内村鑑三全集34日記二、岩波書店、523頁、4500円、1983.7.25

 

     日記二

目次

凡例

一九二二年(大正一一年)‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥3
一九二三(大正一二年)‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥131

一九二四年(大正一三年)‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥263

一九二五年(大正一四年‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥391

 

日記二 【一九二二年(大正一一年)一月より 一九二五年(大正一四年)一二月まで】

 

(3)    一九二二年(大正二年) 六二歳

 

 一月-日(日)雪 元旦であつて聖日である、而して我等に取りては聖日であると云ふ事の方が元旦であると云ふ事よりも意味が深くあつて又貴くある、午後二時より今井館に於て聖会を開いた、雪を冒して来り会する者、旧新の教友九十余名、まことに緊張せる、充実せる良き集会であつた、畔上司会し、路加伝十四章廿六節、「父母妻子兄弟姉妹また己の生命をも憎む」と云ふ事に就て有力なる説教を為した、余は彼の後を受けて、提摩太後書二章一節、「我子よ、汝キリストイエスにある恩恵に由りて強くせられよ」と云ふパウロの言を今年の標語として提供して其説明を試みた、「自《みづ》から努めて強かれ」ではない、「神に強くせられよ」である、而かもキリストに由りて与へらるゝ恩恵を充分に味ふ事に由りて強くせられよである、信仰的に、受動的に、能力《ちから》を以て漲る者と成れよとの事である、信者が強くなるの秘訣は茲に在ると説いた、或る兄弟の如きは「善き年玉」を戴きて有難しと曰ひて礼を述べて呉れた、まことに我等に取りて適切なる聖書の一句は万金に勝さるの賜物である、今年最初の聖日として歓喜《よろこび》に満ちたる日であつた。

 

 一月二日(月)晴 静なる休息の月曜日であつた、古きドクトル・フエヤバーンと共に半日を書斎に資した、彼の聖書の註解は我の奥底にまで沁渡《しみわた》るやうな心地がする 〇大阪の宇佐美六郎より詩篇七十一篇の数節を書送《かきおく》つて呉れて有難かつた、曰く「我口は終日《ひねもす》汝の義と汝の救とを語らん、我はたゞ汝の義のみを語らん。神よ汝(4)我を幼少《をさなき》より教へ給へり。我は今に至るまで汝の奇しき事跡《みわざ》を宣伝《のべつた》へたり。神よ願くは我れ老いて頭髪《かみげ》白くなるとも我が汝の力を次代《つぎのよ》に宣伝へ、汝の大能を世に生れ出づる凡《すべて》の者に宣伝ふるまで我を離れ給ふ勿れ」と、是は実に我が今日の祈祷である、宇佐美は善く我心を読んで呉れた、今日此聖語を彼より受けて貴重なる贈物に接したたのである。

 

 一月三日(火)曇 『英百』に釈迦牟尼の伝を読み大に感ずる所があつた、釈迦はソクラテス、プラトーと共に確に古代の偉人である、然し乍らキリストには到底及ばない、釈迦は聖人であつてキリストは神である、余は今年満六十一歳であるが三十三歳の青年イエスに僕従して少しも自卑屈辱を感じない、余は釈迦には倣はんとするがキリストには仕へんとする、余は偉人の伝を読むたび毎に、余の救主イエスキリストの決して人には非ずして神であり給ふ事の信念を益々深くせらるゝを覚ゆ。

 

 一月四日(水)晴 黒崎寿美子永眠一週年に当り、彼女の為に紀念会が上落合の彼女の家に於て開かれた、之に出席して羅馬書十四章七節八節を引き余の感想を述べた、「我等|基督者《クリスチヤン》の内己 為に生き又己の為に死ぬる者なし、蓋《そは》我等基督者は生くるも主の為に生き死ぬるも主の為に死ぬれば也、この故に或は生き或は死ぬるも我等は皆な主のもの也」とある、生くるのが主の為ならんには生きんと欲し、死ぬるのが主の為ならんには死なんと欲す、我等は生死孰れをも択ばず、只主の栄光の揚らん事を欲す、是れ寿美子の希欲《ねがひ》なりしと信ず、又我等の希欲であらねばならぬ、まことに簡単にして意義のある紀念会であつた。

 

 一月五日(木)晴 仕事を始めた、仕事と言へば家に在りては原稿書きか校正である、然し生命《いのち》の言を此世に(5)頒つ事であれば政治や軍事や商売と云ふが如き此世限りの仕事ではない、而して此貴き仕事を時を得るも得ざるも呼吸のつゞく限り継ける積りである。

 

 一月六日(金)晴 ルツ子の十年期が近づいて来て、此頃は毎日幾度となく胸の内が一杯になる、ルーテルが其愛女マーガレツトに裁て言ひしやうに、余も亦余の愛女は今は確に天父の許に在りて安全であると知りながら、彼女を思ふ毎に涙で胸が一杯になる、其|理由《わけ》が解らない、小出かず子刀自の新年状に左の二首が在つて彼女が余の心を歌つて呉れたやうに感じた。

   幾とせを経るとも癒えじ愛子《いとしご》に

     わかれし胸の深き痛手は。

   此痛手いやさるゝべき彼《か》の時の

     近づく今日ぞ嬉しかりける。

まことに再会の希望があつてこそ此堪え難き悲哀が美化せらるゝのである。

 

 一月七日(土)晴 無為虚礼の正月茲に終らんとして甚だ愉快である、楽しき事は遊ぶ事ではなくして働く事である、|惰気満々たる日本の正月程〔付△圏点〕厭な|者はない〔付△圏点〕、明日は又復大手町に出陣するのかと思へば血の運行《めぐり》が少しく速くなるやうに感ずる、今日は其準備の為に少しく活気づいて愉快であつた。

 

 一月八日(日)晴 今年最初の講演会であつた、来会者イツモより少し尠く、五百人余りであつた、オルガンの音勇ましく、黒崎先づ登壇、アブラハムの信仰に就いて述べた、余は世界の思想を支配する者として聖書の研(6)究の必要を論じ、羅馬書八章一節に就てやゝ委しく講じた、「是故に今やキリストイエスに在る者は罪せらるゝ事なし」と、一言一句|忽《ゆるが》せにする事は出来ない、「是故に」は羅馬書の分水嶺に達したるを示し、イエスキリストとキリストイエスとの間に別あるを説き、キリストを信ずるに止まらず「キリストに在る者」が真のクリスチヤンであるを述べ、最後に人は何人も断じて、絶対的に罪せらるゝ事なき境遇に入るの必要あるを説いた、僅かに一節丈けを解説するに止まり甚だ物足りなく覚えた。

 

 一月九日(月)曇 夕雪ふる。ペンが動き出した、終日家に在りて記《かい》た、聖想滾々として湧いて尽きずと云ふ状態《ありさま》であつた、近頃にない愉快であつた。

 

 一月十日(火)晴 昨夜雪は雨に変じ、後ち晴れたれば雨氷万物を包み、四囲一面の水晶宮と化し、荘観言はん方なし、キリスト再臨の朝も多分斯かる急激的栄化を見るのであらう、一夜にして宇宙は一変し、此穢き世界は※〔倏の犬が火〕忽《たちまち》にして清潔《きよらか》なる玻璃《ぎやまん》の如き純金にて造りたり域市《まち》と成るのであらう(黙示録廿一章十八節) 〇一月号雑誌が出来た、イツモの通り祈祷を加へて発送した、此号発行三千七百部、借りは一銭もない、読者払込の前金は大切に保管してある、教会又は宣教師の補給は創刊以来未だ曾て一銭も受けた事はない、日本人の信仰に由て維持し来りし純然たる日本人の基督教雑誌である 〇大隈侯の逝去を聞いて悲んだ、明治維新の日本に最後の暇《いとま》を告げるやうに感ずる、彼はたしかに偉人であつた、進歩的で楽天的であつた、彼の口より国民は曾て一回も失望落胆の声を聞いた事はない、彼の長命の秘訣は茲に在つたと信ずる、但し彼は勿論クリスチヤンではなかつた、新聞紙は報じて云ふ、彼は生前常に他《ひと》に告げて曰ふた「|吾輩には過去にも現在にも一切罪障がないから〔付△圏点〕死ぬ時が来ても必ず大往生を遂げる事が出来る」と、此一言に由て見て大隈侯がクリスチヤンでなかつた事、又彼がコロム(7)ウエルの如き人類的大偉人でなかつた事が判明る、コロムウエルは自己の罪に顫えた、而してキリストの十字架を仰いで安心した、大隈侯に一切罪障なしと云ふ、天の神は承知し給はない、而して侯の政敵は侯の斯く断言せしを許さないであらう。

 

 一月十一日(水)晴 今年も亦六百通程の年賀状を貰つた、其多数は印刷のハガキであつた、而して少数なりと雖も自筆を以て真情有の儘を記されたる信書のありし事を感謝する、其内最後に達して雄美なりと思はるゝは北見国利尻島三浦政治君十二月廿八日発の年賀を兼ねたる通信である、其一節に曰く

  ……孤島は今誠に寂しくあります、オクホツク海よりする風は多量の雪を運んで島根を打叩きます、怒涛は高く白沫を飛ばして岩角を砕かうとしてゐます、豪壮にして裡に荒涼を感ずるものは島の冬の生活であります、一ケ月も二ケ月もうるさき訪客といふものから遠ざけられますから独り静かに燈下に聖書を読み且つ考ふることが出来ます、熱閙《ねつとう》なる幌都(札幌)に於ては先生の研究誌は難解でした、島に来てからは、殊に冬の夜文は暁起ストーブの前にては、先生の霊的の御説明が理会されてうれしくあります、云々

と、曾て詩人ホヰツトマンが曰ふた事がある「書は読む場所に由て其価値を異にする」と、研究誌の如きも之を都会に於て読んで貰ふのでは其意味を読者に伝ふる事は出来ない、北海の孤島、風雪洪波を揚げて岩角を砕く所に於て読んで貰つて其伝へんとする神の奥義が解るのであらう、天然を背景に、天然の裡に抱かれてのみ福音の有難さは本当に感ぜられるのである、最も不幸なる者は都会に在りてハイカラ的生涯を送る近代人と其従属とである。

 

 一月十二日(木)晴 ルツ子永眠第十週年である、万感交々湧き感慨無量であつた、朝雑司ケ谷墓地を訪ひ花(8)を以て彼女の墓前を飾つた、夜旧友三十余名を招き紀念会を催し、後に晩餐を共にした、畔上の説教に強く我等の心を動かす者があつた、ルツ子の死は余を広き活動の野に逐ひやる為に必要であつた、肉に於て彼女を失つて霊に於て夥多《あまた》の少女を与へられたのである、然し高価なる代価であつた。

 

 一月十三日(金)曇 世人は勿論の事、教会信者、更に余の弟子と自から称する者までが余を変人と見做し、余の為す事は人並外れて非常識であると云ふて居る、余り気持の善い事ではない、然し乍ら彼等常人を以て自から任ずる所の最大多数者は果して真理を見るの眼を具へて居る乎、今を去る二十年前、日英同盟の初めて結ばれし時に余は独り之に反対して曰ふた「此同盟は必ずや遠からずして英国の離反と日本の失望に終るであらう」と(『よろづ短言』第七十九頁以下)、其時信者不信者の別なく余を変人と呼んだ、然し今度の華府会議に於て余の言は正しくあつて日本国民全体の見方が間違つて居た事が証明された、其他多くの重大問題に就て変人と呼ばるゝ余の見方が遥かに国民全体のそれに優つて居た事を今日までに幾回も示された、故に余は社会や教会や自称弟子達に変人視せらるゝ事を少しも厭はない、余は彼等と意見を異にして彼等と共に誤まらざらんと欲す、彼等に変人視せらるゝことは余に取り却て大なる幸福である。

 

 一月十四日(土)曇 終日家に在りて校正に従事した、是れ余に取りまことに仕事らしい仕事である、大思想も要らなければ大天才も要らない、印刷所の職工と少しも異ならない仕事である、ナザレのイエスが為し給ふたやうな仕事である、大名誉である。

 

 一月十五(日)晴 昨夜大雪、今朝積る事尺余、稀れに見る冬景色である、講演会如何と気遣ひしに会衆多(9)く平日と異らず、青木君は例の通り栃木県氏家より、久山君は名古屋より長途の汽車を厭はずして来り会した、ピアノの音高く雪の都の中央に主イエスを讃美し奉るの歓びは特別であつた、但し余の講演は此熱心なる聴衆に満足を与ふる者でなかつた、羅馬書八章一-八節の中心的真理を説明せんとの努力は半ば失敗に終つた、濃厚なるパウロの言は之を一滴づゝ水に和して之を味ふより他に途なきを知つた、然し自分の講演の不満足であつた時に神の援助と祝福とを祈る事が一層熱心である、而して時には祈祷を以て説教の不足を補ふのが神の真理を伝ふる最善の方法である事かも知れない、何れにしろ時に「神よ此価値なき僕を憐み給へ」との叫が自分の心の奥底より発するは偽りなき事実である。

 

 一月十六日(月)曇 法学士南原繁十二月五日倫敦発の書面に曰く、「遠い旅に出て来た異邦の客は様々の印象もあり感想もあります。然し要するに何処も人の住む世界だと考へます。私は西の国から最も善きものを貰つて帰るのではなくして、日本から持つことを許されたそれを傷けずに保つて帰ることだとさへ思つてゐます」と、欧米に旅行する彼れ以外の他の学士連や其同行の妻君等よりも大抵同じ事を言ふて来る、まことに倫敦にも巴里にも伯林にも紐育にも東京に有る以上のものがあらうとは思へない、然り最善《ベスト》は人が其心に於てキリストを介して神に近づく所にある、人生最大最善のものを探らんが為には世界漫遊者《グローブトロツター》になる必要はない。

 

 一月十七日(火)曇 咽喉痛で苦しんだ、家に在て治療した。市中は大隈侯の葬式で賑はつたとの事である、彼は「正義人道平和の神」として葬られたと云ふ、何と評して宜しきや自分には判らない、日本人は果して偉人の何たる乎を知るや疑問である。


(10) 一月十八日(水)雪 咽喉の痛み去らず、柏木の冬寒く春の到来が待たれる。雪を犯して左近義弼君の訪問あり、火鉢を囲んで種々《いろ/\》の話をした、柏木の雪籠りに頭痛と咽喉痛とを忘れた、今更らながらに用事を離れたる友誼的訪問の楽しさを覚えた。

 

 一月十九日(木)晴 今井館に於て東京聖書研究会マリヤ組の懇話祈祷会を開いた、雪後|泥濘《ぬかるみ》に係はらず来会者三十二名、組員の半数である、高等女子師範学校生徒最も多く、次に束京女子大学、其次に女子英学塾と云ふ順 あつた、日本女子大学よりは一人も見えなかつた、知識欲旺盛の若き婦人達の事とて其提出せし質問に奇抜なる者があつた、女学生間に於ける思想混乱の状態がほの見えた、何れにしろ彼等に福音を宣伝ふるは大難事である、神の霊のみ能く彼等を本当のクリスチヤンウーメンと為す事が出来る。

 

 一月二十日(金)晴 寒気強し、風邪未だ癒えず、室内に閉籠つて少し許りの仕事を為した、益々此世に死するの必要を感じた、大隈侯逝いて僅に十日、新聞紙は彼に就てもはや一言も言はない、此所当分の間ジヨフル将軍を以て持切るであらう、後《あと》から後へと変り行く此世……斯かる世に生涯を託して我も亦之と共に亡びざるを得ない。

 

 一月二十一日(土)晴 引続き寒気強し、但し心は主に在りて楽んだ、彼は我がすべてである、彼を仰ぎ彼に在りて生命を有して他に何も欲しくない、如何《どう》なつても安心である、新聞紙は読みたくなくなる、福音のみが意義ある事となる、譏《そし》られても気に触《さは》らない、誉められても嬉しくない、たゞ彼に在りて生きて居る事が感謝である、此|歓喜《よろこび》に励まされて大分に原稿が書けた、讃美歌第二百四十六番が自づと唇に上《のぼ》る。

 

(11) 一月二十二日(日)晴 寒気引続き強し、集会如何にと気遣はれしも聴衆殆ど堂に溢れるの盛会であつた、自分は咽喉未だ全く癒えず、時間を制限する為に朗読講演を試みた、題は「聖潔と聖別と聖化」、三十五分間にて講了した、単純にして何人にも解し得らるゝ福音の真理を説きし事とて自分ながらに満足であつた。〇此日午後今井館に於てアブラハム組、モーセ組、ヨセフ組、ヨハネ組の有志懇話祈祷会が開かれた、来会者二十五人、内に信仰の老戦士多く、一層の心強さを覚えた、彼等の内の各員が一教会の柱石と成り得る者である、如斯き人が百人余りもあると云ふのであれば我等の得意察すべしである、此日同時刻に横浜関東学院に於て横浜鎌倉在住の同志の会合があつた、来会者三十六名両者孰れも純信仰の会合であつて、社会運動とか拡張運動とか云ふ事に就て何んの謀る所なかつた丈け、それ丈け恵まれたる楽しき会合であつた。

 

 一月二十三日(月)晴 寒気強し。霊的疲労を感じた、床に就て休んだ、『英百』にジヨナサン・エドワーズの小伝を読みし丈けが此日の仕事であつた。日本に於て基督教の信仰を維持する事の如何に難い乎を今更らながらに感得する、多分阿弗利加に於ても、印度に於ても、支那に於ても日本に於ける程難くあるまい、日本は其社会的組織の根本に於て非基督教国である、神の特別の恩恵に由るに非れば此国に於て真《まこと》の基督者たる事は出来ない、而して百人なり千人なり真の信者のある事は大なる感謝である。

 

 一月二十四日(火)半晴 雑誌編輯に殆んど全日を費した、二月号より全部ポイント組にする事に定めた、其れが為に字数六千五百程を増す事になり、其れ丈け読者の利益となる次第である、毎号五万字程の原稿を作らねばならぬ、容易の仕事でない。


(12) 一月二十五日(水) 寒気少しく緩み、美はしき寒中の一日であつた、畔上と共に編輯を終つた、福音を説く事はいつまでも楽しくある、此仕事のみは仕事(労働)ではなくして愉楽《たのしみ》である、我等は詩人の言を藉りて言ふ 「我心は美はしき事にて溢る、我は王の為に詠たる者を言ひ出でん、我が舌は速けく写字《ものか》く人の筆なり」と。

 

 一月二十六日(木)晴 近頃は毎日旧約に顕はれたる新約の福音を味ひつゝある、信仰の眼を以て読みて聖書何れの箇所と雖も福音ならざるはない、大なる福音は利未記、約書亜記、士師記、歴代史略等、福音の全くありさうにも無い所にある、|先づ贖はれ、然る後に潔められ、最後に感謝の生涯に入る事が出来る〔付○圏点〕と云ふ信者の生涯は旧約孰れの箇所にも鮮かに説き示さる、実に「聖語《みことば》の滋味《あぢはい》は我が※〔月+愕の旁〕《あぎ》に甘き事如何計りぞや、蜜の我が口に甘きに優れり」とあるが如しである(詩篇百十九篇百三節)。

 

 一月二十七日(金)晴 世にも教会にも愛がない、無いが故に我等は愛さねばならぬ、愛の何たる乎を知らず、真の愛の在ることさへをも知らざる今の世と教会に対して、我等はキリストに在りて彼の愛を示さねばならぬ、愛の無きを怒てはならぬ、無いが故に大いに愛さねばならぬ 〇隠れたる罪と云ふ事に就て考へた、|隠れたる罪とは知らずして犯す罪である〔付△圏点〕、而して最も危険なる罪は知らずして犯す罪である、神の恩恵に依り時に之を発見するを得て大なる感謝である、多くの災禍《わざわひ》は「誤りてヱホバの誡命《いましめ》に違《たが》ひて罪を犯す」より来る。而して之を発見して其災禍を除くを得て大なる歓喜である、近頃其一を発見するを得て新生の再び我身に臨みしやうに感じた(利未記四章参照)。

 

(13) 一月二十八日(土)晴 旧暦の正月元日である、立春が近づき、何よりも嬉しくある。長崎三菱造船所牧師池田福司の訪問を受け軍艦製造に関する種々の事を聞き面白かつた、戦争はまだ容易に止まない事が判明つた。

 

 一月二十九日(日)曇 寒気少しく緩み快き朝であつた、中央講演会例日の通り、感冒流行の故にや空椅子の少しくあるを認めた、自分は羅馬書八章五-十三節に於ける「肉の事を念ふ」と云ふ事に就き側面観を提供して其解釈を助けんとした 〇午後今井館に於て医学士星野鉄男海外留学の送別会が開かれた、来会者二十三名。

 

 一月三十日(月) 休息の月曜日である、終日イエス様と共に暮した、「最早我れ生けるに非ず、キリスト我に在りて生けるなり、今我れ肉体に在りて生けるは我を愛して我が為に己を捨し者即ち神の子を信ずるに由りて生けるなり」との状態に於て在つた、「汝等もし我を離るゝ時は何事をも為す能はず」との主の御言の意味を強く感じた、同時に又「我は我に力を予ふるキリストに因りて諸《すべて》の事を為し得るなり」とのパウロの言を我が実験として味ふ事が出来た、人はどうでも可い、此世と此世の教会とはどうでも可い、|我が世界、我が教会はキリストである〔付○圏点〕、彼れ御一人に在りて我に恩寵は充足れるのである、詩を事実として味ふことの出来る生涯はクリスチヤンのそれである、家に独り座して何等の運動にも加はる事なくして、我に最上の幸福を供するものは此信仰の生涯である 〇此外世上の事件としては新愛蘭独立国の出現に就て読んで愉快であつた。青年時代に多大の同情を故グラツドストーン翁に寄せし余に取りては愛蘭の独立を聞いては余自身の理想が実現せられしやうに思はれ歓喜に堪へない、如斯くにして正義は遅れても終に実行せらると思へば、正義の為に闘ふの甲斐も見えて、愉快此上なしである、又独逸は英国と戦つて敗れしも、間接に、而かも有力的に愛蘭の独立を助けた事を思へば、自《みづ》(14)から大に慰むる所があらう、神に逆らふ此罪の世に於ても神は進行し給ひつゝある(God is marching on)、内にも外にもまことに有難い事である 〇水星太陽の東十八度半に達し観望に好しとの報に接し、今宵独り中野の原に行き、西天を凝視《みつめ》て其出現を待つた、恰も好し、新月の下五六度とも思はるゝ所に第一等星に均しき稍や赤き光を放てる紛《まぎら》ふべきなき彼を認めた、水星は見るに機会の尠き遊星である、有名なる天文学者コペルニカスの如き、一生之を見るを得ずして終りたりと云ふ、余は今宵|確然《はつきり》と之を観るを得て大なる満足であつた。

 

 一月三十一日(火)晴 北風強くして寒し。昨日に引続き今日も亦イエス様と偕に在る幸福に就て考へた、彼と共に在りて人生諸問題の解決は附いたのである、然り附かざるに既に附いたのである、彼に万事を御引渡し申して其処分は悉く附いたと同然である、斯くして「明日の事を憂慮《おもひわづら》ふ勿れ」との教訓を完全に且つ文字通りに守る事が出来るのである、又イエス様と偕に在る時に不運なるは幸運なるよりも幸福である、友を失ふは友を獲るよりも幸福である、不足するは充足《みちた》れるよりも幸福である、何故となればそれ丈け彼に近づき得るからである、人生の諸《すべて》の問題はイエス様に由て完全に解決せらるゝのである、此事を知らずして経済問題よ社会問題よと言ひて騒ぎ立つる人等の愚かさよ、然かも基督信者と称する人等の内にも斯かる人が沢山にあると知つて不思議に堪へない。

 

 二月一日(水)晴 少し春らしくなつた。山県有朋公が死なれた、是で旧き日本は殆んど死絶《しにたえ》たのである、然し之に代はるべき新しき日本が出来て居る乎頗る疑問である、然し神は余が斯かる問題に携はることを許し給はない、余は時を得るも得ざるも只キリストの福音を説いて居れば其れで可いのである、|大隈侯や山県公とは余はたゞ同時代に同じ国に生きて居たと云ふ事の外は他に何も関係が無いのである〔付△圏点〕。

 

(15) 二月二日(木)曇 日本在留米国バプチスト教会宣教師アクスリング君が近頃米国に於て日本に関する同君の観察を公表せられ、其一冊を余の所にも寄せられた、其内に日本基督教界の人物を列挙せられし一節がある、曰く「日本のビーチヤーなる宮川牧師あり、日本のラツセル・コンウエーなる植村牧師あり、……日本のムーデーなる木村君と日本のビレー・サンデーなる金森君の如き福音師あり、又日本のブース大将なる山室大佐あり、而して又基督数的神秘家《クリスチヤンミスチツク》にして聖書の註解者なる内村君あり云々」と、之に由て観れば他の諸君には夫々英米に於て対照者ありて之に匹敵する名称ありと雖も、余一人には之れあるなく、余は空々漠々雲を掴むが如き夢想的|神秘家《ミスチツク》であつて英米に其類を見ずとの事であるらしくある、まことに有難き次第である、余は|日本の内村〔付○圏点〕と云ふ者であつて、ムーデーとかビレーとかブースとか云ふ者ではない、日本メソヂスト教会前監督某君は曾て余を加奈太宣教師某君に紹介して「彼は変人で厶る」と言はれしが(監督は余の面前に於て此言を発せられたのである)、変人として監督や宣教師に取扱はるゝはビレーとかサンデーとか云はれて担上《かつぎあ》げらるゝよりも遥に名誉である、何れにしろ基督教界とは実に変な所である。

 

 二月三日(金)雨 節分である、春が来たと云ふものである、久振りの慈雨で心持好くある。信者はイエスに在りて耐え難き苦痛に耐へる事が出来る、忍び難き恥辱を忍ぶ事が出来る、赦し難き敵を赦す事が出来る、まことに「我は我に力を賜ふキリストに依りてすべての事を為し得るなり」である、冷酷無慈悲の此社会と教会の内に在りてイエスと偕ならずして平静の生涯を送る事は出来ない、然れども彼と偕に在りて独り心に平和の王国を建つる事が出来る、無限の感謝である。


(16) 二月四日(土)晴 立春。校正日であつた。山桝儀市東洋汽船銀洋丸船長として南米航路より帰り、太平洋東岸の教友に関する多くの喜ばしき報知を伝へ、極東の一隅に萎縮する我が心の遽《にはか》に拡大するを覚えた、世界は広くある、友人は多くある、敢て日本一国を争ふの必要はない、此所に失へば彼所《かしこ》に得る事が出来る、有難い事である。

 

 二月五日(日)晴 中央講演会イツモの通り、来会者六百余、思ひ掛けなき人々の其内に在りしを聞いて驚き且つ喜んだ。此日午後古賀達朗氏夫婦の切なる乞ひに由り、外村《とのむら》義郎、長尾半平、青木庄蔵、黒崎幸吉の諸氏立合ひの上、彼等二人に、彼等の品川御殿山の住宅に於て、簡単なるバプテスマを行ふた、使徒行伝八章二十六節以下に拠り、ピリポがエテオピヤの大臣にバプテスマを行ひし其心持を以て、余は自《みづ》から此職務に当つた、まことに簡短にして厳粛なる式であつた、一同深き感に打たれた、余がバプテスマを行ひしは是れが第四回目である、第一回は愛女ルツに訣別の際に行ひ、第二回は山形県鶴岡町の諏訪熊太郎氏に、第三回は神戸|神田《かうだ》もうど夫人(米国婦人)に行つた、余はバプテスマを以て救霊上必要条件とは認めない、然し乍ら有益と認むる場合に於ては之を行ふに躊躇しない、余の方式は「何々さん、私は主イエスキリストの聖名《みな》に由り貴下《あなた》にバプテスマを行ひます」と言ふのである、教会が余のバプテスマを認むると否とは勿論余の関する所でない。

 

 二月六日(月)晴 疲労の月曜日である。今日までの所、日本に於ける基督教伝道なるものは、其多分は一種の商買であるかのやうな観がある、高貴ならざる外国宣教師等が、殊に米国宣教師等が、一種の請負業の如くに日本伝道を請負ひ、信者一人に付き何弗と云ふ相場で頻りに教会員製造に従事したのである、而して其結果が今日の悲しむべき状態を持来したのである、而して米国人のみならず米国に於て基督教神学を学びし多数の日本人(17)も亦此の伝道法を習得し、日本に帰りて其実行に従事しつゝあるのである、彼等に取り純福音も偽福音もあつたものではない、|米国人の流儀に従ひ成功是れ真理である〔付△圏点〕、故に彼等は手段方法を択まない、又義理人情を省みない、虚偽の報告を為すは平気である、他人の拓《ひら》きし伝道地に侵入し、他人の導きし信者を奪ひて少しも悪い事を為したとは思はない、全然商買根性である、伝道は本国より金を仰ぐの機関であるかのやうに見える場合も少くない、然るにも関はらず神は少数の真正《まこと》の信者を起して此国を救ひ給ひつゝあるは感謝の至りである。

 

 二月七日(火)半晴 校正日である、視力の全部を之がために費した、之も亦貴き仕事である。

 

 二月八日(水)雨 春雨降り厳冬を駆逐するの感あり、嬉しかつた。キリストは誰の為に死に給ひし耶、人類の為なりと大抵の人は言ふ、我が為なりと篤信の人は言ふ、然れども聖書は明かに示して言ふ|神の為なり〔付○圏点〕と、キリストは神の為に死に給へりと云ふ事の解つた人が本当に基督教の解つた人であると思ふ。

 

 二月九日(木)晴 春のやうな日であつた、心身共に寛いだ。或る婦人雑誌の記者が来て死後生命問題に就て何か聞かして呉れとの事であつた、余は彼に答へて曰ふた「死後生命問題は哲学問題でもなければ思想問題でもない、是は道徳問題である、人が其生命を賭して正義を行はんとして初めて判明る問題である、故に記者並に読者に此勇気があれば余に問はずして判る、是れなくして何人も此間題に就て解らせる事は出来ない」と、彼れ辞して去つた。

 

 二月十日(金)晴 暖き春の一日であつた、祈祷の森の散歩が愉快であつた。基督教は今や滅茶苦茶である、(18)我等日本に在りて之を其土に植附けんとて一生懸命になつて居れば、米国エール大学教授牧神学博士ラツド氏の遺骨は態々此国にまで運ばれて鶴見総持寺の墓地に葬られんとしつゝあるとの事である、「権兵衛が種播けば烏が|ほじくる〔付ごま圏点〕」である、然かも此場合に於ては烏が米国神学博士であるとは情けなくある、彼等の清教徒《ピユーリタン》祖先は此事を聞いて怒るまい乎、何れにしろ余の霊魂は米国基督教会の信仰堕落を聞いて堪へ難き苦痛を感ずる、日本基督信者の米国伝道は益々必要になつて来た、起てよ我が同志よ!

 

 二月十二日(日)晴 昨夜強風雨、朝に至て晴る、暖き春和である、中央講演会満堂の盛会であつた、仙台、京都等より態々来る者もあつた、余は「宇宙の呻き」と題してパウロの天然観に就て語つた、余に取りては語るに楽しき題目であつた、但し余りに多く天然に就て語つて、十字架の分量が足りなかつた点は自分ながらに不満足であつた 〇午後今井館に於てマタイ組の組会が開かれた、来会者二十一名、分別盛りの人達であつて、其実験を聞くのは楽しく且つ有益であつた。

 

 二月十三日(月)晴 不相変疲労の月曜日である、横に成つて休んだ、雑誌第二百五十九号が出来た、毎月毎週此貴き御用の為に疲れるのは光栄の至りである。

 

 二月十四日(火)曇 引つゞき近来米国の信仰的堕落を聞いて悲んだ、余の在学せしアマスト大学の如きすら三十五年前の福音的信仰は今や殆んど其跡を絶つたやうに見える、米国に於ける近来の神学的大著述として目せらるゝ、シカゴ大学教授E・D・バートン博士著『加拉太書註解』の如き、其信仰的立場は全然ユニテリヤン的非福音的である、米国の諸教会は今やユニテリヤン以下にまで堕落した、今や日本人は何れの点より見るも信仰(19)を米国人より学ぶの必要はない、今やキリストは欧米諸国を去りて住居《すみか》を我日本に於て求め給ひつゝあるのではあるまい乎、不思議なる事もあればあるものである、欧米が斯くも速に信仰的には蝉の抜殻とならうとは夢にも思はなかつた、主が「我れ速に臨《きた》らん」と言ひ給ひしが、実に其通りである。

 

 二月十五日(水)雨 今井館に於てモアブ婦人会が開かれた、来会者十二名、モアブ婦人ルツに因んで出来た会である、発会以来茲に満十年、今猶ほ初期の熱信を失はない、婦人会としては例の尠き者であらう。

 

 二月十六日(木)雨 夜今井館に於て聖書研究会員の祈祷研究会を開いた、大雨を冒して来り会する者男女三十五人、其熱信推して知るべしである 〇此日博物熱復興し、鯨族の動物を研究して見たくなり、有る丈けの書物を引出し、昔学びし事を復習した、実に罪の無い有益なる研究であつた、長鬚鯨《ながすくぢら》、抹香鯨、海豚、逆叉《さかまた》等の構造、常性等に就て読んで四十年前の昔に帰つたやうに感じた。

 

 二月十七日(金)晴 昨夜の研究会に復又咽喉を痛めた、一週二回の講演はまだ無理である事が判明つて残念であつた。

 

 二月十八日(土)晴 或る近代植物学書に Ecology《エコロギー》の一章を読みて多大の興味を感じた、是は今日まで余の知らざりし学科であつた、而かも多くの暗示に富める学科である、植物を外界との関係に於て研究する学科である、植物でさへ自己中心でない、況して動物に於てをや、況して人間に於てをや、万物は相関聯して或る一つの目的を果たさんとしつゝあるのである、万物は之を Teleological(究極学的)に見てのみ其意味が出て来るのである。


(20) 二月十九日(日)晴 春日和の好き日であつた、中央講演会、例会以上の盛会であつた、傍聴人の制限に苦心した、今日会衆七百人を超へ、其収容着席に困難した、研究の題目は「三つの呻き」であつた、多分余が為すことを許されたる聖書講演中最も雄大なる者であつたらう、縦し講演其物はさうでなかつたとするも、題目丈けはさうであつた、宇宙と霊魂と聖霊とが呻きつゝ基督者《クリスチヤン》の信仰を証明すると云ふのである、之よりも大なる問題のありやう筈はない。

 

 二月二十日(月)曇 疲労多からず静かなる好き休息日であつた。京城英字新聞セウル・プレツス主筆山県五十雄君より倫敦発の書面が達した、君の鋭敏なる事物の観察に謹聴すべき者が多い、君も亦米国の堕落を痛歎する者の一人である。(今月は之れで止める)

 

 二月二十一日(火)晴 麗かなる春日和である、雑誌編輯に終日の努力を供した 〇キリストの僕たるの幸福を感じた、彼に仕へまつりて我は広き世界に唯一人棲息するやうに感ずる、日本国に六千万の人が居るが、余が真に関係する者は唯一人即ち尊き彼である、洵に気骨の折れざる楽な生涯である幸福《さいはひ》此上なしである。

 

 二月二十二日(水)曇 午後今井館に於てルツ組の第二回組会が開かれた、来会者十九名、近頃に至り信仰の喜びに入りし者尠からず、楽しき福音的集会であつた。

 

(21) 二月二十三日(木)晴 久しく米国に滞在し、近頃英国に渡りし友人某よりの書翰に曰く

  ……米国は日本が師とすべき国ではありません、彼の国は物資が豊富なるために国人は豚のやうに唯肉体的に大きくなり、精神的に亡び行きつゝあるやうに感じました、宗教は一種の社会事業否な娯楽機関となり、黄金はすべてを支配して居るやうです…… 私は国の堕落を欺きつゝある真の米国人に深く同情します、彼等の一人なるパウルトネー・ビゲロー氏(此人は有名なる著述家です)が私に「貴君《あなた》の方が文明であつて我々米国人の方は野蛮なのです、宣教師は貴君の方から送つて頂きたいのです」と言ひました、余りに極端の言方かも知れませんけれども或る真理が含まれて居ると思ひました。

誠に同感である、余も米国の為に祈る者の一人である、今やキリストは米国の教会を去り給ひつゝあるやうに見える、願ふ我等日本人が彼を此国に迎へ奉らんことを。

 

 二月二十四日(金)曇 南風にて蒸暑し、雑誌編輯と日曜講演の準備とにて多忙であつた 〇敵を有つ事は善き事である、我等敵を有つて自分の言語行動に注意するやうになる、又我等の愛が試さるゝが故に更に篤くキリストを信じて其愛を受けて我等の敵をも愛し得るやうになる、敵の無き時に我等は平安に慣れて自分をも慎まず神にも頼らなくなる、斯くて恩恵の神は屡々敵を賜ひて我等に更に大なる恩恵を施し給ふ、洵に有難い事である。

 

 二月二十五日(土)晴 和歌山県の或る読者より左の如き礼状に接して嬉しかつた、

数年来御誌拝読致居候が先生の述べらるゝ所一言として小弟如き尋常科程度の者と云へ一として感じ得ざるなきまで分り安く御教導被下候段常に感謝致居候、わけて二月号第三十三講の「我れ困苦《なやめ》る人なる哉」の御説明は小弟永年の苦悶に光を与へられ候、先生ならずば誰ありて小弟如き者にこの真理を分ち得んと只今(22)この処を拝読致し有難さの余り悪筆も失礼も考へず略書ながら御礼申上候
と、是れ余に取りては大教会の大監督の賞状以上に貴き者である、『聖書之研究』は元々斯かる人達の為に発行せらるゝ雑誌である、余輩は此雑誌が学士又は博士、牧師又は伝道師等に由て読まれん事を望まない、百姓又は町人、漁夫《れうし》又は樵夫《きこり》等、手と足とを以て働く真摯実直の日本人に由て読まれん事を欲する、而して彼等の一人なる此兄弟より此証明に接して余は神より特に福音を説くの使命を授けられし事を知りて感謝するのである。

 二月二十六日(日)半晴 中央講演会変りなし、「救の理由」と題し、羅馬書八章廿八-三八節の説明を試みた、万物は信者の為、信者はキリストの為、キリストは神の為と、「奉仕の順環」に就て述べた、追々傍聴を廃する途を取つた、今日の傍聴人、総数四十九人であつて、其内学生が二十一人、無職が十四人、有職は僅に十四人である、如斯くにして好意を以て講演を公開しても、有職者にして之を利用する者は極めて少数である、基督教は日本国に在りては主として学生並に無職者の宗教である。

 二月二十七日(月)雪 冬が帰て来た、然し当然である、冬はまだ去らないのである、時節不相応の暖気は当にならない、其如くキリストが再び来り給ふまでは此世は冬である、而して此世不相応の平和は甚だ危険である、其後にどんな戦争の冬が来るか判らない、本当の春は再臨の朝を以て始まる、其後は雪も寒気も戦闘《たゝかひ》も望んでも来らない、然し其時までは油断はならない、今や尚ほ警戒の時である。

 二月二十八日(火)曇 今年より又復米国マツサチユーセツト洲スプリングフイルド市発行『スプリングフイルド・レパブリカン』新聞を購読する事に定め、其第一回分を今日受取つた、之は余が購読せし最も旧い新聞紙(23)である、明治十七年渡米前より之を読み、在来中は勿論の事、帰国後も之を読続けた、近頃に至り四五年間中絶せしも今年よりまた読む事にし、之を注文した次第である、実に三十八年来の友人であつて、清潔にして学識と常識とに富む甚だ有益なる新聞紙である、|斯んな新聞紙は日本に於て得たくも得られない〔付△圏点〕、其点に於ては米国腐放したりと雖も到底日本の及ぶ所でない、善き新聞紙は大なる教育機関である、『リパブリカン』紙を常読して我が眼界の自《おのづ》から拡大するを覚ゆ、我国近来の新聞雑誌の読むに堪えざる者甚だ多き此時に際し、清党祖先の遺伝を今尚ほ継承する新英洲の此の旧き新聞紙に我眼を曝すは大なる満足である、序に記す『リパブリカン』紙は今より九十八年前にサムエル・ポールスと云ふ熱心なる基督信者に由て創立され、今に至るも尚ほ其高き理想を変へざる者である。

 三月一日(水)晴 行楽の一日であつた、朝一年振りにて巣鴨に田村直臣君を訪ひ、連立ちて銀座に行き、紐育キツチエンに米国流の昼食を共にし、日比谷、芝の二公園に咲誇る梅花を賞し、杖を曳きながら種々雑多の談話に耽り、東京を横断して目黒より山手線に由り、余は新大久保に、君は大塚に下車して各自其家に帰つた、朝九時より午後四時まで、二人に取り近頃になき大旅行であつた、遠からずして此旅行をパレスチナまで延長せんとの仮条約も成立した、或は実行を見るの日が来るかも知れない。

 三月二日(木) 夜牛込神楽坂上、医学博士藤本武平二方に於て旧き教友の小集会が開かれた、来り会する者十一人、余は四十五年前の札幌に就て語り、余が故ウイリヤム・S・クラーク氏より受けし独立の福音を彼等が継続せん事を慫慂した、実に|しんみり〔付ごま圏点〕としたる善き会合であつた、柏木兄弟団の名は消えても実は依然として存するを知つて喜んだ。

