内村鑑三全集34日記三、岩波書店、580頁、4700円、1983.9.22
 
     日記三
 
目次
凡例
 
一九二六年(大正一五・昭和元年)……………………………………………三
一九二七年(昭和二年)…………………………………………………………一三七
一九二八年(昭和三年)…………………………………………………………二六九
一九二九年(昭和四年)…………………………………………………………四〇三
一九三〇年(昭和五年)…………………………………………………………五三七
 
日記三 【一九二六年(大正一五年)一月より 一九三〇年(昭和五年)三月まで】
 
(3)    一九二六年(大正一五年・昭和元年) 六六歳
 
 一月一日(金)晴 小さき新人の我家に臨みしが故に至つて賑かなる新年である。一同祈祷を以つて食饌に就いた。大いに為さんと欲するの聖欲を以て第六十六回の新年を迎へ得し事を感謝する。ゼカリヤ書第九章を以て今年の読書を始めた。
   シオンの女よ大に喜ぺ、
   ヱルサレムの女よ呼はれ、
   彼は義しくして救拯《すくひ》を施し、
   柔和にして驢馬に乗る。
   我れヱフライムより戎車《いくさぐるま》を絶ち、
   ヱルサレムより軍馬を絶たん。
   彼れ万国の民に平和を宣せん。
   其政治は海より海に及び、
   河より地の極《はて》に及ぶべし。
再臨のキリストを歌へる歌にして新年を迎ふる為の適当の言葉である 〇夜七時二十分、千葉県海保竹松君と共に岡山県津山に向ひ東京駅を発した。四年振りの関西旅行である。
 
(4) 一月二日(土)晴 朝九時半神戸に着いた。一ノ谷の神田君夫妻の出迎を受けた。少憩の後、下関行列車に乗替へ、一時岡山着、此所にも亦友人の出迎を受けた。中国鉄道に乗替へ、午後四時過ぎ十五年振りにて三たび津山の地を践んだ。土地の旧友森本慶三君の客となつた。
 
 一月三日(日)雪 地は高く、山陰道に隣し、風雪時々襲来し、寒気強し。午後二時、森本君の建設にかゝる津山基督教図書館の開館式が行はれた。参会者二百人余り、かの地には珍らしき盛会であつた。自分も一場の演説を試みた。此は基督教図書館なりと雖も、基督教なるが故に全般的である。基礎的知識の供給を目的とするが、若し指導宜しきを得ば、其発展の無限なることを述べた。地方には稀れに見る宏壮なる建築物である。森本君の之が為に資を投ずること十二万円余、我が同志の一人が茲に此の信仰の果を結ぶに至りしを目撃して感謝に堪えなかつた。態々遠路来り会するの充分の価値があつた。海保君は関東教友を代表して同行したのである。
 
 一月四日(月)晴 朝八時津山を発し、途中誕生寺駅に下車し、法然上人誕生の地を訪問し、我国福音的宗教の開祖なる僧源空に対し尊敬を表した。住職漆間徳定氏の優遇を受けて有難かつた。十二時岡山着、午後は公園並に旧城を遊覧し、夜は同志と信仰を語り、土屋修治君の客と成りて安き一夜を過した。
 
 一月五日(火)小雨 朝九時半岡山発、一時明石着、再び神田君に迎へられ、一ノ谷の君のホームに客と成つた。昔の戦場は今は静かなる休養所である。此所に一日の完全なる休息を与へられて感謝であつた。
 
(5) 一月六日(水)晴 朝八時一ノ谷を辞し、十一時京都に到り、旧友中村弥左衛門君の墓を見舞うた。又薬王寺山に登り、新島襄氏並に我家の主婦の兄なる岡田寛の墓碑に対し尊敬を表した。
 
 一月七日(木)晴 朝九時東京駅に着いた。家に帰れば赤ん坊は沢山の笑みを以て迎へて呉れた。数百通の年賀郵便が待つてゐた。内に茨城県稲敷郡高田村根本益次郎君の年賀が最も有難かつた。曰く「当村最貧窮者七名に先生の名を以てメリヤスのシヤツ一枚宛施捨致し候間不悪御了承被下度候」と。疲労一時に発し、床に就いて休んだ。
 
 一月八日(金)晴 終日疲労の駆逐に努力した。久振りにて聖書を静読した。耶利米亜記第廿九章に霊魂安息の糧を得た。数年振りにて関西を訪れて感じた事は、第一に文明の関東よりも遥に進んで居る事である。第二に信者の信仰の全体に冷えて居る事である。純信仰は滅多に見当らず、信者は相互の欠点を指摘し、人格の向上品性の完全を以て信仰唯一の標準と見てゐるらしくある。曰く「彼の人格に怪しむべき点あり、担がれざるやう注意せられよ」と。曰く「彼女の行為に擯斥すべき点多し、交際を避けられよ」と。孰れも旧来の外国宣教師流の基督教であつて、是れでは信仰の復興は甚だ覚束ないと見て取つた。自分は会ふ人毎に、自他の腹の中を探る事を廃めて、十字架上のキリストを仰瞻て彼に潔めていたゞく事を勧めた。我が教へ子の一人よりの年賀の辞に左の一首があつた。
   足らざるは十字架故に赦しあひ
     愛に溢るゝ柏木の子ら。
凡ての信者が此く在りて欲しい。生命に溢るゝ時に他を非難するの暇がない。
 
(6) 一月九日(土)晴 雑誌一月号を発送した。久振りにて筆も執れ、読書も出来た。恐ろしいのは伝道旅行である。一回の旅行に少くとも一週間は潰れる。一地方が得んが為には自分と全国とが失ふのである。今年は一月早々十日間が潰れた。止むを得ないとは云ふものゝ考ふれば悲しくなる。まだ跡始末に数日かゝる。此日女高師生徒の第二回感話会を開いた。第一回に数等優さる会合であつた。
 
 一月十日(日)晴 本年第一回の会合を開いた。朝は満員、午後は七分の会衆であつた。朝は馬太伝廿六章四七-五六節、約翰伝十八章一-一一節に依り「イエスの逮捕」に就て述べた。暗らきユダと光るイエスを対照して語つた。午後は英訳聖書の元祖ウイリヤム・チンデールの生涯に就て語つた。自分の講堂に於て述ぶるの如何に易きかを覚えた。他の教会と比べて見て我が会衆の如何に克く訓練されてゐる乎を実感せざるを得ない。此日又在独逸若き内村より愉快なる通信あり、国の内外に信仰の友の多きを知り、此世界に於ける我が肩幅の広きを感じた。
 
 一月十一日(月)晴 外国へ手紙を書いた。又久振りにて英文の論文を書いた。まだ英文を書くことを忘れないことが判明つて嬉しかつた。近頃に至り自分を了解して呉れる者の、日本人よりも外国人に多きを知り、自分の為を計るならば日本文を書くことを廃めて英文を書くことの優されるに気附いた。然し自分の為でないから仕方がない。嫌はれ誤解され賤しめらるゝと知り乍ら下手な日本文を書くのである。
 
 一月十二日(火)曇 ルツ子デーである。独りで墓地へ行き、花を供へ、彼女の墓石に手を按いて彼女の霊魂(7)の安全の為に祈つた。熊本に於てはリツデル嬢が彼女を記念して癩病患者に一日の糧を供へて呉れる筈である。彼女逝いて此に十四年、自分は健全にして主の名に由りて大事業を計画する事が出来て感謝である。生者は死者の分をも尽さねばならぬ。自分はまだまだ沢山に働かねばならぬ事を自覚する。夜、札幌宮部君の見舞を受けた。久振りの面会である。半年会はなければ話が積んで山をなす。明治八年来の人生の同伴者である。さうあるのが当然である。
 
 一月十三日(水)晴 暖かい日であつた。夜、講堂に於て我等の一人なる理学博士大島正満氏の双生児に関する研究の講話があつた。問題は教育宗教の根本に関はるものであつて、大に我等の思想を刺戟した。生物学の結論が信仰の根本に衝突するは止むを得ない。其間に在りて信仰を守るのが信仰の信仰たる所以である。然し之を守るに方つて唯信仰にのみ拠つてならない。学問の奥に入つて学問を以て学問を信仰化せねばならぬ。そこに信仰生活の興味がある。
 
 一月十四日(木)曇 赤ん坊が二三日留守になり家が急に淋しくなつた。其代りに大分にペンが動いた。相変らず百科辞典の通読が不用時間の最も善き使用法である。
 
 一月十五日(金)晴 平静の一日であつた。近頃或る所に於て或る牧師より自分の或る知人の品行に就き容易ならざる悪評を聞きしが故に、驚いて或る友人に依頼して其真偽を調べて貰ひし所、全く事実に反せしことが判明つて安心した。基督教会の牧師は全体に思ひ切つたる悪評を立てる者である。多分人の善悪に就て牧師の批評程当にならぬ者はあるまい。そして此は惟り自分一人の経験ではないと思ふ。此点に就き牧師諸君は充分に注意(8)して貰ひたい。
 
 一月十六日(土)曇 ヱレミヤ研究に於て偉人の死に就て考へた。ヱレミヤに限らず、イザヤ、エゼキエル、パウロ、ペテロ、ヨハネの死に就ても聖書は何の録す所がない。彼等が如何にして死せし乎は聖書記者の関せざる所であるやうに見える。而してさうするのが当然である。神の御用を終へた後に彼の僕は唯静かに消えて了へば可いのである。「ヱホバはその愛しみ給ふ者に寝《ねぶり》を与へ給ふ」とある(詩百廿七篇二節)。人の注意を引くやうな葬式や墓碑は全然無用である。神の人は凡てモーセの如くに死たいものである(申命記三十四章) 〇独過より又復嘉き通信があつた。シユワイツエル、スピールマイエルと云ふが如き大家が我が同情者であるを知つて非常に嬉しかつた。我が一子が我に代つてルーテルの国に駐在するやうなものである。父子の名誉此上なしである。
 
 一月十七日(日)曇 午後晴。集会朝夕共に変りなし。朝はエペソ書一章一-十四節に依り「キリストに在りて」の中心的真理に就て講じた。午後は百五十余名の青年男女に向ひ、ヱレミヤ記第四章に由り「適中せざりし預言に就て語つた。相変らず静粛なる、而かも充実せる集会であつた。之をも亦聖霊に充たされたる集会であると称して可からうと思ふ。我等は教会を組織せざれども教会に劣らざる敬虔と熱心とは有ると思ふ。説教は厳格なる福音主義のそれであつて、其点に於ては無教会の我等は遥かに教会以上であると信ずる。
 
 一月十八日(月)晴 沢山に赤ん坊と遊んだ。最も善き休養である。我が意が彼女に通ずるらしく、最も愉快である。彼女に併せて世の凡ての赤ん坊に就て思ふ。殊に保護者なき赤ん坊に就て思ふ。彼等の幸福を計るは神が最も喜び給ふ所であるに相違ない。イエスが「是等のいと小さき者に為せるは我に為せる也」と云ひ給ひしは(9)意味深長である。自分も以来一層世の凡ての赤ん坊の為に尽さねばならぬ事を最も切実に感ずる。
 
 一月十九日(火)雨 朝はヱレミヤ記に依りてエヂプトを研究し、午後は或る教友より朝鮮に於ける山林事業に就て聞き非常に面白かつた。其他一人の兄弟と、亦他に一人の若き姉妹とが信仰を起せし経歴を聞き強き感に打たれた。神は一人の信者を此世より取り給ふ時に、必ず之に代りて他に新たに信者を起し給ふやうに見える。信仰の系統は絶えないやうに見える。神は「自己を証し給はざりし事なし」である(行伝十四章十七節)。一人斃るれば他が起ちて之に代る。斯くて信仰の灯は地上に於て永久に絶えないと思へば大なる安心且感謝である。
 
 一月二十日(水)晴 愈々三月より英文雅誌を出す事に決心した。世界に向つて我が信仰を唱へんと欲する。唯一回で廃めになつても悔いない。此事につき同胞の日本人には既に尽す丈け尽した。今よりは外国人に尽さんと欲する。「我はギリシヤ人及び異邦人にも負へる所あり」である(ロマ書一章十四節)。キリストの十字架の福音が今や所謂基督教国に絶えんとするに方て、自分は唯安閑として傍観することは出来ない。茲に全力を注ぎ我が生涯の最後の努力として、予ねて学び置きし英文を以つて日本に在りて全世界に向つて簡短にして深遠なる神の子の福音を伝へんと欲する。神よ、弱き我を助けて我をして此大業を果たさせ給へ。
 
 一月二十一日(木)晴 寒気強し。仕事が余りに多いので又復信頼の生涯に移つた。行為ではない信仰である。神をして自分に在りて働いて戴くのである。然らば山をも移すことが出来る。セカセカ働くを以つて能事とするアメリカ教に落附いてはならない 〇青森県の或る曹洞宗の若き僧侶の質問的訪問を受けた。彼の誠実 解を愛せざるを得なかつた。仏教界にも時には敬愛すべき人物がある。日本の宗教界は多望である。斯かる人達が(10)福音の真理を握るに至らば世界は日本人の教化を受くるに至るであらう。彼と自分は一面して善き友人であることを感じた。
 
 一月二十二日(金)晴 寒気引続き強し。今の日本に於て自己の事業は是れ国家の事業である。自己に尽すは是れ国家に尽すの途であると信じて自己の事業に賛成を迫る人が随分と多い。実に厄介な人達である。彼等は自己あるを知つて他人あるを知らず、国も神も凡てが自己を拡張した者であると思ふ。故に彼等に遠慮と云ふものがない。彼等は大胆不敵、自己の主張要求を以て他人に迫る。彼等は近代人の好模範である。此かる人が婦人の間に屡々見当るに至つては実に不愉快千万である。如何に見ても世は末の世である。キリストの再臨が待たるる。
 
 一月二十三日(土)晴 新聞紙に左の記事を見た。
  米国上院議員ハイラム・ジヨンソン氏は米国の国際司法裁判所参加反対者に加はつた。右は戦時中流布されたドイツが死体を煮て人油を採つたと云ふ宣伝が英国カーテリス将軍の告白によつて真赤な偽となつた様に、戦時の宣伝が無価値であること。その他ベルギーに於けるドイツの暴行に就て虚説が一般に流布されたやうなことに氏が愛想をつかしてゐるからである(ナウエン廿一日発帝通)。
戦時中の英米人の虚偽宣伝は明白なる事であつて今に至つて之を憤るは抑々遅くある。然るに我国に於ても基督教会の先導者までが是等の明白なる虚偽を信じ、凡ての事に於てドイツを貶し、デモクラシーの英米を謳歌したのは今に至つて見て見苦しき次第である。英米も亦他の所謂基督教国と同じく国としては他国を教ゆるの資格を失つた者である。自己の反対者に就て虚偽を宜伝し、之を斃すの技術に至つては、世界中多分英米人に勝さる者はあるまい。そして日本の基督信者までが此望ましからざる技術を英米人より学びしに至つては憂へても尚ほ余(11)りがある。|虚偽宣伝に最も巧みなる基督教国民〔付△圏点〕……嗚呼神よ、爾は何時まで此かる事を許し給ふ耶!
 
 一月二十四日(日)晴 朝は馬太伝廿六章五七-六八節等に依り「祭司の前に立てるキリスト」に就いて話した。題目が偉大なるに対して我が精神状態が之に添はざりしが故に甚だ不満足なる講演であつた。午後は青年百人余の集会であつて、馬太伝十三章三八節「畑はこの世界なり」に就いて語つた。基督教は世界的宗教であるが故に、世界的精神を以て之に対するにあらざれば其了解は不可能なる事に就て述べた。鮒やメダカは池に生長するが、鯖や鰹は大洋でなければ生存する事が出来ない。其如くに或る宗教は一国内に其繁栄を遂ぐることが出来るが、基督教は之を世界的に取扱はざれば、其了解感化を望むことは出来ないと述べた。自分に取りても甚だ気持好き講演であつた。まことに世界人に成らざれば基督教は解らず、又基督教に依らざれば本当の世界人を造ることは出来ない。世界を相手にして働かざれば基督信者と成りたる甲斐がない。
 
 一月二十五日(月)晴 近頃切に感ずる事は六十五歳位ゐで老人と思つてはならぬ事である、自分の仕事は今から始まるのであつて、今日までが準備と見るのが本当である。此の点に於て学ぶぺきは大倉喜八郎、浅野総一郎、渋沢栄一等の諸氏である。彼等は此世の人達であるが、老に負けざる点に於て敬服の外はない。金儲けの為に長命する必要は少しもないが、神の御こゝろを世に伝ふる為には百年の生命も決して長くはない。
 
 一月二十六日(火)晴 昨日来大なる興味を以てリビングエージ雑誌に載せられたるジユリアン・ハツクスレーの「最近の進化説」並にチエムバース百科辞典に於けるゲデス教授の寄稿に成る「進化論」の長篇を読んだ。(12)大体に於て進化説が宇宙創成並に存続に関する最も完全なる説明である事を疑ふことは出来ない。故ブライアンが為した如くに、正面より絶対的に進化説に反対するは今日の科学其物に反対するに異らない。然し乍ら進化説は未だ完成した学説でない、其内に多くの不可解の点が残つて居る。而已ならず進化説を採用するもキリストの福音を棄る理由は一もない。殊にゲデス教授の進化の見方の如き、進化論其物を福音化するものであつて、如此くに見たる宇宙は実に聖書以外の聖書であると言はざるを得ない。孰れにしろ聖書はやはり神の言であつて天然は彼の御仕事である。二者は深い深い所に於て全然一致する。其一致を見る能はざるは浅い聖書知識であつて同時に又浅い科学であると言はざるを得ない 〇新聞紙は財政困難より東本願寺の破滅に瀕するを伝ふ。同情に堪えない。然し乍ら僧親鸞の唱へし信仰は大谷家が弊れたればとて消ゆる者でない。否な其反対に、之が為に反つて勃興すべき者である。此世の富や権力に依て立つ宗教は斃れるが当然であり、又宗教其物の為に幸福である。大政府の後援や宝物、寺院、生仏《いきぼとけ》等に依て維持せらるゝ宗教は悉く亡びて了ふがよい。本統の宗教は其後に興る者である。寺院の敗滅は教会のそれと同じく反つて歓迎すべきである。
 
 一月二十七日(水)晴 暖房に苦しんだ。悪い石炭の煙を沢山に吸うた。日本人には矢張り火鉢と行火と火燵とが最も善き煖体法であると思ふ。冬の朝、寒い部屋で第一に聖書を読むは殊に気持好くある。最大の快楽は簡易生活にある 〇沢山に英文を書いた。日本文を書くよりも遥かに楽である。そして少数なりと雖も之に由て友を世界に求むることが出来ると思ふと更らに一層愉快である。
 
 一月二十八日(木)時 給理大臣加藤高明氏の薨去の報に接して驚駭の感に打たれた。日本国の大損失である。今年の政治界ほさぞかし騒々しい事であらう 〇新潟県新潟師範学校長宗像鴨四郎君の訪問を受けて楽しかつた。(13)君は熱心なる基督信者であるのみならず、自分と全然信仰の質《たち》を同うする信者である。斯かる人が選《え》りも選らんで新潟師範学校長と成りしとは実に不思議である。新潟は自分が明治廿一年、米国より帰国早々旧北越学館仮教頭として赴任し、其所に組合教会並に其所属の米国宣教師十一人を相手にして信仰の為に大に戦つた所である。時は京都同志社並に其校長故新島襄君全盛の時代であり、加之前の日本女子大学校長故成瀬仁蔵氏が、其時は信心なる基督信者であり、宣教師の弁護者として立ちし時なれば、自分の苦戦甚だしく、終に敗れて東京に舞戻るべく余儀なくせられた。自分は誤つて居たか知らざれども、誠実一杯を尽した積りであつたが、衆寡敵せず、論争は全然自分の敗北に終つた。然るに星霜茲に四十年、北越学館は取毀されて其跡に建られたのが今の新潟師範学校である。そして其官立学校に在りて過去六年間、今日に至るも尚ほ大胆に基督教の信仰を標榜して六百有余の師範生を指導薫陶しつゝあるのが宗像君である。君は自分の著書並に機関雑誌に依り其信仰生活を送りつゝあるとの事であれば、自分に代つて自分が四十年前に新潟県人に施さんと欲せし教育を今施しつゝあると云ふて差支がない。実に不思議である。全国に百有余の師範学校があるとの事であるが、其内より宗像君が特に択まれて、北越学館の跡に建られし新潟師範学校の校長として奉職せられつゝあるとは実に不思議である。自分が教会並に宣教師の誤解猜疑の内に在りながら独り熱涙を流して祈りし其松原の間に建られし学校に於て自分の同志の一人が熱心に其信仰に基ゐする教育を施しつゝあると聞いては、事が余りに劇的であつて、何んと云ふて此事実を説明してよいか解らない。偶然と云へば偶然である。然し自分は摂理と言ひたい。何も故人や教会を恨らんでゞはない。其時彼等は勝つたのであつて自分は負けたのである。然し四十年後の今日神は自分の反対者と自分との間を裁判《さば》いて下さつたのである。成瀬君は基督敦の信仰を棄て死し、同志社に於ては今は福音主義の信仰は余り盛んでないと聞く。然るに神の恩恵に依り自分は不完全ながらも今尚ほ信仰を続ける事が出来、そして自分の同志の一人が古い戦場に於て自分の信仰を唱へつつあると聞く。人生は実は如此きものであらう。今より百年(14)を経ば神は自分の正しかつた点は之を完全に弁護して下さるであらう。負けても宜しい、唯祈つて待つてさへ居ればよい。実に感慨無量である。死んだ肉の父に知らせてやりたい。涙が零れる。
 
 一月二十九日(金)曇 新聞紙は加藤高明氏の生涯の事実に就て記す所がある。之を読んで自分が氏と同時代の人として感ずる事は、氏は不幸なる誠にお気の毒の人であると云ふ事である。氏が岩崎弥太郎に発見せられてキリストに発見せられざりし事が抑々氏の不幸の初めである。若し氏が自分の如くに政治界や外交界に入らずしてキリストの僕として其福音を以つて日本国に尽したならば、氏自身の為に、又日本国の為に如何に幸福であつたらう。今より一年|経《たゝ》ない内に日本人は全く氏を忘れるであらう。実に太 して短い者は政治家の生涯である。然るに加藤氏の生涯を羨む日本人の多いには驚かざるを得ない。
 
 一月三十日(土)曇 書棚よりエライシヤ・ムルフホードの『神の共和国』を取出し、之を復読して強き感に打たれた。自分が初めて之を読み了つたのは一八九八年一月四日と記してある、即ち今より二十八年前である。此書の成つたのは一八八一年で今より四十五年前である。然れども其価値は今に至るも少しも減じない。聖書知識とシエークスビヤ研究とヘーゲル哲学との上に成りし大神学系統である、今日之を読んで新生命の我が中心に加はるを感ず。五十年前には米国にも此んな偉い人があつた。今日の米国人の書いたものには眼を触れない自分の如きも此著者の如き大米国人の前には膝を屈して其の教を仰がざるを得ない 〇柏木女子青年会の会合を開いた。来会者三十名。今後女子青年の為に大に尽すことに定めた。
 
 一月三十一日(日)曇 朝はイザヤ書四二章一六節、ヨハネ伝廿一章一八節等に依り、「神に導かれし生涯」に(15)就いて話した。午後はヱレミヤ記第五章を講じた。二度の説教で疲れはするが、然し神の道を述べるのであつて、幸ひこの上なしである。何を止めても此の事だけは止められない。
 
 二月一日(月)晴 東京に行いた。大震災に焼けざりし住友銀行東京支店を見せて貰つた。多分此世の宝を託するに足るの建築物であらう。他に二三の友人を訪問した。偶にはバビロンに行くのも悪くはない。
 
 二月二日(火)晴 九段向山堂の四畳半の裏座敷に於て英文雑誌ジセパン、インテリジエンサーの第一回編輯会議を開いた。会する者は山県五十雄君、山本供平君、自分の三人であつた。三十年の昔に帰つたやうな心持がした。忙しい事である。然し非常に愉快である。家に帰つて夜遅くまで研究誌の校正を為した。
 
 二月三日(水)曇 無為無生産の一日であつた。英文の原稿をタイプに打つて貰つた。ムルフホードの『神の共和国』に目醒ましい思想に接しつゝある。こんな大著述を有する米国の宗教家等が、教会の、伝道のと小問題に齷齪《あくそく》しつゝあると思ふと不思議に堪へない。|基督教は宗教に非ず、神殿を壊つて後に神の子顕はる〔付△圏点〕との思想の如き、遠大にして米国人より出たるものとは思はれない。
 
 二月四日(木)晴 終日原稿書きに従事した。
 
 二月五日(金)晴 山県君主催の下に市内淡路町多賀羅亭に於て英文雑誌『インテリゼンサー』の披露晩餐会が開かれた。来賓二十五名、何れも当代有名の英文記者であつた。内に頭本元貞、武信由太郎の両君の此の道に(16)於ての老練者もあつた。そして両君が自分と同じく旧札幌農学校の出身であるは不思議である。席上山県君と自分とは今回の企計《くわだて》の、第一に世界に向つて日本特有の基督教の信仰を唱へ、第二に同じく日本の最善を細介するにある旨を述べた。今や英語が日本人の第二の国語となりつゝある兆候が此夜の会合にて明かに見えた。
 
 二月六日(土)晴 W・H・ベネツト著『耶利米亜記講解』の再読を了つた。初読は今より二十六年前の一九〇〇年十一月九日角筈に於て了つた。「学んで而して時に之を習ふ亦|説《たのし》からずや」である。新著々々と唱へて新著述にのみ眼を曝すは決して誉めた事でない。旧著述を再読三読して得る所多大である。ベネツトの此講解の内に自分の無教会主義を賛成するやうな節が沢山に見当つた。教会は何故に此事に就て自分のやうな弱者を責めずして、自分と同じ事を言ふ大家を責めないのである乎。何れにしろ三百七十二頁をユツクリと読んで大に我が信仰を強められた 〇赤ん坊が義憤を発し之を宥めるに困難した。赤ん坊なるが故に之をダマさうと欲ふが故に悪くなる。赤ん坊と雖も人である、故に之に対するに誠実を以てせねばならぬ。誠実を以て之に同情して其正当の不平を癒すことが出束て嬉しかつた。
 
 二月七日(日)曇 朝は「ピラトの前のキリスト」に就いて述べた。洪牙利国の大画家ムンカツキーの画筆に成りし同題の大絵画の写しに依り説明を助けた。伊藤一隆君は今より殆んど四十年前に紐育に於て実画を見し其感恕を述べ、大に会衆の感激を起した。午後も亦満員の盛会であつた。「世界伝道の責任」と題して語つた。此日咽喉を痛め、講演は二回とも振はなかつた。残念であるが止むを得ない。
 
 二月八日(月)曇 休み半分に昨日の朝の講演を原稿に書いた。書く方が語るよりも気が落附いて遥かに楽で(17)あり又精確である。筆はたしかに口に優るの器である。書く事をなさずして語つてばかりゐる説教者は最も有効なる伝道法を逸する者である 〇夜、永井直治君並に田島進君の訪問を受けた。永井君は浅草教会の牧師であつて、其の一生を希臘語新約聖書の校訂に費した篤志の研究家である。同君研究の結果の二三を聞かせられて感興措く能はざる所があつた。或は遠からずして日本人のみの手に由て成れる日本訳聖書の発行を見るに至るやも知れぬ。誠に愉快なる事である。
 
 二月九日(火)晴 梅が咲出し春日和であつた。昨秋来預言書の復習を始め、エゼキェル書とヱレミヤ記を終りたれば、今日はイザヤ書を始めた。イザヤはやはり預言者の王である。彼は信仰の上に立つ哲学的大政治家である。近代史に於けるグロチウス又はエ※[ワに濁点]ルトの如き人である。而かも遥かに彼等以上である。イザヤ書を読んで我等は世界に十人とは現はれざりし大偉人に接するのである。青年時代より此大教師に親むを得し自分の幸福を感謝せざるを得ない。墓に入るまでの幸福である 〇自分の如き者に金を周旋して呉れと申込む者がある。地面の売物があるから買はん乎と相談に来る者がある。マツシウ・アーノルドは「人生十分の九は正義である」と曰うたが、今の日本人に取りては|人生百分の九十九は金である〔付△圏点〕やうに見える。聖書の意味を聞きに来る者は殆んどない。然れども金銭的援助を乞ひに来る者は随分と多い。情けない世の中である。
 
 二月十日(水)雨 久振りの膏雨である。其の有難さよ。以賽亜書二-四章を読み大なる感動を受けた。三章五節の如き日本今日の有の儘である。四章二節以下は甚大の慰めである。こんな言葉は他にはない。ダンテ、ゲーテ等を知らずともイザヤを知れば充分である。何故《なぜ》世人はもつと多く以賽亜書を読まないのであらう乎。
 
(18) 二月十一日(木)曇 紀元節である。市中には建国祭が行はると聞く。自分はイザヤ書第五章を研究した。愛国者とは斯くあらねばならぬ。イザヤに較べて自分の如きは到底愛国者の部類に属する者にあらざる事を強く感じた。|真の愛国者は正義の為に国を憎み得る者であらねばならぬ〔付△圏点〕。「然かはあれどヱホバの怒は止まずして尚ほその手を伸べ給ふ」と言ふ(廿五節)。預言者の愛国心に較べて見て日本人の愛国心の如き児戯と称して差支がない。
 
 二月十二日(金)晴 今より二十六年前、本誌発行の時代に於ては、「研究」 の名は甚だ不人望の名であつたが、今や「研究」は流行の一となつた。今日の新聞紙の広告に現はれた名丈けでも、「人類学研究」あり、「鑑鏡の研究」あり、「教育制度の研究」あり、「星の研究」あり、「小唄研究」がある。他に「鶏の研究」、「株式之研究」と云ふ雑誌のあるを知る。今や「聖書之研究」と云ふは流行を逐ふ賤しい名であるやうに聞こえる。社会とは常に此んな者である。始めに嘲けつて後に自から之に従ふ。故に我等は「社会は大俗人である」と云ふのである。社会は導くべし、傚ふぺからず。社会は何子爵何男爵と云ふが如き大俗物と見て間違のない者である 〇午後塚本と共に浅草教会牧師館に永井直治君を訪問した。新約聖書本文校合並に翻訳に関する同君の努力を示され驚嘆せざるを得なかつた。此かる所に此かる篤学の人あるを知りて我国基督教の将来に関し大なる希望を懐かせられた。行々《いく/\》は日本人の力に由て日本文の聖書を「米国」とか「英国」とか云ふに非ずして日本聖書会社が出版するに至らねばならぬ。そして永井君は既に其必要に応ずるの準備を為せる人であると思ふ。
 
 二月十三日(土)晴 平凡の一日であつた。
 
(19) 二月十四日(日)半晴 朝夕共に盛会であつた。然し自分の講演は振はなかつた。午後の集会に瑞西国バーゼル市万国伝道協会書記ハンス・アンシユタイン君の出席傍聴ありたれば、之を機会に同君の演説を乞ひ、我等の一人なる河面《かうも》仙四郎君に通訳の任に当つて貰つた。協会の歴史並に目下従事しつゝある所の事業の大略を語つて貰ひ甚だ有益であつた。協会へ寄附の為に献金を募りし所、百二十円余を得たれば、之に共有の伝道金の一部を加へて直に瑞西に送ることにした。演説終へて後に同君に日本風の夕食を供へた。自分の外に河面、塚本の両君卓を共にし、欧洲の事情につき多くの珍らしき事を聞かされ、非常に愉快であつた。小なる我等の事業も亦世界的である事を熟々《つらつら》感ぜしめられた。
 
 二月十五日(月)晴 春の暖かさであつた。全日を友人訪問に費した 〇「愛知県の田舎、一読者より」として左の如きハガキが達した。
  乱筆御赦しを乞ふ。只今十字架の道「ゲツセマネの苦祷」を読みました(午後十一時)。涙は仲々止まりません、戸外に出て思ふ存分泣きました。あゝ此身を捧ぐる外になし!! 伝道者たれ!! 此一生涯の強い確信を与へられし事を感謝致します。此五月に加洲の或神学校へ入学のため渡米致しますが、十年程『聖書之研究』を愛読して居りますから何卒御安心下さい。今度の英文雑誌は私の教科書になる事でせう。右感謝まで、涙ながらに!
斯んな感化を及ぼさうと思ふて書いたものではないが、神が之を用ひて此若き兄弟を斯くも強く動かし給ひし事を感謝する。
 
 二月十六日(火)晴 北風強し。静かなる一日であつた。以賓亜書六章の研究に強く我心を刺戟せられた。神(20)の人は此心を以て世に臨まねばならぬことが克く判明つた。それにしても今の愛国者や伝道師を眼中に置いてはならぬ。成るべく人との交際を避けて神と多く交はり、神の声を聞いて之を人に伝へねばならぬ。
 
 二月十七日(水)晴 聖書を研究すると歳が若くなる。此世の事に関係すると年を取る。国家、社会、教会、孰れも面倒なる問題である。一方に善ければ他方に悪い。公平であれば四方より攻撃せらる。殊に議論するのが厭だ。然し悪い事は悪いと云はざるを得ない、茲に於てか止むを得ず議論になるのである。孰れにしろ成るべく静にして置いて貰ひたい。私的に自分を使はんとせずして真理と人顆との為に自分の残る生涯を送り得るやう注意して貰ひたい。
 
 二月十八日(木)曇 以賽亜書第八章を研究した。偉人イザヤに引かされざるを得ない。唯日本訳の余りに微弱にして預言者の大信仰を伝ふるに甚だ不適当なるを遺憾とする。
 
 二月十九日(金)曇 市内九段向山堂内英文雑誌インテリジエンサー社へ校正の為に行いた。牛込停車場に降り、富士見町を通りて九段坂まで往復共に歩行いて今昔の感に堪えなかつた。四十年の昔に還つたやうな気持がした。自分はまだ生きて居るのである乎と思うた。然し神と真理と人類との為である。恐るゝに足りない。「汝の齢に順ひて汝に力を与ふ」と主は言ひ給うた。頗る善い雑誌が出来さうである。
 
 二月二十日(土)半晴 梅日和であつた。講堂に於て相木女子青年会の第一回集会を開いた。来会者五十人余り、東京女子大、女高師、女子英学塾、学習院、仏英和等の諸学校が代表せられて甚だ盛会であつた。塚本は哥林(21)多前書十三章を、自分はブライアント作「水鳥に寄す」の英詩を講じた。女子青年の知識欲の旺盛なるに驚いた。
 
 二月二十一日(日)晴 朝四時半赤ん坊の泣き声に起され、母と祖母とを助けて彼女の不平を癒してやつた。国を救ふも赤ん坊を宥めるも其根本の精神に於ては同一であることが解つた 〇朝は「神の子の苦難」と題し、キリストの十字架の死に就て語つた。語るに最も困難なる題目である。故に説教せずして唯馬太伝と路加伝と約翰伝の記事を読んだ。一同強き感に打たれた。まことに神の子の死の状《さま》である。神々《かう/”\》しとは実に此事を言ふのである。十字架の前に凡ての高ぶりを棄て平伏せざるを得ない。午後は詩篇第百二十七篇第一節に依り「信仰と建築」と題して語つた。信仰なき東京人に復興は困難なる所以を述べた。最も充実せる一日であつた。
 
 二月二十二日(月)曇 疲労の月曜日である。赤ん坊の子守役を務めて疲労を癒した。
 
 二月二十三日(火)雨 ジ∃ージ・アダム・スミスの以賽亜書請解に第二十八章の解釈を読んで今更ながら感に打たれた。|オリバー・コロムウエルが預言者イザヤの最も好き解釈者である〔付○圏点〕との著者の意見に満腔の賛成を表せざるを得なかつた。何んと言ふてもスミスは近代稀れに見る旧約聖書学者である。彼はエ※[ワに濁点]ルトの後を受けて最も深く預言者の心を探つた人であると思ふ。スミスは反オルソドツクスであるなどゝ評する人は彼の心の深き所に宿りしキリストの霊を看出す能はざる者であると思ふ。自分も今日まで彼を了解し得ずして彼を誤解せし者の一人でありしことを茲に告白する。今日再び彼の第二十八章の解釈を読んで之に英文を以て記入して言うた Thanks to George Adam Smith in the name of Thomas Carlyle(トマス・カーライルに代りて茲にジヨージ・アダム・スミスに感謝す)と。結婚問題や其他の此世の問題を持込まれて困らせらるゝ今日此頃、如此き荘大なる(22)思想に接して、暗らき貧弱なる日本に在りながら、明るき天の聖者の国に在る乎の如くに感ずる。
 
 二月二十四日(水)曇 計画を立てゝ働かずばならず、去ればとて計画にして成功する者は滅多にない。事情や境遇(等しく神の命と見てよからう)に余儀なくせられて為す事のみが成功するやうに見える。我等は偵察を放つて神の聖意を探りつゝ進むのである。人生は油断を許さぬ、去らばとて自から運命を作らんとしてはならない。「急がずに、休まずに」である。
 
 二月二十五日(木)晴 英国有名の聖書研究雑誌『エキスポジトル』の廃刊を聞いて驚き且悲んだ。廃刊の理由は「維持困難」に在ると云ふ。然し乍ら英国の如き基督教国に於て斯かる有力なる宗教雑誌が維持困難の故に廃刊するとは、日本に在る我等には到底解し得ない。|其主なる理由は其最後の主筆たりしドクトル・モフハトの福音的信仰の欠乏に於て在るのではあるまい乎〔付△圏点〕。我等は仆れても福音的信仰欠乏の結果として仆れたくない。成功失敗は問題ではないが、信仰冷却は重大問題である。願ふ神の恩恵に由り研究誌が最後まで十字架贖罪の信仰の維持者として其使命を完うせんことを。
 
 二月二十六日(金)晴 今日も亦或る田舎の若き婦人にして信仰を起せし者の結婚問題を持込まれ其の処分に窮した。彼等に対し深き同情なき能はずである。今日の日本に於て基督教の信仰が無いのみならず普通の法律観念さへない。日本人の大多数は未だ人権の重んずぺきをさへ知らない。より高き生涯に入らんとする若き婦人等に対し同情を懐く者は殆んど無い。村長も小学校長も彼等の味方と成つてやらない。実に憐れな社会状態である。(23)自分としては彼等を全能者の聖手に委ねまつるほかに彼等を助くる途を知らない。実に辛らい事である。今日までに幾度もあつた例である。日本に於ける伝道の困難は此辺に在る。
 
 二月二十七日(土)曇 孫女の為にお雛様が飾られた。罪のない美くしい習慣である。唯其内に偶像的分子の在るに困まる。又飲酒の習慣を標榜する器具の在るに苦しむ。到底偶像的飲酒国の習慣である。万事が其の汚染を被らざるを得ない、困つたものである 〇大正十四年我対外収支計算なる者を見るに、支出は六億九百万円で、収入は四億七千七百万円である。而も支出の内に外債利払及償還金の一億五千万が有り、収入の内に外債の一億三千二百万円がある。即ち新たに外債を起して旧外債の利子を払つたのである。まことに憐むべき身代である。若し之が大帝国の身代に非ずして一個人の家計であるとすれば、身代限りは目前に迫つて居るのであつて、心細い次第である。而かも日本人の内に斯かる危険状態に於て在る者が沢山に在る。即ち新たに借金して旧い借金の利子を払つて居る者が沢山に在る。之では国も亡ぶれば家も亡ぶ。然るに滅亡を恐れて謹慎する者はなくして、皆な目前の安楽を漁りて其日々々を送つて居る。此儘で行けば日本国の経済的破滅は確実である。実に恐ろしい事である。然し斯く警告したればとて真面目に耳を傾けて聴く者は一人もない。困つたものである。
 
 二月二十八日(日)晴 午前は二百人、午後は百七八十人の来会者があつた。午前は馬太伝二十七章四十五節以下のエリエリラマサバクタニの聖語に就て述べた。其完全なる註解は詩篇第二十二篇であると信ずるが故に、其篇を朗読し之に略註を加へて説教に代へた。実に意味の深い言葉である。聖書を以て聖書を註解するより他に途がない。午後は耶利米亜記第七章を講じた。若しヱレミヤが今の基督教界を観るならば同一の激烈なる言を発するであらうと曰うた。「ヱホバの殿《みや》なり、ヱホバの殿なり、ヱホバの殿なり」と云うた当時のユダヤ人と、「基(24)督教会なり、基督教会なり、基督教会なり」といふ今日の基督信者とよく似て居る。預言書を真面目に読んで、今日の欧米の教会並びに所謂基督教国を許す事は出来ない。
 
 三月一日(月)曇 久振りにて横浜に行いた。カピテン山桝の案内にて岸壁繋留の外国船数隻を見た。其内に英あり、仏あり、米あり、パナマあり、其何れもが優秀船であつて、我国に之に匹敵すべきものはないと云ふ。多くの事を考へさせられた。物質的に見たる日本の貧弱国たるは否むことは出来ない 〇京都白川に卜居する山口菊次郎君よりの書翰に曰く
  代はれば変る世の中、昔時淡水魚中の王として高価なりし鯉は今日百匁三十五銭にて、魚の最下に位する泥鰌の百匁五十銭に及ばず。蓋は高価の鯉にて利せんと各地盛に養魚場に鯉を養ひし生産の過剰ならん。今日大学や専門学校卒業生の剰余と均しく世の需要は中学又は小学卒業者の引張凧なるが如し。人間と云へ魚類と云へ上下顛倒せり。混沌たる思想の善化せざるも故なきにあらずと存候。『大阪毎日』紙上に曰く、今年の大学専門学校卒業生から住友が九十二名採用するに申込一千名、其他之に準ず。而して本年学士と称し得られる者の数四万人に上ると、学校教育が生活の方便にならぬ頂点に達したり云々と有之候。沈思黙考致候。
面白い観察である。「第一に金、第二に金を得る為の学問」との立場より施し来りし日本の教育が茲に至りしは面白い現象である。|金に為つても為らないでも〔付○圏点〕真理を知る為に施されし教育ならば、此悲境に至らずして済んだのである。
 
 三月二日(火)曇 混乱多忙の一日であつた。校正、オルガン直し、他に雑多の用事を持込まれ、随分と頭脳(25)を悩ませた。読書はセイス教授のペンに成りしヒツタイト論一篇を読みしに止まる。自分も時には一個の世話焼き爺《ぢゝい》と化せざるを得ざるを悲しむ。
 
 三月三日(水)曇 桃の節句である。孫女の為に雛を飾つてやり、赤飯を炊いて祝うた。三十年来我家に臨みし初めての春であつた 〇金井清君蕗固より帰り、其実況に就て話して呉れ、非常に面白かつた。労農蕗国は人類の歴史に於ける未曾有の冒険的大試験である。多分遠からずして大失敗として終るであらう。然し一度は行つて見る価値のある試験である。共産党の誠意に対してほ尊敬を払はざるを得ない。金井君の南露旅行談は殊に面白かつた。裏海横断、トルキスタン鉄道旅行等は古代史研究に趣味を有する自分に取つては甚だ羨ましかつた。然し坐して友人の旅行談を聞いて之を我が研究に資する事が出来て感謝である。
   カスピヤン アラル オクザス シルダリヤ
     砂の都の跡ぞ恋しき。
 
 三月四日(木)半曇 以賽亜三十章を以て此日を始めた。不相変忙しい日であつた。英文雑誌インテリゼンサー第一号が出た。是で二個の雑誌の主筆と成つたのである。老いて益々旺なりと云はん乎、或は無謀なりと云はん乎、自分には判断が附かない。然し乍ら老年に及びて新たに雑誌を発行して家に孫が生れしに等しき喜びであることは事実である。何れにしろ家の内も外も賑かなことである。是で生涯の内に雑誌を発行した事が三度である。第一は明治三十年に『東京独立雑誌』を、第二に同三十三年に『聖書之研究』を、而して第三に今年今日に The Japan Christian Intelligencer を。斯くて自分の生涯に於て主なる仕事は雑誌発行であつたのである。悪い仕事ではない。我が救はるゝは仕事に因るのではないから、之で一生を終りたればとて悲しむに足りない。
 
(26) 三月五日(金)雪 神戸より楽器技師を招き在米友人の寄附に成る大オルガンを修繕して貰ひし所、今日仕上がつて嬉しかつた。是で先づ楽器に不足が無くなつて感謝である。此日市内インテリゼンサー社に於て小《さゝ》やかなる初号発行祝賀会を開いた。我等の祝賀会は勿論同時に感謝会であつた。「ヱホバ建たまふにあらざれば建つる者の勤労は空し」である。彼に建てゝ頂くのである。我等は道具たるに過ぎない。
 
 三月六日(土)晴 家族に咳を病む者多し、自分も其一人であつて困難した。用事は多くして目が眩むやうである。世は暗黒であつて援助と慰藉を求むる者は無数である。日本人特有の信義は絶えんとし、人々殊に青年は己が利益を求め、得れども喜ばず、得ざれば怒る。彼等に裏切らるゝと知りつゝ為すぺきの善を為さねばならぬ。毎日の新聞紙は悪事と不信行為とを以て充つ。議会は党争止まずして混乱である。|唯赤ん坊と遊ぶ時のみ天国の平和がある〔付○圏点〕。
 
 三月七日(日)雪 泥濘に拘はらず三百人以上の来会者があつた。朝は「キリストの死と埋葬」に就て、午後はテモテ後書三章に依り「世界の現状と基督敦」と題して語つた。余り満足なる説教ではなかつたが少しなりとも純福音を語つたと思ふ。
 
 三月八日(月)晴 孫女の写真を撮る為に母と祖母と自分と三人附添にて市中に行いた。鍛冶橋外森川写真館主人の常に変らざる熱誠を罩めたる撮影を受けて愉快であつた 〇英文雑誌が出て責任が増して困難でもあれば亦愉快でもある。京都ドクトル佐伯よりの左の書簡の如き大に我意を強くする。
(27)  陳ば今回は可驚御奮発を以て英文基督教雑誌御発行の由、日本人でさへ英文でなくては読めぬと云ふ幾百千の人、米国にはありと云ふ今日、又加之地の端《はし》にまで伝道せよと命じ給ひし主イエスの仰せに対しても誠に相当はしき御企にて、近頃気味善き一大現象と感佩の至りに不堪候。小生も購読者の一人となりて又之を汎く英米諸邦に在る友人にも購読勧誘仕るべく候。
願ふ友人の此期待に背かずして潔き正しき雑誌を継続し得んことを。
 
 三月九日(火)晴 昨夜大に感ずる所あり、今朝は四時に起きて英文の原稿を書いた、そして夜に到るまで書き続けた。
 
 三月十日(水)雨 三年振りにて三越に行いた、不相変虚栄の市である。此世の人等が金を欲しがるは無理でない事を知つた。帰つて以賽亜書三十一章を読んで別世界に在るを感じた。
 
 三月十一日(木)晴 雑誌第三百八号を発送した。永久に好きものは矢張り聖書である。之に依て同志を求め、之に依て国を立直す。此は試めされし途であつて、最も確実なる途である。何を廃めても之れ丈けは止めることは出来ない。倍加運動よ社会事業よと云つて騒ぐ者は騒ぐが宜い、自分は聖書一点張りで、|永久を期し〔付ごま圏点〕、国を救ひ世界を動かすであらう。
 
 三月十二日(金) 朝は日本文の原稿書きに従事した。午後はインテリゼンサー社に行いた。以賽亜書三十一章とナイル河の地理を研究した。赤ん坊が留守になり家がヒツソリした。小犬のパロが肺炎に罹り家畜病院に送つ(28)た。神の愛を以て人にも獣にも対さねばならぬ 〇|近頃切に感ずる事は日本に離間者の多い事である〔付△圏点〕。大抵の騒動は離間者の煽動に由て起る。自分の経験に由るも自分に反き去りし者は大抵離間者の術中に陥つた着である。そして|離間者が基督信者殊に教会信者に多い〔付△圏点〕と聞いては更らに驚く、然し如何ともする事が出来ない。斯う云ふ社会又教会である。悪評、讒誣、離間が彼等多数の食物である。彼等は是れなくしては生存し得ないのである。そして離間さるゝは不愉快であるが、然し堪えられなくはない。一人の友又は弟子を奪はるれば、神は之に代りて|より〔付ごま圏点〕善き友又は弟子を下し給ふ。此事を実験して我等は言ふ「サタンよ勝手に離間せよ、汝は我より神が許し給ふ以上の者を奪ふことは出来ない」と。
 
 三月十三日(土)半晴 久々振りにて英国雑誌『第十九世紀』を手にした。是は具翁やハツクスレーが議論を闘はした雑誌である。之を手にして今昔の感に堪えない。其二月号に植物学の大家D・H・スコツト氏が植物学の立場より進化説を主張する論文を読んだ。教会の基督教に反対するのが此雑誌元来の特徴であつて、今も尚ほ之を継続するを見る。第二十世紀の今日生物各種特別進化説を痛撃するを見て、今尚ほ英国に於て此説を頑固に維持する者あるを知る。進化説を主張するに方りて教会在来の信仰を多少なりとも嘲けらねばならぬとは自分等には到底解らない。
 
 三月十四日(日)雨 朝夕共に盛会であつた。朝はキリスト伝の最後として「キリストの復活」に就て講じた。六ケ敷い問題である。然し信仰の立場より見て必要欠くべからざる箇処である。キリストの復活を信じ得ずして基督教が与ふる最大の慰藉は得られない。午後は耶利米亜記第八章を講じた。忙はしい一日であつた。
 
(29) 三月十五日(月)半晴 昨日の働らきに甚く咽喉を痛め、半日床に就いて休んだ。東京附近の或る読者より左の如きハガキが達して嬉しかつた。
  三月号『不用人間』、金言なる哉、至言なる哉、実に斯くも的確に現代の急所を突ける言無之候。毎度三十銭の研究誌にて御教育を受くる事数々、幾百円の書籍代を払ひて何等の価値なき時、僅少の代価の研究誌は実に人類の至宝、自分の生命の糧に有之候。
さうかと思へば合本二十冊余に対し百円以上の代価を同時に払込んで来る読者もある。如何に見ても研究誌は不思議なる雑誌である。
 
 三月十六日(火)晴 寒気再来。和英両文の原稿を大分書いた。自分に取り原稿を作るは借金を返すと同じである。毎月期日が来れば原稿を催促される、其時是れが無ければ耻をかかせられる。それ故に何時原稿取りが来ても恐れないやうに準備して置かねばならぬ。今日の所和文の方は四ケ月分位ゐは準備してある。英文の方はまだ始つた計りであるから貯蓄も至つて尠ない。然し是とても遠からずして二三ケ月分の貯蓄を為し置くの必要がある。サーと云うて狼狽するやうでは駄目である。常々弾薬を豊富に溜めて置かねばならぬ。如此くにして何年も続いて滞りなく雑誌を発行する事が出来るのである。曾て故植村正久君に言うたことがある「僕は未だ曾て原稿日に原稿を揃へなかつた事と、印刷屋の勘定日に勘定を怠つた事はない」と。同君は凡ての事に於て自分を嫌はれたやうであるが、此事丈けでは自分に感心されたやうに見受けた。何れにしろ過去三十年間此習慣を続け来つた。ペンが自分の手から落つるも最早遠いことではあるまい。其時まで之を続けたいものである。
 
 三月十七日(水)晴 以賽亜書二十二章十五-二十節が今日の慰藉であつた。今日の日本人の家庭にして紊乱(30)してゐる者の多きを知つて驚いた。何時の間に此んなに紊れた乎想像に苦しむ。それにしも有島武郎は悪い例を遺したものである。今や許多《あまた》の有島事件が社会の各方面に於て演ぜられつゝある。此分で進み行けば日本の近き将来に深く憂ふぺきものがある。
 
 三月十八日(木)晴 肩が凝りてペンが執れず、咽喉が痛んで話しが出来ず、只呆然として一日を送つた。唯久振りにてゴーデーの書に目を触れ、信仰の光を混乱せる心の中に投入れられ、蘇生の感があつた。旧いとは云へ此先生に本当の信仰があつた。今の神学者等の書いた物を読んで唯頭脳が眩惑せしめらるゝのみである。只少しく学者らしくなる計りであつて、其外に何の得る所がない。人類の最善は第十九世紀を以つて言尽されたのではあるまい乎。第二十世紀に入りて世はハツキリと末世に入つたやうな感がする。
 
 三月十九日(金)曇 英文原稿を携へてインテリゼンサー社へ行いた。一同の元気旺盛である。世界改造の希望漲る。然し元気や希望で事が成るのではない、神の大能に由て成るのである。我等は神の御計画を宜ぶるに過ぎない、而して祈つて共成就を待つのみである 〇昨夜巣鴨に大火あり七百余戸焼けた。不安極まる世である。殊に花の都の東京は然りである。
 
 三月二十日(土)雪 東京としては珍らしき大雪である。柏木女子青年会の例会である。雪と諸学校の卒業準備にて出席者二十四五名に過ず。自分は女学生等と共にブライアントの「森の讃美歌」を読んだ 〇近頃仕事が多い為に神を信ずることが尠いので困まる。少しく油断すると自分も事業宗の米国人に成つて了ふ。事業は実は成つても成らないでも宜しいのである。|神の遣はし給へる其独子を信ずる事〔付○圏点〕、其事が信者の唯一の事業であらね(31)ばならぬ。事業は之を風に委ね自分はキリストの十字架をさへ仰いで居れば可いのである。願ふ今復此の旧き福音に還らんことを。
 
 三月二十一日(日)曇 集会変りなし。此日婦人九人(多くは女学生にして卒業して国に帰る者)男子一人に、彼等の懇請に従ひバプテスマを施し、伊藤一隆、青木庄蔵、長尾半平等の長老諸氏に立会つて貰うた。以弗所書五章三二節「キリストに在りて神汝等を赦し給へる如く汝等も互に赦すべし」との言を条件として簡短なる式を施した。三位の名は用ひなかつた。使徒行伝二章三八節、同十九章五節等に依り単に「主イエスキリストの聖名に由て」バプテスマした。一同強き感に打たれた。斯かるバプテスマは自分も受けたしと云ふ者が他にも在つた。勿論聖公会などには全然認められない式である、然れども我等はイエス様が此席に在し給ふことを疑ひ得なかつた。
 
 三月二十二日(月)曇 東京高等女子師範学校本年度の卒業生にして我が聖書研究会々員なる者の送別懇話会を開いた。総数十四人、例年以上の多数である。同校本年度の本科卒業生は凡てゞ九十一人であつて、其内十四人が研究会員であるとは注意すべき事実である。又理科卒業生二十一人中、何れかの教会に出席して基督教を求めざる者は僅かに六人であると聞く。而かも入学当時教会出席者は僅かに三人であつたが、卒業の今日は六名を除くの外は悉く信者又は求道者に成つたのであると云ふ。文部省直轄の学校にして其数師は一二人を除くの外は悉く不信者又は不信者よりも遥かに悪しき背教者であるにも拘はらず、斯くも多数の卒業生が信仰を懐いて母校を出るとは実に不思議である。文部省も、不信者又は背教者達も、キリストの福音の拡張を妨ぐることは出来ないと見える。
 
(32) 三月二十三日(火)半晴 桜井ちか子女史の愛孫倉辻明毅君永眠の報に接し、本郷弥生町に遺族を訪問し同情を表した。倉辻君は有望の若き音楽者であつて、大手町時代に幾度も我等を助けて呉れた。老女史は北海道時代よりの信仰の友であつて、彼女に対し深き同情に堪えなかつた 〇新聞紙は引続きいやらしき記事を以て満つ。疑獄、収監、自殺と云ふ類である。世は日に日に暗黒の密度を加へつゝある。此時に際し我等の間には聖き天国の歓びがある。一昨日バプテスマを受けし少女の一人よりの感謝の書面の一節に曰ふ
  イエスキリストに合ふ為にバプテスマを受けた私は三月廿一日、之が記憶すべき新生の日であり、又命日でございます。此世の生命欄から黒わくをつけられた日であります。心の中だけで此世を去つたのではありません、誰が見ても此世の人ではなくなるのであります。此日は確かに死亡の日であります。あゝ併し私はこの死の峠をいつ越えたかを知りません。確かに先生の御手が私の頭にかゝつた瞬間に越えたのではないと思ひます。峠を越えた印にうけたバプテスマだつたと思ひます……昨日の朝の集会に罪の赦しの福音を承はりまして「キリストに在りて神汝らを赦し給へる如く汝ら互に赦すぺし」、之が私たちに残された為すべき事であることを知りまして感謝に堪えません云々。
他にも之と同じやうな感謝に充溢れたる書面が達した。自分の耳には其時に歌つた第百三十七番の讃美歌がまだ響いて居る。
   つみのこの身は  いま死にて
     きみのいさほに  よみがへり
   きよきしもべの  かずにいる
    そのみしるしの  バプテスマ
(33)帝国議会の議員や復興局の役人などは此聖き歓びは少しも知らないのである。
 
 三月二十四日(水)半晴 春寒未だ去らず不愉快である。今日は結婚事件が三箇あつた。結婚は人生の最大事件である、殊に近代人に取り然りである。結婚に対して自分の意見を徴せられて何んとか答へずばならず、さりとてドクトル・ジヨンソンやトマス・カーライルの結婚観を以て答へた所で近代人は到底承知しない。何故に日本の武士道に由り|もつと〔付ごま圏点〕簡短に解決しない乎、自分には少しも解らない。今日の日本人の結婚問題程|くどい、いやらしい〔付ごま圏点〕者はない。
 
 三月二十五日(木)晴 今や猫も杓子も洋行する。聞く虚栄の市《まち》仏国巴里には五千の日本人が滞在すると。我等は此上西洋文明を輸入する必要はない。既に輸入せし物を消化して我等自身の新文明を作るべきである。殊に基督教を研究する為に欧米に行く必要はない。欧米自身が今や東方より新光明の来らんことを待ちつゝある。今日欧米に基督教を求むるは暗黒の裡に光を探ると同然である。論より証拠である、基督教研究の為に洋行して不信者と成つて帰つて来た者は随分多い、慎むべき事である 〇訪問客の多い日であつた。其内で最も楽しかつたのは千葉県鳴浜村の海保竹松君であつた。君の農村改良の意見並に試みは大に自分の同情を惹いた。今や問題は信仰箇条でない、|信仰実行〔付○圏点〕である。信仰はいくら深く理想はいくら高くとも実行を以て試みられざる信仰は執るに足りない。我等は殆んど三十年間鳴浜村に伝道を試みて、今その実行を見るに至りしを感謝せざるを得ない。まことに一村を救ふの途は全国を救ふの途である。
 
(34) 三月二十六日(金)曇 雪を見た、不順の気候である。例年の通り柏木日曜学校の生徒等が自分の誕生日を祝ふて呉れた。今月二十四日で満六十五歳である。神の恩恵に由り健康で楽しき仕事に毎日を送ることが出来て感謝の至りである。イザヤ、プラトー、カントと云ふやうな大先生に教へられながら、希望の光に充されて老年を送るの楽しさよ。青年時代より壮年時代を終るまで人生の暴風は激しく身に当つたが、老年に入りてより浪は静まつたらしく、至つて平穏の航海を続けつゝある。今日も亦楽しく研究雑誌四月号の編輯を終つた。
 
 三月二十七日(土)晴 寒気強し。基督教会に於ては信者の|奪り合ひ〔付ごま圏点〕が今猶ほ依然として行はる。善き信者が出来れば他の教会に奪らるゝの虞れが甚だ多い。日本武士の為すを恥とする所の事を英米人並に英米流の基督信者は為して少しも咎めないらしくある。自分等には到底解し得ないことである。彼等は之を称して|伝道上の帝国主義〔付△圏点〕と云ふさうであつて、之を実行することを別に悪いと思はないらしくある。然し是れでは教会の衰へるが当然である。若し神が斯かる行為を祝福し給ふならば彼は神に非ずである。何れにしろ気持の悪い事である 〇チエムバース百科字典第七巻が丸善より配達になつた。其内よりマタイ伝、マカ伝、ミルトン、パウロ、パレスチン等の諸項を読んで大に得る所があつた。
 
 三月二十八日(日)晴 集会変りなし。学期の替り目にて多くの旧き顔は消えて多くの新らしき顔を見る。悲しくもあり嬉しくもある。此日は久振りにて講演を休まして貰ひ、真の休日らしく感じた。塚本と畔上とが立派に代理を勤めて呉れた。自分は何時止めても後は大丈夫であることが判明つて感謝であつた。
 
(35) 三月二十九日(月)晴 甥姪の誕生日を祝し併せて姪の高女卒業を祝する為に家族一同と共に某所に会食した。嗣子は嬰児が代理した。滅多に為さゞる団欒である。甥姪を我家に引取つてより茲に十年、先づ差したる落度なくして保護者の責任を充たし得たことを感謝する。実に重い責任である 〇政治界は大阪松島遊廓事件を以て揉めてゐる。復興局疑獄事件が進行最中なるに茲にまた新たに醜事件が現はれて、日本の社会は頭の巓《いたゞき》より足の蹠《うら》に至るまで健全なる所なきに至つたのである。悔改めざる日本国に引続き審判《さばき》が臨みつゝある。其底止する所は何処なる乎判らない。神の正義の審判が行はれつゝあるのであると思へば感謝である。
 
 三月三十日(火)晴 |此日八人の訪問客があつた。其内八人までが結婚問題を齎らして来た〔付△圏点〕。自分は聖書学徒であつて結婚媒介人に非ずといくら断つても彼等は承知しない。彼等は結婚に余りに熱心であつて、他人の困るを顧るの余裕を持たない。自分は唯事の善悪を判断する事が出来る、其他を知らない。そして自分が纏め得た結婚は未だ曾て一度もない。近着の百科全書にミルトン小伝を読んで彼が大詩人でありしが故に此世の事に就て最も拙劣であつたとの事を知つて大に自己を慰めた。詩人、哲学者、預言者等が此世の事に拙劣なるは当然である。此世の事に巧妙なる宗教家達にはミルトン、プラトー、イザヤ等の心は判明らない。|俗人に馬鹿にされる者でなければ神の高い深い事は判明らない〔付△圏点〕。然るに天の事を語るべき使命を授けられたる者を捕へて地の事を行はしめんとする此世の人等の浅ましさに驚く。然れども彼等は地の事に一生懸命なのである、故に強く彼等を責めない。
 
 三月三十一日(水)晴 勘定日であつた。結婚問題は一もなかつた。主として雑誌校正に従事した。塚本、畔(36)上、石原、自分と四人揃うて甚だ賑かであつた。柏木に信仰は在るが神学的知識が無いと云ふ人ありと聞いて少しく片腹が痛かつた。神学はない乎も知らぬが聖書は少し知つて居ると思ふ。そして又神学の代りに神学以外の事を知つて居ると思ふ。日本に於ける実際伝道に神学の用は至つて尠い。
 
 四月一日(木)晴 春が終に来た。心を寛《ゆるや》かにする必要がある。それには人生の悪事を思はずして善事を思ふ必要がある。赤ん坊は笑つてゐる、桜は咲かんとしてゐる。学者は俗事を度外視して研究に従事してゐる。プラトーやカントの心を以て真理の探求に従事すれば人生は永久の春である。斯く思うて今日も亦比較的に幸福なる一日を送つた。
 
 四月二日(金)晴 古いゴーデー著『聖書の研究』を持出し之を読んで大に能力を加へられた。彼は聖書学者でありしのみならず哲学者であつた。彼の宇宙人生の説明に偉大にして深遠なるものがある。現代に於ては到底見る能はざる本当の神学者である。我等の此『聖書之研究』が瑞西人なる此老先生に負ふ所如何に多かりしよ。ゴーデー先生微りせば此雑誌は斯くも長くは続かざりしと云うて差閊がない 〇今の時代に不平人間の多き事よ。殊に少しく教育ある青年に於て然りである。彼等は其心に於て堪え難き不満を蔵《かく》す。斯かる人達が次の時代を作る乎と思へば実に恐ろしくある。
 
 四月三日(土)雨 田村直臣君の牧する巣鴨教会設立五十年記念感謝会の催しあり、自分も出席して一場の感想を述べた。明治初年の多くの活ける歴史に接して感慨無量であつた。但し過去を顧みるは基督信者の快しとせざる所である。パウロと同じく我も亦「後に在るものを忘れ、前に在るものを望み、神がキリストイエスに由り(37)て上へ召して賜ふ所の褒美を得んと標準《めあて》に向ひて進むなり」である(ピリピ書三章十三、十四節)。過去は如何《どう》あつても可い、善事は凡て未来に於て在る。我等の目前に無限の希望を蔵する無限の未来が置かるゝを思へば、過去を顧るの必要は無くなる。自分は小なる預言者として無限の未来を望みつゝ一生を終らうと思ふ。
 
 四月四日(日)晴 麗はしい復活祭日であつた。但し当研究会に於ては例に由て祭礼は行はなかつた。然し朝も午後も多く復活に就いて語つた。自分は朝は路加伝一章二六-三八節、同二十章三四-三六節、列王下六章一三-一八節等に由り「天使の存在」に就いて話した。話すに甚だ困難なる題目であつた。午後は羅馬書八章一八-二三節に由り「復活の意義」に就いて講じた。此日同じ集会に於て一つの讃美歌を二度歌ふのブマを演じた。後に之を知つて非常に恥かしく感じた。百三十人程の聴衆の一人が自分に一寸注意して呉れゝば避くることの出来る間違であつた。然れども其人の一人も無つた事を知つて非常に情なく感じた。先生が知らずして為す間違を正さんとする勇気を有つ人の一人もない事を知り、是では弟子と云ふ者の全く頼りにならない事が感ぜられて非常に悲しくあつた。然し自分の為した間違である、人を怨む事は出来ない。
 
 四月五日(月)晴 友人某に招かれ伊豆湯河原に行いた。温泉に浸るも愉快であつたが、友人の清話を聞くは更に愉快であつた。我が日本には剛毅の人は全く絶えたと思うたが、茲に其一人を発見して大に我が志を強うした。
 
 四月六日(火)半晴 彼に伴はれて熱海に遊んだ。伊豆半島の春景色は我心を奪はれん計りであつた。海に瀕する山の傾斜面に桜花が松の緑に交りて咲く所は世界に二とは無き景色であつた。午後湯河原の旅宿に帰り、計(38)らずも徳富蘆花君の訪問を受けて非常に嬉しかつた。
 
 四月七日(水)晴 友人に伴はれ馬車を駆りて真鶴港に遊んだ。其附近の貴船神社境内にて相模湾を望みながら弁当を認めた。久し振りのピクニツクである。旅宿に帰り蘆花君に昨日の訪問を返した。君の口より直に往年のトルストイ訪問談を聞き非常に面白かつた。自身翁に会せしが如くに感じた。翁は蘆花君に告げて曰うたとの事である「|日本は何故に今や衰亡に瀕せる西洋文明を採用しつゝあるか、日本は西洋文明に依らず、自から新たに文明を作るぺきである〔付△圏点〕」と。是れ翁が今より二十年前に発せし言であつて、意義深き忠告であつたと言はざるを得ない。蘆花君は日本唯一のトルストイアンである。君ありしが故に日本は此第十九世紀の大預言者に固く結ばれた。我等は此事に就き君に深謝せざるを得ない。
 
 四月八日(木)晴 午後二時柏木に帰つた。多くの郵便物が待つて居た。英文雑誌に対し海の内外より多くの反響が達した。其発行が電報を以て紐育イブニングポスト紙に報ぜられし事を知つた。如此くにして既に世界の注意を惹くに至つて愉快であつた。
 
 四月九日(金)半晴 南風強く塵埃揚る。我が聖書研究会婦人会員中の最年長者吉川義子刀自永眠の報に接し、原宿に彼女の遺骸に対し告別の敬意を表した。彼女は美はしき信仰の持主であつた。大手町以来の熱心なる会員であつて、彼女の老顔を聴衆の内に見るは自分に取り大なる慰藉又奨励であつた。彼女は備後福山の人であつて二十年以上の聖公会所属の信者であつた。然れども数年前に東京に移られてよりは日曜日毎に我が集会に出席せられて大なる満足を感ぜらるゝやうに見受けた。我等は彼女を呼ぶに「吉川のお老母《ばー》さん」の名を以てした。余(39)は一日彼女に問ふて曰うた「お祖母さん、私の説く所と貴女の教会の説く所と其根本に於て違う所はありません、貴女は何故貴女の教会に出席せずして私の集会に来られます乎」と。時に彼女は笑を含んで曰うた「先生少し違ゐます。教会の説く所に生命がありません、貴君は同じ事を説かれますが、其内に生命があります」と。彼女は自分より九歳の年長者であつて今年七十五歳であつたと記憶する。天国の実在を信ずること己が故郷の実在を信ずるが如く、常に歓喜を以て死に就いて語られた。斯かる次第であれば今彼女の遺骸に別を告げたが、少しも死別れたやうな感じは起らなかつた。多分聖国に於て我を迎へて呉れる者の内に、際立て見える者は我が愛する吉川のお老母さんであらう。まことに福ひなる事である。唯然し今日以後我が聴衆の内に彼女の姿を見る能はず、我が講演のオルソドキシーを保証して呉れる者の無くなりしことを悲しむ。聖公会の監督や其他の教職は我を拒否するも、吉川老姉の如き平信徒の我が信仰に裏書して呉れる者のありしを知つて我が志を強くせしこと幾何《いくばく》なりし乎を知らない。世に貴き者とて老熟せし信仰婦人の如きはない。彼女の霊永へに主の国に在りて安かれである。
 
 四月十日(土)曇 久振りにて読書気分になり、イザヤ書三十七章、ヱレミヤ記九章の研究が出来て楽しかつた。我が幸福はすべて我が小なる書斎に於て在る。一歩我家の門を出づれば限りなき危険は我が前に横たはる。教会は人を集めんが為に我を看板として使はんとする。人は皆な我を利用せんとして我を助けんとしない。黙示録廿二章十五節に曰く「犬及び魔術を為す者、凡て※[言+荒]言《いつはり》を好みて虚妄《いつはり》を行ふ者は城の外に在り」と。「城の外」を「家の外」と読んで事実其通りである。油断ならぬ世の中とは日本今日の状態である、殊に油断ならぬは基督教会である 〇四月号成る、例に由り感謝と祈祷を以て発送した。
 
(40) 四月十一日(日)晴 桜花満開、麗はしい春の聖日であつた。市内は花見客と航空ページエントとに賑はつた。飛行機の東京襲撃が演ぜられつゝあつた。内では朝は「悪魔の存在」に就て、午後は耶利米亜記第九章に就て語つた。悪魔の智慧と力とに当るに聖書の外に武器なしと語つた。まことに神と其聖言に頼りて「患難《なやみ》を受くれども窮せず、詮方《せんかた》尽れども望を失はず、迫害《せめら》るれども棄られず、跌倒《たふさ》るれども亡びず」である(哥林多後四章八、九節)。悪魔は偽はりの兄弟となりて我等の間に入り来り、我等の内を紊し、我が羊を奪ひ去るも、我は神に依りて強しである。斯くして多くの厭な事があるも、希望と感謝とを以て日々を送ることが出来て大感謝である。
 
 四月十二日(月)晴 昨日の講演に対し左の如き反響が達した。
  前略、本日の研究会上の御話「悪魔の存在」之程私に恐怖を感じさせたものは今まで只の一度もありません。御話聞き居る内、目の前に悪魔の影が見え、憎らしさの余り拳《こぶし》を幾度か振上げました。幸ひ其悪魔に勝つの武器を最後に頂きましたので、勇気と悦びに満ちて帰りました。
悪魔! 彼は実に恐ろしい奴である。彼は立派の信者の形を取りて聖徒の間に現はれ、彼等をキリスト並に相互より離間し、其団合を破壊して悦ぶ。今年に入りてより我が団体も亦如此くにして善き二三の羊を彼れ悪魔に奪ひ去られた。其事を目撃する我が心の辛らいことよ。而かも羊は奪ひ去らるとは知らないのである。悪魔の驚くべき奸智は其処に在る。
 
 四月十三日(火)晴 肉の父の命日である。例年の通り謹んで之を記念した 〇新たなる興味を以て創世記第一章を研究した。如何に見ても驚くべき記録である。神の言として見るより他に途がない。之に科学的価値なしとの近代人の申分は取るに足りない。之を天文学並に地質学と併せ読んで深遠の意義がある。此事に関する瑞西(41)の学者アガシ、ギヨー、ゴーデー等の教導を感謝せざるを得ない。彼等の名を記述するさへ深い歓喜の種である。
 
 四月十四日(水)晴 北風にて寒し。藤本医学博士再婚し、其結婚式を司つた。新夫人は所謂信者に非ずと雖も貞淑なる日本婦人なるが故に、茲に我等の信仰に循ひ、喜んで此式を挙げた次第である。勿論聖書あり祈祷あり|酒無き〔付△圏点〕結婚式であつた。今日までに我等の同志が所謂不信者を迎へて、其婦人達が熱誠なる信者と成りし実例が|いくつ〔付ごま圏点〕もありたれば、今回の事も亦同一の結果に終る事と信ずる。「善人是れ信者」と見る方が、「教会の人是れ信者」と見るよりも遥に正確である。
 
 四月十五日(木)晴 塚本と共に千葉県山武郡鳴浜村本須賀に往いた。海保竹松君主唱の農村組合倉庫落成祝賀会に出席し一場の演説を為さんがためであつた。来会者四百人以上あつた。自分の演説に対しては屡々「ノー」の声が揚がつて随分と困まらせられた。禁酒を実行すれば毎年何十万円と云ふ金が浮揚ると云へば「ノー」とやられる。自治独立は宗教に基礎を置く所の精神修養に待たねばならぬと云へば「ノー」と来る。「ノー」と云ふ為の「ノー」であつて弁明の為しやうが無きには困つた。後に聞けば此日聴衆の多きは彼等が自分の演説を聴かんが為に来りしに非ずして自分の後に演ぜられし浪花節を聞かんが為であつたとの事で、村落に於ける自分の価値の如何に尠きかを示されて大に覚る所があつた。帰途東金町に信仰の友の一団を訪問し、此は聖き会合であつて、失望は感謝に変じ、桜咲く春の夕暮れの汽車に乗り、夜遅く相木に帰つた。
 
 四月十六日(金)晴 過去十年余り柏木団の一人として親交を続け来りし所の福田襄三君、今回明治学院神学部を卒業したれば、更らに神学研究を続けんが為に今日渡米の途に就かれた。君は今は神学士(B・D)であり、(42)教会公認の教師であれば、其点に於ては遥かに我等以上である。或は我等の一人として独立伝道に従事せらるゝならんと期待せしも、今回教会に入りて其公認教師と成られしことは君の為に計り却て幸福なりし事と信ずる。教会の立場より見たる無教会団体は甚だ不安なる所であれば、福田君の如き教会関係の深き者が我等の仲間を去り教会と行動を共にせらるゝ事は無理からぬ事である。
 
 四月十七日(土)晴 聖書に孤児を顧みよと教へてあるが故に自分も出来得る限り孤児を顧みた積りである。然れども今日まで孰れも不結果に終り痛歎の至りである。孤児は導くに最も困難なるものである。自分と雖も生みの父の代理を為すことは出来ない。然るに孤児よりは生みの父の愛を要求せらるゝのである。そして之に応ずる能はずとて彼等の叛き去る所となる。斯んな辛らい役目はない。時に之を思ふて人生に失望する。
 
 四月十八日(日)曇 朝は満員の集会であつた。パウロ伝研究の第一回として使徒行伝第一章十五節以下を「人の選びと神の択び」と題して講じた。午後は八分の集会であつて、耶利米亜記第九章の後半部を講じた。諸学校の新学年の開始に由りて我が研究会の会員が急に増した。殊に著しき現象は上流社会の青年男女にして其親達は基督教を賎しめ又は棄てし人たるに拘はらず競うて我が教を聴かんとて集り来る者の多き事である。斯くして神は小供に信仰を起して親達の不信に報ひ給ふ。不信の日本に於ても勝利はやはりヱホバの神に帰する。有難い事である。
 
 四月十九日(月)晴 英文雑誌の原稿を作らんとして苦心した。外国より強き反響ありて愉快であつた。我等の国は此世に在らずと雖も広き世界は狭き日本よりも善くある。又在独逸の内村医学士より興味多き書翰と彼地(43)製作の小品を送り来りて尠からず家庭の歓喜を促した。嫌な事は沢山あるが快き事も亦尠くない。
 
 四月二十日(火)晴 南風強く、塵埃揚り、不愉快なる日であつた。単に赤ん坊の健康が案ぜられた。此日また強く神に倚《たよ》るの必要を感じた。自分が努めた所で何も為し得ない、唯全能者に依頼みて、彼をして自分に在りて自分の為すべき事を為して頂くべきである。斯くして自分は老いても能力の不足を感じないのである。自分に省みて自分が担ふ責任は到底負ひ切れない、然し乍ら「汝の齢に循ひ我が恩恵汝に伴ふべし」と誓ひ給びし神に依頼みて我は死に到るまで有効的に働くことが出来る。何時になりても懐くべきは信頼の福音である。
 
 四月二十一日(水)晴 後藤子爵が六十九歳の高齢を以て我が政界の浄化運動を開始されしと聞いて同感に堪えなかつた。其成功は甚だ覚束なしと雖も、氏の意気に対しては き尊敬なき能はずである。政治は国民を改むるにあらざれば革むる能はず、そして国民は其霊魂を救はるゝにあらざれば浄化されず。後藤氏は源を浄めずして流れを浄めんとするのであれば、事の成らざるは殆んど明白である。然し試むるは試みざるに勝さる。氏の為に成功を祈る。
 
 四月二十二日(木)晴 英文四枚を書きし外に何事をも為し得なかつた。只上よりの能力を待望むばかりである。
 
 四月二十三日(金)晴 自分と殆んど同齢の人にして家産を作つて今や死を待つ者があり、爵位を得んとて奔走する者あるを聞いて感慨に堪えない。自分も若し神が御用の為に捕へて下さらなかつたならば同じ運命に終つ(44)たのであらう。全く神の恩恵である。時には貧を歎き、不遇に泣いた事があるが、今となりて見れば是等凡てが彼が自分を世より絶ち、キリストの国に引き寄せ給ふ途であつたのである。実に感謝である。自分が選らんで取つた途ではない、神に余儀なくせられて入つた途である。禍ひなる哉成功者又幸運者と言はざるを得ない。財産も要らない、爵位も要らない、只キリストと共に幾分なりとも十字架を担はせられ、彼の聖名の為に困しむ事が出来て大感謝である。
 
 四月二十四日(土)雨 八重桜満開である。歯痛で悩んだ。柏木女子青年会の婦人連と共に前回に引つゞきブライアントの『森の讃美歌』を読んだ。肉は病み霊は悩むことありとも、為さねばならぬ事は如何にかして為すことが出来て感謝である。義務と思へば辛らくあるが、特権と思へば楽しくある。人生実は神の恩恵に浴する事である。神より能力を賜はりて其御業に従事せしめらるゝ事である。「ヱホバは仁愛、公義、公道を行ひ給ふ者である」と云ふ(耶利米亜記九章二四節)。彼は我等を待たずして是等の事を行ひ給ふ。我等は只彼が行ひ給ふ事に少しく参与さして頂くまでゞある。彼の公義の大流に我が小舟を浮べて之と共に流るゝ事を許して頂くまでゞある。
 
 四月二十五日(日)曇 朝は二百五十人、午後は百五十人余の出席者があつた。午前はピリピ書三章一-十一節に由り「パウロの家柄」と題して語つた。午後はテモテ前書六章十節に由り「金銭を愛するは諸悪の根本なり」と云ふ事に就いて話した。歯痛に悩むに拘はらず平常通りに語ることが出来て感謝であつた。此日九州福岡市に於ては『聖書之研究』読者九州大会が開かれた。之に対し自分よりは「キリストゴジシンタイカイヲツカサドリタマハンコトヲイノル」と打電せしに、「セイカイニテカミノサカエアガリシヲカンシヤス」との返電があ(45)つた。
 
 四月二十六日(月)雨 雷鳴り、雹降り、風暴れ凄い日であつた。歯痛と疲労とにて終日床に就いて休んだ。引続き小間題にて悩まさる。然し乍ら我が心には大問題が横たはる。それは此世の問題に非ず、人に関はる問題に非ず、神と宇宙と実在とに関はる問題である。只斯かる問題に就て語る人なきを悲しむ。今や話題と云へば低いツマラナイ此世の問題である。家計整理とか農村改良とか云ふのが其最良の部分に属するのである。宗教問題と云へば会堂建築、教勢拡張位ゐが其の頂上である。「汝の住居は俗人の中に在り」である。願ふ今日と雖もソクラテス、プラトー、アリストテレス、カント、ヘーゲル、フイヒテ等と共に此世の人等とは全然別の世界に棲息せんことを。
 
 四月二十七日(火)晴 人生最も辛らい事は子を育てゝ其子の叛く所となる事である。之に類して辛らい事は弟子を教へて其去る所となる事である。幸にして第一の不幸には遇はないが、第二の不幸には幾度も会うた。そして幾度《いくたび》会うても辛らさは少しも減じない。子は幾人有つても其一人を失ふは一子を失ふが如くに辛らくあるが如くに、弟子は幾人有つても其一人を失ふは一人弟子を失ふが如くに辛らくある。然し是れ亦人間通有の経験であつて、自分計りが免かるゝことは出来ない。そして又人間の経験は神御自身の御経験である。
  ヱホバ語り給ふ、言あり曰く、我れ子を養ひ育しに彼等は我に叛けり。牛はその主を知り驢馬は其主人の厩を知る、然れどイスラエルは識らず、我が民は暁らざるなり
とある(イザヤ書一章二、三節)。そして我等に臨みし辛らき経験に由り、幾分なりとも神の御心を推察し奉る事(46)が出来ると知りて、我が痛みの無益ならぬを知る。そして我自身が彼に叛きまつりし者の一人でありしを知りて、我は我に叛きし者を悉く赦さねばならぬ事を暁る。斯くして神を信じて凡ての辛らい事が感謝に終るは実に感謝すべき事である。
 
 四月二十八日(水)晴 独逸ミユンヘン市有名の出版業者にてヨハネス・ミユラー、アルベルト・シユワイツエル等の著書を出版するA・アルバース君より友情に充ちたる書面が達し非常に嬉しかつた。此んな温かい手紙を近頃受取つた事はない。書面は特に『英和独語集』Alone with God and me を読んで其感想を述べしものであつた。「|此書を読むはバツハの音楽を聞くやうであつた〔付○圏点〕」との事である。自分としては是れ以上の讃辞を受くることは出来ない。さすがは独逸人である。彼等は深く考へる民である。自分は沢山に書を著はしたが、独逸人程自分の真意を解して呉れた者はない。英人は全体に東洋人を見くだし、米国人には霊魂の深い事は全然解らないと称して可なりである。自分は自分の思想を独逸人に解つて貰ふ為に英文に綴つたのであると思へば不思議に堪えない。アルバース君はアルプス山の尭スタルンベルゲル湖の畔の森の中にて余の小著を手にして一日を費したりと云ふ。実に親切なる読方である。斯かる読者を一人得る為に一書を出版する充分の価値がする。余の一子が今や独逸に在りて余の為に多くの友人を作りつゝあるは、彼に取り其父に対し最大の孝養である。人生は悪い事ばかりでない、時には斯んな聖い嬉しい事がある。自分の一生は神に恵まれたる一大ローマンスと見るが適当であると思ふ。
 
 四月二十九日(木)雨 咽喉痛にて昨夜来発熱し今日は床に就いて休んだ。思ひを欧洲アルプス山の北麓に向けて馳せた。床中彼地の友人に送らんが為に一篇の英詩を草した。日本に於て到底世界的の大運動は起らない。(47)日本人はそれが為には余りに狭少である。世界人類を思ふの心はやはり西洋人に有つて日本人に無い。実に歎かはしい事である。然し同志を広く世界に求むることが出来て感謝である。
 
 四月三十日(金)晴 寒風依然として去らず珍らしい天候である。昨日よりはやゝ快し。近頃京城に移りし我が若き同志の一人より左の如き通信があつた。
  京城の日曜日の朝の電車は聖書讃美歌を手にした朝鮮の人の多く乗り合せますことは著しい事でございます。然し日本人の教会に行つて見まして讃美歌持たぬ人、甚しきは聖書も讃美歌も持たぬ人があり、聖書も新約丈けの人が非常に多く、又入口に立つて世話してゐらつしやる方が、入つて来る人に「讃美歌あげませうか」と言つてゐらつしやる御親切には聊か呆れた事でした。
若し信仰の事に於ては、今日の所、全体に、日本人の方が米国人よりも善くあるならば、其如く朝鮮人の方が日本人よりも善くあるやうに見える。日本の信者は|なまいき〔付ごま圏点〕で、聖書は知らないくせに知つて居るやうな風をして、教会に行くにも聖書を持つて行かない。我が研究会を訪れる人で聖書を持つて来ない者は大抵は教会信者である。誰が此んな悪い風儀を作つたのであらう乎。教会の牧師達に依つて此悪風を改めて貰ひたい。
 
 五月一日(土)晴 漸くにして温い風が吹いて来て気持が快くなつた。再び元の仕事に就く事が出来て感謝である。今日血圧を計つて貰ひしに一〇八であつて、自分の年齢としては至つて低く、其方面に於ては先づ以つて安心である。
 
 五月二日(日)晴 集会変りなし。自分は咽喉未だ全癒せず、主なる講演は塚本と畔上に為して貰ひ、自分は(48)僅かの感想を述べ、最後の祈祷を捧げしに止めた。今日も亦十人余りの入会者があつた。若し我等の集会が教会であるならば純然たる平民教会であつて、有給的教師又は芸術的音楽者は一人も居ない事を高調した。我等の間に職業的神学士なく、孰れも純然たる平信徒であることは柏木の一大特徴である。斯んな嬉しい事はない。Rev.は日本語でほ「坊主」と訳する。そして坊主の宗教程厭らしきものはない。
 
 五月三日(月)晴 英国炭坑夫総同盟にて強く心を動かされた。是は由々しき世界の大事件である。其結果として労資の世界的大争闘が起らぬとも限らない。一大戦争が終つて更らに又より大なる戦争が起りつゝある。罪の悔改より来らざる平和が長く続きやう筈がない。
 
 五月四日(火)晴 米国帰りの或る読者の訪問を受け、彼地に於て『聖書之研究』が多くの|悪事〔付△圏点〕を為しつつあると聞いて甚だ不愉快であつた。其人はメソヂスト教会所属の信者であるとの事であつた。余輩の不思議に思ふは、何の善事を為さず唯悪事をのみ為しつゝある乎の如くに報ぜらるゝ此雑誌が初号以来|許多《あまた》の読者を彼地に有し、そして今猶少しも減ずるの兆候なく、又斯く報ずる人自身が其読者である事である。若し悪い雑誌であるならば今日直に購読を止めて貰ひたい。殊に|教会関係の人達には余輩より進んで廃読を勧告する〔付△圏点〕。是は教会に関係なき人達を目的に発行する雑誌である。日本人が日本人にアツピールする雑誌である。半日本人の教会の人達に喜ばれないのは勿論である。
 
 五月五日(水)晴 イザヤ書三十四章同三十五章を以つて此日を始めた。偉大なる章である。小樽新聞より北海道並に札幌に関する感想を徴せられ、忌憚なく之を述べて後に至つて不愉快に感じた。然し心に思ふ事は外に(49)之を言表はすが忠実である。之に由て札幌と絶縁しても惜しくはない。唯不思議なるは世に自分と札幌との関係が非常に深い者である乎の如くに思ふ人の多い事である。然しそれは事実でない。過去四十年間札幌は自分の事業に対し何等の同情を表した事はない。唯一二の旧友が友誼的同情を表して呉れたまでゞある。其他の事に於て札幌と自分とは赤の他人である。
 
 五月六日(木)晴 四ケ月程かゝつて漸くG・A・スミス著『イザヤ書講解第一巻』の再精読を了つた。自分の知る範囲に於て最良のイザヤ書註解である。全巻四五二頁中ツマラナイ頁は一頁もない。エ※[ワに濁点]ルドの聖書知識にカーライルの精神を加へた者である。註解書と云へば全体に乾燥のものであるが、此註解書丈けはマコーレーの歴史を読むが如くに面白くある。再読して三読したくなる。人に教ゆる事を止めて自分独り学んで居たならば、さぞかし楽しい事であると思ふ。何れにしろ旧著の復読の方が新著の熟読よりも面白く成りしを見て、自分も老人の階級に入りし事に気附かざるを得ない。
 
 五月七日(金)雨 末世の福音宣教師独逸人A・コツフと云ふ人の訪問を受け、友誼的訪問と思ひ、胸襟を開いて談話する内に普通の宣教師的根性を発揮し、自分に向ひ自家宗義の宣伝を始めたれば直に退出を乞うた。実に呆れたる次第である。人を初めて訪問して未だ交際をも重ねざるに宗義宣伝を始むるとは紳士道の上より見て無礼である。而かも西洋の宣教師は斯かる事を為すを少しも耻としない。|宗義の真偽は問題でない、礼節の問題である〔付△圏点〕。まだ三十歳になつた計りの青年伝道師が、年長者の自分に向ひ、斯かる態度に出るとは日本人としてはとても許す事が出来ない。斯かる宣教師の下に立つ日本の信者諸氏が彼等が日本に在りては斯かる無礼を再び演ぜざるやう忠告せられん事を望む。|何れにしろ宣教師の訪問程厭な者はない〔付△圏点〕。今日は独逸人と云ふので騙された(50)のである。斯んな宣教師が居る以上は日本に基督教の拡まらないのは少しも怪しむに足りない。
 
 五月八日(土)晴 使徒行伝問題に頭を悩ましてゐる。諸家が何れも説を異にしてゐる。自分としては今猶チユービンゲン学派の首領F・C・バウルの解釈を棄てる事が出来ない。何れにしろ行伝を文字通りに受取る事は信仰上の大危険である。聖書学上の大問題である。
 
 五月九日(日)晴 集会変りなし。朝は使徒行伝九章に依り「パウロの改信」に就いて語つた。語るに甚だ六ケ敷い問題であつた。午後は耶利米亜記第十章の前半を講じた。昨日口中の手術を受け終日床に就いて休んだが、今日は平日通り講壇に立つ事が出来て感謝であつた。義務を果すに足るの力は与へらるゝものである。健康を害ふを懼れて義務を怠るべきでない。神は必要なる力を賜ひて義務を遂行し能はしめ給ふ。有難い事である 〇札幌独立基督教会牧師金沢常雄君よりの書簡に曰く
  ……札幌の俗化も最早救ひ難い程度であります。クラーク先生は泣き給ふでせう……クラーク先生の胸像の除幕式を行ふは恰かも予言者の碑を建るが如きであります。何んとなれば今や大学内に同先生の信仰も精神も忘れられ棄られて居るからであります。云々
自分も同感である。それが故に自分は今回の五十牢記念祭に出席せざる事にした。たゞの「お祭り」である。学者や志士の出席すべき所でない。嗚呼堕落せる哉我が札幌よ。
 
 五月十日(月)晴 雑誌五月号を発送した。久振りにて藤井武君の訪問を受けて嬉しかつた。君の基督教会観察が自分のそれと全然符合するに驚いた。此上は教会と断絶するより他に途がないと語り合うた。宣教師が自分(51)等の発行する英文雑誌を甚《いた》く嫌ふと聞いて至極く尤もであると思うた。然るに是は在朝鮮の宣教帥の一団が之を歓迎すると聞いて之にも亦驚いた。今や彼等を案内して日本内地を視察しつゝある総督府外事課の小田君より笹子発の左の電報が達した。
  御寄贈下されしジヤパン・クリスチヤン・インテリゼンサ、朝鮮外人教育家内地視察団員に渡せし所、皆な感心して拝読し、即座に購読申込者五名あり、帰鮮の後申込む者多数あり、御好意を深く感謝す、小田
と。長い電報である。之に由りて凡ての宣教師が我が敵にあらざるを知りて嬉しかつた。
 
 五月十一日(火)曇 パウロの故郷たるキリキヤ並にタルソの地理歴史に就いて読んだ。此地ありて此人あるは当然である。
 
 五月十二日(水)雨 アムンセンは彼の飛行船ノルゲ号にて北極を目ざして進みつゝある。近代の快事とは此事である。英国の総罷業にて世界全体が気を腐らしつゝある際に、此の壮挙に由りて全世界の人気を引立つゝあるアムンセンの功績は絶大なりと謂ふべしである。
 
 五月十三日(木)曇 若きダヌンチオ作『クオヴアデイス』の活動写真を見た。其規模の大なるに驚いた。如此くにして教会や宣教師に依らずして活動写真に由て基督教は広く我国に宣伝せられつゝある。然し劇化せられたる基督教の初代歴史である。そして又伊太利人の作であれば天主教的趣味を帯ぶるは止むを得ない。勿論事実はそれとは大に異つてゐたに相違ない。若し自分が監督したならばもつと事実らしき画を写したであらうと思うた。何れにしろ一度見て置く充分の価値ある活画である。
 
(52) 五月十四日(金)曇 寒気加はり復び炬燵を作つた。好本督君英国より帰り友人四人と共に君と会食した。英国並に欧洲の近況に就て聞き大に学ぶ所があつた。アムンセン北極横断飛行に成功せりとの新聞記事を読み、人類の為に祝せざるを得なかつた。此は世界の平和的征服であつて、人類の確実の所得である。シーザー、ナポレオン、モルトケ将軍の功績は到底此一探険家のそれに及ばない。アムンセン万歳、彼の外にナンセンを産ぜし小邦那威万歳である。
 
 五月十五日(土)曇 寒気引続き強し。未だ曾て見しことなき不順の気候である。口中治療の為に何事も成らず、毎日無為に暮らして居る。
 
 五月十六日(日)晴 集会変りなし。朝は「異邦伝道の開始」と題し、使徒行伝十三章に由り、パウロの伝道旅行の大略並に其第一節の意義を講じた。午後は哥林多後書二章十七節に由り、常に正直を語るの困難と、正直なり得るの途に就いて語つた。即ち正直であらねばならぬと思ふ丈けでは正直たる事が出来ない。パウロの如くに「誠実《まこと》に由り、神に由り、神の前にキリストに在りて」のみ常に正直たる事が出来ると語つた。講演の結果如何は知らずと雖も、講師に取り講演其物は常に愉快である。聖書研究会が教会化せられずして、常に純然たる研究会として存せん事に努力する。それが教会化せられた時は、それが死んだ時である。信仰団体が栄えんが為には今日の教会と絶交することの必要なるを益々切に感ずる。
 
 五月十七日(月)晴 又複無為の一日であつた。善き説教を為さんと欲すれば神に祈る、然れば善き説教を為(53)すことが出来る。善き論文を書かんと欲すれば神に祈る、然れば善き論文を書くことが出来る。準備々々と称して準備丈けでは善き説教も出来ず、善き論文も書けない。何事も祈りである。善き書籍を求めんと欲して神に祈る。善き品物を購はんと欲して神に祈る。「汝等我を離れて何事も為す能はざるなり」である。そして祈りの特権の我に在るあれば、我は如何なる責任を担ふても恐れない。
 
 五月十八日(火)晴 今日も亦自分では何事も為す能はず、神が自分を以て為さんと欲し給ふ事のみが成るのである事に気付いた。斯んな事は既に能く判明つてゐべき筈であるのに、今日に至つて新たに教へられねばならぬとは自分の鈍きに呆れざるを得ない。「人は凡て生れながらにして天主教徒である」とは西洋の諺であるが、自分が何か為さねばならぬと焦せる点に於ては自分も亦天主教徒であり、米国人であることを否むことは出来ない。願ふ本当のプロテスタントと成りて、自分の計画や努力に一切|倚《たよ》らざるに至らん事を。
 
 五月十九日(水)晴 引続き口中の治療にて悩まさる、然し健康を得る為の苦痛なるが故に我慢する。歯の為には少年の時より困難した。一生涯の悩みであつた。然し自分に取りては其必要があつたのであると信ずる 〇此人はと思ふ人が信者にならず、また信仰を棄てる。此んな人がと思ふ人が信仰に堅く立つて動かない。信仰の事は実に意外である。誰が信者であつて、誰が不信者なる乎は後に成つて見なければ判明らない。但し信仰を説くの必要なる事丈けは確かである。神に依て用ひられて|或人〔付○圏点〕を益せずしては止まない。然し予想と事実とが余りに違ふが故に度々ビツクリする。
 
 五月二十日(木)曇 今日は医師の都合にて口中の治療を休み、一日の慰安を得た。依て朝より夜に至るまで(54)ペンを手にして働き、沢山に英文原稿を書いて楽しかつた。又四月二十五日に九州福岡に於て開かれし九州読者大会の委細の報告が達し、之を読んで涙がこぼるゝ程嬉しかつた。ヤツパリ九州人であると思うた。東北人や北海道人の到底及ぶ所でない。国を思ふの念はヤツパリ九州人の内に最も強くある。維新の際に九州人が日本の天下を取つたには充分の理由がある。日本の精神的革命も亦九州人を以つて始まるのであらう。自分の如き今日まで東北、北海道に嘱目したりし者は今に至つて目が醒めた。東北並に北海道の駄目な事が今に至つて判明つた。今より東北より西南に眼を転ずるであらう。北海道に与へんとせし精力を九州に注ぐであらう、そして残る短き生涯に於て今日までの失敗を償ふであらう。思へば無理も無いことである。九州は日本立国の基である。日本の文化は九州より始つたのである。九州は首頭《あたま》であつて東北は尻尾《しつぽ》である。北海道の如きは尻尾の端である。近頃北海道に大失望せる此際、九州より此の善き報知に接して、新たに世界を発見したように思ふて愉快極まりなしである。
 
 五月二十一日(金)雨 朝日新聞英文附録 Present Day Japan なるものを見て驚いた。実に厖大なる英文雑誌である。我が英文雑誌インテリゼンサーとは克くも異《ちが》つて居る。彼の紹介する日本が真の日本である。商売と快楽の追求の外は何もなき日本である。正義も武士道も有つたものではない、全然米国化されたる日本である。そして惟り朝日新聞のみでない、凡ての日本人が外国人に紹介せんと欲する日本は同様の日本である。実に厭になつて了ふ。此上精神的日本と云ふが如き者を紹介せんと欲する事の如何に馬鹿らしき事よ。
 
 五月二十ニ日(土)雨 或る教会通より東京諸教会衰退の状況を聞いて驚き且悲んだ。有力なる教会にして無牧なる者尠からず、而して之を充たさんと欲して候補者を得る能はずとの事である。外国宣教師は何百人も居(55)るが彼等は何の用をも為さない。求道者は盛んに起るも彼等を迎へて教ゆるの教師が無い。基督教が漸く国民に歓迎せらるゝに至りし頃には之に応ずるの準備が無いとは実に情けなき状態である。如斯くにして教会は消滅して他に精神的に日本を救ふ途が開かるゝのではあるまい乎。
 
 五月二十三日(日)雨 集会変りなし。朝は行伝十三章一-一二節に由り「パウロのクブロ島伝道」に就て語つた。午後は男女青年二百人余りに対し耶利米亜記第十章後半部を講じた。雨天に関はらず聴衆には殆んど変化がなかつた。
 
 五月二十四日(月)雨 口中の治療其他にて障害多きに拘はらず、終に雑誌六月号を書き上げて感謝であつた。如何に見ても自分が作る雑誌ではない、「或る他の者」が自分を使つて作り給ふ雑誌である。もはや満二十六年に近づきつゝある。政府や教会より俸給を受けて為した仕事で無いことを思ふて一層有難くある。官吏や教会者には独立信者の有難味は解らない。月々俸給を貰はなければ不安心のやう人には神の活きて居たまふ事は解るまいと思ふ。生活の安定を保証せらるゝに非れば働くことの出来ないやうな米国流の基督信者には到底自分が経過し来つたやうな人生の快味は解し得られないと信ずる。
 
 五月二十五日(火)曇 左の書面が達した。
  拝啓、貴雑誌『聖書の研究』初号よりの読者でありました私の父(丸山玉次郎)は五月号を最後の日の前日まで読み、去る十七日永年の疾病のため永眠いたしました。亡父の意志を継いで私は継続して貴誌に依つて行きたいと存じてゐます。貴誌に由り神の摂理の致す所を感じ、永年の信仰の読物として最後まで手にしてゐ(56)た貴誌に卸し、私が亡父に代り感謝と共に御礼申上ます。長野県豊科町丸山秀樹。
実に感慨無量である。二十六年間の誌友を失つたのである、そして彼の遺子が継いで読者たらんと欲するのである。大感謝である。
 
 五月二十六日(水)半晴 忙がしい事である。雑誌並に出版物の校正は続々とやつて来る。新たに原稿を作らねばならぬ、旧い原稿を訂正せねばならぬ。少女は来つて心の苦痛を訴へる、之をも聞いてやらねばならぬ。其他種々雑多の用事がある。其間を窃んで哲学や聖書研究書類を読む。午睡も貪る。唯知る全能の父が我を助け又護り給ふ事を。今日は特に北海道十勝嶽爆発に関する記事を読み、強く我心を痛めた。天然と見れば天然である。警告と見れば警告である。此天災が有つても無くつても北海道人は悔改めねばならぬ。況して有つたに於てをや。
 
 五月二十七日(木)半晴 十勝嶽爆発に次ぎ秋田県男鹿半島北浦町に於ける貯水池決潰の惨害があつた。又今朝青森地方には強震があつたとの事である。昔しの予言者をして言はしめたならば是れ神の大なる警告である。然し近代人はそんな事を信じない。彼等は天災を恐れても罪を悔改めやうとは為ない。今日は日本海々戦々勝第二十一回紀念日とて東京は其祝賀にて持切つた。
 
 五月二十八日(金)曇 英文雑誌に対し西洋人の読者より続々と同情の書面が達し甚だ愉快である。さすがは西洋人である。彼等は自己を攻撃されても正当なる攻撃は喜んで受け、又攻撃した人を尊敬する。余の宣教師嫌(57)ひなるを承知しながら余を信頼して呉れる宣教師の在るを聞かされて甚だ済まなく思うた。宣教師の内にも正しい、真に日本を思ふ人の在る事は事実である。何れにしろ英文雑誌は善き企計《くわだて》であつた。之に由つて敵と味方とが判明し、今後西洋人の間に尠からず真の友人を得ることが出来て、彼等と共にキリストと日本との為に働くであらう。
 
 五月二十九日(土)雨 我が言ふ事を聞かずして反抗し、後に到つて失敗し、終に我に援助を乞ひし者、今日までに随分多くあつた。そして今猶ほ聴容れずして反抗する者が絶えない。彼等の反抗を目撃する事が大なる苦痛である。然し如何ともする事が出来ない。反抗は近代人の生命である。殊に宗教道徳の教師に反抗する事を英雄的行為なりと彼等は思ふ。斯かる場合に於て我等はパウロに傚ふて「斯くの如き者をサタンに交《わた》す」より他に途がない(コリント前書五章五節)。実に辛らい事である。
 
 五月三十日(日)雨
盛んになりつゝある。大雨に拘はらず午前と午後とにて四百人の来会者があつた。殊に午後の青年組が会毎に盛んになりつゝある。午前は行伝十三章十三-四一節に由り「ピシデヤのアンテオケに於けるパウロの伝道説教」に就いて語つた。午後は「日本最初の新教宣教師」と題し、琉球那覇に八十年前に上陸せし洪牙利人ベルナド・エアン・ベテルハイムの略伝に就いて述べた。|我が札幌同窓の一人志賀重昂君が北の方札幌の五十年祭に行かずして、南の方琉球に往いて此英雄的宣教師の上陸紀念会に臨んで呉れた事を厚く同君に感謝せざるを得ない〔付○圏点〕。クラーク先生は偉らいがベテルハイムは先生よりも遥かに偉らくある。今より八十年前に単独、帆船で琉球に来つて伝道し、琉球語に聖書を訳した此洪牙利生れの猶太人にしてキリストの僕たりし人の功績は実に偉大なるものである。旧い宣教師の内には斯かる人があつた。尊敬せざるを得ない。今は居ない。
 
