内村鑑三全集34日記二、岩波書店、523頁、4500円、1983.7.25

 

     日記二

目次

凡例

一九二二年(大正一一年)‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥3
一九二三(大正一二年)‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥131

一九二四年(大正一三年)‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥263

一九二五年(大正一四年‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥391

 

日記二 【一九二二年(大正一一年)一月より 一九二五年(大正一四年)一二月まで】

 

(3)    一九二二年(大正二年) 六二歳

 

 一月-日(日)雪 元旦であつて聖日である、而して我等に取りては聖日であると云ふ事の方が元旦であると云ふ事よりも意味が深くあつて又貴くある、午後二時より今井館に於て聖会を開いた、雪を冒して来り会する者、旧新の教友九十余名、まことに緊張せる、充実せる良き集会であつた、畔上司会し、路加伝十四章廿六節、「父母妻子兄弟姉妹また己の生命をも憎む」と云ふ事に就て有力なる説教を為した、余は彼の後を受けて、提摩太後書二章一節、「我子よ、汝キリストイエスにある恩恵に由りて強くせられよ」と云ふパウロの言を今年の標語として提供して其説明を試みた、「自《みづ》から努めて強かれ」ではない、「神に強くせられよ」である、而かもキリストに由りて与へらるゝ恩恵を充分に味ふ事に由りて強くせられよである、信仰的に、受動的に、能力《ちから》を以て漲る者と成れよとの事である、信者が強くなるの秘訣は茲に在ると説いた、或る兄弟の如きは「善き年玉」を戴きて有難しと曰ひて礼を述べて呉れた、まことに我等に取りて適切なる聖書の一句は万金に勝さるの賜物である、今年最初の聖日として歓喜《よろこび》に満ちたる日であつた。

 

 一月二日(月)晴 静なる休息の月曜日であつた、古きドクトル・フエヤバーンと共に半日を書斎に資した、彼の聖書の註解は我の奥底にまで沁渡《しみわた》るやうな心地がする 〇大阪の宇佐美六郎より詩篇七十一篇の数節を書送《かきおく》つて呉れて有難かつた、曰く「我口は終日《ひねもす》汝の義と汝の救とを語らん、我はたゞ汝の義のみを語らん。神よ汝(4)我を幼少《をさなき》より教へ給へり。我は今に至るまで汝の奇しき事跡《みわざ》を宣伝《のべつた》へたり。神よ願くは我れ老いて頭髪《かみげ》白くなるとも我が汝の力を次代《つぎのよ》に宣伝へ、汝の大能を世に生れ出づる凡《すべて》の者に宣伝ふるまで我を離れ給ふ勿れ」と、是は実に我が今日の祈祷である、宇佐美は善く我心を読んで呉れた、今日此聖語を彼より受けて貴重なる贈物に接したたのである。

 

 一月三日(火)曇 『英百』に釈迦牟尼の伝を読み大に感ずる所があつた、釈迦はソクラテス、プラトーと共に確に古代の偉人である、然し乍らキリストには到底及ばない、釈迦は聖人であつてキリストは神である、余は今年満六十一歳であるが三十三歳の青年イエスに僕従して少しも自卑屈辱を感じない、余は釈迦には倣はんとするがキリストには仕へんとする、余は偉人の伝を読むたび毎に、余の救主イエスキリストの決して人には非ずして神であり給ふ事の信念を益々深くせらるゝを覚ゆ。

 

 一月四日(水)晴 黒崎寿美子永眠一週年に当り、彼女の為に紀念会が上落合の彼女の家に於て開かれた、之に出席して羅馬書十四章七節八節を引き余の感想を述べた、「我等|基督者《クリスチヤン》の内己 為に生き又己の為に死ぬる者なし、蓋《そは》我等基督者は生くるも主の為に生き死ぬるも主の為に死ぬれば也、この故に或は生き或は死ぬるも我等は皆な主のもの也」とある、生くるのが主の為ならんには生きんと欲し、死ぬるのが主の為ならんには死なんと欲す、我等は生死孰れをも択ばず、只主の栄光の揚らん事を欲す、是れ寿美子の希欲《ねがひ》なりしと信ず、又我等の希欲であらねばならぬ、まことに簡単にして意義のある紀念会であつた。

 

 一月五日(木)晴 仕事を始めた、仕事と言へば家に在りては原稿書きか校正である、然し生命《いのち》の言を此世に(5)頒つ事であれば政治や軍事や商売と云ふが如き此世限りの仕事ではない、而して此貴き仕事を時を得るも得ざるも呼吸のつゞく限り継ける積りである。

 

 一月六日(金)晴 ルツ子の十年期が近づいて来て、此頃は毎日幾度となく胸の内が一杯になる、ルーテルが其愛女マーガレツトに裁て言ひしやうに、余も亦余の愛女は今は確に天父の許に在りて安全であると知りながら、彼女を思ふ毎に涙で胸が一杯になる、其|理由《わけ》が解らない、小出かず子刀自の新年状に左の二首が在つて彼女が余の心を歌つて呉れたやうに感じた。

   幾とせを経るとも癒えじ愛子《いとしご》に

     わかれし胸の深き痛手は。

   此痛手いやさるゝべき彼《か》の時の

     近づく今日ぞ嬉しかりける。

まことに再会の希望があつてこそ此堪え難き悲哀が美化せらるゝのである。

 

 一月七日(土)晴 無為虚礼の正月茲に終らんとして甚だ愉快である、楽しき事は遊ぶ事ではなくして働く事である、|惰気満々たる日本の正月程〔付△圏点〕厭な|者はない〔付△圏点〕、明日は又復大手町に出陣するのかと思へば血の運行《めぐり》が少しく速くなるやうに感ずる、今日は其準備の為に少しく活気づいて愉快であつた。

 

 一月八日(日)晴 今年最初の講演会であつた、来会者イツモより少し尠く、五百人余りであつた、オルガンの音勇ましく、黒崎先づ登壇、アブラハムの信仰に就いて述べた、余は世界の思想を支配する者として聖書の研(6)究の必要を論じ、羅馬書八章一節に就てやゝ委しく講じた、「是故に今やキリストイエスに在る者は罪せらるゝ事なし」と、一言一句|忽《ゆるが》せにする事は出来ない、「是故に」は羅馬書の分水嶺に達したるを示し、イエスキリストとキリストイエスとの間に別あるを説き、キリストを信ずるに止まらず「キリストに在る者」が真のクリスチヤンであるを述べ、最後に人は何人も断じて、絶対的に罪せらるゝ事なき境遇に入るの必要あるを説いた、僅かに一節丈けを解説するに止まり甚だ物足りなく覚えた。

 

 一月九日(月)曇 夕雪ふる。ペンが動き出した、終日家に在りて記《かい》た、聖想滾々として湧いて尽きずと云ふ状態《ありさま》であつた、近頃にない愉快であつた。

 

 一月十日(火)晴 昨夜雪は雨に変じ、後ち晴れたれば雨氷万物を包み、四囲一面の水晶宮と化し、荘観言はん方なし、キリスト再臨の朝も多分斯かる急激的栄化を見るのであらう、一夜にして宇宙は一変し、此穢き世界は※〔倏の犬が火〕忽《たちまち》にして清潔《きよらか》なる玻璃《ぎやまん》の如き純金にて造りたり域市《まち》と成るのであらう(黙示録廿一章十八節) 〇一月号雑誌が出来た、イツモの通り祈祷を加へて発送した、此号発行三千七百部、借りは一銭もない、読者払込の前金は大切に保管してある、教会又は宣教師の補給は創刊以来未だ曾て一銭も受けた事はない、日本人の信仰に由て維持し来りし純然たる日本人の基督教雑誌である 〇大隈侯の逝去を聞いて悲んだ、明治維新の日本に最後の暇《いとま》を告げるやうに感ずる、彼はたしかに偉人であつた、進歩的で楽天的であつた、彼の口より国民は曾て一回も失望落胆の声を聞いた事はない、彼の長命の秘訣は茲に在つたと信ずる、但し彼は勿論クリスチヤンではなかつた、新聞紙は報じて云ふ、彼は生前常に他《ひと》に告げて曰ふた「|吾輩には過去にも現在にも一切罪障がないから〔付△圏点〕死ぬ時が来ても必ず大往生を遂げる事が出来る」と、此一言に由て見て大隈侯がクリスチヤンでなかつた事、又彼がコロム(7)ウエルの如き人類的大偉人でなかつた事が判明る、コロムウエルは自己の罪に顫えた、而してキリストの十字架を仰いで安心した、大隈侯に一切罪障なしと云ふ、天の神は承知し給はない、而して侯の政敵は侯の斯く断言せしを許さないであらう。

 

 一月十一日(水)晴 今年も亦六百通程の年賀状を貰つた、其多数は印刷のハガキであつた、而して少数なりと雖も自筆を以て真情有の儘を記されたる信書のありし事を感謝する、其内最後に達して雄美なりと思はるゝは北見国利尻島三浦政治君十二月廿八日発の年賀を兼ねたる通信である、其一節に曰く

  ……孤島は今誠に寂しくあります、オクホツク海よりする風は多量の雪を運んで島根を打叩きます、怒涛は高く白沫を飛ばして岩角を砕かうとしてゐます、豪壮にして裡に荒涼を感ずるものは島の冬の生活であります、一ケ月も二ケ月もうるさき訪客といふものから遠ざけられますから独り静かに燈下に聖書を読み且つ考ふることが出来ます、熱閙《ねつとう》なる幌都(札幌)に於ては先生の研究誌は難解でした、島に来てからは、殊に冬の夜文は暁起ストーブの前にては、先生の霊的の御説明が理会されてうれしくあります、云々

と、曾て詩人ホヰツトマンが曰ふた事がある「書は読む場所に由て其価値を異にする」と、研究誌の如きも之を都会に於て読んで貰ふのでは其意味を読者に伝ふる事は出来ない、北海の孤島、風雪洪波を揚げて岩角を砕く所に於て読んで貰つて其伝へんとする神の奥義が解るのであらう、天然を背景に、天然の裡に抱かれてのみ福音の有難さは本当に感ぜられるのである、最も不幸なる者は都会に在りてハイカラ的生涯を送る近代人と其従属とである。

 

 一月十二日(木)晴 ルツ子永眠第十週年である、万感交々湧き感慨無量であつた、朝雑司ケ谷墓地を訪ひ花(8)を以て彼女の墓前を飾つた、夜旧友三十余名を招き紀念会を催し、後に晩餐を共にした、畔上の説教に強く我等の心を動かす者があつた、ルツ子の死は余を広き活動の野に逐ひやる為に必要であつた、肉に於て彼女を失つて霊に於て夥多《あまた》の少女を与へられたのである、然し高価なる代価であつた。

 

 一月十三日(金)曇 世人は勿論の事、教会信者、更に余の弟子と自から称する者までが余を変人と見做し、余の為す事は人並外れて非常識であると云ふて居る、余り気持の善い事ではない、然し乍ら彼等常人を以て自から任ずる所の最大多数者は果して真理を見るの眼を具へて居る乎、今を去る二十年前、日英同盟の初めて結ばれし時に余は独り之に反対して曰ふた「此同盟は必ずや遠からずして英国の離反と日本の失望に終るであらう」と(『よろづ短言』第七十九頁以下)、其時信者不信者の別なく余を変人と呼んだ、然し今度の華府会議に於て余の言は正しくあつて日本国民全体の見方が間違つて居た事が証明された、其他多くの重大問題に就て変人と呼ばるゝ余の見方が遥かに国民全体のそれに優つて居た事を今日までに幾回も示された、故に余は社会や教会や自称弟子達に変人視せらるゝ事を少しも厭はない、余は彼等と意見を異にして彼等と共に誤まらざらんと欲す、彼等に変人視せらるゝことは余に取り却て大なる幸福である。

 

 一月十四日(土)曇 終日家に在りて校正に従事した、是れ余に取りまことに仕事らしい仕事である、大思想も要らなければ大天才も要らない、印刷所の職工と少しも異ならない仕事である、ナザレのイエスが為し給ふたやうな仕事である、大名誉である。

 

 一月十五(日)晴 昨夜大雪、今朝積る事尺余、稀れに見る冬景色である、講演会如何と気遣ひしに会衆多(9)く平日と異らず、青木君は例の通り栃木県氏家より、久山君は名古屋より長途の汽車を厭はずして来り会した、ピアノの音高く雪の都の中央に主イエスを讃美し奉るの歓びは特別であつた、但し余の講演は此熱心なる聴衆に満足を与ふる者でなかつた、羅馬書八章一-八節の中心的真理を説明せんとの努力は半ば失敗に終つた、濃厚なるパウロの言は之を一滴づゝ水に和して之を味ふより他に途なきを知つた、然し自分の講演の不満足であつた時に神の援助と祝福とを祈る事が一層熱心である、而して時には祈祷を以て説教の不足を補ふのが神の真理を伝ふる最善の方法である事かも知れない、何れにしろ時に「神よ此価値なき僕を憐み給へ」との叫が自分の心の奥底より発するは偽りなき事実である。

 

 一月十六日(月)曇 法学士南原繁十二月五日倫敦発の書面に曰く、「遠い旅に出て来た異邦の客は様々の印象もあり感想もあります。然し要するに何処も人の住む世界だと考へます。私は西の国から最も善きものを貰つて帰るのではなくして、日本から持つことを許されたそれを傷けずに保つて帰ることだとさへ思つてゐます」と、欧米に旅行する彼れ以外の他の学士連や其同行の妻君等よりも大抵同じ事を言ふて来る、まことに倫敦にも巴里にも伯林にも紐育にも東京に有る以上のものがあらうとは思へない、然り最善《ベスト》は人が其心に於てキリストを介して神に近づく所にある、人生最大最善のものを探らんが為には世界漫遊者《グローブトロツター》になる必要はない。

 

 一月十七日(火)曇 咽喉痛で苦しんだ、家に在て治療した。市中は大隈侯の葬式で賑はつたとの事である、彼は「正義人道平和の神」として葬られたと云ふ、何と評して宜しきや自分には判らない、日本人は果して偉人の何たる乎を知るや疑問である。


(10) 一月十八日(水)雪 咽喉の痛み去らず、柏木の冬寒く春の到来が待たれる。雪を犯して左近義弼君の訪問あり、火鉢を囲んで種々《いろ/\》の話をした、柏木の雪籠りに頭痛と咽喉痛とを忘れた、今更らながらに用事を離れたる友誼的訪問の楽しさを覚えた。

 

 一月十九日(木)晴 今井館に於て東京聖書研究会マリヤ組の懇話祈祷会を開いた、雪後|泥濘《ぬかるみ》に係はらず来会者三十二名、組員の半数である、高等女子師範学校生徒最も多く、次に束京女子大学、其次に女子英学塾と云ふ順 あつた、日本女子大学よりは一人も見えなかつた、知識欲旺盛の若き婦人達の事とて其提出せし質問に奇抜なる者があつた、女学生間に於ける思想混乱の状態がほの見えた、何れにしろ彼等に福音を宣伝ふるは大難事である、神の霊のみ能く彼等を本当のクリスチヤンウーメンと為す事が出来る。

 

 一月二十日(金)晴 寒気強し、風邪未だ癒えず、室内に閉籠つて少し許りの仕事を為した、益々此世に死するの必要を感じた、大隈侯逝いて僅に十日、新聞紙は彼に就てもはや一言も言はない、此所当分の間ジヨフル将軍を以て持切るであらう、後《あと》から後へと変り行く此世……斯かる世に生涯を託して我も亦之と共に亡びざるを得ない。

 

 一月二十一日(土)晴 引続き寒気強し、但し心は主に在りて楽んだ、彼は我がすべてである、彼を仰ぎ彼に在りて生命を有して他に何も欲しくない、如何《どう》なつても安心である、新聞紙は読みたくなくなる、福音のみが意義ある事となる、譏《そし》られても気に触《さは》らない、誉められても嬉しくない、たゞ彼に在りて生きて居る事が感謝である、此|歓喜《よろこび》に励まされて大分に原稿が書けた、讃美歌第二百四十六番が自づと唇に上《のぼ》る。

 

(11) 一月二十二日(日)晴 寒気引続き強し、集会如何にと気遣はれしも聴衆殆ど堂に溢れるの盛会であつた、自分は咽喉未だ全く癒えず、時間を制限する為に朗読講演を試みた、題は「聖潔と聖別と聖化」、三十五分間にて講了した、単純にして何人にも解し得らるゝ福音の真理を説きし事とて自分ながらに満足であつた。〇此日午後今井館に於てアブラハム組、モーセ組、ヨセフ組、ヨハネ組の有志懇話祈祷会が開かれた、来会者二十五人、内に信仰の老戦士多く、一層の心強さを覚えた、彼等の内の各員が一教会の柱石と成り得る者である、如斯き人が百人余りもあると云ふのであれば我等の得意察すべしである、此日同時刻に横浜関東学院に於て横浜鎌倉在住の同志の会合があつた、来会者三十六名両者孰れも純信仰の会合であつて、社会運動とか拡張運動とか云ふ事に就て何んの謀る所なかつた丈け、それ丈け恵まれたる楽しき会合であつた。

 

 一月二十三日(月)晴 寒気強し。霊的疲労を感じた、床に就て休んだ、『英百』にジヨナサン・エドワーズの小伝を読みし丈けが此日の仕事であつた。日本に於て基督教の信仰を維持する事の如何に難い乎を今更らながらに感得する、多分阿弗利加に於ても、印度に於ても、支那に於ても日本に於ける程難くあるまい、日本は其社会的組織の根本に於て非基督教国である、神の特別の恩恵に由るに非れば此国に於て真《まこと》の基督者たる事は出来ない、而して百人なり千人なり真の信者のある事は大なる感謝である。

 

 一月二十四日(火)半晴 雑誌編輯に殆んど全日を費した、二月号より全部ポイント組にする事に定めた、其れが為に字数六千五百程を増す事になり、其れ丈け読者の利益となる次第である、毎号五万字程の原稿を作らねばならぬ、容易の仕事でない。


(12) 一月二十五日(水) 寒気少しく緩み、美はしき寒中の一日であつた、畔上と共に編輯を終つた、福音を説く事はいつまでも楽しくある、此仕事のみは仕事(労働)ではなくして愉楽《たのしみ》である、我等は詩人の言を藉りて言ふ 「我心は美はしき事にて溢る、我は王の為に詠たる者を言ひ出でん、我が舌は速けく写字《ものか》く人の筆なり」と。

 

 一月二十六日(木)晴 近頃は毎日旧約に顕はれたる新約の福音を味ひつゝある、信仰の眼を以て読みて聖書何れの箇所と雖も福音ならざるはない、大なる福音は利未記、約書亜記、士師記、歴代史略等、福音の全くありさうにも無い所にある、|先づ贖はれ、然る後に潔められ、最後に感謝の生涯に入る事が出来る〔付○圏点〕と云ふ信者の生涯は旧約孰れの箇所にも鮮かに説き示さる、実に「聖語《みことば》の滋味《あぢはい》は我が※〔月+愕の旁〕《あぎ》に甘き事如何計りぞや、蜜の我が口に甘きに優れり」とあるが如しである(詩篇百十九篇百三節)。

 

 一月二十七日(金)晴 世にも教会にも愛がない、無いが故に我等は愛さねばならぬ、愛の何たる乎を知らず、真の愛の在ることさへをも知らざる今の世と教会に対して、我等はキリストに在りて彼の愛を示さねばならぬ、愛の無きを怒てはならぬ、無いが故に大いに愛さねばならぬ 〇隠れたる罪と云ふ事に就て考へた、|隠れたる罪とは知らずして犯す罪である〔付△圏点〕、而して最も危険なる罪は知らずして犯す罪である、神の恩恵に依り時に之を発見するを得て大なる感謝である、多くの災禍《わざわひ》は「誤りてヱホバの誡命《いましめ》に違《たが》ひて罪を犯す」より来る。而して之を発見して其災禍を除くを得て大なる歓喜である、近頃其一を発見するを得て新生の再び我身に臨みしやうに感じた(利未記四章参照)。

