内村鑑三全集5、484頁(英文除く)、4500円、1981.7.24
 
     目次
凡例…………………………………………一
1897年(明治30年)8月―12月
胆汁余滴………………………………………三
民に対する不敬罪 他………………………四三
  民に対する不敬罪
  弟子は師より大なる能はず
  変節の罪と害
  官友社
  人気の変遷
  斯の如き閑職か
主義の価値 他………………………………四九
  主義の価値
  偽善偽善
  小なる欲望
  五斗米
新理想の必要 他……………………………五一
  新理想の必要
  国粋歌
文士の境遇 他………………………………六五
  文士の境遇
  根本的改革
  政府以外の政府
  冀望ある階級
  人為と天為
政界の一奇観 他……………………………八四
  政界の一奇観
  理非を紊るの害
  国民記者に問ふ
吾人の志望 他………………………………九〇
  吾人の志望
  革命の時機は来れり
  ジョン、ハムプデン
友人の弁護に就て……………………………九二
伝記学………………………………………一二三
改革者の決心 他…………………………一四一
  改革者の決心
  九州、日本、世界
憎悪の念 他………………………………一四五
  憎悪の念
  憎悪の念を表する法
警世小言……………………………………一五八
  躊躇する勿れ
  呪語
  最可恐の事
文学局外観…………………………………一七五
川崎巳之太郎編述『実験上の宗教』序……一八三
1898年(明治31年)1月―5月
1897. ………………………………………二一五
新年の盟……………………………………二一八
政治家の銘…………………………………二一九
基督信徒の新年……………………………二二五
天才と品性…………………………………二五五
人を作れ……………………………………二五七
是々非々……………………………………二六八
雪夜独想……………………………………二七二
林間漫録……………………………………二七八
  君子の存在せざる君子国
  偉大なる事
  国体新説
是々非々……………………………………二九〇
  失敗の勝利
  二百有余の不敬事件
赤髯録………………………………………二九二
米国の富(二日の英文翻訳)……………三〇〇
是々非々……………………………………三〇二
  偽善教育
  日本の今日
『月曜講演』………………………………三二三
 月曜講演…………………………………三二四
  第1章 カーライルを学ぶの利と害
  第2章 ダンテとゲーテ
  第3章 米国詩人
  第4章 文学としての聖書
退社の辞……………………………………四二一
別篇
〔付言〕……………………………………四二三
〔通知〕……………………………………四三三
〔参考〕……………………………………四三四
  高野氏を奨励せよ 他(四三四)
  余が今年中の読書(四三七)
  西班牙の文士セルベンテス(四四〇)
解題 ………………………………………四四三
 
(1) 一八九七年(明治三〇年)八月−一二月 三七歳
 
(3)    胆汁余滴
                     明治30年8月1日
                     『世界之日本』18号
                     署名 内村鑑三
 
  「世界の日本」記者閣下、余は閣下に成る論文を約して其約束を履行し能はざるを耻づ、然れども事未だ近き過去に属し、事実有の儘を今日世に公にするは余の少しく憚かる所なり、故に其公開は数年後の未来に譲り、今爰に例の雲助的悪口文字数篇を呈す、閣下若し是を受けて余の為めに江湖に謝する所あらば余の幸福実に大なり。
               東京青山に於て 内村生
 
    平和好きの民
 
 東洋の大哲学者にして日本の大忠臣なる文学博士井上哲次郎氏は曾て日本の君子国たる理由を弁ずるに当て、其歴史の常に平和的にして欧米各国に於けるが如き残忍悲惨の形跡なきを示されたり、然れども平和的なる必しも君子国の徴にあらざるなり、世には|下劣の平和《イグノーブル・ピース》を愛する国民あり、戦争は避くべき者なれども平和の為めに避くべき者にあらず、義は生命よりも重し、正義と真理との為めには身を犠牲に供し、国家の存在を賭しても戦ふべきなり、日本人は往々平和を愛するの余り明白なる大義を犠牲に供する者なり、視よ彼等の称する改革なる者の常に功を奏せずして終る事を、第二高等学校の改革運動然り、本願寺改革運動然り、進歩党の藩閥政府改革差(4)汰然り、改革は唱へらるゝも実行せられず、そは彼等は血戦を怖るゝ者なればなり、戦闘を避るが君子国の持前とならば、余輩は懼る、君子国は終に禽獣国として終らん事を。
 
    四千万のルーテル
 
 『四千万人皆悉くルーテルたるべし』とは本願寺改革派の曾て唱へし所なり、然るに今や一老醜某をも排する能はずして息まんとす、彼れ等は未だルーテルを耳にして、ルーテルを識らず、ルーテルは法王庁の役僧に挙げられんが為めに改革運動を中止せざりしなり、四千万人の法螺吹きルーテルありて一人の真ルーテルあるなし、法主役僧共に祝盃を挙げて可なり。
 
    平和好きの張本人
 
 新日本に於ける平和好きの張本人は勝海舟伯其人なり、彼は一徳川慶喜の生命を救はんが為めに殆んど無条件にて日本政府を薩長人の手に引き渡したり、彼にして若し智に長るが如く義に充実する人ならしめば、彼は一大打撃を掠奪者の上に加へ、縦ひ徳川政府を救ひ得ざりしも薩長政府をして今日の専横を逞しくするを得ざらしめしものを、戦闘は敗北を怖れて避くべき者に非ず、戦ふべきの戦争は敗を認めつゝ戦ふべき者なり、勝と敗とは義の為めにするとせざるとにあり、義の為めにする者は敗れて勝ち、不義の為めにする者は勝て敗る、義は戦はざれば屈せず、然り死すとも屈せず、先づ義を講ぜずして利害を講ず、勝海舟伯は徳川家の利害を講じて日本の義を講ぜざりしなり。其結果たるや今日の堕落政府を胚胎したり、伯の罪亦大なりと謂つべし。
 
(5)    愛国的妄想
 
 日本は特別の国なり、金甌無欠の君子国なり、之に異様の国躰あり、之に特種の道徳あり、之に独特の美術あり、何事も例外ならざるはなし、故に日本は万国の標準を以て規るべからず、欧米の実例に依て照すべからず、日本は世界を同化するに至るも世界は日本を訓化するを得ずと。
 此の如きは今日の日本人大多数が尚ほ唱道確言する処なり、新聞記者之を唱へ、政治家之に和し、小学生徒之を歌ひ、之に賛せざれば日本人視せられざるの感あるに至れり。
 是に於てか日本教と称して異常の倫理学的系統は編み出され、万国歴史の攻究は疎んぜられ、紫式部の源氏物語は愛国的読本として採用せられ、バーク、ゴールドスミッスの作は或は博愛主義を教るの故を以て、或は恋愛を説くてふ理由を以て、教科書としては使用を禁ぜらる、科学にワット、ニユートンの迹を逐ふも、倫理に鎌足正成を仰ぎ、西洋を学ぶに常に実利的観念を以てし、彼の技芸を受けて其精神を却く。
 然れども余の見る処を以てすれば自然は日本の為めに特例を設けず、日本人にして宇宙の大道に遵はざらんか、宇宙は日本の為めに仮借する事なし、是れ技芸学術の区域に於てのみ然るにあらず、政治に於て然り、道徳に於て亦然り、日本の国躰は国民の腐敗より来る国家の衰退を妨げず、日本の美術は民心の堕落を感受せざるを得ず、国家は国民の組成する集合躰なれば、国民にして若し宇宙の大道に戻らん乎、如何なる制度も如何なる俗習も其腐蝕を防ぐ能はず、其過去の歴史に頼り、其祖先の武勇に誇り、奢侈淫逸を顧みざる国民にして永く栄光を保持せし者あるを聞かず、爰に於てか余輩は世界の標準に照らして日本を攻究するの必要を感ずるなり。
 
(6)    『犬の糞』
 
 カーライルの名著「サートル、レサルトス」の主人公は称してトイフェルスドルックと名く、之を訳すれば悪魔の糞の意なり、理想的人物に冠するに糞の字を以てす(爾かも悪魔の)、此字必しも不名誉の語にあらず。
 鶯の糞は粉粧剤として青白男女の争ふて需る処たり、駱駝の糞は燃料とし価値あり、馬糞は園芸学上欠くべからざる者、湿地冷壌に植生の蕃茂を促すには之を除て他に好肥料あるなし、狼の糞は煙火製造上の必要剤なりと云ふ、其他鶏の糞、鳩の糞、牛の糞、豚の糞、兎の糞、各其特効特用あり。
 然れども惟り犬の糞に至りて一の美術的或は経済的価値あるを耳にせず、如何なる廃物利用論者も未だ余輩に教ふるに犬の糞の利用を以てせず、是れ汚穢の代名詞たるに過ず、是を路傍に認めて唾し、是を暗夜に蹈んで怒る、是を洋犬の粋より得るも、是を貴嬢の狆より得るも、犬の糞は品の佳き者にあらず、病める鯨の糞に香料(Ambergris 竜涎)の存する事あり、然れども健全肉食の犬と雖も未ま曾て芳糞を放ちし例を聞かず。
 口さがなき京童子は束髪婦人を呼て犬の糞と称す、そは其留形の此廃棄物に能く類似せるが故なりと、余輩は此悪口の余まりに酷に過ぐるを認む、已に我邦上流淑女の間に採用せられし此新流行髷に対して此誣辱的称号を附す、若し是の如きを女性尊拝の米国に於てせん乎、不敬罪の厳罰は免かるべからざる所ならむ、殊に束髪は我邦新婦人揀択の髷形なり、故に是を嘲るは女性の進路を遮ぎるに邇からむ、女権拡張を笑ふに均しからん、文芸倶楽部既に幾多の女史を見る、女育伝道亦た女将の活動を見る尠からず、佳冠を奉るべき我邦の新婦人に此汚臭嘔吐を催すべき名称を呈す、京童宜しく口と筆とを慎で可なり。
 
(7)    吉野参詣
 
 日清戦争以来頓と減却せし余の愛国心を快復せばやと思ひ、余も観桜時節の流に習ひ、明治廿九年四月某日友人某と吉野観桜と出掛けぬ、そは余は「日本風景論」著者の紹介に依て読めり、
  花より明くるみ芳野の、春の曙見しなれば、もろこし人も高麗人も、大和心になりぬべし、
と、余は思らく、吉野にして若し支那人や朝鮮人を斯くも瞬間に日本化するの秘密力を有するならば、況して日本生へ貫きの余に於てをやと。
 途に函庭的の春日公園を賞し、金剛山下に一夜を明かし、車坂を越て吉野郷に入り、六田淀を渡りて長峯に登れば、眼下に菜摘の清流を眺め、老桜峡路を挟んで早や已に余の眠れる愛国心を喚起し始めぬ、吉野神社の社前を脱帽して通過し、右傍に村上義光の古墳に稽首し、口の千本に朝日には非ずして夕日の香を嗅ぎ、黒門に入り銅の華表を潜り、蔵王堂の石畳を廻りて宿す、後刻※[竹/(エ+おおざと)]を竹林院天皇橋の辺に曳き、遙に延元帝の陵を拝し(余は良心の許可を得て之を為せり)、勝手の社壇に貞和の昔を回顧し、吉水院に太平記的悲憤を醸し、稍再び日本化せられしの感ありて宿に帰りぬ。
 自然的吉野と歴史的吉野とは斯くも著しき日本化するの力を有せり、人物的吉野は如何なりしか。
 巻煙草を噛へ、ポケットに手を入れて桜林の間を逍遥する若紳士は慥かに文治延元時代の直実熱誠なる面貌を留めず、竹林院の丘上は猩々と正覚坊との巣窟かと疑はる、急にして南朝皇居の正面に当り絃声謳歌の喧しく挙るあり、是れ名にし負ふ袖振山に神女の降臨ありて聖主の美曲に応じて歌舞するかと思へば然らず、静御前(8)の法楽の舞に此すればいと雅致を欠く感あり、木寺相摸坊が四尺三寸の太刀の鋒に敵の首を刺し貫き、蔵王堂の広庭に於て『戈※[金+延]剣戟を降らす事電光の如くなり、磐石巌を飛す事春の雨に相同じ』と剣舞せしに此すれば悲壮なる事なし、如何なる魔魅の輩が此聖地を汚すならんと障子を排して矚め見れば、是れなん蓄髯の日本紳士が田舎歌舞妓と戯るゝにてありし、怪声醜歌漸く夜に入りて熄みぬ、忽ちにして一群の野蛮人の余輩の隣室に帰り来るあり、県知事不信任に投票する田舎紳士は他人の安眠妨害の理を弁へず、彼等の喧囂は延て夜半に至りぬ、彼等は婬を語りぬ、慾を誇りぬ、余は馬族に舌を与へしならば斯く語らむと考へたり、話頭は転じて金儲け問題に入りぬ、蓄髯紳士は声を潜めて語りぬ、余は耳を聳て聴きぬ、
  今日余に宛たる郵便は来らざりし乎、………和歌山の銀行員は余の友人……吉野は桜花の名所、全国民の思嚮を惹く所………余輩は茲に日本人の愛国心に訴へて一大事業を起さんと欲す、資本は些少にて足れり、先づ医士と結托し、彼に薬品を調合せしめ、アルコールに和し、製造所を此吉野に定め、青野の銘酒と命名して全国に販売するにあり、君聞き玉へ、日本人にして吉野の桜花を慕はざるはなし、吉野の桜酒とならば愛国的飲料として全国に売れ亘るに至るは理の最も見易きものなり、先づ之を全国有名の酒店に配布し、貴顕紳士の至る毎に吉野の桜の実より製造せしものなりとて薦めなば賞賛を得ざると云ふ事なからん、是れ実に百万円以上の事業なり、
 是を聞きし余の愛国心は全く冷却したれば、余は一首の歌を宿房に止め置き、翌朝早々山を下れり、
   三芳野の花は昔に変はらねど
     いと朽ち果てし大和魂
 
(43)    〔民に対する不敬罪 他〕
                       明治30年9月2日
                       『万朝報』「八面鋒」
                       署名なし
 
    ▲民に対する不敬罪
 
 君に対する不敬は国民挙つて囂々これを追窮して止まず、民に対する不敬は国民寂としてこれを省みざるが如し、十数年の久しき民を欺き終に藩閥政府に降るものあるも彼の大不敬を憤るもの尠し、我邦民権の振はざる実に茲に至る乎、噫。
 
    ▲弟子は師より大なる能はず
 
 故新島襄氏の大なりしは彼が官職の誘惑を斥けしが故にあらずや、而して彼の崇拝家たる徳富氏にして終にこの誘惑に勝つ能はず、弟子は到底師より大なる能はざる也。
 
    ▲変節の罪と害
 
 予輩は彼等降服参事官が何事をも為し得ずとは言はず、石川五右衛門とスレシヤの盗賊とは富者《ふうしや》より取つて貧(44)者に施せり、然れども盗賊は盗賊にして変節者は変節者なり 些少の改革は終に変節の罪と害とを償ふに足らず。
 
    ▲官友社
 
 民友社平民の友を以て自ら任じ平民主義を執て天下に呼号するもの茲に十年、今や一旦にして其社長は藩閥政府の官吏となり其新聞紙は藩閥政府の機関となる、是れ名は仍ほ民友社にして実は復た民友社にあらず 如かず名を官友社と改めて其実に副《かな》ふの更に善きには。
 
    ▲人気の変遷
 
 往時某の新聞紙が独立の地位を捨て政府より拾万金の保護を受くるや、世人其の節操の乏しきを指弾し、之に「保護新聞」「吏党新開」「お味方新聞」等の名を下し、殆ど新聞紙を以て視ざるに至れり、爾来政府の保護に成る新聞紙一にして足らずと雖も能く世人の指弾を免れ得たる者無し、社費を国庫に仰ぐの世評は直ちに以て盛大の新聞紙をして萎靡振はざるに至らしむるの力ありたり、今は然らず一社|数《す》万金の保護を得たりと称すれば衆社皆|私《ひそか》に其保護の己れの社に落ちざりしを恨むの風あり、而して其保護せらるゝ者亦得々として大改良を以て自ら呼号す、独立の地位より奴隷に帰するの果して大改良なるや否は後の疑問とし、とも有れ、かくも有れ、社会人心の変遷実に驚く可きなり。
 
    ▲斯の如き閑職か
 
(45) 国民新聞盛に檄を地方売捌店に飛ばし爾今社説に雑報に欧洲土産に、総て徳富蘇峰の自ら執筆するを説く、内務省勅任参事官は新聞記者たるの傍ら、内職の如くに兼務し得る閑職か、或人曰く其の飛檄は唯だ田舎漢を欺くのみと 或は然らん。
 
(49)    〔主義の価値 他〕
                       明治30年9月4日
                       『万朝報』「八面鋒」
                       署名なし
 
    ▲主義の価値
 
 愛国論に均しき国粋保存主義と云ひ、基督教に類する平民主義と云ひ、其終る所は藩閥政府の高等官二等たるのみ、主義てふものを信ずるを休めよ日本国民よ、汝は竟に才子才筆の主義法螺に欺かれざるを得ず。
 
    ▲偽善偽善
 
 平民主義は自己の位置を作らんが為めの偽善、新島崇拝は清士として世に目せられんが為めの偽善、軍備拡張説は薩人の歓心を買はんが為めの偽善、嗚呼然らば破と彼等の唱ふる所にして何事か偽善ならざるを得んや、日本国民は尚も彼等の偽善に欺かれんとする乎。
 
    ▲小なる欲望
 
 事業の為めに主義を犠牲に供する者は事業其物をも為し遂げ得ざる者なり、世に主義を守るに優る大事業のあ(50)るなし、彼等は今此最大事業を棄てゝ眼《まなこ》に見ゆる世の小事業を成さんと欲す、彼等の慾望は憐むべき程小ならずや。
 
    ▲五斗米
 
 新任の勅任参事官勅任局長率ね皆意気自から高ぶり、昂々然として腰を五斗米に折らざる的の概を装ひ、孤高狷介の名を世人に得むことを務む、殊に知らず真に腰を五斗米に折らざるの実を示さむと欲せば、初めより其官を抛ち去りて衡茅《かうばう》に帰来するの尤も捷逕たるに如かざるを、身は藩閥政府に屈事して而して孤高狷介の名を得むと欲す、耳を掩て鈴を盗むの類のみ。
 
(51)    〔新理想の必要 他〕
                      明治30年9月5日
                      『万朝報』「八面鋒」
                      署名なし
 
    ▲新理想の必要
 
 「所志在功名」「人生の最大目的は日本帝国の総理大臣たるにあり」我国今日の志士とか政治家とかてふ類の抱負は大抵此位のものなるか、「人を救ふ」てふ如き大慾望、世を化して正義の国となさんと欲するが如き祈願は彼等の夢想だにも上らざるが如し、彼等の経綸の常に豆粒大にして、彼等の行為の常に卑陋なるは全く之が為めならざるべからず。
 
    ▲国粋歌
 
 秀《ひいで》ては不二の嶽と為らずして薩摩政府の高等官二等となり、発しては万朶の桜とならずして法螺吹伯の下に山林局長となる、之ぞ実に彼の称する日本《にほん》国粋なるものなり。
 
(65)    〔文士の境遇 他〕
                       明治30年9月18日
                       『万朝報』「八面鋒」
                       署名なし
 
    ▲文士の境遇
 
 文士の境遇として逆遇に優るものあるべからず、先の御用新聞「日々」の如き現政府反対の位置に立てより其光焔大に見るべきものあり、之に反して平民主義の鼓吹者たりし国民新聞の如き節を松方内閣に売りし以来活気全く消え去て今は僅に死屍の燐光を放つのみ、文士の最も忌み避くべきは権門勢家の庇保にぞある。
 
    ▲根本的改革
 
 根本的改革とは人心の改革より来る、内閣の変更、人材の倒用より根本的改革を望む者は未だ真面目に歴史哲学を学ばざる者の妄想と言はざるを得ず、釈迦、孔子、基督の如きを根本的改革者とは称《とな》ふなれ、夫の売節諸先生を指《ゆびさ》して根本的改革者なりと称ふ、是れ迷信の最も甚しきものなり。
 
(66)    ▲政府以外の政府
 
 内閣員の無能、人材連の倒用は政府なる者の依て以て頼むに足らざる事を吾人に示せり、渾ての改善、渾ての進歩を政府に委任する国民は真に著しき改善と進歩なくして終らむ、故に国民は政府以外に革新進歩の法方を講ぜざるべからず、共同組合組織の如き其一なり、ギルド苦楽部の制等其二なり、政府をして何処までも政府の失敗を重ねしめよ、而して国民は党人の嫉妬奸策以外に吃立し、徐々として社界組織の完全を計るべきなり、是れ目下に於ける惟一の革新法なり。
 
    ▲冀望ある階級
 
 社界は腐敗せり、然れども腐敗の最も甚だしきは其上層に留て未だ深く下層に及ばず 変節、詐欺、※[女+搖の旁]縦、多慾、偽善、虚飾等の罪悪は多くは世に所謂縉紳なる者の犯す所にして是等の点に於ては職工労働者等は比較的に純潔なる者なり、かの大工左官等の間に共済的組合の如きものゝ存するありて自然と兄弟的団躰を作るが如きは実に美はしき兆候と言はざるを得ず、我国社界の改善を計らんとする者は世に所謂文士政客実業家の類に信を置くを休めて大に望を下層の民に置くを要す。
 
    ▲人為と天為
 
 政府の乗取《のりとり》、人才の登用、寵姫の立身、御用商人の金儲け、……人間万事皆悉く金権と政権との仕事なる(67)かの如く見ゆる事あり、然れども雨は総理大臣の力にて降るものにあらず、風は御用記者の論説に吹かず、世には松方伯にも大隈伯にも為し得ざる事多し、見よ大帝国の威厳に加ふるに大言伯の威嚇を以てするも※[草がんむり/最]爾たる布哇の一島国は我の要求を拒んで入れず、稲満の弁才も亦一小|邏羅《シヤム》をして我に対する侮蔑の念を放棄せしむるを得ず、藩閥政府は援助なき学校教師の職を奪ふを得べし、然れども世界の大勢に対しては常に鼠が猫に対するの態度なる、此大勢に則て吾人は此政府に勝つを得べし、慰めよ。
 
(84)     〔政界の一奇観 他〕
                       明治30年10月10日
                       『万朝報』「八面鋒」
                       署名なし
    政界の一奇観
 
 我国に於て最も野蛮人の気風あるは薩摩人士なり、彼れは衣《ころも》腕《わん》に到る底の粗野を解す 文明の優美なる風尚を解せず、彼れは野蛮人に特有なる熱情、然り思慮の伴はざる熱情を有す、而して自ら之を制御するの力に乏し、彼れは男色と云ふが如き壊倫の風を存す、彼れは地方的の感情強くして、他郷の人と親和するの胸襟無し、彼れは綿密なる事理を解く能はずして、多く感と情とを以て事物を判断す、彼れは甚だ言論に拙にして腕力に長ず、彼れの服装は織物の最も幼穉なる階級に属する薩摩ガスリなり、彼れの食は料理法の何たるを解せざる薩摩汁なり、彼れの父兄は武人たるを好み、彼れの子弟は多く巡査を志願す
 維新の改革が多く彼れの力に依りたるは彼れの野蛮力の賜なり、維新の設計は他人之を為し、彼れは其の労働的の部分を引受けたり、彼れの功は頭脳より出る功に非ず筋肉より出る功なり、建設の部分に働くを得ずして破壊の部分に働きたり
 今は維新を距《さ》る既に遠く、世体亦一変して立憲の治とは為れり、立憲の治は文明の治なり、理を以て行ふの政(85)治なり 而うして最も文明に遠く最も理に拙き薩摩人士、猶ほ其の首部を占む、豈に一奇観に非ずや、憲政の首尾よく行はれざる以無きにあらず
 
    理非を紊るの害
 
 物の道理に拙き野蛮的政治家、先づ方針を定め、後より便佞巧瑣の徒、之に理由を附し、弁解し言抜す、其方
針の理に合せざるは宜《うべ》なり、其弁解の牽強附会に終る亦宜なり、斯の如くにして理非の分紊れ、正邪の別亡ぷ
 政略宜しきを得ざるの害は一時なり、理否の分、正邪の別を紊るは人心を惑乱して社会の綱紀秩序を紊る、戎めざる可けんや
 
    国民記者に問ふ
 
 内閣公然の機関国民新聞は平生の多弁に似ず、其の大に弁ぜざる可からざる高野氏非職問題に対して一|言《げん》の辞無かりしが、終《つひ》に一の雑文を以て左《さ》の数句《すく》を下せり
  高野某氏が非職を命ぜられたりとて世間には評判の種を蒔き候、同人が死を以て職に殉ずるとか、愛刀を研師に頼だとか随分笑止なる報知に候、併し同氏は台湾総督の下に在る官吏にして如何に憲法を楯に取るも、裁判所構成法の下に在る内地の裁判官とは資格を殊にすること明白の儀に候
 吾人は彼の記者が理を以て争ふの道無きが為に殊更に軽々《けい/\》の語句を弄し、此問題を取に足らざる事の如く嘲り去りたる苦心を察す、敢て其の陋を咎めじ
(86) 唯だ彼れは多年「民の友」を以て自ら居り、斯の如き場合に会する毎に、成る可く広義の解釈を取り、憲法の沢に浴する者の一人も多からんを勉めたる者、今は則ち憲法の徳沢、一滴も少なからんを欲し理の求む可き無きや乃ち嘲弄の語を作為して迄も其心を達せんとす、国民記者能く既往十年間の自家の言説に省みて赧然たらざるを得る乎
 