(58) 五月三十一日(月)曇 梅雨の空である。月末の支払日である。世に金を要求する者の多きに驚く。今や金銭慾は正当の慾として認められ、何人も此慾を充たさんとして少しも耻ない。今や実際に金を獲る為の人生である。然し此間に在りて「金銭を愛するは諸悪の根なり」との聖書の教に服従して世を渡るは甚だ興味多くある。此事を為し得なければ基督信者でない。希伯来書十三章五、六節が非常に有難くある。
 
 六月-日(火)曇 夏服準備のために何を衣んかと思ひ煩ひ、甚だ不愉快であつた。咋朝発行の『大阪毎日新聞』に、『創基五十年の北海道帝国大学』との題下に左の記事が見えた。
  内村鑑三氏は、五十年祭に出て来なかつた。聖霊「行く勿れ」と告げたんだらう。詰襟で化学の教師のやうな、しかして、|らんらん〔付ごま圏点〕と眼を光らせる予言者が列席せず、政治の倫理化を説く後藤子が上客では、この学校も平凡になつた云々
と。まことに聖霊が自分に今度は札幌に行く勿れと命じ給うた。そして行かないで善い事をした。行けば大なる耻をかく所であつた。日本全国の が札幌丈けには精神的偉力が存つてゐると思うた。然るに平々凡々、俗人以下に俗化した事を見て失望した。札幌は其精神を失ふて其存在の理由を失うたのである。然し乍らクラーク先生を遣り給ひし神は存在し給ふ。彼は今後更にクラーク先生、又は先生以上の人を遣りて我が愛する札幌を復興し給ふと信ずる。旧い人達には望みが絶えた。然し神は必ず新らしい人を起して北海道に関する我が半百年の祈祷を聴き給ふと信ずる。「夜は既に央《ふけ》て日近づけり」である。俗化は既に其極に達したれば、義の太陽は遠からずして我が愛する札幌の空にも昇るであらう。
 
(59) 六月二日(水)半晴 此日末永敏事対中島静江の結婚式を司つた。末永は角筈時代よりの弟子であつて、医学者として米国に十年留学し信仰を守つて今日に至つた者である。中島は過去八年間の忠実なる聴講者であつた。純粋なる信仰的結婚であつて、彼等の幸福と共に我等一同の幸福を祈つた。
 
 六月三日(木)半晴 我等両人、鎌倉扇ケ谷に江原万里と彼の家庭を訪問した。一日の善き休養であつた。
 
 六月四日(金)晴 午後七時二十分東京駅発にて大阪に向ふ。好本督君同車す。久々振りの大阪行きである。
 
 六月五日(土)晴 朝七時廿四分京都駅に下車す。友人の迎ふ所となる。山口菊次郎君の案内にて新設のケーブルカーを利用し、比叡山に登る。何等の足労なくして四明ケ嶽に達す。久々振りにて平安城と琵琶湖とを足下に望む。昔ながらの偉観である。序に延暦寺を訪ふ。伝教大師、弁慶、護良親王、法然、日蓮等の古事を想はせらる。自分には寺院よりも森林が慕はしくある。正午少し過ぎ下山し、下加茂にドクトル佐伯を訪問し昼飯の接待に与る。又同志社に海老名弾正君を訪問した。旧友と談ずるの感あり、時の移るを忘れた。明治十六年同君を上州安中に訪問した時の事を回想した。今より四十三年前である。君は今年七十歳、自分は六十五歳である。信仰の方面を異にすると雖も、全生涯を日本国とキリストとの為に費した事は同一である。今や旧友或ひは逝き、或ひは引退するに際し、猶ほ健康を恵まれ、青年時代の志望を懐いて変らざるを相互に祝した。三時半京都駅を発し、四時半大阪着、直に中之島公会堂に開かれたる故今井樟太郎永眠二十年記念会に出席した。故人の旧知関係者にして招かれし者八十余名、自分はチーフスピーカーの任に当り、故人の事業精神並に志望に就いて述べた。一同晩餐の饗応に与る。会終りて後兵庫県蘆屋に行き、今井家の客と成つた。多事の一日であつた。
 
(60) 六月六日(日)晴 午後三時大阪天満教会に於て故今井樟太郎の為に記念講演を為した。「回顧五十年」と題して語つた。他人が自分の聖書研究に同情せざりし時に、独り後援者と成つて呉れし故人の友誼を回想した。来会者三百人以上あり、気持好き集会であつた。閉会後、「聖書之研究」読者有志の晩餐会を堂島ビルヂングに催うした。出席者二十人、各自感想を述べ、是れ又有益なる会合であつた。此夜ス蘆屋今井家の客と成つた。
 
 六月七日(月)晴 今井家主人に案内せられ、甲山の麓甲陽公園に遊んだ。阪神人の娯楽機関の完備せるに驚いた。彼等が金を欲しがるのは無理でないと思うた。夜七時半より蘆屋教会に於て演説会を開いた。牧師長谷川敞君司会の下に「伝道成功の秘訣」と題して語つた。来会者三百人、昨日以上の気持好き会合であつた。会後又復読者会を開きしに、四十人余の出席者あり、感想祈祷尽きず、別れを惜んで散会した。
 
 六月八日(火)晴 朝八時蘆屋を発し、大阪にて特別急行に乗換へ、名古屋常治君と同車し、東海道の初夏の風景を眺めながら、夜八時半東京駅に着いた。九時過ぎ家に帰り、先づ第一に孫女の安否を問うた。今日初めて寝返が出来たと聞いて嬉しかつた。友は天下到る所に在る。京都も大阪も神戸も皆な我が交友の領分である。日本全国が我がホームである。神が賜ひし大なる特権である。
 
 六月九日(水)晴 旅の疲れにて何事をも為し得ず、只鬱々の内に一日を送つた。他人を益せんと欲すれば自分が損せざるを得ない。外出演説は後《あと》の結果が恐ろしくある。
 
(61) 六月十日(木)晴 雑誌第三百十一号を発送した。三百号以来既に第十一号に達した。何時になつたならば終るものにや。記者も倦まず読者も倦まない。福音であるからである 〇旅の疲れ少しく癒え、今日はまた読書が始まつた。旅行中は伝道師気分で、家に帰つて故の学者気分に成る。自分に取りては学者に成つた時が幸福の時である。
 
 六月十一日(金)晴 室内八十六度の暑さであつた。今度大阪へ往いて見て、日本の首都が震災の結果として東京より大阪に移つた事が解つた。東京は今は単に思想(理窟)の都であつて、実行に於ては到底大阪に及ばない。大阪に於て信仰は盛んであるとは言ひ兼ねるが、然し十万円の会堂を建んと欲して、相談は直に纏まり、寄附金は直に集まる。東京に於ては三万円の会堂を建つる事は随分困難である。而已ならず、議論百出して相談は容易に纏らない。そして実行の大阪に於て、議論の東京に於てよりも信仰は確実であるやうに見受た。随つて思想の悪化も大阪の方が東京程甚しくない。何れにしても日本国の為に賀すべきである。関東や東北や北海道が悪化しても、関西なり九州なりが比較的に健全であれば、それ丈け日本国が健全なるのである。そして近頃に至り、『聖書之研究』が急に関西、四国、九州に於て読者を増した事は著しい事である。
 
 六月十二日(土)晴 驟雨あり。疲労未だ去らず、生産的には何事も為し得なかつた。只マクギフハアト著『使徒時代史』中、パウロに関する数十頁を読み、啓発せらるゝ所尠からず。此日独逸老大哲学者ルードルフ・オイケン氏が或る友人に書を寄せて英文雑誌インテリゼンサーに対し深厚なる同情的理解を表する言を読んで尠からず力附けられた。昨日或る友人より在横浜の米国宣教師の一団は内村が書いたものとあれば、其何たるに拘はらず一切眼を触れないと聞いて少しく不快に感ぜし折なりければ(彼等が此くするは尤もなりと雖も)、老大哲学者(62)の同情は一層有難く覚えた。我と偕なる者は我に敵する者よりも大なりである。
 
 六月十三日(日)雨 冷たき、鬱陶敷き厭な天気であつた。それにも拘はらず講堂は朝も午後も殆んど満員であつた。自分は朝は使徒行伝第十四章に由りパウロのガラテヤ伝道の大意に就いて話した。午後は過る日摂津蘆屋に於て為せる講演を繰返した。不相変楽しき聖日であつた。多数の青年男女に福音を吹込むに優さる幸福はない。之を為すは政府の大官又は教会の大監督たるに勝さるの名誉又功績である。パウロとバルナバは「弟子等の心を堅くし、其の常に信仰に居らんことを勧め、又|多くの艱難を歴て我等が神の国に至る可きことを教ふ〔付△圏点〕」(二二節)とあるが、自分等も同じ事を勧め又教へつゝある。
 
 六月十四日(月)雨 引続き陰鬱の天候である。マクギフハートの『使徒時代史』に、ヱルサレム会議に於けるパウロの立場に関する著者の説明を読み、同情同感に堪えなかつた。著者が今の教会に対する自分の立場を弁明して呉れて居るのではない乎と思うた。三十年前の米国には如此き思ひやり深き学者があつた。今の米国人と来たら話しに成らない。二者の間に隔世の感があるやうに思はれる 〇引続き多くの悩める人等より悲しき書面を受取る。彼等は自分を煩悶治療の専門医であるやうに思うてゐるらしくある。聖書を研究せんと欲するのではない、目前の悲痛を癒して貰ひたいのである。彼等の内に有夫の婦人多きは著るしき事実である。今日の日本に於て家庭が如何に紊乱して居る乎が察せらる。
 
 六月十五日(火)晴 引続き大なる興味と同情とを以て『使徒時代史』を読んだ。パウロの伝道成功の秘訣は演説説教に於てあらずして、個人としての接触に於てあつたとの説に全然同意せざるを得ない。使徒行伝は伝道(63)歴史であるが故に公的行為に就て記す所が多くして、私的行為に就て述ぶる所が尠い。故に行伝のみに由て初代伝道の有様を知らんと欲して、我等は大なる誤謬に陥るの危険がある。そして教会は全体に此危険に陥つたのである。米国宣教師が自分の早い頃の伝道を嘲けりて「火鉢伝道」と称せし、其伝道法がパウロの主なる伝道法であつたのである。彼等が若しハーナクやマクギフハートの書を精読したならば、自分と同じ様に座談的伝道を試みたであらう。米国に於ても学者は宣教師とは違うたる意見を懐いてゐる。
 
 六月十六日(水)晴 西洋では聞かないで日本に於て盛んに行はるゝ事は|老人が若手に担がるゝ事である〔付△圏点〕。日本に於ては此事の為に身を亡した老人が沢山に有る。西郷隆盛、犬養毅、箕浦勝人、句仏上人等は皆な此災禍に罹つた者である。実に恐るべき事である。「大将」と呼ばれ先生と崇められつゝある間に、|つまらない〔付ごま圏点〕人に担がれて、彼等の犠牲となりて身を亡すのである。|日本は悪い国である。名を挙げ功を立た後に、後輩に担がれて其亡す所となる危険のある国である。此国に在る者は死んで墓に入るまでは安心は出来ない〔付△圏点〕。
 
 六月十七日(木)晴 「東北を日本の尻尾」と詈りたりとて、東北の友人より小言が来た。之に対して左の一首を以て弁解した。
   愛子《いとしご》を尻尾のはしと詈りて
     責めねばならぬ親の苦しさ。
東北に誠実がある、然し見識がない。愛国心と世界観念とが非常に欠乏する。
 
 六月十八日(金)晴 五月二十二日独逸ミユンヘン発、若き内村より彼のフラウヘの手紙の一節に曰く、
(64)  此間アルバースさんにスキ焼を御馳走した。そのアルバースさんから手紙が来て、お父さんから手紙を貰つたと云つて大喜びであつた。丁度ストラスブルグのシユワイツエルの留守宅を訪問しに行く日に受取つたから皆んなに手紙と写真を見せて来るとか書いてあつた。誠によい人である。
斯くて独逸も、今は仏蘭西領のアルサスローレーンも我国と同然である。友人は世界到る所に在る。今日は又、我が海軍の士官と水兵が死を目して英船ネープルス号の乗組員全部七十三人を救ひし記事を読み日本国の為に祝した。日本人は戦争に計り強いのではない、|人を救ふ為にも強いのである〔付○圏点〕。之に引替へて昨年大西洋に於て日本汽船来福丸が遭難した時に、或る英国船が之を知りながら救はざりしに較べて、日英孰れが実際的に基督教国である乎、大なる疑問である。イエスが「善きサマリヤ人」の例を引きてユダヤ人を誡め給ひしやうに、彼が今在し給ふならば「善き日本水兵」の例を引きて、常に基督数的国民なるを以て誇り我等を賤視《いやし》め来りし英国人を責め給ふであらう。
 
 六月十九日(土)曇 梅雨の空である。左の如き書面が達した。
  私は土佐の山の中で貧しい生活をして居るものであります。毎月の『聖書之研究』誌を待ち兼ねてゐて、むさぼる様に拝見して居ります。山奥の貧しい私を研究誌と天然とがどんなに慰め、力づけて下さるかわかりません。こんな山奥でキリストを信ずる事が出来まして何んぼう嬉しいか知れません。涙がこぼれます。『大阪毎日新聞』で先生の写真を拝見しまして嬉しさの余り失礼をもかへり見ず書きました。御赦し下さいませえ。
イエスは曰ひ給うた「汝等貧しき者は福ひなり、神の国は即ち汝等の所有なれば也」と。四国の山の中にて貧しき生括を営みてキリストを信ずる者は、束京の中央にて文化生活を送りながら神とキリストに関し許多《あまた》の疑を懐(65)く近代人よりも遥かに福ひである。
 
 六月二十日(日)半晴 我家の純正を維持する為に尠からず苦心した。此悪しき世に在りて悪魔は小なる隙間より入つて来る。油断はならない。集会は滞りなく済ました。朝は「割礼問題」と名づけて使徒行伝第十五章の大意を述べた。パウロの論争は我が論争である。所謂ヱルサレム会議は自由福音が制度的基督教と衝突した第一の場合である。故に其中に無限の興味があるのである。牛後は路加伝十章二五節以下に依り、此たび英船ネープルス号の船員全部を救ひし日本海軍々人を善きサマリヤ人に擬《なぞら》へて語つた。我も聴衆も感極まつて泣かざるを得なかつた。
 
 六月二十一日(月)曇 好本督君の英国帰還を送る為の送別会をインテリゼンサー社員一同と共に丸ビル九階精養軒食堂に於て催した。内に大阪の山本忠美君も加はり甚だ愉快なる会食であつた。四囲騒然たる大食堂の一隅に卓に就いて山県五十雄君が比較的に長い感謝の祈祷を捧げた。是れ多分此食堂が開かれて以来の始めての事であつたらう。隣室の酒場に於ては日本の貴婦人が一人でホヰスキーを飲んで居る際に我等は感謝の食事を共にした。米国に傚ひたる此バベルの塔の階上に於て我等は信仰を言現はして憚らざりしを感謝する。
 
 六月二十二日(火)晴 鸚鵡のローラに善き烏籠を買うてやつた。彼の喜び又家族一同の喜びである。彼れ南米より我家に来りてより茲に十有五年、然るに未だ本当の鳥籠の内に棲《すま》つた事がなかつた。今日初めて籠らしき籠の内に飼つて貰ひ、彼は大得意である。鳥も十五年偕に居れば愛する家族の一人である。彼が眼の色を変へ翼を伸ばし、クツクツと唸《うな》る其声を聞くからに彼の飼主までが嬉しくなる。善き慈善を為して楽しくある。
 
(66) 六月二十三日(水)曇 南米コロムビヤ国の地理歴史を読んで大なる興味を覚えた。此は日本人に取り善き発展の地ではあるまい乎。日本本国に三倍する国土を有し、而かも其人口は僅かに七百万に過ず。物産豊富、赤道に近く位ゐすると雖も、地高きが故に気候温和にして文明生活に適す。我が同志の或者が斯かる地に往いて我が理想を実現して貰ひたい。外にエクワドルあり、ペルーあり、ボリビヤあり、南米の太平洋海岸丈けでも日本人発展の地は充分である。世界は広し、失望は無用である。
 
 六月二十四日(木)晴 英文雑誌の校正を為し、邦文雑誌の編輯を為した。前者は神と|国〔付○圏点〕の為である。後者は神と|貧者〔付○圏点〕の為である。貧者は独り在りて他に神の福音を聴く機会を持たざる者を指して云ふ。主として地方に在る単独なる無教会信者を指して云ふ。『聖書之研究』は主として彼等を目的として発行せらるゝ雑誌である。教会信者、基督教男女青年会員、其他すべて浮気なる浅薄なる人達には読んで貰ひたくない。
 
 六月二十五日(金)晴 高等教育を受け、外国にまで行いて研究を積みし日本人にして、今に至つて羅馬天主教会に入る者があると聞いて驚く。而かも彼等の内の或者が数年又は十数年余の聖書講演に列し、自から余の弟子を以つて任ずる者であると聞いては更に驚く。彼等の言ふ所を聞くに、「内村先生の説く所と天主教会の説く所と其|差異《ちがひ》は紙一枚である」と。実に驚くべき誤解である。余自身は二者の間に天地の差の在る事を知つて居る。此事に関し近頃余の許に来りし無学の一少女の方が是等学士連よりも遥によく事理を解して居る。彼女が余に書き送りし書簡の一節に曰く
  柏木の楽しいお集りのある事は露知らずして私も今少しにて天主教会に|は入〔付ごま圏点〕る処でありました。私共の家か(67)ら二丁程はなれて天主教会が御座います。此一月より二月の中旬まで父が病気を致さず、その後養生の面倒を見がてらに温泉にも参らずに居りましたならば、まことの福音も心得ずに今頃は|ろざりお〔付ごま圏点〕をかぞへつゝ暮さねばならぬ事と相成り、まことにあぶない処で御座いました。此事思ひめぐらし神様の御めぐみに唯有難く感謝致します。
「智者|安《いづ》くに在る、学者安くに在る、此世の論者安くに在る……神は智者を愧しめんとて世の愚かなる者を選び給ふに非ずや」である。
 
 六月二十六日(土)曇 古我貞周君朝鮮旅行より帰り、京城に於ける『聖書之研究』読者の名簿録を示して呉れた。之に依ると読者は凡て四十八名であつて、其内に中学校高等女学校の教師が十人あり、牧師(組合、日本基督、日本メソヂスト、ホーリネス、救世軍)が十二人、其他官吏、会社員、法院判事、中枢院勤務等で多数は所謂中流以上の人達である。余の知る在京城の読者にして古我君の名簿に録してない者があるが故に尚此他にも有る事は確である。之に由て見るに『聖書之研究』は諸教派諸階級に行渡つて居る。誠に喜ばしき事である。若し自分が京城に行くことが出来て、読者会を開くならば、さぞかし楽しき集会を持ち得る事であらう。
 
 六月二十七日(日)晴 本学年最後の聖日であつた。朝は満員、午後は百六十人の集会であつた。朝は約翰伝四章廿四節に就て説教した。「霊と真とを以て霊なる神を拝せざるべからず」と云ふ事に就て語つた。「真」とは此場合に於ては「誠実」又は「実行」であると云うた。実行是れ有力なる祈祷である。此祈祷を以てするにあらざれば聖霊の恩賜に与る能はずと云うた。意味は平凡であつたが、必要なる説教であつたと思ふ。午後は加拉太(68)書三章一-三節に依りて「新教と旧教の区別」に就て述べた。天主教会の人々が「内村は紙一枚にて天主教に来るべき人である」と云ふとの事を聞いて、其全然然らざる理由を述べた。余と天主教との差は紙一枚所か、二者の間に天地の差がある。余が今の新教会を嫌ふ理由は新教なるが故に非ずして、新教でありながら旧教化しつゝあるが故である。余は新教諸教会に入来りし天主教的精神並に行為を攻むるのであると云うた。畢竟するに、自己の幸福や安全を欲する者は天主教に行くぺし。自己は地獄に落されても神の正義の成らんことを欲する者に非ざれば、余輩と偕に歩む能はずと云ひて会員全体の決心を促した。今や所謂知識階級の人々にして新教を去りて旧教に走りし者あるに際し、此警告を発するの必要がある。去る者は去るべし、余輩は彼等を止めんとしない。然し乍ら内村と天主教とは近い者であるやうに思ふは大なる誤解である。余はルーテル、ツヰングリ、カルビンと偕なる者であつて、天主教にプロテスト即ち反対する者である。余は死すとも天主教に入らない、天主教に入る位ゐならば基督信者にならなかつた。本学期最後の講演として誠に気持の好きものであつた。
 
 六月二十八日(月)曇 バビロンに行いた。書籍を買ふ為に。他に用は無い。恐ろしい所である。自分の如き者も中元と暮には支払に少しは忙がしい。但し世人の如くに塵埃《ほこり》を浴びて奔走するの必要なき事を感謝する。
 
 六月二十九日(火)晴 久振りにてルーテル伝を読み気が清々した。彼は最も徹底したる信仰の所有者であつた。パウロの福音を解せし第一人者であつたらう。パウロの直弟子と雖もルーテル程彼を解し得なかつたであらう。ルーテルはパウロの再来と称して可なる大信仰家であつた。自分も今より四十年前に此信仰を聞いて起つた者である。然るに教会に此信仰なく、為めに彼等は自づと旧い道徳教に|あともどり〔付ごま圏点〕する虞れがある。|唯キリストを信ずるに由てのみ救はる〔付△圏点〕と云ふのである。実に大胆極まる信仰である。今の教会者や宣教師などの到底信ずる(69)ことの出来ない信仰である。願ふ全世界が我に反対するも我はルーテルの信仰に立ち得んことを。
 
 六月三十日(水)雨 休暇が来りしやうに思はれ、ペンを投じて読書に耽つてゐる。今日は使徒時代史を百頁程読んだ。多くの六かしい問題を提供せらる。時に或びは信仰を動かさるゝ事ありと雖も天主教徒や聖公会々員に成りて一定の信仰箇条を奉戴するよりも遥かに増しである。|自由研究に由てのみ活きたる信仰は得らる〔付○圏点〕。
 
 七月一日(木)曇 主イエスは我が義、我が贖、我がすべてゞある。彼は単に我が発生ではない。彼は我に神たるの価値ある者である。近代主義者に此事が解らない。彼等は歴史的に彼を知らんと欲して信仰の深みに達し得ない。教会にも反対であるが、モデルニズムにも反対である。
 
 七月二日(金)曇 引続き使徒時代史研究。パウロに対する同情が益々厚くなり、自分もやゝ彼と同一の立場に在る事が判明つて大に慰められた。
 
 七月三日(土)晴 那須利三郎翁東北巡遊より帰り、山形県鶴岡に於ける諏訪熊太郎君の伝道ぶりに就き委しく伝へて呉れ、涙がこぼるゝ程嬉しかつた。前号に於て為せる「東北は日本の尻尾なり」との暴言は取消さねばならぬ。神は到る所に福音の善き証明者を有し給ふ。人の力ではない、神の能である。聖霊に由り、イエスを主と呼びまつる事が出来て我等に他に何の資格なきも彼の善き証明者と成ることが出来る。人生何が幸福なりとて救主イエスを発見して福音の役者となりしに優さる幸福はない。其意味に於て諏訪君は最も恵まれたる人である。
 
(70) 七月四日(日)雨 朝丈け集会を催うした。来会者堂に満ちた。塚本はコリント後書五章二節に就て講じた。自分は同四章十六節以下に就て少し計り感ずる所を述べた。世には逆境のどん底に在り、病は癒されず、内外の迫害は止まざるに拘はらず、信仰は益々進み、伝道心に燃ゆる兄弟姉妹の在る事を述べた。竟《つま》る所信仰は境遇の結果ではない、聖霊の働らきである。病が癒されて信ずるのではない、癒されずして之に勝ち得て余りあるのである。基督教は境遇改善の途でない、|外なる境遇に超越する衷なる力である〔付○圏点〕。其点に於て真の福音と近代式の米国流の基督教との間に天地の差がある。我が信仰の兄弟姉妹の内に、最も気の毒なる境遇に在りながら、讃美の声高らかに、日々の生涯を送り他に歓びを分ちつゝある者の有るを知りて感謝に堪えない。福音は古い昔の事でない、今働らく能力である。まことに神は今、昔よりも遥かに著るしく此世に於て働らき給ふ。
 
 七月五日(月)曇 基督教会はパウロの教の誤解より起つたものであるとのマクギフハト氏の説に同意せざるを得なかつた。パウロの信仰は余りに深くして、之を解し得る者は極くの少数者であつた。而かも彼の人格が余りに偉大なりしが為に、何人も其感化を蒙らざるを得なかつた。茲に於てか人は彼の教を誤解しつゝも彼の記臆を留めんとした。斯くして成つたものが教会の教義であつて、信仰の自由を束縛する強き縄となつた。まことにパウロに取り迷惑千万と云はざるを得ない。パウロを正当に解するならば今日の教会は有り得ないのである。近代の歴史的研究に由て此事が明白に成つて有難くある 〇山形県の或る信仰の友が多くの困難の内に在りながら喜んで村落伝道に従事しつゝあると聞きたれば、左の一首を送りて彼に対する我が同情を表した。
   苦しみは内と外より寄せ来るも
     讃美は高し出羽の村里
之と同時に、本誌前号掲載の「東北は日本の尻尾なり」との暴言を取消す。
(71) 七月六日(火)半晴 雑誌校正を待てども来らず、故に読書の外に孫女と遊んだ。むつかしい歴史研究のあいまに小児と遊ぶは何よりも好き楽しみである。
 
 七月七日(水)曇 札幌より金沢常雄君の来訪あり、如何にして最も有効的に北海道に於てクリスチヤンとしての使命を果たさん乎との問題に就て相談を受けた。結局我等は教会制度を離れ、個人個人に独立し信仰を養ひ、又相互に助け励まし、成るべく静かにイエスの弟子たるの途を歩むべしとの議に一致した。堕落を極めたる北海道にも少数の神に選まれたる者が在る。彼等を教へ導くのが我等の責任である。御役人や此世の勢力者等はどうなつても可い。然し「神の赤子」を棄てはならない。我等ほ是等の「貧しき者」の為に生き又働かなければならない。斯く語りて感謝を以つて別れた。
 
 七月八日(木)晴 久振りにて羅馬書が恋しくなり、其第十章を通読して大なる慰めと力とを得た。殊に第九節が有難かつた。「汝もし口にて主イエスを言表はし又心にて神の彼を死より廻らしゝを信ぜば救はるべし」と。「心に信じ口に表はせば救はるべし」と云ふのである。仏教の言葉を藉りて云ふならば信じて発する「南無」の一言にて救はるぺしと云ふのである。さうなくてはならない。研究も修養も要つたものではない。|信、表〔付○圏点〕、簡短の極である。之に由て聖霊が降る。行為が自づから出来る。平安と歓喜は茲に在る。感謝の極みである。
 
 七月九日(金)晴 大なる興味を以てマクギフハト著『使徒時代史』を読み了つた。其六七二頁を一字余さず精読した。近頃此んな面白い書を読んだことはない。其パウロ観の如き満腔の同情を表せざるを得ない。此著を(72)為した故に著者が教会裁判に訴へられたと云ふのだから驚く。彼の属した米国長老教会と云ふのはそんな教会である。自分の如きも若し教会に属してゐたならば勿論異端論の故を以て訴へられたに相違ない。然れども此書が多数の識者に由て読まるゝ書であるを知つて著者を訴へし教会が多数の帰依を失ひつゝあるは明かである。異端の故を以て自分を責むる宣教師連は先づ此書を読んで見るがよい、彼等自身の立場が如何に脆弱なるを覚るであらう。自分と雖も凡ての点に於て著者と一致する能はずと雖も、然れども大体に於て著者の観察の誤まらざるを承認せざるを得ない。今日の教会が学者の裁判に於て其根本の立場を否認せられしは誤りなき事であると思ふ。
 
 七月十日(土)晴 雑誌第三百十二号が出た。昨年三百号祝ひを為してより茲に満一年である。或ひは四百号に達するのであるかも知れない。驚くべきものは聖書である。他のものは滅びても是れ丈けは亡びない。どう考へても自分は善き仕事を択んだのである 〇栃木県人の或る部分の道徳心低落の実例を聞かされて慨歎に堪えなかつた。斯くまで低いとは今に至るまで知らなかつた。或点に於ては日本人中最低の民であると云うて可からう。然し彼等の内にも神に択まれたる少数の民あるを知つて感謝に堪えない。失望の中の感謝である。
 
 七月十一日(日)晴 畔上と共に講壇を勤めた、来会者二百五十余名。今年は夏期転地の企なく、為に心が至って平安である。朝起きて小児を乳母車に乗せて犬のパロと共に近所を散歩する。午後は涼風に吹かれながら読書する。小児の笑顔と学者の思想とありて我が日々の生涯は至つて幸福である。
 
 七月十二日(月)晴 好本督君の慫慂に因り支那伝道参加を復活する事に決し非常に嬉しかつた。斯かる事は結果を目的としては為すことは出来ない。「汝のパンを水の上に投げよ」との教に従ひ、成功を眼中に置かずし(73)て従事すべき事である。それにしても世には助けられたい人が多くして、助けたい人の尠ないには失望する。世界伝道参加と云ふやうな事を持出しても之に応ぜんと欲する者は滅多にない。「我が事業を助けて呉れ」「我が教会を助けて呉れ」と云ふ者のみである。実に厭に成つて了ふ。
 
 七月十三日(火)半晴 今日も亦一二の教会問題を持込まれて困らせられた。教会はどう見ても厄介物である。今や「教会と云ふものは無い方が宜いのではありますまい乎なー」との言を度々教会の人達より聞く。彼等の多くが教会を持余してゐる容子である。教会は彼等の進歩を妨げ発展を阻害する。実に気の毒千万である。然し乍ら自分より進んで教会を廃せられよと勧めることは出来ない。駄目とは知りつゝも頼まるれば|教会は教会として〔付ごま圏点〕助けて上げねばならない。辛らい|つとめ〔付ごま圏点〕である、然し辞する事はない。教会は今日まで未だ曾て一回も自分を助けて呉れた事はないが、自分は今日まで幾回も教会を助くるべく余儀なくせられた。そして教会に不信者扱ひにせらるゝのだから面白い。
 
 七月十四日(水)晴 庭前の木蔭に椅子を据へ、涼風に吹かれながら読書した。思ひを二千年の昔に馳せ、聖徒の努力を想像し、同情の念を禁じ得なかつた。神学的キリストと歴史的イエスとの区別を認めざるを得なかつた。前者は参考として価値ある者、後者は直に傚ふべき者である。イエスは教会並に神学の創作者にあらざりし事は何よりも明白である。
 
 七月十五日(木)晴 気温九十度に達し暑い日であつた。俗用を弁ぜんが為にバビロンに行いた。プリマス兄弟派の宣教師某氏の訪問を受けた。相方の注意に因り事無きを得て感謝であつた。自分は勿論プリマス派の信条(74)に服する者にあらざる事を明白に述べた。欧米人は何れも生れながらのセクタリヤン(宗派者)であれば我等東洋人は自己の立場を守る必要からして、彼等欧米宣教師に接しておのづから宗派者たらざるを得ないと述べた。実際の所、宣教師に基督信者として目せらるゝ事は大なる迷惑である。彼等に信者として認められない事が真の信者たる何よりも善き証拠であると思ふ。
 
 七月十六日(金)晴 暑気引続き強し。支那伝道参加を回復し、今日前年同様の金額を支那内地伝道会社に贈り、非常に気持が好かつた。之にて甘粛省蘭州と山西省平陽とに於て引続きクリスチヤンの医師が我等に代つて支那人に医療を施して呉れる次第である。神が此小慈善を継続すべく我等の志を励まし、又必要なる此世の財貨を賜ひし事を深く感謝する。
 
 七月十七日(土)晴 引つゞき暑い日であつた。少し計りの読書を為した外に他に何も為し得なかつた。一人の来客もなく、只孫女と遊んだのみであつた。E・F・スコツトの『第四福音書論』並にR・ゼーベルグの『黙示とインスビレーシヨン』に多くの黙想の資料を供せられた。
 
 七月十八日(日)晴 集会変りなし。畔上が「聖書知識の制限性」と題して語りたれば、自分も之に対して所感を述べた。聖書は天然の事、哲学の事、其他の事に就き示さゞる事甚だ多しと雖も、然し神の何たる乎に就ては明示して余りがある。我等は宇宙万物の根本にして其支持者なる神が我等を愛する父であることを明示されて他に何ものをも知らんと欲しないのであると述べた。
 
(75) 七月十九日(月)半晴 久振りにて片瀬江之島に遊んだ。相も変らざる俗地である。唯空気が新鮮なる丈けであつて他に何の善き事もない。多くの社会的研究を為して帰つた。我家に優さる所あるなしである。
 
 七月二十日(火)晴 引きつゞき暑い日であつた。過去五十日間沢山に高等批評系の書を読み、益する所も甚だ多かつたが、損する所も亦尠くなかつた。然るに今日は計らずも宗教改革時代の偉人の伝記を読み、故《もと》の福音的信仰に立帰ることが出来て嬉しかつた。批評は壊つこと多くして建つる所は殆んどない。冷酷無慈悲なる宣教師の教会を壊つには益があるが其他に何の益する所がない。我が信仰はやはり改革者のそれである。基督教の中心点をパウロの羅馬書に於て見る信仰である。其処に我が信仰を据える時に我が霊魂が安全である。之に比べて見て近代の神学者が提供する信仰の如き、之を信仰と称する丈けの価値もない。ルーテル、メランクトン、ハイデルブルグ教義問答の著者等の信仰が慕はしくある。
 
 七月二十一日(水)曇 久しく自分の講演を聴きし人にして近頃反抗の態度に出し者が、其友人に書き贈りたりしと云ふを聞くに、「僕がクリスチヤンに成るも成らぬも僕の勝手である」と。斯く言ひ得る所を見ると、此人は未だクリスチヤンに成らなかつたのである。人は欲《この》んでクリスチヤンと成ることは出来ない、成らざらんと欲するも成らしめらるゝのである。人は全能者に余儀なくせられてクリスチヤンに成るのである。信仰の此秘密が解らずして信仰を語ることは出来ない。成るも成らぬも勝手であると云ふ人は未だ成つた事のない人であつて、多分一生涯成らずして終るのであらう。信者に成らうと欲へば成れると思ふ人の如き、自分の講演会には一切来て貰ひたくない。
 
(76) 七月二十二日(木)曇 在留の米国人が英文雑誌に載せたる自分の論文を読んで怒つてゐると聞いた。然し自分の攻撃を待つまでもない、米国今日の状態は実に言語同断と云ふより他はない。東京朝日新聞ニユーヨーク特派員十九日発の電報は大略左の通りである。
  驚くべき殺人事件がテキサス州フホートウオースの教会で行はれた。それはフランク・ノリスと呼ぶ進化論反対運動(フハンダメンタリスト派)の急先鋒で同地の有名なる牧師が去る土曜日神聖な教会の中で政見を異にする同地の有力者チツプを三発のピストルで銃殺した事件で流石の米国人もあつけに取られた。然も牧師は即日保釈を許され、日曜日には血なまぐさい殺人の現場であるその教会に集まつて来た無慮六千の善男善女に説教を試み、これに感動して悔ひ改めた男女が五名あつた。そして説教が終ると多くの信者はこの人殺し牧師の前にぴざまづいてその手にキツスし、あるひは感激のあまり彼を抱擁するといふ奇妙な光景が見られた。更にこの殺人事件の報が伝はるとニユーヨークの第一浸礼教会では早速殺人牧師ノリスに招待状を発して説教を頼み牧師は来月一日当地に乗り込んでくるといふ騒ぎである。
勿論新聞電報のことであるから其全部を信ずることは出来ないが、然し之に類したる事の他に在りしことを知るが故に、之を全然無根の報道として棄ることは出来ない。事茲に至つて米国の基督教は堕落の|どん〔付ごま圏点〕底に達したと云ふぺきである。基督教在つて以来斯んな乱暴の行はれたことはない。我等は米国の為に泣き、基督教の為に慨歎に堪えない。
 
 七月二十三日(金)曇 午後大雷雨があつた。空気は清まり炎熱は去り、暫時に天地が一変したかの如くに感じた。夏の東京に在りても斯かる恩恵が下る。衆人と共に苦しみ又喜ぶ其愉快は特別である。
 
(77) 七月二十四日(土)曇 涼風吹き快き暑中の一日であつた。ゴーデー先生のコロサイ書論を読み、又復旧き信仰に立帰ることが出来て嬉しかつた。歴史的イエスを知つた丈けでは感謝と歓喜とはない。宇宙万物を其聖手に握り給ふ今在まし給ふ救主イエスキリストを信じ、彼を心に宿し奉るまでは信仰らしい信仰はない。近代の批判的聖書研究は沢山の事を教ゆるが、此根本的真理を伝へない。其内に在りて深き学識の立場より活ける主キリストを伝へて呉れるゴーデー先生は実に我が大なる恩人である。今日まで幾度か此瑞西国の先生に援けられしことよ。自分がキリストの国に往いて深き感謝を表さねばならぬ人の内の一人はたしかにゴーデー先生である。人世実は真のキリストを示して呉れた人に勝さる恩人はないのである 〇此日、三十年前に名古屋に於て知己に成りし米国美普教会の宣教師U・G・モルフ氏の訪問を受けて嬉しかつた。彼は愛蘭系の米人であるが故に、アングロサクソン族の英米人の如くに傲慢でなく、能く日本人を解し、我等に対し深甚の同情を懐き、見るからに気持の好きキリストに在る愛する兄弟である。米国宣教師の内に斯かる人がある乎と思へば意外に感ずる。彼の今日の訪問は友誼的訪問であつて、普通の米国宣教師が為すが如くに余に説法せんが為でなかつた。まことに珍らしい宣教師の訪問であつた。我等は数回固き握手を交へて再会を約して別れた。モルフ君は今は米国ワシントン州に在りて彼地の日本人を援け、彼等の為に闘ひつゝあるのである。
 
 七月二十五日(日)曇 蒸暑い日であつた。朝は塚本と共に講壇に登り共に旧約ホゼア書第二章を講じた。今日も亦珍らしい外国宣教師の訪問を受けた。彼は我が南洋委任領土に伝道する独逸宣教師エルネスト・ウルリツヒ君であつた。厚い福音的信仰を有し、さすがは独逸人丈けありて教養深く、博き同情の人であつた。一面して主に在る愛すぺき兄弟であることが判明つた。依て此機会を利用し、世界伝道協賛会を代表し、少額の寄附を為して、我等に代つて南洋人に伝道して呉れるやうに彼に依頼した。美はしき信仰的交際であつた。ウルリツヒ君(78)の容貌までが南洋土人化してゐるを見て感激に堪えなかつた。宣教師たる者は斯くあらねばならぬ。日本にも斯かる宣教師が欲しくある。
 
 七月二十六日(月)半晴 用事一先づ片附き、休養を得んが為に例の浅間山麓沓掛に来た。柏木とは打つて変つた静粛の地である。星野温泉の主人の熱き歓迎を受けて有難かつた。多分今年も亦此所で善き休みが得らるゝであらう。山田|鉄道《かねみち》君が同道して呉れた。今夜より柏木に於ては夏期講演会が開かる。若い人達に本城を委ねて自分は出養生をするなどゝは勿体なき次第である。
 
 七月二十七日(火)晴 軽井沢に行いた。相変らず虚栄の市の夏の都である。沢山の宣教師の遊んでゐるのを見た。二里を隔て沓掛は静粛の里である。此所に在りて自分の為にも他人の為にも克く祈る事が出来る。夜、山荘の静けさにウイリヤム・チンデールの略伝を読んで感じた。彼はルーテルと同時代の人であつて、ルーテルが独逸に為した事を英国に為した。チンデールは英国民に英語聖書を供した、そしてそれが故に殉教の死を遂げた。英国民の今日あるは決して偶然の事でない。斯かる愛国者が出て、国民の良心を其の根本に於て潔めたからである。彼れチンデールの生涯は余が今日軽井沢に於て見た多数の英米宣教師のそれのやうな安楽呑気な生涯でなかつた。彼は全生涯を誤解と冷遇と嫉視との内に終つた。そしてルーテルの独逸語聖書に優るも劣らざる英語聖書を英国民の為に作つて、永久に彼等の福祉を計つた。偉大なる人よ。英国民の大恩人であつて、全人類の誇りである。
 
(79) 七月二十八日(水)半晴 スコツトランド国最初の宗教改革者パトリツク・ハミルトンの伝を読み、大に学ぶ所があつた。彼は二十四歳にして殉教し、革正運動の基礎を築いた。英国と云ひ、蘇国と云ひ、斯かる尊き聖徒の血を以て救はれたのである。之に較べて、日本の基督敦の如き、児戯の類であると言はれても仕方がない。自分の一生の如き、チンデールやハミルトンのそれに較べて、何の価値もない事が判明る。国に真の宗教を供するは容易の事でない。唯聖書知識を供した丈けで国は救へない。其為に生ける犠牲と成らねばならぬ。貧困や迫害を歎《かこ》つ位ゐでは到底キリストに在りて国を救ふ者と成る事は出来ない。それにして 福音の為に少しにても苦しむ事が出来て感謝の至りである。
 
 七月二十九日(木)雨 著書の校正に全日を送つた。チンデール、ハミルトン等の伝記を読み、福音の為に苦しむの必要を切実に感じた。福音を説く丈けでは国をも民をも救ふ事は出来ない。キリストに傚ひ民の罪の為に購ひの血と涙とを流さねばならぬ。キリストの苦難の欠けたる所を補はねばならぬ。彼の霊を宿して此罪の世に在りて苦しむのが当然である。パウロが曰ひしが如くに「生くるはキリスト」である。(ピリピ書一章廿一節)。人生を楽しむ為の生命に非ず、自身小なるキリストとなりて自分相応の十字架を担ふて世の罪を購ふ為の生命である。
 
 七月三十日(金)晴 朝は沓掛滞在中の東京府第五高等女学校の生徒五十余名に対し基督教の話を為した。基督教は人をして其罪を知らしめ、彼をして心の根柢より謙遜ならしむる為に必要であると説いた。「さう説かるれば私も信者に成りたくありますが、然し実際に拝見したる基督信者の方々は他人の非行を挙ぐる事に熱心であつて、かゝる方々はどうして神様の前に出て祈祷なさるゝ乎、私には其事が解りません。斯かる実例を沢山に示(80)されて、私は信者に成りたくも成り得ないのであります」とは生徒監の某女史の感想であつた。彼女に対し厚き同情なき能はず、又彼女が信者に成り得ない充分の理由があると思うた 〇午後七時軽井沢に行き、彼地集会堂に於て井上伊之助君の台湾生蕃伝道後援会の催しに係る集会に出席し講演の役を務めた。来会者二百余名、内に十名程の外国人(宣教師ならん)を見受けた。土人教化の必要並に福音宣伝の幸福に就き一時間程話した。斯くて朝は所謂不信者に対し、夜は所謂信者に対して語つた。そして自分に取りては不信者に語るは楽しくあつて信者に語るは辛らくあつた。純日本人の誠実に訴ふる方が外国式の基督信者に語るよりも遥かにコンジニアル(意気適合)である。然し友人井上伊之助君の事業を助けると思ひ我慢して行つた。其結果として後はガツカリと疲れた。教会の人々に向つて語ることは成るべく免して貰ひたくある。此夜東京帝国大学の小野塚博士の山荘に客と成つた。
 
 七月三十一日(土)晴 朝八時軽井沢を発し帰途に就いた。車中東京の或る日本基督教会の牧師某君と席を隣にし、種々《いろ/\》の事を聞いた。其内に故植村正久君が自分を嫌はれし事、又其理由を聞かされて故人に対し同情に堪えなかつた。遠からずして君も我も主の台前に立つことであれば、其時に万事は明白に成るであらう。植村君に対し殆んど終生の尊敬を払ひ、君と共に日本今日の基督教をして全然外国人の手を離れて独立ならしめんと欲し、多くの友人の忠告を退けて屡々君に提携を申込みし自分が、何故に斯くまで同君に嫌はれし乎、自分には今尚ほ未解の問題として残るのである。然しどうでも可い。万事は聖旨である。君をも亦誰をも怨まない 〇午後二時柏木の家に帰り、孫女の笑顔に接してすべての問題が解けた。「嬰児の如くに成らざれば天国に入る能はず」。茲に大神学博士以上の大教師が我が為に備えられたのである。
 
(81) 八月一日(日)晴 室内九十四度と云ふ本年第一の酷暑であつた。それにも拘はらず朝の集会に二百名近くの出席者があつた。自分はピリピ書一章二一節「我が生けるはキリスト、死するは我に益なり」に就いて説教した。午後より夜にかけての暑気甚だしく、唯之に耐ゆる外に何事も為し得なかつた。然し多くの人の為に福音を説く為に山を下り来り、彼等と苦熱を共にする事の大なる精神的満足なるを感じた。
 
 八月二日(月)晴 昨日来「黒色青年聯盟」と肩書きしたる三人の訪問を受けた。無政府主義を唱道する為の運動費を寄附せよとの事であつた。自分は基督教の教師として斯かる運動に携はる事は出来ないと述べても容易に承知せず、彼等の要求を謝絶するまでには随分の努力を要した。世には色々の聯盟があると見える。教会聯盟があり、基督教青年聯盟がありて自分は何の関係もなく、時々其図々しさに困らせらるゝが、今日は又黒色青年聯盟に困らせられた。然し何れの青年聯盟も寄附金募集に熱心なる丈けは変りないと見える。自分が是等の人々に対して言ふ事は唯次ぎの一事である。即ち「諸君も私と共に日本人である、故に誠実と独立とを重んじ、諸君の主義方法に賛成し得ざる者の援助を求め給ふ勿れ。諸君の動機《モーチーブ》は諒とする、然し方法は私のそれとは正反対である」と。斯くして彼等の日本人の良心に訴へて彼等の要求を免して貰ふ。然し時々彼等に釣込まれて彼等の使役する所となりて臍《ほぞ》を噛んで悔ゐる。
 
 八月三日(火)晴 暑中の校正日である。苦悩の一日であつた。然し印刷者のそれに此ぶれば軽き苦悩である。読む人は暑中の雑誌製作の苦痛を覚えて貰ひたい。ペンを執る者、活字を組む者、流汗滂沱たりである 〇午後六時半激震があつた。又復現世の不安を感ぜしめられた。
 
(82) 八月四日(水)晴 暑熱去らず堪え難き苦痛である。小児高熱を発し、苦熱以上の苦痛である 〇内村医学士より独逸オーベルアメルガウ発の絵ハガキに左の如く記してあつた。
  ……今日は受難劇を以て聞ゆるオーベルアメルガウ訪問、雨に降られ乍らも大いに愉快さを感じます。質樸なる風俗も米人の金に大分不純になりて来たとか。行く所としてアメリカ人の拝金宗に犯されざる所なし、なげかはしき事に存じます。
アメリカ人の金、全世界を亡びに導きつゝあるものは之である。何れの国の愛国者も凡て之を排斥せんとして居る。恐るぺき者は之である。
 
 八月五日(木)晴 小児の病気快方に向ひ、稍や愁眉を開いた。弱き幼なき者の苦しむを見るは自分が苦しむより遥かに辛らくある。斯くして神が我等の罪に苦しむ状を見たまふ其御心が察せらるゝのである。「其独子を賜ふ程に世を愛し給へり」と云ふが即ち此御心であると思ふ。
 
 八月六日(金)半晴 雑誌八月号の校正を終つた。初刊以来此んな暑い校正を為した事はない。殊に家族と共に小児の看護を為しつゝありし間に為せし校正であつて特別に骨が折れた。例に由つて例の通り「校正恐るべし」である。
 
 八月七日(土)曇 昨日小雨あり、今日は久振りの清涼の一日であつた。新聞紙は相変らず厭な記事を以つて充つ。争議又争議である。国は国と争ひ、民は民と争ふ。何時また世界戦争が始まる乎判らない。内にも外にも人は人の敵である。支那人は支那人の敵である、日本人は日本人の敵である。基督信者までが相互の敵である。(83)今日此際ゴーデー先生の「エペソ書論」を読み非常に有難く感じた。神のエクレジヤに於てのみ本当の平和と一致とがある。そしてそれが今日の所謂基督教会でない事は明白である。
 
 八月八日(日)半晴 朝の集会に二百名余の出席者があつた。塚本が「イエスに対する悪口」と云ふ題にて話した 〇独逸ミンヘン市の出版業者A・アルバース君より第二回の書簡が達した。十三頁の長文である。自分が彼に送りし手紙と孫女と共に撮りし写真とがロマン・ロランド、ニイチエ夫人(彼女は今や八十歳の老齢であると云ふ)、其他ストラスブルグ、バーゼル、ベルン等の知名の文士思想家等の間に持廻はられしとの事である。欧洲に在りては出版業者は著者と対等の交際を為す者であれば、アルバース君に由て自分が欧洲の大文学者達に紹介されつゝある次第である。アルバース君は又深い思想家であつて、同時に最も忠実なるキリストの僕である。彼は言ふ「実体は宇宙に非ず、我等クリスチヤンの衷に宿り給ふイエス・キリストなり」と。彼は又全般的基督教を排し、具体的基督敦を称揚する。彼は曰ふ
  具体的基督教はタルソの猶太人パウロの基督教である。阿弗利加カルタゴの修辞学者アウガスチンのそれである。独逸マンスフエルトの百姓の子ルーテルのそれである。丁抹国コペンハーゲンの敬神家を父母に持ちしキルゲゴーのそれである、而してまた日本人たる内村のそれである。
と。まことに名誉の至りである。アルバース君の如き人に、以上の人等と共に併び称せらるゝは教会より神学博士の称号を貰ふよりも遥かに大なる名誉である。「|信〔付○圏点〕孤ならず必ず有隣」と称すべき乎。
 
 八月九日(月)曇 今日もまた涼しい日であつた。斯かる日があるから下界の人は助かる。高知県の某地より左の如き通信があつた。
(84)  ……常に田舎に居る私共に対し此上なき喜ばしき福音を御伝へ下さる事を深く感謝致します。当地は小さい村落で幸か不幸か煩瑣な教会や、それに関する何物もありませんので、只月々送らるゝ貴誌によつて一同が養はれて居ます。一週三回づゝ同信六七名の者の家を廻り持ちで集会し、常に主と先生とが中心にて慰まれてゐます。
余輩は他にも斯かる集会の在るを知つて居る。大教会は作り得ずと雖も、斯かる小集会が出来れば充分である。初代のエクレジヤ(教会)なるものが斯かる集会でありし事は新約聖書が明かに示す所である。本誌は主として斯かる人達を目的として発行せらるゝものであつて、余輩は教会の人達に嫌はるゝ事を反つて喜ぶ者である。
 
 八月十日(火)晴 久振りにてテモテ前書全部六章を精読した。偉大なる書である。パウロが書いた乎否は別問題として、聖書の中に含まれて少しも耻かしからぬ書である。之を羅馬天主教会や英国聖公会の制度を維持する為の書と見るが故に厭になつて了ふと雖も、斯かる書でない事は平信徒の常識を以つて一読して明かである。一章十二-十七節、六章十一-十六節の如き実に雄大と称せざるを得ない。
 
 八月十一日(水)晴 引続き暑い日であつた。テトス書を通読した。雑誌第三百十三号を発送した 〇基督教界の人物の一人として植村正久氏小崎弘道氏と併び称せらるゝの苦しさよ。自分は元々そんな者ではない。自分はレベレンド(教師)ではない、自分は只一人のイエスの弟子である。自分は教会を作らんとしてキリストを信じたのではない、自分一人が救はれんと欲して信じたのである。そして其信仰を告白したる結果として多くの人々に教師として仰がるゝに至りしは自分に取り不幸此上なしである。自分が宣教師に遠ざかるは主として|彼等に愛せられざらんが為である〔付△圏点〕。宣教師に愛せられて彼等の教会に引込まれて其坊主に為られん事を恐れてゞある。自(85)分はアモス、ヱレミヤ流の信者である。何よりも教職たるを恐れ且忌み嫌ふ者である。
 
 八月十二日(木)晴 又復暑い日であつた。テモテ後書を読みし外に何事も為し得なかつた。苦熱と闘ふが唯一の仕事であつた。
 
 八月十三日(金)晴 小児の病を癒さんが為に家族四人打揃ひて浅間山麓の山荘に来た。久振りにて涼風に触れて一同蘇生の感があつた。此所にまたペンが動くであらう。避暑の為の避暑は勿体なくして自分には為し得ない。病を養ふ為か仕事をする為かである。願ふまた此涼しき所に於て我主の為に何事か為し得ん事を。
 
 八月十四日(土)晴 山荘清涼の一日であつた。校正、文通、読書を為した。神の聖意と云ふ事に就て考へた。何事も人の意志が成るのではない。縦令帝王の意志たりと雖も、又は議会の決議に現はれたる国民の意志たりと雖も、それが成るのではない。成るものは神の聖意のみである。縦し自分が全力を尽すと雖も人一人を信者に成すことは出来ない。自分は唯祈つて神が彼に信仰を起すを待つのみである。|人の無能に対して神の全能がある〔付○圏点〕。そして人は思ひ煩ひて其生命を寸陰も伸べ得ざるが故に、彼は憂慮を去つて唯祈つて待望むべきである。茲に於てか毎日新聞紙を読んで世の成行を推測するの如何に馬鹿らしき事なる乎が解る。それよりも聖書を読んで神の聖意を識るの遥かに優されるを知る。
 
 八月十五日(日)晴 山荘に簡短なる聖日の礼拝を行うた。来会者二十五名程、内に東京富士見町教会の関係者が多かつた。讃美歌祈祷の後にエペソ書第二章を読み、其十四節以下に就いて感想を述べた。信者は一体であ(86)るに止まらず新らしき一人である、One new man であるとの大なる真理に就て語つた。我等は何を廃しても聖日の祈祷讃美を廃する事は出来ない。教会関係の如き問ふ所でない。
 
 八月十六日(月)半晴 高原の霊気に励まされて近頃に珍らしき程働くことが出来た。自分の人格や品性に慄らずして自分を去る者多き由を聞かされて斯かる人達に対して気の毒の感に堪えなかつた。此国に理想的人物を漁りて止まざる人の多きを歎ぜざるを得ない。何故に直に神にして人なるキリストイエスに到りて無上の満足を感じないのである乎。自分の如き者を完全の人なりと思うて頼り来りし事が其人達の不覚ではない乎。自分は自分の著書に由りて自分の罪人なるを表白したる外、自分の完全を表明した覚えは更らに無い。故に自分に頼る人には今日直に自分を去つて貰ひたい。|唯日本人として君子の道に順つて去つて貰ひたい〔付△圏点〕。自分の要求する所は唯それ丈けである。
 
 八月十七日(火)霧 休養の一日であつた。塚本東京より来り、山田鉄道偕に在り、浅間山麓柏木と異ならず。原稿、校正、通信等平常の通りに行はる。唯苦熱の闘ふべきなく、万事よく捗り至つて幸福である。軽井沢とは掛けはなれ、近代人、ブルジヨア、宣教師の悪感化は少しも蒙らない。先づ以つて恵まれたる境遇である。
 
 八月十八日(水)雨 軽井沢に行つた。又復熊本のミス・リツデルの款待に与かつた。幾度会うても謙遜なる偉らい婦人である。彼女が英国婦人であり聖公会の信者である事を忘れる。彼女がたゞ日本二十万人の癩病患者の母である事のみが自分の目に映ずる。少しなりとも彼女の事業に参与する事が出来て感謝である 〇リツデル女史を辞して故島田三郎氏の遺族を訪ひ、茲に小婦人会が開かれ、信仰と日本の教化とを語り、七時沓掛の山荘(87)に帰つた。軽井沢に清き義しき一面のある事を疑ふことは出来ない。
 
 八月十九日(木)半晴 昨夜大雨、今日冷気到る。日本の現状につき多くの恐るべき事を聞かせらる。若し此儘にて進行せば亡国の外はない。然し神在まし給ふ。今日まで導き給ひし彼は此先きも導き給ふ。クリスチヤンは社会を社会としてのみ見ない、神が導き給ふ者として見る。社会以上の勢力の働らきを望み且信ず。故に社会の悪事を聞かされても心を落さない。
 
 八月二十日(金)曇 高原の冷気去らず、却て低地の幸福を思ふ。手紙書きが重なる仕事であつた。是れ又為さねばならぬ事である。手紙を書いて一人に語るよりも原稿を書いて万人に語るの優さるを思ふことありと雖も、又一人一人に語らねばならぬ場合がある。手紙を書くために時々山に来る必要がある。
 
 八月二十一日(土)曇 長野在留加奈太メソヂスト派の宣教師ダニエル・ノルマン氏の依頼に由り夜七時半より軽井沢日本人教会に於て講演を為した。来会者堂に満ち二百四十人有つたとの事である。五十年前の札幌に於けるウイリヤム・S・クラークの伝道に就て述べた。序に日本の基督教は主として日本政府が招聘せし外国教師に由て伝へられたものであつて、外国派遣の宣教師に由て伝へられたものは其次ぎに位ゐすべきものであるとの事を述べた。故に縦し今日外国宣教師が悉く日本を去るとも日本に於て基督教は決して消えない、日本の基督教は支那印度等のそれとは異なり、日本人の基督教であつて外国人の基督教でない事を語つた。宣教師に頼まれながら斯かる講演を為して気の毒に思うたが事実であるから止むを得ない。一時間半の講演を聴衆は動きなき注意を以て聴いて呉れた。日本の軽井沢に在りて「日本人教会」と云ふが如き、実に気持の悪い事である。
 
(88) 八月二十二日(日)半晴 昨夜軽井沢友人の家に一泊し、朝沓掛に帰り、例の通り朝の礼拝を行うた。出席者二十人、塚本司会し、我が意に適ふ外人臭味のなき会合であつた。
 
 八月二十三日(月)曇 内に在りて原稿書きに従事した。歴史は預言であると云ふ事に就て考へた。預言は国民人類に関はる神の聖意である。そしてそれが事実として現はれたるものが歴史である。歴史は人の行動でない、神の聖意の実現である。そして其聖意を前へ以つて伝ふる者が預言者である。
 
 八月二十四日(火)半晴 自働車一台を雇ひ、之に家族一同六人を乗せて霧の軽井沢に行き、宣教師並に東京人の夏の都なる此町の盛況を見せた。一同一度見た丈けで沢山である。我等は斯かる所に止まるを欲せずとの感を懐いて沓掛の山荘に帰つた。柏木が東京の郊外であるが如くに沓掛は軽井沢の田舎である。それ丈け不便で、精神的に清潔である。
 
 八月二十五日(水)半晴 昨夜大雨、今朝霽る。山荘に在りて雑誌編輯自分受持の分を終る。孫児は遊びに疲れて側に安々と寝て居る。裏山の小屋に於ては塚本は遠近の教友五六人を相手にして聖書の講義を為して居る。 〇南洋瓜哇在住の教友加藤長次郎君山荘に訪来り、彼地の風土物産等に就き種々と話し呉れ、大なる興味を覚えた。殊に島民三千五百万が、マレイ人支那人アラビヤ入の別なく、日本人を尊敬し、亜細亜の独立興隆を日本の先導に期待しつゝあるとの事を聞いて感激に堪えなかつた。日本は日本の為に重要なるのではない、亜細亜の為に然かあるのである。西には支那あり、南には馬来群島ある日本は大に其方面に発展すべきである。
太平洋の此(89)岸に此楽土あるに、何を好んで排斥を犯して彼岸に伸びんとする乎。ジヤバ、スマトラ、ボルネオ、セレベス、ニユーギニー、ハルマヘラ等、其多くは未墾の地である。世界は広くある。神を信じて世界を家とすれば、日本人発展の余地はまだ幾らでもある。
 
 八月二十六日(木)晴 久振りの晴天である。或人に何れの職業が信仰維持に最も困難である乎と問はれたれば、|伝道である〔付▲圏点〕と答へた。まことに伝道に従事して信仰を落さない人は偉らい人である。多分伝道界ほど霊的悪事の行はるゝ社会は他にあるまい。其点に於て政治界商業界は遥かに増しである。伝道師が相互を嫉み苦しめるを見ては堪へられない。若し之が基督教であるならば直に之を棄てたく思ふとの観念が起る。自分の如きも幾たびか此誘惑に襲はれた。そして今日と雖も教役者界に出て信仰の動揺が始まる事が屡々ある。基督教の教師と成りて単純の信仰を維持する事の出来るは全く神の恩恵に由る。最も同情を表すべきは伝道師の立場である。彼は何人よりも自己の信仰を維持する為に戦ふ者である。
 
 八月二十七日(金)晴 新聞紙は左の海外電報を載す。
  ハーバード大学名誉総長チヤールス・ウイリヤム・エリオツト氏は二十三日当地(メイン州ノースイースハバー)に於て逝去した。行年九十二歳。
感慨に堪えない。是で古い米国は全く去つたのである。残るは今や全世界を毒しつゝある新しい米国である。自分はエリオツト氏に唯一回東京三田四国町の惟一協会に於て会うた事がある。氏はユニタリアン教会の巨頭であつて、自分とは信仰を異にする人であつたが、然し氏に対し深い尊敬を払はざるを得なかつた。詩人ローエル、(90)同ロングフエロー、改革者ガリソン、哲学者ジヨン・フイスク、説教師パーカー、ヘール等の偉人を出せしユニテリヤン教は決して賎しむべき者でない。自分の如き多くの善き感化を彼等より受けたる者である。茲に彼等の最後の代表者たるエリオツト氏の訃に接し、遥かに新英洲の山河に向つて深厚の弔意を表せざるを得ない。
 
 八月二十八日(土)晴 高原の温度室内にて八十四度。人生有難い事は多くあるが、最も有難い事は神が在まし給ふと云ふ事である。神在まし給ふが故に正義は必ず成り不義は必ず敗る。善は必ず賞せられ悪は必ず罰せらる。政治家の政略の如き省みるに足りない。神は厳格に公平であり給ふ。余の短かき生涯に於てすらビスマークや伊藤博文の如き世界的大政治家と称せらるゝ人々の政略が全然失敗に終るを目撃した。議会の決議の如き何の効力もない。|神在まし〔付○圏点〕給ふ。実に誠に有難い事である。
 
 八月二十九日(日)晴 天晴れ、爽快なる初秋の一日であつた。米国コロムビヤ大学経済史教授シムコ※[ヰに濁点]ツチ氏著『イエスの了解に就て』を読んだ。イエスを歴史的に了解せんと努めし最善の試みであると思ふ。イエスの時代を精知し、其内に彼を置いて見て、彼を明瞭に解することが出来る。其他の了解はすべて神学的であつて、之に一致の有りやう筈はない。そして我主イエスを解する為の史料の比較的に豊富なるを神に感謝せざるを得ない。ジヨセフハスとアポクリフアとはイエスを解するに方て必要欠くべからざる資料である。之を度外視してイエスと其福音を解することは出来ない。シムコ※[ヰに濁点]ツチ氏の書は暗示に富める小著述である。さすがは露西亜人であつて、其見方が新鮮で且深淵である。米国人なぞの到底及ぶ所でない 〇礼拝を行うた。来会者四十人、塚本司会し、自分はコリント前書九章十六節以下に就いて語つた。真の同情は自己が他に成りて考ふる事である。彼を客観して自己の主張確信を以て臨むが如き、決して彼を救ふの途でない事を述べた。大なる真理を語つたと思(91)ふ。
 
 八月三十日(月)半晴 敵に勝つの唯一の途は之を愛するにある事を今更ながらに感じた。敵を憎んで彼は依然として敵として存するのである。英仏が独逸に勝つて益々独逸を恐れるの類である。愛は勿論服従でない、又妥協でない。愛は心に悪意を懐かず、敵の最善を計り且祈る事である。敵意を懐く事が大なる苛責である。我等は愛を以て敵意を逐出《おひいだ》し、先づ自己に勝ちて然る後に敵に勝つべきである。
 
 八月三十一日(火)半晴 山荘は困雑する。八畳に六畳に四畳半に三畳と云ふ小屋である。其内に幼児を中心に七人の家族と同宿者とが集まる。其内にまた時々来客を迎へる。其内に在りて読書校正編輯をする。幼児の寝た時に一家静寂に入る。談話は凡て低声にて行はる。其時が執筆黙想に最も善き時である。山荘生活は簡易生活である。天幕生活に少しく勝さるに過ぎない。愛の養成に最も適してゐる。一年一度之を行ふは肉体の為のみならず霊魂の為に好くある。石油鑵にて竈を作り其内に山より拾ひ来りし枯木を燃《たき》て、土釜を以て米を炊て一同食するあたり、実に理想的である。隣りの軽井沢で外国人や上流社会の人達がコツクを伴ひ来りて都料理に文化生活を営むに較べて、浅間山麓の我等の生活はやゝ原始的であつて、それ丈け清潔である。
 
 九月一日(水)晴 大震災第三周年である。沓掛に於て一回、軽井沢に於て一回、小集会を開いて記念した。感慨無量であつた。神を信じて災禍を転じて福祉となすことが出来ると述べた 〇軽井沢の市街に於て英国宣教師某に会うた。彼が自分を子供扱ひにするを見て憤慨した。英国人の傲慢無礼は今に始めぬ事であるが彼等を相手にして基督教の伝道の絶対的に不可能なるを感じた。我等日本の信者は協力して是等の宣教師に一日も早く日(92)本を去つて貰はねばならぬ。彼等が日本に在る間はキリストの聖名が汚さるゝのみである。
 
 九月二日(木)曇 露人シムコ※[ヰに濁点]ツチのイエス観を読みて大なるインスピレーシヨンを得し後に、また露人ニコラス・アルセニーフの『神秘主義と東方教会』に於て大なる光明に接しつゝある。ロシヤ人は東洋人に最も近い西洋人である。故に最も能く東洋人を解する。彼等は東洋人の如くに感ずる。彼等の基督教は英米人のそれと異なり、東洋人の信仰を表現して誤らなない。今や露西亜帝国の破壊に由りて、高貴なるロシヤ人が全世界に散乱し、其高貴なる思想と信仰とを広く人類の間に散布しつゝあるは神の大なる摂理と称せざるを得ない。恰かも四百五十年前に東羅馬帝国の破壊に由りて東方文化が西欧に移り、文芸復興、宗教改革を起したと同じである。露西亜革命に其意味に於て文明的意義がある。我等は此際大にロシヤ人に学び、新文明を作り、新信仰に入るべきである。英米人の物質的文明、機械的信仰には我等は既に厭き果た。
 
 九月三日(金)霧 引続きアルセニーフの希臘正教会の根本精神に就て読んだ。英米宣教師に由つて半亜細亜的迷信として伝へられし此教会に、深い慕ふべき神秘的真理の存するを教へられて、意外に感じたと同時に、爾《さ》うあるべきが当然であると思うた。唯万事の簡潔を愛する大和民族が正教会の表号的複雑に堪え得るやが疑問である。正教会が日本人の間に栄えん為にはピユーリタン的単純を採る必要があると思ふ。
 
 九月四日(土)雨 暴風雨であつた。雑誌校正を了つた 〇正教会の教義に循へば、キリストの施し給ひし救は全人類全宇宙に及ぶ救であつたと云ふ。自分も度々さう思うた。若し信者の為のみの救であつたならば、誰が信者である乎との問題が起り、終に何人も救はるゝ者なしと云ふに至る。万人救済説は我が救を保証する為にも(93)必要である。キリストの復活を以つて宇宙万物の改造が始まつたと見て、基督教の宇宙的意義が明かに成つて有難くある。西欧の基督教は救を個人に限るの傾きがあつて、それが為に信者を偏狭ならしめた事は事実である。
 
 九月五日(日)晴 二十人余りの同志と共に聖日を守つた。馬太伝十一章二十五節以下を主題として感想を述ぺた。敵を愛し、自己を識りて慾と名誉に死するが唯一平安の途であると語つた。
 
 九月六日(月)半晴 午後大雨。小諸に行いた。病床の小沼五兵衛君を見舞うた。同君方にて木村熊二君に会うた。木村君今は八十一歳の高齢である。耳は聾せしと雖も元気は旺盛である。国を思ひキリストを愛するの情に至つては純武士的である。君はたしかに基督教界の元老である。君に対し我国の信者全体が挙つて尊敬を表すべきである。
 
 九月七日(火)曇 秋の講演の準備を始めた。相変らず面白くある。いつに成つても変らぬは聖書の真理である。之に永久の興味がある。斯かる仕事を神より与へられて感謝の至りである。墓に入る日まで興味の衰へざる仕事である。実に有難くつて耐《たま》らない 〇瑞西ゼネバ在留、政務官前田多門君よりの書面に曰く
  ……外国に対し誇る所少き吾日本の事物中、是のみ(英文雑誌インテリゼンサー)誇りを以て示し得るを大なる喜びと致居候。但し示されたる外人は、初め吾が示すものが歌麿にあらず、広重にあらずして、彼等のものと自信して居る基督教其物を日本の自慢として、特にその為に雑誌まで作りて、見せつけらるゝに会ひ、一寸驚きを感ずる様に御座候得共、よく理由を説明致し内容を見せ候後は成程と納得仕候。
まことにさう有るぺきである。基督教の西洋逆輸出は我等の予ねて計画してゐた所であるが、然し小規模なりと(94)雖も、少しく行つて見れば、その決して容易でない事が判明る。然し逆輸出は早晩やらねばならぬ事は疑を容れぬ。
 
 九月八日(水)晴 無事平穏の一日であつた。宿の主人曰く「内村さんの御弟子になれば生涯は無難だ、然しうまい事には当らない」と。明言と謂つべし。但しうまい事に当つてもまずい事に当つて之を失ふ虞がある。而して又うまい事に当らないとも限らない。自分の弟子を以て任ずる人の内に商売栄え、地位の益々高き者もある。さう|けなし〔付ごま圏点〕たものでない。内村宗に帰依すれば事業は必ず失敗とは限らない。成功した場合もある。考へて貰ひたい。
 
 九月九日(木)晴 軽井沢に近江八幡のボリス君を訪うた。英文雑誌に対し深き同情を表して貰ふて有難かつた。今や英米人中基督教を棄てゝ仏教に|あこがる〔付ごま圏点〕ゝ者多しと聞いた。斯かる人達に対し我等日本の基督信者より基督教を説いてやるの必要がある。それにしても自国に基督教の崩れつゝあるを知らずして、我等に之を教へんと試みつゝある宣教師の心が解らない。
 
 九月十日(金)曇 蒸暑し。沢山に原稿を書いた。了解を以て羅馬書九-十一章を読んだ。解るやうで解らず、解らないやうで解るのが人生である。凡ての生命が然りである。ハツキリと理学的に説明し得るものは生命でない。勿論人生でない。其心持を以て是等の三章を読めば其意味は明瞭である。
 
 九月十一日(土)半晴 無為の一日であつた。為さねばならぬ事を為す時に成功がぁり、為す必要のなき事を(95)為す時に失敗多きことに就いて考へた。何事も為すべく余儀なくせらるゝまで待つて為すが成功の秘訣である。
 
 九月十二日(日)半晴 秋晴れの麗はしき日であつた。浅間八ケ嶽より雲霧去りて、其雄姿を仰ぐを得て爽快であつた。此日久振りにて何の集会もなく、自分に取り完全の安息日であつた。大なる興味を以て Hastie's Theology of the Reformed Church を読んだ。著者の英国々教会(聖公会)の批判が痛快であつた。ツヰングリ、カルビンの精神を以て始まりたる日本基督教会、組合教会、バプチスト教会等に、ヘスチー氏が此書に於て主張するが如き精神があつたならば、自分も彼等と行動を共にする事が出来たであらう。カルビンが設けし制度のみが在つて、其精神が失せて了つたことは実に痛歎の至りである。
 
 九月十三日(月)晴 山荘の温度八十七度〔約30.6度、入力者注〕に達し、稀れに見る暑さであつた。終日原稿書きに従事した。万人救拯説に大なる慰安を感じた。〔約37.6度〕
 
 九月十四日(火)晴 山を去る準備にて多忙である。一ケ月の粗住、粗衣、粗食は一同に取り善き習練であつた。参考書とては皆無であるが、聖書がある丈けで説教も出来れば雑誌も書ける。孫女の健康を気遣ふ外に何の心配もなく、まことに福ひなる日であつた。山を下れば多くの厭な事が待つてゐる。然し福音を説きつゝ之に当るのであるから心配はない。然し変貌の山に於てペテロが主に曰ひしが如くに「主よ此所に居るは善し」である(馬太十七章四節)。
 
 九月十五日(水)半晴 午後大雨。朝八時家族と共に山荘を引払ひ、午後二時柏木の家に帰つた。家を離れて(96)より三十三日、不在中の重なる出来事は無政府主義者の襲撃を数回受けし事と、飼育のカナリヤ鳥が死んだ事であつた。其他はすぺて平安であつた。不足だらけの山荘を去りて我家に帰りて殿様の御殿に帰つたやうに感ずる。殊に書斎に入りてテーブルに対する時は地上の天国である。
 
 九月十六日(木)曇 老哲学者オイケン永眠の海外電報を読んで悲んだ。彼は自分の如き者にまで深き同情を表して呉れた。『余は如何にして基督信者と成りし乎』の独逸訳の出し時に、第一に之を読んで呉れた者の一人は彼であつた。又今年英文雑誌『インテリゼンサー』を出せし所、之に対してまた深厚の同情を表して呉れた事は本誌読者の能く知る所である。彼は近代に於ける唯一の基督教的哲学者であつた。齢八十歳にして大業を遺して逝いた。実に尊敬すべき人である。弔電を其遺族に送り、遥かに哀悼の意を表した。
 
 九月十七日(金)大雨 雨を犯して英文雑誌社に行き、久振りにて編輯会議を開いた。その徐々として識者の同情を得つゝあるを見て喜んだ。数は少しと雖も其感化は多分『研究』誌以上であらう。まことに感謝の至りである。
 
 九月十八日(土)曇 秋に入つて早々訪問客の襲来が始まつた。「西田天香とは如何なる人か先生の御意見を伺ひたい」と云ふ者、朝鮮に於て或る女学校を米国宣教師の手より独立したれば、其基本金募集に応じて呉れと云ふの類である。日本に純粋なる「訪問」なるものは滅多にない。大抵は自己の為に計る為の訪問である。故に厭に成つて仕舞ふ。何故に世界人類の為に相談に来ないの乎。
 
(97) 九月十九日(日)晴 麗はしい秋晴れの聖日であつた。朝は畔上と、午後は塚本と高壇を共にした。朝は来会者二百五十人、空席なしの盛会であつた。自分は「理想の実現」と題し、イザヤ書二章、九章、十一章に依り人類の理想の「ヱホバの熱心之を成し給ふべし」とある通り、神の大能に由り実現さるべき事に就て語つた。午後は百五十人、「聖書の全体」に就て述べた。創世記第一章と黙示録の終りの二章とを読み、聖書が永遠に始まり永遠に終る書である事を述べた。今秋第一の例会であつて相変らず気持の好い集会であつた。会員には何の通知を発せざりしも各自待ち設けたりとの気分を以つて争ふて出席した。自分に取りても三十年以上も継続し来りし此集会が今秋も亦勇み進んで之を始むる事が出来て感謝此上なしである。「ヱホバを俟望む者は新たなる力を得ん、また鷲の如く翼を張りて昇り、走れども疲れず、歩めども倦まざるぺし」とは此事であらう(イザヤ書四十章三一節)。
 
 九月二十日(月)晴 久振りにて疲労の月曜日である。巣鴨宮下に田村直臣君を訪うた。不相変基督教界の現状につき多くを聞かせられた。聞く事凡て意外ならざるはなしである。此社界には依然として寛容もなければ罪の赦しもない。兄弟相苦しめ、相排斥するの状態である。是では教勢の振はぎるは無理はない。我等は「営《かこひ》の外」に出て我等の信仰を維持するまでである。
 
 九月二十一日(火)半晴 朝鮮京城高橋慶太郎君より左の如き通信があつた。
  昨日(十七日)当地に於て『聖書之研究』読者会を基督教育年会社交室に於て開き申候。会する者二十九名(内鮮人五名)、官吏あり、教員あり、牧師あり、救世軍士官あり、医師あり、会社員、銀行員、商人、理髪店主など、内村先生と研究誌とを中心として、祈り、歌ひ、語りて尽きず、中には第一号よりの愛読者も二(98)三あり、何れも研究誌によりて励まされ、慰められ、力附けられたる者、教会教派を超越して集まれる者、全く研究誌の力に候。再会を期し感謝の裡に散会致し候。
九州読者会に次いで朝鮮読者会開かる。此次ぎは何処にや。斯くして到る所に読者会を見るに至つて、落着いたる精神的復興が全国に始まるのではあるまい乎。何れにしろ感謝すべき事である。
 
 九月二十二日(水)雨 孫女正子の第一回誕生日である。先づ少額の金を鎌倉保育園に送り、保育者なき孤児達に我等の喜びを頒つて貰つた。余《あと》は日本流に強飯《こはめし》をふかし、家族一同之に与りて彼女の強健なる成長を祈つた。
   我家にをさなき者の生《でき》てより
     天下の幼児《えうじ》は悉く我が孫として見ゆ。
そして彼等が生長する頃には日本国は如何《どう》なるであらう乎との心配が毎日我が胸に浮ぶ。|孫を愛するの愛は此国を善く為さんとするの努力に終らねばならぬ。是等の愛すべき幼児の為に善き国を遺して逝かねばならぬ〔付○圏点〕。
 
 九月二十三日(木)雨 両雑誌の原稿成作で多忙である。日本人に向つてキリストの福音を説き、欧米人に向って基督教殊に非戦的平和の実行を要望する。日本人は憐まざるを得ずと雖も、欧米人は之を怒らざるを得ない。彼等欧米人は基督教を信ずると称して之を行はない。彼等は戦争を罪悪なりと認めず、公々然と之を行ふて耻ぢない。彼等が戦争を止むるまでは我等は彼等の遣はす宣教師を公然と斥けて可なりである。
 
 九月二十四日(金)雨 正教会祭司某君の懇請に由り辞するに途なく、雨を冒して茨城県の或る村落へ講演に行いた。正教会所属の信者の催しにかゝる講演会ならんと早合点して行きしが自分の誤りであつて、実は普通の(99)村の青年会であつた。雨を冒して村の小学校に集り来りし遠近の人々凡そ四百人あつた。「宗教と人生」と云ふ題にて話した。宗教の何たる乎に就て諭ずるに方て余りに熱心に成りしが為に、聴衆中の老人達より「|あれでは我等に洗礼を授けて教会に引込む手段に成るから止めて貰ひたい〔付△圏点〕」との抗議が出た。自分は勿論そんな心算で言うたのでない、唯宗教を説いた丈で、特に自分の宗教を説いたのでないと弁解したが容れられなかつた。然らば「禁酒」でも説かん乎と申出た所、「それは猶更ら困まる」との事であつた。宗教は困まる、禁酒も困まるとの事故、自分も甚だ困まつて止むを得ず「土壌を愛するの愛」と云ふ事に就て語り、それで先づ無事に閉会することが出来た。実に風変りの講演会であつた。自分の長い生涯に於て斯かる講演会に臨んだ事は今度が初めてゞあつた。然し決して無意味でなかつた。日本今日の社会状態を能く語るものである。宗教禁酒の必要は感ずるが余り強く言ふて貰ひたくない。殊に村会議員と云ふやうな有力者の感情を害して貰ひたくない。何事も通俗的に穏便に行つて貰ひたいと云ふのである。実に微温《ぬるま》つこい、不徹底的な、懶惰な精神である。斯んな事で改革の実の挙らないのは勿論である。之に由て見ても、日本全国殊に其東北が亡国の危険に瀕してゐる事を認めざるを得ない。実に堪え難き悲歎である。此事を思ふて其村に長居する心も起らず、疲れるとは知りつゝも其日の内に家に帰つた。幸に汽車中に、往きも復りも米国レフホームド教会宣教師ミラー君と席を隣にし、米国の近代思想、並に同君の我国に於ける長い年月の実験談を聞き、大に教へられ、十時間の汽車旅行を有益に過すことが出来て感謝であつた。今後我が講堂以外に於ける説教講演は成るべく丈け為さゞるぺしとの決心を一層強くした。
 
 九月二十五日(土)半晴 昨日の講演旅行にて大分に疲れた。宗教を聞けば洗礼を授けられて教会に引込まれるのではないかとの心配を村民にまで起させるやうに為した人達は誰である乎。欧米宣教師に使役せられて信者狩集めに従事する我国の職業的伝道師等ではあるまい乎。斯くて彼等は自己も天国に入らず、亦人々の前に天国(100)の門を閉づる者である。我等は此事につき村人を責むるよりも是等の浅慮なる伝道師等を責めざるを得ない。伝道は人を救ふ事であつて教会員を作る事でない。沃饒なる神の畑を荒す者は是等の職業的伝道師である。福音の為に、日本国の為に是等の人々に反省を促がさゞるを得ない。
 
 九月二十六日(日)半晴 午前午後とも凡そ二百人の集会であつた。午前は詩篇百三十三篇、馬太伝十八章十九、二十節につき「団合一致」の幸福につき、午後は創世記の大意に就て語つた。「我が家」に於て語るの如何に易く、如何に楽しき事よ。外に講演して身心を労するよりも遥かに益である 〇今や社会に於て不思議なる事件が起りつゝある。三十五年前に自分を不敬漢と罵りて社会に訴へし帝大名誉教授、貴族院議員、文学博士井上哲次郎氏が不敬漢として一部の人より攻撃せられ、社会の問題と成りつゝある。それは同氏が其著書に於て三種の神器に関し不敬的意見を述べてゐる故であると云ふ。事の可否は知らずと雖も、変れば変る世の中である。三十五年前に誰が、井上哲次郎氏が不敬漢として日本の社会より攻撃せらるゝ時が到来すると思うた乎。然し是が世の中である。今日の忠臣が明日の国賊である。井上氏は三十五年後の今日、人に不敬漢として責めらるゝ事の如何に不愉快なる乎を覚られたであらう。同氏に対し同情に堪へない。
 
 九月二十七日(月)晴 復たび夏が来た。室内温度八十度。来客多し。内に麑児島県徳之島に十年間独立伝道せる小沼(元松本)太平君があつた。彼地に於て福音が根ざせる実見談を聞いて非常に楽しかつた。教会や宣教師に無視せられつゝある間に斯くも確実なる伝道上の功績の挙るを見るに至つて感謝の至りである。神は我等を以てしても亦或る永遠性を帯びたる善き事を為し給ひつゝある。多分他の所に於ても同様の事が為されつゝあるので(101)あらう。
 
 九月二十八日(火)晴 三菱造船会社技師桝本重一氏は本月廿三日山陽線に起りし鉄道大椿事の犠牲者の一人であつた。彼の家は日蓮宗であるが、彼の妻は基督教信者であり、彼れ自身が亦過る一ケ年程頻りに求道心を起し、自分の著書を読み、自分を慕ひ呉れしとの理由に因り、諸友人の勧めに由り、自分が其葬儀を務むることになり、市ケ谷教会牧師金井為一郎君と共に、今日午後二時より青山会館に於て基督教式の葬儀を行つた。三菱、海軍省、鉄道省関係の会葬者多く、会衆四百人余りあつた。自分は路加伝十三章一-五節に由り「災難是れ神の警告」なりと云ふ事に就て語つた。知らざる人達に対し、知らざる人に代つて語ることであれば随分と骨が折れた。然し一には犠牲者全部三十八人の葬儀を行ふと思ひ、二には信仰の立場に堅く立ちて動かざりし未亡人の志を遂げん為に、出来得る限りの力を注いで此六ケ敷き任務に当つた。そして金井牧師並に唱歌の任に当られし若き兄弟姉妹達と協力して滞りなく責任を果たす事が出来て感謝であつた。是れ亦神と日本国とに対し為さざればならぬ義務であつたと思ふ 〇帰途上渋谷に此たび八十八歳の生みの母を喪はれし旧友松村介石君を訪れ、君に対し深厚の同情を表した。今より二十年前に、余の父が眠りし時に、松村君は海老名弾正君と共に招かざるに駈つけて呉れた。そして自分と共に墓地まで棺の前に歩んで呉れた。其事を思ふて、今日松村君に会ふて胸が一杯になり、咽んで声が出なかつた。親の死目に際し表して貰つた同情は生涯忘れる事が出来ない。今日は松村君に対し|いさゝか〔付ごま圏点〕恩を酬ゐた次第である。
 
 九月二十九日(水)晴 四五日来の連続の講演説教で大いに疲れ、何事も為し得なかつた。唯沢山にベルグソン哲学を読んで休養に代へた。近頃に至り益々教会の宗教の無能を感じ、其神学者等に由て書かれたる書籍を読(102)むことの全く無用なるを覚り、教会以外の学者の書いた書物を読みたくなつた。其点に於てオイケンやベルグソンの方が、神学者よりも遥かに有益である。又近頃に成り孟子を読出し、是れ亦非常に面白くある。最近哲学を読んで感ずる事は、其の何れもが行為を重んじて知識を軽んずる事である。行為に資する為の知識であつて、知識を得る為の行為でない。是れ主イエスの教へ給うた所であつて哲学は唯此旧い教義を科学的に証明するまでゞある。
 
 九月三十日(木)雨 引続き多忙である。老いたればとて人は許して呉れない、色々と面倒の事を持込んで来る。自分を学者として取扱つて呉れる者は滅多にない。人を救ふ為の牧師か宣教師であると思ひ、学問以外の事を持込んで自分を困らせる。此世は到底俗世界たるを免れない。厭になつて了ふ、然し仕方がない。
 
 十月二日(金)曇 人あり北海道某地より来る。キリストの再臨ありて今日本の或る宮様となりて在し給ふ。先生宜しく此事を唱へ、大々的政治運動を始むべしと云ふのであつて、純然たる宗教狂である事が判明つたから、静に諭して帰した。恐るべきは再臨の教義である。此教義程多く狂人を出したものはない。日本に於て再臨を説くは甚だ危険である。此深き美はしき教義は当分の間我国人に秘め置かねばなるまい。実に慨歎すべき事である。
 
 十月二日(土)晴 ボイス・ギブソンの著に由りオイケン哲学を復習した。実に解し易き偉大なる哲学である。本質的に基督教哲学である。基督敦に哲学的基礎を与へた者と云ふ事が出来る。宇宙の本体は理想を行つて知る事が出来ると云ふのである。爾うなくてはならない。斯かる哲学者であつたが故に、自分の如き者の書いたもの(103)を興味を以て読んで呉れたのである。感謝に堪へない。
 
 十月三日(日)晴 麗らかなる秋晴れの聖日であつた。朝は八分、午後は殆んど満員の集会であつた。朝はヨハネ伝七章七節其他に基き、「知と行」に就て語つた。行は確実に知る為の途である。単に知つて而して後に行ふに非ず、行つて而かして後に知るのである。又行ふて神に接して其援助に与るのであると云ひて、オイケン哲学の原理の説明を試みた。午後は青年男女二百余名の集会であつて、堂は鋭気を以て盈つるの感があつた。前回の創世記につゞき今日は出埃及記の大意並に中心的実理を紹介した。殊に此書に由りモーセ伝を学ぶの必要を力説した。自分までがアマスト時代の若さに返つたやうに感じた。青年に聖書を説く程人を若返らする事はないと思ふ。モーセの生立並に青年時代に就て述べて自分は今日|すつかり〔付ごま圏点〕若返つて仕舞つた。
 
 十月四日(月)晴 平穏の一日であつた。外には種々の混乱のあるを聞く、然し幸にして目下の所、我等同志の間は平和である。平和の破るゝ場合は大抵は教会関係より来る。教会は争闘、紛糾、混乱の巣である、之に接して我等は其悪影響を蒙らざるを得ない。我等は君子の交際を求むる、そして教会は何んであつても君子道の行はるゝ所でない。今日も某教会の教師某君の訪問を受け、彼の教会の内状を聞かされて身の毛がよ立つ程恐ろしく感じた。
 
 十月五日(火)晴 九州某地の日本メソヂスト教会牧師某氏と朝鮮咸興道某地の長老教会牧師某氏と相前後して来訪し、大に学ぶ所があつた。朝鮮人の方が日本人よりも遥かに真剣である。日本人は政略に長け、最も容易《たやす》く最も多くの信者を作らんと欲して、其手段方法を聞かんと欲するに対して、朝鮮人は今日まで自分の著書より(104)受けし利益に就て感謝し、併せて将来の友誼的指導を求めた。日本の教師は如何に見ても此世の才子であり、朝鮮の牧師はキリストの福音に生きる聖徒である。信仰的に見て朝鮮は日本内地よりも遥かに有望である。九州に在りては教会員は僅に三十人でありて米国宣教師の指揮を仰ぐと云ひ、朝鮮に在りては教会員は三百人であつて、外国宣教師よりは全然独立せりと云ふ。二者の間に雲泥の差ありと謂ふぺし。
 
 十月六日(水)雨 蒸暑いいやな日であつた。出埃及記に就て考へた。荘厳偉大なる書である。其記事を歴史的事実と見るが正当であると思ふ。救は凡て神より出づ。我等は自分で何事も為す能はず、然れども神が為し給ふ場合には驚くべき事を為し給ふ。紅海の横断、マナの雨降は少しも不思議でない。聖書学者の学説を離れて聖書を解する事の如何に美はしきことよ。
 
 十月七日(木)曇 昨夜々半より今朝にかけて、ヘスチー著『レフホームド教会の神学』の第四章を読んだ。我が信仰の根本を強められた。レフホームド教会の承継者たる「日本基督教会」の教師達に此信仰があつたならば、彼等が瑣細の事に就き争ふを止めて、世界人類の霊化の為に其全力を注ぐに至るであらうと思うた。彼等の凡てに此書の一読を勧めざるを得ない。
 
 十月八日(金)雨 久振りにて会心の聖書研究に入る事が出来て楽しかつた。自分には、政治は勿論の事、社会改良、慈善、伝道までが向かない。何れも多少現世味が混《まじ》るからである。唯聖書の研究のみが出世間的で、清潔で、神聖である。義侠心に駆られて時々此世の事に携はりて恒に後悔する。聖書以外の事を以て此世を益せんとするが、自分が恒に陥る過である。
 
(105) 十月九日(土)雨 孫女の病気で心配した。老夫婦附添ひにて赤十字社病院に行いた。彼女を護る天使が天に在りて天父の聖顔を見てゐるとは知りながらも心配に堪へない。此は多分嬰児の安全を計るために神が我等の心に植附け給ひし本能であらう。在独逸内村医学士より善き音信があつた。
 
 十月十日(日)晴 朝は百六十人、午後は二百人の集会であつた。朝は使徒行伝十五章「ヱルサレム会議」に就て、午後は利未記大意に就て講じた。孰れも力の要る講演であつた。両回の塚本の講演も有力であつた。我等の集会に於て歌は拙劣で、又別に社会事業らしきものは行はないが、聖書の講義丈けは優秀であると思ふ。万事に於て優等たる事は出来ない、唯神の言丈けに於ては豊富ならんことを期す。そして此目的を達し得て感謝の至りである。
 
 十月十一日(月)曇 雑誌十月号を発送した。第一号が明治三十三年の発行であつて、今月で満二十六年である。今日は民数紀略の初めの半分十八章を通読した。まことに荘厳偉大なる書である。之を読んで身の震ふを覚ゆ。此書に依て神の畏るべき者である事が教へらる。キリストなる巌の影に隠れたくなる。そして此畏れが起らずして十字架の有難味は解らない。
 
 十月十二日(火)晴 民数紀略の終りの半分を読んだ。偉人モーセに対し甚大の尊敬と同情と無き能はずであつた。旧約聖書の研究は我が青年時代を想ひ出さしめ、我が余生を全部此為に送らんとの慾を呼び起さしむ。今より後は個人並に地方に対する奉仕は断然之を謝絶し、墓に入る日まで此研究に我が残余の生涯を費さんとの決(106)心を起した。
 
 十月十三日(水)晴 民数紀略の研究に多大の興味を覚えた。二十年間も書架に仕舞ひ置きしブユーケナン・グレーの該書註釈が今に至つて用を為し、自分に取りては多くの新らしい見解を得て嬉しかつた。高等批評と云ふて決して侮つてはならない。多くの困難い問題が之に由て解決せらる。民数紀略の面白味を知らない者は未だ聖書の貴さを味はうた事のない者である 〇札幌より宮部博士の来訪あり、連れ立ちて旧い同窓の一人なる渡瀬寅次郎君を其病床に見舞うた。祈祷を共にして別れた。五十年前の事が思ひ出されて三人涙を禁じ得なかつた。人生の夕暮に近づいてキリストの福音ほど我等を力づくるものはない。
 
 十月十四日(木)晴 百万長者に成りたい者、爵位を貰ひたい者、貴族院議員に成りたい者、実に世は様々である。而かも斯かる者がキリストの名を以て呼ばるゝ人達の内に在ると聞いて更に驚く。然し乍ら自分の如きも今は幸にして斯かる物を求めざるに至つたが、素々斯かる賤しき望を懐かざる者ではなかつた。唯神の恩恵に由りて之を求めざるに至つたのである。何事も恩恵である。恩恵に由らざる自分も亦、利慾の人、虚栄の奴《やつこ》であつた。消え行く影を逐ふ人達を見る毎に、自分に降りし恩恵の大なりしを感謝せざるを得ない。
 
 十月十五日(金)曇 英文雑誌『インテリジエンサー』十月号に自分が書いた「基督教と仏教」と題する短文が強く読者に訴へたと見え、知名の人達より同意賛成の辞を受取りつゝある。基督教と仏教とは同じく亜細亜に起つた宗教であつて愛と無抵抗主義とを根本とする。故に二者は相互の敵に非ずして、其反対に強き味方である。両教徒は互に手を携へて、西洋の侵略に当るべきである、即ち愛を以て凡ての事に争闘を事とする欧羅巴=亜米(107)利加主義に当るぺきであると云ふのが論旨である。斯くて自分は宣教師並に基督教会とは益々遠かりつゝある間に、他の方面に於て貴き強き同志を得つゝある。今や西洋殊に英米が東洋を排斥しつゝある時に、東洋人は愛を以て結合し、西洋人の無礼傲慢に応ずるの必要がある。問題は基督教対仏教ではない、東洋対西洋である。而かも悪を以て悪に抗するのでない、善を以て悪に勝つのである。
 
 十月十六日(土)雨 陰鬱ないやな日であつた。朝四時に起き英文原稿を書いた。英語を以て我が思想を言表はす事を忘れないで有難つた。此日久々振りにて隣家の中田重治君の訪問を受けた。多くの珍らしき話を聞いた。内に同君が植村、田村、松村、内村の、世間で云ふ「基督教界の四村」を読み込みし大和歌一首があつた。左の如し
   植〔付○圏点〕替《かへ》は過ぎて|田〔付○圏点〕は苅りおさめられ
     松〔付○圏点〕はみどりに|内〔付○圏点〕は有福
まことに名歌である。ホリネス教会監督中田君ならでは作り得ぬ歌である。植村君は逝き、田村君は日本基督教会に帰復し、松村君は道会に栄え、内村は有福に暮らす、之で基督教界は平穏無事である。但し内村の有福と云ふは意味が不明である。彼が大地主と成つた事でないに相違ない。或は中田監督紹介の伝道寄附金には成るべく応ずるやうに努めて居るが故に、同君が自分を有福と見て取つたのかも知れぬ。或は教会宣教師よりは厘毛の補助を受けないが故にさう見られるのかも知れない。然し何れでも可い、常に生活の困難を訴ふる事なくして、恩恵の生涯を続ける事が出来て感謝である。此世の所有の高は別として内村は実に「有福」である。主イエスが何々は「福ひなり」と云ひ給ひし其意味に於て有福である。中田監督は好き歌を作つて呉れた。たゞ田村君の|田〔付○圏点〕が旧き日本基督教会に苅り収められた事は残念至極である。同君をして独立独歩の生涯を終らしめたかつた。然し(108)今と成りては仕方がない。残るは松村と内村である。二人丈けは教会に降参せずして終るであらう。一首を作つた。
   植〔付○圏点〕さりし|田〔付○圏点〕面《おも》に秋の風吹きて
     みどりは深かし|内〔付○圏点〕の|松〔付○圏点〕ケ枝
 
 十月十七日(日)曇 午後晴。集会変りなし。午前はガラテヤ書二幸に由り、前回の使徒行伝十五章を補はんが為に「ヱルサレム会議の裏面」に就て述べた。牛後は「民数紀略の大意」に就て語つた。思ふやうに語り得ずして残念であつた。然し語るは語らざるよりも遥かに増しである。「我れ若し福音を宣べ得ずば禍ひなる哉」である。
 
 十月十八日(月)晴 「米国人は日本人に宗教を教へ得る乎」と題する英文を書き終つた。「教へ得ず」と結んだ。之を英文雑誌の来月号に載せて外国人に示すであらう。如此くにして我が所信を世界に向つて発表する事が出来て感謝である。之も不完全ながらも英文を書く事を習つて置きしお蔭であると思へば有難い。
 
 十月十九日(火)晴 疲労去らず、何事も為し得なかつた。唯古哲プラトーの有神論を読んで其壮大なるに驚いた。二千二百年後の今日、人類を教へて愆《あやま》らない。大なる思想を世に提供するは大なる事業である。米国流の大活動のみが大事業でない。今日の所謂基督教界の如き其点に於て到底昔の希臘人に及ばない 〇今日も亦『東京朝日新聞』の押売りに会ふて困難した。購読しなければ夜来て家を打毀すぞと云ひて脅迫する。是が帝都今日の状態である。気持の悪い所である。
 
(109) 十月二十日(水)晴 プラトーの倫理論に就て読み大に力附けられた。人は皆な神の傀儡である、王たり工たり択ぶ所はない、唯各自の役割を善く演ずべきであると。まことに其通りである。汝は斯く為さゞるぺからずと他人の世話を焼いてはならない。王たる者は忠実に王たるぺきである、商たる者は忠実に商たるべきである。唯各自の上に神が在して其の聖意を遂ぐるが為に使はれてゐる事を忘れてはならない。異教の哲学者の教ふる所は遥かに欧米宣教師等の教ふる所に優さる。読むべきは矢張り古書である。
 
 十月二十一日(木)晴 四時間を賛し仏国製ヴイクトル・ユーゴー作『レーミザラブル』の映画を見た。悲劇の連続であつて心臓の痛みを感ずる程であつた。大作ではあるが其人生観は全然ラテン人種的で、随つて羅馬天主教的である。新教的の壮健なる所が欠けてゐる。然し乍ら映画の技術に驚くべき者がある。年毎に著るしき発達のあるを見る。之を能く用ひれば大なる教育機関である。
 
 十月二十二日(金)晴 両雑誌の編輯に全日を賛した 〇孟子に左の言を読んで感じた。
  城郭全からず、兵甲多からざるは、国の災に非ざるなり。田野|辟《ひら》けず、貨財|聚《あつま》らざるは国の害に非ざるなり。上に礼なく、下に礼なければ、賊民興りて、喪《ほろぶ》ること日なけん矣。
偉大なる言である。聖書の教を待つまでもない、二千二百年前の東洋に此教があつた。然るに之を顧ずして今日に至つたのである。「賊民興りて喪ること日なけん」の言を読んで我国の将来が憂慮に堪へない。
 
 十月二十三日(土)晴 引続き小児の養育に困難する。僅か二貫三四百匁の体躯の健康を維持せんが為に我が(110)脳漿を絞らる。人間の生命の如何に貴きかゞ判明る。小児が無事に成長するは全く神の恩恵に依る。祈らざるを得ない。
 
 十月二十四日(日)半晴 集会変りなし。唯如何なる理由にや朝の集会の出席者が二三十人減じた。一は午後の会に廻はつたのと、二には少しく会員資格を厳重にした為に退会者を生じた故であらう。そうであれば反つて感謝である。朝は使徒行伝十六章一-十一節を「福音欧洲に渡る」と題して講じた。午後は民数紀略十三章十四章に現はれたる信仰生涯の危機に就て語つた。二回とも気持好き集会であつた 〇雑誌『日本及日本人』十月十五日号に東京帝国大学名誉教授学士院部長貴族院議員正三位勲一等井上哲次郎氏が皇室に対する不敬の故を以て諸方より痛撃せらるゝを読んで不思議に感じた。其内に左の言をさへ見た。
  神武天皇即位以来二千五百八十六年、其の間時の汚隆世の治乱なきにあらざれども、未だ嘗て祖宗の聖徳を誣罔し奉りしものあるを聞かず。又未だ嘗て、神器の威尊を冒涜せるものあるを聞かず、其の之あるは実に彼の哲次郎のみ云々
と。多分日本臣民として之よりも強い攻撃を加へられたる者はあるまい。然るに此井上哲次郎氏こそ明治の二十四年頃、自分を第一として基督信者全体の不敬の罪を天下に訴へた人であつた事を知つて実に今昔の感に堪へない。三十五年前の日本第一の忠臣愛国者が今日の日本第一の不敬漢として目せらるゝとは信ぜんと欲して信ずる能はざる不可思議である。自分の如き井上氏の痛撃に会ふて、殆んど二十年の長き間、日本全国に枕するに所なきに至らしめられし者に取て、井上氏今回の不敬事件は唯事とは如何しても思はれない。何にか其内に深い意味があるやうに思はる。斯く言ひて今日井上氏に対し怨みを報ひんと欲するのでない。自分の場合には痛撃は壮年時代に臨んだのであつて、之に由りて蒙りし傷を癒すの時があつた。然し井上氏の場合に於ては老年に於て之が(111)臨んだのであつて、傷を癒すの時の甚だ短きを思ふて、其事丈けは氏に対し深き同情無き能はずである。願ふ井上氏が此際男らしき学者らしき態度に出られ、立派に此難局を切抜けられんことを。
 
 十月二十五日(月)半晴 他人の妻と情死する事が今尚流行する。有島は厭な例を遺して逝いた。毎日ラヂオを以て浄瑠璃や清元を聞かされる民が斯かる行為に出るは怪むに足りない。|姦婬とは特に他人の妻又は夫の愛を奪ふ事である〔付△圏点〕。人に対する罪として是れ以上のものはない。近代人は知らず識らずの間に罪の此どん底に陥りりつゝある。慨歎の極みである。
 
 十月二十六日(火)晴 木村清松君世界一周旅行より帰り、其訪問を受け、種々の実見談を聞き、面白く且有益であつた。大抵は自分が想像した通りであつた。世界は善くなりつゝあるか悪しくなりつゝあるかは判明らないが、神が活きて在して、其聖意が行はれつゝある事は明かである 〇長き間病に悩める或る信仰の友より左の如き言を贈つて来た。
  病を治す為に信仰をもつのでなく、信仰をもつ為に病が与へられたのである事をハツキリと天父に由つて解らされてからもう一年を経ました。絶対的信頼と従順との生活の有難さ楽しさも次第に深く知りつゝあります云々。
此は最も健全なる信仰である。斯かる信仰を賜はるは優かに病を治して戴く以上の幸福である。我も人も斯かる信仰に入りたくある。
 
(112) 十月二十七日(水)晴 不養生を為し、昨夜は睡眠を失ひ、今日は何事も為し得ず、貴き一日を無益に過して甚だ済まなく思うた。摂生は大なる義務である。肉体を傷めるは霊魂を汚がすに劣らざる罪悪である 〇或る地の或る婦人より左の如き感想が達した。
  私が『聖書之研究』を愛読いたす様になりましてから彼是十五年程になります。……私は母の信仰により十歳の時に小児洗礼を受け、十八歳の時に信仰告白を致しまして〇〇日本基督教会の会員に成りました。其後『聖書之研究』を愛読致す前までは私の信仰は生温いものでありました。が研究誌を読んで居ります内に段々と私の信仰が変つて参りました。今までの生温い曖昧であつた事が神様に対して何とも申訳のないと云ふ様になりまして、私の魂に夜が明けまして美しい太陽が昇つて参りました。そして本当に十字架上のヱス様を仰ぎ見る事が出来ました。それ以来云々
と。以上は自分に取り有難い証明である。自分を以て「既成教会の破壊者なり」と云ふ神学博士の方々に斯かる実例を参考して貰ひたい。
 