(24) 三月三日(金)晴 雑誌校正最中である。昨日来極地の動植物に就て読み面白かつた、殊に北極圏内に生物の豊富なるを知つて驚いた、南極は欧洲に濠洲を合せたる面積を有する大陸の中心に在ると云ふ、北氷洋と南氷陸、其中に如何なる宝が蔵れて在る乎我等は知らない、地球の未来に猶ほ驚くべき者がある、「我れ汝に暗き所の財宝《たから》と密《ひそか》なる所に蔵《かく》せる財貨《たから》とを予へ、汝に我はヱホバ、汝の名を呼べるイスラエルの神なるを知らしめん」とある以賽亜書四十五章三節の言が思ひ出さる、今は永久の雪を以て掩はるゝ南北両極の下に無尽の富が蔵れて居る、我等は地の荒廃を歎くに及ばない、神の気息《いき》一たび氷原の上を吹けば其処に又新大陸が現はるゝであらう。

 三月四日(土)雨 引続き極地地理の研究に従事した、人類の棲家たる地球は実に驚くべき神の製作物である。

 三月五日(日)晴 寒し。中央講演会変りなし、来会者少しく尠く、六百人には少し不足したであらう、此日第八章を講了し、大なる重荷を卸したやうに感じた。

 三月六日(月)曇 夜研究社々員の懇親晩餐会が開かれた、総勢男女八人、最年長者は主筆の次ぎが事務の山岸、我家に来りてより茲に三十有五年、来りし時は紅顔の少年、今は首《かしら》に霜を戴く、最年少者は福田襄三、研究誌が生れて其次ぎの年隣家に生れし者、故ルツ子秘蔵の赤ン坊であつた、畔上は二十年前、余が信州上田に熱心伝道せし頃初会せし者、其時の中学三年生は今や立派な伝道師である、其他黒崎、鈴木、自分と主婦と青年、それで研究社員は尽きるのである、天下の大雑誌は是等の人々に由て製作され、又発送せらるゝのである。

(25) 三月七日(火)雪 引続き校正日であつた 〇世界目下の人口は十六億、而して地球が支え得る人口は六十億を越えざるべし、而して目下の増加率を以てして世界の人口が其最大限度に達するは今より二百年の後なるべしと云ふ、洵に心細い次第である、又鉄も石炭も二百年以内には掘り尽さるべしとの事であれば、其点から考へて見ても世の終末《おはり》は遠い事でない、何れにしても世界は今や其末期に在るは明かである、「然れど我等は神の約束に因りて新らしき天と新らしき地を望み待り、義その中に在り」である(彼得後書三章十三節)。

 三月八日(水)晴 雑誌三月号の校正を終つた。彼得前書一章五節を読んで感じた、「汝等信仰に由り神の能《ちから》に護られ已に備へある所の末《すゑ》の時に顕はれんとする救を得るなり」と、我等は信ずる丈け、而して神の能に護られて救に達するのであると云ふ、神は単《たゞ》に我等を最後の救に召き給ふたのではない、之に達するまで其大能を以て我等を授け給ふのである、救は勿論神の賜物、而して之に達する能も亦彼の賜物である、人の為す所は極く僅少《わづか》、|唯信ずる丈け〔付○圏点〕、残余《あと》は悉く神が為して下さるのである、真に有難い事である。

 三月九日(木)晴 冬が再たび還つて来た、主婦は寒気に当てられて床に就いた、自分は終日ベンを手にして働いた、一人の訪問者もなく、生産的の一日であつた 〇科学の進歩は主に軍事に応用されて、人類は日進の科学を以て自分が作り上げし文明を破壊しつゝありとのグレー卿の言を読んで賛成を禁じ得なかつた、神の権能を認めざる科学は自分で自分を破壊する者である、「彼等心に神を存《と》むる事を願はざれば神も亦彼等が邪僻《よこしま》なる心を懐きて為すまじき事を為すに任し給へり」とのパウロの言は神よりも多く科学に信頼する近代の所謂文明諸国に最も能く当嵌る者である。

(26) 三月十日(金)曇 午後雨降る。引続き平静。人生の厭な事に就て考へ、一時は憂鬱の悪魔の捕虜《とりこ》になつたが暫時にして彼を逐攘《おひはら》つた、矢張り成る事がすべて善いのである、神は万事を主どり給ひつゝある、心配は無益である、憂鬱は痴愚である、斯く考へ直して感謝して眠に就いた、詩篇第四篇第八節を口にしながら、曰く「我れ安然《やすらか》にし臥し又|眠《ねぶ》らん、ヱホバよ汝のみ惟《ひと》り我を坦然《たひらか》なる処に居らしめ給ふ」と。

 三月十一日(土)晴 余は文久元年二月十三日の生れであつて、其日は西暦一八六一年の三月十一日に当る、故に今日は余の第六十一回の誕生日である、ヱレミヤと共に「嗚呼我は禍ひなる哉我母よ、汝何故に我を生みしや」との歎声を発せし事生涯の間に五六回ありしも、先づ大体に於て幸福なる且有意義なる年月を送り来て神に感謝する(耶利米亜記十六章十節)、此日余の司式の下に結婚せし夫婦八組、彼等の間に生れし子供十九人を伴ひ、祝賀的訪問を為してくれた、讃美歌あり、独吟独唱あり、祝詞朗読あり、最後に一同万歳を浴せて呉れた、余が受けし初ての誕生祝賀会であつて甚だ嬉しかつた、「汝は嬰児《をさなご》、哺乳児《ちのみご》の口により力の基《もとゐ》を置きて敵に備へ給へり」と詩の八篇二節にあるが如くに、今日は数多《あまた》の小児の見舞に接して尠からず力附けられた 〇神が人に賜ふ恩恵に種々《いろ/\》あるが、其中に最も大なる者は、神の僕として便はるゝ以上、如何なる恩恵にも与るの必要なしと心に定むるを得る其恩恵である、恵まれたい、恵まれねばならぬと思ふ間は真個《ほんとう》の恩恵は下らない、恵まれずとも可いと決心して、真に心の貧しき者となる時に、最大の恩恵たる虚《むなし》き心が与へらるゝのである、Oh,to be nothing,to be nothing(オー虚無たらん事を、虚無たらん事を)である、之れありて我は最大幸福に入るのである。

 三月十二日(日)晴 中央講演会変りなし、聴衆は多からず、尠からず、恰度頃合のものであつた、問題は「パウロの愛国心」羅馬書八章一-五節の解釈であつた、余に取り熟し易き問題であつて自己を抑ゆるに随分の(27)努力が要つた、然し今の日本人に愛国的基督教を説くも反応の甚だ微弱なるを感ぜざるを得ない、薩長の政治家に虚偽の愛国心を抑附《おしつ》けられし日本人は、其反動として今や愛国の文字をさへ厭ふに至つた、洵に痛歎の至りである、日本国滅亡の因を作つた者はやはり薩長の政治家であつた、之を思ふて憤慨骨に徹することが屡々ある。

 三月十三日(月)曇 神奈川県鶴見に郊外散歩を試みた、故黒岩周六君の墓を見舞ひ、又二三日前に建られし米国エール大学教授神学博士ラツド氏の石碑を見た、仏寺境内に於ける神学博士の墓碑は何か或るものを語るやうに思はれた。

 三月十四日(火)曇 引続き極地動物学に就て読んだ、殊に南氷洋産鳥類の研究に大なる趣味を覚えた、明日東洋汽船銀洋丸船長として南米航路に就く山桝儀市に依頼するに、智利国南部に産する鳥類を剥製として持帰らん事を以てした、人間の事に関はりて厭な事が沢山にあるが、天然物に就て学んで、たゞ面白い事ばかりである、天然の研究には聖書の研究に伴ふやうな宗教家の憎悪がない、之に従事して何やら神様の御指導の下にエデンの園に遊ぶやうな心地がする。

 三月十五日(水)曇 午後雷雨あり後霽れた、夜に入り南天水平線に近く南半球の一等星カノーパス(寿老人星)を眺め得て嬉しかつた 〇外国新聞に英米二国に於てすら信仰は堕落し、道徳の標準さへ変りつゝあるを読み我が一生の仕事が無効に終りしやうに思はれ寒心に堪へなかつた、道義的に観察を下して人類が今日程堕落した事は開闢以来未だ曾て無つたであらう、世は愈々終末に近いて来たらしくある、願ふ此時に方り我と我が少数の同志とは曾て授けられし使徒的信仰を終りまで持続けん事を。

(28) 三月十六日(木)半晴 丸善に行き新刊世界地図、アインスタイン哲学、其他各一冊を買求めた、宗教も社会も政治も汚気紛々として堪へ難き此時に際し、純真理にのみ永久の美はしさが在る、之を学び、之を少数の同志に伝へて、我にも亦人のすべて思ふ所に過ぐる平安がある、世はどうなつても宜しい、然りどうする事も出来ない、只此暗き邪曲《よこしま》なる世に在りて我れ相応に真理の証明を為せば我事は足るのである。

 三月十七日(金)晴 講演準備と聖書研究に全日を費した、羅馬書十章十七節の解釈に甚だしく頭脳を悩ました、スチユアート、ゴーデー、マイヤー、サンデーの諸大家皆な説を異にするを如何せん、茲に日本の聖書学者が真正の解釈を試むぺき機会が存《のこ》つて居る、斯かる場合に於て西洋の諸大家の頼るに足りない事が一層明白に感ぜらる。

 三月十八日(土)晴 ナンセン並にノルデンスケルトの北氷洋航海記を読み、彼等の勇敢的行動に大に励まさるゝ所があつた 〇又復東京聖書研究会々員中会費未納者五十余名に対し除名を通知して悲しかつた、前回の百余名に対し稍慰むる所ありと雖も、今に至るも尚ほ無責任者の絶えざるは歎ずるに余りありである、内に救世軍士官にして任意申出の会費一ケ月分|拾銭〔付△圏点〕をさへ払はない者がある、以て彼等が如何に安価《やす》く宗教的知識を見る乎が判明る、斯かる者を相手に一生懸命に伝道に従事しなければならないと思へば時には自分ながら情けなくなる。

 三月十九日(日)晴 中央講演変りなし、来会者六百余、「イスラエルの不信」と題し羅馬書第十章を講じた。午後今井館に於て夕暮礼拝を行つた、来会者八十名、詩篇第百二十篇、百二十一篇を講じ、静かなる好き集会で(29》あつた、如何なる会合にも会堂一杯の会衆を与へらるゝは感謝の至りである、彼等を誤りに導かざるやう祈るのみである。

 三月二十日(月)半晴 疲労を覚えた、『大英百科字典』に鸚鵡族、鷦鷯《みそさゞい》族等の記事を読みて心の休養を計つた、余に必要なる者は聖書と天然である、余は聖書なくして生存する事が出来ないやうに、天然なくして心霊の平衡《バランス》を取つて行く事が出来ない、其点から見て余は純宗教家でない、而して純宗教家でない事を感謝する。

 三月二十一日(火)晴 大祭日である、午後今井館に於てナオミ組第二次組会が開かれた、来会者十六人、聖き美はしき会合であつた、此日大祭日にて都人は春の催しに様々の愉楽に耽つたであらうが、此所には信仰の感謝に溢れる中年婦人の会合が催されて、人のすぺて思ふ所に過ぐる平和が充分に楽まれた、世はまさに夜三更、暗黒其極に達せんとして居る、此時に方て我等は夜の明くるを待つのみであつて、他に何事も為すことが出来ない、ピリピの牢獄に繋がれしパウロとシラスの如くに讃美歌を歌ひながら救ひの到来を待つのみである、而して我等に夜の歌のある事を感謝する、「夜はその歌我れと共にあり、此歌は我が生命《いのち》の神に捧ぐる祈なり」とあるが如し(詩篇第四十三篇八節)。

 三月二十二日(水)晴 昨日のナオミ組々会に於て或る若き未亡人より彼女の信仰の闘《たゝかひ》に就て聞き一同強き感に打たれた、自分が同情する者にして日本婦人特有の貞操を守りつゝ基督教的信仰に堅く歩む者の如きはない、而して少数なりと雖も斯かる婦人の今猶ほ此国に残存するを知て我心は感謝に溢れる、自分に取りては伝道は教会を作る事でなく、又国家をどうすると云ふ事ではない、自分の力の範囲に於て人を助くる事である、而して(30)斯かる人達が自分の宣ぶる福音に由て縦令一人なりとも助かりしと云ふ事を聞いて自分は大なる慰安を感ずる、人を一人々々《ひとりびとり》助くる事、其事が自分の仕事である、自分が伝道を思ひ立つた主《おも》なる動機は之れであつた、自分の信仰はどう見ても教会的でなくして個人的である、宗教的であるよりは寧ろ人間的である、自分は至上の満足を微《ちい》さき者の一人に冷水一杯を与へし時に感ずる者である。

 三月二十三日(木)晴 高等女子師範学校生徒にして中央聖書研究会の会員たる者が凡そ二十人ある、其内四人が今回卒業し、夫れ々々地方に奉職するに際し、此日午後今井館に於て彼等の送別会が開かれた、多くの質問が提出され、之に答へて有益なる小集会であつた、余は三十三年前に起りし所謂『第一高等学校不敬事件』に関する余の実験に就て語り、日本の教育界に於て基督敦に対する反対は強烈なるも、少しも恐るゝに足らず、年を経れば反対は消えて信者の勝利に終る其筋道に就て談じた、殊にキリストの福音に由てのみ日本固有の婦徳は維持せられ、福音なくして日本道徳は自《おのづ》から壊れ行く目下の状態に就て述べた、最後に余は問題を彼等に提出した、曰く「生徒が若し教師に対して罪を犯せし場合には(侮辱を加へし場合の如き)如何にして之を処分する乎」と、是は実に教育上根本問題であつて、其解決如何に由て教育の成否が定まるのであると言ひて余の意見を述べた、余は餞別として彼等に送るに聖書の左の言を以てした。
  惟心を強くし勇み励げんで我僕モーセが汝に命ぜし律法を悉く守りて行け、之を離れて右にも左にも曲る勿れ、然れば汝何処《いづく》に往きても勝利を得べし……心を強くし且つ勇め、汝の凡て往く処にて汝の神ヱホバ偕に在せば懼るゝ勿れ戦慄《おのゝ》く勿れ(約書亜記一章七-九節)。
而して終りに一同讃美歌第三百九十二番を合唱して別れた。

(31) 三月二十四日(金)晴 春の彼岸にて内村家名物の萩の餅が出来て家が大分に賑つた、之も亦年中行事の一であつて為さねばならぬ事である。四月分雑誌原稿が纏まりて之で先づ一安心である、第二百六十一号である、二百六十一ケ月である、二十一年と九ケ月である、長き楽しき幸ひなる年月であつた。

 三月二十五日(土)晴 神田神保町東洋家政女学校より切なる依頼を受け、其卒業証書授与式に臨み三十分間に渉る一場の演説を為した、聴衆は四五百人の女生徒、尋常小学を卒業してより二三年の者、然かも宗教教育を受けしこと無き者なれば、之に向つて適当なる演説を為すは余に取りては随分の努力であつた、然し余は今日善き者を見せられた、余は「最大美術と最大学問」と云ふ事に就て語つた、最大美術は美はしき生涯を送る事である、最大学問は善しと信ずる事を実行するに由て得らると述べた、洵に平凡の演説であつたが此聴衆に対して之れ以上の事を語ることが出来なかつた。

 三月二十六日(日)晴 好き安息日であつた、天気は晴朗、桜花は綻び出し、中央講演会は円満無碍に執行《とりおこな》はれた、「神の摂理」と題し、羅馬書第十一章の大意を述べた、「嗚呼神の智と識と富は深い哉、其審判は測り難く、其|踪跡《みち》は索《たづ》ね難し」と読んで自身天に引上げらるゝやうに感じた、クリスチヤンが思ふ存分に福音を述べた後の快感は彼れならでは知る事が出来ない、斯んな日が一日あれば伝道のすぺての不愉快は取除かれるやうに感ずる。

 三月二十七日(月)晴 霊的疲労のボンヤリの月曜日であつた、杖を曳いて独り山王台に散歩した、赤坂見附弁慶橋附近の春色は不相変美しかつた、今年も亦都の春に遭ふ事が出来て有難かつた、「見渡せば柳桜をこき(32)まぜて、都は春の錦なりけり」と紀之国坂を軋り登る電車の内に吟味しつゝ家に帰つた 〇『先哲叢談』に山崎闇斎の三楽に就て読んで愉快であつた、彼は第一に万物の霊たる人として生れし事を楽んだ、第二に右文の世に生れて道を学んで聖人を友とするを楽んだ、第三に侯家に生れずして卑賎の家に生れし事を楽んだ、人たるの快楽、儒者たるの快楽、貧しき平民たるの快楽、是れ彼の生涯の三大快楽なりしと云ふ、洵に立派なる快楽である、プラトー、ソクラテスの快楽も之までゞある、今の基督者の遠く及ばざる所である。

 三月二十八日(火)晴 北風強くして寒し。午後米国長老教会派遣宣教師マクエロイ並にG・K チヤプマン両氏の訪問を受けた、マ君は二年前に、チ君は昨年来朝せられし少壮の宣教師である、我等二時間に渉りて今井館講堂に於て伝道上の諸問題に就て談じた、而して重要の点に就ては両君共に余の意見に篤き賛同を表せられた、余は老宣教師の間には一人の同情者をも持たないが、近頃に到り若き宣教師の間に少数の友人を発見するを得て大なる感謝である。

 三月二十九日(水)晴 長の間研究社の事務を取り呉れし山岸壬五今回東京を去て故郷越後に帰ることになり、彼れ夫妻を送らんが為に、午後六時より今井館に於て教友有志の晩餐懇親会が開かれた、来り会する者三十二人、内に陸中花巻の斎藤宗二郎君、木曾上松の松島縫治郎君等あり、孰れも旧き柏木連中であつて楽しき家庭的会合であつた。

 三月三十日(木)半晴 午後七時畔上と共に神田小川町朝鮮基督教青年会々館に往き百二三十名の朝鮮青年に向ひて演説した、一同謹聴するやうに見えた、然し乍らドレ丈け解つた乎我等には判らなかつた、朝鮮人は福音(33)の真髄が日本人よりも能く解るやうにも見え、亦解らないやうにも見える、何れにしろ目下の彼等に取りては独立問題の方が信仰問題よりも遥に重要であるらしく見えた、余自身に取りては朝鮮人はまだ不可解的問題である。

 三月三十一日(金)雨 桜花爛漫たり、雨を帯びて一層美はし、日本人を思はしむ、パツと咲いてパツと散る、其美人も宗教も思想も皆んなさうである、三日見ぬ間の桜である、所謂新興の日本も桜の類ではあるまい乎、それを思ふと悲しくなる、春毎に桜を見て此感を起さゞるはない。

 四月一日(士)晴 米国有名の平信徒にして目下東京に滞在中のウイリヤム・ウオーターハウス氏の訪問を受けた、二人相対して談ずること三時間、近頃になき聖《きよ》き愉楽《たのしみ》であつた、氏は齢七十、余は六十一、信仰の質を同うし、目的と之に達する手段方法を共にし、意見の余りに好く一致するので少しく不安を感ずる程であつた、氏は実業家であり、余は天然愛好者であるより、常識を尊ぶの点に於て殊によく一致した、祈祷を以て会ひ、祈祷を以て別れた、聖父が余に一人の善き兄弟を送り給ひし事を感謝した。

 四月二日(日)半晴 講演を休んだ、然し会には出席し、開会と閉会の式を司どつた、畔上、黒崎の二人にて全部講壇を受持つた、来会者四百人余、内に仙台のスネーダー博士、昨日来訪のウオーターハウス氏、実業家原六郎氏、牧師吉岡弘毅君等ありて、其成厳ある白髪に対し、我等一同篤き尊敬を表せざるを得なかつた、久振りにて聴衆の一人となり、心行くばかりに福音のメツセージ(伝達)を楽んだ、恩恵溢るゝの一日であつた。

 四月三日(月)曇 桜花満開の大祭日である、都人は花と博覧会とに酔つて居る、今や娯楽が人生最大の目的(34)である、娯楽を添えずして何事も行はれない、人類は此地球を一大遊園地となさずんば止まない有様である、不愉快極まる事である 〇人生失望すべき事が甚だ多い、乍然多いから失望してはならない、失望は人生の敗北である、我等は希望を以て失望を駆逐して大勝利を以て生涯を終らなければならない。

 四月四日(火)雨 今井館に於てマルタ組第二回の組会が開かれた、第一回に勝る善き会合である、来会者十四人、孰れも信仰の歴戦者であつて其実験談を聞いて大に慰められ又励された、斯くも多勢の善き母又は長姉を有つ東京聖書研究会は最も恵まれたる信仰的家族である、一同感謝に溢れて散会した 〇夕七時新大久保駅に山岸の越後に帰るを送つて悲しかつた、三十年来の共働者である、会ふ者必ず離るとは云ふものの離れる事は決して愉快の事ではない、我等互の間にミヅパの望楼を築き「我等が互に別るゝ時、願はくはヱホバ我と汝の間を監《かんが》み給へ」と心の中に祈るまでゞある(創世記三十二章四十九節)。

 四月五日(水)曇 神に選まれずして人は福音の内に浸つて居ても基督者となる事は出来ない、其反対に神に選まれて人は只一回福音を聞いた丈けで善き基督者と成ることが出来る、「父もし引かざれば人よく我に来るなし」である、キリストでさへ爾うであつた、況や弱き我に於てをや、我が全力を尽して救はんとせし人が幾人となく我と我福音を去りしを思ふて我は益々此感を深くせしめらる、信者は人の力で出来る者でない。

 四月六日(木)晴 花は桜、人は武士、而して桜は山桜に武者は古武士に限る、山桜に古武士が対する所に日本国のエツセンス(精)がある。

   吹風を勿来の関と思へども
(35)     道も狭に散る山桜かな
此処に日本が在り、日本人が居る、而して其処は勿来の関である、曾て一たび之を訪ひしが、再たび之を尋ねたくなり、此日一青年を伴ひ、東京を北に去る百十五哩、六時間の疾走を要する、海岸線勿来駅を指して朝五時柏木の家を発した、沿線到る所の桜の満開であつて、関に適せざるに既に桜に酔ふの感がした、十二時勿来駅に下車し、山道を登りて古址に達し、携へ来りし弁当を認《したゝ》め、爽快言はん方なしであつた、桜の古木は一株も残らず、只植込みの山桜が昔を語らん為めにと雑木の間に咲いた、而かも山風は未だ来らずして花は開いたばかりであつた、縦し義家が眺めし桜樹は絶へても、岩間に咲く春の野草は今も昔と異なる事なく、而して山も同じ海も同じであれば、我等が今日眺むる風景は、今を去る八百三十一年前、堀河天皇の第五年に、義家が眺めしそれと大差なしと言ふ事が出来やう、二時山を下り、関本駅より再び乗車し、下孫《しもまご》駅にて下車し、常陸|河原子《かはらご》の旅館、太平洋の波打つ岸に春の一夜を過した、而して夢に消へぬは義家と彼の名歌であつた、之を真似んと欲するも到底能はず、此歌を作り得る気分が今や全然《まつたく》日本人の心に消へたのである、美はしき哀歌である、失望の悲哀美を歌つた歌である、嗚呼山風吹くなと心に念じつゝ、来り見れば、道一面に落花狼藉たりきと云ふ、歌人の失望、武士の落胆、之を言表《いひあら》はせしものが此名歌である、而して今日の余に此歌はない、然し乍ら之に類する失望と落胆とはある、我が花は人である、然り彼の信仰である、而して懐疑《うたがひ》の風吹くなと我は常に心に祈るのである、然るに事実は如何にと問ふに、嗚呼、千人は右に斃れ、万人は左に仆ると云ふ有様である、勿来の関は余にも亦失望を語るものである、余も亦義家に傚ふて一首なき能はずである、
   吹く風を勿来の関と祈るかな
     道《みち》践《ふ》みはづす人多き世に
斯くして彼の名吟と我の駄作とを口ずさびながら、終日の旅の疲れに促されて安らかなる眠に就いた。

(36) 四月七日(金)雨 洋面は春雨に鎖され、折角の海浜の宿泊も何の得る所なし、汽車は平和博覧会見物の乗客を以て充たされ、其談ずる所は多くは財界不振の状態、失望は有つても歌はない、車中は煙草の煙に漂ひ、勿来の関とは打つて変つた空気である、彼を見んが為には此《これ》に堪へざるべからずと思へば、花見も亦苦労の種であるを知る、午後雨に濡れて家に帰つた。

 四月八日(土)半晴 一昨年来米国費府発行『日曜学校タイムス』と雑誌交換を継続し来りしも、其記事の余りに軽薄なるに呆れ、今日断然意を決して交換謝絶の書面を発送した、米国宗教家の軽佻さ加減は、其自由派なると保守派なると少しも異なる所なく、彼等は己が信仰を売る為には如何なる誤謬を伝へても意に介しないやうに見える、真理と誠実とを愛する者は到底彼等と兄弟的関係を維持する事が出来ない、実に痛歎の至りである。

 四月九日(日)半晴 中央講演会変りなし、「基督教道徳の根柢」と題し羅馬書十二章一節の解釈を試みた、来聴者六百余、地方よりの傍聴者多し、此日我国財界の元老某君も亦会員の一人となられた、聖書的福音がすべての階級に行渡つて感謝する、但し我が講堂に於ては貧富、上下、智愚の差別なきは言ふまでもない、我等は一同我等の主イエスキリストの御父、慈悲の父、すべての慰安《なぐさめ》を賜ふの神にすべての栄光を帰し奉るのみである。

 四月十日(月)晴 四月号雑誌を発送した 〇瑞西宣教師ヤコーブ・フンチカー君夫妻今回帰国につき、彼等の友人たる黒崎、塚本兄妹、神田盾雄並に余と五人、彼等を築地精養軒に招いて送別の晩餐を共にした、実にシンミリとしたる楽しき会合であつた、フンチカー氏と余等との関係は過去七年間甚だ親密なる者であつた、我等(37)は彼より多くを教へられた、彼は又我等を信頼して呉れた、我等は彼に於て欧洲大陸の学識ある基督教的紳士を見た、英米宣教師とは縁の至て薄き我等は彼に在りて善き外国の兄弟を持つことが出来て大なる感謝である、天父の恩恵永へに彼等に加はらん事を祈る。

 四月十一日(火)曇 ワーターハウス老人再度の訪問を受けた、若きチヤプマン氏も共に在つた、如何にして有効的に日本人を福音化し得る乎と云ふ問題に就て討議した、「聖書を教ゆるに由て」と余は答ふるのみであつた、今日までの教会の伝道が多くの効果を挙げざりし理由は聖書以外の事に余りに多くの注意を払つたからである、而して近頃渡来の若き宣教師の内に此事に付き覚醒せし者あるを見るは喜ぶべき事である、過去五十年間此国に於て試みられし政治的、社会的、文明的伝道に代ふるに聖書的伝道を以てするにあらざれば、日本国教化の希望は絶無と称せざるを得ない、|問題は米国人自身が米国主義を拗棄するにある〔付△圏点〕、而して其時は米国自身が救はるゝと共に其行ふ所の外国伝道が復興する時である、今日の会合の如き此望ましき伝道的革命の到来を報ずる鶏鳴の如き者であつて意味深長の出来事と称せざるを得ない、何やら我等が知らざりし間に神が革新を準備し給ひつゝありしやうにも見える、聖意をして成らしめ給へである。

 四月十二日(水)晴 八重桜咲初め、春の真中《まなか》である 〇或る米国宣教師が四人|伴《づれ》にて大手町の講演会を見物した、三階に陣を取り、講堂を瞰下《みおろ》し、他の教会に此べて聴衆の多きに驚いた、彼等は案内の或る牧師に問ふて言ふた、「何故に此集会に斯くも多くの人が集まるのですか」と、牧師は答へて曰ふた、「其れは内村氏が二つの事を説くからである、|其一はキリストの再臨、其二は教会攻撃である〔付△圏点〕」と、宣教師等は不思議に感じた、加何に天才の人であればとて、僅か二つの問題を捉へて何年間も多勢の聴衆の興味《インテレスト》を繋ぎ得やうとは思へなかつた、(38)二箇月程を経て彼等の中の一人が余輩を訪問した、而して余輩が何を説きつゝある乎に就いて聞いて彼の疑問は晴れた、余輩はキリストの十字架を中心として旧新両約聖書を日本人に紹介しつゝあるを聞いて彼は余輩に対して満腔の同情と賛成とを表した、然かも奇怪なるは是等の宣教師を案内せし日本の牧師である、余輩が再臨と教会攻撃とを主題として余輩の講演を続けつゝあると云ふのは全然聞違である、然かも彼れ一人ではない、他にも尚ほ同じ様に思ふて居る牧師と宣教師とのある事を余輩は知つて居る、如斯くにして誤解はいつまでも持続せらるゝのである。

 四月十三日(木)晴 夜雨。講演の為に宇都宮に行いた、我等の伝道視察の為にワーターハウス氏も同行した、夜七時同市商業会議所旭館に於て開会した、雨天に拘はらず三百人余りの聴衆があつた、但し聴衆の多かりしに係はらず講演の簡短に過ぎて貧弱なりしを悲んだ。久しく地方出演を試みざりし為であらう、神御自身聖霊を下して我等の言葉を補ひ給はん事を祈つた。

 四月十四日(金)雨 午前十時宇都宮を発し帰途に就いた、車中ワーターハウス老人と共に談じ、余の愛する米人を彼も愛し、彼の嫌ふ米人を余も嫌ふを知つて痛快であつた、ヤンキーコンモンセンス(米国人の常識)に驚くべき者がある、其の一言に由て真偽善悪が判別せらるゝ所に他人の到底及ばざる所がある、旧い真《まこと》の米国人は今日の米国を呪ふ、自分の心中を安心して打開ける事の出来る米国人に遭遇して会心の至りである、三十年前に遡つて旧き米人と語りしやうに感じた。

 四月十五日(土)晴 記すべき事なし、

(39) 四月十六日(日)晴 八重桜満開、花曇りで美はしき日であつた、中央講演会殆んど満堂の盛会であつた、「基督教道徳の性質」と題し羅馬書十二章二節の解釈を試みた、「世に傚ふ勿れ……心を化《かへ》て新たにせよ」と、而して「世に傚ふ勿れ」と説いて世に傚ふ事を以て能事とする現今の教会に就て説き及ばざるを得なかつて、気持が悪かつた 〇午後今井館に於てハンナ組の組会が開かれた、来会者十六人、重に女子大学程度の女学生であつた。

 四月十七日(月)半晴 久しく帰国中なりし友人独逸グンデルト君の訪問を受けて楽しかつた、独逸現下の状態に就て聞き強き感に打たれた、然し暗黒の内に大なる望が仄見《ほのみえ》る、欧洲は今や改造の真中《まなか》に在るのである、歴史は後戻りしない、プロテスタント教会が倒れて其跡に制度的教会の無い其《まこと》の基督教が起りつゝある、日本も欧洲と同じ状態に於て在る、今も昔と同じく「夜番《よばん》よ夜は如何《いかに》」と問へば、「朝は来りつゝあり」と彼は答ふ、グン君の凡《すべて》の談話を総合して之を「朝来る」の一語に短縮する事が出来ると思ふ。

 四月十八日(火)晴 昨夜大雷雨、大粒の雹も混《まじ》り、真盛《まさか》りの八重桜は台無になつた、「心みじかき春の山風」である 〇新聞紙は露独協商を報じ、世界の場面は一変せんとしつゝある、変幻窮りなき世の中なる哉。

 四月十九日(水)晴 内村加寿子の昇天紀念日である、彼女を我が霊に迎へて紀念した、彼女の異母弟横浜水哉今や我家族の一人と成り彼女に代つて我家を賑はす、三十一年前に余と彼女とを迫害せし偽《にせ》哲学者と偽愛国者とは今や声を潜めて一言を発せず、我等の信仰は今や帝都の中央に於て公然と盛んに日曜日毎に唱へられつゝある、勝利である、万歳である、すべて我等の敵に勝ち得て余りありである。


(40) 四月二十日(木)晴 終日ペンを執て働いた、演説をするよりも遥に良い、演説は騒ぎが多くして益が尠ない、演説は外観の結果を好む近代人の好んで為す事である、之に反して執筆は静かにして其効果は深遠である、外《そと》にお多福桜が咲き誇る今日此頃、内にペンを執て静かに賜はりし思想を記列《かきつら》ぬる愉楽《たのしみ》は詩人的でもあり亦実際的でもある。

 

 四月二十一日(金)晴 編輯日であつた、長野県の山奥より或る人が態々尋ね来り、真正の信仰の何たる乎と、入るべき基督教の修道院を教へよとの事であつた、突然の事とて如何ともする能はず、説諭と訓誡とを加へて彼を帰した、長野県には斯かる行為を執る人が甚だ多い、只余の名を聞いた丈けで余を尋ね来り、一身を余に任かせんと申出し者、今日までに数人あつた、余は其都度大に困らせられた、其内の最初の者が車夫の音吉であつた、彼は日本国の外務大臣となりたしとて田舎車《いなかぐるま》を曳きながら余の家に来つた、幸にして彼は善き基督者となりて、今に至るも余と親しき関係を持つ 居る、然し其の他の者はさうは行かなかつた、何れにしても名士の押懸け訪問は長野県人の特性の一であると見える。

 

 四月二十二日(土)晴 新緑の麗《うる》はしき日である、天地は復活の朝の装《よそほひ》に栄《はえ》て居る、内にオレリの『旧約預言論』の我心を躍《おど》らするあり、外に八重桜の将に散らんとする風情の我眼を悦ばするあり、我は是れ以上に何も要らない、此世ながらの天国である。

 

 四月二十三日(日)曇 中央聖書研究会満堂の盛会であつた、東京中のクリスチャンの総てが集つて来たので(41)はあるまいかと思はれた、何の為の集来か能く解らない、頗る心配である、余輩は斯くも多数の信者又は求道者を引受けたくない、若し市中の諸教会が其半数なりとも引き受けて呉れるならば余輩は彼等に感謝する、此日講壇に於て畔上が助けて呉れた、自分は羅馬書十二章三-八節までを「基督教的謙遜」と題して講じた、毎回語るべき事多きに過ぎて時間の不足を感ずるのが常である。

 

 四月二十四日(月)雨 月曜日なるに拘はらず此世の雑事に悩まされ、何事も手に付かなかつた、「心の楽しみは良薬《よきくすり》なり、霊魂の憂ひは骨を枯らす」と箴言十七章二十二節にある通り、福音を説くは楽しきが故に幾ら疲れても良薬であり、此世の心配は骨を枯らす外に何の益する所がない、まことに純の純なる喜びは神の道を学んで之を悩める人に頒つ事である。

 

 四月二十五日(火)晴 南風強し。一少女の身を保護するために尠からず心を労するべく余儀なくせられた、何んと悪人の多い社会であらう、「誰か弱りて我れ弱はらざらんや、誰か礙《つまづ》きて我が心熱せざらんや」である(哥林多後書十一章廿九節)、多数の小悪魔輩が辜《つみ》なき弱者を苦しめつゝあるを見ては我が心熱せざらんと欲するも能はずである、イエス様が斯かる者に就て「磨石《ひきうす》をその頸《くび》に懸けられて海の深みに沈められん方なほ益なるべし」と言ひ給ひしが、まことに其通りである(馬太伝十八章六節)、然るに此世の法律の不完全なる、斯かる輩の不正行為を抑ゆるの能力《ちから》がないのである、暗い黒い世の中である 〇近頃の出版物で余に深き感動を与へた者は春陽堂出版、島崎藤村氏編、故北村透谷遺著『透谷全集』である、透谷は近代日本に於ける真詩人の一人である、彼にバイロンの熱情と光輝とがあつた、而して英詩人の如くに己が内に輝く光に眩惑されて終に其生命を縮むるに至つた、惜むべきの限りである、彼に若し和平《やはらぎ》の福音ありたらば!と時々思はせらる、殊に此著に就て感じ入(42)るのは藤村氏の亡き友に対する友誼である、是れ文士として為し得る最大の奉仕である、透谷は善き友を世に遺した、其点に於て彼はたしかに幸運児である、余は本誌の読者に此書を推薦するに躊躇しない、信仰の書ではないがたしかに誠実の書である、而して誠実は信仰を作る為の第一の要素である。

 

 四月二十六日(水)半晴 午前十時強震あり、全地は揺ぎ、今にも我家が倒壊する乎と思ふた、危険極まる人生である 〇朝鮮人某より左の如き意味深きハガキが着いた、

  内村先生、是非御一読を願ひます、小生は毎朝、神の愛と主の平安、先生と共に有らんことを神に祈り上げます、一九二〇年夏或る機会を以て先生の研究誌七月号が小生の手に入つたのでありました、此れは神が始めて小生に直接に授けた機会で御座いました、夫から今日まで|先生の著書全部を六次〔付△圏点〕拝読致しました……嗚呼先生、先生の御恩に れ感謝の涙を禁ずる事が出来ません、小生の讐《あだ》の日本にでも先生在りて平和の日本、愛の日本にと変つて来るので御座います、本当の神を世に現はしたのは唯主イエスキリスト、本当の主イエスキリストを世に現はしたのは此世に先生一人しかないことを痛切に感じて居ります。

喜んで宜い乎悲んで宜い乎解らない、「小生の讐の日本にでも先生在りて」と云ふ、嗚呼日本が朝鮮の讐であつて欲しくない、兄弟であつて欲しい、而して讐もキリストに在りて兄弟となる事が出来る、本当の日鮮併合は両者がイエスキリストを救主として迎へまつる時にのみ成る、「此《かく》の如きに至りてはギリシヤ人とユダヤ人……或は夷狄《ゑびす》或はスクテヤ人、或は奴隷或は自主の別なし、夫れキリストは万物の上に在り、また万物の中に在り」とあるが如し(哥羅西書三章十一節)。

 

(43) 四月二十七日(木)晴 今井館に於て金沢常雄対浅見綱子の結婚式を司つた、二人共に二代目のクリスチヤンであつて、其点に於て此国に稀に見る配偶である 〇近頃痛切に感ずるは所謂下流階級の人たるの幸福と、之に対する上流階級の不幸とである、イエス様が生れ来り、属し給ひし階級が人の人たるの光栄と価値と意義とを最も完全に発揮し得る階級である、何人もイエス様に近づけば近づく程真個の平民たらざるを得ない、余は断言して憚らない、上流階級の人たるを誇り、又は之に満足し、又は之を憧憬《あこが》るゝ者はイエス様の弟子に非ざる事を。

 

 四月二十八日(金)晴 昨日に引替へ静かなる日であつた、少しばかりの原稿書きと外国新聞並に『英百』の雑読に新緑の麗はしき一日を過した、自分一人で最後まで我が天職の為めに戦はねばならぬ事を今更らの如くに感じた、西洋人は日本人は良心のなき国民であると云ふが、良心は国民に先天的に在る者ではない、神の聖言が国民の心に入つて其良心となるのである、而して自分は一生の事業として、時を得るも得ざるも、聖書を日本人に教へて、新たに其良心を作ることが出来る、然し長い徐《おそ》い仕事である、ユツクリと心を構へて為すにあらざれば成す能はざる仕事である。

 

 四月二十九日(土)晴 来訪者十七人と云ふ近頃になき大取込みの日であつた、二三の大問題を持込まれ、其解決に頭と心とを悩まされた、自分は『英百』にアーミテージ・ロビンソンのペンに成るキリスト伝を読みつゝ心の平静を保つた、余に福音の大真理を尋ねん為に訪ひ来る者は滅多にない、大抵は嫁ぐ事と娶る事と、食ふ事と飲む事とに関はる問題を携へて来る、然し是れ亦信仰的生活に全然関係の無い事でなければ、自分としても全然之を避くる事が出来ない、困難なる世なる哉。

(44) 四月三十日(日)曇 午後雨。中央講演会、平常の通り、羅馬書十二章第九、十節に就て講じた。午後今井館に於て、浅野猶三郎司会の下に山形県秋野光雄と千葉県海保静子の結婚式が行はれた、誠に厳粛なる恵まれたる式であつた、新郎は浅野に教へられし者、新婦は畔上に導かれし者であつて、我が信仰の孫と称して可なる者である、彼等が新家庭を作りて更に又信仰を継続するを見るは感謝の至りである。

 

 五月一日(月)晴 朝美代子と共に雑司ケ谷のゴーテスアーケルを見舞ふた、青葉に燃ゆる欅が森は美くしかつた、彼女に導かれて多くの偉い墓を見た、然し乍ら我がルツ子の「再た会ふ日まで」の碑に勝る者はなかつた、此墓石のみが明白に信仰と希望とを唱ふる者であつた、余は美代子に告げて曰ふた、真に偉い人の墓は大抵は質素なる者である、頼山陽の墓、佐久間象山の墓、カーライルの墓、ルイ・アガシの墓、孰れも大家の墓とは思へない程質素である、死だ当時に偉い墓を建てられるやう人に碌な人のあつた例《ためし》はない、最も偉い墓はコロムウエルのそれである、彼は敵に其墓を発《あば》かれ其骨は灰にせられて河水の面に撒かれた、死んだ当時に国賊逆臣の首《かしら》として扱はれし彼れこそ真の偉人、人類の先導者《リーダー》であつたと、斯くて墓地に見学一時間にして昼飯頃各々其家に帰つた。

