内村鑑三全集34日記三、岩波書店、580頁、4700円、1983.9.22
 
     日記三
 
目次
凡例
 
一九二六年(大正一五・昭和元年)……………………………………………三
一九二七年(昭和二年)…………………………………………………………一三七
一九二八年(昭和三年)…………………………………………………………二六九
一九二九年(昭和四年)…………………………………………………………四〇三
一九三〇年(昭和五年)…………………………………………………………五三七
 
日記三 【一九二六年(大正一五年)一月より 一九三〇年(昭和五年)三月まで】
 
(3)    一九二六年(大正一五年・昭和元年) 六六歳
 
 一月一日(金)晴 小さき新人の我家に臨みしが故に至つて賑かなる新年である。一同祈祷を以つて食饌に就いた。大いに為さんと欲するの聖欲を以て第六十六回の新年を迎へ得し事を感謝する。ゼカリヤ書第九章を以て今年の読書を始めた。
   シオンの女よ大に喜ぺ、
   ヱルサレムの女よ呼はれ、
   彼は義しくして救拯《すくひ》を施し、
   柔和にして驢馬に乗る。
   我れヱフライムより戎車《いくさぐるま》を絶ち、
   ヱルサレムより軍馬を絶たん。
   彼れ万国の民に平和を宣せん。
   其政治は海より海に及び、
   河より地の極《はて》に及ぶべし。
再臨のキリストを歌へる歌にして新年を迎ふる為の適当の言葉である 〇夜七時二十分、千葉県海保竹松君と共に岡山県津山に向ひ東京駅を発した。四年振りの関西旅行である。
 
(4) 一月二日(土)晴 朝九時半神戸に着いた。一ノ谷の神田君夫妻の出迎を受けた。少憩の後、下関行列車に乗替へ、一時岡山着、此所にも亦友人の出迎を受けた。中国鉄道に乗替へ、午後四時過ぎ十五年振りにて三たび津山の地を践んだ。土地の旧友森本慶三君の客となつた。
 
 一月三日(日)雪 地は高く、山陰道に隣し、風雪時々襲来し、寒気強し。午後二時、森本君の建設にかゝる津山基督教図書館の開館式が行はれた。参会者二百人余り、かの地には珍らしき盛会であつた。自分も一場の演説を試みた。此は基督教図書館なりと雖も、基督教なるが故に全般的である。基礎的知識の供給を目的とするが、若し指導宜しきを得ば、其発展の無限なることを述べた。地方には稀れに見る宏壮なる建築物である。森本君の之が為に資を投ずること十二万円余、我が同志の一人が茲に此の信仰の果を結ぶに至りしを目撃して感謝に堪えなかつた。態々遠路来り会するの充分の価値があつた。海保君は関東教友を代表して同行したのである。
 
 一月四日(月)晴 朝八時津山を発し、途中誕生寺駅に下車し、法然上人誕生の地を訪問し、我国福音的宗教の開祖なる僧源空に対し尊敬を表した。住職漆間徳定氏の優遇を受けて有難かつた。十二時岡山着、午後は公園並に旧城を遊覧し、夜は同志と信仰を語り、土屋修治君の客と成りて安き一夜を過した。
 
 一月五日(火)小雨 朝九時半岡山発、一時明石着、再び神田君に迎へられ、一ノ谷の君のホームに客と成つた。昔の戦場は今は静かなる休養所である。此所に一日の完全なる休息を与へられて感謝であつた。
 
(5) 一月六日(水)晴 朝八時一ノ谷を辞し、十一時京都に到り、旧友中村弥左衛門君の墓を見舞うた。又薬王寺山に登り、新島襄氏並に我家の主婦の兄なる岡田寛の墓碑に対し尊敬を表した。
 
 一月七日(木)晴 朝九時東京駅に着いた。家に帰れば赤ん坊は沢山の笑みを以て迎へて呉れた。数百通の年賀郵便が待つてゐた。内に茨城県稲敷郡高田村根本益次郎君の年賀が最も有難かつた。曰く「当村最貧窮者七名に先生の名を以てメリヤスのシヤツ一枚宛施捨致し候間不悪御了承被下度候」と。疲労一時に発し、床に就いて休んだ。
 
 一月八日(金)晴 終日疲労の駆逐に努力した。久振りにて聖書を静読した。耶利米亜記第廿九章に霊魂安息の糧を得た。数年振りにて関西を訪れて感じた事は、第一に文明の関東よりも遥に進んで居る事である。第二に信者の信仰の全体に冷えて居る事である。純信仰は滅多に見当らず、信者は相互の欠点を指摘し、人格の向上品性の完全を以て信仰唯一の標準と見てゐるらしくある。曰く「彼の人格に怪しむべき点あり、担がれざるやう注意せられよ」と。曰く「彼女の行為に擯斥すべき点多し、交際を避けられよ」と。孰れも旧来の外国宣教師流の基督教であつて、是れでは信仰の復興は甚だ覚束ないと見て取つた。自分は会ふ人毎に、自他の腹の中を探る事を廃めて、十字架上のキリストを仰瞻て彼に潔めていたゞく事を勧めた。我が教へ子の一人よりの年賀の辞に左の一首があつた。
   足らざるは十字架故に赦しあひ
     愛に溢るゝ柏木の子ら。
凡ての信者が此く在りて欲しい。生命に溢るゝ時に他を非難するの暇がない。
 
(6) 一月九日(土)晴 雑誌一月号を発送した。久振りにて筆も執れ、読書も出来た。恐ろしいのは伝道旅行である。一回の旅行に少くとも一週間は潰れる。一地方が得んが為には自分と全国とが失ふのである。今年は一月早々十日間が潰れた。止むを得ないとは云ふものゝ考ふれば悲しくなる。まだ跡始末に数日かゝる。此日女高師生徒の第二回感話会を開いた。第一回に数等優さる会合であつた。
 
 一月十日(日)晴 本年第一回の会合を開いた。朝は満員、午後は七分の会衆であつた。朝は馬太伝廿六章四七-五六節、約翰伝十八章一-一一節に依り「イエスの逮捕」に就て述べた。暗らきユダと光るイエスを対照して語つた。午後は英訳聖書の元祖ウイリヤム・チンデールの生涯に就て語つた。自分の講堂に於て述ぶるの如何に易きかを覚えた。他の教会と比べて見て我が会衆の如何に克く訓練されてゐる乎を実感せざるを得ない。此日又在独逸若き内村より愉快なる通信あり、国の内外に信仰の友の多きを知り、此世界に於ける我が肩幅の広きを感じた。
 
 一月十一日(月)晴 外国へ手紙を書いた。又久振りにて英文の論文を書いた。まだ英文を書くことを忘れないことが判明つて嬉しかつた。近頃に至り自分を了解して呉れる者の、日本人よりも外国人に多きを知り、自分の為を計るならば日本文を書くことを廃めて英文を書くことの優されるに気附いた。然し自分の為でないから仕方がない。嫌はれ誤解され賤しめらるゝと知り乍ら下手な日本文を書くのである。
 
 一月十二日(火)曇 ルツ子デーである。独りで墓地へ行き、花を供へ、彼女の墓石に手を按いて彼女の霊魂(7)の安全の為に祈つた。熊本に於てはリツデル嬢が彼女を記念して癩病患者に一日の糧を供へて呉れる筈である。彼女逝いて此に十四年、自分は健全にして主の名に由りて大事業を計画する事が出来て感謝である。生者は死者の分をも尽さねばならぬ。自分はまだまだ沢山に働かねばならぬ事を自覚する。夜、札幌宮部君の見舞を受けた。久振りの面会である。半年会はなければ話が積んで山をなす。明治八年来の人生の同伴者である。さうあるのが当然である。
 
