内村鑑三全集4、459頁(英文除く)、4200円、1981.6.24
 
(v)  目次
 
 凡例
 
一八九七年(明治三〇年)一月−七月
 貴人の要する内閣…………………………………………………………………………八
 議すべきの議題なし……………………………………………………………………一一
(ix) 航海中(ヱラ、フィルコックス夫人作)………………………………………一九
 胆汁数滴………………………………………………………………………………一二二
  一 社界の病源
  二 大に維新歴史を攻究せよ
  三 大胆なる歴史家
  四 起てよ佐幕の士
  五 道義的革命
  六 腐敗の相続人
  七 東北対西南
  八 「利用」の語
(x)  九 大不敬
  十 薩摩大臣
  十一 腐敗の泉源
  十二 希望なき日本
  十三 無能政府
  十四 善き時
  十五 新華族
  十六 大虚偽
  十七 虚偽の実証
  十八 薩長政府の非道徳
  十九 今日の社界と薩長政府と
  二十 東北の不正児
  二十一 代価付きの道徳
  二十二 薩長政府の報酬
  二十三 薩長政府と北条政府
  二十四 丹波栗
  二十五 此極《このきよく》
  二十六 無学大臣
  二十七 無学の害毒
  二十八 肥後人
  二十九 肥後人の教育
  三十 福沢諭吉翁
 不平論………………………………………………………………………………一四四
(xiv) 『【夏期演説】後世への最大遺物』………………………………………二四九
  はしがき……………………………………‥…………………………二五〇
 【夏期演説】後世への最大遺物…‥……………………………………二五〇
   第一回          第二回
〔再販以後の序文〕
 再版に附する序言…………………………………………………………二九三
 改版に附する序……………………………………………………………二九三
(xv) 『愛吟』………………………………………………………………………三一二
   自序……………………………………………………………………三一三
   愛吟……………………………………………………………………三一六
 米国詩人……………………………………………………………………………三八五
 別篇…………………………………………………………………………………三八九
 〔付言〕…………………………………………………………………三八九
 〔参考〕…………………………………………………………………三九五
(xvi) 基督の復活を祝ふ席に臨みて(四〇三)
 時弊談(四〇五)
解題……………………………………………………………………………………四一七
 
 一八九七年(明治三〇年)一月−七月 三七歳
 
(3)萬朝報  『万朝報』英文欄 明治30年2月16日
 
(11)    議すべきの議題なし!!!
                    明治30年2月19・20日
                    『万朝報』
                    署名なし
 
 議すべきの議題なし!嗚呼是如何なる声ぞ 是曾て東洋の盟主たらんとまで意気込みし日本帝国の議会の発する声なる乎。
 朝鮮は今は何人の手に帰しつゝある乎、俗吏と御用商人とは如何なる金儲をなしつゝある乎、如何に卑屈なる教育者が我国の子弟を教育しつゝある乎、国民は絶望の淵に沈まんとしつゝあるに非ずや、虚礼と偽善と賄賂とは横行跋扈しつゝあるに非ずや
 議すべきの議題なし!是れ十九世紀末期の日本議会の発せし声なり、天よ聴て驚け、地よ聞て牡耻。          〔以上、2・19〕
 何故に?
 議員に確信なければなり、確信なきが故に節操なし、節操なきが故に彼等の脳頭は廃れ果て大思想大経綸の彼等の裏に浮び来ることなし、徳性不随症にかゝりし彼等は国家の重事を議するの資格を失へり。
 先づ汝の心底に堆積する汚想を去れよ、先づ自己を忘れ他を愛するの道を学べよ、然らば大思想は潮の如くに汝の脳裡に湧び来て汝は議題に満ちて破裂するに至らむ。               〔以上、2・20〕
 
(29)    〔「名士と書籍」回答〕
                      明治30年3月1日
                      『世界之日本』13号
                      署名 内村鑑三
 
     我社は其必須の職分として、現代の名流に向つて左の三問を呈したり、(一)少年時代に於て立志の基礎となりしは如何なる書なるや、(二)一生を通じて最も感化を受けしは如何なる書なるや、(三)平生最も興味を感ずるは如何なる書なるや、……〔中略〕……編者識
 
拝啓御問答の件は左に申上候
  (一)太平記
  (二)基督教の聖書《バイブル》、ダーウヰン氏|原種論《オリジンオブスペシース》、プレース氏の人類思想発達史(History of Human Progress)
  (三)聖書、カーライル全集殊にコロムウエル伝、ダンテの聖劇《デバインコメジー》、詩人はローヱル、プライアント、ホイツトマンを愛し、宗教哲学に於てはジユリアス、ミラーの「基督教罪悪論」を嗜み、小説は和洋を問はず一切読み不申候
 
(119)    航海中
                  ヱラ、フィルコックス夫人作
                    明治30年4月20日
                    『日本人』41号
                    署名 内村鑑三訳
 
   風は何れの方より吹くも
   かく吹かましと待つ人あれば
    東よりするも西よりするも
    吹く其風を善と定めん
   波路を行くは我のみならず
   海原遠く漕ぎ出る
   津々浦々の百千舟
   我に追風吹く時は
   逆波高く捲り来て
   磯根に触るゝ舟もあらん
   然らば我舟行らんとて
   我に方向好き風を祈らじ
(120)   行るも行らぬもいと高き
   神の指図に任しつゝ
   浪立つ時も凪ぐ時も
   何かなる風の吹く時も
   心安くぞ我が舟の
   梶をば彼の手に委ね
   危き波路過ぎ越して
   我が行く先に着くぞ嬉しき
 
  さらば何かなる風吹くも
  かく吹かましと待つ人あれば
   東よりすも西よりするも
   吹く其風を善と定めん
 
訳者註、曰く保守風、曰く欧化風、保守風吹きしが故に和学者は財産を作り、神主は顕位に登れり、よし之が為めに洋学者は饑餓に泣き、基督信徒は迫害せられしも、幾多の守旧家は幸運を賀し佳節を祝したり、皇天素是れ同仁、豈是に厚くして彼に薄きの理あらんや、吹けよ保守風、帆を挙げよ、神主と和学者と摂理が汝を許す間は(121)汝が栄ふべきの時なり。
 
(122)    胆汁数滴
                    明治30年4月20−24・27日
                    『万朝報』
                    署名なし
 
   一 社界の病源
 今や区々の改革を唱ふるも要なし、社界の病源は薩長政府其者にあり、革新此に及ばずんば枝葉の改革は徒労たるのみ。
 
   二 大に維新歴史を攻究せよ
 薩長政府は如何なる精神と法方とを以て徳川政府を乗取りし乎、是れ今日大に攻究すべき問題なり、勤王は誠に彼等の精神なりし乎、公議正論は実に彼等の法方なりし乎、彼等の乗取り手段に未だ歴史の認めざる隠謀譎計《いんぼうきつけい》なかりし乎。
 
   三 大胆なる歴史家
 史学若し考古学の一種たらば息まん、然れども史学若し人生に直接の要ある者ならば何ぞ此時に当て大に蒼生(123)の為に尽さゞる、何ぞ維新歴史の有りの儘を国民に紹介せざる、史家が此の国民を塗炭より救ふは或は此時にあらん。
   四 起てよ佐幕の士
 諸士に賊名を負はせ、諸士の近親を屠《ほふ》り、諸士をして三十年の長き、憂苦措く能はざらしめたる薩長の族《やから》は今や日本国民を自利の要具に供しつゝあるに非ずや、若し雲井竜雄をして今日尚ほ在らしめば彼等は何の面ありてか此清士に対するを得ん、勤王を名とし、錦旗を翻へし、終に日本国の実権を握るに至りし彼等今日の行為は如何、維新改革なる者の道義的改革に非ずして利己的掠奪の一種たりしことは其今日に顕れたる結果に依て明瞭なるに非ずや、嗚呼諸士の蒙りし賊名を洗ひ去るは今なり、諸士何ぞ起たざる。
 
   五 道義的革命
 彼等は暴を以て我等を圧せり、我等は暴を以て彼等に報わじ、彼等は陰計詐術を用ひたり、我等は公明正大なるべし、勤王は彼等掠奪の名義なりき、我等に唯公義の頼るべきあるのみ、法と術と威と権とを以てせし彼等は今日の堕落を来せり、我等は善を積んで汚毒を後世に遺さゞらん事を勉むべし、第二の維新は君子的たるべくして薩長的たるべからず。 〔以上、4・20〕
 
(124)   六 腐敗の相続人
 
 官職を得んとならば腐敗せる薩長政府の手よりせずして清浄なる日本国民の手よりすべし、薩長政府より官職を受くる者は之と共に其腐敗を受継ぐ者なり、改善は腐敗に手を触れざるより来る、其遺産を受けて其汚毒を受けざらんとす、難矣。
 
   七 東北対西南
 
 西南の士は怜智に長けて不実なり、東北の士は愚鈍なれども実直なり、日本国の政権西南人士の掌中に落ちて国に「愛国論」あり「尊王主義」あり、彼等は能く事物を利用するの術を知る、然れども彼等の支配の下 ありて民権の挙がりし実例なし、日本国の民権主張者は東北に多くして西南に尠し、僧日蓮、佐倉宗五郎等屈指の民権家は多くは是れ函嶺以東の人なり、愚直或は暴とし終る事あらん、然れども正義と忠勤との仮面を被りて投機商の親玉となるが如きは東北人士の迚も学ぶこと能はざる所なるべし、民権の振興、実直の恢復は東北人士の手を借らざるべからず。
 
   八 「利用」の語
 
 利用せよ、利用せよ、宗教を利用せよ、愛国心を利用せよ、勤王心を利用せよと、余輩は甚だ此語を憎む、是れ薩摩的、或は肥後的、或は長州的の日本語なるべし、然れども是れ日本的の日本語に非ず、朝日に匂ふ山桜花(125)にして如何で此狐狸的の言語を解せんや、日本国を利用し、日本人を利用して、産を造り慾を逞うす、「利用」の語を放逐せよ、而して之と共に此語を用ふる者を放逐せよ。
 
   九 大不敬
 
 聞く薩長軍の幕兵を憤らせんと計るや宮禁に放尿して戦を挑みたりと、是れ勅語に向て低頭せざると孰れが大なる不敬罪なる耶 是を為せし者彼を為せし者を責めて忠臣を気取る、強盗が窃盗の首を刎ねて其罪なきを飾るの類ならずや。
 
   十 薩摩大臣
 
 余輩は無能無力の薩人が其の薩人なるの故を以て叨に官職を貪り、御用状も碌々書けざるに高等官何等とか称して淫と慾とに耽けるを目撃せり、余輩は未だ薩摩大臣なる者に接せし事なし、然れども他の薩摩官吏の例より推す時は大臣又俗吏と類を同うする事なき乎、彼等は天爵あるが故に大臣なる乎、或は薩人なるが故に大臣なる乎、是れ余輩の大に疑を存する処なり。         〔以上、4・21〕
 
   十一 腐敗の泉源
 
 日本今日の腐敗を以て日本国民の罪に帰するは非なり、上の為す所下之に倣ふは古来よりの我国風なりとす、下の腐敗は常に上の腐敗を示す、隠れたる薩長政府の腐敗は顕れたる日本今日の腐敗に依て明瞭なり、米沢の民(126)の他に秀て淳朴なるに非ず、鷹山其人の薫化に依ればなり、高尚なる政府を供せよ、日本国は真の君子国たり得るなり。
 
   十二 希望なき日本
 
 日本国に希望ありやといへるは英国の観察者カーン、ツリストラム氏の疑題なり、然り薩長政府に希望なきなり、日本国に希望なきに非ず、彼れ観察者は此無道徳的薩長政府の下にある今日の日本を見て此愁声を発せしなり、鎌足の日本、泰時の日本、秀吉の日本は希望を以て充ち満ちたる日本なりき、希望なき日本は薩長政府の日本なり。
 
   十三 無能政府
 
事実の最も明瞭なるは、或は最も明瞭に為し得べきは足尾銅山事件なり、是れ科学者の判断を待て決定し得べきものなり、然るに此明瞭なる事件に対して数年の長き未だ一截断を下す能はず、是を無能政府と称せずして何ぞ、人の判断力を消耗する者は慾なり、判断の鈍きは慾心の鋭きを示す、見よ現政府が無資無力の学校教員又は新聞記者の行為に対して判決を下すに甚だ敏速なるを 彼は不敬漢なり速に放逐すべし、是は大臣の名誉を傷けたり、速に獄に投ずべしと、然れども事、金満家に関するあれば言を法律家の凝議に借り、逡巡決せざるを以て常とす、古河若し保護すべくんば何の躊躇か之を要せむ、民の愁声聴くべくんば何ぞ直に受納せざる、聴くを恐れ、聴かざるを恐る、是れ光明を恐るゝ者の措置なり、暗黒を愛する者の行為なり。
 
(127)   十四 善き時
 
 善き時は薩長政府仆れて後に来ん 善き政治は薩長政府仆れて後に来ん、善き風俗は薩長政府仆れて後に来ん、善き教育は薩長政府仆れて後に来ん、彼等の本質已に卑陋なり、不潔なり、惰弱なり 高尚なる政治、清廉なる風俗、厳正なる教育之を腐敗せる薩長政府に要むべからず、先づ薩長政府を排せよ、然る後に余輩は改革を談ぜん、希望を語らん。
 
   十五 新華族
 
 源家の特質たる豪気あるなく、平家の特質たる優雅あるなく、勇なく技《ぎ》なく、礼なく智なき者は新華族の子弟なり、而して是ぞ未来の我が王室の藩屏、我が国民の亀鑑、日本帝国最上最美の産として世界に向て誇るべき人品なりとす、宜べなり日本国民が欧米人士に蔑視せらるゝや、彼等は日本国を代表して世界を経廻り、其妓婦に戯れ、其醜俗を習ひ、巴里、倫敦、伯林に「日本若紳士」の名をして浮躁軽薄の代名詞たらしめたり、嗚呼我王室、嗚呼我国民。          〔以上、4・22〕
 
   十六 大虚偽
 
 余輩は思ふ新日本は薩長政府の賜物なりといふは虚偽の最も大なる者なりと、開国、新文明、封土奉還は一として薩長人士の創意に非ず、否な、彼等は攘夷鎖港を主張せし者なり、而して自己の便宜と利益との為めに主義(128)を変へし者なり、即ち彼等は始めよりの変節者なり、新文明の輸入者とは彼等が国賊の名を負はせて斬首せし小栗上野介等の類を言ふなり、真正の開国者とは渡辺華山、高長英等の族《やから》を言ふなり、封土奉還説すら木戸大久保等の創意に出しに非ずして姫路の城主酒井雅楽頭の建白に基けりと伊藤博文侯は報ぜり、薩長人士は世界の大勢と日本国民の意向とに乗ぜしのみ、新日本は文明世界と日本国民との作なり、開港和親は皆旧幕政府の創意なり 此点に関して我等日本人は薩長政府に一の恩義なし
 
   十七 虚偽の実証
 
 真正の勤王家とは高山彦九郎僧月照の如く勤王主義の為めに身を犠牲に供せし者を言ふなり、虚偽の勤王家とは勤王主義の名を仮り、私産を作り、爵位の栄に与かりし者を云ふ、彼等の有する財産と彼等の誇る爵位とは彼等の虚偽の実証なり。
 
   十八 薩長政府の非道徳
 
 薩長政府に才士あり、策者あり、時に或は学者なきに非ず、然れどもこの偉大なる道徳的英雄(Moral hero)あるなし、一人の天の大命を信じ、運を宇宙の大道に任し、正しくして恐れざる信仰的勇士あるなし、富国強兵は彼等の思想の絶頂なり、国民は道徳的組織体なりとか、国家は人類進歩歴史の要素なりと云ふが如き天人的の思想は彼等の頭脳に納《をさむ》るの場所なし、之を要するに、薩長政府は俗吏政府の稍大なる者のみ、議員買収の術を知り、強者諂従の策に長じ、肥後人の特技として天下に知れ渡たりたる「逃げる敵を逐ふ」の政略を常に取る者なり (129)無辜の為めに起ち、弱者の為めに弁じ、義に拠て威と強とを排するが如きは三十年間の彼等の歴史に於て一として実跡の存するあるなし。
 
   十九 今日の社界と薩長政府と
 
 腐敗せる今日の社界は薩長政府の反射映なり、其淫風は薩長政府の吹入《すゐにふ》せし者なり、其偽善的宗教と教育とは薩長政府の本質を映ぜし者なり、其「実業」なる者は薩長政府の邪慾を暴露する者なり、薩長主義を実行せし者が腐敗せる日本今日の社界なり、薩長政府を影大せし者が千島より台湾にまで亙る日本今日の醜態なり。
 
   二十 東北の不正児
 
 関西自有2男子在1、東向《とうかう》寧《いづくんぞ》為《たらん》2降将軍《かうしやうぐん》1、とは頼山陽が楠正成の単独起て東海の大魚を挫かんとせし豪気を賞吟せし句なり、然るに碧血痕化五百歳後の今日、西海の大魚|鬣尾《れふび》を奮ひ、六十余州総て鬼※[兀+虫]《きゝ》たるに際し、一|人《にん》の関東男子の起ちて隻手を揮ひ妖氛を排ふ者あるなし、否な之に止らずして西向《さいかう》して寧ろ降将軍となる者多きは実に歎ずべきの極ならずや、陸羯南(彼は陸奥の人なりと)の松方内閣を弁護し、竹越三叉(彼は北越の人なりと)の伊藤内閣に扈従し、柴東海(彼は会津の人なりと)の勅任参事官たらんとする如き皆一として東北が西南に屈従するの例にあらざるはなし、東北人士の意気地なきも此に至て其極に達せり。   〔以上、4・23〕
 
(130)   二十一 代価付きの道徳
 
 利欲を以て起ちし薩長政府は何処迄も金銭的なり、彼等は徳行を賞するに金銭を以てするより外の道を知らず、彼等の勤王に代価あり、彼等の愛国心に代価あり、彼等の宗教、道徳、詩歌、哲学一として代価を有せざるはなし、希臘人は其国家に尽せし功労の賞として橄欖樹の葉冠を戴くを以て無上の栄光と為せり、感状一通は日本武士の面目《めんもく》の極なりき、然るに薩長政府に至ては、幕府を仆せし賞として厚き賞典禄に与かり西南同士打の賞として厚き恩給を拝し、征清役の結果又彼等の大利益となりて終る、金銭を以てせざれば代表する能はざる彼等の勤王愛国の精神は実に卑陋極まるものと謂つべし。
 
   二十二 薩長政府の報酬
 
 彼等に多少の功労ありしならん、然れども其些少の功労に対して彼等が受けし報酬は如何、希臘のリカルガスはスパルタに憲法を供して後、身を隠して終る処を知らず、日本の伊藤博文は憲法制定の功を以て位階を進められ、目録附きの勲賞を給せらる、陸奥宗光の条約改正の報酬、松方正義の紙幣整理の報酬、八尾新助の御用出版物請負の報酬……憐れむべきは日本国民なる哉、今や彼等の為めに無報酬の労働を給する者なし、一挙一動は高価の報酬を要求せらる、余輩は信ず、若し日本国民が薩長政府に払ひたる報酬を以てせしならば、英吉利政府も薩長政府に劣らざる功労を我国に尽せしならむ、露士亜政府も我国の改善を請負ひしならむ、薩長政府の高価の功労、余輩に之を賞讃するの言なし。
 
(131)   二十三 薩長政府と北条政府
 
 名義の立派にして実行の挙らざるは薩長政府なり、名義の拙くして実行に最も富みしは北条政府なり、前者は尊王愛国正義公論を唱道し、政権を経て未だ三十年ならざるに、真道日々に衰へ、奢侈日々に増加し、吏は傲にして驕、民は僻にして惰、後者は賊名を千載に垂れ、大義名分の誇るべきなくして、一百五十年の長き、日本歴史の未だ曾て認めざる高尚厳粛なる政治を我国に供したり、若し名を以て云はん乎、松方正義、伊藤博文、後藤象二郎、大隈重信等は皆義士なり、忠臣なり、若し実を以て評せん乎、北条泰時、同時頼、同時宗等は日本国民の恩人なり 余輩は孰れを選ぶべきかを知らず。
 
   二十四 丹波栗
 
 余輩曾て京都に在り、大原女に強ひられて丹波栗一升を購求す、其外皮の美なる、其果肉の逞しきは余輩をして思はず垂涎《すいえん》せしめたり、然るに後|湯烹《たうはう》して之を食せんとすれば、内部は蠹蝕《としよく》し去て一も佳味の存するなし、余輩は失望の限之を地に投じ曰く「汝は薩長政府なり」と、後復丹波栗を食せず。
 
   二十五 此極
 
 此腐敗政府に導かれて、此腐敗華族を国民の亀鑑と仰《あふい》て、此代価付きの道徳に薫育せられて、日本国民の結極は如何、日本は国民としては救ふべからざるの位置に立至らんとしつゝありとは、真に日本を愛する人が屡々発(132)せし愁声なり、日本の未来に関して常に楽天的希望を懐《いだ》く者は、国家を以て一つの合名合資会社の如くに見傚す福沢翁と、日本国を以て先天的膨脹国なりと信ずる徳富蘇峰とあるのみ、若し薩長政府を永続せん乎、是れ日本の最終政府たらむやも未だ以て量るべからず、胆汁未だ吐き尽さざるに余輩の眼中に血涙の浮び来るを覚ゆ     〔以上、4・24〕
 
