底本 伴信友全集第三 国書刊行会 1907年(明治40年)10月25日
[入力者注、※[手偏+交]は校に置き換えた。その他現行の表記に代えたものがある。判読不能の文字について、「新撰日本古典文庫4 古語拾遺 高橋氏文」安田尚道・秋本吉徳校注、現代思潮社、1976年7月15日、によって入力したものがある。ただし一つだけ外字説明の困難なものがあるので〓で標示した。上記の書によって確認されたい。]
 
高橋氏文考注序
高橋氏文、今の世に在ることを聞かず、たま/\本朝月令、政事要略、年中行事秘抄に、引載たるをとりあつめて、讀みるに、其氏の元祖、磐鹿六雁命、景行天皇東國に行幸の時、淡の浮島の行宮にて、大御饌の事に壮奉り、膳臣とめされて、膳職の事をゆだねたまひ、大甞、神甞の獻物のことを定め仕奉り始めさせたまひたるゆゑよし、又身まかりたる時、大御使を遣はして、宣らしめたまへる詔詞を書載せ、そのほかに記せる事どもゝ、こと/”\く其家の舊き傳説を、書しるせる古文にて、古典に見えざる古事はたすくなからず、いともめでたき古書になむありける、然るにそれ引記せる本ども、とり/”\に誤寫ありて、讀ときがたきところの多かるを、年頃其異本どもを得て見るごとに校へ合せ、また他書どもの中に、いさゝか引しるせるをも併せ見て、互に校へ訂し、さてその事の次第に依りて、三條を表章して、はやく考注を書さしたるがありつるを、此ごろおもひおこして、さらに考そへてかくは注せるなり、但しさる中には、おのづから強たる説もありぬべく、又くだ/\しきことゞもうちまじり、かつはこゝにいはでもあるべき事をおもひえたるまゝに、いひすぐせるもあり、すべてかたなりにおぼゆる下書なれば、なほつぎ/\に正しあらためてんかし、
 天保十三年三月廿日
 
高橋氏文考注 草稿
 
   第一章
 
此章は、本朝月令【此書全篇、世に在ることを聞かず、塙保己一が、群書類從に収めたる、四月より六月までの部の缺本と、別に其卷のまた缺たる一本を見たるのみなり、永正奥書本の、本朝書籍目録に、本朝月令六卷、或四卷歟、記2年中公事之本縁1、公方撰とみえ、藤原通憲藏書目録にも載て、四卷とあり、また守覺法親王の作給へる、釋氏徃來の文中に、本朝月令證本云々と記されたるもこれなり、さて此書の撰者公方の傳、いまだ知らず、明法博士兼左衛門佐惟宗朝臣允亮の政事要略に、此書を引載たり、允亮は、一条天皇の御世の頃、みさかりなりし人と聞えたり、然るに藤原兼良公の、源語秘決に載られたる、延長四年の勘状に、明法博士兼左衛門佐惟宗朝臣公方と見えたるは、世に多からぬ惟宗の同姓にて、允亮の同官職なるを思へば、公方は允亮の父にもやあらむ、さて此に引たる書どもの作者、また其作者の時世、また其記せる趣などを云へるは、其書を信む心しらびありてなり、下に云ふも同じ、但し世に弘く普き書どもの上は云はず、】六月朔日、内膳司、供2忌火《イミヒ》御飯1事の下に、高橋氏文云とて、此文を載たり、年中行事秘抄【作者詳ならず、奥書に、本云、永仁之頃、被2書始1之處、自然被v閣v之畢、嘉暦令v終2寫功1者也、次に建武元年云々】の同條の下に、此文中を略て載たるをも、校合せて採れり、又谷川士清の、日本書紀通證に、此氏文を引載たるは、此秘抄なる文を摘出たるものなるに、己が見たる本どもと、異なる所のあるは、これも一本として校へ採れり、谷川本と云ふは是なり、但し其中に、誤字と著《シル》きはとらず、
 
掛畏卷向日代宮御宇《カケマクモカシコキマキムクノヒシロノミヤニアメノシタシロシメシヽ》、大足彦忍代別天皇《オホタラシヒコオシロワケノスメラミコト》、五十三年癸亥八月、詔(リシテ)2群卿(ニ)1曰(ク)、朕《アレ》[※[顧の異体字]《オモフコト》2愛子《カナシキコヲ》1、何日止乎《イヅレノヒニカヤマントスト》、欲v巡2狩《メグリミントノリタマヒキ》小碓王《ヲウスノミコノ》【又名倭武王】所v平之國《ムケタマヒシクニ/”\ヲ》1
 
此天皇、御謚景行天皇と稱《マヲ》し奉る、○※[顧の異体字]は顧字の古體なり、類聚名義抄に、オモフと訓り、然よむべし、○愛子、カナシキコとよむべし、萬葉集に、可奈之伎吾子《カナシキワガコ》、また【十八卷】に妻子見波可奈之久米具之《メコミレバカナシクメグシ》、などなほあり、下に詔へる小碓王、注にいはゆる又名倭武王の御事なり、天皇此皇子を殊に異愛《イトホシ》み給ひたりし趣、古事記、日本書紀に見えたり、此皇子、是年より十四年|前《サキ》に薨給ひたりき、さて此皇子を小碓王と稱す由は、書紀に見えたる如く、雙子《フタゴ》に生《ア》れ坐《マ》しゝ時、碓《カラウス》に誥《コトアゲ》して、兄《ミアニ》を大碓《オホウスノ》王、弟《ミオト》を小碓《ヲスス》王と號《ナヅケ》たまひつれど、小碓王に、熊曾建《クマソタケル》が御名奉れる後は、もはら倭建命と申奉れるを、薨後におよびてここにしも殊さらに御幼名《ミヲサナヽ》をもて記せるは、父天皇の愛子とおもほせる御情《ミコヽロ》より詔へる御口語《ミコトバ》を、感《アハレ》深く聞繼ぎ語傳へたる言の遺れるものなるべし、【いはまくも畏けれど、今の俗にも、老人のうちとけ言に、ともすればその子の幼名を喚び、物語などにする事のあるも、其幼き時の忘れざる眞情の切なるより出るわざなる、はた思ひやり奉るべし、】注に、又名倭建王と、ことわり記せるをもおもふべし、【書紀にも、此條にことさらに小碓王と記されたるも、同傳なるべし、】さてその御名、古事記に倭建命、書紀に日本武尊と書《シル》されて、なべてヤマトダケと謂《マヲ》し來れゝど、實《マコト》はヤマトタケルと謂し奉りしなるべし、其は古事記に、此命熊襲建兄弟を戮《コロ》し給ふ時、弟建《オトタケル》が奏言《マヲシゴト》に、於2西(ノ)方1除《オキテ》2吾二人1無2建強人《タケクコハキヒト》1、然於2大倭國1、益《マサリテ》2吾二人《アレフタリニ》1而《テ》建男者坐祁理《タケキヲハイマシケリ》、是以吾|獻《タテマツラン》2御名《ミナヲ》1自v今|以後《ノチ》應《ベシ》v稱《タヽヘマヲス》2倭建御子《ヤマトタケルノミコト》1云々、故自2其時1稱《タヽヘテ》2御名1謂《マヲシケル》2倭建命1、【書紀に記されたるも大旨同じ、】と見えて、然|建《タケル》が稱《タヽヘ》へ申せる意は、此西(ノ)方の國々に、己等二人は熊襲建と呼ばれて、世に並無き猛勇者《タケル》なりと思ひて在つるに、大倭國の皇子《ミコ》は、己等に勝りたる猛勇者に坐せば、皇子こそは、眞《マコト》に大倭の建《タケル》と稱へ奉るべけれと、ところさりて、今はの期《キハ》の眞心《マコヽロ》に、おほけなくも褒稱《ホメタヽ》へ奉れるを、憐《アハレ》に欣感《オムカシ》く聞《キコ》し認《トメ》て、則ち御名と爲《シ》給へる趣なればなり、【此考説、なほ委しくは、別に記せる書あり、】○所平之國、ムケタマヒシクニグニとよむべし、こは天皇の御世四十年十月壬子朔癸丑【二日】に、倭建命、父天皇の詔を奉て、東《ヒムガシ》の諸國《クニ/”\》を征《ムケ》給はむとして發途《ミチタチ》し、まづ伊勢大神宮を拜み給ひ、それより東の國々を巡行りて征平《コトム》け給ひ、功《コト》畢《ヲヘ》まして、伊勢の能褒野《ノボノ》まで還りまして薨給ひければ、其處に葬奉りけるに、白鳥に化《ナ》りて飛行《トビイデマ》しぬ、其時停り給へる、倭の琴彈原、河内の舊市《フルイチノ》邑に、陵《ミハカ》を作りて、御靈を鎭坐さしめ給へる事、古事記書紀に見えたり、○上(ノ)件の文、五十三年以下、書紀の文をもて記せり、但し年の下に干支を加へ、月の下の日の干支を除き、小碓王の下に、又名云々と注せるのみ異なるは、記者の増減《ハカラヒ》たるなり、さて又|已上《コレヨリカミ》の文、年中行事秘抄には、日本紀景行天皇五十三年秋八月丁卯朔、子細同2高橋氏文1、仍不v抄v之と記して、次に高橋氏文云、天皇五十三年と作《カ》き、下文の是月を八月と作《カケ》り、文を約《ツヾメ》たるなり、其(レ)より以下《シモ》は此《コレ》と同文を載たり、【但し其文中略けるところあり、下の其處に云が如し、】
 
是月《コノツキ》行2幸《イデマシ》於伊勢(ニ)1轉《ウツリテ》入(リマシキ)2東國(ニ)1、冬十月|到《イタリマシキ》2于上總(ノ)國安房(ノ)浮島(ノ)宮(ニ)1、
 
書紀には、是月、乘輿幸2伊勢1入2東海1、冬十月至2上總國1、從《ヨリ》2海路《ウミツヂ》1渡《ワタリ》2淡水門《アハノミナトヲ》1云々、と載《シル》されたり、【秘抄一本、東國を東海と作り、書紀と同文にはあれど、なほ東國とあるかた然るべし、また秘抄于字脱たり、】さて上の五十三年云々より、此ところまでの文のみ、大かた書紀の文と同じくて、すべての文體と異なるを思ふに、高橋の家の古説どもを、この氏文に繕寫《カキトヽノフ》るときの所爲なるべくおぼゆ、○上總(ノ)國安房、古語拾遺に、逮(テ)2于神武天皇東征之年(ニ)1云々、天富《アメノトミノ》命、更求2沃壌《ヨキトコロ》1分(チテ)2阿波齋部《アハノイミベヲ》1、率(ヰテ)2徃《ユキテ》東土《ヒムガシノクニヽ》1、播2殖《マキウヽ》麻穀《アサユフヲ》1、好麻《ヨキアサノ》所v生(フル)、故謂2之|總《フサ》國(ト)1、【古語麻謂2之總1也、今爲2上總下總二國1是也、】云々、阿波齋部所v居(レル)便(チ)名(ク)2安房郡(ト)1、【今安房國是也、】と見えて、舊《モト》は上總下總一國にて總《フサノ》國と云へるを、後に上下に分ちて、二國に定られたりしなり、その分たれたる時は詳ならざれど、此天皇の御世の頃は、よろづおほらかにして、いまだ一國を上下に分建らるゝ如き、際やかなる御制《ミサダメ》はあるべからず、次の御代成務天皇の御時に、古事記に、定2賜《サダメタマフ》大國小國之國造《オホグニヲグニノクニノミヤツコ》1、亦定2賜國々之堺、及《マタ》大縣小縣之縣主《オホアガタヲアガタノアガタヌシ》1、書紀に、五年九月、令2諸國1以國郡立2造長《ミヤツコヲサ》1、縣邑置2稻置1云々、則|隔《カギリ》2山河1而分2國縣1隨2阡陌1以定2邑里1、因以2東西1爲《シ》2日縦《ヒノタテト》1南北爲2日横《ヒノヨコ》1云々、など見えたるが如きおほらかなりつる御世のさまにあはせて推《オシ》察るべし、然れば、書紀の此條なるも、【上の條なるも、】此氏文なるも、上總國と書るは、併《トモ》に後に上下と分たれたる上にて、當時の國體《クニガタ》につけて、語傳たるまゝに記せるなり、
 〔注〕同御世五十五年紀に、彦狹島王を、葬2于上野國1とあるなども同例なり、國造本紀に、下毛野國造、難波高津朝御世、元(ハ)毛野《ケヌノ》國、分爲2上下1、豊城命四世孫、奈良別、初賜2國造1、と見えたるは、仁徳天皇の御世に、毛野國を上下に分て、初て國造を置れたる由なるに、上毛野國造、瑞籬朝皇子、豊城入彦命孫、彦狹島命初治2平東方十二國1爲v封、とみえたるは、書紀景行卷に、五十五年二月の時の事に當りてきこゆれば、いまだ毛野國を上下に分たれざりし時なるを、上毛野國造と記せるも、上に上總國と記せるにつけて論へると、同じ趣なる傳なり、さて又、總國を上下に分たれたる時は、書どもに見あたらず、續紀養老二年の下に、上總國見えて、次に引くがごとし、下文にも其例あり、かくて安房は、當時《ソノカミ》上總の國内にて、いまだ一國の號にあらざりければ、上總國安房と云へるなり、安房を國に立られたるは、續紀に、養老二年正月割2上總國|平群《ヘグリ》、安房《アハ》、朝夷《アサヒナ》、長狹《ナガサ》四郡1、置2安房國1、【中間二十二年、】天平十三年十二月、安房國并2上總國1、【中間十五年、】天平寶字元年五月、安房國依v舊分立、と見えたり、養老四年に撰給へる日本紀に、國名を云はずして、徒《タヾ》に淡水門《アハノミナト》と記されたるは、もはら其水門の名に依れる傳に據て、記されたるなるべし、【國名を擧ずすしてたゞ地名をもて記せる例、紀中かず知らず多し、】然るに此氏文古き書とは見えたれど、發端《ハジメ》の文は、上に論《い》へるごとく、日本紀に依て書出せりと見えて、それ撰ばれたる養老より前に、記せるものとは思はれず、然れば中度《ナカタビ》、安房國を上總國に并せられたる天平十三年より、舊の如く國に立られたりし天平寶字元年までの間に、書記せるものなるべし、【其頃此氏文を始て書記したらむと云には非ず、いとはやく書記したる文どもの在けるを、更に繕寫たりけむと、かつはおもはるゝなり、】さて此安房に到りませるは、前に倭建命の平給ひし東方の國々を巡まし、相摸國より御船にて淡【安房なり】の水門をさして行幸せるにて、【景行四十年紀に、十月、日本武尊初至2駿河1云々、亦進2相摸1、欲v往2上總1、望v海高言曰、是小海耳、可2立跳渡1云々、故時人號2其海1曰2馳水1也、爰日本武尊則從2上總1轉入2陸奥1云々、】書紀、姓氏録【膳大伴部譜】に、至2上總1從2海路1、渡2淡水門1、と見えたるこれなり、さて其水門と云へるは、今相摸國|御浦岬《ミウラミサキ》と、安房との間の、大海より入海に入る海門《ウナト》なり、此入海の東の方は、安房の平群《ヘグリノ》郡の【いま尋常には平郡(ヘイゴホリ)と坪ぶ】北の終《ハテ》より、一里ばかり上總に續き、西の方は武藏、北の方は下總にて包めり、○浮島宮は、平群郡勝山の海邊より、十町あまり西の海中《ワダナカ》に、浮島とて南北の徑《ワタリ》五六町ばかり、横は其ほどよりは狹くて、東西の岬《サキ》は、漸に細き小島あり、さばかりの平坦なる小島なれど、いかなる荒浪にも没《シヅ》む事なし、故《カレ》浮島と云ふ、島中に浮島明神と云ふ小祠あり、むかし天子の御船を此島に寄せ給ひ、御遊覧《ミアソビ》ましゝ蹟所《アト》なりと云傳へたりと、其國の老人語れり、天皇此島に御船を泊《ハテ》給ひ、島中の行宮に到坐ましゝなるべし、【その浮島明神社は、此行宮の蹟所なるべし、さて又御目路なる陸地を除て、さる小島の行宮におはし坐ましけるは、かの倭建命の、立跳にも渡りつべしと言擧し給へる如き御慮ざまにて、御蓬庫(ミフナヤカタ)に坐ますごと、思ほし興(メデ)させたまひたりしなるべし、】下文に、天皇|葛餝野《カツシカヌ》に御※[獣偏+葛]《ミカリ》に行幸《イデマセ》る時、八坂媛《ヤサカヒメ》【波】借宮《カリミヤ》【爾】御坐《マシ/\》、と見えたる借宮も、これなるべく、また河曲《カハワ》山とあるも、和名抄、安房國安房郡の郷に、河曲【加波和】と見えたるが、今勝山に近く、安房郡に隣りたるも合《カナ》ひてきこゆ、さて其河曲の地のことは、下にも云べし、こゝにめぐらして思ひ合すべし、
 〔注〕續紀に、神護景雲二年三月、下総國井土、浮島、河曲三驛、武藏國乘潴豐島二驛、承2山海兩路1使命繁多、乞准2中路1、置2馬十匹1、と見え、兵部式に、驛馬、下總國井上十匹、浮島河曲各五匹、茜津、於賦各十匹、と見えたる浮島河曲は、同名ながら、下總の地名にて、こは上總を割て、安房國を建られたる後の事にて、この氏文に見えたる地理に合はず、いはゆる河曲山も由なし、河曲は、和名抄上總國|望陀《マクダ》郡の郷名にも見えたり、さて其下總なる浮島河曲の二驛、また上總なる河曲郷は、由ありて安房より移りたる地名にはあらざるか、又もとよりおのづから同じきにや、いまだ考へず、なほ其國人によく尋問べきなり、○常陸風土記信太郡の下に、郡北十里碓井、古老曰、大足日子天皇、幸2浮島之|帳宮《トバリノミヤ》1無2水(ノ)供御1、即遣2卜者《ウラヘヲ》l訪《トヒテ》v占《ウラヲ》、所々穿《ホラシメタマヒキ》v之、今在2雄栗村1、從v是|以西《ニシニ》高來里云々、と見えたり、今も小栗村と云ふが在とぞ、たま/\浮島と云ふ名の同じきによりて、思ひ惑ふべからず、又同記同郡の下に、古老曰、倭武天皇、巡2行海邊1、行至2乘濱《ノリハマ》1云々、乘濱里東有2浮島村1、長二千歩、横四百歩、四面絶v海、山野交錯、戸一十五烟云々、と見えたるは、小島にて、今霞浦の海中に在りとぞ、碓井の下に見えたる浮島とは別所なり、是をしも又思ひ混ふべからず、
 
《ソノ》《トキ》磐鹿六※[獣偏+葛]《イハガムツカリノ》命|從駕《ミトモニ》仕奉《ツカヘマツリキ》矣、
 
【※[獣偏+葛]字秘抄みな鴈と作り、此第二章第三章にも然書り、何れにてもあるべし、また仕字を供と書り、下文の例に依るに、誤寫なるべし又、奉字を擧に誤れり、】
○磐鹿六※[獣偏+葛]命、名の唱は、姓氏録【若櫻部の譜】に、伊波我六加利命と書るに據るべし、【六字脱たる本あり、】皇胤紹運録【印本、又一寫本の名に、本朝帝皇系譜卷尾に、右帝皇系譜、自2室町殿1被v書之時中書也、但小書等、以2他本1書v之、未v終2書寫之功1、次に時長享二暦季冬清書、翌年季春中旬進v之、亞相藤原宜胤】に、孝元天皇の皇子大彦命【阿部臣高橋臣祖云々】の二男、比古伊那許士別命の長男に系《ツ》りて、六鴈命【高橋氏祖】と見えたり、【此書の印本、また群書類從本に、六鴈命を、大彦命の三男に系りて載たり、今こゝに引たるは、己が前に得て、校へおける一寫本に據る、其は下に引く姓氏録に、大彦命孫と見えたる傳に合ひて、正しく聞ゆれば採れり、】古事記に、孝元天皇の皇子、大毘古命之子云云、次比古伊那許志別命、【此者膳臣之祖也、】書紀に、膳臣遠祖名、磐鹿六鴈、又大彦命是阿倍臣、膳臣云々、凡七族之始祖也とみえ、姓氏録に、阿閇朝臣孝元天皇皇子、大彦命之後也、又阿閇臣大彦命(ノ)男、彦瀬立大稻越命之後也、高橋朝臣、大稻輿命之後也、又膳大伴部、大彦命孫磐鹿六鴈命之後也、若櫻部朝臣大彦命孫、伊波我六加利命之後也、など見えたるに合へり、
 
天皇|行2幸《イデマシテ》於|葛餝野《カツシカノヌニ》1、令《セシメタマフ》2御※[獣偏+葛]《ミカリ》1矣、【秘抄に行幸於の三字を脱し、令を毛に誤り、矣字無し、】
 
○葛餝野、萬葉集下總國歌に、可都思加能《カツシカノ》云々、【とよめるが三首あり又葛餝郡防人も見ゆ、】東大寺に藏る古佛經の、飜用紙背に見えたる、養老五年の戸籍に、下總國葛餝郡大島郷、和名抄に、下總國府、在2葛餝郡1、葛餝加止志加とある地《トコロ》是なり、但し加止志加と訓るは、當時《ソノカミ》さも呼たりしにか、又誤瀉にてもあるべし、今も葛餝と書て、可都思加と呼《い》へり、野は今も葛餝郡に、大名を小金原《コガネガハラ》と呼ふいと廣き野あり、【昔は、今よりもいと/\廣かりきと云傳ふとぞ、今も其野の内外に、山林などもありて、猪鹿など多かりとぞ、享保十一年、寛政七年に、御※[獣偏+葛]せさせ給ひたりしも、此曠野なりき、】○令はセシメタマヒキとよむべし、○いま浮島の北の方、海上十里餘に、葛餝浦【勝鹿とも書く】あり、倭武命の平《ムケ》給ひつる處々を、覧そなはさむために、御※[獣偏+葛]がてら、御船より此浦に渡りて、野に幸《イデ》ましたるにても有べし、
 
大后《オホキサキ》八坂媛《ヤサカヒメ》【波《ハ》】借宮《カリミヤ》【爾《ニ》】御坐《マシ/\》、磐鹿六※[獣偏+葛]命(モ)亦《マタ》留侍《トヾマリハベリキ》
 
大后八坂媛、古事記この天皇段に、娶2八尺入日子《ヤサカイリヒコノ》命之女、八坂之入日賣命1云々と見えて、則ち成務天皇の御母に坐《マシ》ませり、【こゝにも下にも、八坂媛と書るは、もしくはともに、入字を脱せるにはあらざるか、又もとより入を略て、申傳たりしにもあるべし、】さて此媛命を、大后と申し奉れることは、伊豫風土記にも、天皇|等《タチ》於v湯《イデユニ》行幸《イデマシテ》、降坐五度也《オリマシ/\シコトイツタビナリ》、以d大帶日子《オホタラシヒコノ》天皇與2大后八坂入姫命1二|躯《ハシラ》u爲2一度1也云々、と見えたり、さて大后と申すは、古|當御代《ソノミヨ》の天皇の第一《カミ》なる御妻《ミメ》を申す崇稱《アガメナ》にて、後の御代に、皇后と書《シルサ》るゝ御事なり、【此事くはしくは、古事記傳に辨へられたるがごとし、】書紀に、五十二年夏五月甲辰朔丁未、皇后播磨大郎姫薨、秋七月癸卯朔己酉、立2八坂入媛命1爲2皇后1、とみえたるは、去年の事にて、此時大后と申せるに合《カナ》へり、
 
此時《コノトキ》、大后|詔《ノリタマハク》2磐鹿六※[獣偏+葛](ノ)命(ニ)1、此浦(ニ)聞《キコユ》2異鳥之音《アヤシキトリノコヱ》1、其《ソレ》《ナケリ》2駕我久久《ガクガク》1、欲《ホリストノタマフ》v見《ミマク》2其形(ヲ)1即《スナハチ》磐鹿六※[獣偏+葛]命、乘(リテ)v船(ニ)到(レバ)2于鳥(ノ)許《モトニ》1、鳥驚(キテ)飛《トビキ》2於|他浦《コトウラニ》1猶《ナホ》雖(トモ)2追行《オヒユケ》1、遂(ニ)不《ズ》2得《エ》《トラ》1、於是《コヽニ》磐鹿六※[獣偏+葛](ノ)命|詛曰《トコヒケラク》、汝《ナレ》《トリヨ》《シタイテ》2其音《ソノコヱヲ》1欲《ホリスルニ》v見《ミマク》v貌《カタチ》、飛2遷(リテ)他浦《コトウラニ》1、不《ズ》v見《ミシメ》2其形《ソノカタチヲ》1、自《ヨリ》v今《イマ》以後《ノチ》、不v得v登《エアガラザレ》v陸《クヌガニ》、若《モシ》大地下居《オホツチノシタニヲラバ》《カナラズ》《シナム》、以《モテ》2海中《ワタナカヲ》1爲《セヨトイヒキ》2住處《スミカト》1、【秘抄即磐鹿より自今以後迄五十五字を略き又若より住處迄十三字を略けり、】
 