(90)     〔吾人の志望 他〕
                       明治30年10月12日
                       『万朝報』「よろづ」
                       署名なし
 
    吾人の志望
 
 吾人は松方内閣を覆へして伊藤内閣を回復せんと欲する者に非ず、吾人は薩州政府に替ふるに長州政府を以てせんと欲する者に非ず、吾人は此時機に際して藩閥政治を根絶し、之に替ふるに国民の意志に成る憲法政治を建設せんと欲する者なり。
 
    革命の時機は来れり
 
 台政の紊乱《ぶんらん》、憲法の蹂躙、社界組織の壊頽、下民《かみん》の不安、一つとして革命の要を示さゞるはなし、国民の生命は藩閥政府の持続よりも重し、藩閥政府は数回《すくわい》の失敗に依て業《すで》に既に其存在の理由なきを証明せり、革命は彼等自身の促しつゝある処なり。
 
(91)   ジヨン、ハムプデン
 
 英のハムプデンは豪族にてありながら違憲の故を以て二十五|仙《セント》の船税《シツプモニー》を払ふを肯ぜず、為に民党憤起の緒《いとぐち》を開けり、二十五仙は少額なり、然れども権利は事物の大小に依て決する者に非ず、高野氏非職事件を以て一小事なりと見做す輩《はい》は静思張目して英国憲法歴史を読め。
 
(92)    友人の弁護に就て
                       明治30年10月14日
                       『日刊 世界之日本』
                       署名 内村鑑三(投)
 
 山路弥吉氏は其友人徳富猪一郎氏の人と為りを弁じ、彼の本性の無辜を説て彼の今回の進退を表義せん事を勉めたり、吾人豈徳冨氏其人に怨恨を懐く者ならんや、私人徳富氏は賢人君子ならん、然れども事実に顕はれたる公人徳冨氏は変節の譏を免るゝ能はず、英の査斯《ちやーれす》一世は濃情深愛の人なりしは彼の敵だも認めし所なり、然れども彼の公衆と社界とに対せし所業はミルトン、ピム、ハムプデン等正義の士の公憤を買ひしにあらずや、友人を弁護するは宜し、然れども其私徳の為に其公徳の大欠点を掩はんとす、是れ社界公衆に優て其友人を愛する事にして前者に対する大なる不真実と言はざるを得ず。 ボヘミヤの革命者ハツス曾て親友パリッツの行為を攻撃して深刻を極む、友人某大に彼の無情を責むるやハツスは答へて曰く
  パリッツも余の友なれども真理も亦余の友なり、而して二者其一を択ぶべきの場合に至れば余は真理を択ばんのみ
と、社界公衆に尽さんと欲する者はハツスの此決心なかるべからず。
 余は一徳富氏の多く筆を労するの価直なきを認む 然れども我国人は往々人の私交を賛賞して其公徳を弁ずる(93)の癖あるを知るが故に爰に一言し置く者なり。
 
(123)    伝記学
                        明治30年11月1日
                        『世界之日本』 21号
                        署名 内村鑑三
 
 歴史は人類の発育学なり、而して発生、発育、発達の理を一個人に於て攻究する、是を伝記学と称ふなり。
 之を人類全殊に於てするも、或は一個人に於てするも、其理は一なり、蓋は社界個人共に生躰《オルガニズム》にして前者は大文字を以て後者の悲哀、歓楽、成長、枯衰の状を顕はす者に過ぎざればなり。
 人世を解するに二途あり、之を史学的にするあり、之を伝記学的にするあり、恰も自然を解するに二途あるが如し、宇宙学的《コスモロジカル》にするの法 其一なり、解剖学的《アナトミカル》にするの法 其二なり、前者は総合的に観察し、後者は分析的に解釈す、最も大なる総合勿論乾坤の一隅を※[虐の下が且+見]ふに過ぎず、最も密なる分析勿論宇宙の最微に達せず、宇宙学は大なる解剖学にして、解剖学は小なる宇宙学なり、そは係聯重複は宇宙(Cosmos 整躰と訳すべし)の特性なり、大は小の膨脹せし者にして小は大の収縮圧搾せし者なり、一滴の水に宇宙の相あり、(然り小字宙なり)、望遠鏡に映ずる海王星は朝暾に輝く露の一しづくに過ぎず、植生は一片の艸葉に代表さる、正しく石塊を解せし人は全地球を悟りし人なり、小宇宙は宇宙より組織され、其端辺を知て其全躰を窺ひ得べく、其全躰を知り悉くすに非れば端片を解し難し。
 人世を学ぶも亦此の如し、之を全躰よりすれば歴史学となり、之を社界の一分子たる個人よりすれば伝記学と(124)なるなり、社界は最大個人なり、故に歴史は社会の伝記学と称するを得べし、前者は人世の宇宙学にして後者は其解剖学なり、而して一滴の水に宇宙の映ずるが如く、社界の現象は個人の生涯に顕はる。
 粗より密に及ぶ是れ史学の途なり、密より粗に達す是れ伝記学の方なり、日本を学ばんが為めに富士山を攻究する、是れ史学研究の方に効ひしなり、富士山を攻究せんが為めに日本全土の構造に及ぶ 是れ伝記学的研究法なり、伝記学を膨大して歴史あり、歴史を注衆凝結して伝記あり、歴史は大なる伝記にして、伝記は小なる歴史なり。
 歴史的に人生を攻究するの便と利とは其外形に於て、浮沈盛衰興亡の源因結果明瞭に考察し得るにあり、ソクラテスは公道履行の探究を『大文字を以て書れたる歴史』に於てするの要を解せり、天道は伝記学的に是なる事少きも、歴史的に非なる事稀なり、伝記学的のナポレオンは時には仁君慈主として露はるゝ事あるも歴史的のボナパートは社界旧組織の破砕者として見るに足るのみ、伝記学的にクロムウエルを評すれば、残忍、無慈悲、平和の擾乱者として現はる、然れども歴史的に彼の偉勲を述ぶれば彼は自由進歩の師父なり 義は個人的に曲げられて国家的に人類的に建てらる、正道は歴史面に大著され、読む者をして至少の懐疑なからしむ。
 
(141)    〔改革者の決心 他〕
                        明治30年11月12日
                        『万朝報』「八面鋒」
                        署名なし
     改革者の決心
 
 進歩党の士よ自由党の士よ、総ての民間政党の士よ、卿等国政を改革せんと欲するか、即ち改革の為に死せんことを思へ、改革の為に栄えんことを思ふ勿れ
 改革とは志士仁人の業なり、身を殺す決心ありて其事初めて成る、一身の栄を思はば改革の論を捨て、現在の勢力に媚びて其の恵を請ふに如かず
 戦場に死する勇士無くんば戦勝は期す可からず、地中に没する石礎無くんば高楼は築く可らず、卿等戦勝の金鵄勲章を得んと欲するよりは先づ戦場に死せんことを思へ、高楼を築かんよりは地中に没せんことを思へ
 区々の毀誉を恐れ、貧苦を恐れ、困難を恐るゝは改革者の事に非ず、改革の困難には自ら当り、改革の利益には天下万衆をして洛せしむ、是れ真の改革者なり、自ら改革の利益に浴せんと欲して改革を遂げ得る者はあらず、斯の如くにして成るの改革は改革に非ざるなり
 
(142)     九州、日本、世界
 
 挙国一致の第一着は先づ挙国の信を得る内閣を作るに在り、戦後経営の第一着は戦後経営の大任に堪ふるの内閣を作るに在り、日本を代表して世界に当らんには九州を代表して日本に当るを唯一の目的とせる眷族内閣を廃せざる可からず、機関紙真に時務を知らば世界と九州との間に日本帝国なる者の存するを思へ
 
(145)    〔憎悪の念 他〕
                      明治30年11月13日
                      『万朝報』「八面鋒」
                      署名なし
 
     憎悪の念
 
 能く憎まざる者は能く愛せざる者なり、故にエドモンド、バークは其親友ドクトル、ジヨンソンを評して『善く憎む者《グードヘーター》』なりと言へり、吾人自身に不義無礼を加ふる者あるも吾人は寛裕以て彼に対し能く彼を宥恕すべし、然れども社界の公徳を紊し、人間普通の節義を破る者あらば吾人は公憤以て彼に当り、彼をして正義の光輝に堪へ得ざらしむべし、「汝の敵を愛せ」てふ誡《いましめ》は社界の公敵に適用すべきものに非ず。
 
     憎悪の念を表する法
 
若し国会議員たらば議場に没理官吏の罪蹟を列挙すべし、若し新聞記者ならば彼を筆誅すべし、若し友人たらば後れ悔ゆる迄は彼と交を絶つべし、若し車夫たらば彼の乗車を謝絶すべし、若し八百屋たらば彼の家に蔬菜を鬻ぐ事を止むべし、若し途上彼に会せば顔を背けて彼に会釈すべからず、若し席を彼と同うする事あらば我れ主《しゆ》なる時は彼に退席を乞ふべし、我れ客なる時は我より席を去るべし、人若し彼の何人たるを問ふ者あらば明白に(146)彼の没理漢たるを告ぐべし、斯くして国民挙て凡ての手順と凡ての方法とを以て彼を忌み避くるならば彼などか終に悔ひて自己と公義とに帰らざらんや、是れ彼を憎むが如くにして実に彼を愛する途なり、今は此法の施すべき時なり。
 
(158)    警世小言
                      明治30年11月20日
                      『万朝報』
                      署名なし
 
    ▲躊躇する勿れ
 
 一物を建設せんには一物を破壊せざるべからず、善良なるものを来さんとすれば先づ醜悪なるものを去らざるべからず 破壊はやがて建設を意味し建設はやがて改良を意味するなり 破壊と改良とは世の常態にして実に社会の生命なり
 漫然破壊の時代過ぎて建設の時代来れりと云ふことを止めよ 破壊することなくんば社会は死せるなり
 改革の健児よ如何にして善きものを来さんと苦慮すること勿れ、要は鉄腕を振て醜悪を摧くにあり 醜悪去て稍可なるものを得べく稍可なるものを去て始めて大に可なるものに達すべし、
 
    ▲呪語
 
 偽善者よ出でよ爾の声を大にして国民を奢らしめよ、小文学よ出でよ爾の卑淫の筆を弄して国民を腐敗せしめよ、小政治家よ出でよ爾の謬見を以て国政を乱せよ、小哲学者よ出でよ爾の管見を鼓吹して国民を誤まれ 小道(159)徳家よ出でよ爾の雑駁なる道徳によりて国民の元気を消耗せしめよ、小宗教家よ出でよ爾の誤りたる信仰を伝へて国民を失望せしめよ、爾等尽く立て国民を腐敗不徳失望無気力の淵に投ぜよ、
 夫れ勢の窮する処は勢の伸張する始なり 此に至てか大人物出でん大信仰興らん 今日は破壊の時代なり犠牲の時代なり 建設の時には非るなり 真正の文明は血を以て始めて購ふべし
 
   ▲最可恐の事
 
 政府の腐敗必ずしも恐るゝに足らず 政党の無能力必ずしも憂ふるに足らず 文学の衰微実業界の恐慌必ずしも慨くに足らず
 是皆一時の現象にして時と共に経過し去ればなり 唯吾人の最も恐れ最も憂ふる処は青年の無気力なり 青年は此腐敗せる社会の改善者なり此世の新勢力なり清流の源なり 川源枯れ勢力滅せば国家の前途智者を俟て知る処にあらざるなり
 
(175)    文学局外観
                       明治30年12月3日
                       『早稲田文学』7年3号
                       署名 内村鑑三氏
                                    私の思ひまするに、今の日本の文学は悲観的《ペシミスチツク》といふより外はないやうです、日本人は近頃になつてだん/\其の高貴《ボーブル》な精神を失ふと共に、文学も高貴な所を失つたやうに思ひます、また今日の惰弱なる社会を来たしたのは、文学亦与つてカありと思ひます、
 如何なる国の文学でも、文学には常に二ツの元素があります、其の一ツは沈痛《サツドネス》といふことです、此の沈痛といふものなくては、文学も美術も、また音楽も、「美」といふものを失ひます、大なる文学は皆其の一面には沈痛を現はして居ます、例之、天使の絵を見れば其の顔や眼に言ふに言はれぬ無限の沈痛を帯びて居ます、古の英傑の肖像を見ても、其の眼や顔に沈痛の色を含みて居ます、クロンウエルでも、ルーテルでも、ワシントンの顔でさへ、其の眼中に無限の沈痛があります、私共は釈迦や基督の顔を見ることを得ませんが、其の顔には常に愁を帯びて居つたことは疑ないと思ひます、
 勿論此の沈痛は己れを悲む故のみではありません、人類の悲、世間の悲、此の世の悲を一身に受けて居ますから、悲まざるを得ないのです、総じて此の悲観に伴ふものは「悲憤」、「慷慨」、即ち義怒《インデグネーシヨン》です、或時はこれが憎悪《ヘートレツド》となります、強度の情緒《インテンス フイーリング》は常にこの悲観に伴ふ感情です、私の思ひますのに仏教の最も美なる点は、(176)釈迦が人世の悲惨を述べた所にあると思ひます、誰れでしたか仏教を評して高貴《ノーブル》なる沈痛《サツドネース》だといひました、斯かる沈痛は文学にもあるのです。
 第二の要素は悲観に伴ふ歓喜です、希望です、人生悲惨の極に達して尚ほ之れに勝てる人、此の人が人生を教化し、人生の秘密を語ることの出来る人なんです、悽愴惨憺の中に歓喜の讃美歌を歌ふ人です、此の人が真正の歓楽を解する人です、肉躰上の快楽、社交上の快楽などは此の歓喜に此ぶれば実につまらないものです、それですから古の英雄の顔には悲観あるやうに、勝利の栄光《トライアンフアントグロリー》ともいふべき喜があります、これが喜びの悲で悲の喜です、
 それですから世界の大文学の要素は畢竟此の二ツに尽きて居るのです、最も小なるものでいへば、あのハンデルといふ人の作た『メサイヤ』といふ譜があります、其の譜は痛哀に始まつて歓喜の極で終つて居ます、之れを大にしていへばダンテの『神曲』、地獄の部分、三十四章の地獄の場は悲惨、沈痛の悲劇です、之れを読む時は私のやうな神経の強い者は恐くて、悽くて、夜も眠らないことが度々あります、地獄の部分を読むうちはもうこれで此の悲惨の極から救ひ出だされなければ、奈何なるかと恐ろしくなります、併し段々読んで練獄《パルゲトリオ》の終に至りそれから段々天国に近づく時は、暗憺たる夜は終りて東白《しのゝめ》の微光を見る心地がします、それから終の天国《パラデシオ》に至れば実に大困難を過ぎて喜の来るが如き感じがします、前の苦痛は十分に拭はれて了ひます、ダンテに就いては色々の評もありますが、其の中最も好い所は此の対照《コントラスト》の点にあります、非常なる光明と非常なを暗黒と、悲観と喜観とよく対照したる所にあります、単に此の点から評すれば、『神曲』のやうな作は再び此の世に出ますまい、此の明暗二点をよく描出したところは、彼れの美術的天才ばかりでない、細密といふ点に於ては彼れよりエライ(177)人は多くあります、併し読者に悲喜を両方よく感ぜしむるところ、是れダンテのダンテたるところです、
 此の同一の立脚点からゲーテの『フアウスト』、レツシングの『ナタン、デル、ワイゼ』などを評することが出来やうと思ひます、沙翁の『ロミヨー、エンド、ジユリエー』或はレツシングの『エミリヤ、ガロチ』の如き者は悲惨を以て始まり、悲惨を以て終つて居ります、之れを称して悲劇といひます、現にレツシングは此点から攻撃され、poetic justice がないといはれますが、併し彼自身も、彼れのよき批評家も評して此の悲劇中にも無限の justice があることを認めて居ます、此の事はレツシング自身の人生観から照して見ても明かです、
 それですから悲惨なくして歓喜なく、歓喜なくして悲惨はありません、一は他の前提です、非常の喜を解する人は非常の悲惨を描き得る人で、非常な喜のない人は非常な悲曲を歌ふことは出来ない人です、若しある著者がありまして悲惨を描く時に、皮相の悲を描きますならば、其の人は喜をも知らない人です、ヰクトル、ユーゴーのやうな人は、どうしてあんな悲惨、惨酷なことを書けたかといふに、日本人が言ふやうにたゞ不平がありしばかりではなく、一方にはよく不平に勝ち得たからです、又現今欧米にはやされるイブセンの如きは、実に不平タラ/\の人のやうに見えます 彼の大不平に比べれば我が国人の不平などは五十分の一もありません、私の書いた物を世人はよく不平文字だといひますが、彼れに較ぶれば、さうですね、何に譬へませうか、荼と純粋のビツトルとを較べたやうなものでせう、一寸ばかりイブセンの作を読んだ人は皆さう感じます、併し彼れが不平家ばかりで、不平を吐くことばかりで、此の大不平を慰めるものがなかつたならば、満足といふ者のない人ならば、既に不平の為に憤死すべき人でせう、然るに斯く不平を吐きながら堪へることを得たのは、人の知らない喜が彼の裡にあるからです、
(178) それで、日本の今日の文学に帰れば其の大欠点のあるところは直ぐに見えるのです、私は今日の日本人には確固とした人生観がないと断言することを憚りません、日本人の最大多数は人生を常談のやうに思つて居ます、或は偶会《チヤンス》だと思つて居ます、それで人生の悲惨の極も歓喜の極も感じません、しかし二者の中孰れかといひますならば、悲惨の少々を感ずるばかりです、それで今日の有名な小説家の描くことは、僅少の悲惨ばかりで大なる悲惨は絶えてない、歓喜に至つては絶えてない、
 此の源因は何処から来たかといへば、一は国民的|特性《キヤラクタリステツク》かも知れません、日本人の面相は外国人から見て大へん悲相を帯びて居るといひます、併し其の最大源因は、さうですね、何といひませうか、日本化された仏教、modified Buddhism の結果だと思ひます、先にも申しましたやうに、仏教それ自身は「高貴なる悲惨」ですが、よく調べて見れば仏教は悲惨ばかりではない、歓喜の要素があると思ひます、しかし普通日本に行はるゝ仏教の教義、儀式、仏堂の建築などを見ますれば此の歓喜の方面は絶えて現はれて居ませんと思はれます、平家物語の「祇園精舎の鐘の声」の句は実に日本人の腸に染み込んだ観念でせう、時としては太平記思想ともいふべき実に高尚なる思想がありまして、此の悲惨思想に打勝つたことがありますが、全然打勝つたことは無いでせう、古来日本人中のよく事理を解した人に、「人生は」、と問へば、「悲惨なり」、といふより外の答はなかつたのです、そこで私の結論は、我田引水かも知れませんが愚見によれば、「此の悲惨の人生はやはり歓喜の人生である」、といふ観念を強く人類に与へたものは基督教だと思ひます、勿論基督教にも色々弊害もあり迷信もあることは、私は他の人より一層よく知つて居ますと思ひます、しかし我が狭い学問で見たところによりますれば、「生は死に勝てり」といふ大教義は仏教にも孔子の教にも見たことはありません、たとへ基督教から得るも哲学から得るもそこ(179)は私の関するところでありませんが、「生は死に勝てり」とか、「歓喜は悲痛より多し」とか、或は「希望は絶望に越《まさ》る」とか、さういふ観念が文学者に染み込みませんでは、奈何しても人生を益する大文学は出でないと思ひます、勿論文を練ることも必要でせう、大著述家の文躰を学ぶことも必要でせう、けれど文学者名々が人生の最大問題を心に解釈するまでは、彼等の筆より大なる作の出やう筈はありません、
 
(183)    〔川崎巳之太郎編述『実験上の宗教』〕序
                        明治30年12月5日
                        『実験上の宗教』
                        署名 内村鑑三話す
 
 人類の記録にして実に読むに足るべきものは実験なり、実験以外のものは小説なり、虚言に近きものなり、以て脳と霊とを養ふものに非ず。
 ユークリツドの幾何学、ダーウヰンの源始論、バンヤンの天路歴程に不朽の性の存するあるは三者共に実験の記録なればなり。
 此書亦我国基督信徒の実験談を集めし者なり、敬虔以て之に接する者にして稗益せられざらんと欲するも得ん乎、茲に聊か歓迎の辞を呈す。
  明治三十年十一月
                    渋谷茅屋に於て 内村鑑三誌す
 
(218)    新年の盟
                        明治31年1月1日
                        『万朝報』
                        署名 内村鑑三
 
 我は尚ほ進まんと欲す、尚ほ一層真面目ならんと欲す、無辜を弁ぜんと欲す、暴虐者を拉がんと欲す、民に与せんと欲す、藩閥政府に抗せんと欲す、自由|平等《へいとう》を重ぜんと欲す、権門勢家を輕ぜんと欲す、我の進路は斯の如し。
 我れ生を此美腰なる宇宙に享け、禽獣として生れ来らずして人として生れ来り、支那人 朝鮮人として生れ来らずして日本人として生れ来り、薩摩人、肥後人として生れ来らずして関東人として生れ来れり、我の栄実に大なり、我れ何ぞ人類の為めに、東洋五億万人の為めに、日本国の平民の為めに尽さゞるを得んや、天亦我に一年の余命を藉《か》さんと欲す、我は感謝して我の天職を全うせんことを勉めん。
 
(219)    政治家の銘
                        明治31年1月2日
                        『万朝報』「八面鋒」                              署名 ごろつき生
 
一、進歩とは権力が下民に行き渡る度合を言ふなり。
一、東洋文明は上を崇めしが故に退歩し、西洋文明は下を崇めしが故に進歩せり、是れ頭寒《づかん》足熱の理にして亦進歩の大道なり。
一、政治の目的は善を為すに易くして悪を為すに難き社界を作るにあり。
一、天下を平らかにするに非ず、正道を施くにあり、故に義の為めに争ふも和の為めに譲らず。
 
(225)    基督信徒の新年
                       明治31年1月7日
                       『基督教新聞』
                        署名 内村鑑三
 
 彼は新衣を調へしが故に悦ばず。彼は商売繁盛の故を以て賀せず、彼は教会員増加の故を以て感謝せず、斯の如き事の為に悦び、斯の如き事の為に感謝する者は基督信者にして基督信者に非ず。
 基督信徒は神の正義が月に日に増進しつゝあるが故に悦ぶなり、偽善者偽信者の計画が常に失敗に帰しつゝあるが故に感謝するなり、無辜が弁せぜられつゝ、貧者が福音を聞きつゝあるが故に賀するなり、是れ真正の慶賀にして斯の如きの慶賀なき者は基督信徒にして基督信徒にあらざるなり。
 救の道は開かれたり、而して我等は此道を信ずるを得たり、喜悦之に勝るものあらんや、故に我等新衣を調へざるも悦ばん、事業の栄へざるも祝せん、基督信徒の祝賀は斯の如し。
 
(255)    天才《ジニヤス》と品性《キヤラクター》
                         明治31年1月30日
                         『万朝報』
                         署名 内村鑑三
 
 天才は人の附着物なり、祖先より譲り受けし遺産の如きものなり。人、是に依て大事大著述を為すも其功は彼に帰すべきものにあらず、恰も貴族の慈善事業の如きもの、其善行は産を遺せし祖先に帰す可し。
 品性は全く天才と異なる、是れ之れを有する人の勉めて得しものなり、人生の戦場に於て収め得し戦利品なり、労働の結果にして、生れながらにして附与せられしものにあらず。人、是に依て大事大著述を為せば其功は彼に在て他に在らず、恰も独歩独立の労働者の貯金の如きもの、之れを施して真正の慈善あり、同情あり。
 天才は尠なし 然れども品性の尠きが如く尠からず、十人の妓楼に在て小説を草する天才あれば、一|人《にん》の貧に居り節を守つて信を発表するの論説家なし。飲に耽り色に溺るゝも天才は天才たるを免かれず、天才は智識的に多少の利益なきにあらずと雖も、倫理的、人物的には一文の価値あるなし。
 人、何人も天才たるは望む可らず、然れども品性を高うするは何人も能ふ所なり、我国既に天才に乏しからず、実に乏しきは品性なり、天才政治に与つてチヨコ才あり、文学に従事して女郎文学あり、品性が政治文学に従事するにあらざれば偉業あるなし 大文学あるなし。
 嗚呼品性なる哉、品性なる哉。
 
(257)    人を作れ
                      明治31年2月3日
                      『万朝報』
                      署名 内村鑑三
 
 憲法を作て華族に列せられし人あり、鉄管を作て牢に入りし人あり、会社を作て狂気になりし人あり、製作又製作、法律作るを得べし、内閣作るを得べし、鉄道作るを得べし、小説作るを得べし、何事も何物も作るを得べし、惟《ひと》り作り得べからざるは人なるが如し。
 軍艦製作は『亜細亜老大国の門戸を打破して欧洲列強の為めに覬覦《きゆ》侵略の道を開き』、憲法製作は風俗壊乱、士道墜落の端を開けり、作て功なきものは実に軍艦なるが如し 憲法なるが如し。
 然り人を作れよ、そは人一人を作るは憲法を作るよりも偉大なる事業なればなり、何人も憲法又は内閣を作るを得べし、然れども人物のみが人物を作り得るなり、憲法は酒色に耽けりながらも作るを得べし、小説は妓楼に在るも作るを得べし、然れども人物製作は克己献身の業なり、見るべし君子国の志士仁人、憲法小説を作る者多くして人物を作る者尠きを。
 余は法律完全して滅亡に帰せし国あるを聞けり(羅馬帝国の如き者)、軍備整頓して返て衰退を招きし国あるを耳にせり(十七世紀の西班牙の如き者)、然れども人物充満して敗頽せし国家あるを識らず、日本も完全なる法律と整頓せる軍備とを以て仆るゝ時なきやも計られず、然れども確実なる人物にして我国に充満せん乎、我国の将(258)来は富士山の堅きが如く固し。
 人を作れよ、然り、人物を作れよ。
 