 一月十三日(水)晴 暖かい日であつた。夜、講堂に於て我等の一人なる理学博士大島正満氏の双生児に関する研究の講話があつた。問題は教育宗教の根本に関はるものであつて、大に我等の思想を刺戟した。生物学の結論が信仰の根本に衝突するは止むを得ない。其間に在りて信仰を守るのが信仰の信仰たる所以である。然し之を守るに方つて唯信仰にのみ拠つてならない。学問の奥に入つて学問を以て学問を信仰化せねばならぬ。そこに信仰生活の興味がある。
 
 一月十四日(木)曇 赤ん坊が二三日留守になり家が急に淋しくなつた。其代りに大分にペンが動いた。相変らず百科辞典の通読が不用時間の最も善き使用法である。
 
 一月十五日(金)晴 平静の一日であつた。近頃或る所に於て或る牧師より自分の或る知人の品行に就き容易ならざる悪評を聞きしが故に、驚いて或る友人に依頼して其真偽を調べて貰ひし所、全く事実に反せしことが判明つて安心した。基督教会の牧師は全体に思ひ切つたる悪評を立てる者である。多分人の善悪に就て牧師の批評程当にならぬ者はあるまい。そして此は惟り自分一人の経験ではないと思ふ。此点に就き牧師諸君は充分に注意(8)して貰ひたい。
 
 一月十六日(土)曇 ヱレミヤ研究に於て偉人の死に就て考へた。ヱレミヤに限らず、イザヤ、エゼキエル、パウロ、ペテロ、ヨハネの死に就ても聖書は何の録す所がない。彼等が如何にして死せし乎は聖書記者の関せざる所であるやうに見える。而してさうするのが当然である。神の御用を終へた後に彼の僕は唯静かに消えて了へば可いのである。「ヱホバはその愛しみ給ふ者に寝《ねぶり》を与へ給ふ」とある(詩百廿七篇二節)。人の注意を引くやうな葬式や墓碑は全然無用である。神の人は凡てモーセの如くに死たいものである(申命記三十四章) 〇独過より又復嘉き通信があつた。シユワイツエル、スピールマイエルと云ふが如き大家が我が同情者であるを知つて非常に嬉しかつた。我が一子が我に代つてルーテルの国に駐在するやうなものである。父子の名誉此上なしである。
 
 一月十七日(日)曇 午後晴。集会朝夕共に変りなし。朝はエペソ書一章一-十四節に依り「キリストに在りて」の中心的真理に就て講じた。午後は百五十余名の青年男女に向ひ、ヱレミヤ記第四章に由り「適中せざりし預言に就て語つた。相変らず静粛なる、而かも充実せる集会であつた。之をも亦聖霊に充たされたる集会であると称して可からうと思ふ。我等は教会を組織せざれども教会に劣らざる敬虔と熱心とは有ると思ふ。説教は厳格なる福音主義のそれであつて、其点に於ては無教会の我等は遥かに教会以上であると信ずる。
 
 一月十八日(月)晴 沢山に赤ん坊と遊んだ。最も善き休養である。我が意が彼女に通ずるらしく、最も愉快である。彼女に併せて世の凡ての赤ん坊に就て思ふ。殊に保護者なき赤ん坊に就て思ふ。彼等の幸福を計るは神が最も喜び給ふ所であるに相違ない。イエスが「是等のいと小さき者に為せるは我に為せる也」と云ひ給ひしは(9)意味深長である。自分も以来一層世の凡ての赤ん坊の為に尽さねばならぬ事を最も切実に感ずる。
 
 一月十九日(火)雨 朝はヱレミヤ記に依りてエヂプトを研究し、午後は或る教友より朝鮮に於ける山林事業に就て聞き非常に面白かつた。其他一人の兄弟と、亦他に一人の若き姉妹とが信仰を起せし経歴を聞き強き感に打たれた。神は一人の信者を此世より取り給ふ時に、必ず之に代りて他に新たに信者を起し給ふやうに見える。信仰の系統は絶えないやうに見える。神は「自己を証し給はざりし事なし」である(行伝十四章十七節)。一人斃るれば他が起ちて之に代る。斯くて信仰の灯は地上に於て永久に絶えないと思へば大なる安心且感謝である。
 
 一月二十日(水)晴 愈々三月より英文雅誌を出す事に決心した。世界に向つて我が信仰を唱へんと欲する。唯一回で廃めになつても悔いない。此事につき同胞の日本人には既に尽す丈け尽した。今よりは外国人に尽さんと欲する。「我はギリシヤ人及び異邦人にも負へる所あり」である(ロマ書一章十四節)。キリストの十字架の福音が今や所謂基督教国に絶えんとするに方て、自分は唯安閑として傍観することは出来ない。茲に全力を注ぎ我が生涯の最後の努力として、予ねて学び置きし英文を以つて日本に在りて全世界に向つて簡短にして深遠なる神の子の福音を伝へんと欲する。神よ、弱き我を助けて我をして此大業を果たさせ給へ。
 
 一月二十一日(木)晴 寒気強し。仕事が余りに多いので又復信頼の生涯に移つた。行為ではない信仰である。神をして自分に在りて働いて戴くのである。然らば山をも移すことが出来る。セカセカ働くを以つて能事とするアメリカ教に落附いてはならない 〇青森県の或る曹洞宗の若き僧侶の質問的訪問を受けた。彼の誠実 解を愛せざるを得なかつた。仏教界にも時には敬愛すべき人物がある。日本の宗教界は多望である。斯かる人達が(10)福音の真理を握るに至らば世界は日本人の教化を受くるに至るであらう。彼と自分は一面して善き友人であることを感じた。
 
 一月二十二日(金)晴 寒気引続き強し。今の日本に於て自己の事業は是れ国家の事業である。自己に尽すは是れ国家に尽すの途であると信じて自己の事業に賛成を迫る人が随分と多い。実に厄介な人達である。彼等は自己あるを知つて他人あるを知らず、国も神も凡てが自己を拡張した者であると思ふ。故に彼等に遠慮と云ふものがない。彼等は大胆不敵、自己の主張要求を以て他人に迫る。彼等は近代人の好模範である。此かる人が婦人の間に屡々見当るに至つては実に不愉快千万である。如何に見ても世は末の世である。キリストの再臨が待たるる。
 
 一月二十三日(土)晴 新聞紙に左の記事を見た。
  米国上院議員ハイラム・ジヨンソン氏は米国の国際司法裁判所参加反対者に加はつた。右は戦時中流布されたドイツが死体を煮て人油を採つたと云ふ宣伝が英国カーテリス将軍の告白によつて真赤な偽となつた様に、戦時の宣伝が無価値であること。その他ベルギーに於けるドイツの暴行に就て虚説が一般に流布されたやうなことに氏が愛想をつかしてゐるからである(ナウエン廿一日発帝通)。
戦時中の英米人の虚偽宣伝は明白なる事であつて今に至つて之を憤るは抑々遅くある。然るに我国に於ても基督教会の先導者までが是等の明白なる虚偽を信じ、凡ての事に於てドイツを貶し、デモクラシーの英米を謳歌したのは今に至つて見て見苦しき次第である。英米も亦他の所謂基督教国と同じく国としては他国を教ゆるの資格を失つた者である。自己の反対者に就て虚偽を宜伝し、之を斃すの技術に至つては、世界中多分英米人に勝さる者はあるまい。そして日本の基督信者までが此望ましからざる技術を英米人より学びしに至つては憂へても尚ほ余(11)りがある。|虚偽宣伝に最も巧みなる基督教国民〔付△圏点〕……嗚呼神よ、爾は何時まで此かる事を許し給ふ耶!
 