   二十六 無学大臣
 
 今の時に当て欧羅巴語の一をも解し得ざる者は国務大臣たるの資格を有せず、彼は亜非利加内地野蛮国の酋長たるを得べけん、然れども苟も文明国の躰面を維持せんとする日本国の大臣としては実に耻かしき人物と称はざるを得ず、小邦希臘の総理大臣すら尚能く五ケ国の言語に通達すると云ひ、中央亜米利加小共和国の大統領すら多くは欧洲屈指の大学校に於て教育を受けし人なりと云ふ、然るに大日本の現時の大臣に於ては…………
 
   二十七 無学の害毒
 
 能く人を屠るの術に長けたれば軍務大臣たり得べしと信ずるは迂なり、軍務大臣はリツテル、ペシエル等の学派に則る広き深き地理学の了解を要す、彼は数理的鍛錬より来る明快なる組織的頭脳を要す、彼亦詩歌哲学等の人情的学理に通達するに非ずんば威ありて恩なく、兵を弄ぶを知て民を救ふを思はず、無学無謀の陸海軍大臣より国家の蒙る害毒は、無益の軍備拡張費なり、不相応の軍艦製造なり、無学なるが故に彼等は力を以て圧せん事を勉めて、智を以て是を利用せん事を計らず、若し無学程不経済なる者なしとならば、無学なる軍務大臣程国家(133)に取て厄介物《やくかいもの》はなかるべし。
 
   二十八 肥後人
 
 薩長政府を助けて、或は薩長政府に使役せられて、今日の日本を作り出すに於て与かりて力ありし者を肥後人となす、大義名分の主張者としては、新思想の喇叭吹としては、日本国中肥後人に及ぶ者なし、彼等は巧に戦を避け、亦責を負ふて難局に当るを好まず、然れども戦闘已に終り、敗者の迹を逐ふ時に際しては彼等は屈強の兵《つわもの》にして、彼等の虚勢には殆んど当るべからざる者あり、薩長政府は彼等をして尊王愛国の名義を天下に吹聴せしめたり、而して彼等肥後人は能く其職を尽し、日本全国は終に彼等の虚喝に屈服するに至れり、薩若し獅子にして長若し虎ならば肥はジャカルなりハイヱーナなり。
 
   二十九 肥後人の教育
 
 我国の教育界に肥後人の多きは、陸海軍に薩長人の多きが如し、教育は思想なり、而して薩長人の思想は肥後人にあり、薩長政府の教育家としては肥後人を措て他に適任者あるを見ず、而して其我国今日の教育界は……土崩瓦解、カーライルの所謂 Bankruptcy of imposture 欺騙《きへん》の破産、虚偽の暴露、紛擾又た紛擾、風は腹を充たす能はず、音は柱石を支ふるの力に非ず、実《み》なき教育は此くの如し、肥後人の教育は此の如し
 
(134)   三十 福沢諭吉翁
 
 彼も亦九州人なり、而して天下彼の功労に眩惑せられて未だ彼の我邦に流布せし害毒を認めず、金銭是れ実権なりといふは彼の福音なり、彼に依て拝金宗は耻かしからざる宗教となれり、彼に依て徳義は利益の方便としてのみ貴重なるに至れり、武士根性は善となく悪となく悉く愚弄排斥せられたり、彼は財産を作れり、彼の弟子も財産を作れり、彼は財神に祭壇を築けり、而して財神は彼を恵めり
 遠慮なく利慾を嗜《たし》みし者は薩人と長人となり、利慾を学理的に伝播せし者は福沢翁なり、日本人は福沢翁の学理的|批准《サンクシヨン》を得て良心の譴責なしに利慾に沈淪するに至れり、薩長政府の害毒は一革命を以て洗滌《せんでき》し去るを得ん、福沢翁の流布せし害毒に至ては精神的大革命を施すに非ずんば日本人の心底より排除し能ざらむ。  〔以上、4・27〕
 
(144)    不平論
                    明治30年4月30日
                    『万朝報』
                    署名なし
 
 人に不平なかるべからず、不平なきは人にあらず、不平は進歩なり革新なり、凡て偉大なる事、凡て荘美なる事、凡て高遠なる事、一として不平の産にあらざるはなし。
 夫の充盈満足の人を見よ、彼に品性の磨くべきなく、思想の養ふべきなし、彼は弄花に貴重の光陰を消費し、銃猟に天然の美を毀損し、無学を以て安じ、懶惰を以て耻となさず、若し満腹の快に与かるを得ば、若し批評家の讃辞を博するを得ば、彼は他に覓むる所なし、躯肉の無恙《ぶやう》を楽しみ、貧者の欠乏を笑ひ、牛豚《ぎうとん》の牧場に惰食するが如く、無為の植生的生涯を送るを以て人生最上の幸福なりと信ず。
 不平の人は不満の人なり、不満の人は大慾《たいよく》の人なり、彼に慾望|大海《だいかい》の如きあるが故に万流《ばんりう》の川河《せんか》を受くると雖も彼は猶ほ空乏を感ずるなり、彼れ泰山を呑むも猶ほ飽き足らず、八洲を併すも猶ほ虚し、若し利を以て立んか、岩崎の四千万もロツクフエラーの四億五千万に此すれば何かある、若し智を以て立ん乎、ニュートンの博識も猶ほ海浜に砂礫の二三を挙げしに異ならず、人生の不満は其無限性より来る、人は神に象りて造られし者なれば彼は無限以下のものを以て満足する能はず。
 不平の人は理想の人なり、而して理想は充たされざる希望なり、我れ完全を観て之に達する能はず、我に摸範(145)の授けらるゝありて我れ之に傚ふ能はず、我れ平かならんと欲するも得んや、野蛮人に精神的苦悶あるなし、彼に理想なければなり、最も幸福なる人は瘋癲病院にあり、彼は既に理想に達せりと妄信する者なり、然れども正気|真面目《しんめんもく》の人にして真面目に人生の大隠語を解せんと試むる者にして煩悶苦痛を感ぜざる者あるべからず、感ぜざるは健全の兆にあらずして反て心霊的麻睡の兆《てう》なり、復活は常に苦痛の回帰を意味す、先づ不平家となすにあらざれば人心の改善は望むべからず。
 
(230)    余は基督信徒にあらず
                      明治30年7月2日
                      『基督教新開』724号
                      署名 内村鑑三
 
 余の品行不完全なるが故に、余の思想のまゝ卑陋なることあるが故に、余の理想の基督教以外の事物に執着することあるが故に余は自ら称して基督信徒なりと云ふを深く恥ずるものなり、而して世人往々余の不完全を摘発して基督教進歩の暴害なりとするものあるも余は決して怪まざるなり、世には我こそ基督信徒なりと自称して誇るものあることは余の羨んで止まざる所なり、若し完全無欠高尚有為の性を備へざるにあらざれば基督信徒の名称を下す能はざるとなれば余の如き勿論信徒の名を犯す可らざることは余の言を待たずして明かなり、
 然れども余の聖書は余に告げて云ふ「汝ぢ罪人よ我に来れ」と 又基督は病人を癒やす為に来りし医師にして完全なる君子を済度する為に来らずと示せり、故に余の如き罪人はこの罪人の救世主にすがるものにして若し基督信徒の名を犯すを得ば単に神の赦を乞ふ罪人の資格を以てする而已、
 余は基督信徒にあらざるなり、然れども基督に依頼《すがる》ものなり、基督の救を要するものなり、神の赦を希ふものなり、自己の正義を誇り、罪人を責め、以て国民道徳の機関を以て自ら任ずるの士に対しては慚愧身に満ちて言はんと欲する所を知らず、
 
(249)    『【夏期演説】後世への最大遺物』
                     明治30年7月15日
                     単行本
                     署名 内村鑑三
  初版表紙188×128mm
 
(250)   はしがき
 
 此小冊子は明治廿七年七月相州箱根駅に於て開設せられし基督教徒第六夏期学校に於て述べし余の講話を仝校委員諸氏の承諾を得て爰に印刷に附せしものなり。
 事、基督教と学生に関する事多し、然れども亦多少一般人生問題を論究せざるに非ず、是れ蓋し余の親友京都便利堂主人が強て之を発刊せし故なるべし、読者の寛容を待つ。
  明治三十年六月二十日      東京青山に於て 内村鑑三
 
