内村鑑三全集7、岩浪書店、538頁、4500円、1981.3.24
 
1899年(明治32年)4月より12月まで 1981.3.24
 
凡例…………………………………………1
1899年(明治32年)4月―12月
春暁夢 他…………………………………3
 春暁夢
 我を亡すもの
 伊太利を憐む
近県歩行……………………………………9
A Woeful Phase of Concubinage.…………13
観花の感 他………………………………16
 観花の感
 インスピレーションの絶ゆる時
 歎はしき世の中
 慰むる者
 東洋の未来記
 東洋衰亡の源因
 モンテスキヤの言
 国家的道徳としての忠孝
カーライルの婦人観………………………20
鳥類の研究…………………………………35
園遊会の漏声………………………………36
Miscellaneous Notes.………………………37
人生の旨趣 他……………………………39
 人生の旨趣
 報酬
 心霊の自由
 俗人の徳育
 我の態度
 告白と実際
 国を強うするの途
 我意と天意
 吾人の責任
 次に来るべき時代
 文楽者と文学者
 宥恕の美
 金銭問題
『米国ペンシルバニア州東部白痴院第四十五年報』書評……44
英和時事問答〔2〕 日本の三大政治家…46
The New Political Party.……………………55
清浄潔白 他………………………………58
 清浄潔白
 我の日本
 政治の真似事
 宗教の目的
 伝ふべきの真理
 日本を救ふの基督教
 独立雑誌と上流社会
美訓と其註解………………………………62
文士の述懐…………………………………68
『外国語之研究』〔序文・目次のみ本巻収録〕……70
自序…………………………………………71
民を済ふの二途 他………………………73
 民を済ふの二途
 無事の時
 不平と不足
 我が救主
 進歩と退歩
 倫理の区域
 芝居を観るの害
 腐壊の微候
 耻かしき名称
 学問の快楽
 著者の慰籍
 独立の価値
 学問と精神
 耻づべきもの
 無比の国家
 吾人の貢献物
耶蘇の教訓と其註解………………………79
善光寺詣り…………………………………82
随聞随筆録…………………………………87
Notes.………………………………………89
記者の祈祷 他……………………………91
 記者の祈祷
 真理を識るの法
 今の新聞紙
 新聞記者の自省
 警責と建徳
 川上大将逝く
 精神的英雄
 帝国主義
 罪の結果
 基督教と虚言
 信神と普通倫理
 名誉乎不名誉乎
 俗人統御の途
弁明…………………………………………96
英和時事問答〔3〕 日本の最大哲学者…98
Notes.………………………………………102
発刊一週年 他……………………………105
 発刊一週年
 同志の同盟
 吾人を援くる者
 名称と事実
 平民の忠愛心
 日本の英雄
 政治と道徳
 日本人の宗教観
 プルータークの言
 表謝
片言…………………………………………111
たらしめば文学(1) 余をして若し総理大臣たらしめば……114
英和時事問答〔4〕 雑談 ………………115
Nemuke‐Zamashi, or Something That Prevents Sleep.……118
Some Pious Reflections. …………………121
西洋の物質主義と東洋の現実主義 他…124
 西洋の物質主義と東洋の現実主義
 婦人を遇するの途
 此の世
 不幸の極
 予言せんのみ
 罪悪の種類
 慈善の種類
時感…………………………………………129
 文部と外務
 日本国の愛国者
 至誠
 人爵と天爵
雑誌博士の教訓……………………………131
粋人の口調…………………………………132
教界雑話……………………………………133
英和時事問答〔5〕 人生終局の目的 …134
“SAN―GAN.” …………………………138
詩人の事業 他……………………………141
 詩人の事業
 英雄の心事を知るの特権
 我の恩人
 神を信ずる事
 腐敗せるもの
 改善の途
 日本人の特性
 実権と責任
 政略的民族
 日本の政治家
 人望を得るの法
 偽人
 支那の壊滅と日本の未来
 支那道徳の性質
 言行一致
蚊々録………………………………………147
政党員と犬…………………………………149
英和時事問答〔6〕 夏の夕暮……………150
Religio‐Political Notes.…………………154
眼の善悪 他………………………………156
 眼の善悪
 真理は劇薬なり
 労苦と責任
 ボスエーとフエネロン
 金銭を獲るの法
 奇異なる言語
 道徳と精神との区別
 友人加藤トシ子を弔ふ
耶蘇の祈祷と其註解………………………161
英和時事問答〔7〕 教育 ………………168
真理の感化力 他…………………………172
 真理の感化力
 我が師耶蘇基督
 ノーブルなれ
 完全なる慈善
 依頼的独立
 日本に於て慈善事業の揚らざる理由
 我が信仰
 出来得る事
 三省の意義
 下劣なる国家主義
如何にして夏を過さん乎…………………176
譎計詐術……………………………………196
英和時事問答〔8〕 日本の未来…………198
誰をか友とせむ 他………………………201
 誰をか友とせむ
 仁
 慈恵と独立
 交際と共同
 宗教を信ずる理由
 支那主義
 人の質問に対へて
 余輩の女子教育
掃蝿録………………………………………206
英和時事問答〔9〕 新政党………………209
休養の在る所 他…………………………213
 休養の在る所
 希望の在る所
 感謝すべき事
 信仰と愛国心
 益なき宗教と教育
 事業の大小
 『耶蘇』
 人に依るの愚
 『運動』
 金銭を要せざる事業
 俗人の勢力
 自由競争
 麦藁帽子
 死教
英和時事問答〔10〕 宗教談……………218
過去の夏……………………………………224
 上州の夏
 北海道の夏
 米国の夏
物の前後……………………………………241
始めて日光を見る…………………………243
金と神 他…………………………………246
 金と神
 語るべき事なし
 第二の善
 自存
 真理と其実行
 自身の改革者
 文と文学者
 寧ろ憫察すべき者
 日本人の倫理
 義理と義務
 孰れか君子国なる耶
時報…………………………………………250
英和時事問答〔11〕 ヲルソドツクス教…252
読むべきもの 他…………………………256
 読むべきもの
 終に平和なし
 偉大なる時代
 事業の大小
 最も看出し難きもの
 基督の神なる理由
 演劇的社会
 志士の為すべき事
 望むべからざるもの
 理想と事業
 『文明の為めの占領』
『小独立国』の現況………………………260
英和時事問答〔12〕 日本の貴族………262
興国史談……………………………………266
摩西の十誡と其註解………………………409
火花集〔1〕 ………………………………414
 拡張と改良
 余輩の秋
 辛酸流浪の生涯
 日本今日の声
 教育と宗教
 新宗教の発明家
英和時事問答〔13〕 インスピレーシヨンに就て……417
火花集〔2〕…………………………………421
 余輩の目的
 党人と義人
 積極的倫理
 勇者の道徳
 政治学上の二大説
 沈黙の説教
 希望の秋
 神の事業
 待命
 東洋の社会組織
 余輩の耻づべき事
 『小独立国』の現況 第二報……………425
英和時事問答〔14〕 喜ばしき秋…………427
火花集〔3〕…………………………………430
 憫むべき事多し
 政党の本質
 日本国を救ひ得る者
 悪友
 怕るべき委任
 帝都の悲観
 単純なる真理
 日本人の欲するもの
 学界の盲
 交際の道
 交友を求む
 破廉耻
奇人奇語………………………………………434
英和時事問答〔15〕 薩摩人と肥後人……436
火花集〔4〕……………………………………439
 余輩の目的
 我の大なる理由
 失敗の文字
 天意のまゝ
 神と人
 秋の好友
 平靖
 義人と党人(再び)
 真理と亡国
 日雇取と政治家
 日本国と日本人
或る貴重なる書翰〔第一〕………………443
日曜日の夕 他……………………………446
 日曜日の夕
 記者根性
小説家と教育家447
或る貴重なる書翰〔第二〕 大尉R・H・プラツト氏よりの書翰……448
気焔の要求 他……………………………451
 気焔の要求
 独立と失敗
面白き事とツマラナキ事 他……………454
 面白き事とツマラナキ事
 我の霊籍
 脱世と救済事業
腐敗録………………………………………455
或る貴重なる書翰 第三 博士サイラス ハムリン氏よりの書翰……457
『英和時事会話』〔目次・序のみ収録〕……460
 序…………………………………………462
神田演説『日本の今日』…………………463
或る貴重なる書翰 第四 ドクトル ケルリン氏よりの書翰……469
新思想 他…………………………………473
 新思想
 俗人との争を避くる法…………………474
 俗人に対する態度
 成功と失敗
雑感雑憤 他………………………………476
 雑感雑憤
 思想と実行
 祈祷の勢力
A Solution of the South African Problem.……479
余の今年の読書……………………………482
興敗録 他…………………………………493
 興敗録
 決断録
クリスマスの感……………………………497
歳の暮………………………………………500
別篇
付言…………………………………………503
社告・通知…………………………………505
参考…………………………………………506
有名なる信者の変心せる理由……………506
 
一八九九年(明治三二年)四月−一二月 三九歳
 
(3)     〔春暁夢 他〕
                  明治32年4月5日
                  『東京独立雑誌』27号「記者之領分」                      署名なし
 
     春暁夢
 
 我が政治家と教育家と、我が官吏と僧侶と伝道師と、我が実業家と文学家とを見て、我等に失望落胆なき能はず、しかれども眼を開いて広く世界の大勢を察すれば希望洋々として春の海の如し。暗黒大陸と称へられし八百万方哩に渉る亜非利加大陸は今や将に世界最上の良園と化せんとしつゝあり。暴威圧制は今は全たく西半球より駆逐せられて南米大陸は北極より南極に渉りて自由を歓呼するに至れり。濠洲諸州の聯合は今や将さに成らんとし、一大自由国は我が南隣に起らんとす、西此利亜貫通鉄道は完全を告げんとして亜細亜大陸の北半部亦人類の住所と化せんとす、支那は開放されんとし、遠からずして自由制度は非律賓群島に布かれんとす、春色今や既に吾人の四面を襲へり、厳冬吾人の地を去るも蓋し遠きにあらざるべし。
     *     *    *    *
 東洋の危概は迫れりと称ふ勿れ、東洋の危機の迫りしにあらず、満州政府の危機の迫りしなり、藩閥政府の危機の迫りしなり。総て圧制を行ふ者、総て旧習に拘泥する者、総て不義不徳を愛する者の危機の迫りしなり。宇(4)宙は今や総掛りとなりて是等進歩の防碍物を破砕しつゝあり。自由を愛し、進歩を愛し、真理を愛する者に危機厄運の臨むべき筈なし、吾人は東洋の空に妖雲の懸るを見ずして瑞気景雲の吾人の四面を掩ふを見る。
     *     *     *     *
 詩人ヲルズヲス前世紀の終りに歌て曰く、
   Bliss was it in that dawn to be alive,
   But to be young was very heaven.
   生を此時に得しは多福なりし
   壮者なりしは快楽の頂上なりし
と、矧んや今世紀の終りに於ておや、我等は人類の歴史てふ大戯曲が時々刻々其結極点に近づきつゝあるを見るなり。
     *     *     *     *
 崩るゝものは偽人の組成する政党にして富士山にあらず。斃るゝものは藩閥政府にして日本国にあらず。政党崩れて後、藩閥死して後、日本国に栄光の春は来るなり。桜花の爛※[火+曼]たるを見て吾人に此希望なからざらむや。
 
     救済の途
 
 我が失望の底に希望あり、我が悲歎の奥に歓喜あり、我は光明の裡に在て暗黒を叫びつゝある者なり。
(5) 国民を癒すの途あり、然れども我は我国人に告ぐるに其何たるを以てせざるべし。そは之を語るも彼等の之を承けざるを知ればなり。
     *     *     *     *
 我は其何たらざるを告ぐるを得べし、即ち軍備にあらず、政治にあらず、実業にあらず、亦今日世に行はるゝ教育又は宗教にあらず。我は救済の途の他にあるを知る、然れども此民に向て其何たるを告ぐるの要なし。
     *     *     *     *
 我を責むるに無情を以てする勿れ、そは謙遜にして飢渇正義を慕ふ者は我に聞かざるも直ちに其何たるを覚り得べければなり。之を知るに万能の智を要せず、鋭利の才を要せず、唯嬰児の如き心を要するのみ。
     *     *     *     *
 智と才と腕力とに無上の尊敬を奉りし国民が竟に衰亡を自覚するに至りしは決して怪しむに足らず。彼等は自身の才に斃れ、自身の剣を以て我と自ら己を刺すに至りしなり。自己に誇るは酔人狂人の沙汰なり。救済は醍覚にあり、自己の本心に立ち帰るにあり。
     *     *     *     *
 今や衰亡を唱ふるの人は少数失意の者に止まらずして、多数得意の人も亦之を公言して憚らざるに至れり。我は戦争に勝ちし者にあらずや、我は敵の領土を奪ひ、莫大の償金を収めし者にあらずや、我は新たに軍艦を作り、兵営を築き、金城鉄壁を以て我の邦土を囲みつゝある者にあらずや。若し我にして衰亡を唱ふべき者ならば、振興は何人に依てか唱へられん。然るに此国民にして此悲声を発するを見て、我は始めて国家の安全なるものは其(6)軍艦兵営にあらざるを知るを得たり。
 
     我を亡すもの
 
 我を亡す者は露にあらず、仏にあらず、独にあらず、英にあらず。我を亡す者は我が内にあり、黴毒病其一なり、蓄妾の俗其二なり。社会は未だ外敵の警戒すべきを知て、内敵の如何に怕るべきやを知らず。
     *     *     *     *
 黴毒の害や実に之を筆にも詞にも尽し得べきにあらず、生命の中心を侵し、身躰を其根底に腐蝕し、大患を子孫に伝へ、延て社会全躰を毒するに至る。人心の腐敗は常に黴毒病となりて外に顕はる。心腐て後に骨腐る、天則は終に欺くべからざるなり。
     *     *     *     *
 蓄妾問題を以て僅に一風俗問題と見做す者は誤れり。蓄妾問題は実に国家生存問題なり。蓄妾は家庭を其根底に破壊し、人倫を其本源に乱す、父にして母を愛し得ずんば子にして父を敬する難し。貞節是に於て乎尽き、孝道是に於て乎空し。自ら慾を節する能はずして貞と孝とを其家族に要む、余輩は蓄妾家を以て圧制家の最も甚しき者と見做す者なり。
     *     *     *     *
 家に平和なくして和楽を外に索むるに至る、日本国に放蕩児の多きは其家庭の治まらざる故なり。蓄妾と黴毒延蔓との関係は甚だ緻密なるものなり。家庭の和楽消えて道念次第に衰へ、羞耻の念絶えて悪疾身を侵すに至る、(7)霊の働作は身に現はれざれば止まず。過去四百年間の土耳古国の衰退は、蓄妾の風俗が国家的現象として顕はれしものを示すにあらずや。
     *     *     *     *
 敵は本能寺にあらずして我が身中に在り、我は支那人を斃し、黴毒は我を斃さんとす。要は天道を守て欺かざるに在り、そは顕明幽暗天罰の免るべきなければなり。
 
     伊太利を憐む
 
 世界第一の戦闘艦を有し、二十五万の最も精鋭なる陸軍を有し、軍備の整頓せる欧洲第二等とは下らざる伊太利も、他強国の例に倣ひ地を海外に求めんと欲し、紅海の西岸エレトリヤの地に寸壌を得て遂にアビシニアと釁を開き、一敗地に塗れて既に欠乏せる国庫に更に一層の欠乏を来し、進んで領土を割取する能はず、退て内治を全ふする能はず、纔に内に細民を窘めて強大国の外面を装ふのみ。
     *     *     *     *
 然るに虚威虚名を好む伊太利も、東洋支那の分割を聞きては堪へ切れず、彼も露や英や独に倣ひ、三門の一港を強取せんと欲せしも満洲政府の拒む処となり、今や復たアビシニヤに於けるが如き不始末を見るに至れり。彼の要求を全く撤回せん乎、彼の威厳の地に落つるを如何せん。嗚呼兵と艦とあるも今は如何ともする能はず、彼の一万五千噸のレバント号は煤煙をネープルス港内に吐きながら東洋の天を望みて切歯扼腕し居るならん。
(8) 然り有すべからざるものは国力に伴はざる兵備なり、是れ国を強うする者にあらずして国を危ふするものなり、瑞西は伊太利の有する兵備を有せざるが故に後者の陥りし誘惑に陥らざるなり、那威と瑞典とは北欧の地に独立の威厳を保ちて亜細亜亜非利加の地に伊太利の愚を演ぜざるなり。嗚呼憐むべき伊太利、ダンテの伊太利、レオナーヂの伊太利、汝は汝の政治家と軍人とに欺かれて日々に危殆の境遇に進入しつゝあり。我れ汝の非運を歎くと同時に亦我が愛する者の前途を危ぶむや切なり。
 
(9)     近県歩行
                     明治32年4月5日
                     『東京独立雑誌』27号「見聞録」                        署名 内村生
 
 本誌の如き区々たる小雑誌の編輯に従事する間は近県旅行などとは思も寄らず、併し時は彼岸なり、校正日には未だ二日の間あり、偶には郊外の空気を呼吸するも思想養成の為めの利益ならんと思ひ、彼岸の中日と申すに社員一名と共に近県歩行と出かけぬ。
 新橋に至れば川崎大師の縁日とやらにて停車場は雑沓を極めぬ、我等の乗り込みし列車は長き事伊吹山を取巻きしと云ふ蜈蚣の如し。其内に積み込まれし人類は三千人に達したらんと思はれたり。依て余は同伴者に告げて曰く「試に想ひ賜へ、此長き列車に沢庵漬の如くに詰め込まれし人が一人づゝ我雑誌を読むと思へば我等未だ全く失望すべきにあらず」と、之を語て我等の意気頗る昂然たりき。
 川崎に於て乗客の過半数と別れ、後は三等※[さんずい+氣]車も別仕立の特等列車の如くに感ぜられ、掏摸《チヨボ》の危険なしに半睡を貪れば、※[さんずい+氣]車は我等の目的地なる藤沢駅に達しぬ。此所に車を下りて先づ遊行寺に参し、彼岸会の荘厳なる読経を脱帽しながら拝聴し、後背後の長生院に小栗判官照天姫の古墳を訪ひ、其池野庄司が天狗と闘て※[手偏+宛]ぎ取りしと伝ふ天狗の爪なるものは鮫の歯なりとの鑑定を下し、後町家に出で余の旧友鈴木真斉氏を訪へり。氏は今職を神奈川県黴毒病院に執らるゝ者、熱心なる基督信者にして剛直なる地方医師なり。氏は学士又は博士の号を有せ(10)ず、然れども氏は正直有の儘を表白するを怕れざる者なり。彼れ曾て東京湾の東岸鹿野山麓に居を構へ、氏の忠実なる細君と共に僻陬に真理の光を放てり、余は始めて此好知己を彼地に得たり。今再び彼等と此所に会して八年の星霜の我等の赤心を変ぜざるを知れり。我等は黴毒病の国家生命に及ぼす害毒を論ぜり。医師道徳を談じ、基督教会の俗化を語り、其他の高談哄笑に友情を温むること二時間余にして、我等は彼等の供せられし腕車に乗じ、夏期の再会を約して彼等と別れたり。有名なる境川に沿ふて江の島街道を下り、片瀬の竜口寺に僧日蓮の旧蹟を尋ね、此所に車を辞し、片瀬饅頭に胃腑を充たし、腰越を過ぎて相模洋の洋々たるを右手に控へ、春の日光を頭上に戴いて詩歌と宗教と歴史とを出鱈目次第に論じながら七里ケ浜を漫歩せしは此世の極楽の一部分かと思はれて、言ひ尽されぬ程有難かりき。行合川と田辺池とは亦日蓮伝に由緒深き所、是れ見逃がすべきにあらずとて我等の足を留て探りぬ。極楽寺坂に近けば其天然に美はしき地は早や既に俗人原の別荘と化するを見たり。鎌倉に入れば是ぞ紳士紳商の出張所かと思はれて、日本に於て最も真正なる意味に於て平民主義を行ひし鎌倉政府の跡も今は全く貴族化せられんとし、広元、泰時、時頼等の霊は如何に地下にて憤慨し居るならんと思ひ遣られて残念なりき。日、豆相の山に没して我等は宮の下の或る旅館に投じぬ、砂塵を被りし儘の我等のことなれば、館主は我等に金銭的価値のなきを見て取りけん、我等二人を四畳半の小室に押し込めたり。彼は勿論我等の日本第一の悪口言ひとは悟らざりしなり。我等も亦茶代を投じて彼等の好意を買はんとするが如き卑劣漢にあらざれば甘んじて一夜の冷遇を受けたり。我等は彼等請求通りの代価を払ひたり。然るに我等が余分の茶代を与へざればとて食ひ逃げでも為すものの如くに我等を取扱ふは不埒千万ならずや、怪しからぬ者は実に我国今日の旅館なるものなり。然れども彼等に此悪弊を醸せし者は実に我国の貴顕紳士てふ卑怯者共なり。彼等は愛相てふ小人の(11)オベンチャラなしには生存し得ざるものなれば、孤児や寡婦を恵むに甚だ吝なれども、旅亭の女将婢僕等に与ふるには甚だ寛大なる者なり。彼等紳士輩が茶代の悪風を我国に醸して以来、旅行てふものは甚だ不愉快なるものとなり、天然の美は到る所に存すれども淳樸なる気風は将に地を払はんとす、忌ま/\しき限りにこそ。
 然れども人は人にして天然は天然なり。朝に旅館の門を出づれば花は笑ひ鳥は謡ふ。彼等天然物は吾人より茶代を懇求せずして吾人を款待するに甚だ親切なり。東向して滑川の渓流に沿ひ進めば麗春花到る所に紅を布き、蒲公英、菫、まめぶしの類、春未だ早きに道に沿ふて咲き、朝比奈の切通に冽泉玉の如きを賞し、此所に三浦半島の分水嶺に達し、坂道を東に下て金沢郷に入る。
 武州金沢の八景、内川の暮雪に野島の夕照、乙艫の帰帆に洲崎の晴嵐 Etc.etc.《エトセトラエトセトラ》之を金竜院の一覧亭より下瞰して一見の価値なきにあらず、函庭的の小風景、之を望んで絶句一篇を搾り出すに難からず。  是れ実に小人物を惹くに足るの地、伊藤侯が常に此地を愛せらるゝは全く是が為めなるべし。侯の別荘は野島の北麓松林の中にあり、亦侯の来遊せらるゝ有名なる旅亭東屋なるものも新聞紙の報ずるが如く、新たに増築の栄を蒙り、余輩此地に遊ぶ者をして東洋の天地に亦此函庭的風景と人物とあるを思はしむ。神は天地を作り、人は之を汚す、金沢八景も今や清士の枚を曳くべき所にあらず、噫。
 尚も我等の歩行を続け、能見山に登りて再び八景を眸視し、岩船山に連山連谷の美を賞し、右折して山を下れば名にし負ふ杉田の梅林、海に臨み山を負ひ、外人の称する所謂ミシシピ湾なるものを一面に見晴す所、是を小須磨又小明石と称するも不適当ならざるべし。桃花既に笑を呈するの頃、寒梅の香を望むべきの時にはあらざれども、妙法寺内の良木未だ全く香を収めず、照水、双竜、斜窓の古老は余香を其枝に留めて我等の来訪を待ちし(12)が如し、余は之を見て余りに※[口+喜]しかりければ、左の悪歌一首を賦しぬ。
   来て見んと我を待ちしか梅の花
     弥生の枝に香をば留めて
 杉田に昼食し、此所より横浜まで船に乗らんとせしも、花時の既に過ぎさりし頃なれば別に一艘を仕立ざるを得ずとの事なれば、金二銭五厘を投じて草鞋一足を購ひ、之をば舟と車とに代用し、靴をば縄もて手に提げ、横浜指して歩行を続けぬ。根岸滝頭に至り、堀切りに沿ふて左折すれば見上る計りの煉瓦作りの大建築物あり、是ぞ如何なる大製造場ならんと思ひ近づき見れば、豈計らんや神奈川県庁の監獄署にてありき。娑婆に在ては茅屋に住し、獄に投ぜられては宏荘に臥す、監獄学の進歩も結構なることなれども罪人の住所が良民の家よりも立派なりとは余り釣り合ひの善き事と称ふべからず、然し若し改善は先づ地獄より為すべしとの事なれば余輩の喙を容るゝ限りにあらず。
 斯くて横浜市外に草鞋を脱ぎ捨て碓誌記者の本体に復し、両足に脚※[執/土]《まめ》六七粒を作りて跛《ちんば》を引きながら家に帰りしは其日の午後五時頃なりき。
 
(16)     〔観花の感 他〕
                  明治32年4月15日
                  『東京独立雑誌』28号「記者之領分」                      署名なし
 
     観花の感
 
 心に満腔の喜悦なくして花を観るも何の快かある、天然の美に対する人心の醜は反て吾人の心を傷ましむるものならずや。花に添ふに徳性の美はしからんことを要す。春に応ずるの社会の改良の来らんことを欲す、花は春と共に新なるに何故に人心は旧に依て革まらざる。
     *     *    *    *
 東台に山を築くの都人、墨堤に蟻に類するの同胞、嗚呼彼等は何を意ひ、何を企てつゝある者なるや、西隣四億万の安危は彼等の脳裡を犯すの問題なる乎、彼等は人生の意義に心を悩すの人なる乎、彼等は社会改築の必要を感ずるの人なる乎、彼等の容貌は確に彼等の我が同胞なるを示すが如くなれど、彼等の行動の軽躁にして彼等の眼底に誠意の跡を留めざるを見て我は彼等は異郷の人にあらざるかを疑ふ。
     *     *    *    *
 然れども花下に群集する人を離れて、嬌枝に笑を競ふ花其物を見れば、是れ天の教訓にして希望の福音なるが如し、天則は愆らずして春陽は再び茲に来り、厳冬其束縛の絆を解いて万物皆其天与の自由に復せり。是れ実に意志を外に開陳して人の咎むるなく、所信を口に公言して世の之を責むるなきの時なり、天然の神は亦歴史の神にあらずや、春来る毎に花の開く間は吾人は未だ此人世に裁て深く失望すべからざるなり。
 
     インスピレーシヨンの絶ゆる時
 
 希望の失する時、人生を悲観する時、歓喜は失せて憂鬱の魔鬼の捕虜となる時、義理に縛らるゝ時、古俗旧習に圧せられて自由意志を発揮し得ざる時、智識は藐められて武力の跋扈する時、偽人が政権を握る時、是れインスピレーシ∋ンの絶ゆる時にして我一人に生気なきのみならず、国に希望絶え、社会に新計画なく、世に生存の甲斐なきを感ずる時なり。
 
     歎はしき世の中
 
 近隣に一人の賊の徘徊するあれば家々悉く警誠して四隣皆盗賊なるの感あり、一人の不孝児の存するが為めに、孝道は全国に布かれて、全国の子弟皆老父母を虐待する者かの如くに意はる、人は悪を信ずるに易くして善を信ずるに難き者なれば、法は罪人を標準として定められ、教は悪人を目的として布かる、歎はしき世の中にこそ。
 
(18)     慰むる者
 
 吾人を慰むる者はなきか、吾人に希望の所在を示し、依て以て立つべきの道を伝ふる者はなきか、吾人を叱責する者にあらずして吾人を慰藉する者、吾人に重税と兵役とを課するのみにあらずして亦吾人に禧福に達するの途を示す者、国民的詩人と心霊的教導者……嗚呼吾人は彼の出づるを待つや久し、而して彼は未だ出でざるなり。
 
     東洋の未来記
 
 東洋の未来は之を預言するに難からず、北京政府は終に斃れて支那帝国は欧洲列強の間に分割せらるべし、日本は其分配に与からんと欲して得ざるべし、そは西洋諸国は日本の如き亜細亜的勢力の勃興を深く怕るゝ者なれば、彼等は相協力して日本の大陸的膨脹を妨圧すべければなり、茲に於てか日本の軍備拡張は東洋の壊頽を防止するに何の用あるなく、国民は政府当局者を責むるに囂しきも進んで列国を相手に雌雄を決するの実力なければ悲憤を呑んで憐邦の壊滅を傍視するならむ、我邦の方針を今日の儘に継続して如斯の現象の東洋の天地に臨み来らむは識者を待たずして明なり。
 
     東洋衰亡の源因
 
 印度亡び、緬甸亡び、安南亡び、支那朝鮮将に七びんとす、是れ必しも西洋諸国の食慾厭くを知らざるに由るにあらずして、東洋文明の素質の以て長久の生存競争に堪ゆる能はざるに由るなき乎、国家の存亡は政治、経済、(19)法律、軍備等の如き簡易なる問題に非ずして、実に人生の最高問題に渉り、聖賢哲人を待て始めて決し得るの大問題にあらざるなき乎、
 
     モンテスキヤの言
 
 哲理的歴史家モンテスキヤ曰く、君主々義の国に於ては人、名誉を愛し、民主々義の国に於ては人、国を愛すと、民主々義の国必しも共和国の謂にあらず、然れども政権の広く国民の中に行き渉らざる国に於て愛国心の欠亡するは勿論のことなり、愛国心養成の途は唯一なり、自由の拡張是なり。
 
     国家的道徳としての忠孝
 
 忠孝は素是れ家族的道徳なり、是を国家てふ公的大団躰に応用しで其効力は甚だ微弱なるものなり、国家を経営するに国家的道徳を要す、而して国家的道徳なるものは公平を愛するの念なり、自由を貴ぶの心なり、忠孝の上に建設せられし国家は其基礎の小なるが為に斃れむ、自由と公道とを土台とする国家は永久に栄えむ。
 
(20)     カーライルの婦人観
        (一番町教会婦人会に於て)
                   明治32年4月15・25日
                   『東京独立雑誌』28・29号「講壇」                       署名 内村鑑三 演説
 
 先日植村先生に青年会で遇ひました時に、本日当会で演説をして呉ないかと云ふ突然の御注文を蒙つた、是れまでも諸所の演説会へ先生に巧みに引出された事は幾度も有る、処が又今度も同じ方法で釣り出されさうになつた、併し今度は私の方も先度よりは些《ち》と賢くなつて容易に請合はなかつた、私は先生に向て若し貴君《あなた》が私の演説に対して私にも同じ様な労働を以て酬いて下さるならば遣りませうと申しました、処が先生はソレは嫌《いや》だと云ふ御答へであつた、故に私も貴君が嫌なら私も請合はないといつて断はつた、依て種々談判の結果、先生は私の独立雑誌に二頁半の原稿を贈らうと云ふ固い約束をされたので、ソレならば私も演説をしやうといふことで、……実は正直の話がさう云ふ訳で今日は此所に出ることになりました、併しソレと同時に私に起つた問題は、何を御話したら宜からうと云ふ事で有つた、何分即座に考案《かんがへ》も出ませんので甚だ困りましたが、今直ぐに演題を極めて呉れと云ふことで有りましたから、其時に一番早く私の脳に浮んだ題、即ち『カーライルの婦人観』と云ふ事に就て御話を致さうと御約束をしたので有ります。けれども後で考へて見ると、此題を差上げたのは些私の考へが足らなかつたかと思ひました。何故で有るかと云ふに、私は今日の日本婦人、殊に此教会の婦人方の学識の程度(21)に就て疑ひを持つのではないが、併ながら今日此国の婦人、否、世の中の人が斯様な事を一般に唱へる事は甚だ少ないと思ふ、勿論カーライルは何う云ふ風な人であつたといふことは、「国民の友」「世界の日本」などの一二の雑誌に出たことはあるが併ながら婦人の方々へカーライルの事などを御聞に達した処が、元より馬琴の婦人観、或は山陽の婦人観と云ふ様なものを御話するやうに面白味を以て迎へられない事は解り切つて居る事と思ひます。
 けれども此事を皆様の前、殊に婦人方の前に持ち出すのも、或点に於ては甚だ有益であらうと考へます、ソレは何う云ふ訳であるかと云ふに、カーライルと云ふ人物の事蹟に就て直接に論じませんでも、文人としてのカーライルと彼の妻君との関係として御話を致したならば普通の問題にもなり、且つ又ソレに因つて抑々文学者と云ふものゝ妻君は如何なる思想を持つべきものであるか、又文人の妻君は幸か不幸か、又或は文人の妻君は何うしたら其夫を助けることが出来るかと云ふ様な事を研究することが出来るだろうかと思ひます、ソレ故に私は特別にカーライルの文章などを引証して、彼が斯う云ふ婦人観を持つて居つたと云ふ様なことは御話し申すまいと思ひます。ソレを御話しするには他に適当な場所が有る、私は此処は爾う云ふ事を論ずる場所ではないと思います。併しながら今云ふ文人と彼の妻と云ふことに就て御話を致す前に、大躰カーライルと彼の妻君との関係は何う云ふ風で有たかと云ふことの御話を致し、ソレから全体に渉つたら大へんに御話の順序が宜からうと思ひます。
 カーライルと云ふ人は蘇蘭土の人で生前は非常に人から厭はれたが、其の死後に至つては大に世人から尊敬せられた人である。而して私共此人の伝を読むと毎《いつ》も奇異なる感を起す、何故かと云ふに、カーライルが書いた幾多の書の中に、亦彼の伝記の中に、二つの著しい事がある。ソレは何かと云ふに、先づ第一に、西洋の文学者として知られてある人で婦人の事を書かない者は殆んど一人もない、誰れでも皆女と云ふものに就ては理想が(22)有る、誰れしも人間の理想の高尚なるものを書くときは婦人を出す、婦人の理想の無き文人とては殆んど無い、処が、英吉利文学の大家、殊に韻文的散文家と名を付けられて、近世に一人か二人かと称せらるゝ此カーライルの、机上に積んで山をなすの著書の中に婦人の理想に就て述べたものが一つもない、私共カーライルの著書を読むときは、読んで居る中は気が附かないが、読んだ後に考へると其事に気が附く、シエクスピヤの著書中には多くの女が挙げてあつて其中には立派な婦人もあれば、悪るい婦人もあり、美人もあれば、醜婦もある、けれどもカーライルの作には始めから終りまで読んで見ても彼の理想的婦人とも称すべき者は一人も無い、勿論其中に婦人の事が書いてないではないが、其事はいつでも嘲弄的誹謗的である。或は母親を賞める時は自分の母親を褒め、妻たる者を賛める時は自分の妻を誉めてある、然し其外に「是れが私の理想の女である」と云ふことは書いてない、今之を他の文学者に此べて見るとカーライルは全く婦人の考への心に浮んだことの無い人の様に見える、他の多くの文学者にはソレソレ理想的の婦人があつて、ソレが立派に書いてあるが、カーライルに限つて是が無い、只若し例外を言つたなら「サアタルリサートス」……カーライルの自叙伝とも称すべき此書の中にブルーミンと云ふ婦人があつて、其婦人が自分を嫌つて或貴族と結婚をしたと云ふことが書いてある、是れも婦人と云ふものは詰らぬものであるといふことを嘲弄的に書いたので、是れ彼の妻とすべき婦人、即ち理想の婦人として書いたのではない。
 モウ一つの不思議な事は、カーライルの伝記を読んで見るに、彼れの婦人に対する思想《かんがへ》の日本人の思想と能く、似て居ることである、ソレは何かと云ふに、カーライルの考へでは、婦人は男子を助けべきものにして、決して男子から特別の専敬を受くべきものではないと思つて居た、英吉利民族殊に亜米利加人の女を大切にするのと、(23)カーライルの考へとは非常に反対して居る、世界各国の中一番女を大切にするのは米国で有る、米国では婦人を大切にするのは紳士たるものゝ職分のやうに考へられて居る、ソレ故に仮令家に在つては夫婦喧嘩をしても、集会の場所に行けば我席は無くても婦人に譲る、而して若し爾《さ》う云ふ事をしないものは男らしい奴で無いと亜米利加人一般は考へて居る、或は家庭の甚だ紊れて居る人でも、婦人に対しては最も行儀正しく、伴つて外に出づれば恰も婦人の家臣《けらい》か、僕の様になつて婦人を扶ける、之を紳士たるの性質であるかの様に考へて居る、此習慣は従来の日本人が、其婦人を賤しめた考へとは全然反対して居る、併しながら日本でも今日稍此風に傾いた人が時々在つて、現に我々の知人中にも多少此考へを持つ人を見ることが有る。亜米利加に於て女を尊ぶの甚だしきは、自分の妻の嫌ひな人は如何に自分の親友であつても絶交して了うことが有る。ソレは普通どうして遣るかと云ふに、結婚の後人を家に招く時、或は結婚の披露をするときに、妻君にならうと云ふ女に向て「私の友人は斯く/\である」といつて其姓名を示しますと、妻君は鉛筆を執つて、「此人は可《よ》し、此人は不可《いけない》」といつて自分の嫌ひな人の名に点を打つ、すると夫たる人はその妻君の指定通りに、妻君の嫌つた人は縦ひ自分の親友であつても招待状を発しない、「モウ彼の人とは生涯の御暇乞である」と極めて了う……此風に倣ふて現に日本でも其真似をした者がある、我々の友人の中にも一二人有ります……けれども是れは亜米利加にても沢山に在る例ではないが、偶《たま》にさう云ふ例が現はるゝ程婦人と云ふものを尊ぶので有る。処がカーライルに至つてはソレも全く反対して居つて、其様な考へを持つことをカーライルは甚だ賤んだのである。最初カーライルが其妻君となつた婦人に贈つた結婚約束の手紙を読むと能く此事が解る。カーライルの妻はゼエン ウエルシユ嬢と云ふて蘇蘭の名家の令嬢で、家柄は勿論、教育も有り、性質も高尚であり、容貌も美、財産も多少あり一として欠くる処なき(24)婦人で、立派な人の妻となるべき資格を充分に持つた婦人で有た、此婦人とカーライルとが結婚したき考へを以て書簡《てがみ》の往復をした、其時カーライルがウエルシユ嬢に贈つた書の中に西洋人としては実に奇異なる考へが書いてある、「貴女が私の妻になる意ならば私の生涯の幸福此上もない事である、けれども私の考へでは女が男の家に来たならば妻たるものは良人に服従すべきものであると云ふことは御承知か、貴女が私の妻となつた以上は私の好む処はあなたも悉く之を好み、私の嫌う処は貴女も共に避けて貰ひたい、若し私が嫌ひであるならば縦ひ貴女の母親《おつかさん》でも一切家に寄せない、ソレでも貴女は私の家に嫁ぐ御望みが有るか」と云ふ意味の文面で有つた、随分是れはひどい注文で有る、貧困なる女、教育の無い女、財産の無い女に対して言ふことならば少しは許せるが、然し、財産も位地も教育も性質も更に間然することなき婦人に斯う云ふ趣意の手紙を贈つた、処がゼェンウエルシユも怜悧過ぎる位ゐの女故、幾度か思案して幾度か破談にならんとした、又カーライルから「私の言ふことが貴女の心に落ちないならば何うか遠慮なく断つて貰ひたい、私は今後貴女を友人としては交はるが妻としては迎へることが出来ない」と云つて其事をくど/\しきまで書いて遺た、「若又貴女がソレを承諾して私の家に来るならば、貴女は私の為めに一身を犠牲にして生涯を費さなければならない、而して私の嫌ひなものは貴女の母親《おつか》さんでも家に寄せることは出来ない」と云ふことを繰り返し往復したが、それでも双方で何か見込む処が有つたと見えて、結婚の約束が成立つて遂に夫婦になつた、デ其約束の中には些細な事まで……結婚の式日の約束まで書いてあつて都合七八ケ条ある、順序はつひ忘れましたが、結婚の日には何う云ふ衣服を着るとか、何時何処で出遇うとか、何処から二人で馬車に乗つて往くとか云ふ様なことで、其七ケ条の中の終り条か其前の条に「どうぞ教会から帰途《かへり》に貴女と一所の馬車の中で巻姻草一本を吸うことを許してください」と云ふ事まで書いて(25)ある、此事は小さな事のやうであるが、西洋では婦人の前で煙草を吸ふのは失敬の事である、殊に結婚の日に一つ馬車の中で花嫁の前で巻煙草《シガー》を吹くは無礼の事であるが併し是も「女と云ふものは男に服従しなければならない」と云ふ考へから此箇条が加へられたものと見える。
 デ女と云ふものに対してのカーライルの考へは英吉利人全躰の上から考へたら大へんに違つて居つた、ソコで愈々結婚をして夫婦と成た後は夫人に対してカーライルは彼の約束を幾分か緩めたかと云ふに、実に前の言葉通りに之を実行した、一番に実行したのは何であるかといふに、其時分にカーライルの言ふには「私は一の宣教師である、勿論宣教師といつても私は貴女を亜弗利加や印度に連れて行かうと云ふのではない、私の福音を伝へんとするものは異郷に在る人には非らずして此英吉利に在る俗人に神の福音を伝へたいのである、だからあなたも其|意《つもり》で居らなくてはならぬ、ソレに就ては都の俗塵の地では不可《いけない》から成るべく人間の居ない、交通の絶えた寂寞《さびしい》土地に住はうと思ふが、貴女はソレを承知するか」と云ふことであつた、ジエーンも元より良人に服従すべき約束で来たこと故之を拒むことは出来なかつた、ソコでクラーゲンパトックと云ふて今でも※[さんずい+氣]車場から七哩も奥……其時分には※[さんずい+氣]車も通じて居らぬ時であつたから書簡を出すにも七哩も往かなければならず、隣家といつても三哩も離れて居るやうな人里の遠い山奥に住つた、曾てエマーソンと云ふ人がカーライルの隠家《かくれが》を訪ねて往つた処が、馬車に乗て田舎道を稍久しく行くと、その道の行き詰りがカーライルの家であつたと云ふことである、そう云ふ寂しき田舎に引込で高等の教育を享け、是れから社会の勢力を持たうとした婦人が、自分の社交上の冀望は皆悉く抛つて、七年の間此山間の僻地にカーライルと只二人で暮した。後でカーライルが自分の妻君の伝を書いた中に其時の有様が書いてあるが、実に此七年の間の生涯は彼女に取ては多分今日本の下婢でも是れ程賤し(26)い職分を課せらるゝことはなからうと思はるゝ程のもので有つた、其日々の業務は勿論、※[麥+面]麭を焼き、皿を洗ひ浄むる等の家事の用は当然としても、其外汚ない処を掃除する職分までを此高尚なる婦人に申し付けた、而して自分は何をするかといふに、世の中の事は一切|棄却《すて》て、常に形而上の所に居た。ソレで此家に出入するものは時々郵便配達が来るのみで、其他には一人の出入るものもなかつた。其郵便の来る時は、英吉利、仏蘭西、独逸、伊太利辺の高尚なる雑誌が沢山来た、なほ其外に自分の持つて居つた僅かの金は皆書籍の為めに消費して郵便の来る度に望みの書物が沢山届いた、毎にソレ等の書に依つて勉強をし、偶々考が出る時は倫敦エデンホルグ辺の雑誌に寄書をして原稿料を取つて生活の料として居つた、其外自分は家の事には些《ちつ》とも関係しない。又妻君はソレとは全く反対に、元より高等の教育を享けた婦人故音楽は巧みに、詩文にも長じて居るのであつたが、ソレ等の事は悉く脳中より棄てゝ、只己れと夫との衣食住の事にのみ係はつて居つた。若し一人の男子が一人の立派なる女子を奴隷使したと云ふことがあつたらカーライルほど酷なる者はなかつたらうと思ふ。若し又一人の女が男子の為めに自分の冀望と快楽とを抛つて尽したと云ふ事が有たらジエン ウエルシユ位ゐ能く尽した者は無からうと思ふ。ソレでカーライル夫婦は田舎に引籠つて人と談話を交ゆる事もなく、真個《ほんとう》に遁世的に生涯を送つた、ヱマソンが訪ねて往つたときにカーライル夫婦が「天外より人が墜ちて来た」といつて礼を言つたといふ位ゐにさびしく世を送つたのである。然るに金が不足故生計に困難なので已むを得ず後には倫敦に出て来た。其後には大分生活も楽に成り、少しは交際も有る様に成つたが、併ながらカーライルは非常に人嫌ひをする人で成るべく世の中の人を避けやうとしたから夫人の好みに応ずることは為さなかつた。人が来れば夫の方から人嫌ひをして「彼れはつまらない奴である、其は穢ない奴である」と云つて自分の好かぬ人は遠慮会釈なくはねつけたので、(27)来る人が皆永く交際をすることが出来ないで了うた、ソレ故に殆ど社交的の生涯ほカーライル夫婦には無かつた。
 此事はさて措いてカーライルと彼の妻君との仲らひは何うであつたか、夫婦の情は何うであつたかと云ふに、其間は甚だ不和で常に相衝突をして居つた。カーライルが倫敦に出てからアシュボルトンと云ふ貴族に知られて、その人が非常にカーライルを尊敬した、カーライルが文筆に従事して労れし時は自分の別荘に招いて御馳走をして其労を慰めた、ソレが為めに妻君を家に残して一週間も二週間も逗留して帰つたことが屡々有る。或は湯治に往く時分にも、自分が湯治場から帰つて来る日、丁度※[さんずい+氣]車が入り違へる時分に妻君が湯治場に往つたと云ふやうな事が二度も三度もあつた。而して終に彼女の死んだ時はカーライルはエデンボルグに演説に往つた留守中であつた、高貴なる思想を持ち、立派なる教育を享けたるこの得難き妻を娶つて、其妻に対するカーライルの処置は如斯であつた。ソレ等の事はカーライル嫌ひの人が「カーライルは婦人に無礼を加へた」といつていつも彼れを非難する点である、勿論カーライルは怒り易き人であつたから、食事の時分に※[口+加]※[口+非]が冷え過ぎて居るの、肉の煮方が硬過ぎるのといつて自分の意の如くならぬ時は、椅子に腰を掛けて居つて、食卓の上に茶碗や皿の有るにも頓着なく之を転覆させたことなどは幾度もあつたと云ふ、只妻君を殴打《なぐつ》たとか、虐待したとかいふ事は聴きません、併し英吉利人、亜米利加人の考へから言ふとカーライルは妻君に対しては無礼千万であつたと言はなければならない。であるから米英等の婦人中にはカーライルは実に酷い人であつた、婦人を踏み付けにした人であつたと云ふて、カーライルと云ふ名を言はるゝさへ嫌ひな人がある。〔以上、4・15〕
 私は決してカーライルを贔屓するのではない、然しゼエン ウエルシユと云ふ婦人も教育は充分にあり立派な婦人ではあつたが従順の婦人では無かつたと云ふことも茲に述べなくてはならない。其例は或時カーライルが妻(28)君に「コンな冷たい※[口+加]※[口+非]を飲ませられては困る」と言つたら、妻君は忽ち真赤に煽《おこ》つた火を挟んで※[口+加]※[口+非]茶碗の中に入れて「是れで宜いか」といつたと云ふ話がある。此一事を見ても彼女は従順の女でなかつたことは解つて居る、故に強ちカーライルが婦人の権利を蹂躙したとはいへないかと思ふ。ソレで全躰から見ればカーライルの家庭は常に不愉快であつて彼女も時には自分の不平を友人に洩らして言つたには、「女たるものは決して天才の人と結婚するものではない」と云たことが有る、けれども今一つ述べて置かなければならないのは、カーライル夫婦は誠に不和不睦の様であつたが、しかし互に尊敬しなかつたかと云ふに、ソレは決して左様ではなかつた、「天才の人とは決して結婚するな」といつたゼエン ウエルシユが又人に向つて「我夫は英吉利第一の学者で有る」と言て居た、又カーライルが彼の妻に対しての考へは「我妻は普通の婦人ではない、実に得難き婦人である、且つ其先祖は有名なる改革家のジョン ノックスで有て、祖父は蘇蘭の有名なる医師である、ゼエン ウエルシユは是れ等の貴むべき遺伝を持ち、其歴史が彼女の血液《ち》の中に交つて居て英吉利に再《また》とは出ない婦人である」と云ふて心には深く彼女を専重して居た、デ其妻君の死後は彼は殆ど二年の間苦痛して「私は大なる罪滅しをしない中は此世を逝る事は出来ない」と言つて、他の文学上の仕事は一切棄てゝ妻君の伝を書いた、然るに其伝は妻君の伝に非らずして自分の伝の如きものである、其一部分は彼女に奉りし頌徳表の如きもの、他の部分は自分の罪の懺悔文の如き者にして、文人の自叙伝としては是れ位ゐ慎重のものはないと云ふ、然れど大躰から見る時はカーライル夫妻は誠に不愉快の生涯を送た者と云はなければならぬ。
 処で今茲にカーライルの如き婦人観を持つた人が同じ文学者の中にあるか、他にカーライルのやうな例が有るかと云ふ事を考へて見れば余程面白い、私は不幸にして未だ日本の文人の家庭を探究したことはないが、西洋の(29)主なる文学者の中でカーライルに善く似て居た人はダンテである、ダンテの妻君はソクラテスの妻君のやうな過激な婦人であつた、然し彼女が妬悪不貞の婦人であつたと云ふことは虚《うそ》であつたと云ふことは解つて居る、併ながらダンテは彼の家庭に於て愉快で無かつたと云ふ事も解つて居る、ソレは何が故であつたかと云ふに、ダンテの思想はカーライルに似て居り、希望がカーライルの様であつた。又ダンテより尚ほ一層カーライルに似て而かも全く性質の異つた妻を娶つたのはジヨンソンである。カーライルとジヨンソンとは同じ性質の人である、エマソンが曾て此両人を評して「若しジヨンソンをして百年後に生れしめしならば、全くカーライルの様な人で有たらう」と言つた。殊にジヨンソンの婦人に対する考へがカーライルに能く似て居つた、ポズウエルの「ジヨンソン伝」に書いてあるのに、ジヨンソンは極く醜き人で、毎《いつ》でも頭髪が蝋燭の火に焼け焦げて居ないことはなかつたと云ふ、又道を通る時は瓦斯燈の柱に必ず手を付けながら歩行く癖の有た人であつた、又家の前に人を俟つ時は靴の踵でクル/\廻つて居る癖があつた、成程彼の写真を見ても彼は余程醜い人であつたと見える、或時彼の友人が「君の妻君に相当な婦人が有るから娶ツたら如何」と云ふから、彼は直に其女を見に往つた、処が、「成程どうも娘も宜いが能く考へて見ると私は彼の女よりもあの女の母親を貰らう方が宜いと思ふ」といつた、ソレで衆くの人が吃驚して仕舞つた、然るに此母親も寡婦であつたので、忽ち相談が纏つて、娘を貰はうとしたのを廃して娘の母を貰つた、時にジヨンソンは二十六歳で彼女は四十六歳で有た、例に依つて或る教会で結婚の式を挙げた、其頃はカーライルの時の様に馬車に一所に乗るのではなく馬に乗つて往くのであつた、処が先生何か文学上の思想が脳の中に浮んだと見えて、今日結婚の式を挙げたことも何も忘れて了つて、妻君を後に置いてドン/\独で来て仕舞つた、あとから妻君が馬に乗つて大きな声を挙げジヨンソンを呼んで「今日|郎君《あなた》は私を迎へて(30)置きながらその私を置いて往つて了うとはどう云ふ訳か」と言れて花嫁に叱られた、ソレがジヨンソンが彼の妻君に叱られた第一番であつた、併ながら此妻君は従順にして能く彼女の夫に事へた。曾て或人が詩人ミルトンに就て婦人の教育の事に関する彼の意見を聴かんとて「貴君は婦人には語学と云ふものはどれだけ教へたら宜いと思ひますか」と問ふたら、ミルトンは答へて「婦人には語学は一つあれば沢山である、則ち自分の生れた国の語さへ知つて居れば沢山である、英吉利|辺《あたり》で婦人が仏蘭西語伊太利語等を学ぶのは誠に無益なことである」と言つた、同じやうに腰巾着の如くに始終ジヨンソンの下に附いて居たボズヱルといふ人が或時ジヨンソンに向つて「良人と妻との教育はどの位ゐの程度で宜いもので厶りますか」と聴きましたときに、ジヨンソンは答へて「妻と云ふものは夫に適当に劣つて居なくては不可《いけない》」と言つた、処がボズヱルはジヨンソンに向つて、「どうも先生、私は此点だけは先生と説を異にしなければなりません」と言た、又或時ボズヱルがジヨンソンの許を訪ふて「私は今日或る婦人の演説を聴きました」と申しましたら、ジヨンソンの申しましたに「アヽ左様ですか、婦人が演説するのは丁度狆が後足で立つ様なもので出来ない事ではありませんけれども甚だ見ともないもので厶ります」といつた、ジヨンソンはまた女が文学に従事するこ上を大層に嫌た、どれ程嫌つたかと云ふに、彼の生れた村でブリユストツキング(女文学者)が或文学上の一の雑誌を発行した事がある、其時ジヨンソンは日本で言へば加藤弘之先生とでも云ふ様な有名な先生であつた、然るに此大先生が女の立てた小さな会を相手取て激烈に之を攻撃した、先生から見れば実に取るにも足らぬものを斯くも熱心に攻撃した、コレを見てもジヨンソンがどれ程女が文学に従事するを嫌ふたかを窺ひ知ることが出来る。又或時クエーカ派の或る若き婦人がジヨンソンの許に文を持つて来て添刪を乞ふた事があつた、時に先生の云ふに「私はあなたのやうなものゝ文を直す暇がない、又甚だ好まな(31)いから御断り申す」と言つた、然るになほ頻りに頼みましたけれど、どうしても承知しなかつた、ソコで婦人は「ソレでは貴君の説を聞きたい」と言つたら、「私はあなたの様な者に聴かせる説は持たない」と言つた、此位ゐ烈しく言はれても、余程耐忍の強い女であつたと見えて、尚も質問を続けて「貴君は未来の在ることを信じますか」と問ふたので、いかにジヨンソンも答へない訳にいかなくなつた、「如何にも私は未来の在ることを信じます」と云ふた、「ソレなら此世では貴君と共に御話をすることは出来ないなら、未来に於てゆる/\御話を致しませう」と言ふた、然るにジヨンソンは彼女に答て云ふやう「いや私は真平御免を蒙りたい、私は馬鹿者とは何処でも話することは嫌です」と云つて遂に其婦人を追ひ帰して了つたと云ふことです。斯く婦人に対しては随分荒ツぽい人であつた、処が只一つ不思議なのは、さ程に婦人を軽しめた人で有たが、自分より二十歳も年長の妻君には非常に深切であつて、其妻が死んだ後までも彼の未来の希望は何であつたかと云ふに、只天国に往つてテチー(妻君の名)に遇ひ度きことであつたと云ふ、何時でもテチーと云ふ名が彼の唇の上に来たときは、彼れは彼女を懐ひ起さないことはなかつた。ジヨンソンは非常に艱難苦労をした人であつてテチーと云ふ一人の女の名が彼に取ては恰も沙漠の中の一つの青き場所であつた。斯くて婦人全体に対する行動を見ればカーライルとジヨンソンとは能く似て居るが、其妻に対する感情は全く相反して居つた、ジヨンソンが彼の妻となりし一人の寡婦に対する感情は如何にも女でも是れ程迄には優しくはないと思ふほどであつた。其点はカーライルとは全く異つて居つた、けれども二人の妻君の性質も亦全く違つて居つて、テチーのジヨンソンに事ふるは誠に彼の思ひ通りに己れの全身を捧げて彼を弟か子の様に思つて、彼の好憎《すきぎらい》を悉く弁へ、彼の嫌ひな事は自分も避け、好む処は自分も共に好み、ジヨンソンをして毫《すこし》も不満足を感じさせなんだ、為めに家庭も至て幸福であつた。カーライル(32)は智力の発達した女を娶つた故に互に不平は絶えず、彼の家庭は常に不和勝で有つた。斯様に同じ思想を持つた人が、全く違つた性質の女を娶つて、一方は幸福に他の一方は不幸の人で終つたと云ふ事は文学上の面白い事実であると考へます。
 乃で抑々此|話柄《はなし》は何う云ふ事を私共に教へるかと云ふに、今から良人を求めらるゝ婦人方、又嫁を娶らはうとせらるゝ文学者も傍聴諸君の中に有らうが、………………勿論文学者といへば必ずしもジヨンソンやカーライルの様な人のみであると云ふのではない、多くの文学者の中には種々なる人が有りますから決して一様に云ふのではないが、今此二人の文学者に就て思ひ起せば、元来文人と云ふものに二つの種類が有る、即ち一は文を楽む人、他は文の事は忘れて自分が懐く所の大理想を世に実行せむとする則ち文よりは思想を主とする人との二つが有る。能く文学者と称ふもので、小説を書いて書店に売り、原稿料を貰つて後は保養場に往つて寝て居ると云ふ的の人が有る、此れは則ち文を楽む人で有らうと思ふ。又理想を主とする者は小説を書かうが歴史の事実を書かうが、ソレは楽んで文を弄ぶのでなく、自分に一の主義目的が有り、ソレを達しやうとするに就て文学を機械に遣ふと云ふ考への人であるので、爾《さ》う云ふ人が私の考へて見るに文学者的の婦人を娶るのは随分の問題である、世の中には男にも女にも文学を以て西洋で謂ふ、「デセントライフ」即ち「奇麗な生涯」を送りたい、何も非常な楽《らく》をして栄耀栄華を極めたいと云ふのではないが、別に身辺の不自由もなく只馬車の一台位ゐは備へて安楽に世を送りたいと云ふ考へを持つ人が有ります。けれどもカーライル、ダンテの様な人は文学者といつても其実文学者ではない、沸えるが如き一つの大目的を持つ人で、其の目的を達せんとする外には何事も思はない、勿論自分の妻君を犠牲に供したばかりでなく、自分の事も思ひはしない、如何程の文才を持ても、一身の栄達出世を想はない、(33)貧に甘じて只一つの主義を遣り通したいと思つて居るのである。既に自分を棄てゝ居るから自分の妻の幸福を思って居ないのは寧ろ当然のことで、自分の妻が自分をして安心して事業をさせて呉れゝば宜いと思つて居る。然るに斯様なる文人に配したる妻が、「夫たる者は私に快楽を供すべきである、好き家に住はすべきである、私に「ヲルガン」の一つ位ひは与ふべきである、私に下婢を侍せしむべきである、私に美き衣服《きもの》を着せべきである」などと云ふ考へを持つて居られては妻君に家の事を依頼して、安心して事業に従事する処ではなく、妻君の為めに苦労を致さなければならない、ソレですから私の考へて見まするに、今一人の文学者がありまして妻を迎へんとするに当て、若し其人の考へが文筆を主とするにあるならば、其目的相応の妻を迎へるが宜い、然し若しも「私が筆を執るは歴史を書かうが、小説を書かうが、ソレを道楽にするのではない、只是れを機械に使つて私の抱く所の主義を天下に履行し、思念を完うしやう」と云ふ考への人が、安泰に文学を弄ばんとする冀望を持つた婦人を娶つたならば、其人は非常に不幸なる生涯を送るで有らうと思ふ、又婦人にも言ふべからざる不幸を来たすで有らうと思ふ。此点から言ふと、カーライルには矢張りジヨンソン夫人の如き女が適当で有たので、ソレならばカーライルも幸福なる生涯を送ることが出来たであらうと思ふ。けれども別に自分の主義目的などゝ云ふことはなくして多少文学を弄ばうと云ふ人、即ちカーライルやジヨンソンの様に家が非常に貧乏で文筆を以て衣食をしなければならないと云ふのではなくして、相当の財産の有る人が妻を迎へる時には高尚な思想を持つたジエン ウエルシユの様な妻を迎へるは敢て危険の事ではない。婦人が夫を択ぶにも亦其心を以て、一概に自分が文学者であるから文学者の家に嫁がうと思つては大変に違う、文学者には前に申した二つの差が有る。一の大目的があつて文筆を執るは衣食の為めや道楽ではないと云ふのと、文筆を楽まふと云ふのとは大へんに違う、能く(34)ソコの区別を為して考へないならばダンテやカーライルと同じ様な危険心配に陥はしないかと思ひます。私は爰にカーライルの弁護もせず、又彼を非難もしない、併ながら此事は青年諸君の大に鑑むべき問題で有らうと思ふ。又既に妻を帯《も》つた男子にもせよ、良人に配したる婦人にせよ、此辺の覚悟が有りましたならば大に忍ぶことが出来やうと思ふ。若し或る教育の有る婦人の夫がカーライルのやうな人であつて、「我夫は自分さへ多年の間堆積せし深き学問が有りながら斯くまで困苦を凌いで居るからは私が自分の学問を棄てる位ゐはなんでもない」と云ふ覚悟があれば幸福に生涯を送ることが出来ませうと思ひます、カーライルの生涯が我々に教へる処は此辺にあらふと思ひます。〔以上、4・25〕
 
(35)     鳥類の研究
                  明治32年4月15日
                  『東京独立雑誌』28号「時文評壇」
                  署名 NO学士
 
◎最近の調査に依れば全世界に存する鳥類の数は百二十四族、二千二百五十五属、一万千九百十四種なりと云ふ。其内に鶯あり、雲雀あり、伯労《もず》あり、鶺鴒あり、蝋嘴鳥ありて吾人に歓喜を歌ふと知らば世界は宛然楽園の如きものなるを知るべし。
◎鳥類に関する甚だ有益なる書は英国人の手に依て出でたり。ベツダード氏の『鳥類の構造と分類』(The Structure and Classification of Birds,by Frank E.Beddard.)なる書は五百五十頁余の中冊なりと雖も鳥類学者に取りては、最も便益なる書なるが如し。曩にはグンテル氏の『魚類研究入門』ありて吾人に斯学の大意を与へしが如く今又此著ありて吾人の自然研究に趣味を供する益々多からんとす。
 
(36)     園遊会の漏声
                    明治32年4月15日
                    『東京独立雑誌』28号「見聞録」                         署名 独立生
 
 余の庭前を越えて近隣の紳士の組織する矢来倶楽部なるものあり、近頃のことなりき、桜花満開の時を卜し園遊会を開き芸妓数十名を招いて半日の紳士的豪遊を試みられたり、時恰も余輩の校正日に当りければ余輩は其喧噪に大分迷惑を感じたれば、少しく耳を傾けて彼等芸妓の謡ふを聞きしに左の如きものは余輩の耳に達せり。
(但し都々逸節なり)
  ◎駄目だ駄目だよ、ドウしても駄目だ、
     支那の分割は目のまへだ。
  ◎お廃めお廃めよ、真面目の筆を、
     とても社会は聴きやせぬ。
  ◎なにをクヨ/\川端柳
     国の亡ぶを見てくらす。
 時に拍手喝采一時に起り、酔狂せる日本紳士は声を揚げて叫べり、曰くヒヤ/\と。
 
(39)     〔人生の旨趣 他〕
                 明治32年4月25日
                 『東京独立雑誌』29号「記者之領分」
                 署名なし
 
    人生の旨趣
 
 人生の最大快楽は此世に生存することなり、其最大名誉は同胞の為めに尽し得ることなり、此快楽と此名誉とありて吾人又他に何をか求めん。
 
    報酬
 
 勤労の報酬は満足されたる良心なり、更に尽さんと欲するの決心なり、智能の益々明瞭を加ふることなり、慾心の減ずることなり、生存其物の興味を感ずることなり、未来の恐怖の絶ゆることなり、万物の霊たる人類は是より以下の報酬を以て満足すべからざるなり。
 
    心霊の自由
 
 我にして若し我慾を去るを得ば、我にして若し自我に死するを得ば、我は幸福の人となり、勉めずして善を為(40)し得べく、励まずして忠愛の人たり得べく、万有を楽んで他に人為的遊戯を求むるの要なかるべく、我の有する友と家族とに満足して他に親交の区域を拡むるの必要を感ぜざるべし。然れども界悪に沈淪する人類の霊魂は、我慾てふ妖蛇の纏繞する所となりて其天然の自由を発揮する能はず。
 
    俗人の徳育
 
 愛国の美は声高く唱へられて国を汚すの徒は日々に増殖し、忠君の徳は学科的に強ひられて阿従の風は社会に普し、是れ内よりすべき事を外より強ひし結果にして其茲に至りしは決して怪しむに足らず。聖人は其源を清めて其流れの清からんことを欲し、俗人は濁水を採て厳令の下に直に其潔からんことを要む。民を化するに徳なくして唯威ある者の事業は古今東西総て皆斯の如し。
 
    我の態度
 
 我の亀鑑は我の上流に座する我国の華族にあらず、我の学ぶべき人物は我上に政権を握る我国の大臣にあらず、我の彼等を敬せざるは彼等が高潔の品性を備へざればなり。我は被治者として彼等に従服するのみにして、人として彼等を畏敬する者にあらず。
 
    告白と実際
 
 其告白に依れば日本は世界無比の国なりといひ、金甌無欠の君子国なりと云ふ。然るに其実際に依れば其大臣(41)は公然と妾を蓄へて恥となさず、其貴族は禽獣的生涯を送るも社会の地位を失はず。其他学事に、商事に、工業に余輩は一として君子的現象を発見する能はず。日本は実に君子国なる乎、或は君子国に非る乎、是れ尚ほ余輩の胸中に残る大疑問なり。
 
    国を強うするの途
 
 軍備の拡張は聊か万国の恐怖を惹くに足る、然れども其尊敬を惹くに足らず。若し開明国に畏敬せられんと欲せば宜しく多妻の風を廃すべきなり、公娼の俗を止むべきなり。増兵は国を強むるの唯一の法にあらず、吾人は其徳を高うして其威を八紘に揚ぐるを得るなり。
 
    我意と天意
 
 我意を行ふにあらず、天意の行はるゝを待つのみ、我は人に対しては発動的なるも神に対しては全く受動的ならざるべからず、我の勇気と平和との源は茲に存す。
 
    吾人の責任
 
 改革を此政府と議会とに任せて千万年を待つも其来るべき筈なし、吾人は自身其責に当らざるべからず、社会万般の改良を政府に待つは東洋人の大弱点なり、老衰せる此政府と政治家、彼等が税と兵役を課するの外、何事をも為し得ざるは当然のことなり。国民的精神の発揚の如き、社会道徳涵養の如き、是を此政治家より望むは恰(42)も雨を沙漠の中に要むるの類なり。
 
    次に来るべき時代
 
 薩長時代は非道徳時代なり、利慾と偽善と淫縦の外は取り所のなき時代なり、其尊王も愛国も皆悉く道徳以下の動機より打算されしものなり。是を欧洲の歴史に徴すれば、清党時代の後に来りしスチュアート王朝時代の如きもの、又は仏国革命に先立ちしボールボン王朝時代の如きものなり、薩長時代の物質的に我国の進歩に多少貢献する所ありしは余輩と雖も疑はざる所なり、然れども国民に根本的生気を吹入するの点に於ては伊藤、山県、樺山、高島の諸公を以て代表さるゝ薩長政府に一つの功蹟の見るべきなし、肉慾的時代に続て来るべきものは厳粛なる道徳的時代なり、高尚なる精神的時代なり、縦令多少過激の反動なるにもせよ、余輩は国運進歩の為めに之を歓迎せざるを得ず。
 
    文楽者と文学者
 
 文楽者は文を楽む者なり、文学者は思想を伝ふるものなり、前者は世に和楽を供する俳優の一種にして、後者は生命を国民の中に吹入する予言者の類なり、二者同じく文筆に従事する者なりと雖も、其根本的素性を異にすることは月鼈も啻ならず。
 
    宥恕の美
 
(43) 我を困むる者ある乎、我は彼を宥さんのみ。我は困しめらるゝに依て一層の光輝を得、彼は我を困しむるに依て暗憺益甚だし、義の為めに責めらるゝ者は福なり、天国は即ち其人の有なればなり。
 
    金銭問題
 
 金を得るは易し、難きは正直なる金を得るにあり、是れ今日の如き不正直なる社会に於て実に難中の難なり、清士が金を吝むの理由は全く是が為めなり。     *     *     *     *
 世に借金ほど怕るべきものはなし、是れ吾人の精神の自由を奪ふものなり。世に吝嗇を以て笑はるゝも可なり、吾人は死すとも精神の自由を全うすべきなり。
     *     *     *     *
 清潔なる一銭は不潔なる万円に勝る、額の多きを以てせずして質の清きを以て誇るべし、富の標準をして是れにあらしめば、我国の富豪は岩崎、雨宮に止まらず。
     *     *     *     *
 金の貴きにあらず、之を得る正直なる労働の貴きにあり、総ての誘惑に勝ち、揮ての妨礙を排し、高尚に名誉を以て、此獲難きものを得て、吾人の主なる目的は達せられしなり、吾人豈使途の如何を問はんや。
 
(44)    〔『米国ペンシルバニヤ州東部白痴院第四十五年報』書評〕
                   明治32年4月25日
                   『東京独立雑誌』29号「新刊物」
                   署名 内村生謹評
 
 院長ドクトル バー氏より贈らる、本院は記者が米国在留中第二のホームとして出入せし所、今や此報を得て懐旧の感に堪へず、余の恩人前院長ドクトル ケルリン氏は四年前に此世を去り、現院長は余の在職中の同僚にして余の尤も敬愛する友人なり、全院今や八百九十一名の入院生あり、六十余名の役者に依て支配さる。昨年度の総歳入弐拾万六千余弗(我四拾万円以上)、支払拾八万弗余(三拾七万円余)、中六万弗はペンシルバニヤ州の支出に係り、ヒラデルヒヤ府亦二万七千余弗を寄附す、白痴一人一ケ年の扶持費は百拾七弗にして一週間三弗二十六仙の割合なり、即ち我の六円六十銭に当り一日平均大凡一円の割なり。
 ペンシルバニヤ州は今は更に西部に同一の規模に成りし白痴院一個を有す、一慈善院を支ふるに四十万円を支出して吝まざる彼国の富裕と義気とは深く羨むべきにあらずや。外に州立瘋癲病院七個あり、其他盲唖院、感化院の類挙ぐるに遑あらず、日本人の或者は云ふ、白哲人種は今や衰亡期に近づきつゝありて大和民族は其後を襲はんとすと、余は其然るや否やを知らず、然れども堂々たる大帝国が一つの国立癲病院を有せず、共有する盲唖院なるものは微々として算ふるに足らざるものなるを見て、其振興の現象の何処に存するやを知らず、吾人がカラ威張りするを止めて、真面目に正気に彼我の国力道義心を比較すれば、余は未だ遽に彼の衰亡と我の勃興とを(45)信ずる能はざるなり。
 
(46)     英和時事問答〔2〕〔入力者注、英文略。コンマ、ピリオドは句読点にした。〕
                 明治32年4月25日一5月15日
                 『東京独立雑誌』29−31号
                 署名なし
 
       日本の三大政治家
 
 日本の三大政治家とは誰で厶りませうかお話し下さい。
 若し彼等自身が起す騒動と社会が彼等に就て起す騒動とに依て定めますれば疑もなく伊藤侯、大隈伯、板垣伯の三人です。ドウゾ彼等各々に関するお説を聞かして下さい。
 左様で厶ります。私の考へまするに伊藤侯は平穏の海を走るに巧なる航海家です、彼は潮流と共に行くの(47)法を知て居ります、彼は理想なるものを持ちません、即ちピツトやバークの政治的生涯を刺激した様な高き道徳的理想を持ちません。然し彼れは少くとも皮相だけは欧羅巴人です、故に私は他の多くの長州政治家よりも彼の方を好みます。
 然し私の承はりまするに彼は大層外国人中に評判が宜しいそうです。
 私は承知して居ります、然し御存じの通り外国人は一般に日本人の真価を定むるに甚だ憐れなる評価人です、彼等外人も人の価を定むるに其身に着けたる装飾を以てしまして其真の人物を以て致しません。
 
 然し彼は進歩的思想を懐く人では厶りませんか。
 左様,然し進歩『主義』の人ではありません。彼の心は全く東洋的です、故に彼は何時でも亜細亜的庄世家と成れます。御承知の通り彼の嗜好は凡て支那的です。
 然し彼は平和好きではありません乎。
 左様、彼れは平和を愛します、丁度懶惰の人が安逸を愛する様に。御承知の通り真正に平和を愛する人は(48)大なる格闘者です。
 然し世間の評判に依りますれば彼は博学の人だそうです。
 若し博学の人ならば彼は本当の腐れ儒者です。彼の学問が寛大なる思想と深き先見とに現はれたる事はありません。
 然し私は彼が日本の為めに為したる善事は量るべかざる程だと思ひます。彼は吃度死だ後には神として祭られませう。
 左様かも知れません,然し私の考へまするには彼の為したる悪事も少くはありません、閻魔大王は正当に彼を裁判するならんと私は望みす。
 何んな特別な罪過を足下は彼に就て指定しますか。
 私の聞きまするに彼は彼の私的生涯に於て完全なる聖人ではないそうです。然し彼の重なる公的罪過は日清戦争と其結局の方法です。彼の平凡なる人たるは茲に於て判りました。彼は支那億兆の安全を心に留める人でない事が分りました。
 然し足下は彼を評するに彼の生存する時代を以てせねばなりません。
(49) ソンナラ私は明治時代は甚だツマラナイ時代だと云はなければなりません。〔以上,4・25〕
 大隈伯をドウ思ひますか。
 元から法螺吹きで、疑もなく元気の人です、又非常に華美を好む人です、丁度伊藤侯が平和(実は安逸)を好むやうに。彼は所謂意見なるものを有ちます;然し彼は滅太に其れを実行致しません、何時でも説を作るに早くして其れを実行するに野魯い人ですから;彼の如きは此実際的世界には余り要のない人です。
 ソンナラバ足下は彼も亦人民の友ではないとおつしやるのですか。
 左様、表面丈けは彼は人民の友です;然し心の底に於ては彼は殿様です。彼は所謂る象牙の椅子に凭り掛かりながら民の渋苦を語る者の一人です。
 彼に多くの学問がありますか。
 彼は又聞きの人だと云はなければなりません。彼は驚くべき記臆力を持ちます;其れ故に彼は学者のやうに見えます;然し私の考へまするに彼は性来学問は大嫌いでせう。
 足下は彼の統御する政党が再び政権を握るに至ると(50)思いますか。
 左様、彼の反対党にも智慧のない者が多くありまするからソウなるかも知れません。然し是れ丈けの事は慥です、即ち彼が総理大臣となりたらばとて国民は別に何の益することもないこと丈は分り切ています。私が大隈を愛するのは彼の弛まざる動物力に由るのでして、外の理由ではありません。
 然し私の聞きまするに彼は大層好い子分を持てるさうです。
 左様です;親分に似た子分共です
 ナゼ彼は一般に人民に好まれませんか。
 
 私が只今申上た通りの訳です。彼は虚名を貪る者で、彼は自分の生命よりも名誉を重ずる者です。私の考へまするに彼のエライ点は茲にあり、亦彼の憐むべき弱点も茲にあるのだと思ひます。
 ソンナラ彼は国家の為めに尽すにドウしたら好いのです。
 左様、私の只懼れまするに彼は彼の生来の性質を変へるには余り年を取て居ます;然し若し彼が断然彼の(51)殿様的習慣を抛棄て、逆臣の汚名を蒙るも恐るゝことなく、大憺に人民の味方を取りまするならば、彼は彼の過去の失敗を拭ふことが出来やうと思ひます。然し今日の彼は他の日本の『大英雄』と同じく、また支那人と欧羅巴人との雑種《あいのこ》の如きものです。
 
 足下は彼はソレ程の事が出来ると思いますか。
 出来るかも知れません。彼は何しろ大憺の人です;必要に責めらるゝ時には彼は或る時は驚くべき事を為します。
 私は実に足下がおつやしやる様に彼が彼の身を処せんことを望みます。多分世界の大勢が彼をして其途に出でなければならぬやうに致すかも知れません。 私もソウ望みます。確かに彼は馬鹿ではありませんから、彼は死ぬ前には彼の正気に帰るかも知れません。〔以上、5・5〕
 今日本の大政治家の第三者、即ち板垣伯に就て聞かしてください。
 私は実は彼に就て僅かほか知りません;然し是れ丈けは申し上げられます、即ち彼は正直なる心と、薄弱(52)なる意志と、憫むべき脳力とを有する人だと申すことです。
 左様ならば彼は奇態な人物ですね。
 奇態です、然し此国に於ては随分沢山あることです、御承知の通り此国程心と意志と脳力とが明白に互に相分離して居る所は世界中にありません。
 
 ソレはドウ云ふ訳ですか。
 なさけないことには、此国に於ては、強建なる脳力は偽善に伴ひ、剛毅の意志は獰奸と共にし、シテ正直なる心は普通愚人に附属します。
 実に悲むべきことです。斯くも能力が分離して居ては国家の損害は大低では厶いますまい。
 爾うです。板垣伯は此不調の好例です。彼の心に於ては彼は誠実なる妻の如くです;然し彼の意志と脳力とに於ては、−サヨウ、彼は好きお老媼《ばあ》さんだと言はなければなりません。
 ドウして足下は爾う思ひますか。
 何故《なぜ》と申せば、彼は終生自由の為めに闘いました、其何物たる乎を知らずに闘ひました。
(53) 然し代議政躰の日本に建設せられしは彼の不挫の労力に依るではありませんか。
 左様、若し其建設は彼の業なれば多分其破壊も亦彼の仕事でせう。彼は自由を其結果にのみ認めて、其原因と濫觴とを知りません。
 何故に彼には其が分りますまい。
 彼の支那的教育の為です。御承知の通り彼は欧羅巴語は一つも解しません。 ソレデ分りました。成程クロムウエルもワシントンも支那に生れたと云ふ事は聞きません。
 爾うです、板垣伯は極く好く評した処が進歩的支那人で外ありません。彼は孔子の道徳の上に欧洲の自由を植附けんとする者でして成功する筈は決してありません。
 ソンナラ誰が此国民を救ふのです。
 茲に評しました三人の中の者でない事は分つて居ます。若し彼等が最大政治家とならば日本の未来は憫れなものです。
(54) 然し誰かゞ吾人を救なければなりません。
 其人は誰であるかは天のみ知て居ます。然し彼は今は吾人の目より隠れて居ます、私は天は其指定の時に於て適当の人を吾人に与へ給ふ事と信じます。〔以上,5・15〕
 
(58)     〔清浄潔白 他〕
                  明治32年5月5日
                  『東京独立雑誌』30号「記者之領分」                  署名なし
 
    清浄潔白
 
 己れを清うするは自己の清浄潔白を世に示さんが為めにあらず、己れを清うするは社会を清めんが為めなり、そは正徳は先づ個人的行為として始まり、竟に社会的現象として現はるるものなればなり、先づ深く己に扶植せざる真理にして深く社会を感化せしものあるを聞かず。
     *     *     *     *
 自己を清うせんとするに非ず、又社会を潔めんとするに非ず、唯自己と之に属する総てのものを聖き者に捧げて、彼をして我を通して我と社会とを清めしめんとするのみ。是れ自己を救ひ社会を済ふの唯一の途なり。
 
    我の日本
 
 我の日本は三百年後の日本なり、我は其れの為めに画し、其れを目的として働かんのみ。今人に国賊視せらるゝも可なり、若し三百年後の日本人が我の行動に依て少しく益する所あらば我の目的は達せられしなり。
 
(59)    政治の真似事
 
 政治とは或る理想を国民の上に実行する事を謂ふなり、理想なくして政治を行ふ、是れ政治にあらずして政治の真似事なり、英国の憲法政治は是れを胚胎するに特種の理想ありしなり。其理想なくして其政治を施かんと欲す、是れ政治の真似事にあらずして何ぞ。
 
    宗教の目的
 
 安心立命てふ涅槃的安慰を得て宗教の目的を達せりと思ふべからず、我に無限の歓喜ありて、我が心は希望と感謝とに満ちて、死は生命に入るの門と化して、我は始めて宗教を其真意に於て味ひし者と云ふを得るなり。宗教を以て魔睡薬の一種と見做す日本人の如きは此一事に深く注目するを要す。
 
    伝ふべきの真理
 
 伝ふべきの真理なきにあらず、真面目ならざる人に伝ふるの真理なきなり。宇宙広しと雖も浮虚の人を教ふるの真理あるなし、国民悉く浮虚の民と化して真理は国土に充溢するも、彼等に何の要あるなし。
 
    日本を救ふの基督教
 
 日本を救ふの基督教は、日本人の生みし、或は日本人に依て生れし、基督教ならざるべからず、恰も独乙を救(60)ひし基督教はルーテル、メランクソンの基督教にして、英国を救ひし基督教はノツクス、ミルトン、バンヤンの基督教なりしが如し、是れ基督教の国家的なるが故にあらずして、その新国民を救はんが為めには、旧殻を破て発芽する底の新活力を備へたるものならざるべからざるが故なり、更に新たなる真理に非ざる以上は更に新たなる国民を救ふ能はず、伊太利を救ひし天主教は独乙を救ふの力なかりしが如く、米国を救ひし基督新教なるものも亦日本を救ふに足らず、吾人は真理の胚種を外国より受くることあるも、吾人の心裡に培養せざりし真理を以て吾人と吾人の同胞とを救ふ能はず、是れ真理の一特質にして亦其発顕の順序なるが如し。
     *     *     *     *
 欧米諸国に於て既に腐敗の兆を示せる基督教を採り、吾人は日本に於て之を復活し、之に新生命を供し、以て再び之を世界に伝布するの天職を有する者ならずや。然るに何を苦んで彼等の糟糠を嘗め、彼等の教会と青年会と共励会とを真似し、以て此地に英国又は米国の宗教其儘を移殖せんと試むるぞ、基督教は人類の宗教にして英人又は米人の宗教にあらず、吾人は之を取て吾人の宗教となすを得べし、外国的宗教は吾人に要なきなり。
 
    独立雜誌と上流社会
 
◎人あり余輩に告て曰く、独立雜誌は少しも我国の上流社会に行渉らずと、名誉なるかな独立雜誌!
◎独立雜誌は上流社会に行渉らずとよ、然り独立雜誌は花柳社会に行渉らざるなり、余輩は未だ娼婦幇間の類が独立雜誌を手にせしを聞かず、其我国の上流社会に行渉らざるは当然の事なり。
◎我国の上流社会に行渉る新聞雜誌とは如何なるものぞ、人は能く彼の思想を代表する雜誌を読むものなり、其(61)人の愛読する雑誌に依て其人物を知るを得べく、若し独立雜誌にして我国の上流社会に歓迎されん乎、余輩は光明の太陽に輝らされながら此世界に存在するを耻て、直ちに舌を噛んで死すべきなり。
◎時の古今を問はず、場所の東西を問はず、上流社会に歓迎さるゝ事は神に呪はるゝ事なり。民の声は神の声なりと云ふ、貴族の賛成は悪魔の賛成にあらずや。
◎然り我の愛子よ、汝は我国の上流社会の汚穢なる家庭に入る勿れ、汝は行て貧家の炉辺を訪ふて彼処《かしこ》に汝の慰諭の音信を伝へよ、我は貴族に汚されんが為めに汝を生まず、汝に神聖なる天職あり、汝若し不幸にして貴族の目に触るゝことあらば彼の汚腸を※[宛+立刀]《え》ぐり出して之を焼き尽せよ、然らずんば自ら利剣を汝の胸に刺して汝の貞節を全うせよ。
 
    (62)     美訓と其註解
                    明治32年5月5日
                    『東京独立雑誌』30号「講壇」
                    署名 内村鑑三
 
  美訓(Beatitudes)は基督教|聖書《バイブル》馬太伝第五草に載する耶蘇の言にして、実に西洋倫理の基礎とし称せらるゝものなり、茲に余の自訳并に註解を掲げて読者の参考に供す。
 一、心の貧しき者は幸福なるかな、天国は既に其人の有なればなり。
 二、哀しむ者は幸福なるかな、其人は慰めを得べければなり。
 三、柔和なる者は幸福なるかな、其人は地を譲り受くべければなり。
 四、饑ゑ渇くごとく義を慕ふ者は幸福なるかな、其人は飽かせらるべければなり。
 五、矜恤あるものは幸福なるかな、其人は衿恤に与かるべければなり。
 六、心の清き者は幸福なるかな、其人は神を視ることを得べければなり。
 七、平和を求むる者は幸福なるかな、其人は神の子と称へらるべければなり。
 八、義の為めに責めらるゝ者は幸福なるかな、天国は既に其人の有なればなり。
 九、我の故を以て人汝等を詈り責め、且つ偽りて各様の悪しき言をいはん、其時は汝等幸福なるかな、喜べ、躍り喜べ、天に於ける汝等の報賞おほければなり、そは汝等より前の預言者をも如此せめたればなり。
(63) 一、心の貧しき者 心の虚なるものなり、即ち私心を悉く脱せし人なり、寸毫の欲心を蓄へざる人なり、自己の何者たる乎を悟て恩恵を要求せざる人なり、即ち謙遜の人なり。幸福は幸運の意を含む、数多からざることを指す。既にの一字に注意せよ、天国若し吾人心中の和楽を謂はん乎、謙遜の人は既に之を有せり、若し未来の栄光を謂はん乎、之れ亦既に彼の掌中にあり、要は先づへりくだるにあり、全く神に倚り頼むにあり、然れば宇宙万物皆我物なり、保羅は此状を記して曰ふ、
  憂ふるに似たれども常に喜び、貧しきに似たれども多くの人を富まし、何も有たざるに似たれども凡ての物を有てり。(哥林多後書六章十節)
 藤樹は謙を賛して曰へり「天徳(ハ)由(リテ)v此(ニ)明、五福(ハ)由(リテ)v此(ニ)得(ル)」と、基督教訓を垂るゝに方て劈頭謙の原理を解く、基督教の要髄亦此に存すと謂はざるべけんや。カーライル曰く「基督教は謙徳の宗教(Religin of Humility)なり」と。
 二、哀しむ者 罪の為めに自己の珂疵欠乏を嘆ずる者なり、故に罪を悔い悩む者と解して可なり、如此人が天の慰藉に与かる人なり、自己を以て足る人に基督教の要あるなし、懺悔は天国に入るの門なり。
 三、柔和なる者 原語に世に踏み附けらるゝ者の意あり、即ち呟くことなくして世の侮蔑無礼に忍ぶものなり、即ち世の目して以て意気地なしとなすものなり、
 地を譲り受く 世界の主人たるを曰ふなり、之れ逆説の最も著しきものなるが如し、優勝劣敗は世界の精神なり、然るに世に踏み附けらるゝ者が世界を専有するに至ると謂ふ、妄信の最も甚だしきものなるが如し、然れども余輩は断じて曰ふ、是れ実に世界を得るの途なりと、争て得し物は終に失ふべき物なり、天の与ふる物は自然(64)に来るものなり、競争は禽獣の道なり、人の道は謙退にあり、視よ古昔より争つて得し物にして永く之を保持せし者なきを、アレキサンドルなり、シーザルなり、ナポレオンなり、彼等の栄光は朝の露の如くなりし、ナポレオン謫竄せられて曾て耶蘇を評して曰く「余は一度欧洲全土の盟主たりしに今一人の余の為めに命を捨つるものなし、然れども見よ耶蘇は貧に死して今や億万の人は生命を彼に捧げんとす」と、那翁の感慨実に然り、彼は地を得るの道を知らざりしなり。
 四、義を慕ふ者 義人と曰はず、基督教の原理より推す時は世に義人一人もあるなし、一人もあるべからず、義人を以て自ら任ずるものは義人にあらず、基督信者は義人にあらず、神の義を慕ふ者なり、充実云々、彼の義は神より充たさるべきもの、基督教の贖罪説なるものゝ原理は実に此に存す。
  我儕この幕屋(肉躰を指す)に居りて嘆き天より賜ふ我儕が屋(霊躰)を衣の如く着んことを深く願ふ(保羅)、
 五、衿恤、情《なさけ》なり 明論卓説を唱ふる人も、正義の為めに焼かるゝ人も、情なき人は天の恩恵を感じ得ざる人なり、詩人ゲーテは神を永遠にまで女らしきもの Ewige Weibliche と称へり、正義は神の道にして情は神の心なり、情なき人は神に接し得ざる人なり、嗚呼情ある人、推察心に富める人。 六、清き心は無慾の心なり、慾は心の目を塞ぐものなり、情慾なり、利慾なり、名誉慾なり、皆信仰の正反対なり、慾の減ずる比例に神は明白に見ゆるなり、神は学識を以て見るを得ず、慾を節してのみ彼は吾人の眼に顕はるゝなり、禁煙禁酒等の利は此に存す、施与慈善の益も此にあり、
  是故に汝等奸淫汚穢邪情悪慾及び貪婪を殺すべし、貪婪は即ち偶像を拝することなり。(保羅)
 然らば慾は全く断つべき乎、食するも慾なり、婚するも慾なり、無慾とは此等の慾をも絶つを云ふか、人生に(65)正当なる快楽なきや、是れ屡次吾人を苦しめる問題なり。
 無慾とは何ぞ、近江聖人は最も簡明最も剴切なる註釈を供せり、引用して吾人の註に換ふ、
  人道の無慾は義ある事を知りて利を知らず公義に従て私心なきを無慾とす、取るべき義あればとり、与ふべき義あれば与ふ、蓄ふべき義あれば蓄へ、施すべき義あれば施す、只心の義に随ふを無慾となし、利に依るを慾とするなり、
 七、平和なり、安逸にあらず、安逸は偽の平和なり、平和は正義の結果なり、故に平和に達せんが為には幾多の正当なる戦ひを経過せざるべからず、神の子と称へらるゝ者は平和を目的とする者なり、必ずしも戦ひを避くる人を謂ふにあらず、世間此節を解して無事安逸を教ふるものとなすが如きは非なり、コロムエルの如き人、ワシントンの如き人、ルーテルの如き人が真正の「平和を求むる者」なりし。
 八、九、義の為めに、義の代表者なる基督の為めに責めらるゝ者は幸福なり、是れ喜ぶべき事なり、躍り喜ぶべき事なり、そは天の恩寵は此時に最も多く感じ得べければなり、義の為めに苦しまずして天国に入るものは戦功なくして凱陣する兵士の如き者なるべし、勲章の希望彼にあるなし、勇士は敵軍の寄せ来かを見て躍り喜ぶにあらずや、後陣に控へて遙かに砲声を聞くものは最も不幸なる兵士ならずや、迫害は義の戦功を建つる為めの好機会なり。
   上もなく又外もなき道のために
    身をすづるこそ身を思ふなる(藤樹)
 汝等より前の預言者云々 吾人は迫害に依て過去の聖人君子と推察的霊交を結ぶに至る、神学博士の註釈を借(66)らずして聖書を能く解し得るに至る、迫害は実に吾人を聖人社会に仲間入りせしむるものなり、異教人士に貴めらるゝ甚だ可し、基督教会に責めらるゝ最も可なり、真理の真意を知らんと欲せば世に捨られ、誤解せらるゝに若かず。
  “Do you ask me tbh place of the Valley,
   Ye hearts that are harassed by care?
  It lieth afar between mountains,
   And God and His angels are there;
  And one is the dark mount of sorrow,
   The other the bright mount of prayer.”
 以上十節を称して英語に「ビヤチチユード」Beatitudes と云ふ、拉典語の beatus(幸福なるもの)より来りし語なりと雖も今は美訓の意を含むに至れり、余輩は以来此名を以て之を称せんとす。
 美訓総て九条、(一)謙なるもの、(二)哀むもの、(三)柔和なるもの、(四)義を慕ふもの、(五)情あるもの、(六)心の清きもの、(七)平和を求るもの、(八)義の為めに迫害さるゝもの、(九)基督の為めに責めらるゝもの、
皆な幸福なるものとして算へらる、余輩は之を称て天国市民の資格と謂はん、嗚呼地上世界の標準と相異る何ぞ夫れ甚だしきや、此世の幸福なるものとは、(一)富めるものなり、(二)歓ぶものなり、(三)威あるものなり、(四)利に敏きものなり、(五)慾に猛きものなり、(六)娯楽に耽けるものなり、(七)権力に誇るものなり、(八)人に賞めらるゝものなり、(九)十字架の耻辱を受けし耶蘇にあらずして有力の君を主とするものなり、基督教(純粋(67)の)が容易く世に容れられざるは宜なり、其信徒(真正の)が忌まるゝは宜なり、基督教が社会に容れられしとて喜ぶ信者(?)あり、余輩は恐る彼の奉ずる基督教は基督の教訓其儘ならざる事を、余輩は特更に世の反抗を求むるものにあらず、然れども喜んで社会の容るゝ所となる基督教に就ては多くの疑惑を懐くものなり。
 
(68)     文士の述懐
                   明治32年5月5日
                   『東京独立雑誌』30号「思想園」
                   書名 悲憤生
 
◎花は咲いても別に面白くもなし、心の春は四期の春と異なり、何時にても之を迎ふるを得ればなり。
◎唯欲しきものは新しき真理なり、宇宙と人生との隠語を明かに解釈し得るに足るの真理なり、是れありせば彼は別に花と舟車とを要せずして永久の春を楽しむを得るなり。
◎為す事は唯筆を執る事のみ、是を反古紙製造業とや申さむ 原稿を作て之を活版に附し、是に校正を加へて市上に鬻ぐ、日の出づるより日の入るまで、年の始より年の終まで為すべき事は唯此の一事のみ、口を有てども噤いで語らず、手を有てども耕すに田地なし。筆一本が彼の武器にして亦糧を得るの具なりと知るときは※[さんずい+(林/月)]然として涙が原稿紙の上にこぼるゝことあり。
◎然し何をなせばとて鄙しき事はなさじ、縦令侯爵伯爵の位を有する人なればとて、卑陋の人の前には頭を下げじ。幸か不幸かは知らねども人として此世に生れ来りし以上は我が霊魂の威厳は維持して歇まざるべし、然り我は三味線の糸に独立的生涯を送る賤妓を尊ぶことあるも藩閥政府に依頼する日本男子をば敬せざるべし、筆一本! 然り是れ陸軍大将の剣よりも強し。
◎高が人爵の外何物をも有せざる者、サブライムなるミルトンの作を解し得るに非ず、ダンテ、モーゼの神秘的(69)言語を味ひしことなき者共、然り小なりと雖も我は彼等より大なり。彼等に多くの婢妾あり、我に古びたる聖書一冊あり、我が富と貴きとは彼等に百倍す。
◎「汝に我を殺すの力あり、我に汝を賤しむるの心あり」とは詩人ミルトンが彼を窘めし権者に向て語りし所、我も彼等に向て斯く言はんのみ、然りかく言はんのみ。
 