 一月二十四日(日)晴 朝は馬太伝廿六章五七-六八節等に依り「祭司の前に立てるキリスト」に就いて話した。題目が偉大なるに対して我が精神状態が之に添はざりしが故に甚だ不満足なる講演であつた。午後は青年百人余の集会であつて、馬太伝十三章三八節「畑はこの世界なり」に就いて語つた。基督教は世界的宗教であるが故に、世界的精神を以て之に対するにあらざれば其了解は不可能なる事に就て述べた。鮒やメダカは池に生長するが、鯖や鰹は大洋でなければ生存する事が出来ない。其如くに或る宗教は一国内に其繁栄を遂ぐることが出来るが、基督教は之を世界的に取扱はざれば、其了解感化を望むことは出来ないと述べた。自分に取りても甚だ気持好き講演であつた。まことに世界人に成らざれば基督教は解らず、又基督教に依らざれば本当の世界人を造ることは出来ない。世界を相手にして働かざれば基督信者と成りたる甲斐がない。
 
 一月二十五日(月)晴 近頃切に感ずる事は六十五歳位ゐで老人と思つてはならぬ事である、自分の仕事は今から始まるのであつて、今日までが準備と見るのが本当である。此の点に於て学ぶぺきは大倉喜八郎、浅野総一郎、渋沢栄一等の諸氏である。彼等は此世の人達であるが、老に負けざる点に於て敬服の外はない。金儲けの為に長命する必要は少しもないが、神の御こゝろを世に伝ふる為には百年の生命も決して長くはない。
 
 一月二十六日(火)晴 昨日来大なる興味を以てリビングエージ雑誌に載せられたるジユリアン・ハツクスレーの「最近の進化説」並にチエムバース百科辞典に於けるゲデス教授の寄稿に成る「進化論」の長篇を読んだ。(12)大体に於て進化説が宇宙創成並に存続に関する最も完全なる説明である事を疑ふことは出来ない。故ブライアンが為した如くに、正面より絶対的に進化説に反対するは今日の科学其物に反対するに異らない。然し乍ら進化説は未だ完成した学説でない、其内に多くの不可解の点が残つて居る。而已ならず進化説を採用するもキリストの福音を棄る理由は一もない。殊にゲデス教授の進化の見方の如き、進化論其物を福音化するものであつて、如此くに見たる宇宙は実に聖書以外の聖書であると言はざるを得ない。孰れにしろ聖書はやはり神の言であつて天然は彼の御仕事である。二者は深い深い所に於て全然一致する。其一致を見る能はざるは浅い聖書知識であつて同時に又浅い科学であると言はざるを得ない 〇新聞紙は財政困難より東本願寺の破滅に瀕するを伝ふ。同情に堪えない。然し乍ら僧親鸞の唱へし信仰は大谷家が弊れたればとて消ゆる者でない。否な其反対に、之が為に反つて勃興すべき者である。此世の富や権力に依て立つ宗教は斃れるが当然であり、又宗教其物の為に幸福である。大政府の後援や宝物、寺院、生仏《いきぼとけ》等に依て維持せらるゝ宗教は悉く亡びて了ふがよい。本統の宗教は其後に興る者である。寺院の敗滅は教会のそれと同じく反つて歓迎すべきである。
 
 一月二十七日(水)晴 暖房に苦しんだ。悪い石炭の煙を沢山に吸うた。日本人には矢張り火鉢と行火と火燵とが最も善き煖体法であると思ふ。冬の朝、寒い部屋で第一に聖書を読むは殊に気持好くある。最大の快楽は簡易生活にある 〇沢山に英文を書いた。日本文を書くよりも遥かに楽である。そして少数なりと雖も之に由て友を世界に求むることが出来ると思ふと更らに一層愉快である。
 
 一月二十八日(木)時 給理大臣加藤高明氏の薨去の報に接して驚駭の感に打たれた。日本国の大損失である。今年の政治界ほさぞかし騒々しい事であらう 〇新潟県新潟師範学校長宗像鴨四郎君の訪問を受けて楽しかつた。(13)君は熱心なる基督信者であるのみならず、自分と全然信仰の質《たち》を同うする信者である。斯かる人が選《え》りも選らんで新潟師範学校長と成りしとは実に不思議である。新潟は自分が明治廿一年、米国より帰国早々旧北越学館仮教頭として赴任し、其所に組合教会並に其所属の米国宣教師十一人を相手にして信仰の為に大に戦つた所である。時は京都同志社並に其校長故新島襄君全盛の時代であり、加之前の日本女子大学校長故成瀬仁蔵氏が、其時は信心なる基督信者であり、宣教師の弁護者として立ちし時なれば、自分の苦戦甚だしく、終に敗れて東京に舞戻るべく余儀なくせられた。自分は誤つて居たか知らざれども、誠実一杯を尽した積りであつたが、衆寡敵せず、論争は全然自分の敗北に終つた。然るに星霜茲に四十年、北越学館は取毀されて其跡に建られたのが今の新潟師範学校である。そして其官立学校に在りて過去六年間、今日に至るも尚ほ大胆に基督教の信仰を標榜して六百有余の師範生を指導薫陶しつゝあるのが宗像君である。君は自分の著書並に機関雑誌に依り其信仰生活を送りつゝあるとの事であれば、自分に代つて自分が四十年前に新潟県人に施さんと欲せし教育を今施しつゝあると云ふて差支がない。実に不思議である。全国に百有余の師範学校があるとの事であるが、其内より宗像君が特に択まれて、北越学館の跡に建られし新潟師範学校の校長として奉職せられつゝあるとは実に不思議である。自分が教会並に宣教師の誤解猜疑の内に在りながら独り熱涙を流して祈りし其松原の間に建られし学校に於て自分の同志の一人が熱心に其信仰に基ゐする教育を施しつゝあると聞いては、事が余りに劇的であつて、何んと云ふて此事実を説明してよいか解らない。偶然と云へば偶然である。然し自分は摂理と言ひたい。何も故人や教会を恨らんでゞはない。其時彼等は勝つたのであつて自分は負けたのである。然し四十年後の今日神は自分の反対者と自分との間を裁判《さば》いて下さつたのである。成瀬君は基督敦の信仰を棄て死し、同志社に於ては今は福音主義の信仰は余り盛んでないと聞く。然るに神の恩恵に依り自分は不完全ながらも今尚ほ信仰を続ける事が出来、そして自分の同志の一人が古い戦場に於て自分の信仰を唱へつつあると聞く。人生は実は如此きものであらう。今より百年(14)を経ば神は自分の正しかつた点は之を完全に弁護して下さるであらう。負けても宜しい、唯祈つて待つてさへ居ればよい。実に感慨無量である。死んだ肉の父に知らせてやりたい。涙が零れる。
 
 一月二十九日(金)曇 新聞紙は加藤高明氏の生涯の事実に就て記す所がある。之を読んで自分が氏と同時代の人として感ずる事は、氏は不幸なる誠にお気の毒の人であると云ふ事である。氏が岩崎弥太郎に発見せられてキリストに発見せられざりし事が抑々氏の不幸の初めである。若し氏が自分の如くに政治界や外交界に入らずしてキリストの僕として其福音を以つて日本国に尽したならば、氏自身の為に、又日本国の為に如何に幸福であつたらう。今より一年|経《たゝ》ない内に日本人は全く氏を忘れるであらう。実に太 して短い者は政治家の生涯である。然るに加藤氏の生涯を羨む日本人の多いには驚かざるを得ない。
 