   【夏期演説】後世への最大遺物
 
     第一回
 
 時は夏でございますし、処は山の絶頂でございます。それで此処で私が手を振り足を飛ばしまして私しの血に熱度を加へ、又諸君の熱血を茲に注ぎ出すことは或は私に出来ないことではないかも知れませぬけれども、併し之は私の好まぬ所、又諸君も余り要求しない所だらうと私は考へる。それで基督教の演説会で演説者が腰を掛けて話するのは多分此講師が嚆矢であるかも知れない(満場大笑)併ながら若し其事が私の目的に適ふことでござ(251)りますれば、私は先例を破つて此処であなた方とゆつくり腰を掛けてお話をしても構はないと思ひます。是も破壊党の所業と思召されても宜うございます。(拍手喝采)
 そこで私は後世への最大遺物と云ふ題を掲げて置きました。若し此事に就て私の今迄考へましたこと今感じましたことを皆な述べますれば何時もの一時問より長くなるかも知れませぬ。若し長くなつて詰らなくなつたら勝手にお帰りなすつて下さい、私も亦草臥れましたならば或は途中で休みを願ふかも知れませぬ。若し余り長くなりましたならば明朝の一時間の時間も私の戴いた時間でござりますから其時に述べるかも知れませぬ。ドウゾ清い静かな所にありました時には東京や又は其他の騒しい所で皆気の立つて居る所でする様な厳しい演説を私はしたくないです。私は此処で諸君と膝を打合せて私の感情を演説し又質問に応じたいと思ひます。
 此夏期学校に来ます序でに私は東京に立寄り、其時私の親爺と詩の話を致しました。親爺が山陽の古い詩を出して呉れました。私が初めて山陽の詩を読みましたのは、親爺から貰つた此本でした。(本を手に持て)で此夏期学校に来る序でに、其山陽の本を再び持て来ました。其中に私の幼さい時に私の心を励ました詩がござります。其詩は諸君も御承知の通り山陽の詩の一番初めに載つて居る詩でござります、「十有三春秋、逝者己如水、天地無始終、人生有生死、安得類古人、千載列青史」有名の詩でござります、山陽が十三の時に作つた詩でござります。それで自分の生涯を顧みて見ますれば、まだ外国語学校に通学して居りまする時分に此詩を読みまして、私も白から同感に堪へなかつた。私の様にこんなに弱いもので子供の中から身体が弱うござりましたが、斯う云ふ様な弱い身体であつて誠に社会に立つ位置もなし、又私を社会に引ツ張つて呉れる電信線もござりませぬけれども、ドウゾ私も一人の歴史的の人間になつて、さうして千載青史に列するを得る位の人間になりたいと(252)云ふ心が矢張り私にも起つたのでござります。其感情は決して悪い感情とは思つて居ませぬ。其事を父に話し、友達に話した時に彼等は大変喜んだ。「汝にそれ程の希望があつたならば汝の生涯は誠に頼もしい」と言つて喜んで呉れました。所が不意に基督教に接し、通常此国に於て説かれました基督教の教を受けたときに、青年の時に持つた所の千載青史に列するを得んと云ふ此希望が大変なくなつて来ました。それで何となく斯う云ふ様な考が起つて来た。即ち厭世的の考でございます。人間が千載青史に列するを得んと云ふのは、誠に是は肉慾的の未信者的の Heathen《ヒーゼン》 的の考である。クリスチヤンなどは功名を欲することはすべからざることである。我々は後世に名を伝へるとか云ふことは、根コソギ取つて仕舞はなければならぬと云ふ考が出て来ました。夫故に私の生涯は実に前の生涯より清い生涯になつたかも知れませぬ。けれども前のよりは詰らない生涯になつた、マーどうか成る丈け罪を犯さない様に、成る丈け神に逆らつて汚らはしいことをしない様に、唯々緩慢なる生涯を経まして、此生涯を終つて基督に依つて天国に救はれて私の未来永遠の喜を得んと云ふ考が起つて来た。そこで其時の感情は成程其中に一種の喜がなかつたではござりませぬけれども其時の感情は其前の感情と正反対の感情であります。さうして此世の中に事業を仕様、此世の中に一つ旗を挙げやう、此世の中に立つてから男らしい生涯をしやうと云ふ念がなくなつて仕舞ひました。殆んどなくなつて仕舞ひましたから、私は所謂坊主臭い因循的の考になつて来ました。それで又私ばかりでなく私を教へて呉れる人がサウであります。度々……茲には宣教師は居りませぬから少しは宣教師の悪る口を言つても許して下さるかと思ひまするが……宣教師の所に往つて私の希望を話しますると、「あなたはそんな希望を持つてはいけませぬ、其様なことはそれは慾心でござります。それはあなたのまだ基督教に感化されない所の心から起つて来るのだ」と云ふ様なことを聞かないではなかつた、私しも諸(253)君達もサウ云ふ様な考に何処かで出会つたことはないことはないだらうと思ひます。成程載青史に列するを得んと云ふことは考のしやうに依つては誠に下等なる考かも知れませぬ。我々が名を此世の中に遺したいと云ふのでござります。此一代の僅かの生涯を終つて其迹は後世の人が我々の名を敬めて我々の名を褒め立つて貰ひたいと云ふ考、それは成程或る意味から言ひますると私共に取つては持てはならぬ考であると思ひます。丁度埃及の昔の王様が己レの名が万世に伝はる様にと思ふて三角塔《ピラミツド》を作つた。ドウゾ世の中の人が私は金持であつたとか、私は英国の王であつたとか云ふことを知らしむる為に万民の労力を用役して大きな三角塔を作ると云ふことは、実に基督信者として未信者的の考と思はれます。或は有名の天下の糸平が死ぬときの遺言に「己レの為めに絶大の墓を立てろ」と云ふて死んだ。「さうして其墓には天下の糸平と誰か日本の有名なる人に書いて貰へ」と遺言した。それであなた方東京の牛の御前に往つてごらんなさい立派な花崗石で伊藤博文さんが書いた「天下の糸平」と云ふ碑があります。それで其の千載にまで天下の糸平を此の世の中に伝へよと云ふた糸平の考は私はクリスチヤン的の考ではなからうと思ひます。又さう云ふ例が外にも沢山ある、此間亜米利加のある新聞で見ましたに或る貴婦人で大変金持の孀婦が「ドウゾ私は死んでから私の名を国人に覚えて貰ひたい、然し自分の持つて居る金を学校に寄附するとか、病院に寄附するとか云ふことは普通の人の為すところなれば私は世界中にない所の大なる墓を作つて見たい、さうして千載に記憶されたい」と云ふ希望を起した。此間其墓が成つたさうでござります。ドンナに立派な墓であるかは知りませぬけれども、其計算に驚いた、二百万弗したと云ふのでござります。二百万弗の金を掛けて自分の墓を建つた其考は確かに基督教的の考ではござりません。
 併ながら或る意味から言ひますれば千載青史に列するを得んと云ふ考は私はそんなに悪い考ではない。ないば(254)かりでなくそれは本当の意味に取て見まするならば、基督教信者が持つて宜い考でござりまして、それは基督教信者が持つべき考ではないかと思ひます。尚ほ我々の生涯の解釈から申しますると此生涯は我々が未来に往く階段である。丁度大学校に這入る前の予備校である。若し我々の生涯が僅か此五十年で消えて仕舞うものならば実に詰らぬものである。私は未来永遠に私を用意する為に此世の中に来て私の流す所の涙も、私の心を喜ばしむる所の喜も、喜怒哀楽のこの変化と云ふものは、私の霊魂を段々々々作り上げて、終に私は死なない人間となつて此世を去つてから、モツト清い所の生涯を何時迄も得る考は私の持て居る確信でござります。併ながら其ことは純粋なる宗教問題でござりまして、それは私の今晩あなた方とお話をしたいことではない。
 それと同時に私の一の願があるのでござります。其願とは何であるかと云ふと、此世の中をズツト通うツて、安然として天国に往き、私の予備学校を卒業して天国なる大学校に這入つて仕舞つたならば、それで沢山かと云ふと、其時に私の心に清い慾が一ツある。私に五十年の命を呉れた此美しい地球、此美しい国、此美しい社会、此我々を育てゝ呉れた山、河、是に私が何も遺さずに往つて仕舞ふのであるかと云ふ考です。ドウゾ私をして啻に死んでから天国に往くばかりでなく、私は茲に一の何かを遺して往きたい。それで何も必らずしも後世の人が私を褒めたつて呉れいと云ふばかりではない、私の名誉を遺したいばかりではない、唯々私が地球を愛し、私はドレ丈此世界を愛し、ドレ丈同胞を思つたかと云ふ紀念物を置いて往きたい即ち英語で言ふと Memento《メメント》 でござります。其 Memento を遺して置きたいと云ふ考でござります。其考は美しい考であります。私も亜米利加に居りましたときに、外国に往きましたときに、其考が度々起つたのでござります。私に教へて呉れたアマスト大学を去るときに何か遺したいと思ふて私は同志と一緒に卒業の日に特別の会を開き愛樹を一本校内に植えて来た。(255)是は四年も育てられた、私の厚愛を遺して置いた為であつた。中には私の同級生で、金のあつた人はそればかりでは満足はしませぬで、或は学校に音楽室を寄附するとか、学校に本を寄附するとか、運動場を寄附するとかして往くものもありました。又我々は此学校を去りまするときに……此地球を去りまするときに我々は何にも此処に遺さずに往くのでござりますか。其点から言ふと矢張り私には千載青史に列するを得んと云ふ望が遺つて居る。何か地球に私は Memento を置いて逝きたい。私が此地球を愛したと云ふ証拠を置いて逝きたい。私が同胞を愛したと云ふ紀念碑を置いて逝きたい。それ故にお互に茲に生れて来た以上は我々が喜ばしい国に往くかも知れませぬけれども、併し我々が此の世の中に在て少しなりとも此世の中を善くして往きたいです。此世の中に我々の Memento を遺して逝きたいです。有名な天文学者のハーシエルが二十歳ばかりの時に彼の友人に斯う云ふ様なことを言つて居る「わが愛する友よ我々が死ぬときには我々が生れた時よりか、世の中を少しなりとも良くして往かうじやないか」と云ふた。実に美しい青年の希望ではないかと思ふ。「此世の中を私が死ぬときは私の生れたときよりは少しなりとも善くして逝かうじやないか」と。ハーシエルの歴史を読んで御覧なさい。ハーシエルは此世の中を非常に善くして逝つたのであります。今まで知らない天体を全く描いて逝つたのであります。南半球の星を、アノ混雑して居つた所の星を、何年間か亜弗利加のケープコロニーに行きまして、ケープタウンに行きまして、アノ星をスツカリ図に載せまして、今日の天文学者の智識は、ハーシエルに依つてドレ丈け利益を得たか知れない。それが為に航海が開け、商業が開け、人間が進歩し、遂には宣教師を外国にやることが出来、基督教伝播の直接間接の助けは、ドレ丈であつたか知れませぬ。我々もハーシエルと同じに互に皆希望 Ambition を遂げタウはござりませぬか。我々が死ぬまでは此世の中を少しなりとも善くして死にたいのであります。何か(256)一つ事業を成し遂げて出来るならば我々の生れた時よりも此日本を善くして逝きたい。それ丈けのことは我々皆々同意でござります。
 それで今度は遺物です。なにを置いて逝かうと云ふのです。何を置いて我々が此愛する地球を去ろと云ふのです。其事に就いて私も考へた。考へたばかりでなく、度々やツて見た。何か遺したい希望があつて之を遺さうと思ひましたでござります。それで後世への遺物も沢山あるだらうと思ひます。それを一々御話することは無益のことでござりますけれども、此中に一番に我々の考に出会ふたものからお話をしたいと思ひます。
 後世へ我々の遺すものゝ中に大切のものが一番に出て来る、何であるかと云ふと金です。我々が死ぬ時に遺産金を社会に遺して逝く、己れの子供に遺して逝くばかりでなく、社会に遺して逝くと云ことです、それは多くの人の考にある所ではないかと思ひます。それでサウ云ふことを基督信者の前に言ひますると、金を遺すなどと云ふことは実に詰らぬことじやないかと云ふ反対がジキに出るだらうと思ひます。私も覚えて居ります。明治十六年に始めて札幌から山男になつて東京に出て来ました。其時分にそこに奇体な運動があつて、それを名けてリバイバルと云ふたです。其時分は私の希望と云ふものは、後世に遺すものは何んであつたかと云ふと、私は実業教育を受けたものだから、勿論金が遺したかつた、億万の富を日本に遺して、日本を救つて遣りたいと云ふ考でござりました。自分には明治廿七年になつたら、夏期学校の講師に撰ばれると云ふ考は、其時分にはチツトもなかつたです。(満場大笑)金を遺したい金満家になりたいと云ふ希望でした。所が此事を或るリバイバルに非常に熱心の方に話した所が、其牧師さんでござりました、私は非常に叱かられました。「金を遺したいと云ふイクヂのない、そんなものはドウにもなるから、君は福音の為に働き給へ」と言はれた。戒められた、然し私の其決心は(257)変更しなかつたです。今でも変更しない。金を遺すものを賤めると云ふ人は矢張り金のことに賤しい人であります。吝嗇《けち》であります。金と云ふものは、成程此処で金の価値に就て長く講釈をするに及びませぬけれども、併ながら金と云ふものゝ必要は、あなた方十分に認めて下さるだらうと思ひます。金は宇宙のものであるから、金と云ふものは何時でも出来ると云ふ人に向つては、フランクリンが答へたのに「そんなら今拵へて見ろ」と申しました。それで私は金などは入らないと云ふて居る人はドウ云ふ人かと思ふて、後トで聞いて見ると、矢張り随分金を慾しがつて居る人の様に聞いて居る。それで金と云ふものは、何時でも得られると云ふことは、我々が始終持つて居る考でござりますけれども、実際金の入るときになつてから金と云ふものは非常に六ヶ敷いものだ。さうして富と云ふものは、何処でも得られる様に、空中に懸つて居る様に思ひますけれども、其富を一ツに蒐めることの出来るものは、是はドウモ非常に神の助を以てするものでなければ出来ないと思ひます。丁度秋になつて雁は天を飛んで居る。それは誰れが捕つても宜い。其雁は入らぬものだと思ひますけれども、其雁を捕ると云ふことは六ヶ敷いことであります。人間の手に雁が十羽なり二十羽なり集つてあるならば、それも価値があります。即ち手の上に居る一羽の雀は木の上に居る所の二羽の雀より貴いと云ふのはそこであります。そこで金と云ふものは宇宙に浮いて居るやうなものでござりますけれども、併ながらそれを一つに纏めて、さうして後世の人が、ソイツを実用に用ゐることが出来る様に溜めて往くと云ふ希望が諸君の中にあるならば、私は私の満腔の同情を以てイエス、キリストの御名に依つて、此神の御名に依つて、聖霊の御名に依つて、教会の為に、国の為に、世界の為に、君よ金を溜め玉へと云ふのです。富と云ふものを一つに蒐めると云ふことは一大勢力です。それで我々の今日の実際問題が、社会問題であらうと、教会問題であらうと、青年会問題であらうと、教育問題であら(258)うとも、それを煎じ詰めて見れば、矢張り金銭問題です。茲に至つて誰か金が不用だなぞと云ふものがありますか、私には言へませぬ。サウ云ふ人があるなどと云ふことを考へることも出来ない。ドウゾ基督信者の中に金持が起つて貰ひたいです。実業家が起つて貰ひたいです。我々の働くときに、我々の後楯になりまして、我々の心を十分に覚つた人が我々を見継ひで呉れると云ふことは、我々の目下の急務でござります。それで其金を後来に遺さうと云ふ所の希望を持て居る所の青年諸君が、其方に向つて、神の与へた方法に依つて、我々の子孫に沢山金を遺して下さらんことを私は実に祈るです。私は欧羅巴に往かぬから知りませぬけれども、亜米利加の有名なるヒラデルヒヤのヂラードと云ふ仏蘭西の商人が、亜米利加に移住しまして、建てた孤児院を見ました、是は世界第一番の孤児院です。凡そ小学生徒位のものが七百人居ります。中学大学位迄の孤児をズツと併べまするならば、多分千人以上の様に覚えました。其孤児院の組織を見まするに、我々の今日日本に在る所の孤児院の様に、寄附金の足らない、それが為に孤児の差支へる様な孤児院でなくしてヂラードが生涯かゝつて溜めた金を悉く投じて建てたのです。ヂラードの生涯を書いたものを読んで見ますると、なんでもない。其一の目的を以て金を溜めたのです。それからして 子供はなかつた、妻君も早く死んで仕舞つた。「妻は今なし、子供はなし、私には何にも目的はない。けれども、ドウカ世界一番の孤児院を建つて遣りたい」と云ふて、一生懸命に働きて拵えたのでござります。其時分亜米利加開国の早い時分でありましたから、金の溜方が今の様に早くも溜まらなかつた。一生涯掛つて溜めた所のものは、大凡二百万弗ばかりありました。それを以てペンシルバニヤの人の気の着かぬ地面を皆んな買つて仕舞つた。それで死ぬときに、「此金を以て、二つの孤児院を建てろ、一は己レを産んで呉れた所のニユーオルレンスに建て、一は己レの住んだ所のヒラテルヒヤに建て」と申しました。それで妙な癖心(259)があつた人と見へまして、教会と云ふものを大変嫌つたのです。それで「己は別に此金を使ふことに就いて条件は付けないけれども、己の建つた所の孤児院の中に、デノミネーシヨン即ち宗派の教師は誰でも入れてはならぬ」と云ふ一変な条件を附けて逝つて仕舞つたです。それ故に、今でもメソヂストの教師でも、監督教会の教師でも、組合教会の教師でも此孤児には這入ることは御気の毒でござりますけれども出来ませぬ。(大笑)外は誰でも其処に這入ることは出来るです。それで其今の孤児院の組織のことは長いことでござりますから、お話申しませぬけれども、其今の二百万弗を以て買集めました所の山です。それが今日のヒラデルヒヤの石炭と鉄を出す山でござります。実に今日の富は殆んど何千万弗であらうか分らない。今はドレ丈け業を拡張しても宜い、唯々拡張する人が居ない丈けです。それで若し諸君の中、ヒラデルヒヤに往く方があれば、一番に先づ此孤児院を往つて御覧なさいと云ふことを勧めます。又有名なる慈善家ピーボデーは如何にして彼の大業を成したかと申しまするに、彼が始めてベルモントの山から出るときにドウゾボストンに出まして大金持にならうと云ふ所の希望を持つて居つたのでござります。けれどもピーボデーが一文なしで出て来た。それでボストンまでは、其時分は勿論※[さんずい+氣]車はありませぬし、又※[さんずい+氣]車があつても無銭では乗れませぬから、或る旅籠屋の亭主に向ひ、「私はボストンまで往かなければならぬ。併ながら日が暮て困るから今夜泊めて呉れぬか」と言ふたら、旅籠屋の亭主が「可愛想だから泊めてやらう」と云ふて喜んで引受けた。けれども其時にピーボデーは旅籠屋の亭主に向つて「無銭で泊まることは嫌だ 何かさして呉れるならば泊まりたい」と云ふた。所が旅籠屋の亭主は「困るならば自由に泊まれ」と言ふた所が、ピーボデーは、「それでは済まぬ」と言ふた。サウして家を見渡した所が、裏に薪が沢山積んであつた。それから「御厄介になる代はりに、裏の薪を割らして呉れい」と云ふて旅籠屋の亭主の承諾を得て、(260)昼過ぎ掛つて夜まで薪を挽き之を割り、大抵此位で旅籠賃に足ると思ふ位まで働きました、サウして泊つたと云ふことであります。其ピーボデーは其一生涯を何に費したかと云ふと、何百万弗と云ふ高は知つて居りませぬけれども、金を溜めて殊に黒奴の教育の為に使つた。今日亜米利加に居ります黒奴は、多分日本人と同じ位の社交的程度に達して居りますのは、何であるかと云ふに、ソレはピーボデーの金の結果です。私は金の為に亜米利加人が大変弱い、亜米利加人は金の為に大変侵害されたと云ふことも知つて居りますけれども、亜米利加人の中に、或る金持がありました、清き望を以て金を溜めまして、それを清きことの為に用ゐたと云ふことは、亜米利加の今日の盛大を致した大原因であると云ふこと丈は、私も解つて帰つて来ました。それで若し我々の中にも実業に従事する時にコウ云ふ目的を以て金を溜める人が出て来ませぬときには、本当の実業家が我々の中に起りませぬ。サウ云ふ目的を以て実業家が起りませぬときは、幾ら起つても国の益になりませぬ。ソンナ実業家は実に国の益になりませぬ。唯々僅に憲法発布のときに、貧乏人に持つて往つて一万円……一人に五十銭か六十銭位の頭割をしたと云ふ様な、ソンナ慈善はしない方が宜いです。金を溜めて三菱の様な何千万円と云ふ様に溜めまして、今日まで……是から三菱は善い事業をするかと信じて居りますけれども、今日まで何をしたか。彼れ自身が大変に勢力を得、金を溜めて立派な家を建て、立派な別荘を建てましたけれども、日本の社会はそれに依つて何を利益したかと云ふと、何一つ見るべきものはないです。それで基督教信者が立ちまして、基督信徒の実業家が立ちまして、金を儲けると云ふことは、己れの為に金を儲けると云ふのではない。神の正しい道に依つて、天地宇宙の正当なる法則に徇つて、富を国家の為に使うと云ふ実業の精神が欲しい、此精神が我々の中に起らんことを私は願ふ。サウ云ふ実業家が〔今日我国に起らんことは、神学生徒の起らんことよりも望んで居るのでござります。(261)今日は神学生徒が基督信者の中に十人あるかと思ふと、実業家は一人もないです。百人あるかと思ふと、実業家は一人もない。或は千人あるかと思ふと、一人居るか居らぬかと云ふ位であります。金を以て神と国に事へやうと云ふ清き考を持つ青年はない。能く話に聴きまする、彼の紀ノ国屋文左衛門が百万両溜めて百万両使つて見様などと云ふ賤しい考を持たないで、百万両溜めて百万両神の為に使つて見様と云ふ様な実業家になりたい。サウ云ふ実業家が慾しいです。其百万両を国の為に、社会の為に遺して逝かうと云ふ希望は、実に清い望と思ふです。今日私が自分に持ちたい望です。若し自分に出来るならばしたいですが、不仕合に其方の伎倆はありませぬから、併しながら若し諸君の中にサウ云ふ望があるならば、ドウゾ今の教役事業とか、教育事業とに従事する人は、汝の事業は下等の事業だと云ふて、其人を失望させぬ様に望む。又サウ云ふ望を持つた人は、神が私に命じた処の考であると思ふて、十分に其事を自づから奨励されんことを望む。或る亜米利加の金持が「私はお前に何万弗を渡すけれども、併ながら此中に穢ない銭と云ふものは、一文もないぞ」と云ふて小児に遺産を渡したやうでござります。ソウ云ふ金です。それが慾しい。
 それで先づ始めに後世への最大遺物の中の大切のものは何であるかと云ふに、私は金だと云ふた、其金の必要を言ふたです。併ながら、誰でも金を溜める力を持つて居らぬです。私は是レ一つの Genius(天才)ではないかと思ひます。私は残念ながら此天才を持つて居らぬ。或る人が言ふに其天才を持て居る人は耳が大変彭れて居ると云ふことを聞きましたけれども、私は鏡を以つて見ましたが、私の耳は大変ツボんで居りますから、其天才はないと見えます。(大笑)私の今まで教へました生徒の中に非常に此の天才を持つて居るものがある 或る奴は北海道に一文無しで追払はれた所が、今は私に十倍もする富を持つて居る。「今に己が貧乏になつたら、お前は己を(262)助けろ」と云ふて置きました。実に金儲は矢張り外の職業と同じことに或人の天職がある。誰にも金を儲けることが出来るかと云ふことに就ては、私は疑問があるです。それで其事に就ては少しも考を与へてはならぬ所の人が金を儲けやうと致しまするも其人は大変に穢なく見える。そればかりではない、金は後世への最大遺物でござりますけれども、遺しやうが悪いと随分害を為す。それ故に金を溜める力を持つた人ばかりでなく、金を使ふ力を持つた人が出来て来なければならぬ。彼の有名なグールドの様に、自分の活きて居る間に二千万弗溜めた。それは何に使つたかと云ふと其為に自分の親友四人までを自殺せしめ、アチラの会社を引倒し、コチラの会社を引倒して二千万弗溜めた或人の言に「グールドが一千弗と纏まつた金を世の中に出したことはない」と申しました。彼は死ぬ時に其金を何うしたかと云ふと、唯々自分の子供にそれを分けて与へて死んだ丈けであります。即ちグールドは金を溜ることを知つて、金を使ふことを知らぬ人であつた。それ故に金を遺物としやうと云ふ人には、金を溜める力と又其金を使ふ所の力がなくてはならぬ。此二つの考がない人は、此二つの考に就て十分に決心しない人が金を溜めるといふことは甚だ危険の事だと思ひます。
 サテ私の様に金を溜めることの下手なものは仮令溜めてもそれが使へない人は後世の遺物に何を遺さうか。私も此問題に出喰はした。私は到底金持になる望はない、殆んど十年程前に其考を捨てゝ仕舞つたのでござります。それで若し金を遺すことが出来ませぬならば、何を遺さうかといふ実際問題が出て来ます。
 それで私が考へて見ますに金よりか宜い遺物は何んであるかといふと、事業です。事業といふものは、即ち金を使ふことです。金は労力の代表するものであるならば、労力を使つて之を事業に変じ、事業を遺して逝くことが出来る金を得ることの力のない人で事業家は沢山あります。金持と事業家は二つの仕事の様に見える。商買す(263)る人と、金を溜める人とは別の様であります。大阪に居る人は大変に金を使ふことは上手であるが、京都に居る人は金を溜めることが上手である。東京の商人に聞いても、金を持つて居る奴には商売は出来ぬ。金のないものは人の金を使ふて事業をするのである、純粋の事業家の成功を考て見まするに、決して金ではない。グールドは決して事業家ではない。バンダービルトは決して事業家ではない。バンダービルトは非常に金を作ることが上手でござりました。ソシテ彼は他の人の事業を助けた丈であります。有名のカルフオルニヤのスタンホードは、大変金を儲けることが上手であつた。併しながら其スタンホードに、三人の友人がありました。其友人のことは面白い話でござりますが、時がないからお話をしませぬけれども、金を儲けた人と、金を使ふ人と、種々あります。それですから金を溜めて金を遺すことが出来ないならば、或は神が私に事業をする天才を与へて下さつたかも知れませぬ。其時は我々が金を遺すことが出来ませぬとも、事業を遺せば私は十分満足します。
 それで事業を為すといふことは、美しいことは言ふまでもないです。ドウ云ふ事業が一番誰にも解るかと云ふと、土木的の事業です。私は土木者ではありませぬけれども、土木事業を見ることが非常に好きでござります。一の土木事業を遺すことは、実に我々に取つても快楽であるし、永遠の喜と、富を後世に遺すものではないかと思ひます。今日も船に乗つて、湖水の向まで往きました。此南の方に当て水門と云ふ門がある。其水門と云ふは、山の裾をクヾツて居る一の隧道であります。其隧道を通うつて、此湖水の水が沼津の方に落ちまして、二千石から三千石の田地を感慨して居ると云ふことを聞きました。此間或る友人に会ふて、アノ穴を掘つた話を聞きました。其話を聞いたときは実に悦しかつた。アノ穴を掘つた人は、今から丁度六百年も前の人であつたらうと云ふことでござりますが、誰が掘つたか明《わか》らぬ。唯々是丈けの伝説が遺つて居るのでござります。即ち或る箱根の近(264)所の百姓の兄弟があつて、誠に沈着であつて、其兄弟が互に相語て言ふに、「我々は此有難き国に生れて来て、何か後世に遺して逝かなければならぬ。それ故に何か我々に出来ることを遣らうじやないか」……「併し我々の様な貧乏人で、貧賤のものには、何も大事業を遺して逝くことは出来ぬ」と云ふと、弟の方であつたさうです。兄に言ふには「併ながら我々に是は出来るではないか、此山をクリ抜いて湖水の水をとり、水田を興してやつたならば、それが後世への大変な遺物じやないか」と云ふた、兄は「それは非常に面白いことだ。それじやお前は上の方から掘れ。己は下の方から掘らう、一生涯掛つても此穴を掘らうじやないか」と云て掘り始めた。それでドウ云ふ風にしてやりましたかと云ふと、其時分は測量器械もないから、山の上に印を立つて、両方から掘つて往つたと見える。それから兄弟が生涯罹て何にもせずに……多分自分の職業になる丈けの仕事はしたでござりませう。兄弟して両方からして、毎年々々々々掘つて往つた。何十年でござりますか、其年は忘れましたけれども、下の方から掘つて来たものは、湖水の方から掘つて往つたもの四尺上に往つたさうでござります。四尺上に往きましたけれども御承知の通り、水は高うござりますから、矢張り竜吐水の様に向ふに能く落ちるです。生涯して人が見て居らないときに、後世に事業を遺さうと云ふ所の奇特の心より、二人の兄弟が約束しました。人が見ない、人が褒めても呉れないのに、生涯を費して穴を掘つたのは、それは今日に至つても、我々を励ます所の業ではありませぬか。それから今の五ケ村で、何千石だか、ドレ丈け人口があるか忘れましたが、五ケ村が頼朝時代から今日に至るまで、年々米を取つて湖水の流れる所でありますから、旱魃と云ふことを感じたことはござりません。実に其兄弟は仕合の人間と思ひます。若し私が何にも出来ないならば、私は其兄弟に真似たいと思ひます。非常な遺物です。多分今往つて見ましたならば、其穴は多分十町か其処等の穴でありませうが、其時分は(265)煙硝もない、ダイナマイトもないときでござりますから、アノ穴を掘ることは、実に非常なことでござりましたらう。
 大阪の天保山を切つたのも近頃のことでござります。夫の安治川を切つた人は、実に日本に取つては非常な功蹟を為した人であると思ひます。安治川がある為に、大阪の木津河の流をコツチに取りまして、水を速くして、それが為に水害の患を取除て仕舞つたばかりでなく、深い港を拵へて九州四国から来る船を悉くアスコに繋ぐ様にしたと云ふのでござります。又秀吉の時代に切つた吉野川は、昔は大阪の裏を流れて居つて、人民を艱まして居つたのを、堺と住吉の間に開鑿して仕舞ひまして、それが為に大和川の水害と云ふものがなくなつて、何十ケ村といふ村が、大阪の城の後ろに出来ました、是又非常な事業です。それから有名の越後の阿賀川を切つたのでござります。実にヱライ事業でござります。有名の新発田の十万石、今は日本に於きまして、多分富の中心点であるだらうと云ふ所でござります。是等の大事業を考へて見たときに、私に起る所の観念は、若し金を後世に遺すことが出来ぬならば、私は事業を遺したいとの観念です。又土木事業ばかりでなく、其他の事業でも、若し我々が精神を籠めてするときは、我々の事業は、丁度金に利息が付き、利息に利息が加はつて来て、段々多くなつて来る様に、一の事業が段々大きくなつて、終りには非常な事業となります。事業のことを考へます時に、私は何時でも有名のデビツト、リビングストンのことを考へないことはない。それで諸君の中、英語の出来るお方は、私は禾さ蘇格蘭のプロフヱツサーブレーキの書いた Life and Letters of David Livingstone と云ふ本を読んで御覧なさることを勧めます。私一個人に取つては、聖書の外に、私の生涯に大刺撃を与へた本は二つあります。一つはカーライルの「コロンウエル伝」であります。其事に就ては、私は後に御話を致します。それから其次に、此(266)ドクトル、ブレーキの書いた「デビツド、リビングストン」と云ふ本です。それでデビツド、リビングストンの一生涯がドウ云ふ有様であると云ふと、私は彼を宗教家と見るよりは宣教師と見るよりは、私は大事業家として尊敬せざるを得ません。若し私が金を溜めることが出来なかつたならば、土木事業を起すことが出来ぬならば、私はデビッド、リビングストンの様な事業をしたいと思ひます。アノ人は蘇格蘭のグラスゴーの機屋の子供でありまして、早い時からして、公共事業に非常に注意しました、「何処かに私は」……デビツド、リビングストンの考へまするに……「何処かに私は一事業を起したい」と云ふ考で、始めは支那に往きたいと云ふ考でありました。其望を以て英国の伝道会社に訴へた所が支那にやる必要がないと云つて許さなかつた。遂に亜弗利加に這入つて、三十七年間自分の命を亜弗利加の為に差出し、始めの中は重もに伝道をして居りました。けれども彼は考へました、亜弗利加を永遠に救ふには、今日は伝道ではない。即ち亜弗利加の内地を探※[手偏+僉]して、亜弗利加の地理を明かにし、亜弗利加に商売を開いて勢力を与へねばならぬ。サウすれば伝道は其結果として必ず来るに相違ない。そこで彼は伝道は止めまして、探※[手偏+僉]家になつたのでござります。彼は亜弗利加を三度縦横に横ぎり、解らなかつた湖水も解り、今迄解らなかつた河の方向を定められ、それが為に色々の大事業も起て来た。併ながらリビングストンの事業はそれで終らぬ スタンレーの探※[手偏+僉]となり、ヘル ピーテスの探検となり、チヤンバーレンの探※[手偏+僉]となり、今日の所謂亜弗利加問題にしてリビングストンの事業に原因せぬものはないでござります。コンゴ自由国、即ち欧米九ケ国が同盟しまして、プロテスタント主義の自由国を亜弗利加の中心に立つたのも矢張りリビングストンの手に依つたものと言はなければなりませぬ。
 今日の英国はエライ国である。今日の亜米利加の共和国はエライ国であると申しますが、それは何から始つた(267)らうと度々考へて見る。それで私は尊敬する人に就て、少しく偏するかも知れませぬが、若し偏して居つたならば其様に御裁判を願ひます。けれども私の考へまするには、英吉利の今日大きい訳は、能く其天職を全うして居る訳は、英吉利にピウリタンと云ふ党派が起つたからである。亜米利加に今日の様な共和国の起つたと云ふものは何であるか、英吉利にピウリタンと云ふ党派が起つた故である。併しながら此世にピウリタンが大事業を遺したと云ひ、遺しつゝあると云ふものは、何であるかと云ふと、何でもない。此中にピウリタンの大将が居たのである。夫のオリバー、クロムウエルと云ふ人の事業は、アノとき彼が政権を握つたのは僅か五年でありましたけれ共、彼の事業はコロムウエルが死んで仕舞つて全く終て仕舞つた様でござりますけれども、サウでない。コロムウエルの事業は今日の英吉利を作りつゝあるです。而かのみならず英国がコロムウエルの理想に達するにはズツト未来にあることだらうと思ひます。彼は後世に英国と云ふものを遺した。合衆国と云ふものを遺した。アングロサクソン民族が豪太利亜を従へ、南亜米利加に権力を得て、北亜米利加を支配する様になつたのも彼の遺事と言はなければなりませぬ。
 
