ける婦人の位地に就て話した、五時閉会、直に芝浦に於て催されし柏木兄弟団有志晩餐会に臨んだ、旧友伊藤一隆君の我等の群に加はるありて是れ又楽しき会合であつた。此日山形県の奥山吉治君より例年の通り林檎園の初穂一箱を送られ、又桑港三原君より味噌一バケットを送らる、東北の林檎と米国の味噌、面白い突合である、遠方の教友の愛の貢に与る、名誉此上なしである。
十一月二十八日(金)曇 改築の書斎出来上り、生れて初めて完全なる書斎を恵まる、愛する書籍は本棚に整列して余と相対して並立す、愉快此上なしである、余は長く生きて此賜物を使用せねばならぬ事を感じた、同時に又余をして此恵みに与からしめし諸友人に感謝する。
十一月二十九日(土)晴 忙はしき土曜日であつた、此世の細事に携らざらんと欲するも能はない、聖書研究者が牧師の役目を勤めさせらるゝは止むを得ない事であらう。
十一月三十日(日)雨 講演会不相変盛会、長門秋吉の本間俊平君上京、依て君に乞ふて一場の勧説《すゝめ》を為して貰つた、余は約翰伝一章十七節、羅馬書七章七節以下、加拉太書二章十九節以下等に由り「律法と福音の関係」(183)に就て講じた、信仰は個人的に心霊的に倫理的に始まらねばならぬことを高調した、福音の根本義に就て述べて済んだ後まで気持が好くあつた。
十二月一日(月)半晴 友人より思掛なき寄附ありたれば市中に行き天文書二冊と双眼鏡一個を買求めた、日暮るゝや否や直に天を覗き、先づ第一にライラ(天琴)星座のヴイガを覗きしに其|側《かたはら》に五等星位の聯星《バイナリー》あるを認め非常に嬉しかつた、是れ有名なるライラエブシロン号にして聯星の各自が復た聯星であるが故に実は複聯星であるとの事である、是れ余自身に取りては聯星の初めての発見であつて言尽されぬ歓喜《よろこび》であつた、今より後にシグナス座のベータ号ペルシウス座のアルゴールと順を逐ふて覗くつもりである、冬の夜の好き楽しみである。
十二月二日(火)晴 朝四時に床を出て星を覗いた、春の星なる獅子座のレギユラス、牧夫座のアークチユラス、処女座のスパイカと思はるゝ者が見えて楽しかつた 。三上お仲伯母さんの訪問を受けて嬉しかつた、彼女六十二歳、余の骨肉の長者として存《のこ》る唯の一人である、小児時代の友人《ともだち》である、相逢ふて非常に懐《なつか》しかつた、彼女は家人に「鑑三」の小児《こども》時代の事どもを語つて得意であつた、面白い者は人生である 〇或る婦人より左の如きハガキが達した。
「今日の御話しもほんとによかつたネー、こんなに毎日曜日に私たちが喜んでゐるのを先生は御存知かしらん」「ほんとにネー」、此れは今日午後帰路に丸の内の講演会で見掛けた婦人連の間に交はされた会話が通りすがりに私の耳に入つたので御座います、死んでからの花輪より生きて居るうちに同情の一句でもと云ふのが私の持前で御座いますので一寸筆を取りました云々。
と、此はまことに花輪以上の贈物である、斯るアップリシエーシヨン(価値承認)があると聞いてモツト行《やら》うと云(184)ふ気が出るのである、説教は知識の伝播でもなければ精神の伝達でもない、|自己の分与である〔付○圏点〕、他人の為に自分の霊魂を注出《そゝぎいだ》す事である、実は斯んな骨の折れる仕事はないのである、而して此疲労を癒し得る者は神の聖霊を除いて聴者《きくもの》のアップリシエーションの外に無いのである、或場合には「有難う」の一言に説教師の疲れし霊魂を復活《いきかへ》らしむる能力《ちから》があるのである、聴者の之を吝《をし》まざらんことを願ふ。
十二月三日(水)曇 第二回|三村会〔付○圏点〕を我家に於て開いた、田村君は欧米漫遊より帰つたばかり、故に土産話《みやげばなし》は尽ず、不相変君が第一の喋り役であつた、松村君又大に語り余は主として聞き役であつた、余りに声が高いので近所の者は家に酒盛が始つたかと思ふたさうである、然し三人共に正気を失つたのではない、新旧の話が余りに面白いので酔ふたやうに聞えたのである、十一時半に始まり四時まで続いた、然し話は尽きなかつた、松村君が近代人に騙されし話を聞いて自分の実験談を君から聞くやうに感じた、実に辜の無い大きな小供の会合であつた、アハーアハーと四時間笑ひ続けて頤《をとがひ》が解けさうであつた。
十二月四日(木)晴 理学士大賀一郎大連より来り二年振りにて相会して嬉しかつた、先づ第一に満洲の動植物、農業、山林、漁業等に就て聞き大に教へらるゝ所があつた、蒙古の宗教も亦談話の面白い材料であつた、彼れ大賀は旧い角筈十二人組の唯一人のレムナント(信仰的残存者)である、他の理学士、文学士等は尽く余を離れたが彼れ一人残つて居る、余に取りては貴き一人である、而して彼れ一人を得んが為には九十九人の背信者を出しても惜しくはない、「縦ひ師は一万ありとも父は多くあることなし、蓋《そは》我れキリストイエスに在りて福音を以て汝等を生めり」とあるが如く、弟子は多くありとも子は尠いのである、信仰と祈祷と苦痛を以て生みし信仰の子供は値《あたひ》高き真珠よりも貴くある。
(185) 十二月五日(金)晴 瑞西《スヰツツル》国宜教師フンチケル民夫婦の訪問を受けた、中欧諸国の実状を聞いて戦慄した、リガの市《まち》に於ては鼠と猫を食ひ尽し、終に赤子を食ふに至つたと云ふ、アルサス・ローレンは独逸より離れしと雖も仏国に帰還するを好まず独立を計画しつゝあると云ひ、独墺の或る部分に於ては戦争の結果として人民の気質に大堕落を生じ、白昼街上に強盗を働らき、人の金を奪ひて後に殺す者さへあると云ふ、其他実に名状すべからざる状態であると云ふ、今年の冬は寒気と食物欠乏の故を以て人は蠅《はい》の如くに死するならんと云ふ、而して休戦後一年の今日欧洲をして此状態に於て在らしむる其罪ほ誰の罪である乎、英国と米国とは此罪より免かるゝ事が出来る乎、実に恐ろしきは欧米人である、彼等が敵を憎むの激さは到底亜細亜人の及ぶ所でない、而して此際最も幸福なるは小なる瑞西国である、国民に絶対的自由が有るが故に独仏伊三国の民が結合して一国を成すも内に内乱なく外に戦争なき状態に於て在る、瑞西国が拡大せられて全欧洲と成る時に其個の平和は欧洲全土に臨むであらう、其他宗教に就き、政治に就き、殖産に就き種々と談話を交へて別れた、英米宣教師は時たま訪問する事あるも説教依願の為にあらざれば自分の奉ずる教義を説法する為である、フンチケル君の如くに相互に時々純然たる友誼的訪問を交換する宣教師は他に求むることが出来ない、凡の宣教師が宣教師である前に先づ友人《フレンド》であつたならば嘸かし良くあるだらうと思ふ。
十二月六日(土)半晴 雑誌校正を終る。岩野泡鳴氏主幹雑誌『日本主義』に余の|愚鈍〔付△圏点〕を嘲ける同氏の断片語が載つて居た、誠に恐縮の至りである、基督教会よりは異端偽善又は迷信を以て罵られ、日本主義者等よりは愚鈍非国民を以て遣附らる、斯く内外より攻立られては溜つたものではない、然し或る西洋人が曾て余を慰めて呉れたやうに You will survive it(君は其攻撃にも堪へて生き残るであらう)である、若し他人の攻撃が余を殺し得(186)るならば余は疾くに死んで居るべき筈の者である、然るに今尚ほ生きて居る所を見れば此攻撃にも堪へて更に長く生き残るであらう、余の攻撃者よ健全なれである。
十二月七日(日)晴 昨夜大雨、今朝に至て霽る、又復感謝の声を揚げた、午後の集会、普通以上の盛会であつた、中田重治君にユダヤ人に就て話して貰つた、而してユダヤ人伝道の為に喜捨金を募りしに五十七円を得たれば之を中田君に託して在倫敦伝道本部に送つて貰ふことにして嬉しかつた、余は「罪の赦し」に就て語つた、自身に取り満足なる講演でなかつた、何やら七百余の聴衆に対して済まなく感じた、余は唯余の最善を尽してキリストの十字架に関し余の信仰上の証明を為したに止まる、神が此憐れなる努力を恵み給はんことを祈る。
十二月八日(月)晴 不相変疲労の月曜日である、説教は余を疲らせない、是は大なる快楽である、疲らする者は教友の個人間題である、彼等の内の或者が過誤《あやまち》に陥る時に之を取戻さんと努力して非常に心思を労するのである、然し是れ亦避け難い事である、「我が兄弟よ、汝等の内或ひは真《まこと》の道より迷へる者あらんに誰か之を引反《ひきかへ》さば、此人知るぺし罪人を其迷へる道より引反すは乃ち其|霊魂《たましひ》を死より救ひ且つ多くの罪を掩ふことを」との雅各書末草末節の言を思出さゞるを得ない。
十こ月九日(火)晴 静かなる良き一日であつた、引続き利未記と星学の研究的復習に興味津々たる者があつた、学んで而して時に之を習ふ亦楽しからずやである。夜に至り雲晴れ、冬天の星覗き荘厳言語に絶せりであつた。
(187) 十二月十日(水)晴 寒気強し。米国ボストン市発行雑誌『ウエルスプリング』にハートホード神学校時代の同級生トマス・C・リッチヤーヅ氏の筆に成る「日本国の青年大投手」なる短篇が載つて居るのを見た、野球戦士としての我家の青年を米国の読者に紹介すると同時に三十四年前の余の学校生活に就き彼の回想を述べた者である、非常に懐しく感じた、彼れリッチヤーヅは余に深き同情を寄せて呉れた者の一人であつた、文通を断つこと茲に三十年、然も彼れ余を忘れざるのみならず余の其後の生涯の径路に就て知ること極めて精確であるのに驚いた、米人悉く財神《マモン》の奴隷に非ずである、其内に少数なりと雖も真正《ほんとう》のクリスチヤンがある、祈る米国に其清党的精神の永久に絶えざらん事を 〇此日家の青年向陵野球団投手として北米合衆国戦闘艦サウスダコタ号野球団と一高グラウンドに戦ふ、国際的競技として大なる注意を喚んだ、余も力瘤を入れざるを得なかつた、米国に負けてはならぬ、キツト勝つと云ひて彼を送り出した、而して果せる哉二十対二にて大勝利を博した、米国恐るゝに足らずである、野球戦ばかりではない、宗教に於ても同じである、我等は米国宣教師以上の事を為すことが出来る、余りの嬉しさに書籍代として金若干を青年に与へて彼の戦功を賞した。
十二月十一日(木)晴 夜近隣の柏木聖書学院の講堂に於てユダヤ人問題研究講演会を開いた、市中より来り会する者四百余人、盛会であつた、車田 藤井の二氏並にワイドナー女史と高壇を共にした、余は哥林多前書十五章八節「月足らぬ者」ektroma なる詞の意味に就て語つた、此会合は昨年の再臨運動の継続として見るべき者である、而して再臨の信仰に対する攻撃反対の激烈なるに関はらず其の益々広く且つ深く信ぜられつゝあることが此会合に由て証明された、デモクラシー、改造運動と、此世の主張は次へ次へと変り行くに対して神の真理の年と共に移らざることが証明されて愉快であつた。
(188) 十二月十二日(金)晴 十二月号雑誌が出来た、今年も亦滞りなく十二冊の雑誌を作ることが出来て感謝の至りである、何時まで続くのであらう乎、多分死ぬ時まで続くのであらう、或ひは多分死んだ後まで続くのであらう、人や教会に依らずして神に依りて起せし事業はすべて永久性を帯ぶるやうに見える 〇此日博士《ドクトル》J・A・ザイス著『利未記講義《ホーレー・タイプス》』を読み了つた、余が今年読みし書の中で最も有益なる者の一である、利未記は旧約聖書の中心である、此書が解らずして聖書は解らない、青年時代に有名なる博士《ドクトル》フェヤバーン著『預表論《タイポロジー》』を読みし以来利未記に関する註解書を読みしことは之で第四冊である、やはり『預表論』に及ぶ者はないと思ふ、然しザイスの註解は其次ぎである、深い興味多き研究である。
十二月十三日(土)雨 初雪を見る、静かなる書斎の一日であつた。
十二月十四日(日)晴 引続き好き安息日であつた、聖書研究会の聴衆前回よりも少く、五百人余りであつた、然し余自身に取りては前回よりも遥に優りたる講演を為したる積りである、哥林多前書一章三十節の説明は余の「お箱」とも称すべき者、之を講じて今日まで未だ曾て一回も不満足を感じたる事がない、救の途は神の側に在りては義と聖と贖、人の側に在りては信、福音の真理はそれで尽きて居るのである、T・C・エドワーヅの註解書は新らしき光明を余に与へた。
十二月十五日(月)曇 良き休息の月曜日であつた、聖書と星の事に就て学び且つ考へ、平和の一日を過した。新聞紙を読むの興味を全然失つた、毎日唯目を通うすまでであつて、五分以上を其為に費すの必要を感じない、「蓋見ゆる所の者は暫時《しばらく》にして見えざる所の者は無限《かぎりな》ければ也」である、此世の事に就て聞くは泡の事の事に就て聞(189)くと同じである、今成つたと思へば直ぐに消ゆるのである、大臣も監督も、政府も教会も皆同じである、神の聖書と其造化、是れのみが永久的である、是れさへ学べば他の事は知らずとも可い、幸福《さいはひ》なる歳の暮なる哉。
十二月十六日(火)半晴 黄道十二宮の歴史的研究に多大の興味を感じた、夜空晴れ、小熊七星の位地を定むることが出来て嬉しかつた 〇法学士岩永裕吉夫婦の訪問があり、彼より彼が近頃実見せし戦後の独逸の状況を聞いて戦慄した、軍閥政治の恐ろしき事を今更ながらに感じた、此際独逸が一たび倒れし事の世界人類に取り大幸福でありし事を認めざるを得ない、欧洲諸民族に対し深き同情なき能はずである。
十二月十七日(水)晴 近頃に至り「先生のお顔なりと拝見せんと欲して参上致しました」と言ひて余を訪問する者が折々ある、余は斯かる人等に告げて言ふ「余は他人《ひと》に見せる為の顔を有たない、又君等は人の顔を見たとて何の益にもならない 神を信じキリストを仰げば、それで人の顔を見る必要は全然無くなるのである」と、日本国に未だ人物崇拝が絶えない、甚だ歎ずべき事である、余の如き詰《つまら》ない者の顔を見てまでも多少其心に慰安を求んとする其人等の憐れさよ、余は彼等を帰《かへ》して後に彼等の為に祈る事が屡々である。
十二月十八日(木)晴 終日書斎に在りて勉強。東京聖書研究会出席者のクリスマス献金処分の事に付き相談せん為に高輪伊藤一隆を訪ひ、之を瑞西に送り彼国の同志に託し、中欧諸国窮民救助の資に当つる事に決した、額は少なりと雖も人類的同情を表する為に之を使用し得るは大なる特権であり又歓喜である、世界何れの所に在るもすべて苦しむ者は我兄弟であり又姉妹である。
(190) 十二月十九日(金)晴 小石川上富坂町に瑞西宣教師フンチケル氏を訪ひ寄附金送達の事を依頼した、微少《わづか》なりと雖も国際的慈善を為すの如何に楽しき哉。
十二月二十日(土)晴 牛後今井館聖書講堂に於て東京聖書講演会出席婦人の接待懇親会を開いた、来り会する者五十人余り、女子高等師範女子大学等の女学生多数を占め、外に横浜 埼玉県等より参会せし姉妹もあつた、ホフマンの名画「小児キリスト」の解釈、蓄音器の奏楽等あり、寛《くつろ》いだる至て楽しき会合であつた、其の来会者に如何なる感覚を与へし乎は其内の一人なる某姉妹より達せし左の書面に由ても判明《わか》る。
始めておくつろぎになつた先生並に御家庭をお見上げ申上まして何となく胸の軽やかさを覚えました、いつも今少し自分自身の信仰をハツキリさせてから個人として先生にお目にかゝろうと存じて居りましたでなれど先生の尊厳を傷つけるやうに存じられますので、でも思いきつて今日うかがつて宜敷うございました、自分に対する或負債を果したやうに感ぜられますので、これから尚厚かましく参上しまして御教を願ひたいと存じて居ります。
此書面を読んで余はバルナバとパウロがルステラの人等に告げしやうに言ひたくなる「我も亦汝等と同じ情を有つ所の人なり」と(行伝十四の十五)、余に勿論寛厳の両面がある、真理のためキリストの福音の為に立つ時に余は厳ならざるを得ない、然し父とし夫とし友人としては余は大に甚だ寛《くわん》なる積りである、キリストの福音を身に実行せんと欲して此等両面のあるは免れ難いことである。
十二月二十一日(日)曇 午後の講演会不相変盛会、来会者五百余、余は「ベツレヘムの星」に就て講じた、天文学的に、歴史的に、人種的に論じて面白い題目である、会後階下の中講堂に於て有志のクリスマス晩餐会を催(191)した、食を共にせし者百五十余人、感話あり祈祷ありて愛情に溢れたる会合であつた、聖書研究会員のクリスマスとして最も相応しきものであつた。
十二月二十二日(月)晴 疲れた、終日家に在りて休んだ、天文書を読み少しく星を覗きし外に何にも為さなかつた、聖誕節の基督敦の教師は多忙なるものである、故に疲労は免れない、各地の友人より書面と土地の物産とを送り来る、台所は物を以て、机は書面を以て埋《うづま》る、相変らず感謝のクリスマスである。
十二月二十三日(火)晴 新聞紙は日本メソヂスト教会前監督神学博士平岩愃保君が教会を去つて独立伝道に従事せらるゝを報ず、同君が小崎老牧師と共に東京の諸教会を代表して余を青年会の講壇より逐はれしは昨日の事であつた、然るに其教会の重鎮が今日は教会を放れて独立伝道に従事せらるゝと聞き余は不思議の感に打たれざるを得ない、然し過去は過去である、余は神が平岩君の新決心に祝福を垂れ給はんことを祈る。〇午後芝|聖坂普連土《ひじりざかふれんど》女学校に招かれ其クリスマス祝賀会に於て演説した、友会《フレンド》と余とは関係浅からず、茲に又此友情交換を見る、喜ぶべき哉。
十二月二十四日(水)晴 全国に散在する多数の教友は種々《いろ/\》の方法を以て此佳節を祝して呉れる、此頃は毎日謝礼の手紙書きで多忙である、キリストの福音を説くの幸福はクリスマス到る毎に痛切に感ぜられる、或る匿名婦人の書面に曰く「私には恩人が沢山御座候へども『聖書之研究』誌にまさる御恩人は御座なく候、一年毎に真《まこと》の生《いのち》の目あてをあきらかに、且よろこびに導き給ふ先生の御労に対しクリスマスを迎ふるに際し深く々々御礼申上奉り候……此金子聖き業によりて与へられしもの、誠にいさゝかに候へども主の御前に捧げまつり候、主よ々々(192)うけいれ給へアーメン」と、又和歌山県の或る読者よりの書翰に曰く「小生も求道してより茲に十八年、終りまで忍ぶ者は救はるべしとの聖言により細き信仰と静かなる田舎の運送業店員の生活を続け居り申候、目下当地は蜜柑出盛期とて繁忙中に御座候、余の信仰をして今日までといはず又明日も先生の研究誌によりまして忙中快を得申候、聊か微意を表したく、茲に蜜柑小箱壱個也進呈致し候間御笑納被下度候」と、斯かる主の小さき者等に慰安《なぐさめ》の水一杯づゝなりと給する事が出来て余の満足此上なしである 〇夜柏木兄弟団のクリスマス晩餐会が催された、参会者男女四十六名、信仰的意義を離れざる楽しき会合であつた。
十二月二十五日(木)晴 昨夜強雨、朝に至て晴る、暖き好きクリスマスであつた、友人の訪問引きも切らず誠に楽しきクリスマスである。
十二月二十六日(金)晴 引続き遠近の友人と愛の交換にて多忙である、余が受くる者は品々であつて余が与ふる者は唯余の著書のみである、鯛を貰つて海老を返礼するやうに感ずる、然し止むを得ない、余には之れ以外のものはないのである 〇此日聖書は馬太伝第八章と九章とを研究した、星は鯨座の主なる者を見定めた、今や有名なる奇跡星オミクロン号は肉眼を以て見ることが出来ない。
十二月二十七日(土)曇 今井館に於て東京聖書研究会出席者中の学生並に労働者を招いて親睦会を開いた、来り会する者四十人、前土曜日の婦人招待会に勝さる有益なる会合であつた、来会者各自の感想に興味津々たる者があつた、余は斯くも誠実なる青年が日曜日毎に余の講演を聴きつゝありたりとは今日まで知らなかつた、殊に(193)驚いたのは彼等の間に基督再臨の信仰の熾んなる事である、信仰に於て、勇気に於て、又智識欲の旺んなる事に於て、余は未だ曾て斯る青年の一団に接したる事はない、喜びの余り立どころに|柏木青年会〔付○圏点〕の成立を提議せしに満場一致にて之を可決した、東京聖書研究会の将来に希望満々たる者がある、感謝々々。
十二月二十八日(日)雨 市中講演会を休む、午後横浜に到り同志の会合に臨み、羅馬章十二章十二節「望みて喜び」の一句に就て講じた、来会者三十余名あり、今年最終の安息日として亦楽しき日であつた、十時柏木に帰つた、余の安息日は年の始めより終りまで悉く勤労的安息日である、如斯にして一生を終るのであらう。
十二月二十九日(月)晴 多忙なりしクリスマス週間を終りて少しく寛《くつろ》いだ、慕はしきは書斎に於ける静かなる読書の時間である 〇夜また友人の家に招かれて夕飯の饗応《ふるまゐ》に与つた、会食また会食である、欧洲に在りては食物不足のために斃るゝ夥《おびたゞ》しき此時に方りて勿体なきことである。
十二月三十日(火)晴 フンチカー氏を訪ひ吾等の少しばかりの同情金を託し欧洲への伝達を依頼した、金四百円を得たれば之に左の覚書《おぼへがき》を附して同氏に渡した。
in Jesus'Name-To sufferers in Europe、-Through our Swiss friends,-From Japanese Christians who attend the Bible-Class of Mr.Kanzo Uchimura inTokio,Japan,-The Sum of Four Hundred Yen.
(イエスの聖名に託りて……欧洲に於ける戦罹災者へ……瑞西に於ける吾等の友人を経て……日本東京に於ける内村鑑三氏の聖書講演会に出席する日本の基督信者より……金四百円)
之を受取りしフンチケル氏夫婦の喜びは非常であつた、吾等今日まで常に欧米人より援助を受け来りし者、此際(194)彼等に幾分の報恩を為すは最も適当なる事である、吾等の此同情の幾分なりとも彼等の苦患《くるしみ》を除くに至らんことを祈る。
十二月三十一日(水)晴 静なる好き大晦日である、愛の外に何人にも何の負ふ所なく、すべて必需物《なくてならぬもの》は充分に与へられて平穏に此年を送るを得て感謝に堪へない、我が生涯の始めに苦しみ多かりしに代へて終りに近づくに随ひて幸《さち》多きは何たる恩恵ぞ。此日米国|医学博士《ドクトル》バーより送り来りし沙翁《シエークスピヤ》全集の中より余が青年時代に諳誦せし部分を家の青年に読み聞かせて今更らながらに大劇作家の絶大の天才を嘆賞した、聖書と沙翁全集此の二冊ありて書籍は充分である、之に天然科学を加へて人間の学ぶべきすべてが供給せらる、其他の哲学、社会学、神学等は読んで益なく、反て身と霊《たましい》とを滅すの虞がある 〇午後基督教書類会社へ行き、ローゼラム著「詩篇研究」とブリンガー著「約百記改訳」とを買ふた 新年の好き読物である、家に帰り三谷|姉弟《けうだい》の訪問を受けた、気持好き姉と弟とである、夜に入りて青年と共に蓄音器を以てパドリユースキー、クライスレル等の大音楽を聞いた、最後にフハラー嬢の Abide with me(日くれて四方《よも》 はくらく)を聞いてそれを我が祈祷として此恩恵溢るゝ一年を送つた、大々的勝利の一年であつた、大々的感謝の一年であつた、ハレルヤー!!
(195) 一九二〇年(大正九年) 六〇歳
一月一日(木)好晴 心地好き元日である、先づ第一にロザラム著「詩篇研究」に依り詩の第十九篇を研究した、続いてブリンガーの著書に由りて約百記最後の言の意味を探つた、気持好きは主の再臨を信ずる聖書学者達の人生観である、シェークスピヤを産せし英国に穏健なる聖書学者が居る、彼等に由て教へられて吾等は誤らない、彼等と信仰を共にして聖書智識を我同胞に供せんとする余の身は幸多き哉! 或る旧き友人よりの年賀はがきに「直《すぐ》なるも曲るも己《おの》が心かな、ふみ来《き》し道の跡見返れば」との一首を書加へられたれば、余は返歌として左の二首を彼に書送つた
喜びも悲しみもみな恵かな、ふみ来し道の跡見返れば。
我が前に置かれし栄え望みつゝ、ふみ来し道を見返りもせず。
余の信仰は内省でもなければ改悔でもない、唯感謝と希望とである。
一月二日(金)晴 朝約百記を読み非常に感じた、遠からずして之を丸之内に於て講ぜんとの欲を起した、実《まこと》に世界最旧の書であつて同時に最大の書である、沙翁劇などの到底及ぶ所にあらずである。手元に達せし多くの年賀状の内に本宮銀行頭取原瀬半次郎よりの左のものが最も気に入つた、彼の言は最も善く『研究』読者の意を言表はしたる者であらう、
謹啓 茲に又千九百二十年の新なる日を迎へ候、世は新思想とやら、デモクラシーとやら、改造とやら、或(196)は彼処《かしこ》にストライキあり、此処《こちら》には怠業あり、卑怯なる物慾の戦争は武器の戦争に代りて不相変戦争最中、真に同情に不堪次第に御座候、此間にありて我等のみ絶対の平和を感得して心裡常に春光満ち、深淵波静に、齢益々多くして身心更に若く、聖所日に近づきて歓喜と感謝の絶へざる事誠に恩恵の極みと存候、四十五歳の青年遥かに六十歳の幼先生の祝福を祈り候、敬具。千九百二十年一月一日、原瀬半次郎、内村先生机下
然り、然り、彼れ頭取は|青年〔付○圏点〕であり余は|幼先生〔付○圏点〕である、我等長く此世に生きて共に働き且つ闘うであらう。
一月三日(土)晴 静かなる好き一日であつた、手紙書きと聖書研究に全日を費した、年賀状は猶ほ来りつゝある、其内に無意義なる「謹賀新年」多数を占め、又稀れに甚だ滑稽なる者あり、而して又少数の真情に溢るゝ者がある、岡山県真庭郡川東村々長小松鉄一郎君のそれの如きは真《まこと》に有意義の新年奨励である。
謹奉賀新年 平素の御疎情を拝謝し併せて吉報を呈上致候、即ち当地所轄〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇氏兼て先生の著書を読み居りしに旧臘先生の旧著『求安録』を一読、非常の感に打たれ、内部一変、平和と歓喜に充たされ官職を辞し此の喜びを伝へ度しとまで申出さるゝに至りし事に候、先生の旧き著書が今日猶溌剌たる生命を齎らし、人の肺腑に基督の光と力と平和と喜びとを伝ふるの不思議を実見嘆服仕候(辞職の件は思止まり静に主の聖前に祈り居られ候)
是は余に取り確に有難い吉報である、説くべき者はキリストの十字架の福音である、其効力の尽くる時は無い、今でなければ百年二百年の後に至りて人を救ふて止まない、余は勿論今年も亦引続いて此福音を説く積りである、時を得るも時を得ざるも。
一月四日(日)晴 今年第一日曜日である、第一回の聖書講演会を例の通り丸之内私立衛生会大講堂に於て開(197)いた、会衆いつもより少く、四百人余であつた、旅行者と帰省者の多かりし為であらう、然し献金はいつもより多く、八十二円あつた、牧師吉岡弘毅君七十四歳の老齢を重ねて年長者として会衆に一言の勧辞《すゝめ》を述べて呉れた、一同大に感奮する所があつた、続いて余は但以理書研究準備として詩篇第八篇を講じた、神は其栄光を天に置き給ひて嬰児《をさなご》乳呑児《ちのみご》の口により力の基《もとゐ》を築き給へりと云ふ絶大の対照《コントラスト》に就て述べて自分ながらに非常に気持が好くあつた。
一月五日(月)晴 仕事始めを為した、藤井と共に一月号雑誌の校正を為した、今年も亦校正を以て始め校正を以て終るのであらう、|校正〔付○圏点〕何時《いつ》までも恐るべしである、後《あと》は来客に接し手紙を書いた、何百通と云ふ年賀状に対して一々返辞を書くことは出来ない、万々止むを得ざる者に対してのみ書き余は赦して貰つた。
一月六日(火)曇 少しく打《やら》れた、然し風邪ではない、腹痛である、クリスマス以来会食連続の結果であらう、寝室に籠り完全なる休養を得た、痛み去りて後にウエッブの望遠鏡使用に関する注意を読んで有益であつた、聖書と星、真《まこと》に楽しい正月である、床の中に在りてまでも永遠の天国と無限の宇宙に就て思ふ、新聞紙は馬鹿気切つて読む気に成らない。
一月七日(水)半晴 腹痛未だ全く癒えず炬燵に籠りて読書した、但以理書講演の準備として古きバビロニヤ史の復習を為した、早い頃読みしセイス、ローリンソン、ブッジ、ルノーモン等の著書が今に至て用を為すかと思へば嬉しい事である、為すべき事は青年時代に於ける読書である。
(198) 一月八日(木)晴 腹部大抵本復、然し大事を取り家に留まり読書と来客接待に従事した。夜《よる》空晴れ南方の水平線に近く鳳凰星座《フイニツクス》のアルフア号を見留めた、其下にカパ号あり、其上に彫刻師座《スカルプトル》の六等星一個がある、一夜に一星づゝ覗き之に全注意を払ふの得策なるを覚つた。
一月九日(金)晴 雑誌の校正待てども来らず、依て自身秀英舎工場に行き校了して帰つた、『研究』誌を発行してより茲に満二十年、今に猶ほ秀英舎通ひが止められないとは困つたものである、然しキリストの福音の為であると思へば少しも辛くない、帰途牛込教会牧師田島進君を訪問し、神学と教会とに就て種々《いろ/\》の事を聞いた。此夜ペルセウス座の複重星ゼータ号と鳳凰座のベータ号とガマ号、外にエリダヌス座の主《おも》なる三等星七個を覗いた、近頃にない獲物であつた。
一月十日(土)晴 静かなる春のやうなる日であつた、大なる興味を以て士爵《サー》R・アンダーソンの但以理書論を読んだ、茲に亦信仰上並に学問上の大問題がある。新聞紙は伯爵芳川顕正氏の死去を報ず、伯は教育勅語発布当時の文部大臣として伯の生涯は余のそれと関係なき者ではない、余の主張は勅語は謹で守るべき者であつて拝《をが》むべき者ではないと云ふにあつた、然し日本国民は余の此主張に少しも耳を藉《かさ》ずして余をたゝき伏せて了《しま》つた、然し余の主張にも幾分かの真理はあつたと思ふ、若し日本国民が教育勅語を実行するに方て之を崇拝するだけ熱心であつたならば、彼等は今日の如き道徳的混乱状態に陥ゐらなかつたであらう、然し事は既に過去の歴史と化した、今後は芳川伯も余と同じく神の裁判を受けなければならない、其時伯の正二位勲一等は何の用をも為さないのである、「一たび死ぬる事と死して審判《さばき》を受くる事とは人に定まれる事なり」とある、我等何人と雖も其大審判わ時に義とせらるるを得ば此世の毀誉褒貶は少しも顧るに足りないのである。
(199) 一月十一日(日)晴 午後の集会又復盛会、階上階下に空椅子《からいす》は少かつた、会衆五百より多く、六百には不足したであらうと思はれる、此日より旧約但以理書の講義を始めた、而して序言と第一章を講じた、自分ながらに非常に面白かつた、エルウイン、アマスト時代に於て読み且つ学びし事どもが今日用を為したのである、ジヨージ・ローリンソン著『太古七大帝国史』同『古代宗教史』ルノーモン著『カルデヤの魔術』カウルス著『以西結書並に但以理書註訳』……是等の書類が今日此時用を為さうとは夢にも思はなかつた、予め今日あるを知り給ひて余をして早き頃斯かる研究を為し置かしめ給ひし神に感謝せざるを得ない。
一月十二日(月)曇 るつ子の聖化日である、午後主婦と相携へて雑司ケ谷に「再た会ふ日まで」の碑を見舞ふた、彼女去りて茲に全九年、毎日彼女を想出さざる日とてはない、而して如何《どう》見ても彼女の去りしことは最も善き事であつた、彼女は余を通うして大なる伝道を為しつゝある、自分の子を失つたことのない者は幾ら神学書を読んでもキリストの再臨は解らないと思ふ、神は余をして高価なる授業料を払はしめ給ひて此大なる真理を余に示し給ふたのであると信ずる。
一月十三日(火)晴 南風強し、一月号雑誌出来、発送す、年末年始に際し諸事取込み、万事粗雑に流れ易し、此号印刷に間違《まちがひ》あり、内容又面白からず、読者に対し済ざる感がする、但し休刊するに勝ると信ずる、主が此不完全なる産物を特に恵み給はん事を祈る、一月号三千六百部印刷、但し発行以来|記録《レコード》破りの部数である。
一月十四日(水)晴 夜今井館に於て祈祷会を催した、来会者二十名。
(200) 一月十五日(木)晴 晴天打続き夜の星覗き興味多し、既に東天に現はれし獅子座の主なる星の地位を見定めんとして努力した、其他旧稿の訂正、旧著の重版等に全日を費した。
一月十六日(金)晴 天気晴朗、春の日の如し、朝独り郊外に散歩し、椋樹《むくのき》の枝高く小禽《ことり》の戯れるを見て楽んだ、新聞紙は社会に幾個の重大問題の起りつゝあるを報ずる、然し乍ら聖書の預言に照らして是れ必然起るべき事なるを知りて軽く視る事が出来て神に感謝する、神を離れし民等が如何なる危険思想を懐きたればとて敢て怪しむに足りない、此際クリスチヤンの為すべき事は只熱心に主の福音を唱ふる事である。
一月十七日(土)晴 寒気強し、札幌時代の同級同室の友理学博士宮部金吾君欧米漫遊より帰り、彼の訪問を受け種々の事を聞かして貰ひ大に教へられた。
一月十八日(日)晴 先づ朝早く起て弦月と金星とが暁天に輝くを見た、実に瑠璃の板に金剛石二箇を鏤《ちりば》めたやうであつた、之を電気灯に比べて見て天と地との相違があつた、余は家人に示して云ふた、彼《あれ》なるは天の光り、是《これ》なるは地の光りである、神の真理と人の学説との相違は暁天の金星と市街を照らす電灯との相違であると、我等聖日を迎へて先づ第一に此貴き教訓に与りて感謝した。昼食をしたゝめ、例《いつも》の通り講演会に行いた、来会者堂に充ち六百人以上あつたらしくある、余は前回に引続き但以理第二章を講じた、バビロン文明に就て語り、ダニエル第一の預言を解する為の準備講演を為した、余り熱したる講演ではなかつた、然し止むを得ない、説教会ではない、聖書研究会である、研究的態度を以て之に臨まざる者をば斯かる乾燥無味に近き講演を以て屡々篩ひ落(201)すの必要がある、余自身に取りては不満足なる講演ではなかつた。
一月十九日(月)半晴 朝五時に起き東天を望みしに月は未だ昇らざりしも金星は蠍座の諸星の一聯に絡まれて美しかつた、此座の主星アンタレスの黄玉《トパズ》に対して金星の金剛石《ダイヤモンド》は冬天の双玉と称すべきであらう、斯の如くにして始まりし此月曜日は良き休日であつた。
一月二十日(火)晴 暖き日である、咋朝同然早く起き蠍座諸星の観察を続けた、天秤座、蛇遣座の諸星と相対して見て美観響ふるに物なしである、独り東天を望んで暫らく嘆美の声を禁じ得なかつた、解放、世界改造等を叫ぶ人達は毎朝彼等が床を離るゝ前に斯《かゝ》る美観が彼等の頭上に呈せられつゝある事を知るであらうか、双眼鏡一箇を手にして書斎の窓に凭掛《よりかゝ》りながら我は独り宇宙の荘美を擅《ほしいまゝ》にする事が出来て感謝する。
一月二十一日(水)晴 午後二時我家に於てモアブ婦人会月並例会が開かれた、来会者九名、孰れも我等と類を同うする質素なる婦人である、モアブ婦人ルツを理想として集れる是等の婦人は所謂近代式たらんと欲するも能はない、夫を重んじ子供を重んじ、アブラハムを主と称《よ》びしサラの女達《むすめたち》である、ユダヤ婦人は日本婦人と同じく東洋婦人であつた、故に西洋婦人とは全然性質を異にした、ユダヤ人に由て書かれし聖書に由りて婦徳を養はんと欲する日本婦人は新らしき婦人たらんと欲するも能はない、余は信じて疑はない、旧式の日本婦人は新式の米国婦人よりも遥かに聖書の理想婦人に近くある事を、日本婦人は|それなり〔付○圏点〕キリストを信ずればそれで可いのである、英国婦人又は米国婦人に傚ふ必要は少しもない、此日恰かも過る十七年間余の心の友たりし水野いし子永眠の報に接した、彼女は旧山形藩家老の家に主婦たりし者、彼女の一子※〔原/心〕君の事より親しき関係に入り、清き友(202)情を持続して今日に至つた、彼女は真《まこと》の日本婦人にして其心詭譎《いつはり》なき者であつた、洗礼を受けたる基督信者ではなかつたが能くキリストの御心が解り終りまで『聖書之研究』の愛読者であつた、十二月廿三日|齢《よはい》七十四歳にして感謝を以て安き眠に就いたとの事である。
