内村鑑三全集34日記三、岩波書店、580頁、4700円、1983.9.22
日記三
目次
凡例
一九二六年(大正一五・昭和元年)……………………………………………三
一九二七年(昭和二年)…………………………………………………………一三七
一九二八年(昭和三年)…………………………………………………………二六九
一九二九年(昭和四年)…………………………………………………………四〇三
一九三〇年(昭和五年)…………………………………………………………五三七
日記三 【一九二六年(大正一五年)一月より 一九三〇年(昭和五年)三月まで】
(3) 一九二六年(大正一五年・昭和元年) 六六歳
一月一日(金)晴 小さき新人の我家に臨みしが故に至つて賑かなる新年である。一同祈祷を以つて食饌に就いた。大いに為さんと欲するの聖欲を以て第六十六回の新年を迎へ得し事を感謝する。ゼカリヤ書第九章を以て今年の読書を始めた。
シオンの女よ大に喜ぺ、
ヱルサレムの女よ呼はれ、
彼は義しくして救拯《すくひ》を施し、
柔和にして驢馬に乗る。
我れヱフライムより戎車《いくさぐるま》を絶ち、
ヱルサレムより軍馬を絶たん。
彼れ万国の民に平和を宣せん。
其政治は海より海に及び、
河より地の極《はて》に及ぶべし。
再臨のキリストを歌へる歌にして新年を迎ふる為の適当の言葉である 〇夜七時二十分、千葉県海保竹松君と共に岡山県津山に向ひ東京駅を発した。四年振りの関西旅行である。
(4) 一月二日(土)晴 朝九時半神戸に着いた。一ノ谷の神田君夫妻の出迎を受けた。少憩の後、下関行列車に乗替へ、一時岡山着、此所にも亦友人の出迎を受けた。中国鉄道に乗替へ、午後四時過ぎ十五年振りにて三たび津山の地を践んだ。土地の旧友森本慶三君の客となつた。
一月三日(日)雪 地は高く、山陰道に隣し、風雪時々襲来し、寒気強し。午後二時、森本君の建設にかゝる津山基督教図書館の開館式が行はれた。参会者二百人余り、かの地には珍らしき盛会であつた。自分も一場の演説を試みた。此は基督教図書館なりと雖も、基督教なるが故に全般的である。基礎的知識の供給を目的とするが、若し指導宜しきを得ば、其発展の無限なることを述べた。地方には稀れに見る宏壮なる建築物である。森本君の之が為に資を投ずること十二万円余、我が同志の一人が茲に此の信仰の果を結ぶに至りしを目撃して感謝に堪えなかつた。態々遠路来り会するの充分の価値があつた。海保君は関東教友を代表して同行したのである。
一月四日(月)晴 朝八時津山を発し、途中誕生寺駅に下車し、法然上人誕生の地を訪問し、我国福音的宗教の開祖なる僧源空に対し尊敬を表した。住職漆間徳定氏の優遇を受けて有難かつた。十二時岡山着、午後は公園並に旧城を遊覧し、夜は同志と信仰を語り、土屋修治君の客と成りて安き一夜を過した。
一月五日(火)小雨 朝九時半岡山発、一時明石着、再び神田君に迎へられ、一ノ谷の君のホームに客と成つた。昔の戦場は今は静かなる休養所である。此所に一日の完全なる休息を与へられて感謝であつた。
(5) 一月六日(水)晴 朝八時一ノ谷を辞し、十一時京都に到り、旧友中村弥左衛門君の墓を見舞うた。又薬王寺山に登り、新島襄氏並に我家の主婦の兄なる岡田寛の墓碑に対し尊敬を表した。
一月七日(木)晴 朝九時東京駅に着いた。家に帰れば赤ん坊は沢山の笑みを以て迎へて呉れた。数百通の年賀郵便が待つてゐた。内に茨城県稲敷郡高田村根本益次郎君の年賀が最も有難かつた。曰く「当村最貧窮者七名に先生の名を以てメリヤスのシヤツ一枚宛施捨致し候間不悪御了承被下度候」と。疲労一時に発し、床に就いて休んだ。
一月八日(金)晴 終日疲労の駆逐に努力した。久振りにて聖書を静読した。耶利米亜記第廿九章に霊魂安息の糧を得た。数年振りにて関西を訪れて感じた事は、第一に文明の関東よりも遥に進んで居る事である。第二に信者の信仰の全体に冷えて居る事である。純信仰は滅多に見当らず、信者は相互の欠点を指摘し、人格の向上品性の完全を以て信仰唯一の標準と見てゐるらしくある。曰く「彼の人格に怪しむべき点あり、担がれざるやう注意せられよ」と。曰く「彼女の行為に擯斥すべき点多し、交際を避けられよ」と。孰れも旧来の外国宣教師流の基督教であつて、是れでは信仰の復興は甚だ覚束ないと見て取つた。自分は会ふ人毎に、自他の腹の中を探る事を廃めて、十字架上のキリストを仰瞻て彼に潔めていたゞく事を勧めた。我が教へ子の一人よりの年賀の辞に左の一首があつた。
足らざるは十字架故に赦しあひ
愛に溢るゝ柏木の子ら。
凡ての信者が此く在りて欲しい。生命に溢るゝ時に他を非難するの暇がない。
(6) 一月九日(土)晴 雑誌一月号を発送した。久振りにて筆も執れ、読書も出来た。恐ろしいのは伝道旅行である。一回の旅行に少くとも一週間は潰れる。一地方が得んが為には自分と全国とが失ふのである。今年は一月早々十日間が潰れた。止むを得ないとは云ふものゝ考ふれば悲しくなる。まだ跡始末に数日かゝる。此日女高師生徒の第二回感話会を開いた。第一回に数等優さる会合であつた。
一月十日(日)晴 本年第一回の会合を開いた。朝は満員、午後は七分の会衆であつた。朝は馬太伝廿六章四七-五六節、約翰伝十八章一-一一節に依り「イエスの逮捕」に就て述べた。暗らきユダと光るイエスを対照して語つた。午後は英訳聖書の元祖ウイリヤム・チンデールの生涯に就て語つた。自分の講堂に於て述ぶるの如何に易きかを覚えた。他の教会と比べて見て我が会衆の如何に克く訓練されてゐる乎を実感せざるを得ない。此日又在独逸若き内村より愉快なる通信あり、国の内外に信仰の友の多きを知り、此世界に於ける我が肩幅の広きを感じた。
一月十一日(月)晴 外国へ手紙を書いた。又久振りにて英文の論文を書いた。まだ英文を書くことを忘れないことが判明つて嬉しかつた。近頃に至り自分を了解して呉れる者の、日本人よりも外国人に多きを知り、自分の為を計るならば日本文を書くことを廃めて英文を書くことの優されるに気附いた。然し自分の為でないから仕方がない。嫌はれ誤解され賤しめらるゝと知り乍ら下手な日本文を書くのである。
一月十二日(火)曇 ルツ子デーである。独りで墓地へ行き、花を供へ、彼女の墓石に手を按いて彼女の霊魂(7)の安全の為に祈つた。熊本に於てはリツデル嬢が彼女を記念して癩病患者に一日の糧を供へて呉れる筈である。彼女逝いて此に十四年、自分は健全にして主の名に由りて大事業を計画する事が出来て感謝である。生者は死者の分をも尽さねばならぬ。自分はまだまだ沢山に働かねばならぬ事を自覚する。夜、札幌宮部君の見舞を受けた。久振りの面会である。半年会はなければ話が積んで山をなす。明治八年来の人生の同伴者である。さうあるのが当然である。
一月十三日(水)晴 暖かい日であつた。夜、講堂に於て我等の一人なる理学博士大島正満氏の双生児に関する研究の講話があつた。問題は教育宗教の根本に関はるものであつて、大に我等の思想を刺戟した。生物学の結論が信仰の根本に衝突するは止むを得ない。其間に在りて信仰を守るのが信仰の信仰たる所以である。然し之を守るに方つて唯信仰にのみ拠つてならない。学問の奥に入つて学問を以て学問を信仰化せねばならぬ。そこに信仰生活の興味がある。
一月十四日(木)曇 赤ん坊が二三日留守になり家が急に淋しくなつた。其代りに大分にペンが動いた。相変らず百科辞典の通読が不用時間の最も善き使用法である。
一月十五日(金)晴 平静の一日であつた。近頃或る所に於て或る牧師より自分の或る知人の品行に就き容易ならざる悪評を聞きしが故に、驚いて或る友人に依頼して其真偽を調べて貰ひし所、全く事実に反せしことが判明つて安心した。基督教会の牧師は全体に思ひ切つたる悪評を立てる者である。多分人の善悪に就て牧師の批評程当にならぬ者はあるまい。そして此は惟り自分一人の経験ではないと思ふ。此点に就き牧師諸君は充分に注意(8)して貰ひたい。
一月十六日(土)曇 ヱレミヤ研究に於て偉人の死に就て考へた。ヱレミヤに限らず、イザヤ、エゼキエル、パウロ、ペテロ、ヨハネの死に就ても聖書は何の録す所がない。彼等が如何にして死せし乎は聖書記者の関せざる所であるやうに見える。而してさうするのが当然である。神の御用を終へた後に彼の僕は唯静かに消えて了へば可いのである。「ヱホバはその愛しみ給ふ者に寝《ねぶり》を与へ給ふ」とある(詩百廿七篇二節)。人の注意を引くやうな葬式や墓碑は全然無用である。神の人は凡てモーセの如くに死たいものである(申命記三十四章) 〇独過より又復嘉き通信があつた。シユワイツエル、スピールマイエルと云ふが如き大家が我が同情者であるを知つて非常に嬉しかつた。我が一子が我に代つてルーテルの国に駐在するやうなものである。父子の名誉此上なしである。
一月十七日(日)曇 午後晴。集会朝夕共に変りなし。朝はエペソ書一章一-十四節に依り「キリストに在りて」の中心的真理に就て講じた。午後は百五十余名の青年男女に向ひ、ヱレミヤ記第四章に由り「適中せざりし預言に就て語つた。相変らず静粛なる、而かも充実せる集会であつた。之をも亦聖霊に充たされたる集会であると称して可からうと思ふ。我等は教会を組織せざれども教会に劣らざる敬虔と熱心とは有ると思ふ。説教は厳格なる福音主義のそれであつて、其点に於ては無教会の我等は遥かに教会以上であると信ずる。
一月十八日(月)晴 沢山に赤ん坊と遊んだ。最も善き休養である。我が意が彼女に通ずるらしく、最も愉快である。彼女に併せて世の凡ての赤ん坊に就て思ふ。殊に保護者なき赤ん坊に就て思ふ。彼等の幸福を計るは神が最も喜び給ふ所であるに相違ない。イエスが「是等のいと小さき者に為せるは我に為せる也」と云ひ給ひしは(9)意味深長である。自分も以来一層世の凡ての赤ん坊の為に尽さねばならぬ事を最も切実に感ずる。
一月十九日(火)雨 朝はヱレミヤ記に依りてエヂプトを研究し、午後は或る教友より朝鮮に於ける山林事業に就て聞き非常に面白かつた。其他一人の兄弟と、亦他に一人の若き姉妹とが信仰を起せし経歴を聞き強き感に打たれた。神は一人の信者を此世より取り給ふ時に、必ず之に代りて他に新たに信者を起し給ふやうに見える。信仰の系統は絶えないやうに見える。神は「自己を証し給はざりし事なし」である(行伝十四章十七節)。一人斃るれば他が起ちて之に代る。斯くて信仰の灯は地上に於て永久に絶えないと思へば大なる安心且感謝である。
一月二十日(水)晴 愈々三月より英文雅誌を出す事に決心した。世界に向つて我が信仰を唱へんと欲する。唯一回で廃めになつても悔いない。此事につき同胞の日本人には既に尽す丈け尽した。今よりは外国人に尽さんと欲する。「我はギリシヤ人及び異邦人にも負へる所あり」である(ロマ書一章十四節)。キリストの十字架の福音が今や所謂基督教国に絶えんとするに方て、自分は唯安閑として傍観することは出来ない。茲に全力を注ぎ我が生涯の最後の努力として、予ねて学び置きし英文を以つて日本に在りて全世界に向つて簡短にして深遠なる神の子の福音を伝へんと欲する。神よ、弱き我を助けて我をして此大業を果たさせ給へ。
一月二十一日(木)晴 寒気強し。仕事が余りに多いので又復信頼の生涯に移つた。行為ではない信仰である。神をして自分に在りて働いて戴くのである。然らば山をも移すことが出来る。セカセカ働くを以つて能事とするアメリカ教に落附いてはならない 〇青森県の或る曹洞宗の若き僧侶の質問的訪問を受けた。彼の誠実 解を愛せざるを得なかつた。仏教界にも時には敬愛すべき人物がある。日本の宗教界は多望である。斯かる人達が(10)福音の真理を握るに至らば世界は日本人の教化を受くるに至るであらう。彼と自分は一面して善き友人であることを感じた。
一月二十二日(金)晴 寒気引続き強し。今の日本に於て自己の事業は是れ国家の事業である。自己に尽すは是れ国家に尽すの途であると信じて自己の事業に賛成を迫る人が随分と多い。実に厄介な人達である。彼等は自己あるを知つて他人あるを知らず、国も神も凡てが自己を拡張した者であると思ふ。故に彼等に遠慮と云ふものがない。彼等は大胆不敵、自己の主張要求を以て他人に迫る。彼等は近代人の好模範である。此かる人が婦人の間に屡々見当るに至つては実に不愉快千万である。如何に見ても世は末の世である。キリストの再臨が待たるる。
一月二十三日(土)晴 新聞紙に左の記事を見た。
米国上院議員ハイラム・ジヨンソン氏は米国の国際司法裁判所参加反対者に加はつた。右は戦時中流布されたドイツが死体を煮て人油を採つたと云ふ宣伝が英国カーテリス将軍の告白によつて真赤な偽となつた様に、戦時の宣伝が無価値であること。その他ベルギーに於けるドイツの暴行に就て虚説が一般に流布されたやうなことに氏が愛想をつかしてゐるからである(ナウエン廿一日発帝通)。
戦時中の英米人の虚偽宣伝は明白なる事であつて今に至つて之を憤るは抑々遅くある。然るに我国に於ても基督教会の先導者までが是等の明白なる虚偽を信じ、凡ての事に於てドイツを貶し、デモクラシーの英米を謳歌したのは今に至つて見て見苦しき次第である。英米も亦他の所謂基督教国と同じく国としては他国を教ゆるの資格を失つた者である。自己の反対者に就て虚偽を宜伝し、之を斃すの技術に至つては、世界中多分英米人に勝さる者はあるまい。そして日本の基督信者までが此望ましからざる技術を英米人より学びしに至つては憂へても尚ほ余(11)りがある。|虚偽宣伝に最も巧みなる基督教国民〔付△圏点〕……嗚呼神よ、爾は何時まで此かる事を許し給ふ耶!
一月二十四日(日)晴 朝は馬太伝廿六章五七-六八節等に依り「祭司の前に立てるキリスト」に就いて話した。題目が偉大なるに対して我が精神状態が之に添はざりしが故に甚だ不満足なる講演であつた。午後は青年百人余の集会であつて、馬太伝十三章三八節「畑はこの世界なり」に就いて語つた。基督教は世界的宗教であるが故に、世界的精神を以て之に対するにあらざれば其了解は不可能なる事に就て述べた。鮒やメダカは池に生長するが、鯖や鰹は大洋でなければ生存する事が出来ない。其如くに或る宗教は一国内に其繁栄を遂ぐることが出来るが、基督教は之を世界的に取扱はざれば、其了解感化を望むことは出来ないと述べた。自分に取りても甚だ気持好き講演であつた。まことに世界人に成らざれば基督教は解らず、又基督教に依らざれば本当の世界人を造ることは出来ない。世界を相手にして働かざれば基督信者と成りたる甲斐がない。
一月二十五日(月)晴 近頃切に感ずる事は六十五歳位ゐで老人と思つてはならぬ事である、自分の仕事は今から始まるのであつて、今日までが準備と見るのが本当である。此の点に於て学ぶぺきは大倉喜八郎、浅野総一郎、渋沢栄一等の諸氏である。彼等は此世の人達であるが、老に負けざる点に於て敬服の外はない。金儲けの為に長命する必要は少しもないが、神の御こゝろを世に伝ふる為には百年の生命も決して長くはない。
一月二十六日(火)晴 昨日来大なる興味を以てリビングエージ雑誌に載せられたるジユリアン・ハツクスレーの「最近の進化説」並にチエムバース百科辞典に於けるゲデス教授の寄稿に成る「進化論」の長篇を読んだ。(12)大体に於て進化説が宇宙創成並に存続に関する最も完全なる説明である事を疑ふことは出来ない。故ブライアンが為した如くに、正面より絶対的に進化説に反対するは今日の科学其物に反対するに異らない。然し乍ら進化説は未だ完成した学説でない、其内に多くの不可解の点が残つて居る。而已ならず進化説を採用するもキリストの福音を棄る理由は一もない。殊にゲデス教授の進化の見方の如き、進化論其物を福音化するものであつて、如此くに見たる宇宙は実に聖書以外の聖書であると言はざるを得ない。孰れにしろ聖書はやはり神の言であつて天然は彼の御仕事である。二者は深い深い所に於て全然一致する。其一致を見る能はざるは浅い聖書知識であつて同時に又浅い科学であると言はざるを得ない 〇新聞紙は財政困難より東本願寺の破滅に瀕するを伝ふ。同情に堪えない。然し乍ら僧親鸞の唱へし信仰は大谷家が弊れたればとて消ゆる者でない。否な其反対に、之が為に反つて勃興すべき者である。此世の富や権力に依て立つ宗教は斃れるが当然であり、又宗教其物の為に幸福である。大政府の後援や宝物、寺院、生仏《いきぼとけ》等に依て維持せらるゝ宗教は悉く亡びて了ふがよい。本統の宗教は其後に興る者である。寺院の敗滅は教会のそれと同じく反つて歓迎すべきである。
一月二十七日(水)晴 暖房に苦しんだ。悪い石炭の煙を沢山に吸うた。日本人には矢張り火鉢と行火と火燵とが最も善き煖体法であると思ふ。冬の朝、寒い部屋で第一に聖書を読むは殊に気持好くある。最大の快楽は簡易生活にある 〇沢山に英文を書いた。日本文を書くよりも遥かに楽である。そして少数なりと雖も之に由て友を世界に求むることが出来ると思ふと更らに一層愉快である。
一月二十八日(木)時 給理大臣加藤高明氏の薨去の報に接して驚駭の感に打たれた。日本国の大損失である。今年の政治界ほさぞかし騒々しい事であらう 〇新潟県新潟師範学校長宗像鴨四郎君の訪問を受けて楽しかつた。(13)君は熱心なる基督信者であるのみならず、自分と全然信仰の質《たち》を同うする信者である。斯かる人が選《え》りも選らんで新潟師範学校長と成りしとは実に不思議である。新潟は自分が明治廿一年、米国より帰国早々旧北越学館仮教頭として赴任し、其所に組合教会並に其所属の米国宣教師十一人を相手にして信仰の為に大に戦つた所である。時は京都同志社並に其校長故新島襄君全盛の時代であり、加之前の日本女子大学校長故成瀬仁蔵氏が、其時は信心なる基督信者であり、宣教師の弁護者として立ちし時なれば、自分の苦戦甚だしく、終に敗れて東京に舞戻るべく余儀なくせられた。自分は誤つて居たか知らざれども、誠実一杯を尽した積りであつたが、衆寡敵せず、論争は全然自分の敗北に終つた。然るに星霜茲に四十年、北越学館は取毀されて其跡に建られたのが今の新潟師範学校である。そして其官立学校に在りて過去六年間、今日に至るも尚ほ大胆に基督教の信仰を標榜して六百有余の師範生を指導薫陶しつゝあるのが宗像君である。君は自分の著書並に機関雑誌に依り其信仰生活を送りつゝあるとの事であれば、自分に代つて自分が四十年前に新潟県人に施さんと欲せし教育を今施しつゝあると云ふて差支がない。実に不思議である。全国に百有余の師範学校があるとの事であるが、其内より宗像君が特に択まれて、北越学館の跡に建られし新潟師範学校の校長として奉職せられつゝあるとは実に不思議である。自分が教会並に宣教師の誤解猜疑の内に在りながら独り熱涙を流して祈りし其松原の間に建られし学校に於て自分の同志の一人が熱心に其信仰に基ゐする教育を施しつゝあると聞いては、事が余りに劇的であつて、何んと云ふて此事実を説明してよいか解らない。偶然と云へば偶然である。然し自分は摂理と言ひたい。何も故人や教会を恨らんでゞはない。其時彼等は勝つたのであつて自分は負けたのである。然し四十年後の今日神は自分の反対者と自分との間を裁判《さば》いて下さつたのである。成瀬君は基督敦の信仰を棄て死し、同志社に於ては今は福音主義の信仰は余り盛んでないと聞く。然るに神の恩恵に依り自分は不完全ながらも今尚ほ信仰を続ける事が出来、そして自分の同志の一人が古い戦場に於て自分の信仰を唱へつつあると聞く。人生は実は如此きものであらう。今より百年(14)を経ば神は自分の正しかつた点は之を完全に弁護して下さるであらう。負けても宜しい、唯祈つて待つてさへ居ればよい。実に感慨無量である。死んだ肉の父に知らせてやりたい。涙が零れる。
一月二十九日(金)曇 新聞紙は加藤高明氏の生涯の事実に就て記す所がある。之を読んで自分が氏と同時代の人として感ずる事は、氏は不幸なる誠にお気の毒の人であると云ふ事である。氏が岩崎弥太郎に発見せられてキリストに発見せられざりし事が抑々氏の不幸の初めである。若し氏が自分の如くに政治界や外交界に入らずしてキリストの僕として其福音を以つて日本国に尽したならば、氏自身の為に、又日本国の為に如何に幸福であつたらう。今より一年|経《たゝ》ない内に日本人は全く氏を忘れるであらう。実に太 して短い者は政治家の生涯である。然るに加藤氏の生涯を羨む日本人の多いには驚かざるを得ない。
一月三十日(土)曇 書棚よりエライシヤ・ムルフホードの『神の共和国』を取出し、之を復読して強き感に打たれた。自分が初めて之を読み了つたのは一八九八年一月四日と記してある、即ち今より二十八年前である。此書の成つたのは一八八一年で今より四十五年前である。然れども其価値は今に至るも少しも減じない。聖書知識とシエークスビヤ研究とヘーゲル哲学との上に成りし大神学系統である、今日之を読んで新生命の我が中心に加はるを感ず。五十年前には米国にも此んな偉い人があつた。今日の米国人の書いたものには眼を触れない自分の如きも此著者の如き大米国人の前には膝を屈して其の教を仰がざるを得ない 〇柏木女子青年会の会合を開いた。来会者三十名。今後女子青年の為に大に尽すことに定めた。
一月三十一日(日)曇 朝はイザヤ書四二章一六節、ヨハネ伝廿一章一八節等に依り、「神に導かれし生涯」に(15)就いて話した。午後はヱレミヤ記第五章を講じた。二度の説教で疲れはするが、然し神の道を述べるのであつて、幸ひこの上なしである。何を止めても此の事だけは止められない。
二月一日(月)晴 東京に行いた。大震災に焼けざりし住友銀行東京支店を見せて貰つた。多分此世の宝を託するに足るの建築物であらう。他に二三の友人を訪問した。偶にはバビロンに行くのも悪くはない。
二月二日(火)晴 九段向山堂の四畳半の裏座敷に於て英文雑誌ジセパン、インテリジエンサーの第一回編輯会議を開いた。会する者は山県五十雄君、山本供平君、自分の三人であつた。三十年の昔に帰つたやうな心持がした。忙しい事である。然し非常に愉快である。家に帰つて夜遅くまで研究誌の校正を為した。
二月三日(水)曇 無為無生産の一日であつた。英文の原稿をタイプに打つて貰つた。ムルフホードの『神の共和国』に目醒ましい思想に接しつゝある。こんな大著述を有する米国の宗教家等が、教会の、伝道のと小問題に齷齪《あくそく》しつゝあると思ふと不思議に堪へない。|基督教は宗教に非ず、神殿を壊つて後に神の子顕はる〔付△圏点〕との思想の如き、遠大にして米国人より出たるものとは思はれない。
二月四日(木)晴 終日原稿書きに従事した。
二月五日(金)晴 山県君主催の下に市内淡路町多賀羅亭に於て英文雑誌『インテリゼンサー』の披露晩餐会が開かれた。来賓二十五名、何れも当代有名の英文記者であつた。内に頭本元貞、武信由太郎の両君の此の道に(16)於ての老練者もあつた。そして両君が自分と同じく旧札幌農学校の出身であるは不思議である。席上山県君と自分とは今回の企計《くわだて》の、第一に世界に向つて日本特有の基督教の信仰を唱へ、第二に同じく日本の最善を細介するにある旨を述べた。今や英語が日本人の第二の国語となりつゝある兆候が此夜の会合にて明かに見えた。
二月六日(土)晴 W・H・ベネツト著『耶利米亜記講解』の再読を了つた。初読は今より二十六年前の一九〇〇年十一月九日角筈に於て了つた。「学んで而して時に之を習ふ亦|説《たのし》からずや」である。新著々々と唱へて新著述にのみ眼を曝すは決して誉めた事でない。旧著述を再読三読して得る所多大である。ベネツトの此講解の内に自分の無教会主義を賛成するやうな節が沢山に見当つた。教会は何故に此事に就て自分のやうな弱者を責めずして、自分と同じ事を言ふ大家を責めないのである乎。何れにしろ三百七十二頁をユツクリと読んで大に我が信仰を強められた 〇赤ん坊が義憤を発し之を宥めるに困難した。赤ん坊なるが故に之をダマさうと欲ふが故に悪くなる。赤ん坊と雖も人である、故に之に対するに誠実を以てせねばならぬ。誠実を以て之に同情して其正当の不平を癒すことが出束て嬉しかつた。
二月七日(日)曇 朝は「ピラトの前のキリスト」に就いて述べた。洪牙利国の大画家ムンカツキーの画筆に成りし同題の大絵画の写しに依り説明を助けた。伊藤一隆君は今より殆んど四十年前に紐育に於て実画を見し其感恕を述べ、大に会衆の感激を起した。午後も亦満員の盛会であつた。「世界伝道の責任」と題して語つた。此日咽喉を痛め、講演は二回とも振はなかつた。残念であるが止むを得ない。
二月八日(月)曇 休み半分に昨日の朝の講演を原稿に書いた。書く方が語るよりも気が落附いて遥かに楽で(17)あり又精確である。筆はたしかに口に優るの器である。書く事をなさずして語つてばかりゐる説教者は最も有効なる伝道法を逸する者である 〇夜、永井直治君並に田島進君の訪問を受けた。永井君は浅草教会の牧師であつて、其の一生を希臘語新約聖書の校訂に費した篤志の研究家である。同君研究の結果の二三を聞かせられて感興措く能はざる所があつた。或は遠からずして日本人のみの手に由て成れる日本訳聖書の発行を見るに至るやも知れぬ。誠に愉快なる事である。
二月九日(火)晴 梅が咲出し春日和であつた。昨秋来預言書の復習を始め、エゼキェル書とヱレミヤ記を終りたれば、今日はイザヤ書を始めた。イザヤはやはり預言者の王である。彼は信仰の上に立つ哲学的大政治家である。近代史に於けるグロチウス又はエ※[ワに濁点]ルトの如き人である。而かも遥かに彼等以上である。イザヤ書を読んで我等は世界に十人とは現はれざりし大偉人に接するのである。青年時代より此大教師に親むを得し自分の幸福を感謝せざるを得ない。墓に入るまでの幸福である 〇自分の如き者に金を周旋して呉れと申込む者がある。地面の売物があるから買はん乎と相談に来る者がある。マツシウ・アーノルドは「人生十分の九は正義である」と曰うたが、今の日本人に取りては|人生百分の九十九は金である〔付△圏点〕やうに見える。聖書の意味を聞きに来る者は殆んどない。然れども金銭的援助を乞ひに来る者は随分と多い。情けない世の中である。
二月十日(水)雨 久振りの膏雨である。其の有難さよ。以賽亜書二-四章を読み大なる感動を受けた。三章五節の如き日本今日の有の儘である。四章二節以下は甚大の慰めである。こんな言葉は他にはない。ダンテ、ゲーテ等を知らずともイザヤを知れば充分である。何故《なぜ》世人はもつと多く以賽亜書を読まないのであらう乎。
(18) 二月十一日(木)曇 紀元節である。市中には建国祭が行はると聞く。自分はイザヤ書第五章を研究した。愛国者とは斯くあらねばならぬ。イザヤに較べて自分の如きは到底愛国者の部類に属する者にあらざる事を強く感じた。|真の愛国者は正義の為に国を憎み得る者であらねばならぬ〔付△圏点〕。「然かはあれどヱホバの怒は止まずして尚ほその手を伸べ給ふ」と言ふ(廿五節)。預言者の愛国心に較べて見て日本人の愛国心の如き児戯と称して差支がない。
二月十二日(金)晴 今より二十六年前、本誌発行の時代に於ては、「研究」 の名は甚だ不人望の名であつたが、今や「研究」は流行の一となつた。今日の新聞紙の広告に現はれた名丈けでも、「人類学研究」あり、「鑑鏡の研究」あり、「教育制度の研究」あり、「星の研究」あり、「小唄研究」がある。他に「鶏の研究」、「株式之研究」と云ふ雑誌のあるを知る。今や「聖書之研究」と云ふは流行を逐ふ賤しい名であるやうに聞こえる。社会とは常に此んな者である。始めに嘲けつて後に自から之に従ふ。故に我等は「社会は大俗人である」と云ふのである。社会は導くべし、傚ふぺからず。社会は何子爵何男爵と云ふが如き大俗物と見て間違のない者である 〇午後塚本と共に浅草教会牧師館に永井直治君を訪問した。新約聖書本文校合並に翻訳に関する同君の努力を示され驚嘆せざるを得なかつた。此かる所に此かる篤学の人あるを知りて我国基督教の将来に関し大なる希望を懐かせられた。行々《いく/\》は日本人の力に由て日本文の聖書を「米国」とか「英国」とか云ふに非ずして日本聖書会社が出版するに至らねばならぬ。そして永井君は既に其必要に応ずるの準備を為せる人であると思ふ。
二月十三日(土)晴 平凡の一日であつた。
(19) 二月十四日(日)半晴 朝夕共に盛会であつた。然し自分の講演は振はなかつた。午後の集会に瑞西国バーゼル市万国伝道協会書記ハンス・アンシユタイン君の出席傍聴ありたれば、之を機会に同君の演説を乞ひ、我等の一人なる河面《かうも》仙四郎君に通訳の任に当つて貰つた。協会の歴史並に目下従事しつゝある所の事業の大略を語つて貰ひ甚だ有益であつた。協会へ寄附の為に献金を募りし所、百二十円余を得たれば、之に共有の伝道金の一部を加へて直に瑞西に送ることにした。演説終へて後に同君に日本風の夕食を供へた。自分の外に河面、塚本の両君卓を共にし、欧洲の事情につき多くの珍らしき事を聞かされ、非常に愉快であつた。小なる我等の事業も亦世界的である事を熟々《つらつら》感ぜしめられた。
二月十五日(月)晴 春の暖かさであつた。全日を友人訪問に費した 〇「愛知県の田舎、一読者より」として左の如きハガキが達した。
乱筆御赦しを乞ふ。只今十字架の道「ゲツセマネの苦祷」を読みました(午後十一時)。涙は仲々止まりません、戸外に出て思ふ存分泣きました。あゝ此身を捧ぐる外になし!! 伝道者たれ!! 此一生涯の強い確信を与へられし事を感謝致します。此五月に加洲の或神学校へ入学のため渡米致しますが、十年程『聖書之研究』を愛読して居りますから何卒御安心下さい。今度の英文雑誌は私の教科書になる事でせう。右感謝まで、涙ながらに!
斯んな感化を及ぼさうと思ふて書いたものではないが、神が之を用ひて此若き兄弟を斯くも強く動かし給ひし事を感謝する。
二月十六日(火)晴 北風強し。静かなる一日であつた。以賓亜書六章の研究に強く我心を刺戟せられた。神(20)の人は此心を以て世に臨まねばならぬことが克く判明つた。それにしても今の愛国者や伝道師を眼中に置いてはならぬ。成るべく人との交際を避けて神と多く交はり、神の声を聞いて之を人に伝へねばならぬ。
二月十七日(水)晴 聖書を研究すると歳が若くなる。此世の事に関係すると年を取る。国家、社会、教会、孰れも面倒なる問題である。一方に善ければ他方に悪い。公平であれば四方より攻撃せらる。殊に議論するのが厭だ。然し悪い事は悪いと云はざるを得ない、茲に於てか止むを得ず議論になるのである。孰れにしろ成るべく静にして置いて貰ひたい。私的に自分を使はんとせずして真理と人顆との為に自分の残る生涯を送り得るやう注意して貰ひたい。
二月十八日(木)曇 以賽亜書第八章を研究した。偉人イザヤに引かされざるを得ない。唯日本訳の余りに微弱にして預言者の大信仰を伝ふるに甚だ不適当なるを遺憾とする。
二月十九日(金)曇 市内九段向山堂内英文雑誌インテリジエンサー社へ校正の為に行いた。牛込停車場に降り、富士見町を通りて九段坂まで往復共に歩行いて今昔の感に堪えなかつた。四十年の昔に還つたやうな気持がした。自分はまだ生きて居るのである乎と思うた。然し神と真理と人類との為である。恐るゝに足りない。「汝の齢に順ひて汝に力を与ふ」と主は言ひ給うた。頗る善い雑誌が出来さうである。
二月二十日(土)半晴 梅日和であつた。講堂に於て相木女子青年会の第一回集会を開いた。来会者五十人余り、東京女子大、女高師、女子英学塾、学習院、仏英和等の諸学校が代表せられて甚だ盛会であつた。塚本は哥林(21)多前書十三章を、自分はブライアント作「水鳥に寄す」の英詩を講じた。女子青年の知識欲の旺盛なるに驚いた。
二月二十一日(日)晴 朝四時半赤ん坊の泣き声に起され、母と祖母とを助けて彼女の不平を癒してやつた。国を救ふも赤ん坊を宥めるも其根本の精神に於ては同一であることが解つた 〇朝は「神の子の苦難」と題し、キリストの十字架の死に就て語つた。語るに最も困難なる題目である。故に説教せずして唯馬太伝と路加伝と約翰伝の記事を読んだ。一同強き感に打たれた。まことに神の子の死の状《さま》である。神々《かう/”\》しとは実に此事を言ふのである。十字架の前に凡ての高ぶりを棄て平伏せざるを得ない。午後は詩篇第百二十七篇第一節に依り「信仰と建築」と題して語つた。信仰なき東京人に復興は困難なる所以を述べた。最も充実せる一日であつた。
二月二十二日(月)曇 疲労の月曜日である。赤ん坊の子守役を務めて疲労を癒した。
二月二十三日(火)雨 ジ∃ージ・アダム・スミスの以賽亜書請解に第二十八章の解釈を読んで今更ながら感に打たれた。|オリバー・コロムウエルが預言者イザヤの最も好き解釈者である〔付○圏点〕との著者の意見に満腔の賛成を表せざるを得なかつた。何んと言ふてもスミスは近代稀れに見る旧約聖書学者である。彼はエ※[ワに濁点]ルトの後を受けて最も深く預言者の心を探つた人であると思ふ。スミスは反オルソドツクスであるなどゝ評する人は彼の心の深き所に宿りしキリストの霊を看出す能はざる者であると思ふ。自分も今日まで彼を了解し得ずして彼を誤解せし者の一人でありしことを茲に告白する。今日再び彼の第二十八章の解釈を読んで之に英文を以て記入して言うた Thanks to George Adam Smith in the name of Thomas Carlyle(トマス・カーライルに代りて茲にジヨージ・アダム・スミスに感謝す)と。結婚問題や其他の此世の問題を持込まれて困らせらるゝ今日此頃、如此き荘大なる(22)思想に接して、暗らき貧弱なる日本に在りながら、明るき天の聖者の国に在る乎の如くに感ずる。
二月二十四日(水)曇 計画を立てゝ働かずばならず、去ればとて計画にして成功する者は滅多にない。事情や境遇(等しく神の命と見てよからう)に余儀なくせられて為す事のみが成功するやうに見える。我等は偵察を放つて神の聖意を探りつゝ進むのである。人生は油断を許さぬ、去らばとて自から運命を作らんとしてはならない。「急がずに、休まずに」である。
二月二十五日(木)晴 英国有名の聖書研究雑誌『エキスポジトル』の廃刊を聞いて驚き且悲んだ。廃刊の理由は「維持困難」に在ると云ふ。然し乍ら英国の如き基督教国に於て斯かる有力なる宗教雑誌が維持困難の故に廃刊するとは、日本に在る我等には到底解し得ない。|其主なる理由は其最後の主筆たりしドクトル・モフハトの福音的信仰の欠乏に於て在るのではあるまい乎〔付△圏点〕。我等は仆れても福音的信仰欠乏の結果として仆れたくない。成功失敗は問題ではないが、信仰冷却は重大問題である。願ふ神の恩恵に由り研究誌が最後まで十字架贖罪の信仰の維持者として其使命を完うせんことを。
二月二十六日(金)晴 今日も亦或る田舎の若き婦人にして信仰を起せし者の結婚問題を持込まれ其の処分に窮した。彼等に対し深き同情なき能はずである。今日の日本に於て基督教の信仰が無いのみならず普通の法律観念さへない。日本人の大多数は未だ人権の重んずぺきをさへ知らない。より高き生涯に入らんとする若き婦人等に対し同情を懐く者は殆んど無い。村長も小学校長も彼等の味方と成つてやらない。実に憐れな社会状態である。(23)自分としては彼等を全能者の聖手に委ねまつるほかに彼等を助くる途を知らない。実に辛らい事である。今日までに幾度もあつた例である。日本に於ける伝道の困難は此辺に在る。
二月二十七日(土)曇 孫女の為にお雛様が飾られた。罪のない美くしい習慣である。唯其内に偶像的分子の在るに困まる。又飲酒の習慣を標榜する器具の在るに苦しむ。到底偶像的飲酒国の習慣である。万事が其の汚染を被らざるを得ない、困つたものである 〇大正十四年我対外収支計算なる者を見るに、支出は六億九百万円で、収入は四億七千七百万円である。而も支出の内に外債利払及償還金の一億五千万が有り、収入の内に外債の一億三千二百万円がある。即ち新たに外債を起して旧外債の利子を払つたのである。まことに憐むべき身代である。若し之が大帝国の身代に非ずして一個人の家計であるとすれば、身代限りは目前に迫つて居るのであつて、心細い次第である。而かも日本人の内に斯かる危険状態に於て在る者が沢山に在る。即ち新たに借金して旧い借金の利子を払つて居る者が沢山に在る。之では国も亡ぶれば家も亡ぶ。然るに滅亡を恐れて謹慎する者はなくして、皆な目前の安楽を漁りて其日々々を送つて居る。此儘で行けば日本国の経済的破滅は確実である。実に恐ろしい事である。然し斯く警告したればとて真面目に耳を傾けて聴く者は一人もない。困つたものである。
二月二十八日(日)晴 午前は二百人、午後は百七八十人の来会者があつた。午前は馬太伝二十七章四十五節以下のエリエリラマサバクタニの聖語に就て述べた。其完全なる註解は詩篇第二十二篇であると信ずるが故に、其篇を朗読し之に略註を加へて説教に代へた。実に意味の深い言葉である。聖書を以て聖書を註解するより他に途がない。午後は耶利米亜記第七章を講じた。若しヱレミヤが今の基督教界を観るならば同一の激烈なる言を発するであらうと曰うた。「ヱホバの殿《みや》なり、ヱホバの殿なり、ヱホバの殿なり」と云うた当時のユダヤ人と、「基(24)督教会なり、基督教会なり、基督教会なり」といふ今日の基督信者とよく似て居る。預言書を真面目に読んで、今日の欧米の教会並びに所謂基督教国を許す事は出来ない。
三月一日(月)曇 久振りにて横浜に行いた。カピテン山桝の案内にて岸壁繋留の外国船数隻を見た。其内に英あり、仏あり、米あり、パナマあり、其何れもが優秀船であつて、我国に之に匹敵すべきものはないと云ふ。多くの事を考へさせられた。物質的に見たる日本の貧弱国たるは否むことは出来ない 〇京都白川に卜居する山口菊次郎君よりの書翰に曰く
代はれば変る世の中、昔時淡水魚中の王として高価なりし鯉は今日百匁三十五銭にて、魚の最下に位する泥鰌の百匁五十銭に及ばず。蓋は高価の鯉にて利せんと各地盛に養魚場に鯉を養ひし生産の過剰ならん。今日大学や専門学校卒業生の剰余と均しく世の需要は中学又は小学卒業者の引張凧なるが如し。人間と云へ魚類と云へ上下顛倒せり。混沌たる思想の善化せざるも故なきにあらずと存候。『大阪毎日』紙上に曰く、今年の大学専門学校卒業生から住友が九十二名採用するに申込一千名、其他之に準ず。而して本年学士と称し得られる者の数四万人に上ると、学校教育が生活の方便にならぬ頂点に達したり云々と有之候。沈思黙考致候。
面白い観察である。「第一に金、第二に金を得る為の学問」との立場より施し来りし日本の教育が茲に至りしは面白い現象である。|金に為つても為らないでも〔付○圏点〕真理を知る為に施されし教育ならば、此悲境に至らずして済んだのである。
三月二日(火)曇 混乱多忙の一日であつた。校正、オルガン直し、他に雑多の用事を持込まれ、随分と頭脳(25)を悩ませた。読書はセイス教授のペンに成りしヒツタイト論一篇を読みしに止まる。自分も時には一個の世話焼き爺《ぢゝい》と化せざるを得ざるを悲しむ。
三月三日(水)曇 桃の節句である。孫女の為に雛を飾つてやり、赤飯を炊いて祝うた。三十年来我家に臨みし初めての春であつた 〇金井清君蕗固より帰り、其実況に就て話して呉れ、非常に面白かつた。労農蕗国は人類の歴史に於ける未曾有の冒険的大試験である。多分遠からずして大失敗として終るであらう。然し一度は行つて見る価値のある試験である。共産党の誠意に対してほ尊敬を払はざるを得ない。金井君の南露旅行談は殊に面白かつた。裏海横断、トルキスタン鉄道旅行等は古代史研究に趣味を有する自分に取つては甚だ羨ましかつた。然し坐して友人の旅行談を聞いて之を我が研究に資する事が出来て感謝である。
カスピヤン アラル オクザス シルダリヤ
砂の都の跡ぞ恋しき。
三月四日(木)半曇 以賽亜三十章を以て此日を始めた。不相変忙しい日であつた。英文雑誌インテリゼンサー第一号が出た。是で二個の雑誌の主筆と成つたのである。老いて益々旺なりと云はん乎、或は無謀なりと云はん乎、自分には判断が附かない。然し乍ら老年に及びて新たに雑誌を発行して家に孫が生れしに等しき喜びであることは事実である。何れにしろ家の内も外も賑かなことである。是で生涯の内に雑誌を発行した事が三度である。第一は明治三十年に『東京独立雑誌』を、第二に同三十三年に『聖書之研究』を、而して第三に今年今日に The Japan Christian Intelligencer を。斯くて自分の生涯に於て主なる仕事は雑誌発行であつたのである。悪い仕事ではない。我が救はるゝは仕事に因るのではないから、之で一生を終りたればとて悲しむに足りない。
(26) 三月五日(金)雪 神戸より楽器技師を招き在米友人の寄附に成る大オルガンを修繕して貰ひし所、今日仕上がつて嬉しかつた。是で先づ楽器に不足が無くなつて感謝である。此日市内インテリゼンサー社に於て小《さゝ》やかなる初号発行祝賀会を開いた。我等の祝賀会は勿論同時に感謝会であつた。「ヱホバ建たまふにあらざれば建つる者の勤労は空し」である。彼に建てゝ頂くのである。我等は道具たるに過ぎない。
三月六日(土)晴 家族に咳を病む者多し、自分も其一人であつて困難した。用事は多くして目が眩むやうである。世は暗黒であつて援助と慰藉を求むる者は無数である。日本人特有の信義は絶えんとし、人々殊に青年は己が利益を求め、得れども喜ばず、得ざれば怒る。彼等に裏切らるゝと知りつゝ為すぺきの善を為さねばならぬ。毎日の新聞紙は悪事と不信行為とを以て充つ。議会は党争止まずして混乱である。|唯赤ん坊と遊ぶ時のみ天国の平和がある〔付○圏点〕。
三月七日(日)雪 泥濘に拘はらず三百人以上の来会者があつた。朝は「キリストの死と埋葬」に就て、午後はテモテ後書三章に依り「世界の現状と基督敦」と題して語つた。余り満足なる説教ではなかつたが少しなりとも純福音を語つたと思ふ。
三月八日(月)晴 孫女の写真を撮る為に母と祖母と自分と三人附添にて市中に行いた。鍛冶橋外森川写真館主人の常に変らざる熱誠を罩めたる撮影を受けて愉快であつた 〇英文雑誌が出て責任が増して困難でもあれば亦愉快でもある。京都ドクトル佐伯よりの左の書簡の如き大に我意を強くする。
(27) 陳ば今回は可驚御奮発を以て英文基督教雑誌御発行の由、日本人でさへ英文でなくては読めぬと云ふ幾百千の人、米国にはありと云ふ今日、又加之地の端《はし》にまで伝道せよと命じ給ひし主イエスの仰せに対しても誠に相当はしき御企にて、近頃気味善き一大現象と感佩の至りに不堪候。小生も購読者の一人となりて又之を汎く英米諸邦に在る友人にも購読勧誘仕るべく候。
願ふ友人の此期待に背かずして潔き正しき雑誌を継続し得んことを。
三月九日(火)晴 昨夜大に感ずる所あり、今朝は四時に起きて英文の原稿を書いた、そして夜に到るまで書き続けた。
三月十日(水)雨 三年振りにて三越に行いた、不相変虚栄の市である。此世の人等が金を欲しがるは無理でない事を知つた。帰つて以賽亜書三十一章を読んで別世界に在るを感じた。
三月十一日(木)晴 雑誌第三百八号を発送した。永久に好きものは矢張り聖書である。之に依て同志を求め、之に依て国を立直す。此は試めされし途であつて、最も確実なる途である。何を廃めても之れ丈けは止めることは出来ない。倍加運動よ社会事業よと云つて騒ぐ者は騒ぐが宜い、自分は聖書一点張りで、|永久を期し〔付ごま圏点〕、国を救ひ世界を動かすであらう。
三月十二日(金) 朝は日本文の原稿書きに従事した。午後はインテリゼンサー社に行いた。以賽亜書三十一章とナイル河の地理を研究した。赤ん坊が留守になり家がヒツソリした。小犬のパロが肺炎に罹り家畜病院に送つ(28)た。神の愛を以て人にも獣にも対さねばならぬ 〇|近頃切に感ずる事は日本に離間者の多い事である〔付△圏点〕。大抵の騒動は離間者の煽動に由て起る。自分の経験に由るも自分に反き去りし者は大抵離間者の術中に陥つた着である。そして|離間者が基督信者殊に教会信者に多い〔付△圏点〕と聞いては更らに驚く、然し如何ともする事が出来ない。斯う云ふ社会又教会である。悪評、讒誣、離間が彼等多数の食物である。彼等は是れなくしては生存し得ないのである。そして離間さるゝは不愉快であるが、然し堪えられなくはない。一人の友又は弟子を奪はるれば、神は之に代りて|より〔付ごま圏点〕善き友又は弟子を下し給ふ。此事を実験して我等は言ふ「サタンよ勝手に離間せよ、汝は我より神が許し給ふ以上の者を奪ふことは出来ない」と。
三月十三日(土)半晴 久々振りにて英国雑誌『第十九世紀』を手にした。是は具翁やハツクスレーが議論を闘はした雑誌である。之を手にして今昔の感に堪えない。其二月号に植物学の大家D・H・スコツト氏が植物学の立場より進化説を主張する論文を読んだ。教会の基督教に反対するのが此雑誌元来の特徴であつて、今も尚ほ之を継続するを見る。第二十世紀の今日生物各種特別進化説を痛撃するを見て、今尚ほ英国に於て此説を頑固に維持する者あるを知る。進化説を主張するに方りて教会在来の信仰を多少なりとも嘲けらねばならぬとは自分等には到底解らない。
三月十四日(日)雨 朝夕共に盛会であつた。朝はキリスト伝の最後として「キリストの復活」に就て講じた。六ケ敷い問題である。然し信仰の立場より見て必要欠くべからざる箇処である。キリストの復活を信じ得ずして基督教が与ふる最大の慰藉は得られない。午後は耶利米亜記第八章を講じた。忙はしい一日であつた。
(29) 三月十五日(月)半晴 昨日の働らきに甚く咽喉を痛め、半日床に就いて休んだ。東京附近の或る読者より左の如きハガキが達して嬉しかつた。
三月号『不用人間』、金言なる哉、至言なる哉、実に斯くも的確に現代の急所を突ける言無之候。毎度三十銭の研究誌にて御教育を受くる事数々、幾百円の書籍代を払ひて何等の価値なき時、僅少の代価の研究誌は実に人類の至宝、自分の生命の糧に有之候。
さうかと思へば合本二十冊余に対し百円以上の代価を同時に払込んで来る読者もある。如何に見ても研究誌は不思議なる雑誌である。
三月十六日(火)晴 寒気再来。和英両文の原稿を大分書いた。自分に取り原稿を作るは借金を返すと同じである。毎月期日が来れば原稿を催促される、其時是れが無ければ耻をかかせられる。それ故に何時原稿取りが来ても恐れないやうに準備して置かねばならぬ。今日の所和文の方は四ケ月分位ゐは準備してある。英文の方はまだ始つた計りであるから貯蓄も至つて尠ない。然し是とても遠からずして二三ケ月分の貯蓄を為し置くの必要がある。サーと云うて狼狽するやうでは駄目である。常々弾薬を豊富に溜めて置かねばならぬ。如此くにして何年も続いて滞りなく雑誌を発行する事が出来るのである。曾て故植村正久君に言うたことがある「僕は未だ曾て原稿日に原稿を揃へなかつた事と、印刷屋の勘定日に勘定を怠つた事はない」と。同君は凡ての事に於て自分を嫌はれたやうであるが、此事丈けでは自分に感心されたやうに見受けた。何れにしろ過去三十年間此習慣を続け来つた。ペンが自分の手から落つるも最早遠いことではあるまい。其時まで之を続けたいものである。
三月十七日(水)晴 以賽亜書二十二章十五-二十節が今日の慰藉であつた。今日の日本人の家庭にして紊乱(30)してゐる者の多きを知つて驚いた。何時の間に此んなに紊れた乎想像に苦しむ。それにしも有島武郎は悪い例を遺したものである。今や許多《あまた》の有島事件が社会の各方面に於て演ぜられつゝある。此分で進み行けば日本の近き将来に深く憂ふぺきものがある。
三月十八日(木)晴 肩が凝りてペンが執れず、咽喉が痛んで話しが出来ず、只呆然として一日を送つた。唯久振りにてゴーデーの書に目を触れ、信仰の光を混乱せる心の中に投入れられ、蘇生の感があつた。旧いとは云へ此先生に本当の信仰があつた。今の神学者等の書いた物を読んで唯頭脳が眩惑せしめらるゝのみである。只少しく学者らしくなる計りであつて、其外に何の得る所がない。人類の最善は第十九世紀を以つて言尽されたのではあるまい乎。第二十世紀に入りて世はハツキリと末世に入つたやうな感がする。
三月十九日(金)曇 英文原稿を携へてインテリゼンサー社へ行いた。一同の元気旺盛である。世界改造の希望漲る。然し元気や希望で事が成るのではない、神の大能に由て成るのである。我等は神の御計画を宜ぶるに過ぎない、而して祈つて共成就を待つのみである 〇昨夜巣鴨に大火あり七百余戸焼けた。不安極まる世である。殊に花の都の東京は然りである。
三月二十日(土)雪 東京としては珍らしき大雪である。柏木女子青年会の例会である。雪と諸学校の卒業準備にて出席者二十四五名に過ず。自分は女学生等と共にブライアントの「森の讃美歌」を読んだ 〇近頃仕事が多い為に神を信ずることが尠いので困まる。少しく油断すると自分も事業宗の米国人に成つて了ふ。事業は実は成つても成らないでも宜しいのである。|神の遣はし給へる其独子を信ずる事〔付○圏点〕、其事が信者の唯一の事業であらね(31)ばならぬ。事業は之を風に委ね自分はキリストの十字架をさへ仰いで居れば可いのである。願ふ今復此の旧き福音に還らんことを。
三月二十一日(日)曇 集会変りなし。此日婦人九人(多くは女学生にして卒業して国に帰る者)男子一人に、彼等の懇請に従ひバプテスマを施し、伊藤一隆、青木庄蔵、長尾半平等の長老諸氏に立会つて貰うた。以弗所書五章三二節「キリストに在りて神汝等を赦し給へる如く汝等も互に赦すべし」との言を条件として簡短なる式を施した。三位の名は用ひなかつた。使徒行伝二章三八節、同十九章五節等に依り単に「主イエスキリストの聖名に由て」バプテスマした。一同強き感に打たれた。斯かるバプテスマは自分も受けたしと云ふ者が他にも在つた。勿論聖公会などには全然認められない式である、然れども我等はイエス様が此席に在し給ふことを疑ひ得なかつた。
三月二十二日(月)曇 東京高等女子師範学校本年度の卒業生にして我が聖書研究会々員なる者の送別懇話会を開いた。総数十四人、例年以上の多数である。同校本年度の本科卒業生は凡てゞ九十一人であつて、其内十四人が研究会員であるとは注意すべき事実である。又理科卒業生二十一人中、何れかの教会に出席して基督教を求めざる者は僅かに六人であると聞く。而かも入学当時教会出席者は僅かに三人であつたが、卒業の今日は六名を除くの外は悉く信者又は求道者に成つたのであると云ふ。文部省直轄の学校にして其数師は一二人を除くの外は悉く不信者又は不信者よりも遥かに悪しき背教者であるにも拘はらず、斯くも多数の卒業生が信仰を懐いて母校を出るとは実に不思議である。文部省も、不信者又は背教者達も、キリストの福音の拡張を妨ぐることは出来ないと見える。
(32) 三月二十三日(火)半晴 桜井ちか子女史の愛孫倉辻明毅君永眠の報に接し、本郷弥生町に遺族を訪問し同情を表した。倉辻君は有望の若き音楽者であつて、大手町時代に幾度も我等を助けて呉れた。老女史は北海道時代よりの信仰の友であつて、彼女に対し深き同情に堪えなかつた 〇新聞紙は引続きいやらしき記事を以て満つ。疑獄、収監、自殺と云ふ類である。世は日に日に暗黒の密度を加へつゝある。此時に際し我等の間には聖き天国の歓びがある。一昨日バプテスマを受けし少女の一人よりの感謝の書面の一節に曰ふ
イエスキリストに合ふ為にバプテスマを受けた私は三月廿一日、之が記憶すべき新生の日であり、又命日でございます。此世の生命欄から黒わくをつけられた日であります。心の中だけで此世を去つたのではありません、誰が見ても此世の人ではなくなるのであります。此日は確かに死亡の日であります。あゝ併し私はこの死の峠をいつ越えたかを知りません。確かに先生の御手が私の頭にかゝつた瞬間に越えたのではないと思ひます。峠を越えた印にうけたバプテスマだつたと思ひます……昨日の朝の集会に罪の赦しの福音を承はりまして「キリストに在りて神汝らを赦し給へる如く汝ら互に赦すぺし」、之が私たちに残された為すべき事であることを知りまして感謝に堪えません云々。
他にも之と同じやうな感謝に充溢れたる書面が達した。自分の耳には其時に歌つた第百三十七番の讃美歌がまだ響いて居る。
つみのこの身は いま死にて
きみのいさほに よみがへり
きよきしもべの かずにいる
そのみしるしの バプテスマ
(33)帝国議会の議員や復興局の役人などは此聖き歓びは少しも知らないのである。
三月二十四日(水)半晴 春寒未だ去らず不愉快である。今日は結婚事件が三箇あつた。結婚は人生の最大事件である、殊に近代人に取り然りである。結婚に対して自分の意見を徴せられて何んとか答へずばならず、さりとてドクトル・ジヨンソンやトマス・カーライルの結婚観を以て答へた所で近代人は到底承知しない。何故に日本の武士道に由り|もつと〔付ごま圏点〕簡短に解決しない乎、自分には少しも解らない。今日の日本人の結婚問題程|くどい、いやらしい〔付ごま圏点〕者はない。
三月二十五日(木)晴 今や猫も杓子も洋行する。聞く虚栄の市《まち》仏国巴里には五千の日本人が滞在すると。我等は此上西洋文明を輸入する必要はない。既に輸入せし物を消化して我等自身の新文明を作るべきである。殊に基督教を研究する為に欧米に行く必要はない。欧米自身が今や東方より新光明の来らんことを待ちつゝある。今日欧米に基督教を求むるは暗黒の裡に光を探ると同然である。論より証拠である、基督教研究の為に洋行して不信者と成つて帰つて来た者は随分多い、慎むべき事である 〇訪問客の多い日であつた。其内で最も楽しかつたのは千葉県鳴浜村の海保竹松君であつた。君の農村改良の意見並に試みは大に自分の同情を惹いた。今や問題は信仰箇条でない、|信仰実行〔付○圏点〕である。信仰はいくら深く理想はいくら高くとも実行を以て試みられざる信仰は執るに足りない。我等は殆んど三十年間鳴浜村に伝道を試みて、今その実行を見るに至りしを感謝せざるを得ない。まことに一村を救ふの途は全国を救ふの途である。
(34) 三月二十六日(金)曇 雪を見た、不順の気候である。例年の通り柏木日曜学校の生徒等が自分の誕生日を祝ふて呉れた。今月二十四日で満六十五歳である。神の恩恵に由り健康で楽しき仕事に毎日を送ることが出来て感謝の至りである。イザヤ、プラトー、カントと云ふやうな大先生に教へられながら、希望の光に充されて老年を送るの楽しさよ。青年時代より壮年時代を終るまで人生の暴風は激しく身に当つたが、老年に入りてより浪は静まつたらしく、至つて平穏の航海を続けつゝある。今日も亦楽しく研究雑誌四月号の編輯を終つた。
三月二十七日(土)晴 寒気強し。基督教会に於ては信者の|奪り合ひ〔付ごま圏点〕が今猶ほ依然として行はる。善き信者が出来れば他の教会に奪らるゝの虞れが甚だ多い。日本武士の為すを恥とする所の事を英米人並に英米流の基督信者は為して少しも咎めないらしくある。自分等には到底解し得ないことである。彼等は之を称して|伝道上の帝国主義〔付△圏点〕と云ふさうであつて、之を実行することを別に悪いと思はないらしくある。然し是れでは教会の衰へるが当然である。若し神が斯かる行為を祝福し給ふならば彼は神に非ずである。何れにしろ気持の悪い事である 〇チエムバース百科字典第七巻が丸善より配達になつた。其内よりマタイ伝、マカ伝、ミルトン、パウロ、パレスチン等の諸項を読んで大に得る所があつた。
三月二十八日(日)晴 集会変りなし。学期の替り目にて多くの旧き顔は消えて多くの新らしき顔を見る。悲しくもあり嬉しくもある。此日は久振りにて講演を休まして貰ひ、真の休日らしく感じた。塚本と畔上とが立派に代理を勤めて呉れた。自分は何時止めても後は大丈夫であることが判明つて感謝であつた。
(35) 三月二十九日(月)晴 甥姪の誕生日を祝し併せて姪の高女卒業を祝する為に家族一同と共に某所に会食した。嗣子は嬰児が代理した。滅多に為さゞる団欒である。甥姪を我家に引取つてより茲に十年、先づ差したる落度なくして保護者の責任を充たし得たことを感謝する。実に重い責任である 〇政治界は大阪松島遊廓事件を以て揉めてゐる。復興局疑獄事件が進行最中なるに茲にまた新たに醜事件が現はれて、日本の社会は頭の巓《いたゞき》より足の蹠《うら》に至るまで健全なる所なきに至つたのである。悔改めざる日本国に引続き審判《さばき》が臨みつゝある。其底止する所は何処なる乎判らない。神の正義の審判が行はれつゝあるのであると思へば感謝である。
三月三十日(火)晴 |此日八人の訪問客があつた。其内八人までが結婚問題を齎らして来た〔付△圏点〕。自分は聖書学徒であつて結婚媒介人に非ずといくら断つても彼等は承知しない。彼等は結婚に余りに熱心であつて、他人の困るを顧るの余裕を持たない。自分は唯事の善悪を判断する事が出来る、其他を知らない。そして自分が纏め得た結婚は未だ曾て一度もない。近着の百科全書にミルトン小伝を読んで彼が大詩人でありしが故に此世の事に就て最も拙劣であつたとの事を知つて大に自己を慰めた。詩人、哲学者、預言者等が此世の事に拙劣なるは当然である。此世の事に巧妙なる宗教家達にはミルトン、プラトー、イザヤ等の心は判明らない。|俗人に馬鹿にされる者でなければ神の高い深い事は判明らない〔付△圏点〕。然るに天の事を語るべき使命を授けられたる者を捕へて地の事を行はしめんとする此世の人等の浅ましさに驚く。然れども彼等は地の事に一生懸命なのである、故に強く彼等を責めない。
三月三十一日(水)晴 勘定日であつた。結婚問題は一もなかつた。主として雑誌校正に従事した。塚本、畔(36)上、石原、自分と四人揃うて甚だ賑かであつた。柏木に信仰は在るが神学的知識が無いと云ふ人ありと聞いて少しく片腹が痛かつた。神学はない乎も知らぬが聖書は少し知つて居ると思ふ。そして又神学の代りに神学以外の事を知つて居ると思ふ。日本に於ける実際伝道に神学の用は至つて尠い。
四月一日(木)晴 春が終に来た。心を寛《ゆるや》かにする必要がある。それには人生の悪事を思はずして善事を思ふ必要がある。赤ん坊は笑つてゐる、桜は咲かんとしてゐる。学者は俗事を度外視して研究に従事してゐる。プラトーやカントの心を以て真理の探求に従事すれば人生は永久の春である。斯く思うて今日も亦比較的に幸福なる一日を送つた。
四月二日(金)晴 古いゴーデー著『聖書の研究』を持出し之を読んで大に能力を加へられた。彼は聖書学者でありしのみならず哲学者であつた。彼の宇宙人生の説明に偉大にして深遠なるものがある。現代に於ては到底見る能はざる本当の神学者である。我等の此『聖書之研究』が瑞西人なる此老先生に負ふ所如何に多かりしよ。ゴーデー先生微りせば此雑誌は斯くも長くは続かざりしと云うて差閊がない 〇今の時代に不平人間の多き事よ。殊に少しく教育ある青年に於て然りである。彼等は其心に於て堪え難き不満を蔵《かく》す。斯かる人達が次の時代を作る乎と思へば実に恐ろしくある。
四月三日(土)雨 田村直臣君の牧する巣鴨教会設立五十年記念感謝会の催しあり、自分も出席して一場の感想を述べた。明治初年の多くの活ける歴史に接して感慨無量であつた。但し過去を顧みるは基督信者の快しとせざる所である。パウロと同じく我も亦「後に在るものを忘れ、前に在るものを望み、神がキリストイエスに由り(37)て上へ召して賜ふ所の褒美を得んと標準《めあて》に向ひて進むなり」である(ピリピ書三章十三、十四節)。過去は如何《どう》あつても可い、善事は凡て未来に於て在る。我等の目前に無限の希望を蔵する無限の未来が置かるゝを思へば、過去を顧るの必要は無くなる。自分は小なる預言者として無限の未来を望みつゝ一生を終らうと思ふ。
四月四日(日)晴 麗はしい復活祭日であつた。但し当研究会に於ては例に由て祭礼は行はなかつた。然し朝も午後も多く復活に就いて語つた。自分は朝は路加伝一章二六-三八節、同二十章三四-三六節、列王下六章一三-一八節等に由り「天使の存在」に就いて話した。話すに甚だ困難なる題目であつた。午後は羅馬書八章一八-二三節に由り「復活の意義」に就いて講じた。此日同じ集会に於て一つの讃美歌を二度歌ふのブマを演じた。後に之を知つて非常に恥かしく感じた。百三十人程の聴衆の一人が自分に一寸注意して呉れゝば避くることの出来る間違であつた。然れども其人の一人も無つた事を知つて非常に情なく感じた。先生が知らずして為す間違を正さんとする勇気を有つ人の一人もない事を知り、是では弟子と云ふ者の全く頼りにならない事が感ぜられて非常に悲しくあつた。然し自分の為した間違である、人を怨む事は出来ない。
四月五日(月)晴 友人某に招かれ伊豆湯河原に行いた。温泉に浸るも愉快であつたが、友人の清話を聞くは更に愉快であつた。我が日本には剛毅の人は全く絶えたと思うたが、茲に其一人を発見して大に我が志を強うした。
四月六日(火)半晴 彼に伴はれて熱海に遊んだ。伊豆半島の春景色は我心を奪はれん計りであつた。海に瀕する山の傾斜面に桜花が松の緑に交りて咲く所は世界に二とは無き景色であつた。午後湯河原の旅宿に帰り、計(38)らずも徳富蘆花君の訪問を受けて非常に嬉しかつた。
四月七日(水)晴 友人に伴はれ馬車を駆りて真鶴港に遊んだ。其附近の貴船神社境内にて相模湾を望みながら弁当を認めた。久し振りのピクニツクである。旅宿に帰り蘆花君に昨日の訪問を返した。君の口より直に往年のトルストイ訪問談を聞き非常に面白かつた。自身翁に会せしが如くに感じた。翁は蘆花君に告げて曰うたとの事である「|日本は何故に今や衰亡に瀕せる西洋文明を採用しつゝあるか、日本は西洋文明に依らず、自から新たに文明を作るぺきである〔付△圏点〕」と。是れ翁が今より二十年前に発せし言であつて、意義深き忠告であつたと言はざるを得ない。蘆花君は日本唯一のトルストイアンである。君ありしが故に日本は此第十九世紀の大預言者に固く結ばれた。我等は此事に就き君に深謝せざるを得ない。
四月八日(木)晴 午後二時柏木に帰つた。多くの郵便物が待つて居た。英文雑誌に対し海の内外より多くの反響が達した。其発行が電報を以て紐育イブニングポスト紙に報ぜられし事を知つた。如此くにして既に世界の注意を惹くに至つて愉快であつた。
四月九日(金)半晴 南風強く塵埃揚る。我が聖書研究会婦人会員中の最年長者吉川義子刀自永眠の報に接し、原宿に彼女の遺骸に対し告別の敬意を表した。彼女は美はしき信仰の持主であつた。大手町以来の熱心なる会員であつて、彼女の老顔を聴衆の内に見るは自分に取り大なる慰藉又奨励であつた。彼女は備後福山の人であつて二十年以上の聖公会所属の信者であつた。然れども数年前に東京に移られてよりは日曜日毎に我が集会に出席せられて大なる満足を感ぜらるゝやうに見受けた。我等は彼女を呼ぶに「吉川のお老母《ばー》さん」の名を以てした。余(39)は一日彼女に問ふて曰うた「お祖母さん、私の説く所と貴女の教会の説く所と其根本に於て違う所はありません、貴女は何故貴女の教会に出席せずして私の集会に来られます乎」と。時に彼女は笑を含んで曰うた「先生少し違ゐます。教会の説く所に生命がありません、貴君は同じ事を説かれますが、其内に生命があります」と。彼女は自分より九歳の年長者であつて今年七十五歳であつたと記憶する。天国の実在を信ずること己が故郷の実在を信ずるが如く、常に歓喜を以て死に就いて語られた。斯かる次第であれば今彼女の遺骸に別を告げたが、少しも死別れたやうな感じは起らなかつた。多分聖国に於て我を迎へて呉れる者の内に、際立て見える者は我が愛する吉川のお老母さんであらう。まことに福ひなる事である。唯然し今日以後我が聴衆の内に彼女の姿を見る能はず、我が講演のオルソドキシーを保証して呉れる者の無くなりしことを悲しむ。聖公会の監督や其他の教職は我を拒否するも、吉川老姉の如き平信徒の我が信仰に裏書して呉れる者のありしを知つて我が志を強くせしこと幾何《いくばく》なりし乎を知らない。世に貴き者とて老熟せし信仰婦人の如きはない。彼女の霊永へに主の国に在りて安かれである。