(70)     『外国語之研究』
                       明治32年5月7日
                       単行本
                       署名 内村鑑三 著
 初版表紙188×128mm
 
(71)     自序
 
 書中収むる処の論文は茲に蒐集して一書を成すの前曾て東京独立雑誌に連載せしものなり。
 著者は此書に於て欧羅巴語、殊に英語の原質並に特性を読者に紹介し以て其研究の精神を惹起せんと試みしなり。
 巻末に友人佐伯好郎氏の論文を掲げしは此書の効用をして一層大ならしめんが為なり、主を先にして客を後にするは礼節に於て大に欠くる処あるの観なき能はずと雖も、是れ攻究すべき問題の順序の然らしめし処なるを以て切に氏並に読者の宥恕を乞はんと欲す。
  明治三十二年四月十九日   内村鑑三
 
 〔目次〕 〔本全集所収巻を示す〕
 第一章 外国語研究の利益………………………6巻
 第二章 世界の言語に於ける英語の位地………6巻
 第三章 平民的言語としての英語………………6巻
 第四章 英語の美…………………………………6巻
 第五章 外国語研究の方法………………………6巻
 第六章 日本語に現はれたる欧羅巴語…………6巻
 第七草 博言学と地名……………………………6巻
 第八草 最良の英語読本…………………………6巻
(72)   附録
 一、英語自習独学の注意〔佐伯好郎〕 二、西班語の研究……………6巻
 
(73)     〔民を済ふの二途 他〕
                 明治32年5月15日
                 『東京独立雑誌』31号「記者之領分」
                 著名なし
 
    民を済ふの二途
 
 民を済ふに二途あり、一は彼等の頭上に罹る圧制を取り除くにあり、他は彼等の心中に新王国を築くに在り、前者は勇壮に見えて世の注意を惹く多し、後者は忍耐の業にして勲章王冠の之に伴ふあるなし、然れども我は第二途を択ぶものなり。
 
    無事の時
 
 内閣の変動は待てども来らず、隣邦の分割は未だ始まらず、故に人は云ふ、今は無事の時なりと、然れども時有て以来無事なる時は曾てあるなし、昼あり、夜あり、冬あり、夏あり、生あり、死あり、罪悪に沈むものあり、貧困に苦しむものあり、富者の無情に泣く者あり、権者の暴虐を憤る者あり、今年今日は決して無事の時にあらず。
 
(74)    不平と不足
 
 不平(discontent)は他人に対するの不満にして、之を自己に対し抱いて不足(dissatisfaction)あり、前者は世が吾人を冷待虐遇するを怒るより起る念にして、後者は自己の欠点を悟りてより来る羞恥の感なり、前者は小人の憤怒にして後者は君子の謙退なり、不平と不足とに罪と徳との別あり。
 
    我が救主
 
 我が救主は我に財貨を給し、我に権力を与へ、我をして人の前に富み且つ強き者となす者に非ず、我の救主は我をして我が貧に満足せしめ、我が弱きに誇らしめ、我が心中に無限の希望を起して、我が生涯を歓喜感謝の連続となす者なり、夫の経世策を以て世を欺き、富国策を以て民を偽はる徒は我をして益々不平に堪へざらしめ、富に居て反つて貧を感じ、強きに在つて反つて弱きを訴へしむる者にして、竟に回復し得べからざる災禍に我と我が国家とを導く者なり。
 
    進歩と退歩
 
 霊の為めにするは進歩なり、肉の為めにするは退歩なり、人の為めにするは進歩なり、己の為めにするは退歩なり、未来の為めにするは進歩なり、現在の為めにするは退歩なり、進歩は心霊的にして、精神的にして、博愛的にして、又遠望的なり。
 
(75)    倫理の区域
 
 倫理とは身を修むることのみを云ふにあらず、完全なる倫理は退保的なるのみならず亦進取的なり、身を修むるみならず、亦真と美と善とを此世に普からしむ、修身的倫理は消極的倫理なるが故に過失の摘示を事として善美の奨励を謀らず、是を日本今日の倫理教育に於て見ん。
 
    芝居を観るの害
 
 芝居を観るの害は人をして人世を技芸視せしむるに至るにあり、人生てふ真面目なる事実を演劇てふ構造的技芸とし視るに及んで、人は浮薄となり、軽佻となり、偽善的となり、虚飾的となり、只外見の効験と感動とを目的として内部の意志と信念とを軽んずるに至る、是れ古来より誠実の士が演劇を忌み嫌ひし所以にして、コロムウエルなり、ミルトンなり、カーライルなり、人生を事実視せし人が劇場を以て世道人心の誘惑場と見做せし理由なりと云はざるべからず。
 
    腐壊の徴候
 
 歴史を愛せずして小説を愛し、天然を愛せずして技芸を愛し、誠実を愛せずして礼式を愛す、是れ皆浅薄浮虚の人の為す処、人心の衰頽、国家の腐壊は常に是の徴候を呈す。
 
(76)    耻かしき名称
 
 今や我国に於て耻かしき名称三あり、忠臣其一なり、愛国者其二なり、而して其三は基督教徒なり、凡て卑屈なる事、凡て意気地なき事、凡て虚偽的なる事、凡て外面的なる事は、今は収めて此三名称に存す、志士が此名を忌み避くるは決して故なきに非ず。
 
    学問の快楽
 
 自己を離れ、家族、国家、人類を離れ、純真理を真理其物に就て求めんとす、何物か快楽是に勝るものあらんや。真理の聖殿に座して社会の制裁と称する古俗旧習の吾人の思惟を圧するなく、愛国心と称する利慾心の神化せるものゝ吾人の自由を妨ぐるなし。吾人は天理惟従ひ、天則惟奉じ、其準と縄とに依て過去と現在と未来とを評す。此に於てか吾人は独裁君子となり、宇宙を我領土と定め、人類を我臣下と見做し、心界に真理の最上権を揮ふを得べし。
 
    著者の慰藉
 
 著書成つて煩労は煩労を加へ、印刷の煩労あり、広告の煩労あり、販売の煩労あり、而して得る所は半月の料を購ふに足らず、著者は屡次叫んで言ふ「著書の業何の益かある、恰も子を儲けて自から煩累を増すの類ならずや」と。
(77) 然れども翻つて其精神上の利益を思へば著書の業に亦偉大の慰藉なくんばあらず、一思想の熟して初めて紙面に現はるゝや、吾人に宇宙人生の新註解を世に供するの感ありて、其満足は譬ふるに物なし。而して其書となりて世に出るや、多くの懶惰文学者の駄評に遭ふて吾人は亦多少の煩労を感ぜざるにあらずと雖も、其誠実同感の士の手に落つるありて彼の心琴に触るゝ時は、其反応は帰り来つて再び無量の慰藉を吾人に供す、著書の利益は到底金銭的に算すべからざるなり。
 
    独立の価値
 
 独立は多くの貧苦を値し、家族の不和と国民の反対とを値し、交友の破綻を値し、孤独と疾病と禁錮とを値し、無学を値し、時には飢餓と死とを値す、余輩は未だ曾て安穏、闘ふなくして完全の独立に達せしものあるを聞かず。
 
    学問と精神
 
 学は貴し、然れども精神の貴きに如かず、若し二者孰れか一を択ぶべきの場合に会せば余輩は断然精神を択ばんのみ、学を得んが為めに精神を犠牲に供する者は学に不忠にして霊に不実なるものなり。
 
    耻づべきもの
 
 耻づべきものは無学に非ずして不徳なり、人は金銭を盗み得るのみならず、亦学問をも倫み得るなり、夫の良(78)心に偽り、外国宣教師の門に入り、学を得て後に其宗教を捨つるが如きは是れ窃盗の一種にあらずして何ぞや、世に物品を窃取する者を罰するの律ありと雖も学問を欺取する者を刑するの法なきは歎ずべきかな。
 
    無比の国家
 
 国に四千万の忠臣と愛国者と、政治家とあり、国家の事は今は多く憂ふるに足らず、憂ふべきことは良心の事なり、道徳の事なり、吾人自身の事なり、金甌無欠の国に加ふるに金甌無欠の人物ありせば此国此民は実に宇宙無比のものならむ。
 
    吾人の貢献物
 
 伊藤博文侯の如きは新憲法を制定して国家に貢献する所あり、雨宮敬次郎氏の如きは鉄管を以て、井上哲次郎氏の如きは哲学的大真理を以て、大橋佐平氏の如きは出版業を以て、樺山資紀氏の如きは大軍功を以て、各々国家の進運を輔くる所ありたり、吾人草莽の民、勿論是等の名士に及ぶこと能はずと雖も、亦吾人相応の貢献物なくして可ならんや。然り吾人は純潔なる生涯を貢献せんのみ、是れ吾人の捧げ得る貢物にして国家は亦是を受けて大に益する所あるべし、即ち高貴なる生涯、独立的生涯、世に阿らざる生涯、爵位と勲章とを鄙める生涯、不正の富を糞土視する生涯、清潔なる生涯、真面目なる生涯、単純なる生涯、口に理想を語りて心に利慾を念はざる生涯、是れ実に確実なる貢献物にして、国家は富と識とありて亡ぶることあるも、是れなくして永遠に栄ゆることなし。吾人は貧と孤独とに居て尚ほ国家の柱石たるを得るなり。
 
(79)     耶蘇の教訓と其註解
                    明治32年5月15日
                    『東京独立雑誌』31号「講壇」
                    著名 内村鑑三
 
  汝等は地の塩なり、塩若し其味を失はゞ味つくるに何を以てせん、後は用なし、戸外に棄てられて人に践まるゝのみ。汝等は世の光なり、山の上に建てられたる城市は隠るゝことを得ず。燈を燃して斗《ます》の下に置く者なし、燭台の上に置きて家にある凡てのものを照さん、此の如く人々の前に汝等の光を輝かせ、然れば人々汝等の善行を見て天に在す汝等の父を栄むべし。
 汝等 弟子を指す也。地の塩なり、塩は食物に味つくるものなり、亦た昔時の惟一の防腐剤なり、耶蘇の弟子は天の市民にして地に味を附け其腐敗を防止するものなり、然れども彼れにして彼の特性を失はん乎、彼の如き不用物は世にあるなし。人に践まるゝのみ、ヱルサレムの市街家毎に脱味の塩を散布し通行人に践ましむ。「味を失ふ」と訳されし語は「感覚を失ひし」の意なり、後に「愚者《おろかもの》」と訳されしは此語なり、故に塩にして其気を失ひしもの、塩の無気力になりしもの、塩の塩たる特質を失ひしものなり、若し腐れ男子は世に用なしとならば況して腐れ信者に於てをや。
 塩なり、亦た光なり、猶太亜の城市は多くは山上に建てられし如く耶蘇の弟子も亦世の注視する所たるものなり、隠れんとするも隠るゝこと能はず、燈は暗瞑を輝さんが為めなり、斗の下に置かんとならば燃やさゞるに若(80)かず、「光をして輝かしめよ」、汝等輝くべしと謂はず、光は吾人自身にあるなし、恰かも月其物に光なきが如し、吾人の光は神より来る、恰かも月は太陽の光を受けて之を反照するが如し、吾人の修徳其極に達して吾人は最明の反射鏡たり得るのみ、然れば人々吾人の善行を見て吾人を讃めずして天に在す吾人の父を栄むべし。
  我律法と預言者とを廃つる為めに来れりと意ふ勿れ、我れ廃つる為に来らず、成就せん為なり、我れ誠に汝等に告げん、天地の消へ失するまでは律法の一点一画も悉く遂げつくさずして消え失することなし、是故に人もし最も小さき誡《いましめ》の一を壊り、又その如く人に教へなば、天国に於て最も小さき者と謂はれん、然れども之を行ひ且つ人に教ふる者は天国に於て大なる者と謂はるべし、我れ汝等に告げん、汝等の義、学者とパリサイの人の義に勝るにあらざれば必ず天国に入ること能はじ。
 律法と預言者、摩西《モーゼ》の律法、殊に彼の十誡と預言者の言、廃るは破壊なり、耶蘇は破壊者として来らず、建設者として来れり、旧時の道徳律は耶蘇の精神を受けて始めて実行するを得べきものなり、愛は律法を全ふするものなり。われ誠に汝等に告げん、語調甚だ強し、耶蘇の自証に天地の重きあり。一点一画は勿論旧時の儀式制度等を悉く謂ふにあらず、道徳律なり、儀式制度の精神目的なり、即ち至誠の人に依て世に示されし凡ての神意なり、是れ天地が消え失するとも消滅せざるものなり。
 孔孟の言然り、釈迦の言然り、我邦幾多の高僧潔士の言然り、耶蘇は新設者として世に来らず、普通道徳の成就者として来れり、彼を目して異教者となす人其人が異教者なるなり、是れ二千年間の人類の経験が立証する所なり。
 律法は大小の別なく遂行すべきものなり、大悪を避けて小悪を宥恕するは律の神聖を汚すことにして是れ全律(81)を犯すに等し。天国に於て最も小き者と謂はれん、次節の「天国に入ること能はじ」と同意義なり。最も小き者(希臘語のエラヒストン)は時には廃物の意味あり。大なる者云々、小善を行ふものは天国に於て巨人と称はるべし。
 学者とパリサイ人、職業的道徳家と宗教家、彼等の善行は広告的なり、故に彼等は人の目に立つ善を為さん事を勉めて小善隠徳を顧みず、如此者勿論(必ず)天国に入る能はず、近江聖人曰く
  人皆悪名を悪みて令名を好めり、小善を積み積らざれば令名顕れず、小人は人の目に立つべき善ならば為さんと思ひて小善は目にもかけず、君子は日々に為すべき小善の一をも捨てず、大善も応ずれば是れを行ふ、求めてなすに非ず、夫れ大善は稀にして小善は日々に多し、大善は名に近し、小善は徳に近し、大善は人争ひて為さんとす、名を好むが故なり、名によりて為すときは大も小となる、君子は小善を積んで徳をなす者なり、真の大善は徳より大なるはなし、徳は善の淵源なり。
 
(82)     善光寺詣り
                   明治32年5月15日
                   『東京独立雑誌』31号「紀行欄」
                   署名 内村生
 
   遠くとも一度はまゐれ善光寺
     救ひ給ふは弥陀の誓願
 
 金町如く明治の日本に生れ来り、理屈なしには仏教は勿論、儒教、神道、基督教、其他如何なる宗教、如何なる倫理をも信ぜざるものに取りては、弥陀の誓願なればとて態々善光寺に参詣せんとの菩提心の発るべき筈もなし、余は後生の救済に与からんが為めには、弥陀の誓願を要せざるのみならず、又何人、何神の助をも要せず、只普通の入道を正直に真面目に実行し、地獄へ行くも極楽へ行くも意に介するなく、単心直行、天命惟従へば行くべき所に行くならんと信ずる者なれば、余の善光寺参詣なるものは伊藤侯のそれとは異なり、罪障の懺悔未来救済の為めにはあらざりき。
 時は弥生の未つ頃、東都の春に花は散りて、東南よりする時候風は熱湿を持来すの候となり、既に藩閥政府の圧迫の下に困しむ吾人をして尚ほ一層の倦怠を生ぜしむる時期となりたれば、少しく都城の俗塵を避けんと望み居りし頃、信州上田なる友人の許より来て演説を聞かせよとの事なれば、昨年以来の約束の事にもあり、合せて(83)嶺西に再び春を賞するの快もあることなれば、公義半分利慾半分の動機よりかは知らねども、何しろ此招聘に応ずることゝなり、去月廿七日午前八時四十五分上野出発の事とはなりぬ。
 途は普通の中仙道、高崎に至るまでは平々坦々たる線路、恰も日本の思想界を走るが如し、烏川を横ぎれば、二十五年前の昔は忍ばれて、曾て其地に餓鬼大将たりし頃此川に漁し、其鮎、※[魚+條]、※[魚+於]等と親交を結び、後、グンテル、デーデルライン等の魚類学者の指導を得て少しく世界の鱗族を究めし頃、余をして故人を学ぶの感あらしめしものは実に此川の産なりし。斯く念ずる暇もなく、汽車は又碓氷川を渡れば其水の烏川に此して清浄にして且つ温暖なるが故に、同種の鱗族も其外形に於て相異なるを知りしは、余がダーウヰンの『原種論』を読みし十余年前にてありしことなれば、余が早くより進化論を信ずるに至りしは此二川に負ふ所尠しとせず。松井田、横川に至りて稍々仙境に入るの観あり、碓氷山道に懸れば春陽今や既に其渓谷を襲ひ、躑躅花は所々に紫玉を鏤めて楓樹、楢林の間に万象の春を印し、四面風静かにして車中尚ほ翠澗の湍鳴を耳にするを得たり、登て軽井沢に達すれば瞬間にして東渓の青色は絶えて、浅間下しに春未だ寒く、枯草地を掩ふて再び冬に復りしの感あり、然れども見上ぐれば、浅間岳、西北の方面より蟠屈し来りて東南に向て其角を呈はす、恰も信越の山岳が精を此山に鍾めて東向して関東平原に伏在する罪障、邪悪を瞋睨するが如し、沓掛に両浅間を側面に望み、御代田に至て南信の諸岳に見え、小諸、田中と下りて、千曲の盤谷狭くして愈奇なり、斯くして午後五時上田に達し、車外に諸友の歓迎を受け、停車場を離れて市街に入れば、穴賢、処々に余の名は大書せられて、演説会は今夕午後の七時劇場中村座に於てと行々しくも書き曝らされたり。
 談話と休憩とに三時間を経過すれば、長路の疲労未だ癒えざるに余は劇場の演台に引き出されたり。是ぞ余が(84)芝居小屋に於て余の愚見を演べし第二回目の経験にして、第一回は明治十六年春、今は米相場師、其頃は熱心なる基督教の教師なりし金森通倫氏に誘はれて東京なる千歳座の基督教演説会に臨み、横井、金森等正統派諸聖賢の説を拝聴せし後、宣教師タムソン氏の指名に依て余は会衆の前に引き出され閉会の祈祷を捧げしめられしことありき、其時の辛さ苦さは今に尚ほ忘れ難く、耶蘇教師には終生なるまじとの感を起せし程なりしが、今又計らずも芝居演説を為さねばならぬ場合となり、戦々競々薄氷を践むが如きの念を以て余は其の演台に登りにき。
 聴衆は五百余名と註せられ、東京名士の高説に耳を鍛へられし人士なりと聞けば余の戦慄は一層甚しく、只|何時《いつも》の通り正直一途と心を定め、余の有り得る限りの精を尽せり。題は「最大問題」、是れ過去或は現在、或は未来の最大問題にあらで、人としてある間は、個人として、社会として、国家として、総て人間又は人間の組織する団殊に取ての最大問題の何たる乎を論ぜん為めの題なりし、即ち人類の最大問題は殖産工業等の経済問題にあらず、軍事問題にあらず、智識問題にあらずして、人類の最大問題は道徳問題なりと確言し、然る後に余の知る数個の例を引証して余の提説を弁じたりしなり、勿論取るに足らざる平論、『太陽』記者の耳に達せしならば又も千篇一律の御呵を蒙るべけれど、然れども是れ当夜の余の有ちし丈けの福音なりしなり。唯其中に二三の普通の真理は在りし事と信じたれば別に良心に耻づる所なく、左の如き結論を以て余が当夜の義務を終へぬ。
  余は道徳は人、国家、人類の最大問題なりと述べたり、然れども余は茲に道徳其者に就て少しく弁ぜざるべからず、朱子学を以て養成されし日本人は道徳とし云へば謹慎を謂ふが如くに思ひ、身を立て道を行ひ、他人に損害を懸くるなく、清浄潔白天地に耻づるなきの生涯を送り得ば是れ道徳を全うせしものなりと信ず、是れ勿論道徳ならざるに非ず、然れども是れ国を作り、社会の幸福を増進するの道徳にあらず、道徳の極は(85)其積極的事業に在り、己を清うするに止まらずして進んで罪悪に沈める他の人を救ふにあり、僅に個人的義務を尽すに止まらずして進んで社会の公益を計り、真と美と善とをして益此世に普からしむるに在り、己れの子弟を教育し以て父たり兄たるの義務を果したればとて、未だ人たり市民たるの義務を尽したりと云ふべからず、吾人は衷に溢れて外に与ふるの道徳心を養はざるべからず。歓喜なり、希望なり、起業心なり、是れ同じく道徳心にして、道徳とは必ずしも謹慎服従の如き消極的徳性のみを云ふにあらず。
 斯くて壇を下れば余は重荷の余の肩より落ちしを感じ、軽車一走直ちに余の旅宿に引取りたり。
 明くれば廿八日、日本晴れの好天気、『労働の後に休息は快し』、今日は余の日なれば之を善光寺詣りに消費せんと勇み立ち、朝に旅館を出て上田停車場に至り四方を眺むれば、是ぞ実に天然の円形劇場《アムフイシヤター》、北なるは太郎山、西と東とに別れ、上野ケ原を其東麓に控へ、東なるは烏帽子岳、浅間と三根尾とは其後にあり、千曲河を隔てゝ南に小牧の丘壑あり、耕耘其頂きに達し、雌神、雄神、冠着の諸山は南西に傑立して塩田荘を其間に包む。千曲の濁流は此|擂盆《すりばち》形の地に入て出づるに道なきが如し、軽井沢より来りし※[さんずい+氣]車に乗り、千曲を其右岸に沿ふて下れば、上田として開けし渓壑は室賀、岩鼻として閉ぢ、坂木として又開け、磯部として又閉づ、川に沿ふて又川を離れ、蜿蜒たる軌道、翠峰を臨み、絶壁に対し、篠井に於て川中島の沖積層に達する迄は我邦稀に見る所の絶景なり。
 長野に着し、其儘余の目的地なる善光寺に至れり、如来本堂は高さ十丈表十五間奥行二十九間三尺の大構造、而も浅草観音堂、京都本願寺の如き俗味を帯びず、是ぞ三国伝来の如来本尊を蔵する大伽藍にして、日本に仏法有て以来の梵刹なりと伝ふ。余は先づ本堂に登て帽を脱し、偶像に対してにあらず、熱心に真面目に是に向て敬(86)崇を奉つる余の同胞に対して余の満腔の敬礼を表し、後壱銭を投じて守札三枚を受け、亦一銭を捧げて御階壇廻りの特権に与かり、寺僧の指示に従ひ、独り階壇を下りて暗中に臨めば、忽ちにしてダンテの詩篇に読みたりしが如き地獄に下りたり、聞く心に獣心を蓄ふる者は此獄を出づる時は必ず獣身に化すと、然れども余は外国宣教師を怒らせし事あるも未だ阿弥陀如来に不敬を加へし覚えなければ別に良心に不快を感ずる事なく、只第一角を廻りし頃他に同行者一人もなきが為め余りに寂しかりければ、余は臆病の余り大喝一声ハレー(hurray!)と亜米利加流の呼号を発せり、斯くして再び日光に出で来れば余は熊にもあらず、狼にもあらず、亦蛇にもあらずして、矢張普通の日本人なるを知れり、堂内を逍遥する一時間余にして、独り再び歩を停車場に向けて運びぬ。
 斯くて其日は再び上田に諸友の優待に与かり、夕刻に尚ほ一回の談話会を開き、時勢と道徳と宗教とを語り、翌朝帰東の※[さんずい+氣]車に投ずれば中に東京なる一友人と横浜なる一外国宣教師の乗合はせしかば、俗謡に碓氷、浅間の荘美を忘れ、途中別に益することもなく、其日の誰彼時頃に再び東都の巣に帰りぬ。
 
(87)     随聞随筆録
                   明治32年5月15日
                   『東京独立雑誌』31号「見聞録」
                   署名 笑肥生
 
◎聞く徳官猪一郎氏曾て基督教を信じて夙に之を捨て、平民主義を唱へて既に之を廃し、今は荐りに帝国主義を唱へ居らるゝと云ふ。誰か知らん氏が帝国主義をも捨つるの日も亦遠きにあらざらんことを、「智者は変ず」とは西洋の諺なれども、去りとて主義、宗教は古草鞋を捨つるが如く容易に捨つべきものにはあらざるべし。
◎二十年一日の如く我国に於ける宣教師的教育の為めに身心を捧げられし本多庸一氏は、日本婦人問題に関して近頃時事新報記者に語て、「日本の婦人はモット生意気にしなければならぬ」と言はれ、又「婦人には出来る丈け世に処し、事を為すと云ふ意気と実力とを与へる様にしなければならぬ」と云はれし由に聞けり、実に御尤千万の御説なれども、去りとて今日迄幾多の腰抜け男子を養成し、何か新説でも唱へれば異端論者だとか、危険物だとか称へて何でも教師の語る事を御無理御尤と信ぜし者を熱心なる善良なる正統的信者と見做し来りし宣教師学校の校長の御意見としては只驚き入るの外なし、男子は従順に仕立てゝ女子は生意気に仕立よとは米国に於てさへも未だ曾て聞かざるの教育の方針なり、ミッションスクールに在て気骨の骨抜き泥鰌と化せられつゝある男生徒は是を聞て当に愧死すべきなり。
◎宣教師某曾て言へるあり、曰く「男、亜米利加宜しい。女、日本宜しい」と、蓋し彼は彼の妻君(勿論米国婦(88)人)の為めに痛く苦しめられし人なりしと云ふ。何は偖置き余輩は生意気の婦人丈けは真平御免なり。ミルトン、保羅、彼得の理想的婦人は宣教師学校製造の生意気婦人とは思はれず、哲人エマソンが彼の最愛の妻を称んで「亜細亜」と命名せしは彼女の亜細亜的従順を賞しての故なりと聞けり、婦徳は亜細亜に於て最も善く発達せりとは余輩の確信なり、西洋的の男子と東洋的の女子、二者相婚して完全の家庭は成らん。
 
(91)     〔記者の祈祷 他〕
                  明治32年5月25日
                  『東京独立雑誌』32号「記者之領分」                      署名なし
 
    記者の祈祷
 
 願くは我が文辞の我が主張の発表にあらざらんことを。願くは我が記述の我が弁護にあらざらんことを。願くは我は我れ以上の者の聖意を語り、彼の大慈を伝へ、大悲を唱へ、我が名は烟霧となりて消え失するも、彼の公道は世に施かれて衆生は彼に帰り来りて其無限の愛に沐せんことを。
 
    真理を識るの法
 
 真理を識らんと欲せば是を実行せざるべからず、是を聞き是を読んで未だ是を識れりと謂ふを得ず、世に真理を賛成する者多くして是を識る者尠なきは、是を読み且つ聞くもの多くして是を実行する者尠なければなり。
 
    今の新聞紙
 
 今の新聞紙が多くの正議公論を唱道するに関せず、時世を覚醒するに殆んど全く無能力なるは彼等に商売気の(92)存するが故なり、発売部数の多からんことを熱望する新聞紙に革進的勢力の存せざるは理の最も覩易きものなり、徒らに社会の腐敗を詰り、政府当局者の怠惰を責むるも新聞紙自身が全く利慾の念を切断せざる以上は其詰責に依て社会と政府とが改悛すべき筈なし。
 
    新聞記者の自省
 
 人心は腐敗せり、然れども我にして若し自ら利慾の念を去り、一意専心其改善を計らんには其の更革は得て望み難きにあらず、我が改革の声の聞かれざるは必ずしも人心腐敗の故のみにあらずして亦我が愛心の足らざるが故なり、我にして若し己れに死し、己れを愛するが如く我が同胞を愛するに至らば、世は喜んで我が声を聞き、我が警世の辞も全く不要ならざるに至らん、新聞記者たるものは世を詰責すると同時に亦深く己れに省みざるべからず。
 
    警責と建徳
 
 改革は警責を以てのみ来らず、罪障の摘示は魔鬼も為し得る所、然れども建徳養神は天使の業なり、衷に雷霆の威を以てするも毀つ能はざる積極的真理を蓄へざるものは、進んで同胞の過失を責むるの特権を有せず。
 
    川上大将逝く
 
 丁提督死し、依将軍死し、山地中将死し、而して今又川上大将逝く、敵も味方も終る所は一なり、『滔々逝水(93)流今古、漢楚興亡両丘土』、勝、勝にあらず、敗、敗にあらず、義に拠る是れ勝なり、不義に築く是れ敗なり、吾人豈※[冒+力]めざるべけんや。
 
    精神的英雄
 
 釈迦の如き、ゾロアスターの如き、基督の如き、ジョン ノツクスの如きは、手に寸鉄を採らず、虫一疋を殺さず、而して功を千載に建て、人類の渋苦を除きし人なり、軍功の貴からざるに非ず、然れども其の精神的勲労に及ばざる遠し、余輩は巧に外敵を屠りし功を賛賞すると同時に、亦死せる霊魂を活かすの功績の如何に大なるかを意はざるべからず。
 
    帝国主義
 
 帝国主義は統一の精神なり、専制、独裁、暴虐の精神なり、バビロン王ネブカドネザル、マセドン王アレキサンドル、羅馬帝アウガスタス シーザー、西班牙王フイリツプ二世、仏蘭西帝ナポレオン一世、其他人権を蹂躙し、個人の発達を妨害し、自由を其要髄に於て毀損せし者は概ね皆此主義を奉ぜし者なりき、帝国主義は思想、文学、美術、宗教の埋葬を報ずる鐘の声にして、国民此主義を奉ずるに至て其死期は既に邇づけりと称ふべし。
 
    罪の結果
 
 罪の結果は第一に驕奢なり、第二に淫逸なり、第三に精神の倦怠なり、第四に同胞の不和なり、第五に失意絶(94)望なり、而して余輩は日本の社会が順を逐ふて是等の徴候を呈しつゝあるを見て、其皆日清戦争てふ国民的大過失の結果なるを認めずんばあらず。
 
    基督教と虚言
 
 余輩は基督教を信ぜざるに至るやも知れず、然れども余輩は終生虚言を語らざるべし、信徒の増加を世に誇つて其堕落を表白せず、外面に好望進歩を唱へて内部に不振衰退を喞つ如きは、是れ基督教の教理に戻るものなるのみならず、亦普通倫理に逆ふものなり。
 
    信神と普通倫理
 
 神を信ずる者(信ずると称する者)は多し、普通倫理を信ずる者は尠し、日曜日を守る者は多し、約束を重んじ、友誼に忠実なる者は尠し、一方には吸煙飲酒を責めて他方には利慾一方の商売に従事す、若し能く教会的義務を尽さば果断ならざるも可なり、正直ならざるも可なり、懶惰なるも可なり、柔弱なるも可なり、外国人に属従するも可なり、是れ我国今日の基督教会なり。
 
    名誉乎不名誉乎
 
 基督教を棄てたればとて名誉にもあらず、又不名誉にもあらず、一たび信ぜし宗教を瑣細の理由の為めに捨つるは決して名誉に非ず、去りとて今日の如く俗化せる、無気力なる、俗人物を以て充たされたる基督教会を脱し(95)たればとて決して不名誉にもあらず、名誉不名誉は各人其良心に於て決すべき問題にしで他人の判定すべきものに非ず。
 
    俗人統御の途
 
 馬の欲するものは秣草なり、豚の欲するものは汚汁なり、而して俗人の欲するものは富と名誉となり、残肴棄物は以て是等三者の希慾を充たすを得べし、俗人統御の途亦易いかな。
 
(96)     弁明
                  明治32年5月25日
                  『東京独立雑誌』32号「思想園」
                  署名 内村生
 
 曰く日本のカーライル、曰く小カーライル、曰く第二のカーライルと、是れ神戸ヘラルドを初として幾多の青年雑誌が余に就て記述せられし称号なりとす、是れ余に取つては甚だ名誉なるが如くに見えて実は迷惑千万なりといはざるべからず。カーライルは英国人なり、余は日本人なり、余のカーライルにあらざるは言はずして明かなり。
 余はカーライルと宗教を異にし、人生観を異にす。彼が詩人ゲーテを尊崇するに対して余は是を嫌ひ、彼が現在を藐視せしに反して余は之を神聖視す、彼が上帝の指導はオリバー、クロンウエルを以て止まりし如くに信ぜしに反して余は其現在未来永遠までに継続するを信ず、カーライルの人生観は余の忍ぶ能はざる所、余にカーライル以外の希望と慰藉となくんば余は一日も此世に生存し能はざらむ。
 余が時勢を詰責せしの故を以て余をカーライルの弟子なりと見做す者は誤れり、余は彼に真似て、或は彼に教唆せられて、是を為せしに非ず、余は普通の日本人として余の祖先の教訓を遵守して世の虚偽、妄誕を罵りしのみ、勿論カーライルの著書が多少余の弱きを助けて是を語るの勇気を余に供せしは言ふまでもなし。
 余はカーライルに非ず、彼は余の如き微き者に依て代表さるべき小人物にはあらざりしなり、彼を彼の『英雄(97)論』又は『過去並に現在』位に読んで彼の一面を悟り得しと意ふ者は臆測の譏を免かるゝ能はず、彼の四十三巻の書も僅に彼の衷に蓄へられし大悲歎の一小部分を顕はすに過ぎず、世は未だカーライルを知らず、矧んや我邦の青年批評家に於てをや。
 余はカーライルの弟子にあらず、余の師は外に在り、然れども余はカーライルを尊敬する者の一人なり、余の彼に於けるは釈迦、マホメツトに於けるが如し、則ち其説を賛せずして其志を敬する者なり。
 
(98)     英和時事問答〔3〕
                     明治32年5月25日
                     『東京独立雑誌』32号
                     署名なし
 
    日本の最大哲学者
 
 足下は日本の最大哲学者は誰であるか私にお話し下されませうか。
 別に私が足下にお話し申す必要は厶いますまい。彼は此国に於ては有名の人物でして、足下の如く時事に精通せらるゝお方は私にお聞きなさらずとも能く御承知の事だと思ひます。
 実にお羞かしい事に私は未だ彼を知りません。彼は誰で厶りませうか。
 帝国大学教授ドクトル、文学博士井上哲次郎氏より(99)外の人ではありません。
 
 彼の名は私は承知して居ます、然し私は彼は左程高名な人だとは思ひませんでした。
 夫れはお間違です。彼は一般に蘇西以東第一の哲学者として認められます。私は実に彼の如きはカント、ヘーゲルの本国に於てすら得難き学者だと人の云ふのを聞きました。
 
 私は驚きました。彼の著述の何と申すもので彼は斯くも広く世に知られますか。
 私の承給はりまするに彼は沢山の大著作を為した人だそうです;然し“宗教と教育との衝突”なる書が彼を名誉の絶頂に引上げしものです。
 
 其書は如何なる事を論究したものですか。
 其れは基督教の君と国とに対し不忠なるものなる事を哲学的に論証したものださうです。
 彼の論城を築くに彼は如何なる材料を用ひましたか。
(100) 左様さ、彼は広く仏教雑誌より引証しました。実に彼の此作は彼が現時代の雑誌文学に如何に広く跋渉し居るかを示します。
 彼の其他の著述は何ですか。
 私の承給はりまするに彼は教育勅語の註解にして大冊を成すものを著はしたさうです、御承知の通り彼は至て誠忠の人でして、彼の総ての哲学は現時代の弁護の為めに用ひられます。
 ソンナラ足下は彼は悪い人だとは申されないのですね。
 決して、否な、決して悪い人ではありません。私は彼は性来正直な人だと思ひます、確かに彼の同僚の多くよりは遙かに正直です。正直の人でなければ彼の如に無暗《むやみ》に哲理を濫用する事は出来ません。
 然し彼は実際哲学者と称すべき人物ですか。
 此国では爾う称《い》はれます。彼は哲学に就て多く知り且つ多く語ります。此国に於て哲学者としての声名を立てるには夫れで沢山です。御承知の通り独創的思惟は此国に於ては極くの細事です。夫故に私は彼は哲学者としてよりは寧ろ愛国者として大なる者だと云はな(101)ければなりません。
 
(105)     〔発刊一週年 他〕
                  明治32年6月5日
                  『東京独立雑誌』33号「記者之領分」                      署名なし
 
    発刊一週年
 
 東京独立雑誌、一名『渋面雑誌』、嘉すべきの容なく、賞むべきの貌なく、文拙にして辞粗なり、光輝ある明治の文壇に立ちて何の存在の理由ありて其今日まで持続せられしかを知らず、貴族に度外視せられ、愛国者に蛇蝎視せられ、日本国に在りて日本人の筆に成りしものにあらざりしかの如くに思はれ、嫌はるゝにあらざれば怖がられながら、継児の如くに其今日まで生存し来りしは天祐とや言はん、奇蹟とや言はん。
 余輩本誌を起すや勿論世の歓迎賛同を望まざりき、「発売部数五十部に止まるも一ケ年を支へ得べし」との前持主山県氏の言に励まされて余輩は此事業に着手せしなり、然るに何ぞ料らむ、世に不平家の多き故にや予想の五十部は或は五十倍され、或は六十倍され、別に非常の困苦を感ずることなくして今日に至るを得たり、是れ勿論盃を挙げて祝すべきの事には非ずと雖も、亦以て天の指導の在る所を思ひ、心に神に黙謝するに足るべきの事なりと信ず。
 東京独立雑誌は死を懼るゝものにあらず、雑誌素是れ人生の如きもの、生有て死あるは其特性の一なり、余輩(106)に若し世に供すべきの真理絶え、世又余輩の言を要せざるに至らば、是れ余輩の筆を擱くべきの時にして、其時に際して余輩は廃刊を以て意に介せざるべく、又快く之を決行せんと欲す、余輩は只卑劣なる死を遂げざらんことを欲す、余輩の良心を売り、余輩の読者を欺き、変節の悪例を後世に遺して女々しき最期を遂げざらんことを欲す。然れども余輩は未だ廃刊の要を認めず、余輩に深厚なる読者の同情あるあり、余輩に未だ尽きざるの悲憤と慷慨と確信とあり、是を外部よりする刺激と奨励とよりするも、又内部よりする積憤と感激とよりするも、東京独立雑誌は未だ数年問に渉る存在の理由を有することと信ず、余輩は更に読者の援助を祈る。
 
    同志の同盟
 
 余輩は同志の同盟を主張す、余輩は何人も同盟すべしと言はず、世には同盟すべからざる人あり、博士ジヨンソンの所謂 Unclubbable men 即ち「共に倶楽部を組織し難き人」あり、同盟は如何に望ましければとて余輩は虚偽浮変の人と同盟する能はざるなり。
 余輩の主張する同盟は志士の同盟なり、即ち国を愛し、民を愛し、人類を愛し、自由を愛する者の同盟なり。今や妖僧は勢家と同盟し、富者は権門と同盟して漆膠も啻ならざる時に際して志士の互に相隔絶して孤憤を守るが如きは策の得たる者にあらず、詩人ゲーテ曰く、「善人相結托して大事成る」と、志士の同盟は我国目下の急務なり。
 
    吾人を援くる者
 
(107) 吾人を援くる者は皇室の藩屏、国民の亀鑑を以て任ずる我国の華族にあらず、又常に国利民福を唱道する貴顕豪族と称する者にあらず、僧侶、牧師、監督、神官の類より吾人又何の望む所あるなし。
 吾人を援くる者は天の神なり、世界の大勢なり、自然の法則なり、吾人は宇宙を貫通する是等公的大勢力に頼らんと欲す、エマーソン曰く、「汝の車を大空の星に繋げよ」と、夫の区々たる局部的又は階級的援助は吾人に於て何かあらん。
 
    名称と事実
 
 国賊の名を附せらるゝも可なり、国を賊せざれば足れり、不孝の子と唱へらるゝも可なり、吾人は父母の善きを計て悪きを念はざれば足れり、不忠の臣と称へらるゝも可なり、君国の為めに最善最美を画すれば足れり、吾人誠忠の真偽は世の吾人に附する名称に依るものにあらずして、吾人の心に畜ふる信念と外に現はるゝ実行とに依るものなれば、吾人は世の評判に頓着するなく一意専心吾人の理想に向て進めば足れり。
 
    平民の忠愛心
 
 平民は位階勲章を目的として君国の為めに尽さず、彼等は国土の為めに君に事へ、人類公道の為めに国を愛す、彼等は其名の挙らざるを怨まず、彼等は幽処に田を耕し海に漁して足る、真正の忠臣と愛国者とは彼等の中に存す、夫の胸間に忠愛の章を輝す者の如きは多くは是れ偽忠の人のみ。
 
(108)    日本の英雄
 
 日本の英雄は政治家に非れば必ず軍人なるが如し、アンゼロ、レムブラントの如き美術家としての英雄、ダンテ、カーライルの如き文人としての英雄、ルーテル、ノツクスの如き宗教家としての英雄、ペスタロジ、フレーベルの如き教育家としての英雄、其他商人としての英雄、科学者としての英碓、職工農夫としての英雄は日本人の認めざる所なるが如し、国に勲功を建つるとし云へば政界に駆馳し、軍事に尽瘁するを言ふなるが如き日本人の社会組織は未だ甚だ幼稚なるものといはざるを得ず。
 
    政治と道徳
 
 政治家は宗教並に道徳を利用するものにして之を扶植養成するものにあらず、彼の道徳界に於けるは放蕩児の財界に於けるが如きものにして、彼は消費するを知て造蓄するを知らざる者なり。
 故に国家を悉く政治家の手に委ねて、其数育と宗教とを政治家指導の下に置いて、国家は終に腐敗せざるを得ず、政教一致の懼るべき害毒は実に茲に存す。
       *
 政治は保安を目的とし、道徳は更革を目的とす、前者は渋滞に傾き、後者に急進の性あり、故に多少の衝突は両者の間に於て免るべからざる所なり、而して政治偸安に傾き、道徳其本性を発揮せんとする時は、此衝突の最も激烈なる時にして、国民が其至幸の域に達せんが為めには、幾回となく此種の衝突を経過するの覚悟なかるべ(109)からず。
 
    日本人の宗教観
 
 宗教とし云へば日本人は祈福を意味し、供物、念仏等の宗儀を意味し、其通徳の最も高尚なるものにして人と人以上のペルソナとの霊交なる事は彼等の殆んど全く認めざる所なるが如し、彼等は宗教家と称へば僧侶の一種と思ひ、宗教に帰依すると云へば現世を脱して山間に幽居するが如き事と信ず、其宗教観に於ては日本人は未だ蒙古、西比利亜等の劣等人種の上に居らず。
 
    プルータークの言
 
 有名なる伝記学者プルーターク曰く、「建つるに土地なくして城市を築き得るも、宗教なくして社界を組織し且つ之を維持するは難し」と、国家の建設に宗教の要を感ぜざるものは日本国の政治家と論客とのみ。
     ――――――――――
 
    表謝
 
 東京独立建議は慈善的雑誌に非ず、然れども余輩は余輩の微志を察し、余輩の業を資けんとする諸友人の援助を拒まず、余輩が今左に感謝の表を掲ぐるは是れ諸氏の隠徳を世に暴露するの嫌なき能はずと雖も、亦余輩が諸氏に対する義務の一部分なりと信ずればなり。
(110) 一金壱百円          山県悌三郎氏
 一金六拾円     警醒社主人 福永文之助氏
 一金三拾円     新潟硝子商 大橋正吉氏
 
(111)     片言
                   明治32年6月5日
                   『東京独立雑誌』33号「雑壇」
                   署名 苦言生
 
◎国も余り深く愛すれば国賊となり、宗教も余り深く信ずれば異端となる、日本の如き国柄に於ては何事も宜い加減なるを宜しとす。
◎平将門は平民の友なりしとも言ひ、又大逆無道の臣なりしとも云ふ、是れ史的精神が我国民の中に普及して後に決せらるべき面白き問題なり。
◎楠正戌とても今の忠臣愛国者連に担ぎ上げらるべき人物にあらざりしは曾て本誌に掲げし『正成伝』にて明かなり、彼は智仁男の士なりしと云へば今日所謂|常識《コモンセンス》に富みし人に相違なかりしならん。
◎大阪朝日新聞頃日「清国と其鉄道」なる有益なる長篇を掲げ、其終りに我当路者の清国に対する無能を嘲り、結論して曰く、「日本も第二の布哇となりて新建第二の米国(支那)に合併せられんのみ」と。
◎「第二の布哇」! 此言にして若し五六年前に発せられんか、井上哲次郎博士、高山文学士等の諸愛国者の筆的打拳は雨の如くに『朝日』記者の頭上に加へられしならん。そは国を辱しむるの称号として是の如きはあらざるべければなり。
◎然れども公平に史的眼光を放つて日本今日の状態を観察すれば其中に幾多の布哇的現象を発見するに難からず、(112)読者若し余の言を疑はゞ布哇史一冊を購ふて之を一読せよ。
◎布哇の発見並に発達が日本の開放に与りて力ありしは歴史上の事実なり、而して日本が勃興して世界に雄飛せんとする頃、布哇は米国に併呑せられたり。◎日本の興起が支那の開放を促せしことも歴史上の事実なり、支那が第二の米国となりて世界に雄飛する頃はグヅ/\すると日本も其合併する所とならんとの『朝日』記者の心配も全く杞憂にあらず。
◎そは日本人とても肉体を着けたる人間なれば必ず国家的に死せずとも断言し難し、指導其道を過まれば日本とても布哇の轍を践むに至るやも知れず、是れ愛国者の深く注意すべきことなり。
◎然れども若し革めんとなれば今日の如く何時までも愚頭愚頭しては居られぬなり、そは東方亜細亜の西洋化せらるゝは百年千年の後にあらざればなり、今日〔二字右◎〕は実に日本の生死を決するの秋なりと余は度々思ふなり。
◎「汝は死せんことを欲して活きんことを欲せず」とは猶太《ユダ》の或る愛国者が其国人を罵りし言なり、若しイザヤ、エレミヤの如き熱誠なる愛国者の我邦に顕はるゝならば同一の語調を以て我国の当路者、文学博士、教育家、宗教家の類を罵るならん。
◎然れども何は扨置き、藩閥政府の強ひし支那的教育の中に過去十四五年間を過ごせし我国民の事なれば何が興国で何が亡国か其辺の処は少しも感ぜざるが如し、何でも軍艦が沢山出来て、世界に向て威張る事が出来れば夫れで国が興つた様に信ずる連中が多き事なれば、革進を今日に於て唱ふるは随分困難なり。
◎現実主義が東洋壊乱の原因だとは本誌の寄書家中村諦梁氏の説にして亦欧米諸学者の中に行るゝ定説の如くに見ゆる、日本を救ふとは此現実主義より国民を救ふのだと余は思ふ。
(113)◎併し其が大事業で大困難だ、此種の救済に従事せんと欲せば国賊異端等の名を国民から頂戴する位の事は覚悟の上でなければならない、勲章をブラ下げ恩給に与かりながら日本国は迚も救へない、是を思ふと苦言生の如きも夜も眠られない事が度々ある。
 
(114)     たらしめば文学(【此欄広く読者の奇書を募る】)
                    明治32年6月5日
                    『東京独立雑誌』33号「雑壇」                     署名 独立子
 
    (一) 余をして若し総理大臣たらしめば
 
 余をして若し日本国の総理大臣たらしめば、余は余の施政第一の事業として箱根の勝地を化して一大国民的公園となすべし、余は先づ国府津より湯本迄新たに鉄道を布設し、湯本より宮の下、宮の下より一方は蘆の湯、箱根駅へ、他の一方は姨湯へ向け新たに道路を開鑿し是に馬車鉄道を布設するなるべし、且又七湯到る所に公的浴場を建築し、或る簡易なる法則の下に何人も自由に入浴湯治するの便益を備ふるなるべし、而して毎週一回東京並に名古屋辺より箱根遊覧列車なるものを発し、最低々額の賃金を以て四民何人も此天然の偉観を楽しむの快楽を供するなるべし、且又公園内には固く芸娼妓幇間等風俗紊乱の嫌ひある人物の入るを禁じ、此処に都会の汚気に接することなくして芙蓉峰の蘆湖鏡面に映ずる眺め、大地獄に地質学的大現象を目撃し、以て神心休養の為めの静地を此処に作るなるべし、斯くてこそ余は民に対し、天に対し此美国の総理大臣たるの本職を尽せし事と信ずれば、余は余の本心に於て無上の快楽を感ずることならんと念ふ
 
(115)     英和時事問答〔4〕
                      明治32年6月5曰
                      『東京独立雑誌』33号
                      署名なし
 
    雑談
 
 何にか新聞はありませんか。
 何にも是ぞと云ふ事はありません;何時《いつも》の通りの平々凡々の世の中です。
 足下は今日の新聞を御覧なさいましたか。
 一寸と目を通しました。何にか面白い事がありますか。
 大石さんが又社会問題と成て居ります。
 アノ人ですか。彼が何を為したか足下がお話し下さらずとも私には推察が出来ます。駱駝の様な人ですね。
(116) 爾《さう》です、彼は実に駱駝です、彼は馬です、彼に関する今度の記事が本当ならば。
 然し御承知の通り彼は今日の日本紳士の好意標本です。
 実に実に歎ずべき事です。又羞づべき事です。若し此事が英吉利か亜米利加に有たならば社会は如何に彼を処すると足下はお考へなさいますか。
 彼を逐放するまでゝす、或は「リンチ」するかも知れません。彼は公敵として認められ、全国は挙て恰かも国の秘密を洩したる国賊を責むる様に彼を攻め立てませう。
 ソレは正当の所置だと思ひます。一婦人の貞節を犯した男は家庭の神聖を犯した者で、ソレと同時に亦国家の神聖を犯した者です。
 嗚呼。然し全国民は足下が此事件に就てお考へなさる様には考へません。御承知の通り儒教の行はれ居る国に於ては、情慾的の悪罪は一般に罪悪としては考へられません。
 ソレは爾うです;ソレが儒教国に於て所謂幸福なるホームと云ふ様な者のない主なる理由だと私は思ひま(117)す。
 他に新聞はありませんか。
 足下は醍醐侯爵家の怕るべき血塗れ騒動に就てお聞きでせう。
 左様、アレは怕ろしい事件です。アノ事は上等社会の家庭に於て何う云ふ事が行はれて居るかを示します。
 ドウモ我国の社会組織全躰に何にか間違て居る処が有るやうに見えます。
 私にも爾う見えます;然し一般の説には我国のは世界中第一だと申すことです。
 何うしたら宜いんでせう。
 其儘にして置く丈けです;但し、お互は総ての悪事を避けて国民が其欠点を認むるの時を俟つまでゞす。
 
 何時其時が来りませう。
 長い事ではありますまい。遠からずして国民は国民自身を革めねばならぬ時が来ます。左なくば国民は総て其陸軍と総て其海軍とを以て其存在を止めねばなりません。此事が我等国民に早く分れば早い程宜しう厶います。
 
(124)     〔西洋の物質主義と東洋の現実主義 他〕
                  明治32年6月15日
                  『東京独立雑誌』34号「記者之領分」                      署名なし
 
    西洋の物質主義と東洋の現実主義
 
 二者現物に非常の価値を置くに於ては一なり、然れども其起因と土台的原理に於ては二者の差異は霄壌も啻ならず。
 西洋の物質主義は自然に勝たんと欲する霊の動作より来れり、即ち聖書に所謂「神依己像造人……神祝之又謂之曰、生育衆多、満盈於地、爾克治之」の使命を実行せんと欲して来りしものなり、即ち物の為めに物を求むるに非らずして物に対する霊の統治権を決行せんが為めに自然の征服を遂げんと欲して来りしものなり、即ち海に勝たんと欲して※[さんずい+氣]船を造り、山に勝たんが為めに墜道を開鑿し、距離に勝たんと欲して電信、電話の機械を発見せしなり、フランクリンなり、フハラデイーなり、エヂソンなり、今日我国に於て称する物質的人物に非ずして、野馬を馴致せんとするが如き思念を以て自然物の馭御征服に従事せし人なり。
 東洋の現実主義は全く之と異る、東洋人は物を離れて霊の存在を信ずる能はず、彼等の理想的社会は現世に在て未来に存せず、彼等の神は霊に非らずして肉体を着けたる人間なり、彼等の英雄は詩人又は宗教家に非らずし(125)て軍人又は政治家なり、彼等の美術と文学とは技芸にして思想に非らず、彼らは自然に勝たんと欲せずして是を娯しまんと欲す、物は彼等の目的にして器具に非らず、自然の上に立て之を統治せんと欲するに非らずして是と和睦して之を利用せんと欲す、故に東洋人は結果を重んじて方法を軽んず、真理其物を省みずして其効用に着目す、故に其哲学者は哲理を曲げても時の制度を弁護せんと欲し、其宗教家は宗義に戻るも社会の現状を維持せんと欲す、治国平天下は東洋人の最大目的にして、真理の開発の如き、自由の伸張の如きは国家の安寧を犠牲に供しても追求すべきものとは彼等は決して信ぜざるなり。
 二者其原理に於て相異ること斯の如し、故に西洋に於ける物質主義の進歩は民の克己勤勉を促し、生存競争となりて体力智能両つながらを研磨し、高貴なる勇者を生み、偉大なる慈善事業を起す、近くはスタンフォード大学の如き、遠きはジラード孤児院の如き、共に米国流の物質主義の美として賞賛すべきものなり。
 之に反して東洋に於ける現実主義の発達は好逸貪安の風を作り、躰力の消耗、清神の痲痺を来たし、矜恤の情之が為めに鈍り、仁慈の心是が為めに去り、富は社会の災禍と変じ、貴は個人の不幸と化す。
 故に余輩は言ふ、国を亡すものは西洋の物質主義にあらずして東洋の現実主義なりと。
 
    婦人を遇するの途
 
 観劇の快を供するに非ず、錦綉玉帯を給するにあらず、婢をして之に侍せしめて高貴の風を装はしむるに非ず、婦人を遇するの途は男子親ら躬を潔うして彼女の貞節に酬ゆるに在り、費を節し家を斉へて彼女の心労を省くに在り、夫に此心ありせば彼女は悦んで貧を忍ぶを得べし、彼と共に義の迫害に堪ふるを得べし、婦人を遇(126)するの途は其高貴なる情性を動かすにありて其賤劣なる虚栄心《バニチー》に訴ふるに非らず。
 
    此の世
 
 此の世は正義を行ふべき所にして亦正義の行はるべき所なり、然れども抵抗なくして正義の行はるべき所にあらず、敵を作ることなく、傷を負ふことなくして、正義の普及を計らんと欲するものは、未だ此世の如何なる世なる乎を知らざるものなり。
 
    不幸の極
 
 人生不幸の極は富なきことに非ず、友なきことにあらず、家なくして路頭に迷ふも未だ以て不幸の極と做すを得ず。
 人生、不幸の極は一定の目的なき事なり、日出でゝより日の入るまで、年明けてより年暮るゝまで、何の存在の理由ありて此世に来りしかを知らず、何の目的ありて此生死の街を旅行するかを知らず、唯茫々然として、漂々然として向ふに方針なく、達すべきの港なく、海草の潮流に浮ぶが如く、満潮と共に進み、干潮と共に退き、終に齷齪として無意識の中に一生を終る、余輩は彼の高貴権門の士たるを問はず、豊裕殷富の人たるを択ばず、凡て確乎たる一定の目的なくして人世を通過する人を憫れむや切なり。
 
    予言せんのみ
 
(127) 革新を唱ふるも聞かれざるを知る時は余輩は時世の成り行きを予言せんのみ、余輩に愛国者たるの希望絶ゆる時に歴史家として未来を卜するの志望生ず、圧制々度の精神に及ぼす動作は常に此の如きものなり。
 
    罪悪の種類
 
 盗む事、他人の妻を姦することのみが罪悪に非ず、時と約とを違ふ事、是れ亦明白なる罪悪なり、前者に於て潔白なるも後者に於て無罪ならざる者は未だ清士を以て目すべからず。
       *     *     *     *
 フランクリン曰く「時に遅るゝ事は時を盗む事なり」Procrastination is the thief of time と、而して若し「時是れ金なり」との彼の言にして真理ならば、時を偸む者は是れ即ち金を盗む者ならずや、嗚呼汝遅刻者よ、汝は金を盗む者なり。
       *     *     *     *
 約を違ふ者は信を破る者なり、信を破る者は友を売る者なり、違約を以て単に悪習の一種と見做し、深く之を咎めざる者は社会を其根底に於て破壊する者なり。
       *     *     *     *
 怠惰懶慢、是れ亦確かに罪悪の一種なり、是れ時間の浪費にして違約遅延の罪源なり、西諺に曰く「何事をも為さゞるは悪事を為すなり」Doing nothing is doing ill と、時を穀すの罪は人を穀すの罪に及ばざる唯一歩のみ。
 
(128)    慈善の種類
 
 亜拉此亜の予言者マホメット曰く「凡ての善事は慈善事業なり、汝の隣人に接して汝の頬に微笑を呈する事、迷者に正道を示す事、渇者に水を給する事、是れ皆慈善事業なり、善行を他人に勧むる事、是れ亦慈善事業なり」と、慈善事業を衣食の給与、金銭の施与の内に限る者は、未だ他に大慈善の存する事を知らざる者なり。
 
(129)     時感
                    明治32年6月15日
                    『東京独立雑誌』34号「思想園」                    署名 関東生
 
    文部と外務
 
 文部は内に対する府なるが故に対外硬を主張し、外務は外に対する府なるが故に対外軟を唱ふ、前者は国家主義を採て後者は世界主義に拠る、同一の政府にして相手の強弱に従て執る所の主義を異にす、是れ政府の威信を表するの途にあらず。
 
    日本国の愛国者
 
 日本国の愛国者とは外国人に対しての愛国者にあらずして内国人に対しての愛国者なり、彼等は内に愛国を誇るを知て外に是を宣揚するを知らず、日本東京に於ては基督信徒の撲滅を主張し、独逸伯林に於ては日本婦人の欠点を摘示して得々たりし某文学博士の如きは其好例なり。
 
(130)    至誠
 
 「至誠を吐露して大日本帝国人士に檄す」てふ題目の下に大広告を為して天狗煙草の喫用を勧むるは東洋煙草大王岩谷松平氏なり、「有朋惟至誠あるのみ」とて藩閥政府の持続を計るは陸軍大将山県有朋侯なり、其他板垣伯は至誠を以て彼の自由党を吹聴し、石川舜台師も至誠を以て護法を説く、嗚呼至誠、至誠、至誠、余輩は其今日何を意味するの語なるやを知るに困しむ。
 
    人爵と天爵
 
 父は従一位前内大臣輝弘公、母は前関白入道准三后鷹司政熈公の七女、然るに其子忠順侯には三十人の妾あり、其孫忠敬公亦国民の亀鑑たるに耻づべきの行為多かりしとなり、如何に日本国の階級なればとて、人爵は以て天爵の保証にはあらざるが如し。
 
(131)     雑誌博士の教訓
                    明治32年6月15日
                    『東京独立雑誌』34号「雑壇」
                    署名 笑肥生 筆記
 
◎売れる、美人画を挿めば売れる、忠君愛国論を唱ふれば売れる、博文館の『文芸倶楽部』と『太陽』とを見賜へ。
◎宗教の事を書き賜ふな、屹度売れない、殊に耶蘇教の事を書き賜ふな、何時でも時世向きの事を書き賜へ、日本人は宗教には極く冷淡だと云ふことを心に留給へ。
◎何でもツマラナイ、馬鹿げた事を沢山書けば屹度売れる、君が上出来だと思つた時は最も不出来な時で、君がツマラないと思つた時が読者が最も喜ぶ時だと知り給へ。
◎何んでも紙面を賑かに為し給へ、固くるしき事は可成少いのが宜い、然し無くてはイケない、余り骨を折らずして読める様な物を以て填め給へ。
◎僕は精神だとか主義だとか云ふ事には別に頓着しない、併し雑誌を能く売らうと思へば先づ以上の如き方針を取らなければいけないと思ふ。
 
(132)     粋人の口調
                     明治32年6月15日
                     『東京独立雑誌』34号「雑壇」                     署名 笑肥生 筆記
 
◎ナニ社会の改良だ、ソレは真平御免だ、斯う云ふ社会だからこそ詐偽見た様な商売も出来るし、海豹《あざらし》の様に沢山女を持ても誰も何ともいはないのだ、君は東洋の日本国は世界の極楽園なるを知らないのか。
◎ナニ国が亡ぶると、ソレは余計な心配だ、〇〇〇が此国を取らうと〇〇〇が取らうとマサカ富士山を引つこ抜いて持て行きはしめい、僕なんぞは生命と財産とさへ安全なれば外の事は余り構はないよ。
◎さうさ、僕だつても忠君愛国だとか、社会改良だとか云ふことを口にするさ、爾う言はなければ世間並の交際が出来ない、然し其れは其れとして商売は商売だ、社会はどうならうと是に応ずるの商策はあるものだ。
◎マア、其んなに気を揉み玉ふな、成る様にしか成らないよ、金を儲けながら国を救ふの途もないとも限るめえ。
 
(133)     教界雑話
                     明治32年6月15日
                     『東京独立雑誌』34号「雑壇」                     署名 無教会生
 
◎余輩が或る地方に於て基督教界の俗化を語りし結果として二三の信者が或る教会を脱したりとて荐りに呟く牧師ありと聞く、意気地なき牧師殿かな、余輩の一回の談話位にて信者に逃げ出さるゝ様な事では牧師殿平生の感化力も余り大なるものとは思はれず。
◎或人余輩に問ふにメソヂストなる名称の意義を以てす、余輩彼に答へて曰くメソヂストは英語のメソッド(方法)なる語より来る、故に之を方略派と訳して可ならん、即ち貴顕招待会の主動者の如き是れなりと。
 
(134)     英和時事問答〔5〕
                      明治32年6月15日
                      『東京独立雑誌』34号
                      署名なし
 
        人生終局の目的
 
 人生終局の目的とは何ですか。
 人生終局の目的ですか。若し足下が文官ならば伊藤侯の如くに成る事です;若し実業家ならば岩崎男の如くに;若し軍人ならば高島子の如くに;若し詩人ならば森槐南氏の如くに;若し宗教家ならば石川舜台師の如くに;若し哲学者ならば博士井上哲次郎氏の如くに成る事です。
 足下はお冗談を仰ります。
 爾うではありません。私は真正の日本人として真面(135)目に語て居るので厶ります。日本国の貴族は国民の亀鑑だと歴然と書いてあるではありません乎;又私の指明しました他の人士も各自其方面に於て亀鑑として仰がれる人ではありません乎。
 御尤です;然し私の知らんと欲する事は日本人の終局の目的ではなくして、人類のです。
 御免なさい。私は能く足下の御質問を解しませんでした。御承知の通り此質問に対し与へられたる最も遠大なる解答はウエストミンスター会議に列したる神学者の供したるもので此の如きものでした、即ち『人生終局の目的は神を崇め、永久に彼の恩寵に沐する事なり』
 余まり高尚で私には分りません。
 神とは凡ての善、真、美の成体です;故に神を崇むるとは私共の想、言、並に行に於て彼の完備の性を発揮する事です。
 
 其様な事が出来ませうか。
 出来やうと思ひます。此生涯に於て完全なる人と成る事は出来ないかも知れませんが、完全を我等の目(136)的と致しますれば其れに近寄る事が出来まするし、又何時か其れに達する事が出来るかも知れません。
 ソンナラ足下は我等人類は神のやうに成れるとお仰やるのですね。
 爾うです、私は爾う信じます。
 私は足下には迚も及びません。私には今世以外に人生の目的を探ぐるは殆んど困難です;然し夫れは私の受けました教育のセイでせう。
 
 爾うかも知れません。然し人の目的の大なる程彼の行績の偉大なるは足下も御承知でせう。今世を以て終局の目的とする人には決して今世以上に達する事は出来ません。
 足下のお仰やる事は凡て御同意です。私も足下のお信じなさる様に信じたいものです。私共は其源を究めずして美術文学を多く語るものです。私共は宗教の価値を知りますけれども是を信ずる事が出来ません。
 
 夫れなれば此事に関しては私は足下の何の御役にも立ちません。足下は御自身之をお信じなさるか、然ら(137)ずば夫れなりにして置くまでゝす。何人も足下に信仰を強ゆる事は出来ません。
 
(141)     〔詩人の事業 他〕
                  明治32年6月25日
                  『東京独立雑誌』35号「記者之領分」                  署名なし
 
    詩人の事業
 
 詩人幽居して詩を作る、時人彼を評して曰ふ、「彼れ無為の人世に用なきの事をなす」と、然るに時至りて彼の思想の事実となりて顕はるるや、剣戟是が為めに動き、山岳是が為めに震ひ、社会は其根底より改造せられて民に蘇生の感あり、時人亦彼を評して曰ふ、「偉大なる哉詩人、彼の作は実に革命の声なりし」と。
 
    英雄の心事を知るの特権
 
 王座に近くの寵臣貴族の特権あり、社会に高位を占むるの富豪の特権あり、博識に誇るの学者の特権あり、是れ皆革むべきの特権なるも英雄の心事を知るの特権に及ばざる遠し。英雄の心事、是れ富と貴と識とを以て探り得るものに非ず、躬、親ら彼の嘗めし辛酸を味ひ、彼の蔵せし希望を抱き、彼と悲歎を共にし、彼と共に世に窘められ、辱かしめられ、終に彼と死を同うするの境遇に処して始めて彼の心事を知るを得るなり、基督と共に泣き、ダンテと共に忍び、プーシキン、イブセンと共に怒て、吾人は始めて彼等の友となり、推察的に彼等の兄弟(142)となるを得るなり、姻戚を高貴の人に求めんと欲する者は求めよ、我は今人に斥けらるゝも古今英雄の心事を知るの特権に与からんことを願ふ。
 
    我の恩人
 
 我の恩人は我に物を与ふる者にあらずして我の物を奪ふ者なり、前者は我をして現世の快楽を感ぜしめて我の憤を癒し、後者は世の無情を示して我をして心海に思想の真珠を探らしむ、我の物を奪ふて我に想を供する我が敵人は如何に愛すべきかな。
 
    神を信ずる事
 
 神を信ずる事は読んで字の如く神を信ずることなり、彼の存在を信じ、摂理を信じ、補語と指導とを信ずる、恰も吾人肉躰の父のそれを信ずるが如くに信ずるを云ふなり、信ずると口に云ふに非ず、実に信ずるなり、而して吾人処世の方針を全く此信仰に基いて定むるを云ふなり、詩人コレリツヂ時の宗教家を評して曰く、彼等は信ずると躬ら信ずるものにして信ずる者にあらずと、信神の事決して容易の事にあらず。
 
    腐敗せるもの
 
 腐敗せるものは日本に非ず、英国に非ず、露国に非ず、米国に非ず、腐敗せるものは世界全躰なり、人類其物なり、吾人の模範にして世界以上、人類以外のものに非る限りは吾人より大改革の来るべき筈なし。
 
(143)    改善の途
 
 改善は他人の悪事を知て来るものにあらずして自身の欠点を認めて来るものなり、他人の悪事を知るは吾をして我自身の清浄に誇らしめ、彼を責むるの念を起して自省自抑の思を醸さず、改善は自遜に始まり、謙退に基因す、我れ我が短所、弊疵を発見する時は我が改善の途に就くの時なり。
 
    日本人の特性
 
 日本人は正義を唱道するを愛して之を実行するを好まず、彼等は厳粛の人を崇拝(遙拝)するも彼に服従する能はず、彼等は何事も規則正しきを嫌つて不規則にして※[手偏+僉]束なきを愛す、之を彼等の論文に読み演説に聞いて彼等は方直厳正の民なるが如し、然れども之を彼等の行動に徴して余輩は未だ彼等の如く不規律なる民あるを知らず。
 
    実権と責任
 
 日本人は又実権を握るを愛して是れに伴ふ責任を負ふを好まず、是れ彼等の中に隠居黒幕の制度の盛に行はるゝ所以なり、責任は幼少後進の者をして之に当らしめ而して実権は長老先進者の握る所たり、彼等の多くは身を敵手に曝らさずして軍功を建てんとする憶病者なり。
 
(144)    政略的民族
 
 日本人は政治を好んで宗教を好まず、其結果たるや彼等の政治なるものは政略の異名にして彼等の宗教なるものは宗略たるに過ぎず、彼等の多くは未だ真面目に宗教を信ずるとは何の事なるかを知らず、彼等の中に大政治なく、大文学なく、大美術なく、凡て大と称すべきものなきは彼等の此排宗教的観念に因らずんばあらず。
 
    日本の政治家
 
 日本は世界の発達史上如何なる位置に立づべき者なる乎、是れ日本政治家の決すべき最要問題なり、然るに世界とは如何なるものなるやを知らず、発達とは何を目的として発達するものなるやを弁へず、唯目前に処するに汲々として速き過去と未来とを稽へざる我国今日の政治家なる者は海図と海流と風位とを解せざる航海者の如き者にして、国家が彼等の手に委ねられて竟に絶望岩上に破砕せん事は理の最も睹易きものなり。
 
    人望を得るの法
 
 日本に於て人望最も多き学校教師は厳格に学課を強ひざる者なり、人望最も多き府県知事は規則法令を厳格に励行せざる者なり、信徒は其過失を厳責する宗教家を嫌ひ、文人は遠慮なく彼の欠点を摘示する批評家を厭ふ。何事も寛大にして、何事も放埒にして、何事も緩慢にして、吾人は日本人の人望を得るに難からず。
 
(145)    偽人
 
 偽人の組織する政党は偽党なり、彼等の組織する国家は偽国なり、偽人相依て以て公党義団の存立すべき筈なし、偽人の合成する君子国、(!)背理何物か是に若くものあらんや。
 
    支那の壊滅と日本の未来
 
 支那の壊滅は日本の未来に何の係はる事あるなしと云ふを得ず、日本は支那道徳を専崇し来り者、其忠孝主義は始めて之を支那に学びしものに非ずとするも、其之を支持し涵養し来りしものは支那道徳なりし事は掩ふべからざる事実なり、日本の政治家は支那学者なり、其文学者とは能く支那文学を操る者なり、其教育家は主として支那学を講じ、其忠臣と愛国者とは多くは支那人を範とす、支那は実に日本の師国にして、師亡びて患の弟子に及ばざる理なし。
 余輩は我国の具眼者と称する者が、此明白なる事実を目前に控へながら尚ほ支那主義の普及を計りつゝあるを見て、愕然たらざらんと欲するも得ず。
 
    支那道徳の性質
 
 支那道徳の全然悪しきに非ず、其悪しきは比較的なり、之を蒙古、満州、西蔵の道徳に比して数等に優る者なることは疑を容れず、然れども之をイザヤ、エレミヤ、保羅、アウガスチン、ルーテル、ウヰクリフ、ウエスレー、(146)カント、ヘーゲル等の道徳に比して無効無力の道徳なることは言を俟たず。
 今の時に当て支那に学ぶは死なり、永久に存在せんと欲するものは支那を離れて他に学ぶ所なかるべからず、是れ師を捨つるにあらずして弟子先づ生地に入て然る後に師を救ふの途なり。
 
    言行一致
 
 言行一致とは言ふ事を悉く行ふのみを言ふにあらずして亦行ひ能はざる事を言はざるをも云ふなり、口に語り筆に綴る事を悉く実行するは難し、然れども力の及ばざることを言はざるは左程難事にあらず、吾人若し言行一致を守り得ずとすれば努めて行言一致を計るべきなり。
 
(147)     蚊々録
                     明治32年6月25日
                     『東京独立雑誌』35号「雑壇」                         署名 立腹生
 
◎金が有つても智識が無くては可《いけ》ない、智識が有つても精神が無くては可ない、金が大分有つて智識も相応に有つて精神の微《ちつ》ともないのは今の日本だ。
◎有る、有る、金儲けの精神がある、敵愾心とか称する野蛮人にも、獅にも虎にもある精神の様なものがある、然れども精神の精神たるべきもの、即ち西洋人の所謂 Enthusiasm for Humanity(人類に対する熱心)とか或は Expulsive Power of Love(愛の掃浄力)とか称すべきものは薬にしたくもない。
◎デオシイ氏の東京政治学校に於ける演説に曰く「国民を導くの大道に至ては国を問はず、時代を問はずして唯々一あるのみ、即ち英国をして隆盛を得せしめたるもの又日本帝国をして盛大なるを得せしむべきのみ、此大道に拠る、是れ国を経するの謂なり」と、是れ常識《コンモンセンス》なり、是に反対する人は日本主義を唱へらるゝ我邦の諸先生のみ。
◎君子国に詐偽師多くして宗教界に偽物奸物多しとは変な事実なり、然れども両者共に疑ふべからざる事実なるを如何せん。
◎仏教を公認教として何うする、日本国民をして悉く大谷光尊、石川舜台の諸聖人を学ばしめんとするか、余輩(148)は釈尊の教訓に服従する事あるも、人倫の大道に戻る多妻蓄妾の禽獣的制度をば採用せざるべし。
 
(149)     政党員と犬
                    明治32年6月25日
                    『東京独立雑誌』35号「雑壇」
                    署名 排党生
 
◎政党の党の字は尚ほ黒しとか、或は黒きを尚ぶとか読むべきものなるが如し、而して黒は晦なりと云へば晦冥は古来党員原の特性なるが如し。
◎以上の字義より推す時は、国憲党を黒犬党と読みて字義意義両つながら其当を得たるものと云ふべし、故に其意義より推す時は自由党は白犬党と読み、進歩党は斑色《ぶち》犬党と読んで可ならん。
◎故に其実に於ては政党の競争とは犬の噛合なり、是れ斑色、黒、白犬等四足有尾の党員共の為す所にして万物の霊たる人の従事すべきことにあらず。
 
(150)     英和時事問答〔6〕
                      明治32年6月25日
                      『東京独立雑誌』35号
                      署名なし
 
        夏の夕暮
 
 暑いではありませんか。
 酷う厶います。
 如何です。
 先づ同じ事です。
 新聞は何です。
 政治家共が京都に集りました。
 何を為しました。
 吹いて戯けました。
 無益な奴共ですね。
(151) 無いと同然な奴共です。
 彼等は社会の寄生虫です。
 左様、毒虫です。
 何うしたら彼等を根絶する事が出来ませう。
 乾し殺すまでゝす。
 何にか宜い銭儲けの法はありませんか。
 額に汗して取るより外に何にもありません。
 
 然し正直なる労働は近来は実に益が砂う厶います。
 爾うです、然しお互に政治家にはなれません。
 真面目の人の成れる事ではありません。
 足下は仏国革命家の一人なるダントンの曰た事を御承知でせう;銭を得るに三つの法があるさうです、即ち偸むか、貰ふか、働くかださうです。
 左様さ、我々は政治家のやうに盗む事は出来ません、又貴族に呉れるやうに我々に呉れる人はありません;其れですから我々下層社会の者に取ては活きて居やうと思へば働くまでゞす。
 憐れな境遇ですね。
 足下は爾うお欲召しますか。
(152) 或る時は真面目に働くのは実に馬鹿気切て見ゑます。
 御尤です、然し良心の清いのと腹の空《へ》るので沢山です。
 左様さ、其れは随分の幸福です。然し政治家共も腹は善く空る様です、彼等の善く飲んだり食ふたりするのを御覧なさい。
 彼等は獣類《けだもの》ですものを。獣類には胃の腑はありまするが良心はありません。
 夫れで分りました。
 左様です、フロツクコートを着たる獣類です。
 奇妙な獣類ですね。
 然し此国には沢山|棲《い》ます。
 御承知の通り新政党は自から国憲党と称しますが、是れは黒犬党と訳して誠に適当だと思います。
 
 誠に左様です。彼等は天よりの指命に依て其名を附けたのでせう。
 多分爾うかも知れません。
 お互は政治家として生れて来なかつた事を天に感謝(153)しなければなりません。私の考へまするに我々は車を曳くも政治家と成てはなりません。彼等は実に社会の糟です、――口ばかり、胃の腑ばかりの奴共です。
 
(156)     〔眼の善悪 他〕
                  明治32年7月5日
                  『東京独立雑誌』36号「記者之領分」                      署名なし
 
    眼の善悪
 
 悪しき眼を以て視ん乎、此完備せる宇宙も悲痛慘憺の巷たるを失はず、颶風ありて地上を一掃するや、人類積年の労働の結果は瞬間にして拭ひ去られ、海嘯ありて一時に幾万の孤児を作り、蚊と蚋《ぶゆ》とは夏時の清涼に煩擾の苦を加へ、黒雲ありて秋天に明月の面を掩ふ、幾多の哀歌は造化の悲的半面の観察に依て成れり、悲んで宇宙を観れば万象一として悲歎の種ならざるはなし。 然ども善き眼を以て宇宙を観ん乎、何物か歓喜嘆賞の題目ならざる、夜間仰いで蒼空を望み瞻れば肉眼を以てするも六千余個の無尽燈の燦然として天空に懸るを見るなり、一茎の雛菊は偉人ヲルヅヲスの希望を繋ぐに足れり、詩人リヒテルは詩想を常に雷霆激震の間に得たりと、喜んで宇宙を見て吾人は金玉を以て飾られたる宮殿に棲息する者なるを知るなり。悪しき眼を以て人間社会を見れば物として邪弊ならざるはなく、人として魔鬼ならざるはなく、吾人は魑魅魍魎の中に棲息して四隣皆偸児なるやの感あり。然れども善き眼を以て吾人の同胞に接すれば彼に愛すべく敬すべきの情性少なからず、マホメット曰く「汝等の心の中に存する哀憐の情は是れ神が汝(157)等に賜ひし最大の賜物ならずや」と、而して余輩は未だ此「最大の賜物」の痕跡をも留めざる人あるを知らず。
 
    真理は劇薬なり
 
 真理は其最も穏和なる形に於て劇薬なり、独立なれとの単純なる真理は其内に否定反抗の原理を含む、清浄を全うせんと欲して汚物醜類に対して戦を宣告せざるを得ず、若し平穏をのみ維れ貴び社会又は教会に風波の揚らざらんことを欲せば真理を全く唱へざるに若かず。
 
    労苦と責任
 
 労苦を避けんと欲すれば責任を避くるに若かず、世に労苦の伴はざる責任あるなし、労苦を恐れて責任に当り得ざるものは終生何事をも為し得ざるものなり。
       *     *     *     *
 名利の為めに画して吾人の事業は成功するも失敗なり、他人と公衆との為めに計て吾人の企図は失敗するも成功なり、失敗といひ、成功といひ、是れ吾人の之を招きし動機如何に由るのみ。
       *     *     *     *
 悪を信ずるは易し、難きは善を信ずるに在り、善の実在と其無限の労力とを信じて吾人は始めて精神的革命家たるを得るなり。
(158)       *    *    *     *
 悪を滅するものは悪に非ずして善なり、毒を以て毒を刺し得るも是れ纔に其瀰漫を防止するに過ぎず、日光が泥地の瘴毒を燼消するが如く、吾人は善行の饒多を以て社会の醜事を排除せざるべからず。
 
    ボスエーとフエネロン
 
 言あり曰く、「ボスエーは宗教を立証し、フエネロンは之を愛すべきものたらしめたり」と、前者は宗教の評論家にして後者は其実践家たりしなり、ボ氏の基督教証拠論なるものは今や陳腐の説として顧る人なく、フエ氏の美的生涯は今尚ほ仏人四千万の亀鑑たり、宗論学説なるものは到底世を救ふの器具にあらず。
 
    金銭を獲るの法
 
 言あり曰く、金銭を獲るの法に三あり、盗む其一なり、貰ふ其二なり、稼ぐ其三なり、而して吾人は盗賊に非ず、投機商に非ず、政治家にあらざれば盗むを得ず、又華族にあらず、幇間にあらざれば貰はんと欲するも吾人に之を与ふる者あるなし、此に於て乎正直なる平民に取りては金銭を獲るの法只一途あるのみ、即ち稼ぐのみ、手に唾し、額に汗して神の宇宙に正直なる労働の結果を収めんのみ、而して天は己を助くる者を助け給ふと言へば吾人は盗み且つ恩給に与るの要あるを見ず。
 
    奇異なる言語
 
(159) 俗人と為るを世に出づると称し、真人に帰るを世を去るといふ、嘘を吐いて俗と和するを立身と称し、真を索めて天然と交はるを隠退と名く、罪悪に沈める人類の言語は実に奇異なるものかな。
 
    道徳と精神との区別
 
 道徳は規則にして精神は生命なり、前者は外より制し、後者は内より発す、道徳の目的は主として抑慾謹慎にあり、然れども精神は善を以て生命となすものなれば外部の拘束を排して善行の果を結ばんと欲す、「己の欲せざる所を人に施す勿れ」とは道徳なり、汝の隣人より汝が為されんと欲するが如く汝も汝の隣人に為すべしとは精神なり、日本に道徳あり、然れども未だ精神ありと云ふを得ず。
 
    友人加藤トシ子を弔ふ
 
 友人加藤トシ子逝く、
 彼女は歳五十にして志を起し、同胞女子の教育を企て、女子独立学校を起し、孜々として此聖業に従事する茲に十有二年、病んで起つ能はざるに及んで素めて歇む、眠むるの前二週日、彼女の感覚未だ正確なるの時、余は彼女をその病褥に訪へり、談彼女の学校に及ぶや、彼女は病苦を忘れ、意気音声平日に異ならず、其後来を語り大に愛息勝弥氏並に余に嘱する所ありき、余は未だ彼女が死病に犯されしを知らず、戯れに彼女に語て曰く、「我等神を信ずる者に取りては縦令死するも何かあらん、我等は彼の国に至て我等の事業を継続せんのみ」と、彼女は余に和して曰く、「嗚呼然り、実に然り、癒ゆるも働かんのみ、死するも働かんのみ」と、後彼女の病日々に革る(160)や、常に家人に告げて曰く、「我れ今より天国に行て働かんと欲す、汝等も地上に於て働くべし」と。日本婦人にして歳半百に達して快楽を意はず、其繊弱の腕を揮ふて世の改善進歩に従事す、真正に基督教を信ぜし者は実に此の如き者なり。
 彼女逝て彼女の事業は死せず、王城の西緑蔭深き所に一校舎の彼女の遺志として存するあり、是れ女子大学を目的として興りしものに非ず、亦資を海外に募て成りし宗教学校にあらず、日本の女子問題は実に難問なり、而して一老媼独り起て是に解釈を与へんと試みたり、即ち労働と愛国心と基督教とに依りて日本婦人を救はんと試みたり、而して彼女は僅に其端緒を啓いて逝けり、吾人彼女と志を共にする者豈に彼女の事業を茲に中絶せしむべけんや。
 
(161)     耶蘇の祈祷と其註解
                     明治32年7月5日
                     『東京独立雑誌』36号「講壇」                         署名 内村鑑三
 
  天に在します我儕の父よ、
  願くは爾の名を尊ませ給へ、
  爾の国を臨《きた》らせ給へ、
  爾の旨の天に成る如く地にも成らせ給へ、
  我儕の日用の糧を今日も我儕に与へ給へ、
  我儕の罪を免すに我儕に罪を犯す者を我儕が免す如くなし給へ、
  我儕を誘惑に導き給ふなく、反て我儕を悪より拯ひ出し給へ、  亜孟。 『天』、天とは蒼穹を意味する者に非ず、宇宙全躰が神の棲家なるが故に彼に取りては天地の別あるなし、或人曰く宇宙の中心は参宿の中ハルシオン星の辺にあれば神の宝座も亦其辺にあらんと、夫れ或は然らん、恰も人の生命は彼の全身を充たすと雖も主として脳髄に存するが如し、神の精は宇宙の中心に凝在すとの説は一片の臆説として斥くべからず。然れども余は思ふ、此処に所謂天とは地理的又は星学的の場所を指すものにあらずして、神の聖意の完全に行はるゝ道徳的境遇を謂ふものならんと、而して神は宇宙孰れの処にも存するなれども、彼は(162)特別に浄潔の域に在すと云ふを得るなり、恰も彼は悪人たりとも見捨て給はずして是を擁護し給ふと雖も特別に善人と共に在すと云ふを得るが如し、無限の宇宙は神の住家なり、然れども神は特別に善人の在る処に在す、天とは蓋し如此所を指すなるべし、其天躰中孰れにあるかは知らざれども、無辺の宇宙、何処にか神の聖意の完全に行はる所あるなるべし、是れ吾人の住する此不完全極まる地球にあらざるは明かなり。
 『我儕の父』、神は我儕の王、我儕の主なるのみならず亦我儕の父なり、彼は神聖にして犯すべからざるものなれども亦近くべからざるものにあらず、言あり曰く、ツラン人種の神は怖るべく宥むべきの神なれどもアーリヤ人種の神は愛すべく親しむべきの神なりと、神を父とし呼ぶに及んで吾人の人生観に大変革の臨るを覚ゆ、彼は宥むべからざる運命の神にあらず、又雷霆の威厳を以て彼の帝座を護る世の帝王の如き者にあらず、彼は威ある者なれども亦矜恤ある者なり、彼の大大権能は大慈大悲と伴ふ、『父なる神』、此一句に無限の慰藉あり。『爾の名を尊ませ給へ』、凡て善なる事、凡て真なる事、凡て美なる事は収めて神なる一語に存す、波斯人のアフラマズタ、猶太人のエホバ、希臘人のデウス、羅馬人のジユピター、等は是を崇むる民の理想を込めし語なり、神の名を尊む事は吾人の理想を追求する事なり、真、善、実は神の性にして活ける独一無二の神を離れて真正の哲学なし、道徳なし、美術なし、夫の無神論的哲学に敬虔の念なく、無宗教的の美術に尊崇の念の表すべきなきは全く是が為めなり、神の名を尊崇せしむるに至るは家庭、社会、国家の神聖を来たすことにして、此一事を怠て世の所謂改革事業なるものゝ永久に成功すべきの理なし。
 『爾の国を臨らせ給へ』、神の国は理想の完全に行はるゝ所なりとは前に述べしが如し、其来て此罪悪を以て充ち満ちたる地に臨まんことは人類最大の希望なり、理想的国家の建設は吾人何人も日夜渇望する所ならずや、(163)吾人の希願にして何物か此の如く切なるものあらんや、吾人の心より憂愁の絶えんこと、吾人眼より涙の拭はれんこと、仁道は全社会に行き渉りて世に民の膏血を絞るの貴族豪商あるなく、暴主虐主は彼等の剣を収め、偽人は勲章位階に誇て義士は饑渇に泣くの慘事なきに至らんこと、是れ吾人心底の深所より発する希願の声ならずや、
   神歟、我心慕爾
   猶如鹿之慕渓水兮
   我心渇慕於神、即慕活神也
   我何時可至而現於神前兮
   昼夜之間我以涙為食兮
          (詩篇第四十二篇)
 『爾旨の天に成る如く地にも成らせ給へ』、
 是れ前句の意を一層明白に言ひ顕はせしものなり、神の国の此地に臨るとは彼の旨の此地に行はるゝを云ふなり、神意は無限の愛なり、其終に此地の法律とならんことを祈るなり、神に真理の光輝あり、然り神は真理其物なり、吾人は水の大洋を掩ふが如く真理が此地上に普ねからんことを祈るなり。神の聖きが如く人類の悉く潔からんことを、神の智きが如く吾人も智からんことを、即ち人類の社会が道徳的に発達して終に天国の如くならんことを、而して是れ夢想家の希願にあらざるなり、神意は徐々として此地に行はれつゝあるなり、未だ甚だ不完全なる人類の社会なりと雖も過去六千年を通過して是に偉大の進歩ありしことは何人も疑ふ能はざる所なり、(164)奴隷制度は廃せられたり、多妻の蛮風は年毎に人の忌避する所となりつゝあり、三百年前の昔、若し軍備廃止の提議を為す者あるも何人か耳を傾けし者あらんや、此地の化して天国の如くに成らんことは決して希望なきの希望に非ず、吾人が革進を唱ふるは其終に事実となりて世に行はれんことを確信すればなり、此希望と此確信となくして何人が起て社会の更革を叫ぶ者あらんや。 『尊ませ給へ』、hagiastheto『臨らせ給へ』、elthato、『成らせ給へ』、genetheto、悉く受動詞なり、其意蓋し神が吾人を授けて善事を為し遂げしめ給はんことを祈るにあるなるべし、吾人の欲する所は神が圧制的に世を改造し給はん事にあらずして、彼先づ吾人々類に高潔なる意志を給ひ、而して吾人奮勉の結果として此地が神の国とならんことなり、革進の貴きは革進其物の為には非ずして、其之を実行するに当て吾人自身を練磨するが為なり、尊め給へと云はずして尊ませ給へと云ひ、臨し給へと云はずして臨らせ給へと云ひ、成し給へと云はずして成らせ給へと云ふ、耶蘇の教訓が常に重きを吾人祈祷者の意志に置くは吾人の注意すべき事実なりとす、即ち耶蘇は革進に勝《まさつ》て革進の意志(精神)を求めしなり、吾人の意志より起らざる改革は外国人の手に拠て行はれし改革の如きものにして、其国民自身を益する甚だ軽少なり、即ち印度、埃及に於ける改革の如きものにして、其精神上の利益は悉く英人の収むる所となりて、土人は僅かに其物質的利益を享くるに過ぎず。
 『我儕の日用の糧を今日も与へ給へ』、
 是れ難句なり、『日用』と訳せられし希臘原語 ton epiousion は他に曾て見ざるの語にして其原意は稽え難し、或は必要の糧と訳すべしと云ひ、或は有名なる聖書註釈家マイヤー氏の如きは明日の糧と訳すべきものなりと云へり、然れども基督教全躰の教義より見て是を目下必用の糧と解して大過なかるべし、保羅が其弟子提摩太に書(165)き送りし書翰に曰く『我儕何をも携へて世に来らず、亦何をも携へて往くこと能はざるは明かなり、夫れ衣食あらば之をもて足れりとすべし』と。耶蘇又曰く『何を食ひ、何を飲み何を衣んと思ひ慮ふ勿れ……明日は明日の事を思ひ慮づらへ、一日の苦労は一日にて足れり』と。
 糧必ずしも肉躰の糧のみを云ふに非ずして精神の糧をも云ふなり、『循爾之日、爾必有力』とは旧約聖書の教訓なり、吾人は肉の糧のみならず、又霊の糧をも要す、而して霊を養ふものは神の真理なり、肴饌時には無きも可なり、然れども躯肉死するの後と雖も尚吾人の要するものは神の真理なり、是れ有りせば吾人は饑餓を忍ぶを得べし、是れなきを真の饑饉とは云ふなり。
 宇宙万物の造主を父とし持て吾人は目下必要の物の外に彼に懇求するの要なし。彼に依り頼んで吾人は大保険会社に身を委ねしが如き者なり、彼は吾人の未来を守り、吾人が彼の聖旨を尊奉する以上は吾人をして決して乏しからざらしむべし、誰か身を兵役に置て兵糧の給せられざらんことを怖る者あらんや、未来の恐怖を懐く者は未だ神に頼らざる者なり。
 『我儕に罪を犯す者云々』、罪と訳せられし原語(opheilemata)は負債を意味するの語なり、即ち罪とは道徳上の負債なるを云ふなり、吾人は神に対し莫大の負債を有する者なれば吾人が此負債より免かれんと欲せば先づ吾人の債を負ふ者を免さゞるべからず、是れ普通の論理にして最も解し易きものなり、耶蘇自身此語に註解を附して曰く、『爾曹若し人の罪を免さば天に在ます爾曹の父も亦爾曹を免し賜はん、然れど若し人の罪を免さずば爾曹の父も爾曹の罪を免し給はざるべし』と。
 『我儕を誘惑に云々』
(166) 神は人を故意的に誘惑に導くものにあらず、是をなすは悪魔なり、耶蘇の此言は彼の希伯来的筆法によるものにして吾人之を解するに当て希伯来人の思想を以てせざるべからず、希伯来人の宇宙観によれば万象皆神の命令又は許可に依て現はるゝものにして災害誘惑の吾人に臨むも亦神の指命に依るものなりと云ふなり、是れ受動的許容を行動的命令と解せし事にして希伯来人、亜拉此亜人等セミチック人種の内に屡々目撃する用語法なりとす、故に之を今日の文体に訳して、「願くは我儕を誘惑に導くが如き境遇の我儕に臨むことなからしめ給へ」と読むを得べし、或は災難の我が身に臨むなくと祈るも又は我の困苦に遭遇することなくと祈ると英語法に於て異なることなし。
 『反て悪より我儕を拯ひ出し給へ』
 誘惑といひ、悪といひ、両つながら倫理的罪悪を指すものにして生命財産に及ぼす損失災害を称ふるものに非ず、誘惑は神を去て悪魔に従ふに至ることなり、悪は罪悪的状態にして吾人の其中に沈淪して真理の光明を失ひ、善を善とし視、悪を悪とし認め得ざる悲惨の極に沈むを云ふなり、身に如何なる不幸の臨むことあるも、我れ我が神を捨て、俗に降り、俗人の法に則り、名利を以て我惟一の目的となすが如きに至るの境遇に至らざらんことを祈るなり、而して若し如斯の境遇の我に臨む事あるも、我は真神の援助を得て此悲運に勝ちて悪心の我が裏に醸すなく、暗中尚ほ正義の光輝を認めて悪(ho poneros 或は悪き者又悪魔と訳すべし、馬太伝十三章十九節参考)の掌中より拯ひ出されんことを。
 亜孟 アーメンは誠意を表はすの情呼詞なり、希伯来語なり、ヘエミン(信ずる)アーマン(支ゆる)オーメン(誠実)等の語と語原を共にす、祈祷の終りに此情呼詞を附するは最も当然のことにして、吾人の祈祷の吾人誠実(167)の発表なる事、其内に私慾の伏在せざることを表せん為めなり、或はアーメンの語を意訳して「然かあれ」と做す者あれども余は其説を取らず。
       *     *     *     *
 耶蘇は神の栄光の顕はれん事を祈り、此世の化して神聖、神の王国の如くならん事を祈れり、即ち彼は先づ神の為め人類の為めに祈て然る後に己の為めに祈れり、亦自己の為めに祈るも福祉幸運の其身に臨ん事を祈らずして、心に真理の糧の絶えざらん事、人の罪を免すの雅量の旺ならん事、悪に沈まざらん事を祈るべきを教へたり、家運長久商売繁盛を祈る普通人の祈祷と同日の談にあらず、余は読者が耶蘇の祈祷の全く無私的にして心霊的なるに注意せられんことを願ふ。
 