     第二回
 
 昨晩は後世へ我々が遺して逝くべきものに付て先づ一番に金の事をお話を致し、其次に事業のお話を致しました。所で金を溜める天才がなし、其を使ふ天才がなし、且又事業の天才もなし、又事業をなすには社会の位地もいります。我々が県令になるか知事になりますれば事業は出来ますけれ共、併ながら其位地の無い時には我々が此世の中に事業は出来ない。夫故に事業を為すには我々に神から受けた特別の天才がいるばかりで無く、又社会(268)上の位地がいる。此事丈けは我々こゝに許さねばならぬ。アノ人は天才があるのに何故なんにもしないで居るかと云つて攻めますけれ共、夫は度々起る酷なる攻方と思ひます。其人が位地を得ますと随分詰らない者でも大事業を致すものであります。位地がありませぬとエライ人も志を抱いて空しく山間に終つて仕舞つた人もあります。夫故に事業を以て人を評する事は出来ないといふ事は明かな事だらうと思ひます。夫故に私に事業の天才もなし、又位地もなし、友達もなし社会の賛成もなかつたならば、私は身を滅して死んで仕舞ひ、世の中に何も残す事は出来ないかと云ふ問題が起つて来る。それで若し私に金を溜める事が出来ず、社会が私の事業をする事を許さぬければ、私はマダ一つ遺すものを持つて居ます。何んであるかと云ふと、私の思想を遺して置きます。若し此世の中に於て私が実行する事が出来なければ、私は実行する精神を、其思想を筆と墨を以て紙の上に遺す事が出来
る。或はサウでなくとも、其に似た様な事業がございます 即ち若し私が此世の中に活きて居る間に、事業をすることが出来なければ、私は青年を薫陶して私しの思想を若い人に継いでサウして其の人をして私の事業をなさしめる事が出来る。即ち之を短く云いますれば著述をすると云ふことであります。著述をする事と学校の事と二つをこゝで論じたい、大分時がかゝるから只其思想を遺すといふ事に付て私は文学的に私の観念をお話したいと思ひます。則ち我々の思想を遺すには今の青年に我々の志を継いで往くのも一つの方法でございますけれ共、併ながら思想其物丈けを遺して往くには、文学に依る外無い。夫で文学といふものゝ要は全くそこにあると思ひます。文学といふものは我々の心に兼々抱いて居るところのものを後世に伝へる道具に相違ない。夫が文学の実用だと思ひます。それで思想の遺物といふものゝ大なる事は我々能く知つて居る事であります。思想の此世の中に実行されたものが事業です。我々が此世の中で実行する事が出来ないからして、種子丈けを置いて逝かう、「私(269)は恨を抱いて慷慨を抱いて地下にくだつたけれ共汝あとから来る人々よ折があつたら私の考を実行して呉れ」と後世に訴へる。夫で其遺物の大いなる事は実に甚しいものであります。昔し我々の能く知つて居ります詰らない所の漁夫や或は誠に世の中に知られない人々が新約聖書といふ僅かな書物を書いた。此処に居る人にはお話する程の事は無い皆御存じであります。山陽といふ人は勤王論を作つた人であります。先生はドウしても日本を復活するには日本をして一団体にしなければならぬ。一団体にするには日本の皇室を尊で夫で徳川の封建政治をやめて仕舞つて、夫で今日謂ふ所の王朝の時代にしなければならぬといふ大思想を持て居つた。併ながら山陽は其を実行しやうかと思つたけれ共、実行しない。山陽程の先見の無い人は夫を実行しやうと思つて戦場の露と消た。山陽はコスかつた。迚も今日は出来ないと思つたから、自分の志を日本外史に述ぺた。そこで日本の歴史を述べ、殊に王室を保護する為に今日の歴史は書かなかつた。外家の歴史を書きまして其中にハツキリと云はず只勤王の精神を以て源平以来の外家の歴史を書いて我々に遺して呉れた。今日の王政復古を持来したものは何であるかならば外の多くの人が云ふ通り、山陽の日本外史が日本を拵へたのであります。山陽は其思想を遺して日本を復活さした。今日の王政復古前後の歴史を悉く調ぺて見ると山陽の事業は非常に多いと思ひます。私は山陽の外のことは知りませぬ。アノ人の私行に付ては二つ三つ不同意な所があります。アノ人の国体論や兵制論に付ては不同意であります。併ながらアノ山陽の一つの Ambition 即ち私は今世に望む所は無いけれども来世の人に大に望むところがあると云つた慾望は私は実に山陽を尊敬して已まざるところであります。乃ち山陽は日本外史を遺物にのこして、サウして死んで仕舞い、骨は洛陽東山に葬つてありますけれ共、日本外史から新日本国は生れて来ました
(270) 英苦利に今からして二百年前に痩ッこけて背の低い始終病身な一人の学者が居た。夫で此人は世の中の人に知られないで、何も用が無い者と思はれて、始終貧乏して裏店の様なところに住つて、アノ人は何をするかと云つて人から云はれる位世の中に知れない人で、何も出来ない人であつたが、一つの大思想を持つて居た人であります。其思想といふものは人間といふものは一箇人といふものに非常な価値がある、又一箇人といふものは国家よりか大切なものであるといふ大思想を持つて居た人であります。夫で其十七世紀の中頃に於ては其説は社会の正反対の説であつた。アノ時分に欧羅巴では国家主義で立てなければならぬ。伊太利なり、英吉利なり、仏蘭西なり、独逸なり、皆国家的の精神を養はなければならぬ。国家といふ団体に付て思想を傾けて居つた時でございます。其時に今の自分が仮令ドノ様な権力がある人であらう共、自分の信ずるところの箇人といふものが、国家より大切であるといふ考を世の中に幾ら発表しても、実行は出来ないと思つて、私かに裏店に居る時に本を書た。アノ人は御存じでありませう ジヨン、ロツクであります。其本は Human Understanding であります。然るに此本は仏蘭西に往きまして、ルウソーが読んだ、モンテスキユーが読んだ、ミラボーが読んだ サウして其思想が仏蘭西全国に行渉つて、遂に千七百九十年仏蘭西の大革命が出て来まして、仏蘭西の二千八百万の国民を動かした。夫が為に欧羅巴中が動き出して此十七世紀の始に於てもジヨン、ロツクの本で欧羅巴が動いた。夫から合衆国が生れた。夫から仏蘭西の共和国が生れて来た。夫から匈牙利の改革があつた 夫から伊太利の独立があつた。実にジヨン、ロックが欧羅巴の改革に及ぼした影響は非常であります。其結果を日本で御互が感じて居る我々の願ひは何であるか。個人の権力を増さうといふのが願です。何処まで実行することが出来るか其は又問題でございますけれ共、何しろ願ひであります。個人といふ勢力を得たのだ。そこで勿論ジヨン、ロック……前にも(271)サウ云ふ思想を持つた人はあつた、併ながらジヨン、ロックは其を形に出して Human Understanding といふ本を書いて消へて仕舞つた。併し其人の心は今日我々の中に働いて居る。ジヨン、ロツクは身体も弱いし、社会の位地も極く低くあつたけれ共、実に今日は欧羅巴の支配人となつたと思ひます。
 夫故に思想をのこすといふことは大事業であります。若し我々が事業をのこすことが出来ぬならば、思想をのこしてサウして将来に至つて我々の事業をすることが出来ると思ふ。そこで私は此処で御注意を申して置かねばならぬことがある。我々の中に文学者といふ奴が起つた、誰でも筆を把つて、サウして雑誌か何かに批評でも云へば、夫が文学者だと思ふ。夫で文学といふものは惰け書生の一つの玩具《おもちや》になつて居る。誰でも文学は出来る。夫で日本人の考に文学といふものは誠に気楽なものに思つて居る。山に引込んで文筆に従事する抔は実に羨しい様な考になつて居る。
 福地源一郎君が不忍の池の脇に別荘を建つて日蓮上人の脚本を書いて居る。夫を他から見ると大変風流に思ふ。又我々が文学者といふ生涯を考へて見ますと、文学者といふ生涯はドウ云ふ生涯であるだらうと思ふて絵艸紙屋へ行て見ると絵がある、ドウ云ふ絵であるかといふと赤く塗つてある御堂の中に美しい女が机の前に座つて居つて向ふから月が上つて来ると筆を翳して月を観て居る。何であるかといふと紫式部の源氏の間である。アレが文学者と思つて居る。夫で文学と云ふものはソンナものであるならば後世の遺物でもなくして返て後世の害物です。成程源氏物語といふ本は美しい言葉を日本に伝へたかも知れませぬ。併し源氏物語が日本の士気を鼓舞することの為めに何をしたか。何もしないばかりでなく我々を女らしく意気地なしにさせた。アノ様な文学をして我々の中に根コソギに絶たしめたい(拍手)アノ様な文学ならば実に我々をしてカーライルと共に文学といふものは一(272)度も手を附けたことないといふことを世界に誇らしめたい。文学はソンナもので無い。文学は我々が此世界に戦争する時に方つて、今日戦争することは出来ないから未来に戦争しやうといふのが文学であります。夫故に文学者が机の前に立ちます時には即ちリーテルがウオルムの会議に立つた時、ポウロがアグリツパ王の前に立つた時クロムウヱルが剣を抜いてダンバーの戦場に臨んだ時と同じことであります。此社会、此国を改良しやう、此世界の敵、悪魔を平げ様と云ふ戦争をするのであります。ルーテルが室の中に這入つて物を書いて居た、悪魔が出て来た。そこでルーテルは墨壺《インクスタンド》をぶツつけた。歴史家に聞くと之は本当ではないと云いますが、サウ云ふ話が残つて居る。併しながらアレが文学です。我々は外のことで事業をすることが出来ないから、インクスタンドを以て悪魔にぶツつけてやるのである。事業を今すると云ふでは無い。将来、未来までに我々が戦争を続けると云ふ考から事業を筆と紙にのこして、サウして此世を終らうと云ふのが文学者の持つて居る Ambition であります。夫で其贈物、我々が我々の思想を筆と紙にのこして将来に贈るといふことは実に文学者の事業でありまして、若し神が我々に其を許しますならば、我々は感謝して其贈物をのこしたいと思ふ。有名なウルフ将軍がキーベツキの町を取る時にグレーの Elegy を歌ひながら云つた言葉があります「此キーベツキを取るも私は寧ろ此 Elegy を書きたい」。勿論 Elegy は過激なる所謂ルーテル的の文章ではない。併ながらアレが英吉利人の心、ウルフ将軍の様な心をドレ丈け慰めたか。其実に今日までの英吉利人の勇気をドレ丈け英舌利人に与へたか知れない。夫で或人はトーマス、グレーを評して云ふにトーマス、グレーは有名な学者だ、アノ時分の人でアノ位総ての学問に達した人は殆ど無かつたさうであります。英吉利の文学者中で博学多才と云つたならば多分トーマス、グレーに及んだ者は無からうといふ批評であります。併ながらトーマス、グレーは何を遺したか。アノ人の書いた本は(273)二つ集めたらコンナ位(手真似にて)の本で殆ど二百ベーヂか、三百ぺージもありませう。其中で此先生の書いたものは外にもありますけれ共是ぞといふて大作はありませぬ。トーマス、グレーの後世への遺物は何も無い、只 Elegy といふ三百行ばかりの詩であります。夫でアノ人は消へました。四十八年の生涯といふものは Elegy を書くので終つて仕舞つた。併ながら多分英吉利の国民の続く間は、英吉利の国言葉が話されて居る間は、Elegy は消えないであります。アレ程多くの人を慰める、殊に多くの貧乏人を慰める、世の中に全く容れられない人を慰める、多くの志を抱いて其を世の中に発表することの出来ない者を慰めるものはない。アレに依つてグレーは万世を慰めつゝ往く。我々は実にグレーの運命を羨むでございます。総ての学問を四十八年間も積んで往つた人が只三百行位の詩をのこして死んだといふては少さい様でございますが、実にグレーは大事業をした人と思ひます。有名なるへンリー、ビーチヤーが云つた言葉に……私は決してビーチヤーが小さい事を針小棒大にした言葉では無いと思ひますけれ共、斯う云つて居る……「私は六十年か七十年の生涯を私の様に送つたよりか寧ろジヨン、ウエスレーの書いた、「ジーザス、ラバー、オフ、マイソール」の讃美歌一篇を作つた方が宜ひ」と申しました。チヨツト考へて見ると只ジヨン、ウエスレーを専敬した言葉で、決してビーチヤーが心中から吐き出した言葉では無いと、或時は思ひますけれ共、併ながらアノ歌を私共は幾度か幾度か繰返してサウしてアレを歌つて見まして、ドレ丈の心情、ドレ丈の趣味ドレ丈の希望が這入つて居るかといふ事を見た時には、或はビーチヤーの云つた事が本当かも知れない。ビーチヤーの大事業も決してアノ一つの讃美歌程の事業はして居ないかも知れませぬ。夫故に若し我々に思想がありますならば、若し我々が其直接に実行する事が出来ないならば其を紙に写しまして我々の思想を後来にのこしますといふ事は大事業ぢや無いかと思つて居ります。文学者の事業といふものは夫故に(274)羨むべき事業である。サウ云ふ事業ならば或は我々も其を実行する事が出来る。
 夫からサウ云ひますと諸君の中に又斯う云ふ人があります。ドウモ併ながら文学杯は私共には迚も出来ない。ドウモ私は今まで筆を執つた事が少い。又私は学問が少い。迚も私は文学者になる事が出来ないといふ失望心が起る。夫で源氏物語を見て、迚もこう云ふ流暢な文は出来ないと思ひ、マコーレーの文を見て迚も之を学ぶ事は出来ぬと考へ山陽の文を見て、泣もコウ云ふものは書けないと思ひ、ドウしても私は文学者になる事は出来ないと云つて失望する。文学者特別の天職を持つた人で迚も我々平凡の人間に出来ることではないと思ふ人があります。其失望は何処から起つたかといふと、前にお話した柔弱的の考でございます。乃ち源氏物語的の文学思想であります。文学といふものはソンナものでは無い。文学といふものは我々の心の有の儘を云ふのです。我々は外の事を聴きたくない。ジヨン、バンヤンといふ人はチツトモ学問の無い人であります。若しアノ人が読んだ本があるならば、タツタ二つの本を読んだ、即ちバイブルとフオツクスのかいたブツク、オフ、マータースといふ此二冊を読んだ。今ならばアノ本を読む忍耐力のある人は無い。我々は札幌で読んだ、十ペ−ヂ位読むと後は読む勇気が無い。殊にクエーカーの書いた本でありますからグランマチカル、ミステーキが沢山ある。其を完全に読んだ人はアノ人であります。「私はプラトーの本もアリストートルの本も読んだこともない、昔しの本を読んだ事はない、只イエス、キリストの恩恵《めぐみ》に預つた憐れなる罪人であるから、只我思ふ其儘を書く」と云つて、そこで Pilglim's Progress といふ本を書いた。それで其本は今日は多分英吉利の文学批評家中第一番といふ人……此間死んだ仏人テーヌといふ人であります……其人は何と云つたかといふと「多分純粋といふ点から英語を論じた時にはジヨン、バンヤンの Pilglim's Progress に及ぶ文章は無い。是は全く外からの雑りが無い。最も純粋なる(275)英語といふものは是である」と申しました。何であるかといふと無学者の書いた本です。夫で若し我々にジヨン、バンヤンの精神がありますならば、即ち吾々の後来に伝べき思想といふものは他人から聞いた詰らぬ説を伝へるでなく、自分の持つた神学説を伝へるでなくして、私は斯う感じた、私は斯う苦んだ、私は斯う喜んだといふことを書いたならば、世界の人はドレ丈け喜んで読むか知れませぬ。今の人が読むのみならず、後世の人も実に喜んで読みます。私は時があつたら述べやうと思ふた「真面目ならざる宗教家」といふことも此処で凡そ解る。即ちバンヤンは実に「真面目なる宗教家」であります。心の実検を真面目に顕はしたものが第一等の文学であります、夫だによつて吾々の中に文学者になりたいと云ふ観念があるならば、バンヤンの心を持たしめよ。アノ心を持つたならば、実に文学者になれぬ人はないと思ふ。
 今此処に丹羽さんが居ませぬから少し丹羽さんの悪口を云ひませう(笑声起る)……後で吩附《いひつけ》てはイケマセンよ(大笑)丹羽さんが青年会に於て「基督教青年」といふ雑誌を出した。夫でアノ雑誌を何でも私のところへ大分送つて来た。そこで此前東京へ出ました時に、先生が『ドウです内村君あなたは「基督教青年」をドウお考へなさいますか』と問はれたから私は真面目に又明白に答へた『失礼ながら「基督青年」は私の所へ持つて来ますと私は直でアレを厠へ持つて往つて置いて来ます』。所が先生大変怒つた。夫から其訳を云つたです。アノ「基督教青年」を私が汚穢《きたな》い用にもちいるのは、何であるかといふに実に詰らぬ雑誌である。何故詰らぬかといふと、アノ中に名論卓説が無いから詰らぬといふたのでは無い。アノ雑誌の詰らない訳は、青年が青年らしく無いことを書くからである。青年が学者の真似をして、詰らない議論をアツチからも引き抜き、コツチからも引き抜いて、夫を鋏刀《はさみ》と糊でくツつけた様な論文を出すから読まぬ。若しアノ青年が青年の心の儘を書いて呉れたならば、私(276)はアレを大切にして年の仕舞になつたら立派に表装して綴ぢ込んで、私の「ibrary《書函》の中の最も価値あるものとして遺して置かうといふことを約束しました、夫からアレは大分改良になつた様であります。夫です。私は名論卓説を聴きたいで無い。私の欲するところは、社会の欲するところは、女よりは女の云ふ様なことを聴きたい、男よりは男の云ふ様なことを聴きたい、青年よりは青年の思つて居る通りのことを聴きたい、老人よりは老人の思つて居る通りのことを聴きたい。夫が文学です。夫故に只吾々の心の儘を表白して御覧なさい。サウして往けば幾ら文法は間違つて居つても、世の中の人が読んで呉れる。其が我々の遺物です。若し何もすることが出来なければ、我々は我々の思ふ儘を書けば宜い。
 私は高知から来た一人の下女を持つて居ます。非常に面白い下女で頻りに私の所に参りましてから、色々の世話をして居る。或時は殆ど私の母の様に私を世話をして呉れた。其女が手紙を書くのを脇で見て居ますと、非常な手紙です。筆を横に取つて、仮名で、土佐言葉で書く。今あとで阪本さんが出て土佐言葉の見本を諸君に呈するかも知れませぬ(大笑拍手)。随分面白い言葉であります。仮名で書くですから、土佐言葉がソツクリ其儘で出て来る。夫で長い手紙です、実にドウモ読むのに骨が折れる。併ながら私は何時でも其を見て喜ぶ。其女は信者でも何でも無い。毎月三日月様と云ひますと私の所へ参つて「ドウゾ旦那さま六厘銭を」と云ふ、「何に使ふか」といふと、だまつて居る。「何でも宜いから」といふ、やると豆腐を買つて来まして、三日月様に豆腐を供へる。後で聞いて見ると「旦那様の為に三日月様に祈つて置かぬと運が悪い」といふ事です。私は感謝して何時でも六厘差出します(大笑)。夫から七夕様が来ますと何時でも私の為に七夕様に団子だの梨だの柿抔を供へます。私は何時も其を喜んで供へさせる。其女が書いて呉れる手紙は、私は実に多くの立派な学者先生の文学を、六合雑誌(277)などに拝見するよりも喜んで見まする。其が本当の文学で、夫が私の心情に訴へる文学。……文学とは何でも無い、我々の心情に訴へるものであります。文学といふものはサウ云ものであるならば……サウ云ものでなくてはならぬ。夫ならば我々はならうと思へば文学者になることは出来ます。我々の文学者になれないのは筆が執れないからなれないといふのでは無い。我々に漢文が書けないから文学者になれないといふものでは無い。我々に心がこもツて居つて、我々が其心の儘をジヨン、バンヤンがやつた様に綴ることが出来たならば、夫が第一等の立派な文学であります。カーライルの云つて居る通り「何でも宜いから深い所へ入れ深い所には悉く音楽がある」。実にあなた方の心情を有の儘に書いて御覧なさい、流暢なる立派な文学であります。私自身の経験でも私は文天祥がドウ書いたか、白楽天がドウ書いたかと思つて色々調べて然る後に書いたよりは、自分が心の有の儘に、仮名の間違があらうが、文法に合ふまいが、構はないで書いた文は、私が見ても一番宜い文章であつて、外の人が評しても一番宜い文章だと云ひます。文学者の秘訣はそこにあります。其文学は我々がのこす事が出来る。夫故に難有いことでございます。若し我々が事業をのこすことが出来なければ、我々に神様が言葉を下さいましたからして、我々人間に文学と云ふものを下さいましたから、文学を以て我々の考を後世にのこして逝くことが出来る兎も角も事業をなす事が出来る。
 サウ申しますと又斯ふ云ふ疑問が出て来ます。我々は金をためる事が出来ず、又事業をする事が出来ない。夫から又そんならばと云つてあなた方が皆出まして文学者になつたならば、多分活版屋では喜ぶかも知れませぬけれども、社会では喜ばない。文学者の世の中に殖へると云ふことは、只活版屋と紙製造所を喜ばす丈けで、余り社会に益をしないかも知れない。故に若し我々が文学者となる事が出来ず、又なる考もなしバンヤンの様な思想(278)を持つて居つても、バンヤンの様に綴ることが出来ない時には、後世への遺物は無いかと云ふ疑問が起る。其れは私にも度々起つた疑問であります。戌程実に文学者になるには私が思つた通りヤサシイとは思ひますけれども、誰でも文学者になると云ふことは実に望むべからざることであります。例へば学校の先生……或人が云ふのに何でも大学へ這入つて学士の名号を取り、或は其上に亜米利加へでも往つて学校を卒業さへして来れば、夫で先生になれると思ふのと同じことであります。私は度々聞いて感じまして、今でも心に思つて居りますが、私が大変世話になりました、アモウスト大学の教頭シーリー先生が云つた言葉に「此学校で払ふ丈けの金を払へば学者を得ることは幾らでも得られる、地質学を研究する人、動物学を研究する人は幾らもある、地質学者、動物学者は沢山居る、併しながら地質学、動物学を教へることの出来る人は実に少ない。文学者は沢山居る、文学を教へることの出来る人は少い。夫故に此私の学校に三四十人の先生が居るけれ共、其三四十人の先生は非常に貴い。何故なれば此等の人は学問を自分で知つて居るばかりでなく、其を教へる事の出来る人であります」と。是は我々が深く忘るべからざることで、我々が学校さへ卒業すれば必ず先生になれるといふ考を持つてはならぬ。学校の先生になるといふことは一種特別の天職だと思つて居ります。好い先生といふものは必ずしも大学者では無い。大島君も御承知でございますが、私共が札幌に居りました時に、クラーク先生といふ人が教員であつて、植物学を受持つて居りました。其時分には外に植物学者が居りませぬから、クラーク先生と云ふと第一等の植物学者と思つて居りました。アノ人の云つた事は植物学上誤りが無いと云つた位でした。併ながら彼の本国に行つて聞たら、先生大分化の皮を現はした。一体の学者が云ふにクラークが植物学に付て、口を利く杯とは不思議だと云つて笑つた人があります。併ながら兎に角アノ人は非常な力を持つて居る。何であるか、即ち植物学を青年の頭の(279)中へ注ぎ込んで、植物学といふ Interest を起す力を持つた方であります。夫故に植物学の先生としては非常に価値があつた人であります。故に学問さへすれば我々が先生になれるといふ考を我々は持つべきで無い。我々に思想さへあれば、我々が悉く先生になれるといふ考を抛却して仕舞はねばならぬ。先生になる人は学問が出来るよりか、学問はなくてなりませぬけれ共、学問が出来るよりか学問を青年に伝へる事の出来る人でなければ往かぬ。其伝へる事は一つの技術であります、短い言葉でありますけれ共、此中に非常の意味が這入つて居ります。仮令我々が文学者になりたい、学校の先生になりたいといふ望みがあつても必ずしも誰にも望む事の出来るものでは無いと思ひます。
 夫で金ものこす事が出来ず、事業ものこす事が出来ない人は必ずしも文学者先生となつて思想をのこして逝く事が出来るかと云ふに、夫はサウは往かぬ事と思ふ。併ながら今の文学及び我々の思想を他の人に伝へるといふ事は、事業をなすといふ事、金をためるといふことよりか余程やさしいものと思ひます。何故なれば独立で出来る事である、殊に文学は独立的である。今日の様な学校では何処の学校 Mission School を始めとして何処の官立学校でも 我々の思想を伝へると云つても実際伝へる事は出来ない。夫で学校事業は独立事業として随分難い事業であります。併ながら文学事業に至つては社会は殆んど我々の自由に任せる。夫故に多くの独立を望む人は政治界を去りまして宗教界に入り、宗教界を去つて教育界に入り、又教育界を去つて遂に文学界に入つた事は明かな事であります。多くのヱライ人はソコに逃げ場所を持つて居ります。文学は重もに独立の思想を維持する為に最も便益なる場所と思ひます。併ながら前に話した通り必ずしも誰でも入る事の出来る道ではない。