 

(13) 一月二十八日(土)晴 旧暦の正月元日である、立春が近づき、何よりも嬉しくある。長崎三菱造船所牧師池田福司の訪問を受け軍艦製造に関する種々の事を聞き面白かつた、戦争はまだ容易に止まない事が判明つた。

 

 一月二十九日(日)曇 寒気少しく緩み快き朝であつた、中央講演会例日の通り、感冒流行の故にや空椅子の少しくあるを認めた、自分は羅馬書八章五-十三節に於ける「肉の事を念ふ」と云ふ事に就き側面観を提供して其解釈を助けんとした 〇午後今井館に於て医学士星野鉄男海外留学の送別会が開かれた、来会者二十三名。

 

 一月三十日(月) 休息の月曜日である、終日イエス様と共に暮した、「最早我れ生けるに非ず、キリスト我に在りて生けるなり、今我れ肉体に在りて生けるは我を愛して我が為に己を捨し者即ち神の子を信ずるに由りて生けるなり」との状態に於て在つた、「汝等もし我を離るゝ時は何事をも為す能はず」との主の御言の意味を強く感じた、同時に又「我は我に力を予ふるキリストに因りて諸《すべて》の事を為し得るなり」とのパウロの言を我が実験として味ふ事が出来た、人はどうでも可い、此世と此世の教会とはどうでも可い、|我が世界、我が教会はキリストである〔付○圏点〕、彼れ御一人に在りて我に恩寵は充足れるのである、詩を事実として味ふことの出来る生涯はクリスチヤンのそれである、家に独り座して何等の運動にも加はる事なくして、我に最上の幸福を供するものは此信仰の生涯である 〇此外世上の事件としては新愛蘭独立国の出現に就て読んで愉快であつた。青年時代に多大の同情を故グラツドストーン翁に寄せし余に取りては愛蘭の独立を聞いては余自身の理想が実現せられしやうに思はれ歓喜に堪へない、如斯くにして正義は遅れても終に実行せらると思へば、正義の為に闘ふの甲斐も見えて、愉快此上なしである、又独逸は英国と戦つて敗れしも、間接に、而かも有力的に愛蘭の独立を助けた事を思へば、自《みづ》(14)から大に慰むる所があらう、神に逆らふ此罪の世に於ても神は進行し給ひつゝある(God is marching on)、内にも外にもまことに有難い事である 〇水星太陽の東十八度半に達し観望に好しとの報に接し、今宵独り中野の原に行き、西天を凝視《みつめ》て其出現を待つた、恰も好し、新月の下五六度とも思はるゝ所に第一等星に均しき稍や赤き光を放てる紛《まぎら》ふべきなき彼を認めた、水星は見るに機会の尠き遊星である、有名なる天文学者コペルニカスの如き、一生之を見るを得ずして終りたりと云ふ、余は今宵|確然《はつきり》と之を観るを得て大なる満足であつた。

 

 一月三十一日(火)晴 北風強くして寒し。昨日に引続き今日も亦イエス様と偕に在る幸福に就て考へた、彼と共に在りて人生諸問題の解決は附いたのである、然り附かざるに既に附いたのである、彼に万事を御引渡し申して其処分は悉く附いたと同然である、斯くして「明日の事を憂慮《おもひわづら》ふ勿れ」との教訓を完全に且つ文字通りに守る事が出来るのである、又イエス様と偕に在る時に不運なるは幸運なるよりも幸福である、友を失ふは友を獲るよりも幸福である、不足するは充足《みちた》れるよりも幸福である、何故となればそれ丈け彼に近づき得るからである、人生の諸《すべて》の問題はイエス様に由て完全に解決せらるゝのである、此事を知らずして経済問題よ社会問題よと言ひて騒ぎ立つる人等の愚かさよ、然かも基督信者と称する人等の内にも斯かる人が沢山にあると知つて不思議に堪へない。

 

 二月一日(水)晴 少し春らしくなつた。山県有朋公が死なれた、是で旧き日本は殆んど死絶《しにたえ》たのである、然し之に代はるべき新しき日本が出来て居る乎頗る疑問である、然し神は余が斯かる問題に携はることを許し給はない、余は時を得るも得ざるも只キリストの福音を説いて居れば其れで可いのである、|大隈侯や山県公とは余はたゞ同時代に同じ国に生きて居たと云ふ事の外は他に何も関係が無いのである〔付△圏点〕。

 

(15) 二月二日(木)曇 日本在留米国バプチスト教会宣教師アクスリング君が近頃米国に於て日本に関する同君の観察を公表せられ、其一冊を余の所にも寄せられた、其内に日本基督教界の人物を列挙せられし一節がある、曰く「日本のビーチヤーなる宮川牧師あり、日本のラツセル・コンウエーなる植村牧師あり、……日本のムーデーなる木村君と日本のビレー・サンデーなる金森君の如き福音師あり、又日本のブース大将なる山室大佐あり、而して又基督数的神秘家《クリスチヤンミスチツク》にして聖書の註解者なる内村君あり云々」と、之に由て観れば他の諸君には夫々英米に於て対照者ありて之に匹敵する名称ありと雖も、余一人には之れあるなく、余は空々漠々雲を掴むが如き夢想的|神秘家《ミスチツク》であつて英米に其類を見ずとの事であるらしくある、まことに有難き次第である、余は|日本の内村〔付○圏点〕と云ふ者であつて、ムーデーとかビレーとかブースとか云ふ者ではない、日本メソヂスト教会前監督某君は曾て余を加奈太宣教師某君に紹介して「彼は変人で厶る」と言はれしが(監督は余の面前に於て此言を発せられたのである)、変人として監督や宣教師に取扱はるゝはビレーとかサンデーとか云はれて担上《かつぎあ》げらるゝよりも遥に名誉である、何れにしろ基督教界とは実に変な所である。

 

 二月三日(金)雨 節分である、春が来たと云ふものである、久振りの慈雨で心持好くある。信者はイエスに在りて耐え難き苦痛に耐へる事が出来る、忍び難き恥辱を忍ぶ事が出来る、赦し難き敵を赦す事が出来る、まことに「我は我に力を賜ふキリストに依りてすべての事を為し得るなり」である、冷酷無慈悲の此社会と教会の内に在りてイエスと偕ならずして平静の生涯を送る事は出来ない、然れども彼と偕に在りて独り心に平和の王国を建つる事が出来る、無限の感謝である。


(16) 二月四日(土)晴 立春。校正日であつた。山桝儀市東洋汽船銀洋丸船長として南米航路より帰り、太平洋東岸の教友に関する多くの喜ばしき報知を伝へ、極東の一隅に萎縮する我が心の遽《にはか》に拡大するを覚えた、世界は広くある、友人は多くある、敢て日本一国を争ふの必要はない、此所に失へば彼所《かしこ》に得る事が出来る、有難い事である。

 

 二月五日(日)晴 中央講演会イツモの通り、来会者六百余、思ひ掛けなき人々の其内に在りしを聞いて驚き且つ喜んだ。此日午後古賀達朗氏夫婦の切なる乞ひに由り、外村《とのむら》義郎、長尾半平、青木庄蔵、黒崎幸吉の諸氏立合ひの上、彼等二人に、彼等の品川御殿山の住宅に於て、簡単なるバプテスマを行ふた、使徒行伝八章二十六節以下に拠り、ピリポがエテオピヤの大臣にバプテスマを行ひし其心持を以て、余は自《みづ》から此職務に当つた、まことに簡短にして厳粛なる式であつた、一同深き感に打たれた、余がバプテスマを行ひしは是れが第四回目である、第一回は愛女ルツに訣別の際に行ひ、第二回は山形県鶴岡町の諏訪熊太郎氏に、第三回は神戸|神田《かうだ》もうど夫人(米国婦人)に行つた、余はバプテスマを以て救霊上必要条件とは認めない、然し乍ら有益と認むる場合に於ては之を行ふに躊躇しない、余の方式は「何々さん、私は主イエスキリストの聖名《みな》に由り貴下《あなた》にバプテスマを行ひます」と言ふのである、教会が余のバプテスマを認むると否とは勿論余の関する所でない。

 

 二月六日(月)晴 疲労の月曜日である。今日までの所、日本に於ける基督教伝道なるものは、其多分は一種の商買であるかのやうな観がある、高貴ならざる外国宣教師等が、殊に米国宣教師等が、一種の請負業の如くに日本伝道を請負ひ、信者一人に付き何弗と云ふ相場で頻りに教会員製造に従事したのである、而して其結果が今日の悲しむべき状態を持来したのである、而して米国人のみならず米国に於て基督教神学を学びし多数の日本人(17)も亦此の伝道法を習得し、日本に帰りて其実行に従事しつゝあるのである、彼等に取り純福音も偽福音もあつたものではない、|米国人の流儀に従ひ成功是れ真理である〔付△圏点〕、故に彼等は手段方法を択まない、又義理人情を省みない、虚偽の報告を為すは平気である、他人の拓《ひら》きし伝道地に侵入し、他人の導きし信者を奪ひて少しも悪い事を為したとは思はない、全然商買根性である、伝道は本国より金を仰ぐの機関であるかのやうに見える場合も少くない、然るにも関はらず神は少数の真正《まこと》の信者を起して此国を救ひ給ひつゝあるは感謝の至りである。

 

 二月七日(火)半晴 校正日である、視力の全部を之がために費した、之も亦貴き仕事である。

 

 二月八日(水)雨 春雨降り厳冬を駆逐するの感あり、嬉しかつた。キリストは誰の為に死に給ひし耶、人類の為なりと大抵の人は言ふ、我が為なりと篤信の人は言ふ、然れども聖書は明かに示して言ふ|神の為なり〔付○圏点〕と、キリストは神の為に死に給へりと云ふ事の解つた人が本当に基督教の解つた人であると思ふ。

 

 二月九日(木)晴 春のやうな日であつた、心身共に寛いだ。或る婦人雑誌の記者が来て死後生命問題に就て何か聞かして呉れとの事であつた、余は彼に答へて曰ふた「死後生命問題は哲学問題でもなければ思想問題でもない、是は道徳問題である、人が其生命を賭して正義を行はんとして初めて判明る問題である、故に記者並に読者に此勇気があれば余に問はずして判る、是れなくして何人も此間題に就て解らせる事は出来ない」と、彼れ辞して去つた。

 

 二月十日(金)晴 暖き春の一日であつた、祈祷の森の散歩が愉快であつた。基督教は今や滅茶苦茶である、(18)我等日本に在りて之を其土に植附けんとて一生懸命になつて居れば、米国エール大学教授牧神学博士ラツド氏の遺骨は態々此国にまで運ばれて鶴見総持寺の墓地に葬られんとしつゝあるとの事である、「権兵衛が種播けば烏が|ほじくる〔付ごま圏点〕」である、然かも此場合に於ては烏が米国神学博士であるとは情けなくある、彼等の清教徒《ピユーリタン》祖先は此事を聞いて怒るまい乎、何れにしろ余の霊魂は米国基督教会の信仰堕落を聞いて堪へ難き苦痛を感ずる、日本基督信者の米国伝道は益々必要になつて来た、起てよ我が同志よ!

 

 二月十二日(日)晴 昨夜強風雨、朝に至て晴る、暖き春和である、中央講演会満堂の盛会であつた、仙台、京都等より態々来る者もあつた、余は「宇宙の呻き」と題してパウロの天然観に就て語つた、余に取りては語るに楽しき題目であつた、但し余りに多く天然に就て語つて、十字架の分量が足りなかつた点は自分ながらに不満足であつた 〇午後今井館に於てマタイ組の組会が開かれた、来会者二十一名、分別盛りの人達であつて、其実験を聞くのは楽しく且つ有益であつた。

 

 二月十三日(月)晴 不相変疲労の月曜日である、横に成つて休んだ、雑誌第二百五十九号が出来た、毎月毎週此貴き御用の為に疲れるのは光栄の至りである。

 

 二月十四日(火)曇 引つゞき近来米国の信仰的堕落を聞いて悲んだ、余の在学せしアマスト大学の如きすら三十五年前の福音的信仰は今や殆んど其跡を絶つたやうに見える、米国に於ける近来の神学的大著述として目せらるゝ、シカゴ大学教授E・D・バートン博士著『加拉太書註解』の如き、其信仰的立場は全然ユニテリヤン的非福音的である、米国の諸教会は今やユニテリヤン以下にまで堕落した、今や日本人は何れの点より見るも信仰(19)を米国人より学ぶの必要はない、今やキリストは欧米諸国を去りて住居《すみか》を我日本に於て求め給ひつゝあるのではあるまい乎、不思議なる事もあればあるものである、欧米が斯くも速に信仰的には蝉の抜殻とならうとは夢にも思はなかつた、主が「我れ速に臨《きた》らん」と言ひ給ひしが、実に其通りである。

 

 二月十五日(水)雨 今井館に於てモアブ婦人会が開かれた、来会者十二名、モアブ婦人ルツに因んで出来た会である、発会以来茲に満十年、今猶ほ初期の熱信を失はない、婦人会としては例の尠き者であらう。

 

 二月十六日(木)雨 夜今井館に於て聖書研究会員の祈祷研究会を開いた、大雨を冒して来り会する者男女三十五人、其熱信推して知るべしである 〇此日博物熱復興し、鯨族の動物を研究して見たくなり、有る丈けの書物を引出し、昔学びし事を復習した、実に罪の無い有益なる研究であつた、長鬚鯨《ながすくぢら》、抹香鯨、海豚、逆叉《さかまた》等の構造、常性等に就て読んで四十年前の昔に帰つたやうに感じた。

 

 二月十七日(金)晴 昨夜の研究会に復又咽喉を痛めた、一週二回の講演はまだ無理である事が判明つて残念であつた。

 

 二月十八日(土)晴 或る近代植物学書に Ecology《エコロギー》の一章を読みて多大の興味を感じた、是は今日まで余の知らざりし学科であつた、而かも多くの暗示に富める学科である、植物を外界との関係に於て研究する学科である、植物でさへ自己中心でない、況して動物に於てをや、況して人間に於てをや、万物は相関聯して或る一つの目的を果たさんとしつゝあるのである、万物は之を Teleological(究極学的)に見てのみ其意味が出て来るのである。


(20) 二月十九日(日)晴 春日和の好き日であつた、中央講演会、例会以上の盛会であつた、傍聴人の制限に苦心した、今日会衆七百人を超へ、其収容着席に困難した、研究の題目は「三つの呻き」であつた、多分余が為すことを許されたる聖書講演中最も雄大なる者であつたらう、縦し講演其物はさうでなかつたとするも、題目丈けはさうであつた、宇宙と霊魂と聖霊とが呻きつゝ基督者《クリスチヤン》の信仰を証明すると云ふのである、之よりも大なる問題のありやう筈はない。

 

 二月二十日(月)曇 疲労多からず静かなる好き休息日であつた。京城英字新聞セウル・プレツス主筆山県五十雄君より倫敦発の書面が達した、君の鋭敏なる事物の観察に謹聴すべき者が多い、君も亦米国の堕落を痛歎する者の一人である。(今月は之れで止める)

 

 二月二十一日(火)晴 麗かなる春日和である、雑誌編輯に終日の努力を供した 〇キリストの僕たるの幸福を感じた、彼に仕へまつりて我は広き世界に唯一人棲息するやうに感ずる、日本国に六千万の人が居るが、余が真に関係する者は唯一人即ち尊き彼である、洵に気骨の折れざる楽な生涯である幸福《さいはひ》此上なしである。

 

 二月二十二日(水)曇 午後今井館に於てルツ組の第二回組会が開かれた、来会者十九名、近頃に至り信仰の喜びに入りし者尠からず、楽しき福音的集会であつた。

 

(21) 二月二十三日(木)晴 久しく米国に滞在し、近頃英国に渡りし友人某よりの書翰に曰く

  ……米国は日本が師とすべき国ではありません、彼の国は物資が豊富なるために国人は豚のやうに唯肉体的に大きくなり、精神的に亡び行きつゝあるやうに感じました、宗教は一種の社会事業否な娯楽機関となり、黄金はすべてを支配して居るやうです…… 私は国の堕落を欺きつゝある真の米国人に深く同情します、彼等の一人なるパウルトネー・ビゲロー氏(此人は有名なる著述家です)が私に「貴君《あなた》の方が文明であつて我々米国人の方は野蛮なのです、宣教師は貴君の方から送つて頂きたいのです」と言ひました、余りに極端の言方かも知れませんけれども或る真理が含まれて居ると思ひました。

誠に同感である、余も米国の為に祈る者の一人である、今やキリストは米国の教会を去り給ひつゝあるやうに見える、願ふ我等日本人が彼を此国に迎へ奉らんことを。

 

 二月二十四日(金)曇 南風にて蒸暑し、雑誌編輯と日曜講演の準備とにて多忙であつた 〇敵を有つ事は善き事である、我等敵を有つて自分の言語行動に注意するやうになる、又我等の愛が試さるゝが故に更に篤くキリストを信じて其愛を受けて我等の敵をも愛し得るやうになる、敵の無き時に我等は平安に慣れて自分をも慎まず神にも頼らなくなる、斯くて恩恵の神は屡々敵を賜ひて我等に更に大なる恩恵を施し給ふ、洵に有難い事である。

 

 二月二十五日(土)晴 和歌山県の或る読者より左の如き礼状に接して嬉しかつた、

数年来御誌拝読致居候が先生の述べらるゝ所一言として小弟如き尋常科程度の者と云へ一として感じ得ざるなきまで分り安く御教導被下候段常に感謝致居候、わけて二月号第三十三講の「我れ困苦《なやめ》る人なる哉」の御説明は小弟永年の苦悶に光を与へられ候、先生ならずば誰ありて小弟如き者にこの真理を分ち得んと只今(22)この処を拝読致し有難さの余り悪筆も失礼も考へず略書ながら御礼申上候
と、是れ余に取りては大教会の大監督の賞状以上に貴き者である、『聖書之研究』は元々斯かる人達の為に発行せらるゝ雑誌である、余輩は此雑誌が学士又は博士、牧師又は伝道師等に由て読まれん事を望まない、百姓又は町人、漁夫《れうし》又は樵夫《きこり》等、手と足とを以て働く真摯実直の日本人に由て読まれん事を欲する、而して彼等の一人なる此兄弟より此証明に接して余は神より特に福音を説くの使命を授けられし事を知りて感謝するのである。

 二月二十六日(日)半晴 中央講演会変りなし、「救の理由」と題し、羅馬書八章廿八-三八節の説明を試みた、万物は信者の為、信者はキリストの為、キリストは神の為と、「奉仕の順環」に就て述べた、追々傍聴を廃する途を取つた、今日の傍聴人、総数四十九人であつて、其内学生が二十一人、無職が十四人、有職は僅に十四人である、如斯くにして好意を以て講演を公開しても、有職者にして之を利用する者は極めて少数である、基督教は日本国に在りては主として学生並に無職者の宗教である。

 二月二十七日(月)雪 冬が帰て来た、然し当然である、冬はまだ去らないのである、時節不相応の暖気は当にならない、其如くキリストが再び来り給ふまでは此世は冬である、而して此世不相応の平和は甚だ危険である、其後にどんな戦争の冬が来るか判らない、本当の春は再臨の朝を以て始まる、其後は雪も寒気も戦闘《たゝかひ》も望んでも来らない、然し其時までは油断はならない、今や尚ほ警戒の時である。