 一月三十日(土)曇 書棚よりエライシヤ・ムルフホードの『神の共和国』を取出し、之を復読して強き感に打たれた。自分が初めて之を読み了つたのは一八九八年一月四日と記してある、即ち今より二十八年前である。此書の成つたのは一八八一年で今より四十五年前である。然れども其価値は今に至るも少しも減じない。聖書知識とシエークスビヤ研究とヘーゲル哲学との上に成りし大神学系統である、今日之を読んで新生命の我が中心に加はるを感ず。五十年前には米国にも此んな偉い人があつた。今日の米国人の書いたものには眼を触れない自分の如きも此著者の如き大米国人の前には膝を屈して其の教を仰がざるを得ない 〇柏木女子青年会の会合を開いた。来会者三十名。今後女子青年の為に大に尽すことに定めた。
 
 一月三十一日(日)曇 朝はイザヤ書四二章一六節、ヨハネ伝廿一章一八節等に依り、「神に導かれし生涯」に(15)就いて話した。午後はヱレミヤ記第五章を講じた。二度の説教で疲れはするが、然し神の道を述べるのであつて、幸ひこの上なしである。何を止めても此の事だけは止められない。
 
 二月一日(月)晴 東京に行いた。大震災に焼けざりし住友銀行東京支店を見せて貰つた。多分此世の宝を託するに足るの建築物であらう。他に二三の友人を訪問した。偶にはバビロンに行くのも悪くはない。
 
 二月二日(火)晴 九段向山堂の四畳半の裏座敷に於て英文雑誌ジセパン、インテリジエンサーの第一回編輯会議を開いた。会する者は山県五十雄君、山本供平君、自分の三人であつた。三十年の昔に帰つたやうな心持がした。忙しい事である。然し非常に愉快である。家に帰つて夜遅くまで研究誌の校正を為した。
 
 二月三日(水)曇 無為無生産の一日であつた。英文の原稿をタイプに打つて貰つた。ムルフホードの『神の共和国』に目醒ましい思想に接しつゝある。こんな大著述を有する米国の宗教家等が、教会の、伝道のと小問題に齷齪《あくそく》しつゝあると思ふと不思議に堪へない。|基督教は宗教に非ず、神殿を壊つて後に神の子顕はる〔付△圏点〕との思想の如き、遠大にして米国人より出たるものとは思はれない。
 
 二月四日(木)晴 終日原稿書きに従事した。
 
 二月五日(金)晴 山県君主催の下に市内淡路町多賀羅亭に於て英文雑誌『インテリゼンサー』の披露晩餐会が開かれた。来賓二十五名、何れも当代有名の英文記者であつた。内に頭本元貞、武信由太郎の両君の此の道に(16)於ての老練者もあつた。そして両君が自分と同じく旧札幌農学校の出身であるは不思議である。席上山県君と自分とは今回の企計《くわだて》の、第一に世界に向つて日本特有の基督教の信仰を唱へ、第二に同じく日本の最善を細介するにある旨を述べた。今や英語が日本人の第二の国語となりつゝある兆候が此夜の会合にて明かに見えた。
 
 二月六日(土)晴 W・H・ベネツト著『耶利米亜記講解』の再読を了つた。初読は今より二十六年前の一九〇〇年十一月九日角筈に於て了つた。「学んで而して時に之を習ふ亦|説《たのし》からずや」である。新著々々と唱へて新著述にのみ眼を曝すは決して誉めた事でない。旧著述を再読三読して得る所多大である。ベネツトの此講解の内に自分の無教会主義を賛成するやうな節が沢山に見当つた。教会は何故に此事に就て自分のやうな弱者を責めずして、自分と同じ事を言ふ大家を責めないのである乎。何れにしろ三百七十二頁をユツクリと読んで大に我が信仰を強められた 〇赤ん坊が義憤を発し之を宥めるに困難した。赤ん坊なるが故に之をダマさうと欲ふが故に悪くなる。赤ん坊と雖も人である、故に之に対するに誠実を以てせねばならぬ。誠実を以て之に同情して其正当の不平を癒すことが出束て嬉しかつた。
 
 二月七日(日)曇 朝は「ピラトの前のキリスト」に就いて述べた。洪牙利国の大画家ムンカツキーの画筆に成りし同題の大絵画の写しに依り説明を助けた。伊藤一隆君は今より殆んど四十年前に紐育に於て実画を見し其感恕を述べ、大に会衆の感激を起した。午後も亦満員の盛会であつた。「世界伝道の責任」と題して語つた。此日咽喉を痛め、講演は二回とも振はなかつた。残念であるが止むを得ない。
 
 二月八日(月)曇 休み半分に昨日の朝の講演を原稿に書いた。書く方が語るよりも気が落附いて遥かに楽で(17)あり又精確である。筆はたしかに口に優るの器である。書く事をなさずして語つてばかりゐる説教者は最も有効なる伝道法を逸する者である 〇夜、永井直治君並に田島進君の訪問を受けた。永井君は浅草教会の牧師であつて、其の一生を希臘語新約聖書の校訂に費した篤志の研究家である。同君研究の結果の二三を聞かせられて感興措く能はざる所があつた。或は遠からずして日本人のみの手に由て成れる日本訳聖書の発行を見るに至るやも知れぬ。誠に愉快なる事である。
 
 二月九日(火)晴 梅が咲出し春日和であつた。昨秋来預言書の復習を始め、エゼキェル書とヱレミヤ記を終りたれば、今日はイザヤ書を始めた。イザヤはやはり預言者の王である。彼は信仰の上に立つ哲学的大政治家である。近代史に於けるグロチウス又はエ※[ワに濁点]ルトの如き人である。而かも遥かに彼等以上である。イザヤ書を読んで我等は世界に十人とは現はれざりし大偉人に接するのである。青年時代より此大教師に親むを得し自分の幸福を感謝せざるを得ない。墓に入るまでの幸福である 〇自分の如き者に金を周旋して呉れと申込む者がある。地面の売物があるから買はん乎と相談に来る者がある。マツシウ・アーノルドは「人生十分の九は正義である」と曰うたが、今の日本人に取りては|人生百分の九十九は金である〔付△圏点〕やうに見える。聖書の意味を聞きに来る者は殆んどない。然れども金銭的援助を乞ひに来る者は随分と多い。情けない世の中である。
 
 二月十日(水)雨 久振りの膏雨である。其の有難さよ。以賽亜書二-四章を読み大なる感動を受けた。三章五節の如き日本今日の有の儘である。四章二節以下は甚大の慰めである。こんな言葉は他にはない。ダンテ、ゲーテ等を知らずともイザヤを知れば充分である。何故《なぜ》世人はもつと多く以賽亜書を読まないのであらう乎。
 
(18) 二月十一日(木)曇 紀元節である。市中には建国祭が行はると聞く。自分はイザヤ書第五章を研究した。愛国者とは斯くあらねばならぬ。イザヤに較べて自分の如きは到底愛国者の部類に属する者にあらざる事を強く感じた。|真の愛国者は正義の為に国を憎み得る者であらねばならぬ〔付△圏点〕。「然かはあれどヱホバの怒は止まずして尚ほその手を伸べ給ふ」と言ふ(廿五節)。預言者の愛国心に較べて見て日本人の愛国心の如き児戯と称して差支がない。
 