 そこに至つて斯う云ふ疑問が出て来る。文学者にもなれず、学校の先生にもなれなかつたならば、夫ならば私(280)は後世に何ものこす事は出来ないかといふ疑問が出て来る。何か外に事業は無いか。私供も度々夫が為に失望に陥ることがある。モウ是ならば私は何にも遺すものはない。事業家にもなれず、金を溜ることも出来ず、本を書くことも出来ず、物を教へることも出来ない。サウすれば私は無用の人間として、当り前の人間として消えて仕舞はなければならぬが、サウして陸放翁の云つた如く「我死骨即朽、青史亦無名」と嘆じた、アノ悲嘆の声を発して我々が生涯を終るのでは無いかと思ふて失望の極に陥る事がある、然れども私は夫よりモット大きい、今度は前の三つと違ひまして誰にも遺す事の出来る最大遺物があると思ふ。夫は最大遺物であります。金も実に一つの遺物でありますけれ共、私は之を最大遺物と名づける事は出来ない。事業も実に大遺物に相違ない、殆ど最大遺物でございますけれ共、未だ之を本当の最大遺物と云ふ事は出来ない。文学も先刻お話した通り実に貴いものであつて、我の思想を書いた物といふものは、実に後世への価値ある遺物と思ますけれ共、私は之を以て最大遺物といふ事は出来ない。最大遺物といふ事の出来ない訳は一つは誰にも真似する事の出来ない遺物であるから最大遺物といふことは出来ないぢや無いかと思ふ。夫ればかりで無く其結果は必ずしも害のない結果ではない。昨日お話した通り金は用ひ方によつて大変利益がありますけれ共、用ひ方が悪いと害がある、事業に於るも同じことであります。クロムウエルの事業とか、リビングストンの事業は大変利益があります代りに害が一緒にくツついて居る遺物であります 又本を書いた中でジヨン、ロックの書いたものは宜いかはりに、亦悪い所が沢山あります。我々は夫を完全なる遺物最大遺物と名づけることは出来ないと思ひます。
 そんならば最大遺物は何であるか。私が考へて見ますに人間が後世にのこす事の出来る、サウして是は誰にも出来るところの遺物で利益ばかりあつて害のない遺物がある。何であるかならば勇ましい高尚なる生涯だと思ひ(281)ます。是が本当の遺物ではないかと思ふ。他の遺物は誰にものこす事の出来る遺物ではないと思ひます。而して高尚なる勇ましい生涯とは何であるかといふと、私がこゝで申す迄もなく、諸君も我々も前から承知して居る生涯であります。即ち此世の中は是は決して悪魔が支配する世の中にあらずして、神の世の中であると云ふ事を信ずる事である。失望の世の中にあらずして、望みの世の中であることを信ずる事である、此世の中は悲みの世の中でなくして、喜びの世の中であるといふことを我々の生涯に実行して其生涯を世の中の贈物として此世を去るといふことであります。其遺物は誰にも出来る遺物ではないかと思ふ。若し今までのエライ人の事業を我々が考へて見ます時に、或はエライ文学者の事業を考へて見ます時に、其人の書いた本、其人のゝこした事業はエライものでございますが、併し其人の生涯に較ぺた時には実に小さい遺物だらうと思ひます。ポウロの書翰は実に有益な書翰でありますけれ共、併しアレをポウロの生涯に較べた時には、殆ど価値の少いものではないかと思ふ。ポウロ彼自身は此ポウロの書いた羅馬書や、ガラテヤ人に書いたものよりエライ者かと思ひます。クロムウエルがアングロサクソン民族の王国を造つた事は大事業でありますけれ共、クロムウエルがアノ時代に立つて自分の独立思想を実行し、神に己が倚つてアノ勇壮なる生涯をなしたと云ふ、アノクロムウエル彼自身の生涯と云ふ者は是はクロムウエルの事業に十倍も百倍もする社会に取つての遺物ではないかと考へます。私は元来トーマス、カーライルの本を非常に尊敬するものであります。夫で或人には夫が為に嫌はれますけれ共、私はカーライルといふ人に付ては全体非常に尊敬を表して居ります。度々アノ人の本を読んでソウして利益を得、又其に依て刺激をも受けたことでございます。けれ共、私はトーマス、カーライルの書いた四十冊ばかりの本を皆寄せて見てカーライル彼自身の生涯に較べた時にはカーライルの書いたものは実に価値が少いであります。此間カーライルの(282)伝を読んで感じました。御承知の通りカーライルが書いたものゝ中で一番有名なものは仏蘭西革命の歴史でございます。夫で歴史家が云ふのに「英吉利人の書いたもので歴史的の叙事、物を説き明した文体から云へば French Revolution といふ本が多分一番と云つても宜い本であらう。アレは若し一番でなければ一番の中に這入らねばならぬ」といふ批評であります。夫でアレを読む人は悉く同じ感覚を持つたらうと思ひます。実にアノ今から百年ばかり前のことを我々目の前に活きてる画の様に、サウして立派な画人《ゑかき》が書いてもアノ様に書けぬといふ様に、仏蘭西革命のパノラマ(活画)を示して呉れたものはアノ本であります。夫で我々は其本に非常な価値を置きます。カーライルが我々にのこして呉れたものは実に我々の貴ぶところで御座います。併ながら仏蘭西の革命を書いたカーライルの実験を見ますと、アレよりか未だ立派なものがあります。其話は長いけれ共あなた方に話す事を許して戴きたい。カーライルのアレを書くのは殆ど一生涯の仕事であつた。チヨツト見ますと French Revolution の本を見たならば、アノ位の本は誰にでも書けるだらうと思ふ程の本であります。けれ共歴史的の研究を凝してサウしてアノ位広く材料を集めた本は無いと思ひます。実に広く読んだ事には驚くです。是ゆへにアノ本を書くまでには実にカーライルは生涯の血を絞つて書いた本であります。夫で何十年ですか忘れましたが、何十年かかゝつて漸く自分の望みの通りの本が書けた。夫からして其本が原稿になつて罫紙に書いて仕舞つた。夫からして是はモウ直きに出版する時があると思つて待つて居る。其時に友人が来ましてカーライルに遇つたところが、カーライルが其話をしたら「実に結構な書物だ今晩一読を許して貰いたい」と云つた、其時にカーライルは自分の書いたものは詰らないと思つて、人の批評を仰ぎたいと思つて、貸してやつた。貸してやると友人が家へ持つて往つた。サウすると友人の友人がやつて来て、之を手に取つて読んで見て、「是は面白い本だ、一つドウゾ今晩(283)私に読まして呉れ」と云つた。ソコで友人が云ふには「明日の朝早く持つて来い。サウすれば貸してやる」と云つて、貸してやつたら、其が家へ持つて行つて一生懸命に読んで、暁方まで読んだ所が、又あしたの事業に妨げがあるといふので、其をば机の上に抛り放しにして床に就いて仕舞つた。自分は寝入つて仕舞つた。サウすると朝其家の人が起きない中に下女がやつて来て、家の主人が起きる前にストーブに火をたき附けやうと思つて、御承知の通西洋では紙をコツパの代りに用いてクベますから、何か好い反古は無いかと思つて調べた所が机の前に書いたものが大分ひろがつて居るから、是は好いものと思つて、其を皆丸めましてサウしてストーブの中へ入れて火を附けて焼いちまつた。カーライルの二十年程かゝつた French Revolution を焼いて仕舞つた、三分か四分の中に煙になつて仕舞つた。夫で友人が其を聞いて非常に驚いた。何とも云ふ事が出来ない。外のものであるならば、紙幣を焼いたならば紙幣を償ふ事が出来る、家を焼いたならば家を建てゝやる事も出来る、併ながらアノ思想の凝つて居る、アノ熱血を注いで何十年かゝつて書いたものを焼いて仕舞つたのは償ひ様が無い。死んだ者はモウ活きられぬ、夫が為に腹を切つたところが夫れまでゞあります。夫で友人に話したところが、友人も実にドウする事も出来ないで一週問だまつて居つた。何と云つて宜いか解らぬ。ドウモ仕方が無いから、其事をカーライルに云つた。其時にカーライルは十日ばかりボンヤリとして何もしなかつたといふ事であります。流石のカーライルもサウであつたらうと考へます。夫で腹が立つた。アヽ云ふ人でありますから、腹が立つたから歴史抔は引ツぽかして何にもならぬ詰らぬ小説本を読んだ。併しながら其中に自分で己に帰つて云ふに「トーマス、カーライルよ汝は馬鹿野郎である。汝の書いた French Revolution はソンナに貴い者では無い。一番貴いのは汝が此艱難に忍んでサウして再び筆を執つて其を書き直す事である、其が汝の本当にエライ所である。実に其事に(284)付て失望する様な人間が書いた French Revolution を社会に出しても役に立たぬ。夫故にモウ一度書き直せ」と云つて自分が自分を鼓舞して、再び筆を把つて書いた。其話は夫丈けの話です、併し我々は其カーライルの心中に這入つた時には、実に推察の情溢るゝばかりであります。カーライルのエライ事は French Revolution といふ本の為めにエラクなくして、火に焼かれたのに再び其を書き直したといふのがエライ所である。若し其本がのこつて居つたならば、或は其本がのこつて居らずとも、実に後世への非常の遺物をのこしたのであります。仮令我々がイクラやりそこなツてもイクラ不運にあつても、其時に力を回復して我々の事業を捨てゝはならぬ。勇気を起して再び其に取掛らなければならぬといふ心を起して呉れた事に付てカーライルは非常な遺物をのこして呉れた人では無いか。リビングストンと同じでございます。アノ人の亜弗利加探検はエライ事業でありますけれ共、アノ人自身の一生涯は我々に取つて一層価値のあるものであります。此節の弊害は何であるかと云ひますれば、成程我々の国に金がない、我々の国に事業が少い、我々の国に宜い本が無い、其は確かです。併ながら日本人お互に今要するものは何であるか。本が足りないのでせうか。金のないのが不足でございませうか、或は事業が不足でありませうか。夫等の事の不足も固よりない事はございませぬ。けれ共、私が考へて見ると、今日の一番欠乏は life 生命の欠乏であります。夫で此節は頻りに此学問と云ふ事、教育と云ふ事、即ち Culture(修養)と云ふ言葉が大変に我々を動かす。我々はドウしても学問をしなければならぬ、夫でドウしても我々が青年に学問をつぎ込まねばならぬ、後世に教育をのこして後世の人を誡しめ、後世の人を教へねばならぬと云ふ考が起つたのは大変宜い考へではあるまいかと思ひます。夫で若し我々が今より百年後に此世に生れて来たと明治二十七年の人の歴史を研究するとすれば、ドウデせう ズーツト読んで来て云ひませう、成程此処にも学校が建つた、此処に(285)も教会が建つた、此処にも青年会館が建つた、ドウして建つたらうと云つて、段々読んで見ますと、此人は亜米利加へ行つて金を貰つて建つた、或は此人は斯う云ふ運動をして建つたといふ事がある。そこで我々が之を読みます時に「アヽ迚も私にはそんな事は出釆ない、今では亜米利加へ行つても金は呉れまい、又私には其様に人と共同する力は無い、私にはサウ云ふ真似は出来ない、私は迚もサウ云ふ事業は出来ない」と云ふて失望しませう。即ち私が今から五十年も百年も後の人間であつたならば、今日の時代から学校は受継いだかも知れない、教会は受継いだかも知れませぬ。けれ共私自身を働かせる原動力をば貰はなかつた。大切なものをば貰はなかつた。若しこゝに詰らない教会が一つあるとすれば、そのつまらない教会の建物を売つて見たところが殆ど僅かの金の価値しかないかも知れませぬ。併ながら其数会の建つた歴史を聞いた時に、其歴史が斯う云ふ歴史であつた……此教会を建つた人は誠に貧乏人であつた、此教会を建つた人は学問も誠になかつた人であつた、夫だけれ共此の人は己の総ての浪費を節して、総ての慾情を去つて、丸るで己の力丈けにたよつて、此教会を造つたものである。サウ云ふ歴史を読むと私にも勇気が起つて来る。アノ人に出来たならば己にも出来ない事はない、我も一つやつて見やうといふ様になる。
 私は近世の日本の英傑、或は世界の英傑と云つても宜い人のお話を致しませう。此世界の英傑の中に此丁度我々の留つて居る此箱根山の近所に生れた、富士の裾の鉄道の通つて居る所であります。アソコに生れた人で二宮金次郎といふ人があります。アノ人の伝を読みました時に、私は非常な感覚を貰つた、夫でドウも二宮金次郎先生には私は現に負ふ所が実に甚しい。何故かならばアノ二宮金次郎氏の事業はソンナに日本にひろまつては居らぬ。夫でアノ人のした仕事は悉く勘定して見たならば二十ケ村か三十ケ村の人民を救つた丈けに止まつて居る(286)と考へます。併ながらアノ人の生涯が私を益し、夫から今日日本の多くの人を益する訳は何であるかといふと、何でもない、アノ人は事業の贈物にあらずして生涯の贈物を遺した。此人の生涯は既に御承知の方もありませうがチヨツト申して見ませう。
 二宮金次郎氏は十四の時に父を失ひ、十六の時に母を失ひ、家が貧乏にして何もなく極く残酷な伯父に預けられた人であります。夫で一文も銭もなし家産は悉く傾き、弟一人妹一人持つて居つた。身に一文もなくして孤児です。其人がドウして生涯を立つたか。伯父さんの家にある時に、伯父さんの手伝をして居る間に、本が読みたくなつた。サウした時に本を読んで居つたら、伯父さんに叱られた。此高い油を使つて本を読む抔と云ふ事は誠に馬鹿/\しい事だと云つて読ませぬ。サウすると、黙つて居つて、伯父さんの油を使つては悪いと云ふ事を聞きましたから、夫で私は私しの油の出来るまでは本を読まぬといふ決心をした。ドウしたかと云ふと川辺の誰も知らない所へ行きまして、菜種をズツト蒔いた。一ケ年かゝつて菜種を五六升も取つた。夫から其菜種を持つて行つて、油屋へ待つて油と取換へて来まして、夫から其油で本を見た。サウしたところが又叱られた。「油ばかりがお前のものであれば本を読んでも宜いと思つては違ふ、お前の時間も私のものだ、本を読む杯といふ馬鹿な事をするならば宜いから其時間に縄を綯《よ》れ」と云はれた。夫から又仕方がない、伯父さんの云ふ事であるから、終日働いてあとで縄を綯つて……サウ云ふ苦学をした人であります。ドウして自分の生涯を立つたかと云ふに、村の人の遊ぶ時、殊にお祭り日……近所の畑の中に洪水で沼になつたところがある、其沼地を伯父さんの時間でない、自分の時間に其沼地を悉く抜水して水を取つて仕舞つて、そこで以て小さい鍬で畑を拵へて、そこへ持つて行つて稲を植へた。夫からして始て一俵の米を取つた。其人の自伝に拠りますれば、「米を一俵取つた時の私(287)の喜びは何とも云へなかつた。天が姶て私に直接に授けたものにして其一俵は私に取つては百万石の価値があつた」といふて居る。夫から其方法を段々続けまして二十歳の時に、伯父さんの家を辞した。其時に三四俵の米を持つて居つた。夫から仕上げた人間であります。夫でアノ人の生涯を始から仕舞まで見ますと、此宇宙といふもは実に神様……神様とは云ひませぬ、天の造つて下さツたもので天と云ふものは実に恵みの多いもので、人間を助けやう/\とばかり思つて居る。夫だから若し我々が此身を天と地に委ねて、天の法則に従つて往つたならば、我々は欲せずと雖も天が我々を助けて呉れると云ふ考であります。其考を持つばかりでなく、其考を実行した。其話は長うございますけれ共、遂には何万石といふ村々を改良して自分の身を悉く人の為に使つた。旧幕の末路に方つて経済上農業改良上に付て非常な効力のあつた人であります。夫で我々がサウ云ふ人の生涯、二宮金次郎先生の生涯を見ます時に、「若しアノ人にもアヽ云ふ事が出来たならば、私にも出来ない事はない」と思ふのは普通の考、普通の考で非常に価値のある考であります。夫で人にたよらず共、我々が神にたより、己にたよつて、宇宙の法則に従へば、此世界は我々の望む通りに、此世界に我々の考を行ふ事が出来ると云ふ感覚を起さして呉れる 二宮金次郎先生の事業は大きくなかつたけれ共、アノ人の生涯はドレ程の生涯であつたか知れませぬ。私ばかりで無く日本中幾万の人はアノ人から「インスピレーション」を得たでありませうと思ひます。あなた方もアノ人の伝を読んで御覧なさい。「小年文学」の中に「二宮尊徳翁」と云ふのが出て居りますが、アレは詰らぬ本です、私しのよく読みましたのは農商務省で出版になりました五百ペーヂばかりの「報徳記」といふ本です。アレを諸君が読まん事を切に希望する。アノ本は我々に新理想を与へ、新希望を与へて呉れる本であります。実に基督教のバイブルを読む様な考が致します。故に我々が若し事業を遺す事が出来ず共、二宮金次郎的の即ち独(288)立的生涯を窮行して往つたならば、我々は実に大事業をのこす人ではないかと思ひます。
 私は時が長くなりましたからモウお仕舞に致しますが、何時でも私の生涯に感覚を与へる一ツの言葉を皆様の前に繰返したい。茲に我々の中に一人亜米利加のマツサチユーセツトのマウント、ホリーヨーク、セミナリーと云ふ学校へ行つて卒業した方が居りますが、其マウント、ホリーヨーク、セミナリーの女学校は古い女学校であります。大変宜い女学校であります。併ながら若し私をして其女学校を評せしむれば今の教育上殊に智育上に取つては私は決して亜米利加一番の女学校とは思はない。マツサチユーセツトには沢山宜い女学校がございます。スミス女学校といふ様な大きな学校もあります。又ボストンのウエレスレー学校 ヒラデルヒヤのブリモーア学校と云ふ様なものがございます。けれ共マウント、ホリーヨーク、セミナリーと云ふ女学校が非常な勢力を以て、非常な事業を世界にした女学校であります。何故だと云ひますと、(其女学校は此節は大分よく揃つたさうでありますが、此間までは不整頓の女学校でありました)、夫が世界を感化して勢力を持つて居つた事の原因は、アソコにはエライ非常な女が居た。其人は立派な物理学の機械に優つて、立派な天文台に優つて、或は立派な学者に優つて、価値のある魂を持つて居つたメリー、ライオンと云ふ人であります。其生涯を悉く述べる事は出来ませぬが、アノ人が自分の女生徒に遺言した言葉は我々の中の婦女を励さねばならぬ、男子を励さねばならぬものである。即ち私は其女の生涯を度々考へます時には、実に日本の武士の様な生涯であります。義侠心に充ち満ちて居つた女であります。何と云ふたかと云ふに自分の女生徒に斯う云ふた、
   他の人の行くことを嫌ふところへ行け
   他の人の嫌がる事をしろ
(289)是がマウント、ホリーヨーク、セミナリーの立つた土台であります。是が世界を感化した力ではないかと思ひます。他の人のする事を嫌がる事をしろ、他の人の行くのを嫌がるところへ行くと云ふ精神であります。夫で我々の生涯は共に行きつゝあるか、我々の多くはサウでなくして他の人もアヽするから己もやらうと云ふのではないか、他の人もアヽ云ふ事をするから私もサウすると云ふ風ではないか、外の人も亜米利加へ金貰ひに行くから私も行かう、他の人も壮士になるから私も壮士にならう、甚しきは大分此頃は耶蘇教が世間の評判が好くなつたから私も耶蘇教にならうと云ふ様なものがございます。関東に往きますと、関西には何と云ふか知りませぬが、関東には大分宜いものが沢山あります。関西よりか宜いものがあると思つて居ります。関東人は意地といふことを頻りに云ふ。意地の悪い、意地の悪い奴は廻髪《つむじ》が曲つて居ると云ふが、毬栗頭《いがぐりあたま》は直ぐ解る、頭の廻髪がこゝら(手真似にて)斯う曲つて居る奴は必らず意地の悪い。マア大抵人が右へ行かうと云ふと左と云ひ、アヽしやうと云へば斯うしやうと云ふ様な風で、殊に上州人に其が多いと云ひます。(私は上州の人間ではありませぬけれ共)、夫で必ずしも是は誉めべき精神ではないと思ふが、併ながら武士の意地と云ふ奴です。其意地を我々から取除けて仕舞つたならば、我々は腰抜侍士になつて仕舞ふ。徳川家康のエライ所は沢山ありますけれ共、諸君の御承知の通り子供の時に川原へ行つて見たところが、子供の二群が戦さをして居つた。石撃《いしぶつゝ》けをして居つた。其所へ行って見て、家来に人数の少い方を手伝つてやれと云つた。多い方は宜から少い方へ行つて石撃けをやれと云つた。アレ等が徳川家康のエライ所であります。それ何時でも正義と云ふものは少数、正義に立つ者は少数の位地を取って居る。夫で我々のすべき所は何時でも少数の正義の方に立つて、サウして其正義の為に多勢に向つて石撃けをやるものであります。けれ共必ずしも負を取つて行くものではない。其意地です。其精神です。夫は我々の中(290)に皆欲しい。今日我々が正義の味方に立つ時に、我々少数の人が正義の為に立つときに、少く共此学校に来て居る者位は共に起つて貰ひたい。夫でドウゾ我々が後世に物をのこします時にアノ人は力もなかつた、富もなかつた、学問もなかつた人であるけれ共、己の一生涯を己が銘々持つて居る正義の為にヤツテ呉れたと云ふ生涯をのこすことは出来まいか。其は誰にものこすことの出来る生涯ではないかと思ひます。夫で其遺物をのこすことが出来たと思ふと実に我々は嬉しくて溜らぬ。仮令我々の生涯はドンナ生涯であつても……度々斯う云ふことの考は起りませぬか。若し私に華族の関係があつたならば私は大事業が出来はしないかと思ひませぬか。若し私に金があつて大学を卒業し欧米へ行つて磨いて来たならば私にも大事業が出来はせぬかと思ひませぬか。若し私に良い友人があつたならば大事業が出来はせぬかと思ひませぬか。サウ云ふ考は人々に実際起る考であります。然れも種々の不幸に打勝つ事に依つて大事業といふものは出来る、其が大事業であります。夫故に我々は其考を以て見ますと、我々に邪魔のあるのは最も愉快な事であります。邪魔があればある程我々の事業が出来る。勇ましい生涯と事業を後世にのこす事が出来る、兎に角反対があればある程面白い。私はさふ思ふ。我々に友達が無い、我々に金が無い、我々に学問が無いといふのが面白い。我々が神の恩恵を享け、我々の信仰によつて之に打勝つ事が出来ればサウすれば其人は非常な事業をのこすものである。我々が熱心を以て之に勝てば勝つ程、後世への遺物が大くなつて居る。其遺物が沢山に出来る。若し私に金が沢山あつて、位地があつて、責任が少くして、夫で大事業が出来たところが何でも無い。仮令事業は小くても今の総ての反対物に私が逆ふ事によつて、夫で後世の人が私に依つて大変利益を得るに違ひない。色々の不都合、色々の反対に打勝つ事が我々の大事業では無いかと思ひます。夫故にヤコブの様に我々の出遭ふ艱難に就て我々に感謝すべきで無いかと思ひます。
(291) 誠に私の言葉が錯雑して居つて、且時間も少くございますから私の考を悉く述ぺる事は出来ない。併ながら私は今日是で御免を被つて山を降らうと思ひます。夫で来年又再びどこかで御目にかゝる時分までには少くとも幾何の遺物を貯へて置きたい。此一年の後に我々が再び会します時には、我々が何かのこして居つて、今年は後世の為に是丈の金を溜めたといふのも結構、今年は後世の為に是丈けの事業をしたといふのも結構、又私の思想を雑誌の一論文に書いてのこすのも結構、然し夫れよりも一番宜いのは後世の為に私は弱いものを助けてやつた、後世の為に私は是丈けの艱難に打勝つて見た、後世の為に私は是丈けの品性を修練して見た、後世の為に私は是丈けの義侠心を実行して見た、後世の為に私は是丈けの情実に勝つて見たといふ所の話を持て再びこゝに集りたいと考へます。其富を以て我々が年々々々毎日々々々々進みましたならば、我々の生涯は決して五十年や六十年の生涯にあらずして、我々の生涯は実に水の辺りに植へた木の様なもので、段々々々芽を萌き枝を生じて行くものである。決して竹に木を接ぎ、木に竹を接ぐ様な少しも成長しない価値の安い生涯ではないと思ひます。サウ云ふ生涯は実に私が最大希望にして、私の心を毎日慰めて行き、且つ色々のことを務めて行く生涯であります。それで私の今一つの題の「真面目ならざる宗教家」と云ふのは時間がありませぬから述べませぬ。述べませぬけれども併ながら私の精神のある所は皆様に十分お話したと思ひます。即ち我々をして真面目ならしめよ、我々の信じたことを実行せしめよ、我々の実行出来ないことは世の中の人に言ふことが出来ない、我々が考を持つたことを実行するのが真面目な信者です。唯々壮言を吐いて談ずることは何でもないです。幾ら神学を研究しましても、幾ら哲学を読みましても、我々の信じた主義を真面目に実行する所の精神がありませぬ中は、神は我々に取て異国人であります。本体が解らぬ、神を得られぬ、それ故に我々は神の知らしたことを其儘実行するものであ(292)ります。斯うしないじやならぬと思ふたならばあなた方実行なさい。若しあなた方の中に正義と云ふものは勝つものにして不義と云ふものは縦令金があつても負けるものだと云ふことをあなた方が世間に発表なさるならば、それを実行なさいそれを実行して打勝んです。それを称して真面目なる信徒と申すんです。我々をして世の中に何にも遺すことなくとも、我々に世の中に是ぞと云ふて一つの覚えられることがなくとも、アノ人は此世の中に活きて居る間、真面目なる生涯を送つたと云ふことを後世の人に遺したいと思ひます。(拍手喝宋)
 