(268)    是々非々
                         明治31年2月10日
                         『万朝報』
                         署名 内村鑑三
 
 麻布碌ゝ生なる人「信を喚起《よびおこ》せよ」と題し左の如く書き送らる  信は神なり、国は信の結合体なり、人は信の個体なり。信なき社会に民は無し、信なき社会に国は無し、信なくして行はるゝ政治は儀式のみ、強制のみ、信なくして服する民は形骸のみ、人形のみ。故に信なき政府は保つこと能はず、信なき法律は尽すこと能はず。昔の豪傑は信を基として治を為せり、今の豪傑は信なくして治せんとす、其治まるなきや其処なり。我国の現時は信なき政海に沈淪せり、暴行も行はれ、苞苴も行はる。万系一統の君主は嶄然として在まし、大和魂は何処に去りしぞ、其治を為せる者何処に在りしぞ。
 然り。然れども如何にして信を喚起せん乎、これ問題中の問題なり。信は公債証書の如く大蔵大臣の一命の下に発行し得べきものにあらず、勿論我国の如く、上の為す所下これに従ふの国に於ては、総理大臣彼自身の信を重んずることは、国民の信を喚起する上に於て最大勢力たるは言までもなし。
 然れども、吾人新聞記者が筆毛《ひつまう》の擦り切れるまで信を彼に促すも、彼れ聴かざるの場合に於ては、吾人またこれを如何ともする能はず。
 茲に於てか、信を喚起するに唯一途あるのみ、即ち吾人各々信を守るにあり。国民は挙つて嘘を吐くも、我れ(269)一|人《にん》は嘘を吐かざるにあり、学者も政治家も宗教家も文学者も、皆悉く腰を折つて金銭に服従するも、我れ一人はこれに服従せざるにあり。社会は賭博を愛し紳士紳商も花を引くを以て耻とせざる今日、我れ一人は賭博的の事業并に遊戯を遠くるにあり。而して我れ其信を守るより、我れの隣人我れに傚ひて信を守るに至り、其隣人亦我れの隣人に傚ふに及んで、始めて国民の信を起すに至るなり。これ信を起すの普通の途にして亦最も功験ある途なれども、国人多くは国民の信を起すべきを喚んで自身信を守るを勉めず。
 信を起さんとする乎、今日今時より起すを得べし、敢て告ぐ。
 
(272)    雪夜独想
                         明治31年2月13日
                         『万朝報』
                         署名 内村鑑三
 
○東洋の危機已に逼り、支那の分割已に始まり、朝鮮露国の手に落て而も我等は尚金甌無欠の君子国を以て誇る、驕る者は誨ふべからず、危険は列強の侵略に在らずして我等の自慢心に在るなき乎。
〇今や我国に国民的政治家あるなし 国民的詩人あるなし、国民互に相疑ひ、我等の尊敬を呈すべき一偉人一君子あるなし、国運の揚らざる故なきに非ず、此悲しむべき状態たる是れ何れの理由に帰すべき、当局者の怠慢にか、国民の無気力にか、或は我国制度の不完全に乎、是れ識者の攻究すべき大問題ならずや。
〇余輩帝都の大路を歩《あゆみ》ながら、我同胞の面貌を窺ふに、失望の相を帯ざる者尠し、冀望|裡《うち》に満ち、喜悦|面《おもて》に現はれ、已に求る処少くして余裕他に施さん事を欲する容貌を見し事なし、而して是れ余輩の実※[手偏+僉]なるのみならず見識ある外客《ぐわいかく》の屡ば我同胞に就て報ぜし処なり、失望せる国民は死せる国民なり、嗚呼我等は歓喜を那辺に求めん。
〇戦勝の時に際しては数多の教育家文学博士等は我国振興の理由を述べ、我劣じと此国の長所を賛へて愛国者の列に加らん事を勉めたりき、然れども今や国状日々に非なる時に際しては彼等或は大学の講義室内に蟄居して寂として声なき者あり、或は単に宗教家新聞記者を嘲罵するのみを以て本職となし国家の大問題に関しては一の確信をも述べ伝へざる者あり、或は教科書出版会社に入て忠君愛国を販売する者あり、武田家繁盛の時に際しては、(273)長坂長閑、跡部大炊は大忠臣なりき、然れども天目山の難に臨みし者は小宮山友信一人なりき、余輩感慨なき能はず。
 
(278)    林間漫録
                         明治31年2月18日
                         『万朝報』
                         署名 内村鑑三
 
     ▲君子の存在せざる君子国
 
 日本国一名これを君子国と称す、然るに今日の日本に君子の名称を呈すべき人の一人も見当らざるは如何。才子あり、学者あり、勅任参事官あり、文学博士あり、亦紳士紳商金持の類に乏しからず。伊藤博文侯は大政治家ならん、然れども彼れ君子ならざるは彼自身も承認する処なるべし。浜野茂君は大実業家ならん、然れどもこれを孔孟の教に照すも、これを基督教の聖書《バイブル》に考ふるも、彼を以て君子と見做すの甚だ困難なるを覚ゆ。君子国に君子無しとは如何なる逆理ぞ、今に至て之を才子国、勅任参事官国、不正鉄管製造国と改称するの必要なき乎。
 
     ▲偉大なる事
 
 偉大なる事とは、私慾を去り、自己を忘れ、他人、殊に貧者と弱者との為めに尽す事なり。自己の為めに、名利《めいり》の為めに為す事は、如何なる大事業なるにもせよ、偉大なる事業と称するを得ず。親鸞、日蓮の偉大なりし理由、ナポレオン、石川五右衛門の偉大ならざりし理由は茲に存す。
(279) 偉大なる国家も亦然り。英国の偉大なるは其印度帝国を有する故にあらずして、其二千万磅の財を擲つて黒奴の売買を廃止せしに依る。露国の偉大なりしは、渺漠涯りなき西比利亜を其領土に加へし時にあらずして、其|亜歴山帝《アレキサンドルてい》第二世の時に四千八百万の農僕《サーフ》を放免せし時にあり。和蘭の小なるも、其人類の為めに尽せし自由拡張の故を以て偉大なり。大と小とを言はず、富《ふう》と貧とを問はず、最も多く人類の為めに尽せし国を偉大なる国と謂ふなり
 
     ▲国体新説
 
 漢学先生にして下民の救済に尽瘁せらるゝ某、余輩に告げて日く『日本の国体とは国民挙つて一の家族的団体を組成し、以て相互に兄弟的援助を供するを謂ふなり』と、余輩は深く先生の卓見に服したり。我が国体若し先生の言の如くならん乎、これ経済学者ケレー氏が称して以て人生の最大目的と做せし結交《アツソシエーシヨン》に外ならず、またラクマン、カール マツクス等の高尚なる社会主義と異ならず、嗚呼|斯《かく》あれよかし我国体!
 先生また曰く『若し此兄弟的同情にして実行せられず、上は高く坐して下より遠《とほざ》かり、富者《ふうしや》は財に誇つて貧者を顧みず、上下《しやうか》隔絶、貧富分離するの場合に於ては、縦令国体を憲法の明文に留むるも、これ已に国体は消滅せしものと見て可なり』と、余輩は益々先生の超漢学者的の明に驚けり。
 然り、万国無比の国体を有する日本に、無能、貪慾、薄情なる貴族の存在すべき理由あるなし。世界の君子国に詐欺師に類する紳商、博徒に類する実業家の跋扈する理由あるなし。我が国体は已に消滅せし乎、下民悲鳴の声日々に高くして、貴族豪商の驕慢は日々に甚だし、敢て忠君愛国を以て誇る大方《たいほう》諸先生の教を乞はむ。
 
(283)    健全なる不平
                       明治31年2月20日
                       『万朝報』
                       署名 内村鑑三
 
 吾人の不平は平安満足の上に建つ不平たらざるべからず、ヱマソンの称する『心底千仞の下《もと》にある堅固動かすべからざる土台』の上に据ゑられたる不平たらざるべからず 此心底の平安なからん乎、社会組成は如何に完全するに至るも吾人の不平の絶えざるは必然なり、此平安あらん乎、吾人は最も堪へ難き虐政圧制にも耐ふるを得べし。
 チヤールス、キングスレー曰く『心は我の王国なり』と、我が裡に霊妙他人の決して侵すべからざるの心世界のあるあり、支那人の謂ゆる富v家不v用v買2良田1、安v居不v用v架2高堂1、的のもの確に我が裏《うち》に実在す、我れ是に王たらんと欲して何人も我を不忠不義不敬の人と呼ぶものなし、吾人をして先づ其宝蔵の故障なき持主たらしめよ。
 然らば吾人の不平は聖賢君子の不平となり世は吾人に依て慰められ、吾人は世の為めに怒《いかつ》て吾人自身の為に憤らざるに至らん。
 
(290)    是々非々
                         明治31年2月24日
                         『万朝報』
                         署名 内村鑑三
 
     ▲失敗の勝利
 
 我国に「負けるは勝つ」の語あり、然るに其深遠なる意義は、今は化して「負けるは儲かる」の意を留むるに至れり、福沢先生流の道徳念の然らしめし処ならん。
 今や前内閣の無謀なる議会解散に因りて、地方は到るところ賄賂詐術の修羅の街《ちまた》と変じつゝあり、此時に際して、社界国家の為を思ひ、清白の義、浄潔の理を貫かんと欲するの士は須らく失敗の決心なかるべからず。悪人を斃《たふ》すには、これをして勝たしむるに若かず、蓋し善は負けて勝ち、悪は勝つて負けるものなることは、世界開闢以来、人類の取り来りし常道なればなり。
 今や偽善者、偽君子《にせくんし》、偽忠臣、偽愛国者、偽哲学者の類は、有り余る程我国に存在す、この無数の偽物《ぎぶつ》と戦を開かんとす、失敗は免かるべからざる処なり。如此社界に人望あり、如此|偽子輩《ぎくんしはい》に忠臣愛国者視せらるゝ程志士の恥辱なるはなし。然り、この偽善社界に在りては、失敗は栄誉の絶頂なり、寧ろ正三位、正五位となりて、耻を千載に流さんよりは、決然、この腐敗社界と奮闘して、青苔の下に朽るに若かず。
(291) 起てよ同志の士、失敗を決して起て、帝国議会が偽善者の巣窟となるは、嘆ずべきの限りなり、然れども、是れ志士が成功を望んで節を曲るに比すれば、小なる不幸なり。
 
     ▲二百有余の不敬事件
 
 花柳に戯れ、賭博に耽る、帝国大学、高等学校の学生、二百余名に及ぶと。余輩は信ず、彼等は皆悉く恭しく勅語に向て低頭し、『学を修め、業を習ひ、以て智能を啓発し、徳器を成就』せんことを誓ひしものなることを。然るに彼等多数の学生にして、醜行かくの如し、余輩彼等を称して事実上の不忠臣、実行上の不敬漢と做すも、彼等は余輩に向て答ふる処あるや。
 語を寄す、第一高等学校長|久原躬弦《くはらみつる》君、閣下は、一教員が教育勅語に向て低頭せざるの故を以て、彼を大不敬漢と見做して放逐するの勇気を有せり、然るに今や閣下薫陶の下にある、斯も多数の生徒の、反勅語的の行為かくの如し。閣下何故に前日の勇気を奮ひ、二百有余の不敬事件を起しゝ是等の不敬漢を処置せざる、敢て閣下の反省を煩はす。
 
(292)    赤髯録《せきぜんろく》
                        明治31年3月1日
                        『万朝報』
                        署名 弁慶
 
〇米国《べいこく》は我が学生が常に浅薄の故を以て賤視するの国なり、然るに其一大学の教頭マーク、ホプキンは曰へり、『智識の用は人生を稗益するにあり』と之を我国の学生が常に口にして憚からざる『智識の用は金を儲くるにあり』との言に此すれば浅薄なる米人の返て我に勝る所あるを見る、如何。
〇加奈多の小説家ジョージ、マクドナルトすら曰へり『一|手《しゆ》を以て神に縋り他手を以て隣人を助けよ、是れ宗教なり、律《おきて》なり、予言なり、亦来らんとする凡ての偉大なる事業に達するの途《みち》なり』と、勿論神も信ぜず仏も信ぜず、只金銭の万能力と人爵の最大権とを信ずる藩閥政府の治下に在る日本人に取ては如此の言はチンプンカンの最も甚だしきものなり、然りと雖も其内に一大真理の存するあるに至ては余輩は亦た返て加奈多人の理想を賛して伊男《いだん》、雨敬《あめけい》、浜茂《はましげ》等《ら》諸聖賢の人生観に不同意を呈するの止むを得ざるに至る。
〇『富を得るに憂慮多し、之を保つに恐怖あり、之を用ふるに誘惑あり、之を濫用して罪悪あり、之を失ふて悲痛あり、而して終に共用法に就て責任を問はれざるべからず』と、是れマッシュー、ヘンリーてふ赤髯学者の教へし所、我の福沢先生の教義と此すれば天地月鼈の差あり、今や我国拝金宗の福音書とも称すぺき『福翁百話』梓《あづさ》を重ぬる已に七版に及びしと伝へらる、拝金国は西洋に非ずして返て東洋の我が日本帝国にあるなき乎。
(293)〇『凡ての改善の中心は心の改善にあり』とは米国の耶蘇坊主ブシユネルの言なり、道路の改善、貨幣制度の改善、選拳法の改善、内閣の改善、皆な民人良心の改善より来るとなり、板垣伯は立法部の主脳にして伊藤侯は行政部の主脳なりとは板垣自身の語る所なりと、然らば我が国道徳部の主脳は大谷光瑩師と称し奉らん乎、穴賢。
 
(300)    米国の富(二日の英文翻訳)
                       明治31年3月4日
                       『万朝報』
                       署名なし
 
  多数の読者は我英文の翻訳を見んことを望まる 乃ち其希望を容れて今後英文中特に我国人に取りて趣味多かるべしと認むる者を翻訳してこゝに掲載すぺし
 近着の一外国新聞に米国《べいこく》カンサス州に於ける昨年中の農業の収獲を報告せる一文あり 吾人之を読みて三省せざる能はず
 カンサス州は其大さ略ぼ我本島に等し 昨年はさして豊年に非らざりしかど猶ほ此州に於て収獲したる穀物の総額は三十万六千輌の荷物車《にもつぐるま》に載せ長さ二千三百十九哩の荷物汽車を以て運輸せざるべからざる程にて枯草は長さ一千五百哩の荷物汽車を要し燕麦《からすむぎ》を積載するには三百三十哩|玉萄黍《もろこし》は百五十五哩|馬鈴薯《じやがたらいも》は八十二哩麻は二十五哩|牛酪《ぎうらく》及び鶏卵は廿五哩の列車を要するなり 小麦の総収獲額は五千一百万ブツシエルにして之を運輸するには十万一千輌の車長さ七百七十三哩の列車を要し馬及騾馬を載するには二百五十哩牝牛は百六十哩其他の家畜は五百哩を要し猶|此他《このた》に三百万頭の豚を載する為めに長さ百八十哩三万輌の列車を要するなり 之を要するに昨年中カンサス一州の収獲物を積み載せ得る列車は長さ六千哩に達するものたらざるべからずして若し此列車をカンサス州の中央より一直線に列ぬる時は大西洋を横断して米国と欧洲大陸とを聯《つな》ぎ和蘭を過ぎ独逸を縦(301)断し露京|聖、彼得堡《セントピイタースボルグ》に至りて初めて終るぺし 又若し総収獲物を売りて銀貨に換へなば其銀貨の総重量は百三十五万五千三百五十八|斤《ポンド》にして之を運搬するには二頭立の荷馬車六百七十七輌を要せん
 一般の我日本国民は欧洲人と共に米国を蔑視して意気軒昂傲然としていふ 米国には偉大崇高のものあるなし 一|人《にん》の大思想家なく一人の大詩人一人の大政治家なし 米国は富士八島の如き大戦闘艦を有せず 又吾人の如く大哲学者を有することなし 米国は遂に拝金の国のみ守銭奴の集合躰のみと 斯の如き考へを抱《いだい》て進歩せる日本国智識高き日本国民はワシントンの生れリンコーンの生《うまれ》たる国に一物の感賞すぺきものを見出すことなし されど米国は日本国の有せざる物を有するなり 実に彼の国は日本国民が如何に忠君愛国を絶叫し如何に『哲学思想の発達』を呼号するも遂に及ぶぺからざる物を有するなり『哲学は※[麥+面]包を作る能はず』況んや之を産出するを得んや 日本国民は頗る発達せる哲学思想を有するならん 然れども米国民は自己の用に供して余りある※[麥+面]包を有するなり
 
(302)    是々非々
                       明治31年3月6日
                       『万朝報』
                       著名 内村鑑三
 
     偽善教育
 
 影を逐ふて実を求めず、儀式を重んじて実行を軽じ、価値を学位に置て実力を省みず、該博ならん事を欲して独想を養ふ事を思はず、何事も装飾、何事も虚礼、何事も皮想的にして何事も不信実なる、是れ偽善教育にして亦我国今日の教育なりとす。
 偽善教育の結果は空威張なり、支那を虐《いぢ》めながら露西亜独逸に属するに至りしは其一なり、誠実なる文学迹を絶て淨虚堕弱の小説の流行を来たせしは其二なり、忠君愛国の名の下に民の自由を束縛し其思惟を下落せしめしは其三なり、偽善教育の結果は全国民を偽善者たらしめざれば止まざるべし
 
     日本《にほん》の今日《こんにち》
 
 怒る者あり、罵る者あり、威張る者あり、民を圧する者あり、税を取立つる者あり、慷慨する者あり、泣く者あり、自殺する者あり、慰むる者あるなし、歓喜を民に頒つ者あるなし、教へ導く者あるなし、確実なる人世観(303)を有する者あるなし、又有りとするも大胆に之を伝ふる者あるなし、
 何人も得んと欲して何人も与へんと欲せず 何人も助けられんと欲して何人も助けんと欲せず、国家若し如此にして成長し得ば何者か成長し得ざらんや、余輩は我国の前途を危ぶむ。
 
(323)    『月曜講演』
 
(324)    目次
 
第一章 カーライルを学ぶの利と害………………………………三二四
第二章 ダンテとゲーテ……………………………………………三四一
第三章 米国詩人……………………………………………………三五八
第四章 文学としての聖書…………………………………………三七〇
 