○其鳴2駕我久久1【久久を類従本久(ニ)と作り、今一本に正しく書るに依る、】書紀此天皇五十三年の下に此時の事を記されたるに、聞2覺駕鳥1云々、【この全文は下に引べし、】とあり、さて駕我久久は、同字の重れるを書く、古の一《マタ》の書法《カキザマ》なり、駕久我久《ガクガク》とよむベし、此は其鳥の鳴聲を寫して云へる言なり、書紀に、覺駕鳥と書るは、熱田神社縁起に、問《トヒケレバ》2之|土俗《クニヒト》1稱2覺駕鳥《カクガドリト》1、【全文は下に引べし、】と見えて、其鳴聲によりて、名とせるから、言語《コトバ》の初發《ハシメ》を濁ることなき、古言の例のまゝに、おのづから上の駕《ガ》を清《ス》みて、加久我鳥《カクガトリ》と云へるを、覺駕鳥とは書るなり、【この駕字、書紀には賀と作るを、第三章に擧げたる、延暦の官符に、日本紀の文を擧て、駕字は、當昔《ソノカミ》の本にはしかありて、必濁りてよむべく作るを、のちに賀字に訛れるなるべし、】然るに釋日本紀に、覺駕鳥(ハ)、【ミサコ止可v讀v之、】私記曰、【此私記、或は延喜公望私記とも云へり、新國史に、延喜四年八月廿一日令3初講2日本紀1也、前下野守藤原朝臣春海爲2博士1、紀傳學生矢田部公望云々等爲2尚復1、】師説瑞鳥、不v見2其名1也、安大夫説、公望按、高橋氏文云2水佐古《ミサゴヲ》1、と見え、また和名抄※[目+鳥]鳩の下に、爾雅集注云、※[目+鳥]鳩|※[周+鳥]《オホツルノ》屬也、好在2江邊山中1、。亦食v魚也、和名美佐古、今按古語用2覺|駕《賀イ》鳥三字1云2加久加乃止利《カクカノトリ》1、日本紀私記、公望按、高橋氏文云2水佐古1、と注《シル》されたるは、すべて信《ウケ》がたし、【名義抄に、覺賀鳥カクカノトリ、ミサゴ也と注せるは、此説に據れるにか、いづれにも信がたし、】此氏文に、聞2異鳥之音1、其鳴(ケリ)2駕我久久1、と聞えて、いと怪異《アヤ》しく聞食したる趣なり、※[目+鳥]鳩《ミサゴ》の聲ならむには、大宮|住《ズミ》のみせさせ給へる大后の御上とは申せど、此度の御旅行の海邊などにても、それ聞食し知らぬ御ことやはおはすべき、又六※[獣偏+葛]命のさばかり異《アヤ》しみ追行て、しかじかと詛言《トコヒゴト》すべきにもあらざるをや、【此鳥の在状、次に擧る熱田縁起の文にも、考合て知るべし、】然るを紀の私記どもに、此氏文を疎漏《オロソカ》に讀て、たゞ臆度《オシハカリ》に、瑞鳥と云、或は云2水佐古1と云へるは、ことに論にも足らず《みだりなりイ》、又塵袋といふ書の、第三巻に、
 〔注〕天文元年に集めたる、塵添※[土+蓋]嚢抄序に、于v世有2※[土+蓋]嚢抄七卷1云々、又有2塵袋十巻1、不v知2作者1云々、予今拾2捨同類塵於所v殘之塵1、簡2取二百一箇至要塵1、以添2加※[土+蓋]嚢五百三十六箇中1、都得2七百三十七箇1、即爲2二十卷1、名2塵添※[土+蓋]嚢抄1、と云る塵袋これにて、今予が見たるは、永正五年に、僧印融が傳寫本にて全部十一巻、片假字にて書たり、
覺|駕《賀イ》鳥と云は、なに鳥ぞ、日本私記には、鳴鳥の名なりと云り、但し風土記を案ずるに、常陸國河内郡浮島の村に鳥あり、賀久賀鳥と云ふ、その吟嘯の音聲愛しつべし、大足日子天皇、此の村のかりみやにとどまり給ふこと卅日、其間此の鳥の聲をきこしめして、伊賀理命をつかはして、網をはりて捕らしめ給ふ、悦(ヒ)感じ給ひて、鳥取と云ふ姓を賜せけり、其子孫いまだ此の所にすむと云へりと記せり、【此常陸風土記の文、今世に存る抄本には見えず、さて件の文に、賀久賀鳥と書るは、本書のまゝなるべきに、其本書すべて、假字の清濁を分たず書る例なれば、下に論へるごとく、上の賀を清み、下の賀を濁りて唱むべし、】さて比浮島の行宮は、風土記志太郡の下に、古老曰、大足日子天皇、幸2浮島之|帳《トバリノ》宮1、無2水供御1云々、と見えたる浮島にて、今も信太都に屬て、大湖の中に在とぞ、河内郡も、信太郡に隣りて、これも同じくその湖に向ひたれば、其湖邊にて浮島に向ひて由ある里を、そのかみ浮島村と呼び、其處なる行宮に停り給へる間に、その湖邊に彼鳥の來たるなるべし、かくて其河内郡は、下總の葛餝野に隣りて遠からざれば、此上文に、行2幸于葛餝野1令2御※[獣偏+葛]1とある時の便次に、ものし給ひたる時の事にて《常陸に幸して、浮島行宮に、數日おはしましける、間イ》、淡の浮島にて、六※[獣偏+葛]命の、加久賀鳥を詛たると、大かた同じ日ごろの事なりしなるべし、
 〔注〕此度の行宮、安房も常陸も、浮島といふ地なりつるは、たま/\名の同じかりしなり、いづれか一處は混ひたる傳ならむと思ひまどふべからず、今常陸の土俗言《クニコトバ》に、鴎をカヾドリと云ひ、安房、上總、下總わたりにては、カゴドリと云ふとぞ、其は共に覺賀鳥といふを訛たるにて、もとは覺賀鳥の古事を、はやく鴎に混へて聞傳へたる名の遺れるにて、かの日本紀私記に、※[且+鳥]鳩《ミサゴ》の事とせるも、鴎と同じ屬の鳥なれば、さも聞傳へたるかたの説なるべきこと、おもひ合せて知るべし、
さてまた此鳥の事は、この時よりもはやく、熱田神社縁起に、【卷尾に、貞觀十六年、神宮別當尾張連清稻、探2古記文1、加2繕寫1修2縁起1といひ、後に尾張守藤原朝臣村椙筆削して、寫2三通1、一通進2公家1、一通贈2社家1、一通留2國衙1、寛平二年十月十五日と有り、】倭武尊東征|功《コト》畢《ヲヘ》給ひて後の下《トコロ》に、與2稻種公《イナタネノキミ》1更議曰、我就2山道1公歸2海路1云々、倭武尊、還2向尾張1、到2篠城《シヌキ》邑1進v食之間《ミヲシヽタマヘルアヒダニ》、稻種公|※[人偏+兼]從《トモビト》久米|八腹《ヤハラ》、策2駿馬1馳來、啓曰、稻種公|入v海亡没《シヅミミマカリヌト》云々《申キ》、亦問2公|入v海《シヅメル》之由1、八腹啓曰、渡2駿河之海1、海中有v鳥、鳴聲|可怜《オモシロク》、毛羽|奇麗《アヤニウツクシ》、問2之|土俗《トコロノヒト》1稱2覺賀鳥1、公謂d曰捕2此鳥1獻c我君u、飛v帆追v鳥、風波|暴《アカラサマニ》起、舟船傾没、公亦入v海矣、倭武尊吐※[にすい+食]不v廿《アヂナク》、悲慟無v已、と見えて、鳥の在状事の趣も、いとよく似てきこえ、又書紀に、覺賀鳥と記されたるにも合ひて、※[且+鳥]鳩《ミサゴ》ならぬことは論ふまでもあらず、いはゆる土俗の覺駕鳥《カクガトリ》と呼來りて、東海の邊に希にありつる鳥なりし事知られたり、そもそも此鳥は、前に倭武命東の國平《クニムケ》の度《トキ》、海中《ワタナカ》に顯れ出て、稻種公に災をなし、復この行幸の時《ヲリ》しも、天皇の御許にも、大后の御許にも出たる状《サマ》をおもふに、忌々《ユヽ》しき怪鳥なりけるを、天皇の稜威にて伊賀理命に捕らせ給ひ、又六※[獣偏+葛]命の雄々しき詛に遭て、屬《トモガラ》悉《ミナ》海中《ワタナカ》に放《ハフ》れ失たりけむかし、さて件の時の事、上に引たる景行紀五十三年の下に、渡2淡水門1とあるさし次に、是時聞2覺賀鳥聲1、欲v見2其鳥形1、尋而出2海中1、仍得2白蛤1云々、と見えたるこれなり、【但し此時、天皇御みづから御船にて、覺賀鳥を覧なはしに出ませる趣に記されたるは、此氏文ばかり委しからぬ一傳なり、】○詛曰云々、詛言の意、かくれたることなし、さて此時六※[獣偏+葛]命、大后の詔を奉《ウケタマハ》り、即船に乘りて、其鳥を追行つれど、え捕らずして詛言せる状の、たゞ一すぢに、大君の命畏み、猛く勇める古人の、直き眞心なる行に、こゝろをつけてよみあぢはふべし、伊賀理命の詔を奉て、此鳥を捕り、稻種公が、此鳥を捕むと追たる、はた同じこゝろばえなりけり、
〔注〕古事記垂仁段に、本牟遲和氣皇子の御爲に、天皇山邊の大※[帝+鳥]《オホダケ》に命せて、虚ゆく鵠《タヅ》を捕らしめ給ひける條に、是人追2尋其鵠1、自2木國1到2針間國1、亦追越2稻羽國1、即到2旦波國多遲麻國1、追2廻東方1到2近淡海國1、乃越2三野國1、自2尾張國1傳以追2科野國1、遂追2到高志國1而、於2和那美之水門1張v網、取2其鳥1而持上獻云々、この事書紀、また姓氏録鳥捕部連の譜にも見えたり、古人の行には、かゝるこゝろばえなる事多くきこえたり、漢人の卑しむる直情徑行とは、いたく別なる趣ありてめでたし、
 
還時|顧《カヘリミスレハ》v舳《トモヲ》《ウヲ》《オホク》追來《オヒク》、即磐鹿六※[獣偏+葛]命、以2角弭之弓《ツヌハズノユミヲ》1當《アテシカバ》2游魚之中《ウカベルウヲノナカ》1、即|着《ツキテ》v弭(ニ)而|出《イデヽ》《タチマチニ》《エツ》2數隻《アマタヲ》1、仍名《ナヅケテ》曰2頑魚《カタウヲ》1、此《コヲ》《イマノ》《コトバニ》《イフ》2堅魚《カツヲト》1、【今以v角作2鉤網1釣2堅魚1此之由也、】
 
 顧は、【秘抄に、※[令+頁]と書る本あるは訛なり、】名義抄にカヘリミルとも訓り、こゝにてはカヘリミスルニとよむべし、舳は止毛とよむべし、但し此舳と艫字の訓、混らはしければ、因に云べし、其は和名抄に、舳、兼名苑注云、船前頭謂2之舳1、漢語抄云、舟頭制v水處也、和名閉、また艫、兼名苑云、船後頭謂2之艫1、楊氏曰、舟後刺v櫂處也、和名云2度毛1と見え、このほか漢國の字書どもに、舳を船前頭と注《イ》ひ、或は船後持v舵處とも注ひ、艫もまた船頭とも船尾ともいひて決まらず、こゝなるは顧v舳と見えたれば、さだめて止毛とよむべきなり、字鏡に、舳艫舳也、止毛、靈異記に、舳フネノトモと訓るによるべし、○角弭之弓、弭《ハズ》に角を入《ハメ》たる弓なり、【古の弓は、梔,槻、梓などの木弓なり、】和名抄に、角弓、爾雅注云、弭今之角弓也、都能由美とあるも、この角弭弓に當たる訓なるべし、【類聚名義抄にも然訓めり、】萬葉集の長歌に、【鹿の言として】吾爪者《ワガツメハ》、御弓之弓波受《ミユミノユハズ》、とよめるは、鹿の爪の形を、弓弭に准へたるなり、後世の事ながら、源平盛衰記に、上下の弭に角入たる滋籐の弓とみえ、田村草紙といふ、古き作物語に、先祖よりの寶物とせる、角の槻にて、大蛇を射殺せる由をいへるも、槻弓に角の弭をはめたるをいへりときこゆ、常陸風土記【行方郡下】に、有2波須武之野《ハズムノヌ》1、倭武天皇|渟《ヤドリ》2宿此野1修2理弓弭1因名也、といへることも見えたり、【古事記に、男弓端之調、女手未之調、書紀にも、男弭調女手末調と見えたるは古言にて、此はたゞ弓とのみ云てあるべきを、古はもはら弭を入たるによりて、連言の文にしか云へるにやありけむ、】○當2遊魚之中1、即着v弭而出云々、下に注ふべし、○仍名曰2頑魚1、【秘抄に、名を※[号+虎]と作り、いづれにてもあるべし、また頑を禎と書る本あるは訛なり、但し谷川本には、頑と作り、】頑魚、カタウヲとよむべし、頑字、尋常にカタクナと訓來れるは、カタといふが本語にて、一向に偏る意の言なり、伊呂波字類抄に、カタホナリともよめり、【直なるを、マホと云ふと反對の言なり、】さてカタクナといふは、カタにクナといふ言を連ねたるなり、クナは續紀二十卷の詔詞の中に、惡逆在奴《キタナクサカシマナルヤツコ》、久奈多夫禮麻度比奈良麻呂《クナタブレマドヒナラマロ》、とみえたる久奈にて、【久奈と、多夫禮と、麻度比と別言なり、同紀の詔詞に多夫禮とばかりもみたたり、】其はクネ/\シまたクネルといふクネと相通はし云へる、同意の言なるべし、字類抄に※[口+憂]字、運歩集に恨字を、クネルとよめり、古今集序に、女郎花の一時をくねるといへるも、女の情《コヽロ》のクネ/\シキをいへるなど、合せて心得べし、新撰字鏡に、佞を加太牟、靈異記に、※[(女/女)+干]を可陀禰など訓るも、直《スナホ》ならず偏りてものするかたにつきていへる言なり、いま此魚を頑魚と名づけたるは、船の舳に頑みて追來れる由なり、
〔注〕猿楽の鵜飼といふ謡の詞に、「玉島川にあらねとも、小鮎さはしるせゝらきに、かたみて魚はよもためし」、といへるは、もと古歌の詞によれるなるべくきこゆるを、其本歌は、いまだ考へざれど、川の※[さんずい+彎]《セヽラギ》に小鮎のかたみて在よしにて、ためじとは、しかかたみてある鮎なれば、みな鵜の※[にすい+食]盡して溜おかじといふ意ときこゆ、かたへに思ひあはすべし、
○此今諺曰2堅魚1、今の諺とは、後の世にはといはむがごとし、竪魚は、加都乎とよむべし、和名抄に見えたり、【下に其本文を引て論ふべし、】頑魚《カタウヲ》の約りたるなり、但しここに竪魚と書ては、字のまゝに加太宇乎とよむべければ、この魚の本名の頑魚《カタウヲ》と、名の呼ざまの轉れる由をいふ書ざまには、いかにぞやおもはるれど、そのかみ加都乎と云ひて、あまねく堅魚と書ならへるまゝに書るなり、其意を得てよむべし、さて竪魚の名の古く書に見えたるは、古事記雄略段に、有d上2堅魚1作2舍屋1之家u、と見えたり、但しこは屋上に置く竪魚木《カツヲギ》にて、其形を堅魚の※[月+昔]に象《カタドリ》たる名なり、【此事下に論ふべし、】其魚を云へるは、萬葉集、詠2水江浦島子1、長歌に、水江之《ミヅノエノ》、浦島兒之《ウラノシマコガ》、堅魚釣《カツヲツリ》云々、和名抄に、鰹大※[魚+回]也云々、漢語抄云、加豆乎、式文用2堅魚二字1、【鹽梅類煎汁の下に、本朝式云、堅魚煎汁、加豆乎以呂利、】洞物語【國譲卷】に、あけて見れば、かつを、つぼやきのあはびなどあり、但し漢字の鰹は當らず、漢國の鰹は鱧の類なりとぞ、此方にて鰹と書くは、堅魚の二字を合せたるなり、さで延喜式などに見えたる、食料の品目の中に、堅魚|若干《イク》斤などあるは、うちまかせて、此魚肉を割りて蒸し、あるひは湯煮して干堅め、よく※[月+昔]《キタ》ひたるを云へり、俗にいはゆる鰹節なり、【肉に※[月+昔]といふは、令義解に、※[月+昔]全干物也とありて、鍛を鍛ふと云ふも、もと同意の言なるべく、干して堅めたるをいふ、さて其※[月+昔]にも、堅柔の品ありしなるべし、その差は下に云ふべし、さて竪魚は、もはら東海西海の方に多かる魚にて、畿内の海にはをさ/\あらず、
 〔注〕兼好が徒然草に、鎌倉の海に、堅魚といふ魚は、彼さかひにはさうなきものにて、此ごろもてなすものなり、それも鎌倉の年よりの申はべりしは、此魚おのれらが若かりし世までは、はかばかしき人の前へ出る事はべらざりき、かしらは下部もくはず、きりすて侍りしものなりと申しき、かやうのものも、世の末になれば、上ざまゝでも入りたつわざにこそ侍れ、と云へるは、そのかみ鎌倉わたりの事なり、上ざまとは東國なる武家の長だちたる人々を云へるにて、都がたのことにはあらず、
世にあまぬからぬ魚にて、たゞかの肉を干堅めたるをのみ、あまねく用ふものなるが故に、古へより堅魚といへば、うちまかせて其干堅めたるものゝ名の如くにはなれるなるべし、【俗に加都乎といふは、堅き魚の義にて、堅魚の約りたるなりといへるは、鰹節のことのみ思へる強説なり、さてはその生るときの名を、何とかはいへる、】今蝦※[虫+夷]の海にて捕る、にしんと云魚を、國地にては、其魚の全形を見たるものは、をさ/\あらで、たゞ割て※[月+昔]にして渡せるをのみ食物とするから、其※[月+昔]をたゞに、にしんと云ふも、【卑者の、刀のいたく錯たるを譬へてもいふめり、】おのづから似たる趣なるをおもふべし、
 〔注〕京にても諸國の中にても、鰹節を、たゞに鰹といふ處、彼此きこえたり、但し式に堅魚筥二十四合、※[月+昔]《キタヒ》筥五十五合など見えたる堅魚は、上に云へるごとく、※[月+昔]の堅きにて、鰹節のことなるべく、※[月+昔]はきたひのよわき品をいへるなるべし、また堅魚脯《カツヲノホジシ》とあるは、そのきたひのまだしきをいへるにて、今俗になまりといひ、又なまり節《ブシ》ともいふ、これにて其はきたひに對へてなまりといへるなるべし、又式に煎堅魚《ニカツヲ》若干斤と見えたるは、脯のまだしきなるべし、又|堅魚煎汁《カツヲイロリ》若干斤とあるは、鮮堅魚《ナマカツヲ》の膏油《アブラ》を煎取《ニトリ》たるを云、今も海人の其を貯置て、醤油《ヒシヲ》に和《アハ》せて物を煮るとぞ、是なるべし、さて又式に堅魚ならぬ魚類に、鯖《サバ》、鰒《アハビ》、烏賊《イカ》、螺《サヾエ》、蛸《タコ》などをも若干斤と書るも、他物の例によるに乾物《ヒモノ》なるべきを、然書ても用足《コトタ》りて通えたりしなるべし、さて件の竪魚のくさ/”\の造りざまは、今さだかに知べき由なけれど、せめて試にいへるなり、
古事記に見えたる舍屋《ヤ》の堅魚は、今も神社の製《ツクリ》に遺れる堅魚木にて、其は今の世にいはゆる鰹節に似たる故の名なりと、その記の傳にくはしく説《イ》はれたるは然ることにて、其を離《サカ》りて望《ミ》やれば、然《サ》も象《カタド》り名づくべき状なりかし、○注今以v角作2鉤柄《ツリバリノエ》1釣2堅魚1、此之由也、此注文いと意得がたく、前に安房の國人に尋問ふに、其國わたりの海人の鰹釣るさまを見聞くに、牛角の先のかたを、魚の口に合《カナ》ふべく削作りて餌代《エノシロ》とし、其旁に鐵鉤《クロガネノツリバリ》を結付《ユヒツケ》て、其牛角の本の方に小孔《チヒサキアナ》を穿《エリ》て、釣繩を貫《トホ》しかため、さて本方《モトベ》七八寸|圍《マガリ》なる大竹を、八九尺ばかりに切て釣棹として、釣るならひなりと談れり、以v角作2鉤柄1、といへるに合ひてきこゆ、【此注文秘抄に釣2堅魚1の三字を脱し、作を爲と書り、また今字を脱し、柄字を※[木+高]橋橘など書る本あるは悉訛なり、また之字無き本もあり、此はいづれにてもあるべし、】又いはく、近世或は其餌代の角を※[魚+侯]《フグノ》皮にて包み、又は鳥の※[木+離]※[木+徒]《フクゲ》の黒きを少しく角に纏《マツヒ》着などすれば、よく釣食ふものなりといへり、なほ海人が心々に、とかくこしらへてものするなるべし、かくて艇《ヲブネ》に乘りて海原をうかゞひ、鰹の集れる處に到りて、船を乘|列《ナ》めて、鉤の角を投入るれば、群寄りて競ひ食ふを、大聲を揚ていかめしくいきほひて、時のまに數隻釣上るなり、あまりに多く集れる時たゞ船をしるべに群り競ひ寄りて、船中にも跳入り、また往來《ユキヽ》の他船《アダシフネ》をも慕ひ追來《オヒク》ばかりなる事も、まれ/\にありと聞けりと語れり、後に上總伊豆相摸の國人の語れるも、とり/”\ながら大むね同じ、
 〔注〕此頃、元禄五年に、野必大といふ人の著せる、本朝食鑑といふ書を見るに、凡漁人釣v鰹以2犢角及鯨牙1、削※[手偏+皆]作v鈎而釣(ル)者無v餌、以2鐵鉤1而釣者、以2鰺鰯1爲v餌云々、若乘v釣時遇2群鰹逐v餌而來1、則驚跳入v※[舟+工]、不v可v當2魚陣之中1、恐3魚多壓2沈于船1、故遙望2群鰹之至1、則急棹v船去矣、といへり、既に己が聞たるとおほかた同じ趣ながら、はやくむかし人の記しおけるがおむかしくて注《か》き添へつ、
此時の古事に、いとよく合ひてきこゆるにあはせて考ふるに、上に以2角弭之弓1當2游魚之中1、即着v弭而出忽獲2數隻1、といへる其弓弭は、牛角にてぞ製りたりけむ、其を游べる堅魚の中に擬ひたりければ、やがて其角に喫着て、水を出たるを捕れる由にきこえたり、
 〔注〕肥後風土記に、此天皇是より前に、筑紫の熊襲を征て、還幸の時の事を紀して、御船左右遊魚多之、棹人《カヂトリ》吉備朝勝以v鉤釣v之多有v所v獲、即獻2天皇1、勅曰、所v獻之魚此爲2何魚1、朝勝見奏d申未v解2其名1、正似c鱒魚u耳、歴御覧曰《ミソナハシテノリタマハク》、俗見2多物1即云2爾倍佐爾1、今所v獻魚甚多有、可v謂2爾倍魚1、今謂2爾倍魚1其縁也、と見えたるも、此時の釣に似たる趣なり、
 
《ミフネ》《アヒ》2潮涸《シホノカルヽニ》1【天《テ》】渚上《スノウヘ》【爾《ニ》】居《ヰ》【奴《ヌ》】、掘出《ホリイダサム》【止《ト》】爲《スル》【爾《ニ》】得《エツ》2八尺白蛤一貝《ヤサカノシロウムギヒトツヲ》1、
 
船遇2潮涸1【天】云々、頑魚を釣りて磯近く漕還り來る時しも、潮涸るゝに遭て、船の渚《ス》に※[舟+椶の旁]《ヰ》たるなり、和名抄舟車類に、説文云、※[舟+椶の旁]船着v砂不v行也、爲流《ヰル》、【色葉字類抄には、※[舟+椶の旁]フネヰルとよめり、】萬葉集【相聞、譬喩歌、】に、水沙兒居《ミサゴヰル》、渚座船之《スニヰルフネノ》、夕鹽乎《ユフシホヲ》、將待從者《マツラムヨリハ》、吾社益《ワレコソマサレ》、とよめる譬喩詞の趣なり、【此歌の渚座船を、舊説スニヲルフネとよめるはいかゞ、渚に居る船とはいふべきにあらず、】○掘出【止】爲【爾】云云、船の渚上に※[舟+椶の旁]たるに、潮の來るを待たで、砂を掘て潮水を引て、船を浮べ出さむと爲るなり、〇八尺白蛤一貝、ヤサカシロウムギヒトツとよむべし、八尺は、蛤の大なるほどをいへるなり、萬葉集に、杖不足八尺嘆《ツヱタラズヤサカノナゲキ》、とよめるは、一丈《ヒトツヱ》に足らぬ八尺《ヤサカ》といひかけたるにて、其本語を知るべし、但し物の長をはかるに、丈《ツヱ》尺《サカ》寸《キ》分《キダ》と云ふは、漢國の度制につきて設たる名なるべくおもはるゝ中にも、尺《サカ》は字音なるにか、又尺に當て設たる名の言の、たま/\字音に似たるにてもあるべし、【尺度の名の事は、古事記垂仁段に、一丈二寸、四尺一寸、反正段に、九尺二寸など見えたる、其處の傳に論はれたり、讀見て考ふべし、】いづれにも、この八尺、漢風の度制ならむには、當昔の言にはあらで、傳説の趣を、後の言にうつして、語傳へたるまゝに記せりと意得べし、常陸風土記【多※[言+可]郡下】に、倭武天皇爲v巡2東垂1頓2宿《ヤドリタマヒキ》此野1、有v人奏曰云々、又海有2鰒魚1、大如2八尺1、とみえたるも、おのづから同例に記せるものとすべし、蛤は、本草和名に、海蛤和名|宇牟岐乃加比《ウムギノカヒ》【和名抄も何じ】と見ゆ、波萬具里《ハマグリ》の古名なり、此時の事を、姓氏録高橋朝臣の譜に、景行天皇巡2狩東國1供2獻大蛤1とみえ、書紀また姓氏録膳大伴部の譜には、白蛤とみえたり、【全文は、下に擧記すべし、】
 
磐鹿六※[獣偏+葛]命、捧《サヽゲテ》2件二種之物《ソノフタクサノモノヲ》1獻(リキ)2於大后1、即《カレ》大后|譽《ホメ》給【比】悦《ヨロコビ》給【弖】詔《ノリタマハ》【久《ク》】、甚《イト》《ウマク》《キヨク》《ツクリテ》欲v供《ソナヘマツラント》2御食《ミケニ》1、爾時《ソノトキ》磐鹿六※[獣偏+葛]命申【久】、六※[獣偏+葛]|令※[米+斤]理《ツクラセ》【天《テ》】將供奉《タテマツラム》【止《ト》】白《マヲシ》【天《テ》】、遣《シメテ》v喚《ヨバ》2無邪志國造上祖大多毛比《ムサシノクニノミヤツコカムツオヤオホタモヒ》、知々夫《チヽブノ》國造上祖|天上腹天下腹人等《アメノウハハラアメノシタハラビトドモヲ》1、爲《ツクリ》v鱠《ナマスニ》及煮燒雜造盛《マタニヤキシテクサ/”\ツクリモリ》【天《テ》】、見2河曲山梔葉《カハワヤマハジノハヲ》1【天《テ》】高次八杖《タカスキヤツ》【爾】刺作《サシツク》【利《リ》】、見2眞木葉《マキノハヲ》1【天】枚次八枚《ヒラスキヤツ》【爾】刺作《サシツクリ》【天】、取《トリ》2日影《ヒカゲ》1【天】爲《シ》v縵《カツラト》《モ》2蒲葉《カマノハヲ》1【天】美頭良《ミヅラ》【乎《ヲ》】卷《マキ》、採《トリ》2麻佐氣葛《マサケヅラヲ》1【弖《テ》】多須岐《タスキ》【仁《ニ》】加氣《カケ》、爲《シ》v帶《オビニ》足纏《アユヒ》【乎《ヲ》】結《ユヒ》【天《テ》】、供《ソナヘ》2御|雜物乎《クサ/”\ノモノ》【乎《ヲ》】1結餝《ユヒカザリ》【天《テ》】、乘輿《スメラミコト》《ヨリ》2御※[獣偏+葛]《ミカリ》1還《カヘリ》御|入坐時《イリマストキ》【爾《ニ》】爲《ス》2供奉《ツカヘマツラムト》1、【秘抄に、悦より造までの九字脱たり、又欲を鮎鱠鯰などの字に訛れる本あり、さて白の下の辭の天より盛天まで、三十七字を略けり、】
 