 十月二十八日(木)雨 台湾某地に明治大学出身の「学識高大」の某教会伝道師台湾人某氏と云ふが在る。其人が其附近に居る本誌読者の一人に語りし事は左の通りであつたと云ふ。
  ハーそれだからいけない。あの人の雑誌を私も昨年まで読んでゐたが、どうしてもいけないから廃読して了つた。あの人は聖書を大に誤つてゐる者である。教会に排斥された結果あの人は無教会といふ異説を立たものである。あの人の説は実に冒涜が甚だしい。聖書に依ると古来教会はあつたものである。内村は其旨に背いてゐる。それは内村が元教会と衝突した為に基づく。決してあの人の説を信じてはならない。
と。そして尚沢山に自分を攻撃したとの事である。朝鮮に於ても同じ攻撃を加ふる宣教師並に伝道師が沢山ある(113)と朝鮮人某氏より聞いた。今に至つて自分で自分を弁護しない。唯幾たびか本誌で言うたやうに、|教会の信者達は成るべく此雑誌を読まざるやう自分より彼等に勧告する〔付△圏点〕。『聖書之研究』は主として教会外の人に聖書知識を供給するを以て目的とする。故に教会の人達には成るべく読んで貰ひたくない。教会に排斥さるゝ事は自分の最も幸福とする所である。
 
 十月二十九日(金)曇 ヨシユア記を読み大なる力を得つゝある。聖書を素読する丈けで充分である。別に註解書は要らない、殊に旧約聖書に於て然りである。聖書に神の聖意を読んで此世の事はどうでも可くなる。新聞紙は唯目を通うす丈けであつて、注意を惹くに足る記事には一も見当らない。
 
 十月三十日(土)半晴 校正と講演準備とにて相変らず多忙であつた。今日家族の者に語つた、西行法師は「願くは花の下にて我れ死なん、その|きさらぎ〔付ごま圏点〕の望月のころ」と歌つたが、自分は講壇の上か、テーブルに対しペンを以て原稿を作りつゝある間に死にたいと。多分神は自分の此願を納れて下さるであらう。如何でもよい問題であるが、語つた事を記して置く。
 
 十月三十一日(日)快晴 聖日にして天長節である。朝は七分通り、午後は満員の集会であつた。使徒行伝十六章と、申命記大意とを講じた。殊に午後の青年本位の集会が愉快である。人に何んと評せられやうと、自分自身には毎日曜日の集会が無間の幸福である。縦し此上五十年の活動期限が与へられやうとも、自分の為さんと欲する仕事は尽きないと思ふ。差当り来年の末までの講演の題目は既に定まつてゐる。
 
(114) 十一月一日(月)晴 市内に於ては汎太平洋学術会議が開かれつゝある。目下の自分には関係の無い問題が議せられつゝあるが故に、自分が傍聴に出かける必要はない。然し斯かる重要なる会議が我が国に於て開かるゝに至りしは祝すべき事である。日本人は学術に於ても欧米人の後に落つべきものでない。必ずや西洋の学者の気が附かざる所に気が附き、世界の知識に大なる貢献を為すであらう。
 
 十一月二日(火) 晴 朝早く起きてヨシユア記を読み了つた。勇ましい書である。殊に十三章一節に感じた。「ヨシユア既に年邁みて老いたりしが、ヱホバ彼に曰ひ給ひけらく、汝は年邁みて老いたるが尚ほ取る(征服す)ぺき地の残れるもの甚だ多し」と。我等各自も亦年老いて尚征服すべきものゝ甚だ多きを感ず。然れども神は我が後に来る人達を以てして征服を完うし給ふと信ずる 〇伊藤一隆氏と共に再び旧同窓の一人たる渡瀬寅次郎氏を彼の病床に訪うた。コリント前書十五章五十節以下を読み、祈祷を共にして辞し去つた。過去五十年が夢のやうに浮んだ。明治十年は昨日であつた、そして我等各自の此世の仕事を終へて神の召しに応ぜねばならぬ時が近づいた。然し自分はヨシユアと共に曰ふであらう、「他人は知らず、我れと我家とはヱホバに事へん」と(約書亜記廿四章十五節)。
 
 十一月三日(水)晴 雑誌『日本及日本人』十一月一日号に又複文学博士井上哲次郎氏に対し多くの攻撃文が載せてあるが、其内に左の言を見た。
  元来曲学阿世で来た男で、基督教攻撃も人気取りの為にし、学者として生命が長かつたのも巧みに泳いだからである。云々
  嘗つては我が国体擁護と忠君愛国の学説を専売特許にしたる井上博士、今は反つて国体を冒涜する不敬を以(115)て世に問はれんとするに到つたのは、何んたる皮肉であるか。併し偽物は何時か終に其化の皮を表はす。彼の国体擁護と忠君愛国の議論は売名の為めであり、曲学であり阿世であつた事が今更ら顕然と剔抉されたのは痛快至極だ。
三十五年前には不敬の故を以て井上博士に痛罵嘲弄せられし我等基督信者は語らんと欲して語るを許されず怨みを呑んで今日に至り、或は眠りに就きし者もあつたが、今日に至り我等ならずして、前きには博士と共に我等を迫害せし人等が、今や彼に対して前述の如き言を発するを見て、我等は自己を弁護するに及ばず、弁護は之を「時」に委ぬれば足るとの事を益々切に感ぜしめらる。敢て茲に井上博士に対し歯を以て歯に報いんとするのでない。唯博士の知るが如くに、人生にネメシスなる者があつて、縦令微弱なる基督信者なりと雖も、時到れば其無罪は無罪として認めらるゝことを茲に告白する次第である。
 
 十一月四日(木)曇 夜雨。十一月号の校正を終つた。トルストイ論文集の中より、「無抵抗に就て」、「宗教と道徳」、「宗教と道理」、「何故に人は自己を痲痺する乎」、「殺す勿れ」の五篇を読んだ。何れも大論文である。論旨明晰なること水晶の如しである。其内に幾度か「教会クリスチヤン」なる詞の使はれてゐるを見た。「教会信者」なる詞は自分が初めて作つたものであると思うたが、自分よりも遥か前に杜翁が使つてゐるを見て大に心を安んじた。彼に在りても「教会クリスチヤン」は悪い者である。彼は|基督教の最も悪い敵は基督教会である〔付△圏点〕と言ふて居る。故に此事に就て余を攻撃する教会の人達は先づトルストイ翁を攻撃すべきである。トルストイ論集を読んで何人も教会を尊崇することは出来ない。
 
 十一月五日(金)晴 知人友人の間に病人が多い。同窓の渡瀬寅次郎君、同志の山口菊次郎君、何れも重態で(116)ある。其他病院に在る者、病床に臥する者挙げて数ふべからずである。疾病必しも罪の結果ならずと雖も、少くとも神の警告たるは明かである。疾病の由て来りし原因を探りて大に覚る所がある。そして其原因を取除いて大抵の場合に於て疾病を癒すことが出来ると思ふ。
 
 十一月六日(土)曇 忙がしい日であつた。札幌時代の旧友伊藤一隆、宮部金吾の両君我家を訪ひ、自分と三人鼎座して今や危篤の状態に於て在る渡瀬英次郎君の万一の場合に於て我等の採るべき途に就て協議した。結極自分が旧友を代表して責任に当る事に議決し、其旨を夫人に通じた。斯かる協議を為さねばならぬに至りしに由て、我等の生涯の夕暮の近づいた事を知らしめらる。悲しい職務であるが、然し避け難き責任である。
 
 十一月七日(日)半晴 集会変りなし。朝は「ピリピ書の一瞥」と題し、該書の要点を講じた。是は前回の行伝十六章のパウロのピリピ伝道の研究を補はんが為であつた。午後はヨシユア記の大意を講じた。此書を読んだ事のある人の尠い聴衆に説明するのであつて甚だ骨が折れた。前週は多く此世の俗事を持込まれ、それが為に心の平安を擾され、今日は思ふやうに熱心が注がれずして残念であつた。聖書を講ずるに方て、俗事に携はる程悪い事はない。
 
 十一月八日(月) バビロンに行いた。長らく求めつゝありしリス・デビズ著「仏教時代の印度史」を探し当てゝ帰つた。其他は全く無益の一日であつた。国と社会の事を思ふ時に我心は混乱する。自分の完全なる平和は聖書の研究に於てのみある。然るに旧友や教会信者等が度々此平安より自分を引出して多くの苦痛を与へる。悪い人達である。
 
(117) 十一月九日(火)晴 近頃切に感ずる事は、日本人が依然として宗教家を馬鹿にする事である。彼等が宗教を必要とする時は、一生に唯二回ある。青年時代に苦学する時と死に臨んで平安を求むる時である。其他の時に於ては彼等は宗教を無視し、厄介物視し、成るべく之に携はざらんと努む。斯かる次第であれば、彼等に道を説くは甚だ気の進まぬ事であるが、然し神の命であれば止むを得ない。大抵の場合は無効であると知りつゝもキリストの霊に強ひられて之に従事する。
 
 十一月十日(水)曇 汎太平洋会議を傍聴した。人類学部の講演が面白かつた。
 
 十一月十一日(木)雨 青山学院講堂に於て農学士渡瀬寅次郎氏の葬儀が行はれた。自分は札幌時代の旧友を代表し一場の感想を述べた。君は自分と同窓同信の友であつたが、自分の伝道には何の興味をも有たれなかつた。東京在住四十年間、一回も自分の集会には出席せられなかつた。然し自分は君に対し此最後の義務を尽すことが出来て感謝である。然し惟り渡瀬君に止まらない 札幌の同窓にして自分の事業に同情を表して呉れた者は四五人に過ぎない、其点に於て渡瀬君は決して例外でなかつた。日本人全体が宗教家を要するは唯最後の場合である。そして自分が斯かる怨言《こゞと》がましき事を書き列ぬるを見て、彼等が異口同音に「彼は宗教家に応《ふさは》しからざる言を発す」と言ひて自分を責むるを能く承知してゐる。然し徳不徳は別として自分は茲に感慨有の儘を書き記さざるを得ない。但し札幌同窓が今日に至り自分を使ふて呉れる事を感謝する。
 
 十一月十二日(金)晴 昨日の葬儀にて疲れた。官界、実業界、宗教界の何百人と云ふ人達に対し自分の誠実(118)を述べたのであつて、非常に気持が悪かつた。此世の人達に赤誠を示す程辛らい事はない。
 
 十一月十三日(土)晴 少しく平静に復した。E・H・ギフホードの『羅馬書註解』に九章一-1五節の解釈を読み、旧き信仰を喚起せられて嬉しかつた。「彼(キリスト)は万物の上に在りて世々讃美を得べき神なり」とは我が信仰である。此は聖書中、最も明白にキリストの神なる事を示す言である。是れある事を神に感謝する。
 
 十一月十四日(日)晴 集会変りなし。朝は九分、牛後は満員の集会であつた。使徒行伝十七章一-十節並にテサロニケ前書一章に由る「パウロのテサロニケ伝道」と、約書亜書七、八章を以てする「アイの攻略」とを講じた。疲労未だ癒えず、思ふやうに語れなかつた。然し高壇に立つことが出来て感謝であつた。今日も亦切に我が救主の活きて在し給ふ事を感じた。
 
 十一月十五日(月)晴 寒風到る。バビロンに行いた。俗人や教会信者に会ふてイヤに成つて仕舞ふ。今の社会全体に対して絶交を宣告したくなる。或は既に絶交してゐるのかも知れない。旧友も新友もあつたものでない、彼等は皆んな俗人である。即ち人に讃めらるゝ事を大なる事と思ふ人等である。斯かる人を友人と持つても何の益にもならない。天に在ます活きたるキリストが我が友であつて下さる。彼れ一人に友と成つて戴いて此世の友は皆んな失つても少しも惜くない。
 
 十一月十六日(火)晴 E・スタンレー・ジヨーンス氏著 The Christ of the Indian Road を読み始めた。自分の半世紀間の主張を述べて呉れた書であるやうに思はれる。「キリストは西洋文明と両立せず」と云ひ、「キリス(119)トと基督教とは同一のものに非ず」と云ふ。東洋を代表する印度はイエスを迎ふるも、西洋文明又は教会の其督教を受けずと云ふのである。勿論さうである。唯今に至り西洋人が此事を唱ふるに至つた事を多とする。自分の終生の主張が今や輿論とならんとするの曙光が見えて歓喜に堪へない。或は宗教の事に於ては日本ならで印度が東洋の先導者と成るの乎も知れない。孰れでも可い。真のキリストが伝へられさへすれば可い。日本人の全体に軽佻浮薄なる、到底基督教の改造と称するが如き大事業を果たす事は出来まい。
 
 十一月十七日(水)曇 文学博士井上哲次郎氏が不敬著書の故を以て社会に責められ、終に貴族院勅選議員の栄職を辞するに至れりとの事を今日の新聞紙に読み、感慨無量であつた。若し天上の我が生みの父が此事を聞いたならば、さぞかし同一の感に打たれるであらう。日本人中我家の一族程井上氏に苦しめられたる者はない。先妻加寿子の如き、此の苦痛を呑んで死に就いたのである。そして自分を不敬漢と称し罵り、二十年間社会より葬りし其井上氏が三十五年の後に、同じく不敬漢と譏られて、社会より葬り去られんとして居るは実に不思議である。「人を議する勿れ、汝も議せらるべし」と云ひ、「仇を返すは我に在り、我れ必ず之を報ひんと主曰ひ給へり」と云ふは斯かる事を言ふのであると思ふ。井上氏に対して気の毒千万であるが、然し宇宙の法則が然らしめたのであるから止むを得ない。それにしても自分自身が同じ罪を犯さゞるやうに努めなければならない。
 
 十一月十八日(木)晴 同窓同級の友なる麑島第七高等学校前校長岩崎行親君が来る二十三日古稀の齢に達するので祝賀の会が催さるゝ由に就き、自分も麑島まで往いて之に列席せんと思ひしが、健康と仕事とが之を許さず、依て今日演説の原稿を草して同君の許に送つた。友人中に七十歳に達する者あるを知りて自分も老人に成つた事を知る。然し毎日の仕事に逐はれて年の邁むを忘れる。近頃に至り五十年紀念とか、七十年祝賀とか云ふも(120)のが頻々とやつて来るので、頻りと老人風が吹いて甚だ薄気味悪く感ずる。the Christian is always a little child(基督信者は恒に小児である)。歳を数ふるは財を算ふると同様の罪である。On and on!(進め、進め)である。
 
 十一月十九日(金)晴 英文雑誌の論説を書いた。午後は近郊に出養生中の孫女を見舞うた。世界の大問題を取扱ひ、同時に亦児女の幸福を計画す。大にもならずばならず、小にもならずばならない。そして大にあれ、小にあれ、為すべきの義務を果たさねばならぬ。
 
 十一月二十日(土)晴 在独逸祐之より興味溢るゝ通信があり身振ひする程嬉しかつた。彼が善き信仰の友を与へられ、世界的教化に深き興味を持たしめらるゝに至りし事を知りて、実に言ひ尽されぬ感謝であつた。キリストを信ずる親として、其子の霊魂の状態が最も案じられる。他の事はどうであつても、信仰を失はれては堪へられない。然るに神は我等の日夜の祈りを聴き給ひて種々の奇しき手段方法を以て彼の霊魂を守り給ふ。有難くつて耐らない。願ふ子々孫々に至るまで我家にキリストを崇むる信仰の絶えざらんことを。
 
 十一月二十一日(日)晴 多忙の聖日であつた。午前は「アテンスに於けるパウロ」に就て語り、午後は伝道会とし、昨日独逸祐之より来りし通信に由り、アルベルト・シユワイツエルの阿弗利加伝道に就て語り寄附金を募りし所、二百六十八円を得て感謝であつた。直に之をクリスマス贈物としてシユワイツエルの会計主任に送ることにした。今日も亦北大総長佐藤昌介氏の出席あり、昼食を共にし、昔を語り、将来を計りて愉快であつた。
 
 十一月二十二日(月)晴 多摩川の畔の友人の家に養生してゐる孫女を見舞うた。彼女の恢復しづゝあるを見(121)て喜んだ。帰途或る婦人の昨日講堂にて病に罹りし者を見舞うた。歳が邁むに循つて用事は増し、責任は重くなる計りである。然し福音はまだ沢山に説かざるべからず、自分はまだ斃れてはならない。神は最後まで自分を支えて下さると信ずる。
 
 十一月二十三日(火)雨 雑誌編輯に全日を費した。多くの不思議なる事を聞かせらる。我が所に聖書を研究に来る者にして其子女を天主教の学校に送りて少しも怪しまざる者がある。又文学博士井上哲次郎氏を不敬の故を以て失脚せしめし文部省が其直轄の下に在る学校の生徒に西洋のダンスを教へて之を公衆の前に演ぜしむとの事である。世の中の事は何が何やら自分には解らない。信仰は何である乎、忠君愛国は何である乎、解らない。唯世に附随して其悪評を蒙らなければ可いのであらう。或は米国が亡ぶる前に日本が亡ぶるのである乎も知れない。或は岩倉、大久保等に反対せし大西郷にやはり先見の明があつたのかも知れない。
 
 十一月二十四日(水)晴 感謝の内に雑誌十二月号の原稿を書き終つた。是で今年も亦滞りなく無難に全部を発行する事が出来る。健康さへ許せばまだ何十年も続ける事が出来る。此んな仕事が他に何処に在る乎。倦《あき》ず、苦しからず、人を益し、自身を益す。是が完全なる仕事でない乎。政治でも、実業でも、然り学究でも、聖書の研究に較べて、|つまらない〔付ごま圏点〕仕事であると云はざるを得ない。今日も或る社会通より政治界宗教界の行き詰りの状態を聴かされて、自分の如何に恵まれたる者なる乎を感ぜざるを得なかつた。書斎にフレデリツク・ゴーデー先生の写真を掛けて、之を仰いで常に先生に傚ひ我が一生を聖書の研究を以つて終らんと欲する。唯往々にして宗教家視せられ、色々の此世の問題を持込まれ、我が平安を妨げられて迷惑する。宗教家に非ず、神の言なる聖書の研究者である。二者の間に雲泥の差がある。
 
(122) 十一月二十五日(木)曇 阿弗利加洲仏領コンゴー国リムベレネーに土人の為に病院を設け、併せて福音伝播に従事しつゝある、神学者にして音楽家併せて医師なるアルベルト・シユワイツエルの事業に対し心ばかりの賛成を表せん為に、内村聖書研究会を代表し少額の寄附金を送つて非常に嬉しかつた。昨年のクリスマスには持地夫人を通うして独逸の貧児に少しばかりの贈物を送るを得しが、今年は阿弗利加土人の児童療養の為に我等の心を向けることが出来て大なる感謝である。額は少なりと雖も(今年も昨年と同じく三百円以内である)日本人が欧洲人の伝道事業に参加するのであるが故に其意味は深長である。想ひ見る、赤道直下の、芭蕉の葉を以て葺きし病舎に於てドクトル・シユワイツエルが我等の同情の印に添ふ我が書翰を読む時に、彼の心は如何ばかり慰めらるゝことであらう。我等は常に博士の著書に教へらるゝ者である。時に少しく彼に報ゆる所なくんばあらず。一子祐之の欧洲留学が機会となりて斯かる事業に参加するを得るは何たる幸福ぞ。
 
 十一月二十六日(金)晴 午前は講演の原稿を書き終り、午後は孫女を伴れて多摩川遊園に遊んだ。お猿やペリカン鳥を見て楽んだ。猿の群が金網の内で生存競争する状態を見て悲んだ。人類も神の道を知らざる者は之に類する生涯を送るのであると思へば悲しみに堪へない。近頃益々切に感ずる事は西洋文明の決して基督教文明にあらざる事である。二者は相反する者であつて、其両立は不可能である。世界大戦争が此事を最も明かに証明した。キリストの福音に基ゐする新文明が現はるゝにあらざれば文明の破滅は何よりも確かである。唯歎ずべきは日本国が此事を知らずして、猶ほ此上にも西洋文明を採用せんと為しつゝある事である。|西洋文明是れ滅亡文明である〔付△圏点〕。スペングラー博士が言ふが如し。そして西洋文明の一面として認めらるゝ教会の基督教も亦既に其終焉を確(123)かめられたる者である。
 
 十一月二十七日(土)晴 麗はしき小春日和である。色々の山茶花咲き乱れ、春にも優さるのどけさである。ペンを走らせて多忙であつた。但し内にも外にも病人の多きを悲しむ。一人が治りたりと思へば他の者が病む。近世医学の効果が疑はれる。多分開闢以来今日程病人の多い事はあるまい。痛歎の極みである。
 
 十一月二十八日(日)晴 午前も午後も殆んど満員の集会であつた。午前は行伝十七章に於ける「アテンスに於けるパウロの演説」に就て、午後は「士師記大意」に就いて語つた。不相変楽しき会合であつた。聖書到る所に此世の人の知らざる不思議の真理が伏在してゐる。之を探り出して語るが大なる愉楽である。我等は聖日毎に此豊かなる饗筵に与りて感謝に堪へない。此日又寸暇を得て同窓伊藤一隆氏の禁酒事業五十年紀念会に出席して簡短なる感想を述べた。
 
 十-月二十九日(月)晴 疲労の一日であつた。炬燵に|もぐり〔付ごま圏点〕て休んだ。新聞紙に昨日の日曜日を以て終りし目黒競馬の馬券売上高が二百五十二万であると読んだ。若し此金を支那又は阿弗利加の伝道に使ひしならば、さぞかし日本の国威が揚るだらうと思うた。競馬に使ふ金はあつても慈善や伝道に使ふ金はない。然し此事に就き日本人ばかり責める事は出来ない。過る夏米国ヒラデルヒヤに於て行はれし拳闘に於て、米国人が入場料並に賭金《かけきん》として使ひし金高は三千万弗(六千万円)を越えしならんとの事である。孰れも罪の世の出来事である、米国も日本も此事に就ては何の択ぶ所はない。斯かる世に在りて、我が同志が我が一言のアツピール(哀訴)に応じ阿弗利加伝道の為に立所に数百円の寄附を為して呉れた事は感謝の至りである。
 
(124) 十-月三十日(火)晴 朝起きて霜を庭に見た。柿の葉は落ちて実は小なる提灯の如くに枝に垂る。朝日に対し左の如くに口すさんだ。
  秋は秋として善し、冬は冬として善し。春は春として善し、夏は夏として善し。貧は貧として善し、富は富として善し。老は老として善し、若《にやく》は若として善し。神に依り頼みて如何なる時期も如何なる境遇も善からざるはなし。多分死は生丈け善く、或は生以上に善くあらん。
 
 十二月一日(水)雨 神の御恵みに由り幼なき者其病を癒されて家に帰つた。一同の大感謝であつた。最小者の為に一家挙りて努力した、それが為めに健康以外に他の多くの恩恵に与る事が出来た。若し一国の政治も其貴族や富豪の為ならずして、最貧者又は最小者の為に行はるゝならば、国民全躰が思はざる大恩恵に与るであらう。強者の為に計つて弱者の為に尽す程幸ひなる事はない。
 
 十二月二日(木)晴 サムエル前書を読んでゐる。非常に面白い。此上聖書の外に何をも読むの必要を感じない。そは聖書が取扱ふ以上の問題を取扱ふ書は他にないからである。殊に欧米の聖書学者の書いた書を読むに及ばない。彼等の大多数は信仰のない人等であるが故に、彼等の聖書の見方は大抵間違つてゐるに相違ない。自分の信仰の実験を以つて聖書を読む丈けで充分である。
 
 十二月三日(金)晴 雑誌校正に全日を費した。今日或人より聞いた事であるが、今回の井上哲次郎氏失脚に就き氏に対し一人の同情者なきは実に不思議である。三十五年前の自分の場合に於ては、少数なりと雖も、公然(125)と自分に同情して自分を弁護して呉れた者があつた。然るに多くの随従者を有せらるゝ井上氏に対し一人の立つて公然と氏を弁護する者なきは何たる悲惨又無慈悲である乎。此世の友とは此んな者である乎と思ひ、井上氏に対し同情に堪へない。井上氏今日の|みじめさ〔付ごま圏点〕は到底三十五年前の自分のそれに此すべくもない。自分の方が氏に比べて遥かに幸福であつた。
 
 十二月四日(土)晴 寒気到る。不相変日曜日の準備にて忙はし。新聞紙の報道に由れば濠洲の大政治家某は近き将来に於て太平洋に第二回世界戦争が闘はるべしと云ひ、又露国大政治家某は之に次いで英米の大経済戦が闘はるべしと預言せしと云ふ。戦争又戦争である。戦争を廃する為の戦争であつた過般の世界大戦争は後から後へと大戦争を起しつゝある。人間が戦争を廃せんとすれば戦争は益々起る。神を信じ敵に譲り戦争を為さゞれば、戦争は自づから止み、敵も亦終に亡ぶ。此んな確実なる平和と勝利の途あるに拘はらず、戦ふにあらざれば勝つ能はずと信ずる所謂文明人の心根の浅ましさに驚かざるを得ない。
 
 十二月五日(日)晴 午前は百五十人、午後は二百五六十人の集会であつた。午前は「基督教と西洋文明」と題して説教を試みた。西洋文明は其根本に於ては基督教と相戻る者であるとの趣意を述べた。午後は講堂に溢るゝ青年男女に向ひ旧約聖書路得記の大意を述べた。之を「イスラエルの女大学」と称んだ。貝原益軒が之を読んだならば、さぞかし驚いたであらうと言うた。茲に基督教化されたる東洋思想が実際に行はれたのである。路得記の美はしさは西洋人には解らない、東洋の基督信者を待つて其真意の在る所を闡明する事が出来る。相も変らざる忙はしい楽しい日であつた。
 
(126) 十二月六日(月)曇 休養日に係はらず雑誌校正を了つた。其他種々と用事がある。休日とてはない。或は毎日休日であると云ふ事も出来やう。
 
 十二月七日(火)曇 夜大雨。友人某氏の結婚披露会あり、招かれて帝国ホテルに行いた。無酒宴会であつて自分等に取りて気持好き会合であつた。滅多に斯かる会合に出席せざる事とて別世界に在るが如くに感じた。
 
 十二月八日(水)半晴 咽喉痛にて何も為し得なかつた。然し何も為し得ぬ時に信仰生涯に立還つて反つて幸福である。事を為すための生涯でない、信じて神を知る為の生涯である。活動活動と称して依り頼むを知らざる米国流の生涯は神を離るゝ益々遠きに至る生涯である。神が屡々疾病を下して我が身にブレーキを加へ給ふはまことに感謝すべきである。
 
 十二月九日(木)晴 寒気強し。サムエル前書十四章より二十一章までを読んだ。サウロとダビデの話であつて、何時読んでも其フレツシュ(生々)さを失はない。十七章のダビデ対ゴリアテの記事の如き、信者が此世と戦ふ時の状態を書いた者として万世尽きざるクラシツク(経典)である。殊に近代の考古学的研究に由り、ペリシテ人の何たりし乎が略ぼ明白に成るに至つて、ゴリアテ対ダビデの一騎打の意味が益々深くなる 〇午後牛込神楽坂に石黒忠悳翁を訪問し、今より六七十前の洋学研究の困難に就て聞き、多くの貴き教訓を受けた。翁の前に出ては自分の如きは一青年である。常に他人の先生にばかり成つて居る自分の如き者は、度々自分より遥か年長者の前に出て訓導して貰ふの必要が大いにある。
 
(127) 十二月十日(金)晴 家庭大学文庫《ホームユニバーシチーライブラリー》中のケムブリツヂ大学支那学数授ガイルス氏著『支那の文明』を読み大に学ぶ所があつた。殊に陶淵明作『帰去来辞』が世界の家庭歌の内で最も美くしい者の一であるとの意見を読んで、今更らながらに其の観察の適切なるに敬服した。東洋にホームなしとの説は今に至り全然之を打消さゞるを得ない。或る意味に於て『帰去来』はホーム、スヰート、ホーム以上の家庭歌である。東洋に東洋流のホームがある、唯之をキリストに聖めていたゞく必要がある。キリストを迎へて東洋は西洋以上の文明を作ることが出来るとの信念が益々確実になつた。
 
 十二月十一日(土)晴 雑誌十二月号を発送した。是れで今年も亦滞りなく全部発送することが出来て大なる感謝である。静かに聖書を研究し、静かに研究の結果を紹介して、日本国に対し大なる善事を成就する事が出来る。政治や社会事業に関与して永久的に何の益する所はない。我が共働者は尠しと雖も少しも憂へない。自分は自分の領分に於て独りキングである事を確信する。
 
 十二月十二日(日)晴 集会変りなし。午前は「基督教と東洋文明」に就き、牛後は撒母耳前書大意を述べた。此日瑞典国大学市ウプサラの牧師ドクトル・ヘルマン・ネアンデル氏の訪問を受けた。立派なる北欧の基督的紳士であつて、一面して深き親みを感ぜざるを得なかつた。欧洲に於ける第二の宗教改革の必要を持出せし所、氏は自分の思ふ通りに思ひ居る由を答へた。氏は曰ふ「欧洲人全体が其必要を認めて居る、然れども斯かる改革の欧洲人に由て行はれず、|欧洲以外、多分日本より始まるのではない乎と思ふてゐる〔付△圏点〕」との事であつた。意外の事を聞いて自分は驚いた。氏は世辞を言ふやうな人でない、然るに氏の如き名士より此事を聞いて、自分は此事を告ぐる為に神が氏を自分の許に送つて下さつたのではない乎と思うた。氏は頻りに自分に欧洲に来りて日本に(128)於て説いてゐると同じ福音を説かんことを勧めた。自分は答へて曰うた、若し自分が欧洲に往いて欧洲人に第二の宗教改革を促すための一助と成るならば自分は往くことを辞せずと。氏は改革の方法の委細を尋ね、最後に自分の写真を撮り、快談一時間半にして欧洲に於ける再会を約して、堅き捏手を交へて別れた。実に夢のやうな話である。或は夢が事実となりて現はるゝやも知れぬ。聞く瑞典国に於ても『余は如何にして基督信者となりし乎』の瑞典訳を読みし者多数ありて、自分は彼国に於て既に多数の同情者を有すと。因に記す、ネアンデル氏は瑞典国赤十字社を代表し、過般行はれし日本赤十字社設立第五十年紀念会に出席せん為に遥る々々渡来されたのである。
 
 十二月十三日(月)曇 昨日の瑞典博士との会見で非常に疲れた。是れでは欧洲に往きて第二の宗教改革促進運動に参加するならば疲れて死んで了ふと思うた。日本に在りて静かに今日まで通り働くのが唯一の途であることを覚つた。国とか改革とか聞くと、直《ぢき》に気が立つて了ふ。欧洲に往いて新教徒と羅馬天主教徒との間に挟《はさま》つて、自分の主義を主張するならば、それこそ磨臼《ひきうす》の間に入つて潰《つぶ》されるまでゞある。自分の同情は勿論新教徒の上に在る。然し乍ら他人の喧嘩を自分に買ふは厭である。欧米人が教会的基督教を全然棄つるまでは本当の信仰は起らない。其の如何に困難なるは欧米を知る者の能く知る所である。若かず日本に在りて無教会的基督教を実行して之を世に示さんには。幸に英文機関誌の有るあり、之を以て我が立場を海外に示すことが出来る。
 
 十二月十四日(火)雨 雑誌編輯に全日を費した。眼が疲れて困難である。然し休み休み為すが故に為し得ないではない。聖上陛下の御重態を御案じ申上げる。
(129) 十二月十五日(水)雪 東京府立第一高等女学校第四年生二百五十余名、教頭並に其他の職員に引率せられ、基督敦の話を聴かんとて我が聖書講堂に来る。共に讃美歌五十九番六十番を歌ひ、次ぎに生徒総代四人の感話あり、終りに自分は馬太伝二章と路加伝二章とを読み、クリスマスの意義に就いて一時間に渉る講話を試みた。一同静粛に謹聴して呉れた。斯くして家に居ながら大伝道が出来て感謝であつた。第一府立高女の生徒が我教を聞かんとて此所に来りしは之で第三回である。そして回を重ぬる毎に興味は増す計りである。公立学校の生徒が職員に引率せられて、礼を厚うして教理を聞かんとて泥濘を冒して訪ね来ると云ふのである。基督教は日本に在りて斯くまで進歩した。教会で為すが如くに自から進んで信者製作に努力する必要は少しもない。日本人は教会の基督教を嫌ふけれどもイエスキリストは之を歓迎する。昔の儒者は居ながらにして天下の青年を自己に引附けた。基督教の教師にも此権威が無くてはならない。所謂招聘に応じて我れより出て教ふる時は既に過ぎた。今より後は彼等より来て我が教を受くべきである。是れ東洋人が教を受け又之を授くる途である。教師は之を呼び寄せ、教師又招かるゝを名誉とするは是れ西洋人殊に米国人の為す事であつて、我等日本人は斯かる悪風を全然排斥すべきである。今日又生徒総代の感話を聞いてキリストの精神が如何に深く我国人の間に沁み込みし乎を知らされて感謝であつた。
 
 十二月十六日(木)曇 聖上陛下御重態の報頻々として到り一同心を痛め奉つた。我等草莽の臣、如何にして御同情を表し申上げて宜しきやを知らない。只全能者の前に我等の苦痛を訴ふるのみである。それと同時に「神よ我等の愛する此日本国を護り給へ」との祈祷が心の奥底より湧出づるを禁じ得ない。
 
 十二月十七日(金)晴 孫児の病気が殆んど全治し、家族一同元気附いた。世の病児にして治療の資に乏しき(130)者の為に少額を献じて我等の感謝の意を表した。健康の小児の面を眺むるに勝さる快事はない。天国が我が面前に開展されしやうに感ずる。外出して玩具を買求め、其笑顔を見んとして家路を急ぐ其快楽は実に特別である。此は単なる「煩悩」ではない、神が万物を愛し給ふ其愛が我等に植附けられし者である。「汝悪者なるに善き賜物を其子(孫)に与ふるを知る、況して天に在ます汝等の父は求むる者に善き物を予へざらん乎」とのイエスの御言葉の深き意味は人生の斯かる実験に由て解るのである。子を持つて知る親の恩、孫を与へられて知る神の愛と言はん乎。まことに有難い事である。
 
 十二月十八日(土)曇 陛下の御不例益々良しからず、七千万同胞と共に深き憂愁に沈む。家庭の祈祷は主として此一事に注集さる。斯かる場合に於て日本国は一大家族なるを感得する。治者と被治者でない、父と其子供である。我国に元始時代の此の美はしき関係の存つてゐる事を感謝する。願くはその永久に存続せん事を。
 
 十二月十九日(日)晴 昨夜北海道新英洲を思出させるやうな大吹雪があつた。東京には稀れなる事である 〇今年最後の研究会であつた。朝は「基督教と日本」に併せて「歳末の感」に就て語つた。感満ちて後は少しボンヤリとした。牛後はサムエル前書十七章に於ける「ダビデ対ゴリヤテの格闘」に就いて話した。ゴリヤテは西方の物質主義を、ダビデは東方の信仰主義を代表して、相対して闘つて、東方即ち今日で云ふ東洋の代表者が勝つた所以を述べた。斯かる活気ある問題に就いて述べて心は熱せざるを得なかつた。午前午後共に先づ満足なる講演であつた。是で先づ今年も一回も欠かすことなく、楽しき聖書講演を終るを得て感謝の至りである。後幾年続くことであらう。縦し百年でも苦しくない。教会や宣教師に使はるゝにあらずして、自から願うた此業に従事するのであれば、其興味は何時に成つても尽きない。斯んな有難い事はない。七たび人間に生れ来ても同じ此業(131)に従事するであらう。
 
 十二月二十日(月)晴 函館の眼科医虎渡乙松君永眠の報に接して悲しんだ。君は最も忠実なる同志の一人であつて、我等に取りては北海の重鎮であつた。君去りて北海道に行くは一層億劫になつた。惜しい人物であつた。
 
 十ニ月二十一日(火)曇 歳末の諸勘定を済した。随分面倒である、然し此世に居る間は止むを得ない。払ふ丈け払へば神はまた豊かに与へ給ふ。そして差引き与へらるゝ高は与ふる高よりも多くある。其意味に於ても与ふるは受くるよりも福ひである 〇今日同志と談じた事である、日本に於て基督教は仏寺的基督教と儒者的基督教とに別れつゝある。愛即ち|おなさけ〔付ごま圏点〕に依る基督教と道義に依る基督敦に別れつゝある。日本に於ては仏教は全体に町人の宗教であり、儒教は武士の道であつた。そして教会の基督教は寺院の仏教の代りに町人に迎へられつゝあり、無教会主義の基督教は儒教の場所を取りつゝある。何れにしろ近代の基督教会が著るしくお寺化した事は争はれぬ事実である。之に対して我等は厳格なる道義的の、純ピユーリタン的の基督教の発達を計らなければならない。
 
 十二月二十二日(水)晴 冬至である、二階の椽側《えんがは》より日の出を見た。荘厳であつた。此んな者は他にはない。鎔けたプラチナの光を以て直径八十六万六千哩の火の玉が虚空の深みより昇り来るのである。此は柏木の二階より見るも、太平洋の中央或はアルプスの頂上より見ると同じ太陽である。之を「我が玉」と見て差支がないのである。今日今頃三越や天賞堂の店に於て宝石を漁る馬鹿者どもの心が憐まれる。昼は太陽、夜はオライオン星と大犬星と小犬星、そして死んだ後は永遠の神の国、是等が彼の恩寵に由り我が有であると知りて、人生他に何(132)物を求むるの必要なきを感ずる。
 
 十二月二十三日(木)晴 丸善へヒヤカシに行いた。購ふべき書物に見当らなかつた。英文の西比利亜地図一葉と支那小史一冊を買つて帰つた。歳末に際し相変らず此世の小事に累《から》まりて心労する、然し万事を彼に委ねまつりて安心である。今年も亦為すべき事は凡て為して了ひ、払ふぺき勘定は凡て払うて了つた。之で先づ今年も亦愛の外に何の負ふ所はない。
 
 十二月二十四日(金)晴 聖書研究会午後之組の委員慰労会を開いた。其内医学士四人、文学士一人、外一人である。彼等は喜んで玄関番、書籍販売部等の賤役に当つて呉れる。実に感謝の至りである。今や研究会全部が平信徒的である。其内に一人のレベレンド(免許を得たる教師)又は神学生は居ない。又専門の音楽者が居ない。全部が素人である。其点に於てまことに気持の好い会合である。会計は少しの剰余金はあるが不足は少しもない。まことに平和なる平信徒の団合である。
 
 十二月二十五日(土)晴 今日午前一時二十五分大正天皇陛下崩御せらる。恐懼に堪へない。同時に昭和と改元せらる。近頃頻りに思ふ事は日本を単に日本として見てはならない事である。日本は世界の日本であつて、特に東亜の日本である。東京はヒマラヤ山以東の亜細亜東方全部の都である。日本の人口の稠密なるは、之を以つ蒙古、西此利亜等人口稀薄の地域を充さん為である。沿海州、勘察加《カムサツカ》州、ベーリング海沿岸アナヂール地方の広大たる地域が日本人の来住活動するを待ちつゝある。是が為に日本人は武力を以つて是等の国土を占領するに及ばない。勤勉なる平和の民として自然の拡張を待つべきである。神は人を此世に遣はし給ふに其国の民として(133)のみ遣はし給はない、|世界の民として遣はし給ふ〔付○圏点〕。又政治的に、又は法律的に自分の領土でない国は自分の国でないと思ふべからず。己が罪を赦されて神の子と成りし者は、神の有は自分の有と思ふて不可なし。「万物は汝等の所属《もの》、汝等はキリストの所属、キリストは神の所属なり」である。|此精神的万物所有権〔付○圏点〕の自己に賜はりしを認めて、我等は真の世界的膨脹の途に就くのである。斯く云ひて我等は世界的に大なる者と成らんと欲するのではない。然れども此無慾の態度に自己を置いて我等は膨脹せざらんと欲するも得ないのである。日本の将来に悲観すべき事多しと云ふは、其外部の状態に就て云ふのでない、其内部の、精神的態度に就て云ふのである。日本人に若し神を信ずるの信仰があるならば、それ丈けで既に世界的に偉大なる民に成つたのである。願ふ昭和の日本に於て此の根本的大革正の我が国民の間に起らんことを。日本人が欧米人に傚ひ、何事も経済、何事も物質、文化、文明と云ふ間は決して欧米人以上に達することは出来ない。日本人特有の勢力は精神である。之を化するにキリストの聖霊を以てして、我等は世界第一の民と成ることが出来る。支那人、蒙古人、満洲、西比利亜の諸族の長兄と成りて、彼等を導いて、相共に世界最優等の民と成ることが出来る。之にしても最も大切なる事は我が同胞に深く聖書知識を注入する事である。自分としては年号は改まるも自分の為すべき事は変らない。此記臆すべきクリスマスの日に此事を書き記す。
 
 十二月二十六日(日)晴 諒闇第二日である。午前に一回集会を催した。出席者百五十人。皇室に対し心よりの御同情を表し奉り、天地の神の御保護の篤く其上に加はらん事を祈つた。同時に又神が特に此国を護り給ひて、之を以つて大なる御栄光を顕はし給はんことを祈つた。我等各自は独り救はれんと欲してはならない、|日本国と共に救はれん〔付○圏点〕と欲しなければならない。日本は決してツマラナイ国ではない、大なる天職を負はせられたる国で(134)ある。神は必ず凡ての困難を排して日本国をして其天職を実行せしめ給ふと信ずる云々と述べた。此日は特に「愛国的日曜日」であつた。
 
 十二月二十七日(月)晴 撤母耳後書を読み終つた。久振りにて王としてのダビデの生涯に就いて読み、教へらるゝ所が多かつた。欠点多き此ダビデが神の御前には「我が愛するダビデ」でありし事を知りて、自分も亦大いに力附けらる。信仰は多くの罪を掩ふの能力である。
 
 十二月二十八日(火)晴 年末の事とて俗事に逐はれ、我心マルタのそれの如くに入乱る。神に使はれんとせず、自から義務を果たさんとするが故に、為す事多くは無効に終る。信者に実は暮れ気分に成る必要は少しも無い。彼は常に春の|のどけさ〔付ごま圏点〕に於て在らねばならぬ。自分が善人たり義人たるの必要は無い、善も義もすべて之を「彼」に於て求めねばならぬ。他人の欠点を責めつゝ自分も同じ欠点に陥いる。浅ましき限りである。
 
 十二月二十九日(水)半晴 二つの雑誌の校正で忙しかつた。何時まで之が続くのであらう。多分死ぬまで続くのであらう。前田多門君並に家族欧洲滞在より帰り、彼等を見舞ひ、相互の健在を祝した。今日はまた久振りにて藤井武君の訪問を受け、夕食を共にし、過去と現在を語り、是れ亦大なる慰めであつた。去る者も多かれども留まる者も亦尠くない。敵は思うたよりも尠く、味方は思うたよりも多い。只懼る生涯の終りに方りて困難が減少して、我が神を信ずる信仰の衰へんことを。然し乍ら神を信じ、彼れ勝ち給ふが故に我も亦勝つのであれば止むを得ない。唯願ふ日に日に「我れ」は減じて「彼れ」が我が衷に在りて益々増し給はんことを。
 
(135) 十二月三十日(木)晴 昨夜珍らしい事があつた。預言寺の二階へ角鴟《みみづく》が一羽舞ひ込んで来たから之を生捕《いけどり》にした。番人の音吉は歳末に「ふくろ」が舞ひ込んだのであるから吉兆であると云うた。然し自分は「みゝづく」は夜の鳥であるから暗い悪魔が飛び込んで来たと見て見えぬ事は無いと云うた。然し吉凶何れでも可い。珍らしい見舞客の事とて、今朝は家に在る丈けの鳥類学書を引出して大に彼を研究した。又孫女に彼を示して大に彼女を悦ばした。そして夜に入つて彼を放つてやつた所翼を伸べて喜んで飛んで往いた。彼は鼠類を多量に食するが故に益鳥である。動物園ならずば飼育は困難である。歳末の善き慰みであつた。それ丈けでも吉兆である 〇有名なるジヨセフ・アンガス著 THE BHBLE HAND-BOOK の改版を買求めて嬉しかつた。自分の学生時代に読んだ書であつて、旧友に会するが如くに感じた。英語に依つて聖書を研究する者に取りては最も便利なる書である。其初版は今より七十三年前に出たのであつて、今日に至るも其価値を失はない。此種の著書の内で恐らく之に優さる書は他に有るまいと思ふ。改版はドクトル・S・G・グリンの手に為り、近代の研究の結果を収む。英語を解し得る人には何人にも勧めたき書である。代価は四円拾銭であつて、東京九段向山堂にて求むる事が出来る。
 
 十二月三十一日(金)晴 雑誌一月号の校正を済ました。茲に亦恩恵の一年を終る。不相変多くの心配もあつたが、すべてが益となつて終つた。幼児の健康が回復して旧年を送ることが出来て何よりの感謝である。此上幾年此世に|ながらへ〔付ごま圏点〕やうとも同じ恩恵の生涯を繰返すまでゞある。唯信じて主の命に従ひて歩むまでゞある。此世は無きものと思ひ、神と自分と二人丈け在ると思ひ、彼に絶対的服従を奉りつゝ残る生涯を送るべきである。
 
(137)     一九二七年(昭和二年) 六七歳
 
 一月一日(土)晴 無風静粛の元旦であつた。年賀状も来らず、年賀客も無く、まことに全国的喪中の新年であつた。中古時代の大哲学的神学者アンセルムとアベラードに就て読んだ。アンセルムは曰うた「理解せん為に信ぜよ、信仰ありて後の知識である」と。アベラードは曰うた「信ぜんが為に理解せよ、知識を以つて信仰の基礎を作らざるべからず」と。今日で云へばアンセルムは聖書主義者《フハンダメンタリスト》であつて、アベラードは近代主義者《モデルニスト》である。然れども二者孰れも真理の半面を主張するに過ぎない。真理は信仰であり同時に又理解である。聖霊が我等の衷に降りて真理を示し給ふ時には我等は同時に信ぜしめられ又理解せしめらる。十二世紀の昔にも今日と同じやうな学派があつた。然れども其頭脳の偉さに至りては近代人は到底中古人に及ばない。アンセルム、アベラード、アクイナス、ベルナード……何んと偉らい人達でありしよ。中古時代は周囲が暗黒でありし丈け、其中に輝きし光は大きかつた。
 
 一月二日(日)晴 朝一回の集会を開いた、来会者百五十人。塚本は詩篇第百二十一篇に就て、自分はピリピ書一章六節に就て感想を述べた。「汝の心に善き業を始め給ひし者は之を主イエスキリストの日までに全うし給ふべしと我れ深く信ず」と云ふのである。神は一度び恩恵を下して之を取上げ給はず必ず終りまで之を継続して御|救拯《たすけ》の目的を達し給ふと云ふのである。カルビン主義に云ふ所の「恩恵不動説」である。一たび神に選まれたる者は永久に棄られずとの信仰である。此信仰がなくして永久不抜の平安はない。人も悪魔も自分を神の恩恵の(138)把握より引離すこと能はず、又自分の犯す罪さへも自分より救拯の特権を奪取する能はずとの信仰である。旧い信仰であつて近代人の不問に附する信仰であるが、然し此信仰こそ信者の依て頼む救拯の磐である。人は棄てゝも神は棄たまはない、教会は破門しても神は破門し給はない。自分で自分に呆れ果てゝ自暴自棄の失望に陥ゐるとも神は棄たまはないと云ふ信仰である。実に尊い有難い信仰である。そして是れ聖書が充分に保証して呉れる信仰である。此信仰に力附けられて今年も進まんと欲すと述べた。
 
 一月三日(月)晴 旧友ドクトル・バーが送つて呉れた多くの書籍の内に有名なるエミール・スーヴツスル著「巴里に於ける屋根裏住ゐの哲学者」の一冊を看出した。正月の読物として屈強のものと思ひ、昨夜以来読んでゐる。実に面白い書である。仏蘭西にも斯んな美はしい基督的紳士が居る乎と思ひ、意外に感じた。実に我意を得たる書である。自分の実験録である乎の如くに思はるゝ節が多い。社会や教会に輝かんとせずして、唯日常の生涯に多大の幸福と満足とを感ずる生涯である。所謂「何んでもない人の一代記」である。然し貴き、興味津々として尽きざる書である。自分も「何でもない人」の一人である。勿論偉人でない、教師でも神学博士でもない。ノーボデーである。其者が彼の実験を書いた故に不幸にして少しく有名に成つたのである。自分は An Attic Philosopher in Tokio である。懐かしい哉此著者。仏蘭西人の書いたものを今日までに大分に読んだが(凡て英訳にて)斯んな面白い書を読んだことはない。
 
一月四日(火)晴 「屋根裏博士」の善き感化の下に今日も亦幸福なる日を送つた。人に善人として、善良なる教師として、偉人として聖人として認めらるゝの必要は更に無く、凡人、小人、偽善者、悉く可なりであつて、自分は自分の幸福を人や社会や教会に求めずして、自分自身に於て求めて、真の幸福の有る事を感じた。素々人(139)の先生と成りて自分の為に弟子を作りて社会に名を揚げやうと思ふて始めた伝道でない。何か自分の力相応に人に善を為さんと欲するより始めた仕事であれば、それが為に一人なり二人なりが真の幸福を得たりとすれば、それで自分の目的は達したのである。それが今日の如くに多くの人に先生と仰がれ、毎週毎月時を定めて彼等を教へねばならぬやうに成つたのは自分の不幸此上なしである。自分として自分に対し不平を懐く者は一日も早く去つて貰ひたい。自分は彼等の敬慕追従を要しない。|自分は神の恩恵に由り単独で有り得る〔付△圏点〕。人望は有難た迷惑である。去れよ去れよ、往けよ往けよである。自分も亦元の「屋根裏博士」に成りたくある。自分が死すとも為す能はざる事は、自から自分の弟子を以て任ずる人達の機嫌を取りて彼等の追従を維持せん事である。旧いも新らしいもあつた者でない、イヤな者は往けよ往けよである、そして自分をして単独の幸福に飽かしめよである。
 
 一月五日(水)晴 麗はしい春のやうな日和であつた。昭和の瑞相とでも云はうか。今年最初の校正を為した。比較的に完全なラヂオを据附けた。珍らしさに沢山の音曲を聞いた。其内で「勧進帳」の長唄を最も強く感じた。弁慶の心中が察しられて涙が零《こぼ》れた。自分の内にも強い日本人がある。斯かる音曲を聞かされて感動せざるを得ない。富樫左衛門の武士の情けが嬉しかつた。キリストも之を愛で給うたに相違ない。斯んな心を日本人に賜ひし神に感謝する。
 
 一月六日(木)半晴 正月の休みにて気が緩み、うとうと〔付ごま圏点〕して一日を終つた。地方の読者より多くの感謝の書面を送つて呉れて有難つた。琉球より、土佐の南端より、大阪市中より感謝に溢れたる書状が達した。普通一般の年始状ではない。子が親を思ひ、弟子が師を慕ふ赤心の発露である。人が何んと評しても自分は特に神に恵まれたる者の一人であることを疑ふ事は出来ない。左の三首の如き、歌人も到底及ばざる歌ならざる歌である。
(140)   現し世の毀誉褒貶をよそにして
     聖書の研究にひたる君かな。
   二十五年三百号を突破せり
     さらにも祈る先生の意気。
   先生に教を受けていつまでも
     深き真理をまなびてしがな。
 
 一月七日(金)雨 ペンを執りて今年の仕事を始めた。聖書の講解に従事して自己に立帰り若返りするやうに感ずる。新聞紙は支那漢口に於ける英国人逐放の報を伝ふ。由々しき大事である。之が為に東洋に大戦乱を見るに至るやも計られず。
 
 一月八日(土)半晴 暖い春のやうな日であつた。大分に仕事が出来た。友人は皆んな失つても可いとの覚悟が出来て嬉しかつた。満六十六歳の春まで待たねば此覚悟が出来なかつた乎と思へば自分の意気地無しさが今更らのやうに感じられる。今までは自分に取り友人を失ふ程恐ろしい事はなかつた。それが為に随分と辛らい経験を嘗めた。然し今に至つて解つた、友人を失ふ事は決して悪い事でない事が解つた。一人でも友人を留め置かんと欲する其心が既に束縛であつて、それの有る間は自由の神に自由に事ふることは出来ない。絶対的単独になりて初めて神と二人になりて思ふ存分に彼の聖旨に従ふ事が出来る。我主イエスが単独にて死たまひしやうに、我れも只一人となりて死たくある。
 
(141) 一月九日(日)曇 午後晴る。本年最初の研究会例会を開いた。午前は百三四十人、午後は二百人足らずの集会であつた。午前は塚本と、午後は畔上と高壇を共にした。午前は使徒行伝十八章に依り「パウロのコリント伝道」の一部に就て語つた。彼が自活の途を計らんが為に天幕製造に従事した事が伝道の第一歩であつた事を述べた。午後は「撒母耳後書の大意」の上半部を語つた。ダビデ王の惰性、彼が犯した姦婬の大罪、彼に臨みし刑罰と赦しに就て述べた。不相変忙はしい楽しい日であつた。我等に取りては毎聖日が正月であり祭日である。日曜日と聖書講演なくしては人生の味がない。此は我が生命である。死ぬるまで行るのである。
 
 一月十日(月)曇 寒い日であつた。ボンヤリして何事も出来なかつた。只孫女をアヤすのと、ワーヅワスの短篇『雛菊』を復習するのが主なる仕事であつた。どうせ月曜日は棄た日である。然し毎週此日を棄ざるを得ざる説教師の苦労を知つて貰ひたい。然し知つて呉れる者は滅多にない。
 
 一月十一日(火)雨 一月号を発送した。阿弗利加大陸唯一の独立国アビシニヤの地理歴史に就いて読んだ。旧い基督教国である。夫れ丈け欧洲諸国に尊敬せられ、独立を維持して居るは喜ぶべきである。腐つても鯛の骨と云ふはアビシニヤの事であらう。其点に於てウガンダ、マダガスカーの運命は実に歎ずべきである。
 
 一月十二日(水)半晴 ルツ子デーである。彼女去りてより満十五年である。夫婦伴れ立ちて雑司ケ谷に「再た会ふ日まで」の碑を訪れた。そして再会の日は大分に近いた。英日まで御国に於て彼女の霊魂を平安に保ち給はんことを墓前に祈つた。
   その霊《たま》は神の御国に安しとは
(142)     知れども尽きぬ我が涙かな
である。帰途巣鴨宮下に田村直臣君を訪うた。多くの善き事悪しき事を聞かされた。老人はやはり老人の話が面白くある。
 
 一月十三日(木)晴 今日も亦基督信者同志が相互を誹り陥いれる事実を聞かせられて実に気持が悪かつた。基督教界は今日に至るも依然として地獄である。青年会、女子青年会、禁酒会、教会は勿論の事、皆な然らざるはなし。彼等は不信者らしく争ふて勝たんと欲する。キリストらしく負けて勝つの秘訣を知らない。彼等は相互を教界に訴へる、社会に訴へる、そして敵を葬りて自分が勝利の地位に立たんと欲する。それ故に争闘《あらそひ》が絶えない。彼等は反対者にたゝき伏せらるゝ事の福祉《さいはひ》を知らない。実に気の毒なる人達である。自分の如きも彼等にたゝき伏せられて真の幸福に入る事が出来た。基督教社会よりたゝき出さるゝまでは真の平安、幸福に入ることの出来ない事をすべての人に知つて貰ひたい。
 
 一月十四日(金)晴 ヨハネ第一書五章二〇節を読んで感じた。「彼れ(イエスキリスト)は乃ち真神また永生なり」とある。まことに貴い深い言である。今やキリストの神性論の如き人の省る者なし、然し乍ら宇宙人生の事にして之に勝さりて重大なる事はない。聖書は此所にも亦キリストは真神なりと明白に曰ふてゐる。自分も亦長らく此事を忘れてゐた事を思出して慚愧に堪えない 〇郊外に散歩し、道の中央になげ出してありし電線の断片《きれはし》に躓きて倒れ、すんでの事に大怪我をする所であつた。年老いて躓いて倒れ、それが原因となつて死んだ者は幾人もある。自分は今日其災難を免れて感謝である。其断片を取除いて家に帰つた。
 
(143) 一月十五日(土)曇 労働の一日であつた。木脇園子女史の訪問を受け、旧きを語つて楽しかつた。明治初年以来交際を継けてゐる信者の婦人は独り彼女位ゐの者である。我が札幌時代の同窓同級の友藤田九三郎君の義姉であつて、直接間接に共同の事に携はつて今日に至つたのである。
 
 一月十六日(日)晴 暖い春日和であつた。朝は七分、午後は満員の集会であつた。パウロのコリント伝道の続きと撒母耳後書の大意の後半を講じた。自身に取り何れも努力を要する講演であつた。聴衆の忍耐をも多とせざるを得ない。毎回聖書の連続講演を聴かせらるゝに拘はらず彼等は時を定めて席に就き、二時間の長きに渡り静かに謹聴するのである。講演中に席を離るゝ者の如きは、教会信者の傍聴者を除くの外は絶対に無いと云ひ得る程である 〇英支関係は益々重大に成りつゝある。之に由りて如何なる世界的大事件が起るか判明しない。不安なる世界である。
 
 一月十七月(月)曇 自分が雑誌に書いた事に対し種々の非難が旧い知人又は友人より達する。之に対し自分の返辞は大抵左の如くである。
  小生が公けにした意見に対しては、若し責むべき所があるならば公けに責めて下さい。私書を以て公言を責めず又之に答へざるが紳士道であると思ひます。故に若し御所望とならば紙上で御答へ致します。それまでは御返辞致しません、左様御承知を願ひます。敬具
公私の別を明かにせずして公平なる議論は出来ない。然し大抵の人は公人の言葉尻をつかまへて彼を詰るを好む。困つたものである。
 
(144) 一月十八日(火)曇 年は改まりても人は改まらず、諒暗中なるにも拘はらず、帝国議会に於ては政治家共が小なる問題を捉へて互に相攻めつゝあるが如くに、我等の間に於ても、是も亦神の御眼より見れば、いとも小なる問題の為に兄弟相鬩ぎつゝあるを見る。此はたしかに悪魔が神の子供の間に働きつゝある証拠であつて、我等は被れ悪魔に取合はず、神の御言なる聖書に親しみ、讃美と祈祷とに我等の霊魂の平静を計るべきである。人が何んと曰はうと如何でも可い。鞫く者は神であつて人でない。人は無いものと思ふて行けばそれで宜いのである。
 
 一月十九日(水)晴 英文雑誌原稿の製作に全日を費した。馬太伝二十二章四十二節「汝等キリストに就て如何に思ふ乎」を主題にして書いて見た。英文を以てする時に日本文を以て言ふ能はざる事を言ひ得て少しく満足である。外国人や宣教師に納けて貰ふ為に書くのでないからペンは自由に走る。彼等に嫌はるゝは自分の予め期し又望む所であるが故に、ペンを手に取りて無人の里を行くが如くに感じて愉快である。
 
 一月二十日(木)晴 不生産的の一日であつた。生まんと欲して生む事は出来ない、然し生まねばならぬ時には必ず生ましめらる、故に心配するに及ばない。只何事をも為さずして貴き一日を送る時に、造物主に対して甚だ済まなく感ずる。
 
 一月二十一日(金)晴 不相変イヤな事を見せられ又聞かせらる。世は依然として罪の世である。虫くひ錆くさり盗人穿つ所の世である。斯る世より望んで何の善きものをも得る事は出来ない。神、キリスト、聖書である。之に縋り、之に親みて人の凡て思ふ所に過ぐる平安がある。神キリストに在りて我を愛し給ふ。其事さへ判明すれば、議会や社会や教会は如何でも可い。
 
(145) 一月二十二日(土)半晴 寒気強し。自分に叛きし多くの日本人が、ルーテルが法王に叛いたと同様に勇敢なる行為に出たと思ふ人があるやうなれども、それは間違つて居る。日本に於て基督教の教師に叛く程容易い事はない。それに社会上並に経済上の損失は何も伴はない。大抵の場合に於て其反対が事実である。故に彼等は小なる理由の為に叛くのである。そして叛いた後に彼等が何か偉らい事を為した乎と云ふに、そんな例を見た事はない。之に由て観るに、彼等は教師に叛く前に神と福音とに叛いたのである。彼等は勇者ではなくして真理の落第者である。彼等が若し自分の此言を怒るならば、ルーテルの如くに、|叛く外に〔付△圏点〕何か勇敢なる行を真理のために為すべきである。さうすれば自分は彼等の為に喜ぶ。
 
 一月二十三日(日)晴 引続き寒い日である。両回の集会に変りなし。寒気強しと雖も出席者の減少を見ない。午前は「パウロの剃髪」と題し、行伝十八章十八節を講じた。午後は列王紀略上の大意を述ぶるに方り、ソロモン伝の大要を語つた。二講とも自分に取り趣味の深い者であつた。聖書を講ずる度び毎に此世の煩ひを忘れて感謝である。
 
 一月二十四日(月)晴 寒気更に厳し。英文雑誌の継続に就て苦心した。大体に於て自分に於て引受ける事に決心し、山県五十雄君の承諾を得た。始める時に同君と自分との間に或る友誼的誤解のあつた事が今に至つて明白に成つた。然し悲まない。之が為に或る善事を為し得たと信ずる。神は時々如斯くにして我等を「欺き」我等をして其聖旨を遂げしめ給ふ(耶利米亜記廿章七節参考)。我等それが為に時に不快を感ずる事ありと雖も、神に「欺か」れ彼に使はれて反つて感謝する。「凡ての事働きて益を為す也」である。
 
(146) 一月二十五日(火)曇 二つの雑誌の責任を全部担はねばならなくなり大分の重荷である。六十六歳の春を迎へたる者には少し重過ぎるやうに思はる。然し止むを得ない、又心配するに及ばない。「汝の力は汝の齢に添ふぺし」と主は曰ひ給うた。自分が負ふのではない、神が負ふて下さるのである。さう思へば重荷に反つて興味がある。
 
 一月二十六日(水)晴 両雑誌の原稿を終りたれば心少しく緩やかになり、宗教問題を忘れて、ヴイクトリヤ学会の報告書に北氷洋内のリヤコフ一名新シベリヤ群島の地理物産等に就て読んだ。荒漠たる氷の大洋に我が北海道又は九州四国大の象牙鉱山の島があると聞いて驚く。此小なる地球の財源はまだ容易に尽きない。其他スピツツベルゲン、グリーンランド等の大陸大の島々にどんな財貨が潜んでゐるか解らない。人間は勝手放題に神の蓄へ給ひし物資を消尽するが、神はまだまだ巨大の富を蔵し給ひて万物復興の時に備へ給ふ。地球の運行の或る変動に由り、北極圏内の氷が凡て解くる時に、真下からどんな宝が現はれるであらう。神が人類を救はんと欲し給ふ時に其手段方法はいくらでもある。読み様に由ては地理学の研究も亦我等に多くの希望を与へる。面白い世界である。
 
 一月二十七日(木)曇 寒いイヤナな日であつた。少しく風邪に冒され何事も為し得なかつた。但し福音の真理に就て考へ、神の恩恵に由り之を信ずるに由り世界人たるを得しを思ふて感謝した。我が残余の生涯を日本ならで全世界に此大福音を伝ふる為めに送らんと思ふて楽しかつた。然し此んな大望を懐く者は日本中極く々々少(147)数であるが故に、|自分一人で之に当るの覚悟を以つて臨まねばならぬ〔付○圏点〕。
 
 一月二十八日(金)晴 咽喉痛激しく、床に就いた。流感に罹つたのである。
 
 一月二十九日(土)晴 昨夜疼痛強くして眠られず、久振りの苦悩であつた。万事を放棄し、唯病と闘ふのみであつた。
 
 一月三十日(日)晴 珍らしき寒さである。今日は講演全部を休んだ。是れ亦珍らしき事である。説教師が咽喉痛で苦しめらるゝは止むを得ない。彼の場合に在りては咽喉を錐で刺さるゝやうに感ずる。然し福音の為の疼痛であると思へば忍ぶに大分楽である。教友中医術の技能を有する者が交はる交はる援けて呉れた。
 
 一月三十一日(月)晴 少しく快し。大嵐が我が身体を吹捲つて去つた後のやうに感ずる。貴重なる数日間を床中に過したりと雖も悪い事計りでなかつた。第一に眼が休まつた。第二に此世の悪い事を聞かされなかつた。第三に家族並に親友の心切を一層深く感じた。
 
 二月一日(火)晴 昨夜も亦咳嗽甚だしく、眠られずして苦しんだ。今日は床を出でゝ少しく雑誌の校正を為した。
 
 二月二日(水)半晴 家族殆んど全部小児に至るまで風邪に罹り、家は大混雑である。恐ろしい病気である。(148)我等の活動力を全部奪ひ去る。不愉快極まりなし。京都山口菊次郎君永眠の報に接して悲んだ。君は自分の武士的方面を最も深く知つて呉れた人である。
 
 二月三日(木)晴 誰も彼も皆んな病人である。医業は繁昌する事であらう。そして病気よりも恐ろしいのは病気の恐怖である。神に依頼むの心なく、故にたゞ医師に頼まんとする。病気に追立られる不信の徒を見る丈けで憐れである。
 
 二月四日(金)晴 全家挙つて風邪気分にて不愉快極まりなし。此病気の一日も早く消え去らん事を祈る。今や何よりも欲しきものは水である。南洋の空より低気圧の見舞ひ呉れん事を待つ。市民何十万と云ふ者が茲に恩恵の雪か雨に恵まれんとて待ちつゝある。
 
 二月五日(土)雪 漸く雪を見た。全市民の歓喜である。是で何十万と云ふ病人が助かるのである。
 
 二月六日(日)晴 雪の朝である。東京全市が浄化された。暫時たりとも朝夕共に高壇に現はるゝ事が出来て感謝であつた。朝は阿弗利加リムバルネーに於けるアルバート・シユワイツエルの伝道に就き、午後は故オイケン博士に自分が呈せし弔辞に就いて語つた。英米人には殆んど何の関係も無き自分が欧洲大陸、殊に独逸に於て知名のクリスチヤンと益々深い関係に入りつゝあるは実に不思議である。英米人と自分とは何にか根本的に異《ちが》ふ所があると見える。此上彼等と深い友誼に入らんと欲して努むるも無益であらう。神の定め給ひし所である、如何ともする事が出来ない。
 
(149) 二月七日(月)晴 御大葬当日である。家に在りて静粛に弔意を表した。教会の機関雑誌に自分の事を色々と批評しあるを読んで気持が悪かつた。誉めるゝは譏らるゝ丈け気持が悪くある。自分は此世と教会とに対しては死んだ者である。彼等と何の干与なき者である。故に彼等に全然忘れて貰ひたい。然し乍ら教会信者と雖も人間である。彼等に対し人間相当の敬意丈けは表せざるを得ない。キリストに於ける兄弟姉妹として彼等を信頼する事は出来ないが、神の象《かたち》に像《かたど》りて造られし人間として彼等を尊敬せざるを得ない。彼等は自分等無教会信者に対して是れ丈けの尊敬をさへ表し得ないが、自分等としては神に対する義務として彼等に対し是れ丈けの尊敬を表せざるを得ない。
 
 二月八日(火)晴 病少しく癒え、漸くテーブルに対しペンが執れるやうに成り感謝である。恐ろしいものは流感である。半月以上に渉り全家族の幸福と活動力とを全部奪ひ去つた。然し得る所も亦尠くなかつた。身体は痛んだが、脳と心とは休んだ。信者の生命は活動に在らずして信頼に在る事を又復更めて教へられた。「静かにして待望まば」である。自分が働くのではない、彼が自分に在りて働き給ふのである。此事を繰返し繰返し教へられんが為めには、繰返し繰返し不能的状態に置かるゝの必要がある。此はいつでも病の床より起き上つて後の感想である 〇久振りにて読書が出来、中古史を復習した。聖ベルナード、十字軍、特に詩人ダンテに就て読んだ。旧い友人に遭ふて其教を受くるやうに感じた。何んと云ふても中古時代は偉らい、殊にダンテは偉らい。道徳的信仰的に見て沙翁、ゲーテよりも遥かに偉らい。彼は哲学的神学的詩人である。中古文明の焦点である。二十世紀今日は中古以上の暗黒時代である。此時に方り此中古時代の預言者的詩人に学ぶ、斯んな有益なる事はない。何を措いてもダンテは学ぶべしである。今日の米国宗教家の思想の如き、之を学ばないでも何の損失も(150)ない。
 
 二月九日(水)半晴 先帝陛下の大葬儀が終つた。終るや否や政党間の政権争奪戦が始つた。日本国民は皇室に対しては忠実であるが、相互に対しては甚だ不忠実である。彼等は国民相互に親しむのが皇室に対し忠誠を表する最上最善の途なる事を知らない。皇室に対しては謹厳、相互に対しては不信実極まるのである。斯かる謹厳が真正のものである乎、自分には如何にしても解らない 〇昨日に引続きダンテ伝を読んだ。彼に対し同情に堪へない。不幸の人であつて、然し恵まれた人であつた。アリストートルの頭脳とヱレミヤの心情の持主であつた。斯んな人物は千年に唯の一回世界に現はるゝのみである。余りに偉らくして此世の人等には到底解らない。然し彼の心に成つて見れば、彼は解するに最も易き人物である。ダンテを少しなりとも解し得る心を与へられし事は、此世の供する如何なる名誉に与かる以上の幸福である。ダンテを友とし得る幸福は殆んどパウロを兄弟と呼び得るそれと同等である。
 
 二月十日(木)半晴 雑誌二月号を発送した。第三百十九号である。読者は少しも減らない容子である。講談社の『キング』の発行部数百万以上と云ふに較べて九牛の一毛であるが、然し我が四千二百部は彼の百万以上の永久的勢力であることを信じて疑はない。彼が毎月各新聞紙に大々的広告を掲ぐるに対し、我は広告料として一銭も支払はざる丈けでも、彼が我に及ばざる事万々なるを知る。社会の歓迎を求めざるのみならず反つて之を賤み、教会宣教師等に嫌はるゝを喜び、人を憚らずして唯神を畏れて進む、斯んな楽しい事はない。十字架の福音を唱へながら終りまで此儘で行くのみである。
 
(151) 二月十一日(金)晴 風邪漸くにして癒え、今日は久振りにてバビロンに行いた。種々の悲しい話を聞かされた。殊に財界不振の話を聞かされ気の毒に堪へなかつた。我等キリストの僕に取りては景気もなければ不景気もない。神は何時でも無くてならぬものを与へ給ふ。然しそれ以上を与へ給はない。故に縦し遠からずして恐慌の大洪水が臨む事があつても、我等は箱舟《アーク》を与へられて其災禍を免かれるであらうと信ずる。何れにしろ日本今日の経済状態は随分危険なるものであると思はれる。
 
 二月十二日(土)晴 久振りにてペンが執れて有難かつた。警醒社老主人の訪問を受け、出版界の種々の事情を聞き、其意外なるに驚いた。此人の著書は何万部も売れたらうと思ふ者が売れ方甚だ悪しく、未だ初版をも売り尽さずと云ひ、又出版界の寵児と謳はれし著者が案外にも不遇に苦しんでゐると聞き、凡てが意外又案外であつた。それ等に較べて自分の如き最も幸福なる著者の内に算へらるべき者であることを思はずには居られなかつた。何れにしろ自己を世に推奨せんとして成れる著書は凡て失敗である。キリストの聖名の揚らん事を第一の目的として為されし出版は凡て成功である 殊にキリスト抜きの、自分勝手の基督教を唱へし著書は商売上成功と見做されし者も、凡て尽く失敗であつた。売る所、日本の出版界に於ても活ける真の神が働き給ふを見る。神は侮るべき者に非ずである。神を馬鹿にして如何なる天才と雖も永く成功する事は出来ない。シヤム(偽物)はシヤムとして現はる。恐るべき事である、有難い事である。
 
 二月十三日(日)晴 通常の通りに朝夕二回高埴に立つことが出来て愉快であつた。朝は「現代思想と基督教」と題し、今や欧米基督教国に於て真の信仰の絶えつゝあること、又我国在留の欧米宣教師の間に驚くべき異端が唱へられて、彼等は之を少しも不思議と思はざること、今や彼等と我等とは信仰の根本を異にするが故に共同一(152)致の不可能なる事を明白に述べた。午後は列王略上十章より十七章まで、ソロモン王の堕落、彼の王国の分裂、ユダヤ史の南北朝時代、預言者エリヤの出現等に就いて講じた。誠に興味多き研究であつた。聖書の講演を為さずして日曜日は無意味である。之れありて我が存在に理由あるを感ずる。午前は百二三十人、午後は二百人以上の集会であつた。我等は今や西洋人より基督教を聴かんと欲せずして、彼等に之を教ふるの必要がある。今や既に基督教逆輸出の時代に達した、西洋人伝道を試みざるべからずと言ひて来会者に訴へし所、彼等は即座に五十円余りの寄附金を為して此スターリングアツピールに応じた。誠に頼もしき人達である。我等は英文雑誌を此の西洋人伝道の機関と為さんと欲するのである。
 
 二月十四日(月)曇 新暦を旧暦に算ふれば今日は我が誕生日である。今より六十六年前、文久元年酉年の二月十四日に自分は此世に生れ来つたのである。思へば不思議である。多くの敵と味方とを作つて今日に至つた。岩倉具視、伊藤博文、大隈重信と云ふやうな神、キリスト、来世と云ふが如き事には全く没交渉の人等と同時代に此世と此国とに在り、彼等の無神、物質的傾向に対して闘ひ、兎にも角にも信仰を維持して今日に至つた。随分面白い、辛らい生涯であつた。然し神の恩恵に由り勝利の生涯であつた事を信じて疑はない。多分彼等が忘れらるゝ後まで日本は自分を記憶して呉れるであらう。それは勿論自分が彼等より偉らかつたからではない、神が彼等よりも自分により永久的なる事業を授けて下さつたからである。日本国は彼等が植附けた物質的文明の故に破滅に向つて進みつゝある時に、神が自分をして唱へしめ給ひしキリストの福音が幾分なりと破滅の速度を緩めつゝあると信ずる。思へば実に維新の青年政治家輩は乱暴な事を為したのである。基督教抜きの西洋文明を日本に輸入して、毒消し無しの毒物を日本に輸入したのである。斯んな人達を維新の功労者として崇めし日本国民は後に至りて其不明を耻づる事であらう。斯く言ひて自分が彼等に崇めて貰ひたいと云ふのではない。日本人は今(153)や精神的に死んだ民である。其証拠には、今日今頃第五十二回帝国議会が開会中であるが、議会が有るか無い乎を人が疑ふ程に静かである。万事が党首に由て決まるのであつて議論もなければ反対もない。世界歴史は今日までに未だ曾て斯んな議会のあつた事を録さない。然し何人も之を不思議と思はない。全国民が死的沈黙を守る。日本国に今や自由は絶えたのである。自由と云へば主権者に対する謀叛とのみ思はしめし是等の政治家が此死的状態を招来したのである。然し之を救ふの途は唯一つである。|旧いキリストの福音である〔付○圏点〕。之をさへ説いて置けば是等の此世の智者に由りて国が一度亡びた後にでも、再び福音に由りて国は起上るであらう。其時に本当の維新が我が愛する此日本国に臨むであらう。此事を書き終りて後に家族と共に夕食に赤飯を戴き、我が第六十六回の誕生日を祝した。小なる正子は在欧洲の嗣子を代表した。又近頃東京に移転せし岩手県花巻の斉藤宗二郎君が丁度家に居合はしたれば、同君に全国の友人総代として食卓に就いて貰つた。
 
 二月十五日(火)曇 二瓶《にへい》要蔵君の訪問を受けた。君はまだプロテスタント教の心髄、即ちキリスト贖罪の真理を充分に握られないやうに見受くるが、然し君の真剣味に対しては深き同情又尊敬なき能はずである。神は必ず君を導いて光明の域に達せしめ、平安の生涯に入らしめ給ふと信ずる。君と自分との共同一致点を発見して互に相援けんことを約して別れた。
 
 二月十六日(水)雨 英文原稿書きに全日を費した。日本文を書くよりも少しく面白く且つ楽である 〇或人の訪問を受け、其人は北海道に特種の学校を建んと欲するが故に、寄附金をする代りに揮毫して呉れとの事であつた。自分の書いたものが|いくら〔付ごま圏点〕位ゐで売れる乎と尋ねし所、時価は大抵二字一枚で二十五円位ゐであらうとの事であつた。今日まで自分の揮毫に対し未だ曾て一回も謝礼を取つた事がないから、其代価を知るを得しは今日(154)が初めてゞあつた。二字一枚で二十五円取れるものならば、是は伝道金を得るに最も善き方法であると思うた。何れにしろ自分の悪筆にも代価があると聞いて嬉しかつた。今より後は矢鱈に揮毫することを止めて、之に対し時価を徴収して、之を世界伝道参加資金の内に加へるであらう。家に在つて時には善き報知に接する。
 
 二月十七日(木)半晴 人生多忙である。多忙とは大抵小事に多忙なるを云ふ。小人が怒る|ふくれ〔付ごま圏点〕面《つら》を見ねばならぬ。小人の持来る小事に携はらねばならぬ。今や何人も幸福を求めて止まない。そして我等が彼等に之を供せざる事を、彼等は我等の彼等に対して犯す大罪悪であると思ふ。彼等は神の事を思はない、或は我等が彼等の幸福を供する事が、我等が神に対する我等の責任を果たす事であると思ふ。斯んなイヤな人世に在りて人生実に多忙である。
 
 二月十八日(金)半晴 旧い教友の一人なる長野県小諸町の小沼五兵衛君が咋朝五時永眠せりとの報に接した。去る二日には京都の山口君去り、昨日は又小沼君が逝いた。長命は恩恵なりと云ふも旧知の去り逝くを目撃するは辛らい事である。孰れも後半生を『聖書之研究』を信仰の指導者として送られた人達である。彼等の霊魂が天父の御許《みもと》に在りて平安ならん事を祈る。
 
 二月十九日(土)曇 毎日何か一つ位ゐづゝ新しき責任が殖える。自分が基督教の教師であると云ふので、犠牲と責任を要する仕事は何でも持込まれる。そしてそれを辞する事は出来ないとは情けない事である。自分は自分の仕事の為に何人にも頼む事は出来ず、自分は何人に頼まれても幾分なりと之に応じなければならない。まことに割の悪い生涯である ○久振りにて英国 J・W・ロバートソン・スコツト氏より文通があつて楽しかつた。(155)氏は信仰家ではないが、自由公道を愛する尊敬すべき英国人である。英国人の内で自分の同志と称すべき者は氏一人である。氏は日本に関する其著書に於て「日本のエリヤ」として自分を英国人に紹介して呉れた人である。此たび労働党に加入して新たに雑誌を発行せんとするが故に投書して呉れとの事であつた。取敢ずインテリゼンサー一年分を送り遥かに彼の依頼に応じた。英国々教会の英国であると思へば堪へられぬ程イヤであるが、カーライルやラスキンの英国であると思へば甚だ慕はしくある。
 
 二月二十日(日)曇 両回の集会に変りなし。朝は「現代思想と基督教」の第二回を講じた。基督教はキリストである。「天の処」は既に完成された、此世を化して天国と成さんとするのでないと云ふ事を述べた。善き福音を伝へたと思ふ。午後は列王紀略上の第十七章に由り「エリヤ伝」の第一回を講じた。青年男女二百人以上に此古き話を語るは実に愉快であつた。久振りにて充実せる聖日であつた。
 
 二月二十一日(月)曇 目下帝国議会へ提出中の宗教法案につき意見を聞いて貰はん為に貴族院議員某君を訪うた。斯んな事に少しなりとも携はりて少しく耻かしく思うた。翻つて思うた、斯かる法律は自分等の為には全く不要であり且迷惑であるが、世には斯かる法律を要する所謂宗教家が沢山に有るのであらう。彼等を取締る為にそれが必要であると云ふならば、之に服するまでゞある。何れにしろ文部省の認可を得るまでは伝道が出来なくなるとは実に情けない次第である。政教は益々分離すべき者であるのに日本では政治の方より宗教に干渉せんとして居る。時代錯誤とは此事である。
 
 二月二十二日(火)雪 東京には珍らしき大雪である。英文雑誌の発行人変更届を為さん為に雪を犯して丸之(156)内の警視庁に行つた。久振りにて大江戸の雪景色を見て楽しかつた。之で先づ英文雑誌 The Japan Christian Intelligencer が自分の手に移されたのである。人が隠居する頃に新たに大責任が手に落たのである。主の命じ給ふ所と信じて之に当るまでゞある。
 
 二月二十三日(水)晴 麗はしき雪の朝である。終日を英文雑誌の編輯に費した。時間と努力の大なる犠牲である。此んな事と知れば去年之に携はらなかつたと思はせらる。然し今となりて止むを得ない、上より新たなる力を仰ぎつゝ之に従事する。我国の今日を思へば上と下となく失望のみである。明るい喜ばしい事は何処にもない。然し神は在し給ふ、其事其れ自身が大なる光明又歓喜である。今日、鹿児島県某地の一婦人より、本誌二月号巻頭に掲げし孟子の言に由り死地より甦りし通知に接し、真理の一言の如何に大勢力なる乎を感じた。金を獲る為に働くは厭であるが、霊魂を救ふ為に犠牲を払ふは少しも惜しくない。今日は忙はしくして聖書もダンテも一行も読み得なかつた。
 
 二月二十四日(木)晴 雑誌原稿製作に苦心した、ペンが動かなくつて困難した。旧くよりの苦心困難である。墓に入る日まで続く困難である。此ために生れて来たのである。然し苦しい時には依然として苦しくある。之に由て誰でも唯一人なりとも能力と慰安を得るならばそれで凡てが償はるゝのである。今日は仕事の暇《ひま》に天文学者コペルニカスの小伝を読んで慰められた。彼はルーテルと同国同時代の人であつて、ルーテルが霊界に於て為したと同様の改革を学界に於て為したのである。ルーテルは義の太陽なるキリストを霊的宇宙の中心と見た。二者孰れも中心の発見者であつて、中心の新発見は万事の変革である。
 
(157) 二月二十五日(金)雪 忙がしい月であつた。月は短かく、其上流感に罹り、更にまた英文雑誌を引受けたので、新たに之を発行する丈けの面倒であつた。友人の援助があつて有難たいが凡ての責任は自分一人で担はざるを得ず。其上にまた基督教主義の農学校設立の計画あり、聖書知識普及の為の大出版の相談もあり、友人の著書出版の紹介もあり、某公立学校に於ける基督教講演引受の事もあつた。其間に旧来の雑誌講演を継続せざるべからず。パウロが言ひし通り「誰か弱くして我れ弱からざらん乎」である。六十六歳の春を迎へて戦闘は益々激烈である。自己に顧みて到底堪ゆる能はざるを思はせらる。然し自分が戦ふのではない、主キリストが自分に在りて戦ひ給ふのである。自分は戦闘の傍観者である、そして主の戦闘なるが故に勝利は確実である。故に日々命ぜられしが儘に働く、そして仕事は次ぎへ次ぎへと進む。時に閑暇を得てダンテや天文書を覗く。面白い生涯である。
 
 二月二十六日(土)曇 今朝また雪を見た。忙がしい週間の終りに滞りなく明日の説教を書上げる事が出来て感謝であつた。今日はまた仏教熱が高まり、仏教と釈迦牟尼に就て考へた。如何見ても釈迦は偉らい人であつた。ルーテルのやうな、而かもルーテルよりも偉らい改革者であつた。若し彼が今日の日本に居たならば其仏教徒を責めて止まぬであらう。基督教徒がキリストを忘れし以上に仏教徒は釈迦牟尼仏を忘れたと思ふ。自分に取り基督教の研究に次ぎ興味最も多き者は仏教の研究である。原始仏教の今日の寺院仏教とは全然|異《ちが》つた者である事が判明つて、寺院を嫌ひつゝも教祖自身を尊敬する事が出来て喜ばしくある。
 
 二月二十七日(日)曇 郊外の泥濘甚だしきに拘はらず集会通常と変りなし。朝は塚本と、午後は畔上と高壇を共にした。自分は朝は「現代思想と基督教」の第三回を「生けるキリスト」と題して講じた。今生き給ふキリ(158)ストと個人的関係に入らずして真の基督教の信仰の無い事を語つた。午後は列王紀略上の第十八章に由り「エリヤ伝」第二回を講じた。ヱホバの予言者対バールの予言者の対抗に就いて語り、語る自分も大に教へられた。不相変多忙の日曜日であつた。不完全ながらも凡ての責任に当る事が出来て感謝であつた。
 
 二月二十八日(月)晴 左の意見書を印刷に附し、文部大臣、宗教局長、貴衆両院議員、合せて八百二十九人に宛て郵便を以て発送した。余計な事を為したやうに思はるゝ乎も知らざれども、此の場合為さねばならぬ事と思ひ断行した。生れて初めての経験である。政治家達は之を受取つて笑つてゐるだらう。多分之を開封する者は極めて少数であらう。国家の一大事であるとは言ふものゝ、其大事なるを認むる者は極々少数であらう。
 
    宗教法案に就て
 
  私は宗教を教ゆる者でありまして政治を知らない者であります。然るに今回宗教法案なる者が帝国議会に提出せられて我国に於て宗教が為政家の監督を受けんとして居ると云ふ事を聞きました故に、茲に私の立場より此間題に就いて一言する事を許して戴きます。
   ベンジヤミン・フランクリンが曾て言うた事があります「政府の保護を受けざれば存在し得ざるやうな宗教は存在せざるを可とすれば、斯かる宗教には保護を供へずして之を廃滅に帰せしむるに如かず」と。誠に明言であると思ひます。世に自存性を有する者にして真の宗教の如きはありません。此は如何なる勢力の保護をも待たずして、自由に発達し得る者であります。之に反して偽の宗教程脆い者はありません。此事を知つて政治が宗教に干渉するのは如何に愚かなる事である乎が判明ります。政治家が宗教の為に為し得る至上善は全然之を放任する事であります。勿論非倫不徳を取締るの必要はありますが、それは普通の法律に依て(159)取締る事が出来ます、特別に宗教法を設くるの必要はありません。
   今や政教分離は文明的政治の原則であります。そして宗教が政治に干渉する害が大なる丈け、それ丈け政治が宗教に干渉するの害は大きくあります。故に西洋諸国に於ては二者の分離をして益々明白ならしめんとして居ります。然るに我国に於て第二十世紀の今日に於て新に法律を設けて宗教を取締らんとするは、此はたしかに文明の逆行であります。憲法が既に自由を与へた宗教に、幾分なりとも政治の制裁を加へんとするは、此はたしかに時代錯誤でありまして、政治の為に計るも害多くして益少き事であります。甚だ失礼なる申分でありますが、文部省は其直轄の諸学校に於てすら教師生徒の思想の悪化を制止する事が出来ないのであります。其文部省が教育よりも更らに困難なる宗教を其支配の下に置いて之を取締り得るとはどうしても思はれません。
   更に一つ私は言はして戴きたくあります。此法律案を編んだ人々は失礼ながら宗教の何たる乎を知られた人々でありませう乎。私は大なる疑を懐きます。私は今日まで殆んど四十年間、同胞の間に伝道して来たものでありますが、日本政府の官吏又は民間の政治家にして真に宗教を解した人に滅多に遭うた事はありません。彼等は私供宗教に生きんと欲する者の眼より見ますれば、所謂「此世の人達」でありまして、神の事、霊魂の事、来世の事等に就ては純然たる門外漢であります。そして斯かる人達に由て編まれたる宗教法が能く日本人の宗教を取締り得やうとは私にはどうしても思へません。私は法案其物の為政家の善意に出たる事を信じて疑ひませんが、然し宗教信仰の立場より見て斯かる法案は今日の場合撤回して貰ひ度くあります。或は又法律と為す前に一度広く国民の輿論に問ふて然る後再び提出して貰ひ度くあります。昭和二年二月十八日
 
(160) 三月一日(火)晴 訪問客多くして多忙であつた。其間に校正を為し、読書した。愛蘭土キルと云ふ所の英国々教会の牧師 T・S・ベリーと云ふ学者の著はした「基督教と仏教」と題する書を読んだ。此は三十年前に読んだ書であつて、今は再読である。旧い書であるが其の唱ふる所は真理であると思ふ。釈迦の人格の偉大を認めざるを得ずと雖も、其教理は基督教のそれに比べて消極的であつて不備であると思ふ。何れにしても仏教研究は非常に面白くある。
 
 三月二日(水)曇 漸くインテリゼンサーの校正が済んだ。随分の骨折であつた。然し為し得て感謝である。「汝の能力は汝の齢に循ふ」である。責任が加はれば之に循ひて能力が加はる。心配するに及ばない。
 
 三月三日(木)曇 今日は一日校正と原稿書きを休みて読書に従事した。J・アーミテージ・ロビンソン著『エペソ書の註釈』に稀れに見る好良の註解書を発見して感謝であつた。英国々教会には時に斯んな偉らい学者が居る。其儀式制度は厭であるが、其教師の中に偉人の居た事を拒む事は出来ない。茲に彼等に対し衷心よりの尊敬を表する。
 
 三月四日(金)曇 夜雪降る。雑誌校正にて頭脳を痛めた。英文雑誌三月号が出来た。期日までに作る為に大なる努力を要した。八百部刷つた。若し是れが全部売れるならば大なる成功と言はざるを得ない。日本に於て純英文雑誌を発行して五百以上の読者を得ることは甚だ困難である。
 
 三月五日(土)雪 去る一日木村熊二君八十四歳の高齢を以つて永眠せられ、今日其葬儀が牛込教会に於て営(161)まれたれば、自分も出席して同君に対し敬意を表し、合せて知人を代表して少し計りの感想を述べた。然し田村直臣君、田島進君等が故人に関する熱き心情を注がれし後であれば、自分の感想は誠に役目的に聞え、申訳が無つた。何しろ明治六年に基督信者に成られた人であつて、我国基督教界の長者であつた。弘化に生れて昭和に眠り、旧き日本を新しき日本に繋ぐ功労者であつた。
 
 三月六日(日)半晴 両回の集会に変りなし。午前は使徒行伝十八章十八節以下十九章に至るパウロのエペソ伝道の研究の準備として「福音エペソに入る」と題してエペソの地理的並に歴史的地位に就て語つた。少しく学究的であつて会衆全体に対しては気の毒の感があつたが、然し之を感賞して呉れる人もあつて感謝であつた。午後は列王紀略上十八章四一節以下に由りエリヤ伝第三回を講じた。エリヤ雨を祈る段であつて、多く語るべき事があつた。
 
 三月七日(月)晴 エペソ書と支那仏教史とを読んだ。憲政会と政友本党との野合的聯盟の事を思ひ、朝は気持悪しく、日本の将来に就て失望した。特に神の大能の此国の上に加はらん事を祈つた。夜、主婦と共に「乃木将軍」の薩摩琵琶の放送を聞き、是れ亦甚だ気持が悪かつた。所へ関西大地震の新聞号外が来り、大ショツクを感じた。何やら神が日本の今日に就て怒つてゐ給ふやうに感じた。震害の程度如何に由つては我国の大事である。
 
 三月八日(火)曇 夜雨ふる。終日関西の大地震にて心を悩ました。其中心が阪神でなかつた丈けは幸福であつたが、其災害の甚大でありし事は痛心に堪へない。関東の地震と等しく天災其物は天刑ではないが、之に見舞(162)はれて、それが為に国民が難儀するは罪の結果であると云はざるを得ない。日本の如き天災国に在りては其国是を之に順じて定めねばならぬ。即ち之に国家的保険を附ける積りで万事を行はねばならぬ。非戦的平和主義の必要なるは茲に在る。外敵と戦ふよりも天然と戦ふ為に備へねばならぬ 〇此日英文雑誌の外国発送を終つた。僅かに百二三十部であつたけれども、初めての事であつて、家族総掛りにて大分に苦心した。
 
 三月九日(水)雨 春暖到る、暴風雨であつた。久し振りにて閑暇を得たれば旧稿の整理を行うた。籠に二|はい〔付ごま圏点〕の屑紙を得た。自分ながらに書物《かきもの》の多きに驚く 〇二瓶要蔵君の個人雑誌『宗教』に左の如き記事が見えて非常に不快を感じた。
  最も発達した新教には御利益主義はあるまいと云ふ人があるが、否々もつと甚だしき御利益主義がある。それは丁度浄土真宗の様に基督を仰いだならばそれで凡ての罪は赦されて天国に入る事が出来る。凡ての罪も汚れも其まゝで宜しい。何うせ人は如何に修養し努力した所で自分の行で救はれるのでないから只救はれたと信ずるならばそれで宜しいと云ふ大なる御利益主義がある。‥‥‥是れ偶像教の僅かの御賽銭でウンと金儲けをさせて貰ふと云ふ心の発達したものであつて、宗教と道徳の大なる敵である。実に思切つたる言方である。キリスト仰瞻の信仰を斯くも浅薄に解する二瓶君の心理状態が自分には何うしても解らない。是れでは同君と自分との共同事業は何れの方面に於ても不可能である。
 
 三月十日(木)晴 少しく他人の為に奔走した。頼まるれば辞する事は出来ない。其間に種々の事を教へらる。米国流の基督教は人を自己本意に為すに甚だ有力である事を認めざるを得ない。実に悪い宗教である。其点に於ては仏教の方が遥に増しである。今日も仏教史を復読して大に慰められた。日本人全体が米国宣教師の伝ふる基(163)督教を受納れざるは神に感謝すべき事である。
 
 三月十一日(金)晴 雑誌第三百二十号を発送した。いつの間にか三百号を二十号突破した。ほかに英文の妹が出来た。何だか夢のやうである。「是れ主の為し給へる所にして我等の眼に不思議に見える也」である。引続きエペソ書の研究が非常に面白くある。中年時代に幾度も研究した書である。老年の善き慰めである。斯んな面白い研究の材料を与へられて、何年生きても人生に倦むことはあるまい。仏教史の復読も亦非常に面白くある。今日は原稿も亦少し書けた。
 
 三月十二日(土)晴 宗教法案消滅の兆候見えて嬉しかつた、然しまだ安心は出来ぬ。然し何う決るも差したる事は無いと信ずる。神の聖意は必ず成る。官吏や政治家は少しく之を早めるか遅らするに過ぎない。信仰の立場より見て此はどうでも可い問題である。唯少しく刺戟と成りて面白い。
 
 三月十三日(日)雨 大雪にも拘はらず、両回の集会に殆んど変りがなかつた。郡部の悪路を犯して集り来る若き婦人達に対し殊に感謝せざるを得なかつた。我が聖書研究会は当初より天候に由て其盛衰を支配されなかつた事が特質である。今日の如きが其の最も好き実例である。青年男子は勿論のこと、上下貧富の別なく大雪せ践んで大抵時間までに出席して呉れた。是れでこそ神のエクレジヤの感がする。朝は使徒行伝十八章廿四節-十九章七節に由り「アポロの出現」と題して講じ、午後は列王紀略上の十九章に由り「エリヤ伝」第四回を演じた。実に気持好き雪の聖日であつた。
 
(164) 三月十四日(月)半晴 不相変精神的疲労の月曜日であつた。久振りに旧約のエステル書を読んだ。意味深長の書である。神なる文字をさへ一回も用ひざる此書も亦たしかに神の聖書の中に加へらるべき充分の価値がある。遠からずして之を我が研究会に於て講ずるであらう。
 
 三月十六日(水)曇 寒いイヤな日であつた。宗教法案握り潰し確実の報を新聞紙に読んでやゝ安心した。然し其他の事に於て日本今日の状態は其の凡ての方面に於て混乱である。国家其物の将来が案じられる。北米加洲帝国平原コーチユラより信仰復興の音信に接し、此はたしかに喜信であつた。凡ての事非ならざるなき今の世に、聖霊の働く所のみは凡ての事可ならざるはなしである。新聞紙はイヤな事のみを伝ふるに、我が信仰の友は善き事のみを伝ふ。
 
 三月十七日(木)曇 数ケ月振りにて銀座に行つた。完全なる虚栄の街に化したのに驚いた。食ふ事、飲む事、着る事、近代人の求むる所は只それ丈けである。浅ましき限りである。或る友人の紹介を得て、丸之内工業倶楽部に於て大阪商船会社の催しの東方阿弗利加開拓の活動写真を見た。野獣生活、マガヂ曹達湖、ヴイクトリヤ大湖の実況等|見物《みもの》であつた。然し講堂の空気流通悪くして堪へ難く、中途にして辞し去つた。日本紳士の時間を守らず、空気に注意せざるは昭和の今日と雖も、昔しに少しも異ならない。市中に往いて眼に止まる事は悪い事計りである。自分の如きは極東のバビロン東京に居る資格は無い者であると思ふ。
 
 三月十八日(金)曇 午後六時半より青山会館に於て宗教法案反対基督教大会が開かれ、自分も反対者の一人として出席し、一場の演貌を為すべく余儀なくせられた。聴衆は一千人もあつたらう。中田ホーリネス教会監督(165)司会し、演説者は救世軍の山室軍平氏と自分との外は、主として日本基督教会の人々であつた。久振りの市内の出演であつて余り気持が好くなかつた。二十五分間計り朗読演説を試みた。聴衆は拍手を以つて迎へて呉れた。然し半ば此世の事を語るのであつて、自分には甚だ不似合に感じた。是れで先づ「お役目」を一つ果たしたのであつて、又と復たび斯かる会合には顔を出さゞらんと欲する。
 
 三月十九日(土)雨 昨夜の演説にて大分に疲れた。馬鹿な事をしたやうに思ふ。半日休んで半日働いた。ペンを執つて英文原稿を書いた。財界に大動乱が起りつゝある。ノアの洪水の襲来であらう。思へば恐ろしくある。然し国民が神に叛いた結果が茲に至つたのであれば止むを得ない。神は方舟の中に我等信ずる者を救ひ給ふと信ずる。如何に見ても今の若槻内閣は未だ曾て見たことのない悪い内閣である。然し事の茲に至つた深因は他に在る、伊藤、大隈等、所謂維新の元勲に於て在る。彼等が播きし不信不実の種が此悪しき果を結んだのである。或は更に言ふべきであらう、罪は彼等を欺きし西洋の政治家に在ると。何れにしろ浮虚が風を生んだのである。大風を生んで国家を吹倒さんとしてゐるのである。噫又噫。
 
 三月二十日(日)雨 午後に至りて雪も加はり稀に見るイヤな天気であつた。にも拘はらず集会は平常と多く異ならず、不相変恩恵溢るゝの聖日であつた。但し一昨夜の公開演説が祟り、疲労癒えずして充分の元気を発揮し得ずして残念であつた。午前は使徒行伝十九章八節以下二十節までに依り「エペソ伝道の成功」に就て語り、午後は世は挙つてキリストを憎む者なれば、キリストに従つて世界到る所に信者は或る種の迫害を免かれざること、そして信者が世に勝つの唯一の武器は祈祷である事に就て述べた 〇一昨夜の演説に就き聴衆の内に在りし米国宣教師某氏よりイヤ味たつぷりの手紙を受取り不愉快であつた。米国宣教師が自分を解し呉れやう筈はなく、(166)斯かる怨言《こごと》は当然の事なりとは云ふものゝ、彼等と接触せねばならぬ所に以来自分を引出さゞるやう基督教界の諸氏に注意せざるを得ない。自分は信ずる所を言はざるを得ず、言へば宣教師に当る。自分に取り教会の催しにかゝる集会に引出さゝるゝ事は迷惑至極である。キリストの愛の故に教会は自分を放任し置かれんことを祈る。
 
 三月二十一日(月)晴 農商務省高等官某氏に伴はれ、友人一団と共に茨城県友部に在る日本高等国民学校を訪れた。校長加藤寛治君の親切なる案内に依り校内隈なく視察するを得て大に教へらるゝ所があつた。如何にして最も有効的に我国農家の子弟を教育せん乎と云ふのが問題である。そして加藤校長はたしかに多くの満足なる解答を与へつゝあると信ずる。何れにしろ日本国根本的救済を計る為の最も有望なる試みであると思ふ。なまじかな神学校を設くるよりも遥かに増しである。自分にも若し年齢と資力とが有るならば行《や》つて見たき仕事である。此所にも亦一場の演説を為すべく余儀なくせられ、一時半辞して汽車にて水戸に到り、常磐公園に烈公の遺跡を尋ね、梅花を賞し、夜八時柏木に帰つた。久振りの短旅行であつて、心身共に善き休みであつた。夕暮に利根川の鉄橋を渡りたれば一首を作つた。
   梅が香に憂へは失せて身は軽く
     利根川渡る春の夕暮
 
 三月二十二日(火)晴 市内は銀行の取付並に支払停止等にて騒がしくある。家に在りても種々の小間題起り、是れ亦処理するに仲々面倒である。如何に見ても塵の世である。主が顕はれ給ふまでは患難の連続である。左の如き張紙を玄関に張りつけた
  説教、演説、論文等の御依頼は一切御引受不申候。
(167)  且又、社会、宗教其他の運動には一切参加不仕候。
                      内村鑑三
近代人に対して冷淡に成らざれば旧代人は其天職を果たす事が出来ない。結婚式を挙げるから来て呉れるか又は祝文を書いて送つて呉れとか、望遠鏡を買つたが能く見えないから見える方法を示して呉れとか、書画の展覧会を開くから数枚揮毫して送つて呉れとか、勝手放題を言ふて来る。「神の国と其義」に就て協力を申込んで来る者は一人もない。凡てが神と聖書と教師とを自己の為に用ひんと欲する人達である。いくら抑へても癇癪が起らざるを得ない。
 
 三月二十三日(水)晴 彼岸の中日である、内村家名物の牡丹餅が出来た。愛の籠つた餅である。三十年以上、春と秋とに之を作つて呉れた主婦に感謝する。我等に労働と家庭の快楽の外に何の快楽もない、然し是れありて他に快楽を求めない。社交、観劇の快楽等は我等には快楽でない 〇此日例年の通り高等女子師範学校の本年の卒業生にして、我が聖書研究会の会員たる者の送別会を今井館に於て開いた。送らるゝ者は四名であつた。彼等は何れも善き信者と成りて我等の許を去りて各地に散在して其職に就く。女学生中最良分子である。外国宣教師に接せざるが故に其信仰は日本式にして、質素にして堅実である。総理大臣や大学総長に成らずとも、是等の学生に聖書を教ふるを得て、我が人生の目的は達せられたりである 〇英文雑誌の編輯を終つた。前月よりは大分に楽であつた。単独でポツポツと行《やる》のであつて、至つて面白くある。
 
 三月二十四日(木)曇 今や基督教を利用せんと欲する者が沢山に有る。我等は彼等に利用せられてはならない、又彼等を利用してはならない。真の求道者にあらざる以上は成るべく彼等を兄弟扱ひに為さゞるやう努めな(168)ければならない。今や我国に於ても基督教が堕落せるの結果として多くの信者までが昔の儒道を懐かしく思ふやうに成つた。恰かも西洋医に失敗多きが故に漢法医が復興したと同じである。まことに今日の教会の基督教よりも昔しの儒教仏教の方が遥かに増しである。歎ずべきの極みである。
 
 三月二十五日(金) 春寒くして梅は咲いても桜はまだ咲きさうにもしない。今年程春の待たるゝ歳は久しくなかつた。人を離れて天然に帰りたくある。家に在りては星学が唯一の天然研究である。聖書丈けそれ丈け清きものは此学科である。そして望遠鏡がなくても、肉眼で大分に天をのぞく事が出来るから愉快である。帝国議会では代議士達が鉄拳を揮つて乱闘しつゝある間に、コペルニカス、ブラーヘ、ケプラー、ハーシエル等の大天文学者の事跡を考ふるは座して天堂に昇りしが如き感がある。
 