 二月十二日(金)晴 今より二十六年前、本誌発行の時代に於ては、「研究」 の名は甚だ不人望の名であつたが、今や「研究」は流行の一となつた。今日の新聞紙の広告に現はれた名丈けでも、「人類学研究」あり、「鑑鏡の研究」あり、「教育制度の研究」あり、「星の研究」あり、「小唄研究」がある。他に「鶏の研究」、「株式之研究」と云ふ雑誌のあるを知る。今や「聖書之研究」と云ふは流行を逐ふ賤しい名であるやうに聞こえる。社会とは常に此んな者である。始めに嘲けつて後に自から之に従ふ。故に我等は「社会は大俗人である」と云ふのである。社会は導くべし、傚ふぺからず。社会は何子爵何男爵と云ふが如き大俗物と見て間違のない者である 〇午後塚本と共に浅草教会牧師館に永井直治君を訪問した。新約聖書本文校合並に翻訳に関する同君の努力を示され驚嘆せざるを得なかつた。此かる所に此かる篤学の人あるを知りて我国基督教の将来に関し大なる希望を懐かせられた。行々《いく/\》は日本人の力に由て日本文の聖書を「米国」とか「英国」とか云ふに非ずして日本聖書会社が出版するに至らねばならぬ。そして永井君は既に其必要に応ずるの準備を為せる人であると思ふ。
 
 二月十三日(土)晴 平凡の一日であつた。
 
(19) 二月十四日(日)半晴 朝夕共に盛会であつた。然し自分の講演は振はなかつた。午後の集会に瑞西国バーゼル市万国伝道協会書記ハンス・アンシユタイン君の出席傍聴ありたれば、之を機会に同君の演説を乞ひ、我等の一人なる河面《かうも》仙四郎君に通訳の任に当つて貰つた。協会の歴史並に目下従事しつゝある所の事業の大略を語つて貰ひ甚だ有益であつた。協会へ寄附の為に献金を募りし所、百二十円余を得たれば、之に共有の伝道金の一部を加へて直に瑞西に送ることにした。演説終へて後に同君に日本風の夕食を供へた。自分の外に河面、塚本の両君卓を共にし、欧洲の事情につき多くの珍らしき事を聞かされ、非常に愉快であつた。小なる我等の事業も亦世界的である事を熟々《つらつら》感ぜしめられた。
 
 二月十五日(月)晴 春の暖かさであつた。全日を友人訪問に費した 〇「愛知県の田舎、一読者より」として左の如きハガキが達した。
  乱筆御赦しを乞ふ。只今十字架の道「ゲツセマネの苦祷」を読みました(午後十一時)。涙は仲々止まりません、戸外に出て思ふ存分泣きました。あゝ此身を捧ぐる外になし!! 伝道者たれ!! 此一生涯の強い確信を与へられし事を感謝致します。此五月に加洲の或神学校へ入学のため渡米致しますが、十年程『聖書之研究』を愛読して居りますから何卒御安心下さい。今度の英文雑誌は私の教科書になる事でせう。右感謝まで、涙ながらに!
斯んな感化を及ぼさうと思ふて書いたものではないが、神が之を用ひて此若き兄弟を斯くも強く動かし給ひし事を感謝する。
 
 二月十六日(火)晴 北風強し。静かなる一日であつた。以賓亜書六章の研究に強く我心を刺戟せられた。神(20)の人は此心を以て世に臨まねばならぬことが克く判明つた。それにしても今の愛国者や伝道師を眼中に置いてはならぬ。成るべく人との交際を避けて神と多く交はり、神の声を聞いて之を人に伝へねばならぬ。
 
 二月十七日(水)晴 聖書を研究すると歳が若くなる。此世の事に関係すると年を取る。国家、社会、教会、孰れも面倒なる問題である。一方に善ければ他方に悪い。公平であれば四方より攻撃せらる。殊に議論するのが厭だ。然し悪い事は悪いと云はざるを得ない、茲に於てか止むを得ず議論になるのである。孰れにしろ成るべく静にして置いて貰ひたい。私的に自分を使はんとせずして真理と人顆との為に自分の残る生涯を送り得るやう注意して貰ひたい。
 
 二月十八日(木)曇 以賽亜書第八章を研究した。偉人イザヤに引かされざるを得ない。唯日本訳の余りに微弱にして預言者の大信仰を伝ふるに甚だ不適当なるを遺憾とする。
 
 二月十九日(金)曇 市内九段向山堂内英文雑誌インテリジエンサー社へ校正の為に行いた。牛込停車場に降り、富士見町を通りて九段坂まで往復共に歩行いて今昔の感に堪えなかつた。四十年の昔に還つたやうな気持がした。自分はまだ生きて居るのである乎と思うた。然し神と真理と人類との為である。恐るゝに足りない。「汝の齢に順ひて汝に力を与ふ」と主は言ひ給うた。頗る善い雑誌が出来さうである。
 
 二月二十日(土)半晴 梅日和であつた。講堂に於て相木女子青年会の第一回集会を開いた。来会者五十人余り、東京女子大、女高師、女子英学塾、学習院、仏英和等の諸学校が代表せられて甚だ盛会であつた。塚本は哥林(21)多前書十三章を、自分はブライアント作「水鳥に寄す」の英詩を講じた。女子青年の知識欲の旺盛なるに驚いた。
 
 二月二十一日(日)晴 朝四時半赤ん坊の泣き声に起され、母と祖母とを助けて彼女の不平を癒してやつた。国を救ふも赤ん坊を宥めるも其根本の精神に於ては同一であることが解つた 〇朝は「神の子の苦難」と題し、キリストの十字架の死に就て語つた。語るに最も困難なる題目である。故に説教せずして唯馬太伝と路加伝と約翰伝の記事を読んだ。一同強き感に打たれた。まことに神の子の死の状《さま》である。神々《かう/”\》しとは実に此事を言ふのである。十字架の前に凡ての高ぶりを棄て平伏せざるを得ない。午後は詩篇第百二十七篇第一節に依り「信仰と建築」と題して語つた。信仰なき東京人に復興は困難なる所以を述べた。最も充実せる一日であつた。
 
 二月二十二日(月)曇 疲労の月曜日である。赤ん坊の子守役を務めて疲労を癒した。
 
 二月二十三日(火)雨 ジ∃ージ・アダム・スミスの以賽亜書請解に第二十八章の解釈を読んで今更ながら感に打たれた。|オリバー・コロムウエルが預言者イザヤの最も好き解釈者である〔付○圏点〕との著者の意見に満腔の賛成を表せざるを得なかつた。何んと言ふてもスミスは近代稀れに見る旧約聖書学者である。彼はエ※[ワに濁点]ルトの後を受けて最も深く預言者の心を探つた人であると思ふ。スミスは反オルソドツクスであるなどゝ評する人は彼の心の深き所に宿りしキリストの霊を看出す能はざる者であると思ふ。自分も今日まで彼を了解し得ずして彼を誤解せし者の一人でありしことを茲に告白する。今日再び彼の第二十八章の解釈を読んで之に英文を以て記入して言うた Thanks to George Adam Smith in the name of Thomas Carlyle(トマス・カーライルに代りて茲にジヨージ・アダム・スミスに感謝す)と。結婚問題や其他の此世の問題を持込まれて困らせらるゝ今日此頃、如此き荘大なる(22)思想に接して、暗らき貧弱なる日本に在りながら、明るき天の聖者の国に在る乎の如くに感ずる。
 