○捧2件二種物1は、かの頑魚と白蛤との二種なり、捧は、古事記神代段に、其取2后大御酒杯1、立依指擧而《タチヨリサヽゲテ》云々、雄略段に、三重※[女+采]《ミヘノウネベ》指2擧大御盞1、名義抄に、捧ササグ、○甚味清造云々、天皇の御※[獣偏+葛]より還幸せる時に供奉らむと詔へるなり、造はツクリとよむべし、【其由は、次に云ふべし、】○爾時磐鹿六※[獣偏+葛]命申【久】といひて、又徒に六※[獣偏+葛]としもいへるは、やがて其奏せる言なり、いひしらずめでたき古文なり、○令2※[米+斤]理1【天】云々、六※[獣偏+葛]命おのれ御饌を掌りて、人々に※[米+斤]理《ツクラ》せて獻らむと奏せるなり、【其人々は下に見ゆ】※[米+斤]理の字は、大甞祭式に、凡※[米+斤]2理御膳1、古點ツクルとよめり、こゝなるも其言もてよむべし、上文に、清造と詔へるもこれにて、【下文にも、誰造所進物と見ゆ、】食物を料理《ツクル》ことなり、【今の俗にも、鱠差身をば造といふ古言の遺れるなり、】洞物語【俊蔭卷】に俎どもたてゝ魚つくる、又【吹上卷】まないたたてゝ魚鳥つくる、宇治拾遺物語に、いざ此|雉子《キジ》を、いけながらつくりてくはむ、などなほあり、
〔注〕今此つくるといふことの因にいふ、曾根好忠集に、十二月中の歌に、「へつくりか垣ねの雪をよき人は鶴の上毛とおもふらんやは」、又その卷末に載たる、源順朝臣のかへし歌に、「へつくりにしらせすもかな難波江の蘆間をわけてあそふつるの子」、とみえたるへつくりは、ひゑつくりの約りたるにて、俗にいふ料理人のことゝきこえたり、さてそのひゑは、古事記神武天皇の御歌に、鯨の事につきて、斐惠泥《ヒヱネ》とよませ給へるを、傳に※[耳三つ]《ヒヱ》ねなり、肉を薄く小さく切ことなりとて、委しく辨へ注されたるがごとし、さてかく考おきつる後に、或人京に上りて、ある公家ざまに參りたりけるに、あやにくに今日はへつくりがたがひて、酒の肴調ずるものゝあらで、さう/”\しくこそとのたまひき、其へつくりとは、いかなる人の事にかと問ふに、既に此考おける由をかたりて、かへりてその證を得たりき、又その後、京なる人にたよりてたづね合せけるに、四條家にて料理人を然呼給ふ例なりとぞ、しかすがに公家ざまには然る古(キ)稱の遺れるなり、さてこそいはゆるへつくりに、鶴はよみあはせたる歌の意もよくきこえたれ、
○遣v喚2無邪志國造上祖大多毛比1、邪の下に志字脱たり、今こゝにひく國造本紀を證として、決めて補ひつ、さて牟邪志は、武藏なり、國造本紀に、无邪志國造志賀高穴穗朝【成務天皇】世、出雲臣祖名|二井之宇迦諸忍《フタヰノウカノモロオシ》蕗之神狭命十世孫、兄多毛比《エタモヒノ》命定2賜國造1、とみえたる此人なり、【同御世に、菊麻《クヽマ》國造、伯岐國造、大島國造も、この兄多毛比命の子を定賜へる由、同紀にみえたり、又胸刺國造岐閇國造祖、兄多毛比命兒伊狹知直定2賜國造1とみえて、兄多毛比命を岐閇國造祖といへるは、心得がたし.此は文の錯亂脱誤あるべく聞ゆ、】但し此時はいまだ國造に爲されざる前の事なりき、○知々夫國造上祖天上腹天下腹人等、知知夫は、和名抄武藏國郡名に、秩父知々失、國造本紀に、知々夫國造瑞籬朝【崇神天皇】御世、八意思金《ヤコヽロオモヒカネノ》命十世孫、知々夫彦命定2賜國造1拜2祠《イツキマツラシメタマヒキ》大神1と見え、天上腹天下腹人等は、天神本紀に、饒速日命天降の時、供奉の神三十二|躯《ハシラ》の中に、天表春《アメノウハバル》命、【八意思兼神兒、信乃阿智祝部等組、】天下春《アメノシタハル》命【八意思兼神兒、武藏秩父國造等祖、】と見えたり、こゝに天上腹天下腹人等といへるは【春と腹と通はし呼て】其|裔孫《ハツコ》の族を、然呼ふが在つるなるべし、○爲v鱠及煮燒雜造盛【天】、鱠は、尋常のごとくナマスとよむべし、字鏡に、※[肉+攝の旁]膾肉也、宍乃奈萬須【宍を一本に宇孚と作り、又一本に宇と書るは誤なり、】また※[巒の上半/肉]肉乃奈萬須、萬葉集【十六卷】の長歌に、【鹿の言として】吾宍者《ワガシヽハ》、御奈麻須波夜志《ミナマスハヤシ》、など見えたり、〔頭書〕清安云、膾の訓義は、鮮肉を鮓もて食ふより、ナマスといへるにもあらん歟、】さて此|爲《ツクリ》v膾は、上に捧2件《ソノ》二種物1といへるを受て、もはら頑魚と蛤の二種をいひ、【書紀には白蛤爲v膾而進v之、姓氏録にも然見えたり、】及《マタ》煮燒《ニヤキシヲ》は、其二種も、その他にも、雜《クサ/”\》造盛《ツクリモリ》【天】と云ふまでに照應《ヒヾキ》たる文《コトバ》なり、
〔注〕因に云、上世には膾を殊に賞たるにか、雄略紀に、二年十月御馬瀬に幸して御獵の時、問2群臣1曰、獵場之樂使2膳夫割1v鮮云々、また割v鮮野饗云云、かくて皇大后の御言に、膳臣長野能作2宍膾1、願以v此貢2天皇1、天皇跪禮而受曰、善哉云々、又皇大后の厨人を宍人部に加へて貢らせ玲ひ、次次に諸臣も宍人部を貢れること見えたり、天皇すら獣の膾をさへに然償給へる趣にきこえたり、同御世七年吉備臣弟君、百済より宍人部を率て還りて獻りし事も見えたり、又上にも引出たる萬葉集に、鹿の言としてよめる歌詞に「平群の山に、四月と、五月の間に、藥獵仕る時に云々、わか宍は、御膾はやし、わか臓も、御膾はやし」など見えたり、さて藥獵の幸は、推古紀にも見えて、猪鹿などのししを、藥としもいふばかりに世人の賞たりときこえ、又猪鹿をさして志々といふも、宍を賞るうへより呼ぶ名なるをもおもふべし、
○見2河曲山梔葉1、【河曲を、月令に阿西.秘抄に河西、一本に阿曲など作きて、參互に誤れるを、谷川本に河曲とあれば、かたがた考訂せるなり、】和名抄安房國安房郡の郷に、河曲加波和、【此地のこと、上にもいへり、】とある地《トコロ》の山なるべし、梔は波士《ハジ》とよむべし、【この梔を、月令の類從本、また秘抄に、梔と作き、又秘抄の他本に※[木+包]、また杓と書るがあり、ともに誤りなり、こは月令一本に依る、】
書紀に、天梔弓梔此云2波茸《ハジ》1、古事記に、天之波士弓、【萬葉集に、「すめろきの、神の御代より、波自由美を、手にきりもたし、」】とある弓材これなり、今俗《イマノヨ》に、波是《ハゼ》とも、漆木《ウルシキ》とも云、山なるを山はじ、又山うるし《はぜイ》〔三字左傍線〕、ともいひて、殊によくもみぢするものなり、
〔注〕和名抄染色具部に、黄櫨、文選注云、櫨今之黄櫨木也、和名波邇之とある是なり、波邇之と云は、言の轉へるなり、さて梔は、くちなしに當る漢名なるを、書紀に波茸に當られたるは、當りがたけれど、さる差は例の事なれば、難《トガ》むべきにあらず、其物ざねはまぎれなし、和名抄に、梓、孫※[立心偏+面]切韻云、梓木名楸之屬也、和名阿豆佐とあるに、別本には、又云2波之1とあるは、弓の材に用ふる阿豆佐も波之も、同物と意得て、推量に定たる説に依れる、初稿の本なるべし、
○高次八枚【爾】刺作【利】《タカスキヤツニサシツクリ》見2眞木葉1【天】枚次八枚【爾】刺作【天】、
〔注〕秘抄に枚を抔《坏イ》或は次《坎イ》と作る本あり、誤なり、爾字二ともに、諸本どもに脱たるを、谷川本に依て補ふ、利字月令に脱たり、秘抄に依て補ふ、但しその利を爪に作る本あり、訛なり、刺字、月令秘抄に、※[夾+立刀]と作り古體なり、月令今一ところは、※[峡の旁+立刀]と作るはその草體なり、秘抄一本の一ところに、判と作るは訛なり、いまみな普通の體に改む、又下の八枚の枚字月令に脱たり、秘抄に依て補ひつ、高次は多加須伎、枚次は下文には平次と書り、比良須伎とよむべし、【次を須伎とよめる例は、天武紀に、次此云2須伎1、古事記萬葉集に、襷を手次と書り、】大甞祭式に、供2神御1雜物者、大膳職所v備、多加須伎八十枚、【高五寸五分、口徑七寸、無v蓋、折足四所、別盛2隱岐鰒烏賊各十四兩、熬海鼠十五兩、魚※[月+昔]一升、海菜十兩、鹽五勺1】並《トモニ》居(ウ)2葉椀《クボテニ》1【久菩弖】覆以2笠形|葉盤《ヒラテ》1、【比良弖似2笠形1、】以2木綿《ユフテ》1結垂装餝、比良須伎八十枚、【高及徑装餝、與2多加須伎1同、但、足不v折、別に盛2具物種々1別五合、】と見えたり、すべて此供奉ざまを、當昔にめぐらして思ひみるべし、八枚は、古言に例《ツネ》云へる彌《イヤ》つにはあらで、數量《カズ》の八なり、【下文に、大八洲【爾】像【天】八乎止古八乎止※[口+羊]定【天】と云る事もみゆ、】刺作は、御饌物盛たる高次には梔の葉、枚次には眞木の葉を、小枝ごめに刺作り、装餝れる趣なり、眞木は檜の木なり、【冠辭考まきさくの條に、委く説辨へられたるが如し、萬葉集に、三芳野之眞木立山、また泊瀬山者眞木立荒山道、などよめるも是なり、】さてこの見2河曲山梔葉1云々、見2眞木葉1云々、といへるは、時しも十月の頃なりければ、梔葉のもみぢしたるが、眞木の青葉に映えて、美はしきを見興て、殊さらにその小枝を採來て、ものせるなるべし、見2河曲山梔葉1と云ひて採《トリテ》といはず、次にも、見2眞木葉1といひて、同山のものを採れる由にきこえ、又此次に、取2日影1云々、以2蒲葉1云々、採2麻佐氣葛1云々、と言を替たる古文のさま、いひしらずめでたし、○取2日影1弖爲v縵【弖字秘抄に依りて補ふ、縵字、秘抄に縵と作り、此二樣、古書どもに通はして書り、いづれにてもあるべし】已下六※[獣偏+葛]命の装儀《ヨソヒ》の状なり、日影は、古事記に、手2次繋《タスキニカケ》天香山之天之日影1而、日本紀神代卷に、以v蘿【蘿此云2比軻礙1】爲2手襁《タスキ》1古語拾遺に、以2蘿葛1【蘿葛者比可氣】爲2手襁1と見え、大甞祭式齋服條に、親王以下女嬬以上皆日蔭鬘、四時祭式供新甞料物の中に、日蔭二荷と見えたるは、萬葉集【十九】新甞會肆宴の時の歌に、大伴家持、足日木乃《アシヒキノ》、夜麻之多日影《ヤマシタヒカゲ》、可豆良家流《カツラケル》、とよめる日影これなり、【齋宮式供2新甞1料物にも日蔭二荷、また日蔭葛二荷、】また和名抄祭祀具に、蘿鬘、日本紀私記云、以v蘿爲v鬘、和名比加介加都良、
〔注〕印本どもに、爲鬘以蘿と書るは、條目に蘿鬘とあるにも差ひたれば、古寫本どもに據りて訂して引つ、但し日本紀神代卷、諸本悉以v蘿爲2手襁1とあり、釋紀にも然あれば、この私記の文は、日本紀の本文にはあらず、後世に蘿を鬘に用ふるうへをいへる文なるを、抄出して記されたるものなるべし、故こゝには祭祀具に、蘿鬘を比加介加都良と訓る古言の證とすべし、加都良は、葛の義には非ず、
と見えたるもこれにて、六※[獣偏+葛]命この物を取て鬘とせるよしなり、さてその日影は、おのれ都に在ほど、或公家ざまの御内人谷森種松が云けらく、日影は、今もこの山城の東山、北山また男山、比叡、愛宕の山々の樹下などの苔生すばかりの處に生ひ出て、地上にいと長く延囘《ハヒモトホ》れる蔓草なり、小枝《サエダ》參差《カタヽガヒ》に繼々にいできて、葉といふべきものは、蔓《ツル》ごめに皆鬚の末ばかりにて、繁く着たり、色は緑にて清く美しく、採置て程經れど、色あせずして在るものなり、これを土人どもなべて、比軻礙《ヒカゲ》といへり、さて其年歴たるは、本蔓の太さ尋常の箸ばかりにもなりて、引試るに強くて、襷にすともよく堪ふべきものなり、古事記などに、手次《タスキ》に繋《カ》くと見えたる日影は、きはめてこれなり、しかるに此氏文に、縵とすとあるは、その若くて細きを採りて、縵として垂たるなるべし、家持卿の新甞會に仕奉りて、山下日影かつらける、とよめる歌の萬葉集に見えたるもこれなるべし、やがてその日蔭を採來て見せたるを觀れば、まことに前にいへるがごとし、又いはく、今の御世にも、大甞祭、また年毎の新甞祭の神事にのみ、おもく仕奉らるゝ公卿たち、この日蔭を、冠の巾子《コジ》に、いさゝかばかり纏垂れて、鬘としたまへり、これを日蔭の鬘といへり、しかるにその翌日《アケノヒ》豊明節會には、冠上に心葉といふものを立てゝ、白糸或は白青の糸を縒《ヨリ》合せ、或は組て心葉にそへて、簪に纏ひて、美麗しく長く冠の左右に、八條結ひ垂れて、これをも日蔭の鬘といふものゝごとくなれるは、虚飾にながれて、古實の衰へたるなりといへり、今も薪甞祭の料に、近江蒲生郡龍王山といふ山なる日蔭を採りて、小野村より進る例なり、故《カレ》その山を、※[草冠/縵]山ともいふ、と國人いへり、
〔注〕既に山田清安云けらく、日蔭といふ草は、己が本國の薩摩の山々、又大和の葛城、膽駒、春日、多武、紀伊の高野などの山々にて見たりとて、其形状など、種松の云へるに同じ趣にあら/\かたりて、古書どもに見えたる日蔭これなるべし、なほよく考ふべしといへりき、又後に信友が故郷の若狭の國人に、かの種松がくれたる日蔭を示せて、かゝる蔓草を知れりやと問ふに、こはこゝかしこの山々にありて、日蔭のかつらといふと云へり、また山里人にも問ふに、此はわが住む里の山々に多かり、童どもの手操採り來てもてあそび、或は襷に懸け、或は人を縛るまねびなどして、たはぶるゝものなりといふ、それが名を日蔭とはいはずやととへば、おほくは日蔭などに生ふるものなれば、さもいふべけれど、おのがあたりにては、狐《ケツネ》の尻ふきと呼なれたりといへり、何ぞもさいふといへば、かれがはこする處によけむと笑ひて、いひさして止みぬ、いかに邊鄙の山里人なればとて、あまりなる名をこそは負せたりけれ、さて此もの、上にいへるごとく、處々にありときこゆれば、なほ諸國の山々にも多かりぬべきを、なべては人知らぬものゝごとくにはなりぬるなり、
然るに和名抄苔類に、蘿、唐韻云、蘿【魯阿反、日本紀私記云、蘿比加介、女蘿也、また松蘿、雜要決云、松蘿一名女蘿、【和名、萬豆乃古介、一云佐流乎加世、】と別條に擧たるを、唐韻に、蘿女蘿也といひ、雜要決に、松蘿の一名をも女蘿と云へる漢名の異説に拘泥て、和名の比加介をも、萬豆乃古介、また佐流乎加世ともいふものと、同物なりと心得たる説は僻事なり、本草和名にも、松蘿一名女蘿【こは雜要決と同じ云々、末都乃古介、とのみあるをも證とすべし、さて松蘿は、深山の茂れる老松《ヒネマツ》に寄りて生る苔ながら、細き蔓草だちて、枝に垂懸れるものにて、古今集の物名に、さがり苔とあるもこれにて、今も然いへり、この物は細く弱くて、襷には堪ふべきものにあらず、【おのれ前には、古事記傳の日影の説に隨ひて.なほ考たることもありて、前の稿にものしたりしを、種松の説をきゝて、強語してけりと思ひ直して改めつ、】○以2※[草冠/補]葉1【天】美頭良【乎】卷、蒲は、本草和名に、蒲黄|加末乃波奈《カマノハナ》、【和名抄に、唐韻云、蒲草名、似v藺可2以爲1v席也、加末、】また敗蒲席|布留岐加末古毛《フルキカマコモ》、など見えたる加末これにて、字は※[草冠/補]蒲通はして作り、美頭良は、和名抄に、髻、唐韻云、髻鬟也、和名|毛止々利《モトヾリ》、四聲字苑、云鬟屈v髪也、和名美豆艮、一云、訓上同、古事記に、伊邪那岐命の御装を、刺2左之御美豆良《サヽセルヒダリノミミヅラ》1湯津々間櫛、と見えて、上代に男子は髪を左右へ分て結綰《ユヒワガネ》たるを美豆良と云へり、萬葉集に、角髪《ミヅラ》と作るも、其左右にあるが角のごとくなる故に、然書るなり、さて其の鬟を※[草冠/補]葉をもて卷装ひたるなり、【下文に、五十七年三宅連意由、以2木綿1代2※[草冠/補]葉1天、美頭良乎卷寸、從v此以來用2木綿1云々と見えて、その時より件の古風を改たるなり、なほ其處をよみ合すべし、】書紀には、以v蒲爲2手繦1とあり、
〔注〕因幡國人云、わが國の農民の中に古よりの慣にて、蒲を組て手繦とするものあり、また夏の頃、腹懸といふものゝ紐にもつくりて、手繦のごとく首より肩に懸るに、汗通らで便よしといへり、さてその蒲の、水より上に出たる處は脆くて、手繦などに堪がたし、水中にあるところ脆からず、※[而/大]《シナヤカ》にて強し、と聞りと云へり、この事こゝにいふはいたづら説なれど、古事の證に因に書添へつ、
○採2麻佐氣葛1【天】多須岐【仁】加氣爲v帶、
〔注〕天字秘抄に乎と作り、然てもきこえはすれど、文體かけあはず、其は訛とすべし、また加氣の下、秘抄一本に弖字あり、さかしらに加へたるものと見ゆ、さて又谷川本に、加氣を多須岐弖として書るは、めづらしき言づかひときこゆれど、月令秘抄の諸本にもいたく異なれば、たやすく依がたし、なほよく考べし、また秘抄に、こゝの爲v帶より、下文の誓賜【天】依賜【支】まで、二百九十九字を略きて、云々と書て、時爲2供奉1大后詔之、と約めしるして、是時より下の分書《コガキ》豐日連後也、まで載せたり、
書紀繼體卷の歌に、磨左棄逗※[口+羅]《マサキヅラ》とあるによりて、葛を豆良《ヅラ》とよみつゞくべし、古事記に、爲v鬘2天之眞拆《アメノマサカキ》1而、これを古語拾遺に、以2眞辟葛《マサキカヅラ》1爲v鬘と云へり、造酒式大甞祭供神料物中に、眞前葛《マサキカヅラ》三擔、古今集採物歌に、「みやまには霰降らし外山なるまさきのかつら色つきにけり」、など見えたるもこれにて、この麻佐伎を麻佐氣とも通はし云へるなり、このものゝことを、岡部翁の説に、常葉木を眞榮樹といふがごとく、常葉なる葛をすべて眞榮葛と云ふ、幸《サキ》と榮《サカエ》とをひとつにいふは、古の常なり、まさきのかづら色づきにけりとよめるは、十月の頃、古葉のうつくしく色づくものなるを云ふ、【冠辭考、古今集打聞の説を合せていへるなり、】と見えたれど、己がおもふところは、眞榮樹《マサカキ》は必しも常葉樹ならずとも、時節に合ひて葉の榮え美はしきをいふべく、眞榮葛といふも、其と同じ趣にて、葉の榮え美はしきをいへるにて、後の世のごとく、草木の在状をこまかに見とほし別つことはせで、たゞうち見たるうへにても、然はいへるなるべし、さてはかのまさきのかづら色づきにけりとよめるは、眞榮《マサキ》なりつる葛《カヅラ》の色づきたりといへるにて、一首の感も深くきこゆるをや、かれこれかよはして證考ふるに、古事記天石屋の段に、爲v鬘2天之眞拆1とあるは、古語拾遺同段に、以2眞辟葛1爲v鬘、とあるを思ふにも、葛字の脱たるにて、舊は眞拆葛とありしなるべし、古語に主《ムネ》とある葛と云ふ名を畧きて、徒に眞拆と云ふべきにはあらじかし、
〔注〕外宮儀式帳二月例の條に、始子日神官等湯鍬山に入て、歸來る時の事を、諸禰宜氏人等【波】、眞佐支乃鬘爲【弖】、自v山下來【※[氏/一]】云々と見え、内宮儀式帳同條にも、同事を載たるに、眞佐岐※[草冠/縵]爲【弖】下來云々と見えたり、こは眞榮の葛を鬘と爲るが恒例にて、口馴たるにあはせて、カツラと云ふ同音の言の重れるから、おのづから葛を畧きて、眞佐支乃鬘と云ひならへるものなるべし、さて二月の頃、山にて其葛を採りて、鬘とせるをもて、眞榮の葛なることの義、ます/\慥なり、
又おもふに、まさきは眞榮《マサカエ》の義にて、そを約めては麻佐氣といふべければ、こゝに麻佐氣といへるは本語にて、麻佐棄といふは、轉りたるいひざまにもやあらむ、しからば眞拆眞辟などかけるを、麻佐氣とよまむもわろからじ、さて此葛を襷に懸て御饌を料埋《ツク》り、また帶にもせるなり、
〔注〕古事記天石屋段に、日影を手次に繋け、眞拆を鬘とせることの見えたるを、傳に委く説辨へられて、師説には、古事記も書紀も、もとは眞拆を手次とし、日影を鬘としてありけるを、後に誤て、右の如く日影を手次に眞拆を鬘にとは書るなり、眞拆は長く強き物なれば手次とすべく、日影は弱き物なれば、手次には堪ふべからずとあり、此説まことにさることなり、但し眞拆の手次といふこと、凡て古書に見えたることなければ、此はなほ疑はしと云れたるは、此氏文に見えたる古事を見おとされたるなり、さて岡部翁の、日影は弱き物なれば、手次には堪ふべからずと云れたるは、一わたりさることながら、此もの細きものなれど、いと長く垂れて葉のこまかなる蔓草なれば、幾條もくりあつめて繕ひたらむには襷にも堪ふべく、緑絲をふさねたるさまして麗はしかるべきなり、
○足纏【乎】結【天】、足纏は阿由比とよむべし、古事記允恭段に、宮人の阿由比の小鈴云々、【此欽書妃には、安康卷に載られたり、】書紀雄略卷に、眉輪王の事に依て、兵を起して、圓《ツブラノ》大臣の宅を圍ましめ給へる時に、大臣出2立於庭1索2脚帶《アユヒヲ》1、時大臣妻持2來脚帶1愴矣、傷懷而歌曰、「臣のこは帛《タヘ》の袴を七重|着《ヲ》し庭に立《タヽ》して阿遙比《アヨヒ》【足結をかくもかよはして云へるなり】なたすも」【なだすもは、荒木田久老神主の書紀の歌解に、徒爲毛(アダスモ)なりとて委考説あり、】皇極卷に、蘇我大臣蝦夷立2己祖廟於葛城高宮1而爲2八※[人偏+(八/月)]之舞1、遂作v歌曰、「大倭の忍の廣瀬を渡らむと阿庸比※[刷の左+又]《アヨヒタツク》り腰※[刷の左+又]も、」【河を渉らむとして、脚帶を解きなど、身づくらひする状をいへり、萬葉集に、安由比多豆久利とよめるも、手※[刷の左+又](タツクロヒ)の約まりたる言ときこゆ、又「朝戸出の君か足結を潤す露原はやく起て出つゝ吾も裳下濡さな】など見えたり、徒歩《カチ》にて事ある時、袴を※[手偏+厥]げ、膝下よりその裾ごめに、布帛などをもて、脚を纏裹《マトヒツヽ》む具《モノ》なるべし、書紀に、脚帶と作れたる、はたおもひ合すべし、此時六※[獣偏+葛]命、御饌の事とり勞《イタツ》きて、とかく立走りせるによりて、此具を用ひられたるなるべし、
〔注〕天武紀に、高市王以下、小錦以上大夫等贈2衣袴|褶帶《ヒラオビ》腰帶脚帶及机杖1、とも見えたり、さて和名抄行旅具に、行纏唐式云、諸府衛士、人別行纏一具、本朝式云、脛巾、俗云波々岐、とみえて、脚帶を載られざりつるは、當時既く脚帶の製革りて、いつしか名も替りたりしなるべし、また萬葉集に、「齋種蒔くあらきの小田を求めむと足結出所沾《アユヒイデヽヌレヌ》この川の瀬に」、此足結は用言にて、足を結ひ出でゝなるべし、又送別長歌に、「大君の、命畏み、食國の、事とりもちて、和可久佐能《ワカクサノ》、安由比多豆久利《アユヒタツクリ》、むら鳥の、朝立いなは」云々とよめり、これらはもはら今の世のハヾキといふ物のごとくきこゆ、和可久佐能安由比と云へるは、そのかみ何ぞの弱草《ワカクサ》もて造れる事のありしなるべし、上に引たる和名抄行纏の條に、新抄本草云、茵※[茵の大が合]和名以知比、今俗編v※[茵の大が合]《イチヒヲ》爲2行纏1、故附出と見えたり、※[茵の大が合]は※[草冠/一/呆]《カラムシ》の類なり、當今も田舍には、※[茵の大が合]脛巾を製りて用ふる處あり、そのほか椶梠皮毛《スロノカハノケ》、或は茱萸《グミ》の皮を割き、或は蒲、※[草冠/一/呆]、稻藁などを編て製る處もあり、これらをなべて、波婆岐と云ひ、帛木綿などをもて爲るを、脚半と云へり、さて此氏文に足纏と作《カケ》るは、波婆岐に行纏を當たると、字の用ひざまおのづから相同じ、
さて此時、六※[獣偏+葛]命の装束の多須岐足纏は、もはら御饌を料埋るための装束にて、大殿祭の祝詞に、皇孫命朝【乃】御膳夕【乃】御膳仕奉【流】、比禮懸伴緒、襁懸伴緒【乎】、手|※[足+質]《マガヒ》足※[足+質]不v令v爲【※[氏/一]】云々、と見えたる手足の※[足+質]《マガヒ》あらむことをつゝしめるなり、○供2御雜物【乎】1結餝【天】、雜物は、かの二種の餘にも、雜の物を供備《ソナ》へなり、結餝は、其御飲食の器を置て奉る、御机を結び餝りてなり、【机といはずして、然きこゆるは古文なり、】後世に結机《ムスビツクヱ》と云ふ物、此遺製なるべし、此器内外宮の儀式帳にも見えて、主と勅使齋主の料とす、外宮子良祭奠式に、結机以2黒木1造v之、以2檜木葉1結2付机面及足1也、上古之制失v之、近世考2古記1再2興之1、仁治元年内宮假殿記に、勅使參宮云々、勅使結机已下差机也、江家次第、伊勢公卿勅使條に、使着2直會殿1、兼居2使以下酒肴1、結2黒木1爲v机、作2小筥1、盛2菓子肴物1、注に以2檜木葉1付2机等脚1、編v葉敷v面など見え、【以2檜木1云云は、この本文に見2眞木葉1云々と有に合へり、】源氏物語などに、むすび机と見えたるも、これにて、古製なるべきにおもひ合すべし、【書紀保食神段に、夫品物悉備2貯之百机1而饗之、また萬葉集に、高杯爾盛机爾立而云々などみえたり、】○乘輿《スメラミコト》從2御※[獣偏+葛]1還御入坐時【爾】爲2供奉1、乘輿は、漢國にて王を崇めて云ふ稱なり、此《コヽ》の文の中に用ひたるはつきなし、スメラミコトとよみてあるべし、如此いさをしく大御饌を設て、天皇の御※[獣偏+葛]より、行宮に還御入坐すを待受奉りて供獻らむとせるなり、
 