一月二十二日(木)晴 西北の風にて寒し、少しく咽喉をやられた、雑誌編輯始まり気持宜し、聖書を手にして働く時が余の此の世に於ける極楽である 〇時は夕の五時半、「余輩の立場」なる一稿を書き終り、書斎の窓より晴れ渡りたる東南の空を望めば水平線よりピカリ々々々と輝きて昇り来る者がある、怪で窓外に頭を出し之を他の諸星と相対して見れば果せる哉星界の王《キング》なる天狼星《シリヤス》である、我れ彼の名を呼べば彼は億万里外より我に応《こた》ふるが如し、慰藉の友、奨励の師、語らず言はず其声聞えざるに其|音響《ひゞき》は全地に普《あまね》しである、斯く黙想しつゝある間に大阪の江原万里より赤ん坊が生れたから名を附けて呉れとの依頼の電報が達した、彼の依頼を待たずして余は既に三時間前に「栄光の栄の字を取り栄《さかえ》と命名す」と彼の若き細君の居る所に電報を打つて置いた、|星と赤ん坊〔付○圏点〕、余の愛する善き対照物である。
一月二十三日(金)晴 引続き北風にて寒し。心に在る事は何でも之を外に言表《いひあら》はすのが正直である義務であると思ふ信者がある、然し余はさうは思はない、余はすべて喜ばしい事は之を言表はして他《ひと》と共にし楽まんとし、悲しい事は成るべく之を心に蔵して独り之に堪へんとする。他の過失《あやまち》を責むるよりは彼の為に祈る方が彼の為にも我の為にも遥に益が多い、余は今は教会革正を叫ぶを止めてその為に神に祈りつゝある、而して革正の実の着々として挙り来るを目撃する、信者には祈祷と云ふ有力なる武器がある、彼は之を利用して独り密室に神の前に跪きて異端をも挫く事が出来る、腐敗をも除く事が出来る、噫祈祷なる哉、祈祷なる哉である。
(203) 一月二十四日(土)曇 夜雨降る、昨夜の星覗きはステキであつた、オライオン星は頭上に来り、其星雲すらハツキリと見留める事が出来た、山羊座の鬼質《プレセペ》も亦其星団を現はし、殊に地は今や冬の真中《まなか》なるに春の星なる獅子座の諸星が其主星なるレギユラスに率ゐられて頭上近く遣《やつ》て来るを見て希望衷に湧かざるを得なかつた、感謝、感謝を続発しながら床に就いた 〇此日米国の或る宗教雑誌に掲げられたるC・T・スコーフィールド氏の筆に成る論文を見て注意を又復約翰第一書に惹かれ尠からぬ慰藉と勇気とを得た、米国にも亦少数の大聖書学者が居る、ス氏の如きは確かに其一人である。
一月二十五日(日)晴 昨夜の雨朝に至りて晴る、今日も亦光明輝々たる聖安息日である、朝青年と共に蓄音器に聖楽を聞いた、心が清々として嬉しかつた 〇聖書講演会大盛会であつた、空椅子《からいす》は一箇もなかつた、確かに六百人以上の会衆であつた、余は但以理書二章ネブカドネザル王の夢の解釈を以てせるダニエルの預言に就て講じた、問題の重要なるに比べて余の熱信の足らざるを歎じた、然し何《なに》しろ此間題に就て語るを得て感謝する
〇家人の少しの不注意より既《す》んでの事火事を出す所であつた、若し我等の帰宅が一時間遅れたならば我家は灰燼に帰して居たであらう、誠に感謝の至りである、此世の所有《もちもの》の如何に危き者なるかを今更ながらに悟つた。閉会後委員等と話した事である、斯んな贅沢な伝道はない、一回四十円乃至五十円|費《かゝ》るのである、然かも説教師も委員も無給である、然し誰も何んにも不平を唱へない、皆感謝して働く、而して来会者は喜んで随意的に我等が費す丈けを置いて行いて呉れる、伝道とは斯くあるべき者である、神の御恵みに由り我等は理想に近き伝道を実行しつゝある、余自身に取りては余の四十年来望み来りし理想が実現されたのであつて感謝此上なしである。
(204) 一月二十六日(月)晴 午後中野に男爵神田乃武氏を訪問した、男はアマスト大学一八七九年の卒業にて余と同窓である、男の二子八尺君と盾雄君とは余の信仰上の若き友人である、男の先代孝平氏は維新時代の洋学者にして余の幼年時代に用ゐし教科書の或者は氏の著述に成つた者である、神の恩恵|裕《ゆたか》に此名家の上に宿らん事を祈る。
一月二十七日(火)晴 朝五時に床を出て復た蠍座の星を覗いた、其ムータ号の水平線より遠く離れざる所に二重星として光るを見た、茲に又何人にも損害を掛けずしてダイヤモンドを二箇拾つたと云ふ訳である、毎日宝石一箇づゝを拾ふとは何たる幸福の事である乎、憐むべきは双眼鏡一つで獲らるべき物を高価を払つて求むる此世の華美者《はでしや》共である 〇二月号の雑誌を書き終つた、是れで先づ一寸楽になる、独りで蓄音器に由りてパドリユスキーのビヤノを聴いた、而して後に戸山ケ原に行いて日の入を見た、甲斐に起りし雲が富士山の中腹に遮られて駿河の国へと吹き捲らるゝ状態《ありさま》を遠くより望みて偉観であつた、斯くて偉観は天にもある、地にもある、之を措て活動や劇場に「偉観」を探る人等の心が解らない。
一月二十八日(水)晴 午前は読書に、午後は雑誌編輯に費した、夜は今井館に祈祷会を開いた、来りし者は新しき信者のみ、旧き信者は一人も見えなかつた、少しく気持が悪かつた。
一月二十九日(木)雪 静かなる良き休日である、但以理書の復習引続き面白くある、和歌山県の或る読者が(205)長い手紙を書いて遺遣《よこ》し「但し日々の生涯へ御掲載は平に御許し願上候」と結んで居る、勿論掲載しない、然しそんな制限のある手紙は有難くない、雑誌記者は公人である、故に公開を憚かるやうな手紙は彼に書き遣《よこ》さぬが宜しい、勿論発信人の迷惑にならぬやうに注意するは記者の責任である、世に隠れ弁慶の多いのは歎ずべき事である。
一月三十日(金)晴 熱信生と称する東京の或る再臨信者が余を詰責して「君の信仰は形式的にして聴者又は読者をして奮起せしむる能はず、権威なく能力なき講演は恰かも浪花節常磐津を聴くが如し、而かも浪花節を聞きて悔過自奮せしもの多し、借問す君の講演を聞きて信仰を起せし者果して幾人かある」と書き送つたが全くさうとも限らないと見えて余の著書を読み講演を聞きて悔悟自奮せし者があるとの報知を受け取りて余は尠からず気力《ちから》附けらるゝのである、昨日在米国A・S氏より送り来りし書簡の一節に曰く「小生は六年前内村先生の『所感十年』を手にし、それから聖書を読み初め、研究して見たくなり、遂に経営して居りし事業を廃め、四年前アイオワ州の神学校に学び、昨年業を卒へ、是から南米ブラジル日本殖民地に主の御用を務む可く余生を捧げて参ります、小生在米十有七年の記録は『所感十年』を手にし聖書に行けとのいみじき主の御心に由て成つたものだと思へます、どうぞ祈つて下さい、主が此数ならぬ僕を御用ゐ下さらん事を」と、誠に有難い通信である、神は余を以てしても人を奮起せしめつゝある、福音は多方面である、熱信生のやうな火の如き方面もあらう、又余の如き湖水の静《しづか》を愛する方面もあらう、余は失望するに及ばない、湖辺を牛の歩むが如く徐々として迫らざる歩行《あゆみ》を余は終焉《おはり》まで続けるであらう。
一月三十一日(土)晴 帝大法科生にして丹波綾部の某氏余の許《もと》を訪はれ大本教の教理に就て諄々説き聞かし(206)て呉れた、再臨を信ずる勿れといふ者、信じやうが足りぬと云ふ者、日本式に信ぜよと云ふ者……宗教とは偖も々々面倒なる者である、斯かる場合に於て迷信と云はれやうが、異端と云はれやうが、非国民と云はれやうが自分の信ずる宗教以外に何にも信じないと断言するのが余輩の取るべき唯一の途である、余が宗教熱信家に勧めたい事は数学と理化学の研究である、欧文を読み得る者は宜しくヒュームの哲学を読むべきである、それで立ち得る信仰が尊敬すべき敬聴すべき者である、其他は御免蒙りたい者である。
二月一日(日)曇 午後の講演会相変らず盛会であつた、聴衆中に北海道、長野県、千葉県、栃木県、埼玉県、神奈川県等の教友を大分に見受けた、講演の題目は但以理書三章であつた、ハナニエル、ミシヤエル、アザリヤの三人がネブカドネザル王の命を拒んで金像を拝せざりし条を講じて自分の実験を述べつゝあるやうに感じ、言葉は自づと熱烈ならざるを得ず聴衆も亦熱化されしやうに見受けた、然し講演会に於て求むべきは冷静なる研究的態度である、熱烈は誉めた者でない、余は自己《おのれ》を抑制するの必要を感じた、リバイバル的熱火は力を尽くして避くべきである。
二月二日(月)雨 家に在て休んだ、静穏の一日であつた、アーレニウスの『宇宙生命諭』を取出し其「近世天文学大発見」の一章を読んで楽んだ、彼の射光圧力(Radiation-Pressure)の学説は多くの暗示に富み強く余の注意を惹いた、若し光線の力で物質が全宇宙に輸送せらるゝならば、復活せる霊体が億々万里外の星にまで遊び得ない理由《わけ》はない、何れにしろ我等の活動区域は此小なる一地球に限らるゝ者ではない、天狼星も、アークチユラス星も、ヴエーガも、アルタイヤも何時《いつ》か行いて見ることの出来る世界であると思へば人生は益々面白くなる、天文学の教ふる所は政治家や神学者の唱ふる所よりも遥かに壮大であつて慰藉に富む。
(207) 二月三日(火)曇 久振りにて銀座へ行いた、書店を漁りしも買ひたい本とてはなかつた、汗牛充棟も啻ならざる近代出版の宗教哲学書類は余に取り何の用もない、依て一冊五十五銭づゝの英国平民叢書中のゲーテ伝、ベーコン伝、光学、航海学、植物学の五冊を買ふた、再臨信仰の勃興は余に取り少なからぬ金銭上の利益である、余は今は蘇京《エジンバラ》のT・T・クラーク会社や英京《ロンドン》のウイリヤムス・ノースゲート会社等の出版に係る書籍を購ふの必要が全く無くなつた、今欲しい者は星を覗くための善き望遠鏡である、今日之を索《たづ》ねしも得ず其購求を眼鏡屋《めがねや》に托して帰つた。
二月四日(水)曇 騒々しき世なる哉、市中は普通選挙促進運動を以て沸騰して居る、神田の基督教青年会館は殆んど毎日のやうに其為めに使用されて居る様子である、今や社会主義は危険視されずして其反対に社会に大歓迎されつゝある、然し乍ら此時に際し余と余の同志とは平穏である、毎日命ぜられし仕事に従事し感謝と讃美を以て神の御約束の実現を待ちつゝある。此日二月号雑誌中十六頁の校正を終つた。
二月五日(木)雨 立春である「袖ひぢて結びし水のこほれるを今日立つ春の風や解くらん」の古今集の一句を口にしながら床を出た。約翰伝三章三一-三六節に於て大なる真理を見て喜んだ、多分約翰伝が余の生涯の最後の研究物として存《のこ》るのであらう。更に校正十六頁を終つた。
二月六日(金)曇 二月号雑誌校正全部了つた、是で先づ一息つく事が出来る、平凡の一日であつた、詩的なることは何にも無かつた。
(208) 二月七日(土)曇 北風にて寒し、引続き平凡の日であつた、然し無益の日では無つた。
二月八日(日)雪 午後の聖書研究会相変らず盛会であつた、会衆六百余、余は但以理書第四章ネブカドネザル王自信犬狂病(Lycanthropy)に罹りし一段に就て語つた、語るに甚だ困難なる題目であつた、会終るや雪積ること四寸、丸之内の雪景に心躍らざるを得なかつた、安息日毎に講演終へて後に或ひは夕陽に輝く旧き千代田城の杜《もり》を望み、或ひは雪に埋まる新らしき市術のペーブメント(鋪石)を践《ふ》みながら歩を東京中央停車場に運ぶ快楽は是れ余の此の勤労に対する神の特別の賜物であつて確実《たしか》に天国への好き土産話である、帰途東京駅食堂に田中工学博士と夕飯を共にし原子《アトム》と宇宙の構造に就て語つた。
二月九日(月)晴 昨夜雪積ること三四寸、今朝雪の晨《あした》、宇宙一変せるの観があつた、午前はベーコン小伝を読み面白かつた、午後南品川に病の床に臥する一青年を訪問し、彼の枕辺に聖書を読み祈祷を捧げて帰つた、|坊さん〔付ごま圏点〕の職務《つとめ》も亦|蔑視《さげす》むべきに非ずである、読経と祈祷とに智者と達者との知らざる能力《ちから》がある、余は自今自ら進んで此職務に当るであらうと決心した。
二月十日(火)晴 夜四谷三河屋に於て東京聖書講演会出席者帝国大学出身者の会食懇話会を開いた、会する者十八名、曰く長尾工学士、南原法学士、川西法学士、藤井法学士、福田農学士、坂田文学士、星野医学士、青山工学士、植木医学士、高田文学士、藤本医学士、高橋文学士、古賀農学士、田中工学博士、前田法学士、池上法学士、内村農学士等であつた、日本を救ふにキリストの福音を以てするより他に道なしと云ふ事に於ては全会(209)一致した、然し乍ら此目的を達する為には外国人の援助を全然受く可からずと云ふ内村農学士の頑強なる意見に対しては多くの反対があつた、何れにしろ珍らしい会合であつた、少数なりと雖も我国の知識階級の人々が真面目にキリストを信じて憚らざるに至りしことは感謝すべき事である。
二月十一日(水)晴 北風強くして寒し、紀元節である、二月号雑誌出来、発行部数一月号同様三千六百部、先月分既に売切れたれば今月分も亦全部売れるであらう、午後二時より柏木聖書講堂に於て学術講演会を開いた、聴衆男女百五十余人、狭き講堂に立錐の地がなかつた、星野医学士「生理学の事実と福音の真理」に就て語り、余は其後を受けて「天文学上より見たる夜の無き世界」に就て述べた、蓄音器と共に正三時間を経過せしも会衆一同少しも倦怠を覚えなかつた、誠に楽しき有益なる紀元節であつた、温き心《ハート》と冷たき脳《ヘツド》を作るのが我等の目的である、我等は信仰を神の聖書と其の聖作《みしごと》の上に築かんと欲する。
二月十二日(木)快晴 北風にて寒し、朝五時起床、南天を覗き更に蠍座の二重星ゼータ号を捕へた、烏座の不等辺四角形もハツキリと判明り、寒気を冒して早起せし甲斐が充分にあつて嬉しかつた。午後日本基督教会老牧師吉岡弘毅君の訪問あり、支那山東省孔子廟参詣の実験談を聞き甚だ有益であつた、「宗教の起源地に其宗教なし」との歴史上の法則は儒教の場合に於ても事実である、印度に仏教なし、パレスチナに基督教なし、而して今や独逸に新教《プロテスタンチズム》なし、米国に清教《ピューリタニズム》なからんとしつゝある、或ひは凡《すべて》の宗教が日本国に落合ふのであるかも知れない、何れにしろ日本は宗教的に見て最も面白い国である。
二月十三日(金)晴 引続き北西風強くして寒し。朝五時半南東水平線に近く靄の中に蠍座のゼータ星を捉へ(210)た、我が書斎より覗き得る南天の極である、更に十五度南へ行けば有名なる十字架星が見えるのである、其の為に台湾までなりと遠征を試みたく欲《おも》ふ、然し此処に居て充分である、天空の半分が見えるのであれば特別に此所より動くの必要はない、余は静止を愛する、南船北馬は余の耐え得ない所である。
二月十四日(土)晴 今朝の市中の新聞紙に左の如き記事が見えた
明治大学雄弁会は十四日正午より同大学記念講堂に時局大講演会を催し尾崎咢堂 内村鑑三 植原悦二郎及び校友数氏の講演ある筈なり
と、然し余は斯る講演を為すべく約束せし覚は毛頭ない、多分何かの間違より出たる事であらう、但し世に斯く思はるゝのが殘念である、聖書の研究と星覗きの外に目下余の熱心を喚起す者はない、此の世の政治家等と時局を論ずるが如き、余の夢にもせざる所である、時局の赴く所は明白である、其事は聖書に明白に記《かい》てある、余は此世の論者の一人として見られて迷惑至極である、教会と政治とは余の関係せざる所である 〇東洋汽船安洋丸南米より帰り、其一等運転士坂本栄に託してメキシコの教友より伽排豆、土人用粗製のチヨコレート並に鶏大《にはとりだい》の鸚鵡ワカマヤ一羽贈り来る、其他太平洋彼岸各地の教友より善き物と音信《おとづれ》を伝へて嬉しかつた、余は日本東京の郊外柏木に在りて寸地を有せずと雖も余の友人に依りて海外に数百万坪の土地を有して居る、而して時々其産物の分配に与りて自身大なる富者たるを感ずる、自分が大地主たるを要しない、友人の富は我が富であれば、富める友人を有して余は自身富める者である。
二月十五日(日)雪 東京には珍らしき大雪である、午後の講演会平日と異ならず六百人余の聴衆があつた、会衆一同二百六十四番の「雪の如く白くせよ」の讃美歌を歌つた、余は但以理書第五章バビロン覆滅の段に就て(211)講じた、来らんとする第二のバビロン、即ち近世文明の覆滅に説き及んで熱せざらんと欲するも得なかつた、会衆一同も強く感に打たれたらしく見受けた。
二月十六日(月)晴 昨日の講演にてガツカリ疲れた、終日床に入つて休んだ、床中に約百記解釈を読んで大に力を得た、夜教友の一人|写音板《レコード》数枚を持来り之を蓄音器に上げて共に楽んだ、ハリー・ラウダーの休戦歌を聴きて流涕を禁じ得なかつた、英国人の平民歌に深い温かい調子がある、斯かる歌が歌はれて始めて普通選挙が行はれるのである。
二月十七日(火)晴 疲労未だ去らず、秀英舎へ印刷物の催促に行いた、二十二年来の顧客なるが故に此際少しく特別扱ひをして呉れよと頼んだ、労働払底の今日、義に由りて頼むより外に途はない、帰途市ケ谷八幡境内に早咲《はやさ》きの梅を観た、社殿の南側に余の特愛の青梅一株がある、今を盛りと咲き乱れるを観て愉快であつた、無代で観ては済ないと思ふたから小銀貨一箇を賽銭箱の内に投じ心ばかりの謝礼を表し、心楽しく石段を下つた。
二月十八日(水)小雨 終日内に在り、ワツソン、ゴオデー等の著書に依り聖書の研究に従事した、相変らずゴオデー先生に負ふ所が多くある、先生の博き学問と深き静かなる信仰とは能く余の欲求を充たし、余をして幾回か感謝措く能はざらしむ、瑞西国ゼネバ湖の畔、カルビン主義の起りし所に、今猶ほ此信仰あるを知りて余は心強く感ずる。
二月十九日(木)曇 朝四時に起きて烏座《コルバス》の星を覗いた、実にサツパリとしたる愛すべき星の一群である。
(212) 二月二十日(金)曇 約百記の研究に余の霊魂の中心に新希望の光を投入するものがあつた、ヨブを解し得るはシエークスピヤ、ダンテ、ゲーテを解し得る以上の特権である、余は此上とも益々深く此書を研究し、而して之を余の同胞に伝へねばならない。午後静岡の茶業家原崎源作君の訪問があつた、二十年来の信仰の友である、君の如き常識の人と信仰を語るは大なる快楽である、君も亦信仰を語るは商業を語るに遥かに勝さる快楽であると云はれた、我国にも亦善き平信徒の現はれし事を神に感謝せざるを得ない。
二月二十一日(土)晴 山桝船長の新嘉披よりの通信に曰く「当地に蔦田顕理《つたゞへんり一》氏(歯科医)の宅にて三回安息日を送り、二回まで先生より教はりたることを話し候、キャノーパズ、アケルネル美はしく輝き居り候」と、是れは羨しくある、厳冬の今日赤道直下に棕櫚の葉の蔭から南天の一等星を覗くの快楽は、之は船乗でなければ得られぬ快楽である、恩恵彼と彼の船(朝洋丸)との上に在らんことを祈る。
二月二十二日(日)晴 初春の好日和である、此日の聖書講演会殊に盛会であつた、聴衆七百人もあつたらしく、空椅子一箇もなく、少しく講堂の狭きを感じた、余は但以理書第六章、ダニエルが獅子の穴に投入れらるゝ段に就て講じた、自分の事を語るが如くに感ぜられ熱せざらんと欲するも得なかつた、近来に無き満足なる集会であつた、教友の群馬、埼玉、栃木、静岡の諸県より来り会するあり、宛然《さながら》一大親睦会のやうであつた、言ひ尽されぬ恩恵充ち溢れる安息日であつた、会後親子三人某牛肉店に夕飯を取つた、恰も好し静岡市の原崎源作君、是も亦親子三人、同じく丸之内の講演会よりの帰途、同時刻に同室に入り来るありて、茲に計らずも本式の晩餐会が開かれ、期せずして両家の親睦を厚うする事を得て不思議なる聖父《ちゝ》の御導きを感謝せざるを得なかつた。(213)O what a Sabbath!
二月二十三日(月)雪 例の通り精神的疲労にて室に籠りて休んだ、何事も為し得ず、唯軽き僅かばかりの仕事を為したに過ぎない。仙台なる妹の夫木村康託永眠し、其葬式に会せんが為に祐之と共に午後十時上野発汽車にて北上した、実に残念なる事である、彼は正直なる、寛宏なる尊敬すべき人物であつた、東北実業銀行の支配人として信用厚く、彼の逝去は確かに彼の地方の大損失である。
二月二十四日(火)雪 朝六時雪に埋《うづも》れる仙台に着いた、目指す親戚の家に到れば「午前十時於自宅基督教葬儀執行、午後一時新寺小路善導寺に於て仏葬執行」といふ掲示を見て遉《さすが》の余も惑はざるを得なかつた、然し今となりて如何ともする事が出来ない、掲示の儘に従ふより他に途がなかつた、仙台組合教会牧師片桐清治氏は故人の敬愛せる教師である、氏に由て簡単にして深情を罩めたる我教の式が司られ、我等は故人の霊を神に委ねまつり、而して後に彼の遺骸を仏僧に渡した、我等は悪路泥濘の中に彼の柩を送り午後一時過ぎ彼の祖先の菩提所なる善導寺に至り茲に荘厳なる浄土宗の葬儀が営まれ、彼の遺骸は彼の父母の墓と相対する所に葬られた、|二重葬式〔付○圏点〕は余の立場より見て解するに難い所である、然し、地方、殊に東北地方に於ては往々見る所である、去る明治四十四年十二月岩手県花巻に於て故高橋ツサ子を葬りし時に此仏耶両式が行はれた、又片桐牧師より聞く所に由れば近頃東京某名士の厳父が眠られし時にも此の種の葬儀が行はれしと云ふ、然し是れ決して好ましき者でない事は云ふまでもない、余は葬式は必ず耶《や》たらざるべからずとは言はない、耶たり仏たり|死せる本人の信仰〔付○圏点〕に由つて定むべきである、人の信仰は其死後にまで重ずべきである、|然り殊に其死後に於て重ずべきである〔付○圏点〕、此事たる欧米諸国に於ては最も重要視せらるゝ所であつて、若し本人の信仰と異なる葬儀を行ふ事あるが如き場合には(214)社会は一斉に立ちて遺族の不注意を責むるのが常である、而して日本にも亦斯かる時が遠からずして来ると信ずる、普通選挙が叫ばるゝのは個人主義をして国家主義又は家族主義に代はらしめよとの意思に出づるのである、個人の権利の重んぜられない所に普通選挙ほ行はれない、而して個人の権利の中に最も貴きは信仰の権利である、縦令国家たり又は家族たりと雖も其信仰を個人の上に課する能はずと云ふのが自由主義の根本である、而して此の主義が認められずして普通選挙は縦し法律となりて実現すると雖も畢竟するに有名無実である、葬儀の事たる小なるが如くに見えて実は重大事である。葬儀終つて余と余の随従者とは会葬者の列を離れ、停車場前の某旅館に入り、此所に食事を取り、青森より来る急行列車を待つ事五時間にして我家に向つて出発した、車中種々の事を思ひ出し、自分で自分を慰めんと欲して能はなかつた。
二月二十五日(水)晴 午前四時列車は常陸助川駅に止まつた、ガラス窓を開いて見れば雪の空は晴れて星は爛々として光つて居た、「我友よ」と余は思はず高らかに叫んだ、北斗七星高く、其|ひしやく〔付ごま圏点〕(斗)の柄の指す所に牧夫座の主星アルクツラスは暁天に冴へ渡りて煌いて居た、之を見て余の悲みは悉く消えた、余は復た眠に就いた、駅夫が土浦々々と叫ぶ時に眼を開いて見れば霞ケ浦を圧する密雲の上に金星が水平線近く明月に似たる光を以て輝いて居た、「天の光よ」と余は叫んだ、汽車は更に進んで利根原野に入れば関東は大雪の後に晴れて富士山は朝暾を受け薄紅色に彩られて西方連山の上に聳えた、是れ此旅行の報賞なりと余は同伴の青年に告げた、午前七時汽車は上野に着いた、青年は其儘医科大学の教室へ行いた、余は山手線電車に乗換へ空腹を抱《かゝ》へながら柏木の家に帰つた、三十六時間二人共に洋服を着けたまゝ、二夜を汽車の中に過し、人を見て悲み、天を望んで喜び、畢竟《つま》る所感謝と歓喜はすべての悲痛に勝ち、全身に溢るゝの熱心を以て再び復た常時《いつも》の仕事に就いた。
(215) 二月二十六日(木)曇 少しく風邪気味である、室を暖め安静を計つた、然し乍ら働かずには居られない、三月分雑誌の原稿〆切が迫つて居る、三十二頁分を編輯して印刷所に送つた、何を廃《やめ》ても此事を為さなければならない、是は神に対する聖職であつて読者に対する義務である、而して過去二十年間一ケ月も欠す事なく、時には内患外憂|潮《うしほ》の如くに我身に攻め来りし場合に於ても、此職責を充たして今日に至つた、「我は我に力を与ふるキリストに因りて諸《すべて》の事を為し得るなり」との偉人クロムウエル特愛の聖句を余の身に於て実験するを得て大なる感謝である(腓立比書四章十三節)。
二月二十七日(金)曇 雑誌原稿製作に全日を費した、読まず考へず筆を以てする勤労の一日であつた、斯《かゝ》る日に余も亦純然たる労働者の一人である。友人の婦人某近所の魚屋の御上さんに余の小著「商売成功の秘訣」他に小冊子一冊を送りしに彼女より謝礼のハガキを送り来り其内に左の言があつたとて余に示して呉れた。
何よりの御本有難う存じます、すぐ様拝見致し二冊ともわき見も致さず読み終りました、何事も胸に感じ、私も出来ぬながらも内村先生様の万分の一にでもなりたい決心です、よき御本は何人が見ても誠に美しいのであります、何よりの御本有難う存じます。
と、是は天真有の儘の言である、魚屋の御上さんに此決心を起さしめて余は大なる満足を感ずる、「わき見も致さず読み終りました」と、噫|幾人《いくたり》の読者が余の著書に此注意を払つて呉れるであらう乎。
二月二十八日(土)大雪 雑誌原稿を書き終つた、一先づ安心である。今暁程遠からぬ淀橋煙草専売局製造所(216)が全焼した、莫大の損失であらう、煙草払底の今日、喫煙家はさぞかし困るであらう、我等禁煙家の立場より見て同情に堪へない。
二月二十九日(日)晴 雪の朝《あした》にて気持好き日であつた、電車従業員同盟罷業の結果市内の交通半分以上杜絶し、午後の集会如何と気遣ひしに平常と殆ど異なる事なく、聴衆五百名以上あつたやうに見受けた、余は但以理第七章に就て講じた、問題は偽《アンチ》キリスト出現のそれであつて甚だ重要なる者であつた、館前館側の電車の運転絶え、未だ曾て無き静なる集会であつた、詩篇第七十六篇十節に「実《げ》に人の怒は汝(ヱホバ)を讃むべし」とあるが、電車従業員の当局に対する不平の結果が今日の此静なる会合を生んだと思へば我等は殊更に神を讃美せざるを得なかつた、帰途夫婦共に東京駅前に至れば或る教会所属の姉妹にして我等の敬愛する友人二人が我等を駅の食堂に招待して余の勤労を犒つて呉れた、此日も亦例に由て例の通り天国の前味《まへあぢ》のある楽しき一日であつた。
三月一日(月)曇 冷たい嫌な日であつた、月曜日ではあるがまだ編輯の残りがあり、之を片附くる為に終日働いた、斯くて折角の休日を棒に振つて残念至極であつた。
三月二日(火)半晴 少しく寛いだ、角筈時代の教友の一人なる法学士小出満二より濠洲シドニー大学発の書面が達した、面白い手紙なるが故に左に之を掲ぐる。
謹啓、御無沙汰ばかり致します、蔭ながら御清康を祈り、雑誌その他で常に御動静の程を承はり、喜んで居ります。御聞き及びかと存じますか、先年来ジエームス・マードツク氏が当地に参つて居りますが、士官学校や中学校で日本語教授を試むる事となり、現に邦人教師も二人参りて居ります、それで大学でも日本に関(217)する講義を始めましたので、小生はマ氏を助けて一緒に働くのを楽みとし、旁々農牧場を見聞する積りで、勧めらるゝまゝ一昨年から一部を担当して参りました、当大学には遂にオリエンタル・スタデイと申す講座を新設する運びとなりました、過般或る小な集会で我が宗教の事に関連して先生の御噂を致しました所、プレスビテリアンの老牧師で大に喜んで色々問ふ者がありました、実は米国で御発行のハゥ、アイ、ビケーム、クリスチヤンの原本がタツタ一冊で転々して少くも数十人に愛読せられて居ましたので、その一人である説教師は、これまで日本人や日本に行つたことのある者に尋ねたさうですが要領を得なかつたさうです、何分当地に居る邦人は数も少く、商業方面の人ばかりですから、都合好く御噂の出来る人に会はなかつたと見えます、当地から伝道会社の手で日本へ参つた者も少しはありますが、矢張り日本人の基教信仰の心持はよく解らぬと見えます、該教師や其他が言葉の不充分な小生から聞いて始めて了解したと申すのは妙に考へられますが、思ひ掛けぬ所で御高説のホンの一端でも他に伝へ得る事は深く感謝するのであります。持つて参つた御著『代表的日本人』は直に少からぬ人に転読されました、申すまでもなく御著を愛読した人は広い濠洲に多い事と存じますが、偶々斯ういふ事に遭ひましたから一寸御知らせ致したう存じます云々。
誠に有難い通信である、世界到る所に友人ありである、商人や宣教師が余の信仰を伝へて呉れずとも、時さへ俟てば余の友人が態々濠洲まで行いて余の思想を伝へて呉れる、斯くて教会に入りて宣教師等に愛せらるゝ必要は少しもない、「有難たう小出君」である。
三月三日(水)曇 山桝船長、馬来《マレイ》半島、瓜哇《ジヤワ》、セレベス等沿岸の週航より帰り色々と面白い話があつた、彼は殊に赤道以南の空に輝く星の荘美を語つて得意であつた、今や仲間の内に星道楽が殖え来りたれば我等の間に政友会ならで|星友会〔付○圏点〕の設立が計画されつゝある、地上の権利を争ふ政友会は卑しむべしとするも天上の美を窺ふ(218)星友会は尊むべしである、総《すべて》の事が愈々面白くなつて来た。
三月四日(木)曇 時々霙降る。雑誌校正刷を待てども来らず、読書に耽つた、ルーネマン著帖撒羅尼迦書簡の註釈、非常に面白く読まれた、矢張り善き註解書は古い者の内にある、避くべきは近頃米国発行の宗教書類である。
三月五日(金)半晴 重なる仕事は雑誌の校正。此日親子三人、女子学院教頭三谷民子女史に招かれて夕飯の御馳走に与つた、相木の田舎に住む我等が打揃ふて番町の都に出掛けしは滅多に無き経験である、厚き御|待遇《もてなし》に与り久振りの明月を踏みながら家に帰つた。
三月六日(土)晴 北風にて寒し、引つゞき校正のほか何事も為さず、二十年来|継続《つゞ》け来りしことを繰返すのみである、然し之も亦貴き天職である。
三月七日(日)晴 久振りにて空晴れ、昨夜と今暁の星覗きは愉快であつた、蠍座は遥か西に進み、其東に射手座《サジタリヤス》の諸星現はれ、暁天の舞台が新たに変りしやうに見えた。午後の講演会不相変盛会であつた、余は但以理書第十一章三六-四五節を主題として偽キリストの出現に就て語つた、余り面白き題目ではない、然し重要なる題目である、悪魔を知るは神を知る為に必要である、悪の悪たるを知らずして善の善たるを知る事は出来ない、而して聖書は悪と悪魔とに就いて記《しる》して深遠を極む。閉会後山桝船長と共に親子三人山岸壬五の家に夕飯の馳走に与かり有難かつた。
(219) 三月八日(月)晴 雑誌校正は未だ了らず気が気でない、然し如何ともする事が出来ない。米国よりガレツト・P・サーヴイス著『双眼鏡を以てする天文学』達し、大なる感興を以つて其十数頁を読んだ、夜の来るのが待遠しかつた、恰も好し横浜なる婦人某より左の書面が達した、
御目にかゝりし事無之候へ共ふるくより店の青年たち御世話様に相成、有がたき事に存居候、……もう一つ昨年の暮から思ひがけなきよい事が一つふえました、それは先生が天文の事に大そう御心をおそゝぎにならせらるゝやうになられた事です、私、博物と天文とが一番若き頃より好きな学課でしたが、せわしい商家に嫁し、いとまなき身と相成、又子供もかたわらに育て参る事になりましたので、時折家人がやすみましてから双眼鏡にて一寸天をのぞく位でしたが、段々子供も大きくなりまして、此頃は年に二三回天文台にも一しよに参りて土星や木星を楽しむやうになりました、子供らには星座のキリヌキ遊びをあてがつてをきました為、しらず/\星座の名をおぼへてしまひました、昨年の暮には父が小い望遠鏡をクリスマスにくれましたので私共はたとへやうのない楽しい夜を過します、月の山々谷々のあざやかな事、木星の衛星の位置が毎夜/\に変ります事、各星団のきれいな事、子供らはおどり上つてよろこびます、土星のリングがあまり小さくしてハツキリ見わけがつかない為に大きい望遠鏡をいつ神様が御届けくださるかを楽んで待つて居ります、私がいつでも不思議に思ふて居りました事は、なぜ宗教家や牧師様方は博物や天文を学ばれないのかしら、こんなありがたい学問はないのにと、胸一ぱいになるのでしたが、二十年目にて(キリスト教をきゝはじめしより)先生の「日々の生涯」の中に心ゆくばかりの天文に対する(キリスト教信者の)日記を拝読いたしまして一安心いたしました、あの号は私のあかしの為、家人をはじめお友達其他の人々の心をすつかり開いてくれました、これはとても御礼の言葉がなきほどに候
(220) よひ/\に空ゆく星にあこがれて
世にうとまるゝ身こそうれしき
是は有難い音信《おとづれ》である、斯んな愛星家が読者、而かも婦人の内に有つたかと思ふと、聖書と天文とは益々深く研究したくなる、左右《さうかう》する内に日が暮れた、大犬座が丁度書斎の窓の前に行《や》つて来た、双眼鏡を取出した、天狼星の右の下の方を見た、其所にヌン号の三重星を捉《つかま》へた、遥か下の方を見た、デルタ号を見届け、其右に黄色のエプシロン号を見留め、二者の間に五等位の第二十二号星の柘榴石《ガーネツト》の如くに赤く輝くを見た、更に又デルタ号を見た、驚くべし、此の星を上と下と左とを取巻くに十七八粒の真珠より成る頸飾《ネツクレース》を以つてするとは、大犬星座のデルタ号は星界の女王である、斯んな安価《やす》い愉楽《たのしみ》はない、双眼鏡一箇で宝石|玩弄《いじり》をするのである、人生を楽しむに此の世の富者と成るの必要は少しもない。
三月九日(火)半晴 雑誌校正漸くにして終り、少しく気が楽になつた、然し二三十本の手紙の返辞が待つて居る、又『研究第二之十年』の校正が来始めた、仕事は何時になつても絶えぬ、然し働く計りが人生ではない、午後久し振りにして市中へ行き眼鏡屋書店等をヒヤカした。
三月十日(水)晴 暖き好き春日和であつた、朝六時に起き先づ第一に但以理書第十一章を研究した、而して後は何をも為さずに唯手紙の返辞を書いた、内地は勿論の事、支那、米国、メキシコと、溜りし手紙の負債を償還すべく努力した、随分の仕事であつた、然し楽しくあつた、夕飯前に戸山ケ原に行き、祈祷の杜《もり》の辺より春の夕陽《ひのいり》を見た、真紅《まつか》な太陽が富士山系の彼方に転げ込む所は実に壮観であつた、偉人が死に就くやうであつた、それと聯想してルツ子の「もう往きます」を思出して胸が一杯に成つた、然し思ふた、我等は死して今在る所より(221)も悪しき所へ往きやう筈はない、死は転宅である、而して我等は悪き家より善き家へと移さるゝのである、斯く黙想しつゝありし間に大統領リンカン特愛の讃美歌が余の唇へと上《のぼ》り来つた
One sweetly solemn thought,
Comes to me o'er and o'er,
I am nearer home to-day,
Than I've ever been before.