 二月二十四日(水)曇 計画を立てゝ働かずばならず、去ればとて計画にして成功する者は滅多にない。事情や境遇(等しく神の命と見てよからう)に余儀なくせられて為す事のみが成功するやうに見える。我等は偵察を放つて神の聖意を探りつゝ進むのである。人生は油断を許さぬ、去らばとて自から運命を作らんとしてはならない。「急がずに、休まずに」である。
 
 二月二十五日(木)晴 英国有名の聖書研究雑誌『エキスポジトル』の廃刊を聞いて驚き且悲んだ。廃刊の理由は「維持困難」に在ると云ふ。然し乍ら英国の如き基督教国に於て斯かる有力なる宗教雑誌が維持困難の故に廃刊するとは、日本に在る我等には到底解し得ない。|其主なる理由は其最後の主筆たりしドクトル・モフハトの福音的信仰の欠乏に於て在るのではあるまい乎〔付△圏点〕。我等は仆れても福音的信仰欠乏の結果として仆れたくない。成功失敗は問題ではないが、信仰冷却は重大問題である。願ふ神の恩恵に由り研究誌が最後まで十字架贖罪の信仰の維持者として其使命を完うせんことを。
 
 二月二十六日(金)晴 今日も亦或る田舎の若き婦人にして信仰を起せし者の結婚問題を持込まれ其の処分に窮した。彼等に対し深き同情なき能はずである。今日の日本に於て基督教の信仰が無いのみならず普通の法律観念さへない。日本人の大多数は未だ人権の重んずぺきをさへ知らない。より高き生涯に入らんとする若き婦人等に対し同情を懐く者は殆んど無い。村長も小学校長も彼等の味方と成つてやらない。実に憐れな社会状態である。(23)自分としては彼等を全能者の聖手に委ねまつるほかに彼等を助くる途を知らない。実に辛らい事である。今日までに幾度もあつた例である。日本に於ける伝道の困難は此辺に在る。
 
 二月二十七日(土)曇 孫女の為にお雛様が飾られた。罪のない美くしい習慣である。唯其内に偶像的分子の在るに困まる。又飲酒の習慣を標榜する器具の在るに苦しむ。到底偶像的飲酒国の習慣である。万事が其の汚染を被らざるを得ない、困つたものである 〇大正十四年我対外収支計算なる者を見るに、支出は六億九百万円で、収入は四億七千七百万円である。而も支出の内に外債利払及償還金の一億五千万が有り、収入の内に外債の一億三千二百万円がある。即ち新たに外債を起して旧外債の利子を払つたのである。まことに憐むべき身代である。若し之が大帝国の身代に非ずして一個人の家計であるとすれば、身代限りは目前に迫つて居るのであつて、心細い次第である。而かも日本人の内に斯かる危険状態に於て在る者が沢山に在る。即ち新たに借金して旧い借金の利子を払つて居る者が沢山に在る。之では国も亡ぶれば家も亡ぶ。然るに滅亡を恐れて謹慎する者はなくして、皆な目前の安楽を漁りて其日々々を送つて居る。此儘で行けば日本国の経済的破滅は確実である。実に恐ろしい事である。然し斯く警告したればとて真面目に耳を傾けて聴く者は一人もない。困つたものである。
 
 二月二十八日(日)晴 午前は二百人、午後は百七八十人の来会者があつた。午前は馬太伝二十七章四十五節以下のエリエリラマサバクタニの聖語に就て述べた。其完全なる註解は詩篇第二十二篇であると信ずるが故に、其篇を朗読し之に略註を加へて説教に代へた。実に意味の深い言葉である。聖書を以て聖書を註解するより他に途がない。午後は耶利米亜記第七章を講じた。若しヱレミヤが今の基督教界を観るならば同一の激烈なる言を発するであらうと曰うた。「ヱホバの殿《みや》なり、ヱホバの殿なり、ヱホバの殿なり」と云うた当時のユダヤ人と、「基(24)督教会なり、基督教会なり、基督教会なり」といふ今日の基督信者とよく似て居る。預言書を真面目に読んで、今日の欧米の教会並びに所謂基督教国を許す事は出来ない。
 
 三月一日(月)曇 久振りにて横浜に行いた。カピテン山桝の案内にて岸壁繋留の外国船数隻を見た。其内に英あり、仏あり、米あり、パナマあり、其何れもが優秀船であつて、我国に之に匹敵すべきものはないと云ふ。多くの事を考へさせられた。物質的に見たる日本の貧弱国たるは否むことは出来ない 〇京都白川に卜居する山口菊次郎君よりの書翰に曰く
  代はれば変る世の中、昔時淡水魚中の王として高価なりし鯉は今日百匁三十五銭にて、魚の最下に位する泥鰌の百匁五十銭に及ばず。蓋は高価の鯉にて利せんと各地盛に養魚場に鯉を養ひし生産の過剰ならん。今日大学や専門学校卒業生の剰余と均しく世の需要は中学又は小学卒業者の引張凧なるが如し。人間と云へ魚類と云へ上下顛倒せり。混沌たる思想の善化せざるも故なきにあらずと存候。『大阪毎日』紙上に曰く、今年の大学専門学校卒業生から住友が九十二名採用するに申込一千名、其他之に準ず。而して本年学士と称し得られる者の数四万人に上ると、学校教育が生活の方便にならぬ頂点に達したり云々と有之候。沈思黙考致候。
面白い観察である。「第一に金、第二に金を得る為の学問」との立場より施し来りし日本の教育が茲に至りしは面白い現象である。|金に為つても為らないでも〔付○圏点〕真理を知る為に施されし教育ならば、此悲境に至らずして済んだのである。
 
 三月二日(火)曇 混乱多忙の一日であつた。校正、オルガン直し、他に雑多の用事を持込まれ、随分と頭脳(25)を悩ませた。読書はセイス教授のペンに成りしヒツタイト論一篇を読みしに止まる。自分も時には一個の世話焼き爺《ぢゝい》と化せざるを得ざるを悲しむ。
 
 三月三日(水)曇 桃の節句である。孫女の為に雛を飾つてやり、赤飯を炊いて祝うた。三十年来我家に臨みし初めての春であつた 〇金井清君蕗固より帰り、其実況に就て話して呉れ、非常に面白かつた。労農蕗国は人類の歴史に於ける未曾有の冒険的大試験である。多分遠からずして大失敗として終るであらう。然し一度は行つて見る価値のある試験である。共産党の誠意に対してほ尊敬を払はざるを得ない。金井君の南露旅行談は殊に面白かつた。裏海横断、トルキスタン鉄道旅行等は古代史研究に趣味を有する自分に取つては甚だ羨ましかつた。然し坐して友人の旅行談を聞いて之を我が研究に資する事が出来て感謝である。
   カスピヤン アラル オクザス シルダリヤ
     砂の都の跡ぞ恋しき。
 
 三月四日(木)半曇 以賽亜三十章を以て此日を始めた。不相変忙しい日であつた。英文雑誌インテリゼンサー第一号が出た。是で二個の雑誌の主筆と成つたのである。老いて益々旺なりと云はん乎、或は無謀なりと云はん乎、自分には判断が附かない。然し乍ら老年に及びて新たに雑誌を発行して家に孫が生れしに等しき喜びであることは事実である。何れにしろ家の内も外も賑かなことである。是で生涯の内に雑誌を発行した事が三度である。第一は明治三十年に『東京独立雑誌』を、第二に同三十三年に『聖書之研究』を、而して第三に今年今日に The Japan Christian Intelligencer を。斯くて自分の生涯に於て主なる仕事は雑誌発行であつたのである。悪い仕事ではない。我が救はるゝは仕事に因るのではないから、之で一生を終りたればとて悲しむに足りない。
 