此時勅【久】《コノトキノリタマハク》、誰造所進物問給《タレシガツクリテタテマツレルモノゾトトヒタマフ》、爾時大后奏《ソノトキオホキサキマヲシタマハク》、此者《コハ》磐鹿六※[獣偏+葛]命(ガ)所《トコロノ》v獻《タテマツル》之物也《モノナリト申タマヒケレバ》、即歡給【比】《スナハチヨロコビタマヒ》、譽賜《天》勅【久】《ホメタマヒテノリタマハク》、此者磐鹿六※[獣偏+葛]命|獨【我】《ヒトリガ》(心)【(耳)波】非矣、斯天坐神【乃】行賜【倍留】物也《コハアメニマスカミノオコナヒタマヘルモノナリ》、大倭國者、以2行事《オコナフワザヲ》1負《オホスル》v名《ナヲ》國【奈利】磐鹿六※[獣偏+葛]命【波】、朕【我】|王子等【爾】《ミコタチニ》、阿禮子孫《アレミコ》【乃】|八十連屬【爾】《ヤソツヾキニ》、遠【久】長【久】天皇【我】天津御食【乎】齋忌取持【天】仕奉【止】負賜《トホクナガクスメラガアマツミケヲイハヒユマハリトリモチテツカヘマツレトオホセタマヒ》【天】、則|若湯坐連等始祖《ワカユヱノムラシラガモトツオヤ》、物部意富賣布連【乃】佩大刀【乎】《モノヽベノオホメフノムラジノハキタルタチヲ》《セ》2脱置《ヌギオカ》1【天《テ》】副賜【支】《ソヘタマヒキ》、
 
此時勅久云々、この文の上に、天皇の還幸まして、その獻れる御饌物をきこしめせる由を云はで、ただ此時といひて、おのづから然と通《キコ》ゆるは、古文の體なり、○即歡給【比】譽賜【天】勅【久】、即は、須奈波知とよむべし、【但し假字かきの例、古書に見あたらず、なべて書ならへるに從ひてあるべし、】上の大后奏云々、所獻之物也、即云々と意を續けてよむべし、さて此言のつかひざま、古書に見えたるところ、事状によりてとり/”\にきこゆれど、大むねの意は、上の事に因りて、速に下の事におよぶ勢の時にいふがごとき言なり、○此者磐鹿六※[獣偏+葛]命獨【我】心【耳波】非矣、天坐神【乃】行賜【倍留】物也、天皇大后の詔に、六※[獣偏+葛]を命としも曰へるは、親しみ崇め給へる趣の文なり、【下なるも同じ、】さて我字の下、字缺て一二字ばかり空《アケ》たり、本書蠹食など在しなるべし、下文に、如是依賜事【波】朕【我】獨心【耳】非矣、是天坐神【乃】命【叙】、と詔へるをおもひ奉るに、決て心【耳】の二字の脱たるなるべき事著ければ、訂し補ひて、此者磐鹿六※[獣偏+葛]命獨【我】心【耳波】非矣、と訂正せり、天皇この獻物をいたく賞《メデ》歡ばせ給ひ、褒美たまひて、此は六※[獣偏+葛]命獨が心には非ず、天上に坐す皇神たちの御慮もて、行はせたまへるものぞと思ほしめせる由なり、○大倭國者以2行事1負v名國【奈利、】行ふとは、事を擬《マガナ》ひ掟《オキツ》るをいふ、皇大御國は、その行ふ職業をもて、名に負する國なりとなり、さてその名といふ由は、鈴屋大人の説に、上代に名といふは、もと其人のある状をもて負けたるものにて、名を呼《イ》ふは尊みなり、さて古は、氏々の職業各定まりて、世々相繼で供奉りつれば、其職業すなはち其家の名なる故に、即その職業を指ても名と云へり、さて其はその家に世々に傳はる故に、其名即また姓《カバネ》のごとし、されば名と云ふは職にて、すなはち此も氏といふにひとしきなり、と説はれたるがごとし、
〔注〕こは古事記允恭段に、天下氏々名々人等氏姓云云、とある條の傳に、委辨られたる大むねなり、○大倭國以2行事1負v名國【奈利】、と詔へるにつきて論ふべき事あり、其は大御國の事をしか/”\と言擧せる古語に、天上に坐す皇神たちの、此大御國の事を指して詔ひたる神語を云傳へたると、また大御國にして他國に對へて云へる古語を云傳たるとの二つあり、大殿祭祝詞に、皇【我】宇都【乃】御子皇孫之命、此【乃】天津高御座【爾】坐【※[氏/一]】、天津日嗣【乎】、萬千秋【乃】長秋【爾】、大八洲豐葦原之瑞穗之國【乎】、安國【止】平【氣久】所知食【止】言寄奉賜【比※[氏/一]、】と云へるは、神代紀に、天照大神の、勅2皇孫1曰、葦原千五百秋之瑞穗國、是吾子孫可v王之地也、と見えたるこれにて、天上にして、天照大御神の、天下の萬國の中に、とり別て此大御國を指して稱へて詔へるなり、また萬葉集の長歌に、蜻島、倭之國者、神柄跡、言擧不爲國云々、その反歌に、志貴島、倭國者、事靈之、所佐國叙云々、また葦原瑞穂國者、神在隨、言擧不爲國云々、また神代欲理、云傳介良久、虚見津、倭國者、皇神能、伊都久志吉國、言靈能、佐吉播布國等、加多利繼、伊比都賀比計理云云、續紀に、嘉祥二年三月、興福寺僧等が、天皇の四十寶算を賀奉れる長歌に、日本乃、倭國波、言玉乃、富國度曾、古語爾、流來禮留、神語爾、傳來禮留、傳來、事任萬爾云々、など見えたるなども其にて、天上に坐す皇神たちは、もとより天下萬國の事を知しめせば、皇孫命を天降したまふ時、いま授たまへるこの大御國は、しか/”\の國ぞと詔へる御諭語なるを、神世より云傳來たれる古語なり、これらの事、なほこまかに考論ひたる説あれど、こゝには盡さず、かくてこゝに、天皇の大倭國者云々國なりと詔へるは、他國に對へて、大御國は他國の風とは異にて、云々の國なりと詔へるなり、此天皇の御世の頃は、いまだ他國の事は知食ざりけむとおもふ人もあるべけれど、姓氏録吉田連の譜に、崇神天皇の御世、任那國より請奏せるによりて、鹽乘津彦命を將軍として、其國の鎭守として遣し治給ひたりし事見え、書紀に、同御世の六十五年に、任那國朝貢の事見え、また垂仁天皇の二年に、意富加羅國王の子、都恕我阿羅斯等歸化て仕奉り、同三年に新羅國王の子、天日槍來歸て仕奉れる事みえ、其ほかこの天皇より前の御世に、韓漢の人どもの參渡り來、此方よりも往來せりときこゆること、かの國々の書どもに證とすべき事もみえて、既に中外経緯傳に、くはしく記せるがごとし、かゝればそのかみ韓漢の國々の風も知食せるが故に、それらが卑しき國風とは異にて、大倭國は云々の國なりと、さらに御言擧せさせたまへるにて、後世に、ともすれば異國本朝など對へて言擧すとは、いたくことなる御事なるべし、あぢはひて悟《シ》るべし、○朕【我】王等【爾】《アガミコタチニ》、しばらくよみ句《キ》りて意得べし、○阿禮子孫【乃】八十連屬【爾】《アレミコノヤソツヾキニ》、生れまさむ皇子等の、盡《カギリ》なき御世の繼々になり、神代紀一書の、火闌降命の言にも、子孫八十連屬、【また一書に、生子八十連屬、】敏達紀なる蝦夷が言を、子々孫々と記されたる注に、古語云、生兒八十聯綿、續紀の【文武天皇】詔詞に、天皇御子之、阿禮坐牟、彌繼々【爾】、大八島國、將知次【止】云々、式、月次祭祝詞に、阿禮坐皇子等【乎毛】惠給【比】、大神宮儀式帳に、阿禮坐皇子等【乃】、大御壽【乎】慈【備】給【比】、萬葉集に、高敷《タカシカス》、日本國者皇祖乃《ヤマトノクニハスメロギノ》、神之御代自《カミノミヨヨリ》、敷坐流《シキマセル》、國爾之有者《クニニシアレハ》、阿禮將座《アレマサン》、御子之嗣繼《ミコノツギ/”\》、天下所知座趾《アメノシタシロシマサント》云々、【〔頭注〕、六人部是香云、阿禮の下坐牟の二字、脱たるなるべし、アレミコとつゞくべき語にはあらず、敏達紀なるは、ウミノコとよむべき所なり、】○遠【久》長【久】天皇【我】天津御食【乎】齋取持【天】仕奉【止】負賜【天】《イハヒトリモチテツカヒマツレトオホセタマヒテ》、天神壽詞《アマツカミノホキコト》に、【康治元年台記大甞會の別記に載られたり、】高天原【爾】神留坐【須】皇親神漏岐神漏美【乃】《タカマガハラニカムツマリマシマススメラカムツカムロキカムロミノ》命【遠】持【天】八百萬【乃】神等【遠】集【賣】賜【天】皇孫尊【波】高天原【仁】事始【天】豐葦原【乃】瑞穂【乃】國【遠】安國【止】平【介久】所知食【天】天都日嗣【乃】天津高御座【仁】御坐【天】天都御膳【遠】、長御膳【乃】遠御膳【止】、千秋【乃】五百秋【仁】、瑞穂【遠】平【介久】由庭【仁】所知食【止】事依【志】奉【天】天降坐【之】後云々、式の大甞祭祝詞に、天津御食【乃】長御食【能】遠御食【登】皇御孫命【乃】大甞聞食【牟】、など見えたる故實をもて詔へるなり、齋忌は、伊波比由麻波理とよむべし、汚穢《キタナキ》事などを忌避《イミサケ》て、よろづを慎むを云ふ、なほ此言のことは、下の伊波比由麻々閇の下に論ふべし、取持とは、件の壽詞の下文に、如此依奉【志】任【仁】所聞食由庭【乃】瑞穂【遠】《カクヨサシマツリシマニマニキコシメスユニハノミヅホヲ》云々、本末不傾《モトスヱカタムケズ》、茂槍【乃】中執持【弖】《イカシホコノナカトリモチテ》仕奉【留】中臣云々、祝詞の式伊勢齋内親王奉v入時の祝詞に、御杖代【止】進給【布】御命【乎】《ミツエシロトタテマツリタマフミコトヲ》、大中臣|茂桙《イカシホコ》中取持【弖】恐【美】恐【美母】申給【久止】申、など見えたる是にて、高天原にて高《皇イ》祖神の依《ヨサ》し賜へる天津御食を、御中取持て、大御膳の職業に、仕へ奉れと負せたまへるなり、さて上に大倭國者以2行事1負v名國【奈利】と詔ひて、かく云々仕奉【止】負賜【天】と詔へるは、すなはち膳臣と名を負せ賜へるにて、下に纏向朝廷《マキムクノミカド》歳次癸亥、【五十三年なり、】始奉2貴詔勅1所2賜膳臣姓1、天都御食【乎】伊波【比】由麻波【理天】仕奉來、と云へるに當り、【但し此條の本文に、膳臣と名を負せ賜はりたる由を云はざるは、とゝのはざる記しざまなり、されども其膳臣の氏人の、もとよりさだかに意得たりし上にては、如此記してきこゆとおもひたりしにてもあるべし、ふかく難むべきにはあらず、】また第二章の六鴈命薨れる時の宣命に、膳臣と詔へる趣にても明なり、【併見て知べし、】○若湯坐【ワカユエノ】連等始祖物部意富賣布連、天孫本紀に、饒速日命六世孫、伊香色雄命の五男、物部十市根命の七男に、大※[口+羊]布命を載て、若湯坐連等祖、纏向珠城宮御宇天皇【垂仁天皇の御事】御世爲2侍臣1供奉、と見えたり、姓氏録に、若湯坐連、膽杵磯丹杵穗命【天孫本妃に、饒速日命の亦名とあり】之後也、また若湯坐宿禰、石上同祖、また石上朝臣神饒速日命後也、【書紀天武十三年に、大湯人連、若湯坐連賜v姓曰2宿禰1、和名抄に、上總國周淮郡湯坐郷あり、若湯坐に由ありてきこゆ、また姓氏録に、眞髪部連神神饒速日命七世孫、大賣布乃命之後也とみえ、志貴縣主の譜も全同じく記して、次に今木連を載て、同v上と見えたり、】○佩大刀【乎】令2脱置1【天】副賜【支】、令2脱置1は、トキオカセとよむべし、【古事記八千矛神の長歌に、大刀が緒もいまだ登加受弖、】意富賣布連、物部にて仕奉りて在けるを、其大刀を御前に脱置せて、やがて六※[獣偏+葛]命に賜ひたるなり、【そのかみ物部には大刀を賜ひて、其職を仕奉らしめたまへるを.此時六※[獣偏+葛]命に、物部の威勢をも授けたまふとして、意富賣布連が大刀を召還し、脱置せて、すなはちに賜ひ、其換の大刀をば、更に賜ひたるなるべし、】副《ソヒ》とは命せ給へる詔に副てなり、
 
又此|行事者《オコナフワザハ》、大伴《オホトモ》立雙【天】《タチナラビテ》《ベキ》2仕奉《ツカヘマツル》1物【止】《モノト》在【止】《アレト》勅【天】、日竪日横《ヒノタツシヒノヨコシ》、陰面背面【乃】諸國人【乎】割移【天】《カゲトモソトモノクニクニヒトヲワカチウツシテ》、大伴部【止】號【天】《オホトモベトナヅケテ》《タマヒ》2磐鹿六※[獣偏+葛]命1、
 
此行事とは、すなはち膳夫の行ふ職業なり、○大伴立雙【天】云々、膳夫の多くの伴を率て、仕奉るべき者と爲りて在れと勅へるなり、【下文に、諸友諸人等乎催率天云々、と詔へるも此勅の趣なり、】○日竪日横、陰面背面乃諸國人【乎】割移【天】、日竪日横陰面背面は、東南西北の四面の名を、おほらかに稱べる古語なり、其は萬葉集【一卷作者未詳】藤原宮御井歌に、八隅知之《ヤスミシシ》、和期大王《ワゴオホキミ》、高照《タカテラス》、日之皇子《ヒノミコ》、麁妙乃《アラタヘノ》、藤井原爾《フヂヰノハラニ》、大御門《オホミカト》、始賜而《ハシメタマヒテ》、【持統天皇八年十二月、清見原宮より、大和國十市郡藤原に宮作して、遷幸せるを云ふ、さて此藤井原を、後に藤原と改たまへるなり、此歌の題詞にも藤原と書り、】埴安乃《ハニヤスノ》、堤上爾《ツツミノウヘニ》、在立之《アリタヽシ》、見之賜者《ミシタマヘハ》、【宮所は、香山、耳梨、畝火三山の中間、】日本乃《ヤマトノ》、青香山者《アヲカグヤマハ》、日經乃《ヒノタテノ》、大御門爾《オホミカトニ》、春山跡《ハルヤマト》、之美佐備立有《シミサビタテリ》、畝火乃《ウネヒノ》、此美豆山者《コノミツヤマハ》、【埴安池の堤上より覧はしたまへる趣にて、畝火の此みつ山とさして云へるをおもへば、其堤は、畝火山に近きところときこえたり、】日緯能《ヒノヨコシノ》、大御門爾、彌豆山跡《ミヅヤマト》、山佐備伊座《ヤマサビイマシ》、耳爲之《ミヽナシノ》、青菅山者《アヲスガヤマハ》、背友乃《ソトモノ》、大御門爾、宜名倍《ヨロシナヘ》、神佐備立有《カミサビタテリ》、名細《ナグハシ》、吉野山者《ヨシヌノヤマハ》、影友乃《カゲトモノ》、大御門|從《ユ》、雲井爾曾《クモヰニゾ》、遠久有家留《トホクアリケル》云々、と見えたり、今その大和の國圖《クニガタ》によりて、國人に質問し、その方位を尋考るに、おほかた香山は東ざまの日縱《ヒノタツシ》の御門に向ひ、畝火山は南ざまの日緯《ヒノヨコシ》の御門に向ひ、耳梨山は北ざまの背友の御門に向へる由にて、吉野山は大宮よりは南に當れ
 
萬集集藤原御井歌四面方位考圖
 天保十四年正月十四日
  奈良郷長西村知氏質正
   高鞆云原は押紙なりしを今此所に出だす
 
  日縱   吉野山     日緯
    十市郡 凡廿町許 
   カグ山     埴安池  ウネヒ
東  凡廿町許        高市郡    西
             凡一里許
     十市郡   耳ナシ
  背面            影面
        北
 
    〔入力者注、円を描きその外周に東西南北及び日縱日緯背面影面を記入し、内部に□と東西南北の門らしいものを描き、中に藤原・大宮と記入。南門は東南東のかぐ山、十市郡方面を向いている。これはだいたいの説明なので、詳しくは底本を御覧頂きたい。それにしても現地の地理とは合わないのだが、現在の万葉学者はこの程度のことすら考えようとしない。渡瀬昌忠氏も言っておられたが、万葉学者の地理に対する怠慢はかなりのものだ。伴信友などの江戸時代の学者にも劣る。井村哲夫氏などは高橋氏文の注釈書を出しておられるがこのあたりはどうなっているのだろう。まだ読んでいない。〕
 
れど、名ぐはしき大山にて、西ざまの影友の御門より、斜に遙に見えたるべければ、【宮所蹟より、大凡五里ばかり隔たれり、】四面の御門より、見渡しのめでたき山々をよめる中に配《クマ》りて、おほらかによみかなへたるものとぞきこえたる、
〔注〕西ざまの見わたしに、めでたき山はあらずとぞ、さてまた此歌詞に、香山は、大御門爾云々と繁みさび立りといひ、畝火の山は、大御門爾云々と山さびいましといひ、耳梨山は、大御門爾云々神さび立りと同じ趣にいひて、吉野山をば、大御門從雲井にぞ遠くありける、と別ざまにいへるにも意をつけあぢはふべし、
さて其四面の名を、然云ふ由は、まづ朝日の立昇りて、漸に南ざまにおよぶまでの間を、日縱と云ひ、南ざまより、西ざまに漸に降ち行く間を日横と云ひ、夕日の降ち陰ろふ西ざまより、北ざまにおよぶ間を、陰面といふ、陰つ面の約れるなるべし、【加茂保憲女集に、「かけともに見えたる月をうきくものかくせとふくる身にそありける」、これ西のかたを、陰面といへり、】北ざまより東ざまの間を外面といふ、いはゆる日横の亘の南ざまに向ひて、背《ソ》つ面《オモ》といふが約れるなるべし、萬葉集【二卷人麿】の歌に、八隅知之《ヤスミシヽ》、吾大王乃《ワガオホキミノ》、所聞見爲《キコシメス》、背友乃國之《ソトモノクニノ》、眞木立《マキタツ》、不破山越而《フハヤマコエテ》、狛劔《コマツルギ》、和射見原乃《ワサミガハラノ》、行宮爾《カリミヤニ》とよめるは、美濃國にて、大和の方より北ざまに當れるをもて、背友乃國といへるなり、【若狹は、北の極國なるが、その國の北海を受て、子丑の方に向ひたる高山を背(外イ)面山と云ひ、海岸を徒に外面と呼びきたれり、こは一所の名とはいへど其名義同じ、】さて謂ゆる日縱日横は、成務紀に見えたるを、【此紀の全文は、下に論ふべし、】養老私記【この書いまだ本書を見ず、水戸家書紀校合御本の、首書に注されたるに據るに、日縱比乃多都志、
〔注〕此は、谷川士清が書紀通證にも引り、さて縱字尋常には、タテとよみ、口語にも然云へど、本語はタツにて、縱横など連ねてタテヨコと第四音に轉しても云ふなるべし、今時にも徒にはタツといふ人あり、和名抄に、釋名云、縛壁以v席縛2着於壁1也、漢語抄云、防壁多豆古毛とあるも、縱薦なるべし、
日横比乃與古志と見えたるは、古語なるべし、隨ふべし、但し書紀印本には、ヒタヽシ、ヒヨコシと體言によめり、今この萬葉集なる歌詞は、かの私紀の古語を體言に、ヒタツシ、ヒヨコシとよむべし、
〔注〕萬葉集十八卷、大伴池主宿禰の歌に、多々佐にもかにも與古佐も云々とみえ、孝徳紀なる域方九尋の方字を、タヽサ、ヨコサと訓み、類聚名義抄に、縱字タヽシ、またタヽサマ、横字をヨコサマ、またヨコシマなどもよみたれば、ヒタヽシ、ヒヨコシとよまむもわろからじ、さてその多都志、與古之、また多々佐、與己佐などいへる、之また佐は、サマといふと同じほどの言づかひと聞ゆ、
和名抄【大路の條】に、唐韻云、道路南北曰v阡【日本紀私記云、多都之乃美知、○通本多知之乃美知と作り、いま古本に據る、成務紀印本には、タヽサノミチ、またタヽシノミチとよめり、】東西曰v陌【日本紀私記云、與古之乃美知、〇成務紀印本には、ヨコサノミチとよめり、】と見えたるは、道路の縱横にて、四面の方位につきて云ふ多都志、與古志とは別なり、思ひ混ふべからず、然るに成務紀【五年九月の條】に、令2諸國1云々、則隔2山河1而分2國縣1、随2阡陌《タヽサノミチヨコサノミチ》1以定2邑里1、因2東西1爲2日縱1、南北爲2日横1、山陽《ヤマノミナミヲ》曰2影面1、山陰《ヤマノキタヲ》曰2背面1、と記されたるは、此時始て、日縱日横などいふ四名を設けて、諸國の方位を定たまへるがごとくきこゆれど、それより前代の此詔詞に、日縱日横陰面背面乃諸國とみえたれば、いと上古よりおほらかに稱《ヨ》び來れる四面の名なりけるを、その名によりて、更に國縣を分定給ひたりし趣なり、然るに其を東西南北、山陽山陰に當てゝ曰2云々1と記されたるは、漢文の潤飾にひかれて、かへりて、當時の名稱の實に差《タガヒ》いできて、きこえがたき文とはなれるなり、
〔注〕山陽は、春秋穀梁傳に、山南爲v陽、六書故に、山阜之南向v日謂2之陽1、山陰は説文に、陰山北也、注に、水南山北日所v不v及也、など云へるごとき義の漢語なるべし、天武紀に、山陽道山陰道、また東海、東山、山陽、山陰、南海、筑紫と見えたるは、天智天皇の御世に始給へる漢樣の令制の名稱なるを、古にめぐらして、おほかたに當て、漢文にものせられたるなるべし、此ほかにも然る例多かり、
さてまた此詔詞に、日竪日横陰面背面乃諸國人【乎】、と詔へるは、天下の諸國の人をと詔へる義にて、いとめでたき古文なり、〇割移【天】大伴部【止】號【天】賜2六※[獣偏+葛]命1、その諸國の人を選び、割徙して膳夫とし、其部を大伴部と號て、六※[獣偏+葛]命に賜ひて、その宰と爲給へるなり、【後の御世に漢風制に據り給へる令條の職員は、大膳職に、膳部一百六十人、内膳司に、膳部四十人、】書紀【景行卷】に、是時の事を載て、白蛤爲v鱠而進之、故美2六雁臣之功1而、賜2膳大伴部1、【全文は下に擧ぐべし、】古事記【景行段】に、此之御世云々、定2東之淡水門1、又定2膳之大伴部1云々、とみえたる是なり、
〔注〕膳大伴部といふ姓を賜へるには非ず、古事記に、膳之大伴部と之字を書るも、其こゝろしらひ見えたり、然るに、姓氏録膳大伴部の譜に、磐鹿六雁命之後也、景行天皇巡2狩東國1云々得2白蛤1、於v是磐鹿六雁爲v膾進之、故美2六雁1賜2膳大伴部1、と見えたるは、始祖六雁命云々の由縁に依りて、其を後に氏名に負たるなり、然るに此氏の譜に、かの古事を擧たるは混はし、其は今現在る姓氏録は抄本にて、譜の本文を省略て書りと見ゆる事、他にも其證あるをおもへば、此處なるも、省略ざまのわろくて、かく書成せるにか、また其氏人の踈漏にして、みだりに書紀の文に拘泥て、書記して進れるを、其故實を正しあへられざりしにてもあるべし、さて今の姓氏録の抄本なる由は、其證ありて別に考注せるものあり、
○已上の事書紀には景行卷に、五十三年秋八月、乘輿幸2伊勢1轉入2東海1、冬十月、至2上總國1、從2海路1渡2淡水門1、是時聞2覺賀鳥之聲1、欲v見2其鳥形1、尋而出2海中1、仍得2白蛤1、於是膳臣遠祖名磐鹿六鴈、以v蒲爲2手襁1、白蛤爲v膾而進之、故美2六鴈臣之功1而、賜2膳大伴部1、また姓氏録に、膳大伴部、阿倍朝臣同祖、大彦命孫磐鹿六鴈命之後也、景行天皇巡2狩東國1、至2上總國1、從2海路1渡2淡水門1、出2海中1得2白蛤1、於是磐鹿六雁爲v膾進之、故美2六雁1賜2膳大伴部1、【この膳大伴部の事は、上に論へるがごとし、】また高橋朝臣、阿倍朝臣同祖、大稻輿命之後也、景行天皇巡2狩東國1、供2獻大蛤1、于時天皇嘉2其奇美1、賜2姓膳臣1、【此譜に、六雁命の名を云べきところなるに、無きは抄本の省略ざまの疏かりしなり、さて是時に膳臣と名を負せと給へるにて、後の御世のごとく、氏骨を賜へるにはあらず、其を後に氏とせる上にて、かく記せるものなり、此事なほ下に論ふべし、】天渟中原瀛《アメノヌナカハラオキノ》眞人【謚天武】十三年【諸本、三を二に誤れり、今一本に據る、】改2膳臣1賜2高橋朝臣1、
〔注〕天武紀に、十三年十一月、五十三氏に朝臣姓を賜ひし中に、膳臣あり、古事記傳に、此賜姓の事を論ひて、膳を改て高橋となれること、書紀に見えず、朝臣姓を賜しときも、なほ膳と記され、其後持統紀五年、十八氏を擧たる處にも、なほ膳部とあり、但し中臣連を藤原氏と云ふことも、天智御代よりのことなりしかども、天武御世に、朝臣姓を賜し處には、なほ中臣とある例と同じくて、此もその程既に高橋とも云しにやあらむ、高橋は、居住地名なり、大和國添上郡にあり、崇神紀に、高橋邑、神名式に、高箸神社、武烈紀の歌に、梔箇播志《タカハシ》などある是なり、と云はれたり、高橋氏を賜ひし事、此氏文にくはしく記したりけむを、今全文傳はらざるはくちをし、なほ考ふべし、
など見えたり、
 