 三月二十六日(土)雨 校正と原稿とで多忙であつた。人生に多くの六ケ敷い問題がある。如何なる人と雖も悉く之を解決する事は出来ない。小間題は大問題丈けそれ丈け六ケ敷くある。然し全能の神は悉く能く之を解決し給ふ。そして彼に解決して戴いて事として善からざるはなしである。故に何事に就ても祈祷が必要である。小の小なる事まで神に教へて戴かなければならない。人に会ふ時、紛失した物を探がす時、文章を書くに方り適当の文字が見附からぬ時、祈祷が必要である。大事に臨んでは勿論である。先般の宗教法案反対の時の如き、一日に数回此事の為に祈つた、そして凡てが祈つた通りに成つた。聖書の意味の解らぬ時に、祈つて善き解釈を得た事が幾度《いくたび》あつたか知らない。歳を取るに順ひ、信者の生涯は只祈る事のみである事を益々切実に感ずる。
 
(169) 三月二十七日(日)半晴 朝は使徒行伝十九章二十一節以下に由り「パウロ、エペソを去る」の段を講じた。彼が到る所に騒擾を起すの因となつた事に就て述べて彼に対し同情に堪へなかつた。午後は列王紀略上第二十一章に由りエリヤ伝第五回を講じた。去る十八日の公開演説が今に猶ほ祟りて充分に元気を発揮し得ずして残念であつた 〇世に自分を先生として奉りながら自分の命《い》ふことに少しも従はざる者の多きを歎げく。近代人が人を先生として仰ぐは彼をして己が意志の実行に裏書きせしめん為である。先生の勧告に従ひて生涯する者は滅多にない。先生を馬鹿にする仕打であつて憤慨に堪へない。然し近代人の天性であるが故に如何ともする事が出来ない。聖日にも斯かる感想を起さゞるを得ない事を悲む。
 
 三月二十八日(月)晴 麗はしい春の日であつた。独りで井之頭《ゐのかしら》公園に散歩した。東京郊外の発展の甚だしきに驚いた。柏木は今や殆んど東京の中心である事に気が附いた 〇米国メソヂスト教会派遣宣教師某氏より自分の米国並に米国宣教師に対する態度につき激烈なる反駁の書面が達した。直に斯かる馬鹿らしき態度を棄てゝ彼等宣教師と和合一致せよとの勧告であつた。恰かも教師が其生徒を諭すやうなる書振である。多分日本メソヂスト教会所属の邦人教師等は宣教師等に如此くに扱はれてゐるのであらう。
 
 三月二十九日(火)晴 古本の整理を為した。必要の書籍が段々と少くなる。終には聖書丈けあれば足りる時が来るのであらう 〇米国宣教師の或者は自分に書送つて云ふ「君は人を蹴る馬なり」と、或る他の者は曰ふ「君は青年を惑はし、歴史を偽はる者である」と。如何でも可い。然し雑誌著書の註文は続々と達し、聖書研究会入会者は殖る一方である。そして全国並に海外に於てまで、自分の書いたものに由て信仰復興が起りつゝあるとの報知が所々より到る。矢張り自分の方が宣教師よりも遥に恵まれたる人である。
 
(170) 三月三十日(水)雨 旧約エステル書を研究した。多くの興味ある歴史的並に文学的問題を喚起する。古代ペルシヤ史を復読するの必要がある。四十年前に読んだローリンソン著『古代七大帝国史』が今に至つて用を為す。然し学問の為の学問でない。隠れたる弱い信者を教へ且慰むる為の学問である。教会や社会とは何の関はりあるなしである。神は隠れたる所に働き給ふ。其弱き人達に先生と云はれ兄弟と呼ばれる事が最大の誉れ又喜びである。益々此世に死し、教会には悪人と云はれ、社会国家には無視されて、此の隠れたる低き人等に由て成る平和の国に安住せんと欲する。此雑誌も素々斯かる国の人達に読んで貰はん為である。
 
 三月三十一日(木)半晴 暖かい日であつた。両雑誌の校正が主なる仕事であつた。支那の動乱が目下の大問題である。其裏に大なる聖手が働いてゐると信ずる。罪を支那に計り着せてはならない。西洋諸国、殊に英国が今日まで支那を侮辱した事を考へねばならぬ。西洋本位にのみ世界歴史を考へて我等は大なる誤謬に陥いる。そして神は支那と共に日本を救ひ給ふであらう。
 
 四月一日(金)半晴 インテリゼンサー誌の校正を了つた。三月号発行部数八百十七部、全部売切れとなつた。印刷費百三十七円八十銭、一冊に付き十七銭、即ち売上げ代金を以つて印刷費を償ふに足る。大なる成功である。外に編輯雑費百円を要す。是は兄弟の寄附金を以て補充す。斯くて此小なる仕事も亦、何人にも愛の外に何の負ふ所なくして継続する事が出来て感謝である。
 
 四月二日(土)曇 教友某の結婚式を司つた。彼に取つては再婚であつた。新婦は初婚であつた、然し所謂(171)基督信者でなかつた。自分は彼女に向ひ左の如き質問の言を発した。
  あなたは日本婦人として、あなたが教へられし日本国の婦道に循ひ、此人に嫁ぎて其妻となり、彼を敬ひ、彼に従ひ、彼を助けて、あなたが日本婦人たるの義務を尽さんとせられますか、又其決心を神明と諸友人の前に誓ひます乎。
之れに対し「然り」との答を得たれば、茲に普通の簡単なる基督教式に由り此式を済ました。是れが我等の信仰を尊重して我等の内に来らんと欲する者を迎ふる最も正直なる途であると信ずる。そして大抵の場合に於て、如斯くにして迎へし人々は、喜んで我等の同信の友となり、永く我等の親友として存《のこ》るのである。我等は所謂「信者」のみが真の信者でない事を知る。
 
 四月三日(日)半晴 集会変りなし。朝は使徒行伝二十章一-十二節に依り、「トロアスの集会」に就て語り、午後は列王紀略下の第二章に依り「エリヤの昇天」に就て述べた。エリヤが大風に乗りて天に昇れりとあるは、奇跡に非ずして旋風に捲揚げられたのであると云うた。英雄の死状として太閤秀吉、クロムウエル、べートーベン等の死方を参考として述べた。春来りて珍客多く、三谷文子は米国マウントホリヨーク女子大学を卒業して帰朝し、京城|金昶済《きんちやうさい》君は十年振りに上京し、夜に入りて其訪問を受けて是れ又楽しかつた。但し週間に聖書以外の用事多き為に日曜日の講演に充分の力を入れる事が出来ずして、夫れ計りは残念至極である。残余の生涯は聖書計りで送りたきものである。
 
 四月四日(月)雨 支那動乱の結果として米国宣教師全部五千人、支那を引払つて本国に帰還する由を新聞紙に読みて大に考へさせられた。茲に欧米宣教師が支那を教化する能はざる明かなる証拠が拳つたのではあるまい(172)乎。日本人をさへ見下して止まざる大抵の宣教師が如何に支那人を賤しめし乎は推察するに余りがある。欧米の伝道会社が百年支那に伝道を試みて、終に之を放棄せざるを得ざるに至つたには何か深い理由がなくてはならない。神は東洋を守り給ふ。西洋宣教師に依らずして他の方法を以つて之を救ひ給ふであらう。
 
 四月五日(火)大雨 雑誌の校正を終つた。今より十日間が我が時間である。英文雑誌引受け以来忙がしい日を継けた。少しく休まして貰ひたい。
 
 四月六日(水)雨 疲労出で、其為にや憂鬱の一日であつた。エペソ書と天文学を読んだ。時には天文学の方が聖書よりも霊魂の力となる。天文学には教会とか宣教師とか云ふやうなイヤなものがない。凡てが純真理で純学理である。世ばなれのしたる宏遠なる学問である。ハーシエル父子、アラゴ等孰れも勇敢なる真理の探究者である。面白く天文学を人に教へ得る者は大なる伝道師であると思ふ。自分も其一人に成りたかつた。
 
 四月七日(木)曇 志賀重昂君の逝去を聞いて悲んだ。君は自分よりも二年後の旧札幌農学校卒業生であつて、該校が生んだ大人物の一人であつた。地理学に於ては世界的権威であつて、羨ましき程の地理知識の所有者であつた。自分に対しては常に同情を持つて呉れた。但し君が酒豪を以つて自から任じ、終に君の貴重なる生命を短からしめし事は歎じても猶ほ余りがある。君の級より多くの有為なる人物を出せしと雖も、其内の一人もクリスチヤンに成らなかつた。聞く彼等は東京出発に際し、札幌に行いて決してクリスチヤンに成らざるぺしと誓ひたりと。然し其事は彼等に取り善い事計りではなかつた。彼等はそれが故に教会宣教師の悪感化を免かれしと雖も、純基督教の供する聖感化を逸した。若し志賀君が自分と共に日本的基督教の唱道に当つて呉れたならば自分等は(173)どれ程助つた事であらう。同君の逝去を聞いて感慨に堪へない 〇此日身体の具合少しく宜く、家族の者に伴はれて久々振りにて上野向島を見た。上野は花の見頃であつた。向島は荒れ果てゝ見る影もなかつた。昔懐かしき百花園を訪れて、洪水、震災、煤煙に禍ひされて僅かに昔の跡を止むるを見て悲しかつた。左の一首を園の主人に書置いて帰つた。
   火と水と西の文化に荒れはてし
     園の昔の跡ぞ恋しき
 
 四月八日(金)晴 十八年間布哇ホノルルに牧会せらるゝ組合教会教師堀貞一君の訪問を受けて楽しかつた。君の伝道に依り京都同志社に於て信仰の大復興ありしを聞き大に我が志を強うした。旧い伝道師の内には時に昔の誠意熱情を見ることがある。君は自分と同じく文久元年酉年の生れであつて算へ年の六十七歳であると云ふ。信仰に於ては自分より一年上の五十一歳であつて伝道界の老武者である。
 
 四月九日(土)晴 今日はまた本間重慶君の訪問を受けた。基督教界の古い事どもを語り合ひ、面白かつた。教界の元老中に教会合同の説が又亦持上つたと聞いて喜んだ。然し其実現は容易の事であるまい 〇志賀重昂君の告別式が青山斎場に於て行はれたれば、之に参列して、君の枢の前に低頭し、一|撮《つまみ》の香を焼いて帰つた。札幌時代の事が思出され、人生の短かさが一層深く感ぜられ、今昔の感に堪へなかつた。
 
 四月十日(日)晴 麗はしき花の聖日であつた。朝は使徒行伝二十章十七節以下に由りて「パウロの告別演説」と題して話した。午後はエステル書の紹介を為した。主としてペルシヤ王国の地理歴史の講演であつて、信仰に(174)は没交渉に思はれて余り気持が善くなかつた。此日男子一人、女子五人に対し、彼等の切なる申出に由り、信仰試験の上、男女の長老十余人に立合つて貰ひ、彼等にバプテスマを授けた。毎年一回授くる事に成つてゐるのであつて今年も亦た之を執行した次第である。簡短にして謹厳なる式であつて、一同強き感に打たれた。バプテスマも如此くにして授受すれば、たしかに神の嘉尚する所となると信ずる。此日は此事ありしが故に、特に春の太陽と共に輝いた。
 
 四月十一日(月)曇 久振りにて旧約エヅラ書を読んだ。聖書は何処を読んでも霊魂の強き力である。
 
 四月十二日(火)晴 主婦と共に湘南に一日の清遊を試みた。海は静かに、山は美しかつた。然し夕暮に家に帰つて孫女に笑みを以つて迎へらるゝは、海よりも山よりも楽しかつた。人を動かす者はやはり人である。小児一人は大天然よりも美はしく且つ強くある 〇一昨日バプテスマを受けし者は何れも大なる喜びに充たされつゝある。其内の一人の小女は書を送つて曰ふ
  先生 本当に有がたうございました。有がたくつて、嬉しくてたまりません。こんなに卑しい私には、分に過ぎたる多分な御恵みを前以ていただいた様な気持でございます。あゝ主の御恵みはなんと深い事でございませう。どうしてこれからの生涯、このお報ひをしないで居られませう。
又他の婦人よりの感謝の言葉は左の如し
  ……つもる我が罪を赦されてエスキリストを仰ぐ時、行く道難い我が先き々々をも感謝と勇気に力増して眺める事が出来るやうになりました。此世の苦しみ何でありませう。私共はすでに死してキリストと共に復活(175)は出来ません。
大なる決心を以て受けしバプテスマに以上の如き喜びが伴ふ。受くべき道に由て受くればバプテスマは信仰上甚大の効力たる事を疑はない。
 
 四月十三日(水)晴 父の命日である、彼の真影に花を供へて紀念した。彼若し今在らば満九十六歳である。自分は彼の後を承けて兎にも角にも内村の家を更に一代継続する事が出来て神に感謝する。我家は小なる上州武士であつて正直の外に何の取所なき者である。人には常に騙され易く、貸しはありても借りはない。唯不幸にして自分は父よりも広く世に知られ、それ丈け彼に及ばざりしを悲む。彼の霊の天に在りて安からんことを祈る 〇今日は或る事に由り取越苦労する事の如何に悪しき事なる乎を暁つた。「明日の事を思ひ煩ふ勿れ、一日の苦労は一日にて足れり」との主の御言葉が強く我が霊魂に響いた。世人が挙りて「手おくれ」を恐れるが故に、自分も彼等に傚ひて先へ先へと心配するは実に腑甲斐なき次第である。遅れても宜しい、自分はクリスチヤンとして世に傚はず、安心して其時まで万事を主に委ねまつるべきである。主よ我が信なきを憐み給へ。
 
 四月十四日(木)曇 夜雨降る。寒いイヤな日であつた。沢山にイヤな事を読まされ又聞かさる。支那の事、台湾銀行の事、実に聞くに堪へない。道徳は地を払うたと云ふ位ゐでは足りない、道徳は公然と否定せらる。何事も利害観念に由て決せらる。政治、法律、宗教までが、義に由て議せられずして利に由て定めらる。愈々世の終末が近づいたのである。唯一つ永久に動かざる者がある。神が据え給ひしキリストの国である。今の教会を離れたる神の国である。
 
(176) 四月十五日(金)雨 新聞紙は恐ろしくして読むに堪えない。支那のみでない、日本も何時崩れる乎判明らない。「義人あるなし一人もあるなし」とは日本国今日の状態である。凡ての人が政略の人である。どうすれば最も安全なる乎、其事をのみ考ふる人である。正義是れ至上善也との確信を有つ人に一人も見当らない。是れでは国は立たない。日本人全体が今や経済をのみ思ふて正義を求めない。危い哉である。然し我れ自身は神の言なる聖書の研究に於て人の凡て思ふ所に過ぐる平安を感ずる。
 
 四月十六日(土)晴 台湾銀行救済策で政界も財界も大変である。此世の富は風前の灯である。一歩を誤れば大恐慌の襲来を免かれずと云ふ。然かし信ずる者は平安である。大洪水来らばノアの方舟が与へらる。神は御自身を愛する者を、如何なる場合に在りても救ふの途を沢山に有ち給ふ。今日は或る信仰の姉妹より思ひ掛けなき所に我が福音の伝はりつゝあるを聞かされて大に元気附けられた。純正の日本人は日本的基督教を要求する。
 
 四月十七日(日)晴 麗はしい聖日であつた。今年の復活祭である。朝は九分通り、牛後は殆ど満員の集会であつた。殊に若き婦人の増すのに驚く。午後の集会の如き、婦人が遂に男子以上の数に達した。不思議なる現象である。朝は 「ミレトスよりヱルサレムまで」と題して、パウロの最後のヱルサレム上りに就て述べた。午後はエステル書第一章を「女王ワシテの没落」と題して講じた。エステル書は聖書中講解するに最も困難なる書であると思はれる 〇若槻内閣終に辞職す。実に気持の悪い内閣であつた。然し何人が内閣を組織しても今日の時局を救ふは非常に困難である。是れより重大事件は続出するであらう。然し神の聖旨が終に成つて万国が救はるゝは確かである。我等は世々の磐に頼りて何が来ても安心である。
 
(177) 四月十八日(月)晴 久振りにて宇都宮に行いた。斉藤宗二郎君が同道した。例に由り青木義雄君の迎ふる所となり、用事を弁じ、他に同地の友人一人と共に四人連れ立ちて汽車にて氏家町に至り、それより田舎自動車を駆りて喜連川に至り、其地の薬師堂並に城山の咲き乱れたる桜を見た。内に山桜の古木の多いのが嬉しかつた。此日|新田村挟間田《にいたむらはさまた》に取つて返し、其処に青木君の家に一泊した。夜家族に小学教員二名を加へたる小集会を開き、斎藤君と自分と感話を為し、祈祷を共にし、静かなる林間の寝に就いた。
 
 四月十九日(火)晴 朝八時自働車を駆り熱田村の広々したる田畝の間を走り、仁井田駅より烏山鉄道に乗り、烏山に行いた。毘沙門山より那珂川流谷の風景を望み、ライン河も斯くあらんと思はるゝ程の眺望であつた。山を降りて烏山中学校に、角筈時代の教友黒木耕一君を訪れた。忽ち君の捕ふる所となり、全校教員生徒を大講堂に集め、其高壇より一場の演説を為すべく頼まれたれば、喜んで之に応じ、四十分余の即席講演を試みた。終つてまた田舎自働車を駆り、附近の景色を探り、それより一路八里宇都宮まで疾走して愉快であつた。其処にまた軍道の桜花の盛りを眺め、四時発汽車にて六時少し過ぎ柏木に帰つた。快き春の短き旅行であつた。
 
 四月二十日(水)曇 八重桜の満開である。年に一度の麗はしさである。又ぢきに散りて来年まで待たねばならぬと思へば情けなくなる。台湾銀行は休業し、憲政会の若槻内閣は仆れ、政友会の田中内閣は成る。泣く者と喜ぶ者とである。政治家の生涯程憐れな者はない。
 
 四月二十一日(木)曇 南風強くして惜しき桜が散つた。十五銀行休業して市中は大騒ぎである。明治十年設立の所謂華族銀行であつて、泰山の安きに置かれたりと思はれし此大銀行が戸を閉ぢたのであれば、全国挙つて(178)大衝動を感じたのは無理でない。此世の富の倚るに足らざるは此一事を以つても知る事が出来る。松方系財力の本拠と思はれたる財界の此堅城さへ、時到れば如此きであるを知つて、「蠹《しみ》くひ銹《さび》くさり、盗人《ぬすびと》穿ちて窃《ぬす》む所の地に財貨を蓄ふること勿れ」との主の教訓の永久に尊きことが斯かる場合に最も切実に感ぜられる。如何なる理財家もキリストには及ばない。我等は彼に倚りまつりて常に安全である。
 
 四月二十二日(金)曇 寒冷帰る。緊急勅令を以て銀行|支払猶予《モラトリヤム》の発表があつた。国家の大事件である。国民に信仰絶えて経済的信用が失せんとしてゐる。実に危険《あぶな》い事である。然し我等は安全である。原稿編輯に平安の一日を過した。
 
 四月二十三日(土)晴 八重桜は御殿桜の代る所となつた。モラトリヤム発布せられて財界の波は一時静まつた、然し此後何が来る乎判明らない。然し我と我家とは主と其|御言《みことば》に頼りて平安である。今日も亦|例日《いつも》の通り働いた。孫女の生立《おひたち》を見るが何よりの喜びである 〇米国アマスト大学歴史教授 L・B・パカード氏の「歴史に由る救ひ」の一篇を読んで呆れた。此はパウロの「信仰に由る救ひ」に対しての駁論の如き者である。我がシイリー先生の信仰、今や彼の母校に有るなしである。今や米国にキリストの福音絶えたりと言ひて多く誤らない。
 
 四月二十四日(日)晴 財界大動乱の間に平常の通り平穏の聖日を守り得て大なる感謝であつた。讃美歌第二百三十二番を会衆一同声を合せて歌うた。
   おほそらはまきさられて 地はくづるゝ時
   つみの子らはさわぐとも 神による我らは
(179)     こころやすし 神によりてやすし
松方系の大銀行たる十五銀行ですら、時到れば休業の悲運に会ふ。此世の万事凡て如此しである。唯だ神に依る者のみ安しである。此日午前は使徒行伝二十一章一七-二七節に依り「パウロ対ヱルサレム教会」に就き、午後はエステル書二章に依り「エステル女の立身」に就て述べた。殊に午後はユダヤ美人に就て語り、軟き問題に堅き教訓を与へ得たと思ひ、少しく満足であつた。
 
 四月二十五日(月)晴 新たに開通の小田原電車に乗り独りで多摩川岸の登戸《のぼりと》に散歩した。梨と桃との花盛りであつて、野良歩行《のらあるき》には持つて来いの日であつた。然れども歳を取つて、内の世界に興味多くして、外の世界は余り面白くない。今や自分の説くやうな基督教を説く者を西洋にも日本にも見ないのは不思議である。若し教会の人達が自分はドンな基督教を説く乎を知つたならば、彼等は決して自分に講演や説教を頼まないであらう。知らぬは仏である。彼等は自分も亦彼等と等しく世界改良家の一人であると思ふて居る。失礼ながら彼等は聖書を知らず亦自分を知らないと思ふ。
 
 四月二十六日(火)晴 雑誌編輯に全日を費した。訪問客の多い日であつた。不相変大抵は「頼む」、「与へよ」の訪問である。然るに或る北海道の信仰の姉妹が貴き香油一瓶に熱き感謝の意を罩めて之をみやげに訪問して呉れて、我が堅き心も融けて、時節に適ふ心の暖かさを感じた。殊に北海道に熱き信仰の兄弟姉妹の其処此所《そこここ》に尠からず在るを聞かされて、昔し懐かしく、感謝の涙を禁じ得なかつた。信仰的に見たる北海道は日本の尻尾であるとの自分の悪口は茲に取消さゞるを得ない。
(180)   香《かぐ》はしき我が故郷《ふるさと》の音信《おとづれ》に
     堅き心の融けし今日《けふ》かな。
 
 四月二十七日(水)晴 少しく閑暇《ひま》に成つた。仏教界の耆宿暁烏敏君より思ひ掛けもなく二月十日ヱルサレム発の書面が達し強き感に打たれた。ゲツセマネの園に採集せし美しき花を押葉にしたる者に添えて左の如くに申越された。
  十二月国を出て印度仏跡をめぐり、三月九日キリストの跡をめぐるべくこゝに来ました。こゝまで私をして来さしたのは|あなた〔付ごま圏点〕である事を思ひました。青年時代に求安録と独立雑誌とによらなかつたら私は今こゝに来なかつたでせう。改めて先生に御礼を申します。
基督教の宣教師等よりイヤ味たつぷりの手紙を受取りつゝある此頃、音信久しく絶えたる仏教界の長老より、斯かる書簡を、而かも|我が〔付○圏点〕ヱルサレムより受取つて感慨無量である。所詮我国の浄土仏教徒は我が信仰の兄弟姉妹である。彼等が|真の阿弥陀は主イエスキリストである事〔付○圏点〕を知つて呉れる時に、世界に基督敦の大改革が始まるのであると思ふ。
 
 四月二十八日(木)半晴 ルードルフ・ゾーム著『教会歴史の大要』を読み始め、非常に面白かつた。小なる大著述である。教会歴史と云へば大抵は乾燥無味な者であるが、是れ計りは面白い、生血の流がるゝ歴史である。|基督教が羅馬帝国に勝つたのは其の信者の力に由つたのではない、福音の真理其物に由つたのである〔付○圏点〕との観察は実に深い観察である。又ニケヤ会議に於けるアタナシウスの立場の弁護は我が衷心の賛成を表せざるを得ざる者である。此書は今より四十年前、自分がアマストを出た年に成つた者である。そして自分が言はんと欲する所の(181)事を明白に簡潔に述べてゐるに関はらず教会は其声を聴かずして今日に至つた。自分の声なぞに耳を傾けざるは勿論である。著者は独逸ライブチツヒ大学法学の教授であつた。神学博士又は教会の教師でなかつた。故に彼の曰ふ所に重味があるのである。
 
 四月二十九日(金)半晴 両雑誌の校正で多忙であつた。時候温かく、午睡《ひるね》を貪つた。覚めて懐かしき我家に在るに気附いて嬉しかつた。死は多分午睡の如きものであらう。覚めて見れば楽しき国に在るのであつて、其処に多くの知人、友人、同志に迎へらるゝであらう。死は死滅でなくして移動であるに相違ない。唯各自が新たに之を実験するのであつて、誰も帰り来つて其実験を語つて呉れる者の無い所に不思議がある。而かも興味も亦そこに在るのである。
 
 四月三十日(土)晴 四月も亦茲に過ぎ去る。仕事に逐はれて年月の過去るを忘れる。斯くして一生を終り得ば実に幸福である。不幸の極とは閑で困ると云ふ隠居の生涯である。時の移るを知らざる小児の生涯であらねばならない。今の所、自分に閑はない。いくら働いても足りない。老境に在るなどとは滅多に思はない。
 
 五月一日(日)晴 つゝじ満開、初夏の美はしき聖日であつた。午前は使徒行伝二十二章一-二一節にあるパウロの自己弁護の演説を説明した。午後はエステル書第三、第四章に由り「ハマンの悪計」と題し、ペルシヤ古代の宮廷の裏面を窺ひ、其助壊の所以を研究した。興味ある歴史的並に心理学的研究であつたと思ふ。午前午後を通うして正味三百人の出席である。之に由て見ると、会員中平均二百人は欠席するのである。少し気を緩むれば我が研究会もぢきに教会化せんとする。西洋に「人は生れながらにしてカトリツク教徒である」との言がある(182)が、之を言ひ直せば「人は生れながらにて教会信者である」と云ふことに成る。どこかに教籍を置けばそれで安心であるとの心が起ると見える、困つたものである。
 
 五月二日(月)曇 家に在りて|働いて休んだ〔付○圏点〕。働くとは自分に取りては聖書を説く事である。そして其事に当るのが唯一の快楽又休養である。其他は凡てボゼレーション(煩ひ)である。今日は英文雑誌の校正を終り、一先づ肩の荷を下した。銀行休業に就き多くの悲しき話を聞かされる。同情に堪えない。此世は之をいくら善くなした所で、煎じつめる所此んな所である。米国流の基督信者は何に由て斯かる惨事を慰めんとするのか自分には解らない。
 
 五月三日(火)雨 法学士宇佐美六郎天津より帰任し、支那に関する多くの意味深き観察を齎らして訪問して呉れ大いに教へられ又考へさせられた。支那に於ける英国人の失脚、英米宣教師の引上げ、平定の見込なき戦乱何れも東洋全体の安危に関はる重大問題である。且又支那在留中、支那独特の基督信者らしき独立信者に一人も出会せざりしとの事の如き、以つて支那に福音らしき福音の説かれし事なき証拠の一として受取る事が出来る。|神が支那の伝道を日本人に委ね給ふ時が遠からず到来するのではあるまい乎〔付△圏点〕。
 
 五月四日(水)半晴 雑誌校正を終つた。一先づ寛《くつろ》いだ。ゾームの教会歴史に中古史の善き復習を為した。相変らず俗事に悩まさる、然し是れも亦善き修養である。教会の元老にして所属の教会より冷遇せらるゝ者尠からざる由を聞かされて、同情に堪えざると同時に、教会の決して相互援助の機関にあらざる事の感を強うせられた。
 
(183) 五月五日(木)晴 家族の者と共に郊外に遊んだ。桜の名所小金井に水道工事が施されて、其風致の全く壊《こぼ》たれしを見て悲しんだ。之に引替へ井之頭《ゐのかしら》公園の面目一変せしを見て喜んだ。其内に近代人とモダンガールとが幾組となく相並んで逍遙するを見て異様に感じた。二十世紀文明とは此んなものであらう。此日臨時帝国議会に於ては国家の浮沈に関はる財政的大議案が提出された。思へば人生は噴火口の上にダンスして居るやうなものである。
 
 五月六日(金)半晴 夜驟雨あり。英文雑誌発送を終つた。「証明は最善の伝道なり」との思想に支配され、全日を快く過した。政界財界の内情を聞き身慄ひする程恐ろしかつた。日本の前途が案じられる。惟其為に祈るのみである。
 
 五月七日(土)晴 明日の講演準備が主なる仕事であつた。合間にオイケン哲学を復習した。夜ラヂオに昔の日本義士烈婦の行跡を語る浪花節並に筑前琵琶を聞き大に気を引立られた。外国宣教師等には到底此気分は解らない。彼等は之を野蛮思想と称し、其消滅を要求する。然し此誠実を措いて日本人に何の善き所はない。我等は何を棄ても之を棄てはならない。近代人が同胞の思想を日々悪化しつゝあるに対し、琵琶や三味線を以てする古い日本音楽が、古い日本道徳を維持するを喜ぶ。
 
 五月八日(日)晴 麗はしの聖日であつた。高壇は芍薬とアヤメとカーネーシヨンとを以つて飾られた。午前も午後も満員の集会であつた。午前は使徒行伝二十二章二十三章の中心的真理を「苦難と伝道」と題して語つた。信仰を以つて之に当れば苦難是れ最上の伝道であると述べた。午後はエステル書第四章を講じた。モルデカイの(184)確信、エステル女の謙遜なる勇気に就て語り、語る者も聴く者と共に勢力附けられた。最も楽しき聖き一日であつた。
 
 五月九日(月)晴 引続きオイケン哲学の復習に大なる慰藉を受けた。是が本当の基督教哲学である。満腔の尊敬を表せざるを得ない 〇或る旧い兄弟より富士見町教会分裂の報を聞き、非常に驚き且悲んだ。何とか之を阻止する事は出来なかつたであらう乎。教会論は別として、故植村正久君に対し同情に堪へない。
 
 五月十日(火)晴 雑誌五月号を発送した。引続き四千三百部を印刷した。大抵は売尽す見込である。是れ以上の読者は要らない。秀英舎中形荷物自働車一台にて運び得る程度である 〇最近の『福音新報』所載「富士見町教会々員の決裂」と題する社説の終りに左の如き文字を見た。
  たゞこゝに明かにして置きたいのは、其の決裂の動機が、たとひ已むを得ざるに出たるものであつても、希くは其の結果として、所謂無教会主義者らに、凱歌を上げしむるやうな事態に、立ち至らざらしめざれといふ一事である。
と。此は杞憂であると思ふ。無教会主義者とてクリスチヤンである以上、他人の困難に在るを見て凱歌を上ぐるやうな事は為し得ない。若し為せば神は我等の心より聖霊を取上げ給ふ。主義は主義である、士道は士道である。我等は震災以来富士見町教会に引続いて臨みし不幸に対し、蔭ながら厚き同情を表し来つた事は事実である。若し今回の不幸に対し凱歌を上ぐる者があるならば、それは自分の如き無教会信者でなくして同数会と教派を共にする人達の内に在るのではない乎と思ふ。それは何れにしても、主義は主義として、信者は相互の困難に際して、各自の主義に敬意を表しながら相互を助けたきものである。然らざれば、主義はいくら立派でも、教会は如何に(185)堅固でも、神の精霊は其上に下らない。
 
 五月十一日(水)晴 阿弗利加ラムベルネー三月三日発、ドクトル A・シユワイツエルの書面が達した。我等の少しばかりの伝道寄附金に対する懇切なる感謝の辞である。氏の如き信仰的勇者の事業に寸毫たりとも参加するを得るは此上なき特権である。今後とも氏を通うして我等の同情の暗黒大陸の民に及ばんことを祈る 〇内村聖書研究会々員にして塚本虎二君指導の下に新約聖書ギリシヤ語を研究しつゝある者が、今やABCの三級に分れて男女合せて五十九名ある。今夜今井館に於て彼等の親睦会が開かれ、ギリシヤ語の暗誦ありて盛会であつた。ギリシヤ語研究会であるよりは寧ろ信仰養成会であつて、美はしき信仰的団体である。何時《いつ》かは思はざる所に其結果が現はるゝ事と信ずる。有難い事である。
 
 五月十二日(木)晴 朝は初夏の日光を浴びつゝ落合方面を散歩した。其発展の著るしきに驚いた。或る事よりして人の得意に成る事の如何に恐ろしい乎を思はしめられた。人に誉められ、持上げられて其人の生涯は終了《しまひ》である。カーライルのエドワード・アービングを弔ふの単文が此事に関する最も善き誡めである。そして|最も憎むべきは人を持上げる人達である〔付△圏点〕。彼等は人を持上げて(崇めると称して)其人を殺す者である。我等は此俗人国に在りて、凡ての手段方法を尽して是等の小人輩を身に近寄らせざるやう努力すべきである。
 
 五月十三日(金)曇 人生最も辛らい事の一つは、人に或る事を注意して其注意が納れられず、終に自分の予測が適中して其人が不幸に陥る、其苦痛を見せらるゝ場合である。予言の適中は好しとするも、|悪しく適中するは堪え難き悲しみである。そして更らに悲しきは注意せし自分が彼の失敗の責任を担はせられ、実際的に其補償(186)の義務を負はせらるゝ事である。近代人は他人の勧告は決して之を納れず、そして納れざる結果として失敗すれば、失敗の責任は之を勧告者に負はしめて平然たるのである。然し斯かる瘍合に於ても「悪に抗する勿れ」である。悪は其自滅を待つより他に之を除くの途がない。悲劇の人生である。
 
 五月十四日(土)雨 四月二十四日の独逸ミユンヘン発、内村医学士の信書に曰く
  愈々明日ミユンヘンに永の別れを告げます。スピールマイヤー先生、アルバースさん以下、去り難き人のみ多くして誠に辛いのであります。然し私は初からミユンヘンに入り終りまで一人の先生について学んだ事が素敵によかつた事を喜んで居ります。こゝの多くの精神病学者に認められて、将来小さい乍らも一人の世界人として真理を探求する基礎が出来た事が最大の収穫であつたと思ひます。他面アルバースさんを介して多くの精神的の友人を獲、世界を吾が同胞とし得るに至つた事は亦得難き事柄でありました。云々
是れで一先づ彼の教育が済んだのである。人一人の教育は容易の事でない。六歳より三十歳まで学校生括を継けねばならぬ、そして又終りまで学ばねばならぬ。我を知り、我国を知り、世界を知らねばならぬ。そして神と人類との為に斃るゝまで働かねばならぬ。有難い名誉の生涯である。
 
 五月十五日(日)晴 午後雷雨、降雹あり。集会変りなし。午前は使徒行伝廿四章に由り「パウロを審きし人々」に就き、午後はエステル書五-八章に由り「ハマン対モルデカイ」に就て話した。両回とも骨の折れる講演であつた。「好きなればこそ」である。他の理由で毎週此責任は担へ得ない。
 
 五月十五日(月)晴 市中を歩いて大きな休業銀行の建物を見て多くの事を思はせられる。十五銀行閉ぢ、川(187)崎造船所は他人の手に渡らんとし、松方系の財団斃れんとす。何だか夢のやうである、然し事実である。変るが人生である。昨日の富豪が今日の乞食である。其事を目前に見せられながら人は富を作らんとして一生懸命である。悪魔は能くも人類を騙したものである。
 
 五月十七日(火)半晴 日本に紳士道の行はれないには驚く。他人の権利を尊重する心の薄い事、然り殆んど無い事は、文明国孰れの国に於ても見る事の出来ない程である。是れでは政治が腐敗し、財界が紊れるのは少しも無理でない。此非紳士的社会に在りて真直《まつすぐ》の生涯を送る事は非常に困難である。
 
 五月十八日(水)雨 困つてゐる人の多いには困つて了ふ。何して彼等を助けて善き乎、其途を知るに困しむ。浅い宗教が行はれてゐる結果として、大抵の信者は神に助けて戴く途を知らずして単《ひたす》らに人に助けて貰はんと欲する。独立とは独り立つと云ふ事ではなくして、人を離れて神と共に立つことである。そして神が人を以て助け給ふ場合には、我より進んで人に頼まずして、神が人を遣はして彼をして我を救けしめ給ふ。如此くにして信者は誰も、如何に弱き者と雖も独立であり得るのである。敢て援助の労を避けんが為にかう云ふのではない。是れが本当の信仰の途であるからである。
 
 五月十九日(木)半晴 相変らず小事に忙殺せられて大事に携はる事が出来ずして困難する。此国に於ては宗教家とは不幸の人を助くる者と定《きま》つてゐる。宇宙人生の大真理を握りて、暗き世界を照らさんとすと云ふやうな事は、日本人全体には意味の無い事である。故に彼等に宗教家と称せらるゝ事は、彼等同様に大事を棄てゝ小事に勤《いそし》む人と成る事である。実に辛い事である。彼等の或者は自分を「国宝」なりと称して煽揚《おだてあげ》る、そして自分を(188)利用して幾分なりと彼等の事業(多くは金儲け事業)を助けしめんとする。実に油断がならぬ。此を思ひ彼を想ひて聖書の言が思ひ出される。
  牧者なき羊の如く人々悩み又|散々《ちり/\》になりし故に、イエス之を見て憐み給ふ(馬太伝九章三六節)。
 
 五月二十日(金)半晴 自分の説教を殆んど二十年間聞き継けし或る兄弟が、今日に至り初めて自分を解したりと云ふ告白を為せりと聞いて贅き且つ悲んだ。二十年間聞いて貰はねば解つて呉れぬ乎と思へば悲しくなる。五年十年聞いて終に解らずして自分を棄去る者が過多《あまた》ありしは少しも怪むに足りない。多分自分が解らないのではあるまい、自分を捕へ給ふキリストが解らないのであらう。キリストを解らんとせずして自分を解らんとするが故に誤解は何時までも結んで融けないのであらう。然し何年たつても、縦へ一人なりとも解つて貰へば大なる幸福と見做さねばならぬ。凡ての人に永久誤解されてもそれまでゝある。
 
 五月二十一日(土)曇 平凡の一日であつた。
 
 五月二十二日(日)曇 集会変りなし。朝は畔上と、牛後は塚本と高壇を共にした。朝は久振りにて説教を試みた。題は「罪の赦しの宗教」と云ふのであつて、馬可伝二章一-十二節、羅馬書六章十二-十四節等に依りて述べた。午後はエステル書の研究を完結した。七回に渉り随分長い講演であつた。然し話す者も聴く者も非常に面白かつた。思懸けなき収穫であつた。他の事に於は多くの不足はあるが、集会と雑誌丈けは大体に於て満足であると云はざるを得ない。
 
(189) 五月二十三日(月)半晴 休養の月曜日であつた。古いゴーデー先生とデリツチ先生を招待して、少しく聖書の講義を聞いた。古い先生は学ぶに善くある。今の神学博士は大抵は聖書をも宗教をも教ゆる資格なき者である。今や D・D はドンキー・ドライバーの表号である。|神学博士是れ驢馬の馭者〔付△圏点〕と云ふ事である 〇英語に Wheedle と云ふ詞がある。口説落すとか、機嫌を取りて釣込むとか云ふ意味の詞である。人を誉め立て彼を己が意に従はしむる事である。そしてホヰードラーとは斯かる事を為す者を云ふ。そして今日の日本に此種の人物の多きに驚く。高等教育を受けた立派の人達に斯う云ふ人が沢山にある。自分の許を訪ふて斯んな事を曰ふ、
  先生は明治の日本が生んだ傑物であつて、西郷隆盛と共に併び称すべき我国の国宝であります。斯かる方を僅か少数の人々の教師として存《のこ》す事は国家社会の為に最も惜むぺきであります。先生を広く社会に紹介し、御高説を広く公衆に聴かしむる事は、誠に社会国家の為に必要であります云々
斯く Wheedle、即ち誉め立てて置いて然る後に曰ふ、
  それですから、どうぞ私供が此たび開かんとする講演会に是非共御出席下され一場の御講演を願ひます
とか、或は曰ふ
  どうぞ何か私供の雑誌に御寄贈を願ひます。私共の発行する雑誌は御承知の事と存じますが、発行部数何十万に達します。之に由て御意見の在る所を全国に知らす事が出来ます。何分私共の微衷御推察下され、何なりと御高見御洩らし下さい
と。凡て斯くの如し。|うつかり〔付ごま圏点〕すると釣込まれる。そして麗々《れい/\》しく名を新聞紙に広告せられて彼等の金儲け事業を助けしめらる。実に悪い社会である。少しも油断が出来ない。拝み倒し政策である。利を以つて釣るか名を以つて誘ふのである。そして立派な紳士が斯んな卑しい事を為す。どうして宜しきや解らない。腹も立つが、時には日本国が可愛相《かあいさう》に成る。之では到底長くは続くまいと思はれて心配に堪えない。
 
(190) 五月二十四日(火)雨 疲労未だ癒えずして困難した。思はざる時に此世の人達に此世の問題を持込まれて悩まされる。「御先生様は宗教家であらせられるから人の為に成る事ならば何んでも御世話下さる」と云ふのである。実に困つて了ふ。「我に汝等の知らざる事業あり」と云うた所が、解つても呉れず免しても呉れない。宗教とは人を助けることであると彼等は深く思ひ込んでゐる。此の悪智《わるがしこ》い日本の社会を切抜けて行くのは容易の事でない。然し其内に一種の滑稽がないではない。
 
 五月二十五日(水)半晴 自分ながら用事の多いのに驚く。毎朝床を出て何から手を附けて宜しや判らない。故に手当り次第に行る。故に多くの場合に於て為すべき事を後にして為さねばならぬ事を前にする。郵便が来る毎に或る新しい仕事を持込まれる。漸く一つ片附いたと思ふと他の仕事が殖える。読みたい書籍が沢山に在り、考へたい事柄が沢山に在るが、読む時と考ふる時とは至つて僅かである。何れも米国流の「為せ、為せ」である。「我を助けよ」、「我が運動に参加せよ」である。「他人を狩立《かりたて》て彼等をして自分の事業を挙げしむる事」それが信者不信者の別なく、近代人の日々の生涯である。彼等は其れが為に朝早くより夜遅くまで奔走する。彼等は斯かる者を「腕利き」又は「活動家」と称ふ。そして彼等に捉《つかま》つたら最期である。彼等は己が意志を押し通さねば止まない。彼等の執念深い事非常である。斯かる社会に在りて他人に妨げられずして平静なる、意味の有る生涯を送らんとするは非常に困難である。|此世と絶縁するより他に途がない〔付△圏点〕、実に悲しい事である。
 
 五月二十六日(木)半晴 両雑誌の編輯一先づ終り、原稿全部を印刷所に送りたれば、茲に少しく閑を得て、(191)故《もと》の聖書研究に入つた。デリツチ先生とエ※[ワに濁点]ルト先批に就きソロモンの『雅歌』を覈《しら》べた。自分にはエ※[ワに濁点]ルト先生の註解の方が解り易く、自分の実験に能く合ふやうに感ぜられた。何れにしろ『雅歌』は旧約聖書中意味の最も深い書であると思ふ。其点に於ては多分ヨブ記以上であらう。信仰の奥殿に入つた者にあらざれば此書は解らないであらう。そして少しなりとも此書を解し得るは、毛利又は島津、三井又は岩崎の家に生れたよりも遥かに以上の幸福である。
 
 五月二十七日(金)曇 夜雨降る。此世の事を忘れ、朝より晩に至るまで働いた 〇大阪の読者某君より左の通信があつた。
  拝啓仕候、此度の研究誌上に志賀重昂先生御逝去に関して御記述有之候処、私が去る明治三十年早稲田に於て志賀先生より地理の講義を聴き居候当時、同先生は母校の御自慢から能く内村先生のことも批評せられたる中、多くは忘却致候へ共、左の御言葉丈けは確に記憶致居候
    世間では殆んど羊頭をかゝげて狗肉を売るが、内村君は狗頭をかゝげて羊肉を売る人であると。内村先生の志賀先生御追憶の件を拝読し、私も先生を追慕の余り右御報申上候次第に御座候、頓首
読んで涙がこぼれた。志賀君は基督信者ではなかつたが、自分の隠れたる友人であつた。基督教会の教師達にして自分に関し志賀君と正反対のことを言ふ者多き間に在りて、斯く自分を弁護して呉れたと聞いて感謝に堪へない。志賀君の霊、天父の国に於て安からんことを祈る。
 
 五月二十八日(土)半晴 五月二日仏国ベルダン発、内村医学士の端書に曰く
  ――さても/\ベルダンの戦跡の荒涼凄惨たる、山野形を更めてベトンで堅めし要塞を見るのみにして、山(192)形なきもの多し。殊に両軍奪取の目的となりしボー、ドーモンの両砲台然り。仏四十万、独六十万の戦死者を出せし所、至る所恐ろしきものばかりなり。「文明人と称する人々よ、お前等は何をして居るのだ、自ら死穴を堀つて居る事を知らないのか」と云つたやうな言葉はベルダンに於て最も痛切に感じます。云々
誠に然りである。欧米の戦跡を見て彼等欧米人の禽獣性が明白に示さる。|欧米文明是れ自殺文明である事を我等は忘れてはならない〔付△圏点〕。
 
 五月二十九日(日)晴 初夏の麗はしき安息日であつた。朝は九分通り、午後は満員の集会であつた。朝は「祈祷の効力」と題して説教した。無私の祈祷の聴かるゝ事、それ故に自分の事は他人に祈つて貰ふ事の必要なる事に就いて語つた。牛後は前聖日の朝の説教たる「罪の赦しの宗教」を繰返した。多少変へて話したが、繰返は自分の性分に合はず、甚だまづかつた。満足なる説教講演を為さんと欲せば新たに之を作らねばならぬ。骨は折れるが自分にはそれが必要である。止むを得ない。教会に頼まれて説教して後で種々なる悪評を加へらるゝに較ぶれば、自分の集会で毎回新たに草稿を作るの労は惜むに足りない。外を断はれば、内の為に如何に骨が折れても失ふ所は数ふるに足りない。
 
 五月三十日(月)晴 不相変ず疲労の一日であつた。昨日の説教に、詩篇六十五篇二節に由り神を「祈をきゝ給ふ者」として紹介した事を思ひ、大なる慰めを覚えた。ヱホバと呼びてユダヤ人の神と思はれ、ゴツドと呼びて米国人や英国人の神と思はれて度々祈る気に成らない。然れど「祈をきゝ給ふ者」よと呼びて親しく近づき易き者と思ふ。然り我が神は「祈をきゝ給ふ者」である。傲慢無礼なる米英人の神でない。無理を以つて我に迫る教会の神でない。我が祈祷をきゝ給ふ者である。斯かる神に朝夕祈る事の出来るは大なる特権である。
 
(193) 五月三十一日(火)晴 独りで井之頭公園に遊んだ。花は散りて人は尠く、気持好き散策であつた 〇三谷隆信君は仏国より、玉川直重君は加洲より帰国し、両氏共に当分東京に止まるとの事であれば柏木の団体は賑かになる一方である。我等求めざるに神は我等に多く有為なる会員を賜ふ。願ふ協力して彼の栄光を揚げん事を。
 
 六月一日(水)晴 研究誌校正で多忙であつた。
 
 六月二日(木)晴 自分が日本基督教会へ入会を申込んだと云ふ噂が立つたと聞いて驚いた。そんな事の有りやう筈がない。それは多分、自分が富士見町教会が非常に困つてゐると聞いて同情に堪へず、自分で宜しければ一二回位ゐ講壇をお手伝ひしても宜しと、教界の或る有力者と談話の序に述べし言が転々伝はつてさうなつたのであらう。それは全然関東流の義侠心の問題であつて、教会入会申込などゝは何の関係も無い事である。口やかましい教会の人達に|めつた〔付ごま圏点〕の事を言ふ事は出来ない。以来基督教界に於ては義侠などは禁物である。戦国時代の「人を見れば敵と思へ」と云ふが今日の我国の基督教界に於て把るべき唯一の、又最も安全なる途である。然し此んな事では基督教が此国に於て栄えないのは言ふまでもない。
 
 六月三日(金)曇 旧約聖書のエズラ書に大なるインスピレーシヨンに接して感謝であつた。聖書に於ては言語に絶する安慰を得るが、所謂基督信者に就ては言語に絶する苦難《なやみ》に接する。彼等に先生として仰がるゝ時が苦難《なやみ》の始である。初めに崇拝せられ、其次ぎに幾年となく疑はれ、多くの者等に背き去られ、極めて少数の者等にのみ諒解せらる。此事を思ふて幾度も伝道説教は止めたくなる。唯「或者」に強いられて止むを得ず伝道する(194)のである。人類愛に励まされて伝道する者は遠からず之を廃するであらう。愛でも義務でもない。sheer compulsion である。神に徴発されて止むを得ず戦場に臨むのである。ヨブの言が思出さる、
   それ人の世に在るは戦闘《たゝかひ》に在るが如し
   又其日は傭人《やとひびと》の日の如し
   奴僕の暮を冀《こひねが》ふが如く傭人の其価を望む如く
   我は苦しき月を得させられ
   憂き夜を与へらる。(ヨブ記七章一-三節)。
 
 六月四日(土)曇 梅雨の天候である。三日続いて友人間の「お勤め」を為さしめられて今日は大分に疲れた。聖書の先生が牧師の任に当るのであつて、労多くして功尠し。然し時には避くることが出来ず、勇気を鼓して之に当る。辛らいお役目たるを免かれない。古代史の研究に我が疲れし霊を休めた。
 
 六月五日(日)雨 大雨にも関はらず集会平常と差したる変りなし。世界伝道日曜日として此日を守つた。朝は馬太伝六章一九-二一節、路加伝十六章一-九節に由り「金の価値」と題して話した。題丈けに談話は余り振はなかつた。要点は「不義の財を使つて永遠の宅《すまひ》に友を得よ」と云ふのであつた。午後は阿弗利加に於けるドクトル・シユワイツエルの事業を紹介した。シユワイツエル後援会を作りて大に氏の事業に賛成を表する事に定めた。寄附金として二百円余を得た。但し慈善は自分独りで之を行ふは愉快であるが人に之を勧むるは不愉快である。然し時には之を勧めざるを得ない。
 
(195) 六月六日(月)半晴 久し振りにて田村直臣君の訪問を受けた。不相変ず基督教界の事に就き種々《いろ/\》の事を聞かされた。其の殆んど凡てが自分達の全然知らざる事である。基督信者が相互を責め、詰り、排斥する様は聞くに堪へない。日本人や支那人が基督教に入らないのは無理はない。斯んな宗教ならば旧い仏教や儒教の方が遥かに善い。自分の如き彼等に不信者呼はりせらるゝ事を少しも厭はない。彼等が要求するならば基督信者の名は何時でも返納する。「君はそれでもクリスチヤンである乎」と云ひて彼等は相互を譏りつゝある。そんな社会に自分は入りたくない。自分は日本の基督信者に絶交されて少しも苦しくない。然り絶交されん事を欲する。然り実際、絶交的状態に於て在る。
 
 六月七日(火)半晴 『研究』誌六月号の校正を終つた。ローリンソン、ラゴーヂン等の古代ペルシヤ史を復習して大なる興味を覚えた。自分が若し史家として立つを得るならば古代西方亜細亜史であらう。然し自分の史学なる者は聖書研究に資料を供する為の者であるが故に、深い者でないのは勿論である。何れにしろ歴史は自分に取り興味最も深き学問である。
 
 六月八日(水)曇 エズラ、ネヘミヤ両書研究の必要上、古代ペルシヤ史の復習を継続した。今日はゾロアストル教の教典ゼンドアベスタの概略を復習した。三十年前に読みし書籍の復読であつて、旧くもあれば新らしくもある。世離れしたる面白き研究である 〇米国マウントホリヨーク女子大学を昨年卒業して近頃帰朝せし三谷文子の訪問を受け、其在学中の米国観察談を聞き非常に面白かつた。殊にカンサス州ローレンスに於ける米国土人学校を視察せし彼女の実見談が強く自分のハートにアツピールした。銅色人種に我が満腔の同情を表せざるを得なかつた。茲に米国の高等教育を受けながら、其純日本人の霊魂を失はずして帰つて来て呉れた女性があつて、(196)心の底より嬉しかつた。
 
 六月九日(木)晴 七八両月分の両雑誌の編輯を始めた。何は不足しても原稿の豊富なるは感謝である。教会や教会信者は自分を使ひこそすれ少しも援けては呉れないが、神は教会以外の人達を以つて裕かに自分を援け給ふ。今日はエズラ書第九章に併せて、歴史以前のアリヤン人種の信仰に就いて研究した。
 
 六月十日(金)晴 平凡の一日であつた。番町の高田女塾を訪れて其生徒四十余人に平凡の話を聴かした。信仰其物が大なる知識である。信仰なくして学問に対し本当の興味と一生懸命とは起らない。信仰を学問と離して考ふるは大なる間違であると云ふやうな事を話した。自分には平凡であつたが、聴いた女学生達には平凡でなかつた乎も知れない。但し到る所に話しを為せらるゝには困却する。
 
 六月十一日(土)晴 暑い日であつた。雑誌六月号を発送した。読者の多き事はどうしても東京が第一である。そして東京に読者を有するは全国に有すると同じである。日本に於て雑誌を発行せんと欲すれば束京を除いて他に場所がない。東京人を排斥する事は出来ない。
 
 六月十二日(日)半晴 両回とも盛会であつた。遠方並びに海外の読者にして出席する者尠からず、嬉しかつた。午前は使徒行伝二十四章二十七節を「カイザリヤの禁錮二年」と題して講じた。主としてパウロ年代記確定の研究であつた、然し其内に尠からず霊的慰安あるを認めた。必しも乾燥無味の研究でなかつた。午後はエズラ書研究の準備として「世界歴史とイスラエル」と題し、古代史と旧約聖書の関係に就て話した。骨の折れる講演(197)であつた。霊的知識を供する前に知的材料を給する事が努力である。然し必要にして避くべからざる順序である。我が研究会が時々学校の教場と化するは止むを得ない。
 
 六月十三日(月)半晴 久振りにて塵埃を冒して日本橋の丸善に行いた。書物の数は多しと雖も、自分が読まんと欲する者は殆んどなく、一時間以上探索の後に、近頃有名なるウイル・ヂユラント著「哲学の話」他一書を求めて帰つた。熟々思ふに十九世紀は二十世紀に較べて遥かに真面目なる世紀であつた。十九世紀に於て読んだやうな真面目なる著書に今や接する事が出来ない。近代式と云へば凡てが「和製」と云ふが如くに浅薄で粗雑である。殊に信仰の書類の然るを見る。書店を漁りて世界思想の全体に著るしく低下せるを感ぜざるを得ない。
 
 六月十四日(火)晴 「哲学の話」にプラトーの伝記を読んで今更らながらに彼の偉らさを感じた。此人を知らずして人生の深い一面を知らずして終るのである。イエスの精神を以てプラトーの理想が世に行はるゝ時に黄金時代が臨むのである。プラトーを知らずして哲学の貴さと有難さは判明らない。
 
 六月十五日(水)晴 両雑誌の発行と編輯との間に少しく変化を見んと欲し、朝七時に柏木を発し、日光線今市に下車し、それより自動車、電車、馬車にて、栃木県塩谷郡藤原村|川治《かはじ》の温泉に着いたのは日暮れ近くであつた。鬼怒川の渓谷に沿ひ、旧会津街道を行き、神の画き給ひし絵画を拝見するのであつて、別世界に在るが如くに思うた。鬼怒川の支流なる男鹿《をじか》川の岸より湧出する温泉に浴し、爽快限りなしであつた。ヤマメの塩焼に空腹を充たし、清き山気に包まれて安き眠に就いた。青木義雄君が案内した。
 
(198) 六月十六日(木)半晴 入浴数回、前十一時馬車にて帰途に就いた。今市にて尊徳翁二宮金次郎の墓を見舞ひ、此の農界の世界的偉人に対し、我が衷心よりの尊敬を表した。英文を以て彼を世界に紹介せし名誉は自分の担ふ所である。墓に若し耳あらば一言云ふて見たく思うた。更らに楽翁公松平越中守定信の事跡を尋ねんと欲し、午後八時福島県白河駅に着いた。南湖公園の畔に投宿した。
 
 六月十七日(金)半晴 白河の関、感忠銘、白河城址等を見た。殊に嬉しかつたのは白河町民の気風の全体に我意に叶へる事であつた。駅の赤帽より自動車の運転士、旅館の主婦に至るまでに日本人固有の誠意あるを見受けた。名公の感化も茲に至る乎と思ふて嬉しかつた。正午発の急行列車に搭じ、四時半家に帰つた。三日間の好き清遊であつた。東京のみが日本国でない。山には神の造り給ひし天然がある、田舎には聖人の感化が残る。以つて此国に関し我が消えんとする希望を快復するに足る。時々東京を去りて地方を探る必要がある。
 
 六月十八日(土)曇 旅疲れにて何事も為し得ず、済まなく思うた。但し多くの貴き見聞を得た事なれば止むを得ない。近頃の新聞紙の悪いのには驚く。今日の報知新聞の如き読むに堪えない。之を若き人等に読ませる事は出来ない。断然配達を断つた。今や新聞紙は総掛りに成りて国家を滅亡へと導きつゝある。昔のユダヤの偽りの預言者と同じである。
  此地に驚くべき事と憎むぺき事と行はる。預言者ほ偽はりて預言をなし、祭司は彼等の手によりて治め、我民は斯《かゝ》る事を愛すとあるが如し(耶利米亜記五章五十節)。「預言者」を新聞記者と読み、「祭司」を政治家と読んで、日本現下の状態其儘である。
 
(199) 六月十九日(日)半晴 午前と午後と共に満員の盛会であつた。午前は「パウロ対アグリツパ王其一」と題し使徒行伝二十五章を読み、之に対して簡短なる註解を加へた。午後は「エズラ書の大意」と題し、同書初めの六章の要点を述べた。旅の疲労未だ去らざりしに関はらず、半ば満足の集会であつた 〇紐育市発行の THE WORLD'S WORK 雑誌に、米国学生間に行はる無神論運動の強烈なる有様を読み驚き且呆れ返つた。之に依て見ても、米国は決して宗教を世界に教ゆべき国でない事は明白である。斯かる国より宗教を学ぶは日本の大恥辱である。そして神は遠からずして、米国人より伝道の特権を取上げ給ふと信ずる。現に支那に於ては既に此事を実行し給うた。|五千人〔付△圏点〕の米国宣教師は全部彼国より引上げた。同じ事が印度に於ても日本に於ても近き将来に於て行はるゝであらう。それにしても我等同志の責任の重大なるを感ぜずには居られない。
 
 六月二十日(月)晴 不相変ず無為無能の月曜日であつた。少し計りの読書と雑誌編輯を為した。我が聖書研究会員の一人なる石河《いしこ》光哉君のパレスチナ、アラビヤ、メソポタミヤ旅行談を聞いて面白かつた。我が仲間の内より一人の大胆なる旅行家の出たることを感謝する。今後は更らに大旅行を計画実行せられんことを望む。
 
 六月二十一日(火)晴 家族の者を伴れて杉並村に斉藤宗二郎君の田園的ホームを訪うた。楽しき友誼の交換であつた。
 
 六月二十二日(水)晴 梅雨晴れの快き日であつた。来客多く、ペンの仕事は捗らなかつた。台湾の一読者より左の如き書面が達した。
(200)  私は神学校四年間で学んだ神学知識は先生より得たるそれに及ばない。先生は無教会主義者として一般に知られて居るが、先生は決して真誠の教会を非難するではなくして、現代の腐敗せる教会を指すのであると思ふ。先生の無数会主唱の裏に真正の教会成立は何よりも確実である。願くは先生、天国に帰る前に一度我が台湾に於て御講演を願ひ度いので御座ゐます。私は先生と面触は一回もない、又先生の写真とも相面した事はない。けれども精神は密接一致して読者諸君と共に我主イエスを讃え度いのであります。貴誌に余地があれば此感想を御載せ下さい。台湾新竹州峨眉教会堂、湯鼎紅
朝鮮に於て、台湾に於て、自分と人種を異にする人々の間に、真の兄弟姉妹あるを知りて感謝に堪えない。我内地に於て、斯くも好く自分を見て呉れる教会の教師は滅多にない。自分を自分の言葉以上に解して呉れる人は、之を我が真の同志と称せざるを得ない。
 
 六月二十三日(木)晴 大なる興味を以てネヘミヤ書を研究しつゝある。今日は其第四章より六章までを読んだ 〇欧洲よりの帰途に於て在る内村医学士昨日健康にてサイベリヤ丸にて桑港出発の電報、同地の古庄弘君より達し、家族一同言ひ尽されぬ歓びであつた。到る処にて彼を款待し呉れし我が在外の諸友人に対し深き感謝なき能はずである 〇夜、今井館聖書講堂に於て同志の茶話会が催され、談、米英宣教師の我等日本の基督信者に対する傲慢無礼の態度に及び、之に処する一の途として、彼等と語る場合に成るべく英語を用ひざる事を提議した。余は左の決議案を提出して一同の賛成を求めた。
  我等は我国に三年以上滞在する米英人に対して英語を用ひざることを約す
と。そし七出席者大多数の賛成を得て愉快であつた。欧洲大陸人は米英人と異なり、大体に謙遜であり、我等と語るに成るべく我等の国語を以つてする。余の知る独。仏、瑞の宣教師は努めて日本語を以て我等と語る。米英(201)宣教師は然らず。彼等は幾年日本に在留するも成るべく日本語を用ひざらんと欲し、我等に課するに彼等の国語を以てし、我等が之を語り得ざるを我等の大なる恥辱なるが如くに見做す。彼等は我等が殊更らに日本語を以て話掛るを以つて彼等に対する大なる無礼である乎の如くに思ふ。斯かる次第であれば、我等は彼等と対する場合に彼等の国語を用ひざる事を主張し、日本に在りては日本語を用ひるは彼等に取り人間としての普通の礼儀である事を知らしむべきである。事は小事なるが如くに見えて決して小事でない。日本の基督信者が米英宣教師に対する時に断然英語を用ひざるに至りて、教界の風儀が一変すると信ずる。是れ日本基督教独立の第一歩であつて、最も大切なる一歩である。若し彼等が強いて日本語を用ひざらんと欲するならば彼等の意に任すべしと雖も、我等は彼等に対し日本語を以て語るべきである。|彼等は英語を以てし、我等は日本語を以て語るも少しも不便はない〔付○圏点〕。聞く、欧洲に於て英人が仏人と対話する場合に此途を取ると云ふ。即ち教育ある英仏人は大抵相互の国語を解すると雖も、彼等は自己の国語を以て語るを常とするとの事である。我等も日本に於て外国人に対する時に同一の途を取るべきである。彼等米英人が我等に対する時に英語を用ひるを妨げずと雖も、我等は彼等に対し断乎として我等の国語を以て語るべきである。
 
 六月二十四日(金)曇 朝は四時に起きて原稿を書いた。ネヘミヤ書第八章を研究した。夜は小石川の或る老婦人に夕飯に招かれ、古い昔の話を交換した。曰く「人生済んで見れば如何でも可いのである。神を信じ義を求めたる丈けで他は考ふるに及ばず」と。
 
 六月二十五日(土)雨 七月号の編輯を終る。明日を以てまた今年度の講演を終る。後に来るは十一週間に渉る長き夏休暇である。思へば楽しくある。然し休暇と云ふて遊ぶ事ではない、仕事を変へる事である。働く事に(202)於て休職も平常と少しも異なる所はない。但し雑誌の原稿は数月分既に書き了つてあり、講演を為すの義務なければ、仕事の自由選択を為す事が出来る。鳥か、魚か、歴史か、哲学か、思へば楽しい事である。
 
 六月二十六日(日)曇 午前午後共に聴衆溢るゝ計りの盛会であつた。午前は前回に続き使徒行伝二十六章に於けるアグリツパ王に対して為せるパウロの演説の要点に就いて述べた。殊に紳士としてのパウロに就いて語つた。第二十九節の「この縲絏《なはめ》なくして」の一句が強く我等の心に響いた。午後は「エズラの使命」と題しエズラ書終りの四章並にネヘミヤ書第八章に依りて述べた。我等の聖書研究会が祭司にして学士たりしエズラの事業の継続なる事を縷述した。之にて今年度の講演を終つた。昨年九月第三日曜日を以て始め、唯一回風邪にて休みし外、悉く高壇に登る事が出来て感謝である。塚本、畔上と共に、三人揃ふて随分沢山に聖書知識を供給した。日本中に柏木の聖書講堂の如くに沢山に聖書を教ゆる所は無いと信ずる。然しまだ後十年経つても、百年経つても、我等が言はんと欲する所は尽きない。永久倦まざる楽しき事業である。感謝を以つて今学期を終る。希望を以つて来学期を待つ。
 
 六月二十七日(月)曇 昨日自分の講演を聴きし者の一人より左の如き通信があつて大に力附けられた。
  「キリスト教は理論の説明でなく体験の証明である」-神の力の斯くも大きく人間に現はれるものかと思ひました。今日先生に現はれた力はパウロに現はれた神の力のそれでありました。お話の後の三十分間私は全く主の前に平伏して泣き続けました。未だ嘗て今日の如く「復活のイエス」に打たれた事はありません。アグリツパ王とペストスに解し得なかつたパウロの演説否復活のイエスを一千八百七十年後の今新しき事実と(203)していと小さき我々に示し給ひし恩恵! 只々感謝であります。ペテロ組S・A
 
 六月二十八日(火)半晴 朝五時に起き、校正並に編輯に従事した。夜は青山会館に於て催されし明治神宮聖域擁護、掟橋二業指定地廃止同盟大演説会と云ふに出席し、「我が子の為を思ふて」と題し、一場の演説を為した。頭山満氏を以て代表せらるゝ玄洋社の人達と同盟しての演説会であつて、奇異にもあり亦愉快にも感じた。基督敦の側よりは自分の外に益富政助君、久布白落実《くぶしろおちみ》女史の人達が参加した。久振りにて廓清運動に参加して悪くは感じなかつた。我が聖書研究会の清潔を守る為に此出演は必要であつた。聴衆は一千人もあつたらう。功を奏するや否は別問題として為さねばならぬデモンストレーシヨンであつたと思ふ。
 
 六月二十九日(水)晴 昨夜の演説でがつかり疲れた。休息が今日の唯一の仕事であつた。頭山満氏と共に高壇に登つたとは自分に取り珍無類の経験であるが、然し基督教界の元老と共に立つよりは遥かに愉快であつた。宗教こそ異なれ頭山翁は誠実一徹の純日本人である。基督教界の人達の疑心満々たるとは全く別種の人物である。日本の基督教界に何があつても肝胆相照らすの誠実はない。昨夜は計らずも旧い日本に帰つたやうな気持がして、今日は疲れは疲れたが、基督教演説に出た後に感ずるやうな得もいはれぬ悔いと不愉快とはなかつた。
 
 六月三十日(木)晴 校正の一日であつた。夜、明治神宮外苑内日本青年会館に於て柏木青年会の懇親晩餐会が催され、自分は塚本、畔上と共に正客として出席した。来会者九十余名、其内三十八名が婦人であつた。石河《いしこ》光哉画伯の興味津々たるパレスチナ旅行談あり、一同歓を尽して九時散会した。我が聖書研究会は其青年団に於て殊に強くある。彼等を以て我が信仰は必ず後世に伝はるであらう。今日まで青年は幾度か自分を失望さしたが、(204)今度と云ふ今度は我が希望を充たして誤らないと信ずる。
 
 七月一日(金)晴 終日哲人アリストートルと偕に在つた。実に偉らい人である。彼が解らずして真理は掴めない。所謂哲学的平静なるものはア翁の立場に在りて獲らる。「真理は汝に自由を獲さす」との主の御言葉を思出さゞるを得ない 〇内村医学士を運べる郵船サイベリヤ丸は我が国土へと近づきつゝある。今日歓迎の無線電報を発した。
 
 七月二日(土)晴 暑い日であつた。今日も亦ソクラテスに就いて読んだ。人としては最大であつたらう。如何《どう》見ても哲学の始祖である。人より神に達せんとすれば彼の取つた道、即ち哲学に依らなければならない。若しクリスチヤンたり得ずばフイロソフハーたるべきである。自分がクリスチヤンであるに拘はらず、屡々哲学者以下に堕落するは耻かしき窮りである。
 
 七月三日(日)半晴 集会は二回共に塚本に委ねた。自分は少しく彼の言を補ふのみであつた。午前と午後と合せて二百人程の来会者があつた。暑気強くして多く語り得なかつた 〇夜、ラヂオにて桃川若燕の「肉付の面」の講談を聞いた。実に偉らいものである。之を最上の能弁術といふ事が出来る。其内に高い理想と堅い道徳とがある。日本の講談師はたしかに日本人の説教師である。自分などの到底及ぶ所でない。米英の宣教師などに日本人全体が耳を傾けざるは分り切つた事である。それにしても日本人を見下し、我等に何の善きものゝ無きやうに我等を扱ひ来りし彼等が日本人を教ゆるの資格なき事が益々明白に成つて来た。
 
(205) 七月四日(月)晴 逗子を経て相州三浦郡油壺の帝国大学臨海試験所を訪れ、水産動物学研究の状《さま》を見て昔懐かしく思うた。海胆《うに》と海盤車《ひとで》と舟虫とが依然として動物学者の研究物なるを見て驚いた。自分が四十何年前に研究に取掛つた事が今に猶ほ学者に研究の題目として存《のこ》るのである。人間は百年を費して海胆一つを知り悉す事が出来ないのである。神と天然には到底|敵《かな》はない。家の姪と三谷文子とが同行した。前者に取り善き見学であり、後者に取り善き参考であつた。逗子より三崎まで、相模湾に沿ひ、坦途を走る自動車旅行は愉快であつた。
 
 七月五日(火)曇 暑気強くして雑誌校正の外は何事も為し得なかつた。引続き沢山の手紙を受取るも之に返辞する事が出来ずし 困難する。万々止むを得ざる場合の外は自分に親展を送る事は廃《やめ》にして貰ひたい。自分の残る精力は主として之を福音の真理供給の為に用ひたい。其他の事に於ては自分は既に死んだ者と見做して取扱つて貰いたくある。
 
 七月六日(水)雨 内村祐之世界旅行より帰宅の前日である。歓迎の準備にて何かとなく多忙である。自分も四十年前に自分の両親に同じやうに迎へられた。四十年後には彼も亦同じやうに彼の子を迎へるであらう。斯くて子孫代々博く知識を海外に求めて国と人類との為に尽したきものである。
 
 七月七日(木)雨 内村祐之米国を経て欧洲研学より帰る。家族の者を率ゐて彼を横浜埠頭に迎へた。友人の出迎も亦多かつた。正午少し前に一同連れ立ちて柏木の家に帰つた。人生歓びの極とは斯んなものであらう。彼の身に度々危険が臨みしも不思議に助かりし話を聞き、我等の不断の祈祷の効果ありしことを認めざるを得なかつた。積る話は聞けども尽きず、全世界が我国である乎のやうに思へた。殊に欧にも米にも友人の多くあるを聞(206)いて不思議に思うたと同時に亦言ひ尽されぬ感謝であつた。孫女が初めて其父に会ふてパパーと言ひながら彼に近づく状は人情美の奥に達して涙ぐましき程美くしかつた。
 
 七月八日(金)曇 若主人帰朝祝賀の為の来客絶えず家は非常に賑はつた。孰れも「お芽出たう」と云ふて呉れる、「神に感謝します」と云ふて呉れる者はない。|我等に取りては此日は祝日ではなくして感謝日であつた〔付○圏点〕。神の恩恵を考ふる時に胸が一杯になつて言葉が出ない。今日も昨日同様独逸の話を以つて持切りであつた。彼国に基督的紳士淑女の多くあるを聞いて心強く思うた。今日は亦朝早く起きてネヘミヤ書の精読を終つた。最後の一言が強く我心に訴へた。「我神よ我を憶ひ仁慈《いつくしみ》を以て我を待《あしら》ひ給へ」と。愛国者の最後の言は是れ以外にない。国人には忘れられても可い、唯神に憶へて戴きたい。我が罪を赦し、我が欠けたるを補ふて戴きたい。真に国を思ふ者はネヘミヤ記を精読すべきである。彼はたしかに聖書偉人の一人である、且つ甚だ愛すべき人である。
 
 七月九日(土)半晴 日本に所謂「お家騒動」の多きを悲む。多くの家に是れあるやうに見える。そして騒動は大抵の場合に於て弟妹が家の長男即ち総領に対する反対に由て起るやうである。次男と母とが組み、他の弟妹を率ゐて長男に当るが常である。彼は狂なり愚なりと称して其総領権を奪はんとする、即ち彼を廃嫡せんとする。そして彼の妻が彼と彼等との間に入りて苦しむのである。自分の知る日本の家庭にして此式の騒動に禍ひせらるゝ者が随分に多い。然り我家も亦之に禍ひせられたる者の一つである。其原因は多分我国の家庭制度の悪しきに因るのであらう。之が為に日本人の精力は如何程減殺せらるゝ乎判らない。実に悲欺の極みである。騒動の動機は十中八九まで財産問題である。「お家騒動」は富家の附物と言ふても可い程である。路加伝十二章十三-十五節が多分此騒動を誡むる為の教であらう。
 
(207) 七月十日(日)半晴 午前一回集会を催した。来会者は堂に溢れた。塚本は「イエス対イスカリオテのユダ」に就て講じ、自分は少しく彼の講演を補うた。来会者一同我家の新帰朝者を祝して呉れた。世に不幸多きに、我家にのみ幸福が臨みしやうに思はれて甚だ済まなく感じた。然し乍ら世人の多数は我等は何故に歓ぶ乎其理由を知らないであらう。我等は身の幸福の為には歓ばない積りである。彼の霊魂が安全に守られて、彼が彼の父母の信仰を維持して欧洲留学より帰つて来て呉れたから喜ぶのである。今や所謂欧米基督教国に滞在するは信仰上大なる危険を冒すことである。多くの日本の青年は欧米に留学して其の基督数的信仰を失つた。|独逸の大学に遊んで信仰を維持する者は信仰的勇者として認めらる〔付△圏点〕。斯かる危険の間を過ぎて、神とキリストとを見失はずして、而かも精神病学と云ふが如き懐疑を起し易き学科を修めしに拘はらず、父母の信仰を棄ずして、其懐に帰つて来て呉れた其歓びと感謝! 我等に取りては世に之に比ぶべきものは無いのである。神を失ふて其他何を得ても大々的損失である。「汝(神)の我心に与へ給ひし歓喜は彼等(世人)の穀物と酒と(財産と名誉と)の豊かなる時に勝さりき」とあるは此事を言うたのであらう(詩篇四篇七節)。
 
 七月十一日(月)曇 午後六時より東京駅前丸ビル九階食堂に放て内村聖書研究会有志の講師慰労を兼ねて内村医学士帰朝歓迎会が開かれた。出席の男女会員百名を超え、研究会有つて以来の盛会であつた。若し此世の地位を云ふならば博士何名、学士十何名、校長、代議士、商人、会社員と云ふ類であつた。何れも社会に於て重要の地位を占むる人達であつて、我が研究会が此世の立場から見ても如何に有力なる者なる乎は此夜の此会合に由て知る事が出来た。我等は自から進んで勢力を作らんとは決して為さないが、何時の間にか斯かる団体が自然に出来たのである。大なる不思議と云はざるを得ない。出席者代表の歓迎の辞あり、之に対して若内村並に老内村(208)の答辞あり、丸ビル階上に於て祈祷を以つて開れたる此会合が同じく亦祈祷を以て閉られたのは午後九時半であつた。小さき正子も亦家族の一人として出席し、大衆にも怖《おぢ》ず、会の閉づる少し前まで、彼女の半言葉《はんことば》と手真似とを以つて会衆一同の歓楽を賛《たす》けた。
 
 七月十二日(火) 引続き毎日独逸の話を聞いて居る。偉らい国である。アメリカなどの到底及ぶ所でない。アメリカが亡びて後まで独逸は存るであらう。而かも其科学や研究に於てのみ偉らいのでない、其信仰に於て偉らいのである。英国の商業も米国の金銭も独逸の霊魂を滅す事は出来ない。それは世界の宝である。第二の宗教革命はやはり独逸人を以つて始まるであらう。 〇夏期休みに入り一年中の疲労が出て来たやうに思はれ、毎日熟睡を貪つてゐる。詩の第百二十七篇二節の「斯くてヱホバその愛しみ給ふ者に寝《ねぶり》を与へ給ふ」の言葉が思ひ出さる。
 
 七月十三日(水)半晴 暑い日であつた。少し計りの編輯を為した外に何も為し得なかつた。新聞紙はジユネーブに於ける軍縮会議と大阪に於ける松島事件の公判に就て伝へてゐる。此世の政治家輩の為す事は大となく小となく児戯に非ざれば詐偽である。然し孰れも罪が罪を裁く刑罰であつて其内に深き意味なくんばあらずである。
 
 七月十四日(木)晴 第一高等学校独逸語教師エミール・ユンケル氏永眠し、其葬儀が麹町区平河町独逸東亜協会に於て執行はれた。自分も出席して同氏に対し敬礼を表した。自分がユンケル氏を知るに至りしは神戸ジヤパン・クロニクル前主筆故ロバート・ヤング氏を通うしてであつた。両氏共に正直なる善き人であつて厚く自分を信じて呉れた。且又両氏共に基督教には反対の人であつたが、自分の信仰に対しては敬意を表して呉れた。(209)クロニクル紙が今日に至るも大抵の場合に於て自分を弁護して呉れるのは両氏の自分に対する好意的態度を示すのである。今日のユンケル氏の葬儀は無宗教的葬儀であつた。祈祷なし、讃美歌なし、説教なし、唯故人の履歴と功績とを述べ、之に加ふるに美くしき音楽を以てするのみである。純理主義者《ラショナリスト》の葬儀と称すべき者であらう。自分に取りては甚だ物足りなく感じた。然し故人の主義を重じての葬儀であれば其意味に於て貴くある。欧米基督教国に在りては教会が腐敗せる故にヤング氏やユンケル氏の如き立派の人格の人が無宗教家として其一生を終るのである。我が日本に西洋の教会の基督教を採用する害は斯かる実例に由て明かに示さるゝのである。
 
 七月十五日(金)晴 引続き暑い日であつた。中元にて親しき友人の訪問多く、楽しかつた。読書はゼカリヤの預言を三章読んだ計りである。沢山に孫女と遊んだ。彼女が「鬼ごつこ」を覚えし故に、老夫婦は彼女に呼出されて其相手をさせられる。学問としては小児のマインドの発達を見るのが非常に面白くある。
 
 七月十六日(土)晴 家族の者を海浜に送つて家は淋しくなつた。柏木は暑くして込入つたる研究は何も出来ない、然し信ずる事と祈る事とは出来る。此日出雲松江、真言宗霊感寺住職釈快裕氏の訪問を受け、二時間余に渉り宗教の事を談じた。基督教の神は理の神か智の神かとの質問に対し、自分は答へて曰うた、「理の神にも非ず智の神にも非ず、愛の神なり、故に|愛を行ふ〔付○圏点〕てのみ知る事が出来る。仏教に理論多しと雖も、基督教は簡短明瞭にして、|愛を行ふ者〔付○圏点〕には何人にも解る」と。氏は左の句を遺して辞し去つた。
  阿字不滅、四恩の道に入りぬれば、娑婆は極楽、身をば無量寿
と。氏は印度に六年間仏跡を尋ねられし人の由にて、一見して敬すぺき親しみ易き人と見受けた。
 
(210) 七月十七日(日)晴 朝一回集会を催うした。来会者百五十名余。若き内村は夜汽車にて札幌に赴任した。過去十日間、家は彼の故に賑はうた。遠からずして真剣の仕事が始まるであらう。人生は栄華でもなければ享楽でもない。真面目に真剣に働く事である。成るべく新聞記者の筆に上らざるやうな単純なる生涯を送る事が肝腎である。
 
 七月十八日(月)晴 今日は小児と其若き母とを海浜に送つた。家は火の消えたやうな静けさに入つた。家族の者を涼しい所に送つて、自分までが涼しく感ずる。暑い寒いは素々心の問題である。自分一人が涼しくあるとも少しも涼しくない。自分は暑くあるとも、自分に頼る者が凡て涼しくあると思へば、自分も本当に涼しくある。今日は家に残りて少しくペンの仕事が出来た。
 
 七月十九日(火)晴 朝起きて先づ第一に旧約西番雅の預言を読んだ。偉大なる言である。如斯き言を此世の文学に於て見ることは出来ない。三章十四節以下の如き我が心を躍らしむ。斯かる書があれば、他に読物を求むるに及ばず、我が終生を預言書の研究に費して猶ほ飽き足らぬと思ふ。預言者の言に励まされて終日働いた。家の内の大掃除を為した。種々と俗事に携はりしも嫌気《いやき》が催しなかつた。
 
 七月二十日(水)晴 朝起きてナホム書を読んだ。古い昔の響きがあつて懐しかつた。
   ヱホバは怒る事遅く能力《ちから》の大なる者なり
   罰すべき者をば必ず赦すことを為し給はず
   |ヱホバの道は旋風に在り大風に在り〔付○圏点〕
(211)   |雲は其足の塵なり〔付○圏点〕
とは四十年前に米国流竄中我が心を躍らせし言である(一章三節)。斯んな壮大な言は聖書の外に何処にもない 〇正午相州葉山に来た。二三日間家族と共に海風に吹かれん為である。海浜生活は二十何年振りである。悪くない。「海よ海よ我を広くせよ」である。唯都人が来つて風儀を紊すを悲しむ。男女裸体にて砂上に寝転ぶの状《さま》は、予ねて聞く米国紐育市外スターテン島に於ける米国男女の状其儘である。我等は旧き教友山桝船長、藤本医博と隣し、頗る居心地好くある。
 
 七月二十一日(木)晴 オバデヤの預言を読んだ。ヂユランの『哲学の話』にカント篇を読んだ。沢山に教へらるゝ所があつた。哲学者と言へば矢張りカントである。彼の哲学が偉大なる計りでない、其動機がノーブルである。哲学も他の物と同じやうに其価値は其目的に由て定まる。カントは人としてノーブルなりしが故に彼の哲学も亦高遠であつたのである 〇此日藤本医博に伴はれ、久里浜に近頃捕獲せられし八頭の抹香鯨を見た。湾内は血の海と化し、臭気堪へ難くあつた。然し巨大の獲物であつた。海中に死んだ計りの鯨を見たのは今度が初めてゞある。往復十八里の三浦半島の自動車疾走は愉快であつた。山水明眉の半島と称せざるを得ない。横須賀のホシダの小母さんと此辺を逍※[ぎょうにんべん+羊]した事を思出した。人は失せて山水は存る。彼女が伝へし福音は何時か此美はしき半島を化して神の国と成すであらう。
 
 七月二十二日(金)晴 暑い日であつた。然し清風に吹かれながら大に読み、大に働いた。『哲学の話』を数十頁読んだ。家を離れて来客なく、俗事を忘れ、頭脳とペンの仕事が捗る。
 
(212) 七月二十三日(土)晴 引続き酷暑である。ハバクク書第三章を読んだ。聖書中最も荘大なる言の一である。
   その時には無花果の樹は花咲かず、
   葡萄の樹には果ならず、
   橄欖の樹の産は空しくなり、
   田圃《たはた》は食糧《くひもの》を出さず、
   圏《をり》には羊絶え小屋には牛なかるべし。
   然れども我はヱホバに由りて楽しみ
   我が拯救《すくひ》の神によりて喜ばん。
   主ヱホバは我力にして我足を鹿の如くならしめ
   我をして我が高き処に歩ましめ給ふ。
衣食足りて礼節を知ると云ふのが世間普通の道徳である。然しヱホバの道は衣食に欠乏して霊魂をして喜ばしむ。彼に依りてのみ完全に境遇に勝つことが出来る 〇夜、柏木に帰つた。
 
 七月二十四日(日)曇 涼しき善き日であつた。集会に百五十人程の出席者があつた。畔上と共に高壇を司つた。不相変楽しき聖日であつた。自分は日蓮上人の竜之口法難とイエスの髑髏山上の死を比較して話した。前者は奇蹟的に死を免かれ、後者は死に附《わた》されて之を免かれ得なかつた。日蓮宗は死を免かれて起り、基督教は死に会ふて生れた。茲に人間の教と神の教との区別がある。真の神は我等をして患難を免かれしめ給はない、之を通過せしめ給ふ。我等に幸福を約束し給はない、患難を下して霊魂を完成し給ふ。神の恩恵を身の安全幸福に求むる宗教は浅い宗教である。今の米国流の基督教は其処まで堕落したのであると語つた。
 
(213) 七月二十五日(月)曇 新聞紙は文学者芥川竜之介氏の毒薬自殺を報ず。自分は氏を知らずと雖も、氏に対し深き同情なき能はずである。有島の場合に於けると同様に、近代思想は人をして茲に至らしめざれば止まない。神なし、義務なし、責任なしと云ふ。近代人が死を急ぐは当然である。人の罪と云ふよりも寧ろ思想の罪である。近代思想は|あたら〔付ごま圏点〕人間を殺しつゝある。
 
 七月ニ十六日(火)半晴 再び海浜に来た。風は涼しくあるが地は雑沓してゐる。然し社会が全く異るが故に殆んど無人の地に在るが如し。我れ汝を知らず汝我を識らずと云ふ状態である。大実業家、大政治家の別荘が軒を列ねて景勝の地を塞ぐ。之を見て自分の如き者は日本市民に非ず、日本の事に就き心配する資格も義務も無き事を感ず。海も彼等に属し山も彼等に属す。国は彼等の有なれば我れ之に関する要なしと思ふ。斯う思へば心が軽くなる。そしてまたカント先生に引かれる。「我が上には星の空あり、我が衷には道義の法あり」である。海も山も、国も地も、之を株屋や政治屋に譲る。我には空と星と神の道とがある。それ故に我は彼等以上に満足する。此世の巨魁《おほもの》の城廓の如き別荘を見る時に我に此感が起る。何も彼等を羨んでゞはない。
 
 七月二十七日(水)晴 涼風に吹かれながら能く休んだ。何にか少しづゝ生産しゝある。全く無生産の日とては殆んど一日もない。若し何も為し得ない時には主を仰瞻る。そして其事それ自身が大なる事業である。
 
 七月二十八日(木)晴 ペルシヤ帝国勃興史を背景としてイザヤ書四十章より四十九草までを読んで新らしき(214)教訓と慰藉とを得た。暑い日であつて、小児と共に海に遊びし外に何事をも為し得なかつた。
 
 七月二十九日(金)晴 イザヤ書四十九章五十章を読み、是れが我が主イエスキリストの聖書であつた事が判明つて心が晴々した。殊に五十章六-九節を読んで我が救主の心が推量られて奇しき平和が我心に臨んだ。
   我を鞭撻《むちう》つ者に我背を任かせ
   我が鬚を抜く者に我頬を打たせ
   恥と唾《つばき》とを避くる為に面を掩ふ事をせざりき。
之を読んで涙がこぼれた。キリストの苦難とは此れである。此苦難なくして彼の歓喜《よろこび》はない。少しなりとも此苦難に与る事が出来て感謝の至りである。此事が解つて他に何も知りたくなくなる。独り海岸に行き、浪打つ際《きは》に足を浸しながら、ハンデルの『救主』の初めの一節を幾度となく口すさんだ。
   Comfort ye, comfort ye, my people;
   Saith your God.(四十章一節)
 
 七月三十日(土)晴 暑熱に苦しむ、然し涼を趁ふが故に一層苦しむのである。義務を趁ふて暑は自から忘れられる。引続きイザヤ書五十二章五十三章を読んだ。全世界の文学に斯んな者は無い。之を解せんが為に全生涯を旧約の研究に費すだけの充分の価値がある。預言者ヱレミヤの事からキリストの事に思ひ及んで発せられたる言であらう。人生の凡ての悲劇と喜劇とは此二章の中に在る。ボルテヤやシヨウペンハゥエルやニイチエに此章が解らなかった故に彼等の如き嘲笑又は悲観哲学が出たのである。自分は Christian であつて Christian optimist である。唯の optimist でない、 Christian optimist である。
 
(215) 七月三十一日(日)晴 久々振りの集会なしの日曜日であつた。イザヤ五十四章より五十六章までを読んだ。その後に『哲学の話』の内にシヨーペンハウエルの哲学の梗概を読んだ。神の言と人の哲学を較べて後者の如何にプーア(貧弱)なる乎を感ぜずには居られなかつた。基督教国に在りて斯んな憐れなる哲学を編み出さなければならぬ乎と思ふて不思議に堪へなかつた。然し是れ皆な主として基督教会の罪である。真の基督教が唱へられたならば斯んな哲学の出づる必要はない。寂滅の涅槃を目的とする仏教は基督教に勝さる宗教であるとの意見に至つては基督教を全然誤解せる者の宗教観と云はざるを得ない 〇若き内村札幌より帰省し、彼地の様子を語り、多少北門の我家の為に開かれしを知りて、懐旧の念に耽つた。
 
 八月一日(月)晴 両雑誌校正の為に朝早く柏木に帰つた。車中イザヤ書五十七章より六十章までを読み、時間の立つのを知らなかつた。隣席には逗子鎌倉より東京に出勤する者の物価相場を語るを耳にせしも、預言者の声を打消す事は出来なかつた。家に帰り校正に従事する|あひま〔付ごま圏点〕にイザヤ書の註解書を覗いた。
 
 八月二日(火)晴 二週間目にて塚本に会ひ御殿場富士岡荘に於ける日本基督教女子青年会同盟夏期修養会の実況を聞いた。会期は七月十六日より廿六日までゞあつて、講師は無教会の塚本虎二君、日本基督教会の金井為一郎君、同郷司慥爾君、日本メソヂスト教会の松田明三郎君であつたと云ふ。全国来集の女子青年は百四十人であつて、内無教会の塚本に就て学ばんとする者が六十人、日基の金井君に四十人、同郷司君に二十五人、メソヂストの松田君に十五人であつたと云ふ。実に奇異なる現象である。米国宣教師の指導の下にある女子青年会の集会に、塚本の如き無教会主義者が招かるゝさへ不思議なるに、来会の女子の多数が彼の許に走りたりとは更に不(216)思議である。斯くして日本に在りても支那に在ると同様に、米国宣教師の信用勢力は地に堕ちつゝある事が判明る。彼等が如何に威張らうが会衆が承知しない。無教会主義は宣教師並に教会者には蛇蝎の如くに嫌はれつゝあるが、公衆には歓迎されつゝある。宣教師は嫌々ながらも無教会主義者を彼等の指導の下に開かるゝ集会に講師として招くべく余儀なくせられて、彼等の勢力の衰退を表しつゝある。
 
 八月三日(水)曇 小雨あり。関西の或る女子師範学校教諭某女史よりり内村聖書研究会に対する長い攻撃の書面あり、其内に左の如き文字があつた。
  初め有島武郎は憎い奴だとたゞ内村先生のお言葉を尊んでゐましたが、此頃切りに思ひますに、やたらに御自分と意見が外れてくると絶交絶縁、汚れた物を芥函に入れゝばもう宇宙の何れにも消失してないと覚召されるかの如く御とりなしになつた|先生が有島氏をつまり殺したのだと云ふ様な考へが浮んで来ました。計らずも〇〇〇〇先生と此説は一致しました〔付△圏点〕。
是は随分な酷評であると思ふ。有島氏と絶交した覚えなく、彼と我とは最後まで好意的交際を継けて来た事は事実である。若し氏が死を決する前に自分の所に相談に来て呉れたならば、或は之を喰止め得たと思ふ、其事は別として自分がつまり有島氏を殺したのであると言ひ放つ人が、自分を先生と呼ぷ人の内に在ると聞いて不思議に堪へない。然し縦し其事が事実であつたとするも自分は失望しない。親鸞上人は曰うた、「縦し自分が二十人の女を姦し、百人の人を殺したとするも、弥陀の本願を信ずるに由て拯《たす》かる」と。自分も亦自分の為した善悪に由て審判かるゝに非ず、購罪のキリストを信ずるに由て救はるゝのであれば、自分も亦安心して可なりと信ずる。つまり如何でも可い問題である。
 
(217) 八月四日(木)曇 昨夜大雨、屋根漏り夜中大騒動を演じた。其跡片附に半日かゝつた。雑誌の校正を終つた。其他雑用多し。暑中之に当るの健康を与へられて、大なる感謝である。此日瑞西ジユネーブに於て英米日三強国の軍縮会議決裂に終れりの報あり。是れで先年のワシントン会議までが無効に成つて了つたのである。人間の催した平和会議が成功に終つた例は世界歴史に於て未だ曾つて有りし事なし、其反対に平和会議の後に大戦争の始つた例が多い。今度の軍縮会議も英米衝突の因を成し、第二の世界戦争を招くに至らざれば幸である。世界平和は神の聖業《みわざ》である。彼は之を人間に譲り給はない。今度の会議の結果は当然の成行である。
 
 八月五日(金)半晴 用事一先づ片附きたれば、夕刻再び海浜に来た。忙がしい五日間であつた。然し凡ての責任に当る事が出来て感謝である。但し其責任の大部分が家や親類の事であつて天下宇宙の事で無い事を悲しむ。如何に見ても日本は小人国である。「自分を救つて貰ひたい、助けて貰ひたい」と云ふ人のみ多きに驚く。其上に米英流の進歩せる自分勝手主義が加へられたのであるから堪らない。
 
 八月六日(土)晴 衣食足りて礼節を知ると云ふは必しも真理でない。世には足り過ぎる程に衣食に足りて礼節を知らない者が沢山に在る。近代の所謂上流社会の人達がそれである。無礼極まる者にして是等上流人士の如きはない。葉山の如き避暑地に来りて明かに此事を示さる。其反対に衣食に不足する人にして心からの紳士淑女の尠からずある事を自分は克く知つてゐる。近代の上流社会の人達は野蛮人に化粧した者と称する外はない。
 
 八月七日(日)晴 藤本医博の借家にて小集会を開いた。イザヤ書十一章に由り、世界平和の実現に就て話した。スペンサー哲学の梗概を読んだ。実に偉らい哲学者であつた。自分の如き若し教会に毒せられたる英国に生(218)れたならば小なるスペンサー又はハックスレ一に成つたであらう。彼が英国の教会と其基督教を棄たに対しては深甚の同情なき能はずである。彼の父祖の宗教は勇敢なる独立心となりて彼に存した。彼も亦純なるピユーリタン的信仰の産である。
 
 八月八日(月)晴 人世に成つて欲しい事にして、成る可能性の無い事がある。そして斯かる場合に於て祈祷の必要が起るのである。「神に在りては能はざる無し」である。神は不可能をして可能たらしめ給ふ。自分の生涯に於て斯かる実例を沢山に見せしめられた。それ故に如何なる場合に遭遇しても失望しないのである 〇夜柏木に帰つた。
 
 八月九日(火)晴 復たび家の留守番と成つた。暑い日であつた。然し三百万の市民と共に苦しむのであると思へば凌ぎ易かつた。
 
 八月十日(水)晴 暑い日であつた。雑誌八月号を発送した。第三百二十五号である。三百号を以て終る筈の此誌が又復百号の四分の一生き延びた。何時まで続くものやら。今朝詩篇百十九篇八十九節に於て左の言を読んだ。
   ヱホバよ聖言《みことば》は永へに天にて定まれり
と。永へに変ることなき聖言である、故に之に携はりて永へに変らない。実に有難い事である。
 
 八月十一日(木)曇 蒸し暑い厭な日であつた。支那内地伝道会社へ我等今年分寄附金五百円を送つた。斯くて(219)今年も亦此美はしき事業に参加する事が出来て感謝である。聞く我等の寄附金の使用せらるゝ山西省平陽府ウイルソン紀念病院は今や支那医師の監督の下に経営せらると。本誌読者諸君の賛成を得て末永く隣邦同胞の為に此寄附を続けたくある。序に記す、今年末までには阿弗利加リムバネーに於けるドクトル・シユワイツエル氏の医療事業に金千円丈け送りたくある。既に四百円余集りあれば、其余を幾分なりと補はれん事を諸兄姉に望む。与ふるは受くるよりも福ひである。神の有を神に献げて聖霊の恩賜に与る、斯んな幸福なる事はない。
 
 八月十二日(金)晴 引続き家の掃除を為した。夏期の善き仕事である。旧い日本人は凡て夏の仕事を持つた。家の整理がそれである。日本婦人は夏は洗濯して冬に対する準備を為した。
   彼女は家人のために雪を恐れず
   そはその家人みな蕃紅《くれない》の衣を着ればなり
と箴言三十一章に在るは東洋婦人の夏の勤勉を謳つた言として解すべきである。そして婦人に限らず男子も亦然りである。夏は仕事を変へれば可い、必しも家を離れて外に遊ぶに及ばない。病気療養の場合を除くの外は、夏期労働は必要でもあり亦健康でもある。
 
 八月十三日(土)晴 一先づ用事を終りたれば復たび海浜に来た。孫女と砂山を築いて遊んだ。夜家族の者に教へて曰うた。
  我等クリスチヤンに来世の希望なくば我等は此世の人等と多く異なる所はない。此世に不完全多きは知れ切つた事であつて之を見たればとて少しも驚くに足りない。此世の不平不満足を来世の希望を以つて補充するのがクリスチヤンである。我等は日に日に天国の栄光を望んで不満の内に感謝に溢るゝ生涯を送るべきであ(220)る。信者の唇に常に讃美歌が絶えてはならない。人が我等を侮辱した位ゐでいら立つやうでは信者たるの甲斐はない云々。
斯く語り合ふて我等は笑顔を以つて寝に就いた。
 
 八月十四日(日)晴 朝は自分で小供の日曜学校を開いた、之に少数の大人が出席して小供と共に聖日を守つた。安息の一日であつた。
 
 八月十五日(月)晴 夏は半ばを過ぎた、然しまだあと一ケ月ある。暑さの長いのは東京附近の大欠点である。秋が待たるゝ。秋に入つて何を講ぜん乎と、日々其事を思ふて楽しくある。エペソ書か、コリント後書か、ソロモンの雅歌か、イザヤ書か、ヱレミヤ哀歌か、何れも興味津々として尽きない。聖書を講ずる丈けで俗味が之に伴はざればさぞ楽しい事であらう。福音の美はしさよ、之に反して俗事の厭らしさよ。福音の俗化したる者が教会である。最も善き者が俗人の混入に依て最も悪しき者に化するのである。教会に化するの虞れあるが故に福音の宣伝を止める事は出来ない。教会化せざる福音、それが最大の欲求物である。然し之を獲る事は非常に難くある。
 
 八月十六日(火)晴 半睡半醒の内に一日を送つた。但し朝の聖書を読む時丈けは別である。三四日来詩篇第五巻第百七篇以下を読みつゝある。詩篇中最善部分であると思ふ。百十篇、百十三篇、百十五篇、百十八篇、百十九篇、百二十一篇、百二十七篇、百三十三篇、百三十七篇、百三十九篇、孰れも宝玉の文字である。基督信者の心理状態其儘である。是れ以上の讃美歌あるなし、祈祷文あるなしである。旧約聖書は基督信者に要なしと云(221)ふ人達はまだ詩篇の花蜜《ネクター》を味うたことの無い人達である。
 
 八月十七日(水)晴 引続き暑い日であつた。両雑誌の編輯校正を為した。孫女の世話もすれば支那四億万人の自由も弁護する。二者共に同一の精神に出るのである。「此の小さき者一人を躓《つまづか》するよりは磨石《ひきうす》を頸に懸けられて海に投入れられんこと、其人の為に宜かるべし」と主は曰ひ給うた。世が見て以て小間題となす者が大問題である。欧米人が支那を愚弄するを見て我が血は沸へ返るのである。恰かも我が孫児が践附けられしやうに。
 
 八月十八日(木)晴 幸福の道は所有を増すに非ずして欲を減ずるに在る事を熟々感じた。斯くして幸福は自分で増減し得ることを知つて感謝する。何も欲しくなくなつて我は幸福の絶頂に達するのである。然れども無欲の状態たる、是れ自から求めて得らるゝものでない。聖霊を受けて欲を駆追して戴いて達し得らるゝ状態である、故に祈祷に由て躰得し得らるゝ状態である。神は或時は幸福を増し給ふ、或る他の時は我欲を減じ給ふ。そして|減欲の幸福は増福以上に幸福である〔付△圏点〕。
 
 八月十九日人金)晴 朝詩篇第七十三篇を読んだ。何んと云ふ美くしい詩であるよ。まことに信者の生涯其儘を歌うた詩である。悪人の生涯を画いて
   彼等は死ぬるに苦しみなし
   其の躰力は反りて強し
と云ふ所は、バンヤンが其著『悪人伝』に於て悪人の死を画くに方て頼りし聖句であらう。
   視よ彼等は悪人なり
(222)   常に安らかにして其富増し加はれり
とあるも事実である。信者の懐疑は斯かる事柄を見せしめられて起る。然れども懐疑は「我れ神の聖所に行きて彼等の結局《いやはて》を深く思へるまで」であつた(十七節)。神の聖所に入りて人生を思ひし時に思想は一変したと云ふ。懐疑に始まりし歌は確信を以て終る。
   我は主ヱホバを避所とし
   其|もろもろ〔付ごま圏点〕の事跡《みわざ》を宣伝へん
と言ひ終る。我が日々の実験も亦然りである。
 
 八月二十日(土)晴 朝柏木に帰つた。人を離れて神と偕に漸くさつと造り上げし美はしき人生観は人と接するや忽ち|たゝき〔付ごま圏点〕壊されて了ふ。世人は殆んど其すべてが悲観主義者である。其医者も政治家も宗教家も皆んな悲観主義者である。「危ぶない、駄目だ、是れでは可ない」と彼等は口を揃へて言ふ。然れども彼等何人も善くする道を知らない。彼等は唯危険堕落を叫ぶのみである。其点に至ると神の人は異ふ。神の人は危険を知ると同時に之を避くるの道を知る。彼は根本的楽観主義者である。彼は世に多くの悪事の在るを知るが、同時に善事の悪事を超越しつゝあるを知る。此世の智慧の常に消極的なるに代へて神の智慧は常に積極的である。斯くて神の人は世の人の内に在りて限りなき不快を感ずるのである。
 
 八月二十一日(日)晴 三週間振りにて柏木の我集会に臨んだ。来会者百名以上あつた。畔上の後を受けて一場の感想を述べた。学んで而して時に之を習ふは喜悦でもあり亦休養でもある。今年の休暇中に聖書並に哲学を復習して大に休み亦大に得る所があつた。そして大宗教大哲学の教ゆる所は其根本に於て一致してゐる、即ち|万(223)事万物悉く可なり〔付○圏点〕と云ふ事である。造化の終極は善、人生の結末は福、是れ信仰哲学の等しく唱ふる所である。詩篇百五十篇、即ち其最後の一篇が此事を唱ふ。
   ヱホバをほめたゝへよ
   その聖所にて神をほめたゝへよ
   その能力《ちから》の現はるゝ穹蒼《おほぞら》にて神を讃称《ほめたゝ》へよ
   気息《いき》ある者は皆ヤハをほめたゝへよ
   汝等ヱホバをほめたゝへよ。
然るに世は如何、人は如何、彼等の心に映ずる万物の終極は不明にあらざれば絶望である。彼等の話柄は病気である、不景気である。心配なる悲しい事ばかりである。神と人、偉人と小人とは斯くも異うかと思はれる。信者不信者の別は茲にある、|喜観するか悲観するか〔付△圏点〕。悲観する者は聖書に精通し、多く信仰を口にするも事実上の不信者である云々。以上の如く述べて自分を慰め又会員を励ました。
 