    月曜講演
 
     第一章 カーライルを学ぶの利と害
 
 天下の人傑を捉え来りて、刻下に之が論評を試みんとするは、難中の至難事なり。然るに余輩今や其の至難の業なるを顧みず、此にカーライルを学び、ダンテとゲーテを究め、ウオルヅオルスとブライアントを評し、ローエルとホヰットマンを論ぜんと欲す、到底其の完きを尽す能はざるは言ふまでもなし。抑も彼等の如き高尚偉大なる人物を研究する事は、其の一人一代の著述を研究するのみにても、実に容易ならざる大事業にして、吾人畢(325)生の事業として之を学ぶの価値を有するものとす。試みに見よ、昆虫学の研究に熱心なる学者の、往々にして朝た夕べを別たず、孜々として工夫を積み、思慮を凝らし、顕微鏡下に蚤虱の類を羅列し、其蠢爾たる一昆虫の裡にも、亦小天地、小宇宙の存在する事を見、之が研究を以て終生の事業となし、一身を之に委ぬる者あるを。蚤虱の如きものにすら一身を委ねて之を研究するの価値ありとせば、増してや欧米の大家一人を研究するに於て、何人か其の一代の事業となすの価値を疑ふ者あらん。
 余輩カーライルを学ぶ、此に年あり。されど只僅に業務の余閑を以て其著を繙けるに過ぎず。豈に敢て悉く彼を知り得たりと言ふべけんや。若し人ありカーライルに詳しく、其の思想の蘊奥を極めたる者なりとせんか、余輩は走つて其の人の膝下に跪き、粛んで教を受けんと欲す。余輩の今カーライルを論ぜんとするは、閑余に読過せる彼の著書に就き、世の読者に及ぼす所の利なり、又害なりと思はるゝ二三の点を陳ぶるに止まる。之を以て徒らに学を世に誇り、識を天下に吹聴する人の自ら量らざるの愚に倣はんと欲する者にあらず。
 斯の如くカーライルを学ぶは偉大なる事業なり、随て困難なる事業なり。されど彼は文学者なり。文学者を知るは、政治家を知るよりも、其の範囲狭く、煩ひ少なきが故に稍容易なるが如し。クロムウエルの如き、グラツドストーンの如き大政治家の生涯は、大半は国家の歴史なり。時の縦横錯雑して関係の繋はる所広く且つ深き政治及び社会の状態を知悉するに非ざれば、以て政治家の全豹を観察する能はず。されど文学者の天地は其の人自身の裡にあり。此は文学者を観察するに甚だ便宜なる点にして、而も趣味甚だ深く、気韻又甚だ高き所以なりとす。
 カーライル曰く、文学者は考ふる者なり、而して文学は其の思想なりと。(Literature is the thought of a think(326)ing man)文学を学ばんとするは思想を学ぶ事なり、文学者を学ばんとするは其の思想の宿りたる所の人物を学ぶ事なり。カーライル老年に及び、貴族に列せられんとせしも、固辞して受けず、意気頗る昂れる頃に当り、一日或る公園に散策を試みんとし、途に乗合馬車に乗ず。同乗の客其の何人なるを知らず、蓬髪疎髯、素服して飾らず、眼光のみ炯々として人を射り、容貌の極めて奇異なるを凝視し『あの老人の醜さよ』と嘲笑す。預め此醜くき老人こそ文豪カーライルなれと知り居たる馬丁は、其の嘲笑を聞き、顧みて客に謂つて日く『汝は彼の帽子の下に如何なる宇宙の存在するかを知らざるなり』と。然り、其容貌は如何に醜悪なりしとするも、其の帽子の蔽ひたる脳裡には、雄大深遠なる宇宙こそ存在したりしなれ。
 文学者の伝を綴らんとせば、其の材料に限りあり、又其の区域の定まりたるものあるが故に、僅々数百頁の小冊と雖、略ぼ其の大躰を包括して之を伝ふる事を得ん。世人が往々彼の“English men of Letters”この如き簡単なる書冊に依頼することあるは、尚ほ躍如として英国文豪の面目を画き出し、其の一斑を窺はしむるに足るものあるが故なり。されど如何に材料に限りあり区域に定りありとは言へ、決して博文舘、若くは春陽堂に於て出版する、滔々たる今日の稗史小説を読むが如く、何の苦もなく読み得べしと思ふ可らず。カーライルの著書三十七冊あり。全部を通して一読するのみにても已に困難なり。況んや其の字句の用法、思想の佶屈にして曲直只ならざるを、明確に己が脳裡に注入せんとするに至つては、更に一層の困難なり。余輩曩きに地方に在るや、東京の文士某、年尚ほ若きに書を著してカーライルを伝し、三十七冊の著我が眼中に在りと言へるを聞き、カーライルを読むに於ては余輩多く人後に墜ちざらん事を期せしに、何ぞ図らん此若年の文士に劣ると一驚を喫し、後ち其の書の翻訳なりしを知るに及んで更に一驚を加えたる事あり。余輩必ずしも日本人の脳力を蔑みする者に非ず、(327)されど悉く之を読破し得る強大の根気を有する者蓋し甚だ稀なりと思惟す。余輩の知友中最も善くカーライルを知れる者は、札幌農学校教授ドクトル新渡戸稲造なり。而して彼が最も熟読含味せるは『サルトル レザルタス』及び『仏国革命史』なり。カーライル学を研究する者の中にても斯の如く各専門を生ず。また以て斯学の容易ならざるを見るぺし。
 カーライルを学ぶ第一の材料は彼の著述なり。次ぎは彼の書翰なり。彼れ生前に於て親しく相交れる朋友少なく、余が生死を心配するものはロンドン市中僅に二三人のみならんと言へる程なり。されど其の数名の朋友と往復せる書翰は、実に彼を学ぶに大切なる好材料とす。何となれば人間としての彼は、著述に於て見る所の彼とは自ら其の趣きを異にし、而して其の赤裸々の人格を観察せんには未だ書翰に如くものあらざるべければなり。書翰の重なるものは之をエマルソンとの往復となす。マシユー、アルノルド評して曰く、仮令カーライルの著述悉く消失する事あらんとも、此書翰は消失す可らずと。地球の両側面に在つて英米の二大文豪が、千山万水を隔て、二三月の日数を指折りつゝ、遙に書を寄せて情を通じ、人生の大問題に就き互に意見を闘はせるが如きは、何等の愉快なる現象なる乎。其他の書翰の中彼が妻君に送れるもの、及び親友アルビングに送れるものあり。此二者はまた前者と異なりたる彼が性状を現はし、夫としての彼、友としての彼を察知するに屈竟なる材料とす。(The Correspondence of Th.Carlyle and R.W.Emerson,1834-1872.Edited by Charles Eliot)此等に続て研究すべき材料は、フロウドの『カーライル伝』(Thomas Carlyle,by James Anthony Froude,4 vols.)なり、四冊にて完結す。其他新聞雅誌等に掲載せられたる区々たる逸事会話の如きは挙げて数ふ可らず。
 近着の外字新聞を見るに、ロンドンに於ける彼がチエルシーの居宅の光景を記載せる書あり、(The Carlyles' (328)Chelsea Home.By Reginald Blint.)固より当時の事情を詳かにするの一助たるに相違なし、されど殆んど陳べ得て余蘊なしと思はるゝはフロウドの著に如かず。又カーライルと友とし善く、宛もボスウヱルのジョンソンに於けるが如く、友人たるよりは寧ろ師弟の関係を有し、常に敬服嘆美して措かざるモンキユアー、コンウヱーと云へる人あり。千八百六十三年未だ南北戦争酣はにして血流れ風腥き頃に当り、居を英国に移し近頃に至りて再び米国に帰へる人にして、ユニテリアンの牧師なり。其の嘆美者としてカーライルの事を叙したるもの、又少なからざる参考となすぺきなり。(Thomas Carlyle,by Mnncure D.Conway.)尚ほ亦米国々会の牧師にして美以《メソデスト》教会に属するウイリアム、ミルバーンと言へる人あり。両目明を失ひたれど、豪胆人の面を恐れず、独立不羈稀に見る所の硬骨男子たり。彼れ甚だ聴官の感覚鋭く、又強記の人なれば、曾てカーライルを彼の僑寓に訪ひ其庭前に煙草を燻らしつゝ彼と談笑会話せし事を叙せしめたるものあり。是れカーライルが居常を窺ふに便ならしむる所の、趣味深き材料と言ふぺし。
 英国人程自国の人物を曲解する国民はあらざるべし。現にグラツドストーン氏の如き高貴なる人物にして卓越せる才能を有する大政治家たるは疑ひを容れざる所にして、何人も心服する事なるぺしと思はる。されど頃日英国に於ては貴族の夫人相会合して、虞氏排斥の運動を協議せりといふ。虞氏の死せん事は実に彼等に取つて其上もなき歓喜となすものゝ如し。斯の如くカーライルも亦彼の国人中敵多き人物なりしかば、彼を忌み憚る者少なからず、随て彼を論評せる著書中には偏見曲解の譏を免かれざるもの多しとす。されど此上述ぶる所の如きは最も公平にして誤まりなきものに近からんか。
 乃ち此等の材料を以てして、初めてカーライルの面目を発揮し、其の人物を画き出すべきなり。さりながら(329)全然之が為に身を委ねて研究したればとて、二三年を費すも尚ほ完全を望む能はざらん。
 日本人に取りて、カーライルと言へば直ちに『英雄崇拝論』を想起するの弊あり。此は日本人は誰しも皆な英雄なるが故に、其の名の美はしきを見るや、直ちに恍惚として引着せられたるものならん。随て方今の学生がカーライルを評するを聞くに、『英雄崇拝論』中に現はれたる彼を見て速断せるもの甚だ多し。されど此書は彼が著作中最悪の作なり。何となれば彼未だ世に認識せられず、原稿堆積するも買ふものなく、生活常に窮を告げて不平に堪えず、独り逆流に棹してロンドンに一講座を開き、社会に対する満腔の不平を爆発せし、所謂胆汁数滴を綴りて梓に上せたるものに過ぎざればなり。例へばマホメツトを激賞して天にまで上げんとせるが如きは、彼が平素の所説に徴して殆んど在るまじき所為なり。されど敢て之を為したる所以のものは、之を以て英国社会を攻撃せんとする弾丸となせるに依らずんばあらず。思ふに彼を学ぶの害の最も多くを含蓄せるは蓋し此書ならん。
 若し乗れ全体に就き、カーライルの最も善き所を学ばんと欲せば、『評論集《クルチカル・エツセース》』を読むに如かず。此論文は老後のものなきに非らざるも、多くは齢二十九より三十六歳に至るまでの作にして、彼が英気勃々として思想又最も活動せる時代なれば、其の著作中の宝石と言ふべきもの多く其中にあり。彼が文雄論を知らんと欲せば、崇拝論に於てせずして、ボスウヱルの『ジョンソン伝』を批評せるものに於てせよ。歴々としてジヨンソンの真面目を発き、其の特質を表はし、ジヨンソンの人物に一段の光彩を添へ、尊重の念を厚からしむ。又バルンス論の如きは金玉の文、能く其の人物を発揮せるのみならず、文学の真意義を闡明し、我邦の青年の如き滔々として文学者たらん事を期する者に取りては実に喜ぶべき音信なり。尚ほヴオルテアを論じては痛快を極め其善を賞し、其悪を鞭ち宗教上の観察至れり尽せるものあり。更に『時代の徴』に於ては(政治及び社会の状態を説き去り説(330)き来りて炬を見るが如く、其の短所を指摘するに至ては利刃骨を穿つが如し。彼は美以《メソデスト》派の人を厭ふて、「彼等は己が臍のみを見るを知つて、神の与へ玉へる事業を見ず」と罵れり。
 彼が後年の著作にして、雄渾偉大なる思想を沈痛壮快なる筆に走らせ、読む者をして血激し脈躍り、貪夫も廉に懦夫も志を立てしむるものは、彼のクロムウヱル伝なり。此は彼の理想的の政治家を説きたるものにして、裨益多く趣味饒に、読む者の脳裡に永く其の印象を刻むに至ては、彼の著書中の随一なりとす。英国の『レビウー、オブ、レビウース』雑誌の記者、ステツドが愛読し且つ最も其の感化を蒙りたる書は、聖書《バイブル》及びカーライルの『クロムウヱル伝』并にローヱルの詩集なりと言へり。余輩また感を同うす。若し心を潜めてクロムウヱル伝を繙かば、誰か正に意気昂然として正義の旗を朝嵐に翻し、堂々鼓を鳴らして人道を無視する腐腸悖徳の政府を顛覆するの念禁ずる能はざるを覚えざる者あらんや。カーライルは絶えて他人を恐れざる人なりき。されど天下に彼の恐るゝ所の人物只一人ありき。之を無学なる其の母なりとす。母幼き頃より彼を諭して曰く、クロムウヱルは世人の言ふが如く決して愚なる者にあらず、英国政治家中最も大なる英雄なりと。彼のクロムウヱル伝を著はす所以堂偶然ならんや。而して此は彼の思想の最も美はしく成熟したる時の作にして、其の生涯の絶頂に達したる者と言ふべし。
 之より以後に至つては漸く下り坂に向へる如く、動もすれば吾人の感服し難き作少なしとせず。特にフレデリツキ大王伝の如きは、何の目的あつて之を書せしかを異むばかりなり。彼為に友人エマソンの問に答へて『老後無事に苦しむが故にフレデリツキを殺して鬱を散ぜん』のみとの意を以てせりとか。是れ或は真に近からん。只鬱を遣り、徒然を慰めんが為に、頑固なる難問題を捉え来りて、漫然之を粉砕し破毀して以て快とせしものなり(331)と思はる。案ずるに彼の家庭に於て最も風波多き時代は此頃にして、独り二階の一室に閉居し、恰も狂犬の相手を撰ばず当るを幸ひ噛み付くが如く、心に穏かなる所なき頃なりしかば、主張すべき高遠なる理想もなく、只一片の歴史家として世人の苦む問題を、己れ先づ解釈しくれんと力めたるに過ぎざりしものなるべし。
 カーライルを学ぶの利益は非常にして、殆んど枚挙に遑なからんとす。されど今は僅に其の重なる二三を挙げん。彼を読んで己が心に徹底し、終生忘るゝ能はずと感ぜしむるものは、第一に誠実の信念なり。今や誠実なる語路頭に迷ひ、新聞として雑誌として此語を伝へざるはなし。されど能く誠実を解する者果して幾人かある。誠実とは純の純なる義なり。悪ならば純乎悪なるべし、善ならば純乎善なるべし。面皮を剥ぎ去るも依然として其の実質を更へず、鉛なるか、金なるか、そは問ふ所に非ず要は只滅金にあらざれば可なり。小は箸の上げ下しより大は政治問題、国家問題に至るまで、悉く皆な誠実ならん事を切望して、凡ゆる方面より此一事を絶叫したり。彼は単調を憚からずして、誠実の一事を説き、丁寧反覆殆んど余力を残さゞりしものは、蓋し彼が世に負ふ所の使命の大半は真面目なれとの此一事を教ゆるに在りと信じたるが故なり。ジヨンソン若くはクロムウエルを論ずるは、飽まで彼等の誠実なる赤き心を発揮して、世を教へんとしたるのみ。ヴオルテアの無神論を評し、カグリオストローなる大山師を捉え来れるは、反対の側面より誠実の真意義を示さんと欲せしのみ。
 彼の寓を訪ふて飲食を共にせる者は皆な言ふ、彼の家庭は厳冬風寒く、和気靄然たる温情の流露する事少なく、冷かにして笑声の外に漏るゝ稀なりと。他の顔色を見て辞を改め行を変へ、人の歓心を買はん事をこれ勉め、唇を薄うして舌を二枚にするは、真面目なる人の到底為し得る所に非ず。誠実の人は面白からざる人なり。ダンテ痛罵して曰く、余は人を歓ばすが如き者に非ず、若し歓ばされん事を願はゞ、世の幇間者流の如き馬鹿者を呼(332)び来れと。カーライルは幇間に非ず、飽まで真面目なる人物なり、主義を固守せる人物なり。内は家庭に在つても、外は廟堂に在つても、誠実は誠実なりと揚言し、苟も之を解せざる者に遭ふ時は、妖怪なり、藪医者なりと口を極めて罵倒し、口と腹との同じからざるを憤る。陰謀奸計それ事とする我社会、又誠実なる心ほど最も必要を感ずるものなからん。孔孟の書能く信義を説き、年々出版せらるゝ幾多の伝記を繙くも、亦誠実なる語を羅列せざるはなし。されど之を読んで尚ほ誠実なる者甚だ稀なるを思へば、誠実の福音を宣べ伝ふる、一日も忽にすべからざる緊要の事業に非ずや。三十七冊の書を挙げて之が為に用ゆるも、尚ほ未だ慊らざる所あらん。
 第二は労働を尊重する事なり。英国労働者の二大友人はフレデリツク、モリスと、カーライルなりと言ふ。聖書が労働を尊重して其の位置を高めたるは、天下の通説なり。之に次で詩的の熱火を加え以て労働の神聖を教へたるはカーライルとす。其の著書を熟読せば、世に怠慢ほど甚だしき耻辱はあらざる事を感覚せん。草木は野に山に生々繁茂するに、汝は手を空うして何事をもなさゞる乎、そは何たる恐るべき罪なるぞと、力を籠め語を鋭くし、或は怒り或は訓し、以て勤勉力作の福音を説きたり。彼曾て自耳義に遊び、行々足に委かせて国民の常態を見、その風俗習慣を察しけるが、偶ま窓の辺りに年末だ浦若き一婦人のレースを織る者あるに遭ふ。顔色は憔悴して青白く、形容枯槁して恨み長きが如く、梭の音さへ.心中の憂を訴ふるに似たり。多情多血なる彼は無量の感慨に打たれ、低徊去るに忍びず、千思万想胸に淨び、或は是れ天女の機織れる者にあらざるかと怪み、其の衰へたるは良人を失ひて寄る辺なき我身を嘆てるが為めか、其の悲めるは慰め励ましゝ母の今は世に在らずして訴るによしなきが故か、彼れと推し此れと察し、座ろ芯暗涙を催しつゝ遂に嚢底より一フロリンスを取り出し、之を可憐の女に与へて去り行きたる事あり。彼の労働者に同情を寄するや実に斯の如く深く且つ切なりしなり。
(333) 又或る時一婦人の彼に書を送つて、宗教上の疑惑に苦しみ、人生問題に思ひ悩み居る旨を告げ、以て彼の教を受けんとせる事あり。彼此に於て答へらく、『由なき事企てたまひてそ、御身が仕事箱の裡には乱れし糸のあらざるか、在らばそをば先づ整理して糸巻きにおさめ、御身が箪笥の裡には取り乱されし衣服のあらざるか、有らばそをば先づ美はしく片付けたまへかし。さらば何時となく思ひ煩ひたまふ人生の問題も雲霧の消えて跡なきが如くなりなん』と。蓋し手足を労して事業に勤勉せば、能く惑を去り疑を解き、健全なる思想を生じ、智力の判断も正確を誤まらざるに至り、自ら人生の問題も明かに解釈せらるべしと言ふに在り。彼の怠慢を悪みて勤勉を奨励し、労働力作を重ずる概ね此類なり。
 第三は貧民を愛する事なり。或は我国の国体とは隔離して相容れずと非難する者もあらん。されど彼が政治上の意見は、上を見ずして下を見よ上の主義に基づきたり。クロムウヱルを弁じて世の誤解を正したる所以は、元来クロムウヱルの精神として、上に在つて権勢を擅にし威を天下に示さんと欲せしにあらず、又中央集権を以て国政の統一を計らんと欲せしにもあらず、只彼は社会に在つて最も軽侮せられ、擯斥せらるゝ最下等の人民に幸福を得させんとの志に過ぎざりしを見て極力彼に同情を表し甘じて其弁護を勉めたるなり。ローヱル歌ふて曰く、『憲法それ何するものぞ、一片の紙屑に記載せるものに非ずや、然らば之を破壊したりとて又何かあらん』と。カーライルの憲法政治を忌み嫌へるは、国を治め政を布くに便なるを認識せざりしに由るに非ず、最下等の人民を憫んで之を幸せんとする者あらば時に臨み機に応じて或は圧制を逞うするも不可なしとなせるが故なり。カーライルの奇激なる性癖として、クロムウヱルの如く、自利を謀らず、己を虚うして、万生の幸福を慮かり、普通の権利をすら享有する能はざる所の人民あるを憂ひ、因襲の久しき其の恐るべき弊害を除かんとするも尋常(334)一様にして能く遂功す可らざるを暁り、爰に於てか非常の手段に訴え、圧制政治を断行したる者あるを見ては、案を叩ひて其の壮絶快絶なるを喜びたるものゝ如し。仮令極端に走りたるの嫌ありと雖、其貧民を愛するの厚き、寧ろカーライルを徳とせざる可らずと思惟す。
 余輩已にカーライルを学ぶの利益を陳べたり。されど彼の性状は最も愛すぺく敬すべきものあると同時に、又最も恐るべく避くべきもの存す。故に彼を学んで得る所の利益極めて多きが如く、又彼を学んで得る所の弊害の極めて多き事を忘る可らず。
 上に陳述せる如く彼を学ぶの害は多く彼の英雄崇拝論に存す。多感多血の青年をして、一たび此書を繙かしめば、漸く佳境に入るに随ひ、覚えず案を叩ひて其の斬新警抜なるを嘆賞し、腕を扼し瞳を凝し悲愴慷慨の志勃々として禁ずる能はず、未だ悉く之を読み了らざるに、早く已に其の青年の性質に一変動を来たし、其の感化の激甚なる、寧ろ驚くべきものあるを見ん。蓋し其の感化を他人に及ぼす力の大なるは、取りも直さず人物の偉大なるを表示するものなり。古往今来天下の人傑に親しく相接触するか、然らざるも其の著書を読み、其事業を見るに当つて、思はざるに其の人の精神我を鼓舞作興し、覚えざるに其の精神我が霊性の一部分と化して活動するに至るものあり。而して余輩の知れる著書中、読む者をして共に怒らしめ、共に喜ばしめ、共に泣かしめ、又共に笑はしめ、宛がら掌に翻弄せらるゝの感あらしむる程、甚だしき感化を与ふるものは、未だカーライルの著書に如くものあるを見ず。況んや思想未だ成熟せず、世の風波を味ひたる事少き、かの無邪気にして天真なる青年が、彼の書によりて感化せらるゝこと、斯の如く著しく大なるや、また当然の事なるべし。 彼を学んで立所に現はれ来る所の弊害は、不平の念に堪えざらしむる事なり。人間万事皆非にして、己が意に(335)適し、己が理想に合するもの一もある事なく、近くは旦暮に相見る所の隣人の挙動面白からず、進んでは学校に在つて見開する所のもの、一として満足を与ふる能はず、政治上の状態を観察しては悉く憤慨の種とならざるはなく、世の滔々たる文学を手にしては皆な痛罵の媒とならざるはなく、更に教会に出入しても心に安ずる所なく、牧師に対し信徒に対し不平不満の念抑へんとして抑ゆ可らず、気荒く心猛り、事物を観察するも之を其の光明の側面より窺ふこと能はず、只其の暗黒の側面より睥睨し、憤慨これ勉め痛罵これ事とするに至る。かの牧師伝道者たらんとする人々の、多くカーライルを学ぶを好まざる所以は、其の温良篤実にして恬静沈着なる性質を傷けん事を恐るゝが故なり。
 彼は現在に満足して太平を謳歌する事を得る人物に非ず。只彼をして其の意に適し心に満足せしむるは過去と外国とありしのみ、如何に其の人物は尊敬すべき者なりとも、如何に其の事業は高貴なる事なりとも、苟も今日てふ冠詞を有するものに対して、彼は決して之を歓ばず、仮令之を破壊するも更に惜む所なきものゝ如し。故にロンドン市中四百万の市民ありと雖、親しく相交りて其の情誼を渝えざりし者僅々二三人に過ぎず、而かも其の二三の友人をすら動もすれば疎んじ去らんとするの性癖ありき。彼は実に近世に友を求めず、寧ろ之を詛はんとせる者なりき。或人彼の思想を評して、彼の眼中に映じたる此の世界に於て、上帝はクロムウヱルの時代まで存在し、夫より以後は其の姿を隠せるものゝ如しと言へり。そは彼が天下の英雄はクロムウヱル時代に終れりとなせるが故ならん。彼世に在るの当時に於て英国の社会決して人物に乏しからず。スコツトあり、ウオルヅオルスあり、バイロンあり、ミルあり、グラツドストーンあり、ヂスレリーあり、天下の名士朝に野に星の如く散在すと言ふぺし。然れどもカーライルは言ふ、幾多の英雄ミルトンの時代には生存したりしかども、今は在らずと。(336)彼は今日を以て到底満足する能はず、眼前のものを見て到底嘆美する能はず、ヂスレリーを呼ぷに『デイジー』を以てし決して其の本名を用ひず。又先頃隔世の人となりたる有名の解剖学者にして厚く彼を尊敬せるオーヱンに対しても、僅かに賞嘆して「稀に見る所の英才、余が寓を訪ひ、清談三四時間に渉り頗る愉快なりし」と言へるに過ぎず。斯の如く絶えて現在の美を賞し才を感ずる能はざりしは、蓋し之れ彼の持病なりと言ふも敢て過言にあらずと信ず。
 西諺に曰く「見ざるものは価貴し」Omne ignnotum pro magnifico と。彼が当時の人物に対し激賞して措かざる者唯一人あり。之をゲーテとなす。ヱマーソン之を訝かり問ふて曰く「御身の如き厳正なる宗教を奉じ信念至つて厚き父母を有し、而かも蘇国の山川に生長せるものにてありながら、尚ほかのゲーテを激賞する所以のものは何ぞ、之れ余の得て了解する能はざる所なり」と。然りカーライルの平常を知る者にして彼のゲーテを愛するを聞かば、何人も其の予想外なるに驚くべし。彼れ凡ゆる美辞を列ねてゲーテそ讃し、或は夏の太陽の如く、勇しく出でゝ勇しく没すと言ひ、若し又ゲーテの文書に接する事あらんか、手の舞ひ足の踏む所を知らず、宛がら上帝よりにても賜はりたるものゝ如く之を喜び彼に知られたるを以て無上の名誉となし、後ち独逸に遊べるに当つては、ウイテンボルグにルーテルの跡を弔はんよりも、先づ行ひてゲーテの書籍室に至れりと言ふ。或人カーライルは其の妻と共に独逸に赴き、二年間ゲーテの許に在つて学を受けたりと伝ふ、此は斉東野人の言に外ならず。そは彼若し親しくゲーテに学びたらば、彼の性癖として能くゲーテの嘆美者たるを得ざればなり。夫れ彼のゲーテを激賞するに至れる一動機は、之を以て英国人を叱咤せんと欲したるが故なるべし。
 彼また曾て支那皇帝を賞讃し、郊祭を設け農業始めとて毎年某日自ら黎を取つて其の儀式を行ふを聞き、労(337)働の献物をなす者なりと称し、基督教国たる我が英国にも斯る美風良俗は行はれずと言ひ、或は支那の科挙の法を以て文明的の方法なりとし欧洲諸国にも斯る例を見ずと論ぜり。事の実際を知れる吾等に取つて、其の儀式と言ひ、其の方法と言ひ、決して感服すべきものに非ずと雖、彼の辞を尽して激賞したるは、乃ち『見ざる者価貴し』の類に非らずとせんや。
 彼或は其の暖き友愛の情を破壊するに至る事あるも更に惜む所なかりしは、彼の為めに取らざる所なり。親友エドワード、アルビルグの事に就ては、其の死後有名なる追悼文を草して、英文学中最も善く追悼の情を陳べ尽したるものなりと評せらるゝに至りしかども、其の生前に於て相互の情愛漸く疎ましからんとせる傾向ありしは、其の責任カーヲイルの必ずしも、辞する能はざる所なりとす。エマーソンとの交情頗る濃かにして終生渝らざりしは、思ふに大平洋を遙かに相隔てたるが故なるべし。エマーソンの初めて彼を其の僑居に訪ひたる時に当りては、両々意気相投合し、肝胆相照らし、一見旧の如く心血を傾けて談じたりしも、已に其の第二回の会見に当ては、カーライル稍喜ばざる色あり、相別れて後ち人に語つて曰く、彼は思ひしよりも解らぬ人なりと。バルマルガゼツト紙上にカーライルを評して、彼若し今の時代に在り、救世軍の将軍ブース氏と邂逅するあらば二人互に手を握つて交情最も密なりしならん。されど其は僅に初会の事のみならん、次回の会合に至らば応に衝突となり、争論となり、果ては互に相搏つて闘はんと、其の前後の変化を示めせる二様の画を挿みて彼の欠点を指摘せり。
 斯くカーティル主義を推し及ぼして、遠慮なく其の偏癖を現はす時は、己が最愛の妻と雖、情愛の動もすれば濃厚なる能はざる事あるは免れ難し。或は言ふカーライルの家庭の暖かならざりしは、其妻の性質温柔ならざりしに基く。曾て夫妻相携へて旅行せる時、カーライルとある茶店に憩ひてコヒーを喫す、而して彼れ稍其冷きを(338)見て不平を漏らせしかば、妻傍より燃々たる熱炭を持ち来り、之を其の茶碗に投じ、『之れで暖まりたるべし』と言へる事ありしが如き其の一例なりと。果して妻の性質善からずしてカーライルを怒らしめたるか、将たカーライルの性質荒くして妻の偏癖を醸したるか、そは遽かに断ず可らざる事なれども、兎に角彼の家庭は春の波穏かに風軟らかく、靄靉として霞立ち罩めたる楽しき景色を見る可らざりしは大なる遺憾なり。されど彼は其の妻の世を去りてより二年間は言ふ可らざる深刻の苦痛を覚え、殆んど断食して妻の死を悲み『一瞬の隙にても可なり、再び相逢はん由もがな』と嘆きたるを見れば、彼決して冷刻愛を解せざりし没情漢に非ず。其の心の奥底には燃ゆるばかりの熱情潜みたりしかども、不幸にして彼が幾多の性癖の為に抑圧せられ、遂に円満に其の温情を流露する事能はざりしものならん。斯の如く不平の要素は彼の一生を貫徹したり。故に彼を学ばんと欲する者は、之に鑑みて能く其の不平の気を抑制せざる可らす。併しながら余輩またカーライルの為に弁ぜざる可らざる一事あり。彼は実に人生社会の凡ゆる方面に対し、不平にして自ら慰むる事能はざりしと雖、而かも今日の区々たる凡庸政治家若くは三文文学者の輩が懐く所の不平とは、日を同うして論ずべきものに非ざりき。彼果して何の為にか不平を懐ける。四十三年間の久しき、世に容られず、徒らに己が身の轗軻不遇なりしが為に、心鬱ぎ気結ぼれ、天下の駿馬も之を認むるの伯楽なく、春と過ぎ秋と暮らして空しく英雄を老せしめ、脾肉の嘆に堪えず、僅かに世を罵り人を嘲つて其の心の煩悶を遣らんと勉めたるに外ならざる乎。否な若し彼にして斯の如く自己の為に不平の念禁ずる能はざりし者たるに外ならざりせば、焉んぞ能く其の雄大なる思想と誠実なる品性とを養成するを得んや。彼は己の世に用ひられざるが為に、不平不満を訴ふるには余りに其の人物大なるに過ぎたり。
 彼の不平は人生を解釈する能はざりしに基因す。彼はバーンス伝に於て、バーンスが生計の道に窮し衣食住を(339)支ふる能はざりしが為め、遂に首を垂れて諂びを貴族に呈したるを責め、「人間の最も悲惨なるは死に優る事なし、而して若し其の死を覚悟して此に事に従へば、何等の苦痛かまた彼を煩はす事をせん、然るに彼斯る醜躰を現はすに至れるは死を恐れたるが故なり」と論ぜり。言甚だ立派なるに似たりと雖、斯る人生観を以て能く其心を泰山の泰きに置き、綽々として余裕あり、従容として迫まらざる所あらしむるは難からずや。ジヨンソンは義務てふ一念を重じて、浪風の荒き人生の戦に勝ち得たり。ヒウームは人生を遊び場なりと観じ、罪悪を犯さゞる限りは窮屈なる一生を送らんよりも、面白く可笑しく世を終らんこそ人間の本望なれと思へり。カーライル未だ人生の解釈に全く満足する能はず、只管奮闘激戦して勝利を占めん事を覚悟し、恰も人生は己れ仇敵と胸倉を取つて相争ひ、「汝我を殺すか、否らずんば我汝を殺さん」と、善悪互に真剣の勝負を成すものゝ如く思考し、己れは蝕まで正義に味方して其の義務に斃れん事を期したるが如し。故に彼の生涯を貫きて、限りなき苦痛止む時なく、起居常に堅くるしく不平断ゆる事なかりしは、此辺より来たりしものにして、和気靄然として幸福なる一生を送る能はざりし所以なりと思はる。
 されど真面目なる人物が真面目なる生涯を送るに当り、仮令暗澹たる沃雲は其の一生を蔽ひたりと雖、また時あつて天外光赫々たるを仰ぎ見る事あらざる者は稀なり。彼曾て彼の生地ニスの河辺よりヱマルソンに書き送れる書中の一節に曰く、『余の心中は余の頭上の天候の如し、黒雲空を覆ふて一点の光明なきが如き時に際して亦雲間を透して天光の射り来るあり』と。此は乃ち取つて以て彼の霊性上の経験を画くに足る。
 彼常に英国民の生活を譬へて、ナイヤガラ漫布の上流に舟を棹さすが如く、遂に押し流されて滅亡に了らんと警告すれども、彼亦英国も亦神の国なりと言て自らを慰めたり。泥土の下には盤石あり、雲霧の上には太陽あり。(340)不平の極には又幸と望なきに非ず。彼は希望なき不平家に非ず、光明を仰ぎ見ざる厭世家に非らざりき。故に彼を知つて是れを知らざる者は、真にカーライルを知れりと言ふ可らず。ヂーン、スタンレー彼の死後ウエストミンスターの寺院に説教せる其の一節に左の如き逸事あり。
 『彼齢已に八十有余に達し、最早や友人とは文書の往復を為す能はず転た無聊を感じける頃、ある夕独り寂しげに窓の辺りに座し、蒼然たる夕の色を眺め、塒に帰る鳥の友呼ぶ声も悲しげなりければ、「物のあはれ」や知りたりけん、鋭筆もて当時の感懐を記して曰く、神は愚なる者(自身を指す)をも尚ほ此所まで携さへ来り給へり、されば此所にて打ち棄て給ふ事なからん、又此後ちとても携へ行き給ふべし』。彼が這般の光を仰ぎ見て、美はしき感懐を起せるもの、豈に只一再のみなりと思ふべけんや。彼の如く正義を慕ひ、労働を尊び貧民の友となり、主義と共に立ち主義と共に斃れ、雄大なる霊魂を有する人物にして、仮令一時は暗澹たる此世界を悲観して憤り、不平不満の気に堪えざりし事ありとは言へ、其行くべき途を走り尽くせば、遂に天地を喜観して光明を仰ぎ見るに至らん事、毫も疑ひを容る可らず。げに彼は此の光明を仰ぎつゝ不平なりし世をば去りにき。
     *     *     *
 近着の外字新開は旧臘廿日頃、カーライルの未妹ジエン、カーライルの死を報ぜり。彼の女は蘇格蘭の農夫なるハンニングと言へる者に嫁し、后ち夫妻相携へて加奈太に移住したるものにして、固より教育もなき農夫の妻、特に齢も已に八十を超えたる老嫗なり。然るに新聞紙は此老嫗の死を事々しく世界に伝へ、読者も亦注意して其の報を読む所以を考ふれば、又以て世界に於けるカーライルの勢力を察知するに足るべし。
 某記者生前此の老嫗を訪ふて、兄トマスの居常を尋ねたるに、老嫗先づ答て、世人が所謂『カアライル』なる(341)名の発音を誤まれるを説き、蘇国の方言を以てせば『カルヽライル』(Car-r-r-lyle)にして、『r』を三つばかり列らねて発音せざる可らずと言ひ、続てフルウドの『カーライル伝』を批評し、此は彼の半面を画けるに過ぎず、大に其の真相を誤まれるものとなし、此書に拠ればチユム(Tum)は厳正一偏の人の如く見ゆれども、内に在つては愛情濃かにして、宛かも婦女子の如き性質を有せり、敵に対する時は勢当る可らず至つて恐るべき人なりしかども、友人并に家族の者に対する時は至て優しき人なりと弁じたりと伝ふ。カーライル常に其の弟妹の事を慮かり、逆境に在りて頗る困難を極めたりし時と雖、尚ほ種々に工夫して弟ジヨンの教育費を支給し、又かのハンニングは家貧しくして、其の死せる時は些少の貯蓄も遺さざりしかども、ジエンをして更に生活に苦しむ事なく、安らに其の一生を全うせしめたる所以は、蓋しカーライルの遺産を分配せられたるに由る。斯の如く彼はダンテと等しく義に於ては厳しく且つ強かりしと雖、情に於ては暖かく且つ脆かりしなり。詩人シルレル言へる事あり、“Der Starke ist am machtigsten allein”勇敢なる人は他に人なき所にあらざれば真に其の勇を現はす能はず、何となれば他人に対する時は自ら情にまくる事多ければなりと。
 其他彼がジエンに与へたる信書、若くは著述等悉く保存しあれば、カーライル学研究の志ある者に取りては、得難き材料と言ふべし。
 