(293) 〔『後世への最大遺物』再版明治32年11月30日刊〕
 
   再版に附する序言
 
 一篇の基督教的演説、別に之を一書となすの必要なしと思ひしも前発行者の勧告により、印刷に附して世に公にせしに既に数千部を出すに至れり、此に於て余は其多少世道人心を稗益することあるを信じ今また多くの訂正を加へて再版に附することゝはなしぬ、若し此小冊子にして猶ほ新福音を宣伝するの機械となるを得ば余の幸福何ぞ之に如かん。
  明治三十二年十月三十日      東京角筈村に於て 内村鑑三
 
〔『後世への最大遺物』改版大正14年3月13日刊〕
 
   改版に附する序
 
 此講演は明治二十七年、即ち日清戦争のあつた年、即ち今より三十一年前、私がまだ三十三歳の壮年であつた時に、海老名弾正君司会の下に、箱根山上、蘆の湖の畔に於て為したものであります。其年に私の娘のルツ子が(294)生れ、私は彼女を彼女の母と共に京都の寓居に残して箱根へ来て講演したのであります。其娘は既に世を去り、又此講演を一書と成して初めて世に出した私の親友京都便利堂主人中村弥左衛門君もツイ此頃世を去りました。其他此書成つて以来の世の変化は非常であります。多くの人が此書を読んで志を立てゝ成功したと聞きます。其内に私と同じ様に基督信者に成つた者も尠くないとの事であります。そして彼等の内の或者は早く既に立派に基督教を「卒業」して今は背教者を以つて自から任ずる者もあります。又は此書に依つて信者に成りて、基督教的文士となりて、其攻撃の鋒を著者なる私に向ける人もあります。実に世は様々であります。そして私は幸にして今日まで生存《いきなが》らへて、此書に書いてある事に多く違はずして私の生涯を送つて来た事を神に感謝します。此小著其物が私の「後世への最大遺物」の一と成つた事を感謝します。「天地無始終、人生有生死」であります。然し生死ある人生に無死の生命を得るの途が供へてあります。天地は失せても失せざるものがあります。其ものを幾分なりと握るを得て生涯は真の成功であり、又大なる満足であります。私は今より更に三十年生きやうとは思ひません。然し過去三十年間生き残つた此書は今より尚ほ三十年或ひは其れ以上に生き残るであらうと見ても宜しからうと思ひます。終に臨んで私は此小著述を其最初の出版者たる故中村弥左衛門君に献じます。君の霊の天に在りて安からんことを祈ります。
  大正十四年(一九二五年)二月二十四日  東京市外柏木に於て 内村鑑三
 
(312)  『愛吟』
                   明治30年7月25日
                   単行本
                   署名 内村鑑三 纂訳
 初版表紙150×107mm
 
(313)    自序
 
 新躰詩を世に供せんとするは、纂訳者の目的にもあらず、亦た彼の為し得ざる所なり、彼は彼の知る普通の日本語を以て、彼の常に愛誦する欧米詩人の短吟二三十を世に紹介せんと勉めしのみ。
 詩は直訳を許さゞるのみならず、亦之を意訳に附するも甚だ難し、故に之を訳するに惟精神訳の一途あるのみ、是れ書中載する所のカーライルの英訳に係るルーテルの賛美歌を見て推了するを得べし、余の訳の往々原詩の精神だも尽す能はざるは余の深く耻る所なり、然れども全く訳せざらんに比すれば読者に取りて多少の利益なりと信ず。
 余の目的は欧米詩人の作を広く我国読書社界に推薦せんとするにあり、故に訳文に附するに原文其儘を以てし、読者が其美と優とを作者自身に就て知られんが為の便に供せり。
 カーライルの「ダンバーの戦争」はもと散文に成ると雖も其詩歌的性質は已に長く文学社界に承認せられし所なり、原文は載せず。
  明治三十年三月   東京青山寓居に於て 内村鑑三
 
(314)    目次
一 詩は何なる乎          ラマーティン
一 仝               コレリッヂ
一 仝               ワルト、ホイットマン
一 詩人の胸中           ロバート、ラブマン
一 カンゾーナ           サボナローラ
一 無限大             テニソン
一 堅き城は我等の神なり      ルーテル
一 「ロイド、ガリソン」      ローエル
一 短命              ベン、ジョンソン
一 急がずに休まずに        ゲーテ
一 今日              カーライル
一 夕暮              レッケルト
一 エンデイミオン         ロングフエロー
一 航海中             ウイルコックス夫人
一 汝の恐怖を風に任かせよ     ゲヤハート
(315)一 吼よ夜の風         キルク、ホワイト
一 光り輝く賛美の里
一 美はしきジオン
一 世々の岩なる神よ        エドワード、ビカステス
一 充たされし希望         ホヰツチヤー
一 涙               ブラウニング夫人
一 或る詩             無名氏
一 更に高き信仰          ジエームス、バツカム
一 審の日は域拍の光を放ち     ブライアント
一 志望              マリヤン、エバンス婦
一 汝の友             無名氏
一 偉大なる人           プロクトル夫人
一 我の要むるもの
一 ダンバーの戦争         カーライル
一 善き術             無名氏
    附録
一 「海」             自作「地人論」に載す
 
 
(316)    愛吟
 
   詩は英雄の朝の夢なり          アルフホンソー、ラマーテイン
   詩の正当なる反対は散文に非ずして科学なり コレリッヂ
   そは大なる思想が
   アヽ我が兄弟よ、大なる思想が詩人の天職なり ワルト、ホイットマン
 
 
       詩人の胸中
                  ロバート、ラブマン
   彼の胸中に囀づる鳥あり
   宝玉の思想と黄金の語言《ことば》と
   山と牧場《まきば》と家畜の群とは
    皆彼の胸中にあり
   喜と悲と闇と明と
(317)   日向《ひなた》と日陰と昼と夜と
   悪を憎む心と義を愛する念と
   不朽の事業を遂げんとする
   永久不抜の志望と
   癒すべからざる飢渇とは
    皆彼の胸中にあり
 
       カンゾーナ(小歌)
                  サボナ ローラ
   今や賢と良とは翼を収め
    無智は戯れ、衆愚は叫ぶ
   奢侈は淫歌を唱へて耻ず
    哲理は怪訝を説て誇る
     詐偽権柄を悉にし
     陋猥勝利に栄ふ
   我之を見て冀望|裏《うち》に沈む
(318)   惟知るメシヤの来て世を治る時は
   強圧悉く息んで正義の悦ばん事を
 
  アヽ我の霊よ、汝の未だ覓めざる
   紫衣の栄を汝の念頭より絶てよ
  綺羅縉紳の交を遠け
   権門勢家の寵を避け
    阿世の学を斥け
    卑見の人を敵とし
  汝の心奥に聖想の守衛たれ
   アヽ我の霊よ、汝天涯に高く翔る時
   何者も汝の無垢の翼を穢《けが》すべからず
 
註、伊国愛国者サボナローラ廿歳の時の作なりと伝ふ、蓋し彼未だフエレラに於ける祖父の家にありし頃、時の貴族并に紳商社会の淫風乱俗を目撃せし時の感を述べし者なるぺし、後、彼終に意を決してボログナの寺院に退隠せんとして家を出でんとする前夜、彼の腰笛に合して悲曲を奏し、彼の慈母をして哀悼措く能はざるに至らしめしといへるは或は此小歌を奏せしことなるやも知れず、アヽ十四世紀の伊太利、アヽ今日の日本。
 
(319)       無限大       テニソン
     (千八百八十五年十一月刊行「マクミラン」雑誌の載する処)
 
      一
   暗き此世に幾多の庵《いほ》は、
    失せにし人の迹を悲む、
   遠き宇宙に幾多の星は
    消にし民の墓もて廻転る、
      二
   此世の常の歴史なる、
    絶ゆる時なき政治論、
   億々万の目の面前《まへ》に、
    群り騒ぐ蟻の音、
      三
   詐偽は此所《こち》にも彼所《かしこ》にも、
(320)    智者の悲む不信実、
   一人の詐偽を掩はんため、
    幾千万の詐偽の声、
      四
   大経綸や大勲功、
    陸海軍の大勝利、
   正義の為に死し人、
    名なき戦争《いくさ》に失せし人、
      五
   生血に※[者/火]らるゝ無辜の民、
    義人を屠る「正義論」、
   国の破滅を意《おも》はざる、
    自由を衒ふ大束縛、
      六
   栄華の極の宗教家、
    疑惑に迷ふ哲学者、
   奸智に長くる妖僧は、
(321)    幾多の信徒を引き寄する、
      七
   娯楽の果の廃人《すたれびと》、
    昼は光に身を縮め、
   夜は汚辱の魔に駆られ、
    罪の宴遊《うたげ》に意気昂し、
      八
   酒と※[女+搖の旁]婦に耽ける富、
    阿諛と賄賂に頻る権、
   貧より辛き不義の財、
    骨まで潔き義者の貧、
      九
   慕ひし人に連れ添ひて、
    思残れる事はなく、
   妹脊の突いと深く、
    愛づる孫子に家栄へ、
      十
(322)   名利を競ふ国と国、
    小事に鬩《せめ》ぐ村と村、
   死をもて守る義士の節
    火花の如く消ゆる約、
      十一
   瞬《まばた》く間《ひま》の逸楽《たのしみ》に、
    肉と霊とを蕩尽《すく》す人、
   愛に私慾を打消して
    十字に身をば釘《つ》けし彼
      十二
   春と夏と秋と冬と、
    果つることなき世の輪回《りんゑ》、
   国の盛衰、汐の変、
    合せて何の価《ねうち》ある、
      十三
   凡ての哲理、詩歌、科学、
    人の心の種々の状《さま》、
(323)   卑しき物も高き物も、
    穢き物も清き物も、
      十四
   渾《すべて》が墓に終るとならば、
    人の世に在る何故乎、
   無限に吸はれ死に呑まれ、
    意味なき過去と消ん為に乎、
      十五
   軒端に呻吟《うな》る蚊の群乎、
    箱巣に怒る蜜蜂乎、
   アヽ言を休めよ、我は彼を愛せり、
    死者は死なずして生けり、
 
註、末節并に第十一節に於て「彼」と言て「人」或は「者」と言はざるは勿論詩人の崇拝物を指して言へばなり、是れ彼が In Memoriam に於て「強き神の子、不朽の愛」と謳ひしナザレの人を言ひしなり。
 
(324)    堅き城は我等の神なり
                   ルーテル
    堅き城は我等の神なり、
    彼は拠るべき寨堡《とりで》なり、
    我等に臨みし凡ての悪より、
    彼は美事に我等を救はん、
    夫の古よりの悪しき者は、
    今は猛威を悉《つ》くして立てり、
    政権を以て装《よそほ》ひ、
    邪曲の計を施《めぐ》らす、
   世に彼に当る者なし。
 