一の楽しき厳粛なる思想が
幾回《いくたび》となく余の胸を往来する、
余は今日一日を終へて
一日余の家に近《ちかづ》いたのである。
余ほ独り此歌を口吟《くちずさ》みながら杖を曳いて家に帰つた、相も変らざる感謝の一日であつた。
三月十一日(木)半晴 夜七時より今井館に於て小講演会兼祈祷感話会を開いた、来り会する者七十余名、相変らず恵まれたる会合であつた、余は「近世思想と基督教」に就て語つた、而して後に五六の感話に由て余の信ずる所は又会衆全体の信ずる所である事が判明つて有難かつた、我等は近代人と基礎的思想を異にする者である、大なる感謝である。
三月十二日(金)雨 『研究第二之十年』初の四十八頁を校正した、今から之が一仕事である、一冊の書が出来上るまでには容易の事でない。久しく雲晴れずして星が見えない、故に今日は鳥の事に就て読んだ、雲雀、鶫、(222)燕鳥、鵲、椋鳥等に就て新知識を得て嬉しかつた、何かこんな道楽がなくつて、緊張せる信仰的生涯を送る事は出来ない、星と鳥とは関係の無い者ではない。
三月十三日(土)半晴 雑誌今日に至るも出来ず甚だ不愉快である、印刷代は上げるが儘に之に応ずるも印刷所は我等の正当なる要求に応じて呉れない、多分職工にマルクスやトロツキーの思想が行渡りし結果が茲に至つたのであらう、甚だ歎ずべき事である、然し止むを得ない忍耐するまでゞある 〇英国ヒツバート雑誌に露国ツルーベツコイ公の露国の現状に関する論文を読みて強き印象を与へられた、露国の為に熱祷を神に捧げざるを得ない、而して神は必ず遠からずして露国を救ひ給ふと信ずる、独逸の物質主義が欧洲をして終に茲に至らしめしと思へば寒心に堪へない、然し独逸や露国に限る事ではない、我国の事である、神を離れ財をのみ維れ慕ひて何れの国家も終に茲に至らざるを得ない、益々伝道に尽瘁しなくてはならない。
三月十四日(日)雨 雨天にも関はらず聴衆は毎会《いつも》の如くに多かつた、山桝船長先づ登壇して、航海者としての彼の信仰談を述べ一同に好き印象を与へた、余は但以理書第十二章の解釈を試みた、余り満足なる講演でなかつた、然し止むを得ない、但以理書第八章以下は余の「お箱」ではない、余は能くダニエルの生涯を解し得るも彼の預言を解し得ない、二三年を経て後に余は再び其解釈を試むるであらう、今日は今日の最善《ベスト》を試みたまでゞある。
三月十五日(月)雨 昨日の講演に今日は特別に疲れ、一時床に就いて休んだ。今日に至るも印刷所で雑誌を作つて呉れない、発行日より五日も後れし事は二十年間今月が初てゞある、競争甚だしくして茲に至つたのであ(223)らう、斯かる際に漢字使用の不便を感ぜざるを得ない、若し羅馬字であつたならば自分で組んで自分で印刷するであらう、ロイド・ガリソンの「我に勇気と印刷機械とあり」を思出さゞるを得ない、今より後、漢字が自由の大なる束縛者である事が益々明白に成るであらう。
三月十六日(火)晴 漸くサツト今月分の雑誌が出た、何れにしろ一安心である、今や出版界は混乱状態に陥つた、社会「改造」の結果が茲に至つたのである、恐ろしい時が来りつゝある、然れども闇黒其極に達する時に栄光天に現はるゝと知るが故に安心である 〇民間天文学者井上四郎氏の訪問を受けた、我等同志は天体研究につき今より大に君に教へられんと欲する、聖書研究に次ぐ至大の愉楽である。
三月十七日(水)曇 午後芝飯倉に東京天文台を訪ふた、数箇の望遠鏡並に精巧なる新式の分光器を見せて貰ひ非常に有益であつた、後に事務室に於て平山清次博士並に井上四郎君と宗教と天文との関係に就て心置きない談話を交へ誠に愉快であつた、此世離れたる事に於て宗教と天文とは能く似て居る、其点に於て所謂宗教家、即ち教界の名士等は到底天文学者に及ばない、天文学は人類最高の学問であつて同時に亦最大の快楽である。
三月十八日(木)晴 午後宇都宮に行いた、星野医学士同行、七時同市旭館に於て演説会を開いた、青木義雄司会、星野は「衛生学上より見たる改造の必要」に就て、余は「改造と解放」に就て述べた、来聴者三百人以上宇都宮に於ては珍らしき会合であつたとの事である、近県より泊り掛けで来る者もあつた、若し伝ふるに道を以てすれば栃木県も亦有望なる伝道地である、殊に下野教友会の近頃の熱心に就ては讃辞を吝むことが出来ない、此夜此所に一泊す、此夜|空《そら》晴れ、二荒神社に隣《となり》せる旅館の窓よりする星覗きは爽快であつた。
(224) 三月十九日(金)晴 朝少しばかりの用事を済まし、十時発の汽車にて帰途に就いた、春の日に輝く利根川を渡りて所感一首を禁じ得なかつた
聖書《みふみ》もていくたびか経し利根の橋
溢るめぐみ ながれ尽きざれ
午後一時家に帰つた、今年に入りてよりの第一回の地方伝道であつた、不相変随分の努力である、度々為すべき事ではない。
三月二十日(土)晴 朝より来客引も切ず、何れも人生の重大問題を抱いて来る、如何なる医者も弁護士も取扱はざるやうなる重大問題である、伝道師の責任も亦重い哉である、午後教友十数名と共に牛込神楽坂上藤本内科医院に会し開院式に代ふる祈祷感話会を催した、藤本医学士は我等の信愛する古き教友の一人である、彼れ今その信仰と技術とを以て独立の陣を東京市内に張る、彼のために神の裕かなる祝福を祈らざるを得なかつた。
三月二十l日(日)晴 美はしき春の日である、午後の集会引続き盛会であつた、余は使徒行伝二十五章十九節に由り、パウロの基督教の一たび死せるイエスの今生きて在まし給ふ事の上に立つ者なる事に就て述べた、キリストの復活は哲学者の閑問題に非ず、クリスチヤンの日常問題、生命問題であると云ふ事を高調した、聴衆中に旧き友人なる加奈陀メソヂスト教会宣教師コーツ君が居られた、彼は堅き握手を余に与へられ、余の説きし所の古き福音にして永久の真理なる事を証明せられ心よりの賛成と満足とを表せられた、ユニテリヤン化せるメソヂスト教会中亦此宣教師あるを知つて大に我志を強くせられた、今日も亦恩恵溢るゝの安息日であつた。
(225) 三月こ十二日(月)半晴 午後基督教書類会社に行き、監督《ビシヨツプ》バトラー小伝並にT・D・バーナード『新約聖書に於ける教理の進歩』を買ひ求めた、人生の小間題に悩まさるゝ事多き今の時に当て、倫理並に宗教の根本問題に関する研究に没頭するは大なる慰安である、大宰相グラツドストーンが至大の尊敬を払ひし監督バトラーの研究は今の時に方て最も必要である。
三月二十三日(火)半晴 時々雨降る。東洋汽船一等運転士山村|勝敬《かつよし》の結婚式を今井館聖書講堂に於て司る、第二十二回の結婚式である、船員としては第一が山桝、第二が坂本、第三が山村である、斯かる海上の勇士が相次いで我仲間より出づるは大なる感謝である。
三月二十四日(水)雨 私立衛生会より左の如き鄭重なる礼状に接し恐縮に堪へない。
拝啓 弥御清祥奉賀候陳者今般本会へ金〇〇円御寄贈被成下御芳志鳴謝ノ至ニ候 右金員ハ本会々務発展ノ資ニ供スベク候不取敢右御礼謝申述度如斯ニ御座候敬具 大正九年三月二十二日 大日本私立衛生会々頭医学博士北里柴三郎印 柏木兄弟団御中
衛生会は好意を以て日曜日毎に其講堂を我等に貸与し呉れるに対し我等は感謝の意を表せんが為に少許りの寄贈を為したのである、如斯くにして相互の間に紳士的関係が維持せられて我等は安心して講演を継続する事が出来て感謝する。
三月二十五日(木)雨 巣鴨田村氏宅に於て第三回三村会を開いた、不相変笑声の多い会合であつた、松村君(226)は二重人格研究に就て其実験を語り、田村君はすべての問題を児童研究に引込まんとして松村君に保留を申込まれ、余は素人天文学の宏益に就て大に述ぶる所があつた、談話は終に田村君の政界並に教界の穴探しに及んで局を結んだ、余は基督教界の一致団合案を提出したが望むべくして実際に行ふべからざる者として否決された、神と来世を信ぜざる国民は亡ぶとの松村君の高調に余は言ひ難き満足を感じた、君が決して基督教を棄てたのでない事がハツキリと解つた。
三月二十六日(金)曇 編輯日である、朝から晩までペンとインキとペーパーとを以て働いた、是は我が仕事である 〇今朝の『読売新聞』は大活字の見出しを以て昨日の三村会の催しを伝へた、曰く「教会から異端視の三師が興ある心の会、内村 田村 松村氏共通の三村会、而も基督の解釈が三人三様」と、恰もベルサイユに於けるウイルソン、クレマンソー、ロイド・ジヨージの巨頭会議を報ずるが如くである、我等も偉い人と成りたる哉。序に記す前週宇都宮に講演の為に行きし時に土地の新聞紙は報じて曰く「霊界の偉人来る」、「神人の来宮」と、彼等新聞記者等は何を書きつゝある乎を知らないのである、然し之を読むのも亦一時の興である。
三月二十七日(士)晴 昨夜雲晴れ、今暁四時に床を出て星を覗いた、蝎座の二重星、射手座の乳斗《ミルクジツパー》、特に注意を惹いた、然し最も美しかりしは天秤座の西部に宿る火星であつた、蠍座の主星アンタレスと相対し赤色を以て輝く春暁の双璧である 〇雑誌原稿大分に片附きたれば春の野に雲雀の声を聞かんとて午後郊外に散歩した、目指せし雲雀には遭はなかつた、然し小川の岸に白重菜の咲くを見た、空には星、野には花、星は天の花であつて、花は地の星である、歩みながら明日講演の題目たる復活に就て考へ二三の美はしき思想を獲て帰つた。
(227) 三月二十八日(日)半晴 午後の講演会不相変聴衆満堂の状況であつた、哥林多前書第十五章三十五節以下、復活の「如何に《ハウ》」並に「如何《ホワツト》」に就て講じた、聴衆中に外国人が二人あつた、其一人は甲府在留の加奈陀宣教師ツイーデー女史であつた、彼女は熱心なる基督再臨信者である、常に余の伝道に対し篤き同情を表して呉れる婦人である、此日始めて講堂に於て相会し固き握手を交《まじ》へた、宣教師と云へば大抵は余を嫌ひ或ひは疑ふが常であつて、彼女の如くに余を信じ余の信仰を他に紹介して呉れる者は甚だ稀れである、其他旧い信者を大分聴衆の中に認めた、余の聖書講演会が教派を超越して諸教会の柱石の集会所となりつゝあるは感謝すべき事である。
三月二十九日(月)雨 半日休み半日働いた、四月分雑誌の原稿を書き了つた。家の主婦此の十日間程病気にて床に就き家庭の万事甚だ不行届である、斯かる場合に家は婦人のものである事が判明る、彼女に対し感謝なき能はずである。
三月三十日(火)雨 大なる興味を以てT・D・バーナドのバムプトン講演を読みつゝある、是は千八百六十四年即ち余が三歳の時に述べられし講演であるが然し今日尚ほ聖書研究上の大問題に就て大に吾人に教ふる所がある、古き木は燃《た》くに好し、古き友は信ずるに好し、古き書は読むに好しである 〇石川安次郎君より活版刷りの往復ハガキが達し、今回同君が東京府郡部第十三区選出、衆議院義員の候補者として打つて出づるが故に余にも君の推薦者の一人と成れとの事であつた、余は石川君の敬すべき人物なるを知ると雖も、君の注文の少しく門違《かどちがゐ》なるを認めたれば、直に「小生は此世の運動には一切関係仕らず候」と書いて返辞を出して置いた、人の趣味は種々様々である、余の趣味は天上の星を覗くにある、石川君のそれは衆議員選挙を争ふにある、月を愛する人(228)がある、鼈《すつぽん》を好む人がある、星を見る人必しも聖人に非ず、政治家必しも俗人に非ず、人|各自《おの/\》其天職あり、余は石川君の成功を祈る。
三月三十一日(水)雨 雨天続きにて星は見えず、故に閑暇《ひま》の時には本ばかり読んで居る、故H・B・スウイート博士最後の著たる The Life of the World to Come(来世論)、並にプリンストン神学評論に載せられたるベンジヤミン・B・ワーフイルド老博士のリツチエル神学論は甚だ面白く読まれる、余自身の立場はカルヴイン主義者のそれである、ワーフイルド博士は過去三十年間の余の先生である(勿論紙上に於ける)、先生老いて益々其頭脳の明噺なるは喜ぶべき事である。
四月一日(木)晴 空久振りにて晴る、高田病院に松本実三を見舞ふた、彼に永別を告げに行いたやうな者である、彼の如き有為の人物を失ふは堪へ難き憾である、彼と二回固き握手を交へて別れた。
四月二日(金)雨 夜今井館に於て星之友会第一回講演会を開いた、来り会する者百二三十人、狭き講堂は立錐の地なき程であつた、先づ祈祷を以て始め、余は以賽亜書四十章二十六節並に亜〓士書五章一節より八節までの簡単なる解釈を述べた、続いて東京天文台の井上四郎氏は天体の何たる乎、素人の天体観察に就て陥り易き誤謬、赤道儀の構造等に就て語り大に来聴者の研究心を促した、以来毎週金曜日に開く予定である、入会申込百余名に達し予想以上の盛会であつた、余は宿題として金星並に獅子座諸星の肉眼的観測を提出した。
四月三日(土)雨 終日雑誌校正。余は此二三日切に感じた、近代人が人を先生としては仰ぐは先生に依て教(229)へられんと欲するのではない、先生に於て己が理想を見んと欲するのである、故に先生は先生ではなくして偶像である、己が理想の顕現である、故に一朝先生にして己が理想に反する言動に出る事あらん乎、彼等は失望し、怒り又叛くのである、斯くて迷惑なる事とて近代人に先生として仰がるゝが如き事はない、何時彼等に恨まれ憎まれ敵視せらるゝか知れないのである、彼等は強烈なる圧制家である、鬼千疋と称せらるゝ小舅姑《こじうと》の如き者である、今日の日本に於て人の先生と成らんと欲する者は深く此危険に注意すべきである。
四月四日(日)雨 復活祭である、午後の講演会に遠方よりの来聴者多し、其内海上保険支店詰の森田甫の如き休日二日続きを利用し態々大阪より来り会す、余自身に取り大なる感謝又奨励である、余は哥林多前書十五章五二節以下に就て講じた、「此故に汝等(復活の信仰の上に)貞固《かた》く立ちて揺《うご》かず常に主の工《わざ》に溢《あふ》れよ」との第五十八節の語は特に強く余の心に訴へ、循つて余の解釈は熱烈ならざるを得なかつた。愆《あやま》つて卓上のコツプを倒し水を瀉《こぼ》し、気が附いて自分ながらに恥《はづか》しかつた。
四月五日(月)雨 雨又雨である、休みながら校正を行《や》つた、聖書其者に還る時に余に大なる安息がある、身と心とを疲労さする者は此世の細事である、神と宇宙とに関する大事は疲労させずして却て疲労を癒す能力《ちから》がある。
四月六日(火)雨 校正又校正、校正の外に何も為さなかつた、然し此世の細事に携はらしめられて苦しめらるゝよりも遥に宜い、博士《ドクトル》ジヨンソンが言ふた事がある「余の生涯中心の最も清き時は余が金銭を獲んがために著述に従事する時である」と、卑劣なる言のやうに聞える、然し其内に深い真理がある、前後を忘れて唯機械的(230)に働く間に悪念は心に起らないのである、「何も為さゞる事は悪事を為す事である」、他人の批評、世評、世話、是れ多くは悪事である、之に較べて校正は煩業(drudgery)であるが罪は無い、余は余の生涯を校正の為に費して敢て悔ゆる所はない。
四月七日(水)半晴 久振りにて日光を見た、今井館に於て三谷隆信対長尾里恵子の結婚式を司つた、余が司りし第二十三回の結婚式である、出埃及記三十七章六節より九節までに由り全会衆に勧むる所があつた、「二箇のケルビムは翼を高く展《の》べ其翼をもて贖罪所を掩ひ其面を互に相向く、即ちケルビムの面は贖罪所に向ふとある、夫婦は二箇のケルビムであつて翼を展べて契約の櫃《はこ》を掩ふ、二人相対して座するも其面は櫃を納めたる贖罪所に向ふ、即ち面と面と相対して見ずして金板に映ずる影像《かげ》に於て相見る、真正なる夫婦の関係は直接ならずして間接である、神の契約を擁して結ばれて夫婦は永久に且つ神聖に其関係を持続する事が出来る……」、余は大略以上の如くに語りて後に新郎新婦をして手を聖書の上に置いて誠信を誓はしめた、簡単にして厳粛なる式であつた。
四月八日(木)晴 久振りにて面白き一書を読み了つた、T・D・バーナード著『バムプトン講演集』である、再読又三読するの価値ある書であると思ふ、聖書研究者は何時か一度は精読せざるべからざる書である、一年に一回位ゐ是れぞと思ふ書《ほん》に打附《ぶつか》る、其時は最も幸なる時である 〇夜、東京駅ホテルに於て三谷長尾両家の結婚披露会が催された、余も之に招かれ、新郎の側《かたはら》教界の元老井深小崎の二師と相対して座を占めさせられた、卓上我等はウイルソン大統領に就て、又大本教、天理教、金光教等に就て語つた、然し基督教会又は基督教青年会に就ては一言も語らなかつた、平和は全堂に充ち溢れた、余は最後の卓上演説まで為さしめられた、昨日以来随分の骨折であつた、然し楽しき喜ばしき骨折であつた。
(231) 四月九日(金)晴 庭の桜が咲き出した。校正刷りを待つも来らず、『バムプトン講演集』の復読を始めた、余は今は良き書は之を再読するを常例とする、而して興味は殊に再読の時に起るのである 〇夜、第二回の星之友会が開かれた、来会者百名余、空天《そら》晴れたれば屋外観察を為した、木星、土星、火星、北斗七星、北極星、オライオン星座等を指示《さししめ》されて一同歓喜を以て散じた。
四月十日(土)晴 雑誌校正終り大に楽《らく》になつた。午後目白台に前田多門の家を訪問し、主人不在なりしも子供四人と共に程遠からぬ野原に行き菫花《すみれ》や犬胡麻の咲く所に座して携へ来りし弁当をしたゝめ、春の野遊び、尠からざる愉快であつた、聖書と星と子供と花、此辺《こゝら》に地上の天国はある。
四月十一日(日)晴 桜花満開、一年中に十日とはなき好日和である、午後の聖会変りなし、但し来聴者、平常よりは少しく尠かりしやうに感じた、花に取られしにや、又は学校春休みの故にや、多分後者が事実であらう、使徒行伝二章、ペンテコステの日に於ける聖霊の降臨に就て講じた、春空晴れ渡りたれば帰途に星野医学士並に家の青年を伴ひて麻布飯倉に東京天文台を訪ふた、台員の好意に由り望遠鏡を以て天体を覗かして貰ひ荘観言語に絶したりであつた、木星に四箇の衛星の懸るあり、土星の環《リング》、火星の円面、双子座カストルの割れて聯星として見ゆるの状、一として荘厳ならざるはなかつた、人の口を以てする如何なる説教も神が其|聖工《みしごと》を以てし給ふ教示には到底及ぶべくもない、心に神を讃美しながら十時少し前家に帰つた。
四月十二日(月)晴 疲労の月曜日である、何事も為し得ない、唯ボンヤリと日を送るまでゞある、是れ精神(232)的労働の結果として天然の法則が人より要求する所である、之に服従して活動の日を俟つまでゞある。
四月十三日(火)晴 基督教書類会社にデリツチ著『希伯来書註解』二冊のあるを発見し、買ひ求めて帰つた、大なる宝の発見を為したやうに感じた。
四月十四日(水)雨 「四隣悉く排日運動、其原因は軍人外交」、「今日の模様にては日本は遠からざる将来に於て国際間に第二の独逸視せらることあらんとも思はる」「シドニー・サン紙は米国加奈陀及び濠洲三国の海軍は太平洋の平和を維持するため共同一致の行動を執るべき事を切論せり」是れ今日の新聞紙の論じ且報道する所である、日本は元来 を以て起りし国である、其日本が此状態に立至りしは少しも怪しむに足りない、嘗ては狂人視されし余の非戦論が其中に深い真理を宿す事を我邦人に解せらるゝに至るは遠き将来の事ではあるまい、此事を思ふと時に暗涙を催す事がある 〇午後七時半家の青年に送られ雨を衝いて大阪に向て東京駅を発した、車中大阪商人の金儲け話しを聞かされ既に関西の都に在るの感がした、夢と現との裡に箱根山を越へた。
四月十五日(木)晴 伊吹山の麓に朝日を仰いだ、近江の湖水は春の日の琥珀の色に輝いた、希伯来書を読みながら勢多川の鉄橋を過ぎた、逢坂山の隧道《トンネル》の辺は昔ながらの山桜に賑はつた、七時半多数の本願寺参詣者と共に京都駅に下りた、直に伴はれて昔し懐しき新町通り竹屋町下る便利堂主人中村弥左衛門方に到り、此所を二日間の本陣と定めた、午後友人二人と共に向日町に行き、其附近の粟生光明寺並に長岡公園を訪れた、関東の粗野なるに比べ、洛外の風雅なるに愛すべき所が多い、春の野に雲雀囀り、竹林に筍萌し、好き半日の清遊であつた。
(233) 四月十六日(金)晴 俗事と交友とに一日を資した、「四囲の山何ぞ高き、鴨の水何ぞ清き」であつて洛陽の春の一日は価値《ねうち》なきものではなかつた。
四月十七日(土)晴 午前九時半京都を発し、十一時摂津蘆屋に着いた、二時西之宮に行き、武庫郡公会堂に於て『聖書之研究』読者会を開いた、来り会する者七十余名、近きは京都より、遠きは備中美作より、旧き読者の来り会するありて甚だ楽しき会合であつた、余は「聖書の立場より見たるキリストの再臨」に就て語つた、キリストの十字架に因る罪の赦しを実験せし者は早かれ晩かれ終にキリストの再臨を信ずるに至らざるを得ないと語りし時に全会の強き肯諾を得た、数人の熱心なる祈祷ありて五時散会した。
四月十八日(日)晴 晴天打続き、雲雀の声天に響き祝福されたる聖日であつた、昨日に引きつゞき読者会を開いた、来会者百人余、余は「人生の実験として見たるキリストの再臨」に就て演べた、再臨に内的なると外的なると、消極的なると積極的なるとある事に就て語つた、自分に取り甚だ興味ある問題であつた、会衆も亦大に共鳴する所があつたらしく見受けた、祈祷あり感話ありて此楽しき会合を終つた、会費金三円といふ未曾有の高価なる聴講料を取立しに拘はらず(余の責任にあらず)斯くも多数の熱心の来会者ありしは、是れ亦未曾有の事である、閉会後有志者四十余の晩餐会が催され、是れ亦愛と歓喜と感謝とに溢るゝ楽しき会合であつた。
四月十九日(月)晴 未だ曾て有りし事なき楽《らく》な講演会であつた、随て疲労も少く、別に休息の必要を感じなかつた、午後永広堂主人に伴はれて六甲山の中腹苦楽園に遊んだ、山躑躅の満開であつて里余の山登り甚だ愉快で(234)あつた、ラジユム鉱泉に浴し、茅渟海の春光に輝くを瞰下ながら徒歩山を降つた、午後六時蘆屋を発し帰途に就いた、車中眠る能はず窓より星を覗きながら一夜を過した、獅子座に止まる土星、天秤座に宿る火星、列車進行の方向と共に交はる交はる車窓に映り之を眺めながら矢矧川を渡り浜名湖を過ぎた、誠に善き旅中の侶伴である。
四月二十日(火)晴 朝八時半東京に着いた、家に帰れば庭の八重桜の満開であつた、余の不在中の聖書講演会の頗る盛会なりしを聞いて嬉しかつた、相変らず多数の手紙と二百頁余の校正刷が待つて居た、之を片附けるのが一仕事である、講演旅行は好しとして其跡片附が大へんである、然し是も為さずばならず彼《かれ》も避くる事は出来ない、聖意をして成らしめよである。
四月二十一日(水)晴 汽車中にて風を引き頭が重く室に籠りて休んだ、大なる興味を以て沖野岩三郎君新著『基督新教縦断面』を読んだ、誠に有益なる書である、山路愛山逝いて以来、基督教界の歴史家なしと思ひしに押野君が其歴史家である事を知りて喜んだ、余に関する記事に大抵は間違はない、我日本に於ても神が其福音を護り給ひて、之をして其内外の敵に勝ちて今日に至らしめ給ひし事は感謝の至りである。
四月二十二日(木)晴 午後二時今井館に於て法学士松本実三の葬儀が営まれた、坂田祐が司会し余が説教した、松本は名誉を以て大正五年に東京帝国大学を卒業し、大阪住友銀行の社員となり、抜擢せられて紐育支店詰となり、彼地に留まる事一年余、病を得て帰朝し、去る十六日眠に就いたのである、彼は柏木生えぬきのクリスチヤンである、柏木に於て始めて福音を聞き、柏木に於て結婚し、終に柏木に於て其葬儀を営まる、従つて其信仰も亦純然たる柏木流の者であつた、先例を受けず、何れの教会にも属せず、ピユーリタン的で、殊に深くキ(235)リストの再臨を信じた、余は彼の遺骨を前に置き会葬者に向つて曰ふた。
松本の死は実に惜むべき且つ悲むべき事であります、然し乍ら最も悲しむべき事ではありません、世には松本よりも遥に不幸なる人があります、松本は病める肉体に健なる霊魂を宿して外国より帰り、其健なる霊魂を以て此世を去りて神の御許に行きました、世には其反対に強健なる肉体に宿すに萎微せる霊魂を以て帰り来る者が許多あります、欧米の物質風に吹かれて少しも其霊魂を汚す事なく、その故国に於て学び得し単純なる信仰に一層の輝きを加へて帰り来りて死に就きし松本は是等多くの堕落少壮紳士に優る幸福なる者であります、試みに松本が思ふ通りに彼の事業に成功したとすれば※〔乍/心〕《どう》でしたらう、彼が大実業家となり百万長者となりたりとしたらば※〔乍/心〕でしたらう、彼は大なる危険に陥つたのであります、彼が彼の霊魂を喪ふの機会は甚だ多くあります、彼は事業に成功して信仰に失敗したでせう、勿論神の御助けに由りすべての誘惑に勝ち得ない事はありません、然し其|戦争《たゝかひ》たるや死に就く以上の苦痛であります、而して私は此世の成功に勝ち得ずして其滅す所となつたクリスチヤンを沢山知つて居ります、神は松本を愛し給ふたのであります、神は松本の霊魂を愛し給ひて実業家としての成功を挙げ得ざる前に彼を召し給ひました、松本の死は彼自身に取りても決して最大不幸ではありませんでした、松本と同じく此聖書講堂に於て聖書を学んだ青年は許多あります、而して彼等は彼と同じく学士となり洋々たる青春の希望を懐いて人生の航路に就きました、然るに少し斗りの成功を以て恵まるゝや※〔修の右が(久/犬)〕《たちまち》にして其養ひ来りし信仰を投棄て素《もと》の俗人と化せし者は決して尠くないのであります、其場合に於ける私どもの苦痛は譬ふるに物なしであります、私どもは永久に彼等に別れ、永久に彼等を失ふたのであります、然るに松本の場合は全く之と異なります、私ども一時彼と別れました、然し永久に別れたのではありません、一時彼を失ひました、然し永久に失ふたのではありません、私一個人の立場から申しますれば、彼と私との間に存せし師弟の関係は今尚依然として存し永久に存するのであります、松(236)本は信仰を持つて死んで呉れて私ども一同に言ひ難き安心と満足とを与へて呉れました、キリスト再び臨《きた》り給ふ時に我等再び相会ふ時の喜び! 之を思ふ時に私ども今時《いま》の哭哀《なげき》は消え去るのであります、誠に松本と云ひ、松田と云ひ、小出と言ひ、古崎と云ひ、此一二年間に我等の内より去りて神の懐《ふところ》に帰りし者、彼等は皆な信仰の勇者であります、彼等は死を以て私どもの唱ふる信仰を証明して呉れました、何物か此証明に優りて貴きものがありませう、信仰は死を以て証明せられて初めて其美価を確かめらるゝのであります、彼等は実に我等に大なる奉仕《サービス》を為して呉れました、後《あと》に存《のこ》れる我等は彼等に対し大なる責任を有します、我等は此信仰の上に固く立ち、彼等が此世に於て為す能はざりし事を彼等に代て為さなければなりません、彼等は我等に代て死んで呉れました、我等は彼等に代て働かなければなりません、実《まこと》に感謝の至りであります、我等クリスチヤンはすべての場合に神に感謝します、而して死に際しても感謝します、今日の此場合に於ても感謝します、而して万事が感謝と讃美と栄光とに終る事を信じて疑ひません、云々。
と、我等は此際特に彼の妻と三歳の男子《ボーイ》立一との上に神の特殊の恩恵の宿らん事を祈つた。
四月二十三日(金)晴 会員多数の故を以て星之友会を男女二組に分ち、昨夜は男子部の、今夜は女子部の講演会を開いた、今夜は余も井上君を助けて少しく談話を試み、北斗星並に北極星に就て語つた、天晴れたれば講演終つて後に一同屋外に出《いで》、天を覗いて実物を観た。
北斗七星とは南斗六星と相対して云ふ名称であります、「斗」は桝目《ますめ》の斗ではありません、「ひしやく」のことです、七の星が柄杓《ひしやく》の形をなして居る故に斯く称《い》ふのであります、柄杓に柄《ゑ》があります、又杓があります、柄は三の星より成り、杓は四つより成ります、七星の内、六つが二等星であります、さうして柄が杓に附く所にある星だけが三等星であります、昔しは此星も他の六と同じやうに二等星であつたのであります、然る(237)に今や三等星に下つたのであります、此一事が星にも盛衰のある事を示します、星と云ふても矢張り被造物でありまして、之に盛衰生死があります、今生れたばかりの星があります、元気旺盛の壮年時代の星があります、衰退期に入つた星があります、死にかゝつて居る星があります、恒星と称しても永久に存在する者ではありません、星も花も人も之に寿命のある事は少しも違ゐません、只花は三日にして散り、人は七十年|生存《ながら》へ、星は数億年輝くと云ふまでゞあります、永久に存在する者は唯一であります、万物の造主なる神を除いては他に永久の存在者はありません、大熊座のデルタ星は造化の此消息を吾人に伝ふる者であります、又柄の端より二番目の星を能く注意して御覧なさい、之に附随の星が一つあります、肉眼でも見えます、双眼鏡を以てすれば更に能く見えます、是は二重星の好き実例であります、アラビヤ人なぞは此星を子持星《こもちぼし》と呼びます、お母《かー》さんが赤ん坊を負《しよ》ふ形です、云々。
是れが素人天文学の一例である、至て浅薄なる者である、然し専門家が側に聞いて居るのであるから事実に於て間違は無い積りである、婦人に天文学を教ふるは斯んなやうに為さなければなるまいと思ふ。
四月二十四日(土)晴 春風寒し、終日編輯にて多忙、西之宮講演の祟り未に去らず、健康も多少害され、校正の渋滞依然として存す、一週間の外出は前後二三週間の仕事に影響する、筆執る者に取り動く事は禁物である、常に動く事を好む米国人が最も浅薄なる国民であるが如くに、吾等も彼等に傚ひて「活動」して彼等の如くに浅薄なる民とならざるを得ない、大事業は働いては出来ない、カント先生の如くに一生の中に曾て一回も居住の地より三十哩以外に出た事のない人が世界を転覆するに足るの大思想を生むのである、出まいぞ、然り、出まいぞ! 〇「内村先生は人が言ふが如き冷酷なる人ではない、曾て私が逆境に陥つた時に、先生は封筒に『軽少』と自筆して同情金を持つて来て下さつた、私は今猶ほ其封筒を大事に保存して居る、是は先生が温かい人で(238)ある確実なる証拠である」、斯く云ふ人があると一人の老人は答へて言ふた「真に然りである、私が先生を柏木に御訪問申上げし時に先生は喜んで私に会つて下さつたのみならず、私の為めに道案内をして停車場まで送つて下さつた、先生は実に御親切なる人である」と、之を聞きし余は怫然として立つた、「諸君、諸君は何れも間違つて居る、余は僅か斗りの親切を為されたりとて余を信じ、其反対に為されないとて余を疑ふが如き、畢竟するに諸君は未だクリスチヤンの何たる乎を知らないのである、|クリスチヤンはキリストに事ふるを知る、其他を知らない〔付△圏点〕、時には人に親切を為す事がある、又為し得ない時がある、然し夫れは時と場合に依るのである、然し彼の主眼は他《ほか》にある、|主イエスキリストに忠実に事ふること〔付○圏点〕、若し余の一生に渉りて余がキリストに不忠でありしならば余を信ずる勿れ、然れども余の一生の行為にしてキリストに事へて渝らざりしならば諸君各自に対して余が親切を為せし為さゞりしに関せず余を信ぜよ、永久不変の友誼《フレンドシツプ》は相互にキリストに対して忠実なるに由て生じ且つ維持せらる、クリスチヤンに在りては友誼は直接ならずして間接である、キリストに在りて結ばれたる友誼こそ真正の友誼である、キリストを経ずして相互に直に親切を尽しあはん事のみ努めて友誼は永く保たないのである云々」と、斯く言ひて問題は解けた、信者は相会して相互を語つてはならない、キリストを語るべきである。
四月二十五日(日)曇 午後の講演会又復充満の盛会であつた、何故に斯くも多くの人が来る乎余には解らない、其内に「ヨブ記の講釈だけは聴いてやらう」と云ふて来る教会信者もあるとの事なれば聴衆多しと云ひて油断は出来ない、此日余は「ヨブ記は如何なる書である乎」に就て講じた、随分骨の折れたる講演であつた、聴衆中に一人の貧血症を起して卒倒する者あり、為に尠からず静粛を妨げられた、多数の会衆を統一するは容易でない、神の御佑助《おんたすけ》を要する益々切である、今や余と教会との関係は全く絶えた、然し數百の教会員は毎回余の聖書(239)講演を聴かんとて来る、教会は余を排斥しながら余をして其会員を教へしむ、余は大なる名誉に感ずる、教会は其会員を増さんと焦心《あせ》るが故に未だ本当に信仰を起さゞる者に洗礼を授くるらしくある、故に教会員にして基督教の初歩をすら知らない者に度々会合する、殊に教会員多数の聖書知識に乏しき事は著るしき事実である、|余の講演会に来る者の内で聖書を携へずして来る者は大抵は教会員である〔付△圏点〕、彼等は常に牧師の説教を聞かせられて聖書を教へられないやうである、彼等は基督教に|就て〔付○圏点〕多くを聞いて居る、然し乍ら基督教其著に就き、罪に就き罪の赦しに就き、其他聖書の教ふる重要事に就き、知る所甚だ尠きやうに見受くる、畢竟するに教会は自今其会員を使ふ事よりも教ふる事に努めなければならない、教会員は霊魂の糧に欠乏して之を求めんとて余の如き無教会信者の所に来るのである、教会は此事に関し大に考ふべきであると思ふ。
四月二十六日(月)雨 無為の一日であつた、昨日の講演にすべての能力《ちから》を奪はれ、今日は何事をも為し得ず、只心の水門を開いて生命の水を以て衷《うち》なる空虚を充たされんとのみ努めた、ブリンジヤーの『ヨブ記解訳』にヨブに臨みしすべての患難は彼をして「余は賤《いや》しき者なり」との一事を知らしむる為であつたとの事を読みて大に蒙《くらき》を啓かれた(約百記四十章四節)、自己に関する此智識を得んが為には、即ち神の前に立ちて自己は全然価値なき者である事を知らんが為には、余は如何に苦んでも可《よい》と感じた。
四月二十七日(火)曇 気候非常に不順である。少しく原稿を書いた、或時は原稿紙一枚書くのが一日の仕事である、何時《いつ》まで此仕事を継けるのであらう乎、然し幸福なる仕事である、政府の役人も教会の監督も干渉する能はざる独立の仕事である。
(240) 四月二十八日(水)晴 五月分雑誌を書き了つた。余は近頃|熟々《つくづく》思ふ、余は学者又は役人の教師ではなくして、百姓、町人、労働者の先生であることを、余は才子佳人の心理状態は什《どう》しても解らない、余自身が上州の小武士《こざむらい》の家に生れて本性《うまれ》が下等であるのであらう、然し余は余に定められし此地位に満足する、ルーテルも鉱夫の家に生れて其|本性《うまれ》は粗野であつた、然しそれが為に彼は却て善くナザレのイエスの心を解し得た、|所謂上流社会又は知識階級ほ余の行くべき所ではない〔付△圏点〕。
四月二十九日(木)晴 高田キヨ、彼女の夫並に子供三人と共に墨西寄エスキイントラより帰る、赤飯を炊きて彼等一行の無事帰国を祝した、キヨはルツ子在世当時久しく我家の台所掛を勤めし者である、大正元年高田氏に嫁し、墨西寄チヤパス州ソコヌスコ郡エスキイントラ村附近にエスペランザ農園を経営して今日に至つた、今回止むを得ざる事情の下に帰国する事になり、八年前に独り往きし者が巧に西班牙語を繰《あやつ》る女児二人を伴れて帰り来り、今昔の感に堪へなかつた、只彼女を歓迎する者の内にルツ子の在らざるは甚だ物足りなく感じた、キリストを主として仰ぐ我家に於ては上下の礼こそ守れ心の中に於て主従の別はない、我家の台所に忠実に勤めし者の内にキヨ同様他家に嫁して後に今猶ほ娘同様に思ひ且つ思はるゝ者あるは我家の誇りである。
四月三十日(金)曇 夜の星之友会に於て余は牧夫座のアルクツラス星(大角)に就て語つた、地球よりの距離180×5280×12×186,000,000哩、大陽は地球より大なること百三十万倍なるに、アルクツラスは大陽より大なること三十七万五千倍、而かも此大火球が一秒間に五十五哩の大速度を以て我地球に向て驀進しつゝあると聞いて驚かざるを得ない、而かもアルクツラスは唯一箇の星である、斯かる星は広き宇宙には無数に存在するのである、(241)神の富と能《ちから》とは大なる哉、而して此神が愛であると云ふ、何許《いかばか》りの愛ぞ(約翰第一書三章一節)。
五月一日(土)雨 主《おも》なる仕事は雑誌の校正、一人の来客あり、至て平静なる一日であつた。
五月二日(日)半晴 午後の講演会不相変聴衆満堂の盛会であつた、多くの古き信者を聴衆の内に見受けた、教会の教師は挙つて余に反対するも、其柱石たる多数の平信徒が余の講演を聴かんとて来るは奇異なる現象である、而して彼等はすべて余の信仰に於ける兄弟姉妹であれば余は勿論彼等を歓迎する、此日ヨブの患難に就て語り、彼れヨブに対し深き同情なき能はずであつた。閉会後小講堂に於て医業に従事する者の懇親会を開いた、来り会する者二十二名、開業医あり医学生あり産婆あり看護婦ありて興味深き信仰的会合であつた、余も之に臨んで一場の感話を述べた。
聖書を読みまするに、イエスは人を救ふに霊魂と肉体との両方面より為されました、人は霊肉両性でありますから、彼を救ふに此の両方面より以てすべきであるは明白《あきらか》であります、実《まこと》に医は伝道の方便ではありません、其半面であります、若し茲に理想的伝道師があるとすれば其人は神学と共に医学を修めたる者でなくてはなりません、人の肉体の医癒《いやし》を怠りて彼を完全に救ふ事は出来ません、医術に於ても亦然りであります、人の霊魂の救ひを怠りて彼の肉体の病を癒すことは出来ません、医術の伴はない伝道と伝道の伴はない医術とは共に不具者《かたはもの》であります、而してイエスは伝道師でありしと同時に医師であり給ひました、其事は四福音書の明に示す所であります、聖書に示されたる場合に於てはイエスは大抵は奇蹟を以て病疾《やまひ》を癒されました、然しそれは単に方法の問題であります、奇蹟に由るなり普通の医術に由るなり基督者《クリスチヤン》は人の肉体を癒しつつ其霊魂を救ふべきであります、私自身が米国に在りて三年半の間、有名なるペンシルバニヤ洲々立白痴院に(242)於て看護夫の職を執りし事は今に至て実に大なる利益であります。云々
次いで茶話会に移り、路加伝十章三十三節以下のイエスの御言葉に因り此会を『サマリヤ会』と命名する事に決し、次回の会合を約して散会した。
五月三日(月)雨 静かなる雨の休日であつた。富山県読者某よりの手紙の内に彼地浄土真宗僧侶の内に余の信仰に対し多大の敬意を表し居る者尠からずとの通知があつた、彼れ曰く「基督教界に先生を攻撃する者が居るかと思へば斯かる他宗教の人が先生を尊敬して先生に敬服して居る、誠に先生は神に恵まれし方と信じて疑ひません」と、富山県と云へば福井県と同じく余の関係の最も尠き所である、夫れは其筈である、両県共に本願寺勢力の根拠地である、然るに其富山県に於て、而かも真宗僧侶の内に余の敬慕者ありと聞いて、余は心密に喜ばざるを得ない、余は浄土門仏教と信仰上重要なる共通点を有する者、余は寧ろ其強き味方であつて敵でない事は明である、而して法然 親鸞の弟子の内に信仰の友を有する事は余の大なる誇り又慰めである。
五月四日(火)雨 校正又校正、雑誌の校正と新刊の校正、外に印刷所の勘定書に応じて送金した、大なる事も美なる事も何もない、然し是れ又貴い仕事である、日々の煩業を忠実に為し得ずしてキリストの善き僕たる事が出来ない 〇余は熟々《つくづく》思ふ、余は人に余自身の為に愛して貰ひたくない、キリストの為に愛して貰ひたい、余はキリストの僕である、故に直接に余を愛する者は実は余を憎む者である、キリストの為に、キリストを通うして余を愛する者、其人が本当に余を愛す一る人である、余はキリストを離れたる如何なる関係にも入る事は出来ない。
(243) 五月五日(水)雨 五月号雑誌の校正を終つた、一安心である、天文書を引出して十数頁を読み、頭脳の洗濯を為した、四囲の新緑滴るばかり、家に在りて日光函根の翠色に接するに異ならず、春が天地に臨む時に処として楽園ならざるはない、詩人ローエルの一節に曰く
What is more beautiful than a day in May.