 二月二十八日(火)曇 今年より又復米国マツサチユーセツト洲スプリングフイルド市発行『スプリングフイルド・レパブリカン』新聞を購読する事に定め、其第一回分を今日受取つた、之は余が購読せし最も旧い新聞紙(23)である、明治十七年渡米前より之を読み、在来中は勿論の事、帰国後も之を読続けた、近頃に至り四五年間中絶せしも今年よりまた読む事にし、之を注文した次第である、実に三十八年来の友人であつて、清潔にして学識と常識とに富む甚だ有益なる新聞紙である、|斯んな新聞紙は日本に於て得たくも得られない〔付△圏点〕、其点に於ては米国腐放したりと雖も到底日本の及ぶ所でない、善き新聞紙は大なる教育機関である、『リパブリカン』紙を常読して我が眼界の自《おのづ》から拡大するを覚ゆ、我国近来の新聞雑誌の読むに堪えざる者甚だ多き此時に際し、清党祖先の遺伝を今尚ほ継承する新英洲の此の旧き新聞紙に我眼を曝すは大なる満足である、序に記す『リパブリカン』紙は今より九十八年前にサムエル・ポールスと云ふ熱心なる基督信者に由て創立され、今に至るも尚ほ其高き理想を変へざる者である。

 三月一日(水)晴 行楽の一日であつた、朝一年振りにて巣鴨に田村直臣君を訪ひ、連立ちて銀座に行き、紐育キツチエンに米国流の昼食を共にし、日比谷、芝の二公園に咲誇る梅花を賞し、杖を曳きながら種々雑多の談話に耽り、東京を横断して目黒より山手線に由り、余は新大久保に、君は大塚に下車して各自其家に帰つた、朝九時より午後四時まで、二人に取り近頃になき大旅行であつた、遠からずして此旅行をパレスチナまで延長せんとの仮条約も成立した、或は実行を見るの日が来るかも知れない。

 三月二日(木) 夜牛込神楽坂上、医学博士藤本武平二方に於て旧き教友の小集会が開かれた、来り会する者十一人、余は四十五年前の札幌に就て語り、余が故ウイリヤム・S・クラーク氏より受けし独立の福音を彼等が継続せん事を慫慂した、実に|しんみり〔付ごま圏点〕としたる善き会合であつた、柏木兄弟団の名は消えても実は依然として存するを知つて喜んだ。

(24) 三月三日(金)晴 雑誌校正最中である。昨日来極地の動植物に就て読み面白かつた、殊に北極圏内に生物の豊富なるを知つて驚いた、南極は欧洲に濠洲を合せたる面積を有する大陸の中心に在ると云ふ、北氷洋と南氷陸、其中に如何なる宝が蔵れて在る乎我等は知らない、地球の未来に猶ほ驚くべき者がある、「我れ汝に暗き所の財宝《たから》と密《ひそか》なる所に蔵《かく》せる財貨《たから》とを予へ、汝に我はヱホバ、汝の名を呼べるイスラエルの神なるを知らしめん」とある以賽亜書四十五章三節の言が思ひ出さる、今は永久の雪を以て掩はるゝ南北両極の下に無尽の富が蔵れて居る、我等は地の荒廃を歎くに及ばない、神の気息《いき》一たび氷原の上を吹けば其処に又新大陸が現はるゝであらう。

 三月四日(土)雨 引続き極地地理の研究に従事した、人類の棲家たる地球は実に驚くべき神の製作物である。

 三月五日(日)晴 寒し。中央講演会変りなし、来会者少しく尠く、六百人には少し不足したであらう、此日第八章を講了し、大なる重荷を卸したやうに感じた。

 三月六日(月)曇 夜研究社々員の懇親晩餐会が開かれた、総勢男女八人、最年長者は主筆の次ぎが事務の山岸、我家に来りてより茲に三十有五年、来りし時は紅顔の少年、今は首《かしら》に霜を戴く、最年少者は福田襄三、研究誌が生れて其次ぎの年隣家に生れし者、故ルツ子秘蔵の赤ン坊であつた、畔上は二十年前、余が信州上田に熱心伝道せし頃初会せし者、其時の中学三年生は今や立派な伝道師である、其他黒崎、鈴木、自分と主婦と青年、それで研究社員は尽きるのである、天下の大雑誌は是等の人々に由て製作され、又発送せらるゝのである。

(25) 三月七日(火)雪 引続き校正日であつた 〇世界目下の人口は十六億、而して地球が支え得る人口は六十億を越えざるべし、而して目下の増加率を以てして世界の人口が其最大限度に達するは今より二百年の後なるべしと云ふ、洵に心細い次第である、又鉄も石炭も二百年以内には掘り尽さるべしとの事であれば、其点から考へて見ても世の終末《おはり》は遠い事でない、何れにしても世界は今や其末期に在るは明かである、「然れど我等は神の約束に因りて新らしき天と新らしき地を望み待り、義その中に在り」である(彼得後書三章十三節)。

 三月八日(水)晴 雑誌三月号の校正を終つた。彼得前書一章五節を読んで感じた、「汝等信仰に由り神の能《ちから》に護られ已に備へある所の末《すゑ》の時に顕はれんとする救を得るなり」と、我等は信ずる丈け、而して神の能に護られて救に達するのであると云ふ、神は単《たゞ》に我等を最後の救に召き給ふたのではない、之に達するまで其大能を以て我等を授け給ふのである、救は勿論神の賜物、而して之に達する能も亦彼の賜物である、人の為す所は極く僅少《わづか》、|唯信ずる丈け〔付○圏点〕、残余《あと》は悉く神が為して下さるのである、真に有難い事である。

 三月九日(木)晴 冬が再たび還つて来た、主婦は寒気に当てられて床に就いた、自分は終日ベンを手にして働いた、一人の訪問者もなく、生産的の一日であつた 〇科学の進歩は主に軍事に応用されて、人類は日進の科学を以て自分が作り上げし文明を破壊しつゝありとのグレー卿の言を読んで賛成を禁じ得なかつた、神の権能を認めざる科学は自分で自分を破壊する者である、「彼等心に神を存《と》むる事を願はざれば神も亦彼等が邪僻《よこしま》なる心を懐きて為すまじき事を為すに任し給へり」とのパウロの言は神よりも多く科学に信頼する近代の所謂文明諸国に最も能く当嵌る者である。

(26) 三月十日(金)曇 午後雨降る。引続き平静。人生の厭な事に就て考へ、一時は憂鬱の悪魔の捕虜《とりこ》になつたが暫時にして彼を逐攘《おひはら》つた、矢張り成る事がすべて善いのである、神は万事を主どり給ひつゝある、心配は無益である、憂鬱は痴愚である、斯く考へ直して感謝して眠に就いた、詩篇第四篇第八節を口にしながら、曰く「我れ安然《やすらか》にし臥し又|眠《ねぶ》らん、ヱホバよ汝のみ惟《ひと》り我を坦然《たひらか》なる処に居らしめ給ふ」と。

 三月十一日(土)晴 余は文久元年二月十三日の生れであつて、其日は西暦一八六一年の三月十一日に当る、故に今日は余の第六十一回の誕生日である、ヱレミヤと共に「嗚呼我は禍ひなる哉我母よ、汝何故に我を生みしや」との歎声を発せし事生涯の間に五六回ありしも、先づ大体に於て幸福なる且有意義なる年月を送り来て神に感謝する(耶利米亜記十六章十節)、此日余の司式の下に結婚せし夫婦八組、彼等の間に生れし子供十九人を伴ひ、祝賀的訪問を為してくれた、讃美歌あり、独吟独唱あり、祝詞朗読あり、最後に一同万歳を浴せて呉れた、余が受けし初ての誕生祝賀会であつて甚だ嬉しかつた、「汝は嬰児《をさなご》、哺乳児《ちのみご》の口により力の基《もとゐ》を置きて敵に備へ給へり」と詩の八篇二節にあるが如くに、今日は数多《あまた》の小児の見舞に接して尠からず力附けられた 〇神が人に賜ふ恩恵に種々《いろ/\》あるが、其中に最も大なる者は、神の僕として便はるゝ以上、如何なる恩恵にも与るの必要なしと心に定むるを得る其恩恵である、恵まれたい、恵まれねばならぬと思ふ間は真個《ほんとう》の恩恵は下らない、恵まれずとも可いと決心して、真に心の貧しき者となる時に、最大の恩恵たる虚《むなし》き心が与へらるゝのである、Oh,to be nothing,to be nothing(オー虚無たらん事を、虚無たらん事を)である、之れありて我は最大幸福に入るのである。

 三月十二日(日)晴 中央講演会変りなし、聴衆は多からず、尠からず、恰度頃合のものであつた、問題は「パウロの愛国心」羅馬書八章一-五節の解釈であつた、余に取り熟し易き問題であつて自己を抑ゆるに随分の(27)努力が要つた、然し今の日本人に愛国的基督教を説くも反応の甚だ微弱なるを感ぜざるを得ない、薩長の政治家に虚偽の愛国心を抑附《おしつ》けられし日本人は、其反動として今や愛国の文字をさへ厭ふに至つた、洵に痛歎の至りである、日本国滅亡の因を作つた者はやはり薩長の政治家であつた、之を思ふて憤慨骨に徹することが屡々ある。

 三月十三日(月)曇 神奈川県鶴見に郊外散歩を試みた、故黒岩周六君の墓を見舞ひ、又二三日前に建られし米国エール大学教授神学博士ラツド氏の石碑を見た、仏寺境内に於ける神学博士の墓碑は何か或るものを語るやうに思はれた。

 三月十四日(火)曇 引続き極地動物学に就て読んだ、殊に南氷洋産鳥類の研究に大なる趣味を覚えた、明日東洋汽船銀洋丸船長として南米航路に就く山桝儀市に依頼するに、智利国南部に産する鳥類を剥製として持帰らん事を以てした、人間の事に関はりて厭な事が沢山にあるが、天然物に就て学んで、たゞ面白い事ばかりである、天然の研究には聖書の研究に伴ふやうな宗教家の憎悪がない、之に従事して何やら神様の御指導の下にエデンの園に遊ぶやうな心地がする。

 三月十五日(水)曇 午後雷雨あり後霽れた、夜に入り南天水平線に近く南半球の一等星カノーパス(寿老人星)を眺め得て嬉しかつた 〇外国新聞に英米二国に於てすら信仰は堕落し、道徳の標準さへ変りつゝあるを読み我が一生の仕事が無効に終りしやうに思はれ寒心に堪へなかつた、道義的に観察を下して人類が今日程堕落した事は開闢以来未だ曾て無つたであらう、世は愈々終末に近いて来たらしくある、願ふ此時に方り我と我が少数の同志とは曾て授けられし使徒的信仰を終りまで持続けん事を。

(28) 三月十六日(木)半晴 丸善に行き新刊世界地図、アインスタイン哲学、其他各一冊を買求めた、宗教も社会も政治も汚気紛々として堪へ難き此時に際し、純真理にのみ永久の美はしさが在る、之を学び、之を少数の同志に伝へて、我にも亦人のすべて思ふ所に過ぐる平安がある、世はどうなつても宜しい、然りどうする事も出来ない、只此暗き邪曲《よこしま》なる世に在りて我れ相応に真理の証明を為せば我事は足るのである。

 三月十七日(金)晴 講演準備と聖書研究に全日を費した、羅馬書十章十七節の解釈に甚だしく頭脳を悩ました、スチユアート、ゴーデー、マイヤー、サンデーの諸大家皆な説を異にするを如何せん、茲に日本の聖書学者が真正の解釈を試むぺき機会が存《のこ》つて居る、斯かる場合に於て西洋の諸大家の頼るに足りない事が一層明白に感ぜらる。

 三月十八日(土)晴 ナンセン並にノルデンスケルトの北氷洋航海記を読み、彼等の勇敢的行動に大に励まさるゝ所があつた 〇又復東京聖書研究会々員中会費未納者五十余名に対し除名を通知して悲しかつた、前回の百余名に対し稍慰むる所ありと雖も、今に至るも尚ほ無責任者の絶えざるは歎ずるに余りありである、内に救世軍士官にして任意申出の会費一ケ月分|拾銭〔付△圏点〕をさへ払はない者がある、以て彼等が如何に安価《やす》く宗教的知識を見る乎が判明る、斯かる者を相手に一生懸命に伝道に従事しなければならないと思へば時には自分ながら情けなくなる。

 三月十九日(日)晴 中央講演変りなし、来会者六百余、「イスラエルの不信」と題し羅馬書第十章を講じた。午後今井館に於て夕暮礼拝を行つた、来会者八十名、詩篇第百二十篇、百二十一篇を講じ、静かなる好き集会で(29》あつた、如何なる会合にも会堂一杯の会衆を与へらるゝは感謝の至りである、彼等を誤りに導かざるやう祈るのみである。

 三月二十日(月)半晴 疲労を覚えた、『大英百科字典』に鸚鵡族、鷦鷯《みそさゞい》族等の記事を読みて心の休養を計つた、余に必要なる者は聖書と天然である、余は聖書なくして生存する事が出来ないやうに、天然なくして心霊の平衡《バランス》を取つて行く事が出来ない、其点から見て余は純宗教家でない、而して純宗教家でない事を感謝する。

 三月二十一日(火)晴 大祭日である、午後今井館に於てナオミ組第二次組会が開かれた、来会者十六人、聖き美はしき会合であつた、此日大祭日にて都人は春の催しに様々の愉楽に耽つたであらうが、此所には信仰の感謝に溢れる中年婦人の会合が催されて、人のすぺて思ふ所に過ぐる平和が充分に楽まれた、世はまさに夜三更、暗黒其極に達せんとして居る、此時に方て我等は夜の明くるを待つのみであつて、他に何事も為すことが出来ない、ピリピの牢獄に繋がれしパウロとシラスの如くに讃美歌を歌ひながら救ひの到来を待つのみである、而して我等に夜の歌のある事を感謝する、「夜はその歌我れと共にあり、此歌は我が生命《いのち》の神に捧ぐる祈なり」とあるが如し(詩篇第四十三篇八節)。

 三月二十二日(水)晴 昨日のナオミ組々会に於て或る若き未亡人より彼女の信仰の闘《たゝかひ》に就て聞き一同強き感に打たれた、自分が同情する者にして日本婦人特有の貞操を守りつゝ基督教的信仰に堅く歩む者の如きはない、而して少数なりと雖も斯かる婦人の今猶ほ此国に残存するを知て我心は感謝に溢れる、自分に取りては伝道は教会を作る事でなく、又国家をどうすると云ふ事ではない、自分の力の範囲に於て人を助くる事である、而して(30)斯かる人達が自分の宣ぶる福音に由て縦令一人なりとも助かりしと云ふ事を聞いて自分は大なる慰安を感ずる、人を一人々々《ひとりびとり》助くる事、其事が自分の仕事である、自分が伝道を思ひ立つた主《おも》なる動機は之れであつた、自分の信仰はどう見ても教会的でなくして個人的である、宗教的であるよりは寧ろ人間的である、自分は至上の満足を微《ちい》さき者の一人に冷水一杯を与へし時に感ずる者である。

 三月二十三日(木)晴 高等女子師範学校生徒にして中央聖書研究会の会員たる者が凡そ二十人ある、其内四人が今回卒業し、夫れ々々地方に奉職するに際し、此日午後今井館に於て彼等の送別会が開かれた、多くの質問が提出され、之に答へて有益なる小集会であつた、余は三十三年前に起りし所謂『第一高等学校不敬事件』に関する余の実験に就て語り、日本の教育界に於て基督敦に対する反対は強烈なるも、少しも恐るゝに足らず、年を経れば反対は消えて信者の勝利に終る其筋道に就て談じた、殊にキリストの福音に由てのみ日本固有の婦徳は維持せられ、福音なくして日本道徳は自《おのづ》から壊れ行く目下の状態に就て述べた、最後に余は問題を彼等に提出した、曰く「生徒が若し教師に対して罪を犯せし場合には(侮辱を加へし場合の如き)如何にして之を処分する乎」と、是は実に教育上根本問題であつて、其解決如何に由て教育の成否が定まるのであると言ひて余の意見を述べた、余は餞別として彼等に送るに聖書の左の言を以てした。
  惟心を強くし勇み励げんで我僕モーセが汝に命ぜし律法を悉く守りて行け、之を離れて右にも左にも曲る勿れ、然れば汝何処《いづく》に往きても勝利を得べし……心を強くし且つ勇め、汝の凡て往く処にて汝の神ヱホバ偕に在せば懼るゝ勿れ戦慄《おのゝ》く勿れ(約書亜記一章七-九節)。
而して終りに一同讃美歌第三百九十二番を合唱して別れた。

(31) 三月二十四日(金)晴 春の彼岸にて内村家名物の萩の餅が出来て家が大分に賑つた、之も亦年中行事の一であつて為さねばならぬ事である。四月分雑誌原稿が纏まりて之で先づ一安心である、第二百六十一号である、二百六十一ケ月である、二十一年と九ケ月である、長き楽しき幸ひなる年月であつた。

 三月二十五日(土)晴 神田神保町東洋家政女学校より切なる依頼を受け、其卒業証書授与式に臨み三十分間に渉る一場の演説を為した、聴衆は四五百人の女生徒、尋常小学を卒業してより二三年の者、然かも宗教教育を受けしこと無き者なれば、之に向つて適当なる演説を為すは余に取りては随分の努力であつた、然し余は今日善き者を見せられた、余は「最大美術と最大学問」と云ふ事に就て語つた、最大美術は美はしき生涯を送る事である、最大学問は善しと信ずる事を実行するに由て得らると述べた、洵に平凡の演説であつたが此聴衆に対して之れ以上の事を語ることが出来なかつた。

 三月二十六日(日)晴 好き安息日であつた、天気は晴朗、桜花は綻び出し、中央講演会は円満無碍に執行《とりおこな》はれた、「神の摂理」と題し、羅馬書第十一章の大意を述べた、「嗚呼神の智と識と富は深い哉、其審判は測り難く、其|踪跡《みち》は索《たづ》ね難し」と読んで自身天に引上げらるゝやうに感じた、クリスチヤンが思ふ存分に福音を述べた後の快感は彼れならでは知る事が出来ない、斯んな日が一日あれば伝道のすぺての不愉快は取除かれるやうに感ずる。

 三月二十七日(月)晴 霊的疲労のボンヤリの月曜日であつた、杖を曳いて独り山王台に散歩した、赤坂見附弁慶橋附近の春色は不相変美しかつた、今年も亦都の春に遭ふ事が出来て有難かつた、「見渡せば柳桜をこき(32)まぜて、都は春の錦なりけり」と紀之国坂を軋り登る電車の内に吟味しつゝ家に帰つた 〇『先哲叢談』に山崎闇斎の三楽に就て読んで愉快であつた、彼は第一に万物の霊たる人として生れし事を楽んだ、第二に右文の世に生れて道を学んで聖人を友とするを楽んだ、第三に侯家に生れずして卑賎の家に生れし事を楽んだ、人たるの快楽、儒者たるの快楽、貧しき平民たるの快楽、是れ彼の生涯の三大快楽なりしと云ふ、洵に立派なる快楽である、プラトー、ソクラテスの快楽も之までゞある、今の基督者の遠く及ばざる所である。

 三月二十八日(火)晴 北風強くして寒し。午後米国長老教会派遣宣教師マクエロイ並にG・K チヤプマン両氏の訪問を受けた、マ君は二年前に、チ君は昨年来朝せられし少壮の宣教師である、我等二時間に渉りて今井館講堂に於て伝道上の諸問題に就て談じた、而して重要の点に就ては両君共に余の意見に篤き賛同を表せられた、余は老宣教師の間には一人の同情者をも持たないが、近頃に到り若き宣教師の間に少数の友人を発見するを得て大なる感謝である。

