和辻哲郎全集第三巻 日本古代文化・埋もれた日本、岩波書店、524頁、2800円、1962.1.8(77.1.17.2p)、市立図書館
日本古代文化
〔口絵の写真省略〕
(3) 新 版 序
この書に関して著者は、初めのうちには左翼から、後には右翼から、いろいろな形の圧力をうけたが、しかし当局の弾圧をうけたことは全然なかった。昭和十二三年のころ、右翼の策動から著者を護る、という名目の下に、当局から一二の注意をうけたことはある。その時の注意事項は、(一)日本武尊を重ね写真のようなものだと言っている点、(二)魏志倭人伝の倭王卑弥呼にあてた明帝の詔書を訳して掲げている点であった。これらが右翼の攻撃の手がかりになるだろうというのであった。で、昭和十四年に改稿版を出したとき、(一)を削り、(二)は訳文の代わりに原文を掲げた。(一)を削ったのは、当時著者が「重ね写真」という考えを捨てていたからである。重ね写真は個人個人をはっきり写し出していないにしても、とにかく現実の人物を写している。しかし日本武尊は全然現実の人物ではないであろう。だから重ね写真の説は引っ込めたのである。(二)の方は魏志に載っている文章であるから、いいも悪いもない。材料として必要であるから引っ込めるわけには行かない。が、せっかくの注意であるから原文になおしたのである。それはこの版でもそのままになっている。
昭和十九年ごろ、右翼の論客がこの書をしきりに槍玉にあげ出した。著者はただ雑誌や新聞でその攻撃文を読むだけであったが、当局の係官は、この書を処分せよというその連中の膝詰め談判に逢って、うるさくてやりきれないという話であった。で、昭和二十年の正月ごろに、著者は係官からの懇談をうけたのである。あの連中は今貴族院の二三の議員と結託して、この議会で問題にしようとたくらんでいる。津田左右吉氏の著書の先例もあって、当局が発売(4)禁止にしないとがんばっていてもだめにされてしまう。ついては、『日本古代文化』はもう重版はしないと約束してもらえまいか。その約束があれば、当局の方で先手をうって、右翼の策動を封ずることができる、というのであった。著者はその係官が実際に誠意をもって事に当たっているように感じたし、当時の出版事情として重版などは思いも寄らないことであったから、至極単純にその約束に応じたのである。これがこの書のうけた最大の弾圧であったといってよい。
このようなことをここに書くのは、この書が大正九年に初版を出して以来、昭和二十年まで二十五年間、日本の当局の弾圧を受けずに、何人にも読まれ得る状態にあった、ということを言いたいためである。戦後、日本の歴史の研究について、実にでたらめな浮説が行なわれている。研究の自由が全然許されていなかったとか、真相が全然おおいかくされていたとか、少しでも研究の実状を知っている人なら言われないはずのことが、公然言われていた。学校の歴史の教科書にどういうことが書かれていようと、また一部の国史家がどういうかたよった態度をとっていようと、それはまじめな国史の研究者の責任ではない。教科書に書かれていたことを種にして右のような判断を下したとすれば、それは文教当局や政治家の責任と国史の研究者の責任とを全然混同するものである。研究は自由に行なわれ得たし、その成果の発表も、今度の戦争の起こるころまでは、弾圧されはしなかった。ただ政治家や軍人や教育家などが、その研究の成果を受け容れようとしなかっただけである。
著者はこのことの一つの証拠として、この書をわざと昭和十四年の改稿版のままで再刊しようと思ったのであるが、しかしいざとなると、そういうつまらない浮説に対する面あてよりも、学問の方が大切であると思い返さざるを得なかった。で、この新版においては、右の改稿版以後十余年の間に気づいたさまざまの点を書きかえた。その分量は前(5)の改稿版の時よりもかえって多かったかも知れない。それによって著者は、きわめて少しずつではあるが、前にわからなかった個所を明らかにし得たと思う。
昭和二十六年三月
著 者
(6) 昭和十四年改稿版序
この書の新版を刊行するに当たり、日本の古代文化に関するこの二十年来の研究の進歩を回想して、深き感慨なきを得ない。
自分は元来国史学を専攻したものではない。また三十近くなるまでその方の文献に親しんだこともなかった。しかるに大正六年、二十九歳の年の初めごろから、急に日本の古代に対する関心が起こり、飛鳥、奈良時代の彫刻建築などのような偉大な芸術を創造した日本人は一体何物であったかという疑問が、烈しく自分の心をそそり立てた。自分はこの疑問に追い立てられて、まず久米邦武氏の『日本古代史』を読んだことを覚えている。ついでそのころに出た津田左右吉氏の『文学に現はれたる我が国民思想の研究、貴族文学の時代』からいろいろな意味で刺戟を受け、その書によって知った同氏の『神代史の新しい研究』を古本屋から捜し求めた。しかし自分の疑問が津田氏の考察とちょうど逆の方向に向かっていたため、疑問はますます強められる結果となった。そういう刺戟のもとに自分は初めて腰を落ちつけて本居宣長の『古事記伝』を通読し、古事記の美しさに打たれるとともにわが国の真の学者の偉大さに目ざめたのである。
このような事情の下に大正七八年のころには日本の古代あるいは先史時代に関する文献を漁って読んだ。『史学雑誌』『芸文』『人類学雑誌』『東洋学芸雑誌』『現代の科学』『歴史と地理』というごとき雑誌に現われた白鳥庫吉氏、内藤湖南氏、長谷部言人民、松本彦七郎氏、中山平次郎氏などの論文は、皆非常に印象の深いものであった。京大文(7)学部の考古学研究報告が出姶めたのもちょうどそのころで、自分が初めてその大きい価値に氣づいた時には、第一冊(大正六年)、第二冊(大正七年)はいずれも絶版で手に入らなかった。第一冊『肥後に於ける装飾ある古墳及横穴』を見るために、上野の図書館に行ったこともある。そのころ自分は国史学や考古学を専攻する人々の間に友人を持たなかったから、何人かの助言を得る便宜もなく、まるで独学者のように盲さがしをやっていたのである。
大正八年には津田左右吉氏の『古事記及び日本書紀の新研究』が出た。この詳細な本文批評は自分にとって非常にありがたいものであった。古事記や日本書紀の史料としての価値があのように薄められるということは、自分にとってはかえって強く記紀の大きい価値を見いださしめる機縁となった。我々はこれらの書において上代人の構想力の働きをまざまざと看取し得るのである。他方には考古学が我々自身の目でもって見ることのできる遺品を提供している。それらを照らし合わせて考察すれば、そこに表現せられている生きた上代人に我々は触れることができるであろう。かかる見地からして自分は、古事記を一つの文芸的作品として理解するとか、記紀に挿入されている歌謡を純粋に歌謡として鑑賞するとか、考古学的遺品における形象創造力の特性に注意するとか、というごとき仕方で上代人に迫って行くことを試みた。そうしてこれらの芸術品を作った上代人が、一度新しい造形の技術を学び取れば、飛鳥、奈良時代のあの彫刻や建築を作るに至るのは毫も不思議でないという答案を得たのである。それを自分は大正九年にこの書として書いた。
今から考えれば誠に幼稚な疑問であり幼稚な答案であって汗顔に堪えない。しかし当時の自分としてはこの解決を得たことが実に嬉しかったのである。その後二十年の間に自分は幾冊かの愚著を書いたが、この書を書き上げた時ほど嬉しかったことは一度もない。そういう点でこの書は自分一己にとっては深い記念の意味を担っている。もちろん、(8)それによってこの書が価値を増すわけではないが、紙型の磨滅とともにおのずから絶版にすることにもせず、ここに新版を出すに至ったのは、主として右のごとき事情に基づくこの書への愛着によるのである。
今ではもう自分と同じような疑問を抱く人もなかろうと思うが、かりに自分と同じく我々の祖先の偉大性をさがし求める人があったとしても、その人はもはや自分のように盲さがしをやる必要はないのである。大正九年以後の二十年間は、すっかり学界の事情を変えた。先史考古学だけについて言っても、京都の考古学研究報告が続々として刊行せられ、昭和十二年に第十四冊に達している。ほかに、諸府県の史蹟調査報告、朝鮮の古蹟調査報告、東方文化学院京都研究所報告などおびただしい量に達している。それに専門の雑誌の研究報告を加えると、素人には到底見渡しきれないほどの文献が堆積しているのである。従ってこの方面について何かを知りたいと思えば、まず専門の学者の導きに従うほかはない。そうしてそういう手引きの書もちゃんとできている。例えば昭和十三年に出た『日本文化史大系、第一巻』(誠文堂新光社)のごときがそれである。そこに収められた金関宮内両氏の『日本人種の構成』、八幡一郎氏の『繩紋式文化』、小林行雄氏の『弥生式文化』、後藤守一氏の『古墳文化』など、最近までの研究への指南を与えるものとして、まことに申しぶんのないものと思われる。なおほかに目下続刊中の『人類学・先史学講座』(雄山閣)に収められた八幡一郎氏の『先史時代の交易』、直良信夫氏の『史前日本人の食糧文化』、三森定男氏の『先史時代の西部日本』なども皆好き手引きとなるものであって、もし二十年前に自分がこれらの論文を読むことができたのであったら、自分はそれに満足して、自ら古代文化の叙述を企てたりなどはしなかったろうと思われる。それほど事情が変わっているのである。
他の諸方面についても、それぞれこの二十年間の事情の変化を挙げることができるであろうが、それほど全面的に(9)事情が変わったとすれば、日本古代文化の叙述はすっかりやり換えられなくてはならぬのである。ちょうどこの書は組み直すべき時期にもなっているので、自分は根本的なやり直しを思い立ち、昨年あたりから増刷りを停めて手入れにかかった。しかし手をつけてみると、二十年の歳月が何であるかを否おうなしに思い知らされた。日本古代文化の叙述は、むしろ全然新しい構図の下に新しくなされねばならぬ。その方が仕事は楽である。かくて手入れの仕事は一年ほど放置された。
今年の春休みに、ふとした刺戟から、旧著の我慢のならない個所を消しにかかってみた。もし残るところがなければ絶版にするほかはないと考えたのである。ところで結果は案外に残るところが多かった。そこで消した個所には新しく書き足し、書きつなぎ、もとの構図を変えることなしに手入れができあがった。だからこれは欧米人のいわゆる『手入れをした第二版』なのである。もっともこの書は大地震後大正十四年に三十六ページほど書き直したことがあるから、第三版と言ってよいかも知れぬ。
新版成るに際し、この書に連関して種々好意を受けた原勝郎、内藤湖南、藤井健治郎、浜田耕作の諸先生に深き感謝を捧げる。
昭和十四年七月
著 者
(10) 改訂版序
大震災後絶版にしていたこの書を再刊するに当たって、自分はとくに必要と思われる個所に改訂を施した。そのおもなるものは、第一章上代史概観の約四分の一(三十六ページほど)を書きなおしたことである。それによって議論の立て方は全然別なものになった。しかし大体の主張においては初版と変わりがない。
この改訂については、「人から借りた足場を取り払って見るがよい」という故原勝郎氏の忠告に負うところが多い。自分はこの忠告に従って、ほかの人のどの説にも究局の根拠を求めないように注意した。なお最近の考古学的研究に関して梅原末治氏の懇切なる教示に負うところ少なくなかった。
大正十四年三月七日
(11) 初 版 序
この書は日本古代文化の歴史的叙述及び評価の試みである。ここに自分は、仏教文化の影響を受けない時代の、日本文化の真相を明らかにし得たと信ずる。
がこの、いくらか大胆過ぎるかも知れない労作を発表するに当たって、自分は自分の立場を明らかにしておかなくてはならない。日本文化、とくに日本古代文化は、四年以前の自分にとっては、ほとんど「無」であった。すでに少年時代以来、数知れぬさまざまの理由が、日本在来のあらゆる偶像を破壊しつくしていたのである。が、一人の人間の死が偶然に自分の心に呼び起こした仏教への驚異、及び続いて起こった飛鳥、奈良朝仏教美術への驚嘆が、はからずも自分を日本の過去へ連れて行った。そうしてこの種の偉大なる価値を創造した日本人は、そもそも何であるかという疑問を、烈しく自分の心に植えつけた。(かつて雑誌『思想』に発表した二三の未熟な――抹殺せらるべき――研究は、この疑問が直ちに解答の形をとって現われたものである。)この書もまたこの疑問から生まれたものにほかならない。