皐月の春の一日に優る日とてはあるべきや
天にオライオン星の遠く西空に隠るゝ此頃、地に濃緑の春|普《あまね》し、美はしき天地なるかな。
五月六日(木)雨 毎日の陰雨堪え難くある、校正終りたれば聖書の研究を始めた、不相変面白くある。英領コロムビヤに在る高知尾叔治より左の如き書面が達した、彼は昨冬一たび帰朝し、余等の勧告を納れ再び彼地に渡航したる者である、ロツキー山西麓オカナガン湖畔に果園の監督に従事する彼の地位は羨ましきな。
三月十三日鹿島丸にて横浜出帆、海上平穏、同廿五日|美港《ビクトリヤ》着、再び田舎に参りて果園々丁と相成り候、野も山もたゞ雪の消えたるのみ、否、途中にては四尺位の積雪も見、一昨日は当地へも薄雪降り申候、併し春は争ひ難く小鳥の声ものどかにて杏の蕾は色を帯びてふくらみ出し候、春は此処にも来り、凡てが復興の兆を呈し候。四月十日
米大陸西部湖辺の風光、手に取りて見るが如し。
五月七日(金)雨 校正と手紙書きと星の研究とが一日の仕事であつた。目下欧洲漫遊中の石本惠吉より三月廿一日伯林発の書面が達した、欧洲の現状、聞くさへ身の毛が弥立《よだ》つ程である、欧洲人は今や経済問題にのみ熱注してヱホバの神に依頼《よりたの》む事を思はない、其点に於て彼等は純然たるペーガン(異教徒)に成つて了《しま》つたのである、(244)此事を思ふて余は自身彼地に行いてキリストの福音を彼等、殊にルーテルの国人に説きたく思ふ、独逸人にルーテルの信仰が復興すれば独逸国の恢復は易々たる業である、外交も経済も要《い》つたものではない、死者を甦らす事の出来る生命の主なるキリストのみ能く今日の独逸を救ふ事が出来る、此事を思ふて余はモドカ敷《しく》つて堪らない、何故《なぜ》独逸人はルーテルの信仰に帰らないのである乎 Ein'feste Burg ist unser Gott である、英人も米人も恐るゝに足りないではないか。
五月八日(土)雨 雨に厭々《あき/\》した。久振りにて先づ校正が片附いた、滅多に無い事である。動物学者フランク・フイン著『鳥類心理』を大なる興味を以て読んだ、外《そと》では泥まぶれに成つて血の雨を降らし乍ら衆議院議員の選挙を争ひつゝある此時に内には聖書と鳥の研究に至て平穏である、之も人々の嗜好《すきずき》であつて止むを得ない。
五月九日(日)曇 雨一先づ歇む、午後の集会、聴衆堂に溢れるの盛会であつた、余は約百記第三章に就て講じた、骨の折れた講演であつた、時計に狂ひあり例会《いつも》より三十分程長びき、聴衆に対し気の毒であつた、講演は厭世自殺の問題に渉り深き注意を惹いたらしくある、何時《いつ》も変らず聖書を携へたる七百有余の熱信なる此聴衆は何処《どこ》から来るのである乎自分には解らない、自分は只キリストの命を受けて有らん限りの精力を注いで聖書の闡明を努むるまでゞある。
五月十日(月)雨 余に取りては休息日である、日本全国に取りては衆議院議員総選挙日である、「私の運命は今日一日にある、よろしく頼む」とか、「明日の選挙に於て私を大多数を以て義政壇上に送つて下さい」とか云ひて有権者に頭を低て頼んで歩く男子が日本国に九百人余あると聞いて甚だ心細く感ずる、何故に人に選まれずし(245)て|選んで貰ふ〔付△圏点〕のである乎、是れ男子たる者の恥辱ではないか、日本国の幸福が代議政体に由て来らない事は此一事を見ても明白である。
五月十一日(火)晴 久振りにて晴天を見た、夜の準備にとヘルクレス座諸星に就て読んだ、M十三号星に就て読み、雄大荘美の感に打たれた、然るに夜に入て雲復たび空を掩ひ、処女座アルフア号に接近せる火星を見るの外に、観る者なくして甚だ残念であつた、市中は選挙開票にて賑つたとの事である、余には何の関係もない。
五月十二日(水)曇 雑誌五月号が出来た、近来に珍らしき早出来である、労働界混乱の今日、月々の雑誌が出来るだけが僥倖であると思はなければならない。
五月十三日(木)半晴 ヨブ記の研究に引きつゞき興味津々たるものがある。午後或る婦人の病気を見舞はんとして外出した、電車の中にて隣席の或る紳士に呼懸けられた、如何しても彼の名を思出す事が出来ないから段々と聞いて見ると今から三十二年前に或地方に於て会つた事のある〇〇教会の牧師であつた、今猶ほ伝道に従事の事と思ひ話し懸けて見ると「然らず」と彼は答へた、余は甚だ極りが悪かつた、伝道以上の事業なしと信ずる余は伝道を廃めて別に苦痛を感ぜざる元の伝道師に会ふ時に言ひ難き一種のエムバラスメント(惶感)を感ずる、然し流石は〇〇教会である、其「宏量大度」に余等の到底及ばざる所がある、余の如き小胆者でなければ到底伝道に一生涯を委ぬる事は出来ないであらう。
五月十四日(金)晴 久振りにて晴天を見る、午後新緑を賞せんとて荏原郡平塚村|洗足池《せんぞくいけ》へ行いた、東京附近(246)には珍らしき小湖である、有名なる日蓮の袈裟懸松《けさかけまつ》のある所、古《ふる》き松は既に枯れて丸太《まるた》となりて保存され、若《わか》き松が其跡に植えられてある、初夏の郊外に麦田の青々たるを見て愉快であつた。夜の星之友会に於て余は処女座の主星スパイカ(穂星《ほぼし》)に就て話した、アラビヤ人は之を Al Zimach と呼んだ、「枝」の意である、希伯来語に在りては之を Zemach と云ふ、エレミヤ記廿三章五節に「ヱホバ言ひ給ひけるは視よ我がダビデに一の義き|枝〔付○圏点〕を起す日至らん」とある其詞である、同じ詞がイザヤ書四章二節、ゼカリヤ書三章二節、同六章十二節に於て同じ意味に於て用ゐられて居る、即ちメシヤ即ちキリストの意《こと》である、|処女座の主星をアルテマツク(枝)即ちキリストと称す〔付○圏点〕、我等クリスチヤンには或る深き意味が在るやうに感ぜられる、偶然であらう乎、故意であらう乎、是は勿論天文学の問題ではない考古学又は言語学の問題である、殊に此星の純白の光を放つを見て更に一層意味の深さが思ひやられる、或ひは子供騙しの説である乎も知れない、然し処女座の主星スパイカを記憶するに一の助力《たすけ》たる事だけは明白である。
五月十五日(土)晴 家の青年帝大野球団投手としてシカゴ大学野球団と闘ひ五対零にて彼等の破る所となつた、残念至極であつた、シカゴ大学だけには勝たせたかつた、帝大には限らない日本人でさへあれば可《よ》い、早大でも慶大でも可いから彼等を破つてやりたい、然し若し今年負ければ来年勝つ、来年負ければ十年か二十年の内には必定《きつと》勝つ、|而して野球以外の事に於てはシカゴなどには決して負けない〔付△圏点〕。
五月十六日(日)晴 麗《うる》はしき初夏の日和であつた、午後の講演会に六百余人の聴衆があつた、此日より聖書持参を励行した、持参せざる者が四十人余りあつた、其内に一人の老紳士の聖書を持たず太き洋杖《ステツキ》を握つたまゝ高壇の前に着席し、居眠しながら聴いて居るものがあつた、後で調べて見れば其紳士は某教会の前教師某君であ(247)つた、斯かる集会に於て規則を守らない者は大抵は教会の信者である、殊に其数師である、社会改良を叫ぶ彼等基督教会の教師達が先づ第一に聖会の秩序を乱して憚らないのである、困つたものである。
五月十七日(月)曇 昨夜空晴れ、初夏の星覗き、甚大の愉楽であつた、今暁二時床を出て書斎の窓より南天を望めば、射手座の諸星我が正面に現はれ荘観言はん方なしであつた、夏の星は其数に於て遥に冬の星に及ばずと雖も、其光の清さに於ては確かに優さる所がある、昨日市内中央の高壇の上に立ちて講ぜし約百記五章九節の
神は大にして測り難き事を行ひ給ふ、
其の不思議なる事を為し給ふ事数知れず
との言を思出し荘厳の感に打たれた 〇午後、体躯を床の上に横たへ、『ヒツバート雑誌』四月号を読み休みながら学んだ。
五月十八日(火)半晴 外国人への手紙二三本書いた、午後瑞西人フンチカー君の訪問あり、共に郊外を散歩し、欧洲の現状、欧洲人の信仰状態等に就て語り、大に教へらるゝ所があつた、時に一日を全部外国人の為に費すは余に取り甚だ有益なる且つ楽しき事である。
五月十九日(水)晴 麗はしき初夏新緑の一日であつた、家に在りてエデンの園に在るが如し、差したる事を為さず、唯『ヒツバート雑誌』中の論文数篇を読んだ、英国の知識階級に信仰と称すべきものゝ無い事を知つて悲んだ。
(248) 五月二十日(木)晴 「時」の展覧会を観た、面白かつた「時は金なり」とフランクリンは言ふた、「生命は時なり」と近世哲学は云ふ、絶対的実在者なる神を除いて他に「時」ならざる者はないのである、余に若し道楽があるとすれば其れは時計である、展覧に供せられたる旧新の懐中時計の内に欲しい者が四五あつた、事物の正確を愛する者に取り精確なるタイムピースの如き貴きものはない。
五月二十一日(金)半晴 編輯が始つた、藤井君先月限り本誌に関係せざる事になり、今月より又元の畔上《あぜがみ》と二人で作る事になつた、余の精力の全部を之に注ぎ来りしことであれば、今猶ほ一人で能く之に当る事が出来る、殊に浦口君の自今毎月寄稿せらるとの事であれば、雑誌製作は相変らず余に取り無上の快楽である。
五月二十二日(土)晴 上野公園竹の台に聖徳太子紀念美術展覧会を観た、見るに足る者は一つも見当らなかつた、文学博士黒板勝美氏著『聖徳太子小観』一冊を買求め、之を電車中に読みながら帰つた、之に由て観るも太子は東洋的大政治家と称する事は出来るも、宗教的信仰家として認むる事は出来ない、太子に恵心僧都に有つたやうな仏陀に対する信仰心があつか甚だ疑はしい、聖徳太子は政略の為に仏法を採用し給ふたやうに見える、パウロやコロムウエルが基督教を信じたやうに太子は仏教を信じ給ふたのではないやうである、若しさうであつたとすれば日本の仏教に取り不幸此上なしである、願ふ基督教が日本人の宗教と成るに方て、下《しも》人民の純なる宗教心に因りて、上《かみ》高貴の権威に依らざらん事を 〇此日慶応大学軍野球戦に於て二対一のスコーアを以て市俄古《シカゴ》大学軍を破つた、快哉を絶叫した、日本は米国に負けてはならない、何人《たれ》でも可い、日本人でさへあれば可い、慶応万歳である。
(249) 五月二十三日(日)晴 大分暑くなつた、講演会益々盛である、聴衆堂に溢れ、座席なくして起立して居つた者を多数に見受けた、聴衆制限の必要が迫つて来た、困つたものである、孰れの教会に於ても聴衆の尠きを歎ずるのに、我が集会に於ては多きを持余して居をのである、恐れて宜いか喜んで宜いか余には解らない 〇此日講師休憩室に行つて見ればテーブルの上に「内村先生へ、田舎の左官職」と記《しる》して菓子が一袋置いてあつた、|非常に嬉しかつた〔付○圏点〕、多分千葉県あたりの田舎の職人が余の聖書講演を聴かんとて態々出京して、余の来る前に密かに此贈物を置いて聴衆の間に隠れて了つたのであらう、勿論物ではない志である、菓子は他にも得られる、亦|家《うち》にもある、然し貴きは此感謝の志である、余は大事に之を家に携へ帰り、特に茶を煎じて座敷の真中にて大なる感謝と誇りとを以て其二三を平げた、福音の宣伝に伴ふ大歓喜の一例である。
五月二十四日(月)曇 午後雨。永田町山王神社境内に市中の新緑を賞した。F・W・ロバートソンの「キリストの孤独」を読み大に慰めらるゝ所があつた。〇学士〇〇〇〇君より西班牙国アルヘシラス発の絵ハガキが達した、君は曰く
伊太利へは此一月十六日に出発、トリーノ、羅馬、ナポリ、ピーサ、フイレンチエ、ボローギヤ、ベネチヤ等を経て三月十日に里昂《リオン》に帰り、廿三日に再び出発、ボルドウを経てピレネ山の麓ルードの|聖母にお参りをして〔付△圏点〕三十一日|馬徳里《マドリツト》に来り、八日に出発、セヴイリヤに翌九日着、十日にカテドラル(寺院)に参り表の画の示すクリストバル コロン(コロムバス)の|墓を拝みました〔付△圏点〕云々
ダンテやサボナローラの伝記に於て読み馴れし地名を読むさへ羨ましくある、然し心に懸るは君の信仰状態である、「聖母にお参りをした」と云ひ、「墓を拝みました」と云ふ、其他米国よりの君の通信の内に天主教臭味を帯びたものが大分あつた、或は君は遂々《とう/\》天主教信者に成つて了つたのではあるまい乎、君の鋭敏なる感情と豊富な(250)る美術的趣味とが君をして遂に茲に至らしめたのである乎も知れない、実に止むを得ざる次第である、然し余自身は断じて天主教信者にはならない積りである、余は信仰に於てはルーテルの弟子であつて、神学に於てはカルビン主義者である、余はプロテスタント教が日本に於て生みし子供の一人である、他人《ひと》は他人である、余は余である、他人は縦し基督敦を棄つるとも、又は社会主義者となるとも、又はユニテリヤンと化するとも、又は天主教信者に変ずるとも、余は余の受けしミルトン又はコロムウエルの信仰を以て一生を終りたく思ふ。
五月二十五日(火)晴 ロバートソンの説教を読み強く感に打たれた、今日英国百科字典に彼の小伝を読み、「我が兄弟よ」と言ひて彼の名を叫ばざるを得なかつた、彼と同時代の人にして彼の如くに深くイエスキリストの心を識つた者はなかつたらうとのことである、而かも教会は異端として彼を斥けた、彼は三十七歳にして其光輝ある一生を終つた、然れども「彼れ死《しぬ》れども今なほ言《ものい》へり」である(希伯来書十一章四節)。
五月二十六日(水)晴 夜一ツ橋如水会に於て米国有名の教科書出版会社ギン・エンド・コムパニー社長ジヨージ・A・プリンムプトン氏の「シエークスビヤの時代に於ける教育」に関する講話を聴いた、多くの暗示を与へられ、甚だ有益であつた、流石は米国である、斯かる有力なる学者を其社長に戴いて出版会社は高貴ならざるを得ない、羨ましき事である。
五月二十七日(木)半晴 朝詩篇第百二十九篇を読んで非常に感じた。雑誌六月号の編輯を終つた、例月よりは大分楽であつた。東京基督教青年会の高壇を断はられてより茲に満一年である、余自身に取りては誠に恩恵溢(251)るゝの一年であつた、言ひ難き感謝である。
五月二十八日(金)曇 横浜に余の信仰の友にして人力車夫を業とする者がある、彼は永年の間本誌の読者であつて今日まで幾回《いくたび》となく彼が稼ぎて獲し金の内より伝道金を送つて呉れた、今日も亦左の書翰を添えて徳島県名産巻柿二本を送つて呉れた、
拝啓、先生此の品は私供の古郷の産にて昔より珍重されます、故に先生に差上ようと存じ今春特に取寄せました、何卒御試食被下度候。
是は貴き大なる賜物である、之に対して余は腓立比書四章十八節の「馨《かうば》しき香《にほひ》にして神の受け給ふ所、悦び給ふ所の祭物《そなへもの》なる汝の餽贈《おくりもの》を受けて足れり」とのパウロの言を繰返すより他に言葉がなかつた。さうかと思ふと文学者らしき或人(宿所姓名を明記したる)より左の如き端書が達した、
未知の内村氏へ御便り致します……私は貴下の著述に関する一切の書籍を読んで見たいと思ひ、先づ第一、理想よりも思想よりも、貴下の日常の生活を少々でも知りたいと云ふ希望から『信仰日記』を読みました、処が私は実に始めの希望をして大に失望に終らしめた、それは、あまりに我儘過ぎる日記である、あれでは格別信仰日記でもあるまい、自己誇大の日記であると思ふ、自己中心の記事で甚だ偉らぶられた日記としか読めぬ、実に失望しました、失望した事を申すだけ私は最初希望が強いでした。
此人に対し余は甚だ気の毒に感ずる、余は諸《すべて》の人を満足する能はざるを悲む、然し乍ら車夫や左官が余の著書に由りて尠からず慰藉《なぐさめ》を得て居て呉れる事を知るが故に、余は今猶ほ筆執る事を廃める事が出来ない、余は文学者や芸術家を教へんとしない、彼等が余に就て失望するは当然である、彼等すべてが此通信者に傚ひて一切余の著書を読まざらん事を望む、但し彼等の批評は感謝して受ける、余は思ひ切つて失望其儘を余に書き送つて呉れた
(252)此人に感謝する。
五月二十九日(土)半晴 午前友人の家二軒を訪問した、彼等に歓ばれて嬉しかつた、終日「キリストの愛」に就て考へた、新しき意味に於て約翰伝十三章以下を読んだ、キリストの愛を知り、幾分なりとも之を我心の有《もの》となし得る事は人生最大の幸福又獲物である、之に較べて見て富も知識も位階《くらゐ》も無きに等しき者である、キリストの愛を以て神と人とを愛し得て、我は本当に神の子に成つたのである、救はれたとは実に此事である感謝々々である。
五月三十日(日)晴 涼しき好き聖日であつた、約百記第八章を「神学者ビルダデ語る」と題して講じた、神学の中心は愛である、愛より出ざる教義《ドクトリン》も信条《クリード)も無意味である有害であると語つて気持が好つた、聖書を説くのは畢竟するにキリストに現はれたる神の愛を説くのである、基督教は神は愛なりと説くが故に絶対至上の宗教であるのである。
五月三十一日(月)半晴 昨日の講演に対して在京中の兵庫県人某より左の如き書面が達した、
今日は先生の御講筵を聴講さして戴きまして涙を流して神に感謝しました、今迄先生の御講演を拝聴出来得るやう常に神に御願ひ申してゐましが上京いたす機会がございませんでした、計らずも此度余儀なく上京せねばならぬ様になつてやつて参りました、それは母が上京見物中流感にかゝり肺炎になりましたので驚いて馳けつけて参つたのです、一時は危篤でありましたが神の御守護によりて回復いたして来ました、神は異常なる方法を以て私をして上京を余儀なくせしめ給ひ、さうして先生の許へと追ひやり給ひま七した、母の危篤(253)であつた時の事を考へてヨブの心が幾分かわかりました、総ての事神に感謝してゐます。
基督教に孝道を交へたる心である、伊藤仁斎や中江藤樹が此書面を読んだら如何《どんな》に喜んだであらうと思つた、此心を以て聖書を読んで其深き意味は自《おのづ》から瞭然たらざるを得ない。
六月一日(火)晴 約翰第一書三章十四節を読んで非常に感じた、「我等兄弟を愛するに由りて死を出て生に入りしことを自《みづか》ら識る」と、即ち|愛するは救はれし確証である〔付○圏点〕との事である、我が救はれし乎救はれざる乎は愛し得る乎愛し得ざる乎に由て定まるのである、実《まこと》に明白である、合理的である、然らば愛せん哉、最も愛し難き人を愛せん哉、愛し得るやう祈らん哉、我に愛し難き人の有るは彼等を愛し得て我が救を完うせんが為である、此感想に支配せられて感謝と歓喜の内に全日を送つた。
六月二日(水)晴 雑誌校正が終日の仕事であつた。美はしきは初夏の新緑に萌《もゆ》る樹木である、柿の樹一本、欅の樹一株に全宇宙の美が宿るやうに見える、天然の美を賞せんと欲して松島橋立を見るの必要はない、樹一本を挑むれば充分である。
六月三日(木)曇 六月号雑誌校正を終つた、不相変面倒なる仕事である、然し責任を要する大切なる仕事である、之に従事して居る間は他の仕事を手に執ることが出来ない、自身著者となつた着でなければ此事は解らない、而して余は二十年間此仕事を続け来ることが出来て神に感謝する。
六月四日(金)雨 厭ふべき梅雨の空である。余が京都在住時代に余に接近して余より基督教を聴き、熱信な(254)る基督信者となり、一時は其郷友間に「耶蘇の新太郎」の綽名《あだな》をさへ贏得《かちえ》し美作国吉野郡古町の人なる有元新太郎君より久振りにて書面あり、其内に左の如き通信があつた、
昨冬は高野山に登り真言秘密教探究のため故管長密門大僧正猊下に師事し、法式により剃髪染衣の身となり、名を宥海と改め、十八道の妙事相授かり、冬間百ケ日南山の寒水に浴しつゝ苦修練行大に学ぶ所有之候。尚進んで其奥を窺はんがために今春は弘法大師の最初の修行地たる当太竜寺の霞を吸ひつゝ真言宗教の大秘法たる「仏説虚空蔵菩薩能満諸願最勝心陀羅尼求聞持法」五十日間の修法に取りかゝり、山上の古堂に単独籠り居り、門外不出、絶対無言、或は断食をなし、或は一食ソバコを食ひ、真言行者として益々練磨致居候。云々
泣いて宜いか、怒つて宜いか、笑つて宜いか余には解らない、何れにしろ日本の識者には単純なるキリストの福音を其儘終生信じ通す事は難中の難であると見える、其青年時代に於て余より基督教を聴きし人にして或ひは天主教に変ずるあり、或ひは大本教に走るあり或ひは又有元君の如くに真言宗に帰るあり、走れ彼等の変信に依るとは言ふものの余も亦責任なき能はずである、斯かる悲しき報知に接するたび毎に余は神の前に余の不信を謝し、同時に又神が余の「信仰の子供」を守り給ひて彼等をして躓くことなからしめ給はん事を切に祈らざるを得ない、伝道に失望多し、|殊に学生に於て然りである〔付△圏点〕、幸にして所謂近代的高等教育を受けざる人の内に堅く信仰に立ちて動かざる人の多きは感謝すべき事である、必竟するに基督教は頭脳の宗教に非ず、実行の宗教である、頭脳より入りし信仰は十中八九消ゆる者と見て可いやうである、直に心に入り手と足とを以てする実行に現はれし信仰のみ永久的らしくある、イエス御自身が大工の子であり給ふた、其如く労働の子供のみ能く彼の弟子として存する事が出来るやうに見える。
(255) 六月五日(土)雨 梅雨到る、鬱陶敷くある。種々《いろ/\》と俗事に携はる、悲しき事も歓ばしき事も面倒なる事もある、然れども万事が善に向て働く事を知るが故に平安である、愛に恐怖《おそれ》なし、無欲は勇敢なり、人生勝利の秘訣茲に在りである。
六月六日(日)快晴 梅雨晴の好天気である、此日より市中講演会開会の時間を午前十時に改めた、一昨年再臨問題研究会開始以来の最初の試みであつて、聴衆殆ど三割減を覚悟して此事を実行した、然るに事実は予想に違ひ、時間変更初日の今日、聴衆は平常と大差がなかつた、大略一割減であつて、五百名位ゐあつた、即ち六七十名は其所属の教会に出席せん為に余等の講演会に欠席したのであると見て宜からう、余は彼等が其所属の教会に忠実なるを悦ぶと同時に、余等の集会の出席者の多数が教会に関係なき者である事を知て安心した、斯くして余と余の同志とは「教会のお零《こぼ》れを頂戴して」聖書講演を継続するに非ず、教会の惹く能はざる聴衆を招きて福音宣伝を行ふのである事が判明して愉快此上なしである。久振りにて日曜日の午後を静に家に送ることが出来て大なる感謝であつた。
六月七日(月)晴 引続き初夏の好天気であつた、説教師の休日である、午前井之頭公園へと散歩に出掛けた、昨日大阪江原万里より送り来りしフリンダース・ペトリー著『文明廻転論』をポケツトに投込み、鎌倉蒲池信寄送の魔法壜を肩に懸け、休日明けの人影稀なる公園の池畔、線蔭涼しき所に腰を掛け、水中に虹鱒の戯れるを見ながら読書と黙想に耽けり、理想的の一時間を費した、帰るに臨んで有名なる徳川将軍のお茶の水を近代式の魔法壜に詰め、茶の湯用として家苞として持帰つた、電車賃として金三十一銭を消費せしのみ、誠に安価にして有益なる楽しき半日であつた。
(256) 六月八日(火)晴 久振りにて遠近友人五人の訪問があつた、雑誌校正終了後のことゝてユツクリと話しが出来て愉快であつた、雑誌と雑誌の間が交友時間である。
六月九日(水)晴 在加洲バークレー(加洲大学所在地)山崎正光君より左の如き興味ある通信があつた。
前略 此頃は先生が天体の方面からして神様の御手の業《わざ》を我等の同胞に示されつゝあることを知つて私も先生に御礼を申さなければなりませぬ。私が先生の著書を紹介されましたのは一九〇七年加洲サクラメント市に於てゞあります。研究誌を二三冊読んで見ると何とも云へない面白味が出て来たのです……其頃の研究誌に小事に齷齪せずしてアブラハムの如くに野た出て星を数へ得るかを見よといふ所感や、パウロの復活論の解釈に幾箇《いくつ》も星の名が載つて居る。何だか天体の事が知りたくなつて遂に一冊の小さい天文書を手に入れて読んで見ると中々面白い。そこで二吋の望遠鏡を手に入れたのが一九〇八年でありました。それから多くの天文の書を手に入れ、又リツク天文台にも知人が出来て天文の研究を始めたのであります。二吋位の望遠鏡では小さ過ぎるので、自身で八吋の反射望遠鏡を製造しました。一九一〇年には一ケ年間リツクの知人の世話になり、素人として研究を進めつゝありました。然し研究すればする程面白くもなり、又自己の知識の不足を感ずるので遂に大学に入つて専門的に天文科を研究して居ります。西洋の諺に「神を知らざる天文学者は狂せり」とありますが、私も天文を研究するに当つて先生から強くイエスを紹介していたゞいた御蔭で神を知らざる不信国の狂天文学者の列に入るに及ばないことを感謝して居ります。ヱホバを知るは知識の源なり。私は研究誌の読者の中から続々と天然科学の方面から神様を我国人に知らする事の出来る人々の出ることを信じて居ります。……私は勿論天文を主にして聖書を客にすることは出来ませぬ。たとへ自分に今あ(257)る四吋の望遠鏡や八吋のものを手より放棄《はな》すの時が来るとも聖書は|はなす〔付ごま圏点〕ことのないやうにと神に祈つて居ります。云々
茲に余が知らざる間に本当の天文学者が研究誌に由て既に出来て居たのである、実に感謝の至りである、願ふ我が同信の友の内よりコペルニカス、ニユートン、ハーシエルの如き敬虔《つゝしみ》ある天文学者の多数に輩出して造主《つくりぬし》の栄光を全世界に顕はさんことを。
六月十日(木)晴 大聖書学者の註解に由り有名なる希伯来書十一章一節を研究した、聖書を読む事茲に四十三年、初めて此一節の意義がやゝ明白に解るやうになつて有難かつた、余の生涯に於て聖書の一節が解る事は一の大なる出来事である。
六月十一日(金)曇 雑誌六月号が出来た、第二百三十九号である、満二十年に只一月を剰《あま》すのみである、長い事であつた、而して感謝である。
六月十二日(土)曇 午後今井館に於て東京聖書講演会出席者有志婦人の懇話会を開いた、会する者三十余名、内教籍を教会に有する者僅に六名、余は尽く無教会信者である、彼等の衷に清き深き信仰が築かれつゝあるを知て非常に有難かつた、彼等の内一人にキリストに在る歓喜《よろこび》を伝へ得た丈けで充分の報賞《むくい》である、然り、多数を望まない、一人の日本人らしき真正《ほんとう》のクリスチヤンを作り得ばそれで充分である、而して余の微《かすか》なる労働を以てしても、神は斯かる貴き宝を天国に収め給ひつゝあるやうに見える、有難い事である。
(258) 六月十三日(日)曇 引続き午前の集会、朝風に吹かれて涼しかつた、聴衆は前回より少し多かつた、然し余の講演は振はなかつた、「ヨブ愛の神に訴ふ」と題して約百記第十章を講じた、ヨブの苦悶の中に彼の信仰の進歩を認め、聴衆をして亦之を認めしめんとするのが講演者の努力を要する所である、随分の困難である、決して容易《たやす》い事ではない。
六月十四日(月)曇 四日間の不在を前に控へて月曜日なりと雖も休む事は能なかつた、手紙書きに校正に終日机に凭掛《よりかゝ》りて働いた。夕七時主婦と共に京都へ向け東京駅を発した、彼地に於ける彼女の実家の跡片附を為さんがためである、又復東海道の汽車中に不眠の一夜を過した。
六月十五日(火)曇 朝七時七条着、不相変新町竹屋町下る便利堂に本陣を構へた、午後若王寺山に登り妻の兄岡田寛の墓を見舞ふた、序に新島襄氏の墓前に詣り脱帽して敬意を表した。夜青木庄蔵君の東京移転を送る為の送別会に出席した、朝野の名士六十人余の来会あり賑なる集会であつた、海老名弾正君並に原田助君と席を隣にし昔を語り今を談じて楽しかつた。
六月十六日(水)大雨 昼は細事に鞅掌し、夜は佐伯産科院に於て聖書講演を為した、会する者五十人余、約百記の研究に就て語つた。
六月十七日(木)半晴 交友に全日を費した。
(259) 六月十八日(金)半晴 午前十時京都を発し、彦根に下車し、有名なる彦根城を見た、天主閣より瞰下《みおろ》したる琵琶湖面の風景は天然の美に加ふるに歴史の事実を以てし、稀に見る荘観であつた、五時再び汽車中の人となり、経済界不振の御蔭にて乗客甚だ尠く、実《まこと》に楽《らく》な汽車旅行であつた。
六月十九日(土)雨 朝七時懐しき東京駅に着いた、西の京に友人多しと雖も自分の住所《すみか》は東の京である、余は関東人であつて山よりも平原を愛する、鴨河の水清しと雖も隅田川の水多きに及ばない、京都は優雅である、東京は自由である、明日又其高壇に声を放つのであると思へば心躍らざるを得なかつた、家に帰れば鸚鵡二羽声を揚げて我等を迎へた、暫時家を離るゝは家を一層深く愛するの途である、全宇宙に余が働いて死すべき所は日本東京である。
六月二十日(日)曇 涼しき好き日であつた。午前の聖会不相変恩恵と歓喜とに溢るゝの会合であつた、此日瑞西《スヰツツル》宣教師ヤーコブ・フンチケル君は高壇に立ち我等が昨冬同君の手を経て欧洲の罹災民に送りし僅ばかりの同情金に対し本国より伝へられし篤き感謝の意を表せられた、実《まこと》に為すべきは愛に励まされて為す事《わざ》である、日本東京に於て起りし愛の微動は欧洲中部アルプス山麓に達し、今や反響として再び元の東京に還り来り我等を励まし又慰む、愛は他人を慰め又自己を慰む、我等は此愛を我等の衷に起し給ひし父なる神に感謝せざるを得なかつた。講演は約百記第十一第十二の二章に渉り神智の探索に就てゞあつた、聖書を天然に結附けて講じ、自分ながらに愉快であつた、
今請ふ獣《けもの》に問へ、然《さら》ば彼れ汝に教へん、
天空《そら》の鳥に問へ、然ば彼れ汝に語らん、
(260) 地に言へ、然ば彼れ汝に教へん、
海の魚もまた汝に述ぶべし、
是れ所謂「天然神学《ナチユラルセオロジー》」である、天然を通うして天然の神に達せよとの教である、約百記は最古の天然神学である、之を日本人に伝ふるは余の特別の天職である乎の如くに感ずる。講演終つて後に階下の小講堂に於て唱歌隊の親睦会が開かれた、会する者男子十三人、女子三十人であつた、合唱あり、独唱あり、※〔ワに濁点〕イオリン独奏ありて聖書講演会の附属としては甚だ優雅なる会合であつた、総てが我等の讃美歌指導者なる吉沢重夫君の努力に依て成つたのである。
六月二十一日(月)雨 半日休息した。英国より『使徒信条の意義』と題する新刊達し、大なる興味を以て其数十頁を読んだ、茲に亦意義深き大問題がある。
六月二十二日(火)雨 又復雑誌編輯が始つた、|第二百四十号即ち第二十年号である〔付○圏点〕、二十年の長き間独りで一雑誌を編輯し来りし者は余を除いては多分此国に在るまい、大なる名誉であり、又感謝であり、又満足である、今後幾年|継続《つゞ》くであらうか、少くとも第三百号即ち第二十五年号まで継続たいものである。米国宣教師某氏の訪問を受けた、氏は自身無宗派主義者なりと云ひて現代の諸教会を嫌ふこと遥に余以上である、余が余に由て信仰を起せし者の教会に入るを妨げざるのみならず却て之を喜ぶと云ひしに対し、彼は是れ子供を悪魔の手に委ぬるに等しと云ふた、劇烈なる教会反対論者もある哉と余は思ふた、余を以て教会反対の張本人と見做す者は間違つて居る、米国に於て、|現在の教会を悪魔視する〔付△圏点〕基督信者の一団ある事を知つて余は非常に驚かされた。
(261) 六月二十三日(水)曇 久振りで和蘭国文士ドクトル・※〔ワに濁点〕ンエーデン氏より書面が達した、之に対し比較的に長い返辞を書き贈つた、同氏の如きは欧洲目下の最も健全なる思想家の模範であらう、彼等は亜細亜に対して大なる期待を抱いて居る、彼等は基督教が其元始の活力を以て再び亜細亜人の内より顕はれ来り、混沌たる欧洲の天地に救ひの光明を投げ入れん事を待つて居るらしくある、此期待に対し我等亜細亜人の微力不熱心なるは慚愧の至りである、「主よ我が信なきを愍み給へ」である。