(168)     英和時事問答〔7〕
                     明治32年7月5日
                     『東京独立雑誌』36号
                     書名なし
 
         教育
 
 教育とは何う云ふ事を云ふのですか。
 教育とは政府の役人、陸海軍の将校士官、大中学の教師、御用商人、本願寺の僧侶、医士、技士、其他の月給取と銭儲けに従事する人を作る事です。私は勿論目下我国に於て普通に行はれて居る教育の事を申すのです。
 
 私の伺ひたいのは足下御自身の教育上の御意見です。
(169) 私の教育上の意見は甚だ単純なるものです・ソレはアリストートル、ミルトン、ペスタロジ、フレーベル、リツテル、ヘルベルト、ホレスマン、其他の諸大家の意見より他のものではありません。
 ソレは何ですか。
 『人』を作ることです。
 先づ人とは何う云う事をお仰やるのですか。
 人ですか。人とは人です、即ち万物の長で、心霊的実在物で、己に勝つことの出来る者を称ふのです。
 足下は又天人のやうな言葉をお使ひなさいます。
 ソウではありません。私は解り易い当り前の言葉を使つて居るのです。足下にお解りのないのは多分足下は文部省教育をお受けなさつたからでせう。
 私も今日の教育制度に就ては大欠点を認めて居るものです;然し足下の御意見は何だか漠然として居るやうに見えます。
 漠然とお見えなさいませう。御承知の通り人の教育上の意見は彼の人生観と宇宙に関する意見に依て異なるものです。我国今日の教育制度なるものは我国人の有する特種の人生観の結果と云はなければなりませ(170)ん。
 爾うすれば足下は我国人の根本的の人生観を改むるにあらざれば其教育を改むる事は出来ないとお仰るのですね。
 私が此問題に就て抱きまする意見は先づソンナものです。何が私を驚かしますつて、ペスロジ、ヘルベルトの教育法を彼等の人類、神、並に宇宙に関する思想を少しも持たざる我国人に応用せんとするを聞く位ひ私をピックリさせる事は厶りません。御承知の通り教育とは方法ではありません、又正当に評すれば之を或る一ツの組織として論ずることは出来ません。教育は一ツの精神が他の精神の眠れる精力を呼び起す事でして是は全く精神的行為にして一生物が他の生物を生み出すやうな事を云ふのです。
 斯く受け給はれば足下が今日の文部省教育に賛成なきは御尤です。彼等は国家を思ひ足下は人を思ひなさいます、是れ両者の間に根本的差異の存する処だと思れます。
 御説の通りです。教育は素と是れ個人的にして個々的なるものなりとは私の持論です。教師の目前直接の(171)目的物は彼の学生です、故に彼の眼中に其他の目的物を存することは彼の事業を大に汚すことです。
 
(172)     〔真理の感化力 他〕
                  明治32年7月15日
                  『東京独立雑誌』37号「記者之領分」                      署名なし
 
    真理の感化力
 
 我れ大真理を望み瞻て我に大思想起り、大希望生じ、小利小慾は我が心を去て、我は大望聖欲の人とはなるなり、真理に偉大の魔力ありて人是に接して感化せられざらんと欲するも得ず。
 
    我が師耶蘇基督
 
 彼は法王、監督、牧師、宣教師、神学博士の類にあらざりし、彼は曾て頂に僧冠を戴きしことなく、亦身に僧衣を着けしことなし、即ち彼は今日世に称する宗教家にあらずして、彼は曾て彼の信仰の為めに俸給を受けしことなし。
 彼は実にナザレの一平民にして彼の父の業を継いで大工を職とせしものなり、故に彼は直覚的に神を識りし者にして神学校又は哲学舘に彼の宗教的智識を養ひし者に非ず、余輩が彼を専崇するは彼の大平民なりしが故なり。
 
(173)    ノーブルなれ
 
 日本語に訳し難き英語の一はノーブルなる語なり、高貴、高尚、壮大の文字一つとして其意を通ずるに足らず、ノーブルなるは理想を抱懐して之を実行せんとするの勇気を謂ふ也、即ち世人の以て為し難と信ずる事を敢てなさんとするの気品を謂ふなり、時の学説に反抗し、彼の確信を固守して、終に西の方暗黒大洋を横断して新大陸を発見せしコロムブスはノーブルなりし、時流の政治論を排し、英国の社会を堅固なる自由の土台の上に据ゑしコロムウエルはノーブルなりし、不可能と信ぜられし教育策をして竟に可能たらしめしペスタロジはノーブルなりし、即ちノーブルなる事は平凡なる事、鄙俗なる事の反対にして、理想を信じて是を大胆に事実ならしむる事を云ふなり。
 
    完全なる慈善
 
 衣食を給し智識を与へたればとて自主独立の精神を吹入せざれば未だ以て慈善の実を全うせりと云ふを得ず、食は竭き衣は破れ、学は悲痛の器となりて身を責むることあらん、然れども神と己とに頼るを知りし人は地下千仞の底に達する泉の如く永遠に渉て涸く事なけん。
 
    依頼的独立
 
 独立とは直ちに神と真理とに依て立つ事なり、人に依り、政府に依り、寺院、教会、会社等に依て立つ事、是(174)れ独立にして独立に非ず、吾人は乞食ならざるを以て未だ独立の実を全うせりと謂ふを得ず、天命維れ待ち、世人より一つの待つ所なきに至て吾人は素めて独立の人と称ふを得るなり。
 
    日本に於て慈善事業の揚らざる理由
 
 慈善は惻隠の心よりする憐憫の情に非ず、又後生の安楽を買はんとする積善と称する蓄財の一種に非らず、慈善(philanthropy)は実に吾人の人類に対する義務に起因するものにして此人類的観念に欠乏して国に大慈善の起るべき筈なし。
 日本に慈善事業の揚らざるを以て恠しと做す勿れ、蓋し日本人は過去三十年間の教育に於て国家の愛すべきを教へられて人類の愛すべきを未だ教へられざればなり。
 
    我が信仰
 
 我は我が信仰を曲ぐる能はず、然れども我の信仰に牴触せざる限りは我は凡ての人に対して好意を懐き、我が力の有らん限り彼等の援助たらんことを期す、我は我が自我を抛て他人に向て同化せんことを求めざるも、而も自信自尊を維れ事として我意を彼等に及ぼさんことを努めず。
 
    出来得る事
 
 世に供するに汝の出来得る事を以てせよ、出来得ざることを以てする勿れ、汝の出来得る事は完全に最も近き(175)ことにして、出来得ざる事は甚だ不完全なることなり。
 
    三省の意義
 
 日に三たび己を省るとは日に三たび自己の本性に還ることなり、人其自我以外に脱して彼の思惟に統一なく、彼の行為に秩序なし、故に彼は幾回となく彼の本性に還り、彼の分離錯乱せる智力才能を中集し、以て全心を挙げて彼の本分に当るべきなり。
 
    下劣なる国家主義
 
 自己の為めにする、党派の為にする、或は自国の為めにする国家主義は甚だ下劣なる国家主義なり、人は其国の為めに尽して其本性を全うする者なるが如く、国家は人類全躰の為めに尽して其存在の目的を達するものなり、是れ倫理学上のコンモンセンスなり。
 
(176)     如何にして夏を過さん乎
                 明治32年7月15・25日・8月5日
                 『東京独立雑誌』37−39号「講壇」
                 署名 内村鑑三
 
 夏は休養の時期であると云ふ、然し休養の時期なればとて、惰眠を貪るの時期と云ふのではない、神は特別に浪費すべき時期をば造らない、休養も一種の仕事である。
 休養とは身躰と心の洗濯を云ふのである、常々は心に適はぬ仕事に従事し、身に合はぬ職を取らねばならぬが此世の中である、故に夏の間は或は一ケ月間、或は一週間、若し止むなくんば一日なりとも我と我の本性に立還り、身体の機械に多少の修繕を加へ、秋風立つと同時に又世の中に出て、義務の戦争を継続せん為めの用意を為すのである、故に夏期は成るべく丈け市街の人家多き所を去り、山間に谷川に水清き辺か、又は海浜に水天髣髴たる所に天然の美と我の真我とを楽むが宜い、然し今日の如く、津々浦々まで俗人の跋扈する時には、止を得ず田家に宿泊を頼んで牛や鶏と共に天然的生涯を送るも宜い、何れにしろ我々の心を腐らするものは俗人なれば、俗人の居る所は如何なる仙境幽邃の地なりとするも少しも休養の用はなさない。
 社会学者の説によれば社会なるものは人類に必要ありて成りしものだそうだが、又人類を窘める者の中に社会の如きものはない、社会あればこそ礼義なるものありて、お役人様だといへば詰らない人だと知つても適当の礼を尽さねばならず、華族だといへば如何に放蕩無頻の方でもマサカに貴様呼りをする訳には行かない、殊に日本(177の如き社会にありては義理と云ふ身を縛る強き縄ありて何事も思ふまゝにならぬが日本人の生涯なれば、縦令何程善き理想がありても是を行ふ事もならず、只心に思ふばかりで行ふことは甚だ困難だ、故に此の如き社会にのみ棲息すれば心身自ら萎縮して竟には天与の自由なるものが如何なるものかを忘るゝ様になる、故に我々は夏期の休業を幸とし、此虚儀虚礼を以て支配せらるゝ社会を去り、少しく野蛮的かは知らねども天然赤裸々の有様に立還り、人に対しては語り得ぬことを山に対して訴へ、社会に立て述べ得ぬ事を海に向て独り叫び、我は社会の奴隷にあらずして矢張神の作りし天然の子供なることを再び自覚するが宜い、斯くて失せんとする自主自由の観念を取返し、我を護るに神あるを知り、我を導くに天然の法則あるを確めるならば、再び社会の塵に帰る時には男は男らしき男、女は女らしき女となりて、俗人の足下に践み附けらるゝの患はなきやうになる。併し休養とて必ずしも山に登り海に降るには及ばない、今日の如く避暑旅行の時には金持や俗人は夏になると大抵避暑場に往て了から都会の空気は存外清くなる、花時に上野や向島を散歩すると見るものとして悲憤の種とならないものはないが、夏になれば都の公園は貧乏人の専有物となる、川端に出で川風に曝さるゝも一興だ、内庭に朝早く蕣を愛づるも快楽だ、何れにせよ夏は貧乏人の時節だと言はなければならない、炭屋の支払をする心配もいらない、八十銭の単衣一枚にて寒さを感じない、実に難有い時節である、故に此時を利用して生命の洗濯を為さんとすれば都会紛雑の所に居ても大に身と心との休養を計られないことはない。
 夏は六ケ敷い事は出来ないと云ふ、勿論クド/\しい事は夏向きではない、故に平素の雑業は成るべく打捨てるが宜しい、さればとて前にも曰ふ通り我々は惰眠を貪りてはならない、惰眠は身躰を休めるものでなくして反て之を害するものだ、適当の勉強は反て身躰の利益である、只何事も為にも※[敝/心]《あ》せなければ宜しい、若し面白(178)いと思ふて研究すれば哲学の如きも最も適したるものだと思ふ、外国にては語学研究は夏期休業中の流行物と成て居る、簡易な歴史の如も心の静養には極く善く適ふものだ、只夏期の研究物が平素の研究物と異なれば宜しい、哲学者は哲学を放棄するが宜しい、文学者は小説を読むことを歇めて動物学でも研究するが宜しい、官吏や商人などは常に人の御愛憎取りにのみ従事して居るものなれば夏期休業中には少しく道徳宗教の書物でも繙て独立心の養成を計るが宜しい、学校教師などは順序正しき研究法に徇て外語国語の原理でも学び置くならば秋風立つと共に彼の智識は一層増進して彼の威厳は一層高きを覚ゆるだろう、何れにしても懶けてはいけない、夏は小説を読むものだと限ては居らない、小説を読んで惰情を刺激すれば、休養の休養たる目的を失つて身心共に衰ふるとも健康を増すことはない。
 然し夏期の特別の研究物は天然其物である、博物学は夏期独特の学問である、夏期は身を外気に曝らすべき時なれば、我々は此時に親しく天然と交はるべきである。
 最も簡易にして何人にも解り易きは地理学である、勿論政治地理を云ふのではない、政治地理は政治問題と共に冬期議会の開設中地図面の上に於て学めば沢山だ、我々の心を養ふものは天然地理である、又地理と云ふて名勝探検と云ふのではない、それは粋人と称ふ懶け者の仕事で真面目に人世を送らんとする志士の為すべき事ではない、我々は富士山を肴に酒を飲む人を天然を愛する人とは言はない、此地球は函庭ではない、富士や白山は築山ではない、地理とは読んで字の如く地の理を研究する学問である、即ち地にも天然の理がありて、富士山は伊藤侯の別荘に景色を添へんが為めに造られたものではなくして、人類が其完全の域に達せんが為めに備へられたものでなければならぬ、即ち富士の地理とは富士の存在の理由を究めることである、此山の起因如何、此山の噴(179)出が日本山系の構造に及ぼせし結果如何、富士と国民思想、富士と日本歴史、世界に於ける富士山の位置、是れ此名山に関する肝要なる題目の五六である、我々は我々の識量内に於て多少の註解を是等の問題に向て与ふることが出来る、其頂に攀ぢ登るも、其麓を周遊するも、是等の大問題を常に心に留めて置かなければ地理学の興味は甚だ薄いものである。
 山には山の学問があり、川には川の学問がある、山の高低を計るも一つの面白い学問である。必ずしも測量機械を用ひずとも宜しい、何れの山に急斜面と緩斜面とがある、其傾度の度合ひ如何は森林繁茂の厚薄、雨量凝結の多寡に大関係がある、其れが為めに物産の多寡性質に関係を及ぼし、村落の興廃、民家の聚散までが微かの地理的理由に依て支配されるものである。
       *     *    *    *
 足柄山の絶頂に登り新羅三郎が笙の秘曲を与かりしと伝ふる場所に立て過去二千年間の日本歴史を思ひ見れば函根山系なるものが如何程我国の歴史を支配せし乎を知ることが出来る、此一脈は南洋のラドロン群島辺より起り来り、小笠原島となり、伊豆の大島となり、竟に天城山となりて本土に顕はれ、富士の東麓に於て日本国を東西に分断して居る、西なるは肥後と薩摩と長州とに凝結し、其少弐大友樺山高島等の諸雄を起し、智長けて慾深く、日本国の道徳なき智略を代表し、東なるは相模に両毛に陸奥に其精を鍾め、新田、北畠、高山(彦九郎)、蒲生の諸賢を出し、日本国の純潔なる良心を代表する、西が勝てば国に節操絶え、東が勝てば民に徳操が起る、我々は函根山に登るたび毎に今の時勢を憤らない事はない。
 地質学は地理学よりも六ケ敷い、地理学は地球の表面の学問で、此地球を人類の棲家として研究する学問であ(180)る。而るに地質学は地球の発育学で大分込み入つた学問である、然し火山の事や湖水のことや、山岳彫刻の事は普通智識を備へた者の充分に楽しむことの出来る事柄である、年々一回宛東京附近の湖水を見舞て、竟に日本湖水誌の編暮を企つるも一興であらふと思ふ。函根の蘆の湖、赤城湖、日光の中禅寺湖等、何れも日本特有の火山湖なれば、志賀重昂氏の日本風景論と地学雑誌、地質学雑誌等に顕はれたる地学的案内記やうのものを嚮導に、且つ若し出来得べくんばレクルースの『地球論』、ラムセー氏の『山湖起因論』を手にして是等の湖水を探究するならば、鎌倉逗子等に惰眠を貪る政治家共の得て探り難き快楽を覚ゆるならんと思ふ。
 星学は夏期研究の好題目である、殊に市街に炎熱を凌がねばならぬ者に取ては惟一の自然学だと言はなければならない。勿論星宿の美は冬期が一番だ、有名なるオライオン星は冬でなければ其壮大の美を窺ふことが出来ない、且又|蒼空《そら》の晴れ渡りたるも冬が第一だ、然し素人天文学者に取ては夜る夜中寒気に露《さら》されて戸外に立つて居る勇気がない、依て夏の散策の時間を利用して少しく天躰の配置を窺ふも利益の甚だ多い事だと思ふ、勿論込み入つた事は解らない、然し誰れにも七曜星は見附かる、是を星学の方では大熊星と云ふそうだ、大熊星に剣と尾とがある、剣の指す所が北極星だ、尾の指す所にアークチユラスと云ぶ第一等星がある、北極星は又他の小星と共に小熊星を作る、大熊星の真中の星から北極星を通して直線を引けば其線はカシオピヤと云ふ六つの星より成る星宿を通り抜けてペゲーサスと云ふ殆んど正方形を形造る美しい星に当る、アンドロメダはペゲーサスに続いて其終る所はペルシヤスの三星だ、ペルシスは一方はカペラと云ふ一等星を指し、他の一方には有名なるプライアデスがある、プライアデスの内のハルシオン星は或天文学者の説によれば星界の中心点だと云ふのだ、勿論此位ひの事は大抵の天文書には出て居る、併し是しきの事をも知らない文学者や政治家は沢山ある、彼等は森羅万(181)象だとか、※[螢の虫が火]々たる列宿だとか、群星何燦々だとか云ふ支那流の形容詞を使つて学者ぶるけれども、大抵は星の事は何んにも知らない奴共だ。又天文学の研究は我々の腹を太くするものだ、細々しい事を捨てゝ宇宙と永遠の事を思ふやうにさせる、故に我国の国家論者などには思想上の最妙薬だ、日本国は広い大国だと思ふ者は如何うだ、我々の頭上に輝くアークチユラスは此地球から−岸箕ご00、含152,543,500,000,000哩の距離の外にあると聞いたら驚くだらう、北極星は是に殆んど二倍の距離に於てあるのだ、一秒時間に十八万六千哩(光線の速力)を以てするもアークチユラス迄行くには二十六年もかゝるといふのだ、然し是は一番近い星の一つだ、我々人類はこんな広い宇宙に住んで居るのだ、我々は世界の市民どころではなく宇宙の住民だ、然るに一も国家、二も国家といふて、我々を僅々二十万哩に足らない此邦の内に押し込んでしまうとは余り情けない、故に能く天文学を研究すると詰らない不平も怒らなくなる、岩崎が一億万円の財産を溜めたとて何うするものか、此地球其物が宇宙の塵の如きものだ、我々に一寸の土地所有権が無いとて別に悲しむに足らない、オライオンも我物、プライアデスも我が物と思へば我々は王公貴族に優る金持だ、我は帝王の冠を戴かざるも我頭上アークチユラスの辺に『北冠』と称ふる七つの星が冠の形をなして輝いて居る、地上には俗人共が跋扈するから我々は天を※[虚の下半が且+見]いて無限無辺無方の宇宙を我が家と定むる事が出来る、我々は喜んで此んな微いさな世界は俗人共に呉れてやる事が出来る、我々には第一等星より第十三等星まで算へて凡四千三百万程の世界がある、三井が日本中の礦山を買占めた所が月の世界一つにも足るまい、伊藤博文侯が威張つた所が水星や木星に於ては何とも思ふて居ない、況してやハルシオンの中心点から見たらば貴族や豪商の内幕には何んな穢《きた》ない事があるかも知れない、故に是等の点から考へて見ても天文学の研究は身心休養の為めに最も適当のものだと思ふ。〔以上、7・15〕
(182) 礦物学は地質学の一科である、然し一つの特別の学科として研究する事が出来る、礦物学とし言へば何だか六ケ敷い学問の様に思はれる、金、銀、白金、イリヂウム、銅、鉛、鉄、錫等に関係する学問で、山師や礦山師の研究すべきものゝ様に思ふ人が多い、勿論是は礦物学の一部分なるには違ひない、然し礦物とは貴金属ばかりを云ふものではない、庭の飛石も礦物なれば泉水の中の水も礦物である、或る意味から言へば我々の常に呼吸する空気も礦物だ、礦物とは堅い者だと云ふならば水銀は硬物ではない、氷は水の固結せしもので其結晶性に於ても其折光性に放ても立派な礦物である、格魯密母《コロミアム》は此地上に於ては最も固い礦物の一つであるが太陽の表面に於ては瓦斯体として存在して居る、故に堅い軟いは鉱石と非礦物との区別にはならない、我々は実に礦物を呼吸して礦物を飲んで、塩、曹達等の礦石を嘗めて、終には地に葬られて自ら礦物と化するものである、地より出て地に帰るが人生なれば我々は礦物より出でゝ礦物に帰る者だといふことが出来る、礦物学は実に人類学の始めと終りである。
 世に立派なるものと云へば人は必ず宝石、貴金属を指さす、瑠璃、黄j、瓊玉、緑玉、青玉、金剛石、粋玉、翡翠と云へば必ず帝王の冠を飾るもの、貴族寵臣の胸に輝くものとして人々の一般に羨むものである、故に支那人の言語にも、立派な御殿の事を玉殿又は玉堂といひ、綺麗な部屋の事を瑤斎とか、瓊室とか云ふそうだ、東洋諸国に於て下等婦人が王侯貴族の恩顧を蒙り、一躍して貴婦人たるを得るに至れば、世人は瑤の輿に乗れりとて彼等を羨む、英国女皇の宮殿の一は水晶宮《クリスタルパラース》と名付けて世界に有名な者である、印度には宝石を以て回々教の経典を字々悉く壁に鐫めた宮殿があるそうだ、徳川将軍家の日光、上野、芝の御霊屋は多く純金を用ひしものとの故で、見る人毎に其壮大に驚かない者はない、其れ故に富と貴とは必ず宝石に現はるゝ事と思ひ、勲章を持つ(183)軍人は是を胸にぶら下げて、是れ見よがしに往還を闊歩し、貴族の令嬢とか紳商の令夫人とか称へば、必ず金剛石の二つや三つを身に着けざれば貴族紳商の家の者ではないと思ふのが日本今日の状態である。 然し我々は少し礦物学を研究して斯んな迷から脱せねばならない、水晶宮に住むものは英国の女皇ばかりではない、我々平民下々の土百姓までが悉く地球と称する此立派なる水晶宮に住で居るのである、それが嘘であると思ふならば朝早く起て艸の上に止まる露を見るがよい、其太陽の光線を折解して七色の光を放つ処は女皇の額に輝く金剛石も是れまでだ、又は斧を以て足の下に在る石を割つて見給へ、其内に石英属の諸礦物が或はアメシストとなりて紫色を現はすあり、或は瑪瑙色を帯ぶるあり、時に或は其中に碧玉石、玉火石の類に見当ることがある、普通の石墨も其内に雲母、石英、長石の三礦物がありて是れ亦立派な礦物である、冬になれば水は結晶して六花形の礦物と化し、聖彼得堡《セントピートルスバルグ》にありと伝ふ露国皇帝陛下の『氷宮』ならで何れの賤の伏屋までが氷宮又は水晶宮と化するのである、雲表に虹の顕はるゝあり、瀑布に七色の懸るあり、激湍は玉を散らし、魚躍て宝礦|燦《きら》めく、我々の住する此地球こそ実に一大玉殿にして、眼を開いて能く之を窮むれば其中に住する我々は皆悉く王公貴族なることを自覚することが出来る。
 次は植物学だ、是は夏期特別の学課である、礦物学は四期何れの時節にても研究する事が出来る、然し植物学は夏の専門である、勿論冬は水仙もあり、山茶花もある、春は福寿草、紫雲英がある、秋は其七草と多くの香しき草木とがある、然し植生は熱帯地方が本場であるやうに、夏は特別に艸木の時節である、寒帯地方も年に一度は青糸の絨氈を以て布き詰めらるゝのである、若し草木が茂らなければ夏が来ても夏ではない、サハラの砂漠には夏といふ愉快な時はないと思ふ、太陽計りが夏を来すと思ふと違ふ、夏の夏たる所以は天然が緑りの衣を着て(184)吾々人類は其人造的密室を出で、再びアダム、イーブの古態に復り、エデンの楽園ならで天然自然の楽園に出でゝ緑樹の下に宿り、緑草を綴りて着、花冠を戴きて人間の万物の王たるを知覚し、宮殿瑤室の人為的俗習を抛つて、艸に座し、森に跪きて、自然を通して直に自然の神に接するのである、冬は礦物的時期で、厳格なる法則と社交的束縛の時期である、是に反して夏は生物的時期で、自由と生命と、或る範囲内に於ては気儘勝手の時期である、而して植生は実に自由の友人である。
 勿論植物にも色々ある、蘭の如き、薔薇の如き、万年艸の如き、皆盆栽と称して室内の草木なれば多くは貴族輩の賞翫するものにして、人類を以て例へて見れば丁度芸娼妓の如きものである、故に大隈伯、伊東男の如き歴々の方は冬の寒中でも草木の美を賞せられて、身と心とを慰まれると聞く、然し神は我々平民の為めに沢山平民的植物を造られた、冬去てより冬来るまで我々は温室を建築せずとも充分に花葉の美を賞することが出来る、董莱《すみれ》ばかりでも日本に二十三種もあるそうだ、紫雲英《れんげ》、蒲公英、桜草は何れも侮るべからざる花だ、人は野草と名づけて卑しめるけれども、酢漿草《かたばみ》、薺《なづな》、車前《おほばこ》、繁縷《はこべ》等も少しく意を注いで之れを窮むれば愛すべく尊むべき植物である、其路傍に潜んで人に践まれ唾きされながら黙して花を開くの状は如何にも平民の心を表白するもので、是を見て同情の念の起らざるものは真正の平民ではないのである、故に詩人バーンスは野菊に対して彼の悲憤を訴へ、ヲルズヲスはセランヂン(白屈菜)に向て彼の満足を述べたのである、殊に夫の雑草と呼ばれて人に嫌はるゝ野草を見よ、烏※[草がんむり/斂]苺《やぶからし》、藜《あかざ》、括楼《からすうり》、※[草がんむり/(揖の旁+戈]《どくだみ》の類、其見るべきの容なきに関せず、其耐忍力の如何に強きよ、切つても切つても又生へ、践まれやうが、打たかれようが、田園を横領して佳花貴葉をして顔色なからしむ、是れぞ実に植物界の賤徒《モツブ》にして之を平げんとするは殆んど人力の及ぶ所でない様に見える、憐むべき下等の民に同情を有す(185)るものは、是等の雑草にも同じく同感を表せずには置けない、彼等は充分に深き研究を要するものである。
 松とか、梅とか、桜とか云へば、文人や粋人が今日まで幾度となく駄吟を発して賞め立てたものだから我々は今特別に植物学的の注意を与ふるに及ばない、我々平民は槐南森先生のやうな詩人でもなければ粋客でもないから、三保の松原や陸前の松島に松の樹を見に行くに及ばない、我々は憲法発布と共に日本国の自由の平民と成つたものだから、『やぶからし』や『どくだみ』の様な平民草を研究しなければならない。
 其次は動物学だ、是は広い学問だ、先づ第一人間が動物だ、故に人類学は動物学の一科で或は人類動物学と称ふが適当だと思ふ、人類(物)にも種々種類がある、狐の様な奴もあれば狸のやうな奴もある、猫もあれば犬もある、蛇の様に二枚の舌を使ふ奴もあれば蛞蝓のやうに骨の無い奴もある、鴿の様に誰にも可愛がられる人もあれば、蝮の様に誰にも嫌がられる者もある、哲学者スヰデンボルグの説に依れば物界は凡て心界を代表するものだと云へば世には少なくても動物の種類がある丈けの人物の種類がなくてはならぬ、故に南亜米利加に懶獣《なまけもの》(sloth)と称する奇態な獣類があると知れば其代表する人物があるに相違ない、而して今日今頃日本の箱根や大磯や鎌倉や逗子に行つて見ると南亜米利加まで行かずとも此の獣類を沢山見ることが出来る、即ち人生に是ぞと云ふ貴重なるものを貢献することなしに、貴族とか、豪商だとか崇められて此世に棲息する無用人類(動物)は皆懶獣の種類である、印度には虎が居るそうだが日本には猫と狐とが居て虎や獅子のやうにエライ獣類も人類も居らないさうだ、然し狼は日本にも沢山居る、彼等は群を為して政党と云ふものを作つて居るそうだ、猿も居る、外国宣教師の真似を為して布教に従事し居る基督教の牧師共は猿の類だ、鼠も居る、光明を避けて此世に存在して居るか居らぬやうに狐鼠/\して世を渡る者は皆鼠の類だ、斯の如くに其国の動物を窮めて其人物を知るは甚だ面白い(186)研究だ、人類動物学は茶呑話の好材料だ。
 哺乳動物学は少し我々の手に適はない、故は是は先づ冬期の博物舘内の研究として残して置くが宜しい、鳥類学も非常に有益な学問なれども是は秋か春が好時節で夏には少し不向きの学問である、夏向きの動物学は云ふまでもなく魚類学である、夏と水とは縁の近いもので水と魚とは同一躰である、夏は特別に魚類を知るの時節である。
 人は多く海水浴に行く、行て何を為すかと尋ぬれば大概は小説を読みに行く、『今戸心中』だとか『三日月』だとか云ふ小説家の夢に上りし夢を見に行くのである、而して偶々魚類に接するも僅に膳の上にて接する迄で、鯛は嘗いとか、鯵はまづいとか評するに止つて其宇宙並に人類に対する関係に至ては措て問はざるばかりでなく、問はんと欲する聖き観念も起さない、
 物を評するに金銭的なるは官吏と商人で割烹的なるは文学者と宗教家だ、鯛と鰈とは嘗いから貴い、べらやかはゝぎは無味いから不用だと云ふは彼等批評家の筆法だ、彼等は他人の著作や行為を評するにこの筆法を以てするものだから、魚類を見るにも同じ偏見を以てするのだ、彼等の職分よりすれば彼等は少なくも審美的に水産物を評するが当然なれども、珊瑚と真珠とを除いては彼等は海中に美的存在物を発見する事が出来ないのだ、魚類学上より論ずれば黒鯛は真鯛よりも善く鯛族(Sparidae)を代表するものなれども、彼等は後者の前者に勝るの料理的価値を知るが故に、争て真鯛を求めて黒鯛を斥けるのである、故に我輩は彼等に魚類学の研究を勧めたいのである、即ち彼等の職分相応に彼等が彼等の食はんとする魚類の智識的価値を知て、是を口に味ふと同時に亦心に味ふの快楽を得させたいのである。
(187) 日本は魚類学者の天国である、狭き一国内に斯くも多種多類の魚類の産殖する国は他にはない、是れ又国家論者が世界に向て誇るに足るの一事である、東海の産と、日本海の産と、北海の産とは自ら違うて居る、東海には印度洋の産が多く、北海は北太平洋の産に富んで居る、東海のはたたてたい、日本海のあぶらつこ、北海のたら、にしん、ごつこ等は孰れも代表的魚類である、べら、はたゝてだい、たかのはだい等は印度洋を代表し、たら、おひよう、ごつこ、にしん等は北太平洋を代表して居る、即ち魚類学的に観察するも日本は印度洋と北太平洋との接触点に位して居る、即ち西洋文明の粋を鍾めたる米国と、東洋文明の淵源たる印度との接触点に位して居るのである、是は何も牽強附会の説ではない、其植物も鳥類も同じ事を示して居る、博物学の大家アガシが始めて瑞西から米国に来て其植物を見て米国の未来を予言したと云ふ事は決して奇異の業ではない、正当に之を解すれば天然物は歴史の予言である。
 日本の淡水たあゆ(鮎)、はえ(※[魚+條])なる二種の魚類がある、鮎は玉川が名産で、※[魚+條]は北海道を除いて全国至る所に居る、然し此二種の魚類は世界何れの処にも蕃殖するものではない、是は実に日本群島の特産物である、日本以外の国にして此二種の淡水魚を産する国は台湾島ばかりである、数百里の海上を隔てたる台湾の川や湖に此日本特産の淡水魚が居るとは奇態ではないか、然し是は事実で有つて種々政治上にも参考になる事である、勿論鮎が台湾に居ればとて台湾は必ず日本の領土たるべきものとは言へない、施政の方針宜しきを得なければ台湾は偖置き、四国でも九州でも永久に保存することは出来ない、併しながら同一の天然的境遇は同一の習慣制度を許すものである、台湾は日本人の支配し難い国ではない、日本が台湾を治むるは西班牙が玖瑪やポートリコを治めし様な難い事ではない筈だ、是を治むる事の出来ないのは全く当局者の無能に依ると言はなければならない。
(188) 魚類学も能く考へて研究すれば此んな事までを我々に知らせる、実に面白い学問ではないか、然るに世には鰻と鰌との区別さへ碌に知らない人が多い、両者共に細長い魚で蒲焼とどぜう鍋とは附き物であるから鰌は鯰の類だと思ふは大違だ、鰌は鯉の類であつて、鮒、うぐひと親類だ、外形のみを以て物を判断すると此んな誤謬に陥り易い、僕の手帳に書いてある日本産の魚類ばかりでさへ五百九十九種あるから、勿論一夏に是を皆んな調べる事は出来ない、然し海浜や山川に遊んで只食ふ事ばかりに注意しないで、動物学書一冊を懐にして釣たり掬ふたりする魚を少しく科学的に攻窮して見るならば思ひ掛けない高尚なる利益を得るに相違ない。
 魚類学の次は軟躰動物学だ、海には梭尾螺《ほらがひ》、石決明《あわび》、貝子《からすがひ》あり、陸には蝸牛《かたつぶり》、蛞蝓あり、章魚の如き水界の圧制家あれば、真珠貝の如き殉教者あり、軟躰動物学(Malacology)一名穀類学(Conchology)は甚だ奇麗な学問である。
 昆虫学は農学士松村松年氏の著作の出でゝより、日本人の好んで研究すべき学問となつた、裳華房に就て一冊を求めて此面白い科学の研究に夏を過すも宜い、蠕虫学(Helminthology)も亦有益な学問だ、其他|沙※[口+巽]《なまこ》、海胆《うに》、海盤車《うみひとで》、海百合《うみゆり》等の芒刺類は海浜滞在者の注意を惹くに足るものなれば、小説と政治家の駄評とを止めて是等の美くしき自然物に宇宙の真理を読むが宜い。〔以上、7・25〕
 天然を科学的に研究することは方法其宜しきを得れば左程難い事ではない、適宜の注意と勉強とを以てすれば普通の能力を具へたる人で天然学の大意を了解し得ないものはないと思ふ、鯛は魚類の一種にして硬骨類に属し、棘鰭類中の一族棘鬣族の一種たることは之を言ひ表はす文字こそ難けれ、之れを動物学書に依て探り出すことは決して難いことではない、科学研究に必要なる態度は勉強と忍耐とである、是れさへあれば誰れでも科学者と(189)成ることが出来る。
 然し是れ丈けでは甚だ詰らないと思ふ、我々は天然物の配列分布効用とを知りたい計りではなく其意味を知りたい、日本産の植物は何千種あるとか、其鳥類は大陸産のものと如何なる関係を持つて居るとか云ふやうな問題は面白い問題なれども是を知た計りで其人類に及ぼす感化力、其如何なる深い意味を我々人間に教ふるものなるかを知らなければ我々は未だ天然を知らないものと言はなければならない、天然は書物の如きものである、其幾千万種の礦物動植物は文字の如きものである、勿論書物を読むには文字を知らなければならない、然し文字を知りたればとて未だ其書物が解つたとはいへない、我々は文字に依て顕はれたる思想の註解を要するのである。
 前にも述た通り天然物は心霊の示現である、心の物に顕はれたものが天然である、我々は肉眼を以て心を見ることが出来ないが物に顕はれたる天然物に依て之を見ることが出来るのである、孰れの国語に於ても狼なる語は食肉獣の一種の動物を称ふるばかりではなく、貪婪、強慾、猛悪の人を指す語と成つて居る、鳩は従順を意味し、蟻は勤勉を意味す、天然物に夫々道徳的並に宗教的の意味のあることは少しく意を注いで之を研究せし者の疑ふ事の出来ない事であると思ふ。
 斯く云ふと世に所謂科学者なる者は我々を責めて云ふ、科学は想像力の干渉を許さない、科学は厳格なるもので其れ自身の法則の外は詩人の空想の如き者の立ち入る事を堅く禁ずるものであると曰ふ、我々も勿論其事を承知して居る、聖書とアリストートルの著書とのみを以て天然物を研究する時代は早や既に過ぎ去つた、併しながら我々人類は科学の奴隷ではない、我々は科学を利用して天然物を利用するものである、我々は科学に依て天然の意味を探ぐるものである、科学は我々の研究の方法で有つて終局の目的ではない、世に所謂 dry science(乾燥(190)無味の科学)なるものは科学以外の真理を探らない科学を指すものである、天然物を科学的に丈け探究する事が科学の職分とならば科学とは実に詰らないものである。そこで天然詩人の必要が来るのである、詩人は天然の註解者である、詩人コレリツヂが「科学の正反対は詩歌である」と云ふたが彼は其時何を言ふて居つたか知らなかつたのである、詩は科学の正反対どころではなく其結局であるのである、勿論詩人にも幾らか種類がある、森槐南先生も詩人なればヲルヅヲスも詩人である、酒を飲んで詩を作る人もあれば断食して詩を作る人もある、李白は一斗に詩百篇を作つたそうだ、遊芸の一つと見做さるゝ枕山槐南派の詩は科学の正反対であるのみならず、亦或る意味に於ては倫理学の正反対である。
 私は支那や日本にも天然的詩人は居らないとは云はない、村上仏山の西瓜に題する詩の中の「這裡赤心元可重、由来藍面亦何憎」の聯句は確かに西瓜の表顕する天然的真理の一面を歌ふたものだと思ふ「梅の花春より先きに咲きにけり、見る人稀に雪は降りつゝ」の一句は能く梅の特性を歌ふたものである、王維の「春桂問答」の短句の如き常盤樹を歌ひし詩としては立派なものである。  問春桂、桃李正芳華、年光随処満、何事猶無花。
  春桂答、春華※[言+巨]幾久、風霜揺落時、独秀君知不。
其外和漢の書を探ぐれば此類の詩歌は沢山あると思ふ、併しながら天然の何者たるを自得して熟慮して天然物の詩的真理を探らんと試みし詩人はまた支那にも日本にも出て来た事はないと思ふ、私は詩は科学の結局であると述べた、併し或る場合に於ては詩は科学の先達者であるといはなければならない、古代の天然の観察は悉く詩歌的であつた、印度の※[田+比]佗経の如きもの、波斯のゼント経のやうなものは大概は宇宙を詩人的に観たものであ(191)る、併しながら今日欧米に於てポツポツと顕はれ来たる天然詩人なるものは科学以前の詩人とは全く異つたものである、彼なる者は小児の宇宙観であつて、詩的たりしには相違なかりしも無意識の想像であつた、是に反して今日の天然詩人なるものは熟慮静思の老人の天然観であつて意志と道理との上に建てる超科学的霊覚とも称すべきものである。
 此種の詩人は欧米に於ても多くは無い、独逸のゲーテは一大天然詩人たりしは彼の科学的智識を以ても知ることが出来る、然し彼の専門は美術であつて天然に酔ふが如き熱心は彼には無かつたと思ふ、其他勿論詩人として多少天然を歌はなかつた者は無い、然し純粋の天然詩人としては私は英吉利のヲルヅヲスと亜米利加のトローとを指さなければならない。
 ヲルヅヲスの名は今は大分日本人の口にする所となつた、然し歎かはしい事には未だ彼の作は多く日本人の読む所とならない、それも尤も、西洋の詩といへば必ず恋愛の詩なりと一概に誤想して過去十五六年間西洋文学の普及を妨げし薩長政府の施せし教育の結果として邦人が再び昔しに還て魏徴 杜子美の作を口吟するに至て、ヲルヅヲス、テニソンを殆んど全く忘るゝに至りしは決して怪しむに足らない、故に今日までヲルヅヲスを我国の読書社界に紹介せし人は余の敬愛する宮崎湖処子を除いては余の記臆に上る人は一人もない、殊に彼の作を不完全ながらも邦文に訳せんと試みし人の如きは絶えて無い、故に我日本人はヲルヅヲスの名を聞いて居れども彼が如何なる思想を持ちし人なる乎を知らない、偶々彼を評する者があれば彼を隠遁者の一人の如くに見做し、彼をパイロンと此較して臆病者なりなど、罵りし人もあつた、ヲルヅヲスの人物並に彼の天然観に就ては私は今爰に語らんと欲するのではない、私は消夏法の一つとして彼の作の研究法を語れば可いのである。
(192) ヲルヅヲスの作として言へば誰も先づ“Excursion”を語る、然し是は長篇で且つ中にはクド/”\しい所があつて、夏の読み物には甚だ不適当だと思ふ、彼の自伝とも称すべき“Prelude”は非常な大作である、其内にある天然物の観察は実に著しいものである、霧の中に牧羊者を覗ひし時の感の如きは聖書の黙示も是れ迄かと思はれるものである、然し此篇も大分哲学的にして海浜に身を涼風に曝しながら読むには少しく堅過ぎると思ふ、其他“Laodamia,”“Ode to Immortality”等は天然歌とは少しく言ひ兼ねる。
 初学者がヲルヅヲスを楽まんとするには彼の小品に於てするに若くはない、其詞も自ら簡易にして其思想も直感的なるが故に少しく英語を解する人には左程骨を折らずして是を味ふことが出来ると思ふ、有名なる彼の“Daffodils”(水仙花)の如きは其一つである、
   谷と小山の上に高く懸る
   浮雲の如くに独り遙ひし時
   意はずも余は花の一群を見たり
   黄金色の水仙花に遭へり
   湖水の辺りに樹木の下に
   風に吹かれて踊りつゝある
 
   天の川原に燦く星の
   ※[螢の虫が火]々として相聯なる如く
(193)   彼等は湾の縁に沿ふて
   果てしなく水の端に伸びぬ
   余は一目に一千を算へぬ
   頭《かむり》振りつゝ踊れる花を、
 
   小波も亦彼等と共に踊れり
   然し彼等は波に劣らざりき
   斯くも楽しき朋友《とも》と在りて
   詩人は楽しからざるを得ず、
   余は眺めたり、凝視《みつ》めたり、然し
   余の得し富を知らぎりき
 
   以後幾回となく詩思に沈み
   独り榻《せうぎ》に横はりし時
   彼等は余の心に映りて
   単独の時の慰藉とはなりぬ
   其時余の心は歓喜を以て溢れ
(194)   水仙花と共に踊りぬ
 是れ勿論僅に其一つである、『白屈菜《セランヂーン》』『雛菊《デイジー》』の如きは皆此類であつて、是を誦して詩句の美を知るのみならず、亦深き心霊的真理を知る事が出来る。
 次は亜米利加のトロー Thoreau である、彼の名はヲルヅヲスの名よりも尚ほ一層日本人には知られて居らない、彼は非凡の天然詩人であつて彼の観察の深淵なるは彼の作を読まないものは到底窺ひ知る事が出来ない、彼は詩人と称するも彼は韻文を多く書いた人ではない、彼の文躰は稍カーライルの文に似て気焔万丈とでも評すべきものである、然し彼が天然を読むや其真意を穿ち、最も通常なる天然物に最も高尚なる最も深遠なる真理を認めたる所はヲルヅヲスも及ばない所がある、彼の作で有名なるものは「ワルデン一名林中の生涯」と名くるものであつて、実に非常の作と言はなければならない、是は彼が直に天然に接せんが為めに彼の居住地なる馬州コンコルドの附近ワルデン池と称する湖の辺りに躬ら小屋を建て、こゝに二年間居住せし其実験を書いた者である、池を論じ、森を評し、魚を観、鳥を察したる記事であつて一読再読して、我々の日々目に触れ、耳に聞くものが如何に深き真理を含むものなるかを我々に示すに至ては、私は未だ斯の如き書に手を接した事はない、彼は彼の愛するワルデン湖と其姉妹湖なるホワイトポンドを讃して曰ふた、
  ホワイトポンドとワルデンとは地球の表面に輝く二大水晶である、即ち光の湖である、若し彼等が永久に凝結するならば、而して※[手偏+宛]ぎ取られる丈けの大さであるならば、彼等は多分人の撈《さら》ひ去る所となりて宝石として或る帝王の冠を飾らんが為めに売らるゝであらふ、然れども水なるが故に、且つ大き過ぎるが故に、而して我々と我々の子孫との為めに地に据ゑ附けられて有るが故に我々は彼等の価値を認めないで反て印度産の(195)金剛石を求むるのである、彼等は市場に曝らさるゝには余りに清くある、彼等の中には腐敗物がないから肥料にはならない…‥何に、天国だと、天国を語る者は此地球を辱める者だ。
 彼が梟の声を聞いて、是は情婦情夫が相共に自殺を謀る時の悲鳴である、愛らしくも甚だ悲しくあると言ひ、又は蛙の声は酔倒者《よいたをれ》の酔歌なりと評し其声を真似て tr-r-roonk,tr-r-roonk(飲め々々)と云ひしが如き、同情を池の鱸魚に寄せ、森の狐に寄する所、実に天然物の友人とは彼を謂ふなるべしと思はる、彼の著は Walden の外に「コンコルド並にメリマツク川に於ける一週間」がある、F・B・サンボーンの彼の伝は甚だ面白き書なりと思ふ。       *     *    *     *
 地文学書、地質学書、天文学書、礦物学書、動物学書、植物学書の中孰れか一冊と、ヲルヅヲス詩集一冊とトローの『ワルデン』一冊とありて我々は愉快な夏を送る事が出来る、偶まには午睡も宜しい、壮言大語も宜しい、少しは罪の無い人物評も宜しい、朝露を払つて園や畑に農業の真似事を為すは甚だ宜しい、然し夜は勉強しないで談話の為めに消費するが宜しい、而して昼の業を終へて、満足なる心を以て神に感謝を捧げて眠に就けば、新しき人となりて、朝を迎へ且つ秋を迎ふる事が出来る。〔以上、8・5〕
 
(196)     譎計詐術
                    明治32年7月15日
                    『東京独立雑誌』37号「雑壇」
                    署名 角筈生
 
◎輿論の反抗などには少しも頓着せざる藩閥政府も倫敦市場に於ける其不信用と来ては少しは閉口せしなるべし、俗人は過失を見て過失と認むる能はず、其損耗を招くを見て、始めて過失なるを知る、日清戦争の過失なりしは其終局後五年の今日英国倫敦市場に於て宣告せられたり。
◎ベレスフオード卿の日本に来るや、朝野挙て彼を歓迎す、謂へらく、日英同盟彼に依てならんと、然るに彼れ故国に帰てより直ちに矛を転じて日本を非難す、曰く其陸軍は欧洲の強国と輸贏を決し得るものにあらず、曰く其財政は信を措くに足らずと、爰に於てか曩に彼を饗応せし者は彼の不実を怒り、英人の顧むべからざるを悔ゆ。
◎白氏の不実は憎むべし、然れども利を以て我を迎へし者を遇するに親友の交際を以てす、我も亦利慾の民たるを失はず、利を以て我を誘ひし者は責むべし、然れども利を以て誘はれし者も未だ以て責なしと言ふを得ず。
◎大胆に我の欠点を摘示する者あれば、我の敵人なりとして之を斥け、甘言以て我に賛詞を呈する者あれば勲賞を贈りて其友誼を求む、所謂日本贔屓の外人なる者は概ね皆鄙吝貪慾の徒なる事を日本人は未だ知らざるが如し、
◎横浜なる某外字新聞記者を使嗾し、書を倫敦タイムスに寄せて、我国財政の鞏固を吹聴せしめ、然る後幾旬な
 
(198)     英和時事問答〔8〕
                      明治32年7月15日
                      『東京独立雑誌』37号
                      署名なし
 
         日本の未来
 
 日本の未来は何うならうとお考へなさいますか。
 日本の未来ですか。考へるのも悲う厶います。若し今日の儘で行きまするならば其未来は暗黒と荒敗です。
 何うして足下は爾うお考へなさいますか。我が海軍は世界最強の者の一ツではありません乎、又我が陸軍も最も精巧なる者の一ではありません乎。若し此日本国が荒敗に終るとならば荒敗に終らざる国は何所にありますか。
(199) 失礼ながら足下は歴史を皮相的に解する方だと言はなければなりません。軍備のみにて栄えし国とては有りません。羅馬は一度は世の曾て見しことなき最強の武国でありました。然し今日となりては其法律と文学との外に共遺物として何がありますか。唯の近頃、我々の目前に於て一時は強大なりし西班牙は其武威に誇りしが為めに敗北の恥辱を受けたではありません乎。剣を取る者は剣に依て死せんとの夫の古人の言は真であります。
 何んだかそうは思はれません。
 一寸と考えて御覧なさい。其軍備を取り除いて見れば日本は世界に向て是ぞと云つて誇るべきものはありません。是にプラトー又はカントの哲学のあるでなく、砂翁の劇作あるに非ず、ダンテの詩編もありません。日本より其陸海軍を差引けば世界の一つの嘲弄物です。
 足下は私を不安心にさせます。
 足下ばかりではありません、私も亦、而うして真実に此国を愛する者は誰でも爾う感じます。此悲しむべき状態を来すに於て誰が貴任あると足下(200)はお考へなさいますか。
 薩長政府と其偽善的政治家です。偽善の結果は実に怖ろしいものです。夫れは大帝国の存在をも危くするに足るものです。
 
 而うして足下は来らんとする危機を避けんとする方法に就て一つもお考へはありません乎。
 誠実のみが偽善の結果を消滅する事が出来ます。若し日本人の真心にして再び其本性に復るを得ば、国民の再興は希望なき事ではありません。
 
 足下は我が国は既に死せし物かのやうにお仰ります。
 左様です。不道徳の国は死んだものです。堅固なるが如くに見せ掛けて、理想なき国民は死屍同様のものです。薩長政府の下の日本は死せる国民です。
 
 足下は思ひ切てお仰ります。
 左様、爾う致さなければなりません。私は私の国の死するを見るに忍びません。
 
(201)     〔誰をか友とせむ 他〕
                  明治32年7月25日
                  『東京独立雑誌』38号「記者之領分」                      署名なし
 
    誰をか友とせむ
 
 友を求むるに友尠なき人を求めよ、友多き人は吾人の友情を要せざるのみならず、亦深き友情を蓄へざるものなり、愛は嫉妬深し、友多きは愛薄きが故にして、愛厚うして是を多数の人に頒つ難し。
 
    仁
 
 仁を目的とする仁に仁あるなし、仁は品性の香気にして無意無覚の間に放散するものなり、夫の仁の配布を以て業とする伝道師なる者の仁が往々にして不仁に邇きものなるは、彼等が仁を勉めて之を強ゆる者なるが故ならざるべからず。
 
    慈恵と独立
 
 余輩が慈恵を説くの故を以て往々にして直ちに是を余輩より要求する人あり、然れども是れ余輩の真意を解せ(202)ざる人なり、余輩は勿論余輩相応の慈恵の責を免かれんと欲する者にあらず、然れども余輩は慈恵の施与を説く者にして其懇求を教ふる者にあらず、東京独立雑誌を読んで慈恵に与からんと欲する念慮を起す者は未だ独立の何たるを解し得ざるものなり。
 
    交際と共同
 
 吾人は何人とも交際するを得べし、然れども何人とも共同するを得ず、交際は礼遇にして共同は同化を意味す、悪人且つ遇するに礼を以てすべきも、彼と共同して吾人は彼の悪事を助くる者なり、交際の区域は広し、然れども共同は良心の権域を出づる能はず。
 
    宗教を信ずる理由
 
 余輩が宗教を信ずるは天国又は極楽に行かんが為にあらず、余輩が是を為すは人らしき人たらんが為めなり、若し天に対し、自己に対し、人に対して耻かしからざる人たるを得ば、余輩は朝に道を聞いて夕に死すとも可なり、然り、地極に陥ちて永遠の刑罰を受くるも可なり。
 
    支那主義
 
 支那主義は宗教を説くにも、道徳を説くにも、政治を説くにも、文学を説くにも皆実利を以て標準とす、忠孝の道尊ぶべし、是れ国利民福を来すものなればなり、仏教保護すべし、是れ国民統御に利あればなりと。真理を(203)標準とし、是に逆ふものを排し、是に適ふものを迎ふるが如きは支那主義を以て薫陶せられし国民の到底為し得る事に非ず。
 
    人の質問に対へて
 
 余に志望なし、計画なし、余は天の命惟れ従はんと欲する者なり、人に対しては不羈独立の者なれども、神明に対しては純然たる奴隷なり。
       *     *     *     *
 余の事業に従事するは余の名を挙げんが為めにあらず、亦余の理想を行はんが為めにもあらず、余は唯神の命に強ひられて余の今日の職に在る者なり。
       *     *     *     *
 国を済はんと欲する者、世を革めんと欲する者は、先づ自己の喚発を謀るべきなり、慾心先づ内に絶え、自我先づ心に死して、我に為し得ざるの事あるなし、我の改め得ざるの悪弊あるなし。
       *     *     *     *
 日本に於ける家庭の改良は大難事なり、そは日本の家庭は其国家組織の反影にして是を改めんと欲すれば、勢ひ、彼を誹譏するに至るべければなり、余輩の実行し得る区域は甚だ狭し、然れども余輩之を如何ともする能はず。
 内よりの大改革は到底望むべからず、然れども幸にして世界の大勢の徐々として吾人に改革を迫るあり、日本(204)人は独り自ら内より改むるの民にはあらざれども、又大勢に従はざるの民にもあらず、吾人改革の希望は惟此一事に存す。
       *    *     *     *
 日本の最大問題は良心問題なり、多妻の弊風の未だ是認せらるゝが如き国に於ては自由民権を唱ふるも詮なし。
       *    *     *     *
 日本の学ぶべき国は独に非ず、仏にあらず、英にあらず、日本の学ぶべき国は古代の羅馬なり、アルフレツド王時代のブリテンなり、彼等は如何にして多妻の悪弊を制止せしか、如何にして個人の価値を認めて貴族の専権を抑へしか、是れ吾人が彼等より学ぶべき事にしで、是を学んで後に吾人は英に傚ふを得べし、仏を凌ぐを得べし。
       *     *     *     *
 西洋の改革者は改革を計画せずして之を実行し、日本の改革者は改革を絶叫し、之を企図謀策して終に之を決行する能はず、ルーテル、クロムウエルの改革事業は国家の改築を目的として起りし者にあらずして、良心の純潔を汚されざらんが為めに成りしものなり。
 
    余輩の女子教育
 
 女文学者、高等官吏の内室、貴族紳縉の妻女を養成するが如きは余輩の為し得る業にあらず、余輩は、日本普通の家に生れ、一つの特権の誇るべき且つ望むべきなく、唯自動自力、以て平民の家庭を護り、進んでは良人の(205)志望む扶け、退いては貞婦の節を全うせんと欲する日本女子の為めに聊か尽さんと欲するものなり、故に余輩は外国宣教師の輩が喙を余輩の教育事業に容るゝを許さず、亦貴顕の門を叩いて其賛助を乞ふが如きは余輩の全く為し得ざる所なり。若し夫れ世に出て玉輿に駕し、或は一茎の筆に文界の牛耳を執り、或は外交場裡に才女の腕を揮はんと欲する我国多数の麗人貴女の為めには別に高等女学校、宣教師学校等の具へらるゝあれば、諸子は彼等に就て学べば可なり、亦吾人に来て学ぶの要なし。
 
(206)     〔掃蠅録〕
                  明治32年7月25日・8月5日
                  『東京独立雑誌』38・39号「雑壇」
                  署名 角筈生
 
◎基督教界の二大厄介物とは西京の同志社と東京の青年会館となり、二者共に砂の上に立てられたる家、其今日に至りしは当然のことなり。
◎成功を望むが失敗の始めなり、失敗を覚悟してこそ成功は来るなれ、今日辱を天下に曝すものは多くは是れ前には大成功を画せしものなり。
◎若し教育は『人』を作るものなりとならば、広き日本帝国内に教育と称すべきものはなけむ、其大学は嫉妬陥擠の場所なりと伝へられ、中学小学は俗人の巣窟として知らる、日本は実に無教育の国なり。
◎俗人は俗人を生む、恰も蛙は蛙を生むが如し、俗教師ありて俗生徒あり、天下何物か如斯き睹易きものあらむや。
◎失敗は日本政府の惟一の教師なり、彼等は智者の言を聞かず、民の声に耳を傾けず、然れども大失敗(多くは外交的)に会するに及んで始めて其過失を悟る、余輩は其幾何となく、失敗を重ねんことを願ふ。
◎宣教師某あり、或る信徒を評して曰く、彼は確実なる信仰を有す、然れども彼は事業の方針を誤れりと、而して彼れ宣教師の事業を見るに一として成功せしものあるなし、負惜みの強きは外国宣教師なり。
(207)◎岡山孤児院の賛成家に今は侯爵夫人、伯爵夫人等あり、盛なりと云ふべし。〔以上、7・25〕
◎若しエマソンの例に効ひ日本今日の代表的人物《レプレゼンテーチブメン》を推挙せんには余輩は政治家としては勿論仁義人道には全く無頓着なる伊藤侯を掲ぐるなるべし、哲学者としては忠君愛国説の外別に弁護すべきの真理(?)を有せざる井上哲次郎氏を指名すなるべし、宗教家としては東本願寺の石川舜台師を挙るなるべし、出版業者としては博文館主人大橋佐平氏を、実業家としては雨宮敬次郎氏を、軍人としては高島鞆之助氏を、詩人としては伊藤侯の腰巾着たる森槐南先生を、理財家としては勿論松方正義伯を推すなるべし、是等大人物ありて此大帝国あり、東洋に新強国の起りしも決して故なきにあらず。
◎今や肩には金モールを着け、胸には勲章をブラ下げたる泥棒が富国強兵を口に唱へながら白昼に横行すと新聞紙は報ず、是れだから真面目に人道を唱ふれば鬼に嗤はるゝは勿論の事、今の時に官位と忠君愛国とを利用して金を儲けざる者は馬鹿者の土手頂なり、
◎乞食は三日為せば忘れ難しとかや、外道伝道会社の飯を三日食ひし者は其依頼根性を絶つ能はずとは或人の我国今日の基督教徒に就ての観察なり。
◎自分が乞食の類だから食を乞はない人を見ると変人だとか、奇人だとか評判を立つるは乞食社会の一般の習慣なり、併し何といはれても乞食の仲間入りは真平御免なり。
◎乞食の類は基督教徒ばかりではない、只管に藩閥政府の保護に与らんと努めゝある我国の仏教徒の如きも立派な乞食だ、彼等が基督教を排斥するのは乞食が乞食を排斥するの類だ。
◎俗人の俗の字は盗賊の賊の字と同音なりといふ、左もあるべし、俗人は其根性に於て紛ふべきなき盗賊の一種(208)なればなり、〔以上、8・5〕
 
(209)     英和時事問答〔9〕
                       明治32年7月25日
                       『東京独立雑誌』38号
                       署名なし
 
       新政党
 
 新政党が出ましたね。
 左様さ、丁度雑草が春生る様に。
 それに何か大事が為せやうと足下はお考なさいますか。
 何うして為せませう、あれは化石党です、生命の既に脱けて了つたものです、何人も化石からは何も望みません。
 然し少くとも党員の一人なる斎藤修一郎君は当世流の人ではありませんか。
(210) 左様さ、彼が当世流の人たるは彼も一時はメソヂスト派の基督信者で有て、近世の銭儲術に於ては其凡ての込み入りたる事に至るまでの専門家であるからでせう。
 然し亦党員としては佐々君があります、彼の愛国心は疑はしいものではないやうに思はれます。
 左様、肥後人でして、肥後流の愛国者です、而して何人もそれは何う云ふものなるかを知て居ます。
 夫れでは足下は此政党には見るべきものがないとお仰るのですか。
 イヽヱ、爾うは申しません。其内に介殻と骨と石とがあります;只生命が無い丈けです、故に私はそれを化石党だと申しました。
 足下は彼等が新たに採用せし党名を御存じでせう。
 左様、帝国党と申すさうです、然し彼等の称する帝国主義なるものはセシル ローヅやウヰリヤム マツキンレーのそれとは違い、極く低くい理想の上に建つ東洋流の帝国主義です。
 何うして足下は爾う思ひますか。
 先づ少し彼等の宣言書を読んで御覧なさい、其法螺(211)的文躰は純粋の支那人の文躰です。
 其始めの部分を少しばかり英語に訳して見て下さいませんか。
 それを字義なりに訳すれば先づこんなものです:
 
 『我党は欽定の憲法を奉じ、進取の国是を執り、万世一系天壌と共に窮りなき国躰を擁護し、***内は国民の福祉を増進し、外は国家の光栄を期し』云々
 
 エライものですね。
 左様です、紙の上では立派なものです。
 仏教徒に対する彼等の態度は如何なりました。
 噂に依れば彼等は仏教徒の余り頼るべからざるを悟りたれば仏教に関する事は宣言書から削つたさうです。
 彼等も矢張り政治家ですね。
 左様、愛国心を『告白』する政治家でして、是れは支那流の政治家の誰も為す事です。
(212) それでは我々は新政党が生れたと云はないで旧政党が新らしい名を附けたと云はなければなりませんねー。
 其通りです。
 
(213)     〔休養の在る所 他〕
                 明治32年8月5日
                 『東京独立雑誌』39号「記者之領分」
                 署名なし
 
    休養の在る所
 
 休養は必ずしも山に於てあらず、海に於てあらず、休養は心の平かなる所にあり、平和なる家庭に於てあり、親しき友人の間に在り、吾人是を此所に求め得て、亦彼所に是を追求するを須ひず。
 
    希望の在る所
 
 希望は社会に在るなし、其政治、宗教、教育に在るなし、希望は我心により、是を監視し賜ふ神に在り、吾人先づ心に偉大なるを得て、終に新希望を此失望せる社会に供するを得べし。
 
    感謝すべき事
 
 感謝す、宇宙は藩閥政府の支配の下に在らざる事を、感謝す、真理は文部省令の定めしものにあらざる事を、生命を宇宙に求め、悟道を真理に探りて吾人は此圧制偽善より免るゝを得るなり。
 
(214)    信仰と愛国心
 
 余輩は余輩の国に叛いて余輩の宗教を信ずる能はず、余輩は余輩の宗教を捨てゝ余輩の国に忠なる能はず、余輩の信仰は愛国心に依て励され、余輩の愛国心は信仰に依て潔めらる、外国人に依頼する宗教と、博愛に基かざる愛国心とは余輩の均しく排斥する所なり。
 
    益なき宗教と教育
 
 人に頼るを教へて神と自身とに頼るを教へざる宗教も教育も益甚だ尠きものなり、宗教は万物の造主の信頼すべきものなるを教ふべきものにして、教育は自働自立の法を授くべきものなり、宗教にして依頼的人物を造り、教育にして自給自活の途を授けざれば、二者共に其目的を誤りしものと謂ふべし。
 
    事業の大小
 
 若し大著述をなし得ずんば小著述をなさんのみ、若し小著述をも為し得ずんば真理と正義との為めに惟一言を放たんのみ、吾人は吾人のなし得ることをなせば足れり、其大小は吾人の意に介する所にあらず、
 
    『耶蘇』
 
 神を語り、真理を語り、天然を語る者を呼んで『耶蘇』と云ふ、然れども『耶蘇』なるが故に真理は真理たる(215)を失はず、『耶蘇』ならざるが故に邪弊悪習は美徳たる能はず、先づ罪業を放棄すれば足れり、名目を楯に永く淫行に耽るべからず。
 
    人に依るの愚
 
 万能の神の存在し給ふ此宇宙に棲息して荐りに人の援助を仰ぐ、是れ大王の頼るべきあるに小吏属官に依るの類にして、是を無智浅見の極と称へずして何ぞ。
 
    『運動』
 
 今や事業を為さんと欲する者は刻苦して躬親ら其任に当らんとせずして、先づ主意書なるものを印刷に附して之を頒布し、委員会を開き、会員を募集し、有志家なるものを訪問して寄附金を募る、而して此順序を称して運動といふ、若し是にして成功するを得ば余は全く自動的事業たるなり、慈善事業、伝道事業、教育事業、其他精神道徳に関する事業は一として此機械的方法に依らざるはなし、豈に驚くべきにあらずや。
 
    金銭を要せざる事業
 
 金銭は必ずしも事業を為すが為めの必要物にあらず、世には金銭を要せざるの事業多し、ダンテの大作は寄附金を待て成りしものに非ず、基督、保羅が教会堂建築の為めに募金に従事せしを聞かず、然り、世に最も大なる、最も高尚なる事業は金銭を要せざる事業なり、吾人は富豪の門を叩かずして亦大事業家たり得るなり。
 
(216)    俗人の勢力
 
 俗人の勢力は彼の有する金銭に存す、金銭を離れて彼は牙を抜き取られし虎の如きものなり、彼は金銭を望まざる人を支配する能はず、彼をして全く無勢力ならしむるは、吾人の心に金銭の慾を絶つにあり。
 
    自由競争
 
 自由競争は凡ての社会に行はる、されど行はるゝの故は必ずしも正しきの故にあらず、悪なる事、邪なる事も亦行はるればなり、自由競争の正当に行はるべき時と所とは各個人が皆其の処を得たるの時なるべきなり、然らざれば是れ不人情なり、非人道なり。
 我の有する者は連発銃と速射砲とにして、彼の持てるは石斧と弓矢となり、此懸絶せる武器を執て彼我相闘ふ、是れ豈に仁といふべけんや。
 
    麦藁帽子
 
 人類は関聯的動物なり、己を安うし己を救ふのみを以て満足する人は未だ真の人とは謂ふ可らず、吾人は吾人の家族を顧みざるべからざるが如く、亦我同胞人類を顧みざるべからざるなり、我家族の如何を顧ずして我は独り美衣美食すべからざるが如く、我同胞の窮迫を顧みずして我は慰めと安楽とを恣にすべきにあらざるなり。
 虚無党の純文学者を忌み、社会党の月球動物学者を悪むは必ずしも不条理にあらず、麦藁帽子さへ被り得ざる(217)彼等は絹帽の閑人を見て平ならざるは固より其分なり、まこと我等の求むべきことは先づ我等が悉く麦藁帽子を被り得ることなり。
 
    死教
 
 人に其家族の幸福を思ふの熱心なくして決して良き親たり、夫妻たり、兄弟姉妹たり得ざるが如く、人に其同胞人類を思ふの同情なくして人は活きたる人たるを得ざるなり、我れ此の如き人となりて我に人類社会なく、否自我さへもあらざるなり、耶蘇基督の最も嫌ひ賜ひしは同情熱心なき人にてありき、所謂温厚着実家なる者なりき、宗教の益否は別として此熱情を起し又之に伴ふ能はざるの宗教は死教なり。
 
(218)     英和時事問答〔10〕
                    明治32年8月5・15日
                    『東京独立雑誌』39・40号
                    署名なし
 
         宗教談
 
 宗教とは何で厶いますか、
 宗教とは正義を信じて是を行ふことで厶います、
 ソレナラバ宗教には神の必要は無いのですか、
 左様さ正義の神の必要が厶います、
 貴下の御宗教は何で厶いますか、
 私の宗教ですか、私の宗教は詩人ロージヤースのと司じものです、即ち「物の解る人の宗教」です、
 ソレは何んな宗教ですか、
 ロージャースは其問に答へて「物の解る人はそんな問には決して答へない」と申しました、
 貴下は基督信者でおいでなさいますか、
 でもありますし、でもありません、
 何故あるとお仰りますか、
 二十世紀の人として普通物の解る人は其れより他の宗教を信ずる事は出来ない筈ですから、
 何故ないとお仰りますか、
 私は今日此国に於て基督信徒と称する者の仲間の一人ではありませんから、 ソレナラ貴下の御出席なさる教会はないのですか、
 左様さ、天然自身の作つた教会堂の外にはありません、
 ソレナラ私の御察し申しまするに貴下は宣教師とは何にも関係をお持ちなさらないのでせう、
 左様さ私の宣教師に於けるは私の本願寺の僧侶に於けると同じことです、
 貴下は基督教の聖書をお読みなさいますか、
 勿論私は読みます、聖書は世界の書です、此書を読まない者は実に無学文朦の人です、
(220) ソウシテ貴下は聖書に書いてある事をお信じなさいますか、
 左様、私は其中の最も肝要なる部分を信じます、勿論其内には誰も信じない事があります、
 
 然し勿論貴下は奇蹟はお信じなさいますまい、
 奇蹟を信じませんと、貴下は星の虚空に掛つて居りまするのを信じませんか、
 私は天然の法則は信じますけれども奇蹟は信じません、
 貴下は所謂科学者でお居でなさると見えます、ドウゾ如何にして貴下が世に来りしかソレを説明なすつてください、
 ソレナラば貴下は宗教は科学と和合するものだとお考へなさるのですか、
 左様です、私は正義は凡ての学術と和合するものだと信じます、正義の為めに行はれたる奇蹟は科学の厳則に適ふて居るものでなければなりません、聖書に書いてある奇蹟なるものは自然現象の度を高めたものだと私は信じます        〔以上、8・5〕
(221) 此事に就ては私は迚も貴下に及びません。
 貴下は又文部省教育の弱点をお示しに成ります。奇蹟を信ずることの出来ない人は偉大なる事業を行つて見る事の出来ない人です。若し正義の為めにやつて見んと欲すれば不可能の事も可能となります。
 
 孰が世界中で最も良き宗教ですか。
 最も多くの善を為す宗教、其れが最も良き宗教です。
 其れは孰の宗教ですか。
 其れは貴下御自身の御判定なさるべき問題で厶います。
 世人一般の評に仏教は世界の宗教中最も哲学的の者だと申しまするが貴下も爾うお考へなさいますか。
 左様さ、若し「哲学的」とは「形而上学的」を謂ふものならば爾うかも知れません。仏教程其数義の中に多くの逃路《にげみち》を供へたる宗教はありません。実に仏教は凡ての宗教を綜合した者の様に思はれます。其内に何んでもありまするのは何んにも無い事を証拠立てるかも知れません。
 然し貴下は其れが我国に為したる大なる善事を否む(222)ことは出来ますまい。
 左様、ソレは多くの善も為しました、亦多くの悪も為しました。ソレは貧者と虫けらに対する憐憫を教へました、然し自然平等の大問題に就ては全く沈黙を守りました。仏国は隠遁者を作ります、然し勇者と愛国者とを作りません。 貴下は神道を何うお考へなさいますか。
 私は白状致します、私はソレに就て唯僅かしか知りません。其内に深い真理が在るかも知れません;然し在りとするも世界には少しも知れ渡りません。
 然し貴下は其我国家組織に対する緻密の関係を御承知でしやう。
 左様で厶います、然し此事に就ては私は何にも云ふ事を好みません。此事に関しては此国に於ては自由討議は許されません;而して自由のなき所にては沈黙を守るまでゞす。
 ソウシテ貴下は基督教は此国に害を為さないと確かに御信じなさるのですか。
 左様さ、基督教の及ぼす害は仏教の害より大なる筈はありません。吾人は宗教を除くの外何事に於ても基(223)督教国を真似しつゝあるといふ事を忘れてはなりません、若し基督教が国に害を為すならば憲法も為します、そは世界に今日ある処の憲法なる者は基督教から出たものですから。
 
 ソレで沢山です。
 お解りに成りましたか。
 少しも解りません。
 私は残念です。            〔以上、8・15〕
 
(224)     過去の夏
                 明治32年8月15・25日・9月5日
                 『東京独立雑誌』40−42号「実験録」
                 署名 内村鑑三
 
    上州の夏
 
   いたづらに過ごす月日は多けれど
     花見て暮らす時ぞすくなき
 夏は一年に一度づゝ来るものなれども喜ばしく暮らせし夏とては少きものなり、我等に悲歎の記臆すべきもの多しと雖も、歓喜の記録に留むべきもの尠し、曾て嵐山の桜を見て
   三年経し心の傷は癒えやらで
     花咲く毎に痛みつるかな
の悲声を発せしことありしが、駘蕩の春も心に血走る傷の存するありては清新翠光の快を吾人に供することなし、春然り、秋然り、冬然り、夏もまた然からざらんや、蓮池螢光の雅興も人情浮薄の故を以て其喜楽を奪ひ去られしこと幾回ぞ、人生五十、多くは是れ悲惨歎痛の経歴談、渺茫たる沙漠に点々の青所を認むるのみ。
(225) 余の記臆すべき喜ばしき夏は余の十二三歳の時に始まれり、余の家は時に上州高崎にありて余は何時しか殺生の快楽を覚りたれば、夏来る毎に余は其附近の山川に河魚の捕獲に余念なかりき、余の父は余が読書を放棄して、簗、掬手《すくて》、鉤《つりばり》等の製造修繕に従事するを見て甚だ不興の面を示せしと雖も、余の全心は碓氷、烏両川の水産物に在りし事なれば厳父の些少の叱責の如きは余の省みる処にあらざりし。余は今日尚ほ其当時余の捕獲せし魚類の名称並に常習を悉く記臆す、前にも曾て述べしが如く余の天然学に心を寄するに至りしは実に此時に於ける余の水族の観察に基けり。余は鮎を知れり、春は安摩釣りと称する法を以て是を捕獲し、夏は乾水術を施して是を得たり、而して年経て後鮎が何魚たるかを知りし時は余の喜びは譬へんに物なかりき、其脂鰭は鮭魚の一種たるを証し、其秋期に至りて川を下り春期再び是に上り来るは確かに鮭鱒族の常習なるを知れり。余は※[魚+條]魚を知る、彼に数種ありて、腹部に銀色を帯べるをガラッパヤと称し、腹鰭長くして躰躯の両面に紅黒の斑を呈はし、鰓蓋に白粒五六点を留めしを弁慶※[魚+條]《べんけいばや》と呼びたり、又ガラッパヤの小なる者をヤナギハヤとも云へり、余は後日魚類学書に照し此三種の異種の魚類にあらざるを認めたり、かの弁慶※[魚+條]なるものはガラッパヤの産卵期に達せしものにして、其外形の異状を呈するは産卵期節に於ける鮭鱒魚と異なることなし、殊に彼れ弁慶※[魚+條]が性甚だ鈍く、余の如き未熟の漁者にすら容易く捕獲せらるゝを思へば彼がガラッパヤの老耄せしものなるを知るに難からず、※[魚+條]は魚類学上の Opsariichthys にして我邦の産に四種ありとの事なれども、余の旧友たる烏川の産は O.platypus ならんと信ず、※[魚+條]は鮎と同じく日本群島特産の魚類にして大和魂と共に世界に向て誇るに足るものならん。
 クキも又余の友人の一人なりき、彼は大さに於ては河中の王なりき、彼を本※[魚+條]と称んで彼が余の鉤に懸りし時は余は電流の余の全身に響き渡るを覚えたり、彼れ時には赤腹と称し、又北海道に於てはウグヒと称べり、彼の(226)始めて学者社界に知られし者は相州箱根の産にてありければ斯学の泰斗アルベルト グンテル氏は彼に附するに Leuciscus hakonensis の名を以てせり、然れども彼は日本至る所に存し、殊に余に取りては上州烏川に於ての知己なれば余をして若し彼に名称を奉らしめしならば余は彼に附するに Kozukensis の名を以てせしならん、彼は余り味佳き魚にあらず、然れども釣漁者に取りては倔強の獲物なり。
 鰻は余の友人と呼ぶを得ず、そは彼の怜悧にして滑かなる到底愚鈍余の如き者の手に落つべき者にはあらざりき、然れども余は余の従兄と共働して両三回之を捕ふるを得たり、而して之を獲し時の欣喜雀躍は今日ならば藩閥党の首領の首級でも獲るに非ざれば実験し難きものなりしと思ふ、余は鰻に就て多くの疑問を懐けり、彼は実に余の従兄が屡次余に告げしが如き一度は山の芋と化して而して後魚類と変ずるものなるや、彼は其形に於て蛇の如くなるが故に其生殖法に於ても里人の説くが如く蛇に効ふて児魚を口より吐くものなりや、而して余は実に其時クビヱー以来の世界の大学者を困しめし難問を余の幼な心に運らしつゝありしなり、鰻魚産卵法の発見は実に近世動物学の大功績にして其完結を見るに至りしは実に過去一年間の事なりとす、我の鰻は欧米産のものと異なることなく Anguilla bostoniensis なる米国的名称を附するを以て常とす、伊国は鰻魚の名産地にしてヴエニスの古市に近き所に世界最大の養鰻池あり、鰻はハヤ、鮎と異なり純然たる世界的魚類なれば国家主義者の擯斥すべきものなり。
 鰌魚は泥水に棲むものと清水に生息するものとの二種あり、前者の一種を仏鰌《ほとけどぢやう》と称し、汚水の中に蕃殖し、軟骨滑皮にして一つの定形を具へざる見悪き動物なりき、清水に棲むものはシマドヂヤウ或は鷹の羽ドヂヤウと称し、骨稍固く、鰭尾自から整然たりき、然かして名こそ鰌魚なれ、泥的なるは学名を Misgurunus anguil(227)licaudatus と称し、清的なるを Cobitis taenia と云ひ、両者共に鯉魚族の下位に立つ者なれども清濁の差は著しく其外形并に内臓両つながらに於て顕はるゝを見るべし、依て知るべし鰌魚(属吏)必しも泥水の産にあらざる事を、シマドヂヤウありて清流に游泳して属吏中時には又硬骨漢あるを示すが如し。
 鯰魚にも亦清濁の二種ありたり、其最も善く世人に知らるゝ者は濁水の産にして、仏鰌と同一の境遇に居るものなり、口辺に四本の鬚あり、上なる二本は長くして下なるは短し、肉に脂肪多くして、外皮の組織又能く仏鰌のそれに似たり、然るに爰に彼の兄弟とも称すべきギヽありて其形状に於ては確かに鯰的たりしと雖も汚濁の水を避けて好んで流水に棲み、且つ鯰の青黒色なるに反し、美麗なる黄金色を帯び、一見して以て清潔にして且つ快活なる魚なるを知るに足れり、特にギヽは其背鰭と胸鰭とに利剣を帯び、是に触るゝ者をして一種云ふべからざるの疼痛を感ぜしめたり、故に余は幼時より鯰を憎んでギヽを怖れたり。
 外に石伏魚あり、カマツカあり、赤いべんたに黒いゑつたありき、鯉、鮒、麦魚は何人も知る処、而して余の魚類界なるものは此等十数種に限られ、長き夏の日に友と互に語るべき事は唯是等有鱗の族に就てのみなりき、曰く何の誰は幸福なり、彼は今日何十目の鰻を得たり、余は残念なりし、余は今日尺余のクキを釣り落したりきと、鮎と※[魚+條]とは余の夢に上り、鰻と鯰とは余の希望を繋ぎ、魚籃《びく》に溢るゝ雑魚を得んとするより外に余に野心は存せざりき。
 嗟幸福なりし時よ、余の師と父とは余の遊惰を責めたり、然れども彼等は余が此時如何なる大学問を為しつゝありしかを知らざりし也、博物学何物ぞ、是を書籍に学び、教場に聞くのみが博物学にはあらざるなり、米国の天然詩人トロー曰く、『漁と猟とは直接に天然物を知るの最良法なり』と、ルイ アガシの博物学的大智識は彼(228)の故国なる瑞西の渓流に於ける魚類の採集観察を以て始まりしと云ふ、支那の真宗皇帝が勧学の文を作て『富家不用買良田、書中自有千鍾粟』と教へしは彼の支那的思想を述べしに止て、近世の学問なるものは多くは書籍以外にあることを知らざるに出たり、鮎の何物たるを知るは鮎の字の出処を知るに優るの学問なり、雨航雑録には香魚と云ひ泥月魚と称し、雁蕩山志に細鱗魚の名ありと知りて吾人の鮎に関する智識は少しも増進せず、真正の智識は実験を以て始まる、余の天然物の愛は烏、碓氷両川の天然物の観察を以て始まれり。
 余は上毛の地に何の負ふ処なし、其人物は余の概ね尊敬を表する事能はざる処、是に絹糸の産ありて、時には新田徳川の如き諸傑を出だせし事ありと雖も、今日の上州人なる者は多くは是れ軽躁浮薄の徒、彼等は?を以て誇ると雖も西南人種の驕を挫くの勇気なく、喜んで九州人の教化に与かり、節を売る肥人の如く、信を破る薩人に類し、関東人にして自由平等の使命を忘却せし者とは成れり。
 然れども山の聳えん限り、川の流れん限り総ての祝福は両川の魚類の上にあれよ、願くば其水は愈々清くして、其産は愈々豊かならん事を、彼等は余を造化の霊殿に導けり、彼等を通して余は余の造化の神に詣れり、余は上州の地と人とを忘るべけれども其魚類をば忘れざるべし。 〔以上、8・15〕
 
    北海道の夏
 
 東京に来りてよりは是ぞと云ふ面白き夏はなかりき、只夏毎に上州に帰省して烏川の魚類と旧交を温むるのみなりき、然れども札幌に到りてよりは人生の快楽は一層の趣味を加へ、春夏秋冬に個々特別の娯楽ありて在学四年間は夢幻の裡に過ぎたりき、
(229) 北地の冬の長さは友情の温かさを以て償はれ、夏の短かさは天然物の成長の速かさを以て贖はる、銭函海岸の介拾ひ、小樽手宮の古物発掘、高島海底の魚介の観察、山にコクハあり、野葡萄あり、畑に甜瓜あり、西瓜あり、南瓜《スクワツシユ》あり、薦茄《トマトウ》は其味に慣れてよりは菓物の王として何人も賞美するもの、牛乳は新鮮なり、飲水は澄冽なり、夏期と快楽とを聯想せしむるものは大磯鎌倉に非ずして、札幌石狩なり、殊に余の始めて北地に行きし頃は俗人は寒を恐れて其地を踏むもの尠く、炭鉱の利は多く世に紹介せられずして其名は未だ市場に唱へられず、故に余の午睡を破るの※[さんずい+氣]笛なく、余の想像を乱すの醜話なく、夏毎に有儘の天然は山野を横領し、遠く※[さんずい+氣]力の便を藉らずして、郊外到る処に処女林に入るを得たり、室に帰れば机上博物学書の堆を為すあり、校門を出づれば鷸の群は余輩の足下に翔り来て秋候黄叢の到来を告るあり、時には月下に裸馬に鞭ち、三更人静なる頃塵翻飛騰の快を貪るあり、余は余の一生中曾て此自由の空気を呼吸せし事あるを感謝す、余は実に札幌に在ては夏毎に西瓜胡瓜の如くに成殖せり、天然の法則の外に余を縛るの束縛あるなく、蝶の如く飛び歩き、野犬の如く徨ひ廻り、校園の菓物に肥えて、石狩川の魚に飽けり。
 札幌に於ける第一の夏なりき、余は親友三名と共に余の始めての探検的遠征を試みたりき、彼等の一人なる広井大臀は常に山師的大望を懐くの人なりき、彼は豊平川水源近き所に金塊の渓谷に露山するを妄想し、荐荐りに余等を勧めて彼に尾従して其探究に従はしめんとせり、彼曰く「若し金塊の存するなきも鶏冠石は確かに有り、其紅黄色を呈して河岸到る所に露出するは余の請合ふ所なり、吾人之を獲て大に利する処あるべし、有珠山道を沿ふて豊平川を溯る七里、定山渓の辺に至れば足れり」と、余等勿論彼れ平素の大言壮語を知れば彼の夢想に信を置きしにはあらざりしも、兼ねて定山渓の硫黄泉に浴せんとの希望を懐きし事なれば、彼の提議を採用して彼の(230)指導を仰ぐことゝせり。
 時に文明未だ深く北海道に入らず、豊平の桁橋《ツラス・ブリオツジ》を渡り、右に折れて白石村を過ぎ川の右岸に沿ふて森林を通過すればマコモナイの試験農場に出づるなり、公道は此処に尽き、原始的山林は此処に始まれり、温泉行きとは云へ、車あるにあらず、駄馬の通ずるに非ず、山道七里、余輩一週日の糧を荷担し行かざるを得ざる事なれば此行決して風流人の勝地探求の類にあらざりき、殊に陰森密葉の間に蚋《ぶゆ》多く、其中を通過せんと欲せば面部を蔽ふに西洋婦人の為す如く面衣の類を以てせざるべからず、黎明旅装して校を出で白石村に至て夜の明くるに会ひぬ、顧みて同行者の装束を検すれば、藤田なるは脊に大鍋一個を負ひ、釣竿三四本其左右より突出し、而して全身を蔽ふに綿糸製の蚊帳を以てす、広井生は腰に礦物試掘用の鉄鎚を帯び、小鍋一個を肩に掛け、釣竿蚊帳又藤田生に異なる事なし、宮部生の背嚢に塩あり、砂糖あり、梅干あり、且つ※[麥+面]包菓子少々ありしと覚ゆ、而して釣竿蚊帳又前二者と異ならず、而して余は米二升を課せられ、三尺帯にて是を肩に掛け釣竿蚊帳他の三者の如し、惟ふ寿永三年春二月熊谷、平山、梶原、岡部等の関東武士が一の谷城門に肉迫して平家の腰抜け共を威嚇せし時は余輩此四人の如くに装はれしならん、斯くてミスマツプ辺にて※[麥+面]包と砂糖とより成る昼食を了へ、密林蔦蘿の間を押し行けば、午後の二時頃目的地なる定山渓の温泉に達しぬ。一行先づ一浴して広は流に至り釣を垂れ、藤は直に炊事に着手し、宮と余とは薪水の命を被る、而して広は彼の大言にも似ず※[魚+完]一尾をも得る能はざりしの故を以て、夕食の副食物の欠乏を告げしかば、余等は止を得ず野生の菌類に依ることに一決せり、斯くて麁食満腹夜に至れば余等一人づゝ起座して荒熊の襲撃に備へ、他は鼾声高く忽ち華胥の境に入りぬ。
(231) 翌日広に尾従して川を溯る、金槐を求めん為めなり、然れども金槐は愚か貌冠石だも発見する能はず、唯獲しものとては「馬鹿の金《フールスゴールド》」と称する硫化銅のみなりき、貴金属の探求此に歇み、残余の一過日は余は余の持来りしプロクター氏の名著 Other Worlds than Ours.(他の世界)なる詩的天文書の嗜読に耽り、金と鶏冠石とを忘れて思念を億万里外の他界に馳せ、渓澗水滑かなる処に※[螢の虫が火]々とし宿星の映ずるを見て、余の小と、宇宙と其造主の大とを憶ひ、静思黙考以て余の過去と未来とを考へたりき。
 帰途余等の討論題は「食物として菌類の価値に就て」にてありき、椎茸一片は牛肉一片以上の滋養分を含むとは余等が其頃講義室に於て学びし処、然るに余は其不消化を唱へてその実際の効力の迚も牛肉に及ばざるを述べたり、然るに藤生は痛く余の説に反対し、食品として菌類の貴重なるは其窒素質に富むのみに由らず亦其消化の容易なるに依るとの理を主張せり、双方勿論証跡なきの水掛論なれば何時その終を告ぐべくとも見えざりしが、藤生竟に議を提して曰く「余は校に達するの前必ず放糞を催すなるべし、其時余は直に之を分析して以て余の説の確実なるを証せん」と、余は悦んで此議を諾し一時も早く彼の排屎の時期の到来せんことを待てり。
 斯くて話頭を他に転じ、進むこと里余なりしと覚ふ、藤生放屎の催しあるを告ぐ、彼は直に路傍の叢林中に入り、力を籠めて彼の生理学的試験を始めしが如し、而して余等三人は路に彳み、結果如何を待受けたり、暫時にして彼は叢中より出で来りぬ、余は直に彼に問ふて曰く「試験如何」と、正直なること金鉄の如き彼は頭を左方に傾けて低声余に答へて曰く「僕は負けた」と、余は彼に問ふに試験法の如何なりしを以てす、彼曰く「余は糞塊の上に放尿して其内部を※[手偏+僉]せしに余の昨夕啖ひし菌類は形躰其儘にて存せり」と、余も又深く彼の誤説を責むることなく、一同洪笑、藤の正直を賞め、絶愉絶快を称呼しながら其日の黄昏頃校舎に達しぬ。
(232) 慕はしき往時の事蹟よ、正直なる藤は今は逝て此世の者にあらず、余と済世の企図を約して今は北辰の下に眠る、聞く定山渓街道に今は昔時の不便なく、車馬一走安座して以て仙境に達するを得べしと、唯疑ふらくは往時の無邪気なる快楽の其処に存せんことを、神は森を作りて人は其間に道路を開鑿せり、而して世俗滔々として道路に由て延漫す、文明は凡ての点に於て幸福なる者に非ず、熊の襲撃は懼るべしと做すも、旅亭の女主の賛語を聞くに優る、今日の避暑なるものに真正の休養なきは何人も認むる処、北海の処女林に天文書を繙きしが如きは東京市外三百里以内に於て求め得べきの快楽に非ず。
 札幌に於ける第三の夏は余は又之を藤生と共に銷過せり、事は農学校附属の農場に排水管設置の為めの測量を行ふにありき、目的は二人各金四拾円を貯へてチエムバースの百科字典を購はんとするにありき、余等は教授ブルックス氏に迫り余等の労働賃銀一時聞八銭を増して拾銭となさん事を乞ひしに、氏は渋々ながらも此請求を容れしかば、我等は一日十時間働きて、五旬日余に我等の目的の資を得んと計算せり、毎朝五時に起き、転鏡儀《ツランシツト》を肩にし暁露を排して測量地に達し、正六時を告ぐるや、我等は直に其日の業に着手せり、藤は器械に拠り、余は鎖引《チエーメン》となり、竿持《ロツドメン》となり、彼の指揮に従て沼地を奔走し、労働十時間にして午後六時に至て止みぬ、始めの程こそ百科字典欲しさに熱さも苦しさも忘れたれ、身は金鉄にあらざれば余は十数日にして炎暑の冒す所となり、一時労働を中止せざるを得ざるに至れり、斯くして苦しき夏は過ぎて待ちに待ちたる勘定日に至れば藤は二十二余円を得て余は僅かに九円を得しのみなりき、是れ余に取りては目的額の五分の一に過ぎざりしが故に百科字典は偖措き英和字書をさへ碌々購ひ得ざりしと雖も、而かも余の額に汗して働き得し金なりと思へば其貴さ喩へんに物なかりき、勿論其一部は百足饅頭と称する札幌名物の為めに消費されしに相違なし、然れども其大部分は確か(233)に智能発達の為めに費され、労働の道徳的価値を学び得しと共に胃的脳的両ついながらに益する処ありしは余の今日に至るとも忘る能はざる処なり。
 校を出でゝ後は左程面白き夏とてはなかりき、一夏は実弟達三郎と兄弟二人単衣一枚を以て之を過せし事ありき、之れ北海道の夏は単衣なくして通過し得べしとの余の仮説を実験せんが為めなりき、然れども縦令北緯四十三度に位する札幌の事なればとて、夏は夏にして袷衣のみにて能く忍び得べきに非ず、故に我等兄弟は一枚の単衣を互に相交換し、兄、家に在る時は之を弟に譲り、弟は家に帰りて又之を兄に渡せり、然れども我等は終に強情にも他の単衣を買ひ求めざりき、其報として苦熱去て秋風の至りし時は我等兄弟は例年に勝るの清冷を感じたりき。
 余は北海道に夏を過ごせし事凡て八回、其間曾て避暑なるものを試みし事なく、曾て海浜に惰眠を貪るの必要を感ぜしことなし、是れ夏の熱からざるの故に非ずして、俗気未だ北海の天地を襲はざるの前なりしかば、余の身心は曾て疲労を感ぜしことなく、智能感能常に健全にして休養の要を感ぜざりしに由る、そは疲労は交際場裡の心労より来るものにして、正当の労働より来るものにあらざればなり。
 慕はしき札幌時代は去れり、然り慕はしき札幌其物は失せり、神威岬以北俗人なしと誇りしアイヌ人の石狩平原も今は炭礦線路の之を横断するありて、井上蟹甲将軍の其将たるあれば、高島呑象の北海の巨利を併呑するあり、天然が日本帝国の為めに遺せし唯一の原始的楽園も終に文明の不幸より免かるゝ能はず、トイビラの水清きも之を飲むの清士なく、エニハの山高きも之を望むの潔士なし、唯惟ふ札幌市外に一片の石の苔蒸すありて、逝きにし友の霊を留むる事を。 〔以上、8・25〕
 