    第二章 ダンテとゲーテ
 
 ダンテとゲーテは文学界の代表者たり。其の著す所の作は実に欧洲文学の神髄となす。余輩は今此の二大文豪を相対照して、聊か観察する所を陳べ、以て其の論評を試みんと欲す。蓋し相対照して論評するは、之に拠りて(342)最も善く彼等の互に相異なりたる性状を発揮し、又其の同じからざる思想の傾向を指摘するに便宜を感ずるが故のみ。されど其の論評を試むるに当り、余輩は先づ己が無学にして、未だ博く渉り深く極めたる者に非らざる事を表白し置かざる可らず。此は乃ち余輩の説く所に何程の信用を与へ得べきかを示すと同時に、又兼ねて彼等の文学を研究せんと欲する者の参考に資するを得ん。
 ダンテは以太利の人なり、故に彼の文学の妙趣を合味せんと欲すれば、英国語を以てするの外ある可らず。ルーテルの独逸文学に於ける、シヱキスピーアの英吉利文学に於けるが如く、以太利の文学はダンテを待つて初めて世に知られたるものにして、独逸語に翻訳してシエキスピーアを読み、又英語に翻訳してゲーテを読むも、何となく隔靴掻痒の感ありて、余韻縹緲たる妙趣を殺ぎ、写真に対して朧げに其の活物の面影を忍ぶが如く、如何に精巧なる翻訳なりとも、翻訳を以てダンテを読むの不完全なる事は論を俟たず。
 以太利語を研究するは、我邦に取りて商業上の関係より言ふも甚だ大なる利益ありと思はる。以太利は多く生糸を産出し、我国とは産業上の競争国たるのみならず、凡そ地中海沿岸の諸邦の貿易を試みんとせば、是非とも以太利語に通ずるの必要を生ず。されど今日まで以太利語を研究する人の少なきは残念なる事なり。泰西人は以太利語に甚だ重きを措き、之を知らざるを以て耻辱となすに至る。此は只に外交若くは貿易の関係より来るものに非ず、多くは其文学特にダンテの作を其の国語にて読まんとするの一念より来る。トマス、カーライルは乃ち其の一人とす。其の弟なるジヨン、カーライルは又ダンテ学者として有名なる人なり、医を業となせども、文学の趣味深く、其の翻訳に係はるダンテの地獄の部分の如きは、翻訳書中に重きを成す所なり。其他我邦には只乾燥無味なる一片の解剖学者として其の名を知られたるハツクスレーの如きも、曾て世界を周遊せる時に当り、ダ(343)ンテを彼の国語にて読まんとの志を起し、以太利語の初歩より研究し、刻苦勉励の結果遊歴二年間にて略ぼ之を読み終れりと言ふ。余輩又其の必要を切に感ずる者なりと雖、未だ事志と違ひて之を果さず。今や堂々たる君子国の都の中央たる此青年会館に於て、ダンテを論ぜんとするに当り、其の国語に通ぜざる事を表白せざる可らざるは、不面目之に過ぎず。されど恐らくは聴衆諸君も亦之に通ぜざるぺし、故に敢て之を論じ、諸君をして却て以太利語を研究するの必要を感ぜしむるの奨励たるを得ば、更に余輩の幸なり。
 斯の如く余輩は不幸にして其の国語を以てダンテを読む能はざれば、余儀なく其の翻訳に拠らざる可らず、然らば果して如何なる翻訳が最も可なりとすぺきか。ダンテの神曲を英語に翻訳せるもの夥多ありと雖、余輩の見る所に拠ればヘンリー、フランシス、ケリー(H.F.Cary)の訳を最も可なりとなす。此は千八百四十六年に出版せるものにて、カーラ十ルも亦筆を加へたりと言ふ。又ライト(Wright)の翻訳ありて、明晰平易の文なりと雖、ケリーの文は寧ろ沈痛鋭利なりと思ふ。其他にロングフエローの訳あり、余輩未だ之を読まず、されど其の簡易明快の文字たるべきや明なり。米国にウイルスタツシと言へる人あり、拉典学者にしてヴルジルを深く研究せり。ヴルジルはダンテの詩中に歌はれたる古代の人物なれば、またダンテ学研究の好材料となすべし。ウイルスタツシの訳には簡短なる注釈を加えあれば至極便利なり。又当時の学問の状態を詳かにせざる可らず、特に天主教会の儀式を知り、政治上の趨勢を察する事の必要は言までもなし。而してダンテの自著中にて先づ研究を要すべきの書は、『王政論』(De Monarchia)あり、『新生』(Nouva Vita)あり、此はビヤトリス夫人の死を哀悼せる歌なり、其外『酒宴』(Convto)の如きは、道徳哲学等智識上の問題を論ぜるものにて大切の材料なり。其の『神曲』を読まんとせば先づ順序として、此等の書を繙き己が脳髄を訓錬するを要す。
(344) 夫れダンテを学ばずんば未だ欧洲文学の精髄を知る可らずと。余輩屡々此語を聞て奮激し、直ちにダンテの作を繙きたれども、容易に解す可らず、其の甚だ入り難きに僻易して之を廃したる事また度々なりき。故に其の門に入らんとすれば、先づダンテの批評を読むを便利となす。特にヂーン、チヨルチのダンテ論の如きは、フロレンスの歴史及びかのキベリシ党とゲルフ党との錯雑せる政治上の状態を最も明白に叙して、彼の境遇を知るに甚だ便なり。アヂングトン、シモンドの文学復興史は其の研究少なからざる助けを与ふ。其他コンテンポライリー レビュー及びナインチン センチュリー等の誌上に掲載せる論文に、参考とすべきもの少なからず。ダンテは旧教徒たりしを以て、新教徒の彼に対するは稍偏見あるを免れず、随て旧教徒は彼を激賞して措かざるなり。米国旧教徒の発行に係はる雑誌、American Quarterly Catholic Review 紙上には、屡々旧教徒の観察点を察知するに足るべき文章を掲載するを見たり。
 余輩始めて『神曲《デビナコメヂヤ》』を読むや、終夜安眠する能はざりしこと屡々なりき。其は読んで愉快の情に堪えざりしが故に非ず、戦慄して恐怖の念に堪えざるが故なりき。自殺して死せる者、末の日に復活し、既に其の身躰は形を成したれども、其の霊魂は未だ空に懸かる己が躰に宿らずとて苦痛悲惨の様名状すべからざるを写し、又宛がら群蛙の泥中より頭を持ち上げたる如く、夥多の霊魂、沸騰せる青瀝の中より頭を延べて『ダンテよ、ダンテよ』と叫喚する一条の如きに至つては、恐懼座ろに我を襲ひ、覚えず身を慄して四辺を顧み、我も亦其の恐ろしき叫喚の声を聞くものに非らざるかを疑はしむ。
       *
 ゲーテを研究するはダンテを研究するよりは、其の範囲遙に広大なり。されど我邦に於ては兵備を始め学術(345)文学等多く独逸に負ふ所なり、随て其の国語に通ずる者多く、其の国状を知れる者少なからざれば、ゲーテを学ぶに於て甚だ便宜なるを覚ゆ。余輩の初めて独逸語を研究せんとの志を起せるは、一はルーテルの訳せし聖書を読み、一はゲーテの著作を繙かんとの動機に基く。而して曩きに米国に遊べるや、アーモスト大学教授博士リチヤドソン氏に就き二年間専ら独逸語を学ぶ事を得、又同氏はゲーテ文学に詳しき人なりしかばゲーテを研究するに得る所甚だ多なりき。故に余のゲーテを論ずるはダンテを論ずるよりも、少しく信を措くに足るべしと信ず。
 ゲーテの詩中最も善く彼の精神を発揮したるものは、『フアウスト』なり。甚だ単純にして読み難き作に非ず。されど下巻は上巻に比して稍困難なり。『ウイルヘルム、マイステル』)はゲーテがゲーテ以上に逸出して人生問題を論じたる点多し。又自叙伝とも称すべき“Wahrheit und Dichtuug”あり、著述家としての彼の生涯を窺ふべし。其他広く世の愛読する所は『ヘルマン、ウント、ドルテア』なり。其の思想の不健全にして動もすれば卑猥に渉れるもの之を『ベルテルス、ライデン』となす。而して彼の伝記の最も善美なるは、ルウイスの『ゲーテ伝』とす。英人の著す所なれども、独逸人すら尚ほ斯の如く彼の真相を公平に伝へたるものなしと言へり。カーライルのゲーテ論の如きは、揣摩憶測を逞うせる点少なからざれば公平と言ふ可らず。近頃に至りゲーテ論は文学界の一問題となり、我は卑むべしとなし、或は尊むべしとなし、新聞雑誌等種々の議論を闘はすを見る。されば『コンテンポライリー、レビウー』若くは『ナインチン、センチュリー』等又参考に供すぺきもの多し。
       *
 欧洲文学の粋と歌はれ、詩人中の詩人と称せらるゝ者三人。曰くダンテなり、曰くゲーテなり、曰くシエキスピールなり。或はホーマーを加へて四人となす、されど其の時代の懸隔せる事。余りに太甚しきが故に多くは之(346)を数へず。若し夫れバルンスを読み、ウオルヅオルスを愛し、バイロンを解したりと言ふと雖、未だ彼の三大詩人を知らざる者は、以て欧詩の妙趣を味ふたりと做す可らず。
 余輩は今此等の大詩人を論評せんとするに当り、先づ詩人とは何者なるや、将た又詩とは何事なるやの問題を解釈し、詩人の本分を明にし、詩の真意義を定むるの必要なるを感ず。抑も漢字の所謂『詩』とは如何なる字義を有するものにして、其の由て來る所の古事来歴等の如き、余輩の浅学なる未だ之を詳にせず。若し漢学先生をして縦横自在に其の説を成すを得せしめば、異義紛々正に二三十にして尽きざるものあるべし。或は牽強附会の説なるやも知る可らずと雖、余輩また此の文字を解釈して一説を得たり。曰く『詩』の字は言扁に寺の作りなり、蓋し古昔詩てふものゝ因て起れるは、多く之を寺院より発したるものなるが故に、寺にて用ゆる言語なりとの義を表はす為め『詩』の字を作れるに非ざる乎。例へば毘陀経の如きは最も古代の作なれども、印度人の祖先は其寺院に於て之を相頌吟したるものなりとす。由来詩と寺とは其の関係甚だ密切にして、古代の宗教は半ばゝ詩を以て組成せられたるものあるを見る。故に詩とは寺の語にて神聖なる歌なりとの意義を含蓄す。されど今日の寺院の言語は大に之と反し、其の神聖を汚し、其の優美を失ひ、金儲けの相談に非ずんば、地面買売の懸引談判なり。古への僧侶の言語は高尚清白なる詩なりしかども、今の僧侶の口は唯夫れ射利敗徳の臭気を発するのみ。漢字の『詩』中には果して斯の如き深長なる意義を有するや否やを保す可らずと雖、兎に角詩てふものに宗教的分子を含蓄せる事は疑を容れざる所なり。
 偖て英語の“Poem”若くは“Poet”なる語を考ふるに、其の意義甚だ深遠にして大なる哲理を有し、其の名已に天来の奇想を現はして、自ら饒かなる詩的趣味を含む。詩人即ち“Poet”とは希臘語の“〓〓〓〓〓”にして、動(347)詞の“〓〓〓〓〓”より転化せる語なり。此は「働く」、「作る」、「創造する」等の意義を有す。されば詩人は「造る人《メーカー》」なり、「創造する人《クーリエーター》」なり。恰かも神天地を創造せるが如く、詩人も亦詩を以て天地を創造す。故に大工の家を造り、裁縫師の衣服を造り、新聞記者の文字を造るが如き意味にて、造る人と称するに非ず。神を“Creator”と言ひ、詩人を“Poet”と言ふに至つては其の意義更に深し。苟も韻を踏み、句を聯ね、字を数ふるが如きは、詩の第二義に属する事にして、其の第一義は天地を創造する事に在りて存す。神の宇宙を創造せるは無より有を出せしなり、復古せるにあらず、新に建設せるなり。詩人の本分又此に存せざる可らず。毘陀経中には固より悉く感服する能はざるものあれども、亦幽遠崇高なる思想ありて数千年前尚ほ此句あるかと感嘆措く能はざらしむるもの尠少に非ず。而して起承転結の如きは彼等の厳く問ふ所に非らざるものゝ如くなれども、尚ほ其の詩たる価値に至ては毫も之を損する事なし。ダビデの詩篇に於ける、約百《ヨブ》記作者の約百記(ドラマに近しと雖)に於ける、また然り。詩は創造する事にして、詩人は乃ち創造する者なりとは、善く幾多の詩人の共に認識せる所、特にウオルヅウオルスが其の自叙伝とも称すべき Prelude に於て此語を成せる如き以て一例と可し。
   “Creator and Receiver both,
   The first Poetic spirit of our human life,”
     *     *     *     *
 然らば詩人の創造すべきは何物なるや、又如何様にして之を創造せんと欲するや。詩人の創造すべきものは思想なり、観念なり。彼は此茫漠たる森羅万象、天地間の凡ゆる事物を材料とし、四離滅裂、紛雑極りなきものに対し、その天稟の視観力を以て、之を整頓し、調和し、統一し、以て天地に対する完全なる観念を与ふるに在り。(348)神に相似たる所の者、乃ち詩人は実に神の如く、錯雑せる此宇宙を以て、統一せる新天地を組成するの力を有す。
 夫れ世界は不完全にして、乱調子極りなく、住む者をして一朝此に思ひ至らしめば、呆然として自ら失ひ、且つ恐れ且つ惑ひ其の真意の存する所を悟了するに苦しみ、更に堵に安ずるの念なからしむるものあるべし。誰か死なからん、人の生命は風前の燈の如く、夕べ朝たを待つ可らず。誰か病を防がん、富めるも貧きも忽ちにして北※[亡+おおざと]一片の露と消え、荼毘一縷の煙と化す。老たりとも望を失ふ可らず、壮なりとて頼む可らず、天変地異時ならずして至る。今年の花明年復た誰か之を見ん。事は志と違ひ、望みの遂げ得られざる十中の八九、落花の風に対して恨み長からざる者能く幾人ぞ。世に圧制あり、人は冷酷、我が利とする所は、隣人の不利となり、東西其の利を同うせずして、競争となり、衝突となる。不義にして驕れる者あれば正義にして苦しむ者あり、人生胡為ぞ悲惨の事多き。紛々擾々、漠として風を捕ふるが如く、何の時か能く一に帰せんの嘆なくんば非ず。此に詩人あり、此乱雑なる天地を観察し、帰趣を明にし、真相を発揮して、千古の疑問を解釈し、死蔭の谷に住める人民をして赫々たる光明を仰ぎ、雄大なる観念を起し明確なる思想を堅からしむ。
 或は人生何ぞ浪りに喜び、浪りに憂ひ、遑々として大に苦むを須ひん。飢へて食ひ、渇して飲み、昼は興き、夜は寝ぬ、病めば臥し、死すれば休するのみ。深く思ひ煩ひて哀まんよりは、寧ろ楽んで愉快に送るに如かずと為す、ヒユーム、ルークリーシヤス一派の人あり。或はショウペンハワーの如く人生の悲惨尽る事なく、心を傷ましめ、腸を断たしむる事の絶間なきを見、望を断ち喜を抛つて、人生は到底涙の谷なりとの断案を下すに至る。西班牙のアルホヲンソー皇太子の如く、「神天地を創造するに際し、余輩をして其の経営を共にせしめしならば、此天地よりは更に一層完美なるものを造り出だせしものを」と怨む者、世に少なからず。或は悪は歴史を書き、(349)善は偶ま之に点ずるが如きに過ぎざるを見、強者に従へば不利ある事なく、能く安全なるを得んとの了見を起し、悪は寧ろ善よりも其の勢力強く盛なるを見るに於ては、浅墓にも走つて悪に従ふに至る者あり。此に於てか其の帰趣を示し、其の頼る所を教ゆる詩人を要する又切なりと言はざる可らず。詩人の見る所の天地は、世人の見る所に異ならず、不完全にして乱調子極りたるものなりと雖、詩人は只に表面を観察するのみならず、其の奥底を洞察し、凡ての苦痛凡ての不利、凡ての不義、凡ての不調和、死も疾疫も迫害も悉く其の最後は善に帰着し、皆な人生に善からざるものなき事を認め、恰かも凡庸人には乱調子にして錯雑弾ずるが如き音楽も、音楽者の耳底には調和あり、統一あり、優美高雅にして余情多きを感ずると一般、詩人の眼中には此の衝突と不平均とを以て成り立てるが如く見ゆる世界も、調和統一せる玄妙不可思義の世界と映ずるなり。詩人即ち其の眼中に映ずる世界の秘密を歌ふて、人心の惑を解く。此の点に至つては詩人と哲学と決して相反対する者にあらず、反つて其の任を同うす。哲学の要は観察《インサイト》に在り。ヘゲルの哲学の如き、之によりて人生の真相を窺ふ事を得るが故に、貴きに非ずや。ダンテとゲーテまた然り。彼等は当時の最も高尚雄大なる思想と学問とを以て、人生を観察し、而して新しき天と新しき地の開拓に殆んど成功を得たるは、余輩の感謝に堪へざる所なり。独逸語に“Anschauung”なる語あり、「上より見る」の義なり。即ち羽翼を張つて天外に飛揚し、遙かに宇宙を見下す時は、宇宙の全躰に眼を馳せ、而して其の真相を看破するを得ん。斯の如くダンテとゲーテは上より人生を洞見して、其の真相を歌ひたり。故に彼等を学ばんとせば、彼等の見たる人生は如何なるものなりしかを学ばざる可らず。而して実に此点を歌はざる詩人は、未だ完全なる詩人と称するに足らず。
 ダンテ、ゲーテ、及びシヱキスピーヤを以て、三大詩人と称する所以は、此点を歌ふ事に於て完全に近きもの(350)あるに由れり。ウオルヅウオルスは天然を歌ひ、ローヱルは道徳を咏じ、パイロンは感情を吟じたり。各独得の長所ありと雖、未だ詩の一部分に止まりて其中心を歌ふに至らず。然れどもかの三大詩人に至ては、此等を総括して已に詩の堂奥を歌へり、是れ即ち彼等の最も卓越したる所以なりとす。
 然らばダンテは如何なる人生観を有したりしか。此問題を研究せんと欲すれば、先ず彼が生涯中の閲歴及び教育を知るを要す。彼は伊太利の一都会、フロレンス市の繁栄を極めたりし時に生れ、折柄人権問題の盛んに唱道せられたる頃なりければ、随て彼も亦其の愛国心を激発せられ、燃ゆるばかりの熱愛を以てフロレンスの事を憂慮し、一命を献じて其盛大を祈りたる一人にてありき。たとひ彼の愛国心は以太利全国の為にあらず、只其の生地なるにフロレンス市の為に燃えたるものに外ならず。故に稍其の範囲狭隘にして、今日の所謂愛国心に非ず、寧ろ愛郷心と言はん方適当なるべしと雖、其市を思ふの愛心に至つては、甚だ剴切熱誠を極めたり。されど斯く生命よりも優りて愛したるフロレンスの人民は、却て痛く彼を悪み、遂に罰金を彼に課し、彼の財産を剥奪し、残忍にも彼を厭ひ棄つるに至れり。加之生来彼は感情の太だ鋭敏なる性質なりしかば、年甫めて九歳なるに、早くもビヤトリスなる一婦人の容色婉麗にして、風采の気高きに心を動かされ、幼心に此婦人を恋ひ慕へる情の深く且つ切なりし事は、到底余輩の想像し及ばざる程なりき。彼は全身全霊を此婦人に注ぎ、自著『新生』中の記事に拠れば、終日家の隅に佇んで、婦人の出で来るを待ち、若し夫れ出で来る其の美しき姿を望み見るに及んでは、総身の血一時に戦き、恍惚として己を忘れ、蕩然として酒に酔へるが如く、其の一顧面を忝うし、更に莞爾として微笑を灑へたるものに遭ふ時は、喜び言はん方なく、手の舞ひ足の踏む所を知らざるものありしが如し。されど彼は至つて重直の人なりしかば、互に相擁して親しく談れる事もなかりしならんと思はる。かくて彼の情(351)熱は益々熾に燃えたれども、片思之を通ずるに由なく、空しく独り煩悶すれども、意中の人情を解せず、遂に嫁して他人の妻となれり。目指せる鳩は飛で他枝に去る、ダンテの心中や如何なりけん。多感多情なる彼は正に断腸の思をなし、日夜に悩み悶えたるなるべし。されど彼は後ちにドナーチと言へる妻を迎ふる事となり、弥其の心を慰めたるが如しと雖、尚ほ初恋の夢に見しビヤトリスの俤は、払はんと欲して払ふ能はず、消さんと欲して消す能はず、一生の間彼の身辺を去らしむる事能はざりき。其の死を聞くに及んでや、彼の精神は又全く一変したるが如く『新生』の作此所に於てか成り、其の愛情は美しく精神化せらるゝに至りき。斯の如く彼は人生の門出に当り、愛せしフロレンスよりは見限られ、到底其の目的を行ふこと能はず、反て其の財産までも剥奪せらるゝに終り、搗てゝ加へて一方には其の恋ひ焦れたる理想的婦人とは、人生の苦楽を共にする事能はず。此の苦き経験は遂に彼をして絶望の淵に沈ましむるに至れるもの、亦已むを得ざる次第と言ふべし。
 彼の教育に至つては、叔父なる人彼の才智を愛し、当時の凡ゆる学術を修むるの便宜を与へたれば、希臘羅馬の古典に暁通し、特にヴルジルに負ふ所甚だ多く、哲学に於てはアリストーツル及び新プラトー派の学説を研究し、又天文学に詳しかりき。されど彼の最も力を籠めて研究せるものは、神学にして、トマス、アクイナスの著の如きは悉く之れを読破し大に感化せられたるものありしなり。彼は此等の教育を受けて漸く深遠該博なる智識を蓄へ、顧みては我身の上を思ひ合はせ、熟ら不思議なる人生問題を解釈せんと勉めしかども、尚ほ其の要領を得ず。後ち本国を遁れて独逸、仏国、イスパニア等の諸国に急がぬ旅路を取り、或は英国に渉りてオツクスフオルド大学に勉学せる事もありしと伝ふ。此真偽は定め難けれども、彼は家なく金なく、友もなき天下の孤客、足に委かせて四方を遍歴し、人情を察し風俗を窺ひ、益々人生の観察を博うして、尚ほ其の心に安ぜざりしは事実(352)也。彼曾て或を山寺に上り、四顧の風光の幽邃関雅なるを愛で、或は美術学上の参考となすべきものを探れり。山寂歴として道心生ずる例ひ、左なきだに旦暮其の心を悩め居たる事とて、心霊上の問題に早くも思を沈め、首を垂れて身動もなさゞるを見、一僧あり、出でゝ其の故を問ひ、『何物をか尋ねたまふ』と言ふ。彼徐ろに答へて曰く『平和なり』と。あゝ後は身一たび堪へ難き悲惨の苦味を嘗め、修め得たる学問才能も之を慰むるに力なく、出でゝ諸国を遍歴し到る所に平和を探り求めたりしなり。
 かくて彼其の傑作『神曲』を草し終りたる時、人に告げて日く『瘠せたり』と 彼は全精力を注入して此事に従ひ、殆んど其の全生涯を此書の為に献じたるなり。而して其万事を献げて成就したる書に題して『コメヂヤ』乃ち『喜劇』と云ふ。前に述べたる如く、此書を著すに至れる彼の境遇は、不平、苦難、断腸、悲惨、凡ゆる人生の暗黒面を辿りて、国人には棄てられ、愛人には伴ふ能はず、人生の紛々擾々として乱調極まりなきを見、日は照り花は咲けども、我が望みは達す可らず、我が愛は全うす可らざるを嘆じ、多年外国に流竄して天外の孤客となり、絶て顧みる者もなき時なりければ、彼若し筆を取らば正に悲痛惨憺たる悲劇をや書したるぺきに、反つて此の書に題するに『喜劇』を以てす。一見不思議の感なきに非ずと雖、此は乃ち彼が如何に雄渾偉大なる思想を有したるかを示す所以に非ずや。而して『デイヴイナ、コメデイヤ』と言ふは、其の神聖にして敬虔の文字なるを以て、後世之を尊んで『デイヴイナ』の字を加えたるのみ。此の書、章を分つ事百、首めの三十四章は地獄の記事にして、次ぎの三十三章は練獄の記事、終りの三十三章は即ち天国の記事なり。地獄は彼が嘗め尽したる凡ゆる苦き経験を、沈痛厳正の筆を揮て叙し、悲愴怛、座ろに、読む者をして戦慄して恐懼の念に堪へざらしむるものあり。練獄は即ち仮令忍び難き悲惨の身となり、絶望の淵に沈む事ありとも、若し鍛練の功を積む時は遂に(353)天国に上るに足るぺきを画き、最後の天国に於ては完全なる人間の住する所の光景を歌へり。
 彼はヱマーソン等の如き楽天家に非ず。人生の行路は苦痛と悲哀とを以て迎へらるゝことを知れり。されど霊性上の経験と信仰上の鍛練とによりて、遂に地獄の苦みより天国の幸に導き行かるゝことを認めたり。自ら平穏無事なる生涯を送りて楽天を歌ふたりとて、余輩の決して感服する所に非らざれども、彼が自ら悲惨の生涯を通り抜け、初めて世は実に地獄なり、されど又彼辺には天国ありとなし、以て其の平和、其の光明、其の快楽を讃美し、凱歌を奏して基督と共に「我已に世に勝てり」と言ひ、保羅と共に「神の智識は大なる哉」と嘆美し、ウオルヅオルスと共に「我は塵埃より出でし者なれども、苦境悲遇亦た音楽なり」と歌へるに至つては、余輩其の人物の偉大なるを感ぜざるを得ず。
 ダンテの生れたるは千二百六十五年なり。故に我邦に在ては文永三年、北条時宗の鎌倉に執権たりし頃にして、日蓮正に其の事業を終らんとせる時、元の水師が九州に襲来せる五六年の以前なり。而して彼の死は恰かも後醍醐帝の御宇の頃なりとす。
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 余輩は一歩を進めて、是よりゲーテの人生観を論評すべし。ダンテは中古時代の弁護者にして、ゲーテは即ち近世紀の弁護者なり。而してゲーテの人生観を知らんと欲すれば、其の傑作たる『フヮウスト』を熟読して、概ね其の観察の立場と帰着とを察知るを得べし。
 『フヮウスト』の主人公即ちフヮウストは、博学多才の紳士にして、哲学に詳しく、政治に通じ又神学に明かに、宛然ゲーテ自らを以て擬するものに似たり。左れど彼は一朝人生問題に接触して以来、疑は疑を生み、惑は(354)惑を来らし、懊悩煩悶、更に平和を得ず、絶望の極自ら毒盃を取りて、『平和此の中に在り』と称し、已に自殺を覚悟したりしが、時恰かも基督の復活節に際せしかば、遙かに幼児が愛らしき声立て、『Christ ist erstanden』と余念なく讃美するを聞き、自殺をば思ひ止まりたり。されど又程もなく悪魔来り誘ふて曰く『汝徒らに思ひ悩めり、恋の味を知れよ、さらば汝の心一変して万事悉く新なるに至るべし』と。彼此処に於てか悪魔の教ゆる所に従ひ、処女マーガレツトと情を通じて其の純潔を汚し、更に甚だしきは女をして其の母を殺さしめ、自らは二人の恋を妨ぐるの故を以て女の兄を殺せり。
 後ち女は捕縛されて市中を引き廻はされ、遂に重罪に問はれて、死刑に処せらるゝに至る。フヮウストは斯る残忍なる罪悪を犯し、且つ惨絶なる情婦の最後を見たりしも、自らは幸にして其禍を免がれ、続て国務大臣の栄誉を担ふ身となり、或は美術を評し、哲学を論じ、頗る幸福にして平穏なる生涯を送り、老後往年を回顧して一つの善事をも成したることなきを見て嘆息し、之が為に死を見る帰する如き感懐を有する能はず、此に於て一大工事を起して、沼沢の水を排して公益に供し、以て一功績を世に留め、軈て自らは病を得て隔世の人となれり。死後悪魔群り来りて彼の霊を奪ひ去らんとす、されど天使拒んで之を許さず、終生善行を勉めたる者なれば、必ず其の報を失はずと、遂に携へられて天国即ち所謂『永遠に婦人らしき《ヱビガ、ヴアイブリヒヤ》』所に入るを得たり。此を有名なる『フヮウスト』の筋書なりとす。
 而して之をダンテの観念と相対照して考ふれば、頗る其の傾向を異にするを見ん。『フヮウスト』に於ては、男子として失敗の極を演じ、又悪んでも尚ほ余りあるが如き大罪を犯し尽したるものあり。されど未だ心より其の罪悪を認識して之を痛切に懺悔したる事なし。フヮウストは斯る罪悪を犯して後ち其の女を捨てゝ逃亡し、あ(355)る朝アルプス山中に眠醒めて、棚引き渡る美しき虹を見、其の得ならぬ風景に対し忽ちにして曩きの苦痛は悉く消へ去りたるを叙す。唯夫れ善事を成せ、過ぎ去りし昔は如何とも為し難し、進んで善を行へば旧悪は之を以て蔽ふべし。罪ありとて必ずしも痛悔すべきものに非ず、此は愚なりしが故に過ちしのみ。慕ふべく求むべきは智識にあり。智識は光なり 光は人生を導きて暗黒に迷はしめざるべしとなす。是れ乃ちゲーテの人生観なり。ダンテは之に反して、言ふ可らざる深刻なる苦痛を感じて、其の罪を悔悛せり。蓋し此は両者の互に其の傾向を異にせる第一なりとす。
 基督教に於て、信仰〔二字右○〕と行為〔二字右○〕との議論は、頗る困難なる問題なり。其の区別若くは優劣の如きは、今余輩の論ずぺき所に非ず。されど人生を観ずる方法に二種あり。則ち信仰と行為となり。信仰によれる者はある人格を信頼て進む。例へば子は親の己を愛する事を知り、善を成し悪を遠くるは取りも直さず其の愛に酬ゆる所以なりと思惟し、喜んで之を行ふに至る。之に反して、行為によれる者は只善は之を行ふべく悪は之を避くべき筈のものなりとなす。ダンテは前者の見方を取れる者にて、ゲーテは寧ろ後者に属す。ダンテの理想的哲学者はヴルジルなり、而して彼はヴルジルの教導を蒙り、哲学に拠り、智識に拠りて其の世を渡れり。されど之のみを以ては天国に入る可らず。『神曲』中彼はヴルジルに導かれて錬獄まで進み行きたりしかども、此所に至りヴルジル彼に告げて曰く、「余は此の以上に汝を携へ行く可らず」と。已む事を得ず此に彼はヴルジルを去つてビヤトリス(愛)に助けられ、以て漸く天国に入るを得たりき。美術家シヱツフヱル(Aryscheffer)が意匠を凝らして彼がビヤトリスを仰ぎ見つゝ天国に上り行く状を画きたるものあり、真に美と称すべきものなり。げに彼は愛に導かれて天に上れり。然るにゲーテは未だ此域に達することを得ず、其の人生観は宛がらダンテの練獄にて終れるものゝ如(356)し。故にダンテはゲーテよりも一歩を進めて高きに上れりと思はる。
 上に陳べたる如くダンテは人生の凡ゆる悲惨を嘗め尽したる人なれども、ゲーテは富貴の家に生れ、其の母は才能至て秀でたる婦人にして、父は曾て市長に撰ばれたる事ありて名誉ある人物なれば、随て彼の教育も不足する所なく、或は以太利に遊学して美術を研究せることあり。壮にしてバイマー侯国の書記官に任ぜられ、終に総理大臣の栄誉を担ひ、位は人臣を極め、時としては一堂に名高かき哲学者を会して自ら慰め、人生を最も愉快に渡り、順境に悠々し得意の生涯を送り、ダンテとは殆んど正反対の境遇なりき。則ち一は凡ての物を有ち、一は凡ての物を失ひたり。されど其の人生観に至つては又之と転比例を為し、ゲーテは一生涯の中、真に快楽を覚えたる事僅に二週間に過ぎずと嘆じたる程にて、随て其著作を閲読し已に巻を蔽ふに至るも、未だ其の意を尽さゞる所ありて、完結に至らざるが如く、何となく不満足を感ずるの已むを得ざるものあるを見ん。彼の正に死せんとするや、侍者に告げ曰く『光を要す』と。あゝ彼は終に完き光を仰ぐを得ず、朧げに人生を辿り尽せる者にてありし乎。今日我邦に於て、大学の卒業生若くは洋行帰りの先生などが、一朝社会に出でゝ事業に着手せんと欲するに当り、成るべく事務の繁忙なるを避け、勉学の余暇ある所を撰ばんとする傾向あり。此は取りも直さずゲーテ主義を取れるものにして、必ずしも拝金宗の感化のみに其の原因を帰す可らず、多くは智識を追ひ求むる所より来れり。彼等は学問の為めとならば、殆んど総ての物を犠牲にし、事によれば主義道徳と雖尚ほ之を犠牲にして敢て惜む所なき者往々之あるを見る。蓋し十九世紀の一大通弊と言ふべし。今日の大学を責むるは其の学問の不足なるが故に非ず、主義なく気骨なきが故なり。彼等は寧ろ智識をのみ是れ求めて、主義節操の重んずべきを忘却し、事宜に依りては猫の尾にても之を拝するを祉ぢざるに至る。ゲーテの短所を指摘せんか、其の(357)最も甚だしきは実に此点に在り。ナポレヲンの勢力正に天下を席巻せんとする時に当り、兵を進めて独逸に攻め入りしかば、ゲーテは日頃仏国の非行を責め居りしにも拘らず、前説を翻して奈翁の足下に跪き、其の勲章を領せる事あり。哲学者フイヒテが大学に於て講演し、今や正に其の佳境に入らんとするに当り、敵襲来すとの急報に接し、「残余の講義は自由国に於て継続せん」と、猛然出でゝ戦に臨めるものと日を同して論ず可らず。
 ダンテは学問、智識を尊重したりしかども、苟も之を以て主義に代へ、信仰を左右するが如き人物にはあらざりき。彼よりして見る時は、ゲーテは変節者なり、寧ろ道に悖れる者と言ふて可なり。ダンテのゲーテよりも一層優れたる点は、彼の品性に在り。主義に立つて動かざりしに在り。
 今人動もすれば天才《ジニアス》の字を濫用す。或は少しく目立ちたる事業を起す者あり、或は巧みに文章を作り奇抜の言を成す者あらば、直ちに呼んで天才なりと称す。人誰か天より賦与せられざる所の技量と才智とあらんや。されば特に天才と言はるべき人材は多く見る可らずして稀に見る処あらざる可らず。世人の漫りに此語を用ゆるは、思ふに其の卑しき嫉妬の念より来れるものならん。頼山陽は人の己を呼んで天才となすを憤れりと言ふ。蓋し彼は決して不用意にして唯己が才能に委せ、臨機応変に所置を試みたる事なく、大なる苦心と経営とを積で初めて事に臨みたるが故に、世人の軽々しく之を看過する事を喜ばざりしに由る。天才と品性とは自ら相異り、一は期せずして之に達し、他は刻苦勉励して漸く之に達す。固より何れも天才なるに相違なけれども、ゲーテは特に天才を以て称すべく、ダンテは寧ろ品性《キヤラクター》を磨きたる人なり。人悉く天才たるは難し、されど己が品性を高めて人生を喜観し、主義を以て世に勝つ事は、勉めて能はざる事に非ず。故に天才ならん事を望んで、品性を磨く事を心懸けず、盛に弁論を縦横自在するに妙を得て、堅く主意に立つて初一念を失はざるに拙なき今日の我社会(358)に対しては、時にゲーテの智を紹介せんよりも、ダンテの徳を紹介するの急務なるを感ず。
 