六月二十四日(木)半晴 夜柏木今井館に於て聖書講演会出席者青年有志の感話祈祷会を開いた、来会する者五十余人、感話は次へ次へと連続して尽きず、沈黙の間《ひま》などは殆んど無かつた、而して信仰の事に於て全会は一致した、何れも所謂近代思想に反対した、一人は言ふ「我の神に対する態度を思ふ時に冷熱常ならず随つて動揺息まず、然れども神の我に対し給ふ態度を思ふ時に其変らざる愛を知りて我は恒に安し」と、他の一人は言ふ「神が解つたのではありません、彼に捕へられたのです」と、更に他の一人は言ふ「私が自覚した時に私は迷ふのであります、キリストの十字架を仰いで自分を忘れる時に私は落着ます」と、すべてが此類であつた、純然たる福音主義の信仰である、而して余の聖書講演に由りて縦令《たとひ》一人なりとも斯《かゝ》る信仰を起すに至れば、それで余の勤労は償はれて余りあるのである、而して一人に止まらず三十人四十人、或は百人二百人の青年が斯る信仰を懐くに至りし事を知らせられて、余は既に余の努力に数十百倍する報賞《むくひ》を天の父様より受けたやうに感ずる。
六月二十五日(金)半晴 夜星之友会に於て余は天琴座の主星に就て語つた、其 α《アルフハ》号の青玉色を以て輝く、β《ベータ》号の明白なる変星なる事、ε《エプシロン》号の二重星の二重星即ち四重星なる事、∂《デルタ》号の我太陽系の前進の目的点なる(262)事等に就て語り素人天文学者の注意を促した。
六月二十六日(土)雨 雑誌の原稿書きにて他に何事をも為し得なかつた、編輯中は書物に手を触るゝ事さへ稀である、彼れ雑誌が余の全身全力を奪ふのである、而して斯る事が毎月二十年間|継《つゞ》いたのである、然かも今に尚ほ厭《あき》が来ないのである、不思議である。
六月二十七日(日)曇 夜強雨。今年上半期最後の講演会であつた、殆ど満堂の来会者あり、不相変楽しき集会であつた、約百記最美の一章なる第十四章を講じた、自分ながらに其荘厳なる悲哀美に打たれた、帝都の中央に聖書講壇を設けてより茲に一年と一箇月、講者も聴者も倦怠を感ずることなく、尚ほ秋風の到ると同時に之を継続せんと欲する、一同讃美歌第三百九十二番「かみともにいまして」を歌ひて再会を約して別れた、我等の声が日本全国に響き渡つたやうに感じた。
六月二十八日(月)曇 熱風強し。休日たるに拘はらず少し計りの仕事を為した、腓立比書第一章十五-十八節に就て黙想した、信者はキリストの家来である、彼等は自分の事を思ふてはならない、主人の事を思ふべきである、主人の栄光の挙らん事を、主人の聖旨の成らん事を計るべきである、主人の命令の下に戦場に臨む者であれば、彼の軍《いくさ》の勝たん事をのみ惟れ努むべきである、此心なき者は基督信者でない、日本武士の心を以て能く基督者たるの態度を定むる事が出来る。
(263) 六月二十九日(火)曇 夜カフエー・パウリスタに於て柏木兄弟団の晩餐会が開かれた、来り会する者男女四十人余り、誠に楽しき会合であつた、言ふまでもなく我等の為の会合ではない、主に尽さん為の会合である、我等の殿様はキリストであつて、我等は皆彼の家来である、家来は殿様に由て一致し、殿様の為に働くのである、願ふ此フレンドシツプ(友誼)も亦殿様の栄光に帰せん事を。
六月三十日(水)晴 久振りの晴天である、牽牛、織女、大角、天門、天王等の一等星夏の空を飾りて美しくある、殊に赤き火星が白き天門星(処女座のアルフハ号)と遭ふたり離れたりする状態《ありさま》は近来の見物《みもの》である、恰かも強慾飽くことなき実業家又は政治家が純白雪の如き処女の身に附き纏ふが如くであつて、日本今日の上流社会の状態を見るやうである。
七月一日(木)晴 雑誌校正と手紙書きとが主《おも》なる仕事である。目切《めつき》りと夏休み気分になつた、宗教書類は取片附けられ、科学書類は取出され、山や湖水や高原の草花が眼に映《うつ》るやうになつた、一年間滞りなく帝都の中央に聖書を講ぜし事を思ひ感謝満足譬ふるにものなしである、今より四十年前斯かる事もあらん乎と夢想せし事が事実となりて現はれしを思ひ、夢に夢みしやうな心地がする、詩篇十六篇六節の言《ことば》が余の今日の言である
準縄《はかりなは》は我がために楽しき地に落ちたり
宜べ我れ善き嗣業《ゆづり》を得たるかな
と、余の親戚や知人は余は非常識なりと云ふと雖も、パウロやダンテやミルトンは余は恵まれたる者なりと云ふと信ずるが故に、余は混沌たる今日の日本に在りて夏の空に輝くウエーガ(織女星)やアルテヤ(牽牛星)やアルクチユラス(大角星)と共に無限の平静を楽しむ事が出来る。
(264) 七月二日(金)晴 美はしき夏の一日であつた、夜星之友会の懇親会を開いた、会する者三十人、信仰と天文とに就て語つた、之にて先づ天然研究の有益なる三箇月を終つた、聖書研究の一部門として専門家を招いて星学の研究を為す所は他にはあるまい、然れども之れ確に信仰修養の最良策の一である、何故に諸教会が此途を採らない乎余には解らない、会を閉ぢて屋外に出れば夏の空晴れ渉り、牽牛、織女、ヘルクレス、白鳥座の諸星頂天へと進み来り「我等を観測せよ」と言はん計りで美しかつた。
七月三日(土)晴 午前巣鴨に田村直臣君を訪問した、快談三時間に渉り、昼飯の馳走に与つて帰つた、教界、政界、児童研究等色々の事に就て教へられた、余は二ケ月に一度位ゐ必ず同君の指導に与るの必要がある。身体《からだ》を休めるために読書を滅し、純然たる夏期休暇を楽しみつゝある、然し雑誌書籍の校正丈けは免かるゝ事が出来ない。
七月四日(日)曇 蒸熱し。久振りにて今井館に於て聖書講演会を開いた、来り会する者八十人、旧き柏木式の集会であつて甚だ懐かしく想ふた、約翰第一書一章「神は光なり」との大教義に就て語つた、神は愛なるに止まらず光なり義なり生なりとは此書の明に教ふる所である、小なる引締りたる良き集会《あつまり》であつた、自分としては市中の大集会よりも遥に気持好き会合であつた。
七月五日(月)半晴 生れて一年三ケ月の童子川西信三の葬儀を司つた、馬太伝十八章十節に依り余の所感を述べた、嬰児《をさなご》死して歎く者は三人である、其内の二人は言ふまでもなく其|両親《ふたをや》、其他の一人は神御自身である、(265)両親の歎きは神の御歎きを代表するに過ぎない、神は遥かに両親以上に歎き給ふ、其事は聖書の此一節に示されてある、其事を知りて我等は自己の歎きを取除く事が出来る、「汝等この小子《ちいさきもの》の一人をも慎みて軽視《あなど》るなかれ」とある、嬰児は神の眼に在りて重く且つ貴くある、其の死は彼に取りて小事でない、故に人に取りて小事でない、而して嬰児の死の意味を正しく解して大恩恵、大改革が我等の間に臨むのである、願くは此愛らしき辜《つみ》なき嬰児の死に由りて我等に関はる神の大なる御計画の成就《なしとげ》られん事をと、余は又キリストの再臨と復活と信者の再会とに就て語り、最後に友人一同と共に讃美歌第四百二十三番を歌ひて此悲しき美はしき会を閉ぢた。
ふたゝび主エスの くだります日
めさるゝをさなご みくににて
みそらの星と かゞやきつつ
主のみかむりの 珠玉《たま》とならん
七月六日(火)晴 余と魚類学の趣味と関東人の性癖を共にする京都在住の山口菊次郎君より左の如き涼しき書簡が達した、君は過る日江州彦根に余と共に琵琶湖の魚類に就て談じた人である。
思出深き六月十八日の午後、元彦根侯の御庭の御奥にて湖畔の漣《さゞなみ》を眺めつゝ過去の記憶を浮べて水中の友に対する記名投票は多忙の先生が一代中に於ける閑日月の御発表と奉存候、鱧と鰻、鯰とギギ(東北にてはギンギウと呼び、京都にて一名を川蜂《かははち》と称するを耳にせり、鰭の先の武器に怖れし者の命名たらん?)、仏鰌《ほとけどぜう》と鷹の羽《は》鰌《どぜう》(東北にて砂ムグリと呼べり砂中に体を潜むが為ならん、又|縞鰌《しまどぜう》と称す、涼しさうな竪縞あるがため)、彼等は元々同種同族のやうに思はる、曾て彼等の祖先に性格を異にするものありて各々棲地を任意に選みし結果今日に至りしに非ずや、稍鈍なる鱧と鯰と泥鰌は体格のみ尊厳なるも其の動作の遅鈍なる、且つ活(266) 気に乏しく潔癖なきは東北人に能く相似たり、瀟洒《せうさ》にして貴公子然たる鷹の羽鰌清流を好んで動作頗る敏活なり、黄金色を帯びて活気に充ちたるギギ公は誰が眼にも鯰公以上の代物《しろもの》なり、殊に敵に備ふる鋭鋒の存するありて清濁両様の地に身を置くは目下日比谷に群がる諸賢の性に似たり、鰻の怜悧なるは之等魚族の上にあり、彼は進むを知て退くを知らざる点に於て源九郎を学ぶも梧桐一葉水冷かなるに先ち流と共に行く処を知らず此点又源廷尉の末路に均し、私は魚類(淡水産)に就て人類(東北人)に就て趣味津々たるを覚ゆることあり、東北地方の淡水魚が其人間と反対に動作頗る敏捷なるは山川の急流に身を鍛えし為ならん、此点関西の人間に同じ、然るに関西の魚の鈍なる桂川沿岸の児童は手にて彼等を捕ふ、平地を流るゝ川に棲む彼等は東北の原野に育ちし人間と同じく其|のろさ〔付○圏点〕加減能く相似たり、関西の人間と東北の淡水魚、東北の人間と関西の魚族、周囲に化せられし結果此の如し。云々
実《まこと》に面白き観察である、之を|人文的魚類学〔付○圏点〕と称すべき乎、永く魚類と親しむ者にあらざれば此観察を為すことは出来ない、余は山口君其他の天然愛好者が詩人ウオルヅオスの霊に導かれて更に深く天然の霊的真味を味はれんことを望む。
七月七日(水)晴 碓誌校正を終つた、今からが本当の夏休暇である、ウオルヅオスを思出した、狭い、冷たい疑念深《うたがいぶか》い斯世《このよ》の人を離れて直に天然と天然の神に接する快楽を思ふた、
“The meanest flower that blows can give
Thoughts that do often lie too deep、for tears.”
路傍に花咲く最も卑き花も、
万感湧いて尽ざる深遠の思想を促す
(267)然《さら》ば往けよ天然に、人の書《かい》たる神学書や聖書註解書に心を奪はれて塵と黴《かび》とに意《おもひ》を腐《くさら》かすことなく、生々たる天然と交はりて開闢の初めに於ける万物の如くに新鮮なれ。
七月八日(木)晴 昨夜空晴れ、夏の星悉く現はれ、荘観であつた、デルフイナス(海豚)座殊に余の注意を惹いた、冬の空に於ける昴宿に似たる星座である、三等星と四等星とより成り、目立つ程顕著ならず、然ればとて不明なる程微賤ならず、|星界の中流階級〔付○圏点〕と称して可なる者であらう、蒼穹に徐々として友人の増し来るは喜ばしき事である、星夜の散歩非常に楽しくある。此夜万朝報主筆斯波貞吉君と東京駅楼上に於て会食した、明治二十八年に山県五十雄君と始めし此新聞記者晩餐会が継続して今日に至つたのであつて、|やまと〔付○圏点〕新聞の松井柏軒君が大連に転じて以来我等は唯の二人と成つたのである、余に取りて此会合は余が此世の事に就て学ぶ唯一の機会であれば余は滅多に之に欠席した事はない、此夜不相変また楽しき会合であつた。
七月九日(金)晴 書函《ほんばこ》よりF・W・H・マイヤース著『詩人ウオルヅヲス』を取出して読んだ、之は余が一八八五年五月米国ペンシル※〔ワに濁点〕ニヤ洲エルヰンに於て白痴院看護夫を務め居りし時に購ふたる一冊であつて甚だ懐かしき者である、三十五年前に此天然詩人より受けし感化の存するが故に、余は今猶ほ星や鳥類を楽しむ事が出来るのである、所謂宗教家の狭隘に殊に愛想《あいさう》を尽かして居る今日此頃天然詩人の一句は適応の清涼剤である、
Great God! I'd rather be
A pagan suckled in a creed outworn
大なる神よ、余は所謂|基智者《クリスチヤン》たらんよりは
寧ろ廃《すた》れし信仰に養はれし異教徒たらん
(268)との一声の如き余自身が屡々発せんと欲する声である、実に青年時代に於てウオルヅヲスと親しむの利益は終生尽きざる者である。
七月十日(土)曇 驟雨あり。同志の内より余が来る二十三日より三日間、箱根強羅に於て開かるゝ平信徒夏期修養会に招かれて聖書講演を為すことに就て反対起り尠からず心を悩ました、余は勿論断然此反対に反対した、面倒なるは人世なる哉、余は凡《すべて》の事に就て凡の人と一致する能はざるを悲む。
七月十一日(日)曇 昨夜の雨にて稍涼し。午前の今井館に於ける集会に八十人余りの来会者あり、余は前回に引続き約翰第一書二章三節より四節までに就て語つた「汝己の如く汝の隣人を愛すべし」との旧約の旧き誡は、「我れ(キリスト)汝等を愛するが如くに汝等互に相愛すべし」との新約の新らしき誡になりし事に就て述べた、人世に種々《いろ/\》と厭な問題があるが、聖書を講ずる事ばかりは何時《いつ》でも楽しき仕事である。
七月十二日(月)半晴 休息日を利用して故内村嘉寿子の墓を見舞ふた、所謂第一高等学校不敬事件の犠牲となりて死せし彼女の墓を見舞ふたび毎に熱き涙を禁じ得ない、主の聖国に於て再び彼女と相会ふ時に、事件以来の我国の状態が興味多き談種《はなしぐさ》であらう 〇雑誌七月号が出た、第二十年号である、是れ亦大なる感慨の種である、其初めて発行せらるゝや余輩の敵(彼は有力なる教会員であつた)は余輩と此誌とを呪ふて言ふた「偽善者の手に成る此雑誌、久しからずして廃刊の悲運を見るべし」と、然るに神は此誌を恵み給ひて教会信者の呪詛《のろひ》の言は事実となりて現はれずして、茲に大正の第九年、七月の十二日に第二十年を見るに至つた、感謝である、実に感謝である、余輩の敵が言を以て呪ふ時に神は事実を以て余輩の為に弁護し給ふ、事実は最強の議論である、事実に(269)於て勝ちさへすれば議論に於ては幾干《いくら》負けても宜い、神は教会の監督よりも宣教師よりも強く在まし給ふ、神は己を信ずる者を事実を以て証明し給ふ、然らば吹けよ風よ、暴れよ嵐よ、波と暴風《あらし》の上に歩み給ふ大能の神は事実を以て我等彼に依頼《よりたの》む者を義とし給ふ。
七月十三日(火)晴 赤飯を炊き雑誌二十年号の内祝を為した、偶々某女史の訪ひ来るありたれば彼女にルツ子の代理として四角の食台の一方を塞いで貰つた、食後書斎の南窓より南西の空を覗き、蠍座、射手座、処女座等の諸星を窺ひ、涼夜の清興に耽つた、「酔払ひの代議士に等しき赤き火星が純白の処女に等しき処女座のアルフハ号に一時は近づきしも今は離れつゝある」を示せし時に、適評ならんも酷評なりとの声が挙つて、一同大笑を以て散会した、是れが『聖書之研究』第二十年号紀念祝賀会の状況である。
七月十四日(水)晴 暑い日であつた、少しばかりの読書を為した、午後少しく邸内雑木の手入れを為した、又縁の下の掃除を為した、寒暖計が八十度以上に昇りて頭脳《あたま》の仕事は困難である、故に園丁となり又土方となりて有益に時間を消費せんと努むる。
七月十五日(木)晴 暑気引つゞき強し。余はキリストの再臨を信ずると云ふ、併し乍ら再臨を信ぜざる者は善からずとは云はない、再臨を信ずる者、信ずると称する者の内にも多くの悪人と偽善者とがある、未だ信ぜざる者の内にも多くの敬すべき愛すべき人がある、人の善悪は彼が公表する信仰箇条に由ては解らない、再臨然り、贖罪然り、神性然りである、余は、然り|余は〔付○圏点〕之を信ずる、然れども之を信ずるが故に特別の善人ではない、余は余の公表する信仰箇条に由て余の善悪を判別して貰ひたくない、余は誠実なる乎、公平なる乎、勇敢なる乎、殊(270)に国と人とを愛する乎、余の価値は是等普通の道徳的標準に由て定まるのである、余の同志は誰人である乎、余の兄弟は誰人である乎、必しも再臨を信ずる人ではない、其他の信仰箇条に於て余と公表を同うする者ではない、主イエスが言ひ給ひしが如くである、
我が兄弟は誰ぞや、それ神の旨に従ふ者は是は我が兄弟我が姉妹なり(馬可伝三章三三節以下)
信仰箇条を結合の基礎とすればこそ悪むべき厭ふべき教会が出現するのである、真個の無教会主義は信仰箇条に依らずして義と愛と光との上に立つ所に於てのみ行はる。
七月十六日(金)晴 暑気強し。瑞西国ツーリツヒ大学神学教授|博士《ドクトル》アルノルド・マイヤー著『イエス乎パウロ乎』を読んだ、大に敦へらるゝ所があつた、高等批評も欧洲の神学者に由て為さるゝ時は多くの積極的利益を供する、勿論余等福音的信者の深所に触るゝ所なしと雖も、然かも余等をしてイエスを愛すること益々深く、パウロを敬ふこと益々大ならしむることは確である、其点に於て米国の神学者は全然違う、米国の神学者に由て高等批評は単《たゞ》に悪むべき嫌ふべきものとなる、米国人に欠乏する者は敬虔の念である、彼等は信仰の事を取扱ふの資格を有たない、高等批評に限らない、福音主義でも、其他如何なる信仰でも米国人の手に懸つては堪つたものでない、すべてが俗化され、地化され、現世化さるゝのである、余自身は現今の米国人よりは信仰上何者をも学ばんとしない。
七月十七日(土)晴 夜長尾半平氏の招待に由り東京駅楼上に来るべき箱根修養会の委員並に講師の相談会を開いた、一同歩調を乱さず、目的を一にして効果を挙げんとの打合せを為した、洵に有益なる会合であつた。
(271) 七月十八日(日)晴 今井館に於ける聖会、引続き盛会であつた、余は約翰第一書二章十二節より十七節までに就て講じた、十七節に於ける「此世と其慾とは逝るもの」なりとは何人も知る事が出来る、然れども「神の旨を行ふ者は永遠に存する也」との事はクリスチヤンならでは識る事が出来ないと結んだ、深き大なる真理であると思ふ。
七月十九日(月)半晴 蒸暑い苦しい日であつた。木曾福島樋口テウさんの訪問を受けた、余の知る範囲に於て彼女は最も恵まれたる婦人の一人である、詩人ホイツチヤーの所謂「貧しき人の妻にはあれど」主は彼女を以て多くの人を光に導き、多くの人を慰め給ふた、彼女の学生時代に於て余が彼女に伝へし福音が今や多くの祝すぺき果《み》を結びつゝあるを知りて感謝に堪へない。
七月二十日(火)晴 暑し。雑誌編輯を始めた。今年はピユーリタン(清党)祖先が米国に渡航してより満三百年である、依て蘭、瑞、仏、英、米の諸国に於ては大規模の紀念祭が行はるゝ筈である、余は此日ジヨン・ブラウン著 The Pilgrim Fathers of New England(新英洲移住史)を取出し、有名なるメーフラワー号大西洋横断記の一章を読み、今更ながらに深き感に打たれた、米国建国の基《もとゐ》は茲に在つたのである、己が良心の命ずる所に従ひ、何人の拘束をも受くることなくして、自由の神に自由に事へんと欲するの希祈《ねがひ》より此大冒険が行はれたのである、最も愛すべき人類進歩歴史の一章である、之を読んで血は沸かざるを得ない、若し今日の米国人が彼等の祖先の此の尊むべき精神を失はざりしならば、彼等は今日の如き憐むぺき浅薄の民と成らなかつたであらう、今日の米国人は排斥すべきである、然し乍ら彼等の祖先は敬すべく学ぶべきである。
(272) 七月二十一日(水)晴 箱根修養会出席準備のために多忙である、雑誌原稿四十二頁分をまとめ、之を印刷所に送つた、此事を為さずして他の事を為すことは出来ない、余に取りては『研究』誌が第一である、此が本職である、他はすぺて副業である。
七月二十二日(木)半晴 午前九時主婦と共に家を発し、午後二時箱根強羅に着いた、平信徒夏期修養会に講師の役を務めんが為である、初めて登山鉄道に乗り、箱根の険は昔の夢と消え去り、早川の碧澗を眼下に見ながら登り往く状《さま》は他に得難き愉楽であつた、此日来り会する者、長尾委員長初め、作州津山立石岐翁、小菅典獄有馬四郎助氏等四十余名、孰れも旧き信仰の友であつて、茲に旧交を温むるを得て相互に喜んだ、夜有志の祈祷会を開いた。
七月二十三日(金)雨 午前九時開会、一時間に渉る熱心なる祈祷会あり、十時講演に移り、余は『新約聖書大観(其一)四福音書』に就て語つた、此日国の四方より此山に来り会する百二十四人、遠きは満洲より、近きは神奈川、静岡より、孰れも責任の地位に在る者、神の福音を聞かんが為に業務を抛《なげう》ちて集りし者である、斯かる会合に来りてキリストの福音が如何に深く日本人の間に行渡りしかが判明る。夜法学士森戸辰雄君の有益なる社会学上の講演があつた。
七月二十四日(土)大雨 午前九時開会、東京滝之川聖学院教授渡辺善太君、『モーセ伝研究(第一)モーセの先駆者』に就て述べ大に高を教ふる所あり、余は同君の後を受けて新約聖書の第二の重要部分たる『使徒行伝と書翰』に就て語つた、事は聖霊の降臨に関し、余は熱せざらんと欲するも得なかつた、「余は日本国のために死な(273)ん」と言ひて来つて余の手を握る人さへあつた。夜又森戸君の講演があつた、論理徹底せる社会学上の研究であつて余は敬聴せざるを得なかつた、此日来会者百四十一人。
七月二十五日(日)雨 驟雨時々到る。昨日同様三回の講演あり、渡辺君朝と夜とに二回語り、余は朝に一回、新約聖書第三の主要部分たる黙示録に就て述べた、随分力の要《い》る講演であつた、三回の講演を以て新約聖書の大意を悉《つく》さんとするのであつて大胆なる試みといはざるを得ない、然し何か或物を来会者に与へたであらうと思ふ、夜十時、感謝に溢るゝ十数人の祈祷を以て此会を閉ぢた、此日の出席者百四十七人、其内組合教会員最も多くして二十九人、日本基督教会員二十六人、メソヂスト十九人、柏木兄弟団所属として記入されし者七名、而かも主として地方の人たちであつた。
七月二十六日(月)半晴 箱根山強羅に於て開かれし平信徒修養会は昨日夜十時を以て終つた、今朝山を下る者続々相次ぎ、九時頃には残る者僅に十名以下となり大なる淋しみを感じた、十時十分我等も亦帰途に就いた、渡辺講師のほかに姉妹方四名同車し、窓外の景色よりも車内の談話面白く、湯本、小田原、国府津を経て鎌倉に至るまで時の過るを知らなかつた、午後二時鎌倉大町|蒲池《かまち》信の家に着いた、此所に一夜の客とならん為である、全家族の大歓迎を受けた、恰かも我等の生みの娘の嫁ぎし家を訪ひしが如くであつた、山の空気に代へて海の風に亦特殊の涼味があつた、由井の浜風に身を曝しながら涼しき一夜を此旧き関束の都に過した。
七月二十七日(火)半晴 朝海水に足を浸し、小坪に遊んだ、別荘地の発達の速かなるに驚いた、然し別に羨(274)ましくはなかつた、午後は海風に吹かれながら疲れし体躯を休めた、七時蒲池一家に送られて鎌倉を発し、九時半柏木の家に着いた、家を出てより五日間、一|頁《ページ》の書を読まず、一行の原稿を書かず、唯舌を以て語りしのみ、然し悪事を為したのではないと思ふ、読むと書くと計りが人生ではない、人と会ひて共に相語るも亦善を為すの途である、箱根山上の四日間も亦神の命じ給ひし仕事であつたと信ずる。
七月二十八日(水)半晴 起きる早々又復原稿製作に取掛つた、百五十人の聴衆に対する義務を終へて茲に又三千七百人の読者に対する職務を果さねばならぬ、義務又義務である、楽しくある、果たすべき義務なくして生くる甲斐はない、来れ義務よである。
七月二十九日(木)晴 暑中の原稿書き随分苦しかつた、朝より晩まで掛つて十行二十字の原稿紙十二枚書いた、夜、之を印刷所に向けて発送した時に月極《つきゞめ》の借金を払戻したやうに感じた、何を為さなくとも此事丈けは為さなくてはならない。
七月三十日(金)晴 涼し、軽井沢か箱根に居るやうな気分である、読書欲が起り朝涼《あさすゞ》に一読み読んだ、待て居れば東京にても涼風《すゞかぜ》が吹く、有難い事である。米国|医学博士《ドクトル》バー氏より送り来りし彼の論文 Asexualization を読み大に教へらるゝ所があつた、簡単なる外科的手術に由り、色慾狂、傲慢狂等が癒されし幾多の実例を示されて、性格の改造の道徳宗教にのみ俟つべきにあらざる事を証明された、宗教と医学とは其日的を共にして方法を異にする、而して多くの場合に於て、宗教の為し得ざる事を医学は容易に為し得るのである、|医術は決して、否な決して悪魔の発見に係る技術ではない〔付△圏点〕。
(275) 七月三十一日(土)半晴 雑誌校正が主なる仕事であつた。或る小冊子の手引きに依り猶太書を研究して甚だ有益であつた、一章二十五節の小書翰ではあるが、是れ亦聖書に必要欠くべからざるものである、実《まこと》に現代は世の終末に近づきつゝある時代なるを今更ながらに強く感じた。
八月一日(日)半晴 今井館に於て小講演会を開いた、来会者五十人余り、余は約翰第一書二章十八節以下に就て述べた、「キリストに敵する者」とはアンチキリストである、キリストに似て非なる者である、キリストと外貌を同うして実質を異にする者である、正面よりキリストに敵する者ではない、彼と並び座して彼の受くべき栄光を自己《おのれ》に受けんとする者である、斯《かゝ》る者が既に多く教会内に起りたれば今は季世《すゑのよ》であると云ふ、彼等は「子を拒む」と云ふ、即ちキリストの神の正子なるを信ぜず故に子に併《あは》せて父を拒むと云ふ、今の米国の諸教会の如き此状態に於て在るのである、今が、然り|第二十世紀初期の今〔付△圏点〕が実に季世である。
八月二日(月)曇 引続き蒸熱し。神の僕たる吾等は行かんと欲する所に行くことは出来ない、今日今頃日光の湖畔、軽井沢の高原に涼を楽しむは決して悪くはない、然し我が義務が柏木に於てあれば我は暑いとて此所を動くことは出来ない、彼の遣《おく》り給ふ所とならば何時でも何処へでも行く、然し乍ら彼の命の下るまでは余は此所を離るゝ事は出来ない、大なる束縛である、乍然余が自から求めたる束縛であつて、又余の最も愛する束縛である。
八月三日(火)曇 驟雨あり。校正。蒸熱くして何事も出来ず、唯夢想に耽けるのみ、然し読む事書く事のみ(276)が人生ではない、寒暑に堪ゆる事も亦人生の一事業である、唯無益に暑に苦しむのではない、静に之に堪へて心を練るのである、四季の変化も亦品性養成の機会として使用する事が出来る。
八月四日(水)雨 湿気多き暑気堪え難し。清党祖先物語に併せて和蘭史譚を読み大に感ずる所があつた、ウエスレーが言へる如く「神は其使用人を葬りて其御事業を継続し給ふ」である、聖徒の血が水の如くに注がれて神の御事業は成るのである、我等は如何《どう》なつても宜いのである、神の御事業さへ成れば宜いのである、唯地上に於て彼の御事業を完成するが為に用ゐられんことを希ふ、曠野にイスラエルの民を導きしモーセの生涯が想ひ出されて悲しくも亦有難かつた。
八月五日(木)雨 夜大雷雨なり。雑誌校正を終る。
八月六日(金)半晴 暴風去つて後に空天《そら》は透通《すきとほ》る計りに霽れ、蠍座と射手座の間に星団M第六号と七号在々と現はれ、之を覗いて良《やゝ》暫らく宇宙的感想に耽けつた、茲に我が書斎の窓より我宇宙以外の宇宙を覗くのである、彼処《かしこ》に幾千万と云ふ太陽が別に組織を成して別宇宙を構成して居るのである、彼処にも亦生命があるであらう、人間が居るであらう、然し必しも涙と失望とがあるとは限らない、何れにしろ此地球ばかりが神の造り給ひし世界ではない、「我父の家には第宅《すまひ》多し」とイエスは曰ひ給ふた、若し此宇宙が悪くなれば他《ほか》にもまだ宇宙が幾個《いくつ》でもある、蠍座の一座に於てすら双眼鏡を以て覗き得る星団が八個ある、即ち天の一局部に於てすら宇宙が八個あるのである、而して「万物(全宇宙)は汝等の有《もの》なり」とあれば、是等宇宙外の宇宙も亦我有と見て可いのである、然らば歎き悲しむの必要は何にもない、晩夏の空天に銀河将さに鮮かならんとする頃、許多《あまた》の星群は星団星雲と(277)共に神の子供の無限の希望を語るのである。
八月七日(土)雨 老デリツチの『希伯来書註解』に其第一章三節四節の解釈を読み其意義の荘大にして明瞭なるに驚嘆せざるを得なかつた、キリストは神である、宇宙の支持者である、而して彼が罪の贖主《あがなひぬし》である、信者は斯《かゝ》る大なる救主をイエスに於て有《もつ》のである、此思想に感激せられて終日何んとなく嬉しかつた 〇今や帰国の途中に在る余の十数年来の友人なるヴイルヘルム・グンデルト氏より香港発の書簡が達した、氏と氏の家族とに由て余と余の家族とは独逸国民の美的半面を知らせられた、我等は善き隣人として彼等と数年間の親交を続けた、只憾む世界戦争が終に君の信仰を動かし、十数年前に福音宣伝者として来りし君が今や新社会主義者として帰国の途に在ることを、此事を思ひて余は君の書簡を手にして大なる淋しみを感ぜざるを得なかつた、有名なる宣教師の家に生れし君にして終に人類救済の道をキリストの福音以外に於て求むるに至りしと云ふならば、日本武士の家に生れし余が使徒等と共に「天下の人の中に我等の依頼《よりたの》みて救はるべき他《ほか》の名を賜はらざれば也」と言ひ張りたればとて何の益あらんやと思はれざるに非ず、然れども彼は彼である余は余である、縦令《たとへ》ルーテルの独逸に一人の基督者《クリスチヤン》なきに至るも余はキリストを信ずるであらう、願ふ神の霊余の友の心を導きて彼をして再び彼の父祖の信仰に帰らしめ給はんことを。
八月八日(日)雨 湿つぽい厭な日であつた。朝の集会に来会者四十余名あつた、約翰第一書第二章十八節以下に於ける沃《そゝが》れたる膏とキリストの顕現及び降臨との関係に就て語つた、聖ヨハネは聖霊の臨在を強説した、然しそれはキリストの再臨を否定せんが為ではなかつた、臨在の必然的結果として再臨はあるのである、ヨハネも亦パウロ、ペテロ、ヤコブ等と等しく固く再臨を信じた事は疑ふの余地がないと思ふ。
(278) 八月九日(月)曇 晴雨定まらず、驟雨度々至り、甚だ不安なる天候である、蒸熱くして頭脳《あたま》の仕事出来ず、唯僅ばかりの書きものを為したのみである、暑気に堪ふるが唯一の仕事である、然し無益の仕事でない、多数の人と共に堪ふるのである、其事其れ自身が大なる仕事である。
八月十日(火)曇 最も善き事は山に登ることではない、海に浴する事ではない、大著述を読む事ではない、大註解書に依りて聖書を研究する事でもない、人生唯一の善き事は謙下《へりくだ》りたる心を以て我罪を担ひて十字架の上に死に給ひしイエスキリストを仰ぎ瞻る事である、此の事を為し得て他の事は顧るに足りない、人生最大の幸福はイエスの十字架の下《もと》に立ちて其処に我罪の赦しを乞ひ、万全の平康《やすき》に入る事である 〇八月分の雑誌が出来た、発行日の発行は近頃に無い事である、但し暑中の事とて活字の誤植多く、読者に対し甚だ済まなく感じた。
八月十一日(水)半晴 天候未だに定まらず、外へも往けず、内に居ても何も出来ず、鸚鵡の世話をしてやる位ゐが関の山である、只夏の去るのを俟つのみである、辛らい事である、時々一身上の困難《むつかし》い問題を持込まれて苦しませらる、同時に又少しづゝ大家の書を読んで力附けらる、此日又忍耐の善き稽古を為した。
八月十l二日(木)晴
為め奥羽線を取つた、
空漸く晴る。午後一時青年と偕に東北の美姫十和田湖訪問の途に上る、東北本線不通の汽車込合ひ宇都宮まで立通し、それ以北は樺太《かばふと》行鉄道工夫と車を同うし、苦しい且つ面白い旅行であつた、夜半板屋峠に登り詰めし頃、晴れ渡りたる空に昴宿とカペラとを認め、歓喜が衷に湧た。