(234)    米国の夏
 
 余は米国に於て三回の夏を銷過せり、而して夏は一夏毎に有益にして記臆すべきものなりき、第一回の夏、即ち千八百八十五年の夏は余は之をマッサチユーセット州グロースタ市に過ごせり、ペンシルバニヤ州白痴院に於ける八ケ月間の労働は余をして非常に疲労せしめたれば、余は休養をニューファウンドランドの漁場に求めんとてグロースター市に到りしなり、此処にウヰルコックス氏なる水産調査官の住したれば、華盛頓なるスミソニアン学院長ベヤード氏よりの紹介を以て氏の助力を藉りてグ市の漁事を視察すると共に英仏二国の争論地なるニューファウンドランド漁場への渡航の便を求めんとせり。
 グロースターの市たる馬州の東端アン岬より程遠からぬ所にあり、リン、サレム、ベヾリー等の有名なる市街を経てボストンより四十哩余の東にあり。人口三万、港湾広く且つ深くして大船を容るゝに足る、市は東西二部に別れ、海岸到る処に埠頭を設け、漁船の輻輳は我が北海道に於てすら観ざりし処、余はウヰルコックス氏の指導に依て其地方漁業の大略を知るを得、且つ市内屈指の漁業家に知己を得て、数日ならずして産業上の視察を了るを得たり。
 然れども余の此地に来りしは漁事を学ばんが為めにはあらざりし、余は天職としては心中既に故国発途の時水産業を放棄したり、余は人生の大問題に解答を得んが為めに米国に渡りしなり、余はローリング ブレース氏の名著『慈善観念発達史』に由て人生の目的は慈善事業にありと念じたりき、然るに斯業に従事する八ケ月にして余は余の霊魂を拯はんが為には慈善事業たるものゝ全く無効なるを悟りたれば、爰に余の思想界に一大変動を生(235)し、是を靖むるに非ざれば余は余の身の進退を如何ともする能はざるに至れり、是れ余が一時ペンシルバニヤ州に於ける余の恩師を辞して、産業視察の名の下に此漁市に隠れしの理由なりとす。
 心中の煩悶と嚢中の欠乏とは余をして計画のニューファウンドランド行を断念せしめたれば、余はグロースター市に留まり、一日三回其附近を逍遥し、或は大磐の上に坐し、或は山嘴に烟磯を望み、或は太西洋の怒濤の来て巌を噛むの所に跪き、祈り且つ叫び、求め且つ天の門を叩きたりき、今日こそは形式的宗教は余の殆んど省みざる処となり、度々宣教師の輩より無宗教者視せらるゝこともあれ、十五年前の余は実に熱心なるアーメン的基督信者なりければ、余は余の人生問題の解釈を求めんとするに当りて自由に外形上の儀式に頼りたりき。
 馬州の丘陵到る処に多く青漿果《ブリユーベリー》を産す、取て之を食ふも何人の咎むるなし、勿論独り異郷に客たる事なれば訪ふて来るの人あることなく、読んでは考へ考へては読むの外余の注意を惹くものなかりければ、余は重に散策を郊外に取り、唇の黒くなるまでに天然果の美味を嘗ひたりき、新英州の気候たる夏時の温度は時としては室内に於て百度に達することありと雖も、空気に湿潤なき為め蒸熱を感ずること尠く、炎天と雖も日蔽なくして郊外に徨ふを得るなり、夏時巌上の祈祷とし云へば何やら苦業の如くに聞ゆるなれども、余に取りてはアン岬附近の此逍遥は心に苦悶こそありしなれ、身は周囲の天然を楽しみ少しも苦痛を感ぜざりき。
 斯くて異郷に心身の慰癒を求めつゝありし時、余の財嚢は日々に益々空欠を告ぐるに至りしかば、余は此欠を補はんが為めに何にかの業に従事せざるべからざるに至れり、然れども曠野に安慰を探りつゝありし者に利益ある労働の供せらるべき筈なく、若し余の苦悶の声にして経済的価値なくんば、余に取りては只の一仙を獲るの途なかりしなり。
(236) 茲に於てか余は余の旅宿の一室に於て余の悲憤其儘を余の不完全なる英語に綴りたり、余は余の論文の為めに二週日を消費せり、而して稿成て後是を余の友なるハリス夫人に送り、彼女の校閲と紹介とを得て世に公にするを得しもの、是れ幸にして少く彼国思想界の注意を喚びし『大和魂即ち日本の精神』なる論文なりとす、其発刊は翌千八百八十九年二月に在りて其報酬として金貨四十弗の余の手に送られしは尚ほ一ケ月の後にありしと雖も、余のグロースター滞在費は余の愛国心の発表を以て償はれ、余は竟に他人に負ふ処なくして有益なる三過日を新英州の此の勝地に送るを得たり。
 余はグロースター市に於て何の得し処ありし乎、余は其広大なる漁事を視察したり、鮭、鯖、カジキ鮪の保存法を目撃せり、余は魚膠製造所に抵て大に学ぶ所ありたり、漁船の構造、山塩の使用法等又余の深き注意を惹けり、然れども余のグロースターに於て学びし主なる事実は地と海との事に非ずして天と霊との事にてありき。
        “Sit on the desert stone
   Like Elijab at Horeb's cave alone;
   And a gentle voice comes through tbe wild,
   Like a fatber consoling his fretful child,
   That banishes bitterness,Wrath and fear,
   Saying‘Mamis distant,but God is near'.”
 余は海路グロースターを辞してボストンに向へり、而して海船其湾口を出づる頃余の幾回となく復誦せし聖句は実に是れなりき『人の義とせらるゝは信仰に由て律法の行に由らず』余は其秋を以てアマスト大学に入れり、(237)而して余の人生観は此時より全く一変せり。
 米国に於ける第二の夏は余は之を彼国に於ける余のホームとも称すべきペンシルバニヤ州エルウヰン白痴院に於て消費せり、夏期試験の終りし頃院長ドクトル、ケルリン氏は頻りに余に書を贈りて曰く『汝、余の待遇に堪ゆる能はずして余を捨て新英州に到れり、然れど今夏は必ず再び余の許に来て余及び此地にある汝の凡ての友人は如何に汝を愛する乎を試みよ』と、而して氏は余の貧を知りたれば余の此帰省をして易からしめんために五弗の金券一枚と鉄道切符一枚を贈りたり、余は異郷に在て余を愛する如斯き人ありしを意ひ、心中無限の慰藉に充ちて、業を了へしや否や直に紐育費府を経てエルウヰンなる余の恩人の家に帰れり。
 院長の余に対する彼の実子に対するが如く、先づ余の健康を問ひ、余の全躰に肉附きしを喜び、且つ問ふて曰く『汝新英州に於て何を得しや、汝は彼地に於て余に優るの汝の友人あるを発見せしや』と、彼は院内の一室を余に供し、余をして彼の傍に食せしめ、客人の到る毎に余を紹介し、余の再来を喜ぶ恰も父が其子の帰省を悦ぶが如くなりし。
 ケルリン氏は余の無為にして彼の待遇に安んぜざるを知れり、故に彼は再び余をして入院者看護の任に当らしめ、且つ慈善事業の調査を命じ、余を教へ導くと共に余をして彼の厄介者たるの感を起さゞらしめん事を努めたり、彼は又余に少しく測地的技術のあるを知りたれば、彼の管理の下にある院内三百エークルの地に高低測量を行はんため、余を費府に遺はして金百弗を投じて転鏡機一基を購はしめたり、余は此機械を得て余に最も適合の職を得たれば、白痴の児童中智能の稍や発達せしもの二三を撰び、彼等をして余の助手たらしめ、善きドクトルの指揮の下に測地の業に従事したりき。
(238) 此院に遊びし日本人は余の前に田中不二麿氏ありたり、余の後に留岡幸助氏と滝の川白痴院長大須賀氏ありたり、而して今やかの院に遊ぶものはエルウヰン停車場に到り、左に折れて小渓を渡り、迂回して小山を登り行くならん、此道路たる院長と余との共同設置に係るものにして彼が余の名を永久に院内に留めんが為めにとて Uchimuranian Road(内村道)と命名せしものなり、彼は曰へり、『羅馬にアピアン道ありて其建設者の名は今日に至て滅せず、我院又其測量師たりし内村の名を留むるの道路なからざらんや』と、余は又灌水管設置の為めの下測量を行せり、又院と境を接する黒人の所有地の境界を定めたり、時に黒人余の黄色人種たるを見て取りけん彼の持説を執て動かず、院領凡そ百坪余を要求せり、余之を院長に諮りしに、彼は首肯して曰く『憐むべき黒人彼は、貧なり、宜しく彼の為めに譲るべし』と、強者に対しては儼として動かざる余の師は弱者と貧者とに対しては脆きこと此の如し。
 院長一日余を彼の事務室に呼ぶ、抵て彼の命を問へば、彼は曰ふ、『汝今日費府に至り、此品をワルナット街の取引所〇〇に渡たせよ』と、余は其物を取り揚げ見ればテキサス太平洋鉄道の額面五千弗(一万円)の株券なりき、余は臍の緒切てより曾て斯る大金を手にしたる事なければ心配の余り院長に告げて曰く『先生此大金を余に委ぬ、余にして若し是を拐帯し去らば先生如何とする』と、時に院長余の面を眺め笑て曰く、『ヨシ々々、持ち去れよ、汝は人類の為めに之を善用するの途を知れり』と、余は彼の命を奉じ市に至りて後株券を指名の仲買商に渡せり、而して其日の夕刻余は院に帰りしも院長は曾て余に株券の成行に就て問ひし事なく、其際余が持帰りし受取証書なるものは彼の国に於ける取引書類の標本として近頃まで余の手に存せり、米国に於ける師弟間の信認に実に如斯きものあり。
(239) 斯くて八月は過ぎて校に帰るの時に至りたれば、院長一日余を事務室に招き、彼のポケツトより十弗の金券二枚を取出し、之を余の掌に押し附けて曰く『是れ汝の労働の結果なり、少しく汝の学資を補ふを得ん』と、余は落涙の裡に彼に謝し、翌日再び彼と彼の家族とを辞して新英州の校舎に帰れり。敬慕せる師よ、エルウヰン山上今や君の面影なく、唯蔦蘿の君の墳墓を飾るのみなりと聞く、君の指導を受けし余は君の希望に徇て君の事業に従事し能はざるを悲しむ、然れども君よ、東京独立雑誌亦君の思念を伝へざるものに非ず、君よ、願くば此誌に顕はれたる余の微弱なる慈恵的事業を享けよ。
 米国に於ける第三の夏、余は是をアマスト大学の寄宿舎に於て過ごせり、時に余は同大学の業を卒へ、熟慮の結果、神学の深所に足を入れんと決心したれば、余の語学上の欠を補はんが為めに余は此の夏労働を廃し勤学に従事したり、勿論夏期休業中の事なれば余を助くるに教師のあるなく、余は独り辞典と文法書に依頼して希臘、希伯来の両言語に通達せんと勉めたりき。
 開校中は一山に集ひ来る衆徒は六百を以て算へられ、鐘声毎に講堂出入の喧騒はさながら馬厩のそれにも相似たり、教師の悪評、生徒の失敗談、野球場裡の懸引話し等にて、校山到る処に静思黙考の場所なきも、今や休校と同時に群童悉く故山に帰り、さしも広き校内に僅に日本人一人を留むるのみなりき、余は実に二ケ月の永き夏を松林の栗鼠と共に校山の上に消費せり、日は東の方ペラム山上に登り、西の方熱紅を漲らしてベルクシヤの山端に没せり、ホリヨーク山脈は余の視線を南に遮り、トム、『糖塊《シユガローフ》』は北方に聳えたり、コネクチカットの蜒流は西方三哩を距るの辺に銀板を延べしが如くに輝き、ハドレー、ノルザムプトンの饒野は眼下に連りて、銀河の両岸に耕地青々たり、朝に麁餉を了へて独り緑樹の下に来れば松林の栗鼠も樹の実を抱きて彼等の朝飯に忙は(240)しく、余が楓林の陰に坐して、希伯来動詞転化の復習を始むる頃は彼等は既に枯洞に退て仲夏の炎熱を避くるが如し、学に倦めば樹陰に緩歩し、夕陽赫々として西山に没する頃は大瀛の水を隔てたる彼方の故国の事など思ひ出し、郷信を手にしながら屡次其安全幸福を祈りたり、此夏は余に取りては全く勤学修養の夏なりき、余は希伯来語に於ては博士グリーンの編纂せし Chrestomathy の一部を読み了り、希臘語に於ては約翰伝を嗜読し得るに至れり、外にニユーハムプシヤ山中に友人を訪ひ、ノースフイールドにムーデイー氏の夏期学校に出席せしも、是れ共に勤学中の挿話《エピソード》に過ぎざれば爰に掲ぐることを止めぬ。
       *     *     *     *
 グロースターとエルウヰンとアマスト、ロングフエーローの歌ひし海とブライアントの讃へし森よ、汝等は余の心霊に自由を供せしと共に又余をして不幸なるものとならしめたり、汝の水にして余の足を洗はざりしならば、汝の陰にして余を宿さゞりしならば、余は何時までも東洋の君子として、新天地を夢想するなく、新理想を懐くなく、蛸牛殻的愛国心に甘んじ、智者として崇められ、国士として迎へられしならむ、汝等は余に大西洋岸の自由を与へて太平洋岸に於て余を不快の者たらしめたり、余は汝等に恩を謝すると同時に亦汝等に訴ふる処なくんばあらず。 〔以上、9・5〕
 
(241)     物の前後(【ホレーシヤス、ボナー氏の作“the Divine order”に拠る】)
                   明治32年8月15日
                   『東京独立雑誌』40号「実験録」
                   署名なし
 
  真《まこと》なる事は先にして美なる事は後なり
   美なる事が先にして真なる事が後なるに非ず
  先づ有の儘の森と岩と沢とありて
   然る後に香はしき実はしき園はあるなり。
 
  善なる事は先にして美なる事は後なり
   美なる事は先にして善なる事は後なるに非ず
  先づ荒き野に固き種を下して
   然る後に花は開き枝は茂るなり。
 
  喜ばしき事は先にして悲しき事は後なるに非ず
   悲しき事は先にして喜ばしき事は後に来るなり
 
(242)  一度びは涙に咽びて(そは泣かざる者とては世になければ)
   然る後に憂《うき》を忘れて躍り喜ぶなり。
 
  光は先にして暗《くらやみ》は後に来るべきものにあらず
   先づ暗黒を経過して然る後に光明は臨むなり
  先づ黒雲天を掩ふて然る後に霓《にじ》顕はる
   先づ一度び墓に降りて然る後に天に昇るなり。
 
(243)     始めて日光を見る
                    明治32年8月15日
                    『東京独立雑誌』40号「雑壇」
                    署名 内村生
 
 日本男子にして、若かも関東人にして、年四十に垂んとして未だ日光を見ずとは野暮も亦甚だしからずや、日光を見ずば結構を語るべからずと云ふ、然るに余の如く今は止むを得ずして文筆の業に従事し、光華を語り、赫奕を談ずる者にして旅行半日の距離の内にある日光を見ずとは免すべからざる事となす人もあらん、曾て米国留学中、アマスト大学卒業式の当日、教頭の招待会に臨みし時、ボストンの紳士某あり、余の日本人なるを見て、来て余と握手して曰く『余は曾て貴下の本国に遊びし者、日光の壮観実に賞すべし』と、余は少しく赤面の余り彼に答へて曰く、『耻かしながら余は貴下に対して白状せざるを得ず余は実に未だ日光を見ず』と、時に彼は驚いて曰く『日本に生れて日光を見ずとよ!』時に余の傍に立てる他の一紳士あり、余の窘迫の状を見て気の毒にや思ひけん、かの紳士に告て曰く、『君此日本紳士の日光を見ざるを以て怪しと為す勿れ、余はボストンの紳士にして二十年間かの市に住して未だ一回もバンカーヒルに其紀念塔を見しことなき人を知る、人は兎角に接近の名所を探究するに急がざるが如し』と、時に余は透かさず此の紳士に続いて曰く『余のボストンに至りしや、到着当日、余は他事を措て先づバンカーヒルに登り、革命時代の勇士の魂を弔ひたり』と、斯くて余は思はずも余の友人の助言に依りて交際場裡の耻辱より免かれたりき。
(244) 然るに故国に帰てより爰に十有一年、鉄路の便は開けて日光は東京人士の公園と化せしに係はらず、余は未だ一回も其地を踏みし事なく、心窃かに思へらく、『日光の美とて何にかあらん、北海に稲穂峠の楓樹林を賞し、猿留山道より襟裳崎の階段を作して海に終るの偉観を見しものは別に日光に其壮美を見るの要なし、寧ろ其費を節してヲルヅヲスの詩集壱冊を購ふには若かず』と、斯くて夏来り、夏去りしも未だ日光を見ず、文に従事する爰に六七年、日光を見ずしてサブライムを語り来りしに別に不都合をば感ぜざりし。
 偖て日光に至りて見れば先づ余の注意を惹きしものは徳川家の宗廟に非ずして外国人と古川市兵衛氏との感化力とにてありき、市街到る処に日本美人の写真を鬻ぎ、骨董品を連ねたるは東洋漫遊の赤髯紳士の好尚に投ぜんが為めなり、料理屋あり、東京十字屋の支店ありて耶蘇教書類を鬻ぐにあらで(東京本店も亦然り)今は俗の俗化せる洋人相手の印刷物を売捌くなり、神橋を架せる大谷川を渡れば此所に足尾銅山より来る牛車鉄道に接し、渓谷を遡る事二里余、幾十回となく鋳銅を運搬せる牛車に遭遇せり、是ぞ我国の銅王《コパーキング》市兵衛公の宝車にして彼の七人の妾を養ふが為めの礦物なりと思へば余り心地善くは感ぜざりし。
 余は勿論華厳の瀑を見たり、関東第一の瀑布なりと伝ふ、日光の偉観第一と称すべきものなり、中禅寺湖の吐口にして大谷川の始まる所なり、後に二荒山を控へ、前に松倉山を当て、直立五十余丈|驀《ましぐ》らに落る処は終日見尽して尚ほ飽き足らざるの感あるならむ、華厳と相対して阿厳、方等、般若、等に顔色なし、彼等は区々たる小瀑布、摂の箕面、越の奈江も彼等に勝るも劣る処なし、日光は華厳在てのものなるべし、是を日光と称せしは其瀑面に現はるゝ七色景の故を以てか、華厳を賞し、中禅寺湖面に雲霧を排して月の登るに会し、二荒が丹青松倉を腰に擁して其円頭を五千尺の高きに擡ぐるを見て、日光に遊びし価は既に償はれしの感あり、徳川家の宗廟の如(245)きは是を観る.さへ癇癪の種ならぬはなく、如何に日本美術の粋を鍾めしものなればとて、全国民の膏血を絞りて成りし此大構造、是れ実に徳川氏の名誉にあらで恥を千載に伝ふるものならずや、人の偉大なるは彼の墳墓の壮宏を極むるが故に非ずして、彼が人類の為めに尽せし功績の大なるに由らずんばあらず、ポトマツク河辺バーノン山の地に一小丘を留めしワシントンは日光の地に圧制の大紀念を遺せし家康家光に優る数十百等の大人物なりしは言はずして明かなり。
 斯くて余は日光に至りしも特に得る処なく、唯華厳の瀑布を余の記臆に彫みて、不平だら/\家に帰りぬ。
 
(246)     〔金と神 他〕
                  明治32年8月25日
                  『東京独立雑誌』41号「記者之領分」                  署名なし
 
    金と神
 
 人あり我に告て曰く「君に金なし、故に君は何事をも為す能はず」と、我は彼に答へて曰く「我に神あり故に我は何事をも為すを得べし」と、時に彼は我の迷信を嗤へり、而して我は彼の俗智を憤れり、彼と我とは実に異種異類の人たりしなり。
 
    語るべき事なし
 
 俗人跋扈の今日に当て此社会に供すべきもの余輩にあるなし、そは彼等の欲するものは余輩の与へ得ざるものにして、余輩の与へんと欲するものは彼等の欲せざるものなればなり、余輩が沈黙を守らざるを得ざるは亦故なきにあらず。
 
    第二の善
 
(247) 天然の共に語るべきあれども同志の共に談ずべきなく、人類の救ふべきあるも国家の我が真心の労を捧ぐべきなきは決して好みすべきの境遇に非ず、然れども友は人たるの威厳を放棄しても求むべき者に非ず、国は不義に与みしても拯ふべきものにあらざれば、四隣皆空に走り、虚を事とする時に際しては勇退高踏は|第二の善《セコンドベスト》と称はざるを得ず。
 
    自存
 
 若し国を救ひ得ずんば郷を救はんのみ、郷を救ひ得ずんば家を救はんのみ、若し家をも救ひ得ずんば自己を救はんのみ、吾人の力量に限りあり、然れども吾人は死すとも吾人の霊魂を俗人の手に付たすべからず。
 
    真理と其実行
 
 真理を聞て直に之を実行に顕はさゞる者は種子を得て直に之を地に播かざる者の類なり、真理は行はざるが為めに失せ、種子は播かざるがために枯る、真理を聞く爰に数年、然るに更に思想の高きを覚えず、節の貴きを感ぜざるは、是れ単に真理を耳に聞て之を手に行ふの勇気なきに由らずんばあらず。
 
    自身の改革者
 
 改革者たる必しも政治家となりて国政を調理するを須ひず、改革の要は国家并に社会に止まらず、腐蝕瀰漫の今日に於ては改革の要は郡にあり、村にあり、然り吾人自身にあり、汝改革者たらんと欲する者よ、何為ぞ改(248)革を汝自身の上に施して今日直に改革者の列に加はらざる。
 
    文と文学者
 
 文を殺す者は文の為めに文を弄する文学者と称する遊蕩子の一種なり、文は思想にして真面目なるものなり、然るに之に対するに俳優の技倆に対するの態度を以てす、豈竟に之を枯死せしめざるを得んや、文学興隆策の一は文学者排斥にあり。
 
    寧ろ憫察すべき者
 
 日本今日の社会を責むるに道徳の事を以てするはアイヌ人を責むるに高等数理の事を以てするの類ならむ、前者は不徳の故を以て、後者は無智の故を以て、寧ろ教導啓発すべきものにして叱呵詰責すべき者にあらざるべし、利に長け智に鋭きの故を以て大徳を我国今日の社会より望みしは吾人の過失なりしと云はざるを得ず。
 
    日本人の倫理
 
 日本人の倫理なるものは概ね皆な個人的たりしなり、君に対しては忠、父母に対しては孝、兄に対しては悌、夫に対しては貞を説きしも、社会てふ公的集合躰に対する義務なるものを教へざりしなり、故に今日文明諸国に於て唱道せらるゝ公的生涯なるものは日本人多数の未だ殆んど全く解せざる処にして、此点に於ては彼等は今日より直にABCの訓練を要する者なり。
 
(249)    義理と義務
 
 日本倫理に義理ありて西洋倫理に義務あり、義理は情的倫理にして私的なり、是に反して義務は理的倫理にして公的なり、前者は情に従ひ後者は理に則る、義理は情愛に富むも不公平なり、義務は不人情の如くに見えて公平なり、義理は家族的道徳にして、義務は国家的道徳なり、薩長政府の不公平なるは其義理に縛ばらるるが故なり。北条政府の公平なりしは其義務を重んぜしが故なり、義務の観念に薄くして国政は永久に持続し得べきものにあらず。
 
    孰れか君子国なる耶
 
 英国にはジョン モーレー氏の如き名士あり、倫敦クロニクルの如き有力なる新聞紙ありて盛に帝国主義を攻撃し、小国トランスバールに対する自国政府の暴虐を責め、米国には代議員ホアー氏の如きあり、紐育ネーシヨン、の如き高潔なる雑誌ありて臆することなく菲律賓群島独立論を唱ふ、是を我国に於ける一人の政治家の起て台湾に於ける我政府の虐政を責むる者なく、一有力新聞ありて台民三百万の為めに弁ずるなきに比して、余輩は彼我孰れか君子国なる耶を疑はずんばあらず。
 
(250)     時報
                   明治32年8月25日
                   『東京独立雑誌』41号「雑壇」
                   署名 角筈生
 
◎或人の評に日本近時の出版物にして、帝国又は大日本の名を附せる者に碌なものはなき由なり、其一例にや近頃大日本中学会と云ふ会にては予約出版の法を以て専ら戦史を出版すと号し、広く各町村役場に依頼し、予約金を取立てし儘、今は其会は解散して迹形なきに至りしと云ふ『大日本』の名を利用して国民を欺きしものは尚ほ此他にも沢山あり。
◎日本国の代議士となるの資格に三つありと大坂朝日は曰ふ、鉄面なる事其一、横暴なる事其二、利を攫むに巧なる事其三なりと、斯くてこそ、君子国は益々其特質を発揮し、世界万国来て其規模に傚ふに至るならん。
◎近頃世を去りし西班牙国前自由党総理ヱミリオ、カステラ氏は欧洲有名の雄弁家にして、歴史家にして、言語学者にして、之に加ふるに高尚勇敢なる民主々義者なりし、彼を我国の現自由党総理板垣退助君に此して吾人に遜色なき能はず。
◎英国に於ても仁義公道を主張して小国トランスバールの為めに弁ずる者は侵略主義者《ジンゴー》より国賊の名を以て罵らるゝと云ふ、人情は何処も同じものかな、人道を自国の為めに利用する者は愛国者にして他国の為めに唱道する者は国賊となるなり、然れども我国の如きに在ては今や此種の国賊すらも無きに至れり。
(251)◎美術批評家ジヨン ラスキンは曰へり、「世に怖るべきものとて悪魔を見て悪魔と認め得ざる者の心の状態の如きはあらじ」と、利慾の外無一物の政治家を戴いて彼等の悪魔なるを認むる能はずして是に国政を任かする国民の心の状態の如きも亦怖るべき憫れむべきものならずや。
◎チヤーレス、ラムミス氏曰く、歴史有て以来英民族の如く横柄にして高慢にして他人の説を許容せざる者なしと、余輩は氏の言を我国に在留する同民族の宣教師に於て徴するを得るなり、異教徒の信仰を蔑視し、是を許容せざるに於て余は他に英米二国の宣教師の如きものあるを知らず。
◎然れども高慢なるも彼等英民族に恕すべきことなしとせず、米国人が今年上半季間に彼等の大中学に寄附せし金額は積んで三千万弗(六千万円)に達せしと云ふ、是を高慢にして公益事業の為には少しも寄附せざる我国の貴族豪商共に此すれば、彼の優我の劣は言はずして明かなり。
 
(252)     英和時事問答〔11〕
                       明治32年8月25日
                       『東京独立雑誌』41号
                       署名なし
 
       ヲルソドツクス教
 
 私は日本の基督信者の中にヲルソドツクスと云ふ語を度々聞きますが、それは一態何んな事を称ふのでしやう。
 左様さ、普通彼等の解する処に依ればヲルソドツクスなる語は宣教師を怒らせずに基督教を信ずる事を意味するのです。
 宣教師を怒らせない事とは実は何ういふ事です。
 それは彼等の教ふる事を一言一句悉く信ずる事です。
(253) ソレで宜いのですか。
 貴下は又総て彼等との交際に於て柔和で従順でなくてはなりません。貴下の唇より洩れたる『ノー』なる一語は直に貴下をして彼等の眼中に於ては最も憎むべき異端論者と為さしむるかも知れません。
 併し私の聞きまするに私は何にか或る特別なる教義を信仰しなければ健全なるヲルソドツクス信者にはなれないそうです。
 左様さ、貴下はソレを御信じ被為なければなりません;即ち信ずると口に唱へなければなりません。
 ソレデは私には到底ヲルソドツクスには成れますまいと思ひます。
 併し私は是等の大教義に就て少しも知らないヲルソドツクス信者を沢山知つて居ます。
 ソンナラば何の点に於て是等のヲルソドツクス信者なる者は他の人累と異なりますか。
 爾うですね、彼等は教会に出席致します、讃美歌を歌ひます、又彼等の多くは(皆んなではないそうです)私の聞きまするに烟草を吸はず酒を飲まないそうです;併し其他の点に於て彼等が普通の偶像信者と何う(254)異なるかは私にも分りません
 其他にヲルソドツクス教には何にもありません乎。例令へて申せば豪勇なる事の如きはヲルソドツクス教の教義ではありません乎。
 爾うだらうとは思ひます;併し私の知る所に依りますれば今日此国に於ては真正の勇者は所謂ヲルソドツクスとなる事は出来ません。
 然らば世には卑しむべきヲルソドツクス信者なる者がありますか。
 有ると私は思ひます;第一等の地位を占めて居るヲルソドツク信者の中に銭儲けの老練家が大分あります;彼等は実に社会一般の眼からは蓄財家としてのみ目せられて居る人です。
 夫れでは貴下は私が天国に入らん為めにはヲルソドツクスたるの必要は私に無いと御仰るのですか。
 ソレは私は存じません;然し私に取ては私は寧ろノーブルで有て、慈悲深く有て、身を殺して地獄に落る方が、女々しくして、卑陋で、蔭にて人を誹謗して、安逸を好んで天国に昇るより宜しう厶います。
 貴下はヲルソドツクスでは有りませんね。
(255) 左様です、私はありません。私はナザレの聖人の一卑僕たらんと努むる者であります;併しヲルソドツクスたるは日本の貴族の一人たらんと欲するが如く私の甚だ耻と致す所です。
 
(256)     〔読むべきもの 他〕
                 明治32年9月5日
                 『東京独立雑誌』42号「記者之領分」
                 署名なし
 
    読むべきもの
 
 読むべきものは偉人の筆に成りし偉人伝なり、小人の伝と、小人の筆に成りし偉人伝とは共に読むに堪へざるものあり。
 
    終に平和なし
 
 余輩は個々の政略問題に於て現社会の人と説を異にする者に非ず、余輩は余輩の根本的思想に於て彼等に正反対する者なり、余輩は政略其物を嫌ひ、安逸のために計る平和を斥け、利益のためにする行動を悪む、社会は暗黒を愛して光明を嫌ふものなれば、彼等が彼等の憎愛の念を転倒するに至るまでは余輩は彼等に対して戦闘を継続せざるべからず。
 
    偉大なる時代
 
(257) 人類の歴史有て以来、偉大なる時代とては5指を以て算ふるに足らむ、是れ即ち純正義が国民多数の嗜好する処となりし時代にして、ソロン時代の雅典、クロムウエル時代の英国を除いては他に求め難しとせむ、是を千載一遇と称して足らず、五千載一遇と称せむ。
 
    事業の大小
                                    小なる大事業あり、大なる小事業あり、主義履行の為めにする事業は小にして大なり、利益壟断の為めにする事業は大にして小なり、主義の為めにする家政改革は利欲と政略との為めにする国政調理に勝るの大事業なり。
 
    最も看出し難きもの
 
 綺羅錦繍は帝王の宮殿にあり、奇石宝玉は深山幽谷にあり、其処に随て其物を獲るに難からず、惟り純正潔白の人士に至ては、之を朝に求めて得ず、之を野に探て当らず、彼は万物の中に最も貴重なるものにして、彼を看出すは実に難中の難なり。
 
    基督の神なる理由
 
 余輩は基督の神なる理由を彼の奇績に於て発見する能はず、彼の復活昇天亦彼の神性を証するに足らず、基督の神なる理由は彼の完全なる生涯にあり、一つの策略を用ひざりし生涯、一度びも主張を曲げざりし生涯、世俗の要求に一歩をも譲らざりし生涯、他人を救ひ得しも自身を助け得ざりし生涯、即ち絶対的無私無慾の生涯、是(258)れ神の生涯にあらずして何ぞ、余輩は科学的に彼の行為に対し疑問を懐くことあるも、倫理的に彼の生涯を批難する能はず、余輩が彼を神とし尊崇するの理由は主として彼の純潔なる生涯の一事にあり。
 
    演劇的社会
 
 今や社会は一大劇場と化し、優麗なる詞調は歌人の筆に顕はれ、高尚なる理想は説教師の口に唱へらる、弱者を屠るの軍人あり、貧者を圧するの政治家あり、而して正実にして勇敢なる行為は僅に過去の記録に存するのみ、洛陽の紙価は高きも、勇ましき行為に思想を現はすの勇士あるなし。
 
    志士の為すべき事
 
 志士の為すべき事に二あり、善事を行ふ事其一なり、真理を探る事其二なり、澆季の世に遭遇し、俗人跳梁を極めて白昼燈を点して智者を街頭に尋ぬる時に際しては、吾人は静居して宇宙の真理を探らんのみ、余輩は白昼の活動を好むと雖も、亦深夜の勉学を愛するや切なり。
 
    望むべからざるもの
 
 若し木に縁て魚を求め得べくんば日本今日の社会より偉大なる事業を求め得べし、若し薊にして無花果を生じ得べくんば今日の日本人より大文学大美術を望み得べし、大思想を注入せざりしなり、故に大事業は来らざるなり、日本国民の事業と慾望とは軍備拡張と国威宣揚との上に出でざるべし。
 
(259)    理想と事業
 
 噴水は其源より高く上る能はず、国民も政府も其理想とする所より高き事業を為す能はず、伊藤山県の諸公がソロン、ペリクリースの事業を為し得ざるは前二者は後二者の有せしオデシイ イリヤツドの伝へし理想を有せざるに由る、余輩藩閥政府に絶望するや久し、豈今日其区々の失敗を責むる者ならんや。
    『文明の為めの占領』
 
 米国は『文明の為めに』非律賓を占領せんとし、日本は同一の目的(託言?)を以て既に台湾を占領せり、然るに前者に在ては未だ其目的を達せざるに輿論は其放棄に傾かんとし、後者に在ては既に其目的を達して苛政叛逆の報は踵を接して至る、以来『文明の為めにする占領』なる語は偽善者の套語として歴史家の伝ふる所とならむ。
 
(260)     『小独立国』の現況
                     明治32年9月5日
                     『東京独立雑誌』42号「雑壇」                         署名 角筈生
 
〇『小独立国』は今や至て平穏なり、大統領は例の薪割と希臘史研究の外は別に為す事もなく、日々欠伸勝ちにてブラ/\とし居れり、迷羊は実母の病を見舞はん為めに故郷羽前鶴ケ岡に在り、武江は信州にて更科蕎麦の食ひ過ぎの為めにや、少々腸胃病の気味あり、只忙しきは事務員にして夏の熱さを忘れて奔走し居れり。
〇女学部の入学生もポツ/\とあり、基督信者の入学志願者あれば我等は告ぐるに此校の宗教学校にあらざるが故に、我等より形式的宗教の望むべからざるを以てし、仏教信者の入り来るあれば職員の多数は心に基教を信ずる者なればその間接の感化は免れざるべしと注意す、殊に此校に来る者はその華族の令嬢たると紳商の息女たるに関せず、独立国の規律に服し、台所仕事は勿論、校内の拭き掃除に従事せざるべからざる事なれば、一々此旨意を陳べて父兄並に本人の喜諾を得て然る後に入学を諾しつゝあり。
〇一週に二三回づゝ本誌読者の訪問あり、特に近来珍らしきは丹波福知山在の某氏なりき、氏は此炎天金を鎔かすの候、二百余里の長程を遠しとせずして主筆に面会の為め此小独立国を訪へり、氏は最も高尚なる目的を以て我等を訪はれしなり、面晤一時間余にして氏の来訪の目的は達したれば、氏は翌朝故郷丹波へ帰られんとせり、然れども我等は氏を留め、氏に東京見物を勧め、氏をして一夜を神田事務所に明かさしめ、翌日社員を侍せしめ(261)て東都の重なる勝地を巡遊せしめたり、然れども氏の上京の目的は全く形以上的なりしが故に帝都の物質的文明は少しも氏を悦ばすやうにも見えず、只氏の心に大に満足する所あるが如くに見えて滞在二日の後、氏は氏の妻子の許に帰れり、誰か言ふ日本に真面目なる人なしと、商品仕入の為めに上京する地方人士は多かるべけれども真理探究の為めの東京上りは澆季の今日、例甚だ尠なき事ならむ。
〇夏は緩漫時期なり、記者の最も苦しき事は評すべき論ずべき問題のなきにあり、人あり余輩に帝国党を罵るべしと勧む、然れども余輩とても馬や牛を罵る程の間抜けにもあらざれば彼の勧告を容れざりき、既に道徳的観念を喪失せる党派を罵るは屍躰を鞭つと同然なり、帝国党然り、日本の社会亦然らざらんや。
〇日本国外ならば何処でも宜いから、何にか変動が始まれば宜いとは編輯局一般の希望なり、是れなにも此機に乗じて我国の或る有名なる政治家に傚ふて我等も火事場泥棒を働かんと欲するが為めに非ず、我等は二十世紀と共に一大進歩の人類の歴史の上に臨《きた》るべきを信ずる者なれば、其到来を待つこと実に炎天に雲霓を望むが如し、其序幕は仏蘭西に於て開かれん乎、或は西班牙に於てか、或は米国に於てか、何れにせよ、浦安国と称する此日本国より始まらざるは確かならん。
〇然し何が何んでも懶けて居てはならぬなり、故に小独立国には懶獣は一疋も居らぬなり、語学の研究あり、古代史の研究あり、宗教上の感話あり、哲学上の討論あり、我等は日本国の政治の外は何事に限らず討議弁論するなり、かくて我等は秋の到るを待つなり、対抗運動の始まる時機を待つなり。 (八月二十七日朝)
 
(262)     英和時事問答〔12〕
                      明治32年9月5日
                      『東京独立雑誌』42号
                      署名なし
 
        日本の貴族
 
 ドウゾ日本の貴族に就て少しばかり話して下さい。
 貴下は辛い事をお命じなさいます。私は私の国に耻を掻かせましようか。
 此国には貴族は殆んど幾干《いくら》位い居ります。
 凡そ七百位でしやう、是は即ち戸主のみを算へてゞす。貴族全躰は殆んど四千人もありましやう。
(263) 彼等は同一の階級を作して居り升か。
 否《い》え、爾うではありません。彼等に普通三種の別があります、即ち公卿華族、大名華族、及び新華族であります。第一種は貧乏なるに依て、第二種は馬鹿なるに依て、第三種は俗智に富めるに依て有名です。
 
 日本語で貴族の事を何と申します、且つ其の詞は何を意味します。
 華族と申します、即ち『花のやから』の意です。彼等は国民の精華たるべきものなれども実際は其廃棄物です。
 
 貴下は彼等の間に友人を持ちますか。
 イヽエ持ちません。然し私は新華族の一人を知て居ます。彼の常識の欠乏は実に著いものです。憫むべき西瓜あたまで、白痴院患者に最も適当な物です。
 彼は今何を為して居ますか。
 君聞いて驚き給ふな。彼は今は此国の智者の一人として算へられて帝国議会の議員の一人です。
(264) ソウですか!
 実に爾うです。彼は男爵です、而うして私の聞きまするに彼は日本貴族の好標本ださうです。
 ソレハ実に驚き入ります。然し其馬鹿な男爵殿の品行は宜しう厶いますか。 イヽエ決して宜くありません。彼は全くの放蕩者です。彼の心の堕落は彼の頭脳の空乏丈け有名です。
 
 日本の貴族は慈善の為めに尽しますか。
 慈善の為にとですか。慈善などは彼等の教へられたことではありません。彼等は余儀なくせられて施す事はありますとも、喜んで貧者の為めに献げるなどゝ云ふ事に就ては思考其物さへ彼等の心に浮んだ事はないと思ひます。
 然らば私には貴下の国に於ける彼等の存在の理由を認むる事が出来ません。 私にも出来ません。其故に華族の事を蚊族と申します。何故と申せば彼等は民の生血を吸ふて生き居る者ですから。
(265) 爾うですか、彼等は遠からず無くなりませう。
 私共は爾うならん事を望み且つ祈ります。
 
(266)     興国史談
                 明治32年9月15日−33年6月25日
                 『東京独立雑誌』43−71号「講壇」
                 署名 内村鑑三
 
    第一回 興国と亡国
 
 歴史は人類進歩の記録である、或は人類の発育学である、進歩の記録で又発育学であるから歴史の全躰は開発的振興的のものでなくてはならない、人類も彼の占領する地球并に彼を繞囲する天然物と同じ様に進化的のものである、彼の終る処は滅亡に非ずして完全なる発育である、其一部は如何に堕落することあるも其全部は月に年に完全の域に向て進みつゝある者である、我々は人類の一局部を見る時は非常に失望する事があるが、然れども眼を其大躰に注いで決して失望しない、若し一国が亡びんとする時には必ず他に興らんとしつゝある国があるのである、希臘の亡びざる前に羅馬は起り、羅馬の滅せざる時に既に北欧に強健なる新たなる国民は起りつゝあつたのである、即ち天然界に於けると同じ様に、人類界に於ても詩人テニソンの歌ふた事が真である、
  Individuals wither,but he world grows more and more.
  (個人は枯るゝとも世界は愈々益々大なり。)
 個人は国家の為めに存在するものであつて、国家は世界人類の為めに存在するものである、一国が起て一種の(267)文明を完成し、其活力既に尽きて早や人類の進歩に貢献する処なきに至れば、他の国が起て其文明を承継ぎ、之を保存し、之を改良し、之に其国民特有の美質を加へ、終に亦之を次ぎの国民に引渡すのである、人生若し蜉蝣の如きものならば国家も亦草の花の如きものである、朝に栄えて夕に枯る、短きは雅典《アデン》の如き、其栄華はペリクリスの一代四十年を以て尽きたりと称へ得べし、長きは羅馬の如き八百年に渉りしも而かも之を人類全躰の殆んど無限なるに比すれば一場の夢の如きものにほかない、興るべきもの理ありて興り、亡ぶべきの理あつて亡ぶ、故に為すべからざる事は栄光に誇る事である。
 斯の如く国に興亡盛衰がある、然し前にも述た通り是は人類全鉢の興亡盛衰ではない、世に亡びざるものは真理のみである、故に興と云ひ亡と云ふは真理に与みすると之を棄つるとの二者孰れか其一に由るのである、真理は個人に生命を与ふる者で、国民の生命とて真理を除いて外にあるものではない、振興とは真理に与みし之を発顕することであつて、衰亡とは之を斥け或は之が発顕を妨げる事である、真理を離れて個人に生命なきやうに之を離れて国民の活力は失するものである、而して真理は不朽のものであるから、是に由て成立するものも不朽で無くてはならぬ、故に国は亡るもその発顕した真理は勿論淪びない、亦之を発顕した国民も熄えて了つたとは云はれない、希臘文明なるものは雅典の陥落と共に失せては了はない、ソロンの憲法、プラトーの哲学、フィデイアスの美術、ソクラトスの信仰は希臘人に依て人類に供せられた永久不滅の貢献物であつて、人類社会の在らん限りは決して消ゆるものではない、且又希臘人を離れて希臘文明を識る事は出来ないから、希臘文明の保存せられん限りは希臘人の名は勿論、彼等の精神、生活の状態、宗教、政治等、凡て彼等に関する事は、文明人種が世々終りまで稽査攻究するものと成て残るに相違ない、夫れのみならず、希臘は外形的にも亡びたとは称へない、(268)羅馬は実に希臘の大なりしもの(Magna Graecia)で有て、今日の欧羅巴は大なる羅馬であることは少しく世界歴史に渉つた者の何人も認めて居る処である、即ち今日の欧羅巴なる者は希臘の連続発育したもので、唯だ名が変つた丈けで実は歴然として残つて居るのである、夫故に歴史哲学者は国民の不朽(lmmortality of Nations)と云ふ事を唱ふるのである、即ち真理発顕の栄誉に与かつた国民は不死不朽のものであると云ふ事である、国民に取ては斯んな名誉はない、亦此聖職を尽さずしては国民として世に顕はれし甲斐はない、否な、国民と自から称することも出来ない。
 斯ふ観じ来れば国の興起と所謂国威宣揚なるものとは自づから別物であると云ふことが分る、即ち前の者は新文明の起ることで有つて真理一層の発顕を云ふのである、後の者は威力の普及で有つて、是は文明とは何の関係もない事で、或る場合に於ては文明の正反対である、国威宣揚の点から言へば成吉汗、アラリツク、ゲンセリツク等も他邦の征伐と共に国を起したものと称ふことが出来る、然しながら人類進歩の記録たる歴史は殺伐的領土拡張を以て興国とは認めない、興国とは新国家の組成である、新制度の設定である、即ち国民の秩序的発育である、是に兵力の伴ふこともある、然れども兵力其物は興国の必要元素ではない、兵力の外何もなき国、即ち今の土耳其の如きもの、戌吉汗の王国の如きものは興起と言はんよりは寧ろ蜂起とでも称すべきもので有つて、文明史上には単に進歩の妨害物又は秩序の破壊力としてのみ論ずることの出来るものである。
 然し興国にも又幾多の種類がある、先づ第一に文明の創作者とも称すべき国であつて即ちバビロニア、埃及の如く、前例に頼ることなく、躬から新文明を案出した国がある、随て其興起の状態も発生的《スポンテーニアス》であつて、其作りし文明は異種独特のもので有る、第二は文明の錬磨修飾者とでも称すべき国で有つて希臘の如き、フロレンスの(269)如きは此類の新興国で有つた。第三は文明の保護者にて其最も著しき例はアッシリヤと羅馬とである、第四は文明の普及者で有て歴山王のマセドニヤ邪翁の仏蘭西、今日の英国等は此部類に属すべきものである、第五は第三の一種であつて文明の救援者とも称すべき国である、土耳其人の侵入を斥けて欧羅巴文明を救助保存せし洪牙利国の如き、欧亜の間に介立して亜を開いて欧を守りし露西亜の如き、是等が人類の進歩を援けし事は新文明を作りしに劣らない効績である、如斯く或は積極的に、或は消極的に、或は創作的に、或は改良的に、或は保護的に、真理発顕の為めに尽せし国を文明国と云ひ、其之を為すに至りしを興国と云ふのである。
 興国の何たるを説きし以上は亡国の何たるかは言はずして明かである、即ち国民が真理発顕に用なきに至りし為め其存在の理由を失ひしことである、即ち個人に於ける「品性の破産」の如きもので有つて進歩の妨害物、世界の厄介物となりしが為めにオルガニズムとしての其存在を失ふ事である。
 是を亡国と云ふと雖も、実は亡国に非ずして亡民である、国は一種の理想を以て成るものであるから、理想の存する限りは英国は決して亡るものではない、日本には日本の理想があり、其尽すべき特種の天職がある、而して此天職を充たす者が真正の日本人であるのである、日本人の前に此国に住みし人種はコロボックルであつたか、アイヌ人であつたか、それは確かに判然せぬ事として、何にしろ彼等が大和民族に此土より放逐されし理由はコロボツクル、アイヌ共に桜花爛※[火+曼]たる此日本国が人類全躰のために尽すべき天職を尽すことが出来なかつたからであつたに相違ない、それと同じ様に今の大和民族も驕奢淫佚輕佻に流れ、其政治家、教育家、宗教家は皆悉く偽善者と化し、偉大なる思想なく、深遠なる慈悲心なく、兵営軍艦の外、他に誇るものなきが如き卑劣醜陋の民たるに至れば、我々大和民族がアイヌ人種に代りし如くに、我々に勝りて日本国の天職を充たすの民(即ち真(270)正の日本人)が来て我々を放逐して我々に代はつて此地を占むるに至るかも知れない、是れ実に日本国の亡ぶるには非ずして、日本人たる者(実は堕落に依て日本人たる貴き資格を失ひし者)の亡ぶる事である、是れ実に日本人(似て非なる)の為めに嘆ずべき事にして、宇宙の日本、真理の日本、即ち北条奉時楠正成等の日本の為めには反つて賀すべき事であるかも知れない、布哇人が布哇国の躰面を維持することが出来なく成つた故に彼等は終に之を米国人に譲らなければならなく成つたのである、是れ即ち布哇国の滅亡に非ずして、布哇人の滅亡であつたのである、同じ様に我々が日本国の為めに心配するのは富士山の聳ゆる此美麗なる国土の為めではない、何故と云ふに斯くも美しい国土の淪びやう筈はない、亡びる者は国土に非ずして其人民である、彼等が日本国の如き立派なる国に永久居住する事が出来ず、其栄光ある天職を充たす事が出来ない様な意気地のない人民と成らん事が甚だ心配なのである。
 亡国は近頃我国人が頻りに口にする語と成つた、甚だ忌々しい事である、然し我国に亡国の徴がないとは言はれない、其社会の敗徳、乱倫は実に非常なもので、羅馬末世のそれと能く似て居る処がある、殊に我々の兄弟国とも称すべき亜細亜大陸の諸邦は追々と滅びて来た、印度、安南、緬甸は既に亡び、暹羅、波斯、土耳其、支那、朝鮮は将に亡びんとしつゝある、我々も同じく東洋の民である、彼等の滅亡は我々に少しも関係のない事とは言はれない、又日本国にも他の国と同じ様に特別の天職が具はつてある筈なれども、国民全躰は其何たるを知らないばかりではない、天職其物の何たるかを知て居るものが少ない、不知不識の中なりとも大天職を感じない国民にして大国民と成つた例はない、日本の今日は随分危険の場合である。
 何故に東洋諸国は亡び西洋諸国は興りつゝある乎、是れ必ずしも彼は虎狼飽くことを知らざるの民であるから(271)ばかりではない、印度に於ける英国の政府は決して完全なるもけではないが、然し印度人従来の政府に此すれば一層ヒユマニチー的のものであると云はなければならない、北方亜細亜に於ける露西亜の政治、安南に於ける仏蘭西の政治も同じ事である、即ち亡国と云ひ興国と云ひ、是れ文明の比較的程度より来る顕象なれば、若し我々が英国、仏国を凌駕するの文明を作り出す事が出来れば、是れ取りも直さず、我々が彼等の師となりしことにして、竟には亦彼等の主となるの前兆であるのである、日本国の文明は実に西洋諸国のそれに優たものである乎、是れ実に日本の亡国と興国とを決する大問題である、我々が真理に対し英人、仏人丈けそれ丈け忠実ならず、人類進歩の為めに貫献すること和蘭、米国に及ばざれば我々の運命に実に懼るべきものがある、何故と云へば興国も亡国も優勝劣敗の理の然からしむる処のものであつて、悖徳で、乱倫で、高慢で、自尊で、如何に兵備が完全して居ろふが其国が世界の主人と成ることの出来ないのは分かり切つた事である。 徳を高めんと欲せば敗徳の例を見るよりは高徳の例を見る方が宜しい、社会の腐敗にのみ注意する者は終に自身も腐敗の渦中に巻き込まるゝの危険がある、同じ様に亡国をのみ唱へ、亡国の実例にのみ注意する国民は自身亡国に傾くものである、印度、波蘭等の亡国史をのみ究め切歯扼腕する者は多くは国を富まし、是を栄光の域に導く志士仁人ではない、我々日本人は亡びてはならない、夫れだから我々は真面目に心を静かにして興国の理由と現象とを研究しなければならない、我々は我々の国を興すことが出来る、我々は我々の日本を世界第一の国と為す事が出来る、我々は亡国の悲運に沈むの必要はない、我々が興国史研究の必要を認むるのは此故である。 〔以上、9・15〕
 
(272)    第二回 興国の要素
 
 興国第一の要素は其地理である、国は地球面上何処にも興るものではない、「夏至線以南に文明栄えず」とは我々が度々耳にした事である、又アイヌ、アレウト、エスキモー、サモイデス人等の住する北氷洋附近の土地に大国民の起らん事は何人も予想する処ではない、瑞西の人ジアン、ピール、プルリー(Jean Pierre Purry)の説に依れば、人類の発育に最も適したる国は北緯三十三度に沿ふてあると云ふ、人類初代の文明は埃及のナイル河口とメソポタミヤの巴比倫辺に興たもので丁度此緯度に当て居る、「麦の生《は》へない処に国は興らない」と云ふ説も亦まんざら当てにならない説ではない、何れにしろ華氏三十度と七十度との同温線間が国民隆興の区域のやうに思はれる。
 又気候は温和で土地は沃饒でも他の文明国より遠かりたる処には国は起らない、南洋のサモア群島の如き、南亜弗利加のナタル、カフハラリヤの如き、其土地と気候とには申し分なきも今日まで国民と称すべきものゝ起らざりしは全く是が為めだと思ふ。
 希臘の起りし一大原因は其亜細亜と亜非利加(埃及)の文明の両中心点に接近して居たからである、又羅馬が地中海沿岸の邦土を悉く其領土に加へしも、此海の中心点に位して居た故である、興国は其国一ケ国の事業ではなくして亦周囲の国々の相互的刺衝と感化力とに依るものである。
 興国第二の要素は人種である、孰れの人種も国を作るに適して居るものではない、或る人種の如きは国家を組成する能力を全く欠いて居るやうに見える、蒙古人種の大部分、馬来人種の殆んど全躰の如きは此類である、勿(273)論国を作るに最も巧みなる人種は白人種又は高加索人種である、然れども白人種なればとて必しも之に適したるものとは云へない、ケルト人種の一派なる愛蘭人の如き、バルカン半島并に小亜細亜諸邦に住する諸民族の如きは建国術には今日まで甚だ不得手で有つた、是に反して蒙古人種の中にてもフイン人の如きは欧羅巴の北部に於て芬蘭土なる立派な文明国を作て居る、又洪牙利人のダニユーブ河辺の大王国は蒙古人種が曾て建設したる最も栄光ある文明国である、巴比倫、ボクハラ、キバ、タシユケンドの古代の文明は措いて問はない、芬蘭土、洪牙利の二名国は確かに黄色人種の建国的技倆を証明するに足るものである。
 建国術の天才に於ては黒人種は決して侮るべからざるものである、埃及人は黒人ではあらざりしとして、亜非利加人種の政治的技倆は近世に至て屡々実験せられた、亜非利加東南海岸に住するカッフハー人は黒人中最も進歩せる民族として識者の常に賞讃する処である、蘇丹中央チヤツド湖辺の民も亦一種独特の文明を有し、其技芸並に社会制度に徴するも決して劣等の民と称することは出来ない、殊に残虐なる白皙人種の拐帯する処となりて西大陸詔邦に移殖せられてよりは、黒人の智能的発育は非常なるもので有つて、西印度に於てはツサンルーベルチユール、デサリーン等の諾英雄を出し、ハイチ、サンドミンゴの純粋なる黒人の二共和国を建設して今日尚ほ独立を維持して居る、北米合衆国に於ても黒人の政治的天才は遙に銅色人種の上にあり、又或る点に於ては伊太利人、愛蘭人等も彼等に及ばない処がある、彼等の一人なりしフレデリツク、ダグラスは米国雄弁家の一人として算へられ、又ボツクス、ワシントン氏は今は屈指の教育家として其名は全世界に嘖々たるものである、斯くて黒人の未来は実に有望のものである、亜非利加全大陸が再び彼等の手に帰せんことは決して望み難き事ではないと思ふ。
(274) 其他アッシリヤ人、猶太人、亜拉比亜人、フイニシヤ人、カルセージ人等を以て代表せられたるセマイト人種があり、マダカスカー人、非律賓人、瓜哇人等を以て代表さるる馬来人種があるけれども余り長くなるから茲には言はない。
 興国第三の要素は宗教である、国民の宗教は其人生観であるから其宗教如何に依ては其社会制度も異なり、従つて其気質、希望等にも非常な変化を来たすものである、ゾロアストルのゼントアベスタ教なしには波斯国は起らなかつたに相違ない、ホーマー、ヘジオッドの宗教的観念が希臘文明の種子であつたと言はなければならない、カナン人種の奇態な宗教的観念が有つてフイニシヤ、カルセージの二貿易国が興つたのである、回々教なしには亜拉比亜人は欧羅巴全大陸を震動する民とはならなかつたに相違ない、カルビンの新基督教が和蘭共和国を作り、次に清党時代の英国を作り出し、終に北米合衆国を産み出したのである、政治家輩が常に嘲弄して顧みざる宗教こそ実に隠微の内に大国民を作り出す勢力を具ふるもので有つて、偉大なる宗教と偉大なる国民とは二者相離るべからざるものである。
 興国第四の要素は時である、文明の華も樹木の花のやうに咲くには夫れ/\適当の時節がある、先づ一番は梅、其次は桜、桃、其次は牡丹、躑躅花、藤、菖蒲、萩、菊、山茶花、椿と順を追ふて四季に応じて花の開くやうに、文明にも種々の種類があつて、各々其時が来らなければ開くものではない、仮令今日の英国人と彼等の懐く自由平等思想を以てしても、羅馬時代或は中古時代に在ては彼等は世界の陸面の六分一を有して威を八紘に振はす事は出来なかつたに相違ない、普露士国の教導の下に独逸国の起つたのも多くは時勢の然からしめた処で有つて必しも独逸人の独力のなせし処とは言へない、埃及文明を今日に於て望むは丁度梅花を暑中に求むるが如きもので(275)ある、勿論時ばかりが国を興すものではない、菊を培養せずして秋が来ても菊の花は咲かない、又温室の中で寒中夏季の植物に花を咲かせる事の出来るやうに、大政府の保護の下に時到らざる先きに新たに国を興すことは出来ないではない、然し是は日本が朝鮮を興さんとして大失敗を為したやうに全く不自然の事業で有つて、手品的政治家にあらざる以上は決して行つて見るべき事ではない、国は人類進歩の必要に応じて興るべきもので有つて、此理を弁へずに矢鱈に軍備一点張りを以て国を興さんと欲する者は耻を千載に貽す者である。
 興国第五の要素は人物である、地理学上の位置は如何に善良なるも、人種が如何程興国に適して居るにもせよ、其宗教は如何に高尚なるもので有ても、亦振興の時機が到来して居ても、大人物が起て地の理を察し、国民の心に鑑み、其宗教的観念に便り、人類進歩の上より打算して、興国の希望と可能《ポツシビリチー》とを彼の国人に伝へ、彼等を教へ導いて其国民的天職を充たしめざれば、国は決して興るものではない、余はカーライルに傚て「歴史は英雄の伝記である」とは云はない、然れども英雄なくして大国民の興らざりしは明かである、是を英雄又は偉人と云ふのは別の理《わけ》ではない、国民の精神と慾望とを彼一身の中に蓄へて居つたからである、歴史家パークマンが英国の大宰相ピツトを評して彼は England incarnate(英国が人と成て顕はれし者)だと云つたのは実に適評だと思ふ、国民の精神が凝固まつて人と成つて生れて来たもの、是れが其国の偉人英雄である、而して斯ふ云ふ人に依てのみ国は興り民は栄えるものである。
 希臘国と希臘人とのみでは希臘国は起らなかつた、之に大人物が踵を接して起り、ソロン、アリスタイデス、セミストクルス、ペリクリース等の大英傑が能くも能く揃ふて出たものだから、雅典の如き猫の額のやうな小国ですら、開闢以来今日に至るまで未だ曾て無きやうな偉大なる国を建設したのである。
(276) コロムウエルなくして今日の英国の興らなかつた事は今は孰れの学派の歴史家も認めて居る処である、カーライルは彼を Captain of Puritanism(清党主義の教導者)と呼んだ、彼は実に清党時代の英国の代表的人物で有つた、彼の手荒らき手腕に依らざりしならば英国人は古代の迷信的屈従を脱して今日の自由と自重とを得るに至らざりしは明かである、実に彼の如き大人物は千年に一回此世に顕はるゝ者で有つて彼の如き傑物を産み出した英国は実に羨ましい国である。
 好かれ悪しかれ今の独逸帝国は重にヴヰルヘルム第一世とモルトケ将軍とビスマークとの共同事業で有つた事は誰も知つて居る、十九世紀の下半期に至て埃及、巴比倫に於てありしが如き中央集権の大圧制国が欧羅巴の真中に於て興りし事は実に奇態な現象なれども、是れ亦進歩の反動にして、斯くあるべきは歴史の法則に善く適ふて居る、西班牙の歴史家にして自由党総理なりし故エミリオ カステラ氏がビスマークを評して『彼はマモス(Mammoth 化石に現はれたる古代の巨象)なり』と云ひしはビスマークと彼の独逸帝国其儘を言ひ顕はして余す処なき適評だと思ふ、マモス宰相ありてマモス帝国が出来たのである、独逸帝国は実に近世史上の怪物である。其他ワシントン、リンコルンの米国に就ては云はずもがなである、縦令共和的平民国に於てすら大人物の必要がある、人に欲しきものは精神で有つて、国に欲しきものは偉人である、偉人なくしては天与の英国も天性の良民も無用の長物のやうなものである、世に歎ずべき者とて興国の四要素を悉く具へて、最終第五の要素を欠いて居る国の如きはない、思ふて爰に至れば我等に一滴の涙なき能はずだ。
 斯く述べ来つて我々は国は容易に興るものでない事を知ることが出来る、若し興国の要素を悉く挙げんには前の五つでは迚も足りない、然れども先づ此五つに止めて置いたところが五つが五つ揃ふて国の隆興を促がすが如(277)き事は百中実に一二の場合でしかない、恰かも有望の青年は多くあるも業成り事を就すの青年は尠いやうに、有望の国は多いけれども人類の進歩に多くを貢献する国家は甚だ尠ない者たるに相違ない、爰に於て我々は興国は上帝の特別の恩恵に依るものにして、是れ人意の望んで達し得べき事でないことを感ずるのである、西班牙の如き、其民は勇敢で其土は豊富なるにも関はらず十二人の悪王相踵いで起り竟に其今日の悲運を招きし如き不幸な国もある、同じ山国でも瑞西のやうに発達せる国もあれば、ツランシルバニヤのやうに欧洲に在つても未だ半独立の地位に立つ国もある、故に聖書には神、迦勒底《カルデヤ》を呼び起し給ひしとか、我(神)西述《アツシリヤ》を興して我が民を罰せんとか書いてある、即ち国民は独り躬から興るものでなくして、人而上の者の喚び起すものである事を示して居る、実に天佑に非ざれば国を起すことの出来ない事は誠実に此大業に従事した者の何人も認めた事である。
 斯く観じ来れば我等は国民として如何に謙遜でなければならぬ乎が解る、我等の政治家に敬虔の念なく、国民は挙つて国自慢に耽けりて、興国の要素は如何に能く具はつて居ても、我等の国の興りやう筈はない、「或者は車に依り、或者は馬に頼らん、我は唯我が神の名に依て立たん」とは猶太の大王|太闢《ダビデ》の述懐であつた、「我は実に憐むべき罪人なれども我を使ふて我が国を救ひ給へ」とは無冠王コロムウヱルの祈願であつた、磊々落々のビスマークですら独逸帝国の建設を以て彼自身の業とは見做さなかつた、彼は幾回となく彼の友人に語つて彼は僅かに上帝の機関に止まらなかつた事を白状した、ソロモン曰く「傲先於敗、驕心先於傾跌」と、興国とは謙の賜物で有て亡国とは傲の結果である。 〔以上、9・25〕
 
(278)    第三回 埃及
 
 日本帝国の或る有名なる外交官で薩摩人の某と云ふ人が有つた、米国紐育に領事を勤めて居た頃、或る日本人と邂逅した時に、其人が文豪エマソンの事を談ずるを聞いて大に怪んで「エマソンとは何処の人で何を商売する人ですか」と尋ねた、彼れ領事先生は彼の駐在せる米国に此文学的偉人の在りし事を知らなんだ、知らなんだ計りではなく、商売一方にのみ眼を注いで居つた人で有つたから、コンコルドの哲人エマソンも亦商人の一人だと思ふた、日本の紳士が外国の事物を探る時は大抵斯んなものだ。
 又工学士某が有つた、或る人が彼に英国の物理哲学者チンダールの事を語りし時に驚いて「君は外国人の名を沢山知つて居るねー」と云ふたそうだ、即ち彼れ工学士先生は橋を架する事、土堤を築く事、鉄条《レール》を敷く事の外は何も知らなんだ、又知らふとも思はなんだ、彼はダーウヰンやチンダールの学説には少しも耳を傾けなんだ、即ち直接の利益問題の外に注ぐべき意思を有たなんだ。
 日本の外交官とは概ねこんなもので、日本の学士には亦こんな者が多い、工学士は文学の事を知るの要はない、文学士は動物や植物の事を知らずとも可い、農学士が歴史を談ずるが如きは不埒の事だなどゝ思つて居る、外交官然り、学士然り、況してや一般公衆に於てをやだ、日本人は日本以外の事を知るの必要を感ずる事の甚だ尠ない民である、彼等は日本に直接の関係のない国の事を知らんと欲しない、彼等の中に支那の事、朝鮮の事、暹羅、非律賓の事を知らんと欲する者はある、併し是れとても甚だ少数である、彼等は彼等の新領土たる台湾の事でさへ余り熱心に究めんとは欲しない、日本人の注意を惹かんとせば今日直接の事を語らなければならない、米相場(279)の上下、新政党の盛衰、某侯某伯の近状、斯んな事が彼等の争ふて知らんと欲する事である、知つても別に金の儲かる事でなく、官吏登用試験の問題に出づるの虞なき事は、彼等の最大多数の学ばんと欲する事ではない。
 『埃及、ナニ埃及、之をエジプトと読む位ゐの事は知つて居るが其国の事を知つて何の役に立つか、埃及は蘇西運河と方尖塔《ピラミツド》と女面獅身《スフインクス》のある処ださうで、ルキゾールと称する紙巻煙草を産する国だそうだが、特別に其国の歴史を研究する何の必要がある、吾人は支那四百余州を席捲せんとする野心を懐くものなれども、英人の憤怒を冒して埃及を砲撃せんとする程の愚かな者ではない、日本は埃及と何等の関係なく、従て其歴史を研究するの要はない』と。
 然しながら俗人の思想を脱して、商売人根性を棄てゝ、帝国領事の眼を以てせずして、大学出身の専門的狭隘を斥けて、二十世紀の世界の市民の一人として考へて見れば埃及歴史は決して蔑ろに可き事ではないと思ふ、殊に其太古史は人類進歩に大関係を有するものなれば、之を知らずしては文明の起源を知ることが出来ない、日本人は特別の国民で有つて、外国人には少しも世話にならない、鉄道電信も日本人自身の発明に係るものにして、殊に其憲法の如きは決して外国の憲法に傚つたものではないと云ふ人もある、然しながら今日文明国の仲間入を為した以上は世界の文明の起源を学ぶの必要は無いとは云へない、日本と埃及との直接の関係と云へばルキゾール紙巻煙草と外に胡蘆科の植物なる胡瓜が邦人の嗜む処と成つて居る位である、日本語のキウリは確かに埃及語のキヤル(Khyar)の転訛せしもので有つて、我等は毎年夏到る毎に我等の最も珍重する此野菜に於て古代の埃及人に負ふて居るのである、是れ計りではない、日本人が近来頻りに世界に向て誇るところの新科学なるものは疑もなく希臘のアリストートル以来欧米人が継承し来りしもので有つて、アリストートルの科学は素と埃及に始ま(280)つたものである事は能く解つて居る、ユークリッドの幾何学なるものは何んであるか、埃及のアレキサンドリヤに於て二千二百年前の昔しプトレミー王朝の下にユークリツドなる数学者が発見したものではないか、我国何十万の学生が今日攻究しつゝある此学は始めて埃及の土地に於て耕されたものではない乎、又アルフアベットと呼んで我々は毎日重宝して居るものは誰れが始めて用ひし者である乎、欧羅人は之を希臘人に学び、希臘人は之をフイニシヤ人に承け、フイニシヤ人は之を埃及人より授かりしものではないか、西洋紙の事をペーバー(Paper)と称ぶ時は我々は埃及産の植物の名(Papyrus)を称へて居るのではないか、斯くて我々も遠からずして煩はしき支那文字を廃し、随て半紙美濃紙唐紙を廃するに至れば我々は益々埃及人の遺績を感ずるに至るのではないか。
 それ計りではない、埃及は又法律思想の淵源で有つた、希臘のソロンが彼の雅典国の為めに憲法を編まんとせし時は、丁度伊藤博文侯が日本の憲法を編まんとせし時独逸に行つて調査したやうに、ソロンは埃及に行て彼の雅典憲法を編成したのである、爾してソロンの憲法なるものがアリアン人種の総ての憲法を如何に感化せし乎を知るものは埃及人の法律思想が如何に今日の文明世界を感化しつゝある乎を知る事が出来る、聞く処に依れば博学多才なる我が伊藤博文侯でさへ、日本憲法を編まるゝ際、広く西洋諸国の憲法を参考し、殊にバワリヤ王国のそれに則られしとの事なれば、流石の伊藤侯ですら間接にはソロンと埃及とに負ふ処なしとは云へない、如何に唯我独尊の日本国なればとて外国の憲法に鑑みて少しも其感化を受けないとは云はれない、我々は長州藩閥の伊藤侯と雅典のソロンとを透して多少埃及人の世話に成つて居る者ではあるまいか。
 若し日本人が少しなりとも基督教に負ふところがあれば(或者は有りと云ひ、或者は無しと云ふが)我等は其保羅、基督、摩西を透して非常に埃及人に世話に成つて居るのである、猶太教なるものは其精神は確かに天の神(281)より獲しものなれども其智識は確かに埃及人より得しものである、基督教の発達は埃及を離れて論ずる事が出来ない、而して西洋文明は基督教を離れて論ぜられない、故に其精神的方面に於ても埃及は確かに世界歴史の肝要なる一部分でる。
 斯ふ云ふ国であるから我々日本人も埃及歴史を研究しなければならないと思ふ、我々は埃及産の巻煙草を吸ふた位ひでは足りない、我々は其精神をも吸はなければならない、其美術をも窮めなけばならない、其宗教と法律とは大に我々の攻究すべき事であると思ふ、世界人とは誰である乎、全世界の物産を以て彼の躰躯を養ひ、全世界の智識を以て彼の思想を肥やす者を云ふのではないか、日本の事と、支那、朝鮮、印度の事(それも多くではない)とのみを以て養はれたる国民の局部的なるは当然の事ではない乎、是が埃及歴史に入る前の序言である。
       *     *     *     *
 今東半球の地図を開いて見給へ、一つの稀代なる事柄がある、西は大西洋の海岸より東は太平洋に至るまで一帯の砂漠の連絡がある、亜非利加の北部にサハラの大砂漠が有つて長さ三千五百哩、幅一千哩の世界最大の不毛の磽地である、其東の方紅海に尽くるの辺に於てシユールの砂漠ありて亜刺此亜の大砂漠に接続して居る、尚も東に向て進めばイウフラト河とザグロス山脈との間断がありて波斯、土耳其斯丹の砂漠に連つて居る、亜爾泰山を過ぎれば戈壁の大砂漠となりて、満州の西境キンガン山に至りて漸く尽きて居る、即ち大洋より大洋まで、西西南より東東北に懸けて八千五百哩に亙る一連の大砂漠がある、偖て此大砂漠を横断するに三つの流域がある、其第一はナイルにして正南より正北に向ひ亜非利加大陸の東北隅に於て、之を切断して居る、第二はチグリス=イウフラト流域にして亜刺比亜砂漠と波斯砂漠の間を潤ほして居る、第三はアラル排水盤《ウオターベーシン》にしてアムーダリヤ、(282)シルダリヤの二流を以て土耳其斯丹の耕地を作つて居る、大砂漠を横断するに三流域がある、爾して此三流域が太古の三文明を生んだものである。
 是は稀代な事実である、即ち人類最初の発達は砂漠の間を流るゝ河の辺に於て起つたのである、何の要もないやうに思はるゝ砂漠も文明を生み出す為めには必要で有つたと見える、丁度舵鳥の卵が砂漠の砂の中に熱帯地方の太陽の光線を受けて孵化するやうに人間の智能も亜非利加砂漠の砂の中に於て発育を始めたものだと見える。
 埃及国と云へば亜非利加大陸の東北の隅に当り北は地中海に浜し、東は紅海に臨み南北六百哩東西百九十哩、面積十一万五千方哩の直角形の国を指すものだと一般に思はれて居る、然れども是は地図面上の埃及国で有つて実際の埃及国ではない、実際の埃及国はナイル河の賜物であると云ふ、即ちナイル河なくして埃及国はないのでぁる、ナイル河は源を赤道直下に発し北流する事二千哩にしてアビシニヤ国より流れ来る青ナイル、アトバラの二流と合し、尚ほ北に流るゝこと五百余哩にしてアツスーアンと云ふ所に至て埃及の境に入るのである、アツスーアンより河口に至るまでの七百哩の流域を実際の埃及と称ふのである、其幅広きは三十哩狭きは三哩、平均七哩、河口より百哩の所に達して開けて三角形となり有名のデルタを作る、試に神戸より青森までの幹線鉄道がナイル河なりと仮定すれば其両岸に平均七哩の沃饒なる平地ありて其北端に一方百哩に亙る等辺三角形を附するとすれば是が実際の埃及である、流域の面積は僅に九千六百方哩、水面并に沼地磽地を除きて耕作に適するの地は僅に五千六百方哩である、是れ我の四国一島に及ばざる小国である。
 斯くも細長き国であるが其沃饒なる事は実に驚くべき程である、歴史家ヘロドータスの時代に於て(今を距る二千三百年の昔)ナイル両岸に二万の市府が有つたと書いてある、麦、黍、米、亜麻、蜀黍の類は非常に能く発育(283)して年に三回の収穫が取れる、葱、萵苣《ちさ》、韮、葫《にんにく》等の如き最上の地味を要する植物は盛んに繁茂する、甜瓜、胡瓜、莱※[草がんむり/服]等水気多き蔬菜は亦此地の特産物である、水辺に莎草《ハマスゲ》の一種なる(Cyperus papyrus)が生へて有つて其木髄より人類の使用せし最初の紙が製造された、睡蓮(Nymphaea lotus)はナイル特産の美花で有つて其濃藍色の水面に紅白を点したものである、岡には海棗《デートパーム》、葡萄がありて其耕作は実に容易で有つた、如斯く天然の沃地で有つたから生活の困難とては殆んど無かつた、歴史家デイオドラスの記事に依れば埃及人一人を育つるに今の金貨八円あれば沢山であつたそふだ。
 其気候と云へば亦世界無比である、時偶《ときたま》砂漠より来るサイムームと云ふ悪風を除くの外は別に人畜を困しめる異象はない、雷鳴の轟々たることはなく、雨の降ることも甚だ稀である 殊に冬期三四ケ月間の如きは青草一面に地を蔽ふて永久の春かと思はるゝ計りであると云ふ、六月下旬に入ればナイルの氾濫が始まる、以後三ケ月間水層は日々に嵩まる、秋の彼岸に至りて増水は其極度に達し、又三ケ月を期して元の状態に立戻る、如斯は毎年の事で有つて年毎に変化は甚だ少い、故に到る処にナイル計(Nilometer)なるものが設けられて、水の高下に随て季節を定むる事が出来る程であると云ふ、漲濫の度は河幅の広狭に依て異れども高きは三丈六尺、低きも二丈五尺、爾かも氾濫六ケ月間に渉る事なれば其引き去りたる後には一層《ひとかさ》の沖積は全地を蓋ひ、之に最良の天然的肥料を施こすのである、坐して天恩に浴するとは実に此事を謂ふのであらふ。
 運輸の便の好き事は云ふまでもない、一国を貫通する一条の大河が有つて全国民悉く其両岸に棲む事なれば河流に随て上下すれば達せざるの処はないのである、下るには勿論水流の助けが有る、然るに幸運なる埃及は河流を溯るにも亦天与の援助がある、即ち Etesian wind と称する風がありて夏秋の両期は常に北より南に向て河(284)流に逆向して吹く、故に軽舟に一帆を揚ぐれば手を束ねて河を溯る事が出来る、何処までも幸福なる国である。
 国防の完備せる点に於ても埃及は亦万国無類である、其東西は砂漠を以て限られ、防ぐべきの民もなければ攻入るの途もない、北方は地中海を以て包まれて、太古時代海軍の未だ開けざる時に当ては海岸線は充分の防禦線で有つた、埃及は其東北隅と南方に於てのみ開けて居る、故にその外国との交渉は常に此方面に限られた、然れども亜細亜大陸に通ずる蘇西の地峡と雖も是れ亦シュールの砂漠と称して通行に甚だ艱難なる所である、此事は千七百九十八年ナポレオンのシリヤ戦役の経験に徴しても能く解かる、南境には又アツソーワン、セムネー等の石門がありて屈強の要害を作して居る。
 外より入るに難くして内より出づるには容易で有つた、ナイル河を下つて地中海に出づれば古代の文明国は沿岸到る処に国を為して居つた、東岸には非利士亜《フイリスチヤ》国があつて麦の産地を以て有名で有つた、其北に当てフイニシヤ国があつて堆羅《タイラ》、西頓《サイドン》、ザレツパ等の市場が有つて今日の倫敦、アントワープの如きもので世界貿易の中心点であつた、ナイル河に対して地中海の北岸には希臘半島と其附属の島嶼とが有つた、亜非利加海岸に沿ふて西の方にカーセージの市府が有つた、其北にシヽリー島が有つて、伊太利本土にはエトルーリヤの旧国が有つた、亦東の方紅海に出づれば印度洋沿岸との交通は甚だ自由で有つた。
 斯の如くに地理学上の構造並に位置から見ても埃及は文明の起るべき国であつた、何一つとして殆んど欠くる事のない国であつた、是れ誠に人類が文明の発端を開くべきの国であつた、此所に最も古き国の起つた事は天然の然からしめし処で有つて、能く摂理の指命に通ふた事で有つた、埃及国の興つたのは重に其天然的境遇の然からしめし処で有つた、是れ其作り出した文明の甚だ幼稚なる理由である、埃及は実に人類幼時の育児所《ナーサーリ》で有つた、(285)意志の作用を要する事最も少くして生育に困難を感じない処で有つた。 〔以上、10・5〕
 
    第四回 埃及人と埃及文明
                                    前にも述た通り国は地と人とが相配合して興るものである、埃及は天然のウマシグニ(美国)で有つた、是を埃及人なる優等の民が占領して太古時代の一大国民が起つたのである。
 埃及は亜非利加大陸の一部分であるから其民は亜非利加人即ち黒奴の一種であると思ふは大なる間違である、埃及人は黒奴ではない、亜非利加は黒人の本場ではあるけれども亜非利加人は皆んな黒人であると思ふは大間違ひだ、黒人とは重に赤道直下と夏至線との間に住する者で有つて、ギニヤ海岸、チヤッド湖辺に於て最も能く発育する民である、赤道以南にはバンツー(Bantu)一名カツフアー(Kaffir)人種ありて黒人とは全く違ひ、夏至線以北にはモロツコ人、リビヤ人、埃及人、アビシニヤ人等の立派なる白皙人種が住んで居る、埃及人は白人種で有つて、埃及文明は白人種の作つたものである。
 埃及人はナイル流域土着の民では無かつた、爾して彼等の使用せし言語の性質より稽ふるも、彼等の宗教及び習慣に就いて評を下すも、亦彼等の容貌から考へて見ても彼等は確かに希伯来人、亜述《アツシリヤ》人等の属するセム人種に能く似て居た民で有つた事が解かる、博士セイス(A.H.Sayce)の説に依れば彼等は素と亜拉此亜半島の西南部より来りし者で有つて、先づ紅海を渡り今のソマリランド辺に居を占め、後、何かの境遇に迫まられてナイル河の上流より埃及に入り来りしものであると云ふ。
 今を距る事大凡八千年前(Quibell 氏の説に従ふ)即ち我が神武天皇即位前五千五百年頃(実に旧い事ではない(286)か)、埃及人は始て天然の楽園とも称すべきナイル河流の沿岸に入て来た、此時彼等は既に野蛮人ではなかつた、彼等は亜拉此亜半島に在りし頃既に彼等の思想に於て、技術に於て、著しき進歩を為した民で有つた、彼等は独
一無二の神を認めた、彼等は既に石器時代を経過して金属使用の術に長けて居つた、彼等は移転掠奪を事とする遊牧の民でなくして定住平和を愛する農民で有つた、歴史家ブンセンの説に依れば埃及人は実に支那人と共に洪水以前の文明を後世に伝ふるの天職を以て起りし民で有つて、人類の堕落に由つて一時殆んど殄滅に帰せんとせし文明を支那人は東方に於て、埃及人は西方に於て後世に引継ぎしものであつたと云ふ。
 国は沃饒無比のナイル下流の沿岸である、民は亜拉此亜南部に原始時代の文明を承継ぎし白皙人種の一派である、而して時は暗黒全地を掩ひ、新文明は将に曙光を放つべき時で有つた、此国と此民と此時とありて一大国民の興らない理由はない、埃及国は時勢の必要に応じて興つた。埃及国最始の王をメネスと称へた、彼は始めて全国を一統した者であつて、ナイルの両岸今のカイロ府より遠からざる所にメムフイスの城市を築いた、是は西洋紀元より三千年程前であつて、埃及人種のナイル沿岸占領後千年も後の事であつた、メネスより後三王朝の変遷を経て第四王朝のクーフーの時に至て世にも有名なる大方尖塔は作られた、クーフーの子カフラーは第二の方尖塔を築き、其子メンカウラーは第三のものを作つた、三者共に世界の偉観で有つて、見る人として驚かない者はない、方尖塔建築は紀元前二千七八百年の頃との事なれば此時は既に埃及建国より千二三百年の後で有つた、即ち今を距る凡そ五千年前に既に此大建築を為した埃及人の技術は実に驚くべきもので有る、大方尖塔とは如何なる建築物であるかと云ふに、高さは四百八十呎で、基址は方七百六十四呎、畳み上げし石材は八千九百万立方呎に達するであらふと云ひ、其重量は七百万噸を下るまいとの事である、若し此石材を以て家屋を作るならば二(287)万二千軒の普通の西洋舘を作る事が出来る、即横浜市を悉く西洋作りとする事が出来るのである、石はアツスアーン産の花崗石で有つて、其大なる者は目方五十噸余の巨石である、此大石を五百哩の距離より運び来り、五百尺の高さに積上げし五千年前の埃及人の土木術は何んと驚くべきもので有つたではないか、殊に方尖塔内部の構造は精巧実に嘆賞するの外はないとの事だ、方尖塔は大王の墳墓として作られしものに相違なけれども、亦天躰観察の為の天文台の用を為せし証拠もある、即ち中心点より正南北に向て二個の真直《まつすぐ》の穴が明けてある、其北なるものは丁度北極星を指して居る、即ち長管望遠鏡の態をなして居る、而して此人造的山岳の如きものを作る為めには多分十万人の労働者が二十年間引続いて働いたゞらうとの事である、故に是に比ぶれば秀吉の大阪城も清正の熊本城も何んでもない。
 埃及文明なるものはメネス王の時に既に著しき進歩を為し、第六王朝即ち紀元前二千五百年頃には既に興隆の極に達したのである、後五百年を経てヒクソスなる亜細亜民族の征服する処となり、第十八王朝に至て再び独立を回復し、トスメス、アメンホーテープ、セテイ、ラメスー等の大王の下に威を時の文明世界に輝かし、南は夏至線以南まで、西はリビヤ砂漠の一帯に、北と東とはイウフラト河の彼方アルメニヤの山中までその領土を拡ぐるに至つた、其後第二十二王朝のシヽヤク第二十六王朝のプサメチカス、ネコー等出で埃及は尚ほ二千年間世界大強国の一つに算へられたれども、然し第十二王朝以後は純清なる竣及人の王国ではなくして、或はニユビヤ人、或はリビヤ人、或は希臘人の直接間接の支配を受けたのである、恰かも純粋の支那帝国は宋の世を以て終り、後は常に蒙古満州の支配を受けたやうなものであつた、精神的の埃及は五千年前の昔既に死んで了ふて、其後の埃及は僅に形躰的の埃及であつた、其埃及たると支那たると羅馬たると日本たるとを問はず、其腕力に依て国威を(288)海外に揚げんとする頃は、其国家的精神の既に衰亡に傾きし時で有る、真正の歴史家は領土の広狭に依て国の盛衰を定めない。
 抑も埃及文明とは如何なるもので有つたか、是を簡単に評すれば恒久、不易、宏壮、壮厳の性を具へたもので有つたと云はなければならない、方尖塔の堅牢不易なる事は前にも述べた通りである、第十二王朝のアメネムハ三世の築きしと云ふフハユーム地方に於けるモエリス(Moeris)湖の如きは人の手に依て築かれし灌漑池の最も宏壮なるもので有つた、第十九王朝アメンホーテツプ三世の建設に係る『メムノンの像』の如き、其他カーナツク、ルキゾール等の地に散在するトスメス、セチ、ラメスー等の築きし宮殿墓碑の如きは皆な永久を目的として作られし建築地であつた、埃及人の作りしもので消え易き時代的のものはない、永久の記臆と保存とは彼等の主なる眼目で有つた。
 埃及人をして斯くも勤勉なる、斯くも宏壮偉大なる民たらしめしものは何んで有つたかと云ふに、疑もなく彼等の懐きし深遠なる宗教的観念で有つた、彼等に取ては事として物として宗教的ならざるは無かつた、印度人の宗教心に篤きも埃及人には及ばなかつたと思ふ、彼等の社会、文学、法律、学術は皆な宗教を基礎として成つたものである、彼等の大建築物は墓碑でなければ寺院或は宮殿であつた、彼等の詩人と政治家と科学者とは僧侶で有つて、彼等の王は大僧正の職を兼ねた者で有つた、若し世に僧侶的国家なるものがありしならば埃及国は確に其一で有つた。
 埃及人の宗教を組織的に研究するは印度のそれを研究するが如くに六か敷い、一神教あり、多神教あり、凡神教あり、禽獣崇拝ありて孰れか埃及人特有の宗教なりしかは之を明白に定むる事は出来ない、然し彼等が亜拉比(289)亜半島より持来りし宗教は高尚荘厳なる一神教でありし事は疑ないやうに見える、左に訳する彼等の神を讃美する歌の如きは実に希伯来人にも劣らない高尚なる信仰を表白するものであると思ふ。
  神は唯一にして単独なり、彼と共に在るものなし。
  神は一なり、彼は万物を造り給へり。
  神は霊なり、隠れたる霊なり、霊の霊なり、埃及の構神にして亦聖き霊なり。
  神は原始より在り、原始より存在す。
       *     *     *     *
  神は真理なり、彼は真理に依て生き、真理の上に生く、彼は真理の王なり。
  神は生命なり、人は彼に由てのみ生く。
  神は父なり、母なり、父の父なり、母の母なり。
  神は生む、然れども生れし者に非ず、神は万物に生を与ふれども生を受くることなし。
  彼は彼自身を生み、彼自身に生を与ふ、彼は造て作らるゝことなく、彼は彼自身の形体の造主なり。
  神は彼を畏るゝ者に向て慈悲深し、彼に哀叫するものゝ声に耳を傾く、彼は強者に対して弱者を護る、神は彼を識る者を識り、彼に事ふる者に報ひ、彼に従ふ者を護る。
是を旧約聖書の詩篇に比べて多く劣る処はないと思ふ、此荘厳なる惟一神教と併んで高尚優美なる多神教があつた、古代の埃及人の多神教は希臘人のそれと均しく決して嫌ふべきものでは無かつた、埃及人の神は光輝の神で有つた、彼等は太陽を拝んだ、其昇るやハルマキス(290)(Harmachis)として拝み、其中天に懸るやラー(Ra)として崇め、其西天に没せんとするやツム(Tum)として尊んだ、オシリス(Osiris)も矢張り日の神で有つて、彼の妻なるアイシス(Isis)は曙の神で有つた、二人の間にホーラス(Horus)ありて彼は日の出の神であつた、父オシリスはセート(Set)なる夜の神と彼の妻ネフシス(Nephthys)なる日没の神の殺す処となつて、曙の神は之を憤り彼女の子なる日の出の神をして父の讎を復さしめた、此神話の意味を探るは決して難くない。其他数知れぬ程の神が有つたが其首座にピター(Ptah)の神が有つた、彼は万物の造主で又総ての神々を生んだ者として祭られた。
 斯の如く埃及人の主なる神は光の神、和楽の神、生命の神で有つた、爾して国民の人生観は其信ずる宗教に於て現はるゝものなれば埃及人が同時代の他の民族に較べて希望の民、快活の民で有つた事は能く解かる、絶望的人生観を懐いて興つた国民は未だ曾て有つた事がない、悪魔を祭り、闇黒を愛する民の起つて偉大なる文明を作り出した例はない、埃及国興起の一大理由は彼等の日光崇拝で有つたと思ふ。
 埃及人は日光を拝して亦篤く来世の存在を信じた、彼等は霊魂の不滅を信じた計りではなく、亦肉躰の復活を信じた、是れ彼等が墳墓を重んじた理由で有つて、亦何人も身分相応に堅固なる墓を築いて彼の復活の時まで彼の屍躰を護らんと欲せし理由であつた、香剤を以て死屍を保存するの術は全く此目的を以て始りしもので有る、復活永生の希望を埃及人の心より絶つて彼等は他に存在の理由を見出す事が出来なかつた、彼等は墓を作るが為めに働らき、未来の裁判に無罪の宣告を受けん為めに身を修めた、彼等の産業も道徳も彼等の未来観念を離れてあつたものではない。
 埃及国の興つた一大理由は其宗教で有つて其亡びた一大理由も亦其宗教であつた、国を起すに宗教ほど有力な(291)るものは無くして、亦国を亡ぼすに是れ程惧ろしいものはない、即ち宗教の精神は国と民とを活かすものであつて、其外形は之を殺すものである、埃及人が霊なるプターの神を拝し、光輝と希望とをラー、オシリスの神より求めし間は彼等は興起の民で有つて、彼等の美術と建築物とは活気生命を失ふ事なく、彼等は文字を作り、法律を編み、人類初代の大教師として世界の闇黒を照らした、然るに彼等がその宗教の精神を棄て、其形骸に重きを置くに及んで、彼等の宗教は彼等を縛るものとなり、彼等の堕落と衰亡を招いた、プターを拝する代りに彼の使者なりと信ぜられし牡牛を拝み、ラーの代りに鷹を崇め、バストの神に事へんが為めに猫と獅子との前に跪き、終に禽獣は埃及人よりも貴く成るに至つた、茲に至て埃及国の滅亡は当然の事で有つた。
 埃及国は亡びた、洪水以前の文明を人類に伝ふるの天職を以て起りし埃及は亡びた、今の埃及は埃及人の埃及にあらずして、英吉利人、仏蘭西人、土耳其人の埃及である、即ち今日の埃及は地理学上の埃及であつて国家的の埃及ではない、然し此事は別に嘆くに足らない、今日はクーフ、メンカウラの埃及の興るべき時ではない、埃及歴史を読んで漫りに切歯扼腕する者は未だ国家は何の為めに興るべきものである乎を知らないものである。
 然りナイル河辺の埃及は亡びた、然れども人心の上に植附けられし埃及は亡びない、其政治と哲学とは希臘に渡りて連綿として今日まで伝はつて残つて居る、其道徳は摩西律となりて人類の有する最大宗教の基礎と成つて全世界を感化しっゝある、其科学はベーコン、ニュートンの手を経過して今は方尖塔、モエリス湖に勝るの大工事を作しつゝある、即ち能く其天職を尽せし埃及は今は人心の裏に宿つて宇内の進歩と共に其領土を拡めつゝある、埃及文明は其トスメス、セチ、ラメスーの揮ひし剣に於てあらずして、捨児摩西を育てし繊弱の王妃の中に有つた、希臘雅典に移住してアチカの州を開きしシークロツプスの鋤の中に有つた、ペンは剣よりも強しと云ふ、(292)亡びしものは軍隊的埃及で有つて、平和的埃及ではなかつた。
 
    参考書
 
  Rawlinson:The Origin of Nations;The Religions of the Ancient World;Ancient Egypt(The Story of the Nations).
  E.A.W.Budge:The Dwellers on the Nile.
  Sir J.W.Dawson:Egypt and Syria.
  A.H.Sayce:The Races of the Old Testament;The Hittites.
  Rev.H.G.Tomkins:The Life and Times of Joseph.
  Bunsen:God in History(Gott in der Geschichte).
  Philip Smitb:A History of the World. 〔以上、10・15〕
 