 

 五月二日(火)曇 昨年春羽後鳥海山の麓より来りし下婢の身上に就き面倒なる問題起り、今日終に彼女を其親元に送還した、大正日本の社会は忠臣蔵元禄時代のそれと少しも異らない、代議政体あり、長門陸奥の如き世界最大威力の戦闘艦ありと雖も、文明の基礎たる人権尊重の観念に至ては今日の日本は欧米最劣等国に及ばない、日本人が今や世界何れの国民にも嫌はれるのは決して無理でない、殊に今回の事に由りて純樸なりと思ひし東北地方の社会が其根柢より腐敗し居るを示されて堪へ難き失望である、東北人より其正直を取除いて残る所は最悪(45)の日本人である。

 

 五月三日(水)半晴 静かなる好き一日である、庭は藤、躑躅、牡丹の花盛りである 〇余の一生に於て世に所謂割りの好い事の臨んだことは一度もない、余は常に割りの悪い所にのみ廻はされて居る、其事を思ふて時に甚だ悲しくなる、然し当然である、余は人生の最大事に於て最も割りの善い立場に立つ者である、余は身に何の功績《いさほし》なくしてキリストが余に代て遂げ給ひし功績に由りて神の子たるの特権に与らんとしつゝある、無限の宇宙に斯んな割りの好い事はない、余は天の事に於て最大の幸運児たるが故に、地の事に於て少しく不幸児たるに過ぎないのである。

 

 五月四日(木)晴 講演準備の為に羅馬書十二章を逐字的に研究しつゝある間に、敵の為に善を為し得るに至て初めて愛が完成《まつたう》せらるゝ事が今更らながらに明解《わか》つて嬉しかつた、此事を為し得て我は初めて神の子と成つたのである、救はれし唯一の証拠は此事である、歓喜の中に全日を送つた。

 

 五月五日(金)雨 校正日である。『英和独語集』Alone with God and Me が岩波書店より出た、世に如何に受けらるかゞ見物《みもの》である、今日の基督教界殊に英米宣教団に対し小爆弾の用は為すであらう、それ以上を望む事は出来ない。

 

 五月六日(土)半晴 静かなる好き土曜日であつた、鸚鵡の一羽に揶揄ひ彼に怪我をさして尠からず心を痛めた、彼も亦家族の一員である、彼れ傷きて我れ痛まざらんや、力を尽して彼を介抱して稍々癒えしを見て安心し(46)た。雑誌五月号の校正を了つた。

 

 五月七日(日)曇 気候は寒からず暑からず、聴衆は少からず多からず、演題は「愛の表顕」、三つ揃つた完全に近き聖会であつた、聖書の研究であつて所謂伝道でもなければ礼拝でもない、然し驚くべき神の聖旨を学んで我等は自《おの》づから教へられ又彼に近づきまつる、実に限りなく美はしきは聖書《みふみ》の研究である、我等は自分の学識や熱心や人格を以て人を感化せんとしない、真理の美が此事を為す、此真理をさへ忠実に伝ふれば我も化せられ他《ひと》も救はる、容易にして、簡短にして、有力なる伝道法である。

 

 五月八日(月)晴 夜束京駅ホテルに於て万朝報主筆斯波貞吉君並に近頃欧米漫遊より帰朝せしセウル・プレツス主筆山県五十雄君と共に会食した、善き事悪しき事を沢山に聞いた、禁酒国の米国に於て大抵の旅館に於て金さへ出せば如何なる酒類でも飲む事が出来る、或る富豪の設けし大園遊会に於て、酒類が公然と饗応《もてな》され監視の巡査までが酩酊して居たのを見たとの事を聞いて唯呆然たるのみであつた、是れでは米国も末期に近づいた事が思はれ、腹も立つたが悲しくもあつた、之に反して英国牛津に於ける平信徒の小集会、我が好本督君の倫敦に於ける伝道事業等に就て聞いて大に慰められた、近頃になき有益なる会合であつた。

 

 五月九日(火)曇 余はキリストと其福音とを弁護する、然れども自分は決して弁護しない、人あり若しキリストと其福音を譏るならば余は彼の矇を聞き誤謬を解かんとする、然れども若し余の欠点を指摘して余を貶し罵るとも余は決して自分を弁解しやうとしない、而して世が若し余の誹謗者の言に聴き余を去るならば余は別に余を容るゝ人を求め彼等にキリストと彼の福音を伝ふる、而して世に一人も余の言に耳を傾くる者なきに至れ(47)ば余は其時余の伝道を廃める、余は人に自分を薦めん為に伝道するのでないから人が余に就て如何に思ふ乎は余の関はる所でない、余を誹りたき人は思ふ存分誹るが可い、余は自分の事に就て彼に答ふるの時と興味とを有たない、余の仕事は別にある、余は余の主人の御用に従事しなければならない。

 

 五月十日(水)曇 昨年二月以来或る東北の青年に欺かれ居りし事が判明して非常に不愉快であつた、此不信国に在りて信仰の故を以て人に欺かれしこと今日ま 幾回なるを知らず、而して今日に至るも猶ほ未だ其災厄より免かるゝ能はず、此事を思ひ伝道は今日限り廃めたくなる。

 

 五月十一日(木)晴 平和なる一日であつた。「夫れ此の世の子輩《こどもら》は此世に於ては光の子輩よりも巧《たくみ》なり」である、欺瞞の術に於て我等は到底彼等に及ばない、然し乍ら悧巧のやうに見えて最も愚かなる者は彼等である、彼等は我等を瞞して自分で自分を滅しつゝあるのである、余は今日まで余を瞞した者で一人も名誉の生涯を送つて居る者を知らない、彼等は欺きながら亡び、我等は瞞されながら栄ゆ、我等はやはり彼等を愛し彼等の為に祈るべきである。

 

 五月十二日(金)雨 雑誌第二百六十二号出づ。

 

 五月十三日(土)晴 人を見ては失望する、自分を見ては厭になる、政治、宗教、政党、教会、何一つとして憤慨の種ならざるはない、然し乍ら、嗚呼然し乍ら、唯一つ満足なる者がある、主イエスキリストである、彼れのみは完全である、而して彼を信じ彼に在りて、神は完全なる者として自分を扱つて下さる、感謝之に勝さるな(48)しである、其事を思ふて人世はどうなつても可いと思ふ、腐敗も堕落も恐るゝに足りない、英米日独成るが儘に成れよである、余はイエスに在りて安全である、「我は我よりも高き磐《いは》に倚《たよ》らん」である(詩六十一篇二節)。

 

 五月十四日(日)曇 午後晴れ、快き初夏の聖日であつた。中央講演会に於て三谷隆信は欧米視察談をして呉れた、余は「平和の途」と題し、羅馬書十二章十六、十七節に就て講じた、平常に変らざる集会であつた。午後市外杉並村今村氏邸に於てルツ組第三次組会が開かれた、余も青木庄蔵君と共に之に臨み出来得る丈けの援助を与へた、組員十五名程出席、天気は初夏理想の清涼、場所は新緑滴る郊外の閑地、電車の響きは耳を聾せず、朝の大会に比べ、午後の小集は優《はるか》に天国的であつた、組員各自の感想を聞き、庭園に実る苺の饗応に与り、武蔵野の夕風涼しく、「夕日はかくれて、道ははるけし」を口吟しながら一同帰途に就いた。

 

 五月二十日(土)晴 引続き『英百』にO、C、ホワイトハウスのペンに成りし「希伯来人の宗教」の長篇を読んで面白かつた。

 

 五月二十一日(日)半晴 又復恩恵溢るゝの聖日であつた、中央講演会は普通以上の盛会であつた、自分は羅馬書十二章十九節以下を「愛敵の道」の題目の下に講じた、語るべき事余りに多く且深くして熱情に走るの虞れあり、自分を抑へるに随分骨が折れた、恰かも宜し此日独逸チユービンゲン大学教授ドクトル・カール・ハイム氏が友人グンデルト氏に伴はれて講堂を訪問して呉れた、依て氏に乞ふてグンデルト氏の通訳の下に一場の感話を述べて貰つた、一人の外国人が日本語を以て(而かも流暢正格なる日本語を以て)他の外国人の講話を通訳して呉れたのである、其事其れ自身が偉観であつた、而してハイム氏の所説はよく余のそれと一致した、彼は余の所(49)説を裏書きして呉れたやうな者である、七百の聴衆一同が深き強き感に打たれた、本当の基督教は欧洲に絶えない事を示されて我等は志を強うせられた、今日の講演会は正味二時間と十五分、緊張一貫せる集会であつた、外国大学の教授にして態々余と余の事業とを見舞つて呉れた者はハイム氏が初てゞある、迚も英米の神学博士の間には見る能はざる謙遜である、此信仰ありて独逸の復興は確実である、より善き独逸は起りつゝある、実に感謝の至りである 〇午後同じ衛生会講堂に於てヨハネ組以上の懇話会が開かれた、出席者十六名、是れ又充実せる真面目の会合であつた。

 

 五月二十二日(月)曇 英国J・W・ロバートソン・スコツト氏より其近著 Foundation of Japan を贈つて来た、其内の一章を「イスラエルを擾《みだ》す者」と題して余に関する記事に当られたるを見て面白かつた、スコツト氏は余を称ぶに「日本のカーライル」の綽号《あだな》を以てする、余の骨格、顔つき、話し振り、諧謔《ユーモア》、帽子、外套までがケルシーの哲人に似て居るとの事である、誠に有難い事である、謹んで此綽号を頂戴する、日本のカーライルと称ばるゝは日本のムーデー又は日本のビレー・サンデーと称ばるゝよりも優かに名誉である、カーライルは宗教界の人でなかつた、余もさうである、カーライルは教会を嫌つた、殊に英国聖公会を嫌つた、余もさうである、彼は正直なる、勇敢なる飾らざる一平民であつた、余も然かあらんと欲する、余は余を日本のカーライルと称して英国の読書界に紹介して呉れたるスコツト君に感謝する 〇夜今井館に於て外務省官吏仏国巴里滞在の法学士三谷隆信夫妻の歓迎会を開いた、来会者は旧き柏木連二十八名、親しき楽しき会合であつた、今や仏国に、英国に、瑞西に、和蘭に、独逸に、米国は勿論の事、我が有力なる同志の滞在するありて、我主義信仰を唱道しつゝあるを喜ぶ、我等が知らざる間に我等のブラザーフード(兄弟団)が世界的に成つた事を感謝せずには居られない。


(50) 五月二十五日(木)晴 昨夜空晴れ、火星が蠍座のアンタレス(対火屋)を逐ふの状《さま》を見て美くしかつた、赤い提燈のやうな星が他の赤い一等星の跡を逐ふのである、稀れに見る奇観である、火星は射手座を離れ蛇遣《へびつかひ》座のセータ星の辺に在つた 〇ハイム博士を独逸大使館に訪ふた、深い謙遜なる学者である、彼れ自身が無教会主義者であつて又キリスト再臨信者であるに余は深く驚いた、深い学問の立場より信ずる再臨は特別である、チユービンゲン大学の教理学教授が敬虔なるキリスト再臨信者であると聞いて日米の信者達は驚くであらう、然し乍ら事実である、博士は同信仰の士としてドストエフスキー、メレスコブスキー等の大家を挙げた、実に痛快の至りである。

 

 五月二十六日(金)晴 帝国大学医学部医化学教室主催に係る時習会に招かれ其例会に出席した、出席者六十二名、医化学生理学の教授並に研究生等であつて純粋の科学者達であつた、当夜の問題は「科学と宗教」であつて柿内博士の指名に由り十数名の意見の陳述があり、非常に面白かつた、内に四五名の判然たる基督信者さへあつたらしく、基督教に対し熱心なる同情あり、尊敬あり、反対と称すべき者は至て僅少であつた、帝大医学部に於てさへ斯くも宗教探求の精神が漲つて居る乎と思ふて強き意外の感に打たれた、余は最後に余の信仰的実験に就て述べた、医学博士と医学士とより成る此団体は静粛に敬意を以て一時間余に渉る余の信仰談を聴いた、余は生れて未だ曾て斯かる尊敬すべき聴衆に対して語つたことはない、宗教に対し、帝国大学、而かも其医学部に此敬虔なる態度ありとは何人も知らざる所であらう、余は此時驚くべき者を示されたのである、余は是等の純科学者の間に多くの牧師又は伝道師又は神学者の間に於てよりは、深い清い宗教心を見たのである、我が帝国大学内に於てキリストの聖名の揚らん事は余の年来の祈願であつた、而して此夜其一端の実現せるを示されて余の心は(51)感謝に充ちた、九時四十五分閉会、青年と共に柏木の家に帰つたのは十一時少し過ぎであつた。

 

.五月二十七日(土)晴 メキシコ国エスクイントラ布施常松君よりの書面の一端に曰く「……広い土地を占有しても何にもならず、時には余所から這入つて一作や二作だまつて作つて居る者があつても知らずに居る様な事に候、此所でも一軒の農家で百町歩もあれば森林として幾分は残し、他は放牧場、耕作地として利用し一家を支へるに十分に候、初めて日本から見へた方でも一通り先住者の経験を聞けば失敗なしに順調に行く事受合に候、先生の所へ見える方で海外移住の希望のある方有之候はゞ御序に御吹聴を願上候、此頃夕方牛の追込の入口をしめに行くと南天に十字星が上り居り候、尚又此所では黄道光がハツキリと立派に見え候、海外の農場生活をする私共に星見る事を教へて戴き候事は誠に仕合せに候」と、四千年前のアブラハムの生涯を読むやうである、百町歩の土地を占有して夜々《よな/\》星を見るの爽快は狭くして人口稠密の日本に在ては想像だもする事が出来ない、世界は広し、他人に厄介にならずして往く事の出来る者は往くべしである。

 

 五月二十八日(日)晴 中央講演会又復沢山の人であつた 羅馬書十三章一-九節、政府服従の段に就て講じた、日本政府の美点を数へ上げた時に聴衆中に奇異の感を起した者もあつたらしく、然し余自身は久し振りにて日本国の決して悪しき国に非ず、多くの美点を具へたる国であることを公然と述べて非常に愉快に感じた、讃美歌三百七十三番「わがやまとの、くにをまもり」を合唱して閉会した、不相変歓喜溢るゝの聖日であつた。

 

 五月二十九日(月)半晴 前週の疲労が一時に出て来たやうに感じた、終日半病人であつた、然しいくら疲れても聖書の講義は廃められない、是は我が生命であつて之を廃める時に自分は死んだのである、我が全生涯の内(52)に最も幸福なる時は筆を執て、又は聖書を手にして聖語を世に伝へる時である。

 

 五月三十日(火)晴 引つゞき預言書の研究に興味が尽きない、旧約の預言者が解らずしてキリストと基督教とは解らない、余の真剣の聖書の研究が三十七年前米国に流浪中預言書の研究を以て始まりし事を今に至て神に感謝する、余と余の信仰とを誤解する多くの日本人あるは彼等が預言書に由らずして直に基督教に入らんとするからである、キリスト御自身が預言者であつた、イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、アモス、ホゼヤ等の精神に触れずしてキリストを解する事は出来ない、世に骨の無い愛情のみの基督者多きは彼等が真面目に預言書を研究しないからである、読めよ、大に読めよ旧約の預言の書《ふみ》を。

 

 五月三十一日(水)雨 一友人の一身上に起つた出来事より他《ひと》の罪を担ふの如何なる事である乎を実験的に教へられて神に感謝する、人の罪を担ふとは彼の受くる恥辱を受け、彼の耐ゆる※〔言+后〕※〔言+卒〕《そしり》に耐へ、すべての点に於て自から其罪を犯さゞるに彼と苦難《くるしみ》を共にする事である、是は最も辛らい事であるが、然し斯く為してこそ友の友たる義務を果たす事が出来る、而してイエスが我が為に此事を為して下さつたと知つて実に感謝に堪へないのである、イエスは御自身罪を知り給はざりしに我が罪の為に辱かしめられ、※〔言+后〕《そし》られ、而して終に殺され給ふたのである、「人其友の為に生命を捨つ、之より大なる愛はなし」と彼が言ひ給ひしは事実其通りである、此事を知らないで此世の所謂基督信者輩が義人と名誉を頒たんとのみ欲して、罪人と恥辱を共にするを忌嫌《いみきら》ふは、キリストの心を知らざるの最も甚だしいものである、罪人の友たるの地位に置かれて初めてキリストの愛の深さが推量《おしはか》らるゝのである。

 

(53) 六月一日(木)晴 初夏の麗はしき一日であつた。宇都宮青木義雄よりの書面に曰く「拜啓、廿八日の中央講演会に於ける先生の御講演は実に偉大なる者でありました、彼の日は当市に於て下野新聞社新築落成大祝賀会のある日にて県下の所謂紳士連が我も/\と蝟集するを名誉の如く心得居る中を、小生は独り中央講演会指して上りたる御蔭にて彼の偉大なる深遠なる御講演に接するを得て其天恩の裕かなるを歓ぶのであります、云々」と、人生に厭な事数々ありて時には講演も伝道も今日限り廃せんと思ふ事ありと雖も、亦斯かる熱心なる信仰の友ありて我言に力を獲るを聞いて我が使命の未だ終らざるを知り、元の仕事にと再び就くのである、縦令一人なりとも我言に励さるゝ者ある間は我は語らざるを得ない、余は時に書を寄せて余を励まして呉れる少数の友人に感謝する。

 

 六月二日(金)晴 校正と原稿書きに全日を費した、平和の一日である、我心は平和である、我家も亦平和である、不安と波乱とは外より来る、外界は混乱を我と我家とに起して其罪を我に帰す、故に我等は世に接するを好まないのである。

 

 六月三日(土)半晴 青葉に輝く初夏の一日であつた、『英百』に支那と孔子とに関する記事を読みて大に教へられた、孔子の偉らい所も偉らくない所も今に至て能く判明る、孔子を教主と仰いで東洋語国の興らざる理由は明白である、支那研究は日本を救ふために最も必要である。

 

 六月四日(日)晴 麗はしき初夏の聖日であつた、中央講演会不相変満員、暑気加はり空気の流通悪しきに苦しんだ、題目は前講の続き、信者が社会に対するの道「何人にも何物をも負ふ勿れ、但し相互に対する愛は別な(54)り」、「律法を完全《まつとう》する者は愛なり」、信者に取りては聞き慣れたる平凡の道であるやうなれども、普通道徳の立場より見て、深い貴い教訓《をしへ》である、但し我が大熱心を喚起する程の問題でなかつた、大手町に移りてより爰に満(まる》三年、パウロがエペソの市に伝道せしと同数の年月である、全体に見て至て平穏なる感謝に溢れたる会合の連続であつた、「人は棄《すつ》るも神は棄《すて》ず」である、縦し今日此中央講演を廃止するべく余儀なくせらるゝとも余は満足である、余の一生涯に於て最も楽しき三年であつた、感謝の言葉なしである。

 

 六月五日(月)晴 或る商家の店員の集会に於て「商人と宗教」と題し短かき談話をなした。

 

 六月六日(火)晴 久振りにて市中に行いた、外国に行つたやうな感がした、自分と世とは段々と遠かりつゝある事が判る。

 

 六月七日(水)半晴 我等は完全なる神の福音を説く、故に完全なる人である乎のやうに世に思はる、人は「我等この宝を瓦器《つちのうつはほ》に蔵《もて》り」と云ふ事を知らない、故に我等の欠点を見ては福音に躓く、器の悪きを見ては其内に蔵《かく》れたる宝を棄る、然し止むを得ない、「誰か之に堪へん乎」である、我等は自分を伝へるのではない、主キリストを宣るのである、而して人が受けるも受けざるも命ぜらるゝが儘に福音を宣伝へる。

 

 六月八日(木)雨 午後霽る。北海道帝国大学より左の如き通知があつた、

  貴下の寄贈にかゝる「内村鑑三謝恩記念奨学資金」本年度給与額金五拾円也 右資金の寄附条件に基き本学附属大学予科主事の推薦せる左記学生に給与候間此段及御通知候也

(55)毎年一度此愉快なる通知に接す、年中第一の愉楽である、今年此少額を受けて呉れた青年は農学部農業生物学科第一年生小野定雄君である。

 

 六月九日(金)晴 雑誌六月号の発送を終つた、発行日前の発送は近頃稀れなる事である。

 

 六月十日(土)雨 支那地理並に歴史の研究に大なる興味を覚える、日本は支那を離れて考ふべからずである、支那あつての日本である、支那を離れて日本は存在する事が出来ない、地理的にさうである、経済的に、政治的に、道徳的にさうである、我国は天山以東太平洋に至るまで四百五十万方哩の大陸的大国である、我が愛国心を蜻※〔虫+廷〕洲の一島国に局限せずして、黄河揚子江西江の流域全部にまで拡張して我が存在の意義も亦稍明白になるのである、願ふ自今少くとも東亜全体を我が祈祷の題目として我が伝道を進めんことを。

 

 六月十一日(日)晴 中央講演不相変満堂、此日英国陸軍砲兵士官ハートレー・ホルムス氏の参観あり、依て氏に乞ふて一場の演説をして貰つた、前回の独逸ハイム氏と対して好きコントラストであつた、英人は信仰箇条の告白には明白であるが自己は堅く閉ぢて之を言ひ表はさない、之に引替へて独逸人は信仰箇条は之を外に示さないが心情有の儘を語つて憚らない、英人の宗教は箇条的告白のそれであつて、独逸人の宗教は信仰其儘のそれである、誠に英国聖公会の如き教職的教会の起つた事はよく英国人の国民性を現はして誤らない、我等は居ながらにして両新教国の特性を示されて大に悟る所があつた。予自身は羅馬書十三章十一節以下、世の終末と基督教道徳との関係に就て語つた、問題は宏遠であつて時間は短く、誠に要領を得ざる不満足なる講演であつた。


(56) 六月十二日(月)晴 不相変無為疲労の月曜日であつた 〇夜、田中工学博士に嶄新の方法に由り電子エレクトロンを見せて貰つた、霊に非ず物に非ず、半霊的半物質的である、近代の聖書学者が聖書が録すキリストの復活体は半物質的《セミフイジカル》であると評して其真実を疑ふが、然し物質の基礎たる電子は確かに半物質的であつて、之を以てして復活体を説明することが大分に容易になる、何れにしろ今や宗教家が宗教の説明に迷つて居る時に科学者が実験を以て宗教の根本を闡しつゝあるは感謝すべき事である、神学が全く不用になつて、科学に由て純信仰が維持せらるゝ時が来るであらう。

 

 六月十三日(火)晴 伝道の如何に困難なる乎、殊に独立伝道の如何に困難なる乎は今に至つて始めて知つたやうな心持がする、其事が早く解つたならば自分は決して斯んな仕事を択まなかつたであらう、自分は神に欺かれて今日に至つたやうに思ふ、ヱレミヤの言が思出される「ヱホバよ汝は我を欺き給へり而して我は汝に欺かれたり(英訳参考)、汝、我を捕へて我に勝ち給へり、云々」と(耶利米亜記第二十章七節)、人は、殊に日本人は容易にキリストの福音を受けない、受けないのみならず種々の方法を以て伝道者を苦るしめる、「ヱホバの言日々に我身の恥辱《はづかしめ》となり嘲弄《あざけり》となる也」である、自分は今日まで伝道の栄光をのみ見て、其恥辱と苦痛とを見なかつた、然れども今に至つて如何ともする能はず唯其儘に進むのみである、然れども伝道絶大の困難を知つた以上、容易に他に之を勧めないであらう、|伝道、殊に独立伝道は神に余儀なくせらるゝにあらざれば人の執るべき仕事でない事〔付△圏点〕が今に至つてハツキリと判明つた。

 

 六月十四日(水)晴 「若し我に従はんと欲ふ者は己を棄てその十字架を負ひて我に従へ」とあるイエスの言は「|失敗を期して我に従へ〔付△圏点〕」と解すべきものであると思ふ、十字架は失敗の表号《シムボル》である、基督教は十字架教であつ(57)て失敗教(此世に於ては)である、然るを成功を期し、成功を祝し、成功を誇る今日の所謂基督教は偽はりの基督教である、是は成功崇拝の米国人の宗教であつて主イエスキリストの宗教ではない、米国人の宗教は多数教である、多く信者を作り多く弟子を有つのが米国教である、之に対して「汝等散りて各人その属する所に往きたゞ我を一人残さん」と云ふのがイエスの宗教である、願ふ予も亦最後に自分一人となりてイエスの御足《みあし》の跡を践む者とならん事を。

 

 六月十五日(木)晴 用事あり宇都宮に行いた、行けば必ず講演と定まつて居る、午後八時より下野実業銀行奥座敷に於て小集会を開いた、来会者六十余名、頗る盛会であつた、予は「商人と宗教」と云ふ題目を設けて語つた、栃木県に入つてより二十有余年、初めて同県人のハートに触れたやうに感じた、アブストラクト(抽象的)では可《いけ》ない、コンクリート《実物的》でなければ駄目である、以来栃木県に入りてはソロモンの箴言を講ずる事に決た、然し二十年後に此事を覚つたとは自分の愚鈍に呆れざるを得ない。

 

 六月十六日(金)雨 久振りにて日光に往いた、教友四人同道した、然し雨の日光は余り面白くなかつた、梅屋敷の鉱泉に半日を費して帰途に就いた、今や日光は東京の一部分である、目下平和博覧会見物人を以て充満して居る、昔しの閑静は全く失せて純然たる俗地と化した、惜むべき事である、薩長政治家の感化の下に日本全国は隅から隅まで花柳街にひとしき遊覧地と成りつゝある、嗟我れ何処に適帰せんである。

 

 六月十七日(土)半晴 大なる興味を以て露人シユタロウスキー著『西比利亜東北部旅行記』を読みつゝある、西比利亜土人に対し厚き同情を喚起された、憎むべき西洋人よ。


(58) 六月十八日(日)曇 蒸暑き日であつた、中央講演会、聴衆堂に溢れ、七百人以上あつた、眩暈にて倒れし者三人、自分も大分の苦痛であつた、羅馬書十四章以下十六章に至るまでのパウロのヒユーマニチー(人間味)に就て語つた、是れで一先づ本期の講演を終る、東京基督教青年会を逐はれて大手町に移つてより茲に満三年、神我等を護り給ひて会員の数と熱心とは益々加はりて少しも其減退を見ない、会費は入費を払つて余りある、独逸、北海道アイヌ土人、台湾生蕃伝道等に少し許りづつの寄付をさへ為す事が出来て大感謝である、満三年と云へばパウロがエペソに於て為した伝道の年限である、東京の中心に満三年間多数の聴衆に向ひて聖書を講ずる事が出来て余の青年時代の夢想が大部分実現されたのである、此事を為さんが為めにどんな犠牲を払つても惜しくない、神は外国人の手を藉りずして日本人自身を以て日本国の中心に於てキリストの福音を唱へしめ給ふと知つて新時代が亜細亜の天地に臨みつゝあるを感ずる、願くは印度のガンヂと相応じて茲に亜細亜独立の堅き土台を据え得ん事を。

 

 六月十九日(月)半晴 夏休みが始まつて嬉しかつた、先づ第一に諸勘定を済ました、殆んど全日を其ために費した、借金があつては休みが休みにならない、借金を払つて然る後にイエス様を心に迎へる事である、それで山や海に行かずとも本当の休みが始まるのである。

 

 六月二十日(火)晴 暑し、本当の夏が来た、風を引き少し熱があり頭痛がする、床に就て休んだ、終生一人の弟子をも有たない事に就いて考へた、ヱレミヤにバルク一人ありしのみ、エリヤは唯一人のエリシヤを遺した、況して余に於てをや、忠実にイエスの福音を唱へればそれで余の責務は済むのである、教会も団体も弟子もあつ(59)たものではない、それは教会信者の求むる所である、自分はイエス様の前に立ちて「私は一人の弟子をも作りませんでした」と言ひて彼の御歓迎を蒙らうと欲ふ。

 

 六月二十一日(水)晴 咽喉痛未だ全く癒へず、机に就て少しばかりの編輯を為した、不相変|能力《ちから》の不足を感ずる、強くあり得さうで強くない、歯痒きこと限りなしである。

 

 六月二十二日(木)曇 編輯と校正と外国への手紙書きとシユクロウスキーの西此利亜旅行記の耽読に全日を費した、露西亜人が西此利亜土人の間に如何なる罪悪を行つた乎に就て読んで露国が今日の状態に陥りし共通徳的原因を窺ふ事が出来る、而して露人と言はず英人と言はず仏人と言はず自耳義人と言はず、己が利益の為には未開人種の幸福は勿論の事、其身体も霊魂も少しも之を顧みざりし点に於て彼等が取り来りし途は同一轍である、彼等は剣と酒と黴毒とを以て彼等が称して以て非基督教国民となす者を滅し来つたのである、実に憎むべき者は彼等である、縦し少数の善人は彼等の内に在つたとするも国民として彼等が為せし善は彼等が犯せし重大の罪悪を償ふに足りない、永久の呪詛は彼等の上に宿る、若し悔改めざれば彼等すべてが露国と運命を共にするは当然である。

 

 六月二十三日(金)曇 大なるインテレストを以てシユクロウスキーの『西此利亜旅行記』寧ろ流竄録……を読み了つた、(in Far North-East Siberia:by I.W.Shklovsky)、三十五年前にリビングストンの阿弗利加旅行記を読みしに亜ぐの興味であつた、日本より程遠からぬ所に、斯んな広い野蛮国があらうとは夢にも思はなかつた、ヤークツク州だけが広袤百五十万方哩であつて、日本国の十倍である、其内レナ河の流域が九十万方(60)哩であつて日本の六倍である、其東北部にしてオクホツク海に接近するコリマ河の流域が二十二万方哩であつて仏固より大なる地方である、而して全州の人口は三十万足らずであつて、平均五万哩に一人の割である、オクホツク海の北に尽くる辺にギヂガ湾がある、其湾頭にギヂギンスク港があつて、其れより西へ六十哩往けばコリマ流域に入るのである、地理学的に言へば日本の隣邦である、そして其処にヤクーツ、ラムーツ、チユクチ等の土蕃が住んで居て、我がアイヌ族にも劣る生活を営んで居るのである、彼等も亦我が同胞ではない乎、文字なく、随て聖書なく、基督教の神は之を|露西亜人の神〔付△圏点〕と称し、黴毒疱瘡を|露西亜人の疾病〔付△圏点〕と称すると同様に唯之を恐るゝのみなりと云ふ、茲にも亦我が同情を表すべき民あるに非ずや、詩人ローエルの句に「一人の奴隷が憔悴《やつ》れ暮らす所、人が人を援け得る所、其処に我が恋ひ慕ふ故国あり」と云ふのがある通り、残酷なる露西亜人に使役せられて其身体と霊魂とを失ひつゝある是等可憐の西比利亜土人も亦我が愛と祈祷とを要求する者に非ずや、加察加半島、沿海州、ヤークック州等の経済的開発の業は之を他人の手に任す、我は其住民の霊魂の為に我が献げ得るの能力を献げなければならない、或は札幌のジヨン・バチラー先生を援け促して、彼のアイヌ伝道をして更らに西比利亜東北部にまで拡張せしむるも妙ならん、何れにしろ露国少壮の文士シユクロウスキー君の此著を読んで我がキリスト的同情の拡大せられしを覚え言ひ難き感謝である。

 

 六月二十四日(土)晴 昨夜七時半東京駅を発し、東海道汽車の中に一夜を過し、朝七時半京都七条に着いた、久振りの西下である、例の通り新町通り竹屋町下る便利堂に客となつた、主婦里方|後事《あとかた》の処分に関し終日俗事に奔走した、司法代書人の事務所を訪ひ、其質問要求を受けて辟易した、道徳上の大真理は知つて居る積りの自分も法律家の前に出づれば小児であつて唯々諾々彼の命に従はざるを得ない、何事も分業であるとは言へ、宗教と法律とはこんなに違うものであるかと今更らながらに驚いた、斯くて折角の入洛も其山水の美を楽しむの暇なく、(61)唯権利だとか義務だとか、印鑑証明だとか、戸籍謄本だとか云ふ問題の為に全日を費した、Oh botherations!(煩雑《うるさ》き事よ)。

 

 六月二十五日(日)雨 朝在京都同志の集会あり 之に出席して羅馬書十五章十三節に就て話した、来会者六十有余名 〇午後近江八幡に行きボリス氏を訪問し、近江ミツシヨンの事業を参観した、其規模の大にして整頓せるに驚いた、夜教会に於て十五分間程の談話を為した、牧師は高橋卯三郎君、『聖書之研究』の旧き寄稿者である、其他に知人多く、此不信の地に基督教的殖民事業の起りしを見て喜んだ、此夜ボリス氏夫婦の客となり、静かなる一夜を過した。

 

 六月二十六日(月)雨 昨夜江州八幡ボリス氏方に一泊す、今朝ウオタハウス老人と汽車を同うして京都に帰る、車中不相変快談を継続す、老人曰く「若し絶対的に過失《あやまち》を避けんと欲せば何事をも為さゞるに如かず、事を為す人は必ず過失を為す、我等は過失を恐れて無為の生涯を送るべからず」と、真に慰安に富める深い実験の言である 〇主婦生家の不動産売渡しの件につき尠からず苦心した、此世の子輩《こら》の最大事件は売買である、最大の宝は金である、物と金との交換である、其事が煩雑極まりないのである、余は聖書の言を思ひ出した、「何故に糧《かて》にもあらぬ者の為に金を出し、飽くことを得ざる者の為に労するや、我に聴従《きゝしたが》へ、然らば汝等|美物《よきもの》を食ふを得、脂をもてその霊魂《たましひ》を楽まするを得ん」と(イザヤ書五十五章二節)、談判又談判、証文又証文、法律家と司法代書人の援助を藉りずしては安心ならずと云ふ、何んと厭な世の中ではない乎、主イエスは言ひ給ふた「汝等たゞ是々《しかり/\》否々《いな/\》と言へ、此より過るは悪より出る也」と、是々否々だけで万事を決する事の出来ないのは、世が罪に沈み居(62)る何よりも確《たしか》なる証拠である。

 

 六月二十七日(火)半晴 俗事一先づ片附き稍晴れたる心を以て午前九時十五分京都発の汽車にて帰途に就いた車中『古文真宝』を読んで無聯を慰めた、「雨中百艸秋爛死す、※〔土+皆〕下の決明顔色|鮮《あざやか》なり」……「剛強なるは必ず死し仁義なるは王たり、陰陵道を失ふ天の亡せるに非ず」……昔の支那人の言なりと雖ども今の司法代書人の書いたる土地家屋売渡証よりも遥に美はしい言である、金持には成りたくない、詩人には成りたい、縦し一寸の土地を有せずとも、浜名湖を眺め、富士山を仰ぎて詩心が起れば我は日本全国の所有者以上の富者である、斯く思ひつゝ特別急行列車に振られながら夜七時二十分東京駅に着いた、懐しき大手町の衛生会講堂は電燈の光を浴て輝き、我は再び我が領土に帰り来りし心地がした。

 

 六月二十八日(水)雨 旅行疲れにて終日休んだ、新聞紙を読まざること五日、其間に幾多の大事件の起つた事を知つた、我国に於ては東伏見宮殿下薨去せられ、英国に於ては元帥ウイルソン暗殺せられ、独逸に於ては外務大臣ラテナウ、彼も亦暗殺せられた、死は相も変らず夜となく昼となく全人類を支配しつゝある、惟一人死して甦り今や永久に生き給ふ神の独子のみ生命を以て死に勝ち給ひつゝある、彼を信じ彼に頼りて復活の奇蹟は我身に於て行はる、是れ我に生命の快楽を供せんが為ではない、賤しき我に在りて神の栄の顕はれんが為である。

 

 六月二十九日(木)雨 俗事略ぼ片附き又復研究に入つた、共観福音書問題に多大の興味を覚えた、今更ながらに馬可伝の価値を知つた、「是れ神の子イエスキリストの福音の姶なり」とは実に偉大なる言である、簡潔にして有力なる此福音書は無くてならぬ者である。

 

(63) 六月三十日(金)半晴 近頃に至り益々強く基督教の富者の宗教にあらざる事を感ずる、「富者の神の国に入るよりは駱駝の針の孔を穿《とは》るは却て易し」、「汝等富者は禍ひなる哉既に安楽を受くれば也」、「富者よ汝等既に来らんとする禍害《わざはひ》を思ひて哭叫ぶべし……汝等此末の日に在りて尚ほ財を蓄ふる事をせり」、其他富者を詰《なじ》る聖書の言は無数である、|斯くて富者たるは悪事でないとしても確かに不幸である〔付△圏点〕、富者たるの不幸に比べて貧者たるは遥かに幸福である、米国流の基督教が根本的に間違《まちがつ》て居る理由は一目瞭然である、富者が教会に於て其富を恥ぢ、教会が富者の不幸を認めて之を憐むに至らざれば本当の教会でない、余は斯く言ひて敢て多数の貧者に媚るのではない、然れども富が重視せらる今の時に方て聖書に由りて富の真価を知るは最も大切である、「汝等富者は禍ひなる哉」と(路加伝六章廿四節)、此言を発し給ひしイエスの弟子たる者は、時々富者に対して鉄《てつ》と銅《あかゞね》の面を向くるの信仰がなくてはならない。

 

 七月一日(土)曇 宗教が堂字として現はるゝ時に其生命は失するのである、仏教が大伽藍として現はれし時に信仰的に死んだのである、基督教亦然りである、而して我国に於て基督教諸数会が競ふて大会堂の建築を計画し、又其落成を見るに至て、外国宣教師に由て輸入されし我国の基督教が一先づ其末期に近づいたのである、然れども一が死して他が興るは天然の法則である、宣教師的基督教が大会堂として現はれて死に就きし時、永久に教会化されざる基督教が起るべきである、今は無教会的基督教勃興の時代である。

 

 七月二日(日)曇 南風強くして蒸暑し。今井館に於て礼拝会を開いた、来会者八十余名、久振りにて小集会の喜楽を覚えた、畔上と共に講壇に登り、余は歴代史略上の二十一章一-十七節、ダビデが民を数へてヱホバに(64)罰せられし段に就て語つた、God has no interest in statistics(神は統計表に興味を有ち給はず)、事業の成績を統計に挙げて喜ぶ近代人、殊に米国人の迷謬に就て語つた、柏木の聖会はまた特別であつた。

 

 七月三日(月)曇 校正日である。蒙古地理と蒙古人の歴史を読んで大なる興味を覚えた、一時は蒙古人が亜細亜の全部と欧羅巴の半分を支配した時があつた、然かも文明を布くにあらずして之を破壊し、到る所に荒廃を齎らした、近代の欧洲人の東洋侵略は悪むべしと雖も、第十三世紀に於ける亜細亜人の西洋侵略は更に更に惨酷を極めたる者である、若し前者は後者の復讐に過ぎないならば東洋は西洋に対し答ふるの言辞《ことば》を有たないのである、成吉思汗《じんぎすかん》、忽必烈《こつぴつれつ》等の事績を読んで東洋は西洋に恥ぢざるを得ない、願ふ東洋の日本が天の恩恵を四方に施して幾分にても蒙古人種の罪を償はんことを。

 

 七月四日(火)大雨 引続き校正日である。ジヨン・ベーリー著ジヨンソン小伝(Dr.Johnson and His Circle,by John Bailey)を読みて又復ジヨンソン熱を起した、愛すべき人とて此老文豪の如きはない、彼は正直で、勇敢で、独立で、常識に富んで、而して敬虔で、余の知る英国人、即ち我国在留の英国商人並に英国々教会派遣の宣教師等とは正反対の人物である、英国人は近代の猶太人である、其多数は禽獣と偽善者、而かも其内に時々ジヨンソンあり、カーライルあり、リビングストンありである、而して彼等の内に善人と義人とが尠い丈けそれ丈け之等の人が貴くある、英国に於ける純宗教は其偽善教会に於て非ず、ジヨンソンを以て代表されたる其健全なる文学に於てある、愛すべき哉ドクトル・サム・ジヨンソン!