(279) 八月十三日(金)晴 夜は新庄駅にて明け、朝靄の内に院内を越へて秋田県に入つた、境駅停車中に車内に於て帆足理一郎君の訪問を受けた、秋田市に演説の為に行かるゝとの事であつた、余にも一場の演説を勧められしも断はつた、今度と云ふ今度こそは演説なしの旅行を遂行せんと決心したからである、八郎潟の彼方に牡鹿半島を眺めながら走り、能代川に沿ふて遡り、午後二時大館に着いた、それより秋田鉄道に乗換へ、鹿角《かすみ》郡|毛馬内《けまない》町に達し、乗合自動車の便に依り日の入る頃|大湯《おほゆ》温泉に着いた、此所に秋田県最旧の『研究』読者小笠原雄三君の迎ふる所となつた、君は医を以て業とせられ、此僻陬の地に在りて能く基督的医士《クリスチヤンドクトル》の本分を尽さる、始めて相会して敬愛の念を禁じ得なかつた、温泉に浴し静かなる一夜を此所に過した。
八月十四日(土)晴 朝六時乗合馬車にて大湯を発し、川に沿ふて溯る事三里半、路に凸凹《でこぼこ》多く、馬車の動揺甚だし、附近に小坂鉱山あるが為に、山上の樹木は伐払はれ、只僅に水辺に名残の古木を存するのみ、日光附近の足尾銅山に対すると同じ憤慨を禁じ得なかつた、中滝《なかのたき》にて馬車を下り徒歩に転じ、山道を上ること一里半、発荷峠の巓《いたゞき》に達して此所に始めて鬱蒼たる森林の間に尋ね来りし十和田の静湖を見た、二人声を合はせて万歳を叫んだ、樹木の内に北海道にて見馴し者多く、殊にカツラの大木とコクワの蔓とが眼についた、湖畔に下り、土地の開拓者和井内氏方に泊つた、心行くばかりに四囲の林と鏡の如き湖水の静けさとを楽んだ、珠《たま》の如き清水の山腹より滾々として湧出《わきいづ》るあり、平野水よりも清く、殆んど氷水だけ冷たく、安全にして而かも無代価である、真水《まみず》嫌ひの余も幾杯となく之を傾けた、久振りにて気が伸々とした。
八月十五日(日)快晴 本統の安息日である、今日だけは説教も講演も為なくても可いのである、却て山と水とをして余に説教せしむ、乗合モートル船に便乗し湖中を巡覧す、殊に中山半島の風景言語に絶せりであつた、(280)同行の秋田県人曰ふ「エー(好い)景色ナー、エーと云ふより外に言葉がネー」と、実に其通りである、午後宿に在て休息した、日の暮頃二人湖畔桟橋の上に佇立《たゞず》んで祈祷を捧げて此聖日を終つた。
八月十六日(月)晴 午前三時床を出て湖面に対する屋外に出た、人も鳥も獣も悉く眠に就いて十和田湖の風景は惟《ひと》り余一人の有に帰した、而して眼を挙げて見れば空は透通りて濃藍色を帯び、星は黒板に鏤《ちりば》められたる宝玉の如くに無碍《むげ》に輝いた、緯度は東京よりも五度程高くあれば北極星は其れ丈け頂点に近く、北斗星とカシオピヤとは相対して天の中枢を守護して回転するを見る、丁度前者は東方へ廻り天枢天※〔王+幾〕の二星が水平線より起上らんとする頃であつた、斯んな荘大なる北極星と其随伴星とを見たことはない、而して限を東天に転ずれば見よ、見よ、五月の末に西天に別を告げたオライオン星が今や揃ひも揃ふて東天に現はれ出たのである、其黄いベテルギユースと青いリゲルと、中間の「帯」と「剣」と水平線上、山の端《は》より今|上《のぼ》つたばかり! 荘厳である雄大である、オライオン星も之を山中の湖水の面に映して見なければ其荘美は解らない、之を仰ぎ見て余は余の貧弱なる漢語を以て余の当時の感を述ぶる能はず、故に英語を藉りて独り夜の静寂を破りて言ふた、Grand Magnificent! O GOd と、而して「帯」を延長する線にアルデバラン輝き、其又先きにプライアデス(昴宿)煌く、殊に美しかりしはカストルとポラックスの兄弟星が睦しさうに、余の正面に在りて陸奥《むつ》の八甲田山の巓の聳ゆる辺《あたり》に他の星々と離れて天の双玉として懸るのであつた、孰れも柏木で見ると同じ星である、然し乍ら十和田湖上に見て全く別の星である、此夜此星を見て余が遥々此所に来りし目的が十分に達せられた、唯残念至極なりしは家に双眼鏡を忘れ来りし事であつた、アンドロメダとペルシウスの辺に見馴れぬ星団らしきものが見えた、嗚呼残念、余は得難き好機を逸したのである、猶ほ戸外に立ちて暁天に大犬星の昇るを待たんと思ひしも余りに長く独り天を覗いて宿の者等に目附けられて狂人扱《きちがひあつかひ》されんことを怖れたれば、星覗きは好い加減にして寂然《そうつと》我|室《へや》に帰り来(281)りて床に入つた、唯目を覚まし居りし青年に余の感を伝へて言ふた「偉かつた、実に偉かつた、オライオンだ、湖水の上に光るオライオンだ、斯んな者を見た事はない」と、青年は安眠を妨げられしを不平に思ひしと見えた、「ウーン」と答へし外に何の返事をも為さなかつた、左右《さうかう》する内に夜は明けた、鱒づくめの朝飯を認め小舟一艘を雇ひ、対岸|子之口《ねのくち》に渡らんとて和井内方を辞し去つた、湖上静に、泉水の上の行くやうであつた、四囲の山々を眺めながら二時間半にして青森県三戸郡子之口に着いた、湖水の出口であつて奥入瀬川の源である、茲に静的(static)の湖水は動的(dynamic)の流水となるのである、之を見て余の心は踴《おど》つた、之に入らずんばならなくなつた、青年に相談する暇《ひま》もなかつた、直に赤裸々の原始人となりザンブと計りに飛込んだ、游泳術は未だ全く忘れなかつた、愉快であつた、桟橋に登りて暫時湖面を払ふ風に吹かれた、清水も溜つて居ては駄目である、動き始めて用を為すのである、湖水の静けさは茲に急流爆布の音に変はる、彼なるは善し、是れなるは更らに善し、嗚呼人も亦|何時《いつ》までも沈思黙考にのみ耽つてはならぬ、十和田湖が奥入瀬川となりて動くが如くに終には動き始めねばならぬ、智識も信仰も受くるのみでは腐敗を醸す、与へねばならぬ、与へんとせざる水にも人にもザンブとばかり飛込んで親まんとする気が興らない、嗚呼果し無き読書家、本喰虫、聖書道楽、彼等は受くるのみにて与へざるが故に出口なき死海の如くに其水腐れて地と人とを毒す、然るに十和田湖は福《さいは》ひである、彼は子之口に吐口を有す、故に彼れ自身は永《とこし》へに清く、彼に養はるゝ河流は海に尽くるまで到る所に能力《ちから》と生命《いのち》とを供す、是れ余が特別に子之口に惹かされし理由である、此日|焼山《やけやま》を経て蔦《つた》の温泉まで行かんと欲せしも、馬もなく人夫もなく、又湖水の風景に離れ難き者ありたれば未だ日は中央《まなか》に至らざりしも此所に一泊する事に定め、午後の暑さを大森林の蔭に消し、久振りにて青年と将棋を闘はし、一皮勝て一度負け、幾回となく湖岸に出て其風に吹かれ、此較的に長き半日を此山中の一旅館に送つた。
(282) 八月十七日(火)晴 夜半密林に唸《うな》る強風の音を聴く、或は暴風の襲来かと思ひ、此日の旅行如何を気遣かつた、幸にして西風なりしが故に湖水の波は高かりしも東に向ひて山を下る我等に取りては差したる妨害とならなかつた、朝六時旅舎を辞し、同時に十和田湖に別離《わかれ》を告げ、青森県三本木を目指して奥入瀬川を沿ふて下つた、而して焼山に至るまで三里の道と云ふたら! 日本国内に未だ曾て見し事なき天然の美形の連続である、余は之を記述するの言葉を有たない、清渓一流岩を穿ち、緩なるあり急なるあり、或は岩に塞《せか》れて復た相会ふ、岩は島を作し、水は滝と成る、或は屈曲して半島を作るあり、或は全流一本の大滝となりて落るあり、而して千姿万態を掩ふに人の手にて植えられざる天然自生の大樹林を以てす、実《まこと》に是れ日本の国宝である、焼山に着きしは午前十時少し過ぎ、然るに此所にも亦馬もなければ人夫もない、依て午後の四時まで三本木より乗合馬車の来るを待つに決した、茲に六時間の余裕を得たれば、余は携へ来りし註解書に由り使徒行伝の研究を始め、青年も亦靴包の中より筆記《ノート》を取出し解剖学の試験勉強に取掛つた、而して長き待合時間を利用して少しも退屈を感じなかつた、馬車は時間通りに来た、又復ガタ馬車旅行に移つた、行程六里、揺りに揺られて夜八時、薄き電灯の光に照されたる三本木の町に着いた、それより停車場まで四里、心は励めども夜間交通の便なし、止むなく軍馬飼育の地を以て天下に知られたる陸奥三本木の旅宿に一泊する事に決めた。
八月十八日(水)晴 朝八時乗合自動車にて三本木を発し、四里の田舎道を四十分間にて東北本線下田駅に達し、青森より来る列車に乗り、茲に先づ旧《もと》の東京の人となつた、終日汽車の内に在り久方振りにて東北の山野と親しみ、我が領内を旅行《たび》するやうに感じた。(283)気骨の折れない旅行であつた、苦しいと思ふ事もあつた、然し楽しいと思ふ事の方が多かつた、詩人ウオルヅヲスの Daffodil の一篇にあるが如く、青き森と清き水とは余の眼の内に存《のこ》りて躍る。
我もまた十和田の湖《うみ》の水清く
永しへの星の影やどさんかな。
八月二十日(金)雨 一週間の旅の疲労《つかれ》はホームに於ける一夜の安眠に由て癒えた、講演を為すと為さゞると斯くも違うものである乎と自分ながら驚いた、実に疲らせる者は人であつて休ませる者は天然である、我等は時々人を離れて神と天然とに交はるべきである。
八月二十一日(土)晴 夜雨ふる。千葉県稲毛に青木庄蔵君を訪ふた、海風に吹かれ、海水に浸《ひた》り、半日の清談を為して帰つた。
八月二十二日(日)晴 今井館に於ける朝の集会に四十人の参会者があつた、約翰第一書第三章初めの数節に就いて講じた、余に取りては日曜日に働く方が休むよりも優《はるか》に善い、聖書を講ぜざる日曜日は死んだ日のやうに思はれる、其意味に於て柏木に於ける今日の日曜日は十和田湖畔に於ける前《まへ》の日曜日より遥に優《まし》である。
八月二十三日(月)晴 朝より夕まで雑誌編輯に従事した。昨夜の星覗き興味多かつた、山羊座のアルフア号は書斎の正面に来り丁度見頃である、二重星である、二箇の太陽系が各自遊星を率ゐて虚空《こくう》に於て相会して再び相離れつゝあるのであらうとの事である、実に荘観である、成金や富豪は此地を荒らす事は出来るが空天《そら》の星に(284)手を触れる事は出来ない、此小さき地球一箇位ゐ俗人輩に壊《こわ》されても神は無限の宇宙内に彼等が接《さは》る事の出来ない無数の世界を有し給ふ、感謝である。
八月二十四日(火)晴 白鳥座の西北部、琴座とケフエウス座との間に新星が現はれた、立派なる二等星である、爆発か衝突に由て現はれしものであらう、多分今より五六十年前、余が生れし頃に爆発せし星が大正九年の今日、其光線が此地球に達して新星として吾人の眼に映るのであらう。
八月二十五日(水)晴 暑中の維誌編輯引つゞき随分と苦しかつた。
八月二十六日(木)曇 涼風《すゞかぜ》が起つた、ペンが能く動いた、近頃にない成功の一日であつた、夏は去らんとして居る、秋の活動が待たるゝ、今年の夏も亦厭な事が二三あつた、然し過ぎ去て思へば是れ亦無くてならぬ事であつた、之に由て得し所は優《はるか》に失ひし所に勝る、人の教師たるや難い哉、然し乍ら彼れ我を導き給ひて我は大体に於て誤らない、今年も亦大なる希望を以て秋の仕事に入ることが出来て感謝である。
八月二十七日(金)曇 雑誌九月号の編輯を終つた。東京天文台井上四郎氏の訪問を受けた、氏の談話に照らして見て這回《このたび》白鳥座に現はれし新星発見者の名誉は僅少《わづか》の注意で余に落ちたのであつた事が判明つて残念であつた、此名誉には自分ながら与りたかつた、余は変な星だなと計り思ふて之を直に天文台に報告しなかつたのが余の怠慢であつた、何れにしろ「茲に大なる異象《しるし》天に現はれ」たのである(黙示録十二章一節)、何も之を以て世界(285)の終末《おはり》、キリスト再臨の前兆と見做すのではない、無涯の宇宙に大異象の常に起りつゝあるを示すのである、一大世界が爆発して億々々万里外に在る我等の眼にまで新星として映ずると云ふ事実を見るのである、此異象を見て彼得後書第二章に「其日には天に大なる響ありて去り体質尽く焚毀《やけくづ》れ、地と其中にある物皆な焚尽《やけつ》きん」と記《しる》されあるも少しも怪しむに足りないのである、世界の焼尽《せうじん》は吾人が時々目撃する事実である、新星の出現と消滅とが其れである、大正九年八月二十一日夜九時と十時の間に於て余は東京市外柏木今井館の前庭に於て白鳥座のアルフハ号とガムマ号とを覗きつゝありし間に天の此大異象を示されたのである。
八月二十八日(土)曇 岐阜県の或る読者より近頃左の書面があつた。
謹啓 本日八月号『聖書之研究』読了仕り随分感謝せられ申し候、私等夫妻は若くして両人共病床に横はる奇しき境遇に有之候、かゝる折先生の熱烈なる「約百記の研究」を拝読出来得るは何といふ力強き印象に候や、私は日々厚き々々感謝と祈りを捧げ居り候、私等夫妻は現在の肉体のまゝ救はるゝや又来世の霊体にて救はるゝや、兎に角愛の神に救はるゝことを信じ平安に致し居り候、九月号も早く願上候。
之を読んで余は思ふた、余の伝道なる者はかゝる人を慰めんが為である、余は教勢拡張教会建設を目的に伝道するのではない、若しかゝる人一人だに救はれ又慰めらるゝならば余の伝道は成功したのである、此事を知らないで多くの人は余を誤解する、余も亦所謂宗教家であると思ふて余の敵は何にか余に社会的大野心があると惟《おも》ひ、余の味方は余が勢力を広く此世に張らん事を希ふ、然し乍ら彼等両つながら全然余を誤解して居るのである、「小さき一人の者に冷かなる水一杯にても飲まする者云々」とイエスが言ひ給ひし其言が余の伝道の第一の動機である、伝道と云ふが故に事が宗教家らしく聞ゆるのである、伝道ではない|霊水の分与〔付○圏点〕である、同胞五千万を教化して天下を三分して其一を獲んと云ふが如き抱負は到底余には懐き得ないのである、余は宗教家たるより慈善(286)家たらんと欲する者である、而して与ふる為の金と銀とを有せざるが故に余の有するキリストの福音を与ふるのである、其れ丈けの事である、余が嫌ふ事にして|教勢拡張教会建設〔付△圏点〕と云ふが如き事はない。
八月二十九日(日)晴 朝の集会に出席者男女四十人以上あつた、約翰第一書第三章の後半部に就て講じた、此日余が無教会主義を棄て新設の計画ある或る新教会の牧師たるべしとの噂あり、又其噂を信ずる旧来の同志ありと聞きて憤慨に堪へなかつた、若し余が教会に入らんと欲するならば六十歳に垂んとする今日まで待たなかつた、余は今依然として無教会信者である、クロムウエルやミルトンが独立信者《インデペンデント》でありし意味に於ての無数会信者である、余が余の所に聖書研究の為に来る兄弟姉妹と共に作りし柏木兄弟団なる者は教会に非ず、又教会の代用をなす者でない、兄弟団員中バプチスト信者あり、日基信者あり、組合信者等ありて、余は無教会信者として之に加はつたまでゞある、|若し柏木兄弟団が教会化するならば余は即刻退会する迄である、無教会主義は余の信仰生活の重要部分である〔付△圏点〕、余は永久に之を捐る事は出来ない、然し乍ら自分が無教会主義者なればとて余は教会の破壊に従事しない、余は基督者としてすべての善事を尊重する、余は余の能力《ちから》の許す限り教会を授けんとする、然れども余自身は断乎として無教会主義者として生存する、而して余の此立場を尊重せざる者、又は余の守節を危《あやぶ》む者は宜しく此際余との友誼的関係を絶つべきである、余に今猶ほ変節の危険ありと思ふ者の如きは、余を信頼せざる者であつて、斯る人等は余に忠告を試むる前に先づ余との友誼的関係を絶たれんことを望む。
八月三十日(月)晴 秋気分に成て筆が能く動く。米国アリゾナ洲フイニツクスに於て農業に従事する佐川喜一君の訪問を受けて嬉しかつた、彼地に在りて汽車に於て、又は渡船の中に『研究』読者に折々遇ふて相互に懐《なつか》しく感ずるとの事を聞いて大に慰められた、神が余に委ね給ひし「羊」は矢張り農夫や労働者の内に在りて学士(287)や読書家の内にはない、感謝である。空晴れ星を覗けば一週間前に白鳥座に現はれし新星は二等星光より五等星光に減じた、多分二週間後には見えなくなるであらう、恰も神学説の如しと我社の山岸が言ふた 然り、デモクラシー、社会改造、解放運動の如しと余は応《こた》へて言ふた、現はれたと思ふ間《ま》に消えて了う、永久に消えない者は惟ベツレヘムの星あるのみである、白鳥座のアルフハ号デネブと僅に二日間光輝を争ひし後は消滅しつゝある新星の運命は憐むべき哉、空天に現はれし大教訓である。
八月三十一日(火)晴 二十三四歳の青年にして高等小学を卒業し、地方某商業学校に入学して数ケ月にして退学したる者が聖書を研究して神の御用に立ちたきが故に其途を示してくれと云つて余の許を訪問した、余は彼に答へて言ふた、「君の志や好し、然れども普通の商業学校をも卒業し得ない者は神の伝道師となることは出来ない、神は其僕として最上の人物を要し給ふ、君先づ信用ある中学校を名誉を以て卒業し、其卒業証書を携へて再び余の許を訪ふならば余は君の為に聖書研究の途を開くべく努力するであらう」と、余は彼に善き忠告を為したりと信ずる 〇夜八時二十分木曾見物並に教友訪問の目的を以て主婦と共に東京駅を発した。
九月一日(水)晴 朝六時少し過ぎ名古屋に着いた、何人《たれ》をも尋ねなかつた、七時半中津川行の汽車に乗り車中にて携来《もちきた》りし弁当を認め、至て愉快であつた、十時半中津川に着いた、其地の教友の出迎《でむかひ》を受け、小木曾れん姉の家に迎へられ、此所に五六の兄弟姉妹と愛の昼飯を共にし、彼得前書一章廿二-廿五節に就て語り、三時惜しき名残を留めて大雷雨の中に此地を発した、木曾谿谷の風景実に荘大であつた、遥に奥入瀬川以上であつた、生れて六十年、今日に至るまで我国に此勝景あるを知らざりしは面目なき次第である、嘆賞の声を続けながら目的の地たる上松に着いた、此所にも亦少数教友の心からの歓迎を受け、旧き中仙道の一宿なる此町に宿を取つた。
(288) 九月二日(木)晴 午前教友に導かれ附近の御料林に有名なる木曾の山林を見た、此所に来て初めて日本国未だ樹木に乏しからずとの感を起した、午後又有名な寝覚之床に遊んだ、天然の大技工である、淵の深さ竜宮城に達すと云ふ、鉛錘を携来《もちきた》りて其深さを量らんものをと思ふた、其狭くして深き状《さま》が気に入つた、人は広くばかりあつてはならない、時に文木曾川の寝覚之床の如くに狭くして深くあらねばならぬと感じた、宿に帰り中津川より追来《おひきた》りし教友を合せ上松福島の教友と愛の一団を作り祈祷と食事を共にした、夜に入りて町の有志の要求《もとめ》に応じて思想問題に就て語つた、来り会する者六十余名、地方を旅行して演説は避けんと欲して之を避くる能はず、茲に又止むを得ず小演説会を開いた次第である。
九月三日(金)晴 朝早く起き露猶ほ深き間に町より三十町|距《はな》れたる木曾の桟《かけはし》を見た、余に取りては寝覚之床以上の勝景であつた、宿に帰り再び旅装を整へ、十時四十分上松を辞し去つた、午後二時上諏訪に着き此所に亦教友の温かき出迎を受けた、到る所に愛する兄弟姉妹の出迎あり恰も我が地内を旅行するが如くである、午後は温泉に浴し信仰の友と談じ、夜文湖畔の一室に小講演会を開いた、来り会する者七十人余り、ガリラヤ湖畔の小集会が偲ばれて感謝であつた、静かなる一夜を天上の星と地上の電灯とが湖面に映る所に過した。
九月四日(土)雨 朝早く石油発動船に便乗し湖水巡航に出掛けた、十和田湖を見た計りの余の眼には諏訪湖は不忍之池の大なる者のやうに見えた、然し乍ら生れて始めて湖水の面に浮びし彼女には大なる教訓又慰藉であつた、午後諏訪を辞し、甲府を経て夜十時柏木の家に帰つた、有益なる楽しき旅行であつた、木曾の風景は佳《よか》つた、然し乍ら神が召し給ひし其子供は更に善かつた、木曾の山中又熱烈なる信仰が起りつゝある、然り既に起つ(289)て良き果《み》を結びつゝある、都会に在りて学者は嘲けり又棄てつゝある時に、学者よりも遥に貴き木曾山中の素朴の民等は喜んで福音を迎へ、闘つて之を守りつゝある、此事を実際に目撃して我等の心は非常に強められた、余が都会に於て聖書を講ずるは特に都会人士を我友として迎へんが為ではない、是等質朴の山中僻地の信者に代り、彼等の代表者となりて都会に道を伝ふるのである、余自身が田舎漢《いなかもの》である、都会人士の反対離叛の如き余の却て歓迎する所である。
九月五日(日)晴 暑中最後の聖日であつた、今井館に於ける集会に四十人余りの来会者があつた、約翰第一書三章廿一節以下、信者の祈祷に就て語つた、暑中十回の日曜日中、只二回欠いた丈けであつて、余は悉く余自身が高壇を引受けた、約翰書簡に就て語り自身大に益する所があつた、来会者又四十を下らず、其内多数は丸之内講演会の出席者であつた、小集会に大集会に於て獲られぬものがある、夏期を通うして十回、聖日毎に柏木の小講堂に相会して相互に対し至つて親しき者となつた、暑い事は暑かつた、然し炎暑を冒して此所に集り来りし者は誰れ一人として来りし事を悔いし者は無いと信ずる、今年の夏も亦例年の通り恵まれたる善き夏であつた。
九月六日(月)半晴 昨日以来残暑強し。夏期中に柏木兄弟団に大動揺があつた、それが為に集会に出席せざる者が大分に出来た、悲しくある、然し驚かない、今日まで之に類する事が幾回《いくたび》もあつた、会は成て又壊《くづ》れ、壊れて又成つた、而して後に成りし会は前に壊れし会よりも恒に善くなつた、人が人に頼る間は分散は免れない、各自神とキリストとに在りて充足する者のみ集りて永久に壊れざる会が出来るのである、それまでが忍耐であり亦希望である、我等は後《うしろ》に在るものを忘れ前に在るものを望み、標準《めあて》に向ひて進むのみである。(腓立比)書三章、十三、十四節)
(290) 九月七日(火)晴 雑誌校正が終日の仕事であつた。木曾上松の松島縫治郎君より余等過日の彼地訪問に対して礼状があつた、其内に左の二首が書き添へられた、
恩師《よきひと》と遊《あそ》びし霧《きり》の桟《かけはし》や
寝覚の床よ夢心地《ゆめこゝち》する。
木曾山《きそやま》の檜の緑|栄《さか》ふごと
君が真心《まこと》の永久《とは》に光栄《はえ》あれ。
余は之を読んで歓喜《よろこび》の涙《なみだ》を禁じ得なかつた、依て左の返歌を送つて感謝の辞に代へた、
我《われ》はたゞ寝覚の床に看護《みと》りする
人を神へと渡す桟《かけはし》。
木曾山《きそやま》の檜の柱|基《もと》堅く
立ちし心霊《こゝろ》の神の殿《みや》かな。
美はしきは主に在りて結ぶ基督者《クリスチヤン》の友交《まじはり》である。
九月八日(水)半晴 残暑強し。九月分雑誌校正を終つた、対独講和締結行賞として陞爵、授爵、叙勲、賜金が盛に行はるゝ今日今頃、草莽の臣たる余にも左の恩賜があつた。
東京府士族
内村鑑三
大正八年六月北海道帝国大学奨学資金トシテ帝国五分利公債証書額面壱千円券壱枚寄附ス依テ木杯壱組ヲ(291)賜フ
大正八年八月十九日
東京府知事正三位勲二等阿部浩印
誠に恐懼の至りである、但し禁酒厳行の我家に酒杯の用なきを遺憾とする、日本政府の官文書に情もなければ愛もない、而して昨年八月に発せられし者が二三日前に余の手許に通達せられたのである。
九月九日(木)曇 夜今井館に於て祈祷会を開いた、来会する者十三人、我等は腓立比書一章三節に現はれたる「偕《とも》に福音に与《あづか》る」事、即ち福音伝播を援くる為に一致協力する事に就き語り且つ祷つた、至つて有益なる集会であつた、但し余の聖書講演を聴かんとて来会する者は多しと雖も、福音が伝播せられて世が救はれんが為に祈る為に集る者尠きは悲みに堪へない。
九月十日(金)半晴 涼風《すゞかぜ》が吹いた、再び約百記を読んだ、第十五章より第十七章までを読んで同情の涙を禁じ得なかつた、殊に老デリツチの註解を有難く感じた、デビツドソン、ワツソン、ピークと種々《いろ/\》な英米の註解書はあるが、到底此旧き独逸聖書学者のそれに及ばない、デリツチは約百記を評して云ふ「此の誠に福音的なる書」と、余は之に合して彼の大註解書を評して言ひたい「此誠に福音的なる註解」と、デビツドソン、チーニー、ヅライバー等に近代の言語学と考古学と比較宗教学ありたりと雖も、デリツチに有りし福音的実験は無かつた、是れ彼の著作に成る幾多の大註解書をして余の如き浅学なる平信徒にも親ましむる理由である、約百記、大なる約百記、幾回《いくたび》読みても感興尽きざる約百記、幾分なりとも此書を解し得んが為にはヨブに降りし患難のすべてを身に受けても少しも苦しく無いと思ふ。
(292) 九月十一日(土)雨 暑は終に挫けた、天下の秋が来た、今や市中の下層民までが涼風を楽しむ事が出来る、大なる感謝である。
九月十二日(日)晴 快き秋冷の聖日であつて、約束通り大手町衛生会講堂に於て午前十時を以て今秋第一回の聖書講演会を開いた、聴衆も亦約束通り遠近より五百人に少し不足する位ゐ来り会した、例《いつも》に変らざる霊に充ちたる集会であつた、献金も相応にあつた、実に感謝であつた、会衆一同の間に一の黙契《もくけい》があるやうに見える、我等は別に信仰箇条に署名捺印する事なくして一の信仰的団体を作つて居るやうである、余は新星の出現に関する余の感想に次いで約百記第十五章を講じた、誠に喜ばしき首途《かどで》である。
九月十三日(月)晴 久振りにて疲労の月曜日である、何事をも為し得ない、日曜日の活動は犠牲ではないが、月曜日の無為静止は確に犠牲である、他人《ひと》が得んが為には自分が失はなければならない、天然の法則である、服従する 〇歯の改築の必要起り歯科医学士小川|宝嶺《たかね》君の治療室に行き二時間余の治療を受けた、上※〔月+咢〕に残る数本の健歯の存する間が余の講演的生命である、それが無くなる時には余は厭でも講壇を降らねばならぬ、後《あと》、長くはあるまい、然し成るべく其期間を長くしたく欲ふ。
九月十四日(火)曇 歯科医通ひと訪問客の接待と少し許りの原稿書きとにて全日を費した、此世の事に就て多くの悪事を読ませられ又聞かせらる、只聖書の研究のみ純粋の快事である。
(293) 九月十五日(水)小雨 漸くサツト九月分雑誌が出来た、原稿は随分早く送つて置いた積りであるが、発行は定日よりも五日遅れた、困つたものである 〇五歳の童子木村健の葬儀を司つた、馬太伝二章十八節並に約翰伝十四章一-三節を引いて両親、殊に母親を慰めんとした。
九月十六日(木)晴 殆ど全日を歯の治療の為に費した、治療台の上に横たはり、我が身体を医師の手に委ね、彼をして意《おも》ふが儘に治療せしむ、時には救はるゝ身となるは、余の如き者に取りては最も善き事である。
九月十七日(金)半晴 引続き歯科医通ひである、口中を改良して今後尚十年間講壇に立たんとの計画である、成功を祈る。
九月十八日(土)曇 記すべき事なし。
九月十九日(日)半晴 秋冷の好き聖日であつた、朝の集会に五百人以上の聴衆があつた、約百記第十六章に就て講じた、自身ヨブと成つたやうな気持がした。
視よ今にても我が証《あかし》となる者天に在り
我が真実《まこと》を表明《あらは》す者高き処に在り
我が朋友《とも》は我を嘲ける
然れど我目は神に向びて涙を注ぐ
願くは彼れ人の為に神と論弁せん事を
(294) 人の子の為に朋友と論弁せん事を
との言に就て語りし時に、自分の目にも涙が溜り、聴衆の内にも眼を拭ふ者を大分に見受けた、是は教会者又は神学者の声ではない、人間の声である、人間が身の患難と教会者の無情とに逐語《おひつめ》られて天に仲保者あるを認むるに至りし時の声である、故に同情すべき、共鳴すべき声である、約百記は最も福音的の書であつて同時に又最も人間的の書である。
九月二十日(月)晴 秋晴の心地好き日であつた。
九月二十一日(火)晴 朝の食膳に対せし時に余は馬太伝十一章五節の語を持出して家族の注意を促した、イエスはヨハネの使者に告げて曰ひ給ふた「貧者は福音を聞かせらる」と、是は誠に福音が真《まこと》の福音たる確《たしか》なる証拠である、我等の福音が学者、富者、権者、即ち世の所謂上流社会、知識階級に受けられずとて少しも悲むに足りない、真の福音は貧者の歓び迎ふる所となる、物資的貧者に限らない、知識的貧者、道徳的貧者、聖書に所謂「心の貧しき者」に信受せられて我が説く所の福音の真価が証明せらるゝのである、而して此聖語が我等の心を占領しつゝありし今日、横浜の車夫某より砂糖一袋の感謝の寄送を受けて我等の心は大なる感謝と歓喜とに充たされた。
九月二十二日(水)晴 雑誌編輯が主《おも》なる仕事であつた。自分の失恋せる情人が再臨すべきキリストであると固く信ずる福島県某地の某婦人より重ねて長き書面を送り来り其処分に困まつた、同じ妄想を懐く婦人が東京にも一人あるを知つて居る、多分他にも居るであらう、困つたものである、深い強い基督教は多くの日本人には受(295)納れ難いものであると見える。
九月二十三日(木)晴 静かなる善き日である、編輯大にはかどる。今や日本人程嫌はるゝ民は全世界に無い、隣邦の支那人に嫌はれ、属邦の朝鮮人に嫌はれ、善隣たるべき米国人に嫌はれ、同盟の英国人にまで嫌はる、事の茲に至りし理由如何、何れにしても国家の不祥事にして之よりも大なる者は無い、日本国は連戦連勝して友愛を全世界に失ふに至つた、誰の罪ぞ、何れにしても重大事件である。
九月二十四日(金)半晴 雑誌十月号の原稿を纏めて印刷所に送つた、近き内に岩波書店より発行すべき『講演集』の校正に従事した、Pray and work hard.(祈つて一生懸命に働け)である、人生実に之よりも幸福なる事はない。工学士飯山敏雄君|長《なが》の欧米漫遊より帰り、其訪問を受けた、南欧天主教国の観察談殊に面白かつた、伊国ヴエニス、フローレンス、ローマよりの土産を貰つた、其内に詩人ダンテの小像あり殊に有難かつた、君の天主教化は余が心配せし程でなくつて嬉しかつた、今日の処天主教化はメソヂスト化又は組合化よりも遥に優《まし》である、所謂プロテスタント諸教会の今日の行動に、聞いて憤慨骨髄に徹するものがある。
九月二十五日(土)曇 羅馬天主教会か無教会か、誠実の基督者は二者孰れかを採るより他に途がないのである、プロテスタント主義を其終極まで進むれば無教会主義となる、ルーテルやカルビンの陥《おちい》つた大なる間違は彼等が天主教会を出て、又別に教会を建てた事である、彼等の此矛盾的行為が今日プロテスタント諸教会並に諸国を禍ひしゝあるのである、神の定め給ひし仲保なるキリストを除いて他に仲保を求めないのがプロテスタント主義である、而して此主義を実行して無教会たらざらんと欲するも得ない。
(296) 九月二十六日(日)曇 残暑強く講演には苦しき日であつた、殆んど満場の会衆があつた、約百記第十七章を講じた、其第九節が主題であつた、「義《たゞ》しき者はその道を堅く維持し、手の潔清《いさぎよ》き者は益々力を得る也」と、倫理的方面に於ける約百記の絶頂である、講演後大なる疲労を覚えた。
九月二十七日(月)曇 日本人の多数は基督教を信じて断然独り立て「我は日本の基督者《クリスチヤン》なり」と言ひ得ないのである、彼等はメソヂストだとか、バプチストだとか、クリスチヤンだとか、其他種々の外国人(主として米国人)の立てた教会に入つて其信仰を維持せんとするのである、而して外国人の教会に入るを好まざる者は自から基督者と称するを憚かり、或は文化運動だとか、或は社会事業だとか称して、キリストの聖名を公表せずして、彼等の宗教生活を営まんと欲するのである、実に意気地《いくぢ》のない次第である、何故に外国人に依頼する事なくして我は日本の基督者《クリスチヤン》なりと告白して此の不信の世と戦はざる乎、余は此事を思ふて時々憤慨に堪へない、外国人の袖に縋らざれば基督者とし立つ能はざる日本人、キリストと其十字架を公表して此不信の世に処する能はざる基督信者は日本人としても又は基督者としても価値の尠い者ではない乎、日本に於ても西洋に於けるが如く勇者の時代は既に過ぎ去つたのである乎?