    第五回 巴比倫尼亜
 
 亜細亜大陸の西の方に二筋の有名なる河がある、一をチグリス(Tigris)と云ひ、他をユフラテス(Euphrates 百辣)と云ふ、共にアルメニヤの山中に発し、其上流に於ては東西に相別れ、河口に近づくに随て互に相接し来り、終に合して一流となつて波斯湾に入る、チグリスの長さは一千百四十六哩、ユフラテスは千七百八十哩、共に一簾の大河であつて、世界歴史には最も関係の深い河である。
 今此二河の名の釆歴を調べて見ると甚だ面白い、チグリス(Tigris)は希臘人の附けし名で有つて、波斯人のチグラ(Tigra「矢」を意味す)より取つたものである、チグラはアツシリヤ(亜述)人のヂクラート(Diklat)又はイヂクヲート(Idiklat)に効ふて択びし名で有つて、亜述人は又巴比倫尼亜土着の民たりしスメリヤ人が此河に附けしイヂクラ(Idikla)なる名に従ふて斯く呼びしなりと云ふ、聖書に此河の名を希底結《キデケル》と書いてあるは亜述人の音(293)に傚ふてゞある、又希臘人のユフラテス(Euphrates)は波斯人のユフラツー(Ufratu)より来りし名であつて、波斯人は亜述人のプラアト(Purat)より此名を借り、亜述人は又スメリヤ人のプラ(Pura 単に「大水」又は「大河」を意味す)にアトなる女性の語尾を附して此名を作りしと云ふ、即ち其名に徴するも二河共に歴史的名河であることが分る。
 巴比倫尼亜とは此両河の間の地を称ふのである、即ち希臘人の称へしメソポタミヤ(川中島)の東南部で有つて、西南には亜拉此亜沙漠を控へ、東南に於て波斯湾に臨み、東と北とには河を隔てゝエラム、波斯の高地に接し、北緯三十度と三十三度との間に在つて、四囲の荒漠の地の間に一つの楽園郷を作つて居る国である、其地味と気候とは埃及の夫れに能く似て居る、即ち大河の氾濫に依て成りし沖積層の土地で有つて、其沃饒なる事は実に驚くべき程であつた、麦は此地の特産物で有つて、今尚ほ野生の麦を産すると云ふ、其葉の幅は二寸に達し、生育の余りに熾んなるため、穂を実らせんが為めには葉を刈取ること二三回に及びしと云ふ、一粒の種子に対し百五十乃至三百粒の収穫あり、海棗《デートパーム》の生育は又立派なもので有つて、其皮は織緯物を供し、其幹は木材に宜しく、其果実は糖分に富み、其葉は以て屋根を葺くべし、麦と海棗有つて生活の必要品に一つも欠くるものは無かつた。
 斯くも豊饒なる土地は四通八達の位置に居る、両大河に依て北はアツシリヤ、裏海地方に通し、西はシリヤを経て地中海沿岸に達するを得べく、南は波斯湾に依て波斯、マスカツト、印度の諸港に通じて居る、故に喜望峰航路の発見以前、蘇西運河の開鑿以前に於ては西洋東洋間の貿易は必ず巴比倫尼亜の地を通過したものである、土耳其人の手に落ちて太古時代の殷富は跡形なきに至し今日に於ても波斯湾頭両大河々口のバスラーは肝要なる港であつて、チグリスを溯ること四百哩の上流にあるバグダツトは今尚ほ二十万の人口を有する盛んなる都市で(294)ある、以来鉄道を以て欧亜の聯絡を開かんとすれば必ず道を巴比倫尼亜の地に取らなければならない、巴比倫尼亜は実に西方亜細亜の中心点に位して居る、東南印度より来るも、東北エラム、波斯、メヂヤの地より来るも、北方バン、ウルメヤの湖辺、シリヤ、アツシリヤの地より来るも、或は西方亜拉比亜の高原より来るも、皆な此底地に落合はなければならない、恰かも我が関西に於ける摂河泉の位置、欧洲の西北部に於ける和蘭白耳義の位置であつて、其列国に対する地理学上の位置から見ても興起隆盛を促すの国柄であつた。
 其面積を見ればバビロニヤは微々たる小国である、長さ四百五十哩、幅は其最も広き所に於て百八十哩、紡錘形の一面の平原国で有つて其面積は大凡二万三千方哩である、是れ我の北海道にも足らざる小国である、然れども河口に近き沖積層の地で此面積あれば其実際の生産力は実に非常なもので有つて、殆んど日本全国の夫れに伯仲して居る、和蘭と白耳義とは合せて僅に二万五千方哩に足らざれども一千万の人口を有して欧洲第一の豊富の国である、波斯帝国最盛の時に当て其収入の三分の一はバビロニヤより来りしものなりと云ふ。
 巴比倫尼亜の文明は旧い、如何に旧いかは未だ能く知ることが出来ない、而して今やアツシリヤ学(Assyriology)なる専門学が起きて両大河沿岸の古蹟探究は著しき進歩をなし、一時は全く歴史家に忘れられし太古の文明が近世史を学ぶよりも確実なる方法に依て攻究せらるゝに至り、年毎に発見になる歴史上の事実は唯だ驚くの外はない、ライン、シエルトの河口なる和蘭、白耳義に於けるが如くチグリス、ユフラテの河口に於ても多くの繁昌なる都市は興り、エリヅ(Eridu)は太古時代の開港場にて波斯湾の商権を握りしものらしく、亜伯拉罕《アブラハム》が生れしと云ふ迦勒底《カルデヤ》のウル(Ur of Chaldea)は月神の大宮殿のありし処にして時の偶像崇拝の中心点なりしが如く、ウルの西北三十哩の所にラルサ(Lalsa)ありてシナル(Shinor)の国と称して南方バビロニヤの最も古い首府であ(295)つた、其他カルネー(Calneh)アガデ(Agade)クーサ(Cutha)ボルシパ(Borsippa)等屈指するに遑がない。
 此国をバビロニヤと云ふは首府のバビロンより取た名である「然しバビロンは比較的に極く新らしい市であつて、其始めて此国の都となりしは紀元前二千三百五十年の頃であつた、是れ実に支那の堯舜の頃であつて極く古い事であるが、然しバビロニヤの歴史に於ては中世紀の始め頃と云はなければならない、史学上の近来の大発見と称すべき事はバビロン王サルゴン(Sargon T)第一世の時代の確定されしことである、即ちナボニダス王(Nabonidas)の遺せし記録に依てサルゴン第一世のアガデ城市の建設が紀元前三千八百年頃と確定せられし事である、是は決して想像的の年代にはあらずして、確固たる記録に依て定められしものである、然るに近来又々米国の探検者の探究に依てサルゴン以前の建築物が発掘され彼以前尚ほ三千余年の歴史のありし事が発見された、即ち今日のアツシリヤ学の結論に従へばバビロニアの起原は実に今を距る一万年の昔にあつたと云ふ事である、故にバビロン古代の文明及び其神話説に就て多年の研究をなしつゝある処の博士ホムメル(Hommel)氏并に教授ヒルプレクト(Prof.Hilprecht)氏等の主張するが如くバビロン文明はエジプト文明よりも古いものであつて、後者は前者の移殖せられたものであるとの説は今日は学者間に追々と勢力を得るに至つた。
 夫故にバビロニヤの歴史は一国の歴史としては論ぜられない、同一の国土に数ケ国の興亡盛衰が有つたので有て、バビロニヤの歴史の他と異なる所以は其事変興敗は同人種間の出来事でなかつた事である、此三万方哩に足らない小邦土に於て蒙古人種、ハム人種、セム人種、アリヤン人種と順を遂ふて彼等の特種の文明を発揮し、一の長を以て他の短を補ひ、優を伝へ劣を排し以て円満なる文明を後世に伝へたのである、バビロン歴史に特種の興味あるは其世界的人類的なるに依るのである。
(296) バビロニヤ最始の文明は蒙古人の作つたものであつた、彼等は何処より来りしものであつたかは判然せざれども彼等の国語に徴して、彼等の宗教に考へて、彼等はフイン人、トルコ人、日本人等と同人種の民であつた事は分る、即ち彼等の言語は附着的《アグリユチナチーブ》と称するものであつて、語尾変化の法式なく、僅にテニヲハの類を附着して語格を定めたものである、彼等に蒙古人種の誤認すべからざる特質ありて彼等は全く実利主義の人民で有つた、故に彼等の作りし文明なるものは東洋人の夫れに似て全く物質的であつた、是れ即ち史家の称するスメリヤ=アカツド(Sumero-Accad)文明にしてバビロニヤ文明の最下層のものである。
 蒙古人種の後に来りしものはハム人種であつた、彼等は南方波斯湾に浜する辺より来た多分埃及人と同種類の民であつた、彼等はバビロニヤ文明に智識を加へたものであつた、彼等に依て数理、天文、建築の技術は輸入された、彼等は天躰物の崇拝家であつて、彼等の宗教は蒙古人の夫れに優りて優美高尚なものであつた。
 ハム人種の後に来た者はシエム人種であつた、彼等は多分亜拉此亜方面より来た者であつたであらふ、彼等の特質として彼等は荘厳なる一神教的観念に富んで居つた、故に彼等がバビロニヤに入り来りてより其宗教制度は一変した、彼等は勿論バビロニヤ人の祖先伝来の多神教を破毀する事は出来なかつた、然し彼等に依てバビロニヤ人の宗教的観念は清洗され且つ威厳を加へられしに相違ない、有名なるネブカドネザル大王が彼の守護の神なるベルメロダツヒに捧げしと云ふ祈祷文の如きは明かにシエム人の宗教的感化を顕はすものである、後の参考にも成ることなれば今爰に訳して置かふ。
  嗚呼君よ、爾は永遠より在しまし凡て存在するものゝ主なり、爾は我を愛し、我が名を以て我を呼び給ふ、爾の御意に従て正道に我を導き、正義の道に我を守る、爾に服従する我は爾の御子の造りしものなり、爾は(297)我を造り、我に億兆を統るの権を委ねたり、是れ嗚呼神よ、彼等に灯する爾の恩恵に由てなり、我をして爾の至尊を畏れしめよ、而して爾は我が生命を支ゆる者なれば我に賜ふに爾の善とするものを以てせよ。
バビロニヤ人はセム人化せられてより始めて宇内的の国民となつた、世界王国を建設せんとするが如き観念はシエム移住以後にバビロニヤ人の中に起つた考である。
 シエム人種の後を承けた者はメデイヤ、波斯、希臘人等のアリヤ人種で有つた、彼等の特性に就ては後に充分述べる積りであるから爰では云はない、唯一の茲に注意して置かねばならない事がある、即ち彼等は文明の創作者でなくして、改良者又は開発者であつたと云ふ事である、蒙古人種が物的文明の創作者で、ハム人種が智的文明の発起者であつて、シエム人種は大宗教を人類に供した者であつた、而して此等の三元素を和合して今日の新文明を作つた者はアリヤ人種である、バビロニヤは文明元素の養成地であつた故にアリヤ人種の活動地にはならなかつた。
 斯くて巴比倫文明なるものは合成的文明であつた、即ち各人種の代表者が寄つてタカつて作つた文明であつた、其人種の複雑なりしは彼等の中に行はれし言語の複雑なりしに依て分る、即ち『言語の淆乱』なるものは彼等の中に起り易い出来事であつたに相違ない、(創世記第十一章一節より九節までを見るべし)
 然れども合成的であつたから世界的であつた、必しも西洋文明のみならず、東洋文明も亦其源をバビロニヤに発したものであるとの説は考古学の進歩と共に段々と明瞭になる事実であらふと思ふ。
 基督教は猶太数より来りしものであつて、猶太数の起原はバビロニヤにありし事は能く分つて居る、安息日制度の如き、是れ決して猶太人の発明に係りしものにあらずして遠き昔よりバビロニヤに於て行はれし制度であつ(298)たと云ふ、英語の Sabbath(安息日)は希伯来語の Sabbatu を其儘取りし詞であつて後者はスメリヤ語の Sabatu より来り Sa(心)bat(充たす)の二語より成りて「心を充たす」或は「安める」の意を示す詞であると云ふ、其他 Cherubim(天使)Seraphim(仝)の詞の如き、人類の堕落並に大洪水に関する伝説の如きは皆バビロニヤ起源のものである。
 一年を三百六十五日に分ち、一日を二十四時間に分ち、一週日の制を定め、之に我々が今日用ゆる処の七曜の名を与へたものは彼等を以て始り、天を十二宮に分つた者も亦彼等である、彼等の測度計算の術は甚だ精蜜なるもので有つて、彼等に日蝕を精確に前知することが出来た、彼等は実に天文学なるものゝ始祖であつた、其事は欧洲各国語の星なる詞が皆バビロニヤ語の転靴せしものであるので分る、希臘語の astron 拉典語の sterna,stella,独逸語の sterne 英語の star は皆バビロニヤ語の Istar より来りしものである、イスターは巴比倫人の女神であつて金星を祭つたものである、種々の神話が此女神に伴て、迦南、フイニシヤ、希臘の諸邦に伝はつた、或はアシタロテ(Ashtaroth)として猶太国に祭られ或は Astarte として希臘人の崇拝を受けたものは皆此巴比倫人の女神であつた、我々が今日天文学の事を Astronomy と云ふ時は巴比倫の語を借りてイスター学と曰ひつゝあるのである。
 バビロニヤ人の商業工業に就ては爰に述る場所がない、玻璃《ガラス》は彼等に依て始めて製造され、銀行は始めて彼等に依て起されしことを以て見ても我等紀元後の二十世紀に入らんとする今日巴比倫人よりも余り優つた民でない事が分る、我々は日新の文明を以て誇るなれども五千年前の巴比倫は我々の知り居る事は大抵知て居つたやうに見える。
(299) 巴比倫歴史に別に痛快悲壮の事はない、ネブカドネザー大王を除くの外別に世界的偉人と認むべき人物を彼等の中に見出す事は出来ない、彼等は本来平和を好む民で有、天躰を窺ひ、医術を究め、農を励み、工を起し、文を磨き、神を祭るの民であつた、故に彼等は北方のアツシリヤ人、東方のペルシヤ人、南方のカルデイヤ人の征服を免かれなかつた、然し彼等は常に教化者《シビライザー》の地位に立つて居つて、学と術とを以て数千年間隠微の間に世界を教化した。 〔以上、10・25〕
 
    第六回 アッシリヤ(上)
 
 巴比倫尼亜の次ぎはアッシリヤである、爾うして我等は例に依て先づ其地理を研究せねばならぬ、故に再び亜細亜の地図を開いて見給へ、殊に亜細亜土耳古に注意し給へ、波斯湾にチグリス、ユーフラテスの二大河が注ぐことは前回の講談に於て述べた通りである、巴比倫尼亜は両大河の間にありし国で有つて今の土耳古国のバグダット州に当る、今チグリス河を溯ると思ひ給へ、河口より四百哩にして有名なるバグダット(Bagdad)の市がある、是は紀元七百六十六年に建てられし市であつて回々教国全盛の時に当りては世界文化の中心点であつた、有名なる亜拉此亜物語は此市にありし事を述べしものにして、多くの奇劇の伴ふて居る所である、尚ほ河を溯ること二百余哩にして其西岸にキレーシエルガート(Kilehshergat)と称ふ小さな村がある、是が太古時代の有名なるアッシユール(Asshur)の市の有りし所であつて、アッシリヤ帝国なるものは実に此小市より始まつたものである、アッシユールより下流三十哩にして東方より流れ来るザッブアスフェル(Zab Asfel)なるチグリス河の支流がある、是は古代の小ザッブ(Lesser Zab)にしてアッシリヤ歴史に深い関係のある河であれば能く記臆して置く(300)が宜しい、此小ザッブ河に対して上流三十哩の処に大ザッブ河(Great Zab)がある、矢張り東より流れ来る支流で有つて、是又大切なる河である、大ザッブがチグリスの本流に合する処に又セン(Senn)と云ふ小さな村がある、此附近が昔時のカラー(Calah)のありし処で有つて、一時はアッシリヤ帝国の都で有つた、センの上流二十五哩の所チグリスの西岸にモスール(Mosul)の市がある、メソポタミヤ地方一帯の首府であつて人口五万を有する盛なる市である、昔は綿布製造を以て名高く、今尚ほ薄織の綿布を英語其他の欧羅巴語にてマズリン(muslin)と称ふは此市の名に依るのである、モズールの対岸にコーユンヂックと云ふ村がある、是ぞ『太古時代の倫敦』と称せらるゝ尼々微《ニニビ》の市の故址で有つて一時は周囲六十哩に渉り、人口四百万を有せしと云ふ大都会のありし所である、コーユンヂックの北二十哩、マシヤス山(Mt.Masius)てふ山脈の南麓に近くコルサバッド(Khorsabad)の村がある、是がサルゴン城市(Dur-Sargon)と唱へてアッシリヤ王の夏期用の離宮のありし所である、其外レーゼン(Resen)ありて其地位は判然せざれども多分カラーと尼々微の間にありしなるべし、アルベラ(Arbela)は大ザッブの上流其南岸より遠からぬ所にありし市にして、アルベラのイスター(女神)と称し、国民の崇敬を繋ぐ所で有つた。
 昔時のアッシリヤ帝国なるものは此近辺に興つた国である、其中心点と称すべき処はチグリスの本流と大ザツブ支流の間に在つて、背にマシヤスの山脈を帯びたる三角形の土地であつた、是は即ち羅馬時代の歴史家がアッチユーリヤ(Aturia)と称びし地方で有つて、面積二千五百方哩に充たざる小邦である、然れども歴史上のアッシリヤは大国であつた、其全盛の時に当ては北はアルメニヤの北境より南は波斯湾まで、東は波斯砂漠より西は地中海並に埃及まで、是を面積に積れば凡そ一百万方哩で有つて、日本帝国の七倍、欧羅巴大陸の三分一で有つ(301)た、其内にエラム(Elam)あり、波斯(Persia)あり、メデイヤ(Media)あり、バビロニヤ(Babylonia)あり、ウラルツー(Urartu)と称して今のアルメニヤあり、フイニシヤ(Phoenicia)あり、猶太亜(Judea)あり、埃及ありて太古時代の邦なるものは一時はアッシリヤ領とならざりしは殆んど稀であつた、即ちアッシリヤは世界王国なるものゝ最姶のものであつて歴史家が是を称して東方の羅馬(Rome of the East)と云ふは一つは是れが為めである、故にアッシリヤ歴史を能く了解せんと欲せば今の亜細亜土耳古の地理を能く知らなければならぬ、東方のザグロス山(Mt.Zagros)北方のマシヤス山、西方地中海に浜するアマナス山(Mt.Amanus)とレバノン山(Lebanon)、是等の山と其麓より流るゝ河、其谷間に潜む湖水等とを掌を翻すやうに能く知て置くにあらざればアッシリヤ史は勿論太古史なるものを面白く読む事は出来ない。
 斯の如くアッシリヤはバビロニヤの如き一面の平原国ではない、山あり、河あり、谷あり、丘あり、起伏常ならざる一個の邦土である、為めにアッシリヤは其物産もバビロニヤのそれとは自から異なり、麦を産すれども其実り薄く、海棗《デートパーム》は其数を減じ、安坐して豊熟を待つバビロニヤの如き楽園国ではなかつた。然れども其比較的に痩薄なりしわけはアッシリヤ帝国のバビロニヤに勝りし訳であつて、寒くして痩せたる者が竟に温くして肥えたる者を圧するに至ると云ふ世界歴史の通則は能く此等の二国に依て証明されたのである。
 地理の次に歴史の大略を述べねばならぬ、併しアッシリヤの歴史を研究せんとするに当て我等に常に不愉快の念を与ふるものは其人名である、希臘人、羅馬人等の名は之を記臆するに左程困難はなけれどもアッシリヤ人の名に至ては其紛雑は名状すべからずである、先づ其有名なる王様の名を挙ぐればアッシユルバニパール、チグラスピレーゼル、セネケリブ、エサール ハッドン等である、何んと六ケ敷い名ではないか、然し是等の多くはアッ(302)シリヤ語の原名にはあらずして希伯来人が彼等の音調を以て其聖書に記述せしものを其儘歴史家が採用せしものである、故に是をアッシリヤ音で読む時は一層六ケ敷くなる、然し是れとてもアッシリヤの原語を以て鮮すれば決して難いものではない、恰かも西洋人が日本歴史を学ばんとする時八幡太郎義家(Hachiman-taro-yoshiiye)を羅馬字に綴り、其意味を知らずして其音のみを記臆せんとする時は非常に困難を感ずるが如きもので有つて、是を日本字に綴れば最も興味ある名称であるのである、今左に少しくアッシリヤ人の名字を解剖して史学上の此一困難を減却せんとす。
 チグラスピレーゼル(Tiglath-Pileser)はチグラト、パル、チラ(Tiglat-Pal-Tira)である、チグラトは「敬崇家」の意、パルは「子」、チラは神殿のある場所の名にして「チラの子」とは其処に祭られたる神、即ちニンの神の尊称なりしと云ふ、故にチグラト、パル、チラとは「ニンの敬崇者」の意にして自身の宗教を表白せる最も恭謙なる名称なりとす。
 アシユール、バニ、パル、是れ希臘の歴史家がサーダナプラス(Sardanapalus)と呼びしものにしてアッシユール(アッシリヤ国の守護神の名)、バニ又はダニ(造る)パル(子)の三詞より成る名称である、其意は「アッシユルの神の造りし子」と云ふにありて、彼の父母が神に男子を祈て是を設けしが故に斯く命名せしものにして其内に深き宗教的信念の存するを見る。
 エサール ハッドン(Esar-haddon)も希伯来人の変更に係りし名で有つて其本名はアッシール、アクー、イッヂナ(Asshur-akh-iddina)と読むべきものである、「アッシユルの神又一弟を賜へり」の意にして男子蕃殖の喜悦を表せし名である。
(303) セネケリブ(Sennecherib)はシン、アキー、イリッブ(Sin-akhi-irib)にして「シンの神兄弟を増せり」の意である、アキー(akhi)は前の(akh)の複数である。
 サルゴン(Sargon)はサルー、キン(Sarru-kin)にして「定められし王」の意である、即ち我は神の定めにし先天的の国王なりとの意にして虐王が王位を奪ひし時に自から択びし名である、名を宗教に藉りて政権を擅にする奸雄の所業にして古今東西何れも同じ事だ。
 シヤルマネーゼル(Shalmaneser)はサリマヌー、エシル(Sallimanu-esir)にしてサリマヌーは猶太亜歴史に於て栄華の極に達せしと云ふソロモン(Solomon)と同一の名で有つて「平和」又は「平和の神」を指すの詞である、エシルは「導き」にして「平和の神我を導く」の意である、実に美い名ではないか、先づ此位ひで止めて置かう、実にクド々々敷いツマラナイ事のやうであるが、アッシリヤ語を学ぶの外に種々の面白い事実が此等の名称の中に含んで居る事が分る、其事は後で話す。
 序に市の名を少し説明して置かう、アッシユール(Asshur)は勿論アッシユールの神と同名である、市の名が神の名を作つたのであるか、或は神の名が市の名を作つたのであるか、それは判然せざれど孰れにしろアッシリヤの守護神の名と其最始の首府の名と同一であることは記臆して置くべき事実である。
 次は太古時代の倫敦なるニネベー(Nineveh 尼々微)である、其名がニン(Nin)又はニニプ(Ninip)の神の名に深い関係のある事は一見して分る、ニンは土星を祭りし神で有つて、アッシリヤ人并にバビロニヤ人に取ては最も大切なる神であつた、即ち尼々微の市はセネケリブ大王に依て土星の神に捧げられし市で有つた、アッシリヤ人は日本人とは異なり、何んと宗教心に深い国民ではなかつたか。
(304) ヅル、サルジナ(Dur-Sardina サルゴンの城市)は勿論サルゴン王が建てし市で有つたから爾う名けられたのである。
 扨て紀元前千八百年頃、即ち我神武天皇即位以前尚千二百年頃、一隊のバビロニヤ人はチグリス河を溯りて、小ザッブと大ザッブの間あたりに殖民地を拓き、そこにアッシユールの市を建てた、下て千四百年頃に至て其地方の勢力頓に増加し、千四百五十年と云ふにアッシリヤ王アシユール、ウバリート(Asshur-Uballit)なる者がバビロンを征し、一時は其城市をも占領するに至つた、尚ほ百五十年を経てアッシリヤの勢力は益々増進し、凡そ千三百年頃に本国なるバビロニヤは終に其属国たりしアッシリヤの領土となるに至つた、是れより後七百年間は文明世界はアッシリヤの有《もの》であつた、チグラス ピレーゼル第一世なる王は非常の傑物で有つて、後に依てアッシリヤ領は東はザグロス山より西は地中海まで拡がるに至つた、アッシユール、ナチル、パル(Asshur-natsir-pal 883−858 B.C.)、シヤルマネゼル二世(Shalmaneser U 823 B.C.)サムシ、リモン(Samsi-Rimon)、リモン、ニラリ(Rimon-nirari 810−781 B.C.)、アッシユール、ニラリ(Asshur-Nirari 753−754 B.C.)の英雄相踵いで王位に登り、武威を八紘に輝かしければアッシリヤの名は万邦の恐怖する処となりて四隣皆な貢をチグリス河辺の此王国に奉るに至つた、紀元前七百四十五年頃に王統一度び絶へ、其年チグラス、ピレーゼル第三世(745−727 B.C.)なるものが王位を奪い、爰に第二のアッシリヤ王国なるものは建設せられた、彼の後にシヤルマネーゼル三世(Shalmaneser V)来り、サルゴン(Sargon)来り、セネケリブ(Sennecherib 705−681 B.C.)亜ぎ、エサール ハッドン(Esar-haddon 668 B.C.)襲ひ、終にアシユール、バニ、パル(Asshur-bani-pal)に至て全盛の極に達し、後二三の織弱なる王を経て紀元六百二十六七年頃メヂヤ王クアクザレスの亡す処となつた、是がアッシリヤの歴史の極々の大略であつて、(305)実に砂を噛むやうな面白くもない事実である。
 七百年間の栄光、七百年と言へば短いやうであるが決して爾うではない、試に思へ、源頼朝が府を鎌倉に開いてより明治三十二年の今日まで露西亜なり英国なりが間断なく武的圧制を逞ふしたと思へ、若し日本が其強圧を被りし一ケ国であつたならば其制度文物は勿論、国民的思想精神が如何に害毒を被たかは殆んど我等の予想以外である、爾うして西洋文明なるものは西方亜細亜より来りしものであつて、西方亜細亜は其発達時機の七百年間をアッシリヤの支配の下に経過したものであると思へば、アッシリヤ王国なるものが如何に人類全躰の運命に影響を及ぼしたかは充分に推測する事が出来る、既に六千年の歴史を持ちし南方のバビロニヤも、永く西方亜細亜に蒙古人種の勢力を維持せしエラム王国も、アリヤン人種が国を為し終にはアッシリヤを仆して歴史の舞台に上り出でし東方のメデイヤ、波斯も、バン湖辺に特殊の文明を発育せし北方のアルメニヤも、カルケミッシユ(Carchemish)の貿易市場にユーフラテス河の渡口を扼し、東西の商権を握りしヒッタイト人(Hittites)の王国も、レバノン山の西麓地中海の東岸に地中海沿岸を経て今の英国、瑞典の辺までに其航路を拡げしフイニシヤの貿易国も、ヨルダン河の彼方に上帝の黙示に依て得し憲法に則り、四面皆な暴圧の外民を統ぶるの術を知らざりし時に当りて人権の神聖を唱へし希伯来人の共和的王国も、埃及も、亜拉比亜も、「死海」附近のモアブ、エドム、ヒリスチナの諸小国も、地上の楽園の一に算へられしダマスコ(Damascus)も、時の文明国と称せられしものは皆悉く七百年の長き間チグリス河畔の大強圧を感じたのである、憐むべきは人類なるものである、彼は何が故に斯くも試錬を受けざるを得ざる乎、アッシリヤ人の七百年、羅馬人の五百年、西班牙人の一百年、圧制に加ふるに圧制を以てせられ、十九世紀将に終らんとする今日に至るも圧制は洋の東西を去らず、自由主義の米国は非律賓(306)を圧し、同じ英国は南阿の小共和国を圧し、而して世界の君子国と自称する東洋の日本に於てすら薩閥長閥肥閥等の偽善、圧制、学閥ありて民の伸長を妨ること尠からず、然れどもアッシリヤも終には斃れたり、羅馬も斃れたり、西班牙も仆れんとす、圧制は古きものなれども自由の原始的なるに及ばず、若し人権にして永久に蹂躙し得べきものならばアッシリヤ時代に既に踏み潰されしならん、其三千年後の今日に至るも尚ほ吾人の胸中に鬱勃たるを見れば自由は永久不滅のものなるが如し、余輩がアッシリヤ歴史を研究して余輩の今日を慰むるの理由は実に此一事に存す。
 次回に於てはアッシリヤの興りし精神的理由と其滅亡に至りし原因とを述べん。 〔以上、11・5〕
 
    第七回 アッシリヤ(下)
 
 アッシリヤは地理学上の理由に因て起つた国ではない、其土地はバビロニヤ、埃及に較べて甚だ劣たものである、其西南部一帯の地は亜拉此亜砂漠の続きであつて、河流の辺りを除いては多くは乾燥不毛の地である、アッシリヤ本部とも称すべき処はチグリス河以東で有つて、此処には大ザッブ、小ザッブ等数流の大河があつて灌漑の途も自から備はつて居る、去りとて其大部分は北緯三十五度以北に在ること故バビロニヤ埃及の民に衣食住の資料を給する海棗《デートパーム》は此所に実を結ばない 麦は勿論成長する、然れどもバビロニヤの平原に於て其葉が幅三寸に達すと云ふ様な豊熟は決して望めない、是を要するにアッシリヤは北温帯に位ひする国であつて、文明が地より湧き出づるやうな天然の楽園国ではなかつた。
 又交通の便利から云つてもアッシリヤは坐して天下の商権を握ると云ふやうな国柄ではなかつた、チグリス河(307)は大河であつて多少舟楫の便を供さないではないが、バグダッドの上流七十哩の辺よりは急流多くして貨物の運送に危険が多ひ、西にはザグロスの山脈ありて波斯、裏海の地方に通ずるに只二三の通路あるのみである、是れとても交通甚だ困難にしてアッシリヤ王東征の時に常に非常の困苦を感じた処である、北にはマシヤス山脈ありてバン湖辺に至るには道を渓間の狭路に取るより外はない、西は開けて地中海沿岸との交通は比較的に容易であると雖も、去りとて之れに達するにはシンジャー(Sinjar)の丘陵を越へなければならず、カブール(Khabour)ユーフラチスの流を渡らなければならない、尚もシリヤの砂漠を横断してアマナス山脈の南に尽きるの辺に於て始めて水天髣髴たる大海に臨むを得るのである、南の方波斯湾に至るまでには五百哩もある、西の方地中海に臨むには四百哩、東の方裏海に達するにも同じく四百哩、何れの方面に於ても大水面よりは最大距離の処にありて、アッシリヤは実に西方亜細亜の陸地の中心点に位ひして居る国である。
 併し若し土地が沃饒でなければ其物産の種類は甚だ多かつた、バビロニヤに麦と海棗との外に禾穀樹木の類の甚だ尠きに較べてアッシリヤには桃あり、桜あり、胡桃、香※[木+縁]樹《ブシユカン》あり、河流に沿ふては白楊あり、爽竹桃と桃天嬢《テンニンクワ》とありて、全地は荒敗を以て掩はるゝ今日と雖も、尚ほ春毎に血紅色の絨氈を以て布き詰めらるゝの美観がある、マシヤス山は※[木+解]を以て名高く、ザグロスとシンジヤーとは胡桃材に富み、外に安石榴《ジヤクロ》あり、塩膚木《ヌルデ》あり、※[木+聖]柳《タマリスク》ありて、其植生は多く希臘、羅馬のものと異ならない、若し又其産出する石材に至てはマシヤス山に玄武石ありて其質堅固にして花崗石の用をなし、ザグロス山は大理石を出し、チグリスの左岸到る処に優等の雪花石膏を産し、アッシリヤ国の彫刻家をして其技を試むるの石版を供した、好良なる粘土は到る処に得られ、石油瀝青は両ザツブ間の地に湧出する、重要礦物に至ては金、銀、銅、鉄、鉛、錫は一として産せざるはなかつた、斯くて(308)植生の貧は礦物の富を以て償はれ、アッシリヤは其産物に於て確かに意志の発育を助くるの国であることを証明して居つた。
 此交通不便、多くは是れ磽※[石+角]矮林の地に移住した民はシェム人種の支派であつて、バビロニヤの北部より来りし者であつた、前にも述べた通りバビロニヤは諸民族の集合地であつて、南部には蒙古人種の子孫は永く後を絶たず、中部北部に在てはハム人種と称する埃及人と同種の民族が永く勢力を維持して居つた、此中に在てシェム人種は常に不平に堪へなかつたに相違ない、彼等は確かに前二者に較べて優等の民であつた故に、彼等は劣等人種の間に在て彼等の天与の材能を伸すことの出来ないのを常に憤慨して居たに相違ない、猶太人の祖先なるアブラハムが迦勒底《カルデヤ》(バビロニヤ南部の通称)のウルを去て終にパレスチナの地に移住せし如きは全く此人種的衝突の結果で有つたに相違ない、シェム人は独一無二の神を崇むる民であるにバビロニヤ人全体は多神教の民であつた、シェム人は実際的の民であるのにバビロニヤ人は哲学とか神学とか称して理屈にのみ縛られて明白なる目前の真理を視ることの出来ない民であつた、此の時分にはバビロニヤの蒙古人種は今日の支那朝鮮に於ける同種の民と同じく既に天職を了つた民であつた、即ち彼等は文明の発端を開くだけの民であつて紀元前二千年の頃、即ち支那に於ては堯舜の世は終つて夏の世となりし頃は業已に老朽の民となり了つた、蒙古人種に亜いで来りしハム人種も既に二千年の歴史を有し、埃及に於て、バビロニヤに於て、既に発達すべきの発達を成し了つた民であつた、今は新人種の起て新文明を作るの時であつた、アブラハムの父なるテラーは此預想に駆られて全家を挙げてバビロニヤを去り北方のハランの地に移住した、クーサ、アカッド等バビロニヤ北部に在りしシエム人種も亦た同一の天の指導を感じたと見える、彼等心に思へらく「永く老朽、腐敗の民の間に在て何にかせん、吾等は彼等と共(309)に死滅すべきにあらず、彼等の腐気の吾等と吾等の子孫に感染せざる前に吾等は早く此偶像崇拝の地を去るべし」と、是れ即ち英国の清教徒が故国の堕落腐爛に堪へずして大西洋の彼岸に新郷土を開きしと同一の精神であって、今を距る三千七百年の昔アッシリヤ人がチグリス上流に新国土を拓きしも全く此聖望に駆られてゞ有つたに相違ない。
 彼等は実に達見の民であつた、彼等は父母の故国に恋着して彼等の天職を放棄するやうな意気地のない民ではなかつた、彼等が終に世界の主人公として七百年の長き威を時の文明世界に振ひしは全く此高尚なる冒険心に因りしのである、愛国心とか称して蝸牛殻大の国土の中に蟄居する民が起て世界を支配するに至りしは開關以来曾て有りし事はない。
 チグリス上流の沿岸に移住してよりシェム人種は徐々として其独特の思想を開発した、太古の民として彼等は先づ彼等の理想に適ふ宗教を定めた、壮厳なる一神教は天が彼等に委托せし最大真理であつた、彼等は如何なる境遇に処しても此信任に背かなかつた、彼等に取ては是を棄て彼等が依て起つの立脚地はなかつた、アッシリヤ国興起の最大原因はアッシリヤ人のシェム的宗教観念にありし事は最も明白なる事実である。
 アッシリヤ人の宗教は其の外形に於てはバビロニヤ人の宗教を其儘採用せしもので有つた、彼等は南方人種の堕落を避けて北方に新郷土を拓きしものなりしも、彼等と雖も二千年間受用せし旧文明を全く放棄する事は出来なかつた、其宗儀礼法に於て、其大躰の教義に於て彼等は全くバビロニヤ人に倣ふたものである、彼等は天の神としてアヌー(Anu)を拝し、地の神としてムルゲ(Mul-ge)を祭り、水の神としてエア(Ea)を崇めた、エアに添ふにダブキナ(Dav-kina)なる女神ありて二人の間にメロダッヒ(Merodach)なる神が生れた、彼は「人類の救主」「生(310)命の復活者」として尊まれ、常に神と人類との間に往来して人類に示すに神の聖意を以てし、神に伝ふるに人類の苦痛を以てする神であつた、彼は特別に慈愛の神であつて、バビロニヤ宗の拡まりし所にては到る処に民衆の深き崇敬を惹きし神であつた、メロダッヒの子にネボー(Nebo)が有つた、彼は預言者として崇められ、文学、能弁術を人類に教ふるの神であつた、ネボーの妻にタスミット(Tasmit)があつた、彼女は音楽の神であつて夫妻共に文芸教化の神であつたと見える、又メロダッヒの朋輩にリモン(Rimmon)ありて、彼は空気の神であつて雨を降らし、霜を送り、或は雷と為りて轟き、或は暴風と為て荒れ、民の恐怖する神であつた。
 天地水の三大神と相対して日月の二大神が有つた、日の神をサマス(Samas)と云ひ、月の神をシン(Sin)と云つた、而して奇異なる事にはバビロニヤ人の考に依れば日神は月神の生みし処のもので有つて、月は日に優るの崇敬を受け、ウルに、アカッドに壮大なる神殿は月神の為めに建てられた、バビロニヤ宗教の最も優美なる崇拝物として金星を祭れるイスター(Istar)なる女神があつた、彼女はエレック、尼々微、アーベラ等に大宮殿を有し、今日天主教国に於て聖母マリヤが尊崇せらるゝやうに慈恵の神として西方亜細亜の全躰に於て民衆の帰依せし神であつた、其他ネルゲル(Nergel)ありて彼は人面牛身の神であつて、死者の霊を護り併せて戦争の勝敗を司る神であつた、其他「三百の天の霊」、「六百の地の霊」ありて、八百万の神とまでは行かずともバビロニヤ人の多神教は随分混雑を極めた者であつた。
 是はバビロニヤ人の宗教で有つて、亦アッシリヤ人が其儘採用せし宗教である、然れどもアッシリヤ人はシェム人種であつて複雑なる多神教は彼等の天性の堪ゆる処でなかつた、故に彼等は南方人種の神族を其儘採用せしと雖も然れども之に一大改良を加へた、即ち彼等は是等の諸神を統ぶるに彼等の独特の神なるアッシユール(As(311)shut)を以てした、而してアッシユールはバビロニヤの諸神に何の血統的関係あるなく、彼は独一無二の神であつて、彼と共に栄光を分つの神は無かつた、故にアッシユールの神を加へてよりバビロニヤ宗は一神教の一種となつた、即ち他神の存在は認められしもアッシユールの神の統轄の下に置かれて彼等は実際に神の神たる特性を失ふた、恰かも天主教国に於て聖母聖徒は祭らるゝも神たるの崇敬を受けないと略ぼ同一の事で有つた。 アッシユールの神、是がアッシリヤの国神であつた、恰もエホバは猶太人の神であつて、アラーは亜拉此亜人の神で有つた如くである、アッシリヤ人はアッシユールの神の特愛の民であつて、彼等は此神の栄光を顕はさんが為めに戦ひ、此神の領土を拡めんが為めに他国の征討克服に従事した、国王の名に此神の名称多きは前回既に述べし通りである、曰く「アッシユールの神我が子を守らん」(アッシユール、ナチヤ、パル)、曰く「アッシユールの神我に一子を賜へり」(アッシユール、バニ、パル)、曰く「アッシユールの神亦一弟を加へたり」(アッシユール、アク、イヂナ)と、故に国王戦に勝つや、是を石版に彫んで曰ふ「我主アッシユールの稜威彼等(敵人)を圧服し、彼等は来り我が足を接吻せり」と、又曰ふ「アッシユールの恐怖彼等を襲ひ彼等は来て我が足を握れり」と、又日ふ「アッシユールの命を奉じて我は我が敵人を我が足下に踏み付けたり」と、又曰ふ「彼等(敵)我主アッシユールに対して咀言を吐き、其尊崇者たる我に対して悪事を企てたれば我は彼等の舌を抜けり」と、又故人を尼尼微の城門に縛り犬をして之を噛ましめて曰く「是れアッシユールの律を実行せん為めなり」と、即ちアッシリヤ人はアッシユールの神の奴僕を以て自から任じ、其国王たりと雖も自己の功名の為めに戦はずして、アッシユールの神罰を悖倫の民に課せんが為めに剣を抜き敵国の民を屠つたのである、即ち七百年間に亙る彼等の威厳は彼等の宗教的熱心より来りしものであつて、アッシリヤ歴史なるものは欧洲に於ける三十年戦争史又は英国に於(312)ける清党の革命戦争史の如きもので有つて、其原動力は深き熱き宗教心に在つたのである。
 アラーの神の名に依て回々教徒は八百年間欧洲全土を震動し、東の方印度支那を襲ひ、西の方亜非利加を平らげ、西班牙に攻入り、北の方セルビヤ洪牙利を略取し、終に維納府に迫るに至りて纔に洪牙利人フニヤヂの撃退する処となりて退いた、世に怕るべきものにして宗教心の如きはない、其深き霊的実験となりて顕はるゝやアベラート、フエネロンの如き天使様の聖人を作り、其熱火となりて燃るやサルゴン、セネケリブの剣となりて七百年間の長き西亜百万方哩の地に暴圧の政を施した、アッシリヤはアッシユールの神に依て興つた、アッシリヤは実にアッシリヤ人の宗教心の作つた国である。
 シェム人種の一派なるアッシリヤ人は非常に宗教的の民であつた、然れども彼等は所謂感情的の民ではなかつた、随て彼等の宗教は決して迷信的でなかつた、是れ彼等がハム人種たる埃及人、バビロニヤ人に優りし理由で有つて、彼等が今日の歴史家に「東方の羅馬人」と称せらるゝも亦彼等の有せし多量の実際的常識に因るのである、アッシリヤ人は二三の大教義を信ぜし外に神学説と称する僧侶輩の妄誕虚説に耳を傾けなかつた、彼等は最も成功する教義を以て最も肝要なる真理と認め、事物の真偽を糺すに実行を以てして議論を以てしなかつた、此点に於ては彼等アッシリヤ人は酷だ今日の英国人に似て居つた、両者共に実行の民であつて、理屈の民ではない、アッシリヤ歴史に外交政略てふもの尠くして、其殆んど皆戦争計りであるは全く是が為めであると思ふ、彼等に取りては権威是れ権利にして彼等は勝つを以て正義と思ひ、負けるを以て不義と信じた、彼等がアッシユールの神に頼りしと云ふは彼等が剣と戎車とに頼りしとの謂ひであつた。
 実際的たるは実利的たり易く、強圧的たり易く、偽善的たり易い、昔時の羅馬、現今の英国は共に其好例であ(313)る、実際的たるは勿論君子的たるではない、併しながら此世は実際的の世であるから、実際的の人は富を作り、実際的の国家は領土を拡める、我等は必しも実際的の国民を羨みはしない、併しながら其反対の理屈的なると、詩歌的なると、感情的、迷信的、疾病的なるとは亦多くの害毒を流すものであつて、夫れが為めに人心は腐り、国家は衰亡に終りし例は沢山ある、実際的でありしが故にアッシリヤ人の宗制に僧侶なる者はなかつた、或は縦令ありしとするも彼等は埃及、バビロニヤ、伊太利、西班牙に於けるが如く至大権をば持たなかつた、僧侶の跋扈は民の迷信に依るのである、実際の真理と便益とを要求する民に僧侶てふ懶族の要はない。
 アッシリヤ人中又貴族の制度を見ない、彼等の中にタルタンと称する大将軍が有つた、又ラブマグと称する我邦の内大臣のやうな者はあつた、然れども世襲財産を有する貴族のやうな不用物の存在はアッシリヤ人の堪えざる処であつたやうに見える、彼等の中に勿論国王は有つた、然れどもアッシリヤ王なる者は支那帝或は朝鮮王の如きものではなかつた、彼等の多くは其材能に秀づるの故を以て民に推選されし者であつたやうに見える、即ちチグラスピレーゼル第二世の如き、サルゴンの如き皆な此類の王であつた、アッシリヤ王なる者は実にアッシユールの神の聖旨を遂行するの機関であつて、彼等が国民に対するにも此思念を以てし、国民が国王を見るに亦神の代理者たるの考を以てした、権威即ち権利とならば彼等の国王も亦威厳の天資を備へたる者でなくてはならなかつた、アッシリヤ人の実際的人生観は孱弱の者が彼等の国王たるを許さなかつたに相違ない。
 又実際的のアッシリヤ人の美術は最も著しく彼等の建築物に於て発達した、彼等は最も愉快なる家を築かん事を努めて、単に眼を喜ばすの細密の絵画彫刻等に意を注がなかつた、彼等は勿論緻密なる美術品の製造を持つた、然れども彼等は主として実用を目的とした故に、彼等の美術は多くは緻密と言はんよりは寧ろ粗大であつた、彼(314)等は遠距離に水を引くの術に巧みであつた、築城術、防衛術に於ては古代の民の中にアッシリヤ人の如きはなかつた。
 以上はアッシリヤの興つた主なる原因であると思ふ、而してアッシリヤ人は紀元前千三百年に興つて同じく六百年に亡びた、而して彼等の興りし理由は亦彼等の亡びし理由となつた、彼等に於て西方亜細亜に於けるシェム人は其精力を消尽せしやうに見える、而して彼等がハム人種に代はりし如く亦彼等に代る新人種の勃興の必要が生じて来た、新陳代謝は歴史の通則であつて、彼等と雖もその至上権を他の国民に渡さねばならぬ時が来つた。
 彼等はアッシユールの神に頼て武を以て起つた、彼等は此神の名に依て敵人を屠り、是を焼き、其舌を抜き、其眼を抉り、犬に噛ましめた、彼等の一神教なる者は基督のそれとは異なり慈悲哀憐の一神教ではなかつた、故に武を以て起りしアッシリヤ人は武を以て亡ぼされた、剣、時には正義の使命を帯びざるに非ず、然れども剣に永久の生命はない、宏遠の福祉はない、アッシユールの神は自殺の神であつて、人を殺さしめた故に他の殺す処となつた。
 実際を重んじたる民は実利を追求するの民となつた、彼等は竟に神の名を利用して肉身の快楽に耽けるの民となつた、斯の如くして彼等の栄光は永く保つべきではなかつた、時熟して彼等の名は地上より全く忘れ去らるべき時は到来した、紀元前六百二十七年と云ふにメヂヤ王のクアクザレスはバビロン王のナボポラサーと合し、チグリス河辺に尼々微の城市を囲み、新たに河底を穿つて水流を他に転じ、一夜サラコスなるアッシリヤ最終の王が酒池肉林の中に在て数多の妻妾と共に国家の衰亡を歎じつゝありし時に、四面斉しく壁に迫り、終に城内に入りて其宮殿に火を放ちければ七百年の栄華は三過日に渉る焔となりて消え失せしとの事である、武に頼る者、実(315)利を追求する者は時の古今を問はず、洋の東西を論ぜず、終には斯の如くに消え失するものである。 〔以上、11・15〕
 
    第八回 新バビロニヤ(上) ネブカドネザルの王国
 
 今の学者や政治家は荐りに文明を唱へ進歩を口にする、彼等は今日を以て文明進歩の世なりと做し、過去疇昔を以て野蛮時代なりと信ずる、彼等は釈迦よりも二千五百年後に此世に生れ来りし者なるが故に彼よりも余程エライ者であると自から信じて居る、彼等は毎日新聞紙に目を曝らして彼等の思想を養ひつゝある者であるから百年前の事は扨措き、一週間前の事も旧聞なりとして之に耳を傾けない、彼等は日新の今日とか称して今日の事にのみ注意して居る、鉄道株に十銭の差のありし事は彼等の多くに取ては大帝国が起り大聖人が生れし事に勝るの大事である、彼等は倫敦電報に接して或は胆を冷し或は手を拍て喜ぶ、彼等は実に蜉蝣の如き眼前瞬時の動物である。
 併し人類と云ふ者は彼等政治家輩が口に唱ふるが如き進歩的動物ではない、十九世紀今日の日本の政治家と三千年以前の尼々微、巴比倫等の策士俊才とは其心の奥底に於て別に異つた者ではない、勿論彼が馬車人力車に乗るに較べて是は驢馬駱駝に乗り、彼がビール、ホイスキーに酩酊するに此して是は椰子酒の一杯に快を貪りしの差はありしならん、然れども二者の差は全く肉身上の差であつて、精神上、心霊上の差ではない、彼も是も同じく利慾心と名誉心とに駆られて国光宣揚の名の下に詐取掠奪に従事する、罪悪に沈淪する普通一般の人間であつて、彼と雖も若し今より三千年後の歴史家の批評に上る事があるならば、恰も今日吾等がアッシリヤ、バビロニ(316)ヤの虐王佞臣を評するが如くに、人心の腐爛者、社会の紊乱者としてのみ世に紹介せらるゝ者である。
 斯ふ思て見ると太古史とても吾等に関係の無い歴史ではない、吾等は実に今日を学ぶの心を以て三千年前の記録を読む事が出来る、実を言へば人類ほど進歩の遅い動物はないのである、彼は七千年の歴史を有する者なりとは云へ此の長き経歴は彼全躰に取りては少しも改善進歩を与へなかつたやうに見える、「歴史は其れ自身を繰り返す」と云ふが、歴史なるものは同一事の重複より外のものではないやうに見える、只重複回転の区域が拡まりし丈けであつて其方法曲度等に至ては昔も今も変る事はない。
 扨歴史なるものがシナルの原野に於て始つてより尼々微の陥落に至る迄に三千五百年余を経過した、是れ実に世界歴史の半分で有つて人類の進歩なるものは此長き間チグリス、ユフラテス両河の沿岸に限られて居たのである、此所に幾多の大帝国は起り、幾多の大帝国は亡びた、巴比倫の歴史家ベローサス(Berosus)の遺せし記録に依ればバビロニヤに三万六千年の歴史ありて其三万四千八十年は神代に属し、其後一千九百二十年間に七王朝が相次いで興りしとの事である、是が正確の歴史なるや否やは他の問題として、此地に数千年に渉る存亡興敗の事蹟のありし事は疑ふべからざる事である、アッシリヤ史の如きはバビロニヤ史の近世史に属すべきもので有つて、アッシリヤ王アシユルバニパルの時に於てはバビロニヤ文明は殆んど其絶頂に達したのである、即ち両河の沿岸に於て文明は一回期を経過したのであつて其此処を去つて他に転ぜんとするや、僅々八十八年間に渉る新バビロニヤ王国となりて顕はれ、人類にバビロニヤ文明の精華を供して而る後に消え失せたのである。
 アッシリヤ帝国は紀元前六百二十七年にメヂヤ王クアクザレスとバビロニヤ王ナボポラサとの滅す処となつた、其広き領土は勿論二人の間に分配された、クアクザレスは其北方を取り、ナボポラサは其南方を取つた、メヂヤ王の事は後に話すべければ爰には言はない、ナボポラサは平和の人で有つて、彼の二十一年間の治世は先づ太平無事であつた。彼は埃及王と兵を交へしも、彼自身は巴比倫に止て、軍事は渾て彼の子なるネブカドネザルに一任して居たやうに見える。
 其面積より云へば新バビロニヤ王国はアッシリヤ帝国の如き大国ではなかつた、東はチグリス河を以て境され、西は地中海に臨みしまでゝあつて、北と東とにはメヂヤの強国ありて其膨脹を碍げ、西には埃及ありて屡々其西境を犯した、即ち新バビロニヤなるものは今の亜細亜土耳其の半に及ばない国であつた、又其人種とてもメヂヤ人アッシリヤ人の如き単人種にはあらずして、シナルの平原に言語の淆乱を生ぜしと云ふ混合人種であつた、斯国と斯民とを以て古代四千年間に未だ曾てありしことなしと云ふ旺盛強大の王国を建設せしに至りしは全くネブカドネザルなる一大人物の天才に依てである。
 尼布甲尼撒、(Nebuchadnezzar)、彼の名既に奇異である、是をバビロニヤ語に読めば Nebu-Kudurri-Usur であつて、「ネボの神国境を守らん」との意であると云ふ、彼の生年月は判然せざれども彼は紀元前六百五年に父ナボポラサの王位を襲ぎ、治世四十四年の長きに渉て同五百六十一年に死せし者なる事は略ぼ分つて居る、即ち彼は我神武天皇と同時代の人であつて、希臘にはソロン出で雅典の小共和国に新憲法を供し、羅馬は未だ襁褓の中にあつて、呱々の声を揚げつゝありし頃の人であつた、ネブカドネザルは巴比倫文明の具体者である、旧文明は彼に於て其極点に達し、彼と共に歴史の舞台より消えて了つた。
 ネブカドネザル大王の代表したバビロニヤ文明、是を文明と云へば文明なりしに相違ない、大王の造りしバビロン城市なるものは実に宏大無辺のものであつた、歴史家ヘロドータスの査察に依ればバビロン城は二重の城壁(318)を以て囲まれ、其外壁は高さ三百三十五尺、幅八十五尺にして方十四哩に渉りしとの事である、若し東京を四里四方の市街なりとすれば(実際は然らず)バビロンは之に倍するの市であつたのである、試に大森より赤羽まで、赤羽より国府台まで、国府台より越中島沖まで山岳の如き城壁を以て東京市が囲まれしと思へ、而して其内を貫通する隅田川はユフラテス河で有つて、之に架するに長さ五百間幅五間の橋があるのみならず、其底を貫くに幅十五尺高さ十二尺の墜道があると思へ、又其中央に位するベルの大宮殿は高さ百間の空中に聳へ、其八階の楼上には鎮守の神の宝坐ありて、其神体は高さ九十呎、幅九呎の純金を以て造られし像であると想像せよ、神躰の両側に純金製の獅子一対あり、其傍に重量各百九十貫余の純銀製の大蛇あり、祭壇は長さ四十呎幅四十呎の純金の食卓であつて其上に純銀の大盃一対がある、二個の大香炉は同じく純金であつて三個の金碗はベル、ベルチス、イスターの三神の為めに供へられしものである、是れ其神殿の一斑である、是に準じたる宏壮偉大の大王の宮殿は二つありて其古きは河の西にあり、其新らしきは河の東にある、又所謂『空中の閣楼』ありて、是は平坦極りなきバビロニヤの平原に在て、山中の景色を眺めんとの趣向に基ゐて築かれしものであると云ふ、是等を実際の東京市に較べて、十九世紀今日の日本人は富貴強大を以て誇ることが出来る乎、ネブカドネザルの建築事業は是に止まらなかつた、彼はバビロン城の郊外ボルシツパ(Borsippa)の地にネボの神殿を改築した、其他国内到る処の大小の神社にして彼に依て修繕を加へられ又は新築されなかつたものは稀であつたとの事である、彼は又シツパラの地に近く周囲百四十哩深さ八十呎に達する貯水池を開鑿して大に耕耘の業を援けた、其外 Nahr Malcha(帝国運河)と称してチグリスとユフラテスとを結び付けし大運河、ケレツクサイデイ(Kerek Saideh)と称ばるゝ亜拉此亜砂漠に沿ふたる長さ四百哩に渉る大水道、バーリネジヱフ(Bahri Nedjef)と称し、ボルシパの附近に於(319)てユフラテス河より水を引いて成れる人造的大湖水等は皆大王の意匠経綸に依て成りしものであると云ふ。
 バビロニヤの商業は又非常に昌んなるものであつた、其民はシエム人種の特性を帯びて生来の商人であつた、ネブカドネザルは波斯湾の岸に一大阜頭を築き、此処にテレドン(Teredon)の港を開いて印度、波斯、亜拉此亜等東南地方との貿易を奨励した、バビロニヤの輸入品には亜拉此亜より神前用の多額の乳香があつた、印度よりは奇獣宝玉あり、波斯より綿あり真珠あり、北方のアッシリヤとアルメニヤとは葡萄酒、宝石、金剛砂、石材を供し、西方地中海の沿岸フィニシヤよりは銅、錫、楽器其他の贅沢品を輸入し、東北メデイヤの山地は絹と羊毛とを供給した、而してバビロニヤよりの輸出品は重に製造品であつて、巴比倫の氈絨、綿紗は世界到る処に有名であつた、而して記臆せよ、是れ我神武天皇時代のバビロニヤの商業なりし事を。
 爰に又吾等が特別に注意すべき事がある、即ちバビロン城内にエギビ(Egibi)の商家ありて恰かも我国に於ける三井家の如きものであつて、或は商品手形を発行し、或は為替組織を以て金銭の輸達を助け、貯金は勿論、国税の取立、財産の保管等総て今日銀行が取扱ふ業務に従事せしとの事ある、而して若し独逸の或る学者が唱ふる如く Egibi とは Jacob(雅各《シヤコブ》)の転訛で有つて、確かに猶太人の名なりとすれば、今日欧羅巴に於て猶太人なるロスチャイルド家ありて列国の政府を相手に取引するやうに、二千六百年以前に於てバビロニヤの金権を握りし者は矢張り同人種の者であつたと見える。
 天の下に別に新らしい事はないと云ふが、今日文明の利器と称ばるゝ銀行制度なるものもネブカドネザル時代の遺物なりとすれば吾等は別に今日を以て誇る事が出来まい。
 新バビロニヤの文明とは先づ大抵斯んなものであつた、即ち全く物質的の文明であつた、其内に勿論実際科学(320)はありしに相違ない、然し彼等の科学も宗教も皆肉慾的快楽を目的としたものである、其ベルの神の大宮殿に於ける醜態の如きは爰に書くのも穢らはしき程である、総ての淫逸は宗教の名を以て行はれた、丁度我国の本願寺の如きものであつて或は夫れよりも一層甚しかつたかも知れない、又市場には花嫁売買なるものが公然行はれて、国王は勿論州牧、将軍、方伯、刑官、庫官、法官、士師に至るまで数多の妻妾を蓄へて居つた、即ちバビロニヤ文明なる者は主義のない文明であつた、一言を以て之を評すれば禽獣的文明であつた、即ち文明の最も下劣なるものであつた。 〔以上、11・25〕
 
    第九回 新バビロニヤ(下) ネブカドネザルの王国
 
 国に二つの種類がある、一は国民に依て建られし国であつて他のものは英雄に依て作られし国である、羅馬の如き、和蘭の如き、英吉利の如き、北米合衆国の如きは国民に依て作られし国の例であつて、ネブカドネザルのバビロニヤ王国の如き、成吉汗の蒙古帝国の如き、アクバーの建てし印度帝国の如き、愛親党羅氏の開きし清朝の如きは皆英雄の作りし国の例である、国民の作りし国は西洋に多くして亜細亜に興りし国は大抵英雄の建てしものである、東西両洋の歴史の別るゝ所は実に些点に存するのであると思ふ、即ち下より積み上げるのが西洋の建国法であつて、上より下げ卸すのが東洋の興国術であると思ふ、国民に依て国を作るのは甚だ間だるい方法である、其輿論なるものを起さねばならぬ、其社会なるものを教育せねばならぬ、其民衆に一個の大理想を注入せねばならぬ、其政治家たるものは国民が彼の理想に達するまで耐忍して待たねばならない、故に此場合に於は其建国は数百年の長きに渉る大事業である、丁度独逸国コローンの教会堂が七百年の星霜を経て始めて工を竣へ(321)しやうに、其羅馬たると英国たるとを問はず、国民に依て建てられし国は短きは百年、長きは七八百年間に渉るの成長時期を経て始めて世界の勢力たるの地位に達したのである。
 之に反して英雄に依て起りし国は一朝一夕の作である、恰も富士山が一夜に湧き出したやうに数年を経ざるに大帝国が地球の表面に顕はれ来たるのである、昨日の小国は今日の大国となり、英雄一世を風靡するとか称へて、風が野の草木を靡かすやうに英雄の一挙に依て愚民も一朝にして大国民となる事が出来るのである、是れ賤夫が一躍して富豪となるの類であつて、国民に取つては此上なき幸な事であるやうに思はれる。
 然れども永くかゝつて出来しものは容易に滅ぶるものでなくして、短き時日の間に作り上げられしものは甚だ脆きものなることは云ふまでもない、二者の別は※[木+解]と牡丹とのやうである、木材の堅きは※[木+解]の特性であつて、花の美しきは牡丹の長所である、基礎の堅固なるは西洋的国家であつて、外見の壮麗なるに関はらず其構造の甚はだ脆弱なるは東洋的国家である、自由の為めに闘はずして自由制度を採用することは出来ない事ではない、然れども自由其物は戦はずしては得らるべきものではない、英雄に頼る国は草花の如きものである、其栄華は一朝の夢であつた、英雄没すると共に消え失するものである、英雄の顕出を渇望する間は東洋に大国家の興る筈はない。
 バビロン文明の具躰者たりしネブカドネザルは東洋的英雄の好標本である、彼は亜細亜的圧制家の総ての特性を具へた者であつた、彼は決して悪人ではなかつた、彼は能く民の為めを思ひ、国利民福を深く心に留めた者であつた、彼が農業奨励の目的を以て貯水池を掘り、灌漑河を鑿ちし事は前回已に述べし通りである、彼に依て巴比倫の城市は時の文明世界の商業の中心点と成つた、バビロニヤの殖産興業なるものは彼の指導に依て其盛大の極に達した、彼はアッシリヤのサルゴン、セネケリブの如き殺伐をことゝする暴虐の君ではなかつた、彼は二た(322)び埃及を征し、又タイヤ、エレサルムの城市を毀ちしも、彼の主権が彼の領土内に行はれし限りは他国に侵入して其民を窘しめるが如き事を為さなかつた、彼は亦た非常の宗教家であつて、国中到る処に神殿を改築し又は新造した事は前にも述べし通りである、彼が彼の保護神たるネボの神の宮殿の階段に彫みし語に左の如きものがある、
  我はバビロン王ナボポラサーの長子にしてサギリの宮並にチダの宮を改築せしバビロン王ブカドネザルなり、諸神を主宰し我が治世の日を長からしむるネボの神の為めに我は新たにボルシツパに於けるチダの宮殿を築けり。
 彼が又慈悲の神なるメロダツヒを深く尊崇せし事に依ても彼が残忍暴虐の君でなかつた事が能く分る、彼が古今稀に見る所の建設者であつた事は何れの歴史家も否むことの出来ない所である。
 然れども彼は大の圧制家であつた、彼は彼以外の人の意思の動作を許さなかつた、彼れは彼れの広き領土を彼一人の属と思ひ、普天の下卒土の浜を悉く彼の私有物の如くに思ふた、故に彼は自づと彼の宗教を彼の臣民の上に強ひた、旧記の記載する所に依れば
  茲にネブカドネザル王一箇の金の像を造れり、其高さ六十キュビット(九十尺)其横の広さは六十キュビットなりき、即ち之をバビロン州のドラの平野に立てたり、而してネブカドネザル王は州牧、将軍、方伯、刑官、庫官、法官、士師及び州郡の諾有司を召集め、其ネブカドネザル王の立たる告成礼に臨ましめんとせり、是に於て其州牧、将軍、方伯、刑官、庫官、法官、士師及び州郡の諸有司等はネブカドネザル王の立たる像の告成礼に臨み其像の前に立てり、時に伝令者大声に呼はりて言ふ、諸民諸族よ、汝等は斯く命ぜらる、汝等(323)喇叭、蕭、琵琶、琴、篳篥などの諸の楽器の音を聞く時は俯伏してネブカドネザル王の立給へる金像を拝すべし、凡て俯伏して拝せざる者は即時に火の燃ゆる炉の中に投げ込まるべしと、是を以て諸民等楽器の音を聞くや直に皆俯伏しネブカドネザル王の立たる金像を拝したり(但以理書第三章)、
 彼は此命に従はざりし三人の猶太人を火炉の中に投じたとの事である。
 斯う云ふ人に依て建てられしバビロニヤ王国でありし故に其陸離燦爛たる栄華は僅々八十八年間続きしのみであつた、ネブカドネザル死して後にバビロニヤの歴史に何も見るべき事はない、彼の子アミルマルダック(Amil Marduk)は其姉の婿なるネリグリサー(Neriglisar)の殺す所となり、ネリグリサー又幾干もなくしてナボニダス(Nabonidus)なる者に王位を奪はれた、ナボニダス存命中に波斯王サイラスは彼の世界併呑的の運動を始め、ナボニダスの子ベルシヤザル(Belshazzar)の時に当てネブカドネザルの王統は全く絶ゆるに至つた、一時は千代八千代にまで永続せんと思はれし新バビロニヤ王国も瞬く間に過去の物語と成つて消えて了つた。
 新パビロニヤの興つた理由はネブカドネザルの人物に在て、其短き栄華の後に脆くも消え失せし理由は其国民の中に個人的生命の少しもなかつた故である、其帝都には丈け九十尺の純金製のベルの神の像はありしも自由民権を唱へる者は一人もなかつた、大王は其王妃を悦ばす為めに空中に楼閣を築いて天下の耳目を驚かせしも国中には「花嫁売買」なるものが公然と行はれて女子は商売品として取扱はれた、国王は勿論生殺与奪の権を有して民には反抗し得る権利はなかつた、即ちバビロニヤ文明なる者は全く獣慾的文明であつて、実利実益の増進を取除いては一つの取るべき所のない文明であつた、是れ実に文明の名を下すに足らざる者であつて其曾て在りし事なきが如くに地球の表面より拭ひ去られしを見ても、人は心霊的実在物であつて、金と銀とを以てのみ棲息し得(324)る者でない事が分ると思ふ。
 今バビロニヤの歴史を猶太亜の歴史に此べて見ると甚だ面白い、一つは当代の大国であつて、其富其強世界に匹敵すべきものはなかつた、他のものは僻隅の微々たる小国であつて、其他に沙漠多く、其海浜に港なく、誇るべきの工業なく、他の国民の羨望を惹くの商業はなかつた、ネブカドネザル王は二度まで此小国を攻め終には其国王を虜にし、其民を根こそぎにバビロニヤに移した、然れども此小国は建国以来の平民国であつた、生命は重んぜられ、貧者は敬せられ、正義は天の神の聖旨として貴ばれた、斯くて此小国には大なるバビロニヤに無つたものが沢山あつた、其内に詩人があつた、天の地よりも高きが如き神の愛と、東の西より遠きが如き其慈悲とを讃美するの詩人があつた。其内に平民的大政治家があつた、モーゼ、ヨシユア、ギデヲンの如き愛国者があつた、或は遠大なる法律的思想を以て、或は鋭利なる戈を以て、民の為めに画し民の為めに戦ふの愛国者があつた、其内には大文学者があつた、約百《よつぶ》記の如き模範的戯曲を綴り得し文人があつた、又予言者と称へられし最も高潔なる憂国者があつた、ネブカドネザルと同時代の予言者でエレミヤがあつた、オバデイヤーがあつた、ヱゼキヱルがあつた、即ち大なるバビロニヤに富と兵とがありしに比べて小なるユダヤには大人物があつた、夫れ故に国家是れ国王なりしバビロニヤは王の死と共に滅し、国家を民衆の良心の上に据えしユダヤは紀元後千九百年の今日尚ほ未だ其国民的生命を失はない、国富んで兵強くさへあれば国家は長久に栄ゆべきものなりと信ずる人は能く瞼を開いてバビロニヤ歴史を読むが宜い。
 又ネプカドネザルと同時代の人で希臘の雅典にソロンと云ふ人があつた、彼は平民に政権を頒つにあらざれば国家を泰山の安きに置くことが出来ないとの非常なる考を懐いた人で有た、故に彼は雅典の市民の為めに憲法な(325)るものを編んで国王と貴族との権を殺いで平民の権力を増した、彼はネブカドネザルとは正反対の人であつた、然れども小なる雅典はソロンありしが為めに未来の人類を感化するの大国民となつた、バビロンは消えて過去の物語と為りし頃雅典は文化の泉源となつて万国の民を導くの模範となつた。
 バビロン文明、禽獣的文明、文明の名を下すべからざる文明、主義のなき文明、富国強兵的文明、個人的発達を計らざりし文明……………是れ実に死的文明の好標本であつて、是に類するの文明は、鉄道、電信、電話あるにもせよ、然りソロンの憲法を真似て国会を開設せしにもせよ、肉体の快楽を目的とする文明は皆バビロン文明と運を共にすべきものであつて、我等はバビロニヤ史を読む毎に我等直接の事物に思ひ当らない事はない。
 
 参考書(アツシリヤ史並にバビロニヤ史)
 
  Francois Lenormant:Chaldean Magic.
  G.Rawlinson:Seven Ancient Monarchies.
  Z.H.Ragozin:Chaldea;Assyria;Media.
  A.H.Sayce:A Primer of Assyriology;Assyria,Its Princes,Priests,and PeopIe;The Races of the Old Testament;The Times of Isaiah;Social Life amomg tbe Assyrians and Babylonians;Fresh Light from the Ancient Monuments,etc.
  E.A.Wallis Budge:Babylonian Life and History.
  其他普通の万国史類は略す。 〔以上、12・5〕
 
    第十回 フイニシヤ(上)
 
 支那的思想を以て養はれ来つた日本人に取ては世に国ほど大切なるものはない、愛国心は彼等の宗教であつて、(326)彼等の道徳も哲学も皆な国威宣揚の為めに用ゐられる、彼等に取ては国さへ起ればそれで人生の最大目的は達せられたのである、英雄とは国威を海外に揚げし者の名称であつて、国を富まし兵を強ふして万国を足下に蹂み附けんとする事が今日でも日本人の唯一の欲望であるやうに見える。
 勿論国は非常に大切なものであるに相違ない、然し最も大切なものではない、世には国よりも大切なものがある、それは即ち正義である、真理である、仁は身を殺しても為すべきものである如く、正義は国の存在を犠牲に供しても貫徹すべきものである、国家存在の理由も単に此一事に止まるのである、所謂国威宣揚なるものが人生唯一の目的であるとならば是を実行することは左程困難な事ではない、恰も家を興し身を富ます事は余り難事でないと同一である、世には利慾一方で巨万の富を積んだものが沢山ある、今日我邦に於て紳士豪商と持て囃やさるゝ人は重もに此類の人である、即ち人情に構はず、義理を省みず、財産製作を唯一の目的として働いた人で財界の大権を握つて居る人は今の日本には沢山ある、若し家を富ます事が人たる者の為すべき唯一の職務であるならば雨宮敬次郎、岩谷松平、浜野茂などゝ云ふ人々は実に人生の最大目的を達したものであつて、青年子弟の摸範として崇めらるべき大人物である、是と同じ様に世には利慾一方で興つた国がある、即ち其内に一つの高尚なる理想なく、一つの純潔なる天職を感ずることなく、唯だ万国の富を自国に吸収して、そうして奢侈栄華に誇りし国がある、即ち興つたには相違ないが甚だ下劣な方法と精神とを以て興つた国がある、然し云までもなく斯んな国は甚だ劣等な国であつて、理想なき我国の貴顕紳商のやうに富むが故に尊からず、強きが故に敬すべからざるものである。
 国は起さんければならない、然し君子が身を立つるやうに起して、決して奸商が家産を作るやうに起してはな(327)らない、米国人の諺に『人若し蓄財を唯一の目的となし、彼の総ての方針を此一方に傾くるならば何人と雖も其一生の終りにはミリオネヤ(百万弗以上の富を有する者)と為ることが出来る』と云ふ事がある、それと同じ様に一国を挙げて兵となし、其民と産とを国威宣揚の一方に注ぐならば何れの国と雖も世界に雄飛する事は出来ない事ではない、然し百万弗の富を有したればとて人の人たる道を解せざれば何の役にも立たぬやうに、縦令ひ支那四百余州を我が領土と為したらばとて、我の尽すべき天職を尽さぬ以上は国として存在した甲斐はない、日本人は支那を呼んで厖大帝国と云つて、何の意味もない国のやうに考へて居るが、日本人自身は日本国は何の意味あつて東洋の一方に国を成して居る乎と云ふ事を自認して居るや否やは余輩に取ては大疑問である。
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 扨て茲にフイニシヤと云ふ国があつた、是は太古時代の商業国であつた、実に※[草がんむり/最]爾たる小国であつた、其位置は亜細亜大陸の西端に当り、脊にレバノン山脈を負ひ、前は地中海の水に臨み、長さは二百哩、幅は広き処にて三十五哩、狭き処にては僅に一哩、面積は合せて四千方哩なる、殆んど国と称すべからざる程の小国であつた、故に別に耕地とて沢山あるでなく、山は高くして流は急に、所々に山嘴《やまかど》は海中に突出して海角をなし、陸路は甚だ艱難であつて内地への交通は殆んど遮断されて居る有様である、但し気候は実に温和であつて、能く棕櫚の類を生ずと云ひ、フイニシヤの名は希臘語の phoinix(海棗《デートパーマ》)より来りしものと一般に信ぜられる、川は短かけれども其内に有名のものがある、レオンテス(Leontes)一名リタニー(Litany)はシリヤより流れ来るものであつて太古歴史に著名なものである。アドニス(Adonis)は恋愛的神話の伴ふて居る川であつて紅顔の美少年アドニスが其情婦ヴイナスの言を用ゐず、レバノン山に入て野猪を猟し、過つて其長牙に罹り、非業の死を遂げしかば、(328)其血は流れて川となり春三月融雪と共に河水漲つて稍や紅色を帯びる頃はフイニシヤの少女は流に臨んで佳人の薄命を傷み併せて情婦の歎を思ふとかや、ヴイナス悲歎遣る方なく、屍骸に対いて其美花となりて彼女終生の慰藉たらんことを乞ひければ、恋夫の躯はイチゲ草(Anemone)と化し、春来る毎に岸辺に沿ふて咲き今尚ほ孤独を喞つ恋婦の心情を慰むるとか伝ふ。
 渓流の滑かなると共に港湾亦た甚だ良く、南はカーメル海角より北はバルギラス山(Mt Balgylus)の麓に至るまで良港好湾相続き、到る処に船舶繋留の便は備はつて居つた、其主もなるものを指せば、南よりして先づ第一に有名なるツロがあつた、英語では之をタイヤ(Tyre)と云ふけれどもツロ(Tsur)又はツオル(Tsor)が本当の名であつたやうに見える、ツロの北二十二哩の処にシドン(Sidon)があつた、是れはフイニシヤの最も古い市であつて、一時は全国の首府であつた、ツロとシドンの間にサレプタ(Sarepta)があつた、聖書《バイブル》の記事に度々引出さるゝ場所である、シリヤの北十五哩の処にベリタス(Berytus)があつた、今は Beirut と称しダマスカスに達する鉄道の起点であつて、シリヤ地方の唯一の開港場である、北に進むこと尚ほ十七八哩にしてアドニス川を越へてビブラス(Byblus)があつた、是も亦た古い市であつてフイニシヤ国の大廟のあつた処である、ビブラスの北二十哩にしてトリポリス(Tripolis)「三市」があつた、ツロ、シドン、アラタス三市よりの殖民に依て建てられしものなるが故に斯く名附けられしと云ふ、トリポリスの北にエレユーセラス(Elutherus)川沿岸の平原ありて国内屈指の麦田の有る処である、平原の北に終る処が有名なるアラダス(Aradus)のありし処であつて、是は島の上に建てられし市であつて、ツロ、シドンと権力を争ふた処であつた、北三十哩にしてガバラ(Gabala)あり、其北十哩にしてラオデイシヤ(Laodicia)があつた、斯くて南より北まで国の海岸に沿ふて二十哩乃至三十哩毎に必ず一つの良(329)き港湾があつた、恰も我国の内海に在て神戸より赤間関まで到る処に良港の存在して居るが如き状態である。斯くも港湾に富みしフイニシヤはまた其背後の山脈に於て世界無比の森林を有して居つた、『レバノン山の香柏』と云へばダビデ、ソロモンの詩歌文章にも見えて其名声は宇内に嘖々たるものであつた、香柏とは樅の丁種であつて船材には此上なき良材である、昔はレバノン山は到る処に此良材を以て蔽はれ、フイニシヤ国富源の最も豊かなるものゝ一であつた。
 此の数多の港湾と良好無比の船材を有つたフイニシヤは実に太古時代の貿易の中心点に位して居つた、先づ其の附近の国々を挙げて見れば海岸続きにして南に隣する国はパレスチナであつた、其キシヨンの平原は葡萄園をて名高く、カーメル海角を廻ればシヤロンの平野にして其薔薇と称せらるゝものは秋牡丹《いちげさう》の一種であつて優にして麗はしきものは皆其名を以て呼ばれし程であつた、尚も南に下ればゴライヤの本国なりしフイリスチヤであつて、恰も我の摂、河、泉の地に似て一面の田園であつた、フイニシヤの東に隣れる国はシリヤであつた、シリヤの名其物がツロの国(Tsuria)であると云ふ位ひである、即ち有名なるダマスコの市は此国の首府であつて亜拉此亜地方の貨物の悉く輻湊する処である、古代に有てはユーフラテス河岸のカーケミシユは地中海沿岸よりアツシリヤ、バビロニヤに至る通路の衝に当て居りしとの事は前にも述べた通りであつて、フイニシヤのアラダスがカーケミシユの港を務めし事は地理学上当然の事である。
 アラダスの東百哩の沖にシプラス島が有る、是は銅の地であつて、シプラスの名其物が銅(Cupreus)と云ふ語より来つたものである、そうして此著名の銅山を開基し、之を時の文明諸邦へ輸送したものはフイニシヤ人であつた、アラダスより岸に沿ふて北へ進み東に曲れば使徒保羅の生れしキリキヤのタルソがあつた、尚も東に進(330)めば史聖へロドータスの生れしハリカーナサスがあつた、斯くて小亜細亜の沿岸諸港に寄港しつゝ北に進み西に廻れば今のボスポラスを通過して黒海に達する事が出来る、斯くて地中海の北岸に於ては希臘、伊太利、西班牙は悉くフイニシヤ人の航海区域内にあつた、其南岸に於てはナイル吐口よりリビヤを経てチヱニス、アルゼリヤ、モロツコと悉く彼等の貿易市場たらざるはなかつた、フイニシヤに国を為して航海の術に長じたる民が東西二千三百哩に渉る地中海の海上権を握るに至つた事は自然の勢の然らしめし所であつた。
 此地位と此地形とを有して居つたフイニシヤは又一種特別の物産を有つて居つた、それは何であつたかと云ふにツマラない二種の介類であつた、軟躰動物が興国の一大原因であつたと云へば何んだか変であるけれども、然しフイニシヤに在ては之が事実であつた、太平洋中の布哇国は硬骨漢欠乏の故を以て亡びたとの事であつて、同一の欠乏は我が島帝国を亡すの危険ありとは我等の曾て述べし処なるが、然しフイニシヤ国は確かに軟躰動物の庇蔭で興つた国である、其動物は何であつたかと云ふに、勿論国会議員ではなかつた、又文学博士でもなかつた、フイニシヤを興した軟躰動物は人ではなくして真の軟躰動物であつた、即ち和蘭は鯡の骨の上に建てられた国であると云ふ事であるが、フイニシヤは二種の軟躰動物に依て建てられし国であつたと云ふ事が出来る。
 此貴重なる軟躰動物とは其腹歩類に属するものであつて、一を学名にて Buccinum lapillus と呼び、他のものを Murex trunculus と称ふ、二者共に海螺《うみだにし》の類であつて、我国の産にも之に似たものは大分ある、自然は是等二種の腹歩軟鉢動物に奇態なる特有物を授けた、其頭部の後辺に当て一つの小さき液嚢が有つて其内に白色乳酪の如き液がある、之を取出して羊毛又は綿糸を染めて日光に曝せば先づ緑色を呈し、後ち青色となり、赤色と変じ、また濃紫となり、而して終に石鹸を以て洗へば血紅色となり然る後は変色する事はない、是ぞ即ち有名なる『ツ(331)ロの紫』Tyrian purple であつて、ホーマル時代より染料の王として古代の人の非常に珍重した所のものであつて、国に王たる者は頂に冠を戴くと共に身に『ツロの紫』を著くるにあらざれば王者たるの威厳を彰はす事が出来なかつた程であつた、斯の如き次第であつたから古代万邦の王侯貴族は皆な其被服をフイニシヤより仰がなければならない様になつた、それが為に一大工業は此国に興つて莫大の當が此小国に流れ込むに至つた、勿論是等の介類はフイニシヤの海岸に限つて栖息するものではなくして地中海到る処に産するものであるけれども、然し色料の製造并に織物染出の技術に至ては万国フイニシヤに及ぶものがなかつたから此利益ある工業は終にフイニシヤ人の専有となつたのである。
 其外フイニシヤ産の白砂は最も優等なるものであつて夫が為めに玻璃《ガラス》の製作が此国に始まつた、又金銀象牙の彫刻も此国に於て妙域に達した、総て肉躰に関する事、外装虚飾に関する事の発達は此国に於て非常の発達を為した。 〔以上、明治33・1・25〕
 
    第十一回 フイニシヤ(中)
 
 フイニシヤ人は何人種に属せし者であつたかは歴史家間に存する一の大疑問である、或はハム人種であつて埃及人と祖先を同ふする者なりとの説をなす者がある、此種の論者の説に依ればフイニシヤ人はもと波斯湾内、亜拉比亜の東岸に沿ふたるバーライン群島(Bahrein Is.)に居を占めし民であつて、アブラハムがカルデヤのウルを去てハランの地に向ひし前既に西の方地中海の沿岸にまで移住せし民で有るとの事である、是はヘロドータス其他希臘の歴史家の維持せし説であつて、今日でも古典学に重きを置く歴史家の一般に賛成する説である、然しフ(332)イニシヤ人の言語の性質より推して見ても、又彼等の商売的技量より考へて見ても、将た又彼等の占領せし国土の地位より考へて見ても、フイニシヤ人を以て波斯湾内の無名の群島より上り来りし者となすは少しく牽強附会の説のやうに思はれるゝ、夫れ故に歴史家トローゴス(Trogus)の説にしてフイニシヤ人は矢張りカナン人の一種であつて、猶太人、フイリスチヤ人、モアブ人、ヱブス人等と均しくシヱム人種に属すべきものであるとの説が穏当のものであるやうに思はれる。
 然しハム人種であつたにせよ、シエム人種であつたにせよ、(ハムとシエムとは善く相似寄たる人種である)、フイニシヤ人が一種異様特色の民であつた事丈けは否むべからざる事実である、彼等は多くの点に於て彼等の隣国の民たりし希伯来人又は猶太人に似て居つた、彼等が利を見るに敏き事、彼等が物に熱心なりし事、彼等が宗教心に篤かりし事、彼等が実際的にして空理空論を疎んぜし事等の点に於ては彼等は紛ふべきなき猶太人の兄弟であつた、唯だ彼等が猶太人と異なりしは猶太人は甚だ楕神的なりしに比べてフイニシヤ人は全く物質的であつた、同一の熱心が猶太に有ては形而上的の発達を来し、フイニシヤ人に有つては形而下的の発達を為した、猶太人は深く内に省み高く神に接したれど、フイニシヤ人は唯だ単に広く外に向て拡がつた丈けであつた、古代の人民にして最も多く人類全躰を感化した民は此二国民であつたが、彼等は全く正反対の方面に於て後世を益した。
 フイニシヤ人の商売は何時頃始まりしものである乎は確と定め難けれども、其猶太以前、希臘以前に始まりし事丈けは慥かである、アブラハムがパレスチナの地に移り来りし時はカナン人既に其処に在りしとの事なればフイニシヤ人は其頃既にレバノン山の西麓を占領し居りしに相違ない、而かしてアブラハムの移住は紀元前二千年頃の事であつたからフイニシヤの建国は遅くとも是より百年か二百年前の事であつたらふと思ふ、又詩人ホーマ(333)ーの詩にもトロイの婦人がシドンの処女の編みし衣類を着け居りしとの事が書いてあるを見れば細布《ほそぬの》繍物《ぬいもの》の製造貿易が紀元前千八九百年頃にフイニシヤ人に依て盛んに行はれし事が分る、即ち歴史あつて以来商売のなかつた時代はないが、商売らしき商売があつて以来フイニシヤ人の知られない時代はなかつた、フイニシヤ人は実に貿易の始祖である、今は殆んど利益一方の国民となり終らんとしつつある英国人が『十九世紀のフイニシヤ人』を以て自から任ずるを見ても、商売とフイニシヤ人とは如何に緻密なる関係を持つものなる乎が分る。
 扨てフイニシヤ人の貿易区域はドレ丈けで有つたかと云ふに、之を知る事は実に古代の地理学を知り悉す事である、古代史に記載せらるゝ場所にしてフイニシヤ人の至らざりし場所とてはなかりしのみならず、古代の地理学なるものは多くはフイニシヤ人が編成せしものである、地中海の事を『フイニシヤ海』と称へしは之れフイニシヤ人独占の海であつたからである、ジブロルタルの海峡をメルカース又はハーキユリースの柱(Pillars of Hercules)と名附けしはフイニシヤ人が始めてゞあつて、ツロの商人が大胆にも其軽舸に投じて大西洋に乗出せし時に両岸に絶壁を形造たるジブロルタル、チユータの二山を見て之に彼等の神の名を奉り、メルカースの柱と呼んだのである、古代の人が大船を称して『フイニシヤ船』と云ひ、航海家の目星と称せらるゝ北極星を『フイニシヤ星』と云ひしを見ても航海と地理学的発見とはフイニシヤ人の専有物であつた事が分る。
 地中海沿岸の地は到処としてフイニシヤ人の貿易範囲内であつた事は前にも述べた通りである、地中海と云へば何んだか小さい海のやうに思はれるけれども是れ実に世界的の内海であつて、長さ二千三百哩に亙り、幅は広きは五百哩乃至八百哩に達し、其内に殆んど日本国大の伊太利半島は突出し、シシリーとサルヂニヤは殆んど九州大であつて、コルシカ、クリート等は四国大である、其他佐渡大、淡路大の小嶼は数知れぬ程ある、其北(334)岸に於て希臘、伊太利、仏蘭西、西班牙等の諸邦あり、南岸には埃及、リビヤ、チユニス、アルゼリヤ、モロツコ等の国々がある、若し又希臘多島海を北に航してへレスポンドよりマーモラ海を通過して黒海に入れば又一大異域に臨む事が出来る、地中海を占領する貿易国は実に偉大なる国である、是は日本海を占領するとか又は支那海に跋扈するとか称するとは全く別物である、フイニシヤの大を知らんと欲せば地中海の大と其沿岸の富とを能く弁へなければならない。
 然れどもシプラス島に銅を採掘し、クリート島に海螺を漁し、埃及の麦と織物とを希臘、西班牙に送り、カルセージ、マルセーユ、カヂーズに貿易的新殖民地を設けしフイニシヤ人は決して一地中海を以て満足せなんだ、彼等は大胆にも大西洋の波濤を侵し、北の方今の葡萄牙の岸に沿ふて仏の北岸、或は英の南岸に達し、シリー島(Scilly I.)に、コルンウォルに錫を要め、之を東方のバビロン、ニネベに輸送して莫大の利を占めた、然し彼等はまだ其れでも満足せなんだ、彼等は尚ほ遙か西に向て進んだ、彼等は荒波を以て有名なる『北海』を横断し、危険を以て称せらるる、那威と丁抹の間なるスカガラツクを通過し、露と瑞との間にあるバルチツク海に入り、其南岸に於て好良無比の琥珀を求め、之を再び遠路ナイル及びユーフラチス河岸に送りて其|文布《あやぬの》、彫刻物等と交換した、或は海路の難を避けん為めに彼等は人跡絶へてなき独逸の森林を通過し、或はローン河を下りて仏蘭西の南に出て、或はダニユーブ流域を経てアドリヤチツク海に出で、夫れよりレバノン山麓なる彼等の故郷に帰つた、是が北方に於ける彼等の通路の大略である。
 南方に於ては阿非利加大陸の北岸にフイニシヤ商人の影を見ない処はなかつた、埃及のナイル河口一帯の地をカフトル(Caphtor)と称へた、Caphtor は Kaft-ur であつて『大フイニシヤ』の意であると云ふ、シヽリー島の対(335
岸なるチユス、コンスタンチンの地は麦の生育を以て有名なる処であるが早くよりフイニシヤ人の注意を惹き、紀元前一千百年頃にユチカ(Utica)の市《まち》は彼等に依て建てられ、継いで同八百十四年と云ふにツロの移住民に依て有名なるカルセージ(Carthage)の市が建てられた、猶は其西に当りて『メルカースの柱』に至るまで幾ケ所となくフイニシヤ人の貨物堆積地があつた、而して彼等が海峡以西の沿岸並にカナリー島にまで彼等の冒険を進めし事は十分に歴史的に証明せらるゝ事実である。
 フイニシヤ人が今の波斯湾にして古代のユリスリウム海(Erythreum Mare)に船を浮べしことは、アツシリヤ人の記録に照して見ても明かである、又紅海も彼等の帆を広げし水面であつて所謂『オフルの金』と称して古代人の非常に珍重せしものは重にフイニシヤ商人の手を経てアラビヤ半島の西南隅並に今のアビシニヤ、ソマリランド地方より持来られしものである。
 然れどもフイニシヤ人の航海的冒険は紀元前六百十一年に至て其極度に達した、即ち此時埃及王ネツコーの補助を得て彼等の或者は阿非利加大陸週航の途に就いた、彼等は朝暾を日々右手に拝しつゝ進むこと二年余にして終に之を左手に拝するに至りしとの事である、そして五年を経て彼等は西方より『メルカースの柱』の下を帆走し、多くの奇話異談を齎らして埃及王に復命せしとの事である、是れ実にバスコダガマが喜望峰を週航して印度洋に達せし時より尚ほ二千四百余年も前の事であつて、フイニシヤ人の大胆と航海術の熟練とに就ては実に窺ひ知るべからざる処がある、是に此べて見れば信長時代に山田長政の暹羅行の如きは何の事でもない。
 北はバルチツク海より南は喜望峰まで、東は印度洋より西は大西洋まで、是れがフイニシヤ人の航海区域であつた、我の四国一島にも足らざる小国の民にして斯くも広く世界を跋渉し、危険を冒して商利を求めし事は、利(336)益の外に何物をも需むる所のない斯民の行為としても賛称の外に評しやうがない。世界的貿易に徒事せしフイニシヤの富は非常なものであつたに相違ない、中古時代にあつては伊太利のベニスが欧洲の東洋貿易を占有せしの故を以て荘麗華美を極めし事は人の能く知る処である。其後また和蘭の小国すら支那日本に航路を開いてより英吉利、仏蘭西も及ばぬ程の繁昌をなせし事も明白の事実である、世に一手専売権程利益あるものはない、然るにフイニシヤは太古時代の貿易を殆んど一手に引受けし国である、其富と勢力とが如何計りでありしかは殆んど想像以外である、同時代の記事にして能くフイニシヤの富を告げ知らすものは預言者|以西結《エゼキエル》のツロの描写である、甚だ有名のものであるから茲に其一部.を掲げやう、
  ツロよ汝は言ふ我の美は極れりと、汝の国は海の中にあり、汝セニルの樅をもて船板を作り、レバノンより檜を取り汝のために檣を作り、バシヤンの樫をもて汝の※[將/木]を作り、キツテムの島(シプラス島)より至れる黄楊に象牙を嵌めて汝の坐板《こしかけ》を作れり、汝の帆はエジプトより至れる文布《あやぬの》にして旗に用ゆべし、汝の天遮《おひ》はヱリシヤの島より至れる藍と紫の布なり、ヽヽヽヽヽヽヽその諸の貨物に富めるがためにタルシシ(西班牙)汝と商ひをなし、銀、鉄、錫及び鉛をもて汝と交易を為せり、ヤワン、トバル、及びメセク(希臘群島并に小亜細亜諸邦)は汝の商賈にして人の身(奴隷)と銅器をもて汝と貿易を行ふ、トガルマ(アルメニヤ)の族、馬と騾《うさぎうま》とを以て汝と交易し、デダン(ローズ島)の人々汝と商をなせり、象牙と黒檀をもて汝と貿易せり、汝の製造物多きがためにスリヤ汝と商をなし、赤玉、紫、繍、細布、珊瑚及び瑪瑙をもて汝と交易す、ユダとイスラエルの地汝と商ひをなし、麦と菓実と蜜と油と乳香とをもて汝と交易す、ダマスコは酒と曝毛を以て、ヤワンは錬鉄を以て汝と交易す、肉桂と菖蒲は汝の市にあり、アラビヤは羔羊と牡羊と牡山羊を以(337)て汝と交易す、シバとラマ(亜拉此亜西南部)の商人は諸の貴き香料と宝石と金とを以て汝と交易せり、ハランとアツシリヤは華美なる物と紫色なる繍の衣服とを以て汝の市にありヽヽヽヽヽヽヽ汝は多くの国民を飽かしめ、汝の多くの財宝と貨物とをもて世の王等を富ましめたり。(以西結書第二十七章)
 別して立派なる文章ではないが、能く之を咀嚼して見給へ、古代商業史の粋は其内に籠つて居る。 〔以上、明治33・2・5〕
 
    第十二回 フイニシヤ(下)
 