又諸氏人《マタモロ/\ノウヂビト》、東方諸國造十二氏【乃】枕子《ヒガシノカタノクニ/”\ノミヤツコトヲアマリフタウヂノマクラコ》、各一人令進【天】《オノモ/\ヒトリヅヽタテマツラセテ》、平次比例給【天】依賜【支】《ヒラスキヒレタマヒテヨサシタマヒキ》、
 
諸氏人、こゝにては、諸氏の長だちてある人を選りていへるなるべし、○東方諸國造十二氏は、【此十二氏を、群書類從本には、十七氏とあり、誤寫なり、今一本に依れり、】東方十二國の國造なり、古事記崇神段に、建沼河別命遣2東方十二道1而、令v和2平其麻都漏波奴人等1云々、【國造本紀に、上毛野國造、瑞籬朝皇子、豐城入彦命孫彦狹島命、初治2平東方十二國1爲v封、】景行段にも、詔3倭建命言2向和平東方十二道之荒夫流神、及麻都樓波奴人等1云々、と見えたるを、崇神段の傳に、十二道は十二國なり、國造本紀上毛野國造の條に、東方十二國とあり云々、十二は何れの國々を合せたる數にか、今さだかに知がたし、されどこゝろみに云はゞ、伊勢、【伊賀志摩は此に屬べし、】尾張、參河、遠江、駿河、甲斐、伊豆、相摸、武藏、總、【上總下總なり安房は、後に上總より分れたり、】常陸、陸奥なるべきかとて、なほこまかに論はれたり、おほかたさることなるべし、
〔注〕但し其説どもの中に、成務紀に、山陽山陰とあるは、何地にまれ、山南山北と云ふことにて、山陽道山陰道を云へるには非ずと云はれたれど、己が考は異にて、上に注へるが如し、さて又傳に、東方十二道に考當られたる十二國の國造の、景行の御世より上代にきこえたる人名をたづねこゝろむるに、国造本紀に、神武御世に、天日鷲命を、伊勢國造に定賜ひ、美志印命を素賀國造に定賜とみゆ、素賀は、今遠江國佐野郡の大名の地あり、其處に當りてきこゆ、又崇神御世、知々夫彦命を知々夫国造に定賜、武藏國秩父郡あり、同御世に、上毛野國造彦狹島命、初治2平東方十二國1爲v封、とみえたるは、彦狹島命を、上毛野國造に定賜ひて、十二國を攝て封とせられたるにか、詳ならず、またこの景行の御世、鹽海足尼を、甲斐國造に定賜とみえ、常陸風土記倭建命巡狩の條に、新治國造※[田+比]那良珠命みゆ、常陸國新治郡あり、又崇神御世|筑※[竹冠/單]《ツククミ》命を、紀國造に任されたること見えて、紀國は、後の常陸國筑波縣なりと云へり、
○枕子、生れて床上に枕がせ置ほどの赤子なるべし、おのれ前に、若狹に在ける時、山里の老嫗の出來て、然云ふを聞たりき、古語の遺れるなるべし、【今江戸にて、女詞に膝子(ヒザコ)と云へり、】諸氏の長だちたる人の中より選出またかの十二國の造の赤子《チゴ》を一人づゝ進らしめ給ひて、六※[獣偏+葛]命に依《ヨサ》し給へるなり、【文を隔てゝ、下に其意きこえたり】、さて此枕子を進らしめ給へるは、幼稚き時より御饌に仕奉る事を習はしめ、長《ヒトヽナ》りて膳伴として、親昵しく仕奉らしめ給はむとの大御慮なりしにぞありけむ、然らばたゞ枕子とはあれど、もはら男兒を採りて進らせ給ひ、女兒ならむには、膳夫の采女として仕奉らしめ給ひたるにてもあるべし、
〔注〕なほつら/\推量り考ふるに、枕子とは云へど、必赤子ならずとも、幼兒を進らしめ給へるなるべし、また東方十二國は、前の崇神御世に、彦狹島命に治平させ給ひつるに、いくほどもなく、又此景行御世にも、倭建命に治平させ給ひ、今度大御みづから、其東の國々に幸せるは、もとより治りがたき國なりしかば、倭建命を慕ませるはさることながら、かたへにはなほよく事向和し給はむ爲に幸したるなるべく、さるにあはせては、國造等の背奉らざらむ御こゝろしらひにて、おのづからの質のごとくにて、進らせたまひたりしにもやありけむ、然らばいはゆる諸氏人も准へて察るべし、さて此枕子を進らしめ給へる事、相繼て御代御代の例とせられたりとはきこえず、書どもにも見えたることなし、たゞ此時の大御慮にて命せ給へる由にきこゆる、はたおもひ合すべし、
○平次比例給【天】、此二品を六※[獣偏+葛]命に賜へるなり、さて其平次は、此時御饌きこしめしたる平次を賜ひて、大后の命せ給へるごとく、甚味清造《イトウマクキヨクツクリ》て仕奉れる功勞を賞美給へる表物《シルシモノ》として賜ひたるにて、あるが中に、平次をしも賜へるは、かの白蛤膾をば平次に盛たるべきを、其を殊に賞給ひてなるべし、比例は、和名抄に、楊氏漢語抄云、領巾婦人頂上飾也、日本紀私記云、比禮、とみえたるこれなり、
〔注〕遊仙窟|※[巾+皮]子《ヒレ》の注に、單曰2領巾1、袷曰2※[巾+皮]子1、春着2領巾1、秋着2※[巾+皮]子1、婦人頂上巾也、と見えたり、式の中に、領巾、又※[巾+皮]とあるも、單なる袷なるとの差あるにか、いづれにも領巾※[巾+皮]共に、漢國の具に當たるなれば、ふかく字に拘む事なくて、その物ざねをよく考知べし、さてこの領巾の字は、書紀崇神卷、萬葉集にも見えて下に擧るがごとし、古書どもを併考るに、比例は古の女の服具にて、白き帛類をもて、弘二幅、また一幅なるを、頂上より肩へ嬰《カケ》て左右の前へ垂せるものときこえたり、枕草子【御經の事の條あすわたらせおはしまさんとてといへるところ】に、釆女八人馬にのせて引出せり、青すそごの裳、くたいひれなどの、風にふきやられたる、いとをかし、といへるをもおもひあはすべし、【なほ此ものゝさまの事、古事記傳四十二卷に見えたり、よみ合せて知るべし、】天武紀十一年三月の詔に、親王以下、百寮諸人、自v今以後云々、膳夫采女《カシハデノウネメ》等之|手襁《タスキ》肩巾《ヒレ》、【肩巾此云2比例1】並莫v服、と並べ記されたるをおもふに、當時《ソノトキ》までは膳夫は手襁、采女は肩巾を禮服として嬰《カク》る御定なりしこと知られたり、然るに續紀慶雲二年四月の下に、先v是諸國釆女肩巾、曰2依v令停1v之、至v是復v舊焉、と見えたり、【此時膳夫の手襁も、舊に復されたりけむを、紀には漏されたるなるべし、】さて女の比例は、もと手襁の料に、常に頂に嬰をりて、手業する時、手襁に嬰るものなるが、おのづから餝のごとく、禮服にもなれるものなるべし、
〔注〕書紀崇神卷に、埴安彦妻吾田姫、取2倭香山土1、※[果/衣]2領巾頭《ヒレノハシニ》1而云々、欽明卷の歌に、柯羅倶爾能《カラクニノ》、基能陪※[人偏+爾]陀致底《キノベニタチテ》、於譜麼故幡《オホバコハ》、比例甫※[口+羅]須母《ヒレフラスモ》、萬葉集に、麻郡良我多《マツラガタ》、佐欲比賣能故何《サヨヒメノコガ》、比例布利斯《ヒレフリシ》云々、また濱菜摘《ハマナツム》、海部處女等纓有《アマヲトメラガウナガセル》、領巾文光蟹《ヒレモテルカニ》云々、などもみえたり、なべての女の服なりし事を知るべし、さて今の俗に、婢などの、常に手襁を頂に嬰をりて、手業する時、すなはちに掛るがあり、若女などは、色よき帛もて製りて、餝のごとくにもするなり、さて其が手襁かけてあるとき、敬ふべき人に物云ふ時は、其をはづして、もとのごとくしてあるならひなるは、おのづから肩巾の趣に似たるをも、おもひあはすべし、
然るに、縫殿式、年中御服、中宮料に、領巾四條科、紗三丈六尺【條別九尺】とあり、中宮の御料には、あるまじきものゝ如くなれど、なべて女人の服なれば、時としては、天皇に仕事り給ふ事のあらむ時の料に、備置給へるなるべし、【神祇官年中行事、貞應三年の下に、女王装束領巾、】又二所大神宮の儀式帳に載たる、御装束の中にも比禮あり、こはすべて女人の具を奉らるゝ例なればなるべし、かくて大殿祭祝詞に、皇御孫命|朝【乃】御食《アシタノミケ》、夕【乃】御膳仕奉【流】《ユフベノミケツカヒマツル》、比禮懸伴緒《ヒレカクルトモノヲ》、襁懸伴緒【乎】《タスキカクルトモノヲヲ》、手躓足躓不v命v爲【※[氏/一]】《テノマガヒアシノマガヒナサシメズシテ》云々、【件緒の緒は長にて、其部屬の長なりと古事記傳に説はれたるがごとし、】とあるは御食造仕奉る膳部の男女をいへる文《コトバ》なり、これをおもへば、大祓詞に、天皇朝廷【爾】、仕奉【留】、比禮掛伴男、手襁掛伴男、といへるも、同じかるべし、さてこゝにて賜へる比例は、其時御饌に陪《ツカヘ》奉れる、膳部の采女の掛たるを脱置せて、これをも副て、功勞《イタヅキ》を美給へる表物に賜ひたるなるべし、【意富連が佩たる大刀を脱置せて、賜ひたると同趣なり、】依賜【支】は、上に磐鹿六※[獣偏+葛]命【波】朕【我】王等【爾】云々、とあることゞもを、依任《ヨセマカ》せて、執行はせ給ひし由なり、
 
山野海河者《ヤマヌウミカハナルモノハ》、多爾久久【乃】佐和多流《タニグヽノサワタル》【岐波美】加弊良【乃】加用布《カヘラノカヨフ》【岐波美】波多【乃】廣物《ハタノヒロモノ》、波多【乃】|狹物《サモノ》、毛【乃】荒物《ケノアラモノ》、毛【乃】|和物《ニゴモノ》、供《ソナヘ》2御|雜物等《クサ/”\ノモノドモヲ》1兼攝取持【天】《フサネトリモチテ》、仕奉【止】依賜《ツカヘマツレトヨサシタマフ》
 
山野は、なべての例のごとく、奴也未《ヌヤマ》とよむべくおもひつれど、萬葉集に、安之比奇能《アシビキノ》、夜麻野佐婆良受《ヤマヌサハラズ》、とも見えたれば、字のまゝによむべし、多爾久々は、蟾蜍《ヒキガヘル》の古名なり、さきに駿河國島田人服部某談けらく、大井川の三里餘川上なる山の谷には、蟾蜍《ヒキ》のいと大なるがあるを、其山里人はタングヽ、またタングともいへり、この物の性いと靜にて、さばかり人にも懼れざるものなることは、誰も知れるがごとくなるが、大なるは殊に這ふことも徐《シヅカ》なるを、童等の捕還りて繋ぎ置き、或は桶櫃などに覆《フ》せおくに、ともすれば怪しく脱去りて、本《モトノ》處に還居る事あり、いと奇異《アヤ》しきものなりときけりと語りき、【尋常の蟾蜍も然る趣なる事ありとて、兒童のする事なれど、其脱去りたる事はいまだ見ず、】式、祈年祭祝詞に、皇神【乃】敷坐【流】、島【能】八十島者、【大八洲國なり、】谷蟾《タニグヽ》【能】狹度極《サワタルキハミ》、鹽沫《シホナハ》【能】留限《トヽマルカギリ》云々、【この辭、月次祭祝詞にもあり、】萬葉集【五卷】に、許能提羅周《コノテラス》、日月能斯多波《ヒツキノシタハ》、阿麻久毛能《アマグモノ》、牟迦夫周伎波美《ムカフスキハミ》、多爾具久能《タニグクノ》、佐和多流伎波美《サワタルキワミ》云々、また【六卷】に山乃曾伎《ヤマノソギ》、野之衣寸見世《ヌノソギミヨト》、伴部乎《トモベヲ》、班遣《アカチツカハシ》、山彦乃《ヤマビコノ》、將應極《コタヘムキハミ》、國方乎《クニガタヲ》、見之賜而《ミシタマヒテ》云々、谷潜乃《タニグヽノ》、狭渡極《サワタルキハミ》云々、など見えたるこれなり、さて佐和多流の佐は助辭にて、この物野山の果まで、靈異《アヤシ》く行渡るものなれば、古は例言《ツネノコト》にしか云|熟《ナレ》たるものとぞきこえたる、【上にいへる.島田わたりのタングヽの在状に、おもひ合すべし、古事記【神世段】に、大國主神坐2出雲之御大御前1時《イヅモノミホノミサキニマシマストキ》、自2波穂《ナミノホヨリ》1云々、有2歸來神《ヨリクルカミアリ》1、爾雖v問2其名《カレソノナヲトハスレド》1不v答《コタヘズ》、且雖v問2所v從之諸神《マタミトモノカミタチニトハスレドモ》1、皆白v不v知《ミナシラズトマヲシキ》、爾多邇具久白言《コヽニタニグクマヲサク》、此者久延毘古必知v之《コハクエビコゾカナラズシリタラムトマヲセバ》、即召2久延毘古1問時《クエビコヲメシテトハストキニ》、答曰|此者神産巣日神之御子少名※[田+比]古那神《コハカミムスビノカミノミコスクナビコナノカミナリトマヲシキ》、と見えたる多邇具久は、まことに神なりけり、さて又多邇具久としも云ふは、萬葉集に書る字のごとく谷潜《タニクヾ》にて、常に山谷に住て、行むと思ふ時には、野山の極《ハテ》までも、靈異く潜り行く義の名なるべし、【然らば多邇久具といふべきを、多邇具久といへるは、連聲の文にて、濁音の轉れるなり、又此氏文に多邇久久と書るは、字のごとく清みて唱へたりしなるべし、上文に駕我久久と書るにも准へおもふべし、】○加弊良【乃】加用布【岐波美、】加弊良は加伊閇良《カイヘラ》にて船の櫂なるを、上古には閇良といふ言を加へても云ひ、又加伊の伊を略きて、加弊良とも云ひしなるべし、さて加伊は、新撰字鏡に、棹櫂※[楫+戈]類也、船の加伊、和名抄に、棹、釋名云、在v旁撥v水曰v櫂、【直教反、字亦作v棹、漢語抄云加伊、】櫂2於水中1且進v櫂也、とみえたるこれなり、【加遲とは別なり、※[楫+戈]は、新撰字鏡に、※[舟+揖の旁]楫也、加地、和名抄に、釋名云※[楫+戈]使2舟捷疾1也、和名加遲とありて、今なべて※[舟+虜]といふものなり、なほ下に辨へいふべし、さて又舟具の漢字は、あるが中に互に通はして、さま/”\に用ひたれば、字に拘泥まずして心得わくべし、】今も加伊と云て、舷の兩旁に穴を穿りて、索を通し綰堅《ツガネカタ》めて、加伊を貫《ヌキ》入れ、其を舟の大さに應《カナ》へて、繁多《アマタ》をもかけて、水をかき撥《ハネ》て、直に舟を行《ヤ》る具《モノ》なり、さて其加伊の形は、おほかた人も知れるごとく、加遲【今いふ※[舟+虜]】とは別にて、もはら※[金+且]《スキ》の※[金+辟]《ヘラ》に似て、先は薄く平めたるものなり、しか先の平みなるを閇良といふによりて、加伊弊良とも云ふを、約めて加弊良といへるなり、【もしくは加の下に伊字の脱たるにてもあるべし、】さて其※[金+且]に閇良と云へるは、和名抄に、唐韻云、犂(ハ)墾《ハル》v田器也、【和名加良須岐】※[金+辟]犂耳也【和名閉良】とみえ、字鏡にも※[金+辟]を戸良《ヘラ》と訓り、内膳式に辛※[金+且]閇良二枚|鋒《サキ》四枚と見えたるは、※[金+且]の鋒《サキ》を決入《ハム》る平なる處を閇良と云ふを、柄ごめにも閇良といへるなり、【尋常用ふ篦も同義の名なり、】さてその閇良は平《ヒラ》の義なるべし、今も田舍人の言に、※[金+且]鍬の鋒を決入《ハム》る處を、※[金+且]|倍良《ベラ》鍬倍良とも云へり、【俗に人の※[足+付](アナヒラ)の殊れて、大きく平なるを、鍬倍良足(クワベラアシ)といふを、また鍬※[田+比]良足(クハビラアシ)ともいへり、惠心僧都の作といへる、太秦廣隆寺牛祭祭文に、久波比良足仁舊鼻高乎絡付ともみえたり、又或は、※[金+且]夫呂鍬夫呂などと云ひ、徒には布呂ともいふは訛るなり、】おもひ合すべし、式祈年祭【また月次祭】祝詞に、青海原者棹枚不v干、舟艫【能】至【留】極《フナノヘノイタルキハミ》云々、と見えたるも此の加弊良の加用布【岐波美、】と云へると、もはら同趣なる古言にて、棹は、和名抄に依て、加伊とよみて、棹枚を、加伊比良とよむべければ、加伊弊良と云ふと同言なり、
〔注〕古事記仲哀段に、梔※[楫+戈]とあるを、傳に、岡部翁の佐乎加遲と訓れたるに隨ひ、なほ他書にみえたる證を引き、祈年祭祝詞も、本のまゝに棹枚と書て、なほサヲカヂと訓れたれど、月次祭辭別の祝詞にも、棹枚と書き、諸本ともにみな枚字を書たれば、後人の誤寫とはおもはれず、然るを岡部翁の祝詞考に、こともなく枚を柁に改め、棹柁と作きて、サヲカヂとよまれたるはいかにぞや、さて加遲は祝詞また萬葉集にもあまた見えて、こは今世に※[舟+虜]《ロ》と云ふものこれなり、萬葉集十七に、阿麻夫禰爾、麻可治加伊奴吉、とよめるにても、可治と可伊との別なること、ます/\明なり、さて其をたゞに加伊といひて、其さまの古くきこえたるは、萬葉集【廿巻】に、大船爾《オホフネニ》、末加伊之自奴伎《マカイシジヌキ》、また【十九卷】に小船都良奈米《ヲブネツラナメ》、眞可以可氣《マカイカケ》、伊許藝米具禮婆《イコギメグレバ》、また【二卷】に淡海乃海乎榜來船《アフミノウミヲコギクルフネ》、奥津加伊《オキツカイ》、痛勿波禰曾《イタクナハネソ》、邊津加伊《ヘツカイ》、痛莫波禰曾《イタクナハネソ》、若草乃《ワカクサノ》、嬬之念鳥立《ツマガオモフトリタツ》、また【八卷】に玉纏之《タマヽキノ》、眞加伊毛我母《マカイモガモ》、【一云小棹毛何毛】朝奈藝爾《アサナギニ》、伊加伎渡《イカキワタリ》云々、などみえたり、○波多【乃】廣物、波多【乃】狹物、毛【乃】荒物、毛【乃】和物、供御雜物等、古事記【神代段】に、火照《ホテリノ》命者、爲《シ》2海佐知※[田+比]古《ウミサチヒコト》1而、取《トリタマヒ》2鰭廣物鰭狹物《ハタノヒロモノハタノサモノヲ》1、火遠理《ホヲリノ》命者、爲《シ》2山佐知※[田+比]古《ヤマサチヒコト》1而、取2毛※[鹿三つ]物毛柔物《ケノアラモノケノニゴモノ》1、と見えて、鰭廣物鰭狹物は、諸魚の大きなる小きを云ひ、毛荒物毛和物は、諸獣をいへる古文《イニシヘコトバ》にて、書紀神代卷にも見え、道饗祭祝詞に、山野【爾】住物者《ヤマヌニスムモノハ》、毛【能】和物毛【乃】荒物《ケノニゴモノケノアラモノ》、青海原【爾】《アヲミハラニ》住物【者】、鰭【乃】廣物鰭【乃】狭物、奥津海菜邊津海菜【爾】至《オキツモハヘツモハニイタル》【萬弖爾】云々、遷2却《ウツシヤラフル》祟神(ヲ)1祭祝詞に、山【爾】住物者、毛【乃】和物毛【能】荒物、大野原【爾】生物者、甘菜辛菜、青海原【爾】住物者、鰭廣物鰭狹物、奥津海菜邊津海菜【爾】至【萬弖爾】なども見えたり、さて此氏文なる詞は、山野にかけて獣をいひ、海川にかけて魚を云ひ、雜物と云へる中に、いはゆる甘菜辛菜海菜の類も、おのづからこもりてきこゆ、○兼攝は、フサネとよむべし、【書紀に、※[手偏+總の旁]また惣攝をよみ、名義抄に、惣フサヌ、色葉字類抄に、都をもよめり、】上のくだりの事どもに、兼攝《フサネ》取持て、【上にも、齋忌取持天とあり、】仕奉れと依し給へるなり
 
如是依賜事【波】《カクヨサシタマフコトハ》、朕【我】獨心【耳】非《アガヒトリノコヽロニアラズ》矣、是天坐神【乃】命【叙】《コハアメニマスカミノミコトゾ》、朕【我】王子《アガミコ》磐鹿六※[獣偏+葛]命、諸友諸人等【乎】催率【天】慎勤仕奉【止】《モロトモモロビトラヲモヨホシヒキヰテツヽシマリイソシミツカヘマツレト》、仰賜誓賜【天】《オホセタマヒウケタマヒテ》、依賜【岐】、
 
朕【我】王子《アガミコ》磐鹿六※[獣偏+葛]命、この主孝元天皇の皇子大毘古命の孫なれば、後の御世にいはゆる三世王に當れり、故親愛みて、朕王子としも詔へるなり、第三章の、六雁命薨の條にも、天皇聞食而|大《イタク》悲給、准2親王式1而賜v葬也と見え、其時の詔詞にも、王子六※[獣偏+葛]命と詔ひ、また若之《モシ》膳臣等【乃】不2繼在1、朕【我】王子等【乎之天、】他氏【乃】人等【乎】、相交【天波】亂【良志女之、】なども詔へり、○諸友諸人等【乎】催率【天】、諸友諸人は、膳夫の諸の伴部等を詔へるにて、古言の文《アヤ》なるべし、上に此行事者、大伴立雙【天】、應2供奉1物【止】在と詔へると同趣なる御言なり、催は、字類抄に、モヨホシと訓み、又勸※[人偏+殳]などをもよめり、物語ぶみどもにも多くみえたる言なり、率は、ヒキヰテとよむべし、神代紀に、率また領帥などを然訓り、字鏡に、※[手偏+雋]提※[契の大が手]也、連也、率也、將行也、持也、兒比支井天由久《コヒキヰテユク》、【靈異記に率爲天、】○慎勤ツヽシミ、イソシミテと訓べし、慎は、謹字などゝ同じく、ツヽシミとよむは世の例にて、名義抄、書紀などの古訓にみえ、物語ぶみどもにもみえたる言なり、續紀【天平神護三年十月】の詔詞に、許己知【天】謹《コヽシリテツヽシ》【麻里】淨心【乎】以【天】奉侍【止】《キヨキコヽロモチテツカヘマツレト》云々、また諸東國【乃】人等《モロ/\ノアヅマノクニノヒトドモ》、謹《ツヽ》【之麻利】奉侍【禮】《ツカヘマツレ》と見えたるも同言にて、其は恐《カシコ》みを、かしこまりといふごとく、然もいへるなり、但し慎謹などは、漢籍につねに多く用《ツカ》へる字にて、もはら心の上にかけていひ、或は禮容《イヤビノカタチ》につきていへる意なるが多きを、皇國にてツツシムといふ言は、よろづの事を行ふうへに、過失なくものせむと、心を入るゝにつきていへるが多し、此なるも行事にかけて詔へるなり、【俗言に、大切にしてといふがごとき意なり、なほ物語ぶみなどにみえたるを、あぢはひて知るべし、】勤は、文徳實録【四卷滋野貞主傳】に、楢原東人《ナラハラアヅマヒト》、天平勝寶元年爲2駿河守1、于時土出2黄金1、東人採獻v之、帝美2其功1曰2勤哉臣也1、遂取2勤臣之義1、賜2姓伊蘇志臣1、【仲哀紀に、即美2五十迹手1曰2伊蘇志1、この事筑前風土記にも見えたり、】また續紀【天平勝寶元年四月】の詔詞に、伊蘇【之美】宇牟駕【斯美】などみえたるこれなり、【俗言に、出精と云ふ意也、】さて此言のもとは、伊佐乎にて、其は勇雄の意なるを、活して伊佐乎志といひ、又伊佐乎志支、伊佐乎志久などもいひ、又その佐乎を切《ツヾメ》ては伊蘇志と云ひ、また伊蘇志支、伊蘇志久などもいひ.また伊蘇志美、伊蘇志牟などもいへり、【その證をいはむには、事長ければ、こゝにはつくしがたし別に記せるものあり、】○仰賜誓賜【天】依賜【岐】、誓は、ウケヒとよむべし、神代紀に、誓約之中、此云2宇氣譬能美難箇《ウケヒノミナカト》1、この宇氣譬といふは、何にまれ事ある時、しか/”\と眞心に決めて、其を違へじと堅むるを云ふ言にて、人と互《カタミ》に爲るうへにも、此方ばかり爲るにも云ひ、其ほか事のさまによりては、又異なるがごときこゆるもあれど、いひもてゆけば、同意に歸《オツ》るなり、此なるは、天皇六※[獣偏+葛]命に、上のくだりの事どもを命せ給ひ、大御自誓ひて任し給へるなり、【六※[獣偏+葛]命も、此詔を畏奉れるに、おのづから誓の意あり、あぢはひ悟るべし、なほ誓のことは、予が方術原論の中に、委く論へり、】
 
是時|上總國安房大神【乎】《カミツフサノクニノアハノオホカミヲ》、御食都神【止】坐奉【天】《ミケツカミトマセタテマツリテ》、爲《シテ》2若湯坐《ワカユヱノ》連等|始祖《モトツオヤ》意富賣布《オフメフ》連之子|豐日《トヨヒ》連【乎】1令《シメ》2火《ヒヲ》《キラ》1【天】、此【乎】忌火《イミヒ》【止】爲【天】、伊波比由麻麻閇《イハヒユママヘ》【天】供2御食1、並大八洲【爾】像【天】、八乎止古八乎止※[口+羊]定《ヤヲトコヤヲトメサダメ》【天】、神甞大甞等《カムニヘオホニヘドモ》【仁】仕奉始【支】、【但云2安房大神1爲2御食津神1者、今大膳職祭神也、今令v鑽2忌火1大伴造者、物部豐日連之後也、】
 