四月十日(土)曇 久振りにて読書気分になり、イザヤ書三十七章、ヱレミヤ記九章の研究が出来て楽しかつた。我が幸福はすべて我が小なる書斎に於て在る。一歩我家の門を出づれば限りなき危険は我が前に横たはる。教会は人を集めんが為に我を看板として使はんとする。人は皆な我を利用せんとして我を助けんとしない。黙示録廿二章十五節に曰く「犬及び魔術を為す者、凡て※[言+荒]言《いつはり》を好みて虚妄《いつはり》を行ふ者は城の外に在り」と。「城の外」を「家の外」と読んで事実其通りである。油断ならぬ世の中とは日本今日の状態である、殊に油断ならぬは基督教会である 〇四月号成る、例に由り感謝と祈祷を以て発送した。
(40) 四月十一日(日)晴 桜花満開、麗はしい春の聖日であつた。市内は花見客と航空ページエントとに賑はつた。飛行機の東京襲撃が演ぜられつゝあつた。内では朝は「悪魔の存在」に就て、午後は耶利米亜記第九章に就て語つた。悪魔の智慧と力とに当るに聖書の外に武器なしと語つた。まことに神と其聖言に頼りて「患難《なやみ》を受くれども窮せず、詮方《せんかた》尽れども望を失はず、迫害《せめら》るれども棄られず、跌倒《たふさ》るれども亡びず」である(哥林多後四章八、九節)。悪魔は偽はりの兄弟となりて我等の間に入り来り、我等の内を紊し、我が羊を奪ひ去るも、我は神に依りて強しである。斯くして多くの厭な事があるも、希望と感謝とを以て日々を送ることが出来て大感謝である。
四月十二日(月)晴 昨日の講演に対し左の如き反響が達した。
前略、本日の研究会上の御話「悪魔の存在」之程私に恐怖を感じさせたものは今まで只の一度もありません。御話聞き居る内、目の前に悪魔の影が見え、憎らしさの余り拳《こぶし》を幾度か振上げました。幸ひ其悪魔に勝つの武器を最後に頂きましたので、勇気と悦びに満ちて帰りました。
悪魔! 彼は実に恐ろしい奴である。彼は立派の信者の形を取りて聖徒の間に現はれ、彼等をキリスト並に相互より離間し、其団合を破壊して悦ぶ。今年に入りてより我が団体も亦如此くにして善き二三の羊を彼れ悪魔に奪ひ去られた。其事を目撃する我が心の辛らいことよ。而かも羊は奪ひ去らるとは知らないのである。悪魔の驚くべき奸智は其処に在る。
四月十三日(火)晴 肉の父の命日である。例年の通り謹んで之を記念した 〇新たなる興味を以て創世記第一章を研究した。如何に見ても驚くべき記録である。神の言として見るより他に途がない。之に科学的価値なしとの近代人の申分は取るに足りない。之を天文学並に地質学と併せ読んで深遠の意義がある。此事に関する瑞西(41)の学者アガシ、ギヨー、ゴーデー等の教導を感謝せざるを得ない。彼等の名を記述するさへ深い歓喜の種である。
四月十四日(水)晴 北風にて寒し。藤本医学博士再婚し、其結婚式を司つた。新夫人は所謂信者に非ずと雖も貞淑なる日本婦人なるが故に、茲に我等の信仰に循ひ、喜んで此式を挙げた次第である。勿論聖書あり祈祷あり|酒無き〔付△圏点〕結婚式であつた。今日までに我等の同志が所謂不信者を迎へて、其婦人達が熱誠なる信者と成りし実例が|いくつ〔付ごま圏点〕もありたれば、今回の事も亦同一の結果に終る事と信ずる。「善人是れ信者」と見る方が、「教会の人是れ信者」と見るよりも遥に正確である。
四月十五日(木)晴 塚本と共に千葉県山武郡鳴浜村本須賀に往いた。海保竹松君主唱の農村組合倉庫落成祝賀会に出席し一場の演説を為さんがためであつた。来会者四百人以上あつた。自分の演説に対しては屡々「ノー」の声が揚がつて随分と困まらせられた。禁酒を実行すれば毎年何十万円と云ふ金が浮揚ると云へば「ノー」とやられる。自治独立は宗教に基礎を置く所の精神修養に待たねばならぬと云へば「ノー」と来る。「ノー」と云ふ為の「ノー」であつて弁明の為しやうが無きには困つた。後に聞けば此日聴衆の多きは彼等が自分の演説を聴かんが為に来りしに非ずして自分の後に演ぜられし浪花節を聞かんが為であつたとの事で、村落に於ける自分の価値の如何に尠きかを示されて大に覚る所があつた。帰途東金町に信仰の友の一団を訪問し、此は聖き会合であつて、失望は感謝に変じ、桜咲く春の夕暮れの汽車に乗り、夜遅く相木に帰つた。
四月十六日(金)晴 過去十年余り柏木団の一人として親交を続け来りし所の福田襄三君、今回明治学院神学部を卒業したれば、更らに神学研究を続けんが為に今日渡米の途に就かれた。君は今は神学士(B・D)であり、(42)教会公認の教師であれば、其点に於ては遥かに我等以上である。或は我等の一人として独立伝道に従事せらるゝならんと期待せしも、今回教会に入りて其公認教師と成られしことは君の為に計り却て幸福なりし事と信ずる。教会の立場より見たる無教会団体は甚だ不安なる所であれば、福田君の如き教会関係の深き者が我等の仲間を去り教会と行動を共にせらるゝ事は無理からぬ事である。
四月十七日(土)晴 聖書に孤児を顧みよと教へてあるが故に自分も出来得る限り孤児を顧みた積りである。然れども今日まで孰れも不結果に終り痛歎の至りである。孤児は導くに最も困難なるものである。自分と雖も生みの父の代理を為すことは出来ない。然るに孤児よりは生みの父の愛を要求せらるゝのである。そして之に応ずる能はずとて彼等の叛き去る所となる。斯んな辛らい役目はない。時に之を思ふて人生に失望する。
四月十八日(日)曇 朝は満員の集会であつた。パウロ伝研究の第一回として使徒行伝第一章十五節以下を「人の選びと神の択び」と題して講じた。午後は八分の集会であつて、耶利米亜記第九章の後半部を講じた。諸学校の新学年の開始に由りて我が研究会の会員が急に増した。殊に著しき現象は上流社会の青年男女にして其親達は基督教を賎しめ又は棄てし人たるに拘はらず競うて我が教を聴かんとて集り来る者の多き事である。斯くして神は小供に信仰を起して親達の不信に報ひ給ふ。不信の日本に於ても勝利はやはりヱホバの神に帰する。有難い事である。
四月十九日(月)晴 英文雑誌の原稿を作らんとして苦心した。外国より強き反響ありて愉快であつた。我等の国は此世に在らずと雖も広き世界は狭き日本よりも善くある。又在独逸の内村医学士より興味多き書翰と彼地(43)製作の小品を送り来りて尠からず家庭の歓喜を促した。嫌な事は沢山あるが快き事も亦尠くない。
四月二十日(火)晴 南風強く、塵埃揚り、不愉快なる日であつた。単に赤ん坊の健康が案ぜられた。此日また強く神に倚《たよ》るの必要を感じた。自分が努めた所で何も為し得ない、唯全能者に依頼みて、彼をして自分に在りて自分の為すべき事を為して頂くべきである。斯くして自分は老いても能力の不足を感じないのである。自分に省みて自分が担ふ責任は到底負ひ切れない、然し乍ら「汝の齢に循ひ我が恩恵汝に伴ふべし」と誓ひ給びし神に依頼みて我は死に到るまで有効的に働くことが出来る。何時になりても懐くべきは信頼の福音である。
四月二十一日(水)晴 後藤子爵が六十九歳の高齢を以て我が政界の浄化運動を開始されしと聞いて同感に堪えなかつた。其成功は甚だ覚束なしと雖も、氏の意気に対しては き尊敬なき能はずである。政治は国民を改むるにあらざれば革むる能はず、そして国民は其霊魂を救はるゝにあらざれば浄化されず。後藤氏は源を浄めずして流れを浄めんとするのであれば、事の成らざるは殆んど明白である。然し試むるは試みざるに勝さる。氏の為に成功を祈る。
四月二十二日(木)晴 英文四枚を書きし外に何事をも為し得なかつた。只上よりの能力を待望むばかりである。
四月二十三日(金)晴 自分と殆んど同齢の人にして家産を作つて今や死を待つ者があり、爵位を得んとて奔走する者あるを聞いて感慨に堪えない。自分も若し神が御用の為に捕へて下さらなかつたならば同じ運命に終つ(44)たのであらう。全く神の恩恵である。時には貧を歎き、不遇に泣いた事があるが、今となりて見れば是等凡てが彼が自分を世より絶ち、キリストの国に引き寄せ給ふ途であつたのである。実に感謝である。自分が選らんで取つた途ではない、神に余儀なくせられて入つた途である。禍ひなる哉成功者又幸運者と言はざるを得ない。財産も要らない、爵位も要らない、只キリストと共に幾分なりとも十字架を担はせられ、彼の聖名の為に困しむ事が出来て大感謝である。
四月二十四日(土)雨 八重桜満開である。歯痛で悩んだ。柏木女子青年会の婦人連と共に前回に引つゞきブライアントの『森の讃美歌』を読んだ。肉は病み霊は悩むことありとも、為さねばならぬ事は如何にかして為すことが出来て感謝である。義務と思へば辛らくあるが、特権と思へば楽しくある。人生実は神の恩恵に浴する事である。神より能力を賜はりて其御業に従事せしめらるゝ事である。「ヱホバは仁愛、公義、公道を行ひ給ふ者である」と云ふ(耶利米亜記九章二四節)。彼は我等を待たずして是等の事を行ひ給ふ。我等は只彼が行ひ給ふ事に少しく参与さして頂くまでゞある。彼の公義の大流に我が小舟を浮べて之と共に流るゝ事を許して頂くまでゞある。
四月二十五日(日)曇 朝は二百五十人、午後は百五十人余の出席者があつた。午前はピリピ書三章一-十一節に由り「パウロの家柄」と題して語つた。午後はテモテ前書六章十節に由り「金銭を愛するは諸悪の根本なり」と云ふ事に就いて話した。歯痛に悩むに拘はらず平常通りに語ることが出来て感謝であつた。此日九州福岡市に於ては『聖書之研究』読者九州大会が開かれた。之に対し自分よりは「キリストゴジシンタイカイヲツカサドリタマハンコトヲイノル」と打電せしに、「セイカイニテカミノサカエアガリシヲカンシヤス」との返電があ(45)つた。
四月二十六日(月)雨 雷鳴り、雹降り、風暴れ凄い日であつた。歯痛と疲労とにて終日床に就いて休んだ。引続き小間題にて悩まさる。然し乍ら我が心には大問題が横たはる。それは此世の問題に非ず、人に関はる問題に非ず、神と宇宙と実在とに関はる問題である。只斯かる問題に就て語る人なきを悲しむ。今や話題と云へば低いツマラナイ此世の問題である。家計整理とか農村改良とか云ふのが其最良の部分に属するのである。宗教問題と云へば会堂建築、教勢拡張位ゐが其の頂上である。「汝の住居は俗人の中に在り」である。願ふ今日と雖もソクラテス、プラトー、アリストテレス、カント、ヘーゲル、フイヒテ等と共に此世の人等とは全然別の世界に棲息せんことを。
四月二十七日(火)晴 人生最も辛らい事は子を育てゝ其子の叛く所となる事である。之に類して辛らい事は弟子を教へて其去る所となる事である。幸にして第一の不幸には遇はないが、第二の不幸には幾度も会うた。そして幾度《いくたび》会うても辛らさは少しも減じない。子は幾人有つても其一人を失ふは一子を失ふが如くに辛らくあるが如くに、弟子は幾人有つても其一人を失ふは一人弟子を失ふが如くに辛らくある。然し是れ亦人間通有の経験であつて、自分計りが免かるゝことは出来ない。そして又人間の経験は神御自身の御経験である。
ヱホバ語り給ふ、言あり曰く、我れ子を養ひ育しに彼等は我に叛けり。牛はその主を知り驢馬は其主人の厩を知る、然れどイスラエルは識らず、我が民は暁らざるなり
とある(イザヤ書一章二、三節)。そして我等に臨みし辛らき経験に由り、幾分なりとも神の御心を推察し奉る事(46)が出来ると知りて、我が痛みの無益ならぬを知る。そして我自身が彼に叛きまつりし者の一人でありしを知りて、我は我に叛きし者を悉く赦さねばならぬ事を暁る。斯くして神を信じて凡ての辛らい事が感謝に終るは実に感謝すべき事である。
四月二十八日(水)晴 独逸ミユンヘン市有名の出版業者にてヨハネス・ミユラー、アルベルト・シユワイツエル等の著書を出版するA・アルバース君より友情に充ちたる書面が達し非常に嬉しかつた。此んな温かい手紙を近頃受取つた事はない。書面は特に『英和独語集』Alone with God and me を読んで其感想を述べしものであつた。「|此書を読むはバツハの音楽を聞くやうであつた〔付○圏点〕」との事である。自分としては是れ以上の讃辞を受くることは出来ない。さすがは独逸人である。彼等は深く考へる民である。自分は沢山に書を著はしたが、独逸人程自分の真意を解して呉れた者はない。英人は全体に東洋人を見くだし、米国人には霊魂の深い事は全然解らないと称して可なりである。自分は自分の思想を独逸人に解つて貰ふ為に英文に綴つたのであると思へば不思議に堪えない。アルバース君はアルプス山の尭スタルンベルゲル湖の畔の森の中にて余の小著を手にして一日を費したりと云ふ。実に親切なる読方である。斯かる読者を一人得る為に一書を出版する充分の価値がする。余の一子が今や独逸に在りて余の為に多くの友人を作りつゝあるは、彼に取り其父に対し最大の孝養である。人生は悪い事ばかりでない、時には斯んな聖い嬉しい事がある。自分の一生は神に恵まれたる一大ローマンスと見るが適当であると思ふ。
四月二十九日(木)雨 咽喉痛にて昨夜来発熱し今日は床に就いて休んだ。思ひを欧洲アルプス山の北麓に向けて馳せた。床中彼地の友人に送らんが為に一篇の英詩を草した。日本に於て到底世界的の大運動は起らない。(47)日本人はそれが為には余りに狭少である。世界人類を思ふの心はやはり西洋人に有つて日本人に無い。実に歎かはしい事である。然し同志を広く世界に求むることが出来て感謝である。
四月三十日(金)晴 寒風依然として去らず珍らしい天候である。昨日よりはやゝ快し。近頃京城に移りし我が若き同志の一人より左の如き通信があつた。
京城の日曜日の朝の電車は聖書讃美歌を手にした朝鮮の人の多く乗り合せますことは著しい事でございます。然し日本人の教会に行つて見まして讃美歌持たぬ人、甚しきは聖書も讃美歌も持たぬ人があり、聖書も新約丈けの人が非常に多く、又入口に立つて世話してゐらつしやる方が、入つて来る人に「讃美歌あげませうか」と言つてゐらつしやる御親切には聊か呆れた事でした。
若し信仰の事に於ては、今日の所、全体に、日本人の方が米国人よりも善くあるならば、其如く朝鮮人の方が日本人よりも善くあるやうに見える。日本の信者は|なまいき〔付ごま圏点〕で、聖書は知らないくせに知つて居るやうな風をして、教会に行くにも聖書を持つて行かない。我が研究会を訪れる人で聖書を持つて来ない者は大抵は教会信者である。誰が此んな悪い風儀を作つたのであらう乎。教会の牧師達に依つて此悪風を改めて貰ひたい。
五月一日(土)晴 漸くにして温い風が吹いて来て気持が快くなつた。再び元の仕事に就く事が出来て感謝である。今日血圧を計つて貰ひしに一〇八であつて、自分の年齢としては至つて低く、其方面に於ては先づ以つて安心である。
五月二日(日)晴 集会変りなし。自分は咽喉未だ全癒せず、主なる講演は塚本と畔上に為して貰ひ、自分は(48)僅かの感想を述べ、最後の祈祷を捧げしに止めた。今日も亦十人余りの入会者があつた。若し我等の集会が教会であるならば純然たる平民教会であつて、有給的教師又は芸術的音楽者は一人も居ない事を高調した。我等の間に職業的神学士なく、孰れも純然たる平信徒であることは柏木の一大特徴である。斯んな嬉しい事はない。Rev.は日本語でほ「坊主」と訳する。そして坊主の宗教程厭らしきものはない。
五月三日(月)晴 英国炭坑夫総同盟にて強く心を動かされた。是は由々しき世界の大事件である。其結果として労資の世界的大争闘が起らぬとも限らない。一大戦争が終つて更らに又より大なる戦争が起りつゝある。罪の悔改より来らざる平和が長く続きやう筈がない。
五月四日(火)晴 米国帰りの或る読者の訪問を受け、彼地に於て『聖書之研究』が多くの|悪事〔付△圏点〕を為しつつあると聞いて甚だ不愉快であつた。其人はメソヂスト教会所属の信者であるとの事であつた。余輩の不思議に思ふは、何の善事を為さず唯悪事をのみ為しつゝある乎の如くに報ぜらるゝ此雑誌が初号以来|許多《あまた》の読者を彼地に有し、そして今猶少しも減ずるの兆候なく、又斯く報ずる人自身が其読者である事である。若し悪い雑誌であるならば今日直に購読を止めて貰ひたい。殊に|教会関係の人達には余輩より進んで廃読を勧告する〔付△圏点〕。是は教会に関係なき人達を目的に発行する雑誌である。日本人が日本人にアツピールする雑誌である。半日本人の教会の人達に喜ばれないのは勿論である。
五月五日(水)晴 イザヤ書三十四章同三十五章を以つて此日を始めた。偉大なる章である。小樽新聞より北海道並に札幌に関する感想を徴せられ、忌憚なく之を述べて後に至つて不愉快に感じた。然し心に思ふ事は外に(49)之を言表はすが忠実である。之に由て札幌と絶縁しても惜しくはない。唯不思議なるは世に自分と札幌との関係が非常に深い者である乎の如くに思ふ人の多い事である。然しそれは事実でない。過去四十年間札幌は自分の事業に対し何等の同情を表した事はない。唯一二の旧友が友誼的同情を表して呉れたまでゞある。其他の事に於て札幌と自分とは赤の他人である。
五月六日(木)晴 四ケ月程かゝつて漸くG・A・スミス著『イザヤ書講解第一巻』の再精読を了つた。自分の知る範囲に於て最良のイザヤ書註解である。全巻四五二頁中ツマラナイ頁は一頁もない。エ※[ワに濁点]ルドの聖書知識にカーライルの精神を加へた者である。註解書と云へば全体に乾燥のものであるが、此註解書丈けはマコーレーの歴史を読むが如くに面白くある。再読して三読したくなる。人に教ゆる事を止めて自分独り学んで居たならば、さぞかし楽しい事であると思ふ。何れにしろ旧著の復読の方が新著の熟読よりも面白く成りしを見て、自分も老人の階級に入りし事に気附かざるを得ない。
五月七日(金)雨 末世の福音宣教師独逸人A・コツフと云ふ人の訪問を受け、友誼的訪問と思ひ、胸襟を開いて談話する内に普通の宣教師的根性を発揮し、自分に向ひ自家宗義の宣伝を始めたれば直に退出を乞うた。実に呆れたる次第である。人を初めて訪問して未だ交際をも重ねざるに宗義宣伝を始むるとは紳士道の上より見て無礼である。而かも西洋の宣教師は斯かる事を為すを少しも耻としない。|宗義の真偽は問題でない、礼節の問題である〔付△圏点〕。まだ三十歳になつた計りの青年伝道師が、年長者の自分に向ひ、斯かる態度に出るとは日本人としてはとても許す事が出来ない。斯かる宣教師の下に立つ日本の信者諸氏が彼等が日本に在りては斯かる無礼を再び演ぜざるやう忠告せられん事を望む。|何れにしろ宣教師の訪問程厭な者はない〔付△圏点〕。今日は独逸人と云ふので騙された(50)のである。斯んな宣教師が居る以上は日本に基督教の拡まらないのは少しも怪しむに足りない。
五月八日(土)晴 使徒行伝問題に頭を悩ましてゐる。諸家が何れも説を異にしてゐる。自分としては今猶チユービンゲン学派の首領F・C・バウルの解釈を棄てる事が出来ない。何れにしろ行伝を文字通りに受取る事は信仰上の大危険である。聖書学上の大問題である。
五月九日(日)晴 集会変りなし。朝は使徒行伝九章に依り「パウロの改信」に就いて語つた。語るに甚だ六ケ敷い問題であつた。午後は耶利米亜記第十章の前半を講じた。昨日口中の手術を受け終日床に就いて休んだが、今日は平日通り講壇に立つ事が出来て感謝であつた。義務を果すに足るの力は与へらるゝものである。健康を害ふを懼れて義務を怠るべきでない。神は必要なる力を賜ひて義務を遂行し能はしめ給ふ。有難い事である 〇札幌独立基督教会牧師金沢常雄君よりの書簡に曰く
……札幌の俗化も最早救ひ難い程度であります。クラーク先生は泣き給ふでせう……クラーク先生の胸像の除幕式を行ふは恰かも予言者の碑を建るが如きであります。何んとなれば今や大学内に同先生の信仰も精神も忘れられ棄られて居るからであります。云々
自分も同感である。それが故に自分は今回の五十牢記念祭に出席せざる事にした。たゞの「お祭り」である。学者や志士の出席すべき所でない。嗚呼堕落せる哉我が札幌よ。
五月十日(月)晴 雑誌五月号を発送した。久振りにて藤井武君の訪問を受けて嬉しかつた。君の基督教会観察が自分のそれと全然符合するに驚いた。此上は教会と断絶するより他に途がないと語り合うた。宣教師が自分(51)等の発行する英文雑誌を甚《いた》く嫌ふと聞いて至極く尤もであると思うた。然るに是は在朝鮮の宣教帥の一団が之を歓迎すると聞いて之にも亦驚いた。今や彼等を案内して日本内地を視察しつゝある総督府外事課の小田君より笹子発の左の電報が達した。
御寄贈下されしジヤパン・クリスチヤン・インテリゼンサ、朝鮮外人教育家内地視察団員に渡せし所、皆な感心して拝読し、即座に購読申込者五名あり、帰鮮の後申込む者多数あり、御好意を深く感謝す、小田
と。長い電報である。之に由りて凡ての宣教師が我が敵にあらざるを知りて嬉しかつた。
五月十一日(火)曇 パウロの故郷たるキリキヤ並にタルソの地理歴史に就いて読んだ。此地ありて此人あるは当然である。
五月十二日(水)雨 アムンセンは彼の飛行船ノルゲ号にて北極を目ざして進みつゝある。近代の快事とは此事である。英国の総罷業にて世界全体が気を腐らしつゝある際に、此の壮挙に由りて全世界の人気を引立つゝあるアムンセンの功績は絶大なりと謂ふべしである。
五月十三日(木)曇 若きダヌンチオ作『クオヴアデイス』の活動写真を見た。其規模の大なるに驚いた。如此くにして教会や宣教師に依らずして活動写真に由て基督教は広く我国に宣伝せられつゝある。然し劇化せられたる基督教の初代歴史である。そして又伊太利人の作であれば天主教的趣味を帯ぶるは止むを得ない。勿論事実はそれとは大に異つてゐたに相違ない。若し自分が監督したならばもつと事実らしき画を写したであらうと思うた。何れにしろ一度見て置く充分の価値ある活画である。
(52) 五月十四日(金)曇 寒気加はり復び炬燵を作つた。好本督君英国より帰り友人四人と共に君と会食した。英国並に欧洲の近況に就て聞き大に学ぶ所があつた。アムンセン北極横断飛行に成功せりとの新聞記事を読み、人類の為に祝せざるを得なかつた。此は世界の平和的征服であつて、人類の確実の所得である。シーザー、ナポレオン、モルトケ将軍の功績は到底此一探険家のそれに及ばない。アムンセン万歳、彼の外にナンセンを産ぜし小邦那威万歳である。
五月十五日(土)曇 寒気引続き強し。未だ曾て見しことなき不順の気候である。口中治療の為に何事も成らず、毎日無為に暮らして居る。
五月十六日(日)晴 集会変りなし。朝は「異邦伝道の開始」と題し、使徒行伝十三章に由り、パウロの伝道旅行の大略並に其第一節の意義を講じた。午後は哥林多後書二章十七節に由り、常に正直を語るの困難と、正直なり得るの途に就いて語つた。即ち正直であらねばならぬと思ふ丈けでは正直たる事が出来ない。パウロの如くに「誠実《まこと》に由り、神に由り、神の前にキリストに在りて」のみ常に正直たる事が出来ると語つた。講演の結果如何は知らずと雖も、講師に取り講演其物は常に愉快である。聖書研究会が教会化せられずして、常に純然たる研究会として存せん事に努力する。それが教会化せられた時は、それが死んだ時である。信仰団体が栄えんが為には今日の教会と絶交することの必要なるを益々切に感ずる。
五月十七日(月)晴 又複無為の一日であつた。善き説教を為さんと欲すれば神に祈る、然れば善き説教を為(53)すことが出来る。善き論文を書かんと欲すれば神に祈る、然れば善き論文を書くことが出来る。準備々々と称して準備丈けでは善き説教も出来ず、善き論文も書けない。何事も祈りである。善き書籍を求めんと欲して神に祈る。善き品物を購はんと欲して神に祈る。「汝等我を離れて何事も為す能はざるなり」である。そして祈りの特権の我に在るあれば、我は如何なる責任を担ふても恐れない。
五月十八日(火)晴 今日も亦自分では何事も為す能はず、神が自分を以て為さんと欲し給ふ事のみが成るのである事に気付いた。斯んな事は既に能く判明つてゐべき筈であるのに、今日に至つて新たに教へられねばならぬとは自分の鈍きに呆れざるを得ない。「人は凡て生れながらにして天主教徒である」とは西洋の諺であるが、自分が何か為さねばならぬと焦せる点に於ては自分も亦天主教徒であり、米国人であることを否むことは出来ない。願ふ本当のプロテスタントと成りて、自分の計画や努力に一切|倚《たよ》らざるに至らん事を。
五月十九日(水)晴 引続き口中の治療にて悩まさる、然し健康を得る為の苦痛なるが故に我慢する。歯の為には少年の時より困難した。一生涯の悩みであつた。然し自分に取りては其必要があつたのであると信ずる 〇此人はと思ふ人が信者にならず、また信仰を棄てる。此んな人がと思ふ人が信仰に堅く立つて動かない。信仰の事は実に意外である。誰が信者であつて、誰が不信者なる乎は後に成つて見なければ判明らない。但し信仰を説くの必要なる事丈けは確かである。神に依て用ひられて|或人〔付○圏点〕を益せずしては止まない。然し予想と事実とが余りに違ふが故に度々ビツクリする。
五月二十日(木)曇 今日は医師の都合にて口中の治療を休み、一日の慰安を得た。依て朝より夜に至るまで(54)ペンを手にして働き、沢山に英文原稿を書いて楽しかつた。又四月二十五日に九州福岡に於て開かれし九州読者大会の委細の報告が達し、之を読んで涙がこぼるゝ程嬉しかつた。ヤツパリ九州人であると思うた。東北人や北海道人の到底及ぶ所でない。国を思ふの念はヤツパリ九州人の内に最も強くある。維新の際に九州人が日本の天下を取つたには充分の理由がある。日本の精神的革命も亦九州人を以つて始まるのであらう。自分の如き今日まで東北、北海道に嘱目したりし者は今に至つて目が醒めた。東北並に北海道の駄目な事が今に至つて判明つた。今より東北より西南に眼を転ずるであらう。北海道に与へんとせし精力を九州に注ぐであらう、そして残る短き生涯に於て今日までの失敗を償ふであらう。思へば無理も無いことである。九州は日本立国の基である。日本の文化は九州より始つたのである。九州は首頭《あたま》であつて東北は尻尾《しつぽ》である。北海道の如きは尻尾の端である。近頃北海道に大失望せる此際、九州より此の善き報知に接して、新たに世界を発見したように思ふて愉快極まりなしである。
五月二十一日(金)雨 朝日新聞英文附録 Present Day Japan なるものを見て驚いた。実に厖大なる英文雑誌である。我が英文雑誌インテリゼンサーとは克くも異《ちが》つて居る。彼の紹介する日本が真の日本である。商売と快楽の追求の外は何もなき日本である。正義も武士道も有つたものではない、全然米国化されたる日本である。そして惟り朝日新聞のみでない、凡ての日本人が外国人に紹介せんと欲する日本は同様の日本である。実に厭になつて了ふ。此上精神的日本と云ふが如き者を紹介せんと欲する事の如何に馬鹿らしき事よ。
五月二十ニ日(土)雨 或る教会通より東京諸教会衰退の状況を聞いて驚き且悲んだ。有力なる教会にして無牧なる者尠からず、而して之を充たさんと欲して候補者を得る能はずとの事である。外国宣教師は何百人も居(55)るが彼等は何の用をも為さない。求道者は盛んに起るも彼等を迎へて教ゆるの教師が無い。基督教が漸く国民に歓迎せらるゝに至りし頃には之に応ずるの準備が無いとは実に情けなき状態である。如斯くにして教会は消滅して他に精神的に日本を救ふ途が開かるゝのではあるまい乎。
五月二十三日(日)雨 集会変りなし。朝は行伝十三章一-一二節に由り「パウロのクブロ島伝道」に就て語つた。午後は男女青年二百人余りに対し耶利米亜記第十章後半部を講じた。雨天に関はらず聴衆には殆んど変化がなかつた。
五月二十四日(月)雨 口中の治療其他にて障害多きに拘はらず、終に雑誌六月号を書き上げて感謝であつた。如何に見ても自分が作る雑誌ではない、「或る他の者」が自分を使つて作り給ふ雑誌である。もはや満二十六年に近づきつゝある。政府や教会より俸給を受けて為した仕事で無いことを思ふて一層有難くある。官吏や教会者には独立信者の有難味は解らない。月々俸給を貰はなければ不安心のやう人には神の活きて居たまふ事は解るまいと思ふ。生活の安定を保証せらるゝに非れば働くことの出来ないやうな米国流の基督信者には到底自分が経過し来つたやうな人生の快味は解し得られないと信ずる。
五月二十五日(火)曇 左の書面が達した。
拝啓、貴雑誌『聖書の研究』初号よりの読者でありました私の父(丸山玉次郎)は五月号を最後の日の前日まで読み、去る十七日永年の疾病のため永眠いたしました。亡父の意志を継いで私は継続して貴誌に依つて行きたいと存じてゐます。貴誌に由り神の摂理の致す所を感じ、永年の信仰の読物として最後まで手にしてゐ(56)た貴誌に卸し、私が亡父に代り感謝と共に御礼申上ます。長野県豊科町丸山秀樹。
実に感慨無量である。二十六年間の誌友を失つたのである、そして彼の遺子が継いで読者たらんと欲するのである。大感謝である。
五月二十六日(水)半晴 忙がしい事である。雑誌並に出版物の校正は続々とやつて来る。新たに原稿を作らねばならぬ、旧い原稿を訂正せねばならぬ。少女は来つて心の苦痛を訴へる、之をも聞いてやらねばならぬ。其他種々雑多の用事がある。其間を窃んで哲学や聖書研究書類を読む。午睡も貪る。唯知る全能の父が我を助け又護り給ふ事を。今日は特に北海道十勝嶽爆発に関する記事を読み、強く我心を痛めた。天然と見れば天然である。警告と見れば警告である。此天災が有つても無くつても北海道人は悔改めねばならぬ。況して有つたに於てをや。
五月二十七日(木)半晴 十勝嶽爆発に次ぎ秋田県男鹿半島北浦町に於ける貯水池決潰の惨害があつた。又今朝青森地方には強震があつたとの事である。昔しの予言者をして言はしめたならば是れ神の大なる警告である。然し近代人はそんな事を信じない。彼等は天災を恐れても罪を悔改めやうとは為ない。今日は日本海々戦々勝第二十一回紀念日とて東京は其祝賀にて持切つた。
五月二十八日(金)曇 英文雑誌に対し西洋人の読者より続々と同情の書面が達し甚だ愉快である。さすがは西洋人である。彼等は自己を攻撃されても正当なる攻撃は喜んで受け、又攻撃した人を尊敬する。余の宣教師嫌(57)ひなるを承知しながら余を信頼して呉れる宣教師の在るを聞かされて甚だ済まなく思うた。宣教師の内にも正しい、真に日本を思ふ人の在る事は事実である。何れにしろ英文雑誌は善き企計《くわだて》であつた。之に由つて敵と味方とが判明し、今後西洋人の間に尠からず真の友人を得ることが出来て、彼等と共にキリストと日本との為に働くであらう。
五月二十九日(土)雨 我が言ふ事を聞かずして反抗し、後に到つて失敗し、終に我に援助を乞ひし者、今日までに随分多くあつた。そして今猶ほ聴容れずして反抗する者が絶えない。彼等の反抗を目撃する事が大なる苦痛である。然し如何ともする事が出来ない。反抗は近代人の生命である。殊に宗教道徳の教師に反抗する事を英雄的行為なりと彼等は思ふ。斯かる場合に於て我等はパウロに傚ふて「斯くの如き者をサタンに交《わた》す」より他に途がない(コリント前書五章五節)。実に辛らい事である。
五月三十日(日)雨
盛んになりつゝある。大雨に拘はらず午前と午後とにて四百人の来会者があつた。殊に午後の青年組が会毎に盛んになりつゝある。午前は行伝十三章十三-四一節に由り「ピシデヤのアンテオケに於けるパウロの伝道説教」に就いて語つた。午後は「日本最初の新教宣教師」と題し、琉球那覇に八十年前に上陸せし洪牙利人ベルナド・エアン・ベテルハイムの略伝に就いて述べた。|我が札幌同窓の一人志賀重昂君が北の方札幌の五十年祭に行かずして、南の方琉球に往いて此英雄的宣教師の上陸紀念会に臨んで呉れた事を厚く同君に感謝せざるを得ない〔付○圏点〕。クラーク先生は偉らいがベテルハイムは先生よりも遥かに偉らくある。今より八十年前に単独、帆船で琉球に来つて伝道し、琉球語に聖書を訳した此洪牙利生れの猶太人にしてキリストの僕たりし人の功績は実に偉大なるものである。旧い宣教師の内には斯かる人があつた。尊敬せざるを得ない。今は居ない。
(58) 五月三十一日(月)曇 梅雨の空である。月末の支払日である。世に金を要求する者の多きに驚く。今や金銭慾は正当の慾として認められ、何人も此慾を充たさんとして少しも耻ない。今や実際に金を獲る為の人生である。然し此間に在りて「金銭を愛するは諸悪の根なり」との聖書の教に服従して世を渡るは甚だ興味多くある。此事を為し得なければ基督信者でない。希伯来書十三章五、六節が非常に有難くある。
六月-日(火)曇 夏服準備のために何を衣んかと思ひ煩ひ、甚だ不愉快であつた。咋朝発行の『大阪毎日新聞』に、『創基五十年の北海道帝国大学』との題下に左の記事が見えた。
内村鑑三氏は、五十年祭に出て来なかつた。聖霊「行く勿れ」と告げたんだらう。詰襟で化学の教師のやうな、しかして、|らんらん〔付ごま圏点〕と眼を光らせる予言者が列席せず、政治の倫理化を説く後藤子が上客では、この学校も平凡になつた云々
と。まことに聖霊が自分に今度は札幌に行く勿れと命じ給うた。そして行かないで善い事をした。行けば大なる耻をかく所であつた。日本全国の が札幌丈けには精神的偉力が存つてゐると思うた。然るに平々凡々、俗人以下に俗化した事を見て失望した。札幌は其精神を失ふて其存在の理由を失うたのである。然し乍らクラーク先生を遣り給ひし神は存在し給ふ。彼は今後更にクラーク先生、又は先生以上の人を遣りて我が愛する札幌を復興し給ふと信ずる。旧い人達には望みが絶えた。然し神は必ず新らしい人を起して北海道に関する我が半百年の祈祷を聴き給ふと信ずる。「夜は既に央《ふけ》て日近づけり」である。俗化は既に其極に達したれば、義の太陽は遠からずして我が愛する札幌の空にも昇るであらう。
(59) 六月二日(水)半晴 此日末永敏事対中島静江の結婚式を司つた。末永は角筈時代よりの弟子であつて、医学者として米国に十年留学し信仰を守つて今日に至つた者である。中島は過去八年間の忠実なる聴講者であつた。純粋なる信仰的結婚であつて、彼等の幸福と共に我等一同の幸福を祈つた。
六月三日(木)半晴 我等両人、鎌倉扇ケ谷に江原万里と彼の家庭を訪問した。一日の善き休養であつた。
六月四日(金)晴 午後七時二十分東京駅発にて大阪に向ふ。好本督君同車す。久々振りの大阪行きである。
六月五日(土)晴 朝七時廿四分京都駅に下車す。友人の迎ふ所となる。山口菊次郎君の案内にて新設のケーブルカーを利用し、比叡山に登る。何等の足労なくして四明ケ嶽に達す。久々振りにて平安城と琵琶湖とを足下に望む。昔ながらの偉観である。序に延暦寺を訪ふ。伝教大師、弁慶、護良親王、法然、日蓮等の古事を想はせらる。自分には寺院よりも森林が慕はしくある。正午少し過ぎ下山し、下加茂にドクトル佐伯を訪問し昼飯の接待に与る。又同志社に海老名弾正君を訪問した。旧友と談ずるの感あり、時の移るを忘れた。明治十六年同君を上州安中に訪問した時の事を回想した。今より四十三年前である。君は今年七十歳、自分は六十五歳である。信仰の方面を異にすると雖も、全生涯を日本国とキリストとの為に費した事は同一である。今や旧友或ひは逝き、或ひは引退するに際し、猶ほ健康を恵まれ、青年時代の志望を懐いて変らざるを相互に祝した。三時半京都駅を発し、四時半大阪着、直に中之島公会堂に開かれたる故今井樟太郎永眠二十年記念会に出席した。故人の旧知関係者にして招かれし者八十余名、自分はチーフスピーカーの任に当り、故人の事業精神並に志望に就いて述べた。一同晩餐の饗応に与る。会終りて後兵庫県蘆屋に行き、今井家の客と成つた。多事の一日であつた。
(60) 六月六日(日)晴 午後三時大阪天満教会に於て故今井樟太郎の為に記念講演を為した。「回顧五十年」と題して語つた。他人が自分の聖書研究に同情せざりし時に、独り後援者と成つて呉れし故人の友誼を回想した。来会者三百人以上あり、気持好き集会であつた。閉会後、「聖書之研究」読者有志の晩餐会を堂島ビルヂングに催うした。出席者二十人、各自感想を述べ、是れ又有益なる会合であつた。此夜ス蘆屋今井家の客と成つた。
六月七日(月)晴 今井家主人に案内せられ、甲山の麓甲陽公園に遊んだ。阪神人の娯楽機関の完備せるに驚いた。彼等が金を欲しがるのは無理でないと思うた。夜七時半より蘆屋教会に於て演説会を開いた。牧師長谷川敞君司会の下に「伝道成功の秘訣」と題して語つた。来会者三百人、昨日以上の気持好き会合であつた。会後又復読者会を開きしに、四十人余の出席者あり、感想祈祷尽きず、別れを惜んで散会した。
六月八日(火)晴 朝八時蘆屋を発し、大阪にて特別急行に乗換へ、名古屋常治君と同車し、東海道の初夏の風景を眺めながら、夜八時半東京駅に着いた。九時過ぎ家に帰り、先づ第一に孫女の安否を問うた。今日初めて寝返が出来たと聞いて嬉しかつた。友は天下到る所に在る。京都も大阪も神戸も皆な我が交友の領分である。日本全国が我がホームである。神が賜ひし大なる特権である。
六月九日(水)晴 旅の疲れにて何事をも為し得ず、只鬱々の内に一日を送つた。他人を益せんと欲すれば自分が損せざるを得ない。外出演説は後《あと》の結果が恐ろしくある。
(61) 六月十日(木)晴 雑誌第三百十一号を発送した。三百号以来既に第十一号に達した。何時になつたならば終るものにや。記者も倦まず読者も倦まない。福音であるからである 〇旅の疲れ少しく癒え、今日はまた読書が始まつた。旅行中は伝道師気分で、家に帰つて故の学者気分に成る。自分に取りては学者に成つた時が幸福の時である。
六月十一日(金)晴 室内八十六度の暑さであつた。今度大阪へ往いて見て、日本の首都が震災の結果として東京より大阪に移つた事が解つた。東京は今は単に思想(理窟)の都であつて、実行に於ては到底大阪に及ばない。大阪に於て信仰は盛んであるとは言ひ兼ねるが、然し十万円の会堂を建んと欲して、相談は直に纏まり、寄附金は直に集まる。東京に於ては三万円の会堂を建つる事は随分困難である。而已ならず、議論百出して相談は容易に纏らない。そして実行の大阪に於て、議論の東京に於てよりも信仰は確実であるやうに見受た。随つて思想の悪化も大阪の方が東京程甚しくない。何れにしても日本国の為に賀すべきである。関東や東北や北海道が悪化しても、関西なり九州なりが比較的に健全であれば、それ丈け日本国が健全なるのである。そして近頃に至り、『聖書之研究』が急に関西、四国、九州に於て読者を増した事は著しい事である。
六月十二日(土)晴 驟雨あり。疲労未だ去らず、生産的には何事も為し得なかつた。只マクギフハアト著『使徒時代史』中、パウロに関する数十頁を読み、啓発せらるゝ所尠からず。此日独逸老大哲学者ルードルフ・オイケン氏が或る友人に書を寄せて英文雑誌インテリゼンサーに対し深厚なる同情的理解を表する言を読んで尠からず力附けられた。昨日或る友人より在横浜の米国宣教師の一団は内村が書いたものとあれば、其何たるに拘はらず一切眼を触れないと聞いて少しく不快に感ぜし折なりければ(彼等が此くするは尤もなりと雖も)、老大哲学者(62)の同情は一層有難く覚えた。我と偕なる者は我に敵する者よりも大なりである。
六月十三日(日)雨 冷たき、鬱陶敷き厭な天気であつた。それにも拘はらず講堂は朝も午後も殆んど満員であつた。自分は朝は使徒行伝第十四章に由りパウロのガラテヤ伝道の大意に就いて話した。午後は過る日摂津蘆屋に於て為せる講演を繰返した。不相変楽しき聖日であつた。多数の青年男女に福音を吹込むに優さる幸福はない。之を為すは政府の大官又は教会の大監督たるに勝さるの名誉又功績である。パウロとバルナバは「弟子等の心を堅くし、其の常に信仰に居らんことを勧め、又|多くの艱難を歴て我等が神の国に至る可きことを教ふ〔付△圏点〕」(二二節)とあるが、自分等も同じ事を勧め又教へつゝある。
六月十四日(月)雨 引続き陰鬱の天候である。マクギフハートの『使徒時代史』に、ヱルサレム会議に於けるパウロの立場に関する著者の説明を読み、同情同感に堪えなかつた。著者が今の教会に対する自分の立場を弁明して呉れて居るのではない乎と思うた。三十年前の米国には如此き思ひやり深き学者があつた。今の米国人と来たら話しに成らない。二者の間に隔世の感があるやうに思はれる 〇引続き多くの悩める人等より悲しき書面を受取る。彼等は自分を煩悶治療の専門医であるやうに思うてゐるらしくある。聖書を研究せんと欲するのではない、目前の悲痛を癒して貰ひたいのである。彼等の内に有夫の婦人多きは著るしき事実である。今日の日本に於て家庭が如何に紊乱して居る乎が察せらる。
六月十五日(火)晴 引続き大なる興味と同情とを以て『使徒時代史』を読んだ。パウロの伝道成功の秘訣は演説説教に於てあらずして、個人としての接触に於てあつたとの説に全然同意せざるを得ない。使徒行伝は伝道(63)歴史であるが故に公的行為に就て記す所が多くして、私的行為に就て述ぶる所が尠い。故に行伝のみに由て初代伝道の有様を知らんと欲して、我等は大なる誤謬に陥るの危険がある。そして教会は全体に此危険に陥つたのである。米国宣教師が自分の早い頃の伝道を嘲けりて「火鉢伝道」と称せし、其伝道法がパウロの主なる伝道法であつたのである。彼等が若しハーナクやマクギフハートの書を精読したならば、自分と同じ様に座談的伝道を試みたであらう。米国に於ても学者は宣教師とは違うたる意見を懐いてゐる。
六月十六日(水)晴 西洋では聞かないで日本に於て盛んに行はるゝ事は|老人が若手に担がるゝ事である〔付△圏点〕。日本に於ては此事の為に身を亡した老人が沢山に有る。西郷隆盛、犬養毅、箕浦勝人、句仏上人等は皆な此災禍に罹つた者である。実に恐るべき事である。「大将」と呼ばれ先生と崇められつゝある間に、|つまらない〔付ごま圏点〕人に担がれて、彼等の犠牲となりて身を亡すのである。|日本は悪い国である。名を挙げ功を立た後に、後輩に担がれて其亡す所となる危険のある国である。此国に在る者は死んで墓に入るまでは安心は出来ない〔付△圏点〕。
六月十七日(木)晴 「東北を日本の尻尾」と詈りたりとて、東北の友人より小言が来た。之に対して左の一首を以て弁解した。
愛子《いとしご》を尻尾のはしと詈りて
責めねばならぬ親の苦しさ。
東北に誠実がある、然し見識がない。愛国心と世界観念とが非常に欠乏する。
六月十八日(金)晴 五月二十二日独逸ミユンヘン発、若き内村より彼のフラウヘの手紙の一節に曰く、
(64) 此間アルバースさんにスキ焼を御馳走した。そのアルバースさんから手紙が来て、お父さんから手紙を貰つたと云つて大喜びであつた。丁度ストラスブルグのシユワイツエルの留守宅を訪問しに行く日に受取つたから皆んなに手紙と写真を見せて来るとか書いてあつた。誠によい人である。
斯くて独逸も、今は仏蘭西領のアルサスローレーンも我国と同然である。友人は世界到る所に在る。今日は又、我が海軍の士官と水兵が死を目して英船ネープルス号の乗組員全部七十三人を救ひし記事を読み日本国の為に祝した。日本人は戦争に計り強いのではない、|人を救ふ為にも強いのである〔付○圏点〕。之に引替へて昨年大西洋に於て日本汽船来福丸が遭難した時に、或る英国船が之を知りながら救はざりしに較べて、日英孰れが実際的に基督教国である乎、大なる疑問である。イエスが「善きサマリヤ人」の例を引きてユダヤ人を誡め給ひしやうに、彼が今在し給ふならば「善き日本水兵」の例を引きて、常に基督数的国民なるを以て誇り我等を賤視《いやし》め来りし英国人を責め給ふであらう。
六月十九日(土)曇 梅雨の空である。左の如き書面が達した。
私は土佐の山の中で貧しい生活をして居るものであります。毎月の『聖書之研究』誌を待ち兼ねてゐて、むさぼる様に拝見して居ります。山奥の貧しい私を研究誌と天然とがどんなに慰め、力づけて下さるかわかりません。こんな山奥でキリストを信ずる事が出来まして何んぼう嬉しいか知れません。涙がこぼれます。『大阪毎日新聞』で先生の写真を拝見しまして嬉しさの余り失礼をもかへり見ず書きました。御赦し下さいませえ。
イエスは曰ひ給うた「汝等貧しき者は福ひなり、神の国は即ち汝等の所有なれば也」と。四国の山の中にて貧しき生括を営みてキリストを信ずる者は、束京の中央にて文化生活を送りながら神とキリストに関し許多《あまた》の疑を懐(65)く近代人よりも遥かに福ひである。
六月二十日(日)半晴 我家の純正を維持する為に尠からず苦心した。此悪しき世に在りて悪魔は小なる隙間より入つて来る。油断はならない。集会は滞りなく済ました。朝は「割礼問題」と名づけて使徒行伝第十五章の大意を述べた。パウロの論争は我が論争である。所謂ヱルサレム会議は自由福音が制度的基督教と衝突した第一の場合である。故に其中に無限の興味があるのである。牛後は路加伝十章二五節以下に依り、此たび英船ネープルス号の船員全部を救ひし日本海軍々人を善きサマリヤ人に擬《なぞら》へて語つた。我も聴衆も感極まつて泣かざるを得なかつた。
六月二十一日(月)曇 好本督君の英国帰還を送る為の送別会をインテリゼンサー社員一同と共に丸ビル九階精養軒食堂に於て催した。内に大阪の山本忠美君も加はり甚だ愉快なる会食であつた。四囲騒然たる大食堂の一隅に卓に就いて山県五十雄君が比較的に長い感謝の祈祷を捧げた。是れ多分此食堂が開かれて以来の始めての事であつたらう。隣室の酒場に於ては日本の貴婦人が一人でホヰスキーを飲んで居る際に我等は感謝の食事を共にした。米国に傚ひたる此バベルの塔の階上に於て我等は信仰を言現はして憚らざりしを感謝する。
六月二十二日(火)晴 鸚鵡のローラに善き烏籠を買うてやつた。彼の喜び又家族一同の喜びである。彼れ南米より我家に来りてより茲に十有五年、然るに未だ本当の鳥籠の内に棲《すま》つた事がなかつた。今日初めて籠らしき籠の内に飼つて貰ひ、彼は大得意である。鳥も十五年偕に居れば愛する家族の一人である。彼が眼の色を変へ翼を伸ばし、クツクツと唸《うな》る其声を聞くからに彼の飼主までが嬉しくなる。善き慈善を為して楽しくある。
(66) 六月二十三日(水)曇 南米コロムビヤ国の地理歴史を読んで大なる興味を覚えた。此は日本人に取り善き発展の地ではあるまい乎。日本本国に三倍する国土を有し、而かも其人口は僅かに七百万に過ず。物産豊富、赤道に近く位ゐすると雖も、地高きが故に気候温和にして文明生活に適す。我が同志の或者が斯かる地に往いて我が理想を実現して貰ひたい。外にエクワドルあり、ペルーあり、ボリビヤあり、南米の太平洋海岸丈けでも日本人発展の地は充分である。世界は広し、失望は無用である。
六月二十四日(木)晴 英文雑誌の校正を為し、邦文雑誌の編輯を為した。前者は神と|国〔付○圏点〕の為である。後者は神と|貧者〔付○圏点〕の為である。貧者は独り在りて他に神の福音を聴く機会を持たざる者を指して云ふ。主として地方に在る単独なる無教会信者を指して云ふ。『聖書之研究』は主として彼等を目的として発行せらるゝ雑誌である。教会信者、基督教男女青年会員、其他すべて浮気なる浅薄なる人達には読んで貰ひたくない。
六月二十五日(金)晴 高等教育を受け、外国にまで行いて研究を積みし日本人にして、今に至つて羅馬天主教会に入る者があると聞いて驚く。而かも彼等の内の或者が数年又は十数年余の聖書講演に列し、自から余の弟子を以つて任ずる者であると聞いては更に驚く。彼等の言ふ所を聞くに、「内村先生の説く所と天主教会の説く所と其|差異《ちがひ》は紙一枚である」と。実に驚くべき誤解である。余自身は二者の間に天地の差の在る事を知つて居る。此事に関し近頃余の許に来りし無学の一少女の方が是等学士連よりも遥によく事理を解して居る。彼女が余に書き送りし書簡の一節に曰く
柏木の楽しいお集りのある事は露知らずして私も今少しにて天主教会に|は入〔付ごま圏点〕る処でありました。私共の家か(67)ら二丁程はなれて天主教会が御座います。此一月より二月の中旬まで父が病気を致さず、その後養生の面倒を見がてらに温泉にも参らずに居りましたならば、まことの福音も心得ずに今頃は|ろざりお〔付ごま圏点〕をかぞへつゝ暮さねばならぬ事と相成り、まことにあぶない処で御座いました。此事思ひめぐらし神様の御めぐみに唯有難く感謝致します。
「智者|安《いづ》くに在る、学者安くに在る、此世の論者安くに在る……神は智者を愧しめんとて世の愚かなる者を選び給ふに非ずや」である。
六月二十六日(土)曇 古我貞周君朝鮮旅行より帰り、京城に於ける『聖書之研究』読者の名簿録を示して呉れた。之に依ると読者は凡て四十八名であつて、其内に中学校高等女学校の教師が十人あり、牧師(組合、日本基督、日本メソヂスト、ホーリネス、救世軍)が十二人、其他官吏、会社員、法院判事、中枢院勤務等で多数は所謂中流以上の人達である。余の知る在京城の読者にして古我君の名簿に録してない者があるが故に尚此他にも有る事は確である。之に由て見るに『聖書之研究』は諸教派諸階級に行渡つて居る。誠に喜ばしき事である。若し自分が京城に行くことが出来て、読者会を開くならば、さぞかし楽しき集会を持ち得る事であらう。
六月二十七日(日)晴 本学年最後の聖日であつた。朝は満員、午後は百六十人の集会であつた。朝は約翰伝四章廿四節に就て説教した。「霊と真とを以て霊なる神を拝せざるべからず」と云ふ事に就て語つた。「真」とは此場合に於ては「誠実」又は「実行」であると云うた。実行是れ有力なる祈祷である。此祈祷を以てするにあらざれば聖霊の恩賜に与る能はずと云うた。意味は平凡であつたが、必要なる説教であつたと思ふ。午後は加拉太(68)書三章一-三節に依りて「新教と旧教の区別」に就て述べた。天主教会の人々が「内村は紙一枚にて天主教に来るべき人である」と云ふとの事を聞いて、其全然然らざる理由を述べた。余と天主教との差は紙一枚所か、二者の間に天地の差がある。余が今の新教会を嫌ふ理由は新教なるが故に非ずして、新教でありながら旧教化しつゝあるが故である。余は新教諸教会に入来りし天主教的精神並に行為を攻むるのであると云うた。畢竟するに、自己の幸福や安全を欲する者は天主教に行くぺし。自己は地獄に落されても神の正義の成らんことを欲する者に非ざれば、余輩と偕に歩む能はずと云ひて会員全体の決心を促した。今や所謂知識階級の人々にして新教を去りて旧教に走りし者あるに際し、此警告を発するの必要がある。去る者は去るべし、余輩は彼等を止めんとしない。然し乍ら内村と天主教とは近い者であるやうに思ふは大なる誤解である。余はルーテル、ツヰングリ、カルビンと偕なる者であつて、天主教にプロテスト即ち反対する者である。余は死すとも天主教に入らない、天主教に入る位ゐならば基督信者にならなかつた。本学期最後の講演として誠に気持の好きものであつた。
六月二十八日(月)曇 バビロンに行いた。書籍を買ふ為に。他に用は無い。恐ろしい所である。自分の如き者も中元と暮には支払に少しは忙がしい。但し世人の如くに塵埃《ほこり》を浴びて奔走するの必要なき事を感謝する。
六月二十九日(火)晴 久振りにてルーテル伝を読み気が清々した。彼は最も徹底したる信仰の所有者であつた。パウロの福音を解せし第一人者であつたらう。パウロの直弟子と雖もルーテル程彼を解し得なかつたであらう。ルーテルはパウロの再来と称して可なる大信仰家であつた。自分も今より四十年前に此信仰を聞いて起つた者である。然るに教会に此信仰なく、為めに彼等は自づと旧い道徳教に|あともどり〔付ごま圏点〕する虞れがある。|唯キリストを信ずるに由てのみ救はる〔付△圏点〕と云ふのである。実に大胆極まる信仰である。今の教会者や宣教師などの到底信ずる(69)ことの出来ない信仰である。願ふ全世界が我に反対するも我はルーテルの信仰に立ち得んことを。
六月三十日(水)雨 休暇が来りしやうに思はれ、ペンを投じて読書に耽つてゐる。今日は使徒時代史を百頁程読んだ。多くの六かしい問題を提供せらる。時に或びは信仰を動かさるゝ事ありと雖も天主教徒や聖公会々員に成りて一定の信仰箇条を奉戴するよりも遥かに増しである。|自由研究に由てのみ活きたる信仰は得らる〔付○圏点〕。
七月一日(木)曇 主イエスは我が義、我が贖、我がすべてゞある。彼は単に我が発生ではない。彼は我に神たるの価値ある者である。近代主義者に此事が解らない。彼等は歴史的に彼を知らんと欲して信仰の深みに達し得ない。教会にも反対であるが、モデルニズムにも反対である。
七月二日(金)曇 引続き使徒時代史研究。パウロに対する同情が益々厚くなり、自分もやゝ彼と同一の立場に在る事が判明つて大に慰められた。
七月三日(土)晴 那須利三郎翁東北巡遊より帰り、山形県鶴岡に於ける諏訪熊太郎君の伝道ぶりに就き委しく伝へて呉れ、涙がこぼるゝ程嬉しかつた。前号に於て為せる「東北は日本の尻尾なり」との暴言は取消さねばならぬ。神は到る所に福音の善き証明者を有し給ふ。人の力ではない、神の能である。聖霊に由り、イエスを主と呼びまつる事が出来て我等に他に何の資格なきも彼の善き証明者と成ることが出来る。人生何が幸福なりとて救主イエスを発見して福音の役者となりしに優さる幸福はない。其意味に於て諏訪君は最も恵まれたる人である。
(70) 七月四日(日)雨 朝丈け集会を催うした。来会者堂に満ちた。塚本はコリント後書五章二節に就て講じた。自分は同四章十六節以下に就て少し計り感ずる所を述べた。世には逆境のどん底に在り、病は癒されず、内外の迫害は止まざるに拘はらず、信仰は益々進み、伝道心に燃ゆる兄弟姉妹の在る事を述べた。竟《つま》る所信仰は境遇の結果ではない、聖霊の働らきである。病が癒されて信ずるのではない、癒されずして之に勝ち得て余りあるのである。基督教は境遇改善の途でない、|外なる境遇に超越する衷なる力である〔付○圏点〕。其点に於て真の福音と近代式の米国流の基督教との間に天地の差がある。我が信仰の兄弟姉妹の内に、最も気の毒なる境遇に在りながら、讃美の声高らかに、日々の生涯を送り他に歓びを分ちつゝある者の有るを知りて感謝に堪えない。福音は古い昔の事でない、今働らく能力である。まことに神は今、昔よりも遥かに著るしく此世に於て働らき給ふ。
七月五日(月)曇 基督教会はパウロの教の誤解より起つたものであるとのマクギフハト氏の説に同意せざるを得なかつた。パウロの信仰は余りに深くして、之を解し得る者は極くの少数者であつた。而かも彼の人格が余りに偉大なりしが為に、何人も其感化を蒙らざるを得なかつた。茲に於てか人は彼の教を誤解しつゝも彼の記臆を留めんとした。斯くして成つたものが教会の教義であつて、信仰の自由を束縛する強き縄となつた。まことにパウロに取り迷惑千万と云はざるを得ない。パウロを正当に解するならば今日の教会は有り得ないのである。近代の歴史的研究に由て此事が明白に成つて有難くある 〇山形県の或る信仰の友が多くの困難の内に在りながら喜んで村落伝道に従事しつゝあると聞きたれば、左の一首を送りて彼に対する我が同情を表した。
苦しみは内と外より寄せ来るも
讃美は高し出羽の村里
之と同時に、本誌前号掲載の「東北は日本の尻尾なり」との暴言を取消す。
(71) 七月六日(火)半晴 雑誌校正を待てども来らず、故に読書の外に孫女と遊んだ。むつかしい歴史研究のあいまに小児と遊ぶは何よりも好き楽しみである。
七月七日(水)曇 札幌より金沢常雄君の来訪あり、如何にして最も有効的に北海道に於てクリスチヤンとしての使命を果たさん乎との問題に就て相談を受けた。結局我等は教会制度を離れ、個人個人に独立し信仰を養ひ、又相互に助け励まし、成るべく静かにイエスの弟子たるの途を歩むべしとの議に一致した。堕落を極めたる北海道にも少数の神に選まれたる者が在る。彼等を教へ導くのが我等の責任である。御役人や此世の勢力者等はどうなつても可い。然し「神の赤子」を棄てはならない。我等ほ是等の「貧しき者」の為に生き又働かなければならない。斯く語りて感謝を以つて別れた。
七月八日(木)晴 久振りにて羅馬書が恋しくなり、其第十章を通読して大なる慰めと力とを得た。殊に第九節が有難かつた。「汝もし口にて主イエスを言表はし又心にて神の彼を死より廻らしゝを信ぜば救はるべし」と。「心に信じ口に表はせば救はるべし」と云ふのである。仏教の言葉を藉りて云ふならば信じて発する「南無」の一言にて救はるぺしと云ふのである。さうなくてはならない。研究も修養も要つたものではない。|信、表〔付○圏点〕、簡短の極である。之に由て聖霊が降る。行為が自づから出来る。平安と歓喜は茲に在る。感謝の極みである。
七月九日(金)晴 大なる興味を以てマクギフハト著『使徒時代史』を読み了つた。其六七二頁を一字余さず精読した。近頃此んな面白い書を読んだことはない。其パウロ観の如き満腔の同情を表せざるを得ない。此著を(72)為した故に著者が教会裁判に訴へられたと云ふのだから驚く。彼の属した米国長老教会と云ふのはそんな教会である。自分の如きも若し教会に属してゐたならば勿論異端論の故を以て訴へられたに相違ない。然れども此書が多数の識者に由て読まるゝ書であるを知つて著者を訴へし教会が多数の帰依を失ひつゝあるは明かである。異端の故を以て自分を責むる宣教師連は先づ此書を読んで見るがよい、彼等自身の立場が如何に脆弱なるを覚るであらう。自分と雖も凡ての点に於て著者と一致する能はずと雖も、然れども大体に於て著者の観察の誤まらざるを承認せざるを得ない。今日の教会が学者の裁判に於て其根本の立場を否認せられしは誤りなき事であると思ふ。
七月十日(土)晴 雑誌第三百十二号が出た。昨年三百号祝ひを為してより茲に満一年である。或ひは四百号に達するのであるかも知れない。驚くべきものは聖書である。他のものは滅びても是れ丈けは亡びない。どう考へても自分は善き仕事を択んだのである 〇栃木県人の或る部分の道徳心低落の実例を聞かされて慨歎に堪えなかつた。斯くまで低いとは今に至るまで知らなかつた。或点に於ては日本人中最低の民であると云うて可からう。然し彼等の内にも神に択まれたる少数の民あるを知つて感謝に堪えない。失望の中の感謝である。
七月十一日(日)晴 畔上と共に講壇を勤めた、来会者二百五十余名。今年は夏期転地の企なく、為に心が至って平安である。朝起きて小児を乳母車に乗せて犬のパロと共に近所を散歩する。午後は涼風に吹かれながら読書する。小児の笑顔と学者の思想とありて我が日々の生涯は至つて幸福である。
七月十二日(月)晴 好本督君の慫慂に因り支那伝道参加を復活する事に決し非常に嬉しかつた。斯かる事は結果を目的としては為すことは出来ない。「汝のパンを水の上に投げよ」との教に従ひ、成功を眼中に置かずし(73)て従事すべき事である。それにしても世には助けられたい人が多くして、助けたい人の尠ないには失望する。世界伝道参加と云ふやうな事を持出しても之に応ぜんと欲する者は滅多にない。「我が事業を助けて呉れ」「我が教会を助けて呉れ」と云ふ者のみである。実に厭に成つて了ふ。
七月十三日(火)半晴 今日も亦一二の教会問題を持込まれて困らせられた。教会はどう見ても厄介物である。今や「教会と云ふものは無い方が宜いのではありますまい乎なー」との言を度々教会の人達より聞く。彼等の多くが教会を持余してゐる容子である。教会は彼等の進歩を妨げ発展を阻害する。実に気の毒千万である。然し乍ら自分より進んで教会を廃せられよと勧めることは出来ない。駄目とは知りつゝも頼まるれば|教会は教会として〔付ごま圏点〕助けて上げねばならない。辛らい|つとめ〔付ごま圏点〕である、然し辞する事はない。教会は今日まで未だ曾て一回も自分を助けて呉れた事はないが、自分は今日まで幾回も教会を助くるべく余儀なくせられた。そして教会に不信者扱ひにせらるゝのだから面白い。
七月十四日(水)晴 庭前の木蔭に椅子を据へ、涼風に吹かれながら読書した。思ひを二千年の昔に馳せ、聖徒の努力を想像し、同情の念を禁じ得なかつた。神学的キリストと歴史的イエスとの区別を認めざるを得なかつた。前者は参考として価値ある者、後者は直に傚ふべき者である。イエスは教会並に神学の創作者にあらざりし事は何よりも明白である。
七月十五日(木)晴 気温九十度に達し暑い日であつた。俗用を弁ぜんが為にバビロンに行いた。プリマス兄弟派の宣教師某氏の訪問を受けた。相方の注意に因り事無きを得て感謝であつた。自分は勿論プリマス派の信条(74)に服する者にあらざる事を明白に述べた。欧米人は何れも生れながらのセクタリヤン(宗派者)であれば我等東洋人は自己の立場を守る必要からして、彼等欧米宣教師に接しておのづから宗派者たらざるを得ないと述べた。実際の所、宣教師に基督信者として目せらるゝ事は大なる迷惑である。彼等に信者として認められない事が真の信者たる何よりも善き証拠であると思ふ。
七月十六日(金)晴 暑気引続き強し。支那伝道参加を回復し、今日前年同様の金額を支那内地伝道会社に贈り、非常に気持が好かつた。之にて甘粛省蘭州と山西省平陽とに於て引続きクリスチヤンの医師が我等に代つて支那人に医療を施して呉れる次第である。神が此小慈善を継続すべく我等の志を励まし、又必要なる此世の財貨を賜ひし事を深く感謝する。
七月十七日(土)晴 引つゞき暑い日であつた。少し計りの読書を為した外に他に何も為し得なかつた。一人の来客もなく、只孫女と遊んだのみであつた。E・F・スコツトの『第四福音書論』並にR・ゼーベルグの『黙示とインスビレーシヨン』に多くの黙想の資料を供せられた。
七月十八日(日)晴 集会変りなし。畔上が「聖書知識の制限性」と題して語りたれば、自分も之に対して所感を述べた。聖書は天然の事、哲学の事、其他の事に就き示さゞる事甚だ多しと雖も、然し神の何たる乎に就ては明示して余りがある。我等は宇宙万物の根本にして其支持者なる神が我等を愛する父であることを明示されて他に何ものをも知らんと欲しないのであると述べた。
(75) 七月十九日(月)半晴 久振りにて片瀬江之島に遊んだ。相も変らざる俗地である。唯空気が新鮮なる丈けであつて他に何の善き事もない。多くの社会的研究を為して帰つた。我家に優さる所あるなしである。