 

 七月五日(水)曇 引続きジヨンソン伝を楽読した、自分も若し英国に生れたならば純文学者となりて、牧師(65)やエバンジエリストの真似を為さずに済んだであらうと思ふ、然し自分の場合に於ては止むを得ない、自分が聖書を説くは今日の場合に於ては愛国的義務である、英国に聖書が在つたからこそジヨンソンやカーライルの如き人物が出たのである、而して余は今日の日本に於て聖書を説いて数百年後の日本に同じ様なる清潔勇敢なる文士を産出せんと欲する、牧師や宣教師の為す事を為すは大なる恥辱である、然し乍らキリストの為に之を忍ばなければならない、但しジヨンソンに傚ひ教会の供する米は一粒も食はず、宣教師の給するパンは一片も摂《とら》ざるは必要である。

 

 七月六日(木)晴 終に平和博覧会を見た、但し全部は見なかつた、半分見た、第二会場丈け見た、北海道館、樺太館、台湾館、孰れも面白かつたが、最も面白かつたのは外国館であつた、殊に目に附いたのは諸外国出品の光学的器械であつた、望遠鏡と検徴鏡であつた、我国に於ける電気事業の発達に驚いた、帰途番町に十七年間病の床に就ける某老姉妹と彼女の娘を訪ふた、我が説く福音が少しなりとも彼等を慰めつゝあるを見て感謝した、又附近の女子英学塾を参観し、其の寄宿生にして大手町の会員たる者の歓迎を受けて嬉しかつた。

 

 七月七日(金)晴 暑気強くして働き得ず、半日を無益に過した、天には火星が同じ赤色のアンタレスに接近し蠍座のタウ号と等辺形の三角を作り見物《みもの》である、聖書は馬可伝二章を研究し是れ亦非常に面白かつた。

 

 七月八日(土)雨 昨日母屋の改築を始めた、其材料は明治三十二年角筈に建てしもの、同四十年之を柏木に移して今日に至つたのである、誠に粗末の家であるが多くの歴史の籠つて居る家であるが故に之を棄つるに忍びず再たび改築する次第である、経済上から言へば之を他に払ひて新たに造るに如かずと雖も、情から言へば之を(66)保存したくなる、我が一生の事業の成りし古家《ふるいへ》である、故に貴くある、余は余の一生涯に唯一軒の小屋を建てゝ之を二度改築して其内に一生を終りし事に成るのである、感謝である。

 

 七月九日(日)曇 時々驟雨あり、南風にて蒸す。今井館に於ける礼拝に満堂の来会者あり、前会以上の盛会であつた、畔上詩篇四十二、三篇に就て講じ、余は讃美歌六十八番「ベツレヘムの星」に就て少しく語つた、不相変恩恵溢るゝの聖日であつた。

 

 七月十日(月)雨 税務署より呼出されて出頭した、山林、田畑、貸金、株券等よりの収入はある乎と問はれたからそんな者はないと答へた、職業は何かと問はれたから基督教の伝道師であると答へた、それならば俸給がある筈だ外国人か教会から俸給を受けて居るだらうと問はれたから断然無いと答へた、若しさうならば課税する事は出来ないと言はれたから、それはさうであらうが自分には年収八百円以上あるは確かである、且又自分の如き他《ひと》に納税の義務を果たすべき事を教ふる者が、自身免税に与かるのは心苦しいから縦令小額なりとも納めさせて呉れと言ふたらば、税吏は喜んで承諾して呉れた、余は日本政府が我等救霊の業に従事する者に対して甚だ寛大なるを感謝した、「貢を受くべき者には之に貢ぎし、税を受くべき者には之に税」すべしである(羅馬書十三章七節)、税は国家の保護を受くる其謝礼であると思へば之を払ふは辛くない。

 

 七月十一日(火)曇 此二三日来旧約に於ける新約に就て考へた、新約は明白にアダム、アベル、ノア、アブラハム等の事蹟に於て在る、|其中心的真理は神の子の贖罪の死である〔付○圏点〕、之を信ずる事に由て神が人に下し給ふ最大の恩恵即ち永生がある、「神の遣しゝ者を信ずること是れ即ち其|業《わざ》なり」である(約翰伝六章二九節)、伝道事業(67)も社会事業もあつたものでない、茲に神の業《わざ》があり又人の業がある、人が之を受けやうが受けまいが、其の世に現はれたる結果は如何でも可い、茲に完全なる救拯《すくひ》は既に成就せられたのである、何も急ぎ又は焦心るに及ばない、何にも汚れたる我が心を省みて失望するに及ばない、唯彼を仰ぎ奉れば足りるのである、嗚呼歓喜の極!

〇七月号雑誌成り、感謝と祈祷を以て発送した。

 

 七月十二日(水)晴 書斎の大整理を行つた、借りた本はすべて返した、貰つた本はすぺて之を同志に買つて貰つて其代金を伝道金の内に繰入れた、斯くして数百冊の古本を処分して書斎が広々した、思想の独立は貰つた本は読まざるより始まる、殊に宗教本に於て然りである、今や教勢拡張の為に宗教本の施与が盛に行はるゝ此時に際し、貰つた本は決して読まざるべしとの規則は之を厳格に守つて益する所が多い、自分の信仰を他に強ふるは大なる罪悪である、我等は米国人に傚つて求めざるに書籍を他《ひと》に送つて此罪悪を犯してはならない、余も今日まで長らくの間此慈善に与り、心の平安と信仰の発達とを如何程妨げられしか量り知る事が出来ない、|自分が金を払つて買つた本の外は決して読まざるべし〔付△圏点〕との規則はアブラハム・リンコルンの守りし規則であつて、何人も守るべき者であると思ふ。

 

 七月十三日(木)曇 東北の風吹きて涼し。英国有名の地理学者クレメント・S・マーカム著 Lands of Silence(極地探検史)を読み始め非常に面白かつた、自分には大旅行も大登山も出来ないから大探検家の伝記を読みて、坐して極地の寒気に触れやうとして此大著述を求めた次第である、夏季の読物として之に勝さる者はあるまい。

 

 七月十四日(金)曇 朝柏木の家を出て、書生と共に昨年同様信州浅間山の麓の星の湯に来た、休まん為と働(68)かん為とである、山も川も鳥も草も変ることなくして我等を迎へて呉れた、此夜の静けさと云ふたら譬ふるに物がなかつた、昨年九月此処を去つて以来の本当の休みである、汽車中に馬可伝を読みつゝありしに其六章三十一節が此際自分に宛られし言葉であるかの如くに感じた、曰く「イエス言ひ給ふ、汝等人を避け、寂しき処にいざ来りて暫し息へ」と。

 

 七月十五日(土)晴 唐松の林を払ふて吹来る風涼しく、之にバルサムの香加はりて、我が一年の疲労を一夜の中に癒したるが如くに感ずる、芳切)や鶺鴒と宿《やどり》を共にして歌は自づから我が唇に上る、年齢は歳の数ではない、心の状態である、永遠的希望を懐き、宇宙的歓喜に盈ちて人は百歳になりても青年である、然り小児である、近頃ネルソン・アンドリウと云ふ人が『春青の発見』と題する書を著はして、其内に「春青は神の国と同じく汝等の衷に在り」と言ふた事であるが、洵に其通りである、神の子の罪の贖ひを信じ、彼の霊の宿る所となりて、永久の春は我が有である、余自身は今年六十二歳であるが、余の人生のプロスペクト(前途の望)は二十代のそれと少しも異ならない、キリストを信ずる最大利益の一は何時になつても若々しく在り得る事である。

 

 七月十六日(日)晴 最も静かなる安息日であつた、講演を為ない日曜日とては自分に取り滅多にない事である 紐育発行『聖書評論《ビブリカルレビユー》』に蘇格蘭S・D・ケーンス博士の「モーセの生涯を以て例証されたる神の摂理」と題する説教を読んだ、流石はジヨン・ノツクスの国丈あつて本当の基督教の未だ猶ほ絶えざる事を知つて嬉しかつた、最も健全なる思想は蘇格蘭より来る、カーライルもリビングストンもヒユームも皆な蘇格蘭人であつた、日本の浅間山麓に於てケーンス先生の説教を聞き、之に共鳴し得るの特権は又大なりと言ふべきである。

 

(69) 七月十七日(月)晴 完全なる休息日であつた、軽井沢から蕗子さんと文子さんの姉妹が尋ね来て半日遊んで帰つた、善く遊んだ日は善く働いた日丈け有益である。

 

 七月十八日(火)半晴 涼しい善き日である、共観福音書問題に没頭して居る、若し高等批評が唱ふる基督教が本当の者であるならば、基督教は何んと用の尠ない宗教ではない乎、斯んな者を信ずる為に貧困と迫害とを冒す必要は少しもない、余は宣教師や教会とは何の干《かゝ》はる所はないが、余の信ずる基督教はやはり旧い十字架の福音である、然し近代人の聖書研究も亦之を学んで大に益する所なき能はずである。

 

 七月十九日(水)半晴 朝五時に起き半日かゝつて推誌の編輯半ば以上を終へ、之を東京の印刷所に送つて大なる緩和《ゆるみ》を覚えた、何処《どこ》に居つても此事丈けは為さなくてはならない、而して又為す事が大なる快楽である。

 

 七月二十日(木)晴 昨夜空晴れ、高原の星覗きは特別であつた、木星が浅間山に没せし頃、火星は赤き提燈の如くにアンタレスと並んで煌いた、而して透通《すきとう》りたる青黒き空を天の河が、北はカシオピヤより南は射手座まで白雲の棚引くが如くに流れし光景は荘厳と云ふより外に言葉がなかつた、之を見る丈けに此地に来る価値が充分にある。

 

 七月二十一日(金)晴 興味無《つまらな》い者とて聖書の批評的研究の如きはない、近頃読みし高等批評の憶説一二を挙げんに曰く「イエスが遽《にはか》にガリラヤ伝道を廃めてヘルモン山麓に退きしは、弟子等のユダヤ巡教中に神の国の奇跡的出現を期待せしも其事なかりしに失望せし故なり」と、又曰く「ルカが使徒行伝を著はせしはネロー帝の法(70)廷に引出されしパウロを弁護せんが為なり」と 斯かる憶説を幾許《いくら》聞かされても我が霊魂は少しも奮起しない、聖書は生命の書であるが故に、之を批評的に解剖して其意味は消えて了ふのである、斯んなものを読むよりも天然科学を学ぶ方が遥に増しである、『家庭大学叢書《ホームユニバーシチーライブラリー》』中R・R・マレツト氏のペンに成る『人類学』の一冊は多くの暗示を供する書である、「人類学は進化の思想を以て刺激され又充実されたる人類歴史の全体である、進化の道程に在る人類-是が人類学全部に渉りたる研究の題目である云々」と、信仰は信仰、学問は学問、学問化したる信仰(高等批評は是である)は信仰化したる学問丈け其れ丈け無用有害である、紙の価値ほども無いと称すべき者は近代人の聖書研究である。

 

 七月二十二日(土)晴 馬太伝廿四章並に馬可伝十三章に関する批評家の註解を読んだ、何の事やら少しも解らない、彼等は我国の近代人の如くに、キリストに教へられんと欲せずして、自分の説を彼に強ひんとして居る、曰く「先生、貴下はさう信じやう筈はありません、かう信ずべきであります」と、実に我儘勝手なる者にして今の近代人の如きはない、而して所謂高等批評は近代人の精神を以てする聖書研究である、斯んな価値《つまら》ない者はない、而して彼等は彼等の頼む高等知識を以てして聖書を解することは出来ないが、聖書は彼等を解して誤らない「イエス答へて曰ひけるは汝等人に欺かれざるやう慎めよ、そは多くの人我が名を冒し来り我はキリストなりと言ひて多くの人を欺くべし處……此時多くの者|礙《つまづ》き且つ互に附《わた》し互に憾《うら》むべし、また偽預言者起りて多くの人を欺くべし、|また不法盈るに因りて多くの人の愛情冷かになるべし〔付△圏点〕、然れども終まで忍ぶ者は救はるゝ事を得ん」と(馬太伝廿四章四-十三節)、我儘勝手の人出で不法世に盈るに至らんと、是れ近代人跋扈の今日の状態である、然し恐るゝに足りない、斯くあるべしとは主の預言し給ひし所である。

 

(71) 七月二十三日(日)晴 山荘に於て小集会を開いた、来会者軽井沢、小諸、御代田より十二人あつた、其内に良友米国人ワータハウス老人もあつた、自分は約翰伝五章三十九節を講じた、会後昼飯を共にし、賑かなる兄弟的会合であつた。

 

 七月二十四日(月)晴 昨日の集会にて少しく疲れた、絵ハガキ十数枚を書く事と他に鮒を釣る事の外に何事をも為し得なかつた、人類学に「人種」の一章を読んだ。「人類学的に観察した人種なる者は目下の処劃然たる或物として存せず」との事である、即ち人類学的に観察して「神はすべての民を一の血より造り悉く地の全面に住ましめ給へり」とのパウロの言を否定する事が出来ないのである(行伝十七章二十六節)、其蘊奥に達して科学も宗教も同じ事を語るのである。

 

 七月二十五日(火)半晴 栃木県鈴木保一郎の通信に曰く「労働の閑を得て今朝『研究誌』を読みました、七月号、誠に理義明徹、渾熟したるもの、緊張、充実、斯の如き読み物は日本に於て何処に得られませうか、小生は神様が先生の上に猶多くの寿を置き給ふて此喜ばしき、備はれる、義しき道を宣ぶる時の長からん事の切なる祈りを捧げました云々」、労働の子にして本誌初号以来の読者たる此友の言は大なる慰藉を与ふる者である、聖書は鍬を手にしながら読んで其意味が最も善く解る、鈴木君の如きは此最も多く恵まれたる地位に置かれたる者であると思ふ。予防医学研究の為め欧米遊学中の星野医学士紐育発の通信の一節に曰く「……此頃は日本の貴い所、美しい所、使命とする所がよく解るやうになりました、桑港で会つたストーヂ博士が「米国人は決して霊的でも宗教的でもありませんよ、日本人の方が優つてゐます」と申されたのは日本贔屓の同氏の言だからとは言へません」と。


(72) 七月二十六日(水)霧 「日々の生涯」も余りに長く続きたれば茲に之を「一日一生」と改題する、然し記す所は変らない、一平信徒の平凡なる生涯の記録である、神に依る生涯であれば星や草木のそれと同じく平凡ならざらんと欲するも得ない、世に大ならんと欲するの野心は疾《とく》に之を十字架に釘けたのであれば信者の生涯に花々しき事の在りやう筈がない、|日に日に神に導かれ行く、嗚呼其の楽さよ、善は勿論善くある、悪も亦善くある、凡ての事が悉く共に働きて善を為すといふのである、斯くて毎日が意味深き一生である、無意義の日とては一日もない、仕事は手に余る程ある、然れども急がない、知識欲は青年時代と少しも異ならない、毎日何にか大真理を発見する、全世界が我が活動の舞台である、人類に関する事にして一として我に感興を起さゞる者はない、而して我が常時の歓びは我が主イエスキリストである、「我が歓び我が望み、我が生命《いのち》の主《きみ》、昼たゝへ夜うたひて、なほ足らぬを思ふ」とは文字通りに事実である(讃美歌二百四十六番)、まことに一日一生である、朝に道を聞いて夕に死すとも可なりと云ふが、主イエスを信ずるの一日は信ぜざるの百年にも勝りて福《さいは》ひである、而して此の生涯を何年続けやうと此幸福は絶えないのである、信者の生涯其物が讃美歌である、我がペンが我が手より落る時まで此讃美歌は継続するのである。

 

 七月二十七日(木)霧 馬可伝十五章を研究した、ハガキ八枚書いた、雑誌原稿二頁分を作つた、書生と共に徳川家康と大久保彦左衛門、大関秀吉と曾呂利新左衛門に就て語つた、又宿の支配人と山地利用法に就て話した、其他小川の畔《ほとり》に野花を摘とり、鶺鴒の行動を観察した、まことに楽しき有益なる一日であつた。

 

(73) 七月二十八日(金)曇 久振りにて馬可伝を研究して大なる能力の我霊に加はるを覚えた、余は書生に告げて言ふた、「驚くべきは聖書である、余は明治十一年、今より四十五年前、余が十八歳の時に初めて此馬可伝を読んだ、而して六十二歳の今日、之を読んで更らに一層其|深味《ふかみ》を感ずるのは是れ何が故であらう、余の一生に於て余が耽読した書は幾個《いくつ》もあつた、然し三度以上読んだ書とてはダーウインの『種の原始』とギゾーの文明史との外には無い、然るに聖書は全然例外である、聖書殊に新約聖書は何十回読んだか知らない、而して読めば読む程興味が加はり、新らしき真理を発見する、殊に四福音書に至ては其深さは到底測ることが出来ない、人が其一生に於て学ぶべき伝記は唯一つある、イエスキリストの伝是である、僅に三十三歳を以て其一生を終りし此ナザレ人の伝、是は学んで学び尽すことの出来ない伝記である、彼は単《たゞ》の人であらう乎、神の子と称《い》ふより他に称ふ事の出来ない人である、嗚呼深い哉、深い哉、人生何が幸ひであるとて青年時代に聖書に親しむを得し幸福に優さる者はない云々」と、書生大に感ずる所ありしが如し、依て新刊英文馬可伝註解書一冊を買求めて、之を彼に与へて其研究心を励ました。

 

 七月二十九日(土)晴 引続き人類学を読みて多大の興味を感じた、明日の説教の準備を為した、腓立比書四章十一節が終日我心に響きて聞えた。

 

 七月三十日(日)晴 忙しい日であつた、朝は男女十六七名の来会者あり、余は創世記九章十二-十七節、黙示録四章二、三節に由り「虹の意味」に就て語つた、午後は軽井沢よりワーターハウス、ウツドワースの二老人の訪問あり、二時間に渉り快談した、ワ氏は七十二歳、ウ氏は六十六歳、余は六十二歳であつて齢から云へば三老人の会合であつた、然し乍ら談話の題目並に調子より云へば三青年の団合であつた、我等は二時間に渉り笑ひ(74)続けた、其内ウ氏が最も笑談の材料に富んでゐる事が判つた、我等は小児の如き祈祷を共に為して別れた、二老人が自転車に乗り元気好く帰途に就きしを送つて後に間もなく、チヤプマンとラマツトなる今度は本当の二青年宣教師の訪問を受けた、我等は一時間の談話を交へて後に別れた、青年は青年として好し、老人は老人として良し、|然し乍ら老人にして青年なるは最も宜し〔付△圏点〕、イエスの為に大事業を為さんと欲する野心《アムビシヨン》に至つては我等の間に青年と老人との区別は更らに無い 〇此日書生東京に帰り、家族の者は未だ来らず、自分一人残されて甚だ淋しく感じた、久々振りにて自分で自分の食物を調理し、台所に立ちて食器を洗ひ、雨戸を閉め、布団を敷き、独りで眠に就いた、三十六年前のアマスト時代の経験を想出す、独身者の簡易生活の快楽は又特別である。

 

 七月三十一日(月)晴 ロビンソン・クルツソー的の一人生活である、簡単なる朝飯を作るに二時間を費した、最も其内三十分は蠅征伐に費した、之では到底他の仕事の出来ない事を覚つた、家の女中に対し厚き同情を表する、彼女は毎日台所に働いて我が事業を助けて呉れるのである、彼女なくして伝道も著述も出来ないのである。

 

 八月一日(火)晴 引続き単独の一日を送つた、静なる生産的の一日であつた、R・R・マレツト著『人類学』を読了つた、近頃読みし書の中で最も有益に感ぜし者の一である、著者は勿論進化論者である、然し乍ら人類を単に環境の産物として取扱はない、凡そ二十五万年程前に人類が初めて地上に現はれし時に彼に既に来世を望みし其遺蹟があると云ふ、何れにしろ感情に流れ易き宗教論に非ずして、冷静なる科学者の立場より人類の原始とデスチニーとを論ずる所に、余に取りては多大の慰安と興味とがある、余の心の平安を紊す者にして全然主観的立場に立ちて万事万物を批判する宗教家の提言の如きは無い。

 

(75) 八月二日(水)曇 引続き単独である、書く事と読む事の外は何もない、然し書く事と読む事とはいくらでもある、斯んな事を思ふた、日本人は駄目である、西洋人は駄目である、人は皆んな駄目である、人は人を満足させる事は出来ない、然し神は完全である、神と偕に在つて我は満足である、而して神に満足させられて日本人も西洋人も、人と云ふ人は何んな人でも皆んな善くなる、人の善悪の問題でない、神の有無のそれである、神さへ我と共に在《まし》ませば我に不足は何もない、|神第一である〔付○圏点〕、余《あと》は何うでも可い、然し注意しないと悪人俗人の騙《だま》す所となる、此世と教会とは我が聖書の歓喜までを利用せんとする、故に交際は成るべく避けて単独は成るべく求むべきである。

 

 八月三日(木)曇 沢山読み、沢山書き、沢山働いた、話し相手は一人もなく、静粛の極みである、鶯と杜鵑と鶺鴒と宿《やどり》を共にして我心は平安ならざるを得ない、人類は初めて地球面上何処に現はれたのであらう乎、アダムは確に最初の人ではない、|人類の救済史に現はれたる最初の人物である〔付○圏点〕、宗教と道徳と何れが大切である乎、斯う云ふ問題が我が頭脳《あたま》を往復する、何れにしろ人を離れて独りで居る事の如何に幸福なる乎を感ずる、変貌の山に於けるペテロの如くに「我等此所に居るは善し」と言ひたくなる、復び罪の街《ちまた》なる都、殊に其宗教界に帰らねばならぬ乎と思ふと悲しくなる、何故水鶏や黄鳥《オリオール》や翡翠《かはせみ》と何時までも共に居る事が出来ないのである乎、誰が宗教界の蝮や蠍に近づくことを命じたのである乎、自分ながらに解らない、何れにしろ聖書と科学書一冊の外は何も持たずして河辺に独り棲むの聖快と云ふたらば譬ふるに物なしである。

 

 八月四日(金)晴 柏木より主婦と姪とが来た、是で単独の生涯が終つた、五日振りにて女の調へた食饌に就いた、悪くはなかつた。


(76) 八月五日(土)晴 軽井沢に行いた、先づチヤプマン君を訪ふて演説原稿のタイプライチングを依頼した、次に同氏に伴はれ、ワータハウス老人も同道して福井滞在のラモツト君を訪ひ一時間談じた、町に出て多くの知人に遭ふた、青山学院の老チヤプマン君、書類会社のブレイスウエート夫人、札幌のローランド君等と何れも堅き握手を交換した、英米宣教師中に知人の多い事に自分ながらに驚いた、正午少し過ぎ沓掛の山荘に帰つた、残り半日は雑誌の校正に費した、山に在ても閑暇とては殆んどない。

 

 八月六日(日)晴 暑い日であつた、朝の集会を公開した所来会者男女老若十七人あり、気持の好い集会であつた、自分は「貧者の幸福」に就て語つた、此日期せずして内外の友人より種々《くさ/”\》の愛の贈与あり、感謝は一時に我心に溢れた、基督者の生涯に聖く楽しく守りたる安息日ほど貴い者はない、今日も亦たしかに其の一日であつた。

 

 八月七日(月)晴 電報の誤りにて三谷民子女史今朝三時四十五分沓掛駅着と聞き、三時床を出て彼女を迎へんとて夜途《よみち》を独り駅へと急いだ、夏のオライオン星は七個揃ふて水平線より出たばかり、月は浅間山頂に懸りて得も言はれぬ壮観であつた、彼女は其汽車では来なかつた、然し彼女の故を以て夏の払暁《あけがた》の参宿と昴宿と其附近の星座を見た、其れ丈けが充分の報酬であつた、彼女は次ぎの汽車で来た、而して我等と朝飯を共にして又其次ぎの汽車で山田の温泉に行いた。

 

 八月八日(火)晴 大学の小野塚博士並に夫人に招かれて軽井沢なる同氏の別荘を訪ふた、昼食の饗応に与り雑談三時間に渉り、有益且愉快であつた、途中又多くの知人に会ふた、夏の軽井沢は余の如き者に取りても最良(77)の交際場である、此所に来て隠遁生活を押通す事は出来ない、汽車に乗ても、道を歩いても「アナタは内村先生です乎」と云ふ者、Mr.Uchimura,l suppose と云ひて声を懸けて呉れる者が絶えない、軽井沢に来て余も亦「社交的動物」の一頭と化するのである。

 

 八月九日(水)半晴 稍や涼し、明日の英語演説の準備にて忙し、斯んな約束を為すべく余儀なくせられた事を悔《くや》んだ、余は独りで置いて貰ひたい、演説に引出さるゝは迷惑至極である。

 

 八月十日(木)晴 遂々《とう/\》引出されて軽井沢|西洋人会堂《アウヂトリアム》の高壇に登つた、神学博士C・A・ローガンの主会の下に、神学博士H・E・ウツドワースの後を受けて英語演説を為したのである、実に辛らい事であつた、預言会議並に猶太人改信祈祷団の主催になる集会の事であれば、之に因《ちな》める題に就て演説するべく余儀なくせられた、余は『猶太人と日本人』なる題を選んだ、聴衆は主《おも》に西洋人で凡そ百三十人、余の講演は朗読演説で二十分足らず、終つて多くの人達に賞められた、自分には少しく英語の復習を為した外に何の益もなかつた、唯自分に対する宣教師の悪意を少しなりと除くを得たれば夫れ丈けが益であつた、「我に逆はざる者は我が味方なり」である、暑中の英語演説も全く無益でなかつたかと信ずる、他に二三の米国人に捉《つか》まり、布教上多くの事を聞かれて、午後五時半ガツカリ疲れて沓掛の山荘に帰つた。

 

 八月十一日(金)晴 午後雷雨あり。今日も亦朝から軽井沢に引出された、軽井沢ホテルに於てワーターハウス老人司会の下に催されし聖書教授法研究会に出席した。来会者は二人を除く外はすべて西洋人で凡そ五十人あつた、主なる喋言者《しやべりて》は余自身であつた、余は一時間余に渉り、余の聖書教授法に就て説明し、後は来会者の種々(78)雑多なる質問を受けた、英語で話すのは昨日同様辛らくあつたが、昨日よりも遥に満足なる会合であつた、聴衆も遥に善く、質問はすべて真面目であつた、会を終へて後にG・K・チヤプマン君に昼食に招かれた、米国プリンストン大学実地神学教授エルドマン博士と席を共にするを得て甚だ愉快であつた、日本に於ける基督教の状態に就て大に博士に訴ふる所があつた、然し信仰堕落は今や日米共通であれば博士も如何ともする能はざるやうに見受けた、余が学びしアマスト大学すら今や不信者の学校であると聞いて驚いた、許多《あまた》の米国宣教師は布教の為に日本に来て居るが米国其物に於ては本当の基督教は消えつゝある、畢竟《つま》る所博士に訴へた所が効力は甚だ尠いと信ずる、頼るべきは神と己と己と主義信仰を共にする少数の同志とである、午後三時辞して沓掛の山荘に帰つた、是で軽井沢と西洋人とを終つた、是れからが自分の仕事である、昨日軽井沢のテニスコートの傍に於て旧知の宣教師某君に遭うた所、同君は余に向つて曰ふた「|君は宣教師は嫌ひだが〔付△圏点〕東京に帰つたら余を訪ね給へ」と、嫌ひと知つたら斯んなに使つて呉れなければ更に有難い、余は教会と宣教師とを援けしめらるゝも、教会と宣教師とは余を援けて呉れない、然り彼等は余を援ける事が出来ない、教会を援けて益する所は唯僅に彼等に悪口せらるゝ事を少しく減ずる位ゐが頂上である、情《なさけ》ない基督教界である。

 

 八月十二日(土)晴 二日間の精神的労働で大分に疲れた、高山※〔金+申〕吾君東京より来り大なる慰安であつた。

 

 八月十三日(日)晴 聖会出席者二十五人あり、頗る盛会であつた、『苦しみに勝つの途』と題し、馬太伝十一章廿八節以下に就て講じた、旅館よりオルガンを借受け、軽井沢より来りし某姉妹に弾いて貰ひ、山と谷とに響かせ、声高らかに讃美を唱へて愉快であつた 〇午後五時高山君と共に沓掛駅を発し、高崎にて大雷雨に会し、十時半柏木に帰つた。

 

(79) 八月十四日(月)半晴 改築の棟上式を行つた、屋上高く十字架を揚げ之に記入して曰ふた「ヱホバ家を建て給ふにあらずば建る者の勤労は空し」と(詩第百廿七篇)、又曰く「中央に福音を唱ふる事三年、今や羅馬書を終へてキリスト伝に入らんとす」と、職人一同我家の「ヤソ」なるを承認し、酒一滴を飲まず、唯拍手して祝意を表して呉れた、我れ十字架を耻とせざれば人は却て我を尊敬して呉れる、信仰の証明は斯かる機会を利用しても亦為すべきである。

 

 八月十五日(火)雨 雑誌編輯が一日の仕事であつた、汗は紙上に滴《したゝ》れ、仲々の苦労であつた、都人と苦熱を共にするは我に取り善き事である 〇山桝船長、南米航路より帰り、ペンギン鳥の剥製、アルパカ毛の下敷《したじき》其他の珍品を持帰り呉れ、柏木の家が大に賑やつた、桑港金門より遠からざる所に於て彼の船と他の米船と衝突し、間一髪の差にて死と恥辱とを免かれし海上生活者の実験を聞き、自分自身に大なる摂理の聖手《みて》の加はりしが如くに感じ、彼と共に感謝を頒つた、同時に益々同志の世界的発展の必要を感じた、自今大に世界の平和的征服に努力すべく決心した。

 

 八月十六日(水)晴 不相変此世の細事に悩まさる、山に在ること一ケ月、聖書と天然に人界を忘れ、俗事を聞かず、醜事を耳にせざりしに、一たび人の都なる日本のバビロンに帰り来れば、悲憤、慷慨、哀痛の切々として我身に迫り来るを覚ゆ、変貌の山を降り来りし主と其弟子とが山下に病者が彼等の帰り来るを待ち受けし状《さま》が思ひやられる、「噫信なき曲れる世なる哉、我れ何時まで汝等を忍ばんや、彼を我に携来《つれきた》れ」と主は言ひ給ふた、余は「噫信なき曲れる世なる哉」とは言ふ事が出来るが、「病者を我に携来れ」と言ふ事は出来ない、山より降り(80)来りて余は暑熱と悲痛と無力とに悩むのみである。

 

 八月十七日(木)晴 暑気強し、無礼なる某教会所属女伝道師との応対、改築に従事する職人間の不和の仲裁、地主の地代値上げの要求に対する談判等に殆んど全日を費した、「噫信なき曲れる世なる哉」である。

 

 八月十八日(金)晴 引続き暑い日である、箱根講演を漸く書き上げた、暑中の講演は決して有難くない、然し断つても教会は免して呉れない、無理に断はれば不熱心不親切と言つて悪口される、キリストの福音を説くことであれば説教其物が愉楽《たのしみ》である、そしてそこが教会の附込む所である、喜んで彼等に馬鹿にされやう 〇呆れるのは日本の労働者である、高い日当を取りながら働くことは一日に六時間とはあるまい、朝遅く来り、午前の煙草休みあり、午後の「お八」あり、而して昼食後の長い休息がある、彼等が受くる給料より計算して彼等は世界最高の労働を売る者ではあるまいか、而して世は雇主の横暴を憤るも被雇人の懶惰を責めない、彼等は弱いからであると云ふ、此の情の日本国に在りては強者となるは最大の不幸である、日本人は情に与して義に反対する、如斯くにして日本国は社会の根柢より滅びつゝあるのではあるまい乎、語るも無益である、然し信ずるが儘を茲に書き記して置く。

 

 八月十九日(土)晴 箱根強羅へ行いた。平信徒修養会に日曜日の説教を為さんが為である、二年振りの登山である、日本国立公園に擬せられたる此地は今や俗化して日光同様俗人の遊園地となりつゝある、天然も風景もあつたものではない、詩も歌も出ない、慾の深い日本人等が美はしき天然を利用して金儲けを為しつゝあるに過ぎない、日本は益々厭な国になりつゝある。

 

(81) 八月二十日(日)晴 箱根強羅星別荘に於て馬可伝十章四十五節に就て講じた、来会者九十名余り、箱根丈けありて所謂上流社会の人々の来聴もあつた、暑くつて体が汗でビツシヨリに成つた、暑中斯んなに一生懸命に成りて秋からの仕事が心懸りであつた、午後は来会者の質問会があつた、五時山を下り相模湾の風に吹かれながら九時柏木に帰つた、福音を説いて約束を充たしたと云ふ事丈けが此苦しい役目より来りし唯一の満足であつた。

 

 八月二十一日(月)晴 朝十時家を出で、六時沓掛の山荘に着いた、途中車内の温度九十九度に達し、堪へ難き暑さであつた、高原の涼風に八日間の苦熱を忘れた、畔上、木曾伝道の帰途、此地に余を待受けた、共に伝道の将来に就て相談した、神戸一の谷の神田《かうだ》繁太郎君其家族と共に来り会し、是れ又大なる喜びであつた、箱根より柏木を経て浅間山下の沓掛まで、到る処に同志の我を迎ふるあり、感謝すべき事である。

 

 八月二十二日(火)晴 高原の涼風に浸され楽園に在るの感あり、十日振りにて読書欲が出た、A・E・ガーヴイー氏著の路加伝論を読み大に教へらるゝ所があつた、愛すべきルカ先生よ、科学者で詩人で歴史家で、其上にパウロ主義の基督者である、斯んな人が又と復たび世に出づるであらう乎、斯んな人に由て書かれたるキリスト伝ありとは実に感謝すべき事である、ルカ先生と共に在る一日は今日の教会又は信者と共に在る百日よりも益多くある。

 

 八月二十三日(水)曇 午後雷雨あり。又復軽井沢に行いた、旧札幌農学校創設者故ウイリヤム・S・クラーク氏の孫に当る同名の若き米国紳士に会はん為であつた、故人に対する尊敬を表するの途であると信じたからで(82)ある、山荘に帰つて大分に疲労を覚えた、数日来の過労の結果であると信ずる、義理に駆られて健康に害ありと知りつゝ他《ひと》の要求に応ずる、此は決して宜い事ではない、余自身が日本人であつて矢張り情の人である、今より後は意を決して義の人と成り情実は断然之を排斥すべきである、然らざれば余は終に何事をも為し得ずして墓に降るであらう、今年の夏も亦宣教師、教師、教会信者等の欺く所となりて大分に彼等に使役せられて為さずとも可い多くの労役に従事した、今より後大に異端を唱へて彼等の忌嫌ふ所となりて幸福の単独に残余の生涯を送るであらう。

 

 八月二十四日(木)雨 昨夜より暴風雨。箱根にて買求めし疲労を少しづゝ払戻しつゝある、厭な買物をなしたものである、七月号の英文欄に於て余が進化論者であると記《かい》た為に米人中の読者より多くの小言を申込んで来た、曰く進化論と聖書とを如何して調和する事が出来る乎と、そしてブライアンやマウロウの著書を送りて余に改信を促し来る、困つたものである、今の世に在りて如何なる形に於ても進化論を信ずる勿れと言ふは学界全体を敵として立てと言ふと同じである、今や真面目なる天然科学者である以上は絶対的に進化論に反対するは絶対的に不可能である、説の真偽は別としても、|余はキリスト再臨の信仰に由て得し友人を今や進化論の賛成に由て失ひつゝある〔付△圏点〕、止むを得ない、余は進化論の立場より再臨を信ずる者である、余は告白して憚らない「余は多くの敬虔なる天然学者と共に進化論者である、余は聖書の神と進化の神とを同時に信じて之に仕ふる事の出来るを感謝して止まない」と。

 

 八月二十五日(金)晴 小諸町教友二人の主催にかゝる本誌読者会明日より当沓掛星の温泉に開かる、出席者四十余名の見込、遠きは岩手、神戸より来る者あり、恩恵著るしく其上に降らん事を祈る。

 

(83) 八月二十六日(土)晴 昨夜暴風雨、今朝に至て晴る。午後二時読者会を開く。定刻までに来会する者十二人、内に東京独立雑誌以来の読者四人あり、二十五年来の誌友であるを知つて我等相互に対し親愛の念を禁ずる事が能ない。余は馬可伝六章三十一節を引き此会の性質に就て語つた。「イエス彼等に曰ひけるは汝等人を避け我と偕に暫く寂寞《さびし》き所に往きて休むべしと」。我等雑沓の所を避け此静かなる所に来つたのは|イエスと偕に〔付○圏点〕休まんが為である。天然に接した丈けでは本当の休みはない。寂寞き所に往き自分で自分に問ふた所で何の得る所はない。又敬慕する先生に就いた所で彼も亦人であつて彼が教ふる所は至て僅少である。|休養の秘訣はイエスと偕に在る事である〔付○圏点〕。イエスと偕に暫く寂寞き所に往きて我等に本当の休みがあるのである。そして我等は其目的を以て此静なる所に来たのである。イエスと偕ならんが為である。そして暫時たりともイエスと偕に在りて我等各自に永久の利益がある。社会を離れ、教会を離れ、少数の信友と偕に此水清くして山高き寂寞しき所に集る、実に大なる幸福である云々と 〇引続き夜復た感話祈祷会を開いた、来会者二十名。

 

 八月二十七日(日)晴 朝九時読者会を本位として礼拝講演会を開いた。来会者山荘に溢れ、五十人以上あつた。涼風に吹かれ谷川の音を聞きながら朝の聖き二時間を守つた。箱根に於て為せし講演を繰返した。そして之を補ふに伊国の大歴史家G・フエレローの基督教が世界を征服せし其原理に関する意見を以てした。講演は一時間半に渉り、夏の努力としては随分大なる者であつた。但し箱根とは異なり、聴衆中反対論者なきが故に何やら手応《てごたへ》が無いやうに感じた。イエスは多くの人に代り其贖となり給へりとの馬可伝十章四十五節の言葉が我が講演の基調であつた 〇午後に来会者一同の感話祈祷会あり、夜復た之を繰返し、大体に於ては先づ以て成功の内に(神(84)の恩恵に由り)此読者会を終つた。

 

 八月二十八日(月)晴 疲労の月曜日である。山に於てまで疲れて市《まち》に帰つて如何するの乎と自分で自分を責めて不愉快であつた。自分に少しなりと健康の存《のこ》る間は人は絶対的安静を許して呉れない。彼等は何とか理窟を附けて自分を引出して彼等の為めに働かしめる。そして愚かなる余は彼等の誘惑に乗りて彼等の使役する所となる。後に至りて其事を思ふて慚恨に堪へない。然し乍ら福音の故を以て誘はるゝ時に余は抵抗することが出来ない。多分斯くの如くにして余の一生は終るのであらう。愚である乎、賢である乎自分は知らない。孰れにしろ福音を説いた丈けが利得であらう。人には馬鹿にされつゝある間に余は神に仕へつゝあるのであらう。

 

 八月二十九日(火)晴 米国バプチスト教会派遣宣教師D・C・ホルトム氏の日本神道の研究を読みつゝある(Political Philosophy of Modern Shinto by D.C.Holtom)。欧米人類学の立場より見たる我が古神道の研究であつて興味津々たる者がある 〇詩篇百三十九篇廿一節「ヱホバよ我は汝を憎む者を憎むに非ずや」に就て考へた。神と憎愛を共にしてこそ彼の本当の僕である。すべての人を愛すると称して神と其キリストを憎む者をも愛するは彼に反くと同然である。近代人には此明白なる事が解らない。彼等は友人と憎愛を異にして少しも憚らない。故に彼等に本当の友人はない。能く憎む者のみ能く愛する事が出来る。すべての人を愛せんと欲する者は何人をも愛し得ざる者である。

 

 八月三十日(水)晴 主婦一先づ柏木に帰つた。滞在中の鈴木兵永と共に湯川を沿ふて溯り、古瀬の滝に至り、浅間山麓の天然林の秋の錦を着んとて準備しつゝあるを見て楽しかつた。安芸広島より或る不幸なる婦人の(85)態々山荘を尋ね来りしに会し同情の禁じ難きものがあつた。寄林多後書十一章廿九節パウロの言なる「誰か弱はりて我れ弱はらざらん乎、誰か礙《つまづ》きて我心熱せざらんや」が心に浮んだ。彼女を途中まで送り家に帰つて独り彼女の為に祈つた。此の世は何処までも涙の谷である。

 

 八月三十一日(木)晴 茲に八月を終る。演説を四回為さしめられた。然かも其の内に二回は英語を以てゞあつた。「休養は山に於て非ず海に於て非ず云々」である。「彼は我等の和《やは》らぎなり」とある(以弗所書二章十四)。「キリストは我等の休みなり」とも訳する事が出来る。本当の、然り惟一の休みは彼である。彼を有て我は常に山と海とを我が衷に持運ぶのである。但しキリストの名を呼ぶために多くの所謂基督信者に便はれ又罵られ、兄弟といはれ又偽信者といはれるのは不愉快千万である。|信者ならざる信者〔付△圏点〕たる所に本当の平安は在るのである。

 

 九月一日(金)半晴 秋が来た。秋と共にパウロ熱が還て来た。夏中は主としてマコとマタイとルカを読んだ。それ故に暫らくパウロを忘れた。然るに今日は羅馬書八章三十七節が心に響いた、「我等を愛し給ひし者に由り凡て是等の事に勝ち得て余りあり」と。何んと勇ましい言ではない乎。本当の福音はやはりパウロに於て在る。彼の立場に立ちて見て聖書は始終一貫したる福音と成りて見ゆる。キリストを本当に解したる者はやはりパウロである。愛すべき慕ふべきパウロよ。ジエームス・ストラカンがウエスミンスター新約聖書に於てパウロを評して「真正の東洋人なり」と言ふたが真に其通りである。多分西洋人にパウロは解るまい。殊に米国人に解らないのは明白である。感謝すパウロと共に東洋人である事を。米国人なぞに何んと言はれても構はない。パウロは真正《ほんとう》の東洋人であつたとすれば、西洋人中信仰的に最も下劣なる今の米国人に基督教を学ぶの必要は少しもない。


(86) 九月二日(土)晴 路加伝六章十四節以下に於ける十二使徒の名を暗誦した。之も亦怠るべからざる聖書研究の一部分である 〇小諸町郊外の布引《ぬのびき》山釈尊寺に遊んだ。千曲川の激流に沿ひ、奇巌絶壁の間に建られたる山寺である。然し自分に取りて興味最も多かりしは沿道の田畑であつた。今年の豊作は見るからに嬉しかつた。小沼小山の両旧友に案内されて一日を千曲の両岸に送りて二十年前の信州伝道が思出された。播きし種は皆んなは枯れない。今年の実《みのり》には此ぶべくもないが、去りとて絶望的凶作ではない。行基菩薩が千二百年前に開きしと云ふ此寺が今猶ほ遺つて居るを見れば、矢張り一番永く存る物は宗教であらう。自分が曾て千曲川の沿岸に播きし福音の種も亦、今人は多くは之を棄てしと雖も)、神の恩恵に由り何等かの形を以て千百年の後にまで存つて実《み》を結ぶであらう。一首を口ずさんだ。