九月二十八日(火)曇 世界日曜学校大会総幹事法学博士F・E・ブラウン氏が田村直臣君に語りし所なりとて同君より聞く所に由れば、今回同大会出席の為に米国より来れる者の内に、各自二十万円の寄附をなすも少しも痛痒を感ぜざる富豪が尠くとも百人は有るならんと云ふ、実に素晴い事である、斯くて「銀と金とは我に有る(297)なし」とペテロが言ひし基督教宣伝時代は疾《とく》に過ぎて、今は黄金河となりて流がるゝ時代である、然し乍ら是等の米国基督信者等はペテロの如くに跛者《あしなへ》に向ひて「我れ汝に言ふ、ナザレのイエスの名に託《よ》りて起ちて歩め」と言ひ得るや大なる疑問である。
九月二十九日(水)雨 校正又校正、窮りなき校正に又一日を終つた。新聞紙は大隈老侯の言なりとて伝へて云ふ
米国に於ける排日問題は我正義人道の目から見て誠に容易ならぬ大問題である、然るにも拘らず我国民が意気地もなく一切鳴りを静めて手も足も出し得ざるが如き態度に甘んずるとは何事であるか、|どうも近来の日本人は其煮え切らぬ心情が漸次支那人化しつゝあるやうに思はれてならぬ云々〔付△圏点〕
と、余も同感である、対米問題ばかりではない、凡ての事に於て日本人今日の冷淡さ加減は言語同断である、愛国の熱情は美事に其跡を絶つたやうに見える、第一の問題が恋愛問題であつて、其次ぎが生活問題である、其事を決行するに当つては彼等は勇敢である、果断である、然れども其他の事に於ては彼等は全く漸次支那人化されつゝある、然し憤て甲斐なき事と思ふが故に気概ある者も黙つて居るのである、実に痛恨に堪へない。
九月三十日(木)雨 微恙にて何も為し得なかつた、博文館発行雑誌『太陽』に其提供に係る「基督教宣伝が我国の文化に及ぼせし影響」と云ふ題目に関し余の意見を語りし其報酬として金拾円を貰つた、是は余が近頃言論を以て稼ぎ得し最大額である、其使用法に就て種々と考へ、終に家族一同と共に一回の御馳走に与る事に決定して問題が解決した、日本に於ける所謂思想家の生涯は大抵斯んなものである。
(298) 十月一日(金)晴 昨夜暴風雨、多少の損害があつた。過去一年半、忠実に我家に働いて呉れた牧野俊子、此たび或家へ嫁ぐことに成り、一同祈祷を以て彼女を送つた、彼女の代りを務むる者に、今日は先づ紅茶の煎《い》れ方を教へた、是れ決して小事に非ず、好く紅茶を煎れる事は一の芸術である、お客様を待遇《もてな》さねばならぬと云ふ義務の念に強ひられて煎れた紅茶は美《うま》くない、主の名に由りて冷水一杯なりとも供《そな》へんとの愛心に励まされて煎れた紅茶が本当の香を放ち本当の味を出すのである、時には自分で煎れた茶を飲んで見て、最も美《うま》いと思ふものを客に出すやう努力すべきであると、斯う教へた、基督的ホームは紅茶を煎れるにも愛を以てして之を実現する事が出来る。
十月二日(土)晴 昨夜今井館に於て祈祷会を開いた、来会者二十名、約翰伝十三章初めの十七節を主題として祈り且つ語つた、一同恩恵に充たされて散じた、只此恩恵に与りし者の少数なりしを悲んだ。
十月三日(日)晴 秋晴の美はしき聖日であつた、中央の講演会不相変盛会であつた、地方教友の列席多く、大なる歓喜又慰藉であつた、約百記第十八章に就て講じた、神学者ビルダデのヨブ攻撃に議論整然、論理明噺なる者がある、ヨブは之に対し反駁を試むる能はずして三友の憐愍を乞ふに至つた(十九章廿一節)斯くてヨブは議論に負けた、然し天よりの新らしき啓示に接して事実に於て勝つた、|神学対啓示の会戦〔付○圏点〕、興味津々として尽きざる者がある、聖書は何処《どこ》までも教会と神学とに反対して個人の実験的信仰を弁護する、有難い事である。
十月四日(月)半晴 朝、希伯来書の十章三十七節を希臘語にて読んだ。珍らしくも二人して市中に行いた、丸善にて冬帽子一箇と天文書一冊を買求め、久し振りにて日本橋魚河岸に立寄り、日本第一の魚市場を見、三越(299)に入れば店員某君に捉《つかま》へられ、写真を撮《と》られ、貴賓室に於て昼弁当の馳走に与り、大満足にて家に帰つた、聖書を講義するより外に何の技能をも有せざる余は市中に行いて猿が樹から落ちたと同然である、万事が不自然で、如何《どう》して宜いか分らない、幸にして彼女の附添ふありて大なるブマを演ぜずして家に帰りしは幸福である。
十月五日(火)半晴 昨夜又復大雨、井水濁り困難した、山形県其々地日本基督教会牧師二人の訪問あり、大会の決議、全国伝道の状況に就て聞かされ、大に益せらるゝ所があつた、又北海道某地の読者より左の如き通知があつた
二ケ年前当地教勢を御報申せし際は研究誌の読者は当聖公会にて私一人なりしが昨今青年等三名が毎月購読致し居り、常に小生宅に集りて共に東京に於ける御盛況の御噂や信仰談など仕り互に相警め居り候
以上に依て見ても余が教会と全然無関係でない事が判明する、研究誌が教会内に於て尠からぬ読者を有する事は争ふべからざる事実である。
十月六日(水)曇 今朝新聞紙上に新築の世界日曜学校大会々場が昨日午後三時五十分、開会に前だつ三時間、火を失し全焼せし由の記事を読み大なる感動に打たれた、之を単《たゞ》の天災とも見る事が出来る、亦悪魔の仕業《しわざ》とも見る事が出来る、而して亦神の警告とも見る事が出来る、市内在学の或る女学生より送り来りし左の書簡の如きは之を第三の意味に於て解したる者である。
先生、日曜学校大会の会場が焼けたといふ事をきゝました只今、私は即座にハツトしました、天から硫黄の火が落ちたのだと思ひました、此の期に際して此会に集つてゐる人達がどうぞして「神の国は顕はれて来るものにあらず」といふ神のみことばを知る事のあります様に手に持つてゐたお箸とお茶碗とを下において真(300)心から祈りました、先生もお祈り下さいませ、今日の七時から開会であるといふ今、焼けたといふ事はたしかに/\に此の挙の神様のいましめ給ふた事であるといふ事をひし/\感じました。(十月十五日夕)
此少女の此偽りなき言は或る大なる真理を語るものではあるまいか。
十月七日(木)雨 十月号雑誌校正を終つた、新聞紙広告に由り朝報社々長黒岩周六氏の逝去を知つた、痛歎に堪へない、余は氏に由て中央の文壇に引出されたる者である、随て氏に負ふ所尠しとせずである。
十月八日(金)半晴 朝黒岩周六氏の告別式に列なつた、枢の前に簡単なる黙祷を我神に捧げて帰つた 〇米国某神学校に留学中の教友某氏よりの書簡の一節に曰く「未だ新学期の始まる迄には一週間有之、従つて教授諸氏には誰にも面会致さず候得共噂さに聞けば此処の神学生は平然と煙草を喫する由、困つたものに候、神学生のみかは、ユニオン神学校では其の神学教授すら煙草をふかすと云ふに至りては、米国のクリスト教は正統派でも自由派でも只々困つたものだと云ふべきか、否な云ふ可き途を知らず候、我等愚かなりと雖も日本の基督信徒の責任誠に重且大なりと感じ申候」と、然し米国に在りては神学者の喫煙は其小なる過失《あやまち》である、君が更に神学校並に教会の奥と裏とを見らるゝならば君をして驚倒せしむるが如き多くの事実を発見せらるゝであらう、余は君が教会と神学校とに失望するも福音と基督教とを棄てざらん事を祈る。
十月九日(土)晴 昨夜今井館に於て今秋第一回の星之友会の会合を開いた、来会者老若男女七十人あまり、盛会であつた 〇此日東京駅ホテルに米国費府発行『日曜学校タイムス』主筆チヤールス・G・ツラムブル氏夫妻を訪問した、二時間に渉り色々と談話を交へて帰つた。
(301) 十月十日(日)快晴 朝の講演会、非常の盛会であつた、空椅子一脚もなく、起立者も多数あり、多分八百人以上居つたらうとの事である、約百記中心の啓示、第十九章第二十五節を講じた、熱せざるを得なかつた、講演終へて後に眩暈《めまひ》の徴候あり、彼女に守られて家に帰り、直に床に就いた、此んな事は講演会を開いて以来初めてゞある、夕刻に到り少しく快し、小祈祷会を開いた、来会者二十余名、静かなる恵まれたる会合であつた。
十月十一日(月)半晴 眩暈未だ去らず、頭を冷し、終日床に在つた、床中に彼女に看護せられながら言ふた、「約百記第十九章を講じて斯んな位ゐの事は当り前である、床に就く位ゐに一生懸命にならざれば約百記が解つたと云ふ事は出来ない」と、然し之で峠を越えて後《あと》は楽《らく》である、一先づ大安心である、斯んな力の要る部分は聖書の中にも多くはないのである 〇十月号雑誌が出来た、例の通り祈祷を以て発送した。
十月十二日(火)曇 夜雨降る。終日病人であつた、咽喉は痛み、頭は重く、食欲は無く、床中に安静を取るより外に何事も為し得なかつた、是れが約百記第十九章を講ぜし代価の一部分であつたと思へば止むを得ない、縦し是れが為めに殪れるとも厭はない「我は知る我を贖ふ者は活く」である、安心して彼の命の待つまでである。
十月十三日(水)曇 蒸熱き厭な日であつた、引続き医薬を用ゐ静養を計つた、床中に故小出義彦の遺稿『聖国を慕ひて』を読みで強き感に打たれた、実際的信仰に於て余は到底彼に及ばざるを自認する、彼の左の一首は余の眼より熱き涙を引出した。
(302) 聖名《みな》の為め受けし傷痕《きずあと》持たずして
聖前《みまへ》に出る恥知るや君
実に其通りである、加拉太書第六草十七節である、小出に先生と呼ばれし余の名誉と責任二つながら大である、余は彼を称して我国の Kirke White《キルク ホワイト》と云ふ。
十月十四日(木)曇 未だ床を離るゝ能はず、彼女の看護の下に在る。神戸発行英字新聞ジヤパンクロニクルが本月九日十日の両日に渉り世界日曜学校大会に対する余の態度に関する長論文を掲ぐるを見た、全体に余の立場を弁護する者である、余は殊更に反対を試みた積りではない、然し乍ら他に反対せし者が無きが故に余の反対が目立つて見えるのであらう止むを得ない、然れども少くとも一人の反対の声は揚がらざるを得ない、斯かる反対は我国に於て基督教の純潔を維持する為に必要である、不信者の後援に依りて基督教的大会を開きし事に就て基督信者中一人の非難の声を揚ぐる者なしとありては世界と後世とに対し大正時代の日本基督教の恥辱である、然し乍ら其の反対の任に当りし余は禍ひなる哉、斯かる場合に於て余は預言者ヱレミヤの言を想出さゞるを得ない。
嗚呼我は禍《わざは》ひなる哉我母よ、汝何故に我を生みしや、全国の人我と争ひ我を攻む、我れ人に貸さず、人また我に貸さず、然れど皆な我を詛ふなり(耶利米亜記十五章十節)
と、余は平和を愛して反対を悪む、然れども|或者〔付○圏点〕に強ひられて屡々反対すべく余儀なくせらる、嗚呼我れ禍なる哉である、然し彼の命である、止むを得ない、聖意《みこゝろ》をして成らしめよである、唯私怨の公憤に混ぜざらん事を
〇以上を書き終りて西窓より日没後の空を望めば、金星は新月に接近して相並んで宵天に懸る、空天稀に見る現象である、婦人供を二階の書斎に呼び上げ彼等に此美観を示し諭して言ふた「之が神様が造り給ひし美くしき宇(303)宙である、我等は不平を唱ふる事なく感謝歓喜の内に日々の業務に就くべきである」と、嗚呼今や幾人《いくたり》の人が此荘観に心を歓ばしつゝあるであらう乎、彼等の多数は大会とか社交とか称へて人為的細事に注意を奪はれて此宇宙的偉観を逸しつゝあるのではあるまい乎、「嗚呼我は|福ひ〔付◎圏点〕なる哉我母よ」である(午後六時七分金星将さに水平線に触れんとする時)。
十月十五日(金)晴 大分に快し、然し未だ全く床を離るゝに至らず、甚だ残念である、友人中医療の術に長ずる者交々訪れて回復を計つて呉れる、感謝に堪へない。
十月十六日(土)晴 今や日本に於てもクリスチヤンたる事は恥かしい事であるに至つた、クリスチヤンたる事は今や此国に於ても米国又は英国に於けるが如く、高潔なる事、純正なる事、独立なる事でなきに至つた、今や純潔なる日本人たる事はクリスチヤンたる事よりも、優に貴き、優に恵まれたる事である 〇秋が来り地方の読者にして野と山との産を送り来る者多し、台所ほ大繁昌である、栗、松茸、柿、梨、林檎、馬鈴薯《じやがいも》、里芋《さといも》、実に愉快である、之が純日本式である、教師が信者より一定の給料を貰ふのは純米国式である、余は此事に於ても純日本式を愛する、給料は要らない、然し芋など栗などは欲しくある、而して之を得て大満足である。
十月十七日(日)雨 元気未だ回復せず残念千万ながら講演を休んだ、堪へ難き苦痛であつた、此処数年間、何を休んでも日曜日の聖書講演を休んだ事の無き余に取りては此喪失は最大の喪失である、然し是れ亦善き事であると信ずる、余の事業ではない、神の御事業である、彼は之を遂ぐるに必しも余を要し給はない、星野と畔上が余に代りて有力なる講義を為したりと聞いて喜んだ、余は独り家に在りて熱心に祈りて彼等の仕事を助けた、(304)願ふ精力復び回りて福音の戦士として立たん事を。
十月十八日(月)晴 教友藤本医学士の診察に由れば、余の罹りしは、軽きメニール病なるぺしとの診断にて安心した、但し更らに二週間余の静養を要すぺしとの事であつた、病源が判明して希望が起り嬉しかつた 〇又京都の松岡帰之氏の訪問を受けた、我教友中唯一人の老志士である、大和魂を充分に解したる日本のクリスチヤンである、基督教の日本化せざるぺからざるを語るや、君は直に左の古歌を示して呉れた
敷島のやまと錦に織りてこそ
からくれなゐの色も栄《はえ》あれ
と、余は之を聞いて手を拍つて喜んだ、単に唐漢の儒教に限らない、印度の仏教もさうであつた、而して欧米の基督教もさうでなくてはならない、大和錦に織りこんでこそ、主として米国より輸入されし基督教も真の栄光を放つに至るのである、米国人の基督教の如何なる者なる乎は今度の日曜学校大会にて充分に証明された、信仰の事に於て米国人に学んで我等も亦彼等の如くに現世化せざるを得ない、我等は基督者として又日本人として、神の為め、キリストの為め、全人類の為に基督教を大和錦に織りこまなければならない。
十月十九日(火)曇 少しく元気附き僅かばかりの仕事を為すを得て感謝であつた、病に罹るたび毎に思ひ出すは約翰伝六章二九節である、信者は何の事業をも為さずとも可いのである、ただ神の遣しゝ者を信ずれば可いのである、イエスは我等に代りて万事を成就《なしと》げ給ふた、故に彼を信ずる事、其事が信者の工《わざ》(事業)である、爾う思ふ時に心が楽になる、自分は元の信仰の人と成る、直に能力《ちから》の本源に達する、希望が起る、新たに能力が加へらる、更にまた働きたくなる、我れ弱き時に強しとの実験を新たにする、感謝である。
(305) 十月二十日(水)曇 快癒遅々として捗らず、心許無くある、或ひは当分差したる仕事ほ出来ない乎も知れない、神の聖旨《みこゝろ》をして成らしめよである、何れにしろ仕事を減ずることに決した、六十年間使ひ通うして来りし此身体、今に至りて休養を要求されても怨言《こごと》は言へない。
十月二十一日(木)雨 少しく自分らしくなつた、雑誌原稿一頁半書けて心強く感じた、女学生二名見舞ひ呉れオルガンに合はして讃美歌を歌つて呉れて、大に元気附けられた 〇英国に於ける炭坑夫罷業と米国に於ける排日運動とは今日の世界二大問題である、独逸を滅ぼしても世界に争闘は絶えない、英国は内乱に瀕し、米国は善隣を怒らしつゝある、人類の前途は依然として暗黒である、英米愈々頼むに足らず、希《ねが》ふ此際新光明の日本に降り、新希望を全世界に伝ふるを得んことを。
十月二十二日(金)半晴 少しづゝ快し、台湾阿※〔糸+侯〕松田英二よりの近信中に左の如き面白き記事があつた。
日向に参りました、日向から鹿児島の海岸を一週間歩き廻りまして、九州南部に現はれし台湾植物に就きて少しく研究しました、かたはら古墳から出ます古土器の各種に、人種移動の跡を偲びました。南洋ボルネヲにあるといふ地下式古墳が日向の一部に発見せられたるを知り、天孫人種移住の一ヒントをつかみ得たる心地がして嬉しく思ひました。この辺のオダマキノキ(Michaelia compressa,Max)が台湾産のものと全く同一なるを確め、天孫降臨の際この木の実を鈴の代りとして用ひ給ひしと伝ふることが、九州と台湾との歴史的関係の一証明になるらしいのに興じたりしまして、ヤツト先月の二十日に阿※〔糸+侯〕の古巣に帰りました。
まことに興味多き通信である、斯かる通信にはいくらでも与りたい。
(306) 十月二十三日(土)曇 病を養ひつゝ少し計りの読み書きを為した。
十月二十四日(日)晴 病を犯し自働車を雇ひ、大手町の講堂に至り三十分間の講演を試みた、時々暈気を催うせしも差したる事なくして壇を降るを得て感謝であつた、約百記第二十章以下の精神に就て語つた、第十九章に於て信と望との絶頂に達せしヨブは未だ愛を完成せらるゝの必要ありと述べて自分ながらに心持好く感じた、基督教はつまり愛の宗教であつて信は愛に達するの途に過ぎない、信は自づから狭くある、堅くある、鋭くある、之に対して愛は博くある、柔くある、優しくある、信が愛を以て働くに至て信仰の目的は達せらるゝのである、而して約百記も亦此事を教へざれば終らないのである 〇越後より信仰の迫害に耐へずして遁れ来る者あり、其苦痛を聞いて尠からず心を傷めた、「日々我に迫まる諸《すべて》の教会(信仰団)の憂慮あり」である 之を遁れん欲するも能はず、絶対的安静は余に取りては至大の困難である。
十月二十五日(月)晴 病気なるにも拘はらず原稿の書きのこし有りたれば例月の通り雑誌が出来て感謝であつた 〇海軍機関大佐太田十三男君よりの病気見舞の書簡に曰く「何れは福音の宣伝壇上に於て御倒れ被遊事と覚悟仕居り候得共少くとも尚十年は現教壇に御健闘大丈夫と信じ居り候」と、日本武士の同情感謝に余りありである、太田君の如くに軍艦の甲板に於て倒れ得ずと雖も、せめては福音宣伝壇上に倒れて日本武士の面目を施したくある。
(307) 十月二十六日(火)晴 近頃の主《おも》なる仕事は我が肉体の研究である、歯、眼、鼻、耳、脳、腸、血等の研究である、興味甚だ多くある、青年時代に教へられし少し許りの解剖学、生理学、薬物学等が此際多くの用を為す、肉体の研究は霊魂の研究丈け其れ丈け肝要である、是れ決して肉慾を楽まんが為ではない、神の器《うつは》として之を用ひんが為である。
十月二十七日(水)雨 好き休養の一日であつた、信仰の眼を復又キリストの十字架に向けて相も変らざる慰藉を感じた、基督教を改称して之を|十字架教〔付○圏点〕と呼びたくなつた、若し基督教の終極が再臨であるならば、其中心は十字架である、而かも単に犠牲の意味に於ての十字架ではない、我が罪が其上に於て取除かれし意味に於ての十字架である、他人は基督教を如何に解しやうとも、余の基督教は十字架教である、之を思ふて夜の家庭の祈祷会に讃美歌第八十一番「うつりゆく世にもかはらで立てる、主の十字架にこそ、我はたよらめ」を歌ふて大に慰められ又強められた。
十月二十八日(木)晴 少しづゝ快し、前約に循ひ医学土星野鉄男対大石ミソノの結婚式を司つた、此任に当り得る丈け健康が快復し居りし事を感謝する、実に美はしき式であつた、簡単で、誠実で、神聖で、一同歓喜に充たされた 〇此日又復イエス様を我心に迎へ奉りて嬉しかつた、我特愛の加拉太書二章二十節が我が口に上《のぼ》つた、自分は既に死んだのである、活きてゐてはならないのである、キリストが我に在りて生き給ふのである、我は我が自我《セルフ》の内城を彼に引渡さねばならないのである、而して我が伝道事業に熱心なるの余りキリストは薄らぎ、自我《セルフ》が蔓延《はびこ》り始めしが故に、愛の神が此病を下して我を復びイエスヘと呼び戻し給ふたのである、「今我れ肉体に在りて生けるは我を愛して我が為に己を捨し者、即ち神の子を信ずるに由りて生ける也」と、まことに爾《さう》である、(308)クリスチヤンらしく成らうと努むる其努力、其れが不信である、すべての災禍《わざはひ》の原《もと》である、罪の身此の儘、之を彼に引渡し、彼をして我に代つて我が衷に在りて生きて戴く事、其れが真正《ほんとう》の信仰である、余は何故此事を忘れるのであらう乎、自身ながらに呆れざるを得ない、自分で努めて義人と成り愛国者となり、クリスチヤンと成らんと欲す、実に愚の極である、不可能である、豹の斑《まだら》を除かんと努むると同じである、此事が解かつて今日復た新たにクリスチヤンと成つたやうな心地がする、大感謝である。
十月二十九日(金)半晴 頭脳が少しく軽くなつて愉快である、久振りにて青年時代の良師友なりしアルバート・バーンスの『約百記註解』を四五頁読んだ、旧い米国の基督教に貴いものが多くある、近代のそれとは雲泥の差である、バーンスが今日墓より起つて来たならば余と共に憤慨するであらう、一八四四年に成りし此書に今日猶ほ学ぶべきものが沢山にある 〇キリストの十字架が解つて人生のすべての問題が解決せらる、之が解つて縦し一生が不幸の連続であるとも感謝である、社会問題も労働問題も人種平等問題もあつたものではない、キリストの十字架が解れば人生宇宙悉く感謝である、罪は茲に消え、希望は茲に輝き、生命は茲に湧く、余の基督教が十字架教と成る時に余は幸福の人と成る。
十月三十日(土)晴 今日も亦主に在りて休んだ、馬太伝五章四八節に就て考へた、「天に在す汝等の父の完全《まつた》きが如く汝等も完全くなるぺし」とは決して不可能を強ふる無理の要求ではない、我等はまことに聖父《ちゝ》が完全きが如くに完全く成ることが出来るのである、然し乍ら努力修養に由て成るのではない、信仰に由て成るのである、イエスを仰ぎ瞻て成るのである、神の栄《さかえ》の光輝《かゞやき》、その質の真像《かた》なる彼を仰ぎて、彼の生命を我に摂取して彼が完全きが如くに完全く成るのである、神の完全きが如きに完全き者は唯一人あるのみ、即ち独子《ひとりご》イエスキリストで(309)ある、彼の如くに成りて、然り|彼に成りて〔付○圏点〕、神の完全きが如くに完全く成ることが出来るのである、其事を思ふて感謝に堪へない、「我は生命なり」とイエスは言ひ給ふた、生命はイエスの外にあるのでない、彼を我衷に迎へまつりて生命は我有となるのである、彼をして我に代りて我真に在りて生かしめまつりて、我は今日今、罪の身此儘にて彼の如くに成るのである、即ち神の完全きが如くに完全く成るのである、嗚呼感謝!!
十月三十一日(日)晴 講演は畔上に頼み、家に在りて専ら肉体の治療に従事した、集会に差したる変化なかりし由を聞いて安心した、余の今日の黙想の題目は創世記第十五章一節であつた、「ヱホバの言アブラムに臨みて曰く、アブラムよ懼るゝ勿れ、我は汝の干楯《たて》、汝の甚大の賜物なり」と、ヱホバ御自身が彼が信者に賜ふ甚大の賜物なりとの事である、ヱホバに事ふる其報賞はヱホバ御自身である、政府に事へん乎、其|報賞《むくひ》として位階勲章を下賜さる、教会に事へん乎、其報賞として神学博士の称号を授与さる、然れども神に事へん乎、此世の名誉幸福の何の与へらるゝ所なしと雖も、神は之に代へて御自身を与へ給ふ、而して是れ実に「甚大の賜物」である、神を其独子イエスキリストに在りて識るを得て、此世は無《なき》に等しき者となる、此賜物を賜はりて余も亦腓立比書三章八節のパウロの言を藉りて言ふ事が出来る、「我れ我が主キリストイエスを識るを以て最も益《まさ》れる事とするが故に凡の物を損となす、我は彼の為に既に此等の凡のものを損とせしかど之を糞土の如く意《おも》へり」と、|糞土〔付△圏点〕の如く、然り|糞土〔付△圏点〕の如し、此世の凡の名誉と栄華は悉く|糞土〔付△圏点〕である。
十一月一日(月)曇 朝、聖書学院教授車田秋次君と共に戸山ケ原を散歩した、君の天性の温厚なる、信仰の確実なる、学問の浅からざる、君をして余の益友たらしむ、君に余の思考《かんがへ》を聞いて貰つて益せられし事、今日まで幾回《いくたび》もあつた 〇此日キリストと偕に在る事に就て黙想した、基督信者はキリストと同体である、信仰に由り(310)て己れに死してキリストに在りて生《いく》る者である、即ちキリストの生命を己が生命となす者である、信者はキリストと偕に十字架に釘けられたる者である(加拉太書二章廿節)、既にキリストと偕に甦たる者である(哥羅西書三章一節)キリストと偕に天の処に座せしめられし者である(以弗所書二草六節)、而して又キリストの顕はれん時に彼と偕に栄の中に顕はるゝ者である(哥羅西書三章四節)、信者は単にキリストを信ずる者ではない、キリストと偕になりし者である、四福音書を己が伝記として読み得る者である、深い深い秘密である、此世の人等には到底解らない奥義である、然し乍ら凡の信者に取りては火を睹るよりも瞭かなる事実である、信者が日々に変り行く新聞紙の記事を読みて甚だ満《つま》らなく感ずるは是が為である、彼の生命は「昨日も今日も永遠《いつ》までも変らざるイエスキリスト」を彼の生命となすからである。
十一月二日(火)晴 更らに少しづゝ快《よ》くある、稍《やゝ》自分らしく感じた。外交官某氏の訪問を受け、『太陽』雑誌十一月号所載の「日本文化に及ぼせる基督教の影響」に関する余の意見が一二の英文雑誌に訳載せられ、日本の宗教的現状を外国に紹介するに方り外交的に利益尠らざる由を聞かされて奇異《ふしぎ》に思ふた、「キリストと彼の十字架に釘けられし事との外は何も語らじ」と心を定めし余に取りては外交云々の如き至て小なる問題なりと雖も、而かも余の如き福音宣伝者の言が外交家の注意を惹くに至りしと云ふは是れ確かに時勢の一転化である、然し如何《どう》でも宜しい、時を得るも得ざるも唯イエスの福音を説くまでである 〇昨日に引続きキリストと同体たる事に就て黙想した、希臘語の聖書にて哥羅西書の二章十二節、同三章一-四節を読んで大に得る所があつた、パウロが〓〓〓(偕に)なる接続詞を繰返し用ゐる所に深き意味がある、キリストと|偕に〔付○圏点〕葬られ、|偕に〔付○圏点〕甦がへらされ、|偕に〔付○圏点〕栄《さかえ》の中に顕はさるゝと云ふ、「偕に」の意義深い哉である。
(311) 十一月三日(水)曇 昨夜空晴れ、双眼鏡を以てペルシウス座を覗き荘観であつた、主星アルゲニブを取巻く星の花綵《ガーランド》、それとカシオピヤ座との間に振撒かれたる星の金砂、譬ふるに物なしである、今日又心を静にして単《ひと》へに健康回復の途を計つた。
十一月四日(木)晴 朝先づ第一に希伯来書第十二章一節をデリツチの註解書に復読して大なる力と慰めとを得た。一週前に今井館に於て結婚式を挙げし星野新夫人より左の如き新婚旅行記を送り来り心から嬉しかつた、我等同志の新婚旅行はすべて斯くあつて欲しい者である、病中にも拘はらず結婚問題に就て種々の難問題を持込まれて苦しめらるゝ今日此頃、此美はしき旅行記は自分に取り尠からざる慰安であつた、自分が再び新郎となりて島巡りをしたやうに感じた。
御愛みの御翼さに乗せられて幸多い旅を今日まで続け得まして誠に/\感謝でございます。特別な上よりの御恩恵に神様と人々の前に式をあげる事を得さして下さいました日より早一めぐりは過ぎてしまいました。すべてに満ちあふれました。第一日は晴れやかな静かな島の秋を味ひに宮島へまゐりました、汐の香豊かな鳥居の上に白鶴の舞ひをながめ、輝かしい秋波の上に舟をめぐらせまして変化きはまりなき美つくし善つくしましゝ大自然の造物主の御手業に思はずも讃美の歌をまつつたのでございました、そこを出まして、大阪の街を通り、しぐれにしめる奈良をたづねました。少しつかれましたので春日山にのぞむ窓によりまして古なつかしい鐘をきゝながらひとり聖書を拝読し、静思致すことを得ました。結婚第四日のその朝は共にヨハネ伝第四章を拝読致し感謝と讃美の御祈を捧げまつつたのでございます。昨日の正午すこし前当京都へ参りましたのでございます。白川の水音、松の風、どこまでも平和に思はれます。今私共はあふれ/\て居ります。
(312) 十一月五日(金)半晴 米国大統領選拳に於て共和党の大勝利が伝へられ心から嬉しかつた、外国電報は「ウイルソン主義の没落、ツアーリズム(露国的専制主義)の敗北」を報じ、「現政府を覆へし全然ウイルソン氏の国際聯盟を葬るべし」と言ふ、誠に痛快の至りである、腐敗堕落せる米国の復活の兆と見て可ならん、去るにても二三年前にウイルソン大統領を担《かつ》ぎし我国基督教界の先輩は何を以て社会に弁解せんとするや、米国に於てすらウイルソン氏は厭き果てられ、其主義は国家人類を毒する者として認めらるゝに至つた、余輩はウイルソン大統領の全盛時代に於て、彼を讃《たゝ》ふるの過誤《あやまち》なるを唱へて止まなかつた、願ふウイルソン主義を葬り去りて米国が旧の人類平和の保護者として存《のこ》らん事を。
十一月六日(土)晴 静養の間に少しづゝ働いた。希伯来書十一章四節に於てアベルとカインとを比較して大に学ぶ所があつた、カインは世に所謂悪人ではなかつた、彼も亦神に祭物《そなへもの》を献げし者であつて、たしかに神に事へんと欲せし者であつた、今日の言辞《ことば》を以て言ふならば、カインもアベルと均しく信者であつた、然し乍ら二人は全然其信仰の質《たち》を異にした、アベルは信仰本位の信者であつてカインは事業本位の信者であつた、アベルは小羊を献げて贖罪の血に由りて神に近づかんとした、之に反してカインは地の産を献げて己が労作《はたらき》の結果を献じて神を喜ばし奉らんとした、而して神はアベルの供物《そなへもの》を看顧《かへり》み給ひて、カインの供物を喜び給はなかつたのである(創世記第四章)、アベルは信仰的信者を代表し、カインは事業的信者を代表する、而して二者相対して後者は前者を嫌ふこと甚しく、終に之を殺さゞれば止まないのである、イエスが殺され給ひしも其アベル的信仰に由るのである(イエスの場合に於ては御自身が挽回《なだめ》の供物であつた》、パウロが迫害されしも、多数のプロテスタント教徒が羅馬教徒の為に殺されしも同じく其アベル系の信仰を懐きしが故であつた、而して今も猶ほ二種の基督信者(313)がある、贖罪の血に由るアペル系の基督信者と、社会改良、世界改造、人類の倫理的改善を主眼とするカイン系の信者と、而して二者相対して後者は前者を賤しめ、忌み嫌ひ、或る意味に於て之を殺さゞれば止まないのである、所謂教会歴史はアベル対カインの衝突を以て始まり、而して同じ衝突を以て継続するのである、小羊の血か、手の業《わざ》か、単なる信仰か、復雑なる事業か、而して言ふまでもない、余自身は前者を択《えら》む者である。
十一月七日(日)晴 出入りの植木職人某、長の間病に罹り苦しんだ、僅かばかりの物を送りて彼を慰めた、彼の喜び窮りなく、家人を遣りて厚き礼を述べしめた、彼の喜びを聞いて我等一同喜んだ、余自身は大説教を為したよりも嬉しかつた、愛に励まされて為した小善は義務に強ひられて為した大善よりも遥に貴く且つ楽しくある。此日中央の講壇は引続き之を畔上に委ね、自分は家に在りて喜ばしき黙想の裡に感謝の聖日を守つた、聖会に四百人ばかりの来会者ありしを聞き大なる感謝であつた。
十一月八日(月)快晴 平安の一日であつた、何《ど》うか斯うか雑誌の校正を終つた、病中の雑誌製作は初刊以来之れで第二回である、何を廃しても之れ丈けは廃する事が出来ない、ペンが手から落つる時までは止まないのであらう。
十一月九日(火)曇 「我が今日斯くあるは神の恩恵《めぐみ》に由るなり」とのパウロの言に就て黙想した(哥林多前書十五章十節)、我が今日猶ほ信仰を棄ずしてクリスチヤンたり得るは神の恩恵に由るのである、自分の努力や奮励に由て信仰を持続するのではない、神の愛に縛られてである、故に誇る事は出来ない、唯感謝するばかりである、而して此愛に縛られて如何なる誘惑も躓《つまづ》きも自分を再び旧《もと》の不信者となす事は出来ない。
(314) 十一月十日(水)曇 病気が少しく後戻りしたやうに感じた。路加伝十五章を読み、放蕩児の譬話を我事のやうに感じた、我も亦罪を悔改めて父の赦しを乞はねばならぬ、病を癒されんと欲して医師と薬品とのみに頼つてはならぬ、第一に己に省み、数々の罪を認め、之を父の前に告白して彼の赦しを求めねばならぬ、信仰の立場より見て病は確に罪の結果である、而して罪を赦されずして病は根本的に癒えない、此意味に於て凡ての真正《ほんとう》の信者は神癒信者たらざるを得ない、「起ちて我父に往きて言はん、父よ我れ天と爾の前に罪を犯したれば爾の子と称ふるに足らざる者なり」と、基督者《クリスチヤン》は恒に此立場に居らねばならない、而して病に罹りて屡々此立場へと追還《おひかへ》さるゝのである。
十一月十一日(木)曇 陰鬱なる日であつた、然し元気は大分に本に復つた、いま少しの所である、今日も又主に在りて楽んだ、我に臨みし事の凡て善き事であつた事を知つて喜んだ、其当時は堪へ難き事であると思ひし事も、後になつて見れば凡てが恩恵である、何時になつても意味深長にして※〔聲の耳が缶〕《つ》きざるは羅馬書八章二八節の言葉である。
十一月十二日(金)雨 無為の一日であつた、食ふ事と休む事の外は何事も為さなかつた 〇自分は失敗の生涯を続けて来た者であるから成功の生涯には堪へられない、社会の賛成を得るやうなる生涯は自分には最も不自然である、鮭や鱒のやうに自分は逆流に溯《さかのぼ》つて居る時にのみ自分らしく感ずる、自分に取りては多くの敵を持つ事は生存上の必要である、而して愛の神様は絶えず内外の反対者を与へ給ふから感謝と信頼の生涯を続ける事が出来る。
(315) 十一月十三日(土)晴 少しく読書欲が起り、J・B・ベリー著『自由思想史』数十頁を読み、基督教会に由て迫害せられし多くの自由の戦士の苦闘困憊に対し熱き同情を禁じ得なかつた、教会と闘ふ点に於ては自分も亦教会の所謂「無神論者」の一人なる事に気附いた、正直誠実の点に於ては無神論者は遥に教会者以上である、而して余は信じて疑はないのである、イエス御自身が当時の無神論者でありし事を、故に大監督の承認を受くる事よりも、無神論者に与《くみ》する事が遥にイエスの聖旨《みこゝろ》に合ふ事である、教会は二十世紀の今日と雖も猶ほ依然として自由と公明と正直との敵である。(A History of Freedom of Thought.by Prof.J.B.Bury,Litt.D.,LL.,Home University Library.)
十一月十四日(日)晴 今日も引続き市中の講演会を休んだ、畔上代理し三百人以上の来会者ありし由を聞いて喜んだ、今に至て余が人を惹くのでない事が明白に解《わか》つて感謝する、少くとも三百人の人々が東京に在りて教会以外の礼拝所を求めつゝあるのである、何人《だれ》かゞ彼等を導き且養はなければならない、茲に期せずして教会ならざる教会が起つたのである。
十一月十五日(月)晴 朝九時家を出で、彼女に伴なはれて相州湯河原に来た、本当》の湯治である、明治十六年胃病を癒さんとして故津田仙君と共に熱海に来た事を思ひ出した、伊豆半島東岸の相模洋《さがみなだ》に面する辺は日本のリ※〔ワに濁点〕イエラ(Riviera)とでも称すべき所であらう、柑橘類の林到る所に茂り、黄金果其枝に簇《むらが》る、病まざれば斯んな楽園郷に来る事は出来ない、感謝である。
(316) 十一月十六日(火)晴 十年の疲労が一時に出て来たやうに感じた、終日床に就て休んだ、東京の友人に書き送て言ふた、
湯河原や賽の河原の赤ん坊
寝るより外に為る事はなし
斯して健康が復《かへ》り来るのであらう。
十一月十七日(水)晴 湯に入る事と寝る事の外は何にも為さず、実《まこと》に勿体なき事である。
十一月十八日(木)晴 昨夜雨降り、今朝に至りて晴る、箱根道に沿ひ十二三丁山に登り、或る人の別荘地に蜜柑の鈴成に実《な》つて居るを看た、但し他人の所有《もの》であるから手を出す事は出来なかつた、それと共に路傍に沿ふて紫竜胆が饒《さわ》に咲いて居た、是は神の所有であるから自由に取て楽んだ、而してブライアントの一句を口吟《くちずさ》んで言ふた、
Blue,blue,as if sky let fall,
floweTS from cerulean wall.
其青きこと恰かも青き空が
天井より花を降らせしが如し
「土地は汝(地主)に属し風景は我(詩人)に属す」である。
十一月十九日(金)半晴 元気大分に快復し、野山を跋渉し四十日振りにて心から天然と親んだ、東京の婦人(317)連より喜ばしき通信があり、昨日見た野生の紫竜胆と共に尠からず我が健康の恢復を助けた。
十一月二十日(土)曇 正午湯河原を発し、小田原を経て夜八時柏木に帰つた、五日間の善き休養であつた。
十一月二十一日(日)快晴 四週間振りにて高壇に登つた、大なる感謝と歓喜とであつた、「ヨブの見神」と題して約百記第三十八章を講じた、今日までの如くにヨブに代つて語るのではなくして、神の言を伝ふるのであれば、夫れ丈け自由で愉快であつた、
かの時には晨星《あけのほし》相共に歌ひ
神の子等皆な歓びて呼はりぬ
その言葉を説明して、自分ながらに宇宙の大気に触れて、浩然の気を呼吸するやうに感じた。
十一月二十二日(月)晴 木村清松君よりカーライルの生地蘇格蘭エクレフエーカン発の絵ハガキが届いた、彼は言ふ「十月九日トマスカーライルの生れた家と小学校と墓とを見舞つて転《うた》た大兄の事を思出した、カーライルは黒縁《くろぶち》のある帽子をかぶつて少しこゞみ加減に歩いた人と見える、それが大兄によく似て居る、其の上顔もどうやらよく似て居る」と、誠に有難い次第である、現時の伝道師や聖書学者や神学博士等に似て居ると言はるゝならば腹も立つであらうが、カーライルに似て居ると言はれて却て名誉満足に感ずる。
十一月二十三日(火)雨 引続きベリー氏著『自由思想史』を読み、ラシヨナリスト(純理主義者)に対し同情に堪へなかつた、彼等の多数の教会者よりも遥に善きイエスの弟子であることを知つた(馬太伝七章廿一節)。
(318) 十一月二十四日(水)曇 希伯来書十一章十三、十四節とブライアント詩集の二扁と中欧現時の政治状態に関する論文とを読んだ、外に少し許りの雑誌編輯を為した。
十-月二十五日(木)半晴 東大出の若き法学士金沢常雄君今月より研究社の仕事を助けて呉れることになり、一同大喜びである、斯くして神と人との援助を得て今年も亦例年の通り欠けなく雑誌を出す事が出来て感謝此上なしである。
十一月二十六日(金)半晴 此日より星之友会に於て毎会三十分位ゐづゝ「聖書の天文学」に就て講ずる事にした、今日は創世記第一章一節並に十四節より十九節に至るまでに就て話した、「元始《はじめ》に神天と地とを創造《つく》り給へり」とありて聖書は天文学と地理学とを以て姶つて居る、而して黙示録は新しき天と新しき地との出現を以て結んで居るのを見れば、聖書は天文地理を以て始終《しじう》して居る事が解《わか》る、聖書の伝ふる信仰の健全なるは之に由て明かである、希伯来書の記者は信仰第一条として掲げて言ふた「我等信仰に由りて諸《もろ/\》の世界(宇宙万物)は神の言に由りて造られたるを知る」と(十一章三節)、天文と地理との確固たる基礎の上に築かれざる信仰は頼むに足らない、詩人ワルヅワスが言ふた通りである。
To the solid ground of Nature
Trusts the mind that builds for aye.