七月二十日(火)晴 引きつゞき暑い日であつた。過去五十日間沢山に高等批評系の書を読み、益する所も甚だ多かつたが、損する所も亦尠くなかつた。然るに今日は計らずも宗教改革時代の偉人の伝記を読み、故《もと》の福音的信仰に立帰ることが出来て嬉しかつた。批評は壊つこと多くして建つる所は殆んどない。冷酷無慈悲なる宣教師の教会を壊つには益があるが其他に何の益する所がない。我が信仰はやはり改革者のそれである。基督教の中心点をパウロの羅馬書に於て見る信仰である。其処に我が信仰を据える時に我が霊魂が安全である。之に比べて見て近代の神学者が提供する信仰の如き、之を信仰と称する丈けの価値もない。ルーテル、メランクトン、ハイデルブルグ教義問答の著者等の信仰が慕はしくある。
七月二十一日(水)曇 久しく自分の講演を聴きし人にして近頃反抗の態度に出し者が、其友人に書き贈りたりしと云ふを聞くに、「僕がクリスチヤンに成るも成らぬも僕の勝手である」と。斯く言ひ得る所を見ると、此人は未だクリスチヤンに成らなかつたのである。人は欲《この》んでクリスチヤンと成ることは出来ない、成らざらんと欲するも成らしめらるゝのである。人は全能者に余儀なくせられてクリスチヤンに成るのである。信仰の此秘密が解らずして信仰を語ることは出来ない。成るも成らぬも勝手であると云ふ人は未だ成つた事のない人であつて、多分一生涯成らずして終るのであらう。信者に成らうと欲へば成れると思ふ人の如き、自分の講演会には一切来て貰ひたくない。
(76) 七月二十二日(木)曇 在留の米国人が英文雑誌に載せたる自分の論文を読んで怒つてゐると聞いた。然し自分の攻撃を待つまでもない、米国今日の状態は実に言語同断と云ふより他はない。東京朝日新聞ニユーヨーク特派員十九日発の電報は大略左の通りである。
驚くべき殺人事件がテキサス州フホートウオースの教会で行はれた。それはフランク・ノリスと呼ぶ進化論反対運動(フハンダメンタリスト派)の急先鋒で同地の有名なる牧師が去る土曜日神聖な教会の中で政見を異にする同地の有力者チツプを三発のピストルで銃殺した事件で流石の米国人もあつけに取られた。然も牧師は即日保釈を許され、日曜日には血なまぐさい殺人の現場であるその教会に集まつて来た無慮六千の善男善女に説教を試み、これに感動して悔ひ改めた男女が五名あつた。そして説教が終ると多くの信者はこの人殺し牧師の前にぴざまづいてその手にキツスし、あるひは感激のあまり彼を抱擁するといふ奇妙な光景が見られた。更にこの殺人事件の報が伝はるとニユーヨークの第一浸礼教会では早速殺人牧師ノリスに招待状を発して説教を頼み牧師は来月一日当地に乗り込んでくるといふ騒ぎである。
勿論新聞電報のことであるから其全部を信ずることは出来ないが、然し之に類したる事の他に在りしことを知るが故に、之を全然無根の報道として棄ることは出来ない。事茲に至つて米国の基督教は堕落の|どん〔付ごま圏点〕底に達したと云ふぺきである。基督教在つて以来斯んな乱暴の行はれたことはない。我等は米国の為に泣き、基督教の為に慨歎に堪えない。
七月二十三日(金)曇 午後大雷雨があつた。空気は清まり炎熱は去り、暫時に天地が一変したかの如くに感じた。夏の東京に在りても斯かる恩恵が下る。衆人と共に苦しみ又喜ぶ其愉快は特別である。
(77) 七月二十四日(土)曇 涼風吹き快き暑中の一日であつた。ゴーデー先生のコロサイ書論を読み、又復旧き信仰に立帰ることが出来て嬉しかつた。歴史的イエスを知つた丈けでは感謝と歓喜とはない。宇宙万物を其聖手に握り給ふ今在まし給ふ救主イエスキリストを信じ、彼を心に宿し奉るまでは信仰らしい信仰はない。近代の批判的聖書研究は沢山の事を教ゆるが、此根本的真理を伝へない。其内に在りて深き学識の立場より活ける主キリストを伝へて呉れるゴーデー先生は実に我が大なる恩人である。今日まで幾度か此瑞西国の先生に援けられしことよ。自分がキリストの国に往いて深き感謝を表さねばならぬ人の内の一人はたしかにゴーデー先生である。人世実は真のキリストを示して呉れた人に勝さる恩人はないのである 〇此日、三十年前に名古屋に於て知己に成りし米国美普教会の宣教師U・G・モルフ氏の訪問を受けて嬉しかつた。彼は愛蘭系の米人であるが故に、アングロサクソン族の英米人の如くに傲慢でなく、能く日本人を解し、我等に対し深甚の同情を懐き、見るからに気持の好きキリストに在る愛する兄弟である。米国宣教師の内に斯かる人がある乎と思へば意外に感ずる。彼の今日の訪問は友誼的訪問であつて、普通の米国宣教師が為すが如くに余に説法せんが為でなかつた。まことに珍らしい宣教師の訪問であつた。我等は数回固き握手を交へて再会を約して別れた。モルフ君は今は米国ワシントン州に在りて彼地の日本人を援け、彼等の為に闘ひつゝあるのである。
七月二十五日(日)曇 蒸暑い日であつた。朝は塚本と共に講壇に登り共に旧約ホゼア書第二章を講じた。今日も亦珍らしい外国宣教師の訪問を受けた。彼は我が南洋委任領土に伝道する独逸宣教師エルネスト・ウルリツヒ君であつた。厚い福音的信仰を有し、さすがは独逸人丈けありて教養深く、博き同情の人であつた。一面して主に在る愛すぺき兄弟であることが判明つた。依て此機会を利用し、世界伝道協賛会を代表し、少額の寄附を為して、我等に代つて南洋人に伝道して呉れるやうに彼に依頼した。美はしき信仰的交際であつた。ウルリツヒ君(78)の容貌までが南洋土人化してゐるを見て感激に堪えなかつた。宣教師たる者は斯くあらねばならぬ。日本にも斯かる宣教師が欲しくある。
七月二十六日(月)半晴 用事一先づ片附き、休養を得んが為に例の浅間山麓沓掛に来た。柏木とは打つて変つた静粛の地である。星野温泉の主人の熱き歓迎を受けて有難かつた。多分今年も亦此所で善き休みが得らるゝであらう。山田|鉄道《かねみち》君が同道して呉れた。今夜より柏木に於ては夏期講演会が開かる。若い人達に本城を委ねて自分は出養生をするなどゝは勿体なき次第である。
七月二十七日(火)晴 軽井沢に行いた。相変らず虚栄の市の夏の都である。沢山の宣教師の遊んでゐるのを見た。二里を隔て沓掛は静粛の里である。此所に在りて自分の為にも他人の為にも克く祈る事が出来る。夜、山荘の静けさにウイリヤム・チンデールの略伝を読んで感じた。彼はルーテルと同時代の人であつて、ルーテルが独逸に為した事を英国に為した。チンデールは英国民に英語聖書を供した、そしてそれが故に殉教の死を遂げた。英国民の今日あるは決して偶然の事でない。斯かる愛国者が出て、国民の良心を其の根本に於て潔めたからである。彼れチンデールの生涯は余が今日軽井沢に於て見た多数の英米宣教師のそれのやうな安楽呑気な生涯でなかつた。彼は全生涯を誤解と冷遇と嫉視との内に終つた。そしてルーテルの独逸語聖書に優るも劣らざる英語聖書を英国民の為に作つて、永久に彼等の福祉を計つた。偉大なる人よ。英国民の大恩人であつて、全人類の誇りである。
(79) 七月二十八日(水)半晴 スコツトランド国最初の宗教改革者パトリツク・ハミルトンの伝を読み、大に学ぶ所があつた。彼は二十四歳にして殉教し、革正運動の基礎を築いた。英国と云ひ、蘇国と云ひ、斯かる尊き聖徒の血を以て救はれたのである。之に較べて、日本の基督敦の如き、児戯の類であると言はれても仕方がない。自分の一生の如き、チンデールやハミルトンのそれに較べて、何の価値もない事が判明る。国に真の宗教を供するは容易の事でない。唯聖書知識を供した丈けで国は救へない。其為に生ける犠牲と成らねばならぬ。貧困や迫害を歎《かこ》つ位ゐでは到底キリストに在りて国を救ふ者と成る事は出来ない。それにして 福音の為に少しにても苦しむ事が出来て感謝の至りである。
七月二十九日(木)雨 著書の校正に全日を送つた。チンデール、ハミルトン等の伝記を読み、福音の為に苦しむの必要を切実に感じた。福音を説く丈けでは国をも民をも救ふ事は出来ない。キリストに傚ひ民の罪の為に購ひの血と涙とを流さねばならぬ。キリストの苦難の欠けたる所を補はねばならぬ。彼の霊を宿して此罪の世に在りて苦しむのが当然である。パウロが曰ひしが如くに「生くるはキリスト」である。(ピリピ書一章廿一節)。人生を楽しむ為の生命に非ず、自身小なるキリストとなりて自分相応の十字架を担ふて世の罪を購ふ為の生命である。
七月三十日(金)晴 朝は沓掛滞在中の東京府第五高等女学校の生徒五十余名に対し基督教の話を為した。基督教は人をして其罪を知らしめ、彼をして心の根柢より謙遜ならしむる為に必要であると説いた。「さう説かるれば私も信者に成りたくありますが、然し実際に拝見したる基督信者の方々は他人の非行を挙ぐる事に熱心であつて、かゝる方々はどうして神様の前に出て祈祷なさるゝ乎、私には其事が解りません。斯かる実例を沢山に示(80)されて、私は信者に成りたくも成り得ないのであります」とは生徒監の某女史の感想であつた。彼女に対し厚き同情なき能はず、又彼女が信者に成り得ない充分の理由があると思うた 〇午後七時軽井沢に行き、彼地集会堂に於て井上伊之助君の台湾生蕃伝道後援会の催しに係る集会に出席し講演の役を務めた。来会者二百余名、内に十名程の外国人(宣教師ならん)を見受けた。土人教化の必要並に福音宣伝の幸福に就き一時間程話した。斯くて朝は所謂不信者に対し、夜は所謂信者に対して語つた。そして自分に取りては不信者に語るは楽しくあつて信者に語るは辛らくあつた。純日本人の誠実に訴ふる方が外国式の基督信者に語るよりも遥かにコンジニアル(意気適合)である。然し友人井上伊之助君の事業を助けると思ひ我慢して行つた。其結果として後はガツカリと疲れた。教会の人々に向つて語ることは成るべく免して貰ひたくある。此夜東京帝国大学の小野塚博士の山荘に客と成つた。
七月三十一日(土)晴 朝八時軽井沢を発し帰途に就いた。車中東京の或る日本基督教会の牧師某君と席を隣にし、種々《いろ/\》の事を聞いた。其内に故植村正久君が自分を嫌はれし事、又其理由を聞かされて故人に対し同情に堪えなかつた。遠からずして君も我も主の台前に立つことであれば、其時に万事は明白に成るであらう。植村君に対し殆んど終生の尊敬を払ひ、君と共に日本今日の基督教をして全然外国人の手を離れて独立ならしめんと欲し、多くの友人の忠告を退けて屡々君に提携を申込みし自分が、何故に斯くまで同君に嫌はれし乎、自分には今尚ほ未解の問題として残るのである。然しどうでも可い。万事は聖旨である。君をも亦誰をも怨まない 〇午後二時柏木の家に帰り、孫女の笑顔に接してすべての問題が解けた。「嬰児の如くに成らざれば天国に入る能はず」。茲に大神学博士以上の大教師が我が為に備えられたのである。
(81) 八月一日(日)晴 室内九十四度と云ふ本年第一の酷暑であつた。それにも拘はらず朝の集会に二百名近くの出席者があつた。自分はピリピ書一章二一節「我が生けるはキリスト、死するは我に益なり」に就いて説教した。午後より夜にかけての暑気甚だしく、唯之に耐ゆる外に何事も為し得なかつた。然し多くの人の為に福音を説く為に山を下り来り、彼等と苦熱を共にする事の大なる精神的満足なるを感じた。
八月二日(月)晴 昨日来「黒色青年聯盟」と肩書きしたる三人の訪問を受けた。無政府主義を唱道する為の運動費を寄附せよとの事であつた。自分は基督教の教師として斯かる運動に携はる事は出来ないと述べても容易に承知せず、彼等の要求を謝絶するまでには随分の努力を要した。世には色々の聯盟があると見える。教会聯盟があり、基督教青年聯盟がありて自分は何の関係もなく、時々其図々しさに困らせらるゝが、今日は又黒色青年聯盟に困らせられた。然し何れの青年聯盟も寄附金募集に熱心なる丈けは変りないと見える。自分が是等の人々に対して言ふ事は唯次ぎの一事である。即ち「諸君も私と共に日本人である、故に誠実と独立とを重んじ、諸君の主義方法に賛成し得ざる者の援助を求め給ふ勿れ。諸君の動機《モーチーブ》は諒とする、然し方法は私のそれとは正反対である」と。斯くして彼等の日本人の良心に訴へて彼等の要求を免して貰ふ。然し時々彼等に釣込まれて彼等の使役する所となりて臍《ほぞ》を噛んで悔ゐる。
八月三日(火)晴 暑中の校正日である。苦悩の一日であつた。然し印刷者のそれに此ぶれば軽き苦悩である。読む人は暑中の雑誌製作の苦痛を覚えて貰ひたい。ペンを執る者、活字を組む者、流汗滂沱たりである 〇午後六時半激震があつた。又復現世の不安を感ぜしめられた。
(82) 八月四日(水)晴 暑熱去らず堪え難き苦痛である。小児高熱を発し、苦熱以上の苦痛である 〇内村医学士より独逸オーベルアメルガウ発の絵ハガキに左の如く記してあつた。
……今日は受難劇を以て聞ゆるオーベルアメルガウ訪問、雨に降られ乍らも大いに愉快さを感じます。質樸なる風俗も米人の金に大分不純になりて来たとか。行く所としてアメリカ人の拝金宗に犯されざる所なし、なげかはしき事に存じます。
アメリカ人の金、全世界を亡びに導きつゝあるものは之である。何れの国の愛国者も凡て之を排斥せんとして居る。恐るぺき者は之である。
八月五日(木)晴 小児の病気快方に向ひ、稍や愁眉を開いた。弱き幼なき者の苦しむを見るは自分が苦しむより遥かに辛らくある。斯くして神が我等の罪に苦しむ状を見たまふ其御心が察せらるゝのである。「其独子を賜ふ程に世を愛し給へり」と云ふが即ち此御心であると思ふ。
八月六日(金)半晴 雑誌八月号の校正を終つた。初刊以来此んな暑い校正を為した事はない。殊に家族と共に小児の看護を為しつゝありし間に為せし校正であつて特別に骨が折れた。例に由つて例の通り「校正恐るべし」である。
八月七日(土)曇 昨日小雨あり、今日は久振りの清涼の一日であつた。新聞紙は相変らず厭な記事を以つて充つ。争議又争議である。国は国と争ひ、民は民と争ふ。何時また世界戦争が始まる乎判らない。内にも外にも人は人の敵である。支那人は支那人の敵である、日本人は日本人の敵である。基督信者までが相互の敵である。(83)今日此際ゴーデー先生の「エペソ書論」を読み非常に有難く感じた。神のエクレジヤに於てのみ本当の平和と一致とがある。そしてそれが今日の所謂基督教会でない事は明白である。
八月八日(日)半晴 朝の集会に二百名余の出席者があつた。塚本が「イエスに対する悪口」と云ふ題にて話した 〇独逸ミンヘン市の出版業者A・アルバース君より第二回の書簡が達した。十三頁の長文である。自分が彼に送りし手紙と孫女と共に撮りし写真とがロマン・ロランド、ニイチエ夫人(彼女は今や八十歳の老齢であると云ふ)、其他ストラスブルグ、バーゼル、ベルン等の知名の文士思想家等の間に持廻はられしとの事である。欧洲に在りては出版業者は著者と対等の交際を為す者であれば、アルバース君に由て自分が欧洲の大文学者達に紹介されつゝある次第である。アルバース君は又深い思想家であつて、同時に最も忠実なるキリストの僕である。彼は言ふ「実体は宇宙に非ず、我等クリスチヤンの衷に宿り給ふイエス・キリストなり」と。彼は又全般的基督教を排し、具体的基督敦を称揚する。彼は曰ふ
具体的基督教はタルソの猶太人パウロの基督教である。阿弗利加カルタゴの修辞学者アウガスチンのそれである。独逸マンスフエルトの百姓の子ルーテルのそれである。丁抹国コペンハーゲンの敬神家を父母に持ちしキルゲゴーのそれである、而してまた日本人たる内村のそれである。
と。まことに名誉の至りである。アルバース君の如き人に、以上の人等と共に併び称せらるゝは教会より神学博士の称号を貰ふよりも遥かに大なる名誉である。「|信〔付○圏点〕孤ならず必ず有隣」と称すべき乎。
八月九日(月)曇 今日もまた涼しい日であつた。斯かる日があるから下界の人は助かる。高知県の某地より左の如き通信があつた。
(84) ……常に田舎に居る私共に対し此上なき喜ばしき福音を御伝へ下さる事を深く感謝致します。当地は小さい村落で幸か不幸か煩瑣な教会や、それに関する何物もありませんので、只月々送らるゝ貴誌によつて一同が養はれて居ます。一週三回づゝ同信六七名の者の家を廻り持ちで集会し、常に主と先生とが中心にて慰まれてゐます。
余輩は他にも斯かる集会の在るを知つて居る。大教会は作り得ずと雖も、斯かる小集会が出来れば充分である。初代のエクレジヤ(教会)なるものが斯かる集会でありし事は新約聖書が明かに示す所である。本誌は主として斯かる人達を目的として発行せらるゝものであつて、余輩は教会の人達に嫌はるゝ事を反つて喜ぶ者である。
八月十日(火)晴 久振りにてテモテ前書全部六章を精読した。偉大なる書である。パウロが書いた乎否は別問題として、聖書の中に含まれて少しも耻かしからぬ書である。之を羅馬天主教会や英国聖公会の制度を維持する為の書と見るが故に厭になつて了ふと雖も、斯かる書でない事は平信徒の常識を以つて一読して明かである。一章十二-十七節、六章十一-十六節の如き実に雄大と称せざるを得ない。
八月十一日(水)晴 引続き暑い日であつた。テトス書を通読した。雑誌第三百十三号を発送した 〇基督教界の人物の一人として植村正久氏小崎弘道氏と併び称せらるゝの苦しさよ。自分は元々そんな者ではない。自分はレベレンド(教師)ではない、自分は只一人のイエスの弟子である。自分は教会を作らんとしてキリストを信じたのではない、自分一人が救はれんと欲して信じたのである。そして其信仰を告白したる結果として多くの人々に教師として仰がるゝに至りしは自分に取り不幸此上なしである。自分が宣教師に遠ざかるは主として|彼等に愛せられざらんが為である〔付△圏点〕。宣教師に愛せられて彼等の教会に引込まれて其坊主に為られん事を恐れてゞある。自(85)分はアモス、ヱレミヤ流の信者である。何よりも教職たるを恐れ且忌み嫌ふ者である。
八月十二日(木)晴 又復暑い日であつた。テモテ後書を読みし外に何事も為し得なかつた。苦熱と闘ふが唯一の仕事であつた。
八月十三日(金)晴 小児の病を癒さんが為に家族四人打揃ひて浅間山麓の山荘に来た。久振りにて涼風に触れて一同蘇生の感があつた。此所にまたペンが動くであらう。避暑の為の避暑は勿体なくして自分には為し得ない。病を養ふ為か仕事をする為かである。願ふまた此涼しき所に於て我主の為に何事か為し得ん事を。
八月十四日(土)晴 山荘清涼の一日であつた。校正、文通、読書を為した。神の聖意と云ふ事に就て考へた。何事も人の意志が成るのではない。縦令帝王の意志たりと雖も、又は議会の決議に現はれたる国民の意志たりと雖も、それが成るのではない。成るものは神の聖意のみである。縦し自分が全力を尽すと雖も人一人を信者に成すことは出来ない。自分は唯祈つて神が彼に信仰を起すを待つのみである。|人の無能に対して神の全能がある〔付○圏点〕。そして人は思ひ煩ひて其生命を寸陰も伸べ得ざるが故に、彼は憂慮を去つて唯祈つて待望むべきである。茲に於てか毎日新聞紙を読んで世の成行を推測するの如何に馬鹿らしき事なる乎が解る。それよりも聖書を読んで神の聖意を識るの遥かに優されるを知る。
八月十五日(日)晴 山荘に簡短なる聖日の礼拝を行うた。来会者二十五名程、内に東京富士見町教会の関係者が多かつた。讃美歌祈祷の後にエペソ書第二章を読み、其十四節以下に就いて感想を述べた。信者は一体であ(86)るに止まらず新らしき一人である、One new man であるとの大なる真理に就て語つた。我等は何を廃しても聖日の祈祷讃美を廃する事は出来ない。教会関係の如き問ふ所でない。
八月十六日(月)半晴 高原の霊気に励まされて近頃に珍らしき程働くことが出来た。自分の人格や品性に慄らずして自分を去る者多き由を聞かされて斯かる人達に対して気の毒の感に堪えなかつた。此国に理想的人物を漁りて止まざる人の多きを歎ぜざるを得ない。何故に直に神にして人なるキリストイエスに到りて無上の満足を感じないのである乎。自分の如き者を完全の人なりと思うて頼り来りし事が其人達の不覚ではない乎。自分は自分の著書に由りて自分の罪人なるを表白したる外、自分の完全を表明した覚えは更らに無い。故に自分に頼る人には今日直に自分を去つて貰ひたい。|唯日本人として君子の道に順つて去つて貰ひたい〔付△圏点〕。自分の要求する所は唯それ丈けである。
八月十七日(火)霧 休養の一日であつた。塚本東京より来り、山田鉄道偕に在り、浅間山麓柏木と異ならず。原稿、校正、通信等平常の通りに行はる。唯苦熱の闘ふべきなく、万事よく捗り至つて幸福である。軽井沢とは掛けはなれ、近代人、ブルジヨア、宣教師の悪感化は少しも蒙らない。先づ以つて恵まれたる境遇である。
八月十八日(水)雨 軽井沢に行つた。又復熊本のミス・リツデルの款待に与かつた。幾度会うても謙遜なる偉らい婦人である。彼女が英国婦人であり聖公会の信者である事を忘れる。彼女がたゞ日本二十万人の癩病患者の母である事のみが自分の目に映ずる。少しなりとも彼女の事業に参与する事が出来て感謝である 〇リツデル女史を辞して故島田三郎氏の遺族を訪ひ、茲に小婦人会が開かれ、信仰と日本の教化とを語り、七時沓掛の山荘(87)に帰つた。軽井沢に清き義しき一面のある事を疑ふことは出来ない。
八月十九日(木)半晴 昨夜大雨、今日冷気到る。日本の現状につき多くの恐るべき事を聞かせらる。若し此儘にて進行せば亡国の外はない。然し神在まし給ふ。今日まで導き給ひし彼は此先きも導き給ふ。クリスチヤンは社会を社会としてのみ見ない、神が導き給ふ者として見る。社会以上の勢力の働らきを望み且信ず。故に社会の悪事を聞かされても心を落さない。
八月二十日(金)曇 高原の冷気去らず、却て低地の幸福を思ふ。手紙書きが重なる仕事であつた。是れ又為さねばならぬ事である。手紙を書いて一人に語るよりも原稿を書いて万人に語るの優さるを思ふことありと雖も、又一人一人に語らねばならぬ場合がある。手紙を書くために時々山に来る必要がある。
八月二十一日(土)曇 長野在留加奈太メソヂスト派の宣教師ダニエル・ノルマン氏の依頼に由り夜七時半より軽井沢日本人教会に於て講演を為した。来会者堂に満ち二百四十人有つたとの事である。五十年前の札幌に於けるウイリヤム・S・クラークの伝道に就て述べた。序に日本の基督教は主として日本政府が招聘せし外国教師に由て伝へられたものであつて、外国派遣の宣教師に由て伝へられたものは其次ぎに位ゐすべきものであるとの事を述べた。故に縦し今日外国宣教師が悉く日本を去るとも日本に於て基督教は決して消えない、日本の基督教は支那印度等のそれとは異なり、日本人の基督教であつて外国人の基督教でない事を語つた。宣教師に頼まれながら斯かる講演を為して気の毒に思うたが事実であるから止むを得ない。一時間半の講演を聴衆は動きなき注意を以て聴いて呉れた。日本の軽井沢に在りて「日本人教会」と云ふが如き、実に気持の悪い事である。
(88) 八月二十二日(日)半晴 昨夜軽井沢友人の家に一泊し、朝沓掛に帰り、例の通り朝の礼拝を行うた。出席者二十人、塚本司会し、我が意に適ふ外人臭味のなき会合であつた。
八月二十三日(月)曇 内に在りて原稿書きに従事した。歴史は預言であると云ふ事に就て考へた。預言は国民人類に関はる神の聖意である。そしてそれが事実として現はれたるものが歴史である。歴史は人の行動でない、神の聖意の実現である。そして其聖意を前へ以つて伝ふる者が預言者である。
八月二十四日(火)半晴 自働車一台を雇ひ、之に家族一同六人を乗せて霧の軽井沢に行き、宣教師並に東京人の夏の都なる此町の盛況を見せた。一同一度見た丈けで沢山である。我等は斯かる所に止まるを欲せずとの感を懐いて沓掛の山荘に帰つた。柏木が東京の郊外であるが如くに沓掛は軽井沢の田舎である。それ丈け不便で、精神的に清潔である。
八月二十五日(水)半晴 昨夜大雨、今朝霽る。山荘に在りて雑誌編輯自分受持の分を終る。孫児は遊びに疲れて側に安々と寝て居る。裏山の小屋に於ては塚本は遠近の教友五六人を相手にして聖書の講義を為して居る。 〇南洋瓜哇在住の教友加藤長次郎君山荘に訪来り、彼地の風土物産等に就き種々と話し呉れ、大なる興味を覚えた。殊に島民三千五百万が、マレイ人支那人アラビヤ入の別なく、日本人を尊敬し、亜細亜の独立興隆を日本の先導に期待しつゝあるとの事を聞いて感激に堪えなかつた。日本は日本の為に重要なるのではない、亜細亜の為に然かあるのである。西には支那あり、南には馬来群島ある日本は大に其方面に発展すべきである。
太平洋の此(89)岸に此楽土あるに、何を好んで排斥を犯して彼岸に伸びんとする乎。ジヤバ、スマトラ、ボルネオ、セレベス、ニユーギニー、ハルマヘラ等、其多くは未墾の地である。世界は広くある。神を信じて世界を家とすれば、日本人発展の余地はまだ幾らでもある。
八月二十六日(木)晴 久振りの晴天である。或人に何れの職業が信仰維持に最も困難である乎と問はれたれば、|伝道である〔付▲圏点〕と答へた。まことに伝道に従事して信仰を落さない人は偉らい人である。多分伝道界ほど霊的悪事の行はるゝ社会は他にあるまい。其点に於て政治界商業界は遥かに増しである。伝道師が相互を嫉み苦しめるを見ては堪へられない。若し之が基督教であるならば直に之を棄てたく思ふとの観念が起る。自分の如きも幾たびか此誘惑に襲はれた。そして今日と雖も教役者界に出て信仰の動揺が始まる事が屡々ある。基督教の教師と成りて単純の信仰を維持する事の出来るは全く神の恩恵に由る。最も同情を表すべきは伝道師の立場である。彼は何人よりも自己の信仰を維持する為に戦ふ者である。
八月二十七日(金)晴 新聞紙は左の海外電報を載す。
ハーバード大学名誉総長チヤールス・ウイリヤム・エリオツト氏は二十三日当地(メイン州ノースイースハバー)に於て逝去した。行年九十二歳。
感慨に堪えない。是で古い米国は全く去つたのである。残るは今や全世界を毒しつゝある新しい米国である。自分はエリオツト氏に唯一回東京三田四国町の惟一協会に於て会うた事がある。氏はユニタリアン教会の巨頭であつて、自分とは信仰を異にする人であつたが、然し氏に対し深い尊敬を払はざるを得なかつた。詩人ローエル、(90)同ロングフエロー、改革者ガリソン、哲学者ジヨン・フイスク、説教師パーカー、ヘール等の偉人を出せしユニテリヤン教は決して賎しむべき者でない。自分の如き多くの善き感化を彼等より受けたる者である。茲に彼等の最後の代表者たるエリオツト氏の訃に接し、遥かに新英洲の山河に向つて深厚の弔意を表せざるを得ない。
八月二十八日(土)晴 高原の温度室内にて八十四度。人生有難い事は多くあるが、最も有難い事は神が在まし給ふと云ふ事である。神在まし給ふが故に正義は必ず成り不義は必ず敗る。善は必ず賞せられ悪は必ず罰せらる。政治家の政略の如き省みるに足りない。神は厳格に公平であり給ふ。余の短かき生涯に於てすらビスマークや伊藤博文の如き世界的大政治家と称せらるゝ人々の政略が全然失敗に終るを目撃した。議会の決議の如き何の効力もない。|神在まし〔付○圏点〕給ふ。実に誠に有難い事である。
八月二十九日(日)晴 天晴れ、爽快なる初秋の一日であつた。米国コロムビヤ大学経済史教授シムコ※[ヰに濁点]ツチ氏著『イエスの了解に就て』を読んだ。イエスを歴史的に了解せんと努めし最善の試みであると思ふ。イエスの時代を精知し、其内に彼を置いて見て、彼を明瞭に解することが出来る。其他の了解はすべて神学的であつて、之に一致の有りやう筈はない。そして我主イエスを解する為の史料の比較的に豊富なるを神に感謝せざるを得ない。ジヨセフハスとアポクリフアとはイエスを解するに方て必要欠くべからざる資料である。之を度外視してイエスと其福音を解することは出来ない。シムコ※[ヰに濁点]ツチ氏の書は暗示に富める小著述である。さすがは露西亜人であつて、其見方が新鮮で且深淵である。米国人なぞの到底及ぶ所でない 〇礼拝を行うた。来会者四十人、塚本司会し、自分はコリント前書九章十六節以下に就いて語つた。真の同情は自己が他に成りて考ふる事である。彼を客観して自己の主張確信を以て臨むが如き、決して彼を救ふの途でない事を述べた。大なる真理を語つたと思(91)ふ。
八月三十日(月)半晴 敵に勝つの唯一の途は之を愛するにある事を今更ながらに感じた。敵を憎んで彼は依然として敵として存するのである。英仏が独逸に勝つて益々独逸を恐れるの類である。愛は勿論服従でない、又妥協でない。愛は心に悪意を懐かず、敵の最善を計り且祈る事である。敵意を懐く事が大なる苛責である。我等は愛を以て敵意を逐出《おひいだ》し、先づ自己に勝ちて然る後に敵に勝つべきである。
八月三十一日(火)半晴 山荘は困雑する。八畳に六畳に四畳半に三畳と云ふ小屋である。其内に幼児を中心に七人の家族と同宿者とが集まる。其内にまた時々来客を迎へる。其内に在りて読書校正編輯をする。幼児の寝た時に一家静寂に入る。談話は凡て低声にて行はる。其時が執筆黙想に最も善き時である。山荘生活は簡易生活である。天幕生活に少しく勝さるに過ぎない。愛の養成に最も適してゐる。一年一度之を行ふは肉体の為のみならず霊魂の為に好くある。石油鑵にて竈を作り其内に山より拾ひ来りし枯木を燃《たき》て、土釜を以て米を炊て一同食するあたり、実に理想的である。隣りの軽井沢で外国人や上流社会の人達がコツクを伴ひ来りて都料理に文化生活を営むに較べて、浅間山麓の我等の生活はやゝ原始的であつて、それ丈け清潔である。
九月一日(水)晴 大震災第三周年である。沓掛に於て一回、軽井沢に於て一回、小集会を開いて記念した。感慨無量であつた。神を信じて災禍を転じて福祉となすことが出来ると述べた 〇軽井沢の市街に於て英国宣教師某に会うた。彼が自分を子供扱ひにするを見て憤慨した。英国人の傲慢無礼は今に始めぬ事であるが彼等を相手にして基督教の伝道の絶対的に不可能なるを感じた。我等日本の信者は協力して是等の宣教師に一日も早く日(92)本を去つて貰はねばならぬ。彼等が日本に在る間はキリストの聖名が汚さるゝのみである。
九月二日(木)曇 露人シムコ※[ヰに濁点]ツチのイエス観を読みて大なるインスピレーシヨンを得し後に、また露人ニコラス・アルセニーフの『神秘主義と東方教会』に於て大なる光明に接しつゝある。ロシヤ人は東洋人に最も近い西洋人である。故に最も能く東洋人を解する。彼等は東洋人の如くに感ずる。彼等の基督教は英米人のそれと異なり、東洋人の信仰を表現して誤らなない。今や露西亜帝国の破壊に由りて、高貴なるロシヤ人が全世界に散乱し、其高貴なる思想と信仰とを広く人類の間に散布しつゝあるは神の大なる摂理と称せざるを得ない。恰かも四百五十年前に東羅馬帝国の破壊に由りて東方文化が西欧に移り、文芸復興、宗教改革を起したと同じである。露西亜革命に其意味に於て文明的意義がある。我等は此際大にロシヤ人に学び、新文明を作り、新信仰に入るべきである。英米人の物質的文明、機械的信仰には我等は既に厭き果た。
九月三日(金)霧 引続きアルセニーフの希臘正教会の根本精神に就て読んだ。英米宣教師に由つて半亜細亜的迷信として伝へられし此教会に、深い慕ふべき神秘的真理の存するを教へられて、意外に感じたと同時に、爾《さ》うあるべきが当然であると思うた。唯万事の簡潔を愛する大和民族が正教会の表号的複雑に堪え得るやが疑問である。正教会が日本人の間に栄えん為にはピユーリタン的単純を採る必要があると思ふ。
九月四日(土)雨 暴風雨であつた。雑誌校正を了つた 〇正教会の教義に循へば、キリストの施し給ひし救は全人類全宇宙に及ぶ救であつたと云ふ。自分も度々さう思うた。若し信者の為のみの救であつたならば、誰が信者である乎との問題が起り、終に何人も救はるゝ者なしと云ふに至る。万人救済説は我が救を保証する為にも(93)必要である。キリストの復活を以つて宇宙万物の改造が始まつたと見て、基督教の宇宙的意義が明かに成つて有難くある。西欧の基督教は救を個人に限るの傾きがあつて、それが為に信者を偏狭ならしめた事は事実である。
九月五日(日)晴 二十人余りの同志と共に聖日を守つた。馬太伝十一章二十五節以下を主題として感想を述ぺた。敵を愛し、自己を識りて慾と名誉に死するが唯一平安の途であると語つた。
九月六日(月)半晴 午後大雨。小諸に行いた。病床の小沼五兵衛君を見舞うた。同君方にて木村熊二君に会うた。木村君今は八十一歳の高齢である。耳は聾せしと雖も元気は旺盛である。国を思ひキリストを愛するの情に至つては純武士的である。君はたしかに基督教界の元老である。君に対し我国の信者全体が挙つて尊敬を表すべきである。
九月七日(火)曇 秋の講演の準備を始めた。相変らず面白くある。いつに成つても変らぬは聖書の真理である。之に永久の興味がある。斯かる仕事を神より与へられて感謝の至りである。墓に入る日まで興味の衰へざる仕事である。実に有難くつて耐《たま》らない 〇瑞西ゼネバ在留、政務官前田多門君よりの書面に曰く
……外国に対し誇る所少き吾日本の事物中、是のみ(英文雑誌インテリゼンサー)誇りを以て示し得るを大なる喜びと致居候。但し示されたる外人は、初め吾が示すものが歌麿にあらず、広重にあらずして、彼等のものと自信して居る基督教其物を日本の自慢として、特にその為に雑誌まで作りて、見せつけらるゝに会ひ、一寸驚きを感ずる様に御座候得共、よく理由を説明致し内容を見せ候後は成程と納得仕候。
まことにさう有るぺきである。基督教の西洋逆輸出は我等の予ねて計画してゐた所であるが、然し小規模なりと(94)雖も、少しく行つて見れば、その決して容易でない事が判明る。然し逆輸出は早晩やらねばならぬ事は疑を容れぬ。
九月八日(水)晴 無事平穏の一日であつた。宿の主人曰く「内村さんの御弟子になれば生涯は無難だ、然しうまい事には当らない」と。明言と謂つべし。但しうまい事に当つてもまずい事に当つて之を失ふ虞がある。而して又うまい事に当らないとも限らない。自分の弟子を以て任ずる人の内に商売栄え、地位の益々高き者もある。さう|けなし〔付ごま圏点〕たものでない。内村宗に帰依すれば事業は必ず失敗とは限らない。成功した場合もある。考へて貰ひたい。
九月九日(木)晴 軽井沢に近江八幡のボリス君を訪うた。英文雑誌に対し深き同情を表して貰ふて有難かつた。今や英米人中基督教を棄てゝ仏教に|あこがる〔付ごま圏点〕ゝ者多しと聞いた。斯かる人達に対し我等日本の基督信者より基督教を説いてやるの必要がある。それにしても自国に基督教の崩れつゝあるを知らずして、我等に之を教へんと試みつゝある宣教師の心が解らない。
九月十日(金)曇 蒸暑し。沢山に原稿を書いた。了解を以て羅馬書九-十一章を読んだ。解るやうで解らず、解らないやうで解るのが人生である。凡ての生命が然りである。ハツキリと理学的に説明し得るものは生命でない。勿論人生でない。其心持を以て是等の三章を読めば其意味は明瞭である。
九月十一日(土)半晴 無為の一日であつた。為さねばならぬ事を為す時に成功がぁり、為す必要のなき事を(95)為す時に失敗多きことに就いて考へた。何事も為すべく余儀なくせらるゝまで待つて為すが成功の秘訣である。
九月十二日(日)半晴 秋晴れの麗はしき日であつた。浅間八ケ嶽より雲霧去りて、其雄姿を仰ぐを得て爽快であつた。此日久振りにて何の集会もなく、自分に取り完全の安息日であつた。大なる興味を以て Hastie's Theology of the Reformed Church を読んだ。著者の英国々教会(聖公会)の批判が痛快であつた。ツヰングリ、カルビンの精神を以て始まりたる日本基督教会、組合教会、バプチスト教会等に、ヘスチー氏が此書に於て主張するが如き精神があつたならば、自分も彼等と行動を共にする事が出来たであらう。カルビンが設けし制度のみが在つて、其精神が失せて了つたことは実に痛歎の至りである。
九月十三日(月)晴 山荘の温度八十七度〔約30.6度、入力者注〕に達し、稀れに見る暑さであつた。終日原稿書きに従事した。万人救拯説に大なる慰安を感じた。〔約37.6度〕
九月十四日(火)晴 山を去る準備にて多忙である。一ケ月の粗住、粗衣、粗食は一同に取り善き習練であつた。参考書とては皆無であるが、聖書がある丈けで説教も出来れば雑誌も書ける。孫女の健康を気遣ふ外に何の心配もなく、まことに福ひなる日であつた。山を下れば多くの厭な事が待つてゐる。然し福音を説きつゝ之に当るのであるから心配はない。然し変貌の山に於てペテロが主に曰ひしが如くに「主よ此所に居るは善し」である(馬太十七章四節)。
九月十五日(水)半晴 午後大雨。朝八時家族と共に山荘を引払ひ、午後二時柏木の家に帰つた。家を離れて(96)より三十三日、不在中の重なる出来事は無政府主義者の襲撃を数回受けし事と、飼育のカナリヤ鳥が死んだ事であつた。其他はすぺて平安であつた。不足だらけの山荘を去りて我家に帰りて殿様の御殿に帰つたやうに感ずる。殊に書斎に入りてテーブルに対する時は地上の天国である。
九月十六日(木)曇 老哲学者オイケン永眠の海外電報を読んで悲んだ。彼は自分の如き者にまで深き同情を表して呉れた。『余は如何にして基督信者と成りし乎』の独逸訳の出し時に、第一に之を読んで呉れた者の一人は彼であつた。又今年英文雑誌『インテリゼンサー』を出せし所、之に対してまた深厚の同情を表して呉れた事は本誌読者の能く知る所である。彼は近代に於ける唯一の基督教的哲学者であつた。齢八十歳にして大業を遺して逝いた。実に尊敬すべき人である。弔電を其遺族に送り、遥かに哀悼の意を表した。
九月十七日(金)大雨 雨を犯して英文雑誌社に行き、久振りにて編輯会議を開いた。その徐々として識者の同情を得つゝあるを見て喜んだ。数は少しと雖も其感化は多分『研究』誌以上であらう。まことに感謝の至りである。
九月十八日(土)曇 秋に入つて早々訪問客の襲来が始まつた。「西田天香とは如何なる人か先生の御意見を伺ひたい」と云ふ者、朝鮮に於て或る女学校を米国宣教師の手より独立したれば、其基本金募集に応じて呉れと云ふの類である。日本に純粋なる「訪問」なるものは滅多にない。大抵は自己の為に計る為の訪問である。故に厭に成つて仕舞ふ。何故に世界人類の為に相談に来ないの乎。
(97) 九月十九日(日)晴 麗はしい秋晴れの聖日であつた。朝は畔上と、午後は塚本と高壇を共にした。朝は来会者二百五十人、空席なしの盛会であつた。自分は「理想の実現」と題し、イザヤ書二章、九章、十一章に依り人類の理想の「ヱホバの熱心之を成し給ふべし」とある通り、神の大能に由り実現さるべき事に就て語つた。午後は百五十人、「聖書の全体」に就て述べた。創世記第一章と黙示録の終りの二章とを読み、聖書が永遠に始まり永遠に終る書である事を述べた。今秋第一の例会であつて相変らず気持の好い集会であつた。会員には何の通知を発せざりしも各自待ち設けたりとの気分を以つて争ふて出席した。自分に取りても三十年以上も継続し来りし此集会が今秋も亦勇み進んで之を始むる事が出来て感謝此上なしである。「ヱホバを俟望む者は新たなる力を得ん、また鷲の如く翼を張りて昇り、走れども疲れず、歩めども倦まざるぺし」とは此事であらう(イザヤ書四十章三一節)。
九月二十日(月)晴 久振りにて疲労の月曜日である。巣鴨宮下に田村直臣君を訪うた。不相変基督教界の現状につき多くを聞かせられた。聞く事凡て意外ならざるはなしである。此社界には依然として寛容もなければ罪の赦しもない。兄弟相苦しめ、相排斥するの状態である。是では教勢の振はぎるは無理はない。我等は「営《かこひ》の外」に出て我等の信仰を維持するまでである。
九月二十一日(火)半晴 朝鮮京城高橋慶太郎君より左の如き通信があつた。
昨日(十七日)当地に於て『聖書之研究』読者会を基督教育年会社交室に於て開き申候。会する者二十九名(内鮮人五名)、官吏あり、教員あり、牧師あり、救世軍士官あり、医師あり、会社員、銀行員、商人、理髪店主など、内村先生と研究誌とを中心として、祈り、歌ひ、語りて尽きず、中には第一号よりの愛読者も二(98)三あり、何れも研究誌によりて励まされ、慰められ、力附けられたる者、教会教派を超越して集まれる者、全く研究誌の力に候。再会を期し感謝の裡に散会致し候。
九州読者会に次いで朝鮮読者会開かる。此次ぎは何処にや。斯くして到る所に読者会を見るに至つて、落着いたる精神的復興が全国に始まるのではあるまい乎。何れにしろ感謝すべき事である。
九月二十二日(水)雨 孫女正子の第一回誕生日である。先づ少額の金を鎌倉保育園に送り、保育者なき孤児達に我等の喜びを頒つて貰つた。余《あと》は日本流に強飯《こはめし》をふかし、家族一同之に与りて彼女の強健なる成長を祈つた。
我家にをさなき者の生《でき》てより
天下の幼児《えうじ》は悉く我が孫として見ゆ。
そして彼等が生長する頃には日本国は如何《どう》なるであらう乎との心配が毎日我が胸に浮ぶ。|孫を愛するの愛は此国を善く為さんとするの努力に終らねばならぬ。是等の愛すべき幼児の為に善き国を遺して逝かねばならぬ〔付○圏点〕。
九月二十三日(木)雨 両雑誌の原稿成作で多忙である。日本人に向つてキリストの福音を説き、欧米人に向って基督教殊に非戦的平和の実行を要望する。日本人は憐まざるを得ずと雖も、欧米人は之を怒らざるを得ない。彼等欧米人は基督教を信ずると称して之を行はない。彼等は戦争を罪悪なりと認めず、公々然と之を行ふて耻ぢない。彼等が戦争を止むるまでは我等は彼等の遣はす宣教師を公然と斥けて可なりである。
九月二十四日(金)雨 正教会祭司某君の懇請に由り辞するに途なく、雨を冒して茨城県の或る村落へ講演に行いた。正教会所属の信者の催しにかゝる講演会ならんと早合点して行きしが自分の誤りであつて、実は普通の(99)村の青年会であつた。雨を冒して村の小学校に集り来りし遠近の人々凡そ四百人あつた。「宗教と人生」と云ふ題にて話した。宗教の何たる乎に就て諭ずるに方て余りに熱心に成りしが為に、聴衆中の老人達より「|あれでは我等に洗礼を授けて教会に引込む手段に成るから止めて貰ひたい〔付△圏点〕」との抗議が出た。自分は勿論そんな心算で言うたのでない、唯宗教を説いた丈で、特に自分の宗教を説いたのでないと弁解したが容れられなかつた。然らば「禁酒」でも説かん乎と申出た所、「それは猶更ら困まる」との事であつた。宗教は困まる、禁酒も困まるとの事故、自分も甚だ困まつて止むを得ず「土壌を愛するの愛」と云ふ事に就て語り、それで先づ無事に閉会することが出来た。実に風変りの講演会であつた。自分の長い生涯に於て斯かる講演会に臨んだ事は今度が初めてゞあつた。然し決して無意味でなかつた。日本今日の社会状態を能く語るものである。宗教禁酒の必要は感ずるが余り強く言ふて貰ひたくない。殊に村会議員と云ふやうな有力者の感情を害して貰ひたくない。何事も通俗的に穏便に行つて貰ひたいと云ふのである。実に微温《ぬるま》つこい、不徹底的な、懶惰な精神である。斯んな事で改革の実の挙らないのは勿論である。之に由て見ても、日本全国殊に其東北が亡国の危険に瀕してゐる事を認めざるを得ない。実に堪え難き悲歎である。此事を思ふて其村に長居する心も起らず、疲れるとは知りつゝも其日の内に家に帰つた。幸に汽車中に、往きも復りも米国レフホームド教会宣教師ミラー君と席を隣にし、米国の近代思想、並に同君の我国に於ける長い年月の実験談を聞き、大に教へられ、十時間の汽車旅行を有益に過すことが出来て感謝であつた。今後我が講堂以外に於ける説教講演は成るべく丈け為さゞるぺしとの決心を一層強くした。
九月二十五日(土)半晴 昨日の講演旅行にて大分に疲れた。宗教を聞けば洗礼を授けられて教会に引込まれるのではないかとの心配を村民にまで起させるやうに為した人達は誰である乎。欧米宣教師に使役せられて信者狩集めに従事する我国の職業的伝道師等ではあるまい乎。斯くて彼等は自己も天国に入らず、亦人々の前に天国(100)の門を閉づる者である。我等は此事につき村人を責むるよりも是等の浅慮なる伝道師等を責めざるを得ない。伝道は人を救ふ事であつて教会員を作る事でない。沃饒なる神の畑を荒す者は是等の職業的伝道師である。福音の為に、日本国の為に是等の人々に反省を促がさゞるを得ない。
九月二十六日(日)半晴 午前午後とも凡そ二百人の集会であつた。午前は詩篇百三十三篇、馬太伝十八章十九、二十節につき「団合一致」の幸福につき、午後は創世記の大意に就て語つた。「我が家」に於て語るの如何に易く、如何に楽しき事よ。外に講演して身心を労するよりも遥かに益である 〇今や社会に於て不思議なる事件が起りつゝある。三十五年前に自分を不敬漢と罵りて社会に訴へし帝大名誉教授、貴族院議員、文学博士井上哲次郎氏が不敬漢として一部の人より攻撃せられ、社会の問題と成りつゝある。それは同氏が其著書に於て三種の神器に関し不敬的意見を述べてゐる故であると云ふ。事の可否は知らずと雖も、変れば変る世の中である。三十五年前に誰が、井上哲次郎氏が不敬漢として日本の社会より攻撃せらるゝ時が到来すると思うた乎。然し是が世の中である。今日の忠臣が明日の国賊である。井上氏は三十五年後の今日、人に不敬漢として責めらるゝ事の如何に不愉快なる乎を覚られたであらう。同氏に対し同情に堪へない。
九月二十七日(月)晴 復たび夏が来た。室内温度八十度。来客多し。内に麑児島県徳之島に十年間独立伝道せる小沼(元松本)太平君があつた。彼地に於て福音が根ざせる実見談を聞いて非常に楽しかつた。教会や宣教師に無視せられつゝある間に斯くも確実なる伝道上の功績の挙るを見るに至つて感謝の至りである。神は我等を以てしても亦或る永遠性を帯びたる善き事を為し給ひつゝある。多分他の所に於ても同様の事が為されつゝあるので(101)あらう。
九月二十八日(火)晴 三菱造船会社技師桝本重一氏は本月廿三日山陽線に起りし鉄道大椿事の犠牲者の一人であつた。彼の家は日蓮宗であるが、彼の妻は基督教信者であり、彼れ自身が亦過る一ケ年程頻りに求道心を起し、自分の著書を読み、自分を慕ひ呉れしとの理由に因り、諸友人の勧めに由り、自分が其葬儀を務むることになり、市ケ谷教会牧師金井為一郎君と共に、今日午後二時より青山会館に於て基督教式の葬儀を行つた。三菱、海軍省、鉄道省関係の会葬者多く、会衆四百人余りあつた。自分は路加伝十三章一-五節に由り「災難是れ神の警告」なりと云ふ事に就て語つた。知らざる人達に対し、知らざる人に代つて語ることであれば随分と骨が折れた。然し一には犠牲者全部三十八人の葬儀を行ふと思ひ、二には信仰の立場に堅く立ちて動かざりし未亡人の志を遂げん為に、出来得る限りの力を注いで此六ケ敷き任務に当つた。そして金井牧師並に唱歌の任に当られし若き兄弟姉妹達と協力して滞りなく責任を果たす事が出来て感謝であつた。是れ亦神と日本国とに対し為さざればならぬ義務であつたと思ふ 〇帰途上渋谷に此たび八十八歳の生みの母を喪はれし旧友松村介石君を訪れ、君に対し深厚の同情を表した。今より二十年前に、余の父が眠りし時に、松村君は海老名弾正君と共に招かざるに駈つけて呉れた。そして自分と共に墓地まで棺の前に歩んで呉れた。其事を思ふて、今日松村君に会ふて胸が一杯になり、咽んで声が出なかつた。親の死目に際し表して貰つた同情は生涯忘れる事が出来ない。今日は松村君に対し|いさゝか〔付ごま圏点〕恩を酬ゐた次第である。
九月二十九日(水)晴 四五日来の連続の講演説教で大いに疲れ、何事も為し得なかつた。唯沢山にベルグソン哲学を読んで休養に代へた。近頃に至り益々教会の宗教の無能を感じ、其神学者等に由て書かれたる書籍を読(102)むことの全く無用なるを覚り、教会以外の学者の書いた書物を読みたくなつた。其点に於てオイケンやベルグソンの方が、神学者よりも遥かに有益である。又近頃に成り孟子を読出し、是れ亦非常に面白くある。最近哲学を読んで感ずる事は、其の何れもが行為を重んじて知識を軽んずる事である。行為に資する為の知識であつて、知識を得る為の行為でない。是れ主イエスの教へ給うた所であつて哲学は唯此旧い教義を科学的に証明するまでゞある。
九月三十日(木)雨 引続き多忙である。老いたればとて人は許して呉れない、色々と面倒の事を持込んで来る。自分を学者として取扱つて呉れる者は滅多にない。人を救ふ為の牧師か宣教師であると思ひ、学問以外の事を持込んで自分を困らせる。此世は到底俗世界たるを免れない。厭になつて了ふ、然し仕方がない。
十月二日(金)曇 人あり北海道某地より来る。キリストの再臨ありて今日本の或る宮様となりて在し給ふ。先生宜しく此事を唱へ、大々的政治運動を始むべしと云ふのであつて、純然たる宗教狂である事が判明つたから、静に諭して帰した。恐るべきは再臨の教義である。此教義程多く狂人を出したものはない。日本に於て再臨を説くは甚だ危険である。此深き美はしき教義は当分の間我国人に秘め置かねばなるまい。実に慨歎すべき事である。
十月二日(土)晴 ボイス・ギブソンの著に由りオイケン哲学を復習した。実に解し易き偉大なる哲学である。本質的に基督教哲学である。基督敦に哲学的基礎を与へた者と云ふ事が出来る。宇宙の本体は理想を行つて知る事が出来ると云ふのである。爾うなくてはならない。斯かる哲学者であつたが故に、自分の如き者の書いたもの(103)を興味を以て読んで呉れたのである。感謝に堪へない。
十月三日(日)晴 麗らかなる秋晴れの聖日であつた。朝は八分、午後は殆んど満員の集会であつた。朝はヨハネ伝七章七節其他に基き、「知と行」に就て語つた。行は確実に知る為の途である。単に知つて而して後に行ふに非ず、行つて而かして後に知るのである。又行ふて神に接して其援助に与るのであると云ひて、オイケン哲学の原理の説明を試みた。午後は青年男女二百余名の集会であつて、堂は鋭気を以て盈つるの感があつた。前回の創世記につゞき今日は出埃及記の大意並に中心的実理を紹介した。殊に此書に由りモーセ伝を学ぶの必要を力説した。自分までがアマスト時代の若さに返つたやうに感じた。青年に聖書を説く程人を若返らする事はないと思ふ。モーセの生立並に青年時代に就て述べて自分は今日|すつかり〔付ごま圏点〕若返つて仕舞つた。
十月四日(月)晴 平穏の一日であつた。外には種々の混乱のあるを聞く、然し幸にして目下の所、我等同志の間は平和である。平和の破るゝ場合は大抵は教会関係より来る。教会は争闘、紛糾、混乱の巣である、之に接して我等は其悪影響を蒙らざるを得ない。我等は君子の交際を求むる、そして教会は何んであつても君子道の行はるゝ所でない。今日も某教会の教師某君の訪問を受け、彼の教会の内状を聞かされて身の毛がよ立つ程恐ろしく感じた。
十月五日(火)晴 九州某地の日本メソヂスト教会牧師某氏と朝鮮咸興道某地の長老教会牧師某氏と相前後して来訪し、大に学ぶ所があつた。朝鮮人の方が日本人よりも遥かに真剣である。日本人は政略に長け、最も容易《たやす》く最も多くの信者を作らんと欲して、其手段方法を聞かんと欲するに対して、朝鮮人は今日まで自分の著書より(104)受けし利益に就て感謝し、併せて将来の友誼的指導を求めた。日本の教師は如何に見ても此世の才子であり、朝鮮の牧師はキリストの福音に生きる聖徒である。信仰的に見て朝鮮は日本内地よりも遥かに有望である。九州に在りては教会員は僅に三十人でありて米国宣教師の指揮を仰ぐと云ひ、朝鮮に在りては教会員は三百人であつて、外国宣教師よりは全然独立せりと云ふ。二者の間に雲泥の差ありと謂ふぺし。
十月六日(水)雨 蒸暑いいやな日であつた。出埃及記に就て考へた。荘厳偉大なる書である。其記事を歴史的事実と見るが正当であると思ふ。救は凡て神より出づ。我等は自分で何事も為す能はず、然れども神が為し給ふ場合には驚くべき事を為し給ふ。紅海の横断、マナの雨降は少しも不思議でない。聖書学者の学説を離れて聖書を解する事の如何に美はしきことよ。
十月七日(木)曇 昨夜々半より今朝にかけて、ヘスチー著『レフホームド教会の神学』の第四章を読んだ。我が信仰の根本を強められた。レフホームド教会の承継者たる「日本基督教会」の教師達に此信仰があつたならば、彼等が瑣細の事に就き争ふを止めて、世界人類の霊化の為に其全力を注ぐに至るであらうと思うた。彼等の凡てに此書の一読を勧めざるを得ない。
十月八日(金)雨 久振りにて会心の聖書研究に入る事が出来て楽しかつた。自分には、政治は勿論の事、社会改良、慈善、伝道までが向かない。何れも多少現世味が混《まじ》るからである。唯聖書の研究のみが出世間的で、清潔で、神聖である。義侠心に駆られて時々此世の事に携はりて恒に後悔する。聖書以外の事を以て此世を益せんとするが、自分が恒に陥る過である。
(105) 十月九日(土)雨 孫女の病気で心配した。老夫婦附添ひにて赤十字社病院に行いた。彼女を護る天使が天に在りて天父の聖顔を見てゐるとは知りながらも心配に堪へない。此は多分嬰児の安全を計るために神が我等の心に植附け給ひし本能であらう。在独逸内村医学士より善き音信があつた。
十月十日(日)晴 朝は百六十人、午後は二百人の集会であつた。朝は使徒行伝十五章「ヱルサレム会議」に就て、午後は利未記大意に就て講じた。孰れも力の要る講演であつた。両回の塚本の講演も有力であつた。我等の集会に於て歌は拙劣で、又別に社会事業らしきものは行はないが、聖書の講義丈けは優秀であると思ふ。万事に於て優等たる事は出来ない、唯神の言丈けに於ては豊富ならんことを期す。そして此目的を達し得て感謝の至りである。
十月十一日(月)曇 雑誌十月号を発送した。第一号が明治三十三年の発行であつて、今月で満二十六年である。今日は民数紀略の初めの半分十八章を通読した。まことに荘厳偉大なる書である。之を読んで身の震ふを覚ゆ。此書に依て神の畏るべき者である事が教へらる。キリストなる巌の影に隠れたくなる。そして此畏れが起らずして十字架の有難味は解らない。
十月十二日(火)晴 民数紀略の終りの半分を読んだ。偉人モーセに対し甚大の尊敬と同情と無き能はずであつた。旧約聖書の研究は我が青年時代を想ひ出さしめ、我が余生を全部此為に送らんとの慾を呼び起さしむ。今より後は個人並に地方に対する奉仕は断然之を謝絶し、墓に入る日まで此研究に我が残余の生涯を費さんとの決(106)心を起した。
十月十三日(水)晴 民数紀略の研究に多大の興味を覚えた。二十年間も書架に仕舞ひ置きしブユーケナン・グレーの該書註釈が今に至つて用を為し、自分に取りては多くの新らしい見解を得て嬉しかつた。高等批評と云ふて決して侮つてはならない。多くの困難い問題が之に由て解決せらる。民数紀略の面白味を知らない者は未だ聖書の貴さを味はうた事のない者である 〇札幌より宮部博士の来訪あり、連れ立ちて旧い同窓の一人なる渡瀬寅次郎君を其病床に見舞うた。祈祷を共にして別れた。五十年前の事が思ひ出されて三人涙を禁じ得なかつた。人生の夕暮に近づいてキリストの福音ほど我等を力づくるものはない。
十月十四日(木)晴 百万長者に成りたい者、爵位を貰ひたい者、貴族院議員に成りたい者、実に世は様々である。而かも斯かる者がキリストの名を以て呼ばるゝ人達の内に在ると聞いて更に驚く。然し乍ら自分の如きも今は幸にして斯かる物を求めざるに至つたが、素々斯かる賤しき望を懐かざる者ではなかつた。唯神の恩恵に由りて之を求めざるに至つたのである。何事も恩恵である。恩恵に由らざる自分も亦、利慾の人、虚栄の奴《やつこ》であつた。消え行く影を逐ふ人達を見る毎に、自分に降りし恩恵の大なりしを感謝せざるを得ない。
十月十五日(金)曇 英文雑誌『インテリジエンサー』十月号に自分が書いた「基督教と仏教」と題する短文が強く読者に訴へたと見え、知名の人達より同意賛成の辞を受取りつゝある。基督教と仏教とは同じく亜細亜に起つた宗教であつて愛と無抵抗主義とを根本とする。故に二者は相互の敵に非ずして、其反対に強き味方である。両教徒は互に手を携へて、西洋の侵略に当るべきである、即ち愛を以て凡ての事に争闘を事とする欧羅巴=亜米(107)利加主義に当るぺきであると云ふのが論旨である。斯くて自分は宣教師並に基督教会とは益々遠かりつゝある間に、他の方面に於て貴き強き同志を得つゝある。今や西洋殊に英米が東洋を排斥しつゝある時に、東洋人は愛を以て結合し、西洋人の無礼傲慢に応ずるの必要がある。問題は基督教対仏教ではない、東洋対西洋である。而かも悪を以て悪に抗するのでない、善を以て悪に勝つのである。
十月十六日(土)雨 陰鬱ないやな日であつた。朝四時に起き英文原稿を書いた。英語を以て我が思想を言表はす事を忘れないで有難つた。此日久々振りにて隣家の中田重治君の訪問を受けた。多くの珍らしき話を聞いた。内に同君が植村、田村、松村、内村の、世間で云ふ「基督教界の四村」を読み込みし大和歌一首があつた。左の如し
植〔付○圏点〕替《かへ》は過ぎて|田〔付○圏点〕は苅りおさめられ
松〔付○圏点〕はみどりに|内〔付○圏点〕は有福
まことに名歌である。ホリネス教会監督中田君ならでは作り得ぬ歌である。植村君は逝き、田村君は日本基督教会に帰復し、松村君は道会に栄え、内村は有福に暮らす、之で基督教界は平穏無事である。但し内村の有福と云ふは意味が不明である。彼が大地主と成つた事でないに相違ない。或は中田監督紹介の伝道寄附金には成るべく応ずるやうに努めて居るが故に、同君が自分を有福と見て取つたのかも知れぬ。或は教会宣教師よりは厘毛の補助を受けないが故にさう見られるのかも知れない。然し何れでも可い、常に生活の困難を訴ふる事なくして、恩恵の生涯を続ける事が出来て感謝である。此世の所有の高は別として内村は実に「有福」である。主イエスが何々は「福ひなり」と云ひ給ひし其意味に於て有福である。中田監督は好き歌を作つて呉れた。たゞ田村君の|田〔付○圏点〕が旧き日本基督教会に苅り収められた事は残念至極である。同君をして独立独歩の生涯を終らしめたかつた。然し(108)今と成りては仕方がない。残るは松村と内村である。二人丈けは教会に降参せずして終るであらう。一首を作つた。
植〔付○圏点〕さりし|田〔付○圏点〕面《おも》に秋の風吹きて
みどりは深かし|内〔付○圏点〕の|松〔付○圏点〕ケ枝
十月十七日(日)曇 午後晴。集会変りなし。午前はガラテヤ書二幸に由り、前回の使徒行伝十五章を補はんが為に「ヱルサレム会議の裏面」に就て述べた。牛後は「民数紀略の大意」に就て語つた。思ふやうに語り得ずして残念であつた。然し語るは語らざるよりも遥かに増しである。「我れ若し福音を宣べ得ずば禍ひなる哉」である。
十月十八日(月)晴 「米国人は日本人に宗教を教へ得る乎」と題する英文を書き終つた。「教へ得ず」と結んだ。之を英文雑誌の来月号に載せて外国人に示すであらう。如此くにして我が所信を世界に向つて発表する事が出来て感謝である。之も不完全ながらも英文を書く事を習つて置きしお蔭であると思へば有難い。
十月十九日(火)晴 疲労去らず、何事も為し得なかつた。唯古哲プラトーの有神論を読んで其壮大なるに驚いた。二千二百年後の今日、人類を教へて愆《あやま》らない。大なる思想を世に提供するは大なる事業である。米国流の大活動のみが大事業でない。今日の所謂基督教界の如き其点に於て到底昔の希臘人に及ばない 〇今日も亦『東京朝日新聞』の押売りに会ふて困難した。購読しなければ夜来て家を打毀すぞと云ひて脅迫する。是が帝都今日の状態である。気持の悪い所である。
(109) 十月二十日(水)晴 プラトーの倫理論に就て読み大に力附けられた。人は皆な神の傀儡である、王たり工たり択ぶ所はない、唯各自の役割を善く演ずべきであると。まことに其通りである。汝は斯く為さゞるぺからずと他人の世話を焼いてはならない。王たる者は忠実に王たるぺきである、商たる者は忠実に商たるべきである。唯各自の上に神が在して其の聖意を遂ぐるが為に使はれてゐる事を忘れてはならない。異教の哲学者の教ふる所は遥かに欧米宣教師等の教ふる所に優さる。読むべきは矢張り古書である。
十月二十一日(木)晴 四時間を賛し仏国製ヴイクトル・ユーゴー作『レーミザラブル』の映画を見た。悲劇の連続であつて心臓の痛みを感ずる程であつた。大作ではあるが其人生観は全然ラテン人種的で、随つて羅馬天主教的である。新教的の壮健なる所が欠けてゐる。然し乍ら映画の技術に驚くべき者がある。年毎に著るしき発達のあるを見る。之を能く用ひれば大なる教育機関である。
十月二十二日(金)晴 両雑誌の編輯に全日を賛した 〇孟子に左の言を読んで感じた。
城郭全からず、兵甲多からざるは、国の災に非ざるなり。田野|辟《ひら》けず、貨財|聚《あつま》らざるは国の害に非ざるなり。上に礼なく、下に礼なければ、賊民興りて、喪《ほろぶ》ること日なけん矣。
偉大なる言である。聖書の教を待つまでもない、二千二百年前の東洋に此教があつた。然るに之を顧ずして今日に至つたのである。「賊民興りて喪ること日なけん」の言を読んで我国の将来が憂慮に堪へない。
十月二十三日(土)晴 引続き小児の養育に困難する。僅か二貫三四百匁の体躯の健康を維持せんが為に我が(110)脳漿を絞らる。人間の生命の如何に貴きかゞ判明る。小児が無事に成長するは全く神の恩恵に依る。祈らざるを得ない。
十月二十四日(日)半晴 集会変りなし。唯如何なる理由にや朝の集会の出席者が二三十人減じた。一は午後の会に廻はつたのと、二には少しく会員資格を厳重にした為に退会者を生じた故であらう。そうであれば反つて感謝である。朝は使徒行伝十六章一-十一節を「福音欧洲に渡る」と題して講じた。午後は民数紀略十三章十四章に現はれたる信仰生涯の危機に就て語つた。二回とも気持好き集会であつた 〇雑誌『日本及日本人』十月十五日号に東京帝国大学名誉教授学士院部長貴族院議員正三位勲一等井上哲次郎氏が皇室に対する不敬の故を以て諸方より痛撃せらるゝを読んで不思議に感じた。其内に左の言をさへ見た。
神武天皇即位以来二千五百八十六年、其の間時の汚隆世の治乱なきにあらざれども、未だ嘗て祖宗の聖徳を誣罔し奉りしものあるを聞かず。又未だ嘗て、神器の威尊を冒涜せるものあるを聞かず、其の之あるは実に彼の哲次郎のみ云々
と。多分日本臣民として之よりも強い攻撃を加へられたる者はあるまい。然るに此井上哲次郎氏こそ明治の二十四年頃、自分を第一として基督信者全体の不敬の罪を天下に訴へた人であつた事を知つて実に今昔の感に堪へない。三十五年前の日本第一の忠臣愛国者が今日の日本第一の不敬漢として目せらるゝとは信ぜんと欲して信ずる能はざる不可思議である。自分の如き井上氏の痛撃に会ふて、殆んど二十年の長き間、日本全国に枕するに所なきに至らしめられし者に取て、井上氏今回の不敬事件は唯事とは如何しても思はれない。何にか其内に深い意味があるやうに思はる。斯く言ひて今日井上氏に対し怨みを報ひんと欲するのでない。自分の場合には痛撃は壮年時代に臨んだのであつて、之に由りて蒙りし傷を癒すの時があつた。然し井上氏の場合に於ては老年に於て之が(111)臨んだのであつて、傷を癒すの時の甚だ短きを思ふて、其事丈けは氏に対し深き同情無き能はずである。願ふ井上氏が此際男らしき学者らしき態度に出られ、立派に此難局を切抜けられんことを。