    第三章 米国詩人
 
 余輩は今茲に米国詩人を紹介せんするに当り、先づ之に達する通路を備ふるの必要を感ず。由来我邦人は米国とし聞けば、直ちに驚くべき拝金国にして、大哲学者も出でず、大文学者も現はれず、凡そ大の字を冠すべきものは何もあらざるが如く思惟する癖あり。若し大学の人々をして評せしめば、米国は浅薄なり、医学を見よ、哲学を見よ、詩歌を見よ、散文を見よ、政治を見よ、其の思想一として該博深遠なるものなく、以て師とするに足るべき者何処にか在ると冷笑せん。抑も斯る思想の流布するに至れる原因は、果して何所に起りしかを知らずと雖、余輩は少しく米人の為に其の汚辱を雪ぎ、其の誤解を弁ずる所なかる可らず。されど余輩も亦曾て米国に遊べる者なれば、米国の為に妄を弁じて、合せて自らを弁護するの観なき能はず。然りと雖余輩未だ斯くまで卑劣なる心事を有する者に非ずと信ず。
 人往々にして他人の喧嘩を買ふ事あり。余輩の少なる頃、一ツ橋外に外国語学校なるものあり、英仏独等の語学を授け、余輩も亦就て学びぬ。而して其の英学部と仏学部と独学部と互に相衝突し、彼は此を笑ひ、此は彼を(359)嘲けり、果ては一場の争闘を惹起せる事屡なりき。今日と雖、法律を研究する人々にして、独逸派は英国派を蔑視し、英国派は又独逸派の欠点を指摘して之を難ずる者少なからず。
 斯の如く独逸人などが米国を以て特に浅薄取るに足るべきものなしとなす事あるは、斯々聞く所なり。固より此の批難は一理なきにあらざれども、国には自ら一種独得の長所あり、他国の企て及ぶ能はざる秀でし特質を有する事を忘る可らず。独逸には独逸の長所あり、仏蘭西には仏蘭西の長所あり、英吉利には英吉利の長所あり、日本には日本の長所あり、各己が国粋を以て之を他に誇る。されば米国に於てのみ曾て独得の長所なしと言ふの理あらんや。凡そ国の価値を判定せんとするに当り、若し此の理想を以てする事なくんば、其の不完全なる判定たるや論を俟たず。
 夫れ彼の拝金宗の如きは、英米人特得の長所の一部分たるに過ぎずと言ふべし。然るに独逸は拝金宗ならざる代りに、自由の何たるを解せず。其の自由てふ思想に乏しく、又之に与り得ざるや、寧しろ我邦よりも甚だし。此点に於ては米国を以て世界無比の自由の郷と讃するも固より妥当なりとす。而してその人類的観念の盛なるや、発しては外国伝道となり、日本、支那は言ふまでもなく、印度、亜弗利加等、北の端より南の端まで、文と野とを論ぜず、暑を恐れず、寒を厭はず、甚だしきに至ては鮮血を滴らして更に悔ひず、只一片の愛心より熱誠を揮つて未だ教化に湿はざる他国の人民を誘掖し、其の喜悦の情を頒たんとす。自由、平等、若くは人類てふ観念の著しく発達せるは、アングロサキソン人種の特に優れたる所なり。
 加之詩歌はアングロサキソン人種特待の伎倆なりと言はざる可らず。古来英国に於ては未だ大なる画家を出だせし事なし。或はホーガスを数ふる者ありと雖、彼の技は諷刺画に巧妙なるに止まり、ラフアエルの作の如(360)き純粋の絵画を以て名あるに非ず。露西亜にはニコラス、ガイあり、イスパニアにはムリロオあり、ハンガリイにはムンカツキーあり、されど英国に於ては此等に匹敵すべき画伯を出さず。況んや以太利に較ぶるに於てをや。英国は決して絵画を以て誇り得べき国に非ず。又曾て彫刻に於ても其の頭角を現はしたる事なく、丁抹、ノルウエイ等の技術にすら尚ほ劣れるものあり。更に哲学に就て考ふるも、世人が尊重する所は僅にヒユウム一人あるのみにして、ロック、グリイン等の如き皆な大陸の思想を祖述したるに過ぎず。
 されど翻て詩界を観察せよ。イスパニアにはカルデロンあり、セルバンテスあり、仏蘭西にはモリヱルあり、ラシーヌあり、独速にはゲエテあり、ハイネあり、以太利にはダンテありて、皆な詩界の豪傑なりと雖、而かも燦然として銀河の天に懸かれる如く、夥多の大詩人群り起て、英文学史上に大光芒を発てるに至ては、未だ英国に如くものあるを見ず。チョウサル、スペンセルを初めとして、ミルトンの森厳崇高なる詩と言ひ、シエキスピイルの人生を歌へる、タムソンの自然を歌へる、ハツグの田舎を歌へる、バアンスの平民を歌へる、其の他バイロン、ウオルヅウオルス、テニソン、スコツトの如き大詩人、踵を接して現はれたり。支那にも詩人あらん、イスパニアにも詩人あらん、されどヴオルテアの言へる如く、世界の中未だ英人ほど道徳的に宇宙を歌へる者あるを見ず、此は実に彼等特得の伎倆と言はざる可らず。医を修めんと欲すれば独逸に行くべし、画を学ばんと欲すれば伊太利に行くべし、されど若し詩を研究せんと欲すれば之を英国に於てせざる可らず。英国は宛がら詩神が特別の恩恵を垂れたるものゝ如く然り。
 而して斯の如く詩を好み、又最も其の妙を得たる所の英人、而かも英人中の英人と称せらるべき一群が、居を米国に移したる事なれば、勿論米国に於て詩歌なしと言ふの道理ある可らず。若し夫れミスシツピイの河、ナイ(361)ヤガラの滝、ロツキイの山、ミゾーリ、アルカンサスの平原、大西洋の波濤に対して、彼等伝来の詩的血統を有する者、焉んぞ鬱勃として抑ゆべからざる詩想を喚起せる事を疑ふ可けんや。否な彼等が米国の山川に対して感得し、且つ鼓吹せられたる詩想は、遙かに英人を凌駕するものあるに至れり。
 今余輩は詩に於て英米其の趣きを異にせる点を陳べん。米国は建国以来僅々二百年を経ざる所の新しき国なれば、未だ英国の如く詩人の群星を見る能はず。されど米詩には英詩の決して企て及ぶ可らず、又想像し得べからざる一種の特質を有せり。此は則ち其の陸相と其の政躰との異なれるが如し。
 米国は我邦を二十倍せる大国なれば、山も川も平原も、四顧の光景実に偉大を極む。故に米国詩人の詩は雄大なれども、英国詩人の詩は寧ろ巧妙緻密なり。自然詩人と言へば、先づ指をウオルヅウオルスに屈せん。されど其の歌へる自然は、小さき英国の山川のみ。近釆英国の富豪は、高価を払ふて彼が歌へる場所を贖ひ、以て己が別荘と成さんとする事流行し、為にカンバアランド、ウエストモアランド等の地価を高めたりと言ふ。彼が『岩間の桜草』は路傍に一茎の桜草の咲き乱れたるを歌へるものにして、又『杉の四人の兄弟』は四本の杉の並び立てるを歌へるなり。彼が常に歌へる所のカンバアランドの湖水は、我の榛名湖、若くは信濃の野尻湖に過ぎず、又最も好んで歌へるものは雛菊なり。以て其の規模の狭くして、題目の小なるを察すぺきに非ずや。されど米国詩人に至つては然らず。ブライアント米国の平原を歌へる事あり。此はデンバーよりミスシツピイまで急行※[さんずい+氣]車にて二昼夜を費さゞる可らざる平原にして、野犬、蛇、梟の共に棲めるを見るの外、更に目を歓ばし、耳を楽ましむる風光なし、ウオルヅウオルスを携へ来りて此風景に対せしめば、其の無風流なるに厭きて一日も留まる事を喜ばざるべしと思はる。然るにブライアントは此の一目千里、雲煙渺茫たる平原を歌ふて曰く『漠々涯な(362)き天空に適はしき床なり』と。三十六峰に月の懸かれるを喜ぶ風流詩人の夢にだも見る能はざる奇想に非ずや。
 テニソンの詩中『小河』を歌へる名吟多し。其一に潺々たる細流を挾み、友人互に手を携へて流と共に進みしが、水漸く広くなりて手を携ふる能はず、遂に水海に注ぐに及んでは呼べども通ぜざるに至るとの想像あり。ブライアント仝じく細流の歌を成せども、其の観察甚だ異れり。コンネクチカツト若くはミスシツピイの大河も、其の初めは夏草の茂みが中を流れ来て、草負ふ農夫の姿を映せしが、流れ流れて大河となるに至ては、富貴の人が夜遊の影を乗せて流ると言へり。詩の巧拙と天才の如何とはさて措き、此は其の境遇が及ぼす所の感化の英米詩人をして、如何に甚しき相違あらしめたる乎を証するの好適例に非ずや。
 次に両者の相違は政治思想より来る。抑も一国を愛すること、我身を愛するが如くなるに非ざるよりは、真正の愛国心を養成する能はず。直接国事に関係して其の喜憂を共にする所より始て真に国を思ふの心念を喚起する者なり。己を愛する能はざる者を如何にして愛するを得んや。共和政治固より幾多の欠点ありて、完全なる政躰とは称すべからずとするも、政治を国民と共にするの一事に於ては、共和政治を多とせざる可らず。君主政治の取るべき点は尊敬の念なり。
 王政国は往々尊敬を欠き礼義を失ふことある共和政治の弊を避け女王の前に出でゝは自ら其の足下に拝跪せしむるものあらん。されど君主政治の欠点は社会の運動を当局者に一任して、自ら更らに其の痛痒を感ぜざるに至る事なり。一は自由の郷にして平民の社会なり、故に善く其の才能に従つて志を暢ぶるを得、他は階級の制、厳にして才を用ひ志を行ふこと頗る難し。此に於てか紛雑なる世事に遠かり、悠々身を天然に托して、心を之に専らにするに至る、又已むを得らざる事と言ふべし。石川丈山は詩人にして英雄なり。されど空しく壮図を懐けど(363)も、到底之を日本の社会に行ふ事能はず、若し世に出で其の志を行はんとせば、獄に投ぜらるゝか、然らずんば刺客の禍に斃るゝに終らんのみ。彼預め之を知れるが故に、聞達を世に求めず、去つて洛北叡山の麓一乗村の閑居に退き、清貧に自適して一生を送りしなり。余輩若し政治及び外交等に対して深き謀を懐き、大なる抱負を有するとも、尚ほ口を箝んで言ふ能はず、手を空うして行ふ能はざる社会に在りとせば、已むなく去つて山に遁れ、花鳥風月に鬱積せる思を遣り、想を暢べんとするに至る、又当に然るべき事にあらずや。
 ウオルヅウオルスが其の友コレリツジに送れる詩に曰く、『余は社会の虚礼虚儀を去り、偽りたる自己を排し、清き流に添ひ、涼しき風に逐はれながら、余の静閑の家を尋ねん』と。彼曾て確乎たる政見を抱て、仏国革命を目撃せしかども、到底自己の意見の世に行はれず、又益なきを察し、退ひて所謂『偽の自己』を棄て『真の自己』を発揮し、天然を友とするに至れる者なり。此は元と不健全なる思想たるに相違なきも亦斯る偉大なる人物をして其の偉大なる抱負を行ふ事を得ざらしめたる社会は、決して完全なる社会と言ふ可らず。バイロンも現社会に対して不満に堪へず、遂に希臘の独立軍に投じて一命を終りき。ハイネは其の人物或はゲーテよりも大なるものあり、されど彼は独逸の社会に平なる能はず、故国を去つて巴里に逃れ、五層楼上に薄命の一生を送れり。英国詩人中テニソンは最も健全なる詩人にして、克己抑※[手偏+尊]せる彼の如きは稀に見る所なり。彼は方針を誤らず、終始一貫せる生涯を送りたりと雖、警戒尤も勉め、婉曲筆を回はして苟もせざるの痕跡歴々たり。此は実に其の窮屈なる社会が、詩人を箝制して自由に其の雄渾偉大の思想を語る能はざらしめたるを証するものに非ずして何ぞや。
 米国の社会は之に反し、自由と個人の勢力甚だ強大なり。若し夫れブライアントをして英国の社会に生れしめ(364)ば、彼又た清節の高士と共に山に遁れたるぺきも米国に於ては更に其の必要を見ざりしなり。人生の行路に立つて未だ去就を決し得ざりし時に当り、雁飛び来つて悲鳴するに遭ひ『To a Waterfowl』の詩を賦して一身を天に委ねんと決心したる彼は、実にニュヨーク市に至りて政治上の運動に加はり、新聞記者の生涯に入れり。英国は詩を以て詩人の為に用ひたれども、米国は一歩を進め詩を以て人民の為に用ひ、政治の為に用ひたりき。彼曾て羅馬の旧都に遊び、一夜地上に臥したる時、土砂勤めき喚んで栄枯盛衰、幾千年の歴史を談るを聞くと叙し、『あゝ森林の国よ、汝は世界歴史に新生面を開かん』と歌ひ故国の天職を促したる事あり。
 ホイツチエルは信仰厚きクエカア派の信者なりき。同派の主義として極力戦争を排斥し平和を担保せんと欲するものあり。されば此の大気中に養れたる詩人、また正に静粛を愛して天然を友とする者なるべしと推察せらるれども、彼改革の精神最も盛にして、奴隷使用に反対して義憤を発し、善く国民的思想を歌ひたりき。真に彼は米国詩人の師表にして、其の八十六歳の高齢に達せし時は、国民拳つて之を祝賀せし事あり。吾邦の新聞紙往々国民詩人出でよと絶呼して、甚だ勉めたるものあれども、未だ一人の国民詩人の出でしを開かず。ウオルヅウオルス、テニソンの如き、また決して純然たる国民詩人と称す可らず。只英国に於て国民詩人と言ふべきは、セキスピイヤとミルトンあるのみ。
 ホイツトマンは想を重んじて形を問はず在来の詩風を破壊して新機軸を出せる詩人なり。韻を押さず字を数へず、縦横自在に其大思を叙せり。
   “For the great Idea、
   That,O my brethren,that is the mission of Poets.”
(365)   そは大なる思想が、
   嗚呼我が兄弟よ、大なる思想が詩人の天職なり。
 げに彼は大理想を以て、詩人の天職となしたり。リンコルン始めて彼に遭へる時、握手して謂て曰く『真正の米国人は彼なり』と。蓋し彼は自由を重じ、個人を敬し、人道を尊ぷ、真正米国人の標本と言ふべき人物なり。彼曾て公用を帯んで一群の人々と米国土人の酋長を訪へる事あり。土人曾て白哲人の為に残忍酷虐を蒙りたる事を含んで其の旧怨を忘れず、兎角彼等を疑ひ且つ恐るゝの傾向あり、然るに一群の人々を凝視したるの後、酋長進み出て、突然ホイツトマンの手を握りたり。ホイツトマン後ちに人に告げて曰く『彼は我が裡にある野蛮性を見て我が手を握れるならん』と。彼常に赤貧洗ふが如く、屡々窮を告ぐ。友人之を憫み、彼に講演を勧め、其の得る所の金を送り彼の窮を救へる事あり。彼其の友情の厚きを感謝し、且つ翌朝領収書を認めて、之を送る。然るに未だ『$』の字を知らず、代ふるに『¢』の文字を以てせりと言ふ。清廉また愛すべきに非ずや。
     *     *     *     *
       南米詩人
 近来我国民は親しく米国文明と相接触し、其の状態を熟知するに随ひ、彼等を尊敬すること又従前の如く甚だしからざるに至れるは明白なり。されど墨其西哥并に南米の文物に対しては、殆んど注意する所なしと謂ふも不可なきが如し。此等の諸邦に対するは只僅に我同胞の殖民地と見做すに止まり、其の思想及び精神の源泉として、之を観察する者あるは、余輩の未だ曾て見聞するを得ざる所なりとす。而かも此は全く吾人の見識の狭少なるを表明するのみにして、決して南米人の高尚なる思想若くは雄大なる精神に欠乏せる事を示す所以に非ず。
(366) 夫れ合衆国以南の米国は、元と西班牙人の移住地なり。而して西班牙人種の特質たるや、之を其の欧羅巴の本土に於て、已に発達したる所に徴するも、決して軽侮す可らざる者在つて存するを見る。彼のセルバンテース、カルデロン、デ、ベーガ等の小説悲劇并に戯劇の如きは実に近世欧羅巴文学淵源とも称せらるべきものにして、其の欧羅巴の思想界を感化したる勢力は又大なりと謂はざる可らず。
 且つ彼等は義に富み、信を重んじ、一主義を把持して慢りに心を翻さず、飽まで初一念を貫徹せんとして百難を冒し、千辛を嘗むるに至つては、非常の耐忍力を有せり。彼のムール人種の侵略に遭ふや、八百年の久しきに渉るも、尚ほ苦節を全うして、善く祖先の主義及び宗教を維持し、遂に異教徒を国外に放逐するに至れり。斯の如く志堅くして苟も動かず、能く久しきに耐ゆるは、他国民中に多く見出し得る能はざる彼等の長所に非ずや。
 而して此の義侠の心厚く、想像の力に富める国民は、家を挙げて遙かに海を渡り、西大陸の渺茫涯なく陸天に接する如き平原、若くは濶大なる壮観人をして其の胸宇を大ならしむる高原に移住したり。されば其の欧羅巴本土に於て、涵養せられたる所の文明并に文学は、此の異なりたる境遇に於て更に其の特質を発揚するに至りし事は、理の最も見易き所なり。
 余輩南米諸共和国に於て力を致せる政治家の事蹟を閲するに、一種異様の特色あるを発見す。即ち彼等の尊敬する政治家なるものは、概ね哲学者若くは詩人にして、其の理想極めて高尚に、其の希望至つて深遠に、国家を整理するや又宛がら詩人的理想を以てするものあり。此は他邦の政治家中稀に見る所に非ずや。彼のボリバアの如きは実に南米のワシントンと称すべき人物にして、今のヴエネヅエラ、哥倫此亜、エクワドル、ボリヴヰア等は此の愛国者の建設に係はるものたり。彼の想や高く、彼の恵や深く、己を持する事甚だ薄くして、万事を抛つ(367)て国民の為に尽せり。
 サンマアチンは亜爾然丁、智利、秘露の共和国に自由独立の基礎を定めたる人傑にして、而かも其の献身的事業に至つては万古無類と謂はざる可らず。亜爾然丁人が彼を立てゝ、其の大統領となさんと欲するや、彼之に答へて曰く『余は地位の為に戦ひしに非ず』と。彼又剣を抜ひて智利国の為に戦ひ、マイプウの一戦に敵を鏖にせる時、国人其の武勇に感じ、莫大の報酬を送つて其の労を謝せんとす、彼固辞して受けず、謂つて曰く『余は利益の為に剣を抜きしに非ず』と。
 彼また秘露国の自由を完うし、独立の佳境に達するに及んでや、自ら此所に止まるは国の為に決して利益あらざることを悟り、国人に告げて曰く『幸運なる大将にして、戦勝つて漸く救ひ出したる其の国に止まる事は、国家の大危険なり。余は秘霧国に独立の基を堅うしたれば、余は已に公人たるの権利を放抛せり』と。遂に国を去つて欧羅巴に赴き、貧窮の裡に其の一生を終れりと言ふ。
 其の他智利国のバルマセダの如き、或はドクトル、フランセヤの如き、皆一種の特色を帯びたるイスパニア的政治家にして、其の己を忘れて全然身を国家に献げたるは、吾人の深く尊敬する所なりとす。政治家然り、詩人また然らざる可らず。イヽスパナは亜爾然丁のロングフエロオとも称せらるべき人にして、善く民心を収攬したる国民詩人なりき。エケベルリヤ(Acheverria)の『ラ、カンチバ』と題せる詩は、パンパス平原の広と大とを歌へるものにして、ブライアントの平原の歌と並び賞せらるゝものなりと思はる。ゴドイはアンデス山の跌宕壮絶なる異観を詠じて、コレリツジのアルプブス山を頌讃せる歌と匹儔すべき名吟を遺せり。其一句に曰く、
   アルプス何ものぞ、
(368)   カウカサス、ピレニイス、アトラス、
     アペナイス夫れ何ものぞ、
   若し彼等をして汝と隣せしめば。
   あゝシンボラゾウよ!!
 以て彼が欧羅巴の天地の規模小にして、眼界の狭きを笑ひ、己が故山の浩大殉美なるを誇るの精神を見るに足らん。