 三月二十九日(水)晴 長の間研究社の事務を取り呉れし山岸壬五今回東京を去て故郷越後に帰ることになり、彼れ夫妻を送らんが為に、午後六時より今井館に於て教友有志の晩餐懇親会が開かれた、来り会する者三十二人、内に陸中花巻の斎藤宗二郎君、木曾上松の松島縫治郎君等あり、孰れも旧き柏木連中であつて楽しき家庭的会合であつた。

 三月三十日(木)半晴 午後七時畔上と共に神田小川町朝鮮基督教青年会々館に往き百二三十名の朝鮮青年に向ひて演説した、一同謹聴するやうに見えた、然し乍らドレ丈け解つた乎我等には判らなかつた、朝鮮人は福音(33)の真髄が日本人よりも能く解るやうにも見え、亦解らないやうにも見える、何れにしろ目下の彼等に取りては独立問題の方が信仰問題よりも遥に重要であるらしく見えた、余自身に取りては朝鮮人はまだ不可解的問題である。

 三月三十一日(金)雨 桜花爛漫たり、雨を帯びて一層美はし、日本人を思はしむ、パツと咲いてパツと散る、其美人も宗教も思想も皆んなさうである、三日見ぬ間の桜である、所謂新興の日本も桜の類ではあるまい乎、それを思ふと悲しくなる、春毎に桜を見て此感を起さゞるはない。

 四月一日(士)晴 米国有名の平信徒にして目下東京に滞在中のウイリヤム・ウオーターハウス氏の訪問を受けた、二人相対して談ずること三時間、近頃になき聖《きよ》き愉楽《たのしみ》であつた、氏は齢七十、余は六十一、信仰の質を同うし、目的と之に達する手段方法を共にし、意見の余りに好く一致するので少しく不安を感ずる程であつた、氏は実業家であり、余は天然愛好者であるより、常識を尊ぶの点に於て殊によく一致した、祈祷を以て会ひ、祈祷を以て別れた、聖父が余に一人の善き兄弟を送り給ひし事を感謝した。

 四月二日(日)半晴 講演を休んだ、然し会には出席し、開会と閉会の式を司どつた、畔上、黒崎の二人にて全部講壇を受持つた、来会者四百人余、内に仙台のスネーダー博士、昨日来訪のウオーターハウス氏、実業家原六郎氏、牧師吉岡弘毅君等ありて、其成厳ある白髪に対し、我等一同篤き尊敬を表せざるを得なかつた、久振りにて聴衆の一人となり、心行くばかりに福音のメツセージ(伝達)を楽んだ、恩恵溢るゝの一日であつた。

 四月三日(月)曇 桜花満開の大祭日である、都人は花と博覧会とに酔つて居る、今や娯楽が人生最大の目的(34)である、娯楽を添えずして何事も行はれない、人類は此地球を一大遊園地となさずんば止まない有様である、不愉快極まる事である 〇人生失望すべき事が甚だ多い、乍然多いから失望してはならない、失望は人生の敗北である、我等は希望を以て失望を駆逐して大勝利を以て生涯を終らなければならない。

 四月四日(火)雨 今井館に於てマルタ組第二回の組会が開かれた、第一回に勝る善き会合である、来会者十四人、孰れも信仰の歴戦者であつて其実験談を聞いて大に慰められ又励された、斯くも多勢の善き母又は長姉を有つ東京聖書研究会は最も恵まれたる信仰的家族である、一同感謝に溢れて散会した 〇夕七時新大久保駅に山岸の越後に帰るを送つて悲しかつた、三十年来の共働者である、会ふ者必ず離るとは云ふものの離れる事は決して愉快の事ではない、我等互の間にミヅパの望楼を築き「我等が互に別るゝ時、願はくはヱホバ我と汝の間を監《かんが》み給へ」と心の中に祈るまでゞある(創世記三十二章四十九節)。

 四月五日(水)曇 神に選まれずして人は福音の内に浸つて居ても基督者となる事は出来ない、其反対に神に選まれて人は只一回福音を聞いた丈けで善き基督者と成ることが出来る、「父もし引かざれば人よく我に来るなし」である、キリストでさへ爾うであつた、況や弱き我に於てをや、我が全力を尽して救はんとせし人が幾人となく我と我福音を去りしを思ふて我は益々此感を深くせしめらる、信者は人の力で出来る者でない。

 四月六日(木)晴 花は桜、人は武士、而して桜は山桜に武者は古武士に限る、山桜に古武士が対する所に日本国のエツセンス(精)がある。

   吹風を勿来の関と思へども
(35)     道も狭に散る山桜かな
此処に日本が在り、日本人が居る、而して其処は勿来の関である、曾て一たび之を訪ひしが、再たび之を尋ねたくなり、此日一青年を伴ひ、東京を北に去る百十五哩、六時間の疾走を要する、海岸線勿来駅を指して朝五時柏木の家を発した、沿線到る所の桜の満開であつて、関に適せざるに既に桜に酔ふの感がした、十二時勿来駅に下車し、山道を登りて古址に達し、携へ来りし弁当を認《したゝ》め、爽快言はん方なしであつた、桜の古木は一株も残らず、只植込みの山桜が昔を語らん為めにと雑木の間に咲いた、而かも山風は未だ来らずして花は開いたばかりであつた、縦し義家が眺めし桜樹は絶へても、岩間に咲く春の野草は今も昔と異なる事なく、而して山も同じ海も同じであれば、我等が今日眺むる風景は、今を去る八百三十一年前、堀河天皇の第五年に、義家が眺めしそれと大差なしと言ふ事が出来やう、二時山を下り、関本駅より再び乗車し、下孫《しもまご》駅にて下車し、常陸|河原子《かはらご》の旅館、太平洋の波打つ岸に春の一夜を過した、而して夢に消へぬは義家と彼の名歌であつた、之を真似んと欲するも到底能はず、此歌を作り得る気分が今や全然《まつたく》日本人の心に消へたのである、美はしき哀歌である、失望の悲哀美を歌つた歌である、嗚呼山風吹くなと心に念じつゝ、来り見れば、道一面に落花狼藉たりきと云ふ、歌人の失望、武士の落胆、之を言表《いひあら》はせしものが此名歌である、而して今日の余に此歌はない、然し乍ら之に類する失望と落胆とはある、我が花は人である、然り彼の信仰である、而して懐疑《うたがひ》の風吹くなと我は常に心に祈るのである、然るに事実は如何にと問ふに、嗚呼、千人は右に斃れ、万人は左に仆ると云ふ有様である、勿来の関は余にも亦失望を語るものである、余も亦義家に傚ふて一首なき能はずである、
   吹く風を勿来の関と祈るかな
     道《みち》践《ふ》みはづす人多き世に
斯くして彼の名吟と我の駄作とを口ずさびながら、終日の旅の疲れに促されて安らかなる眠に就いた。

(36) 四月七日(金)雨 洋面は春雨に鎖され、折角の海浜の宿泊も何の得る所なし、汽車は平和博覧会見物の乗客を以て充たされ、其談ずる所は多くは財界不振の状態、失望は有つても歌はない、車中は煙草の煙に漂ひ、勿来の関とは打つて変つた空気である、彼を見んが為には此《これ》に堪へざるべからずと思へば、花見も亦苦労の種であるを知る、午後雨に濡れて家に帰つた。

 四月八日(土)半晴 一昨年来米国費府発行『日曜学校タイムス』と雑誌交換を継続し来りしも、其記事の余りに軽薄なるに呆れ、今日断然意を決して交換謝絶の書面を発送した、米国宗教家の軽佻さ加減は、其自由派なると保守派なると少しも異なる所なく、彼等は己が信仰を売る為には如何なる誤謬を伝へても意に介しないやうに見える、真理と誠実とを愛する者は到底彼等と兄弟的関係を維持する事が出来ない、実に痛歎の至りである。

 四月九日(日)半晴 中央講演会変りなし、「基督教道徳の根柢」と題し羅馬書十二章一節の解釈を試みた、来聴者六百余、地方よりの傍聴者多し、此日我国財界の元老某君も亦会員の一人となられた、聖書的福音がすべての階級に行渡つて感謝する、但し我が講堂に於ては貧富、上下、智愚の差別なきは言ふまでもない、我等は一同我等の主イエスキリストの御父、慈悲の父、すべての慰安《なぐさめ》を賜ふの神にすべての栄光を帰し奉るのみである。

 四月十日(月)晴 四月号雑誌を発送した 〇瑞西宣教師ヤコーブ・フンチカー君夫妻今回帰国につき、彼等の友人たる黒崎、塚本兄妹、神田盾雄並に余と五人、彼等を築地精養軒に招いて送別の晩餐を共にした、実にシンミリとしたる楽しき会合であつた、フンチカー氏と余等との関係は過去七年間甚だ親密なる者であつた、我等(37)は彼より多くを教へられた、彼は又我等を信頼して呉れた、我等は彼に於て欧洲大陸の学識ある基督教的紳士を見た、英米宣教師とは縁の至て薄き我等は彼に在りて善き外国の兄弟を持つことが出来て大なる感謝である、天父の恩恵永へに彼等に加はらん事を祈る。

 四月十一日(火)曇 ワーターハウス老人再度の訪問を受けた、若きチヤプマン氏も共に在つた、如何にして有効的に日本人を福音化し得る乎と云ふ問題に就て討議した、「聖書を教ゆるに由て」と余は答ふるのみであつた、今日までの教会の伝道が多くの効果を挙げざりし理由は聖書以外の事に余りに多くの注意を払つたからである、而して近頃渡来の若き宣教師の内に此事に付き覚醒せし者あるを見るは喜ぶべき事である、過去五十年間此国に於て試みられし政治的、社会的、文明的伝道に代ふるに聖書的伝道を以てするにあらざれば、日本国教化の希望は絶無と称せざるを得ない、|問題は米国人自身が米国主義を拗棄するにある〔付△圏点〕、而して其時は米国自身が救はるゝと共に其行ふ所の外国伝道が復興する時である、今日の会合の如き此望ましき伝道的革命の到来を報ずる鶏鳴の如き者であつて意味深長の出来事と称せざるを得ない、何やら我等が知らざりし間に神が革新を準備し給ひつゝありしやうにも見える、聖意をして成らしめ給へである。

 四月十二日(水)晴 八重桜咲初め、春の真中《まなか》である 〇或る米国宣教師が四人|伴《づれ》にて大手町の講演会を見物した、三階に陣を取り、講堂を瞰下《みおろ》し、他の教会に此べて聴衆の多きに驚いた、彼等は案内の或る牧師に問ふて言ふた、「何故に此集会に斯くも多くの人が集まるのですか」と、牧師は答へて曰ふた、「其れは内村氏が二つの事を説くからである、|其一はキリストの再臨、其二は教会攻撃である〔付△圏点〕」と、宣教師等は不思議に感じた、加何に天才の人であればとて、僅か二つの問題を捉へて何年間も多勢の聴衆の興味《インテレスト》を繋ぎ得やうとは思へなかつた、(38)二箇月程を経て彼等の中の一人が余輩を訪問した、而して余輩が何を説きつゝある乎に就いて聞いて彼の疑問は晴れた、余輩はキリストの十字架を中心として旧新両約聖書を日本人に紹介しつゝあるを聞いて彼は余輩に対して満腔の同情と賛成とを表した、然かも奇怪なるは是等の宣教師を案内せし日本の牧師である、余輩が再臨と教会攻撃とを主題として余輩の講演を続けつゝあると云ふのは全然聞違である、然かも彼れ一人ではない、他にも尚ほ同じ様に思ふて居る牧師と宣教師とのある事を余輩は知つて居る、如斯くにして誤解はいつまでも持続せらるゝのである。

 四月十三日(木)晴 夜雨。講演の為に宇都宮に行いた、我等の伝道視察の為にワーターハウス氏も同行した、夜七時同市商業会議所旭館に於て開会した、雨天に拘はらず三百人余りの聴衆があつた、但し聴衆の多かりしに係はらず講演の簡短に過ぎて貧弱なりしを悲んだ。久しく地方出演を試みざりし為であらう、神御自身聖霊を下して我等の言葉を補ひ給はん事を祈つた。

 四月十四日(金)雨 午前十時宇都宮を発し帰途に就いた、車中ワーターハウス老人と共に談じ、余の愛する米人を彼も愛し、彼の嫌ふ米人を余も嫌ふを知つて痛快であつた、ヤンキーコンモンセンス(米国人の常識)に驚くべき者がある、其の一言に由て真偽善悪が判別せらるゝ所に他人の到底及ばざる所がある、旧い真《まこと》の米国人は今日の米国を呪ふ、自分の心中を安心して打開ける事の出来る米国人に遭遇して会心の至りである、三十年前に遡つて旧き米人と語りしやうに感じた。

 四月十五日(土)晴 記すべき事なし、

(39) 四月十六日(日)晴 八重桜満開、花曇りで美はしき日であつた、中央講演会殆んど満堂の盛会であつた、「基督教道徳の性質」と題し羅馬書十二章二節の解釈を試みた、「世に傚ふ勿れ……心を化《かへ》て新たにせよ」と、而して「世に傚ふ勿れ」と説いて世に傚ふ事を以て能事とする現今の教会に就て説き及ばざるを得なかつて、気持が悪かつた 〇午後今井館に於てハンナ組の組会が開かれた、来会者十六人、重に女子大学程度の女学生であつた。

 四月十七日(月)半晴 久しく帰国中なりし友人独逸グンデルト君の訪問を受けて楽しかつた、独逸現下の状態に就て聞き強き感に打たれた、然し暗黒の内に大なる望が仄見《ほのみえ》る、欧洲は今や改造の真中《まなか》に在るのである、歴史は後戻りしない、プロテスタント教会が倒れて其跡に制度的教会の無い其《まこと》の基督教が起りつゝある、日本も欧洲と同じ状態に於て在る、今も昔と同じく「夜番《よばん》よ夜は如何《いかに》」と問へば、「朝は来りつゝあり」と彼は答ふ、グン君の凡《すべて》の談話を総合して之を「朝来る」の一語に短縮する事が出来ると思ふ。

 四月十八日(火)晴 昨夜大雷雨、大粒の雹も混《まじ》り、真盛《まさか》りの八重桜は台無になつた、「心みじかき春の山風」である 〇新聞紙は露独協商を報じ、世界の場面は一変せんとしつゝある、変幻窮りなき世の中なる哉。

 四月十九日(水)晴 内村加寿子の昇天紀念日である、彼女を我が霊に迎へて紀念した、彼女の異母弟横浜水哉今や我家族の一人と成り彼女に代つて我家を賑はす、三十一年前に余と彼女とを迫害せし偽《にせ》哲学者と偽愛国者とは今や声を潜めて一言を発せず、我等の信仰は今や帝都の中央に於て公然と盛んに日曜日毎に唱へられつゝある、勝利である、万歳である、すべて我等の敵に勝ち得て余りありである。


(40) 四月二十日(木)晴 終日ペンを執て働いた、演説をするよりも遥に良い、演説は騒ぎが多くして益が尠ない、演説は外観の結果を好む近代人の好んで為す事である、之に反して執筆は静かにして其効果は深遠である、外《そと》にお多福桜が咲き誇る今日此頃、内にペンを執て静かに賜はりし思想を記列《かきつら》ぬる愉楽《たのしみ》は詩人的でもあり亦実際的でもある。

 

 四月二十一日(金)晴 編輯日であつた、長野県の山奥より或る人が態々尋ね来り、真正の信仰の何たる乎と、入るべき基督教の修道院を教へよとの事であつた、突然の事とて如何ともする能はず、説諭と訓誡とを加へて彼を帰した、長野県には斯かる行為を執る人が甚だ多い、只余の名を聞いた丈けで余を尋ね来り、一身を余に任かせんと申出し者、今日までに数人あつた、余は其都度大に困らせられた、其内の最初の者が車夫の音吉であつた、彼は日本国の外務大臣となりたしとて田舎車《いなかぐるま》を曳きながら余の家に来つた、幸にして彼は善き基督者となりて、今に至るも余と親しき関係を持つ 居る、然し其の他の者はさうは行かなかつた、何れにしても名士の押懸け訪問は長野県人の特性の一であると見える。

 

 四月二十二日(土)晴 新緑の麗《うる》はしき日である、天地は復活の朝の装《よそほひ》に栄《はえ》て居る、内にオレリの『旧約預言論』の我心を躍《おど》らするあり、外に八重桜の将に散らんとする風情の我眼を悦ばするあり、我は是れ以上に何も要らない、此世ながらの天国である。

 

 四月二十三日(日)曇 中央聖書研究会満堂の盛会であつた、東京中のクリスチャンの総てが集つて来たので(41)はあるまいかと思はれた、何の為の集来か能く解らない、頗る心配である、余輩は斯くも多数の信者又は求道者を引受けたくない、若し市中の諸教会が其半数なりとも引き受けて呉れるならば余輩は彼等に感謝する、此日講壇に於て畔上が助けて呉れた、自分は羅馬書十二章三-八節までを「基督教的謙遜」と題して講じた、毎回語るべき事多きに過ぎて時間の不足を感ずるのが常である。

 

 四月二十四日(月)雨 月曜日なるに拘はらず此世の雑事に悩まされ、何事も手に付かなかつた、「心の楽しみは良薬《よきくすり》なり、霊魂の憂ひは骨を枯らす」と箴言十七章二十二節にある通り、福音を説くは楽しきが故に幾ら疲れても良薬であり、此世の心配は骨を枯らす外に何の益する所がない、まことに純の純なる喜びは神の道を学んで之を悩める人に頒つ事である。

 

 四月二十五日(火)晴 南風強し。一少女の身を保護するために尠からず心を労するべく余儀なくせられた、何んと悪人の多い社会であらう、「誰か弱りて我れ弱はらざらんや、誰か礙《つまづ》きて我が心熱せざらんや」である(哥林多後書十一章廿九節)、多数の小悪魔輩が辜《つみ》なき弱者を苦しめつゝあるを見ては我が心熱せざらんと欲するも能はずである、イエス様が斯かる者に就て「磨石《ひきうす》をその頸《くび》に懸けられて海の深みに沈められん方なほ益なるべし」と言ひ給ひしが、まことに其通りである(馬太伝十八章六節)、然るに此世の法律の不完全なる、斯かる輩の不正行為を抑ゆるの能力《ちから》がないのである、暗い黒い世の中である 〇近頃の出版物で余に深き感動を与へた者は春陽堂出版、島崎藤村氏編、故北村透谷遺著『透谷全集』である、透谷は近代日本に於ける真詩人の一人である、彼にバイロンの熱情と光輝とがあつた、而して英詩人の如くに己が内に輝く光に眩惑されて終に其生命を縮むるに至つた、惜むべきの限りである、彼に若し和平《やはらぎ》の福音ありたらば!と時々思はせらる、殊に此著に就て感じ入(42)るのは藤村氏の亡き友に対する友誼である、是れ文士として為し得る最大の奉仕である、透谷は善き友を世に遺した、其点に於て彼はたしかに幸運児である、余は本誌の読者に此書を推薦するに躊躇しない、信仰の書ではないがたしかに誠実の書である、而して誠実は信仰を作る為の第一の要素である。

 

 四月二十六日(水)半晴 午前十時強震あり、全地は揺ぎ、今にも我家が倒壊する乎と思ふた、危険極まる人生である 〇朝鮮人某より左の如き意味深きハガキが着いた、

  内村先生、是非御一読を願ひます、小生は毎朝、神の愛と主の平安、先生と共に有らんことを神に祈り上げます、一九二〇年夏或る機会を以て先生の研究誌七月号が小生の手に入つたのでありました、此れは神が始めて小生に直接に授けた機会で御座いました、夫から今日まで|先生の著書全部を六次〔付△圏点〕拝読致しました……嗚呼先生、先生の御恩に れ感謝の涙を禁ずる事が出来ません、小生の讐《あだ》の日本にでも先生在りて平和の日本、愛の日本にと変つて来るので御座います、本当の神を世に現はしたのは唯主イエスキリスト、本当の主イエスキリストを世に現はしたのは此世に先生一人しかないことを痛切に感じて居ります。