十月二十五日(月)半晴 他人の妻と情死する事が今尚流行する。有島は厭な例を遺して逝いた。毎日ラヂオを以て浄瑠璃や清元を聞かされる民が斯かる行為に出るは怪むに足りない。|姦婬とは特に他人の妻又は夫の愛を奪ふ事である〔付△圏点〕。人に対する罪として是れ以上のものはない。近代人は知らず識らずの間に罪の此どん底に陥りりつゝある。慨歎の極みである。
十月二十六日(火)晴 木村清松君世界一周旅行より帰り、其訪問を受け、種々の実見談を聞き、面白く且有益であつた。大抵は自分が想像した通りであつた。世界は善くなりつゝあるか悪しくなりつゝあるかは判明らないが、神が活きて在して、其聖意が行はれつゝある事は明かである 〇長き間病に悩める或る信仰の友より左の如き言を贈つて来た。
病を治す為に信仰をもつのでなく、信仰をもつ為に病が与へられたのである事をハツキリと天父に由つて解らされてからもう一年を経ました。絶対的信頼と従順との生活の有難さ楽しさも次第に深く知りつゝあります云々。
此は最も健全なる信仰である。斯かる信仰を賜はるは優かに病を治して戴く以上の幸福である。我も人も斯かる信仰に入りたくある。
(112) 十月二十七日(水)晴 不養生を為し、昨夜は睡眠を失ひ、今日は何事も為し得ず、貴き一日を無益に過して甚だ済まなく思うた。摂生は大なる義務である。肉体を傷めるは霊魂を汚がすに劣らざる罪悪である 〇或る地の或る婦人より左の如き感想が達した。
私が『聖書之研究』を愛読いたす様になりましてから彼是十五年程になります。……私は母の信仰により十歳の時に小児洗礼を受け、十八歳の時に信仰告白を致しまして〇〇日本基督教会の会員に成りました。其後『聖書之研究』を愛読致す前までは私の信仰は生温いものでありました。が研究誌を読んで居ります内に段々と私の信仰が変つて参りました。今までの生温い曖昧であつた事が神様に対して何とも申訳のないと云ふ様になりまして、私の魂に夜が明けまして美しい太陽が昇つて参りました。そして本当に十字架上のヱス様を仰ぎ見る事が出来ました。それ以来云々
と。以上は自分に取り有難い証明である。自分を以て「既成教会の破壊者なり」と云ふ神学博士の方々に斯かる実例を参考して貰ひたい。
十月二十八日(木)雨 台湾某地に明治大学出身の「学識高大」の某教会伝道師台湾人某氏と云ふが在る。其人が其附近に居る本誌読者の一人に語りし事は左の通りであつたと云ふ。
ハーそれだからいけない。あの人の雑誌を私も昨年まで読んでゐたが、どうしてもいけないから廃読して了つた。あの人は聖書を大に誤つてゐる者である。教会に排斥された結果あの人は無教会といふ異説を立たものである。あの人の説は実に冒涜が甚だしい。聖書に依ると古来教会はあつたものである。内村は其旨に背いてゐる。それは内村が元教会と衝突した為に基づく。決してあの人の説を信じてはならない。
と。そして尚沢山に自分を攻撃したとの事である。朝鮮に於ても同じ攻撃を加ふる宣教師並に伝道師が沢山ある(113)と朝鮮人某氏より聞いた。今に至つて自分で自分を弁護しない。唯幾たびか本誌で言うたやうに、|教会の信者達は成るべく此雑誌を読まざるやう自分より彼等に勧告する〔付△圏点〕。『聖書之研究』は主として教会外の人に聖書知識を供給するを以て目的とする。故に教会の人達には成るべく読んで貰ひたくない。教会に排斥さるゝ事は自分の最も幸福とする所である。
十月二十九日(金)曇 ヨシユア記を読み大なる力を得つゝある。聖書を素読する丈けで充分である。別に註解書は要らない、殊に旧約聖書に於て然りである。聖書に神の聖意を読んで此世の事はどうでも可くなる。新聞紙は唯目を通うす丈けであつて、注意を惹くに足る記事には一も見当らない。
十月三十日(土)半晴 校正と講演準備とにて相変らず多忙であつた。今日家族の者に語つた、西行法師は「願くは花の下にて我れ死なん、その|きさらぎ〔付ごま圏点〕の望月のころ」と歌つたが、自分は講壇の上か、テーブルに対しペンを以て原稿を作りつゝある間に死にたいと。多分神は自分の此願を納れて下さるであらう。如何でもよい問題であるが、語つた事を記して置く。
十月三十一日(日)快晴 聖日にして天長節である。朝は七分通り、午後は満員の集会であつた。使徒行伝十六章と、申命記大意とを講じた。殊に午後の青年本位の集会が愉快である。人に何んと評せられやうと、自分自身には毎日曜日の集会が無間の幸福である。縦し此上五十年の活動期限が与へられやうとも、自分の為さんと欲する仕事は尽きないと思ふ。差当り来年の末までの講演の題目は既に定まつてゐる。
(114) 十一月一日(月)晴 市内に於ては汎太平洋学術会議が開かれつゝある。目下の自分には関係の無い問題が議せられつゝあるが故に、自分が傍聴に出かける必要はない。然し斯かる重要なる会議が我が国に於て開かるゝに至りしは祝すべき事である。日本人は学術に於ても欧米人の後に落つべきものでない。必ずや西洋の学者の気が附かざる所に気が附き、世界の知識に大なる貢献を為すであらう。
十一月二日(火) 晴 朝早く起きてヨシユア記を読み了つた。勇ましい書である。殊に十三章一節に感じた。「ヨシユア既に年邁みて老いたりしが、ヱホバ彼に曰ひ給ひけらく、汝は年邁みて老いたるが尚ほ取る(征服す)ぺき地の残れるもの甚だ多し」と。我等各自も亦年老いて尚征服すべきものゝ甚だ多きを感ず。然れども神は我が後に来る人達を以てして征服を完うし給ふと信ずる 〇伊藤一隆氏と共に再び旧同窓の一人たる渡瀬寅次郎氏を彼の病床に訪うた。コリント前書十五章五十節以下を読み、祈祷を共にして辞し去つた。過去五十年が夢のやうに浮んだ。明治十年は昨日であつた、そして我等各自の此世の仕事を終へて神の召しに応ぜねばならぬ時が近づいた。然し自分はヨシユアと共に曰ふであらう、「他人は知らず、我れと我家とはヱホバに事へん」と(約書亜記廿四章十五節)。
十一月三日(水)晴 雑誌『日本及日本人』十一月一日号に又複文学博士井上哲次郎氏に対し多くの攻撃文が載せてあるが、其内に左の言を見た。
元来曲学阿世で来た男で、基督教攻撃も人気取りの為にし、学者として生命が長かつたのも巧みに泳いだからである。云々
嘗つては我が国体擁護と忠君愛国の学説を専売特許にしたる井上博士、今は反つて国体を冒涜する不敬を以(115)て世に問はれんとするに到つたのは、何んたる皮肉であるか。併し偽物は何時か終に其化の皮を表はす。彼の国体擁護と忠君愛国の議論は売名の為めであり、曲学であり阿世であつた事が今更ら顕然と剔抉されたのは痛快至極だ。
三十五年前には不敬の故を以て井上博士に痛罵嘲弄せられし我等基督信者は語らんと欲して語るを許されず怨みを呑んで今日に至り、或は眠りに就きし者もあつたが、今日に至り我等ならずして、前きには博士と共に我等を迫害せし人等が、今や彼に対して前述の如き言を発するを見て、我等は自己を弁護するに及ばず、弁護は之を「時」に委ぬれば足るとの事を益々切に感ぜしめらる。敢て茲に井上博士に対し歯を以て歯に報いんとするのでない。唯博士の知るが如くに、人生にネメシスなる者があつて、縦令微弱なる基督信者なりと雖も、時到れば其無罪は無罪として認めらるゝことを茲に告白する次第である。
十一月四日(木)曇 夜雨。十一月号の校正を終つた。トルストイ論文集の中より、「無抵抗に就て」、「宗教と道徳」、「宗教と道理」、「何故に人は自己を痲痺する乎」、「殺す勿れ」の五篇を読んだ。何れも大論文である。論旨明晰なること水晶の如しである。其内に幾度か「教会クリスチヤン」なる詞の使はれてゐるを見た。「教会信者」なる詞は自分が初めて作つたものであると思うたが、自分よりも遥か前に杜翁が使つてゐるを見て大に心を安んじた。彼に在りても「教会クリスチヤン」は悪い者である。彼は|基督教の最も悪い敵は基督教会である〔付△圏点〕と言ふて居る。故に此事に就て余を攻撃する教会の人達は先づトルストイ翁を攻撃すべきである。トルストイ論集を読んで何人も教会を尊崇することは出来ない。
十一月五日(金)晴 知人友人の間に病人が多い。同窓の渡瀬寅次郎君、同志の山口菊次郎君、何れも重態で(116)ある。其他病院に在る者、病床に臥する者挙げて数ふべからずである。疾病必しも罪の結果ならずと雖も、少くとも神の警告たるは明かである。疾病の由て来りし原因を探りて大に覚る所がある。そして其原因を取除いて大抵の場合に於て疾病を癒すことが出来ると思ふ。
十一月六日(土)曇 忙がしい日であつた。札幌時代の旧友伊藤一隆、宮部金吾の両君我家を訪ひ、自分と三人鼎座して今や危篤の状態に於て在る渡瀬英次郎君の万一の場合に於て我等の採るべき途に就て協議した。結極自分が旧友を代表して責任に当る事に議決し、其旨を夫人に通じた。斯かる協議を為さねばならぬに至りしに由て、我等の生涯の夕暮の近づいた事を知らしめらる。悲しい職務であるが、然し避け難き責任である。
十一月七日(日)半晴 集会変りなし。朝は「ピリピ書の一瞥」と題し、該書の要点を講じた。是は前回の行伝十六章のパウロのピリピ伝道の研究を補はんが為であつた。午後はヨシユア記の大意を講じた。此書を読んだ事のある人の尠い聴衆に説明するのであつて甚だ骨が折れた。前週は多く此世の俗事を持込まれ、それが為に心の平安を擾され、今日は思ふやうに熱心が注がれずして残念であつた。聖書を講ずるに方て、俗事に携はる程悪い事はない。
十一月八日(月) バビロンに行いた。長らく求めつゝありしリス・デビズ著「仏教時代の印度史」を探し当てゝ帰つた。其他は全く無益の一日であつた。国と社会の事を思ふ時に我心は混乱する。自分の完全なる平和は聖書の研究に於てのみある。然るに旧友や教会信者等が度々此平安より自分を引出して多くの苦痛を与へる。悪い人達である。
(117) 十一月九日(火)晴 近頃切に感ずる事は、日本人が依然として宗教家を馬鹿にする事である。彼等が宗教を必要とする時は、一生に唯二回ある。青年時代に苦学する時と死に臨んで平安を求むる時である。其他の時に於ては彼等は宗教を無視し、厄介物視し、成るべく之に携はざらんと努む。斯かる次第であれば、彼等に道を説くは甚だ気の進まぬ事であるが、然し神の命であれば止むを得ない。大抵の場合は無効であると知りつゝもキリストの霊に強ひられて之に従事する。
十一月十日(水)曇 汎太平洋会議を傍聴した。人類学部の講演が面白かつた。
十一月十一日(木)雨 青山学院講堂に於て農学士渡瀬寅次郎氏の葬儀が行はれた。自分は札幌時代の旧友を代表し一場の感想を述べた。君は自分と同窓同信の友であつたが、自分の伝道には何の興味をも有たれなかつた。東京在住四十年間、一回も自分の集会には出席せられなかつた。然し自分は君に対し此最後の義務を尽すことが出来て感謝である。然し惟り渡瀬君に止まらない 札幌の同窓にして自分の事業に同情を表して呉れた者は四五人に過ぎない、其点に於て渡瀬君は決して例外でなかつた。日本人全体が宗教家を要するは唯最後の場合である。そして自分が斯かる怨言《こゞと》がましき事を書き列ぬるを見て、彼等が異口同音に「彼は宗教家に応《ふさは》しからざる言を発す」と言ひて自分を責むるを能く承知してゐる。然し徳不徳は別として自分は茲に感慨有の儘を書き記さざるを得ない。但し札幌同窓が今日に至り自分を使ふて呉れる事を感謝する。
十一月十二日(金)晴 昨日の葬儀にて疲れた。官界、実業界、宗教界の何百人と云ふ人達に対し自分の誠実(118)を述べたのであつて、非常に気持が悪かつた。此世の人達に赤誠を示す程辛らい事はない。
十一月十三日(土)晴 少しく平静に復した。E・H・ギフホードの『羅馬書註解』に九章一-1五節の解釈を読み、旧き信仰を喚起せられて嬉しかつた。「彼(キリスト)は万物の上に在りて世々讃美を得べき神なり」とは我が信仰である。此は聖書中、最も明白にキリストの神なる事を示す言である。是れある事を神に感謝する。
十一月十四日(日)晴 集会変りなし。朝は九分、牛後は満員の集会であつた。使徒行伝十七章一-十節並にテサロニケ前書一章に由る「パウロのテサロニケ伝道」と、約書亜書七、八章を以てする「アイの攻略」とを講じた。疲労未だ癒えず、思ふやうに語れなかつた。然し高壇に立つことが出来て感謝であつた。今日も亦切に我が救主の活きて在し給ふ事を感じた。
十一月十五日(月)晴 寒風到る。バビロンに行いた。俗人や教会信者に会ふてイヤに成つて仕舞ふ。今の社会全体に対して絶交を宣告したくなる。或は既に絶交してゐるのかも知れない。旧友も新友もあつたものでない、彼等は皆んな俗人である。即ち人に讃めらるゝ事を大なる事と思ふ人等である。斯かる人を友人と持つても何の益にもならない。天に在ます活きたるキリストが我が友であつて下さる。彼れ一人に友と成つて戴いて此世の友は皆んな失つても少しも惜くない。
十一月十六日(火)晴 E・スタンレー・ジヨーンス氏著 The Christ of the Indian Road を読み始めた。自分の半世紀間の主張を述べて呉れた書であるやうに思はれる。「キリストは西洋文明と両立せず」と云ひ、「キリス(119)トと基督教とは同一のものに非ず」と云ふ。東洋を代表する印度はイエスを迎ふるも、西洋文明又は教会の其督教を受けずと云ふのである。勿論さうである。唯今に至り西洋人が此事を唱ふるに至つた事を多とする。自分の終生の主張が今や輿論とならんとするの曙光が見えて歓喜に堪へない。或は宗教の事に於ては日本ならで印度が東洋の先導者と成るの乎も知れない。孰れでも可い。真のキリストが伝へられさへすれば可い。日本人の全体に軽佻浮薄なる、到底基督教の改造と称するが如き大事業を果たす事は出来まい。
十一月十七日(水)曇 文学博士井上哲次郎氏が不敬著書の故を以て社会に責められ、終に貴族院勅選議員の栄職を辞するに至れりとの事を今日の新聞紙に読み、感慨無量であつた。若し天上の我が生みの父が此事を聞いたならば、さぞかし同一の感に打たれるであらう。日本人中我家の一族程井上氏に苦しめられたる者はない。先妻加寿子の如き、此の苦痛を呑んで死に就いたのである。そして自分を不敬漢と称し罵り、二十年間社会より葬りし其井上氏が三十五年の後に、同じく不敬漢と譏られて、社会より葬り去られんとして居るは実に不思議である。「人を議する勿れ、汝も議せらるべし」と云ひ、「仇を返すは我に在り、我れ必ず之を報ひんと主曰ひ給へり」と云ふは斯かる事を言ふのであると思ふ。井上氏に対して気の毒千万であるが、然し宇宙の法則が然らしめたのであるから止むを得ない。それにしても自分自身が同じ罪を犯さゞるやうに努めなければならない。
十一月十八日(木)晴 同窓同級の友なる麑島第七高等学校前校長岩崎行親君が来る二十三日古稀の齢に達するので祝賀の会が催さるゝ由に就き、自分も麑島まで往いて之に列席せんと思ひしが、健康と仕事とが之を許さず、依て今日演説の原稿を草して同君の許に送つた。友人中に七十歳に達する者あるを知りて自分も老人に成つた事を知る。然し毎日の仕事に逐はれて年の邁むを忘れる。近頃に至り五十年紀念とか、七十年祝賀とか云ふも(120)のが頻々とやつて来るので、頻りと老人風が吹いて甚だ薄気味悪く感ずる。the Christian is always a little child(基督信者は恒に小児である)。歳を数ふるは財を算ふると同様の罪である。On and on!(進め、進め)である。
十一月十九日(金)晴 英文雑誌の論説を書いた。午後は近郊に出養生中の孫女を見舞うた。世界の大問題を取扱ひ、同時に亦児女の幸福を計画す。大にもならずばならず、小にもならずばならない。そして大にあれ、小にあれ、為すべきの義務を果たさねばならぬ。
十一月二十日(土)晴 在独逸祐之より興味溢るゝ通信があり身振ひする程嬉しかつた。彼が善き信仰の友を与へられ、世界的教化に深き興味を持たしめらるゝに至りし事を知りて、実に言ひ尽されぬ感謝であつた。キリストを信ずる親として、其子の霊魂の状態が最も案じられる。他の事はどうであつても、信仰を失はれては堪へられない。然るに神は我等の日夜の祈りを聴き給ひて種々の奇しき手段方法を以て彼の霊魂を守り給ふ。有難くつて耐らない。願ふ子々孫々に至るまで我家にキリストを崇むる信仰の絶えざらんことを。
十一月二十一日(日)晴 多忙の聖日であつた。午前は「アテンスに於けるパウロ」に就て語り、午後は伝道会とし、昨日独逸祐之より来りし通信に由り、アルベルト・シユワイツエルの阿弗利加伝道に就て語り寄附金を募りし所、二百六十八円を得て感謝であつた。直に之をクリスマス贈物としてシユワイツエルの会計主任に送ることにした。今日も亦北大総長佐藤昌介氏の出席あり、昼食を共にし、昔を語り、将来を計りて愉快であつた。
十一月二十二日(月)晴 多摩川の畔の友人の家に養生してゐる孫女を見舞うた。彼女の恢復しづゝあるを見(121)て喜んだ。帰途或る婦人の昨日講堂にて病に罹りし者を見舞うた。歳が邁むに循つて用事は増し、責任は重くなる計りである。然し福音はまだ沢山に説かざるべからず、自分はまだ斃れてはならない。神は最後まで自分を支えて下さると信ずる。
十一月二十三日(火)雨 雑誌編輯に全日を費した。多くの不思議なる事を聞かせらる。我が所に聖書を研究に来る者にして其子女を天主教の学校に送りて少しも怪しまざる者がある。又文学博士井上哲次郎氏を不敬の故を以て失脚せしめし文部省が其直轄の下に在る学校の生徒に西洋のダンスを教へて之を公衆の前に演ぜしむとの事である。世の中の事は何が何やら自分には解らない。信仰は何である乎、忠君愛国は何である乎、解らない。唯世に附随して其悪評を蒙らなければ可いのであらう。或は米国が亡ぶる前に日本が亡ぶるのである乎も知れない。或は岩倉、大久保等に反対せし大西郷にやはり先見の明があつたのかも知れない。
十一月二十四日(水)晴 感謝の内に雑誌十二月号の原稿を書き終つた。是で今年も亦滞りなく無難に全部を発行する事が出来る。健康さへ許せばまだ何十年も続ける事が出来る。此んな仕事が他に何処に在る乎。倦《あき》ず、苦しからず、人を益し、自身を益す。是が完全なる仕事でない乎。政治でも、実業でも、然り学究でも、聖書の研究に較べて、|つまらない〔付ごま圏点〕仕事であると云はざるを得ない。今日も或る社会通より政治界宗教界の行き詰りの状態を聴かされて、自分の如何に恵まれたる者なる乎を感ぜざるを得なかつた。書斎にフレデリツク・ゴーデー先生の写真を掛けて、之を仰いで常に先生に傚ひ我が一生を聖書の研究を以つて終らんと欲する。唯往々にして宗教家視せられ、色々の此世の問題を持込まれ、我が平安を妨げられて迷惑する。宗教家に非ず、神の言なる聖書の研究者である。二者の間に雲泥の差がある。
(122) 十一月二十五日(木)曇 阿弗利加洲仏領コンゴー国リムベレネーに土人の為に病院を設け、併せて福音伝播に従事しつゝある、神学者にして音楽家併せて医師なるアルベルト・シユワイツエルの事業に対し心ばかりの賛成を表せん為に、内村聖書研究会を代表し少額の寄附金を送つて非常に嬉しかつた。昨年のクリスマスには持地夫人を通うして独逸の貧児に少しばかりの贈物を送るを得しが、今年は阿弗利加土人の児童療養の為に我等の心を向けることが出来て大なる感謝である。額は少なりと雖も(今年も昨年と同じく三百円以内である)日本人が欧洲人の伝道事業に参加するのであるが故に其意味は深長である。想ひ見る、赤道直下の、芭蕉の葉を以て葺きし病舎に於てドクトル・シユワイツエルが我等の同情の印に添ふ我が書翰を読む時に、彼の心は如何ばかり慰めらるゝことであらう。我等は常に博士の著書に教へらるゝ者である。時に少しく彼に報ゆる所なくんばあらず。一子祐之の欧洲留学が機会となりて斯かる事業に参加するを得るは何たる幸福ぞ。
十一月二十六日(金)晴 午前は講演の原稿を書き終り、午後は孫女を伴れて多摩川遊園に遊んだ。お猿やペリカン鳥を見て楽んだ。猿の群が金網の内で生存競争する状態を見て悲んだ。人類も神の道を知らざる者は之に類する生涯を送るのであると思へば悲しみに堪へない。近頃益々切に感ずる事は西洋文明の決して基督教文明にあらざる事である。二者は相反する者であつて、其両立は不可能である。世界大戦争が此事を最も明かに証明した。キリストの福音に基ゐする新文明が現はるゝにあらざれば文明の破滅は何よりも確かである。唯歎ずべきは日本国が此事を知らずして、猶ほ此上にも西洋文明を採用せんと為しつゝある事である。|西洋文明是れ滅亡文明である〔付△圏点〕。スペングラー博士が言ふが如し。そして西洋文明の一面として認めらるゝ教会の基督教も亦既に其終焉を確(123)かめられたる者である。
十一月二十七日(土)晴 麗はしき小春日和である。色々の山茶花咲き乱れ、春にも優さるのどけさである。ペンを走らせて多忙であつた。但し内にも外にも病人の多きを悲しむ。一人が治りたりと思へば他の者が病む。近世医学の効果が疑はれる。多分開闢以来今日程病人の多い事はあるまい。痛歎の極みである。
十一月二十八日(日)晴 午前も午後も殆んど満員の集会であつた。午前は行伝十七章に於ける「アテンスに於けるパウロの演説」に就て、午後は「士師記大意」に就いて語つた。不相変楽しき会合であつた。聖書到る所に此世の人の知らざる不思議の真理が伏在してゐる。之を探り出して語るが大なる愉楽である。我等は聖日毎に此豊かなる饗筵に与りて感謝に堪へない。此日又寸暇を得て同窓伊藤一隆氏の禁酒事業五十年紀念会に出席して簡短なる感想を述べた。
十-月二十九日(月)晴 疲労の一日であつた。炬燵に|もぐり〔付ごま圏点〕て休んだ。新聞紙に昨日の日曜日を以て終りし目黒競馬の馬券売上高が二百五十二万であると読んだ。若し此金を支那又は阿弗利加の伝道に使ひしならば、さぞかし日本の国威が揚るだらうと思うた。競馬に使ふ金はあつても慈善や伝道に使ふ金はない。然し此事に就き日本人ばかり責める事は出来ない。過る夏米国ヒラデルヒヤに於て行はれし拳闘に於て、米国人が入場料並に賭金《かけきん》として使ひし金高は三千万弗(六千万円)を越えしならんとの事である。孰れも罪の世の出来事である、米国も日本も此事に就ては何の択ぶ所はない。斯かる世に在りて、我が同志が我が一言のアツピール(哀訴)に応じ阿弗利加伝道の為に立所に数百円の寄附を為して呉れた事は感謝の至りである。
(124) 十-月三十日(火)晴 朝起きて霜を庭に見た。柿の葉は落ちて実は小なる提灯の如くに枝に垂る。朝日に対し左の如くに口すさんだ。
秋は秋として善し、冬は冬として善し。春は春として善し、夏は夏として善し。貧は貧として善し、富は富として善し。老は老として善し、若《にやく》は若として善し。神に依り頼みて如何なる時期も如何なる境遇も善からざるはなし。多分死は生丈け善く、或は生以上に善くあらん。
十二月一日(水)雨 神の御恵みに由り幼なき者其病を癒されて家に帰つた。一同の大感謝であつた。最小者の為に一家挙りて努力した、それが為めに健康以外に他の多くの恩恵に与る事が出来た。若し一国の政治も其貴族や富豪の為ならずして、最貧者又は最小者の為に行はるゝならば、国民全躰が思はざる大恩恵に与るであらう。強者の為に計つて弱者の為に尽す程幸ひなる事はない。
十二月二日(木)晴 サムエル前書を読んでゐる。非常に面白い。此上聖書の外に何をも読むの必要を感じない。そは聖書が取扱ふ以上の問題を取扱ふ書は他にないからである。殊に欧米の聖書学者の書いた書を読むに及ばない。彼等の大多数は信仰のない人等であるが故に、彼等の聖書の見方は大抵間違つてゐるに相違ない。自分の信仰の実験を以つて聖書を読む丈けで充分である。
十二月三日(金)晴 雑誌校正に全日を費した。今日或人より聞いた事であるが、今回の井上哲次郎氏失脚に就き氏に対し一人の同情者なきは実に不思議である。三十五年前の自分の場合に於ては、少数なりと雖も、公然(125)と自分に同情して自分を弁護して呉れた者があつた。然るに多くの随従者を有せらるゝ井上氏に対し一人の立つて公然と氏を弁護する者なきは何たる悲惨又無慈悲である乎。此世の友とは此んな者である乎と思ひ、井上氏に対し同情に堪へない。井上氏今日の|みじめさ〔付ごま圏点〕は到底三十五年前の自分のそれに此すべくもない。自分の方が氏に比べて遥かに幸福であつた。
十二月四日(土)晴 寒気到る。不相変日曜日の準備にて忙はし。新聞紙の報道に由れば濠洲の大政治家某は近き将来に於て太平洋に第二回世界戦争が闘はるべしと云ひ、又露国大政治家某は之に次いで英米の大経済戦が闘はるべしと預言せしと云ふ。戦争又戦争である。戦争を廃する為の戦争であつた過般の世界大戦争は後から後へと大戦争を起しつゝある。人間が戦争を廃せんとすれば戦争は益々起る。神を信じ敵に譲り戦争を為さゞれば、戦争は自づから止み、敵も亦終に亡ぶ。此んな確実なる平和と勝利の途あるに拘はらず、戦ふにあらざれば勝つ能はずと信ずる所謂文明人の心根の浅ましさに驚かざるを得ない。
十二月五日(日)晴 午前は百五十人、午後は二百五六十人の集会であつた。午前は「基督教と西洋文明」と題して説教を試みた。西洋文明は其根本に於ては基督教と相戻る者であるとの趣意を述べた。午後は講堂に溢るゝ青年男女に向ひ旧約聖書路得記の大意を述べた。之を「イスラエルの女大学」と称んだ。貝原益軒が之を読んだならば、さぞかし驚いたであらうと言うた。茲に基督教化されたる東洋思想が実際に行はれたのである。路得記の美はしさは西洋人には解らない、東洋の基督信者を待つて其真意の在る所を闡明する事が出来る。相も変らざる忙はしい楽しい日であつた。
(126) 十二月六日(月)曇 休養日に係はらず雑誌校正を了つた。其他種々と用事がある。休日とてはない。或は毎日休日であると云ふ事も出来やう。
十二月七日(火)曇 夜大雨。友人某氏の結婚披露会あり、招かれて帝国ホテルに行いた。無酒宴会であつて自分等に取りて気持好き会合であつた。滅多に斯かる会合に出席せざる事とて別世界に在るが如くに感じた。
十二月八日(水)半晴 咽喉痛にて何も為し得なかつた。然し何も為し得ぬ時に信仰生涯に立還つて反つて幸福である。事を為すための生涯でない、信じて神を知る為の生涯である。活動活動と称して依り頼むを知らざる米国流の生涯は神を離るゝ益々遠きに至る生涯である。神が屡々疾病を下して我が身にブレーキを加へ給ふはまことに感謝すべきである。
十二月九日(木)晴 寒気強し。サムエル前書十四章より二十一章までを読んだ。サウロとダビデの話であつて、何時読んでも其フレツシュ(生々)さを失はない。十七章のダビデ対ゴリアテの記事の如き、信者が此世と戦ふ時の状態を書いた者として万世尽きざるクラシツク(経典)である。殊に近代の考古学的研究に由り、ペリシテ人の何たりし乎が略ぼ明白に成るに至つて、ゴリアテ対ダビデの一騎打の意味が益々深くなる 〇午後牛込神楽坂に石黒忠悳翁を訪問し、今より六七十前の洋学研究の困難に就て聞き、多くの貴き教訓を受けた。翁の前に出ては自分の如きは一青年である。常に他人の先生にばかり成つて居る自分の如き者は、度々自分より遥か年長者の前に出て訓導して貰ふの必要が大いにある。
(127) 十二月十日(金)晴 家庭大学文庫《ホームユニバーシチーライブラリー》中のケムブリツヂ大学支那学数授ガイルス氏著『支那の文明』を読み大に学ぶ所があつた。殊に陶淵明作『帰去来辞』が世界の家庭歌の内で最も美くしい者の一であるとの意見を読んで、今更らながらに其の観察の適切なるに敬服した。東洋にホームなしとの説は今に至り全然之を打消さゞるを得ない。或る意味に於て『帰去来』はホーム、スヰート、ホーム以上の家庭歌である。東洋に東洋流のホームがある、唯之をキリストに聖めていたゞく必要がある。キリストを迎へて東洋は西洋以上の文明を作ることが出来るとの信念が益々確実になつた。
十二月十一日(土)晴 雑誌十二月号を発送した。是れで今年も亦滞りなく全部発送することが出来て大なる感謝である。静かに聖書を研究し、静かに研究の結果を紹介して、日本国に対し大なる善事を成就する事が出来る。政治や社会事業に関与して永久的に何の益する所はない。我が共働者は尠しと雖も少しも憂へない。自分は自分の領分に於て独りキングである事を確信する。
十二月十二日(日)晴 集会変りなし。午前は「基督教と東洋文明」に就き、牛後は撒母耳前書大意を述べた。此日瑞典国大学市ウプサラの牧師ドクトル・ヘルマン・ネアンデル氏の訪問を受けた。立派なる北欧の基督的紳士であつて、一面して深き親みを感ぜざるを得なかつた。欧洲に於ける第二の宗教改革の必要を持出せし所、氏は自分の思ふ通りに思ひ居る由を答へた。氏は曰ふ「欧洲人全体が其必要を認めて居る、然れども斯かる改革の欧洲人に由て行はれず、|欧洲以外、多分日本より始まるのではない乎と思ふてゐる〔付△圏点〕」との事であつた。意外の事を聞いて自分は驚いた。氏は世辞を言ふやうな人でない、然るに氏の如き名士より此事を聞いて、自分は此事を告ぐる為に神が氏を自分の許に送つて下さつたのではない乎と思うた。氏は頻りに自分に欧洲に来りて日本に(128)於て説いてゐると同じ福音を説かんことを勧めた。自分は答へて曰うた、若し自分が欧洲に往いて欧洲人に第二の宗教改革を促すための一助と成るならば自分は往くことを辞せずと。氏は改革の方法の委細を尋ね、最後に自分の写真を撮り、快談一時間半にして欧洲に於ける再会を約して、堅き捏手を交へて別れた。実に夢のやうな話である。或は夢が事実となりて現はるゝやも知れぬ。聞く瑞典国に於ても『余は如何にして基督信者となりし乎』の瑞典訳を読みし者多数ありて、自分は彼国に於て既に多数の同情者を有すと。因に記す、ネアンデル氏は瑞典国赤十字社を代表し、過般行はれし日本赤十字社設立第五十年紀念会に出席せん為に遥る々々渡来されたのである。
十二月十三日(月)曇 昨日の瑞典博士との会見で非常に疲れた。是れでは欧洲に往きて第二の宗教改革促進運動に参加するならば疲れて死んで了ふと思うた。日本に在りて静かに今日まで通り働くのが唯一の途であることを覚つた。国とか改革とか聞くと、直《ぢき》に気が立つて了ふ。欧洲に往いて新教徒と羅馬天主教徒との間に挟《はさま》つて、自分の主義を主張するならば、それこそ磨臼《ひきうす》の間に入つて潰《つぶ》されるまでゞある。自分の同情は勿論新教徒の上に在る。然し乍ら他人の喧嘩を自分に買ふは厭である。欧米人が教会的基督教を全然棄つるまでは本当の信仰は起らない。其の如何に困難なるは欧米を知る者の能く知る所である。若かず日本に在りて無教会的基督教を実行して之を世に示さんには。幸に英文機関誌の有るあり、之を以て我が立場を海外に示すことが出来る。
十二月十四日(火)雨 雑誌編輯に全日を費した。眼が疲れて困難である。然し休み休み為すが故に為し得ないではない。聖上陛下の御重態を御案じ申上げる。
(129) 十二月十五日(水)雪 東京府立第一高等女学校第四年生二百五十余名、教頭並に其他の職員に引率せられ、基督敦の話を聴かんとて我が聖書講堂に来る。共に讃美歌五十九番六十番を歌ひ、次ぎに生徒総代四人の感話あり、終りに自分は馬太伝二章と路加伝二章とを読み、クリスマスの意義に就いて一時間に渉る講話を試みた。一同静粛に謹聴して呉れた。斯くして家に居ながら大伝道が出来て感謝であつた。第一府立高女の生徒が我教を聞かんとて此所に来りしは之で第三回である。そして回を重ぬる毎に興味は増す計りである。公立学校の生徒が職員に引率せられて、礼を厚うして教理を聞かんとて泥濘を冒して訪ね来ると云ふのである。基督教は日本に在りて斯くまで進歩した。教会で為すが如くに自から進んで信者製作に努力する必要は少しもない。日本人は教会の基督教を嫌ふけれどもイエスキリストは之を歓迎する。昔の儒者は居ながらにして天下の青年を自己に引附けた。基督教の教師にも此権威が無くてはならない。所謂招聘に応じて我れより出て教ふる時は既に過ぎた。今より後は彼等より来て我が教を受くべきである。是れ東洋人が教を受け又之を授くる途である。教師は之を呼び寄せ、教師又招かるゝを名誉とするは是れ西洋人殊に米国人の為す事であつて、我等日本人は斯かる悪風を全然排斥すべきである。今日又生徒総代の感話を聞いてキリストの精神が如何に深く我国人の間に沁み込みし乎を知らされて感謝であつた。
十二月十六日(木)曇 聖上陛下御重態の報頻々として到り一同心を痛め奉つた。我等草莽の臣、如何にして御同情を表し申上げて宜しきやを知らない。只全能者の前に我等の苦痛を訴ふるのみである。それと同時に「神よ我等の愛する此日本国を護り給へ」との祈祷が心の奥底より湧出づるを禁じ得ない。
十二月十七日(金)晴 孫児の病気が殆んど全治し、家族一同元気附いた。世の病児にして治療の資に乏しき(130)者の為に少額を献じて我等の感謝の意を表した。健康の小児の面を眺むるに勝さる快事はない。天国が我が面前に開展されしやうに感ずる。外出して玩具を買求め、其笑顔を見んとして家路を急ぐ其快楽は実に特別である。此は単なる「煩悩」ではない、神が万物を愛し給ふ其愛が我等に植附けられし者である。「汝悪者なるに善き賜物を其子(孫)に与ふるを知る、況して天に在ます汝等の父は求むる者に善き物を予へざらん乎」とのイエスの御言葉の深き意味は人生の斯かる実験に由て解るのである。子を持つて知る親の恩、孫を与へられて知る神の愛と言はん乎。まことに有難い事である。
十二月十八日(土)曇 陛下の御不例益々良しからず、七千万同胞と共に深き憂愁に沈む。家庭の祈祷は主として此一事に注集さる。斯かる場合に於て日本国は一大家族なるを感得する。治者と被治者でない、父と其子供である。我国に元始時代の此の美はしき関係の存つてゐる事を感謝する。願くはその永久に存続せん事を。
十二月十九日(日)晴 昨夜北海道新英洲を思出させるやうな大吹雪があつた。東京には稀れなる事である 〇今年最後の研究会であつた。朝は「基督教と日本」に併せて「歳末の感」に就て語つた。感満ちて後は少しボンヤリとした。牛後はサムエル前書十七章に於ける「ダビデ対ゴリヤテの格闘」に就いて話した。ゴリヤテは西方の物質主義を、ダビデは東方の信仰主義を代表して、相対して闘つて、東方即ち今日で云ふ東洋の代表者が勝つた所以を述べた。斯かる活気ある問題に就いて述べて心は熱せざるを得なかつた。午前午後共に先づ満足なる講演であつた。是で先づ今年も一回も欠かすことなく、楽しき聖書講演を終るを得て感謝の至りである。後幾年続くことであらう。縦し百年でも苦しくない。教会や宣教師に使はるゝにあらずして、自から願うた此業に従事するのであれば、其興味は何時に成つても尽きない。斯んな有難い事はない。七たび人間に生れ来ても同じ此業(131)に従事するであらう。
十二月二十日(月)晴 函館の眼科医虎渡乙松君永眠の報に接して悲しんだ。君は最も忠実なる同志の一人であつて、我等に取りては北海の重鎮であつた。君去りて北海道に行くは一層億劫になつた。惜しい人物であつた。
十ニ月二十一日(火)曇 歳末の諸勘定を済した。随分面倒である、然し此世に居る間は止むを得ない。払ふ丈け払へば神はまた豊かに与へ給ふ。そして差引き与へらるゝ高は与ふる高よりも多くある。其意味に於ても与ふるは受くるよりも福ひである 〇今日同志と談じた事である、日本に於て基督教は仏寺的基督教と儒者的基督教とに別れつゝある。愛即ち|おなさけ〔付ごま圏点〕に依る基督教と道義に依る基督敦に別れつゝある。日本に於ては仏教は全体に町人の宗教であり、儒教は武士の道であつた。そして教会の基督教は寺院の仏教の代りに町人に迎へられつゝあり、無教会主義の基督教は儒教の場所を取りつゝある。何れにしろ近代の基督教会が著るしくお寺化した事は争はれぬ事実である。之に対して我等は厳格なる道義的の、純ピユーリタン的の基督教の発達を計らなければならない。
十二月二十二日(水)晴 冬至である、二階の椽側《えんがは》より日の出を見た。荘厳であつた。此んな者は他にはない。鎔けたプラチナの光を以て直径八十六万六千哩の火の玉が虚空の深みより昇り来るのである。此は柏木の二階より見るも、太平洋の中央或はアルプスの頂上より見ると同じ太陽である。之を「我が玉」と見て差支がないのである。今日今頃三越や天賞堂の店に於て宝石を漁る馬鹿者どもの心が憐まれる。昼は太陽、夜はオライオン星と大犬星と小犬星、そして死んだ後は永遠の神の国、是等が彼の恩寵に由り我が有であると知りて、人生他に何(132)物を求むるの必要なきを感ずる。
十二月二十三日(木)晴 丸善へヒヤカシに行いた。購ふべき書物に見当らなかつた。英文の西比利亜地図一葉と支那小史一冊を買つて帰つた。歳末に際し相変らず此世の小事に累《から》まりて心労する、然し万事を彼に委ねまつりて安心である。今年も亦為すべき事は凡て為して了ひ、払ふぺき勘定は凡て払うて了つた。之で先づ今年も亦愛の外に何の負ふ所はない。
十二月二十四日(金)晴 聖書研究会午後之組の委員慰労会を開いた。其内医学士四人、文学士一人、外一人である。彼等は喜んで玄関番、書籍販売部等の賤役に当つて呉れる。実に感謝の至りである。今や研究会全部が平信徒的である。其内に一人のレベレンド(免許を得たる教師)又は神学生は居ない。又専門の音楽者が居ない。全部が素人である。其点に於てまことに気持の好い会合である。会計は少しの剰余金はあるが不足は少しもない。まことに平和なる平信徒の団合である。
十二月二十五日(土)晴 今日午前一時二十五分大正天皇陛下崩御せらる。恐懼に堪へない。同時に昭和と改元せらる。近頃頻りに思ふ事は日本を単に日本として見てはならない事である。日本は世界の日本であつて、特に東亜の日本である。東京はヒマラヤ山以東の亜細亜東方全部の都である。日本の人口の稠密なるは、之を以つ蒙古、西此利亜等人口稀薄の地域を充さん為である。沿海州、勘察加《カムサツカ》州、ベーリング海沿岸アナヂール地方の広大たる地域が日本人の来住活動するを待ちつゝある。是が為に日本人は武力を以つて是等の国土を占領するに及ばない。勤勉なる平和の民として自然の拡張を待つべきである。神は人を此世に遣はし給ふに其国の民として(133)のみ遣はし給はない、|世界の民として遣はし給ふ〔付○圏点〕。又政治的に、又は法律的に自分の領土でない国は自分の国でないと思ふべからず。己が罪を赦されて神の子と成りし者は、神の有は自分の有と思ふて不可なし。「万物は汝等の所属《もの》、汝等はキリストの所属、キリストは神の所属なり」である。|此精神的万物所有権〔付○圏点〕の自己に賜はりしを認めて、我等は真の世界的膨脹の途に就くのである。斯く云ひて我等は世界的に大なる者と成らんと欲するのではない。然れども此無慾の態度に自己を置いて我等は膨脹せざらんと欲するも得ないのである。日本の将来に悲観すべき事多しと云ふは、其外部の状態に就て云ふのでない、其内部の、精神的態度に就て云ふのである。日本人に若し神を信ずるの信仰があるならば、それ丈けで既に世界的に偉大なる民に成つたのである。願ふ昭和の日本に於て此の根本的大革正の我が国民の間に起らんことを。日本人が欧米人に傚ひ、何事も経済、何事も物質、文化、文明と云ふ間は決して欧米人以上に達することは出来ない。日本人特有の勢力は精神である。之を化するにキリストの聖霊を以てして、我等は世界第一の民と成ることが出来る。支那人、蒙古人、満洲、西比利亜の諸族の長兄と成りて、彼等を導いて、相共に世界最優等の民と成ることが出来る。之にしても最も大切なる事は我が同胞に深く聖書知識を注入する事である。自分としては年号は改まるも自分の為すべき事は変らない。此記臆すべきクリスマスの日に此事を書き記す。
十二月二十六日(日)晴 諒闇第二日である。午前に一回集会を催した。出席者百五十人。皇室に対し心よりの御同情を表し奉り、天地の神の御保護の篤く其上に加はらん事を祈つた。同時に又神が特に此国を護り給ひて、之を以つて大なる御栄光を顕はし給はんことを祈つた。我等各自は独り救はれんと欲してはならない、|日本国と共に救はれん〔付○圏点〕と欲しなければならない。日本は決してツマラナイ国ではない、大なる天職を負はせられたる国で(134)ある。神は必ず凡ての困難を排して日本国をして其天職を実行せしめ給ふと信ずる云々と述べた。此日は特に「愛国的日曜日」であつた。
十二月二十七日(月)晴 撤母耳後書を読み終つた。久振りにて王としてのダビデの生涯に就いて読み、教へらるゝ所が多かつた。欠点多き此ダビデが神の御前には「我が愛するダビデ」でありし事を知りて、自分も亦大いに力附けらる。信仰は多くの罪を掩ふの能力である。
十二月二十八日(火)晴 年末の事とて俗事に逐はれ、我心マルタのそれの如くに入乱る。神に使はれんとせず、自から義務を果たさんとするが故に、為す事多くは無効に終る。信者に実は暮れ気分に成る必要は少しも無い。彼は常に春の|のどけさ〔付ごま圏点〕に於て在らねばならぬ。自分が善人たり義人たるの必要は無い、善も義もすべて之を「彼」に於て求めねばならぬ。他人の欠点を責めつゝ自分も同じ欠点に陥いる。浅ましき限りである。
十二月二十九日(水)半晴 二つの雑誌の校正で忙しかつた。何時まで之が続くのであらう。多分死ぬまで続くのであらう。前田多門君並に家族欧洲滞在より帰り、彼等を見舞ひ、相互の健在を祝した。今日はまた久振りにて藤井武君の訪問を受け、夕食を共にし、過去と現在を語り、是れ亦大なる慰めであつた。去る者も多かれども留まる者も亦尠くない。敵は思うたよりも尠く、味方は思うたよりも多い。只懼る生涯の終りに方りて困難が減少して、我が神を信ずる信仰の衰へんことを。然し乍ら神を信じ、彼れ勝ち給ふが故に我も亦勝つのであれば止むを得ない。唯願ふ日に日に「我れ」は減じて「彼れ」が我が衷に在りて益々増し給はんことを。
(135) 十二月三十日(木)晴 昨夜珍らしい事があつた。預言寺の二階へ角鴟《みみづく》が一羽舞ひ込んで来たから之を生捕《いけどり》にした。番人の音吉は歳末に「ふくろ」が舞ひ込んだのであるから吉兆であると云うた。然し自分は「みゝづく」は夜の鳥であるから暗い悪魔が飛び込んで来たと見て見えぬ事は無いと云うた。然し吉凶何れでも可い。珍らしい見舞客の事とて、今朝は家に在る丈けの鳥類学書を引出して大に彼を研究した。又孫女に彼を示して大に彼女を悦ばした。そして夜に入つて彼を放つてやつた所翼を伸べて喜んで飛んで往いた。彼は鼠類を多量に食するが故に益鳥である。動物園ならずば飼育は困難である。歳末の善き慰みであつた。それ丈けでも吉兆である 〇有名なるジヨセフ・アンガス著 THE BHBLE HAND-BOOK の改版を買求めて嬉しかつた。自分の学生時代に読んだ書であつて、旧友に会するが如くに感じた。英語に依つて聖書を研究する者に取りては最も便利なる書である。其初版は今より七十三年前に出たのであつて、今日に至るも其価値を失はない。此種の著書の内で恐らく之に優さる書は他に有るまいと思ふ。改版はドクトル・S・G・グリンの手に為り、近代の研究の結果を収む。英語を解し得る人には何人にも勧めたき書である。代価は四円拾銭であつて、東京九段向山堂にて求むる事が出来る。
十二月三十一日(金)晴 雑誌一月号の校正を済ました。茲に亦恩恵の一年を終る。不相変多くの心配もあつたが、すべてが益となつて終つた。幼児の健康が回復して旧年を送ることが出来て何よりの感謝である。此上幾年此世に|ながらへ〔付ごま圏点〕やうとも同じ恩恵の生涯を繰返すまでゞある。唯信じて主の命に従ひて歩むまでゞある。此世は無きものと思ひ、神と自分と二人丈け在ると思ひ、彼に絶対的服従を奉りつゝ残る生涯を送るべきである。
(137) 一九二七年(昭和二年) 六七歳
一月一日(土)晴 無風静粛の元旦であつた。年賀状も来らず、年賀客も無く、まことに全国的喪中の新年であつた。中古時代の大哲学的神学者アンセルムとアベラードに就て読んだ。アンセルムは曰うた「理解せん為に信ぜよ、信仰ありて後の知識である」と。アベラードは曰うた「信ぜんが為に理解せよ、知識を以つて信仰の基礎を作らざるべからず」と。今日で云へばアンセルムは聖書主義者《フハンダメンタリスト》であつて、アベラードは近代主義者《モデルニスト》である。然れども二者孰れも真理の半面を主張するに過ぎない。真理は信仰であり同時に又理解である。聖霊が我等の衷に降りて真理を示し給ふ時には我等は同時に信ぜしめられ又理解せしめらる。十二世紀の昔にも今日と同じやうな学派があつた。然れども其頭脳の偉さに至りては近代人は到底中古人に及ばない。アンセルム、アベラード、アクイナス、ベルナード……何んと偉らい人達でありしよ。中古時代は周囲が暗黒でありし丈け、其中に輝きし光は大きかつた。
一月二日(日)晴 朝一回の集会を開いた、来会者百五十人。塚本は詩篇第百二十一篇に就て、自分はピリピ書一章六節に就て感想を述べた。「汝の心に善き業を始め給ひし者は之を主イエスキリストの日までに全うし給ふべしと我れ深く信ず」と云ふのである。神は一度び恩恵を下して之を取上げ給はず必ず終りまで之を継続して御|救拯《たすけ》の目的を達し給ふと云ふのである。カルビン主義に云ふ所の「恩恵不動説」である。一たび神に選まれたる者は永久に棄られずとの信仰である。此信仰がなくして永久不抜の平安はない。人も悪魔も自分を神の恩恵の(138)把握より引離すこと能はず、又自分の犯す罪さへも自分より救拯の特権を奪取する能はずとの信仰である。旧い信仰であつて近代人の不問に附する信仰であるが、然し此信仰こそ信者の依て頼む救拯の磐である。人は棄てゝも神は棄たまはない、教会は破門しても神は破門し給はない。自分で自分に呆れ果てゝ自暴自棄の失望に陥ゐるとも神は棄たまはないと云ふ信仰である。実に尊い有難い信仰である。そして是れ聖書が充分に保証して呉れる信仰である。此信仰に力附けられて今年も進まんと欲すと述べた。
一月三日(月)晴 旧友ドクトル・バーが送つて呉れた多くの書籍の内に有名なるエミール・スーヴツスル著「巴里に於ける屋根裏住ゐの哲学者」の一冊を看出した。正月の読物として屈強のものと思ひ、昨夜以来読んでゐる。実に面白い書である。仏蘭西にも斯んな美はしい基督的紳士が居る乎と思ひ、意外に感じた。実に我意を得たる書である。自分の実験録である乎の如くに思はるゝ節が多い。社会や教会に輝かんとせずして、唯日常の生涯に多大の幸福と満足とを感ずる生涯である。所謂「何んでもない人の一代記」である。然し貴き、興味津々として尽きざる書である。自分も「何でもない人」の一人である。勿論偉人でない、教師でも神学博士でもない。ノーボデーである。其者が彼の実験を書いた故に不幸にして少しく有名に成つたのである。自分は An Attic Philosopher in Tokio である。懐かしい哉此著者。仏蘭西人の書いたものを今日までに大分に読んだが(凡て英訳にて)斯んな面白い書を読んだことはない。
一月四日(火)晴 「屋根裏博士」の善き感化の下に今日も亦幸福なる日を送つた。人に善人として、善良なる教師として、偉人として聖人として認めらるゝの必要は更に無く、凡人、小人、偽善者、悉く可なりであつて、自分は自分の幸福を人や社会や教会に求めずして、自分自身に於て求めて、真の幸福の有る事を感じた。素々人(139)の先生と成りて自分の為に弟子を作りて社会に名を揚げやうと思ふて始めた伝道でない。何か自分の力相応に人に善を為さんと欲するより始めた仕事であれば、それが為に一人なり二人なりが真の幸福を得たりとすれば、それで自分の目的は達したのである。それが今日の如くに多くの人に先生と仰がれ、毎週毎月時を定めて彼等を教へねばならぬやうに成つたのは自分の不幸此上なしである。自分として自分に対し不平を懐く者は一日も早く去つて貰ひたい。自分は彼等の敬慕追従を要しない。|自分は神の恩恵に由り単独で有り得る〔付△圏点〕。人望は有難た迷惑である。去れよ去れよ、往けよ往けよである。自分も亦元の「屋根裏博士」に成りたくある。自分が死すとも為す能はざる事は、自から自分の弟子を以て任ずる人達の機嫌を取りて彼等の追従を維持せん事である。旧いも新らしいもあつた者でない、イヤな者は往けよ往けよである、そして自分をして単独の幸福に飽かしめよである。
一月五日(水)晴 麗はしい春のやうな日和であつた。昭和の瑞相とでも云はうか。今年最初の校正を為した。比較的に完全なラヂオを据附けた。珍らしさに沢山の音曲を聞いた。其内で「勧進帳」の長唄を最も強く感じた。弁慶の心中が察しられて涙が零《こぼ》れた。自分の内にも強い日本人がある。斯かる音曲を聞かされて感動せざるを得ない。富樫左衛門の武士の情けが嬉しかつた。キリストも之を愛で給うたに相違ない。斯んな心を日本人に賜ひし神に感謝する。
一月六日(木)半晴 正月の休みにて気が緩み、うとうと〔付ごま圏点〕して一日を終つた。地方の読者より多くの感謝の書面を送つて呉れて有難つた。琉球より、土佐の南端より、大阪市中より感謝に溢れたる書状が達した。普通一般の年始状ではない。子が親を思ひ、弟子が師を慕ふ赤心の発露である。人が何んと評しても自分は特に神に恵まれたる者の一人であることを疑ふ事は出来ない。左の三首の如き、歌人も到底及ばざる歌ならざる歌である。
(140) 現し世の毀誉褒貶をよそにして
聖書の研究にひたる君かな。
二十五年三百号を突破せり
さらにも祈る先生の意気。
先生に教を受けていつまでも
深き真理をまなびてしがな。
一月七日(金)雨 ペンを執りて今年の仕事を始めた。聖書の講解に従事して自己に立帰り若返りするやうに感ずる。新聞紙は支那漢口に於ける英国人逐放の報を伝ふ。由々しき大事である。之が為に東洋に大戦乱を見るに至るやも計られず。
一月八日(土)半晴 暖い春のやうな日であつた。大分に仕事が出来た。友人は皆んな失つても可いとの覚悟が出来て嬉しかつた。満六十六歳の春まで待たねば此覚悟が出来なかつた乎と思へば自分の意気地無しさが今更らのやうに感じられる。今までは自分に取り友人を失ふ程恐ろしい事はなかつた。それが為に随分と辛らい経験を嘗めた。然し今に至つて解つた、友人を失ふ事は決して悪い事でない事が解つた。一人でも友人を留め置かんと欲する其心が既に束縛であつて、それの有る間は自由の神に自由に事ふることは出来ない。絶対的単独になりて初めて神と二人になりて思ふ存分に彼の聖旨に従ふ事が出来る。我主イエスが単独にて死たまひしやうに、我れも只一人となりて死たくある。
(141) 一月九日(日)曇 午後晴る。本年最初の研究会例会を開いた。午前は百三四十人、午後は二百人足らずの集会であつた。午前は塚本と、午後は畔上と高壇を共にした。午前は使徒行伝十八章に依り「パウロのコリント伝道」の一部に就て語つた。彼が自活の途を計らんが為に天幕製造に従事した事が伝道の第一歩であつた事を述べた。午後は「撒母耳後書の大意」の上半部を語つた。ダビデ王の惰性、彼が犯した姦婬の大罪、彼に臨みし刑罰と赦しに就て述べた。不相変忙はしい楽しい日であつた。我等に取りては毎聖日が正月であり祭日である。日曜日と聖書講演なくしては人生の味がない。此は我が生命である。死ぬるまで行るのである。
一月十日(月)曇 寒い日であつた。ボンヤリして何事も出来なかつた。只孫女をアヤすのと、ワーヅワスの短篇『雛菊』を復習するのが主なる仕事であつた。どうせ月曜日は棄た日である。然し毎週此日を棄ざるを得ざる説教師の苦労を知つて貰ひたい。然し知つて呉れる者は滅多にない。
一月十一日(火)雨 一月号を発送した。阿弗利加大陸唯一の独立国アビシニヤの地理歴史に就いて読んだ。旧い基督教国である。夫れ丈け欧洲諸国に尊敬せられ、独立を維持して居るは喜ぶべきである。腐つても鯛の骨と云ふはアビシニヤの事であらう。其点に於てウガンダ、マダガスカーの運命は実に歎ずべきである。
一月十二日(水)半晴 ルツ子デーである。彼女去りてより満十五年である。夫婦伴れ立ちて雑司ケ谷に「再た会ふ日まで」の碑を訪れた。そして再会の日は大分に近いた。英日まで御国に於て彼女の霊魂を平安に保ち給はんことを墓前に祈つた。
その霊《たま》は神の御国に安しとは
(142) 知れども尽きぬ我が涙かな
である。帰途巣鴨宮下に田村直臣君を訪うた。多くの善き事悪しき事を聞かされた。老人はやはり老人の話が面白くある。
一月十三日(木)晴 今日も亦基督信者同志が相互を誹り陥いれる事実を聞かせられて実に気持が悪かつた。基督教界は今日に至るも依然として地獄である。青年会、女子青年会、禁酒会、教会は勿論の事、皆な然らざるはなし。彼等は不信者らしく争ふて勝たんと欲する。キリストらしく負けて勝つの秘訣を知らない。彼等は相互を教界に訴へる、社会に訴へる、そして敵を葬りて自分が勝利の地位に立たんと欲する。それ故に争闘《あらそひ》が絶えない。彼等は反対者にたゝき伏せらるゝ事の福祉《さいはひ》を知らない。実に気の毒なる人達である。自分の如きも彼等にたゝき伏せられて真の幸福に入る事が出来た。基督教社会よりたゝき出さるゝまでは真の平安、幸福に入ることの出来ない事をすべての人に知つて貰ひたい。
一月十四日(金)晴 ヨハネ第一書五章二〇節を読んで感じた。「彼れ(イエスキリスト)は乃ち真神また永生なり」とある。まことに貴い深い言である。今やキリストの神性論の如き人の省る者なし、然し乍ら宇宙人生の事にして之に勝さりて重大なる事はない。聖書は此所にも亦キリストは真神なりと明白に曰ふてゐる。自分も亦長らく此事を忘れてゐた事を思出して慚愧に堪えない 〇郊外に散歩し、道の中央になげ出してありし電線の断片《きれはし》に躓きて倒れ、すんでの事に大怪我をする所であつた。年老いて躓いて倒れ、それが原因となつて死んだ者は幾人もある。自分は今日其災難を免れて感謝である。其断片を取除いて家に帰つた。
(143) 一月十五日(土)曇 労働の一日であつた。木脇園子女史の訪問を受け、旧きを語つて楽しかつた。明治初年以来交際を継けてゐる信者の婦人は独り彼女位ゐの者である。我が札幌時代の同窓同級の友藤田九三郎君の義姉であつて、直接間接に共同の事に携はつて今日に至つたのである。
一月十六日(日)晴 暖い春日和であつた。朝は七分、午後は満員の集会であつた。パウロのコリント伝道の続きと撒母耳後書の大意の後半を講じた。自身に取り何れも努力を要する講演であつた。聴衆の忍耐をも多とせざるを得ない。毎回聖書の連続講演を聴かせらるゝに拘はらず彼等は時を定めて席に就き、二時間の長きに渡り静かに謹聴するのである。講演中に席を離るゝ者の如きは、教会信者の傍聴者を除くの外は絶対に無いと云ひ得る程である 〇英支関係は益々重大に成りつゝある。之に由りて如何なる世界的大事件が起るか判明しない。不安なる世界である。
一月十七月(月)曇 自分が雑誌に書いた事に対し種々の非難が旧い知人又は友人より達する。之に対し自分の返辞は大抵左の如くである。
小生が公けにした意見に対しては、若し責むべき所があるならば公けに責めて下さい。私書を以て公言を責めず又之に答へざるが紳士道であると思ひます。故に若し御所望とならば紙上で御答へ致します。それまでは御返辞致しません、左様御承知を願ひます。敬具
公私の別を明かにせずして公平なる議論は出来ない。然し大抵の人は公人の言葉尻をつかまへて彼を詰るを好む。困つたものである。
(144) 一月十八日(火)曇 年は改まりても人は改まらず、諒暗中なるにも拘はらず、帝国議会に於ては政治家共が小なる問題を捉へて互に相攻めつゝあるが如くに、我等の間に於ても、是も亦神の御眼より見れば、いとも小なる問題の為に兄弟相鬩ぎつゝあるを見る。此はたしかに悪魔が神の子供の間に働きつゝある証拠であつて、我等は被れ悪魔に取合はず、神の御言なる聖書に親しみ、讃美と祈祷とに我等の霊魂の平静を計るべきである。人が何んと曰はうと如何でも可い。鞫く者は神であつて人でない。人は無いものと思ふて行けばそれで宜いのである。
一月十九日(水)晴 英文雑誌原稿の製作に全日を費した。馬太伝二十二章四十二節「汝等キリストに就て如何に思ふ乎」を主題にして書いて見た。英文を以てする時に日本文を以て言ふ能はざる事を言ひ得て少しく満足である。外国人や宣教師に納けて貰ふ為に書くのでないからペンは自由に走る。彼等に嫌はるゝは自分の予め期し又望む所であるが故に、ペンを手に取りて無人の里を行くが如くに感じて愉快である。
一月二十日(木)晴 不生産的の一日であつた。生まんと欲して生む事は出来ない、然し生まねばならぬ時には必ず生ましめらる、故に心配するに及ばない。只何事をも為さずして貴き一日を送る時に、造物主に対して甚だ済まなく感ずる。
一月二十一日(金)晴 不相変イヤな事を見せられ又聞かせらる。世は依然として罪の世である。虫くひ錆くさり盗人穿つ所の世である。斯る世より望んで何の善きものをも得る事は出来ない。神、キリスト、聖書である。之に縋り、之に親みて人の凡て思ふ所に過ぐる平安がある。神キリストに在りて我を愛し給ふ。其事さへ判明すれば、議会や社会や教会は如何でも可い。
(145) 一月二十二日(土)半晴 寒気強し。自分に叛きし多くの日本人が、ルーテルが法王に叛いたと同様に勇敢なる行為に出たと思ふ人があるやうなれども、それは間違つて居る。日本に於て基督教の教師に叛く程容易い事はない。それに社会上並に経済上の損失は何も伴はない。大抵の場合に於て其反対が事実である。故に彼等は小なる理由の為に叛くのである。そして叛いた後に彼等が何か偉らい事を為した乎と云ふに、そんな例を見た事はない。之に由て観るに、彼等は教師に叛く前に神と福音とに叛いたのである。彼等は勇者ではなくして真理の落第者である。彼等が若し自分の此言を怒るならば、ルーテルの如くに、|叛く外に〔付△圏点〕何か勇敢なる行を真理のために為すべきである。さうすれば自分は彼等の為に喜ぶ。
一月二十三日(日)晴 引続き寒い日である。両回の集会に変りなし。寒気強しと雖も出席者の減少を見ない。午前は「パウロの剃髪」と題し、行伝十八章十八節を講じた。午後は列王紀略上の大意を述ぶるに方り、ソロモン伝の大要を語つた。二講とも自分に取り趣味の深い者であつた。聖書を講ずる度び毎に此世の煩ひを忘れて感謝である。
一月二十四日(月)晴 寒気更に厳し。英文雑誌の継続に就て苦心した。大体に於て自分に於て引受ける事に決心し、山県五十雄君の承諾を得た。始める時に同君と自分との間に或る友誼的誤解のあつた事が今に至つて明白に成つた。然し悲まない。之が為に或る善事を為し得たと信ずる。神は時々如斯くにして我等を「欺き」我等をして其聖旨を遂げしめ給ふ(耶利米亜記廿章七節参考)。我等それが為に時に不快を感ずる事ありと雖も、神に「欺か」れ彼に使はれて反つて感謝する。「凡ての事働きて益を為す也」である。
(146) 一月二十五日(火)曇 二つの雑誌の責任を全部担はねばならなくなり大分の重荷である。六十六歳の春を迎へたる者には少し重過ぎるやうに思はる。然し止むを得ない、又心配するに及ばない。「汝の力は汝の齢に添ふぺし」と主は曰ひ給うた。自分が負ふのではない、神が負ふて下さるのである。さう思へば重荷に反つて興味がある。
一月二十六日(水)晴 両雑誌の原稿を終りたれば心少しく緩やかになり、宗教問題を忘れて、ヴイクトリヤ学会の報告書に北氷洋内のリヤコフ一名新シベリヤ群島の地理物産等に就て読んだ。荒漠たる氷の大洋に我が北海道又は九州四国大の象牙鉱山の島があると聞いて驚く。此小なる地球の財源はまだ容易に尽きない。其他スピツツベルゲン、グリーンランド等の大陸大の島々にどんな財貨が潜んでゐるか解らない。人間は勝手放題に神の蓄へ給ひし物資を消尽するが、神はまだまだ巨大の富を蔵し給ひて万物復興の時に備へ給ふ。地球の運行の或る変動に由り、北極圏内の氷が凡て解くる時に、真下からどんな宝が現はれるであらう。神が人類を救はんと欲し給ふ時に其手段方法はいくらでもある。読み様に由ては地理学の研究も亦我等に多くの希望を与へる。面白い世界である。
一月二十七日(木)曇 寒いイヤナな日であつた。少しく風邪に冒され何事も為し得なかつた。但し福音の真理に就て考へ、神の恩恵に由り之を信ずるに由り世界人たるを得しを思ふて感謝した。我が残余の生涯を日本ならで全世界に此大福音を伝ふる為めに送らんと思ふて楽しかつた。然し此んな大望を懐く者は日本中極く々々少(147)数であるが故に、|自分一人で之に当るの覚悟を以つて臨まねばならぬ〔付○圏点〕。
一月二十八日(金)晴 咽喉痛激しく、床に就いた。流感に罹つたのである。
一月二十九日(土)晴 昨夜疼痛強くして眠られず、久振りの苦悩であつた。万事を放棄し、唯病と闘ふのみであつた。
一月三十日(日)晴 珍らしき寒さである。今日は講演全部を休んだ。是れ亦珍らしき事である。説教師が咽喉痛で苦しめらるゝは止むを得ない。彼の場合に在りては咽喉を錐で刺さるゝやうに感ずる。然し福音の為の疼痛であると思へば忍ぶに大分楽である。教友中医術の技能を有する者が交はる交はる援けて呉れた。
一月三十一日(月)晴 少しく快し。大嵐が我が身体を吹捲つて去つた後のやうに感ずる。貴重なる数日間を床中に過したりと雖も悪い事計りでなかつた。第一に眼が休まつた。第二に此世の悪い事を聞かされなかつた。第三に家族並に親友の心切を一層深く感じた。
二月一日(火)晴 昨夜も亦咳嗽甚だしく、眠られずして苦しんだ。今日は床を出でゝ少しく雑誌の校正を為した。
二月二日(水)半晴 家族殆んど全部小児に至るまで風邪に罹り、家は大混雑である。恐ろしい病気である。(148)我等の活動力を全部奪ひ去る。不愉快極まりなし。京都山口菊次郎君永眠の報に接して悲んだ。君は自分の武士的方面を最も深く知つて呉れた人である。
二月三日(木)晴 誰も彼も皆んな病人である。医業は繁昌する事であらう。そして病気よりも恐ろしいのは病気の恐怖である。神に依頼むの心なく、故にたゞ医師に頼まんとする。病気に追立られる不信の徒を見る丈けで憐れである。
二月四日(金)晴 全家挙つて風邪気分にて不愉快極まりなし。此病気の一日も早く消え去らん事を祈る。今や何よりも欲しきものは水である。南洋の空より低気圧の見舞ひ呉れん事を待つ。市民何十万と云ふ者が茲に恩恵の雪か雨に恵まれんとて待ちつゝある。
二月五日(土)雪 漸く雪を見た。全市民の歓喜である。是で何十万と云ふ病人が助かるのである。
二月六日(日)晴 雪の朝である。東京全市が浄化された。暫時たりとも朝夕共に高壇に現はるゝ事が出来て感謝であつた。朝は阿弗利加リムバルネーに於けるアルバート・シユワイツエルの伝道に就き、午後は故オイケン博士に自分が呈せし弔辞に就いて語つた。英米人には殆んど何の関係も無き自分が欧洲大陸、殊に独逸に於て知名のクリスチヤンと益々深い関係に入りつゝあるは実に不思議である。英米人と自分とは何にか根本的に異《ちが》ふ所があると見える。此上彼等と深い友誼に入らんと欲して努むるも無益であらう。神の定め給ひし所である、如何ともする事が出来ない。