在来の日本古代史及び古代文学の批評は、自分の疑問に対して何らの解答をも与えなかった。がそれは当然である。それらの多くの著書は、その国粋謳歌の情熱にかかわらず、むしろ自分にとって偶像破壊の資料を提供したものに過ぎなかった。ここにおいて自分は、すべてが破壊しつくされた跡に一つの新しい殿堂を建築すべく、全然新しい道を取らなくてはならなかった。で自分は、一個の「人間」として最も公平だと思われる立場に立って、自分の眼をもっ(12)て材料に向かった。そこには自分の予感に適応するさまざまの価値が見いだされた。そうしてそれが自分の疑問に対する最もふさわしい解答だったのである。
だからこの書は、建設の書であって破壊の書ではない。
最後に、この書の成立について、とくに阿部次郎君に感謝しなくてはならない。君はその同情と洞察とソクラテス的なる助産術とによって、しばしば自分の考えの開展を助けてくれた。君の助力なくしては、この書は、今あるよりもはるかに不完全なものであったに違いない。
大正九年九月二十日
(13) 目 次
新版序…………………………………………………………………三
昭和十四年改稿版序…………………………………………………六
改訂版序……………………………………………………………一〇
初版序………………………………………………………………一一
第一章 上代史概観…………………………………………………一七
一 日本民族の由来………………………………………………一七
二 魏志倭人伝……………………………………………………二五
三 記紀の伝承との比較…………………………………………五〇
四 銅鉾銅剣と銅鐸………………………………………………五六
五 国家統一と考古学的証跡……………………………………五九
六 朝鮮への進出…………………………………………………七五
七 古墳の遺物……………………………………………………八三
八 朝鮮出征直後の時代…………………………………………九一
(14) 九 六朝技術摂取の時代……………………………………九七
一〇 仏教渡来前後の時代……………………………………一〇二
第二章 漢文化の日本化過程……………………………………一一四
一 漢文化の運搬者としての帰化人の痕跡…………………一一四
二 漢人移住の伝説……………………………………………一一六
三 氏姓制度……………………………………………………一二二
四 漢字の習得…………………………………………………一二八
五 上代日本文の成立過程……………………………………一三二
六 帰化人と技芸………………………………………………一四三
七 伝説歌謡における外来的要素……………………………一四七
第三章 古事記の芸術的価値……………………………………一五四
一 古事記の成立年代…………………………………………一五四
二 文芸的作品としての構図…………………………………一五九
三 文芸的作品としての特徴…………………………………一八九
第四章 歌謡………………………………………………………二〇三
一 国民文芸としての上代歌謡………………………………二〇三
(15) 二 上代歌謡の特質………………………………………二〇五
三 形式の発展…………………………………………………二二五
四 歌謡に現われたる上代人の感情…………………………二三九
五 湿やかな心情………………………………………………二五七
第五章 上代の宗教、道徳、美術………………………………二六〇
一 信仰と神話…………………………………………………二六〇
二 道徳思想……………………………………………………二七九
三 造形美術……………………………………………………二九三
(16) 挿絵目次
口絵1 肥後国日奈久町永迫古墳石室槨壁の一部
筑前国嘉穂郡桂川村寿命古墳内部の壁画………………二−三
口絵2 切妻形埴輪家 上野国多野郡平井村大字白石出土
埴輪馬 武蔵国北埼玉郡上中条村出土…………………二−三
口絵3 兜 上総国君津郡清川村祝園発掘………………………二−三
挿絵1 原型鏡推定模造鏡対照図…………………………………二九四−二九五
挿絵2 模造鏡………………………………………………………二九四−二九五
挿絵3 太刀圭頭 上野国多野郡藤岡町出土
太刀柄金具文様 武蔵国埼玉郡荒見村古墳発見
環刀柄頭 上総国君津郡飯野村出土
環刀柄頭 下総国猿島郡猿島村大字金岡出土…………二九四−二九五
挿絵4 埴輪土偶……………………………………………………三〇二−三〇三
挿絵5 陶棺装飾浮き彫り画………………………………………三〇二−三〇三
(17) 第一章 上代史概観
一 日本民族の由来
仏教渡来前の文化を古事記日本書紀の伝説歌謡や古墳の遺物などによって観察しょうとする我々の試みにとっては、「日本民族の由来」のごときはあまりに遠すぎる問題であるが、しかし出発点においては、この間題を避けるわけにも行かぬであろう。
日本民族についての人類学者の研究は、いまだ定説をなすに至っていない。現在の日本民族において認められる型種すら、あるいは二種と言われ、あるいは四種と言われ、あるいは九種と言われ、帰一するところを知らない。ただ、日本民族が二個以上〔四字傍点〕の人種の合成によってできているという一点において、ほぼ異論がないという程度である。だからそれらの人種がいかなる人種であり、どの時代から日本に住んでいたかというごとき問題になれば、研究は一層困難であって、今やようやくその緒が見いだされたという状態に過ぎぬのである。がその中にあって最も注目すべきは、貝塚出土の石器時代人骨を一千体近く収集し、厳密に科学的方法をもってこれを処理しようとしている清野博士及びその門下の研究であろう。その結果によれば、この日本の島に初めて人類が渡来して津々浦々にまで広まったのは、原始的な石器を使用していた非常に古い昔の事である。この初来人はいずれアジア大陸からこの無人島に上陸したものと思われるが、しかしそのころには大陸にも現在の住民と異なった祖型人種がいたのであろうから、大陸における(18)石器時代人骨の研究が十分に行なわれなければ、どこからどれが来たということをきめるわけには行かない。現在までの所見によれば、日本石器時代人種は.一種独特なる人種である。この人種が日本全島に広まった後に、再び大陸から、あるいは南洋から、種々なる人種が渡来して混血が行なわれたであろうが、日本石器時代人の体質を一挙に変化せしめるような大変化はなかった。すなわち日本石器時代人を追い払って新人種が変わったという形跡はない。ただ時代の進むにつれ、混血や、環境・生活状態の変化などにより、漸次その体質が変化して現代日本人となったのである。現代アイヌ人も同様にこの祖先から出て来た。この意味において日本島は人類棲息以来日本人の故郷である。日本人はアイヌの母地に侵入し、それを占領して住居したのではない。日本人種の母地、日本人の故郷は、日本に人類が住居して以来、日本国である。
この見解は、日本人の祖先が石器時代以来この国に住んでいたことを主張している長谷部言人氏や松本彦七郎氏の研究を、さらに一層推し進めたものと見ることができる。従って石器時代人骨の研究が将来さらにこの方向に発展して行くだろうことも察するに難くないのである。
人類学の示しているこの成果は、日本においてかつて人種戦が行なわれなかったことを実証するものであって、その意義きわめて重大である。この点から、日本民族の特殊な性格がすでに石器時代に始まっていることを、我々は見いだし得るのである。
近来著しく発展した石器時代器具の研究も大体において右と同様の方向に向かっている。かつてアイヌ式土器、あるいは繩紋土器として簡単に考えられていたものは、今や中石器時代以来数千年の間の発展を含むものとして詳細に(19)分類されるに至った。八幡一郎氏の綜合的叙述によると、繩紋土器の文化は前中後の三期七系に分かたれる。前期は沖積世初頭に当たり、人口なお稀薄ながらもすでに全国にわたっている。最初の単純な土器製作に対して、技術上に大きい変革が起こり、それが一地方から他地方に伝播したというごとき点までも立証された。この期の末にはすでに硬玉製装飾品、牙製勾玉、※[王+決の旁]状耳飾りなどが見られる。中期には、聚落の数及び大いさは漸次大となり、石器土器が著しく進歩し、土偶を製作するに至っている。後期は弥生式文化の影響が推測せられる時期であって、土器の形態に急激なる変化が見られ、磨製石器が激増する。聚落は一層大となり、低地への進出の傾向が漸次顕著になる。この時期に、繩紋式文化はその発達の極点に達し、やがて弥生式文化に代わるに至ったのである。
弥生式文化は種々の点において明白に繩紋式文化と異なっている。繩紋式文化が打製石器を主とするに対して、弥生式文化は磨製石器を主とする。繩紋式文化には農耕生活の痕跡がほとんど認められぬに対して、弥生式文化にはそれが顕著である。が最も大きい相違は、弥生式文化がすでに銅器鉄器を製作利用したという点であろう。かかる新しい文化は何によって始まったか。それは西方からの文化的影響によるのか、あるいはこの文化を担った別の人種の渡来によるのか。もし後者であるとすれば、この島に人類が住んで以来、すなわち数千年来、初めての大事件が起こったわけであるが、そのような大きい抗争が何かによって立証せられるであろうか。否、遺物の示すところは繩紋式文化産物への弥生式文化の浸透であって、抗争の痕ではない。
すでに古く松本彦七郎氏は、土器包含層において分層的に一定の系列をなせる土器の間に、漸遷的な変化はあっても截然たる区別はない、ということを主張した。そうして、この種の多くの遺跡を古生物学的層位学的に型式づけて、下層の繩紋土器より上層の無紋土器及び古墳時代の斎瓮に至るまでを六期六式に細別した。その六期を通ずる変化は、(20)常に一定の法則に従って、一の模様の発達減退、次の模様の発達減退というふうに同一の経過を繰り返して結局無紋土器に到着する。それには例外もあり、また外来の影響も(特に斎瓮の形態や焼きにおいて著しいごとく)加わっているが、しかし大体においてこれらの土器は最初から日本の土器として変遷し日本の土器としての系統を保っている。すなわち最も古い土器も系統を追うて上古の斎瓮に連絡するのである。この事実は繩紋土器を製作した種族が漸を追うて祝部土器使用の種族に変遷したことを語るのであって、上層の土器が原日本人のものであるならば、下層の土器もまた原日本人のものでなくてはならぬ。この見解はその後の著しい研究の発達によっても、決してくつがえされてはいないと思う。繩紋土器の使用者を単純に「先住民」などと呼ぶのははなはだしく軽率である。
しからば、沖積世の初頭以来数千年続いた繩紋式文化を押しのけて、それに代わって現われた弥生式文化は、いつごろに始まったのであろうか。それは金属器使用の開始の時期によってほぼ見当がつくと思われる。九州の遺跡においては銅鉾銅剣等が口を合わせた弥生式大甕の中から見いだされ、同じ地点に石斧も存在した。また石器とともに王莽時代の古銭や鉄器の破片が出た。銅鉾とともにシナ古鏡も発見せられた。これらの古銭古鏡によって判ずれば、王莽時代から後漢初期(10−50)に至るころに日本人が石器とともに金属器を使用していたことは明らかである(中山平次郎氏『北九州の文化』)。従って金属器を使用し始めた時期はそれより何ほどか前でなくてはならぬ。銅鉾、銅剣のうち刃の鋭い小形のものはシナ秦式のものと同形で、輸入品かも知れぬと見られているから、日本人がそれに接したのは、漢以前、すなわち西紀前三世紀であったかも知れぬ。銅鐸はすべて日本製であるが、梅原末治氏によると、それらが大和を中心とする地域において作られたのは、西暦前二世紀ごろより王莽前後にわたる時代であるらしい。しからばわが国における金属器使用の上限は、古くとも西暦前二三世紀をいづることはできない。これは悠久な繩紋式文化の(21)時代に比すればきわめて新しいことである。そうしてこの新しさは、弥生式文化を担っている民族を考える上に、さまざまの視点を提供することになるであろう。
弥生式文化の出現が、もし異人種の渡来を意味するとすれば、この文化が秦代銅器の伝統を負うている点から考えて、この人種は大陸から来たと見られねばならない。そうすれば我々は西紀前三世紀の大陸に、日本人の祖先を求め得ることになる。従って白鳥庫吉氏がシナ外郭の諸民族の言語を熱心に研究して日本語の源を探ろうとしたことは、ちょうどその急所を突いたことになるであろう。しかるに白鳥氏の研究の結果は、日本語の源が大陸のどこにも求められ得ないということに帰着した。特に氏は数詞の比較研究によって、日本語が大陸のどの民族の語にも似ないこと、日本人は一二三四六八というごとき単純な数を数える時代からこの国土におり、そうしてこの国土において千、万、八十万、八百万というごとき数を数え得るまでに発達して来たのであることを主張するに至った。これは全然言語学的立場での研究であって、人類学や先史考古学を参照したものではない。しかもそれは、沖積世の初頭以来日本人がこの国土に住みこの国土において発達変遷して来たという人類学や考古学の研究と、符節を合するのである。