 八月二十二日(月)晴 人には、殊に基督信者には、死ぬ時まで敵は絶えない。彼は生きてゐる間は或る敵を持たねばならぬとは悲しい事である。然し普遍的事実であるから止むを得ない。敵は人生の必要物である、是なくして進歩もなければ完成もない。|殊に祈祷の如き、其の最も切実なるは敵に悩まされて発するものである〔付△圏点〕。詩篇がよく其事を示す。「我が敵の前に饗筵《むしろ》を設け」と云ふ(第二十三篇)。そして人は神に近づけば近づく程多く強い敵を持たせらるゝのである。愛を懐きながら敵を持たせらるゝとは不思議であるが、然し明白なる人生の事実として之を受取らねばならぬ。そして此の不可解の事実の説明は神の愛に於て在るのである 〇夜、海辺の借家に帰つた。
 
(224) 八月二十三日(火)晴 南洋より吹き来る熱風の故に蒸暑くして眠られず困難した。然し高原の避暑地に在りて好ましからざる訪問客に悩まさるゝよりは|より〔付ごま圏点〕少き困難である。近頃スピノーザの伝を読み、ユダヤ人は国を失ひてより聖書が彼等の国と成つたとの記事を読んで大に感じた。誠に聖書は美国(うましぐに)である。ユダヤ人のみならず、凡て土地なき、産なき、地位なき者は聖書を其国と成す事が出来る、そして聖書は産物豊富なる国である。其住民となりて我等に何の不足する所はない。之に政治家の作つた法律、制度等なきが故に完全なる自由がある。自分の如き、過去半百年其住民であつて、其限りなき恩恵に接した者である。此世の財産名誉はなきも、|聖書国の住民〔付○圏点〕たるを得て、誠に幸福なる生涯を送つた。故に此世の新聞紙雑誌著書等の要はない、聖書丈けで沢山である。
 
 八月二十四日(水)晴 早朝東京より久布白落実《くぶしろおちみ》、田中芳子両女史の訪問を受けた。淀橋町々会議員の総選挙に城民雄氏を推薦せられたしとの事であつた。勿論承諾した。如何に聖書隠者であればとて、町政の紊乱を余所に見て居るわけには行かぬ。
 
 八月二十五日(木)晴 夏は茲に終らんとして居る。今年の夏は老妻と共に孫女の守りをして暮らしたやうなものである。一生に一度の経験であつて実に楽い経験であつた。孫女は遠からずして其父母と共に札幌に行くのであれば其前に|祖父祖母正子《ヂーヂーバーバーマーマー》の三人生活を営むはまことに幸であつた。彼女の霊魂に遺伝以外の多くの美点あるを見る。教育其宜しきを得ば彼女も亦我神の恩恵の器《うつは》として多くの人を幸福に為すであらう。
 
(225) 八月二十六日(金)半晴 相州葉山に於て在る。昨夜少しく雨あり、草木蘇生す。涼風到り、帰り支度にて多忙である。ジヨージ・アダム・スミス著『イザヤ書の解説』第二巻の復読を始め感興極まりなし。実に聖書解釈上の大著述である。二十年前に初めて之を読みし時よりは二十倍の興味を以つて読む。二千五百年前の旧記が躍如として我が目に触るゝを覚ゆ。斯んな大著述が我が書斎に潜み居りし乎と思へば感謝に堪へない。イザヤ書四十章以下の解説である。イエスの御生涯の預言的背景の研究である。此んな面白い研究の復たと他に在るべき耶である。
 
 八月二十七日(土)晴 暑気引続き強し。朝食前に山桝船長と共に葉山別荘地を検分した。到底我等の割込むことの出来る地でない事が判明つた。「土地は汝等に属す」である。此世限りの彼等が此世を多く楽しみ得るは当然である。其反対に来世を賜はるべき者が今世を与へられざるは、是れ亦当然である。大別荘を与へらるゝよりも神の人イザヤの預言を少しなりと解し得る方が遥かに幸福であると船長に語つた。但し来世をも獲得し得ずして、財界恐慌の為に全財産を失ひし前大富豪某の大別荘が、シヨンボリと、淋しげに、人類に或る大教訓を与ふるが如くに立つてゐるを見るは皮肉であつた 〇孫女、母と祖母とに連れられて柏木に帰つた。老人一人海浜の借家に残されて、復び元の哲学者に成つた。
   我が家の天の使は舞ひ去りて
     祖父々々《ヂーヂー》御飯《マムマ》と呼ぶ声はなし
小児の居ない人生は詰らないものである。
 
(226) 八月二十八日(日)晴 朝簡短なる讃美祈祷会を開いた。聖書を読む事と之を説明する事の外に何の面白い事はない。政治、社会、文化事業、凡て何んと詰らない事でない乎。此んな事の為に短かい一生を送る人達の心が判明らない。殊に一たび福音を味ひし人達にして、復た前の社会事業に帰りし人達の心は更らに判明らない。新聞紙の記す事などは凡て如何でも可い事である。真の人間に聖書の外に読物なしと云ひて少しも過言でない。勿論此事は教会信者たる事でない。
 
 八月二十九日(月)晴 英文推誌編纂に終日かゝつた。近頃にない多忙の日であつた。然し多忙に由て人生の不快を忘れる。人生実は多忙なる程幸福の事はない。
 
 八月三十日(火)雨 久振りの強雨であつた。家に在りて雑誌校正に従事した。避暑客概ね去り、町は閑静になつた。午後晴れ、相模湾を隔てゝ富士山麓に夕陽の舂くを眺むるは美しかつた。自分も寂寥に堪えなくなり、明日此地を引上ぐる事に決した。
 
 八月三十一日(水)曇 葉山借家引払ひで多忙であつた。海浜滞在は自分には余り休養にならなかつた、然し小児や女共に多少の休みを与ふるを得て満足であつた。葉山の天然よりも其人気の方が自分には気に入つた。鎌倉と較べて見て雲泥の差である。三浦大介朝比奈三郎の感化が残つてゐるやうに思はれた。夏毎に都会人士の襲撃を被るに関はらず此気風を存するは不思議である。夜、海浜を引払ひ柏木に帰つた。
 
(227) 九月一日(木)晴 大震災四週年である、感慨に堪えなかつた。久振りにて塚本畔上と共に雑誌校正に従事した。訪問者多し。其内に清水さえ子、夫繁三郎を失ひ、小児二人を携へてメキシコより帰りて訪れるあり、同情に堪へなかつた。其他家に帰りて多くの悲しき事を聞かせらる。唯一つ滋賀県の或る旧き読者より来れる左の書簡は始めより終りまで喜びの音信《おとづれ》であつた。
  拝啓。時下尚残暑厳しきの砌貴下愈々御勇健に渡らせられ大慶至極に有之候。降両小生無事消光在罷候間乍憚御休心下され度候。
  就ては小生多年『聖書之研究』を拝読し、貴下の聖書常識の広大に驚き申し居り候へ共、その教会攻撃の一事に至つては、こは老師が教界に於ける地位獲得の為めにする或る政治的、野心的手段ならざるかと、永年尊敬のうちにも聊か軽侮気味に邪推致し居り候処、最近教会の内情を知るに及び余りの意外なるに驚き、いつそ仏教に帰らんかと思ひつめたる結果、なるほどと合点行き申し、心からなる貴下尊敬の念の愈々高まりつゝあるの感有之候。就ては永年貴下の門に教へを蒙りしに拘らず、今日迄の我が身の為せる不霊鈍根を懺悔、謝罪の意を表する為茲に貴下に迄御通告申上候。
  キリスト教は早くから我国に伝播され申し候も、恐らくは貴下出で給はずば其福音らしきキリストの福音は伝はざりしと存じ申し、貴下と同時代に生き、貴下より直接教を受くると云ふは何たる神の有難いお引合せかと、さめ/”\と感涙を催し申し候。
  就てはこれを機縁に親鸞同行の信仰の真髄が結局その簡潔なる南無阿弥陀仏の六つの字に帰するが如く、キリストの信仰をせんじつめた中心的信仰に就て引続き御教示賜り度、今後とも宜敷く懇願いたし候。敬具
    八月廿九日              〇〇〇〇
      内村鑑三殿
(228)誠に有難い音信である。多分自分に対し、此書簡の発信者と同一の態度を取る者が他にもあるであらう。自分の福音は受くるも無教会主義は之を斥くる者の尠からずある事を自分は克く知つて居る。然し福音と無教会主義とは関係の無いものではない。否な、深く其源を究むれば二者は同一の精神に出るものである。何にも既成教会に対し反旗を翻《ひるがへ》すのではない、真理其儘を主張するのである。無教会が解らずして福音は解らずと言ひ得る。
 
 九月二日(金)晴 涼しい好き日であつた。家族一同と共に鍛冶橋外森川に於て写真を撮つた。当分相別れるからである。
 
 九月三日(土)晴 玄関に左の如き張紙を出した。
  新聞雑誌記者諸君には御面会致しません。
  政治、社会、宗教等の運動へ御誘導の儀は御遠慮下さい。
 自衛の為に必要である。此世の人達は己が事業の促進の為には他人の事業の妨害を構はない。
 
 九月四日(日)曇 朝は満堂溢るゝの集会であつた。内村医学士は欧洲滞在中の宗教的実見、並に阿弗利加に於けるアルベルト・シユワイツエルの伝道事業に就て話した。此日人の出入多く、甚だ騒しき聖日であつた。日本人は我が同志に至るまで未だ安息日を守るの途を知らない。彼等は此日を交際の日としてゐる、神に献げたる神聖の日と為ない。実に困つたものである。此日又或る事よりして日本を我が愛人として愛するの幸福に気附いた。此は青年時代に於て我心を燃した愛であるが、老年に至つて之を復活するの必要を感ずる。日本とは日本政府でもなければ日本人全体でもない。日本と云ふ或る mysterious personality である。之を愛し之の仕へて我は(229)無上の幸福を感ずるのである。
 
 九月五日(月)曇 世には自分の有する少し計りの此世の勢力を用いて失望する者がある。近頃も当淀橋町々会議員選挙に際し、自分をして其候補者を推薦せしめて失敗した人達があつた。彼等は自分の勢力を誤算したのである。自分に多少の勢力は無いではないが、此世の人望を買ふやうな勢力はない。自分の名を用いて金を儲けんと欲する者、又は勢力を得んと欲する者は失敗するに定《きま》つてゐる。其人達に対して甚だ気の毒であるが、彼等の誤解誤算より出たる失敗であるから止むを得ない。彼等自身に信仰がなきが故に、彼等は信仰の勢力の何たる乎を知らない。そして斯かる人達が教会者の内に尠くないから驚く。
 
 九月六日(火)雨 内村医学士其家族を率ゐて札幌に向け出発した。家は朝より大混雑であつた。小なる正子と別れるのが非常に厭であつた。暫時の別れとは知りながら、彼女なくして如何して柏木の家が成立する乎と思ふ程辛らかつた。老夫婦は勿論のこと、女中家僕に至るまで此小なる霊魂の愛に牽かれた。女中の一人は札幌まで附添うた。夜十時半の上野出発に多くの友人が見送つて呉れた。我が故郷へ行くのであり、又多くの友人が彼地で迎へて呉れるのであれば、心配の必要なきは判り切つてゐる。「正子の北海道行を送る」と題して左の一首が迸つた。
   あれるなよ竜飛、白神、中の潮《しほ》
     我がいとし孫海渡るなり。
 
 九月七日(水)雨 鬱陶敷い日であつた。孫女去つて後は何事も手に附かず、只老夫婦共に地図を披き、汽車(230)の時間表と照し合はして彼女の跡を追うた。弱い人間である、然し天性であるから止むを得ない、之を押隠すに及ばない。久しからずして此弱きは取去らるゝであらう、そして復た見る日を楽しみに平常の仕事に就くであらう。美はしの愛情である、是れあつてこそ生くるの甲斐があるのである。
 
 九月八日(木)雨 益富政助君に伴はれ、畔上と共に明治神宮外苑日本青年館の大講堂を検分した。之を日曜日毎に借受けて我が聖書研究会を再び市内に於て開かんが為である。理事者の親切なる待遇を受けて我等の心は大に動かされた。時勢は一変した。基督教青年会に計るの必要はない。日本青年の公共機関たる此純社交的団躰が我等を歓迎して呉れるのである。斯かる事を考へて孫女去つて後の我が堪へ難き淋しみを慰めた。寂寥を癒すの唯一の途は公共的事業に携はるにある。
 
 九月九日(金)雨 秋雨蕭々として淋し。我がいとし孫は如何して居るならんと其事のみ気遣はれる。過去二年間育児学に没頭して、今更ながらに自分等の此事に熱心なりしに驚く。|若し全世界の小児を如此くに愛する事が出来たならばさぞ幸福であるであらう〔付△圏点〕 〇今日、日本青年館(基督教青年会館に非ず)と左の如き契約を結んだ。旧き研究会員の一人なる益富政助君が両者の間に立ちて、之を成立さして呉れたのである。
 一、日本青年館は内村聖書研究会に対し毎日曜午前十時より十二時まで其大講堂を使用する特権を与ふる事
 二、右使用料金を一回金〇〇円とし、内村は其拾回分宛を前納する事。
其他細則七ケ条に及ぶ。何れも我に取り有利的条件であつて、日本青年館が研究会に対し、如何に好意的態度を取つて呉れた乎が判る。斯くて再び神の言葉が帝都の中心に於て説かるゝの途が開けたのである。
 
(231) 九月十日(土)晴 久振りの晴天である。午前四時第二皇女御誕生遊ばさる。益富君並に家の主婦と共に日本青年館に行き、大講堂借受の手続きを済ました。新天地が我等の前に開かれしやうに感じた。友人孰れも我が前途を祝して呉れた。夜は十五夜の満月であつた。家庭祈祷会を終へて後に残れる少数の家族と共に月見の宴(実は団子と喫茶の会)を開いた。まことにお芽出度い日であつた。斯くて孫女去りし後の寂寥を慰めた。
 
 九月十l日(日)晴 満員以上の集会であつた。詩篇第百三篇を畔上に読んで貰ひ、夏期の仕事並に読書に就て話した。孫女の守りをして、神が自分に具へ給ひし愛の深きに自分ながらに驚いた。若し此愛を凡ての小児に注ぎ得るならば自分は大慈善家に成り得るのである。唯自分勝手なる、自分の孫には注ぎ得ても他人の孫には注ぎ得ないのである。然れども神が聖霊を注ぎ給ふ場合には、自分の孫を愛するが如くに凡ての小児を愛し得るに至る。別に新らしき愛を神より仰ぐに及ばない、神が自分に既に具へ附け給ひし愛にて充分である。神の愛に励まされて此愛をさへ放出し得れば足りるのであると語つた。其他聖書が唯一の書なる理由を述べた。
 
 九月十二日(月)晴 厳しい暑さである。書斎の温度九十二度、頭脳《あたま》の仕事は何も出来なかつた。但しG・A・スミス著『イザヤ書講解』第二巻第十八章を読んで非常に感じた。伝道に従事する者は何人も再読三読すべき章である。米英の宣教師の大多数は此章の伝ふる大教訓を全然無視してゐる、夫れ故に伝道の効果が挙らないのである。如何に見てもスミスは近代の英国(蘇蘭土)が産んだ大数師の一人である。
 
 九月十三日(火)曇 昨夜豪雨があつた。盲人信仰会の事業報告を聞いて喜んだ。会員は信仰に燃えてゐる。聖霊の降る所に盲人は遥かに眼開き以上である。幸も不幸もあつたものでない。歓喜に溢るゝ盲人の兄弟に会う(232)て羨ましく思ひ、自分も亦新たに眼を開かれしやうに感じた。之を思ふて、無牧で歎いてゐる教会の如き実に気の毒の至りである。何故直に神の御許に行いて我が盲人の兄弟のやうに希望と歓喜とに満されないのか。
 
 九月十四日(水) 大雨であつた。英文雑誌の編輯を始めた。イザヤ書五十三章の復習に我が神魂を奪はれた。キリスト伝を裏書きするもので之れ以上のものはない。ナザレのイエスは誠に預言者に由て約束せられしイスラエルのメシヤにして人類の救主である 〇横井時雄君の永眠を知つて悲んだ。同君は我が壮年時代の無二の友であつた。共にキリストの福音を以て日本国を救はんと誓うた。然るに信仰の根本に於て異なる所があり終に別れざるを得ざるに至つて非常に悲しかつた。君が伝道を去つて政治に入りしが抑々君の不幸の始めでありしと思ふ。其才能に於て、人格に於て到底自分などの及ぶ所でなかつた此人が、代議士となりて国を救はんとせられし時に、我が失望は譬ふるにものなしであつた。今日君の大分県別府に於ける永眠の報に接し、感慨無量、現はすに言葉なしである。但し君の霊魂はたしかにキリストの許に行いたと信ずる。彼所に再会して往事を語るであらう。
 
 九月十五日(木)半晴 雑誌編輯が一日の仕事であつた。読書も亦大分に為した。其他に種々《いろ/\》と他人の仕事に携《たづさ》はしめらる。学校の建設、教会の整理、講師の派遣、就職の相談、遺稿の編纂、‥‥‥断つても断はり切れない。哲学者にばかりに成つて居られぬ。真理は偉大である、俗事は微小である。何故もつと凡ての人が真理の探究に熱注しないのである乎。
 
 九月十六日(金)曇 暑気未だ去らず。塚本と共に日本青年館を訪れ種々の打合せを為した。見れば見る程講堂の完備せるに驚く。其使用を許されしは大なる特権と云はざるを得ない。之に由て福音は一層高く日本全国に(233)響き渡るであらう。
 九月十七日(土)曇 北海道行きを前に雑誌編輯にて多忙である。之を了へずして何事をも為すことが出来ない 〇教会の人達が相互を誡むるに「無教会主義者に乗ぜられるな」との言を以てすると聞いて奇體《きたい》に思うた。自分は人の知る如く無教会の一人であるが、他人の不幸や失敗に乗じて事を為さうとはしない積りである。基督信者であるから計りでない、日本人としてそんな賎しい事は為し得ない。乗ずるとか乗ぜられるとか、そんな言葉が用いられる間は教会の決して栄えない事を保証する。神の守り給ふ教会は如何なる人も其困難に乗ずる事は出来ない。又武田信玄に塩を送りし上杉謙信を同国人として持つ我等日本の無教会信者は、教会の不幸失敗に乗ずるが如き事は心に恥ぢて為す事が出ない。我等は不振の教会を援けんとはすれ、其弱きに乗じて我が増大を計らんとするが如きは絶対に為さない、又為し得ない。
 
 九月十八日(日)雨 新秋最初の常規の集会であつた。雨天にも関はらず重なる会員は大抵出席し、朝は九分通り、午後は殆んど満員の集会であつた。朝は讃美歌三十五番を以て始め、牛後は二百七十三番を以て終つた。自分は朝はイザヤ書四十六章一-四節に由り「偶像と真神」と題して語つた。午後は馬太伝十章三二、三三節に由り「信仰維持の方法」と題し、人の前に我が信仰を言表はすの必要なる事を述べた。夏を我が小家族と共に暮らして、秋に入りて我が大家族に会するを得て歓喜の至りである。殊に何百人と云ふ青年男女に接するは愉快此上なしであつた。聖書講演は我が生命であつて、許多の若き男と女とは我が弟妹であり、子女である。彼等に聖書を教へて、我も亦教へられ、また楽しく生くるのである。
 
(234) 九月十九日(月)曇 朝米迦書を通読した。小以賽亜書と称すべき書にして、力ある慰め多き預言書である。四章一-四節、六章六-八節、七草五-八節、同十八-二十節、孰れも偉大なる美はしき言である。四十年前にアマストの寄宿舎で独り読んだ是等の預言書が老後の今日になりて非常に役に立つ。斯んな書は他にはない。有難いとも何んとも云ひやうがない 〇徳富蘆花氏の逝去を聞いて悲んだ。自分と同時代の日本人の中で彼は最大の文学者であつた。氏と自分とは宗教上の信仰は異つたが、其他の事に於て一致の点が多かつた。非戦主義に於て、対米意見に於て、氏と自分とは同一の歩調を取つた。彼の名は明治大正の文豪として世界文学史に伝はるであらう。
 
 九月二十日(火)曇 九年振りにて札幌に向つて出発する。我が故郷に帰るやうな心持がする。明治十年九月、汽船玄武丸にて品川沖を出発してより満五十年である。午後一時上野を出た。秋は北に進むに循ひ益々濃く、田は到る所に色づき、気持好き汽車旅行であつた。
 
 九月二十一日(水)晴 夜は青森県に入つて明けた。陸奥湾に昇る日出を見た。津軽海峡の渡海は静かにして克く休んだ。函館より札幌まで九時間の汽車旅行は随分辛らかつた。火山湾沿岸は旧き北海道の跡を留めて嬉しかつた。小樽に着けば彼地の教友並に札幌より浅見仙作君並に内村医学士の出迎を受けた。夜十時少し前札幌駅に着けば、佐藤大学総長、宮部教授を始めとして旧友教友三十余名の出迎を受けた。直に大学の自働単に乗せられて若内村の新家庭に入つた、やはり日本国中、自分を斯くの如きに歓迎して呉れる所は札幌を除いて他には有るまい。
 
(235) 九月二十二日(木)晴 秋晴の好天気である。充分に北海の秋を楽んだ。終日家に在りて旅行の疲れを休めた。交々新聞記者の訪問を受けた。此所では彼等に会はぬわけにはゆかぬ。境遇の変はりし故か、孫女は思はざる所に祖父の見舞を受て真の祖父とは認めぬらしくある。夜、旧い豊平館に於て、佐藤大学絵長、宮部、南の両名誉数授、高岡札幌市長の晩餐歓迎を受けた。斯くて夢のやうに札幌に於ける第一日を過した。柏木に於けるとは全く異つた生涯である。
 
 九月二十三日(金)晴 朝自働車を駆り、内村医学士の家族を乗せ、札幌神社、豊平橋、旧農学校跡、創成川の畔にて四十九年前に自分がバプテスマを受けし跡などを訪ひ、彼等に自分に関する札幌の名所旧跡を示した。殊に万感湧き来りしは南二条西六丁目の所謂「白官邸」の跡であつて、是れ自分達当時の青年が初めて設けし基督教の説教所である。半西洋風の二軒長屋であつて、其半分を借りて茲に初めて札幌独立基督教会を起したのである。自分が初めて聖書を講じたのも此所であつて、自分の生涯の仕事の発祥地とも称すべき所である。其長屋は依然として存し、自分等が借受けし半分は今は建具屋となりて存するを見た。午後四時より札幌独立教会の役員会に出席し、牧師選定に関する相談に与つた。無教会主義者の自分が其事に関し善き意見を懐きやう筈なく、然し自分の関係深き此教会に対し深き同情を寄するは勿論のことなれば、主義と情との間に挟まれて尠からず困難した。会議は万事を神の指導に仰ぐ熱心なる祈祷会に化した。そして多数の兄弟姉妹は熱誠を罩めて祈つた。近頃見た事のない真剣なる祈祷会であつた。
 
 九月二十四日(土)晴 札幌独立教会講堂に於て北海道『聖書之研究』読者会を開いた。来会者百名以上、遠きは北見、函館より態々来る者もあつた。来会者の感想述懐は相次いで尽きず、午後二時に始めて五時に至り惜し(236)き会合を閉ぢた。教会行詰りの談は到る所に聞くが聖書研究者の団体のみは希望春の海を行くが如しである。
 
 九月二十五日(日)晴 朝と夜と二回、札幌独立教会に於て説教した。朝は四百人余、夜は五百人種の聴衆があつた。朝は「福音の奥義」と題し、加拉太書二章二十、二十一節に依りて話した。説教は余り振はなかつた。夜は満堂に溢れたる聴衆に対し「日本と基督教」と題して我が熱誠を披瀝した。信仰に愛国心が混ぜしが故に説教は愛国的能弁と化した。自分で自分を抑へ切れなかつた。自分に取り札幌ならでは為す能はざる演説であつた。
 
 九月二十六日(月)快晴 札幌に於て在る。昨日の二回の壇上の労働にて今日は大分に疲れた。訪問者は絶えなかつた。夜ユーゴー亭に於て「内村鑑三謝恩奨学資金」の受領者六人の歓迎晩餐の饗応を受けた。受領者総て八人、内一人は死亡し、一人は満洲に在りて、札幌に在る者は六人であつた。孰れも農学部出身又は在学の優等生であつて、自分の提供せる少額の奨学金を受けて呉れた事は自分に取り此上なき名誉であつた。一同先づ撮影し、次いで夕食を共にして卓上談話に快楽を貪つた。茲に「札幌内村会」を設くる事に議決した。そして将来会員結合して相共に活動せん事を約した。自分に取り生れて初めての経験であつた。斯んな嬉しい事はない。此事を為すため丈けに札幌に来る充分の甲斐があつた。
 
 九月二十七日(火)晴 孫女漸くにして再びなづき愉快であつた。急激の変化に由り、ヂーヂーを新らしき場所に認め得なかつたのであるらしい。小児心理に大人に解し難いものが多い。午後二時三十分より北海道帝国大学大講堂に於て、佐藤総長司会の下に、特別に自分の為に開かれし演説会に出席した。此日午後特に此演説会の(237)為に全校の休課が宣告せられ、職員生徒挙つて大講堂に集つて呉れた。聴衆は堂に溢れ、千五六百人あつたらうと思はれた。拍手暫らく止まず、少しく面喰らつた態であつた。題は Boys be ambitious《ボイズビーアムビシアス》であつた。故 W・S・クラーク氏の有名なる告別の言葉である。之に註解を加へて自分の意見を述べた。一時間半以上の演説に大聴衆は鳴を静めて聞いて呉れた。終つて壇上に於て全大学を代表する佐藤総長と自分の間に堅き握手の礼が行はれ、全衆大拍手を以て之を祝して呉れた。自分が旧い母校より受けた最大名誉である 〇夜九時五十分発の汽車にて帰途に就いた。友人多数の見送りを受けた。相変らず孫女と別るゝのが最も辛らかつた。
 
 九月二十八日(水)晴 朝七時函館に着いた。津軽海峡の渡航は稀れなる平穏であつた。船中知人多く、さすがに北海道旅行なることに気附いた。午後一時四十分青森発急行列車にて東京に向うた。車中小島、後藤、須田諸君の日本聖公会の教職並に名士あり、快談に時の過ぐるを忘れた。
 
 九月二十九日(木)雨 朝八時上野に着いた。主婦並に畔上の迎ふる所となつた。九日間連続の旅行と労働とにて身体は綿の如くに疲れた。終に床に就て休んだ。然し有意義の伝道旅行であつた。我が生涯が新たに始つたやうに思はれた。家族一同活気附いた。
 
 九月三十日(金)晴 不在中に悲しき出来事が起つた。二十一日に鸚鵡のローラが死んだ。メキシコより我家に来りてより茲に十七年、家族の一人として我等と偕に生存した。毎朝オハヨーを以つて家人を迎へた。克く己れを愛する者を知つた。夏毎に彼を家に遺すは大なる心がゝりであつた。今年の夏の暑気に負けたりと見え、大なる疲労を見受けた。色々と手を尽したが終に起たず、飼主の声を認めつゝ、主婦の懐に抱かれながら終に絶息(238)したとの事である。北海道より家に帰りて此事を聞いて熱い涙を禁じ得なかつた。禽《とり》とは言へ十七年間の友人である。我等の苦痛を慰めし事幾回なりし乎を知らず。ルツ子の逝きし年に我家に来り今日に至りて逝く。何やら彼に不滅の生命の在りしやうに感ずる。彼の皮を剥製にして永く保存する積りである。愛惜何ぞ堪えん。噫。
 
 十月二日(土)晴 校正並に講演準備で多忙であつた。北海道行きが祟つて、其補償が容易でない。
 
 十月二日(日)曇 東京青山明治神宮外苑内日本青年館に放ける第一回の聖書研究会を開いた。来会する者五百人余り、千五百人を容るゝ大講堂の真ん中に密接に座に即き、柏木に於けると同様の静粛にして充実せる会合を催うした。開会に当り常務理事田沢義鋪君の歓迎の辞があつた。此会館は外人は勿論のこと、富豪にも頼ることなく、全然日本青年の献身努力に由て成つた者である、之に内村聖書研究会の如き会合を迎ふるは此館建設の目的に適ひ、会員一同の満足する所であるとのことであつた。畔上先づ講じ、続いて自分はイザヤ書研究の第一回として「イザヤの紹介」と題して語つた。北海道旅行の後を受け、疲労未だ癒えずして、満足の講演を為す能はざりしも、瑞祥の下に此会合を始むるを得て大感謝であつた。
 
 十月三日(月)晴 長旅を加へたる大集会の連続にてガツカリ疲れた。復たび聖書の研究に還つて疲れたる霊と肉とを休めた。聖書の研究である、大運動でない、只講堂の広きを求めた丈けである。会員中此機会に乗じて大に教勢を張らんと欲する者あるを見て憂慮に堪へない。如此きは教会的精神であつて、此精神ありて福音の衰退は必然来る。大なる警誡を要する次第である。
 
(239) 十月四日(火)半晴 疲労少しく癒えた。両雑誌の校正に従事した。地方伝道より蒙る損害は多大である。之を補ふに随分の努力を要する 〇瑞典国物理学者ス※[ワに濁点]ンテー・アーレニウス氏逝去の報を新聞紙に読んで悲んだ。氏は六十八歳であつて自分より二年の長老である。氏の大胆なる宇宙創造説は曾て自分の血を湧かしたものである。ヘルムホルツ、※[ワに濁点]イズマン等と共に学界の偉人である。リニーウスを生んだ瑞典は時々斯かる学界の偉人を産す。偉大なる国である。
 
 十月五日(水)小雨 疲労未だ癒えざるに全日を両雑誌校正の為に費した。引続き|校正〔付△圏点〕恐るべしである。然し兎にも角にも雑誌が出来るから不思議である。
 
 十月六日(木)半晴 忙がしい一日であつた。朝先づ第一に旧約ホゼア書の終りの三章を読んだ。次ぎに『研究誌』の校正を為した。次ぎに又英文雑誌の校正を為した。斯くて漸くにして今月分の両雑誌が自分の手を離れた。編輯と校正との間に北海道が挟まつて苦しかつた。然し兎にも角にも雑誌が出来て感謝である。勿論塚本と畔上とが助けて呉れたから出来たのである。其他種々と人の相談に与つた。疲れたる頭脳は是より彼へと使ひ廻される。宇宙人生の大問題を考へる時は少なくなる、然し此事を止めることは出来ない。大抵の人は自分を学者として見て呉れない。牧師か伝道師の類であつて、俗事に携はるべき者であると思ふらしくある。人生、実はどう成つても可いではない乎。霊魂が救はれて天国に行く事さへ出来れば他の事は如何でも可いではない乎。結婚、財産、事業、孰れも如何でも可いではない乎。然し基督信者と云ふ人でも、此地が第一であつて、天国などは末の末の、問題である。無理もない。是は米国人の基督教であつて、日本の基督信者は大抵は米国信者である。我が幸福は夜に入りて是等の人達を離れて、独り机に対し、ペンを執りて其日の「日々の生涯」を記《か》く時に来る。
 
(240) 十月七日(金)晴 久振りの休息日であつた。サイス教授著「イザヤ時代」を復読するの外、何事も為さなかつた。札幌独立教会並に北海全道の上に聖霊の降らんが為に有志の特別祈祷会を開いた。我が愛するかの地方の上に今や大なる恩恵の雨の降らんとしてあるを感じた。
 
 十月八日(土)雨 平安の一日であつた。少しく原稿が書けた。信仰が活動と思はるゝ時に我霊は混乱である。然し信仰は活動に非ずして静かなる信頼である。米国式の信者より見れば無為の生涯であるが、実に深い充実せる生命の持続である。我が贖主を措いて他に何物をも要せずと云ふ生涯である。信仰を殺す者は米国宣教師の伝へし「多忙の信仰」である。之を除かずして本当の信仰は起らない。
 
 十月九日(日)晴 昨夜大雨 今朝快晴、美はしの聖日であつた。外苑大講堂の集会に六百人程の出席者があつた。塚本は羅馬書十一章一-十節に依り、「七千人の遺れる者」に就いて講じた。自分はイザヤ書研究第二回として「イザヤと其時代」と題して話した。講演は悪しくはなかつたが、只会衆一同の未だ場慣れざるより調和が取りにくゝ、聖会としては不満足の点が多かつた。何れにしろ新らしき試みである。成功までには時日を要する。未だ俄かに失望すべきではない。
 
 十月十日(月)晴 田村直臣君を訪問し君の幼稚園を見せて貰つた。実に天下一品である。社会も国家も如此くにして救ふべきであると思はせられた。又例に由つて色々の事を聞かされた。只驚くの外はなかつた。自分達は一心不乱に唯旧い聖書を世に紹介せんとの決心を固うせられた ○札幌の嫁より「思ふ事なき北海の秋」と云(241)ふ句を送つて来た。之に附するに何か善き上の句は無いだらう乎とのことであつた。依て目下の石狩平野に於ける彼女の楽しき新家庭を思ひやり、左の如くに作り直して返してやつた
   空は澄み平野《ひらの》は遠し家安し
     思ふことなき|北海の秋〔付○圏点〕
之に更らに一首を加へて遣はした
   孫去りて家は淋しくなりにけり
     いざ奮起せん|東海の秋〔付○圏点〕
こんな事で札幌柏木間の通信が賑つて居る。
 
 十月十一日(火)曇 湿気多き嫌な日であつた。両雑誌を発送した。多事の一ケ月であつた。其間雑誌二つ作る事が出来て自分ながら不思議に思ふ。自分が作るのではない、主が自分に在りて造り給ふのである。
 
 十月十二日(水)半晴 引続き休養の一日であつた。北海道演説旅行の疲労が容易に除れない。自分に取り高価の旅行であつた 〇年末が近づき、結婚時期に成りたれば、自分も亦多少之に関係せしめらる。之に社交上信仰上の問題が絡まり甚だ五月蝿い事である。「それ洪水の前、ノア方舟に入る日までは人々飲み食ひ嫁《とつ》ぎ娶《めと》りなどして洪水来り悉く之を滅すまで知らざりき、如此く人の子も亦来らん」とあるが如く、結婚は世の終末まで人世の最大事として続くのであらう。然し「甦る時は娶らず嫁がず天に在る神の使者達の如し」とあれば、天国は結婚の無き所なるを知りて、その実に福祉《さいはひ》なる所なる事が知らるゝのである。まことに結婚問題程|現世らしき問題〔付△圏点〕はない。俗気紛々とは実に此問題を云ふのである。馬太伝廿二章三十節、同廿四章三八、三九節。
 
(242) 十月十三日(木)小雨 淋しい秋の日であつた。孫は北海道に其父母と共に在り、甥は学校の遠足にて在らず、姪は親類へ泊りに行いた。残るは老夫婦二人、多く語る事もなし。唯信仰の兄弟姉妹の訪れるありて神の御事業に就て語る、まことに福ひなる事である。願ふ末の終りまで聖国の為に働き得んことを。三谷民子女史明日女子学院校長として就任するとの事なれば彼女を励まし自分をも慰めんために左の一首を書き送つた。
   荷は重し我に代りて負ひ給ふ
     主《ぬし》ありと知れば我は恐れず。
 
 十月十四日(金)半晴 久振りにて新渡戸稲造君を訪問した。古い札幌時代の事を語つて楽しかつた。同君等と共に汽船玄武丸にて品川沖より彼地に運ばれたのは今より満五十年前であつた。君と自分とは人生の全く異なりたる行路を歩んだ。然し今に尚ほ異ならざるは学校時代に受けし気風である。札幌出身にして世人に最も多く噂さゝる、は新渡戸君と自分と故有島武郎君と三人であるとの事である。奇態な組合せである。三人共に農学士であつて、農学以外の事で噂さるゝのは不思議である。但し有島君の終焉が美くしくなかつたのが残念である。
 
 十月十五日(土)曇 寒い日であつた。引続き講堂の事に就いて困しめらる。世には善き講堂があつて聴衆なくして困まる教会が多くあると聞くが、自分達は聴衆が有り過ぎて適当の講堂なくして苦るしめらる。時には此際断然講演を廃めやうかとも思はせらる。雑誌を以つて数千人に語り得ば、それで充分である。聴衆を集めていかにも勢力でも張らんと欲するやうに思はるゝは心外千万である。会衆取締りの為に講演の質を低落するの虞れがある。或は講演廃止が満足なる解決である乎も知れない。
 
(243) 十月十六日(日)曇 雨模様。集会は至つて静粛に、且又稍満足に行はれて感謝であつた。聴衆は前回より少しく多く、六百人を越えたであらう。畔上前講し、自分は「イザヤの名に就て」述べた。イザヤと云ふ名の内に「ヱホバ救を施し給ふ」と云ふ貴き福音の籠れることを述べた。善き福音を語つたと思ふ。会員外の傍聴者は五十人であつた。孰れも傍聴料を払つて聞いて呉れた人であつて、熱心なる同信の人達であつた。其内に此世の地位と知識に於て卑しからざる人が尠くなかつた。柏木に来得ない人で此所に来る人が大分ある。近頃になき気持好き集会であつた。
 
 十月十七日(月)曇 終日家に在りて休んだ。聖書に親んで此世の交際や知識が厭に成る。どうでも可い事に成る。人生の最大問題はそんな事でない。「亡ぶる此世、朽ち行く我身」、どうなつても可い。親むべきは神、学ぶべきは彼の言、彼と是れありて万事足れりである。
 
 十月十八日(火)晴 麗はしき秋晴れの日であつた。沢山に校正を為した。相変らず俗事に悩まさる。人は自分が老人である事を考へて呉れない、色々と六ケ敷い問題を持込んで来る。真理の為に一時間を費せば俗時の為に十時間を費さしめらる。之を思へば悲しくなる。G・アダム・スミス著『イザヤ書講解』第二巻の再読を八月に始めて今日漸く終つた次第である。是れでは大学者には到底成り得ない。
 
 十月十九日(水)半晴 読書、校正、訪問に全日を終つた。今になり青年時代に読んだ書が非常に役立つ。青年は読書時代である、此時に読まずして深き印象を受くる時代は再たび来ない。今や新らしき書を読む必要を感(244)じない、古い書を読む丈けで充分である。殊に預言書が面白くある。G・A・スミスかオレリ(Orelli)の著を手にして居れば終日倦怠を感じない。イザヤ、ヱレミヤ、アモス、ホセア、ミカ、何れも善き先生であり、善き友人である。二千五百年前の彼等こそ我が真の|心友〔付○圏点〕なれである。
 
 十月二十日(木)半晴 主婦と共に久々振りにバビロンに行いた。三度自働車(乗合)に乗り、二度電車に乗つた。物を買ふの六ケ敷き事よ。売子は売るに巧みにして滅多に買者《かひて》の利益を計つて呉れない、唯売りさへすれば可いと思ふ。呉服店は何れも花嫁姿を以つて賑ふ。今日の日本人に取り人生の花は花嫁である。終日バビロンを彷徨ひてノーブルなる事に一つも出会はない。純の純たる肉欲の市である。書店に立寄りG・B・グレー著『イザヤ書の註解』と有名なるロバートソン・スミスの『イスラエルの預言者』と二冊買求めた。斯んな本が東洋のバビロンに於て得らるゝから不思議である。自分の如き者は旧き聖書に引込んでゐれば可いのである。此世の事には、政治は勿論のこと、社会運動にも、教会の大挙伝道にも頗を出す必要はない。
 
 十月二十一日(金)半晴 両雑誌の編輯に全日を費した。相変らず面倒の仕事である、然し広く全国並に全世界に対して語る途である。之に全力を注がねばならぬ。同時に又「事業」と思ふてはならぬ。「楽しみ」であらねばならぬ。自分以外の或者が自分を以て為し給ふ事である。只彼の聖手《みて》に自分を委ね奉れば可いのである。事業、活動、教化……自分はそんな事を為さない積りである。聖書に現はれたる宇宙的真理の静かなる研究である。目下流行の「大宣伝」には何の関係もなき事である。
 
 十月二十二日(土)晴 編輯と原稿とにて終日働いた。働いて凡ての苦痛と寂寥とを忘れる。働くに勝る幸(245)福はない。人生、成る事が凡て善き事である。All that is,is right.神が万事に於て働き給ひつゝあるからである。人は常に神の聖業を妨げつゝあるが、神は人にかまはず之を進め給ひつゝある。故に彼に依頼む者は世上の万事を顧慮することなく唯神の国を指して進むべきである。新聞紙は殆んど読むに堪えない。実際上、聖書丈け読んで居れば充分である。
 
 十月二十三日(日)半晴 日本青年館大講堂に差支あり、中講堂に於て集会を開いた。来会者六百人余り、殆んど講堂に充満した。塚本と自分とで高壇を塞いだ。自分は「預言と異象」と題し、更に預言総論を続けた。外《そと》には某私立大学の大運動が行はれ、内の大講堂には某派の尺八大演奏会が催されて居た。其間に在りて三階の中講堂に於て我等の聖書研究会が静粛に開かれたのである。妨害と云へば妨害であるが、民衆と共に此公園と公館とを使用すると思へば却て気持好くある。パウロもコリントやエペソに於て斯かる周囲の内に福音を説いたのである。民衆的のキリストの福音が民衆雑沓の間に説かるゝは決して不相応の事ではない。「ヱホバは其聖殿に在まし給ふ、世界の人其前に静かにすべし」と云ふは真理であるが、「大なる哉エペソ人のアルテミスよ」と群衆が叫ぶ中にキリストの福音が説かれたのも事実である。其事を思ふて今日の聖書講演は自分に取りては特に興味が多かつた 〇世には自分を大なる勢力家と見て、自分を斃して日本第一にならんと欲する者があると聞いて驚いた。自分は決して勢力家でない。自分の在る事を知らない者が此淀橋町にさへ沢山に居る。東京の大店や銘行に行いて、其店員で自分を知つて居る者に滅多に出会はない。自分の機関雑誌は、和文の者が四千三百部、英文の者が七百部売れる丈けである。そんな者が大勢力家でありやう筈がない。故に自分の如き者を斃した所で日本第一に成れる筈なく、縦し亦人が自分を凌いだ所で自分は何の痛痒を感じない。自分は日本第五か第六か、或は更らに末席を以て満足する者である。自分は広告しない、人の自分の所に来るを促さない。又若し自分が立つ能は(246)ざるに至らば、神が自分に隠退を命じ給ふと信じて喜んで隠退する。自分に「地位に噛り附く」慾もなければ必要もない。若し東京を逐はるゝならば仕事を畳んで北海道に行き、孫女と共に余生を送る。何百人何千人と云ふ人を相手にして暮らすは自分の性質に合はない。自分を斃さんとするは、する人の勝手であるが、斃しても別に益もなかるべく、亦斃した所で大なる手柄でもあるまい。最早六十七歳の老人である。「吹かねど花は散るものを」である。そして亦、神が自分を要し給ふ間は宇宙が総掛りに成りても自分を斃す事は出来ない。今日まで幾回か斃されんとしたが斃されずして今日に至つた。今日まで自分を護つて下されし神は、終りまで護つて下さるであらう。斃さんとする者は斃して見るが可い。自分は弁護もしなければ、勿論抵抗もしない。唯終りまで静かに神が自分に命じ給ふと信ずる事を為す。基督教の教師の内に、人を「打つたゝく」とか、「打《ぶ》つちめる」とか云ふ言葉の用いらるゝを聞いて不思議に堪へない。
 
 十月二十四月(月)晴 山茶花咲き初め、冷気加はり本当の秋に成つた。美くしい夕陽《ひのいり》を眺めながらロバートソン・スミスの『イスラエルの預言者』を読んだ。然し|何よりも善き事は何をも為さずして神の恩恵を黙想する事である〔付○圏点〕。仕事ではない、信仰である。仕事是れ信仰なりと思はるゝ今の世に在りて、仕事に追はれて信ずる機会尠きを悲む。我等をして此悲むべき状態に伴来《つれきた》りし者は主として米国人である。米国人は仕事を知つて信仰を識らない。米国人には働かざれば信仰はない。米国人は信仰的生活の根柢を壊つ者である。
 
 十月二十五日(火)晴 茲に騒がしき一ケ月を終る。春と秋とは人の浮かれる時期である。随つて心に落附きがない。凡ての人が活動せんとする。深く考へて厚く信ぜんとしない。詩百二十篇の言が思ひ出さる。
   禍ひなる哉我はメセクと偕に宿り
(247)   ケダルの幕屋の|かたはら〔付ごま圏点〕に住めり
   我が霊魂《たましい》は平安を憎む者と偕に住めり
   我は事々《こと/”\》に平安を求む
   然れど我れ語《ものゆ》ふ時に彼等は争闘《あらそひ》を叫ぶ。
運動、活動、キヤムペーン(政治宗教の拡張運動)……実に騒々しき事である。斯かる族《やから》を称してメセク族、ケダル族と云ふのであらう。太鼓にラツパ、ビラ撒き、電車広告……真理は此くして宣伝すべきであらう乎。
   語らず言はず其声聴えざるに
   其響は全地に普く
   其|言《ことば》は地の極《はて》にまで及ぶ
と云ふのが真の伝道法であるに相違ない(詩十九篇三、四節)。
 
 十月二十六日(水)晴 久振りにて約翰黙示録を読み、其第一章の意味が能く解つて嬉しかつた。聖書は実験の書であるが故に、其意味は生涯の終りに近づいて益々明白になる。まことに有難い事である。その他に或る病める兄弟を見舞ひ、彼れ及び彼の家族と苦痛《くるしみ》を頒つた。又事業に難《なや》む或る兄弟の困苦を聞いて、同情の涙を注いだ。又婚約成立を喜ぶ或る少女の訪問を受けて彼女に祝賀の握手を与へた。「悲む者と共に悲み、喜ぶ者と共に喜ぶ」である。詩人ゲーテ曰く「此悲みと此喜びとは何の為ぞや」と。奇妙なる人生である。
 
 十月二十七日(木)半晴 札幌を去つて満一ケ月である。其疲労が未だ全く取去られない。家族は毎日孫女の(248)噂さで持切りである。両雑誌の編輯を終つた。大なる興味を以て黙示録第二章と総論とを読んだ。羅馬帝国に於ける基督教勝利の預言と見て此書に興味津々として尽きざる者がある。
 
 十月二十八日(金)曇 黙示録三、四、五章を読んだ。実に雄大なる章である。其意味は大抵解つたと思ふ。何時か神の許し給ふ時に之を講じたいものである 〇「内村さんは聖書には明《あかる》からう、然し世間の事には暗らい」と言ひて、長の間自分の言に耳に傾けざりし者が、終に此世の事業に失敗して援助を乞ひに来る者が殆んど毎日の如くにある。彼等は信仰は此世の事業には何の関係もなき事と思ふ。彼等は「事業は事業なり」と云ひて事業に従事する時には全然世間並の道を採る。そして失敗する時には、時既に遅しである。長の間馬鹿にせられながら、後に援助の任に当らしめらるゝ自分の不幸を歎かざるを得ない 〇以上の不愉快に引替へ、愉快なるは札幌通信である。小なる正子曰く「ヂーヂー、ハー、シヤ、ポツポ、イナイ」と、之を釈けば「お祖父さんが禿頭の音吉と共に汽車に乗つて東京に帰つて今はゐない」と云ふ事である。ヂーヂ一之に答へて曰く「ヂーヂー、マーマー、イナイ、マイニチ、エンエン」と。毎日淋しくして泣いて居るとの意である。小児言語は簡短にして意味深遠である。
 
 十月二十九日(土)曇 黙示録第四章を読み、天に在りて福音の勝利の確証せらるゝを今更らながらに知らしめられ、大なる慰め又力であつた。如何に見ても黙示録は世と闘ふ信者を慰むるに絶大の能ある書である 〇世は益々逼迫する。失業者の多きに驚く、又破産者も続々とある。病人は驚く計りに多く、世相は晩秋の景色よりも悽愴である。然し乍ら主を信じて聖霊を賜はりし者は此裡にありて顔色輝き、希望衷に溢るを見る。人の真の幸福は其健康又は所有《もちもの》に依るに非ず、其信仰に因るを見る。今日或る不幸なる若妻が其子を伴《つ》れて訪れしを見て、(249)此感を深くせしめられた。
 
 十月三十日(日)曇 小雨あり。此日横浜にては大観艦式行はれ、神宮外苑にては相撲、野球、庭球其他の遊戯が行はれて雑沓を極めた。其内にありて我が聖書研究会は青年館大講堂に於て静粛に開かれ、塚本は羅馬書十一章に由り「イスラエルの不信」に就き、自分はイザヤ第一章大意を「ヱホバの大訴訟」と題して講じた。来会者前回同様六百人余あつた。内に傍聴者が四十一人あり、其内教会に関係ある者が十八人、メソヂスト教会が二人、バプチスト教会が三人、日本聖公会が三人、日本基督教会が四人、組合教会が同四人、ホリネス教会が二人あつた。孰れも規定の傍聴料を寄附し、静粛に聞いて呉れた。外に新たに入会者が二十六人あつて、是れで外苑出張以来新入会者が百二十六人である。所謂「立派」の人達にして、柏木に来る事を憚りし者が尠からず入会したらしく、喜んで可いか、悲しんで可いか解らない。孰れにしろ今日の所、研究会は所謂「盛ん」である。是れが東京の「名物」の一と成らざらんことを祈る。真の福音が広くなくして深く伝へられん事を祈る。救霊事業としてのみならず愛国的行為として祝福されんことを祈る。
 
 十月三十一日(月)晴 秋晴れの好天気であつた。休みながら働いた。多くの敵に此「日々の生涯」が読まれるのであると思ふとペンが渋る。日本のやうな国に於ては絶対的沈黙が最も安全である。然し沈黙は敵を作らないが、味方をも作らない。我が赤心を曝《さら》せば之に応ずる者も少しはある。誰か何所かで貧しい孤独の一人を慰むるを得ば、百人千人の敵を作るも可なりとの決心を有たざれば、自己を世のさらし物となす事は出来ない。時には思ふ、どうせ憎まれ序である、沢山に憎まれて少しなりと愛されやうと。然り愛せられずとも可い、書かざるを得ざれば書くのである。
 
(250) 十一月一日(火)晴 黙示録七章一-八節を研究した。忙しい日であつた。地代評価の為の近隣借地人の会合を我家に開いた。借地人同盟して地主に当つたのは自分の生涯に於て初めての経験である。決して気持の好いものでない。バビロンに行いた、円タク自動車の運転士に見す々々騙されて不当の料金を取られて不愉快千万であつた。或人の家政困難の場合に臨むべく余儀なくせられ、その如何に恐ろしきものなる乎を示されて感慨無量であつた。地獄は来世を待つまでもなく、既に此世に在る事を見せしめられた。家に帰りて其反対に信仰の歓喜に溢るゝ或る高貴の婦人の訪問を受け、神は我国の上流社会に於ても信仰の善き証明者を有し給ふ事を示されて非常に心強く感じた。信仰の在る所には歓喜と希望とあり、無き所には悲痛と失望とある事を殆んど同時に示されて今更らながらに信仰の貴さを覚えた。夜は無邪気なる或る女学者の訪問を受け、笑談に一日の苦痛を忘れた。彼女曰く「内村先生は最も|怖くない〔付△圏点〕大なる赤ん坊である」と。斯う見抜かれては先生顔色なしである。
 
 十一月二日(水)晴 好晴の一日であつた。英文雑誌の短き社説を書いた。百科全署にスピノーザ伝と万有神教の一項を読んだ。無生産的の一日であつた。唯心ゆく計りに山茶花咲く麗はしの秋の日を楽んだ 〇人は全体に基督を信ずれば立身も出来ず金も溜らずと云ふが、基督を信ぜずして、或は彼を離れて、落ぶれ又破産した者の実例は沢山に在る。信仰は霊魂を救ふ而已ならず身を守り産を保つ。信仰と幸福とは決して関係の無き事でない。自分の如き、今日の平安あるは全く信仰のお影であると云はざるを得ない。
 
 十一月三日(木)晴 第一回の明治節であつた。主婦と共に小田原急行電車を試乗した。三谷文子が我等の娘の代理を務めて呉れた。多摩川、相模川、酒匂川の三流を横断するのであつて其沿岸の秋色に掬すべき者があつ(251)た。新宿より二時間にて小田原に達し、それより箱根湯本に至り、入浴し、昼食し、玉簾《たまだれ》の滝、早雲寺を見物し、黄昏頃同一の電車に入り八時相木に帰つた。滅多に試みざる清遊であつた。終日ペンを執らず、俗事に|たづさはらず〔付ごま圏点〕、それ丈けでもまことに有益なる一日であつた。
 
 十一月四日(金)雨 雑誌の校正が主なる仕事であつた。財界の不景気の結果を我が身辺に於ても見る。聖書研究社までが其影響を受けて収入減少の故に困難する。知人中、事業の衰退に悩む者多くして同情に堪えない。然し大体に於て信仰に堅く立つ者は失敗を免かれ、縦し亦困迫するも能く之に堪えて行く。百人は汝の右に仆れ、千人は左に斃る、然れども災害汝の身に及ばざるべしである。然り、縦し産を失ふことあるも霊魂を喪はない。其事が最大の幸福である。
 
 十一月五日(土)雨 教会者が我等無教会者を罵る言なりと云ふを聞くに「彼等無数会者は何を為して居る乎、何も為さないではない乎」と。実に恐縮の至りである。我等は会堂を建ず、学校を起さず、社会事業に従事しない。故に何も為さないと云はれても申訳が無い。然し「為す事」が信者たるの必要条件であると思はない。イエスは教へて曰ひ給うた、「神の遣はしゝ者を信ずる事、是れ即ち其(神が要求し給ふ)業《わざ》なり」と(ヨハネ伝六章二九節)。我等は何を為さなくとも神の遣はしゝ者即ちキリストを信じて居る積りである。そして神は其信を我等の事業として受けて下さることを固く信じて疑はない。そして又、我等が彼を信ずる以上は、我等は全然無為無能でない。自分の如き、他人に劣らず随分毎日多忙である。三十年間継続して聖書を国人に教へた。著書の厚さは自分の身長《せい》程ある。説教演説は二千回も為したであらう。其他、同胞の為に毎日使はれる。「何をも為して居らぬ」とは如何しても思へない。唯事業の種類が異ふ丈けである。自分は金を募る事が大嫌ひであるから、金の(252)要る事は為し得ない。殊に外国宣教師に金銭の補助を仰ぐ事は死んでも能《でき》ない。何十万円価ひする会堂は有たぬが、小なる講堂は日曜日毎に聴衆を以つて溢れる。然し我等無教会者は之を事業と称はない。我等の事業は事業に非ずして信仰である。故に「何も為さない」と云はれても苦しくない。
 
 
 十一月六日(日)晴 好晴の秋日和であつた。外苑大講堂に差支あり、集会は柏木に於て、常例に循ひ、午前午後の二回に分ちて開いた。午前は二百四十人。午後は百九十人の来会者があつた。午前は「信仰の始終」と題し、コリント後書五章十八節以下を、午後は「信仰と失敗」と題しヤコブ書一章十二-十八節を講じた。一ケ月振りにて懐かしき柏木の聖書講堂に帰り来り、旧き会員の安否を問ひ、温かき楽しき会合であつた。
 
 十一月七日(月)半晴 休息の月曜日に非ずして其反対に校正のそれであつた。北海道行きの祟りが未だ抜けず、仕事が跡へ跡へと後れて行く。仕事に逐はるゝ程厭な事はない。今日の如き責任の鞭に打たれながら一日を終つたやうなものである。
 
 十一月八日(火)曇 多忙の日であつた。漸くにして両雑誌の校正を終つた、例月より四日遅れて居る。其他此世の小事に引廻はされる。彼等は老伝道師を自己の為に使ふに少しも遠慮しない。彼に伝道せしめんとせず、自己の利益又は便宜の為に彼を使はんとする。気の毒なる人達である。何故に天下の為め、人類の為、万物の造主なる神の為を思はないのである乎。自分の目に映ずる日本国は依然として小人国である。不愉快千万である。
 
 十一月九日(水)晴 静かなる休息の一日であつた。訪問者は三人あつて、其一人は花嫁に成らんとする婦人(253)であり、他の一人は花婿に成らんとする男子であつた。十一月は結婚で賑ふ。自分は初代基督教信者の迫害者羅馬皇帝ネーロの伝記を読んだ。興味多き研究であつた。彼を知る事は新約聖書、殊に約翰黙示録を解する上に於て必要である 〇前独逸皇帝ヴイルヘルムは言ふ、今より十年以内に第二の世界戦争は闘かはるべしと。英国自由党総理ロイド・ジヨージは言ふ、聯合国が今日有する常備軍は大戦前世界各国の有せる常備軍を合せたる者よりも多くして総計一千万人に達すと。米国海軍大臣ウイルバースは言ふ、人が神に成るまでは戦争は止まずと。斯くて大戦最中に「此戦争は戦争を廃する為の戦争なり」との基督教界の主戦牧師達が唱へし言は全然裏切られたのである。
 
 十一月十日(木)晴 一ツ橋如水館に於て催うされし青木家(庄蔵君)の結婚披露会に招かれて出席した。相変らず花嫁花婿の前に着席させられ、演説而かも最後の演説を為させられた。幸福なる家庭を作る途は至つて簡短である。第一に主イエスキリストを主人公として家に迎ふる事、第二に絶対的禁酒を実行する事であると述べた。祝詞としては激烈に過ぐると思ふ人達も大分あつたらしくある、然し自分として今夜此事を高調せずば居られなかつた。来客は紳士淑女二百名以上あつた。
 
 十一月十一日(金)晴 両雑誌の発送を終つた。昨夜の卓上説教で疲れたと云ふては申訳ないが、それは事実であつた。滅多にあんな社会へ出た事が無く、又之に対して語つた事がないから疲れるのも無理はない。自分の立場から見れば交際社会程変なものはない。之に入つて魚が陸に上つたやうに感ずる。交際家の立場より見れば自分の如きは更に変んなものであらう。
 
(254) 十一月十二日(土)晴 内村祐之第三十一回の誕生日である。赤飯を炊き、遥に彼の為に祝し且祈つた。何十年振りで孝経を読んだ。依然として偉大なる書である。殊に近代人は之を精読熟読するの必要がある。其内に深い真理がある。夫孝徳之本也とは今日と雖も動かすべからざる真理である。今より六十年前、我が父の口より学んだ所である。
 
 十一月十三日(日)晴 山茶花満開、風無く、雲なく、絶好の秋日和であつた。集会を外苑大講堂に催うした。男四百、女三百、総計七百と云ふ集会であつた(玄関番の報告に由る)。傍聴は三十七人、其内十一人が教会員であつた。自分はイザヤ書一章二-九節に依り、「罪の本源」と題して講じた。罪の本源は神に対する不孝であると言うた。基督教に忠孝なしなど言ふ者は聖書を覗いた事の無い者の言ふ事である。イザヤ書は不孝を責むる言を以つて始まる。そして神に対して孝ならずして親に対して孝なる能はず。孝道の基礎は之を聖書に於て見る。
 
 十一月十四日(月)晴 自分に取ては休日である。他人に取りては休日明けの忙がしい日である。故に彼等は遠慮なく訪問する。そして彼等の持来る主なる問題は相変らず金銭問題と結婚問題である。但し左近義弼君がキリスト神性問題を持つて訪問して呉れたのは有難かつた 〇昨日一人の少女に其母立会の上、バプテスマを授けてやつた。彼女の礼状は左の如し。
  先生、今日は私一人の為に態々バプテスマの式をお挙げ下さいまして誠に有難う厶いました。「人の前にて我を否む者を我も亦天に在す我父の前にて否まん」と云ふ聖語、又「此式は神様自らが司つて下さるのであつて、天の使達も一ぱいに此所にゐて下さる」とおつしやひました事等忘れられません。神様に忠実なる婢として私の一生涯を捧げて参ります。‥‥‥|教会員になる為でない洗礼を受けさせて戴いた事がほんとうに(255)うれしく御座います〔付○圏点〕。
 
 十一月十五日(火)小雨 或事よりして基督教界の実際を覗ふの機会を与へられ、其意外なるを見て驚き且つ痛歎した。是れでは聖霊が降らずして教会が衰微するのは無理でないと思うた 〇ラヂオに筑前琵琶「太田道灌」を聞いた。
  孤鞍雨を衝いて茅茨を叩く、少女ために贈る花一枝。少女言はず花語らず、英雄の心緒乱れて糸の如し。
実に美くしかつた。近代人の都なる東洋のバビロンに比べて、古い昔しの江戸城が偲ばれた。
 
 十一月十六日(水)雨 黙示録十七章より二十草までを読んだ。其意味は能く解らないとしても、其偉大さを感ぜずには居られない。大なるバビロンが審判かるゝ状は荘厳譬ふるに物なしである。聖書の意味は何の註解にも依らず、本文其儘を精読する時に最も善く解る。
 
 十一月十七日(木)曇 引続きお弟子さん達の結婚問題に悩まさる。永久の悩みと称すべきであらう。
 
 十一月十八日(金)晴 毎日ラヂオに桃川如燕の義士伝を聞きつゝある。まことに菩き説教である。大抵の牧師の説教よりも遥かに有益又有力である。宣教師教会の会員たらずとも日本武士の一人たらんと欲する心が湧来る。自分は日本に武士ありし事、又少数なりとも今猶ほみる事を神に感謝する。
 
 十一月十九日(土)曇 米国より近頃日本に来りし若き宜教師某君の訪問を受けた。彼地の或る有名なる博士(256)が、日本に於て伝道を開始する前に先づ内村を訪れて其指導を仰げと同君に勧めたとの事であつた。斯かる博士が米国に在ると聞いて自分は甚だ不思議に思うた。米国はさすがに大国である、自分の米国嫌ひなど眼中に置かない人がある。然し以上の若い宣教師も今より十年間日本に居るならば所謂「宣教師」と成りて自分の如き者に指導を乞ふが如き事は一切為さないであらう。宜教師の善いのは初めの二三年である。一夏軽井沢に居れば大抵は「宣教師化」せられて、日本人を疑ひ、賤しめ、再び前の外国人となるが常である。然し其事は別として、今日はキリストに於ける兄弟の愛を以つて、此遠来の客人を迎へた。
 
 十一月二十日(日)晴 外苑大講堂に於ける集会は更に聴衆を増し、七百人を数十人越えたとの報告があつた。傍聴は五十八人、盛会と称すべき者であつた。但し自分の講演は甚だ振はなかつた。前週は余りに多く俗事に携はしめられ、それが祟つたのであると思ふ。イザヤ書一章十-十七節を「偽はりの宗教」と題して、其大意を述べんとした。俗事を以つて自分を煩はしゝ人達の罪や大なりである。幸に塚本がロマ書十一章の一部を「パウロの教会観」と題し講じて呉れしが故に大に助かつた。何れにしろ明治神宮外苑の日曜日の朝が我が聖書研究会の為に賑ふは愉快である。
 
 十一月二十一日(月)曇 完全の休養日であつた。来客一人もなく、随つて俗事に触れず、心平静にして原稿が大に書けた。幸福なる一日であつた。
 
 十一月二十二日(火)半晴 組合教会所属米国女宣教師パーメリー老嬢より、自分の英文雑誌社説に対し厳しい詰責の書面が達した。宣教師の見た自分は斯んな悪人である乎と思ふて大に考へさせられた。米国人は婦人でも(257)人を詰《なじ》るに遠慮はない。日本人の眼には赦すべからぎる傲慢無礼と見える事でも彼等は勝手に言ふ。彼等と喧嘩して不愉快千万である。然し神様が味方に立つて下さつて事実を以て自分の言を弁明して下さるから有難い。宣教師を敵に持つ事は覚悟の前である。時々斯んな手紙が舞込んで日常の沈静を破つて呉れるから有難い。
 
 十一月二十三日(水)晴 コリント後書五章一節二節の研究を以つて此日を始めた、誠に福ひなる日であつた。又少しくヘーゲル哲学を覗き、相変らず大なる刺激を受けた。思想を奮起せしむる者にして此哲学の如きはない。之に励まされて此日沢山にペンが動いた、詩が出た、歌が湧いた。偉大なる尊敬すべきヘーゲル先生かなと言はざるを得なかつた。
 
 十一月二十四日(木)晴 コリント後書五章三、四節とヘーゲル哲学の一頁とが我が今日の霊魂の糧であつた。今井館聖書講堂は改築中で邸内は大混雑である。外苑大講堂に不便の点多く、再び柏木へ退却の計画中である。静粛なる研究はやはり小講堂に限る。大講堂に大集会を開いて教派樹立に従事してゐるやうに思はるゝは心外千万である。「汝の廬《いほり》を谷に設けよ」である。公衆の為を思ふ時に世の職業的政治家や宗教家の注視に上る、此んな厭な事はない。斯く書きつゝある間に、大工はコンコンと、ブリキ屋はカンカンと聖書講堂の改築を急ぎつゝある。
 
 十一月二十五日(金)晴 コリント後書五章五-八節を研究した。偉大なる言である。「我等の最も欲《ねが》ふ所は身を離れて主と偕に居らん事也」とパウロは曰ふ。即ち「死んだ方が善い」との事である。パウロの宗教は明かに来世的であつた。故に深くして広くあつた。今の基督信者は然らず、彼等の宗教は明かに現世的である。教会(258)同盟、平和運動、ヱルサレム会議、何れも現世運動である。此の小なる世界を己が勢力範囲に入れんとするのである。洵に小さい、詰らない欲望である。来世問題である。人間の領域を現世以外に拡張するにあらざれば、人間らしい人間の出現を見ることは出来ない。此世の事は実はどうでも可い問題である。「兎にも角にも死たる者の甦りに達せんことを」とはパウロ最大の志願であつた。我等は今日パウロ式のクリスチヤンたり、米国宣教師式の低い賤しい教会信者たるべからずである。彼等に何んと非難されても!
 
 十一月二十六日(土)晴 コリント後書五章十節の研究を以て此日を始めた。
  そは我等皆キリストの台前に現はれて、善にもあれ、悪にもあれ、各自身に在りて為したる所に循ひ報いらるべければ也。
茲に未来の裁判のある事が明かに示されてある。身に在りて為したる事は悉く報いらると云ふ。洵に有難い事である。認められざる小なる親切も其時には報いらる。其時堪え難き失望は悉く癒さる。悪い事の為に罰せられる計りでない、善い事の為に賞めらる。キリストに鞫かれるのであつて、此んな有難い事はない 〇興業銀行総裁小野英二郎君の永眠を聞いて悲んだ。今より四十二年前、明治十七年十一月、君と同船同室して太平洋を渡り、君はオベルリン大学に、自分は費府に行いた。当時紅顔の青年が後に我国財界の柱石と成つたのである。天職を異にせるが故に、其後深い交際はなかつた。然し相互に対し好意を懐いて今日に至つた、同君の二女米子さんは内村聖書研究会の熱心なる会員である。
 
 十一月二十七日(日)晴 麗はしの安息日であつた。大講堂の集会に七百人以上の来会者があつた。其内七十(259)七人が傍聴者であつて、何れも規則通りの傍聴料を払ふて聴いて呉れた人達であつた。教会員も多数あつた。聖公会の会員の多い事は著しい事実である。自分はイザヤ書一章十八、十九節を講じた。罪の消滅の福音を語る事であつて実に愉快であつた。審判と正義とを語らねばならぬ場合があつて、之を廃する事は出来ない、然し是れ実に辛らい役目である。自分も厭なれば人にも厭がられる。然し此んな嬉しい事はない。今日は其嬉しい事を為して実に嬉しかつた。教会の人達が自分に就いて言ふ様に、自分の教会や宗派を立つる為に説教する積りでない。此んな嬉しい福音があるが故に、之を人に伝へたくなり、それが為に説教するのである。いくら宣教師に嫌はれても此福音を述ぶる事を廃める事は出来ない。「我若し福音を述べ得ずば禍ひなる哉」である。
 
 十一月二十八日(月)半晴 姪を伴れてバビロンに行いた。丸善にて哲学書を四冊買ふて帰つた。市中に出るは生命がけの仕事である。
 
 十一月二十九日(火)雨 来客の多い日であつた。多くの不愉快なる問題がある。米国宣教師某婦人と詰問の端書を取交はして居る。日本人より常に「然り、然り」との返答を受けて其一生を送りし彼女をして、今日茲に日本人に対するに礼儀を以てするの途を知らしむるは至難の業である。彼等米国人は今年全部支那より退却せざるを得ざるに至りし深き理由を考へない。米国人は東洋人の礼儀を解し得ない。殊に米国婦人の無礼と来たら特別である。支那人は彼等に去つて貰つて善い事を為したと思ふ、日本人も何故此事に就て支那人に学ばないの乎。
 
 十一月三十日(水)曇 新聞紙は松方公爵家の没落を伝へて言ふ「松方公きのふ辞爵を申し出づ、米塩の資も擲つの決心、松方一門悉く丸裸」と。実に夢のやうである。聖母マリヤの讃美歌に
(260)  権柄《いきほひ》ある者を位より下し、富める者を徒《むな》しく返らせ給ふ(ルカ伝一章五二五節)
とあるは実に其通りである。今や自分の方が松方公以上の富者であるとは如何なる滑稽ぞ。
 
 十二月一日(木)半晴 忙がしい校正日であつた。
 
 十二月二日(金)半晴 コリント後書一章十三-十五節の研究を以つて此日を始めた。各節パウロの心中を披瀝して余りがある。同情の涙を禁じ得なかつた。
 
 十二月三日(土)晴 西野入徳君十一月七日英市ロンドン発の通信に曰く
  私はロンドンに参りましてから早や数週間になります、随分種々の事を感じさせられます、英人に Anglo-Saxon Superiority の心の強い事、大学の優等生は宗教界に向はず、科学、実業に向ふ事、そして之等有為の青年が漸次教会宗教から遠かりつゝある事、等がより明かに見えます。彼等はモット/\充実した生きた宗教を求めて居ます。
其本国の英国や米国に於て棄てられつゝある教会宗教が日本に於て採用されやう筈がない。何にも我等日本の無教会信者が教会を壊すのでない、時勢が既に教会を置去りにしたのである。我等は教会の外に出て「時」と共に歩みつゝあるのである。
 
 十二月四日(日)晴 外苑大講堂に於ける集会は相変らず盛会であつた。男四百人女三百人と云ふのであつたらう。傍聴は五十二人あつた。塚本は馬太伝十六章一六-一八章節に由り教会問題を論じた。実に痛快であつた。(261)自分は序に米国宣教師の此問題に関し自分に表せし反対を紹介した。
 
 十二月五日(月)晴 記すべき事を秘す。
 
 十二月六日(火)晴 両雑誌の校正を終つた。
 
 十二月七日(水)晴 札幌の孫へ長い手紙を書いた。後でグスタフ・クレーゲル Gustav Krueger のインガーソル講演を読んだ。霊魂不滅諭を哲学史的に述べた者である、教へらるゝ所が多かつた。哲学の目的は人の霊魂を教会の束縛より釈放つに在りとの意見に全然同意せざるを得ない。教会を最善の物と思ふ位ゐ間違つた考へはない。其点に於てブルノー、シヤフツベリー侯と全然同意である。哲学は教会の敵である。
 
 十二月八日(木)曇 休息の一日であつた。コリント後書六章四-十節の研究を始めた。パウロは自己に臨みし患難の数々を述立つる時に熱しておのづから歌を作る。此箇所がそれである。荘美である。彼の偉大さは斯かる所に判明る。此「患難の歌」を作り得し人は此世の人ではなかつた。愛すぺき尊きパウロよ。
 
 十二月九日(金)雨 無為の一日であつた。
 
 十二月十日(土)曇 米国に於て外国伝道廃止論が識者の間に唱へらるゝと聞いて尤もなる事と思うた。
 
(262) 十二月十一日(日)晴 麗はしの初冬の聖日であつた。外苑の大講堂に七百六十名程の聴衆があつた。自分は「平和実現の夢」と題してイザヤ書一章一-四節に合せてミカ書四章の初めの四節を講じた。題目が美はしい丈けに充分の気乗りがして楽しかつた。此日声楽家黒沢貞子嬢が近藤沖子嬢のピヤノに合せて讃美歌第三百十七番と第四百四十四番を独唱して呉れた。実に美くしかつた。我等の生涯に悪い事も無いではないが善い事の方が遥かに多い。今日の聖日の如きが夫れである。斯かる大勢の兄弟姉妹に我が講演を静聴せられて、全世界が我が味方であるのではない乎と思うた。
 
 十二月十二日(月)晴 網島佳吉君の友誼的訪問を受けて楽しかつた。旧知相会する時に有教会も無教会もない、唯ひとへに主の聖名の揚らん事を願ふ。
 
 十二月十三日(火)晴 記すべき事なし。
 
 十二月十四日(水)半晴 両雑誌の発送済み、来月号の編輯始まらず、一日の閑を得て休んだ。
 
 十二月十五日(木)半晴 横浜聖書研究会の自分、塚本、畔上を主賓とする晩餐会に臨み其懇切なる饗応に与つた。
 
 十二月十六日(金)半晴 大東文化学院講師某氏が基督信者なる自分が果して愛国者なる乎を究めん為に『聖書之研究』を二十年間毎号読んで呉れたと聞いて涙が出た。さすがは我国の志士である。斯んな人は米国などに(263)は薬にしたくも無い。
 
 十二月十七日(土)晴 聖書に親しみ、楽しき一日を送つた。
 
 十二月十八日(日)雨 外苑大講堂に於ける最後の講演会であつた。雪まじりの雨天にも拘はらず七百人計りの聴衆があつた。前回に引続きイザヤ書二章二-四節に加へ同十一章一-七節に就き「平和実現の途」と題して講じた。之で市内出演を終り再び柏木に帰る事にした。
 
 十二月十九日(月)曇 寒い厭な日であつた。
 
 十二月二十日(火)晴 寒気強し。忙がしい日であつた。何時に成つたならば休めるだらうと自分に問へば、「墓に入つてから」と答へる。生きてゐる間は休めない。唯小事に遂はれて世界の大思想を窺ふの機会尠きを悲む。
 
 十二月二十一日(水)晴 編輯に全日を費した。是れで先づ今年書くべき物を書き終つた。又来年である。死ぬまで健康の続く限り書くのであらう。
 
 十二月二十二日(木) 疲れて何も出来ず、火に倚りて休んだ。斯かる時に旧き善き信仰に立帰る。生ける救主を仰瞻て人のすべて思ふ所に過ぐる平安を享楽する。
 
(264) 十二月二十三日(金)雨 柏木聖書講堂の改築が漸く出来上つた。随分の骨折りであつた。二千円程かゝつた、然し会費の剰余金を以つて之を償ふ事が出来て、会員には少しも出費を掛けずして感謝であつた 〇夕の六時より外苑青年館食堂に於て柏木青年会のクリスマス晩餐会が催うされた。会する者老若男女合せて八十九人であつた。自分の感想としては「常に若くある秘訣」を述べた。其一は常に沢山に笑ふ事、其二には常に強い敵を持つ事であると云うた。後で悪い事を青年達に教へたと思うた。能くユーモアを解せざる人達にユーモアを語るは危険である。然し事実は事実であつて、時には之を匿す事が出来ない。
 
 十二月二十四日(土)晴 クリスマスイーブである。全世界に散在する友人の為に祈つた。老境に入りてクリスマスの愉楽を忘る、然し生れしキリストに非ずして生けるキリストを思ふて心は熱する。曾つて在り給ひし彼でない、今生きて働き給ふ彼である。彼が我が喜び我が望みである。聖書講堂の改築が今日全く竣《をは》り、大なる感謝である。之が我が今年の神よりのクリスマスプレゼントである。外苑大講堂以上の贈物である。
 
 十二月二十五日(日)晴 諒闇明けの今年最後の聖日であつた。柏木聖書講堂に於て午前と午後と二組に分ちて集会を開いた。合せて四百人余りの会衆があつた。ホーム気分がして却て幸福であつた 〇北海道の或る老姉妹よりの通信に曰く「今クリスマス祝日に恩師に感謝の意を表し神を讃美する為に町内歳暮救済に洩れたる哀れなる婦人に聊か米五升又老媼に古着一枚を内村先生の御名に依りて贈与いたします」と。有難い贈物である。
 
(265) 十二月二十六日(月)晴 諒闇明けのクリスマス祭日である。日本も遂々《とう/\》「基督教国」に成つて了つて今日東京全市がクリスマスを祝しつゝある。伝道も何もあつたものでない、お祭りが日本を基督教化しつゝある。如此くにして欧米諸国も基督教化されたのであらう。「基督教のお祭り化」である、預言者や使徒達が聞いたら泣き且怒るであらう。今より遠からずして、日本に於ても西洋諸国に於けるが如くに、無神論を唱へ、基督教に叛くが真理に最も忠実なる途となるであらう。Paganization of Christianity 基督教の偶像教化、此んな歎ずべき事 はない。そして之を許すのみならず却て得意とする教会は真の基督教の大敵である。
 
 十二月二十七日(火)晴 書籍一頁も読むことの出来ない多忙であつた。日曜学校生徒のクリスマスがあつた。罪の無い歓楽のつどひであつた 〇自分等の聖書研究を無教会主義宣伝の為の運動と見る宣教師並に牧師の多いに驚く。彼等は宗派心を離れたる純真理の研究は有り得なき事と思ふてゐるやうである。縦し宗派心の絶対的に無い人は無いとして、其方面をのみ高調して他の方面を掩ふて了ふは決して愛の道でない。自分等が斯く言ひたとて彼等が其主張を改めないのは確かである。自分等は神に自分等の心を鑑《み》ていたゞく事と、未来をして自分等を審判かしむるより他に途がない。
 
 十二月二十八日(水)晴 斯う云ふ事を思はしめらる、羅馬天主教はどんな教であつても時に実行の教である事は確かである。之に反して所謂プロテスタント教は特に言葉の教である。天主教は隠れて善を為すに対して、プロテスタント教は宣伝攻撃至らざるなしである。言葉、言葉、言葉、それがプロテスタント教である。如斯くにして天主教も厭なればプロテスタント教も厭である。我が理想は両者の長所を取つたものである。即ち|プロテスタント教の信仰を天主教的に静かに行ふものである〔ゴシック〕 〇聖書之研究誌一月号の校正を終つた。多忙の期節とて随(266)分の努力であつた。ヂンスモア著『ダンテ伝』を覗く事が出来た。ダンテの欠点の一節を読んで大に慰められた。彼にも此欠点があつた乎と思ふて大に安心した。彼が今日生きてゐたならば彼はどんなに社会や教会に攻撃せられたであらう。彼は決して聖人でなかつた、故に貴いのである。彼を「詩聖」と呼んで完全なる聖人なりと見做すは大なる間違である。大なる自己矛盾は天才の特徴である。Because I am large(我は広且大なればなり)と詩人ホヰツトマンは言うた。
 
 十二月二十九日(木)晴 主婦と共に市内に行きて今年最後の俗事を済ました。是れで自分等のクリスマスが来たのである。午後は満洲の大賀一郎君が近頃授かりし理学博士の証書を見せに来た。大いに君の為に祝した。夜は女史連の訪問があつた。多くの事を談じ腹を抱へて笑つた。甥の岡田八郎は札幌に新家庭を訪問し、孫女に迎へられし様子を細々と書いて来た。それ丈けは羨ましかつた。用事が済んで肩の荷が下りて笑声が自づと揚がる。楽しき歳の暮である。
 
 十二月三十日(金)晴 俗事一先づ片附き、大分にペンが動いた。和文も英文も書けた。聖き仕事を妨げる者は俗事である。是れ微りせば神に頼る人生は天国である。忌むべき憎むべきは俗事である。
 
 十二月三十一日(土)晴 茲に昭和二年一九二七年を送る。文久元年一八六一年に生れてより第六十六回の除夜である。身体も齢の割合に健康である。諸勘定も悉く払ひ得て一銭も負ふ所はない。働かんと欲するアムビシヨンは勃々として湧いて尽きない。知識欲も熾である。今日は少しく地質学の歴史を復習した、只孫女が離れて居るので淋しい。来年は余事を減じて聖書研究を増さうと欲ふ。つい此世の事に携はつて余計な苦みを買ふ。(267)人に釣出される、担がれる、そして負はずとも可い責任を負はせられる。そして怒れば信者らしくないと言はれて責められる。此世の子等は慧くある。彼等に成るべく接せざるが上策である。然しすべてが感謝である。彼等以上に慧き神様が守つて下さる。故に騙されながらも大体に於て成功する。自分の如き者は此奸悪の世に在りて信仰で勝つより他に勝つ途はない。ハレルヤー アーメン。
 
(269) 一九二八年(昭和三年)六八歳
 
 一月一日(日)晴 元旦の聖日であつた。午前、午後合せて二百五十人程の出席者があつた。自分は両回共に詩第百三十六篇に由り「感謝の心」と題して話した。洵に気持の好い講演会であつた。朝床の内で大声に札幌に居る孫女の名を呼んだものだから、昨日より泊込みの姪第一号が一句をやつた。
   元日や先づ正《マー》ちやんと叫ぶ声
と。自分は之に下の句を加へて言うた
   あとの奴らは怎〓《どう》にでもなれ
と。それでは余り酷いとの抗議が出たから、之を詠み直して云うた。
   それより外に楽しみはなし
と。こんなあん梅に楽しく一日を送つた。
 
 一月二日(月)曇 今年最初の休息の月曜日であつた。遊ぶ代りに原稿を書いた。夕暮頃Kちやんが訪れた。何の為かと訊いて見たら「先生の顔が見たくなつたから」と答へた。彼女は今年は家持に成るのであるから沢山に先生の顔を見て置くが宜いと、少しく講釈を聞かして還へしてやつた。相変らず数百通の年賀状を貰つた。貰つて小言を云ふては悪いが、孰れも平凡で奇抜のものは一通も見当らない。「謹賀新年」より他に書く事が無いとは情けない。昔しは一通か二通か善き詩か歌があつたが、今年は夫れもない。時代の平凡化と称すべきであ(270)らう。
 
 一月三日(火)晴 麗はしの新年第三日である。半日働き半日休んだ。夜は主婦と共に某女史に夕飯に招かれ、十一人の女史を相手に語つた。滅多にない事である。老人にも正月の来た事が判明る。
 
 一月四日(水)晴 漸くにして英文雑誌一月号の原稿を纏めた。之に由て年末が如何に多忙であつた乎が判明る。今日からが本統のお正月である。哲学か、魚類学か、ダンテ研究か。何れにしろ極楽は書斎に在つて、山にも海にもない。所々の教会の高壇より無教会主義の攻撃が轟くと聞く。然し自分自身は教会を助けはするが、之を攻撃は為ない積りである。殊に教会員の自分の集会に来る事は成るべく断つてゐる。無教会主義をして斯く重大問題たらしめし源因は多くは教会其物に在ると言はざるを得ない。若し教会が温かい居心《ゐごゝろ》の善い所であるならば、之に動揺の起りやう筈はない。自分達より進んで教会を毀つたやうな、そんな卑しい事は断じて為さない積りである。
 
 一月五日(木)晴 休み正月である。詩篇十六篇より十八篇までとダンテを少し読んだ丈けで他に何も為さなかつた。無為休息の一日は蓄積の一日であつたと思ふ 〇或る地方の或る教友よりの年始状の内に、かの地方の教会の人達が自分を誹謗する言が記してあつた。
  内村氏の福音は是とする。然しその無教会主義は、彼が社会に宗教上の政治的野心を遂げんとするパラドツクスである。或は、教会に対する私怨を公憤に脚色したる主義である。
  研究誌は所謂内村宗の宣伝であり、自我の拡張であり、独善主義の礼讃であり、文化的ドンキホーテイズム(271)であり、神秘的来世夢遊患者の記述であつて、彼の博識がこれを粧飾してゐるのだ。
恐ろしい奴で恐ろしい雑誌である。それだから教会の人達に自分の所に来るな、自分の書いた物を読むなと云ふのである。敢て問ふ此批評家はトルストイ、カアライル、ホヰツトマン、カント、シユレーゲル、フイヒテ等の書いた物を読んだであらう乎。若しさうならば此んを批評は為すまいと思ふ。然し此んな事を云うたとて何の役にも立たない。
 
 一月六日(金)晴 教会の人達には嫌はるゝが、彼等の従事してゐる事業に対し相変らず寄附を命ぜらる。そして彼等が喜んで受けて呉れるから有難い。然し之も自我拡張の手段であると云はれては情けない。或は事業の為に「貰つて置いてやる」と云ふの乎も知れない。然しそれでも宜しい。
 
 一月七日(土)半晴 昨夜ラヂオで柳田国男氏の「椿の話」を聞いた。非常に面白かつた。今日は百科字典に由りカメリヤの項を読んだ。カメリヤの名はヒリピン群島に伝道せし天主教宣教師 Camellus より出しと云ふ。茶の樹はカメリヤ・テイフエラであつて椿の一種である。秋の桜なる山茶花は秋の椿である。椿の果はオレブ油に次ぐ優良なる油を生ず。美と実用とを兼ねたる有用植物である。東方亜細亜の産であつて其精華とも称すべき乎。其最も賞讃せらるゝ種類を Camellia japonica(日本椿)と称するは殊に懐かしい。
 
 一月八日(日)晴 両回の集会に三百三十人の来会者があつた。自分はゼカリヤ書十四章廿、廿一節に依り「聖俗差別の撤廃」と題して語つた。新たに齢を加へて更らに死と来世に就て考へた。此事に就ては聖書の語其儘を信ずるより外に途がない。そして夫れが真理であらねばならぬ。自分に取りては現世は既に済んだと同然である。(272)そして今より後に|より〔付ごま圏点〕大なる生涯に入るのである。ダンテの言へるが如くに「|より〔付ごま圏点〕高貴なる戦闘」た入るのである。其準備の為に此一生を送つたと思へば感謝の極みである。
 
 一月九日(月)曇 主婦と共に市内に行いた。借切り自動車を二十哩飛ばした。近頃になき大旅行であつた。為に一日を潰し、有益なる事は何もなさなかつた。漸くにして英文雑誌の校正を終つた。
 
 一月十日(火)曇 雑誌一月号を発送した。平穏なる途は怒らない事である。何人に対しても何時でも馬鹿になつて居れば怒らずして済む。斯くて平穏なる途は至つて容易である。然し怒るは怒らるゝ人の為に利益である。故に時には止むを得ず、己が平穏を犠牲に供して怒るのである。然れども怒らるゝの利益を全く知らざる近代人に対して怒るは矢を太陽に向つて放つが如し、故に為さゞるに如かず。故に「笑つて肥《ふと》れ」の途を取らんと欲する。然しそれでは自分勝手で甚だ済まないやうに感ずる。
 
 一月十一日(水)晴 温かい春の様な日であつた。或る青年が衛生会館に於ける自分のロマ書の講義を聴き、平安に死んだ其実状を彼の姉なる人よりの手紙に由て知り、大に励まされ、力附けられた。自分も亦斯くの如くにして死ぬ事が出来ると思へば限りなき感謝である。若し福音に此力がないならば之を説くの必要はない。国家社会を善く為すための福音でない、天国の希望を与へて人をして平安に死なしむる為の福音である。縦令一人なりとも自分の説きし福音に由りて平安を以つて死に就きしを知りて、自分は無益に一生を送らざりしを知つて有難くつて堪らない。
 
(273) 一月十二日(木)曇 ルツ子デーである。少し計りの慈善を為して彼女を記念した。再び彼女に会ふ日が段々と近づきつゝある。今日は久し振りにて彼女永眠直後に読みし来世並に永生に関する書物を取出し、之を復読して大に我が信仰を強めた。若し栄光の来世が無いとすれば人生程つまらないものはない。然し有りて之に入るの特権を賦与せられたりとすれば、此世の事はどうでも宜い。ルツ子は実に恵まれたる女であつた。
 
 一月十三日(金)晴 夕七時より中野伊藤一隆氏に於て北海道並に札幌の為にする本年最初の祈祷会が催された。会する者七人、内に大島正健氏と自分と、他に計らずも札幌より宮部金吾君が来られ、茲に期せずして五十年来の信仰の友が祈祷の為に一室に会したのである。我等孰れも七十に達し、又は垂んとする老人であるが、神の前に跪いては孰れも小児である。老博士も老実業家も小児の如くにアバ父よと呼びて祈つた。まことに稀に見る神聖なる光景であつた。我等七十歳に達して益々キリストの聖名に依て為す祈祷に効験のある事を知つた。祈祷終へて後の雑談は全《まる》で五十年前の北海道の雪の内のそれの繰返しであつた。古い旧い北海の荒浪を渡りし航海談であつた。腹の底より湧出る歓声であつた。誰か知るクリスチヤンフレンドシツプの深さと聖さとを。|キリストの前に跪く所に於てのみ本統の友人関係はあるのである〔付○圏点〕。
 
 一月十四日(土)晴 押川方義民永眠の報を聞いて悲んだ。明治初年よりの我国基督教先達者の一人である。才能に余りに長けたるが故に一時伝道を抛《なげう》ちて実業に従事し、代議士に成られしも、世を去る前には再び旧《もと》の信仰に還へられ平安の内に眠られしと聞く。自分との関係は寧ろ浅いものであつた。氏は自分に対ひ「政治的野心は果して無き乎」と屡々押して聞かれた。「無し」と確答せし時に氏は不思議に思はれし様子であつた。今より十四五年も前であつた、氏と親しく会談せし時に(それが最後の会談であつた)、氏は自分に問ふて言はれた「君(274)はまだ行つてゐる乎」と。聖書を説いて居る乎との謂であつた。「然り」と答へし時に、氏は研究誌一年分の講読料を払つて呉れた。それ以来、氏は政治実業に活動し、自分は聖書に閉籠つて来た。何れが幸ひなりし乎主知り給ふ。本多君、植村君、横井君、押川君と交々逝いて跡は寂寞である。然し主は活きてゐ給ふ。我等は恐れなく進むべきである。
 
 一月十五日(日)雪 午後晴る。二回に分ち、四百人余りにイザヤ書二章六-十一節を「繁栄と裁判」と題して語つた。講堂の取締充分ならず、講演はやゝ失敗であつた。引続き傍聴人が妨害の因である。全然彼等を断はる訳にも行かず、今に猶ほ困つてゐる。
 
 一月十六日(月)晴 北米カナダ在住の邦人某君(農夫らしき人)より左の如き書面があつた。
  ……私は不幸にして貧、子供も多く、夫れに十一月廿八日に右足を折り、今も床に居ますが、神は私の様な者も祝福成し、日々の糧も与へられ、又足の折れたに依て一層神の愛を知り、只日々感謝の内に暮して居ます。今回日人の朋友から少し負傷に対して金を恵まれた故、平常望んで居た書籍二三冊購入し度いと思ふて本日郵便為替で七弗送りました。金の着次第、別紙の書物を送つて被下様御願致します。
農夫が足を折つたのは全財産を失ふに等しくある。其内に在りて書籍を購ふて信仰を養はんとする。神が偕に在し給ふ所に此余裕がある。
 
 一月十七日(火)晴 昨夜札幌の宮部金吾君が我家に泊つて呉れた。五十三年間の友である。共にバプテスマを受けてより茲に満五十年、彼は札幌に在りて独立信仰発祥の地を守り、我は外に出てその宣伝の任に当らせら(275)れた。旧き農学校の同室に在りて共に祈りて始めし信仰が茲に到りしを回顧し、感慨無量、談は談と尽くべくもなかつた。只相互に「実に不思議だつたねー」を幾回も繰返すのみであつた。我等は実際に六ケ敷い仕事を為さしめられたのである 〇此日午後目黒に二十歳の娘吉原ヒロ子を彼女の死の床に見舞うた。彼女の平和なる顔に大なる慰めを得た。彼女と彼女の両親と自分と四人にて簡単なる聖餐を共にし、パンを頒ち葡萄汁を飲み、主の贖ひの恵みを感謝して別れた。我等はキリストの聖国に於て再び此聖き集会を繰返すであらう。我がルツ子の臨終の光景が眼に浮んだ。
 
 一月十八日(水)雨 去る十五日の日曜日に札幌の新家庭に於て、彼地の研究誌読者会が開かれ、今日其委細の報告に接した。会する者三十人、内に無教会は勿論、独立、組合、聖公会、メソヂスト、日基、ホーリネス等総ての教会が代表された。其内に各教会の柱石と称せらるゝ人達があつたとの事である。午後二時半に始まり、「其処此処からの真心からの感話綿々として尽きず、為めに知らず識らず五時半頃まで時を移したるも誰一人去る者もなく」との事であつた。斯くて此処にも亦計らずして教会合同が実現したのである。信者が聖書中心に集まる時に此一致がある。自分を「既成教会の破壊者」と呼ぶ人は誰か。来り見よである。我等の間には教派は忘れられ、只愛の交際があるのみである。報告書の終りに曰く
  集会後に正子様は例になき大機嫌で、御手に絵ハガキ鶴の嘴の上に小供の乗つてゐるのを御持ちになり「ヂヂからヂヂから」と大喜びで皆んなに見せて居られしを拝見して、喜びは正子様にまで及んだとて大喜びしました
と。之ではヂヂ破顔快笑を禁じ得ない。
 
(276) 一月十九日(木) 今年も亦東京府立第一高等女学校四年生二百三十名が基督教研究の為に我が聖書講堂に来た。讃美歌あり、代表者五人の宗教上の感話ありて、全《まる》で基督教の集会の様であつた。斯教の普及の茲まで至りしを思ふて驚かざるを得なかつた。自分は「宗教の三要素」として、神、霊魂、来世を数へ、其大要に就て話した。終りに一同に代りイエスキリストの神に対ひ、簡短なる祈祷を捧げて此意義深き会合を閉ぢた。
 
 一月二十日(金)晴 近頃殆んど毎日のやうに知人又は姻戚の死去の報知に接する。如此くにして何時かは我が順番が来るのである。此世はまことに死の谷である。此んな不安の所に我が希望を繋ぐことは出来ない。
 
 一月二十二日(土)晴 詩篇三十七篇を読んで非常に感じた。之を「人生実験の歌」と称すべきであらう。全篇四十節を二十一句に別ち、其各句が信仰上の大事実である。五節六節を合せて成れる一句の如き、第八節の初めの一行の如き、第二十五節の如き、孰れも我が実験として語る事が出来る。斯かる言葉を以つて毎日養はるゝ信者は実に幸なる哉である。
 
 一月二十二日(日)晴 午前は満員の集会であつた。「単独の勢力」と題し、イザヤ書六十三章一-六節の精神を述べた。午後は七分の集会であつて、同二章二十二節の「鼻より気息する者」に就いて話した。両回共に自分としては満足なる講演ではなかつたが、然し何か二三、福音の大なる真理を語つたと思ふて自己を慰めた。永い間の聖書講演であつて、不満足なる事は幾回となくあつたが、神の御憐憫を蒙りて今日に至るまで之を継続する事が出来て感謝の至りである。遠からずして之を廃めねばならぬ時が来るのであるが、其時はさぞかし悲しい事であらふと、今より考へて恐ろしくある。
 
(277) 一月二十三日(月)曇 或る教会では『聖書之研究』を呼んで「豆莢《まめがら》雑誌」と云ふと聞いた。まことに好い名である、採つて以て此雑誌の名となしたくある。信者が読むには足らず豚が食ふべき豆莢雑誌であると云ふ。それであるから「読む勿れ」と今日まで長の年の間、教会の人々に忠告し来つたのである。然し幸か不幸か此豆莢雑誌を読む者が絶えないのである。今年も読者の数が少し増したらしくある。余輩は教会外の豚に豆莢を供するを以つて満足する者である。噫、来る勿れ、読む勿れ、教会の聖徒よ、而して余輩に休息と余裕を与へよ。|余輩をして豚の教師たらしめよ〔付●圏点〕。聖徒を謝絶するの特権を余輩に与へよ。「豆莢雑誌」! 有難く此名を頂戴する。
 
 一月二十四日(火)晴 牛津大学前教授 A・H・セイス著『考古学と高等批評』を読んだ。百二十八頁の小著述ではあるが、旧約聖書を研究するに方て最も有益なる書の一つであると言はざるを得ない。今より三十年前にセイス氏の著書を大分に読んだ。此書はそれ等の著書の摘要と称して可なる者である。高等批評は主として聖書の文学的研究であるが故に当にならない。之に対して考古学は科学的事実であつて信頼するに足る。そして考古学に依て見た旧約聖書は堅い基礎の上に立つ書である。原名は左の通りである。
  Monument Facts and Higher Critical Fancies.By A.H.Sayce, LL.D.,D.D.
東京九段向山堂書店に於て得らる。定価は郵税を合せて一円五十一銭である。此道の人に取りては再読三読の価値ある書であると思ふ。
 
 一月二十五日(水)晴 「日々の生涯」は今年よりは四頁に止めんと思ひし所、今月も亦思はず旧《もと》の八頁に成つて了つた。自分の生涯を記くのであつて、読者の精読を煩はす程のものでない事を能く承知してゐる。さり乍ら(278)研究一方で他に何の変化もない此雑誌に、何か肩の凝らぬものを加ふるとすれば此位ゐのものである。そして単に自分の日記では無い積りである、日記体に綴りたる修養談である積りである。憶説は記かず、実験をのみ録す積りである。無益の記事ではないと思ふ。
 
 一月二十六日(木)半晴 朝より来客絶えず、差したる仕事は何も為し得なかつた。此世の中を思へば善事とては一もあるなく、万事悉く非なりである。然し乍ら神は在し給ふ、彼は罪の此世を審判きて光明と正義とを招来し給ふ。そしてパウロが曰へるが如くに、彼は義の冕《かんむり》を凡て彼の顕はるゝを慕ふ者に与へ給ふ(テモテ後書四章八節)。人と云ふ人が凡て短き此世の生涯の為に其全力を注ぎつゝあるを見て、彼等は凡て狂ふてゐるのでは無い乎と思はれて困る。
 
 一月二十七日(金)晴 此世は総て悪くある、然し神は善くある、そして彼に倚る者は総て善くある。我等神に倚頼みて悪き世に在りて善くある事が出来る。此事に就き他《ひと》は他であり、自分は自分である。此事に就て丈けは強ひて努めて責任と恩恵を頒つ事が出来ない。地獄の火の中に在りながら天国の清涼を楽しむ事が出来るのが信仰の力である。まことに有難い事である。されば吹けよ荒れよである。我が磐なる神の懐に抱かれて、暴風荒れ狂ふ今日の此世界に在りて春の長閑《のどけ》さに常に極楽鳥の囀づる声を聴きながら、間断なき平安の生涯を送る事が出来る。
 
 一月二十八日(土)雨 我聖書研究会々員の一人、東京女子大学々生なる吉原ヒロ子今日永眠し、其父より左(279)の電報を受取つた。
  主の前で再た皆んなと会ひませうと家族に語り、医師看護婦に至るまで握手、サヨナラと挨拶し、苦悶の内より更にハレルヤの言葉を残し、今最後の眠りに入りました。午後五時十五分。吉原
此は死ではない、眠りでもない、美国《よきくに》指しての旅立である。如此くにして二十歳の短命は百歳の長寿よりも遥に貴くある。之を名づけて恩恵の死と云ふ。キリストに導かれて光の国に渡つたからである。我等も彼女の声に合してハレルヤと叫ぶ。
 
 一月二十九日(日)半晴 泥路にも拘はらず午前と午後と合して前回同様四百人の聴講者があつた。午後の青年の組が殊に盛んであつた。午前は「波上の歩行」と題し、馬太伝十四章二二-三三節を、午後は「理想と実際」の題下にイザヤ書二章より六章までの大意第一回を語つた。愛国者として見たるイザヤを紹介するは非常に愉快であつた。今日の教会では預言と愛国とを語らざるが故に、之を自分特有の領分として説く事が出来て安心且満足である。時に思ふ、若し旧約の預言書のみを説くならば、教会に就て語る必要がなくしてさぞかし善くあるであらうと。高尚なる武士道を説くやうであつて、爽快窮りなしである。
 
 一月三十日(月)半晴 疲労ボンヤリの月曜日であつた。日曜日に余りに多くの人に会ふが故に、月曜日には何人にも会ひたくない。唯独りで居て、此世以外、人間以外の事に就て考へたい。太古のバビロン史、パウロの来世観等に注意を惹かれる。
 
 一月三十一日(火)晴 茲にまた今年の第一月を終る。晦日であつて人は「掛け取り」で多忙である。同胞よ(280)り「取れる丈け取つてやれ」と云ふのである。鬼のやうな人達である。人生の目的は金を得るに在りと教へた人は誰である乎。日本の将来が案じられる。|近き将来〔付△圏点〕が案じられる 〇米国オレゴン洲ポートランド在住某君よりの新年書状に由れば、君は今より二十四五年前に九州某地に於て『聖書之研究』を手にし、それが機会と成りて基督信者に成り、後、渡米して彼地の美以教会に入り、今は其有力なる信者として沿岸到る所に伝道しつゝあるとの事である。同君の如き人の他にも多く有る事を自分は知つて居る。然るに自分を教会の破壊者と見做し、『聖書之研究』の購読を禁ずる教会の監督、牧師、長老達の尠からず有るを聞きて、自分は其理由を知るに困しむ。自分は自分の方より教会の人達には成るべく研究誌を読まざるやうに勧めて居る。又教会の人が自分の集会に来らざるやう凡ての手段を講じて居る。然し乍ら自分等の努力が空しくして、時に彼等が自分等の感化に触れるやうな場合があれば、彼等に成るべく彼等所属の教会に忠実なるやうに勧めて居る。斯く言ひて自分は教会者に親愛して貰ひたいのではない。然れども「名誉のある所には名誉あれ」である(ロマ書十三章七節)。自分は無数会信者であるが、日本人であるが故に、凡ての人を敬ふの心を以て教会の人をも敬ふ積りである。
 
 二月一日(水)晴 寒い日であつた。校正が始まつた。南米ブラジル国の地理歴史を読んだ。まだ広い国が残つてゐる。地球はまだ若くある。人口増殖を心配するに及ばない。外にシベリアもある。カナダもある。希望を以つて安心して発展を計るべきである。
 
 二月二日(木)曇 両雑誌の校正日である。英文雑誌は今月限りと思へば行先きが見えて楽しくある。今日の日本に「困つてゐる人」、即ち金銭的に行詰つてゐる人の多いに驚く。斯んな人がと思ふ人までが負債に困しんでゐると聞いて喫驚《びつくり》する。是れでは社会が其根柢より崩れつゝあるは無理でない。日本人全体の不信が彼等をし(281)て茲に至らしめたのであると思ふ。敢て富裕と云ふにはあらずと雖も、負債に困しむ必要はない。「汝は多くの人に貸す事を得べし、然れど借る事あらじ」とは神を信ずる者に彼が約束し給ひし祝福である(申命記十五章六節)。負債に困しむは滅亡の前兆である。最も警戒すべき事である。
 
 二月三日(金)半晴 校正と原稿書きにて全日を終つた。聖書を手にして書くべき事は尽きない。世は普通選挙にて騒がしくあるが、我家は太古の如くに静かである。何も愛国心が無いからでない、愛国の方向が違ふのである。神と自由と永生とを知らざる国民の選択は無効であると思ふからである。何もケチを附けるのではないが、普通選挙も亦今日の日本に於ては失敗に終るであらう。文明の基礎を作らないで文明を植えんとした結果が茲に至つたのである。
 
 二月四日(土)晴 寒明けの立春である。誠に楽な寒中であつた。信仰を離れたる商人実業家にして耻かしき事業の失敗を重ぬる者の続々と有るを見て、信仰の単に霊魂の事に非ざる事を熟々《つく/”\》と感ぜしめらる。自分の視る所に由れば長引く我国の財界不振の原因は道徳的であつて、経済的でない事を。此は多分日本人の霊魂を改造するまでは取除く事の出来ない不幸事であらう。何もかも経済と言ひ来りし日本人全体の心的状態が彼等をして茲に至らしめたのであらう。罪は勿論明治時代の政治家にある、そして亦彼等を偽はりの道に誘ひし学者に在る。「預言者は偽はりて預言し、祭司は彼等の手によりて治め、我民は斯かる事を愛す」とヱレミヤが曰ひしは斯かる事を言うたのであらう。
 