註、「夫の古よりの悪しき者」Der alte bose Feind、悪魔なり、政権に頼り、邪計を施らし、志士を強圧す、古今東西変ることなし。
 
   若し我等の力に頻らば
(325)   我等は直に失はれむ、
   然れど一人の聖き者の
   我等の為に戦ふあり、
    彼何人と尋ぬる乎、
    イエスキリスト其人なり、
    サバオスの神に在して、
    彼の他に神あるなし、
    彼我等と共に戦ふ。
 
註、「サバオスの神」(Der Herre Zebaoth)、「万軍の主」の意、キリスト崇拝、「新神学者」の嘲弄物、貧叟博士の哲学的(?)戯談の好題目、然れどマルチン、ルーテルの宗教。
 
   たとへ悪魔は世界に充ちて、
   我等を呑まんと企つるも、
   我等は少しも心に留めじ、
   彼は我等に勝つ能はず、
    此地に権を握る者は、
(326)   如何に苛立騒ぐとも、
   我等に害を加ふるを得じ、
   彼の運命は已に定まれり、
   一言以て彼を殺すぺし、
 
註、「此地に権を握る者」、Der Furste dieser Welt' 魔王なり、改革者の一言に急所を刺されて憤恚するの族。
 
   神の勅命《みのり》は已に降れり、
   是を毀つの権威《ちから》あるなし、
   彼は我等の味方なり、
   力と霊とを我等に給ふ、
    我等の生命を奪ふも可《よ》し、
    我等の名誉を毀つも可し
    財《たから》も妻も子も与へん、
    然れど彼等は何も得じ、
    神の聖国《みくに》は竟に仆れず、
(327)註、「彼等」(Sie haben's kein Gewinn)、魔族を云ふ、義人を殺して勝てりと信ずる類。
 
    ロイド、ガリソン
                   ローヱル
   隘《せま》き部屋に友なく名なく、
    活字を拾ふ貧しき青年、
   場所暗くして装飾《かざり》なし、
    然れど自由は此所に醸せり。
 
   賛助の来る目的《めあて》なく、
    双手《さうしゆ》に世界の任を負ふ、
   彼は植字の術を知れり、
    勇気と印刷機械とあり。
   彼の如きは燃《もゆ》る髄《ずい》、
    統系造る中《なか》の真《しん》、
(328)   週囲の冷躰彼に化し、
    燃る焔の熱に湧く、
   アヽ真理よ、アヽ自由よ、汝は昔も今も尚ほ
    馬槽《まふね》の牀《とこ》にはごくまる、(路可伝二章七節)
   夜の関《くわん》の木砕く手は、
    賤の伏屋に人と成る。
 
   渓河を源近く過《よ》ぎる時、
    其行末を推量《はか》り難し、
   貢を数多《あまた》の小川に受けて
    潮の如くに海に臨む。
 
   アヽ小なる端緒《たんちよ》よ、至誠に拠り、
    不撓《ふぎやう》に築きて汝は大にして強し、
          *      *      *
   汝は不義に勝ち楽土を拓き、
(329)    王冠を得て之を戴て耻《はぢ》ず。
 
註、ウイリヤム、ロイド、ガリソン、は黒奴廃止運動卒先者の一人なり、千八百二十六年、即ち彼の二十二歳の頃より頻りに時の政権金権に逆らひ、独力を以て痛く黒奴使役制度を攻撃せり、彼の発行にかゝりし、「リベレ−トル」(放免〔二字傍点〕)なる雑誌は南方諸州の忌み嫌ふ処となり、ジヨルジヤ洲の如きは五千弗の賞を懸けて法律上此雑誌の禁圧を企つるに至れり、然れども勇敢独歩のガリソンなにか臆すべき、彼は発行を続けて益々広く之を散布し、終に千八百六十年の国民的大運動を見るに至れり、雑誌を発行するならば如此き企計と精神とを以てすべし、貴顕の補助金を頼み、俗論の賛助を待つの雑誌記者は大に此米人に学ぶ処ありて可なり。
 
    短命
                   ベン、ジヨンソン
   木の嵩を増すが如く
   伸びて必ず好《よ》き人ならず、
   橿は三百年を経て
   枯れて仆れて丸太たるのみ、
   其日限りの百合の花は
(330)    五月の園にはるか麗はし、
   たとへ其夜仆ふれて死ぬも、
   光輝《ひかり》の草と花とにてありき、
    美は精細の器に現はれ、
    生は短期の命に全し。
 
註、楠正行の生涯、木村重成の生涯、詩人キルク、ホワイトの生涯、美術家ラフイエルの生涯、是皆短くして美なる生涯なりき、齢耳順に垂とし、位人臣を極め、尚も美勲偉功の人世に供するなく、錦繍に纏はれながら終に丸太となりて朽果つ、悲しむべく憫れむべき生涯ならずや。
 
    急がずに、休まずに
                   ゲーテ
   「急がずに、休まずに」、
   是ぞ汝の胸飾《むなかざり》
   心の底の奥に留め、
   浪風荒く吹き捲くも、
(331)   花咲く小径たどるにも、
   世を去るまでの旗章《はたじるし》。
 
   急がずに、心して、
   心の駒の手綱取れ、
   静に思ひ、能く計り、
   決めて全力もて進め、
   急がずに、歳を経て、
   思慮なき行為《わざ》に悔みすな。
 
   休まずに、よく励め、
   過ぎ行く年の足早し、
   何にか朽ざる善き仕事、
   浮世の旅の紀念物、
   遺して我の身は果つも、
   世々に長生《ながら》ふその栄誉。
(332)   急がずに、休まずに、
   静に天の命を待て、
   義務は汝の指南軍、
   何はともあれ正を践《ふ》め、
   急がずに、休まずに、
   闘終へて後の冕《かんむり》。
       ――――――――――
                   徳川家康
   惰らず行かば千里の外も見ん、
      牛の歩のよし遅くとも
 
    今日
                   トマス、カーライル
   茲に白日又来りけり
   浪費せざらん事を勉めよ
   此日永遠より来り
(333)   夜と共に永遠に去る。
 
   人未だ曾て此日を見ず、
   逝て再び之を見る者なし、
   茲に白天又来りけり、
   浪費せざらん事を勉めよ。
       ――――――――――
                   佐久間象山
   日※[日/〓/口]一移千載無再来之今、
   形神既離万古無再生之我、
   学芸事業豈可悠々。
 
    夕暮
                   フリードリッヒ、レツケルト
   天の雲に浸《ひた》されて、
    地は静穏に帰せり、
(334)   晩鐘《いりあひ》の音《ね》に伴はれて
    自然は眠に就けり。
 
    ヱンディミオン
                   ロングフェロー
   登る月に星かくれ
   金《こがね》の如きそのひかり
   彼所此所《あちらこちら》に影撒きて
   青き野原の上に輝る
 
   斯くも静けき宵の間に
   小森の陰に独寝て
   夢にも遇は婀娜神の
   接吻《すゝり》に触れしヱンディミオン
 
   デイヤナの接吻は人の愛
(335)   求めぬ時の贈物
   言はず語らず、知らぬ間に
   深き情の一凝視《ひとみつめ》
 
   アヽ憂に沈むものよ
   アヽ患難《なやみ》と恐怖《おそれ》の下《もと》に
   疲れし頭《かうべ》を低《たる》るものよ
   汝も愛せらるゝなり
 
   如何に運命拙なきも
   如何に此世は淋しきも
   知らぬ情の友ありて
   此身の憂《うき》に応《こた》ふらん
 
註、希臘神話に曰ふ、牧者ヱンディミオン、主神ジュピターに乞ふに紅顔を保ちながら終生を睡眠の中に過さん事を以てす、ジュピター之を容し、彼をしてラトモス山頂に登り、独り眠に就かしむ、女神デイヤナ之を見て夜々降り来て彼を接吻す、デイヤナは月神なり。(336)嗚呼此淋しき世の中、此無情なる社界、今や清士友を得るに難し、然れども世は未だ全く魔族のものに非ず、同情者は存するなり、慰めよ。
 
    航海中
                   ヱラ、ウィルコックス夫人
   風は何れの方より吹くも
   かく吹かましと待つ人あれば
   東よりするも西よりするも
   吹く其風を善《よし》と定めん
   波路を行くは我のみならず
   海原遠く漕ぎ出る
   津々浦々の百千舟
   我に追風吹く時は
   逆波高く捲り来て
   磯根に触るゝ舟もあらん
(337)   然らば我舟行らんとて
   我に方向《むき》好き風を祈らじ
    行るも行らぬもいと高き
    神の指図に任しつゝ
    浪立つ時も凪ぐ時も
    何《い》かなる風の吹く時も
    心安くぞ我が舟の
    梶をば彼の手に委ね
    危き波路過ぎ越して
    我が行く先に着くぞ嬉しき
 
   さらば何かなる風吹くも
   かく吹かましと待つ人あれば
    東よりするも西よりするも
    吹く其風を善と定めん
 
註、曰く保守風、曰く欧化風、保守風吹きしが故に和学者は財産を作り、神主は顕位に登れり、よし之が為めに(338)洋学者は饑餓に泣き、基督信徒は迫害せられしも、幾多の守旧家は幸運を賀し佳節を祝したり、皇天素是れ同仁、豈是に厚くして彼に薄きの理あらんや、吹けよ保守風、帆を挙げよ、神主と和学者、摂理が汝が許す間は汝が栄ふべきの時なり。
 
    汝の恐怖を風に任かせよ
                   ゲヤハート
   汝の恐怖を風に任かせよ
   望んで狼狽《ふため》くなかれ
   神は汝の悲鳴を聞けり
   神は汝の頭を擡げん
 
   暗き雨夜の波路の中に
   神は汝の道を開かん
   彼の時を俟てよ然らば
   夜は喜楽の昼と終らん
(339)   彼の支配は宇宙に亙り
   万物皆彼に従ふ
   彼れ為して恵ならざるはなし
   彼れ導きて光ならざるはなし
 
   汝は未だ彼を解せず
   然れど天と地とは告ぐ
   神は天上に主権を握り
   能く万物を治め給ふと
 
註、パウル、ゲヤハートは独逸国伯林朝廷に事へ、其宮中の説教師として長く職を奉ぜし人なり、然るに終に讒に遇ひ都外に逐放せらるゝに至れり、彼れ冤を訴ふるに所なく、亦歩を向くるの目的地なし、一夜僻陬の旅舘に宿し、夫人の愁歎其極に達す、ゲヤハート彼女を慰むるに術なく、此詩を作て彼女に示す、而して慰諭の言未だ終らざるに二人の紳士の刺を通して彼を見んと欲する者あるに会す、出て彼等に接すればサクソニー国の撰侯より特に彼を迎へん為めに送りし使者なりき、曰ふ侯彼の不遇を聞て迎へてサクソニー朝廷の説教師となさんとすと、彼れ直に走て夫人に告げ、真神の教導の驚くぺきを示す。
 
(340)    吼よ夜の風
                   ヘンリー、キルク、ホワイト
   吼よ夜の風、汝の力を合せよ
    神の大命なしに
   汝は山の松の樹に
    雀のねぐらを乱す能はず
 
余は未だ多く此青年詩人(彼は二十一歳を一期として逝けり)の作を読まず、然れど簡短なる彼の伝記と此一小篇とは彼をして余の永久の友人たらしめたり、是れ馬太伝第十章二十九節に於ける
 二羽の雀は一銭にて售《うる》に非ずや然るに爾等の父の許なくば其一羽も地に隕ること有じ
との基督の言を歌ひし者なり、彼れホワイト少時より懐疑の風に襲はれ、信仰上彼の立脚の地を失はんとせし時此述懐あり大に安寧を得たりと云ふ、哲理的に神を疑ひつゝ心霊的に彼に頼るの状を綴りしものとしては余は他に未だ此の如きを識らず。
 
    光り輝く賛美の里
 
(341)   つみかさなれる雲間を過て
   キリスト信徒の心の空に
   彼方の光は潮の如く
   よろこばしくも心を充たす
   光り輝く賛美の里に
   夥多《あまた》群らがる清き友の
   絶えず奏《かなづ》る響の音は
   はや我等の耳に触れぬ
    川の彼方の岸辺に立て
    我等は遇ふてまた離れじ
    四時変らぬすゞしき夏の
    光り輝く賛美の里に
 
   旅路の終《をはり》くるまでの
   なほ暫時《しばらく》の疲れ足
   夕影暗くなるまでの
   なほ暫時の憂き仕事
(342)   暮るれば床に息《いこ》ひねて
   眠れば夜は直き明けて
   光り輝く賛美の里に
   我等は起てまた眠らじ
    川の彼方の岸辺に立て
    我等は遇ふてまた離れじ
    四時変らぬすゞしき夏の
    光り輝く賛美の里に
 
註、キリスト信徒の未来観念並に之に伴ふ復活の信仰に就ては智者と才子と『新神学者』と青年批評家とを以て満ち充ちたる日本今日の読者の深く余輩を憐み笑ふ処なるべし、余輩の迷や深し、アヽ余輩の迷を憐れめ。
 
    美はしきジオン
 
   天上の美はしきジオン
   我の愛する実はしき城
   真珠の如き美はしき門
(343)   神の在す美はしき宮
   クラニオンに失せし者が(路可伝三十三章三十三)
   我が為に其門を開かん
    ジオンよ、美はしきジオンよ
    神の城なる実はしきジオンよ
 
   光り輝く実はしき天国
   白きを纏ふ美はしき天使《つかひ》
   絶間なき実はしき歌
   響き渡る実はしき琴
   我も賛美の群にまじり
   そこに救主の聖名《みな》をたゝへん
    ジオンよ、美はしきジオンよ
    神の城なる美はしきジオンよ
 
   王キリストの美はしき帝座《みざ》
   天使の歌ふ美はしき歌、
(344)   漂流止んで美はしき休《やすみ》、
   平和の充《みつ》る美はしき家。
   我が眼はそこにイェスを見ん
   我は救主の家に急がん
    ジオンよ、美はしきジオンよ
    神の城なる美はしきジオンよ
 
     世々の岩なる神よ(詩篇九十編に依る)
                   エドワード、エイチ、ビカステス
   世々の岩なる神よ
    爾はとこしなへに
     我の安き隠家なりき
   天地の始より
    今も尚ほ同じ
     世は終るとも
      変らざる君よ
(345)   我の命は小山《をやま》の面《おも》に
     映りて消ゆる影の如し
   或は牧場の朝の露に
    咲きて直ぐ散る花の如し
   寝《ねむ》る間《ま》の夢、旅人の
    一夜語《ひとやがた》りの話種《はなしぐさ》
   うつろひ易き花衣《はなころも》の
    失せて連なき栄なり
 
   寝ることなき我神《わがかみ》
    虧《かく》ることなき光
   我歳月の尽る前に
    我の命数を悟らしめよ
   爾の衿恤《あはれみ》を垂れ
    爾の慈愛《いつくしみ》を降し
   爾の常に恵み給ひにし
(346)   此心をして淋しからざらしめよ
 
    充たされし希望
                     ホヰチヤー
   学校帰りのふたりの女子《むすめこ》
   たがひの目的問ひ合せしに、
   彼女は云へり、妾は女王となりて治めん、
   是女は云へり、妾は広く世界を見んと。
   年経て後に復た会ひし時、
   たがひの位置を問ひ合せしに、
   彼女は云へり、妾は実《じつ》に女王となれり、
   貧しき人の妻にはあれど、
   楽しき家族は妾の民なり、
   実なる夫は妾の王なり、
   愛の勤は妾の律なり、
(347)   そなたは如何に成行きにしや。
 
   是女は云へり、広き世界は昔も今も
   未だ見ぬ国となりてのこりぬ、
   愛と義務との境を越えて、
   妾の足は出しことなし。
   広き世界のその音信《おとづれ》に
   妾は耳を傾けもせず、
   妾の母の病の寝間《ねま》は
   妾の世界にあるぞかし。
 
   両人互に手を取り合せ、
   喜び涙にむせびて泣けり、
   神は幼時の願を聞けり
   我等の望は充たされたりと。
 
(348)    涙
                     ブラウニング夫人
   神に謝せよ、神を祝せよ、
   汝泣くより以上の苦痛を感ぜざる者よ、
   泣くは善し、是れ軽き苦痛なり、
   アダム楽園を逐はれし以来
   是より軽き苦痛あるなし。
   涙? 涙何物ぞ?
   母の守歌聞きながら嬰児《あかご》は藍の中に泣く、
   祝儀の鐘の響く時涙に咽ぶ花嫁子、
   天の美想の降る時詩人の頬に垂る雫、
   神に謝せよ、汝たゞ泣く者よ、
   若し涙に暗みて汝の墓を覓めつゝ
   荒野に独り遑《まよ》ふ時
   天上を仰ぎ見よ、湛へる涙は河となりて、
   擡げし汝の面《おも》を下り、
(349)   天に輝く日と星とは、
   清き汝の眼に映らん、
 
    『或る詩』
                     無名氏
   我のこの世につかはされしは、
   わが意を世に張る為めならで、
   神の恵をうけんため、
   そのみむねをばとげん為めなり、
   なみだの谷や笑の園、
   かなしみは来んよろこびと、
   よろこび受けんふたつとも、
   神のみこゝろならばこそ、
 
   勇者のたけき力をも、
(350)   教師のもゆる雄弁も、
   われ望まぬにあらねども、
   みむねのまゝにあるにはしかじ。
   弱き此身はいかにして、
   そのつとめをばはつぺきや、
   われは知らねど神はしる、
   神に頼《よ》る身は無益《むやく》ならぬを。
 
   小なるつとめ小ならず、
   世を蓋《を》ふとても大ならず、
   小はわが意をなすにあり、
   大はみむねによるにあり。
 
   わが手を取れよわが神よ、
   我行くみちを導けよ、
   われの目的《めあて》は御意《みむね》をば、
(351)   為すが忍ぶにあるなれば。
 
附言、此詩 A Poem(或る詩)と題して米国の一小宗教雑誌に載りしものなり、蓋し作者は身躰虚弱を歎ずるの際、天上よりの慰藉に与かり、其時の感を綴りしものなるが如し、余は少時より是を愛誦し、躰躯の苦痛を慰めし事屡々ありき、訳して拙著「基督信徒のなぐさめ」に載せたり。
 
    更に高き信仰
                     ジエームス、バッカム
   嗚呼神よ、悲惨の道は
    余が爾に到るの経路なりき
   而して今も尚ほ暗黒の裏《うち》に在て
    余は目を閉て惟爾に従ふ
 
   幽陰日光単に爾の聖旨に任す
   悲喜哀楽唯爾の命に従はん
    爾の大図《たいと》に則りて
(352)   余の生涯は聖ならざるを得ず
 
    春の日は琥珀の光を放ち
                     ブライアント
   春の日は墟拍の光を放ち
    若芽|発《ふ》く木と真草を輝《てら》す
   春にも優る笑《えみ》を以て
    萌る青葉を迎へし者は
     今は彼女の墓にあり
     彼女の墓の底にあり
 
   嬋妍《あでやか》なる白き花は
    森の小径に添ふて咲く
   花にも優る手を以て
    そを摘み取りし手弱女《たよやめ》は
     今は彼女の墓にあり
(353)     彼女の墓の底にあり
 
   茂れる森に朝早く
    小鳥群り謡ふ時
   烏にも優る声を以て
    我にその音を伝へ来《き》し
     彼女は今は墓にあり
     彼女の墓の底にあり
 
   はやき頃のその音に
    我が眼に淨ぶ血の涙
   張り裂くばかり我が胸に
    花咲く毎に思出《おもひづ》る
     彼女は今は墓にあり
     彼女の墓の底にあり
 
(354)    志望
                     マリヤン、エバンス婦「ジヨージ、エリオツト」
   我も夫の純潔の域に達し
   憂に沈む者の力の盃となり
   熟き情を伝へ、清き愛を授け
   悪意を交へざる微笑を咲かせ
   至る所に温良の香を放ち
   放て益々心に芳《かむばし》からんことを
   斯くて世に喜の音を奏する
   天上の楽に我も和せん事を
 
    汝の友
                     「インヂヤナポリス、ジヤアーナル」の載する処
   汝の友は覓めずして汝に来るぺし、
   世に彼の愛を購ふの価《あたへ》あるなし、
(355)   汝は一見して彼の汝の友たるを識るを得ぺし、
   汝は直に心を開放して彼と共に語るを得べし、
   健気に彼を迎へよ、善く彼を愛せよ、
   篤く彼を信ぜよ、永久に彼に任せよ、
   真正の友は只一回汝の生路《せいろ》に来る。
 
    偉大なる人
                     アデレイド、プロクトル夫人
   愛の為に至誠《まこと》の心を以て
    惜まず与ふる人は大なり
   然れど愛の為に、臆せず物を受くる人は
    更に大なる人と称《たゝ》へん
 