 フイニシヤは純然たる商売国であつた、即ち商業を旺んにして富を得るの外にフイニシヤ人に取ては何んにも目的はなかつた、彼等の制度、文物、軍事、宗教は一に皆な商売を目的として定められた、若も我国で近江商人や、越中の売薬商や大坂の贅六共をして日本国を組織せしむるならば、丁度フイニシヤのやうな国を造るであらふ、即ち教育の主義は商売を主たる目的とするのであるから文学、哲学、道学の類にして少しも金に成る目的のない学科は全く廃せられて、経済学、銀行学、簿記学のやふな、会社の役人や、銀行の番頭を養成するに直接の利益ある学科のみが教へられるに至るであらふ、外国語は研究されるに相違あるまいが、到底ダンテやシエクスピヤを彼等の麗はしい原語に於て読まんとするやふな高尚な目的を以てせられずして、伊太利に絹を売込まふとか、英吉利より鉄を輸入せよふとか云ふ様に凡て下劣なる商売根性を以て盛んに研究せられるであらふ、軍備も貿易保護を主として拡張せられるであらふ、亦た法律は商法が第一であつて、神聖なる人権の如何は扨ておき貴重なる財産にのみ厳重なる保護を与ふるに至るであらふ、宗教は身を修め、霊魂を救ふ為めのものではなくして(338)只々身を富まし、家を興すに最も適切なるものが採用せられるであらふ、夫れであるから彼等の理想的政治家なるものはリンコルンやグラッドストンのやふに国家を以て正義実行の大勢力と為さんとするが如き預言者的の希望を懐抱する人ではなくして、日本帝国を一大商社のやふに見做す人に彼等は天下の事を任かせるに相違ない、斯くて世は凡て金の世の中となつて、愛国は金のために唱へられ、哲学も金の為に講究せられ、商人が実際の覇者となり、国躰其ものまでが彼等の為めに利用せらるゝに至るであらふ、実に恐るべき次第である。
 然し商売は全く悪ひ事ではない、商売国となるは貴族国となるより宜しい、貴族国たるは即ち懶族国たることであつて、それこそ滅亡国となるのである、埃及は僧侶国となつて亡びた、アッシリヤ、バビロニヤは貴族国と為つて滅亡を早めた、然るにフイニシヤが二千有余年と云ふ永き国民的生命を継続した理由は其商売国であつた故だと云はなければならない、商売其ものは人生終局の目的ではない、然し遠大なる世界的思想や、自由なる政治的観念は常に商売に伴ふて来るものである、手広く商売に従事すれば決して偏屈なる国家主義などを懐く患はない、フイニシヤの他に優つた点は全く此一事にあつたと断言することが出来る。
 商売は正当なる職業である、故に此業に従事して永く成功せんと欲せば正直でなければならない、虚言を吐かなければ商売が出来ないなどゝは、今日の日本の商人計りが言ふ所の勝手な申し分であつて、フイニシヤは云ふまでもなく、其他和蘭、英国等の商業を以て国を起した国々の商人の決して言ふた事ではない、元来正直と商売とは二者相離る可らざるものであつて、商売とは正直の適用と称へ可き位のものである。
 太古二千年間世界の商権を握りしフイニシヤ人は商売的には厳粛過る程正直の民であつた、今日尚ほ遺つて居る彼等の製作品は品質もよく技量も精巧で両つながら今人の眼を驚かす程である、彼等の商品に偽物はなかつた(339)と云ふ、亦た彼等は原料精撰の為めには如何なる労力をも惜しまなかつた、彼等は金を亜非利如の西岸より、銀を西班牙より、錫を英国より、琥珀をバルチック海の沿岸より輸入した、彼等は紫色の染料たる海螺を得んが為めに自国の産を漁し尽した後は地中海到る処に之を捜索して永くその良好無比の品質を毀損しなかつた、丁度今の日本人が和製を卑しんで舶来品を貴ぶやふに太古の民は孰れもフイニシヤ製として言へば其品質を糺すことなしに優等品なる事を疑はなんだ、彼等は亦た多く掛引を為さない民であつて、歴史家ヘロドータスの記載に係るカルセージ(フイニシヤの殖民地)商人の『唖者の商業』なるものは其一例として見る事が出来る。
 彼等の海岸に達するや、彼等は直に其積来りし貨物を卸し、之を砂上に排列し而して後船に帰て烽火を揚げて土人を招く、村人之を見て海岸に下り来り、整列せる貨物を一覧し、其価格を估し、彼等が適当と思へる金の量を砂上に積んで其場を去る、茲に於てカルセージ人は再び岸に来り、村人の遺し置きし金を算し、若し其心に充たざる所あれば金に手を触れず再び船に帰る、村人また出で来り、其金の持ち去られざるを見るや、更に其量を増して又去りて身を隠す、斯くてカルセージの商人の意を満たすに至り、彼等が金を持ち去るに及んで、村人は始めて貨物を運び去るなり、双方未だ曾て其相手を欺きし事なし、蓋はカルセージ人は貨物正当の価格に達せざる間は村人の金に手を触れしことなく、村人も亦た金の持ち去られざる迄はカルセージ人の貨物を持ち去りし事なければなり。
 小説家ジョージ、マクドナルドの描けると云ふ『天国に於ける買物』の一段も是には優るまいと思ふ。
 前にも述べた通り、商業国であつたからフイニシヤ人は実に自由の民であつた、隣邦の埃及、アッシリヤ、バビロン等に於ては、圧制家相踵いで起り、帝王は即ち国家であつて、民は草木同然の有様であつた時にフイニシ(340)ヤ人は自由独立の民であつた、僅々四千方哩に過ぎない小邦であつたけれどもフイニシヤは一国ではなくして小国の集合躰であつた、其シドンが覇を全国に布きしとの事は極くの昔のことであつて、歴史面に現はれたるフイニシヤ国は常に合衆国の躰をなして居つた、ツロ、シドン、ザレッパ、アラダス等は各皆な独立国であつて、彼等は各夫々の政躰を有し、殖民地を有し、議会の如きものを有し、一は決して他の者の属国ではなかつた、殊にツロの如きに至ては其王なるものゝ権力は甚だ微弱なるものであつて、長老議会は王の不在中と雖も外国に対して戦争を宣告する事が出来た程であつた、亦たシドンに於ては長老議会はツロのそれに勝つて更に一層の権力を有し、其一百の議員は多数決に依ては国王の意向に逆いても外国と平和を媾じ、又之に向つて戦争を宣告する事が出来た程である、ツロの殖民地たるカルセージの如きは其建設の当時は正式の共和国であつて、アリヤン人種以外の民で此政躰を採用したものは多分カルセージが始めてであつたらふ。
 フイニシヤ人が実際的の民であつた事は既に前段にも述べた通りである、彼等は勿論独創的又は論理的の民ではなかつた、彼等の文明なるものは大抵は埃及、バビロン等より輸入したものであつた、然し彼等は只の摸倣者ではなかつた、彼等は事物を簡略にするの非常の才能を有して居つた、吾人が今日有するA、B、C《アルフアベツト》文字とて人類の発見に係る最も便利にして最も有益なるものは実にフイニシヤ人の発明に成つたものである、其如何に便益なるものであるかは之を支那文字又は日本の仮名に比べて見ても能く解る、アルハベツト発明以前の文字なるものは埃及人の象形文字にあらざればバビロニヤ人の楔状文字であつた、其拙劣で不便なる事は吾人が今用ゐつゝある支那文字にも多く劣なかつた、然るにフイニシヤ人は意義文字の煩雑にして実用に堪へざるを見て単音的文字なるものを作つた、セミチック語のアレフ(牛)を以てAを代表せしめ、ベス(家)を以てBを示し、ギメル(駱(314)駝)を以てGを云ひ現はした、斯くて彼等は二十有二の単音的文字を作つた、そして彼等の意義深き言語にして此等の二十二者を以て言ひ現はされざるものはなかつた、彼等の発明に係りし此文字組織は直に隣邦諸氏の採用する処となつた、希伯来人、亜拉比亜人、シリヤ人等フイニシヤ人と同語的民族は勿論、其頃既に地中海の東北岸に於て特種の文明を発達しつゝありし希臘民族の之を採用するに至つて、アルハベットなるフイニシヤ文字が後世四千年間世界文明国の共有物となつて人智の発育を助くるに此上なき利器となるの発端が茲に開かれたのである、フイニシヤ文字は実にソクラテスの哲学、イエス、キリストの福音と同じやふに改善進歩に必要なる具で、これを採用せざる国民は進歩の背後に落ちなければならない程のものである、亦た彼等の発明で文字に次ぐものは玻璃であつた、是は彼等の或者が埃及より曹達を輸入し其一片を火に投ぜしに海浜の砂と混じて透明躰となりしを見て発明したものであるとの事である、天然的水晶は彼等が早くより装飾品として用ひ来りしものなれども玻璃なる人造的水晶の発明されてよりフイニシヤ人の製造と貿易とは更に一層の盛大を加へたに相違ない。
 然れども商売は人生最終の目的ではない、商売は唯だ之に達するの方法である、それをフイニシヤ人は目的としたのである、即ち本末を顛倒したものであると云はなければならない、フイニシヤの勢力は実に二千年の永きに亙つた、然し目的を誤りし其文明は主義のない文明であつた、彼等は広く世界を感化した、然ども其之を為すや、歴史家モムセンの曰ひしやふに、彼等は鳥が種物を伝播するやふに為したのみである、即ち彼等自身の主義信仰を以て他国の民を感化したのではなくして、唯だ一国の文明を他の国に輸送したまでゞあつた、彼等が人類の為めに為した事は主義のない鸚鵡的教育家が耳に聞いた事を口を以て直に学生に伝ふるやふであつて、伝達者其ものゝ感化力は殆んど皆無であつた、希臘人は哲学と美術とを作り、希伯来人は宗教を作り、バビロン人と埃(342)及人とは数学と文学を作りしに比べて、フイニシヤ人は唯だ広く之を世界の表面に散布したまでゞある、散布者、口伝者、共に全く用のないものではない、然し其地位は至て低いものであつて、此職分に当つた人も国民も決して羨むべきものではない。
 此の主義のないフイニシヤ人は可成丈け戦争を避けた、彼等は金力で平和を買ひ得る場合には大金を支払ふに躊躇しなかつた、紀元前八百八十年頃にアツシリヤ王アシユル、ナチヤ、パルが地中海の沿岸諸邦を征服せし時にフイニシヤは大王と兵を交えずして金、銀、錫、羊毛、綿糸の衣服、木材、黒檀の類の貢を納れて平和を乞ふた、後又紀元前五百三十年頃ペルシヤ王カムビシースが父サイラスの後を承けて西亜征服の途に上りし時、フイニシヤの諸市は彼を迎へ、彼の為めに艦隊を供して、埃及征討の挙を補けた、別に死を以て固守する程の主義を有たざりし故に彼等は自由を自由其ものゝ為めに求めなんだ、彼等は一時は埃及に属し、又アツシリヤに降り、バビロニヤに服従し、波斯に事へ、能く彼等の財産を保護し、彼等の商業を奨励する国とあれば彼等は其何国たるを撰ずして之に服従した、此点に於ては彼等は実に今日の支那人の如き民であつて、希臘人、希伯来人が常に彼等を卑しめたのも全く彼等の此商売人根性に由りしのである。
 斯く云へばとて彼等は決して戦はなんだと言ふのではない、若し戦争の利益が平和のそれに勝ると見る時は彼等は頑固なる抵抗を為した、バビロン王ネプカドネザルはツロの市を十三年間囲んで漸く之を取ることが出来た、又アレキサンドルの雄略を以てしても七ケ月間の激烈なる攻撃を続けて始めて之を下すことが出来た、カルセージが前後一百年に渉る三回の大戦争を続けて羅馬人の亡ぼす所となつた事は人の能く知る所である、フイニシヤ人が努めて戦争を避けたのは彼等に戦ふの勇気がなかつた故ではなくして彼等は冷算的に其損失を知つたからで(343)ある。
 然れども此有為なる民なりと雖も世界の競争場裡に希臘人と羅馬人とのアリヤン人種の顕はれてよりは到底何時までも其全盛を維持する事が出来なかつた、主義なきの商業国は主義あるの智能国と政治国との替はる所となつた、而して主義なきの国の什仆るゝや、其アルハベット文字と二三の製造業との外に後世への遺物とてはなくして、唯だ僅かの遺跡を地中海の東岸に留め、猶太の預言者が曾て預言せしやふに、三千年の昔世界の貨物の輻湊せしツロの市街は今は空しく漁夫の網干場と化し寒月一輪レバノン山頭に懸る時などは過去の栄華も忍ばれて、一層悲愴の感を惹起さしむるとの事である。 〔以上、明治33・2・15〕
 
    第十三回 ユダヤ(上)
 
 地中海の周囲に三箇の大陸がある、即ち其東に亜細亜大陸があつて、其北を包むのは欧羅巴大陸であつて、其南を限るのが阿弗利加大陸である、一海水で三大陸の岸を洗ふて居るものは地球面上唯だ此海ばかりである。
 能く考へて見ると世界歴史とは別の義でない、約言すれば是は欧、亜、弗三大陸の相互的関係であつて、一名之を地中海歴史とも称すべきものである。
 亜細亜は起源的大陸である、其中心点は喜麻刺亜、天山、スリマン、ヒンドクシユの諸山脈が相交叉する辺にあつて、其北と南には二大平原があり、東と西とには二大高原があつて是れ又豊饒なる平原に終て居る、即ち北なるは西此利亜で、南なるは印度、東なるは支那で、西なるはチグリス、ユーフラテスの平原である、故に亜細亜を一名平原大陸(欧、弗二大陸に比し)とも云ふ事が出来る、
(344) 阿弗利加は高原的大陸であつて、其多分は砂漠である、亜細亜大陸より其平原と周囲の島嶼と半島とを取除ひたものが阿弗利加大陸である。
 欧羅巴は半島的大陸である、亜細亜大陸より其内地の大高原と大平原とを取り除いて残る半島と島嶼とを集めて組立たものが欧羅巴大陸なのである。
 大平原は亜細亜の特有であるから、露西亜は地学上並に史学上亜細亜大陸に属すべきものである、亦た同じやふに亜刺比亜と西班牙とは阿弗利加に属すべきものなる事は其地勢と歴史とが充分に証拠立てる処である、阿弗利加も其北と南の両端に於ては甚だ欧羅巴的である、又其埃及はナイル河口の三角形沖積層地に於ては全く亜細亜的である。
 斯ふ云ふ様に三大陸各その特質を具へて居るけれども、亦た各幾分か他の大陸の性をも有して居る、爾ふして三大陸が相互接して一つの共有的地域とも称すべきものを形造つて居る処は我等が是まで幾度となく此講壇に於て述べし所の西亜即ち西方亜細亜(Western Assia)である、であつて、三大陸の中立的区域《ニユートラルグラウンド》とでも称すべきものである、是は欧、亜、弗執れの大陸へもドツチ附かずの地域今の亜細亜土耳古の一部分で小亜細亜と称せらるゝ部分は、其西方の希臘と相対する辺に於ては土地の構造に於て全く欧羅巴的である、有名なる希臘の歴史家クルシウスが此地方を評して『欧羅巴が亜細亜に縫附けられし処である』と云ふた、其南部なるアレッポー、ダマスコの辺は全く阿非利加的である、亜拉比亜半島は其地形並に構造より観察を下せば小阿弗利加と称して可なるものであつて、其砂漠は深く小亜細亜地方まで侵入して其処に阿弗利加的容貌を留めて居る。
 西方亜細亜が欧、亜、弗三大陸の共有性を備へたる地域なりとすればユダヤは其小邦内に於て三大陸の性質を(345)更に一層明白に且つ純粋に受けて居る国であると言はなければならない、其地理学上の位置其物が三大陸の互接点に位して居る、今ナイル沿岸より欧、亜、執れの地に至らんとするも必ず此国を経過しなければならない、故に埃及王にして覇図を西方亜細亜に布かんとせしものは先づユダヤの地を略した、亦たアツシリヤ、バビロニヤ、ペルシヤの王にして埃及を襲ひし者も必ず途を此国に取らなければならなかつた、彼の歴山王の亜、弗両大陸の征伐も先づフイニシヤのツロを降し、ユダヤをマセドニヤの領土となして然る後に始まつた事である、古代に在て海路の甚だ危険なりし時は世界各国を制伏するには必ず先づユダヤを取るの必要があつた。
 然し今地理学上の位置を離れて其地形と地的構造とを攻究すればユダヤ国の三大陸的である事は更に一層能く解かる。
 ユダヤ国を一名パレスチナ(Palaestina)と云ふ、是は羅馬人が命名した名であつて、其西南部の地なるフイリスチヤ(Philitia)の名の転訛したものである、ユダヤなる名は大王ソロモンの子レホヾアムの時彼の王国が南北二国に分れし時に其南部のものを呼びし名であつて、歴史的には全国が此名を以て唱へられし事はなかつた、或は「聖地《ホレーランド》」と云ひ、或は「カナーンの土地」と云ひ、或はパレスチナと云ひて、此有名なる国が一定した名を有たないとは稀代な事ではあるが、然し夫れは事実である、故に茲に我々がユダヤと呼ぶは「猶太人の国」と云ふ意であつて、一つの明白なる歴史を有する或る区域内の邦土を指して云ふのである。
 抑もユダヤとは極々小国であつて、北はフイニシヤの国境より南は埃及の国境まで直径纔か百五十哩余に過ぎない、其東西の幅は一定する事が出来ないが、先づヨルダン河を其東の境と仮定めて狭きは二十三哩、広きは八十哩である、故にユダヤ本部とも称すべきヨルダン河以西の地は、其面積大凡六千方哩であつて殆んど我国の(346)四国大である、然しヨルダン河以東の地にしてユダヤ史に密接の関係あるアモン、ギリアデの地を加ふれば八千哩余となりて大凡我の新潟県大となる、摩西に依て建設せられ、ダビデの如き詩人を出し、イザヤ、エレミヤ、エゼキエルの如き大政治家を出し、終にイエス、キリストを出して全世界を感化したユダヤは僅に我の越後国一国に過ぎない小国であると云へば国運の進長は強ち其邦土の広狭に関はるものでない事が解る。
 然し此越後大の小国が三大陸の性質を具へて居ると云へば更に一層驚くべきではないか、是は我輩の私言でない多くの有名なる地理学者が認めた事実である、近世地理学の始祖とも称すべきカール、リツテル氏が彼の畢生の精力を尽して此国の地理を研究し、『パレスチナの地理』なる大部五冊ものゝ著述を為したのも全く其世界的性質を備ふる為であつた、我輩が之を言ふは何も我輩の宗教が此国から起つたものであるからではない、区々たる宗教的偏頗心より全く離れてパレスチナの地理の研究は非常に面白い趣味ある事業である。
 北部にあるガリラヤは全く温帯的で其風土産物は殆んど欧羅巴的である、其極北部に達すればレバノン山脈のヘルモン(Mt.Hermon)は九千尺の高さに達して永久の雪を戴いて居る、ガリラヤを流通するキシヨン河の両岸は有名なる麦の産地であつて、其河口に当るカルメルの山頂は好良の葡萄園を以て有名である、沿岸附近の丘陵は栗、胡桃等北温帯普通の樹木を以て掩はれ、我等日本人が英国に至るも其天然物に於て本国のものと別段の差異あるを見ないだらふと思ふ。
 然し南の方サマリヤの地を経て有名なるエルサレムに至り、更に十哩を南に進めて、預言者アモスの住処なりしテコヤの辺に至れば其地質や植生は稍々熱帯的となり、尚又更に十哩進みてアブラハムが始めて移住せしと云ふ地なるヘボロンに至れば亜刺比亜的風物を見るべく、之より以南埃及の国境に至るまでは所謂ビヤシバ(Beer(347) Sheba)の砂漠と称して万事が阿弗利加的である、僅々百五十哩の距離にヘルモンの永久の冬とビヤシバの永久の夏とがあるとは実に奇態なる現象ではないか、丁度東京に居て厳寒の冬を感ずる頃に遠州浜松に抵れば赫々たる太陽の光線の下に熱帯的状況を目撃する事が出来るやふなものである。
 以上は南北両端に於ける気候地質の差異であるが、其東西に於ける差異に至ては是よりも更に一層甚いものがある、ヨルダン河の盤谷《ベーシン》なるものは世界に比類なき凹地であつて、其海面よりも低き事は其上流なるガリラヤの湖水に於て已に六百八十二呎に達し、是より南流七十哩を下りて「死海」に入れば其水面の地中海のそれより低き事は実に千三百呎である、而して其深さは同じく一千三百呎に達すとの事なればヨルダン盤谷の海面より低き事は或る処に於ては二千六百呎に達する訳である、「死海」其物は長さ四十七哩幅平均九哩の出口なしの内海である、斯ふ云ふ様に北に閉ぢて南に向つて開いて居る広き溝渠のやふな窪地であるから、空気も自から湿り勝で其流通の悪き為めに温度も非常に高くある、そして是等が原因となつてヨルダン流域一帯の地は印度|恒河《ガンヂス》の沿岸に於けるが如き状態を呈し、草木は鬱蒼として繁茂し、獅子叢林に吼へ、※[魚+〓]魚《わに》水辺に横はるの偉観を北緯三十二度の処に於て睹る事が出来る、エルサレムの城市は寒中に雪を見ること度々なれども之と同時に其東方十五哩の地には印度風の熱帯的植生の繁茂する処がある、忽にして沍寒、忽にして酷熱、ヘルモンの皚雪、ビヤシバの砂漠、或はヨルダン河畔の熱帯的森林、……大凡世界広しと雖も斯くも甚しき変化と反対的複雑との異観を呈する地方は此国を除いては決して他に無いと思ふ。
 以上は地形上の観察であるが、今少しく動植物学に移り此稀有なる国を攻究すれば其三大陸的なる事が猶ほ一層明白になる、パレスチナ博物学を以て有名なるカノン、ツリストラム(Canon Tristram)の研究の結果に依れば(348)パレスチナ産の植物にして今日までに採集せられしものは凡て三千二種であつて、其内二千五百六十三種は北温帯の植物なれども百六十一種は阿弗利加産のものであつて二十七種は印度特産のものであるとの事である、殊にヨルダン盤谷産の Sida nautica 並に Asiatia(錦葵科)の如き、Astriplex halimus(藜科)の如き、其他 Statice属、Salicornia 属の植物の如きは紛ふべきなき印度産のものであつて、パレスチナの緯度に在て是等の植物の天然的生殖を観る事の出来るのは猶ほ寒国に在て温室内に温帯地方の植生を見るの心持がするに相違ない、又有名なるナイル産の植物なるパピラス(紙草)はユダヤの地に在ては北の方遠くメロムの湖水まで繁殖し、今や埃及本国に於ては殆んど其蹤を絶つに至りしも、ユダヤの北方に於ては尚ほ此熱帯的植物の天然に成育せるを目撃する事が出来る。
 植物学上の観察は又動物学上の観察を以て確められる、パレスチナ産の哺乳動物は百十三種であつて、内五十五種が北温帯産、三十四が阿弗利加産、十六が印度産、十三が固有の土産である、鳥類は三百四十八種であつて、内二百七十一が欧羅巴産のもの、四十が阿弗利加産、七が印度産、三十が土産である、パレスチナ産の淡水魚類は殊に注意を惹くべきものであつて、ガリラヤの湖水其他の淡水に棲息する魚類は総て四十三種なりと云ふ、内八種のナイル産のものと二種の印度産のものとは確かに此地域の熱帯的なるを示すものである。
 斯ふ云ふ風に欧、亜、弗の三大陸は其風土、気候、植生、動物に於て僅々此六千方哩の小邦内に代表されて居るが、又奇態にも此三大陸的即ち世界的の小国は其物其れ自身にて一小世界を形つて居る、西は地中海であつて其海岸に此ぞと云ふ良き港湾がないから此国民はフイニシヤ人のやふに海に航して広く世界と交通する事は出来ない、東にはヨルダンの谿谷があつて交通の大妨害をして居る故に大軍を卒ゐて之を横断するが如きは殆ん(349)ど為し得べからざる事である、又北はレバノン山脈ありて纔にハマスの一通路を存するのみであり、南は有名なるシユールの砂漠であつて之を通過するの困難は埃及役に於けるナポレオン大帝の経験を以てしても解かる、四境閉塞せる此小国にして内に世界的の性質を具へて居る、此事を能く知りてユダヤの歴史を解するは甚だ易い事である。 〔以上、明治33・2・25〕
 
    第十四回 ユダヤ(中)
 
 三大陸の互接点に位いするパレスチナの地に居を占めた人民は又一種特別の民であつた、彼等をユダ人又はイスラヱル人又はヘブル人とも云つた、ユダ人とは前にも述べたユダ王国の民の名称であつて後には此パレスチナの民一般に附けられた名である、今日でも彼等の子孫は此名を存して世界到る処にジユース(Jews)の居らない処はない、イスラヱル人とはイスラヱル即ちヤコブの子孫の名である事は誰も知つて居る、彼等の一名をヘブル人と云ふたはヱブル(Eber)又はヘブル(heber)なる人の子孫であつた故に斯く呼ばれしとも云ひ、或は河(ユーフラテス)の彼方(エベルなる語の意味)より来りし者なるが故に此名を命ぜられしとも云ふ、パレスチナの国名が一定せざるやふに其住民の名称も幾箇もある。ユダ人はシエム人種に属する民である、即ち今のアラビヤ人、昔時のアツシリヤ人と同種族の民である、シエム人種の特性に就ては後で充分に述べる積りであるから茲では言はない、然し其古代史上に於て如何に有為の人種であつたかは今まで述べた事で能く解る、バビロニヤの骨ともなつた者は此人種であつた、亦アッシリヤ王国を作つて八百年の長き間文明世界の覇権を提つた者も此人種であつた、そしてフイニシヤ人が矢振りシエム人種(350)であつたとならば古代二千年間の世界の商権は一に此人種の手に在つたのである、太古史は即ちシエム人種の舞台であつて、今茲に述べんとするユダヤ人も亦其独特の才能と技倆とを以て更に一層の光輝を此人種の上に加へた民である。
 ユダ人はシエム人種の特性を最も善く代表した民である、其物事に熱心なる所謂善に強ければ悪にも強く、そして感情的であつて事を為すに多くは彼等の直覚に依て理屈に訴へなかつた、去りとて彼等の感情は黄色人種のそれのやふに浅薄なるものではなかつた、彼等は感ずる時には全身全力を以て感じた、彼等は日本今日の経綸家と称するものゝ様に心に一物を感じて頭脳に他事を計画するやふな半信半疑の偽善者ではなかつた、彼等の感情と思想とは常に一致して居つた、即ち彼等の感情は思想を融解するものであつて其現はれて文学となり、宗教となつた時には能く天然の至理に叶ひ、科学的の探究を積まざるも能く中心的真理に達したものであつた。
 其性質が感情的であつたから亦た単一的であつた、彼等は希臘人とは全く異なつて、事物の複雑を避けて其単純を求めた、即ち彼等の文物、制度、殖産、工業等は皆な単純であつた、是れユダ人の文明の今日に至るも甚だ解し易い理由である、彼等の宗教は一神教であつて、彼等の制度は神政《シオクラシー》であつた、彼等の文学なるものは簡易明白なる年代記の類にあらざれば単語単調の牧羊歌の如きものであつた、別に込入つた哲理の彼等の間に唱へられし事なく、彼等の美術としても唯だ生活の必要を充たすに足るの便益に止まつて美その物の為めに耕されたものではなかつた。
 物事に熱心で、其趣好が単一であつたから彼等は自づと狭隘の民であつた、彼等は度量江海を呑む底の東洋の英雄を悦ばすの民ではなかつた、彼等は唯だ一事を解するを得て、二事三事を同時に彼等の胸中に蔵す事は出来(351)なかつた、彼等は自己の確信を以て最大真理なりと信じたから他人の信仰は凡て誤謬なりと信じた、彼等は其全心を満足せしむる真理でなければ決して之を信じなかつた、然し一度び之を信じた以上は他の真理が来てその許諾を彼等に要求する事あるも彼等は断然拒絶して之を容れなかつた、神一つ、真理一つ、正義一つ、国一つ、王一つの観念は深く彼等の心理に刻み込まれしものであつた。 狭隘であつたから勿論彼等は執念深くあつた、固執は彼等の特質であつて、彼等を改宗せしむるの困難は彼等の間に働く宣教師の凡て感ずる処である、彼等が今日世界到る処に嫌はるゝ理由も全く是が為めである、ユダ人は何処までもユダ人である、彼等に特別なる宗教があり、特別なる習慣があり、特別なる趣好がある、そして是は彼等が三四千年以前の彼等の祖先より承け継いだものである、日新の今日彼等が文明国に居住して少しも之を改めやふとも為ない、此点に於ては彼等は酷だ支那人に似て居る、但しユダ人の頑固は支那人の夫れとは異なつて、重もに主義の為めの頑固である、彼等は何も祖先の遺風なりとて外形を改めないのではなくして、外形は内容を代表するものであつて、外形を更ふれば亦た内容を改めねばならぬと云ふ杞憂から何処までも彼等の因襲を持続するのである。
 ユダ人が斯ふ云ふ性質を養ふに至つたのは抑も何に因てゞあるかは之を知るに別に六ケ敷くはないと思ふ、即ち是等はシエム人種全鉢の特性である事は之をアツシリヤ人、フイニシヤ人の歴史に照して見ても解る、一位の神を尊崇して他の神を排斥するの風はアッシリヤ人がアツシユールの神に事へ、ツロの市民がメルカースの神を奉ぜしと同じ事である、事物に熱心なる点はアッシリヤ人が軍事に熱心なりしとフイニシヤ人が貿易に熱心なりしと、ユダ人が宗教に熱心なりしと別に異なる処はない、唯だ其熱心を傾注する目的物に差がある丈けである、(352)後世にて亜刺比亜人が回々教の伝播に熱心なりしも、亦た近年ナイルの上流オムダルマンに於て蘇丹王マーヂが長く英軍を悩ませしも其シヱム人種の熱心の性に至りては今も古へも同じ事である。
 然れども若し熱心が彼等を一神教に導きしものなれば一神教其物は亦之を信奉する民の熱心を養成するに最も力あるものである、凡て何人と雖も其奉事する処の者が一つにならざる以上は熱心なる事の出来ないものである、忠ならんと欲せば孝ならず、孝ならんと欲せば忠ならず、臣の進退維れ谷まると云ふが如きは奉信の目的物が一定せざるより出る嘆声である、国民の人望も博せねばならず、自家の利益をも顧みざるを得ず、君にも忠なりたし、国をも愛したしと云ふ我国今日の政治家の如き者に熱心なるものゝありやふ筈はない、然るに一神教は人の目的を一定するものである、国も君も、親も兄弟も、名誉も財産も、将た吾人の生命其物も、総て独一無二の神の為めに愛すべきものと成て、始めて吾人の思想は統一せらるゝのである、多神教の直接の害は吾人の注意を分つ事である、一つの神を認めて縦令それは完全なる神にはあらざるにもせよ、夫れが為めに吾人の目的が一つとなつて随つて吾人の熱心が非常に其度を高むるに至る事は疑ふべからざる事実である。
 然しながらユダ人に取ては彼等の人種的特性と遺伝的宗教とに加へて、彼等の国民的常性を養成するに最も力強きものがあつた、是は即ち彼等が居を定めしパレスチナの天然であつた、其四方閉塞して一小天地を成して居る国である事は前回にも述べた通りである、南と東とは砂漠を以て限られ、西は大海に浜し、北に大嶺を帯びて、ユダ人は他邦人との交際を天然的に禁ぜられた民であつたと云ふ事が出来る、殊に其土地の多分は沃饒であつたから彼等は別段糧を他邦に仰ぐの必要を感じなかつた、外に出るに難く、内に足るの易い民であつて異様独特の性格を養成し得ない理由はない。
(353) パレスチナの土地気候の激変はユダ人の感情を高むるの一大原因であつた事も確かである、感情は其四囲の単調なるに依て鈍るものである、赤道直下の人民と北極圏内に住する民とに智覚の鈍きものゝ多きは全く之が為めである、我々温帯に住する者に取て四季の循環が何れ程感情の発育を助くるかは我々の推測する事の出来ない処である、然るにパレスチナに在ては其住民は坐ながらにして殆んど同時に春夏秋冬の変化を目撃しつゝある、朝たに「ユダの山地」に沍寒の冬を感ずる時ヨルダン河畔に下れば半日ならずして印度地方の暑熱に苦しまねばならない、若しエルサレムの南十哩なるテコアの丘上に立てば四季の景物を一眸の中に収むる事が出来る、西の方洋々たるは地中海にしてヨツパの港は其白浪に蔽はるゝかと疑はれ、眼を転じて北に向へば天気晴朗一片の霞なき日には遙にハルモンの皓巓を望むを得べく、更に踵を回へして東に向へば断崖直下百三十丈、「死海」の水面は濃紺色を帯び、其西岸なるエンドルの里は椶櫚と歯朶との林に匿れて鬱葱恰も中夏の熱に眠れるが如し、更にヘボロンを経て南を望めば亜刺比亜砂漠の灼々として天日の下に燬くあり、是ぞ実にユダヤの天真詩人にして預言者なりしアモスを養成せし地であつて、彼の感情深き辞に徴すれば如何に彼の周囲が彼を感化せし乎を察する事が出来る、
  昴宿及び参宿を造り(晴夜天上を望みし時の景)、死の蔭を変じて朝となし(厳冬去りて春草萌出るの状)、昼を暗くして夜となし(附近の岩窟の闇黒を形容して云ひしか)、海の水を呼びて地に溢れさする(西方の地中海を望んでノアの洪水を聯想して云ひしならん)者を求めよ、その名はエホバと云ふ。 印度人の高想妙思はヒマラヤ山の雪と恒河の水とを同時に望みし者の心に湧きしものなりとは余が嘗て拙著『地人論』に於て述べし処であるが、ユダ人の感激憂憤は三大陸の景色を一処に集めしパレスチナの天然の醸造(354)せしものと云ふことが出来る。
 殊に注意すべきは其東南方の風土である、ユダヤの山地より東の方「死海」に向て急傾斜をなして下る辺をエシモン(Jeshimon)又は「ユダの荒野」と称へた、南はシユールの砂漠に接し、東は「死海」の熱地に隣し、渓流深く石灰貿の岩石を刻み去て到る処に深罅を存し、土地は薄くして耕耘の用に堪へず、唯だ纔に春草の春雨と共に萌え出でゝ炎夏の到来と共に敢なく枯死するを見るのみである、パレスチナの小国を以てして斯かる無用の地のあるは天の配剤の其宜きを得ざるものであるなどゝ咎むる者もあるであらふ。
 然しながらエシモンの曠野が無かつたならばユダ人はユダ人たるを得なかつたらふと思ふ、是はユダヤの憂国者、予言者、詩人達の修養地であつた、彼等は禅堂に立籠つて禅を修する替りに此南北四十哩余東西二十哩余の曠野に逍遥して宇宙と人生との奥義を考へた、青々たる春草の砂漠より吹き来る南風に凋むを見ては彼等は神の震怒に触れて消え失する悪人の末路を思ふた、
  富者は草の花の如く逝かん、それ日出で熱し草を枯らせば其花落ち其美はしき容消ゆ、富める者も亦かくの如く其為す所半にして己れ先づ亡びん、
 ダビデが彼の詩腸を養ひしも重に此曠野に於ける七年間の彼の流浪中の事であつた、ヨハネが彼の正義の福音を宜べる前に天火の洗礼を受けたも又此無人寂寞の境に在た時である、而してイエス、キリストの四十日四十夜の艱苦断食も此処で為されしものであつて、釈迦の悟道が雪山に於てありし如くにキリストの自覚は「ユダの荒野」に於てあつたことである、単に荒漠なるのみならず亦甚だ幽凄であつて、『死海』の浜にソドム、ゴモラの旧跡を望み、朝暾のモアブの山頂より出でゝ陰谷より闇夜を駆逐するの状を見、身を砂漠より吹来る熱風に曝し(355)て、独り神と共に在て天然の事物を其最も悲愴なる現象に於て感得する、斯ふ云ふ一種の修練所があつたゆえにユダ人は遂に激感激動の民たらざるを得なかつた。
 斯くも感じ易き民が斯くも感動を与へ易き国に住みし事なれば、若し其国の天然が一方にのみ偏したものであるならば其民は偏狂の民と化し去つたであらふ、彼の同一人種なる亜拉此亜人が広袤一百万方哩に亙る半島砂漠の中に徨ひしが故に狂信の外に別に取る所なきの民となりしも全く之が為めである、然るに幸にしてユダヤの天地は多面的のものである、亜刺比亜風の砂漠もあれば伊太利風の葡萄園もある、地獄の谷に均しき「死海」の窪地もあれば亦た美人の眸にも似たるメロムの湖水もある、エシモンの乾燥して炎夏の候は一茎の青草をも留めざるに対してシヤロンの平地には薔薇の馥郁たるがある、ユダヤの天地は実に三大陸の精華を蒐めしものであるから、其ユダ人に及ぼした感化は実に世界的のものであつた。
 殊に埃及を北方に控へ、チグリス、ユーフラテス河畔を西方に擁して居つたからパレスチナは貿易交通の要衝に当つて居つた、故にユダ人は坐ながらにして宇内の形勢を知る事が出来る地位に居つた、彼等は単に思想を自国の天然に養つたのみならず、時としてはナイルの汎濫にノアの洪水の小模範を目撃し、ダマスコ、カーケミシの貿易市場に万国の民族と接した、彼等の本国は島国の躰を為して居つて動もすれば排外孤立の精神を醸し易かつた、けれども彼等は大国の間に介立せし故に決して世界的の精神を失はなかつた、ユダ人は感ずるに深く信ずるに篤きと同時に、亦彼等の感情と信仰とを養ふに三大陸の事物を以てせし事は彼等に取て非常に幸福な事であつた。 〔以上、明治33・3・5〕
 
(356)    第十五回 ユダヤ(下)
 
 僅々八千方哩の国に住み、三百万余りの人口を有する位で、ユダ人は何を以て国を為した乎、彼等の国産とて別に世界に向て誇るに足るべきものは無かつた、彼等の山地には橄欖樹が能く成長した、彼の平地と小山とは能く小麦と葡萄との生育に適した、バシヤンの牧牛と称してヨルダン河以東の地は其家畜の肥大なるのを以て有名であつた、ガリラヤの湖水の魚類と云へば今も古へも人の称賛する処である、然し是等の産物は国内の需要を充たして尚ほ余りありと云ふ程のものでは無かつた、亦た国内に一個の鉱山も無かつた、其築材さへ多くは隣邦のフイニシヤに仰がなければならなかつた、ユダヤ国の興隆は其物産の豊富に由らなかつた事は明白である。
 然れば此国の商業上の便利は如何であつたかと云ふに、是れ亦算ふるに足らないものであつた、北はフイニシヤの国境より南はナイル河口に至るまで地中海の沿岸に是れぞと云ふ良港はない、其北方に当てアークル湾(Bay of Acre)はあるにもせよ、是れとてもツロやシドンのやふな完全なる船舶の繋留場ではない、ヨツパ(Joppa)は今日に至るも海路よりパレスチナに入るの唯一の港口である、然し其碇泊の険悪なる事は彼地に旅行する者の何人も実験する所である、亦た紅海に瀕してはエギオンゲーベル(Egion-Geber)の有名なる港はあれども其ユダ人の手に在りしは僅にソロモン王治世の間丈けであつた、縦し又駱駝の背を借りて、埃及バビロニヤ間の取継貿易に従事せんとするも、北方にはヒツタイト(Hittite)人があり、南方にはエドム(Edom)人ありてユダ人の到底敵対し難き競争者であつた、斯く海に於ても陸に於ても古代のユダ人は商業を以て国を興すの地位には居らなかつた。
 然らば彼等の製造業は如何にと云ふに、是れ亦フイニシヤ人、ギリシヤ人のそれに比べて見るに足るものは無(357)かつた、ユダ人が美術装飾の民でなかつた事は前にも述べた通りである、大王ソロモンが全国の富を増してエルサレムに神の拝殿を造りし時に、彼は築材、装飾品は勿論、技師工匠に至るまで一切之をツロに仰がなければならなかつた、若し其趣好より云へば昔時のユダ人ほど淡白の民はなかつた、彼等は自身修飾を嫌つた民であつたから、之を製造して外国に輸出するが如きは彼等は勿論為さなかつた。
 ※[草がんむり/最]爾たる小国の民であるから、彼等は武を以て鳴る事能はざりしは勿論である、『或人は車を頼み、或人は馬を頼みとするも、我は我がエホバの神に頼らん』とは、ユダ人が自身埃及人とアツシリヤ人とに此べて、彼等の武備に到底及ぶ能はざるを断念した言辞である、ユダ人が彼等の武に頼りし時は彼等が毎に失敗せし時であつて、彼等が終に祖先の国を喪ふに至りしも亦た此時であつた。
 農業でなく、商業でなく、工業でもなく、将た武術でもないとすればユダ人は抑も何に依て彼等の国を興したか、国は実際腕力と黄金とに依らずして興し得るものであるか、若し然らんにはユダヤの興りし理由は一つとして発見する事が出来ない。
 然し人はパンのみを以て生活するものではない、亦た国民も兵と富と計りで興るものではない、人は精神的動物であつて、国民とは此霊妙不可思議の動物の組織した集合躰である、若し立つべきの主義があれば砂漠の上にても大国家を造る事が出来る、ユダ人には実に一大信仰があつた、爾して彼等の此の信仰たるや、彼等に取ては全世界を有するにも勝る勢力の泉源であつた、此信仰があつたから彼等の中に偉人は続々と輩出し、大文学は耕さずして彼等の中に起り、富と兵とに欠乏したけれども彼等は万国の間に儼然として彼等の威厳を維持した、主義や信仰を空気か風のやふに有つても無いものゝやふに思ふて居る人々は能くユダヤ史を研究するが宜しい。然(358)らばユダ人の信仰なるものは如何ふ云ふものであつたかと云ふに
 (一) 彼等は神は一なりと信じた、そして此神は宇宙万物の上に絶対至上の権力を有するものであると信じた、彼等に取ては此神に比べて他に神と称すべきものはなかつた、一神教を信じたものはユダ人に限らない、アツシリヤ人も、ペルシヤ人も、アラビヤ人も、フイニシア人も、又或る意味に於てはエジプト人も一神教の信者であつた、然しユダ人の一神教は他国人の夫れとは大に趣を異にして居つた、他国人は独一の神を信ずると称して実は他の神々の存在を許した、彼等は所謂度量の寛き民であつた、然しユダヤ人は神なる名称を独一無二の神より外のものには与へなかつた、彼等の一神教は実に最も始終一徹《コンシステント》したものであつた。
 (二) ユダ人は彼等の神をエホバ(Jehovah)と呼んだ(或はヤーベー Jahveh と)、此エホバなる詞の根原に就ては随分六ケ敷い議論がある、或る学者は之を yehi(在らん)hove(在る)hahyah(在りし)なる三個の希伯来語を合せて成りし詞で有て、過去、現在、未来、即ち永遠より永遠まで存在する者の意であると云ふた、或は左様かも知れん、神はモーゼに現はれて「我は在て在る者」(l am that I am)と云つた、即ちユダ人の拝せし神は惟一の存在者と称すべきものであつた、啻に万物の創造者である計りではなく、其維持者で、又其完結者と認められし者であつた、爾ふして斯ふ云ふ神であつたから彼は常に人々の行為に関渉し、其悪を矯め、書を励ますは勿論、深く其将来を慮りて、丁度牝鶏が其雛を両翼の下に掩ふやふに人類を鹿保《かば》ふ者として信ぜられた、ユダ人の神は直接に人類と関係のある神であつた、夫故に彼等も亦神に事ふるに彼等の父母や又は国王に事ふるの心を以てした、凡そ世界各国民の内にユダ人程神に親しき民はなく、神なくしては、或は神の為めならでは、彼等は何事をも為さなかつた。
(359) (三) ユダ人の神は又正義公道の神であつた、勿論神と云へば孰れの国の神でも正義と公道とを唱へたに相違ない、然しユダ人の神の如く、純正純潔の者は未だ曾て人類の思想に上つた事はない、『汝は汝自身の如く汝の隣人を愛すべし』と言て人倫の基礎を定め、『穀物を碾《こな》す牛に口籠《くつご》をかく可らず』と言ひて、獣類に対するまでの同情を教へ、亦た『汝他国の人を悩ますべからず又之を虐ぐべからず、汝等も一時は他国の人たりしなり』と言ひては外人優待の礼義を教へた、勿論是等の教訓を二十世紀今日の道徳の標準より見れば、能く解り切つた事で別に驚くに足ぬ者のやふに思れる、然し今を距るる四千年の往時に遡て当時の状勢を考ふれば、排外の精神は世界到る処に美徳として讃賞せられ(日本の如きは今日猶ほ然り)、他国人を見る事禽獣も啻ならざる時代に当て此人情的教訓の唱へられし事は実に驚くより外はない、殊にユダ人の神が毫末程も卑猥的分子を留めなかつた事は、実に著大なる事実であつて、彼が偽善、貪婪を憎みしと同時に人情の最大弱点たる放肆淫行を些しも仮借しなかつた事は、是今だ他国の神に於て決して見る事の出来ない点である。
 (四) ユダ人は又世界統一の大希望を懐抱して居つた、此点に付ては彼等はアツシリヤ人、ペルシヤ人、羅馬人、又は今の露西亜人、英吉利人にも優る確信を有つて居つた。エホバの神は彼等の祖先なるアブラハムに斯く曰ふた、『我大に汝を恩み又大に汝の子孫を増して天の星の如く、浜の砂の如くならしむべし、汝の子孫は其敵の門を獲ん、又汝の子孫によりて天下の民皆福祉を得べし』と、又預言者|米迦《ミカ》もユダ人の未来の王に就て預言して曰ふた、『彼はエホバの力に由り、其神エホバの威光に依りて立ち、その群を牧し人をして安然に居らしめん、又彼は大なる者となりて地の極にまでおよばん』、此他ユダ人が終に全世界を統轄するに至らんとの預言は彼等の聖書の中に幾ケ所も書いてある、此大希望を抱いて居つたから彼等は如何なる困難に出会つても決して失望落胆(360)しなかつた、彼等は一度はエジプトに三百年間流浪の民となつた、又幾回かバビロンやアツシリヤの王の為めに掠奪せられ、又一度は全国民を挙てユーフラテス河辺に七十年間の奴隷的生涯を送つた、而して紀元後本七年には彼等は全く羅馬人の滅す処となつた、以来一千九百年間と云ふものは彼等は世界の各処に散乱して彼等が国として呼ぶべき邦土を有たない、然し斯くも流離困難を嘗めながら彼等は未だ世界統一の希望を失はない、彼等は今尚ほ世界は終に彼等の支配を受くるに至るべしと確かに信じて居る。
 此の如き偉大なる信仰を懐抱して居るのであるから彼等は自然と偉大なる国民たらざるを得なかつた、紀元前二千年頃アブラハムが始めてパレスチナの地に移住してから、イサク、ヤコブ、ヨセフの時代を過ぎて、千三百二十年頃モーゼが埃及の地より彼等の種族を救ひ出せし時分には、彼等は既に百万人以上の国民であつた、其後三百年間計りはユダヤは純粋なる共和国であつたが、紀元前一千年頃サウル王の下に王国となり、詩人的政治家ダビデの下に其隆盛の極度に達し、ダビデの子ソロモン大王の時に至りて外形の荘麗は内部衰凋の徴を示し、其子レホヾアムの時に於て国は南北の二国に分れて、南なるはユダの王国と呼ばれてダビデより来りし正統の王を戴き、北方のものはイスラエルの王国と呼ばれて紛乱の常に絶えざる国であつた、そして北なるは紀元前七百二十二年にアツシリヤ王サルゴンの亡す所となり、南方は暫く其存在を維持して同じく五百八十六年に至りパビロン王ネブカドネザルの亡す所となつた 亦た同五百三十七年にペルシヤ王サイラスの愛顧に依て彼等は再びパレスチナに国を建つる事を得たが、後一度はシリヤ王の配下に属し、又一度は独立して、終には紀元前六十三年にポンペーの征服する所となつて羅馬の属国となつた、羅馬帝アウガスタス シーザーの時にイエスキリストは生れ、後七年を経てヴエスパシヤン帝の時に其の子タイタスの全く亡す所となつた、是が先づユダヤ歴史の極々の(361)大略である。
 今熟々ユダ人の興敗の原因を尋ねて見るに、其一盛一衰は一に彼等が其当時に懐いて居た信仰の度の高低強弱にあつた事が歴然として解る、斯く云へばとて何も必しも神の厳罰が覿面に彼等の上に現はれて爾ふなつたと云ふのではない、前にも述べた通り、ユダ人の如き精神的国民に取ては彼等の信仰の外に別に国家を維持するに足るものが無かつたから彼等の信仰の衰微は直に国運に於て現はれた、エジプトのやふな豊富な国では道徳の衰頽は容易に国の破滅を来さない、其沃饒なる田園と其巧妙なる工芸品とは永く万国の信用を繋ぐに足つて、縦し民心は禽獣の夫にまで堕落しても国家の体面は何ふか斯ふか維持して行く事が出来る、然るにユダヤは全く之と反対であつて、ユダ人に道徳なければ彼等に何一つ取り所がなかつた 国は至つて小さし、産物は乏しい、故に彼等が精神的に死せし時は亦た国家的に亡びし時で有た、丁度志士とか文士とか云ふ人達が黄白の為に節を売つたやふなもので、其時の彼等の憐れさは実に物の譬へやうが無かつた 然し又反対に一度び彼等の心中の信仰が復興するときは彼等は恰もエシモンの荒野に春雨の降りし時のやふに忽然として雄麗偉大の民となつた、高想は滾々たる流水の泉源より溢れ出る如くに彼等の中より流れ出でた、忽にしてイザヤ、エレミヤの如き詩人的大政治家が起りて国家の理想と人類の希望とを歌ふた、マカビースが一たび起ては全国民は失意の仮睡より覚めて希望勇壮の民となつた、ユダ人ほど失望し易い民はなかつたが、又彼等ほど希望を回復し易い民はなかつた、彼等の唯一の所有品とては彼等の感激し易き心腸のみであつたから、感慨の有無と強弱とに依て彼等は全く別種の民と変じた。
 斯く彼等は二千年間彼等の国民的生涯を続けた、爾ふして彼等が羅馬人に隷属するやふになつて彼等の中に一(362)個奇異なる人物が突然として現はれた、彼は北方ガリラヤの山地ナザレの僻村に大工を営みしヨセフと云ふ者の子であつた、或人は彼を預言者エリヤの再来であると云ふた、又或者は彼は悪魔に魅かれし者であるとも云ひ、衆評紛々たる有様であつたが、然し彼自身は神の子で人類の救主であると曰つた 此を聞いたユダ人全躰は彼の此言を聞いて非常に激昂し、彼等は「彼は神を辱める者だ」と叫んだ、然し彼が他に何等の罪を犯さなかつた事は彼の敵も承知して居つた、彼は実に謙遜なる事小羊の如き者であつた、然しユダ人は竟に彼を赦さなかつた、彼等は終に無謀にも彼を大逆無道の人と断じて彼を十字架上に釘《つ》けた、彼は斯くて三十三歳を一期として恥辱の横死を遂げた、然し彼は実にユダ人の中に傑出した最も大なる者であつた。
 先づ一考して見給へ、彼の今日に及ぼせる勢力は如何である乎、微々たる大工の子にして、十字架に釘けられし此ユダ人は今は世界の王の王である、英国の女皇も彼の名を口に唱へる、唱へなければ国民の信用を失ふて仕舞ふ、露国の皇帝も彼の前には奴僕である、彼の戴く冠冕には十字架の徽章が附いて居る、独逸の皇帝も彼の宗教の保護者を以て自任して居る、イエスの信者は今は三億九千一百万を以て算へられる、是は世界の総人口の二割八分であるが、然し其最も開けた進歩した部分であつて、智識も、道徳も、富も、兵力も今は全く彼の信徒の掌中に帰して居る、勿論彼等イエスの弟子と称する者の中の最大多数は彼の真意の那辺にあるかを知らない者である、随て彼等の行動の多くは彼の教訓に戻つて居る、然し彼等の理想とする所は皆な彼の如き公平無私、純潔謙遜の生涯にある事は確かである、故に若し其人の握れる実権の多寡を以て計るならば、今日世界の王とも称すべき者は、英吉利の女皇や露西亜の皇帝ではなくして、彼等が師として仰ぐ所のユダ人なりしナザレのイエス、キリストである。
(363) 『工匠《いへつくり》の棄たる石は家の隅の首石《おやいし》となれり』、ユダ人の殺せしユダ人が実際はユダ人の王となつて、亦世界の王と成りつゝあるのである、世界は矢張りユダ人に依て統一せらるゝものゝ様に見える、然れば往時の予言者の言辞は真理《まこと》であつて、ユダ国存在の理由はイエス キリストなる大人物を人類に供給する為めであつた、此人物が生れて、彼は彼の天職を了へて人類救済の途を開いた後は、ユダヤは其存在の理由を失ふて国としては消失せて仕舞ふた、恰ど草が実を結んで枯れて了ふたと同一である、然し其結びし実は亦た新らしき生命の樹を生じ、其蕃茂は綿々として永遠に及ぶも尽くる期なく、其葉は万国の民を医し、其果実は凡て痛める者の心を慰むるやふに為つた。 〔以上、明治33・3・15〕
 
    第十六回 歴史的人種(上)
 
 歴史は人類進歩の記録である、故に進歩に関係のない人種は歴史的と称する事は出来ない、彼の北海道のアイヌ人種や、台湾の生蕃族、或は南洋の食人々種等は人類の一部分たるには相違ないが歴史的人種と云ふ事は出来ない、彼等も何時か一度は人類進歩の為めに何にか貢献する所があつて歴史的人種となる事があるかも知れない、然し夫れまでは彼等は博物学的にのみ攻究さるゝに止まつて、歴史家の筆端に上る価値のないものである。
 又過去の記録を有する人種であるとして必も歴史的のものではない、南亜米利加のペルー人や、北アメリカのメキシコ人は共に多くの過去の記録を有する民であるが、歴史的人種であると云ふ事は出来ない、又支那人のやうに、朝鮮人のやうに、彼等も遠からずして歴史的人種となるのかも知れぬが、今日の処では未だ其名誉の地位に立て居る者とは云へない、人類全躰の進歩に大影響を及ぼした事のない民は如何に老大国の民であつても歴(364)史的の民と云ふ事は出来ない。
 扨て進歩にも種々種類がある、工芸上の進歩もあれば、政治上の進歩もあり、文学上の進歩もあれば、宗教上の進歩もある、文明とは元釆合成的のものであるから、人類は一方にのみ発達して居ればとて決して全躰に於て進歩する事の出来るものではない、丁度茲に一社会があつて其発達を遂げんが為には種々の人物を要するやうに、人類も其完全の域に達せんが為には亦た種々の人種と国民とを要するものである、今ま人類総躰を大川に譬へて見れば人種は其主なる支流であつて、国民は支流の更に分支したものである、爾して歴史的人種とは、或は工芸を以て、或は文学を以て、或は政治思想を以て、或は宗教的観念を以て既に今日までに文明と云ふ幹流に進歩の水分を注入したるものを指して云ふのである。
 斯く観じて来ると歴史的人種なるものは今日の処では世界の総人口の一小部分なる事が解る、褐色或は黒色人種とも称して、南洋諸島や、阿弗利加の内地に棲息して居る一億五千万余の民族は未だ是ぞと云ふて人類進歩の為に功を奏した事はない、彼等の内で米国に移住したものは今は稍々進歩歴史に関係を有するやうになつたけれども、未だ人種として大国家を組織するにも至らず、亦た新文明を造るにも至らない、西印度のハイチ、サンドミンゴの二国は黒人の建設した共和国ではあるが、彼等は黒人の西班牙化又は仏蘭西化されし者であつて、黒人種固有の性質を発揮して国を成したるものではない。
 次は人口六億二千万余を有する黄色人種であるが、是は其一部分丈けは歴史的人種である、欧羅巴の中心に攻め入て白色人種の間に一種独特の文明を作つた洪牙利人は紛らふべきなき黄色人種であつて、亦た歴史的人種である、若し彼等の中にハンニアヂなる英雄が出て、土耳古人の侵入を喰ひ止めなかつたならば、欧羅巴大陸は決(365)して今日のやうなものに成らなかつたに相違ない、ルイコスート、バツテイアニ、ゴルゴイのやうな人物は皆な立派なる歴史上の人物である、洪牙利人あるが為に我等黄色人種に属して居る民は世界に向つて我等の人種の為に誇り、又其未来の希望を述べる事が出来る。紛蘭土人も又黄色人種であつて、其最も進歩したものである、バルチツク海北岸一帯の地を占め、霧西亜と瑞典との間に位して能く国家的尊厳を維持し、名は露西亜帝国の一領土であるけれども実は厳然たる独立国である、土耳古人も欧州に国を成して居る黄色人種の一つであるが、彼は文明進歩の幇助者と云はんよりも寧ろ其妨害者と称すべき者である、昔しのハン人(Huns)、スキト人(Scythians)等も若し黄色人種であつたならば、彼等も土耳古人と均しく進歩の障礙者の中に算へらるべきものである、又太古時代のエラム人(Elam)が黄色人種に属した者ならばバビロニヤ文明創設の功は正に此人種に帰すべきものである、支那人は洪水以前の文明を今日まで保存し来つた外は、別に人類全躰の為に尽した事がない故に、歴史的国民となるには尚ほ別に偉功を樹つる処なくてはならない、日本人が若し其天職を尽す事を得て東亜四億万の民衆に新文明を注入するの媒介たる事が出来れば、希臘人にも劣らぬ歴史的人民となつて、永く其芳名を世界歴史面に留めるを得るに至るであらふ、黄色人種は黒色人種のやうに歴史以外に立つの人種でない事は明瞭である。
 然し世界歴史に最も関係の深い人種は白色人種である、斯く云ふは決して余輩の偏見でない事は少しく世界今日の大勢を観察して見れば解かる、世界陸面の大部分は実に白色人種の領土である、文明の利器として用ゐられる機械は大方皆んな白色人種の発明に成つたものである、或は政治と云ひ、法律と云ひ白色人種の手に成らざるもので能く文明国に通用すべきものが無い、白色人種以外に美術なしとは少しく過大の言のやうであれども、然(366)らばとて黄色人種の美術なるものは其実は唯だ美芸と云ふに過ぎないと云ふも全く理由の無い言ではない、文学に於も矢張り同然であつて、支那人や朝鮮人等黄色人種の作つた文学は実は文芸と云ふべきものであつて文学(Literature)ではなひ、文学とは思惟(Thought)の発表であつて、思惟の無い処に文学のありやう筈はない、司馬遷の事を東洋のプルタークと云ふが、然しプルターク司馬遷の間には根本的の差異がある、一は推理(思惟)の人で他は知覚(sense perception)の人である、英語のソート、独逸語のゲダンケンなどゝ云ふ欧羅巴語を東洋語に訳するは甚だ困難であると思ふ。
 白色人種と云へば其数も種類も非常に多い人種である、数に於ては黄色人種の夫れに超へて六億七千万ある、其種類に至ては印度土着の民でドラビデイアン(Dravidian)人種と称する者は外貌こそ黒人に類して居るが、人類学上の地位では白色人種に属すべき者であるとの事である、阿弗利加に於てもニユビヤ人、アビシニヤ人、エジプト人などは其外皮の濃褐色なるに係はらず矢張り白色人種として種別さるべき者である、又はアラビヤ人、ユダ人、エシオピヤ人、アビシニヤ人等も其毛髪は黒色で其皮膚は淡黄色を帯びて居るけれども、是亦た紛ひない白色人種の一派である、其他印度人、ペルシヤ人、アルメニヤ人、アルバニヤ人、セルビヤ人等は彼等の文明が余り高くない故に我々は時としては彼等の白色人種なる事を疑ふ事もあるが、然し彼等は殆んど純粋なる白色人種であつて、伊太利人、独逸人、仏蘭西人等と祖先を同一にする人種である、所謂「地中海人種」と称して曾ては地中海の周囲に本拠を定めし民種は今では六億二千五百余万の多きに達して、世界到る処に居を移し、文明進歩の保護者且つは開発者として人類の最上位を占めて居る所の者である。
 以上は世界現在の人種に就て述べた所であるが、然し今より三千年の昔に溯り、人類活動の区域は世界の一局(367)部に限られし頃は随て歴史的人種も今日の如く多くはなかつた、太古史の舞台とも称すべきものは重に西方亜細亜であつて之に亜弗利加の東北隅と欧羅巴の東南隅とを加へしものに過ぎなかつた、西はパミール高原を以て限られ、東は伊太利半島を越へず、北は黒海コーカサス山を以て境とし、南はペルシヤ湾、アラビヤ砂漠并に紅海を以て終つて居つた、其面積は大凡二百五十万方哩程であつて、欧羅巴大陸の殆んど四分の三位に過ぎなかつた、ペルシヤ王ダリヤスの時代に於て此区域内に住ひし人民の数は大凡二千五百万位であつたらふとの事である、其内に支那人のありし事なく、印度人は僅に其西北隅インダス河の流域に住みし者のみ知られしなるべく、又阿弗利加の黒奴の如きは単にエジプト、バビロン等の奴隷市場に現はれた位ひの者であつたらふ。
 斯く西方亜細亜の区域は拡大ではなかつたが人類の進歩歴史は実に此小区域内に於て始つたものである、エジプト、バビロニヤ、アツシリヤ、フイニシヤ、ユダヤは勿論、リデイヤと称して今の小亜細亜の西北部に一時は強大なる王国と成つて現はれたものも、ヘタ又はケタの国と称へて一時はエジプトと覇を争ひしものも、メデイヤも、ペルシヤも皆んな此区域内に現はれし国である、人類の歴史と云ふものは今より一万年以前に始まりしものと仮定して見れば其八千年間は大抵此小区域内に於て演ぜられしものである、故に世界歴史の五分の四は西方亜細亜史であると云ふても別に差支はないと思ふ。
 扨て此区域内に如何なる人種が住つて居つたか、之は古代史を研究するに当つて最も大切なる問題である、爾うして此点に於ては西方亜細亜は東方亜細亜とは大に其趣を異にして居る、葱嶺以東太平洋に至るまでは唯だ一つの人種が住つ居つたのみである、曳壁砂漠の蒙古人と云ひ、遼東満州の山野に天幕を張りしと云ふ粛慎、勿吉、靺鞨と云ひ、渤海と云ひ、契丹と云ひ、女真と云ひ、匈奴と云ひ、北狄と云ひ、鉄勒と云ひ、西蔵の民たりし西(368)※[羌+ム]と云ひ、西戎と云ひ、其名こそ異なれ、姓こそ違へ、皆な黄色人種の種族であつて、人類学上では同じく一種一様の人種であつた、上下五千年に渉ると云ふ泰東史なるものは実に一人種の歴史で外ない、勿論其内に多少異人種の雑つて居らない事はなかつたに相違あるまい、然し白色人種又は褐色人種が曾て禹域を横領したなどゝ云ふ事は支那歴史に於て決して見る事の出来ない所で、然かも之は支那人が世界に向つて非常に誇る所である。
 然し西方亜細亜に至つては是とは全く違つて居る、其内に歴史に関係ある人種と云ふ人種で代表されて居らないものはない、其内には勿論黄色人種が居つた、パミール高原の西麓にはサカ(Saca)人があつて、是はペルシヤ帝国が其最盛の極に達した頃は帝国に供するに最も勇敢なる兵卒を以てした蒙古人種の一派であつた、又はマザガテイーと称して今の土耳其斯丹を占領して居つた民も確かに黄色人種であつた、唯だ夫れ計りではない、前にも述べた通りバビロニヤ文明の基礎を据へしならんと云ふエラム人も多分黄色人種であつたらふとの事である、又スクト人と云つて黒海の南北両岸に住し、小亜細亜地方を掠奪し、預言者エレミヤをして彼の悲痛なる警告を発せしめし民は大方は黄色人種であつたであらふ、又或る人の説に依ればヘタ人(所謂ヒツタイト人にして日本人の祖先なりとの説あるもの)は紀元前八九百年頃まで西方亜細亜に迹を絶たざりし黄色人種の残類であつたとの事である。
 若し夫れ白色人種に至つては其支派末派に至るまで悉く西方亜細亜に於て代表されて居らなかつた者は稀である、今こそは一概に白色人種を欧羅巴人種と称へ、黄色人種を亜細亜人種と称へて、欧亜両大陸に白黄の別があるやうに世人は思ふけれども、白色人種とて元は始めて亜細亜に起つた民であつて、亜細亜は実に彼等を養育せし彼等のホームである、只黄色人種は重に其東半部に於てし、白哲人種は其西部に於て発達せし故、今日の如く(36)二者東西に相別れるに至つたのである、或る学者の説にヨーロツパ(Europa)なる名稱はフイニシヤ語のウラツパ(Urappa)より来りしものであつて、「白色」の意であると云ひ、又ゲベリン(Gebelin)氏なる仏国の学者の説に依れば同じフイニシヤ語のウラブ(Urab)「西」なる詞より来りしものであると云ふが、何れにしろ白色人種は西方に住ひし者であると事は太古時代より人の一般に唱へしものゝやうに見へる。
 歴史と称すべき歴史は実は西方亜細亜に於て白色人種を以て始つたものである、美の何たる乎、想の、何たる乎、宗教の何たる乎は白色人種が欧、亜、仏三大陸の互接する辺に於て略ぼ決定せし問題である、爾うして之を為すに当つて彼等は異人種即ち重に黄色人種との接触を要した計りではなく、亦た白色人種中各派の劇烈なる折衝と競争とを要した、太古四千年間の歴史は主として白色人種の歴史であつて、其三大派が西亜の天地に相次いで進歩の上に進歩を加へし記録である。
 白人種の三大派とはシエム、ハム、ヤペテの三人種である、之はノアの子より出し名であつて勿論旧約聖書より出しものである、三人の中孰れが長子で、孰れが末子でありしかは能く分らないが、然し彼等が兄弟でありし事は聖書の示す通りである、是に依て見るとノアなる人は洪水以後の人類の始祖ではなくして白人種の始祖であつた事が分る。
 洪水の話、ノアと彼の子孫との話は何れほど歴史的の価値あるものかは茲に断定する事は出来ない、或人は之は皆な譬喩であると云ひ、又或人は之は一地方に於て起りし出来事の記録であると云ふ、然し茲に歴史家の非難する事の出来ない事が一つある、夫れは即ち歴史的人種に三種あつて、三者相互間の類似点と差違点とが略ぼ聖書の示す通りであるとの事である、或人は聖書の示す名である故に宗教臭しとて之を忌がる人がある、爾う云ふ(370)人は何も必しも此名を用ゆるには及ばない、只古代の白人種に聖書が記載するやうな明白なる別があつて、太古史なるものは是等三者の相互的動作であると云ふ事丈けを承知して居れば宜しい。
 故に古代史に四大人種があつたと云ふ事が出来る、実は一大人種と三支族より成るものであるが、然し四者の区別の余り明白なるより之を四大人種と称する方が甚だ便利である、即ち第一がシエム人種、第二がハム人種、第三がヤペテ人種で、第四がツラン(Turanian)人種である、第四は前三者即ち白色人種以外の民を総括する名称である。 〔以上、明治33・4・15〕
 
    第十七回 歴史的人種(中)
 
 ツラン人種とは白色人種以外の民の総称である、ツラン(Turan)なる詞は素と波斯語に出しものであつて「イラン人以外の民」(no-Iran)と云ふ義であるとの事である、至つて漠然たる名称であつて、人類学的には殆んど用のない詞であるが然も歴史的には甚だ便利な名であつて、ツラン人種又はツラン文明と云へば一種特別の意味を通ずる詞である。
 白色人種以外の民と云へば黒人種も褐色人種もツラン人種の中に含まるべき者であるが、然し実際は然らずして、古代史に於てツラン人種と云へば重に黄色人種を指して呼ぶ名称である、人類の歴史なるものは実は黄色人種を以て始まりしものであつて、夫れ以前の事項は重に考古学の領分に属すべきものである。
 若し進化論の方から言ふならば黄色人種は褐色人種と白色人種との間に立つ者であつて、黒人種、銅色人種等が進化して稍や文明的生涯に耐ゆるに至りし者であると云ふ事が出来る、そして序に述べて置くが白色人種の中(371)でもハム人種は其最も劣等なるものであつて、黄色人種に最も近ひ者であり、シヱム人種はハム人種とヤペテ人種との間に来るべきものであつて、ヤペテ人種は白色人種の中最も優等の民である、故に進化の順序から曰つてツラン人種は必ず白色人種の前に来るべき者である、後者は実に前者の後を襲ふた者であつて、白色人種の到りし所には必ずツラン人種が前以て既に住つて居つたやうに見へる。
 四大人種が能く其順序を逐ふて歴史面に顕はれし処はバビロニヤの平原であるが、其最古の民はヱラム人を称してツラン人種の一派でありし事はバビロニヤ史を談ずる時に既に述べし通りである、バビロニヤの原始的文明と今日の支那文明との間に近い関係のある事は我等の殊に注意すべき事である、二者共に現実主義を基とする文明であり、其白色人種の感化を受けし者が西洋文明の基礎となりしバビロニヤ文明であつて、其原始的形状を持続して今日に至りしものが支那文明である、サルゴン第一世の下にシエム人種の王国の起らざりし前に、「夫の権力ある猟夫ニムロデ」がクシ人(Cushite)と称するハム人種の一派を牽いて亜拉此亜半島の南部より此地に移住し来りて、ベヾル、ヱレック、アカデ等の城市を築きし前にツラン人種は既に数百千年の長き間此地に在りし者である。
 埃及夕於ても亦同じ事である、所謂埃及人なる者は白色人種の一派であつて決してナイル河辺土着の民でなかつた事は今は学者の一般に承認する所である、彼等は亜拉此亜の西南部又は阿弗利加の東部にして今のソマリランド(Somaliland)地方より入り来りし者であつて、埃及土着の民とは全く別人種であつた、或は黒人種であつたか、又は黄色人種であつた乎、夫れは能く分らないが、然も埃及人に先んじてナイル河の沿岸を占有して居つた民は白色人種以外の民であつた事丈けは今は何人も疑はない所である。
(372) ペルシヤ人并にメヂヤ人は立派なる白色人種であるが、彼等に先んじて伊蘭高原の西部を占領して居つた民は亦ツラン人種であつた、所謂マガス(Magus)と称して拝火宗をペルシヤ人の中に注入して其アリアン的品性を汚した者は矢張りツラン人種であつた。
 其他幾回となく西方亜細亜に掠奪を極めしスキト人(Scythians)、曾て埃及に侵入して五百年間其文化の進歩を阻害せしヒクソス(Hyksos)人、シリヤのハマス(Hamath)に都して一時は埃及人と西亜の天下を争ひしヘタ人(Hittite)等は多分皆黄色人種であつたゞらうとの事である。
 斯くてツラン人種は歴史的最下層の民である。彼等は白色人種の文明に物質的基礎を供した者である、彼等は僅に事物の利を見る事が出来る丈けであつて、其理を透察するの力に欠乏して居つた、故に彼等の文明なるものは農工業の初歩、音字の発見位に止まり、科学だとか、思想だとか、権利だとか、自由だとか云ふ純真理の領分に属するものに及ばなかつた、其政治は圧制と定つて居つた、其文学は文芸で、其美術は装飾の一種たるに過ぎなかつた、ツラン時代は人類の小児時代であつて、其肉体的発育の時代であつた、白色人色の出現を以て人類は進歩の新紀元に入つたのである。
 ノアの洪水なるものは如何なる天変地異でありし乎は能く判然せざれども、然し其歴史的大事実でありし事は明かである、ノアの洪水は実に人類社会の改築であつた、洪水に依て剿滅されしと云ふ民は実は人類全体ではなくしてツラン人種であつた、ノアと共に救はれしと云ふ彼の三人の子は実はシヱム、ハム、ヤペテの白色人種であつた、洪水は実にツラン人種の世界的勢力に終焉を告げんが為めの大禍災であつた、曾て支那文明の事を洪水以前の文明と云ひしは其純粋のツラン人種の文明である故である。
(373) 洪水に依て掃蕩されし西亜の天地に先づ最始に現はれし白色人種はハム人種であつた、其本拠の地は亜拉此亜半島の南部であつて、彼等は此処より東西二派に分れ、東なるは波斯湾の西南岸を沿ふてチグリス、ユーフラテス河口に抵り、夫れより河岸に沿ふてチグリス河以東ザグロス山脈に至るまでの一帯の地を占めたやうに見へる、(創世記第十章七節より十二節まで参考)、西なるは紅海を渡り、今のソマリランド、ニユビヤ、アビシニヤ等の地を経て後、終にナイル河岸に出て地中海に至るまでの其両岸の地を占領した、埃及人はハム人種中最も著名なる者であつて、ハム(Ham)又はカム(Kham)なる名称は多分埃及国の古名なるケム(Khem「黒土」の意)より来りしものならんとの事である、埃及人は実にハム人種の代表者であつて、ハム的思想は最も善く埃及文明に於て表はれて居る。
 前にも述べた通りハム人種は白色人種の中でツラン人種に最も近いものである、其理性に富み、荘大なる建築術に長じ、冥想的にして哲理的なる点に於ては彼等は紛ふべきなき白色人種であるが、然し稼穡の道に長じ、平和を愛し、実利の為めには屈辱に甘んずる点に於ては彼等は善くツラン人種に似て居る、博士セイスの筆に成れる埃及人に関する左の記事を読んで我等は亦た支那人を聯想せざるを得ない、
  埃及人は平和の民にして戦争の民にあらず、文明の先導者にして一時は蒙昧の闇夜に在て光を放つ燈明台の如きものたりしと雖も、第十二王朝以後の攻及国は常に諸強国の奴隷たるを免がれざりき、埃及人は他国人を感化せり、而して粗暴ヒクソス人の如きも終には埃及人の習慣を採用し、其制度に則らざるを得ざるに至りき、然れども埃及人に傚ふも彼等の征服者は埃及人の上に立て其下に降らざりき、埃及人は自治の性を欠けり、国家の首脳たる者は埃及人の有せざる能力を具備せざるべからず、武的精神に欠之して埃及人は政治(374)的指導の器能を失へり。
 埃及人の外にハム人種の中に算入せらるゝ者はクシ人又はヱシオピヤ人と称してナイルの上流、今のニユビヤ辺に任せし民、リビヤ人と称して埃及の西に住みし民、其他カナン人、フイニシヤ人の一部であつた、然し埃及人を除いて彼等は之ぞと云ふ歴史的民族ではなかつた。 〔以上、明治33・4・25〕
 
    第十八回 歴史的人種(下)
 
 亜拉此亜半島と云へば広袤一百万方哩に渉り、日本帝国を五倍するの大邦土であるが、其土地の荒漠なるが故に、往昔より今日に至るまで其内に大帝国の興つた例しはない、其内地の模様は知るに由ないが、其海岸の土性より察するに半島到る処に沃原膏野の有らふとは思はれない、其物産とては護謨、乳香、馬の類に止つて、其他別に大国を興すに足るの富源は今日の所半島内に発見する事が出来ない。
 然し天が此大半島を造りしには何にか他に目的があつたに相違ない、其東隣の印度は殆んど同じ大さの半島であるが、其富饒豊沃は世界無比である、亦た欧洲の西端なる西班牙半島は其地形構造に於て能く亜拉此亜に似て居るが、其水銀鉱、其綿羊、又其南部に産する穀類の富は決して亜拉此亜の此ではない、世に半島は幾個もあるが亜拉此亜半島のやうに大にして且つ不毛なるものはない、其生産力より云へば亜拉比亜は朝鮮半島に劣り、暹羅、安南、ペナンの東印度半島にも及ばない、百万方哩の大国は僅に五百万足らずの人口を支えるのみである。
 馬は亜拉此亜の名産であることは誰も能く知つて居る、然し天は此大半島を牧場としてのみ造つたとは思はれない、然らば亜拉此亜は人類の進歩歴史に何の関係もない国である乎と云ふに、夫れは決して爾うではない。
(375) 草木の繁茂しない処、田園の相連らない国、是れ必しも無用の国ではない、亜拉比亜半島はパミール高原、スカンダナビヤ半島のやうに高貴なる人種の成育所であつた、其曇りなき天気と、其香はしき蘆薈、肉桂、乳香、没薬の類と、其暑き昼と寒き夜と、其熱風と砂煙と、其獅子と駝鳥と駱駝とは能く人と鍛練するに適して居ると見へる。
 亜拉比亜の特産は強健偉大なる人種であつた。即ち白哲人種の砂漠国に於ける発達に適したるものであつた、我等は又ユダ教の始祖なる摩西は或る意味に於ては亜拉比亜人でありし事を忘れてはならない、ユダ教は実は亜拉比亜の西北部なるシナイ半島に於て起つたものであつて矢張り亜拉此亜教である、約百《ヨブ》は疑もなく亜拉此亜人であつて、彼の宗教的実験が何れ程後世を益したかを知る者は亜拉比亜の感化力の永久的なるに驚かざるを得ない、保羅も亦改宗して後の三ケ年を亜拉此亜に於て過したとの事であれば、文明国は彼を透して亜拉比亜砂漠の薫陶力を感じつゝあるのである、爾うして第七世紀の中頃に其メツカに於て起つたモハメツト教が今尚一億五千五百万人の信仰する所となり、西は太西洋の海岸より、サハラ、埃及を通じて、亜拉比亜、波斯、トルキスタン、蒙古、満洲まで、二大陸に跨る一帯の砂漠国に於て行はれつゝあるを知て亜拉此亜の世界的勢力が如何に広大であるかゞ分る、亜拉此亜は優美なる文学を出した、又ニネベ、バグダツド、コルドバに於て荘大なる美術を造つた、其精神的感化力に至ては世界各国多分亜拉此亜に及ぶものはあるまい。
 何時の頃かは分らないが、何でも極く早い頃に相違ない、白皙人種の一派が北方の或る国より来つて此半島内に居を定めた、そして土地と気候との感化に於て彼等は追々と彼等の持来りし其固有の性を脱却した、彼等の皮膚は其赤白色を失ふて薄黒色となつた、彼等の毛髪は其黄金色を脱して黒色に変じた、彼等の骨格は細り、彼等(376)の全躰の容貌は暖国的に為つた、白皙人種の亜拉比亜化されしものが即ちハム、シヱムの二大人種であつた。
 ハムは半島の南部に於て発達し、後ち海を渡つて、東せし者は波斯湾頭にニムロデの王国を建設し、ツラン人種の後を承けて白哲人種の創めし最始の文明を造つた、西せし者は阿弗利加に入り、ナイル河辺に埃及国を建設した事は前回既に述べた通りである、ハムとシヱムとは素と同一の民であつて、一度は半島の内部に於て同一の言語を使用し居りし者ならんとの説は輓近の人種学者や言語学者の屡々唱ふる所である。
 ハムは南に向て伸び、シヱムは北に向て広がつた、其一派はメソポタミヤに下つて此処にバビロン、アツシリヤの強国を築いた、ユーフラテス河岸一帯の地はシヱム人種の殆んど独占する所となつた、バビロン人の多数、アツシリヤ人の殆んど全部、アラム人と称して今のシリヤ人、ヱドム人と称してユダ国の南方に住みし民、モアブ人と称して「死海」の東に在りし民、其北にありしアモン人、ユダ人は勿論、多分フイニシヤは皆なシヱム人種に属する民であつた、彼等の地理学的地位はハム人とヤペテ人との間にあつて、其区域は甚だ広からざりしも、古代史の大部分は此区域内に生じた事柄である。シヱム人種の特性に就て博士セイス氏は彼の「旧約聖書人種論」に於て斯う曰ふて居る、少し哲学的であるが彼の語其儘を直訳しやう
  シヱム人は性怜例にして器用なり、彼は殊に理財の術に長ず、彼の記臆力は好留的《リテンチーブ》なり、彼の探究法は帰納的なるよりは寧ろ※[糸+寅]繹的なり、彼は或る帰納的結論に達せんが為に証拠の軽重を秤らんとするよりは寧ろ或る前提より推断を※[糸+寅]繹して以て直に反対論者の弱点を暴露せんとするの傾向あり、彼は夫故に帰納的なる科学に於てするよりは※[糸+寅]繹的なる数理の学又は音楽の術に於て高名を博するに易し
 シヱム人が議論的でなくして実際的であり、政治的でなくして宗教的であり、智識的でなくして感情的である(377)のは全く彼等の此※[糸+寅]繹的本性に依るのである、彼等は此点に於てはヤペテ人種とは正反対であつて、彼等の此特性を善く心に留めて彼等の歴史と文明とを解するに難くない、近世に至つてスピノザのやうな哲学者、メンデルゾーンのやうな音楽者、ロートシルト、ゴールドシユミツトのやうな大理財家が彼等の中より出しを見てもシヱム人の※[糸+寅]繹的傾向の今に尚ほ変らない事が分る。
 ヤペテは北方の白哲人種である、彼は始めて何処に起つた人種である乎は人種学上の大問題である、印度人と波斯人とがヤペテ人種であるから其起原は中央亜細亜にあつたであらうとの説は今は学者の一般に棄てる所となつた、独逸の学者で博士ペ−シヱ(Dr.Poesche)なる人が、白哲人種は露西亜の南方沼沢の中に起つた異白人《しろつこ》であると見たのは最も奇妙なる説である、然し白哲人種は素々欧羅巴産の民であること丈けは先づ疑を納れ難い事のやうに思はれる。或はスカンダナビヤの山中に始めて起つた人種であるとの説が終には勝を占めるに至るのであるかも知れない。
 其起原は何処に於てあつたにせよ、彼等が夙くより亜細亜大陸の西部に来つて居りし事は確かである、今のアフガニスタン辺が其一派なるアリヤン種族の本場であつて、それより彼等は東は印度平原に下り、西はメデイヤ、ペルシヤの地方にまで居を移した、古代史に現はれたる最も著名なるヤペテ人種はアツシリヤの東に当て、終にはシヱム人種の手より世界の覇権をヤベテ人種の手に奪ひしメデイヤ人があつた、メデイヤ人に続いて起りし民が波斯人であつて、彼等はネブカドネザルの巴比倫王国を滅し二百二十五年の間文明世界の主権者となつた、アツシリヤの北にミタニなる国があつて、其民は多分今のアルメニヤ人の祖先であつて、是又純粋なるヤペテ人種であつた、ミタニの西にフリギヤ人(Phrygians)リデイヤ(Lydians)が有つて、是又ヤペテの支派であつた、リデ(378)イヤ人の西に住して重に海岸に在て航海に熟練した民がヤバン人(Javan Ionian)即ち希臘人であつた。
 ヤペテ人種の特性に就ては今茲に述る事は出来ない、彼等は推理の民であつて、政治並に科学なるものは実は彼等を以て始まつたものである事は前にも述べた通りである、所謂欧羅巴文明なるものはヤペテ人種の勃興と共に始まつたものであつて、ヤペテはノアの三人の子供の中で最終に興つた者で亦最も秀でたる者であつた、若しツラン人種の隠退とハム人種の現出とを以て世界歴史なるものが始まつたとならば、シヱム人種の衰退とヤペテ人種の振起とを以て近世文明史なるものは始まつたと云ふ事が出来ると思ふ。
 斯くて其歴史面に現はれたる順序より云へばツランが第一であつて、其次はハム、其又次はシヱム、そして終りに現はれしものがヤペテであつた、又其地理学的分配より云へばツランは原始的人種であつて、白哲人種の現出以前は欧亜何れの地にも在りし者のやうに見え、ハムは西亜の南部を占め、シヱムは其北に在て中間の地位を占め、ヤペテはシヱムの東北西一帯の地に住して其雄飛の時機を待ちつゝあつた。 〔以上、明治33・5・5〕
 
    第十九回 伊蘭高原
 
 スリマン山脈(Suliman Mts)より東へ千七百哩ザグロス山脈(Zagros Mts)まで、裏海より南へ七百哩波斯湾までの間の地を伊蘭高原(Iran)と云ふ、東は直にパミール高原并にヒマラヤ山脈に接し、北はトルキスタンの高原に連り、西はチグリス、ユーフラテスの二流を経て亜拉此亜高原に続いて居る、亜細亜大陸の大高原の一つであつて、然かも世界歴史には関係の最も深いものである。
 伊蘭高原は略ぼ並行四辺形の形を為して居る、三大山脈は其四方を塞ぎ、四大河と一大海とは其四辺を洗ふて(379)居る、北なるは有名のヱルブルズ山脈(Elburz Mts)であつて、之は欧亜の境界をなせるカウカサス山脈が裏海の南岸を沿ふて折れて伊蘭高原の北方の牆壁となつて居るものである、ヱルブルズの東に尽る処がヤガタイ山(Jagatai Mts)であつて、其又東に延びたものが有名なるパロバミサス山(Paropamisus)ある、パロバミサスはヒンドクーシユ(Hindu Kush)に続き、ヒンドクーシユはパミール高原の南境に於てカラコーラム(Kara Koram)、崑崙(Kuen-Lun)に続き、崑崙は支那に入つてより我日本にまで延びて居る、ヱルブルズは其南麓に於て高原を擁し、其北面に於ては直に裏海の窪地に瞰んで居る、其北麓に沿ふて西より裏海に入るものがアラキシー河(Araxes R.)であつて東より其東南隅に注ぐものがヱトレック(Ettreck)并にグルガン(Gurgan R.)の二流である、前者はメディヤ史に於て、後二者はパーシヤ史に於て肝要なる河である、又パロパミサスの北麓に沿ふてオクザス河(Oxus R.)がある、之は前には裏海に入りし河であつたが、今は方向を転じてアラル海に入る、其古代よりの名河であつて、成吉汗、タマーレンの事蹟に深い関係のある河である事は少しく蒙古人種の歴史に通じて居る者の何人も知つて居る所である。
 又高原の東壁なるスリマン脈はヒマラヤ山脈の支派であつて、幹脈と正直角を為して南の方印度洋の岸にまで延びて居る、至つて低ひ山脈であるが、然し印度半島と伊蘭高原との境界線として南方亜細亜の歴史に関係の甚だ深いものである、其カイベル(Kyber)、ゴーラム(Golum)、并にボーラン(Bolan)の三峡路は高原より半島に達する通路であつて、半島の大患なるものは常に此峡路に依て其地に望んだものである、(『地人論』第八章参考)スリマンの西麓を沿ふてインダス河(Indus R.)が流れて居る、ハイダスペス(Hydaspes)は其支流であつて、歴山王西征の終局点であつた、
(380) 伊蘭高原の南に尽きる所は亜拉比亜海と其延長したるものなる波斯湾とである、ユーフラテス河口より東の方インダス河口に至るまで海岸線は千哩以上もある、岸に沿ふて低地があるが、然し之は至て幅の狭きものであつて其最も広きものも二十哩を越へない、低地とては僅かに海に沿ふて高原の縁を取るまでゞあつて、其歴史上の関係は皆無と云ふても宜い程である、波斯湾に於ける港湾の欠乏は今日の波斯帝国の発達を碍げる一大原因である、其ブシヤ港(Bushire)を除くの外に称するに足るの良港を湾の北岸に於て一つも認める事が出来ない。
 伊蘭高原の西に終る処はザグロス山脈である、之はアルメニヤ諸山の続きであつて、東南の方向を取て波斯湾に達し、夫れより少しく東へ折れて波斯とベルチスタンとの境界の辺にまで達して居る、其西麓はチグリス河の水域に属し、バビロン、アツシリヤの旧国は両つとも直に此山脈に接して居つた、アルメニヤ諸脈が湊合してザグロス脈となる処がバビロニヤの神話に於て有名なるロワンデイヅ(Rowandiz)の峰であつて、ノアの函船が洪水の後始めて地点に達せし処は多分此峰であつたであらうとの事である、ロワンデイヅより東南二百五十哩余にしてエルウエンド(Elwend)の峰がある、此処はメディヤ、ペルシャ、ヱラム、アッシリヤの四国の互に相接する点であつて、ベヒスタン(Behistan)の峡路と称へて伊蘭高原よりバビロン、アッシリヤに達する唯一の捷路は此峰の南麓に於てある、其西南より流るゝ河はチヨアスピース(Choaspes)と云ふて、之はヱラムの河と称して其国都であつて後に波斯大帝国の首府となりしスーザ(Susa)の城市は其左岸にあつたものである、其東面より流るゝ河はハマダン(Hamadan)であつて其水源近くにヱクバタナ(Ecbatana)なるメデイヤ国の旧都があつた、ヱルウエンドの峰を中心として此地方の地理を記臆するに甚だ便利である。
 以上が伊蘭高原の四境の大略である、高原と云へば孰れも荒漠不毛の地であつて、亜拉此亜高原、蒙古高原等(381)皆な然らざるはない、伊蘭は其地質に於て多くサハラ、曳壁の砂漠に異ならない、其二大陸に亙る大砂漠帯の一連鎖である事は前にも述べた通りである、然し幸にして伊蘭は方向を異にする山脈に富んで居る、而して山は雲を招き、雲は雨を作る、即ち山の庇蔭に依て伊蘭は全くの荒野たるを免がれた、ザグロス山中に於て、ヱルブルス山の南麓に於て、ヤガタイとパロパミサスとの間に於て、砂漠は流水の感化を受けて、焼土は変じて田園となつた。
 高原の西北隅にアゼルビザン(Azelbizan)地方がある、ザグロスを西に受け、ヱルブルスを東に望み、アラキシス其北を洗ひ、キジルウゼン河(Kizil Uzen)其東南に起り、ウルミヤ海(Urumiah)は其西方に偏して独特の水域を作つて居る、アゼルビザンは高原内で最も水利に富んだる地方である、昔時は之をメデイヤ アトロパテネ(Media Atropatene)と称し、ヤペテ人種が始めて強力なる国家を作つたのは此地方に於てゞあつた。
 アゼルビザンの南にハマダン地方があつた、ヱルウエンド山を中心としてハマダン河は東に流れて砂漠の中に消え、チヨアスピースは南に流れてチグリスに合して海に達し、センデルードは又東に流れ、イスパンの旧市を灌漑して是れ亦砂漠の吸収する所となる、此三流域あつて、ハマダンは百年間に渉るメディヤ帝国本拠の地たるを得た。
 ハマダンの南にペルシャ本土があつた、是は今のフハリスタン(Faristan)地方であつて、波斯人の起つた処である、此処にバクチガン(Bakhtigan)と云ふ鹹水の湖水があつて之にベンダミールなる小流が注いで居る、波斯の旧都ペルセポリス(Persepolis)は此流に沿ふて建てられし者である、又之より程遠からぬ処にパサーガデー(Pasargadae)なる更に旧き都市があつた、シラツ(Shilaz)は此国の文学上の首府であつて、是亦た一細流の水を(382)利用して起つたる市に過ぎない。高原の中央は所謂砂の海である、其北部をコラサン(Khorasan)と云ひ、南部をケルマン(Kerman)と称し、地勢稍々周囲の山地に此して低く、其水流の悉く吸収せらるゝ処である、コラサンの北、ヱルブルヅ山に接する辺に有名なるカスピヤ門(Pylae Caspiae)がある、此処は高原を東西に横断する唯一の通路であつて、之を扼するは高原の覇権を握る上に最も大切なる処であつた。
 又高原の東北部にヒルカニヤ(Hyrcania)地方があつた、ヱトレック、グルガン二流の流域であつて、古代より豊沃を以て名がある、ヒルカニヤの東隣はパーシヤ(Parthia)であつた、波斯人に代つて一時は高原の覇権を握りし民の起りし処であつた、彼等はテゼンド(Tejend)、ニシユプル(Nispur)等の流に拠て国を為した、パーシヤの東、パロパミサスの北麓にバクトリヤ(Bactria)地方がある、此処にムルグアブ(Murg-ab)なる河があつて、此流に拠て起つた市がメルブ(Merb)である、周囲三百哩余の砂漠の中の肥沃の地は此一流の賜物である、メルブの東にバルク(Balkh)があつて、是れ亦同名の河の灌漑に依るものである、河ありて市あり、市ありて文明が有るとは即ち此地方の謂である。
 パロパミサスの南麓には東にカブール河の岸にカブール(Cabul)がある、西にはヘリルード(Heri Rud)の岸にヘラット(Herat)がある、共に印度の関門であつて、之を敵人の手に渡せば英人は永く印度を有つ事は出来ない、
ヘラットの南にセイスタン(Seistan)地方がある、カンダハー(Kandahar)は其首府にして、ヘルムンド(Helmund)河は之に膏腴を供するものである、其他ベルチスタン(Beluchistan)、ラリスタン(Laristan)地方の事に就ては別に必要がないから茲には言はない。
 以上は伊蘭高原の地理の大略である、実に其砂漠の砂を噛むやうな味の無い事柄であるが、然し之を知つて置(383)かなければ其味の有る歴史が分らないから我慢して能く之を心に留めて置かねばならない。 〔以上、明治33・5・15〕
 