 二月五日(日)晴 午前午後共に二百人余りの聴衆があつた。講堂が又復狭隘を告げ困つた者である。午前は(282)「人生の最大問題」と題し路加伝十六章十九節以下に由り「イエスの死後生命観」の第一回を講じた。午後はイザヤ書第二章の大略を「実際のユダとヱルサレム」の題下に話した。両回共に稍や満足なる講演であつた。講演終へて後は頭がボンヤリして仕舞ふ程に疲れる。然し問題が問題であるから直に元気に復する。世には衆議院議員に成りたいとて其勢力を消費する人達が沢山にある。彼等に比べて見て自分の方が遥かに慧《かしこ》くあると思ふ。
 
 二月六日(月)雪 訪問者一人もなし。独りで静かに両雑誌の校正を了つた。講演は四五百人に語る為め、雑誌は四五千人に語る為である。昨日は脳を使ひ、今日は眼を使うた。福音の為である、疲労を厭はない。然るに余りに宗教をのみ多く説いて倦怠を感ずる、故に校正了へて後に鰊と鱈とに就いて読んだ。健全なる変化であつた。
 
 二月七日(火)晴 雪晴れの好天気であつた。宗教を忘れんが為に考古学と魚類学とを読んだ。斯かる健全なる趣味を与へられし事を感謝する。
 
 二月八日(水)晴 北風寒し。英文雑誌の校正を了つた。肩より大なる重荷が下り、新たに自由が臨んだやうに感じた。珍らしく魚類学書を取出し、八目鰻並に|めくら〔付ごま圏点〕鰻に就いて読んだ。下等動物ではあるが、世界的大学者が其研究に没頭した跡を尋ねて、造化は何処を探つても真理の無尽蔵なるに驚いた。夜は二十年間加州バークレーに在住せし旧き信仰の友なる信州小諸町の佐野寿君夫婦の訪問を受け、一別以来有りし事に就て語り合ひて楽しき時を過した。変らざる友は幾年経つても変らない。斯くして天国まで同行するのであらう。
 
(283) 二月九日(木)晴 詩篇第五十五篇を以つて此日を始めた。其十二-十四節が自分の言の如くに感ぜられた。詩篇全部が信者の言である。善きも悪しきも信者の経験する事は悉く其内に言表はされてあるやうに見える 〇好天気を利用し、丸善書店に行き J・E・カーペンター著『ヨハネ書類』一名『黙示録並に第四福音書の研究』外一書を購入した。斯かる書籍が宗教書店ならぬ丸善に於て得らるゝから不思議である。魚類学書類を求めんとして行いて神学書類を得て帰つた次第である。
 
 二月十日(金)半晴 聖研第三百三十一号を発送した。今年に入つて又復少しく発行部数が殖えた。九州、朝鮮、台湾等西南方面に読者が急に殖えた事が著しき現象である。本誌は長の間、東北七分西南三分の割合であつたが、近頃に至り東西相半ばするに至り、やゝともすれば西が東を凌駕せんとする形勢である。我国の精神的中心は依然として西に在るが故に、西方の発展は最も好ましき事と云はざるを得ない。
 
 二月十一日(土)雪 英文雑誌の終刊号を発送した。是で先づ重荷を一つ卸したのである。担はずとも可い重荷であつた乎も知らない、然し終には担はずばならぬ重荷と成つた故に、最善を竭して担うたのである。そして担ひ通うす事が出来て感謝である。神のみ万事を知り給ふ。彼に委ねまつりて万事は安全である。|より〔付ごま圏点〕小なる雑誌の始末を附けてより大なる雑誌に善き終結を与ふるの練習を為したの乎も知れない。始むるは易くして終るは難くある。|願ふ神の恩恵に由りて我が長子『聖書之研究』を立派に終るを得んことを〔ゴシック〕。
 
 二月十二日(日)晴 雪後の悪路に拘はらず午前午後と合せて三百五十人程の参会者があつた。午前は前回に引続き路加伝十六章十九節以下に示されたるイエスの死後生命観に就て述べた。彼は或事に就ては人が思ふより(284)も狭く、或事に就ては人が思ふよりも広しと言うて其例を示した。午後は「ヱルサレムの婦人」と題してイザヤ書第三章の要点を述べた。午前は主として大人のため、午後は青年の為の集会である。午前の厳粛なる、午後の活気ある、聖日毎の霊的大饗宴である。
 
 二月十三日(月)晴 チエムバース百科字典第十巻即ち最後の巻が配達に成り、多くの精読資料を供し、毎日知識の饗応に与りつゝある。英国百科字典の如くに厖大ならず能く各項の要点を与へ、自分位ゐの知識程度の者を益すること多大である。人を教ゆる事多くして教へらるゝ事少き自分の如き者は斯かる大教師を座右に供へて時々刻々指導を受くる必要がある。第九巻に於けるプフライデレルの物せる Schleiermacher 並にアルフレツド・ワレスの撃せる Spiritualism の二項の如き軌れも千金の価値ありと言はざるを得ない。宇宙人生の最大問題に就き教へられ又教ふるに優さるの幸福はない。第十巻は八百十九頁の大冊で其代価は僅かに十二円、中学校の授業料一学期分に過ず。読書の恩恵も亦大なる哉。
 
 二月十四日(火)雪 旧暦に由る我が誕生日であつた。六十七年前、文久元年酉年の今日、今の本郷区真砂町三十番地、当時の松平右京亮邸に於て、男子生れたりとの報に接して我が父は喜んだ事であらう。彼は其嬰児が六十七年後に斯んなに成らうとは少しも思はなかつたであらう。自分も亦斯う成らうとは少しも欲《おも》はなかつた。全能者に余儀なくせられたのである。聖旨をして成らしめ給へと言ふより他に怎〓《どう》する事も出来ない。
 
 三月十五日(水)晴 久々振りにて日本銀行に往き、英文雑誌廃刊の手続きを済ました。是で先づ雑誌が元の通り一つに成りて肩の荷が非常に軽くなつた次第である。小なる雑誌ではあつたが何しろ世界を相手にする者で(285)あつたが故に責任は非常に重くあつた。之を廃めて生命はたしかに十年位ゐ延びたらうと思ふ。此んな危い仕事を試むる者は日本人中に自分を除いては他に一人もあるまい。神、我を助け給ひて無事に之を終らしめ給ひしは大々的感謝である。
 
 二月十六日(木)曇 普通選挙で全国到る所騒擾を極む。自分も選挙権を与へられて如何にして之を使用せん乎とて苦心する。
  清き一票は有るも之を与ふべき消き政治家は無い、故に棄権する。
  悧巧者は箒で掃く程ある、然れども人物は一人も無い、故に名誉の棄権と肚を決めた。
是れが今日の純なる日本人の声である。大いに考へさせられる。
 
 二月十七日(金)半晴 日向都城日本基督教会牧師園部丑之助君より左の如き書面が達した。
  本月の誌上に「日々の生涯」欄縮少の御希望の由承はり候得共、寧ろ拡大してこそ可然と存じ候。同志の友人の経験は不思議にも研究誌を第一頁より読むよりは「日々」欄から読み初むる様見受けられ候。論理を後に、実際生涯を先きに致し度きが人情の然らしむる所かと存候云々。
他にも同一の意見を申越されし誌友があつた。彼等の意見に従ふより他に途がない。筆執る者の生涯は甚だ単調なるものであつて変化とては殆んどあるなく、|読み、語り、書く〔付ごま圏点〕より他に殆んど為すことなき生涯なるが故に、之を読者に伝へたればとて何の興味も無かるべしと思ひ、時々廃欄を思ふ次第である。然し益あるとの事なれば継続するまでゞある。読者諸君の御加祷を要求する。
 
(286) 二月十八日(土)晴 世は引続き選挙で騒いでゐる、然し自分は之に対し別に興味を持たない。それは自分が政治を嫌ふからでない、|争ふぺき大問題の無い選挙に関与する必要が無いからである〔付△圏点〕。今や何れの政党も其政策として発表する所のものは何れも似たり寄つたりであつて、何れの政党に与みするも其の為さんと欲する所にたいした変りはない。故に何れの政党が勝たうも結局多く異なる所はない。何故もつと大問題を提げて争はないのである乎。軍備大縮小とか、国家的禁酒とか、米国の排日法に対する排米法案とか、数へ来れば大問題はいくらでもある。然るに之を措いて何人も唱へ得る政策を掲げて多数の投票を得んとするやうな、そんな政治運動に自分は参加する事は出来ない。何れにしろ自分のやうな者は此世の問題には凡て携はらざるを可とする。宗教家は政治に携はるぺからずと云ふには深い理由がある。彼は此世以外の事を取扱ふ者であるからである。「我国は此世のものに非ず」とイエスが言ひ給ひし通りである。
 
 二月十九日(日)晴 両回の集会に変りなし。朝は馬太伝廿二章廿三-三三節を本文として「復活と其後の状態」てふ題目の下に語つた。随分と骨の折れる講話であつた。午後はイザヤ書第三章十三節以下に依り、前回に引続き、「ヱルサレムの婦人」に就て語つた。事は考古学の研究に渉り、是れ亦余り信仰を勧むるに足る講演でなかつた。説教に非ず研究なるが故に、或時は学究的なるは止むを得ない。唯然し福音を説くは楽しくあつて、其他の事を説くは楽しからざるは事実である。何れにしろ、世は政治運動に熱狂しつゝある此際に、我等数百の同志が此聖日、或は未来の天国を語り、或は太古の歴史を探るは、如何に楽しく、如何に福ひなるよ。斯かる時に我等は詩篇十六篇六節の言を我が言として口ずさまざるを得ない、「準縄《はかりなは》は我が為に楽しき地に落ちたり、宜ぺ我れ善き嗣業《ゆづり》を得たる哉」と。
 
(287) 二月二十日(月)晴 普通選挙最初の投票日である。一時は棄権と決心したが、翻つて思うた、是れ故島田三郎君、同河野広中氏、尾崎行雄君等の政界の清士が努力奮闘して国民の為に得た権利である。之を理想的に用ふる能はざればとて使用せざるは、是等の諸士に対して申訳なき次第であると。斯く思ひ返して軽微のレウマチスを病む重き足を引きづりながら投票所に行き、朝報社時代の同僚なる民政党公認候補者斯波貞吉君に我が一票を投じた。民政党が他党に勝さりて特別に善いと思うたからでない。若し投票するとすれば、我区の候補者中、自分の知る範囲に於て斯波君以上に確実なる人を看出す事が出来ないからである。政治は此世の事であつて到底完全を期する事は出来ない。今日棄権しなかつた事は悪い事ではなかつたと思ふ。
 
 二月二十一日(火)晴 選挙の結果を知らんと欲して人々は緊張してゐる。「投票箱より正義は生れず」とカーライルが曰うたが其通りである。投票の結果は如何であらうとも日本がそれが為に善くならない事は確かである。自分に取りては一人の少女を天国に送る方が、大政治家を議会に送るよりも遥かに興味が多い 〇札幌通信に曰く
  正《まー》ちやんは誰も教へないのにねえや(女中)のことはネエヤ|サン〔付○圏点〕と言ひ、決して威張つた口はきかず、下から出て頼んで居ります。御飯の前には叮嚀に|おじぎ〔付ごま圏点〕をしてアーメンと申します云々
と。是は好い兆候である。アーメンと云ふは信仰である、女中は敬ふは行為《おこなひ》である。アーメンを口に唱へながら下の者を労《いたは》らざる者は基督信者に非ず、亦我が子にも孫にもあらざる也。
 
 二月二十二日(水)晴 井戸の改築を行つた。温泉に二三日遊ぶ位ゐの代価を以つて我が家に在りて地下の清水を飲み得るに至つた。大快楽の一である。民数紀略二十一章十七節を思ひ出さゞるを得ない。
(288)  時にイスラエル此歌を歌へり曰く「井《ゐど》の水よ湧きあがれ、汝等之が為に歌へよ」と。
職人共の善く働くに感心した。
 
 二月二十三日(木)晴 近頃は毎日家中総掛りで英文雑誌の前金の残りを読者に返送しつゝある。随分の面倒である。然し研究誌廃刊の時の下稽古として甚だ有益である。二十八年来読者払込の前金は神聖に保存してあるから、廃刊の時に何人にも損害を掛けない積りである。願くは立派に之を終らん事をとは日々の祈りである。
 
 二月二十四日(金)晴 総選挙は終つた。然し事は決定《きま》らない、而已ならず反つて悪化した。今より後は勢力相伯仲する二大政党の競争軋轢で日本国民は苦しまねばならぬ。然し如何なつても我等は動かない積りである。我等の安定の基礎は政府又は教会に於てない。世に同情はするが、平安の源を彼等に求めない。
 
 二月二十五日(土) 或る工場に働いてゐる或る読者より「豆がら雑誌といふ方に」と題して左の平民歌を送つて呉れた。
   一、まめがら雑誌と言へば言へ
     わたしや|から〔付ごま圏点〕でも棄てられぬ
     から〔付ごま圏点〕で血となり肉となる
     そんな雑誌がどこにある。
 
   二、まめがら雑誌で太るのは
(289)     犬や豚かの類なりと
     いふ人々はいはしやんせ。
     わたしや豚です犬けむし
     なんのとりえもなき者なれば
     お米の御飯はもつたいない。
     まめがらなりともあさります。
 
   三、飢えたる者は藁しべさへも
     おいしい/\とたぺられる。
     神のめぐみを何んとせう。
     かしこい人の言ふことに
     耳をかさずに歩みませう。
     我がはらからよ兄弟よ
     天国さして参りませう。
     エス様血潮を信じづゝ。
     実にも貴いこの雑誌
     汝の成長祈るぞや。
此はまことに貴い同情である。此んな同情のある間は「豆莢雑誌」は廃められぬ。
 
(290) 二月二十六日(日)晴 集会に変りなし。但し午後は平常より大分に淋しかつた。然し静かなる研究には頃合であつた。午前は「永生の基礎」と題しルカ伝二十章三七、三八節を講じた。近代哲学が漸くさつとイエスの永生観に達したと説いた。自分としては甚だ満足なる解釈を主の此言葉に与へたと思うた。午後は「潔められしヱルサレム」と題しイザヤ書四章を説明した。多く聖書を知らざる若き人達に此説明を為すは随分六ケ敷かつた。孰れにしても骨の折れる真剣の仕事である。政党の人達が菰被《こもかぶり》何十樽ビール何千本を飲んで選挙に於ける勝利を祝したりと云ふとは全く貿を異にする仕事である。神の御目の前に人に窮りなき生命を与へんとする仕事である、故に之を為して後にガツカリ疲れるは無理はない。然し祝福されたる仕事である。
 
 二月二十七日(月)晴 多くの面白い書面に接する。太平洋上に於て認められたる或る若き船員よりの音信に曰く
  今私は北太平洋を東に向ひつゝあります、非常に寒くあります。風は激しく波は山の如くであります。然し私の魂は深く救主に錨を下して動きません、感謝の歌は常に上ります、暗き夜の当直に立つて北の烈風に讃美の歌を太平洋に吹き散らします。何の見るものなき生活でありますが晴れの夜の空は何と美はしく壮大でありませう。オリオン星座は慰め強めます、シリヤスとキヤペラは青く輝いて希望を与へて呉れます。総て主に在りて可からざるはなしであります云々。
誠に勇ましい生涯である。「海よ海よ我を広くせよ」である。陸に在りて小競争《こぜりあひ》を為し、同胞相攻むるに比して何んと幸福なる生涯でない乎。世界は広し、小なる島帝国に寿司漬《すしづ》けになりて押潰される必要はない。広い広い(291)神の国に行く前に広い世界がある、有難い事である。三首が浮んだ。
   上は空、下は際なき太平洋
     カナダの原野《げんや》指して我れ往く。
   オリオンの帯に引かるゝシリヤスを
     目標《しるべ》に渡る暗黒《あんこく》の淵《わだ》。
   アラスカやアリユート島を吹捲くる
     風に船舷《ふなばた》打たせつゝ進む。
 
 二月二十八日(火)晴 久々振りにて詩篇第七十一篇を読んだ。有難涙を禁じ得なかつた。是れ老人の祈祷の歌である。青年時代に読んだ時に別に有難味を感じなかつたが、今日之を読んで言々句々悉く我が言たらざるは無い。殊に第十八節の如き、我が今日の祈祷である。
  神よ願くは我れ老いて頭髪白くなるとも我を離れ給ふ勿れ。
  我が汝の力を次代《つぎのよ》に宣伝へ、汝の大能を世に生れ出る凡の者に宣伝ふるまで我を離れ給ふ勿れ。
信者に取りては長命は神に奉仕する為めに望ましくある。我に猶ほ宣伝ふべき多くの福音あれば、其|御事《みしごと》を終るまで我を此世に残し給へと祈るまでゞある。
 
 二月二十九日(水)半晴 英文雑誌廃刊に由り寛ぐこと甚だしく、毎日少しづゝの閑を得て和蘭領東印度の地理を読みつゝある。実に広大なる領土である、本国の六十倍である。スマトラ一島丈けで日本よりも大きく、九州四国位ゐの島嶼は幾箇でもある。実に南洋の楽天地である。如何にして之を開発すべき乎は世界の問題とし(292)て存つてゐる。平和の方法を以つてすれば日本人が之に携はり得ないとも限らない。何れにしても地球はまだ若くある。失望するに及ばない。
 
 三月一日(木)半晴 Y・T君対N・Kさんの結婚式を行つた。自分が行つた第三十六回目の結婚式であつた。第一回に成りし家庭に生れし男子ほ今年大学に入るとの事である。式の事には最も不得手なる自分に取り甚だ苦しき勤めであるが、或る場合には之を辞する事が出来ない。徹頭徹尾酒精一滴をも用ひざる結婚式であつた。
 
 三月二日(金)雨 静かなる休息の一日であつた。此の二三日来「基督教の中心点」に就いて考へた。それは『羅馬書の研究』に於て述べしが如くに、羅馬書三章より八章の間に於て在らねばならぬと信ずる。自分を其処に置いて聖書を見て、すべてが明瞭に成る。基督教は何んであつても律法又は規則又は教理又は儀文でない。|信仰を以つて受くべき神の恩恵である〔付○圏点〕。若し他人を以つて自分の立場を弁護せんとするならば自分はパウロ、アウカスチン、ルーテルを引合に出すまでゞある。若し古への日本人の中に自分の同信の友を看出さんとするならば、自分は恵心、法然、親鸞を指名するに躊躇しない。一言にして曰ふならば、自分の信仰は「自分がどんな悪人であるにもせよ信ずれば-然り|唯信ずる事に由て救はる〔付○圏点〕」と云ふ信仰である。故に今日の米欧渡来の基督教とは大分に趣きを異にするを認めざるを得ない。
 
 三月三日(土)晴 「雛祭り」である。然し孫女がゐないのでツマらない。雑誌校正が一日の仕事であつた。楽しく一生を送るの秘訣は善い人を見て悪い人を見ざる事である。縦し善人は千人中の一人であるとも、目を其一人に注げば残りの九百九十九人までが善く見えて楽しくある。そして一人の善人の為に我が全力を注ぐの充分の(293)価値がある。人を集団《マツス》と見る時に我が熱心は衰ふ。其内の善き一人を我が目当として我に天使を接待《もてな》さんと欲する熱心の湧き出づるを覚ゆ。
 
 三月四日(日)晴 朝は馬太伝十八章十節に由り「活動の来世」と題し、午後はイザヤ書第六章の研究準備として「聖召」に就いて語つた。両回ともやゝ満足なる集会であつた。全体に渉り来会者の真剣なるに驚く。斯かる真剣味は教会に於ては見る能はずと聴衆中の教会通は云ふ。若しさうであるとすれば感謝の至りである。
 
 三月五日(月)雪 束京には稀に見る大雪である。終日炉辺に坐して読書した。馬来人種と其頒布と文明とが興味多き研究の題目であつた。馬来人種は島国人種である。世界の七大島中、大英国を除く外のニューギニー、ボルネオ、マダガスカー、スマトラ、日本本土はすべて馬来人種の住所である。日本人は半ば蒙古人種で半ば馬来人種である。そして日本人の気質に確かに馬来人種特有の気質を見る。馬来人種を知らずして日本人は解らない 〇 年此の雑誌を読み来りしが、他に|より〔付ごま圏点〕善き機関を看出したれば廃読するから発送を止めて呉れと或人より云ふて来た。普通の情としては快くなかつたが彼の為め亦我が為を思ふて喜んだ。彼が満足を得たるを喜び、我が責任のそれ丈け軽く成つた事を喜んだ。斯かる場合が時々ある、そして其場合には自分もパウロと共に曰ふ「我れ之を喜ぶ且常に喜ばん」と(ピリピ書一章十八節)。但し此日一人の旧き読者を失つて新たに三人の読者を得た。喜んで宜いか悲んで宜いか自分には解らない。
 
 三月六日(火)晴 麗はしき雪のあしたであつた。皇女久宮様の御重症を御心配申上げた。雑誌三月号の校正を終つた。雑誌が一箇に成つた為に編輯校正に力を入れる事が出来、前の通りに主幹たるの職務を十分に尽す事(294)が出来て満足であつた。無理は決して為すものでない。雑誌二箇はたしかに無理であつた。思ひ切つて其一を廃刊して善き事を為した。
 
 三月七日(水)晴 寒い日であつた。馬来群島の地理動物に就て読んだ。生涯の方針に迷ふ或る若い人に言ふて聞かした。「世を征服しやうと思ふては可《いけ》ません、之に奉仕せんとしなさい、さうすればアナタの運命が開けます。成功是れ征服と思ふから人生は辛らく思はれるのであります。成功是れ奉仕と知れば何人も成功し得られるのです。アナタも亦多くの近代人と同じく近代思想に毒せられて、他を征服して御自分に幸福を求めんと欲して居られたのでありません乎」と。彼は之に由つて大分に覚つたらしく、喜んで帰つて行いた。自分も人に説教して亦大いに覚らしめられた。
 
 三月八日(木)晴 皇女久宮今暁御隠れ遊ばされ一同涙に咽んだ。全国民と悲みを共にす、悲しくもあり又美はしくもある 〇方面を異にせる友人二人より先般行はれし総選挙の内幕を聞き呆れざるを得なかつた。若しそれが事実ならば日本国は精神的に既に亡びてゐるのである。此上之を救はんと欲するが如き無益の業と称せざるを得ない。世人が自分の如き者を迂闊千万の奴と見るは怪しむに足りない。大洪水将さに目前に迫らんとしつゝあるやうに思はる。自分丈けは善しとして子々孫々を如何せんと思ふて憂慮に堪へない。
 
 三月九日(金)曇 基督教は何んである乎と尋ぬるよりも基督教は何を教ゆる乎と探る方が遥かに有効である事に気附いた。基督教の為に戦ふて多くの無益有害の戦ひを闘はざるを得ない。然れども基督教の教ゆる真理の為に戦ふて、戦ひにすべて意義があつて、亦敵と味方とを見別くるに容易である。如此くにして今の所謂基督信(295)者又は基督教会なる者の多くはキリストに反く者なる事もよく判明る。遅れたりと雖も此事が判明つて大なる感謝である。
 
 三月十日(土)雨 浅草教会牧師永井直治君の新約聖書の新日本訳に序文を寄贈した。大なる喜び又名誉であつた。二十五年前に自分が為さんと欲せし事業である。而して自分が為す能はざる事を今永井君が為して呉れたのである。何人が為しても可いのである。自分は少しなりとも聖書に対する興味を我が同胞の間に喚起する事が出来て感謝である。
 
 三月十一日(日)曇 雨後の泥路に拘はらず午前午後合せて三百人少し以上の来会者があつた。午前は「イエスの永生体に就て」、午後は「基督教は何を教ゆる乎」と題して語つた。前は霊肉の関係に就て語るのであつて随分と困難であつた。後は基督教の根本は自己に死して自己なき愛の神の子となる事であるとの、何人にも解し得らるゝ明白なる真理を述ぶるのであつて、述ぶるは易くありしと同時に、効果も亦多かつたと思ふ。基督教の根本程明瞭なるものはない、唯之を実現するのが非常に困難である。それが為の人生、教義、制度、其他のすべてであるに相違ない 〇雑誌第三百三十二号を発送した。部数は又復少し増したらしい。敢て拡張を計りしにあらざるに。
 
 三月十二日(月)半晴 昨夜までに六回に渉りラヂオに由る文学博士鳥居竜蔵氏の人類学及び考古学の講話を聴いた。自分に取り近頃此んな有益な講話を聴いた事はない。自分の有する人類学の知識が之に由て生きて来たやうに感ずる。実に驚くべき科学である。之に由て人類の過去並に将来に関する思想が一変せざるを得ない。人(296)類はアダムとエバとを以つて始まつた者であるとは、いくら聖書に書いてあるにせよ如何しても信ずる事は出来ない。斯かる信仰を今日に強ひんとすれば唯一笑 附せられて斥けらるゝまでの事である。然し乍ら鳥居博士が明白に示されし通りに(氏は天主教信者であると聞く)近代人類学はモツト深い意味に於て聖書の人類観を証明する。人類は特殊の動物である事、その宗教心は夙く既に何十万年前の旧石器時代に於て発達せし事、人類の長い発達の歴史に於て摂理として認め得べき節が幾回もありし事、是等は自分が今回鳥居博士より学びし貴き知識であつて、尠からず自分の信仰を補うた事は確かである。家にラヂオを据附けて以来、今度程其有難味を感じた事はない。
 
 三月十三日(火)晴 英文雑誌 J・C・インテリゼンサー廃刊に就き在英国オクスフホードの好本督君より左の如き通信があった。
  拝啓、J・C・I 本月限りと知りまして、英人読者中より惜まれます。その一人より別に金一ギニー(十一円余)を些少乍ら御手許へ志の|しるし〔付ごま圏点〕として御送り下さいと申して来ました。或る一英人は日本からの J・C・I に接して本当な信仰を非常に強められたと感謝しました。宣教師連の間には喜ばれませんでした。その一人は全く私の宅へ来なくなりました。然し支那内地伝道会社(其本社は英国に在り)の役人の人々には喜ばれました云々
と。斯くて我が英文雑誌が英国に於て善き読者を持ちし事を感謝する。米国に於ても有名なる評論家ポルトネー・ビゲロー氏の如きは熱心なる愛読者であつた。言ふまでもなく之を嫌つた者は主として宣教師であつた。殊に自分と全然信仰の立場を異にするメソヂスト教会並に組合教会の宣教師達であつた。
 
(297) 三月十四日(水)曇 中国の或る教会では自分の事を「彼は聖書学者であるが信仰家でない」と云ふてゐると或人より知らして来た。誠に結構である。何故モツト思ひ切つて彼はクリスチヤンに非ずと云ふて呉れぬ乎。教会に信者として認められない事は多くの点に於て幸福である。自分は未だ曾て一回も自分を信仰家として認めて呉れと教会に頼んだ事はないと思ふ 〇人が自分を憎む時に其人を憎み返せば其人の為にもならず又自分の為にもならない。其場合に其人の為に祝福を祈つてやれば、彼の益にもなり亦自分の益にもなる。そして此心を以て凡ての人に対すれば憎まるゝ事が少しも苦痛でなくなる。|愛は憎の消火剤として最も有効である〔付○圏点〕。
 
 三月十五日(木)晴 富士見町教会員卜部幾太郎氏の故横井時雄君訪問記に同君の言として、左の言が見えた。
  僕は、斯うして病床に在るけれども、植村君や、内村君のことは一日も忘れた事はない。植村君と内村君とは日本に於いて最も大切なる人である。此の両君は事実に於て日本を指導して居るのである。けれども日本人は此の重大なる事実を知らない。世間はこの事実を知らないけれど、両君は日本の国家に無くてならぬ指導者である。
之れを読んで自分は涙がこぼれた。何も横井君が植村君と一緒に自分を讃めて呉れたからでない、死に到るまで自分を憶えてゐて呉れた事を知るからである。横井君は自分の壮年時代に於ける最良の信仰上の友人であつた。共に日本国をキリストに伴れ来らんと幾度か誓つた人であつた。然るに君の政治界に入りしに由り此親しき関係が絶えた。そして爾来今日に至るまで自分には横井君に代はるべき友人がなかつた。実に寂寥の極みであつた。然し自分は爾来一度も君の誠意を疑つた事はない積りである。君が伝道を去りて政治に入りしには、君の立場としては同情すべき充分の理由があつたのである。懐旧何んぞ堪へん。
 
(298) 三月十六日(金)晴 春寒未だ去らず。感冒性肺炎に罹り死せる者、重態に在る者が知人の内に尠くない。危険なる生命である。何時死ぬ乎解らない。今朝重態に在る教友を見舞はんとして自動車に乗り彼の家に向ふ間に、「朝に道を聞いて夕に死すとも可なり」との古の支那の聖人の言を幾度か我口に繰返した。
 
 三月十七日(土)晴 高等師範学校一人、同女子師範三人、東京女子大学一人、合せて五人、何れも本年の卒業生に今日バプテスマを授けた。例に由り簡短なる厳粛なる式であつた。我等に取りてはバプテスマは入信の必要条件でない、故に志願者の切望に由てのみ授ける。是はイエスと共に愛の生涯を送り、彼と苦難と栄光を共にせんとの祈願決心の表彰である。教権的には何の意味も無い。それ丈け神聖で意味深長である。
 
 三月十八日(日)晴 麗はしの聖日であつた。午前午後共に集会は大分に賑かであつた。午前は前回に続き「イエスの栄光体」に就いて述べた。近代精神科学を混へたことゝて説教が講義に化し自分ながらも恩恵の言葉としては受取れなかつた。然し信者は毎日己が復活体を構成しつゝありとの見方は熟考の価値ある者であると思ふ。午後は「イエスは如何なる意味に於て神の子なる乎」と云ふ題を以つて語つた。簡短明瞭にして二百の青年男女に対し解し易き善き説教を為したと思ひ嬉しかつた。
 
 三月十九日(月)晴 ルツ子第三十四回の誕生日である。今は地上に在らずと雖も彼女が生きてゐる事は確実である。故に毎年彼女の誕生日を記念する。此日例年の通り御茶之水女子高等師範学校今年度の卒業生にして我聖書研究会々員たりし者の送別会を聖書講堂に於て開いた。来会者十六名、内六名が卒業生である。孰れもキリストの聖名を耻とせずして其職に就くべきを誓うた。誠に気持の好き集会あつた。如斯くにして送りし生徒は(299)今日までに既に数十名あつた、そして其多数は各地に在りて信仰を維持してゐる、誠に頼母しき婦人達である。全然無宗教の官立学校より斯くも毎年善き信者を送出すとは実に不思議である。
 
 三月二十日(火)晴 愈々本当の春が来た。午前九時半東京駅発の特急列車にて塚本と二人で大阪に向つて出発した。久振りの東海道下りであつて沿道の風景に深い懐みを感じた。夜八時半大阪堂ビルホテル内に落附いた。然し関西バビロンの眩《まばゆ》さと騒々しさにて夜中眠られなかつた。
 
 三月二十一日(水)晴 午前十時より中之島公会堂の三階に京阪神『聖書之研究』読者会が開かれた。来会者百人余り、遠くは淡路、美作より来りし者もあつた。塚本先づ「基督教道徳」に就いて講じ、次ぎに自分は「聖書の中心」に就いて話した。来会者は全注意を以つて聴いて呉れた。十二時一先づ閉会、写真を撮り、昼食を共にし、直に感話祈祷に移り、語る者祈る者相次いで間断なく、四時少し前に六時間に渉る充実せる会合を終つた。我等二人も教へらるゝ所甚だ多かつた。閉会後教友二人に案内され、自動車で市中を見物した。旧い大阪消えて跡なしであつた。ホテルに帰り、友人四人と夕食を共にし、八時四十分発の夜行にて帰途に就いた。疲れ切つたる身体は寝台車にホテル以上の休息を得た。
 
 三月二十二日(木)晴 沼津にて床を出た。残んの雪に晴姿を現はす富士の麓を走りながら食堂車に朝食を|したゝ〔付ごま圏点〕め、甚だ勿体なく覚えた。九時東京駅に着けば迎ひの者より牟田熊彦医師永眠の報を聞いて痛く心を撃たれた。三日見ぬ間の桜かなである。四十八時間の伝道旅行も亦悲歎を以つて終つた。
 
(300) 三月二十三日(金)晴 午後二時聖書講堂に於て牟田君の葬儀を執行つた。畔上司会し、自分は馬太伝二十五章三一節以下に由り、君の医師としての美行に就いて語つた。会葬者百名以上あり、盛んなる葬儀であつた 〇式を終へて書斎に帰れば札幌の宮部氏より「野沢君今朝心臓にて死す」との電報を受取つた。死者の多き事よ。農学士野沢俊次郎君は水産学者であつて、札幌独立教会の旧い会員である。近頃信仰を復興せられて、奮つて教壇に立たるゝ由を聞いて喜びしが、今その訃に接して悲しみに堪へない。斯くて旧友旧知相次いで逝く、我が責任の益々重きを覚ゆる。我は一日も長く生きて諸氏に代つて働かねばならぬ。悲歎に沈むべき時でない、奮起すべき時である。「神我を助け給へ」と叫ばざるを得ない。
 
 三月二十四日(土)半晴 沈黙は金であると云ふが、金なる沈黙は絶対的沈黙にあらず、悪を語らざる事である。不平を語らず、悲痛を語らず、殊に他人の悪事を語らず、人生の暗き半面に就いては能ふ限り沈黙を守る。それが金の沈黙である。然れども喜びの福音は之を声を張り上げて語る、我が感謝と歓喜とは之を語つて憚らず、是れ悪事でない善事である。世には沈黙の悪鬼が居る。如何なる場合にも語らず、沈黙を守るを能とし、語るを危険視し、他人をして語らしめて、自分は語るの危険を避けて黙するの利益を収めんとする自己中心の沈黙家が多い。斯かる沈黙は金にも非ず、銀にも非ず、銅にも非ず鉛にもあらず、泥である、味を失ひたる塩である。|金の沈黙〔付○圏点〕に合せて|泥の沈黙〔付△圏点〕の有ることを忘れてはならない。
 
 三月二十五日(日)半晴 午前午後合せて三百人少し以上の来会者があつた。自分は前週の大阪行並に葬儀等にて疲れて|いつも〔付ごま圏点〕の講演は出来なかつた。午前は馬太伝十一章二八-三〇節に依り感想を述べた。午後は大阪講演の背景並に大略を話した。両会回共余り振はなかつたが止むを得ない。講壇に上り得た丈けが増しであつたと云(301)はねばならぬ 〇春が来て少しく歌気分になり、一首を認めて札幌の出張所に送つた。題は「札幌の春を想ふて」である。
   いとし孫摘み取る春の初花は
     昔しながらの我が友と知れ。
此んな事で疲労を癒さんとする。或人は曰ふ、孫を可愛がるは耄碌の兆なりと。或る他の人は曰ふ、人 味を現はして喜ばしと。どちらでも宜しい。
 
 三月二十六日(月)雨 疲労を冒して雑誌編輯に従事した。一方に利益を供すれば他方に損失を招く。全国に与ふべき精力を一地方に与へて益は部分的であつて、損は全般的である。地方出演は容易に為すぺき事でない。
 
 三月二十七日(火)曇 近頃読んだ面白い書の一は英国々教会老功の教師 H・R・Lシエパード著 The Impatience of a Parson(堪え切れぬ牧師の感想)と題する書である。著者は其母数会に対し篤き尊敬を懐くと同時に、其弱点を摘指して憚る所がない。東京の或る聖公会の教師が此書を読んで後に「之は内村に読ましたくない」と云うたとの事に由て其内容の一斑を窺ふ事が出来る。自分は英国の一友人より送つて呉れて、自から求めざるに此教会攻撃の書を読んだ。自分が唱へたと同じ事を今や教会内の人が公然と唱ふるに至つた。そして此書が英国に出でゝ数月ならずして数十版を重ねたと聞いて、保守的の英国に於てすら教会反対の声が如何に高い乎が判明る。教会は今や其根本より改造せられざるぺからず、然らざれば長く其地位を保つ事が出来ない。シエパード氏の反対の如き決して無理な乱暴な反対でない。深い信仰と厚い同情の上に立つ最も合理的の反対である。此声に(302)聴かずして教会は縦し時勢の置去《おきざり》に会ふとも訴ふるに所はないと思ふ。我国の基督教の教師達が各自一本を購ひて精読せられん事を勧む。東京九段向山堂書店にて得らる。代価は二円である。
 
 三月二十八日(水)晴 疲労未だ去らず何事も為し得ず、唯カイムの『イエス伝』第五巻の初めの五十頁を読んだ。旧しと雖も何んと言ふても最大のイエス伝である。人間としてのイエスを尊敬するの余り、福音書の記事を自由に取捨する所は、とても他書に於て見る能はざる所である。斯かる大著述の価値は自から読んで見ねば判明らない。カイムを読まずしてイエス伝を語る勿れと言ひたくなる。然し彼の立場は容易に採用する事は出来ない。
 
 三月二十九日(木)半晴 内村医学士学会に出席せん為に半年振りにて上京した。老夫婦の歓喜譬ふるに物なしであつた。勿論第一に最少者の安否を聞いた。彼女の元気旺盛と聞いて他は殆んど聞くの要なしであつた。肉親の情とは此んなものである。其霊魂と肉体との健かなる事さへ見れば他は語るの要なしである 〇東京女子学院卒業式に出席し卒業演説を為すの名誉に与つた。但し四百の少女に語るには余りに年が寄り過ぎて甚だ具合が悪かつた。大演説も出来ず、去ればとて小演説では彼等が満足せず、高壇に立つては見たものゝ如何言ふて宜しきや解からずして頗る苦心した。二三の平凡を述べて壇を降つた。学校に対して甚だ済まなく感じた。
 
 三月三十日(金)小雨 親子三人久し振りで相会して話は尽きない。可笑かつた事、腹の立つた事、困つた事、種々様々である。然し万事の下に人生の真剣味がある。何か永久的事業を為さねばならぬ事、其点に於ては親も子も一致して居る。其方法は各自の択む所に従ふ、然し何を為しても浮気であつてはならない。我等は日本人で(303)ある、クリスチヤンである。卑しい穢《きたな》い事丈けは為さない積りである。
 
 三月三十一日(土)雨 何も差したる仕事を為し得なかつた。先日来サルモンド、カーペンター、※[ワに濁点]イズゼケル等の著書に由りヨハネ福音書の著作者の誰なる乎に就て読みつゝあるが、何の結論にも達しない。唯議論なしに福音書を読んで其威厳に打たれざるを得ない。誰が著《か》いたにしろ其インスピレーションの書たる事は確実である。然し我を救ふ者は教会でもなければ聖書でもない、活けるキリストである。直に彼に接しまつりて聖書論は如何でも可い。彼が万物を支配し、我を導き給ふ。それ以上に我は何も知らんと欲しない。有難い事である。
 
 四月一日(日)曇 午前午後を合せて三百四十人の来会者があつた。午前は「キリストの教会」に就いて語つた。キリストの教会と基督教会とは違う。キリストの教会は彼の御教に従ふ教会であつて、其意味に於て今の教会はキリストの教会でない、新たに之を起さゞるぺからずと述べた。午後は「イザヤの聖召」の第二回を講じた。洵に気持の好き青年男女の集会であつた 〇札幌出身農学士木村徳蔵氏急性肺炎にて昨夜死んだ。氏は生物学者であつて、其知識の広い事に於ては同窓中第一であつた。未だ大いに為す有るの身を以つて逝いた。実に惜しい事をした。逝く者の多き事よ。
 
 四月二日(月)曇 強い奴《やつ》は圧《あつ》しやがる、弱い奴は怨みやがる、そして上と下とより我を苦しめやがる。我は独りで彼等に勝つことは出来ない、然し活けるキリストは彼等よりも強くある。彼に頼りて我は強い奴にも弱い奴にも勝つことが出来る。実際の所、信者に取りては弱い奴の方が強い奴よりも恐ろしくある。然しキリストは弱い奴よりも強くある。彼に頼りて弱い奴に勝ち得て我は何人にも勝つことが出来る。
 
(304) 四月三日(火)雨 終日ペンを取つて働いた。或る洋行帰りの教友に左の如くに語つた。
  日本を善く為る方法はいくらでもある。然し之を行ふ事が出来ない。此政府、此政党、此新聞紙を以つてしては、日本国の為に何の善き事も為し得ない。孰れも第一に自己の利益を求むる者である、国の為に自己を忘れると云ふが如き政治家又は新聞記者が居やうとは思はれない。今の所、日本は其滅亡を待つまでゞある。然し神は日本を愛し給ふ。そして我等小なりと雖も神の聖意を為して置けば、神は其聖意に適ふ時に、必ず之を用ひて此国を救ひ給ふと信ずる。今日の日本に於て政治運動や社会運動に従事して何の善き事の出来やうとも思はない。唯コツコツと独り静かに働いて永遠の磐の上に堅き事業を築き、神が之を祝福し給ふ時を待つまでゞある。私の生涯の実験が私に此智慧を与へて呉れた。
と。善き勧告を為したと思ふ。
 
 四月四日(水)晴 雑誌四月号の校正を了つた。千葉県九十九里浜百年振りの鰯の大漁と聞き驚き且喜んだ。近年不漁続きなりしが故に鰯は既に減ぜし乎又は遠洋に去つたのであらうと思うた。然し其推測は当らなかつた。鰯の大群は日本の東岸を見舞つた。我国は依然として世界第一の水産国である。其他の万事如斯しである。我等が失望せる時に神は屡々大恩恵を降して我等を力附け給ふ。
 
 四月五日(木)晴 農学士木村徳蔵氏の葬儀に列し、式辞を述ぶるの役目を務めた。他に伊藤一隆、新渡戸稲造、森本厚吉等の旧札幌農学校同窓諸氏のそれぞれ役割に当らるゝありたれば、全く|札幌葬〔付○圏点〕の観があつた。斯くして同窓相共に旧友の死を弔ふは悲しくもあり亦美はしくもある。我等同一の母校より生れて順を逐うて神の召(305)に応じて去る。然れども孰れも多少に拘はらず有意義の生涯を終へて去るは感謝に堪へない。
 
 四月六日(金)晴 主婦と共に銀座に行いた。人間の多きに驚く。其の一人一人が問題を持つてゐると思へば不思議である。若し彼等が我が聖書研究会員であつて、一々問題を持込んで来たならば何んと恐ろしいだらうと思うた。彼等は誰に何を教へられて結局何う成るであらう乎と思へば心配無き能はずである。余計の心配であると彼等は言ふであらう。然し市中に出て其大衆を見て色々の事を思はせられる。銀座の真中にて親子三人一団と成り、市内一円自動車に乗り、芝の友人を訪づれ、夕食の馳走に与り、八時柏木に帰つた。珍らしい経験であつた。
 
 四月七日(土)半晴 庭の桜が咲いた。全日を故横井時雄君追悼演説草稿書きの為に費した。亡き友人に対する善き奉仕であつた。近頃のやうに弔ひ演説を為すことはない。横井君の場合に於ては奉仕よりも寧ろ謝恩である。君を憶ふて懐旧の感に堪へなかつた。
 
 四月八日(日)晴 釈迦の誕生日に加へてキリストの復活日である。百花咲出し、麗はしの春の聖日であつた。朝は「復活祭の意義」に就いて語つた。復活祭は過去の出来事の記念日に非ず、今生きて万物を宰《つかさど》り給ふキリストの証明日であると言うた。基督教は静止的《スタチツク》に非ず、活動的《ダイナミツク》である事の主意を述べた。午後は「イザヤの聖召」第三回を講じた。聴衆に解つた乎否やを知らずと雖も、両回共に大なる真理を述べた積りである。述ぶるに一回僅かに四十五分であるが、草稿を作る丈けが優に一日の仕事である。自分に取りては随分高価の仕事である。其前の準備と其後の休息の時日とは別である。序に記す、今日は釈迦第二千四百九十四回の誕生日であると云ふ。
 
(306) 四月九日(月)曇 疲労の月曜日であつた。半日床に就いて休んだ。ブルーモンデーには万事がブルーに見えて困まる。全体に勝利の生涯が此日丈けは敗北のやうに見える。一週に必ず一日斯かる日のあるは止むを得ない。
 
 四月十日(火)雨 雑誌第三三三号を発送した。第三百号祝ひを行つてから既に次ぎの百号の三分の一を経過した。いつまで経つても厭きないのは福音である。健康さへ続けば何時までも継くる事が出来る 〇此日若き内村は札幌へ向つて出発した。彼を上野駅に見送り、帰途公園に仏蘭西美術展覧会を見た。其内に唯一品自分の目を惹く物があつた。それはレオン・ボナ一作『ヨブ』の油絵であつた。其前に立つて自分の兄弟に会うたやうに思うた。独りハンデルの『メシヤ曲』の中の I Know that my Redeemer liveth(我は知る我が贖主は生く)を口すさんだ。婦人の裸体画多き仏蘭西絵画の内に、骨と皮ばかりの我友ヨブの裸体画を見て、仏蘭西と雖もさすがはキリストの国なるを知りて非常に心強く感じた。此画を態々仏蘭西より日本まで運び来りし丈けで此展覧会を開く為の充分の価値があつたと言ひ得やう。斯くて神は近代人を喜ばす為の此虚栄の市《いち》の小模型を東京に開かしめて、其首座に『ヨブ』を置いて此不信の民を教へ給ふ。此世の文明はすべて如此くにして聖用せらるゝのであらう。
 
 四月十一日(水)暗 若き内村去りて家は再び淋しくなつた、然し止むを得ない。彼をして仕事を為さしむる為には彼を活動の地に置く必要がある。我等は家の便宜の為に住所を定めない、|天職のある所是れ我がホームである〔付○圏点〕。自分は柏木に残りて此日も亦終日ペンを執りて働いた。唯一二腹の立つ事が出来て困つた。
 
(307) 四月十二日(木)晴 過去四年間我家に奉公した女中石川春江が暇を取つて実家に帰つた。彼女は大地震で焼け出されて着の身着のまゝで我家に来た。そして去る時には先づ一通りの衣類を具へ、身体も非常に良く発育して去つた。そして夫れよりも更らに善き事は沢山に神の教を教込まれて去つた。讃美歌を歌ふ事は家中で第一番であつた。我等は涙を以つて彼女を送つた。彼女に代つて来りし者は石川県能登国鳳至郡穴水町在の川下ミカと称する十五歳の小女である。彼女も亦四五年間我家に働くであらう。そして肉体も霊魂も良く発達して彼女の家に帰るであらう。斯くして女中の出替りは決して小事でない。我家に取りては有効なる伝道事業である。幾人《いくたり》の婦女が如斯くにして我等の伝道を受けた乎、数へ尽す事が出来ない。尚ほ一人の女中は孫女を守りて今や札幌に在る。彼等は皆な家の者である。我等と彼等との間に強き愛情が醸成する。喜ぶべき事である。
 
 四月十三日(金)晴 故宜之君の第二十一回昇天日であつた。音吉を伴ひ、雑司ケ谷に彼の墓を訪づれ、墓前に神の祝福を祈つた。自分の今日あるは全く彼のお蔭げである。言ふまでもなく彼は自分の最大恩人である。若し自分が此世に於て何か善き事を為したならば、其功労の大部分は彼に帰すべきものである。自分の齢が加はれば加はる程、自分の父の偉さが解つて来る。自分が神の国に入つて第一に会ひたき人は彼である。
 
 四月十四日(土)晴 午後二時より青山会館に於て故横井時雄君の追悼演説会を、同君の同郷同教会の人達、即ち徳富猪一郎、小崎弘道、浮田和民、綱島佳吉の諸氏と共に催うした。来会者六七百人あり、意義ある集会であつた。但し横井君を知る者割合に尠く、為に同君のために弁ずるも感動する者尠きは残念であつた。時勢はたしかに一変した。新時代が新信仰、新精神を要求するは無理でない。徒らに過去の記憶を呼起すに及ばず、死者をして死者を葬らしめて、我等は永久に新らしき活けるキリストに従ふべきである。是れやがて死者の死を完成《まつと》(308)うするの途である。旧き知人と共に久し振りに同じ高壇に立ちて彼等の老いしを見るに附けても自分も亦老いし事を知りて、それのみは悲しかつた。
 
 四月十五日(日)晴 昨日の出演にて疲れ、今日は我が講演を休み、高壇は之を塚本、畔上に委ね、自分は僅かばかり感想を述ぶるに止めた。来会者四百人少し足らず程、両回共に盛んであつた。労多くして功少きは聖書研究以外の講演又は演説である。然し是れ亦為さゞるべからず、殊に昨日は少しく故横井君の為に弁じ、君に対する負債の幾分かを償ひしやうに感じ、其事を思ふて今日は疲労の内にも気持が好くあつた。
 
 四月十六日(月)半晴 彼岸桜は葉桜と成り、八重桜は咲出した。書斎よりの眺めは特別である。四五日来蘇格蘭土の二大学者ロバトソン・スミスと G・A・スミス(二大スミス)の預言者研究に由り又復大いに教へられつゝある。何んと云ふても蘇格蘭土は偉らい。多分世界最大の国であるだらう。縦し其研究は独逸程深くないとして、其精神は遥かに潔く、其信仰は遥に高くある。学ぶべきは確かに此国と民とである。両大スミスに由り二千六百年前の預言者が今物言ふ者となつた。斯んな生きた註解者が他に何処にゐるであらう乎。福ひなる哉、ジヨン・ノツクスを産じた蘇格蘭土よ。汝に由て全人類は最後まで教へられ、又導かるゝであらう。
 
 四月十七日(火)半晴 或人に日本は将来どう成るだらう乎と訊かれたから、|
多分五十年以内に亡ぶるだらう〔付△圏点〕と答へた。どう云ふ風に亡ぶるの乎と訊かれたから、政治的に非ず経済的に亡ぶるのであらうと答へた。丁度今日の埃及か土耳古のやうに成るのであらう。利権が大抵外国人、殊に米国人の手に渡り、日本人は毎年彼等に莫大の利子を払ふに至るであらうと答へた。多分自分の此預言は当るであらう。然し我等真の神を信ずる者は滅亡(309)の禍を免かるゝであらう。滅亡は経済的に現はるゝが、其原因は信仰的であるからである。
 
 四月十八日(水)半晴 新聞紙は引続き厭らしき事を沢山に伝へる。一として亡国の兆ならざるはなし、之を思ふて我心内に沈む。唯一つ聖書が神の救ひを伝ふるあり、それのみが唯一の慰めである。ペンを執りて福音を世に伝ふる時に我心に光明がある。其他の時に暗黒四囲を包む、不快此上なしである。
 
 四月十九日(木)晴 都は八重桜の花盛りである。小石川白山に故内村加寿子の墓を見舞うた。彼女逝いて茲に満三十八年である。其時葬式の説教を為して自分を慰めて呉れたのが故横井時雄君である。其横井君の為に自分が一週間前に追悼演説を為して聊か当時の恩義に報いた次第である。故人又故人である。三十八年で世は殆んど一変する。人生は洵に夢である。唯「ヱホバの道のみ窮りなく存《たも》つなり」である。
 
 四月二十日(金)雨 色々の此世の問題で悩まされた。人生時には厭に成つて了ふ。自分より永遠の福音を頒与せらるゝ事を以つて満足せず、色々の此世の問題を自分の所に持込む者あるを見て憤慨に堪へない。何故に国家人類に関はる大問題を持込まないの乎。近代人の問題の殆ど凡てが個人間題なるに呆れざるを得ない。
 
 四月二十一日(土)曇 土曜日であるから凡て面会を断り、家に在りて読み且働いた。外《そと》は凡て運動である。政治界は勿論のこと、宗教界も凡て運動である。仏教徒は日本を仏教化せんとて運動し、基督教徒は基督教化せんとて運動する。それが為に大集会は次ぎから次ぎへと開かれる。然し乍ら自分達は何れの運動にも加はらない。常に働いてゐる積りであるから、特別に運動を起すの必要を認めない。只何れの運動にも引き込まれないやうに(310)警戒する。然しそれが仲々困難である。故に|毎日運動員追払ひ策を講じてゐる〔付△圏点〕。物騒なる世の中ではある。
 
 四月二十二日(日)雨 風雨にも拘はらず両回の集会に差したる変りなし。会衆一同講演者を信じて呉れるは感謝の至りである。午前はホゼア書の研究第一回「ホゼア書の紹介」を講じた。午後はイザヤ書六章五-八節を解釈した。二度共預言書であるが、若い人達が主としてパウロの書簡を講ずるが故に、自分は預言書を取扱ふ事にした。旧約に於て新約を読む事が自分の特に喜ぶ所である。殊にイエスのプロトタイプ(原型)たるホゼアを講ずるは自分に取り義務を超えて愉楽である。此日計らずも札幌宮部博士の出席あり、会後種々の事に就き語り合うた。札幌と柏木とは一家の兄弟である。日本的基督教の確立を希ふ者は凡て此事を承知して貰ひたい。
 
 四月二十三日(月)晴 相変らず疲労ボンヤリの月曜日であつた。日本に於ては政友会の犬と民政党の猿とが政権の取合ひで闘つてゐる際に、米国の二飛行士ウイルキンスとアイエルソンとは北極横断に成功した。人類の為に為すべき大事業が許多国民の努力を待ちつゝあるに、政界の此醜態は聴くも嘔吐の種である。日本人は敵を倒すの術に長じて世界を善くするの途を知らない。故に毎日凄い厭らしい事を繰返しつゝある。
 
 四月二十四日(火)晴 引続き寒い日であつた。今日も亦善い事も悪い事もあつた。然し算へて見れば善い事の方が悪い事よりも多かつた。毎日実は其通りである。然るに忘恩的なる我等は善い事は凡て忘れて悪い事のみ記憶に止むるのである。今日殊に善かつた事は久振りにてヨハネ第一書第一章一-四節を A・E・ブルツクの註解書に読んで今更らながらに其意味の深さを感じた事である。之が解つて他の事は※[乍/心]《ど》うでも可くなる。他の問題は凡て小の小なるものである。政治問題、社会問題、教会問題、個人間題は勿倫の事、凡て※[乍/心]うでも可い問題で(311)ある。「元始《はじめ》より在りし生命の道《ことば》」、是さへ解れば跡は※[乍/心]うでも可い。之を求めないで他のものを求めんとする人の多きに呆れざるを得ない。然り、自分までが時々之れ以外のものを求めて得ざるを歎くを知りて自分に呆れざるを得ない。
 
 四月二十五日(水)晴 日本人は頻りに露国の共産主義を恐れるが、米国の物質主義の恐ろしさを知らない。共産主義は物質主義が其極端にまで達した者である。故に露国も米国も其根本の精神に於ては同じである。日本を禍ひする点に於ては米国は露国と少しも異ならない。何れにしろ恐ろしい事が全世界に臨みつゝある。日本が若し其禍災より免かれんと欲すれば旧《もと》の鎖国状態に還るより他に途がない。ロシヤに傚ふも滅亡、アメリカに傚ふも滅亡である。アメリカ主義はロシヤ主義丈けそれ丈け、然り、見やうに由つてはロシヤ主義以上に厭ふべくある。時に米国化されたる日本人を見て身震ひする程厭に成る。傲慢で、図々しくて、浅薄で、何事でも自身の欲《おも》ふ所を押通すのが成功であると思ふ所は、彼等が「文化されたる野蛮人」たるを証し得て余りがある。米国宜教師は日本の教化を叫ぶと雖も、彼等に日本人に伝ふべき教が無い。故に彼等は徒らに社会運動に奔走するのみである。彼等の祖先の信仰に対して彼等は純然たる背教者である。キリストの福音を忘れたる彼等米国宣教師が日本を教化し得やう筈がない。そして彼等の所謂「教化」運動が成功して、日本が米国の如くに成つた時は、日本が亡びて仕舞ふ時である。自分はカトリツク教徒に成ることが出来ないやうに、米国人の教会に入ることが出来ず、彼等と共に日本の教化運動に従事することは出来ない。若し日本が生きんと欲すれば、精神的にロシヤと絶ちしやうアメリカと絶たねばならないと思ふ。斯く云ふ自分が今を去る事丁度五十年前、明治十一年(一八七八年)六月二日に米国宣教師 M・C・ハリス氏よりバプテスマを受けたのは不思議である。それは丁度日本人が孔子や孟子に教へられ乍ら、今日の支那に対し棉神的に尊敬を払はないと同じである。キリストの福音は今や米(312)国を去りて日本に移りつゝあると思ふ。
 
 四月二十六日(木)曇 気候不順にて病人多く、自分もレウマチス再発し歩行に困難する。我を六十七年間運び呉れし此足である、之に対し深き感謝なき能はずである。手はまだ健全でペンを握るに差閊なし。脳も明噺、眼も必要の読書に堪ゆ。未だ老衰したりと称すべからず、唯思ひ切つて俗事を避けねばならぬ。若し友人が自分を聖書の先生としてのみ取扱つて呉れるならば自分は至つて健康で且幸福である 〇札幌時代の同窓同級の友、麑島造士館前校長岩崎行親君今日死去せりとの電報に接し、痛歎に堪へなかつた。君は自分と宗教を異にせしも、自分の或る方面を克く解し呉れる人であつた。殊に明治の二十六七年頃、自分が京都に在りて最も困窮せし頃、自分と貧困を共にし、互に相接け、相慰むるの友であつた。今や此人にして逝く、人世の寂漠を一層強く感ぜざるを得ない。
 
 四月二十七日(金)晴 静なる新緑の一日であつた。ヨハネ第一書一章七節の研究に強き感動を受けた。「我等若し神の光に在ますが如くに光の中に歩まば我等互に交際するを得、且其子イエスキリストの血すべての罪より我等を潔む」と。深い深い言葉である。いくら味うても其意味を尽す事が出来ない。斯んな深い言葉の意味を少しなりとも解る事の出来た特権は内閣総理大臣たるよりも遥に大なるものである 〇友人岩崎行親君逝いて麑島との電信頻繁である。人生の大部分は結婚と葬式である。同時に喜び又泣かねばならぬ。喜劇と云はん乎、悲劇と云はん乎。
 
(313) 四月二十八日(土)半晴 衆議院は相変らず混沌たる状態である。日本全体が政治的に思想的に暗黒である。何《ど》の方面を見ても善い事は一もない、唯愛の神を|信ずる〔付○圏点〕のみである。然り、万事万物悉く可なりと唯|信ずるのみである〔付○圏点〕。
 
 四月二十九日(日)半晴 今上陛下第一回の天長節であつた。午前と午後と合せて四百人以上の会衆があつた。午前はホセア研究第二回として「イエスとホセア」に就て述べた。寧ろ平凡の講演であつた。然し基督教研究の大切なる一面を伝へたと思ふ。午後は「イザヤの聖召」第五回を講じた。イザヤ書六章九-十三節の研究であつて、預言的精神の根本を語つたと思ひ、非常に気持が好くあつた。一日に二大講演を為す事は出来ない。午前が悪るければ午後が善くある。然し一回なりとも気持の好き講演を為す事が出来て感謝である。聴衆の内に自分を大先生と思ふ人があると思ふと甚だ気障《きざは》りである。故に時々彼等を失望してやるのは善き事である。今日も午後の集会で、会衆の大部分を追払ふに足るやうな大説教をして見たいと語つた。
 
 四月三十日(月)晴 相変らず疲れた、半日床に就いて休んだ。聴者は演説は頭脳と共に|腰と足と〔付○圏点〕疲らせるものである事を知らないであらう。それは全身に力を入れるからである。一度説教すると或る時は腰が立たぬ程疲れるものである。然しこんな事を言うたとて同情して呉れる者は滅多にない、又同情して貰ふ必要もない。人に頼まれて為るのでない、神に命ぜられて止むなく為るのである。故に或時はヨブと共に言ふ
  それ人の世に在るは戦闘《たゝかひ》にあるが如くならずや、又其人は傭人《やとひびと》の日の如くならずや。奴僕の暮を冀ふが如く、傭人のその賃銀を望むが如く云々(ヨブ記七章一、二節)
と。神の僕はまことに奴僕であつて、唯命ぜらるゝ儘を為すより他に何事をも為すを得ず、亦何物をも報賞《むくい》とし(314)て望み得ないのである。
 
 五月一日(火)雨 何かの原因で結膜出血を起し、終日床に就て休んだ。多分差したる事でないであらう。読書を廃すぺく余儀なくせられて無聊を慰むる為に旧い漢詩を暗誦した。其内に懐かしいものが随分多くある。牛若丸を詠じた詩に
  他年鉄枴峰頭の険
  三軍を叱咤するは是れ此声
と云ふのがある。又太田道灌を詠じた詩に
  少女言はず花語らず
  英雄の心緒乱れて糸の如し
と云ふのがある。自分の衷に純日本人が在つて斯かる場合にそれが出て来る。カトリツクだとか、メソヂストだとか、バプテストだとか云ふよりも遥かに善くある。日本人の詩歌の内に純日本が好く現はれてゐて、アメリカ主義やイタリヤ主義が侵入し来る今日、古い純なる日本主義が非常に懐かしくある。
 
 五月二日(水)雨 引続き終日床に就て休んだ。誠に良き休息であつた。足の腫も引き、眼の赤味も大分に薄らいだ。休みに勝さる療法なしである。健康に義務が伴ふ。健康であれば義務を果さねばならぬ。然れども一朝病に罹れば義務が赦されて我は自由の身と成る。今日も床に在りて李白を吟じ、ヲルヅヲスを誦《そらん》じた。亦北氷洋や裏海の動物を想出した。湖水動物学を研究したらばさぞ面白からうと思うた。|結膜の毛細血管が二三本破烈した為に我が息想界が斯くも一変した〔付○圏点〕。多事なる此世に在りて軽い病気程幸福なる者はあるまい。
 
(315) 五月三日(木)晴 古いギフホードの羅馬書註解を引出し第九章の分二三頁を読み、我が旧き信仰に立帰りて歓喜極まりなしである。エレクシヨンである、予定である、我が信仰の真髄は是である。神に予め救ひに定められずして我が救はるゝ理由は一もない。自分が若し救はるゝならば、自分に救はるゝの何の資格なくして、神の至上意志に由つて救はるゝのである。此信仰にのみ真の平安がある。自分は此信仰に由つて初めて救ひの喜びに入つた者である。近代神学に此信仰がない、故に其内に「凡て人の思ふ所に過ぐる平安」がない。世は政争で混乱を極めてゐる此際に、自分独りに斯んな喜びがあつて甚だ勿体なく感ずる。
 
 五月四日(金)晴 半起半床の一日であつた。旧い註解書や歴史に眼を曝らして心を慰めた。旧い物は凡て善くある。旧い信仰は殊に善くある。|本当の信仰は十九世紀を以つて尽きたのではあるまい乎と思はるゝ節なきに非ず〔付△圏点〕。二十世紀に入りてより霊性的に何の善きもの出しを知らない。此世は滅亡に定められたる物である事が益々明かに成つて来る。そして最後に神の特別の恩恵に由て救はるゝのである。是れ旧い聖書の見方であつて、間違ひない見方であると信ずる。斯く信じて日々の混乱状態を目撃して絶望しない。日本の政争、支那の戦争、孰れも東洋破壊の兆候である。然し神在し給ふ。イスラエルを守る者は微睡《まどろ》み給はない。パラダイスは最後に実現する。ハレルヤー。
 
 五月五日(土)晴 庭は皐月の花盛りである。今日も亦神の御選みに就て考へ、心に大なる平安を覚えた。彼の奴僕として召されたのであれば、彼に従ひまつるの外、自分の事に就いて何事も思ひ煩ふに及ばない。神は自分の罪までを処分して下さる。|唯順ふ〔付○圏点〕、それのみで尽きる。
 
(316) 五月六日(月)晴 朝は二百五十人、午後は百五十人の集会であつた。自分は朝丈け高壇に立ちて午後は休んだ。「家庭の不幸」と題してホセア書第一章を講じた。若き預言者に対し深刻の同情を禁じ得なかつた。生涯の内に一度は講じたくあつた此書である。我れ年老ひて預言者の元気を伝ふる能はずと雖も試みざるに勝る努力であると思ふ。キリストの再臨を背景として読まざれば預言書の解らざる事を切実に感ずる。
 
 五月七日(月)半晴 聖書は之を神の書として読まざれば至つて詰らない書である。美文としては沙翁ゲーテに及ばざる遠し。哲学としてはプラトーの方が遥に面白い。歴史としてはへロドートス、クセノフホンに及ばない。然し乍ら神の聖旨を伝ふる書としては聖書は確かに世界唯一の書である。そして人生、実は神の聖旨を知るに優さるの知識なければ、他の書は読まずとも聖書丈けは読まなければならぬ。そして齢が邁むに循ひ、他の書を読むの興味が段々と減じて、聖書にのみ親しまんと欲するは自然の情である。哲学、詩歌、科学、凡て興味なきに非ずと雖も、聖書の興味は特別である。
 
 五月八日(火)曇 新緑の麗はしき日であつた。足の痛み殆んど去り、久振りにて近所を散歩した。詩人ローエルの一句に言ふが如くに「皐月の空の一日に優さりて楽しきものやある」である。紅紫の躑躅に松の緑、それ等に合せて楓 欅の艶々しき青葉、得も言はれぬ風情である。何んだか唯生きて居るのが勿体なくなる。キリストの福音を|もつと〔付ごま圏点〕説きたくなる。聖書の講演を為す丈けでは物足りなくなる。神の愛を思ふ時に|もつと〔付ごま圏点〕/\伝道が為したくなる。多分健康の事を心配することなく進んで愛の為に尽す事が反つて健康の途である乎も知れない。
 
(317) 五月九日(水)半晴 久振りにてバビロンに出掛けた。三時間にて柏木の青葉の家に帰つた。新聞紙は報じて云ふ、咋昭和二年の日本国の死亡数は百二十万九千十三人であると。即ち大阪大の一市が全滅したと同じである。如何に大なる地震と雖も斯くも莫大なる死亡者を出さない。そして今年も亦殆んど同数の死亡者を出すのである。人世一名「死の里」である。そして斯かる世界に住みながら死を思はずして生のみを思ひ、死の準備を成す信者を嘲ける者多きは不思議である。世に死程普通なるものはない。日本丈けで毎年百二十万、如何なる疫病と雖も単なる死程猖獗を極めない。故に直に悔改心て死の為に準備せよ。
 
 五月十日(木)曇 雑誌第三百三十四号を発送した.〇腰に灸をすゑて貰つた。足痛みを癒すに最良の方法であらう。古い福音に加へて古い療法が最も良くなる。|老人の独立〔付○圏点〕に就て考へた。若い時には老人より独立せねばならぬやうに、老いては若い人より独立せねばならぬ、人よりは何人よりも独立せねばならぬ、そして絶対的に神に頼らねばならぬ。墓に入る日まで独立であらねばならぬ。独立は神が賜ふ最大の賜物である。願ふ今日まで之を賜ひし神、最後の日まで之を賜はんことを。
 
 五月十一日(金)曇 大久保駅新築落成し、柏木への出入が便利になり、研究会来会者の為に悦んだ。之で柏木が大東京の殆んど中心となつた次第である。「内村が人生の競争に負けて柏木に引込んで了つた」と或る雑誌記者が冷評したのは二十年の昔であつた。今や柏木よりも奥の奥がある。柏木に在りてはトテモ隠遁者の名称を受くる事は出来ない。然し此世と関係尠き点に於て柏木に在るも隠遁者同様である 〇英国ヨーク市聖カスバート教会牧師 R・G・パイン氏より英文雑誌インテリゼンサー廃刊に就き厚き同情愛惜の書面が達した。英人中、而かも国教会教職の内に斯んな温かい広い人がある乎と思ふて不思議且感謝に堪へなかつた。早速感謝の返辞を(318)送つた。
 
 五月十二日(土)雨 荒れ模様である。心は主に在りて平安であつた。有名なる英語大辞典ウエブスター辞典の発刊第百年に当る由を新聞紙に読み今昔の感に堪へなかつた。自分も英語を読始めて六十年に垂んとするが、其間辞典として頼りし者は主としてウエブスターであつた。今日まで幾冊読破した乎知らない。聖書を除いてウエブスター辞典程自分に親しき書とてはない。今日彼が初版を出せし時の序文に合せて一八四三年版に附せられし彼の伝記を読み、親友を想起すが如くに感じた。殊に彼が齢五十歳にして福音的信仰に入りし時の事蹟の如き、古い米国人の信仰的実験の一例として貴くもあり亦懐かしくもある。古い米国は新しい今の米国とは全く別の国であつた。
 
 五月十三日(日)雨 今日も亦朝夕合せて四百人以上の人に対して二回の教話を為した。朝はホセア書一章並に二章に現はれたる神の「審判と救拯」に就いて述べた。祈祷の際に感極まりて高壇の上にて涙が零れて後で聴衆に対し甚だ耻かしかつた。男涙は流さない積りであるが今日丈けは例外であつた。通常《ふだん》は聴衆を叱り勝ちであるのに、今朝丈は心に緩みが出て、涙に咽んで女々しい事を為したと思ひ後で非常に後悔した。然しホセア書を講じて泣かない事は仲々困難である。午後は英語大辞典の著者ノア・ウエブスターの生涯殊に信仰に就いて語つた。青年男女に対し善き説教であつたと思ふ。
 
 五月十四日(月)晴 今日が甲東大久保利通公が麹町紀尾井町に於て兇刃に斃れし満五十年であると聞き今昔の感に堪へなかつた。自分は札幌に在りて其報を聞いてビツクリした事をハツキリと記憶して居る。実に偉らい(319)人であつた。維新の平和的大政治家であつて、若し公が長命されたならば日本の今日は全然別の国であつたらう。自分が基督教に入りしと同じ年であつて、自分は大久保利通公が殺されし其年にキリストに救はれたのである。
 
 五月十五日(火)曇 能登より来りし女中病に罹り、止むなく国元に帰つた。当家へ来る前に病源を作つたらしく、実に可愛想であつた。然し此事に関し、彼女の肉親の者と数回交渉し、我国僻陬の地に旧い日本道徳の儼然として存するを見て欣喜に堪へなかつた。米欧人に由て建られし教会などに於ては到底見る能はざる温い義理人情が越山能州の農家の間に在る。我等が其少女の一人に為せし少し計りの親切を、彼等は異常の恩恵として感ずるを見受けた。如斯き深い感恩の表情を近頃見た事はない。彼女に代りて四国の田舎より是れ亦善き女中が来て呉れた。彼女も亦「基督信者」でない事は勿論である。|当家に於ては「信者」の女中は禁物である〔付△圏点〕。
 
 五月十六日(水)曇 久振りにて朝飯後の散歩を試みた。赤道直下阿弗利加に於けるドクトル・シユワイツエルの土人療養事業へ我が聖書研究会よりの第二次寄附金として英貸五十磅(五百弐拾参円余)を送る事が出来て感謝であつた。同情は世界的人類的なるを要す。受くる人の為でない、献ぐる者の為である。義務である又特権である。信者唯一の道楽である。
 
 五月十七日(木)曇 程度もなく旧いモーセス・スチユアートの『羅馬書註解』を読んだ。いくら読んでも厭きなかつた(弱い視力の許す限り)。五十年前に得た自分の信仰を百年前の敬虔なる大学者(彼は米国人であつた)に説明し解釈して貰ふのであつて、斯んな楽しい事はない。元罪、受肉、贖罪、予定、再臨、旧い古い、固い強い信仰であつた。百年前の米国は純信仰の所在地であつた。自分は幸にしてそれを貰つたのであつて、今や米国(320)に消えて自分に残つてゐる事は惑乱に堪へない。今日の米国の基督教教師で、M・スチユアートの著書を、自分が今日為した如くに奪心的興味を以つて読み得る者は幾人もあるまい。自分に取り誠に福ひなる事である。
 
 五月十八日(金)曇 昨夜有志の伝道研究会を催うした。来会者八十人、二時間に渉る緊張せる会合であつた。大いに伝道の任に当らんと申出る者が続々あつた。聖書研究会々員中、直接間接に或種の伝道を行ひつゝある者は決して尠くない事が判明した。我等は今日より更に部署を定めて直接伝道を開始せんことを決議した。献金を募りしに三百六十円余を得て感謝であつた。
 
 五月十九日(士)半晴 世には内村先生の欠点を知つてゐると称して大なる事を知つてゐるやうに思ふ人がある。然し内村先生の欠点を知る事は決して大なる事ではない。是は誰にでも知る事の出来る事である。彼の妻子は能く知つてゐる、彼の家に奉公する下女も下男も能く知つてゐる。然り彼れ自身が何人よりも遥に能く知つてゐる。内村先生の欠点を知りたればとて其人は天国に入る事は出来ない。それよりも自身の欠点を知る方が其人に取り遥に利益である。人は神の完全と之に対する己が不完全を知つて救はるゝのであつて、人が少しなりと偉らい人であると思ふ人の不完全を知つて救はるゝのでない。自分は世に自分の欠点を知つてゐると称して誇り顔に其事を語る人ありと聞いて、不思議に思ひ且又た可笑くつて堪らないのである。
 
 五月二十日(日)晴 集会変りなし。朝は「人の愛と神の愛」と題してホセア書二章の精神並に十一章七-九節を講じた。午後は「余の手に渡りし最初の聖書」の題下に、如何にして W・S・クラーク氏が五十二年前に聖書を札幌の学生に伝へし乎、其事蹟に就て話した。神の愛と摂理に就て語る事であつて、いくら語つても種の尽(321)きざるを覚ゆ。
 
 五月二十一日(月)晴 郊外の某地に遊んだ、然し休養にはならなかつた。家に在つて静に救主を念ずるに優さる休養はない。
 
 五月二十二日(火)晴 新聞紙は報じて曰ふ「共産党事件起訴、けふで四百十名、学生百十名、少年四十五名」と。実に悲しい事である。然るに近所の書店屋上に大々的広告が掲げらる、曰く「マルクス、エンゲルス全集」と。斯くて共産主義を宣伝する書籍の出版販売は許されて、之に感化されて共産主義者と成りし者は起訴されて罰せられんとしてゐる。自分は政治を知らない者であるから政治を彼れ是れ批評する資格を持たない。然し罪の種を播く事を許して置きながら、其果を穫取《かりと》る者を罰する政府の遣口は※[乍/心]うしても解らない。法律とあれば止むを得ないが、自分は是等の犯人、殊に青年少年等が可愛想で堪らない。彼等を罪悪に誘ふ書籍類の出版販売を禁ずる事は出来ないのであらう乎。
 
 五月二十三月(水)半晴 朝より晩まで人の為に尽した。喜ぶ者と共に喜び、悲しむ者と共に悲んだ。社交術に不得手なる自分に取り随分苦しい事であつた。然し是れ亦時には為さねばならぬ事である。此日自身に取り嬉しい事は一八六三年版のジヨン・フホープスの羅馬書註解を得た事である。茲にまた善き信仰の糧を得た。充分に饗応に与らんと欲する 〇北海道の某教友よりの書面の一端に曰く
  御蔭様で表張《おもてば》れる教会屋では不景気で困つてゐる所に表張らざる店(会堂)持たぬ行商人的無教会者は大景気で我々如き末の末までが寸暇もなき位ゐ伝道に忙はしいので大感謝であります。
(322)と。是も亦一つの見方である乎も知れない。何れにしろ福音の品物が北海道に於ても克く捌けるのは喜ばしき事である。
 
 五月二十四日(木)雨 或人よりカトリツク教会の某高僧が自分がカトリツク信者たらん事を祈つてゐると聞いた。自分はまた、自分が「日本基督教会」に入らんことを祈つてゐる某米国宣教師の在る事を知つてゐる。然し自分は其祈りは孰れも聴れざる祈りであると信ずる。自分はカトリツクには勿論のこと、「日基」にも、メソヂストにも、バプテストにも、組合にも、監督にも、西洋輸入の教会には何れにも入らぬであらう。近頃になり、自分の非常に驚くことは、日本のクリスチヤンが大体に新教と旧教と、即ちプロテスタントとカトリツクとの区別を知らない事である。新教の信者にして其子弟を旧教の学校に入れて少しも危険を感ぜざる者が多い。彼等両者の間に、信仰上の根本的相違のある事を知らない。其点に於て旧教の信者は遥かに新教の信者以上である。彼等旧教徒は克く新旧の別を知る。彼等は信仰の事に就ては新教徒を信じない。敢てカトリツクを諱み嫌ふには非ずと雖も差違《ちがひ》は差違である。四百年間の大争闘を経て今日に至りし基督教の此二大枝の区別を知らないとは無知も亦甚しと言はざるを得ない。余自身は死すとも「再びカノーサに行かない」決心である。
 
 五月二十五日(金)晴 人は基督教を信ずるまでは至つて平穏である。基督教を信じて擾乱的状態に入る。世と争ふのみならず信者相互と争ふに至る。更らに進んで内心の分離が起る。内にも外にも劇烈なる争闘が起りて終生続いて止まない。主が言ひ給ひし事は文字通りに事実である。
  地に平和を出さん為に我れ来れりと思ふ勿れ、平和を出さんとに非ず刃(争闘)を出さん為に来れり。夫れ我が来るは人を其父に背かせ云々……人の敵は其家の者なるべし
(323)と(マタイ伝十章三四-三六節)。戦争又戦争である、そして信仰が強ければ強き程戦争が激しくなる。カトリツクはプロテスタント相互の争闘の激しきを言ふが、夫れは後者の信仰が前者のそれに比べて遥かに強烈であるからである。ヱレミヤ、パウロ、ルーテル等の生涯が争闘連続の生涯でありし理由は茲に在る。
 
 五月二十六日(土)半晴 「今日は準備の土曜日であります、面会御断はり致します」と云ふ看板を玄関に懸けて置いても少しも構はず面会を申込む人が尠くない。彼等は何れも自分丈けには会ふて呉れるだらうと思ふてゐるらしくある。世界の文明国の中で日本ほどヅダラな国は無いと思ふ。此国では規則は行はれないのが普通である。面会日を設くるも殆んど無益である。何事も情実で行はる。昼は何時来客があるか判らず、故に落着いて事を為す事が出来ない。故に人の寝静まるを待つより他に途がない。余り厳しく規則の実行を迫れば冷血者として嫌はれ非難せらる。是では大国民と成る事は出来ない、大事業は起らない。自分の如き今日も亦此世の小事に追はれ一頁の読書さへも為し得なかつた。憐むべし大家の大著述も亦茫然として机上に横たはるのみであつた。
 
 五月二十七日(日)半晴 集会に変りなし。朝はホセア書三草並にエペソ書五章一、二節を「神に効ふべし」と題して講じた。クリスチヤンの模範は神御自身であつて人でない事を力説した。午後は「札幌に於けるピユーリタン主義」と題し、五十年前の信仰生活の実況を話した。午前は解釈的説教、午後は実験談を続けてゐる。大体に於て満足なる集会である。
 
 五月二十八日(月)晴 或る信頼すべき米国通信に左の記事が見えた。
(324)  最近の発表に依れば前年度に於ける宗教的趨勢に楽観を許さゞる者あり。即ち長老派の如き全米に亘り九千二百九十九の教会があるが、其内三千二百六十九の教会は一人の悔改者もなかりき。更に浸礼派《バプチスト》の八千七百六十五の教会内、三千四百七十四教会は悔改者を認めなかつた。更に又一万六千五百八十一のメソヂスト教会の内、四千六百五十一教会は一人の悔改者なかりき。若し此率に従へば全米二十万の教会にして六万は一名の悔改者をも出さゞりし訳である。
と。此は楽観を許さゞる所ではない大に悲観すべき状態である。全米国の教会の殆んど三分の一が一ケ年に一人の悔改者を起さないとの状態である。是れが若し二三十年間続けば、米国に於て新教主義の教会は全滅である。此は実に由々しき大事である。米本国に於て如此し、彼等が派遣せし宣教師に由つて建設されし日本の諸教会が同様の衰退を示すは少しも怪むに足りない。今や米国に於て教会の基督教はたしかに下り坂の状態である。彼等に効ふて我等も亦滅びざるを得ない、今日も米国某地に開かれし或る宗教大会に日本代表者として出席せる某婦人に左の一首を書き送つた
   忘るなよ黄金《こがね》花咲くアメリカに
     無き故郷《ふるさと》の大和心を
と。|日本人は自今米国人より基督教を受けざるのみならず、之を我等より彼等に伝道する為の準備を今より為さねばならぬ〔付△圏点〕。
 
 五月二十九日(火)晴 共産主義を唱へて或る学校を逐はれて今や身を容るゝに所なき或る学生の訪問を受け、彼に対し同情の涙を禁じ得なかつた。彼に悃々と我が福音を説きし所、彼の傲然たる態度は改まり、彼も亦其眼に涙を浮べた。来りし時の彼と去りし時の彼とは全然別人の観があつた。彼を罰するの人は在りても彼を教へ慰(325)め導くの人は無いのである。彼とても一人の日本人である、道を以つて諭せば喜んで改むるのである、文部省の人達は今日の青年を指導する秘訣を知らないやうに見える。歎ずべきの極みである。尤も自分に取りても彼を半時間程説得する為に一日の精力を全部消費したやうに感じた。
 
 五月三十日(水)晴 札幌時代の信仰の友中村邦佐氏の埋骨式を青山墓地に司 つた。四十五年前の事が思出された。彼も亦立派に死んで呉れた。今日の埋骨式の如き葬式ではなくして一の感謝会であつた 〇近頃ジエムス・オール著『基督教的神観並に宇宙観』の復読を始め、旧い親友と会するが如くに感じ非常に愉快である。頁毎に「然り然り」と言ひて頷く計りである。基督教を哲学的に研究し且弁証する事は決してツマラない事でない。我等の信仰は深き知識の上に立ち得る者である。我等はオール先生に今猶ほ学ぶべき事が多くある。英語を解し得る信者は何人も精読すべき書であると信ずる。
 
 五月三十一日(木)晴 温度八十二度、真夏の暑さであつた、主婦と共に郊外|成宗《なりむね》に斉藤宗二郎君の苺畑《いちごばたけ》を訪ひ二十余種より成る苺の馳走に与つた。同君の苺は天下一品である。愛の労働の結果である。日本国中多分之よりも聖い地の産はあるまい。斉藤君の如くに聖書と畑とをのみ相手にしてゐたならばさぞかし幸福であるだらうと思うた。
 
 六月一日(金)曇 明日並に明後日の準備、雑誌校正、来客接待等にて多忙であつた。其間に宗教哲学の大問題を考へてゐる。全く無益なる日は一日も無い。何か一つの永久的価値のある事を為さしめらる。|ツマラない事は支那の戦争と日本の政治〔付△圏点〕とである。所々方々より自分の入信五十年に対し祝福を送つて呉れる。其第一は言ふ(326)までもなく札幌の若夫婦である。其他台湾より、京都より、静岡より、東京は勿論の事、温かい深い意味の祝辞を送つて呉れる。自分がキリストに在りて新たに生れし日は、尠からざる人達に取り間接に彼等の霊的誕生日であつたからである。「人、キリストにある時は新たに造られしなり」とパウロが言ひし通りである。信者に取りては此日は肉体の誕生日よりも遥かに貴くある。
 
 六月二日(土)雨 朝まだ床に在りし時に、何者か婦人の声で讃美歌第百四十四番「神の人よ」を歌ふ者があつた。誰ならんと主婦と共に語り合ひ、或は姪第二号ならんと思ひしが、彼女としては声が少しく老《ふけ》たりしを覚えた。依つて猶ほ耳を澄して聞けば紛ふべきなき聖書会員の一人某夫人であつた。寝衣のまゝ出て残りの部分を聞き、終へて後に戸を開いて彼女を迎へて謝す。茲に美くしき百合花に合せて彼女の祝詞を受け、此記念すべき日を迎へた 〇先づ手初めに我が同窓同級同室同信の友なる在札幌理学博士ドクトル宮部金吾氏に向けて左の電報を発した
  平和あれ、五十年間君と共に信仰の道を歩みしことを神に感謝す 内村
午前十一時、東京在住の同時の受洗者、新渡戸稲造、広井勇と自分と併せて三人、之に加ふるに我等の兄分なる伊藤一隆、大島正健の両君を加へ、総て五人、大雨を冒して青山墓地に会し、故 M・C・ハリス氏の墓前に詣り、花環を供し、自分は詩篇第九十、九十一篇を英語にて朗読し、続いて伊藤君が熱心溢るゝの祈祷を捧げた。「願くは我等今、此所に会するが如くに、墓の彼方に於て、一人も漏れなく会する事を得しめ給へ」と君が祈りし時に、我等一同強調せるアーメンを以つて応ぜざるを得なかつた。実に永久忘るゝ能はざる聖き会合であつた 〇柏木に帰り、午後二時より男女十一人の志望者にバプテスマを授けた。授けし自分に取り又受けし人達に取り善き記念として残るであらう。祝電所々より達し、又愛の贈物も尠からず、自分に取り誕生日以上の大祝日であつた。
 
(327) 六月三日(日)曇 午前午後共に盛んなる集りであつた。午前は「曠野の囁き」と題しホセア書二章十四-十六節を講じた。入信第五十年の聖日に此解講を為し得し事を感謝する。午後は塚本の後を承け、「余は如何にして聖書を学びし乎」と云ひて自分の学生時代に於ける経験に就いて談じた。
 
 六月四日(月)曇 旧友四人某所に夕食を共にした。腹を抱えて笑つた。語つても語つても尽きない。共に学び共に祈りし者、今は半ば去りて半ば残る。大笑の裏に深き悲しみが潜む。旧きは最早語るまいぞ。「後《うしろ》に在るものを忘れ前に在るものを望み」である。過去を顧ずして前に置かれたる標準に向ひて進む 〇本誌初号よりの読者にして我が信頼する信仰の友なる山形県関山在沼沢の奥山吉治君よりの祝詞に曰く
  今日は先生入信五十年に相当する尊き記念すべき日なるを思ふて私は見えざる御手が現在の我国の上に働きつゝある事を有り々々と目に見ゆる様に思はれます。私は之によりても救の確実と希望の達成と愛の御計画とが生き々々と認められて感謝です。願くば恩寵永へに先生とそのすべての者の上にあらん事を感謝と共に祈つて止まないのです。六月二日朝の祈りを終へて。吉治
 
 六月五日(火)曇 聖書研究会々員百四十人が自分を上野精養軒に迎へ、入信五十年の祝宴を開いて呉れた。其内最も旧きは受洗当時の立会人大島正健、伊藤一隆の二氏、孰れも七十歳の老人である。最も若きはYさんとNさん、学習院女学部を出た計りのお嬢さんである。某博士を筆頭に某学士、某陸軍少将の感想、最後に古老二人の自分受洗当時の実見談があり、之を聞き居る自分は感慨に頭脳も転倒せん計りであつた。成るべく聞かぬやうにして努めて冷静を保つた。神の為し給ふ事は如何なる小説よりも不思議である。其内伊藤氏の自分に関する(328)実見談の如き、五十年後の今日、自分の今日初めて知つた事である。「神様、もう是れで充分です、此上|貴神《あなた》の聖業を承たまはるに及びません、私は感溢れて心が狂はんとします」と言ひたくなる。五十年前の昔と今日、而かも其席上にて、自分を信者に為さんとて附纏つた人と、其蔭に立つて祈つた人が其実現を述べたと聞いては、不思議も不思議、何やら奇蹟を目前に見るやうである。基督教界の観察広き益富政助君其感想を述べて曰く、「未だ曾つて斯んな会合を見たる事なし」と。モウ沢山々々、是れ以上には堪えられない。
 
 六月六日(水)半晴 大分に疲れた。雑誌の校正と少し許りの読書の外、何も為し得なかつた。束京では宗教家大会開かれ、支那では張作霖の死が伝へられ、万事混沌たりである。柏木では昨夜の懇親会の感想で持切りである。出席の或る婦人より左の一首を送り来つた
   よろこびのうたげに出て教へ子が
     心の花の色も増すらん
我等は幸福に過ぎて勿体ない。
 
 六月七日(木)曇 去る二日自分よりバプテスマを受けた婦人の一人の夫が式に立合ひしを機会として福音の真理に適せし由を、此恵まれたる夫婦の告白に由て知りて堪え切れぬ程嬉しかつた。斯くてバプテスマは二重に恵まれたのである。自分の生涯に於て斯かる事は初めてである。多分他にも滅多に無い事であらう。夫なる人が高等教育を受けたる知識階級の人であるから更らに著るしくある。神の御恵みに由り六月二日が更らに一層記念すべき日と成つた。
 
(329) 六月八日(金)半晴 札幌老人組の祈祷会であつた。我等は札幌の為に、北海道の為に、日本国の為に、世界人類の為に祈る。又旧友各自の為に名を指して祈る。祈る時に五十年前の青年時代の我等と少しも異らない。そして生涯の終りに近づいて祈祷の益々熱心なるを覚ゆ。
 
 六月九日(土)半晴 今日は又哲学熱が復興し、殆んど終日哲学書を耽読した。殊にティレ一著『哲学史』のカント篇筋が非常に面白かつた。|哲学の目的は神を発見するに在り〔付○圏点〕と云ふて間違ないと思ふ。「汝神を探りて彼を求め得ざらんや」である(ヨブ記十一章七節)。哲学は人間の知識なりと云ひて之を賤むべきでない。是れ亦神の賜物であつて感謝して受くべきである。プラトーの有神論、カントのそれ、孰れも荘大雄美である。人類の所有せる最大の宝である 〇雑誌第三百三十五号を発送した。信仰五十年号である。
 
 六月十日(日)晴 午前午後共盛会であつた。午前は「民と其祭司」と題してホセア書第四章の要点を述べた。第三節の「海の魚もまた絶えん」との預言者の言が自分に取り殊に興味が多かつた。午後は青年達に「天職発見の途」に就いて話した。日曜日毎に、午前と午後と二回、柏木の一隅に聖書研究者の行列を見るは甚だ美くしくある。
 
 六月十一日(月)晴 終日カント先生と共に在つた。午前は『倫理の基礎』を復習した。今更らながらに其荘大なるに打たれた。六ケ敷いやうで決して六ケ敷い書ではない。哲学とは云ふものゝ、常識ある者には誰にでも解るべき議論である。「至上善は快楽に非ず善き意志なり」と云ふのである、故に至上善は何人にも得らるべき者であると云ふ。哲学を以つて唱へられたる大福音である。茲に貧富、智愚の差別が全然撤廃せられたのである。(330)人と云ふ人は何人も至上善を共有とする事が出来る〔付○圏点〕と云ふのである。此んなノーブルなる人生の見方はない。パウロの福音もそれまでゞある。午後はウエンレ一教授の著に成る「カント伝」を読んだ。之に由て大哲学者は其終生の事業として彼の父母の信仰に哲学的基礎を据た事が解り、荘美の感に打たれた。孝行にも色々種類があるが、此んな偉大なる孝行はない。基督教国の孝行に儒教に於ては到底想像する事の出来ない偉大なるものがある。
 
 六月十二日(火)曇 バビロンに行き、少しの用事を済まし、丸善に立寄り、マクス・ムラー英訳カントの『純粋理性批判』を求めて帰つた。半日之を読続けた。M・ムラーの序文がステキの大論文である。それを読んだ丈けで自分の小さき頭脳が一杯に成つた。カント哲学は自分の思うたやうな哲学である。平民哲学である。平民の常識を哲学的に綴つたものである。故に平民に解し得らるゝ又彼等がエンジョイ(享楽)し得る哲学である。更らに進んでプロテスタント主義の基督教的哲学である。カトリツク教会の学者が之を嫌ふに由つて判明る。何時かムラーのカント論を和訳して研究誌に掲げたいものである。
 
 六月十三日(水)雨 神宮外苑青年館に於て内村聖書研究会青年組の晩餐会が開かれた。来会者百十五名、内殆んど半数が婦人であつた。自分の信仰五十年を祝ふて呉れるのが主なる目的であつた。数人の述懐談があり、音楽あり唱歌ありて相変らず楽しき集会であつた。只各自感充ちて語るの時間なきを歎ずるのみであつた。我等は只主に在りて聖書を以つて語るのみである。甚だ物足りなく思ふが、それは我等の感想が普通の言葉を以つて言表はすには余りに深いからである。
 
(331) 六月十四日(木)曇 蒸熱い日であつた。雑誌編輯が主なる仕事であつた。預言寺にモアブ婦人会の例会があつた、来会者十七人で盛なる会合であつた。夜、聖書講堂で鉄道省事務員四十人余りの「心の会」の会合があり、旧友益富政助君に頼まれ、自分は基督教の大意に就いて話した。聞く全国に渉り官設鉄道従業員は二十万人に達し、彼等の家族を合はせて壱百万人の大衆であると、此大衆にキリストの福音を紹介するは大なる事業である。益富君の努力に天父の祝福の裕かに加はらんことを祈らざるを得ない。
 
 六月十五日(金)雨 鬱陶しき梅雨の空である。半日原稿を書き、半日雑務を取つた。知人友人中に困る人の多きに困る。如何にして彼等を助けて宜しきや、其途を知るに困しむ。但し神在し給ふ事を知りて安心する。何は兎もあれ神の聖意は成る。余《あと》は小間題である。それだから安心である。人生※[乍/心]う成らうとも、万事が万全に終る事丈けは確実である。
 
 六月十六日(土)雨 今日も亦視力の許す限り哲学を読んだ、善き修養である。大哲学者と云へば凡てが真剣真面目の人である。そして彼等の大多数が神の探求者である、彼等は大抵教会の宗教家等に無神論者と呼ばれた、然し乍ら彼等は大抵宗教家以上の、敬神家であつた。哲学者が壊つた神は教会の神であつた。宇宙の神、良心の神で無かつた。哲学其物が凡ての利益問題を離れての真理の研究である。其点に於て遥かに教会の宗教以上である。教会はカトリツク教会を初めとして、組合、監督、長老、メソヂスト、バプテスト、凡てが自教会の利益、勢力を第一に置く団体である、故に哲学者が賤んで止まざる所である。
 
 六月十七日(日)曇 朝の集会に瑞西国ベルン市新教々会牧師オトー・マールバツハ氏が来られ、会衆に対し(332)独逸語の演説を試みられた。塚本通訳し、自分も之に応へて善き国際的好意交換であつた。つゞいて自分は「浅き悔改」と題しホセア書第六章の大意を講じた。満員の集会であつた。牛後の集会に変りなし。自分は前回につゞき「天職発見の途」に就いて述べた。今の時に当り最も有効的に国に尽さんと欲せば宜しく起つて福音宣伝者たるべしと喝破した。来会の青年達に少しく気の毒に思うたが事実だから止むを得ない。日本の危険は神の言の欠乏に在る。外国宣教師に倚らざる基督教の宣伝は我国目下の最大要求である。
 
 六月十八日(月)半晴 朝、床より躍り出づるや左の一首が口より迸つた
   世の幸福《さち》に恩恵《めぐみ》読みこむアメリカの
     をしへに我は厭《あ》き果《はて》にけり
昨夜床に就く前にカント先生の「倫理の基礎」数頁を読んだからである。世の幸福や成功に真理の証明を求むる米英人の教がどれ程世界人類を毒した乎知れない。自分の如き米英実利主義の犠牲者の一人であつた事を思ひ、悲憤慷慨に堪へ難きものがある。
 
 六月十九日(火)雨 面会日であり、色々の人の訪問を受けた。内に自分の説く信仰を全然間違つて解し、堅く取つて動かざる者あるを見て、大いに我が心を痛められた。ルーテルの改革がアナバプチスト党の熱狂者を生んだやうに、自分の独立信仰が多くの狂信者を生みし事は実に歎はしき次第である。之を思ふて我が生涯の事業は全然失敗でなかつた乎と思ひ、耐え難き苦痛である。狂人を作る為の伝道ではなかつたと思ふ。然し乍ら強い信仰を伝へて狂人の現出は免かれない。|狂人を出す位ゐの信仰でなくてはならぬと言ひ得ないでもない〔付△圏点〕。
 
(333) 六月二十日(水)雨 引続き多くの六ケ敷い問題を持込まる、辞する事は出来ず非常に苦心する。夜ラヂオに我が尊敬する旧知英人ジヨン・バチエーラー君の『蝦夷に五十年間』を聞き今昔の感に堪へなかつた。殊に日高の平取《ひらどり》に於てアイノ土人の犬が其尻尾を豺狼《おほかみ》に喰取られたりとの話は実にバ先生独特の傑作なるを知りて独り腹を抱えて笑つた。
 
 六月二十一日(木)曇 夜感謝祈祷会に合せて伝道会が開かれた。来会者五十余名。個人伝道の効果につき多くの実験談があり、甚だ有益であつた。我等は組織的に伝道運動は行つてゐないが、各自其持場に於て有力なる個人伝道を行つてゐる事が判明つて感謝であつた。
 
 六月二十二日(金)雨 陰鬱なる厭な日であつた。原稿を三枚書いた外に何事をも為し得なかつた。
 
 六月二十三日(土)曇 興味最も多き研究題目は聖書とメタフイジツクス(形以上学)である。二者共に人生の根本問題である。其一を欠いて何事も解らない。そして其孰れをも教へざる我国の教育が全国民をして今日の危険状態に陥らしめたのは少しも不思議でない。今や政府、議会、新聞紙が総掛りに成りて国民を奈落の底へと伴れ行きつゝある。然し真の神を信ずる者は凡て助かるであらう。
 
 六月二十四日(日)雨 蒸暑い苦しい日であつた。今年上半期の最後の聖日であつた。午前は講堂一杯の集会であつた。ホセア書十一章を「イスラエルの罪」と題して講じた。姦淫の罪は愛の蹂躙の罪である、故に最大の罪であると云ふのが要点であつた。午後は八分通りの集会であつた。「幸福を獲るの途は幸福を断念するに在り」(334)と云ふ事を話した 〇茲に又今年の半分を終つた。兎に角相変らず沢山に聖書を講じた。毎日噸日に二回づゝ一回も休まなかつた。咽喉や足が痛むことはあつたが、聖書講演を休む程ではなかつた。何しろ幸福なる事である。
 
 六月二十五日(月)雨 税の高いのに驚く。今年度前半期の家屋税が参拾九円拾五銭で、町税の附加税が七拾弐円四拾弐銭である。即ち|町税として本税の十八剖六分強を徴収せらるゝのである〔付△圏点〕。此んな乱暴の税が世界の何処に在るであらう乎。若し自分が基督教の教師でなくして法律家であつたならば自分は社会公衆の為に大いに争ふて見たくある。然し此地位に在りて争ふも無益である。然れども斯くも高率の税を課して国民の繁栄が期待せらるゝ乎大なる疑問である。不平を唱ふるのではない、国の為に歎くのである。
 
 六月二十六日(火)雨 沢山に厭な事、悪い事を聞かされる。斯かる場合に最も菩き事は一生懸命に働くことである。福音はいくら説いても足りない。死ぬまで働き通うして憂愁《うれへ》に勝つに如かずである。故に此日より夏期講演の準備に取掛つた。何処で之を為すのかまだ目当がない、然し何処でやつても宜しい、唯クヨクヨと人生を歎くより遥かに善くある。また思うた、世界の三大人物と云へば※[乍/心]う見てもソクラテスとパウロとカントとである。是等三人物を知るは全人類を知るに勝さるの利益である。そして幾分なりとも彼等を知るを得て人生の幸福此上なしである。我が老後の楽みと云ふは是等三大人物に益々接近せんと努むるに在る。
 
 六月二十七日(水)雨 此世の中元が近づき、色々の俗事に追はれ、無意義に一日を送つた。実に俗気紛々たる社会である。何人も生きんと欲して悶ゆ。「此世ながらの地獄」ではない、此世が実に地獄である。不信国の(335)運命として誰も彼も借金にて苦しむ。日本国今日の「繁栄」も借金に由て維持せらる。公債々券の売出しが至る所に行はる。辜《つみ》なき子孫をして之を償はしめんとする。実に罪悪此上なしである、憤慨に堪えない。然し如何ともする能はず。世は助けられんと欲する者のみにて進んで助けんと欲する者は殆んど見当らない。万事が行詰りである。一首が浮んだ。
   日に日にと亡び行く世の状《さま》を見る
     心の痛み堪え難きかな
 
 六月二十八日(木)曇 我が同胞の間にプツシユ(押し通す力)の尠きに驚く。何人も他人の後に随《つい》て行かんと欲して、自から危険を冒して新領土を開拓して国力に資せんとしない。凡てが真似事である。イニシエチーブ(発意)がない。是では駄目である。人が皆んな死んでゐる。引きづられて行くのみである。牽引力がない。本当の信仰の無い事が主なる原因であると思ふ。
 
 六月二十九日(金)雨 御任かせまうす。自分の事ばかりでない、毎日持込まるゝ数々の他人の事をも凡て御任かせまうす。弱い自分には是等の重荷を担ふ事は到底出来ない、故に之を凡て彼に御任かせまうす。日本人として人に「不人情」と云はるゝ事は非常に辛らくある。然し乍ら人情に厚き事、必しも有効的に人を助くる途でない。自分の如き度々カントの所謂「病的愛」に引かれて人を誤つた事が幾度もある。故に勇んで御任かせ申すが最善の途である。人に何んと云はれても! 〇久振りにて田島進君の訪問あり、基督教は既に完成されたる救拯を信ずる事であると云ふ事に就いて談じ、福音的信仰の真髄に触れ、新生命の復び我が全身全霊に漲るを覚えた。倫理的基督教又は社会改良的基督教は鈍い間怠《まだる》い基督教である。自分は元来そんな者を信じたのではない。(336)キリストの福音は勿論完成されたる救拯の提供である。それであるから之を信じて自由の、生々《いきいき》したる、喜楽に溢るゝ人と成るのである。
 
 六月三十日(土)雨 茲にまた今年の半分を終り、また雨と五十年記念の六月を終る。多事の一ケ月であつた。カント曰く「哲学を学ぶ前に先づ哲学者と成れ」と。まことに深い観察である。パウロも曰うたであらう、「基督教を学ぶ前に先づクリスチヤンたれ」と。哲学を学ぶは比較的に容易である。困難なるは公平無私、頭脳明晰の哲学者たる事である。クリスチヤンたるも亦同じである。何れにしろ興味《おもしろ》い者は永久的真理である。新聞記者に取扱はるゝ事柄は之を脳裡に入れざるを可とす。
 
 七月一日(日)曇 午前午後合せて三百五十人程の出席者があつた。相変らず二度高壇に立つた。アムンセンと極地探険に就いて話した。殊に青年に取り善き説教であつたと思ふ 〇相変らず方々より援助の依頼を申来る。然し自分の意見を採用して呉れる者は一人もない。何れも己が意見通りに援けて貰ひたいと云ふのである、そして之を拒めば愛が足りない不人情であると云ふに定つてゐる。然し援けても援け甲斐のない事は克く判明つてゐる、そして失敗に終れば亦更らに援助を申込んで来る。実に困つた人達である。是れが日本人の国民性であると思へば其前途が甚だ危ぶまれる。怒つて可いか泣いて可いか判明らない。
 
 七月二日(月)半晴 加州バークレー市在住の佐野寿君夫妻の帰米を送らんが為に、預言寺に於て少数有志の送別晩餐会を開いた。会する者主として旧太平洋教友会の会員達であつた。加州在住者四人、東洋汽船々長二人、其他米国に関係ある人達であつた。太平洋彼岸に我が信仰の友の絶えざる事を感謝する。此日疲労を犯して畔上(337)と共に雑誌校正に従事した。休暇は名のみにして忙がしい事は平日と少しも異らない。
 
 七月三日(火)雨 相変らず俗事を以つて攻立られ、永久的の事は何も為し得なかつた。引続き面倒なるは基督教界である。如何なる信仰を持つても「駄目だ」と云ふ人が四方八方に在る。どれが真の基督教なる乎今に至るもまだ判明らない。然し自分自身には事は至つて明白である。基督教はキリストである。それ以上にこの事かの事を為さうと欲ふが故に数々の迷が起るのである。十字架に釘けられ給ひしキリストの外に何の効果をも休徴《しるし》をも見ざらんと欲して真の平安がある。竟《つま》る所悪いものは米国流の実利主義である。「汝等休徴を見ざれば信ぜざるべし」と主が言ひ給ひし其心の状態である。|米国から来た信仰は全部誤つてゐると見て間違は無いと思ふ〔付△圏点〕。
 