そうなれば弥生式文化がいかに截然と繩紋式文化から区別せられ得るにしても、それはこの国土における人種的関係の急激な変化ではないと見られねばならない。従って日本民族の由来は、西紀前三世紀というごとき新しい時期に求めらるべきものではないのである。我々の祖先がこの国土に住みついて以来の年数は歴史時代とは全然異なった標準〔六字傍点〕によって、すなわち「地層」によって量られねばならぬ。地質学的生物学的研究によれば、石器を包含せる地層〔二字傍点〕の示す世界には我々の知る動物群とは異なった動物群が住んでいた。瀬戸内海の蛤や赤貝は、海水の塩分が今日よりも濃かったろうと思えるほどに著しく今日のものとは異なり、北陸に住んでいた猪や鹿は、今日の日本種よりもはるか(22)に巨大であった。歴史時代の初めには牛を持たなかった日本も、石器時代には野牛を持っていたらしい。これらの事情から、貝塚の一部は洪積紀の終わりに属するかとさえも考えられる。備中津雲の貝塚のごときは沖積世最古期のものであろう。なおまた当時の人体も、右の津雲貝塚の人骨研究によれば、強度の肉食型であった。これらの事実によってまた古い世界の気候が今日よりははるかに寒冷であったことも想像せられる。あまり古からぬ太古に水期が四度襲来し、その間に現在以上暖かかった間水期が三度あって、現在は第四水期の第二極大期の下り坂の根に当たっていると言われている。そうしてこの下り坂も小刻みな気候変遷によって進行する。氷期後の河川段丘は気候変遷によって生じたとさえも説かれた。しからば地層の示す世界は、幾度かの気候変遷、山河の推移を経て、ようやく歴史時代に到達するのである。かつては武蔵野の奥の入間郡が海浜であり、そこで太古人が貝を食って貝殻を捨てた。そのころから現在のごとく東京湾が埋まって来るまでには、実に幾千年の年月がたったかわからない。松本彦七郎氏の仮説のごとく、原日本人たる汎アイヌ人種群が暗色欧州人種群と同一の系統に属し、それがペルシア、インド、南洋を経て日本に渡来したものであるとしても、その渡来の時期は入間郡が海浜であった大昔である。また朝鮮半島から他の人種が遷移して来たとしても、それが中石器時代の文化を背負ってこの国土に来たり、この国土において石器を発達させたと見られる以上、その年代は地質学的に研究されねばならぬ。もちろんその後の時代に、アジア大陸から、あるいは黒潮に乗って南方から、いろいろの人種が渡来したことも、恐らくはあったであろうが、それらは歴史時代に至って特にその種族的特徴を示さないほど、完全に日本民族と化していた。で、これらの諸人種を包摂して歴史時代の「日本民族」をなすに至るまでには、日本歴史開けて以来の年月よりも、はるかに長い年月が費やされているのである。その長い間の民族生成の歴史を、紀元後五六世紀ごろに完成せられたと言われる記紀の伝説から見いだそうと(23)するなどは、まずまず不可能と言わなくてはならない。
いかなる人種が新しい時代に日本に移住したとしても、日本民族を構成した主要成分は石器時代からこの国土にいた。そうして古い文化から新しい文化へと変移して行った永い年月の間に、(その体型的差異はとにかくとして、)その生活においては〔九字傍点〕一つの民族となり切っていた。そうしてその動かし難い証拠として「一つの日本語」ができあがっている。それは西紀前三世紀以来この国土にひろまったというような新しい言語ではなく、この国土における中石器時代の荒い打石器を思わせるほど、この国土に即した古い痕跡を含んだものである。そうしてさまざまの外来の影響を受け容れながらも、きわめて独特な、他のいかなる民族の言語にも結びつけることのできない、一つの言語として生成して来たものである。
以上の考察を総括して言えば、我々の知ろうとする時代の日本民族は、すでに永い年月をこの国土に送り、すでに一つの〔三字傍点〕民族となり、石器の使用より金属の使用に、漁猟時代より農業時代に移っていた。我々の上代文化観察はかくのごとき「できあがった日本民族」を出発点としなくてはならぬ。
さてこの日本民族の気稟を観察するについては、まず我々の島国の親しむべく愛すべき「自然」の影響が考えられなくてはならぬ。我々の祖先は、この島国の気候風土が現在のような状態に確定したころから、漸次この新状態に適応して、自らの心身状態をも変えて行ったに相違ない。もしそうであれば、我々の考察する時代には、すでにこの国土の自然が彼らの血肉に浸透し切っていたはずである。温和なこの国土の気候は、彼らの衝動を温和にし彼らの願望を調和的ならしめたであろう。久しい間魚貝と果菜を食糧として来た彼らは、猛獣と戦い家畜を殺して食うという生(24)活からは遠く、従って、殺伐な気風を養わなかったであろう。また肥沃な土壌と、豊かな内海、入り江、湖沼、河川などは、食物競争から彼らを解放して、平和な生活に馴れしめたに相違ない。さらにまた魚貝と果菜との食養は、体質をも心理的素質をも規定して、淡泊な意欲、刹那的にのみ〔三字傍点〕烈しい感情というふうな、凶暴でない心を造り出したことであろう。
直良信夫氏の『史前日本人の食糧文化』は、貝塚遺跡から丹念に食糧に関する遺物を拾い集めて、日本石器時代人の食糧や料理の方法を考察したおもしろい論文であるが、それによれば、農耕を学び取るまでの数千年間、我々の祖先は、蠣、蛤、蚫などを初め三百種近い貝類、鯛、鱸、鮪など四十種近い魚類、その他蝦、蟹などを多量に食していた。その表を見ると、我々素人が食品として知っている魚貝顆はすべて網羅せられているようである。他に鳥類四種、哺乳類五十種ほどがあげられているが、西日本の石器時代は四足をあまり食せず、北日本の遺跡に獣骨が多く見られるそうである。また遺跡の性質上植物の痕跡は得難いが、泥炭層の遺跡によって、クルミ、栗、柿、桃、梅、その他六十種近い植物が検出せられている。直良氏は風土の関係上植物質食品が主食物であったに相違ないことを推定しているが、恐らくそうであったろうと思われる。
そうしてみれば、日本人は太古から魚貝と植物とを食っていたのである。従って稲の耕作を学び取った後にも、食糧の上に質的変化はなかったであろう。日本人は本来菜魚食人種としての温和な性情を持っていたのである。だから、西暦紀元前後〔二字傍点〕三四百年の時代に、日本人が急激に発達を始めた時にも、彼らはこの優美な自然に似つかわしい温良な民族であった。そうしてこの特色は、暴王の烈しい征服欲や酒池肉林のあくどい享楽欲をもって特性づけられている古代シナ人、あるいは荒涼たる大陸の原野を馳駆するのがその快楽であるらしい凶暴な外蛮諸族と著しい対照をなす(25)のである。我々の祖先には熱砂から生まれるらしい強烈な幻想や、広漠たる大陸に訓練せられるらしい意力のねばり強さなどはなかったが、しかし、ささやかな小山の愛らしい円さがいかに喜ばしく美しいか、蒼空に抱かるる優美な金剛山の姿がいかに偉大荘厳であるか、あるいはまた細かな珠玉の可憐な触感がいかに微妙であり、浅茅原の踏み心地がいかに快いかを、鋭敏に感受し得る心はあった。もしこの徴証を具体的な形に求めるならば、大陸人の好愛する正確な幾何学的の線と、我々の祖先が好んだ軽い、柔らかな、優しい幾何学的な線とを、対照させるがよい。あるいは石器時代末期に属するらしい精巧な石棒石剣その他の石器類の柔らかい輪郭を、大陸人の武器の物すごい鋭さと対照させるがよい。
二 魏志倭人伝
日本民族がまだ石器を使用していた間に、漢人はすでに高い文化を開展した。国家の組織、法律、制度、学問、文芸、――それらはインド、ギリシアの文化とともには古代における人類文化の最高峰を形作る。後漢三国の時代は畢竟この文化の末期である。そこでフェニックスは一度民族混乱の火に焼かれて、さらに新しい姿に生まれ出なくてはならなかった。この現象はインド及びギリシアの文化においても認められるであろう。世界史的に見れば三世紀より八世紀に至る時期は、古代文化を完成した民族と入れ代わって、新しい若い民族が勃興した時代である。現在世界の文化国民はすべてこの時期に生まれ出たと言ってもいい。これらの若い民族はすでに一度完成せられた文化を吸収することによってその新しい生活を強め深めることができた。そうしてやがては古代文化の相続者となってその新しい開展を実現し得るに至った。日本民族もまたその例にもれない。
(26) 日本民族はローマの外蛮が原始的であったごとく原始的であった。しかるに漢人はローマ人が成熟していたごとくに成熟していた。この両種の民族の接触は、東西を問わず、新旧交替の原因となった。そうして新しい民族の歴史時代〔四字傍点〕は常に古い民族の文献によって始まった。我々の民族の歴史時代がシナの文献によって開かれるということも、この種の現象の一例に過ぎない。この事実を認めることは何ら国民的矜恃を傷つけるものではない。
日本民族はまだ石器時代にあった。漢人はすでに成熟した哲学や芸術を所有していた。漢人との接触が日本人の新しい文化生活の機縁となったことは言うまでもない。ではその接触はどの時代に始まったか。確実な記録によって知られる最も古いものは、後漢の初め、建武中元二年(57A.D.)である。が、その時には倭人が洛陽の都までも出かけて行った。それはいきなり起こる現象ではない。それ以前に北朝鮮の漢人植民地との間に交通が始まっていなくてはならぬ。右の中元年間よりも二十余年後にできあがった漢書〔二字傍点〕には、「楽浪海中有2倭人1、分為2百余国1、以2歳時1、来献見云」とある。で、一般には、後漢書の記者が推測したとおり、前漢〔二字傍点〕武帝の朝鮮征定以来、(すなわち109B.C.以後)、倭人と楽浪との交通があったと認められている。これらの事態に対しては先史考古学もまた証拠を提供する。石器時代の遺物とともに前漢様式の古銅鏡や銅剣銅鉾の類が九州北部において(まれには中国や四国においても)発見せられた。前漢時代にシナと交通のあったことは、非常に確からしいのである。次いで王莽時代の古鏡古銭(貨泉)も、同じ状態において発見せられている。これは前記の後漢の初め、建武中元二年よりも半世紀ほど古いものである。
前漢以前の古朝鮮との交通は、文献によれば確実でない。元来古朝鮮なるものは、周初に箕子が五千人の部族をひきいて北朝鮮に移住し、そこに数世紀間国を樹てていたと伝えられているものである。すなわち伝説的にはシナ人の国である。後に戦国時代の燕と接触し、秦の統一の力に降り、秦末の兵乱には多数の新移住者を受容し、漢初の兵乱(27)に至っては新しく東移した燕人〔二字傍点〕の集団によって征服せられたという(漢景帝元年、194B.C.)。その後ほぼ一世紀を経て前漢武帝の朝鮮征服となったのであるが、武帝以後の北朝鮮と倭人との交通が確かであるならば、それ以前に倭人が朝鮮と交通したことの可能性をいきなり拒むわけには行かぬ。山海経にいわゆる「倭属燕」ということも、もし銅鐸が周代文化の系統を受けたものである(内藤湖南氏)と見られ得るならば、右の西紀前二世紀以前における対朝鮮交通を示すものと言えよう。銅鐸の研究(梅原末治氏)はこの事を裏書きする方向に進むように見える。しからば不確実な文献にもせよ、倭属燕の記事が日本民族の歴史に現われた最初の時期を示すとも認められるであろう。
が、ここで問題になるのは、前記後漢の初め(57A.D.)のシナとの交通が明らかに筑紫からの〔五字傍点〕交通であるに対して、それ以前のシナとの交通が果たして筑紫からであったか、あるいはその他のところからであったかの一点である。銅鐸遺品の分布は、近畿を中心として〔八字傍点〕、山陰、山陽の東半、四国、東海道の西半などに及んでいるが、山陽の西部や筑紫地方からはいまだ一の遺品も発見せられない。銅鐸が最古の対外交通を証示するとすれば、その交通路が筑紫を経たものでなかったことはこれによって察せられる。それに反して、石見、伯耆、但馬、丹後、越前などは、潮流の関係から朝鮮との交通の容易な土地であって、しかもそこから銅鐸の遺品が発見せられている。山陰から朝鮮への交通路が開けていたことはほぼ確実である。因幡、伯耆の石器時代遺物もそれを証明する。しかしながら、古さにおいて銅鐸と相譲らない前漢様式の鏡や銅鉾銅剣などの遺品の分布は、銅鐸とはちょうど逆に、筑紫地方を中心として〔十字傍点〕四国中国に及ぶのである。そうしてそれは筑紫から〔五字傍点〕の交通が後漢の初めよりも前から開けていたらしいことを示している。ここにおいて我々は、山陰より大陸と交通した近畿中心の銅鐸の文化と、筑紫より大陸と交通した筑紫中心の銅鉾銅剣の文化との対峙を確認し得るのである。