(149) 二月七日(月)晴 御大葬当日である。家に在りて静粛に弔意を表した。教会の機関雑誌に自分の事を色々と批評しあるを読んで気持が悪かつた。誉めるゝは譏らるゝ丈け気持が悪くある。自分は此世と教会とに対しては死んだ者である。彼等と何の干与なき者である。故に彼等に全然忘れて貰ひたい。然し乍ら教会信者と雖も人間である。彼等に対し人間相当の敬意丈けは表せざるを得ない。キリストに於ける兄弟姉妹として彼等を信頼する事は出来ないが、神の象《かたち》に像《かたど》りて造られし人間として彼等を尊敬せざるを得ない。彼等は自分等無教会信者に対して是れ丈けの尊敬をさへ表し得ないが、自分等としては神に対する義務として彼等に対し是れ丈けの尊敬を表せざるを得ない。
二月八日(火)晴 病少しく癒え、漸くテーブルに対しペンが執れるやうに成り感謝である。恐ろしいものは流感である。半月以上に渉り全家族の幸福と活動力とを全部奪ひ去つた。然し得る所も亦尠くなかつた。身体は痛んだが、脳と心とは休んだ。信者の生命は活動に在らずして信頼に在る事を又復更めて教へられた。「静かにして待望まば」である。自分が働くのではない、彼が自分に在りて働き給ふのである。此事を繰返し繰返し教へられんが為めには、繰返し繰返し不能的状態に置かるゝの必要がある。此はいつでも病の床より起き上つて後の感想である 〇久振りにて読書が出来、中古史を復習した。聖ベルナード、十字軍、特に詩人ダンテに就て読んだ。旧い友人に遭ふて其教を受くるやうに感じた。何んと云ふても中古時代は偉らい、殊にダンテは偉らい。道徳的信仰的に見て沙翁、ゲーテよりも遥かに偉らい。彼は哲学的神学的詩人である。中古文明の焦点である。二十世紀今日は中古以上の暗黒時代である。此時に方り此中古時代の預言者的詩人に学ぶ、斯んな有益なる事はない。何を措いてもダンテは学ぶべしである。今日の米国宗教家の思想の如き、之を学ばないでも何の損失も(150)ない。
二月九日(水)半晴 先帝陛下の大葬儀が終つた。終るや否や政党間の政権争奪戦が始つた。日本国民は皇室に対しては忠実であるが、相互に対しては甚だ不忠実である。彼等は国民相互に親しむのが皇室に対し忠誠を表する最上最善の途なる事を知らない。皇室に対しては謹厳、相互に対しては不信実極まるのである。斯かる謹厳が真正のものである乎、自分には如何にしても解らない 〇昨日に引続きダンテ伝を読んだ。彼に対し同情に堪へない。不幸の人であつて、然し恵まれた人であつた。アリストートルの頭脳とヱレミヤの心情の持主であつた。斯んな人物は千年に唯の一回世界に現はるゝのみである。余りに偉らくして此世の人等には到底解らない。然し彼の心に成つて見れば、彼は解するに最も易き人物である。ダンテを少しなりとも解し得る心を与へられし事は、此世の供する如何なる名誉に与かる以上の幸福である。ダンテを友とし得る幸福は殆んどパウロを兄弟と呼び得るそれと同等である。
二月十日(木)半晴 雑誌二月号を発送した。第三百十九号である。読者は少しも減らない容子である。講談社の『キング』の発行部数百万以上と云ふに較べて九牛の一毛であるが、然し我が四千二百部は彼の百万以上の永久的勢力であることを信じて疑はない。彼が毎月各新聞紙に大々的広告を掲ぐるに対し、我は広告料として一銭も支払はざる丈けでも、彼が我に及ばざる事万々なるを知る。社会の歓迎を求めざるのみならず反つて之を賤み、教会宣教師等に嫌はるゝを喜び、人を憚らずして唯神を畏れて進む、斯んな楽しい事はない。十字架の福音を唱へながら終りまで此儘で行くのみである。
(151) 二月十一日(金)晴 風邪漸くにして癒え、今日は久振りにてバビロンに行いた。種々の悲しい話を聞かされた。殊に財界不振の話を聞かされ気の毒に堪へなかつた。我等キリストの僕に取りては景気もなければ不景気もない。神は何時でも無くてならぬものを与へ給ふ。然しそれ以上を与へ給はない。故に縦し遠からずして恐慌の大洪水が臨む事があつても、我等は箱舟《アーク》を与へられて其災禍を免かれるであらうと信ずる。何れにしろ日本今日の経済状態は随分危険なるものであると思はれる。
二月十二日(土)晴 久振りにてペンが執れて有難かつた。警醒社老主人の訪問を受け、出版界の種々の事情を聞き、其意外なるに驚いた。此人の著書は何万部も売れたらうと思ふ者が売れ方甚だ悪しく、未だ初版をも売り尽さずと云ひ、又出版界の寵児と謳はれし著者が案外にも不遇に苦しんでゐると聞き、凡てが意外又案外であつた。それ等に較べて自分の如き最も幸福なる著者の内に算へらるべき者であることを思はずには居られなかつた。何れにしろ自己を世に推奨せんとして成れる著書は凡て失敗である。キリストの聖名の揚らん事を第一の目的として為されし出版は凡て成功である 殊にキリスト抜きの、自分勝手の基督教を唱へし著書は商売上成功と見做されし者も、凡て尽く失敗であつた。売る所、日本の出版界に於ても活ける真の神が働き給ふを見る。神は侮るべき者に非ずである。神を馬鹿にして如何なる天才と雖も永く成功する事は出来ない。シヤム(偽物)はシヤムとして現はる。恐るべき事である、有難い事である。
二月十三日(日)晴 通常の通りに朝夕二回高埴に立つことが出来て愉快であつた。朝は「現代思想と基督教」と題し、今や欧米基督教国に於て真の信仰の絶えつゝあること、又我国在留の欧米宣教師の間に驚くべき異端が唱へられて、彼等は之を少しも不思議と思はざること、今や彼等と我等とは信仰の根本を異にするが故に共同一(152)致の不可能なる事を明白に述べた。午後は列王略上十章より十七章まで、ソロモン王の堕落、彼の王国の分裂、ユダヤ史の南北朝時代、預言者エリヤの出現等に就いて講じた。誠に興味多き研究であつた。聖書の講演を為さずして日曜日は無意味である。之れありて我が存在に理由あるを感ずる。午前は百二三十人、午後は二百人以上の集会であつた。我等は今や西洋人より基督教を聴かんと欲せずして、彼等に之を教ふるの必要がある。今や既に基督教逆輸出の時代に達した、西洋人伝道を試みざるべからずと言ひて来会者に訴へし所、彼等は即座に五十円余りの寄附金を為して此スターリングアツピールに応じた。誠に頼もしき人達である。我等は英文雑誌を此の西洋人伝道の機関と為さんと欲するのである。
二月十四日(月)曇 新暦を旧暦に算ふれば今日は我が誕生日である。今より六十六年前、文久元年酉年の二月十四日に自分は此世に生れ来つたのである。思へば不思議である。多くの敵と味方とを作つて今日に至つた。岩倉具視、伊藤博文、大隈重信と云ふやうな神、キリスト、来世と云ふが如き事には全く没交渉の人等と同時代に此世と此国とに在り、彼等の無神、物質的傾向に対して闘ひ、兎にも角にも信仰を維持して今日に至つた。随分面白い、辛らい生涯であつた。然し神の恩恵に由り勝利の生涯であつた事を信じて疑はない。多分彼等が忘れらるゝ後まで日本は自分を記憶して呉れるであらう。それは勿論自分が彼等より偉らかつたからではない、神が彼等よりも自分により永久的なる事業を授けて下さつたからである。日本国は彼等が植附けた物質的文明の故に破滅に向つて進みつゝある時に、神が自分をして唱へしめ給ひしキリストの福音が幾分なりと破滅の速度を緩めつゝあると信ずる。思へば実に維新の青年政治家輩は乱暴な事を為したのである。基督教抜きの西洋文明を日本に輸入して、毒消し無しの毒物を日本に輸入したのである。斯んな人達を維新の功労者として崇めし日本国民は後に至りて其不明を耻づる事であらう。斯く言ひて自分が彼等に崇めて貰ひたいと云ふのではない。日本人は今(153)や精神的に死んだ民である。其証拠には、今日今頃第五十二回帝国議会が開会中であるが、議会が有るか無い乎を人が疑ふ程に静かである。万事が党首に由て決まるのであつて議論もなければ反対もない。世界歴史は今日までに未だ曾て斯んな議会のあつた事を録さない。然し何人も之を不思議と思はない。全国民が死的沈黙を守る。日本国に今や自由は絶えたのである。自由と云へば主権者に対する謀叛とのみ思はしめし是等の政治家が此死的状態を招来したのである。然し之を救ふの途は唯一つである。|旧いキリストの福音である〔付○圏点〕。之をさへ説いて置けば是等の此世の智者に由りて国が一度亡びた後にでも、再び福音に由りて国は起上るであらう。其時に本当の維新が我が愛する此日本国に臨むであらう。此事を書き終りて後に家族と共に夕食に赤飯を戴き、我が第六十六回の誕生日を祝した。小なる正子は在欧洲の嗣子を代表した。又近頃東京に移転せし岩手県花巻の斉藤宗二郎君が丁度家に居合はしたれば、同君に全国の友人総代として食卓に就いて貰つた。
二月十五日(火)曇 二瓶《にへい》要蔵君の訪問を受けた。君はまだプロテスタント教の心髄、即ちキリスト贖罪の真理を充分に握られないやうに見受くるが、然し君の真剣味に対しては深き同情又尊敬なき能はずである。神は必ず君を導いて光明の域に達せしめ、平安の生涯に入らしめ給ふと信ずる。君と自分との共同一致点を発見して互に相援けんことを約して別れた。
二月十六日(水)雨 英文原稿書きに全日を費した。日本文を書くよりも少しく面白く且つ楽である 〇或人の訪問を受け、其人は北海道に特種の学校を建んと欲するが故に、寄附金をする代りに揮毫して呉れとの事であつた。自分の書いたものが|いくら〔付ごま圏点〕位ゐで売れる乎と尋ねし所、時価は大抵二字一枚で二十五円位ゐであらうとの事であつた。今日まで自分の揮毫に対し未だ曾て一回も謝礼を取つた事がないから、其代価を知るを得しは今日(154)が初めてゞあつた。二字一枚で二十五円取れるものならば、是は伝道金を得るに最も善き方法であると思うた。何れにしろ自分の悪筆にも代価があると聞いて嬉しかつた。今より後は矢鱈に揮毫することを止めて、之に対し時価を徴収して、之を世界伝道参加資金の内に加へるであらう。家に在つて時には善き報知に接する。
二月十七日(木)半晴 人生多忙である。多忙とは大抵小事に多忙なるを云ふ。小人が怒る|ふくれ〔付ごま圏点〕面《つら》を見ねばならぬ。小人の持来る小事に携はらねばならぬ。今や何人も幸福を求めて止まない。そして我等が彼等に之を供せざる事を、彼等は我等の彼等に対して犯す大罪悪であると思ふ。彼等は神の事を思はない、或は我等が彼等の幸福を供する事が、我等が神に対する我等の責任を果たす事であると思ふ。斯んなイヤな人世に在りて人生実に多忙である。
二月十八日(金)半晴 旧い教友の一人なる長野県小諸町の小沼五兵衛君が咋朝五時永眠せりとの報に接した。去る二日には京都の山口君去り、昨日は又小沼君が逝いた。長命は恩恵なりと云ふも旧知の去り逝くを目撃するは辛らい事である。孰れも後半生を『聖書之研究』を信仰の指導者として送られた人達である。彼等の霊魂が天父の御許《みもと》に在りて平安ならん事を祈る。
二月十九日(土)曇 毎日何か一つ位ゐづゝ新しき責任が殖える。自分が基督教の教師であると云ふので、犠牲と責任を要する仕事は何でも持込まれる。そしてそれを辞する事は出来ないとは情けない事である。自分は自分の仕事の為に何人にも頼む事は出来ず、自分は何人に頼まれても幾分なりと之に応じなければならない。まことに割の悪い生涯である ○久振りにて英国 J・W・ロバートソン・スコツト氏より文通があつて楽しかつた。(155)氏は信仰家ではないが、自由公道を愛する尊敬すべき英国人である。英国人の内で自分の同志と称すべき者は氏一人である。氏は日本に関する其著書に於て「日本のエリヤ」として自分を英国人に紹介して呉れた人である。此たび労働党に加入して新たに雑誌を発行せんとするが故に投書して呉れとの事であつた。取敢ずインテリゼンサー一年分を送り遥かに彼の依頼に応じた。英国々教会の英国であると思へば堪へられぬ程イヤであるが、カーライルやラスキンの英国であると思へば甚だ慕はしくある。
二月二十日(日)曇 両回の集会に変りなし。朝は「現代思想と基督教」の第二回を講じた。基督教はキリストである。「天の処」は既に完成された、此世を化して天国と成さんとするのでないと云ふ事を述べた。善き福音を伝へたと思ふ。午後は列王紀略上の第十七章に由り「エリヤ伝」の第一回を講じた。青年男女二百人以上に此古き話を語るは実に愉快であつた。久振りにて充実せる聖日であつた。
二月二十一日(月)曇 目下帝国議会へ提出中の宗教法案につき意見を聞いて貰はん為に貴族院議員某君を訪うた。斯んな事に少しなりとも携はりて少しく耻かしく思うた。翻つて思うた、斯かる法律は自分等の為には全く不要であり且迷惑であるが、世には斯かる法律を要する所謂宗教家が沢山に有るのであらう。彼等を取締る為にそれが必要であると云ふならば、之に服するまでゞある。何れにしろ文部省の認可を得るまでは伝道が出来なくなるとは実に情けない次第である。政教は益々分離すべき者であるのに日本では政治の方より宗教に干渉せんとして居る。時代錯誤とは此事である。
二月二十二日(火)雪 東京には珍らしき大雪である。英文雑誌の発行人変更届を為さん為に雪を犯して丸之(156)内の警視庁に行つた。久振りにて大江戸の雪景色を見て楽しかつた。之で先づ英文雑誌 The Japan Christian Intelligencer が自分の手に移されたのである。人が隠居する頃に新たに大責任が手に落たのである。主の命じ給ふ所と信じて之に当るまでゞある。
二月二十三日(水)晴 麗はしき雪の朝である。終日を英文雑誌の編輯に費した。時間と努力の大なる犠牲である。此んな事と知れば去年之に携はらなかつたと思はせらる。然し今となりて止むを得ない、上より新たなる力を仰ぎつゝ之に従事する。我国の今日を思へば上と下となく失望のみである。明るい喜ばしい事は何処にもない。然し神は在し給ふ、其事其れ自身が大なる光明又歓喜である。今日、鹿児島県某地の一婦人より、本誌二月号巻頭に掲げし孟子の言に由り死地より甦りし通知に接し、真理の一言の如何に大勢力なる乎を感じた。金を獲る為に働くは厭であるが、霊魂を救ふ為に犠牲を払ふは少しも惜しくない。今日は忙はしくして聖書もダンテも一行も読み得なかつた。
二月二十四日(木)晴 雑誌原稿製作に苦心した、ペンが動かなくつて困難した。旧くよりの苦心困難である。墓に入る日まで続く困難である。此ために生れて来たのである。然し苦しい時には依然として苦しくある。之に由て誰でも唯一人なりとも能力と慰安を得るならばそれで凡てが償はるゝのである。今日は仕事の暇《ひま》に天文学者コペルニカスの小伝を読んで慰められた。彼はルーテルと同国同時代の人であつて、ルーテルが霊界に於て為したと同様の改革を学界に於て為したのである。ルーテルは義の太陽なるキリストを霊的宇宙の中心と見た。二者孰れも中心の発見者であつて、中心の新発見は万事の変革である。
(157) 二月二十五日(金)雪 忙がしい月であつた。月は短かく、其上流感に罹り、更にまた英文雑誌を引受けたので、新たに之を発行する丈けの面倒であつた。友人の援助があつて有難たいが凡ての責任は自分一人で担はざるを得ず。其上にまた基督教主義の農学校設立の計画あり、聖書知識普及の為の大出版の相談もあり、友人の著書出版の紹介もあり、某公立学校に於ける基督教講演引受の事もあつた。其間に旧来の雑誌講演を継続せざるべからず。パウロが言ひし通り「誰か弱くして我れ弱からざらん乎」である。六十六歳の春を迎へて戦闘は益々激烈である。自己に顧みて到底堪ゆる能はざるを思はせらる。然し自分が戦ふのではない、主キリストが自分に在りて戦ひ給ふのである。自分は戦闘の傍観者である、そして主の戦闘なるが故に勝利は確実である。故に日々命ぜられしが儘に働く、そして仕事は次ぎへ次ぎへと進む。時に閑暇を得てダンテや天文書を覗く。面白い生涯である。
二月二十六日(土)曇 今朝また雪を見た。忙がしい週間の終りに滞りなく明日の説教を書上げる事が出来て感謝であつた。今日はまた仏教熱が高まり、仏教と釈迦牟尼に就て考へた。如何見ても釈迦は偉らい人であつた。ルーテルのやうな、而かもルーテルよりも偉らい改革者であつた。若し彼が今日の日本に居たならば其仏教徒を責めて止まぬであらう。基督教徒がキリストを忘れし以上に仏教徒は釈迦牟尼仏を忘れたと思ふ。自分に取り基督教の研究に次ぎ興味最も多き者は仏教の研究である。原始仏教の今日の寺院仏教とは全然|異《ちが》つた者である事が判明つて、寺院を嫌ひつゝも教祖自身を尊敬する事が出来て喜ばしくある。
二月二十七日(日)曇 郊外の泥濘甚だしきに拘はらず集会通常と変りなし。朝は塚本と、午後は畔上と高壇を共にした。自分は朝は「現代思想と基督教」の第三回を「生けるキリスト」と題して講じた。今生き給ふキリ(158)ストと個人的関係に入らずして真の基督教の信仰の無い事を語つた。午後は列王紀略上の第十八章に由り「エリヤ伝」第二回を講じた。ヱホバの予言者対バールの予言者の対抗に就いて語り、語る自分も大に教へられた。不相変多忙の日曜日であつた。不完全ながらも凡ての責任に当る事が出来て感謝であつた。
二月二十八日(月)晴 左の意見書を印刷に附し、文部大臣、宗教局長、貴衆両院議員、合せて八百二十九人に宛て郵便を以て発送した。余計な事を為したやうに思はるゝ乎も知らざれども、此の場合為さねばならぬ事と思ひ断行した。生れて初めての経験である。政治家達は之を受取つて笑つてゐるだらう。多分之を開封する者は極めて少数であらう。国家の一大事であるとは言ふものゝ、其大事なるを認むる者は極々少数であらう。
宗教法案に就て
私は宗教を教ゆる者でありまして政治を知らない者であります。然るに今回宗教法案なる者が帝国議会に提出せられて我国に於て宗教が為政家の監督を受けんとして居ると云ふ事を聞きました故に、茲に私の立場より此間題に就いて一言する事を許して戴きます。
ベンジヤミン・フランクリンが曾て言うた事があります「政府の保護を受けざれば存在し得ざるやうな宗教は存在せざるを可とすれば、斯かる宗教には保護を供へずして之を廃滅に帰せしむるに如かず」と。誠に明言であると思ひます。世に自存性を有する者にして真の宗教の如きはありません。此は如何なる勢力の保護をも待たずして、自由に発達し得る者であります。之に反して偽の宗教程脆い者はありません。此事を知つて政治が宗教に干渉するのは如何に愚かなる事である乎が判明ります。政治家が宗教の為に為し得る至上善は全然之を放任する事であります。勿論非倫不徳を取締るの必要はありますが、それは普通の法律に依て(159)取締る事が出来ます、特別に宗教法を設くるの必要はありません。
今や政教分離は文明的政治の原則であります。そして宗教が政治に干渉する害が大なる丈け、それ丈け政治が宗教に干渉するの害は大きくあります。故に西洋諸国に於ては二者の分離をして益々明白ならしめんとして居ります。然るに我国に於て第二十世紀の今日に於て新に法律を設けて宗教を取締らんとするは、此はたしかに文明の逆行であります。憲法が既に自由を与へた宗教に、幾分なりとも政治の制裁を加へんとするは、此はたしかに時代錯誤でありまして、政治の為に計るも害多くして益少き事であります。甚だ失礼なる申分でありますが、文部省は其直轄の諸学校に於てすら教師生徒の思想の悪化を制止する事が出来ないのであります。其文部省が教育よりも更らに困難なる宗教を其支配の下に置いて之を取締り得るとはどうしても思はれません。
更に一つ私は言はして戴きたくあります。此法律案を編んだ人々は失礼ながら宗教の何たる乎を知られた人々でありませう乎。私は大なる疑を懐きます。私は今日まで殆んど四十年間、同胞の間に伝道して来たものでありますが、日本政府の官吏又は民間の政治家にして真に宗教を解した人に滅多に遭うた事はありません。彼等は私供宗教に生きんと欲する者の眼より見ますれば、所謂「此世の人達」でありまして、神の事、霊魂の事、来世の事等に就ては純然たる門外漢であります。そして斯かる人達に由て編まれたる宗教法が能く日本人の宗教を取締り得やうとは私にはどうしても思へません。私は法案其物の為政家の善意に出たる事を信じて疑ひませんが、然し宗教信仰の立場より見て斯かる法案は今日の場合撤回して貰ひ度くあります。或は又法律と為す前に一度広く国民の輿論に問ふて然る後再び提出して貰ひ度くあります。昭和二年二月十八日
(160) 三月一日(火)晴 訪問客多くして多忙であつた。其間に校正を為し、読書した。愛蘭土キルと云ふ所の英国々教会の牧師 T・S・ベリーと云ふ学者の著はした「基督教と仏教」と題する書を読んだ。此は三十年前に読んだ書であつて、今は再読である。旧い書であるが其の唱ふる所は真理であると思ふ。釈迦の人格の偉大を認めざるを得ずと雖も、其教理は基督教のそれに比べて消極的であつて不備であると思ふ。何れにしても仏教研究は非常に面白くある。
三月二日(水)曇 漸くインテリゼンサーの校正が済んだ。随分の骨折であつた。然し為し得て感謝である。「汝の能力は汝の齢に循ふ」である。責任が加はれば之に循ひて能力が加はる。心配するに及ばない。
三月三日(木)曇 今日は一日校正と原稿書きを休みて読書に従事した。J・アーミテージ・ロビンソン著『エペソ書の註釈』に稀れに見る好良の註解書を発見して感謝であつた。英国々教会には時に斯んな偉らい学者が居る。其儀式制度は厭であるが、其教師の中に偉人の居た事を拒む事は出来ない。茲に彼等に対し衷心よりの尊敬を表する。
三月四日(金)曇 夜雪降る。雑誌校正にて頭脳を痛めた。英文雑誌三月号が出来た。期日までに作る為に大なる努力を要した。八百部刷つた。若し是れが全部売れるならば大なる成功と言はざるを得ない。日本に於て純英文雑誌を発行して五百以上の読者を得ることは甚だ困難である。
三月五日(土)雪 去る一日木村熊二君八十四歳の高齢を以つて永眠せられ、今日其葬儀が牛込教会に於て営(161)まれたれば、自分も出席して同君に対し敬意を表し、合せて知人を代表して少し計りの感想を述べた。然し田村直臣君、田島進君等が故人に関する熱き心情を注がれし後であれば、自分の感想は誠に役目的に聞え、申訳が無つた。何しろ明治六年に基督信者に成られた人であつて、我国基督教界の長者であつた。弘化に生れて昭和に眠り、旧き日本を新しき日本に繋ぐ功労者であつた。
三月六日(日)半晴 両回の集会に変りなし。午前は使徒行伝十八章十八節以下十九章に至るパウロのエペソ伝道の研究の準備として「福音エペソに入る」と題してエペソの地理的並に歴史的地位に就て語つた。少しく学究的であつて会衆全体に対しては気の毒の感があつたが、然し之を感賞して呉れる人もあつて感謝であつた。午後は列王紀略上十八章四一節以下に由りエリヤ伝第三回を講じた。エリヤ雨を祈る段であつて、多く語るべき事があつた。
三月七日(月)晴 エペソ書と支那仏教史とを読んだ。憲政会と政友本党との野合的聯盟の事を思ひ、朝は気持悪しく、日本の将来に就て失望した。特に神の大能の此国の上に加はらん事を祈つた。夜、主婦と共に「乃木将軍」の薩摩琵琶の放送を聞き、是れ亦甚だ気持が悪かつた。所へ関西大地震の新聞号外が来り、大ショツクを感じた。何やら神が日本の今日に就て怒つてゐ給ふやうに感じた。震害の程度如何に由つては我国の大事である。
三月八日(火)曇 夜雨ふる。終日関西の大地震にて心を悩ました。其中心が阪神でなかつた丈けは幸福であつたが、其災害の甚大でありし事は痛心に堪へない。関東の地震と等しく天災其物は天刑ではないが、之に見舞(162)はれて、それが為に国民が難儀するは罪の結果であると云はざるを得ない。日本の如き天災国に在りては其国是を之に順じて定めねばならぬ。即ち之に国家的保険を附ける積りで万事を行はねばならぬ。非戦的平和主義の必要なるは茲に在る。外敵と戦ふよりも天然と戦ふ為に備へねばならぬ 〇此日英文雑誌の外国発送を終つた。僅かに百二三十部であつたけれども、初めての事であつて、家族総掛りにて大分に苦心した。
三月九日(水)雨 春暖到る、暴風雨であつた。久し振りにて閑暇を得たれば旧稿の整理を行うた。籠に二|はい〔付ごま圏点〕の屑紙を得た。自分ながらに書物《かきもの》の多きに驚く 〇二瓶要蔵君の個人雑誌『宗教』に左の如き記事が見えて非常に不快を感じた。
最も発達した新教には御利益主義はあるまいと云ふ人があるが、否々もつと甚だしき御利益主義がある。それは丁度浄土真宗の様に基督を仰いだならばそれで凡ての罪は赦されて天国に入る事が出来る。凡ての罪も汚れも其まゝで宜しい。何うせ人は如何に修養し努力した所で自分の行で救はれるのでないから只救はれたと信ずるならばそれで宜しいと云ふ大なる御利益主義がある。‥‥‥是れ偶像教の僅かの御賽銭でウンと金儲けをさせて貰ふと云ふ心の発達したものであつて、宗教と道徳の大なる敵である。実に思切つたる言方である。キリスト仰瞻の信仰を斯くも浅薄に解する二瓶君の心理状態が自分には何うしても解らない。是れでは同君と自分との共同事業は何れの方面に於ても不可能である。
三月十日(木)晴 少しく他人の為に奔走した。頼まるれば辞する事は出来ない。其間に種々の事を教へらる。米国流の基督教は人を自己本意に為すに甚だ有力である事を認めざるを得ない。実に悪い宗教である。其点に於ては仏教の方が遥に増しである。今日も仏教史を復読して大に慰められた。日本人全体が米国宣教師の伝ふる基(163)督教を受納れざるは神に感謝すべき事である。
三月十一日(金)晴 雑誌第三百二十号を発送した。いつの間にか三百号を二十号突破した。ほかに英文の妹が出来た。何だか夢のやうである。「是れ主の為し給へる所にして我等の眼に不思議に見える也」である。引続きエペソ書の研究が非常に面白くある。中年時代に幾度も研究した書である。老年の善き慰めである。斯んな面白い研究の材料を与へられて、何年生きても人生に倦むことはあるまい。仏教史の復読も亦非常に面白くある。今日は原稿も亦少し書けた。
三月十二日(土)晴 宗教法案消滅の兆候見えて嬉しかつた、然しまだ安心は出来ぬ。然し何う決るも差したる事は無いと信ずる。神の聖意は必ず成る。官吏や政治家は少しく之を早めるか遅らするに過ぎない。信仰の立場より見て此はどうでも可い問題である。唯少しく刺戟と成りて面白い。
三月十三日(日)雨 大雪にも拘はらず、両回の集会に殆んど変りがなかつた。郡部の悪路を犯して集り来る若き婦人達に対し殊に感謝せざるを得なかつた。我が聖書研究会は当初より天候に由て其盛衰を支配されなかつた事が特質である。今日の如きが其の最も好き実例である。青年男子は勿論のこと、上下貧富の別なく大雪せ践んで大抵時間までに出席して呉れた。是れでこそ神のエクレジヤの感がする。朝は使徒行伝十八章廿四節-十九章七節に由り「アポロの出現」と題して講じ、午後は列王紀略上の十九章に由り「エリヤ伝」第四回を演じた。実に気持好き雪の聖日であつた。
(164) 三月十四日(月)半晴 不相変精神的疲労の月曜日であつた。久振りに旧約のエステル書を読んだ。意味深長の書である。神なる文字をさへ一回も用ひざる此書も亦たしかに神の聖書の中に加へらるべき充分の価値がある。遠からずして之を我が研究会に於て講ずるであらう。
三月十六日(水)曇 寒いイヤな日であつた。宗教法案握り潰し確実の報を新聞紙に読んでやゝ安心した。然し其他の事に於て日本今日の状態は其の凡ての方面に於て混乱である。国家其物の将来が案じられる。北米加洲帝国平原コーチユラより信仰復興の音信に接し、此はたしかに喜信であつた。凡ての事非ならざるなき今の世に、聖霊の働く所のみは凡ての事可ならざるはなしである。新聞紙はイヤな事のみを伝ふるに、我が信仰の友は善き事のみを伝ふ。
三月十七日(木)曇 数ケ月振りにて銀座に行つた。完全なる虚栄の街に化したのに驚いた。食ふ事、飲む事、着る事、近代人の求むる所は只それ丈けである。浅ましき限りである。或る友人の紹介を得て、丸之内工業倶楽部に於て大阪商船会社の催しの東方阿弗利加開拓の活動写真を見た。野獣生活、マガヂ曹達湖、ヴイクトリヤ大湖の実況等|見物《みもの》であつた。然し講堂の空気流通悪くして堪へ難く、中途にして辞し去つた。日本紳士の時間を守らず、空気に注意せざるは昭和の今日と雖も、昔しに少しも異ならない。市中に往いて眼に止まる事は悪い事計りである。自分の如きは極東のバビロン東京に居る資格は無い者であると思ふ。
三月十八日(金)曇 午後六時半より青山会館に於て宗教法案反対基督教大会が開かれ、自分も反対者の一人として出席し、一場の演貌を為すべく余儀なくせられた。聴衆は一千人もあつたらう。中田ホーリネス教会監督(165)司会し、演説者は救世軍の山室軍平氏と自分との外は、主として日本基督教会の人々であつた。久振りの市内の出演であつて余り気持が好くなかつた。二十五分間計り朗読演説を試みた。聴衆は拍手を以つて迎へて呉れた。然し半ば此世の事を語るのであつて、自分には甚だ不似合に感じた。是れで先づ「お役目」を一つ果たしたのであつて、又と復たび斯かる会合には顔を出さゞらんと欲する。
三月十九日(土)雨 昨夜の演説にて大分に疲れた。馬鹿な事をしたやうに思ふ。半日休んで半日働いた。ペンを執つて英文原稿を書いた。財界に大動乱が起りつゝある。ノアの洪水の襲来であらう。思へば恐ろしくある。然し国民が神に叛いた結果が茲に至つたのであれば止むを得ない。神は方舟の中に我等信ずる者を救ひ給ふと信ずる。如何に見ても今の若槻内閣は未だ曾て見たことのない悪い内閣である。然し事の茲に至つた深因は他に在る、伊藤、大隈等、所謂維新の元勲に於て在る。彼等が播きし不信不実の種が此悪しき果を結んだのである。或は更に言ふべきであらう、罪は彼等を欺きし西洋の政治家に在ると。何れにしろ浮虚が風を生んだのである。大風を生んで国家を吹倒さんとしてゐるのである。噫又噫。
三月二十日(日)雨 午後に至りて雪も加はり稀に見るイヤな天気であつた。にも拘はらず集会は平常と多く異ならず、不相変恩恵溢るゝの聖日であつた。但し一昨夜の公開演説が祟り、疲労癒えずして充分の元気を発揮し得ずして残念であつた。午前は使徒行伝十九章八節以下二十節までに依り「エペソ伝道の成功」に就て語り、午後は世は挙つてキリストを憎む者なれば、キリストに従つて世界到る所に信者は或る種の迫害を免かれざること、そして信者が世に勝つの唯一の武器は祈祷である事に就て述べた 〇一昨夜の演説に就き聴衆の内に在りし米国宣教師某氏よりイヤ味たつぷりの手紙を受取り不愉快であつた。米国宣教師が自分を解し呉れやう筈はなく、(166)斯かる怨言《こごと》は当然の事なりとは云ふものゝ、彼等と接触せねばならぬ所に以来自分を引出さゞるやう基督教界の諸氏に注意せざるを得ない。自分は信ずる所を言はざるを得ず、言へば宣教師に当る。自分に取り教会の催しにかゝる集会に引出さゝるゝ事は迷惑至極である。キリストの愛の故に教会は自分を放任し置かれんことを祈る。
三月二十一日(月)晴 農商務省高等官某氏に伴はれ、友人一団と共に茨城県友部に在る日本高等国民学校を訪れた。校長加藤寛治君の親切なる案内に依り校内隈なく視察するを得て大に教へらるゝ所があつた。如何にして最も有効的に我国農家の子弟を教育せん乎と云ふのが問題である。そして加藤校長はたしかに多くの満足なる解答を与へつゝあると信ずる。何れにしろ日本国根本的救済を計る為の最も有望なる試みであると思ふ。なまじかな神学校を設くるよりも遥かに増しである。自分にも若し年齢と資力とが有るならば行《や》つて見たき仕事である。此所にも亦一場の演説を為すべく余儀なくせられ、一時半辞して汽車にて水戸に到り、常磐公園に烈公の遺跡を尋ね、梅花を賞し、夜八時柏木に帰つた。久振りの短旅行であつて、心身共に善き休みであつた。夕暮に利根川の鉄橋を渡りたれば一首を作つた。
梅が香に憂へは失せて身は軽く
利根川渡る春の夕暮
三月二十二日(火)晴 市内は銀行の取付並に支払停止等にて騒がしくある。家に在りても種々の小間題起り、是れ亦処理するに仲々面倒である。如何に見ても塵の世である。主が顕はれ給ふまでは患難の連続である。左の如き張紙を玄関に張りつけた
説教、演説、論文等の御依頼は一切御引受不申候。
(167) 且又、社会、宗教其他の運動には一切参加不仕候。
内村鑑三
近代人に対して冷淡に成らざれば旧代人は其天職を果たす事が出来ない。結婚式を挙げるから来て呉れるか又は祝文を書いて送つて呉れとか、望遠鏡を買つたが能く見えないから見える方法を示して呉れとか、書画の展覧会を開くから数枚揮毫して送つて呉れとか、勝手放題を言ふて来る。「神の国と其義」に就て協力を申込んで来る者は一人もない。凡てが神と聖書と教師とを自己の為に用ひんと欲する人達である。いくら抑へても癇癪が起らざるを得ない。
三月二十三日(水)晴 彼岸の中日である、内村家名物の牡丹餅が出来た。愛の籠つた餅である。三十年以上、春と秋とに之を作つて呉れた主婦に感謝する。我等に労働と家庭の快楽の外に何の快楽もない、然し是れありて他に快楽を求めない。社交、観劇の快楽等は我等には快楽でない 〇此日例年の通り高等女子師範学校の本年の卒業生にして、我が聖書研究会の会員たる者の送別会を今井館に於て開いた。送らるゝ者は四名であつた。彼等は何れも善き信者と成りて我等の許を去りて各地に散在して其職に就く。女学生中最良分子である。外国宣教師に接せざるが故に其信仰は日本式にして、質素にして堅実である。総理大臣や大学総長に成らずとも、是等の学生に聖書を教ふるを得て、我が人生の目的は達せられたりである 〇英文雑誌の編輯を終つた。前月よりは大分に楽であつた。単独でポツポツと行《やる》のであつて、至つて面白くある。
三月二十四日(木)曇 今や基督教を利用せんと欲する者が沢山に有る。我等は彼等に利用せられてはならない、又彼等を利用してはならない。真の求道者にあらざる以上は成るべく彼等を兄弟扱ひに為さゞるやう努めな(168)ければならない。今や我国に於ても基督教が堕落せるの結果として多くの信者までが昔の儒道を懐かしく思ふやうに成つた。恰かも西洋医に失敗多きが故に漢法医が復興したと同じである。まことに今日の教会の基督教よりも昔しの儒教仏教の方が遥かに増しである。歎ずべきの極みである。
三月二十五日(金) 春寒くして梅は咲いても桜はまだ咲きさうにもしない。今年程春の待たるゝ歳は久しくなかつた。人を離れて天然に帰りたくある。家に在りては星学が唯一の天然研究である。聖書丈けそれ丈け清きものは此学科である。そして望遠鏡がなくても、肉眼で大分に天をのぞく事が出来るから愉快である。帝国議会では代議士達が鉄拳を揮つて乱闘しつゝある間に、コペルニカス、ブラーヘ、ケプラー、ハーシエル等の大天文学者の事跡を考ふるは座して天堂に昇りしが如き感がある。
三月二十六日(土)雨 校正と原稿とで多忙であつた。人生に多くの六ケ敷い問題がある。如何なる人と雖も悉く之を解決する事は出来ない。小間題は大問題丈けそれ丈け六ケ敷くある。然し全能の神は悉く能く之を解決し給ふ。そして彼に解決して戴いて事として善からざるはなしである。故に何事に就ても祈祷が必要である。小の小なる事まで神に教へて戴かなければならない。人に会ふ時、紛失した物を探がす時、文章を書くに方り適当の文字が見附からぬ時、祈祷が必要である。大事に臨んでは勿論である。先般の宗教法案反対の時の如き、一日に数回此事の為に祈つた、そして凡てが祈つた通りに成つた。聖書の意味の解らぬ時に、祈つて善き解釈を得た事が幾度《いくたび》あつたか知らない。歳を取るに順ひ、信者の生涯は只祈る事のみである事を益々切実に感ずる。
(169) 三月二十七日(日)半晴 朝は使徒行伝十九章二十一節以下に由り「パウロ、エペソを去る」の段を講じた。彼が到る所に騒擾を起すの因となつた事に就て述べて彼に対し同情に堪へなかつた。午後は列王紀略上第二十一章に由りエリヤ伝第五回を講じた。去る十八日の公開演説が今に猶ほ祟りて充分に元気を発揮し得ずして残念であつた 〇世に自分を先生として奉りながら自分の命《い》ふことに少しも従はざる者の多きを歎げく。近代人が人を先生として仰ぐは彼をして己が意志の実行に裏書きせしめん為である。先生の勧告に従ひて生涯する者は滅多にない。先生を馬鹿にする仕打であつて憤慨に堪へない。然し近代人の天性であるが故に如何ともする事が出来ない。聖日にも斯かる感想を起さゞるを得ない事を悲む。
三月二十八日(月)晴 麗はしい春の日であつた。独りで井之頭《ゐのかしら》公園に散歩した。東京郊外の発展の甚だしきに驚いた。柏木は今や殆んど東京の中心である事に気が附いた 〇米国メソヂスト教会派遣宣教師某氏より自分の米国並に米国宣教師に対する態度につき激烈なる反駁の書面が達した。直に斯かる馬鹿らしき態度を棄てゝ彼等宣教師と和合一致せよとの勧告であつた。恰かも教師が其生徒を諭すやうなる書振である。多分日本メソヂスト教会所属の邦人教師等は宣教師等に如此くに扱はれてゐるのであらう。
三月二十九日(火)晴 古本の整理を為した。必要の書籍が段々と少くなる。終には聖書丈けあれば足りる時が来るのであらう 〇米国宣教師の或者は自分に書送つて云ふ「君は人を蹴る馬なり」と、或る他の者は曰ふ「君は青年を惑はし、歴史を偽はる者である」と。如何でも可い。然し雑誌著書の註文は続々と達し、聖書研究会入会者は殖る一方である。そして全国並に海外に於てまで、自分の書いたものに由て信仰復興が起りつゝあるとの報知が所々より到る。矢張り自分の方が宣教師よりも遥に恵まれたる人である。
(170) 三月三十日(水)雨 旧約エステル書を研究した。多くの興味ある歴史的並に文学的問題を喚起する。古代ペルシヤ史を復読するの必要がある。四十年前に読んだローリンソン著『古代七大帝国史』が今に至つて用を為す。然し学問の為の学問でない。隠れたる弱い信者を教へ且慰むる為の学問である。教会や社会とは何の関はりあるなしである。神は隠れたる所に働き給ふ。其弱き人達に先生と云はれ兄弟と呼ばれる事が最大の誉れ又喜びである。益々此世に死し、教会には悪人と云はれ、社会国家には無視されて、此の隠れたる低き人等に由て成る平和の国に安住せんと欲する。此雑誌も素々斯かる国の人達に読んで貰はん為である。
三月三十一日(木)半晴 暖かい日であつた。両雑誌の校正が主なる仕事であつた。支那の動乱が目下の大問題である。其裏に大なる聖手が働いてゐると信ずる。罪を支那に計り着せてはならない。西洋諸国、殊に英国が今日まで支那を侮辱した事を考へねばならぬ。西洋本位にのみ世界歴史を考へて我等は大なる誤謬に陥いる。そして神は支那と共に日本を救ひ給ふであらう。
四月一日(金)半晴 インテリゼンサー誌の校正を了つた。三月号発行部数八百十七部、全部売切れとなつた。印刷費百三十七円八十銭、一冊に付き十七銭、即ち売上げ代金を以つて印刷費を償ふに足る。大なる成功である。外に編輯雑費百円を要す。是は兄弟の寄附金を以て補充す。斯くて此小なる仕事も亦、何人にも愛の外に何の負ふ所なくして継続する事が出来て感謝である。
四月二日(土)曇 教友某の結婚式を司つた。彼に取つては再婚であつた。新婦は初婚であつた、然し所謂(171)基督信者でなかつた。自分は彼女に向ひ左の如き質問の言を発した。
あなたは日本婦人として、あなたが教へられし日本国の婦道に循ひ、此人に嫁ぎて其妻となり、彼を敬ひ、彼に従ひ、彼を助けて、あなたが日本婦人たるの義務を尽さんとせられますか、又其決心を神明と諸友人の前に誓ひます乎。
之れに対し「然り」との答を得たれば、茲に普通の簡単なる基督教式に由り此式を済ました。是れが我等の信仰を尊重して我等の内に来らんと欲する者を迎ふる最も正直なる途であると信ずる。そして大抵の場合に於て、如斯くにして迎へし人々は、喜んで我等の同信の友となり、永く我等の親友として存《のこ》るのである。我等は所謂「信者」のみが真の信者でない事を知る。
四月三日(日)半晴 集会変りなし。朝は使徒行伝二十章一-十二節に依り、「トロアスの集会」に就て語り、午後は列王紀略下の第二章に依り「エリヤの昇天」に就て述べた。エリヤが大風に乗りて天に昇れりとあるは、奇跡に非ずして旋風に捲揚げられたのであると云うた。英雄の死状として太閤秀吉、クロムウエル、べートーベン等の死方を参考として述べた。春来りて珍客多く、三谷文子は米国マウントホリヨーク女子大学を卒業して帰朝し、京城|金昶済《きんちやうさい》君は十年振りに上京し、夜に入りて其訪問を受けて是れ又楽しかつた。但し週間に聖書以外の用事多き為に日曜日の講演に充分の力を入れる事が出来ずして、夫れ計りは残念至極である。残余の生涯は聖書計りで送りたきものである。
四月四日(月)雨 支那動乱の結果として米国宣教師全部五千人、支那を引払つて本国に帰還する由を新聞紙に読みて大に考へさせられた。茲に欧米宣教師が支那を教化する能はざる明かなる証拠が拳つたのではあるまい(172)乎。日本人をさへ見下して止まざる大抵の宣教師が如何に支那人を賤しめし乎は推察するに余りがある。欧米の伝道会社が百年支那に伝道を試みて、終に之を放棄せざるを得ざるに至つたには何か深い理由がなくてはならない。神は東洋を守り給ふ。西洋宣教師に依らずして他の方法を以つて之を救ひ給ふであらう。
四月五日(火)大雨 雑誌の校正を終つた。今より十日間が我が時間である。英文雑誌引受け以来忙がしい日を継けた。少しく休まして貰ひたい。
四月六日(水)雨 疲労出で、其為にや憂鬱の一日であつた。エペソ書と天文学を読んだ。時には天文学の方が聖書よりも霊魂の力となる。天文学には教会とか宣教師とか云ふやうなイヤなものがない。凡てが純真理で純学理である。世ばなれのしたる宏遠なる学問である。ハーシエル父子、アラゴ等孰れも勇敢なる真理の探究者である。面白く天文学を人に教へ得る者は大なる伝道師であると思ふ。自分も其一人に成りたかつた。
四月七日(木)曇 志賀重昂君の逝去を聞いて悲んだ。君は自分よりも二年後の旧札幌農学校卒業生であつて、該校が生んだ大人物の一人であつた。地理学に於ては世界的権威であつて、羨ましき程の地理知識の所有者であつた。自分に対しては常に同情を持つて呉れた。但し君が酒豪を以つて自から任じ、終に君の貴重なる生命を短からしめし事は歎じても猶ほ余りがある。君の級より多くの有為なる人物を出せしと雖も、其内の一人もクリスチヤンに成らなかつた。聞く彼等は東京出発に際し、札幌に行いて決してクリスチヤンに成らざるぺしと誓ひたりと。然し其事は彼等に取り善い事計りではなかつた。彼等はそれが故に教会宣教師の悪感化を免かれしと雖も、純基督教の供する聖感化を逸した。若し志賀君が自分と共に日本的基督教の唱道に当つて呉れたならば自分等は(173)どれ程助つた事であらう。同君の逝去を聞いて感慨に堪へない 〇此日身体の具合少しく宜く、家族の者に伴はれて久々振りにて上野向島を見た。上野は花の見頃であつた。向島は荒れ果てゝ見る影もなかつた。昔懐かしき百花園を訪れて、洪水、震災、煤煙に禍ひされて僅かに昔の跡を止むるを見て悲しかつた。左の一首を園の主人に書置いて帰つた。
火と水と西の文化に荒れはてし
園の昔の跡ぞ恋しき
四月八日(金)晴 十八年間布哇ホノルルに牧会せらるゝ組合教会教師堀貞一君の訪問を受けて楽しかつた。君の伝道に依り京都同志社に於て信仰の大復興ありしを聞き大に我が志を強うした。旧い伝道師の内には時に昔の誠意熱情を見ることがある。君は自分と同じく文久元年酉年の生れであつて算へ年の六十七歳であると云ふ。信仰に於ては自分より一年上の五十一歳であつて伝道界の老武者である。
四月九日(土)晴 今日はまた本間重慶君の訪問を受けた。基督教界の古い事どもを語り合ひ、面白かつた。教界の元老中に教会合同の説が又亦持上つたと聞いて喜んだ。然し其実現は容易の事であるまい 〇志賀重昂君の告別式が青山斎場に於て行はれたれば、之に参列して、君の枢の前に低頭し、一|撮《つまみ》の香を焼いて帰つた。札幌時代の事が思出され、人生の短かさが一層深く感ぜられ、今昔の感に堪へなかつた。
四月十日(日)晴 麗はしき花の聖日であつた。朝は使徒行伝二十章十七節以下に由りて「パウロの告別演説」と題して話した。午後はエステル書の紹介を為した。主としてペルシヤ王国の地理歴史の講演であつて、信仰に(174)は没交渉に思はれて余り気持が善くなかつた。此日男子一人、女子五人に対し、彼等の切なる申出に由り、信仰試験の上、男女の長老十余人に立合つて貰ひ、彼等にバプテスマを授けた。毎年一回授くる事に成つてゐるのであつて今年も亦た之を執行した次第である。簡短にして謹厳なる式であつて、一同強き感に打たれた。バプテスマも如此くにして授受すれば、たしかに神の嘉尚する所となると信ずる。此日は此事ありしが故に、特に春の太陽と共に輝いた。
四月十一日(月)曇 久振りにて旧約エヅラ書を読んだ。聖書は何処を読んでも霊魂の強き力である。
四月十二日(火)晴 主婦と共に湘南に一日の清遊を試みた。海は静かに、山は美しかつた。然し夕暮に家に帰つて孫女に笑みを以つて迎へらるゝは、海よりも山よりも楽しかつた。人を動かす者はやはり人である。小児一人は大天然よりも美はしく且つ強くある 〇一昨日バプテスマを受けし者は何れも大なる喜びに充たされつゝある。其内の一人の小女は書を送つて曰ふ
先生 本当に有がたうございました。有がたくつて、嬉しくてたまりません。こんなに卑しい私には、分に過ぎたる多分な御恵みを前以ていただいた様な気持でございます。あゝ主の御恵みはなんと深い事でございませう。どうしてこれからの生涯、このお報ひをしないで居られませう。
又他の婦人よりの感謝の言葉は左の如し
……つもる我が罪を赦されてエスキリストを仰ぐ時、行く道難い我が先き々々をも感謝と勇気に力増して眺める事が出来るやうになりました。此世の苦しみ何でありませう。私共はすでに死してキリストと共に復活(175)は出来ません。
大なる決心を以て受けしバプテスマに以上の如き喜びが伴ふ。受くべき道に由て受くればバプテスマは信仰上甚大の効力たる事を疑はない。
四月十三日(水)晴 父の命日である、彼の真影に花を供へて紀念した。彼若し今在らば満九十六歳である。自分は彼の後を承けて兎にも角にも内村の家を更に一代継続する事が出来て神に感謝する。我家は小なる上州武士であつて正直の外に何の取所なき者である。人には常に騙され易く、貸しはありても借りはない。唯不幸にして自分は父よりも広く世に知られ、それ丈け彼に及ばざりしを悲む。彼の霊の天に在りて安からんことを祈る 〇今日は或る事に由り取越苦労する事の如何に悪しき事なる乎を暁つた。「明日の事を思ひ煩ふ勿れ、一日の苦労は一日にて足れり」との主の御言葉が強く我が霊魂に響いた。世人が挙りて「手おくれ」を恐れるが故に、自分も彼等に傚ひて先へ先へと心配するは実に腑甲斐なき次第である。遅れても宜しい、自分はクリスチヤンとして世に傚はず、安心して其時まで万事を主に委ねまつるべきである。主よ我が信なきを憐み給へ。
四月十四日(木)曇 夜雨降る。寒いイヤな日であつた。沢山にイヤな事を読まされ又聞かさる。支那の事、台湾銀行の事、実に聞くに堪へない。道徳は地を払うたと云ふ位ゐでは足りない、道徳は公然と否定せらる。何事も利害観念に由て決せらる。政治、法律、宗教までが、義に由て議せられずして利に由て定めらる。愈々世の終末が近づいたのである。唯一つ永久に動かざる者がある。神が据え給ひしキリストの国である。今の教会を離れたる神の国である。
(176) 四月十五日(金)雨 新聞紙は恐ろしくして読むに堪えない。支那のみでない、日本も何時崩れる乎判明らない。「義人あるなし一人もあるなし」とは日本国今日の状態である。凡ての人が政略の人である。どうすれば最も安全なる乎、其事をのみ考ふる人である。正義是れ至上善也との確信を有つ人に一人も見当らない。是れでは国は立たない。日本人全体が今や経済をのみ思ふて正義を求めない。危い哉である。然し我れ自身は神の言なる聖書の研究に於て人の凡て思ふ所に過ぐる平安を感ずる。
四月十六日(土)晴 台湾銀行救済策で政界も財界も大変である。此世の富は風前の灯である。一歩を誤れば大恐慌の襲来を免かれずと云ふ。然かし信ずる者は平安である。大洪水来らばノアの方舟が与へらる。神は御自身を愛する者を、如何なる場合に在りても救ふの途を沢山に有ち給ふ。今日は或る信仰の姉妹より思ひ掛けなき所に我が福音の伝はりつゝあるを聞かされて大に元気附けられた。純正の日本人は日本的基督教を要求する。
四月十七日(日)晴 麗はしい聖日であつた。今年の復活祭である。朝は九分通り、牛後は殆ど満員の集会であつた。殊に若き婦人の増すのに驚く。午後の集会の如き、婦人が遂に男子以上の数に達した。不思議なる現象である。朝は 「ミレトスよりヱルサレムまで」と題して、パウロの最後のヱルサレム上りに就て述べた。午後はエステル書第一章を「女王ワシテの没落」と題して講じた。エステル書は聖書中講解するに最も困難なる書であると思はれる 〇若槻内閣終に辞職す。実に気持の悪い内閣であつた。然し何人が内閣を組織しても今日の時局を救ふは非常に困難である。是れより重大事件は続出するであらう。然し神の聖旨が終に成つて万国が救はるゝは確かである。我等は世々の磐に頼りて何が来ても安心である。
(177) 四月十八日(月)晴 久振りにて宇都宮に行いた。斉藤宗二郎君が同道した。例に由り青木義雄君の迎ふる所となり、用事を弁じ、他に同地の友人一人と共に四人連れ立ちて汽車にて氏家町に至り、それより田舎自動車を駆りて喜連川に至り、其地の薬師堂並に城山の咲き乱れたる桜を見た。内に山桜の古木の多いのが嬉しかつた。此日|新田村挟間田《にいたむらはさまた》に取つて返し、其処に青木君の家に一泊した。夜家族に小学教員二名を加へたる小集会を開き、斎藤君と自分と感話を為し、祈祷を共にし、静かなる林間の寝に就いた。
四月十九日(火)晴 朝八時自働車を駆り熱田村の広々したる田畝の間を走り、仁井田駅より烏山鉄道に乗り、烏山に行いた。毘沙門山より那珂川流谷の風景を望み、ライン河も斯くあらんと思はるゝ程の眺望であつた。山を降りて烏山中学校に、角筈時代の教友黒木耕一君を訪れた。忽ち君の捕ふる所となり、全校教員生徒を大講堂に集め、其高壇より一場の演説を為すべく頼まれたれば、喜んで之に応じ、四十分余の即席講演を試みた。終つてまた田舎自働車を駆り、附近の景色を探り、それより一路八里宇都宮まで疾走して愉快であつた。其処にまた軍道の桜花の盛りを眺め、四時発汽車にて六時少し過ぎ柏木に帰つた。快き春の短き旅行であつた。
四月二十日(水)曇 八重桜の満開である。年に一度の麗はしさである。又ぢきに散りて来年まで待たねばならぬと思へば情けなくなる。台湾銀行は休業し、憲政会の若槻内閣は仆れ、政友会の田中内閣は成る。泣く者と喜ぶ者とである。政治家の生涯程憐れな者はない。
四月二十一日(木)曇 南風強くして惜しき桜が散つた。十五銀行休業して市中は大騒ぎである。明治十年設立の所謂華族銀行であつて、泰山の安きに置かれたりと思はれし此大銀行が戸を閉ぢたのであれば、全国挙つて(178)大衝動を感じたのは無理でない。此世の富の倚るに足らざるは此一事を以つても知る事が出来る。松方系財力の本拠と思はれたる財界の此堅城さへ、時到れば如此きであるを知つて、「蠹《しみ》くひ銹《さび》くさり、盗人《ぬすびと》穿ちて窃《ぬす》む所の地に財貨を蓄ふること勿れ」との主の教訓の永久に尊きことが斯かる場合に最も切実に感ぜられる。如何なる理財家もキリストには及ばない。我等は彼に倚りまつりて常に安全である。
四月二十二日(金)曇 寒冷帰る。緊急勅令を以て銀行|支払猶予《モラトリヤム》の発表があつた。国家の大事件である。国民に信仰絶えて経済的信用が失せんとしてゐる。実に危険《あぶな》い事である。然し我等は安全である。原稿編輯に平安の一日を過した。
四月二十三日(土)晴 八重桜は御殿桜の代る所となつた。モラトリヤム発布せられて財界の波は一時静まつた、然し此後何が来る乎判明らない。然し我と我家とは主と其|御言《みことば》に頼りて平安である。今日も亦|例日《いつも》の通り働いた。孫女の生立《おひたち》を見るが何よりの喜びである 〇米国アマスト大学歴史教授 L・B・パカード氏の「歴史に由る救ひ」の一篇を読んで呆れた。此はパウロの「信仰に由る救ひ」に対しての駁論の如き者である。我がシイリー先生の信仰、今や彼の母校に有るなしである。今や米国にキリストの福音絶えたりと言ひて多く誤らない。
四月二十四日(日)晴 財界大動乱の間に平常の通り平穏の聖日を守り得て大なる感謝であつた。讃美歌第二百三十二番を会衆一同声を合せて歌うた。
おほそらはまきさられて 地はくづるゝ時
つみの子らはさわぐとも 神による我らは
(179) こころやすし 神によりてやすし
松方系の大銀行たる十五銀行ですら、時到れば休業の悲運に会ふ。此世の万事凡て如此しである。唯だ神に依る者のみ安しである。此日午前は使徒行伝二十一章一七-二七節に依り「パウロ対ヱルサレム教会」に就き、午後はエステル書二章に依り「エステル女の立身」に就て述べた。殊に午後はユダヤ美人に就て語り、軟き問題に堅き教訓を与へ得たと思ひ、少しく満足であつた。
四月二十五日(月)晴 新たに開通の小田原電車に乗り独りで多摩川岸の登戸《のぼりと》に散歩した。梨と桃との花盛りであつて、野良歩行《のらあるき》には持つて来いの日であつた。然れども歳を取つて、内の世界に興味多くして、外の世界は余り面白くない。今や自分の説くやうな基督教を説く者を西洋にも日本にも見ないのは不思議である。若し教会の人達が自分はドンな基督教を説く乎を知つたならば、彼等は決して自分に講演や説教を頼まないであらう。知らぬは仏である。彼等は自分も亦彼等と等しく世界改良家の一人であると思ふて居る。失礼ながら彼等は聖書を知らず亦自分を知らないと思ふ。
四月二十六日(火)晴 雑誌編輯に全日を費した。訪問客の多い日であつた。不相変大抵は「頼む」、「与へよ」の訪問である。然るに或る北海道の信仰の姉妹が貴き香油一瓶に熱き感謝の意を罩めて之をみやげに訪問して呉れて、我が堅き心も融けて、時節に適ふ心の暖かさを感じた。殊に北海道に熱き信仰の兄弟姉妹の其処此所《そこここ》に尠からず在るを聞かされて、昔し懐かしく、感謝の涙を禁じ得なかつた。信仰的に見たる北海道は日本の尻尾であるとの自分の悪口は茲に取消さゞるを得ない。
(180) 香《かぐ》はしき我が故郷《ふるさと》の音信《おとづれ》に
堅き心の融けし今日《けふ》かな。
四月二十七日(水)晴 少しく閑暇《ひま》に成つた。仏教界の耆宿暁烏敏君より思ひ掛けもなく二月十日ヱルサレム発の書面が達し強き感に打たれた。ゲツセマネの園に採集せし美しき花を押葉にしたる者に添えて左の如くに申越された。
十二月国を出て印度仏跡をめぐり、三月九日キリストの跡をめぐるべくこゝに来ました。こゝまで私をして来さしたのは|あなた〔付ごま圏点〕である事を思ひました。青年時代に求安録と独立雑誌とによらなかつたら私は今こゝに来なかつたでせう。改めて先生に御礼を申します。
基督教の宣教師等よりイヤ味たつぷりの手紙を受取りつゝある此頃、音信久しく絶えたる仏教界の長老より、斯かる書簡を、而かも|我が〔付○圏点〕ヱルサレムより受取つて感慨無量である。所詮我国の浄土仏教徒は我が信仰の兄弟姉妹である。彼等が|真の阿弥陀は主イエスキリストである事〔付○圏点〕を知つて呉れる時に、世界に基督敦の大改革が始まるのであると思ふ。
四月二十八日(木)半晴 ルードルフ・ゾーム著『教会歴史の大要』を読み始め、非常に面白かつた。小なる大著述である。教会歴史と云へば大抵は乾燥無味な者であるが、是れ計りは面白い、生血の流がるゝ歴史である。|基督教が羅馬帝国に勝つたのは其の信者の力に由つたのではない、福音の真理其物に由つたのである〔付○圏点〕との観察は実に深い観察である。又ニケヤ会議に於けるアタナシウスの立場の弁護は我が衷心の賛成を表せざるを得ざる者である。此書は今より四十年前、自分がアマストを出た年に成つた者である。そして自分が言はんと欲する所の(181)事を明白に簡潔に述べてゐるに関はらず教会は其声を聴かずして今日に至つた。自分の声なぞに耳を傾けざるは勿論である。著者は独逸ライブチツヒ大学法学の教授であつた。神学博士又は教会の教師でなかつた。故に彼の曰ふ所に重味があるのである。
四月二十九日(金)半晴 両雑誌の校正で多忙であつた。時候温かく、午睡《ひるね》を貪つた。覚めて懐かしき我家に在るに気附いて嬉しかつた。死は多分午睡の如きものであらう。覚めて見れば楽しき国に在るのであつて、其処に多くの知人、友人、同志に迎へらるゝであらう。死は死滅でなくして移動であるに相違ない。唯各自が新たに之を実験するのであつて、誰も帰り来つて其実験を語つて呉れる者の無い所に不思議がある。而かも興味も亦そこに在るのである。
四月三十日(土)晴 四月も亦茲に過ぎ去る。仕事に逐はれて年月の過去るを忘れる。斯くして一生を終り得ば実に幸福である。不幸の極とは閑で困ると云ふ隠居の生涯である。時の移るを知らざる小児の生涯であらねばならない。今の所、自分に閑はない。いくら働いても足りない。老境に在るなどとは滅多に思はない。
五月一日(日)晴 つゝじ満開、初夏の美はしき聖日であつた。午前は使徒行伝二十二章一-二一節にあるパウロの自己弁護の演説を説明した。午後はエステル書第三、第四章に由り「ハマンの悪計」と題し、ペルシヤ古代の宮廷の裏面を窺ひ、其助壊の所以を研究した。興味ある歴史的並に心理学的研究であつたと思ふ。午前午後を通うして正味三百人の出席である。之に由て見ると、会員中平均二百人は欠席するのである。少し気を緩むれば我が研究会もぢきに教会化せんとする。西洋に「人は生れながらにしてカトリツク教徒である」との言がある(182)が、之を言ひ直せば「人は生れながらにて教会信者である」と云ふことに成る。どこかに教籍を置けばそれで安心であるとの心が起ると見える、困つたものである。
五月二日(月)曇 家に在りて|働いて休んだ〔付○圏点〕。働くとは自分に取りては聖書を説く事である。そして其事に当るのが唯一の快楽又休養である。其他は凡てボゼレーション(煩ひ)である。今日は英文雑誌の校正を終り、一先づ肩の荷を下した。銀行休業に就き多くの悲しき話を聞かされる。同情に堪えない。此世は之をいくら善くなした所で、煎じつめる所此んな所である。米国流の基督信者は何に由て斯かる惨事を慰めんとするのか自分には解らない。
五月三日(火)雨 法学士宇佐美六郎天津より帰任し、支那に関する多くの意味深き観察を齎らして訪問して呉れ大いに教へられ又考へさせられた。支那に於ける英国人の失脚、英米宣教師の引上げ、平定の見込なき戦乱何れも東洋全体の安危に関はる重大問題である。且又支那在留中、支那独特の基督信者らしき独立信者に一人も出会せざりしとの事の如き、以つて支那に福音らしき福音の説かれし事なき証拠の一として受取る事が出来る。|神が支那の伝道を日本人に委ね給ふ時が遠からず到来するのではあるまい乎〔付△圏点〕。
五月四日(水)半晴 雑誌校正を終つた。一先づ寛《くつろ》いだ。ゾームの教会歴史に中古史の善き復習を為した。相変らず俗事に悩まさる、然し是れも亦善き修養である。教会の元老にして所属の教会より冷遇せらるゝ者尠からざる由を聞かされて、同情に堪えざると同時に、教会の決して相互援助の機関にあらざる事の感を強うせられた。
(183) 五月五日(木)晴 家族の者と共に郊外に遊んだ。桜の名所小金井に水道工事が施されて、其風致の全く壊《こぼ》たれしを見て悲しんだ。之に引替へ井之頭《ゐのかしら》公園の面目一変せしを見て喜んだ。其内に近代人とモダンガールとが幾組となく相並んで逍遙するを見て異様に感じた。二十世紀文明とは此んなものであらう。此日臨時帝国議会に於ては国家の浮沈に関はる財政的大議案が提出された。思へば人生は噴火口の上にダンスして居るやうなものである。
五月六日(金)半晴 夜驟雨あり。英文雑誌発送を終つた。「証明は最善の伝道なり」との思想に支配され、全日を快く過した。政界財界の内情を聞き身慄ひする程恐ろしかつた。日本の前途が案じられる。惟其為に祈るのみである。
五月七日(土)晴 明日の講演準備が主なる仕事であつた。合間にオイケン哲学を復習した。夜ラヂオに昔の日本義士烈婦の行跡を語る浪花節並に筑前琵琶を聞き大に気を引立られた。外国宣教師等には到底此気分は解らない。彼等は之を野蛮思想と称し、其消滅を要求する。然し此誠実を措いて日本人に何の善き所はない。我等は何を棄ても之を棄てはならない。近代人が同胞の思想を日々悪化しつゝあるに対し、琵琶や三味線を以てする古い日本音楽が、古い日本道徳を維持するを喜ぶ。
五月八日(日)晴 麗はしの聖日であつた。高壇は芍薬とアヤメとカーネーシヨンとを以つて飾られた。午前も午後も満員の集会であつた。午前は使徒行伝二十二章二十三章の中心的真理を「苦難と伝道」と題して語つた。信仰を以つて之に当れば苦難是れ最上の伝道であると述べた。午後はエステル書第四章を講じた。モルデカイの(184)確信、エステル女の謙遜なる勇気に就て語り、語る者も聴く者と共に勢力附けられた。最も楽しき聖き一日であつた。
五月九日(月)晴 引続きオイケン哲学の復習に大なる慰藉を受けた。是が本当の基督教哲学である。満腔の尊敬を表せざるを得ない 〇或る旧い兄弟より富士見町教会分裂の報を聞き、非常に驚き且悲んだ。何とか之を阻止する事は出来なかつたであらう乎。教会論は別として、故植村正久君に対し同情に堪へない。
五月十日(火)晴 雑誌五月号を発送した。引続き四千三百部を印刷した。大抵は売尽す見込である。是れ以上の読者は要らない。秀英舎中形荷物自働車一台にて運び得る程度である 〇最近の『福音新報』所載「富士見町教会々員の決裂」と題する社説の終りに左の如き文字を見た。
たゞこゝに明かにして置きたいのは、其の決裂の動機が、たとひ已むを得ざるに出たるものであつても、希くは其の結果として、所謂無教会主義者らに、凱歌を上げしむるやうな事態に、立ち至らざらしめざれといふ一事である。
と。此は杞憂であると思ふ。無教会主義者とてクリスチヤンである以上、他人の困難に在るを見て凱歌を上ぐるやうな事は為し得ない。若し為せば神は我等の心より聖霊を取上げ給ふ。主義は主義である、士道は士道である。我等は震災以来富士見町教会に引続いて臨みし不幸に対し、蔭ながら厚き同情を表し来つた事は事実である。若し今回の不幸に対し凱歌を上ぐる者があるならば、それは自分の如き無教会信者でなくして同数会と教派を共にする人達の内に在るのではない乎と思ふ。それは何れにしても、主義は主義として、信者は相互の困難に際して、各自の主義に敬意を表しながら相互を助けたきものである。然らざれば、主義はいくら立派でも、教会は如何に(185)堅固でも、神の精霊は其上に下らない。