上總國安房大神、安房は、上にいへるごとく、そのかみ上總の國内の地名なるを、神名に負せて稱へたるなり、此神の事は、下の注に見えたり、○御食津神【止】坐奉【天】、【坐字月令に脱たり、秘抄に據りて補へつ、】天皇の御食の神として、此|御膳屋《ミカシハデヤ》に請坐《コヒマサ》しめ給へるなり、【但し坐字、秘抄一本に、定と作り、かくても通えたり、】○爲2若湯坐連等始祖、意富賣布連之子豐日連1、【若湯坐の下の連字、月令に脱たり、これも秘抄によりて補へつ、】若湯坐連始祖の六字は、上に記したれば、再《マタ》こゝに云へるは、いたづらなり、記しざまのとゝのはざるなり、【たゞに物部意富賣布連之子云々、と書べきところなり、】豐日連、下文の注に、物部豐日連とみえたる是なり、【此人こゝのほか書に見あたらず、】○令2火鑽1【天】、名義秒に、鑽また※[手偏+賛]をヒキリと訓り、古事記【大國主神國避段】に、櫛八玉神爲2膳夫1、獻2天御饗1之時祷白而、櫛八玉神云々、鑽2出火1云、此我所鑽火者云々、【鑽火の事、傳に委注されたり、又その術は予が正卜考に注せり、】○此【乎】忍火【止】爲【天】、【秘抄一本、谷川本、忌火の下に、手字あるは訛なり、天字月令に脱たり、秘抄によりて補へつ、】忌火は、イミビとよむべし、忌清めたる火の由なり、凡て火を得るに、撃つと※[石+展]るとの別ありて、上代より殊に忌て清くする火は、皆|※[木+賛]《キリ》出すことにて、今に至るまでも、伊勢大神宮の御饌炊くに、※[木+賛]《キリ》火を用ふる例なりとぞ、【其餘にも、諸國の大社小社の中に、然る例にものする事、かれこれきこえたり、】江家次第に、忌火御飯、【六月十一月十二月一日早旦供2之内膳司1、】一條兼良公の同書の抄に、今按忌火毎v至2神態1鑽v火炊〓、謂2之忌火1也、【こは既く年中行事秘抄同條に、舊記云とて載たると全く同文なり、】同公の公事根源同條に、景行天皇の御時より始る、忌火とは、火を忌むこゝろなり云々、とも記し給へり、
〔注〕この忌火を、インビともいふは、イミビの音便なり、江次第の印本に、インコと假字をさし、俗にも然唱ふが古實なりといへる人ありときこゆ、其は僧徒の忌ま/\しき事行ふ時にすなる下火を、近世の唐音にて、アコといふに習ひたるにて、いともあるまじきさかしら説なり、江次第なるも古本にはインヒとあり、
○伊波比由麻麻【閇天】供2御食1、【月令麻字一つ脱たり、秘抄に依りて補へつ、】伊波比は、【此言の意は、上の齋忌の下にいへり、】伊牟と同音なるを、如此も活かしていへり、由麻々閇は、祈年祭祝詞に、忌部【能】|弱肩【爾】太多須支取掛【※[氏/一]】《ヨワガタニフトダスキトリカケテ》、持由麻波【利】《モチユマハリ》仕奉【禮留】幣帛【乎】《ミテグラヲ》、神甞祭祝詞に、太襁取懸【天】、持齋《モチユマ》【波里】とみえ、また此下文に、伊波【比】由麻波【理】、といへる由麻波里と同言にて、由は忌むの伊を通音に轉したるにて、由庭、湯貴、湯鍬、齋種などの由に同じ、但し此の文《コトバ》のごとく、由麻々閇と活かして云へる例は、他に見あたらざれど、めでたき古言とぞきこえたる、【崇まへ、辨まへなどいふと同じ活きなるべし、】さて伊波比も、由麻々閇も、共に忌む意にて同言なるを、かく疊ねて云ひ、下文に伊波【比】由麻【波利】といへるも、共に古言の文ときこえてめでたし、○並大八洲【爾】像【天】、八乎止古八乎止※[口+羊]定【天】、大八洲は、古事記國生段に、此八島先所v生謂2大八島國1、と見えたる古事にて、大皇国の惣號ともなれる事、傳に注されたるがごとし、其大八洲の數に像りて、八乎止古八乎止※[口+羊]を定たる由なり、像は字書に、肖似也、※[莫/手]倣也など注ひて、象と通はし用ふる字なり、カタドリテとよむべし、【谷川本にのみ像を象と作り、これに依らばこともなけれど暫く諸本に隨ふ、】神代紀に、次雙3生隠岐洲與2佐渡洲1、世人或有2雙生1者象v此也、とみえたるも、國に象るといふ事のある古實なり、また三代實録【貞觀八年九月】桓武天皇の御陵に、大宮の事を申給へる告文に、此宮《コノミヤ》【波】、掛畏【岐】《カケマクモカシコキ》、天皇朝廷《スメラミカド》【乃】、勞作太良之【米】《イタヅキツクリタラシメ》賜【天】、萬代宮《ヨロヅヨノミヤ》【止】定賜【留】處【奈利】、就v中八省院【波】、殊留2御心1【天】、國【乃】面【止】作粧賜【岐止奈毛】聞賜【布留】云々、と詔へるは、大八島國の面に像りて、八省院を作粧ひ給ひたりし由なり、【面とは、古事記國生段に、大八島國の、伊豫之二名島、また筑紫島を、身一而有2面四1、毎v面有v名とて、合せて八面の名見えたり、此八面に像り給へるにか、又八島の數に象り給へるにか、其は測奉りがたし、】これをもおもひ合すべし、八乎止古八乎止※[口+羊]の、乎止古乎止※[口+羊]は、男女の弱きほどをいふ稱なり、弱き男女を、八人づゝ定て、八乎止古、八乎止※[口+羊]と呼て、神甞大甞等に仕奉始たりし由なり、【なほ此八乎止古八乎止賣の事は、下に論ふべし、】○神甞、【甞字月令また普通本の秘抄ともに、齋と作り決めて誤寫なり、いま秘抄の一校本に據りて、訂して採れり、】加牟爾閇《カムニヘ》と訓べし、【此よみざまの事、記傳八卷、大甞の下に、説はれたるがごとし、】神祇令に、季秋|神衣《カムミソ》祭、義解に、謂與2孟夏祭1同、【孟夏神衣祭、義解に謂伊勢神宮祭也云々、】次に神甞祭義解に、謂神衣祭日使、【使字諸本便と作るは訛なりいま集解に據りて訂せり、】即祭v之、と見え、大神宮式に、九月神甞祭云々、弊帛使取2王五位已上卜食者1充v之云々と見えて、中臣忌部卜部を差遣はす例なり、【すべて大神宮の神事に、膳部の預れることは、何の書にも見えたる事なし、】さて其時、神官及幣帛使等の供奉る状は、延暦二宮儀式帳にみえて、主と新稻《ニヒシネ》をもて饗し奉る神事なり、
〔注〕但しこの幣帛使の事、國史には、三代實録の始、貞觀元年より、毎年九月に遣はす例に記されて、其より前の國史どもには載られず、さて大神宮に神甞奉る事の始は、年中行事秘抄に、舊紀に云、垂仁天皇之代倭姫皇女爲2伊勢大神御杖代1、于時依2隨大神託宣1、從2大和國1向2伊勢國1到2壹志郡1齋2片樋宮1、從v發2彼宮1乘2三隻船1、向2佐志津1御暫留、爰夜鳥鳴聞2於葦原1、倭姫皇女遣v人令v見、有2一隻鶴1守2八根稻1、穗長八握、可v謂2瑞穂1、倭姫皇女使2人苅採1、欲v供2大神之御食1、即折2木枝1刺合出v火、炊2彼稻米1奉v供2大神1給、從2此時1神甞祭發、故毎v到2神態1鑽v火炊〓、謂2之忌火1、良有v以者と見えたり、此文、倭姫世記にも採載たれど、即折2木枝1より以下四十一字は有らず、又毎至より下、忌火まで十二字は、江次第抄にも引載られて、上の忌火の條に引注せるがごとし、正しき古傳説なるべし、
これに准へて稽ふるに、此時六※[獣偏+葛]命に詔て供奉始させ給へる神甞は、當時大宮内の畏所にて、天照大御神に、新稻の御饌を饗し、祭奉り始たまひたりしなるべし、
〔注〕書紀、古語拾遺、大神宮儀式帳を照考ふるに、大御神の御靈鏡は、崇神天皇の御世に、大御許を離奉り給ひて、倭の笠縫邑に祭たまひ、其御靈鏡を摸鑄さしめて、大宮内の畏所に、齋祀らせ給ひ、御靈鏡は、垂仁天皇の御世におよびて、倭より伊勢に遷幸して鎭座しませるなり、
○大甞は、意富爾倍とよむべし、新稻を神々に饗し、天皇も聞食す、嚴重《オモ》き御祭にて、新甞と云ふも同事にて、古は通はしいへり、これを後世には御世の始のを大甞と云ひ、毎事《トシゴト》のをば、事|略《ソ》ぎて新甞と分いふ事のごとくなれり、【此事、古事記傳八卷に、委論はれたるを見るべし、】下【三章】の詔詞に、十一月【乃】新甞【乃】祭【毛】、膳職【乃】御膳【乃】事【毛】、六雁命【乃】勞始成【流】所【奈利】と詔へる新甞も、此大甞なり、然るに、それと同時に始りたる神甞祭の事をば詔はず、又其祭行はせ給へる事の、古書どもにも見えざるをおもへば、此後いくほどもなく、神甞を大甞に合せて行ひ給ふ事となりしが故なるべし、【神甞大甞等といへるにて、始は二祭なりしこと著し、】○注但云3安房大神爲2御食津神1者、今大膳職祭神也、此は上に上總國安房大神【乎】、御食津神【止】坐奉【天】、と云へる注なり、【云字、秘抄に之に誤れり、津字月令類從本、また普通秘抄にも脱たるを、元々集に、月令を引て、いさゝか此の文を載られたると、秘抄の一本によりて補ふ、】安房大神は、古語拾遺に、天祖天照大神高皇産靈尊相語曰、夫葦原瑞穂國者、吾子孫可v王之地也、皇孫就而治焉云々、以2天兒屋命太玉命天鈿女命1、使2配侍1焉、又勅曰云云、汝天兒屋命太玉命二神、宜d持2天津神籬1降2於草原中國1、亦爲2吾孫1奉uv齋焉、惟爾二神共侍2殿内1能爲2護衛1、宜d以2吾高天原所御齋庭之穗1【是稻種也】亦當c御於吾兒u矣、宜d太玉命率2諸部神1供2奉其職1如c天上儀u云々、逮2于神武天皇東征之年1云云、令d天富命【上文の注に、太玉命の孫とあり、】率2日鷲命之孫1求2肥饒地1、遣2阿波國1殖c穀麻種u。其裔今在2彼國1、當2大甞之年1貢2木綿麻布及種々物1、所以郡名爲2麻殖1之縁也、天富命更求2沃壌1、分2阿波齋部1率2往東土1、播2殖麻穀1、好麻所生故謂2之總國1、穀木所v生《ユフノキノオヒタルトコロ》故謂2之|結城《ユフキノ》郡1、【古語麻謂2之總1也、今爲2上總下總二國1是也、】阿波|忌部所居《イミベノスミシトコロ》便名2安房郡1、【今安房國是也、】天富命即於2其地1立2太玉命社1、今謂2之安房社1、故其神戸有2齋部氏1とみえたり、此古實によりて、安房社の大神【すなはち太玉命】を、御食津神と爲て、件の宜d以2吾高天原所御斎庭之穂1亦當c御於吾兒u矣云々、と詔へる神勅を信受行ひ給へるなり、
〔注〕續後紀に、承和三年七月、安房國无位安房大神奉v授2從五位下1、同九年十月、奉v授2正五位下1、文徳實録に、仁壽二年八月、安房國安房神特加2從三位1、三代實録に、貞觀元年正月廿七日、安房國從三位勲八等安房神奉v授2正三位1、帳に安房國安房郡安房坐神社、【坐字通本に脱たり、古寫本、また伊呂波字類抄に載たる式社の神名に據りて補ふ、】名神大、月次、新甞とある此にて、此神社今安房郡大井村に在とぞ、
今大膳職祭神也と注へる今とは、此氏文を記せる時の言なり、【第二章の詔詞にはたゞ膳職とあり、大膳職内膳司と別たれたるは令制なり、】三代實録に、貞觀元年正月廿七日、大膳職正四位上御食津神授2從三位1、【安房神の授位も同日にて、上に擧たるがごとし、】帳に、大膳職坐神三座【並小】の中に、御食津神社【いま二神は、火雷社高倍神社、】とあるこれなり、大膳式に、御膳神八座【二月、十一月、上酉日祭v之、○踐祚大甞祭式に、收2御稻於稻實屋1但御飯稻造v棚別置、祭2御膳八神於内院1、】と見えたるは、件の帳に載られたる御食津神を本神《カムザネ》として、他に御膳に由ある神々七座を合せて、八座祀られたるなるべし、かくておもへば、此上文に、安房大神【乎】御食津神【止】坐奉【天】云云、並《マタ》大八洲【爾】像【天】八乎止古八乎止※[口+羊]定【天】云々、といへるは、當昔大八洲に像りて、安房大神を本神として八神を坐せて、一神に男女一人づゝを定て仕奉らせ給へるを、事|省《ソ》ぎて語り傳へたりしものなるべし、其は宮内式に、凡卜d供2奉神事1小齋人u者、其日神祇官副祐各一人、率2宮主卜部等1先就2宮内省廳座1云々、神祇副宜始v自2八男八女1、以下至2御膳司人等1次々令2參進1云々、即隨v次令v昇v廳、先卜2八男以下御膳司人、次諸司人等1云々と見え、儀式神今食儀に、神祇副命云、八社男八社女御膳司、并色々人等次第令2參進1、録稱唯云々、丞命云、八社男八社女御膳司、并色々人等次第令2參進1、省掌稱唯退出、仰2八社男以下1依v次令2參進1【先八社男、次八社女、次典膳以下云々、】云々、其八女及女官立2廳上東壁下1云々、膳伴造鑽v燧即炊2御飯1、安曇宿禰吹v火、内膳司率2諸司伴部及采女等1、各供2其職1料2理御膳雜物1、と見えたる八男八女を、八社男八社女とも稱ひて、もはら御膳司とゝもに仕奉る趣なるは、其遺式なるべきにおもひ合すべし、
〔注〕また文徳實録に、齊衡二年十二月、天安元年四月に、大炊寮大八島神に叙位の事見え、三代實録貞觀元年正月叙位の下に、大炊寮大八島竈神八前、と見えたる竈神も、同時に大八島に像りて、八神を竈神として祭給へるにはあらざるか、竹採物語に、大炊づかさの飯かしく屋の棟に、つくの穴ごとに、つばくらめは巣をくひ侍る云々、と申す云々、中納言云々、籠に乘りてつられのぼりて、うかゞひ給へるに云々、鋼を引すぐして、つなたゆるすなはちに、八島のかなへの上に、のけさまに落給へり、といへること見えたり、さて此神を大炊寮式には、徒《タゞ》に竈神八座とあり、
さて此御膳神八座を、大甞の時に祭らるゝ事は、大甞祭式に、御飯稻造v棚別置祭2御膳八神於内院1と見え、また凡齋部之齋院祭神八前云々、また凡大甞祭事畢差2禰宜卜部二人1、遣2兩齋國1祭2御膳神八座1、即爲2解齋1など見えたり、○今令v鑽2忌火1大伴造者、物部豐日連之後也、【今字秘抄に脱たり、同異本令鑽の二字を衍せり、又秘抄に、者を育と作り、みな訛なり、】こは上に、爲2豊日連【乎】1令2火鑽1【天】、此【乎】忌火【止】爲【天】、と云へる注なり、今とは、これも此氏文記せる時の言なり、大伴造は、膳大伴造なるを、膳を省きて稱へるにて、儀式神今食儀に、膳伴造鑽v火即炊2御飯1、大甞祭式に、伴造燧v火兼炊2御飯1、安曇宿禰吹v火、など見えたるこれなり、大伴を、徒に伴と稱へるは、後紀に、弘仁十四年四月、淳和天皇の大御名を避て、大伴を伴と改たる由見えたり、
〔注〕但し大伴にも、伴にも、造の骨なるは、姓氏録そのほかの書どもにも見あたらず、姓氏録撰ばせ給へる弘仁の頃、すでに其姓人は絶たりしにか、又はいまだ本系を奉らざりつるほどに、録《フミ》を撰び畢られたりしにもあるべし、又おもふに、この造は骨にはあらで、主殿の伴の臣など稱ふに同じく、たゞ膳夫の伴の臣と稱へるにもやあらむ、
物部豐日連は、上に見えたるごとく、物部意富賣布連の子なり、【大膳職坐三座の中に、火雷神とあるは、此時豐日連の祭れる齋火神なるべく、推量れる考あり、其は下に云ふべし、】○以上は、天皇上總に坐ましける間《ホド》の事を云へり、古事記此天皇の段に、此御世定2東之淡水門1とみえたるは、此行幸の度に大みゝづから定おきてさせ給へるなるべし、
 
以2同年十二月1、乘輿《スメラミコト》從v東還(リ)2坐(シ)於伊勢國|綺《カムハタノ》宮1、五十四年甲子九月、自2伊勢1還2幸《カヘリマシキ》於倭|纏向《マキムク》宮1、
 
同年は、此氏文の首に、五十三年癸亥と云へるを繼ぎていへり、書紀に、十二月從2東國1還之居2伊勢1也、是謂2綺宮1、五十四年秋九月辛卯朔己酉、自2伊勢1還2於倭1居2纏向宮1とみえたり、綺は、カムハタとよむべし、和名抄に、綺似v錦而薄者也、加無波太《カムハタ》とみゆ、内山眞龍が宮所記に、伊勢國人云、綺宮の蹟は、鈴鹿郡能褒野の北、白鳥陵に近き處に在り、土人|加牟婆多乃宮《カムバタノミヤ》と云、古の驛路なりと云へりと注へり、〇倭纏向宮、神名式に、大和國城上郡、卷向坐若御魂神社とある其地なり、宮所は、古事記此天皇段に、坐2纏向之日代宮1治2天下1也、【書紀に、四年春二月、天皇幸2美濃1、冬十一月、自2美濃1還、更都2於纏向1、是謂2日代宮1、】と見えたり、
 
五十七年丁卯十一月、武藏(ノ)國|知々夫大伴部上祖《チヽブオホトモベノカムツオヤ》、三宅連意由《ミヤケノムラジオユ》、以《モテ》2木綿《ユフヲ》1代《カヘ》2蒲葉《カマノハニ》1【天】美頭良【乎】卷【寸】《ミヅラヲマキキ》、從(リ)v此|以來《コノカタ》、用《モチヒテ》2木綿《ユフ》1副《ソヘ》2日影等葛《ヒカゲドモノカヅラヲ》1【天】、爲《シタリ》v用《モチフルコトト》矣、【五十七年、月令に、五十年とあり、干支に據りて考るに、七字を脱せるなり、故訂し補ふ、】
 
〇十一月は、新甞の時をいへり、【此事、上の神甞大甞の下にいへり、】○武藏國知々夫大伴部上祖、三宅連意由、【月令、大伴部の下に、之字を作きたれど、上に無邪志國上祖云々、知々夫國上祖と書る例に依りて、之は上の訛なること著ければ、これも改めつ、】知々夫は、和名抄武藏の郡名に、秩父知々夫と見ゆ、但し國造本紀を考るに、當時知々夫も一國にて在りしときこゆれば、武藏に收《イレ》られたるは、後の事なるべきを、かく書るは、例の後をもて古にめぐらしいへるなり、大伴部は、上に諸國人【乎】割移【天】、大伴部【止】號【天】云云、と見えたる中の、知々夫の大伴部の上祖なり、【こゝにその大伴部の上祖としも云へるは、これも後より古を語る言なり、】三宅連意由、他書どもに見當らず、和名抄に、武藏國橘樹郡の郷に、御宅【美也介】上總國天羽郡、下總國印旛《インハノ》郡にも、三宅郷あり、これらの中の地名、由あるべし、意由は、上に知々夫國造上祖天上腹天下腹人等、爲v鱠及煮燒雜造盛【天】云々、とみえたる族《ウカラ》の長なりしなるべし、○以2木綿1代2蒲葉1【天】云々爲v用矣、前には蒲葉をもて鬘《ミヅラ》を卷たりけるを、此新甞の時より木綿に代へたる由なり、又副2日影等葛1とは、前には日影を縵にし、麻佐氣葛を襷《タスキ》に懸たりけるを、この時より、縵にも襷にも、主と木綿を用ひ、日影麻佐氣葛をば、副へ用ふる事と爲たる由なり、さるは鬘を卷くにも、縵にも、襷にも、木綿を用ひたるかた美麗しく、襷はた固くて便よきが故なるべし、木綿は穀木《カヂノキ》の皮を剥ぎ、水に浸し曝して、麻苧のごとく白くなりたるを、割き織りて布とし、またその割たるを總《フサ》ね垂て、神に奉るを、和幣《ニギテ》といふもこれなり、【此木綿の事、とり/”\混らしきを、古事記傳八巻に委く辨へられたり、】さて又、この時鬘に巻き、又縵にせる木綿は、割きたるなるべく、襷にせるは、織たるなるべし、【木綿襷といふこれなり、内膳式に、膳部等に給ふ襷暴布、或は調布一條の長八尺と見ゆ、】
 
《ヨリ》2纏向朝廷《マキムクノミカドノ》歳次癸亥1、始《ハジメテ》《ウケタマハリ》2貴詔勅《タフトキミコトノリヲ》1、所2賜《タマハリテ》膳臣姓《カシハデノオミノウヂヲ》1、天都御食【乎】伊波比由麻波理【天】《アマツミケヲイハヒユマハリテ》、供奉來《ツカヘマツリキヌ》
 
癸亥は、すなはち御世の五十三年にて、上に見えたる詔に、磐鹿六※[獣偏+葛]命【波】、朕【我】王子等【爾】阿禮子孫《アレミコ》【乃】八十連屬《ヤソツヾキ》【爾】遠【久】長【久】天皇【我】天津御食【乎】、齋忌取持【天】、仕奉【止】負賜【天】云々、神宮大甞等供奉始【支】、といへる時よりなり、○所2賜膳臣姓1、此事は、上にみえて、其處に論へるごとく、當時は、後の御世のごとく、氏骨《ウヂカバネ》を定て賜へる事のきはやかにはあらざりけるを、此處に如此いへるは、後世のさまに合《カナ》へて書る文なり、姓氏録高橋朝臣の譜《コトガキ》に、大稻輿命之後也、景行天皇巡2狩東國1、【此間に、盤鹿六雁とあるべきを、諸本どもに無きは、はやく寫脱せるなり、】供2獻大蛤1、于時天皇嘉2其奇美1賜2姓膳臣1とあるも、此氏文の中なる一端を取載られたるにて、賜姓の記されざまは此と同じ、さて件の譜文のさし次に、天渟中原瀛《アメヌナハラオキノ》眞人【謚天武】十二年、改2膳臣1賜2高橋朝臣1、といへる膳臣は、六※[獣偏+葛]命の後孫の、氏骨賜はりて在りしを改て、高橋朝臣を賜ひたりしなり、
〔注〕但し天武紀に、十三年十一月戊申朔云々、凡五十二氏、賜v姓曰2朝臣1、とある中に、膳臣見えたれば、十二年云々といへるは合はず、此はもとより高橋の系譜に、年次《トシナミ》の訛のありしなるべし、又たすけていはゞ、十二年には、膳臣の族の中より抽出で高橋朝臣を賜ひ、十三年の度に惣ての膳臣に、朝臣を賜ひたりしにもやあらむ、
○天津御食、【天字、月令に一字缺て空たり、上の詔詞によりて補へつ、】○伊波【比】由麻波【理天】仕奉來、由麻波【理天】は、上に由麻々【閇天】といへると同言にて、其處に説へるがごとし、
 
迄2于今朝廷歳次壬戌1並卅九代、積年六百六十九歳、【延暦十一年】
 
今朝廷の壬戌といへるは、桓武天皇の御世の始、延暦元年なり、並卅九代は、景行天皇より當今の御世までの御代數なり、積年六百六十九歳は、此氏文に紀せる六※[獣偏+葛]命の、詔によりて、御膳に供奉り始たる、景行天皇の五十三年より、下に分書せる延暦十一年までの年數なり、さて此年紀を注せる事は、第三章の、延暦十一年に、定d高橋安曇二氏、供2奉神事御膳1、行立前後u事、官符に、去延暦八年爲v有2私事1各進2記文1、即喚2二氏1勘2問事由1、兼捜2※[てへん+僉]日本紀及二氏私記1、及v知2高橋氏之可1v先云々、謹案2日本紀1云々、※[てへん+僉]2其家記1略同、於v此是高橋氏預2奉御膳1之由也云々、更无v可v疑2先後之次1、事已灼然、理須d以2高橋1爲v先安曇在1v後云々、と見えたる事によれり、さてその記文といひ、私記家記などいへるは、共に此氏文の事なり、【安曇のかたには、其記とも作り、これら潤色のために文を換たるなり、】かくて延暦十一年に及びて、件の官符のごとく、其氏文の證朋なるをもて、高橋安曇の前たるべき由を判給へるによりて、氏文の尾に、この迄2于今朝廷1云々と【二十一字を】書加へ、その勅判を奉《ウケタマ》はりたる年紀を記して後證とし、又其時の官符を寫して氏文に副たるなり、其官符は、第三章として下に擧ぐるこれなり、さて又此分書の延暦の年次、月令に、十九年と作たれど、上件の本文に合はず、何の由もなきを、十一年とするときは、勅判の年に當りて事實に合ひ、また六百六十九歳といへる年數にも合へれば、十九年と作るは、十一年の訛寫なる事疑なし、故いま訂して書り、そも/\膳夫といへば、後世の人意には、賤職のごと聞ゆれど、然らず、上古には、凡て御膳を嚴重みせられつるから、膳夫もことに其人を選ばれて、輕からざる職になもありける、さるは神世よりの故實にて、古事記に、大國主神國避の段に、櫛八玉神を膳夫として、天御饗奉らるゝ時、火を鑽出でゝ、云々して供奉りし状、委しく見え、また同記に、此幸行より前、倭建命|平國《クニムケ》に廻行しゝ時、久米直祖七拳脛《クメノアタヘノオヤナヽツカハギ》、いつも膳夫にて從《ミトモ》に仕奉りし由記されたるは、諸司は多かるべき中に、殊さらに此職をのみ擧記せる趣をもても、其輕からざるほど知られたり、しかありけるに、此時六鴈命、よく其道に仕奉れるを賞美たまひて、新甞祭の奉物、また膳職の御饌の事も、さらに其|式《ノリ》を定始めさせ給ひ、薨たる後には、その魂を膳職に齋ひて、永世に仕奉らしめたまひ、子孫等をば、長世に其|職《ツカサ》の長として仕奉らしめむ、と詔せさせ給ひたりき、さて其詔詞は、第二章に見えたり、
 
   第二章
 
此章は、政事要略【一條天皇の御世の頃の人、明法博士惟宗朝臣允亮撰】第廿六卷、年中行事部、十一月中卯日、新甞祭條に、高橋氏文云とて載たるを採りて、書表はせるなり、又年中行事秘抄、十月中辰日、豐明節會の條に、此章の文を、いたく折略《コトソ》ぎて記し、又中原師光朝臣の年中行事にも、秘抄より引出たりと見えたる同文のあるをも、批※[手偏+交]て訂せり、
 