(28) 後漢の初め、倭奴国王の使が洛陽に行って金印をもらったという記録は、筑前志賀の海浜から「漢委奴国王印」の金印が発見せられたことによって裏書きされた。これ以来記録は確実となり、交通路は筑紫に一定している。我々が記録から日本民族の状態を知り得るのはこの時期以後である。まず我々の興味をひくのは、委奴国〔三字傍点〕すなわち倭《やまと》の奴《な》の国(灘《な》の県《あがた》)が、二世紀後の魏の時代には二万余戸の住民を有する一属国として邪馬台《やまと》の倭女王に属するものに過ぎないのに、この時には独立した一国として〔九字傍点〕漢人よりの待遇をうけていることである。ここにはまだ倭人の国々の統一を暗示する「倭王」あるいは「倭国王」の語は現われておらない。しかるに半世紀を経て後漢安帝永初元年(107)に至ると、「倭国王」の朝貢が伝えられている。これはヒミコを「倭女王」あるいは「倭王」卑弥呼と記しているのと同じやり方である。こゝこに倭人の国々が一つの統一的な団体として取り扱われ始めたように見える。もしそうであれば、西紀一世紀の末あるいは二世紀の初めは、一つの画期的な時期と認められなくてはならぬ。もっともこの倭国王の語は版本の誤りであって、本来は「倭面土国王」とあったといわれる。それに基づいて、この早い時期に統一などはいまだ行なわれていなかったという主張も提出せられている。しかし倭面土〔三字傍点〕がヤマトの写音であり、倭面土国が「倭の面土国」ではなくして「ヤマト国」にほかならぬとすれば、ここに後の邪馬台国と同一であるかも知れない国が、すでに現われていることになる。後にヤマト国に都していたヒミコは、倭女王あるいは倭王と呼ばれているのであるから、右のヤマト国の王師升等〔三字傍点〕が同時に倭国王師升等〔六字傍点〕と呼ばれても、不思議はないであろう。この師升等はあるいは師卉等《しきつ》の誤写かも知れないが、とにかく日本人の名として最初に記録に現われたものである。このように王名が初めて記録されたということも、ここに何らか従前と異なった形勢の成立したことを思わせる。後の情勢と照らし合わせて考えれば、恐らくこのころにヤマト国が、他の国々の上に抜きんでて特別の地位を占め、倭人の国々の間に何らかの(29)統一の形勢を作り出したのであろう。さらに一世紀余を経て魏の時代に至れば、倭人の国々は個々の国としての名を保存しつつも、すでに明らかにヤマト国に服属しているのである。
西紀三世紀の前半に渡来したシナ人の見聞に基づいて、まず魏の魚〓が「魏略」に書き、次いでそれに基づいて晋の陳寿が編纂した魏志倭人伝は、我々が祖先の生活について具体的なことを知り得る最初の文献である。この倭人伝の信用すべきゆえん及びその解釈については白鳥庫吉氏「倭女王卑弥呼考」(東亜の光、四十三年)、橋本増吉氏「邪馬台国及び卑弥呼について」(史学雑誌、二十一編)、内藤虎次郎氏「卑弥呼考」(芸文、四十三年)等を参照せられたい。白鳥、橋本両氏と内藤氏とは解釈を全然異にするのであって、その間に調和の余地がないかに見える。すなわち前者は邪馬台国を九州に置き倭女王を大和朝廷から引き離すのであるが、後者は邪馬台国を大和とし倭女王を倭姫命に比定する。ここではあらかじめこの二つの解釈のいずれかに基づくことをせず、まず倭人伝の内容をそのまま紹介して、そのなかからおのずから帰すべき方向を示したいと思う。
倭人伝によるとシナ人のいわゆる「倭」とは、朝鮮東南大海中の山島に住む人種の名であって、国の名ではない。国としてはもと百余国に分かれ、そのある者は漢代に朝見した。魏の時代に至っても使訳通ずるところ三十国である。その二十九国は女王卑弥呼に服属し〔九字傍点〕、ただ一国のみが女王に属しない。なおまた女王国の東にも海をへだてて〔六字傍点〕国々がある。すべて皆倭種〔六字傍点〕であるが、女王国とは政治的関係がない。また魏人と交通した形跡もない。従って魏人の目には彼らの見聞した三十国が倭人の国々の内の主要なるものとして映ずる。その国々の上に勢威を振るう邪馬台の女王はまた倭女王でなくてはならない。かくして人種の名である倭は女王国の名としても通用することになるのである。
(30) この女王国がより高い政治的権力の支配〔二字傍点〕を受けていた形跡は、魏志の記事には全然ない。魏人から見ると、東方の倭種の国々は彼らの注意に価しないものであった。
では、この「倭」はいかなる国であったか。
魏人の統治した朝鮮中部の帯方郡から倭に至るには、韓国の海岸に沿うて、まず南へ航し、次いで東に向かう。「七千余里」にして倭の北岸狗邪韓国(加羅)に達する。
そこで海岸を離れて初めて「千余里」の海を渡り、対馬国に達する。大官を卑狗《ひこ》(彦)と言い副官を卑奴母離《ひなもり》(夷守?)という。この地は「方四百余里」の離れ島で、山が険しく、深林が多く、道路は禽鹿の径《みち》のようである。人家は千余戸あるが良田がない。海物を食って活きている。船で交通して互いに物々交換をやる。
また南へ「千余里」の海を渡って一支《いき》国(壱岐)へ行く。官はまた卑狗《ひこ》、卑奴母離《ひなもり》である。「方三百里」ほどの島で、竹木叢林が多い。三千戸あまり人家がある。田地もあるが農耕だけでは食うに足らない。ここでも南北市〓をやっている。
また「千余里」の大海を渡って末盧《まつら》国(松浦)に至る。四千余戸の人家が山海に浜して存在する。土地には草木が繁茂して、その中に入れば、行いて前人を見ずというほどである。土地の人は魚や鮑を捕えることがうまい。どんな深い所へでも飛び込み、水にもぐって捕えるのである。
この地に上陸して東南へ行くこと「五百里」、伊都《いと》国(怡土)がある。官を爾支《にき》(稲置?)といい、副を泄謨觚柄渠觚《しまこひここ》(島子、彦子?)という。人家は千余戸である。世々王があるが皆女王国に統属している。帯方から来る魏の使いはいつもここで足を駐める。(倭人伝の文章では、この「皆統属女王国」の語は、ただ伊都国王にのみかかっているのであ(31)るが、魏略の逸文には「其国王皆属女王也」とあって、対馬、一文、末盧、伊都などの諸国の王が皆女王に属していた、という意味に取れるそうである。)
帯方郡使が伊都に常駐するとすれば、伊都までは実際に見たに相違ないであろう。さらにその付近の奴国と不弥国とも、そうであるかも知れない。しかし魏志の記述では、伊都までは非常に活き活きとしていて実際の観察〔五字傍点〕を思わせるが、そのあと邪馬台までの部分はいかにも乾燥で、理解し難い点が多く、単なる伝聞〔五字傍点〕に基づいた記事でないかを思わせるものである。従ってこのあたりからあとは、そのつもりで用心して読まなくてはならない。
伊都からさらに東南へ行くこと「百里」、奴《な》国(灘、那珂)がある。官は〓馬觚《しまこ》(島子?)、副は卑奴母離《ひなもり》である。二万余の人家がある。
東行百里、不弥《うみ》国(宇瀰)がある。官は多模《たま》(玉?)副は卑奴母離。人家は千余戸。
次には船に乗って南へ二十日、投馬国(この地名の比定に種々の説がある)に至る。官を弥弥《みみ》(耳?)、副を弥々那利という。人家は五万余戸もあろう。
さらに南へ水行十日、陸行一月、邪馬台国(この地名の比定が論争の焦点)がある。女王の都するところである。官は伊支馬《いきま》、その下に弥馬升、弥馬穫支《みまかき》、奴佳〓《なかと》。戸数は七万余。(内藤氏は伊支馬《いきま》を活目入彦《いくめいりひこ》の命、弥馬升、弥馬穫支《みまかき》を御間城入彦《みまきいりひこ》の命に関連させ、奴佳〓《なかと》を中臣《なかとみ》氏あるいは中跡《なかと》直に比定する。橋本氏はそれを詳細に反駁している。)
以上が魏志の録した女王国への道程である。この女王国が九州西北部に限られたものであるか、あるいは東方の大和を意味するかについては、魏志の記述自身がその決定を困難にしている。奴国不弥国等が福岡地方であることは諸説の一致する所であるが、そこから南方に向かって〔七字傍点〕水行三十日陸行一月邪馬台に達するとすれば、瀬戸内海を東行す(32)る長途の旅行を南行〔二字傍点〕と誤認するというあり得べからざることを想定しなくては、邪馬台を大和に比定することができない。しかしまた女王国を筑肥地方に求めるにしても、福岡東南方の宇美より筑後川口あるいは熊本地方に至るに水行三十日陸行一月(これを一日の誤写と見ても)を要するという同じくあり得べからざる事を許さねばならぬ。従って現形のまま倭人伝を読むとすれば、どうにも理解のしようはないのである。そこで魏使が投馬国や邪馬台国を訪れたというのは報告書の嘘であって、実際は筑紫地方だけを歩いたに過ぎぬ、朝鮮海峡を三千余里と見積もりながら、参問倭地周旋可五千余里といっているところにその証拠がある、という解釈が可能になって来る。水行二十日とか、水行十日陸行一月とかいうのは、接待役に聞いて書いたに過ぎぬであろう。が、この場合にも間接の見聞によってあれだけの事情と国名とを記載し得るものが、最も基礎的な方角を根本的に間違えるということは依然として理解し難い、という反駁は起こるであろう。しかしそれに対しては、魏志の記載する北九州の方角が、大体において九十度近くずれている、という事実を指摘することができる。対馬から壱岐への渡海は南行〔二字傍点〕と記されているが、対馬南端から壱岐の北端を目ざすとすれば、実際は東南東〔三字傍点〕であって、南へはわずか二十度ほどふっているに過ぎぬ。松浦から伊都への陸行は、東南〔二字傍点〕と記されてはいるが、実際は東北〔二字傍点〕である。伊都から奴への博多湾ぞいの道も、東南〔二字傍点〕と記されているが、大体は東向きで少しく北にふっている。してみれば、魏人はここで全般的に方角を間違えているのである。従って接待役の日本人が漠然と東を指して〔五字傍点〕話したことを、すべて南として〔四字傍点〕記録するということは、あり得ないことではないであろう。魏志の記事に全然信用を置かないというのであれば、話は別であるが、そこに何らか実地見聞のあとが含まれていると考えるならば、南に向かって〔六字傍点〕水行三十日陸行一月ということは、伊都の常駐所で日本人から遠いヤマト国のことを聞いているシナ人のありさまを、かえってまざまざと想像せしめるではなかろうか。
(33) もしそうであるとすれば、魏人の記した戸数道里〔四字傍点〕には、立派に根拠があることになる。水行二十日とか、水行十日、陸行一月とかということは、里数をあげ得ない倭人が、自分たちの経験に即してその遠さを語ったことの痕跡であろうし、五万余戸、七万余戸というごとき戸数は、ヤマト国の官吏としての知識を示したものであろう。長途の航海について里数をあげ得ない倭人でも、その統治する国の戸数や人口は知っているはずである。そうなるとこの数字は非常に重要になる。五万の戸数は一戸平均五人として二十五万、六人として三十万の人口を示している。七万の戸数は、三十五万あるいは四十二万の人口である。魏人は奴国〔二字傍点〕において二万余戸すなわち十万あるいは十二万の人口を実際に見たかも知れないのであるから、右のごとき戸数人口をも疑わずに受け取ったのであろう。もしそうであれば、我々はこの数字についてよほど考えてみなくてはならぬ。奈良時代の日本の人口は五百万〔三字傍点〕ぐらいであったと言われている。三世紀の日本はもっと少なく、三四百万ぐらいであったかも知れない。その中で三十五万とか四十万とかの人口を擁した国は、相当な大国でなくてはならない。後漢の初めに漢委奴国王印をもらった奴国王の国が、人口十万あるいは十二万であるに対して〔投馬国はその二倍半、邪馬台国はその三倍半なのである。昭和五年の奈良県の人口が六十万であったことを思うと、三世紀のヤマトの国の人口四十万は、驚くべきことと言わなくてはならない。従ってヤマト国は、たとい東方の大和であったとしても、狭義の大和の国だけでなく、畿内地方を相当に広く含んだものでなくてはならないであろう。