   我は自由に大過を赦す
    気高き人の前に平伏《ひれふ》す
   然れど赦されて、能く其責に堪ふる人は
(356)   更に気高き人と称へん
 
註、天の与ふるを取らざる者は却て其咎を受く。
 
    我の要むるもの
 
   円満無謬の哲理に非ず
   森厳偉大の教義に非ず
   山なすばかりの富に非ず
   誘ふ笑の力に非ず
   亦鋭利の筆に非ず
      人なり〔三字右◎〕
 
    ダンバーの戦争
                    カーライル著「コロムウエル伝」に依る
   一千六百五十年蘇格蘭人盟を破り、暗主チヤレス二世を立てゝ王となし、英人の自由を奪ひ、再び昔時の強圧を(357)回復せんと計る、コロムウエル直に英軍に将として蘇地に入り、転戦の後竟に慰癒をダンバーの地に求めざるを得ざるに至れり、地は英蘇両国の境を距る遠からず、ゼルマン海に突出する小半島なり、ブロックパルンは其南境を限る渓流なり。
 
   頃は九月十二日
   実の秋はまだ早く
   降りしく雨に道濡れて
   行きかふ雲に月隠る
 
   我等は一万一千人
   敵地に深く攻め入りて
   飢と病に悩まされ
   ダンバー指して引退く
   向はいづこアベの崎
   白耳曼海やレイス湾
   白波|被《かむ》るバッス岩
(358)   入江に潜むベルハーベン
 
   三方海に囲まれて
   余るは西の山つゞき
   ブロクバルンの底深く
   南に通ふ途を絶つ
 
   敵は二万と七千余
   蘇格蘭の華《くわ》を尽し
   レスレー将軍率き具して
   ダウンの岡に陣を布く
 
   『今は遁さぬコロムウェル
   袋の中に獲し鼠
   英吉利勢の運の果
   自由民権こゝに殲《つく》さん』
(359)   海は洪波を揚げて思兢々
   風は悲鳴を奏して望茫々
   仰て天に訴へて月応へず
   伏て地に哭して岩に感なし
 
   知る大能の風に乗て走るを
   信ず神明の山に拠て守るを
   彼一たび命じて浪に声なし
   彼三たぴ令して万軍潰ふ
 
     懼るゝな我が兵《つはもの》
     信ぜよ碑の救を
     祈て怠るな
     火薬を沾《しめ》らすな
 
   十二日の暮つ方、逸に敵軍を見渡せばダウンの岡を下り来て、ブロツクバルンの右岸に陣を張る、之を見しコロムウェル(360)「如何にラムバート、彼の山より降り来りしは我を撃んが為なり、彼の陣地は狭くして大軍を操縦するに便ならず、我より迎へて彼を撃つに若かず、敵の中堅はかしこにあり、我の全力を注集して是を砕けば他は撃ずして潰ゆべし、汝如何に意ふや。」小将ラムベルト
 「余は閣下に同事を語らんと意へり。」
コロムウニル
 「モンクは如何に思ふや。」
大佐モンク
 「閣下の言の如し。」
コロムウェル
 「然らば進撃は明朝払暁と定めん。」
 
   収獲月《とりいれづき》の影暗く
   嘯く秋の風寒し
   明日は命の終かも
   耻と栄《さかえ》の岐路
(361)   祈れや祈れ我が友よ
   今宵限りの世の職務《つとめ》
   明日は自由の血に染みて
   天国《みくに》に神の栄《さかえ》讃へん
 
   「アヽ神よ、此身を再び爾に捧ぐ、爾の聖旨《みこゝろ》を成《なら》させ給へ、此国民を救ひ給へ、爾の僕を殺して爾の聖名《みな》を尊崇《あがめ》させ給へ、アーメン」
   夜は白らみ始めぬ、戦闘の時は到りぬ、ホッジドン先づ進むぺし、痛く敵の右翼を衝け、………ラムベルトは未だ来らざる乎、彼の来る何ぞ遅き、敵の喇叭は鳴れり、アヽラムベルト
   ランベルトはこゝにあり、……喜《よ》し……進軍を吹け……「万軍の神」、「万軍の神」……進め、我の勇者よ、懸れ、主の名に依て、
 
   敵の騎兵は迫りぬ
     鎗を閃かして
   我の騎兵は迎へぬ
     川の真中に於て
(362)   我隊少しく退きぬ
     然れど神は力を賜ひぬ
   我等は取て返しぬ
     敵を捲り上げぬ
 
   モンクの歩兵は続きぬ
     敵の陣は乱れぬ
   我等は民の仇を剪《き》りぬ
     自由の敵を殲しぬ
 
   ゼルマン海にさし昇る
    朝日に山の霧霽れて
   神の聖前に我が敵は
    木の葉の如くに吹き散らさる
 
   ダウンの岡に秋清く
    敵の尸に艸赤く
(363)   山と海とに響かせて、
    神に讃美の声揚る
    (詩篇第百十七編、Bangor《バンゴー》の譜に合して)
     諸の国よ
   汝等ヱホバを讃めまつれ
     諸の民よ
   汝等ヱホバを称《たゝ》へまつれ
    そは我等に賜ふ
   その憐憫《あはれみ》はおほいなり
    ヱホバを讃《ほ》めまつれ
   その真実《まこと》は絶ることなし
 
   斬殺三千、擒獲一万人、我失不充二十、空前絶後之大勝利。
   影を追て実を求めざる者は此の如し、
   権に阿りて民を軽ずる者も亦此の如し、
   神は衆生を愛し無辜を顧み、
   ダンバーに孤軍を拯ふて万国の民に示しぬ。
(364)   神よ爾の敵は皆是の如く亡びよかし、
   亦神を愛する者は日の真盛《まつさかり》に昇るが如くなれよかし。  (土師記第五章三十一節)
 
    善き術《すべ》
                    よむ人しらず
   此世は実に憂き世なり
    人の好意に合ふ難し
   巧に鼓弓弾く人は
    笛吹く人の邪魔をなす
 
   我の度々思ふには
    如何に此世は喜《よ》きぞかし
   若しも我知る人毎に
    我の心を受くるならば
 
   然れど此事叶はねば
(365)    世を経る我の善き術は
   人の言ふ事気に留めで
    義務《つとめ》のまゝをなすにあり
 
   附録
 
    海
                    『地人論』に載する所
   海よ、海よ、我を寛《ひろ》くせよ、
   俗界の権者我を擒にし、
   その古俗と旧習とは我を檻し、
   我をして我が羽巽を伸し得ざらしむ。
   我は海鴎の自由を慕ふなり、
   我は※[辟+鳥]※[乕の異体字+鳥]《かいつぶり》の飛力を羨むなり、
   無窮の霊を有する我は、
(366)   此圧迫狭隘に堪ゆる能はざるなり。
 
   海よ、海よ、我を清くせよ、
   腐敗は平原都城を襲へり、
   山間の仙境亦陋習に化せり、
   浩然の気我今之を全土に求むる能はず。
   洋面到る処酸気多し、
   海上波静かなる時風に香味あり、
   清浄を愛する我の霊は、
   此穢此汚に堪ゆる能はざるなり。
 
   海よ、海よ、我を強くせよ、
   配慮は我の英気を挫けり、
   辛労は我の思惟を圧せり、
   我精我筋将に縮減せんと欲す。
   濤上風に逆ふ時我に胆力生る、
   船頭梶を御する時我に恐怖なし、
(367)   活動を要する我の生は
   此軟此弱に堪ゆる能はざるなり。
 
(383)〔『愛吟』改版大正4年9月4日刊〕
 
〔中屏裏〕   改版に際し此小著を左の人々に献ず
   余を愛して眠りし人
   余の欠点を看遁して余を今猶ほ愛しくれる人
   余と信仰を共にして渝らざる人
   余と共にキリストと偕に苦しまんと欲する人
      千九百十五年八月十日          著者
 
(385)    米国詩人
                     明治30年7月30日
                     『福音新報』109号
                     署名 内村鑑三
 
 記者一夕内村鑑三氏を青山の寓に訪ふ。戸を排して入れば玄関の障子に一枚の半紙を貼付して曰く、多忙に付き当分の中、説教、演説、講話等の依頼を謝絶すと、此一事已にその人物の如何を推察するに足るものあらん。稜骨、電眼、一見して気座ろに人を襲ふを覚ゆ。警句奇想口を衝て出で、或は心胆を寒からしめ、また或は破顔一笑せしむ。胸中常に一種の活火の燃々《ぜん/\》たるものありて、多感多血の性なり。或人曾て氏を評して曰く、彼は一たび悪人なりと信ずればその行動悉く之を悪となし、善人なりと信ずればその行動悉く之を善《よし》となす、余の敢て為す能はざる所と。夫れ或は然らん乎。氏先づ記者に謂て曰く、余は
  近世の人に説教するを好まず、
寧ろ彼等を咀ふ。知己を百年の後に求めて、余が満腔の抱負を談ぜんのみ。爾来余が著述する所の書、皆な僅に一小冊子に過ぎず、故に向後《こうご》三十年を期して大著作を為し、聊か世を稗益して以て斃れん事冀ふと。談偶々一転して
  米国詩人
の事に及ぶ。余居常思らく、米国詩人は英国詩人よりも遙かに偉大なりと。蓋し英国の詩人多くは活動世界を(386)遠つて、山紫水明の間に隠遁するの風あり。スコットのアボツトフオルドの古城に於ける、ウオルヅウオルスのライダル山の幽棲に於ける、テニソンのウイチンハムの閑居に於ける、みな然らざるはなし。然れども米国の詩人は之に反し、普通の生活を営みて、活社会に活事業を担当す。従てその歌ふ所また趣きを異にし、一は悠々月雪花を友とする我邦の所謂詩人なるもの多く、他は近く人間と相親しみて、その生活を歌へり。斯の如く二者の間その趣を異にするに至れる所以の一原因は、或はその社会の組織に基因するものあらん乎。米国は自由の郷にして平民の社会なり、故に才能に従て志を暢ぶるに易し。英国は階級の制、厳にして才を行ひ志を遂ぐること難し、故に勢ひ身を風月に托して以て、心を此に専らにするに至れるならん乎 余はあまりにロングフヱロ−の詩を愛吟せず。されど彼は初ボードイン大学に近世語学の講師となり、後ち移てハーバード大学に仝じく近世語学及び美文学の講師たりき。ブライアントは法律学に暁通し、新聞記者及びその所有主として一生を送れり。其最も著名なる詩はサノトプシスにして、死を歌へる者なり。年の洪水《フラツドオブイヤー》と題せる詩中、人生を逆巻浪の一上一下するに譬へ、佳人才子相携へて忽ち現はれ忽ち没するの状を歌ふ。読来て其想の痛快なる未だ曾て案を叩《うつ》て嘆賞せずんば非ず。其他中央亜米利加の地、雲烟茫々、一目千里、更に際涯を極めざる原野を歌て、天空の漠々たるに適はしき床なりと言へるが如き、また羅馬の旧都に遊び、一夜地上に臥し、土砂勤めき喚んで栄枯盛衰、幾千年の歴史を談るを聞くと言へるが如きは、正に之れ奇想天外より来ると謂ふぺきに非ずや。ホイチヱルは幼にして小作人の丁稚となり、また履屋の小僧となれり。長ずるに及び政治家として立法の事に関係し、非奴隷党の書記となりて国事に勉めたり。その詩多くは人生の活問題を捉へ来りて、人道を発揮せり。潔白優雅、英国詩人の及び難き所なり。ローヱルは、ロングフヱローの後を継て、ハーバード大学に近世語学の講師たり またスペイ(387)ン及び英国に使節たりしことありき。余は道徳的詩歌中、未だローヱルの詩の如く高尚雄大なる想あるを見ず。ホイツトマンは想を重じて形を問はず、在来の詩風を破壊して一新横軸を出せる詩人なり。而して世人カーライルの雄渾偉大なるを畏敬すれども、余はホイツトマンの人物の遙かに物表に亭々として、幾層の高きに在るを見る。
 我国民は未だ米国詩人の真価を知らず、これ実に歎ずぺきことなり。余は特に俳諧師輩の漫りに風流を事として、社会を茶にし、或は悲観的厭世家の徒らに物の哀をのみ歌ひて生活を尊ばざる傾向ある我邦に於ては、米国詩人の如く人生に近き、普通の生活に稗益ある詩歌を紹介して、健全なる詩風の行はれん事を希望する切なり。
 
(403)    基督の復活を祝ふ席に臨みて
                       明治30年4月23日
                       『福音新報』95号
                       署名なし
 
   是れ内村鑑三氏が去る復活日曜日一番町教会に於て演説せられたる大要なり 固より筆記なれば金玉の言を悉く伝ふる能はざるを遺憾とす。
 
 基督の門徒に取りては、基督の復活は人生の一大危機に遭偶せるものなりき。従来の生涯を此に於て、全く破壊し了るべきか。将た又此関門を過りて、更に高尚偉大なる生涯に進むべきか。起んか、倒れんか 進まんか、退かんか。彼等の運命は実に危機一髪の間に決す可りしなり。
 レナンは基督の復活を構造の虚説なりとし、ストラウスは是れ催眠術を施したるなりと駁論す。彼等は基督教を破壊せんとして、先づ鉄槌を復活問題に加へたり。而して一方に於ては信仰の基礎をこの復活の事実に措かんとするものあり。即ち復活問題は保羅の所論に於て天下分目の関ケ原若くは田原坂なりき。
 今の世は殆んど失望の声を以て充さる。新聞の叫ぶ所は何ぞ。巷に相語る所は何ぞ。台湾の官吏は腐敗せり。本願寺の僧侶は腐敗せり。会計検査院は腐敗せり。代議士も亦腐敗せり。腐敗腐敗又腐敗社会は到底駄目なり。救済の策行ふ可らず、改革の道講ず可らず。嗚呼耳にする所ろ総て失望の声ならざるはなし。夫れ人間の運命はかゝる暗澹なる失望の社会に死すぺきものか、将た又其の以上の社会ありて、皎々たる希望の光明輝く所あるか。基督の門徒はその憂憤悲哀遣る方なく、狼狽失望、志鈍り元気阻喪したれども、復活の事実に依りて、新しき希望と新しき勢力を得たり。如此《かく》復活問題は今の社会に在りても、吾等をして理想を高くし、志を励まし、以て道を行はしむる所以にあらずや。
 かく復活問題は進むか退ぞくか、生るか死ぬるかの問題なれば、決して軽々《けい/\》に看過し、等閑に附し去るぺき事に非ず。之を吾等の理性に訴え、学術的に解釈するは大切なりと信ず。
 眠《ねぶ》れる小児の重量は、醒めたる小児よりも重し。生命ある者は生命なき者よりは軽し。此事実はまた復活問題を解する一助となるぺし。身体何となく重くろしく、気鬱し心結ぼれ鉛にても負はせられたる如き感覚ある時に当て、一片の希望(404)湧き来《きた》る事あらんか、小鹿の岩を躍り越ゆるが如く、心気爽かに歓喜満つるものなり。
 生理的心理学に拠りてエメリーは、心気の爽快なると否《しか》らざると、其当時の分泌物《ぶんぴつぶつ》を異にす、恥辱を覚え、本心に叱責せらるゝ時は、即ち毒を分泌し、善を為して歓び充ち心安んずる時は、即ち健康を助くべき薬液を分泌す。若し前者の分泌物を取りてサリシリ酸を混ずれば其色忽ち変じて赤色《sきしよく》を呈すと 是れ実に近代の大発明なり。未だ此理に依りて療養するの法を発明するに至らざれども、是れ偶以て復活問題を解釈するの一助となるなからんや。
 復活日曜日は春の花咲く頃なり。春至れば百花咲き乱るゝとは、吾等の殆んど先天的に思考する所なり。されど必ずしも春には花咲くと定まりたるものにあらず。今日の美はしき桜の花も亦曾ては小さき小梅桜《こうめさくら》なりし時もあらん。年々歳々花相似たりと云ふ 即ち相似たれども去年の花は今年の花に如かず。如此《かく》地球は漸次に善に進み行くものなり。されど是れ唯自然に斯くなるものに非ず、常に新しき勢力の注入せらるゝに由る。即ち神が死物の上に新しき勢力を加へらるゝが故に宇宙は進化発達するを得るなり 夫れ唯ダルビンの言へる如く、生存競争のみ行はるゝに依りて進化する者ならば、物皆な遂に死滅に帰せんのみ。世々桜の花の賞美せらるゝ故に必ずしも今日の美を致すと云ふの理はなからん。神の勢力あり生命ありて独り能く然るのみ。一輪の花も尚ほ神の大能《たいのう》を顕はし其美徳を示す。
 吾等世に在りて常に相衝突し相競争したりとて、焉んぞ能く復活するを得んや。神その勢力を与へ、その生命を注ぐが故に、始めて復活するを得るなり。吾等は神に依つて復活す。
 カノン、ツリストラム我邦に来り、日本人は希望なく、一人として失望の色なきはなしと云へり。然り事実は之を弁護する能はず。実に我社会は希望少なき社会なり。或は云ふ希望は山の奥に在り、茅屋破窓の下に在り、聖人君子又此に隠ると。然れども百方之を探り求めて未だ発見するを得ず、已に希望は山に求む可らず、翻て社会は腐敗と失望の地獄の如し。而して改革の道に暗く、また回天の力及び難し。夫れ是を奈何せんか、幸に生気の宇宙に充てるものあり。百花之によりて爛※[火+曼]たり。此生気やナサレのイヱスに於て世に現はる。吾等若し此偉人に信頼せば此生気を得ん、而して之を以てよく世を改善啓導するを得べけん。吾等元と識浅く力足ら(405)ざるもキリストの精神を受けて、初めて復活し、人生の目的を悟り、死に勝ち失望を制して、能く使命を遂ぐる事を得ん。
 
    時弊談
                    明治30年4月23日
                    『福音新報』95号
                    署名なし
 
  農学士にして某新聞記者なる某氏談話の大略なり
〇拉丁語に Pro Christo Et Patria. 即ちキリストと国の為めと云ふ語あり。基督教徒の中往々にして非愛国者あり。是れ決してキリストに忠信なる者と云ふぺからず。余輩の期する所はキリストの為にせん事なり、又国家の為にせん事なり。その国家の為にするとは一国の天職を完し、其使命を遂げしむるにあり。而して其一国が負ふ所の貴任を成就せしむるは取りも直さずキリストの聖旨を遂行する所以なり。
〇亜弗利加の伝道をして今日の勢に至らしめたるもの、元より直接に伝道に従事せる幾多の宣教師の功労なり。然れども亦其道を備へ、其路線を直せるリビングストーン其人の功労与て力ありと云はざる可らず。如此我邦今日の状態を見るに基督教が社会に戦を挑むに当り一大欠乏を感ずるは、元より未だ完備せるに非ざるも兎に角く歩兵にはあらず、騎兵(406)には非ず、砲兵にも非ず、却て橋渠を架し電信を通ぜしめ、又は鉄道を布かしむる工兵其ものにあり。不充分ながら直接に伝道する者は数多是あり。学枚に教師たる者も少なからず。然れども身を活劇の社会に投じて、政治に文学に工業に商業に、堅固なる基督教主義を実行し、以て間接に斯道を社会に紹介する徒の少なきは、実に我邦の基督教に取りて不幸此上もなき事なり。従来我邦には信徒にしてかゝる社会に生活する者は往々世に諂ひ人に諛ひ我から主義を曲げ節を折る卑怯未練の徒多く、然らざるまでも漸次に其四辺の境遇に感化せられ遂に兜を脱ぐに至るの人多し。故に教会は如此ならん事を恐れ憂ふよりして、成るぺく之を避け消極的の謀をなせり。然れども今日は決してかゝる消極的の謀をなす時に非ず。大に奨励して身を諸般の社会に投じて斯道を行はしめ、以て基督と社会と互にその利益を感ずるに切ならしめざる可らずと信ず。是れ基督教伝播の最も効果ある方法なり。
〇今日我邦の伝道者及び教会に対して無遠慮に批評を下さしめば、学者として最も善く基督教を理解せる者は〇〇君なり。個人的の恩怨は暫く措き、此点に於ては最も尊敬する所なり。其他知名の士にして感服すべき人尠し。寧ろ田舎の名も聞ゑざる伝道者及び信者にして、真に基督教を解得せる者多かるぺし、従て共に道の事を談ぜんとせば此裡に見出さゞる可らずと思惟す。
〇熊本県人の基督教は研究すぺき面白き問題なり。試に花岡山の血判と、札幌農学校に於けるクラーク氏の基督信者の盟約(Covenant of Believers in Jesus)とを比較せば、二者間に大なる差違あるを見るべし。一は政党の結党式を行ふが如く、他は宗教的の誓約を結びたるものなり。熊本県人の基督教は政治的なり。然れども若し熊本県人なかりしならば、基督教が今日の如く世間に聞知せらるゝ事なかりしならん。彼等は吹聴に妙を得たる者なり。随て基督教が蒙りたる弊害も亦決して尠少ならざるぺし。
〇教会内責むぺく悪ふべき行動少なからず。然るに之を成るべくだけ隠密に蔽ひ去らんとするは、抑も教勢不振の原因の一にして、また腐敗の黴菌を培養する所以なり。故に之を厳しく発き出して教規を振粛せざる可らず。
 〔2020年10月15日(木)午後7時27分、入力終了〕