五月十一日(水)晴 阿弗利加ラムベルネー三月三日発、ドクトル A・シユワイツエルの書面が達した。我等の少しばかりの伝道寄附金に対する懇切なる感謝の辞である。氏の如き信仰的勇者の事業に寸毫たりとも参加するを得るは此上なき特権である。今後とも氏を通うして我等の同情の暗黒大陸の民に及ばんことを祈る 〇内村聖書研究会々員にして塚本虎二君指導の下に新約聖書ギリシヤ語を研究しつゝある者が、今やABCの三級に分れて男女合せて五十九名ある。今夜今井館に於て彼等の親睦会が開かれ、ギリシヤ語の暗誦ありて盛会であつた。ギリシヤ語研究会であるよりは寧ろ信仰養成会であつて、美はしき信仰的団体である。何時《いつ》かは思はざる所に其結果が現はるゝ事と信ずる。有難い事である。
五月十二日(木)晴 朝は初夏の日光を浴びつゝ落合方面を散歩した。其発展の著るしきに驚いた。或る事よりして人の得意に成る事の如何に恐ろしい乎を思はしめられた。人に誉められ、持上げられて其人の生涯は終了《しまひ》である。カーライルのエドワード・アービングを弔ふの単文が此事に関する最も善き誡めである。そして|最も憎むべきは人を持上げる人達である〔付△圏点〕。彼等は人を持上げて(崇めると称して)其人を殺す者である。我等は此俗人国に在りて、凡ての手段方法を尽して是等の小人輩を身に近寄らせざるやう努力すべきである。
五月十三日(金)曇 人生最も辛らい事の一つは、人に或る事を注意して其注意が納れられず、終に自分の予測が適中して其人が不幸に陥る、其苦痛を見せらるゝ場合である。予言の適中は好しとするも、|悪しく適中するは堪え難き悲しみである。そして更らに悲しきは注意せし自分が彼の失敗の責任を担はせられ、実際的に其補償(186)の義務を負はせらるゝ事である。近代人は他人の勧告は決して之を納れず、そして納れざる結果として失敗すれば、失敗の責任は之を勧告者に負はしめて平然たるのである。然し斯かる瘍合に於ても「悪に抗する勿れ」である。悪は其自滅を待つより他に之を除くの途がない。悲劇の人生である。
五月十四日(土)雨 四月二十四日の独逸ミユンヘン発、内村医学士の信書に曰く
愈々明日ミユンヘンに永の別れを告げます。スピールマイヤー先生、アルバースさん以下、去り難き人のみ多くして誠に辛いのであります。然し私は初からミユンヘンに入り終りまで一人の先生について学んだ事が素敵によかつた事を喜んで居ります。こゝの多くの精神病学者に認められて、将来小さい乍らも一人の世界人として真理を探求する基礎が出来た事が最大の収穫であつたと思ひます。他面アルバースさんを介して多くの精神的の友人を獲、世界を吾が同胞とし得るに至つた事は亦得難き事柄でありました。云々
是れで一先づ彼の教育が済んだのである。人一人の教育は容易の事でない。六歳より三十歳まで学校生括を継けねばならぬ、そして又終りまで学ばねばならぬ。我を知り、我国を知り、世界を知らねばならぬ。そして神と人類との為に斃るゝまで働かねばならぬ。有難い名誉の生涯である。
五月十五日(日)晴 午後雷雨、降雹あり。集会変りなし。午前は使徒行伝廿四章に由り「パウロを審きし人々」に就き、午後はエステル書五-八章に由り「ハマン対モルデカイ」に就て話した。両回とも骨の折れる講演であつた。「好きなればこそ」である。他の理由で毎週此責任は担へ得ない。
五月十五日(月)晴 市中を歩いて大きな休業銀行の建物を見て多くの事を思はせられる。十五銀行閉ぢ、川(187)崎造船所は他人の手に渡らんとし、松方系の財団斃れんとす。何だか夢のやうである、然し事実である。変るが人生である。昨日の富豪が今日の乞食である。其事を目前に見せられながら人は富を作らんとして一生懸命である。悪魔は能くも人類を騙したものである。
五月十七日(火)半晴 日本に紳士道の行はれないには驚く。他人の権利を尊重する心の薄い事、然り殆んど無い事は、文明国孰れの国に於ても見る事の出来ない程である。是れでは政治が腐敗し、財界が紊れるのは少しも無理でない。此非紳士的社会に在りて真直《まつすぐ》の生涯を送る事は非常に困難である。
五月十八日(水)雨 困つてゐる人の多いには困つて了ふ。何して彼等を助けて善き乎、其途を知るに困しむ。浅い宗教が行はれてゐる結果として、大抵の信者は神に助けて戴く途を知らずして単《ひたす》らに人に助けて貰はんと欲する。独立とは独り立つと云ふ事ではなくして、人を離れて神と共に立つことである。そして神が人を以て助け給ふ場合には、我より進んで人に頼まずして、神が人を遣はして彼をして我を救けしめ給ふ。如此くにして信者は誰も、如何に弱き者と雖も独立であり得るのである。敢て援助の労を避けんが為にかう云ふのではない。是れが本当の信仰の途であるからである。
五月十九日(木)半晴 相変らず小事に忙殺せられて大事に携はる事が出来ずして困難する。此国に於ては宗教家とは不幸の人を助くる者と定《きま》つてゐる。宇宙人生の大真理を握りて、暗き世界を照らさんとすと云ふやうな事は、日本人全体には意味の無い事である。故に彼等に宗教家と称せらるゝ事は、彼等同様に大事を棄てゝ小事に勤《いそし》む人と成る事である。実に辛い事である。彼等の或者は自分を「国宝」なりと称して煽揚《おだてあげ》る、そして自分を(188)利用して幾分なりと彼等の事業(多くは金儲け事業)を助けしめんとする。実に油断がならぬ。此を思ひ彼を想ひて聖書の言が思ひ出される。
牧者なき羊の如く人々悩み又|散々《ちり/\》になりし故に、イエス之を見て憐み給ふ(馬太伝九章三六節)。
五月二十日(金)半晴 自分の説教を殆んど二十年間聞き継けし或る兄弟が、今日に至り初めて自分を解したりと云ふ告白を為せりと聞いて贅き且つ悲んだ。二十年間聞いて貰はねば解つて呉れぬ乎と思へば悲しくなる。五年十年聞いて終に解らずして自分を棄去る者が過多《あまた》ありしは少しも怪むに足りない。多分自分が解らないのではあるまい、自分を捕へ給ふキリストが解らないのであらう。キリストを解らんとせずして自分を解らんとするが故に誤解は何時までも結んで融けないのであらう。然し何年たつても、縦へ一人なりとも解つて貰へば大なる幸福と見做さねばならぬ。凡ての人に永久誤解されてもそれまでゝある。
五月二十一日(土)曇 平凡の一日であつた。
五月二十二日(日)曇 集会変りなし。朝は畔上と、牛後は塚本と高壇を共にした。朝は久振りにて説教を試みた。題は「罪の赦しの宗教」と云ふのであつて、馬可伝二章一-十二節、羅馬書六章十二-十四節等に依りて述べた。午後はエステル書の研究を完結した。七回に渉り随分長い講演であつた。然し話す者も聴く者も非常に面白かつた。思懸けなき収穫であつた。他の事に於は多くの不足はあるが、集会と雑誌丈けは大体に於て満足であると云はざるを得ない。
(189) 五月二十三日(月)半晴 休養の月曜日であつた。古いゴーデー先生とデリツチ先生を招待して、少しく聖書の講義を聞いた。古い先生は学ぶに善くある。今の神学博士は大抵は聖書をも宗教をも教ゆる資格なき者である。今や D・D はドンキー・ドライバーの表号である。|神学博士是れ驢馬の馭者〔付△圏点〕と云ふ事である 〇英語に Wheedle と云ふ詞がある。口説落すとか、機嫌を取りて釣込むとか云ふ意味の詞である。人を誉め立て彼を己が意に従はしむる事である。そしてホヰードラーとは斯かる事を為す者を云ふ。そして今日の日本に此種の人物の多きに驚く。高等教育を受けた立派の人達に斯う云ふ人が沢山にある。自分の許を訪ふて斯んな事を曰ふ、
先生は明治の日本が生んだ傑物であつて、西郷隆盛と共に併び称すべき我国の国宝であります。斯かる方を僅か少数の人々の教師として存《のこ》す事は国家社会の為に最も惜むぺきであります。先生を広く社会に紹介し、御高説を広く公衆に聴かしむる事は、誠に社会国家の為に必要であります云々
斯く Wheedle、即ち誉め立てて置いて然る後に曰ふ、
それですから、どうぞ私供が此たび開かんとする講演会に是非共御出席下され一場の御講演を願ひます
とか、或は曰ふ
どうぞ何か私供の雑誌に御寄贈を願ひます。私共の発行する雑誌は御承知の事と存じますが、発行部数何十万に達します。之に由て御意見の在る所を全国に知らす事が出来ます。何分私共の微衷御推察下され、何なりと御高見御洩らし下さい
と。凡て斯くの如し。|うつかり〔付ごま圏点〕すると釣込まれる。そして麗々《れい/\》しく名を新聞紙に広告せられて彼等の金儲け事業を助けしめらる。実に悪い社会である。少しも油断が出来ない。拝み倒し政策である。利を以つて釣るか名を以つて誘ふのである。そして立派な紳士が斯んな卑しい事を為す。どうして宜しきや解らない。腹も立つが、時には日本国が可愛相《かあいさう》に成る。之では到底長くは続くまいと思はれて心配に堪えない。
(190) 五月二十四日(火)雨 疲労未だ癒えずして困難した。思はざる時に此世の人達に此世の問題を持込まれて悩まされる。「御先生様は宗教家であらせられるから人の為に成る事ならば何んでも御世話下さる」と云ふのである。実に困つて了ふ。「我に汝等の知らざる事業あり」と云うた所が、解つても呉れず免しても呉れない。宗教とは人を助けることであると彼等は深く思ひ込んでゐる。此の悪智《わるがしこ》い日本の社会を切抜けて行くのは容易の事でない。然し其内に一種の滑稽がないではない。
五月二十五日(水)半晴 自分ながら用事の多いのに驚く。毎朝床を出て何から手を附けて宜しや判らない。故に手当り次第に行る。故に多くの場合に於て為すべき事を後にして為さねばならぬ事を前にする。郵便が来る毎に或る新しい仕事を持込まれる。漸く一つ片附いたと思ふと他の仕事が殖える。読みたい書籍が沢山に在り、考へたい事柄が沢山に在るが、読む時と考ふる時とは至つて僅かである。何れも米国流の「為せ、為せ」である。「我を助けよ」、「我が運動に参加せよ」である。「他人を狩立《かりたて》て彼等をして自分の事業を挙げしむる事」それが信者不信者の別なく、近代人の日々の生涯である。彼等は其れが為に朝早くより夜遅くまで奔走する。彼等は斯かる者を「腕利き」又は「活動家」と称ふ。そして彼等に捉《つかま》つたら最期である。彼等は己が意志を押し通さねば止まない。彼等の執念深い事非常である。斯かる社会に在りて他人に妨げられずして平静なる、意味の有る生涯を送らんとするは非常に困難である。|此世と絶縁するより他に途がない〔付△圏点〕、実に悲しい事である。
五月二十六日(木)半晴 両雑誌の編輯一先づ終り、原稿全部を印刷所に送りたれば、茲に少しく閑を得て、(191)故《もと》の聖書研究に入つた。デリツチ先生とエ※[ワに濁点]ルト先批に就きソロモンの『雅歌』を覈《しら》べた。自分にはエ※[ワに濁点]ルト先生の註解の方が解り易く、自分の実験に能く合ふやうに感ぜられた。何れにしろ『雅歌』は旧約聖書中意味の最も深い書であると思ふ。其点に於ては多分ヨブ記以上であらう。信仰の奥殿に入つた者にあらざれば此書は解らないであらう。そして少しなりとも此書を解し得るは、毛利又は島津、三井又は岩崎の家に生れたよりも遥かに以上の幸福である。
五月二十七日(金)曇 夜雨降る。此世の事を忘れ、朝より晩に至るまで働いた 〇大阪の読者某君より左の通信があつた。
拝啓仕候、此度の研究誌上に志賀重昂先生御逝去に関して御記述有之候処、私が去る明治三十年早稲田に於て志賀先生より地理の講義を聴き居候当時、同先生は母校の御自慢から能く内村先生のことも批評せられたる中、多くは忘却致候へ共、左の御言葉丈けは確に記憶致居候
世間では殆んど羊頭をかゝげて狗肉を売るが、内村君は狗頭をかゝげて羊肉を売る人であると。内村先生の志賀先生御追憶の件を拝読し、私も先生を追慕の余り右御報申上候次第に御座候、頓首
読んで涙がこぼれた。志賀君は基督信者ではなかつたが、自分の隠れたる友人であつた。基督教会の教師達にして自分に関し志賀君と正反対のことを言ふ者多き間に在りて、斯く自分を弁護して呉れたと聞いて感謝に堪へない。志賀君の霊、天父の国に於て安からんことを祈る。
五月二十八日(土)半晴 五月二日仏国ベルダン発、内村医学士の端書に曰く
――さても/\ベルダンの戦跡の荒涼凄惨たる、山野形を更めてベトンで堅めし要塞を見るのみにして、山(192)形なきもの多し。殊に両軍奪取の目的となりしボー、ドーモンの両砲台然り。仏四十万、独六十万の戦死者を出せし所、至る所恐ろしきものばかりなり。「文明人と称する人々よ、お前等は何をして居るのだ、自ら死穴を堀つて居る事を知らないのか」と云つたやうな言葉はベルダンに於て最も痛切に感じます。云々
誠に然りである。欧米の戦跡を見て彼等欧米人の禽獣性が明白に示さる。|欧米文明是れ自殺文明である事を我等は忘れてはならない〔付△圏点〕。
五月二十九日(日)晴 初夏の麗はしき安息日であつた。朝は九分通り、午後は満員の集会であつた。朝は「祈祷の効力」と題して説教した。無私の祈祷の聴かるゝ事、それ故に自分の事は他人に祈つて貰ふ事の必要なる事に就いて語つた。牛後は前聖日の朝の説教たる「罪の赦しの宗教」を繰返した。多少変へて話したが、繰返は自分の性分に合はず、甚だまづかつた。満足なる説教講演を為さんと欲せば新たに之を作らねばならぬ。骨は折れるが自分にはそれが必要である。止むを得ない。教会に頼まれて説教して後で種々なる悪評を加へらるゝに較ぶれば、自分の集会で毎回新たに草稿を作るの労は惜むに足りない。外を断はれば、内の為に如何に骨が折れても失ふ所は数ふるに足りない。
五月三十日(月)晴 不相変ず疲労の一日であつた。昨日の説教に、詩篇六十五篇二節に由り神を「祈をきゝ給ふ者」として紹介した事を思ひ、大なる慰めを覚えた。ヱホバと呼びてユダヤ人の神と思はれ、ゴツドと呼びて米国人や英国人の神と思はれて度々祈る気に成らない。然れど「祈をきゝ給ふ者」よと呼びて親しく近づき易き者と思ふ。然り我が神は「祈をきゝ給ふ者」である。傲慢無礼なる米英人の神でない。無理を以つて我に迫る教会の神でない。我が祈祷をきゝ給ふ者である。斯かる神に朝夕祈る事の出来るは大なる特権である。
(193) 五月三十一日(火)晴 独りで井之頭公園に遊んだ。花は散りて人は尠く、気持好き散策であつた 〇三谷隆信君は仏国より、玉川直重君は加洲より帰国し、両氏共に当分東京に止まるとの事であれば柏木の団体は賑かになる一方である。我等求めざるに神は我等に多く有為なる会員を賜ふ。願ふ協力して彼の栄光を揚げん事を。
六月一日(水)晴 研究誌校正で多忙であつた。
六月二日(木)晴 自分が日本基督教会へ入会を申込んだと云ふ噂が立つたと聞いて驚いた。そんな事の有りやう筈がない。それは多分、自分が富士見町教会が非常に困つてゐると聞いて同情に堪へず、自分で宜しければ一二回位ゐ講壇をお手伝ひしても宜しと、教界の或る有力者と談話の序に述べし言が転々伝はつてさうなつたのであらう。それは全然関東流の義侠心の問題であつて、教会入会申込などゝは何の関係も無い事である。口やかましい教会の人達に|めつた〔付ごま圏点〕の事を言ふ事は出来ない。以来基督教界に於ては義侠などは禁物である。戦国時代の「人を見れば敵と思へ」と云ふが今日の我国の基督教界に於て把るべき唯一の、又最も安全なる途である。然し此んな事では基督教が此国に於て栄えないのは言ふまでもない。
六月三日(金)曇 旧約聖書のエズラ書に大なるインスピレーシヨンに接して感謝であつた。聖書に於ては言語に絶する安慰を得るが、所謂基督信者に就ては言語に絶する苦難《なやみ》に接する。彼等に先生として仰がるゝ時が苦難《なやみ》の始である。初めに崇拝せられ、其次ぎに幾年となく疑はれ、多くの者等に背き去られ、極めて少数の者等にのみ諒解せらる。此事を思ふて幾度も伝道説教は止めたくなる。唯「或者」に強いられて止むを得ず伝道する(194)のである。人類愛に励まされて伝道する者は遠からず之を廃するであらう。愛でも義務でもない。sheer compulsion である。神に徴発されて止むを得ず戦場に臨むのである。ヨブの言が思出さる、
それ人の世に在るは戦闘《たゝかひ》に在るが如し
又其日は傭人《やとひびと》の日の如し
奴僕の暮を冀《こひねが》ふが如く傭人の其価を望む如く
我は苦しき月を得させられ
憂き夜を与へらる。(ヨブ記七章一-三節)。
六月四日(土)曇 梅雨の天候である。三日続いて友人間の「お勤め」を為さしめられて今日は大分に疲れた。聖書の先生が牧師の任に当るのであつて、労多くして功尠し。然し時には避くることが出来ず、勇気を鼓して之に当る。辛らいお役目たるを免かれない。古代史の研究に我が疲れし霊を休めた。
六月五日(日)雨 大雨にも関はらず集会平常と差したる変りなし。世界伝道日曜日として此日を守つた。朝は馬太伝六章一九-二一節、路加伝十六章一-九節に由り「金の価値」と題して話した。題丈けに談話は余り振はなかつた。要点は「不義の財を使つて永遠の宅《すまひ》に友を得よ」と云ふのであつた。午後は阿弗利加に於けるドクトル・シユワイツエルの事業を紹介した。シユワイツエル後援会を作りて大に氏の事業に賛成を表する事に定めた。寄附金として二百円余を得た。但し慈善は自分独りで之を行ふは愉快であるが人に之を勧むるは不愉快である。然し時には之を勧めざるを得ない。
(195) 六月六日(月)半晴 久し振りにて田村直臣君の訪問を受けた。不相変ず基督教界の事に就き種々《いろ/\》の事を聞かされた。其の殆んど凡てが自分達の全然知らざる事である。基督信者が相互を責め、詰り、排斥する様は聞くに堪へない。日本人や支那人が基督教に入らないのは無理はない。斯んな宗教ならば旧い仏教や儒教の方が遥かに善い。自分の如き彼等に不信者呼はりせらるゝ事を少しも厭はない。彼等が要求するならば基督信者の名は何時でも返納する。「君はそれでもクリスチヤンである乎」と云ひて彼等は相互を譏りつゝある。そんな社会に自分は入りたくない。自分は日本の基督信者に絶交されて少しも苦しくない。然り絶交されん事を欲する。然り実際、絶交的状態に於て在る。
六月七日(火)半晴 『研究』誌六月号の校正を終つた。ローリンソン、ラゴーヂン等の古代ペルシヤ史を復習して大なる興味を覚えた。自分が若し史家として立つを得るならば古代西方亜細亜史であらう。然し自分の史学なる者は聖書研究に資料を供する為の者であるが故に、深い者でないのは勿論である。何れにしろ歴史は自分に取り興味最も深き学問である。
六月八日(水)曇 エズラ、ネヘミヤ両書研究の必要上、古代ペルシヤ史の復習を継続した。今日はゾロアストル教の教典ゼンドアベスタの概略を復習した。三十年前に読みし書籍の復読であつて、旧くもあれば新らしくもある。世離れしたる面白き研究である 〇米国マウントホリヨーク女子大学を昨年卒業して近頃帰朝せし三谷文子の訪問を受け、其在学中の米国観察談を聞き非常に面白かつた。殊にカンサス州ローレンスに於ける米国土人学校を視察せし彼女の実見談が強く自分のハートにアツピールした。銅色人種に我が満腔の同情を表せざるを得なかつた。茲に米国の高等教育を受けながら、其純日本人の霊魂を失はずして帰つて来て呉れた女性があつて、(196)心の底より嬉しかつた。
六月九日(木)晴 七八両月分の両雑誌の編輯を始めた。何は不足しても原稿の豊富なるは感謝である。教会や教会信者は自分を使ひこそすれ少しも援けては呉れないが、神は教会以外の人達を以つて裕かに自分を援け給ふ。今日はエズラ書第九章に併せて、歴史以前のアリヤン人種の信仰に就いて研究した。
六月十日(金)晴 平凡の一日であつた。番町の高田女塾を訪れて其生徒四十余人に平凡の話を聴かした。信仰其物が大なる知識である。信仰なくして学問に対し本当の興味と一生懸命とは起らない。信仰を学問と離して考ふるは大なる間違であると云ふやうな事を話した。自分には平凡であつたが、聴いた女学生達には平凡でなかつた乎も知れない。但し到る所に話しを為せらるゝには困却する。
六月十一日(土)晴 暑い日であつた。雑誌六月号を発送した。読者の多き事はどうしても東京が第一である。そして東京に読者を有するは全国に有すると同じである。日本に於て雑誌を発行せんと欲すれば束京を除いて他に場所がない。東京人を排斥する事は出来ない。
六月十二日(日)半晴 両回とも盛会であつた。遠方並びに海外の読者にして出席する者尠からず、嬉しかつた。午前は使徒行伝二十四章二十七節を「カイザリヤの禁錮二年」と題して講じた。主としてパウロ年代記確定の研究であつた、然し其内に尠からず霊的慰安あるを認めた。必しも乾燥無味の研究でなかつた。午後はエズラ書研究の準備として「世界歴史とイスラエル」と題し、古代史と旧約聖書の関係に就て話した。骨の折れる講演(197)であつた。霊的知識を供する前に知的材料を給する事が努力である。然し必要にして避くべからざる順序である。我が研究会が時々学校の教場と化するは止むを得ない。
六月十三日(月)半晴 久振りにて塵埃を冒して日本橋の丸善に行いた。書物の数は多しと雖も、自分が読まんと欲する者は殆んどなく、一時間以上探索の後に、近頃有名なるウイル・ヂユラント著「哲学の話」他一書を求めて帰つた。熟々思ふに十九世紀は二十世紀に較べて遥かに真面目なる世紀であつた。十九世紀に於て読んだやうな真面目なる著書に今や接する事が出来ない。近代式と云へば凡てが「和製」と云ふが如くに浅薄で粗雑である。殊に信仰の書類の然るを見る。書店を漁りて世界思想の全体に著るしく低下せるを感ぜざるを得ない。
六月十四日(火)晴 「哲学の話」にプラトーの伝記を読んで今更らながらに彼の偉らさを感じた。此人を知らずして人生の深い一面を知らずして終るのである。イエスの精神を以てプラトーの理想が世に行はるゝ時に黄金時代が臨むのである。プラトーを知らずして哲学の貴さと有難さは判明らない。
六月十五日(水)晴 両雑誌の発行と編輯との間に少しく変化を見んと欲し、朝七時に柏木を発し、日光線今市に下車し、それより自動車、電車、馬車にて、栃木県塩谷郡藤原村|川治《かはじ》の温泉に着いたのは日暮れ近くであつた。鬼怒川の渓谷に沿ひ、旧会津街道を行き、神の画き給ひし絵画を拝見するのであつて、別世界に在るが如くに思うた。鬼怒川の支流なる男鹿《をじか》川の岸より湧出する温泉に浴し、爽快限りなしであつた。ヤマメの塩焼に空腹を充たし、清き山気に包まれて安き眠に就いた。青木義雄君が案内した。
(198) 六月十六日(木)半晴 入浴数回、前十一時馬車にて帰途に就いた。今市にて尊徳翁二宮金次郎の墓を見舞ひ、此の農界の世界的偉人に対し、我が衷心よりの尊敬を表した。英文を以て彼を世界に紹介せし名誉は自分の担ふ所である。墓に若し耳あらば一言云ふて見たく思うた。更らに楽翁公松平越中守定信の事跡を尋ねんと欲し、午後八時福島県白河駅に着いた。南湖公園の畔に投宿した。
六月十七日(金)半晴 白河の関、感忠銘、白河城址等を見た。殊に嬉しかつたのは白河町民の気風の全体に我意に叶へる事であつた。駅の赤帽より自動車の運転士、旅館の主婦に至るまでに日本人固有の誠意あるを見受けた。名公の感化も茲に至る乎と思ふて嬉しかつた。正午発の急行列車に搭じ、四時半家に帰つた。三日間の好き清遊であつた。東京のみが日本国でない。山には神の造り給ひし天然がある、田舎には聖人の感化が残る。以つて此国に関し我が消えんとする希望を快復するに足る。時々東京を去りて地方を探る必要がある。
六月十八日(土)曇 旅疲れにて何事も為し得ず、済まなく思うた。但し多くの貴き見聞を得た事なれば止むを得ない。近頃の新聞紙の悪いのには驚く。今日の報知新聞の如き読むに堪えない。之を若き人等に読ませる事は出来ない。断然配達を断つた。今や新聞紙は総掛りに成りて国家を滅亡へと導きつゝある。昔のユダヤの偽りの預言者と同じである。
此地に驚くべき事と憎むぺき事と行はる。預言者ほ偽はりて預言をなし、祭司は彼等の手によりて治め、我民は斯《かゝ》る事を愛すとあるが如し(耶利米亜記五章五十節)。「預言者」を新聞記者と読み、「祭司」を政治家と読んで、日本現下の状態其儘である。
(199) 六月十九日(日)半晴 午前と午後と共に満員の盛会であつた。午前は「パウロ対アグリツパ王其一」と題し使徒行伝二十五章を読み、之に対して簡短なる註解を加へた。午後は「エズラ書の大意」と題し、同書初めの六章の要点を述べた。旅の疲労未だ去らざりしに関はらず、半ば満足の集会であつた 〇紐育市発行の THE WORLD'S WORK 雑誌に、米国学生間に行はる無神論運動の強烈なる有様を読み驚き且呆れ返つた。之に依て見ても、米国は決して宗教を世界に教ゆべき国でない事は明白である。斯かる国より宗教を学ぶは日本の大恥辱である。そして神は遠からずして、米国人より伝道の特権を取上げ給ふと信ずる。現に支那に於ては既に此事を実行し給うた。|五千人〔付△圏点〕の米国宣教師は全部彼国より引上げた。同じ事が印度に於ても日本に於ても近き将来に於て行はるゝであらう。それにしても我等同志の責任の重大なるを感ぜずには居られない。
六月二十日(月)晴 不相変ず無為無能の月曜日であつた。少し計りの読書と雑誌編輯を為した。我が聖書研究会員の一人なる石河《いしこ》光哉君のパレスチナ、アラビヤ、メソポタミヤ旅行談を聞いて面白かつた。我が仲間の内より一人の大胆なる旅行家の出たることを感謝する。今後は更らに大旅行を計画実行せられんことを望む。
六月二十一日(火)晴 家族の者を伴れて杉並村に斉藤宗二郎君の田園的ホームを訪うた。楽しき友誼の交換であつた。
六月二十二日(水)晴 梅雨晴れの快き日であつた。来客多く、ペンの仕事は捗らなかつた。台湾の一読者より左の如き書面が達した。
(200) 私は神学校四年間で学んだ神学知識は先生より得たるそれに及ばない。先生は無教会主義者として一般に知られて居るが、先生は決して真誠の教会を非難するではなくして、現代の腐敗せる教会を指すのであると思ふ。先生の無数会主唱の裏に真正の教会成立は何よりも確実である。願くは先生、天国に帰る前に一度我が台湾に於て御講演を願ひ度いので御座ゐます。私は先生と面触は一回もない、又先生の写真とも相面した事はない。けれども精神は密接一致して読者諸君と共に我主イエスを讃え度いのであります。貴誌に余地があれば此感想を御載せ下さい。台湾新竹州峨眉教会堂、湯鼎紅
朝鮮に於て、台湾に於て、自分と人種を異にする人々の間に、真の兄弟姉妹あるを知りて感謝に堪えない。我内地に於て、斯くも好く自分を見て呉れる教会の教師は滅多にない。自分を自分の言葉以上に解して呉れる人は、之を我が真の同志と称せざるを得ない。
六月二十三日(木)晴 大なる興味を以てネヘミヤ書を研究しつゝある。今日は其第四章より六章までを読んだ 〇欧洲よりの帰途に於て在る内村医学士昨日健康にてサイベリヤ丸にて桑港出発の電報、同地の古庄弘君より達し、家族一同言ひ尽されぬ歓びであつた。到る処にて彼を款待し呉れし我が在外の諸友人に対し深き感謝なき能はずである 〇夜、今井館聖書講堂に於て同志の茶話会が催され、談、米英宣教師の我等日本の基督信者に対する傲慢無礼の態度に及び、之に処する一の途として、彼等と語る場合に成るべく英語を用ひざる事を提議した。余は左の決議案を提出して一同の賛成を求めた。
我等は我国に三年以上滞在する米英人に対して英語を用ひざることを約す
と。そし七出席者大多数の賛成を得て愉快であつた。欧洲大陸人は米英人と異なり、大体に謙遜であり、我等と語るに成るべく我等の国語を以つてする。余の知る独。仏、瑞の宣教師は努めて日本語を以て我等と語る。米英(201)宣教師は然らず。彼等は幾年日本に在留するも成るべく日本語を用ひざらんと欲し、我等に課するに彼等の国語を以てし、我等が之を語り得ざるを我等の大なる恥辱なるが如くに見做す。彼等は我等が殊更らに日本語を以て話掛るを以つて彼等に対する大なる無礼である乎の如くに思ふ。斯かる次第であれば、我等は彼等と対する場合に彼等の国語を用ひざる事を主張し、日本に在りては日本語を用ひるは彼等に取り人間としての普通の礼儀である事を知らしむべきである。事は小事なるが如くに見えて決して小事でない。日本の基督信者が米英宣教師に対する時に断然英語を用ひざるに至りて、教界の風儀が一変すると信ずる。是れ日本基督教独立の第一歩であつて、最も大切なる一歩である。若し彼等が強いて日本語を用ひざらんと欲するならば彼等の意に任すべしと雖も、我等は彼等に対し日本語を以て語るべきである。|彼等は英語を以てし、我等は日本語を以て語るも少しも不便はない〔付○圏点〕。聞く、欧洲に於て英人が仏人と対話する場合に此途を取ると云ふ。即ち教育ある英仏人は大抵相互の国語を解すると雖も、彼等は自己の国語を以て語るを常とするとの事である。我等も日本に於て外国人に対する時に同一の途を取るべきである。彼等米英人が我等に対する時に英語を用ひるを妨げずと雖も、我等は彼等に対し断乎として我等の国語を以て語るべきである。
六月二十四日(金)曇 朝は四時に起きて原稿を書いた。ネヘミヤ書第八章を研究した。夜は小石川の或る老婦人に夕飯に招かれ、古い昔の話を交換した。曰く「人生済んで見れば如何でも可いのである。神を信じ義を求めたる丈けで他は考ふるに及ばず」と。
六月二十五日(土)雨 七月号の編輯を終る。明日を以てまた今年度の講演を終る。後に来るは十一週間に渉る長き夏休暇である。思へば楽しくある。然し休暇と云ふて遊ぶ事ではない、仕事を変へる事である。働く事に(202)於て休職も平常と少しも異なる所はない。但し雑誌の原稿は数月分既に書き了つてあり、講演を為すの義務なければ、仕事の自由選択を為す事が出来る。鳥か、魚か、歴史か、哲学か、思へば楽しい事である。
六月二十六日(日)曇 午前午後共に聴衆溢るゝ計りの盛会であつた。午前は前回に続き使徒行伝二十六章に於けるアグリツパ王に対して為せるパウロの演説の要点に就いて述べた。殊に紳士としてのパウロに就いて語つた。第二十九節の「この縲絏《なはめ》なくして」の一句が強く我等の心に響いた。午後は「エズラの使命」と題しエズラ書終りの四章並にネヘミヤ書第八章に依りて述べた。我等の聖書研究会が祭司にして学士たりしエズラの事業の継続なる事を縷述した。之にて今年度の講演を終つた。昨年九月第三日曜日を以て始め、唯一回風邪にて休みし外、悉く高壇に登る事が出来て感謝である。塚本、畔上と共に、三人揃ふて随分沢山に聖書知識を供給した。日本中に柏木の聖書講堂の如くに沢山に聖書を教ゆる所は無いと信ずる。然しまだ後十年経つても、百年経つても、我等が言はんと欲する所は尽きない。永久倦まざる楽しき事業である。感謝を以つて今学期を終る。希望を以つて来学期を待つ。
六月二十七日(月)曇 昨日自分の講演を聴きし者の一人より左の如き通信があつて大に力附けられた。
「キリスト教は理論の説明でなく体験の証明である」-神の力の斯くも大きく人間に現はれるものかと思ひました。今日先生に現はれた力はパウロに現はれた神の力のそれでありました。お話の後の三十分間私は全く主の前に平伏して泣き続けました。未だ嘗て今日の如く「復活のイエス」に打たれた事はありません。アグリツパ王とペストスに解し得なかつたパウロの演説否復活のイエスを一千八百七十年後の今新しき事実と(203)していと小さき我々に示し給ひし恩恵! 只々感謝であります。ペテロ組S・A
六月二十八日(火)半晴 朝五時に起き、校正並に編輯に従事した。夜は青山会館に於て催されし明治神宮聖域擁護、掟橋二業指定地廃止同盟大演説会と云ふに出席し、「我が子の為を思ふて」と題し、一場の演説を為した。頭山満氏を以て代表せらるゝ玄洋社の人達と同盟しての演説会であつて、奇異にもあり亦愉快にも感じた。基督敦の側よりは自分の外に益富政助君、久布白落実《くぶしろおちみ》女史の人達が参加した。久振りにて廓清運動に参加して悪くは感じなかつた。我が聖書研究会の清潔を守る為に此出演は必要であつた。聴衆は一千人もあつたらう。功を奏するや否は別問題として為さねばならぬデモンストレーシヨンであつたと思ふ。
六月二十九日(水)晴 昨夜の演説でがつかり疲れた。休息が今日の唯一の仕事であつた。頭山満氏と共に高壇に登つたとは自分に取り珍無類の経験であるが、然し基督教界の元老と共に立つよりは遥かに愉快であつた。宗教こそ異なれ頭山翁は誠実一徹の純日本人である。基督教界の人達の疑心満々たるとは全く別種の人物である。日本の基督教界に何があつても肝胆相照らすの誠実はない。昨夜は計らずも旧い日本に帰つたやうな気持がして、今日は疲れは疲れたが、基督教演説に出た後に感ずるやうな得もいはれぬ悔いと不愉快とはなかつた。
六月三十日(木)晴 校正の一日であつた。夜、明治神宮外苑内日本青年会館に於て柏木青年会の懇親晩餐会が催され、自分は塚本、畔上と共に正客として出席した。来会者九十余名、其内三十八名が婦人であつた。石河《いしこ》光哉画伯の興味津々たるパレスチナ旅行談あり、一同歓を尽して九時散会した。我が聖書研究会は其青年団に於て殊に強くある。彼等を以て我が信仰は必ず後世に伝はるであらう。今日まで青年は幾度か自分を失望さしたが、(204)今度と云ふ今度は我が希望を充たして誤らないと信ずる。
七月一日(金)晴 終日哲人アリストートルと偕に在つた。実に偉らい人である。彼が解らずして真理は掴めない。所謂哲学的平静なるものはア翁の立場に在りて獲らる。「真理は汝に自由を獲さす」との主の御言葉を思出さゞるを得ない 〇内村医学士を運べる郵船サイベリヤ丸は我が国土へと近づきつゝある。今日歓迎の無線電報を発した。
七月二日(土)晴 暑い日であつた。今日も亦ソクラテスに就いて読んだ。人としては最大であつたらう。如何《どう》見ても哲学の始祖である。人より神に達せんとすれば彼の取つた道、即ち哲学に依らなければならない。若しクリスチヤンたり得ずばフイロソフハーたるべきである。自分がクリスチヤンであるに拘はらず、屡々哲学者以下に堕落するは耻かしき窮りである。
七月三日(日)半晴 集会は二回共に塚本に委ねた。自分は少しく彼の言を補ふのみであつた。午前と午後と合せて二百人程の来会者があつた。暑気強くして多く語り得なかつた 〇夜、ラヂオにて桃川若燕の「肉付の面」の講談を聞いた。実に偉らいものである。之を最上の能弁術といふ事が出来る。其内に高い理想と堅い道徳とがある。日本の講談師はたしかに日本人の説教師である。自分などの到底及ぶ所でない。米英の宣教師などに日本人全体が耳を傾けざるは分り切つた事である。それにしても日本人を見下し、我等に何の善きものゝ無きやうに我等を扱ひ来りし彼等が日本人を教ゆるの資格なき事が益々明白に成つて来た。
(205) 七月四日(月)晴 逗子を経て相州三浦郡油壺の帝国大学臨海試験所を訪れ、水産動物学研究の状《さま》を見て昔懐かしく思うた。海胆《うに》と海盤車《ひとで》と舟虫とが依然として動物学者の研究物なるを見て驚いた。自分が四十何年前に研究に取掛つた事が今に猶ほ学者に研究の題目として存《のこ》るのである。人間は百年を費して海胆一つを知り悉す事が出来ないのである。神と天然には到底|敵《かな》はない。家の姪と三谷文子とが同行した。前者に取り善き見学であり、後者に取り善き参考であつた。逗子より三崎まで、相模湾に沿ひ、坦途を走る自動車旅行は愉快であつた。
七月五日(火)曇 暑気強くして雑誌校正の外は何事も為し得なかつた。引続き沢山の手紙を受取るも之に返辞する事が出来ずし 困難する。万々止むを得ざる場合の外は自分に親展を送る事は廃《やめ》にして貰ひたい。自分の残る精力は主として之を福音の真理供給の為に用ひたい。其他の事に於ては自分は既に死んだ者と見做して取扱つて貰いたくある。
七月六日(水)雨 内村祐之世界旅行より帰宅の前日である。歓迎の準備にて何かとなく多忙である。自分も四十年前に自分の両親に同じやうに迎へられた。四十年後には彼も亦同じやうに彼の子を迎へるであらう。斯くて子孫代々博く知識を海外に求めて国と人類との為に尽したきものである。
七月七日(木)雨 内村祐之米国を経て欧洲研学より帰る。家族の者を率ゐて彼を横浜埠頭に迎へた。友人の出迎も亦多かつた。正午少し前に一同連れ立ちて柏木の家に帰つた。人生歓びの極とは斯んなものであらう。彼の身に度々危険が臨みしも不思議に助かりし話を聞き、我等の不断の祈祷の効果ありしことを認めざるを得なかつた。積る話は聞けども尽きず、全世界が我国である乎のやうに思へた。殊に欧にも米にも友人の多くあるを聞(206)いて不思議に思うたと同時に亦言ひ尽されぬ感謝であつた。孫女が初めて其父に会ふてパパーと言ひながら彼に近づく状は人情美の奥に達して涙ぐましき程美くしかつた。
七月八日(金)曇 若主人帰朝祝賀の為の来客絶えず家は非常に賑はつた。孰れも「お芽出たう」と云ふて呉れる、「神に感謝します」と云ふて呉れる者はない。|我等に取りては此日は祝日ではなくして感謝日であつた〔付○圏点〕。神の恩恵を考ふる時に胸が一杯になつて言葉が出ない。今日も昨日同様独逸の話を以つて持切りであつた。彼国に基督的紳士淑女の多くあるを聞いて心強く思うた。今日は亦朝早く起きてネヘミヤ書の精読を終つた。最後の一言が強く我心に訴へた。「我神よ我を憶ひ仁慈《いつくしみ》を以て我を待《あしら》ひ給へ」と。愛国者の最後の言は是れ以外にない。国人には忘れられても可い、唯神に憶へて戴きたい。我が罪を赦し、我が欠けたるを補ふて戴きたい。真に国を思ふ者はネヘミヤ記を精読すべきである。彼はたしかに聖書偉人の一人である、且つ甚だ愛すべき人である。
七月九日(土)半晴 日本に所謂「お家騒動」の多きを悲む。多くの家に是れあるやうに見える。そして騒動は大抵の場合に於て弟妹が家の長男即ち総領に対する反対に由て起るやうである。次男と母とが組み、他の弟妹を率ゐて長男に当るが常である。彼は狂なり愚なりと称して其総領権を奪はんとする、即ち彼を廃嫡せんとする。そして彼の妻が彼と彼等との間に入りて苦しむのである。自分の知る日本の家庭にして此式の騒動に禍ひせらるゝ者が随分に多い。然り我家も亦之に禍ひせられたる者の一つである。其原因は多分我国の家庭制度の悪しきに因るのであらう。之が為に日本人の精力は如何程減殺せらるゝ乎判らない。実に悲欺の極みである。騒動の動機は十中八九まで財産問題である。「お家騒動」は富家の附物と言ふても可い程である。路加伝十二章十三-十五節が多分此騒動を誡むる為の教であらう。
(207) 七月十日(日)半晴 午前一回集会を催した。来会者は堂に溢れた。塚本は「イエス対イスカリオテのユダ」に就て講じ、自分は少しく彼の講演を補うた。来会者一同我家の新帰朝者を祝して呉れた。世に不幸多きに、我家にのみ幸福が臨みしやうに思はれて甚だ済まなく感じた。然し乍ら世人の多数は我等は何故に歓ぶ乎其理由を知らないであらう。我等は身の幸福の為には歓ばない積りである。彼の霊魂が安全に守られて、彼が彼の父母の信仰を維持して欧洲留学より帰つて来て呉れたから喜ぶのである。今や所謂欧米基督教国に滞在するは信仰上大なる危険を冒すことである。多くの日本の青年は欧米に留学して其の基督数的信仰を失つた。|独逸の大学に遊んで信仰を維持する者は信仰的勇者として認めらる〔付△圏点〕。斯かる危険の間を過ぎて、神とキリストとを見失はずして、而かも精神病学と云ふが如き懐疑を起し易き学科を修めしに拘はらず、父母の信仰を棄ずして、其懐に帰つて来て呉れた其歓びと感謝! 我等に取りては世に之に比ぶべきものは無いのである。神を失ふて其他何を得ても大々的損失である。「汝(神)の我心に与へ給ひし歓喜は彼等(世人)の穀物と酒と(財産と名誉と)の豊かなる時に勝さりき」とあるは此事を言うたのであらう(詩篇四篇七節)。
七月十一日(月)曇 午後六時より東京駅前丸ビル九階食堂に放て内村聖書研究会有志の講師慰労を兼ねて内村医学士帰朝歓迎会が開かれた。出席の男女会員百名を超え、研究会有つて以来の盛会であつた。若し此世の地位を云ふならば博士何名、学士十何名、校長、代議士、商人、会社員と云ふ類であつた。何れも社会に於て重要の地位を占むる人達であつて、我が研究会が此世の立場から見ても如何に有力なる者なる乎は此夜の此会合に由て知る事が出来た。我等は自から進んで勢力を作らんとは決して為さないが、何時の間にか斯かる団体が自然に出来たのである。大なる不思議と云はざるを得ない。出席者代表の歓迎の辞あり、之に対して若内村並に老内村(208)の答辞あり、丸ビル階上に於て祈祷を以つて開れたる此会合が同じく亦祈祷を以て閉られたのは午後九時半であつた。小さき正子も亦家族の一人として出席し、大衆にも怖《おぢ》ず、会の閉づる少し前まで、彼女の半言葉《はんことば》と手真似とを以つて会衆一同の歓楽を賛《たす》けた。
七月十二日(火) 引続き毎日独逸の話を聞いて居る。偉らい国である。アメリカなどの到底及ぶ所でない。アメリカが亡びて後まで独逸は存るであらう。而かも其科学や研究に於てのみ偉らいのでない、其信仰に於て偉らいのである。英国の商業も米国の金銭も独逸の霊魂を滅す事は出来ない。それは世界の宝である。第二の宗教革命はやはり独逸人を以つて始まるであらう。 〇夏期休みに入り一年中の疲労が出て来たやうに思はれ、毎日熟睡を貪つてゐる。詩の第百二十七篇二節の「斯くてヱホバその愛しみ給ふ者に寝《ねぶり》を与へ給ふ」の言葉が思ひ出さる。
七月十三日(水)半晴 暑い日であつた。少し計りの編輯を為した外に何も為し得なかつた。新聞紙はジユネーブに於ける軍縮会議と大阪に於ける松島事件の公判に就て伝へてゐる。此世の政治家輩の為す事は大となく小となく児戯に非ざれば詐偽である。然し孰れも罪が罪を裁く刑罰であつて其内に深き意味なくんばあらずである。
七月十四日(木)晴 第一高等学校独逸語教師エミール・ユンケル氏永眠し、其葬儀が麹町区平河町独逸東亜協会に於て執行はれた。自分も出席して同氏に対し敬礼を表した。自分がユンケル氏を知るに至りしは神戸ジヤパン・クロニクル前主筆故ロバート・ヤング氏を通うしてであつた。両氏共に正直なる善き人であつて厚く自分を信じて呉れた。且又両氏共に基督教には反対の人であつたが、自分の信仰に対しては敬意を表して呉れた。(209)クロニクル紙が今日に至るも大抵の場合に於て自分を弁護して呉れるのは両氏の自分に対する好意的態度を示すのである。今日のユンケル氏の葬儀は無宗教的葬儀であつた。祈祷なし、讃美歌なし、説教なし、唯故人の履歴と功績とを述べ、之に加ふるに美くしき音楽を以てするのみである。純理主義者《ラショナリスト》の葬儀と称すべき者であらう。自分に取りては甚だ物足りなく感じた。然し故人の主義を重じての葬儀であれば其意味に於て貴くある。欧米基督教国に在りては教会が腐敗せる故にヤング氏やユンケル氏の如き立派の人格の人が無宗教家として其一生を終るのである。我が日本に西洋の教会の基督教を採用する害は斯かる実例に由て明かに示さるゝのである。
七月十五日(金)晴 引続き暑い日であつた。中元にて親しき友人の訪問多く、楽しかつた。読書はゼカリヤの預言を三章読んだ計りである。沢山に孫女と遊んだ。彼女が「鬼ごつこ」を覚えし故に、老夫婦は彼女に呼出されて其相手をさせられる。学問としては小児のマインドの発達を見るのが非常に面白くある。
七月十六日(土)晴 家族の者を海浜に送つて家は淋しくなつた。柏木は暑くして込入つたる研究は何も出来ない、然し信ずる事と祈る事とは出来る。此日出雲松江、真言宗霊感寺住職釈快裕氏の訪問を受け、二時間余に渉り宗教の事を談じた。基督教の神は理の神か智の神かとの質問に対し、自分は答へて曰うた、「理の神にも非ず智の神にも非ず、愛の神なり、故に|愛を行ふ〔付○圏点〕てのみ知る事が出来る。仏教に理論多しと雖も、基督教は簡短明瞭にして、|愛を行ふ者〔付○圏点〕には何人にも解る」と。氏は左の句を遺して辞し去つた。
阿字不滅、四恩の道に入りぬれば、娑婆は極楽、身をば無量寿
と。氏は印度に六年間仏跡を尋ねられし人の由にて、一見して敬すぺき親しみ易き人と見受けた。
(210) 七月十七日(日)晴 朝一回集会を催うした。来会者百五十名余。若き内村は夜汽車にて札幌に赴任した。過去十日間、家は彼の故に賑はうた。遠からずして真剣の仕事が始まるであらう。人生は栄華でもなければ享楽でもない。真面目に真剣に働く事である。成るべく新聞記者の筆に上らざるやうな単純なる生涯を送る事が肝腎である。
七月十八日(月)晴 今日は小児と其若き母とを海浜に送つた。家は火の消えたやうな静けさに入つた。家族の者を涼しい所に送つて、自分までが涼しく感ずる。暑い寒いは素々心の問題である。自分一人が涼しくあるとも少しも涼しくない。自分は暑くあるとも、自分に頼る者が凡て涼しくあると思へば、自分も本当に涼しくある。今日は家に残りて少しくペンの仕事が出来た。
七月十九日(火)晴 朝起きて先づ第一に旧約西番雅の預言を読んだ。偉大なる言である。如斯き言を此世の文学に於て見ることは出来ない。三章十四節以下の如き我が心を躍らしむ。斯かる書があれば、他に読物を求むるに及ばず、我が終生を預言書の研究に費して猶ほ飽き足らぬと思ふ。預言者の言に励まされて終日働いた。家の内の大掃除を為した。種々と俗事に携はりしも嫌気《いやき》が催しなかつた。
七月二十日(水)晴 朝起きてナホム書を読んだ。古い昔の響きがあつて懐しかつた。
ヱホバは怒る事遅く能力《ちから》の大なる者なり
罰すべき者をば必ず赦すことを為し給はず
|ヱホバの道は旋風に在り大風に在り〔付○圏点〕
(211) |雲は其足の塵なり〔付○圏点〕
とは四十年前に米国流竄中我が心を躍らせし言である(一章三節)。斯んな壮大な言は聖書の外に何処にもない 〇正午相州葉山に来た。二三日間家族と共に海風に吹かれん為である。海浜生活は二十何年振りである。悪くない。「海よ海よ我を広くせよ」である。唯都人が来つて風儀を紊すを悲しむ。男女裸体にて砂上に寝転ぶの状《さま》は、予ねて聞く米国紐育市外スターテン島に於ける米国男女の状其儘である。我等は旧き教友山桝船長、藤本医博と隣し、頗る居心地好くある。
七月二十一日(木)晴 オバデヤの預言を読んだ。ヂユランの『哲学の話』にカント篇を読んだ。沢山に教へらるゝ所があつた。哲学者と言へば矢張りカントである。彼の哲学が偉大なる計りでない、其動機がノーブルである。哲学も他の物と同じやうに其価値は其目的に由て定まる。カントは人としてノーブルなりしが故に彼の哲学も亦高遠であつたのである 〇此日藤本医博に伴はれ、久里浜に近頃捕獲せられし八頭の抹香鯨を見た。湾内は血の海と化し、臭気堪へ難くあつた。然し巨大の獲物であつた。海中に死んだ計りの鯨を見たのは今度が初めてゞある。往復十八里の三浦半島の自動車疾走は愉快であつた。山水明眉の半島と称せざるを得ない。横須賀のホシダの小母さんと此辺を逍※[ぎょうにんべん+羊]した事を思出した。人は失せて山水は存る。彼女が伝へし福音は何時か此美はしき半島を化して神の国と成すであらう。
七月二十二日(金)晴 暑い日であつた。然し清風に吹かれながら大に読み、大に働いた。『哲学の話』を数十頁読んだ。家を離れて来客なく、俗事を忘れ、頭脳とペンの仕事が捗る。
(212) 七月二十三日(土)晴 引続き酷暑である。ハバクク書第三章を読んだ。聖書中最も荘大なる言の一である。
その時には無花果の樹は花咲かず、
葡萄の樹には果ならず、
橄欖の樹の産は空しくなり、
田圃《たはた》は食糧《くひもの》を出さず、
圏《をり》には羊絶え小屋には牛なかるべし。
然れども我はヱホバに由りて楽しみ
我が拯救《すくひ》の神によりて喜ばん。
主ヱホバは我力にして我足を鹿の如くならしめ
我をして我が高き処に歩ましめ給ふ。
衣食足りて礼節を知ると云ふのが世間普通の道徳である。然しヱホバの道は衣食に欠乏して霊魂をして喜ばしむ。彼に依りてのみ完全に境遇に勝つことが出来る 〇夜、柏木に帰つた。
七月二十四日(日)曇 涼しき善き日であつた。集会に百五十人程の出席者があつた。畔上と共に高壇を司つた。不相変楽しき聖日であつた。自分は日蓮上人の竜之口法難とイエスの髑髏山上の死を比較して話した。前者は奇蹟的に死を免かれ、後者は死に附《わた》されて之を免かれ得なかつた。日蓮宗は死を免かれて起り、基督教は死に会ふて生れた。茲に人間の教と神の教との区別がある。真の神は我等をして患難を免かれしめ給はない、之を通過せしめ給ふ。我等に幸福を約束し給はない、患難を下して霊魂を完成し給ふ。神の恩恵を身の安全幸福に求むる宗教は浅い宗教である。今の米国流の基督教は其処まで堕落したのであると語つた。
(213) 七月二十五日(月)曇 新聞紙は文学者芥川竜之介氏の毒薬自殺を報ず。自分は氏を知らずと雖も、氏に対し深き同情なき能はずである。有島の場合に於けると同様に、近代思想は人をして茲に至らしめざれば止まない。神なし、義務なし、責任なしと云ふ。近代人が死を急ぐは当然である。人の罪と云ふよりも寧ろ思想の罪である。近代思想は|あたら〔付ごま圏点〕人間を殺しつゝある。
七月ニ十六日(火)半晴 再び海浜に来た。風は涼しくあるが地は雑沓してゐる。然し社会が全く異るが故に殆んど無人の地に在るが如し。我れ汝を知らず汝我を識らずと云ふ状態である。大実業家、大政治家の別荘が軒を列ねて景勝の地を塞ぐ。之を見て自分の如き者は日本市民に非ず、日本の事に就き心配する資格も義務も無き事を感ず。海も彼等に属し山も彼等に属す。国は彼等の有なれば我れ之に関する要なしと思ふ。斯う思へば心が軽くなる。そしてまたカント先生に引かれる。「我が上には星の空あり、我が衷には道義の法あり」である。海も山も、国も地も、之を株屋や政治屋に譲る。我には空と星と神の道とがある。それ故に我は彼等以上に満足する。此世の巨魁《おほもの》の城廓の如き別荘を見る時に我に此感が起る。何も彼等を羨んでゞはない。
七月二十七日(水)晴 涼風に吹かれながら能く休んだ。何にか少しづゝ生産しゝある。全く無生産の日とては殆んど一日もない。若し何も為し得ない時には主を仰瞻る。そして其事それ自身が大なる事業である。
七月二十八日(木)晴 ペルシヤ帝国勃興史を背景としてイザヤ書四十章より四十九草までを読んで新らしき(214)教訓と慰藉とを得た。暑い日であつて、小児と共に海に遊びし外に何事をも為し得なかつた。
七月二十九日(金)晴 イザヤ書四十九章五十章を読み、是れが我が主イエスキリストの聖書であつた事が判明つて心が晴々した。殊に五十章六-九節を読んで我が救主の心が推量られて奇しき平和が我心に臨んだ。
我を鞭撻《むちう》つ者に我背を任かせ
我が鬚を抜く者に我頬を打たせ
恥と唾《つばき》とを避くる為に面を掩ふ事をせざりき。
之を読んで涙がこぼれた。キリストの苦難とは此れである。此苦難なくして彼の歓喜《よろこび》はない。少しなりとも此苦難に与る事が出来て感謝の至りである。此事が解つて他に何も知りたくなくなる。独り海岸に行き、浪打つ際《きは》に足を浸しながら、ハンデルの『救主』の初めの一節を幾度となく口すさんだ。
Comfort ye, comfort ye, my people;
Saith your God.(四十章一節)
七月三十日(土)晴 暑熱に苦しむ、然し涼を趁ふが故に一層苦しむのである。義務を趁ふて暑は自から忘れられる。引続きイザヤ書五十二章五十三章を読んだ。全世界の文学に斯んな者は無い。之を解せんが為に全生涯を旧約の研究に費すだけの充分の価値がある。預言者ヱレミヤの事からキリストの事に思ひ及んで発せられたる言であらう。人生の凡ての悲劇と喜劇とは此二章の中に在る。ボルテヤやシヨウペンハゥエルやニイチエに此章が解らなかった故に彼等の如き嘲笑又は悲観哲学が出たのである。自分は Christian であつて Christian optimist である。唯の optimist でない、 Christian optimist である。
(215) 七月三十一日(日)晴 久々振りの集会なしの日曜日であつた。イザヤ五十四章より五十六章までを読んだ。その後に『哲学の話』の内にシヨーペンハウエルの哲学の梗概を読んだ。神の言と人の哲学を較べて後者の如何にプーア(貧弱)なる乎を感ぜずには居られなかつた。基督教国に在りて斯んな憐れなる哲学を編み出さなければならぬ乎と思ふて不思議に堪へなかつた。然し是れ皆な主として基督教会の罪である。真の基督教が唱へられたならば斯んな哲学の出づる必要はない。寂滅の涅槃を目的とする仏教は基督教に勝さる宗教であるとの意見に至つては基督教を全然誤解せる者の宗教観と云はざるを得ない 〇若き内村札幌より帰省し、彼地の様子を語り、多少北門の我家の為に開かれしを知りて、懐旧の念に耽つた。
八月一日(月)晴 両雑誌校正の為に朝早く柏木に帰つた。車中イザヤ書五十七章より六十章までを読み、時間の立つのを知らなかつた。隣席には逗子鎌倉より東京に出勤する者の物価相場を語るを耳にせしも、預言者の声を打消す事は出来なかつた。家に帰り校正に従事する|あひま〔付ごま圏点〕にイザヤ書の註解書を覗いた。
八月二日(火)晴 二週間目にて塚本に会ひ御殿場富士岡荘に於ける日本基督教女子青年会同盟夏期修養会の実況を聞いた。会期は七月十六日より廿六日までゞあつて、講師は無教会の塚本虎二君、日本基督教会の金井為一郎君、同郷司慥爾君、日本メソヂスト教会の松田明三郎君であつたと云ふ。全国来集の女子青年は百四十人であつて、内無教会の塚本に就て学ばんとする者が六十人、日基の金井君に四十人、同郷司君に二十五人、メソヂストの松田君に十五人であつたと云ふ。実に奇異なる現象である。米国宣教師の指導の下にある女子青年会の集会に、塚本の如き無教会主義者が招かるゝさへ不思議なるに、来会の女子の多数が彼の許に走りたりとは更に不(216)思議である。斯くして日本に在りても支那に在ると同様に、米国宣教師の信用勢力は地に堕ちつゝある事が判明る。彼等が如何に威張らうが会衆が承知しない。無教会主義は宣教師並に教会者には蛇蝎の如くに嫌はれつゝあるが、公衆には歓迎されつゝある。宣教師は嫌々ながらも無教会主義者を彼等の指導の下に開かるゝ集会に講師として招くべく余儀なくせられて、彼等の勢力の衰退を表しつゝある。
八月三日(水)曇 小雨あり。関西の或る女子師範学校教諭某女史よりり内村聖書研究会に対する長い攻撃の書面あり、其内に左の如き文字があつた。
初め有島武郎は憎い奴だとたゞ内村先生のお言葉を尊んでゐましたが、此頃切りに思ひますに、やたらに御自分と意見が外れてくると絶交絶縁、汚れた物を芥函に入れゝばもう宇宙の何れにも消失してないと覚召されるかの如く御とりなしになつた|先生が有島氏をつまり殺したのだと云ふ様な考へが浮んで来ました。計らずも〇〇〇〇先生と此説は一致しました〔付△圏点〕。
是は随分な酷評であると思ふ。有島氏と絶交した覚えなく、彼と我とは最後まで好意的交際を継けて来た事は事実である。若し氏が死を決する前に自分の所に相談に来て呉れたならば、或は之を喰止め得たと思ふ、其事は別として自分がつまり有島氏を殺したのであると言ひ放つ人が、自分を先生と呼ぷ人の内に在ると聞いて不思議に堪へない。然し縦し其事が事実であつたとするも自分は失望しない。親鸞上人は曰うた、「縦し自分が二十人の女を姦し、百人の人を殺したとするも、弥陀の本願を信ずるに由て拯《たす》かる」と。自分も亦自分の為した善悪に由て審判かるゝに非ず、購罪のキリストを信ずるに由て救はるゝのであれば、自分も亦安心して可なりと信ずる。つまり如何でも可い問題である。
(217) 八月四日(木)曇 昨夜大雨、屋根漏り夜中大騒動を演じた。其跡片附に半日かゝつた。雑誌の校正を終つた。其他雑用多し。暑中之に当るの健康を与へられて、大なる感謝である。此日瑞西ジユネーブに於て英米日三強国の軍縮会議決裂に終れりの報あり。是れで先年のワシントン会議までが無効に成つて了つたのである。人間の催した平和会議が成功に終つた例は世界歴史に於て未だ曾つて有りし事なし、其反対に平和会議の後に大戦争の始つた例が多い。今度の軍縮会議も英米衝突の因を成し、第二の世界戦争を招くに至らざれば幸である。世界平和は神の聖業《みわざ》である。彼は之を人間に譲り給はない。今度の会議の結果は当然の成行である。
八月五日(金)半晴 用事一先づ片附きたれば、夕刻再び海浜に来た。忙がしい五日間であつた。然し凡ての責任に当る事が出来て感謝である。但し其責任の大部分が家や親類の事であつて天下宇宙の事で無い事を悲しむ。如何に見ても日本は小人国である。「自分を救つて貰ひたい、助けて貰ひたい」と云ふ人のみ多きに驚く。其上に米英流の進歩せる自分勝手主義が加へられたのであるから堪らない。
八月六日(土)晴 衣食足りて礼節を知ると云ふは必しも真理でない。世には足り過ぎる程に衣食に足りて礼節を知らない者が沢山に在る。近代の所謂上流社会の人達がそれである。無礼極まる者にして是等上流人士の如きはない。葉山の如き避暑地に来りて明かに此事を示さる。其反対に衣食に不足する人にして心からの紳士淑女の尠からずある事を自分は克く知つてゐる。近代の上流社会の人達は野蛮人に化粧した者と称する外はない。
八月七日(日)晴 藤本医博の借家にて小集会を開いた。イザヤ書十一章に由り、世界平和の実現に就て話した。スペンサー哲学の梗概を読んだ。実に偉らい哲学者であつた。自分の如き若し教会に毒せられたる英国に生(218)れたならば小なるスペンサー又はハックスレ一に成つたであらう。彼が英国の教会と其基督教を棄たに対しては深甚の同情なき能はずである。彼の父祖の宗教は勇敢なる独立心となりて彼に存した。彼も亦純なるピユーリタン的信仰の産である。
八月八日(月)晴 人世に成つて欲しい事にして、成る可能性の無い事がある。そして斯かる場合に於て祈祷の必要が起るのである。「神に在りては能はざる無し」である。神は不可能をして可能たらしめ給ふ。自分の生涯に於て斯かる実例を沢山に見せしめられた。それ故に如何なる場合に遭遇しても失望しないのである 〇夜柏木に帰つた。
八月九日(火)晴 復たび家の留守番と成つた。暑い日であつた。然し三百万の市民と共に苦しむのであると思へば凌ぎ易かつた。
八月十日(水)晴 暑い日であつた。雑誌八月号を発送した。第三百二十五号である。三百号を以て終る筈の此誌が又復百号の四分の一生き延びた。何時まで続くものやら。今朝詩篇百十九篇八十九節に於て左の言を読んだ。
ヱホバよ聖言《みことば》は永へに天にて定まれり
と。永へに変ることなき聖言である、故に之に携はりて永へに変らない。実に有難い事である。
八月十一日(木)曇 蒸し暑い厭な日であつた。支那内地伝道会社へ我等今年分寄附金五百円を送つた。斯くて(219)今年も亦此美はしき事業に参加する事が出来て感謝である。聞く我等の寄附金の使用せらるゝ山西省平陽府ウイルソン紀念病院は今や支那医師の監督の下に経営せらると。本誌読者諸君の賛成を得て末永く隣邦同胞の為に此寄附を続けたくある。序に記す、今年末までには阿弗利加リムバネーに於けるドクトル・シユワイツエル氏の医療事業に金千円丈け送りたくある。既に四百円余集りあれば、其余を幾分なりと補はれん事を諸兄姉に望む。与ふるは受くるよりも福ひである。神の有を神に献げて聖霊の恩賜に与る、斯んな幸福なる事はない。
八月十二日(金)晴 引続き家の掃除を為した。夏期の善き仕事である。旧い日本人は凡て夏の仕事を持つた。家の整理がそれである。日本婦人は夏は洗濯して冬に対する準備を為した。
彼女は家人のために雪を恐れず
そはその家人みな蕃紅《くれない》の衣を着ればなり
と箴言三十一章に在るは東洋婦人の夏の勤勉を謳つた言として解すべきである。そして婦人に限らず男子も亦然りである。夏は仕事を変へれば可い、必しも家を離れて外に遊ぶに及ばない。病気療養の場合を除くの外は、夏期労働は必要でもあり亦健康でもある。
八月十三日(土)晴 一先づ用事を終りたれば復たび海浜に来た。孫女と砂山を築いて遊んだ。夜家族の者に教へて曰うた。
我等クリスチヤンに来世の希望なくば我等は此世の人等と多く異なる所はない。此世に不完全多きは知れ切つた事であつて之を見たればとて少しも驚くに足りない。此世の不平不満足を来世の希望を以つて補充するのがクリスチヤンである。我等は日に日に天国の栄光を望んで不満の内に感謝に溢るゝ生涯を送るべきであ(220)る。信者の唇に常に讃美歌が絶えてはならない。人が我等を侮辱した位ゐでいら立つやうでは信者たるの甲斐はない云々。
斯く語り合ふて我等は笑顔を以つて寝に就いた。
八月十四日(日)晴 朝は自分で小供の日曜学校を開いた、之に少数の大人が出席して小供と共に聖日を守つた。安息の一日であつた。
八月十五日(月)晴 夏は半ばを過ぎた、然しまだあと一ケ月ある。暑さの長いのは東京附近の大欠点である。秋が待たるゝ。秋に入つて何を講ぜん乎と、日々其事を思ふて楽しくある。エペソ書か、コリント後書か、ソロモンの雅歌か、イザヤ書か、ヱレミヤ哀歌か、何れも興味津々として尽きない。聖書を講ずる丈けで俗味が之に伴はざればさぞ楽しい事であらう。福音の美はしさよ、之に反して俗事の厭らしさよ。福音の俗化したる者が教会である。最も善き者が俗人の混入に依て最も悪しき者に化するのである。教会に化するの虞れあるが故に福音の宣伝を止める事は出来ない。教会化せざる福音、それが最大の欲求物である。然し之を獲る事は非常に難くある。
八月十六日(火)晴 半睡半醒の内に一日を送つた。但し朝の聖書を読む時丈けは別である。三四日来詩篇第五巻第百七篇以下を読みつゝある。詩篇中最善部分であると思ふ。百十篇、百十三篇、百十五篇、百十八篇、百十九篇、百二十一篇、百二十七篇、百三十三篇、百三十七篇、百三十九篇、孰れも宝玉の文字である。基督信者の心理状態其儘である。是れ以上の讃美歌あるなし、祈祷文あるなしである。旧約聖書は基督信者に要なしと云(221)ふ人達はまだ詩篇の花蜜《ネクター》を味うたことの無い人達である。
八月十七日(水)晴 引続き暑い日であつた。両雑誌の編輯校正を為した。孫女の世話もすれば支那四億万人の自由も弁護する。二者共に同一の精神に出るのである。「此の小さき者一人を躓《つまづか》するよりは磨石《ひきうす》を頸に懸けられて海に投入れられんこと、其人の為に宜かるべし」と主は曰ひ給うた。世が見て以て小間題となす者が大問題である。欧米人が支那を愚弄するを見て我が血は沸へ返るのである。恰かも我が孫児が践附けられしやうに。
八月十八日(木)晴 幸福の道は所有を増すに非ずして欲を減ずるに在る事を熟々感じた。斯くして幸福は自分で増減し得ることを知つて感謝する。何も欲しくなくなつて我は幸福の絶頂に達するのである。然れども無欲の状態たる、是れ自から求めて得らるゝものでない。聖霊を受けて欲を駆追して戴いて達し得らるゝ状態である、故に祈祷に由て躰得し得らるゝ状態である。神は或時は幸福を増し給ふ、或る他の時は我欲を減じ給ふ。そして|減欲の幸福は増福以上に幸福である〔付△圏点〕。