ところで魏人は、以上戸数道里を記した国々を「女王国以北〔二字傍点〕」(前述のごとく九十度ずらせると女王国以西〔二字傍点〕になる)と考え、そのあとに、其の余の旁国遠絶〔八字傍点〕、詳らかにし得べからずとして、二十国をあげている。ヤマト国から順次に数え上げると、斯馬国、已百支国、伊邪国、都支国、弥奴国、好古都国、不呼国、姐奴国、対蘇国、蘇奴国、呼邑国、(34)華奴蘇奴国、鬼国、為吾国、鬼奴国、邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国である。その次に奴国があって、これが女王境界の尽くる〔八字傍点〕ところである。この記述はこれまでいろいろな議論の種となった。ヤマトを筑後の山門郡〔三字傍点〕と考えても、また東方の大和〔二字傍点〕と考えても、これらの国名は解釈できる。がその際、前に言及した方角が、重要な問題になる。北九州の福岡地方から南〔傍点〕(九十度ずらせると東〔傍点〕)に向かってヤマト国まで行き、そこから遠絶の旁国を数えつつ、また北九州の奴国まで、すなわち女王境界の端まで、たどってくるのである。従って初めのうちは、ヤマト国よりも南〔傍点〕(九十度ずらせると東〔傍点〕)の国々や、東〔傍点〕(九十度ずらせて北〔傍点〕)、西〔傍点〕(同じく南〔傍点〕)の国々をも数えているかも知れぬが、やがてヤマト国の北方〔二字傍点〕(九十度ずらせて西方〔二字傍点〕)の国々を数えて行かないと、奴国の隣りの烏奴国に達することができない。そこでヤマトを山門郡とする人は、山門郡の周囲から、やがて北方へ北方へと地名をさがして行く。斯馬国を筑前志摩郡、弥奴国を肥前の三根郡とする、という類である。それに対してヤマトを大和とする人は、大和の周囲の近畿地方から、西の方中国地方へと国名をさがして行く。斯馬国は伊勢の隣りの志摩、弥奴国は美濃、終わりの方にある巴利国、支惟国は播磨、吉備である、という類である。こういう地名の比定は、非常に都合のよいのもあるが、またどうにも解釈のできないようなものもあって、全部をきれいに片づけるというわけに行かない。だからこの議論は水掛け論のようになっているが、しかし根本になる方角が全般的に九十度ずれている〔全般〜傍点〕とすれば、ヤマト国の東、北、南などの国々を数えつつ、漸次西方の国に移って、ついに奴国に達すると見るのが自然であり、近畿地方から中国地方へかけて国々を数えたとする後者の解釈の方がもっともらしく思われる。いわんや魏人自身が旁国遠絶〔四字傍点〕といい、また近畿、中国にわたる広汎な地域でなければあてはまらない戸数道里〔四字傍点〕をもあげているのであるから、どうもこれを肥筑地方にのみ限るのは無理のようである。福岡付近の宇美から筑後山門郡までを水行三十日とするのは、どうこじつけて(35)みても、納得が行きかねる。またこの筑後川沿岸だけに戸数十二万余、すなわち人口少なくとも六十万余を認めることは、三世紀の日本の情勢としてははなはだ困難であろう。そのほかに北九州で戸数をあげた六国の人口は総計十五万余、戸数をあげない二十国をかりに同じ割合に見れば五十万余になる。その合計は百二十五万余であって、昭和五年の福岡県の人口の半ばに当たっている。日本全体の人口が三四百万に過ぎなかったかも知れない時代に、肥筑地方だけで百二十五万ということは到底考えられない。むしろそれは、近畿地方から北九州までの、倭女王に服属している国々の全人口を示すものと見らるべきであろう。それやこれやを考え合わせると、ヤマト国を東の大和に、あとの二十個国を近畿中国の二十個国に比定する方が、ずっと自然であろうと考えられる。
それに対して、満鮮地方の諸民族が一般的になお部落国家の状態に留まっていた事実をあげ、それよりも一層シナから遠ざかっている日本のみがひとり統一国家を形成していたはずはないと主張する人もある。もちろん後漢三国のシナに対して、周辺の未開民族がおおよそ同じ段階に留まっていたことは、認めなくてはなるまい。しかしちょうどこのころは、シナ文化の刺戟をうけた外囲の未開民族が、まさに動き出そうとしていた時期なのである。そういう時期に他の民族よりも一世紀早く動き出すことができたかどうかということは、その民族の性格や素質や感受性などによってきまるのであって、必ずしもシナとの地理的近接の度によって定まるものではあるまい。西紀三世紀において南鮮の韓民族は七十八の部落国家に分かれていたといわれる。がその同じ時に、韓民族と日本民族とは、シナ文化を摂取する仕方において、著しい相違を示していなかったであろうか。三世紀においては日本民族は、すでに鏡玉剣の崇拝というごとき特殊な文化を作り出していたのであるが、韓民族にもその種のことは認められるであろうか。南鮮において発掘せられるものはかえって日本的なるものの侵入を示していはしないであろうか。これらの証跡は、公平(36)に言って、韓民族よりも日本民族の方がはるかに活発にシナ文化に反応していたことを示すのである。しからば韓民族よりも一歩早く〔四字傍点〕統一的な国家を形成していたとしても、少しも不思議はないであろう。もちろんそれはできたてであって、まだ三十国というごとく従前の部落国家の痕跡を残しており、中にはその王を保存しているものさえもある。がそれにもかかわらず、この三十国を統一している女王があり、そうしてその統一の力が対外的にはっきりと出て来ているのである。それに対して、韓民族が七十八の部落国家に分かれているほどであるから、日本に統一国家があるはずはない〔七字傍点〕、倭女王は北九州の小さい女酋であって統一国家などを示していない、と主張するのは、少し乱暴に過ぎはしないであろうか。倭女王の都しているヤマト国だけでも人口は四十万である。そういう大衆の支配者を「女酋」と呼ぶのは、果して言葉の正しい使い方であろうか。
もちろん倭女王は、倭人の国をことごとく服属せしめていたわけではなかった。特に魏人が注目しているのは、女王国の南〔五字傍点〕にある狗奴国である。その国は男子をもって王とし、官は狗古智卑狗と言われる。女王には属していない。もし女王国を山門郡とし女王国の南〔五字傍点〕ということをそのまま受け容れれば、この国は肥後あたりにあることになる。官の名もキクチヒコと読むとすれば、後代の菊池氏を連想させる。しかし方角を前のように九十度ずらせるとすると、狗奴国は女王国の東〔五字傍点〕になる。かつて原勝郎氏はこれを天竜川以東の蝦夷の国と解したが、これはよほど重視すべき解釈であろう。
次は女王国の歴史である。
この国はもと男子をもって王とした。が住七八十年〔五字傍点〕(住は往〔傍点〕であろうと言われている)倭国乱れて、相攻伐年を歴た。そこでともに一女子を立てて王となした。卑弥呼がそれである。
(37) 景初三年(239)六月に卑弥呼は使者を魏に送った。使者は帯方郡の官吏に送られて洛陽まで行ったのである。魏の曹操の孫である明帝は、その十二月に、倭女王へ返書を送った。
制詔親魏倭王卑弥呼。帯方太守劉夏遣v使送2汝大夫難升米次使都市牛利1、奉2汝所v献男生口四人女生口六人班布二匹二丈1以到。汝所v在踰遠、乃遣v使貢献。是汝之忠孝、我甚哀v汝。今以v汝為2親魏倭王1、仮2金印紫綬1、装封付2帯方太守1仮授。汝其綏2撫種人1、勉為2孝順1。汝来使難升米牛利渉v遠、道路勤労。今以2難升米1為2率善中郎将1、牛利為2率善校尉1、仮2銀印青綬1、引見労賜遥還。今以2絳地交竜錦〔五字傍点〕五匹、絳地〓粟〓〔五字傍点〕十張、〓絳〔二字傍点〕五十匹、紺青〔二字傍点〕五十匹1答2汝所v献貢直1。又特賜2汝紺地句文錦〔六字傍点〕三匹、細班華〓〔四字傍点〕五張、白絹〔二字傍点〕五十匹、金〔傍点〕八両、五尺刀〔三字傍点〕二口、銅鏡〔二字傍点〕百枚、真珠鉛丹〔四字傍点〕各五十片1。皆装封付2難升米牛利1。還到録受。悉可d以示2汝国中人1、使uv知3国家哀v汝故鄭重賜2汝好物1也
この詔書や金印紫綬は帯方郡の官吏に保管せられて、他の財宝とともに翌年(正始元年)に倭国に届いた。倭王は魏の使いに託して答謝の書を送った。
正始四年、倭王は再び伊声耆掖邪狗ら八人をつかわして、生口、倭錦、絳青〓、緜衣、帛布、丹、木〓、短弓矢〔生口〜傍点〕を献じた。使者は皆官位をもらった。六年には帯方邦を通じて難升米が黄幢をもらうことになった。その黄幢は八年に帯方郡の官吏が持って来た。
この正始八年には特別の歴史的意義がある。倭女王卑弥呼は狗奴国の男王卑弥弓呼(卑弓弥呼《ひこみこ》か)と不和であったが、この年倭載斯烏越等を帯方郡につかわして両国相攻撃の状を説かしめた。で、使者を派遣し詔書黄幢を難升米に与え、檄をもって告諭した。しかし卑弥呼はこの乱の間に死んだ。その冢は径百余歩で、殉葬者は奴婢百余人であった。あ(38)とに男王が立ったが、国中服せず、さらに相誅殺して千余人の死者を出した。でまた卑弥呼の宗女壱与(台与《とよ》か)、年十三を立てて王とした。そこで乱が鎮まった。黄幢をもたらした魏の使者たちはまた檄をもって壱与に告諭した。壱与は掖邪狗等二十人に魏使を送らせ、男女生口三十人、白珠五千孔、音大句珠二枚、異文雑錦二十匹を献じた。
魏志の記述はこれで終わっている。しかし晋書によれば魏が亡びた後にも倭女王の使いは洛陽に行った。泰始二年(266)である。
以上がシナ人の記録した倭女王国の歴史である。この歴史が日本側の記録のどの部分に当たるかは、明白には言えない。書紀の記者は倭女王を神功皇后に比定し、内藤湖南氏はこれを倭姫命に、難升米を田道間守《たじまもり》に、都市牛利を出石心《いずしごり》に比定した。女王国を九州に認める人たちは倭女王を北九州の女酋と解している。が、前に説いたように、魏の使者が直接に見たのは筑紫地方のみであって、邪馬台国のことはただ筑紫において聞いたに過ぎなかったとすれば、邪馬台の女王と魏との交渉についての右の記録ははなはだ怪しげなものになってしまう。魏の明帝の詔書はまじめに書かれたものであろうし、またそれを書いた人々は使者が実際に邪馬台国までそれを届けると信じていたかも知れない。魏の使者も、本国へは、邪馬台に行って女王に捧げた、と報告したのであろう。しかし実際は筑紫まで来たに過ぎぬのであり、また倭女王そのものがいたかどうかもわからないのである。もちろん、ヒミコが女王でなく日御子であったとしても、貿易品の送り状としての詔書の効力に変わりはなかったであろう。しかし魏の使者が檄をもって倭女王に告諭したなどとは、まじめに読むべきものではあるまい。筑紫から水行三十日陸行一月を要する邪馬台国に対し、筑紫の伊都あたりに滞留している魏の使者が、どんなふうに檄を飛ばし得たであろうか。そう考えて行けば、右の魏志の記録には、多分に魏の使者のお芝居がはいっている。親魏倭王がその忠孝を嘉せられるなども、このお芝居(39)の上に築かれた紙上の世界の事件であろう。が、それにもかかわらず、我々はこれらの記録を通じて当時の貿易の実状を知ることができるのである。右にあげたごとき文書や、またそこに記された品物は、港において厳密に取り調べられ、決して差錯するを許さなかった。だから前掲のごときシナの工芸品が文化の運搬者としてこの国にはいって来たという事実は疑うことができないであろう。
わが国の歴史にとってきわめて示唆に富んだ記事は、魏との交渉よりもむしろ最初にあげた女王国の成り立ちに関するもので、原文は次のとおりである。
其国本亦以2男子1為v王。往七八十年、倭国乱。相攻伐歴v年。乃共立2一女子1為v王。
七八十年前に〔六字傍点〕倭国に内乱が起こったという。それは西紀二世紀の中ごろに当たるであろう。そうしてその前にすでに男子の王があり、国家として統一せられていたことが認められる。してみれば、後漢書安帝永初元年(107)の倭国王師升等の記事は軽んずることができない。この時代は考古学的には銅鉾、銅剣と銅鐸とが対峙していたはずの時代である。従ってこれらの文化圏は、国家的な統一と無関係に考えることができない。最初の国家統一の事情は、恐らくそこから掘り出すことができるであろう。がまたこれらの遺物のみによっては当時の国家組織がいかなるものであったかを知ることもできない。そうなると、西紀三世紀における倭女王国の国家組織がいかなるものであったかを知らしめる倭人伝の記録は、はなはだ意義深いものと言わねばならぬ。