天然の堅き基礎の上に
(319) 永久に変らざる思想は築かる。
十一月二十七日(土)晴 余の会心の友の一人は確《たしか》に福岡西南学院教授本沢清三郎君である、君よりの近信に左の如き気持の好き言があつた。
十一月分の研究誌で日曜学校大会に反対なさいまして「斯る反対が我国に於ける基督教の純潔を維持する為に必要である」との御言葉を痛快に承ります。私の声は小さけれども教会の壇上より私は叫びました、「キリストがベテレヘムに在せばベテレヘムはユダの群中にて小なる者に非ず、キリストがユダに在せばユダは地球上小さき国にあらず、キリストが地球に在せば地球は星の中にて小さき星にあらず、而しでキリストが人の中に在せば其人は最早小さき人にあらず、然るに今やキリストは其権威が追々細り行きて日曜学校の大会にもキリストのみでは重きをなさず、大隈侯 渋沢子を舁ぎ出して其声望を藉らんとす……キリストの権威を薄らげつゝあること我国基督教界中央幹部に於て此の通りである、キリストを以て最大の誇りとする者茲に幾人あるか」、是れが梗概でありました、会場の焼けた時に全学院の生徒に向つて「是は火のバプテスマである、此大会に金力や勢力を集めて外賓を饗応せうとした、此火災によりて其等の栄えは亡びて後に残る者は唯キリストだけである、此事を小数の人だけでも気附くならば十三万円は高い代価ではない」と言ひました。
誠に痛快の言である、神はたしかに我国に於てもバールに膝を屈めざる者の少数を存《のこ》し給ふ、我等は失望すべきでない。
十一月二十八日(日)晴 講演会は殆んど満場の聴衆があつて不相変盛会であつた、畔上は哥林多前書第六章を、(320)余は約百記第三十八章を前回に引続き講解した、余の講演は五十分に渉り、今日の健康状態を以てしては少しく行《や》り過ぎであつた、海と黎明との創成に就て語り、楽しくもあり又有難かつた、疲労は半日にして癒えた。
十一月ニ十九日(月)晴 心を休め肉体の健康の回復を計る為にワルヅワス伝の復習を始めた、社会と教会の事に就き多の厭《いや》な事を聞かさるゝ時天然の考察は唯一の純情なる快楽である、宗教に在りては宗派の数に限りなく、神学は相互を毀《こぼ》ちつゝある時に、天然のみは其調和統一を保ちて変らない、余も亦ワルヅワスと共に教会と神学とに厭《あ》き果《はて》たる者の一人である。
十一月三十日(火)曇 雑誌校正が始まつた、少しづゝ之に従事した 〇二三日来の黙想は是れであつた、即ち、赦すのではない、赦せる(赦し得る)のである、赦せない罪は赦す事は出来ない、道義に強ひられて赦すのは赦すのではない、神に自分の罪を赦されて他人《ひと》が自分に対して犯した罪を赦さゞるを得ざるに至つて容易に之を赦すのである、赦せるのは大なる恩恵である、我心が感謝と歓喜とを以て充足《みちたれ》るに至つて容易に他人《ひと》を赦し得るに至るのである。
十二月一日(水) 病気見舞ひとして送られし多くの慰問状の中に左の如き喜ばしき者があつた、
先生にほ御病気の由十一月聖書研究誌上で拝見しましたが如何で御座いますか、御伺申上ます、小生儀先生の御指導を誌上で受ける事七年、益々感謝の生活を送つて居ます、小学校の平訓導として比較的病弱なる家族を養ひ、物質的に極めて貧弱ですが精神的には豊になりました、熊野の山奥にも独立独歩信仰の戦を続けて居る者ある事を喜んで下さい。
(321)自分に取り誠に大なる歓喜又感謝である。
十二月二日(木)曇 脳を休めんと欲すれば眼を休めなければならない、眼を休めんと欲すれば星覗きを止めなければならない、実に大なる苦痛である、然し止むを得ない、然し天の星を覗けなければ地の花を見ることが出来る、路傍の雑草を研究しても余の天然欲を充たす事が出来る、過る一年間余り熱心に天を覗きし事が今回の疲労を来たせし一の原因である事が判明して甚だ済まなく感ずる。
十二月三日(金)雨 校正日である、編輯員一同(総勢三人)終日の仕事であつた。
十二月四日(土)曇 医師に減読を命ぜられ大なる苦痛である、然し乍ら悪い事計りでない、思想宣伝の盛なる今日の如き時に方て読まない事は多くの危険より免かるゝ事である、殊に米国から送り来る雑誌小冊子小著述に至ては其表題を見る丈けにて充分なる者が多い、余がキリストの再臨を信ずると聞いて頓《とん》でもない浅い再臨の信仰を勧め来る者がある、実に煩累《はんるゐ》に堪へない、而して減読の必要より是等をすべて追払ふ事が出来て大なる利益である、読書に際限がない、聖書と天然科学書と少しづゝを読み得れば其れで霊魂の餓ゑる心配はない、謹んで医師の命令に服従する。
十二月五日(日) 聖書講演会満場の盛会であつた、聖書知識欲求の盛なる推して知るべしである、畔上は哥林多前書第八章に就て講じた、余は其後を受けて約百記第三十八章十六節以下、殊に卅一節卅二節に就て語つた
汝昴宿の鏈索《くさり》を結ぶや
(322) 参宿の繋縄《つなぎ》を解くや
との有名なる聯句の解読を試みた、少しく天文学の講義に似て聖書の研究としては不似合のやうに思はれた乎も知れぬ、然し神の聖語《みことば》を解釈せんとするに方て彼の聖業《みはざ》を研究するは少しも悪い事でないと信ずる、我等今天空に四千年前にヨブが仰ぎしと同じ星を見て直に彼と同情を交換する事が出来る、此日自分は講壇に一時間立ち通うしたれども別に大なる疲労を覚えなかつた、大なる感謝である。
十二月六日(月)半晴 平安の一日であつた 〇最も厄介なる事は信者ならざる者を信者として取扱ふ事である、信仰を有たない者も若し信者として取扱ふならば終に信者と成るであらうと思ふは大なる間違である、不信者に取り信者として取扱はるゝに勝るの迷惑はなく又|苦痛《くるしみ》はない、又信者の仲間に不信者が信者として交つて居る事は其平和一致を乱す事多大である、不信者は本当の信者と成るまでは決して信者として取扱ふべきでない、是れ其人に対して大なる不親切である、イエスが飲み給ひし苦痛の杯を飲み、又彼が受け給ひし患難《なやみ》のバプテスマを受け得る者のみが信者である(馬太伝二十章二十二節以下参照)、其他の者を信者として扱ひて彼も我も無益の心配と苦痛とを嘗めざるを得ない、慎むべきである。
十二月七日(火)雪 珍らしき初冬の大雪である、終日歇まず、詩人ホヰツチヤの作『雪籠り《スノーバウンド》』を思はしめた、雪を犯して訪ひ来る三人の見舞客あり、有難かつた、静かなる楽しき一日であつた。
十二月八日(水)晴 雪後の快晴、所謂「雪の朝《あした》」であつた、約百記四十一章のレビヤサンに就て研究した、支那や日本で謂ふ所の「竜」は和訳聖書に※〔魚+〓〕《わに》と訳されたる此の怪獣を云ふのではあるまい乎、「七十人訳」は之を(323)〓〓〓〓〓と訳して居る、英語の dragon 即ち「竜」である、「その口よりは炬火《たいまつ》いで火花発し……火焔《ほのほ》その口より出づ」とあるは画《えが》かれたる竜の形状《かたち》に能く似て居る、何れにしろ興味多き研究の題目である 〇午後両人して目白台に星野医学士の新家庭を訪問した、沼田の星野家は我国稀れに見る所の旧き基督教的家族である、医学士彼れ自身がテモテの如くに信仰の祖母と母とを有つ者である(提摩太後書一章五節)、偽りなき熱き信仰が此恵まれたる新家庭に由て永く継続せられん事を祈つた。
十二月九日(木)晴 新聞紙は大統領ウイルソン氏が今年度のノーベル平和賞を受くべしと報ず、是は甚だ理由《いはれ》なき事である、ウイルソン氏は世界に平和を齎らさずして、其反対に大戦争の因を作つた、人類は彼に由て更に悪化された、世界の状態が今日程悪しき時は歴史有つて以来未だ曾て無かつた、余の見る所を以てすればウイルソン氏は平和賞を受くるの資格はない、其事は十年を経ざる内に明白になるであらう。
十二月十日(金)曇 十二月号雑誌を発送した 〇夜星之友会に於て松隈理学士の宇宙二大星流説に関する講演があつた、和蘭天文学者カプタイン氏の唱へし所であつて実に壮大を極むる者である、少くとも十億の太陽が二大流を成して宇宙を運行すると云ふのである、其内の一個の周囲を回転する地球の上に棲息する十五億人の内の一人なる我れが時々我が思ふが儘に万事なれかしと願ふて、其如く成らざるを見て苛立《いらだ》つのである、自己の何たる乎を弁《わきま》へざる僭越の人とは我がことである、此日を以て今年の星之友会を終る。
十二月十一日(土)半晴 無為平安の一日であつた 〇己が地方よりも日本国を愛する者、己が教会よりもキリストの福音を愛する者、其者が本統のクリスチヤンである 然かも其んなクリスチヤンは寥々たる事雨夜の(324)星よりも稀である、大抵のクリスチヤンは日本国よりも己が働きの場所を愛し、キリストの福音よりも己が教会を愛する、斯かる人は実は己が地方よりも、亦己が教会よりも己れ自身を愛するのであつて、畢竟《つまり》不信者であつて、クリスチヤンではないのである、世に情《なさ》けない事とて、国の事、福音の事を語るも甚だ冷淡であつて、自己の事、自己の属する団体の事を語る時にのみ熱心なる所謂クリスチヤンの饒多なる事の如きは無い、教会と云ひ、クリスチヤンと云ひ、其千分の九百九十九までは自己中心主義の不信者であるやうに見える。
十二月十二日(日)晴 午後雨降る。中央聖書講演会不相変盛会であつた、五百乃至六百の知ると知らざるとの信仰の同志が一堂に集つて讃美を唱へ、祈り、共に聖書を研究するのである、聖快此上なしである、畔上は前回に引続き哥林多前書八章を講じ、余は約百記第三十九、四十、四十一章の大意を述べた、至つて骨の折れる講解であつた、艱難はヨブを humanize した、彼を人情化した、其結果として彼は有触《ありふ》れた天然物に接して神に接するが如くに感ずるに至つた、ヨブは既に霊的に神を見るを得しが故に、物界に於て神を見ることが出来た、約百記は実にワルヅワス、ブライアントの詩作以上の天然詩である、余は之を講じて心|躍《おど》らざるを得なかつた、幸に僅少の疲労を感ずる丈で済んだ。
十二月十三日(月) 日米関係が益々困難になりつゝある、自尊心強くして譲ると云ふ事を知らざる米国人を相手にする事であれば此先きどうなる乎甚だ心配である、彼等は米国は米国人の所有《もの》であると云ふが、其米国本土は多くの欺偽と無慈悲なる手段を以て銅色土人より掠奪したる者である、其上にテキサス、アリゾナ、カリホルニヤを墨西其《メキシコ》より奪ひ、此律賓とポートリコとを西班牙より掠《かす》めたのである、米国は決して正義人道を以て誇る事の出来る国家
ではない、彼等が黄色人種を排斥するの理由があるならば、米国土着の銅色人種は彼等白色人種(325)を排斥するの理由がある、余は宣教師を送りて日本人を教化せんとする米国人に対《むか》ひて羅馬書二章廿一節に於ける使徒パウロの言を進呈するであらう、曰く「何ゆゑ人を教へて自己《みづから》を教へざる乎、|汝人に窃む勿れと勧めて自ら〔付△圏点〕窃《ぬすみ》|する乎〔付△圏点〕」と。
十二月十四日(火)晴 約百記第三十一章を研究した、ヨブの清浄潔白の躍如たるを見る、其第二十九節に曰く、
我は我を悪《にく》む者の亡ぶるを喜び
又其|災禍《わざはひ》に罹るによりて自ら誇りし事ある乎
と、約百記学者ヅーム曰く「若し約百記第三十一章が旧約聖書に於ける倫理思想の王冠であるならば、其第二十九節は其頂きを飾る宝玉である」と、而かも此ヨブにして終に「我れ自己《みづから》を賤しみ、塵と灰との中に悔ゆ」と言ひてヱホバの前に謙下《へりくだ》つたのである(四十章六節)、完全なる君子と雖も悔改めざれば神の子と成ることは出来ない。
十二月十五日(水)》晴 日米協会機関英文維誌 AMERICA-JAPAN 十一月号に Christianity and Japanese Culture と題し、『太陽』雑誌十一月号に掲げられし日本の文化に及ぼせる基督教の感化に関する余の意見が、殆んど逐字的に英訳されて載せてあるのを見た、之に依て余の意見が日本在留米国人全部並に日米間題に興味を有する幾万の米国人に紹介されたる次第であつて、実に大なる満足である、待つてさへ居れば自分が努めずとも、他人が自分の意見を宣伝して呉れる、今や世界日曜学校大会が既に忘れられんとしつゝある頃、之を非難せし余の意見が、斯かる国際的機関雑誌に由て広く世界に伝播せらるとは実に不思議と言はざるを得ない、我等は世に(326)諂《こ》び阿《おもね》るの必要は毫末《すこし》もない、唯公義と信ずる事を憚らずして述べて置けば、世が我等に代つて之を宣伝して呉れる、勝利である、万歳である、大感謝である 〇警醒社書店主人福永文之助氏の訪問を受けた、両者の旧友村田勤君の仲裁に由り、『内村全書』広告文に関する不快事を茲に一掃する事が出来て、是れ又大なる感謝である、「平和《やはらぎ》を求むる者は福《さいは》ひなり其人は神の子と称へらる可ければ也」とある、這般の事に関する村田君の厚意努力、感謝するに余りありである。
十二月十六日(木)晴 新聞紙は米国に於て日米開戦説の刻々に昂《たか》まつて来るを報ず、真《まこと》に苦々《にが/\》しき事である、米国が戦はんと欲しなければ日本からは決して戦を挑まない、傲慢無礼の米国人は自分に反対する者があれば其者を敵と認むるのが常である、惟り日本のみならず全世界が起て米国の侮慢を責むる時が来るであらう。
十二月十七日(金)晴 クリスマスが始まつた。今年第一の祝詞は小笠原島群島所属硫黄島在住の医師斎藤保太郎君より達した、曰く「聖誕之佳節を謹で御祝申上候……一日凡そ二十名位宛患者を診療し、午後よりはシヤツ一枚になりて島内を往診し云々……重病患者の快復せし時は実に楽しく候、当地の人達の身体非常に健かにて驚くべき程よく癒《なほ》り申候……主に在る兄弟三戸にて楽しくクリスマスを祝し申候」と、南方の空《そら》にカノーパス、アシエルナート等の星を仰ぎつゝクリスマスを祝するの愉快は内地人の想像以外であらう。
十二月十八日(土)雨 左の如き意味深長なる手紙を受け取て非常に嬉しかつた。
先生、唐突を許させ給へ、私は中央講演会売店に於て高著『旧約十年』を求め、其代価を支払ふと致しますると拾円札の外に持合わせがなかつたのです、売店もまだ時間が早かつたから釣銭がなかつたのです、スルト(327)係りの少年は「よござんす、お帰りでも」と申しました、併し其日私は不幸にも関係会社の会合あり隣接の倶楽部に参らねばならなかつたので其儘帰ろうとすると、「次ぎの日曜日にでも御持参下さい」と云つて本を渡さるゝんです、此快感は私只今忘れません、恐らく将来も然らんと思ひます。私は現に社会上相当の地位を占めてゐます、先輩から友人から相当の信用を払はれてゐます、が、敢て確たる面識あるに非ず、而して若し此本を此に即時求めさせずとも私に於て有形的に困らぬ(併し無形的には研究の感興を殺ぐ事あつても)、但だ刹那の信用を以て此本を渡された事は渡された其人に充分の信念と修養なくば為し能はず、是れ畢竟先生の感化であると感謝します、私は倶楽部に参つて拾円札を取替へ直に持たせましたが、跡に於て仮令私の嚢中拾円札しかなかつたにせよ、之を売店に渡して来なかつた事は修養の足らざりし処と此事を懐《おも》ふ毎に慚愧に堪へません、私は現代児です、此現代児は社会上地位ありと威張つても先輩友人の信用ありと誇言しても結局は一少年に敗北したのです、現代主義の敗北です、私は来るべき福音主義の勝利を確信します、云々
余は之を「大手町|挿話《エピソード》」と称するであらう、東京の中央に於てにあらざれば見る事の出来ない事柄である、事は小事であるけれども其内に深い意義が籠つて居る 売店の少年は善き事を為したのである、余は彼に此手紙を示して大に彼を誉めてやつた、縦し之が為に彼が十冊や二十冊の本を失なつたとするも少しも惜しくない、又会社揃ひの丸之内に斯かる謙遜なる日本人らしき「現代児」のあるを知つて余は心強く感ずる、何れにしろ余は同志と共に好き所に陣を取つたのである。
十二月十九日(日)晴 今年最後の講演会であつた、階上階下殆んど満員であつた、余は約百記最後の章に就て語った、二十一回の講演を以て約百記の大略を講じ終つたのである、大なる感謝であつた、今年も先づ無事に(328)楽しき講演会を終つた、来年も、然り気息《いき》の続く限り此聖会を継けん事を欲《ねが》ふ、他人は知らず、余自身に取りてはキリストの福音を語るは余の生命である、信者となりてより茲に四十三年間、教会や外国宣教師の援助を受くる事なく、福音を語り来りしことを深く深く神に感謝する。
十二月二十日(月)半晴 余は何れの団体にも属すぺき者にあらざる事が益々明白になつた、余は単独である時に最も潔く、最も楽しく、最も康《やす》くある、余は生れながらにしてヨブの如くに|山犬の兄弟である、駝鳥の友である〔付△圏点〕(約百記三十章二十九節)、余は余の骨肉と離れ、学友と離れ、幾度《いくたび》か余の弟子と称する人等と離れて、益々神に近づき、人類と親しむ事が出来た。
十二月二十一日(火)晴 欧洲の混乱は益々甚だしく、再度の世界戦争は何時勃発するや計られず、此時に際して日本に於ては浅間山の爆発に引続き小地震絶へず、同時に南米アルゼンチン、南欧アルバニア、支那陝西省に大地震ありと伝へらる、「民起りて民を攻め、国は国を攻め、饑饉、疫病、地震所々に有らん」とのキリストの聖言《みことば》は文字通りに実現しつゝある(馬太伝廿四章七節)、此文明の世に此事あり、実に不思議と云ふより外はない。
十二月二十二日(水)晴 久振りにて銀座へ行いた、歳暮《くれ》の市中はジヨン・バンヤンの所謂 VANITY-FAIR(虚栄の市)である。
十二月二十三日(木)晴 余の伝道の結果として尠からざる宗教狂を生じたと云ふ事は実に歎かはしき事である、余の聖書研究の奨励が聖書狂を生じ、キリスト再臨の唱道が再臨狂を産んだ、之を思ふて伝道が全く厭にな(329)る、実《まこと》に一人の真の信者を作らんが為には百人の偽信者を産ぜざるを得ない、是れ今日に限つた事でない、伝道の困難は実に此辺に在るのである。
十二月二十四日(金)晴 昨夜今井館に於て同志のクリスマス晩餐会を開いた、来会者男女五十八人、其内第一の旧株《ふるかぶ》は研究社事務員兼会計係山岸壬五であつて明治二十一年来の同伴者である、第二は鉄道院技師工学士飯山敏雄君であつて同二十四年以来の「弟子」である、第三は東京市新助役法学士前田多門君であつて、彼は同二十五年頃、七八歳の腕白《わんぱく》盛りに其父君と共に余の講演に列席せし者である、之を思ふて自分の年齢《とし》の邁《すゝ》みし事が察せらる、教会のクリスマスとは異なり聖劇も音楽礼拝もない、余はワルヅワスの左の一句を引いて一同に対《むか》ひ高潔と勇気の必要とに就て勧むる所があつた。
One great society alone on earth;
The noble Living and the noble Dead.
地球面上我が属すべき唯一の団体あるあり、
高潔《ノーブル》なる生者と高潔《ノーブル》なる死者とより成る。
実《まこと》に謹厳にして而かも歓楽溢るゝ会合であつた。
十二月二十五日(土)晴 クリスマスである、旧き同志の訪問絶えず、其内に本誌十九年間の読者にして支那上海、伊国羅馬、仏国巴里と西洋料理の秘術を探りし楠瀬亀喜があつた、初めて相会して旧知に逢ひしが如く、自今彼の料理の饗応《ふるまい》に与《あづか》らん事を約して別れた。斯くして茲に亦歓喜と感謝に溢れて此年を終る。
(330) 十二月二十六日(日)晴 朝家族と共に静かなる礼拝を行ふた、終日キリストの十字架に就て考へた、来年は又復|元始《はじめ》に還り、特に十字架に就て語り又書く事に決定《きめ》た、余の基督教は元々十字架教である、贖罪的十字架教である、余を解せざる者は此教を解しないからである、今日まで余と信仰的友誼を持続せし人々は凡て余と同じく此教を信ずる者である、余と合ふも離るゝも此教を信ずる乎否乎に由て定まるのである、余は余の旗幟を闡明にする丈けにても贖罪的十字架教を高唱するの必要がある、況んや之を除いて他に人を救ふの途なきに於てをや、余は余の生涯の最後の努力として、羅馬書、加拉太書、哥林多書等に示されたる十字架教を唱道しやうと思ふ、此事を思ふて余の心は躍る、神は必ず此努力を祝福し給ふであらう。
十二月二十七日(月)晴 昨夜今井館に於て東京聖書研究会青年有志の晩餐会を開いた、来会者三十名、霊に充ちたる会合であつた、十字架の贖罪を実験せずして永久的友誼の不可能なる事に就て証明した、聖書道楽、人物崇拝の遠からずして離叛分裂に終る事に就て語つた、「キリストの血我を救ふ」である、之を除いて他に救ひはない、此血を飲みて我等は別れんと欲して別かるゝ事が出来ない、我等は信仰の此根本に還つて相互の結合を固《かた》うして同時に外に向つて福音の宣伝を行はん事を誓つた。
十二月二十八日(火)晴 ダイヤモンドは一個有せば沢山である、二個三個と有るは贅沢である、其如くクリスチヤンは一人出来れば沢山である、百人千人と作り得る筈のものではない、我々が一生涯の間に一人の本当のクリスチヤンを作り得ば其れで感謝満足すべきである、何十人何百人と作らんとするが故に失望落胆するのである、(331)福音は広く唱へる事が出来る、然しクリスチヤンは容易に出来ない、余の四十三年間の信仰的生涯の間に於ても多分三人以上のクリスチヤンを作る事を許されたのではあるまいと信ずる、聖書学者、社会改良者、道徳家、宗教熱心家……是等は作るに難くない、然し乍らクリスサャン……キリストと偕に十字架に釘けられて彼と偕に甦りし者、自分は死してキリストが代つて自分の衷に生き給ふ者、是は人が作らんと欲して作り得ざる者、ダイヤモンドよりも貴く、宇宙何物よりも価《あたへ》高き者である、彼れ一人を作ることを許されて伝道は大々的大成功と称すべきである。
十二月二十九日(水)晴 西北の風吹き荒《すさ》みて寒気強し。又復パウロ熱が復活し大なる歓喜と平安とを覚えた、「我れイエスキリストと彼の十字架に釘けられし事の外は何をも知るまじと意《こゝろ》を定めたり」との言が又復我が標語となつた、余の生涯に於てキリストの十字架を説く事のみは少しく成功であつた、他は悉く失敗であつた、歳の暮になつて過去を顧みて、他人の為に何か善き事を為さんと欲して為せし事は悉く余に無数の苦痛を齎らす原因となつた、唯十字架の福音のみは他を益し自己を喜ばした、願ふ残る生涯に於て他人の生活問題、家庭間題、教養問題等に携《たづさ》はりて無益の苦痛を己が身に招くことなく、唯一意専心、キリストと彼の十字架に釘けられし事を説いて彼等をも救ひ自分をも満足せしめんことを。
十二月三十日(木)晴 布哇ホノルル市のセオドル・リツチヤーズ氏より米貨百弗の伝道金を送つて呉れ、感謝と共に恐縮に堪へなかつた、米国人にして金銭を以て余の伝道を助けて呉れる者は氏一人である、而かも曾て一回も余より援助を乞ひしに非ず、氏より進んで余の伝道に携はらん為に、今回で四回此貴き寄附金を送られたのである、今や米国人と縁の甚だ遠い余にも斯かる匿れたる友人あるを知りて感謝に堪へない。
(332) 十二月三十一日(金)雪 昨夜我家に於て船乗り連の主催の下に太平洋伝道会の晩餐会が開かれた、山海の珍味食卓を埋め、大汽船の上等客に等しき饗応に与かつた、主催者の希望は東は新嘉坡より西は南米智利バルパライゾ一に至るまでの洋上並に海港に十字架の福音を宣伝せんとするにある、壮《さか》んなる楽しき会合であつた。
(333) 一九二一年(大正一〇年) 六一歳
一月一日(土)晴 余は文久元年辛酉《かのととり》のが生れであつて、今年で満六十歳、支那人の所謂還暦である、其故に少しく老を感ずるなれども神の恩恵に由り意気は少しも衰へない積りである、パウロと偕に「是故に我れ臆せず、我が外なる人は壊《やぶ》るゝとも内なる人は日々に新たなり」と言ひ得て神に感謝する(哥林多後四章十六節)。
上《あが》り下《お》り多き六十路《むそぢ》の坂越えて
初めて成りぬ幼《をさ》な心に
六十年前に当時の江戸小石川鳶坂の上、松平右京亮邸内の武士長屋《さむらいながや》(今の本郷区真砂町三十番地)に「我が父に男子《をのこ》汝に生れしと告げて父を大に喜ばせし人」ありし時を思ひ今昔の感に堪へなかつた(耶利米亜記二十章十五節)、然し乍らキリストに在りて余は今日新たに生れたのである、彼の十字架を仰いで余は日に日に新たに生れつゝある、大正十年辛酉こそ余の本当の生年《うまれどし》であつて、今日新たに神の嬰児《をさなご》となりて、今より後彼に愛せらるゝ者としで勇ましき聖徒の生涯を送らうと欲《おも》ふ。
一月二日(日)曇 多くの訪問客の内に最も懐しかりしは朝報社時代の車夫音吉の夫れであつた、彼れ二十五年前に日本国の外務大臣たらんとの志を抱いて信州の田舎より俥《くるま》を曳いて余の許に来りし者、彼は余に由りて外務大臣たる能はざりしと雖も、クリスチヤンとなるを得て、今や感謝を以て或る細《さゝや》かなる職務に従事しつつある、彼れ初めて来りし時より幾百の人等は余の許に来りて又去りしと雖も、彼れ惟り依然として「旧《ふる》き弟子」として(334)存《のこ》る、彼れ此日手打の鴨一羽を携へて来る、曰く「先生の御全快を祝せんが為め」なりと、彼に会ふて我が胸は一杯になつた、願ふ二十五年前に彼に曳かれて渋谷より三十間堀の朝報社に通ひしやうに彼と偕にキリストの聖国《みくに》に行かんことを。
一月三日(月)曇 夜雨降る、静かなる好き休息日であつた、年賀客として訪ひ来りし者は『東京独立雑誌』以来の誌友永井久録君、慶応義塾大学教授鈴木錠之助君、天文学者の井上四郎君、他に中央講壇のオルガン役苦吉沢直子嬢の四人であつた、新来の書生曰く「僕は此家に来つて正月は来客でモツト忙がしいのであると思つた」と、然し毎年大抵こんなものである、門前雀羅を張ると云ふまでゞもないが、然《さ》ればとて門前市を作《な》すの盛況を見た事は未だ曾て無い。
一月四日(火)雨 冷《つめ》たき湿《しめ》つぽい厭《いや》な天気であつた。栃木県の青木義雄君より野州炭二十俵を送り呉れたれば心置きなく之を焚《た》き暖を取りながら少しづゝ働いた、まことに熱海又は修善寺に避寒する以上の幸福である、尚ほ其上に厨房は諸方の友人より送り来りし山海の産物を以て塞がり、机上は読者の感謝の書状を以て埋《うづ》まる、まことに勿体なき次第である、是れでは伝道は道楽であつて少しも犠牲ではない、誰か言ふ独立伝道は貧《ひん》と乏《ばう》との生涯であると、少しく福音の為に苦しめば此世の物までを豊かに賜はる、まことに恩恵溢るゝの正月である。
一月五日(水)晴 在摂津蘆屋住友社員法学士黒崎幸吉夫人寿美子永眠の報に接して甚《いた》く悲んだ、彼女は余の理想の婦人であつた、柔和で、常識に富み、信仰厚く、堅実であつた、福音化されたる日本流の賢婦人であつた、彼女を失ひしは同志一同の大損失である、然し主の聖旨《みこゝろ》である、我等は之に服従する、人世実は清き基督的婦人(335)の如く美くしき者はない、彼女に由りて天国の門は開かれ、地上の万事が聖化される、余は彼女永眠の電報を手にしながら左の一首を書いて幸吉君に送つた、
今頃は父の御園に讃美歌《たゝへうた》
地上の万事|善《よ》しと知りつゝ
寿美子は毎年クリスマスに彼女手製の或物を贈り呉れるを常とした、或年は手製の菓子を、昨年は手製の座布団を、而して今年は手の懸りたるクツションを贈つて呉れた、三人の子供を相手に家庭の重き責任を担ひつゝなす事であつて容易の事でない、余は常に思ふた、近代式の教育を受けた日本婦人にして余の心と信仰とを能く解し呉れる者は彼女であると、今や彼女を失ふて余自身が最も善き友人を失ふたのである、痛歎何ぞ堪へんである、然し永久に失ふたのではない、只暫時の別れである、今度は「先生」と言はれて彼女に迎へらるゝのである、為すべき事を為し、信ずべき者を信じて此世を去る、栄光此上なしである、黒崎寿美子は到る所に信仰の香を放ち、多くの人に惜まれつゝ父の御国に帰つたのである、彼女は人生の目的を果した、我等は彼女の故に主を讃美し奉る。
一月六日(木)晴 無為無益の一日であつた、咽喉痛み、全体に疲労を覚え、終日床に就て休んだ。
一月七日(金)晴 再び又治療に取掛つた、健康若し許さば摂津蘆屋に行きて故黒崎寿美子の葬儀を司どりたく思ふた、然し其事を為し得ずして甚だ残念であつた、依て電報を以て箴言第三十一章第十節以下を送つて余の彼女に対する敬意を表した。
(336) 一月八日(土)曇 家の青年西より帰り、黒崎寿美子葬儀の実況並に彼女臨終の状況《ありさま》に就て報ず、彼の持帰りし幸吉君の書面の内に曰く
……寿美子ほ(一月)一日の午後五時頃に私一人居る時に次の如くに遺言しました、両親に対しては「御先きに逝つて済みませんが御許し下さい、何卒同じ処にて御目に懸る事が出来る様になつて下さい」と云ひ、私(良人)に対しては「是までの幸福なる生活大へん有難う御座いました、何卒世話する人の出来るまで子供は御両親に来ていたゞいて世話して戴いて下さい」と申しました、……東京新居浜 蘆屋等の教友には「先きに御免を蒙つて行きます、又その日には御目にかゝります」と云ふ語を残し……そして子供を枕頭に集めて「母様(かあさま)はこれからエス様の側に行くのよ、こゝよりかもつと美しい広い処よ、場所を取つて待つて居るから皆あとからおいで」と、而して「また逢ふ日まで」の讃美歌を歌はせ、終つて頭脳に変化を来たし稍前後の聯絡無き事を口走りました、其後「コリント前書第十五章を読んで下さい」と云つて読ませ、「きよき岸辺に」を歌はせ候が其後は何も云はず、「|自分の死が神の御栄光をあらはすならば此上の幸福は無し〔付△圏点〕」と言ひ表はして眠りました云々
是れは死ではない、永眠でもない、|入覚〔付○圏点〕である、三十四歳の近代婦人が良人と四人の子供とを遺して逝くに此平安あるの場合は他に何処《いづこ》にある乎、若しキリストの福音が人の工夫《くふう》に成る小説であるとするも、死に臨んで此大なる平安を与ふるならば、此れ最大の工夫又は発見であるではない乎、社会改良、世界改造、文化運動と云ひて其名は大なれども其実は此旧き古きキリストの福音に遠く及ばないのである。
一月九日(日)晴 静かなる好き安息日であつた、朝今井館に於て家族の小礼拝を行つた、坂本船長と其家族並に女子高等師範学校の生徒二人の訪ひ来るありて我等の小なる群《むれ》に加はり楽しかつた、此夜金星が火星に追着《おひつ》(337)き二者の距離月の直経程もなく洵に見事であつた。
一月十日(月)晴 一日より今日に至るまで受取りし年賀郵便(其多くは端書)は総数四百三十二通である、其内三十三通が北海道より、百三十七通が東京より、六十七通が関東七県より、十五通が箱根以西東海道三県より、十三通が長野県より、一通が岐阜県より、四十八通が近畿諸府県より、四通が和歌山県より、八通が北陸道より、三通が山陰道(島根県)より、十五通が山陽道より、五通が四国より、二十二通が九州より、二通が沖縄県より、五通が台湾より、八通が朝鮮より、九通が支那より、十通が不明である、皆無なるは高知、富山、滋賀、徳島、佐賀、鳥取の七県である、勿論以上を以て本誌読者の地理的分配を示す者と見る事は出来ない、然し多少の暗示《ヒント》を供する者として見る事が出来る、富山県と滋賀県との読者の尠ない事は今に始つた事ではない、高知県に少数の善き読者が居る、鳥取県亦然りである、九州に在りては佐賀県最も疎遠である、四国に在りては徳島県関係最も尠し、然し乍ら親疎は年賀状を以て計る事は出来ない、思懸けない所に思懸けない善き信仰の同志がある、恩恵願くは我誌友|総体《すべて》の上にあらん事を祈る。
一月十一日(火)小雨 夕晴る、新月と金星と火星とを以て飾られたる美くしき静かなる夕《ゆうべ》であつた。雑誌一月号が出来た、感謝と祈祷を以て発送した。此日仕事と云ふ仕事は何も為し得なかつた、復《また》と還らぬ光陰を無益に費すこと如何に多きよ。
一月十二日(水)晴 ルツ子の聖化日である、二人|連立《つれだち》て雑司ケ谷に「再た会ふ日まで」の碑を見舞ふた、誰か知らない人が既に二人程我等に先立《さきだ》ちて花を供へて呉れた、墓地の発展に驚くべき者がある、宛然《さながら》「死者の市《まち》」(338)が出現したるが如しである、其内に我等の知人が多く眠つて居る、彼所《かしこ》に嫉妬《ねたみ》もなければ争闘《あらそひ》もない、完全なる平和が全市を支配する、何人に取りても戦闘《たゝかひ》は暫時にして止む、彼が「死者の市」の市民となる時に、彼は平和の人と成る、有難い事である。
一月十三日(木)曇 羅馬書の復習に甚大の興味を感じた、パウロは我が最良の教友である、彼の基督観が我が夫れである、羅馬書の立場に立ちて観て聖書は之を始終一貫の書として見る事が出来る、羅馬書なる哉、羅馬書なる哉。
一月十四日(金)雨 寒き厭《いや》な日であつた。西洋文明の懣《つま》らない者である事を深く感じた、是は国を建《たつ》る者に非ずして壊つ者である、現《げん》に西洋諸国は文明の故に壊《こは》れつゝある、排日運動の結果として日本が西洋諸国より絶交されても少しも歎くに及ばない、東洋には東洋の長所があつて、是は遥かに西洋のそれに勝《まさ》つたものである、而してキリストの福音は其思想の系統に於て東洋教である、故に西洋人よりも東洋人に由りて|より〔付ごま圏点〕深く解せらるゝ者である、我等は西洋人に由りて伝へられしキリストの福音は之を保留する、然し乍ら其他の所謂西洋文明は喜んで之を返還する、高価なる複雑なる、而して物質的なるが故に浅薄なる西洋文明は身を毒し、心を汚《けが》し、国を滅す者である、英国米国と雖も決して羨むべき国ではない。
一月十五日(土)晴 或る小事の為に半日を無益に費して甚だ済まなく感じた、事を為すのみが神の聖意《みこゝろ》ではない、或る時は為さないのが聖意である、パウロの如き人が二年も三年も牢獄の内に其貴き生涯を浪費しなければならなかつたのである、実《まこと》に人生の目的は事を為すのではない、神の聖意に従ふのである、神が働く勿れと云ひ(339)給ふ時は慎んで働かざる事、其れが神の喜び給ふ生涯である、働け、働けと云ひて信者を急立《せきたて》る米国流の基督教は決して真《まこと》の基督教でない。
一月十六日(日)快晴 中央講壇に於ける新年第一回の集会であつた、来会者堂に満ち空《から》椅子は殆ど一脚もなかつた、余は羅馬書の如何なる書なる乎、其大意に就て語つた、神の御許しを得て今年は主として羅馬書を研究する積りである、幾回か人類を改造せし此書は、今猶ほ其改造的能力を失はない、此書に由て行はるゝ改造こそ真正《ほんとう》の改造である、世界と人類とは此時に方り復たび此書に由て改造されねばならぬ。聴衆の内に旧い札幌農学校時代の同窓にして今の北海道大学総長佐藤昌介君が居られた、今朝上京せられ直に此会に出席せちれし由であつた、久し振にて相会して昔し懐《なつか》しく感じた、相携へて東京駅楼上に往き昼食を共にし、二時間に渉り旧きと新らしきとに就て語つた、四十三年前に札幌農学校の寄宿舎に於て、君が年長者として主会者と成り、二十余名の学生が日曜日毎に開きし聖書研究会が終に今日の東京中央の研究会となつたのである、彼《かれ》と是《これ》とを較べて見て我等今昔の感に堪へなかつた、神の恩恵に因り君も余も信仰を維持して今日に至り、余は旧時の同窓の代表者として中央に陣を張り、旧い札幌流の聖書的信仰を唱道しつゝあつて感謝に堪へない、而して今日期せずして此盛況を旧い同窓の友に見て貰つて有難かつた、神は今日あるを知つて四十三年前に石狩平原処女林の間に我等を召き給ふたのである、日本人は外国人の手を藉りずして日本人自身に由て福音化されざるべからずとは我等が其時相互に誓ひし所である、而して其聖き誓約が大正十年の今日実現されつゝあるは実に不思議と云はぎるを得ない。
一月十七日(月)曇 有名なる米国基督教雑誌、費府発行の『日曜学校《サンデースクール》タイムス』が其紙面に於て数回に渉り、昨秋東京に於て開かれし世界日曜学校大会に対して痛撃を加ふるを読んで痛快であつた、米国の基督信者