喜んで宜い乎悲んで宜い乎解らない、「小生の讐の日本にでも先生在りて」と云ふ、嗚呼日本が朝鮮の讐であつて欲しくない、兄弟であつて欲しい、而して讐もキリストに在りて兄弟となる事が出来る、本当の日鮮併合は両者がイエスキリストを救主として迎へまつる時にのみ成る、「此《かく》の如きに至りてはギリシヤ人とユダヤ人……或は夷狄《ゑびす》或はスクテヤ人、或は奴隷或は自主の別なし、夫れキリストは万物の上に在り、また万物の中に在り」とあるが如し(哥羅西書三章十一節)。

 

(43) 四月二十七日(木)晴 今井館に於て金沢常雄対浅見綱子の結婚式を司つた、二人共に二代目のクリスチヤンであつて、其点に於て此国に稀に見る配偶である 〇近頃痛切に感ずるは所謂下流階級の人たるの幸福と、之に対する上流階級の不幸とである、イエス様が生れ来り、属し給ひし階級が人の人たるの光栄と価値と意義とを最も完全に発揮し得る階級である、何人もイエス様に近づけば近づく程真個の平民たらざるを得ない、余は断言して憚らない、上流階級の人たるを誇り、又は之に満足し、又は之を憧憬《あこが》るゝ者はイエス様の弟子に非ざる事を。

 

 四月二十八日(金)晴 昨日に引替へ静かなる日であつた、少しばかりの原稿書きと外国新聞並に『英百』の雑読に新緑の麗はしき一日を過した、自分一人で最後まで我が天職の為めに戦はねばならぬ事を今更らの如くに感じた、西洋人は日本人は良心のなき国民であると云ふが、良心は国民に先天的に在る者ではない、神の聖言が国民の心に入つて其良心となるのである、而して自分は一生の事業として、時を得るも得ざるも、聖書を日本人に教へて、新たに其良心を作ることが出来る、然し長い徐《おそ》い仕事である、ユツクリと心を構へて為すにあらざれば成す能はざる仕事である。

 

 四月二十九日(土)晴 来訪者十七人と云ふ近頃になき大取込みの日であつた、二三の大問題を持込まれ、其解決に頭と心とを悩まされた、自分は『英百』にアーミテージ・ロビンソンのペンに成るキリスト伝を読みつゝ心の平静を保つた、余に福音の大真理を尋ねん為に訪ひ来る者は滅多にない、大抵は嫁ぐ事と娶る事と、食ふ事と飲む事とに関はる問題を携へて来る、然し是れ亦信仰的生活に全然関係の無い事でなければ、自分としても全然之を避くる事が出来ない、困難なる世なる哉。

(44) 四月三十日(日)曇 午後雨。中央講演会、平常の通り、羅馬書十二章第九、十節に就て講じた。午後今井館に於て、浅野猶三郎司会の下に山形県秋野光雄と千葉県海保静子の結婚式が行はれた、誠に厳粛なる恵まれたる式であつた、新郎は浅野に教へられし者、新婦は畔上に導かれし者であつて、我が信仰の孫と称して可なる者である、彼等が新家庭を作りて更に又信仰を継続するを見るは感謝の至りである。

 

 五月一日(月)晴 朝美代子と共に雑司ケ谷のゴーテスアーケルを見舞ふた、青葉に燃ゆる欅が森は美くしかつた、彼女に導かれて多くの偉い墓を見た、然し乍ら我がルツ子の「再た会ふ日まで」の碑に勝る者はなかつた、此墓石のみが明白に信仰と希望とを唱ふる者であつた、余は美代子に告げて曰ふた、真に偉い人の墓は大抵は質素なる者である、頼山陽の墓、佐久間象山の墓、カーライルの墓、ルイ・アガシの墓、孰れも大家の墓とは思へない程質素である、死だ当時に偉い墓を建てられるやう人に碌な人のあつた例《ためし》はない、最も偉い墓はコロムウエルのそれである、彼は敵に其墓を発《あば》かれ其骨は灰にせられて河水の面に撒かれた、死んだ当時に国賊逆臣の首《かしら》として扱はれし彼れこそ真の偉人、人類の先導者《リーダー》であつたと、斯くて墓地に見学一時間にして昼飯頃各々其家に帰つた。

 

 五月二日(火)曇 昨年春羽後鳥海山の麓より来りし下婢の身上に就き面倒なる問題起り、今日終に彼女を其親元に送還した、大正日本の社会は忠臣蔵元禄時代のそれと少しも異らない、代議政体あり、長門陸奥の如き世界最大威力の戦闘艦ありと雖も、文明の基礎たる人権尊重の観念に至ては今日の日本は欧米最劣等国に及ばない、日本人が今や世界何れの国民にも嫌はれるのは決して無理でない、殊に今回の事に由りて純樸なりと思ひし東北地方の社会が其根柢より腐敗し居るを示されて堪へ難き失望である、東北人より其正直を取除いて残る所は最悪(45)の日本人である。

 

 五月三日(水)半晴 静かなる好き一日である、庭は藤、躑躅、牡丹の花盛りである 〇余の一生に於て世に所謂割りの好い事の臨んだことは一度もない、余は常に割りの悪い所にのみ廻はされて居る、其事を思ふて時に甚だ悲しくなる、然し当然である、余は人生の最大事に於て最も割りの善い立場に立つ者である、余は身に何の功績《いさほし》なくしてキリストが余に代て遂げ給ひし功績に由りて神の子たるの特権に与らんとしつゝある、無限の宇宙に斯んな割りの好い事はない、余は天の事に於て最大の幸運児たるが故に、地の事に於て少しく不幸児たるに過ぎないのである。

 

 五月四日(木)晴 講演準備の為に羅馬書十二章を逐字的に研究しつゝある間に、敵の為に善を為し得るに至て初めて愛が完成《まつたう》せらるゝ事が今更らながらに明解《わか》つて嬉しかつた、此事を為し得て我は初めて神の子と成つたのである、救はれし唯一の証拠は此事である、歓喜の中に全日を送つた。

 

 五月五日(金)雨 校正日である。『英和独語集』Alone with God and Me が岩波書店より出た、世に如何に受けらるかゞ見物《みもの》である、今日の基督教界殊に英米宣教団に対し小爆弾の用は為すであらう、それ以上を望む事は出来ない。

 

 五月六日(土)半晴 静かなる好き土曜日であつた、鸚鵡の一羽に揶揄ひ彼に怪我をさして尠からず心を痛めた、彼も亦家族の一員である、彼れ傷きて我れ痛まざらんや、力を尽して彼を介抱して稍々癒えしを見て安心し(46)た。雑誌五月号の校正を了つた。

 

 五月七日(日)曇 気候は寒からず暑からず、聴衆は少からず多からず、演題は「愛の表顕」、三つ揃つた完全に近き聖会であつた、聖書の研究であつて所謂伝道でもなければ礼拝でもない、然し驚くべき神の聖旨を学んで我等は自《おの》づから教へられ又彼に近づきまつる、実に限りなく美はしきは聖書《みふみ》の研究である、我等は自分の学識や熱心や人格を以て人を感化せんとしない、真理の美が此事を為す、此真理をさへ忠実に伝ふれば我も化せられ他《ひと》も救はる、容易にして、簡短にして、有力なる伝道法である。

 

 五月八日(月)晴 夜束京駅ホテルに於て万朝報主筆斯波貞吉君並に近頃欧米漫遊より帰朝せしセウル・プレツス主筆山県五十雄君と共に会食した、善き事悪しき事を沢山に聞いた、禁酒国の米国に於て大抵の旅館に於て金さへ出せば如何なる酒類でも飲む事が出来る、或る富豪の設けし大園遊会に於て、酒類が公然と饗応《もてな》され監視の巡査までが酩酊して居たのを見たとの事を聞いて唯呆然たるのみであつた、是れでは米国も末期に近づいた事が思はれ、腹も立つたが悲しくもあつた、之に反して英国牛津に於ける平信徒の小集会、我が好本督君の倫敦に於ける伝道事業等に就て聞いて大に慰められた、近頃になき有益なる会合であつた。

 

 五月九日(火)曇 余はキリストと其福音とを弁護する、然れども自分は決して弁護しない、人あり若しキリストと其福音を譏るならば余は彼の矇を聞き誤謬を解かんとする、然れども若し余の欠点を指摘して余を貶し罵るとも余は決して自分を弁解しやうとしない、而して世が若し余の誹謗者の言に聴き余を去るならば余は別に余を容るゝ人を求め彼等にキリストと彼の福音を伝ふる、而して世に一人も余の言に耳を傾くる者なきに至れ(47)ば余は其時余の伝道を廃める、余は人に自分を薦めん為に伝道するのでないから人が余に就て如何に思ふ乎は余の関はる所でない、余を誹りたき人は思ふ存分誹るが可い、余は自分の事に就て彼に答ふるの時と興味とを有たない、余の仕事は別にある、余は余の主人の御用に従事しなければならない。

 

 五月十日(水)曇 昨年二月以来或る東北の青年に欺かれ居りし事が判明して非常に不愉快であつた、此不信国に在りて信仰の故を以て人に欺かれしこと今日ま 幾回なるを知らず、而して今日に至るも猶ほ未だ其災厄より免かるゝ能はず、此事を思ひ伝道は今日限り廃めたくなる。

 

 五月十一日(木)晴 平和なる一日であつた。「夫れ此の世の子輩《こどもら》は此世に於ては光の子輩よりも巧《たくみ》なり」である、欺瞞の術に於て我等は到底彼等に及ばない、然し乍ら悧巧のやうに見えて最も愚かなる者は彼等である、彼等は我等を瞞して自分で自分を滅しつゝあるのである、余は今日まで余を瞞した者で一人も名誉の生涯を送つて居る者を知らない、彼等は欺きながら亡び、我等は瞞されながら栄ゆ、我等はやはり彼等を愛し彼等の為に祈るべきである。

 

 五月十二日(金)雨 雑誌第二百六十二号出づ。

 

 五月十三日(土)晴 人を見ては失望する、自分を見ては厭になる、政治、宗教、政党、教会、何一つとして憤慨の種ならざるはない、然し乍ら、嗚呼然し乍ら、唯一つ満足なる者がある、主イエスキリストである、彼れのみは完全である、而して彼を信じ彼に在りて、神は完全なる者として自分を扱つて下さる、感謝之に勝さるな(48)しである、其事を思ふて人世はどうなつても可いと思ふ、腐敗も堕落も恐るゝに足りない、英米日独成るが儘に成れよである、余はイエスに在りて安全である、「我は我よりも高き磐《いは》に倚《たよ》らん」である(詩六十一篇二節)。

 

 五月十四日(日)曇 午後晴れ、快き初夏の聖日であつた。中央講演会に於て三谷隆信は欧米視察談をして呉れた、余は「平和の途」と題し、羅馬書十二章十六、十七節に就て講じた、平常に変らざる集会であつた。午後市外杉並村今村氏邸に於てルツ組第三次組会が開かれた、余も青木庄蔵君と共に之に臨み出来得る丈けの援助を与へた、組員十五名程出席、天気は初夏理想の清涼、場所は新緑滴る郊外の閑地、電車の響きは耳を聾せず、朝の大会に比べ、午後の小集は優《はるか》に天国的であつた、組員各自の感想を聞き、庭園に実る苺の饗応に与り、武蔵野の夕風涼しく、「夕日はかくれて、道ははるけし」を口吟しながら一同帰途に就いた。

 

 五月二十日(土)晴 引続き『英百』にO、C、ホワイトハウスのペンに成りし「希伯来人の宗教」の長篇を読んで面白かつた。

 

 五月二十一日(日)半晴 又復恩恵溢るゝの聖日であつた、中央講演会は普通以上の盛会であつた、自分は羅馬書十二章十九節以下を「愛敵の道」の題目の下に講じた、語るべき事余りに多く且深くして熱情に走るの虞れあり、自分を抑へるに随分骨が折れた、恰かも宜し此日独逸チユービンゲン大学教授ドクトル・カール・ハイム氏が友人グンデルト氏に伴はれて講堂を訪問して呉れた、依て氏に乞ふてグンデルト氏の通訳の下に一場の感話を述べて貰つた、一人の外国人が日本語を以て(而かも流暢正格なる日本語を以て)他の外国人の講話を通訳して呉れたのである、其事其れ自身が偉観であつた、而してハイム氏の所説はよく余のそれと一致した、彼は余の所(49)説を裏書きして呉れたやうな者である、七百の聴衆一同が深き強き感に打たれた、本当の基督教は欧洲に絶えない事を示されて我等は志を強うせられた、今日の講演会は正味二時間と十五分、緊張一貫せる集会であつた、外国大学の教授にして態々余と余の事業とを見舞つて呉れた者はハイム氏が初てゞある、迚も英米の神学博士の間には見る能はざる謙遜である、此信仰ありて独逸の復興は確実である、より善き独逸は起りつゝある、実に感謝の至りである 〇午後同じ衛生会講堂に於てヨハネ組以上の懇話会が開かれた、出席者十六名、是れ又充実せる真面目の会合であつた。

 

 五月二十二日(月)曇 英国J・W・ロバートソン・スコツト氏より其近著 Foundation of Japan を贈つて来た、其内の一章を「イスラエルを擾《みだ》す者」と題して余に関する記事に当られたるを見て面白かつた、スコツト氏は余を称ぶに「日本のカーライル」の綽号《あだな》を以てする、余の骨格、顔つき、話し振り、諧謔《ユーモア》、帽子、外套までがケルシーの哲人に似て居るとの事である、誠に有難い事である、謹んで此綽号を頂戴する、日本のカーライルと称ばるゝは日本のムーデー又は日本のビレー・サンデーと称ばるゝよりも優かに名誉である、カーライルは宗教界の人でなかつた、余もさうである、カーライルは教会を嫌つた、殊に英国聖公会を嫌つた、余もさうである、彼は正直なる、勇敢なる飾らざる一平民であつた、余も然かあらんと欲する、余は余を日本のカーライルと称して英国の読書界に紹介して呉れたるスコツト君に感謝する 〇夜今井館に於て外務省官吏仏国巴里滞在の法学士三谷隆信夫妻の歓迎会を開いた、来会者は旧き柏木連二十八名、親しき楽しき会合であつた、今や仏国に、英国に、瑞西に、和蘭に、独逸に、米国は勿論の事、我が有力なる同志の滞在するありて、我主義信仰を唱道しつゝあるを喜ぶ、我等が知らざる間に我等のブラザーフード(兄弟団)が世界的に成つた事を感謝せずには居られない。


(50) 五月二十五日(木)晴 昨夜空晴れ、火星が蠍座のアンタレス(対火屋)を逐ふの状《さま》を見て美くしかつた、赤い提燈のやうな星が他の赤い一等星の跡を逐ふのである、稀れに見る奇観である、火星は射手座を離れ蛇遣《へびつかひ》座のセータ星の辺に在つた 〇ハイム博士を独逸大使館に訪ふた、深い謙遜なる学者である、彼れ自身が無教会主義者であつて又キリスト再臨信者であるに余は深く驚いた、深い学問の立場より信ずる再臨は特別である、チユービンゲン大学の教理学教授が敬虔なるキリスト再臨信者であると聞いて日米の信者達は驚くであらう、然し乍ら事実である、博士は同信仰の士としてドストエフスキー、メレスコブスキー等の大家を挙げた、実に痛快の至りである。

 

 五月二十六日(金)晴 帝国大学医学部医化学教室主催に係る時習会に招かれ其例会に出席した、出席者六十二名、医化学生理学の教授並に研究生等であつて純粋の科学者達であつた、当夜の問題は「科学と宗教」であつて柿内博士の指名に由り十数名の意見の陳述があり、非常に面白かつた、内に四五名の判然たる基督信者さへあつたらしく、基督教に対し熱心なる同情あり、尊敬あり、反対と称すべき者は至て僅少であつた、帝大医学部に於てさへ斯くも宗教探求の精神が漲つて居る乎と思ふて強き意外の感に打たれた、余は最後に余の信仰的実験に就て述べた、医学博士と医学士とより成る此団体は静粛に敬意を以て一時間余に渉る余の信仰談を聴いた、余は生れて未だ曾て斯かる尊敬すべき聴衆に対して語つたことはない、宗教に対し、帝国大学、而かも其医学部に此敬虔なる態度ありとは何人も知らざる所であらう、余は此時驚くべき者を示されたのである、余は是等の純科学者の間に多くの牧師又は伝道師又は神学者の間に於てよりは、深い清い宗教心を見たのである、我が帝国大学内に於てキリストの聖名の揚らん事は余の年来の祈願であつた、而して此夜其一端の実現せるを示されて余の心は(51)感謝に充ちた、九時四十五分閉会、青年と共に柏木の家に帰つたのは十一時少し過ぎであつた。

 

.五月二十七日(土)晴 メキシコ国エスクイントラ布施常松君よりの書面の一端に曰く「……広い土地を占有しても何にもならず、時には余所から這入つて一作や二作だまつて作つて居る者があつても知らずに居る様な事に候、此所でも一軒の農家で百町歩もあれば森林として幾分は残し、他は放牧場、耕作地として利用し一家を支へるに十分に候、初めて日本から見へた方でも一通り先住者の経験を聞けば失敗なしに順調に行く事受合に候、先生の所へ見える方で海外移住の希望のある方有之候はゞ御序に御吹聴を願上候、此頃夕方牛の追込の入口をしめに行くと南天に十字星が上り居り候、尚又此所では黄道光がハツキリと立派に見え候、海外の農場生活をする私共に星見る事を教へて戴き候事は誠に仕合せに候」と、四千年前のアブラハムの生涯を読むやうである、百町歩の土地を占有して夜々《よな/\》星を見るの爽快は狭くして人口稠密の日本に在ては想像だもする事が出来ない、世界は広し、他人に厄介にならずして往く事の出来る者は往くべしである。

 

 五月二十八日(日)晴 中央講演会又復沢山の人であつた 羅馬書十三章一-九節、政府服従の段に就て講じた、日本政府の美点を数へ上げた時に聴衆中に奇異の感を起した者もあつたらしく、然し余自身は久し振りにて日本国の決して悪しき国に非ず、多くの美点を具へたる国であることを公然と述べて非常に愉快に感じた、讃美歌三百七十三番「わがやまとの、くにをまもり」を合唱して閉会した、不相変歓喜溢るゝの聖日であつた。

 

 五月二十九日(月)半晴 前週の疲労が一時に出て来たやうに感じた、終日半病人であつた、然しいくら疲れても聖書の講義は廃められない、是は我が生命であつて之を廃める時に自分は死んだのである、我が全生涯の内(52)に最も幸福なる時は筆を執て、又は聖書を手にして聖語を世に伝へる時である。

 

 五月三十日(火)晴 引つゞき預言書の研究に興味が尽きない、旧約の預言者が解らずしてキリストと基督教とは解らない、余の真剣の聖書の研究が三十七年前米国に流浪中預言書の研究を以て始まりし事を今に至て神に感謝する、余と余の信仰とを誤解する多くの日本人あるは彼等が預言書に由らずして直に基督教に入らんとするからである、キリスト御自身が預言者であつた、イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、アモス、ホゼヤ等の精神に触れずしてキリストを解する事は出来ない、世に骨の無い愛情のみの基督者多きは彼等が真面目に預言書を研究しないからである、読めよ、大に読めよ旧約の預言の書《ふみ》を。

 