邪馬台国の女王とは邪馬台国を統治する王という意味ではない。邪馬台国はただ倭女王の都する所〔八字傍点〕に過ぎないのである。従って倭人伝に国と称せられるものは、すでに、後世におけると同じく、一つの行政区域に化している。それ(40)は皆女王の官吏〔二字傍点〕によって治められる国である。ただ伊都国のみは世有v王、皆統2属女王國1と記されているが、しかしこの王は、以前に独立の小国であった時代の遺物であって、伊都国が一つの行政区域であることを妨げるものではあるまい。もしこの王についての記事が、対馬、壱岐、松浦などの国々にもかかっていたとすれば、それらの国々も伊都と同じく昔の独立的状態の痕跡をなお保存していたことになる。しかし、魏使にとって交渉の相手であったのは、それぞれの国の官であって、王ではなかったらしい。特に伊都国は魏の使者が常駐するところであり、また近隣の諸国を検察する「一大率」が女王から派遣せられているところでもあった。それらの点を考えると、伊都国は魏使が女王国以北〔五字傍点〕(九十度ずらせば、女王国以西)にあるとする諸国(対馬、一支、末盧、奴、不弥等)にとって政治的中心地の意味を持っていたらしい。魏志によると右の一大率は女王国以北に特に置かれた〔六字傍点〕ものであって、検2察諸国1、諸国畏憚之、常治2伊都国1、於2国中1有v如2刺史1、といわれている。国史に記すところの太宰帥ときわめてよく似たものである。魏使がこの伊都国に来たことは確実であり、従ってこの女王国以北〔五字傍点〕の政治状勢は親しく目睹したものに相違ないから、水行三十日陸行一月というごとき遠方にある邪馬台国の支配が、この筑紫地方に厳密に及んでいたことは明白である。国々の市を大倭が監督するとか、外国との交通に関し皆臨v津捜2露伝送文書賜遣之物1詣2女王1、不v得2差錯1、とかと記されているのは、右の官吏の行政的活動について魏使自ら見たところであろう。してみると倭女王の統治はこの時代にすでに広汎な地域に及んでいたのである。
では魏人は倭女王をいかなる主権者として描いているか。この点については我々は再び用心して記録を読まねばならぬ。なぜなら、魏人は、単に筑紫地方を見たのみであるにかかわらず、邪馬台国をも実見したかのごとくに報告しているからである。で、もし我々が注意深く魏人の実見に基づく記述としからざるものとを区別して行くならば、一(41)方には筑紫地方に及んでいる統治の権威を描いたもの、他方にはただ間接に彼らの知り得た(従って恐らく彼らの想像を混えているだろうと思われる)邪馬台の女王の描写が見いだされるであろう。
魏人が筑紫地方の国々において統治者として見いだした官吏は、ヒコ、ニキ、タマ、ヒナモリ、シマコ、ヒココなどと呼ばれている。伊都には、ニキ、シマコ、ヒココなどの「官」のほかに「王」があるとせられているのであるから、古い時代の原始的統治者がそのままニキ、ヒコなどの「官」に転化したのではないらしい。しかし伊都に置かれた一大率が特に倭女王より派遣せられたものとして特筆せられているところを見ると、それぞれの国の官は必ずしも中央より派遣せられたものでもないらしい。それらの点ははなはだ明瞭を欠いているが、しかし魏人の見たところでは、支配者たちの権威は相当大きいものであった。第一に彼らは尊卑の差別〔二字傍点〕が明らかに存在するのを見た。尊いものへの服従は十分であった。人民が路上で大人に逢えば、逡巡して路傍の草中に入り、長々と世辞を言い、蹲《うずくま》り跪《ひざまず》いて、両手を地についてお辞儀する。このような強い尊敬の表示は、魏人にとっても珍しかったのかも知れない。第二に彼らは尊卑に序列〔二字傍点〕のあることを見た。尊さの段階をたどって行けば、ついに倭女王に達せざるを得ないのである。
魏人の倭女王に関する知識は、恐らく伊都国の一大率やその他の官吏から得られたものであろう。ここに魏人はシナ人らしい考え方にはめ込もうとしながら、しかもシナに見られない統治者の姿を描き出している。これは恐らく彼らが目前に見た「尊さ」の源流を探るという心構えをもって、倭人に説明を求めたに基づくのであろう。彼らの話す所は次の通りである。
其国本亦以2男子1為v王。往七八十年、倭国乱。相攻伐歴v年。乃共立2一女子1為v王、名曰2卑弥呼1、事2鬼道1、能惑v衆、年已長大無2夫婿1、有2男弟1佐2治国1、自v為v王以来、少2有見者1、以2婢千人1自侍、唯有2男子一人1、給2(42)飲食1、伝v辞出入、居2処宮室1、楼観城柵厳設、常有v人持v兵守衛。
卑弥呼は衆に押されて王となった。衆の輿望を集めたのはその「鬼道」であった。武力によって解決のつかない内乱を、「衆を惑わす」力によって解決した。鬼道と言い衆を惑わすと言うのは、魏人がシナ人らしく異国のものを見下した言い現わしであるが、しかし女王の力が神秘的な権威〔六字傍点〕に存することを認めてはいるのである。王となって後は、ほとんど衆の目に触れずして千人の婦女に侍られる〔衆の〜傍点〕。壮大でいかめしい楼観城柵の内にあって、常に武装した兵士に護衛せられている。この描写のうちに我々は、超人的神秘的な女王の姿を見いださざるを得ぬ。それは単なる王者ではなくて、「神のごときもの」である。ただ特権ある一人の男のみが女王に近づいてその辞を伝える。辞とは女王を通じて現われる神の意志である。してみれば女王卑弥呼は、神祇に奉侍してその辞を伝うる能力ある神女であった。女王が神の意志を伝える形式は、恐らく「神がかり」の類であったろう。人民はこの神がかりによって伝えられる神秘的な命令にそむくことができなかった。でこの女王が狗奴との戦争において没した時には、径百余歩の冢が作られ、殉葬者奴婢百余人に及んだと言われる。
この記述は魏人の直接の観察によったものではない。従って楼観城柵とか千人の婢とかは、魏人の想像に過ぎないであろう。が、さらに一歩を進めていえば、このヒミコの描写全体が魏人の想像によって組み立てられているとも考えられるのである。かつて白鳥庫吉氏は、「卑弥呼考」において、魏志のヒミコの叙述が記紀の天照大神の神話と酷似していることに着眼し、ヒミコのごとき女王の存在する社会状態が神話に反映して天照大神の話になったであろうという推測を試みた。これは魏志の叙述が事実に即したものであるとの前提のもとに、神話をこの事実から理解しようとしたものである。しかし魏志の叙述が事実に即したものでないとの前提をとれば、神話との関係は逆になり得るで(43)あろう。魏人は伊都において、日本の官吏たちから、日の神の神話〔六字傍点〕を聞いたかも知れないのである。もちろんその神話は今神代史のなかに残っている神話と同じ形ではなかったであろうし、またその官吏たちは、それをわれわれの考えるような「神話」として話したのではないであろう。彼らにとっては日の神とその事績とは現実よりも一層確実で、身近な事実であったであろう。従って魏人はそれを倭人の国の歴史的事実として受け取ったであろう。そうして日の神の高天原におけるさまざまの事績が「鬼道」と解釈され、スサノオの尊が国を佐治する「男弟」とされたのであろう。日の神の子が地上に降され、日の神がこの土において祀られるようになってからは、日の神は直接に姿を現わさない。従ってその神にまみゆる者はほとんどなく〔まみ〜傍点〕、側には常に斎女〔二字傍点〕のみがついている。ただ日の神の子だけが、この神を祀り、またこの神の意志を行なう権利を持っている。それが日の神の辞を伝える「男子一人」として記されたのであろう。日の神の祀られている宮は、倭人にとって最も荘厳なものである。その荘厳をたたえた言葉が、楼観城柵厳設というごとき記述に化したのであろう。そう考えれば、日の神の神話が原型であって、魏志のヒミコの叙述はそこから出て来たということになる。これは決してあり得ないことではない。
しかし日の神の神話がすでに何らかの形でできていたとすれば、それは日御子〔三字傍点〕の統治が確立していた証拠でなくてはなるまい。現実に君臨している日御子の権威を説明するために、日の神の神話が物語られ始めたのだからである。九州にある日本の官吏もまた、現にヤマト国に君臨する日御子〔三字傍点〕のことを魏人に対して説明する場合に、日の神の事績を物語ったであろう。しかしそれを聞いている魏人にとっては、神話〔二字傍点〕と現実〔二字傍点〕との区別がつくはずはない。話し手自身がその区別をつけてはいないのである。だから現実に統治する日御子〔三字傍点〕と、その権威を表現する日の神〔三字傍点〕とが、魏人の頭の中で混同されてしまう。日の神は女神〔二字傍点〕として物語られるがゆえに、ヒミコは女王〔二字傍点〕とされ、すでに七八十年以来〔十字傍点〕ヤマ(44)ト国に君臨していることになる。日御子たるイクメイリヒコやミマキイリヒコのことも聞いたに相違ないのであるが、その日御子〔三字傍点〕たる側面はすべて女王ヒミコの中に合体され、現実の日御子の固有の名〔四字傍点〕は、イキマ、ミマカキなどの「官」として報告されている。魏志の記述はこうして成り立ったのであろう。
このような解釈は少し大胆すぎるかも知れないが、しかしヤマト国に関する報告がすべて聞き書き〔四字傍点〕であるとすれば、この程度のずれは決してあり得ないことではない。魏人の報道は魏人の理解能力に制約され、いろいろな歪曲を含んでいるであろうが、しかし少なくともその中にはめ込まれている日本語〔三字傍点〕は、彼らの捏造したものではあるまい。ヤマト国の官は伊支馬、弥馬升、弥馬獲支、奴佳※[革+是]などの日本語によって伝えられている。これらはヒコ、ヒナモリ、ニキ、シマコ、ヒココ、タマなどの日本語とともに、記録された最も古い日本語である。その内|伊支馬《イキマ》をイクメ〔三字傍点〕イリヒコに、弥馬獲文《ミマカキ》をミマキ〔三字傍点〕イリヒコに関連させ、奴佳※[革+是]《ナカト》を中臣《ナカトミ》あるいは中跡《ナカト》に比定する説のあることは、すでに言及した通りであるが、日御子と日の女神とに関する前述のような推定が可能であるとすれば、ここにイクメ〔三字傍点〕と相似たイキマ、ミマキ〔六字傍点〕と相似たミマカキ〔四字傍点〕の語の現われていることは、決して軽視されてはならないことである。弥馬升〔三字傍点〕も升を卉の誤写と見れば、ミマキになる。すなわちヤマト国には、日の女神、日御子、活目入彦、御間城入彦などが、集中的に連関しているのである。
魏人は北九州において、遠隔の地にあるヤマト国のヒミコの権威が、現前に働いているのを見たのである。その権威についての説明をどういうふうに誤解して聞いたとしても、とにかくそれが宗教的色彩の濃いものであったということだけは、動かすことができない。
(45) 魏志の記述はさらに倭国の経済生活にも及んでいる。
女王国の国費は租賦によって弁ぜられた。租賦がいかなる方法で徴収せられたかは明らかでないが、国々に存在する物資交易の市の監視は、恐らく租税に関する意味を持つのであろう。怡土国に置かれた検察官もまたそうであったに相違ない。前にのべたごとく、王の派遣した使節の船が帯方郡や韓国から帰って来る場合、あるいは帯方郡の船が倭国に着く場合には、港に入る前に官憲の捜露をうけて、差錯することができなかった。この監視にも関税のごとき意味があったかも知れない。
倭人の産業については、種2禾稲紵麻1、蚕桑緝績、出2細紵〓緜1、其地無2牛馬虎豹羊鵲1とか、冬夏食2生菜1とかの記述によって、牧畜なく農耕を主にしていたことが察せられる。が、対馬人が海物を食って活きているとか、壱岐人が田を耕すもなお食するに足らずとか、末盧人が水にもぐって魚を捕えるのがうまいとか記されているごとく、漁業が盛んであったことは言うまでもない。
人々は農業漁業等によって得た物資を市において交易した。米と魚との交換のごときことはもちろん行なわれたに相違ない。が、この際貨幣の代わりに用いられたものは、恐らく苧、麻、絹などの布帛類であろう。運搬や貯蔵についてこれ以上便利なものはなかった。外国に輸出するものも多くこの種のものであった。そうしてそれは食物に次ぐ必需品であった。他にシナから輸入せられた真珠、青玉、銅鏡、刀剣の類も同じ役目をつとめたではあろうが、それらは特に貴重な宝物であって、布帛類ほど一般的に通用したとは思えない。だから布帛類はこの時代において経済的に最も重要な意義を持つのである。
こういう生活にとってシナ人との貿易は何を意味するか。この貿易が記録に残されている以外に盛んに行なわれて(46)いたことは言うまでもない。そうしてこの貿易の主要な目的は、倭女王が曹操の孫から贈られた錦や〓(毛織物)や五尺刀や銅鏡のごときものを、漢人の手から得て来ることである。これらの輸入品は文化伝達の使者として異国文物への憧憬願望を刺戟し、同時にまた新しい技術や新しい産物を鼓吹する。古墳に見いだされる銅鏡や宝器の和製品は、この時代にすでにこの種の技術が長足の進歩をしていたことを語るのである。だから貿易による刺戟が倭人の文化を促進したことは明らかだと言わねばならぬ。
もとより異国珍宝の類は少数貴族の奢侈品に過ぎなかったかも知れぬ。しかし奢侈は産業を奨励する。新しい奢侈が始まればそれを可能にするだけの余分の労働が必要になる。珍宝を輸入し得るためには輸出し得べき物品を蓄積しなくてはならぬ。かくして産業が活発になり、技術が進み、一般民衆の生活にもある変動が起こるであろう。豊富な天産物を擁して自足していた倭人の生活にとっては、外来の奢侈の刺戟こそはまことに唯一の文化促進の動機であったと思われる。