   千曲川岸に湧出《わきづ》る岩清水

     世々に流れてにごり潔《きよ》めよ

 

 九月三日(日)晴 静かなる善き安息日であつた。軽井沢より五人、小諸より二人、御代田より一人の来会者あり、他に沓掛の三人を加へ、総勢十一人の会合であつた。約翰伝十六章三十三節に就て講じた。「我既に世に勝てり」とイエスは曰ひ給ふた。此事を知りて彼に在りて真《まこと》の平安の在ることが解る。毎日一節は霊魂の充分の糧《かて》である。

 

 九月四日(月)晴 秋晴愛すべき日であつた。朝の日課に路加伝七章三九-五〇節を読んだ。是は誠にパウロの唱へし恩恵の福音である。一幅の名画を見るやうに感ずる。「イエス婦に曰ひけるは汝の信仰汝を救へり、安然にして往け」と。是れでこそ本当の福音である。神学も註解も何にも要らない 〇山に来て好い事は人に遠(87)かりて神に近づく事である。人に離るゝ時淋しみを感ずるが、離れて了へば純粋の幸福である。凡の災禍《わざはひ》は人に接するより来る。本当の幸福は人を離れて神と偕に在る所にある。死の幸福も亦茲に在るのではあるまい乎。人を離れて神の所に往く。離るゝ時は辛らくある。然れども離れて後は純粋の幸福である。偽はりの兄弟も偽はりの弟子も、宣教師も牧師も其他新聞記者雑誌記者等、我を誘ひ欺く者のすべて我に近づく能ざるに至て、我は絶対的安全の地位に置かるゝのである。山は地上に於ける天国の模形である。「我等こゝに居るは善し」である(馬可伝九章五節)。

 

 九月五日(火)晴 高原の残暑強し。雑誌九月号校正半分了り之を東京の印刷所に送つた。炎天を冒し自ら之を沓掛郵便局に運んだ。初秋の空に輝く諸山の風景は愛すべくあつた。「平和なる言を宣べ又善き事を宣ぶる者の其足は山の上に在りて如何に美はしき哉」との以賽亜書五十二章の言を思ひ出した 〇昨年同様今年も亦左近義弼君休養のため此地に来り、善き話相手を得て嬉しかつた。君の如き基督教的常識の所有者は甚だ稀れである。君に会ふ毎に教へらるゝ所多大である。

 

 九月六日(水)晴 転井沢に行いた。西洋人を避け、邦人の友人と訪づれ、到る所に歓迎を受けた。碓氷高原の秋は稍や北海道のそれに似て昔し懐しかつた。黄昏頃山荘に帰つた。夜、左近君と共観福音書問題、産児制限問題、山地利用問題に就て語つた。畢竟《つま》る所本当の福音を信ぜざれば何事も出来ずと云ふ事に決着した。

 

 九月七日(木)晴 一たび柏木に帰りし主婦復たび山荘に来つた。最後の一週間に本当の休養を得んが為である。然し得られさうもない。人生悲しい事が余りに多くある。死に瀕する病人がある。夫を失ひし妻がある。誰(88)か弱くして我れ弱らざらんやである。此世に在りて絶対的休養は不可能である。

 

 九月八日(金)雨 静なる山荘の一日であつた。沢山に寝た。路加伝第十章を研究した。其内に沢山に説教の材料を発見した。特に注意を惹いたのは其第廿二節であつた。イエスは曰ひ給ふた「父は万物を我に賜ふ、父の外に子の誰なるを識る者なし、又子及び子の顕はす所の者の外に父の誰なるを識る者なし」と。此は約翰伝に在りさうな言である。此言を発せしイエスは唯の人ではない。イエスに由らずして神の何なる乎を識る事は出来ない。深遠の真理である。

 

 九月九日(土)曇 引続き完全なる休息の一日である。左近君と米国宣教師並に彼等に随従する日本の基督信者に就て語つた。前者の雇人に対する無情、冷酷、其友誼の現金的なる事、彼等が生れながらの党派の人であつて、自分の党派(又は教派)に人を引入れるには熱心極まると雖も、入党を肯ぜざる人に対しては心を閉ぢて真実を寄せざる事、而して彼等に随従する日本の基督信者の劣等の日本人なる事、礼儀を知らず、約束を守らず、不信極まる人達なる事等に就て語つた。我等は相互の実験を交換して「同感々々」の声を発して互に相酬ゐた。

 

 九月十日(日)曇 山荘今年の最後の安息日である。軽井沢より山崎工学士夫婦、吉田ふき子外に一人の兄弟の来会あり、我等夫婦に左近君を加へて七人、静なる楽しき安息日を守つた。会後親睦の昼飯を共にし、雑談午後二時に至て散じた。山に来てより安息日を迎ふる事凡て九回、其内一回は休み、一回は箱根に過し、残り七回は此地に在て聖会を催した。山に在るも里に在るも安息日の聖守なくして我等に人生の幸福はない、

 

(89) 九月十一日(月)晴 午後雷雨。軽井沢に行き、英国医師マンロー氏を訪問し、全家族の大歓迎を受けた。氏所有の人類学標本を見せて貰ひ、其説明を聞き大に益せらるゝ所があつた。氏が多方面に渡り大学者なるを知り、深く自分の無学に耻ぢた。夕食の饗応に与り、電光閃々たる間に、夜九時沓掛の山荘に帰つた。

 

 九月十二日(火)晴 路加伝十二章を読みし外に何事をも為さなかつた。其第十四節に感じた。「イエス曰ひけるは、人よ誰が我を立て汝等の裁判人《さばきびと》また物を分つ者と為せしぞ」と。イエスは俗事に携はり給はなかつた。其点に於て彼は今日の牧師伝道師と全く違ゐ給ふた。伝道師の職分は天国の道を伝ふる事である。財産の事、結婚の事、家業《なりはひ》の事は彼の干与すべき事ではない。余も亦余の主に傚ひ今の人に向つて曰ふべきである「誰が我を立て汝等の財産整理人、結婚媒酌人、職業周旋人と為せしや」と。然るに今の人、今の所謂基督信者等は余の如き者よりも神の道を聞かんとは欲せずして、彼等の俗事の世話人たらしめんと欲する。浅慮なる彼等なる哉。

 

 九月十三日(水)晴 路加伝第十三章を読んだ。其第二十四節に曰く「イエス彼等に曰ひけるは、窄《せま》き門に入るために|力を尽せ〔付○圏点〕、我れ汝等に告げん、入らん事を|求めて〔付○圏点〕能はざる者多し」と。信仰に入るために|努力〔付○圏点〕せねばならぬ、求むる丈けでは足らない。我国の所謂|求道者〔付○圏点〕が多くは本当の信仰に入る能はざるは之が為である。所謂求道者は価値の至て尠い者である。「入らん事を求めて能はざる者多し」と。実に其通りである。

 

 九月十四日(木)晴 山を去り東京に帰つた。余りに久しく家を離れて我家が他人の家のやうに思はれた。留守は余りに長く為すべき事でない。茲に今年の夏休みを終る。講演十一回、読書は人類学書一千頁、共観福音書註解八百頁余を為した。又自分不相応の内外人との交際を為した。大体に於て有益なる夏であつたといふべきで(90)あらう。

 

 九月十五日(金)曇 蒸熱し。久し振りにてパウロを読んだ。其哥林多後九章八節に感じた。曰く「神は汝等をして常に凡の物に足らざることなく、凡の善事を多く行はしめん為に凡の恩恵《めぐみ》を多く汝等に賜《あた》へ得る也」と。「神は……得る也」である。God is able. 人には能《でき》ないが神には能る。神は我等如き者をして万事に足らしめ、凡の善事を多く云々と。欲の深きパウロなる哉。|凡て多く〔付○圏点〕と云ふ。子供が其父母に善き物を強求《ねだ》るが如しである。自分には善事を為すの能力がない。自分を責めた所で無いものは無いのである。然れども神は|凡の恵みを多く賜へ〔付○圏点〕給ふと云ふ。彼より裕かに善心を賜はりて善事を為すことが出来ると云ふ。恩恵の福音の一面である。宣教師や神学者の到底解し得ない事である。矢張りパウロである。福音を最も明確に説く者は矢張りパウロである。

 

 九月十六日(土)晴 訪問客多く、秋らしくなつた。古き博士《ドクトル》ジヨン・ブラウンの註解書に加拉太書を読んで多大の興味を覚えた。パウロは現代の彼の批評家よりも遥に偉大である。イエスとパウロとは反対性であつて、新約聖書中両者の思想が相互に対して逆流するなどゝ唱ふる欧米の神学者等はパウロを侮辱する最も甚だしき者である。パウロは斯かる浅薄者を一蹴して顧みないであらう。パウロ自身の言を読んで是等神学者輩の余の眼中に侏儒《ピグミー》と化して消え失するを感ずる。殊に米国神学博士輩に至つてはパウロを彼れ是れ批評するの資格は毛頭ない。パウロは彼等に批評されて蚊が螫す程も感じないであらう。

 

 九月十七日(日)曇 涼味|遽《にはか》に加はり、秋冷愛すべき日であつた。中央聖書講演会例会以上の盛会であつた。何の通知も為さざりしに押し寄せ来りし聴衆は八百人近く、広き講堂は殆んど人を以て溢れたと云ふて可い程で(91)あつた。正午前十時自分主会の下に開会、讃美歌第三十五番を一同声高らかに帝都の中央に響かせた。畔上の講演を終り、更らに又第六十八番を歌つた。是は余の特愛の歌であつて、夏中山に在りて空を眺めながら歌ひ続けた者である。

   みそらにきらめく     千よろづの星は

   御神《みかみ》のみいつを うたひまつれども

   すくひのたよりと     つみびとのあふぐ

   ひかりはひとつの     ベツレヘムのほし

音譜も善ければ言葉も善い。東京の中央《まなか》に於て八百余りの人が声を合せて此歌を歌つた丈けで、外に説教も講演も要らないのである。茲に勢揃をして新学期に入つたまでゞある 〇此日柏木は郷社|鎧《よろい》神社の祭礼で賑はつた。神輿を家の塀に打附けられて大きな穴を三つ開けられた。多分我等がヤソなるが故に若者等に憎まるゝが故であらう。巡査は三人見て居つたが少しも乱暴を妨げやうと為なかつた。大正十一年の日本東京に斯んな事が在らうとは思はれないが、然し在つた事は事実である。之を目撃して居りし我家の主婦は曰ふた、「有難い事である。是は小なる迫害である。是れがあるのが当然である。信仰の為に憎まれないやうでは困る。憎まれて幸である」と。此言を聞いて余は安心した。彼女に此心がある以上、少しばかりの損害は意を留むるには及ばない。唯歎ずべきは斯かる事を為して憚らざる日本の社会である。又神輿を酔払に担して異教信者の家を毀して喜ぶ人達である。斯かる事を改めざる限り日本の神社は世界の尊敬を惹くに至らない。自分の為には歎かない。日本の為に悲しむ。

 

 九月十八日(月)晴 涼し。左程に疲れなかつた。大分に土仕事《つちしごと》を為した。自から行水の湯を沸して家族の者(92)に湯浴《ゆあみ》さした。大功労である 〇加拉太書一章九節を読んで感じた。「若し汝等が(我れ。パウロより)受けし所と異なる福音を汝等に伝ふる者あらば其著は詛はれし者なり」と。此言に由て観れば「イエスの教はパウロのそれに非ず。宜しく前者を取て後者を捨つべし」と唱へて憚らざる欧米近代の神学者等は確に詛はるべき者である。何れにしろ加拉太書はシカゴ、エール、ユニオン等其他の米国諸神学校並に其教授卒業生等に対する果状《はたしじょう》である。ルーテルが羅馬天主教会に対せしが如くに、今日の我等も亦米国の諸教会に対し加拉太書を以て戦ふべきである。

 

 九月十九日(火)半晴 市内に或る紳士淑女を訪問して聖書研究会を代表して少許の慈善を依託した。誠に楽しき役目であつた。然し乍ら注意すべきは慈善の快楽に誘《いざな》はれて福音宣伝の義務を怠る事である。奸悪なる現代は慈善を誉めはやして福音を践みつける。斯かる場合に於て慈善は大なる誘惑である。そして米国流の基督教が今日の如くに堕落したる理由の一つは此誘惑に負けたからである。我等は現代に逆ふ為めに丈けでも慈善よりも福音を重んずべきである。

 

 九月二十日(水)雨 最も進歩せる最近の学説に由れば物質はすぺて水素の原子より成るのであつて、鉄も銅も金も銀も、其成分は元々水素であると云ふ。そして水素は無限の膨張性を有する爆発物であるが故に、若し何かの方法を以て物質の元素たる水素の結合を解きて之を遊離せしむることを得るならば全地球は一時に爆発して瓦斯体となりて虚空に消え失するであらうと。若し然りとすれば彼得後書三章十節「其日には天は大なる響きありて去り、体質尽く焚毀《やけくづ》れ、地と其中にある物みな焚尽《やけつき》ん」とある言が文字通りに実現する時があると信じて少しも非科学的でないのである。万物水素より成ると聞いて、地球は危険極まる所である事を知るのである。

 

(93) 九月二十l日(木)半晴 秋冷到る。雑誌の編輯が始つた。大分に仕事が出来た。米国地理学雑誌に南米智利国縦断旅行記を読んで面白かつた。殊に其南端テラデルフユーゴ島の富源開発に関する記事は強く我が注意を惹いた。肅殺荒涼たる此島に今や最も有利なる緬羊の牧場ありと聞いて驚いた。智利は南北二千六百哩に渉る細長い国である。南米の日本と称すべき国であつて、其将来に嘱目すべき者が多い。

 

 九月二十二日(金)晴 加拉太書二章の研究に大なるインテレストを覚えた 〇帰省中の崔君朝鮮より帰り、朝鮮の教会に於ても自分の名は無教会主義者の故を以て嫌はるゝ由を告げた。誠に尤もの事である。余は朝鮮人贔屓であるが故に朝鮮に来るは宜しからずと総督府に関係ある在鮮の友人より今日までに度々勧告を受けたが、今や朝鮮の諸教会にまで危険物視せらるゝに至つて、余は何時朝鮮に行くも余自身には何も危険なきを知つて喜んだ。

 

 九月二十三日(土)曇 久しく高等批評家のペンに成りし宗教書類を読み続け、其結果でもあらう、福音的信仰の冷却を覚えたが、秋に入りてより之に打勝つことが出来、今はまた故《もと》の温かい十字架の信仰を楽しみつゝある。高等批評は浅薄なるリバイバル的信仰を撃退するには多少の用があるが、其外には何の益する所がない。斯んな物では我が霊魂は承知しない。恰かも放蕩児が食せしと云ふ豚の食する所の豆莢《まめがら》の如きものである(路加伝十五章十六節)。

 

 九月二十四日(日)晴 秋晴の好日和であるり中央講演会前回同様満堂の盛会であつた。「罪の贖主としてのイエスキリスト」を講了した。先づ之にて大集会の運転が始つたのである。


(94) 九月二十六日(火)曇 夏が再た帰つて来た、暑に困《くるし》んだ。市中に行き、デリツチ著『聖書心理学』の古本を買つて帰つた。千八百六十一年に成りし書であつて自分と同年である。然し今の学者には到底書くことの出来ない大著述である。縦し其材料は旧くあるとも其精神は永久に新しくある。新たに亦大先生を得たやうに感ずる

〇昨日以来蘇国の大物理学者ケルビン卿ウイリヤム・トムソン並に同じ蘇国人にして電話機の発明者なるA・グラハム・ベルの小伝を読み、之を家族の者供に伝へて一同の聖化を助けた。二者共に大科学者であつて、忠実なる神の僕、温情なる人類の友であつた。大発明は矢張り大信仰の産である。ジヨン・ノツクスは彼の国人に聖書に基《もと》ゐする純福音を与へて其物質的発展を助けた。聖書の普及しない国からトムソンやベルのやうな人が起らうとは思へない。

 

 九月二十七日(水)曇 加拉致太書と使徒行伝とを研究した。二者共に非常に面白かつた。近代の聖書研究が何れも教会の教権を毀つものであるは注意すべき事である。行伝二章四二節並に四四節に於ける「パンを挈《さ》く事」は所謂聖餐式を指して云ふに非ず、「歓喜《よろこび》と誠心《まごころ》をもて食を同《とも》にし」と云ふと同じであつて、普通の食事を指して云ふのであると英国国教会の神学者までが唱ふるに到つて、教会が其儀式の救霊上の必要を以て信者に迫る事は出来ないのである。人が救はれんが為にはバプテスマと聖餐とを受くるの必要があると云ふが如きはそれこそ旧い説であつて、新らしい聖書研究は明白に之を否定するのである。新神学に由て毀れる者は教会であつて福音でない。誠に有難い事である 〇主婦に代りて大森 山枡船長の家に開かれしモアブ婦人会に出席した。其序を以て其附近を散歩した。土地の発展に驚いた。

 

(95) 九月二十八日(木)曇 引つゞき小事に苦しめらる。唯聖書の研究のみ慰安である。今日は羅馬書十五章十四節以下を解訳して煩労の間に平安を得た。

 

 九月二十九日(金)曇 夏未だ去らず、温度高し。基督者《クリスチヤン》は人に馬鹿にされる者と定《きま》つて居る。、殊に基督教の教師に至つては、パウロが言へるが如くに「世の汚穢《あくた》また万の物の塵垢《あか》」の如くに扱はるゝのが普通である。殊に又独立信者また無教会信者と来ては世に馬鹿にされるのみならず、教会又は牧師、宣教師、神学者にまで馬鹿にされる。誠にイエスが言ひ給ひしが如くに「狐は穴あり、天空《そら》の鳥は巣あり、然れども人の子は枕するの所なし」である(路加伝九章五八節)。|狐や狸のやうな人でも世には納れられ教会には迎へらるけれども、人の子と彼の弟子とは此世と此世の教会に於ては枕するに所がないのである〔付○圏点〕。然し乍ら有難い事には社会や教会は馬鹿にしても、神は馬鹿にし給はない。神は聖霊を注いで独立信者の信仰を認め給ふ。聖書が解り、十字架が心に照り渡りて、いくら世人や教職に馬鹿にされても失望もしなければ落胆もしない。営外に出てイエスの※〔言+后〕※〔言+卒〕《そしり》を負ふとは斯う云ふ事を謂ふのであらう。そして斯う云ふ慰安《なぐさめ》があるから無教会信者は止められないのである。

 

 九月三十日(土)晴 伊国羅馬八月廿五日発、子爵加納久朗君の端書に曰く「先生の羅馬書十二章の御講演をフロレンスよりローマに来る汽車の中に読み、幾度も読み返へし大なる力を得申候。ダンテ、サボナロラ、ミカエル・アンゼロはフロレンスとは不可離の聯想を有ち候。ローマに来てペテロ、パウロの真信仰の何れにあるかを疑ひ申候」と。我が信仰の友がローマに往く途中我が羅馬書の講義を繰返し読んで呉れたと云ふ。ローマよりも偉らい者は羅馬書である。ローマは見ないが家に在りて羅馬書を学び且教へて余は大なる満足を感ずる。


(96) 十月一日(日)晴 相変らず楽しい日曜日であつた。中央講演会来会者七百人余り、法科大学助教授田中耕太郎君登壇、「律法の成就について」語り、余は其後を受けて、「パウロの伝道方針」の演題の下に羅馬書十五章十四節以下に就て述べた。久し振りにて羅馬書に還り昔し懐しく感じた。旧き教友にして海外より帰り来る者あり、地方より上京する者あり、日曜日は毎回全然一の聖き親睦会である。此日あるが故に全週が聖化せられ、歓喜極まりなしである。

 

 十月二日(月)晴 藤井武君夫人|喬《のぶ》子永眠の報に接す。彼女は我がルツ子と同年である。五人の子を置いて去る。悲歎に堪へない。

 

 十月三日(火)雨 藤井喬子の葬式が九段メソヂスト教会に於て行はれた。夫君の切なる依頼に由り余は説教師の役目を務めた。余は黙示録十四章十三節を引いて曰ふた。「死は悲しむべきであるが、人生には死よりも悲しむべき事がある。それは信仰の抛棄である。品性の堕落である。罪を犯して神とキリストとより離れる事である。然るに喬子は信仰を完うし、聖き貞淑の生涯を終つた。恰かも危険多き旅行を無事に終つたやうなものであって、逝きし彼女も残りし我等も彼女の為に神に感謝するが当然である。死に就て感謝すると聞いて此世の人等は異様に感ずるであらうがクリスチヤンには此事が在り得るのである」と。藤井喬子は日本婦人特有の淑徳に熱き基督教の信仰を加へた者である。現代の日本には極めて稀れなる婦人であつた。

 

 十月四日(水)曇 半日を雑誌校正の為に費した ○今の世に在りてクリスチヤンの極めて寥々たるを知る。(97)今やクリスチャンと称して其最も優等なる者がユーマニタリヤンたるに過ぎない。彼等は芸術的基督者であつて其情は濃《こまや》かに、其思想は優雅である。然れども十字架に釘けられしキリストの外は何をも知るまじと云ふ旧い清党的基督者でない。故に現代の所謂基督教的紳士淑女の内に在つても余は矢張り単独である。然し乍ら余の如きクリスチヤンの今日の日本に於ても全く無いではない。無教育の人、又は下流社会の人の内に余と全然信仰を共にする者の在る事を感謝する。

 

 十月五日(木)晴 夕七時より大手町講堂に於て聖書研究会々員中の本誌読者の集会を開いた。来会者八十名余り。余は世界伝道の必要を唱へ、余自身は今年より幾分なりとも全世界の福音宣伝事業に貢献するの決心なるを述べ、来会者にも賛同せんことを求めたる所、全会衆の共鳴あり、茲に先づ『聖書之研究』読者世界伝道協賛会なる者を創設することに定めた。数人の熱心なる賛成感話と祈祷とあり、第一回の寄附として四十八円三十一銭の献金あり、百六十二番の讃美歌を合唱して此愉快なる会合を閉ぢた。日本の基督者にして世界伝道協賛を思立つたのは多分我等が初めてゞあらう。今より後、グリンランドの氷の山より印度洋の珊瑚の島まで我等の同情の区域を拡張して、其民の為に祈ることを得るは無上の特権又歓喜である。

 

 十月六日(金)曇 雑誌校正を了つた 〇重罪犯囚徒間の伝道に於て著しき成績を挙げられたる加奈太婦人ミス・マクドナルドの訪問を受けて楽しかつた。彼女の父母は生粋の蘇蘭土人であると聞いて、我がカアライル先生の同国人を迎ふる心地がして嬉しかつた。彼女は勿論クリスチヤンであるが、宣教師と称すべきでなくして人類の友と呼ぶべき者である事が解つた。新に又貴き友人を与へられて神に感謝した 〇雑誌『カトリツク』に余の文通の友なる有名なる和蘭国の文士フレデリツク・ヴアン・エーデン氏が終に加特利教に改宗したとの記事(98)を読んで驚いた。最も進歩せるカルビン主義の国なる和蘭の文豪にして今の世にありて加特利信者に成る者があると聞いて人の心程不思議なる者のない事が今更らながらに感ぜられる。然しエーデン君はエーデン君であり、余は余である。余はエーデン君に傚つて羅馬加特利教会に往かない。ミルトン、コロムウエルの信仰を以てキリストの所に往かんと欲する。

 

 十月七日(土)雨 人は余に意見を問ふ。余は信ずるが儘を語る。さうすると彼等の気に障りて彼等が怒るのが屡々である。実に厭になつて仕舞う。余に悪意はない積りである。只余の言方が悪いとて余の意志までが疑はれる。事実如斯くであれば余は語らざるを可《よし》とする。人は余に意見を問ふべからず、又近寄るべからずである。然らば余も幸福である、彼等も亦幸福である。然るに余より頼まざるに余を訪問し、又は集会に引出し、余の意見を聞きて彼れ是れ余を批評する。|誠に安全第一と云ふが、最も安全なる事は近代人を全然近づけざる事である〔付○圏点〕。彼等の乞に応じ彼等に親切を尽さんと欲して災禍《わざはひ》の我が身に及ばざるはない。

 

 十月八日(日)暴風雨 午後に到りて晴る。中央講演会の会衆少しく減じて六百人余り、静粛なる好き集会であつた。羅馬書十六章一-一六節、パウロの友人録に就て語つた。キリストの福音を人名列挙の内に読みて砂漠に香花を摘むの心地がした。

 

 十月九日(月)晴 自分がキリストの為に働いて居るのではない。キリストが自分を以て働いてゐ給ひつゝあるのである。彼がペテロに向ひ「汝幼けなき時は自《みづ》から意《こゝろ》に任せて遊行《ある》きぬ、然れども老いては手を伸べて人汝を束り意に適はざる所に曳至《ひきいた》らん」とある其「人」と云ふはキリストである(約翰伝廿一章十八節)。キリスト(99)が余を束《くゝ》りて度々余の意に適はざる所の高壇に立たしめ彼の福音を唱へしめ給ふのである。此事を知らないで余の行動を彼れ是れ批評する教会信者共はキリストを批評する者である、|本当の伝道師で自分で伝道する者は一人もない筈である〔付○圏点〕。キリストに束られ、彼に余儀なくせられてゞある。嗚呼我れ禍ひなる哉である(哥前九の十六)。

 

 十月十日(火)晴 読んだ物は路加伝十九章十一節より同二十章八節までと、英国の地質学者G・F・ウイツドボーンの著はせる『天然の問題』と題せる小冊子とであつた。書いた物は伝道附録の原稿紙八枚。為した事は或る地方より上京して処世の方針に迷ふ一青年に面会して彼に助言を為した事である。大なるは宇宙問題、小なる一青年の一身問題、外に塵芥の処分と火災保険の契約。如斯くにして又神に頼る此一日を送つた。

 

 十月十一日(水)晴 阿弗利加大陸の地理人種に就て読みて大なる興味を覚えた。殊に黒色人種の地理学的分布に深き注意を払ふた 〇日本人は多分福音を伝ふるに最も困難なる人種であらう。彼等の知識程度と心理的状態とは彼等をして単純なる福音の音信に接するに最も不適当たらしむ。彼等は愛を要求する。然れども愛を過せば彼等の賤む所となる。彼等は気儘であつて信徒を嫌ふ。多分阿弗利加土人の宣教師たるは日本人の教師たるよりは遥に幸福であり又有効的であらう。殊に日本の知識階級に至つては……彼等の神の国に入るよりは駱駝の針の孔を穿《とほ》るは却て易しである。然し乍ら神に於ては能はざる事なしである。

 

 十月十二日(木)晴 雑誌十月号が出来た 〇日蓮上人に大師号が下つたと聞いて驚いた。日蓮自身は斯る事を聞いて少しも喜ばないに相違ない。そして斯かる尊称は少しも日蓮宗の霊的効果を助けない事は確かである。日蓮はいつまでも「東海の沙門」で在つて欲しい。立正大師として仰がれて彼の感化力は増す事なくして唯減ず(100)るのみである。

 

 十月十三日(金)晴 地主との地代値上げの交渉纏まらず、依て余の申出に由り其解決を市内第一流の弁護士今村力三郎氏の調停に一任する事に定め、午前地主と共に同氏の神田三崎町に於ける事務所を訪問し、充分に相方の申分を開陳して同氏の判決を乞ふた。同氏は喜んで我等の乞を納れ、氏が最も公平と見る所の判断を下して呉れた。余も地主も之に服従する事に即座に決定し、茲に六ケ敷き問題の平和的解決を見て相方共に喜んだ。今村氏自身も亦非常に喜ばれ、氏の長き弁護士としての生涯に於て最も喜ぶべき事件の一であると言はれた。和平《やはらぎ》を好む者は福ひなりである。|弁護士は訴訟の為に用ゆべき者に非ずして和解の為に頼むべき者である〔付○圏点〕。地主と余とは此日和解の為に手を携へて弁護士の事務所を訪ふて各自喜びに充ちて家に帰つた。近頃の快事であつた。

 

 十月十四日(土)晴 久し振りにて主婦と共に三越呉服店に行いた。眼が廻りさうな華美《はなやか》さであつた。之を見て東京人が金を欲しがるのは無理で無いと思ふた。自分は大手町通ひに必要なる靴と帽子を買ふた。店員中に信仰の友ありて彼の親切なる案内に由り楽しき半日をかの雑沓の内に過した。斯かる所にも亦余等の如き者を尊敬して呉れる人の在るを知りて不思議の感に打たれた。

 

 十月十五日(日)晴 今日も亦六百許りの人が余の聖書講演を聴いた。羅馬書最後の三節を講じて自分ながらパウロ気分になつた。五十九回に渉り此大書翰を講ずるを得て大なる感謝であつた。余は祈つて曰ふた、「願くは此講演を聴きし人々を恵み給へ。そして若し彼等を直接に益する事がないならば、願くは彼等の子か又は孫か又は彦を益しめ給へ。又若し彼等を今世に於て益する事がないならば来世に於て益する事を得しめ給へ。願くは(101)聖言の此宣伝が必ず好果を結ぶに至らしめ給へ。そして聖言は益を為さずしては止まないと信じます」と。何れにしろ大講演が終結《おはり》を告げて肩から重荷が下りたやうに感じた 〇札幌時代の旧友大島正健君夫人千代子京城に於て永眠し、其通骨到来したれば彼女の兄君にして同じく我が旧き同窓の友なる伊藤一隆君の中野の住宅に於て余の司会の下に簡短なる葬儀を行つた。四十年前の事が想出され懐旧の感に打たれた。

 

 十月十六日(月)曇 近頃に至り修道院に世話をして呉れろと言ひ来る者が頻々とある。彼等は余の宗教に修道院のない事を知らない。余等に取りては此辛らい冷めたい社会が、是が最良の修道院である。余等は祈祷を以て此世に勝ちつゝ修道し行くのである。修道院は羅馬天主教会の為す事である。余にその紹介を求むるも余は応ずる事は出来ない。

 

 十月十七日(火)曇 今日になつて疲労が出て来た。半日寝た。朝は英国ガービー博士の註解書を以てルカ伝を読み、午後は独逸デリツチ(老)の註釈に由てヒブライ書を研究した。粥を啜つた後で牛肉を食ふたやうに感じた。イエスを人と見て奇蹟は成るべく説き去らんと努むる近代の聖書学者と、イエスは神であつて奇蹟は当然彼の行ふべき者と見た所謂旧い神学者との間に天地雲泥の差がある。そして後者は人を高め且潔むるに対して、前者は僅かに其の知識欲の幾分を充たすに過ぎない。実に満《つま》らない者とて近代の聖書学者、殊に米国の神学者の宗教観の如きはない。我等は日本に於て断然立て米国の基督教を排斥すべきである。此事は信仰的に日本を守るが為めである許りでなく、基督教を其元に還すが為に必要である。

 

 十月十八日(水)雨 世に心配ほど無益のものはない。心配に由て善き考は起らない。故に心配があつたなら(102)ば祈るに若くはない。祈れば善き考も起れば又之を行ふ力も与へらる。ピリピ書四章六節に於けるパウロの言は実験を経たる深き真理である。曰く「何事をも思び煩ふ勿れ。唯事毎に祈祷《いのり》をし、懇求《ねがひ》をし、且感謝して己が求むる所を神に告げよ」と。人生終りまで心配の絶えざるは之に依りて絶えず神に近かんが為であるに相違ない。

 

 十月十九日(木)晴 大手町小講堂に祈祷感話会を開いた、来会者百三十人。有益なる集会であつた 〇人世は満《つま》らない所であると云ふ。誠にさうである。然しながら之を面白い所となす事が出来る。人を愛し善を行つて人世は面白い所となる。愛する事其事が楽しい面白い事である。そして善行は皆んなは酬ゐられざるも、其或者は裕かに酬ゐられて、すべての悲痛《かなしみ》を償ふて余りがある。人世は満らないと云ふ者は自分の為にのみ幸福を求めて、之を他に与へんと欲しないからである。他人の幸福を計つて此世は頗る面白い、楽しい所となるのである。

 

 十月二十日(金)晴 来る聖日の準備の為に全日を費した。煩ひ多き此世に在りて唯一の平安は神の聖言を学びて之を他《ひと》に頒つ事である。人は我を聖人と呼びて我を遠ざくる。我は彼等の内に在りて聖言を学びながら独り主と偕に在る。我は世に絶交されたと同然である。我は却て之を悦ぶ。此世に聖人として祭りこまれて我は単独の幸福に在るを得て神に感謝する。

 

 十月二十一日(土)晴 過読の為にやあらん、又復眼を痛め、左近君の紹介にて品川に城南眼科医院々主武藤一明君を訪ふて診察を乞ふた。差したる事に非ずと告げられて安心した。武藤君は二十年来のキリストの忠実なる僕である。それが故にか君の診断は自分の推測と異ならず、大なる慰め又喜びであつた。信仰の眼を以てするに非れば肉の疾病も本当に解るまいと思ふ。

 

(103) 十月二十二日(日)晴 「羅馬書大観」と題し羅馬書最後の講演を為した。昨年一月第一回を為し、今日で第六十回である。神は講師に之を為すの精力を与へ、聴衆 聴くの忍耐を供し給ひしことを感謝した。余の残る生涯に於て再び羅馬書を六十回に渉りて講ずるの機会は与へられないであらう。而して之は余の四十年間の此書の研究が茲に至つたのであると思へば感慨禁じ難きものがある。我が旧き同窓の友が、或は植物学を、或は土木学を、或は経済学を修めつゝありし間に我は聖書殊にパウロの書翰を学びつゝあつたのである。そして長き間何の用にも立たないやうに思はれし此聖書知識が、帝都の中央に於て披瀝せらるゝに至りし事は、実に神の摂理として驚く外はない。神は今日あるを知りて我を独り聖語の中に導き給ふたのである。大感謝である。

 

 十月二十三日(月)晴 ウエスミンスター新約聖書叢書中、A・E・ガーヴイー編路加伝を読み了つた。三百八十頁の小篇であるが、暗示に富める好註解書である。然し言ふまでもなく、如何なる註解よりも興味深きは本文である。聖ルカの見たる神の子イエスキリストは愛すべき慕はしき、すべて虐げらるゝ者の友である 〇今や日本も米国と同じく女本位の国となりつゝある。今や日本に於ても女が男の所に嫁に行くのではなくして男が女の所へ婿に行くのである。然し是れ必しも悪い事ではない。一つの事は女の生家の責任がそれ丈け増して男の生家の責任がそれ丈け減じた訳である。自今日本に於ても米国に於けるが如く女を生む事は重大の責任である。嫁にやつた丈けでは済まない。後々まで彼女と彼女の生みし子供の気附けを取らねばならぬ。そして二者何れになるも畢竟《つま》る所は同である。男女は独立の生涯を始むるのであつて、父母の長く干渉すべき者でない。神の聖旨《みこゝろ》は終に成るのである。当人とても自分の欲するが如くに成るに非ずして、神の器として使はるゝのである。人生、実は神の聖旨さへ成れば如何なつても宜いのである。


(104) 十月二十四日(火)晴 大手町に於て羅馬書の講演を終つて感謝を表して来た者が今日までに四人あつた。(七百人中の四人である)。其内朝鮮人某君のそれが最も強く余の心に響いた。曰く「内村先生、六十余回に亙る羅馬書講義を何等の倦怠も覚えずに歓喜より歓喜の中に学ぶ事が出来ました事を喜びます。小生は昨年一月を機と致しまして爾来一回の休みも無く参席を許されましたが、愈々本日の『大観』を以て天下の大書を講了なさるゝに当りまして、その計らざりし僥運の嬉さの余りに覚えず感涙の眼底を洗ふを認めまして窃に恥入りました。児女《こども》であるならば或は其親より飽く程受くる共尚感謝の念の起らない事も御座いませう。然し案《だい》の下に在て児女の遺屑を食はんとして、しかも児女同様のパンを与へられた時の犬には如何で其念を禁ずる事が出来ませう(馬太伝十五章廿六節以下)。先生、よくも全国人の迫害と、堪え難き国賊の誹謗との中にも、極東の一角に踏留つて下さいまして十字架の聖旗を空高く守つて下さいました事を有難く感謝します云々」と。此言を朝鮮人より受けて余も「覚えず感涙の眼底を洗ふを認」むる。将来余を最も能く解して呉れる者は或は朝鮮人の中より出るのである乎も知れない。

 

 十月二十五日(水)曇 雑誌編輯を終る。猶ほ此事を為すの力あるを感謝する 〇山茶花が咲き出した、余が最も愛する花の一である。秋の桜である。春の桜の如くに急いで散らない。其葉は秋の日光に輝く。其外、柿は鈴成に実《な》つて秋の豊熟を示す。我も我が生涯に於て斯くも多くの果を結びたく思ふ。

 

 十月二十六日(木)雨 基督教の教師に成つて不愉快極まる事は基督教の他の教師を敵に持たねばならぬ事で(105)ある。世に多分基督教の教師程仲の悪い者はあるまい。余は近頃ジヨン・クリソストムの小伝を読みてキリスト降世後四百年に既に教師間に犬猿も啻ならざる嫉視暗闘の盛に行はれし事を知つて憤慨に堪へなかつた。基督教界に在りては、曾てカアライルがエマソンに書贈りしが如くに Orthodoxy(正統教)とは Mydoxy(我宗教)である。|我が〔付○圏点〕宗教、|我が〔付○圏点〕信仰、殊に|我が教会〔付△圏点〕、それ丈けが本当の基督教であつて、其他は悉く偽はりの基督教であると云ふのである。余が基督教を唱ふればとて喜んで呉れる教会は一もない。余が再臨を信ずればとて、其他の事に於て誤れりと云ひて余を責め罵る再臨信者が沢山ある。斯かる有様であれば、余は不信者に対してのみ基督者《クリスチヤン》であつて、信者に対しては不信者よりも悪い者である。我国に於て多くの善き信者が信仰を棄、善き教師が伝道を廃したのは基督教界の此不快極まる状態に因るのである。実に苦々しき次第である。斯かる境遇の内にも少数なりとも真面目《まじめ》の基督者《クリスチヤン》が在るのは実に不思議である。基督教界の実況を見て世に一人の信者なきに至るも敢て驚

くに足りない。|余は基督者たらんと欲するが故に断じて言ふ「余は基督者に非ず〔付△圏点〕」と。

 

 十月二十七日(金)晴 函館の読者の一人より「礼状」として左の如き者を受取つた。

内村先生、私は五六年前より『聖書之研究』を見て居りました。私は三年前に信仰の自由を得べく出奔上京致しました。今までの何不自由なき生活に比し其日々々のパンを得べく苦しみました。大阪の某有名なる信徒の家に参りましたが冷遇されました。そして未知の一青年に救はれました。東京に再度参りシンガーミシン会社に入りましたが、東京のみで五百名近くのアメリカの会社に雇はれて居る社員は殆んど同胞の吸血漢であります。私は半年で飛出しました。医師の売薬師なるに驚きました……其内に腸チフスに感染し、続いて肋膜炎を発し、本年は肺尖を侵されました。三年間病魔と悪魔と戦ふて惨敗を重ね、倒されては起き、沈んでは浮き上つて、辛くも信仰に依つて立つて居ります。……社会大学に三年間学びし結果として『聖書之(106)研究』は真に分つて参りました。先生に深く感謝致します。
誠に路加伝第十五章を読むやうである。其れと共に無手法《むてつぱふ》に家を飛出す事は大に慎むべきである。
 十月二十八日(土)晴 日曜日毎に余の聖書講演を聴いて呉れる一人の若き婦人より手編みの靴下を贈つて呉れたれば、頭寒足熱の意を含ませて左の一首を詠みて感謝の意を表した。
   温かき足と冷めたき頭にて

   聖書《みふみ》説かなん来る年にも。
そして足のみならず心までが温かくなつて嬉しかつた。


 十月二十九日(日)晴 菊花香はしき秋晴の聖日であつた。大手町は不相変盛会であつた。馬可伝一章一節を講じ自分ながら其荘大に撃たれた。斯んな麗はしい日に、斯んな熱信なる聴衆に向つて、斯んな大なる題目に就て語ることが出来て、感謝と歓喜此上なしであつた。

 十月三十日(月)晴 『米国地理学雑誌』十月号が達し、其れが阿弗利加号なりしが為に終日之を耽読して大なる興味を感じた。タンガニカ湖上英独海戦記に血を沸かした。コンゴ河上流の沿岸に住む黒人の一基督者と成りし者に関する記事を読みては強く我意を惹かれざるを得なかつた。一首が唇より滑り出だした。

   我子をば遠きコンゴ の河辺《かはべり》に

     住むニグローの内に求めん。

 

(107) 十月三十一日(火)曇 我国に於て教育制度発布以来満五十年であると云ふ。誠に賀すべき事である。然し乍ら過去半百年の間に我国に於て本当の教育が行はれし耶、甚だ疑はしくある。文字を知り、学術を学ぶ意味の教育は行はれしも、人物を作り、真理を愛する意味の教育は行はれない。日本の諸学校は能く金を稼ぐ人間を出せしも、本当に国と真理と人類とを愛する人物を産まない。実に痛歎の極みである。