 五月三十一日(水)雨 一友人の一身上に起つた出来事より他《ひと》の罪を担ふの如何なる事である乎を実験的に教へられて神に感謝する、人の罪を担ふとは彼の受くる恥辱を受け、彼の耐ゆる※〔言+后〕※〔言+卒〕《そしり》に耐へ、すべての点に於て自から其罪を犯さゞるに彼と苦難《くるしみ》を共にする事である、是は最も辛らい事であるが、然し斯く為してこそ友の友たる義務を果たす事が出来る、而してイエスが我が為に此事を為して下さつたと知つて実に感謝に堪へないのである、イエスは御自身罪を知り給はざりしに我が罪の為に辱かしめられ、※〔言+后〕《そし》られ、而して終に殺され給ふたのである、「人其友の為に生命を捨つ、之より大なる愛はなし」と彼が言ひ給ひしは事実其通りである、此事を知らないで此世の所謂基督信者輩が義人と名誉を頒たんとのみ欲して、罪人と恥辱を共にするを忌嫌《いみきら》ふは、キリストの心を知らざるの最も甚だしいものである、罪人の友たるの地位に置かれて初めてキリストの愛の深さが推量《おしはか》らるゝのである。

 

(53) 六月一日(木)晴 初夏の麗はしき一日であつた。宇都宮青木義雄よりの書面に曰く「拜啓、廿八日の中央講演会に於ける先生の御講演は実に偉大なる者でありました、彼の日は当市に於て下野新聞社新築落成大祝賀会のある日にて県下の所謂紳士連が我も/\と蝟集するを名誉の如く心得居る中を、小生は独り中央講演会指して上りたる御蔭にて彼の偉大なる深遠なる御講演に接するを得て其天恩の裕かなるを歓ぶのであります、云々」と、人生に厭な事数々ありて時には講演も伝道も今日限り廃せんと思ふ事ありと雖も、亦斯かる熱心なる信仰の友ありて我言に力を獲るを聞いて我が使命の未だ終らざるを知り、元の仕事にと再び就くのである、縦令一人なりとも我言に励さるゝ者ある間は我は語らざるを得ない、余は時に書を寄せて余を励まして呉れる少数の友人に感謝する。

 

 六月二日(金)晴 校正と原稿書きに全日を費した、平和の一日である、我心は平和である、我家も亦平和である、不安と波乱とは外より来る、外界は混乱を我と我家とに起して其罪を我に帰す、故に我等は世に接するを好まないのである。

 

 六月三日(土)半晴 青葉に輝く初夏の一日であつた、『英百』に支那と孔子とに関する記事を読みて大に教へられた、孔子の偉らい所も偉らくない所も今に至て能く判明る、孔子を教主と仰いで東洋語国の興らざる理由は明白である、支那研究は日本を救ふために最も必要である。

 

 六月四日(日)晴 麗はしき初夏の聖日であつた、中央講演会不相変満員、暑気加はり空気の流通悪しきに苦しんだ、題目は前講の続き、信者が社会に対するの道「何人にも何物をも負ふ勿れ、但し相互に対する愛は別な(54)り」、「律法を完全《まつとう》する者は愛なり」、信者に取りては聞き慣れたる平凡の道であるやうなれども、普通道徳の立場より見て、深い貴い教訓《をしへ》である、但し我が大熱心を喚起する程の問題でなかつた、大手町に移りてより爰に満(まる》三年、パウロがエペソの市に伝道せしと同数の年月である、全体に見て至て平穏なる感謝に溢れたる会合の連続であつた、「人は棄《すつ》るも神は棄《すて》ず」である、縦し今日此中央講演を廃止するべく余儀なくせらるゝとも余は満足である、余の一生涯に於て最も楽しき三年であつた、感謝の言葉なしである。

 

 六月五日(月)晴 或る商家の店員の集会に於て「商人と宗教」と題し短かき談話をなした。

 

 六月六日(火)晴 久振りにて市中に行いた、外国に行つたやうな感がした、自分と世とは段々と遠かりつゝある事が判る。

 

 六月七日(水)半晴 我等は完全なる神の福音を説く、故に完全なる人である乎のやうに世に思はる、人は「我等この宝を瓦器《つちのうつはほ》に蔵《もて》り」と云ふ事を知らない、故に我等の欠点を見ては福音に躓く、器の悪きを見ては其内に蔵《かく》れたる宝を棄る、然し止むを得ない、「誰か之に堪へん乎」である、我等は自分を伝へるのではない、主キリストを宣るのである、而して人が受けるも受けざるも命ぜらるゝが儘に福音を宣伝へる。

 

 六月八日(木)雨 午後霽る。北海道帝国大学より左の如き通知があつた、

  貴下の寄贈にかゝる「内村鑑三謝恩記念奨学資金」本年度給与額金五拾円也 右資金の寄附条件に基き本学附属大学予科主事の推薦せる左記学生に給与候間此段及御通知候也

(55)毎年一度此愉快なる通知に接す、年中第一の愉楽である、今年此少額を受けて呉れた青年は農学部農業生物学科第一年生小野定雄君である。

 

 六月九日(金)晴 雑誌六月号の発送を終つた、発行日前の発送は近頃稀れなる事である。

 

 六月十日(土)雨 支那地理並に歴史の研究に大なる興味を覚える、日本は支那を離れて考ふべからずである、支那あつての日本である、支那を離れて日本は存在する事が出来ない、地理的にさうである、経済的に、政治的に、道徳的にさうである、我国は天山以東太平洋に至るまで四百五十万方哩の大陸的大国である、我が愛国心を蜻※〔虫+廷〕洲の一島国に局限せずして、黄河揚子江西江の流域全部にまで拡張して我が存在の意義も亦稍明白になるのである、願ふ自今少くとも東亜全体を我が祈祷の題目として我が伝道を進めんことを。

 

 六月十一日(日)晴 中央講演不相変満堂、此日英国陸軍砲兵士官ハートレー・ホルムス氏の参観あり、依て氏に乞ふて一場の演説をして貰つた、前回の独逸ハイム氏と対して好きコントラストであつた、英人は信仰箇条の告白には明白であるが自己は堅く閉ぢて之を言ひ表はさない、之に引替へて独逸人は信仰箇条は之を外に示さないが心情有の儘を語つて憚らない、英人の宗教は箇条的告白のそれであつて、独逸人の宗教は信仰其儘のそれである、誠に英国聖公会の如き教職的教会の起つた事はよく英国人の国民性を現はして誤らない、我等は居ながらにして両新教国の特性を示されて大に悟る所があつた。予自身は羅馬書十三章十一節以下、世の終末と基督教道徳との関係に就て語つた、問題は宏遠であつて時間は短く、誠に要領を得ざる不満足なる講演であつた。


(56) 六月十二日(月)晴 不相変無為疲労の月曜日であつた 〇夜、田中工学博士に嶄新の方法に由り電子エレクトロンを見せて貰つた、霊に非ず物に非ず、半霊的半物質的である、近代の聖書学者が聖書が録すキリストの復活体は半物質的《セミフイジカル》であると評して其真実を疑ふが、然し物質の基礎たる電子は確かに半物質的であつて、之を以てして復活体を説明することが大分に容易になる、何れにしろ今や宗教家が宗教の説明に迷つて居る時に科学者が実験を以て宗教の根本を闡しつゝあるは感謝すべき事である、神学が全く不用になつて、科学に由て純信仰が維持せらるゝ時が来るであらう。

 

 六月十三日(火)晴 伝道の如何に困難なる乎、殊に独立伝道の如何に困難なる乎は今に至つて始めて知つたやうな心持がする、其事が早く解つたならば自分は決して斯んな仕事を択まなかつたであらう、自分は神に欺かれて今日に至つたやうに思ふ、ヱレミヤの言が思出される「ヱホバよ汝は我を欺き給へり而して我は汝に欺かれたり(英訳参考)、汝、我を捕へて我に勝ち給へり、云々」と(耶利米亜記第二十章七節)、人は、殊に日本人は容易にキリストの福音を受けない、受けないのみならず種々の方法を以て伝道者を苦るしめる、「ヱホバの言日々に我身の恥辱《はづかしめ》となり嘲弄《あざけり》となる也」である、自分は今日まで伝道の栄光をのみ見て、其恥辱と苦痛とを見なかつた、然れども今に至つて如何ともする能はず唯其儘に進むのみである、然れども伝道絶大の困難を知つた以上、容易に他に之を勧めないであらう、|伝道、殊に独立伝道は神に余儀なくせらるゝにあらざれば人の執るべき仕事でない事〔付△圏点〕が今に至つてハツキリと判明つた。

 

 六月十四日(水)晴 「若し我に従はんと欲ふ者は己を棄てその十字架を負ひて我に従へ」とあるイエスの言は「|失敗を期して我に従へ〔付△圏点〕」と解すべきものであると思ふ、十字架は失敗の表号《シムボル》である、基督教は十字架教であつ(57)て失敗教(此世に於ては)である、然るを成功を期し、成功を祝し、成功を誇る今日の所謂基督教は偽はりの基督教である、是は成功崇拝の米国人の宗教であつて主イエスキリストの宗教ではない、米国人の宗教は多数教である、多く信者を作り多く弟子を有つのが米国教である、之に対して「汝等散りて各人その属する所に往きたゞ我を一人残さん」と云ふのがイエスの宗教である、願ふ予も亦最後に自分一人となりてイエスの御足《みあし》の跡を践む者とならん事を。

 

 六月十五日(木)晴 用事あり宇都宮に行いた、行けば必ず講演と定まつて居る、午後八時より下野実業銀行奥座敷に於て小集会を開いた、来会者六十余名、頗る盛会であつた、予は「商人と宗教」と云ふ題目を設けて語つた、栃木県に入つてより二十有余年、初めて同県人のハートに触れたやうに感じた、アブストラクト(抽象的)では可《いけ》ない、コンクリート《実物的》でなければ駄目である、以来栃木県に入りてはソロモンの箴言を講ずる事に決た、然し二十年後に此事を覚つたとは自分の愚鈍に呆れざるを得ない。

 

 六月十六日(金)雨 久振りにて日光に往いた、教友四人同道した、然し雨の日光は余り面白くなかつた、梅屋敷の鉱泉に半日を費して帰途に就いた、今や日光は東京の一部分である、目下平和博覧会見物人を以て充満して居る、昔しの閑静は全く失せて純然たる俗地と化した、惜むべき事である、薩長政治家の感化の下に日本全国は隅から隅まで花柳街にひとしき遊覧地と成りつゝある、嗟我れ何処に適帰せんである。

 

 六月十七日(土)半晴 大なる興味を以て露人シユタロウスキー著『西比利亜東北部旅行記』を読みつゝある、西比利亜土人に対し厚き同情を喚起された、憎むべき西洋人よ。


(58) 六月十八日(日)曇 蒸暑き日であつた、中央講演会、聴衆堂に溢れ、七百人以上あつた、眩暈にて倒れし者三人、自分も大分の苦痛であつた、羅馬書十四章以下十六章に至るまでのパウロのヒユーマニチー(人間味)に就て語つた、是れで一先づ本期の講演を終る、東京基督教青年会を逐はれて大手町に移つてより茲に満三年、神我等を護り給ひて会員の数と熱心とは益々加はりて少しも其減退を見ない、会費は入費を払つて余りある、独逸、北海道アイヌ土人、台湾生蕃伝道等に少し許りづつの寄付をさへ為す事が出来て大感謝である、満三年と云へばパウロがエペソに於て為した伝道の年限である、東京の中心に満三年間多数の聴衆に向ひて聖書を講ずる事が出来て余の青年時代の夢想が大部分実現されたのである、此事を為さんが為めにどんな犠牲を払つても惜しくない、神は外国人の手を藉りずして日本人自身を以て日本国の中心に於てキリストの福音を唱へしめ給ふと知つて新時代が亜細亜の天地に臨みつゝあるを感ずる、願くは印度のガンヂと相応じて茲に亜細亜独立の堅き土台を据え得ん事を。

 

 六月十九日(月)半晴 夏休みが始まつて嬉しかつた、先づ第一に諸勘定を済ました、殆んど全日を其ために費した、借金があつては休みが休みにならない、借金を払つて然る後にイエス様を心に迎へる事である、それで山や海に行かずとも本当の休みが始まるのである。

 

 六月二十日(火)晴 暑し、本当の夏が来た、風を引き少し熱があり頭痛がする、床に就て休んだ、終生一人の弟子をも有たない事に就いて考へた、ヱレミヤにバルク一人ありしのみ、エリヤは唯一人のエリシヤを遺した、況して余に於てをや、忠実にイエスの福音を唱へればそれで余の責務は済むのである、教会も団体も弟子もあつ(59)たものではない、それは教会信者の求むる所である、自分はイエス様の前に立ちて「私は一人の弟子をも作りませんでした」と言ひて彼の御歓迎を蒙らうと欲ふ。

 

 六月二十一日(水)晴 咽喉痛未だ全く癒へず、机に就て少しばかりの編輯を為した、不相変|能力《ちから》の不足を感ずる、強くあり得さうで強くない、歯痒きこと限りなしである。

 

 六月二十二日(木)曇 編輯と校正と外国への手紙書きとシユクロウスキーの西此利亜旅行記の耽読に全日を費した、露西亜人が西此利亜土人の間に如何なる罪悪を行つた乎に就て読んで露国が今日の状態に陥りし共通徳的原因を窺ふ事が出来る、而して露人と言はず英人と言はず仏人と言はず自耳義人と言はず、己が利益の為には未開人種の幸福は勿論の事、其身体も霊魂も少しも之を顧みざりし点に於て彼等が取り来りし途は同一轍である、彼等は剣と酒と黴毒とを以て彼等が称して以て非基督教国民となす者を滅し来つたのである、実に憎むべき者は彼等である、縦し少数の善人は彼等の内に在つたとするも国民として彼等が為せし善は彼等が犯せし重大の罪悪を償ふに足りない、永久の呪詛は彼等の上に宿る、若し悔改めざれば彼等すべてが露国と運命を共にするは当然である。

 

 六月二十三日(金)曇 大なるインテレストを以てシユクロウスキーの『西此利亜旅行記』寧ろ流竄録……を読み了つた、(in Far North-East Siberia:by I.W.Shklovsky)、三十五年前にリビングストンの阿弗利加旅行記を読みしに亜ぐの興味であつた、日本より程遠からぬ所に、斯んな広い野蛮国があらうとは夢にも思はなかつた、ヤークツク州だけが広袤百五十万方哩であつて、日本国の十倍である、其内レナ河の流域が九十万方(60)哩であつて日本の六倍である、其東北部にしてオクホツク海に接近するコリマ河の流域が二十二万方哩であつて仏固より大なる地方である、而して全州の人口は三十万足らずであつて、平均五万哩に一人の割である、オクホツク海の北に尽くる辺にギヂガ湾がある、其湾頭にギヂギンスク港があつて、其れより西へ六十哩往けばコリマ流域に入るのである、地理学的に言へば日本の隣邦である、そして其処にヤクーツ、ラムーツ、チユクチ等の土蕃が住んで居て、我がアイヌ族にも劣る生活を営んで居るのである、彼等も亦我が同胞ではない乎、文字なく、随て聖書なく、基督教の神は之を|露西亜人の神〔付△圏点〕と称し、黴毒疱瘡を|露西亜人の疾病〔付△圏点〕と称すると同様に唯之を恐るゝのみなりと云ふ、茲にも亦我が同情を表すべき民あるに非ずや、詩人ローエルの句に「一人の奴隷が憔悴《やつ》れ暮らす所、人が人を援け得る所、其処に我が恋ひ慕ふ故国あり」と云ふのがある通り、残酷なる露西亜人に使役せられて其身体と霊魂とを失ひつゝある是等可憐の西比利亜土人も亦我が愛と祈祷とを要求する者に非ずや、加察加半島、沿海州、ヤークック州等の経済的開発の業は之を他人の手に任す、我は其住民の霊魂の為に我が献げ得るの能力を献げなければならない、或は札幌のジヨン・バチラー先生を援け促して、彼のアイヌ伝道をして更らに西比利亜東北部にまで拡張せしむるも妙ならん、何れにしろ露国少壮の文士シユクロウスキー君の此著を読んで我がキリスト的同情の拡大せられしを覚え言ひ難き感謝である。

 

 六月二十四日(土)晴 昨夜七時半東京駅を発し、東海道汽車の中に一夜を過し、朝七時半京都七条に着いた、久振りの西下である、例の通り新町通り竹屋町下る便利堂に客となつた、主婦里方|後事《あとかた》の処分に関し終日俗事に奔走した、司法代書人の事務所を訪ひ、其質問要求を受けて辟易した、道徳上の大真理は知つて居る積りの自分も法律家の前に出づれば小児であつて唯々諾々彼の命に従はざるを得ない、何事も分業であるとは言へ、宗教と法律とはこんなに違うものであるかと今更らながらに驚いた、斯くて折角の入洛も其山水の美を楽しむの暇なく、(61)唯権利だとか義務だとか、印鑑証明だとか、戸籍謄本だとか云ふ問題の為に全日を費した、Oh botherations!(煩雑《うるさ》き事よ)。

 

 六月二十五日(日)雨 朝在京都同志の集会あり 之に出席して羅馬書十五章十三節に就て話した、来会者六十有余名 〇午後近江八幡に行きボリス氏を訪問し、近江ミツシヨンの事業を参観した、其規模の大にして整頓せるに驚いた、夜教会に於て十五分間程の談話を為した、牧師は高橋卯三郎君、『聖書之研究』の旧き寄稿者である、其他に知人多く、此不信の地に基督教的殖民事業の起りしを見て喜んだ、此夜ボリス氏夫婦の客となり、静かなる一夜を過した。

 

 六月二十六日(月)雨 昨夜江州八幡ボリス氏方に一泊す、今朝ウオタハウス老人と汽車を同うして京都に帰る、車中不相変快談を継続す、老人曰く「若し絶対的に過失《あやまち》を避けんと欲せば何事をも為さゞるに如かず、事を為す人は必ず過失を為す、我等は過失を恐れて無為の生涯を送るべからず」と、真に慰安に富める深い実験の言である 〇主婦生家の不動産売渡しの件につき尠からず苦心した、此世の子輩《こら》の最大事件は売買である、最大の宝は金である、物と金との交換である、其事が煩雑極まりないのである、余は聖書の言を思ひ出した、「何故に糧《かて》にもあらぬ者の為に金を出し、飽くことを得ざる者の為に労するや、我に聴従《きゝしたが》へ、然らば汝等|美物《よきもの》を食ふを得、脂をもてその霊魂《たましひ》を楽まするを得ん」と(イザヤ書五十五章二節)、談判又談判、証文又証文、法律家と司法代書人の援助を藉りずしては安心ならずと云ふ、何んと厭な世の中ではない乎、主イエスは言ひ給ふた「汝等たゞ是々《しかり/\》否々《いな/\》と言へ、此より過るは悪より出る也」と、是々否々だけで万事を決する事の出来ないのは、世が罪に沈み居(62)る何よりも確《たしか》なる証拠である。

 

 六月二十七日(火)半晴 俗事一先づ片附き稍晴れたる心を以て午前九時十五分京都発の汽車にて帰途に就いた車中『古文真宝』を読んで無聯を慰めた、「雨中百艸秋爛死す、※〔土+皆〕下の決明顔色|鮮《あざやか》なり」……「剛強なるは必ず死し仁義なるは王たり、陰陵道を失ふ天の亡せるに非ず」……昔の支那人の言なりと雖ども今の司法代書人の書いたる土地家屋売渡証よりも遥に美はしい言である、金持には成りたくない、詩人には成りたい、縦し一寸の土地を有せずとも、浜名湖を眺め、富士山を仰ぎて詩心が起れば我は日本全国の所有者以上の富者である、斯く思ひつゝ特別急行列車に振られながら夜七時二十分東京駅に着いた、懐しき大手町の衛生会講堂は電燈の光を浴て輝き、我は再び我が領土に帰り来りし心地がした。