    第二十回 アリヤン人種の勃興
 
 自由とか民権とか云へば何やら近頃此世に現はれたものゝやうに思ふ人があるが、夫れは決してさうではない、自由は人類の現出と共に世に現はれたものであつて、民権とは彼の霊魂に附いたる特権である、人類の歴史は実は其自由史であつて、進歩とは実は自由の発達より外のものではない。
 最も自由なる国民が最も進歩したる国民であつて、自由を愛すること最も厚き人種が最も優れたる人種である、人類にあつては優勝劣敗は自由の多寡を以て決せられる問題である、西洋人が東洋人に優るのも、同じ西洋人中で仏蘭西人が露西亜人に優るのも、英吉利人が仏蘭西人に優るのも、亜米利加人が英吉利人に優るのも、皆其民の有する自由の多少に由るのである、同じ白色人種でも其自由を圧すれば印度人のやうな奴隷的国民となり、また之を伸長すれば英吉利人、和蘭人のやうな自尊的国民となる、国民の進歩と云ひ、退歩と云ひ、興隆と云ひ、滅亡と云ひ、是れ皆な其享有する自由の多寡に依て定まる問題である。
 歴史的人種の中で自由の観念に最も欠乏して居るものはツラン人種即ち黄色人種である、彼等は王者あるを知て自己あるを知らない、彼等は服従するを知て自立するを知らない、忠孝とは彼等の唯一の道徳であつて、彼等は長者に頼るにあらざれば、人々相信任して社会を組織するの途を知らない、彼等の社会に在ては個人は単位《ユニツト》ではなくして分子《アトム》である、自主自立のインディヴィヂュアル(一個人)ではなくして無意無識の物躰《シング》である、ツラン(384)人種に取ては王は万有であつて民は虚無である、王は神の如きものであつて、民は草の如きものである、彼等の国家なるものは人類の群集躰たるに止つて、意思を備へたる個人の組織する有機的団躰ではない。
 黄色人種の多数は二十世紀の今日に至るも尚ほ此程度に居るものである、露西亜の北方に住むサモイデス人、西北利亜の西部に住むオストヤック人、裏海の北岸に住むキルギス人、其他韃靼人、蒙古人、満州人、爾うして亦朝鮮人、支那人等其外観的文明は何んであるにせよ、其根本的人生観に至ては彼等は矢張りバビロニヤ文明以前のツラン人種である、彼等は歴史的には最も劣等の民であつて、殆んど自由の幼芽だも備へざる者である。
 埃及人を以て代表されしハム人種が支那人によく似て居つた事は前にも既に述べた通りである、然しハムは多くの点に於てツランに優つて居つた、彼等は人に永遠不滅の霊魂あるを信じ、未来の裁判を信じ、人命の非常に貴重なる事を認めて居つた、埃及文明は支那文明のやうな全く実益的のものではなかつた、ハムがツランに代つて起つたのは人類の進歩上正当の順序に因たものである。
 シヱムが判然と独一無二の神の存在を認め、義務責任の何たる乎を解したのは確に彼がハムに優つて居つた証拠である、アッシリヤ人と云ひ、ユダ人と云ひ、疑もなく強き意志の国民であつた、彼等はツラン人種のやうな恐怖の民ではなかつた、又ハム人種のやうな迷信の民でもなかつた、自由なるものはシヱム人種に依て始めて人類に供せられたものである、罪悪の羈絆より免がるゝの途、在天の父に依て心霊的自立に達するの法はユダ人、アラビヤ人を以てシヱム人種が世界に伝へたものである。
 然し自由は心霊的にのみ自覚すべきものではなくして、亦制度として社会的に制定すべきものである、シヱム人種は人類に供するに自由の実躰を以てしたけれども、之を制度に現はして社会の共有物と為した者はシヱム以(385)外の人種であつた、文明の原理はハムとシヱムとに依て人類に供せられた「然し之を開発し、応用し、以て新社会を組織した者はヤペテ人種である、ヤペテが史的表面に現はれし時は人類が其発達の最終時機に入りし時であつて、之は今を距る二千五百年前頃、歴史ありてより以来凡そ七八千年後の事であつた。
 ヤペテ人種とは希伯来人の聖書の伝へし名であつて、之はハム、シヱムの両名に対して用ゐられし名である、然しヤペテの名は今は殆んど学者の棄てる所となつた、或は之を印度欧羅巴人種と称へ、或は重に地中海の周囲に住する民であるの故を以て地中海人種とも称へる、然し此等二つの名称は余り長過ぎるのと、又地理的に制限せらるゝとの故を以て未だ一般に学者の賛同を得るには至らない、然るに茲に宗教的偏見を離れて、地理的制限の外に立ち、然も簡単にして歴史的意義に富める一つの名称がある、夫れは即ちアリヤ(Arya)であつて、此簡潔にして意味深長なる名称に就ては誰も不同意を唱へる者は無いやうに見える。
 アリヤと云ふ名称の意味に就ては種々の異説がある、之はケルト語のエル(er)と同じく「高貴」を意味するの詞であるとは普通一般に唱へられる所であるが、然しマツクス、ムラー氏の如き東洋学者は此説には反対して居る、ムラー氏の説に依ればアリヤはアル(ar)なる根詞より来りし名であつて、アルは地を意味し、アリヤは地を耕す者の意であるとの事である、説の当否を決するは余輩の学識以外にあることなれども、然しムラー氏の此説明はアリヤン人種の特性に就て多く告ぐる所あるものゝやうに思はれる。
 アリヤ人種は特別に耕耘の民であつた、ツラン人種が多くは遊牧の民であるに比べ、シヱム人種が製造商売に従事せしに較べて、アリヤ人種は特別に農業の民であつたと云ふ事が出来る、勿論埃及人も此業に長けて居つた、両大河の沿岸に於けるバビロニヤ人の農業は古代より有名のものであつた、然しながら農業の外別に頼る所の無(386)かつた人種とはアリヤ人種を除いては他には無い、英語であれ、独逸語であれ、希臘語であれ、梵語であれ、アリヤ派に属する言語で其中最も古き詞は農業に関する詞である、前にも述べしアル(ar)なる根詞より耕耘に関する多くの詞が出た、伊太利語の arare(耕す)、スラーブ詞の arati(鋤く)、英語の arable(耕耘に通したる)、拉典語の arvum(耕されし田圃)、等は皆なアリヤ人種固有の詞である、又牝牛は農家に取ては最も大切なる畜類であつて、之を養ひし民は遊牧の定めなき生涯を棄て、農事の恒産に就いた者である、「遊牧の民は羊を養ひ、農業の民は牝を畜ふ」とは二種の民を区別する為めに最も適切なる語である、故に羊は特別にツラン人種の畜類であつて、牛は特別にアリヤ人種の動物であると云ふ、羊を去て牛を飼ふに至りし時に人類は一大進歩を為したのである。
 夫れであるから牝なる詞はアリヤ人種に取ては甚だ大切なる詞である、梵語では牝の事を go と云ひ、其復数を gavas と云ふた、go は独逸語にては kuh に変じ、英語にては cow と成つた、古きスラーブ語で家畜全躰を govyado と云ひしも、露西亜語で牛肉の事を govyadina と云ふのも皆な古きアリヤ語の go より伝はりし者であるとの事である。
 此農業的人種は始め何処に起つたか、夫れは吾人の知る所ではない、然し彼等はアリヤ人種として始めて伊蘭高原の東部オクザス河の流域の辺に於て現はれし者である事丈けは歴史的事実として受取る事が出来る。
 今のアフガニスタンの西部に当てパロパミサス山の南麓にヘラット(Herat)なる有名の市がある、之はヘリルード(Heri Rud)と云ふ河の岸に建てられし極く古い市である、ヘラットは元と河の名と同じく矢張りヘリーと称へられしものであつた、ヘリ、或はハロユ(Haroyu)とも云ひ、又ハリ※[ワに濁点](Hariva)とも云ふてアリヤと曰ふと同(387)じである、故にヘラツト市はアリヤの市と云ふ意であつて、ヘリルードとはアリヤの河と云ふ義である、又波斯帝国旺盛の時代に此辺にアリー(Arii)と称ばれし民が住つた居つた、地名は其国を占領せる古代の民の遺物であるから、吾人はヘラツト、ヘリルード等の名に依てアリヤ人種が早き頃より此辺に住ひ居りし事を知る事が出来る。
 今ヘラツト地方の地勢を能く考へて見るにアリヤ人種の本職たりし農業の発達に最も善く適して居つた事が分る、前回の講談に於て述べしやうに伊蘭高原は一躰に乾燥不毛の地であるが、然し山麓に沿ふて灌漑の便のある処は又非常に沃饒である、ペルシヤ本土に於けるシラーツ市の附近の如き、又オクザス河の上流なるバルク地方の如きは共に「世界の楽園」を以て称へらるゝ程の地域である、故に高原到る処、流水の焼土を滋す処は高度の耕耘に適し、随て其地方に進歩せる社会が起つた、今其主なるものを挙ぐればヘリルードの沿岸にへラットが起り、其東に方てカブル河の岸にカブルが起り、カブルの西南グズニ(Ghuzni)河の辺に同名の旧都が築かれ、夫れより西南に方てヘルムンド(Helmund)河の左岸にセイスタン地方の首府なる著名なるカンダハーが起つた、アリヤ河(ヘリルード)の一支にしてヤガダイ山脈の北麓を洗ふて居るテゼンド(Tejend)流域にメシエッド(Meshed)の古市がある、山を越へて其南麓を下ればニシプール(Nishpur)河の水源近くに有名なる波斯詩人オーマル カイヤムを出せしニシプールの旧邑がある、ムルグアブの一流を以て養はるゝ砂漠の中の城邑はメルヴである、オクザスの大河は其の下流に近くキ※[ワに濁点](Khiva)の府城を擁し、ボクハラ(Bockhara)、サマルカンド(Samarcand)の二旧都はコーヒック(Kohik)なる山より出て砂に消ゆる一水条の辺に立つものである、郷は河に依りて起り、各郷各々其首府を有つた、伊蘭の地は一面の高原であるが、然し一つの地方が他の地方より孤立して居る状態は宛然(388)島嶼が海中に散布する如きものである、伊蘭と希臘とは其の地質に於ては正反対であるが、然し其歴史的感化力に至りては一は他のものに甚だよく似て居る、即ち自由独立の民を養成する為めには伊蘭は希臘と同じ効力を有つて居る。
 アリヤ人種は始めて此辺に於て発達した民である、即ち今のアフガニスタン地方并にコラサン(Khorasan)と称して波斯と露領トルキスタンとの境界の辺が此歴史的人種の揺籃とも称すべき処である、其気候は乾燥で、天空に雲少く、地は多くの労働を与へざれば果穀を産せず、各郷は砂漠の海に囲まれて小独立国の持続に適して、大帝国の建設には甚だ不便であつた、奢侈の料を得るに難くして其民は常に空乏に安んずるの術を学ねばならなかつた。
 斯う云ふ処に此高貴なる人種は養成された、天然の此城砦に拠て彼等は人類の進歩が彼等の活動を要求する時を俟つて居つた、爾うして期満ちて彼等が山を出でし時は彼等は彼等の躰格に於て、彼等の宇宙観と人生観とに於て、彼等の宗教に於て、彼等は周囲の民に比べて遙に勝れたる民であつた、紀元前二千年と一千年との間に彼等の一派は東の方印度パンジヤーブ(Purnjab)河の平野に下り、此処に※[田+比]陀時代のアリヤ的文明を作つた、他の一派は西の方コラサン、ケルマンの砂漠を横断してカスピヤ門以西メデイヤ、ペルシャの山地に居を移して、ザグロスの西麓に国を為したるシヱム人種の衰亡を待ちつゝあつた、彼等の薫陶時代は永かつた、彼等は人種としてはヒユマニチーの末子であつた、然し彼等は前三大人種の造り上げし文明の綜合と其開発とを本職として世に現はれた、前にも既に述べた通りアリヤ(ヤペテ)人種の現出を以て現代史なるものは始まつた、今の欧羅巴文明なるものは遠く其源を究むればザグロス、パロパミサスの麓に在てアリヤ人が養成せし一種の生気の発達せしもの(389)に過ぎない、自主独立の観念、法を重んずるの習慣、形而上的傾向、等今日尚ほアリヤ人種の特性として認めらるゝものは彼等が未だ伊蘭高原に棲息せし頃彼等が学び得し所のものである、アリヤ人種を彼等の原始的ホームに尋ねて、我等は三千年後の彼等の今日を予察する事が出来る。 〔以上、明治33・5・25〕
 
    第二十一回 アリヤン人種の特性
 
 アリヤ人種が今日世界に於て有する勢力の絶大なる事は何人も疑ふ事は出来ない、一時は伊蘭高原の山流の辺に足らはぬ生計を求めつゝありし人種は今は世界の主人公となりつゝある、欧羅巴大陸が其僅少部分を除くの外は此人種の本拠の地であるは勿論、南北両亜米利加は今は全く彼等の新郷土と化し、髑髏形をなせる阿弗利加は殆んど全く彼等の間に分割され、南洋の新大陸は一英民族の移住地たるに過ぎない、総ての人種の起原地なる亜細亜大陸ですら、其北方三分一はアリヤ人種の支配を受け、其南方の印度半島は其東なると西なると共に貢物を欧洲のアリヤ人種に納るゝやうに至つた、世界図を展べて見て我等は其中にハム人種の建てし国を一つだも見出す事は出来ない、シエム人種と云へば今はサハラやアラビヤの砂漠に彼等の族長政治を継続するの外、凡そ国として一地域を占領して居るものは無い、ツランは其数の多大なる丈けあつて未だ全く政治的存在を失ふに至らないで、支那に朝鮮に西蔵に土耳古に独立国の躰面を維持しては居るが、然し是等とても常にアリヤ人種の抑圧を受けて、何時その統治を仰ぐに至るかも知れない甚だ危殆の地位に在る、今日の大勢より察すればアリヤ人種の世界占領は遠き未来の事では無いやうに見える。
 抑々アリヤ人種が此至大の権力を有つに至りし理由は何であるか、彼等は何が故に斯くも他の人種に代はつて、(390)宇内を其領土となすに至りしか、是は実に歴史上の大問題であつて、或人は是はアリヤ人種の科学的才能に因るのであると云ふが、成程今日の所謂科学なるものが希臘人に依て始つたのを見ても科学的傾向は始めよりアリヤ人種の特性の一でありし事が分る、然しながら科学的才能の有るのは此人種にのみ限らない、埃及人の科学的進歩は今人も尚ほ及ばない所であつた、亦た中古時代に於けるアラビヤ人の科学的進歩は到底欧洲人の比では無かつた、実際的のアツシリヤ人が科学的のバビロニヤ人に勝り、政治的の羅馬人が哲理的の希臘人を征服せしのを見ても科学は必しも勢力の大原動力でない事は明白である。
 又或人はアリヤ人種の強大は其信奉せし基督教に依るものであると云ふが、然し是れ亦其十分なる説明として受取る事は出来ない、基督教が社会的大勢力であつて、之を信ずるに依て国民に大希望と大企業心との起るは疑のない事実であるが、然しながら他人種より此開発的宗教を受けて我が有となせしアリヤ人種の特性に基督教が附与せざりし根本的長所があつたに相違ない、樹の善悪は之を生ぜし種子の良否に依てのみ定まるものでは無くして、亦た種子を受ける土地の良否にも関係するものである、基督教を受けし人種はアリヤ以外にもありしなれども、之を信じ其精神を収容して能く己が精神と為せし者はアリヤ人種以外に多くは無い、基督教とアリヤ人種との関係は極く緻密なるものである、基督教はシエム人種の中に起つた宗教であつたが其理想はシエムの暁得以上であつた、聖書に録されたる『匠人の棄たる石是こそ屋隅の首石となれ』との語はシエム人種の棄てたる宗教がヤペテ(アリヤ)人の組織したる社会の首石とならんとの意であると思ふ。アリヤ人が事を為すに秩序的であるのが其強大を致した大理由であるとの或人の説は既に前に述べた彼等の脳髄が科学的であると云ふ説と其根本に於ては毫も差違《ちがい》は無い、秩序は科学の実際的方面であるから科学的なる者は自づと秩序的なるは言ふまでもない。
(391) 然し科学的なりしと云ひ、又基督教を信ずるに因りしと云ひ、又秩序的なりしと云ふも、是れ皆なアリヤ人種が強大を致せし結果であつて原因ではない、アリヤ人種は歴史の活舞台に上らぬ前に早や既に文明的生涯に耐ゆる品性を作り上げた、単に冷算的たる計りで科学的たる事は出来ない、政治的思想に富めばとて必しも秩序の民たる事は出来ない、基督教を信ずるに至るには前以て之を受くるに足るの素養が必要である、アリヤ人種は彼等が猶ほ伊蘭高原に止まりし頃業に既に人類進歩の先駆となつて終に全世界を占有するに至るの気品を養生したものである。
 アリヤ人種は素と人生を如何に観ぜしか、今是を有名なる東洋学者の説明に照して考察すれば大略左の如きものであると思ふ。
 (一) アリヤ人種は希望の民であつた、彼等はツラン人種とは正反対であつて、人生を懼れずして之を楽んだ、ツランは神に祈るに危害より免がれん事を以てしたるに比べて、アリヤは彼の祈祷に於て福祉《さいわい》と援助《たすけ》とを求めた、ツランは神の怒を宥めんとし、アリヤは其徳を讃めんとした、ツラン人の宗教に伏魔法なるものがあつて、アリヤ人の宗教には讃美歌なるものがあつた、茲に二者の例を示さんため、先づバビロニヤ人の保存に係る古代のツラン人種の作りし呪詛文を掲げやう、
   民を苦しむる疫病と熱病
   国を荒らす凡ての疾病
   肉を損し、臓腑を害する者
   悪むべき魔物、アラル、ギヾルの類
(392)       *     *     *     *
   彼等我が躰を去らん事を
   彼等我が臓腑より出でん事を
   彼等は決して我が肉に取り附かざるべし
   彼等は決して我が家に入り来らざるべし
   彼等は決して我が家の梁に触れざるべし
       *     *     *     *
   天の霊よ、魔を詛へよ
   地の霊よ、魔を詛へよ
   万邦の神なるムルゲの霊よ、魔を詛へよ
   ムルゲの長子なるエンズナの霊よ、魔を詛へよ
   万軍の女神チスクの霊よ、魔を詛へよ
   正義の王なるウヅの霊よ、魔を詛へよ
 之に引き換へてアリヤ人が其神|婆楼那《※[ワに濁点]ルナ》を讃へる歌の一節は左の如きものであつた
  王婆楼那の意に適ふ讃美の歌を唱へよ、彼は革師が鹿の皮を広げて之を日光に曝すが如くに地を四方に伸ばしたり、彼は森を通して涼しき風を送り、馬に精気を注ぎ、牝牛に乳を供し、人の心に智慧を附し、雲に電光を蓄へ、天空に太陽を置き、山に蘇摩《ソマ》の霊草を生ぜり、彼は天と地とを潤し、彼の意に適ふや、彼は直に(393)雲霓をして其抱蔵する水を放出せしめ、山は為めに雷雲を以て裹まれ、健脚者も為めに疲労を感ずるに至る
 アリヤが同じ婆楼那の神に捧げし祈祷に左の如きものがある
  オー婆楼那よ、我等日々我等の弱きが故に汝の法則を犯すと雖も、我等を死滅に導くなく、又強者の圧迫と暴者の憤怒とに附《わた》す勿れ、鳥が其巣に還るが如く、牝牛が牧場に行くが如く、我の讃美は汝に達せん、
 又ツランが死に臨むに戦々競々として陰府に下つて妖魔と居を倶にするの思を以てせしに比べてアリヤは死後天上に於て父祖の霊と無尽の快楽を共にする事と思ふた、アリヤが蘇摩の神を祭りし辞に左の如きものがあつた
  夫の幸福と喜悦のある処、歓喜と快楽との宿る処、我等の総ての願望の成就する処に我に永久の生を給へ。
 アリヤに取ては死は凡てのものゝ終りでは無かつた、彼等は死後に尚ほ喜楽純潔の生涯のあるを信じた、彼等の祖先の霊は死して尚ほ此地を去らず、或はヒマラヤ山中マナサロワー(Manasarowar)の湖水が其鏡面に曇りなき天日を映ずる辺に於て、或はエルブルズ山の最高点なるデマベンド(Demavend)の峰が其白頂に朝暾夕陽を受けて永久の光輝を下界の人に示す処に於て、彼等死者の霊は他界の王なるヤマ王(閻摩天)と共に満福の生涯を送るものと信じた。
 (二) 希望の民であつたからアリヤは自づと快闊の民であつた、彼等は一身の不幸を何時までも案じ暮すやうな憂鬱の民ではなかつた、ツランやハムやシエムが親戚友人の死を何時までも悲しむを以て人たる者の義務であるやうに考へたに比べて、アリヤは一日も早く断腸の念を去て日常の業務に復するを以て反つて死者に対して彼等が有つ責任であると考へた、死者を葬りし後に会葬者に向てアリヤの祭主が演べし勧告の詞は左の如きものである
(394)  未だ尚ほ此地に生を有し、財貨と子孫との宝に富みて、此処に死者の後に従ふて来り合せし者よ、汝等清くして正しかれ。
  生者は死者と境を異にす、今日吾人が死者の為めに此処に執行せし奉祭は死者の霊を安んずるに足れり、故に吾人は宜しく此処を去り、家に帰りて喜び且つ楽しむべきなり、そは生命は尚ほ吾人の有なればなり。
  余は此処に境界の標を立たり、(墓石を指して曰ふならん)是れ生者が自《みづ》から急いで之を越えざらんが為めなり、彼等は尚ほ百たびの秋に会し、其豊熟を祝せんことを、而して此石標が永く死を彼等より速けん事を。
  日は日に継ぎ季節は季節に続き曾て其顛倒せしことなきが如く、願くば彼等の生涯を導けよ、我が造物主よ。
  汝等此処に集ひし者は皆な天の命を全ふし、白髪の高寿に達し、死するに老若順を違へず、而して巧みなる造物主ツ※[ワに濁点]シタール(Tvashtar)の碑は汝等に長き齢を給はん事を。
 之をユダ人が死者を弔ふが為めに衣を裂き、頭に灰を振り掛け、数月の間悲哀に沈みしに此べ、支那人が三年死者の費に居るとか称して髪を梳らず、衣を更めずして愁傷の情を外に現はせしに稽へて見て実に雲泥の差があつたと云はなければならない、他の人種は死をして事実よりも更に数層悲しく為んと努めしにアリヤのみは死より其不快なる記臆を取去らんとした、アリヤは何処までも生を好んで死を嫌ふの民であつた、彼等は凡ての方法を尽して死を忘れて生を思はんとした、彼等は余りに快闊の民であつたから死を事実として視るに忍びなんだ、又彼等が喜楽の神として蘇摩を祭りし事や、光明の神なる密多羅《ミタラ》を崇めし事を以て見ても彼等が如何に喜楽を愛し、光明を求むる民でありしかゞ分る。
(395) (三) アリヤは亦正直なる民であつた、彼等の快闊なるは彼等をして決して放肆淫縦柔弱の民たらしめなかつた、彼等は甚しく虚偽を憎み、事物の単純を求めて複雑を避け、正邪を判別し、暗黒と光明との別を明かにし、神秘的玄奥的なるを厭ひて、明瞭にして単純なるを喜んだ、若し現代の欧洲人の中に古代のアリヤ人種の実例を求めんと欲へば那威のイブセン、露西亜のトルストイ、英吉利のカーライルの如き者であらうと思ふ、左に掲ぐるゼンドアベスタ経の一節を読んで其中に明白なるカーライル主義を認めぬ人はあるまい
  密多羅を偽はりし者のある側には密多羅は怒を含んで起たん、而して彼の憤怒は愈ゆるに遅し、密多羅に対て虚言を吐きし者は彼れ走ること如何に早きも密多羅は直に彼に逐附くべし、彼れ馬に乗つて走るも密多羅の追捕を免がるゝ能はず、彼れ車を駆つて遁れんとするも密多羅は直に彼に及ばん、……………………憐れむべし、密多羅を偽はりし者の住む家には児童の戯れ遊ぶことなからん。
 古代のアリヤ人に取ては虚偽《うそ》は罪悪の首《かしら》であつた、虚言は彼等の神の最も嫌ひしものであつて、虚言を吐《つ》いて彼等は天にも地にも身を隠すの所なき者であると思ふた、彼等は礼儀の民ではなかつた、又飲を禁じ舞楽を廃するやうな厳格なる民でもなかつた、然し彼等が約束を重んじ、彼等の行為が彼等の言語に伴ひし事は彼等の人種的特性として吾人の特に注意すべき事である。
 アリヤ人の特性は之を以て悉したとは云へない、然し以上は彼等をして今日の強大を致さしめし重なる理由であると思ふ、希望に満ちて、快闊であつて、正直であつて、人の此世に於て為し得ない事は殆んどない、科学とか、秩序とか、法律とか、商業とか云ふて、今日の文明人が最も貴重するものは能く其源を尋ねて見ればアリヤ人の有つた此特性より出たものである事が分る。 〔以上、明治33・6・5〕
 
(396)    第二十二回 メデヤ(MEDEA)
 
 一国の興るのは決して一朝一夕の事ではない、国は其国民の無意識の間に起るものであつて、興さうと欲ふて決して興るものではない、国民が国を興さうと計画する時は、其既に滅亡の時期に入つた時である、宗教は何う云ふ宗教を信ぜねばならぬとか、道徳は何う云ふ道徳が国家の発達に利益があるとか云ふて、評議員を撰定して其取調に従事せしむる時は、既に其国の宗教も道徳も全く生気を失つて、其国民は精神的死滅の境に臨んだ時である、国の興るのは小児の成長するのと同じであつて、我れ知らずと興るものである、健康の事を最も多く心配する者は老人と病人とである、国家道徳に関する議論の最も盛なる国は、衰亡に近きつゝある国である。
 アリヤ人種は無意無識の中に彼等の人種的特性を養成した、彼等がパロパミサス山の麓に棲ひし頃は、彼等はハム人シエム人に代つて、西亜の覇権を握らんなどゝは夢にも思はなかつた、彼等は山間の故郷に在て河畔の田圃を以て満足して居つた、彼等は人生を楽み、隣人に向て虚言を吐かず、死して猶ほ此地を去らざるの希望を以て、愉快に彼等の生涯を送つて居つた、歴史以前のアリヤ人種の生活に小児的の無邪気なる所があつた、彼等は寡慾で淡白で篤実で最も愛すべき民であつた。
 此寡慾の民、興国を口にせず、亡国を懼れず、単に清き心を以て地を耕して居りし民も、天の時の到来せし時には、彼等の意志に逆いても世界の主人公とならねばならぬ境遇に立至つた、興らんとして※[敞/心]《あせ》る国民は興らずして返て亡び、興らんとせずして唯能く天の命に安んずる民は返て興る、余輩が曾て述べし「興国とは謙の賜物で有て亡国とは傲の結果である」とは此事を云ふのである。
(397) 紀元前六百三四十年頃西亜の天下に一大変動が姶つた、それは紀元後三四百年頃欧州大陸にも有つた事であつて、其結果は欧亜孰れに於けるも同一であつた、それは即ち歴史家の所謂国民の移動(Volkswanderung)であつた、それが為に大帝国は亡びて、其迹に新国民が起るに至つた、羅馬帝国滅亡の迹に独逸民族が新国家を建設するに至りし同一の理由に依て、アツシリヤ帝国に代つて、アリヤ人種の組成せしメデヤ、ペルシヤの二大国が相継で西亜の天地に現はれた。
 カウカサス山の北、ドン、ドニーペル、ヴオルガの河畔、裏海、黒海の北岸に沿ふて、サカ人(Saka)人一名スキト人(Scythians)が住つて居つた、彼等は多分ツラン人種の一派であつて、匈奴、突厥に似て甚だ剽悍なる民であつた、彼等は能く弓を彎き、巧に馬に乗り、馬肉を食とし、牝馬の乳を飲み、艱難に耐へ、死を怖れない、最も怖るべき民であつた、彼等の襲撃は南方の民の最も恐怖する所であつて、彼等が起て群を為して南せし時に、西亜の天下に大擾乱を惹き起した。
 是より先にパロパミサスの山麓に平穏なる生涯を送りしアリヤ人の中に、一大宗教的内訌が始まつた、彼等の内に一大改革者が起り、大に革進、進歩を唱へし結果として、アリヤ種族の内に保守進歩の二大派を生じ、保守派は進歩派の跳梁に耐へずして、竟に彼等の故地を去て東の方印度の西北部なるインダス河の畔に下り、其処に彼等の一新郷土を拓いた、後《あと》に残りし進歩派は尚ほ久しく父祖の国に留まりしやうなれども、或は北方のスキト人の強迫に遭ふてか、或は新思想実行の地を求めん為にか、彼等は、バルク、ヘリルードの畔を去て西の方エルブルズ山の南麓を沿ひ、名にし負ふカスピヤ門を経て、ザグロス山の東面にしてハマダン、ゼンデルードの諸川が沃饒を砂漠の附近に呈する辺にまで移住した、彼等は此処に彼等の故郷に能く似寄りたる国土を発見した、野(398)に桃あり、山に胡桃あり、土地は豊饒とは云ひ兼ぬれども、然し砂漠の海の東なる故山のそれに劣ることなく、彼等は此処に故国の旧習と故俗とより免かれて、自由に彼等の新理想を実行したと見える、時こそ異なれ、彼等より二千二百年後、彼等と同人種なる英人の一派にしてピユーリタンと称せし進歩派が砂ならぬ青海原を越えて西の方新大陸に自由のホームを求めしを見ても、西はアリヤ人に取ては好運の方角であると見える。
 昔のメデヤは今の波斯国の西北部にあつた国である、北はアラキシス(Araxes)河に接し、東はカウカサス脉の南麓を沿ふてカスピヤ門に※[しんにょう+台]び、東は深くザグロス山中に入り、チグリス河の水域に達し、南は今のファーシスタン(Farsistan)即ち昔時のペルシヤ本土に接し、北緯三十二度の辺に至りしならんと信ぜらる、即ちメデヤ国なるものは、東西二百五十哩、南北六百哩余、面積大凡十五万方哩、即ち略ぼ我日本帝国大の国であつて、国家を組成するには最も恰好なる国柄であつた。
 土地は高燥で其気候は神経を鍛ふるに適し、其物産は温帯的で、其山は嶮しくある、此地に植るに高貴なるアリヤ人種を以てした事なれば、時到て一大強国の起らない訳はない、そうして今其西南に隣せるバビロン、アツシリヤの平原国を望み見れば、土地の沃饒なるに伴ふて気候は湿気多くして心志を圧し、其物産は稍々熱帯的であつて、民の惰気を促し、地は一面の平野であつて、眼を喜ばす為めの峰巒なく、独立心を養ふに足るの天嶮はない、此処に国を為せるアツシリヤは四囲を圧し武威を振ふこと茲に七百年、殊にサルゴン家(Sargonidae)の四大王と称し、サルゴン、セネケリブ、エサル ハドン、アシユルバニパールの四英雄相継いで其王位に上りしことなれば、紀元前七世紀の中頃に至て国は其強大の極に達し、其版図は北は黒海より南は波斯湾にまで、東はザグロスの東麓より西は埃及を経てリビヤの砂漠にまで達した、西亜の天地に今はアツシリヤと覇を争ふ者はなく、(399)大王の命は時の全文明世界の法律であつて、之に逆ふ者の如きは天が下に一人もありとは思はれなかつた。
 然し此大国も潰れる時が到れば潰れて了つた、そして三つの源因に依てアツシリヤ国は亡びた、其一は内部の道徳的腐敗であつた、富と共に奢侈が来り、奢侈に伴ふて婬風が盛になつた、王は正妃の外に多くの婢妾を蓄ふるに至つた、人倫既に王室の内に破れて臣民争でか厳粛なるを得んや、大臣腐り、将軍腐り、下庶民に至るまで悉く腐て、アツシリヤの武備は八紘を圧するに足りしも、其国家は一撃の下に破砕せらるゝの危機に迫つた、人倫の破壊を以て国家的生命に関係なきなど思ふ人は、宜しくアツシリヤ史の供する教訓を味ふべきである。
 而して外部よりする打撃は北方より来つた、是れアツシリヤを亡せし第二の源因であつた、スキト人は彼等の北方の棲家を出でた、彼等はダゲスタン(Daghestan)の辺に於てカウカサス山を横ぎり、クル(Kur)アラキシスの水に彼等の馬を飲ませ、アラヽツト山の辺に於て東西の二派に分れ、東なる者はメデヤに侵入し、ウルメヤの湖畔に息ひ、エクバタナの旧都を犯し、到る処に掠奪を擅にし無辜をして苦楚辛酸に泣かしめた。
 然しながら西部の荒廃は東部のそれに此して数層甚しかつた、スキト人は先づ今の小亜細亜に入り、アルメニヤ、カパドキヤ、フリジヤ、キリキヤ等を荒らし、進んでシリヤに出で、パレスチナを犯して埃及の境に到り、是より東に向て折れ、ユーフラテ河を下り、メデヤより来りし彼等の同類と合し、アツシリヤ本土に入り、宮殿を焼き、神殿を涜し、到る処に狼藉を極めた、歴史家へロドータスの記事に依れば、スキト人の掠奪は二十八年の長きに渉りしとの事である、其アツシリヤ帝国に及ぼせし害は、後年北欧の蛮人が羅馬帝国に及ぼせし害に等しく、蛮人去て後に南方の大帝国は再び起つ能はざるに至つた、内に天の命に逆ふて淫縦に耽けるの民が外より此大打撃を加へらるゝは、人類全躰を潔めんが為の必要と言はなければならない。
(400) 然れども若し此時に方て新強国の其附近の地に在て、旧帝国に代つて起んとする者が無かつたならば、旧は猶ほ余命を存じて、数十百年の間覇権を其手より脱しなかつたかも知れない、然れども紀元前七世紀の中つ頃に至て、メデヤは既に侮るべからざる強力であつた、其人種の主なる部分は強健なるアリヤ人種であつた、殊に近頃砂漠の東部より新移住者の加勢を得て、国民自ら活気を帯び来つた、彼等既に脾肉の歎に耐へざりし頃、一時はスキツト人の侵入に遭ふて其勃々たる野心を抑ふるに至りしも、蛮人去りし後は彼等は再び眼をザグロス山下の長袖懶族の上に注ぎ、機会あれば山を下て一撃の下に彼等に取て代らんと常に翹望の念に堪へなかつた、そうして如斯きの櫻会は彼等が思ひしよりも早く到来した、紀元前六百二十七年と云ふにアツシリヤ国最後の英主なるアシユルバニパールは此世を去つた、彼に代つて王位に上りし者はアツシユール ヱミツド イリン(Assur-emid-ilin)一名サラカス(Saracus)と称し、到底父の志を継ぐに足るの人物ではなかつた、国は蛮人の掠奪を被りし後であつて、国民の道徳は救ふべからざる程までに腐敗し、搗て加へて強健なるアリヤ民族は国の東北なる山壑の中に潜んで回天の好機を待ちつゝあつた、今はシエム人が世界の主人公たる時期は満ちて、其権柄はアリヤ人の手に渡さるべき時であつた、天は数百千年の永きに渉り、此大任を負はせん為めに伊蘭高原の西部峰巒高く天に接するの辺に於て此民を訓育した、紀元前六百二十五年と云ふ歳は世界歴史に於て甚だ大切なる時である、何故となれば、此歳に於てシエム人種の世界的王国は失せて、アリヤ人はメデヤ王キヤクザレス(Kyaxares)の下に最初のアリヤ的大強国を建てた、メデヤ人のアツシリヤ侵入はアリヤ人種の初陣であつて、是より二千六百年後の今日に至るまで人類の歴史は重にアリヤ人種の歴史である。
 然しクアクザレスは単独にして此大事業に当らなかつた、彼は先づ南隣のヱラム国の王を招きて彼と同時にニネベ城に攻め上らしめた、アツシリヤ王サラカス是を聞て兵を二つに分ち、自身は東より来るメデヤ人に当り、彼の股肱の将なるナボポラサル(Nabopolassar)なる者をして南の方バビロンに下り其処にエラム人を防がしめた、然るにナボポラサル途にて反し、使をクアクザレスに遺して協同相和してニネベを攻めん事を申込みたれば、茲にアツシリヤ国全滅の機運は益々迫り、城砦に頼り、戎車に頻り、弓箭|飛※[石+它]《なげいし》に頼りし此大帝国は殆んど迹形なきまでに亡びて了ふた。
 アツシリヤ亡びて後に西亜の天下はクアクザレスとナボポラサルとの間に二分された、メデヤ王は其北方を取り、彼の王国は今はアツシリヤ本土、アルメニヤ、カパドキヤ諸邦を含み、東はカスピヤ門より西はハリス(Halys)河の畔に丘で達した、彼は終に彼の西隣のリデイヤ王と釁を開き、自から兵を進めて其首都なるサーデイス(Sardes)に迫りしが、バビロン王ナボポラサーの中裁に依て二国和を講するに至り、西亜の天下は茲に一先づ争奪を中止するに至つた。
 然しメデヤ国は永くは継かなかつた、建国以来僅々七十余年にしてクアクザレスの子アスタヤゲス(Astyages)の時に当て同じアリヤ族なるペルシヤ人の合併する処となつた、メデヤはアリヤ人の建設せし最初の王国であつて其組織に多くの弱点があつた、メデヤ人は大国の主権者となつて永く其アリヤ主義を維持することが出来なかつた、彼等はアツシリヤ人の奢侈栄耀を習ひ、彼等本来の淡白にして高潔なる生涯を忘却した、彼等は亜細亜化即ちツラン化せられて忽にして其国民的生命を失ふた、王は王と成て人民より遠かり、九重の裡に人為的神聖を守らんとするに当て国家の滅亡は決して遠くはない、アツシリヤの亡びたるのは此為めであつて、メデヤ又其轍を履んで亡び、ペルシヤ又之が為めに亡び、支那土耳古は今又同一の原因を以て同一の運命に陥らんとしつゝ(402)ある、世に怖るべきものは実に此亜細亜主義である。 〔以上、明治33・6・15〕
 
    第二十三回 ペルシヤ(PERSIA)
 
 ペルシヤと云へば今は甚だ詰らない国である、其面積こそ六十四万方哩もあつて殆ど日本国の四倍大の国であるが其人口は八百万に充たず、殊に年々減少の傾きありと云ひ、国に一条の鉄道あるなく、其商業と財政とは重に欧洲人の手に存し、名こそ独立国なれ其実は支那朝鮮にも多く優る所のない至て憐なる国である。
 斯う云ふ国柄であるから日本人が此国の事物に注意する事は至て尠い、余輩の聞く所に依れば嘗て亜細亜協会なるものが東京に設立せられし時に日本の愛国者等はペルシヤも亜細亜の一独立国であるとの故を以て、特に書を其政府に発して其賛同を仰ぎしとの事であるが、然し今日に至るも未だ日本国がペルシヤ国と通商条約を締結したと云ふ噂を聞かないのを見れば、日本人の亜細亜熟なるものは其愛国心と同じく当てにならぬものであると見える、唯近頃台湾が我が版図に入りてより其土人に阿片を吸はするの必要があるより、日本政府は此毒物を波斯より仰ぐに至りしとの事である、日本と波斯との関係は実は先づ此位のものであつて、二国は殆んど全く無関係の国であると云ふても可い程である。
 然しながら少しく波斯の歴史、宗教、風俗、人情等を調べて見ると彼我の関係は斯くも浅少なるものではない事が分る、日本人の中にアリヤ人種の血が混《まじ》つて居るとの事は我々が度々聞きし所であつて、其血とは波斯人の血であるとは或る識者が唱へし説である、勿論此説を確めるに足る或る充分なる証拠があると云ふのではない、我々日本人は純粋なるツラン(黄色)人種であればとて何にも決して耻るには足らない、ツラン人種の中には洪牙(403)利人もあれば芽蘭人もある、我々はツラン人の根性さへ抜いて仕舞へば宜いのである、余輩は日本人非蒙古人種論を唱へて其朦を掩はんとする或人の愚に傚はんとは為ない。
 然しながら波斯人の特性を調べて見て余輩は能くも日本人に似たる国民が他にもあるものかなと独り自ら驚く者である、美観を愛し、礼儀を重んじ、情に脆くして理に疎く、婦人を愛し、奢侈婬縦に耽り易く、物の精緻を貴んで其理想に達し得ず、文を好んで想に乏しき事等に於ては日波両国人は同穴の兄弟ではあらぬかと疑はるゝ計りである、若し亦両国人の美的半面を窺へば、二者共に武を尚び、正直にして潔白である(今日の日本人は然らず)、歴史家ヘロドータスの言に依れば彼の時代の波斯人の教育なるものは、馬に騎る事と弓を射る事と正直を語る事であつたとの事であるが、是は丁度日本国に於ても鎌倉時代の武者などの受けた唯一の教育であつた、かの関東武士と称して、畿内西国の武者に勝て、質素で、正直で、強力であつた者は能くヘロドータスの此言に合ひし者である、佐々木高綱、熊谷直実、奈須与市の如きは波斯に於ても日本に於けるが如くに人類の精華として仰がるゝ者であるに相違ない、若し波斯詩人フィルヅーシをして宇治川先陣を歌はしめしならば必ずや北条早雲をして再び讃嘆嗚咽せしめたであらふ。
 神代の事に関する自由討究は日本国の法律の許さない所であれば、余輩は此処に此趣味多き問題に就て余輩の意見を述べる事は出来ない、然しながら何人も昔時の波斯人の宗教を研究して日本国の神代を聯想せざるを得まい、波斯教の祖師なるゾロアスター(Zoroaster,Zarathustra)の生涯と教訓とは高潔なる日本人を満足するに足るものである、彼は支那の聖人とは異なり、虚礼を嫌い、多言を忌み、率直にして佯りなき言を好んだ、彼の説教なるものは意味明瞭にして少しも委婉の辞を雑へない、正は正、邪は邪、偽善者は国王でも大臣でも偽善者、聖(404)人は馬丁でも牧牛者でも聖人、虚偽を悪むこと蛇蝎を憎むよりも甚だしく、人類を分つに正直なる者と偽言を吐く者との二種とし、前者を天地の神なるアフラマツダ(Ahura-Mazda)の子となし、後者をアングラマイニユー(Angra-Mainyu)即ち「黒き心の神」の子となした、彼はその国人に教へて曰ふた
  原始に二霊あり、二者其本質を異にす、善悪の二霊は我等を支配し、各其本性に従て我等をして思ひ、語り、行はしむ、二霊孰れかを汝等は今日此処に択ばざるべからず、故に善なれよ而して悪なる勿れ。
  虚を語る者の生涯は罪悪なり、正直なる者の生涯は彼を救済に導くの門とならん。
  汝等は同時に二者に事ふる能はず、懐疑者の背後には讎敵の潜むありて常に彼に耳語して曰ふ「悪を択べ」と、而して悪霊の群は彼を繞囲し、彼をして聖人が彼に教へし聖き行為を遂げ得ざらしむ。
 波斯人の主なる崇拝物をミテラ(Mithla)と称へた、是は光明の神であつた、ミテラは太陽を祭つた者ではない、太陽の事を波斯人は「ミテラの眼」と呼んだ、ミテラは亦|蒼空《そら》の神でもない、蒼空の神は別に有つて之をワルナ(Varuna)と呼んだ、ミテラとワルナとは勿論極く親しい神であつた 故に波斯人は二神に祷告するにミテラワルナなる合成的名称を以てした、日光崇拝は物質崇拝の最も高尚なるものである事は前に埃及史を論ずる時に述べた通りであるが、然し太陽を拝せずして単に光を崇めし波斯人は埃及人に優て一層精神的の民でありし事が分る、彼等の物質崇拝なるものは精神崇拝に最も近いものであつて、歩一歩を進むれば直に希伯来《ヒブライ》人の聖霊崇拝にまで達する事の出来るものであつた。
 ミテラの神とアマテラスオホミカミ、余輩は此外国の神を取り来て我国の神と比対しやうとは為ない、然しジヨセフ、エドキンス(Joseph Edkins)なる東洋学者が A-materasu と Mithlas とは同一の母音より成る名称である(405)と云ひて、日本の神道と波斯のゾロアスター教との関係を付けやうと為たのは、他に亦頼る所が無かつたからでは無いと思はれる。
 波斯語は立派なるアリヤ語であつて、日本語は紛ふべくもなきツラン語である、故に二者の言語的関係を発見せん事は到底出来る事ではない、然しながら国民の性質は其国語の文法的組織に於てするよりも、反て其発音の調子、母音子音の配列等に於て顕はるゝものである、今の日本人と西班牙人とは其人種に於ては洋の東端と西端との別があるが、然し其虚名を好む点に於て、其細事に激し易くして大事に冷淡なる点に於て、其遊戯を愛し、東なる者が相撲に熱心なるに比べて西なる者が牛闘に余念なき点に於て、日本人と西班牙人とは能く相似たる民である事は二者を知る者の均しく唱へる所である、而して馬徳里《マドリツド》、セビル、バルセロナ等に遊びし人は皆な、西班牙語の発音法は日本語其儘であるを称へ、二者を知らざる者に取ては孰れが何れと殆んど別ち難いとの事を語る、伊太利語に於ても亦同じ事である、余輩の伊太利語の教師は余輩に告げて曰ふ「君若し正格に伊太利語を発音せんと欲せば可及丈け日本語の如くにせよ」と、即ち伊太利語に於ては北欧語に於けるが如き舌音喉声の難音なきのみならず、強声《アクセント》なる者殆んど無きが為め、之を発音するには可成丈け日本流の流暢主義を取なければならない、而して同一の発音法は同一の国民的常性を顕はすものである事は伊、日、両国今日の政治と、社会と、財政とを見て明かである、余輩の波斯語の智識は殆んど皆無といふても宜い程であるから、是を以て日本人と波斯人との類似を述べる事は出来ない、然し余輩の知る両国民常性の類似より推して見て、二国の言語の其発音法の同じからん事を察する事が出来る、即ち波斯語なるものは流暢で、風雅で、貴族的で、朝廷の士女が相互の恋想を述べるに適して、田野の預言者が其偉想を発表するに適しない言語であらふと思ふ、此事は誰も知る波斯国の(406)地名に照して見ても能く分る、テヘランと云ひ、イスパハンと云ひ、ハマダンと云ひ、決してキョッペンハーゲンと云ひ、ドロンタイムと云ふが如き北欧の地名の如き難音のものではない、波斯人の人名にして歴史に伝はりしものは大抵希臘人の変更を経しものなれば之を以て其本名と見做してはならない、サイラス(Cyrus)とはクロス(Kuros)なる希臘音の英音であつて、波斯人は多分之をクルシユ(Kurush)と言ふたゞらふとの事である、英音のダリアス(Darius)は希臘音のダライオス(Dareios)で波斯音のダラヤブッシュ(Darayavush)である、ゼルキゼス(Xerxes)とは甚だ発音し難き名であつて、其波斯的固有名詞でない事は一聞して瞭然である、希臘に攻入て耻辱の退却を為した此大帝の名はゼルキゼスではなくしてハシャヤルシャ(Khshayarsha)であつた、又サイラスよりダリアス三世に至るまで十一代の王をアキメニス家(Achaemenidae)の王といふが、是は波斯音ではハカマニシユ(Hakhamanish)と響くべきものであるといふ、以上の例を日本語に較べて見るに、ア音(a)の比較外に多き事は日本語の特質の一であつて、ヤマダ(Yamada)と云ひ、アサダ(Asada)と云ひ、アラカワ(Arakawa)と云ひ、日本国の地名人名にア音(a)の多き事は波斯語に能く似て居る。
 余輩の浅学なる是より以上の関係を波斯語と日本語との間に見ることは出来ない、然し両国民の他の類似点に合せて見て此一点も充分に一顧の価値のあるものであると思ふ。
 其婦人観に於ては日波両国の民は殆ど符号を合すが如くに能く似て居る。波新婦人の美麗なる事は世界に有名であつて、此名声に与かる国は世界万国を通して他に日東の君子国あるのみであらふ、波斯婦人にして国を傾けしものは一人や二人ではない、ダリヤス二世の心思を奪ひ去りしパリサチス(Parisatis)、マセドンの大王アレキサンドルをして東征して印度に入て後再び故郷を見ること能はざらしめしスタチラ女(Statira)、マセドンの貔貅(407)一万人、大王の例に傚ふて波斯婦人を娶て妻となす、幾許もなくして彼等は悉く東洋化せられて、勇士の鉄心も溶けて蝋の如く、人をして当年の志気今何処にある乎を嘆ぜしむ、グラニカス、イサス、アーベラの戦場に於て波斯軍に被らすに殆んど鏖滅の敗を以てせしマセドンの軍人も、波斯婦人の捕虜となりてよりは亦一手を揚るの勇気なく、茲にマセドンの滅亡は兆して一百年を出ずしてパーシヤ人の取て代る所となつた、世に怖るべき者は実に波斯婦人である。波斯婦人である、亦日本婦人である、美福門院、勾当内侍、其他明治の昭代に於ける幾多の婢妾、清国に懲戒を加へて自らは大責罰を受くべきの行為に耽り、子弟に忠君愛国を強いて、自身は娼婦を娶て妻となす、而して或は位人臣を極めて国政を処理し、或は釈尊の代表者を以て世に崇めらる!!
 波斯人は一人の正当なる妻を認めた、サイラスにカサンダネー(Kassandane)があり、ダリアス一世にアトーサ(Atosa)があつた、波斯人は今でも日本人と均しく多妻の民たるの名称を拒むさうだ、然しながら、彼等は名義上一夫一婦の民であつて、実際上多妻の最も甚い者である、上は王侯より下庶民に至るまで富者と称すべきものにして、正室の外に数多の妾を蓄へない者はないとの事である、婬風の最も盛なる波斯は亦隠謀の最も盛なる国であつて、波斯歴史が始より終りまで多くは閨門の歴史である事は全く波斯人の奇異なる婦人観に依るのである。
 波斯人の道徳は純粋の忠孝道徳であつた、明君を得んことは彼等の唯一の政治的希望であつた、彼等は君と共に起ち君と共に亡び、君の指導に依るにあらざれば臣民は自身起て国を興すの勇気なく、君の衰亡を見て臣は自から身を全ふして国を救はんとするが如き冷智を具へなかつた、波斯人は熱情の民であつたから彼等の君臣の間柄に膠漆も啻ならざる所があつた、是れ波斯人の美所であつて、亦其一大弱点であつた事は波斯史を読む者の何人も感ずる所である、アレキサンドル大王の如きは能く波斯人の此弱点を認めたれば、彼は彼の軍略を定むるに(408)方て常に中堅突撃の方針を執り、波斯人をして王を救ふに遑なからしめて最後の勝利を全ふすること能はざらしめた。
 亜細亜大陸の西に位ひして、其国民的常性に於て斯くも日本人に似たる波斯人の歴史は我等に取りて甚だ趣味多き歴史であるに相違ない、余輩は此史談を終る前に波斯国興亡の事跡の大略を述べて、我国人と共に大に自から省みる所あらんと欲ふ。 〔以上、明治33・6・25〕
 
(409)     摩西の十誠と其註解
                  明治32年9月15日
                  『東京独立雑誌』43号「聖書之研究」                      署名 内村鑑三
 
 一、汝我が面の前に我の外何物をも神とすべからず、
 真理素と是一つなり、故に真理の神に一つ以上あるべき筈なし、かの是も是なりとし、彼も是なりとする者の如きは真理に対ひ甚だ不忠実なる者なり、国に二君あるべからざるが如く、宇宙に二神あるべからず、宇宙はコズモス(整躰)なれば其法則は悉く唯一の主権者より出づるものならざるべからず、多神教は其原理に於て既に矛盾的なり。『面前』、神に対して、或は神と比較して、或は神と相併んでの意なり、即ち神の前に立つ時には神以外の神を認むべからずとの意なり。
 二、汝自己のために何の偶像をも彫むべからず、亦上は天にある者、下は地にある者、併に地の下の水の中にある者の何の形状をも作るべからず、之を拝むべからず、之に事ふべからず、我エホバ汝の神は嫉む神なれば我を悪む者に対ひては父の罪を子に報ひて三四代に及ぼし、我を愛し我が誡命を守る者には恩恵を施して千代に至るなり、
 人は万物の長なれば彼は神以下の物に対して宗教的崇拝を奉るべき者に非ず、バビロン人は星(天にある者)を拝み、埃及人は牛と猫(地にある者)を祭り、フイリスチ人は魚(地の下の水の中にある者)を崇めたり、彼等は其(410)像を作り、金星にアスタロスの名を奉り、牛をプターの神とし崇め、魚をダゴンの像に刻めり、然れども独一無二の真の神に事ふべき猶太人は堅く此種の崇拝を禁ぜられしなり〇『嫉む神』、嫉妬は不実不貞を憤ふるの情なり、普通の男女間の愛に於てするも、夫たる者は妻たる者より彼女の全心の愛を要求し、妻たる者も亦彼より同一の要求を為して可なり、若し東洋的倫理に徇ひ夫たる者は彼の愛を数婦に頒つも妻たる者は黙して忍ばざるべからずとするも、彼女の愛は此不倫の行為を以て繋ぎ得べきに非ず、蓋は如何に貞節の女子なりと雖も彼女は躬から彼女の天然性を殄減し能はざればなり』。嫉妬に善悪の二種あるは憤怒に同様の二種あるが如し、義しき憤怒(義憤と名づく)あるが如くに亦正当の嫉妬あり、父たる者が子の不孝を憤るは当然の嫉妬なり、夫たる者が妻たる者の不貞を許さゞるも亦正当の嫉妬と称はざるを得ず、若し是を為さずして父たる者が子たる者より彼の最大の愛を要求せず、亦夫たる者が妻たる者の姦を容すが如き事あらん乎、是れ父たる者、夫たる者の愛の欠乏を意味するものにして、吾人は如斯の父、如斯の夫を持つを好まず』。憤怒其物に害なし、然れども憤怒の結果として復讎の念を醸し他人の害を謀るに至て憤怒の罪は生ずるなり、嫉妬の罪も亦然り、世の所謂嫉妬なるものは常に其罪的結果を称ふものにして、愛に相当する返愛の要求を示すものに非ず』。神は最大の愛なり、故に彼は彼の造りたる人類より専心全力の愛を要求するなり、是れ彼の正当の要求にして吾人神の何者たる乎を知る者は如斯の愛を以て吾人に対せざる者を以て神とし認め能はざるなり、神は万物を吾人に賜ひたり、吾人の有する者にして一つとして神の有ならざるはなし、此神にして吾人より吾人全身の服従と全心の愛とを要求す、世に何物か如斯くに正当なる要求あらんや、嫉む神は愛の神の別称にして、吾人は吾人より如斯の愛を要求し給ふ神の存在を知て偉大の慰藉を感ずるなり。
(411) 神を悪む者の罰は子孫三四代に及び、彼を愛し、彼の誡命を守る者の上には恩恵千代に抵るべしとあり、罰の厳なるは恩恵の洪且大なるに及ばず、三四代の罰と千代の恩恵、神は罰するに優て恵むを好む。
 神の恵と罰とは是を吾人々類より見れば自然の結果と称するを得るなり、自然の法則なるものは神の聖意にして、神の聖意なるものは自然の法則より他の物たる能はず、神の旨に違ふて、即ち自然の法則に逆ふて共通当の刑罰を免かるゝ能はざるは勿論なり、君怒らずと雖も不忠の臣は刑せらるべし、父恕すと雖も不孝の子は罰せられずしては歇まざるべし、神を捨て、神の命に逆ふて責罰の吾人に臨まざるはなし、是れ神の嫉妬深き(悪しき意味にて)が故に非ずして、恩恵深き天則の然からしむる処なり。
 余輩是を歴史に徴するに一神教を信じて其恩恵を子孫百千代の後にまで享けざるの国民あるを知らず、余輩の茲に説明する摩西の十訓を授かりし猶太人は四千有余年後の今日尚ほ其国民的生命を消耗せず、バビロン滅び、埃及亡び、羅馬壊れて猶太唯り其祖先の希望と活動力とを失はざるは何故ぞ、全世界に散布する僅に四百万に足らざる民を以てして、メンデルゾーン(音楽家)スピノーザ(哲学者)ヂスレリー(政治家)ネアンダー(神学者)等の諸雄を出し、ロスチャイルドの一家ありて世界の財権を握り、近くはヒルシユ氏夫妻ありて巨大の富を投じて同胞の困苦を拯ひ、彼等をしてパレスチナの故地を購ひ祖先の王国を渠の地に復興するの希望を懐かしむ、世に猶太人の希望の如く強固なるはなし、一神教の恩恵は最も著しく猶太歴史に於て見るを得べし。
 波斯人亦ゾロアストルの厳粛なる一神教に由て起り、彼等は一時西亜細亜の全部を席捲し、上古未だ曾て見ざるの仁政を西亜の民に施けり、是れ亦彼等が比較的に純潔なる一神教を信ぜしに由れり。
 亜拉此亜人の勃興も亦予言者モハメツトの唱へし一神教に由りしものなり、其一時は欧洲文明の中心を犯し、(412)中古の暗黒時代にバグダツト、アラハムブラに文華の花を咲かせしものは実にコラン経の伝ふる強健なる一神教的思想に依らずんばあらず。
 之に反して国家の衰亡は常に多神教の宣布に伴ふて来れり、埃及の衰運は一神教の衰退を以て始まれり、一神教的思想の健全なりし間は希?、羅馬は両つながら凋零の兆を示さゞりし、国民の勃興期は概ね其一神崇拝時代にありき、又偶像崇拝の国民的生命に及ぼす感化力は之を今日の印度に於て、西班牙、葡萄牙に於て、暹羅、安南并に其近隣の諸邦に於て見るを得べし、独一無二の神、肉眼を以て見る能はざる精神の神、是れ真正の神にして国民の生命なり。
 三、汝の神エホバの名を妄に口にあぐべからず、エホバは己の名を妄に口にあぐる者を罪せではおかざるべし、神聖にして犯すべからざる名を濫用す、是れ法律に於ては不敬罪にして宗教に於ては褻涜罪なり、両者共に主権者に侮辱を加へ其威厳を涜すの罪なり、不敬罪は人為の国法を以て罰せらるゝが如く、褻涜罪は天為の自然法則に依て処せらる、〇神は其名を濫用する者を罰するに投獄罰金の刑を以てせず、神の名を濫用するの刑罰は終に彼を識認する能はざるに至る事なり、是れ人たる者に取りては最大最厳の罰にして、余輩は人生他に如斯の苦罰あるを知らず、神を神とし認め能はざるは真理を真理とし、善を善とし、悪を悪とし認め能はざる事にして、終には醜を美と評し、圧制を自由と称ひ、思想悉く転倒して永遠を迷霧の真に過さゞるを得ざるに至る、かの真理に遭遇するも其美と善とを識別する能はず、常に政略を談じ、名利を口にし、宗教是れ政界の為めなりと言ひ、神仏是れ名利の具なりと做し、人に誠実なるものゝ実在するを信ぜず、世に確信なるものゝ在るを知らず、人生を欺計詐術を施こすの巷なりと信ずる幾多の政治家、教育家、宗教家は此条の破戒者の好標本なり。
(413) 此条神名を妄に口に挙ぐるを誡めしものにして其使用を全く禁ぜしものに非ず、心に尊崇して是を用ふ何の罪か之あらん、後世の猶太人が罰を恐れて什麼なる場合に於てもエホバの名を用ひざるに至りしは此誡命の真意を謬りしものと謂ふべし、詩人リヒテルが造化に詼諧の事多きを評して「神は詼諧の材料に富む」と言ひしも神に於ける信仰敬虔の念深かりし彼を知る者は褻涜罪を以て彼を責めず、是れ恰かも慈父の愛に浴して之と細事を談ずるの類にして、却て父子の情の親密なるを示し、父たる者の威厳を損ふことなく亦子たる者の従順を汚すことなし、詩人ゲーテが神を呼ぶに「我が父よ」の名を以てする基督信徒を責めしが如きは彼が大能大慈の神なる者の特性を究めざるより来りし言なり。
 要は信ぜずして神の名を口に挙げざるにあり、即ち神の名を利用せざるにあり、信仰を衒はんが為めに聖名を口癖にする宗教家、信徒の心を収攬せんが為めに公認教の必要を宣言する政治家、敬神愛国を揚言して時流の俗海に投ぜんとする文学者、――彼等は皆神の名を涜す者にして其適当の罰として未来永劫真理の美を味ふ事能はざる者なり。
 
(414)     火花集〔一〕
                  明治32年9月15日
                  『東京独立雑誌』43号「思想園」
                  署名 角筈生
 
    拡張と改良
 
 拡張は膨脹的にして空虚的なり、改良は緊縮的にして充実的なり、前者は小人の好む所にして後者は偉人真人の欲する所なり、今の世に拡張を叫ぶ者多くして改良を計る者尠きを見て其小人跋扈の世なるを知るに難からず。
 
    余輩の秋
 
 余輩の秋は悲惨失望の秋にあらず、余輩の秋は活動希望の秋なるべし、余輩は秋風吹到ると共に余輩の心情の一層清冽ならんことを欲す、余輩は禾穀の豊熟と共に余輩の思想の一層豊富ならんことを希ふ、若し夫れ爽節に会して脾肉の嘆を発することあらんには、余輩は之を懦夫俗人の上に発し、以て濁世掃攘の為に更に一層の労を効さんと欲す。
 
(415)    辛酸流浪の生涯
 
 辛酸流浪の生涯も亦意味なきの生涯にあらず、情を卑賤の民に寄せ、望を天の慰藉に繋がんがためには、此種の生涯に亦特種の便益なくんばあらず、「狐は穴あり天空の鳥は巣あり、然れど人の子は枕する所なし」と、天に永住の栄に与からんが為めには地に定住を有するの要なきが如し。
 
    日本今日の声
 
 偉大なるに及ばず、高尚なるに及ばず、又必しも誠実なるに及ばず、唯だ忠臣たれ、愛国者たれ、金を儲けよ、敵愾心を養成せよ、而して欧米人士の高評を得て、以て君子国の民たるの本分を全ふせよと。
 
    教育と宗教
 
 宗教を禁ずるは可し、然れども之に代るの精神養成の法を以てせざるべからず、若し樺山文部大臣にして基督、釈迦の高徳を具ふるの人ならんには、国民は前者を仰ぎ見て、後二者に学ぶの要を感ぜざらん、余輩は現文部大臣の宗教的素養の如何を知る者にあらず、然れども公が宗教を我邦の学生間に禁止せしを見れば公自身が或は宗教的大人物なるが如し。
 
(416)    新宗教の発明家
 
 人あり曾てナポレオン大帝の許に抵り、一書を呈して帝に奏して曰く「臣は一新宗教を発見せり、載せて此書の中にあり、是れ基督教に優るもの、敢て陛下の叡覧を煩はさんと欲す」と、時に那翁彼に答へて曰く、「朕之を閲読するの要なし、卿先づ行て同胞の為に十字架上の死を遂げよ、爾る後に朕は卿の新宗教を攻究するの機もあらん」と、彼れ語塞がり低頭して帝の前を退きしと云ふ。
 
(417) AN ANGLO-JAPANESE CONVERSATION ON JAPANESE MEN AND THINGS.
 
        ON INSPIRATION.
 
 What is inspiration, Sir?
 Inspiration is speaking of God through men.
 
 Do you think God can speak?
 Yes,He can.It is man's special priviledge that
he can be the mouth-piece of God.
 But how can you distinguish a man's own words
from God's words that come through him?
 Just as we distinguish good music from bad.
              〔以上、英文の見本、以下は略〕
 
     英和時事問答〔13〕
                       明治32年9月15日
                       『東京独立雑誌』43号
                       署名なし
 
    インスピレーションに就て。
 
 インスピレーションとは何ですか。
 インスピレーションとは神が人を透して語る事です。
 貴下は神が語り能ふとお考へなさいますか。
 爾うです,彼は語り得ます。神に代はつて語る事が出来るのは人類の特権で厶います。
 然し貴下は伺うして人自身の語を彼を透して来る神の語から区別しますか。
 丁度我々が善き音楽を悪き音楽から区別しますやう(418)に。神の語は調和的でして、宇宙万物の秩序に適ひます;而して我々はその神の語なるを心に認めます。仮令我々の目前の利益に反するものであるにもせよ。
 そうして貴下は神は今尚ほ此澆季の世に於ても語るとお信じなさるのですか;又予言とかインスピレーションとか云ふ事も昔時の事ばかりでなく今日も尚ほある事だとお信じなさるのですか。
 左様、私は爾う信じます。神が直接に教ゆるに非れば人類は智識の欠乏の故を以て失せて了いませう。神は生きてゐる教師の中で最も大なる者でして、彼なしには智識の饑饉が来りませう。
 然し茲に日本と云ふ国が有て近世科学のみにて、神無くして、嘗て前例のなき国家的繁栄を為しつゝあるではありませんか。我が文部大臣なる樺山伯は近頃日本諸学校に於ては凡ての宗教的礼拝を禁ずるとの訓令を発したではありません乎。
 それは私は存じません、多分樺山伯はソクラテスや使徒保羅より大なる且つ聖なる方かも知れません。又日本は何事にも例外はあるものですから世界一般の例に傚ふべき国ではないかも知れません。然し日本は今(419)日沢山のオベツカ連を出しつゝあることは貴下も御承知でせう。オベツカ連は常に無神論的教育の避くべからざる製出物です。
 然し若し神が人を透して語るといふ様な説を維持なさると貴下は井上元良先生の如き大智識に笑はれますよ。
 それは承知です。諸先生は智慧のある方々で神は決して彼等を透しては語りません。
 如何様な人を透して神は通常語りますか。
 貧しき人を透して。謙遜なる事は人が神に代つて語る者とならんが為めの必要なる条件のやうに思はれます。貧しくして清き人の語る時は私は常に彼の語を神の語として受けます。
 爾からば御説に依りますれば人を以て云へば神の語は下から来るものにして上から来るものではありませんね。
 御推察の通りです。
 貴下は危険なる説を御懐きなさいます。
 爾うかも知れません。
 神が人を透して語るとは私に取りては全く耳新らし(420)い観念です。
 左様,文部省教育を以て仕立てられたる貴下に取ては爾うでなくてはなりま
 
(421)     火花集〔二〕
                   明治32年9月25日
                   『東京独立雑誌』44号「思想園」
                   署名 角筈生
 
    余輩の目的
 
 余輩の目的は日本国を其根底より改造するにあり、而して余輩は之を為すに当て政治を以て政治を改良せんとする如き愚を学ばず、社会に依て社会を革めんとするが如き迂に出でずして直ちに個人の良心に訴へ、之を潔め、之を高め、之に新理想と新希望とを供して以て国家を其之を組織する根底より改造せんと欲す、是れ最も迂遠なる業の如くに見えて実は最も確実にして最も簡易なる法なり。
 
    党人と義人
 
 党人万人を増すも国家は之が為めに些少の利益を享けず、義人一人を加へて国家は確に一柱石を得たり、依て知る義人一人を吾人の愛する此日本国に献ずるは大政党を樹立して其政界を乱すに優るの大事業なる事を。
 
(422)    積極的倫理
 
 曰く節倹、曰く譲退、曰く貯蓄、曰く謹慎、是等は皆消極的倫理なり、その努めて服膺すべきものなるは勿論なれども、吾人は此等を以て足れりとなすべからず。
 労働、進取、施与、善行、事業の拡張と其充実、罪悪の掃攘と実行の奨励、悪を憎むと同時に善を愛するの念、国に一人の貧者なからしめんと欲するの大慾望、……此等は積極的倫理にして、此聖望と浄慾となくして吾人は君子たるも吾人の道徳は世道人心を益する甚だ尠なし。
 
    勇者の道徳
 
 信ずるは疑ふに優る、得るは蓄ふるに優る、養ふは節するに優る、吾人は宜しく戦々競々として薄氷を践むが如き懐疑の根性を捐てゝ、悠々然として大盤石の上に坐するが如きの信仰を以て進むべきなり、由来東洋倫理は隠退者、失望家の倫理なり、吾人は新たに格闘者、戦勝者の倫理を学ばざるべからず。
 
    政治学上の二大説
 
 個人の為めの国家乎、国家の為めの個人乎、是れ政治学上の二大説なり、雅典のソロン、米国のワシントンとリンコルン、英国のコロムウエルとピツトとグラツドストーン、日本の北条泰時と上杉鷹山等は前説を執りし者なり、スパルタのライカーガス、墺地利のメテルニツヒ、独逸のビスマーク、日本の伊藤博文侯と山県有朋公と(423)は後説を取り或は執る者なり、民の為めに尽せし者は多くは前説を執り、君の為めに計りし者は多くは後説に拠れり、是れ吾人の思考すべき事実なり。
 
    沈黙の説教
 
 吾人は教会基督を口に唱へずして基督教を宣伝し得るなり、吾人は忠君愛国を叫ばずして誠忠深愛の民を作るを得るなり、之を唱へ之を叫ばざれば之を伝へ得ざるものは未だ宗教、国家の何物たる乎を解せざるものなり。
 
    希望の秋
 
 脱葉地を蔽はんとする頃、吾人の希望は愈々益々大なり、旧世紀は終らんとし、旧制度は廃れんとし、旧き天地は去て新しき天地は吾人の中に臨まんとす、爽々たる秋風是れ落葉を促すの声ならずや、寂々たる世態、是れ旧事物の死滅を表するの状ならずや、吾人は野色惨然たるを見て、吾人の志を強むるや大なり。
 
    神の事業
 
 『我れ神と与みして我れ一人は世界よりも大なり』、吾人は僅に神の事業を賛成するに止る者、大偽善の廃頽を見て欣び、大正義の隆興を聞いて感謝す、悪人を殲すものは吾人に非ずして神彼自身なり、義人を起す者も亦吾人にあらずして神彼自身なり、神は金宇宙の威力を使役して威に誇り民を窘しむる者を尽滅し給ふ可し、感謝すべきかな。
 
(424)    待命
 
 吾人は名の大なるが故を以て畏るべからず、位高き者必ずしも義人にあらず、威猛き者必ずしも平和と歓喜とに充つる人にあらず、大政府の裡に吾人平民の推測し能はざる憂苦と辛労と危殆とあり、要は正義に拠て神命を俟つにあり、荘厳を装ふ大廈の其土台石まで拭ひ去らるゝ時もあらん。
 
    東洋の社会組織
 
 父は子に凭り子は父に求め、君は臣に顧み、臣は君に縋がり、兄弟相頼り、朋友相結ぶ、或は之を一家団欒といひ、或は上下一致と称ふ、而して一人の起つて天と己とに依り万人の責任を其肩上に担はんと欲する者あるなし、東洋の社会組織は此の如きものにして其民に責任の念之しく彼等の中に勇壮偉大の業の挙らざるは全く之が為めならざるべからず。
 
    余輩の耻づべき事
 
 余輩は余輩の筆の縦横ならざるを耻ぢず、余輩は余輩の詞調の流暢ならざるを恨まず、余輩は余輩の思想の卑猥ならんことを懼れ、余輩の誠実の足らざるを耻づ、国家民衆は文章に非らず、技術に非ず、之を救ひ之に尽すに誠実と熱心とあれば足る、其他を要せず。
 
(425)     『小独立国』の現況 第二報
                    明治32年9月25日
                    『東京独立雑誌』44号「雑壇」
                    署名 角筈生
 
〇秋冷と共に事業は稍活気を加へぬ、販売部は新読者の日々に多きこと売切れ号数の既に五六に達せしを報ず、新出版物の着手あり、新記者招聘の計画あり、孰れにしろ秋は雑誌屋喜悦の時期なり。
〇女子部は去る十一日四名の無給教師と二名の薄給教師と十有七名の若き純清なる労働者とを以て開かれたり、万事甚だ静粛にして円滑なり、裙釵袖を絡げて洒掃庖厨の事に従ひ、縫を習ひ学を受く、食後に唱歌あり、高談あり、一週二回有志の祈祷会あり(アーメン連驚く勿れ)、而して夕七時を報ずれば校内粛として殆んど人なきが如し、読書執筆に聊か障礙なし、今後一旬を経過せば尚は一層の進歩と整理とある目論見なり。
〇余に取りて女子教育は今度が臍の緒切て以来始めての経験なるが、男子教育よりも一層興味多きが如し、女子は男子(日本の)の如く生意気ならず、能く命令を重んじ、静粛にして従順なり、殊に文部省令なるものゝ女子教育を束縛すること甚だ少ければ今日の日本に在ては自由教育を施すには女子に限ると信ずるなり、依て以来は独立雑誌も女学雑誌の一種とならんかなどの杞憂を懐く者あらんなれども夫れ丈けは無用の心配なるべし。
〇本校は重きを手芸教育に置いて其余暇を以て智育を授くとは其教育の方針なるが、さりとて智育に於ても他の女学校に一歩を譲らざらんとするは校内に三四百冊の能く撰びたる和漢洋の書籍を蓄へ有るに依て知るべし、(426)英国百科字典《エンサイクロピジヤ、ブリタニカ》あり、モットレー、ローリンソン、ギゾー、ダイヤー等の史論亦具はる、教師間には度々高尚なる社会学、言語学上の議論あり、少し手に余るやうな女学者がやつて来れば宜いとは彼等の屡次発する歎声なり。 (九月十七日 夕)
 
(427)     英和時事問答〔14〕
                       明治32年9月25日
                       『東京独立雑誌』44号
                       署名なし
 
        喜ばしき秋
 
 秋は来ました,悲しき秋は来ました.
 左様さ,秋は来ました,然し悲しき秋では厶いません。寧ろ涼しき、静かなる、美くしき、感謝すべき秋が来たと云ふてください。
 然し貴下は木の葉が落ちて腐るのを御覧なさいません乎。
 左様です;併し私は亦果実の熟するのを見ます;而して又落つる木の葉の下には既に来春の為めに木の芽が作られて居るを見ます。
(428) 何にか特別の新聞はありますか。
 別にありません、只仏蘭西とトランスバールからあるばかりです。
 然らば我々の日本に就ては何もありません乎。
 別に注意すべき事はありません。万事総て秋の林に於けるが如くに静かなやうです。旧き事物は凡て死につゝ、且つ失せつゝ、あります。古き愛国心、古き道徳、元は支那より輸入されし古き政治は皆共に失せつゝあります。私の国人の多数は是等の事実を以て国の衰亡の兆と見做しまするが、然し私は是を見ること秋の木の葉を見るが如くです。その落るのはその下に新らしきものが既に在るからです。
 貴下は甚だ幸福なる眼を以て事物を御覧なさいます。
 辛か不幸かは私は知りません。私は只その真《まこと》なるを知ります。天然に依て彼の国の未来と希望とを読み得ない人は憐れむべき者です。
 爾して貴下は新たらしき日本は既に古き日本の下に形造られて居るとお仰るのですか。
 私は実に爾う信じます。森が過ぎし夏の緑の上衣を(429)脱ぎ棄つる如く確かに日本は其薩摩主義と肥後主義とを脱ぎ棄てませう。天然彼女自身が彼等に死刑を宣告致しました、故に吾々は只此甚だ望しき刑罰の実行せらるゝ時を待て居れば宜しいのです。
 
 何んと結構なる希望ではありません乎。薩摩人や肥後人が秋の木の葉のやうに吹き散らされるとは。
 天然と申すものは斯くも恵み深いものです。彼女は新たなるものに生命を与へん為めに古きものに腐敗を送ります。吾々をして秋に在て欣ばしめよ、そは此の秋こそ腐れ果てたる薩長制度の上に永久の死を印するものなるやも知れざれば。
 然らば吹けよ秋風、吹け。
 実に然り。彼等をして烈しく、無慈悲に吹かしめよ。全国民が今日悩みつゝある此腐敗が残ることなく拭ひ去られんがために。
 
(430)     火花集(三)
                    明治32年10月5日
                    『東京独立雑誌』45号「思想園」                        署名 角筈生
 
    憫むべき事多し
 
 泡を掴んで喜ぶの小児あり、県会に多数を得て悦ぶの政党あり、日本の今日に憫むべき事多し。
 
    政党の本質
 
 政党は海浜の砂の山の如きものなり、同一の分子風の方向に随ひ或は自由党を作り、或は進歩党を作り、或は帝政党を作る、同じく是れ名利を追求するの徒、其醜たり穢たるは其党する集合躰の如何に依て異ならず、吾人は彼等に対するに一視同悪の念を以てすれば足る。
 
    日本国を救ひ得る者
 
 日本国の救済を今日の政治家なる者より望む者は愆れり、彼等は妾を蓄へ私生児を挙ぐる者、即ち倫理学的に彼等を評すれば彼等は彼等自身をさへ救ひ得ざる者なり、己れ一人を救ひ得ざる者が争でか同胞四千万人を救ひ(431)得るの理あらんや、是れ三才の童子と雖も解し得るの理なり。
 
    悪友
 
 俗人を友とし持つは友を持たざるに若かず、俗人は吾人の心志を卑ふする者、吾人の品性を汚す者なり、吾れ彼と交つて害の多く蒙るべきあるも、益の少しも吾が身に及ぶなし、俗人は友とし持つべからざるものなり。
 
    怕るべき委任
 
 上に人生の何者たる乎を少しも解せざる政治家あり、下に万事を政治家に委ぬる国民あり、是れ理財の術に暗き者に家産を挙げて委ぬるの類、如斯にして国家的破産の免るべからざるは理の最も睹易きものなり、委ぬるに足るの政治家出づるか、委ぬるに足らざる政事家に国家の大事を委ぬるを廃する乎、二途孰れが其一に出づるに非れば国民の前途に怕るべきものあり。
 
    帝都の悲観
 
 世に若し悲観と称すべきものあらば、十万の学生負笈して帝都に集り来り、然も彼等に人生の秘義を授くるの良教師あるなく、彼等が牧者なき羊の如く茫漠たる世路に彷徨するの状なり、彼等の多くは有為多望の青年、若し正当に彼等を導くを得ば彼等に依て新日本を作るに難からず、余輩は途上彼等に遭遇する毎に未だ曾て文部省と文部大臣とを聯想せざるはなし。
 
(432)    単純憤る真理
 
 真理は素是れ単純なるものなり、然れども単純なるが故に無意淡味のものに非ず、単純にして永遠より永遠に渉るもの是れ真理なり、単純なるの故を以て真理を斥くる者は竟に真理に達するを得ざる者なり。
 
    日本人の欲するもの
 
 日本人の欲するものは頓智なり、気焔万丈と称する罵詈讒誣の言なり、嘲謔の文なり、滑稽洒落の語なり、彼等は単純なる真理を聞かんと欲せず、彼等は自己の改革を促すが如き真面目なる教訓に耳を傾くるを好まず、彼等は智者才士たらんことを欲して義人君子たらんことを願はず、彼等に真理を探らんと欲するの真意なく、彼等は拉典民族に似て真理を美術的にのみ解せんことをのみ努めて之を其身に実行的に現はさんとせず、彼等に真理を語るも効少きは是が為めなり。
 
    学界の盲
 
 万巻の書を読み尽して終に阿諛諂佞の悪徳なるを認むる能はず、大家の言を引証するを知つて自己の良心に誓ふを知ず、学殖の豊ならん事を欲して意志の強固ならん事を求めず、如斯の腐儒、如斯の書蠹今や我国の学界に跋扈するも、爾かも天下は挙て其盲を賛するが如し。
 
(433)    交際の道
 
 交際の道を知らずとて余輩を責むる者あり、然り余輩は阿諛の道を知らず、人の面を憚つて余輩の信仰を曲ぐるの道を知らず、余輩に悪人を指して善人なりと称ふるの技倆なし、若し真正直ならむと欲するが故に、若し天性有の儘ならんとするが故に、若し人を敬して彼を欺かざらんと願ふが故に、余輩は交際場裡に入るを得ずとならば、余輩は喜んで之に入らざらんと欲す。
 
    交友を求む
 
 余輩に純清の人を与へよ、余輩は彼と親交を契らんと欲す、余輩は清浄無垢の小児の中に多くの友人を有す、余輩の心中亦天を畏れ人を敬ふ五六の親友を留めざるにあらず、余輩も『社交的動物』の一人なれば、単独は余輩の特別に択びし所のものにあらず、純清の人に接せざるが故に交らざるなり、評者幸に彼を指名せよ、余輩は礼を尽し、言を低ふして彼の許に至て彼の親交を乞はんと欲す。
 
    破廉耻
 
 忠君愛国を唱へて素行修まらざる教育家、教会天国を談じて野心勃々たる宗教家、天下の革新を唱道して自家の革新を努めざる新聞記者、優柔なる文学者、利慾一方の実業家、不道徳の政治家、嗚呼彼等は志士の友とし求むべき者に非ず、余輩は世に彼等を友とするの破廉耻漢多きに驚く。
 
(434)     奇人奇語
                   明治32年10月5日
                   『東京独立雑誌』45号「雑壇」
                   署名 独立生
 
◎我一人いくら悶躁《もが》いても日本国は救へない、日本も他の国と同じ様に、成る様には成るであらう、『上帝は天に在せり、地上の事憂慮するに足らず』だ、為すべき丈けの事を為して他は之を上帝の手に委ぬるが智慧の絶頂だ。
◎同志社を始めとして青山学院、明治学院其他の外国人の資金に依て建てられた基督教主義の学校は段々と死期に近いて来た、実に残念の至り気の毒の至りである、然し故新島襄氏其の他の諸先生には是れしきの事に先見が付かなかつたか知らん、斯くなり行くは分り切つた事であつたに。
◎神と俗とに併せ事へんとする事程怕しい事はない、俗のみに眼を注ぎし福沢先生の教育事業は稍成功であるのに、基督教諸先生の事業の斯くも失敗に終らんとするのは全く彼等が二人の主に事へんとした為であつたに違ない、同志社の運命を見ても余は一層聖書の教訓の意味深きを悟る者である。
◎若し余が諸先生ならば余は断然政府と手を切て仕舞ふであらう、而して余は爰に全く文部省の干渉を受けざる平民主義の学校を興すであらう、政府の役人となるばかりが日本人の能事ではない、商業界、工業界、文学界皆悉く誠意実力の人を要するではないか、我々は政府の保護を受けずとも真面目の人を作る事が出来る、真実に(435)日本国の為めに尽さんと欲すれば政府の特別認可の如きは反て妨害になる、今や我国の教育は挙て虚偽虚礼に走る際、基督教徒が其刷新の責に当らん事は実に望ましい事である。
◎併し此んな大胆な事は基督教界の諸先生よりは決して望めない、今日若し此事が彼等に出来るならば彼等は今日までに耻辱の上に耻辱を加へなかつたに相違ない、神様を惟僅かに半分丈け信ぜし諸先生は終に政府の践み潰す所と成つた。
 
(436)     英和時事問答〔15〕
                   明治32年10月5日
                   『東京独立雑誌』45号
                   署名なし
 
       薩摩人と肥後人
 
 貴下は屡次薩摩人と肥後人とに就てお語りなさいますが全躰彼等は何ですか。
 私は先づ薩摩人に就てお話申ましやう。彼等は甘藷です。御承知の通り旋花科の植物の一なる学名 batatas edulis の事を日本語では薩摩芋と申します。 夫れならば彼等は植物ですか或は人間ですか。
 彼等は両方です。
 爾うですかl
(437) 実に爾うです。彼等は殆んど智能を具へざるに由て植物です、爾うして彼等の各々は二本の手と足とを有つ故に人間です。
 稀代な物ですね(テ)……
 左様、実に稀代な物です。或る意地の悪い新聞記者は彼等を豚とまで呼びました、其訳は人の申しまするに彼等は彼等の本国に於て沢山豚を養ふて置く故だそうです。
 然し薩摩人は貴下の国に於ては高等の位置を有て居るではありませんか。
 爾うです、其憫れむべき結果を貴下は今日の日本の社会の稀代なる解すべからざる状態に於て御覧なさる事が出来ます。私共は今日の処国民としては三分の一植物で、三分の一動物で、只僅かに三分の一丈け人間です。是は私共が彼等に薩摩化されたからです。
 ソレナラバ肥後人とは誰です。
 素とは肥後の固から出て来た日本人種の一部分です。然し其国の住人を悉く『肥後人』とは称しません。
 其れは何う云ふ訳ですか。
(438) 肥後にも多くの正直な真面目な人が有ります。私共がかの嫌ふべき『肥後人』なる名称を附するは是等の人にでは厶いません。
 肥後人は何に似て居るか告げて下さい.
 肥後人は狸に似て居ます.彼等は偽善者たらんと欲せずして偽善者たる者です。恰も狸の奸詐は其本性に在るが如くです。肥後人の偽善は彼等の生れつきの性質と教育から来るものです。私は彼等は丁度カーライルの称する『誠実なる偽善者』なる者だと思ひます。彼等は国家の為めと称して凡ての卑しき事を為します。彼等は薩摩人のやうに勇敢で頑固ではありません。彼等は虎の威を借る狐です。
 
 爾からば肥後の国に於て生れざりし肥後人なる者がありますか。
 爾うです,今日は肥後人と称すべき者は国内至る所に居ります。実に悲い事ではありませんか。
 
(439)     火花集(四)
                   明治32年10月15日
                   『東京独立雑誌』46号「思想園」
                   署名 角筈生
 
    余輩の目的
 
 『我れ神と共にありて我一人は世界よりも強し』、『世は一斉同音彼方に立つも我は唯り此方に立たむ』、我の強弱は我れ我が神と共に有ると否とに依て存す。
 
    我の大なる理由
 
 我れ我が神に頼りて我は容易に全世界の責任を我双肩に担ふを得るなり、此五尺の躰躯も之を全能の神に繋ぎて物として我の繋ぎ得ざるはなし、事として我の当り得ざるはなし、我も亦大なる者ならずや。
 
    失敗の文字
 
 我に失敗の文字あるなし、我が為す処のものは総て成功するなり、是れ我に先見智能の有るが故に非ずして、我は我が神に頼りて、彼をして我が事を為さしむればなり。
 
(440)    天意のまゝ
 
 我に来るべきものは我れ求めずして来り、我を去るべきものは我之を追求するも持続する能はず、我れ我が真我に拠りて取捨得失は渾て天意の儘なるべし。
 
    神と人
 
 我は我が衣食の為めに我が神に頼り、我が生命の為めに我が神に頼り、我が事業の為めに我が神に頼る、我は人よりは何物をも求めざらんと欲する者なれども、神よりは総ての物を求めんと欲する者なり、而して人は其国家たると、社会たると、政府たると教会たるとに関はらず、皆な浮薄にして我の要求に応ずることなしと雖も、神は常に我が叫号の声を聞き我をして常に乏しからざらしむ。
 
    秋の好友
 
 郊外に出れば鵯の茂林に囀づるあり、室内に帰れば史書の燈前に繙かるゝあり、空清く夜静かにして、天然と歴史とは交々来て我が心裏を占領す、此等善友の親交ありて我は寂寥の秋を感ぜず。
 
    平靖
 
 永久に渉るの事業を就さんと欲する者に毎朝争て新聞紙を読むの要あるなし、縦し富士山は陥りて湖水と成る
 
(442)    日本国と日本人
 
 余輩は日本国の為めに日本人を愛するを得べし、日本人の為めに日本国を愛する能はず、日本国は或る明瞭なる理想と天職を帯びて存在するネーシヨン(国家と訳すべからず)にして純清無垢の処女の如き者なり、是に反して日本人なる者は其内に熊襲八十梟の子孫あり、アイヌ、コロヽボツクルの遺〓《いげつ》もあるべく、亦大和民族と称する侵害者の後胤もあり、彼等の目的は卑賤にして日本国の理想に及ばざるや遠し、彼等は掠奪を愛し、虚名を好み、仁義を衒ひ、強者に媚びて弱者を圧す、余輩彼等を愛せんとするも得んや。
 然れども彼等は天の許可を得て此美国に居住するの民なり、彼等或は竟に其理想に教化せられざるを得んや、余輩は此極麗極美の故国の愛に励まされて彼等を愛するを得るなり、即ち慈母同腹の子なるが故に彼等を忍ぶを得るなり、余輩が余輩の総てを捐てても彼等に仕事せんとするは放縦淫逸彼等の如き者の為めに非ずして、彼等を保育せし貞操潔白の賢母なる日本国の為めなり。
       *     *     *     *
 日本国若し薩長政府ならん乎、余輩は余輩の浄潔を重んじて直に之と絶縁すべきなり、日本国若し自由党又は進歩党又は帝国党たらん乎、余輩は其面に唾して余輩の視聴の之に汚されざらんことを努むべきなり、然れども日本国は日本国にして、政府以上政党以上の者たるを知れば、余輩は余輩の有す総てのものを其用に供せんと欲するなり、余輩豈俗人俗党の為めに日本国に仕事せんと欲する者ならんや。
 
(443)     或る貴重なる書簡〔第一〕
                       明治32年10月15日
                       『東京独立雑誌』46号
                       署名なし
 
 下に記載する書翰は米国アマスト大学前教頭シーリー氏が余の彼国在留中余の病めるを聞いて余に送り来りしものなり.余は是を読む毎に未だ曾て両眼に涙を湛えざるはなし。彼れ教頭多忙の身を以て尚ほ一外人の困苦を思ふ斯の如し、余を呼ぶに『余の愛する友』を以てし、聖書の句を引いて余を慰む、余は敢て我国の読者に問はむ、深情此の如きの教師は我国の教育界何処にある乎と、宗教と教育とを分離したればとて此の如きの教育家なくして何をか為し得ん。
           馬洲アマスト
             アマスト大学に於て
               二月六日、1888年
余の愛する友よ:
 余は博士バロースより君の病めるを聞いて甚だ悲しむ、而して余は茲に余の同情を君に表し、併せて余の(444)力の及ぶ限り君の援助たらんと欲する余の願望を君に伝へん為めに此書を送る。余は切に望む、気永の休養に依て君の充分に健康を回復せられん事を、又余は信ず主なる神は直接の未来に関する君の計画に就て最も賢き途に君を導き給はん事を。若し君にして直に日本に帰るを以て最良の策と見做さるゝならば、余の思ふに君は最も善き且つ最も安楽なる方法にて帰るべきなりと。而して若し之を得んが為めに君に充分の金子の用意なくば君願くば此事を余に知らせよ(加拉太書第六章二節)
 願くは碑は君を恵み、且つ君のために彼が君に命ぜし事業を為さしめんために要する凡ての準備を供へ給はんことを。
          君の最も真実なる
              ジユリヤス.H.シーリー
 鑑三内村君
 書中指示する処の加拉太書第六章第二節の言は下の如し;Bear ye one another's burdens, and so fulfil the law of Christ. 爾曹《なんじら》彼此《たがい》の労を負へ斯くして基督の律法を全ふすべし。基督の律法とは他なし即ち愛の律なり同情相憐の法なり。即ちシーリー先生は此聖句を引いて彼は基督に於て余の兄弟なる事、故に余は弟が兄より物を請求するの心を以て遠慮なく余の要するものを彼より請求すべしとの意を余に伝へられしなり。余は其時先生に向て(445)此要求をなすの必要なかりし故に之を為さゞりし。然るに先生は尚も余の困苦を推量してか後に余に若干の援助を送られたり。金銭の贈与必しも基督信者の深情を表白するものに非ず、然れども『主に於ける兄弟』が互に相思ひ遣るの情は実に斯の如きものなり。此大教育家にして斯くも優しき心あり。誰か云ふ宗教は教育に害ありと。此書翰は以て君子国幾多の自称教育家を慚殺するに足るものならずや。
 シーリー先生自筆の書翰にして今尚ほ余の保存するものは下のものにして、之はアマスト大学教員会が余の撰科生たりしに係はらず余に学位を授けんとの議決を為せし由を先生自から余に知らせ来りし時の書なり。意義甚だ簡単なるも其内に万斛の同情の溢るゝあるを見るなり。
             馬洲アマスト
                 七月27日、1887年。
余の愛する友よ
 余は茲に教員会が商議員会に稟請して今回の卒業式に於て君にバチエロル オブ サイアンスの学位を授けん事を議決せし事を君に報ずるを悦ぶ。願ふ今午後又は今夕余の家を訪はれよ、余は式場に於て何を為すべきかを君に告げん。
           君の甚だ真実なる
              ジユリヤス H.シーリー
 鑑三内村君
 
(446)     〔日曜日の夕 他〕
                   明治32年10月25日
                   『東京独立雑誌』47号「思想園」
                   署名 角菅生
 
    日曜日の夕
 
◎我の責任は大且つ重し、我是を思ふて重荷に堪えざらんとす、然れども是れ我れ一人の担ふべきものにあらずして、全能の神と共に負ふべきものなりと信ずれば我は反りて其一層重からんことを希ふ。
◎我は基督教は如何なる宗教なるや深く其奥義を知らず、然れども一事斯教に就て我の疑ふべからざるあり、即ちその謙の宗教たること是れなり Christianity is the religion of humility.『基督教は特に謙遜を教ふるの宗教なり』、神の降世と云ひ、十字架上の死と云ひ、謙の福音を宣伝せしものに外ならざるべし。
◎謙の宗教たり、歓喜の宗教たり、神を識るの歓喜、罪悪の縲絏より救はれしの歓喜、人類に仕事するの歓喜、儒教に戦々兢々として薄氷を践むの感あらば基督教に躍々として天に昇るの感あり、而して我は謹慎戦慄の教義に優りて欣喜雀躍の宗教を択ぶものなり。
◎我に語るべき思想なき時は我は唯だ我思想の貧を語らんのみ、貧を飾て富を衒ふは是れ虚偽なり、而して世は如何に明論卓説を以てするも虚飾を以て慰め得べきに非ず。
(447)◎日本国に富あり、智識あり、才能あり、愛国心あり、無きものは歓喜なり、満足なり、平和と安心となり、我の基督教を信ずるに至りしは已むを得ざるに出でたり。
◎伝道とは我が弟子を造る事に非ず、亦教勢拡張を云ふに非ず、伝道とは善を為す事なり、失望せる此社会に新希望を供することなり、其我を容るゝと容れざるとは我に於て何の関係あるなし。
 
    記者根性
 
 記者根性は旨き新しき思想を得んとするにあり、得て而して之を読者に頒たんと欲するにあり、頒て而して其讃賞を買はんと欲するにあり、記者が常に思想の貧を感ずるは彼に此下劣なる根性のあればなり、之を根絶するにあらざれば彼は人類の教導者たる能はず。
 
    小説家と教育家
 
 小説家は人物を画く者にして教育家は之を作る者なり、前者は悪人を悪人とし叙述するに止まり、後者は悪人を変じて善人と為すを得べし、故に国家に取ては教育家は小説家に優りて有益なる者なりと雖も、而かも日本の今日に小説家多くして教育家(真正の)尠し、是れ其の衰亡の兆候ならざるべからず。
 
(448)     或る貴重なる書翰〔第二〕
     大尉R.H.プラツト氏よりの書翰
                     明治32年10月25日
                     『東京独立雑誌』47号
                     署名なし
 
 プラツト氏は米国陸軍騎兵大尉なり、曾て軍に従ひ南の方フロリダ洲にアパチー士族を征す。此役氏は斗らずも土人の小児二人を擒にせり。時に氏の人類的感情はいたく動かされ、氏は即時心に誓ふて曰く『土人を教育するは之を殺すに優る』と。氏は其時直に剣を投じ爾来三十年一日の如く土人青年男女の教育に従事せり。余は曾て氏を其ペンシルバニヤ洲カーライルなる土人学校に訪ひ親しく氏の事業を目撃するを得たり。下に掲ぐる信書の如きは余が数回氏の手より受けしもの、之に接して余は常に寒中春風に当るの快を覚ゆ。氏の同情は遠く我北海道のアイヌ人種に及び、氏は彼等の状態に就て学ばんと欲するや切なり。敢て問ふ台湾に無数の土民を屠りし我陸軍武官中一人の大尉プラツトなきや。
                     スタンヂングロツク
 
(449)              米国合衆国ダコタ洲
                 八月九日、1888年
 
余の愛する内村君:
 君の六月二十九日出の書翰は実にスー人種の中に在る余の手に達せり。スー人は我土人中の最大種族にして其数凡二万五千人なり。国会は昨春彼等の土地一千一百万エークルを購買するの案を議決せり。是れ彼等の為めに保存せられし土地の殆ど半分にして、政府は一エークルに附き五十仙を払ふと同時に境界并に部落の配置に就て変更を為さん事を申出たり。大統領は此事に関し土人の承諾を得るの業を余に委嘱せり。爰に我等委員三人あり、外に二人の速記者ありて我等は先づ此土人保護区域(agency)に於て我等の業に着手せり。我等は過る十五日間毎日談判を開きたりしも未だ多くの望ましき結果を見る能はず。政府の仕払はんとする代価は寛大なるものにして其所置は仁且慈なるものなれども。土人の闇愚なる彼等は自身の利益を悟る能はざるなり。我等は此外尚ほ六区域の土人と談判を開かざるを得ざる事故九月の終りに至るも我等の職務を終る事能はざるべし。余の考ふるに政府にして若(450)し直に法律を通過して土人の諾否に拘はらず之を彼等の上に強ふるならば是れ反て相方の利益なるべし。
 
 余の心は君の跡を逐ふて君と共に君の大島国に在り。余は君の理想の何時か事実となりて現はれん事を望む。今や世界の注意は君の国にあつまる。余は余の国人中最も見識に富む者の多くが常に多くの希望を以て君の国に就て談ずるを見る。余は貴国の大博覧会の開かるゝ時を待て貴国に旅行を試みんと欲す、故に悦んで君の文通の途を開き置かん事を欲す。
 