 十一月一日(水)曇 阿弗利加マダガスカル島の地理歴史に就て読み、仏蘭西人の該島に於ける行政施設に就て憤慨せざるを得なかつた。マ島の人民歴史に大に日本に似たる所がある。殊に百年ならずして自《みづ》から基督教国に成りし所に深く同情すべき所がある。然るに今や仏蘭西の如き不信国の属国となる。不幸此上なしである。福音を植ゆる者は欧米人であるが、之を壊《こぼ》つ者も亦欧米人である。マ島の場合を考へて見ても我等は決して欧米人に頼つてはならない。

 十一月二日(木)半晴 第二回の世界伝道会を衛生会小講堂に於て催した。来会者六十名、余は阿弗利加大陸の地理の大略並に伝道の大要に就て語つた。此日満鉄調査課に勤務する道生君の出席あり、満洲に於ける英国並にデンマルク国宣教師の支那人間に於ける伝道に就て語られ一同強き感に打たれた。彼等の事業に比べて見て余自身の今日の伝道の如き、伝道の名を以て称するに足らざる事を感じた。営口のカーソン、海城のマキンタイヤ、遼陽のダグラス、吉林のグリーン等、皆な伝道界の勇士勇女なる事を知らせられて、大に我が伝道心を鼓舞せられた。此日伝道金として五十三円余の寄附あり、前回以上の成功であつた。

 十一月三日(金)晴 校正にて多忙である。英国より帰朝せる好本督君の訪問あり、盲人伝道に就て語り、日本(108)に於ける其発展を祝した。余の信仰の友の内より斯かる平信徒伝道者の起りし事を天父に感謝せざるを得ない

〇近日メキシコ国エスキントラに向つて出立する清水夫人サヘ子と共に彼女の友人三人を招きて送別の夕飯を共にした。我が伝道師を遠く太平洋の彼岸に送るが如くに感じた。一首を賦して彼女を励ました。

   メキシコやポポカテピテル、ソコヌスコ

     旗風高く揚がる十字架

彼女の赴かんとする墨国チヤパズ州は面積二万八千平方哩ありて略ぼ我が北海道大である。之に人口は四十万に過ず。鉱物に富み、大森林あり、五穀一として実らざるはなく、第一等の珈琲とチヨコレートとを産す。我が同志の続々と彼地に往きて、聖書と鋤とを以て新郷土を拓かん事を望む。

 

 十一月四日(土)晴 又小人国に於ける一日を送つた。人は相互を妬み嫉《そね》み、其成功を羨み、失敗を喜ぶ。毎日の不愉快譬ふるに物なしである。其点に於て小児も大人も、職人も官吏も商人も、学者も僧侶も牧師も何の異なる所はない。皆な悉く小人である。只極めて少数の神の人がある。時に其一人に接するは無上の愉楽である。薩長藩閥政府は其数育制度を以て日本国を完全なる小人国と成す事に成功した。実に憤慨の至りである。

 

 十一月五日(日)半晴 快き秋の聖日であつた。中央講演会不相変満員の盛会であつた。馬可伝研究第二回『先駆者ヨハネ』に就て語つた。義人バプテスマのヨハネを紹介し且弁護して大なる義務を果したやうに感じ、非常に気持が快《よか》つた。イエスを讃へんが為にヨハネを貶すを以て快しとする近代の日米の教会信者に対し余も亦憤慨なき能はずである。此日好本督君高壇に登り、盲人間の福音的事業に就て語つて呉れ、一同大に教へらるゝ所があつた。我等は特別に社会事業又は伝道事業には従事しないが、我等の間に人知れずして静かに大なる永久(109)的事業を行ひつゝある者あるを知つて感謝に堪へない。神の言なる聖書を説いてすべての善き事業は挙らざるを得ない。聖書なる哉、然り、聖書なる哉である。

 

 十一月六日(月)曇 田島進君の訪問あり、札幌独立教会新築献堂式に列席し、帰りて其状況を報告せん為であつた。夕飯を共にし、四時間に渉りて談じた。一時は消滅せん乎と気遣はれし札幌独立教会が天父の恩恵に由り茲に復興の機運に入りしを知りて感謝に堪へない。宣教師と宣教師的教会とは幾度か此我国唯一の独立教会を呪ひ、其建築計画さへ|立腐りと成りて終らん〔付△圏点〕と言振らした。然れども神は彼地の旧友、殊に我が同信同級同室の友たる理学博士ドクトル宮部金吾君に特別の能力を与へ、終に彼等をして工を竣らしめ、新たに我が若き信仰の友なる法学士金沢常雄君を遣りて其牧師とならしめ単純なる福音主義の上に旧き此教会を立直し給ひし事は実に感謝の至りである。神は日本に於て独立信仰を恵み給ひ、多くの悪戦苦闘の内に、其発達を助け給ひつゝあるを感謝する。神は必ず日本人を以て日本を救ひ給うであらう。札幌独立基督教会は其最初の試みとして存し且つ栄えねばならぬ。

 

 十一月七日(火)晴 久振りにて朝鮮金貞植君の訪問を受けた。前に変らざる信仰の光に輝く君の容貌に接して楽しかつた。君に会ふ毎に思ふは|キリストに在りて成る日鮮合同の確実なる事である〔付○圏点〕。政治家や軍人や実業家は知らず、余は日本人であり金君は朝鮮人であるが、我等は|キリストに在りて〔付○圏点〕真の兄弟である。

 

 十一月八日(水)雨 便徒行伝の研究に大なるインテレストを覚えつゝある。昨日はステパノの殉教に就て、今日はピリポの伝道に就て学んだ。二人共に平信徒であつて、十二使徒等が為し得ない事を為した。聖書は何処(110)を見ても平信徒対教職の書である。真理は常に平信徒に由て進められ、教職は其跡に従ふ。「ヱルサレムに居る使徒等サマリヤ已に神の道を受けたりと聞きてペテロとヨハネを彼処《かしこ》に遣はす」とある(八章十四節)。平信徒ピリポが開きし伝道地へ使徒等が入来つたのである。牧師だから、又は宣教師だからと自から思ふ時に神は教師ならざる者を以て其大なる聖業《みしごと》を行ひ給ふ。有難い事である。

 

 十一月九日(木)曇 昨日より今日に懸けて三人の訪問者があつた。其一人は第一高等学校の一年生であつて、彼は余に余のキリスト再臨の信仰に就て注意する所ありと云ひて訪問した。第二は上州安中の人であつて、彼は故新島襄氏の伝を著はしたれば、海老名弾正氏と共に其序文又は紹介文を書いて呉れと云ひて訪問した。第三は高等女子師範學校の生徒であつて、彼女の信仰上の疑問を解かれんとの祈願を以て訪問した。第一は不快であつた。余は彼の心的健全を疑はざるを得なかつた。第二も余り快くなかつた。自分の著はした書を余に押附けるやうに見えて近代人特有の自己中心主義の発揮を認めざるを得なかつた。第三は気持が善かつた。真面目で、謙遜で、閑雅《しとやか》で、信仰の深き事を語つて少しも嫌《いや》に感じなかつた。敢て絶対的に訪問者を拒絶すると云ふのではない。但し宗教狂と自己押売人の訪問は甚だ有難くないのである。謙遜と道理とを欠く人は援けんと欲するも助くる事が出来ない。余を誨へ又は利用せんと欲する者は来る勿れ。教へられ又は兄弟の愛を以て授けんと欲する者は来るべしである。

 

 十一月十日(金)雨 清水繁三郎夫人サヘ子並に松田英二の二人東洋汽船安洋丸にて墨西哥国エスキイントラに向け横浜を発す。見送りのため我等両人岸壁繋留の同船に至り、多くの友人と共に彼等の上に祝福を祈つた。同志の海外発展は最も喜ぶべき事である。狭き日本国に在りて同胞相競ふは好ましからざる事である。如かず聖(111)書と鋤とを以て新たに郷土を拓かんには。「海よ海よ我を広くせよ」である。日本国は喜んで之を競争者に譲つて、我等は北は勘察加又は西此利亜に、南はロツキー、アンデスの麓に我が領分を拡むべきである。愉快なる一日であつた。

 

 十一月十一日(土)晴 雑誌十一月号が出来た 〇書面を以て米国の友人と進化論に就て闘つた。聖書を以て学問を圧迫するの非に就て論じた。米国基督信者の不遜を責め、我等日本人は惟々諾々彼等の信仰を受くる者に非る事を明白に書送つた。

 

 十一月十二日(日)晴 馬可伝一章九-十一節「イエスのバプテスマ」に就て講じた。高貴なる行為に対する静かなる鴿の如き聖霊の降臨に就て述べ、自分も聴衆も大に励まされた。不相変週間第一の日であつた。

 

 十一月十三日(月)晴 麗はしき晩秋の一日であつた。郊外に杖を曳き、遅咲の紫竜胆に昨日来の疲労を癒した。イエスの野の試誘《こゝろみ》に関はる善き註解を得んとて、カイムのイエス伝、※〔ワに濁点〕イスのキリスト伝と漁りしも、矢張りミルトンの傑作『楽園の回復』の此事に関する最上の解釈なるに気附て、一気に其三章を読みて非常に愉快であつた。偉大なるは此清党詩人である。彼の作に小作は一篇もない。ミルトンの信仰を学んで我等は同時に熱心にして健全なる事が出来る。今日欧米、殊に米国に流行する多くの不健全にしてヒステリー的なる信仰に較べて、清党時代の信仰の如何に強健なりし乎が判明る。

 

 十一月十四日(火)晴 今日も亦ミルトンを読みつゞけた。彼の該博なる学問と深遠なる思想と堅実なる信仰(112)に驚く。彼れ世を去りて茲に二百五十年、英米人は未だ彼の信仰に達せざるや遠し。ミルトンの思想を以て審判《さば》くならば、今日の英米両国、殊に米国は純然たる偶像教国である 〇山形県北村山郡東郷村沼沢 生香園主奥山吉治君より例年の通り君自作の林檎一箱を贈り来る。余は年毎に君の此贈与を受くる事茲に二十有五年、今年も亦茲に該《その》園特有の林檎満紅、大和錦の贈与に接し感謝措く能はず、一首を賦して君の変らざる友誼に酬ゐた。

   我が友にやどる生命《いのち》の結ぶ果の

     香《かほり》はたかし沼沢の里。

今後何回君の此贈与に接するを得るにや。何れにしろ此友誼は此世を以て尽くる者でないと信ずる。

 

 十一月十五日(水)晴 今日も亦最良の友人はミルトンであつた。『楽園の回復』の再読を始めた。彼れ自身が俗界を超越した人であつた。故に彼の詩に親んで現世に対し無頓着に成らざらんと欲するも得ない。ミルトンは英民族の思想が其最高潮に達した者である。其点に於てワルヅワスもブラウニングも到底彼に及ばない。英語を学んでミルトンを読まずして其最大の美を逸するのである。ミルトンを解する丈けにも英語を学ぶの価値は充分にある。

 

 十一月十六日(木)雨 大手町に於て家庭祈祷会を開いた。秋雨冷たきに拘はらず来会する者六十名。宿題は「食前の祈祷」、多くの実験談あり、甚だ有益なる集会であつた。

 

 十一月十七日(金)晴 義弟横浜水哉 東洋汽船波斯丸機関士として爪哇航路に就かんとて今日我家を発す。彼に依り自今東印度諸島に就て研究せんと欲し、其材料蒐集を彼に依嘱した。陸にはワレス、海にはブレークが其(113)動物学的研究を積みし是等の島嶼は無限の興味を研究者に供する者である。

 

 十一月十八日(土)晴 余を曾て先生と呼んだ人で余に対し攻撃を継けて居る人があると聞いた。斯かる人は今日まで幾人《いくたり》もあつた事故別に驚かない。斯かる人があるが故に余は今日猶ほ余を先生と呼ぶ人に注意する。彼等も亦何時余の敵となりて余を罵るに至るか判らない。又斯かる人があるが故に友人の真偽が試験せらる。偽りの友は余に敵する者と交際をつゞけ又は彼と共に余を離る。其の友は彼の言を排して余に与する。人生敵を持つ事は善き事である。今日まで敵を持ちしが故に友人は淘汰せられ、事業は発展し、信仰は高まり、恩恵の上に更に恩恵の加はりし事は其幾回なりし乎を知らない。余の敵は欲《おも》ふ存分に余を敲《たゝ》くが宜い。若し其れが為に彼が幾分なりと愉快を感じ、又幾分なりと彼の事業を進むる途となるならば余は彼の為に甚だ喜ぷ。

 

 十一月十九日(日)半晴 不相変満堂の聖会であつた。畔上は彼得前書を、余は馬可伝一章十二、十三節を「野の試誘其一」として講じた。詩人ミルトンに励まされて熱心と確信とを以て此大問題を講ずるを得て大なる感謝であつた。此日讃美歌殊に美はしく、三十一番、四十八番、百五十二番、二百四十九番、何れも熱心を以て歌はれた。老若男女貧富の別なく、七百有余の会衆が帝都の中央に於て声を合はせてイエスキリストの御父なる真の神を讃美する其有様は見るからに荘観である。

 

 十一月二十日(月)晴 今や日本に士道は絶えた。博士と云ひ学士と云ふも多くは士ではなくして商人にあらざれば芸人である。「士は己を知る者の為に死す」と云ふやうな心は之を所謂基督信者の間にすら見る事が難い。痛歎の至りである。


(114) 十一月二十一日(火)半晴 再臨の信仰は自分等に多くの善き事を為したが亦多くの悪しき事を為した。再臨の信仰に由り自分等は多くの米国流の基督信者に接し、其結果として数知れぬ苦痛を自分等の内に招いた。今に至つて判明つた事は再臨信者の内に多くの宗教狂あり、所謂「福音商人」あり、浅薄なる米国流の所謂「霊魂捕獲者」のある事である。余自身は彼等を一掃するに多くの努力を要した。然し神の恩恵に由り今や万事が元の健康状態に復しつゝある。余の進化説の維持に由り多くの再臨信者は余を離れつゝある。キリスト再臨の信仰は深き真理である事は余は今日と雖も少しも疑はない。然し此信仰に附着する多くの寄生虫に至ては全然之を余の身辺より排除せざるを得ない。

 

 十一月二十三日(木)曇 旧屋の改築漸く成り、今日より引越しを始めた。大混雑である 〇英国総選挙に於てロイド・ジヨージが落選したと聞いて一時は失望したが其事が誤報でありし事が判明つて甚だ愉快であつた。此人が若し英国の政界を去るやうでは世界は真暗《まつくら》である。然るに非国教主義の此基督的政治家が猶ほ其獅子吼を続くると聞いて大に我心を強くする。ロイド・ジヨージ永く健在なれである。

 

 十一月二十四日(金)曇 柏木の旧家《ふるいえ》の改築が成つた。今度は之も同じく柏木の旧教友団の改造に取掛らねばならぬ。二年半前に余が長尾半平君の平信徒修養会に講演を承諾したりとて二三の強き反対者が出、其人達に対する旧き教友達の同情頗る厚く、先生たる自分は多数決を以て不信任を議決せられ、威信殆んど地に堕つるに至つた。然し乍ら自分としては今日に至るも尚ほ自分の主張を曲ぐる能はず、為に殆んど前の孤独に帰つた次第である。乍然此場合に於ては自分あつての柏木であつて、自分を抜きにして柏木は立たないが故に茲に復た自(115)分一人で柏木を再興するに定めた。人各其見る所あり。自由は余の最初よりの主張である。故に自分を去るも自由、去る者に同情を寄するも自由である。其点に於て自分は常に公然自分に反対する者を尊敬する。但し持つて欲しきは紳士の態度である。君子は去つて悪声を放たず、況して十数年間信仰的生活を共にし来りし者の間に於てをや。斯くして建ては壊れ、壊れては建つ、今日まで其幾回なるを知らず。然れども改築を重ぬるたび毎に我が住家は善くなつた。今度も多分同じ事であらうと信ずる。而かも反対の起るたび毎に自分は敗北者の地位に置かれ、多数の棄つる又は疑ふ所となつた。然し乍ら余は却て其事あるを悦ぶ。余は神の恩恵に由り一人で立つ事が出来る。余の反対者は多分多数の同情を要するであらう。願ふ恩恵裕かに彼等の上に加はり、彼等の反対其物が神の栄光を顕はすの機会とならん事を。余は余の反対者に同情を寄せし旧同志の行動を責めない。二人相争ふ時に弱者に同情するは日本人の特性である。故に先生と弟子と相争ふ時に弟子に同情するは日本人として当然である。然し乍ら正邪は強弱を以て決する事は出来ない。正が強の側に在る場合がないとも限らない。然し何時までも此状態を継続すべきでない。故に今は去る者には去つて貰ひ、止まる者には止まつて貰うて茲に又新たに信仰団を作らうと思ふ。そして止まる者は余が予想せしよりも多き容子である。余は此際強き余が勝つて弱き余の反対者が負けん事を恐れる。

 

 十一月二十五日(土)半晴 地方より世界伝道協賛会への賛成続々と来る。此日三口にて二百十二円の寄附があつた。其内二円は大阪附近に下女奉公をする者が父母に仕送り、弟の学資を助け残余の金を送来つた者である。本誌の読者の内に斯くも全人類を愛する 愛の厚き者あるを感謝する。


(116) 十一月二十六日(日)雨 久振りの雨の聖日である。中央講演会の聴衆少くして静かなる集会ならんと思ひしに、来会者晴天の日に異らず満堂一脚の空椅子なき有様であつた。講演の題目は馬太伝四章に依る「イエスの野の試み」であつた。実に大切なる題目であつて、其説明に余は全身の力を籠めざるを得なかつた。余は「偉大なるイエスよ」と叫ばざるを得なかつた。基督教会全体が尽く野の試みに負けし者である事を述べて、我国に於て基督教の建直しの必要あるを主張した。家に帰り夜に入つて気抜けがしたやうに感じた。此日独りで大奮闘を為したやうに覚えた。大問題に就て語つて縦し斃れても惜しくはないと思うた。

 

 十一月二十七日(月)晴 聖書を読んで益々明白になる事はキリストの善き弟子たらんと欲すれば単独の生涯を覚悟せざるべからずと云ふ事である。基督者の生涯は、今の教会信者が思ふが如き社会の人望を博し、多くの同志に囲まれながら安心喜楽の日月を送る事ではない。実際的に悪魔と戦ひ、或る形に於て独り十字架に釘けらるゝ事である。「人の敵は其家の者なるべし」とか、「汝若し我に従はんと欲すれば己が十字架を負ふて我に従へ」と云ふが如き主の言は此事を意味するに相違ない。余は今やキルケゴードと共に今の基督教会なる者は偽はりの教会であると云ふに躊躇しない。斯んな教会に棄られやうと辱しめられやうと、少しも耻ではなくして却て大なる名誉である。而かも少数の本当のクリスチヤンの世に在る事は感謝に堪へない。

 

 十一月二十八日(火)晴 家は甥と下女との病気で混雑した。柏木教友団の改造が着々進捗しつゝある。今日の所反対は余が思ひしよりも遥かに尠いやうである。又反対者の言なりと云ふを聞くに、其反対なる者は余に対(117)する深き愛より出るのであつて、余の傲慢を矯め、余が貴族や富豪に誘はれざらんが為めであるとの事であれば、余には反対は絶対的に無いと見ても可いのであらう。何れにしろ万事万物悉く可なりである。英国近代の大哲学者バートランド・ラツセルの言なりと云ふを聞くに「人生敵を憎むは最大快楽である。敵を憎んで彼を苦しむるの快楽は友を愛して彼を喜ばすの快楽に勝さる。人生此快楽即ち敵を憎むの快楽を逸する事は出来ない」と。一面の大真理を含みたる言である。余は常に思ふ、「人あり余を憎み幾分なりとも余を苦しむるに由りて幾分なりとも快楽を覚ゆるならば余は喜んで彼の憎みの標的となるであらう」と。余は斯くして彼に快楽を与ふるならば余は彼に対し一種の慈善を施しつゝあるのである。故に我を撃《うて》よ我が敵!

 

 十一月二十九日(水)晴 教友高山※〔金+申〕吾君、福音書店を市内九段坂に開き、余は之に向山堂《かうさんどう》の名を与へた。詩篇第百廿一篇「我れ山に向ひて目を挙ぐ」の語に因るのである。此日四五の同志相集まり、細微《さゝやか》なる「献堂」の式を行つた。後一同神保町の某亭に至り、豊かなる晩餐の饗応に与つた。今や純福音書店の全市に絶えし此時に当り、向山堂が其名の通りヱホバに依頼《よりたの》みて其職責を全うせん事を祈る。序に記す、同店を聖書研究社市内出張所と定め、市内読者併に売捌店の便利を計ることにした。

 

 十一月三十日(木)晴 旧屋改築の結果として多くの燃料を生じ、其|焼棄《やきすて》に毎朝楽しき時を持ちつゝある。世に最も気持善きものは「焼尽《やきつく》す火」である。之に由て凡ての汚物、腐敗、懦気が焼尽さるゝのである。火の革正なくして清潔はない。そして清潔の無き所に真の愛は行はれない。然るに現代人、殊に現代の基督信者は何よりも革正の火を嫌ふ。彼等は恩恵の慈雨に潤ふの外に救の道は無いと信ずる。

(118) 十二月一日(金)晴 校正と交友とで多忙を極めた。此所一週間程書籍に眼を触れる時さへなかつた。珍らしい事である。

 

 十二月二日(土)晴 忙しい土曜日であつた。柏木教友団の改築工を竣《おは》り、誠に感謝の至りである。去る者は去り残る者は残りて茲に喜ばしきクリスマスを迎ふるの準備が出来て近頃にない歓びである。

 

 十二月三日(日)晴 中央講演会引つゞき大盛会、自分は路加伝四章一-十三節に依りイエスの野の試みの第三回を講じた。自分ながら主イエスの偉大に打たれた。今日の教会、殊に米国の諸教会は殆んど其すべてが悪魔の試みに負けて其翻弄する所と成つた者であると云ひて憚らなかつた。イエスほ悪魔の試みに勝ちて其時十字架の死を選み給うたと言ひし時に我が心は躍らざるを得なかつた。

 

 十二月四日(月)晴 内外の紛糾少しく片附き読書欲の復興を見た。取出されたのはカール・ウルマンの『イエスの罪なき事』であつた。旧い独逸神学の正気に触れて我が今日の信仰の立場を確められて嬉しかつた。

 

 十二月五日(火)晴 北風強くして寒し。中央講演会ハンナ組の少女某重病の由を聞き彼女を銀座の家に見舞うた。昨日来快方に向ひし由を聞いて喜んだ。平素の信仰其功を現はし、苦痛に対し平然たる者ありと彼女の両親より聞いて非常に嬉しかつた。彼女は感謝の涙を以て余を迎へて呉れた。余も亦余が失ひし少女の為に祈つた其心を以て此信仰に在りて生みし少女の為に祈つた。美はしきはキリストに在りて結ばれし師弟の関係である。

 

(119) 十二月六日(水)晴 引続き北風にて寒し。米国地理学雑誌に英国ウイリヤム・ラムゼイ氏の筆に成る小亜細亜亜の歴史地理に関する記述を読み、大なる興味を覚えた、小亜細亜は読んで字の如く小なる亜細亜である。其歴史と地理とは亜細亜大陸のそれの縮写である。其運命は世界の運命に大関係あるもの、又基督教の立場より見て意義深き者である。ラムゼイ氏の如き大学者が其一生を此研究の為に献ぐる又故なきに非ずである。

 

 十二月七日(木)晴 午後六時半より柏木今井館に於て第三回世界伝道協賛会を開いた。来会者男女七十名。宿題は「支那伝道の義務」。余は此題に就き余の意見を述べ継いて支那旅行者三人の実験談あり、祈祷と讃美歌とを以て此興味多き集会を閉た。献金四十八円余。此日支那に医師を送り、医療伝道を開始するの祈願が起きた。其の遠からずして実現せん事を祈る。

 

 十二月八日(金)晴 建具屋に襲はれ家は混雑であつた。人生十分の九はたゞ肉体に於て生くる事であると思へば申訳なき次第である。此日『英百』に支那|海南《ハイナン》島に関する記事を読みし外何事も為さなかつた。真に不生産的の一日であつた。

 

 十二月九日(土)晴 カイムのイエス伝第二巻にカペルナウン並にガリラヤ湖の地理的研究を読み近頃になき感興を覚えた。さすがに大歴史家である。彼の史眼に驚くべき者がある。何んと云うても今日の所、此著以上のイエス伝を見る事は出来ないと思ふ。彼に教へられつゝイエス伝を講ず、是れ以上の愉楽《たのしみ》はない。カイムはゴーデーと同じく瑞西人であるが、二者全然其信仰の立場を異にする。然れどもカイムの観たるイエスに敬崇を禁ずぺからざる者がある。人なるイエスは神として照り輝く。其偉大は人以上の偉大である。イエスを識らんと欲す(120)る者はカイムのイエス伝を見遁す事は出来ない。

 

 十二月十日(日)晴 中央講演会変りなし。但し聴衆前回より二三十人尠きやうに見受けた。イエスのガリラヤ伝道開始に就て話した。キリストの福音にガリラヤ湖畔の香《かほり》が附いて居ると云ひて昨日カイムより学びし事に我が感想を加へて語つた。前三回の「野の試誘」の緊張に較べて春の長閑《のどけ》さを思はしむる講演であつた。自分ながらにガリラヤの春風に吹かれたやうに感じた。

 

 十二月十一日(月)晴 疲労の月曜日であつた。半日寝た。『英百』にガリラヤ湖の地理歴史を読み、変化に伴ふ休息を求めた。其水に産する魚類の故に殊に面白かつた 〇クリスマスが始つた。第一のプレゼントが三越呉服店員某君より来つた事は不思議である。余の如き者に斯かる所に信仰の友があるとは多くの人は意外に思ふであらう。然し其事は事実である。聖誕節第一信は北見国利尻島沓形港某君より達した。彼は小学校教師である。曰く「朝に堅氷を踏み白雪を蹴て登校する児女二百余名を迎へ、夕に灰を振り蒔くやうな吹雪の中に肩をすくめて帰り行く子等を祈祷もて送り出します。神の愛に救はれて己の愛を知り之を子等に充分に及ぼし得ません、けれども不足の分は主補ひ給ふと信じて、うれしく一日の行事を終るので御座います云々」と。斯んな小学教師が日本に居る乎と思ふと末頼しくなる。孤島の彼れ一人を励ますため丈けにても毎月研究誌を出す価値があると信ずる。今年も亦楽しきクリスマスが既に我等を見舞ひつゝある。

 

 十二月十二日(火)晴 北風にて寒気強し。一月分雑誌編輯に半日を費した。ヨルダン河並に死海の地理復習は面白かつた。米国ドクトル(医)バー君よりクリスマスの祝詞並に贈物に接して嬉しかつた。米国人にして唯純(121)なる友誼の故に余の幸福を念じて呉れる者は唯バー君あるのみである。今より三十八年前のクリスマスに余はペンシルバニヤ洲エルウインにて始めて君に会うたのである。長い事である。我等は宗教上の友人でない、唯単に友誼上の友人である。彼は余に対して「君は聖書は一言一句文字通りに信ぜねばならぬ」とか、或は「君はダーウインの進化説を信じてはならぬ」とか、或は「君は余の教会に入らねばならぬ」とか云ふやうな信仰的圧迫を余に加へない。彼は余を信じて呉れる。故に の友誼は一層貴くある。

 

 十二月十三日(水)晴 誰か独逸より小包郵便にて一六六四年発行のルーテル訳独逸語の大聖書を送つて呉れた。ルーテルと余とは何か深い関係があると思うたからであらう。誠に有難い次第である。二百五十八年前に成りし古本である。殆どウエブストル大字典の大さである。植字図画の粗雑なる今日のそれと較べて見て天壌の差がある。然かも三百年前の信者が此書に神の言を認め、之を信じて大事を為した乎と思へば感激に堪へない。余が今日まで用ひ来りし独逸語の聖書は三十六年前に米国ボストンに於て買求めし者である。何百年経つても其価値の少しも変らぬ書として唯聖書あるのみである 〇余が宗教家であるとの故であらう、近頃に至り種々《いろ/\》の人が飛込んで来る。昨日は煩悶の極、将さに自殺せんと称する或る婦人の訪問を受けて其処分に窮した。今日は又余の知らざる或人が死んだとの故を以て余に葬式を依頼する人が来た。深い聖書の真理を教へて呉れよと云ひて尋ね来る者は無い。すべてが困つた時の神頼みである。彼等は余を仏寺の和尚であるかのやうに思ふて余に坊主の為すことを命じ又依頼するのである。腹も立てば又憐れにも感ずる。

 

 十二月十四日(木)晴 クリスマス気分段々と濃厚になり、友情の交換に甚だ忙はしくある。此日計らずも旧い読者の一人松本太平君の訪問を受けて嬉しかつた。君は故ニコライ先生の高弟の一人である。後に少しく信仰(122)を変へしと雖も、二十年一日の如く主イエスに事ふること厚く、今は鹿島県徳之島に農業に従事しながら独立伝道に従事せらる。君の導きに由り信仰を起して善き平信徒と成りし者多しと云ふ。誠に羨ましき生涯である。君は鞋足袋)を穿ち、徳之島に在りて鋤を取る姿其儘にて柏木を訪はれた。君に対し一層の敬意を表せざるを得なかつた。

 

 十二月十五日(金)曇 旧屋の改築漸く完成し、先づ一休みである。全《まる》五ケ月以上かゝり、随分の気遣ひであつた。日本の職人を相手にする事の如何に困難なる乎を今度程痛切に感じた事はない。日本に於ける職人道徳の廃頽は紳士道徳の廃頽丈けそれ丈け国家存在に係はる大問題である。労働の高価にして仕事の疎漏なる、今や日本は世界第一である。実に社会何れの方面を見ても歎ずべき事のみである。神が特別に日本を恵んで下さらざる以上は其滅亡は避け難しと云ふ外はあるまい。

 

 十二月十六日(土)晴 日本酒上等一升三円五十銭であると聞いて驚いた。我国労働者の貸銀が世界第一である其理由が茲に在る事が解つた。我等が労働者に払ふ金の大部分が此高価なる酒を飲む為に使はるゝを知つて痛歎に堪へない。そして此酒が能率を低減し、技工を害するを知つて其害毒の二重三重なる事が判明る。誠に我等酒を飲まざる者は幸である。自分の如き六十三歳の今日、青年時代と少しも変らざる知識欲を有し、人生の希望満々たる理由は主として禁酒の実行に在るは疑ひなき事である。一升三円五十銭の酒を飲んで生活の改善の行はれざるは少しも怪しむに足りない。

 

 十二月十七日(日)晴 今年最後の講演会であつた。来会者平日より少し尠く、六百人には少し不足したであ(123)らう。馬可伝一章十六-廿一節「弟子の選択」に就て講じた。今年は一回も休講する事なく、此恵まれたる楽しき集会を終る事が出来て感謝に堪へない。講堂の隣りが今の会計検査院であつて四十年前の農商務省の跡である。其水産課に奉職中に読み且つ学んだ事を今聖書註釈の上に用ひつゝあるを思ひて今昔の感に堪へない。イエスはシモン ペテロに「我れ汝を人を漁《すなど》る者と成さん」と曰ひ給ひしが、余も亦四十年前に水産課の事務室に於て同じ声を聞いたのである。そして其声が今事実となつて現はれ、魚を漁るに非ずして生ける霊魂を神の庫《くら》へと漁る業に従事しつゝあるは実に感謝の至りである。余は日本第一の魚類学者と成るよりは聖書を以て日本人の霊魂を捕ふる者と成りし事を遥かに大なる名誉又幸福なりと思ふ。不思議なるは実に神の摂理である。

 

 十二月十八日(月)晴 友人の訪問多し。多忙なるは「節季女《せつきをんな》に盆坊主《ぼんばうづ》」と云ふが、之に「クリスマス牧師」を加へねばなるまいと思ふ。そして牧師ならぬ余も多くの人に牧師扱ひをされてクリスマスは余に取りても年中最も多忙なる季節である。唯時に信仰の押売りに遭ふて辟易する事がある。ホリネス信者にはホリネスを押附けられ、プリマス信者にはプリマスを押附けられ、斥くる事も出来ず受くる事も出来ずして困らせらるゝ事が屡々である。実に困つたものである。

 

 十二月十九日(火)晴 或る友人に招かれ新築の日比谷東京会館に於て夕食の饗応に与つた。食ふ事と遊ぶ事との進歩に驚くべき者がある。誰も神の福音を説く為に百万円の講堂を建つる者はないが、市民娯楽の為の大建築は立所に成る。帝国劇場に演劇を見る者が地下道を通りて此会館に来りて飲み且食ふと云ふ趣向である。日本国万歳である。日本人も亦大速度を以て文明の地獄へと進み行きつゝある。


(124) 十二月二十日(水)晴 年末の友人の訪問で家は娠はつた。東京附近の友人某、過去殆んど二十五年、毎年のクリスマスを祝つて呉れた者の今年の祝詞に曰く

  今年も暮になりました。が望のあけぼのが刻一刻と近づきつゝあるのを知りまして喜びに堪へません。これは微細なれど下僕が感謝の心をこめたるクリスマスプレゼントであります。願ふこの冬休に先生が御好みの御本か又は日本のガリラヤ湖畔の御逍遙費に当て給はらばと……

文章は終つて居らない。然し意味は文字以上である。此好誼に接して別にガリラヤ湖を訪ふの必要もなくなり、一首を送りて我が言尽きせぬ感謝を表した。

   ヘルモンの山を映《うつ》して水鏡

     み教へ清しガリラヤの湖《うみ》

相変らず讃美と感謝の歳の暮である。

 

 十二月二十一日(木)晴 午後六時半より今井館に於て祈祷会を開いた。年末多忙の時に拘はらず来会者五十人程あつた。大森、巣鴨、中延《なかのぶ》等遠隔の地より来りし者も多かつた。吉岡老牧師が寒気を犯して之れ又遠方より出席せられしは嬉しかつた。感話の題目は「聴かれし祈祷の実験」であつた。祈祷はすべて聴かるゝもの、聴かれない場合には祈求《ねがい》以上に聴かるゝものであると述べた。多数の感話あり、不相変恵まれたる集会であつた。年末多忙だからと云ひて祈祷会に出席せざるは愚である。多忙であるから出席すべきである。神と交はり心を平かにして此世の事業に当るにあらざれば失錯の虞れ甚だ多し。年末の祈祷会は特別に必要である。

 

 十二月二十二日(金)晴 手紙を上海 D・E・ホースト氏、札幌ジヨン・バチエラー君、台湾井上伊之助君、(125)大連大賀一郎君に宛て書いた。世界伝道協賛会の寄附金を送りて其使用を依頼した。実にクリスマスに応《ふさ》はしき愉快極まる仕事であつた。支那内地の支那人、北海道樺太のアイヌ人、台湾の生蕃人、満洲土人等に我等の同情の印を送りて、我が心と世界とが急に広くなつたやうに感じた。何故に斯んな愉快の事をモツト早く始めなかつたかと思ふた。世界伝道は我が残余の生涯に於ける最大の愉楽《たのしみ》であるであらう。

 

 十二月二十三日(土)晴 友人の訪問と家族の者の病気とで混雑した。読書も黙想も少しも出来ない。唯毎日有難う、有難うと云ふて居るのみである。我が為すべき事を為した丈けである。之に対して礼を為さるゝ理由はない。然るに多くの友人は相談でも為したかのやうに後《あと》から後へと我が家を訪ひ来る。此世に在りて既にすべての報賞《むくひ》を受けたやうに思はれて薄気味悪くなる。此世からの天国の生涯である。誠に相済まざる次第である。

 

 十二月二十四日(日)晴 午後六時半より大手町衛生会講堂に於て聖書研究会々員クリスマス感謝会を開いた。来会者五百人余り。讃美歌第五十六番の合唱を以て始め余は詩篇第百篇の大意を講じ、女子学院教頭三谷民子女史は婦人席を代表し、三井物産会社役員久山寅一郎君は男子席を代表して、各一場の感話を述べ、其間に女声二重唱、男声合唱、倉辻夫人の独唱を交へ、最後に讃美歌第六十八番を合唱して、全二時間が感謝と讃美の内に知らざる間に過ぎた。誠に我等相応のクリスマス祝賀会であつた。

 

 十二月二十五旧(月)晴 合湾生蕃伝道を生涯の目的となし独力之に従事しつゝある台湾新竹街井上伊之助君よりの書面の一節に曰く

  ……私事今回渡台致し候より七月と相成候も之と云ふ働きも出来申さず神様と皆様に対し申訳無之候。……(126)  先生より御送り下され候ひし賜物に依り二回蕃界旅行を致し、先年住居せしカラパイの蕃人等に面会致し過去を語り現在を思ひ、将来の希望を与へられ感謝致し居候。云々

此貴き伝道に対し本誌の読者諸氏が厚き同情を表し、我が井上君をして物資欠乏の故を以て其事業を中止せしむるが如き事なからざらん事を望む。又在横浜の或る旧き基督信者にして我家の主婦を慰めて呉れし言に曰く

  奥様。私共の最大の喜びであるクリスマスが又参りました。たとへ神の御使命を御尽し遊ばす事が唯一の御喜びで入らせられませうとも、一年間寒暑雨雪の別ちなく、毎日曜日に全人類の為に聖書御講演を遊ばされた先生の御骨折は申すまでもなく、あなた様の隠れたる御はたらきは中々御容易の事では入らせられますまいと御察し申上げます。只今までの御講演中何れも大なる御教訓をいたゞきましたが、殊に此度の馬可伝はうれしく伺ひました。私共夫婦は小供の頃から教会に参りましたので四福音書は殆んど耳にタコの入る程読まされ又聞かされましたが、此度先生の御教へ下された様な事は一度も教へられませんでした。バプテスマのヨハネの事や、エス様の野の試みの御話などは実に私共の耳には大なる喜びの音信でありました。いさゝか感謝の意を表する為に何か差上たいと存じ種々考へましたが……長上に金子を御送り申すなどは日本では最も失礼な事ではござりますが何卒悪い意味に御取り下さらぬ様に御願申上ます。本年一年は善悪共感謝のみでございました。皆様御機嫌よく新年を御むかへ遊ばしませ。かしこ。

旧い日本人にして旧い基督信者なる此姉妹よりして、自分ならずして主婦に対する此同情は感謝の至りである。自分に同情して呉れる者は此較的に多いが、自分と同じ責任、或る場合に於ては自分以上の責任を担はせらるゝ彼女は時に甚だ気の毒に思ふことがある。然し乍ら何れも「彼」の為である。「彼」さへ崇めらるれば我等はどうでも可いのである 〇其他今年は諸友人の同情が殊に多く、感謝に堪へない。

 

(127) 十二月二十六日(火)晴 雨降らざる事数十日、井水涸れ万物乾燥す。恩恵の雪の地を潤し、塵埃を沈めん事を祈る 〇午後今井館にて日曜学校小児のクリスマス祝賀会があつた。自分も始より終りまで列席し、彼等の一人となりて楽んだ。彼等と共に讃美歌第四百二十三番を歌ひし時に我が眼は熱き涙に潤《うる》んだ。

   ふたゝび主エスの  くだります日

   めさるゝをさなご  みくににて

    みそらの星と   かゞやきつゝ

    主のみかむりの  珠玉《たま》とならん。

嗚呼待たるゝは其クリスマスである。其時我は再び我愛女の歌を聞くであらう。今はすべての小児が彼女の如くに見える。嗚呼喜ばしき悲しきクリスマスよ。

 

 十二月二十七日(水)晴 市中へ行き、其雑沓に驚いた。全《まる》で戦争である。東京駅のプラツトホームに立つ事一時間、出る電車も電車も悉く満員にて我が順は来らず、漸くにして乗車すれば身動きもならず、揉みに揉まれて家に帰つた。是が近代人の生活状態である乎と思へば同情に堪へない。聖書を説く我が地位の安泰なるを感謝せざるを得ない。聖日毎に聖書を説く為に市中に行く外に行く必要はない。日本のバビロンは其他の事に於て我に関係なき所である。

 

 十二月二十八日(木)雨 久方振りの降雨である。感謝の声を揚げざるを得なかつた 〇或る正直なる青年より(128)の書面の一節に曰く「私は神を信ずる事が出来ないのです。私は恐ろしい事であると知りつゝも、幾度先生|あなた〔付ごま圏点〕の事を偽善者では無いかと疑つた事でありましたらう」と。そして斯く思ふ青年は絶えないのである。不幸なる自分は神の僕であると云ひて偽善者として疑はるゝのである。然し本当にイエスキリストの御父なる真の神を知つて呉れた多くの人は自分を善き兄弟として呉れるのである。自分は偽善者である乎否乎は無用の問題である。自分が真《まこと》に偽善者であるならば、唯キリストを仰ぎ瞻るまでゞある。自分は自分をどうする事も出来ない。又何人も神を知るを得ば個人の事はどうでも可くなるのである。願ふ人々が余の善悪が問題とならずして、各自が神を知つて喜ぶに至らん事を。

 