 

 六月二十八日(水)雨 旅行疲れにて終日休んだ、新聞紙を読まざること五日、其間に幾多の大事件の起つた事を知つた、我国に於ては東伏見宮殿下薨去せられ、英国に於ては元帥ウイルソン暗殺せられ、独逸に於ては外務大臣ラテナウ、彼も亦暗殺せられた、死は相も変らず夜となく昼となく全人類を支配しつゝある、惟一人死して甦り今や永久に生き給ふ神の独子のみ生命を以て死に勝ち給ひつゝある、彼を信じ彼に頼りて復活の奇蹟は我身に於て行はる、是れ我に生命の快楽を供せんが為ではない、賤しき我に在りて神の栄の顕はれんが為である。

 

 六月二十九日(木)雨 俗事略ぼ片附き又復研究に入つた、共観福音書問題に多大の興味を覚えた、今更ながらに馬可伝の価値を知つた、「是れ神の子イエスキリストの福音の姶なり」とは実に偉大なる言である、簡潔にして有力なる此福音書は無くてならぬ者である。

 

(63) 六月三十日(金)半晴 近頃に至り益々強く基督教の富者の宗教にあらざる事を感ずる、「富者の神の国に入るよりは駱駝の針の孔を穿《とは》るは却て易し」、「汝等富者は禍ひなる哉既に安楽を受くれば也」、「富者よ汝等既に来らんとする禍害《わざはひ》を思ひて哭叫ぶべし……汝等此末の日に在りて尚ほ財を蓄ふる事をせり」、其他富者を詰《なじ》る聖書の言は無数である、|斯くて富者たるは悪事でないとしても確かに不幸である〔付△圏点〕、富者たるの不幸に比べて貧者たるは遥かに幸福である、米国流の基督教が根本的に間違《まちがつ》て居る理由は一目瞭然である、富者が教会に於て其富を恥ぢ、教会が富者の不幸を認めて之を憐むに至らざれば本当の教会でない、余は斯く言ひて敢て多数の貧者に媚るのではない、然れども富が重視せらる今の時に方て聖書に由りて富の真価を知るは最も大切である、「汝等富者は禍ひなる哉」と(路加伝六章廿四節)、此言を発し給ひしイエスの弟子たる者は、時々富者に対して鉄《てつ》と銅《あかゞね》の面を向くるの信仰がなくてはならない。

 

 七月一日(土)曇 宗教が堂字として現はるゝ時に其生命は失するのである、仏教が大伽藍として現はれし時に信仰的に死んだのである、基督教亦然りである、而して我国に於て基督教諸数会が競ふて大会堂の建築を計画し、又其落成を見るに至て、外国宣教師に由て輸入されし我国の基督教が一先づ其末期に近づいたのである、然れども一が死して他が興るは天然の法則である、宣教師的基督教が大会堂として現はれて死に就きし時、永久に教会化されざる基督教が起るべきである、今は無教会的基督教勃興の時代である。

 

 七月二日(日)曇 南風強くして蒸暑し。今井館に於て礼拝会を開いた、来会者八十余名、久振りにて小集会の喜楽を覚えた、畔上と共に講壇に登り、余は歴代史略上の二十一章一-十七節、ダビデが民を数へてヱホバに(64)罰せられし段に就て語つた、God has no interest in statistics(神は統計表に興味を有ち給はず)、事業の成績を統計に挙げて喜ぶ近代人、殊に米国人の迷謬に就て語つた、柏木の聖会はまた特別であつた。

 

 七月三日(月)曇 校正日である。蒙古地理と蒙古人の歴史を読んで大なる興味を覚えた、一時は蒙古人が亜細亜の全部と欧羅巴の半分を支配した時があつた、然かも文明を布くにあらずして之を破壊し、到る所に荒廃を齎らした、近代の欧洲人の東洋侵略は悪むべしと雖も、第十三世紀に於ける亜細亜人の西洋侵略は更に更に惨酷を極めたる者である、若し前者は後者の復讐に過ぎないならば東洋は西洋に対し答ふるの言辞《ことば》を有たないのである、成吉思汗《じんぎすかん》、忽必烈《こつぴつれつ》等の事績を読んで東洋は西洋に恥ぢざるを得ない、願ふ東洋の日本が天の恩恵を四方に施して幾分にても蒙古人種の罪を償はんことを。

 

 七月四日(火)大雨 引続き校正日である。ジヨン・ベーリー著ジヨンソン小伝(Dr.Johnson and His Circle,by John Bailey)を読みて又復ジヨンソン熱を起した、愛すべき人とて此老文豪の如きはない、彼は正直で、勇敢で、独立で、常識に富んで、而して敬虔で、余の知る英国人、即ち我国在留の英国商人並に英国々教会派遣の宣教師等とは正反対の人物である、英国人は近代の猶太人である、其多数は禽獣と偽善者、而かも其内に時々ジヨンソンあり、カーライルあり、リビングストンありである、而して彼等の内に善人と義人とが尠い丈けそれ丈け之等の人が貴くある、英国に於ける純宗教は其偽善教会に於て非ず、ジヨンソンを以て代表されたる其健全なる文学に於てある、愛すべき哉ドクトル・サム・ジヨンソン!

 

 七月五日(水)曇 引続きジヨンソン伝を楽読した、自分も若し英国に生れたならば純文学者となりて、牧師(65)やエバンジエリストの真似を為さずに済んだであらうと思ふ、然し自分の場合に於ては止むを得ない、自分が聖書を説くは今日の場合に於ては愛国的義務である、英国に聖書が在つたからこそジヨンソンやカーライルの如き人物が出たのである、而して余は今日の日本に於て聖書を説いて数百年後の日本に同じ様なる清潔勇敢なる文士を産出せんと欲する、牧師や宣教師の為す事を為すは大なる恥辱である、然し乍らキリストの為に之を忍ばなければならない、但しジヨンソンに傚ひ教会の供する米は一粒も食はず、宣教師の給するパンは一片も摂《とら》ざるは必要である。

 

 七月六日(木)晴 終に平和博覧会を見た、但し全部は見なかつた、半分見た、第二会場丈け見た、北海道館、樺太館、台湾館、孰れも面白かつたが、最も面白かつたのは外国館であつた、殊に目に附いたのは諸外国出品の光学的器械であつた、望遠鏡と検徴鏡であつた、我国に於ける電気事業の発達に驚いた、帰途番町に十七年間病の床に就ける某老姉妹と彼女の娘を訪ふた、我が説く福音が少しなりとも彼等を慰めつゝあるを見て感謝した、又附近の女子英学塾を参観し、其の寄宿生にして大手町の会員たる者の歓迎を受けて嬉しかつた。

 

 七月七日(金)晴 暑気強くして働き得ず、半日を無益に過した、天には火星が同じ赤色のアンタレスに接近し蠍座のタウ号と等辺形の三角を作り見物《みもの》である、聖書は馬可伝二章を研究し是れ亦非常に面白かつた。

 

 七月八日(土)雨 昨日母屋の改築を始めた、其材料は明治三十二年角筈に建てしもの、同四十年之を柏木に移して今日に至つたのである、誠に粗末の家であるが多くの歴史の籠つて居る家であるが故に之を棄つるに忍びず再たび改築する次第である、経済上から言へば之を他に払ひて新たに造るに如かずと雖も、情から言へば之を(66)保存したくなる、我が一生の事業の成りし古家《ふるいへ》である、故に貴くある、余は余の一生涯に唯一軒の小屋を建てゝ之を二度改築して其内に一生を終りし事に成るのである、感謝である。

 

 七月九日(日)曇 時々驟雨あり、南風にて蒸す。今井館に於ける礼拝に満堂の来会者あり、前会以上の盛会であつた、畔上詩篇四十二、三篇に就て講じ、余は讃美歌六十八番「ベツレヘムの星」に就て少しく語つた、不相変恩恵溢るゝの聖日であつた。

 

 七月十日(月)雨 税務署より呼出されて出頭した、山林、田畑、貸金、株券等よりの収入はある乎と問はれたからそんな者はないと答へた、職業は何かと問はれたから基督教の伝道師であると答へた、それならば俸給がある筈だ外国人か教会から俸給を受けて居るだらうと問はれたから断然無いと答へた、若しさうならば課税する事は出来ないと言はれたから、それはさうであらうが自分には年収八百円以上あるは確かである、且又自分の如き他《ひと》に納税の義務を果たすべき事を教ふる者が、自身免税に与かるのは心苦しいから縦令小額なりとも納めさせて呉れと言ふたらば、税吏は喜んで承諾して呉れた、余は日本政府が我等救霊の業に従事する者に対して甚だ寛大なるを感謝した、「貢を受くべき者には之に貢ぎし、税を受くべき者には之に税」すべしである(羅馬書十三章七節)、税は国家の保護を受くる其謝礼であると思へば之を払ふは辛くない。

 

 七月十一日(火)曇 此二三日来旧約に於ける新約に就て考へた、新約は明白にアダム、アベル、ノア、アブラハム等の事蹟に於て在る、|其中心的真理は神の子の贖罪の死である〔付○圏点〕、之を信ずる事に由て神が人に下し給ふ最大の恩恵即ち永生がある、「神の遣しゝ者を信ずること是れ即ち其|業《わざ》なり」である(約翰伝六章二九節)、伝道事業(67)も社会事業もあつたものでない、茲に神の業《わざ》があり又人の業がある、人が之を受けやうが受けまいが、其の世に現はれたる結果は如何でも可い、茲に完全なる救拯《すくひ》は既に成就せられたのである、何も急ぎ又は焦心るに及ばない、何にも汚れたる我が心を省みて失望するに及ばない、唯彼を仰ぎ奉れば足りるのである、嗚呼歓喜の極!

〇七月号雑誌成り、感謝と祈祷を以て発送した。

 

 七月十二日(水)晴 書斎の大整理を行つた、借りた本はすべて返した、貰つた本はすぺて之を同志に買つて貰つて其代金を伝道金の内に繰入れた、斯くして数百冊の古本を処分して書斎が広々した、思想の独立は貰つた本は読まざるより始まる、殊に宗教本に於て然りである、今や教勢拡張の為に宗教本の施与が盛に行はるゝ此時に際し、貰つた本は決して読まざるべしとの規則は之を厳格に守つて益する所が多い、自分の信仰を他に強ふるは大なる罪悪である、我等は米国人に傚つて求めざるに書籍を他《ひと》に送つて此罪悪を犯してはならない、余も今日まで長らくの間此慈善に与り、心の平安と信仰の発達とを如何程妨げられしか量り知る事が出来ない、|自分が金を払つて買つた本の外は決して読まざるべし〔付△圏点〕との規則はアブラハム・リンコルンの守りし規則であつて、何人も守るべき者であると思ふ。

 

 七月十三日(木)曇 東北の風吹きて涼し。英国有名の地理学者クレメント・S・マーカム著 Lands of Silence(極地探検史)を読み始め非常に面白かつた、自分には大旅行も大登山も出来ないから大探検家の伝記を読みて、坐して極地の寒気に触れやうとして此大著述を求めた次第である、夏季の読物として之に勝さる者はあるまい。

 

 七月十四日(金)曇 朝柏木の家を出て、書生と共に昨年同様信州浅間山の麓の星の湯に来た、休まん為と働(68)かん為とである、山も川も鳥も草も変ることなくして我等を迎へて呉れた、此夜の静けさと云ふたら譬ふるに物がなかつた、昨年九月此処を去つて以来の本当の休みである、汽車中に馬可伝を読みつゝありしに其六章三十一節が此際自分に宛られし言葉であるかの如くに感じた、曰く「イエス言ひ給ふ、汝等人を避け、寂しき処にいざ来りて暫し息へ」と。

 

 七月十五日(土)晴 唐松の林を払ふて吹来る風涼しく、之にバルサムの香加はりて、我が一年の疲労を一夜の中に癒したるが如くに感ずる、芳切)や鶺鴒と宿《やどり》を共にして歌は自づから我が唇に上る、年齢は歳の数ではない、心の状態である、永遠的希望を懐き、宇宙的歓喜に盈ちて人は百歳になりても青年である、然り小児である、近頃ネルソン・アンドリウと云ふ人が『春青の発見』と題する書を著はして、其内に「春青は神の国と同じく汝等の衷に在り」と言ふた事であるが、洵に其通りである、神の子の罪の贖ひを信じ、彼の霊の宿る所となりて、永久の春は我が有である、余自身は今年六十二歳であるが、余の人生のプロスペクト(前途の望)は二十代のそれと少しも異ならない、キリストを信ずる最大利益の一は何時になつても若々しく在り得る事である。

 

 七月十六日(日)晴 最も静かなる安息日であつた、講演を為ない日曜日とては自分に取り滅多にない事である 紐育発行『聖書評論《ビブリカルレビユー》』に蘇格蘭S・D・ケーンス博士の「モーセの生涯を以て例証されたる神の摂理」と題する説教を読んだ、流石はジヨン・ノツクスの国丈あつて本当の基督教の未だ猶ほ絶えざる事を知つて嬉しかつた、最も健全なる思想は蘇格蘭より来る、カーライルもリビングストンもヒユームも皆な蘇格蘭人であつた、日本の浅間山麓に於てケーンス先生の説教を聞き、之に共鳴し得るの特権は又大なりと言ふべきである。

 

(69) 七月十七日(月)晴 完全なる休息日であつた、軽井沢から蕗子さんと文子さんの姉妹が尋ね来て半日遊んで帰つた、善く遊んだ日は善く働いた日丈け有益である。

 

 七月十八日(火)半晴 涼しい善き日である、共観福音書問題に没頭して居る、若し高等批評が唱ふる基督教が本当の者であるならば、基督教は何んと用の尠ない宗教ではない乎、斯んな者を信ずる為に貧困と迫害とを冒す必要は少しもない、余は宣教師や教会とは何の干《かゝ》はる所はないが、余の信ずる基督教はやはり旧い十字架の福音である、然し近代人の聖書研究も亦之を学んで大に益する所なき能はずである。

 

 七月十九日(水)半晴 朝五時に起き半日かゝつて推誌の編輯半ば以上を終へ、之を東京の印刷所に送つて大なる緩和《ゆるみ》を覚えた、何処《どこ》に居つても此事丈けは為さなくてはならない、而して又為す事が大なる快楽である。

 

 七月二十日(木)晴 昨夜空晴れ、高原の星覗きは特別であつた、木星が浅間山に没せし頃、火星は赤き提燈の如くにアンタレスと並んで煌いた、而して透通《すきとう》りたる青黒き空を天の河が、北はカシオピヤより南は射手座まで白雲の棚引くが如くに流れし光景は荘厳と云ふより外に言葉がなかつた、之を見る丈けに此地に来る価値が充分にある。

 

 七月二十一日(金)晴 興味無《つまらな》い者とて聖書の批評的研究の如きはない、近頃読みし高等批評の憶説一二を挙げんに曰く「イエスが遽《にはか》にガリラヤ伝道を廃めてヘルモン山麓に退きしは、弟子等のユダヤ巡教中に神の国の奇跡的出現を期待せしも其事なかりしに失望せし故なり」と、又曰く「ルカが使徒行伝を著はせしはネロー帝の法(70)廷に引出されしパウロを弁護せんが為なり」と 斯かる憶説を幾許《いくら》聞かされても我が霊魂は少しも奮起しない、聖書は生命の書であるが故に、之を批評的に解剖して其意味は消えて了ふのである、斯んなものを読むよりも天然科学を学ぶ方が遥に増しである、『家庭大学叢書《ホームユニバーシチーライブラリー》』中R・R・マレツト氏のペンに成る『人類学』の一冊は多くの暗示を供する書である、「人類学は進化の思想を以て刺激され又充実されたる人類歴史の全体である、進化の道程に在る人類-是が人類学全部に渉りたる研究の題目である云々」と、信仰は信仰、学問は学問、学問化したる信仰(高等批評は是である)は信仰化したる学問丈け其れ丈け無用有害である、紙の価値ほども無いと称すべき者は近代人の聖書研究である。

 

 七月二十二日(土)晴 馬太伝廿四章並に馬可伝十三章に関する批評家の註解を読んだ、何の事やら少しも解らない、彼等は我国の近代人の如くに、キリストに教へられんと欲せずして、自分の説を彼に強ひんとして居る、曰く「先生、貴下はさう信じやう筈はありません、かう信ずべきであります」と、実に我儘勝手なる者にして今の近代人の如きはない、而して所謂高等批評は近代人の精神を以てする聖書研究である、斯んな価値《つまら》ない者はない、而して彼等は彼等の頼む高等知識を以てして聖書を解することは出来ないが、聖書は彼等を解して誤らない「イエス答へて曰ひけるは汝等人に欺かれざるやう慎めよ、そは多くの人我が名を冒し来り我はキリストなりと言ひて多くの人を欺くべし處……此時多くの者|礙《つまづ》き且つ互に附《わた》し互に憾《うら》むべし、また偽預言者起りて多くの人を欺くべし、|また不法盈るに因りて多くの人の愛情冷かになるべし〔付△圏点〕、然れども終まで忍ぶ者は救はるゝ事を得ん」と(馬太伝廿四章四-十三節)、我儘勝手の人出で不法世に盈るに至らんと、是れ近代人跋扈の今日の状態である、然し恐るゝに足りない、斯くあるべしとは主の預言し給ひし所である。

 

(71) 七月二十三日(日)晴 山荘に於て小集会を開いた、来会者軽井沢、小諸、御代田より十二人あつた、其内に良友米国人ワータハウス老人もあつた、自分は約翰伝五章三十九節を講じた、会後昼飯を共にし、賑かなる兄弟的会合であつた。

 

 七月二十四日(月)晴 昨日の集会にて少しく疲れた、絵ハガキ十数枚を書く事と他に鮒を釣る事の外に何事をも為し得なかつた、人類学に「人種」の一章を読んだ。「人類学的に観察した人種なる者は目下の処劃然たる或物として存せず」との事である、即ち人類学的に観察して「神はすべての民を一の血より造り悉く地の全面に住ましめ給へり」とのパウロの言を否定する事が出来ないのである(行伝十七章二十六節)、其蘊奥に達して科学も宗教も同じ事を語るのである。

 

 七月二十五日(火)半晴 栃木県鈴木保一郎の通信に曰く「労働の閑を得て今朝『研究誌』を読みました、七月号、誠に理義明徹、渾熟したるもの、緊張、充実、斯の如き読み物は日本に於て何処に得られませうか、小生は神様が先生の上に猶多くの寿を置き給ふて此喜ばしき、備はれる、義しき道を宣ぶる時の長からん事の切なる祈りを捧げました云々」、労働の子にして本誌初号以来の読者たる此友の言は大なる慰藉を与ふる者である、聖書は鍬を手にしながら読んで其意味が最も善く解る、鈴木君の如きは此最も多く恵まれたる地位に置かれたる者であると思ふ。予防医学研究の為め欧米遊学中の星野医学士紐育発の通信の一節に曰く「……此頃は日本の貴い所、美しい所、使命とする所がよく解るやうになりました、桑港で会つたストーヂ博士が「米国人は決して霊的でも宗教的でもありませんよ、日本人の方が優つてゐます」と申されたのは日本贔屓の同氏の言だからとは言へません」と。