(26) 三月五日(金)雪 神戸より楽器技師を招き在米友人の寄附に成る大オルガンを修繕して貰ひし所、今日仕上がつて嬉しかつた。是で先づ楽器に不足が無くなつて感謝である。此日市内インテリゼンサー社に於て小《さゝ》やかなる初号発行祝賀会を開いた。我等の祝賀会は勿論同時に感謝会であつた。「ヱホバ建たまふにあらざれば建つる者の勤労は空し」である。彼に建てゝ頂くのである。我等は道具たるに過ぎない。
 
 三月六日(土)晴 家族に咳を病む者多し、自分も其一人であつて困難した。用事は多くして目が眩むやうである。世は暗黒であつて援助と慰藉を求むる者は無数である。日本人特有の信義は絶えんとし、人々殊に青年は己が利益を求め、得れども喜ばず、得ざれば怒る。彼等に裏切らるゝと知りつゝ為すぺきの善を為さねばならぬ。毎日の新聞紙は悪事と不信行為とを以て充つ。議会は党争止まずして混乱である。|唯赤ん坊と遊ぶ時のみ天国の平和がある〔付○圏点〕。
 
 三月七日(日)雪 泥濘に拘はらず三百人以上の来会者があつた。朝は「キリストの死と埋葬」に就て、午後はテモテ後書三章に依り「世界の現状と基督敦」と題して語つた。余り満足なる説教ではなかつたが少しなりとも純福音を語つたと思ふ。
 
 三月八日(月)晴 孫女の写真を撮る為に母と祖母と自分と三人附添にて市中に行いた。鍛冶橋外森川写真館主人の常に変らざる熱誠を罩めたる撮影を受けて愉快であつた 〇英文雑誌が出て責任が増して困難でもあれば亦愉快でもある。京都ドクトル佐伯よりの左の書簡の如き大に我意を強くする。
(27)  陳ば今回は可驚御奮発を以て英文基督教雑誌御発行の由、日本人でさへ英文でなくては読めぬと云ふ幾百千の人、米国にはありと云ふ今日、又加之地の端《はし》にまで伝道せよと命じ給ひし主イエスの仰せに対しても誠に相当はしき御企にて、近頃気味善き一大現象と感佩の至りに不堪候。小生も購読者の一人となりて又之を汎く英米諸邦に在る友人にも購読勧誘仕るべく候。
願ふ友人の此期待に背かずして潔き正しき雑誌を継続し得んことを。
 
 三月九日(火)晴 昨夜大に感ずる所あり、今朝は四時に起きて英文の原稿を書いた、そして夜に到るまで書き続けた。
 
 三月十日(水)雨 三年振りにて三越に行いた、不相変虚栄の市である。此世の人等が金を欲しがるは無理でない事を知つた。帰つて以賽亜書三十一章を読んで別世界に在るを感じた。
 
 三月十一日(木)晴 雑誌第三百八号を発送した。永久に好きものは矢張り聖書である。之に依て同志を求め、之に依て国を立直す。此は試めされし途であつて、最も確実なる途である。何を廃めても之れ丈けは止めることは出来ない。倍加運動よ社会事業よと云つて騒ぐ者は騒ぐが宜い、自分は聖書一点張りで、|永久を期し〔付ごま圏点〕、国を救ひ世界を動かすであらう。
 
 三月十二日(金) 朝は日本文の原稿書きに従事した。午後はインテリゼンサー社に行いた。以賽亜書三十一章とナイル河の地理を研究した。赤ん坊が留守になり家がヒツソリした。小犬のパロが肺炎に罹り家畜病院に送つ(28)た。神の愛を以て人にも獣にも対さねばならぬ 〇|近頃切に感ずる事は日本に離間者の多い事である〔付△圏点〕。大抵の騒動は離間者の煽動に由て起る。自分の経験に由るも自分に反き去りし者は大抵離間者の術中に陥つた着である。そして|離間者が基督信者殊に教会信者に多い〔付△圏点〕と聞いては更らに驚く、然し如何ともする事が出来ない。斯う云ふ社会又教会である。悪評、讒誣、離間が彼等多数の食物である。彼等は是れなくしては生存し得ないのである。そして離間さるゝは不愉快であるが、然し堪えられなくはない。一人の友又は弟子を奪はるれば、神は之に代りて|より〔付ごま圏点〕善き友又は弟子を下し給ふ。此事を実験して我等は言ふ「サタンよ勝手に離間せよ、汝は我より神が許し給ふ以上の者を奪ふことは出来ない」と。
 
 三月十三日(土)半晴 久々振りにて英国雑誌『第十九世紀』を手にした。是は具翁やハツクスレーが議論を闘はした雑誌である。之を手にして今昔の感に堪えない。其二月号に植物学の大家D・H・スコツト氏が植物学の立場より進化説を主張する論文を読んだ。教会の基督教に反対するのが此雑誌元来の特徴であつて、今も尚ほ之を継続するを見る。第二十世紀の今日生物各種特別進化説を痛撃するを見て、今尚ほ英国に於て此説を頑固に維持する者あるを知る。進化説を主張するに方りて教会在来の信仰を多少なりとも嘲けらねばならぬとは自分等には到底解らない。
 
 三月十四日(日)雨 朝夕共に盛会であつた。朝はキリスト伝の最後として「キリストの復活」に就て講じた。六ケ敷い問題である。然し信仰の立場より見て必要欠くべからざる箇処である。キリストの復活を信じ得ずして基督教が与ふる最大の慰藉は得られない。午後は耶利米亜記第八章を講じた。忙はしい一日であつた。
 
(29) 三月十五日(月)半晴 昨日の働らきに甚く咽喉を痛め、半日床に就いて休んだ。東京附近の或る読者より左の如きハガキが達して嬉しかつた。
  三月号『不用人間』、金言なる哉、至言なる哉、実に斯くも的確に現代の急所を突ける言無之候。毎度三十銭の研究誌にて御教育を受くる事数々、幾百円の書籍代を払ひて何等の価値なき時、僅少の代価の研究誌は実に人類の至宝、自分の生命の糧に有之候。
さうかと思へば合本二十冊余に対し百円以上の代価を同時に払込んで来る読者もある。如何に見ても研究誌は不思議なる雑誌である。
 
 三月十六日(火)晴 寒気再来。和英両文の原稿を大分書いた。自分に取り原稿を作るは借金を返すと同じである。毎月期日が来れば原稿を催促される、其時是れが無ければ耻をかかせられる。それ故に何時原稿取りが来ても恐れないやうに準備して置かねばならぬ。今日の所和文の方は四ケ月分位ゐは準備してある。英文の方はまだ始つた計りであるから貯蓄も至つて尠ない。然し是とても遠からずして二三ケ月分の貯蓄を為し置くの必要がある。サーと云うて狼狽するやうでは駄目である。常々弾薬を豊富に溜めて置かねばならぬ。如此くにして何年も続いて滞りなく雑誌を発行する事が出来るのである。曾て故植村正久君に言うたことがある「僕は未だ曾て原稿日に原稿を揃へなかつた事と、印刷屋の勘定日に勘定を怠つた事はない」と。同君は凡ての事に於て自分を嫌はれたやうであるが、此事丈けでは自分に感心されたやうに見受けた。何れにしろ過去三十年間此習慣を続け来つた。ペンが自分の手から落つるも最早遠いことではあるまい。其時まで之を続けたいものである。
 