 ギルラモマツタは智利国のバイロンと称せられ、ヱドワアド、デラバルラは又同国の詩人的学者にして、故大統領パルマセダと共に国政革新に与つて力ありたる者なり。而して南米詩人中最も広く其の芳名を知られ、且つ讃賞せらるゝ者をマニヱル、アカナ(Manuel Acana)となす。彼は墨其西哥に生れ、南米諸共和国の精神を代表する高懐の詩人なり。彼が其の父の死を悲しみて歌ひたる『涙』てふ一篇の如きは、孝心の致を流露せるものにして、余輩日本人の心を動すこと又甚だしきものあり。概して西班牙人種の特質たる、感情深くして父母、朋友、若くは国家を愛するの念甚だ痛切なれば、人情、風俗等又我邦人に酷似する所多く、随て彼等の詩を詳しく吟味し来らば、吾人の同感を惹くべきもの固より多かるべし。
 伯西児の詩人アルブケルケエ(Albuquerrque)が、其の母の死に臨みて作れる一詩あり。之を『告別』と名づく。此は上に述ぺたるアカナの『涙』なる一篇と并び賞せられて、其の親を思ふ子女の情愛を歌ひ尽して殆んど余蘊なく、此種の詩歌中には比類少なき傑作なりとす。
 又た墨其西哥以南の諸共和国には、各々其の国歌を有し、少なるはユウタリカより、大なるは墨其西哥に至る(369)まで、皆な自由を讃へ、独立を歌ふの念は、之を北米合衆国の民に較ぶるも決して遜色を見ず、寧ろ或る意味に於て一歩を挺でたりと謂ふ可し。サラベルリイ(Salavery)の『平原』と題する詩の如き、アカナの『五月五日』と題せる墨其西哥の国歌の如き、又彼が智利共和国の為に歌へる国歌“Dulce Patria”の譜の如き、アルブケルケエの伯西児共和国独立宣告の歌の如き、悉く同一の精神を傾注して歌ひたるものにして、其の国民の精神を啓発誘掖せるのみならず、又南米諸共和国をして同一の主義精神に立つて、之を維持し且つこれを発揮するに与つて力ある事は論を俟ずして明なり。
 終に注意すぺきは玖馬国の女詩人アベルラネダ(Avellaneda)なり。彼の女の作は広く米国及び西班牙人種の裡に愛吟せられる所にして、其の傑作『ワシントン』の如きは、以て単に西班牙人の希望を歌ひ得たるのみならず、更に米国全躰の希望を咏じ尽せるものなり。思ふに未来の西班牙共和国を組織する準備の歌なりと謂つて可ならん乎。
 要するに北米詩人と南米詩人と其の趣きを異にせるものは人種の相違に外ならず 其の地理的及び政治的の境遇に至つては、二者殆んど撰ぶ所なく、共に其の精神を同うす。北米人は概して其の思想道徳的にして且つ道理を重ずるに傾き、随て実賤実行を先にし走つては甚だ卑近なるに至るも厭はざるの風あり。されど南米人は感情鋭敏にして、豪放動もすれば常道を逸し、伝奇的行為多く、而かも堅忍剛毅、死を以て節を守り、心懐頗る淡泊にして金銭を輕じ、北米に於て盛に行はるゝ所の拝金宗は、之を南米に於て見る可らず。婦女は恬静にして慎み深く、甚だ我婦女と其の性情を等うするものあり。
 遮莫余輩は知る、米国の天地には永遠の希望の存するありて、南北共に最も高尚なる人類の自由を将来に(370)発達するの使命を完成するに至らんは、今より期して待つべき事を。
 
     第四章 文学としての聖書《バイブル》
 
 古諺に曰く『古き物にして善き物三つあり、古き木は燃すに善く、古き友は交るに善く、古き書は読むに善し』と。古き物にして善きもの、只に此等のみに止まらず、塩は年を経るに従つて其の味益々鹹く、葡萄酒は年を重ぬるに従つて其の味益々甘し。されど殊に古き書の読むに最も善きことは千古の格言と謂つぺきなり。
 書籍の出版せらるゝ今日の如く夥しきは、未だ曾て有らざる所にして、月に年に世に公にせらるゝもの万を以て数ふるも尚ほ足らざるべし。されど人一生の間、夜を日に継て刻苦勉励し、読書の外更に他の業に従事せざるとするも、二万冊を読破するは容易の事に非ず。グラツドストオンの書斎には彼の読み了りたる書二万冊を羅列すと。然れば彼は人間の読み得る限りを読み尽したるものと言ふべけん。併しながら此は万人に望む可らざることにして、吾人は須らく読んで以て稗益あり、趣味ある書を撰択せざる可らず。之を撰択するは又新刊の書多々益々其の数を加ふる今日に於て頗る困難なり。且つ人々其の趣味を異にし、各々相当の書あり、哲学に志ある者には哲学書を撰ぶべく、科学を修むる者には科学書を推すべく、故に万人をして一様に己が好む所を撰ばしむる能はざるは論を俟たず。然れど秦の始皇帝の如き者現はれ、世界幾億の書冊中只一冊を遺して、他は悉く之を焼き棄つべしと命じたりとせよ、吾人は果して何を撰んで之を末代に伝ふべき乎。或は幽囚の身となりて鉄窓の下に唯一冊の書を繙くことを認許せられたりとせよ、吾人は果して何を撰んで之を徒然の友と成すべき乎。太平記を推す者あらん、シエキスピイヤの著を撰ぶ者あらん、ゲエテ、シルレルの作を取る者あらん。斯く其の撰択する所は各其の好む所によりて異なれりと雖、余に於ては固より世界の書を以てするも尚ほ較ぶるに足らざる一書を有す。即ち聖書なり。
 余輩の聖書を愛読する第一原因は、基督信徒として廿四五年来之を以て養成せられたるが故なり。されど余輩は此書に於て始めて心奥の琴線に触れ、幽玄なる妙音を発するを聞けり。語に曰く他人心あり我を忖度すと。余輩が言はんと欲して言ふ能はざる所は、此書に於て之を言ひ尽せり。余輩が探求して未だ得ざりし所は、此書に於て之を見出したり。余輩は実に此書に於て新しき天地を開拓せられたるが如く、人生の真相を悟り、己が心の真実の状態を知り、奥妙なる宇宙経綸の秘義を窺ふを得たり。此は余輩が撰んで以て、之を世界の『The Book』となす所以なり。
 余輩は今之を宗教的に論ずるに非ず、只一個の文学として論ぜんと欲するなり。されど聖書は文学を目的とせるものに非ず、故に或はゲーテの『ファウスト』を読み、シヱキスピイヤの脚本を読み、馬琴の弓張月若くは八犬伝を読むが如き心の態度を以て、聖書に対すれば遂に其の文学としての妙趣を味ふ可らず、又且つ其の宗教としての真理も悟る事能はざるべし。聖書は神と人との関係を説ける書なり。区々たる儀式信条等の如きは、聖書の大主眼にあらず。神己れを人間に顕現せる事実を説き、其の歴史を記載せるなり。故に此の以外の事を研究するの目的を以て聖書を繙けば、悉く失望に終らずんばある可らず。 不信者なる丁抹人曾て余輩に告げて言へる事あり、『シエキスピイアの著書中に在る如き妙句は、之を聖書中に見出す可らず』と。此は単に文学的眼光を以て観察したる故のみ。若し聖書中に津々たる文学的趣味ありとせば、乃ち神を探り求めつゝある間に之を味ひ得ん。
(372) 然らば文学的要素甚だ乏しきかと言ふに大に然らず。試みに欧米文学と聖書との関係を思へ。聖書を知らずしては、到底欧米文学の神髄を咀嚼する事を望む可らざるに非ずや。カアライルの文章に於て、辞簡にして意深く、楚々として人に迫るが如き妙句あるは、多くは直接間接に其の淵源を聖書に発せり。或はダンテの『神曲』ゲーテの『ファウスト』は言ふを俟たず、マコーレイの文に徴するも聖書の感化実に顕著なるものあるを見る。彼は一個の紳士にして、基督教にも同情ある人なりしかども、未だ基督教の深遠なる奥義に達したりと言ふ可らず、其の人生観の如きは寧ろ軽薄なりとの謗を免れず。かの『クライブ伝』の如き、印度の東洋的装飾《オリエンタル・オウナメント》を叙するに当ては錦思繍腸を絞りたる美文なれども、其の精神を論ずるに至つて筆端鈍れて浅薄なる観察をなすに過ぎず。されど彼が文章の全局を通読し来る時は、其の思想に其の筆鋒に聖書文学に負ふ所、挙て数ふ可らざるものあり。而して其の引照せる所は、普通に熟知せられたる句に非ずして、却て往々人の注意せざる所のもの多し。げに彼は日常聖書文学に沈湎せるにあらずんば、焉んぞ能く斯の如くなるを得ん。
 サツカレイも亦宗教上には嘴を容れたる事少なき人物なれども、聖書の智識に負ふ所多きは、其の著作を繙かば明かなり。彼曾てロンドン市の紅塵を逃げ喧噪を厭ひ、踪跡を暗まして或る清閑の地に隠れ、静かに小説を書せんとす。怱卒の際聖書を携帯する事を忘る。為に文を成す能はず、窃かに聖書を借らんと欲し、書を友人の許に呈せしかば、事忽ち露現し、折角の企て水泡に帰したる事ありしと言ふ。一篇の小冊と雖も尚ほ聖書なくしては之を作る能はず、如何に聖書が欧米文学に其感化を与へつゝあるかを察知するに足る。
 実に泰西文学中より聖書を取り除く事は、宛も人間の身躰より神経若くは血管を取り除きたるに同じ。神経を取り、血管を除きたるとも、身躰の形容は毫も異なる事なきが如く、聖書を取り去るも泰西文学の形骸は毫も異(373)状を呈する事なからん。されど活々溌地の精神は到底見る可らず。
 米国を浅薄なりと軽蔑する人々の中にても、新英洲のみは之を例外となす者あり。されど米国詩人中に嶄然頭角を現はし、雄大なる思想を有せしジアキンミラはカリホルニヤの人なり。其の精神は日本人と相接近せる所あり、言従て適切なるを感ず。彼曾て其の姪某に書き送つて日く、
  『御身は頻りに大文学を求めたまへり。されど御身が門出の時、母上が御身の荷物の裡に蔵めたまひたる一冊の古書あるを記臆したまはん。其の書今は机の端、又は書棚の隅に置かれて塵堆くなり、御身の手を触れたまふは稀れならん。されど此は世界の文学中最も大なる文学なり。創世記又は約百記《ヨツブ》等の森厳崇高なる、我は之に負ふ所極めて多きなり』と。
 其の他試みに一葉の外字新聞を取り、簡にして且つ力ある辞句を抜萃し来れ。而して其の百中の五六十は聖書より脱化せるものなるを見ん。
 普通に使用せらるゝ英訳聖書は、ジエムス王の勅撰に係はるものなり。されど今日の聖書学者は其翻訳に誤謬多く、原文に無きもの訳文に在りと批難し、近年に至りて改正訳を完成するに至りき。又アイザツク、レーザーと言へる猶太人あり。固より基督信徒に非らざれば、旧約書のみを読む事なるが、其の翻訳に誤謬多きを嘆じ、正確なる聖書を子孫に伝へんとて、自ら十八年の歳月を費して其の翻訳を成就したりき。然り乍ら従前の英訳は一種の力ある文字にして、其れ自ら既に文学たり。之を翻訳せる者は己れ又天来の霊気を感じ、其の感動する事激甚たるに当つては、原文に抗泥せず自在に筆を馳らせたる所あるが如し。而して英人の言語は此書によりて非常なる感化を蒙りたるは明白なる事実なり。
(374) 或は言ふ、国語は聖書によりて造らると。然り、ルウテルの聖書翻訳は独速語を造り、ジエムス王勅撰の英訳は英語を造れり。
 元来我邦人の通弊として、文章を綴するに句節の長きと文字の難解なるを喜んで用ゆるが如し。象山の桜の賦の如き、何んぞ其の難文字の夥多しきや。されど翻つてウオルヅウオルス、テニソン、ブライアント等の文章を見よ。言辞極めて単純にして、字句甚だ簡潔、而と言はざるは言ふに優るの余情饒かなるに非ずや、我邦人は『得る』の意を現はさん為め、“Procure”若くは“Obtain”等の字を用ゆれども、英人は簡にして力ある“Get”の字を用ゆ。又哲学宗教等の用語として我邦人は、“Divinity”“Absolute”“Eternal”又は“Supernatural”等の語を喜べども、英人は“God”の一語を聞て、言ふ可らざる無量の感懐を起すが如し。斯の如く英文学の心髄は実に聖書より出で、其の権威あり、主張あるもの悉く之に依らずんば非ず。
     *     *     *
 加之聖書は天才文学に非ずして、品性文学なり。固より辞句を精撰せざりしに非ず、されど其の品性は美はしく鍛錬せられ、其の霊性は常に高潮なりし人物が、雄渾深遠なる思想を縦横自在に陳べたるものなれば、文躰に箝制せらるゝ事なく、只僅に単純なる聯句を用しに過ぎず。保羅が以弗所書一章を書く時に当りては、余りに精神激昂して、神の高恩を謝するの情に満ち、却て文章を成さず、議論を結ぶ事をも忘却したるが如き痕跡歴々たり。此は取りも直さず品性が天才を抑圧せるが故なり。文章より言へば拙文ならん、されど品性又文学に非ずや。而して品性文学は天才文学よりも一層を抽んでゝ高き所あり。ダンテ、ジヨンソンの文は乃ち之なり。或人司馬遷の史記を評して、其の文章には往々欠点なき能はずと言へり。蓋し其は司馬遷も亦品性の人なりしに(375)由るか。実に品性文学には動もすれば文学的の美を欠く事ありと雖、而かも品性的の美は蔽ふ可らず。彼等は極力主張せんと欲する真理を説きつゝある間に、期せずして文学的の美を現出する者なり。
 余輩は是より聖書中文学的趣味に富める章句を引照して、其の一斑を示さん。例へば創世記四章二十三、四節に『剣の歌』と言へるものあり。曰く
      レメク其の妻等に言けるは、
   アダとチラよ、我声を聴け、
      レメクの妻等よ、我言を容れよ。
   我わが創傷のために人を穀す、
      わが痍のために少年を殺す。
   カインのためには七倍の罰あり、
      レメクの為には七十七倍の罰あらん。
 レメク少年を殺して其の罰を恐るゝの情を歌ふ。想固より単純にして、文また美と言ふ可らず。且つ多妻主義にして未だ野蛮的風俗を脱する能はず。されど人間の作れる詩歌中の最も古きものと知らば、考古学上の趣味饒なる古歌と言ふべきなり。
 民数紀略に詩歌多し。二十一章十七八節に『井戸の歌』あり。此はもと以色列の民モーセに導かれ、曠野を彷徨し度々饒渇の苦を嘗めて漸くモアブの界に進みたる時、人民共同して井を堀り水を得たれば、其の喜びを歌へるものなり。曰く、
(376)   井の水よ、湧きあがれ、
      汝等これに向つて歌へ、
   此井は笏と杖とをもて、
      牧伯等これを掘り、
      民の君長等之を掘れり。
 天地の万物を悉く活物の如く観察して之を歌ひ、且つ官民相親和し、上下相一致して、喜びを衆と共にするの美を写す、其の情実に掬すべきものあり。若し国家万般の事、上を見ずして下を見るの精神を以て、処理せらるゝに至らば、其の文学も亦一新生面を開くに至らん。而して此は聖書文学の優れて美はしき特色なりと思はる。
 我邦の文学に最も欠乏せる点は、英語の所謂“Sublimity”なり。或は之を訳して森厳と言ひ、荘大と言ひ、崇高と言ふ、されど全く其の意を尽さず。乃ち我邦には未だ之を現はすべき文字をも有せざるなり。而して聖書文学は最も Sublimity を極めたる辞句を以て組成せられたり。哈巴谷《ハヾクヽ》書三章十七節以下の『亡国の歌』を見よ。
   其の時には無花果の樹、花咲かず、
     葡萄の樹、果ならず、
       橄欖の樹、産空しくなり、
   田圃は食糧を出さず、
     圏には羊絶え、
       小屋には牛なかるべし。
(377) 国亡んで田圃荒れ、廃跡累々として恨み長く、志士をして懐旧の涙乾く時なきに至らしめん事を預言する、また痛切なり。されど彼は悲んで傷らず、詮方悉く尽きて尚ほ望みを失はず、更に歌ふて曰く、
   然ながら我はエホバによりて楽しみ、
    吾が救拯の神によりて喜こばん。
   主エホバは吾が力にして、
    吾が足を鹿の如くならしめ、
      我をして吾が高き処に歩ましめ給ふ。
 使ふに金なく、住ふに家なく、友は我を売り、国は我を棄て、妻子脊属また悉く隔世の人となる、真に我は飄然たる天下の孤客、されど尚ほ神エホバ我と共に在り、之によりて喜ばんと。忽ちにして九地の下、忽ちにして九天の上、変化の極端なる何ぞ其の甚太しきや。
 我邦の詩人は善く花を歌ひ、鳥を歌ひ、月を歌ふ。されど星を歌ふ者は甚だ稀なり。アラビヤ人は常に之を楽しみ、其の歌また美を致す。蓋し渺々として際涯を極めざる沙漠に在つては、日夕目を歓ばし、耳を楽ましめ、心を跳らするもの少なく、独り天空に滴たる如く懸かれる昴宿のみ最も善く彼等を慰藉したるもの在りしに由らん。余輩も亦星を楽しむ念厚く薄暮天文学書を携へて山に上り、心を星辰の間に馳せ、自ら世界以上に携へ行かるゝ心地するを此上なき愉快となせし事あり。而して余輩の斯くの如き思想を惹起するに至れるは、又聖書の賜なり。約百記三十八章三十一節以下に曰く、
   なんぢ昴宿の鍵索を結び得るや、
(378)   参宿の繋縄を解き得るや。
   なんぢ十二宮をその時に従ひて引出し得るや、
   また北斗とその子星を導き得るや。
 調自ら整ひて宛然奥妙なる音楽を聞くが如き思あり。而かも其の想像の雄渾闊大なる、到底梅が枝に鶯の声を聞きて喜ぶ所の詩人が、想ひ及ぶ所に非らず。
 馬拉基四章二節には、太陽に羽翼あるが如く想像し、且つ吾人の心を強うするに足るべき慰藉の言あり。曰く、
   されど我名(神)を恐るゝ汝等には、
   義の日出でゝ昇らん、
   その翼には医す権能を備へん、
   汝等は牢よりいでし犢の如く躍跳らん、
 其の他創世記二十四章、アブラハムが其の僕をナホルの邑に遣はして、イサクの妻を求めしむる記事を読まば、黄昏井戸の傍に水瓶を肩にのせて出で来れる妙齢の佳人、リベカが皓歯明眸、婉麗の容姿を以て、優しく僕と相語ふ一段の如き、何たる美はしき光景ぞや。
 又約百記四章の幽霊の記事に至つては、英文学中『マクベス』の幽霊と此記事の如き物凄く、身の毛慄立つを覚ゆるものなしと称せらるゝ所なり。更に仝四十章に駿馬の事を叙して、
   なんぢ馬に力を与へしや、
     其の頸に勇ましき鬣を粧ほひしや、
(379)   なんぢ之を蝗虫の如く飛ばしむるや、
     其の嘶く声の響は畏るべし、
   谷を脚爬きて力に誇り、
     自ら進みて兵士に向ふ、
   懼るゝことを笑ひて驚くところなく、
     剣にむかふとも退ぞかず、
   矢筒その上に鳴り、鎗に矛あひきらめく、
     猛りつ狂ひつ地を一呑にし、
   喇叭の声鳴りわたるとも立どまることなし。
と言ひ、千軍万馬の犇めき渡る間に、勇ましき鬣振り乱しつゝ直驀に突進する、逞ましき駿馬が勇壮なる働き振り、髣髴として眼前に現はれ来る。
 特に彼の以賽亜書五十四章メサイヤの預言の如き、殊更に之を讃するの冗を要せず。以賽亜書四十三章以下は実に旧約書文学の絶頂に達したるものと言ふべし。
 更に眼を転じて方伯ペリクスの前に立つて、保羅が雄弁滔々、懸河の勢を以て、妄を弁じ誤りを正したる使徒行伝二十四章の記事を閲すれば、宛然デモツセニスを地下より喚び起し来れるの観あり。或は哥林多前書十三章に於て『愛』を頌咏せる、又は仝十五章に於て『復活』を論じ、筆鋒鋭利当る可らざるの概ある、更に仝十一章に於て保羅が千辛万苦せる状況を叙したる、只に称すぺく吟ずべきの妙文なるのみならず、深く読者の精神を(380)刺激し、思を高うし又心を寒からしむるものあり。
 最後に黙示録に至りては、既に基督教の目的を完成し、新天新地に入りたるものにして、文学、思想また共に完全の域に達し、美尽し善尽せるものあるを覚ゆ。二十一章一節以下に曰く、
   われ新しき天と新しき地を見たり。
   先の天と先の地は既に過ぎさり、
   海も亦有ることなし。
 