八月十九日人金)晴 朝詩篇第七十三篇を読んだ。何んと云ふ美くしい詩であるよ。まことに信者の生涯其儘を歌うた詩である。悪人の生涯を画いて
彼等は死ぬるに苦しみなし
其の躰力は反りて強し
と云ふ所は、バンヤンが其著『悪人伝』に於て悪人の死を画くに方て頼りし聖句であらう。
視よ彼等は悪人なり
(222) 常に安らかにして其富増し加はれり
とあるも事実である。信者の懐疑は斯かる事柄を見せしめられて起る。然れども懐疑は「我れ神の聖所に行きて彼等の結局《いやはて》を深く思へるまで」であつた(十七節)。神の聖所に入りて人生を思ひし時に思想は一変したと云ふ。懐疑に始まりし歌は確信を以て終る。
我は主ヱホバを避所とし
其|もろもろ〔付ごま圏点〕の事跡《みわざ》を宣伝へん
と言ひ終る。我が日々の実験も亦然りである。
八月二十日(土)晴 朝柏木に帰つた。人を離れて神と偕に漸くさつと造り上げし美はしき人生観は人と接するや忽ち|たゝき〔付ごま圏点〕壊されて了ふ。世人は殆んど其すべてが悲観主義者である。其医者も政治家も宗教家も皆んな悲観主義者である。「危ぶない、駄目だ、是れでは可ない」と彼等は口を揃へて言ふ。然れども彼等何人も善くする道を知らない。彼等は唯危険堕落を叫ぶのみである。其点に至ると神の人は異ふ。神の人は危険を知ると同時に之を避くるの道を知る。彼は根本的楽観主義者である。彼は世に多くの悪事の在るを知るが、同時に善事の悪事を超越しつゝあるを知る。此世の智慧の常に消極的なるに代へて神の智慧は常に積極的である。斯くて神の人は世の人の内に在りて限りなき不快を感ずるのである。
八月二十一日(日)晴 三週間振りにて柏木の我集会に臨んだ。来会者百名以上あつた。畔上の後を受けて一場の感想を述べた。学んで而して時に之を習ふは喜悦でもあり亦休養でもある。今年の休暇中に聖書並に哲学を復習して大に休み亦大に得る所があつた。そして大宗教大哲学の教ゆる所は其根本に於て一致してゐる、即ち|万(223)事万物悉く可なり〔付○圏点〕と云ふ事である。造化の終極は善、人生の結末は福、是れ信仰哲学の等しく唱ふる所である。詩篇百五十篇、即ち其最後の一篇が此事を唱ふ。
ヱホバをほめたゝへよ
その聖所にて神をほめたゝへよ
その能力《ちから》の現はるゝ穹蒼《おほぞら》にて神を讃称《ほめたゝ》へよ
気息《いき》ある者は皆ヤハをほめたゝへよ
汝等ヱホバをほめたゝへよ。
然るに世は如何、人は如何、彼等の心に映ずる万物の終極は不明にあらざれば絶望である。彼等の話柄は病気である、不景気である。心配なる悲しい事ばかりである。神と人、偉人と小人とは斯くも異うかと思はれる。信者不信者の別は茲にある、|喜観するか悲観するか〔付△圏点〕。悲観する者は聖書に精通し、多く信仰を口にするも事実上の不信者である云々。以上の如く述べて自分を慰め又会員を励ました。
八月二十二日(月)晴 人には、殊に基督信者には、死ぬ時まで敵は絶えない。彼は生きてゐる間は或る敵を持たねばならぬとは悲しい事である。然し普遍的事実であるから止むを得ない。敵は人生の必要物である、是なくして進歩もなければ完成もない。|殊に祈祷の如き、其の最も切実なるは敵に悩まされて発するものである〔付△圏点〕。詩篇がよく其事を示す。「我が敵の前に饗筵《むしろ》を設け」と云ふ(第二十三篇)。そして人は神に近づけば近づく程多く強い敵を持たせらるゝのである。愛を懐きながら敵を持たせらるゝとは不思議であるが、然し明白なる人生の事実として之を受取らねばならぬ。そして此の不可解の事実の説明は神の愛に於て在るのである 〇夜、海辺の借家に帰つた。
(224) 八月二十三日(火)晴 南洋より吹き来る熱風の故に蒸暑くして眠られず困難した。然し高原の避暑地に在りて好ましからざる訪問客に悩まさるゝよりは|より〔付ごま圏点〕少き困難である。近頃スピノーザの伝を読み、ユダヤ人は国を失ひてより聖書が彼等の国と成つたとの記事を読んで大に感じた。誠に聖書は美国(うましぐに)である。ユダヤ人のみならず、凡て土地なき、産なき、地位なき者は聖書を其国と成す事が出来る、そして聖書は産物豊富なる国である。其住民となりて我等に何の不足する所はない。之に政治家の作つた法律、制度等なきが故に完全なる自由がある。自分の如き、過去半百年其住民であつて、其限りなき恩恵に接した者である。此世の財産名誉はなきも、|聖書国の住民〔付○圏点〕たるを得て、誠に幸福なる生涯を送つた。故に此世の新聞紙雑誌著書等の要はない、聖書丈けで沢山である。
八月二十四日(水)晴 早朝東京より久布白落実《くぶしろおちみ》、田中芳子両女史の訪問を受けた。淀橋町々会議員の総選挙に城民雄氏を推薦せられたしとの事であつた。勿論承諾した。如何に聖書隠者であればとて、町政の紊乱を余所に見て居るわけには行かぬ。
八月二十五日(木)晴 夏は茲に終らんとして居る。今年の夏は老妻と共に孫女の守りをして暮らしたやうなものである。一生に一度の経験であつて実に楽い経験であつた。孫女は遠からずして其父母と共に札幌に行くのであれば其前に|祖父祖母正子《ヂーヂーバーバーマーマー》の三人生活を営むはまことに幸であつた。彼女の霊魂に遺伝以外の多くの美点あるを見る。教育其宜しきを得ば彼女も亦我神の恩恵の器《うつは》として多くの人を幸福に為すであらう。
(225) 八月二十六日(金)半晴 相州葉山に於て在る。昨夜少しく雨あり、草木蘇生す。涼風到り、帰り支度にて多忙である。ジヨージ・アダム・スミス著『イザヤ書の解説』第二巻の復読を始め感興極まりなし。実に聖書解釈上の大著述である。二十年前に初めて之を読みし時よりは二十倍の興味を以つて読む。二千五百年前の旧記が躍如として我が目に触るゝを覚ゆ。斯んな大著述が我が書斎に潜み居りし乎と思へば感謝に堪へない。イザヤ書四十章以下の解説である。イエスの御生涯の預言的背景の研究である。此んな面白い研究の復たと他に在るべき耶である。
八月二十七日(土)晴 暑気引続き強し。朝食前に山桝船長と共に葉山別荘地を検分した。到底我等の割込むことの出来る地でない事が判明つた。「土地は汝等に属す」である。此世限りの彼等が此世を多く楽しみ得るは当然である。其反対に来世を賜はるべき者が今世を与へられざるは、是れ亦当然である。大別荘を与へらるゝよりも神の人イザヤの預言を少しなりと解し得る方が遥かに幸福であると船長に語つた。但し来世をも獲得し得ずして、財界恐慌の為に全財産を失ひし前大富豪某の大別荘が、シヨンボリと、淋しげに、人類に或る大教訓を与ふるが如くに立つてゐるを見るは皮肉であつた 〇孫女、母と祖母とに連れられて柏木に帰つた。老人一人海浜の借家に残されて、復び元の哲学者に成つた。
我が家の天の使は舞ひ去りて
祖父々々《ヂーヂー》御飯《マムマ》と呼ぶ声はなし
小児の居ない人生は詰らないものである。
(226) 八月二十八日(日)晴 朝簡短なる讃美祈祷会を開いた。聖書を読む事と之を説明する事の外に何の面白い事はない。政治、社会、文化事業、凡て何んと詰らない事でない乎。此んな事の為に短かい一生を送る人達の心が判明らない。殊に一たび福音を味ひし人達にして、復た前の社会事業に帰りし人達の心は更らに判明らない。新聞紙の記す事などは凡て如何でも可い事である。真の人間に聖書の外に読物なしと云ひて少しも過言でない。勿論此事は教会信者たる事でない。
八月二十九日(月)晴 英文推誌編纂に終日かゝつた。近頃にない多忙の日であつた。然し多忙に由て人生の不快を忘れる。人生実は多忙なる程幸福の事はない。
八月三十日(火)雨 久振りの強雨であつた。家に在りて雑誌校正に従事した。避暑客概ね去り、町は閑静になつた。午後晴れ、相模湾を隔てゝ富士山麓に夕陽の舂くを眺むるは美しかつた。自分も寂寥に堪えなくなり、明日此地を引上ぐる事に決した。
八月三十一日(水)曇 葉山借家引払ひで多忙であつた。海浜滞在は自分には余り休養にならなかつた、然し小児や女共に多少の休みを与ふるを得て満足であつた。葉山の天然よりも其人気の方が自分には気に入つた。鎌倉と較べて見て雲泥の差である。三浦大介朝比奈三郎の感化が残つてゐるやうに思はれた。夏毎に都会人士の襲撃を被るに関はらず此気風を存するは不思議である。夜、海浜を引払ひ柏木に帰つた。
(227) 九月一日(木)晴 大震災四週年である、感慨に堪えなかつた。久振りにて塚本畔上と共に雑誌校正に従事した。訪問者多し。其内に清水さえ子、夫繁三郎を失ひ、小児二人を携へてメキシコより帰りて訪れるあり、同情に堪へなかつた。其他家に帰りて多くの悲しき事を聞かせらる。唯一つ滋賀県の或る旧き読者より来れる左の書簡は始めより終りまで喜びの音信《おとづれ》であつた。
拝啓。時下尚残暑厳しきの砌貴下愈々御勇健に渡らせられ大慶至極に有之候。降両小生無事消光在罷候間乍憚御休心下され度候。
就ては小生多年『聖書之研究』を拝読し、貴下の聖書常識の広大に驚き申し居り候へ共、その教会攻撃の一事に至つては、こは老師が教界に於ける地位獲得の為めにする或る政治的、野心的手段ならざるかと、永年尊敬のうちにも聊か軽侮気味に邪推致し居り候処、最近教会の内情を知るに及び余りの意外なるに驚き、いつそ仏教に帰らんかと思ひつめたる結果、なるほどと合点行き申し、心からなる貴下尊敬の念の愈々高まりつゝあるの感有之候。就ては永年貴下の門に教へを蒙りしに拘らず、今日迄の我が身の為せる不霊鈍根を懺悔、謝罪の意を表する為茲に貴下に迄御通告申上候。
キリスト教は早くから我国に伝播され申し候も、恐らくは貴下出で給はずば其福音らしきキリストの福音は伝はざりしと存じ申し、貴下と同時代に生き、貴下より直接教を受くると云ふは何たる神の有難いお引合せかと、さめ/”\と感涙を催し申し候。
就てはこれを機縁に親鸞同行の信仰の真髄が結局その簡潔なる南無阿弥陀仏の六つの字に帰するが如く、キリストの信仰をせんじつめた中心的信仰に就て引続き御教示賜り度、今後とも宜敷く懇願いたし候。敬具
八月廿九日 〇〇〇〇
内村鑑三殿
(228)誠に有難い音信である。多分自分に対し、此書簡の発信者と同一の態度を取る者が他にもあるであらう。自分の福音は受くるも無教会主義は之を斥くる者の尠からずある事を自分は克く知つて居る。然し福音と無教会主義とは関係の無いものではない。否な、深く其源を究むれば二者は同一の精神に出るものである。何にも既成教会に対し反旗を翻《ひるがへ》すのではない、真理其儘を主張するのである。無教会が解らずして福音は解らずと言ひ得る。
九月二日(金)晴 涼しい好き日であつた。家族一同と共に鍛冶橋外森川に於て写真を撮つた。当分相別れるからである。
九月三日(土)晴 玄関に左の如き張紙を出した。
新聞雑誌記者諸君には御面会致しません。
政治、社会、宗教等の運動へ御誘導の儀は御遠慮下さい。
自衛の為に必要である。此世の人達は己が事業の促進の為には他人の事業の妨害を構はない。
九月四日(日)曇 朝は満堂溢るゝの集会であつた。内村医学士は欧洲滞在中の宗教的実見、並に阿弗利加に於けるアルベルト・シユワイツエルの伝道事業に就て話した。此日人の出入多く、甚だ騒しき聖日であつた。日本人は我が同志に至るまで未だ安息日を守るの途を知らない。彼等は此日を交際の日としてゐる、神に献げたる神聖の日と為ない。実に困つたものである。此日又或る事よりして日本を我が愛人として愛するの幸福に気附いた。此は青年時代に於て我心を燃した愛であるが、老年に至つて之を復活するの必要を感ずる。日本とは日本政府でもなければ日本人全体でもない。日本と云ふ或る mysterious personality である。之を愛し之の仕へて我は(229)無上の幸福を感ずるのである。
九月五日(月)曇 世には自分の有する少し計りの此世の勢力を用いて失望する者がある。近頃も当淀橋町々会議員選挙に際し、自分をして其候補者を推薦せしめて失敗した人達があつた。彼等は自分の勢力を誤算したのである。自分に多少の勢力は無いではないが、此世の人望を買ふやうな勢力はない。自分の名を用いて金を儲けんと欲する者、又は勢力を得んと欲する者は失敗するに定《きま》つてゐる。其人達に対して甚だ気の毒であるが、彼等の誤解誤算より出たる失敗であるから止むを得ない。彼等自身に信仰がなきが故に、彼等は信仰の勢力の何たる乎を知らない。そして斯かる人達が教会者の内に尠くないから驚く。
九月六日(火)雨 内村医学士其家族を率ゐて札幌に向け出発した。家は朝より大混雑であつた。小なる正子と別れるのが非常に厭であつた。暫時の別れとは知りながら、彼女なくして如何して柏木の家が成立する乎と思ふ程辛らかつた。老夫婦は勿論のこと、女中家僕に至るまで此小なる霊魂の愛に牽かれた。女中の一人は札幌まで附添うた。夜十時半の上野出発に多くの友人が見送つて呉れた。我が故郷へ行くのであり、又多くの友人が彼地で迎へて呉れるのであれば、心配の必要なきは判り切つてゐる。「正子の北海道行を送る」と題して左の一首が迸つた。
あれるなよ竜飛、白神、中の潮《しほ》
我がいとし孫海渡るなり。
九月七日(水)雨 鬱陶敷い日であつた。孫女去つて後は何事も手に附かず、只老夫婦共に地図を披き、汽車(230)の時間表と照し合はして彼女の跡を追うた。弱い人間である、然し天性であるから止むを得ない、之を押隠すに及ばない。久しからずして此弱きは取去らるゝであらう、そして復た見る日を楽しみに平常の仕事に就くであらう。美はしの愛情である、是れあつてこそ生くるの甲斐があるのである。
九月八日(木)雨 益富政助君に伴はれ、畔上と共に明治神宮外苑日本青年館の大講堂を検分した。之を日曜日毎に借受けて我が聖書研究会を再び市内に於て開かんが為である。理事者の親切なる待遇を受けて我等の心は大に動かされた。時勢は一変した。基督教青年会に計るの必要はない。日本青年の公共機関たる此純社交的団躰が我等を歓迎して呉れるのである。斯かる事を考へて孫女去つて後の我が堪へ難き淋しみを慰めた。寂寥を癒すの唯一の途は公共的事業に携はるにある。
九月九日(金)雨 秋雨蕭々として淋し。我がいとし孫は如何して居るならんと其事のみ気遣はれる。過去二年間育児学に没頭して、今更ながらに自分等の此事に熱心なりしに驚く。|若し全世界の小児を如此くに愛する事が出来たならばさぞ幸福であるであらう〔付△圏点〕 〇今日、日本青年館(基督教青年会館に非ず)と左の如き契約を結んだ。旧き研究会員の一人なる益富政助君が両者の間に立ちて、之を成立さして呉れたのである。
一、日本青年館は内村聖書研究会に対し毎日曜午前十時より十二時まで其大講堂を使用する特権を与ふる事
二、右使用料金を一回金〇〇円とし、内村は其拾回分宛を前納する事。
其他細則七ケ条に及ぶ。何れも我に取り有利的条件であつて、日本青年館が研究会に対し、如何に好意的態度を取つて呉れた乎が判る。斯くて再び神の言葉が帝都の中心に於て説かるゝの途が開けたのである。
(231) 九月十日(土)晴 久振りの晴天である。午前四時第二皇女御誕生遊ばさる。益富君並に家の主婦と共に日本青年館に行き、大講堂借受の手続きを済ました。新天地が我等の前に開かれしやうに感じた。友人孰れも我が前途を祝して呉れた。夜は十五夜の満月であつた。家庭祈祷会を終へて後に残れる少数の家族と共に月見の宴(実は団子と喫茶の会)を開いた。まことにお芽出度い日であつた。斯くて孫女去りし後の寂寥を慰めた。
九月十l日(日)晴 満員以上の集会であつた。詩篇第百三篇を畔上に読んで貰ひ、夏期の仕事並に読書に就て話した。孫女の守りをして、神が自分に具へ給ひし愛の深きに自分ながらに驚いた。若し此愛を凡ての小児に注ぎ得るならば自分は大慈善家に成り得るのである。唯自分勝手なる、自分の孫には注ぎ得ても他人の孫には注ぎ得ないのである。然れども神が聖霊を注ぎ給ふ場合には、自分の孫を愛するが如くに凡ての小児を愛し得るに至る。別に新らしき愛を神より仰ぐに及ばない、神が自分に既に具へ附け給ひし愛にて充分である。神の愛に励まされて此愛をさへ放出し得れば足りるのであると語つた。其他聖書が唯一の書なる理由を述べた。
九月十二日(月)晴 厳しい暑さである。書斎の温度九十二度、頭脳《あたま》の仕事は何も出来なかつた。但しG・A・スミス著『イザヤ書講解』第二巻第十八章を読んで非常に感じた。伝道に従事する者は何人も再読三読すべき章である。米英の宣教師の大多数は此章の伝ふる大教訓を全然無視してゐる、夫れ故に伝道の効果が挙らないのである。如何に見てもスミスは近代の英国(蘇蘭土)が産んだ大数師の一人である。
九月十三日(火)曇 昨夜豪雨があつた。盲人信仰会の事業報告を聞いて喜んだ。会員は信仰に燃えてゐる。聖霊の降る所に盲人は遥かに眼開き以上である。幸も不幸もあつたものでない。歓喜に溢るゝ盲人の兄弟に会う(232)て羨ましく思ひ、自分も亦新たに眼を開かれしやうに感じた。之を思ふて、無牧で歎いてゐる教会の如き実に気の毒の至りである。何故直に神の御許に行いて我が盲人の兄弟のやうに希望と歓喜とに満されないのか。
九月十四日(水) 大雨であつた。英文雑誌の編輯を始めた。イザヤ書五十三章の復習に我が神魂を奪はれた。キリスト伝を裏書きするもので之れ以上のものはない。ナザレのイエスは誠に預言者に由て約束せられしイスラエルのメシヤにして人類の救主である 〇横井時雄君の永眠を知つて悲んだ。同君は我が壮年時代の無二の友であつた。共にキリストの福音を以て日本国を救はんと誓うた。然るに信仰の根本に於て異なる所があり終に別れざるを得ざるに至つて非常に悲しかつた。君が伝道を去つて政治に入りしが抑々君の不幸の始めでありしと思ふ。其才能に於て、人格に於て到底自分などの及ぶ所でなかつた此人が、代議士となりて国を救はんとせられし時に、我が失望は譬ふるにものなしであつた。今日君の大分県別府に於ける永眠の報に接し、感慨無量、現はすに言葉なしである。但し君の霊魂はたしかにキリストの許に行いたと信ずる。彼所に再会して往事を語るであらう。
九月十五日(木)半晴 雑誌編輯が一日の仕事であつた。読書も亦大分に為した。其他に種々《いろ/\》と他人の仕事に携《たづさ》はしめらる。学校の建設、教会の整理、講師の派遣、就職の相談、遺稿の編纂、‥‥‥断つても断はり切れない。哲学者にばかりに成つて居られぬ。真理は偉大である、俗事は微小である。何故もつと凡ての人が真理の探究に熱注しないのである乎。
九月十六日(金)曇 暑気未だ去らず。塚本と共に日本青年館を訪れ種々の打合せを為した。見れば見る程講堂の完備せるに驚く。其使用を許されしは大なる特権と云はざるを得ない。之に由て福音は一層高く日本全国に(233)響き渡るであらう。
九月十七日(土)曇 北海道行きを前に雑誌編輯にて多忙である。之を了へずして何事をも為すことが出来ない 〇教会の人達が相互を誡むるに「無教会主義者に乗ぜられるな」との言を以てすると聞いて奇體《きたい》に思うた。自分は人の知る如く無教会の一人であるが、他人の不幸や失敗に乗じて事を為さうとはしない積りである。基督信者であるから計りでない、日本人としてそんな賎しい事は為し得ない。乗ずるとか乗ぜられるとか、そんな言葉が用いられる間は教会の決して栄えない事を保証する。神の守り給ふ教会は如何なる人も其困難に乗ずる事は出来ない。又武田信玄に塩を送りし上杉謙信を同国人として持つ我等日本の無教会信者は、教会の不幸失敗に乗ずるが如き事は心に恥ぢて為す事が出ない。我等は不振の教会を援けんとはすれ、其弱きに乗じて我が増大を計らんとするが如きは絶対に為さない、又為し得ない。
九月十八日(日)雨 新秋最初の常規の集会であつた。雨天にも関はらず重なる会員は大抵出席し、朝は九分通り、午後は殆んど満員の集会であつた。朝は讃美歌三十五番を以て始め、牛後は二百七十三番を以て終つた。自分は朝はイザヤ書四十六章一-四節に由り「偶像と真神」と題して語つた。午後は馬太伝十章三二、三三節に由り「信仰維持の方法」と題し、人の前に我が信仰を言表はすの必要なる事を述べた。夏を我が小家族と共に暮らして、秋に入りて我が大家族に会するを得て歓喜の至りである。殊に何百人と云ふ青年男女に接するは愉快此上なしであつた。聖書講演は我が生命であつて、許多の若き男と女とは我が弟妹であり、子女である。彼等に聖書を教へて、我も亦教へられ、また楽しく生くるのである。
(234) 九月十九日(月)曇 朝米迦書を通読した。小以賽亜書と称すべき書にして、力ある慰め多き預言書である。四章一-四節、六章六-八節、七草五-八節、同十八-二十節、孰れも偉大なる美はしき言である。四十年前にアマストの寄宿舎で独り読んだ是等の預言書が老後の今日になりて非常に役に立つ。斯んな書は他にはない。有難いとも何んとも云ひやうがない 〇徳富蘆花氏の逝去を聞いて悲んだ。自分と同時代の日本人の中で彼は最大の文学者であつた。氏と自分とは宗教上の信仰は異つたが、其他の事に於て一致の点が多かつた。非戦主義に於て、対米意見に於て、氏と自分とは同一の歩調を取つた。彼の名は明治大正の文豪として世界文学史に伝はるであらう。
九月二十日(火)曇 九年振りにて札幌に向つて出発する。我が故郷に帰るやうな心持がする。明治十年九月、汽船玄武丸にて品川沖を出発してより満五十年である。午後一時上野を出た。秋は北に進むに循ひ益々濃く、田は到る所に色づき、気持好き汽車旅行であつた。
九月二十一日(水)晴 夜は青森県に入つて明けた。陸奥湾に昇る日出を見た。津軽海峡の渡海は静かにして克く休んだ。函館より札幌まで九時間の汽車旅行は随分辛らかつた。火山湾沿岸は旧き北海道の跡を留めて嬉しかつた。小樽に着けば彼地の教友並に札幌より浅見仙作君並に内村医学士の出迎を受けた。夜十時少し前札幌駅に着けば、佐藤大学総長、宮部教授を始めとして旧友教友三十余名の出迎を受けた。直に大学の自働単に乗せられて若内村の新家庭に入つた、やはり日本国中、自分を斯くの如きに歓迎して呉れる所は札幌を除いて他には有るまい。
(235) 九月二十二日(木)晴 秋晴の好天気である。充分に北海の秋を楽んだ。終日家に在りて旅行の疲れを休めた。交々新聞記者の訪問を受けた。此所では彼等に会はぬわけにはゆかぬ。境遇の変はりし故か、孫女は思はざる所に祖父の見舞を受て真の祖父とは認めぬらしくある。夜、旧い豊平館に於て、佐藤大学絵長、宮部、南の両名誉数授、高岡札幌市長の晩餐歓迎を受けた。斯くて夢のやうに札幌に於ける第一日を過した。柏木に於けるとは全く異つた生涯である。
九月二十三日(金)晴 朝自働車を駆り、内村医学士の家族を乗せ、札幌神社、豊平橋、旧農学校跡、創成川の畔にて四十九年前に自分がバプテスマを受けし跡などを訪ひ、彼等に自分に関する札幌の名所旧跡を示した。殊に万感湧き来りしは南二条西六丁目の所謂「白官邸」の跡であつて、是れ自分達当時の青年が初めて設けし基督教の説教所である。半西洋風の二軒長屋であつて、其半分を借りて茲に初めて札幌独立基督教会を起したのである。自分が初めて聖書を講じたのも此所であつて、自分の生涯の仕事の発祥地とも称すべき所である。其長屋は依然として存し、自分等が借受けし半分は今は建具屋となりて存するを見た。午後四時より札幌独立教会の役員会に出席し、牧師選定に関する相談に与つた。無教会主義者の自分が其事に関し善き意見を懐きやう筈なく、然し自分の関係深き此教会に対し深き同情を寄するは勿論のことなれば、主義と情との間に挟まれて尠からず困難した。会議は万事を神の指導に仰ぐ熱心なる祈祷会に化した。そして多数の兄弟姉妹は熱誠を罩めて祈つた。近頃見た事のない真剣なる祈祷会であつた。
九月二十四日(土)晴 札幌独立教会講堂に於て北海道『聖書之研究』読者会を開いた。来会者百名以上、遠きは北見、函館より態々来る者もあつた。来会者の感想述懐は相次いで尽きず、午後二時に始めて五時に至り惜し(236)き会合を閉ぢた。教会行詰りの談は到る所に聞くが聖書研究者の団体のみは希望春の海を行くが如しである。
九月二十五日(日)晴 朝と夜と二回、札幌独立教会に於て説教した。朝は四百人余、夜は五百人種の聴衆があつた。朝は「福音の奥義」と題し、加拉太書二章二十、二十一節に依りて話した。説教は余り振はなかつた。夜は満堂に溢れたる聴衆に対し「日本と基督教」と題して我が熱誠を披瀝した。信仰に愛国心が混ぜしが故に説教は愛国的能弁と化した。自分で自分を抑へ切れなかつた。自分に取り札幌ならでは為す能はざる演説であつた。
九月二十六日(月)快晴 札幌に於て在る。昨日の二回の壇上の労働にて今日は大分に疲れた。訪問者は絶えなかつた。夜ユーゴー亭に於て「内村鑑三謝恩奨学資金」の受領者六人の歓迎晩餐の饗応を受けた。受領者総て八人、内一人は死亡し、一人は満洲に在りて、札幌に在る者は六人であつた。孰れも農学部出身又は在学の優等生であつて、自分の提供せる少額の奨学金を受けて呉れた事は自分に取り此上なき名誉であつた。一同先づ撮影し、次いで夕食を共にして卓上談話に快楽を貪つた。茲に「札幌内村会」を設くる事に議決した。そして将来会員結合して相共に活動せん事を約した。自分に取り生れて初めての経験であつた。斯んな嬉しい事はない。此事を為すため丈けに札幌に来る充分の甲斐があつた。
九月二十七日(火)晴 孫女漸くにして再びなづき愉快であつた。急激の変化に由り、ヂーヂーを新らしき場所に認め得なかつたのであるらしい。小児心理に大人に解し難いものが多い。午後二時三十分より北海道帝国大学大講堂に於て、佐藤総長司会の下に、特別に自分の為に開かれし演説会に出席した。此日午後特に此演説会の(237)為に全校の休課が宣告せられ、職員生徒挙つて大講堂に集つて呉れた。聴衆は堂に溢れ、千五六百人あつたらうと思はれた。拍手暫らく止まず、少しく面喰らつた態であつた。題は Boys be ambitious《ボイズビーアムビシアス》であつた。故 W・S・クラーク氏の有名なる告別の言葉である。之に註解を加へて自分の意見を述べた。一時間半以上の演説に大聴衆は鳴を静めて聞いて呉れた。終つて壇上に於て全大学を代表する佐藤総長と自分の間に堅き握手の礼が行はれ、全衆大拍手を以て之を祝して呉れた。自分が旧い母校より受けた最大名誉である 〇夜九時五十分発の汽車にて帰途に就いた。友人多数の見送りを受けた。相変らず孫女と別るゝのが最も辛らかつた。
九月二十八日(水)晴 朝七時函館に着いた。津軽海峡の渡航は稀れなる平穏であつた。船中知人多く、さすがに北海道旅行なることに気附いた。午後一時四十分青森発急行列車にて東京に向うた。車中小島、後藤、須田諸君の日本聖公会の教職並に名士あり、快談に時の過ぐるを忘れた。
九月二十九日(木)雨 朝八時上野に着いた。主婦並に畔上の迎ふる所となつた。九日間連続の旅行と労働とにて身体は綿の如くに疲れた。終に床に就て休んだ。然し有意義の伝道旅行であつた。我が生涯が新たに始つたやうに思はれた。家族一同活気附いた。
九月三十日(金)晴 不在中に悲しき出来事が起つた。二十一日に鸚鵡のローラが死んだ。メキシコより我家に来りてより茲に十七年、家族の一人として我等と偕に生存した。毎朝オハヨーを以つて家人を迎へた。克く己れを愛する者を知つた。夏毎に彼を家に遺すは大なる心がゝりであつた。今年の夏の暑気に負けたりと見え、大なる疲労を見受けた。色々と手を尽したが終に起たず、飼主の声を認めつゝ、主婦の懐に抱かれながら終に絶息(238)したとの事である。北海道より家に帰りて此事を聞いて熱い涙を禁じ得なかつた。禽《とり》とは言へ十七年間の友人である。我等の苦痛を慰めし事幾回なりし乎を知らず。ルツ子の逝きし年に我家に来り今日に至りて逝く。何やら彼に不滅の生命の在りしやうに感ずる。彼の皮を剥製にして永く保存する積りである。愛惜何ぞ堪えん。噫。
十月二日(土)晴 校正並に講演準備で多忙であつた。北海道行きが祟つて、其補償が容易でない。
十月二日(日)曇 東京青山明治神宮外苑内日本青年館に放ける第一回の聖書研究会を開いた。来会する者五百人余り、千五百人を容るゝ大講堂の真ん中に密接に座に即き、柏木に於けると同様の静粛にして充実せる会合を催うした。開会に当り常務理事田沢義鋪君の歓迎の辞があつた。此会館は外人は勿論のこと、富豪にも頼ることなく、全然日本青年の献身努力に由て成つた者である、之に内村聖書研究会の如き会合を迎ふるは此館建設の目的に適ひ、会員一同の満足する所であるとのことであつた。畔上先づ講じ、続いて自分はイザヤ書研究の第一回として「イザヤの紹介」と題して語つた。北海道旅行の後を受け、疲労未だ癒えずして、満足の講演を為す能はざりしも、瑞祥の下に此会合を始むるを得て大感謝であつた。
十月三日(月)晴 長旅を加へたる大集会の連続にてガツカリ疲れた。復たび聖書の研究に還つて疲れたる霊と肉とを休めた。聖書の研究である、大運動でない、只講堂の広きを求めた丈けである。会員中此機会に乗じて大に教勢を張らんと欲する者あるを見て憂慮に堪へない。如此きは教会的精神であつて、此精神ありて福音の衰退は必然来る。大なる警誡を要する次第である。
(239) 十月四日(火)半晴 疲労少しく癒えた。両雑誌の校正に従事した。地方伝道より蒙る損害は多大である。之を補ふに随分の努力を要する 〇瑞典国物理学者ス※[ワに濁点]ンテー・アーレニウス氏逝去の報を新聞紙に読んで悲んだ。氏は六十八歳であつて自分より二年の長老である。氏の大胆なる宇宙創造説は曾て自分の血を湧かしたものである。ヘルムホルツ、※[ワに濁点]イズマン等と共に学界の偉人である。リニーウスを生んだ瑞典は時々斯かる学界の偉人を産す。偉大なる国である。
十月五日(水)小雨 疲労未だ癒えざるに全日を両雑誌校正の為に費した。引続き|校正〔付△圏点〕恐るべしである。然し兎にも角にも雑誌が出来るから不思議である。
十月六日(木)半晴 忙がしい一日であつた。朝先づ第一に旧約ホゼア書の終りの三章を読んだ。次ぎに『研究誌』の校正を為した。次ぎに又英文雑誌の校正を為した。斯くて漸くにして今月分の両雑誌が自分の手を離れた。編輯と校正との間に北海道が挟まつて苦しかつた。然し兎にも角にも雑誌が出来て感謝である。勿論塚本と畔上とが助けて呉れたから出来たのである。其他種々と人の相談に与つた。疲れたる頭脳は是より彼へと使ひ廻される。宇宙人生の大問題を考へる時は少なくなる、然し此事を止めることは出来ない。大抵の人は自分を学者として見て呉れない。牧師か伝道師の類であつて、俗事に携はるべき者であると思ふらしくある。人生、実はどう成つても可いではない乎。霊魂が救はれて天国に行く事さへ出来れば他の事は如何でも可いではない乎。結婚、財産、事業、孰れも如何でも可いではない乎。然し基督信者と云ふ人でも、此地が第一であつて、天国などは末の末の、問題である。無理もない。是は米国人の基督教であつて、日本の基督信者は大抵は米国信者である。我が幸福は夜に入りて是等の人達を離れて、独り机に対し、ペンを執りて其日の「日々の生涯」を記《か》く時に来る。
(240) 十月七日(金)晴 久振りの休息日であつた。サイス教授著「イザヤ時代」を復読するの外、何事も為さなかつた。札幌独立教会並に北海全道の上に聖霊の降らんが為に有志の特別祈祷会を開いた。我が愛するかの地方の上に今や大なる恩恵の雨の降らんとしてあるを感じた。
十月八日(土)雨 平安の一日であつた。少しく原稿が書けた。信仰が活動と思はるゝ時に我霊は混乱である。然し信仰は活動に非ずして静かなる信頼である。米国式の信者より見れば無為の生涯であるが、実に深い充実せる生命の持続である。我が贖主を措いて他に何物をも要せずと云ふ生涯である。信仰を殺す者は米国宣教師の伝へし「多忙の信仰」である。之を除かずして本当の信仰は起らない。
十月九日(日)晴 昨夜大雨 今朝快晴、美はしの聖日であつた。外苑大講堂の集会に六百人程の出席者があつた。塚本は羅馬書十一章一-十節に依り、「七千人の遺れる者」に就いて講じた。自分はイザヤ書研究第二回として「イザヤと其時代」と題して話した。講演は悪しくはなかつたが、只会衆一同の未だ場慣れざるより調和が取りにくゝ、聖会としては不満足の点が多かつた。何れにしろ新らしき試みである。成功までには時日を要する。未だ俄かに失望すべきではない。
十月十日(月)晴 田村直臣君を訪問し君の幼稚園を見せて貰つた。実に天下一品である。社会も国家も如此くにして救ふべきであると思はせられた。又例に由つて色々の事を聞かされた。只驚くの外はなかつた。自分達は一心不乱に唯旧い聖書を世に紹介せんとの決心を固うせられた ○札幌の嫁より「思ふ事なき北海の秋」と云(241)ふ句を送つて来た。之に附するに何か善き上の句は無いだらう乎とのことであつた。依て目下の石狩平野に於ける彼女の楽しき新家庭を思ひやり、左の如くに作り直して返してやつた
空は澄み平野《ひらの》は遠し家安し
思ふことなき|北海の秋〔付○圏点〕
之に更らに一首を加へて遣はした
孫去りて家は淋しくなりにけり
いざ奮起せん|東海の秋〔付○圏点〕
こんな事で札幌柏木間の通信が賑つて居る。
十月十一日(火)曇 湿気多き嫌な日であつた。両雑誌を発送した。多事の一ケ月であつた。其間雑誌二つ作る事が出来て自分ながら不思議に思ふ。自分が作るのではない、主が自分に在りて造り給ふのである。
十月十二日(水)半晴 引続き休養の一日であつた。北海道演説旅行の疲労が容易に除れない。自分に取り高価の旅行であつた 〇年末が近づき、結婚時期に成りたれば、自分も亦多少之に関係せしめらる。之に社交上信仰上の問題が絡まり甚だ五月蝿い事である。「それ洪水の前、ノア方舟に入る日までは人々飲み食ひ嫁《とつ》ぎ娶《めと》りなどして洪水来り悉く之を滅すまで知らざりき、如此く人の子も亦来らん」とあるが如く、結婚は世の終末まで人世の最大事として続くのであらう。然し「甦る時は娶らず嫁がず天に在る神の使者達の如し」とあれば、天国は結婚の無き所なるを知りて、その実に福祉《さいはひ》なる所なる事が知らるゝのである。まことに結婚問題程|現世らしき問題〔付△圏点〕はない。俗気紛々とは実に此問題を云ふのである。馬太伝廿二章三十節、同廿四章三八、三九節。
(242) 十月十三日(木)小雨 淋しい秋の日であつた。孫は北海道に其父母と共に在り、甥は学校の遠足にて在らず、姪は親類へ泊りに行いた。残るは老夫婦二人、多く語る事もなし。唯信仰の兄弟姉妹の訪れるありて神の御事業に就て語る、まことに福ひなる事である。願ふ末の終りまで聖国の為に働き得んことを。三谷民子女史明日女子学院校長として就任するとの事なれば彼女を励まし自分をも慰めんために左の一首を書き送つた。
荷は重し我に代りて負ひ給ふ
主《ぬし》ありと知れば我は恐れず。
十月十四日(金)半晴 久振りにて新渡戸稲造君を訪問した。古い札幌時代の事を語つて楽しかつた。同君等と共に汽船玄武丸にて品川沖より彼地に運ばれたのは今より満五十年前であつた。君と自分とは人生の全く異なりたる行路を歩んだ。然し今に尚ほ異ならざるは学校時代に受けし気風である。札幌出身にして世人に最も多く噂さゝる、は新渡戸君と自分と故有島武郎君と三人であるとの事である。奇態な組合せである。三人共に農学士であつて、農学以外の事で噂さるゝのは不思議である。但し有島君の終焉が美くしくなかつたのが残念である。
十月十五日(土)曇 寒い日であつた。引続き講堂の事に就いて困しめらる。世には善き講堂があつて聴衆なくして困まる教会が多くあると聞くが、自分達は聴衆が有り過ぎて適当の講堂なくして苦るしめらる。時には此際断然講演を廃めやうかとも思はせらる。雑誌を以つて数千人に語り得ば、それで充分である。聴衆を集めていかにも勢力でも張らんと欲するやうに思はるゝは心外千万である。会衆取締りの為に講演の質を低落するの虞れがある。或は講演廃止が満足なる解決である乎も知れない。
(243) 十月十六日(日)曇 雨模様。集会は至つて静粛に、且又稍満足に行はれて感謝であつた。聴衆は前回より少しく多く、六百人を越えたであらう。畔上前講し、自分は「イザヤの名に就て」述べた。イザヤと云ふ名の内に「ヱホバ救を施し給ふ」と云ふ貴き福音の籠れることを述べた。善き福音を語つたと思ふ。会員外の傍聴者は五十人であつた。孰れも傍聴料を払つて聞いて呉れた人であつて、熱心なる同信の人達であつた。其内に此世の地位と知識に於て卑しからざる人が尠くなかつた。柏木に来得ない人で此所に来る人が大分ある。近頃になき気持好き集会であつた。
十月十七日(月)曇 終日家に在りて休んだ。聖書に親んで此世の交際や知識が厭に成る。どうでも可い事に成る。人生の最大問題はそんな事でない。「亡ぶる此世、朽ち行く我身」、どうなつても可い。親むべきは神、学ぶべきは彼の言、彼と是れありて万事足れりである。
十月十八日(火)晴 麗はしき秋晴れの日であつた。沢山に校正を為した。相変らず俗事に悩まさる。人は自分が老人である事を考へて呉れない、色々と六ケ敷い問題を持込んで来る。真理の為に一時間を費せば俗時の為に十時間を費さしめらる。之を思へば悲しくなる。G・アダム・スミス著『イザヤ書講解』第二巻の再読を八月に始めて今日漸く終つた次第である。是れでは大学者には到底成り得ない。
十月十九日(水)半晴 読書、校正、訪問に全日を終つた。今になり青年時代に読んだ書が非常に役立つ。青年は読書時代である、此時に読まずして深き印象を受くる時代は再たび来ない。今や新らしき書を読む必要を感(244)じない、古い書を読む丈けで充分である。殊に預言書が面白くある。G・A・スミスかオレリ(Orelli)の著を手にして居れば終日倦怠を感じない。イザヤ、ヱレミヤ、アモス、ホセア、ミカ、何れも善き先生であり、善き友人である。二千五百年前の彼等こそ我が真の|心友〔付○圏点〕なれである。
十月二十日(木)半晴 主婦と共に久々振りにバビロンに行いた。三度自働車(乗合)に乗り、二度電車に乗つた。物を買ふの六ケ敷き事よ。売子は売るに巧みにして滅多に買者《かひて》の利益を計つて呉れない、唯売りさへすれば可いと思ふ。呉服店は何れも花嫁姿を以つて賑ふ。今日の日本人に取り人生の花は花嫁である。終日バビロンを彷徨ひてノーブルなる事に一つも出会はない。純の純たる肉欲の市である。書店に立寄りG・B・グレー著『イザヤ書の註解』と有名なるロバートソン・スミスの『イスラエルの預言者』と二冊買求めた。斯んな本が東洋のバビロンに於て得らるゝから不思議である。自分の如き者は旧き聖書に引込んでゐれば可いのである。此世の事には、政治は勿論のこと、社会運動にも、教会の大挙伝道にも頗を出す必要はない。
十月二十一日(金)半晴 両雑誌の編輯に全日を費した。相変らず面倒の仕事である、然し広く全国並に全世界に対して語る途である。之に全力を注がねばならぬ。同時に又「事業」と思ふてはならぬ。「楽しみ」であらねばならぬ。自分以外の或者が自分を以て為し給ふ事である。只彼の聖手《みて》に自分を委ね奉れば可いのである。事業、活動、教化……自分はそんな事を為さない積りである。聖書に現はれたる宇宙的真理の静かなる研究である。目下流行の「大宣伝」には何の関係もなき事である。
十月二十二日(土)晴 編輯と原稿とにて終日働いた。働いて凡ての苦痛と寂寥とを忘れる。働くに勝る幸(245)福はない。人生、成る事が凡て善き事である。All that is,is right.神が万事に於て働き給ひつゝあるからである。人は常に神の聖業を妨げつゝあるが、神は人にかまはず之を進め給ひつゝある。故に彼に依頼む者は世上の万事を顧慮することなく唯神の国を指して進むべきである。新聞紙は殆んど読むに堪えない。実際上、聖書丈け読んで居れば充分である。
十月二十三日(日)半晴 日本青年館大講堂に差支あり、中講堂に於て集会を開いた。来会者六百人余り、殆んど講堂に充満した。塚本と自分とで高壇を塞いだ。自分は「預言と異象」と題し、更に預言総論を続けた。外《そと》には某私立大学の大運動が行はれ、内の大講堂には某派の尺八大演奏会が催されて居た。其間に在りて三階の中講堂に於て我等の聖書研究会が静粛に開かれたのである。妨害と云へば妨害であるが、民衆と共に此公園と公館とを使用すると思へば却て気持好くある。パウロもコリントやエペソに於て斯かる周囲の内に福音を説いたのである。民衆的のキリストの福音が民衆雑沓の間に説かるゝは決して不相応の事ではない。「ヱホバは其聖殿に在まし給ふ、世界の人其前に静かにすべし」と云ふは真理であるが、「大なる哉エペソ人のアルテミスよ」と群衆が叫ぶ中にキリストの福音が説かれたのも事実である。其事を思ふて今日の聖書講演は自分に取りては特に興味が多かつた 〇世には自分を大なる勢力家と見て、自分を斃して日本第一にならんと欲する者があると聞いて驚いた。自分は決して勢力家でない。自分の在る事を知らない者が此淀橋町にさへ沢山に居る。東京の大店や銘行に行いて、其店員で自分を知つて居る者に滅多に出会はない。自分の機関雑誌は、和文の者が四千三百部、英文の者が七百部売れる丈けである。そんな者が大勢力家でありやう筈がない。故に自分の如き者を斃した所で日本第一に成れる筈なく、縦し亦人が自分を凌いだ所で自分は何の痛痒を感じない。自分は日本第五か第六か、或は更らに末席を以て満足する者である。自分は広告しない、人の自分の所に来るを促さない。又若し自分が立つ能は(246)ざるに至らば、神が自分に隠退を命じ給ふと信じて喜んで隠退する。自分に「地位に噛り附く」慾もなければ必要もない。若し東京を逐はるゝならば仕事を畳んで北海道に行き、孫女と共に余生を送る。何百人何千人と云ふ人を相手にして暮らすは自分の性質に合はない。自分を斃さんとするは、する人の勝手であるが、斃しても別に益もなかるべく、亦斃した所で大なる手柄でもあるまい。最早六十七歳の老人である。「吹かねど花は散るものを」である。そして亦、神が自分を要し給ふ間は宇宙が総掛りに成りても自分を斃す事は出来ない。今日まで幾回か斃されんとしたが斃されずして今日に至つた。今日まで自分を護つて下されし神は、終りまで護つて下さるであらう。斃さんとする者は斃して見るが可い。自分は弁護もしなければ、勿論抵抗もしない。唯終りまで静かに神が自分に命じ給ふと信ずる事を為す。基督教の教師の内に、人を「打つたゝく」とか、「打《ぶ》つちめる」とか云ふ言葉の用いらるゝを聞いて不思議に堪へない。
十月二十四月(月)晴 山茶花咲き初め、冷気加はり本当の秋に成つた。美くしい夕陽《ひのいり》を眺めながらロバートソン・スミスの『イスラエルの預言者』を読んだ。然し|何よりも善き事は何をも為さずして神の恩恵を黙想する事である〔付○圏点〕。仕事ではない、信仰である。仕事是れ信仰なりと思はるゝ今の世に在りて、仕事に追はれて信ずる機会尠きを悲む。我等をして此悲むべき状態に伴来《つれきた》りし者は主として米国人である。米国人は仕事を知つて信仰を識らない。米国人には働かざれば信仰はない。米国人は信仰的生活の根柢を壊つ者である。
十月二十五日(火)晴 茲に騒がしき一ケ月を終る。春と秋とは人の浮かれる時期である。随つて心に落附きがない。凡ての人が活動せんとする。深く考へて厚く信ぜんとしない。詩百二十篇の言が思ひ出さる。
禍ひなる哉我はメセクと偕に宿り
(247) ケダルの幕屋の|かたはら〔付ごま圏点〕に住めり
我が霊魂《たましい》は平安を憎む者と偕に住めり
我は事々《こと/”\》に平安を求む
然れど我れ語《ものゆ》ふ時に彼等は争闘《あらそひ》を叫ぶ。
運動、活動、キヤムペーン(政治宗教の拡張運動)……実に騒々しき事である。斯かる族《やから》を称してメセク族、ケダル族と云ふのであらう。太鼓にラツパ、ビラ撒き、電車広告……真理は此くして宣伝すべきであらう乎。
語らず言はず其声聴えざるに
其響は全地に普く
其|言《ことば》は地の極《はて》にまで及ぶ
と云ふのが真の伝道法であるに相違ない(詩十九篇三、四節)。
十月二十六日(水)晴 久振りにて約翰黙示録を読み、其第一章の意味が能く解つて嬉しかつた。聖書は実験の書であるが故に、其意味は生涯の終りに近づいて益々明白になる。まことに有難い事である。その他に或る病める兄弟を見舞ひ、彼れ及び彼の家族と苦痛《くるしみ》を頒つた。又事業に難《なや》む或る兄弟の困苦を聞いて、同情の涙を注いだ。又婚約成立を喜ぶ或る少女の訪問を受けて彼女に祝賀の握手を与へた。「悲む者と共に悲み、喜ぶ者と共に喜ぶ」である。詩人ゲーテ曰く「此悲みと此喜びとは何の為ぞや」と。奇妙なる人生である。
十月二十七日(木)半晴 札幌を去つて満一ケ月である。其疲労が未だ全く取去られない。家族は毎日孫女の(248)噂さで持切りである。両雑誌の編輯を終つた。大なる興味を以て黙示録第二章と総論とを読んだ。羅馬帝国に於ける基督教勝利の預言と見て此書に興味津々として尽きざる者がある。
十月二十八日(金)曇 黙示録三、四、五章を読んだ。実に雄大なる章である。其意味は大抵解つたと思ふ。何時か神の許し給ふ時に之を講じたいものである 〇「内村さんは聖書には明《あかる》からう、然し世間の事には暗らい」と言ひて、長の間自分の言に耳に傾けざりし者が、終に此世の事業に失敗して援助を乞ひに来る者が殆んど毎日の如くにある。彼等は信仰は此世の事業には何の関係もなき事と思ふ。彼等は「事業は事業なり」と云ひて事業に従事する時には全然世間並の道を採る。そして失敗する時には、時既に遅しである。長の間馬鹿にせられながら、後に援助の任に当らしめらるゝ自分の不幸を歎かざるを得ない 〇以上の不愉快に引替へ、愉快なるは札幌通信である。小なる正子曰く「ヂーヂー、ハー、シヤ、ポツポ、イナイ」と、之を釈けば「お祖父さんが禿頭の音吉と共に汽車に乗つて東京に帰つて今はゐない」と云ふ事である。ヂーヂ一之に答へて曰く「ヂーヂー、マーマー、イナイ、マイニチ、エンエン」と。毎日淋しくして泣いて居るとの意である。小児言語は簡短にして意味深遠である。
十月二十九日(土)曇 黙示録第四章を読み、天に在りて福音の勝利の確証せらるゝを今更らながらに知らしめられ、大なる慰め又力であつた。如何に見ても黙示録は世と闘ふ信者を慰むるに絶大の能ある書である 〇世は益々逼迫する。失業者の多きに驚く、又破産者も続々とある。病人は驚く計りに多く、世相は晩秋の景色よりも悽愴である。然し乍ら主を信じて聖霊を賜はりし者は此裡にありて顔色輝き、希望衷に溢るを見る。人の真の幸福は其健康又は所有《もちもの》に依るに非ず、其信仰に因るを見る。今日或る不幸なる若妻が其子を伴《つ》れて訪れしを見て、(249)此感を深くせしめられた。
十月三十日(日)曇 小雨あり。此日横浜にては大観艦式行はれ、神宮外苑にては相撲、野球、庭球其他の遊戯が行はれて雑沓を極めた。其内にありて我が聖書研究会は青年館大講堂に於て静粛に開かれ、塚本は羅馬書十一章に由り「イスラエルの不信」に就き、自分はイザヤ第一章大意を「ヱホバの大訴訟」と題して講じた。来会者前回同様六百人余あつた。内に傍聴者が四十一人あり、其内教会に関係ある者が十八人、メソヂスト教会が二人、バプチスト教会が三人、日本聖公会が三人、日本基督教会が四人、組合教会が同四人、ホリネス教会が二人あつた。孰れも規定の傍聴料を寄附し、静粛に聞いて呉れた。外に新たに入会者が二十六人あつて、是れで外苑出張以来新入会者が百二十六人である。所謂「立派」の人達にして、柏木に来る事を憚りし者が尠からず入会したらしく、喜んで可いか、悲しんで可いか解らない。孰れにしろ今日の所、研究会は所謂「盛ん」である。是れが東京の「名物」の一と成らざらんことを祈る。真の福音が広くなくして深く伝へられん事を祈る。救霊事業としてのみならず愛国的行為として祝福されんことを祈る。
十月三十一日(月)晴 秋晴れの好天気であつた。休みながら働いた。多くの敵に此「日々の生涯」が読まれるのであると思ふとペンが渋る。日本のやうな国に於ては絶対的沈黙が最も安全である。然し沈黙は敵を作らないが、味方をも作らない。我が赤心を曝《さら》せば之に応ずる者も少しはある。誰か何所かで貧しい孤独の一人を慰むるを得ば、百人千人の敵を作るも可なりとの決心を有たざれば、自己を世のさらし物となす事は出来ない。時には思ふ、どうせ憎まれ序である、沢山に憎まれて少しなりと愛されやうと。然り愛せられずとも可い、書かざるを得ざれば書くのである。
(250) 十一月一日(火)晴 黙示録七章一-八節を研究した。忙しい日であつた。地代評価の為の近隣借地人の会合を我家に開いた。借地人同盟して地主に当つたのは自分の生涯に於て初めての経験である。決して気持の好いものでない。バビロンに行いた、円タク自動車の運転士に見す々々騙されて不当の料金を取られて不愉快千万であつた。或人の家政困難の場合に臨むべく余儀なくせられ、その如何に恐ろしきものなる乎を示されて感慨無量であつた。地獄は来世を待つまでもなく、既に此世に在る事を見せしめられた。家に帰りて其反対に信仰の歓喜に溢るゝ或る高貴の婦人の訪問を受け、神は我国の上流社会に於ても信仰の善き証明者を有し給ふ事を示されて非常に心強く感じた。信仰の在る所には歓喜と希望とあり、無き所には悲痛と失望とある事を殆んど同時に示されて今更らながらに信仰の貴さを覚えた。夜は無邪気なる或る女学者の訪問を受け、笑談に一日の苦痛を忘れた。彼女曰く「内村先生は最も|怖くない〔付△圏点〕大なる赤ん坊である」と。斯う見抜かれては先生顔色なしである。
十一月二日(水)晴 好晴の一日であつた。英文雑誌の短き社説を書いた。百科全署にスピノーザ伝と万有神教の一項を読んだ。無生産的の一日であつた。唯心ゆく計りに山茶花咲く麗はしの秋の日を楽んだ 〇人は全体に基督を信ずれば立身も出来ず金も溜らずと云ふが、基督を信ぜずして、或は彼を離れて、落ぶれ又破産した者の実例は沢山に在る。信仰は霊魂を救ふ而已ならず身を守り産を保つ。信仰と幸福とは決して関係の無き事でない。自分の如き、今日の平安あるは全く信仰のお影であると云はざるを得ない。
十一月三日(木)晴 第一回の明治節であつた。主婦と共に小田原急行電車を試乗した。三谷文子が我等の娘の代理を務めて呉れた。多摩川、相模川、酒匂川の三流を横断するのであつて其沿岸の秋色に掬すべき者があつ(251)た。新宿より二時間にて小田原に達し、それより箱根湯本に至り、入浴し、昼食し、玉簾《たまだれ》の滝、早雲寺を見物し、黄昏頃同一の電車に入り八時相木に帰つた。滅多に試みざる清遊であつた。終日ペンを執らず、俗事に|たづさはらず〔付ごま圏点〕、それ丈けでもまことに有益なる一日であつた。
十一月四日(金)雨 雑誌の校正が主なる仕事であつた。財界の不景気の結果を我が身辺に於ても見る。聖書研究社までが其影響を受けて収入減少の故に困難する。知人中、事業の衰退に悩む者多くして同情に堪えない。然し大体に於て信仰に堅く立つ者は失敗を免かれ、縦し亦困迫するも能く之に堪えて行く。百人は汝の右に仆れ、千人は左に斃る、然れども災害汝の身に及ばざるべしである。然り、縦し産を失ふことあるも霊魂を喪はない。其事が最大の幸福である。
十一月五日(土)雨 教会者が我等無教会者を罵る言なりと云ふを聞くに「彼等無数会者は何を為して居る乎、何も為さないではない乎」と。実に恐縮の至りである。我等は会堂を建ず、学校を起さず、社会事業に従事しない。故に何も為さないと云はれても申訳が無い。然し「為す事」が信者たるの必要条件であると思はない。イエスは教へて曰ひ給うた、「神の遣はしゝ者を信ずる事、是れ即ち其(神が要求し給ふ)業《わざ》なり」と(ヨハネ伝六章二九節)。我等は何を為さなくとも神の遣はしゝ者即ちキリストを信じて居る積りである。そして神は其信を我等の事業として受けて下さることを固く信じて疑はない。そして又、我等が彼を信ずる以上は、我等は全然無為無能でない。自分の如き、他人に劣らず随分毎日多忙である。三十年間継続して聖書を国人に教へた。著書の厚さは自分の身長《せい》程ある。説教演説は二千回も為したであらう。其他、同胞の為に毎日使はれる。「何をも為して居らぬ」とは如何しても思へない。唯事業の種類が異ふ丈けである。自分は金を募る事が大嫌ひであるから、金の(252)要る事は為し得ない。殊に外国宣教師に金銭の補助を仰ぐ事は死んでも能《でき》ない。何十万円価ひする会堂は有たぬが、小なる講堂は日曜日毎に聴衆を以つて溢れる。然し我等無教会者は之を事業と称はない。我等の事業は事業に非ずして信仰である。故に「何も為さない」と云はれても苦しくない。
十一月六日(日)晴 好晴の秋日和であつた。外苑大講堂に差支あり、集会は柏木に於て、常例に循ひ、午前午後の二回に分ちて開いた。午前は二百四十人。午後は百九十人の来会者があつた。午前は「信仰の始終」と題し、コリント後書五章十八節以下を、午後は「信仰と失敗」と題しヤコブ書一章十二-十八節を講じた。一ケ月振りにて懐かしき柏木の聖書講堂に帰り来り、旧き会員の安否を問ひ、温かき楽しき会合であつた。
十一月七日(月)半晴 休息の月曜日に非ずして其反対に校正のそれであつた。北海道行きの祟りが未だ抜けず、仕事が跡へ跡へと後れて行く。仕事に逐はるゝ程厭な事はない。今日の如き責任の鞭に打たれながら一日を終つたやうなものである。
十一月八日(火)曇 多忙の日であつた。漸くにして両雑誌の校正を終つた、例月より四日遅れて居る。其他此世の小事に引廻はされる。彼等は老伝道師を自己の為に使ふに少しも遠慮しない。彼に伝道せしめんとせず、自己の利益又は便宜の為に彼を使はんとする。気の毒なる人達である。何故に天下の為め、人類の為、万物の造主なる神の為を思はないのである乎。自分の目に映ずる日本国は依然として小人国である。不愉快千万である。
十一月九日(水)晴 静かなる休息の一日であつた。訪問者は三人あつて、其一人は花嫁に成らんとする婦人(253)であり、他の一人は花婿に成らんとする男子であつた。十一月は結婚で賑ふ。自分は初代基督教信者の迫害者羅馬皇帝ネーロの伝記を読んだ。興味多き研究であつた。彼を知る事は新約聖書、殊に約翰黙示録を解する上に於て必要である 〇前独逸皇帝ヴイルヘルムは言ふ、今より十年以内に第二の世界戦争は闘かはるべしと。英国自由党総理ロイド・ジヨージは言ふ、聯合国が今日有する常備軍は大戦前世界各国の有せる常備軍を合せたる者よりも多くして総計一千万人に達すと。米国海軍大臣ウイルバースは言ふ、人が神に成るまでは戦争は止まずと。斯くて大戦最中に「此戦争は戦争を廃する為の戦争なり」との基督教界の主戦牧師達が唱へし言は全然裏切られたのである。
十一月十日(木)晴 一ツ橋如水館に於て催うされし青木家(庄蔵君)の結婚披露会に招かれて出席した。相変らず花嫁花婿の前に着席させられ、演説而かも最後の演説を為させられた。幸福なる家庭を作る途は至つて簡短である。第一に主イエスキリストを主人公として家に迎ふる事、第二に絶対的禁酒を実行する事であると述べた。祝詞としては激烈に過ぐると思ふ人達も大分あつたらしくある、然し自分として今夜此事を高調せずば居られなかつた。来客は紳士淑女二百名以上あつた。
十一月十一日(金)晴 両雑誌の発送を終つた。昨夜の卓上説教で疲れたと云ふては申訳ないが、それは事実であつた。滅多にあんな社会へ出た事が無く、又之に対して語つた事がないから疲れるのも無理はない。自分の立場から見れば交際社会程変なものはない。之に入つて魚が陸に上つたやうに感ずる。交際家の立場より見れば自分の如きは更に変んなものであらう。
(254) 十一月十二日(土)晴 内村祐之第三十一回の誕生日である。赤飯を炊き、遥に彼の為に祝し且祈つた。何十年振りで孝経を読んだ。依然として偉大なる書である。殊に近代人は之を精読熟読するの必要がある。其内に深い真理がある。夫孝徳之本也とは今日と雖も動かすべからざる真理である。今より六十年前、我が父の口より学んだ所である。
十一月十三日(日)晴 山茶花満開、風無く、雲なく、絶好の秋日和であつた。集会を外苑大講堂に催うした。男四百、女三百、総計七百と云ふ集会であつた(玄関番の報告に由る)。傍聴は三十七人、其内十一人が教会員であつた。自分はイザヤ書一章二-九節に依り、「罪の本源」と題して講じた。罪の本源は神に対する不孝であると言うた。基督教に忠孝なしなど言ふ者は聖書を覗いた事の無い者の言ふ事である。イザヤ書は不孝を責むる言を以つて始まる。そして神に対して孝ならずして親に対して孝なる能はず。孝道の基礎は之を聖書に於て見る。
十一月十四日(月)晴 自分に取ては休日である。他人に取りては休日明けの忙がしい日である。故に彼等は遠慮なく訪問する。そして彼等の持来る主なる問題は相変らず金銭問題と結婚問題である。但し左近義弼君がキリスト神性問題を持つて訪問して呉れたのは有難かつた 〇昨日一人の少女に其母立会の上、バプテスマを授けてやつた。彼女の礼状は左の如し。
先生、今日は私一人の為に態々バプテスマの式をお挙げ下さいまして誠に有難う厶いました。「人の前にて我を否む者を我も亦天に在す我父の前にて否まん」と云ふ聖語、又「此式は神様自らが司つて下さるのであつて、天の使達も一ぱいに此所にゐて下さる」とおつしやひました事等忘れられません。神様に忠実なる婢として私の一生涯を捧げて参ります。‥‥‥|教会員になる為でない洗礼を受けさせて戴いた事がほんとうに(255)うれしく御座います〔付○圏点〕。
十一月十五日(火)小雨 或事よりして基督教界の実際を覗ふの機会を与へられ、其意外なるを見て驚き且つ痛歎した。是れでは聖霊が降らずして教会が衰微するのは無理でないと思うた 〇ラヂオに筑前琵琶「太田道灌」を聞いた。
孤鞍雨を衝いて茅茨を叩く、少女ために贈る花一枝。少女言はず花語らず、英雄の心緒乱れて糸の如し。
実に美くしかつた。近代人の都なる東洋のバビロンに比べて、古い昔しの江戸城が偲ばれた。
十一月十六日(水)雨 黙示録十七章より二十草までを読んだ。其意味は能く解らないとしても、其偉大さを感ぜずには居られない。大なるバビロンが審判かるゝ状は荘厳譬ふるに物なしである。聖書の意味は何の註解にも依らず、本文其儘を精読する時に最も善く解る。
十一月十七日(木)曇 引続きお弟子さん達の結婚問題に悩まさる。永久の悩みと称すべきであらう。
十一月十八日(金)晴 毎日ラヂオに桃川如燕の義士伝を聞きつゝある。まことに菩き説教である。大抵の牧師の説教よりも遥かに有益又有力である。宣教師教会の会員たらずとも日本武士の一人たらんと欲する心が湧来る。自分は日本に武士ありし事、又少数なりとも今猶ほみる事を神に感謝する。
十一月十九日(土)曇 米国より近頃日本に来りし若き宜教師某君の訪問を受けた。彼地の或る有名なる博士(256)が、日本に於て伝道を開始する前に先づ内村を訪れて其指導を仰げと同君に勧めたとの事であつた。斯かる博士が米国に在ると聞いて自分は甚だ不思議に思うた。米国はさすがに大国である、自分の米国嫌ひなど眼中に置かない人がある。然し以上の若い宣教師も今より十年間日本に居るならば所謂「宣教師」と成りて自分の如き者に指導を乞ふが如き事は一切為さないであらう。宜教師の善いのは初めの二三年である。一夏軽井沢に居れば大抵は「宣教師化」せられて、日本人を疑ひ、賤しめ、再び前の外国人となるが常である。然し其事は別として、今日はキリストに於ける兄弟の愛を以つて、此遠来の客人を迎へた。
十一月二十日(日)晴 外苑大講堂に於ける集会は更に聴衆を増し、七百人を数十人越えたとの報告があつた。傍聴は五十八人、盛会と称すべき者であつた。但し自分の講演は甚だ振はなかつた。前週は余りに多く俗事に携はしめられ、それが祟つたのであると思ふ。イザヤ書一章十-十七節を「偽はりの宗教」と題して、其大意を述べんとした。俗事を以つて自分を煩はしゝ人達の罪や大なりである。幸に塚本がロマ書十一章の一部を「パウロの教会観」と題し講じて呉れしが故に大に助かつた。何れにしろ明治神宮外苑の日曜日の朝が我が聖書研究会の為に賑ふは愉快である。
十一月二十一日(月)曇 完全の休養日であつた。来客一人もなく、随つて俗事に触れず、心平静にして原稿が大に書けた。幸福なる一日であつた。
十一月二十二日(火)半晴 組合教会所属米国女宣教師パーメリー老嬢より、自分の英文雑誌社説に対し厳しい詰責の書面が達した。宣教師の見た自分は斯んな悪人である乎と思ふて大に考へさせられた。米国人は婦人でも(257)人を詰《なじ》るに遠慮はない。日本人の眼には赦すべからぎる傲慢無礼と見える事でも彼等は勝手に言ふ。彼等と喧嘩して不愉快千万である。然し神様が味方に立つて下さつて事実を以て自分の言を弁明して下さるから有難い。宣教師を敵に持つ事は覚悟の前である。時々斯んな手紙が舞込んで日常の沈静を破つて呉れるから有難い。
十一月二十三日(水)晴 コリント後書五章一節二節の研究を以つて此日を始めた、誠に福ひなる日であつた。又少しくヘーゲル哲学を覗き、相変らず大なる刺激を受けた。思想を奮起せしむる者にして此哲学の如きはない。之に励まされて此日沢山にペンが動いた、詩が出た、歌が湧いた。偉大なる尊敬すべきヘーゲル先生かなと言はざるを得なかつた。
十一月二十四日(木)晴 コリント後書五章三、四節とヘーゲル哲学の一頁とが我が今日の霊魂の糧であつた。今井館聖書講堂は改築中で邸内は大混雑である。外苑大講堂に不便の点多く、再び柏木へ退却の計画中である。静粛なる研究はやはり小講堂に限る。大講堂に大集会を開いて教派樹立に従事してゐるやうに思はるゝは心外千万である。「汝の廬《いほり》を谷に設けよ」である。公衆の為を思ふ時に世の職業的政治家や宗教家の注視に上る、此んな厭な事はない。斯く書きつゝある間に、大工はコンコンと、ブリキ屋はカンカンと聖書講堂の改築を急ぎつゝある。
十一月二十五日(金)晴 コリント後書五章五-八節を研究した。偉大なる言である。「我等の最も欲《ねが》ふ所は身を離れて主と偕に居らん事也」とパウロは曰ふ。即ち「死んだ方が善い」との事である。パウロの宗教は明かに来世的であつた。故に深くして広くあつた。今の基督信者は然らず、彼等の宗教は明かに現世的である。教会(258)同盟、平和運動、ヱルサレム会議、何れも現世運動である。此の小なる世界を己が勢力範囲に入れんとするのである。洵に小さい、詰らない欲望である。来世問題である。人間の領域を現世以外に拡張するにあらざれば、人間らしい人間の出現を見ることは出来ない。此世の事は実はどうでも可い問題である。「兎にも角にも死たる者の甦りに達せんことを」とはパウロ最大の志願であつた。我等は今日パウロ式のクリスチヤンたり、米国宣教師式の低い賤しい教会信者たるべからずである。彼等に何んと非難されても!