 三月十七日(水)晴 以賽亜書二十二章十五-二十節が今日の慰藉であつた。今日の日本人の家庭にして紊乱(30)してゐる者の多きを知つて驚いた。何時の間に此んなに紊れた乎想像に苦しむ。それにしも有島武郎は悪い例を遺したものである。今や許多《あまた》の有島事件が社会の各方面に於て演ぜられつゝある。此分で進み行けば日本の近き将来に深く憂ふぺきものがある。
 
 三月十八日(木)晴 肩が凝りてペンが執れず、咽喉が痛んで話しが出来ず、只呆然として一日を送つた。唯久振りにてゴーデーの書に目を触れ、信仰の光を混乱せる心の中に投入れられ、蘇生の感があつた。旧いとは云へ此先生に本当の信仰があつた。今の神学者等の書いた物を読んで唯頭脳が眩惑せしめらるゝのみである。只少しく学者らしくなる計りであつて、其外に何の得る所がない。人類の最善は第十九世紀を以つて言尽されたのではあるまい乎。第二十世紀に入りて世はハツキリと末世に入つたやうな感がする。
 
 三月十九日(金)曇 英文原稿を携へてインテリゼンサー社へ行いた。一同の元気旺盛である。世界改造の希望漲る。然し元気や希望で事が成るのではない、神の大能に由て成るのである。我等は神の御計画を宜ぶるに過ぎない、而して祈つて共成就を待つのみである 〇昨夜巣鴨に大火あり七百余戸焼けた。不安極まる世である。殊に花の都の東京は然りである。
 
 三月二十日(土)雪 東京としては珍らしき大雪である。柏木女子青年会の例会である。雪と諸学校の卒業準備にて出席者二十四五名に過ず。自分は女学生等と共にブライアントの「森の讃美歌」を読んだ 〇近頃仕事が多い為に神を信ずることが尠いので困まる。少しく油断すると自分も事業宗の米国人に成つて了ふ。事業は実は成つても成らないでも宜しいのである。|神の遣はし給へる其独子を信ずる事〔付○圏点〕、其事が信者の唯一の事業であらね(31)ばならぬ。事業は之を風に委ね自分はキリストの十字架をさへ仰いで居れば可いのである。願ふ今復此の旧き福音に還らんことを。
 
 三月二十一日(日)曇 集会変りなし。此日婦人九人(多くは女学生にして卒業して国に帰る者)男子一人に、彼等の懇請に従ひバプテスマを施し、伊藤一隆、青木庄蔵、長尾半平等の長老諸氏に立会つて貰うた。以弗所書五章三二節「キリストに在りて神汝等を赦し給へる如く汝等も互に赦すべし」との言を条件として簡短なる式を施した。三位の名は用ひなかつた。使徒行伝二章三八節、同十九章五節等に依り単に「主イエスキリストの聖名に由て」バプテスマした。一同強き感に打たれた。斯かるバプテスマは自分も受けたしと云ふ者が他にも在つた。勿論聖公会などには全然認められない式である、然れども我等はイエス様が此席に在し給ふことを疑ひ得なかつた。
 
 三月二十二日(月)曇 東京高等女子師範学校本年度の卒業生にして我が聖書研究会々員なる者の送別懇話会を開いた。総数十四人、例年以上の多数である。同校本年度の本科卒業生は凡てゞ九十一人であつて、其内十四人が研究会員であるとは注意すべき事実である。又理科卒業生二十一人中、何れかの教会に出席して基督教を求めざる者は僅かに六人であると聞く。而かも入学当時教会出席者は僅かに三人であつたが、卒業の今日は六名を除くの外は悉く信者又は求道者に成つたのであると云ふ。文部省直轄の学校にして其数師は一二人を除くの外は悉く不信者又は不信者よりも遥かに悪しき背教者であるにも拘はらず、斯くも多数の卒業生が信仰を懐いて母校を出るとは実に不思議である。文部省も、不信者又は背教者達も、キリストの福音の拡張を妨ぐることは出来ないと見える。
 
(32) 三月二十三日(火)半晴 桜井ちか子女史の愛孫倉辻明毅君永眠の報に接し、本郷弥生町に遺族を訪問し同情を表した。倉辻君は有望の若き音楽者であつて、大手町時代に幾度も我等を助けて呉れた。老女史は北海道時代よりの信仰の友であつて、彼女に対し深き同情に堪えなかつた 〇新聞紙は引続きいやらしき記事を以て満つ。疑獄、収監、自殺と云ふ類である。世は日に日に暗黒の密度を加へつゝある。此時に際し我等の間には聖き天国の歓びがある。一昨日バプテスマを受けし少女の一人よりの感謝の書面の一節に曰ふ
  イエスキリストに合ふ為にバプテスマを受けた私は三月廿一日、之が記憶すべき新生の日であり、又命日でございます。此世の生命欄から黒わくをつけられた日であります。心の中だけで此世を去つたのではありません、誰が見ても此世の人ではなくなるのであります。此日は確かに死亡の日であります。あゝ併し私はこの死の峠をいつ越えたかを知りません。確かに先生の御手が私の頭にかゝつた瞬間に越えたのではないと思ひます。峠を越えた印にうけたバプテスマだつたと思ひます……昨日の朝の集会に罪の赦しの福音を承はりまして「キリストに在りて神汝らを赦し給へる如く汝ら互に赦すぺし」、之が私たちに残された為すべき事であることを知りまして感謝に堪えません云々。
他にも之と同じやうな感謝に充溢れたる書面が達した。自分の耳には其時に歌つた第百三十七番の讃美歌がまだ響いて居る。
   つみのこの身は  いま死にて
     きみのいさほに  よみがへり
   きよきしもべの  かずにいる
    そのみしるしの  バプテスマ
(33)帝国議会の議員や復興局の役人などは此聖き歓びは少しも知らないのである。
 
 三月二十四日(水)半晴 春寒未だ去らず不愉快である。今日は結婚事件が三箇あつた。結婚は人生の最大事件である、殊に近代人に取り然りである。結婚に対して自分の意見を徴せられて何んとか答へずばならず、さりとてドクトル・ジヨンソンやトマス・カーライルの結婚観を以て答へた所で近代人は到底承知しない。何故に日本の武士道に由り|もつと〔付ごま圏点〕簡短に解決しない乎、自分には少しも解らない。今日の日本人の結婚問題程|くどい、いやらしい〔付ごま圏点〕者はない。
 
 三月二十五日(木)晴 今や猫も杓子も洋行する。聞く虚栄の市《まち》仏国巴里には五千の日本人が滞在すると。我等は此上西洋文明を輸入する必要はない。既に輸入せし物を消化して我等自身の新文明を作るべきである。殊に基督教を研究する為に欧米に行く必要はない。欧米自身が今や東方より新光明の来らんことを待ちつゝある。今日欧米に基督教を求むるは暗黒の裡に光を探ると同然である。論より証拠である、基督教研究の為に洋行して不信者と成つて帰つて来た者は随分多い、慎むべき事である 〇訪問客の多い日であつた。其内で最も楽しかつたのは千葉県鳴浜村の海保竹松君であつた。君の農村改良の意見並に試みは大に自分の同情を惹いた。今や問題は信仰箇条でない、|信仰実行〔付○圏点〕である。信仰はいくら深く理想はいくら高くとも実行を以て試みられざる信仰は執るに足りない。我等は殆んど三十年間鳴浜村に伝道を試みて、今その実行を見るに至りしを感謝せざるを得ない。まことに一村を救ふの途は全国を救ふの途である。