 十二月二十九日(金)晴 クリスマスは済んだが混雑は止まない。日本人は何故に静に歳を送る事が出来ないのである乎。何故に平生懶けて年末に入つて急に騒ぐのである乎。日本人の一年は欧米人の四ケ月にも当らない。そして悪しゝと知りつゝ旧来の習慣を改むるの勇気を持たない。唯牧者なき羊の如くに群衆の動くが儘に動く。日本人の為す事は、智者も愚者も、信者も不信者も皆一様である。浅薄なると、感情的なると、不規則的なるとに於て皆な一致して居る。困つたものである。

 

 十二月三十日(土)晴 今日は善き事を三つ為した。第一は凍死せんとする支那鶯一羽を懐《ふところ》に入れて温めてやり終に之を蘇生せしむるを得て嬉しかつた。第二に理髪店の小僧に粗菓一箱を持つて行つてやり彼等を喜ばすを得て、是れ又非常に嬉しかつた。第三には我家の姪にして某女学校の寄宿舎に宿泊する者に託し、冬休みに際し帰省もせずして寮舎に残り居る者に、少しばかりの物を送りたれば、彼等より厚き謝礼の言に接して、是れ亦甚だ嬉しかつた。其一節に曰く「……此度は私共淋しい者に御同情下さいまして、沢山のおみかんや立派なお(129)菓子を沢山に頂きまして誠に々々ありがたう御座いました。一同大よろこびで頂きました。先生よりの御親切を深く々々感謝して年の暮をすごしたう御座います」と、我も亦三十七年前のクリスマスにアマスト大学の寄宿舎に唯一人残されたりし時に、或る人が紅《あか》き林檎を一籠送つて呉れて言ひ尽されぬ程嬉しかつた事を今に至るも忘れない。キリストの名に由て冷水一杯を与へし者も亦其|報賞《むくひ》を失はじとあるが、其報賞とは我心に感ずる此喜びである。善を為すに大金を投ずるに及ばない。僅かばかりの物をもて人を喜ばせ自分も喜ぶ事が出来る。之をば称して喜びの生涯と云ふならん。

 

 十二月三十一日(日)晴 此世の大晦日である。然し乍ら我等の安息日である。諸勘定は大抵昨日済ませ、今日は例の通り午前十時より今井館に於て聖集会を開いた。来会者堂に満ち、恩恵と歓喜とに満ちたる集会であつた。畔上は哥林多後書一章十二-十七節に就て語り、自分は希伯来書十三章八節に就て感想を述べた。最後に讃美歌百一番「ヱス君ぞつねに変りなし」を合唱して此今年最後の集会を閉ぢた。今年は随分と多事の年であつた。腹の立つ事件が幾つも起きた。然し万事が善であつたと信ずる。益々聖書を説くの外に何事も為さじと決心した。他の事は他人にも出来る。自分は此一事を為して神と国とに事へんと欲する。人は自分は狭いと云ふ。自分は誠に狭くある。自分は狭くならん事を欲する。今日の所、自分に同情者が有り過ぎる。其三分の一にまで減ずるならば甚だ宜くなるであらう。自分は今日を以て大満足である。是れ以上に何も要らない。我が六十二年の生涯は恩恵充ち溢れる生涯であつたと云ふより外はない。


(131)     一九二三年(大正一二年) 六三歳

 

 一月一日(月)晴 静なる好き元日であつた。年賀客第一番は山室軍平君であつた。同君より市内の浮浪人救済事業に就て聞き非常に面白かつた。雑誌広告に由り年賀ハガキは尠かつた。それでも百通以上あつた。「賀正」、「謹賀新年」と。自分には其意味が解らない。其内に混つて在札幌ジヨン・バチエラー君よりイエスの聖名に由てアイヌ伝道の為に献げし献金の受取が達した。それは本当の喜びを齎す音信であつた。午後はボルネオ島の地理並に土人風俗に就て読んで面白かつた。全世界を我が同情の領域となすに勝る快楽はない。

 

 一月二日(火)晴 数多き年賀状に対し一々返事を書く事が出来ず、極く必要の者のみ十通程書いた。月々に発送する雑誌を我が書面として受取つて貰ふより他に途がない。

 

 一月三日(水)晴 京都便利堂主人年賀のため態々京都より訪れた。其好意謝するに余りありである。三十年前の昔を語り今昔の感に堪へなかつた。彼は朝来り夕辞し去つた。其他に多くの訪問客があつた。

 

 一月四日(木)晴 茲にクリスマスと正月とが終りを告げたらしく、誠に静なる好き日であつた。訪問客は左近君が一寸顔を見せた丈け、他は一人もなかつた。ドクトル・レイドロー著『主の奇跡』を読み大に教へられる所があつた。又ボルネオ島に関し、英国の一青年ジエムス・ブルツクがサラワツク王国を建設せし記事を読み、(132)其勇敢、忍耐、技能を嘆賞せざるを得なかつた。英国人が徐々と世界を占領しつゝあるは故なきにあらずと思ふた。我国の青年にも同じ美点があつて欲しくある。ブルツクに傚ひて日本青年も亦世界到る所に新王国を建設することが出来る。

 

 一月五日(金)晴 毎日達する多数の年賀状の内に最も真剣なる者は朝鮮人より来る。左の一通の如き、実に日本人の内に於ては見ることの出来ない真剣さ加減である。

  謹啓、内村先生。小生新年のお祝ひを致します……小生病中先生の著書を見て一読するや、真信仰、真安慰を得たことの感謝は何等物質に類無しと切に感謝します。死んだ霊が復活し、死に瀕した肉体が全く甦生を得たこと、而して此れ回想すれば感謝の涙自然と流れます。小生十年前或る親友の読了したる『聖書の研究』数冊を持つことになつたのです。そして一読するや良書であると思ひ再び精読の必要を認め家の書箱に深く蔵しました。一九一九年小生政治犯により入獄されて以来不治の病に罹り数次死境に入りました。故に天を怨み、人を憤り、悲憤に堪へずして自殺することまで図りました。其時小生に於ては全く絶望ばかり、憤怨ばかり、暗黒ばかりでありました。オー天の父よ。其時絶望者をさへ救助する真理を七年前に書籍に蔵し置いた事を爾に感謝す。小生は『聖書の研究』と或る親友の伝道に由りて覚むることになり、小生の頑愚なる眼から痛悔の涙が流れることを始めました。而して昼夜十日間痛悔の涙を以て日を暮し夜を明しました。其中に十字架救贖の道理を覚り、十字架を仰瞻することになりました。其時小生の心霊は一の別世界に入つたやうに感じました。誠に絶望中の大希望、暗黒中の大光明、悲憤中の大欣喜、愛の世界に入り今日まで生きて居ります。内村先生、小生現今幸福に暮すこと全く先生の恩恵と感謝します。罪人を悔改せしめし先生の神の国に於ける賞給の甚大なることを信じ、高貴なる御事業の宇宙大なるよりもモツト大きく成功したこと(133)を奉賀します。主の再臨の日に切迫せることをお祝ひ致します。先生、小生は先達まで日本国を「不共戴天」の敵とし排日党の一人でありました。鉄石の如き堅い心を鎔すべき何者もなかつたのです。然るに先生の其の深い信仰に感動され、先生を以て極東のヱレミヤとして敬慕致します。そして小生の日本観は一変したのです。故に先生が曾て言はれしが如く、日鮮の関係は十字架救贖の真理以外他に道無しと切に感覚致します。敬具。一九二三年一月一日、朝鮮京城 〇〇〇頓首。

心臓を切られるやうな深刻な手紙である。朝鮮人が日本人に対し斯んな深い感謝を表した例は何処にある乎。余の名誉や実に大なりである。説くべき者は十字架贖罪の道である。之により、之を信じてのみ敵も親友となる事が出来る。神よ願くは朝鮮と朝鮮人とを救ひ給へ。アーメン。

 

 一月六日(土)晴 数百通の年賀状を処理した。随分の骨折であつた。何故に年の始めに斯くも沢山の書状を受けねばならないの乎、自分には判らない。クリスチヤンに取りてはすべての日が同じである。元旦なればとて特別に神聖ではない。彼に若し特別に聖き喜ばしき日があるとすれば、それは一週に一度づゝ来る聖安息日である。願ふ我等は元旦に我等の熱心を注集することなくして、之を平常の日に分ち、一年三百六十五日に渉りて新春の気分を維持せんことを。但し信仰の老兄、旧判事松岡帰之兄の左の一首の如き、年中何時いたゞいても嬉しくある。

   エス君のことゝし云へば何よりも

     先だつものは涙なりけり。

 

 一月七日(日)晴 麗はしき日であつた。今年第一の聖日である。中央聖書講演会|例会《いつも》よりも少しく淋しく、(134)来会者五百人余りであつた。内に傍聴者五十人以上ありしは異数であつた。自分は馬可一章二十一節より三十四節までを「ガリラヤ湖畔の一日」と題して講じた。不相変ガリラヤ気分になつて嬉しかつた。新年に入つてより初めて新年らしき日であつた。俗人の三元日に較べて遥に楽しき日であつた。

 

 一月八日(月)曇 此世の正月が終つて我が正月が始つた。静なる休息の月曜日であつた。ブルース、マイヤー等に導かれて馬可伝を復習して大に自分の霊魂を養うた。米国地理学雑誌十二月号が達したので世界地理の研究に大なる快楽を覚えた。又有意義の年賀状が続々と来りつゝある。尽く感謝の言葉である。其内に「先生の背後《うしろ》に在るキリストを認めます、先生を崇拝しません、御安心下さい」と云ふ意味の書面が二三通あつて甚だ嬉しかつた。

 

 一月九日(火)晴 東中野長尾氏方にて法学士三谷隆正対児玉菊代の結婚を司 つた。久振りの司式であつて相変らず下手であつた。自分は如何に見ても式の人でない。頼まるれば止むを得ず為すが、然し一回の結婚式を司るは三回の聖書講演を為す丈け草臥れるは事実である。人は何故に自分の如き者を牧師の代りに使ふか自分には解らない。

 

 一月十日(水)晴 昨夜雪降る。寒気強し 〇ホシダ女史休養の為め布布哇に渡航す。彼女を見送らんが為に横浜に行いた。昼食を共にし多くの談話を交へて帰つた。

 

 一月十一日(木)晴 雑誌一月号を発送した。雑用に全日を費した。多くの好き読物が手に入りつゝある。米(135)国動物学者 R・C・アンドルース著『蒙古横断記』の数章を読み、血が沸くやうに面白かつた。西洋人は蒙古、西蔵、トルキスタンと、研究的探険を盛んに行ひつゝあるに、日本人は何を為して居る乎、其事を思ふと甚だ悲しくなる。動物学的にも、史学的にも、殖産的にも亜細亜大陸の中部は興味最も多き所である。

 

 一月十二日(金)晴 ルツ子デーである。彼女の肖像を書斎に飾り、其前に腰を掛けて次の聖日の講演の原稿を書いた。涙脆き日であつた。彼女は今はどうして居るだらう乎と考へた。眠つて復活の日を待つて居るのである乎、又は覚めて天国的生涯を楽しみつゝあるのである乎、其事は判らない。何れにしろ神が彼女の霊魂を守りつゝあるは確かである。遠からず我等は必ず彼女に会ふのである。其時の喜びは如何。

 

 一月十三日(土)曇 多くの年賀状の内に左の如き者があつた。

  ……数年前私は『内村全集』を拝読いたしまして以来影ながら先生をお慕ひ申して居りましたが、今では『聖書之研究』の愛読者となりまして日曜日毎に大抵は大手町で御講演を伺ひ大なる糧を戴いて居ります。殊に『一日一生』は雑誌の来るのを待兼ねて居ります。私は〇〇〇〇教会(英派の聖公会)に属する者で御座いますが、聖公会其物を信ずる者では御座いません。只私は自分の属する教会を愛し、〇〇の地を愛しますが故に、先生を通して戴いた糧を人々に分け与へる為に一生懸命に働いて居ります。〇〇は伝道の最も必要な土地で御座います。英派の聖公会に属する信者の中にも心から大手町の集りを喜び、先生の御説を神の御声と慕ふて日曜日を待兼ねて居る者のある事を御記臆下さいますやう祈上ます。

英派の聖公会と云へば余に縁の最も遠い教会である。其教師の内には余を教会の敵であるやうに思ふて居る者の在る事を余は知つて居る。然るに此教会の内に於てすら此姉妹の如き熱心なる同情者あると聞いて余は驚かざる(136)を得ない。教会は教会、信仰は信仰である。有難い事である。

 

 一月十四日(日)晴 中央講演会平常の通り満堂の盛会であつた。「伝道と奇跡」と題し馬可伝一章三十五節より四十五節までを講じた。説明に非常の困難を感じた。殊に第四十三節は難解の一節である。「イエス怒り、睨《にら》め附けて彼を突出せり」と訳すべき者である。「優しきイエス様」が斯かる手荒き事を為し給ふ筈はないとは大抵の信者の言ふ所である。此所にイエスの心中を窺ふは註解者の最も難しとする所である。此日の講演は一時間と十五分に達し、多大の努力を要した。帰途神田に或る老姉妹を訪問し、彼女を慰むる所があつた。

 

 一月十五日(月)雨 久し振りの雨天である。天地は恩恵の慈雨に浴して感謝する。午後渋谷に古我貞周君を訪問し『羅馬書の研究』の出版を託した。多分今年秋までには大冊一巻を見るであらう。是れ亦感謝である。

 

 一月十六日(火)晴 近頃になき多量の読書を為した。馬太伝十一章廿五-廿七節の本文的批評、マダガスカー島の地理、進化説反証論等が此日交々余の注意を惹いた。学問はやはり面白い者である。

 

 一月十七日(水)晴 或る若き仏教の僧侶にして近頃基督教の信仰に入つた者の訪問を受けた。彼の熱心と勇気と観察の深きとに驚いた。仏教界の腐敗の余の思ひしよりも大なるに驚いた。今日の所仏耶両教の教義の優劣の問題でない。基督教界堕落せると雖も、仏教界の堕落に此すれば遥に増しである。久し振りにて真剣のクリスチヤンに会ふて嬉しかつた。

 

(137) 一月十八日(木)晴 欧洲の形勢依然として険悪である。世界の平和は未だ決して来らず、大破裂が何時起る乎判らない。大胆なる北極探険を以て有名なる諾威人ナンセン、近頃ノーベル平和賞金を受るに方て欧洲文明の危機に瀕せるを述べ、賞金は全部其防止の為に消費すべきを宣言した。然し乍ら人が人と平和を結ばんと計りつゝある間は平和は決して来らない。人々がすべて人を見ることを止めて神を仰ぐに至つて本当の平和が地上に臨むのである。基督教の教化を受くる事此に千五百年、欧米人が未だ此明白なる真理を解する能はずとは呆れ果たる次第である。我等は此国に在りて旧き聖書の教に従ひ、時を得るも時を得ざるも、キリストの福音の道を宣べ伝ふべきである(テモテ後書四章二節)。

 

 一月十九日(金)晴 今日も亦或る青年の訪問を受けた。用事の趣きは?と聞けば例に依て例の通り結婚問題である。実に厭になつて仕舞う。今や日本青年の最大問題と云へば此間題である。国家、人類、神、霊魂、救、真理と云ふ様な大問題をもつて訪問する者は殆んどない。其点に於ては朝鮮人の方が日本人よりも遥に上である。|日本に於ては、今や青年の問題と云へば恋愛問題、大人の問題と云へば事業問題、実は金儲け問題である〔付△圏点〕。そして是れ皆な忠君愛国道徳を以て教育され来りし国民の状態であると知つて怪訝に堪へない。

 

 一月二十日(土)晴 馬可伝二章五節の説明を書きつゝありし間に、十字架が又復我が心に輝いた。信仰に対する罪の赦し……キリストの福音は是である。之を思ふて平安は我心に臨み、讃美は我唇に上るのである。信仰……神の子を仰瞻るの信仰に由て救はると云ふ。羅馬天主教会や、ホーリネス信者が何と云ひて我を責むるとも我が信仰は之である。プロテスタント教の基礎《いしずえ》は茲に在る。家族一同と共に讃美歌第八十一番を歌ひ我と我家の信仰を高らかに唱へた。


(138) 一月二十一日(日)晴 麗かなる好き日であつた。中央講演会イツモの通り、馬可伝二章一-十二節を「赦しと癒し」と題して講じた。第五節「子よ汝の罪赦されたり」が中心的本文であつた。久振りにて福音的真理に触れて嬉しかつた。唯最後の讃美歌(第五十五番)の譜の選択を過つて残念であつた。閉会後出席の北海道大学総長佐藤昌介君に招かれ、長尾半平君と共に昼食の饗応に与つた。明治の初年、札幌に於て初めて基督教に接した時の懐旧談を繰返して面白かつた。談は進んでオコホツク海並にカムサツカ半島に探険隊派遣の慫慂に及び、四十七年前の壮図の未だ少しも減退せざるを相互に祝して別れた。

 

 一月二十二日(月)曇 南風にて温かし 〇有楽橋外森川写真館に行き沢山に写真を撮られた。余の外貌に余の心を撮らんとせし主人の苦心や察するに余りがあつた。

 

 一月二十三日(火)小雨 全日を雑誌編輯に費した。雑誌の編輯、余に取りては之が二十六年間の仕事であつた。今尚ほ之を行《や》つて居る乎と思ふと不思議である。多分日本国で二十五年以上自分の発行する雑誌の編輯を自分で継け来りし者は他に在るまい。絵理大臣又は公爵又は侯爵たるよりも遥に大なる名誉である。

 

 一月二十四日(水)雪 我家に於てモアブ婦人会の月並会が開かれた。雪を犯して遠近より来り会せし者十一人、静なる家庭的集会であつた。自分は別室に閉籠り雑誌編輯に従事した。雪を眺めながら北極探険史を読むのが今日の道楽であつた。

 

(139) 一月二十五日(木)雪 夜今井館に於て祈祷感話会を開いた。大雪を意とせず市の内外より来り会する者五十余名、盛なる祈祷会であつた。問題は「禁酒禁煙」であつた。多くの熱心なる実験談があり、切実なる祈祷が捧げられた。何人に取りても重要なる問題である事が認められた。余は此夜以弗所書五章十八節を引いて大略左の如く曰うた、

  「酒に酔ふ事勿れ……宜しく霊《みたま》に満さるべし」とある。禁酒は禁じた丈では行はれない。酒に代ふる或る他の物を以てせねばならぬ。聖霊に満たされて初て徹底的に禁酒を実行する事が出来る。禁酒は決して容易の事でない、之を行ふに自分以上の能力《ちから》が要る。キリストに我が霊に宿り酒の悪魔を逐出して戴いて我は初て真《まこと》の禁酒家となるのである。禁酒の失敗の原因は自己の決心丈で之を実行せんとするからである。日本の如き酒害の普ねく行渉りたる国に於ては伝道是れ禁酒運動であると見て差支ないのである。

と。此集会に於て亦、小冊子『国家禁酒論』が大効を奏して多数の禁酒家を作つた事が判明つた。

 

 一月二十六日(金)晴 雪の朝《あした》である。見渡す限り全地は水晶宮と化して美くしかつた。全日を日曜日講演の準備の為めに費した 〇人と争ふ時に先づ第一に己が落度を探ぐるの最もクリスチヤン的たる事を感じた。若しさう為せば縦し理は我に在りと雖も相手の罪を赦す事が至て容易である。人は誰も絶対的に善たる事は出来ない。自分の落度を知ることは他人のそれを知るよりも遥に幸福である。「願くは我等に罪を犯せし者を我等は赦せば我等の罪をも赦し給へ」である。

 

 一月二十七日(土)晴 デリツチの註解を以て希伯来書一章五節を読んだ。すべての註解が斯くあつて欲しい。(140)イエスを崇むるに斯んな深い言葉はない。イエスは詩篇第二篇の預言の充たされし者、又充たされつゝある者である。彼に由て万国は審判れ世界の平和は来る。欧米如何に騒ぎ立つとも恐るゝに及ばず。聖書の一節に我が騒ぎ立てる心の静まるを覚ゆ。

 

 一月二十八日(日)晴 中央講演会イツモの通り、会衆は六百人には少し足らなかつたであらう。此日より「馬可伝研究」を「キリスト伝研究」と称する事にした。今日は馬可伝二章十三-十七節等に由り「税吏マタイの聖召」に就て講じた。旧き友人を紹介するやうに感じた。マタイは十二使徒中最も尊敬すべき者の一人である

〇ハーバード大学植物学教授 A・B・シーモール氏より長き書面が達した。当方より問合はせし基督教の信仰と進化論との関係に就て氏の意見を簡単明瞭に述べし者であつた。米国に於て氏の如き堅き信仰の上に科学の研究を継け居る者のある事は大に我等の志を強くするに足る。基督教と進化論とは両立しないとの説は何うしても立たないと思ふ。

 

 一月二十九日(月)晴 疲労の月曜日である。希伯来書一章六節はキリストの再臨に就て言ふ者である事を示されて嬉しかつた。議会の事、選挙の事、外交の事、欧洲擾乱の事等には少しも興味を覚えない。考ふるも無益であると思ふからである。聖書の事、信仰の事、救拯の事等は学べば学ぶ程我が霊魂を益し、平和と希望と歓喜とを供給する。我がすべての満足が神と偕に在る丈けにて獲らるゝ事を彼に感謝し奉る。

 

 一月三十日(火)晴 クリスマスに友人より貰ひし金の内より八円を投じてカナリヤ鳥一|番《ツガヒ》を買うた。大なる贅沢を為したやうで後で済なく感じた。然し彼等の美はしき声に励まされて少しなりと良き思想を世に供する(141)ならば其価を償ふことが出来ると思ふて自から慰めた。是れで鳥がすべて六羽である。鸚鵡のローラとワツカ、クリスマスプレゼントとして貰ひし金パラ二羽、そして今度のカナリヤである。如斯くにして時は冬の真中《まなか》なるに、鳥の声だけは熱帯か春の末つ頃である。

 

 一月三十一日(水)晴 昨日午後二時三十五分陸中水沢発、斎藤宗二郎よりの電報に「ヲバ マサヨシンカウノヨキタタカヒヲオヘテヘイワニイマカヘル」とあつた。池田政代は貸座敷の女主人であつたが、悔改めてキリストの忠実なる婢《しもめ》となつた者である。実にマグダリヤのマリヤ其儘の婦人であつた。若し余の東北伝道が彼女一人を天国に送る機会となつたならば余の労は充分に償はれたのである。「我れ汝等に告げん、税吏《みつぎとり》と娼妓《あそぴめ》は汝等に先だちて神の国に入るべし」とイエスはパリサイの学者達に曰ひ給ひしが、池田政代も亦彼女の卑しき身分を以てして多くの学士博士等が見ることの出来ない栄光を認めて天父の国へと往いたのである。栄光限りなく三位の神にあれである。

 

 二月一日(木)晴 用事あり止むを得ず半日を市中に費した。厭な半日であつた。羅馬法王庁と使節交換の可否に就き余の意見を聞きたいとて或る有力なる雑誌社より記者を送つた。余は彼に答へて曰うた「私に意見が無いではありません。然し乍ら私は信仰の教師でありまして此世の事に就て語るを好みません」と。彼は其儘辞し去つた。此間題に就いて最も善き事は仏教徒が覚醒して一団となりて起つた事である。彼等仏教徒の振起は我等基督信者の為にも最も喜ばしくある。仏教が眠つて居る間は基督教は起らない。羅馬の法王などは如何《どう》でも可い。日本に於ては仏教徒の奮起は最も望ましくある。


(142) 二月二日(金)晴 春のやうな麗はしき日である。雑誌二月号の校正を終つた。自分は確かに救はれた者であると信ずるが、其理由は自分が完全なる神の人と成つたからではない。自分はまだ依然として不完全極まる罪人である。只自分に一つ多くの人に無いものがある。そは|贖救の主を信じ得る心である〔付○圏点〕。此心が自分に在る間は自分の救はるゝは確かである。此心は是れは自分で起した心ではない。神が自分に賜うた心である。「汝等|恩恵《めぐみ》に由て救を得、是れ信仰に由てなり、己に由るに非ず、神の賜物なり」とエペソ書二章八節にあるは、余の場合に於ても亦文字通りに真実《まこと》である。誠に有難い事である。

 

 二月三日(土)晴 或時は思ふ、理想を余りに高く持つたが故に困苦《くるしみ》が比較的に多かつたと。然し其れは自分の過《あやまち》であつて福音の罪ではない。福音は極く簡単であつて、特別に高き理想を懐かしめない。福音の主《おも》なる目的の一は人をして自己を忘れしむるにある。若し善き教師があつて、余をして初めより本当の福音を信ぜしめしならば、余は多く苦しまずして済んだのである。詩人ローエルの言なる「失敗に非ず目的の低きを罪とす」と云ふやうな事を福音として受けしが故に、余の生涯に多くの無益の困苦があつたのである。

 

 二月四日(日)晴 寒が明けて春に入つた。然し風は依然として寒かつた。中央聖書研究会満堂の盛会であつた。「旧人と新人」と題して路加伝五章廿七-卅九節を講じた。聖書の十三節を一時間に講了せんとするは多大の努力を要する。長かるぺからず遅かるべからずで時々苦心する。今日も其苦心で苦しんだ。此|寒天《さむぞら》に七百の聴衆を規定の時間よりも十分間長く講堂に留め置いて、後に甚だ済まなく感じた。

 

 二月五日(月)晴 去年十一月「メキシコやポポカテピテル、ソコヌスコ、旗風高く揚る十字架」の歌を以て(143)送りし清水夫人サエ子より彼地安着の報に接した。曰く

  十二月十五日マンサニーヨ港着、布施様のはる/”\の御出迎をいたゞき、途中マンサニーヨ一泊、コリマ一泊、メキシコ市二泊、コルドバ二泊、サンタルクレシヤ一泊、サンヘロニム一泊、昨夜当地に安着致し、おぼつかなげな様子にて馬に乗り、深夜布施様方へ安着致候。ポポカテピテルを仰ぎつつ長き汽車旅行中も度々先生奥様の御愛心を思ひ出で申候。本日又馬にて此農場に落附申候。あつき御いのりを賜はり厚く御礼申上候。エスペランザ第 夜 さえ拝。

と。世界は広くある。大洋の彼方にも熱き友情がある。平和的世界征服は如斯くにして行はる。

 

 二月六日(火)晴 休みつゝ少しづゝ働いた。籠中の小鳥が最も好き友である。彼等が生命に溢れて小さき生涯を営むを見るは多大の愉楽《たのしみ》である。緊張向上するばかりが生涯でない。小鳥と共に生命を楽しむ、是れ亦神の喜び給ふ所である。

 

 二月七日(水)晴 ペンと書籍とを持つて雪籠りである。自分で割りし薪《たきぎ》を焚きて煖を取る。安価《やす》い快楽である。偉からんと欲せず、神に頼りて自分の能力《ちから》だけを以て満足す。幸福之に勝るなし。英国ビクトリヤ学院の年報を読み、面白かつた。

 

 二月八日(木)雪 夜に入りて晴る。引続き平和なる雪籠りであつた。煖炉と相対しての読書は真のパラダイスである。午後独りで雪中散歩を試みた。然し足に気が取られて考ふる事が出来ず、満《つま》らなかつた。夜今井館に於て世界伝道協賛会の例会を開いた。雪を冒して来り会する者四十人、問題は「マダガスカーの場合」、基督教の(144)伝道事業として最も成功せる此大島国の地理並に歴史に就て語つた。献金四十余円あり、相変らず有益なる会合であつた。

 

 二月九日(金)晴 前《さき》の聖公会伝道師横田秋生君の永眠を聞いて悲んだ。君は余と信仰の質《たち》を同うし、君の任地京都福井等に在りて余の唱ふる福音を唱へ、又教会に在りて大に余を弁護して呉れた。後東京に来り、大に手を携へて働かんと期せしも、其事ならずして逝かる。痛惜に堪へない。

 

 二月十日(土)半晴 楽しき聖書研究を続くるより外に何も為さなかつた。自分は英国は嫌ひであるが、然し最も健全なる信仰の英国に在る事を疑ふことは出来ない。殊に蘇格蘭土に於て然りである。近頃故ジエームス・デンニー氏者「イエスと福音」を読みて益々此感を深くした。神は其聖旨に従ひ最も悪しき民の内より最も善きクリスチヤンを起し給ふ。我等は国嫌ひを為して神が選び給ひし聖徒を排斥してはならない。「神は人を偏見《かたよりみ》る者に非ず」。彼は米国人の内に於てさへ本当のクリスチヤンを有し給ふ。讃美すべき哉。

 

 二月十一日(日)晴 紀元節である。中央聖書講演会、来会平常より少し尠く、但し其楽しさに変りはなかつた。馬可伝二章二三-二八節を「安息日問題」と題して講じた。序に我等が週の第一日即ち日曜日を安息日として守ることに就て我等を攻撃する米国の教派「第七日再臨信者《セブンスデーアドベンチスト》」に対して答ふる所があつた 〇閉会後旧友山県五十雄並に好本督の両君と昼食を共にした。両君共に二十五年以上の友人である。今や信仰を共にし、人生の目的を共にし、すべての事に於て共同一致するに至りしは感謝の至りである。山県君は京城を引上げ、今やジヤパン・ヘラルドの主筆である。好本君は多くの重き任務を帯びて近日英国に赴かんとす。此日三人二三の最も美は(145)しき事業の計画を為した。遠からずして事実となりて現はるゝであらう。

 

 二月十二日(月)半晴 休息の月曜日である。朝ボーガツキー著『金言の庫』に「我れ此死すべき生命を去る時に、罪は永久に廃《や》むべし」との言を読みて思はせられた、死は実は人生に最も善き事ではない乎と。罪は死を以て止むならば、死は歓迎すべきである。「我が願は世を去りてキリストと共に在らん事なり、是れ最も美《よ》き事なり」とのパウロの言は此事を意《い》ふのではあるまいか乎(ピリピ書一章廿一節)。死が最も善き事となるまでは其恐怖は取去られない。クリスチヤンが己が罪と闘ふは死ぬる時までゞあると思ふ時、死は恐ろしくなくなつて、却て待たるゝのである。

 

 二月十三日(火)曇 今日も亦朝の日課としてボーガツキーに左の一句を読んで我眼は感謝の涙に潤んだ。

   A faithful and unchanging GOd

   Lays the foundation of my hope

   In oaths, and promises, and blood.

   真実にして変らざる神は、

   誓と約束と血とを以て、

   我が希望の土台を置き給ふ

と。実に其通りである。我が希望の土台は我が為した少しばかりの善行に於てない。亦我が思想又は所謂良心の満足に於てない。神の御誓約と之を印する御子の血に於てある。之れあるが故に我が救はるゝは確実《たしか》であるのである。之に頼りて我は恐れずして神の御許《おんもと》に往く事が出来る。此事を思ふて、人のすべて思ふ所に過ぐる平安(146)の我心に臨むを覚ゆ。午後の二三時間をミツシリとしたる聖書の研究に費した。

 

 二月十四日(水)半晴 春が来た。カナリヤ鳥の唄ふ歌を聞きながら床を出た。チーヨ、チヨ、チヨ、チヨ、チチチーーと。一の咽喉より三四の歌手《うたひて》の声が出のである。柏木に在りて阿弗利加大陸北西岸、カナリー又はマデイラ島の天然の声が聞けるのであると思へば嬉しい。小鳥は最良の友人である事が今に至つて解つた。友としては大抵の人間よりは遥に善くある。終日一生懸命に唄ふ。生きて居るのが如何にも嬉しさうである。そして人も斯くあるべきである。然り斯くある事が出来る。毎日不平と不満と煩悶とに暮らす人は遥にカナリヤ鳥以下である。夜市外田端青山工学士方に於て旧い教友の感謝祈祷会が開かれた。温かい信仰的会合であつた。

 

 二月十五日(木)曇 春が来たので溝《どぶ》掃除と芥《ごみ》焼きで多忙である。家人と共に此業に従事して多大の満足を感ずる。神の造り給ひし地球の表面を少しなりとも綺麗にする事である。多くの政治家や宗教家が為して居る事よりも遥に実質的に価値のある仕事である 〇朝鮮金貞植君の訪問を受けて面白かつた。君と共に種々の問題に就て談ずるは多大の愉楽である。君は自分の信仰を解して呉れる少数者の一人である。君と会ふ毎に神に感謝する。

 

 二月十六日(金)雨 春雨到る。旧暦の元日である。春に入つての正月である。昔の方が今よりも好い。天然を楽しむ上から見て旧暦は新暦に勝さる。昔しが懐しくある 〇吉田弥平と云ふ人の著はした『現代文新鈔』と云ふ書に「ルーテルの改信」と題し、余の『ルーテル伝講演集』中の一篇が載せてあるのを見た。余は著者に転載の承諾を与へた覚えがないから、西洋で云ふならば是れ確に plagiarism である。然し余は咎めない。余の文章に現代文の模範として採用さるべき者ありとは余に取りては意外である。又ルーテル改信の事実が文範研究の際、(147)一般読者に依て習得せらるゝは、伝道上効果尠からざる事であらう。但し疑ふルーテルの心が我国の教育家に解るか如何《どう》か。何れにしろ信仰観念が我国の社会全般に普及しつゝあるは悪い事でない。

 

 二月十七日(土)曇 今日の日課はコリント後書五章十六節であつた。曰く「我等肉体に依つて(依れる)キリストを識りしかども今より後は此の如く之を識るまじ」と。肉体に依れるキリストとはユダヤ人のメシヤ、即ち社会改善家、世界改造者、肉に係はる救主、即ち米国宣教師が伝ふるやうなキリストである。而して余も亦彼等に誤まられて此の如きキリストを求めた事があつた。然れども今より後此の如く彼を識るまじである。キリストは我が霊魂の救主である。肉や世は之を救ひ給ふも、或は|救ひ給はざるも〔付△圏点〕、我が信仰の目標として彼を識るを得ば、それで充分である。米国宣教師は肉体に依るキリストを伝へて、我等の肉体をさへ救ひ得ないのである。我等此国に在りて米国流の基督教を全然排斥するにあらざれば、基督教は我等に何の実益をも為さないのである。

 

 二月十八日(日)晴 中央講演会イツモの通り。聴衆が余りに静粛に聞いて呉れるので、自分の声に圧せられて却て困る程である。今日は馬太伝五章より七章まで、山上之垂訓の大意並に序言に就て講じた。家に帰つて書生のジヨンに今日の講演は如何であつた乎と聞いて見たらば、「小父《をぢ》さん、ステキだつた。山上之垂訓の律法を福音化した所は実にステキだつた」と答へた。余は彼に言うた「君の批評は神学生らしい批評である。僕が福音化したのではない。イエス様が福音化し給うたのを僕が其通りに述べたのである」と。何れにしろ多くの教会信者が|より〔付ごま圏点〕高き道徳と見るイエスの此大説教を、道徳又は律法に非ず、「福《さいはひ》なり」を以て始められたる天国の福音であると述べて非常に愉快であつた。時には神の怒を述べ異端を攻撃せざるを得ずと雖も、それは決して快き事でない。|恩恵の主の恩恵の言葉を〔付○圏点〕述ぶる時にのみ伝道師の本当の幸福があるのである。そして今日は斯かる幸福(148)なる日であつた。

 

 二月十九日(月)晴 何も差したる事を為さなかつた。聖書の大註解者ドクトル・マイヤーの伝を読んで感じた。彼は大学者でありしのみならず、熱心なる十字架教の信者であり、又独逸人として大なる愛国者であつた。彼の伝記を読んで哲学者カントを想出さゞるを得ない。彼の註解書を読んだ丈けで彼に熱烈なる信仰があつたとは思へない。然し七十三年の全生涯を主として聖書註解の一事に費せし此大学者に単純なる福音的信仰ありしと聞いて彼の註解書に対する尊敬が一層増して来た。ドクトル・マイヤーは実に聖書註解のキング(王)である。

 

 二月二十日(火)雪 雑誌編輯に雪の半日を費した。人生六十の坂を越えて其時間の大部分を健康維持の為に費さねばならぬとは悲しい事である。歯を繕ひ、腸を調へ、眼を休めて、其間に労働を継続する。然し乍ら終りまで働く事が出来て感謝である。殊に永久的事業を与へられて特別に感謝である。

 

 二月二十一日(水)雪 雑誌編輯に全日を費した 〇欧米視察、欧米視察、今や猫も杓子も欧米視察に出掛ける。そして欧米を視察して故国に帰るも少しも智慧《かしこ》く成つて居らない。彼等の視察は読んで字の通り視察である。即ち表皮《うはかは》の視察である。彼等は欧米をして今日に至らしめし其深き原因を見透《みとう》すの眼を有たない。何れも浅薄極まる欧米視察である。我等此国に存《のこ》る者は我等の心中深き所に欧米文化の原理を探り、我国に|より〔付ごま圏点〕高き、又|より〔付ごま圏点〕聖き文化を造るであらう。

 

 二月二十二日(木)曇 午前を北極探険史の耽読に費した。パリー並にジヨン・フランクリン等はリビングス(149)トンに劣らぬ勇者又信仰家である。我国多数の欧米視察者も他人が作り上げた文明の視察に出掛けずして、是等学界の勇士に傚ひ、欧米人の未だ往かざる所に往き、為さゞる事を為して、人類の進歩に貢献したらば如何。地理学上並に信仰上、Terra incogniita(未知の国)はまだ沢山に残つて居る。倫敦や巴里や伯林は此上見るに及ばない。何故伝道師となりて支那内地に往かないのか。或は国に踏留《ふみとゞま》つて独立信仰の為に闘はない乎。我国に於て「敵を殺す事」以外に於て本当の勇者の甚だ尠きは痛歎の至りである。

 

 二月二十三日(金)曇 昨夜大手町衛生会小講堂に於て研究会々員の家庭祈祷会を開いた。来会者男女七十余名。問題は「身の清潔」、コリント前書六章十二節以下を主題として語り又祈つた。「人の凡て行ふ罪は身の外にあり、然れど淫(不潔)を行ふ者は己が身を犯すなり」とある。日本人の大多数は此罪を犯して居る。故に政治家としては大経綸出ず、科学者として大発見成らず、思想家として大思想が湧かないのである。身を汚す事を以て罪と認めざる国も民も大なる事は出来ないと語つた。讃美歌九十五番を以て始め、二百八番を以て終り、イエスの聖名が全会によりて崇められた 〇全日を日曜日講演の準備の為に資した。努力は要るが楽しき仕事である。之に従事して生涯が十箇あつても足りないやうに感ずる。

 

 二月二十四日(土)曇 今日も亦雑誌編輯で忙しかつた。朝床の中で計画した丈けの事を成就《なしと》げて愉快であつた。人生最大の快楽は我が命ぜられし仕事を為す事である。此快楽さへあれば、他に何の快楽がなくとも、愉快に一生を送ることが出来る。

 

 二月二十五日(日)半晴 相変らず聖き楽しき日であつた。一週百六十八時間の快楽は其第一日の朝の二時間(150)に凝聚《コンデンス》せらる。我等一同其余りに早く過ぎ行くを惜む状態である。今日は馬太伝五章三節四節を講じ、自分ながらに有難た涙に咽んだ。イエスの御言葉の意味深きに今更らながらに驚いた 〇余をして福音宣伝の仕事に入らしむる第一の動機となりし『基督信徒のなぐさめ』初版発行第三十年紀念日である。朝より夫婦相共に此事に就て語り今昔の感に堪へなかつた。恰も好し、山形県鶴岡町諏訪熊太郎君より祝電を送つて呉れた、曰く「コグンケントウ三〇ネン、ヒツケンイヨイヨスルドシ、カミニカンシヤシタテマツル、スハクマタロウ」と。中央講演会より疲れて家に帰つて来て、此祝電に接して急に元気づき、久々振りにて漢詩を作て見やうと云ふ気分になつた。然し韻も平仄も皆んな忘れて仕舞つたから、ホヰツトマン流に韻なし平仄なしの七言絶句を行《や》つて見た。

   孤軍健闘三十年  回顧難禁感謝涙

   反対何恐悪魔輩  勇進高掲十字旗

是は詩でないと云ふ者があれば云ふべしである。然し尠くとも思想丈けは詩であると思ふ。韻や平仄は支那人が歌として唄ふ為に必要である。唯意味丈けを味ふ日本人にはそんな者はなくても宜しいと思ふ。何れにしろ此日は余の小なる一家に取ては特別感謝の日であつた。思はず凱旋の声は我等の口より揚つた。我等は別に祝賀会を開かなつた。唯一人の諏訪君の祝電で充分である。天に在ては我が肉体の父と、カズ子とルツ子とが感謝の祈祷を捧げて居て呉れるだらう。

 

 二月二十六日(月)半晴 半病人であつた。何も為し得なかつた。前週の書き過ぎ、語り過ぎが祟つたのである。イザヤ書五十七章十五節を読んで感じた。曰く「至《いと》高き至《いと》上なる永遠に住める者、聖者と名づくる者此く曰ひ給ふ、我は高き所、聖き所に住み、亦心砕けて謙《へりくだ》る者と共に住み、謙る者の霊を活かし、砕けたる者の心を活(151)かす」と。神様の住み給ふ所は二箇所、天の高き所と心砕けて謙る者の心、我等心を空うして天上の神様を我裡に迎へまつる事が出来ると思へば、人たるの特権此上なしである。学者と成り得ずとも、大事業、大活動の人となり得ずとも、天の宝座《みくらゐ》と同じく神の住み給ふ殿《みや》となる事が出来れば他に何も要《もとむ》る所はない。