が、この刺戟は単に奢侈を教えたのみに止まらない。幼稚な航海術をもって朝鮮半島の浦づたいにはるかに楽浪帯方の浜べをさして出かけて行くということは、単に少量の奢侈品を得ようという欲望のみからできることではない。そこには東洋随一の先進国の文物に対する烈しい憧憬が燃えていたであろう。従ってその文化を象徴する錦、刀剣、銅鏡、玉、その他の工芸品は、彼らの心に強い愛着と尊敬の念を起こさせたであろう。さらに自ら海を渡って自らの目をもって漢人の生活を見て来たものは、いかに多く新しい知識を、いかに強く新しい情熱を、得て来たことであろう。はるかな旅をして眼界を広げて来るということは、それ自身すでに意義の少ないことではない。いわんや辺境の帯方郡からはるかに遠い洛陽の都までが、あたかも一人の身体のごとくに組織立てられている大きい国家的統一や、(47)古い文化を負った洛陽の都の壮麗な風物や、その上に君臨するシナの帝王の強大な威力や、――それらの驚異すべき現象に接して来たものが、どうして強い影響を受けずにいられよう。
我々はこの種の心的影響を魏志の記事から検出することはできぬ。しかし古墳の示す証跡は、この影響が実に甚大であったことを語っている。それらはすべてシナ文化の刺戟によって促進せられた新しい機運を示すものと言える。政治的には「より大きい組織」を、経済的には「より美しい華やかな生活」を、それが当時の倭人の心からな願望であったに相違ない。それ以上に思想や信仰について影響をうけなかったとしても、それはシナ文化の刺戟によって文化を促進せられた事実の反証とはならない。
倭人がこの時代にシナの言語と文字に触れたことはもちろんである。倭人の内にはシナ人の言語を解し文字を読み得るものが確かに存在した。でなければ貿易や交通は行なわれ難いであろう。また魏人もあれだけの事実を聞き出し得なかったであろう。港についた船を捜蕗して「伝送文書」を間違いのないように取り上げるということも、文字を解しない官憲のすることではない。しかしこのことは文字が歴史的記録に使用せられたことを意味するのではない。文字はそれを理解することのできない彼らにとっては、驚異すべき不思議な生き物であった。そうして彼らが理解し得た限りでは、ただ貿易のための、あるいは外交のための、実用的な〔四字傍点〕符徴に過ぎなかった。実用的な〔四字傍点〕符徴としての文字と、思想を表現する〔七字傍点〕手段としての文字との間には、文化的に言って甚大な区別がある。後者の不思議な作用を理解し得るために日本人がなお二三百年の年月を必要としたのは、当時の知識状態から見てきわめて当然のことである。
倭人は文字に接した。しかし言葉を文字に現わそうとする要求は持たなかった。この事実は当時の倭人の心生活の特徴の一として注目しなくてはならぬ。
(48) 魏人の記述はなお倭人の心生活や風習にも及んでいる。それによれば倭人の心生活の基調は桃源の民にもふさわしい温和な心持ちである。欲望が強烈でなく、物事に淫しない。酒を飲んで陶然とすることを愛する。一体に永生きで、八九十歳、百歳の人が少なくない。かかる性情は菜食本位の食養と関連して理解さるべきであろう。倭人は稲を種える。気候は温暖であって冬夏ともに生菜を食う。しかし牛馬羊などの家畜は存しない。漁業は盛んであるが、山猟は注意をひくほどでない。米が主食物であり、海物が副食物である点は後の時代とあまり変わりはない。
性情が温和であるゆえに、盗窃がなく諍訟も少ない。しかし刑法は峻酷である。法を犯すもの、輕きも妻子を没収せられ、重きはその門戸と親族を滅せられる。家族制度は多妻制で、大人は四五婦、下戸も時には二三婦を持つが、婦人は淫せず妬忌しない。父母兄弟は臥息、処を異にするが、会同座起においては父子男女の別はない。これは多妻が特権の表示として認められているにかかわらず、女子の公的地位が決して低くなかったことを示すものであろう。父母兄弟が処を異にするというのは、妻がその子と共に別居することと解せられているが、多妻の場合にはもちろんそうであったとしても、すべての夫婦が別居したとは考えられない。臥息〔二字傍点〕処を異にするというのであるから、夜は別の小屋に寝る、という意味にも解し得られるであろう。
彼らの持つ装飾はきわめて素朴であって野趣に富んでいる。衣服は麻布か絹布かであるが、それらをまだらに紅青に染め、男は横幅につなぎ連ねて着る。針で縫うのではなく、手で結び合わせたらしい。女は一枚の布の中央に穴をあけそこから首を出して着る。もしこの女の衣服が埴輪に見られる襯衣《シヤツ》のような着物と似寄ったものであるならば、それは西洋のガウンのような格好であったと想像せられる。全身を垂れ下がる布のひだの美しさから言って後代の婦(49)人服に劣らない。身体の装飾には、男子のいれずみ、女子の丹朱がある。いれずみは左あるいは右、大あるいは小、尊卑に従って差別がある。局部的であって広い面積のものではない。丹朱は、「シナ人が粉を用うるごとく」化粧として用いた。頬紅の類であろう。なお頭髪は、男はただ無造作に結わえてその上に木綿を巻く。女はまわりをふくらませて、あとの長い毛をうねうねと曲げて結んでいる。
その他には芸術的表現らしいものは記されていない。が、宗教的信仰と結びついている歌舞〔二字傍点〕は特に注目に価する。それは人間の死の場合に行なわれる呪術《まじない》の一種であって、喪主が泣き、家人が肉を絶っている間に、他人がその家に集まって、酒を飲みつつ歌舞するのである。喪主が泣くのは自然に起こる悲哀のゆえであり、他人が歌舞するのは死の恐怖に対抗しようとする本能的な心の表現であろう。
彼らの信仰もまたきわめて素朴である。何事かを始める場合に、もし疑惑があれば、骨を灼いて卜し、吉凶を占う。卜に出たところを告げる人のことばは、あたかも命令のようで〔六字傍点〕ある。他に、女王卑弥呼の「鬼道」があり、また「みそぎ」の風習もある。死者を葬った後に挙家水中に入って体を清めるのである。航海の船中に「持衰」を設ける風習も、一つの信仰の現われであろう。持衰とは渡海の幸運のために捧げられた犠牲的な行《ぎよう》であって、持衰者は「頭を梳《くしけず》らず、※[虫+幾]蝨を去らず、衣服垢汚、肉を食わず、婦人を近づけず、」厳格に謹慎しなくてはならない。航海の吉凶は持衰者の責任である。すべてこれらの信仰にはある神秘的な力の漠然たる感受がある。しかしその力の主体についてはまだ明確な観念はない。
紀元後三世紀における倭人の状態は右のごときものであった。
(50) 三 記紀の伝承との比較
魏志の記述の直接の根拠となったものは筑紫地方における実地の見聞であろう。特に種々の習俗や信仰についての記述は、彼らが九州において自ら目撃したものと認めてよい。灼骨而卜や持衰や葬儀としての歌舞や澡浴などは皆そうである。それに比べると、卑弥呼の鬼道は、一歩高い段階にあると言ってよい。前者が単に呪術の信仰を示すのみであるに対して、後者は呪術者〔三字傍点〕の重大な役目の出現を語っている。一般に君主の起源は宗教的であり、最古の君主の形式は呪術者であると言われているが、我々はここに呪術の信仰のみならず君主としての呪術者がすでに存在していることを見いだし得ると思う。西紀三世紀前半の倭人は、この宗教的な君主のもとに、すでに広汎な国家を形成していたらしいのである。
ところで我々は他方に我々自身の最古の伝承として記紀の含む〔五字傍点〕古伝説を所有している。これらの伝説の示すところは魏志によって察せられるものといかなる関係に立つか。いずれか一方がより古いと認められるか、あるいは両者同一の段階であるか。あるいはまた、魏志の記述との対照が、古伝説の示す文化状態に何かの光を投げるであろうか。これが次の問題である。
西暦三世紀前半の国家状態から考えると、大八洲を一括して統一的のものと考える国生みの神話は、必ずしも三世紀より後のものとは限らぬ。またこの統一的な国土において何人が君主たるべきかの反省〔何人〜傍点〕を根本動機とする高天原神話も、同様に、必ずしも三世紀より後のものと断ずることはできない。前に述べたように、魏志のヒミコの叙述は、(51)天照大神の神話を原型としてそこから出て来たとも見られるし、また逆に、そこに叙述されたような状態のなかから、天照大神の神話が発生して来たとも見られる。それほど神話の描く君主の性質が魏志に描かれたるものに一致しているのである。例えば、天照大神は高天原における君主であるとともに自ら祭儀を司どる神であるが、祭司であるとともに君主であるという一点は、倭女王が鬼道によって統治するのと軌を一にする。前にあげた白鳥庫吉氏の「卑弥呼考」が指摘している通り、天照大神の岩戸隠れの際には天地暗黒となり万神の声さばえのごとく鳴りさやいだ。倭女王が没した後にも国内は大乱となった。天照大神が岩戸より出ると天下はもとの平和に帰った。倭女王壱与の出現もまた国内の大乱を鎮めた。天安河原においては八百万神が集合して大神の出現のために努力し、大神を怒らせたスサノオの命の放逐に力をつくした。倭女王もまた、武力をもって衆を服したのではなく、神秘力を有するゆえに衆に推されて王とせられた。この一致は暗示の多いものである。だから白鳥氏は、「もし神話にして太古の事実を伝へたるものとせば、神典の中に記されたる天ノ安ノ河原の物語は、卑弥呼時代におけるが如き社会状態の反映と見るを得べきか。」「凡て神話伝説は国民の理想を述べたるものにして、当時の社会の精神風俗等は悉くその中に包含せらるゝものなるが故に、皇祖発祥の地たる九州に於て上古卑弥呼をはじめとし女子を以て君長たりしものその数を知らずとせば、大御神が女神として天上に照臨し給ふも亦何の怪しむべきことかこれあらんや。」(白鳥氏、卑弥呼考)というふうに結論せられた。この結論に対しては、太陽神の崇拝や太陽神を皇祖とする信仰が、四世紀以後〔五字傍点〕、恐らく五世紀において成熟したであろうとする津田左右吉氏の主張が、非常に強い支柱を与えている。しかし太陽神の崇拝がそれほど新しいということについては確証はない。人が前漢鏡を胸につるして、紐が磨滅するほど〔八字傍点〕永い間歩き回った時代には、その鏡は尊貴のしるし〔六字傍点〕であったとともに、また太陽のしるし〔六字傍点〕でもあったであろう。その背後にはすでに太陽崇拝があ(52)ったのであって、逆に鏡の尊重から太陽崇拝が生まれたのではあるまい。そうだとすれば太陽崇拝は、倭人が前漢鏡を手に入れ、それを宗教的な宝として尊び始めたときに、すでに存していたと認めなくてはならぬ。だから三世紀に日の神や日御子があっても不思議はないのである。その上魏志のヤマト国の叙述が、魏人の直接の観察に基づくのでなく、単なる聞き書きに過ぎないとすれば、年齢少なくとも九十歳以上で、ほとんど何人も逢ったことがないという女王ヒミコ〔五字傍点〕なるものが、果して現実の存在であったかどうかははなはだ疑わしい。むしろ前述のごとく、日御子の権威を説明する日の女神の物語が、女王ヒミコを構想する材料となった、と考える方が、はるかに確からしいではなかろうか。白鳥氏の指摘するごとき天照大神と倭女王との酷似は、右のごとく考えることによって一層よく説明し得られるのではなかろうか。
祭司であるとともに君主であるという倭国王の性格は、記紀の上代の伝説にも明らかに現われている。魏志の記しているミマキという日本語と関係のあるらしいミマキイリヒコの命は、その最も顕著なものである。そのゆえにこの命は後に至って「崇神天皇」というおくり名を受けた。ミマキイリヒコの命は明白に祭司として行動しているが、その祭りには「占卜」と「神がかり」とが結びついている。同じく魏志のイキマと関係のあるらしいイクメイリヒコの命(垂仁天皇)においても、事情は同様である。さらに降ってオキナガタラシ姫(神功皇后)の物語になると、魏志のヒミコの話に酷似してくる。だから書紀の編者はヒミコを神功皇后に擬したのである。
君主は崇敬の的であるとともに、民衆から推されて立った。その政治は神の意志に従うのであって君主自身の個人的意志によるのではなかった。この事実は当時の社会心について明らかな光を投げる。民衆の会議と神の意志の啓示とは別物でない。「天皇乃ち神浅茅原に幸《いでま》し、八十万の神を会《つと》へて以て卜問《うらと》ふ。この時に倭迹迹日百襲姫《やまとととひももそひめ》の命《みこと》に神明《かみ》(53)憑《かかり》て曰く」というのはこの関係を示す代表的な例である。天の安の河原の八百万神の会議もそれにほかならない。もとよりこれらの物語には、大和朝廷において多数の集団の長を会合して外交軍事のことを議した風習が編み込まれているに相違ない。しかしこの会合の風習が、きわめて古い部族会議にまで連なるものでないとは何人も断言し得ない。イザナギの命|黄泉《よみ》下りの説話が古い民間説話であったとすれば、夫《せ》の命にいざなわれたイザナミの命が身の振り方をきめるためにヨミの諸神と合議するという条は、この種の部族会議の反映であるかも知れぬ。そうしてかかる会議は、各自に異なる個性を持った個人が相互の間に調和を見いだそうとする会議ではなくして、むしろ何人も自己独特の判断を持ち得ないゆえの、――すなわち個人として判断を持ち得ないものが一つの全体としてそれを獲得しようとするための、会議である。神に近い君主すらも自らの判断を示さずして団体心の沸騰に頼るのである。そうしてこの団体心の帰向は、団体自身の心から出たものとしてではなく、超人的な威力に投射せられて、外から彼らに与えられたものとして受け取られる。それに従う民衆は、神の心として現われた団体自身の心に従っているにほかならない。そうしてこの神の心、すなわち団体の心が、君主において象徴せられるのである。