十一月二十六日(土)晴 コリント後書五章十節の研究を以て此日を始めた。
そは我等皆キリストの台前に現はれて、善にもあれ、悪にもあれ、各自身に在りて為したる所に循ひ報いらるべければ也。
茲に未来の裁判のある事が明かに示されてある。身に在りて為したる事は悉く報いらると云ふ。洵に有難い事である。認められざる小なる親切も其時には報いらる。其時堪え難き失望は悉く癒さる。悪い事の為に罰せられる計りでない、善い事の為に賞めらる。キリストに鞫かれるのであつて、此んな有難い事はない 〇興業銀行総裁小野英二郎君の永眠を聞いて悲んだ。今より四十二年前、明治十七年十一月、君と同船同室して太平洋を渡り、君はオベルリン大学に、自分は費府に行いた。当時紅顔の青年が後に我国財界の柱石と成つたのである。天職を異にせるが故に、其後深い交際はなかつた。然し相互に対し好意を懐いて今日に至つた、同君の二女米子さんは内村聖書研究会の熱心なる会員である。
十一月二十七日(日)晴 麗はしの安息日であつた。大講堂の集会に七百人以上の来会者があつた。其内七十(259)七人が傍聴者であつて、何れも規則通りの傍聴料を払ふて聴いて呉れた人達であつた。教会員も多数あつた。聖公会の会員の多い事は著しい事実である。自分はイザヤ書一章十八、十九節を講じた。罪の消滅の福音を語る事であつて実に愉快であつた。審判と正義とを語らねばならぬ場合があつて、之を廃する事は出来ない、然し是れ実に辛らい役目である。自分も厭なれば人にも厭がられる。然し此んな嬉しい事はない。今日は其嬉しい事を為して実に嬉しかつた。教会の人達が自分に就いて言ふ様に、自分の教会や宗派を立つる為に説教する積りでない。此んな嬉しい福音があるが故に、之を人に伝へたくなり、それが為に説教するのである。いくら宣教師に嫌はれても此福音を述ぶる事を廃める事は出来ない。「我若し福音を述べ得ずば禍ひなる哉」である。
十一月二十八日(月)半晴 姪を伴れてバビロンに行いた。丸善にて哲学書を四冊買ふて帰つた。市中に出るは生命がけの仕事である。
十一月二十九日(火)雨 来客の多い日であつた。多くの不愉快なる問題がある。米国宣教師某婦人と詰問の端書を取交はして居る。日本人より常に「然り、然り」との返答を受けて其一生を送りし彼女をして、今日茲に日本人に対するに礼儀を以てするの途を知らしむるは至難の業である。彼等米国人は今年全部支那より退却せざるを得ざるに至りし深き理由を考へない。米国人は東洋人の礼儀を解し得ない。殊に米国婦人の無礼と来たら特別である。支那人は彼等に去つて貰つて善い事を為したと思ふ、日本人も何故此事に就て支那人に学ばないの乎。
十一月三十日(水)曇 新聞紙は松方公爵家の没落を伝へて言ふ「松方公きのふ辞爵を申し出づ、米塩の資も擲つの決心、松方一門悉く丸裸」と。実に夢のやうである。聖母マリヤの讃美歌に
(260) 権柄《いきほひ》ある者を位より下し、富める者を徒《むな》しく返らせ給ふ(ルカ伝一章五二五節)
とあるは実に其通りである。今や自分の方が松方公以上の富者であるとは如何なる滑稽ぞ。
十二月一日(木)半晴 忙がしい校正日であつた。
十二月二日(金)半晴 コリント後書一章十三-十五節の研究を以つて此日を始めた。各節パウロの心中を披瀝して余りがある。同情の涙を禁じ得なかつた。
十二月三日(土)晴 西野入徳君十一月七日英市ロンドン発の通信に曰く
私はロンドンに参りましてから早や数週間になります、随分種々の事を感じさせられます、英人に Anglo-Saxon Superiority の心の強い事、大学の優等生は宗教界に向はず、科学、実業に向ふ事、そして之等有為の青年が漸次教会宗教から遠かりつゝある事、等がより明かに見えます。彼等はモット/\充実した生きた宗教を求めて居ます。
其本国の英国や米国に於て棄てられつゝある教会宗教が日本に於て採用されやう筈がない。何にも我等日本の無教会信者が教会を壊すのでない、時勢が既に教会を置去りにしたのである。我等は教会の外に出て「時」と共に歩みつゝあるのである。
十二月四日(日)晴 外苑大講堂に於ける集会は相変らず盛会であつた。男四百人女三百人と云ふのであつたらう。傍聴は五十二人あつた。塚本は馬太伝十六章一六-一八章節に由り教会問題を論じた。実に痛快であつた。(261)自分は序に米国宣教師の此問題に関し自分に表せし反対を紹介した。
十二月五日(月)晴 記すべき事を秘す。
十二月六日(火)晴 両雑誌の校正を終つた。
十二月七日(水)晴 札幌の孫へ長い手紙を書いた。後でグスタフ・クレーゲル Gustav Krueger のインガーソル講演を読んだ。霊魂不滅諭を哲学史的に述べた者である、教へらるゝ所が多かつた。哲学の目的は人の霊魂を教会の束縛より釈放つに在りとの意見に全然同意せざるを得ない。教会を最善の物と思ふ位ゐ間違つた考へはない。其点に於てブルノー、シヤフツベリー侯と全然同意である。哲学は教会の敵である。
十二月八日(木)曇 休息の一日であつた。コリント後書六章四-十節の研究を始めた。パウロは自己に臨みし患難の数々を述立つる時に熱しておのづから歌を作る。此箇所がそれである。荘美である。彼の偉大さは斯かる所に判明る。此「患難の歌」を作り得し人は此世の人ではなかつた。愛すぺき尊きパウロよ。
十二月九日(金)雨 無為の一日であつた。
十二月十日(土)曇 米国に於て外国伝道廃止論が識者の間に唱へらるゝと聞いて尤もなる事と思うた。
(262) 十二月十一日(日)晴 麗はしの初冬の聖日であつた。外苑の大講堂に七百六十名程の聴衆があつた。自分は「平和実現の夢」と題してイザヤ書一章一-四節に合せてミカ書四章の初めの四節を講じた。題目が美はしい丈けに充分の気乗りがして楽しかつた。此日声楽家黒沢貞子嬢が近藤沖子嬢のピヤノに合せて讃美歌第三百十七番と第四百四十四番を独唱して呉れた。実に美くしかつた。我等の生涯に悪い事も無いではないが善い事の方が遥かに多い。今日の聖日の如きが夫れである。斯かる大勢の兄弟姉妹に我が講演を静聴せられて、全世界が我が味方であるのではない乎と思うた。
十二月十二日(月)晴 網島佳吉君の友誼的訪問を受けて楽しかつた。旧知相会する時に有教会も無教会もない、唯ひとへに主の聖名の揚らん事を願ふ。
十二月十三日(火)晴 記すべき事なし。
十二月十四日(水)半晴 両雑誌の発送済み、来月号の編輯始まらず、一日の閑を得て休んだ。
十二月十五日(木)半晴 横浜聖書研究会の自分、塚本、畔上を主賓とする晩餐会に臨み其懇切なる饗応に与つた。
十二月十六日(金)半晴 大東文化学院講師某氏が基督信者なる自分が果して愛国者なる乎を究めん為に『聖書之研究』を二十年間毎号読んで呉れたと聞いて涙が出た。さすがは我国の志士である。斯んな人は米国などに(263)は薬にしたくも無い。
十二月十七日(土)晴 聖書に親しみ、楽しき一日を送つた。
十二月十八日(日)雨 外苑大講堂に於ける最後の講演会であつた。雪まじりの雨天にも拘はらず七百人計りの聴衆があつた。前回に引続きイザヤ書二章二-四節に加へ同十一章一-七節に就き「平和実現の途」と題して講じた。之で市内出演を終り再び柏木に帰る事にした。
十二月十九日(月)曇 寒い厭な日であつた。
十二月二十日(火)晴 寒気強し。忙がしい日であつた。何時に成つたならば休めるだらうと自分に問へば、「墓に入つてから」と答へる。生きてゐる間は休めない。唯小事に遂はれて世界の大思想を窺ふの機会尠きを悲む。
十二月二十一日(水)晴 編輯に全日を費した。是れで先づ今年書くべき物を書き終つた。又来年である。死ぬまで健康の続く限り書くのであらう。
十二月二十二日(木) 疲れて何も出来ず、火に倚りて休んだ。斯かる時に旧き善き信仰に立帰る。生ける救主を仰瞻て人のすべて思ふ所に過ぐる平安を享楽する。
(264) 十二月二十三日(金)雨 柏木聖書講堂の改築が漸く出来上つた。随分の骨折りであつた。二千円程かゝつた、然し会費の剰余金を以つて之を償ふ事が出来て、会員には少しも出費を掛けずして感謝であつた 〇夕の六時より外苑青年館食堂に於て柏木青年会のクリスマス晩餐会が催うされた。会する者老若男女合せて八十九人であつた。自分の感想としては「常に若くある秘訣」を述べた。其一は常に沢山に笑ふ事、其二には常に強い敵を持つ事であると云うた。後で悪い事を青年達に教へたと思うた。能くユーモアを解せざる人達にユーモアを語るは危険である。然し事実は事実であつて、時には之を匿す事が出来ない。
十二月二十四日(土)晴 クリスマスイーブである。全世界に散在する友人の為に祈つた。老境に入りてクリスマスの愉楽を忘る、然し生れしキリストに非ずして生けるキリストを思ふて心は熱する。曾つて在り給ひし彼でない、今生きて働き給ふ彼である。彼が我が喜び我が望みである。聖書講堂の改築が今日全く竣《をは》り、大なる感謝である。之が我が今年の神よりのクリスマスプレゼントである。外苑大講堂以上の贈物である。
十二月二十五日(日)晴 諒闇明けの今年最後の聖日であつた。柏木聖書講堂に於て午前と午後と二組に分ちて集会を開いた。合せて四百人余りの会衆があつた。ホーム気分がして却て幸福であつた 〇北海道の或る老姉妹よりの通信に曰く「今クリスマス祝日に恩師に感謝の意を表し神を讃美する為に町内歳暮救済に洩れたる哀れなる婦人に聊か米五升又老媼に古着一枚を内村先生の御名に依りて贈与いたします」と。有難い贈物である。
(265) 十二月二十六日(月)晴 諒闇明けのクリスマス祭日である。日本も遂々《とう/\》「基督教国」に成つて了つて今日東京全市がクリスマスを祝しつゝある。伝道も何もあつたものでない、お祭りが日本を基督教化しつゝある。如此くにして欧米諸国も基督教化されたのであらう。「基督教のお祭り化」である、預言者や使徒達が聞いたら泣き且怒るであらう。今より遠からずして、日本に於ても西洋諸国に於けるが如くに、無神論を唱へ、基督教に叛くが真理に最も忠実なる途となるであらう。Paganization of Christianity 基督教の偶像教化、此んな歎ずべき事 はない。そして之を許すのみならず却て得意とする教会は真の基督教の大敵である。
十二月二十七日(火)晴 書籍一頁も読むことの出来ない多忙であつた。日曜学校生徒のクリスマスがあつた。罪の無い歓楽のつどひであつた 〇自分等の聖書研究を無教会主義宣伝の為の運動と見る宣教師並に牧師の多いに驚く。彼等は宗派心を離れたる純真理の研究は有り得なき事と思ふてゐるやうである。縦し宗派心の絶対的に無い人は無いとして、其方面をのみ高調して他の方面を掩ふて了ふは決して愛の道でない。自分等が斯く言ひたとて彼等が其主張を改めないのは確かである。自分等は神に自分等の心を鑑《み》ていたゞく事と、未来をして自分等を審判かしむるより他に途がない。
十二月二十八日(水)晴 斯う云ふ事を思はしめらる、羅馬天主教はどんな教であつても時に実行の教である事は確かである。之に反して所謂プロテスタント教は特に言葉の教である。天主教は隠れて善を為すに対して、プロテスタント教は宣伝攻撃至らざるなしである。言葉、言葉、言葉、それがプロテスタント教である。如斯くにして天主教も厭なればプロテスタント教も厭である。我が理想は両者の長所を取つたものである。即ち|プロテスタント教の信仰を天主教的に静かに行ふものである〔ゴシック〕 〇聖書之研究誌一月号の校正を終つた。多忙の期節とて随(266)分の努力であつた。ヂンスモア著『ダンテ伝』を覗く事が出来た。ダンテの欠点の一節を読んで大に慰められた。彼にも此欠点があつた乎と思ふて大に安心した。彼が今日生きてゐたならば彼はどんなに社会や教会に攻撃せられたであらう。彼は決して聖人でなかつた、故に貴いのである。彼を「詩聖」と呼んで完全なる聖人なりと見做すは大なる間違である。大なる自己矛盾は天才の特徴である。Because I am large(我は広且大なればなり)と詩人ホヰツトマンは言うた。
十二月二十九日(木)晴 主婦と共に市内に行きて今年最後の俗事を済ました。是れで自分等のクリスマスが来たのである。午後は満洲の大賀一郎君が近頃授かりし理学博士の証書を見せに来た。大いに君の為に祝した。夜は女史連の訪問があつた。多くの事を談じ腹を抱へて笑つた。甥の岡田八郎は札幌に新家庭を訪問し、孫女に迎へられし様子を細々と書いて来た。それ丈けは羨ましかつた。用事が済んで肩の荷が下りて笑声が自づと揚がる。楽しき歳の暮である。
十二月三十日(金)晴 俗事一先づ片附き、大分にペンが動いた。和文も英文も書けた。聖き仕事を妨げる者は俗事である。是れ微りせば神に頼る人生は天国である。忌むべき憎むべきは俗事である。
十二月三十一日(土)晴 茲に昭和二年一九二七年を送る。文久元年一八六一年に生れてより第六十六回の除夜である。身体も齢の割合に健康である。諸勘定も悉く払ひ得て一銭も負ふ所はない。働かんと欲するアムビシヨンは勃々として湧いて尽きない。知識欲も熾である。今日は少しく地質学の歴史を復習した、只孫女が離れて居るので淋しい。来年は余事を減じて聖書研究を増さうと欲ふ。つい此世の事に携はつて余計な苦みを買ふ。(267)人に釣出される、担がれる、そして負はずとも可い責任を負はせられる。そして怒れば信者らしくないと言はれて責められる。此世の子等は慧くある。彼等に成るべく接せざるが上策である。然しすべてが感謝である。彼等以上に慧き神様が守つて下さる。故に騙されながらも大体に於て成功する。自分の如き者は此奸悪の世に在りて信仰で勝つより他に勝つ途はない。ハレルヤー アーメン。
(269) 一九二八年(昭和三年)六八歳
一月一日(日)晴 元旦の聖日であつた。午前、午後合せて二百五十人程の出席者があつた。自分は両回共に詩第百三十六篇に由り「感謝の心」と題して話した。洵に気持の好い講演会であつた。朝床の内で大声に札幌に居る孫女の名を呼んだものだから、昨日より泊込みの姪第一号が一句をやつた。
元日や先づ正《マー》ちやんと叫ぶ声
と。自分は之に下の句を加へて言うた
あとの奴らは怎〓《どう》にでもなれ
と。それでは余り酷いとの抗議が出たから、之を詠み直して云うた。
それより外に楽しみはなし
と。こんなあん梅に楽しく一日を送つた。
一月二日(月)曇 今年最初の休息の月曜日であつた。遊ぶ代りに原稿を書いた。夕暮頃Kちやんが訪れた。何の為かと訊いて見たら「先生の顔が見たくなつたから」と答へた。彼女は今年は家持に成るのであるから沢山に先生の顔を見て置くが宜いと、少しく講釈を聞かして還へしてやつた。相変らず数百通の年賀状を貰つた。貰つて小言を云ふては悪いが、孰れも平凡で奇抜のものは一通も見当らない。「謹賀新年」より他に書く事が無いとは情けない。昔しは一通か二通か善き詩か歌があつたが、今年は夫れもない。時代の平凡化と称すべきであ(270)らう。
一月三日(火)晴 麗はしの新年第三日である。半日働き半日休んだ。夜は主婦と共に某女史に夕飯に招かれ、十一人の女史を相手に語つた。滅多にない事である。老人にも正月の来た事が判明る。
一月四日(水)晴 漸くにして英文雑誌一月号の原稿を纏めた。之に由て年末が如何に多忙であつた乎が判明る。今日からが本統のお正月である。哲学か、魚類学か、ダンテ研究か。何れにしろ極楽は書斎に在つて、山にも海にもない。所々の教会の高壇より無教会主義の攻撃が轟くと聞く。然し自分自身は教会を助けはするが、之を攻撃は為ない積りである。殊に教会員の自分の集会に来る事は成るべく断つてゐる。無教会主義をして斯く重大問題たらしめし源因は多くは教会其物に在ると言はざるを得ない。若し教会が温かい居心《ゐごゝろ》の善い所であるならば、之に動揺の起りやう筈はない。自分達より進んで教会を毀つたやうな、そんな卑しい事は断じて為さない積りである。
一月五日(木)晴 休み正月である。詩篇十六篇より十八篇までとダンテを少し読んだ丈けで他に何も為さなかつた。無為休息の一日は蓄積の一日であつたと思ふ 〇或る地方の或る教友よりの年始状の内に、かの地方の教会の人達が自分を誹謗する言が記してあつた。
内村氏の福音は是とする。然しその無教会主義は、彼が社会に宗教上の政治的野心を遂げんとするパラドツクスである。或は、教会に対する私怨を公憤に脚色したる主義である。
研究誌は所謂内村宗の宣伝であり、自我の拡張であり、独善主義の礼讃であり、文化的ドンキホーテイズム(271)であり、神秘的来世夢遊患者の記述であつて、彼の博識がこれを粧飾してゐるのだ。
恐ろしい奴で恐ろしい雑誌である。それだから教会の人達に自分の所に来るな、自分の書いた物を読むなと云ふのである。敢て問ふ此批評家はトルストイ、カアライル、ホヰツトマン、カント、シユレーゲル、フイヒテ等の書いた物を読んだであらう乎。若しさうならば此んを批評は為すまいと思ふ。然し此んな事を云うたとて何の役にも立たない。
一月六日(金)晴 教会の人達には嫌はるゝが、彼等の従事してゐる事業に対し相変らず寄附を命ぜらる。そして彼等が喜んで受けて呉れるから有難い。然し之も自我拡張の手段であると云はれては情けない。或は事業の為に「貰つて置いてやる」と云ふの乎も知れない。然しそれでも宜しい。
一月七日(土)半晴 昨夜ラヂオで柳田国男氏の「椿の話」を聞いた。非常に面白かつた。今日は百科字典に由りカメリヤの項を読んだ。カメリヤの名はヒリピン群島に伝道せし天主教宣教師 Camellus より出しと云ふ。茶の樹はカメリヤ・テイフエラであつて椿の一種である。秋の桜なる山茶花は秋の椿である。椿の果はオレブ油に次ぐ優良なる油を生ず。美と実用とを兼ねたる有用植物である。東方亜細亜の産であつて其精華とも称すべき乎。其最も賞讃せらるゝ種類を Camellia japonica(日本椿)と称するは殊に懐かしい。
一月八日(日)晴 両回の集会に三百三十人の来会者があつた。自分はゼカリヤ書十四章廿、廿一節に依り「聖俗差別の撤廃」と題して語つた。新たに齢を加へて更らに死と来世に就て考へた。此事に就ては聖書の語其儘を信ずるより外に途がない。そして夫れが真理であらねばならぬ。自分に取りては現世は既に済んだと同然である。(272)そして今より後に|より〔付ごま圏点〕大なる生涯に入るのである。ダンテの言へるが如くに「|より〔付ごま圏点〕高貴なる戦闘」た入るのである。其準備の為に此一生を送つたと思へば感謝の極みである。
一月九日(月)曇 主婦と共に市内に行いた。借切り自動車を二十哩飛ばした。近頃になき大旅行であつた。為に一日を潰し、有益なる事は何もなさなかつた。漸くにして英文雑誌の校正を終つた。
一月十日(火)曇 雑誌一月号を発送した。平穏なる途は怒らない事である。何人に対しても何時でも馬鹿になつて居れば怒らずして済む。斯くて平穏なる途は至つて容易である。然し怒るは怒らるゝ人の為に利益である。故に時には止むを得ず、己が平穏を犠牲に供して怒るのである。然れども怒らるゝの利益を全く知らざる近代人に対して怒るは矢を太陽に向つて放つが如し、故に為さゞるに如かず。故に「笑つて肥《ふと》れ」の途を取らんと欲する。然しそれでは自分勝手で甚だ済まないやうに感ずる。
一月十一日(水)晴 温かい春の様な日であつた。或る青年が衛生会館に於ける自分のロマ書の講義を聴き、平安に死んだ其実状を彼の姉なる人よりの手紙に由て知り、大に励まされ、力附けられた。自分も亦斯くの如くにして死ぬ事が出来ると思へば限りなき感謝である。若し福音に此力がないならば之を説くの必要はない。国家社会を善く為すための福音でない、天国の希望を与へて人をして平安に死なしむる為の福音である。縦令一人なりとも自分の説きし福音に由りて平安を以つて死に就きしを知りて、自分は無益に一生を送らざりしを知つて有難くつて堪らない。
(273) 一月十二日(木)曇 ルツ子デーである。少し計りの慈善を為して彼女を記念した。再び彼女に会ふ日が段々と近づきつゝある。今日は久し振りにて彼女永眠直後に読みし来世並に永生に関する書物を取出し、之を復読して大に我が信仰を強めた。若し栄光の来世が無いとすれば人生程つまらないものはない。然し有りて之に入るの特権を賦与せられたりとすれば、此世の事はどうでも宜い。ルツ子は実に恵まれたる女であつた。
一月十三日(金)晴 夕七時より中野伊藤一隆氏に於て北海道並に札幌の為にする本年最初の祈祷会が催された。会する者七人、内に大島正健氏と自分と、他に計らずも札幌より宮部金吾君が来られ、茲に期せずして五十年来の信仰の友が祈祷の為に一室に会したのである。我等孰れも七十に達し、又は垂んとする老人であるが、神の前に跪いては孰れも小児である。老博士も老実業家も小児の如くにアバ父よと呼びて祈つた。まことに稀に見る神聖なる光景であつた。我等七十歳に達して益々キリストの聖名に依て為す祈祷に効験のある事を知つた。祈祷終へて後の雑談は全《まる》で五十年前の北海道の雪の内のそれの繰返しであつた。古い旧い北海の荒浪を渡りし航海談であつた。腹の底より湧出る歓声であつた。誰か知るクリスチヤンフレンドシツプの深さと聖さとを。|キリストの前に跪く所に於てのみ本統の友人関係はあるのである〔付○圏点〕。
一月十四日(土)晴 押川方義民永眠の報を聞いて悲んだ。明治初年よりの我国基督教先達者の一人である。才能に余りに長けたるが故に一時伝道を抛《なげう》ちて実業に従事し、代議士に成られしも、世を去る前には再び旧《もと》の信仰に還へられ平安の内に眠られしと聞く。自分との関係は寧ろ浅いものであつた。氏は自分に対ひ「政治的野心は果して無き乎」と屡々押して聞かれた。「無し」と確答せし時に氏は不思議に思はれし様子であつた。今より十四五年も前であつた、氏と親しく会談せし時に(それが最後の会談であつた)、氏は自分に問ふて言はれた「君(274)はまだ行つてゐる乎」と。聖書を説いて居る乎との謂であつた。「然り」と答へし時に、氏は研究誌一年分の講読料を払つて呉れた。それ以来、氏は政治実業に活動し、自分は聖書に閉籠つて来た。何れが幸ひなりし乎主知り給ふ。本多君、植村君、横井君、押川君と交々逝いて跡は寂寞である。然し主は活きてゐ給ふ。我等は恐れなく進むべきである。
一月十五日(日)雪 午後晴る。二回に分ち、四百人余りにイザヤ書二章六-十一節を「繁栄と裁判」と題して語つた。講堂の取締充分ならず、講演はやゝ失敗であつた。引続き傍聴人が妨害の因である。全然彼等を断はる訳にも行かず、今に猶ほ困つてゐる。
一月十六日(月)晴 北米カナダ在住の邦人某君(農夫らしき人)より左の如き書面があつた。
……私は不幸にして貧、子供も多く、夫れに十一月廿八日に右足を折り、今も床に居ますが、神は私の様な者も祝福成し、日々の糧も与へられ、又足の折れたに依て一層神の愛を知り、只日々感謝の内に暮して居ます。今回日人の朋友から少し負傷に対して金を恵まれた故、平常望んで居た書籍二三冊購入し度いと思ふて本日郵便為替で七弗送りました。金の着次第、別紙の書物を送つて被下様御願致します。
農夫が足を折つたのは全財産を失ふに等しくある。其内に在りて書籍を購ふて信仰を養はんとする。神が偕に在し給ふ所に此余裕がある。
一月十七日(火)晴 昨夜札幌の宮部金吾君が我家に泊つて呉れた。五十三年間の友である。共にバプテスマを受けてより茲に満五十年、彼は札幌に在りて独立信仰発祥の地を守り、我は外に出てその宣伝の任に当らせら(275)れた。旧き農学校の同室に在りて共に祈りて始めし信仰が茲に到りしを回顧し、感慨無量、談は談と尽くべくもなかつた。只相互に「実に不思議だつたねー」を幾回も繰返すのみであつた。我等は実際に六ケ敷い仕事を為さしめられたのである 〇此日午後目黒に二十歳の娘吉原ヒロ子を彼女の死の床に見舞うた。彼女の平和なる顔に大なる慰めを得た。彼女と彼女の両親と自分と四人にて簡単なる聖餐を共にし、パンを頒ち葡萄汁を飲み、主の贖ひの恵みを感謝して別れた。我等はキリストの聖国に於て再び此聖き集会を繰返すであらう。我がルツ子の臨終の光景が眼に浮んだ。
一月十八日(水)雨 去る十五日の日曜日に札幌の新家庭に於て、彼地の研究誌読者会が開かれ、今日其委細の報告に接した。会する者三十人、内に無教会は勿論、独立、組合、聖公会、メソヂスト、日基、ホーリネス等総ての教会が代表された。其内に各教会の柱石と称せらるゝ人達があつたとの事である。午後二時半に始まり、「其処此処からの真心からの感話綿々として尽きず、為めに知らず識らず五時半頃まで時を移したるも誰一人去る者もなく」との事であつた。斯くて此処にも亦計らずして教会合同が実現したのである。信者が聖書中心に集まる時に此一致がある。自分を「既成教会の破壊者」と呼ぶ人は誰か。来り見よである。我等の間には教派は忘れられ、只愛の交際があるのみである。報告書の終りに曰く
集会後に正子様は例になき大機嫌で、御手に絵ハガキ鶴の嘴の上に小供の乗つてゐるのを御持ちになり「ヂヂからヂヂから」と大喜びで皆んなに見せて居られしを拝見して、喜びは正子様にまで及んだとて大喜びしました
と。之ではヂヂ破顔快笑を禁じ得ない。
(276) 一月十九日(木) 今年も亦東京府立第一高等女学校四年生二百三十名が基督教研究の為に我が聖書講堂に来た。讃美歌あり、代表者五人の宗教上の感話ありて、全《まる》で基督教の集会の様であつた。斯教の普及の茲まで至りしを思ふて驚かざるを得なかつた。自分は「宗教の三要素」として、神、霊魂、来世を数へ、其大要に就て話した。終りに一同に代りイエスキリストの神に対ひ、簡短なる祈祷を捧げて此意義深き会合を閉ぢた。
一月二十日(金)晴 近頃殆んど毎日のやうに知人又は姻戚の死去の報知に接する。如此くにして何時かは我が順番が来るのである。此世はまことに死の谷である。此んな不安の所に我が希望を繋ぐことは出来ない。
一月二十二日(土)晴 詩篇三十七篇を読んで非常に感じた。之を「人生実験の歌」と称すべきであらう。全篇四十節を二十一句に別ち、其各句が信仰上の大事実である。五節六節を合せて成れる一句の如き、第八節の初めの一行の如き、第二十五節の如き、孰れも我が実験として語る事が出来る。斯かる言葉を以つて毎日養はるゝ信者は実に幸なる哉である。
一月二十二日(日)晴 午前は満員の集会であつた。「単独の勢力」と題し、イザヤ書六十三章一-六節の精神を述べた。午後は七分の集会であつて、同二章二十二節の「鼻より気息する者」に就いて話した。両回共に自分としては満足なる講演ではなかつたが、然し何か二三、福音の大なる真理を語つたと思ふて自己を慰めた。永い間の聖書講演であつて、不満足なる事は幾回となくあつたが、神の御憐憫を蒙りて今日に至るまで之を継続する事が出来て感謝の至りである。遠からずして之を廃めねばならぬ時が来るのであるが、其時はさぞかし悲しい事であらふと、今より考へて恐ろしくある。
(277) 一月二十三日(月)曇 或る教会では『聖書之研究』を呼んで「豆莢《まめがら》雑誌」と云ふと聞いた。まことに好い名である、採つて以て此雑誌の名となしたくある。信者が読むには足らず豚が食ふべき豆莢雑誌であると云ふ。それであるから「読む勿れ」と今日まで長の年の間、教会の人々に忠告し来つたのである。然し幸か不幸か此豆莢雑誌を読む者が絶えないのである。今年も読者の数が少し増したらしくある。余輩は教会外の豚に豆莢を供するを以つて満足する者である。噫、来る勿れ、読む勿れ、教会の聖徒よ、而して余輩に休息と余裕を与へよ。|余輩をして豚の教師たらしめよ〔付●圏点〕。聖徒を謝絶するの特権を余輩に与へよ。「豆莢雑誌」! 有難く此名を頂戴する。
一月二十四日(火)晴 牛津大学前教授 A・H・セイス著『考古学と高等批評』を読んだ。百二十八頁の小著述ではあるが、旧約聖書を研究するに方て最も有益なる書の一つであると言はざるを得ない。今より三十年前にセイス氏の著書を大分に読んだ。此書はそれ等の著書の摘要と称して可なる者である。高等批評は主として聖書の文学的研究であるが故に当にならない。之に対して考古学は科学的事実であつて信頼するに足る。そして考古学に依て見た旧約聖書は堅い基礎の上に立つ書である。原名は左の通りである。
Monument Facts and Higher Critical Fancies.By A.H.Sayce, LL.D.,D.D.
東京九段向山堂書店に於て得らる。定価は郵税を合せて一円五十一銭である。此道の人に取りては再読三読の価値ある書であると思ふ。
一月二十五日(水)晴 「日々の生涯」は今年よりは四頁に止めんと思ひし所、今月も亦思はず旧《もと》の八頁に成つて了つた。自分の生涯を記くのであつて、読者の精読を煩はす程のものでない事を能く承知してゐる。さり乍ら(278)研究一方で他に何の変化もない此雑誌に、何か肩の凝らぬものを加ふるとすれば此位ゐのものである。そして単に自分の日記では無い積りである、日記体に綴りたる修養談である積りである。憶説は記かず、実験をのみ録す積りである。無益の記事ではないと思ふ。
一月二十六日(木)半晴 朝より来客絶えず、差したる仕事は何も為し得なかつた。此世の中を思へば善事とては一もあるなく、万事悉く非なりである。然し乍ら神は在し給ふ、彼は罪の此世を審判きて光明と正義とを招来し給ふ。そしてパウロが曰へるが如くに、彼は義の冕《かんむり》を凡て彼の顕はるゝを慕ふ者に与へ給ふ(テモテ後書四章八節)。人と云ふ人が凡て短き此世の生涯の為に其全力を注ぎつゝあるを見て、彼等は凡て狂ふてゐるのでは無い乎と思はれて困る。
一月二十七日(金)晴 此世は総て悪くある、然し神は善くある、そして彼に倚る者は総て善くある。我等神に倚頼みて悪き世に在りて善くある事が出来る。此事に就き他《ひと》は他であり、自分は自分である。此事に就て丈けは強ひて努めて責任と恩恵を頒つ事が出来ない。地獄の火の中に在りながら天国の清涼を楽しむ事が出来るのが信仰の力である。まことに有難い事である。されば吹けよ荒れよである。我が磐なる神の懐に抱かれて、暴風荒れ狂ふ今日の此世界に在りて春の長閑《のどけ》さに常に極楽鳥の囀づる声を聴きながら、間断なき平安の生涯を送る事が出来る。
一月二十八日(土)雨 我聖書研究会々員の一人、東京女子大学々生なる吉原ヒロ子今日永眠し、其父より左(279)の電報を受取つた。
主の前で再た皆んなと会ひませうと家族に語り、医師看護婦に至るまで握手、サヨナラと挨拶し、苦悶の内より更にハレルヤの言葉を残し、今最後の眠りに入りました。午後五時十五分。吉原
此は死ではない、眠りでもない、美国《よきくに》指しての旅立である。如此くにして二十歳の短命は百歳の長寿よりも遥に貴くある。之を名づけて恩恵の死と云ふ。キリストに導かれて光の国に渡つたからである。我等も彼女の声に合してハレルヤと叫ぶ。
一月二十九日(日)半晴 泥路にも拘はらず午前と午後と合して前回同様四百人の聴講者があつた。午後の青年の組が殊に盛んであつた。午前は「波上の歩行」と題し、馬太伝十四章二二-三三節を、午後は「理想と実際」の題下にイザヤ書二章より六章までの大意第一回を語つた。愛国者として見たるイザヤを紹介するは非常に愉快であつた。今日の教会では預言と愛国とを語らざるが故に、之を自分特有の領分として説く事が出来て安心且満足である。時に思ふ、若し旧約の預言書のみを説くならば、教会に就て語る必要がなくしてさぞかし善くあるであらうと。高尚なる武士道を説くやうであつて、爽快窮りなしである。
一月三十日(月)半晴 疲労ボンヤリの月曜日であつた。日曜日に余りに多くの人に会ふが故に、月曜日には何人にも会ひたくない。唯独りで居て、此世以外、人間以外の事に就て考へたい。太古のバビロン史、パウロの来世観等に注意を惹かれる。
一月三十一日(火)晴 茲にまた今年の第一月を終る。晦日であつて人は「掛け取り」で多忙である。同胞よ(280)り「取れる丈け取つてやれ」と云ふのである。鬼のやうな人達である。人生の目的は金を得るに在りと教へた人は誰である乎。日本の将来が案じられる。|近き将来〔付△圏点〕が案じられる 〇米国オレゴン洲ポートランド在住某君よりの新年書状に由れば、君は今より二十四五年前に九州某地に於て『聖書之研究』を手にし、それが機会と成りて基督信者に成り、後、渡米して彼地の美以教会に入り、今は其有力なる信者として沿岸到る所に伝道しつゝあるとの事である。同君の如き人の他にも多く有る事を自分は知つて居る。然るに自分を教会の破壊者と見做し、『聖書之研究』の購読を禁ずる教会の監督、牧師、長老達の尠からず有るを聞きて、自分は其理由を知るに困しむ。自分は自分の方より教会の人達には成るべく研究誌を読まざるやうに勧めて居る。又教会の人が自分の集会に来らざるやう凡ての手段を講じて居る。然し乍ら自分等の努力が空しくして、時に彼等が自分等の感化に触れるやうな場合があれば、彼等に成るべく彼等所属の教会に忠実なるやうに勧めて居る。斯く言ひて自分は教会者に親愛して貰ひたいのではない。然れども「名誉のある所には名誉あれ」である(ロマ書十三章七節)。自分は無数会信者であるが、日本人であるが故に、凡ての人を敬ふの心を以て教会の人をも敬ふ積りである。
二月一日(水)晴 寒い日であつた。校正が始まつた。南米ブラジル国の地理歴史を読んだ。まだ広い国が残つてゐる。地球はまだ若くある。人口増殖を心配するに及ばない。外にシベリアもある。カナダもある。希望を以つて安心して発展を計るべきである。
二月二日(木)曇 両雑誌の校正日である。英文雑誌は今月限りと思へば行先きが見えて楽しくある。今日の日本に「困つてゐる人」、即ち金銭的に行詰つてゐる人の多いに驚く。斯んな人がと思ふ人までが負債に困しんでゐると聞いて喫驚《びつくり》する。是れでは社会が其根柢より崩れつゝあるは無理でない。日本人全体の不信が彼等をし(281)て茲に至らしめたのであると思ふ。敢て富裕と云ふにはあらずと雖も、負債に困しむ必要はない。「汝は多くの人に貸す事を得べし、然れど借る事あらじ」とは神を信ずる者に彼が約束し給ひし祝福である(申命記十五章六節)。負債に困しむは滅亡の前兆である。最も警戒すべき事である。
二月三日(金)半晴 校正と原稿書きにて全日を終つた。聖書を手にして書くべき事は尽きない。世は普通選挙にて騒がしくあるが、我家は太古の如くに静かである。何も愛国心が無いからでない、愛国の方向が違ふのである。神と自由と永生とを知らざる国民の選択は無効であると思ふからである。何もケチを附けるのではないが、普通選挙も亦今日の日本に於ては失敗に終るであらう。文明の基礎を作らないで文明を植えんとした結果が茲に至つたのである。
二月四日(土)晴 寒明けの立春である。誠に楽な寒中であつた。信仰を離れたる商人実業家にして耻かしき事業の失敗を重ぬる者の続々と有るを見て、信仰の単に霊魂の事に非ざる事を熟々《つく/”\》と感ぜしめらる。自分の視る所に由れば長引く我国の財界不振の原因は道徳的であつて、経済的でない事を。此は多分日本人の霊魂を改造するまでは取除く事の出来ない不幸事であらう。何もかも経済と言ひ来りし日本人全体の心的状態が彼等をして茲に至らしめたのであらう。罪は勿論明治時代の政治家にある、そして亦彼等を偽はりの道に誘ひし学者に在る。「預言者は偽はりて預言し、祭司は彼等の手によりて治め、我民は斯かる事を愛す」とヱレミヤが曰ひしは斯かる事を言うたのであらう。
二月五日(日)晴 午前午後共に二百人余りの聴衆があつた。講堂が又復狭隘を告げ困つた者である。午前は(282)「人生の最大問題」と題し路加伝十六章十九節以下に由り「イエスの死後生命観」の第一回を講じた。午後はイザヤ書第二章の大略を「実際のユダとヱルサレム」の題下に話した。両回共に稍や満足なる講演であつた。講演終へて後は頭がボンヤリして仕舞ふ程に疲れる。然し問題が問題であるから直に元気に復する。世には衆議院議員に成りたいとて其勢力を消費する人達が沢山にある。彼等に比べて見て自分の方が遥かに慧《かしこ》くあると思ふ。
二月六日(月)雪 訪問者一人もなし。独りで静かに両雑誌の校正を了つた。講演は四五百人に語る為め、雑誌は四五千人に語る為である。昨日は脳を使ひ、今日は眼を使うた。福音の為である、疲労を厭はない。然るに余りに宗教をのみ多く説いて倦怠を感ずる、故に校正了へて後に鰊と鱈とに就いて読んだ。健全なる変化であつた。
二月七日(火)晴 雪晴れの好天気であつた。宗教を忘れんが為に考古学と魚類学とを読んだ。斯かる健全なる趣味を与へられし事を感謝する。
二月八日(水)晴 北風寒し。英文雑誌の校正を了つた。肩より大なる重荷が下り、新たに自由が臨んだやうに感じた。珍らしく魚類学書を取出し、八目鰻並に|めくら〔付ごま圏点〕鰻に就いて読んだ。下等動物ではあるが、世界的大学者が其研究に没頭した跡を尋ねて、造化は何処を探つても真理の無尽蔵なるに驚いた。夜は二十年間加州バークレーに在住せし旧き信仰の友なる信州小諸町の佐野寿君夫婦の訪問を受け、一別以来有りし事に就て語り合ひて楽しき時を過した。変らざる友は幾年経つても変らない。斯くして天国まで同行するのであらう。
(283) 二月九日(木)晴 詩篇第五十五篇を以つて此日を始めた。其十二-十四節が自分の言の如くに感ぜられた。詩篇全部が信者の言である。善きも悪しきも信者の経験する事は悉く其内に言表はされてあるやうに見える 〇好天気を利用し、丸善書店に行き J・E・カーペンター著『ヨハネ書類』一名『黙示録並に第四福音書の研究』外一書を購入した。斯かる書籍が宗教書店ならぬ丸善に於て得らるゝから不思議である。魚類学書類を求めんとして行いて神学書類を得て帰つた次第である。
二月十日(金)半晴 聖研第三百三十一号を発送した。今年に入つて又復少しく発行部数が殖えた。九州、朝鮮、台湾等西南方面に読者が急に殖えた事が著しき現象である。本誌は長の間、東北七分西南三分の割合であつたが、近頃に至り東西相半ばするに至り、やゝともすれば西が東を凌駕せんとする形勢である。我国の精神的中心は依然として西に在るが故に、西方の発展は最も好ましき事と云はざるを得ない。
二月十一日(土)雪 英文雑誌の終刊号を発送した。是で先づ重荷を一つ卸したのである。担はずとも可い重荷であつた乎も知らない、然し終には担はずばならぬ重荷と成つた故に、最善を竭して担うたのである。そして担ひ通うす事が出来て感謝である。神のみ万事を知り給ふ。彼に委ねまつりて万事は安全である。|より〔付ごま圏点〕小なる雑誌の始末を附けてより大なる雑誌に善き終結を与ふるの練習を為したの乎も知れない。始むるは易くして終るは難くある。|願ふ神の恩恵に由りて我が長子『聖書之研究』を立派に終るを得んことを〔ゴシック〕。
二月十二日(日)晴 雪後の悪路に拘はらず午前午後と合せて三百五十人程の参会者があつた。午前は前回に引続き路加伝十六章十九節以下に示されたるイエスの死後生命観に就て述べた。彼は或事に就ては人が思ふより(284)も狭く、或事に就ては人が思ふよりも広しと言うて其例を示した。午後は「ヱルサレムの婦人」と題してイザヤ書第三章の要点を述べた。午前は主として大人のため、午後は青年の為の集会である。午前の厳粛なる、午後の活気ある、聖日毎の霊的大饗宴である。
二月十三日(月)晴 チエムバース百科字典第十巻即ち最後の巻が配達に成り、多くの精読資料を供し、毎日知識の饗応に与りつゝある。英国百科字典の如くに厖大ならず能く各項の要点を与へ、自分位ゐの知識程度の者を益すること多大である。人を教ゆる事多くして教へらるゝ事少き自分の如き者は斯かる大教師を座右に供へて時々刻々指導を受くる必要がある。第九巻に於けるプフライデレルの物せる Schleiermacher 並にアルフレツド・ワレスの撃せる Spiritualism の二項の如き軌れも千金の価値ありと言はざるを得ない。宇宙人生の最大問題に就き教へられ又教ふるに優さるの幸福はない。第十巻は八百十九頁の大冊で其代価は僅かに十二円、中学校の授業料一学期分に過ず。読書の恩恵も亦大なる哉。
二月十四日(火)雪 旧暦に由る我が誕生日であつた。六十七年前、文久元年酉年の今日、今の本郷区真砂町三十番地、当時の松平右京亮邸に於て、男子生れたりとの報に接して我が父は喜んだ事であらう。彼は其嬰児が六十七年後に斯んなに成らうとは少しも思はなかつたであらう。自分も亦斯う成らうとは少しも欲《おも》はなかつた。全能者に余儀なくせられたのである。聖旨をして成らしめ給へと言ふより他に怎〓《どう》する事も出来ない。
三月十五日(水)晴 久々振りにて日本銀行に往き、英文雑誌廃刊の手続きを済ました。是で先づ雑誌が元の通り一つに成りて肩の荷が非常に軽くなつた次第である。小なる雑誌ではあつたが何しろ世界を相手にする者で(285)あつたが故に責任は非常に重くあつた。之を廃めて生命はたしかに十年位ゐ延びたらうと思ふ。此んな危い仕事を試むる者は日本人中に自分を除いては他に一人もあるまい。神、我を助け給ひて無事に之を終らしめ給ひしは大々的感謝である。
二月十六日(木)曇 普通選挙で全国到る所騒擾を極む。自分も選挙権を与へられて如何にして之を使用せん乎とて苦心する。
清き一票は有るも之を与ふべき消き政治家は無い、故に棄権する。
悧巧者は箒で掃く程ある、然れども人物は一人も無い、故に名誉の棄権と肚を決めた。
是れが今日の純なる日本人の声である。大いに考へさせられる。
二月十七日(金)半晴 日向都城日本基督教会牧師園部丑之助君より左の如き書面が達した。
本月の誌上に「日々の生涯」欄縮少の御希望の由承はり候得共、寧ろ拡大してこそ可然と存じ候。同志の友人の経験は不思議にも研究誌を第一頁より読むよりは「日々」欄から読み初むる様見受けられ候。論理を後に、実際生涯を先きに致し度きが人情の然らしむる所かと存候云々。
他にも同一の意見を申越されし誌友があつた。彼等の意見に従ふより他に途がない。筆執る者の生涯は甚だ単調なるものであつて変化とては殆んどあるなく、|読み、語り、書く〔付ごま圏点〕より他に殆んど為すことなき生涯なるが故に、之を読者に伝へたればとて何の興味も無かるべしと思ひ、時々廃欄を思ふ次第である。然し益あるとの事なれば継続するまでゞある。読者諸君の御加祷を要求する。
(286) 二月十八日(土)晴 世は引続き選挙で騒いでゐる、然し自分は之に対し別に興味を持たない。それは自分が政治を嫌ふからでない、|争ふぺき大問題の無い選挙に関与する必要が無いからである〔付△圏点〕。今や何れの政党も其政策として発表する所のものは何れも似たり寄つたりであつて、何れの政党に与みするも其の為さんと欲する所にたいした変りはない。故に何れの政党が勝たうも結局多く異なる所はない。何故もつと大問題を提げて争はないのである乎。軍備大縮小とか、国家的禁酒とか、米国の排日法に対する排米法案とか、数へ来れば大問題はいくらでもある。然るに之を措いて何人も唱へ得る政策を掲げて多数の投票を得んとするやうな、そんな政治運動に自分は参加する事は出来ない。何れにしろ自分のやうな者は此世の問題には凡て携はらざるを可とする。宗教家は政治に携はるぺからずと云ふには深い理由がある。彼は此世以外の事を取扱ふ者であるからである。「我国は此世のものに非ず」とイエスが言ひ給ひし通りである。
二月十九日(日)晴 両回の集会に変りなし。朝は馬太伝廿二章廿三-三三節を本文として「復活と其後の状態」てふ題目の下に語つた。随分と骨の折れる講話であつた。午後はイザヤ書第三章十三節以下に依り、前回に引続き、「ヱルサレムの婦人」に就て語つた。事は考古学の研究に渉り、是れ亦余り信仰を勧むるに足る講演でなかつた。説教に非ず研究なるが故に、或時は学究的なるは止むを得ない。唯然し福音を説くは楽しくあつて、其他の事を説くは楽しからざるは事実である。何れにしろ、世は政治運動に熱狂しつゝある此際に、我等数百の同志が此聖日、或は未来の天国を語り、或は太古の歴史を探るは、如何に楽しく、如何に福ひなるよ。斯かる時に我等は詩篇十六篇六節の言を我が言として口ずさまざるを得ない、「準縄《はかりなは》は我が為に楽しき地に落ちたり、宜ぺ我れ善き嗣業《ゆづり》を得たる哉」と。
(287) 二月二十日(月)晴 普通選挙最初の投票日である。一時は棄権と決心したが、翻つて思うた、是れ故島田三郎君、同河野広中氏、尾崎行雄君等の政界の清士が努力奮闘して国民の為に得た権利である。之を理想的に用ふる能はざればとて使用せざるは、是等の諸士に対して申訳なき次第であると。斯く思ひ返して軽微のレウマチスを病む重き足を引きづりながら投票所に行き、朝報社時代の同僚なる民政党公認候補者斯波貞吉君に我が一票を投じた。民政党が他党に勝さりて特別に善いと思うたからでない。若し投票するとすれば、我区の候補者中、自分の知る範囲に於て斯波君以上に確実なる人を看出す事が出来ないからである。政治は此世の事であつて到底完全を期する事は出来ない。今日棄権しなかつた事は悪い事ではなかつたと思ふ。
二月二十一日(火)晴 選挙の結果を知らんと欲して人々は緊張してゐる。「投票箱より正義は生れず」とカーライルが曰うたが其通りである。投票の結果は如何であらうとも日本がそれが為に善くならない事は確かである。自分に取りては一人の少女を天国に送る方が、大政治家を議会に送るよりも遥かに興味が多い 〇札幌通信に曰く
正《まー》ちやんは誰も教へないのにねえや(女中)のことはネエヤ|サン〔付○圏点〕と言ひ、決して威張つた口はきかず、下から出て頼んで居ります。御飯の前には叮嚀に|おじぎ〔付ごま圏点〕をしてアーメンと申します云々
と。是は好い兆候である。アーメンと云ふは信仰である、女中は敬ふは行為《おこなひ》である。アーメンを口に唱へながら下の者を労《いたは》らざる者は基督信者に非ず、亦我が子にも孫にもあらざる也。
二月二十二日(水)晴 井戸の改築を行つた。温泉に二三日遊ぶ位ゐの代価を以つて我が家に在りて地下の清水を飲み得るに至つた。大快楽の一である。民数紀略二十一章十七節を思ひ出さゞるを得ない。