六鴈命七十二年秋八月、受v病同月|薨《ミマカリキ》也、
 
七十二年は、七十二の齡《トシ》なり、
〔注〕この七十二年は、景行天皇の御世の年數にはあらず、景行天皇は、御世の六十年十月に崩坐せり、さて六鴈命の薨れる、御世の年は知られねど、假に天皇の崩ませる前年に、七十二にて薨れりとして推考るに、垂仁天皇の八十七年に生れ、景行天皇の五十三年、六十六の時、浮島の行宮にて、御膳の事に仕奉始め、同五十九年八月に薨れるに當れり、
 
時(ニ)天皇|聞食而大悲給《キコシメシテイタクカナシミ》、准《ナゾラヘテ》2親王式《ミコノノリニ》1而|賜《タマヒキ》v葬《ハフリ》也、
 
天皇は、景行天皇の御事を申せるなり、○親王は、當時の稱にはあらず、茲時の詔詞には、王子六※[獣偏+葛]命と書り、さて親王と申す稱は、はるかに後の御世におよびて制め給へる繼嗣令に、凡皇兄弟皇子皆爲2親王1、以外《ソノホカハ》並爲2諸王1、自2親王1五世雖v得王名1不v在2皇親之限1と見えて、こは漢國の隋唐の制に據り給へるなるべし、こゝに准2親王式1と書るは、皇子の式に准へ給へる由を、後の稱をもて記せるなり、親王は美古とよみてあるべし、○賜v葬は、皇子《ミコ》に准へて賻物《ハフリツモノ》を賜ひたるに由なるべし、【葬とのみにては、言たらぬこゝちす、葬の下に、物字脱たるにはあらざるか、】但し當時の式は知る由なし、後の事ながら喪葬命に、凡職事官薨、賻物は、【謂云々、送v死物曰v賻也、】正從一位※[糸+施の旁]三十匹、布一百二十端、鐵十廷云々、親王及左右大臣准2一位1、と見えたり、また按ふに、賜v葬とは、葬の事よろづを、皇子に准へて、公より賄ひ給ひたるにても有べし、
 
於是《コヽニ》宣命使《センミヤウシ》《ツカハシ》2藤河別《フヂカハワケノ》命、武男心《タケシヲゴヽロノ》命|等《ラヲ》1宣《ノリテ》v命《ミコトヲ》《イハク》
 
宣命使、宣命とは、勅命を宣るよしにて、宣るとは、勅命を受傳へて、人に宣聞《ノリキカ》するをいふ目《ナ》なり、その御使を奉りて罷向ふ人を、宣命使といふ、【但し宜命使といふは、後のことにて、此氏文記せる當時の稱なり、上古は美古登乃里豆加比などいひたりけむ、】此は六雁命の魂に、勅命を宣聞しむる御使なり、○藤河別命、他書どもに見あたらず、但し別命と稱ふにつきて、此天皇の皇子たらむかとおもはるゝ由あり、其は古事記景行段に、凡此大帶日子天皇之御子等、所v録《フミニシルセルハ》二十一王《ハタチマリヒトハシラ》、不v入v記《フミニシルサヾル》十九王、并八十王之中云々、自v其餘七十七王者、悉別2賜國々之國造、亦和氣及稻置縣主1也と見え、書紀同天皇卷に、天皇之男女、前後并八十子云々、七十餘子皆封2國郡1、故當今時謂2諸國之別1者、即其別王之苗裔焉、とみえたる中に、御名のきこえ給へるは、古事記書紀に載られたる皇子、合せて二十九王、紹運録に、其餘に三十八王を載せたるを、總合せて七《六イ》十七王見え給へる中に、櫛角別《クシツヌワケ》王、押別命、豐戸別王、豐國別王など、某別《ナニワケ》と申す御名多く聞えたり、其餘御名の傳はらざる皇子等十三王の中に、この藤河別命はおはしけむを、件の書どもに、記漏らされたるなるべし、然らば其皇子と坐す藤河別命をしも、此宣命使に遣はしたるは、准2二親王式1而賜v葬とある當時の式《ミノリ》にこそはありけめ、○武男心命、景行紀に、三年春二月庚寅朔、卜d于幸2紀伊國1將uv祭2祀群神祇1而不v吉《ヨカラ》、乃車駕|止《トヾメタマヒ》之、遣2屋主忍男武雄心《ヤヌシオシヲタケシヲゴヽロノ》命1【一云2武猪心1】令v祭云云、仍住九年と見えたり、古事記に、孝元天皇の皇子大毘古命の弟に、少名日子建猪心《スクナヒコタケシヰゴヽロ》命と見え、紹運録には、大毘古命の弟|比古布都押之信《ヒコフツオシノマコトノ》命の子に、屋主忍男武雄心命、【通本、屋主忍男命、武雄心命と二人とせるは誤なり、塙本に證を引て一本に依りて訂せるに隨ふべし、】また姓氏録には、伊賀朝臣の譜に、大彦命男大稻輿命男、彦屋主男心命、道公の譜に、大彦命孫彦屋主男心命、【諸本に、男字を田とかき、或は日とも作きて、此と彼ととり/”\同じからず、(國造本紀高志國造の下に、阿閇臣祖屋主思命とも誤書り)、今傍證に依りて、男と作るかたを採れり、】などとり/”\に見えたり、姓氏録なる傳にては、天稻輿命の子にて、六鴈命と兄弟なり、【その次序は知られず、】いづれにても、六鴈命の縁《ユカリ》につけて、副使に差し給ひたるにぞあるべき、さて此宣命使は、六鴈命の殯所に罷向ひて、勅命を宣しめ給ひたるなるべし、
〔注〕はるかに後の事ながら、續紀に大寶元年七月壬辰、左大臣正二位多治比眞人薨、詔遣2右少辨從五位下波多朝臣廣足、治部少輔從五位下大宅朝臣金弓等1、監2護喪事1、又遣2三品刑部親王三位石上朝臣麻呂1、就v第弔賻之、正五位下路眞人大人爲2公卿之誄1、從七位下下毛野朝臣石代爲2百官之誄1、大臣宜化天皇玄孫、多治比王之子也、とみえたるは、天皇の誄はあらざれど、喪事を監護せさせ給ひ、弔賻使を遣はし、公卿百官の誄せる趣などの、此時の式に似たるは、上古の遺式なりしなるべし、
 
天皇【加】大御言【良麻止】宣《スメラガオホミコトラマトノリタマ》【波久】、王子六※[獣偏+葛](ノ)命、不思《オモ》【保佐佐流】外【爾】卒上《ホカニミマカリアガリ》【太利止】聞食《キコシ》【迷之】、夜晝【爾】悲《ヨルヒルニカナシミ》愁給【比川川】大坐【須】《オホマシマス》、
 
これより、いはゆる宣命にて、すなはち六※[獣偏+葛]命の魂に宣る詔詞なり、そも/\上代の詔詞は、古事記書紀にもしるされたる事なく、續紀に、持統天皇の十一年八月の詔詞よりぞ、始て載られたる、それよりあなたなるは、いづれの書にもさらに見えたることなきを、いま此氏文に見えたるは、景行天皇の詔詞にて、いまだ漢ざまなる事のつゆまじこりなく、文字なき頃の御世のなれば、いとも/\めでたくたふとし、すべて古言の聯ねたるものにては、歌は長きも短きも、また祝詞《ノリトゴト》、吉詞《ヨゴト》、語詞《カタリゴト》などは、神世なるを始にて、その上代の詞のまゝに傳はれるもあれど、詔詞の傳はれるは、たゞこれひとつのみぞ在《ア》りける、さて此詔詞の趣は、誄詞《ミシヌビゴト》にあたりて、續紀に、寶龜二年二月己酉、左大臣藤原長手公薨給ひし時、文室大市、石川豐成を遣して、弔賻之曰、とて載られたる詔詞の状これに似たり、よみ合せ見て、此詔詞の殊に古ざまなる趣を、よくあぢはひ悟るべきものぞ、○王子は、美古とよむべし、六※[獣偏+葛]命は、上に云へるごとく、孝元天皇の曾孫《ミヒヽコ》にて、後の令制にいはゆる三世王なり、されど當時然るきはやかなる御令《ミサダメ》はあらず、二世三世の王も、時の情状《アルカタチ》にしたがひて、臣列に立雙びて仕奉らせ給へるもありければ、六※[獣偏+葛]命も、既に臣列にて仕奉れる事、上章に見えたるがごとし、然るをこゝに王子としも詔へるは、たちかへりて殊に御親しみおもほせるなるべし、下の詔詞に、若【之】膳臣等【乃】《モシカシハデノオミタチノ》不《ザランニハ》2繼在《ツギアラ》1、朕【我】王等《アガミコタチ》【乎志天】他氏【乃】《ホカノウヂノ》人等【乎】相交【天波】亂【良志女之、】と詔へるにも、おもひ合せ奉るべし、○不思【保佐佐流】外【爾】、この不字|無用《イタヅラ》なり、されど他の詔詞、また萬葉集などの中にも、此たぐひの書ざまあり、難むべきにあらず、○卒上は、美麻加利安我利《ミマカリアガリ》とよむべし、人の死《ミマカ》りぬれば、魂神《タマ》は、躯を離遊《アクガ》れて、天に揚り、顯世《ウツシヨ》にも往來《カヨ》ふ由にて、言繼(ギ)來れる古語とぞきこえたる、
〔注〕天に揚ると云ふ言は、萬葉集に、落花之《チルハナノ》、安米爾登※[田+比]安我里《アメニトビアガリ》、雪等敷里家牟《ユキトフリケン》、とみえたる、安米是にて、たゞ虚空のことなり、さて崩を加牟阿賀理《カムアガリ》と申すも、魂神揚なり、殯宮を阿賀里乃美也と申すも、其處より御魂神の天に揚ります由なるべし、萬葉集の歌に、高市皇子尊の殯宮を、神宮《カムミヤ》ともよめり、又崩を加牟佐理《カムサリ》と申すは、魂神避《カムサリ》にて、たゞ云ひざまの異なるにて、意はことなることなし、
然る趣なる事の書に見えたるは、古事記【景行段】、倭建命|崩《カムサリ》まして、八尋白智鳥に化て、天翔て飛行ませること見え、此事を書紀に、遂高翔上v天と記されたるは、遂に高く虚に上りて、見えずなり給ひし由なり、こは御魂の天翔り給へるが、白鳥に化りて、人に見え給へるが、なべてとは異なりしなり、
〔注〕近き頃、ある品輕からぬ死者を覆ひたる衾の下より、雀ばかりなる鳥の飛出て、屋内をとびめぐりけるが、戸を明る即ちに、翔りて出去りたるを、まさしく見たりと、其處に守り侍らひたりつる人、これかれが語れるを聞けることありき、うきたることにあらず、又人魂の淺青に光りて飛翔ることは、さしも希しからず、世人の知れるがごとし、
また續紀に、【称徳天皇の御世】天平神護三年十月、前元正天皇の遺詔を宜聞しめ給ふ詔詞に、如是在【牟】人等【乎波、】朕必天翔給【天】見行【之】《ミソナハシ》、退給【比】捨給【比】云々【止】勅【比】、於保【世】給【布】御命【乎】云々、とみえ、
〔注〕此天皇殊に佛教を信受《ウケ》尊び給ひ、又此ころ道鏡に御政を委ね給へる時なりければ、此詔詞も、もはら道鏡が申行ひたるなるべきを、他の詔詞に佛意なる趣のあるに似もつかぬ、天翔給【天】云云と詔へる由なるは、しかすがに大皇國の古傳の趣をもて、此詔旨を、あまねく諸人の心にしめて奉行はしめむとせる心しらびのわざなるべきを、かへりて古傳の證とすべきなり、
萬葉集【二卷】に、山上臣憶良が、磐白の結松をよめる歌に、「鳥翔《ツバサ》なす在通《アリカヨヒ》つゝ見らめども人こそ知らね松は知るらん」、【略解に、有馬皇子の御魂の在々て、飛鳥のごとく天翔り通ひて見たまふらむむ、人は知らねど、松は知りてあらむといへるこゝろなり、】又天智天皇崩御の時、大后の御歌に、「青旗の木旗の上を通ふとは目には見れども直に逢ぬかも、」青旗は、大殯宮に立たる旗なり、通ふとは、御魂の天翔り行通ひたまはむとおもへば、御面影は目に見ゆれど、正しく相見奉る事の無きよと歎きたまへるなり、】古今集【物名、をがたまの木】に、「翔りても何をか魂の來ても見む」とよめる歌なども、魂の天翔るといふ古意に依れるなり、
〔注〕洞物語俊蔭卷に、天翔りても、いかにあひなく見たまふらむなどいひ、源氏物語幻卷の歌に、「大虚に通ふまぼろし夢にだに見えこぬ魂の行方尋ねむ」、澪標卷に、「降りみだれひまなき空をなき人の天翔るらむやどぞ悲しき」とよめるなど、しかすがに古意の遺れるなり、然るこゝろばえにいへる事、ほかの物語ぶみにも見えたり、さて又、出雲國造神賀詞に、天能八重雲【乎】、押別【※[氏/一]】、天翔國翔【テ】、天下【乎】見廻【※[氏/一]】とみえ、萬葉集に、天地能、大御神等、倭大國靈、久堅能、阿麻能見虚喩、阿麻賀氣利、見渡多麻比、とよめるなどは、神の御うへの事ながら、其おもむきは同じ、
此詔詞の終《ハテ》に、虚【川】《ソラツ》御魂【毛】聞太【戸】《キヽタヘ》と詔へるに、思ひ合せて心得べきなり、
〔注〕なほ思ふに、斉明紀に、四年五月、皇孫建王、年八歳薨、今城谷上起v殯而收、天皇本以2皇孫有1v順而器2重之1、故不v忍v哀、傷慟極甚云々、廼作v歌曰、「今城なる小山かうへに雲たにもしるくしたゝば何かなげかむ」、建王の御魂の、殯宮より天に上り給はむ状を、今城の峰《タケ》に雲だにもしるくし起のぼらば、そを御かたみと見そなはして、御歎をとどめ給はむものをと、御ながめして、よませ給へるなるべし、萬葉集に、大津皇子被v死之時、磐余池陂流v涕御作歌に、「もゝつたふ磐余の池に鳴鴨を今日のみ見てや雲隱去なむ」懷風藻に見えたる皇子の此時の詩に、泉路無2賓主1此夕離v家向、と作給へるは、漢意に依り給へるにて、却りて斯方の古傳の趣明かなり、また長屋王腸v死之後、倉橋部女王作歌、「天皇の命恐み殯《オホアラキ》の時には在らねど雲隱ます」、又大伴坂上郎女、悲2嘆尼理願死去1作長歌の句中に、「生る人、死ぬてふ事に、免れぬ、ものにしあれば云々、山邊をさして、晩闇《ユフヤミ》と、隱りましぬと云々、嘆つゝ、吾泣涙、有間山、雲ゐたなびき、雨に降りきや」、反歌、「留めえぬ命にしあればしきたへの家ゆは出て雲隱去にき」、また弓削皇子薨時、置始東人長歌に、「安見しゝ、吾王、高光、日の皇子、久方の、天宮に、神ながら、神といませば」云々、反歌に、「王は神にしませば天雲の五百重がしたに隱り給ひぬ」、又高市皇子尊の殯宮にてよめる歌に、「久方の、天所知流、君故爾」云々、などみえたるも、人死ぬれば魂は天に上ると云る古傳の趣によりて、よみなせる歌詞とぞ聞えたる、然るに、古事記傳十八卷、崩と云ふ言の解説に、凡て人は死ぬれば、尊も卑も皆悉夜見國に罷ることなるを、天皇を始奉り、凡て尊むべき人をば、其を忌憚て、反を云て、天に上り坐とは云なせる古言なり、と云れたるは、あまり一向に拘泥《ナヅ》まれたるにか、よしや夜見國より顯世に、魂の往來はむにも、虚に揚りて往來ふなるべし、なほまたおもふに、年中行事秘抄、鎭魂祭の條に、舊事紀の天孫本紀に載たる、鎭魂の古事の文を引しるして、次に鎭魂歌とて載たるは、鎭魂祭の時の神樂歌ときこえたるが、其歌の終がたの詞に、ミタマガリ、【御魂上、】タマガリマカリマシヽカミハ、【魂上罷座神、】イマゾキマセル、【今來座、】アチメ、オヽヽ、ミタマガリ、イニマシヽカミハ、【去座神、】イマゾキマセル、【今來座、】タマバコモチテ、【魂匣持、】サリタルミタマ、【去神魂、】タマガヘシスナヤ、【魂返爲、】と見えたり、但し句下に、眞字にて注せるは、本書に、右旁に書添たるを今かくうつせるなり、さて其鎭魂祭の本の古事は、舊事紀の天神本紀、また天孫本紀の中に見えたるが、古傳なるべくきこえ、其祭式は、式の書どもにみえ、其を行ふ状は、古き日次の記どもに、かれこれ見えたり、さてまた鎭魂の主意は、職員令、神祇伯の職掌、鎭魂の義解に、鎭安也、人陽氣曰v魂、魂運也、言招2離遊運魂1、鎭2身體之中府1、故曰2鎭魂1、とありて、死者の招魂の事にはあらざれど、天神本紀に、鎭魂の方の事を云て、如此爲之死人反生《カクシテハシニビトモイキカヘリナム》と見えたれば、死者の招魂にも行ふ方ときこゆれば、上の件の歌詞に、御魂上り魂上り、罷り坐しゝなど云るは、詔詞に、卒上太利《ミマカリアガリタリ》と詔へる御言にも、おのづから通ひてきこゆるなり、さて此鎭魂の事は、舊事紀に見えたる古事を始め、またその方行はれし状など、古書どもを、合せ考論ひて、別にしるせる書あり、
 
天皇【乃】御世【乃】間【波】《スメラノミヨノアヒダハ》、平【爾之天】相見【曾奈波佐牟止】思【保須】間【爾】別【由介利、】《タヒラニシテアヒミソナハサムトオモホスアヒダニワカレユケリ》
 
天皇【乃】御世、式の祝詞、そのほか詔詞どもにも、天皇【我】朝廷、天皇【我】御命など、みな天皇【我】云々と見えたるに、此にも下にも、天皇【乃】と詔へるは希《メヅ》らし、【我にかよふ乃なり、】是も古の一の辭格《コトバヅカヒ》なるべし、○間は、ホドとよまむもわろからねど、なほアヒダと訓べし、洞物語【樓上卷】に、一生のあひだ歌をもよみたまふともあり、○平【爾之天】は、タヒラカニシテとよむべし、病などのことあらしめずしてと詔給へるにて、老人を勞《イトホシ》み給へる、懇切《ネモゴロ》なる御言なり、萬葉集【廿卷】に、多比良氣久《タヒラケク》、於夜波伊麻佐禰《オヤハイマサネ》、また六卷に平久吾波將遊《タヒラケクワレハアソバム》、濱松中納言物語なる文詞に、此ほどたひらかにものせさせ給ふにや、源氏物語【賢木卷】に、東宮の御世をたひらかにおはしまさばとおぼしつゝ、○相見【曾奈波佐牟、一本曾の下に、胡字あり、決く衍字なり、然るは波字の草訛を、胡と見なして、所訛れる本を、對校注せる本のありけるを、曾の下の脱字なりと誤意得して、本文に書※[手偏+讒の旁]へたるものなるべし、今無き本に隨ふ、】○【止】思【保須】間【爾】、この間字、アヒダと訓べし、萬葉集【十七卷長歌】に、情爾波《コヽロニハ》、於毛比保許里※[氏/一]《オモヒホコリテ》、惠麻比都追《ヱマヒツツ》、和多流安比太爾《ワタルアヒダニ》云々、古今集に、またのあしたに人やるすべなくて思ひをりけるあひだに云々、天皇の御世の間は、六※[獣偏+葛]命と事なくて、各《カタミ》に相見むと思ほし坐す間に、薨り別往りと、悲愛《カナシ》み給へるなり、
 
然今思食【須】所【波】《シカレバイマオモホシメストコロハ》、十一月《シモツキ》【乃】新嘗《ニヒナヘ》【乃】祭《マツリ》【毛】膳職《カシハデツカサ》【乃】御膳《ミケ》【乃】事【毛】六※[獣偏+葛]命【乃】勞始成【流】所《イタヅキハジメナセルトコロ》【奈利】是以《コヽヲモテ》六鴈命【乃】|御魂【乎】膳職【爾】伊波比奉【天】《ミタマヲカシハテツカサニイハヒマツリテ》、春秋【乃】永世【乃】神財【止】仕奉【志迷牟、】《ハルアキノナガキヨノカムダカラトツカヘマツラシム》
 
秘抄十一月豐明節會の條に、高橋氏文云、六雁命七十二年秋薨、天皇宣命云、十一月新甞會【毛】、大膳職【乃】事【毛】六雁命【乃】勞始成【流】所也、是以六雁命御魂【乎】、大膳職【仁】伊波比奉【天】、春秋【乃】永世【乃】神財供奉【志女牟】と、首文を畧きて、此まで抄出て載たり、【其中に、本書と字の異なるところあるをば、下に論ふべし、】○然今思食【須】所【波】、上の御悲の御言より、この然今云々と轉りたる御言に、いと懇切なる御意ばえあらはれたり、古文のいひしらず妙なる趣、こゝろをつけてよみ奉るべし、〇十一月新甞祭【毛】膳職【乃】御膳【乃】事【毛】六雁命勞始成【流】所【奈利、】六雁命に、新甞祭膳職の事を命せて、供奉り始させ給へる由は、上に見えたるがごとし、
〔注〕秘抄に、新甞祭を新甞會と作るは、後の稱にて、當昔の言ざまにあらず、さかしらに書改たるものなり、また膳職を、こゝなるも下なるも、ともに大膳職と作り、大膳内膳と二職を別置れたるは、是より後の御世の令制にて、當昔はたゞ膳職とて在しなるべきを、大字を加へたるは、これもさかしらなり、第一章にも膳職と作て、注に今大膳職祭神也と書るは、此氏文書記せる時の言なること、上に論へるがごとし、但し谷川本にのみ二の大字無し、これに依らば難なし、
かくて都に還幸して後も、其職の事執り慎勤みて、よく治供奉りたりけるを、いたはり給ひて、かく詔へるなり、勞は伊太豆伎とよむべし、書紀に勞竭をよめり、【谷川本に、勞比弖と書るはいかゞ、此は後人のネギラヒテと訓べくこゝろえひがめて、尋常の助假字さしたるを、本文にとり直して、書交へたるものとぞ見えたる、俗言に骨を折り大事にかけてといふ意の言なり、】伊勢物語に、常の使よりは、此人よくいたはれといひやりければ云々、かくてねむごろにいたづきにけり、源氏物語【浮船卷】に、さばかり上のおもひいたづききこえさせ給ふものを、などみえたるは、事のさまは輕けれど、同言なり、〇六鴈命【乃】御魂【乎】、膳職【爾】伊波比奉【天】、【政事要略に、御魂乎波とあり、秘抄に、波字の無きぞよき、又奉の下の天字、政事要略に脱たり、秘抄に依りて補ふ、】伊波比奉【天】は、齋ひ奉りてなり、上に御魂と詔へるにかけあひて、崇め給へる御言なり、○春秋【乃】永世、この詞調宜く唱むべし、無窮御世と云はむがごとき意の古語にて、いひしらず優に美き祝辭なり、【古語に、千秋長五百秋、また萬千秋乃長秋など云へるは、秋の瑞穗に係たる祝辭なり、】〇神財は、加牟陀加良とよむべし、六雁命の魂を齋ひ奉りて、愛崇め給へる御言なり、人を愛てたからといへる例は、萬葉集に、女を寶之子といひ、神代紀に、百姓をオホミタカラとよみ、落窪物語に、衛門が思ひしかぎりの事をせさせ給へば、げにおまへよりもたからの君と思ひ奉りたまふ、榮華物語大鏡などにも、わがたからの君といへること見えたり、准へて意得べし、さて此六雁命を、膳職に祭られたるは、帳に大膳職坐神三座、【並小】御食津神、火雷神、高倍神《タカベノカミ》と載られたる三座の中の、高倍神に當りてきこえたり、然考たる由は、件の三座は、大膳式に見えたる其職に坐す神十八座の中なる、御膳神《ミケツカミ》八座の中の一座と、【安房大神なるべし、此大神を主神として八座なるべき事、上に云へるがごとし、】醤院高倍神一座、菓子所火雷神一座、【この火雷神の事は、下に云べし、】とあるに當りて、此三座は、十八座の中にも、殊に重くせらるゝ由ありて、官幣を奉らるゝによりて、帳にも載られたるべければ、六雁命を祭られたるは、この高倍神に當りてきこゆとは云ふなり、三代實録に、貞觀元年三月廿日、奉v授2大膳職醤院無位高倍神從五位下1、とみえたる是なり、
〔注〕但し此度他神の敍位なく、殊さらにたゞ此一座のみなりき、これによりて考合すべき事あり、下に論ふべし、さて高倍神と稱ふ名義は、知る由なきを、試に推考るに、此神を醤院に齋はれたるを思へば、高倍は、高|瓮《ヘ》にて、神武紀に、造2嚴瓮1敬2祭天神地祇1古事記孝靈段に、居2忌瓮1云々、萬葉集にも、齋瓮居る由よめる歌四首ばかりみえたり、瓮《ベ》は瓶《ミカ》のたぐひにて儀式大甞の用度に、瓮十口各受2一斗五升1、などもみえたり、古事紀傳廿一巻に、忌瓮の事を、祭祀具の中にも、此物を居るは、上代の禮典《ノリ》にして、深理ある事なるべしとて、委く注されたるがごとくなるに、高瓮としも云へるは祝詞に※[瓦+肆の左]上高知《ミカノヘタカシリ》、※[瓦+肆の左]腹滿雙《ミカノハラミテナメ》、と稱へたる趣の言にて、大なる瓮なるべし、六雁命に縁由ある高瓮を、やがて其|魂實《ミタマシロ》として齋へるによれる名稱なるべくや、造酒式に、其司の祭神十座の中に、從五位上|大邑刀自《オホトジ》、從五位下|小邑刀自《コトジ》、次邑刀自《スキトジ》三座とあるは、既く文徳實録に、齊衡三年九月、造酒司酒甕神從五位下、大邑刀自、小邑刀自等、並預2春秋祭1、三代實録に、貞觀元年正月、奉v授2造酒司從五位下大戸自神從五位上1、同八年十一月、造酒司從五位下|次邑刀自《スキトジ》甕神、准2大邑刀自小邑刀自甕神等1、預2春秋二祭1、とみえたり、古事談に、造酒司の大とじと云ふ壺は、三十石入なり、土にふかく掘すゑて、わづかに二尺ばかり出たり云々、三條院の御時、大風吹て、かのつかさ倒れにけるに、大とじ小とじ次刀自《スキトジ》、みなうち破りてけりと見えたり、此三甕も某神なるにか、その靈實なりしなるべきにもおもひ准へてかくは考たるなり、
さてまた火雷神は、第一章に見えたる、豐日連の忌火を鑽れる時、祭たる火の神を齋へる稱《ナ》なるべし、火雷は、比乃伊加都知とよむべし、雷《イカツチ》は借字にて、【鳴神の事にはあらず、】伊加は、嚴矛《イカシホコ》、【舒明紀に、嚴矛此云2伊箇志保虚1、】重日《イカシヒ》、【皇極紀に、重日此云2伊柯之比1、】などの伊加なり、【くはしくは古事記傳五卷、健御雷之男神の下に注はれたるをみて心得べし、】都は助辭、知は崇稱《アガマヘナ》にて、神名に例多し、これも齋火の功を稱へたるなるべし、【但し大膳式に、菓子所火雷神と載られたるは、職の菓子所に齋ひ奉れる由なり、此は菓子に預りての事にはあらで、職中の便宜に依られたるなるべし、さて豐日連の名も、豐火にて、忌火の業を奉仕れるによりて、賜ひたる稱名なるにか、いづれにも由ありて聞ゆ、】又續後紀に、承和十四年七甘壬申、加2安房國火神、並|從神《トモノカミ》祭正税一百斛1、
〔注〕但し火字、印本※[穴の八が人]と作るは、筆者の大字を書る手風にて、餘にも然作たれば大神なり、又一本にも大神と書たれど、安房國大神と國字を書たれば、徒に大神といへる神名なるべくはおもはれず、故或二本に火と作るに據るべし、從神祭、諸本從祭神と作るは通《キコ》えがたし、故一本に從神祭とあるに隨ふ、但し其本に、正を精と作るは、訛なること著ければとらず、
と見えたるは、豐日連の忌火の事仕奉れる時に、祭れる神の式外にて在つるか、【此考のごとくならむには、火雷神の本社なるべし、】なほよくたづね考ふべし、又此火雷神を齋火武主比命神とも稱せり、其は上にも引出たるごとく、三代實録に、貞觀元年正月廿七日大膳職正四位上御食津神授2從三位1、と載られたると同度《オナジトキ》に、同職の從五位下大八島竈神八前、齋火武主比《イミヒムスヒノ》命神、並授2 從五位上1、とみえたる中の齋火武主比命神これなり、
〔注〕貞觀元年正月廿七日に、御食津神、齋火武主比命加階ありて、それに立ならぴたる高倍神に、いくほどもなく同年の三月廿日に、殊さらにただ一柱、初て叙位ありしこと、上に擧たるがごとし、さるは六雁命の魂神なれば、しかすがに本來の貴神には劣りさまにて、此時まで敍位の事は無りつるを、此|度《トキ》古實《フルコト》を温ね議して、始て敍位の事行はれたるなるべし、
さてその神名の齋火武主比は、伊美毘牟須毘とよむべし、齋火は、かの今令v鑽2忌火1大伴造者、物部豐日連之後也、と注へる忌火の由なり、武主比は、神名に例多き稱號にて、もとは生奇靈《ウムスビ》の義なるを、轉しては、物の始をなせるかたにも稱ふる號ともなれりときこゆ、【此考説の委しき事、こゝにはつくしがたし、別に注しおけるものあり、】
 