 七月四日(水)雨 此世の問題と云へば殆んど凡てが金銭問題と結婚問題とである。自分の如き者さへも毎日此問題に悩まさる。自分を嫌ふ教会の人達でも此問題の為には遠慮なく自分を訪問する。「祈つて下さい」と云ふは「寄附して下さい」と云ふイウフエミズム(雅語)である。そして此俗気紛々たる世に在りて、唯一つ俗気を全然離れたるはプラトー、カント其他の大哲学者の哲学である。哲学を学ぶ為に非ず、高い清い空気に浸る為に彼等の思想に接する必要がある。基督教会が地上の天国であると云ふは全く虚偽《うそ》である。其点に於てヒユームやカントの哲学の方が遥かに天国らしくある。
 
 七月五日(木)晴 久振りの晴天である。畔上と共に七月号雑誌の校正を終る。新聞紙は奇怪なる記事を以つて充たさる。曰く「円本のマルクス予約学生は黒表に載せて調査」と。同時に広告欄には「マルクス、エンゲル(338)ス全集三版発行、愈〆切迫る」との改造社の大広告が載せらる。さうかと思ふと「思想善導の名で予算の分捕、大蔵省各省の肚を見抜く」と云ふ記事がある。更らに又「学生の思想善導に宗教を利用、視学官会議に指示した文部省の新方針」と云ふのもある。混沌又暗黒である。※[乍/心]うなるものやら少しも判明らない。
 
 七月六日(金)半晴 「キリストは生きてゐ給ふ」との言を口にして床を出た。愉快なる一日であつた。大なる興味を以つて久々振りにて論語を読んだ。ソクラテス程深くはないが、深い常識に富んだ書である。「政を為すに徳を以つてすれば北辰の其所に居りて衆星の之に向ふが如し」と。実に尊い言である。我国歴代の総理大臣達は此事を知つてゐるのであらう乎。基督教は嫌ひでも宜いから儒教の此教を実行して貰ひたいものである。
 
 七月七日(土)半晴 内村医学士が帰朝してから今日で満壱年である。時の経つのは早いものである 〇某宗教学校出身の某基督信者で、米国シカゴ、エール、ハーバード大学等に学び、後欧洲に渡り独逸某大学に研究を続けし某にして、今は高等乞食と成つて時々自分の家をも訪れる者がある。今朝計らずも玄関にて彼に出会し、彼の身上話しを聞き大に教へらるゝ所があつた。自分は彼に対し感慨を述べて言うた
  君が受けし教育は僕が受けし教育の十倍以上である、其君が時々僕より施与を受くるに至つたのは実に不思議である。思ふに是れ君の才能の不足に因るに非ず、君の信仰の冷却又は放棄に因るのであらう。君は渡米前にユニテリヤンに成つたと云ひ、海外に於て主として社会学経済学を修めたと云ふが、其事が既に君の信仰の冷却を表してゐると思ふ。君が若しキリストとの親密の関係を維持してゐたならば今日の悲境に陥らなかつたであらう。故に君に勧む、今日直に復たびキリストに帰り給へ、彼を君の救主として仰ぎ給へ、そして縦令三日間なりと雖も感謝の生涯を送りて君が此世に生れ奉りし意義あらしめ給へ。信者にしてキリス(339)トを離るるは恐ろしい事である。僕と雖も今日キリストを離れるならば君と同様に浮浪の身と成るのである云々
と。斯く云ひて平素よりも小し多くの寄与を為して彼を送り帰した。我家の門をくゞり行く彼の|うしろ〔付ごま圏点〕姿を見て憐愍同情の涙を禁じ得なかつた。
 
 七月八日(日)曇 午前午後合せて三百人余の来聴者があつた。自分は午前丈け「天地の道と神の道」と題して語つた。三度 A・シユワイツエルの「基督教と他の世界的宗教」を読んだ。実に深い見方である。カント哲学に発足した見方であつて多分本当の見方であらう。神と正義を愛する者は何人も之に同意せざるを得ない。
 
 七月九日(月)曇 蒸暑い厭な日であつた。ガヲテヤ書五章の研究を以つて始め、「実利的基督教」の一篇を草し、テイレーの哲学史にフイヒテの篇を読んだ。外に札幌の孫女に絵カードに添えて短き手紙を書いた。有益なる一日であつた。
 
 七月十日(火)曇 雑誌七月号を発送した。十三年間預かり居りし主婦の姪岡田花枝、塚本虎二氏の斡旋にて医学士梅田薫との婚約成立し、今日結納の取交はしあり、一先づ安心した。他人の子を育つるは我子を育つる以上に六ケ敷くある。神の御守りに由り今日まで先づ事無くして姻戚の責任を尽す事が出来て大なる感謝である。
 
 七月十一日(水)曇 暑くつて何も出来なかつた。唯『英百』にルツソー伝を読んだ。弱い偉らい人である。仏国文学者の好き標本である。我国にも彼に類する文士は沢山に在る。然し彼れ程に熱烈に人類を愛する文士は
 
 
 
       (340)一人も見当らない。此不完全極まる人の著書に由てペスタロヂやフレーベルの如き教育家が起り、哲学者カントが彼の倫理哲学の根本を得た事は実に不思議である。|ルツソーは愛すべき弱い大思想家である〔付○圏点〕。真理は之を唱へし人の品行に由て鑑定すべきでない。或る場合に於ては最も不完全なる人が最も大なる真理を伝へた。
 
 七月十二日(木)半晴 雑誌編輯に全日を費した。多くの来客に接した。宇宙人生の大問題を取扱ふ時に我は若返る。此世の事業に従事した人達の老衰の兆を示す者多きに比べ、自分に猶ほ信仰熱哲学熱の消えざるは感謝に堪へない。まことに自分に取りては最後が最善の時である。死の充分の準備の出来るまでは神は自分を御国に召し給はないと信ずる。
 
 七月十三日(金)曇 札幌にて第二の孫女が生れしとの電報に接した。一同の大喜びである。女子ならば桂子と命名すると予め定めて置いた。「桂子を迎ふ」と題して左の一首を産褥の母に書き贈つた。
   北の海野山いろどる桂花《かつらばな》
     幹は天《そら》まで根は巖まで
因に曰ふ、|かつら〔付ごま圏点〕、学名 Cercidiphylum japonicim は北海道の名木である。幹は長く又太く、花は温雅にして北野の山野を彩る。能く我家の理想を表はすものである。
 
 七月十四日(土)半晴 蒸暑い日であつた。六ケ敷い事は何も出来ず、扇風機の援けを借りて少し許りの事を為した。唯ガラテヤ書五章以下、基督教倫理の研究が非常に面白かつた。学而時習之亦不説乎である。老年の快楽は青年時代に学びし事を復読攻究するに在る。
 
(341) 七月十五日(日)晴 久振りの晴天であつた。集会は午前の一回に減じた。来会者堂に溢れた。西岡虎造氏司会し、畔上主なる講演を為し、自分は「実利主義の基督教」と題し簡短なる感想を述べた。相変らず緊張せる集会であつた。我等の集会に何が有つても無くつても、俗気丈けは無い積りである。パウロがテサロニケ前書二章四、五節に曰へるが如くに
  我等神の選びを得、福音を伝ふることを託《ゆだ》ねられたるに因りて語るなり、此は人を悦ばするに非ず、我が心を察し給ふ神を悦ばする也。
と。純真理なりと信ずる事を述ぶる時に、我に熱心が起らざるを得ない。久振りにて午後の集会なかりければ其時間を利用して心行く計りにカントの倫理哲学を読んだ。聖書を除いて此んな清い、読んで気持の好い読物は無い。まことに此暑気に際し頭脳の無上の清涼剤である。斯かる良剤を我等に賜ひし神に感謝する。
 
 七月十六日(月)晴 引続き暑い日であつた。差したる事は何も為し得なかつた。今日の日本に義務の為に義務を為さんと欲する者に殆んど見当らないのに驚く。大抵の人は義務は之を避けて他人をして之を担はしめんとする。そして馬鹿正直の者のみ之を担はせられて苦労する。立派の人までが義務責任は悧巧に逃げる。然り彼等は|うまく〔付ごま圏点〕逃げるが故に「立派な人」に成つたのである。呪はれたる国なる哉と言ひたくなる。彼等に傚ふて逃廻る訳にも行かず、然ればとて無暗に責任を担ふ訳にも行かない。厄介な国である。
 
 七月十七日(火)半晴 熱風吹きすさみ不愉快極まる日であつた。朝より訪問客多く、面会にて殆んど何事も為し得なかつた。何れも援助を求むる人のみであつた。其内に某政党所属某代議士の家族の人があつた。自分は(342)彼女に告げて曰うた
  正義第一です。政略は其後の事です。家を斉ふも国を治むるも道は一つであります。政略を第一とし、然る後に之に正義の美名を附せんとするが故に万事が齟齬するのです。思ひ切つて正義を行つて御覧なさい、善き方法は自から示されます。御解かりになりました乎?
と。又某教会所属の某牧師より彼が牧する教会を去らざるを得ざるに至りし事情を聞かされ、今更らながらに教会の俗化の甚しきに驚いた。又一人の若き未亡人の二児を携へて亡夫の遺骨埋葬の為に遠路遥々上京せし者の訪問を受け、同情の涙を禁じ得なかつた。其他凡て此くの如しである。斯くて坐して生きた社会学の研究が出来て、それ丈けは幸ひである。
 
 七月十八日(水)雨 昨日の暖風に引代へ今日の慈雨はまことに有難かつた。沢山に原稿が書けた。天国は今日之を我が衷に建設し得ることが解かつて感謝である。聖霊に由り我心に神の愛が注がれる時に天国は我に臨むのである。世の終末を待つまでもない、今日此身に天国が実現するのである。此んな有難い事はない。
 
 七月十九日(木)曇 今年も亦、赤道直下阿弗利加にドクトルシユワイツエル医療伝道事業と、支那内地伝道会社の同一事業へ『聖書之研究』読者を代表し、各金五百余円を送る事が出来て大なる感謝であつた。大海の一滴に過ずと雖も、斯かる世界的大事業に参加するを得て、世界的同情心を養ふことが出来、幸福此上なしである。他の人達も若し我等と同じ行動を取らるゝならば、我等と同じ幸福に与る事が出来る。此世の如何なる快楽も阿弗利加の黒ん坊や、支那の苦力等に冷水一杯を与ふる深き聖き快楽に及ばない。慈善道楽も茲に至つて其絶頂に達せりと云ふべきである 〇ライプニツツの原子論を復習した。驚くべき宇宙観である。近代の電子論に克く似(343)てゐる。天が下に絶対的新説とてはないと見える。
 
 七月二十日(金)雨 温度七十度に降り非常に凌ぎ易くなつた。雑誌八月号の校正が主なる仕事であつた。之を為さずしては夏休みは始まらない、苦しい事である。然し幸福である。自分を先生と呼ぶ者の内に信仰的傲慢病に罹る者尠からざるを知り、大いに心を悩まされる。時には思はせられる、キリストの福音は此上我国人に説くに及ばず、説くは甚だ危険である、寧ろ儒者中江藤樹、哲学者カントを説くに如かずと。謙遜の道をさへ弁へざる者は、罪の赦しの福音を聴く資格を有たない。外国宜教師は福音の安売りを成してどれ程日本人の霊魂を亡した乎判明らない。自分も亦た大いに慎まざるを得ない。
 
 七月二十一日(土)雨 再度の梅雨である。温度六十七度、土用としては珍らしき冷気である。午後畔上と共に故弁護士西山其星の遺骨に対して葬儀を行つた。若き未亡人といとけなき二人の遺児に対して同情に堪へなかつた。夜、坂本船長の訪問を受け、海上生活の危険と之に処するに信仰を以つてするの実験談を聞き、死生孰れに対するも神に倚る身の幸福なるをしみじみと感ぜしめられた。我が説く福音に由つて或は安らかに死んで呉れる者があり、或は万事を神に委ねまつりて危きを免かれし者あるを知りて、我れ自身が神の証明に与りしやうに思はれ、実に有難かつた。
 
 七月二十二日(日)曇 午前一回満堂の集会であつた。何は何んでも毎《いつ》も集会丈けは盛んである。前回同様西岡畔上と高壇を共にした。「罪と完全」と屈して話した。人は何人も完全を期して起たねばならぬ、罪は人類の特有性であると唱へて、罪を犯して平気である近代人に傚つてはならぬと語つた。随分精力の要る説教であつた(344) 〇独立の困難に就いて或人に語つた。独立は簡短なる事でない、骨の折れる複雑なる事である。他人の補助を受けない丈けで独立には成らぬ。単独の力で事業を進めねばならぬ。それには種々の設備が必要である。殊に多方面より妨害が起る。自分の場合に於て独立の妨害者は決して外国人ではなかつた。我が同胞であつた、我が骨肉であつた。信仰の事につき何等の理解をも持たざる人達であつた。此不信国に於て信仰の独立を行ふ事の如何に難き乎を今更らながらに切実に感ぜしめらる。神の施し給ふ奇跡に由るにあらざれば到底為す能はざる事である。
 
 七月二十三日(月)曇 何かと取込みである。皆んな小なる個人間題である。大真理の闡明伝播に参加せんとして申出づる者はない。之を思ふと悲しくなる。二十二年間米国に在留して或る事業に従事せし教友某君の訪問を受け、その米国事情の実見談を聞き、非常に面白かつた。世に若し完全に金銭化されたる国があるとすれば、それは支那と米国とであらう。支那人に金と知識とを持たせた者が今日の米国人である。凡ての問題が、宗教、政治、法律、社会、凡ての問題が金で決定せらるゝとの事であれば、事は至つて簡短である。米国に較べて日本は決して悪い国でない。只此上日本人が米国人に宗教道徳の事を学ばざるやう努むる事が最も大切である。但し日本も非常の速度を以つて米国化されつゝあるは蓋ひ難き事実である。支那と米国と云ふ世界二大金銭国の間に介在する日本は危き立場に居る者である。
 
 七月二十四日(火)半晴 七月号の「福音と哲学」とに対して或る読者より反対を申込んで来た。福音は聖霊のバプテスマを受くるに由て之を信ずるのであるから此世の知識なる哲学の援助など藉る必要は無いとの事であつた。多分此人はまだ真面目に哲学を研究した事の無いのであらう。勿論哲学にも種々あるが、本当の哲学は本当の宗教丈け貴いものである。自分の信仰の基礎を築いて呉れた者は独逸の学者ユリウス・ムラーであつて、彼(345)の大著『罪に関する基督敦の教義』は基督信者の実験を哲学的に攻究した者である。聖アウガスチン、トマス・アクイナス、ダンテ、シユライエルマヘル孰れも大哲学者であつた事は人の能く知る所である。カント哲学に由て基督教的信仰がドレ程強めらるゝ乎は、真面目に之を学んだ者の何人も肯定する所である。自分の経験に於てヒユームの哲学に由つて自分の信仰を一度破壊されし事が、之を建直す為に非常に必要であつたことを認めざるを得ない。哲学を恐れ、或は之を諱み嫌ふやうな信仰は頼むに足りない。自分は常に思ふ。|哲学を嫌ふ人は大抵は数学を嫌ふ〔付△圏点〕、そして数学を嫌ふ人が神の深い事を探り得るや大なる疑問である。人の性質は直線を引かして見れば判明るとの事である。頭脳《あたま》の如何は心に関係なき事ではない。研究誌の読者は凡て哲学と数学とを重んずる人であつて欲しい。
 
 七月二十五日(水)晴 久振りの晴天である。主婦と共に札幌に向つて出発した。彼女に取り最初の北海道行きである。自分に取りては第十二回目である。
 
 七月二十六日(木)曇 昨日午後一時主婦と共に札幌に向ひ上野を発した。子と孫とに会ひ、同時に彼地に在る信仰の友を助けん為であつた。此日朝六時青森着、連絡船飛鸞丸にて津軽海峡を渡り、正午函館着、彼地の教友数名の歓迎を受けた。半日を根崎海岸に費し、夜十一時再び汽車中の人と成つた。思へば是れが自分の第十二回の札幌行きである。過去五十年間、四年に一回づゝ札幌に行いた割合である。九州に行きし事は二回、四国には唯一回渡りしのみ。自分は如何に見ても北方の人である。
 
(346) 七月二十七日(金)晴 午前四時シリベツ嶽の巓に朝日指す頃に目を覚した。余市川沿岸、積丹岬、忍路、高島の景色、孰れも昔を偲ぶものであつた。八時札幌に着き多数教友の歓迎を受けた。孫女の笑顔に長旅の疲労を忘れた。日本中に数百万の女児ある中に、此一小女のみが何故我等の心を惹くか、其理由は解らない。
 
 七月二十八日(土)晴 乾燥せる南風吹止まず気持宜しからず。孫女と遊ぶ外に為す事なし。夜、宮部氏方に札幌独立教会の役員協議会に列席し、牧師招聘の事に就き相談に与つた。此教会は※[乍/心]うしても維持して行かずばならず、神は必ず之をして栄えしめ給ふ事を感じた。
 
 七月二十九日(日)晴 朝、独立教会に於て礼拝説教をなした。イザヤ書四十章六-八節等に由り「恒に変らざる者」と題して説教した。過去五十年間の北海道の変化は非常であつた。然し変らざる者は人の心である。同じ罪悪が行はれ、同じ醜聞を耳にする。そして之を改むる者は決して富の増加でもなければ亦生活の安定でもない。天が下に人の霊魂を善く為す途は唯一つである。それが故に我等は今日と雖も猶ほ古き昔の福音を説いて恒に新らしき仕事を為しつゝあるのである、云々と説いた。
 
 七月三十日(月)半晴 天候四日来少しも変りなし。乾燥せる南風塵を揚げ甚だ不愉快である。然し東京の蒸暑きに比べて遥かに増しである。終日ペンを採つて働いた。旧い札幌に居るとは少しも思はれない。今居る所はカトリツク街であつて、主なる家屋は教会附属のものである。此所に純日本流の基督教会を起さんとするが如き、今となりては不可能事の如くに思はる。然し乍ら独立の純福音を唱ふるの必要は今も昔と少しも異らない。東京同様、時を獲るも得ざるも古きキリストの福音を説くべきである。
 
(347) 七月三十一日(火)半晴 札幌に在りて八月号の校正を為した。何処に至るとも此事丈けはなさねばならぬ。北大に佐藤総長を訪問した。老総長の頑健と大学の発展を見て喜んだ。五十年前を思ひ、雲泥の差ありと称すべきである。
 
 八月一日(水)晴 家族の者を案内し、自動車を雇ひ札幌を見物した。南二条西六丁目の所謂「白官邸」は札幌独立教会最初の会堂である。今は町家となり小なる建物は昔のまゝに残つてゐる。其他、創成川の畔、自分が五十年前にバプテスマを受けた所の跡、四十七年前に農学士の学位を授かつた当時の演武堂、今日の通称時計台、何れも記臆の跡ならざるはなし。札幌は自分に取り旧きヱルサレム又はメツカである。其山も川も聖き記念を留む。夜、豊平館に旧友を招き晩餐会を開いた。佐藤北大総長、宮部 南の両名誉教授、内田瀞君の四人が来て呉れた。即ち第一期卒業生が二人、第二期が三人であつた。平均年齢六十九歳、自分が最年少者であつた。共に写真を撮り、学生時代のイタヅラ話にて花が咲き、共に腹を抱へて笑つた。
 
 八月二日(木)晴 小樽に行き、田母神老人設置の独立基督教希望館を訪れた。老兄は札幌独立教会に生れ、独立主義に基き、福音的信仰を維持し来りし点に於て能く自分に似てゐる。斯かる信仰の兄弟を斯かる所に見て大いに我が志を強くせられた。教会の衰退も栄盛も其源因は明白である。復活して今や天に在りて万物を宰り給ふキリストを崇むる乎否に於て在る。活ける救主の在まし給ふ所に衰退の在りやう筈はない。小樽に下車したのは二十年振りである。其変化発展の著しきに驚いた。
 
(348) 八月三日(金)晴 夜、独立教会の祈祷会に出席した。会員中に福音的信仰の燃ゆるものあるを見て驚き且感謝した。昨年来東京に在りて同志と共に同教会の為に祈りし其効果が之に現はれたのであると信ずる。信者の数は減じ、集会は振はずとも真の信仰が興りさへすればそれで祈祷の第一の目的が達せられたのである。独立教会が振はざりし原因の、一時十年の長きに渉り組合教会流の、人物本位の、社会的、キリストの十字架抜きの、似而非なる基督教の其高壇より説かれし事に在ることに、会員一同が気附きし事を見て非常に嬉しかつた。何にも異端征伐をするのではないが、罪の贖ひの福音を説かずして教会の衰ふるは当然である。風を播いて風を穫るは天然の理である。そして其事が今日判明つて感謝の至りである。再び嘉き種を播いて嘉き果を穫り取るであらう。此夜旧友宮部金吾氏の家に泊つた。
 
 八月四日(土)晴 引続き雨なく南風強し。夜、札幌内村会の招待を受けた。病気不在等にて出席者は自分を加へて僅に四人であつた。今田清二君の水産経済学、沢田英吉君の園芸学、石塚喜明君の土壌学に関する研究観察の談話を聞き非常に面白かつた。斯かる若き学者達を友人として持つことの如何に幸福なる乎を感じた。
 
 八月五日(日)晴 前日曜同様、独立教会の教壇を受持つた、本式の教壇に立つことであつて、教職ならざる自分に取り頗る困難であつた。五十年前に自分が其設立者の一人と成りて創めた教会ではあるが、教会は矢張り教会である。之に長所もあれば短所もあるは止むを得ない。そして教会を助けんと欲すれば自分も多少なりとも教会者とならねばならぬ。其処に苦心がある。然し愛の故の苦心である。此日「純福音に就いて」と題して説教した。来聴者は前回よりも多く、百人程あつた。内に仙台東北学院総長ドクトル・スネーデル並に其家族が居られた。
 
(349) 八月六日(月)晴 札幌は引続き塵埃の都である。恰かも蒙古の原野に在るが如し。東京が雨にて苦しむに引替へ此地は雨無きに苦しむ。久振りにて旱天に雨を望むの実験を持たせられた。北海道議会議員選挙にて全道今や政争場裡と化す。是が進歩の途程であると云ふのだから止むを得ない。
 
 八月七日(火)晴 赤ん坊の命名式を行つた。北海道産の名木カツラに因み桂子と命名した。詩篇第百二十七篇を朗読し、彼女の為に祝福を祈つた。後に家族一同五人に親戚の者二人を合せて豊平館に感謝の昼食を共にした。館は今より五十年前、自分が札幌農学校在学中に成つたものである。其古い建築物に於て我が孫の出生祝賀の筵を催すことが出来たとは不思議の因縁である。実に「ヱホバ家を建て給ふにあらずば建つる者の勤労は空し……視よ子等はヱホバの予へ給ふ嗣業《ゆづり》にして、胎《はら》の実はその報ひの賜物なり」である。自分の生涯の末期《をはり》が此んなに成らうとは夢にも思はなかつた。
 
 八月八日(水)晴 独立教会の婦人会が開かれた。自分は路加伝第十章の意義を話した。マルタの過誤は自力で主の教訓を行はんと欲するにあつた。マリヤの長所は|主に頼りて〔付○圏点〕之を行はんと欲するにあつた。差違《ちがひ》は僅少のやうであるが、実は甚大である。訓誡《いましめ》を自分で行はんと欲するのと、|主に頼りて〔付○圏点〕行はんと欲するとの間に天地の差がある。道徳と宗教との別は茲に在る。我等は其意味に於てマルタたらずしてマリヤたるべきであると語つた。来会の婦人二十人、其間に真信仰の存するを実見して大に心を強うした。
 
 八月九日(木)晴 朝、食前に郊外の田圃の間を散歩した。渡り鳥の鴫が畑に餌を漁さるを見て、学生時代の(350)事どもを想出した。衷よりの声は曰く、「主義は主義である。主義は主義として貴くある。主義は成功するも失敗するも、栄ゆるも衰ふるも貴くある。高き主義の為に労苦して一生を終るに優さるの名誉はない。成功、成功と称して、事物の真価を凡て其結果に由て定むる近代人の心根は賤むべき哉」と。石狩の原野に降立つ鴫の群を見ても此んな思想が湧出る。夜九時半、教友牧野実枝治君、独立教会牧師候補者として、視察のため東京より来る。君を札幌停車場に迎へた。
 
 八月十日(金)半晴 殆んど終日教会に在つた。夜祈祷会を開いた。自分が司会した。路加伝十一章に由り、「祈祷の忍耐と目的」に就いて話した。来会者五十余人、盛会であつた。札幌に来れば自分は純然たる教会の牧師である。愛の矛盾と云はん乎。
 
 八月十一日(土)半晴 北海道には稀れなる暑気である。東京よりの教友三人の訪問あり、新宅は大分に賑はつた。明日の講演の準備に全日を費した。
 
 八月十二日(日)晴 牧野実枝治君の来援を得て朝の集会は盛会であつた。来会者二百名以上あり、札幌にては稀れなる宗教的集会であつたとの事である。自分は「基督数的道徳の大意」と題して山上之垂訓の研究の第一回を講じた。礼拝説教を止めて聖書講演となして自分も聴衆も益する所が多かつたと思ふ。矢張り力ある者は聖書の言である。之を説明するに優さるの伝道は無いと思ふ。但し日本人が神の言を聞いて奮然起つて福音の真理の為に尽すは猶ほ遠い将来の事であると思ふ。今日講演の後に献金を募りしに、二百人より僅かに十三円を得たのみであつた。無代価で福音を聞かんと欲する者は多しと雖も、進んで福音の普及を助けんと欲する者は滅多に(351)無い。此事を思ふて失望する。然し忍耐するまでゞある。
 
 八月十三日(月)晴 数日間働き通うし大分に疲れた。今日は家に在りて休んだ。札幌の大発展に伴ひ、其人間は昔の北海道人に非ず大分に狡《こす》く成りし事が判明つた。彼等は内地人同様に人を利用する事に巧みにして人の為に尽す事を知らない。彼も亦純然たる現代人と成りつゝある。日本改造の希望は北海道に在りなどゝは今や到底云ふ事は出来ない。唯東京に在りても札幌に在りてもキリストの十字架の福音を宣伝ふるまでゞある。狡い、擦れつからしのみ増殖して行く我国の状態は歎ずぺきの限りである。
 
 八月十四日(火)晴 主婦と共に北海道大学に内村医学士担任の精神科研究室並に病室を視た。凡てが新式であつて、見るからに気持が好くあつた。患者六十名乃至八十名を収容し得べしと云ふ。大なる慈善事業である。伝道丈けそれ丈け貴くある。我家の継承者に斯かる事業を与へられし事を神に感謝した。
 
 八月十五日(水)晴 秀英舎へ九月号の原稿を送つた。何処へ行いても此事丈けは毎月為さねばならぬ。内村医学士並に牧野牧師と共に三人伴れ立ちて定山渓温泉に行いた。明治十一年に行いて後に今回が初めての同所行きである。五十年間に土地は一変した。豊平川沿岸は村落相次ぎ、小山の巓まで耕さるゝを見た。天然の仙境は今や北海道人の歓楽地と化した。見る者は北海道紳士が芸妓に戯れるのと、聞くものは彼等が弾く三味線の音である。是が発展であり開発である。地より湧出る熱湯は昔と変らない、然し之に浴せんとて群がる者はモボとモガとである。自分は之を見て何も聖人振つて歎声を発しない。却つて久振りに彼等の乱舞の状を目撃して少からず興味を覚えた。此夜五十年振りにて豊平川上流の水音を聞きながら床に就いた。
 
(352) 八月十六日(木)晴 盂蘭盆である。温泉場は一層の騒擾を呈した。朝より三味線の音を聞かされた。半日我慢して午後二時半発の汽車に乗つて札幌に帰つた。第二のホームの有難さが一層強く感ぜられた。クリスチヤンはホーム以外に快楽を求むる必要は少しもない。我がホームが温泉以上の楽園である。縦し亦ホームがなくとも我心が我が天国である。其処に信仰を以つて我が救主を迎へ奉りて、我に人の凡て思ふ所に過る歓楽がある。
 
 八月十七日(金)晴 午前九時を以つて独立教会の講堂を借受け、全道『聖書之研究』の読者会を開いた。来り会する者五十人あつた。天塩十勝より来る者もあつた。初めに祈祷会を開き、次いで講演会に移つた。『聖書之研究』の読み方に就いて話した。次いで質問あり、感話あり、祈祷ありて、正午一先づ閉会した。午後は有志の感話祈祷会あり、午後七時半より一同独立教会の祈祷会に出席し、自分が司会して「世界伝道の精神」と題して述べた。世界伝道参加の義務責任に就いて述べ最後に伝道金を募りし所、来会者六十人より金二十五円二十二銭の応募があつて感謝であつた。
 
 八月十八日(土)晴 南風吹きすさび北海道には稀なる暑気であつた。昨日同様午前九時より読者会を開いた。会員一同昼飯を共にし、胸襟を開いて語つた。教会問題を話題として提出せし所、一同意見一致し、恰かも同一教会の会員である乎の如くに感じた。一同の希望は札幌に聖書講堂の設けられん事であつた。そして望むらくは独立教会の高壇がその為に用いられん事であつた。さすれば読者会々員は立どころに全部其会員たるべしとの事であつた。主は万事を知り給ふ。聖意をして成らしめ給へである。
 
(353) 八月十九日(日)晴 室内温度九十一度と云ふ暑さであつた、独立教会に於て二度説教した。朝は柏木の石原兵永と高壇を共にした。来聴者二百人余りあつた。読者会に引続き此暑さで随分若しかつた。今や札幌の地が膏雨を渇望する如くに、其信者は福音を渇求してゐる。故に自分の如き此地に来つて炎暑に際しても休むに暇なしである。願ふ神が此上とも此老ひたる僕に健康を賜はん事を。東京の姪より左の如き書面があつた。
  御殿場の修養会は思うたより有益でございました。柏木育ちの信仰に他の色々なものを見せていたゞきました。来て居られた講師の中には昨年塚本先生と議論なすつた方々もあつた様で、別に聞いても見ませんでしたが、話が教会問題などになつた時、色々うなづかれる事が多くございました。彼等は内村先生方は挑戦的だとよく申されましたが、私は教会問題になるとすぐ内村先生塚本先生をかつぎ出す彼等こそ挑戦的だと思ひました。私はたゞ黙つてみんな聞いて帰りましたが仲々面白うございました。お目にかゝつて委しくお話し申上げます云々
と。札幌では諸教会の信者達と聖書を中心に厚い懇親を重ねつゝあるに、御殿場に於ては教会の教師達が自分や塚本の名を引出して教会問題を闘はしつゝあると聞いて不思議に堪へない。然し※[乍/心]うでも可い。自分にはそんな事に頭を悩ます暇はない。夜は亦牧野氏と共に高唱に登つた。「弱くして強き基督信者」と題して話した。来聴者百人余りあつた。三日間の暑中の労働を終へてガツカリと疲れた。
 
 八月二十日(月)晴 引続き厳しい暑さであつた。今や何よりも欲しきものは雨である。然るに天は晴れ渡つて雨気《あめけ》は皆無である。祈つて雨を獲られぬものかと思うた。札幌は今や灰の都と化し、石狩平原の草木将さに枯死せんとする状態である。山火事所々に起り、損害莫大である。日本南部は雨多きに過ぎて苦しみ、北部は雨なくして喘ぐ。新聞紙は報じて云ふ明治十六年以来四十六年振りの旱魃であると。之に加ふるに対支問題の紛糾す(354)るあり、為替相場の暴落を見る。気持の悪い事である。此時に際し斯う云ふ事を思うた、即ち、今日の日本に於て金の必要なるは快楽を得んが為でない、耻をかゝざらんが為である。日本人は金使ひの悪しき者を辱かしむる。旅館、料理屋凡て然り。一度家の門を出づれば、同胞の間に在りながら金なき者は犬猫の如くに扱はる。厭な国であると。
 
 八月二十一日(火)半晴 雨降らんとして降らず、蒸暑し。前の聖書研究会々員、今は北海道庁事務官地方課長粟屋仙吉君に自動車を以て案内され、先づ第一に札幌市外真駒内種畜場を訪ひ、場長農学士相原金治君の款待を受け、畜類飼育の実況を示され、昼食の饗応に与り、快談二時間にして辞し去つた。更らに疾走する事六里にして野幌野生林に至り、茲に又道庁技師石原供三君の懇切なる待遇に与り、深く林中に入り懐かしき処女林其物に接し、昔の石狩平野が偲ばれて楽しかつた。帰途月寒種羊場を訪づれ、羊群の牧者に導かるゝ状を見て、是れ亦美はしき平和の活画であつた。朝十時に家を出で、陽入る頃再び北十二条の家に帰つた。疾走十六里余り、誠に善き修学旅行であつた。
 
 八月二十二日(水)晴 家族の者を伴ひ、札幌郊外石山と藻岩山の間に建られたる札幌温泉に半日遊んだ。帰途市中に「内村鑑三先生説教、札幌独立教会」と麗々しく書かれたる大看板の立てられたるを見て非常に気持が悪かつた。夏期休養に来た自分に対し少しく遠慮して呉れたならば可からうと思うた。又他教会に対しても|をとなしく〔付ごま圏点〕無い仕方であると思ふ。大看板を掲げて為した伝道に成功した例は無い。自分の友人達は自分を持上げて却つて自分の仕事を壊ちつゝあるのである。
 
(355) 八月二十三日(木)半晴 家に在つて休んだ。米国提出の不戦条約に由り世界に戦争が絶えるであらうとは誰も信じない。否な其反対に世界戦争以上に惨劇なる大戦争が起らんとしつゝあるは甚だ事実らしくある。次ぎの大戦争は主として空中戦らしくある。飛行機より爆弾を投下する事に由て大都市の壊滅を見るであらうとの事である。戦争はキリスト再臨の時まで止まないとは聖書の明かに示す所であつて、人類の歴史が其通りに進行するのであると信ずる。北海道に滞在して感ずる事は、土地の発展に驚くべきものあると同時に、人の霊性の物質的で低い事である。其点に於て東京は低しと雖も、北海道に比べて遥に優さると思ふ。北海道を以つて日本国の精神的覚醒を行はんとの自分等の青年時代の夢はまことに夢として消え失せたと云ひて間違ないと思ふ。然し乍ら全能の神は在し給ふ。北海道の此物質化も亦聖意を行ふ上に於て何か意義ある事であると信ずる。失望してはならない、祈り且最善を尽さねばならぬ 〇札幌は何んで有つても無くつても東京に較べて至つて呑気な所で有る事は事実である。長く滞在すれば訪問客殆んどなく、自から進んで働かざれば休むには持つて来いの場所である。北海道人の此気質は彼等の冬眠より来たものであらうとの或人の観察は多分本当であらう。
 
 八月二十四日(金)曇 久振りにて少許りの雨を見た。草木為に蘇生せりの観があつた。午後目下札幌滞在中の仙台東北学院総理スネーダー氏の訪問を受けた。旧い米国宣教師であつて、実に立派な紳士である。一面して敬愛せざるを得なかつた。丁度宮部博士も居合せたれば三人兄弟の愛を以つて語つた。|我等は英語を以つてせずして日本語を以つて語つた〔付○圏点〕。スネーダー氏は明治二十一年来、即ち満四十年間仙台に在留せられしと云ふ。其持久力の強さ、採つて以つて模範となすべきである。久振りにて本当の宣教師に接して、我心の和らぎ且広くせられしを覚えて大なる感謝であつた。
 
(356) 八月二十五日(土)晴 柏木を出でゝより満一ケ月である。多事の一ケ月であつた。所謂休養には少しも成らなかつた。到る所に義務責任が待つてゐる。饑え渇きたる霊魂は生命の糧と水とを求めてゐる。之を見て自分の休養を計ることは出来ない。殊に札幌独立教会を救はねばならぬ。之を其成行に任かすは我が一生の目的に反す。元々旧札幌農学校寄宿舎の我が室に於て始まりたる独立運動の結果である。そして五十年後の今日、同室の友たる宮部氏と自分とが主として其任に当らざるを得ざるに至つたのである。摂理と云はんか、運命と云はん乎。昨日旧友二人相会して此事を談じて、感慨無量、共に熱祷を捧げて手を握つて別れた次第である。我等は唯主の命に従ひ「我等は無益の僕、たゞ為すべき事を為したる也」と云ふまでゞある(ルカ伝十七章十節)。
 
 八月二十六日(日)晴 引続き札幌に於て在る。毎日の炎天酷暑である。気候は少しも北海道らしくない。独立教会に於て今年第五回の説教を為した。題は「武士道と基督教」であつた。聴衆百五六十人あり、題に合うたる聴者であるを見うけた。会終つて後に宮部氏と共に豊平墓地に藤田九三郎君の墓を見舞うた。彼は我等の同級同信の友であつた。大いに金を儲けて我等の伝道を助けんと欲したれども、其目的を達せずして逝いた。「君今在さば」との歎声を我等は彼の墓石を撫でながら発せざるを得なかつた。札幌に在りて山も川も草も木も感慨の種ならざるはない。
 
 八月二十七日(月)晴 郊外琴似村に東京の友人某所有の土地を見た。耕作の甘藍《たまな》、玉葱、砂糖大根、玉蜀黍等の旱魃に凋むを見て悲しみに堪へなかつた。農家の貧困状態を見て強く心を痛めた。旧い露西亜帝国の農奴を想出さしめられた。是では札幌小樽等の繁栄は虚偽の繁栄であると云はざをを得ない。北海道に来て感ずる事は(357)政府事業の外に見るべき者の無き事である。政府の補助を離れて今日と雖も北海道は元の荒廃に帰るは確実である。如何に初期の開発に補助が必要であればとて、六十年の長き間中央政府の厄介に成りて今猶独立する能はざる北海道は憐むべき地方であると云はざるを得ない。農家の視察を終へて後に同地字ハツサブに品川義介君をその白雲荘に訪ひ、歓迎を受けて夜に入りて札幌の家に帰つた。
 
 八月二十八日(火)晴 宮部氏と共に同級の友南老博士を其南十八条のホームに訪問した。種々の昔話しに楽しき二時間を過した。帰途独立教会の牧師館に滞在中の前礫川日本基督教会牧師牧野実枝治君を訪ひ三人鼎座して懇談の結果、同君を独立教会教務主任として招聘する事の相談纏まり、自分は二年間より長からざる期間に教務顧問として同君を助くる事を諾し、茲に一年以上に渉る此旧き教会の難問題の解決を見て大なる感謝であつた。是で自分が此たび札幌に長滞留せし主なる目的を達し、喜ばしき次第である。札幌独立教会は今日まで幾回となく他の宣教師的教会に吸収せられんとしたが、神の御助けに由り今日まで独立を維持するを得、今回も亦此災厄を免かるゝ事を得しは大なる感謝である。此教会が何時までも「教会ならざる教会」として存在せんことを祈る。
 
 八月二十九日(水)晴 南風吹きすさび塵埃《ほこり》立ち、暑い不愉快なる日であつた。何事も為し得ず、唯暑さの去るを待つまでゞあつた。札幌の夏に此んな厭な日があらうとは思はなかつた。午後独立教会の役員会に出席し其相談に与つた。「教会ならざる教会」を経営するの如何に困難なる乎を感じた。既成教会の運命の既に定まつてゐるは明白であると思ふ。此上は純聖霊的教会の現はれん為に祈り且努めねばならぬ。茲に困難もある亦希望もある。
 
(358) 八月三十日(木)晴 引続き暖風吹き暑気強し。関西に在る聖公会の教師にして自分の同情者なる某君よりの書面に曰く
  私が伊勢桑名に居ます間に実に苦しい思をしました。同地に在りし三教会の一を司牧せられし某氏は私が先生の御著書並に雑誌を熱心に読んで居る事を知られて最も熱心に先生に対し誹謗の毒矢を放たれるのでした。其有様は恰かも「之程仮面を剥いでもまだ彼の正体が分らぬか」と云はぬばかり、実にあの位ゐ情けなく思つた事はありませんでした云々
と。多分此んな事が常に彼地此地《あちこち》に行はるゝのであつて、実に止むを得ぬ次第である。是れが目下の我国の基督教界の状態であつて、それが故に教会は至る所に振はないのである。教師が相互にその仮面を剥いで其正体を明かにせんとして居るのである。|若し神が凡ての信者の仮面を剥ぎ給うたならば如何であらう〔付△圏点〕、誰か其前に立ち得んやである。神は克く我等各自の正体を知り給ふ、その醜き罪人なるを知り給ふ。然るに彼は我等を見給はずしてキリストを見給ふ、キリストに在りて我等を見給ふ、故に我等何人も神の前に立ち得るのである。自分は常に思ふ、信者が相互を誹謗する程愚かなる事は無いと。尤も聖書には愚かなる事を「祭司(牧師)と争ふ」と云ふ(ホセア書四章四節)。宗教家と争ふ程|つまらない〔付ごま圏点〕、馬鹿気切つたる事はない。宗教家の間に在るやうな争ひは科学者並に哲学者の間に見ない。宗敵〔付△圏点〕とは実に能く云うたものである。願ふ神の子たらん為に我等何人も宗教家たらざらん事を。
 
 八月三十一日(金)雨 北海道に来て以来の初めての雨らしき雨である。三十五日間照り続けられし後の雨であれば有難さ限りなしであつた。終日ペンを採つて働いた。
 
(359) 九月一日(土)雨 震災第五週年である。早いやうで遅くある。此世の事は何が善くあつて何が悪くある乎少しも判明らない、唯神を信ずる事のみ善くあると言ひ得る。又人に頼つて確実なる事は何も為し得ぬ。唯自分一人で為し得る事、それのみが確実である。社会の出来事は、大政府の為す事までが、正気の沙汰と受取り得ぬ事が多い。依然として狂うたる人類である。我が霊魂に神を迎へまつりて其処に神の国の建設を計るまでの事である。
 
 九月二日(日)曇 引続き独立教会に於て説教した。朝の集会は来聴者百名内外に過ぎなかつた。然し最も静粛なる緊張せる集会であつた。「札幌独立教会の基礎」と題して述べた。|聖書の研究、福音主義、知識の尊重の鼎足の上に立つ教会である〔付○圏点〕と説いた。客分としての自身が此高壇より之を説くは僭越の譏を免かれないと思うたが、然し創設者の一人として今日之を高調して置くの必要ありと信じたれば、思切つて為した。夜の集会は朝の集会以上に盛会であつた。来聴者二百人ばかり。自分は「教会と福音」と題して話した。
 
 九月三日(月)半晴 旧友石狩河を訪れた。札幌より創成川に添ひガソリン機関車に牽かれて軌道を走る事北に三里にして茨戸太《バラドブド》にて河に達するのである。昔の雄大なる大河は今は泥の流に変り、河岸の樹木は斫払はれて荒寥の状態、見るからに憐れである。神が人類の良友として造り給ひし河流は人の罪悪に因り其讐敵に化した。石狩河は今は洪水を以つて石狩平原を脅威しつゝある。開墾に由て得し広大の美田を保護せんが為に、莫大の費用を投じて治水工事を施さゞるを得ざるに至つた。|神を畏れず天然を愛せずして為した開拓は此んな者である〔付△圏点〕。旧友石狩河に対し同情無き能はずである。舟を雇ひ河流を横断する事二回、憤慨に充ちて家に帰つた。
   石狩の河を渡りて知りにけり
(360)     蝦夷は開けて殺されにけり
 
 九月四日(火)晴 北海道帝国大学職員にして基督信者たる諸氏に由つて特に自分の為に豊平館に於て設けられし晩餐会に臨み諸氏の懇切なる待遇を受けた。会する者佐藤総長を初めとして十七人、内に日本基督教会に属する者最も多く、メソデスト教会之に次ぎ、独立教会は第三位に在つた。北大職員中基督信者は三十四人あるとは善き記録である。祈祷を以て食事を始め、祈祷を以つて会合を終つた。斯かる会合が札幌に於て催うされしは今回が初めてゞあると云ふ。自分に取り之れ以上の感謝と名誉とはない。佐藤総長の紹介の辞に次いで自分は一篇の朗読演説を為した。
 
 九月五日(水)晴 小樽に行いた。酷く暑い日であつた。夜田母神氏の希望館に於いて演説会を開いた。来聴者二百人程あつた。然るに暑さに堪へずして「北海道特産物の一として見たる独立的基督教」と題する演説の原稿を読む丈けで終つた。甚だ物足らなく思うたが止むを得なかつた。此夜希望館に泊つた。
 
 九月六日(木)半晴 引続き暑し。十二時札幌に帰つた。疲れて半日寝た。北海道に来て怪訝《いぶか》しく思ふ事は、沢山に説教させられ、教勢拡張を助けさせられるが、教義に就いて未だ曾て一回も質問を受けた事の無い事である。又何人も己が事業に対して賛成を求むるが、何人も自分の事業に賛成せんとて申出し者の無い事である。自己中心は我国基督教界全体の精神であるが、北海道に於ても其少しも変らざるを見る。与ふるは受くるよりも福ひなりとあるに、日本の基督信者は多く受くるを大なる成功である乎のやうに思ふて居るらしくある。彼等の間に信仰の燃えざる理由は茲に在る事に彼等が気附かないのは不思議である。
 
(361) 九月七日(金)曇 昨夜雷雨あり。独立教会関係者にして自分よりバプテスマを受けんとて申出し者七人あり、今日は其人々の信仰状態尋問に従事せし所、その全体に健全なるを知りて嬉しかつた。聖霊は想はざる所に働きて救拯の奥義を示し給ひつゝある。伝道の効果につき失望すべき理由はない。
 
 九月八日(土)晴 温気八十度以上、札幌の避暑地にあらざることが明白に成つた。避暑に就ては今年も亦違算失敗であつた。涼を逐ふて来て其他の事を為さしめられた。それで可いのである。
 
 九月九日(日)曇 独立教会に於て今夏最後の説教を為した。引続く霊的労働の後の事とて碌な事を語り得なかつた。午後同教会に於て男二人、女六人にバプテスマを授けた。相変らず静粛なる美はしき式であつた。自分達に五十年前に注がれしと思はるゝ同じ井戸の水を汲来りて此聖式を施した。実に感慨無量であつた。馬太伝三章十三節以下を読み、之を説明して然る後に此任に当つた。
 
 九月十日(月)曇 蒸暑し。引続き恵まれぬ天候である。大疲労の月曜日であつた。聖書学者が六週間に渉り牧師の用を務めさせられたのであるから疲れるのも無理はない。此夏読まんとて持来りしカント、プラトーは一頁も読まず其儘持帰る次第である。如何にして人を信者にせん乎、如何にして教会を盛んに為さん乎との問題に囚はれて、宇宙人生の大問題を考ふる暇は少しもない。是れでは自分の信仰までが堕落する。宗教家とは人を助くる者なりとのみ思ふ人達の内に在りて、思想を練らんと欲するが如き贅沢の如くに思はるゝは止むを得ない。
 
(362) 九月十一日(火)半晴 少しく涼味を覚えた。石狩の夏が此んなに悪くなつたには理由がある。人間が天然の林を伐尽《きりつく》したからである。|山林濫伐は大罪悪である〔付△圏点〕。其刑罰として数知れぬ不幸災難が臨むは当然である。美はしき天然の林を伐り、之を以つて紙を製造し、有害な新聞雑誌書籍を作りて人の霊魂を破壊す。如此くにして此世は日に日に滅亡に近づきつゝある。
 
 九月十二日(水)曇 市内並に郊外を散歩した。教会に於て自分の送別会と牧野実枝治君の歓迎会とが合せて開かれた。真実に充ちたる会合であつた。是で札幌に於ける今年の仕事が済んだ。四十六年振りの暑さであつて東京の夏以上の苦しい夏であつた。然れども独立軍の大切なる城廓の危きを見て、来つて之を援けたのであれば別に苦痛には感じなかつた。
 
 九月十三日(木)雨 終日家に在つて休んだ。少し読書が出来て嬉しかつた。孫女は曰ふ「お祖父ちやん、独りでお帰り(東京へ)お祖母ちやんは残《おい》ておいで」と。酷《ひど》い事を言ふ奴である。さう言ふておいて後で御気嫌を取る。然し何時までも此んな事をして居れば終に本当の老人に成つて了ふ。柏木に帰つて又秋の仕事を始めねばならぬ。旧約のイザヤかアモスかミカか、又は新約のヤコブか。選択の区域は広くある、問題は大きく又深くある。老人に成り終らざらんが為に孫を離れて真理を友とするの必要がある。孫よ安全なれ、祖父をして再び福音の戦士たらしめよ。
 
 九月十四日(金)晴 昨夜大雨。出立の準備にて取込んだ。相変らず劫き者供と別れるのが辛らくある。然し任務の為である。我が戦場へと帰らねばならぬ。パウロのヱルサレム行きと同様に「多くの艱難我を待てり」で(363)ある。墓に入る時まで我に枕する所なしである。弟子は師に勝らず、当然である。
 
 九月十五日(土)半晴 出立にて多忙であつた。五十日間暑い忙がしい面白い日を送つた。たゞの夏期休暇でなかつた。何か実質のある仕事を為さなければ休みにもならない。最小の桂子は笑ひだした。正子は智慧たつぷりである、面白い事限りなし。彼等と暫時なりと別かるゝは辛らくある、然しまた会ふ日を楽しんで別れた。勿論祈祷と讃美歌とがあつた。此所にも亦楽しきクリスチヤンホームがある。夜九時四十分多くの友人に送られて札幌を離れた。
 
 九月十六日(日)半晴 火山湾の南岸にて夜が明けた。駒ケ嶽の麓より眺めたる湾の鏡面は美くしかつた。朝七時函館に着き、湯の川時任家の客と成つた。午後二時より商工会議所の議事堂に於て講演会を開いた。五十銭の聴講料を払ひて来り聴く者が百三十人あつた。自分は「繁栄の基礎」並に「宗教の利用に就いて」と題し一度に二回の講演を為した。函館に於いて未だ曾つて斯んな気持の好い演説を為したことはない。閉会後、今は函館市会議長なる旧開拓使時代の同僚松下熊槌君に自動車にて案内され、市内を見物した。勘察加より帰来りし漁業汽船の荷揚げする状況を示され、我が心が躍つた。北海道産業の発達に関する自分の青年時代の理想の実現せるを見たからである。夜に入り旧い同窓の一人寺尾熊三君を君の湯の川の家に訪ひ、旧古を語り、祈祷を共にして帰つた。充実せる一日であつた。
 
 九月十七日(月)晴 秋晴れの好天気であつた。此所にも亦多くの友人に送られて朝八時連絡汽船津軽丸にて帰途に就いた。海峡は稀れに見る静けさであつた。船長岡田亮三郎君は聖公会所属の会ふからに気持の好いクリ(364)スチヤンキヤプテンであつた。彼は兄弟の愛を以つて自分を迎へて呉れ船中隈なく案内して呉れた。丁度隣室に大本教々主井口和仁三郎氏が多くの随行者を従へて同船してゐた。然し船長は我が信仰の兄弟であれば自分は大本教以上の勢力であると思うた。正午少し過ぎ青森着、一時四十分発の汽車にて東京に向つた。車中知合ひの関西の某婦人に出会し、彼女の苦悶の一部分を聞かされ、四囲の風光と共に、明白に内地気分に成つた。北海道に悪い事は多いが内地で聞くやうな悲惨なる行詰り談は聞かない。実に函館は北海道の終る所で、青森は内地の始まる所であるを感じた。此夜急行列車の内に過した。
 
 九月十八日(火)雨 朝七時上野に着いた。畔上外十数人の家の者が迎へて呉れた。五十三日振りで柏木に帰つた。永い永い留守であつた。家は綺麗に良く整ふてゐた。唯小なる孫供が居ないで淋しくある。但し其代りにカント先生、バトラー先生、其他の大先生達が居給ふ、それ故に孫供がゐずとも|やつて〔付ごま圏点〕行ける。然し小なる正子とダンスをやつたのは楽しかつた。是れで今年の「夏休み」が終つた。満六十七歳六ケ月の老人の夏休みとしては余りに多事多忙であつた。然し働き得て感謝である。今から亦秋の仕事が始まる。稀態な生涯である。
 
 九月十九日(水)晴 家に在つて休んだ。沢山に聖書を読んだ。又哲学熱も多少復興した。今からが自分に取り本当の「休み」であらう。然し柏木に帰りて不相変不幸を訴へらる。「神を信じて不幸に遭ふ筈がない。然るに不幸に遭ふを見れば信仰しない方が善くあつたのではない乎、その説明をして呉れ」との類である。|神に対する不平を自分に向けて来るのである〔付△圏点〕。何んと答へて宜しきや解らない。世に信仰を私的に考ふる人の多いには困る。信仰は公的であつて私的でない。宇宙的法則の一面であつて、自己の便宜の為のものでない。「彼れ我を殺し給ふとも我は彼に依頼まん」と云ふが真の信仰である(ヨブ記十三章十五節)。信仰を特に自己一人の為のもの(365)と思ふが故に、米国宣教師に教へられたる日本の基督教界に於けるが如き数限りなき不平と不満とがあるのである。
 
 九月二十日(木)半晴 蒸暑し。北海道より東京に帰つて来て強く感ずることは東京に人間の多い事である。何処に行いても人間である。人間を以つて溢れてゐる。是れでは生くるが非常に困難である。此の狭き人間稠密の東京に居て身も心も縮まらざるを得ない。唯幸にして我が衷に霊界の無限なるあり、之を渉猟して我は狭きに在りて広くあることが出来る。今日は殆んど終日フーストン・S・チヤムバレンの『カント講演』を読んだ。
 
 九月二十一日(金)雨 来る日曜日の説教の原稿を書いた。朝五時に起き八時間にて書き終つた。聴く人は三十分にて聴き、読む人は二十分にて読む。丁度家の者が終日掛つて拵えて呉れた御馳走を自分が十分間で平げて了ふやうなものである。故に聴衆や読者に対して不平を鳴らす事は出来ない 〇予ねて丸善書店に註文して置いたエドワード・ケヤード著『カントの批判哲学』二冊が達した。頁数は千二百頁以上で、代価は僅かに拾参円弐拾五銭である。上等旅館に一日泊る丈けの代価である。而かも是れあれば残る一生を最も楽しく送ることが出来る。高い物は肉の食物であつて安い物は霊のそれである。我が目前に菊版大冊二部の横たはるを見て、我心は高貴なる歓喜を以つて躍る。
 
 九月二十二日(土)曇 原稿書きと読書にて全日を終つた。孫を離れて我が労働室に帰つて我が頭脳の働くこと非常である。いくらでも書くことが出来る、いくらでも読むことが出来る。孫とのダンスも面白かつたが、カ(366)ントの批判哲学も面白くある。両者に対し深き趣味を有する自分は恵まれたる者であらねばならぬ。
 
 九月二十三日(日)晴 暑い日であつた。八週間振りにて自分の高壇に立つた。万事自分の欲するが儘に行はれて甚だ気持が善くあつた。自分の知る範囲に於て柏木の自分の集会程善く訓練されたる集会はない。此処では万事が訓練されたる軍隊に於けるが如くに行はる。午前は満員、午後は八分通りの集会であつた。午前は『休養と労働』と題し、午後は『余は今年の夏何を為せし乎』との題下に語つた。久振りにて思ふ存分に語り得て感謝であつた。「ホームに優る所あるなし」である。
 
 九月二十四日(月)雨 読書と雑誌編輯とで一日を終つた。孫と離れて淋しくある。彼女も「淋しいねー」と云ふて居ると札幌通信は言ふ。然し淋しくつて用事は渉る。神が活きて働き給ふ事が益々明かに解つて此んな嬉しい事はない。「悪に抗する勿れ」である。神御自身が悪を処分して下さる。唯時が少し長くかゝるまでである。神と偕に在りて我が敵は自分が手を下さずとも徐々と亡び行くを見る。
 
 九月二十五日(火)雨 湿めつぼい厭な日であつた。聖書研究会に二十人の新会員を募りし所、今日既に十六人の入会申込があつた。此分にては直に定員剰過に成るであらう。市内の或る有力なる教会の牧師の言なりと云ふを聞くに、今や信者はカトリク教会か又は内村聖書研究会に走りつゝあると。それは多分事実であらう。若し礼拝本位の教会を望むならばカトリクに行くに如かず、信仰丈けを以つて足れりとするならば柏木が行くべき所であらう。
 
(367) 九月二十六日(水)曇 急に涼しくなつた。久振りにて善き一日の休息を得た。然し外は不相変暗黒である。新聞紙は疑獄事件の記事を以つて賑ふ。東京市の疑獄、横浜市の疑獄。|疑獄は地獄の現象である〔付△圏点〕。そして東京も横浜も地獄に成つて了うた。それには理由がある。然し理由を説いた所が誰も信じない。猶ほ暗黒は益々進み行くであらう。今日聞いた事であるが、郊外の或る友人の庭で熊蜂の一群が飼育せる蜜蜂を喰尽したとの事である。即ち|蜂の敵は蜂であつて、人の敵は人である〔付△圏点〕。然り基督信者の敵までが基督信者であるから不思議である。之を罪の世界と云ふのである。全部が呪はれてゐる。「我等此所に(此世界に)在りて恒に存つべき城邑《みやこ》なし、唯来らんとする城邑を求む」である(ヒブライ書十三章十四節)。暗黒の裡に希望の大光明ありである。
 
 九月二十七日(木)晴 秋晴れの好日和であつた。或る友人が雑誌『虹』九月号に載せられたる渡辺善太君の自分に関する批評を示して呉れた。それは左の如し。
  私は前きに「何故内村鑑三氏の集会にはあんなに人が集るだらう?」といふ質問を度々うけた。私自身としては内村派でもないし、内村氏の弟子でもないし、その集会に常に出席する者でもないし、其私宅を常に訪問する者でもない。然し僅か二三回のその集会への出席と、数年前函根で同氏と森戸辰男氏と私とが講演をした当時の知識と三四度の個人的談話の経験からで考へると、同氏の講壇からは「福音」が説かれるからだと答へ度い。「恩寵」が教へられるからだと云ひ度い。勿論そこには人の云ふ如く、同氏一流の詩もあり、自然科学もあり、俗化に対する挑戦もあり、慷慨も悲憤もあるが、要するにそれらのものはお刺身のつまに過ぎない。只風袋に過ぎない。中身は「福音」である。人の魂が本当に謙虚になつた時にのみ与へられる(368)「福音」であり、それのみから流れ入づる「恩寵」である。基督教界の所謂大先輩が、或は落伍し、或は凋落した今日、独り同氏が尚ほ日曜毎に五百の聴衆を惹きつけて居る事は、吾々後進の青二才には大なる教訓である。
是は誠に有難い批評である。我国基督教界の教師にして此んなに善く自分を見て呉れた者の他に有るを知らない。実に渡辺君が言ふ通り、自分はイエスキリストの恩恵の福音を説いて来た積りである、其他は|附たり〔付ごま圏点〕である、有つても無くつても可い事である。そして縦令一人なりとも自分の所説の真髄を看破して呉れた者のある事を感謝する。
 
 九月二十八日(金)晴 知人其の事業に関する所用あり一日を費して静岡県田方郡西浦村|久連《くづれ》へ行いた。江之浦湾を経て富士山を挑むる風景は世界一品であると思うた。松島などの到底及ぶ所でない。北海道を見た眼で内地の此辺を見て、矢張り日本の最美は内地に在ることを肯《うけが》はざるを得ない。義務は別として秋晴の好き一日の清遊であつた。
 
 九月二十九日(土)曇 日本国は依然として官尊民卑の国である。官権に頼りて何事も為し得ざるはなく、一市民たる丈けの権利を以つてした丈けでは何事を為すにも面倒であり、不利益であり、大抵の場合は不可能である。そして政治の腐敗するのも、教育の実の挙らざるのも、社会全般が日に日に堕落するのも凡て之が為である。此は実に国家の盛衰に関する重大問題である。然し直さんと欲して直す事が出来ない。但し自分自身は不利益を忍び、不可能を覚悟して官権には頼らないであらう。
 
(369) 九月三十日(日)雨 午前は八分通り午後は満員の集会であつた。若き婦人の会員の殖て来るには驚く。米国同様、終には婦人の集会と成りはせぬ乎と思ふて心配する。此日特書すべき事は、『聖書之研究』発刊当時、書記の役を務めて呉れ、其後二十何年間交際の絶えし、今は栃木県烏山中学校の英語教師たる黒木耕一君が信仰に目醒めて帰つて来て呉れた事であつた。彼は午前の集会の前に立ちて今日に至りしまでの経歴を語り、彼れ自身が涙に咽びしと共に、会衆一同に深き感動を与へた。柏木に於ては稀れに見る悔改の告白であつた。午後二時少数教友の立会の下に自分は彼にバプテスマを施した。栃木県青木義雄君の如き、態々来て立会うて呉れた。誠に嬉しき聖式であつた。如此きバプテスマに誰も反対しやう筈はない。天に於て天使の間に大なる喜びがあつたと信ずる。我等は地上に於て其喜びを分つたまでゞある。
 
 十月一日(月)晴 麗はしき秋日和であつた。家に在りて休んだ。玄関に左の如き張紙を貼つた。
  一、説教演説の御依頼に応じません。
  二、雑誌新聞記者諸君には御面会致しません。
  三、政治は勿論、社会宗教の諸運動には参加致しません。
此く為して自分の平安を守らねばならぬ。我門を一歩出れば万事が混乱である。
自動車、自転車、荷馬車が馳せちがふ。誰もが人を突き倒しても自から生きんと欲する。遠慮会釈などあつたものでない。恐ろしい世界である。故に朝早く人の起きざる前と、夜遅く人が寝静まつた後の外は成るべく門外に出ぬやうにして居る。
 
 十月二日(火)晴 同窓同級の友、東京帝国大学名誉教授工学博士広井勇君昨夜突然永眠した。直に彼の家を訪ひ、彼の冷たき額に手を当てゝ実に感慨無量であつた。五十年前に彼と同時にバプテスマを受け、共に福音宣(370)伝の為に働かん事を誓ひしも、彼は日本第一の築港学の権威と成り、直接に伝道に携はらざるやうに成り、其方面に於ける事業は自分が一人で為さゞるを得ざるに至り、堪え難き淋しみを感ぜし事であつた。是れで札幌農学校第二期卒業生十人の内、六人まで世を去りて、残るは僅かに四人である。それを思ふて更らに大なる淋しみを感ずる。然し我が救主は活きてゐ給ふ。彼と偕に働くのであれば我は落胆してはならない。然し肉は弱し。今朝旧友の死顔に接して今日は終日悲歎に沈んだ。唯今日も亦有力なる新会員七八名を得て大いに元気附けられた。
 
 十月三日(水)雨 朝五時に起き、明日行はるべき旧友工学博士広井勇君の葬儀に於て読むべき感想の原稿を書いた。万感胸に迫りて幾度か落る涙を拭うた。又訪問者多く、人生の実際問題の解決を求められて困難した。聖書の註解二三頁を読みし外に、他に何事をも為し得なかつた。唯夕食後に女学者の文子さんが|やつて〔付ごま圏点〕来て一時間程色々な問題に就いて話して面白かつた。神は今猶ほ奇跡を行ひ給ふ事を天然科学の立場より話し合つて大いに我が信仰を助けた。
 
 十月四日(木)雨 広井勇君の葬儀を市ケ谷仲の町の君の自宅に於て行つた。番町教会前牧師綱島佳吉君が司会の任に当り、其他万事に渉り我等を指導して呉れた。同窓の友大島正健君と伊藤一隆君と亦儀式の一部を担任して呉れ、自分は予ねての故人の依嘱に従ひ、funeral sermon(葬儀の説教)を試みた。実に辛らい役目であつた。棺前に立ち、万感胸に迫りて男涙を禁じ得なかつた。五十年来の信仰生活の回顧である。彼は如何にして大土木学者に成りし乎、自分は如何にして福音の戦士に成りし乎、其径路を述べて我が心臓は崩れん計りに震へた。近頃此んな感慨多き説教を為した事はない。如此くにして旧友は続々と世を去りて我は其葬儀を行はしめられる。辛らい重い責任である。後でガツカリと疲れた。
 
(371) 十月五日(金)雨 昨日の広井氏の葬儀に於て自分の読み上げた感想文に対し、会葬者の一人にして同氏の親族の或る婦人より長い感謝の書面が達した。其内に曰く
  先生、今日私が拝見致しました先生は、いつも柏木の講壇の上で御話を遊ばす先生ではなく、もつともつと私達に近い、本当に人間としての先生で御座いました。熱い々々涙を流しつゝ語られる先生の御言葉を誰も々々どの様にうれしくうかゞつたことで御座いませう。……この涙こそは人間イエスの流し給うた涙であり、真のクリスチヤンの流す涙であります。この潔い熱い涙を流し得ぬ者は、たとへ何であらうとも少くともクリスチヤンではない、人間ではないと思ひました……この御葬儀に列して、他の何処でゞも得られぬものを与へられましたことを、何よりも嬉しく思ひました。云々
イエスは其友ラザロの墓に於て涙を流し給へりとある。自分とても旧友の葬儀を行つて涙を流せしは当然である。然し乍ら滅多に流さゞる自分の涙を感情鋭き婦人達に見られしは残念至極である。然しあの場合、止むを得なかつた。
 
 十月六日(土)晴 何んとなく疲れた。仏国の大昆虫学者 J・H・フハーブルの昆虫の本能に関する意見なるものを読んで大いに我が意を強うした。フハーブルはアガシと偕にダーヰンの進化説には反対であつたと云ふ。自分も近頃は大分にダーヰン主義を疑ひ出した。是は勿論教会者に喜ばれん為でない、純然たる学問の立場からである。
 
 十月七日(日)雨 大雨にも拘はらず午前は八分、午後は九分の集会であつた。聴衆の熱心なるに驚く。皆な(372)市の内外の遠方より来るのである。午前は「死に関する聖書の教示」と題して語つた。六ケ敷い問題であつた。聴衆に解つたか否やを知らない、然し語らねばならぬ事であると思うたから語つた。午後は「神の在る証拠」に就いて語つたが甚だ振はなかつた。頭が疲れてゐたからである。来会者に対し気の毒であつた。
 
 十月八日(月)雨 暴風雨であつた。家に在つて外国の友人に手紙を書いた。英語を使ふのが段々と困難に成つて来た。其他に沢山にプラトーを読んだ。聖書の次ぎに偉らい書はソクラテスの哲学問答であると思ふ。
 
 十月九日(火)晴 昨日とは打つて変つての天気であつた。郊外に友人某の病気を見舞ひ、然る後に三ケ月振りにてバビロンに行いた。北海道へは行いても行きたくない所であると思うた。這々《はうはう》の体にて柏木に逃げて帰つた。
 
 十月十日(水)晴 朝五時に起き十二時まで掛つて二度分の講演を書いた。万事が元の調子に帰りつゝあつて感謝である。七月以来余所に働きしが故に調子が狂ひ、何んとなく異様に感じた。我が事業は人に真理を教ゆる事であつて、人を勧めて信者に成す事でない。我が本領は研究である、説教でない、然るに世人は我を説教師として用ひんとする。悪い人達である。
 
 十月十一日(木)半晴 金が有つて信仰と道徳が無くして亡び行く人と家の許多あるを目撃して、今更ながらに神の御審判の正しきに驚く。信用は金に有りとの日本人全体の立場が今や根柢より崩れつゝある。然し止むを得ない、薩長土肥の政治家等に由つて導かれて来た日本人である、茲に至るは当然である。但し我国の事である(373)と思へば情けない。夜伝道会を開いた。山形県小国郷、福島県茨木街道に於ける二組の伝道隊の報告があつた。多少の成効を収めし事を感謝した。
 
 十月十二日(金)半晴 愛らしき山茶花が咲出し本当の秋が来た。雑誌十月号を発送した。明治三十三年十月第一号を発行して、今月で満二十八年である。今に猶ほ倦きないのは不思議である。主婦は甥姪を伴ひ参州岡崎へ父母の墓参に行いた。
 
 十月十三日(土)半晴 詩篇第十八篇とゾームの『教会歴史』を読んだ。人世の色々の事を思ひ感慨措く能はざる所のものがあつた。世に基督教の信仰を馬鹿にする者が沢山に在るが、其人等が徐々に滅び行くのを見て恐ろしくなる。「神は慢るぺき者に非ず」である。審判は覿面に行はる。神の在し給ふ確実の証拠である。それにしても「準縄《はかりなは》は我が為に楽しき地に落ちたり、宜べ我れ善き嗣業《ゆづり》を得たるかな」である(詩第十六篇八節)。
 
 十月十四日(日)晴 麗はしき秋の翌日であつた。午前午後を合はせて四百人に少し足らざる来会者があつた。両回共に充実せる集会であつた。朝の組では旧約オバデヤ書の研究を始めた。午後は「神に関する思想」の第一回「無神論と不可思議論」を講じた。此世に悪い事厭ふ事は沢山に有るが、聖書と福音とを説いてゐる時丈けは天国である。殊に今日の如くに木犀香り山茶花咲く秋日和に此事を為すの楽しさと云うたらば譬ふるに物なしである。
 
 十月十五日(月)半晴 家に在りて休んだ。読書の好時節である。沢山に聖書とプラトーとを読んだ。我が霊(374)魂の飽足れるを覚えた。故工学博士広井勇君の遺言に由り金五百円を其遺族より聖書研究社へ寄附して呉れて有難かつた。旧い同窓の友にして如此くに我が事業を記念して呉れた者は今日まで唯彼れ一人ありしのみである。其事を思ふて悲しくなると同時に、彼に対し深甚の感謝なき能はずである。
 
 十月十六日(火)晴 面会日である、沢山に厭な事を聞かされた。厭な事を聞くのが宗教家の役目であるやうに思はれる。世に憐れなる者とて官職を離れたる役人と財産を失ひたる金持の如きはない。彼等は水を離れたる魚又は木から落ちたる猿の如き者である。人生成る勿れ官吏の身、百年の苦楽他人に依るである。又祖先の遺産に由つて生活するが如き危険はない。天秤棒を担いでも可いから独立人たるべきである。自分の如き、早く官吏生涯を離れ、神と自己とのみに由つて生涯し来りし幸福は実に大なりと云はざるを得ない。
 
 十月十七日(水)曇 茨城県稲敷郡高田村が今回禁酒村と成りし其起因は今の村長根本益次郎君が早い頃、自分の演説を聴いて基督信者に成りしに在るとの記事を或る雑誌に読んで衷心より嬉しかつた。自分は無教会主義の主唱者であつて、悪事の外に何の善事を為さゞりしと教会者や宣教師に思はるゝ時に、斯かる報知に接して何やら少し生き甲斐があつたやうに思はる。今日はまた新潟の旧き教友大橋正吉氏の訪問を受け、彼地に於いて四十年前に、自分が教会者並に米国宣教師の強き反対の間に播きし信仰の種が今に至りて実を結びつゝあると聞いて、是れ亦大なる感謝の種であつた。長い生涯の間神に導かれて、其終りに近づいて菩き報知を聞かさるゝは、斯んな嬉しい事はない。神が自分を義として下さる、自から進んで弁明する必要は少しも無い。彼に我が罪を赦して頂き、万事を彼に委ね奉る。謗られても嫌はれても何でも無い。未来の光明を目指して毎日進むのみである。
 
(375) 十月十八日(木)雨 暴風雨の気味である。終日ペンを採つて働いた。少しく過労を恐れた。四五年間交際の絶えし或る旧い信仰の友が帰つて来て呉れて嬉しかつた。|他の子供達も皆んな何時か帰つて来るのであらうと思ふと嬉しくつて堪らない〔付○圏点〕。人生悪い事計りでない、善い事もある、失望は無用である。加州の教友某がフルーツの缶詰を沢山に送つて呉れた。是も亦善い事である。
 
 十月十九日(金)晴 上州高崎光明寺に主婦と共に先祖の墓に参りた。朝家を出て夜に入つて帰つた。是れ亦日本人として為さねばならぬ義務である。墓参を終へて後に烏川の畔に至り、遥かに榛名碓氷の連峰を眺めながら我少年時代の事共を思ひ出した。柳川町に我が父の家の跡を尋ねた。初めて手習に行きし白井老先生の邸宅の前を過ぎた。熊野神社は我が迷信時代の崇拝物である、此日丁度其祭礼であつた。凡てが六十年前の事共である。山の形は変らず、川は依然として流る、其内に我が少時の友なる淡水魚類は棲む。唯釣漁に耽る我を誡めし父の声を聞かない。噫我も亦上州人である。此んな者に成らうとは夢にも想はなつた。今の高崎聯隊正門前にありし藩黌にて東京より招きし小泉先生より学びしABCが後に役に立つて、日本全国にパウロ、アウガスチン、ルーテルの唱へしキリストの福音を伝ふるに至つたのである。感慨何ぞ堪へん。
 
 十月二十日(土)曇 自分の書いたものゝ校正に全日を費した。不相変面白くない仕事である。然し校正は仕上げであつて之を他人に任かす事は出来ない。目の盲するまで此事を為さずばなるまい。然し他の事を為すのではない、イエスと其愛とを語る書物の校正を為すのである。それであるから楽しい 〇近頃に成りて自分を離れし人達がポツポツと再び還り来て呉れて是れ亦非常に楽しくある。今日も亦斯かる帰還者の一組があつた。今に皆んな還つて来て呉れるのであると思ふ。
 
(376) 十月二十一日(日)雨 雨天に拘はらず午前午後共に殆んど満員の集会であつた。オバデヤ書の研究と自然神教に就いて講じた。午後は塚本が主任で自分は補助である。集会は善き機械の如くに何の故障もなく運転する。斯んな恵まれたる集会は日本中他にはないと思はる。教会と云ふ教会が成るべく俗社会に接近せんとて努むるに対し、我等は之を避け之より遠からんとするに拘はらず、斯くも善き会衆が泥路を厭はず此辺鄙の所に集り来るは不思議である。神様御自身が彼等を連れ来り給ふと信ずるより他に考へ方がない。
 
 十月二十二日(月)晴 又復草臥れた。古いスチユアートの羅馬書註解を取出し、第九章の予定論の辺を通読し、疲れたる霊魂に能力を与へた。依然として貴きは古いピユーリタン神学である。之に較べて近代人の神学の如き半銭の価値もない。
 
 十月二十三日(火)雨 聖書研究会への入会志望者が依然として絶えない。内に教会所属の信者の多いに困却する。再考三考を促し、最後に牧師の承認を得て許可する事にしてゐる。教会は何をしてゐるの乎。願ふ我等をして其会員の霊魂の気附を取らしめざらん事を。時々教会の長老役員等より聞く所である「私供は牧師に信仰を養はれんとしません、それは聖書之研究に依ります。教会には唯籍を置く丈けです。福音は之を今の教会より得られません」と。我等に取り好い迷惑である。教会に再考三考を促す。
 
 十月二十四日(水)曇 引続き恵まれない天候である。湿つぽい重困しい厭な日であつた。朝第一に詩篇第二十二篇を読んだ。読んで涙がこぼれた。十字架の上のイエスを詠んだ詩である。そして凡て彼を信ずる者の生涯(377)を歌ふ歌である。患難と孤独と祈祷と希望と勝利、此んな詩が聖書を除いて他に何処に在る乎。此詩の解る者がクリスチヤンであつて、解らない者は監督でも神学博士でもクリスチヤンでない。此詩を我詩として味ひ得んが為に※[乍/心]んな困苦に遭うてむ可い。新聞と雑誌とは悉く虚《うそ》を語り、之に目を触るゝだに気持悪しき時に、古い聖書の有るありて不朽の生命に接し得るは祝福《さいはひ》言辞《ことば》に尽し難しである 〇先週上州高崎に行いて以来色々の追想に耽ける。若し維新の革命がなくして西洋文明が入つて来なかつたならば自分は今頃※[乍/心]う成つてゐたらうと想ふ。自分の世界は八万二千石の小藩で、家は五十石の小武士、まことに振はない身分であつたらう。勿論キリストの福音に接する機会もなく、又ソクラテス、プラトー、アウガステン、ルーテル、カントをも知らずして一生を終つたであらう。さう思へば維新革命や西洋文明を呪うてはならない。矢張り明治大正の世に生れて来たのは幸福であつた。神と時代とに感謝せねばならぬ。
 
 十月二十五日(木)曇 昨日同様の天候である。此世の智者が智慧負けして窮境に陥りし者の状態を幾つともなく毎日見せられて同情又憐察に堪へない。彼等の或者は自分を指して「あの人は信仰は堅いが世間の事に暗い」と言ひ通して来つた人達である。その人達が世間の事に失敗して自分の如き者にまで此世の事に関する援助を要求するに至つて、皮肉も茲に至つて其極に達せりと称すべきである。世に「智恵馬鹿」と云ふ事があるが、キリストと其福音を馬鹿にする人程馬鹿な者は無いと思ふ。
 
 十月二十六日(金)曇 朝伊藤一隆を其病床に訪れた(差したる病に非ず)。彼と共に詩篇第二十二篇並に二十三篇を読んで其真意を味うて感謝した。我等人生の夕暮に達して何よりも楽しきは神の言其儘を読むことである。(378)殊に第二十二篇の如き、髑髏山に参して主をその十字架の上に仰ぎまつるが如くに感ずる。此世はどうでも可いと感ずる。目覚めて後に主を其|聖姿《みすがた》に於て拝するを得ば他に何の求むる所はない 〇九州の或る老姉妹より心を籠めたる真綿入りの布団一枚を送つて呉れた。彼女は昨年も同一のものを送つて呉れて、今度の分と併せて上下二枚に成り、夜昼共に用ひてゐる。彼女の愛心に報ふべき何物をも持たざれば、左の一首を送りて我が心よりの感謝を表した。
   温《あたゝか》き愛の褥《しとね》に老いの身を
     夜昼となく包む嬉しさ。
世に名誉は色々あるが、貧しき友に斯く恵まるゝ名誉は又特別である。自分は正一位大勲位公爵たらんよりも此名誉の方を択む。尤も自分の如き者は爵位は望んでも得られないのは言ふまでもない。
 
 十月二十七日(土)半晴 終日凡神論と其主唱者スピノーザに就て読み書き考へた。実に偉らい人である。カント以上に哲学者の模範である。彼の哲学には首肯し難い点が多いが、彼の人物に対しては満腔の敬崇を表せざるを得ない。最大のユダヤ人と云へばパウロ乎スピノーザ乎である。孰れ劣らぬ宇宙的偉物である。偉らい人も在つたものである。
 
 十月二十八日(日)雨 午前午後合せて四百人程の来会者あり申分なき集会であつた。午前は「テマンの智慧負け」と題し、前回に続きヤコブ対エサウの対照に就いて語つた。午後は凡神論哲学者スピノーザに就て話した。スピノーザの略伝を述ぶるに当り、彼に対する同情を禁ずる能はずして、終に規定の時間を越ゆる二十分にして漸く止むるを得た。時間厳守の我が研究に於て滅多に無い事である。最も哲学者らしい哲学者スピノーザを紹(379)介するのであつて、我が親友を紹介するやうな熱心を禁じ得なかつた。斯くて日曜日毎の聖き愉楽は何時まで経つても尽きないのである。
 
 十月二十九日(月)雨 横浜見物に行いた。カピテン山桝に案内され、モートルボートにて港内を縦横に乗廻り、雨中の善き水上ドライブであつた。三渓園に遊び、新グランドホテルにて昼食の馳走に与り、故斎藤梅吉君の遺族を訪問し、黄昏頃柏木に帰つた。久振りにて日本が世界と接する此港に至り一寸「洋行」したやうに感じた。今日の自分に取り是れ以上の洋行を為す必要はない。英、仏、伊、米等の大船舶の岸壁に繋がるを見た丈けで充分である。我が世界は我胸中に在る。其処にスピノーザやカントが来て教へて呉れる。何も海外まで押出して益ならぬ此世の知識を求むる必要はない。
 
 十月三十日(火)雨 面会日である、相変らず多くの厭な事を聞かせられた。日本人の大多数は哲学者でもなければ宗教家でもない、|煩悶者である〔付△圏点〕。そして彼等に取り宗教は彼等の煩悶を取除く為の者である。故に彼等に煩悶なき時には彼等は宗教家を訪づれない。感謝の捧物を以つて神に詣ると云ふやうな事は今の日本人には滅多にない。今日は共産主義を懐くが故に某校を退校された或る有為の青年の訪問を受けた。同情と理解を以て彼に話せし所、彼は感謝して辞し去つた。自分は彼に於て何の危険をも発見し得なかつた。一人の友人として愛と長者のオーソリチーを以つて臨めば彼は喜んで我が説諭を受けて呉れる。多分今の教育家に此二つのものが欠けてゐるのであらう。
 
 十月三十一日(水)晴 朝の五時半より夕の五時半まで働いた。校正又校正である。少しも面白い事はない、(380)唯自分の書いた物の誤字を拾ふのである。誠に自分も亦労働者の一人である。然るに或る人等には先生先生と呼ばれて持上げられ、説教をさせられ、儀式を司らせらる。そして若し何にか彼等の気に合はぬ事を為せば聖人が罪を犯したやうに責めらる。此んな割の悪い事はない。今の日本人が宗教や道徳の教師に成る事を厭がるのは無理はない。|此国は遠からずして普通道徳の饑饉の故に亡ぶるのではあるまい乎〔付△圏点〕。
 
 十一月一日(木)晴 今日も亦校正で終つた。然し校正よりも厭な事が此世には沢山に有る。今日も亦厭な事を沢山に聞かされた。多くは金が欲しさに行つた失敗談である。実業と云へば名は立派であるが、金欲しさの事業と云へば恥づべき事業である。其事の為に失敗したのは其人の霊魂の永遠の幸福の為に却つて祝すべきである。何れにしろ暗い社会である。真の指導者は一人も見当らない。故に人生の失敗者は続出して止まない。
 
 十一月二日(金)雨 市外荏原町中延四百荘に、長尾半平君並に畔上と共に、故伊藤幸次郎君の葬儀を司つた。同君は富士見町教会に教籍を置かれし信者であつたが、過る四五年間我が聖書研究会に忠実に出席せられし関係から、自分等が此任に当つた次第である。君は実業界に功績多き人でありしと同時に、隠れたる善行に富みイエスの謙遜なる弟子として其波瀾多き生涯を静かに終られたのである。自分は「人生は何の為なる乎」との問題に就き所思を述べ、之を伊藤君の生涯に当はめて、聊か同君並に遺族に対する自分の同情敬意を表した。
 
 十一月三日(土)晴 秋日和の麗はしき明治節である。昔しの天長節が思ひ出さる。ラヂオに頼山陽作「下筑後河」の詩吟を聞き、我が旧時の勤王心が復興した。
(381)   丈夫要貴知順逆。 小弐大友何狗鼠
   千載姦党骨亦朽。 独有苦節伝芳芬
米欧宣教師や其パンを食ふて恥と思はざる教会信者等には此意気は解らない。日本武士の此精神がキリスト化せられて初めて国を救ひ世界を動かすに足るの信仰が起るのである。今や日本人普通の道を知らない日本人の多きに驚き入る。そして其れが基督信者、甚しきに至つては自分の弟子と称する人の内にあるに驚く。今日の日本の家庭より不良性の子女の続出するは主として之が為である。之を思ふて殆んど絶望する。然し乍ら日本に道徳は絶えても神は活きて在し給ふ。そして神は審判を行ひ給ふて正義は依然として行はる。誠に有難い事である。
 
 十一月四日(日)晴 朝夕共に相変らず盛会であつた。午後の組には女子が遂々男子よりも多くなつた。米国式に成りさうで心配する。今日は殊に皇室サンデーであつた。朝は「明治節と御大典」午後は「日本国存在の理由」と題して語つた。日本国の世界に於ける特殊の地位と使命とに就て述べた。美はしの聖日であつた。
 
 十一月五日(月)晴 外へ遊びに行く代りに家に在りて静にペンと紙とをもて働いた。此方が遥に優さる休養である。働いて疲れると云ふは実は内なる能力を消費するからである。之を補助するの道は単に境遇の変化を求むるに非ず、心より上よりの新たなる能力を仰ぐに在る。独り静かに全能者を念ずるに優さる善き休養の途は無いのである 〇黄昏頃或人の招きに応ぜん為に主婦と共に自働車に乗りてバビロンに行いた。多少得し所ありしに拘はらず、バビロン城の雑踏眩耀の内に入りては死の街《ちまた》に在るが如くに感じた。東京に在りては柏木の一角を除いて他に自分の居るべき所はない。
 
(382) 十一月六日(火)晴 日本基督教会の教師達は「内村鑑三氏の矛盾」と題し、自分が今夏札幌独立教会を助けし事を種として頻りに自分に喰つて懸からるゝを見る。世に人の矛盾を唱へる程容易い事は無く、又之に答へる程馬鹿気切つたる事はない。教会の批評家達は詩人ホイツトマンの有名なる一句を知つてゐらるゝだらう。
  我に矛盾あり、我は大なれば也
と。但し矛盾の有無は※[乍/心]うでも可いとして、|教会の今日の状態は※[乍/心]うである乎〔付△圏点〕、教会に活けるキリストの福音がないではない乎、それが為めに日々衰微して行くではない乎。自分等の無教会論は※[乍/心]うでも可いではない乎、先づ御自分達の教会を善くせられたらば如何? 先日も富士見町教会の長老日疋君が自分を電車中に擁し、冗談半分であつた乎も知らないが、頗る熱心に「内村君どうぞ我が日本基督教会へ養子に成つて来て呉れない乎」と云はれた。之に対し自分は好意を以つて答へた「養子には行けません、然し助けになら行きます」と。自分は斯う答へて決して矛盾したとは思はなかつた。又近頃浅草教会(日基派)牧師永井直治氏の改訳聖書出版に参与して善き事を為したと思うた。是等は皆んな矛盾であると云ふならば、自分は喜んで矛盾を行はんと欲する。|自分等は無教会主義を唱ふるが、それよりも多くキリストの福音をを唱へる〔付○圏点〕、それ故に神は自分等の事業を祝福して下さる。日本基督教会の教師達は自分等の唱ふる福音を駁撃する事が出来る乎、出来るならば行つて見られよ。又何故カトリク教の跋扈を矯めんと為られないの乎。カトリクは構はんで置いて信仰の根本に於ては同一であるべき自分等を目の讐仇《かたき》にせらるゝ其心根が自分等には解らない。自分は是等の人達に対し此れ以上の弁明を試むるの必要を認めない。
 
 十一月七日(水)曇 H・S・チャムバレンの「プラトーとカントとの比較論」の初めの五十頁を読んだ。近頃此んなアツプリフチング(心を天へ引上げる)な書を読んだ事はない。学問の本当の価値が解つた。哲学者と成(383)る事は伝道師と成る丈けそれ丈け貴き、然りそれ以上に貴き業である事が解つた。教会も無数会もあつたものでない、そんな所は遥かに通り抜けて人の人たる道に達すべきである。偉らいプラトーと偉らいカント、自分も哲学者に成りたくなつた。
 
 十一月八日(木)曇 今日は佳き日であつた。朝起きて第一にクエーカーのフーヴアーが羅馬天主教のスミスを圧倒的多数(四五一対八〇)を以つて敗りて米国大統領に選挙されたりの新聞紙の記事を読み、世界人類の為に祝し、大声喚呼した。腐れたりと雖もさすがは米国である。カトリク信者を白堊館には入れない。歴史は逆行しない、世界の政権を羅馬教庁の支配又は感化の下に置かない。斯くして日本に於ても羅馬の勢力は挫折して、其誘ふ所と成る者が跡を絶つに至るであらう 〇医学士梅田薫対岡田花枝の結婚式を司つた。花枝は主婦の里方の姪にして過去十一年間我家に引取つて保育せし者である。爰に縁家に対する我が責任の一部を果し得て大なる重荷の我肩より下りしを覚えた。
 
 十一月九日(金)曇 結婚式の翌日である、説教を五度為した丈け疲れる 〇若し今回の米国大統領選拳に於てカトリク教徒のスミスが当選したならば、世界の歴史は少くとも四百年後戻りしたのであつて人類の不幸此上なしである。此事にして成らん乎、是れ実にプロテスタント教国の「カノーサ行き」であつて此主義の為に血を流せし幾百万の英霊をして地下に慟哭せしめたのである。然し神は斯かる不祥事を許し給はなかつた。スミスに対しプロテスタント中のプロテスタントと称せらるゝクエーカー派のフーヴアーを起し、彼に未曾有の大勝利を与へて第十六世紀の宗教改革の効果をして空しからざらしめ給うた。世界人類に取り斯んな幸福な事はない。唯不思議に堪へないのは日本の基督信者にして彼等の多数は新教諸教会に属すと雖も、自分と此歓喜を共にする者(384)殆んど無き事である。彼等の無学に因るとは云ふものゝ実に憤慨に堪へざる次第である。
 
 十一月十日(土)半晴 京都に於て今上陛下の即位式が行はれた。此日自分は家に在り、午後三時ラヂオ受器の前に立ち、家族、召使一同と共に京都よりの放送に和して万歳を唱へた。
 
 十一月十一日(日)半晴 午前も午後も満員の集会であつた。「米国に於ける羅馬カトリク教の大敗」を以つて集会は振つた。
 
 十一月十二日(月)晴 姪が新郎と共に京城に向つて去り家は急に淋しくなつた。恰かも十七年前にルツ子が天に向つて去つた時のやうに感じた。世の親達が娘を他家に嫁がせて後に感ずる言ひ難き淋しみの斯くやあらんと思ひ、同感に堪へなかつた 〇終日家に在り昨日来の疲労を癒さんと努めた。米国に於ける今回の共和党の大勝利が我が大なる喜び又慰めであつた。
   喜びを共にする人なき国に
     独り喜ぶ福音の勝。
   一日に酒と羅馬を葬りし
     我が隣国の壮《さかん》なる哉。
   縦し身には不平数々ありとするも
     |世界は挙げて我が主義の国〔付○圏点〕。
世界に於ける我が主義信仰の大勝利で万々歳である。余の事は※[乍/心]うでも可い。米国民は米国の政府又は教会より(385)も偉らくある。彼等が投票箱に対する時に真剣真面目の民となる。それ故に彼等の投票が貴重なるのである。他の国ではさうは行かない。
 
 十一月十三日(火)雨 姪去つて引続き淋しくある。昨年孫女去つて後の淋しさに次ぐの淋しさである。家に在りし間は幾度となく怒りもし叱りもしたが、さて去つたとなると何か我が衷に大なる空虚の生ぜしやうに感ずる。然し人間は誰も最後には唯一人に成らねばならぬ。そして死に臨んで寂寥其極に達する時に完全に神と偕に在る事が出来て、天の大衆の仲間入りをする事が出来るのであらう。其時までの帰去来である。我慢せねばならぬ。
 
 十一月十四日(水)半晴 日本の家庭に於て外戚が勢力を持つは其家の滅亡の原因と成る事を切実に感じた。源家は北条氏の故に亡び、豊臣も亦淀君の故に亡びた。此んな例は日本の歴史にはいくらでもある。此事を知らないで米国人の女本位を日本に適用して、国と家とは悉く亡びて了ふに定つてゐる。自分の知る幾多の家庭は此危険に在り、又既に滅亡して了うた。歎ずるに余りありである。而かも目の醒めぬ者の多いに驚く。
 
 十一月十五日(木)大雨 不相変色々の事を心配する。国の事、家の事、子の事、孫の事を心配する。然るに主は明かに我に告げ給ふ、「汝は何事をも心配するに及ばず、只我が福音を説くべし、さらば凡ての事善きに運ぶであらう」と。我れ彼に答へて曰ふ「主よ誠に然り、我れ然か為さん」と。斯く答へて平安我心に臨み、我は再び歓喜の人と成つた。ハレルヤ、アーメン。
 
(386) 十一月十六日(金)曇 万事ズダラなる此国に在りて腹を立てずに一日を送る事は非常に困難である。或る東北地方で信者の一団が教会を脱して「|怒らずして祈る会〔付△圏点〕」と云ふものを作つたとの事であるが、自分の如きも其会に入りたき者である。然し乍ら自分に取り腹を立ざる最も善き方法は聖書の研究と福音の闡明に没頭する事である。そして全く此世の事を忘れて天の事永遠の事を思ふて心が平静なる事が出来る。然し乍ら人たるの自分の権利を守る為に時々不義不信を怒らざるを得ないのは悲しくある。他人の権利を尊重せざる事に於て信者不信者の変りはない。多くの場合に於て信者と称する者が最も|ずうずうしい〔付ごま圏点〕人達である。
 
 十一月十七日(土)晴 ブリキ屋が来て講堂のストーブを据附けて呉れた。是で冬の準備が成つた。今日も亦 H・S・Cの『プラトー、カント比較』の数十頁を読んだ。如何なる大饗宴も之には優さるまいと思うた。Idea,Eidos;priori,a posteriori;plurality,unity;antinomy 等に関はる大議論である。興味津々として尽きざるを覚えた。一首が浮んだ。
   限りなき真理楽しむ老いの身の
     生くる興味の絶ゆる暇なし
実に有難い事である。
 
 十一月十八日(日)雨 集会両回共平常通り。午前は第六回にてオバデヤ書の講義を終つた。一先づ安心である。午後は凡神論の続きを講じた。関西の或る聖公会の牧師にして自分年来の信仰の友よりの書面の内に左の如き記事があつた。
  研究誌は何時も忠実に書店が送達して呉れます。只今八十老母が此んなのを見せて去りました。
(387)   おしめしのざつしにむねをうちむらの
     かんじもつよくしんとこたゆる
  御一笑までに転記御免を蒙ります、云々
教会内にも此んな善い読者がゐるから、或る一派の教師達がいくら「内村氏の矛盾」を唱へても彼の事業は動かないのである。有難いではない乎。
 
 十一月十九日(月)雨 発送係の報告に由れば本誌来月より又復増刊せねばならぬと。沢山に悪口され、之に対して別に弁明を試みざるに、読者は減ぜずして却つて増して来るとは不思議である。唯地方の基督教書店で正確に金を払うて呉れない者があつて困まる。
 
 十一月二十日(火)晴 又復歯医者通ひが始つた。残るは上顎二枚、下顎五枚と云ふ状態である。其内完全なる者一枚もない。自分が齢の割合に元気であるが故に、人は自分を老人として認めて呉れず、遠慮なしに自分を使ふ。然し乍ら若し彼等が自分の歯を見るならば自分が正に六十八歳の老人なるを知るであらう。そして自分の弱きを許して呉れるであらう。然し事実は決して爾うでない。彼等は自分を強い正義の闘士であると思ひ、自分に欠点を認むれば思ふ存分に自分をやつつける。其事を思ひ情なくなる時がある。日本に宗教道徳の先生の出ないのは無理でない。何人も此んな割の悪い地位に立たんとしない。然し今日の日本人なぞに憐まるゝのは厭であるから、いくら割が悪くても此儘で押通す積りである。
 
 十一月二十一日(水)曇 自分の弟子と称する人にして普通の日本人道徳を守つて呉れる者の甚だ尠い事を知(388)りて悲歎に堪へない。此国に在りては基督信者と言へば米国流の気儘勝手なるが常であつて、厳格なる武士道徳は若し行はるゝとすれば、信者の間に於てよりも寧ろ不信者の間に行はるゝは残念至極である。然し信者不信者の別はない、今や日本に於て真面目に道徳を語るは野暮の絶頂である。然れども神在し給ひて此無宗教無道徳の民をも無理に正義の道に駆遣《おひや》り給ひつゝあるから有難い。
 
 十一月二十二日(木)晴 軽微の風邪に罹り不愉快である。北海道空知郡北村の長谷川松七老人永眠の報に接して悲んだ。嗣子寿吉氏よりの書面の一節に曰く「老父生前には『聖書之研究』を愛読し、確《し》かと主イエスキリストに信頼し、為に行先きを明かにせられ、臨終の間際まで主の聖名を呼びて祈りつゞけしは云々」と。茲にまた潔き一人の霊魂が我に先立ちて聖国へ往いた。地はそれ丈け淋しく天はそれ丈け賑かに成つたのである。
 
 十一月二十三日(金)晴 日本に取り目下の重大問題は対支問題である。若し此問題が満足に解決し得なければ日本に由々しき一事件が起るであらう。米国に於ける共和党の大勝利と支那に於ける南京政府の出現とは日本の安全を脅す事非常である。日本国民は此事に気附いてゐないらしい。そして此難局に当りて日本を指導し得る政治家は今の所見当らない。日本に歴史哲学者がゐない、故に斯かる場合に世界の大勢に処するの道を示す者がない。縦しあつても国民に之に傾ける耳と心とがない。困つた者である。自分は日本の衰運に傾くを見るに忍びない。時には地団駄踏んで悲しむ、然し益なしである。噫我が霊魂よ福音へ、福音へ!
 