 

 二月二十七日(火)晴 昨夜電報にて起された。支那香港より達せる『なぐさめ』特別版注文の欧文電報であつた。此くも熱心なる読者があると思へば感謝に堪へない。此熱心に対し定数超過なればとて断はる事は出来ない 〇『所感十年』の第五版七百冊、『旧約十年』の第三版五百冊の製本が出来た。是れ亦大なる感謝である。我等の著《かい》た書に忽ち何十版と云ふが如き所謂「出版界の売《うれ》ツ子」は一冊もない。然し年を経るも需要の絶へざる点に於ては他人の著書と異なる所がある。是れ亦感謝に堪へない。

 

 二月二十八日(水)晴 寒気強し。冬がまた舞戻つて来た。朝は炬燵に陣取つて外国新聞を読み、大に得る所があつた。殊に新著述の批評欄より多く学ぶ所がある。近頃世を逝りしハーバード大学心理学教授独逸人ヒユーゴ・メンステルベルグの伝記、ウイルス・L・ムーア教授の新著『新空界』、並に英国神学界の大立物ヂーン・インヂの『信仰の表白』等、何れも興味津々たる著書であるらしく、其内容の大略を示されて教へらるゝこと多大であつた。炬燵に潜《もぐ》りて世界知識の獲得とは勿体な過ぎるが、為すべき仕事を為した後には、此位ゐな道楽は許して貰うて宜からうと思ふ。

 

 三月二日(金)晴 昨夜今井館に於て金井清、田中耕太郎、矢内原忠雄の三法学士の帰朝歓迎会を開いた。彼等の深き信仰眼を以てせる欧米視察談を聞いて一同大に教えられ又感動せしめられた。欧米到る処真福音を見る(152)こと甚だ稀れであるとの事に於ては三人観察を共にした。

 

 三月三日(土)晴 クラーク世界観光団に加はり、余の米国滞在時代の友人ドクトル(医師)W・H・C・スミス氏が来た。彼を帝国ホテルに訪問し懐旧談を交へた。一別以来三十七年、来世に於て相会したやうに感じた。変つたものは外貌だけ、内なる人は昔しと少しも異《ちが》はなかつた。彼に紹介されて多くの団員に会うた。其内に純粋の米国人あり、彼等と|米語〔付△圏点〕を以て語るは面白かつた。彼等の日本を知らざるに驚いた。日本人は一家族一ケ月九円で暮らす事が出来ると云ふが本当かと聞かれた時には返す言葉がなかつた。殊に彼等の内の一人の牧師は相変らず傲慢であつた。又彼等の内の若い婦人の服装に驚いた。阿弗利加土人と同じ様に彼等は殆んど裸体の儘にて食堂に食を取つて居るを見た。実に聞きしに勝さる醜態であつた。如斯くにして自分は再び米国に行かずとも、米国人の方から日本に来て彼等の近状を示して呉れるから有難い。スミス氏に招かれてホテルの大食堂で数百人の一行と共に夕食を取つたが、食前の祈祷を為した者は多分余一人であつたらうと思ふ。彼等は別かるゝ時に昔しのやうに「神の平和貴君と共に在らんことを祈る」とは云はない。単に Good luck to you!(好運貴君にあれ)と云ふ。斯かる国から日本人が宣教を受けて居る乎と思ふと堪えられない感じがする。余は此日多くの有益なる事を学んだ。大に決心の臍《へそ》を固めて夜遅く家に帰つた。

 

 三月四日(日)晴 昨夜より寒気強し。其ためにや聴衆平常より少しく尠し。前回に続きイエス「祝福の辞」に就て講じた。義に饑え又渇く事の貴き事、其の今世に於ては信仰的に、来世に於ては実質的に飽かせらるゝ事に就て語つた。大福音である。聴衆に解つたか解らないか自分には判らない。只信ずるが儘を述べ、余は神に委ね奉るまでゞある。

 

(153) 三月五日(月)晴 一昨日以来働きが少しく過ぎて今日は疲労平常よりも強く、半日床に就て休んだ。肉体が衰弱《よわ》る時には種々厭な事を考へる。|伝道は無益の労ではあるまい乎と思はせられる〔付△圏点〕。然し毎回数人の盲人が指の先きで点字に触れながら讃美歌を歌つて居る状《さま》を思ひ起して自己《みづから》を慰める。彼等を慰める丈けでも此疲労を取る価値《ねうち》があると。結果を望んでは伝道は出来ない。虚空《こくう》に向つて声を放つ積りで、只神を信じて為すまでゞある。

 

 三月六日(火)晴 北風強くして寒し。元判事弁護士普賢寺轍吉氏永眠し、君の遺骸に対し最後の敬礼を払はんが為に上二番町の君の邸を訪うた。平和なる威厳ある君の死顔《しにがほ》に接して君に対する平生の尊敬を一層強められた。余は普賢寺君に負ふ所が多くある。『聖書之研究』発刊当時、余が遅疑して決せざりし時に、余に決心を起して呉れし者は君であつた。君は又余の家事に就て善き相談相手であり、幾度《いくたび》も難問題の解決を助けて呉れた。君は多分『研究』誌初号よりの読者であつたと思ふ。日本武士の魂にキリストの福音を植附けし人であつて、今日の日本に於ては得難き基督的紳士であつた。君の如きクリスチヤンを再び得ることは甚だ難くあると信ずる。君の霊主に在りて安かれ。聖国に於て再会を期す。

 

 三月七日(水)晴 自分は何であつても intellectual《インテレクチアル》ではない積りである。インテレクチユアルとは読書家とも、理想家とも、理知主義者とも訳することが出来る。先づ理想を得て(主《おも》に読書に依りて)之を実行せんと欲する者である。近代人は大抵此種の人間である。彼等の信仰は(基督教の信仰と雖も)先づ之を思想として得た者である。故に彼等に取り信仰も亦アルス(芸術)の一である。然れども余は如斯くにして余の信仰を得たのではない積りである。余は勿論読書と知識とを重んずれども、余の信仰は知識の道筋を経過せずして神より直に余の心に(154)臨んだ者であると信ずる。故に余の信仰は知識的であるよりも寧ろ実験的である。進歩的であるよりも寧ろ保守的である。余は近代人とは信仰の素質を異にする。余の不幸にして彼等理知主義者に彼等の先生として仰がるゝが如きはない。余はどう見ても百姓町人其他手を以て働く者の教師である。学者と理想家とは余と唯|皮相《うはかわ》の関係を保つに過ぎない。

 

 三月八日(木)曇 夜今井館に於て世界伝道協賛会の例会を開いた。来会者五十人。自分は「北氷洋沿岸の民」に就て、大連の大賀一郎は支那に於ける外国宣教師の教育並に伝道事業に就て話した。不相変有益なる集会であつた。献金三十五円を得た。

 

 三月九日(金)雨 日曜日講演の準備に全日を資した。少数の信仰の友を相手に一生を送るの幸福を感じた。社会とか国家とか教会とか云ふ者に関係すればこそ多くの不愉快が身に臨むのである。神と自分とキリストに依て贖はれし少数者……それが我が世界であると思ふ時に、心は平和に、手も足も眼も口も善く働く。何故モツト早く此事に気が附かなかつたのであらう乎。米国人に由て伝へられし浅薄なる社交的基督教が直接間接に如何に多く余の全生涯を毒せし乎を思へば憤慨に堪へない。

 

 三月十日(土)半晴 静かなる善き日であつた。雑誌三月号が出来た。減りもしない、増しもしない。広告を為さなければ世は共存在をさへ知らない。亦知らせたくもない。相成るべくば単独で暮したい。競争は断じて為ない。若し人が競争を挑むならば避けて他の所に往く。人に寄附を乞はない。亦乞ふの必要もない。言はずばならぬ事だけは言ふが、其他は決して自分を弁護しない。自分お事に関しては人が言ふが儘に任せる。伝道は為す(155)が弟子や信者を作るためには為さない。人に嫌はるゝ事は結構である。聖書が本職であつて天然科学が道楽である。然し教職ではない、平信徒である。唯本当の人間に成りたい。キリストを崇むるは人として止むを得ない。

 

 三月十一日(日)曇 夜雨。中央講演会変りなし。日曜学校の生徒五十余名と彼等の親達に自分の誕生日を祝されて嬉しかつた。但し彼等に老人扱ひさるゝ事は少しく厭であつた。自分が命名してやつた子供の口から祝辞を受けて自分も終に老人に成つたのである事が解つた。

 

 三月十二日(月)雨 春雨到り、静なる善き休日であつた。久振りにて蓄音器に旧い讃美歌を聞き、大なる慰安《なぐさめ》を取つた。聖公会又はメソヂスト教会の讃美歌に美しい者は無いではないが余り強く余の心に訴へない。余の霊魂を最も強く動かす者はやはりカルビン主義の讃美歌である。「千世《ちよ》経し岩や」や「みめぐみあふるゝイマヌエルの」を原《もと》の英語で聞いて何時《いつ》でも涙が零れる。自分は所謂カルビン主義教会に属する者ではないが、信仰の根本に於てカルビン主義者である事は争はれない。惟悲む長老教会(日基教会)、バプチスト教会、組合数会等の、歴史的にはカルビン主義者であるべき筈の諸教会に於ても、今や贖罪中心の信仰の殆んど跡を断つに至りし事を。然し彼は彼である。自分は自分である。自分は単独《ひとり》になつても此信仰に生《いく》るより他に途がないのである。

 

 三月十三日(火)半晴 日本のやうなる国に於て基督者となるは最も割の悪い事である。社会全体に嫌はれ又排斥せらるゝは勿論、教会即ち信者同志にも種々と非難せらる。然し割が悪い丈け其れ丈け幸福である。「狐は穴あり天空《そら》の鳥は巣あり、然れど人の子は枕する所なし」とある。社会にも教会にも枕する所なきに至つて始めて人の子即ちキリストが解り、彼の本当の弟子となる事が出来るのである。


(156) 三月十四日(水)曇 左の如きハガキが届いた。

  はじめ口をつぐんだ先生の顔がいやでした。然し実験の門をくゞる時、あの唇からもれた言の多くが事実眼の前に展開される時、仕方ありません。そして今は先生の顔が父の如く私の眼底にちらつき、私の肉碑には先生をとほして流れきたる生命の御言がなに者も消し得ざるまでにきりこまれつゝあります。これが大手町に一年歩いた罪深き小羊の告白です。

人が余の顔や風宋に眼を注いで居る間は駄目である。神の聖霊の御見舞を受けて、彼が余をして語らしめ給ふ御言《みことば》を味ふやうになつて、其人と余とが或る深い関係に入るのである。そして此関係こそ切つても切れぬ関係であつて、人生何物も此関係を絶つことは出来ないのである。世に余に近づいて後ちに余を去つた者が無数に在るが、彼等は何れもまだ、余と此関係に入らないからである。今や所謂求道者はいくらでもある。然れども聖霊の御見舞を受くる者は今も昔と同じく甚だ稀である。そして斯かる連中に批評され、誤解され、終には唾棄されるのであると思へば伝道者の職務も容易でない。然し皆んなが皆んな此状態に於て在るのではない。時には御言が功を奏して霊魂《たましひ》が活きかへる場合がある。其の時の嬉しは譬ふるに物なしである。

 

 三月十五日(木)雨 午後今井館に於て東京聖書研究会々員中一部婦人の懇親感話会を開いた。来会者十五人、祈祷と讃美と感話とに正味二時間を費した。大体に於て信仰の一致して居るに驚いた。我等は十字架中心の福音信者である。近代人の所謂保守派である。教会に属するも属せざるも、我等は倫理的又は理想的又は社交的基督教には堪へ得ない。唯十字架に釘けられしイエスを仰瞻る事に由て救はると云ふのが我等の信仰である。そして其点に於ては婦人の方が男子よりも|より〔付ごま圏点〕明かに福音の真髄を握握つて居るやうに見受ける。

 

(157) 三月十六日(金)晴 又復我心に福音的信仰の復興を見、歓喜の内に一日を送つた。キリストの十字架がハツキリと我眼に映ずる時我は幸福である。「唯十字架にのみ我は頼らめ」である 〇埼玉県粕壁町の重立ちたる信者の訪問あり、彼地の信者と長の間疎遠に成り居りしに、双方の誤解がとけて再び元の交際を続け得るやうに成つて喜ばしかつた。

 

 三月十七日(土)半晴 『プリンストン神学雑誌』にS・G・クレイグ氏の筆に成れる「真正の基督教と其|模造《まがひ》」と題する論文を読み、米国に於ても今猶真正の基督教の未だ全く其跡を絶たざるを喜ぶと同時に、英米諸教会の信仰上混沌たる状態に在るを知つて驚いた。今や米国に於ては人は何を信じても自から基督者と称する事が出来るのである。神の存在其物が信仰の必要条件ではない。D・C・マキントシと云ふ神学者のの如きは、人がキリストの血の贖びに由て救はると信ずるが如きは道理に戻り、道循の原理に反く信仰であると唱へて少しも憚らないのである。米国の諸教会が如斯くである以上、彼等に由て派遣されたる宣教師等が日本に来りて、我等日本の基督信者を評して、「彼は信者に非ず」とか、「彼は聖書に反く異端なり」とか唱ふる権利は毛頭ないと思ふ。

 

 三月十八日(日)晴 中央聖書研究会近頃になき盛会であつた。但し少しく「名物」視せらるゝの虞あり、地方の東京見物人などが序に覗きに来るらしく、彼等を取締るに少らざる努力を要する。此日キリスト伝研究を休講し、「私の基督教」と題し、約翰伝三章十六節の解釈を試みた。時に十字架本位の信仰を明白に宣言し置くの必要があると信じたからである。


(158) 三月十九日(月)雨 咽喉を痛め、少しく発熱し、終日床に就て休んだ。主婦は余の健康快復に全力を注いだ。人は多く高壇に立つ余の努力を認めて呉れるが、余の肉体の健康を預る彼女の心労を知つて呉れる者は尠ない。余自身は時々彼女の介抱を受けて、「世に慧《かしこ》き婦人《をんな》多し、然れども汝は彼等すべてに優る」とのソロモンの言を発せざるを得ない。

 

 三月二十日(火)曇 引続き床に就て休んだ。

 

 三月二十一日(水)晴 午後今井館に於て東京聖書研究会のルツ組、マリヤ組、ハンナ組の懇話会を開いた。余は病を押して出席した。来り会する者僅に十五人、全組員の殆んど十分の一である。之に由て見て所謂「大手町の大盛会」の余りに当にならぬ事が判つた。饗筵《ふるまひ》を設くるも其招きに応ずる者は少数である。矢張り雑誌を通うし筆を以て地方数千の読者と語るが上策であると思うた。

 

 三月二十二日(木)晴 義弟横浜水哉瓜哇航路より帰り、小なる家庭は大に賑はつた。蘭領印度の風土、人情、商業、航路等に就て聞き大なる興味を覚えた。彼は夕刻直に大阪川口に碇泊する彼の乗船波斯丸に向つて帰途に就いた。讃美歌三百九十二番を歌ひ、祈祷を以て彼を送つた。

 

 三月二十三日(金)晴 健康快復し、久振りにてペンが能く動き、大分に仕事が出来て愉快であつた。最も楽しい事は聖書に神の愛を探る事である。キリストと云び、彼の贖罪の死と云ひ、復活と云ひ、昇天と云ひ、すべて神の愛の示顕《あらはし》である。そして我が信仰も亦神の大なる愛に対する我が小なる愛の示顕たるに過ぎない。愛を表(159)はす為の教義にあらざれば受くるに足りない。愛を表はす為の信仰にあらざれば神は受納れ給はない。真の宗教は畢竟するに神と人との愛の関係である。此事を思ふて我心は春の日光を浴びるが如くに緩《ゆるや》かになる。

 

 三月二十四日(土)晴 近頃英国の文豪にしてヴイクトリヤ時代の最後の残留者たるフレデリツク・ハリソンの死に就て読み感慨に堪へなかつた。彼はテニソン、カアライル、ブラウニング、マツシウ・アーノルド、ハツクスレー、スペンサー等を友とせし人であつた。生れつき敬虔の人であつたが、青年時代に英国々教会の堕落腐敗に憤慨し、教会を去ると同時に基督教を棄《すて》、仏国の哲学者アウグスト・コントに私淑し、其創始にかゝる実証主義並に人道教の熱心なる主唱者となつた。然し終りまでキリストに対する尊崇を失はず、教会に由らず純科学の立場よりして基督教の理想を実現せんと努めた。実に愛すべき尊敬すべき大人物である。そして教会と其唱ふる基督教を去りし点に於ては、カアライル、ハツクスレー、スペンサー等皆な其取りし道を共にした。余は時々思ふ、余にして若し英国に生れしならば、余も亦是等の偉人の跡に従ひ、教会を去ると共に基督教を棄たであらうと。英国々教会を以て代表されたる基督教はすべて清士の耐へ得る所でない。斯かる宗教に叛くが当然であつて、之に随従することこそ実に劣徒の行為であると言はざるを得ない。幸にして余は日本に生れて教会を離れてキリストを信ずるを得た。実に感謝の至りである。余の熱き同情は英国基督教会の離坂者たる是等潔士の上に注がる。多分キリストの国に於て彼等と相見る事が出来るであらう。

 

 三月二十五日(日)晴 遂々《とう/\》春が来た。麗はしき聖日であつた。大手町は不相変賑はつた。馬太伝五章十三節「汝等は地の塩なり」とのイエス様の言に就て語つた。意味深遠なるも語るに至て易き題目であつた。又復美はしの日曜日であつた。


(160) 三月二十六日(月)晴 麗はしき春の一日であつた。朝起きて先づポーガツキーの『金言集』にイザヤ書四十三章一、二節と之に関する記者の感想を読み、簡短なる祈祷の後に、ペンを執て上海なる支那内地伝道会社々長 D・E・ホスト氏へ宛書面を書いた。世界伝道協賛会の寄附金の為替を封入し、之を支那人中の医薬伝道の為に使用せんことを依頼した。誠に心持の善い役目であつた。午前は小石川上冨坂町に教友歯科医小川宝嶺君を訪問し、歯の掃除をして貰つた。後に牛天神に詣《いた》り昔懐しき紅梅の古木の咲乱れるを見て小石川在住の当時を追懐した。途中一人の病者を見舞ひ、午後三時空腹を抱《かゝ》へて家に帰つた。頭脳は昨日来読続けし『英百』に於けるベンジヤミン・キツドのペンに成れる「社会学」の長論文に占領せられた。若し社会学とはキツドが唱ふるが如き者ならば余も社会学者たる事を拒まない。然しキツドの如き社会学者は滅多にない。夫故に社会学は嫌《いや》になつて仕舞ふのである。キリストの福音を社会進歩の最大原理と見たキツドは実に達観者である。今より三十年前彼の名著『社会進化論』を読んだ事が余が聖書研究に一生を委ぬる事を非常に助けたのである。ベンジヤミン・キツドは余を深刻に感化した学者の一人である。今日に至り再び彼の文を読んで旧き先生に接するの感がある。

 

 三月二十七日(火)晴 今日も亦広き心を以て一日を終つた。万物は進化の法則に依り其存在の目的なる完全に達せんとし、神は其完全なる聖旨を以て直に万物に臨み之を御自身へと引附け給ふ。斯くして下よりも上よりも神の聖旨は日に日に成りつゝある。すべての善事善行は此聖き目的を助くる者であつて神の嘉《よみ》し給ふ所である。其点に於て信者不信者の別はない。人は何人と雖も善を為す時に神と偕に働くのである。此事を思ふ時に我心は広くなる。There is wideness in god's mercy, like the wideness of rhe sea(讃美歌第五十五番の原語)と歌はざる(161)を得ない 〇法学士矢内原忠雄夫人愛子永眠し、九段メソヂスト教会に於て行はれし彼女の葬儀に列席した。

 

 三月二十八日(水)晴 今井館に於て畔上と共に鈴木兵永対石原文子の結婚式を行つた。茲に又新たに純柏木流の家庭が出来て一同の大なる感謝であつた。

 

 三月二十九日(木)晴 又復キリストの復活祭近づき、復活問題の研究に大なる興味を覚えた。キリストの復活なくして基督教は無きものである事が克く解つた。科学と哲学だけでは人生の深みは解らない。教会と教職とには何の関係もないが、使徒に由て伝へられし基督敦は之を棄つる事は出来ない。余はキリストの復活を信じ得ると公言する事の出来るは大なる恩恵である。

 

 三月三十日(金)晴 引続き復活せるキリストに就て考へた。彼今生きて我を使ひ給ふと知りて大なる慰安を感ずる。人が我に就て何を言はうとも何でもない。彼れ我を用ひ給ひて我が為す事はすべて成功せざるを得ない。誠に幸福《さいはひ》なる事である 〇東京聖書講堂建築資金の内へと読者の或者よりポツポツ寄附金を送つて呉れる。今日までに既に数百円に達した。斯くて百八十年待つに及ばなくなつた。多分思つたよりも早く実現するであらう。感謝である。

 

 三月三十一日(土)晴 家の青年が東京帝国大学医学部を卒業して医学士に成つた。我等の大なる喜びである。彼を小学校に送つてより茲に二十年、漸くにして一人前の人間に成つたのであると思へば人一人の教育の如何に困難なる事であるかゞ判明る。自分が明治十四年に農学士に成つた時の事を思うた。学士に成るは難し。学問を(162)応用して神と人類とに事ふるは更に難し。神の御助けに依りてのみ我等は有意義の一生を送り得るのである。

 

 四月一月(日)晴 復活祭の聖日である。花を以て高壇を飾り、婦人連に讃美歌四百三十九番「うるはしのしらゆり」を歌うて貰ひ、復活祭気分の充実を助けた。自分は前回「塩と光」の続きを述べ終つて後に「キリスト復活の実証」に就て語つた。キリストが今、実際に此世に在りて働き給ひつゝある事、其事が彼が復活し給ひし何よりも好き証拠であると述べた。主キリストは生きて今此講堂に在し給うと語りし時に荘厳の気分は全堂に充ち渉つた。文学博士加藤弘之、理学博士松村松年如き者が幾千人又は幾万人出て基督教を攻撃しやうが、復活せるキリストの上に立つ基督教はビクともしないと述べし時に自分ながら気が清々した。講堂はイツモの通り満員であつた。此世の所謂有識階級又は上流社会の人達も大分に認めた。然し乍ら復活せるキリストの前に立ちては、智愚上下の差別は少しもなく、一同頭を低れて彼の祝福に与かつた。誠に恵まれたる復活祭であつた。

 

 四月二日(月)晴 昨日の精神的労働にて大分に疲れた。然し疲れる丈けの甲斐は充分にあつた。今日は『プラトーの問答集《ダイヤログー》』を少し読みし外に何も為さなかつた。

 

 四月三日(火)雨 桜が咲出した。仏国に於ての北白川宮殿下の薨去を悲み、我国の将来につき種々《いろ/\》の事を考へさせられた。然し自分としては聖書を説くより外に国の為に何も尽すことが出来ない。そして此事が最大の愛国的事業である事を疑ふことは出来ない。

 

 四月四日(水)曇 彼岸桜が見頃である。東京郊外の春に賞すべきものがある。下女のミツが暇《ひま》を取つて彼女(163)の家に帰つた。彼女の我家に奉公すること満二年、不信者として来り、神を崇めキリストを仰ぐ者として去つた。今日まで我家に事へし下女にして、一二を除くの外は悪い者とては一人もなかつた。大抵は善き信仰を起して去つた。そして今日猶ほ親しき関係に於て在る者は幾人もある。下女を雇ふのではない、人の女《むすめ》を預るのである。我等の責任は軽くない。別るゝ時には涙を以て別れる。

 

 四月五日(木)雨 春雨冷たく、厭な日であつた。内外の手紙二三通認めし外に何も為さなかつた。慰安に富める言葉は是である、曰く「汝の糧食《くひもの》を水の上に投げよ、多くの日の後に汝復び之を得ん」と(伝道之書十一章一節)。霊魂の食物なる神の御言葉を祈祷を以て水即ち不信者の間に投げ置けば、何時か復び之に接することあらんとの事である。神の御導きに由り、多年の間聖書智識の頒布に従事し来つた。然かも之れぞと云ふ効果を見ない。時に思ふ我は無益の事業に一生を委ねたのではない乎と。然しさうではないと此聖語が教へて呉れるのである。多くの日の後に汝復び之を得んと云ふ。そして多くの実例が此事を証明するのである。誠に有難い事である。

 

 四月六日(金)雨 昨夜雪降る。花は氷に包まれた。珍らしき事である。昨夜今井館に於て世界伝道会の例会を開いた。霰まじりの雨を冒して来り会する者男女四十人余り、相変らず恵まれたる集会であつた。我等は我国初代の伝道に就て語つた。村田若狭守と井伊掃部頭とタウンセンド・ハリス等に関する感想を述べた。掃部頭の桜田遭難は福音の為に受けし一種の殉教の死であると言うた。神は特別の方法を以て日本国に福音宣伝の道を設け給ひし事に就て語り、一同深き感に打たれた。伝道費として献金二十六円余を得た。

 

 四月七日(土)半晴 二三日来生けるキリストの実在に就て考へ大なる慰めと力とを得つゝある。彼は今たゞ(164)我等に見えないまでゞある。時到れば彼が彼の弟子等に現はれ給ひしが如くに凡ての信者に現はれ給うのである。再臨は再現である。ヨハネ第一書三章二節に「彼れ現はれん時には必ず神に肖ん事を知る」とあるは此事であるに相違ない。或は彼の霊体の物体化に由るか、或は我等に第六感が賦与せられてか、其途は明白ならずと雖も、何れにしろ今は見えざるキリストが見えるに至るは確かであると思ふ。霊界は決して遠き世界でないに相違ない。見る眼を以て見ればキリストと天使と霊化されたる我が愛する者とは我が周囲に居るに相違ない。さう思へばキリストに祈る熱心も起る。信仰の為に闘ふ勇気も起る。復活せるキリストは今我と偕に居たまうキリストである事を知つて我が信仰は燃え立つを覚ゆ。

 

 四月八日(日)晴 花は真盛り都の春である。然し乍ら外の好き丈け其れ丈け内は好くなかつた。講演の最中に東風が起り、窓から塵を吹込み静粛を妨げらるゝ事非常であつた。馬太伝五章十七節以下四十八節までを講じた。山上之垂訓の精神を語らんと努めたのである。非常の努力であつた。新約聖書の二十一節を一時間に話すは容易の事でない。

 

 四月九日(月)晴 麗はしの春の一日である。若し天候が其日の何たる乎を示すならば今日が本当の安息日である。半日横になつて休み、起きて桜下に鸚鵡の止木を修繕し彼の幸福を計つた。改築の書斎より見たる柏木の春は随分の見物《みもの》である。近所の桜花は悉く之を眸中に収むることが出来る。吉野の奥の千本のやゝ小なる者と見て差支ないと思ふ。家に在りて独り天下の春を楽しむ事が出来る。感謝である。

 

 四月十日(火)半晴 疲労未だ去らず、無為の一日を送つた。

 

(165) 四月十一日(水)曇 静なる花曇りの日であつた。英領コロムビヤの地理を研究して面白かつた。実に驚くべき国である。日本国の二倍以上の面積である。然るに人口は三十万に足らず。農業、林業、漁業、鉱山、何れも無尽蔵である。斯んな国が日本より二週間以内に往く事の出来る所に在ると思へば、実に羨望に堪へない。然し同じ地球の表面である。彼の富は我が富である。我は直接間接に其富裕の分配に与る事が出来る 〇雑誌四月号が出来た。相変らず内村と畔上の雑誌である。こんな雑誌にどうして読者がある乎、不思議である。聖書又聖書である。聖書の外に何もない。然かもそれが二十四年間続いたのである。自分ながら不思議である。斯う云ふ事が「神我と共に在まし給ふ」と云ふ事ではあるまい乎。

 

 四月十二日(木)雨 Church repels:Religion attracts(教会は撥つける、宗教は牽きつける)と云ふ言葉に就て考へた。誠に何れの時代に於ても教会が提供せらるゝ所に人は去り、宗教が提唱せらるゝ所に人は来る。人は宗教を好んで教会を嫌ふ。教会の衰微する時は常にあるが、宗教が無要視せらるゝ時は決して無い。宗教は美術、詩歌、哲学と同じやうに人生に欠くべからざる者である。故に之を提供して要求せられざるはない。

 

 四月十三日(金)晴 北風にて寒し。我が父の昇天紀念日である。彼れ逝きてよれ茲に満十六年である。彼れ今在さば九十二歳であつたらう。彼は余の肉体の父であつて最良の友人であつた。余の誠実を疑ふ者に対して度々「鑑三は大丈夫だ」と言ふて呉れた。彼は日本流の忠臣であつた。主家の為には何をも棄て懸つた。彼は日本武士の好模範として其生涯を終つた。彼に余の到底及ばざる多くの美点があつた。霊の世界に於て彼と再び相会する時に我等の話種《はなしぐさ》は如何に多い事であらう。


(166) 四月十四日(土)晴 引続き寒し、冬期の気候である。久振りにて詩人ブライアントの『森の讃美歌』を読んだ。実に雄大なる詩である。明治初年の石狩を思はせらる。余が北海道に於て教育を受けし事は此点に於て最も幸ひであつた。今より思ふと札幌には偉らい先生は居なかつた。然し乍ら人なる先生の欠乏を天然が補うた。余はブライアントが歌うたやうな天然に接し之に成育《そだて》られた。実に何にも勝さる教育であつた。斯かる教育を日本に於て再び何人も受くる事が出来ないと思へば余の幸運も亦大なりと謂ふべしである。「森は神の最初の殿堂なりき」と云ふ。実に其通りである。余の無教会主義はかの時に始つたのである。豊平川の岸に、野桜の大木の下に祈りし余は今日猶ほ手にて造りし会堂の内に心ゆくばかりに祈り得ないのである。懐しきは又ブライアントを生みし米国である。我が北海道が悪魔の手に渡り、北辺の穢土と化せしが如くに、米国も亦詩も歌もなき俗人の国となった。然し悲しまない。万物復興の時は必ず来る。預言者の言と共に詩人の文字が事実と成りて現はるゝ時は必ず来る。讃美せよ!

 

 四月十五日(日)晴 引続き都の春である。人の心は浮立ちて真面目の研究に向かない。然れども中央講演会は相変らず満員の盛会であつた。「隠れたる宗教」と題し馬太伝六章一-十八節を講じた。祈祷の場所を選むの必要に就て語つた。昨日読みしブライアントの詩を紹介し、人を離れて、深山幽谷に清き祈祷の座を求むべきを勧めた。唯咽喉の痛み去らず、東風の襲撃に妨げられて思ふやうに語り得ざりしは残念であつた。

 

 四月十六日(月)晴 ジヨンと共に郊外石神井に遊んだ。足利時代に豊島氏の居城の在つた所であつて、美はしき天然は古き歴史を語り、近郊に得難き勝景の地である。時恰かも山桜の真盛りであつて、他に見る人に会は(167)ざりければ、今年は特に我等の為に咲いたのであると思うて嬉しかつた。石碑に太田道灌が此城を攻取つて豊島氏を滅したと読んで、彼れ道灌に対する我が同情が忽ち消滅した。常に関東平原の歌人として仰ぎし此人も他人《ひと》の城を攻取て己が勢力を加へた乎と思へば、此人も亦本当の詩人ではなくして、心は斉東の野人であつたことが思はれて失望した。敷島の大和心は山桜であると云ふが、山桜の様な日本人は今も昔も|非常に稀〔付△圏点〕である事は確かである 〇世に|つまらない〔付ごま圏点〕物とて日本人の交際の如きはない。日本人の交際は畢竟《つま》る所利益の交換である。真理を求むる為ではない。愛を現はす為ではない。相互を助けて意義ある人生を送らん為ではない。利益を得るの機会を作らん為である。自分の地位を鞏固にせん為の交際である。更に良き地位を求めん為の交際である。実に賤しき動機より出る交際である。そして高位高官の人ですら斯かる交際を続けて居ると思へば実に失望である。日本人に本当の社交的生命あるや大なる疑問である。

 

 四月十七日(火)晴 余は時々余計な事を考へる、日本の将来は如何なるであらう乎と。人口は毎年七十万人づゝ増加し行くに外に膨脹するの途は全く絶え、排日運動は至る所に行はれて六千万人の日本人は僅々十五万平方哩の島国の内に締込《しめこ》まれて仕舞つたのである。実に心細き次第である。我が子孫の将来を思ふて寒心に堪へない。然し乍ら如何ともする事が出来ない。大政府上にありて宜きやうに為して呉れるであらうと思ふより外はない。故に自分は己が天職に還り、そんな問題に頭脳《あたま》を悩せまじと自分を抑ゆるまでゞある。

 

 四月十八日(水)半晴 南風にて温気高し、夏の天候である。或る友人より入場券二枚を受けたれば、夜、親子して有楽座にゴドウスキーのピヤノを聞いた。余が劇場の入口を通うたのは三十五年来初めてゞある。決して気持の好い所ではない。人々が皆な遊び気分である。ゴ氏の伎倆には驚いた。之を天才と云ふのであらう。然し(168)乍ら何故此貴き天才を遊蕩男女を楽まする為に用ふるのである乎。何故彼等を励まし、高貴なる行為と思想とへ導くために使はないのである乎。彼等に拍手を浴せられたればとて彼等に向てお辞儀をするのである乎。ベートーベンもそんな卑しい事を為したであらう乎。終りまで聞くに堪へずして中途より退場して家に帰つた。

 

 四月十九日(木)細雨 故内村加寿子の永眠紀念日である。彼女の甥に当る青年浜田と共に小石川白山竜雲院内の彼女の墓を見舞うた。彼女逝りてより茲に三十一年、物は移り世は変りしも、動かぬは天国《みくに》である。当時我等を窘迫《くるしめ》し人たちは或は死し、或は退職し、或は貴族院議員となりて存す。然れども彼等何れにも我等にあるやうな来世再会の希望ほ無いと信ずる。誠に我等は我等を愛し給へる者に依りて勝ち得て余りありである。

 

 四月二十日(金)晴 日曜講演準備の為に全日を費した。但し苦労ではない、快楽である。ペンを執りて聖書の解釈を試むる時にのみ自分は自分らしく感ずる。其時に又神は其霊を注ぎて自分を助け給ふやうに感ずる。自分には近代人と其思想とは如何しても解らない。道徳の根柢が変り、宇宙の基礎が動き出したやうに感ずる。然し旧い宇宙は存《のこ》つて近代人が粉砕せらるのであると信ずる。今や全国は勿論のこと、全世界を相手に独り闘ふの覚悟あるを要する。

 

 四月二十一日(土)曇 夜今井館に於てサマリヤ会が開かれた。サマリヤ会は東京聖書研究会々員にして直接間接に医業に従事する者の会合である。這般我家の青年東京帝大医学部を卒業し医者仲間に入りしが故に彼を迎へん為の会合であつた。会する者医学博士藤本武平二を首《かしら》に男女十五人であつた。夕食を共にし、意義ある談話を交へ、祈祷を以て閉会した。病を治すにあらず人を治すのであるとは此夜の主なる題目であつた。斯かる会合は(169)会員相互の信仰を進むる為のみならず又所謂「信仰医学」を研究する為に必要である。サマリヤ会とは路加伝第十章に於ける「善きサマリヤ人」に準《なぞら》へて余が附けることを許されし名である。

 

 四月二十二日(日)半晴 八重桜満開の麗はしき春の日である。市中は引続き花見客を以て混維したが、講演会は例《いつも》の通り厳粛であつた。「空の鳥と野の百合花」と題し馬太伝六章十九節以下を講じた。春の日に応《ふさは》しき題目であつて、「野の百合花」即ちアネモネの真赤に咲ける者を手に持ちながら語る事が出来て幸福此上なしであつた。殊に此日東京市の道路建築係が講堂の前にコンクリート製造機械を据附けしに拘はらず講演中一時間以上特に其運転を中止して呉れたのは実に有難かつた。帝都の中央に於て聖書の研究に対し此同情あるは実に感謝に堪へない。

 

 四月二十三日(月)曇 相変らず疲労の月曜日であつた。或人よりの手紙に「キリストに愛せらるゝ先生」と書いてあつたが、愛せらるゝ乎否乎は自分は知らない。唯彼に使はるゝ事は確かである。余も亦パウロと同じく「キリストの僕」である。|彼に使役せらるゝ奴僕である〔付△圏点〕。人が自分に就いて何と云はふと、自分が自分に就て如何に思はふと、自分の過去に省みて、自分以外の或者が自分を使役し給ひつゝありし事を疑ふ事は出来ない。自分は彼に逆ふ事は出来ない。人も亦彼の聖意を妨ぐる事は出来ない。彼に愛せらるゝ乎否乎は全く別問題として、自分が彼の属《もの》たる事丈けは明かである。此点に於て自分を嫌ふ多くの人等も多分異存はあるまいと思ふ。

 

 四月二十四日(火)曇 雑誌編輯に半日を費した。二三日来哲学者ライプニツツの伝記並に哲学を読み、大なる興味と慰安とを覚えた。哲学者は別に教会をも起さず、弟子をも作らず、真理を究め、其永存を確信して之を(170)世に遺しで逝く、其点に於て彼は宗教家に勝さる数等である。余も其点に於ては哲学者に学んで、宗教家に效はざらんと欲する。後継者を残さんと欲するが如きは抑々不信の行為である。後継者は神が起し給ふ。人が計策を弄して之を求むるの必要は毫もない。スピノーザの如き、無援孤独の人なりしと雖も、大真理を発見闡明せしが故に、彼の哲学と感化とは年と共に益々盛んである。教会又は団体に依るにあらざれば維持せられざる真理の如きは消滅するを可《よし》とする。余は福音の説きつばなしを為して逝く覚悟である。余が死んだ後に「自分こそは内村の後継者である」と云ふ者があるならば、其人は余の坂逆者であると認めて貰ひたい。

 

 四月二十五日(水)雨 人類在つて以来全世界が今日程暗黒であつた時はなかつたと思ふ。今日までの暗黒は部分的であつたが、今日のそれは全般的である。全欧羅巴が暗いのみならず、今日まで人類の希望を繋ぎ来りし米国までが暗くある。然らば基督教会は如何と云ふに、是れ又混沌たる状態である。誠に「視よ暗《くらき》は地を覆ひ、闇は諸《もろ/\》の民を掩はん」とあるは此時である(イザヤ書六十章二節)。然れども直ぐ其|後《あと》に云ふ「然れど汝の上にはヱホバ照出《てりいで》たまひてその栄光汝の上に顕はるべし」と(同三節)。人には何人にも倚《たよ》る事が出来ない。然れども光明近きにありである。世界的暗黒は世界光明の前兆である。今は忍耐の時である、同時に又希望の時である。遠からずして最暗黒の欧洲の真中より大光明が挙るであらう。

 

 四月二十六日(木)晴 殆んど四十年間同胞の間にキリストの教を伝へて来て今日に至り深く感ずる事は、日本の青年や大人に道を伝ふる事の効果甚だ尠き事である。彼等の内に信ずる者甚だ尠き而已ならず、信ぜし者にして信仰を維持する者は百人中一人とはない。縦し又維持するとしても、自分流儀の異様の信仰を維持する者多(171)く、福音の要点とする所を省みざるが常である。斯かる状態であれば所謂日本伝道は無効と見て差支ないと思ふ。然らば如何したらば可かと云ふに羅馬天主教会の僧侶に傚ひ、|小児殊に幼児を教ふべきであると思ふ〔付○圏点〕。幼児を教ふるのが矢張り人と国とを救ふの捷路《はやみち》である。神は今や滅多に奇蹟を行ひ給はない。而して我等は又神の奇蹟に頼つてはならない。そして人を救ふの天然の方法は教育である。殊に幼児の教育である。此事を思ふて余は三十五年前に、ケルリン、リッチヤードソン等の先輩より授かりし幼稚園教育を始めざりしを悔ゆ。余は日本国を霊的に救はんとて余りに焦心《あせ》りて、青年又は大人を救はんと欲して多くの無益の労を費したのである。此事を思ふて遺憾千万である。然し今に至りて悔ゆるも及ばない。故に今より後、生涯最後の努力として余の最善を幼児教育の為に尽したく思ふ。

 

 四月二十七日(金)晴 昨夜今井館に於て月並祈祷会を開いた。来会する者六十余、霊の暁解《さとり》に充ちたる集会であつた。信仰が人を救ふのではない、信仰の目的物なるキリストが救ひ給ふのである。信仰は芥種《からしだね》の如くに微少《ちいさ》くも可い。之をキリストにさへ繋げば大なる力が降ると説きし時に会衆一同の心が歓喜に充たされた。近頃になき美はしき祈祷会であつた。

 

 四月二十八日(土)小雨 雑読に全日を費した。哲学史、マダガスカー伝道史、スミス希臘史、カイムのイエス伝と手当り次第に読んだ。其内やつぱりカイムが一番面白かつた。新聞紙は読むに堪へない。日本の将来はどうなるのである乎、思へば実に心配である。理想と責任観念の無い国民を相手にして如何なる政治家と雖も何事も為すことは出来ない。然し歎じたとて如何ともする能はずである。自分としては依然として聖書の研究を行るまでである。それには古い大聖書学者等がありて自分を教へて呉れる。聖書を通うして観る人類の将来に大希望