子孫等《ウミノコラ》【乎波】長世《ナガキヨ》(遠世、【政事要略】)【乃】膳職【乃】長《カシハデノツカサノヲサ》【止毛】上總國《カミツフサノクニ》【乃】長《ヲサ》【止毛】淡國《アハノクニ》【乃】長《ヲサ》【止毛】定【天】、餘氏《ホカノウヂ》【波】萬介太麻波《マケタマハ》【天】乎佐女太麻《ヲサメタマ》【波牟】若《モシ》【之】膳臣等《カシハデオミタチ》【乃】不《ザランニハ》2繼在《ツギテアラ》1、朕【加】王子等《ミコタチ》【乎之天】他氏《ホカノウヂ》【乃】人等《ヒトドモ》【乎】相交《アヒマジヘ》【天波】亂《ミダ》【良之女之、】
 
膳職【乃》長、おほかた後の令制の大膳職内膳司の長官《カミ》に當るべし、○上總國【乃】長【止毛】淡國【乃】長【止毛】定【天】、淡國は、安房國なり、【一本に、淡を淡路と作るはつきなし、後人路字の脱たるならむとおもひて、さかしらに如へたるなるべき事決ければとらず、】この二國の長とは、そのかみの國造だちたる稱にはあらで、もと六鴈命の大御膳に仕奉始めたる國なるが故に、其由縁にて、この二國より貢進る御贄の事など總攝《フサ》ぬる長とし給ひたるなるべし、但し上總國とあるは、上【第一章】に論へるがごとく、總國を上下と割《ワカ》れたる、此御世より後の事なるべければ合はざれど、此詔詞、高橋の氏人の、上古より世々に語繼たる者ながら、同名などは、其事實を語らむには、當今の名を古にめぐらしていふは例《ツネ》なれば、詔詞とはいへど、事實に合へて唱變へたりしものなるべし、【すべて上古の事を記せる書は、此意しらひして、よくよみ辨ふべきなり、】然るに淡は上に論へるごとく、此氏文書記せる頃は、いまだ一國とは定られざりけむを、こゝに淡國とみえたるは合ひがたきを、つら/\推考ふるに、上古はおほらかにして、廣く大名に呼ふ地《トコロ》を限りて稱ふには、なにの國、くれの國と稱ひし例あるをおもへば、こゝなる淡國も其にて、もとのまゝの御言なるべし、【此ところの文の中、定字、要略一本に、從と作るは、决て訛なるべければとらず、又其定の下の天字、二本とも無きは、脱たるなり、下文の例によりて補ひたる也、】○餘氏【波】云々、【この餘氏波の下に連續ける六字の假字、二本互に誤寫あるを、甚異同を選びて、且字を萬とし、佐字を太とし、于字を波天と二字に書るをとりて、餘氏波萬介太麻波天と訂して書るなり、】餘氏は、保加乃宇遲《ホカノウヂ》とよむべし、六雁命の子孫《ウミノコ》の、繼嗣《ツギ/\》の外の人にはの意にて、【異姓《アダシウヂ》の由にはあらず、】物語ぶみなどに、外腹の男君、外腹の娘などいへる、外の意に近し、【外腹は妾腹にて、俗にわき腹といへり、この餘氏は、俗言に、わきの人にはと云はむがごとし、】此さし次に、若【之】膳臣等【乃】不2繼在1云々、と詔へる御詞にかけ合せて意得べし、萬介太麻【波天】は、任《マケ》賜はずしてなり、萬介は、京《ミヤコ》より他國の官に令v罷《マカラス》意にて、即まからせを約めて、萬介と云ふなり、【此萬介と云ふ由は、古事記傳九卷に説はれたるに依れり、委しき考は、本書を見て知るべし、】然るに、膳職は京官なれば、萬介とは云ふまじきことわりなるに、如此詔へるは、六鴈命もとより殊なる御寵にて、膳職の長にて仕奉りたりしかば、子孫に其職を受繼しめ給ふべきに、此時さらに上總安房の國の長とも定給へるにつきては、其國にも下るべければ、おのづから其かたを、もはらとして、萬介とは詔へるなるべし、【これ強説ならむには、氏人の唱來れる訛にてもあるべし、】○乎佐女太麻【波牟、】とは治賜はむとなり、上總國淡國の長とも定め賜ひ、寵みたまひて、宜く仕奉らしめ給はむとなり、【古事記傳十二卷に、治とは、凡て物を棄措ず取擧て、状に從ひて其がうへを宜く物するを云ふ、となほ委しく説はれたるがごとし、】○若【之】膳臣等【乃】不2繼在1朕【加】王子等【乎志天】他氏【乃】人等【乎】相交【天波】亂【良之女之、】いま行末もし膳臣等の繼嗣有らざらむには、皇子等をもて膳職と爲て、他氏人等を相交へて、膳職の業をば亂らしめたまはじとなり、【この朕加王子等乎志天云々と詔へるは、上の文に王子六※[獣偏+葛]命と詔ひたる叡慮をとほし給へるなり、
 
和加佐【乃】《ワカサノ》國【波】、六鴈命【爾】、永【久】子孫等《ウミノコラ》【可】、遠世《トホキヨ》【乃】國家【止】爲【止】《クニイヘトセヨト》定【天】授【介】腸【天支】、此事【波】世世《ヨヽ》【爾之】過【利】違《アヤマリタカ》【傍志】
 
和加佐【乃】國は、若狭國なり、【一本和字脱たり、】○國家【止】爲【止】定【天】授【介】腸【天支】、こは既に六雁命にこの國を賜ひて、永く領《ウシハ》きて子孫の家地《イヘドコロ》と爲よと定て、授給ひたりし由を詔へるなり、さて其國を授給ひたりし趣を推考るに、當昔いまだ國毎に必國造を置れたりとも聞えざれば、【但し第一章に、東方諸國造十二氏と見えたれば、東國に然ありし也、惣て古の國造の在状は、國造本紀、そのほか古書どもに參考へて、別に注せる稿あり、後に書とゝのふべし、】此御世の在状にてかゝる命も有しなるべし、さるは其國家にのみ住て在べきにあらざれば、常は朝廷に在りて膳職に供奉り、時《ヲリ》をもて其國に下りて政ごち、かつは遊息《ヤス》ましめ給へるなるべし、さて六雁命の子孫の相續て、若狹國を領きたりしと聞えたる事の證は、書紀履中卷に、三年冬十一月丙寅朔辛未、天皇泛2兩枝《フタマタ》船于磐余|市磯《イチシノ》池1、與2皇妃1各分乘儀而遊宴、膳臣|余磯《アレシ》獻v酒時櫻花落2于御盞1、天皇|異《アヤシミ》v之則召2物部|長眞膽《ナカマノイノ》連1詔曰、是花也|非時《トキジクニ》而來、其何處之花矣、汝自可v求、於是長眞膽連獨尋v花獲2于|掖上室《ワキガミノムロノ》山1而獻之、天皇歡2其《ソレ》希古《メツラシト》1爲2宮名1、故謂2磐余稚櫻宮1、其此之縁也、是日改2長眞膽連本姓1曰2稚櫻部造1、又號2膳臣|余磯《アレシ》1、曰2稚櫻部臣1、【古事記同御世段に、此御世於2若櫻部臣等1賜2若櫻部名1云々、】と見えたり、この余磯《アレシ》といへるは、國造本紀に、若狹國造、遠飛鳥朝御代【允恭】膳臣祖、佐白米命兒|荒磯《アレシノ》命定2賜國造1、と見えたる荒礪命これにて、【余磯、荒礪字の異なるは、古書の倒なり、】六雁命の後なるべきこと決《ウツナ》く、允恭天皇の御世におよびて、更めて國造と稱ふに定賜ひたりしなり、さて其余磯が賜はりたる嘉名《タヽヘナ》の、稚櫻部と云ふを、もとより領《ウシハ》ける國名にも改め負せて、和加佐と稱ふことゝなりしにぞあるべき、
〔注〕其より前の國名は、今考ふべき由なし、さて又若櫻を和加佐とも云ふべき例、その餘この條の事ども、かれこれ證ありて、委しき考あれど、説長ければ此には盡さず、其は若狹舊事考に云へり、又和名抄因幡國八上郡若櫻と云がありて、ワカサクラと假字をさしたれど、國人はワカサと云へり、今鳥取の城下の町名にも若櫻町といふがありて、ワカサマチといへりと、その國人鷲見安歡語れり、
しかればこゝの詔詞に、和加佐國とあるも、例の後の國名をめぐらして、唱變たりしものなり、○此事【波】、上のくだりの事をなり、○世世【爾之】は、後の御世御世に至りてもなり、之《シ》は助辭にて、世世【爾】といふに、深く意を入たる、あぢはひありてきこゆ、
〔注〕因に云ふ、すべてこの之《シ》の類の言を、やすめ辭と云ひなれ來つれど、たゞ文詞の調のみに加《ソ》ふるにはあらで、上の言に餘れる意を助加ふる辭ときこゆれば、たすけ辭とやいはまし、但しその餘意にも深きと淺きがありて、その淺きは、たゞ詞の調のみに加へたるがごともきこゆれど、まことは然にはあらじ、よく/\あぢはひ悟るべき事にこそ、
○過【利】違【傍志、】この詞連らねよみて意得べし、大自《オホミヅカラ》誓《ウケ》ひ給へる如き意の御詞なり、【中昔の武家下文に、件所領、永代不v可v有2相違1者也、など書るに、おのづから似たる意の文なり、
 
此志《コノコヽロザシ》【乎】知《シリ》【太比天】吉《ヨ》【久】膳職【乃】内《ウチ》【毛】外《ソト》【毛】護守《マモ》【利太比天、】家患【乃】《ミヤノウレヒノ》事|等《ラ》【毛】无【久】在【志女】給【太戸度奈毛】思食【止】宣【太麻不、】天皇【乃】大御命【良麻乎】虚《ソラ》【川】御魂【毛】聞【太戸度】申【止】宣【太麻不、】
 
此志【乎】、志は、尋常のごとく古々呂邪之《コヽロザシ》とよむべし、心の指向ふ由の言なり、○吉【久】は、宜くなり、○膳職【乃】内【毛】外【毛】護守【利太比、】【護の下一本利字あり、又一本比を天と作り共に誤なり、】膳職の内外《ウチト》を守護りたまへとなり、續紀十六卷の詔詞に、朕【乎】守【多比】十七卷の詔詞に、殿門荒穢【須】事无【久】守《トノカドアラシケガスコトナクマモリ》【川川】在《アラ》【自之】事《コト》、伊蘇《イソ》【之美】宇牟賀《ウムガ》【斯美】忘不給《ワスレタマハズ》、○家患【乃】事等【毛】无【久】、家患字よみがたし、誤字あるべし、強て考るに、家は宮の訛ならむか、又宮といふもすなはち御家《ミヤ》なれば、家と書て美也とよみもすべければ、しばらく美也とよみてあるべし、【一本家忠と作たれど、忠は誤寫なるべき事著ければ、論ふまでもあらず、】○在【志女】給【太戸、】給は、彼方に係たる崇《アガメ》辭、太戸《タベ》は、賜《タ》べにて、此方に受て賜はらむと云へる言づかひなり、○虚【川】御魂、【川字一本脱たり、】此虚【川】御魂のことは、上の卒上《ミマカリアガリ》のところに并せ云へり、○聞【太戸止】の太戸を、一本奈の一字に作なせるは誤なり、
 
   第三章
 
此章も、本朝月令六月十一日、神今食祭事の下に、高橋氏文云とて載たり、此は第二章に論へるごとく、延暦十一年に、素より在來れる氏文に書副たるものなり、
 
太政官符2神祇官1、定d高橋安曇二氏、供2奉神事御膳1行立先後u事、
 
秘抄、六月神今食事の下に、此氏文を引て、太政官符云、定d高橋安曇二氏云々事uと、この題百十八字を載たり、
 
右被2右大臣宣1※[人偏+稱の旁]、奉v勅、如v聞先代所v行神事之日、高橋朝臣等立v前供奉、安曇宿禰等更無v所v爭、但至2于飯高天皇御世1、靈龜二年十二月神今食之日、奉膳《ブゼン》從五位下安曇宿禰刀、語2典膳從七位上高橋朝臣|乎具須比《ヲグスヒ》1曰、刀《カタナハ》者官長年老、請2立v前供奉1、
 
飯高天皇は、御謚元正天皇、○奉膳は、職員令に、奉膳二人、掌d惣2知御膳進食1先甞事u、續紀に、神護景雲二年二月癸巳、勅准v令以2高箸安曇二氏1任2内膳司1者爲2奉膳1、其以2他氏1任v之者宜2名爲1v上、【式部式云、内膳司長官除2高箸安曇二氏1以外爲v上、】○典膳は、職員令内膳司奉膳の次に、典膳六人掌d造2供御膳1調c和庶味寒温之節u、
 
此時乎具須比答云、神事之日、供2奉御膳1者、膳臣等之職、非2他氏之事1、刀猶強論、乎具須比不v肯、如v此相論聞2於内裏1、有2勅判1、累世神事不v可2更改1、宜2依v例行1v之、自v爾以來无v有2爭論1、至2于寶龜六年六月神今食之日1、安曇宿禰廣吉強進前立、與2高橋波麻呂1相爭、挽2却廣吉1、事畢之後所司科v祓、于時波麻呂固辭、無v罪|何《イカデカ》共爲v祓、是言上聞更有2勅判1、上中之祓科2廣吉1訖、其後廣吉等妄以2僞辭1加2附氏記1、以v此申聞、自得v爲v先、因v茲高橋朝臣等雖v不2敢披1v訴、而憂憤之状稍有2顯出1、去延暦八年爲v有2私事1各進2記文1、即喚2二氏1勸2問事由1、兼捜2※[手偏+僉]日本紀及二氏私記1及v知2高橋氏之可1v先、而事經2先朝1、不v忍2卒改1、思欲v令d一先一後彼此無uv憂、雖v未v勅2所司1、而毎v臨2祭事1、宣知2二氏1遞令2先後1、而今内膳司奉膳正六位上安曇宿禰繼成、去年六月、十一月、十二月三度神事、頻爭在v前、猶不v肯進、仍勅d應v遞2先後1之状u、比來頻已告訖、宜d此度依v次令c高橋先u、而繼成不v奉2宣勅1、直出而退、竟不2仕奉1、爲v臣之理豈如v此乎、宜d稽2故事1以定2其次1、兼論2所犯1、准v法科斷u者、謹案2日本紀1、卷向日代宮御宇大足彦忍代別天皇五十三年、巡2狩東國1、渡2淡門1於v此是高橋氏預2奉御膳1之由也、及2輕島明宮御宇譽田天皇三年1。處々海人※[言+山]2※[口+厄]《サハメキテ》之1不v從v命、乃遣2安曇連祖大濱宿禰1平之日爲2海人之|宰《ミコトモチ》1、是安曇氏預2奉御膳1之由也、
 
先朝は、光仁天皇の御世、〇譽田天皇は、御謚應神天皇、○處々海人※[言+山]2※[口+厄]之1不v從v命云々、書紀應神卷に三年、處々海人※[言+山]2※[口+厄]之1不v從v命、則遣2阿曇連祖大濱宿禰1平2其※[言+山]2※[口+厄]1、因爲2海人之宰1、【古事記に、阿曇連等者綿津見神之子、宇津志日金拆命之子孫也、姓氏録に安曇宿禰海神、綿津積豐玉彦神子、穗高見命之後也、また安曇連綿積神命兒、穗高見命之後也、と見えたるのみにて、御膳の事に與るべき由緒《コトノモト》は見ず、古書どもにも見えたることなし、此氏は、海神の子孫《ノチ》なるから、固より海人の事に與れるによりて、基※[言+山]※[口+厄]を平げしめ給ひ、さらに宰《ミコトモチ》と爲給ひたりしなるべし、海人は、魚を捕りて御饌の料に奉るものなれば、其を掌れる由縁によりてなるべし、【但し上に引注せるごとく、大甞祭式に、伴造燧v火兼炊2御飯1、安曇宿禰吹v火、とみえたり、いかなる由ありての事なるにか、伴造は、膳大伴造なり、】
 
又安曇宿禰等※[疑の左+欠]云、御間城入彦五十瓊殖《ミマキイリヒコイニエノ》天皇御世、己等遠祖、大栲成吹、始奉2御細膳1者、仍※[手偏+驗の旁]2其私記文1、追註行下筆迹殊拙、不v庶v字※[(女/女)+干]詐之端於v是見矣、然則考2之國史1求2之家記1、磐鹿六鴈委2質於前1、大濱宿禰|策《シルス》2名於後1、時經2五代1、「歳」逾2二百1、相去懸遠、更无v可v疑2先後之次1、事已灼然、理須d以2高橋1爲v先、安曇在uv後、又繼成固執僞v記、臨v事爭v先恣v意遁去、遂不2供奉1、不v承2詔命1、無2人臣禮1、此而不v正何以懲v後、仍案2職制律1云、對2捍詔使1而無2人臣之禮1者絞、名例律云、對2捍詔使1而无2人臣之禮1者爲2大不敬1、又云、犯2八虐1獄成者除名者、今繼成所v犯准v犯、依v律處2絞刑1令2除名1、謹具v状奏聞者、奉v勅、宜d宥2其死1以處c遠流u、自餘依v奏者、官宜d承知以爲c永例u、符到奉行、延暦十一年三月十八日、
 
御間城入彦五十瓊殖天皇、御謚は崇神天皇、○考2之國史1、は上に謹案2日本紀1云々、○求2之家記1、家記とは、上に延暦八年爲v有2私事1各進2記文1、【各とは高橋安曇、】また二氏私記、【此二氏も同じ、】また※[手偏+驗の旁]2其家記1云々など云へるも、共にこの氏文の事にて、その名目を換たるは、文飾なり、〇時經2五代1歳逾2二百1、【五代の下、二本ともに、一字空たり、かならず歳字在べきところなり、はやくより蠶食などせる跟を餘せるものなるべし、今さらに補ふ、又二百を一本に三百と作るは訛なり、】經2五代1とは、景行天皇より、應神天皇までの五代を經といへるなり、【上の勘文にいへる、高橋安曇の祖祖の仕奉り始し、御代の懸隔をいへる文なり、】歳逾2二百1とは、五代の御世、二百三十九歳なるを、大數をもて作る文なり、○延暦十一年三月十八日、第一章加書の尾に、延暦十一年と記せるは、此勅判の年にて、其時此官符を寫副たるものなるべき事、彼處に云へるがごとし、さて此時の事は、【後紀に載られたるべきを、當時の卷いま闕て傳はらず、】類聚國史に、延暦十一年三月壬申、流2内膳奉膳正六位上安曇宿禰繼成於佐渡國1、初安曇高橋二氏、常爭d供2奉神事1行立前後u、是以去年十一月新甞之日、有v勅以2高橋氏1爲v前、而繼成不v遵2詔旨1、背v職出去、憲司請v誅v之、特有2恩旨1以減v死、と見えたり、【但しいま要略の本どもに、三月十九日と作たれど、類聚國史に、三月壬申とあるを、通暦をもて推考るに、壬申は十八日なり、然れば九は八の訛なる事著るければ、いま訂して書り、
 
  谷森種松の日影葛の考
日影葛は、日光《ヒカゲ》よくさす青山の清き地上に延蔓《ハヒツヾ》きて、木立に絡《マツ》はず、夏冬春秋にもやかへず、青くきよらに蔓《ツル》はひわかれて、ゆくさきざきに根を生《オロ》し、根をおろしては蔓のびゆきつゝ、彌つぎ/”\にその末さかえて、心ちよげにうるはしき蔓草にて、山かたづける里の童は、狐のたすきとあざなつきて、手襁にも帶にもして.翫ぶによく堪へて斷れぬものなり、その形状は、杉の若芽を今すこし心ふとく、葉いとほそく少さく和《ナゴ》やかにしたらむさまして、一丈二丈とはひわたれる本蔓より枝蔓あまた生ひわかれ、その枝ごとに又小枝ども多く生ひ出たり、その本蔓は、葉まばらに、枝蔓は葉いと繁くふさやかにてうるはし。ふとさは本末さしもかはらで、藁沓《ワラグツ》の乳緒《チヲ》のふとさしたり。世ばなれたる奥山には、手の大指のふとさばかりなるもありとぞ、さてこを信濃わたりの山ざと人は谷松《タニマツ》と呼びて、その戸隱山の山奥に、七里餘りのほどをはひ續きて、岨道《ソバミチ》の丸木橋のやうにて、人のふみゆく道にしたるなり、木曽路の山ざとに、三里ばかりのほどを、山賤の通路にしたるがありと(澤眞風の周遊奇談にくはしく)いへるは、幾千年をか經にたるものなるべき、今このものゝ質を考へみるに、所えて久しき年をも經たらむには、げにさもおひふとりぬべきありさまなりかし。そもこのひかげのかづらは、今もおほやけの毎年《トシゴト》の神わざに、時めかし給へるものにて、世にかくれなきを、既く神代紀に蘿字をしも填《ア》て給ひしによりて、漢籍にいはゆる女蘿の類ひぞと思ひ混《マガ》へて、木枝より懸《サカ》れるものぞと思ひ論《イ》へる説も、かつ/\きこゆるにつきて今かくなむ、
 
この高橋氏文考は、父君の中書し給ひし本のありしが、いにし弘化三年の神無月十四日、とみのみやまひにて身まかり給ひたりしに、書あらはし給へるくさ/”\の書どもの中に、その中書の見えざれば、學の友なる人々のもとにかしおき給ひつることのありもやせむと、こゝかしこ問ひ合せたれどしれず、いかなる人に見せ給ひけむ、ことし四とせになりぬれどかへり來ぬぞ、いともいともあたらしきことになむありける、ふみ見るほどの人の、かゝることあるべきにはあらねど、世には心ぎたなき人もあるならひなれば、さるかたにかくしもてるにかあらむ、ことに薩摩人山田清安、この京に在しほどに寫しもてるは、身まかりたまひし年のその春のころ、本書もて寫しおきたりといふをきゝて、こたびかりえて手づからかくはうつしおきぬ、その考の中、後にまた書そへあるは削り給ひけむ所らもあらんかし、されど今にしられぬぞ口をしき、また身まかり給ひし年の九月に、この日影の葛の考につきて、京人谷森種松の考られたるよしをきゝ給ひ、御心にかなへりとて、その考をも書しるしおかむとの給ひたりしとぞ、そのこと後に種松のおのれにかたられし.その考によりてまた下書してある人にあとらへ、中書をもなさしめ給ひたり、されどその書載せ給ひしよしは、わすれたりとその人もいへるぞ口をしき、さることゞもきくにつけて、おもへばそのをりのことなりき、かつらのみづ/\しきを、父君の己れにも見せ給ひて、こは種松のおくられたるなり、これかのかつらといふものなり、いかにもうるはしくすが/\しきものかなとて、文机のあたりにかけてめで給ひしが、その葉の色もかはらぬほどに身まかり給ひぬ、かゝる事もしらで、かつらのながきためしにこころひかれて、つばらにきかでありしは、いとも/\はかなくうれたきことにこそは有けれ、中書までものし給ひたりしをもておもへば、うつなく本書にかきそへ給ひけんことしるけれど、いまはしるよしなく、かへす/”\も口をしき事になむありける、その種松の考をこたびこひ得て、この寫しまきの末にかくはかきそへつ、この後に本書の出來て、またそのうつし世に出なむとき、この寫しまきとのたがひめをうたがふ人もあらむかと、その故よしをかく記しおくになむ、かのおくられしかつらはめで給ひしうへに、また後のあかしにもと今にもてり、さてまた父君のひつぎのみともして、同じき十六日といふ日に、京を立て山中といふ道を若狹へゆきけるとき、所はわすれたり、深き谷蔭にいとながき葛のはひひろがりてありしを、かのめでたまひしことの更におもひ出られて、ふたすぢみすぢとりゆきて、御墓所にかけ奉りたりき.かかることも御こゝろにかなひ給へるゆゑにもあらむかし、嘉永二年といふとし七月九日、京二條堀川の御やしきにて、
                  伴  信  近
 
右高橋氏文考一册借京師山根氏之本課人令摸寫一枚訖
                   神 谷 克 ※[木+貞]
 
安政五年六月五日以尾張國人神谷氏藏本摸寫了
                   新田源朝臣武智良
 
以武智良藏本於客江旅寓謄寫畢
 
文久二年壬戌十二月十日        小杉源眞瓶
 
       2007年11月24日(土)午後5時12分、入力了、
伴信友全集そのものが、御覧になられたかたはおわかりでしょうが、活字が不鮮明です。そこへもって近代電子図書館本がさらにそれを不鮮明にしています。さらにそれを認識ソフトにかけるのですから、その読みにくさは大変なものです。やりだしたころはうんざりしましたが、だんだん慣れてきました。それでもさぞ誤植も多く、読みにくいものでしょう。ご勘弁願います。更に言えば、外字のやっかいなことです。こんな状態で電子化しても果たした役に立つのだろうかと思います。
      2008年3月22日(土)午後3時41分、校正終了。我が家の桜の大木は、一輪が今にもほころびそうになっている。近くで見るとこい桜色である。校正終了といっても、完全に出来たという自信はありません。閑があれば再校したいと思っています。