 十一月二十四日(土)曇 近所に東京薬学専門学校の大建築が成り今日は其開校式で、朝より花火を打上げられ、大いに勉強を妨げられた。病を除く為の学校の開校式であれば、神経を痛め、安寧を妨ぐるやうな事は遠慮(389)して貰ひたく思うた。然し先方をして言はしむれば我等が日曜日毎に讃美歌を歌ふも同じである。相互に赦すより他に途がない。
 
 十一月二十五日(日)晴 両回の集会変りなし。不相変沢山に語つた。福音の為とは云ふものゝこんなに喋つて可いものかと思うた。然し一週に一日であるから害は尠いであらう。過去五十年間に如何に多く喋つたことよ。旧い友人にして専門に入つた人達は喋べられないと云ふて歎く者があるが、自分も若し魚類学にでも落附いたならば喋らずして済んだであらう。禍ひなりし乎、福ひなりし乎、判明らない。
     一九二八年クリスマスと題して
   第五十独りに迎ふるクリスマス
     楽しくもあり悲しくもあり。
 
 十一月二十六日(月)晴 今の日本に於て道徳は大禁物である。今日の日本人が嫌ふものにして道徳の如きはない。彼等は宗教を聞きたがる、道徳を離れて唯信仰に由つて救はると聞いて彼等は大恐悦である。然れども「汝此事を為すべし、此事を為してはならぬ」と聞いて彼等は憤然として怒る。|彼等は道徳とは叱かられる事であると思ふ〔付△圏点〕。道徳は神の道であつて恩恵に与るの道である事を知らない。故に今日の日本人に道徳を説く時に彼等と絶交を期して説かねばならぬ。日本人は元来此んな悪い民でなかつた。道徳的に権威の無き文部省教育が彼等をして此んな悪い民に為らしめたのであると思ふ。
 
(390) 十一月二十七日(火)晴 終日ペンを執つて働いた。三四人の来客に接した。別に面白い事は何にも無い。唯プラトー・カント哲学の奥義を学ぶのと、北海道の孫供の消息を聞くのが人生第一の愉楽である。国や社会の事を語るも益なし。偶々《たま/\》好き諧謔《ユーモア》を出せば誤解せられて身に災禍を招くの虞れがある。読書と沈黙とが最も安全である。怖《こわ》い者は人間である、慎むべき者は言葉である。
 
 十一月二十八日(水)晴 風邪にて気分悪し。此日より御大礼観兵式参加の為に上京せる第一師団横須賀重砲兵五名の宿泊を我家にて引受くる事になり、「預言寺」の八畳二部屋を提供し、全家挙つて彼等を歓迎することに成り、甚だ愉快である。武士の家に武士を迎ふるのであつて斯んな楽しい事はない。|但し飲酒丈けは断はりし所、特に禁酒の兵士を割当てゝ呉れて有難かつた〔付○圏点〕。斯かる場合に日本人の美点が悉く現はれて嬉しくある。若し宜之君が居給ひしならばさぞかし喜ばれた事であると思ふ。花は桜、人は武士、非戦論は別として武士相身互の情は実に美はしい者である。
 
 十一月二十九日(木)曇 風邪未だ癒えずして床に就いて休んだ。今日に至つて漸くにして自分に判明つた事は独逸国衰退の理由である。ルーテルを生んだ此国に今日と雖も何処《どこか》に深い床しい活ける信仰が残つてゐると思うたのが自分の間違であつて、実際の今日の独逸は信仰的には蝉の脱殻である。まことにニイチエが言へるが如くに独逸は既に衰退的《デカダント》国家であつて、当分の間この国より永遠的に価値ある者は出ないであらう。そして日本国今日の精神的衰退も半ば独逸の悪感化に原因すると見るのが当然であらう。信仰に冷淡で、知識を以つて信仰の欠乏を補はんとする傾向は全然独逸的である。人類の精神的復興は依然として之を英民族の指導に待たざるを得ない。英人嫌ひの自分が終に此告白を為さゞるを得ざるに至りしを悲む、然し真理であるから止むを得ない。神の(391)聖意をして成らしめよである。但し英民族である、英米の教会又は職業的宗教家でない。
 
 十一月三十日(金)晴 風邪未だ癒えず、信州穂高行を断念した。斉藤宗次郎君に演説原稿を携へて代つて行いて貰うた。残念であるが止むを得ない。百科字典にペスタロヂ伝を復習し、彼に対し同情なき能はずであつた。彼は世事に疎く、学校経営の術に欠けた。故に学校とて一として失敗ならざるはなかつた。彼は偏人として社会と教会とに厭がられた。而かも此人が同じ偏人系のルツソーと共に近代普通教育の基礎を作つたのである。|寧ろ偏人たるも社交人又は教会者たる勿れである〔付△圏点〕。
 
 十二月一日(土)晴 寒気と共にレウマチスが起り不愉快である。齢は争はれない。残念だが止むを待ない。『日印協会々報』にマハトマー・ガンヂーの略伝を読み、彼に対し尊敬を表せざるを得なかつた。印度ならでは起らざる大人物である。誠に亜細亜の救主として神が遣り給へる人であらう。日本などには到底此種の人物は起り得ない。但しイエスの小なる弟子は彼れガンヂーよりも大なりと云ひ得やう。無抵抗主義は勿論である。羅馬書三章同七章、哥林多後書五章にあるやうな信仰に立つ時に英国も米国も恐るゝに足りない。自分は亜細亜はやはりキリストの純福音を以つて欧米に勝つべき事を信ずる。
 
 十二月二日(日)曇 信州行を止め家に在りて休んだ。久々振りの自分の安息日である。一年に一度か二度の外は無い事である。高壇は之を塚本に委ね、自分は人を教へずして人に教へられた。塚本が講堂に於て教へつゝありし間に、自分は部屋に籠りて M・スチユアート並に J・フオーブスの註解書に羅馬書三章を研究した。其三章二十五節二十六節が※[乍/心]う見ても基督教の中心点である。之が解つた者が基督教を解つた者である。我が信仰の(392)基礎は茲に在る。実に偉大なる深遠なる言葉である。神はキリストに在りて人類の罪を凡て赦し給うた。人は今は唯信ずれば救はる、但し|信ぜざれば救はれない〔付△圏点〕と言ふのである。
 
 十二月三日(月)雨 一週間我家に宿泊せし重砲聯隊附兵士五人今日引上げて帰隊し、家は急に淋しくなつた。彼等は何れも静粛なる愛すぺき青年であつた。日本陸軍の誇りとするに足る兵士であつた。斯かる人達を我家に迎ふるを得て大なる喜びであつた。主婦の如き、彼女の武士気質が急に発露して、病気を忘れて兵士を接待《もてな》す状《さま》は見るからに嬉しかつた。我等の遺伝性は士道に於てある。我等は牧師と云ふが如き寺の坊主に似たる職務を執る時に為す事悉く拙劣なるを免かれない。然れども武士としての責任を充たす時に我等の為す事に少しも無理がない。我等は軍人と成るべきであつた。宗教家として牧師神学者等に批評せらるとは何んと禍ひなる事であらう。|日本武士が最も嫌ふ者は寺院と教会、坊主と牧師とである〔付△圏点〕。
 
 十二月四日(火)半晴 久振りにてベンゲルのグノモンを覗いた。依然として最善の新約聖書の註解である。多分ベンゲル丈けで他に註解書を使はない方が有利であらう。何故に日本にベンゲルの忠実なる訳者が出ないのである乎。社会事業を後《あと》に廻しても、日本人にべンゲルを解せしむるの必要がある。
 
 十二月五日(水)晴 北海道帝国大学々生大騒動の報を新聞紙に読み驚き且悲んだ。大学の大耻辱である。大学生の総ストライクと云ふ様な事は日本に未だ曾て無い事である。精神教育の模範を以つて称せらるゝ此大学に此不祥事ありとは実に奇怪千万である。之を悉く学生の罪にのみ帰する事は出来ない。科学研究にのみ偏して、信仰修養の如き、慎んで口を緘して語らざりし其教師達の責任も亦問はねばならぬ。苟も我が母校と称する此(393)校に此不祥事ありと聞いて実に感慨無量である。
 
 十二月六日(木)晴 霜を見た。風邪が略ぼ癒えて愉快である。世には基督教の体験を有すると云ふ人が尠くない。今日もさう云ふ人の訪問を受けた。其人は或時頭にピンとして光のやうなものゝ閃きを受けた、そして其時からして基督教が明かに解かるやうに成つたと云ふ。又大なる星の如き光が目の前に飛ぶを見たと。自分は其人に答へて云うた、「自分はそんな経験を曾つて一回も有つた事はない。自分は宇宙の大道に由りキリストの十字架に行くべく余儀なくせられたのであつて、パウロがダマスコ途上で見たと云ふやうな大なる光(半物理的の)に接した事はない」と。其人は不思議に思うたらしく、自分の如き者は何か大なる体験に由つてキリストを知るに至つたと思ふて居たらしくある。さう思ふと自分の信仰は凡人のそれである。何にも特別の黙示に与つたのではなく、カントの所謂る「天の星と心の道義と」に由つてキリストを知るを得たのである。そして凡人的であるが故に安全である。全宇宙が崩るゝまでは崩れない信仰である。然し斯んな事を云ふてゐては人に|有難がらるゝ〔付ごま圏点〕事は出来ない。
 
 十二月七日(金)半晴 十二月号の校正を終へた。仕事は仕事であつて左程貴い者でない、貴い者はキリストである、彼を有して他に何がなくとも不足はない。仕事に遂はれると云ふが如きは米国流の基督信者の為す事であつて、彼等は我等に傚うてはならない。然るに自分自身が時々其|質《たち》の信者と成るは申訳なき次第である。
 
 十二月八日(土)晴 御大典の奉祝が未だ全く終らざるに北海道大学の騒動は益々紛糾を極め、支那に於ける排日運動は益々盛なるらしい。実に厭らしい世の中である。J・E・カーペンターの約翰黙示録評論を読んでゐ(394)る間に、其廿一章五節「視よ我れ万物を新たに為すぺし」とあるは「我れ新たなる万物を作るべし」の意味である事に気附いた。此世界は改造せらるべき者に非ずして、「先の天と先の地とは既に過ぎ去り」とあるが如く(一節)一度は全く滅びて新らしき世界が与へられて其内に神の国が現はるゝとの意味であるやうに見える。多分其れが本当の意味であらう。
 
 十二月九日(日)曇 例の通り二回高壇に立つ事が出来て嬉しかつた。午前は詩篇第二十五篇の概要並にアモス書研究の第一回として「テコアの牧者アモス」を講じた。午後は基督教々義研究の続きとして「宇宙万物の話」と題して語つた。如何に疲れても神と神の聖書とに就て語らずにはゐられない。我が唯一の喜びは茲に在る。是れならばいくらでも来いである。
 
 十二月十日(月)晴 休息の為にヨブ記三十八章三十一節を研究し、其為に殆んど全日を費した。
   汝昴宿の鏈索を結び得るや
    参宿の繋縄を解き得るや
此一節の内に古今の知識が悉く籠つてゐると言ひ得る。我が有する凡ての参考書を引出して見てまだ知り得ない事が沢山にある。茲に天地の持主なる神に大饗宴を招かれたるが如くに感じ、終日の歓楽に耽りて感嘆極まりなしであつた。
 
 十二月十一日(火)曇 雑誌十二月号を発送した。自分に取り罪悪の一は時々書物を読過ぎる事である。昨日来聖書、哲学、天然科学と手当り次第に読みし結果として今日は少し頭痛を病み不快であつた。読書に際限が(395)ない。知識を増して別に慧くはならない。それよりも静かに|信ずる〔付○圏点〕が遥かに増しである。|信ずる、頼る、仰瞻る〔付○圏点〕。そこに本当の智慧があり、能力の源がある。読書は好い加減で止めるに若かずである。
 
 十二月十二日(水)曇 人は無教会主義の信仰で死ぬ事が出来る乎、其事が大なる問題である。そして「出来る」と事実に由て証明されたのである。近頃北海道の長谷川松七老人が此信仰を以つて立派に死んで呉れた。今また或る姉妹よりの左の通信に接して大なる感謝である。
  私宅のお隣に柏木の会員沖鉄次郎氏がお住居で御座いました。一ケ月余りの肋膜病にて咋朝昇天遊ばされました。昨日午後奥様より委しいお話を承はり感謝に胸が一ぱいになりました。両三日前いよ/\危篤といふ事で、日頃先生のお教へをまだ充分基督教のお判りにならない奥様に対して呉々もお伝へ遊ばし、死後の事、凡てを神様にお任せして生活する様に祈れ祈れと申されて咋朝七時には|万歳を三唱致し「ハレルヤ嬉しい々々々〔付○圏点〕」と幾度も繰返して実に平和の内に眠られたとの事で御座います云々。
是は死ではない、凱旋である。自分等の伝道の結果として斯かる死状《しにざま》を一なりとも実現する事が出来たとすれば、凡ての苦労は充分に償はれるのである。伝道は素々人の霊魂を神の国に送る為の仕事である。此事に成功すれば他の事は※[乍/心]うでも可いのである。
 
 十二月十三日(木)曇 三週間振りにて外出した。軽微の風邪でも平癒が遅い、老人となりし確証である。少しく隠居気分に成るの必要を感じた。義務に強ひられずして遊び半分に働くを云ふ。甚だ勿体ないが齢が齢だから止むを得ない。
 
(396) 十二月十四日(金)晴 東京附近の或る聖公会では自分を称ぶに「ゲヘンナの子」の綽名を以つてするとの事である。|地獄の子〔付△圏点〕と云ふことであらう。然るに不思議の事には其教会の牧師が『聖書之研究』の読者であつて、其記事が度々彼の説教の内に現はれるとの事である。或人が何故ゲヘンナの子が出す雑誌を読む乎と彼に訊問した所、彼は答へて曰うたとの事である「其れと是れとは別問題である」と。地獄の子も時には真理を語る、故に彼の書いた物を読んでやるとの事であらう。誠に有難い事である。然し乍ら自分は斯かる人達の日本魂に訴へて言ひたい 「ゲヘンナの子の書いた者に目を触るゝは男らしくない、お廃めなさい」と。何故日本聖公会の監督は教書を発して英数師並に信者たる者の『聖書之研究』の購読を禁じないの乎。然し監督は自分如き者は之をイグノア(無視)してゐるのであらう。教会者の心理は自分共には到底判らない。
 
 十二月十五日(土)雨 冷たい厭な日であつた。眼を休めん為に殆んど何も為さなかつた。久振りにてペテロ後書を読み大いに力附けられた。ペテロが加特利教会の使徒なるが故に我等は彼を疎んじ易くある。然しペテロ前後書に学ぶべき多くの貴き真理がある。ペテロは自分の青年時代の特愛の使徒であつた。自分の気質に大分に彼に似た所があるからである。カトリツクを嫌ふが故にペテロより遠かる必要はない。
 
 十二月十六日(日)半晴 集会変りなし。午前は詩篇第二十六篇並にアモス書一章二節を講じた。午後は二百人以上の青年男女に向ひ、塚本のヨハネ伝研究の後を受けてヨブ記三十八章三一に依り「昴宿と参宿の話」と題して話した。朝は歴史、午後は天然科学であつた。聖日毎に何んと楽しき事よ。教会を離れての聖書の研究ほど楽しきものは無い。
 
(397) 十二月十七日(月)晴 例の通り憂鬱の月曜日であつた。子と孫とは北海道に、姪は朝鮮に、甥は学校に、其上主婦は病気にて、自分独りで家を守つた。斯かる時には新聞の記事が一層強く心を痛め、生きてゐるのが詰らなく思へる。宗教改革史にウイリヤム・チンデールの伝記を読みて大いに我心を慰めた。彼は英国人に英訳聖書を与へ、それが為に十二年間国外に流浪し、終に羅馬カトリツク教徒の絞殺する所となつた。然るに彼の功績は英語の有らん限りは尽きず、又英訳聖書の有らん限りは英語国民全体は再びカトリツクに成らない。聖書を国民に与へんと欲して容易に彼等に受けられざるはチンデールの場合に照らし見て明かである。純福音の敵は政府と教会とである。聖書の伝播に従事する者は生前に其功績を認めらるゝ事を期待してはならない。
 
 十二月十八日(火)晴 年末の来客多く、応接に忙しかつた。朝は第一にペテロ後書三章十-十三節を読んだ、曰く「主の日の来る事|盗人《ぬすびと》の夜来るが如くならん。其日には天は大いなる響きありて去り、体質尽く焚毀《やけくづ》れ、地と其中に有る物皆な焚尽きん……然れば汝等神の日の来るを待ち之を速にせんことを務め、潔き行を為し、神を敬ふべき事を為すべきに非ず乎」と。斯く読みて後に新聞紙を開けば、左の如き大文字の見出しを見た、曰く
  美くしい夫人令嬢が今夜華やかな舞踏、外務大臣の奉祝夜会、おらが首相も大いに若返つて踊る
と。使徒ペテロと田中首相兼外務大臣と何れが真理を教ゆるにや。
 
 十二月十九日(水)晴 北風強く、寒い日であつた。雑誌原稿締切と研究会諸勘定仕払で多忙であつた。是も独立伝道の一部分であつて、而かも最要部分である。ミツシヨンや教会又は此世の権者からは一文も仰がずしてキリストの福音を伝へずばならず、そして此不信者国に在りて三十年以上も斯かる事業を継続し得て感謝の至りである。今や自分に欲しき物は何もあらず、孫供には既に彼等の註文以上のクリスマスを送出して安心である。(398)今からが自分のクリスマスである、そして其れはコリント後書五章二一節である。曰く
  神、罪を識らざる者を我等に代りて罪となせり、是れ我等をして彼に在りて神の義たることを得しめん為なり。
正子のクリスマスはお人形様、お祖父ちやんのクリスマスは此一節、|そして凡ての人のクリスマスが最後に此一節に帰するのである〔付○圏点〕。
 
 十二月二十日(木)晴 寒気強し。我国に於ては殆んどニケ月に渉り大饗宴相次ぎし間に、東隣の米国に於ては共和党大勝利を博して更らに数年に渉る大繁栄が保証せられ、西隣の支那に於ては国民政府は着々と基礎を固め、日本を除く諸外国との新条約締結も順調に進行し、今日は終に英国政府の新政府承認を見るに至つた。此は東洋、殊に日本に取り由々しき大事であつて、或ひは日本が東洋に於ける優秀権を失ふに至る緒《いとぐち》と成らないとも限らない。信仰の立場より見て※[乍/心]うでも宜き事であるが、世界の大勢を観るの明なき政治家等に導かるゝ我国の憐れさを痛感せざるを得ない。|神は何かの根本的罪悪の故に日本を罰し給ひつゝあるのではない乎と思はれて心配に堪へない〔付△圏点〕。
 
 十二月二十一日(金)晴 久振りにて朝日を浴びながら独り戸山ケ原を散歩して愉快であつた。近隣悉く俗化せしと雖も惟此原と祈祷の森とのみ元の儘に残りて感謝である 〇「内村教会」の信者が出来、其伝道師までが出来て心痛堪へ難しである。是れ勿論自分が作つた者でない、人に頼らざれば信仰を維持する能はざる者供が、自分の意志に反して斯かる者と成りつゝあるのである。「人は生れながらにしてカトリツク信者なり」とは斯かる事を言ふのである。そして自分がカトリツク信者よりも嫌ふ者は「内村教会」の信者である。そして「内村(399)教会」の信者と成る者は皆な直接間接に教会の感化を受けた者である。純粋の日本人は、殊に日本武士は教会人たるの途をさへ知らない。
 
 十二月二十二日(土) 自分一人は至つて幸福である。然るに自称弟子達に非常に困しめらる。師を誤る者は弟子である。ヘーゲルが其師カントの説を誤つて伝へしやうに、法然上人の弟子どもが彼等の師に数限りなき迷惑を懸けしやうに、弟子は師を誤つて後世に伝へ、そして後世は弟子に聴いて真の師を知らんと欲しない。世に之よりも大なる悲劇があらうとは思はれない。然し幸にして自分は自分の思想信仰をペンに留めて置いたから、後世は自分の書いた物に由つて直に自分を知つて呉れるであらう。然し直接自分に就いて学んだ人達が全然自分を誤解して居る事を知る時の、その辛さは譬ふるに物なしである。|師として最も幸福なる事は、直弟子は一人も持たない事であらう〔付△圏点〕 〇桜井ちか子女史高齢を以つて永眠し、今日本郷組合教会に於て行はれし其葬儀に列席した。女史を初めて知りしは明治十二年函館に於てゞあつて、爾来間歇的なりと雖も交際は絶えずして今日に至つた。明治大正に活動した偉大なる婦人の一人であつた。
 
 十二月二十三日(日)晴 朝は七分通り、午後は満員の集会であつた。此日を以つて今年の集会を終る。滞りなく五十三回の集会を催うした。相変らず幸ひなる一年であつた。身体は疲れるが心は聖日毎に若やぎて止めんと欲して止める事が出来ない。今日も或る有力なる教会の有力なる会員の入会ありて喜ばしくもあり悲しくもあつた。斯かる信者を失はざるを得ざる教会に対し深き同情を表した。勿論幾度か勧告を試みて止むを得ず入会を承諾した次第である。但し当方の教に飽足らずして他の教会に行く信者もあることなれば、此事に関しては|教師相身互〔付ごま圏点〕である。
 
(400) 十二月二十四日(月)曇 夜雨。聖書研究会男女青年組のクリスマスを催うした。別に余興は無つたが我等相応の意義深き集会であつた。松村工学士の飛行機の話は殊に面白かつた。主として大学程度の男女学生百三十名の会合であつて、見るからに楽しかつた。
 
 十二月二十五日(火)雨 我が信仰生涯に於ける第五十回クリスマスである。第一回を共に守りし者八人の内五人は既に世を逝り、残りは僅かに三人にして而かも離れて共に此日を守る能はず。人生、之を顧みれば詰らない事極まりなし。然れども前を望めば希望満々、栄光の主は我を待ち給ふ。我れ世に在りて彼の聖名を認《いひあら》はしたれば、彼は約束に従ひ我の名を父の前に認はし給ふと信ずる。
〇前号最後の歌は誤植の故に歌でなくなつた、左の如くに訂正さるべき者である。
   第五十回独り迎ふるクリスマス
     楽しくもあり悲しくもあり。
更らに「今年の元旦」と題する一首を加ふ
   元日や先づ正《まー》ちやんと叫ぶ声
     今年も去年《こぞ》と変ることなし
 
 十二月二十六日(水)曇 夜某所に於て聖書研究会々員長老連の有志クリスマス晩餐会を開いた。出席者男女五十六名、何れも責任ある地位に立つ人であつて、之に由つて見ても我等が教会側で云ふが如き基督教界の流浪(401)人で無い事が判明る。十数名の卓上感話あり、真に充実せる上品なる会合であつた 〇此夜小山内薫氏の死を聞いて驚いた。氏もその青年時代に於ては熱心なる聖書研究会員の一人であつた。然れども夙く信仰と自分を離れ、背教者を以つて自から任じ、役者芸人を友として、信仰の事は之を小説を作るの材料と成すに過ぎなかつた。そして彼と共に自分の所に来り聖書を学んで終に信仰を離れた所謂俊才は許多ある。小山内と云ひ有島と云ひ数へ来れば悲歎の種ならざるはない。彼等を思ふたび毎に、日本現代の青年、殊に大学生等には、尊きキリストの福音は再び教へまじと思ふ。
 
 十二月二十七日(木)晴 多数の訪問者があつた。何れも六ケ敷い問題を持つての訪問であつて、応接に非常に骨が折れた。唯一人Sさんが手製の美くしいスリツパーを齎らして純然たる感謝の訪問を為して呉れて有難かつた。其上に伊藤一隆の病重く、彼を病床に見舞ふて辛らい役目を務めた。苦しい歳の暮である。
 
 十二月二十八日(金)曇 咽喉の痛み強く、今日は面会を断つて休んだ。然し来客は跡から跡へと絶えず、彼等を追返す事は非常に辛らかつた。日本人は何故に平常は無沙汰して、暮に押迫つて、申合せたやうに一度に押懸けて来るの乎。彼等の内に差したる用事の無き者が信仰談と称し、わかり切つたる事を長たらしく話して行く者も尠くない。そして菩き事を聞かして呉れる者は滅多に無く、訪問の序に一身上の困つた話を聞かして自分の判断を仰がんとする。故に来客面会は苦労の種であつて、一人を送り帰してホツト一息するが常である。西洋に有るやうな友誼的訪問《フレンドリヴイジツト》なる者は日本には無い。何んと憐れなる国でない乎。
 
 十二月二十九日(土)晴 咽喉痛にて全身疲れ、今日は終日病人であつた。然し押して雑誌校正を了つた。姪(402)第一号去りて第二号が来て我等を慰めて呉れる。公けの仕事が済んで私しの仕事に取掛つた。故ルツ子の名に由り少許りの慈善を為して楽しかつた。逝ける子を思ひ、其者に代つて義務を果たす、此んな美くしい純なる心持はない。愛する者の居る所に我心は通ふ。時々見えざる上なる国に心を引かるゝは好き事である。
 
 十二月三十日(日)晴 講演の無い日曜日であつた。滅多に無い事である。独り広い講堂に坐して祈つた。特別の神聖味があつた。身体に大なる疲労を覚え、差したる事は何も為し得ない。斯かる場合に唯信ずる。主イエスを仰ぎ見る。彼が我が|いさほし〔付ごま圏点〕我が事業である。年末に際し多くの友人が多くの物を贈つて呉れる。主として食品である。然るに憐むべし老人に之を消化するの|胃力〔付△圏点〕がない。唯徒らに之を眺めて壮年時代を追想するのみである。
 
 十二月三十一日(月)晴 姪第二号に伴はれてバビロンに行いた。大晦日のバビロンとしては至つて静かであつた。不景気の為であらう。チーニーの詩篇註釈とカアライルの肖像絵ハガキを買うた。別に欲しい物は何もない 〇茲に又旧年を送る。過去を顧みて満足なるものは何もない。為した事業は悉く不満足である。之を想ふさへ不愉快である。過去を振りかへりて生れざりし方が遥かに増しであつたと思ふ。唯一つ満足なる事がある、|神の一子が人類の為に死に給ひし事である〔付○圏点〕。此事のみは完全の善である。そして|此事〔付○圏点〕を知りて我事として信じ得し事、之に勝さるの幸福はない。過去六十八年の生涯に於て何一つ善事を為さゞりしと雖も、此事を信じ得た丈けで生れた甲斐は充分にある。羅馬書一章十七節である。是は社会の事でもなければ人類の事でもない、|自分の事である〔付○圏点〕。他人に伝道する為の福音でない、自分が救はるゝ為の福音である。故に教会や宣教師に何んと言はれやうが信仰を廃める事が出来ないのである。サヨナラ一九二八年!
 
(403)     一九二九年(昭和四年) 六九歳
 
 一月一日(火)晴 一夜明くれば新年である。朝起きて正ちやんと三四度呼んだ。家の者が彼女に代つてアーイと答へた。然し勿論それでは物足りなく思うた。予ねての計画通り此日相州逗子海岸に来た。咽喉痛を癒さん為である。三四の友人が歓迎して呉れた。海風に吹かれて深呼吸が出来て有難かつた。主婦は病の故に来る能はず、久振りにて旅館の一室に独り閉籠つた。祈祷の為に好くある。
 
 一月二日(水)晴 海浜の旅館は三元日の為に賑はつた。目的の休養は得られなかつた。多くの珍らしき人に会ふ。自分の既に旧時代の人である事に気附く。心臓肥大し体力疲労の由を某大家に指摘せられ、服薬して床に就いて休んだ。
 
 一月三日(木)晴 近来稀なる寒気であつた。柏木より主婦来り、旅館が少しくホームらしくなつた。松居松葉氏、マクドナルド嬢、徳富愛子女史等、他所では会へぬ人達に合うた。多くの事に於て教へられる。唯交際が休養を妨ぐるの虞れがある。但し最善の休息は神を信ずる事なれば、其れ以外に休養を求むる必要もあるまい。
 
 一月四日(金)曇 終日室に在りて休んだ。是れでも一日一生である乎と思ふて甚だ済まなく感じた。心を鎮めてヒブライ書五章より十章までを通読した。其意味が克く判明つた。斯かる場合に於て体を休めんが為に何も(404)為さない事が神に事ふることである。自分の健康を気遣ふて呉れる友人は云ふ「君は何事にも一生懸命に成るから不可ない、モツト呑気になれない乎。君は小事に至るまで気息《いき》を切らして談ずる」と。自分は之に答へて曰ふ「一生懸命に成らざる問題に就ては全然語らざるを可とす」と。彼等は答へて曰ふ「其れだから駄目だ」と。困つたものである。
 
 一月五日(土)晴 朝食事中に東京長尾半平氏よりの電話に由り、伊藤一隆昨夜永眠の由を聞き、全身に強いシヨツクを受けた。今日は終日其事に就き、又明後日行はるべき葬儀につき、心を砕いた。然し我れ自身此事につき落胆してはならないと思うた。成るべく長く生きて神と人類との為に尽さねばならぬ。唯旧友相次いで逝くに会ふて余り気持の宜しからざるは事実である。
 
 一月六日(日)曇 西風強く、海は波高く、浜は砂を上げ、不愉快なる日であつた。終日室に籠り、伊藤一隆を葬るの辞を草した。書くべき事が余りに多くして却つて意を尽さゞるを悲んだ。重い辛らい責任である。
 
 一月七日(月)晴 朝十時半逗子を発し、鎌倉にて新渡戸稲造氏と落合ひ、共に東京に行いた。旧い同窓の友伊藤一隆の葬儀に列し、重要なる役目に当らんが為であつた。車中跡から跡へと懐旧談が続出し、時の経つのが判明らなかつた。午後二時半より青山会館に於て葬儀が営まれた。塚本の司会、畔上の詩篇第二十二篇の朗読、自分の式辞、新渡戸の感想と云ふ順序であつた。茲にまた「札幌葬」が行はれたのであつた。来会者七百人余り、我が仲間の葬儀としては盛会であつた。中田羽後君は聖歌を以つて、井深梶之助氏は祈祷を以つて此聖儀に参加して呉れた。伊藤に相応はしき意義深長の葬儀であつた。自分は健康未だ全からず、其夜逗子に帰つた。
 
(405) 一月八日(火)半晴 昨日の葬儀にて疲れた、半病人の態にて休んだ。力を貯へては復た使ふ。此くして一生を終るのである。然し凡ての機会を用ひて我が救主の御栄を揚げんとする。自分は※[乍/心]う成つても、※[乍/心]う批評されても構はない。唯キリストの十字架を仰ぎ見る。新年に際し受取りし多くの書簡の中に、朝鮮の或る読者より送来りし者が最も強く自分の心に響いた。其一部分に曰く
  日本の法律は我等鮮人を幾重にも縛ります。しかし国民なるが故に、又基督者なるが故に無条件に服従します。聖書により主によりて私は自由人として何物にも拘束されません。教会にも政府にもであります。主にありて私は私の国を見出しました。我等朝鮮人は日本人を嫌ひます、然し不思議な事には日本人の中に幾人かの友を持つてゐます。これは所謂日鮮同化と云ふ虚偽者連の計画に依つたのではありません、我等の主イエスキリストに依つてであります。まこと彼は平和の君であります。云々
朝鮮統治の任に当る日本官吏は鮮人の此心の状態を解し得るであらう乎。鮮人中に一兵なしと雖も、此忍耐と祈祷の心ありて彼等は将来大いに為す有るの民である事を見逃すことは出来ない。
 
 一月九日(水)晴 身体の具合宜しく、散歩を試みしも差したる疲労を感じなかつた。癒えれば復た元の通りに働くまでゞある。パウロが言へるが如くに「我に取りては生るはキリスト、死るは益なり」である(ピリピ書一章廿一節)。生るはキリストの生涯を続くるまでゝある、故に所謂人生の快楽のありやう筈がない。「然れど我が肉体に留まるは汝等の為に必要なり」であつて、長寿は自分の為でなく、他人の為に必要なるのである。然し乍ら日々悪化し行く我国の状態を見て、生るの決して歓楽でない事を染々と感ぜしめらる。
 
(406) 一月十日(木)晴 朝鮮の教友よりの年賀状の他の一節に曰く
  先生! 私は信仰の初期に於て第七日安息教会の宣教師から「君は神の安息日なる土曜日を守らねば救はれず」と言はれました。信仰に弱き私はそれを真面目に取りて長い間(三年程)苦しみました。その当時先生はローマ書、福音書、ガラテヤ書等の研究を出され、自分一人の為めのやうに思はれました。其時先生が私に示された事は「我等の救はるゝはイエスキリストを信ずるに依る、決して決して律法の行に依るにあらず」とのことで御座ゐました。私は読みつゝ幾度も机を打つて喜びました、而して私は此の律法へ後戻りする安息日教会の信者及び其の教役者たちと福音の為に戦ひました。今も凡ての律法主義と戦ひつゝあります。此の事が主に対する義務であり又恩師に対する報ひであると思ひます。
誠に然りである。自分の説く福音が直接に自分に聴く者よりも、遠く離れたる朝鮮に於て解せらるゝを聞いて喜ぶ。|教会他なし福音の律法化又は理学化されたる者である〔付△圏点〕。其意味に於て我等は徹底的に無教会信者であらねばならぬ。
 
 一月十一日(金)晴 逗子滞在十日間、足部の腫れは去り、咽喉痛は癒えた。驚くべきは空気と静養の効果である。柏木に帰り何百本と云ふ年賀状を整理した。意義ある者は数通に過ぎず余は何れもおきまりの「賀正」又は「謹賀新年」である。多分「我れ汝を忘れず」との意味であらう、故に感謝して受くべきであらう。然し乍ら日本国浮沈に関はる大問題を前に控えて「謹賀新年」では甚だ物足りなく感ずる。
 
 一月十二日(土)晴 ルツ子デーである。彼女逝きてより満十七年である。彼女は深く彼女の両親の心の底に葬らる。彼女の生涯に就て世に知らせるの必要は少しもない。若し彼女が此世に於て働くならば我等を以つて働(407)く。愛する者の死は余りに神聖であつて、唯沈黙を以つてのみ之を語る事が出来る。
 
 一月十三日(日)晴 今年最初の集会であつた。午前午後とも満員の|静会〔付○圏点〕であつた。午前は中年、午後は青年の所謂「粒揃ひ」の聴衆であつて、一大家族団欒の如き者である。我等は之を教会と呼ばない。又は基督の名を冠せられずとも敢て故障を申立ない。唯感謝と歓喜に充ちたる会衆である事は事実である。午前二時間、午後二時間、此感謝の饗筵が継続せらるゝのである。
 
 一月十四日(月)曇 疲労の月曜日であつた。老デリツチ先生の註解書にヒブライ書九章廿六節の上半部を読みし外に何も獲物がなかつた 〇自分が嫌ふ事にして近頃世に謂ふ所の「宣伝」の如きはない。宣伝は「我が品を買へ」とか、又は「我が如くに成れ」と云ふ事である。米国宣教師に依て無遠慮にも盛んに行はるゝ基督教の伝道なるものは此種の宣伝であつて、実に憎むべき嫌ふべきものである。「我が如くに成りて救はれよ」と云ふのである。傲慢無礼此上なしである。そして自分の信ずる無教会主義までを如此くに取扱ふ人ありと聞いて憤慨極まりなしである。自己の所信を唱ふるは止むを得ない、然れども他人を自己の宗派に引入れんと欲する根性は毛頭有つてはならない。成るべく人の所信を重んじ、真理に就ての一致を計るも、党派教派を作らざるやうに充分に努力せねばならぬ。自分が常々言ふ事は、|米国流の基督信者たらんよりも、伊藤仁斎又は中江藤樹流の儒教信者たる方が遥かに増しである〔付△圏点〕。
 
 一月十五日(火)晴 暖かい春日和であつた。心身共に寛いだ。相変らず小事の為に悩まさる。善と云へば小善に限ると思ふ基督信者の多いには因まる。真理を究め之を世に伝ふるが最大の善事である事に気附かず、自分(408)の如き者に此世の小事を持込んで之に携はらしめて意に介せざる人達の多いには呆れる。斯かる人達にはヒユームやカントは愛の人なりとは思ひ得ないのである。小教会の牧師や青年会の幹事位ゐが彼等の称揚する善人又は愛の人であるから|やり〔付ごま圏点〕切れない。今日の日本に於て基督教の教師と成つた事は大なる不幸と諦めるより他に途がない。
 
 一月十六日(水)晴 或る米国宣教師の自分に関する批評が面白い、曰く「内村さんの信仰は正しいが彼は伝道の邪魔をする」と。然し若し信仰が正しいならば邪魔をされる宣教師と教会とが正しくないのではない乎。若し信仰が正しくあれば、大教会が自分如き者に邪魔されやう筈がない。自分は単独で立ち、多くの教会又は伝道団に反対されるが、彼等に邪魔されるとは思はない。彼等の随分と思ひ切つたる反対あるに関はらず自分の伝道は予想以上に発展する。信仰が正しき以上は他人の邪魔反対は却つて利益であつて妨害でない。自分は教会並に宣教師に此簡短なる理由が解らない事が解らない。
 
 一月十七日(木)曇 手元に在る総ての参考書を引出して蜉蝣(|かげろふ〔付ごま圏点〕Ephemelidae)に就いて読んだ。実に面白い昆虫である。六ケ月乃至三年間を仔虫的状態にて水中に過し、愈々成虫となりて水上に現はるるや、長くして一週間、多くは数時間にして其一生を終ると云ふ。まことに人生其儘を表はすやうな心持がする。神や天使の立場より見て人の一生も亦蜉蝣のそれである。七十年と七日又は七時間と多く異なる所はない。然るに神は此瞬間的生物を造るに精巧を極め給うた。之に二対の複眼と三箇の単眼を供へて其短時間の生命を極度に楽ましめ給うた。又之に二百余種ありて時に或は世界は蜉蝣族の為に造られしにあらずやと思はせらる。長きが故に尊からず短きが故に卑しからず、神が造り給ひしが故に尊し。美くしき短かき|かげろう〔付ごま圏点〕の生涯を研究して大いに考へ(409)させられる。
 
 一月十八日(金)晴 漸くサツト年始状に対する返辞を書き終つた(極く必要なる分のみ)。随分の仕事である。楽しかるべき年末と年始は交際の繁忙の時期と成る。何とか之を改むる方法はないものであらう乎 〇近頃知人友人の死に携はる事多くして、多く死に就て考へさせらる。此世の事は凡て死である、死又死である。然し乍らキリストの福音は生の福音である、生又生である。「キリスト死を廃《ほろぼ》し、福音をもて生命と壊《くち》ざる事とを明かにせり」である。故に信者は死に就て考ふる必要はない、然り死に就て考へてはならない。彼は死なざる者に為られたのであれば、生に就てのみ思ふべきである。「我は永久に死せず、エリヤの如くに昇天すべし」と言ひて間違はないのである。さう思ふて心が晴々した。
 
 一月十九日(土)曇 新渡戸稲造氏宅今暁強盗に襲はれし由を聞き、帝都の不安を一層切実に感じた。実に奸悪の世である、内も外も暗黒である。その万事が強盗式であるから堪えられない。政治も外交も実業も、然り宗教までが高圧的に直接行動に出なければ成功覚束なしと云ふのであるから呆れる。此事を思ふて終日気持が悪かつた。
 
 一月二十日(日)晴 集会変りなし。健康未だ全からず、半分以上塚本に手伝つて貰つてゐる。朝は詩篇第三十篇の大意を講じ、午後は「造化の順序」と題し、創世記第一章の続きを述べた。健康に多少害があつても聖日に聖書を語らずしては居られない、是れ我が生命であるからである。何も聖人振つて然か云ふのではない。聖書は今は我が道楽である(甚だ勿体ない言方なれども)。故に聖書を語ればとて自分は何人にも誉めて貰ひたくない。(410)自分が聖書を説くが故に牧師伝道師と云ふが如き宗教家として見らるゝは迷惑至極である。多分宗教法案通過後は自分は聖書を説くの資格を失ふのであらう。自分は其時は喜んで法律に従ふ心算である。何れにしろ自分は宗教を信ずるのであつて、「宗教」を説くのではないから、「宗教」を取締る為の宗教法の下に立つぺき者でない。エリシヤ・ムルフホードが言へるが如くに「基督教は宗教に非ず」であつて、仏教や神道と同視せらるゝやうな基督教は偽はりの基督教と称すべきである。「宗教法案我に何の関係あるなし」と云ひて可いのである。
 
 一月二十一日(月)曇 『倫敦タイムス』週刊本年度第一号が達し、之を通読して大なる興味を覚えた。さすがは世界大の新聞である。其取扱ふ問題が大抵世界的である。阿弗利加カラハリ砂漠の開拓、インフルエンザ病の病源研究、南極探険、アフガニスタン叛乱と云ふやうな問題である。又「過ぎにし年の挽回」と云ふが如き人生問題の提示である。之を読んで稍や世界人に成つたやうな感じがする。今年中の好き読物であらう。
 
 一月二十二日(火)曇 宗教法案通過反対運動に参加せざる事に決心した、そは自分等に教会なく、自分等の信仰は宗教と称すべき者でないからである。宗教法に由つて聖書研究会を禁ぜられても止むを得ない、又宗教でない事を認められて宗教法の外に立つ事が出来れば更らに幸福である。何れにしろ此際教会並に教会の基督教より判然差別さるれば幸福此上なしである。
 
 一月二十三日(水)曇 遂々家に水道が来た。東京市の水源地所在の淀橋町に住む事三十年にして漸く此文明の恩恵に浴する事が出来たのである。清水を得ることが此の長年月の苦心であつた。浄水を近くに眺めながら之を飲む事が出来なかつたのである。人生に之に類したる事が沢山に在る。神の生命に浸りながら之を飲まざる人(411)が許多《あまた》ある。
 
 一月二十四日(木)晴 自分と自分の仕事に就き不平を懐き、自分を離れ去る者は今に至るも絶えない。然ればとて世には自分よりも完全なる者は多く無いと見え、時を経て再び帰つて来る者も尠くない。人が人を見る間は完全は何処にも見当らない。不完全なる人を通うして完全なる神を認めてこそ初めて完全の満足があるのである。又他人の不完全のみが眼に映つて、自己の不完全に心を悩さゞる者に神の完全が解り得やう筈がない。そして自己が罪人の首《かしら》である事が解つて始めて神の完全が解り、同時に又|如何《どんあ》な人の罪でも赦す事が出来るのである。
 
 一月二十五日(金)晴 東京は今や盗賊横行の都市である。今年に入りてより初めの十九日間に強盗三十件、窃盗三千五百件あつたとの事である。我等東京の住民は毎朝起きて昨夜の無難を相互に祝する有様である。昔の東京に於ては、強盗が一人現はるれば全市の驚駭を起し、其逮捕を見ざれば止まなかつた。然るに今日の東京に於ては強盗は毎日の出来事であつて、犯人の捕はるゝ事は甚だ稀れである。斯くして日本の東京も米国の紐育又はシカゴと同様の所と成りつゝある。所謂文明の進歩は罪悪の減退でない、反つて其増進と発展である。此状態を目前に見てペテロ後書三章十節以下等に現はれたる聖書の教示の誤らざるを知るのである。
 
 一月二十六日(土)半晴 昨日左近義弼君の新年訪問を受け、君の黙示録研究の結果を聞かせられて、大いに我が信仰を高め又強められた。神が君の如き聖書学者を日本に賜ひし事を感謝した。それが為にや今日は久振りにて頭脳《あたま》が働き出し、大分にペンが動いた。キリストの十字架と、其結果として神が信者に賜ふ永遠の福祉を念ひ(412)て、死の恐怖は去り、人生に光明《ひかり》溢れて、生くること其事が福祉の極と成る。社会改良、人類改造を待つまでもない、今日此時讃美の里に在るを覚ゆ。
 
 一月二十七(日)曇 寒気強くして病人多く、朝は百五十人余、午後は二百人足らずの会衆であつた。詩篇第二十八篇と、進化論と基督教第一回を講じた。「キリストの愛我を励ませり」であつた。皇后陛下御父君久邇宮殿下御年五十七にて熱海御別邸にて薨去ありし由を夜に入つて聞いた。「永久の御別離」と聞いて強く我心に響いた。
 
 一月二十八日(月)雪 三十五六日目で湿潤《しめり》を見た。美はしの雪である。半日ストーブの傍で聖書を読んだ。最善の休養である。支那に於ける日本の地位は益々悪しくある。気が揉めないではない、然し我が口を出すべき問題でない。イエスキリストが活きてゐ給ひて万国を裁判き給ひつゝあるから有難い。
 
 一月二十九日(火)半晴 引続き寒気に困しめらる。此んな事では駄目だと思ふが致し方がない 〇我等の間に於てさへ十字架抜きの基督教が信ぜられ又唱へらるゝには驚く。他人は知らずとして内村の基督教は十字架中心の基督教である。人は罪の自覚に出発せずしてキリストに至ることは出来ない。是は基督教に在りては余りに明白なる事実である。然るに今や基督教会に於てすら此基礎的事実が強調せられない、故に徹底したる強健なる信仰が起らない。他は知らず、「我はイエスキリストと彼の十字架に釘けられし事の外何をも知るまじと心を定めたり」である(コリント前書二章二節)。
 
(413) 一月三十日(水)晴 自分に有るものはキリストの十字架の福音である。是れは自分が神より賜はりし最大の賜物であつて、自分はまた惜気なく之を他人に与へた積りである。然し乍ら此世の人等は福音を大なる賜物と思はない。福音は音であつて、之に何か此世の実物が加はらなければ貴き賜物であるとは思はない。故に自分の如き、此世のすべての所有《もちもの》を棄て五十年間独立の福音を説いた積りであるが、それが為に自分の同胞より何の報酬をも要求する事が出来ない。与ふるの義務があつて求むるの権利の無き者である。然ればとて福音以外に是れぞと云ひて与へ得べきものを有せず、自分で他人の厄介に成らずして生活するのが精一杯である。此事を思ふて自分の如き者の今日の日本に生きてツマラなき事窮りなしである。然し祝福其内に在りである。人生の至上善を他に供して何も与へざる者である乎の如くに扱はる。此世の善き物を以つて報ひられざるのみならず、善き名を以つても酬ひられない。僅かの会費を取ればとて信者の膏血を絞る者として譏らる。幾度か寄附金に高き利息を附して払戻すべく余儀なくせられた。然しそれで可いのである。無代価で与へられた福音であれば無代価で与ふるのが当然である。但しである、但し我が説きし福音に対し人が物を以つて我に感謝を表する時に大なる注意を要す、そは多くの場合に於て其人はビル(勘定書)を以つて我に迫るからである。キリストの福音に実価ありと認むる人は今日の日本には極々《ごく/\》稀れである。
 
 一月三十一日(木)半晴 日毎の主もなる仕事は寒さ防ぎであつて、夜毎の主なる仕事は泥棒防ぎである。そして帝国議会開会中なるが故に、新聞紙に於て毎日|いや〔付ごま圏点〕らしき亡国的記事を読ませらる。若し輿論を起すことに由つて国が救ひ得るものならば、今なりと雖も高壇に立ちて正義を叫びたく思ふことがある。然し日本に輿論なるものはない。又日本人に正義に由つて動くの教育が施されてゐない。それ故に……|あと〔付ごま圏点〕は言はずもがなである。
 
(414) 二月一日(金)晴 復たび少しづゝペンが動き出して感謝である。ペンを執つてテーブルに対する時に我が地上の最大幸福がある。世に我れと我が事業とを誹謗する者多くあると聞く。誠に幸福である。それが故に今以上に人が我が許に集ひ来らないのであらう。そして若し誹謗者の目的が達して、一人の我が教を乞ふ者なきに至る時に、我は全然我が責任より免かるゝを得て真の休息に就く事が出来るのである。何事も神の恩恵である。我を悪み嫌ふ者の誹謗は其内の大なるものゝ一である。
 
 ニ月二日(土)晴 新約聖書を読んで常に感ずる事は、その此世の書でない事である。そして此書に親んで自分までが此世の者で無くなるを覚ゆ。基督信者は此世より別たれたる者であれば、何事に拘はらず此世に合はなくなるは止むを得ない。彼が此世に在りて常に独りボツチなるは当然である。ヒブライ書十三章十四節の言が思び出さる、曰く「我等此所に在りて恒に存つぺき城邑《みやこ》なし、惟来らんとする城邑を求む」と。
 
 二月三日(日)晴 集会二回共に平常の通り。但し久邇宮喪儀にて御遠慮申上げ讃美歌を廃した。我等の集合としては甚だ物足りなく感じた。自分は亦養生法の怠慢から身体に二三ケ所故障が起り、思ふやうに語る事が出来ず、甚だ残念であつた。然し高壇に登る事が出来て感謝であつた。
 
 二月四日(月)晴 今日も関西の或る医師にして新らしき基督教の発見者の訪問を受けた。それは「我即基督」と云ふのであつて、其説く所に循へば基督他なし我である、又基督教と仏教とは其根本に於て一である、斯くして奇跡抜きの科学と一致する基督教を現出し得べしと云ふのであつて自分の賛成を得たしとの事であつた。自分は其人に自分の信ずる基督教はそれとは全く反対である由を述べて漸くにして彼を帰へした。然し此んな説を立(415)つる人は此医師の外にも許多見受ける。仏教と科学とに合致する基督教とは多くの日本人を引附ける思想であると見える。然しそんな者の有りやう筈がない。彼等は此んな事を唱へて近代人の躓きの石を除かんと欲するならんも、そんな人間細工の教を以つて人を救ふ事は出来ない。自分は常に左の方頼式を採る者である。
  基督教+《プラス》仏教+《プラス》科学=《エクオル》0
  基督教+十字架の教=神の能力注=∞
 
 二月五日(火)晴 バビロンヘ行いた。此の世に在る間は全然此市と関係を絶つことは出来ない。然し其関係たるや段々と減少しつゝある。自分の眼にさへ汚く見える東洋の此バビロンは神の聖き御眼には如何に|けがらはしく〔付ごま圏点〕見える事であらう。寒気厳しくして身体の所々に故障が起り困難する。幸にして教友中に夫れ夫れ専門医があり、彼等の治療を受けて平癒の途に就く事が出来て感謝である。
 
 二月六日(水)晴 一ケ月程かゝり、毎朝少しづゝ読みて、グロアグ氏の註解書に依り新約ヤコブ書の研究的復読を終つた。ヤコブ書は自分の青年時代の特愛の書であつたが、ルーテルが此書を評して「藁の如き書である」と云うた其言に迷はされて之に対する興味を失つた。然し今度復び之を梼読して、その決して藁に非ず純金である事が判明つて非常に嬉しかつた。此は多分新約聖書の中で最初に書かれし書であつて|基礎的福音〔付○圏点〕とでも称すぺき者であらう。イエスの山上之垂訓に能く似たる教であつて最初の基督教の如何なるものなりし乎を伝ふる最も貴き書であると思ふ。先づヤコブ書に由つて鍛錬されて聖書の研究に入りて我等の判断は誤らないと思ふ。
 
 二月七日(木)晴 雑誌校正刷りを待てども来らず、何事にも手が附かず、唯無益に時間を消費するのみである。(416)三十年間同じ事を為し続けて今に至る。他の事ならば 迚も堪へられない、罪の赦しの福音を宣ぶる事であるが故に何時まで経つても厭きないのである 〇説教強盗第二世が逮捕されたとて東京市郡に歓呼の声揚る。然し強盗彼れ自身は至つて平気である。親子丼二つを平げて警察の留置場で高いびきで眠つてゐると云ふ。悪人は良心に責められて不安に|おのゝ〔付ごま圏点〕くと云ふは嘘である。|本当の悪人は本当の善人丈けそれ丈け平安である〔付△圏点〕。否な、義しき人に患苦多しであつた、平安の点に於ては悪人は善人以上に幸福である。人生の面白い事実である。
 
 二月八日(金)晴 校正漸く済んだ。原稿も少し書けた。疲れし身体を騙《だま》しつゝ使ふのである。
 
 二月九日(土)晴 春日和であつた。大いに寛いだ。衆議院に於ては民政党は政友会と大舌戦を交へつゝある。勝敗は既に定まつてゐるのであつて論旨に注意するまでもない。正義正論で勝つのでない、陣笠の頭数で勝つのである。つまらない政治である。
 
 二月十日(日)曇 寒気強し。其の為にや集会平常よりも少しく淋し。自分は朝は詩篇第三十二篇に就いて、午後は「怪しい基督教」と題して語つた。微弱ながら相変らず神の恩恵の福音を説いたと思ひ、それ丈けは感謝である。我即基督であるとか、奇跡の無い基督教であるとか、仏耶両教根本を同うすと云ふやうな基督教は怪しい基督教である、之に耳を傾くるの必要なしと言うた。種々の異説が行はるゝが故に「聖徒が一たび伝へられし信仰の道の為に力を尽して戦ふ」の必要が起る(ユダ書三節)。人をやたらに異端視してはならないが然ればとて明白なる信仰の根本の侵さるゝを見て、之を放任して置く事は出来ない。そして如斯くにして福音の真理が明白に成るのであれば、此事あるは却つて感謝すべきである。
 
(417) 二月十一日(月)晴 紀元節である。雑誌を発送した。上落合聖書研究会の集会所落成し、今日其の感謝会を開いた。来会者五十余名あり、まことに意義深き会合であつた。茲に畔上が柏木を離れて独立して聖書研究を継続するに至つたのである。会員既に七十五名あり、前途甚だ有望である。新宅が一軒出来たのであつて甚だ心強く感ずる。柏木の独立が既に確定したる以上、漸次同志の独立を計らねばならぬ。如斯くにして全国に独立聖書研究会を見るに及んで日本に於ける基督教の徹底せる独立を見ることが出来るのである。
 
 二月十二日(火)曇 二日続きの講演と演説で今日は大分に弱つた。半日炬燵にあつて休んだ。ラヂオに農林省岸田久吉氏の熊の話を聞いて面白かつた。聞く準備として家に備付けの凡ての動物学書を渉猟し熊族の事に就いて読んだ。内地産の「月の輪熊」、北海道産のヒグマ(羆?)序に熊の従兄弟位に当るタヌキ(狸)等に就いて読んで昔し懐かしく感じた。時には聖書、道徳、哲学を離れて天然を友とするは我が霊魂の為にも甚だ有益である。
 
 二月十三日(水)晴 雨なきこと六十日、空気乾煉して寒気強し。毎日為す事なくして唯春の到来を待つのみである。
 
 二月十四日(木)晴 慈善は書き事であるが行ふに最も難い事である。我が所有を人に与ふる事であるが故に、此んな容易い事は無いやうに見えるが、それは与ふる事丈けが容易いのであつて、之を受くる人の益を計るは非常に困難である。単に惻隠の心より為されたる慈善は益よりも多く害を為すと言ひて間違ない。然らば如何なる場合に善を為すの確信を以つて慈善を施し得る乎と云ふに、|神が之を命じ給ふ場合〔付○圏点〕に於てと云ふより他に途がな(418)い。そして祈つて待てば斯かる場合が必ず供へらるゝのである。我が所有を挙げて神に献げ、その正当に使用せられん事を祈れば、彼は必ず其使用の方法を示して下さる。要は分厘までも我が有として保存せざる事である。額の大小に依らず、何時なりとも全部を献ぐるの覚悟を定め、命令の下るまでは神聖に之を保管すべきである(ルカ伝十九章廿三節)。
 
 二月十五日(金)晴 自分を離れる者は相変らず無いではないが、それと同時に一度離れて再び帰り来る者も尠くない。殊に近頃さう云ふ人が多いやうである。今日もさう云ふ人が一人あつて非常に嬉しかつた。彼は十年以上も離れてゐたが、今日再び会うて親しく信仰を語る事が出来て、失ひし子を再び得し父の心も斯くやあらんと思ふ程嬉しかつた。
 
 二月十六日(土)晴 老デリツチ先生の註解に依り詩篇第一篇第二篇を読み、古い元の信仰に立帰り大いに力を得て嬉しかつた。古い書は何時読んでも善くある。独逸にも前には斯んな偉い先生がゐたのである。然るに今の独逸人と云うたら甚だ頼りにならない。彼等の間に大学者はいくらでも居るが、基督信者の深い事を知る者には滅多に見当らない。彼等は孰れも研究家であつて、キリストの救ひに与つて其の謙遜なる僕と成りし者でない。独逸の基督教は今や過去に属する。独逸が生んだ大教師は今や自国人に疎《うとん》ぜられて、我等遠き異国の民を数へつゝある。我等は福音を古い独逸人に受けて、之を我等の有となして、新らしい独逸人を教へてやらねばならぬ。米国人と云ひ、独逸人と云ひ、何んと憐むぺき背信の民ではない乎。
 
 二月十七日(日)晴 温度昇り、風の無い、近頃に無い好き日であつた。二回合せて三百五六十人の来会者が(419)あつた。朝は詩篇の三十三篇を、午後は創世記第一章、人の創造の記事に就て講じた。聖書を開いて高壇に立てば病気は全く忘れて了ふ。然し済めば例の通り疲労を覚える。昔の剣術士が道場に入れば若返ると同じであらう。どうせ朽ち行く我身である。生命の福音を説いて、それで生命が縮まるとて少しも意に介するに足りない。社会の為ではない、勿論教会の為ではない、神の為と云へば畏れ多し、然したしかに|我が為である〔付○圏点〕。「我れ若し福音を説かずば禍ひなる哉」である。福音を説かずば生きてゐる甲斐がなくなる。福音を説いて凡ての苦痛を忘れる。別に偉ら振つて言ふのでない。まことに爾うであるから爾う言ふのである。詩篇三十七篇五節の言葉が強く我心に響いた。
   汝の途をヱホバに委ねよ、
   彼に倚頼まば彼れ之を成就げ給はん。
「ヱホバ汝に代つて成し遂げ給はん」と。実に然りである。自分が進んで兎や角と心配するに及ばない。神が自分に代つて成就して下さる。何んと有難い事ではない乎。
 
 二月十八日(月)曇 昨夜五十日振りにて小雨あり、東日本全体の喜びであつた。恵みの雨とは此事である。近来頻りにパウロのコロサイ書が思ひ出され、キリストを理学的に解釈せんとする者の浅はかさを歎きつゝありしに、今日丸善よりA・T・ロバートソン近著『パウロと知識階級・コロサイ書』と題する書の配達を受け、大なる熱心を以て之を読み始めた。世には自分と思想の根拠を共にする者あるを知りて甚だ心強く感じた。コロサイ書は当時の所謂基督教合理化を企てし者の主張の攻撃であつて、其意味に於て殊に貴い書である。まことにラムセイ博士が曰へる如くに「パウロ自身が最大の哲学者」であつた。彼にキリスト中心の宇宙観があつた。我等はコロサイ書を研究してパウロの此宇宙観を我等の有となすべきである。
 
(420) 二月十九日(火)晴 強風にて関東平原は黄塵を揚げ、不愉快極まる日であつた。帝国議会の記事は相変らず読むに堪えない。正義の声は揚らないではないが、大事の所に来ると凡て有耶無耶の裏に葬らる。見渡す所、日本中に我家の事業の如くに永久に堅実なるものはない。我等は今や何人も羨まない。我等は日本人中で最も恵まれたる者であると思ふ。総理大臣、貴族院議員、大博士、何人も羨ましくない。人生の終りに近づいて何か永久的に意味のある事を為さしめられしを識りて感謝に堪えない。老夫婦は毎日此事を繰返して相互を慰めてゐる。若し慾を言ふならば愛する孫女と共に居りたい。然し此欠陥を補ふために毎日曜日に何百と云ふ信仰上の子や孫が我家に集ひ来る。「ヱホバに感謝せよ、其慈愛は窮りなければ也」である。
 
 二月二十日(水)晴 西洋の諺に「紳士を作るに三代かゝる」と云ふ事があるが、クリスチヤンを作るにも数代又は数十代かゝるは確かである。パウロはダマスコ途上、瞬間にして基督者と成つたやうに書いてあるが、彼はベニヤミンの族《やから》ヒブライ人中のヒブライ人であつて、彼が基督者と成る下地を作るまでに数十代かゝつてゐる。勿論一代にてキリストの救に与ることは出来るが、然し基督者相応の実を挙ぐるまでには少くとも数代かゝるものと覚悟してゐねばならぬ。此事を知つて我等は自己の進歩の遅々たるに失望せざるのみならず、他人の不完全を責むるに寛容なる事が出来る。日本にプロテスタント主義の基督教が伝つてまだ百年に成らない。我等は相互の不完全に就いて失望し又は憤慨してはならない。
 
 二月二十一日(木)晴 キリストに逆ひし者は亡び、キリストを離れし者は栄えしやうで終に衰ふ。近頃に至り事実を以つて明かに此事を示されて恐ろしく感ずる。まことにキリストは聖書が示すが如くに死して甦り、(421)今や生きて世界を其足下に征服し給ひつゝあるのである。基督教は教理でない、生ける事実である。万物の主なるキリストに服《したが》へば起り、反けば倒れるのである。背教者はキリストを離れて自己に対し差したる悪事を為したりと思はないが、実は己が身を滅したのである。明治大正の日本に於てキリストを無視し、嘲けり、古草鞋を棄るが如くに棄てし政治家文士は数ふるに遑なき程多くある。そして彼等が順を逐ふて審判かるゝを見る。実に恐ろしい事である。
 
 二月二十二日(金)晴 少しく春めえて来た。貴族院では首相問責案なるものが可決され、首相田中義一氏の為した事が甚だ善くないと云ふことに成つた。我家では雑誌三月号の原稿が纏つて之を印刷所に送つた。全体事の善悪を多数の投票で決めると云ふのは不思議の制度である。此んな事で国が治まる乎、甚だ疑はしくある。然し竟る所人の意見が成るに非ずして神の聖旨が成るのであるから有難い。自分の短き一生の間に於てすら露、独、墺の大帝国さへ潰れて了つた。他は推して知るべしである。議会の決議の如き実は水上の泡と見て間違はないのである。
 
 二月二十三日(土)半晴 春風到る。主婦と共に阿弗利加野獣生活の活動映画「ザンバ」を見た。最好の動物研究である。然し自分に取りては野獣と共に映出せられし土人の生活状態の方が遥かに面白かつた。是等の人々をクリスチヤンに成すのが阿弗利加伝道の目的であるを思ふてリビングストンやシユワイツエルの事が思出された。地上にまだ為すべき事が沢山にある。獅子、犀、象、麒麟、斑馬、河馬等よりも遥かに面白い者は矢張り人間である。
 
(422) 二月二十四日(日)晴 北風塵を揚げて寒し。其為にや来会者平日よりも尠く、三百人余りであつた。朝は「科学と仏教」と題し、午後は創世記二章に就いて話した。塚本が聖書に依り福音を説いて呉れるので、自分は時々聖書の側面観を述ぶることが出来て大いに助かる。聖書研究は多方面である。単に純福音を宣る計りでは足りない。物理学も、人類学も、考古学も、学問と云ふ学問、知識と云ふ知識を時に悉く引合ひに出さねばならぬ。単純なる十字架の福音を広い堅い土台の上に築かねばならぬ。其処に努力と忍耐とが要る。楽しき而かも骨の折れる仕事である。
 
 二月二十五日(月)晴 引続き厳寒である。空気乾燥し、塵埃揚り、咽喉には最も悪しくある。それにも拘はらず老夫婦共に是れ丈けの健康を維持し得て大なる感謝である。毎日少しづゝ此世と離れ行いて感謝である。此世に対する興味が段々と薄らいで行く。此んな世は何う成つても可いと思ふ。但し孫供の事を思ふと心配する。彼等が成長する頃には何んなに悪い世に成る乎、其事を思ふと心痛に堪えない。唯真の神の道を遺して行くまでゞある。我も人も真の神を知り、彼を崇めまつらずして、他に何んな善きものがあつても真の福祉は来ない。故に他人は知らず、我と我が家とはヨシユアの言を以て立つであらう。即ち
  汝等は如何なる宗教、如何なる主義をも奉ぜよ、然れど我と我家とは共にヱホバに事へん(ヨシユア記廿四章十五節)
と。そして我が愛する凡ての同志が我等に傚ひてイエスキリストの御父なる其の神に事へんことを切望する。
 
 二月二十六日(火)晴 引続き北風にて寒し。塚本今日文部省当局某氏と会見し、若し目下帝国議会提出の宗(423)教団体法案にして法律と成りし場合に、内村聖書研究会の如きは如何に扱はるゝやと尋ねし所、某氏の意見に依れば、当研究会は団体結社の主観的要素なきものなれば之を団体として認めず、故に若し団体として届出づることあるも受附けざるべしとの事であつた。自分連も予ねてさうと思ひ居りしも、当局の人より此言を聞いて大に安心し且喜んだ。自分達は如何なる意味に於ても宗教的団体を作らんと欲する者でない。其点に於てメソヂスト教会とか又は組合教会とか云ふ者と全然素質を異にする。|自分達の基督教は宗教に非ず、自分達の集会は教会に非ず〔付△圏点〕、故に自分連は宗教法の制裁を受くべき者に非ずと信ずる。そして自分の此信念が既に今日の政府当局の人に通ぜし事を知つて感謝に堪へない。多分教会内には当局の此態度に対し強い反対を申出づる者があるであらう。然し自分達としては飽くまで団体結社の意志を懐かず、信仰は飽くまで単に霊的関係として持続せんと欲する。何れにしろ如斯くにして教会と自分達との区別が判明して嬉しくある。善い乎悪い乎は別問題として自分達は仏教の管長達と共に宗教家として扱はれたくない。金杯銀杯の下賜に与かるの資格なき者として自分達の信仰を進めて行きたい。
 
 二月二十七日(水)晴 旧友大島正健君を招き、夕食を共にし、後旧時を談じて楽しかつた。広井伊藤既に去りて余す旧友は僅に数人、淋しくもあれば貴くもある。信仰、科学、哲学に就いて語り、我等は五十年前と根本思想に於て変らざるを知りて感謝する。我等は近代人と事物の見方を異にする。霊と物との根本的相違を認める。善悪の道は一目瞭然であつて、之を問題と成さない。又義に基ゐせざる愛を説かない。キリストの十字架抜きの基督教を否認する。故に学説を異にする事あるも信仰を共にする。縦令一人たりと雖も斯かる友人の残存するを感謝する。そして北海道に一二人、内地に二三人、未だ斯かる友人の地上に在るを知りて感謝する。
 
(424) 二月二十八日(木)曇 小雨があつた。終日校正と原稿書きに従事した。今や読む事よりも書く事が多くある。そして読む事は主として復読である。新著述は至つてツマラなくある。又聖書の外に興味は段々と無くなる、併し聖書のみは非常に面白くある。宇宙人生の根本問題を取扱ふからである。殊に愉快なるは文部省の御役人までが自身を宗教家として見て呉れないと云ふ事である。自分の仕事を宗教法に触れないものと見て呉れる事である。自分並に同志は何時何時までも此立場に居るであらう。堕落して監督管長の顆とならざらん事を努むるであらう。|聖書研究会が腐敗して教会に化せざるやうに凡ての注意を払ふであらう〔付△圏点〕。
 
 三月一日(金)半晴 昨夜より今朝にかけ久々振りにて雨が降つた。万物蘇生し、草木と共に喜んだ。若し此雨を金を出して買はなければならぬならば三井岩崎の富を以てしても到底能はぬ。若し東京市に二三億の金を寄附する者があるならば大慈善家として持はやさるゝならんも、神が此膏雨を降し給ふも彼に感謝する者は滅多にない。此不信忘恩の民に何んな禍が臨んでも|つぶやく〔付ごま圏点〕事は出来ない。膏雨と共に春暖到り、今日は蟄居の老主筆もステツキを採つて夕食後の散歩に出掛けた。
 
 三月二日(土)雨 校正と読書の一日であつた。何も為し得ざる時は信ずる。そして信者に取り信は最大事業であるが故に有難い。宮城県本吉郡気仙沼町が大火の為め殆んど全滅の災禍に罹りし由を聞いて同情に堪へなかつた。同所は明治の六年頃我父宜之君が登米県参事として一二年滞在せし所であつて、自分も八九歳の少年として彼の膝下に在つた。当年を回顧し、宜之君に代り少額を贈りて同情を表した。
 
 三月三日(日)晴 寒風吹かへし、復た冬が来た。寒い冬は容易に立去らぬ、然し喜びの春は必ず来る。それ(425)までが忍耐である。今日は三百二三十人の集会であつた。朝は詩篇第三十四篇と仏教対基督教を、午後はヘブライ書十二章九節に由り「霊魂の父」に就て講じた。相変らず静粛にして緊張せる集会であつた。我等は仏教を尊重するも仏耶両教の融合の如き、|とんでもない〔付ごま圏点〕事であると述べた。前回より今回に渉り此たび工学博士田中竜夫君と信仰上分離せねばならぬに至つた理由を間接に述べたのである。
 
 三月四日(月)晴 今日の最大事件は何と云ふても米国華盛頓に於ける新大統領フーバーの就任式である。さぞかし簡素厳粛の事であらう。来らんとする四年、多分八年間の米国の繁栄は想ひやられる。何んと云ふても米国である。今より当分の間世界の最大強国である。米国人より信仰福音を学ぶの要なく、其金銀は霊魂を腐らす者であるが、然ればとて其世界的強大を疑ふ事は出来ない。一時は自分の第二の故国であつた此国の為に祈らざるを得ない。願くは其前途に祝福あれ、人類を益すること成るべく多くして害すること成るべく尠かれと。若し能ふべくんば肉に於て旺んなるが如くに霊に於ても盛んなれと。
 
 三月五日(火)曇 悪い日であつた。聖書研究社旧社員山岸壬五、越後栃尾の宅に於て永眠せりとの報に接し、終日憂愁に沈んだ。彼は明治二十二年以来の人生の同伴者であつた。幾度か離れて幾度か合うた。そして『東京独立雑誌』が亡びて『聖書之研究』が興るや、彼は最初の事務員として最も困難なる際に我等を援けて呉れた、そして大正十一年まで我等と密接の関係を継続した。又自分の生涯に於て第一高等学校不敬事件の時に自分の傍にありて自分と患苦を共にして呉れ、其他幾回となく自分と苦楽を頒つた。今や此生涯の侶伴を喪ひて寂寥の感の堪へ難きものがある。恐る自分が彼に与へしものゝ彼が自分に与へしものを償ふに足らざりし事を。若し『聖書之研究』が世を益せしならば、其功労の大なる分前は山岸壬五に属すべきものである。祈る彼の霊の天父の懐(426)に在りて永久に安からんことを。
 
 三月六日(水)曇 春寒引続き強し。今日も山岸の事を思出し熱い涙が胸の奥より湧出る。「イエス涕を流し給へり」である。情は道理とは別のものである。泣かんと欲せざるに泣くとは不思議である。昨年より今年に懸け、親しき友を襲ひし事、山岸を以つて第四人である。是で当分御免を蒙りたい 〇北海道の或る炭山の坑夫某君よりの書面に曰く
  ……当地に聖公会の二三の信者是れあり候も事実に於て異れる道を辿れる者に候へば真に語るべき友もなく、孤独実に淋しき場合も有之候も、月々訪れ来る研究誌の指導に依り上よりの能力と慰安とを与へられ希望の日を送り居候。今更ら申までもなき事に御座候も信仰とは教会対吾、牧師対吾、且又先生対吾でもなく、主なる基督対吾との関係なる事を近時深く教へられ殊に歓び居り候。今日の所小生は七人の家族と二三の求道者と共に毎日曜日を期し微かに主の福音を学び居り候。御著『後世への最大遺物』に依り教へられたる聖生涯の一端を辿らばやと希求致し居り候。云々
如斯き読者を主眼に『聖書之研究』は発行せらるゝのである。
 
 三月七日(木)晴 寒気去らず蟄居状態を継続する。毎日相変らず、人殺し、強盗、不景気、議会に於ける党人の喧嘩に就て聞かせらる。気持の悪い事である。近代人は頻りに宗教の必要を説くも、彼等の内何人も宗教を体得して其宣伝の任に当らんと欲する者はない。有為の青年は凡て政治、経済、理科、工科、医科に行く、然れども犠牲多くして収入の尠い宗教に行かない、それでゐて宗教家の悪評を沢山に為る、それであるから国家社会は悪くなる計りである。|宗教家を馬鹿にしながら宗教の必要を唱ふ〔付△圏点〕、それが近代人の近状である。此儘で進んで(427)国が終に亡びなければ、それこそ不思議である。(宗教ならざる宗教に就て云ふ)
 
 三月八日(金)半晴 コロサイ書並に詩篇の研究に有益なる一日を送つた。札幌より二孫の写真到来し会心の笑みを禁じ得なかつた。聖書と小児、地上の天国である 〇内治と外交に就き新聞紙に記載されざる多くの恐ろしき事を聞かせらる。若し本当ならば大変である。知らぬが仏である。万一大洪水が到来するならば神は我等信ずる者を方舟を以て救つて下さるであらう。故に安心して命ぜられし職務に従事すべきである。
 
 三月九日(土)晴 少しく春見えて来た。仕事の間に加奈大の地理歴史を読んで大なる興味を覚えた。茲に日本に二十倍する大国が太平洋の彼岸にまだ殆んど未開の儘に存つてゐる。人口は一千万足らずであつて、初代の合衆国位のものである。其一州たる英領コロムビヤは日本の二倍であつて、日本の二倍以上の富源を有つてゐる。之を他人の国と思へば情けないが、我国と思ふて思ひ得ないでない。「万物は汝等の有なり」である。信仰に由りて天国のみならず、世界を我有となす事が出来る。狭い日本では我有とては言ふに足らず、我が意見とては全然行はれないが、キリストの霊に生きて世界の市民となりて、英領コロムビヤの炭坑森林、アルバ一タ、サスカチワンの原野をも我が領土として其開発を楽しむ事が出来る。世界は今猶ほ広くある。日本に寸地を有せずとも座して世界の王たる事が出来る。
 
 三月十日(日)晴 麗はしの初春の聖日であつた。二回合せて三百三四十人の来会者があつた。例の通り塚本と共に前後して高壇に立つた。福音を説くのであつて倫理道徳を説くのでない。自分は朝毎に詩篇の大意を語るのであつて、全身を之に投込む事が出来て楽しくある。
 
(428) 三月十一日(月)半晴 雑誌二有号を発送した。印刷部数四千五百部、昨年の今月よりは二百部の増加である。千五百部に減じたならば廃刊しやうと予ねて思ふてゐたが、遂々さうならずして済みさうである。此不信国に在りて、而かも多くの基督信者にまで嫌はれて、是れ丈けの部数を捌き得るは不思議と云はざるを得ない。第三百号廃刊の計画は破れて第三百五十号に達せんとしてゐる。人間業ではないと自分は信ずる、然し他人はさうは思ふまい。
 
 三月十二日(火)晴 昨夜烈風、「預言寺」の瓦を飛ばし大分の損害であつた。羅馬書五章十八節に由り復又万人救済の事に就き考へた。何れにしろ救はるゝ者の少数ならず多数なるは確かである。若し Panta でなければ polloi である。キリストの贖ひの死に由つて全人類が神の恩恵の光に包まるゝに至つた事を疑ふ事は出来ない。呪詛はアダムの裔より取除かれた。今や人が欲《この》んで自から滅ぶるより他に彼が亡ぶる途はない。我等は今は恩恵充溢れる世界に棲んでゐるのである。
 
 三月十三日(水)晴 西南の風強く、黄塵空を覆ひ、気分悪しき事甚だし。其他人生の細事に悩まさる。「噫信仰薄き者よ」と自分で自分を責めざるを得ない 〇真理は何人が説いても真理であるから有難い。縦し自分は悪人であり偽善者であつても自分の説きし真理は自分と共に滅びないから有難い。そして自分の如き者が或る真理を説く為に使はれしは有難い極みである。若し自分の不完全が自分の説きし真理を尽く滅す者であるならば、そんな辛らい事はない。然し神は教会の批評家の如くに無慈悲であり給はないから有難い。
 
(429) 三月十四日(木)晴 引続き寒い風と塵埃の一日であつた。東京の気候が一変したやうに思はる。少しづゝ働きながら春の到来を待つのみである。東京市の浄化運動も失敗に終るらしく、此世は引続き暗黒である。自分の見る所では地上で幸福の国と云へばカナダとニュージーランドとである。土地は広く、資源は多く、民は尠くして国は治まると云ふ状態である。軍備を最小限度に減縮するまでは国の繁栄は望み得ない。其点から見て日本の繁栄は当分見込がない。然し天に宝を積む者にはそんな事は如何でも可い。又積まない者にも如何する事も出来ない。
 
 三月十五日(金)晴 寒気引続き強し。今年二月末の日本帝国々債現在高は五十八億四千万円であつて、前月未に此し三千二百八十万円の増加であると云ふ。自分の知る範囲に於て我国の国債の減じた年とては曾つてない。毎年増して行くのみである。多分百億円に達するは遠き将来ではあるまい。恵まれたる人と国とは貸す事あるも借る事なき者である。モーセがイスラエルの民を祝福せる言に曰く
  汝は多くの国民に貸すことを得べし、然れど借ることあらじ(申命記十五章六節)
と。そして今日猶ほイスラエルの民(ユダ人)は諸国の民に貸してゐる。日本国にも莫大の金を貸してゐる。多くの家が借金の為に亡びしが如くに多くの国も亦借金の為に亡びた。借金は決して小事でない。我国も国債の為に亡びないとは限らない。|殊に最も悲惨なるは我等の愛する孫供が此大借金を負はせらるゝ事である。其事を思ふて借金政策を採つて意に介せざる政治家供の如何に重き罪人なる乎が判明る。「磨石《ひきうす》を頸に懸けられて海の深底《ふかみ》に投入れられん事其人の為に宜かるべし」とあるは、是等の政治家に適用すべき言である(ルカ伝十七章二節)。
 
 三月十六日(土)晴 引続き北風強くして寒し。A・T・ロバートソン著『パウロと知識階級一名コロサイ書(430)の略註』を読み了つた。近頃読んだ最も面白い書の一である。近年流行の「科学と宗教」に口を出す者に一読を勧むる。科学の上に基督教を建てんとする試みはパウロの時代にも既に在つたのである、そして其れが失敗に終つたのは云ふまでもない。コロサイ書は此種の異端を説破するに適切なる書である。
 
 三月十七日(日)晴 集会変りなし。又復講堂の狭隘を感ずる、実に困つたものである。多数に来て貰ひたくない我等の所には来り、貰ひたがる教会には行かない。人生の凡ての事が如斯しである。札幌に於ては研究誌読者の例会が今日彼地に於ける新宅に開かれ、電報の交換があつた。彼地諸教会々員中の有力者(信仰的)より成り、今は一つの堅い信仰的兄弟団と成つたらしく、まことに有難い事である。他の事に於ては何事も振はずと雖も、福音的信仰の事に於ては凡てが満足であると云ひて差支ないと思ふ。
 
 三月十八日(月)晴 山岸壬五の遺骨到来し、熱き涙を以つて之を迎へた。然し哀むも益なし、過去を忘れて平常の通り我が任務に就かんと決心した。彼がクリスチヤンとして静に眠りし事を聞いて安心した。キリストの僕として希望を以つて死んで呉れさへすれば余は如何でも可い。有島や小山内の如くに、いくら高く名を揚げても背教者として死なれては堪へ難き失望又落胆である。壬五の遺骨の上に手を按いて天父の懐に還りし彼の霊魂の平安ならんことを祈つた。老年の悲しき事の一であつた 〇昨日来シヨーペンハウエルの悲観主義哲学を読み、その如何に馬鹿気切つたる哲学なる乎を今更らながらに感じた。全体幸福とか不幸とか云ふ事を問題にするから間違つてゐる。幸不幸の問題でない、義不義のそれである。朝に道を聞き、|其日に之を行へば〔付△圏点〕、夕べに死すとも可なりである。カントの「道義的王国としての宇宙」の方が遥かに強く自分の理性にアツピールする。
 
(431) 三月十九日(火)半晴 久々振りにて大雨を見た。天地が一変したやうに感じた。教会の或る人達が内村聖書研究会は講演者の人格を以つて人を引附けつゝあるに対し教会は福音を以つて人を救はんとしつゝあると唱ふる由を聞いて異様の感に打たれた。自分等は人格、教会は福音? 若しさうなれば何故自分等が衰へて教会が栄えないのであらう乎。自分等は自分等の人格に依らずして福音に依りたればこそ今日の祝福に与つたのであると信ずる。そして若し教会が厳密に福音に依りしならば今日の衰退を見なかつたらうと思ふ。然し如何でも宜しい、自分等も福音に頼れば教会も之に倚るが宜しい。そして何人に由つてでも可いから真の福音が説かれ、神の御栄が挙つて欲しい。
 
 三月二十日(水)曇 自分が主人役を務め、司会者となりて山岸壬五の葬儀を今井館聖書講堂に於て執行した。友人男女六十余人が列席して呉れた。自分の子の葬式を司るやうな心地がした。涙を呑むのが主なる努力であつた。彼が善きクリスチヤンとして死んで呉れた事が何よりも有難かつた。彼の遺骨に対して過去四十年が一時に我が胸に浮び出した。夢のやうな一生である、然しキリストに事へて夢ではなくして充実せる一生である。長寿は善しとして跡から跡へと旧友を葬るの辛らき事よ。然し山岸を葬るは分けて辛くあつた。彼は我が最も旧き弟子であつて我が boy《ボーイ》であつた。今やかしこに加寿子やルツ子は彼を歓迎してゐるであらう。
 三月二十一日(木)晴 甥の岡田八郎明治学院中学部を卒業し、主婦と共に其式に列した。自分が初めて明治学院を訪れたのは明治二十五年(?)であつて、今日が第二回で三十七年の後である。凡てが一変し、昔の影一もなしである。総理の田川大吉郎氏、並に再臨運動当時の同士オルトマン氏と握手した。其他知人は一人も見当らなかつた。八郎は主婦の生家岡田氏の主人であつて、十二年間我家に同居せる者である。岡田家が京都室町教会(432)(日基派)に関係深くありしが故に、彼を明治学院に託せし次第である。
 
 三月二十二日(金)晴 原稿書きの一日であつた。近頃に至りヤコブ書一章二節の意味が明白に成つて窮りなき喜びである。「我が兄弟よ若し汝等様々の試誘《こゝろみ》に遇はゞ之を喜ぶべき事とすべし」云々と。試誘とは三節の「信仰の試み」であつて所謂不幸艱難である、そして是れ実に喜ぶべき事である、之に由つて品性が磨かれ霊魂が完成せらるゝからである。之に反して幸福安楽は霊魂を惰弱にし、品性の上進を妨ぐる。人生の目的の霊魂の完成にあるを知りて不幸艱難ほど善き物の無い事が判明る。されば凶い事は歓迎すべきである。今日まで浅薄なる米英の宣教師等に誤られて幸福を追求めて不幸を忌み嫌ひし事の愚かさよ。艱難に堪へ、之に勝つ位では足りない、|之を喜ばねばならぬ〔付○圏点〕。そして人生の終りに近いて此事が判明つて感謝である。|最大の異端は人生の目的は最大幸福を得るに在りと云ふ事である〔付△圏点〕。
 
 三月二十三日(土)晴 仕事の暇を見て、武蔵野館に『キングオブキングス』の映画を観た。実に偉大なる作品である。王の王はナザレの大工イエスであると云ふのであつて、彼の生涯の主なる出来事を映画化したものである。世は如何に堕落してもイエスを忘れない、そして人生の指導を彼に仰がんとして居る。そして日本人までが静粛謹厳、聖者に対する敬虔《つゝしみ》を以つて此画を賞翫しつゝある。自分も亦其或る部分に対して感謝同情の涙を禁じ得なかつた。人類の王は我が青年時代より我が霊魂を委ねまつりしイエスであるを知つて、此不信国に在りて肩幅広く感ずる。如此き世界的大映画ほ一度観て置く充分の価値がある。
 
 三月二十四日(日)半晴 暖い春の聖日である。集会変りなし。塚本は朝は卒業説教を為すべく頼まれて東京(433)女子大学へ行いた。石原兵永が彼に代つて前講を勤めて呉れた。自分は朝は詩篇三十六篇を、午後は「マリヤの選択」と題してルカ伝十章三八節以下を講じた 〇読売新聞宗教欄に左の如き記事が見えた。
  内村鑑三氏が自ら自己の運動は宗教でないと公言したのに対して宗界一般が瞠目して居る。
多分さうであると思ふ。然し「運動」と云ふは間違である。自分は運動はしない。それであるから宗教でないと云ふのである。社会に勢力を持たうとしない。「我国は此世のものに非ず」である。
 
 三月二十五日(月)曇 第五十六帝国議会終る。宗教団体法案は其他の多くの重要法案と共に審議未了の儘に葬らる。自分等には何れも直接何の関係なき事ながら、去りとて誠に呆気ない次第である。政治の事は自分等には少しも判明らない。之に裏と表があるらしい。国の為めと云ふ裏に自己の為と云ふ濃い暗い影があるらしい。之をサタンの業《わざ》と見て大抵間違はないと思ふ。又呆れる事には政治家の間に反対党の美点を見る眼が少しも無い、我れ悉く可にして彼れ悉く非なりである。是れでは喧嘩の絶えないのは無理はない。
 
 三月二十六日(火)曇 諸学校学期の替り目であり、随つて我が聖書研究会員にして退会して国元に還る者と、上京して新たに入会する者とにて、その送迎にて応接間は賑はつた。然し引続き入る者は出づる者よりも多く、我等の責任は増す計りである。何時までも主として青年を相手にする自分は恵まれたる者と称すべきであらう。自分と同年の他人を見れば随分の老人に見受くるが、自分丈けではまだ全くの青年のやうに思はれる。多分青年の先生として我が一生を終るのであらう。
 
(434) 三月二十七日(水)小雨 朝より半日かゝつて四月号第一頁の原稿を書いた。問題が問題丈けに大いに頭脳を痛めた。「イエスと宇宙」、実は人間が取扱ふ問題にして是れ以上のものはない。そして此問題を取扱ふ事が出来た丈けが大感謝である。半日は愚か、数日かゝつても惜しくはない。此日又我家に於てモアブ婦人会の月並会が催された。
 
 三月二十八日(木)半晴 友人の紹介に由り駿河台に新築の基督教女子青年会館を参観した。実に立派なる完備せる建物である。近代の米国を東京に於て見るやうに感じた。但し此新式の建物に於て旧式の基督教を説く事の出来ない事をも感じた。万事が肉体と知能の発達の為に出来てゐる、霊魂の為に尽すの余地がない。米国に旧い能力ある福音が殆んど絶えんとしてゐるは無理でない。我等は旧い日本家屋で古い福音の隆盛を計るであらう。
 
 三月二十九日(金)小雨 詩篇三十七篇の解釈を書きながら其教訓に循つて歩むの必要を深く感じた。世に悪人の跋扈するを見て心を苛立《いらだつ》るな、怒るな、憤るなと云ふ教訓である。我が途をヱホバに委ねて安心して世渡りする事である。社会も教会も神が天に在まして主宰し給へば善きに導かるゝに定つてゐる。「彼れ之を成し遂げ給ふべし」である。誠に有難い教である、そして事実である。
 
 三月三十日(土)曇 主婦風邪にて床に就く。自分は今日は終日ピリピ書第一章二一節に就て考へた。「我には生くるはキリスト」と云ふことである。生くるはキリストの御生涯を繰返すことである。愛の為めに苦しみ、義の為に苦しめらるゝことである。決して幸福の生涯でない、不幸の内に幸福を看出す生涯である。又思うた、基督教は今日の日本人には余りに善き教である。善きに過ぎて彼等は之より害を受くること益を受くるよりも多い(435)やうに見受ける。彼等は愛を説かれて愛せんとするよりも愛せられんとする。キリスト再臨の如き大教義に接して彼等の多数は宗教狂に成る。彼等には厳格なる儒教か慈悲一方の阿弥陀教の方が遥かに適してゐるやうに見える。如何して宜き乎時には解らなくなる。四十年以上国人に基督教を説いて見て時には懐疑の雲に蔽はるゝは事実である。
 
 三月三十一日(日)曇 春休みの為にや来会者平常より少く、三百人に満たなかつた。復活祭当日であつた。然し復活に就て多くを語らなかつた。平常度々之に説き及ぶからである。自分は朝は詩篇第三十七篇の第一回を、午後は基督教は宗教にあらざる理由を聖書に依つて述べた。無教会主義者が無宗教的信仰を述べて事は徹底したる次第である。然し戯談ではない事実である。聖書於ては宗教なる文字は行伝二十六章六節と、ヤコブ一章廿六、廿七節に唯二回用ひられてゐるのみである。而かも善き意味に於てに非ず悪しき意味に於てである。イエスも弟子等も其説きし教を決して宗教と呼ばなかつた。それは神の国の福音であつて宗教でなかつた。福音が宗教でなくなる時に元の純潔に還るのである。
 
 四月一日(月)雨 相変らず疲れた。種々の事を考へさせられた。然し覚る所心の平安に落附いた。朝鮮の学生某が帰国に際し暇乞に来て呉れた。彼は東京在留九年間、唯の一回も我が聖書研究会への出席を怠らなかつたと云ふ、そして大なる決心を以つて朝鮮に帰つて信仰の為に闘はんとしてゐた。彼を送つて自分は喜びの涙を禁じ得なかつた。イエスの言が自づから唇に浮んだ
  我れまことに汝等に告げん、イスラエルの中に未だ斯かる篤き信仰に遇はざる也
と(マタイ伝八章十節)。信仰の事に就ては朝鮮人は全体に日本人以上であるやうに見える。多分我が信仰が朝鮮(436)人の中に根ざして、然る後に日本に伝はるのであらう。少数の朝鮮学生を教へる為め丈けに聖書研究会を起すの価値があつた。
 
 四月二日(火)小雨 校正の暇に論語里仁篇を通読した。カントかカーライルを読むやうに感じた。
  惟仁者は能く人を好《よみ》し能く人を悪む
と云ふ。気持の好い言である。ドクトル・ジ∃ンソンが「能く人を悪まざる者を友とせず」と曰ひしと同じである。悪まざる者は愛せず、悪まざる者の愛は当にならぬ愛である。
  朝に道を聞けば夕に死すとも可矣
多分人類に由つて発せられし最も大なる言の一であらう。自分は曾つて孔子の言を引いたりとて米国宣教師に叱られた事があるが、孔子の此言の如き到底彼等宣教師に解らない事を後に至つて知つた。今日の宣教師教会に是れ丈けの意気は到底見当らない。自分は聖書の言同様に此言を重んずる者である。其他貴重なる教訓に富む。東洋人たる者は何人も論語を読まねばならぬ。
 
 四月三日(水)曇 寒気未だ去らず、長い冬である。倫敦タイムスにオーレル・スタイン氏の中央亜細亜探険記を読み、非常に面白かつた。キリスト在世頃に今の新彊即ち東トルキスタンに東西両文明を合せたる文化が盛んに行はれたとの事である。之に由つて其後の東洋文明の起原が大分に説明され、日本文明の由来までが明かに成る訳である。人類の歴史上大発見と云はざるを得ない。人類の進歩に何の関係も無かりし者と思ひし此亜細亜大陸中心の地が曾つて東西両洋を繋ぐ連鎖の結節《むすびめ》たりしを知りて事の意外なるに驚かざるを得ない。|日本が当らんとする役目を東トルキスタンが千九百年前の昔に既に完全に勤めたのである〔付△圏点〕。
 
(437) 四月四日(木)曇 内村医学士昨夜札幌より来た。為に家は久振りにて賑つた。常に共に居たらばさぞかし善からうと思ふ。然し父は信仰を伝ふる為に、子は疾病を癒す為に別れて居らねばならぬ。幸福を楽しむ為めに非ず、義務を果たす為の生涯である。然し時に相会ふて語るの快楽を賜はる、感謝に堪へない。
 
 四月五日(金)晴 漸くサツト庭の彼岸桜が咲き出した。遅い春である、然し来たから嬉しい 〇日本国は今猶ほ依然として官尊民卑のお役人国である。此国では官吏に成らざれば幅が利かない。日本人は口では独立だの平民主義だのと唱ふるけれども、実は彼等に取り政府程安心で有利な所はないのである。故に何人も官吏の地位に噛附《かじりつ》かんとする。政党が政権を離れ得ず、反対党が倒閣運動に熱心なるも皆な之が為である。日本人は未だ純平民たるの尊さを知らない。爵位を貰ふて嬉しがるやうな小児である。|斯んな国民に独立的基督教を与へんとして生涯を送りし自分の馬鹿さ加減を憐まざるを得ない〔付△圏点〕。
 
 四月六日(土)半晴 死ぬことが怖い内は幸福はない。死ぬことが怖くない計りか楽しくなるに至つて真の幸福に入るのである。此世は幸福の有るべき所でない、不幸は其持前である。此世に於て幸福を楽しまんとするは不可能を企つるのである。クリスチヤンに殊更に不幸患難の多いのは彼をして世を厭はしめて、死を一層歓迎せしめん為である。勿論米国宣教師などには此理は解らない。其点に於ては我国の浄土宗の僧侶の方が遥かに上である。
 
 四月七日(日)雨 午後晴る。桜の聖日であつた。午前午後合せて三百人少し以上の来会者があつた。詩篇第(438)三十七篇第二十五節と「基督教の三大問題」を講じた。新会員尠からず、基督教の初歩を講ずるの必要がある。教会と我等と単に教会の事のみならず、信仰の根本を異にする事が明瞭になり、今より後は福音の真理を弁明する上から教会に当らざるべからずと述べた。教会に対して今や寛容の境を出て、排邪の域に入らねばならぬ。遠からずして日本福音聯盟なる者が起るであらう。但し米欧人の異端を受けざるのみならず其金銭を絶対的に受けざる事が肝要である。
 
 四月八日(月)曇 親子三人連立ちて花の上野に名宝展覧会を見た。内に見るぺき者が沢山にあつた。殊に眼にとまりしは太閤秀吉を怒らした明国冊封の巻物である。「爾を封じて日本国王となす」と、実に無礼千万の申分である。然し日本人を愚弄せし外国人は此書を送りし明万暦帝一人に限らない。「爾を任じて日本教会の監督となす」と云うた外国の宗教家があつた、そして怒らずして之を受けた日本人があつた。秀吉は日本人らしい日本人であつた。彼を愛せざるを得ない 〇上野を去りて内村医学士に伴はれて麻布赤十社病院に五斗医学博士に自分の身体の精密なる検査を受けた、そして心臓に大なる異状のある事を明かに示された。初めて自分の身体の危険状態に在るを知つた。何時か一度は受けねばならぬ宣告であつて、敢へて驚くに足らずと雖も、茲に我が生涯の事業を一部廃せねばならぬ時期の到来せしを知りて感謝と共に感慨無量であつた。虚弱に生れし自分が大体に活動の六十八年の生涯を送りしは大なる恩恵である。今より後、働く生涯を止めて信ずる生涯を送るであらう。最後の数年が最も幸福平安の生涯であるであらう。
 
 四月九日(火)曇 内村医学士札幌に向け出発した。如何にして衰弱せる心臓を平安に保たん乎が主なる問題であつた。自分の身体に罅が入つた事が判明つて一つ善い事は説教演説司式等の依頼を断はるに充分の理由を有(439)つた事である。永の間情実に強いられて断はり切れざりし依頼は今は公然と断はり得る資格を得てまことに幸福である。教会や青年会の為に今日まで如何程の勢力を無益に消費せし乎を思ふて残念に堪へない。
 
 四月十日(水)曇 夜雨。休養の一日であつた。全体の容態宜し。自分の身体に薬の善く利くに驚く。平人の用量の半分以下にて充分の効を奏す。禁酒禁煙の結果であると思ふ。有難い事である。
 
 四月十一日(木)曇 引続き無為静養の一日であつた。下肢の浮腫が殆んど消えて愉快であつた。思へば此病は今度初めて起つたのではない。大正八年秋、大手町衛生会講堂に於てヨブ記十九章を講ぜし時に起つたのが此障害であつたのである。自分は身体の凡ての器官に注意を払つて来たが心臓丈けには不注意であつた。そして病は思はぎる所に起るのであつて、知らざる間に此中心的器官が侵されてゐたのである。然し神の恩恵の福音を唱へつゝありし間に起りし病であると思へば大なる慰めである。
 
 四月十二日(金)雨 終日床に就いて休んだ。容態は好良である、高壇は断念せずばなるまい。然しペンがまだ残つてゐる、失望するに及ばない。殊に信者最大の奉仕は信ずる事である。何事も為し得なくなる時に最大の事業が始まるのである。此んな有難い事はない。最後に最善とは此事である。願ふ最期に最善を遂げて最善の伝道を為さんことを。
 
 四月十三日(土)晴 宜之君第二十二回の昇天記念日である。君は七十六歳にて逝かれた。自分が其齢に達するにはまだ七年ある。内村家に長寿の血統あれば或ひはそれまで此世に在るのかも知れない。此日伯爵後藤新平(440)氏逝去した。自分は同氏に二三回会ふの機会を与へられた、然し不幸にして氏の偉らい所を見せられなかつた。氏がコロムウエル式の政治家で無つた事は確かである。基督教に対しては伊藤博文公大隈重信侯同様に賛成を表せられパトロナイズ(庇保)せられたが、罪を悔いてキリストの僕たらんと欲するやうな気分は毫頭見せられなかつた。其点に於ては氏も亦純然たる東洋流の政治家であつた、即ち氏も亦「信者たるには余りに偉ら過ぎた」のである。日本が偉らい国に成るには伊藤大隈後藤の諸公とは全く本質を異にする政治家を産出することが必要である。
 
 四月十四日(日)晴 床に就いて休んだ。高壇は全部塚本に委ねた。自分の病気に就き会員挙つて厚き同情を表し呉れ感謝に堪へない。彼等の内に有力の医師数人あり、孰れも全力を注いで治療を計つて呉れる。自分如き者に取り勿体ない特権である。凡ての事が共に働いて益を為す事を信じて疑はない 〇新聞紙に左の如き記事が見えた。
  文部省では学生の思想善導につき種々対策を講じてゐるが、案外成績が揚がらないので、今度は思想には思想をもつての主義に基き唯物的思想に対抗する精神科学の普及教授に骨を折ることにし、新学期から各大学にそれ/”\日本文化、東洋文化を発揚せしめる哲学倫理宗教歴史等の講座を設け近く担当教授を選び開始することになつた云々。
と。我等が怪んで止まざる事は、文部省が唯物思想は西洋思想であつて、之に対抗する精神科学は東洋に限ると思ふことである。西洋に東洋以上の強烈なる反唯物思想の有る事に文部省の人々は気が附かないのである乎。彼等はワルヅワス、ブラウニング、テニスン等を知らないのである乎。彼等は基督教の聖書が唯物思想に対する唯一の対抗力なる事を知らないのは悲しむに堪へたりである。|自分は断言して憚らない、文部省の此計画は又復失(441)敗に終ることを〔付△圏点〕。今日の唯物思想は仏教史や日本思想史位ゐのものを以て撲滅し得るやうな、そんな弱い者でない。文部省が基督教を軽んずる間は思想悪化を妨止する事は出来ない。
 
 四月十五日(月)晴 稀に見る好天気であつた。終日床に在りて休んだ。夜寝る前に此欄を書く外に何も為さず、全然不生産的の一日であつた。然し神に導かれて斯かる日も亦無意義の日でない。自分は何も為さないが彼は自分の上に或事を為し給ひつゝある。論語雍也篇より左の一節を拾ふて嬉しかつた。
  子仲弓を謂ふ曰く、犂牛の子|※[馬+辛]《あか》くして且角あらば用ふること勿らんと欲すと雖も山川其れ諸《これ》を舎《すて》んや。
ヱレミヤ記三十一章二七-三十節までと同じ意味の言であつて深い真理である。
 
 四月十六日(火)晴 病に罹つて常に困まらせらるゝ事は医者の間に和合一致のない事である。宗教家と同様に医者も亦大抵は自己本位である。医者も亦牧師伝道師同様他の医者を排斥する。困しむ者は其間に立つ患者である。牧師が人が自己の教会に入る以上は其人の善悪を問はざるが如くに医者も亦患者が自己の治療を受くる事を第一とし、その治る治らぬは第二第三の問題とする。信仰道徳を説く宗教家でさへ然りとすれば、其他の者を責むべきでないとは謂ふものゝ、僧侶や牧師は然りとしても医者は彼等以上であつて欲しい。医術は昔し流に仁術であつて欲しい、即ち患者本位であつて自己本位でなくつて欲しい。
 
 四月十七日(水)晴 八重桜咲き百花爛漫の春と成つた。今や自分の体が唯一の研究物である。血の循環、尿の排出、浮腫の出現並に消滅、昔し習ひし解剖学と生理学を喚起し、我れと我体を観察するは興味多き研究である。詩篇一三九篇十四節が心に浮ぶ。
(442)   我れ爾に感謝す、我は畏るべく奇しく造られたり。
   爾の事跡《みわざ》は悉く奇し、我が霊魂は審《つばら》に之を知れり。
友人等は自分以上に自分の病に就いて心配して呉れる。斯かる場合に自分が友人に如何に富んでゐる乎に気附く。有難い事である。
 
 四月十八日(木)曇 自分の見る所では目下の重大事件は不戦条約批准問題である。其解決如何に由つては日本に大内乱が起る乎、然らざれば世界に再び世界戦争が起るの危険がある。多分日本が其建国以来此んな大問題に逢着した事はあるまい。田中内閣には其解決は出来まい、其後に来る内閣も同じである。勿論自分が総理大臣と成りたればとて同じである。未来如何、神のみ知り給ふ。単へに祖国と世界人類との為に祈る。
 
 四月十九日(金)曇 寒冷また帰り来る、稀態な天候である。病気は読んで字の通り気である。気を快くして病は快くなる筈である。然し自から欲んで気を快くする事は出来ない。神より聖霊を受けて、希望と感謝と歓喜に充ちて、即ち浩然の気以上の気を受けて病は根本的に癒さるゝのである。此意味に於て箴言十七章二二節の言は大なる真理である。
   心の楽しみは良薬なり、
   霊魂の憂ひは骨を枯らす
如何なる名医の如何なる投薬も到底神より来る「心の楽しみ」に及ばないのである。
 
 四月二十日(土)雨 引続き休養が主なる仕事であつた。休養は無為でなくして変化である。仕事を変へる事(443)である。自分に取りては霊的研究を一時廃して物的研究に就く事である。幸にして青年時代に学びし天然学が大なる用を為す。今日は北極環内の土地開発、我が千島近海に於ける大鮃(オヒヨウ鰈)の漁獲に関する記事を読み大なる興味を覚えた。小なる地球の富源は容易に尽きない。世界の市民としての自分は此地に関しても無限に等しき希望を懐く。
 
 四月二十一日(日)晴 強風にて折角咲いた八重桜も台なしである。引続き休講した。塚本、矢内原、石原の三人に高壇を受持つて貰うた。来会者に変りなし、斯くして二三ケ月続くであらう。自分の病気は昨年夏札幌に於て休まずして働いたのが主なる原因を為したのであると思ふ。精神疲労である、それが内臓障害として現はれたのである。
 
 四月二十二日(月)晴 昨日は休講したので今日は疲れざる月曜日であつた。此んな事は滅多に無い事である。日曜日と云へば講演と云ふのであつた。それが何十年も続いたのである。誰に頼まれたのでもない、またそれが為に実際に益を受けた者があつた乎否やを知らない。然し或る要求があつて、誰にも命ぜられざるに、日曜日と云へばキリストの福音を説いたのである。若し自分が或る宣教師的教会の役者であつたならば、さぞかし彼等に沢山に賞められ名誉神学博士位ゐには為されたであらう。然し何も要らない、之が為に天国に往き得ずとも可い。|福音を語る事〔付○圏点〕、其事は快楽又歓喜であつた。
 
 四月二十三日(火)晴 自分の病は医学の方で云ふならば神経性心臓障碍と云ふのであらう。故に何よりも静粛が大切である。聖書や哲学は害を為さないが、俗事は非常に悪しくある。永の間厭々ながら此事に当つたから、(444)せめて最後の数年間此事より絶対的に許して貰ひたい。自分に絶対的安静を与へて呉れる人はそれ丈け自分を助けて呉れる人である。何故に自分より神の恩恵の福音以外の事を聞かんと欲するのである乎?
 
 四月二十四日(水)晴 出入りの職人に僅か計りの心附を為し、之に加へて無抵抗主義の福音を説きし所、「是れ天下の真理なり」と云ふて喜ぶを見て自分も亦非常に嬉しかつた。斯かる伝道の方が高壇の上より為す説教よりも遥かに有効であるまい乎と思うた。今日まで我家でなした最も有効の伝道は|下女伝道〔付○圏点〕であつた。彼等の多数が福音の歓喜を懐いて我家を去つた。|下男下女に対し行為を以つて伝道し得ない者はクリスチヤンの名を冒すべからずであると思ふ〔付△圏点〕。
 
 四月二十五日(木)晴 漸くサツト本当の信頼すべき春が来た。長い厭な冬であつた。極地探険の主なる目的は此気候変化の原因を探るに在ると云ふ。生命を捐つる価値のある事業である。我国の新聞紙を見て大抵は厭な事のみを聞かさるゝが外国新聞は然らず、サハラ沙漠横断鉄道の計画、ナイル、ナイジャー両大河沿岸の灌漑事業の成功、極地の経済的利用の計画並に部分的成功、何れも気持の好い話である。日本にも読者に大々的希望を与ふる新聞紙が出て欲しい。然し多分今の日本人より之を望むは無理であらう。先づ福音、然る後に自然的事業の勃興である。
 
 四月二十六日(金)半晴 暖風到り、気持悪し。倫敦タイムス所報に由れば去月二十八日英国バプテスト教会大説教師 F・B・マイヤー氏永眠せしと云ふ。彼は彼の八十一歳の生涯に於て一万五千回の説教演説を為したり(445)との事である。到底自分などの及ぶ所でない。自分の過去五十一年間の基督信者としての生涯に於て毎週一回教壇に立ちしとすれば凡そ二千七百回である。多分三千五六百回或は四千回は聴衆に対して立つた事であらう。日本人としては好いレコードであると言はざるを得ない。マイヤーはスパージオン、ジヨセフ・パーカー等の友人であつたとの事であつて、彼等と共に反国教派の勇士であつた。斯かる大説教師を有ちし英国に福音の栄ふるは故無きに非ずである。
 
 四月二十七日(土)晴 初夏新緑の麗はしき日であつた。斯んな日は一年に一日か二日より以上はないのである。詩人ローエルの言ふ
  What is more beautiful than a day in May
と云ふのである。左近氏の勧告に由り無肉菜食の食用療法を始めた。其れが故にか尿の排出量が急に増加した、多分好結果を見るであらう。西洋は其宗教のみならず食物までが間違つてゐる事が段々に明白に成つて来るであらう。西洋人に傚ひ肉食を採用せし事が日本人の身体を如何程痛めし乎測り知るべからずである。
 
 四月二十八日(日)晴 引続き講演を休んだ。高壇は塚本、藤本、斉藤の三君が引受けて呉れて甚だ盛んであつた。出席者も平常に異ならず、万事都合好く運んだ。多分自分が居なくなつても此通りに進行するのであらう。何も心配に及ばない、有難い事である。常には反対を表せらるゝ教会の人までが今度の自分の病気に対し同情して呉れると聞いて心より嬉しかつた。「凡ての事働きて益を為す」である。数年の間庭に植附けし藤が今年初めて花を持ち、九房咲いた。一首が浮んだ。
   我家の紋所《もんどころ》なる藤の花
(446)     咲いて我身の幸を知らする。
 
四月二十九日(月)半晴 晩春の天長節であつた。若き陛下の為に天よりの祝福を祈つた。病が判明して以来多くの思はざる人々より見舞を受けて心より嬉しかつた。斯かる場合に真の友人が現はるゝのであつて、それ丈けでも感謝である。聖意ならば是等の友人の祈祷が聴かれて猶ほ当分此世に存らへて働き得るであらう。「生くるはキリスト」である。古き罪の赦しの福音を宣伝ふるまでゞある。
 
 四月三十日(火)晴 庭はツツジの満開である、其内を独りで漫歩するは限りなき快楽である。病気であればこそである、義務の束縛より一時解放されたやうなものである。倫敦タイムスと紐育リテラリー・ダイジエストとが善き軽き読物を提供して呉れる。厭な兆候が二三ある外に差したる苦痛はない。それ丈けは感謝である。
 
 五月一日(水)小雨 今日も亦好き休息を得んとして努力した。幾分成功して嬉しかつた。今や自分の健康快復の為に全力を注いでゐる。自分が治れば直に他人の病気の為に心配せねばならぬ。此世は病の世である。貧者と同じく病者も亦汝等と共に常に在るなりである。自分が病む乎、他人の為に病む乎、二者孰れをか取らねばならぬ。厭な世である、然かも別に死にたくもないとは不思議である。
 
 五月二日(木)晴 天皇陛下へガーター勲章贈進のため英国グロスター公殿下の入京あり市中は大分に賑つた由である。自分の関係する英国は主として信仰と思想の英国であるが故に、外交的日英交驩には余りに趣味を覚えない。然し英国と親んで其最善の思想に触れざるを得ないから、日英親善は其点から見ても喜ぶべき事である(447)と思ふ。ミルトン、カーライルの国を迎ふると思へば自分の心も躍らざるを得ない。
 
 五月三日(金)雨 休養の床に就きながら活ける主キリストの今在し給ふ事に気附き、大なる慰安又奨励であつた。彼れ在まし給へば我が病何かあらんである。如何なる名医の名薬も彼の癒しの能力に及ばない。亦我が存在の理由も此能力を信じ之を人に伝ふるにあれば、彼れ若し猶ほ我が奉仕を要し給ふならば我が全癒は確実である。|幾回か忘れ幾回か思出すはキリスト現存の事実である〔付○圏点〕。復活して今猶ほ信者と偕に在し給ふ彼を判然と認むる時に我は新らしき人と成るを覚ゆ。
 
 五月四日(土)雨 寒い湿つぽい日であつた。好き休養を得た。浮腫の全身より減じ行くのを見るのが何よりの楽しみである。所謂健康のブレークダウン(破損)である。我が生涯に於て今日までに既に六七回あつた事である。然るに神の御恵みに由り何れも無事に切抜ける事が出来た。多分今度も亦切抜ける事が出来るであらう。別に此上長寿を望むにあらざれども、世の悩む者の為に此上とも神の恩恵の福音を説きたくある。
 
 五月五日(日)晴 寒い日であつた。引続き休講し、高壇は塚本を主任とし、其他の同志に委ねた。来会者午前は百六十二人、午後は百六十五人あつて、平常と少しも異ならず、自分の休講は会の動静に少しも変化なきを見て喜んだ。「内村でなくてはならぬ」と云ふやうな人には来て貰ひたくない、内村の説いた福音ならば誰が説いても聞きたいと云ふ人に限り来て貰ひたい。そして斯かる福音を説く人の既に多数出来たのと、之を聞かんと欲する者の許多あるを知りて感謝に堪へない。