   われ聖き城なる新しきエルサレムの備へ整ひ、
   神の所を出で、天より降るを見る。
   その状は新婦、その新郎を迎ん為に修飾たるが如し。
 
   われ大なる声の天より出るを聞けり。
   曰く、碑の幕屋、人の間にあり、
   神、人と共に住み、人、神の民となり、
   神また人と共に在して其の神となり給ふなり。
 
   神彼等の目の涙を悉く拭ひとり、
(381)   復死あらず、哀み哭き痛み有ることなし。
   そは前の事既に過ぎ去ればなり。
 
(421)     退社の辞
                     明治31年5月22日
                     『万朝報』
                     署名 内村鑑三
 
      是れ内村鑑三氏が朝報社を去の辞なり、余に対しては厳師の声なり、余は唯だ此文に罩められたる氏の精神を以て余が精神と為し、朝報の精神と為さんと云ふの外、一語あるを知らず、茲に掲げて自ら警む 黒岩民鉄附記 余は万朝報社に迎へられて東京に来り、鈍筆を振ふ事茲に一年と三ケ月、今や此社を去らんと欲するに当て余に多くの感慨なき能はず
 世に多くの新聞あり、而して万朝報は其最も完全最も高尚なる者に非ず、若し其欠点を挙げん乎、余は最も多く之を指摘し得る者の一人なりと信ず、然れども此欠点多き此小新聞にして余の同情を惹て止まざる所以のものは其内に一片の真情の其土台的根底として伏在し居ればなり
 万朝報社は世の不遇者の結合体なり、此偽善的社界、此偽紳士と偽教育家と、偽政治家と、偽愛国者とを以て充ち満たる社界、焉んぞ能く多数の不遇、無友、孤独の徒を出さゞるを得んや、心裡に熱情を蓄ふるあるも之を語るを得ず、語れば罰せられ、国賊を以て罵られ、阿るにあらざれば迎へられず、媚ぶるにあらざれば近けられず、全然幇間の類に化するにあらざれば貴きと高きを望み得ざる今日の我国の社界の如きに在ては万朝報社の如き者の起り立つは甚だ当然の事なりと信ず、世の万朝報社を難ずる者は先づ此社の存在を促せし社界を痛く難じ(422)て可なり
 余は此社界を怒る者の一人なり、故に余は万朝報を去ると雖も此社界と和睦せんと欲するものにあらず、余は尚ほ戦闘を継続せんと欲する者なり、只其攻撃の方面を替へんと欲するのみ、之を攻むるの方法は一にして足らず、鉄拳を振て其罪悪を矯むるも其一なり、端坐して其失徳を論究するも亦一なり、其醜を発くも其一なり、美的標本を其前に呈して漸愧の念を生ぜしむるも亦一なり、余の無智無能なる能く此聖職を充し得るとは自から信ぜざるも、余には亦余相応の力量の供へられたるあれば、余は余の方面より余の生れ来りし此国土に尽すべきの義務と権利とを有す、
 万朝報よ健在なれ、憤怒《ふんど》に溢れて汝自身の重職を汚す勿れ、社界を責むると同時に汝自身を責めよ、罵て卑言を発する勿れ、平民の友たるは常に自身平民の資格を守るにあり、汝の危険は平民の賛助を得て而後汝自から貴族的と成り畢らん事にあり、殷鑑已に汝の前に供せられたり、汝慎めよ、サヨナラ。
 
(423)  別篇
 
(433) 【明治31年3月4日『万朝報』】
   読者諸君に告ぐ       内村鑑三
 読者諸君にして近来匿名を以て書を余に寄せらるゝ者多し、然れども宿所姓名を記せざる文書に答ふぺきの途なし、若し返答を要せば明々白々其名と所とを記せよ、然らざれば来《きたつ》て本社を訪へ、喜んで会し喜んで語らん。 【明治31年5月22日『万朝報』】
小生義今般万朝報社を辞す、爰に社員并に読者諸君の厚遇を謝す
明治卅一年五月廿一日          内村鑑三
 
(434)  〔参考〕
 
  〔高野氏を奨励せよ他〕
                  明治30年10月13日
                  『万朝報』「八面鋒」
                   署名なし
 
     高野氏を奨励せよ
 
 高野氏をして彼の勇敢なる意志を決行せしむる事は憲法の明文を決行せしむる事なり 故に国民は満腔の同情と凡ての法方とを以て彼の行為を援くべきなり、余輩は先づ其奨励法として志士の一大親睦会を開き彼を客待して鼓舞を彼の決意に加へん事を勧む 亦た志士の義捐を募り一は以て彼の活動の資を補ひ、二は以て彼れ万一の災に備へ、彼をして内顧の憂ひなからしめん事を望む 斯くするは彼をして国民の意志を決行せしむる事にして亦た国民が彼と共に暴戻政府の虐行を責むるの途なり。
 
     高野氏を擁護せよ
 
 今や暴虐政府は腕力に訴へても其違憲的暴志を決行せんとの意を示せり、憲法政治の擁護を以て任ずる国民にして此暴挙を観過するを得んや、吾人は高野氏が独り虎口に帰るを危しとす、故に彼に同情を表する吾人は宜しく数人決死の士をして彼の後《しりへ》に従はしめ、危険若し彼の身に逼るあれば吾人に代て彼の身命を護らしめん事を望む、是れ義士に対する吾人の義務にして亦た憲法擁護の一法と言はざるを得ず。
 
(437)     余が今年中の読書
                   明治30年12月3日
                   『福音新報』127号
                   署名 内村鑑三
 
 余は新聞事業に従事し居ることなれば、静かに机に対して読書するの暇少なく、且つ近頃眼を患ひて視力衰へ、細字を精読するを苦むに至れり。故に今年は思ふだけに多くの書を読む能はざりしは遺憾とする所なり。されど余が読破せる書冊中にて、趣味深く裨益多く覚えたるものを紹介して読書子の参考に供すべし。
●近頃米国にて出版し居る“The Story of Nations”と題せる叢書あり。此叢書は不揃にて一様ならず、得難きまでに面白きあれば、極めて乾燥無味読むに堪えぬものもあるなり。当時余が研究しつゝある古代史に係はるものゝ中、ローリンソン氏の『フヒニシヤ及びエジプト史』は、解し易く書《もの》せる談話体《だんわてい》にて歴史としては価値《かちよく》少なけれども、而も初学の人に取りては面白く味《あじわひ》多く、恰も小説を読むが如くに労せずして古代史を知るに足らん。次に
●ラゴージン氏の『カルデヤ、アツシリヤ、ミデヤ、印度の歴史』あり。四冊ものにて、著者は仏人なれば文字も簡潔明快に、事実は之を学術的に叙記し且つ論評を加へたり。故に古代史を研究する者に取りては裨益至て多し。余の閲読せる書中、未だ此書の如く古代史に肉と血を与へたるものを見ず。特に味深きは宗教の解釈なり。古代史を研究するに当り、宗教を知らずんば以て其国民を知る可らず。蓋し宗教は国民生活の半ば以上を占領すればなり。カルデヤ史には世界の原子的宗教とも言ふべきものを有しアツシリヤ史にはセミチツク教の精神の能く発揮せるものありて、旧約書の研究者に新しき光を与ふぺく、ミデヤ史にはゾロアスターの宗教の基源を極めアリヤン人種の宗教的観念を見る事を得べく、印度史に於ては今日のアリヤン人種の観念は、遠くヒマラヤ山の東麓に彷徨せる時の宗教的観念に基ける事を明白に説明したり。
●仝氏が最近の著に毘陀時代の印度と言へる一書あり。アリヤン人種の一派にして印度に下りたる者がサンスクリツト文学を興せし時代を、恰も近世史を説くが如くに新しき趣向を以て叙し、初学の者をして斯《この》学の快味津々たるを感ぜしむべし。余未だ著者の人と為りを知らず、されど英文を以て古代史を研究する者には、慥かに以て師とするに足らん。
(438)●四年一前に歿したるエルサ、ムルフードとて米国ケンブリッジの人あり 他の方面には余り名声の聞へざる人なるが生前に『国民論《ゼー、ネーシヨン》』『神の共和国《リパブリツク、オブ、ゴツド》』てふ二大著述をなせり。此は英米の読者社会に非常の勢力となりたる作なり。『国民論《こくみんろん》』の如きは実に神聖なる政治論と称すぺきものにて、かの有名なるチヤーレス、チヤムナー氏の如き、又大に此書に感化せられたる一人なりといふ。余は政治論には迂遠なれば精しく知る可らざれども、蓋し此書はミルトン以来の政治的著作なりと思へり。余は之を読んで、初めて多年求めて得ざりし所のもの、即ち政治其者の神聖なることを悟り、政治上に嘴を入るゝにも、宗教を論ずると同一の心底を以てするに至れり。新聞事業に従事すれば多少政治論にも渉らざる可らざる時に当り、此の如き書を得たるを喜ぶ。余はサムエル、ジヨンソンを以て擬するにあらざれども、殆んど書冊の始より終りまでを通読せることなし。然るに此書のみは再び繰り返して読み貫くを得たるは、以て此書が如何なる感動を与へたるかを知るぺきなり。『神の共和国』は漸く読み初めたる程なれば兎角の評を試み難しと雖も、其第一頁を繙けば已に簡易明白にして而も高尚深遠なる、雄大なる心霊に接するの思あらしむ。今日の如き卑陋なる思想界に生息して、毎日斯の如き偉大なる思想家に接するを得るは、吾等の特に幸福に感ずる所なり。
●余は又仏教に関する書を研究せるが、そが中にて誰にも紹介したしと思ふは、ポウル、カルンスの『釈迦の福音《ゴスペル、オブ、ブダ》』(丸善に在り価七十銭)著者自ら釈迦の賛成家にして、序文によればヨハネが約翰伝を書《もの《》せる如き精神を以て、釈迦の伝記を叙したりと。未だ能く其目的を達したりと言ふ可らざれども、僅々二百五十ページの間に面白く釈迦の言行《げんこう》を録し得て要を穿てるは、其労を多とせざる可らず。余は此書によつて一層釈迦に対する敬服嘆美の念を増し加へたると同時に、仏教の大弱点をも一層明かに知り得たり
●リス、デビヅの仏教は小著述なりと雖、泰西の仏学者の中に博く行はれ、且つ重きを成せるものなり 実に一目の下に瞭然と仏教の大意を極めんと欲せば有益なる作なるに相違なし。氏は又近頃仏教経文の批評研究の結果を一大著述となせしことを、新聞の広告にて読みたり。蓋し斯学の為に寄与する所少なからざるべしと信ず。
●ビール氏の『支那仏教論』は直接我邦の仏教にも関係あり(439)て興味新なるを覚ゆ。著者は基督教の宣教師なりと雖、其立論は公平にして、事実また甚だ該博なり。氏曰く三蔵経を初めて欧米の仏教学者に供せる者は、故岩倉右大臣にして、著者も其寄贈に係はる経文《けうぶん》によりて研究したるなりと。此書の注意を惹ける点は、観世音崇拝若くは阿弥陀崇拝は、釈迦の仏教と其原理に於て全然相違せるものなりと言ふにあり、如何なる見地よりするも釈迦の教訓より、かゝる教義の出で来りし事は、到底我等の浅き考にては考へ及ぶ能はざる所なり。観世音、若くは阿弥陀等の思想の根源は、或は西洋的の崇拝物にてはあらざるか、頗る疑はし。
●純粋に神学上の著書にて多くの裨益を与へられたるは、米国ケンブリツヂの聖公会派神学校の教授、博士ワルデン氏の著“Metanoia”なり。伝道に従事する諸士に紹介して精読あらん事を希望するなり 蓋し聖書中の希臘語メタノイアてふ一語は、実に基督の福音の全精神を含蓄せりとも謂つべきものあればなり。従来此語は英語にて Repentance. 日本語にて悔改と訳したり。其の結果として悔改は基督教の尤も大切なるものと認め来れり。而して吾等の宗教的観念中にも必ず罪を洗ふと言ふ観念を含めり。然れども基督の言はれしメタノイヤは、是れ人類全性の変化を言へるにて、勿論悔改の念をも包容せりと雖、其一部分たるに止るのみ。人類の救拯せられんが為には、其全性挙つて変化せざる可らざることを示せるなり。二百五十ページの小著述たりと雖、能く吾等を誘掖啓発する力ある良書なりとす。
 読書と執筆とは余が職業なれば、此外にも閲読せる書物少なからず。只右は其重なるものを録せるのみ 曾て横井時雄氏余を評して曰く『内村は浅薄なり』と。余此語を聞て実に汗顔の至に堪えざる次第なり。されど浅薄なる者は、浅薄なりに少しづゝの学問をなすを得るなり。此はせめてもの幸に非ずや。    (此は氏の談話を筆記せしものなり)
 
(440)     西班牙の文士セルベンテス
                    明治31年5月13日
                    『福音新報』150号
                    署名 内村鑑三 述
 
 欧洲文学に驚くべき戯曲的の才能を現はし、ダンテと並び賞せられて、然かも或る点より言へばダンテよりも一層偉大なる人物あり。是を西班牙の武人、セルベンテス(Cerventes)とす。彼はフヒリップ二世の時代に生る。時恰も文明の新潮流、滔々として大河の一時に決せしが如き勢を以て欧洲の全土に押し寄せたるに際す。旧思想と旧制度とは悉く厭ひ棄てられ、目新しき物質的勢力は到る所に歓迎せられて其の地磐を固めたり。米国発見は遽かに経済界の変動を来し、富の程度著しく高まり、富者益々奢侈を極め、貧者愈々窮乏に迫り、平穏なりし社会は罪悪と不平と圧轢との声にて満つるに至れり。セルベンテス此の情態を見て憤慨遣る方なく、所謂ヒデルゴヲ(hidergo)てふ任侠なる武士風の気象を露はし、強《けう》を挫き弱《じやく》を扶け、以て社会の改革を遂げんと志たり。然れども事々物々、企つる所として皆な其の志と齟齬し、不幸と名づくべき凡ゆる不幸、艱難と称すべき凡ゆる艱難は常に其の身に蝟集し、実に彼の生涯は堪ゆ可らざるが如き苦楚辛酸を嘗め尽したる生涯にて終れり。バルンスの不幸、ジ∃ンソンの困窮、カアライルの辛苦、之をセルベンテスの生涯に較ぶれば物の数ならざるなり。或は言ふ世に文学者の薄命なる、カモエンス(Camoens)に如く者なしと。彼は葡萄牙人なれども支那の廈門に生れ、有名なる(Lusiad)を著はし、後ち故国リスボンに帰り、憐むべき乞食の境涯に成り下り、可惜稀世の秀才を襤褸《らんる》に包み、人の顧ることなくして死せり。されどセルベンテスの薄命は恐く彼よりも遙かに甚だしきものありしが如し。若し彼の生涯を思ひ来らば今日の文学者が妻は病床に臥し、児《じ》は飢に泣き、己は水を飲みて文を作すの苦を嘗むるも、亦何ぞ意とするに足ん。
 セルベンテス晩年に及び、己が一生を回顧して其の齟齬失敗の閲歴を想ひ起し、こゝにドンキホウテエ(Donquixote)と名づくる小説を作れり。此は欧洲文学中に一頭地を抽でたる大傑作とす。乃ちドンキホウテエと言へる極めて真面目に正直一偏なる主人公あり。其の従者として朴訥愚直なる田舍漢《でんじやかん》サンマアなる者を携へ、驢馬に跨がりて諸国を巡遊し、其の到る所に失敗せる事跡を最も巧妙なる滑稽文学に綴りた(441)るものなり。之を西洋の膝栗毛と言ふぺし。弥次喜太の行跡《げうせき》は只夫れ滑稽なり、道徳もなく悲惨もなく卑猥なる文字《もんじ》多くして公衆の前に読むに堪へず。されどドンキホウテエは元と真面目なる心にて行ひたる滑稽にして、道徳あり、悲惨あり、憤慨あり、清白なる文字何人の前に朗読するも更に耻づる所なし。カアライル此書を評して『愉快の書』と言へり。されど余は十年前之を読みたる時、既に此書の単に『愉快の書』に非ず、其の一読人をして頤を解かしめ再読腹を抱へて絶倒せしむるものある裡に、実に限なき悲惨の情を含めることを感ぜり。
 試みに思へ、余にして若し正義公道に立つて事を天下に行はんと欲するに当り、社会は余を容れず、更に余が味方と頼みたる人々も却て余を攻撃し、破門することありとせよ。余は此に至り正に世の腐敗と人情の軽薄と到底事を共にするに足らざるを見て之を憤り、其の頼み甲斐なきを嘆ずることあらん。然るに尚ほ其の艱難に打ち勝ち、其の不平を打ち忘るゝの快楽ありとせば、其は実に滑稽てふ一事にてあるべきなり。ジヨンソンの言なりと記臆す、悲みの甚だしき時は、滑稽の甚だしき時なりと。ジヨンソン、カアライル、ダンテ等が巧みに滑稽を言へるは、取りも直さず之が為めなるべし。げに悲惨の極は滑稽となるものなり。
 今ドンキホウテエが滑稽の一二を述ぺて、読者をして其の一斑を窺ふの便に供へん。彼一日従者サンコウと旅す。二人共に疲労《つかれ》に堪へずして、覚えず驢馬に跨りながら熟睡《うまひ》す。会ま悪徒来り、四本の棒を以て其の鞍を支へ、窃かに驢馬を盗み去る。彼等熟睡更に之を知らず、醒めて後ち其の驢馬なきを見驚き呆るゝことあり。又ドンキホウテエは当時の武士の風習として一人の理想的佳人を心に画き、此佳人の好む所望む所歓ぶ所を行ふを己が理想とせり。而して彼ある時其の佳人と相会見するを得んと願ふの心切なりしかば、サンコウに問うて曰く『吾佳人何所にかある』と。サンコウ答へて曰く『我これを知る、伴なひ申さん』と。倶に途を急ぎしが更に佳人の住家とも覚ぼしきものなし。因て訝り問うて曰く『未だしか』。サンコウ則ち答ふ『佳人来りつゝあり、請ふ暫く待て』と。須臾《しゆゆ》にして村娘二三相擁して来る、サンコウ曰く『来れり』と。主人目をあげて之を熟視すれば、色黒く鼻低く唇厚く丈低く肥え太りて容貌甚だ醜、驚き問うて曰く『是なるか』と。サンコウ曰く『然り。かの気高く美はしき(442)佳人を見よ。げに御身が理想する所にあらずや。然るに御身が之を醜き田舎娘《いなかむすめ》と外見る能はざるは、悪魔に暗まされたるなり』と。此に於て互に相論ずることあり。之を以ても只漫然滑稽を書して喜ぶものと同一視す可らざるは、言を俟ずして明かなり。
 或人曰くセルベンテスは武士風《シバリー》を笑ひ殺せり。是より后武士其の影を隠して勢力また振はずと。然り、彼は旧時代の風俗習慣を笑殺したり。宛かも之と同じく余輩は我邦に於て、セルベンテスの如き人物起り、以て日本主義と言ひ、武士道と言ふが如き頑固なる保守的思想を笑殺して其の跡を絶たしめんことを望む切なり。
〔2020年12月16(水)午後5時50分、入力終了〕