 
 願ふ君次回余に書を送る時に貴国のアイヌ人種に就て語る処あれよ。
               君の最も誠実なる
                   R.H.プラツト
 
(451)     〔気焔の要求 他〕
                    明治32年11月5日
                    『東京独立雑誌』48号「思想園」                        署名 角筈生
 
    気焔の要求
 
 余輩は新聞紙の批評に依て余輩の方針を左右せらるゝ者に非ず、然れども時には其言ふ処を聞くも亦益なきに非ず、北陸の或る政治新聞が本誌第四十六号を評するの語に曰く、
  近来気焔揚らざるは遺憾也、内村主筆健在なるや否や
と、余輩は勿論余輩の雑誌に於て多くの欠点を認むる者、為めに読者の希望を充たす能はざるは余輩の慚愧に堪へざる処なりとす。
 然れども気焔を揚げよとの註文は余輩の甘受し難きものなり、そは気焔とは必ずしも熱罵冷嘲のみを云ふに非ずして、余輩の心中に貯蔵する無限の悲憤を指すものなればなり、余輩にして若し余輩の欲するが儘に余輩の悲慣を吐露せんと欲せば太平洋の水を悉く墨汁に磨り立てゝ之を綴るも尚ほ飽き足らざるべし、若し余輩の好む処を言はしめば余輩は日本国民が堪え兼ぬるまでに其罪を摘指するを得るなり、然れども腐敗に腐敗を重ねし斯国民、其政事家と教育家と新聞記者、彼等の堕落は既に不可済の程度に達し、彼等は擲るも感ぜず、罵るも憤らず、(452)口と筆とに仁義公道を唱へて、家に帰りて一度び酒杯を手に執れば忽然として俗の俗たる醜の醜たる凡骨漢の本質を顕はす者なり、此類に向て仁を説き義を唱へんとす、之を徒労の業と称はずして何ぞや、余輩が近来気焔を揚げざるに至りしは此国民に関する余輩の大失望に原因す、救済の希望殆んど絶え、悪事の外彼等に就て言はんと欲する処なきに至りしを以て、絶望の極余輩は沈黙を守るに至りしのみ、彼等は余輩より「気焔」を要求す、然れども余輩は之を彼等に供するの要なし、敢て問ふ日本全国の幾百千を以て算へらるゝ新聞雑誌中気焔を揚げざる者幾干かある、自由党の機関新聞は進歩党員に対して「気焔」を揚げ、進歩党又負けず劣らず反抗的「気焔」を揚ぐ、今や日本全国は将に気焔の為に消燼されんとする状態を呈するにあらずや、此時に当て「気焔」を揚げんとす、是れ俗物に倣ふことなり、余輩不肖なりと雖も豈に彼等の筆鋒に倣ふ者ならんや、彼等が気焔を揚ぐる時は余輩の之を収むる時にして、余輩は彼等に対する憎悪の余り常に彼等と正反対の歩武を取らんと欲する者なり。
 浅見薄識の徒は悲憤慷慨の文に於てするにあらざれば気焔を認むる能はず、彼等は火を睹て火と知るの外、水に火あり、氷にも熱気あるを識らず、余輩が社会と俗人とを熱罵すれば彼等は余輩の気焔揚がれりと云ひ、太古を論じ、自然を究むれば彼等は余輩の気焔絶えしと思ふ、憫むべきかな彼等よ、彼等は埃及、巴比倫尼亜の歴史に日本の今日を読む能はざる乎、彼等はアッシリヤ、羅馬の運命に日本の未来を卜し能はざる乎、余輩が恐懼心痛の中に綴りつゝある興国史談は彼等に乾燥無味の歴史的事実を供するの外に、警世的教訓を与へざる乎、是れ或は余輩の文の拙なきに由るなるべけんも彼れ等の冷淡にして薄情なる事また彼等をして斯くも無感覚ならしむる一大原因ならざるを得ず、然り余輩は済度すべからざる彼等に与ふるの福音を有せず、彼等は滋養ある食物に(453)優りて火酒煙草の類を要求する者なり、彼等は酔ふて狂はんことを欲する者にして、醒めて自覚せんことを欲せず「気焔々々」と、彼等は躬からアルコホル中毒を求むる者なり。
 然れども日本腐敗せりと雖も未だ全く酔死せず、日本人中尚ほ沈着の清士を存す、諸士は憤ること知て亦宥むるを知る者、罵るのみならず亦静かに学ばんとする者、熱火の怒を発すると共に亦澄泉を汲まんとする者なり、余輩は実に此等の清士と共に語らんと欲す、然れども夫の「気焔」を以て硝燼されんことを欲するの徒は余輩の雑誌に手を触れざるを可とす。
 
    独立と失敗
 
 耶蘇教会の或者、余輩が外国宣教師又は我国の貴顕紳士に頼らずして余輩の業に従事するを見て頻りに余輩の成功を危ぶみ、言を放ちて其失敗に終らんことを予言す、余輩は勿論彼等と何等の関係なき者、彼等の評判の如きは余輩に取りては異邦人の其れに異ならず、然れどもナザレの耶蘇を信ずると揚言する彼等の此態度は以て彼等が乞食族の立派なる標本なるを示さゞる乎。
 失敗乎、成功乎、彼等の聖書は此事に就て彼等に何を教ふる乎、余輩の日夜敬読する聖書にして彼等のものと異ならずば、余輩は其中に人に依頼して成功せよとの教訓を発見する能はず。
 彼等の称する成功せる事業とは如何なる者を指すか、同志社大学か、青山学院か、青年会舘か、其他今や寂寞を極むる彼等の教会堂か、外人に頼り貴顕に縋りて斯くも大成功(?)を奏せしと、是等の汚穢なる補助を斥けて大失敗を招くとは二者孰れか基督教の教義に適ふものなるや、敢て彼等の教誨を乞はん。
 
(454)     〔面白き事とツマラナキ事 他〕
                    明治32年11月5日
                    『東京独立雑誌』48号「思想園」                        署名なし
 
    面白き事とツマラナキ事
 
 面白き事とは未来と永遠とに関する事にしてツマラナキ事とは現在と現世とに関する事なり、曰く政治、曰く法律、曰く実業と、其名の如何に大にして其実の如何に小なるよ。
 
    我の霊籍
 
 我は我の肉躰に於ては日本人なりと雖も我の霊魂に於ては此世に於ける何れの国籍にも属せざるものなり、即ち我の本我は現世以上のものにして、是を縛るに唯だ心霊の法則あるのみ。
 
    脱世と救済事業
 
 先づ現世を離れて天国の人となり、然る後再び此世に降り来りて衆生を救はんのみ、現世以外に存在を有せざる者が其救済を語る如きは、是れ泥中に潜んで汚涜を唱ふるの類なり、之を抱腹絶倒と称はずして何ぞ。
 
(455)     腐敗録
                    明治32年11月5日
                    『東京独立雑誌』48号「雑壇」
                    署名 小憤慨生
 
〇腐つたり、腐つたり、能くも腐つたるかな日本今日の社会、華族腐り、平民腐り、官吏腐り、代議士腐り、坊主腐り、牧師腐り、教師腐り、学生腐り、腐らざる部分とては北より南まで東より西まで探究に探究を尽すも見出す能はず、預言者イザヤが言ひし『頭は病まざる所なく、其心は疲れ果たり、足の趾《うら》より頭に至るまで全き所なく、只創痍と打傷と腫物とのみなり』との語は蓋し日本今日の如き社会の状態を云ひしものならん。
〇国民は政府に頼り、新聞記者は政党に頼り、教師は文部省に頼り、宗教家は本願寺にあらざれば外国伝道会社に頼る、独立あるなし、自主自信なるものあるなし、日本人は其社交的関係に於て既に独立を失ひし者なり、如斯くにして彼等は如何にして国家的独立を維持せんとするや。
〇疑察、疑察、疑察、親子相疑ひ、兄弟相疑ひ、親任すべきの朋友なく、同僚相信ぜず、四隣相妬視す、是れ君子国にあらずして獰人国なり、美国《ウマシクニ》にあらずして不味国《マズシグニ》なり、互に相信頼するの情誼なくして豈人生の大幸福を楽しむを得んや。
〇爾して又政略よ、今日の日本人は政略の外に事を為すの途を知らず、政治家輩の政略は彼等の商買柄として恕し得べきも、教育家の政略、宗教家の政略、哲学者文学者の政略に至つては実に醜の醜なるもの、然れども今や(456)君子国孰れの処に至るも、孰れの学校に於ても、執れの寺院教会に於ても、然り孰れの家庭に於ても(若し家庭なるものありとするも)、此醜の醜たる政略の行はれざるはなし、嗚呼醜なるかな今日の君子国。
〇正義仁道を高らかに要求しながら、是を其身に強ひらるゝあれば忽にして過激極端の悲鳴を発す、地方懶族の一種たる有志家なる者は重に此類なり、彼等が改革を政府に迫るが如きは実に越権の絶頂にして彼等は舌を含んで永久に沈黙を守るべきものなり。
〇懶け書生、街頭に月琴を弾じて俗謡を歌はざれば田舎新聞の記者となりて地方に改新釐革を唱ふ。国家衰亡の徴は最も著しく此現象に顕はる。
〇其他憤るべきもの千万にして足らず、然れども今は謹んで之を語らず。
 
(457)     或る貴重なる書翰 第三
     博士サイラス ハムリン氏よりの書翰
                       明治32年11月5日
                       『東京独立雑誌』48号
                       署名なし
 
 米国人にして其一生を土耳古人救済のために消費し、コンスタンチノーポル附近に有名なるロバート大学を起し、バルカン半島の青年を薫陶し、バルガリヤ国興起の時に当ては其内閣大臣数名を彼の学生中より出し、クリミヤ戦争の時に際しては奮て土耳古兵の慰撫に従事し、四十年間一日の如く東欧に平和と光明の福音を宣伝せし博士サイラス ハムリンは確かに十九世紀の慈善的偉人の一人なり。余は幸にして数ケ月間ハートホード神学校に於て先生の教訓に与るを得、親しく先生の偉魁なる風采に接し、屡次東欧に於ける先生の興味深き実験譚を聞けり。先生時に歳七十余、而も教場の一をその住居と定め、学生と共に寝食し、笑談諧謔少しも壮者と異ならず。先生屡次余を独り先生の居室に招き日本の現在と未来とを談ぜり。先生は常に感情的宗教を口にする宣教師の類にはあらざりし。彼は人類の救済に関して遠大なる抱世界的の企図を懐けり。彼は英人の暴横を憤り、土耳古人の為めに弁じて涙に咽ぶこと屡なりき。下に載する書翰は余が病を以て学を中絶し将に帰国の途に就かんとす(458)る時先生が余に送られし者、余が長く先生の膝下にありて先生の伝道的大経画を充分に暁得するに至らざりしを恨むが如し。宣教師は多し、然れども先生の如きは甚だ稀なり。然れども一人の先生の如きありて百千人の無情無識の徒を償ふに足らん乎。
 書中伝道上の最大問題は日本にありと做す、然るに今や同志社衰へ、教会と青年会とは悉く俗化し、此国に於ける基督教なるものは俗人の嘲弄物たるに至れり。然れども余は是を以てハムリン先生の希望の未だ全く瓦餅に属すべきものにあらざるを知る。腐るべきもの悉く腐り尽して而後に復活は来るべし。日本の教化は今日より始まらむ。
 
        ホズマー館、
          ハートホルト二月七日1888年
余の愛する内村よ:
 我等は皆な君が我等を去らざるを得ざるに至りしを聞いて甚だ悲めり。余は特に君に別を告ぐるため此処に在らざりしを悔ゆ。
 余は知る吾人の深き同情を要するものにして家郷より遠く々々離れて異邦に在る青年が病に犯されし時の境遇の如きはあらざるを。一時は歓喜と希望とを以て充たされし全世界は憂鬱と悲惨なる予想との在家《ありか》と変ずるなり。然れども基督信徒の希望と温雅とを以てすれば彼は亦測らずして彼の信仰を補ひ彼の行路に彼を(459)慰むるの兄弟姉妹に邂逅することあり。余は切に祈る君も此際に亦豊かに此実験を有たれんことを。余は望む君は強壮なる健康を回復し、而して神が君を用ひ君をして敬畏すべき君の国人に大なる善事をなすための機械たらしめ給はん事を。今世紀間に於ける伝道上の最大問題は今や日本に於てあり。
 
 余は望む君は常に此国に在る君の友人に君の運動、事情並に境遇に就て知らし置かれんことを、然らば彼等は常に君の為めに祈るべし。
                    君の親愛なる
                       サイラス ハムリン
 
(460)     『英和時事会話』
                 明治32年11月15日
                 単行本
                 署名 内村鑑三 編
初版表紙149×107mm
 
(461)     目次
第一章  議会……………………………………
第二章  日本の三大政治家……………………
第三章  日本の最大哲学者……………………
第四章  雑談……………………………………
第五章  人生終局の目的………………………
第六章  夏の夕暮………………………………
第七章  教育……………………………………
第八章  日本の未来……………………………
第九章  新政党…………………………………
第十章  宗教談…………………………………
第十一章 ヲルソドックス教……………………
第十二章 日本の貴族……………………………
第十三章 インスピレーションに就て…………
第十四章 喜ばしき秋……………………………
第十五章 薩摩人と肥後人………………………
 
    (462)     序
 
 世に憤るべき事多し、而して英語は学ばざるべからず、是れ此篇の曾て東京独立雑誌に連載せられし所以にして、今また茲に一書となりて世に現はるゝ理由なり、記して以て序とす。
  明治三十二年十一月                 編者
 
(463)     神田演説『日本の今日』
                    明治32年11月15日
                    『東京独立雑誌』49号「思想園」                        署名 内村生
 
 『日本の今日』とは去る五日神田なる帝国教育会に於て開かれし社会教育演説会に於ける余の演説の題目であつた。余に取ては是が今年東京に於て余の為せし始めての公開演説であつて余は余の友人なる介石松村氏に引出されて已むを得ず此講壇に上つたのである、松村氏は当日の主人公なれば余に先んじて演壇に現はれ『読書』と云ふ題に就て四十分余も演べられた、余は久振りにて氏の演説を聞き、氏が此術に於て著しき進歩を為されしを悦んだ、即ち氏も年を取るに従て変遷極りなき現時の政治問題に就て語るを息めて、事物の真体に入て永遠に渉る物の精神を世に伝へんと試みらるゝを見て、大に余の志を強ふした。
 当日は朝未明より日本晴れの好天気、秋空一塵を留めずと云ふ一ケ年に一日か二日より多くはあらざるの天気模様なりし故、差しも広き帝国教育会の講堂も殆んど立錐の余地なきまでに聴講人を以て充たされた、而して余に取りては久振りの演説であつた故に何んとなく薄気味悪く感じた、余は何よりも素見《ヒヤカシ》連を嫌ふものなれば、若し傍聴人の内に一人たりとも余の常に呼称する「懶け書生」なるものあらんには余は余の語の汚されん事を恐れて自由に所信を述べる事の出来ない者である、余は実にカーライルに倣ふて口演を嫌ふものである、而してカーライルが之を嫌ひしは俗人の傍聴を怕れてゞあつたそうだ。
(464) 余の当日の題は今日の新聞紙記事の歴史的攻究とでも称すべきものであつた、即ち余は今日の新聞紙に現はるゝ社会の出来事より日本現時の社会的生命を診察せんと試みたのである、演説は一時間と二十分程に渉つた、余の為した最も長き演説であつて、傍聴諸君に対しては甚だ気の毒であつた。
 余は今爰に此演説の凡てを報ずる事は出来ない。然り報ずるの必要はない、人は面と相対すると随分無用の事を沢山語るものである、雑誌に書く時には努めて簡潔を守るけれども演説となれば大分戯言も云ふ、そは時は紙よりも安価なものであるから少しは無駄口を語ても罪は割合に少ないからである。
 『日本の今日』、云ふまでもなく徳義地を払ひ、信頼すべきの誠実とてはあるなく、罪悪は社会に充ち満つるも之を憤て起て之を矯めんとする者なく、実業界に信用失せ、政治界は賄賂の贈与を以て耻となさず、国家道徳の淵源たるべき教育界すら俗人跋扈の衢となり、社会到る処に確信と誠意とは全く跡を絶つに至りし状態を述べ、我国を仏国に比し、米国に較べて、確かに我の彼等に劣るの事実を挙げ、終に甚だ悲歎の極ながら日本は社会的に既に死したる者なりとの断案を下した。
 余は日本今日の社会を泥土際限なきの不忍の池に較べた、其水面には紅蓮の咲くを見るも其水底は汚泥極りなくして地球の中心点にまで達するならんとの余の想像を述べた、仏国の社会の腐て居る事は夫のドライフュース事件に照して見ても分る、然れども其腐敗に限りある事は小説家ゾラの如き正義の士あるを以て証明された、米国の社会も同じやうだ、其非律賓征伐は確かに不義の戦争である、然れども米国の未だ全く社会的に死せざるは米国人中に幾多の清士ありて此不義の戦争に対して激烈なる反対を唱へつゝあるので分る、然るに日本に在ては不義は不義として認めらるゝも之に対する反抗はない、是れ其社会的生命の死滅せし兆候である。
(465) 而して此事は吾等の日常の交際に徴しても分る、今日は吾等の依穎すべき人とては殆どない、共に身を逆境に処するに足るの人はない、位高く勲威《いかめ》しき日本国の君子だと思ふて其人に依頼すれば大に失望する、彼も矢張り俗人であつて裏に確固たる信仰を備へた人ではない、学者も同じ事だ、教育家も宗教家も大抵ソンなものだ、彼等が口に正義公道を唱へる者であるから矢張り心の中にも聖賢君子であると思ふと大間違ひだ、彼等も矢張り泥土際限なき者の種類で、岩の如き確信を有つ者ではない。
 斯の如く日本今日の社会は道徳的にはケーオス(混沌)である、「地は定形なく曠くして暗黒淵の面にあり」と云ふやうな状態である、自由党も腐つて居れば進歩党も腐つて居り、帝国党も腐つて居り、無所属党も腐つて居ると云ふ有様である、故に現時の政党を以て国家を拯はんなどゝは飛んでもない事である、然らば我等は如何にして宜しいか、此国は終に拯ふべからざる乎、志士の此世に処する術は如何、是れ目下の大問題である。
 然し爰に吾等を慰むるに足る一つの事実がある、即ち日本今日の状態は決して日本に限るものではないと云ふ事である、過去の世界歴史を調べて見れば日本今日の如きケーオスに陥りし国は幾個もあつた、紀元前後の羅馬が丁度斯んなものであつた、又十八世紀の終りより十九世紀の始めに懸けたる英国の状態も略ぼ斯んなものであつた、又和蘭にも斯んな絶望的時期があつた、而して英国民等が是等の場合を如何にして切り抜けたかと云ふ事は歴史が我等に伝ふる最も貴き教訓である、ヲルヅヲスの詩を読んで見ると英国当時の有様が能く分る、彼は仏国革命の結果に依て欧羅巴全躰并に彼の英国の救はれん事を望みしも其事成らずして全く失望した、依て此事に就て彼の妹の勧めに従ひ、地上の聖人国を断念して彼の心中に新王国の建設を始めた、彼は英国ウエストモアランドのライダル山に引籠んで彼の隠退的新事業に従事した、而して彼の偉大なる作に依て何十万の英国人が自(466)由と幸福とを回復し、終に今日の世界大なる英国を作るに至つたかは少しく今世紀の英人の思想発達史に注意する者の何人も認むる処である。
 然らば日本今日の混濁の世に処するに如何すべきや、今爰に聊か余の方針を述べむ。
 先づ第一に此社会に依るを輟むべきである、腐敗せる社会に頼て腐敗せる社会を拯はんと欲するは是れイムポッシビリチー(不可能)を要求する事である、生命なきの社会に自治自救の望は無い、日本の社会は遂に吾等の頼むべからざるものと成つた、実に悲い事である。
 第二、若し社会と他人とは頼み得ずとならば吾等は吾等自身に頼るのみである、是れ実に吾等を支ふるに足る唯一の土台石である、教育家に依る品性養成は絶望である、然れども吾等は吾等自身に頼て少しく吾等を改良する事が出来、又随て社会をも改良する事が出来る、爰に又吾人の注意すべき事がある、即ち吾人が国家救済だとか、社会改良だとか云ふ事を企てる事を輟める事である、国家や社会は容易に改良する事の出来るものではない、若し出来ると思ふなら諸君の中何人なりと先づ同僚四五人の人を改良して見給へ、其何んと六ケ敷い事である乎は直に分る、余は此頃は小なる女学校を預つて居る者である、而して今日の処生徒は十三四名に過ぎないが、其改良は余の全力を要して尚ほ力足らざるの事業である、然るに多くの人は直接の同胞二三人を救ひ得ざるに熾んに国家救済を唱へる、是れ笑止の至ではないか、カーライルは彼のバーンス伝の終に「国を救はんとし、社会を救はんとするが如きは愚人の業である、余は先づ余の目下の責任を尽さんのみ」と言ふた、吾等は漸くにして吾等自身を救ひ得る者である、然るに世には四千五百万の同胞を救ひ得べしと信ずる人があるそうだが、余は如斯き人を正気の人と認むる事は出来ない、故に直に彼に巣鴨病院に入りて神経的治療を受けん事を勧めんと欲す。
(467) 第三、然れども人間と云ふ者は彼れ自身をも救ひ得ない者である、彼は何か他に頼るべきものなくして立つ事の出来ない者である、是れ普通の心理学の結論であつて余が爰で述べるまでもない、彼が人たるの威権を得るに至らんと欲せば彼は先づ動くべからざる或者に頼らなければならない。
 爰に至てゴッドを信ずるの必要が出て来る、然しゴッドと云へば何んだか宗教臭く思はれる、日本人は全躰に宗教は大嫌ひだ、彼等は正義を唱へ、道徳を叫ぶけれども神とかゴッドとか云ふ者の必要を感じない、然しゴッドなくしては吾等は自身さへも救ふ事は出来ない、何故とならばゴッドなる者は Self-existent being(自存者)であつて、他に倚らずして存在する者であるからである、若し仏教徒の或者が云ふ如く若しゴッドが存在するならば其ゴッドは誰が造つたと云ふならば、彼等はまだゴッドの何物なる乎を知らない者である、他に依て造られし者或は他の支配を受くる者はゴッドではない、ゴッドとは宇宙の依て以て立つ処の者であつて、是に依てのみ吾等も確乎不抜動かざる者となるのである。
 此処は勿論神の存在を論究するの場所ではない、然しながら吾等が先づ此不変不動の実在物に依るに非れば吾等自身さへも救ふ事が出来ないと云ふ事は茲に述べて置かねばならない事であると思ふ。
 併し此後の事は言はない、言ふと全く宗教演説になるの虞がある、然し今述べし三ケ条の自救法とも称すべきものは日本今日の社会に於て吾等に取ては目前の急務であると云ふ事丈けは諸君も承知するだらうと思ふ。
 斯の如くにして先づ国家救済又は社会改良を止めて自己改築に従事すれば終には日本国の再建も全く望みのない事ではないと思ふ、是れ実に詩人ヲルヅヲスの改善策であつて亦カーライルの取つた方針である、而して其西洋諸国に於て大成功を奏せし事は歴々の事実であれば、吾等日本人も今日より此法の実施に着手すれば遠からず(468)して此腐敗極まれる社会をも復活する事が出来やうと思ふ。
 斯く観じ来れば日本の未来とても希望多々である。何にも日本国を救ふに日本人全躰が独立自治の人となるの必要はない、今日只今此堂に集まれる五六百人の諸君が悉く硬骨男子となりて、海中の岩石が地球の中心に附着するが故に満潮と共に進まず干潮と共に退かず、侃として其孤独の地位を守るやうに、諸君も動くべからざる実在物に頼て、打てども、殴けども動かざる大個人となるを得ば日本国の救済は易々の事である、今日の要は強き個人性(individuality)の養成にあるのである、是れ余が今日諸君に告げんと欲する余の所望である。
 先づ是が当日の演説の大意である、実際の処は爰に書いてある処より少しは面白かつたらうと思ふ、併し別に天下を転倒するやうな大演説でなかつた事は当然である。
 
(469)     或る貴重なる書翰 第四
     ドクトル ケルリン氏よりの書翰
                       明治32年11月15日
                       『東京独立雑誌』49号
                       署名なし
 
 今日の日本人中に信書の往復と称すべきものなしとは余輩の数屡耳にせし処なり、信書(letters)は商品取引上の通告に非ず、又寒暑の礼義的見舞状に非ず、事務の問合せ、恩恵の依顧状等は通信の部に属すべきものにして信書と称すべきものに非ず、信書とは真情の発表を称ふなり、即ち距離を隔てたる友人が互に其安否を問ふのみならず、平常其心の奥底に貯蔵する温き愛情を伝ふる事なり、吾人は友人の信書に依て其地の新聞を聞かんと欲せず、新聞は新聞紙に依て聞くを得るなり、吾人が友人より聞かんと欲する事は彼が吾人に対して有する友情の熱度是なり、是れ信書の貴き所以にして、夫の礼式的郵書の如きは吾人に取て反古紙の価値だもあるなし、
 下に記載する書簡の如きは能く信書の如何なるものなる乎を示すに足るものなり、ドクトル ケルリンは余が在米四年間師父の恩を蒙りし人にして、此の書は余が腸窒扶斯に罹りしを聞て余の弟達三郎に送り来りしものなり、
 
(470)     ペンシルバニヤ州ヱルウヰン、
               五月三日、1890年
内村達三郎君、
  貴下よ:−
 本年三月二十日出の貴下の端書を受取たり、余は鑑三の危篤なる病に罹りしを聞いて実に甚だ悲しむなり、余等一同は彼が安然に快復するを聞くまでは心安からざるべし、彼に余並に全家の愛心よりする慰藉を伝へられよ、吾等一同は彼併に彼の家族に対して友愛的同情を懐くものなり。
 余は遠からずして面白き一小冊子を郵送すべし、是れ或は彼の回復期中に彼を紛らし且つ楽ますの用をなさん乎、
 願ふ彼の容態に就て直に再び端書を投ぜらるゝの労を惜む勿れ
           貴下の真実なる
             アイザツク N,ケルリン、
宛然父が其実子に送る信書の如し、
     ペンシルバニヤ洲ヱルウヰン
              六月十八日、1890年
(471)鑑三内村。
  余の愛する奴よ:−
 腸窒扶斯病より目倦き回復期に就て余に告る汝の面白き五月九日出の端書は受取られたり、余は汝が余等の看護の下にありし事を欲す、然れども其地の病院の返て優りしならむ、余はモーリス氏并に夫人が汝を見舞はれしを聞いて悦ぶ、而して余は望む彼等が東京を去るの前に汝は彼等と会合するの楽を得るまでに汝の回復せんことを、余等昨年九月欧羅巴より帰りし以来余は平常の如く健かならず、前の時の如く飛び立て余の事業に就く能はざるは余の目倦く感ずる所なり、之に加へて夫の愛子……………………………………………………………………………(此所に家庭に関する永き記事あり、略す)
 余はバルチモーアに於ける全国慈善矯正会に出席せり、其所に余は汝の安否に関してバロース夫人其他より懇切なる尋問を受けたり、余は道徳的白痴に就て論文を読みしに頗る熾なる議論を惹起し、殊に宗教家(472)より烈しき反駁を受けたり、
 余等は再び此肉体に於て汝を見るを得ん乎、余は斯く望む、汝の全家族に余等の最も篤き愛情を伝へよ、
               最も真実なる
                     アイザツク N.ケルリン
(473)     〔新思想 他〕
                    明治32年11月25日
                    『東京独立雑誌』50号「思想園」                        署名 角筈生
 
    新思想
 
〇余は余の密室に籠り、余の腹中を探りて新思想を得んとせり、然れども探て当らず、堀つて見出す事能はず、余は為めに失望せり、独り声を放て曰く、「余は終に筆を投ぜん〕と。
〇余は余の密室を出たり、余は新鮮なる空気を呼吸せり、余は輝ける太陽を見たり、余は白き新裳を装へる富士山を望めり、而して余は余の心中に新思想の芽すを覚えたり、余は独り心に語て曰く、「余は此感を紙に写して世に示さん」と。
〇余は余の友を訪へり、彼と共に事業を談じ麁食を分てり、友愛的同情は余の思惟を刺激し、余は余の胸底に新思想の鬱勃たるを感じたり、余は余の友に語て曰く「余は世に頒つべきの新希望を有す」と。
〇途に旧友に会せり、彼は微笑を以て余を迎へたり、彼の握手は緊且温なりき、余は彼の安否を問へり、彼又余の健康を祝せり、吾等は戯語二三を交へて別れたり、而して余は余の心奥に新思想の湧出するを見たり、而して余は独り地を叩て曰く「同情なる哉、友愛なる哉、是れ新思想の泉源なり」と。
(474)〇余は家に帰りたり、而して再び余の密室に籠りたり、筆は余の思ふが儘に動けり、思想は余の熟慮を待たずして流れ出でたり、余は独り声を放ちて曰く「余は未だ文筆を廃せざるべし」と。
〇然り、新思想とは新鮮なる思想なり、吾人に新希望を供する思想なり、鬱憂的思想、絶望的思想は其如何に嶄新奇抜なるにもせよ、是れ新思想にはあらざるなり、吾人に新生命を供するの思想、吾人に新計画を促すの思想、羽翼を張りて中天に翔らんとするの冀慾を興すの思想、余は是の如きを新思想とは称ふなり、夫の乾燥無味、責むるを知て慰むるを知らず、智識を供すると称して情を動かさゞる思想の如きは其考証の如何に該博なるにもせよ、余は之を陳腐老朽の思想と言はんのみ。
〇思想、感情と成るに非れば行為と成て現はれず、単純なる思想は乾的思想にして勇壮寛大なる行為の其中より出るなし、所謂無宗教的思想なるものは無情なる思想なり、之に不満あり、失望ありて、世を益し民を利するの思想に非ず。
 
    俗人との争を避くる法
 
 俗人との争を避くる法は彼等が欲するが儘に彼等をして吾人の有する些少の金銭を取らしむるにあり、彼等が吾人より求めんと欲するものは是を除いて他にあるなし、彼等は真理を求めんと欲せず、永遠の生命の如きは彼等の念頭にだに浮ばざるものなり、憫むべき彼等は僅々百年に足らざる肉身の快楽と名誉とを追求するものなり、彼等は実に寡慾小児の如きものにして、金塊二三を手に握るを得ば彼等の凡ての慾望を充たすを得る者なり、吾人何ぞ深く彼等を憐まざる、彼等の総理大臣たると大蔵大臣たると、将た又豪商たると教育家たると、哲学者た(475)ると幇間たるとを問はず、彼等は皆此地以上に希望を懐く者にあらず、余輩は切に彼等の為めに彼等は凡て正一位総理大臣たらん事を願ふ者なり。
 
    俗人に対する態度
 
 余輩は終生俗人と平和条約を締結せざるべし、余輩は常に彼等の裁判人又は警察官たるの地位に立ち、彼等の罪を鳴らし、彼等の惑を糺し、彼等が天に対し、人に対し不義不浄の徒たる事を証明して已まざるべし、余輩は敵地に陣を布くの覚悟を以て彼等の間に住し、彼等より何の求むる処なくして、余輩の一生を終へんと欲す。
 
    成功と失敗
 
 成敗は人の真価を定むるの標準に非ず、若し爾らんには楠正成は大逆無道の臣にして足利尊氏は聖賢君子たりしなり、前者の忠臣たりしは世俗を排して失敗に終りしが故なり、後者の国賊たりしは時勢を利用して成功を謀りしが故なり、忠臣と云ひ国賊と云ふは其正義に拠りて失敗に終りしと否とに依るのみ
       *     *     *     *
 成功とは俗人の受け納るゝ処となりしの謂にして、失敗とは其排斥する処となりしの謂なり、而して人は能く自己に類似する者を愛するものなれば俗人の嘉納許諾は常に事業家の俗化を意味す、依て知る、吾人にして若し俗人の忌避嫌悪する処となるにあらざれば、吾人は基督を師とし、ソクラテス、正成を友とするの人にあらざる事を。
 
(476)     〔雑感雑憤 他〕
                   明治32年12月5日
                   『東京独立雑誌』51号「思想園」                        署名 角筈生
 
    雑感雑憤
 
〇思想は考へて出るものにあらずして行て来るものなり、断じて行へば思想は之に伴ふて湧出す、思想の枯渇は常に薄志弱行の兆と知るべし。
〇何人とも平和を結ばんと欲する者は何人をも友とし有つ能はざる者なり、敵を作るの覚悟なき者は友愛の真情を味ひ得ざる者なり。
〇日本国の要するものは外国人に頼らざる基督教なり、其組合教会なると、メソヂスト教会なると、監督教会なると、『日本基督教会』なると将た亦たユニテリヤン、ユニパーサリスト派たるとに論なく、外国人の補助に依て存立する基督教は到底日本国を救ふの力なき者なり。
〇余輩は基督教を信ずる者なり、然れども宣教師的基督教を信ぜざる者なり、基督教を信ずると宣教師に服従するとは二者全く別物なり、然り余輩は基督教を信ずる者なるが故に宣教師的基督教を排斥する者なり。
〇英人がトランスバールを圧し米人が非律賓を攻むるの精神は我国に布教する二国の宣教師の多くが彼等の信仰(477)を余輩の上に強ゆる精神なり、二者同じく非基督教的の精神にして余輩は飽くまで之に抵抗せざるを得ず。
〇如何に真理なればとて余輩は強ひられて之を信ぜんとはせず、自由制度なり、基督教なり、余輩は余輩の自由撰択を以てのみ之を受納するを得べし、文明を強ゆるが為めには強圧を以てするも可なりとの英米人の今日の態度は非理の最も甚だしき者なり。
〇英人何者ぞ、米人何者ぞ、余輩は彼等の鬼神にあらざるを知る、彼等と雖も必しも勝つべからざる者にあらず、アツシリヤも亡びたり、羅馬も滅びたり、英国も亦た亡びざるの理なからざらんや、英国富み兵強きが故に抵抗し難きものなりと信ずる者は未だ天に神あり、宇宙に真理ある事を知らざる者なり。
 
    思想と実行
 
〇我に語るべき思想なき時は我の沈黙を守るべき時なり、語るべき事なきに語る、是れ虚偽を語るなり、我は単に紙面を賑はすの目的を以て虚偽を語り我と人とを欺かざるべし。
〇語るべき事なき時は行ふべき時なり、紙上の論述、壇上の弁論のみが人たる者の能事にあらず、筆と舌とは思想を伝ふるの具にして之を行ふの器にあらず、我に若し唯だ思想の宣伝すべきのみありて之を行ふの能力なかりせば我は実に憐むべき者なれ。
〇我は国務の処理すべ事なきが故に我に為すべき事なしと思ふべからず、庭前の塵を掃ふ事、是れ一の高尚なる事業なり、婢僕に一臂の力を仮す事、是れ亦た大なる慈善事業なり、我れ事を為さんと欲せば事業は我が周囲に堆積して我が全力を挙て之に当るも我は我が任を尽し得ざるべし。
(478)〇大事業をのみ成さんと欲する者は大事を為し得ざるのみならず亦た小事をも為す能はず、我に忠実に小事を為さんと欲するの心ありて我は能く大事を成し遂ぐるを得るなり、世に小人ほど大事を為さんと焦心《あせ》る者なし、耶利米亜その弟子|巴録《ナルツヒ》を誡めて曰く、爾尚為v己、求2大事1乎、毋v求v之と、夫の東洋の英雄と称して大事を求めて小事を軽んずるの徒は共に事を謀るに足らざる者なり。
 
    祈祷の勢力
 
 世に金銀の勢力あり、政権の勢力あり、智識の勢力あり、然れども未だ祈祷の勢力には及ばざるなり、是れ実に誠意の勢力にして山をも透し、岩をも砕くの勢力なり、世の大事業と称へらるゝものは皆な祈祷の力に依て就りし者なり、祈祷の力に依らずして建てられし国家は虚偽の国家にして永久不変の基礎の上に据えられしものに非ず、祈祷の力に依らずして成りし美術に天の理想を伝ふるものあるなし、祈祷は精神的生命を得る唯一の秘訣なり、故に祈祷なきの国民より大政治、大美術、将た亦大文学、大発見、其他大と称すべきもの、何物も出で来るべき筈なし。
 
(482)     余の今年の読書
                  明治32年12月15・25日
                  『東京独立雑誌』52・53号「読書録」                      署名 内村鑑三
 
 余は今年も又多少の読書を為せり、そは余に取りては読書の外之れぞと云ふ道楽なければなり、読書と散歩、書籍に読みし事を歩きながら考へる事、是れ余をして此世に存在せしむる唯一の快楽なりとす。
 勿論雑誌の編輯に従事し、殊に過る夏よりは一貧乏女学校を預かりてより、余は余の読書の時間を是等の事業の為に多く奪はれしを悔ゆ、余の終生の冀望は閑散の地に於て妨害なしに書を読まん事なり、Give me a nook and a good book.『余に幽僻と良き書を与へよ』、是れ実に余の熱望の声なり、余は死する前に一年たりとも如斯の極楽的境遇を味いたきものなり。
 斯くて今年は多くの書を読む能はざりし、今年に於ける余の読書の多くは夏期休暇中に為せしものなり、是れ余に夏期休暇ありしに依るに非じして、学生の帰省中余は学校内に在て多くの静粛なる時間を持つを得しに依るなり、其他は余は四囲喧噪の中にて読めり、或は※[さんずい+氣]車の中にて読めり、或は試験施行中教場に於て読めり、或は病床に在りし間に読めり、余は書を読まざるの日は損失の日と見做す者なり、余は食ふべきの食物なきも二三日を忍ぶを得べし、着るべきの衣服なきも左程困難なりと思はず、然れども読むべきの書籍なき時は余は大饑饉を感ずるなり、故に些少の収入も其大部分は之を書籍の為に投ずるなり、余の家に財貨とては一つもあるなし、唯(483)だ架上数百冊の書のあるありて、是れ余と余の家族の誇る宝物たり。
 扨て余は今年何を読みし乎と云ふに、余の読みし書は概ね英書なりしなり、余も少しは和漢の文を解し得ざるにはあらざれども英語を解し得るに至りてよりは和漢の書は何んとなく味ひなきに至れり、余は勿論幾回となく太平記を複誦する者なり、平家物語は余のフエーボリツトの一なり、古文真宝と唐詩選とは常に余の座右にあり、その他時には新刊物に目を曝さゞるに非ず(多くは批評の為め)、然れども余は表白す、余は一枚の和漢の書を読むに対して五十頁の英書を読む者なる事を、余の女学生は常に余に語て曰ふ、「先生は何時でも洋書のみお読みなさる」と。
 英語を除いて余の能く解し得る欧羅巴語は一つもあるなし、独逸語は字引と頸引きなれば少しは解し得るも十年以前に米国に於て教師の助を得て、ゲーテ、シルレル、レツシングの作を読みし以来殆んど之を等閑に附せしの故を以て今は余に取りては殆んど不解の国語となれり、希臘語は僅に新約聖書の拾ひ読みを為し得るに止つて、ホーマー、ヘロドータスを彼等の麗はしき原語を以て読むの力を有せず、希伯来語は僅に英文法的組立を知るに止て是れ亦ゲセニアス(字典)に頼るにあらざれば創世記一章をさへ碌々解し得るの力を有せず、仏語は単に猫と犬とも解し得るのみ、伊語は白と黒とを別ち得るに過ぎず、余の外国語の智識は斯くも耻しきまでに狭隘なるものにして、余も若し少しく我意を曲ぐるの術を知りしならば斯くまでも無学にはあらざりしならんと独り自から歎つことあり。
 斯く詮じ来れば余の不自由なく解し得る外国語は唯だ一の英語あるのみ、是れ余が宏大無辺の西洋思想を覗く為の唯一の眼孔なり、余は希伯来人の聖書も多くは其英訳に於て読めり、独逸人の哲学思想も、西班牙人の滑稽(484)も、仏蘭西人の神学思想も、伊太利の詩歌も皆其英訳に於て読めり、是れ十九世紀の末期に当て此世に生れ来りし者に取ては実に憐むべきの状態なりと雖も、而も余の父が余の家の貧を省みずして余に少くとも欧羅巴語の一つを仕込み呉れし事は余の今日深く感謝する所なり、そは世には身を国民の代議士の地位に置きながら英語さへも解し得ず、ダンテ、セルベンテスをその原語に於て解し得ざるのみならず、dog は『犬』にして彼等の如き無節操漢を指すの語なるを知らず、fool は『馬鹿』にして彼等の如き無学文盲の徒を意味するの詞なるを知らざる人さへあるを思へば、余がシエクスピヤ、ヲルヅヲス、カーライルを彼等の原語に於て読むを得るは余に取りては身分不相応の幸福と云はざるを得ず。
 斯くて余の今年の読書は多くは英書なりしなり、余は昨年の暮より今年の春に懸けて頻りに伊太利語の研究に従事せり、余は余の友人山県五十雄氏より彼のサウエル氏の伊太利文典を借り来り、伊語を英訳し、英語を伊訳し、大凡六ケ月間殆んど他事を省みずして此研究に従事せり、余は二個の目的を以て此愉快なる研究に従事せり、其一つは余の特愛詩人なるダンテを彼の原語に於て読まんとするの慾望なりき、其二は余は本誌に於て外国語研究の精神并に方法を余の読者に紹介せんと試みつゝありし頃なれば余は自身を読者の地位に置かんが為に自からも此研究に従事せしなり、而して余は尠からざる快楽と利益とを此研究より得たり、『神曲』の有名なる一節にして地獄の門に彫まれし銘文を伊太利語を解し得し時は余は飛び立つ程嬉しかりき。
  Lasciate ogni speranza, voi ch' entrate.
  汝此門に入らんとする者は凡て汝の希望を捨てよ
殊に speranza の一語の如き、是れ南欧人種の特愛の詞にして其音と云ひ、意味と云ひ、英語の hope に読ん(485)で迚味ひ得ざる所ありき、今や新年来復と共に少しく事業の閑を覚ゆる事なれば余は再び此愉快なる研究に取懸らんと欲す。
 伊太利語の研究と共に余はダンテ伝を復読せり、又 Bella Duffy なる人の著せし『タスカン共和国』と題するダンテの故国なるフローレスの歴史を読めり、是れ甚だツマらなき書なりしかば余は痛く其為に投ぜし二円五十銭を惜めり、他にハント氏の伊太利史を購ひしも未だ其儘に書棚の上に留め置きて余の伊太利熱の復活を待ちて之を貪らんと期しっゝあり。
 今年の春頃なりき、友人某は余に告げて曰く「神田某書店にブンセン氏著 God in History(『歴史に於ける神』)の古本あり、日本国中君を除いては他に此書を要するの人はなけむ、君何故に之を購はざる」と、余は彼に答へて曰く「余も是れあるを知る、然れども其高価を怕れて今日まで躊躇せしなり、君其価を知るや」と、彼は知らずと答へき、然れども彼の注意に依り余は此書の先天的に余に属すべきものなるを覚り、余の妻に謀りて彼女の賛成を得、金五円を懐にして雨を冒して直ちに神田に至りぬ、至れば渠の書は依然として架上に曝されながら余の来るを待ち受けしが如し、余は懼る/\之を余の手に取りて見れば紛ふべきなき哲理的歴史の大著述なり、若し新たに之を英京倫敦に注文せんには金貨一磅(拾円)を価するの書なり、余は即刻若し五円以下ならば之を購はんと決心せり、余は店の小僧に其価を問へり、彼は答て曰く「二円なり」と、「大本二冊で二円か」と押して問へば「然り」と答ふ、余の慾心は増長しぬ、余は壱円五拾銭に直切りぬ、小僧は承諾しぬ、余は余の目的の書を買ひ取りぬ、斯くて余は余のライブラリーに二個の宝物を加へたり
 ブンセン男の『歴史に於ける神』Von Bunnsen's Gott in del Geschichte、是れ今を距る三十三年前の著にして(486)勿論新刊物と称すべきものに非ず、其記載する歴史上の事実に至ては既に陳腐に属するもの多し、然れどもその歴史をして神聖なるものとならしめ、希臘古哲の所謂「歴史は正義を大書せるものなり」との言を証明するの書としては史学の経典として仰ぐべきものなりと信ず、其初巻五十九頁に渉る緒言の如き、一読再読三読して壱円五十銭は愚か千万金を払ふも得難きの言なりとす、其人物と社会の関係を論ずるや、二者相竢たざれば大国民の興らざるを陳べ、偉人を出さゞる社会の不幸を歎じ、偉人を出せしも其使会を解し得ざる国民の悲運を説き、左のサブライムの言を発す
  The individual for the nation, the nation for Humanity, Humanity for God;but each individual is in God, and God in each individual;this is the Supreme Law of existence in the tidal wave of the Collective Race.
 個人は国家の為め、国家は人類の為め、人類は神の為めなり、然れども各個人は直に神に在て神は直に各個人にあり、是れ人類なる集合体の潮流に於ける存在の大法なり。
 初巻四百頁は主として東洋史を論ず、猶太史、印度史、支那史、波斯史、皆な誦すべし、余の興国史談を綴るに当て余が此書に負ふ所あるは勿論なり、第二巻五百頁の過半は希臘史を論ず、其深さ広さに余の如き者の窺い知るべからざる所多し、後半は羅馬を論じ、チユートン民族を論ず、之を読んで古代史は活ける福音となるなり。
 余は大凡二ケ月を此書の熟読に消費せり、今年の春より夏に懸けての余の脳髄はブンセン男の占領する所たりしなり、彼の感化力に依て余は幾回か余の胸中に鬱勃たりし怒気を抑ゆるを得たり、吾人の失望を癒すの良薬として哲理的歴史の如く効果あるものはあらじ、ブンセン男の大著九百頁は今尚ほ余の精神的興奮剤として存しぬ。
(487) 斯くて余は東台の桜をブンセン男と共に観ぬ、彼の哲理に伴はれて余は杖を曳いて亀井戸の藤花を賞しぬ、此良師を得てより古代は余に取りては一層慕はしくなりぬ、余は再び現代の――殊に日本の現代の――如何にツマラなきものなる乎を感じぬ、興国史談を綴て本誌の読者に見えんと欲するの刺激は一に此哲理的史家より得しものなり。 〔以上、12・15〕
 斯くて春は過ぎて夏は来たり、余は市ケ谷なる借宅を去りて市外角筈村の女子独立学校に転じぬ、地は高燥にして水は清く、四隣速く離れて孤独を守るに好く、邸内多くの雑草を生じ、また※[木+國]の林あり、殊に校舎百余坪を余の家族六人にて占領せし事なれば閑雅清寧謂はん方なし、後寂寥を覚ゆるの余り余は佐藤迷羊氏を勧めて余等と共に同居せしむるに至りぬ 余は一時は前校長の後を継いで新たに責任を負ひしを悔ひしも、其報酬として此処に屈強の読書地を得て心窃に余の神に謝感したりき。
 久しく市街に彷徨して復たび青草生ひ茂るの地に帰り来りし事なれば余の自然を愛するの心は長き睡眠より覚めしの感ありて余は直に湖水詩人《レーキポヘット》の全集を取出し、低声一番余の愛篇数齣を吟じたりき、繁縷《はこべ》、酢漿草《かたばみ》に余の同情を寄せ、薺《なづな》を手にして Celandine を吟じ、ヲルヅオスの Daisy に類する我の雛菊を見て「単淡にして高尚なる生涯」を思ひ、雑草中に児女と共に綬草《ひだりまき》を探り得て俗中亦た潔士佳人の在るを想ひ、藜《あかざ》、烏※[草がんむり+斂]苺《やぶからし》を見て賤民暴徒の勢力を思へり、余の天然熱は頓に増長しぬ、余はヲルヅオス全集のみにては満足し能はざるに至れり、直に余の邸内の天然物に接せんとの慾望は又々余の胸中に湧き来りぬ、爰に至て余は天然書四五冊を購ひ来りぬ、松村任三氏編著の植物名彙、同和漢洋対訳本草辞典は外国語を以て暁得せし余の植物的智識を余の国人に向て談ずる時の便益を供しぬ、又札幌在学以来余の放棄せし此学を復習せんが為めに余はフーカー氏の英国植物篇一冊を購(488)ひ来り彼我の植生を比較して彼の想を言ひ現はすに我の物を以てせん事を努めたり、本誌に掲げし「如何にして夏を過さん乎」なる三回の論文は余の此時の感に照して草せしものなり。
 恰も好し余の天然熱上騰の此時に当て米国なる或友人は余に渠の国の天然詩人へンリー、D、トローの名著「ワルデン一名林中の生涯」なる書を贈り越せり、余は飢渇真理を慕ふ者の心を以て此書を迎へたり、其如何なる書なる乎は夏期の本誌に長々と述べ置きたれば茲に贅せず、然れども其是を読みしが故に余は一層の清涼を覚えたりとの事は此処に重複し置くの要ありと信ず。
 然れども天然は永久に余の心を養ふに足らざりし、ヲルヅオスすら天然は人格養成の為めなりと曰へり、世に植物学者なる植物の外何物をも研究せざる人はあれども、余の如き感情的人間は植物のみを以て営養的にも智能的にも到底永く棲息し得べきに非ず、故に余は久しからずして余の植物学書を投棄せり、而して異郷を去て故郷に帰るの心を以て余はプルタークの伝記書に到れり。
 プルタークは伝記著者の始祖にして彼の著述は伝記書の経典なり、プルタークを読まずして伝記を口にする勿れとはエマソン始め其他の学者の公言せし所、ある英国の支那学者が司馬遷を指して「東洋のプルターク」と称ひしを見ても、プルタークと伝記書とは如何に緻密なる関係を有するものなる乎を知るに足らん、古来汗牛充棟も啻ならざる伝記書類中プルタークのみは幾回も誦読して倦怠を来さゞるの書なり、プルタークを読まずして伝記書を綴らんと欲する者は聖書を読まずして宗教を談じ、カントを読まずして近世倫理説を解かんとする者と云ふべし。
 プルタークの諸伝中ペリクリス伝は特に注意を惹くべきものなりと信ず、そは著者の理想的人物は実に此人に(489)存したればなり、ペリクリスは実に希臘文明が産出せし最大最美の産物なりしなり、武と文とを兼ね、智と略とに富み、哲理をアナクサゴラスに受け、音楽をダモンに学び、神を畏れて迷信ならず、武に長けて粗暴ならず、民の権利を重んじて彼等の放肆なるを許さず、国権を最も広遠なる而も最も神聖なる意味に解し、彼の雅典国を以て万世に亀鑑たるべき模範的国家と為さん事を努めたり、而して彼は幾分か此偉大なる目的に達するを得たり、歴史有りてより以来十九世紀末年の今日に至るも未だ曾てペリクリスの雅典共和国の如き完全に最も近き国家あるを見る能はざるなり、メデイチのフローレンスは徳に於て欠くる所あり、クロムウエルの英国は美に於て欠くる所あり、伊藤博文侯の日本の如きに至ては智に於て徳に於て美に於て全然比較以外にあり、若し世に完全なる政治家の存在せし事あらんには、彼はペリクリスより完全なる能はざりしならん、若しプルタークが伝記者の模範たらばペリクリスは政治家の模範たらん。
 模範的伝記者の筆を以て模範的政治家の性行を画きしもの、是をプルタークのペリクリス伝なりとす、之を偉観と称せんか、極美と言はん乎、余は伝記其物を此処に写すより外に之を余の読者に伝ふるの術を知らず。
 余は三四回ペリクリス伝を復読せり、其一読は政治新聞千万枚を読むに勝るの政治智識を吾人に供するものなりと信ず、余は未だ曾て政治学なるものを修めし事なし、然れどもプルタークのペリクリス伝は余に此学の秘訣を伝へて尚ほ余りあるものなりと信ずるなり、政治他なし、国民を其栄光の域に導くにあり、而して之を為すにペリクリスに習ふの外他に途あるべからず、遠大なる理想を懐き、厚く国民を信じ、寛大にして果断勇壮なる、是れ政治家たる者の備ふべき特性なりとす、若し夫れ今日我国に於て称する政治家なる者に至ては彼等を雅典の偉人ペリクリスに此して両者の差は月と鼈との異なり、哲人と野蛮人との別なり。
(490) 清風に臥しながらプルタータのペリクリス伝を誦し終りし頃桑港なる博士ハリス氏は余が曾てより読まんと欲して熱望せし仏人エドモント、デモーリンスの名著 A quoi tient la superiorite des Anglo-Saxons の英訳 Anglo-Savon Superiority:to what it is due. なる書を余の許に贈り越せり、恰も好し、余は此時丁度腸加答児に罹りて褥中に病を養ひつゝありし頃なりければ余を阻害する者なきを幸とし、四日間続け読みに此書を読み了りたりき、余が今年読みし書の中に「面白」しと称すべきものは実に此書なりとす。
 『英民族の優勝と其原因』、是れ如何なる事を論述せしものぞ 仏国人にして其敵国たる英国の優勝を語る、其事其れ自身既に奇異なり、彼は如何にして彼の自国を貶して彼の敵国を褒めんとはするぞ、世にも奇異なる愛国者はあるものかな、日本にて愛国者と称へば文学博士井上哲次郎氏の如く自国を賛め揚げて外国を卑下する者を云ふなれ、(尤も海外留学中は自国の耻を外人の前に曝すことあるも)愛国心の熱烈なる仏国人にして此事あらんとは何人も夢想せざりし所、然るに茲に大胆なる渠の国の学者ありて懼れず、憶せず、自国の非を指摘して敵国の是を賞讃す、余は巻を終へて之を褥上に措き嘆じて曰く、「嗚呼偉大なる哉仏蘭西、汝は未だ偉大なる未来を有す、汝は此明を有する哲学者を有す、汝の革進は期して待つべきなり」と。
 デモーリンス氏は此名著に於て仏英両国の社会を最近の社会学的法則に照して解剖せしなり、彼は仏国衰退を其貴族的制度に帰着し(名は共和国なるに関せず)、仏人が政府に頼るの深き、終に個人的意志を消耗するに至りしを説き、所謂国家主義なるものゝ其根底に於て死滅的なるを看破せり、之に反して英国は名こそ王国なれ実は最も進歩せる共和国にして民衆各個は自己に頼らんことを努めて政府に依て事を為さんことを計らず、臣は君に縋らず、子は父の懐に隠れんとせず、各人其活動の区域を全世界に求むるが故に、世界は終に英民族のホーム(491)と化するに至りしの順序を述べたり、余は実に毎章を読了る毎に何人か余の生国に就て書きつゝあるにはあらざる乎を疑へり、王国たり、共和国たり、其名は吾人の関する処にあらず、然れども政府に頼り、貴族を瞻仰し、国家主義てふ名称の下に個人的意志を抑圧して個人活動の動機と区域とを萎縮するの国は其仏国たると独国たると果た亦た日本国たるとを問はず、終に個人国なるものゝ排除する所となりて衰頽死滅の天則に従はざるを得ざるに至るを思ふて余は独り褥中に襟を沾ほし憂国の情禁ずる能はざりし。
 仏国の批評家ジユール、ラメースル此書を評して曰く「是れ実に悲痛の書なり、然れども仏国民たる者は何人も之を読まざるべからず」と。而して余はラメースルに和して曰はんと欲す「日本国民たる者も亦然り」と、誰か此書を訳して我邦人に紹介する者ぞ。
 英民族優勝論を読終りて以来余は未だ之ぞと云ふ面白き書に接せず、秋に入りてよりは興国史談の草稿に忙はしく、レノーモン、ローリンソン、セイス等の著書を復読するの要を感じ、為めに他に楽読するの閑を得ざりしは事実なり、太古史の研究たる実に乾燥無味砂を噛むに等しきものにして之れを面白く綴らん事は死骨に生命を吹き入るゝが如く難し、大冊数部を読尽して得るところ僅に数事項に過ぎず、夫れも多くは臆説たるに止まりて一史家の決定せし所は他の史家の否定する所となり、吾人後学者は孰れを取て孰れを捨てゝ可なる乎を知るに困しむ、之をバビロニヤ史又はアツシリヤ史と云ふと雖も英国史又は仏国史を研究するが如き信頼するに足る史料の多く吾人に供せらるゝに非ず、史家数年の探究の経果は僅に一年代を確定せしに止まるの類にして読尽せし書巻の割合に史的事実の少量なるは亦已むを得ざるに出づるなり。
 南阿戦争は余に読書上の新題目を供したり、余は再び余の特愛の書の一なるモツトレー氏著「和蘭国共和国勃(492)興史」を取出し、目下尚は其復読中なり、三巻千五百余頁の大冊なれば之を通読するに少くも一ケ月間を要するなり、又近頃同氏の著にして四巻二千頁の United Netherlands 米国より来着したれば、余は来春の読物として此宝物を架上に眺めつゝあり。
 若し夫れ南阿戦争に関する雑誌上の記事に至ては余は一つも之を見遁すことなし、「南半球に於ける人類自由の復興」是れ今日余が全注意を傾くるの大題目たりとす。
 斯くて明治三十二年は終らんとす、雑誌を三十六号出せしこと、書籍を四五千頁読みしこと、是れ僅に余の今年の事業なりしなり、余は勿論明年は余に取りては如何なる年なる乎を知らず、然れども余の眼の開き在らん限りは余は読書を廃せざるべし、余は成るべき丈け眼力を節用し、貴重なる視力と時間とを害多くして益尠き新聞雑誌等の懶読に消費する事なく、未来永遠にまで余を離れざるの智識を余に供する大著述の熟読に従事せんと期しつゝあるなり。 〔以上、12・25〕
 
(493)     〔興敗録 他〕
                    明治32年12月15日
                    『東京独立雑誌』52号「思想園」                        署名 角筈生
 
    興敗録
 
〇国家を改造するの勢力は議会に非ず、新聞紙に非ずして、眼に見えず耳に聞えざる隠密に在る祈祷の士なり、彼れあらんか、幾多の風波国家の船体を打つも破船沈没の患なけん、彼れなからんか、最も完全なる憲法も之を救ふに足らざるべし。
〇国家衰亡の徴は官の減少に非ず、智識の衰退に非ずして、偉人の出ざるにあり、伊藤博文侯以上の政治家を出さず、森槐南氏以上の詩人を出さゞる日本帝国の未来に怕るべき事多し。
〇僅々八万の人口を有するトランスバール、地球の陸面六分の一を有する大英国と兵を交ふ、而して世の才子論客は謂ふ是れ無謀の挙なり、杜国の運命旦夕に迫れりと、然れども杜人は宇宙の主宰なる神に頼りて起ちし者、成敗如何の如きは彼等の少しも意に介せざる所なるべし、成功を確めざれば起たず、失敗を懼れて動かざるが如きは彼等神を信ずる民の為す能はざる所にして、亦彼等の行為が『国民新開』記者の如き世俗的才子の了解し能はざる所なるべし。
(494)〇自由は意に圧潰し得べからざるなり、其シーザーの手に依て莱因河口の地より掃攘されんとするや、今の和蘭人の祖先なるネルビ人の防禦する所となり、チユートン民族は終に服従の民とならずして止みぬ、その西班牙王フリツプ二世の手に依て再び欧洲全土より拭ひ去られんとするや、今のボーア人の祖先なる十六世紀の和蘭人の八十年間に渉る苦戦を以て保守する所となり、自由は彼等の中に栄えて終に大西洋を渡りて新大陸の処女林に大なる美果を結ぶに至れり、斯くて和蘭人種は二回まで人類の自由を危殆の中より救ひ出せり、誰か知らん、自由は第三回の救助を斯民の子孫なる南阿のボーア人に待たんとは、羅馬人その倨傲の極に達してネルビ人之を挫き、西班牙人その暴威を逞ふするに至りて和蘭人之を砕き、而して今や英人その暴慢の極に達せんとしてボーア人大胆にも其矯正の任に当る、偉大なるかな和蘭人種、自由は彼等に負ふところ甚だ多し。
〇人類の希望は一時は西方にありき、華盛頓、リンコルンの米国は過去百年間自由の惟一の隠家なりき、然れどもガリソン、ローエル、ホヰツチヤルの偉物の失せ尽せし今日、此自由の郷土も殆んど全く物質化し去らんとするに当て自由は其居住の地を南半球に転ぜんとするが如し、西を以て東を救ひし摂理《プロビヂンス》は今や南を以て北を救はんとしつゝあるが如し、余輩が満腔溢るゝばかりの同情を以てボーア人の成功を祈るは人類全体の救済を祈ればなり。〇日本は終に日本人を以て救ふ能はず、是れ悲むべくして両も亦た否むべからざる事実なりとす、然ればとて俗化せる英米の宣教師が如何に彼等の死的基督教を伝播するとも此国民の復活すべき筈なし、余輩是を思ひ彼を想ふ時に殆んど絶望の極に沈まんとすることなきに非ず、希望は日本に絶へたり、英国米国亦た頼むに足らず、余輩の希望は南亜非利加一点の地に存す、カラハリ沙漠の煌々たる処、オレンジ河の西に流るゝの辺、是れ自由が(495)新たに全地球を潤さんが為めに湧き出るの処にあらずや、精金と金剛石との多量を世界に供する南阿の地は亦た黄金の思想を吾人に供する自由の郷土に非ずや。
 
    決断録
 
〇『我は弱き時に強し』、強き者強きに非ず、弱き者必しも弱きに非ず、神に頼る者は強きなり、己に頼るものは弱きなり、詩人ダビデ曰く「或者は騎馬に頼り、或者は戎車に頼る、然れども我は我が主なる神に頼らん」と。
〇我等は国を救ふの術を知らず、然り之を救ふ能はざるなり、国家救済の如きは人力の能く為し得る所にあらず、我等の為し得る事は確信其儘を語る事なり、目前の義務を果たす事なり、之を語り之を果して国家は終に滅亡するとも是れ我等の罪にはあらざるなり。
〇我等は其結果如何に思慮を配ばることなく大胆に事実有の儘を語るべきなり、悪は如何なる形を帯るも悪と称び、善は如何に世に擯斥せらるゝも善と称へ、栄ふるが為に悪を友とせず、衰ふるが故に善を捨てず、我等の標準を世の鑑定以上に置き、憶せず、撓まず、悪と戦ひ、善と与すべきなり。
〇事実其物が天よりの福音なり、神の予言なり、国家は雑誌記者の論説に依て亡ぶるものに非ずして、其政治家教育家の堕落腐敗に因て亡ぶるものなり、賄賂の贈与が公然と政治家間に行はるゝ是れ最も明白なる亡国の徴にあらずや、此徴を掲げて亡国の近きを説く、是れ記者たるものゝ本職に非ずや、余輩は今より一層大胆に此地に存在する凡ての罪悪に就て語らんと欲す。
〇人に憎まれん事を怕れて其罪悪を語り得ざるが如きは卑怯の最も甚だしきものなり、世に正義を唱へて人に愛(496)せられし者の如きは未だ曾てあらざるなり、正義を唱へん乎、世に憎まるゝのみ、世に愛せられながら正義を唱へんとするは罪を犯しながら天国に入らんと欲するが如き冀望にして、全く望み得べからざる事なり、余輩は常に『人望ある正義の唱道者』の本性を怪むものなり。
〇『物を称ぶに其真正なる名を以てすべし』、Call things by their true names!偽善者は彼の文学博士なると大学教授たるとに関せず偽善者と称すべし、姦夫は彼の総理大臣たると内務大臣たるとを問はず姦夫と林すべし、変節漢は彼の才子たると能文家たるとに関せず変節漢と称すべし、悪人は悪人なり、吾人は彼等が高位高官の人たるが故に、彼等に与ふるに善人の名称を以てすべからざるなり。
〇若し社会に制裁なくんば余輩は自から裁判人ならんのみ、軟弱なる社会は変節者を指して俊才傑物と做し、之に社交的絶交を申渡さゞるも余輩は断じて彼の親交を斥け、彼を呼ぶに彼の真正なる名を以てし、彼に対する余輩の満腔の憎悪を表すべきなり、
〇善は悪と同時に行ふべからず、第三面に罪悪奨励的の記事を載せて第一面に社会改良を論ずるが如き、左手に賄賂を受けて右手を挙げて国家経綸策を賛するが如き、盗賊的に財を貯へて慈善的に之を消費せんとするが如き、是れ皆悪と同時に善を行はんとする事にして如斯を称して余輩は真正の偽善とは云ふなり。
 
(497)    クリスマスの感
                    明治32年12月25日
                    『東京独立雑誌』53号「感慨録」
                    署名 角筈生
 
 『嗚呼クリスマスよ、クリスマスよ、汝は復た帰り来りしか、凡て汝の喜びを以て、凡て汝の悲しみを以て』我はクリスマスは何の為なるかを知らず、其基督の降誕日なりとの説の如きは史学の充分に証明し得るところにあらずして、我は之が為に此日を記臆せんとせず。
 クリスマスは神聖なる友情に捧げられし祝日なり、是れ特別に友人を思ふの日なり、広き地球の表面に散布する吾人の朋友を紀念する為めの日なり。
 其嬉しき日なるは我も亦た友人を有すればなり、勿論多きにあらず、彼等を我の五指を以て数へ尽し得べし、然ども是れ天が我に賜ひし最も貴重なる宝物なり、我は彼等あるが故に此薄情の世に存在するを得るなり、彼等あるが故に我は能く我が凡ての悲痛を忍ぶを得るなり、世界に十四億の人ありと雖も彼等は我に於て何かあらん、我は我が五人の友を十四億の異人遠人に勝て愛するなり、人は四千万の同胞を有すると誇るなれども我は斯くも夥しき『同胞親友』ありとは思はず、我は一年に一日を是等少数の我が友人の為めに消費せんと欲す、而して囂々然たる俗塵を避けて翠澗屈曲して寒林の間を流るゝ辺に我は斯く我が友人の為に祈らん、
  神よ、汝が我に賜ひし是等の友人を恵み給へ(茲に一々彼等の氏名を列挙すべし)彼等をして今日も恙なか(498)らしめよ 彼等の中病める者あらば汝の医療を彼等に与へよ、彼等の中義の為に責めらるゝ者あらば汝の慰藉を以て彼等を励ませよ、彼等の中貧に困しむものあらば彼等をして汝に於ける無限の富を認めしめよ、願くば我が汝の掌中にありて日々の指導を受くるが如く、彼等をも今日汝の特別の保護の下に置き給へ、而して彼等も我も汝が我等に命じ給ひし此世の職務を忠実に了へし後は、願くば汝の祝福に依て汝の限りなき霊の王国に入るを得、此世の汚濁より悉く洗ひ去らるゝを得て、汝と共に在りて、永久に汝の光輝を楽ましめ給へ クリスマスの悲しきは我に失ひし友人あればなり、或は既に我に先ちて躯を此地に遺して天上の人となりしあり、彼等在まさゞるが故に我は此世に於て寂寥を感ずるや大なり、然れども我は永久に彼等と別れしとは信ぜず、我は詩人ホヰツチヤーの語を繰り返して云ふ
   Love doth dream, Faith doth tmst,
   Somewhere, somehow meet we must.
 来生の存在を信ずると云へば我は我が国の博士達に笑はれんなれども、然りとて我は我が誠実の友の永久に此美麗なる宇宙より消え失せしとは信ずる能はず、世の博士達をして大政府の庇保の下に彼等の研究(?)を継続せしめよ、弱き貧しき我は我が友の未来存在を信じて疑はざるべし、此世に多く友を有する者は此信仰を懐くの要はなけん、然れども我等如き此世に関係尠き者は未来観念なしには一日も存在し能はざるなり、多くもあらざる友を一人失ふ事は我等に取りては一層遠く此世より離るゝ事なり、我等も何時か此無情残忍なる国と社会とを去り、我等に先立ちし我等の友と何処かにて再び相会する事と信ずれば我はクリスマスが来る毎に我が心に温き(499)友情を以て失せにし我の親友を記臆するなり。
 故に死せし友は左程に悲しむに足らず、実に悲しむべきは精神的に死せし友なり、或は主義の戦闘に堪えずして富と栄との迹を追求して今は藩閥政府の忠実なる奴隷となれるあり、或は信仰を棄ること敝履を棄るが如くに易く、咋の熱心なる基督信徒にして今は腐敗坊主の頤使する処となる者あり、或は我と固く独立を約しながら今は殆んど外国人の足を接吻して毫も耻とせざるが如きものあり、咋は平民の友たりし者にして今は貴族の幇間たる者あり、咋は神を拝せし者にして今は黄金を拝する者あり、咋は国利を謀りし者にして今は自利自益の外何物をも省みざる者あり、嗚呼我は一時は彼等を我が友と呼び做せしを耻づ、彼等は実に我神と国と主義とを辱かしむる者、我焉んぞ彼等の為に万斛の涙を灑がざるを得んや、我は過ぎにしクリスマスに曾て彼等を我が友と呼んで彼等の為に祈りし事ありき、今と雖も我は彼等の為に祈らざるに非ず、然れども彼等の成功を祈るに非ずして彼等の悔改を祈らざるを得ざる我が心の苦しさよ、世に悲しき事とて生きながら友人を失ふが如きはあらず、クリスマスの堪へ難き程悲しきは我にも此種の損失あればなり。
 『嗚呼クリスマスよ、クリスマスよ、汝は復た帰り来りしか、凡て汝の喜びを以て、凡て汝の悲しみを以て』
 
(500)     歳の暮
                     明治32年12月25日
                     『東京独立雑誌』53号「雑壇」                         署名 独立生
 
〇暮が来ても別に忙しい事はない、料理屋や仕立屋には一文の借金もなければ、亦た新年の来客接待の用意をするの必要もない、只活版星と本屋とに少しの払ひをすれば夫で歳が取れるのである。
〇嬉しいのは近頃来着の新刊物が机の周囲に転がつて居る事である、是が暮から春へ懸けての大楽しみである、是れさへあれば年も忘れられるし、新年も迎へられる、室内で観劇の愉快とは此事である。
。二十世紀が来やうが三十世紀が来やうが、そんな事は少しも怕くはない、我等は来年も今年のやうに神を畏れて出来得る丈け同胞人類の為めに尽すまでゞある。
〇今年は何を為したかと、独り己れに尋ねて見ると別に是ぞと云ふて大事業を為さなかつた事は確かである、大凡十万部余りの雑誌を配付した、六七千部の著述を国内に蒔き散らした、事業と云ふは先づ之れシキである、然し之でも何も為さなかつたより好いと思よ、世には国家人類の為めには何も為さない処ではない、到る処に腐敗と罪悪の種を播きながら一年三百六十五日を終る者も沢山あるそうだ、彼等に較べて見れば我等は大に天に謝すべきである。
〇また一つある、一つの女学校を半ケ年間預かつた、そうして其維持の為めには我等は貴族や宣教師の処へは補(501)助請求の為に一度も伺候しなかつた、是れ丈けは自分でも随分の大事業であつたと思ふ、殊に我等と共に歓んで困苦を頒つの教員あり、此困苦の中に薫陶を受けんと欲するの生徒あるを思へば此国とても未だ全く捨てたものではない。
〇来年は何うなつても宜い、今年丈け清浄潔白でさへあれば先づ夫れで沢山だ、金はなくも宜い、此腐り切つた社会に友人の無い位は平気の平左衛門だ、我等に為すべき 天職があれば外に何もいらない、故に我等は歳暮になつても嬉しくて堪らない。
〇宇宙は生き/\として実に喜ばしい処だ、生は日に月に年に死に打ち勝ちつゝあるのである、藩閥政府も遠からずして屹度潰れるに相違ない、圧制と偽善とは此宇宙に永く存在するの特権を有たないものである、何も我等が論文を書いてそうして彼等を潰すと云ふのではない、宇宙万物の造主が彼等を殺し給ふと云ふのである、我等は唯だ神に賛成するまでゞある。
〇実に嬉いではないか、我等は斯んな良い世の中に存在して居るのである、正義必勝の世の中に存在して居るのである、偶には正義は負ける事はあるけれども是はたゞ負ける真似をするまでゞある、去る十九世紀間にナポレオンを始めとして其他の圧制家を大分平げてやつたから来る二十世紀には亦た貴族紳商の如き懶族を根コソぎ平げて遣らなければならない、我等は遠大無限の希望を以て新年を迎へやうと思ふ、読者諸君もツマラなき悔言を繰返す事を止めにして我等と共に歓喜の春を迎へ給へ。
 
(503)     別篇
 
  〔付言〕
 
 佐伯好郎「英語自習独学の注意」への付言
       明治32年4月5日『東京独立雑誌』27号「講壇」
 
 記者申す、友人佐伯氏は我国有数の英語学者なり、氏は最も組織的に此語を学ぶの術を知る、今余の乞に応じて此篇を送らる、茲に深く氏の厚意を謝す
 
  な、こ、「肥後だより」への付言
       明治32年4月15日『東京独立雑誌』28号「記者と読者」
 
 記者申す、是れ真率の文なり、茲に之を掲ぐるは全く是が為せり、自我自賛の為めに非ず。
 
  西川光二郎「惰怠の福音(1)」への付言
       明治32年4月25日『東京独立雑誌』29号「思想園」
 
 記者申す、余も曾て Lazy Christianity 惰怠的基督教なるものを唱へしことあり、国家を天の摂理に委ねて躬からは安眠を貪り得ざる者に之を救ふの力なしと信ず。
 
  下谷あ。か。ば。「下谷だより」への付言
       明治32年4月25日『東京独立雑誌』29号「記者と読者」
 
 記者申す、余は勿論余に呈せられし賛辞を好まずして、此書の寄贈者に光明に達せんとするの誠意あるを喜ぶ。
 
  羽後酒田町サ、リ、「酒田に於ける独立雑誌」への付言
       明治32年5月25日『東京独立雑誌』32号「記者と読者」
 
 記者申す、余は勿論此欣仰を値する者に非ず、願くは余の名は湮滅に帰せしめよ、只一日も早く精神的革命の時樣の到来せん事を、余は切に諸子の励精を祈る者なり。
 
(504) 神田生「学問売買」への付言
       明治32年9月25日『東京独立雑誌』44号「雑壇」
 
 記者申す、余輩は他人の悪事を暴露して欣ぶものに非ず、然れども学問売買の弊今や殆んど其極に達し、余輩の聞くに忍びざるものあり、編中掲ぐる処の記事の如きは余輩が幾回となく耳にせし処なり、若し輿論の少しく之を矯正するに至らば豈青年後進の幸福のみならんや。
 
  U.G.Murphy,‘PROSTITUTION AND THE JAPANESE POLICE.’への付言
       明治32年11月25日『東京独立雑誌』50号
 
 [Our brave missionary-friend has our soncere thanks and sympatby.Wewill do what we can to make known the incapacity of the Japanese police to the whole world.−ED.]
 
 素見生「古本道楽」への付言
       明治32年12月5日『東京独立雑誌』51号「雑壇」
 記者白す、素見生は記者の親友の一人なり、彼の慧眼に映じたる東都古本屋の実況は記者も共に度々目撃せし処なり、爰に彼の言の虚飾ならざるを証す。
 
(505)     〔社告・通知〕
 
 【明治32年4月5日『東京独立雑誌』27号】
   謹告
 
 今後小生へ宛てたる御書面は総て神田区南甲賀町八番地独立雑誌編輯所宛にて御発送願上候     内村鑑三
  諸君
 
 【明治32年7月5日『東京独立雑誌』36号】
   謹告
 
 匿名の御信書并に御寄贈文は開封することなく其儘没書致し候間此段重ねて申上置候也
                     記者
 
 【明治32年9月5日『東京独立雄誌』42号】
   謹告
 
 小生義今般左の所へ転居致し候に付き此段広告仕儀也
         東京新宿角筈百一番 内村鑑三
 
 【明治32年9月15日『東京独立雑誌』43号】
 
 迷羊帰省中にて本号に彼の約束の『文学月旦』を掲ぐる能はず、読者諸君の宥恕を乞ふ。
 
 【明治32年12月15日『東京独立雑誌』52号】
   ◎女生徒募集
 
 今般寄宿生十名を限り更に入学を許す、来る明治三十三年一月十日開校、整理法は総て家庭組織に依る、手芸并に文芸を懇切に教授す、
     東京府豊多摩郡淀橋町大字角筈百一番
         私立女子独立学校校長 内村鑑三
 
(506) 〔参考〕
 
     〔有名なる信者の変心せる理由〕
                     明治32年4月23日
                     筆記手稿
 
 今鵜沢君開会の辞の中に基督教先輩云々と云はれ余を目して矢張基督教界の先輩の一人と数へられたれども僕は此名称丈は兵平御免を蒙りたい 僕は近頃基督信者と称するを耻るものである
 何時ぞや僕が基督教新聞に余は基督信者に非ずとの文を寄せた事があつたが松村君などは大に騒ぎ立てられ今頃かゝる事を云はれては困ると色々のことを小言云ふものだからそれならばと云ふて依頼を無にするも気の毒だから「所謂」の二字を冠した事があつた 目下我国の伝道師牧師は何をなしつゝあるか 彼等が企てゝ今週中に行はれつゝある福音同盟会のざまがどうである 彼等の行為は果して信者の行ふべきであるか 僕は彼等と共に基督信者の名称を蒙るを辞するものである
 凡てこれは基督信者に限らず回教徒にせよ仏教徒にせよ一般の信者が堕落の絶頂に達する時は真正なる信者は彼等と共に同名目の下に立つを快しとせざるは当然のことである 故に余は劈頭第一にこれを断はりて置くのである しかし此演説中には僕はまた一箇の信者としての持説を吐かんとする積なり これ衝突せるが如きも決して然らず 箇中の消息は諸君の推量を仰ぐのである
 さて僕は今日基督教を棄てし有名なる日本人に就きて述べんとし初め「有名なる信者の堕落せる理由」と演題に撰んだ だが考へて見ると堕落と云ふは余り言ひ過ぎる様だから先程応接間に休憩して居つた時「堕落」を「変心」と替えました なぜなれば基督教を捨てたる信者中には平人よりも堕落せる人もあれどもまた一方には左程堕落せざる人もある だから此等の人に対して「堕落」の二字を付くるは失敬だと思ふのである
 扨て諸君よ 諸君中万朝報中の英文欄内に寄書が顕はれて今迄有名なる日本人で基督教を棄てた人の名が沢山出でゝあつたを見られた人があるだらう 一体あれは誰の投書やら僕には解らない 万朝社へ行きて見て其人の名を尋ねたが遂わからなかた(笑声起る) 聞けば其人はまだ/\探究調査して其補遺を出すと云ふことである また万朝報社でも八方手を廻はして嘗て信者であつた在朝者をさがしつゝあるそうである 今の台閣諸公中にも三人はあるらしい 次官連中にもある その以下の参事官などには数ふるに足らぬとの事である
 噺が少し変りますが朝報の此記事は一方に於て面白い(507) reflection を呈しました 私は近頃太陽の九号を見ました 序ながら断りて置き升が僕は今迄太陽を買つたことはないです 先達てある雑誌屋の前でひやかしながら立見をしたのであります
 さて立見をした太陽にどう云ふ事が書いてあるかと云ふにこう云ふことである 万朝の寄書に拠れば基督教を捨てた日本人は非常に多い様である 彼等の中には教会の保護を受け洋行した者もあるそうだが彼等は学成り名挙るに及びて基督教を捨てゝ仕舞つた 基督教の真理たると否とはさて置き徳操を如何にすべきかとかいてある 続きてまた下の如きことがかいてある かくの如く基督教を信じたる者が※[身+應]て弊履を脱する如く捨つるはこれ基督教の日本人を制肘する力なく即ち此教中に日本人の信じて安慰と希望と力とを得る分子がないからではないかと疑つて居る
 これまた一方の観察法でしやう 前にもくだ/\しく申しました通り基督教を捨ては随分夥しいもので有名なる宣教師で捨てたものもある 牧師のうちにも斯るものがある 我等は北海道に盟約した連中の内にもある 彼地の神学校卒業生にあり同志社出身者にあり帝国大学卒業生中にあり高等学材が信者でも大学へ来て止めるものもある 宇野君だの鵜沢君などが熱心に今は働いて居るが将来には捨てないとも限るまい 失礼の言だが宇野君などが理学士にでもなつたら全く教会と関係を絶たないものでもあるまい 僕が北海道に居つて未信者でありました時盛に僕に道を説いたもので今は宗教の事を云ふと顔をそむけるものがる されば太陽雑誌記者の疑問も無理ではない
 しかし退いて考ふればまたこう云ふ事も思はれる 今迄基督教信者は本当に基督教を了解しなかつたのである 換言すれば其門戸に漂ふて堂奥にに達しなかつたのである 基督教の本当を味を味はなかつたのである 彼等は名は教界に連ねてあつても実際は信者でなかつたのである 彼等の基督教を捨てたるのは握りたるものを失ふたるに非ずして握らないから放したのである 即ち彼等は基督教の門外漢であった 彼等の基督教を捨てたは門外漢のゆゑで捨てたのである 牧師である伝道者で御坐ると自称したる者が教職をやめて商人などに下つたと云ふはチトあたらない とりも直さず彼等は商人に行きたのである 初めから信者でないから信仰を失ふわけもあるまい
 斯の如く重大なる二問題が起つて居る 僕は先づ第一問題を研究したいと思ふ 僕が考ふるに基督教が反対されるは日本で計りではないと思ふ 西洋でも何処でも這入り込むだ当坐には非常なる反抗と迫害を受けたのである 西洋に於てすら基督教は苦戦最中であるのである 日本人が基督教に反抗すると云ふは日本人の特性ではない これ即ち人類の特性で(508)ある 神より離れ悪魔の奴隷となり了りたる人類の異口同音に発する反対の声である 或人は欧米人は多小血族の関係を有して居るが其祖先なる希臘人や羅馬人は立派にその教を信じたものだから血統上遺伝上より此教は西洋の各国に勢力を得て居るのである しかし東洋のツアリアン種は西洋のアリアンなどゝ全く関係ない人種だから基督教は信ぜられないと云ふがこれは根拠なき議論である 之を歴史的に証明するは易い事である かのハンガリヤ人は諸君の御存知の通り純然たる蒙古人種である 其皮膚の色と云ひ髪の色と云ひ丸で日本人同然だ たゞ違ふのは彼等は日本人より丈が高いと云ふ事である 然るに不思議なるは全欧州中過去の歴史に於て最も基督教に忠実であつたのはこのハンガリ人なのである 波蘭人もなか/\熱心であつたがハンガリ人も之に譲らず中々熱心な者であつた この事実は僕がハンガリーの歴史を研究して得た事である
 また独逸に於て十八世紀の末葉より十九せ紀の初期にかけて顕はれたるヘルデル、フヒテ、ヘーゲル、等の学者は希臘哲学者以来最も公平なる Intellectual Giants と称せられたのである 実にレツシング以前のこれ等の学者は眼中教会なく宗派なく国家なく我なく全く虚心坦懐に真理を研究したのである 而して其結果として彼等は揃も揃ふて基督教は absolute and universal truth たることを公言した これ等の事を参考して見たならば日本人の基督教に反対するは基督教の性質上受くべき当然の報酬にして決して基督教に真理なき所以でないことも明かである 故に僕は更に進みて第二の問題を研究して見たいと思ふ
 凡て宗教を信ずると云ふは自箇の微小なるを感じ罪を感じ救を求め神人合体の妙境に入るを云ふなれども悲しいことにはこれ迄日本人の基督教を信ずるに至りたる Motive は大に之と違つて居つたのです
 第一に来るのは愛国心から信ずるに至つたことです これはこれより述べんとする種類の中で最も高尚なるものである しかし間違つて居る事は明である この主義によりて信者となりたる者を僕は便利のため肥後的基督信者と云ふ かゝる種類は東京にも何処にも見出さる 或は之を日本的基督教信者と言ふ方が適当かも知れず 然し既往肥後は最も有名なる此種の信者を生じたれば僕は敢てかゝる名称を用ゐたのである 諸君はあの有名なる花岡山の盟約を御聞きになつたことがあるでしやう あの有名なる盟約――其起草者が天壌と共に無窮なれかしと祈りたるあの盟約――しかるに驚くべきことは此盟約には宗教の精神の含有されてない事である 換言すれば彼等は愛国心に動されて基督教を信じたのである 彼等は西教を奉じて日本の国家を富まし強うせんと盟約してある
(509) 僕は勿論これを悪いとは云はないです しかし基督教を解するには愛国心以上のものを要するです こゝに蝶々が居ると仮定して御覧なさい 其蝶が向の花を見て飛んで行つた しかし蝶々の飛行きしは花の中の honey の材料を得んがために行つなので決して蝶は花を最終の目的とはしないです 此道理によりて愛国心は基督教の手引とはなりませう しかし其自身が基督教の信仰ではないです かゝる Motive より這入りたる信者で基督教を捨ては当然の事です 何となれば愛国心と云ふものゝみによりて信者となりしものはまた同じ Motive によりて棄つることが出来るからです 花岡山盟約者中既に信仰を失ひたる者多きは怪むに足らぬ事です 彼等基督教を信じたると同じ理由によりてまた基督教を棄てたのであり升
 第二の種類に属するものは交際を得んがために信者となつた者だ 去年であつたか従六位何某と云ふが礼服着用の肖像を添へた基督教活論と云ふを著した 其をとりて見ると基督教を信じて西洋と交通の路を開けと書いて居る あまりに馬鹿げて居る 僕はあまりのにくらしさに之に俗的基督教の名を与てやつた 僕がかゝる言を云ふは信者たる義務を欠くかも知れないが若しも該書の著者は僕の面前に居つたならば只では置けないと思つた どうかしなければならないと思つた 何んだ一体神聖なる宗教をつかまえて交際の道具にするなどゝは言語同断の事である 加之阿米利加へでも行つて一般の人間と交際して見ると基督教徒だからと云ふてその様にもてはやされるものでない 神学校だとか宣教師仲間には交際が出来るかも知れぬ どうして一般の人士に交際などが出来るものか これは僕が十年前彼土に渡りた時経験でよく知つて居る また洋行をしたものは矢張信者になれば幾分かの便利もあつたのではある それだから彼土に渡りて信者となつたものが沢山あつた しかし彼等が日本に帰りて見るとどうであつたか 国家主義全力を挙げて彼等に抵抗して来る 信者になりてゞは却りて交際が出来ない 先日僕の所へ信州から信者だとて小学材より迫ひ出れた某と云ふ教員がどうかして呉れぬかとの相談があつた 即ち信者たるものにとりては不便利極る此国であるから彼等の多くは帰朝匆々で信者たるを止めたのである 即ち彼等は交際を得んとして信者となつたと同じ道理で交際が出来なくなつたから信者をやめたのである 明治十六七年の頃井上さんが文部大臣となつて鹿鳴館で踏舞が流行つた時には恐るべき勢で基督教は伝播した 或信者達は天の祝福だのと無暗に喜んだが僕は悪魔の手引だと思つたら果してその時なつた信者は大抵は捨てゝしまつた 第三にくるのは猶ほ卑屈なる考でなるもので即ち西洋人の favorite にならんがためである 今でも此傾向があるが西洋人は日本に来るとよく御気に入りを作り大変それを寵愛する(510)やれ本を呉れるのやれ御馳走をするのとやん/\と担ぎ立てる 僕などは昔からにくまれつ子でかゝる経験をしらないが かゝる人は随分世にありふれて居る My boy などゝ頭をなでられたい為めに信者になつたのは多い事は珍しくない事実だ かゝる徒の基督教を見棄てたも無理ない事である これも矢張はじめから信じないですからねー
 第四の種類に属するは洋行せんために信者になつたのである これは昔しは十分あつたのである 信者の看版を下げてゆけばそれ相応にもてたものである しかし此等の徒が一通りの学材でも卒業して帰ると舌を出して基督教を棄てたものだから今は西洋人もこり/”\してそう俄かには信用しなくなつて来た ミツションスクールなどには此例数ふるに遑ない
 第五に属するものは宣教師と結托して商売をせんためで信者となつたものである 僕が拳例中最も下等のものである これは大抵の繁華の市町には何処にでも見出さるゝ信者である 第四第五の種類の信者のために我国はいくら名誉を破つたかしれないですわ 諸君どうですか 余の此例の中に這入らない「基督教を棄てたる有名なる日本人」が幾人ありましやう歟 即ち彼等の多数は初めから信者でなかつたんですよ 信者でないものが基督教を棄てたつて何も悲しむことがない 僕は心の中で却りて喜んで居るものである 僕は故にこう云ふ断案を下したい 縦令日本人で基督教を棄てたものが多いとて基督教其者をすつるわけにはゆかないと まさか基督教を否定して石川舜台さんの仏教を奉ずる気にもなれないからねー
 そこで僕は以上の研究によりて基督教が矢張真理であると云ふ事がわかる さらば如何にせば本当に人が此教を信じられるかと云ふ疑問が起る 僕は今之を解明して見たいと思ふです 欧米の人に日本人にはとんと解せない Physical and Mental Change が少年より青年に移らんとする時に起る その時には心が懐疑にみち/\て一種云ふ可からざる苦悶を以て満たされそうである この時期に於てはぼんやり夢を見て居る様で何もかも忘れて仕舞ひ宇宙の大なるに比して自箇の小なるを自覚してその苦痛は尋常一様のものでないそうである この時期は人間の最も大切なる時代であつて多のくの中には此苦痛と戦て敗北し一生堕落の生涯を送り良心を鈍くして内部のとがめを自ら防ぐものもあるそうだがまた一方に於ては此苦痛の中に天の一方より慰安の黙示を受けて俄然とし大悟徹底し今迄とがらつと変つた生涯を送る人が沢山ある 阿米利加でリンコルンと共に名高かつたへンリー、ワード、ビーチヤーの例は実に面白い 彼は南北戦争の時の教会に於ける勢力と云ふは実に恐しいものであつた してまた彼位国家に功労のあつた人もそうないです 彼は嘗てアマスト大学に居つたそうで――彼の室は僕の居つた下の室であつたそう(511)だ――彼の大学勉学中は左程抜群の秀才でもなかつたらしい 彼の好きなのは魚釣で朝から晩までこれにふけつて居つたそうでアマスト近傍の長江細河で魚の居る所を皆な彼がよく知つて居つたとの噂がある程だ 然るに彼が在学中に只今述べました不思議なる苦痛煩悶が彼の心中に起り始めました 彼は二年間も苦痛に沈み居つたと云ふ事です 其時の彼の心中の苦痛は実に思ひやられた者じやなかつたらしい しかし彼は此時でも釣を止めないでこれで心の不安を慰めてあるらしい しかし遂に彼にとりて生涯中の転機は近きました 何時の事でしたか彼は一竿を肩にし美はしきアマストの四囲の山路を踏みて学校をさして帰りましたが太陽は西の空に没しかゝつて余光は奇麗にすごくおごそかに天地を染めてありました 彼は此美景に接しそゞろに色々の事を考ひ込み古感胸にわき出で小き胸は裂け出さん程のなやみを覚えました その時彼はフト幼時両親より教はりたる聖書の句などを思ひ浮びましたが天外声あり「神は其独子を与ふる寝人類を愛し玉ふ」との一句彼の心の底に響き渡りましたが彼が心中の小絃大絃一時に之に和して彼は俄然として大悟徹底しまして釣竿も何もなげて山の上に跪き熱き祈を捧げたそうでそれから彼の生涯はガラリト一変して来て彼の美質長所は愈々発達して遂あれ程の人物となつたんなそうです この事は彼が死際まで何遍も繰り返し/\話した事実です
 欧米の人はかゝる経験をするが常なるゆゑバンヤンの天路歴程が今も大に流行して居るのです 日本人より見れば余り面白くないけれどもこの本こそ実に西洋人のインナー ストラツグルを書き示したものです 悪魔にだまされたのクリスチヤンと云ふ人に救はれたの疑の城に籠つたのと云ふは皆々寓意なのです ダンテだつてミルトンだつて素より天才も関係するが彼等は此転機に Vision の翼をかりて天地の大道を見ぬきそれと合体しそれより絶えざる力を得からあれ程の著述も出来たんです それをも知らで彼等は天才だ別物だと神様でもあるかの様に思ふは一を知りて二を知らぬ噺ですわ
 今迄述べました通り本当の信者たるには斯る順序を経なければならない 此経験を経るは実に苦しいです しかし此経験を過さなければ本当に宗教を信ずるとは称されまい 所謂牧師が説教し様が福音同盟会が大演説会を開き或は本郷の台町にかゝる青年会館が出来たつて基督教が成立したとは云はれない 神人の合体悔悟と救とのレアライズさるゝ所即ち宗教存在の証拠です かゝる意味が見出されざるうちは基督教は成立しないのである さて此苦より救はれたるを自覚し神の前に愛子として立つを悟るに至りてからの内心の愉快なるは言ふに易くありません その時の我は最早人の下男や此世の奴隷ではない 我は自主のキングになる 星を屋として大地を床とする聖殿中の万物は悉く吾有に帰する様な心地がせ(512)らるゝですねー 吾は箇人としては自己の霊魂を救ひ社界の一員としては世を救ふのです 我霊魂永遠に存在するならば我霊は永遠に救はれたのである 若し我霊魂此世丈にて減するならば我は此世を未来永劫に救つたのである あゝこの愉快希望安慰の源泉たる基督教をどうして我は捨られませうか 諸君よ諸君果して真に此教を信じられたいならば吾人と同じく前述の経験を味はれたい 血を流し涙を流し神の前に once for all の悔悟をするです 前にも言つた如くこれはなか/\容易な事ではない しかし報酬のどれほど大なるかも考へて奮励一番されたいである これがいやなら仕方がない ボートへでも音楽会へなり芝居へなり行くが宜いです云々 (完)
    〔2021年3月1日(月)午後1時20分、入力終了〕