(72) 七月二十六日(水)霧 「日々の生涯」も余りに長く続きたれば茲に之を「一日一生」と改題する、然し記す所は変らない、一平信徒の平凡なる生涯の記録である、神に依る生涯であれば星や草木のそれと同じく平凡ならざらんと欲するも得ない、世に大ならんと欲するの野心は疾《とく》に之を十字架に釘けたのであれば信者の生涯に花々しき事の在りやう筈がない、|日に日に神に導かれ行く、嗚呼其の楽さよ、善は勿論善くある、悪も亦善くある、凡ての事が悉く共に働きて善を為すといふのである、斯くて毎日が意味深き一生である、無意義の日とては一日もない、仕事は手に余る程ある、然れども急がない、知識欲は青年時代と少しも異ならない、毎日何にか大真理を発見する、全世界が我が活動の舞台である、人類に関する事にして一として我に感興を起さゞる者はない、而して我が常時の歓びは我が主イエスキリストである、「我が歓び我が望み、我が生命《いのち》の主《きみ》、昼たゝへ夜うたひて、なほ足らぬを思ふ」とは文字通りに事実である(讃美歌二百四十六番)、まことに一日一生である、朝に道を聞いて夕に死すとも可なりと云ふが、主イエスを信ずるの一日は信ぜざるの百年にも勝りて福《さいは》ひである、而して此の生涯を何年続けやうと此幸福は絶えないのである、信者の生涯其物が讃美歌である、我がペンが我が手より落る時まで此讃美歌は継続するのである。

 

 七月二十七日(木)霧 馬可伝十五章を研究した、ハガキ八枚書いた、雑誌原稿二頁分を作つた、書生と共に徳川家康と大久保彦左衛門、大関秀吉と曾呂利新左衛門に就て語つた、又宿の支配人と山地利用法に就て話した、其他小川の畔《ほとり》に野花を摘とり、鶺鴒の行動を観察した、まことに楽しき有益なる一日であつた。

 

(73) 七月二十八日(金)曇 久振りにて馬可伝を研究して大なる能力の我霊に加はるを覚えた、余は書生に告げて言ふた、「驚くべきは聖書である、余は明治十一年、今より四十五年前、余が十八歳の時に初めて此馬可伝を読んだ、而して六十二歳の今日、之を読んで更らに一層其|深味《ふかみ》を感ずるのは是れ何が故であらう、余の一生に於て余が耽読した書は幾個《いくつ》もあつた、然し三度以上読んだ書とてはダーウインの『種の原始』とギゾーの文明史との外には無い、然るに聖書は全然例外である、聖書殊に新約聖書は何十回読んだか知らない、而して読めば読む程興味が加はり、新らしき真理を発見する、殊に四福音書に至ては其深さは到底測ることが出来ない、人が其一生に於て学ぶべき伝記は唯一つある、イエスキリストの伝是である、僅に三十三歳を以て其一生を終りし此ナザレ人の伝、是は学んで学び尽すことの出来ない伝記である、彼は単《たゞ》の人であらう乎、神の子と称《い》ふより他に称ふ事の出来ない人である、嗚呼深い哉、深い哉、人生何が幸ひであるとて青年時代に聖書に親しむを得し幸福に優さる者はない云々」と、書生大に感ずる所ありしが如し、依て新刊英文馬可伝註解書一冊を買求めて、之を彼に与へて其研究心を励ました。

 

 七月二十九日(土)晴 引続き人類学を読みて多大の興味を感じた、明日の説教の準備を為した、腓立比書四章十一節が終日我心に響きて聞えた。

 

 七月三十日(日)晴 忙しい日であつた、朝は男女十六七名の来会者あり、余は創世記九章十二-十七節、黙示録四章二、三節に由り「虹の意味」に就て語つた、午後は軽井沢よりワーターハウス、ウツドワースの二老人の訪問あり、二時間に渉り快談した、ワ氏は七十二歳、ウ氏は六十六歳、余は六十二歳であつて齢から云へば三老人の会合であつた、然し乍ら談話の題目並に調子より云へば三青年の団合であつた、我等は二時間に渉り笑ひ(74)続けた、其内ウ氏が最も笑談の材料に富んでゐる事が判つた、我等は小児の如き祈祷を共に為して別れた、二老人が自転車に乗り元気好く帰途に就きしを送つて後に間もなく、チヤプマンとラマツトなる今度は本当の二青年宣教師の訪問を受けた、我等は一時間の談話を交へて後に別れた、青年は青年として好し、老人は老人として良し、|然し乍ら老人にして青年なるは最も宜し〔付△圏点〕、イエスの為に大事業を為さんと欲する野心《アムビシヨン》に至つては我等の間に青年と老人との区別は更らに無い 〇此日書生東京に帰り、家族の者は未だ来らず、自分一人残されて甚だ淋しく感じた、久々振りにて自分で自分の食物を調理し、台所に立ちて食器を洗ひ、雨戸を閉め、布団を敷き、独りで眠に就いた、三十六年前のアマスト時代の経験を想出す、独身者の簡易生活の快楽は又特別である。

 

 七月三十一日(月)晴 ロビンソン・クルツソー的の一人生活である、簡単なる朝飯を作るに二時間を費した、最も其内三十分は蠅征伐に費した、之では到底他の仕事の出来ない事を覚つた、家の女中に対し厚き同情を表する、彼女は毎日台所に働いて我が事業を助けて呉れるのである、彼女なくして伝道も著述も出来ないのである。

 

 八月一日(火)晴 引続き単独の一日を送つた、静なる生産的の一日であつた、R・R・マレツト著『人類学』を読了つた、近頃読みし書の中で最も有益に感ぜし者の一である、著者は勿論進化論者である、然し乍ら人類を単に環境の産物として取扱はない、凡そ二十五万年程前に人類が初めて地上に現はれし時に彼に既に来世を望みし其遺蹟があると云ふ、何れにしろ感情に流れ易き宗教論に非ずして、冷静なる科学者の立場より人類の原始とデスチニーとを論ずる所に、余に取りては多大の慰安と興味とがある、余の心の平安を紊す者にして全然主観的立場に立ちて万事万物を批判する宗教家の提言の如きは無い。

 

(75) 八月二日(水)曇 引続き単独である、書く事と読む事の外は何もない、然し書く事と読む事とはいくらでもある、斯んな事を思ふた、日本人は駄目である、西洋人は駄目である、人は皆んな駄目である、人は人を満足させる事は出来ない、然し神は完全である、神と偕に在つて我は満足である、而して神に満足させられて日本人も西洋人も、人と云ふ人は何んな人でも皆んな善くなる、人の善悪の問題でない、神の有無のそれである、神さへ我と共に在《まし》ませば我に不足は何もない、|神第一である〔付○圏点〕、余《あと》は何うでも可い、然し注意しないと悪人俗人の騙《だま》す所となる、此世と教会とは我が聖書の歓喜までを利用せんとする、故に交際は成るべく避けて単独は成るべく求むべきである。

 

 八月三日(木)曇 沢山読み、沢山書き、沢山働いた、話し相手は一人もなく、静粛の極みである、鶯と杜鵑と鶺鴒と宿《やどり》を共にして我心は平安ならざるを得ない、人類は初めて地球面上何処に現はれたのであらう乎、アダムは確に最初の人ではない、|人類の救済史に現はれたる最初の人物である〔付○圏点〕、宗教と道徳と何れが大切である乎、斯う云ふ問題が我が頭脳《あたま》を往復する、何れにしろ人を離れて独りで居る事の如何に幸福なる乎を感ずる、変貌の山に於けるペテロの如くに「我等此所に居るは善し」と言ひたくなる、復び罪の街《ちまた》なる都、殊に其宗教界に帰らねばならぬ乎と思ふと悲しくなる、何故水鶏や黄鳥《オリオール》や翡翠《かはせみ》と何時までも共に居る事が出来ないのである乎、誰が宗教界の蝮や蠍に近づくことを命じたのである乎、自分ながらに解らない、何れにしろ聖書と科学書一冊の外は何も持たずして河辺に独り棲むの聖快と云ふたらば譬ふるに物なしである。

 

 八月四日(金)晴 柏木より主婦と姪とが来た、是で単独の生涯が終つた、五日振りにて女の調へた食饌に就いた、悪くはなかつた。


(76) 八月五日(土)晴 軽井沢に行いた、先づチヤプマン君を訪ふて演説原稿のタイプライチングを依頼した、次に同氏に伴はれ、ワータハウス老人も同道して福井滞在のラモツト君を訪ひ一時間談じた、町に出て多くの知人に遭ふた、青山学院の老チヤプマン君、書類会社のブレイスウエート夫人、札幌のローランド君等と何れも堅き握手を交換した、英米宣教師中に知人の多い事に自分ながらに驚いた、正午少し過ぎ沓掛の山荘に帰つた、残り半日は雑誌の校正に費した、山に在ても閑暇とては殆んどない。

 

 八月六日(日)晴 暑い日であつた、朝の集会を公開した所来会者男女老若十七人あり、気持の好い集会であつた、自分は「貧者の幸福」に就て語つた、此日期せずして内外の友人より種々《くさ/”\》の愛の贈与あり、感謝は一時に我心に溢れた、基督者の生涯に聖く楽しく守りたる安息日ほど貴い者はない、今日も亦たしかに其の一日であつた。

 

 八月七日(月)晴 電報の誤りにて三谷民子女史今朝三時四十五分沓掛駅着と聞き、三時床を出て彼女を迎へんとて夜途《よみち》を独り駅へと急いだ、夏のオライオン星は七個揃ふて水平線より出たばかり、月は浅間山頂に懸りて得も言はれぬ壮観であつた、彼女は其汽車では来なかつた、然し彼女の故を以て夏の払暁《あけがた》の参宿と昴宿と其附近の星座を見た、其れ丈けが充分の報酬であつた、彼女は次ぎの汽車で来た、而して我等と朝飯を共にして又其次ぎの汽車で山田の温泉に行いた。

 

 八月八日(火)晴 大学の小野塚博士並に夫人に招かれて軽井沢なる同氏の別荘を訪ふた、昼食の饗応に与り雑談三時間に渉り、有益且愉快であつた、途中又多くの知人に会ふた、夏の軽井沢は余の如き者に取りても最良(77)の交際場である、此所に来て隠遁生活を押通す事は出来ない、汽車に乗ても、道を歩いても「アナタは内村先生です乎」と云ふ者、Mr.Uchimura,l suppose と云ひて声を懸けて呉れる者が絶えない、軽井沢に来て余も亦「社交的動物」の一頭と化するのである。

 

 八月九日(水)半晴 稍や涼し、明日の英語演説の準備にて忙し、斯んな約束を為すべく余儀なくせられた事を悔《くや》んだ、余は独りで置いて貰ひたい、演説に引出さるゝは迷惑至極である。

 

 八月十日(木)晴 遂々《とう/\》引出されて軽井沢|西洋人会堂《アウヂトリアム》の高壇に登つた、神学博士C・A・ローガンの主会の下に、神学博士H・E・ウツドワースの後を受けて英語演説を為したのである、実に辛らい事であつた、預言会議並に猶太人改信祈祷団の主催になる集会の事であれば、之に因《ちな》める題に就て演説するべく余儀なくせられた、余は『猶太人と日本人』なる題を選んだ、聴衆は主《おも》に西洋人で凡そ百三十人、余の講演は朗読演説で二十分足らず、終つて多くの人達に賞められた、自分には少しく英語の復習を為した外に何の益もなかつた、唯自分に対する宣教師の悪意を少しなりと除くを得たれば夫れ丈けが益であつた、「我に逆はざる者は我が味方なり」である、暑中の英語演説も全く無益でなかつたかと信ずる、他に二三の米国人に捉《つか》まり、布教上多くの事を聞かれて、午後五時半ガツカリ疲れて沓掛の山荘に帰つた。

 

 八月十一日(金)晴 午後雷雨あり。今日も亦朝から軽井沢に引出された、軽井沢ホテルに於てワーターハウス老人司会の下に催されし聖書教授法研究会に出席した。来会者は二人を除く外はすべて西洋人で凡そ五十人あつた、主なる喋言者《しやべりて》は余自身であつた、余は一時間余に渉り、余の聖書教授法に就て説明し、後は来会者の種々(78)雑多なる質問を受けた、英語で話すのは昨日同様辛らくあつたが、昨日よりも遥に満足なる会合であつた、聴衆も遥に善く、質問はすべて真面目であつた、会を終へて後にG・K・チヤプマン君に昼食に招かれた、米国プリンストン大学実地神学教授エルドマン博士と席を共にするを得て甚だ愉快であつた、日本に於ける基督教の状態に就て大に博士に訴ふる所があつた、然し信仰堕落は今や日米共通であれば博士も如何ともする能はざるやうに見受けた、余が学びしアマスト大学すら今や不信者の学校であると聞いて驚いた、許多《あまた》の米国宣教師は布教の為に日本に来て居るが米国其物に於ては本当の基督教は消えつゝある、畢竟《つま》る所博士に訴へた所が効力は甚だ尠いと信ずる、頼るべきは神と己と己と主義信仰を共にする少数の同志とである、午後三時辞して沓掛の山荘に帰つた、是で軽井沢と西洋人とを終つた、是れからが自分の仕事である、昨日軽井沢のテニスコートの傍に於て旧知の宣教師某君に遭うた所、同君は余に向つて曰ふた「|君は宣教師は嫌ひだが〔付△圏点〕東京に帰つたら余を訪ね給へ」と、嫌ひと知つたら斯んなに使つて呉れなければ更に有難い、余は教会と宣教師とを援けしめらるゝも、教会と宣教師とは余を援けて呉れない、然り彼等は余を援ける事が出来ない、教会を援けて益する所は唯僅に彼等に悪口せらるゝ事を少しく減ずる位ゐが頂上である、情《なさけ》ない基督教界である。

 

 八月十二日(土)晴 二日間の精神的労働で大分に疲れた、高山※〔金+申〕吾君東京より来り大なる慰安であつた。

 

 八月十三日(日)晴 聖会出席者二十五人あり、頗る盛会であつた、『苦しみに勝つの途』と題し、馬太伝十一章廿八節以下に就て講じた、旅館よりオルガンを借受け、軽井沢より来りし某姉妹に弾いて貰ひ、山と谷とに響かせ、声高らかに讃美を唱へて愉快であつた 〇午後五時高山君と共に沓掛駅を発し、高崎にて大雷雨に会し、十時半柏木に帰つた。

 

(79) 八月十四日(月)半晴 改築の棟上式を行つた、屋上高く十字架を揚げ之に記入して曰ふた「ヱホバ家を建て給ふにあらずば建る者の勤労は空し」と(詩第百廿七篇)、又曰く「中央に福音を唱ふる事三年、今や羅馬書を終へてキリスト伝に入らんとす」と、職人一同我家の「ヤソ」なるを承認し、酒一滴を飲まず、唯拍手して祝意を表して呉れた、我れ十字架を耻とせざれば人は却て我を尊敬して呉れる、信仰の証明は斯かる機会を利用しても亦為すべきである。

 

 八月十五日(火)雨 雑誌編輯が一日の仕事であつた、汗は紙上に滴《したゝ》れ、仲々の苦労であつた、都人と苦熱を共にするは我に取り善き事である 〇山桝船長、南米航路より帰り、ペンギン鳥の剥製、アルパカ毛の下敷《したじき》其他の珍品を持帰り呉れ、柏木の家が大に賑やつた、桑港金門より遠からざる所に於て彼の船と他の米船と衝突し、間一髪の差にて死と恥辱とを免かれし海上生活者の実験を聞き、自分自身に大なる摂理の聖手《みて》の加はりしが如くに感じ、彼と共に感謝を頒つた、同時に益々同志の世界的発展の必要を感じた、自今大に世界の平和的征服に努力すべく決心した。

 

 八月十六日(水)晴 不相変此世の細事に悩まさる、山に在ること一ケ月、聖書と天然に人界を忘れ、俗事を聞かず、醜事を耳にせざりしに、一たび人の都なる日本のバビロンに帰り来れば、悲憤、慷慨、哀痛の切々として我身に迫り来るを覚ゆ、変貌の山を降り来りし主と其弟子とが山下に病者が彼等の帰り来るを待ち受けし状《さま》が思ひやられる、「噫信なき曲れる世なる哉、我れ何時まで汝等を忍ばんや、彼を我に携来《つれきた》れ」と主は言ひ給ふた、余は「噫信なき曲れる世なる哉」とは言ふ事が出来るが、「病者を我に携来れ」と言ふ事は出来ない、山より降り(80)来りて余は暑熱と悲痛と無力とに悩むのみである。

 

 八月十七日(木)晴 暑気強し、無礼なる某教会所属女伝道師との応対、改築に従事する職人間の不和の仲裁、地主の地代値上げの要求に対する談判等に殆んど全日を費した、「噫信なき曲れる世なる哉」である。

 

 八月十八日(金)晴 引続き暑い日である、箱根講演を漸く書き上げた、暑中の講演は決して有難くない、然し断つても教会は免して呉れない、無理に断はれば不熱心不親切と言つて悪口される、キリストの福音を説くことであれば説教其物が愉楽《たのしみ》である、そしてそこが教会の附込む所である、喜んで彼等に馬鹿にされやう 〇呆れるのは日本の労働者である、高い日当を取りながら働くことは一日に六時間とはあるまい、朝遅く来り、午前の煙草休みあり、午後の「お八」あり、而して昼食後の長い休息がある、彼等が受くる給料より計算して彼等は世界最高の労働を売る者ではあるまいか、而して世は雇主の横暴を憤るも被雇人の懶惰を責めない、彼等は弱いからであると云ふ、此の情の日本国に在りては強者となるは最大の不幸である、日本人は情に与して義に反対する、如斯くにして日本国は社会の根柢より滅びつゝあるのではあるまい乎、語るも無益である、然し信ずるが儘を茲に書き記して置く。

 

 八月十九日(土)晴 箱根強羅へ行いた。平信徒修養会に日曜日の説教を為さんが為である、二年振りの登山である、日本国立公園に擬せられたる此地は今や俗化して日光同様俗人の遊園地となりつゝある、天然も風景もあつたものではない、詩も歌も出ない、慾の深い日本人等が美はしき天然を利用して金儲けを為しつゝあるに過ぎない、日本は益々厭な国になりつゝある。

 

(81) 八月二十日(日)晴 箱根強羅星別荘に於て馬可伝十章四十五節に就て講じた、来会者九十名余り、箱根丈けありて所謂上流社会の人々の来聴もあつた、暑くつて体が汗でビツシヨリに成つた、暑中斯んなに一生懸命に成りて秋からの仕事が心懸りであつた、午後は来会者の質問会があつた、五時山を下り相模湾の風に吹かれながら九時柏木に帰つた、福音を説いて約束を充たしたと云ふ事丈けが此苦しい役目より来りし唯一の満足であつた。

 

 八月二十一日(月)晴 朝十時家を出で、六時沓掛の山荘に着いた、途中車内の温度九十九度に達し、堪へ難き暑さであつた、高原の涼風に八日間の苦熱を忘れた、畔上、木曾伝道の帰途、此地に余を待受けた、共に伝道の将来に就て相談した、神戸一の谷の神田《かうだ》繁太郎君其家族と共に来り会し、是れ又大なる喜びであつた、箱根より柏木を経て浅間山下の沓掛まで、到る処に同志の我を迎ふるあり、感謝すべき事である。

 

 八月二十二日(火)晴 高原の涼風に浸され楽園に在るの感あり、十日振りにて読書欲が出た、A・E・ガーヴイー氏著の路加伝論を読み大に教へらるゝ所があつた、愛すべきルカ先生よ、科学者で詩人で歴史家で、其上にパウロ主義の基督者である、斯んな人が又と復たび世に出づるであらう乎、斯んな人に由て書かれたるキリスト伝ありとは実に感謝すべき事である、ルカ先生と共に在る一日は今日の教会又は信者と共に在る百日よりも益多くある。

 

 八月二十三日(水)曇 午後雷雨あり。又復軽井沢に行いた、旧札幌農学校創設者故ウイリヤム・S・クラーク氏の孫に当る同名の若き米国紳士に会はん為であつた、故人に対する尊敬を表するの途であると信じたからで