しからば分立した多くの小国を一つにまとめる組織はどうであったろうか。古伝説においては多くの臣連が皇室に服属し、その臣連の祖先神は皇祖神に服属していた。従ってこの臣や連が一つの集団の長としていかなる団体を統率していたかはあまり語られていない。しかるに魏志においては、稲置を意味するらしい爾支《にき》とか貴族の名に多い彦をさしているらしい卑狗《ひく》とかが、それぞれの国の官あるいは大官として記されている。魏人はまず千余戸とか三千許家とかの民衆を見、ついでそれを統治する者に目を向けたのである。だから古伝説において個人として語られる何々の稲置、何々彦は、ここではある集団を統率する「官」として現われる。ここに我々は両者相補う点を見いだすであろ(54)う。そうしてこれらの貴族が、魏人によって倭女王の官吏〔二字傍点〕と見られることは、地方の小国に対する中央の統制がきわめて強力であったことを示すと言うべきであろう。
個々の小国の内部の組織についてもまた古伝説はほとんど語るところがない。ただ一つの集団がある神の祭祀において結合していたことを示唆するのみである。しかし魏志によってそれが数千戸あるいは数万戸の人民の集団であったこと、会同を行ない、議論し、また占卜によって事を定めたこと、尊卑の差序のあったこと、などを知り、それとの照合によって我々は、高天原や大和朝廷において行なわれたと同じような団体構成の仕方が、地方の集団にも存したことを推測し得るのである。従って民族学にいわゆる氏族部族〔四字傍点〕などがこの時代に存したかどうかは明らかでない。
さらに小さい人倫的組織について言うと、シナ人のいわゆる父母兄弟異処や、一夫多妻や、男女同格などの風は、上代の伝説にも明らかに認められる。伝説の英雄は多くの妻を持った。そうしてこの夫は一人の妻とは同居したかも知れないが、他の妻とは同居しなかった。妻はその子とともに自らの家〔四字傍点〕に住んだ。その生計を同母の兄弟が支持したか否かは明らかでない。が、麻や絹の糸をつむぎ、それを布に織る、という仕事が、女の職業として重大な意義を持った時代にあっては、女が独立して生計を営むのは容易であったろう。それがためにまた女は、男に対して同等の品位と権利とを保ち得たであろう。従って母は子を育てつつ父に対抗することができた。子に対して権利を持つのは、別居せる父ではなくて、同居せる母である。同父の兄弟も異母である限りは一つの家族に属すると見られない。かかる事情の下に夫婦の結合が兄妹を意味する「いも」「せ」によって言い現わされるに至ったのである。すなわち夫婦の間の親しみを表現するために、兄妹の親しみ〔六字傍点〕をかりたのである。通例原始社会においては兄妹の関係は最も厳密なタブーであって、性的な親しみを現わすことからは最も遠い。しかるにここにはそのタブーの意識がなかった。兄妹(55)関係が性的結合と同義に用いられた。これは兄妹相姦の危険がきわめて薄かったことを示すと見るほかなかろう。それは同時に、父親と別居してこれらの兄妹を育てる母親が、いかに母性愛に富んだものであったかを思わせる。従って魏志の「婦人不v淫、不2妬忌1」という言葉は、古伝説との対比によって大きい意義を発揮してくるのである。
宗教的信仰に関しては、倭人伝と記紀とは三つの点において一致する。太占《ふとまに》、ミソギ及び女に現われた神《かむ》がかりがそれである。これらの信仰の奥にはまだ明確な人格神は現われていない。超人力の存在は強い驚異の心によって認められる。そうしてその力の現われかたにも方式がある。しかしその力の主体は形を得ていない。木も草も野獣も蛇もおよそ心を持つと考えられたものは、それが人でない限り不思議な力の所有者であった。人にあっても、常人に見られない興奮や心理を見せたものは、驚異の対象となり超人力の現われと見られた。このように「神の姿」は漠然としているが、その力の現われかたは、現在においてもなお民衆の間に勢力を有する三つのものである。骨を灼いて占うか筮竹をもって占うかはとにかくとして占い〔二字傍点〕がなお強い勢力を持っていることは何人も疑うまい。水で洗うか祈祷《いのり》で払うかはとにかくとして、厄よけ、罪の清め〔七字傍点〕などの信仰がなお一般に存していることも明らかである。神がかりに至っては、巫女《みこ》の信仰が現代まで続いているのみならず、接魂術や千里眼として新しい科学の研究対象とさえもなっている。これらは人間の心に共通な神秘感の現われであって、運命の力や霊魂の不滅〔十字傍点〕が信ぜられる限り、いつの世にも消えたことのないものである。しかし偉大な驚異に生きていた上代にあっては、それらは人智の全部をおおいつくすほど〔人智〜傍点〕に優勢な力を持っていた。人はただこの神秘感に盲従して動いた。それを妨げる自然科学的な知識は全然存しなかった。蛭子が生まれても疫病が流行してもそれは何かの〔三字傍点〕崇《たた》りである。何の崇りであるかを知るために太占《ふとまに》に卜《うら》えて、(56)もし何々の神の崇りだとわかれば、(あるいは何姫に神がかって何の神の心だとわかれば、)それはもう絶対の真理であって疑う余地がない。疑えば取り殺される。その代わり神の命令を守れば、災禍は実際に取り除かれるのである。
が、記紀においてはこれらの信仰のほかになお種々の神の祭祀があり、その祭祀が一定の場所や神社において行なわれたことを示している。しかるに魏志はこれらの神々及び神社について一言も触れておらない。ここに魏志と記紀との間の軽視することのできない相違があるのである。
四 銅鉾銅剣と銅鐸
以上我々は、邪馬台の所在地が筑紫地方より水行三十日陸行一月(あるいは一日)の遠方であることを承認しつつ、魏志の記述を中心として西紀三世紀前半の日本の文化状態を考察した。筑紫地方から右のごとき距離にある地方が東方の大和であることは、我々のおのずから思い及ばざるを得ない点である。が、かく邪馬台すなわち大和であると考えるにしても、それによって魏人の邪馬台に関する記述がそのまま事実として承認せられ得ると主張したのではない。自ら直接に経験したのでない事態についての異国人の聞き書きが、いかに誤謬の多いものであるかは、現代のごとく学問の発達した時代においてさえも顕著なことである。だから我々は右の記述が神話と現実との混淆であろうと解したのである。それにしても、魏と交渉のあった倭人の国が、すでに大和にある統治者の下に統一せられていたという事実は、疑いを容れる余地のないものと認めなくてはならぬ。
しかるに近来著しく発達した考古学の研究は、右の事実を非常にきわどい境位に立たしめるように見える。すでに倭人伝の考察に入る前に我々は、地中の遺物が、山陰を大陸への門戸とする近畿中心の銅鐸の文化と、筑紫を門戸と(57)する筑紫中心の銅鉾銅剣の文化との対峙を示すことを見た。この銅鐸や銅鉾、銅剣が、梅原末治氏の説くごとく、西暦二三世紀ごろまで〔西暦〜傍点〕行なわれていたとするならば、右の二中心の対峙もまた西暦二三世紀ごろまで続いていたと認められなくてはならぬ。そうすれば、三世紀前半に大和から筑紫を支配し、大和にある統治者が魏と交通していたという事実は、右の対時が消滅した直後の時代に属するということになるのである。すでに説いたごとく、シナの史書には西紀二世紀初頭の倭国王と後漢との交渉を掲げている。が、それは銅鐸と銅鉾銅剣との対峙の時代のことであり、そうして後漢との交渉の門戸である筑紫地方は銅鉾銅剣の文化の中心地であった。従ってこの際の倭国王は銅鉾、銅剣の文化とは結びつくが、銅鐸の文化とはどうも結びつきにくい。しかるに三世紀前半における魏との交通に際しては、鉄刀らしい五尺刀〔三字傍点〕の輸入や倭錦〔二字傍点〕の輸出が記されている。それは単に大和と魏との交通であるに留まらず、すでに銅鉾銅剣の文化を超えて古墳時代の文化にはいっているらしく思えるのである。かく見れば二世紀の初めと三世紀の初めとの間に、一つの飛躍的な変革があったと考えざるを得なくなるであろう。
銅鐸の文化と銅鉾銅剣の文化との対峙が消滅したということについては、そのいずれが他を征服したかの問題を考えねばならぬ。それについて直ちに思い浮かべられるのは記紀の伝うる古伝説である。我々はそこに鉾と剣とがしばしば語られているのを見る。男女の二神が天の浮橋から下界をさぐる時に用いられるものは「矛」である。高天原における重大な誓《うけい》において用いられるものも「剣」である。また大蛇退治の説話から「剣」を省くことはできず、矛を名に負う神の恋愛説話にも生太刀がある。その他剣に重大な役目をつとめしめる説話は数えるに暇がないが、しかしここで最も重要なことは、矛や剣が崇拝の対象〔五字傍点〕とされていることである。剣が三種の神器の一であるのみならず、そのほかにも祀られる剣は少なくない。石上神宮の佐士布都《さじふつ》の神はその代表的な例と見られる。もとより自分はこれら(58)の矛や剣が銅鉾銅剣を意味すると主張するのではない。伝説の内容から考えて、生太刀や八俣の大蛇の剣が鉄の刀剣を意味することは、ほぼ確実であろう。自分が問題とするのは、武器を崇拝の対象〔五字傍点〕とするという伝統である。我々はこの伝統を神話伝説の起こる根拠として、神話伝説自身よりも古きものと考えざるを得ない。しかるにその伝統は、銅鉾銅剣の文化圏から起こっているのである。それを示すものは、銅鉾銅剣の形の上の変遷であろう。最初はシナから輸入し、あるいはその形を学んで、細く鋭利であった銅鉾と銅剣とが、後には異様な大きさのものとなり、刃は武器として通用し得ないほど幅広な厚みあるものに変わったのは何を語るであろうか。武器が武器として実用的でないものに変化し、しかもそれが、多くの鋳型の発見によって証示せらるるごとく、筑紫地方において熱心に製造せられたとすれば、我々はそこに鉾や剣の持った精神的な意味を推測しなくてはならない。そうしてそれが魏志の語るより以前の時代すなわち呪術の信仰の盛んな時代のことであるとすれば、その精神的な意味が呪術的のものであったことも認められるであろう。武器の崇拝はここにすでに始まっているのである。そこから古伝説へはまっすぐに連絡する。
しかるに我々は、銅鐸についての記憶を伝説のいずこにも発見することができない。銅鐸の用途は、梅原氏が推測するごとく、祭器であろう。これほどに顕著な、そうして宗教的意義を持ったに相違ない製作品が、古伝説に何らの痕跡をも残さないとすれば、古伝説が銅鐸中心の文化圏内において発生したのでないことは明らかであろう。
ここにおいて我々は、我々の古伝説を生み出した文化圏、すなわち三世紀以後の大和朝廷を中心とする文化圏が、銅鉾銅剣の文化の系統を引くものではないかとの推測に達するのである。すなわち筑紫地方において急激に発展した勢力――銅鉾銅剣を徴証とすれば、その勢力範囲は朝鮮南部、四国、中国西部を含んでいる――が、三世紀よりも前に〔八字傍点〕、東方の大和に移り、そこを中心として関東平野以西全部を統一したのではなかろうかという推測である。自分は(59)この間題をさらに詳細に考えてみたいと思う。
五 国家統一と考古学的証跡
大和朝廷の国家統一がいかにして行なわれたかは、記紀の古い伝説の内にその痕跡を残していると思われる。記紀の上代史が神代史とともに後世の述作であるということは、津田左右吉氏によって古くから主張せられているところであるが、たとい一つの構想によってまとめられた物語であっても、その材料のことごとくをまで空想の所産と見ることはできぬ。ある伝説を扮飾し、変更し、他の事件と歴史的に結びつけ、あるいは全体の構想に適するように意味をつけ変える、というようなことは、あるいは行なわれたかも知れぬ。しかし何らの伝説もないところに、全然頭のなかから都合よき物語を造り出すというような力は、とてもあったらしく思えない。だから、全体の構想や、一つ一つの物語の間の連関のつけ方などに後代の創意を認めるとしても、おのおのの物語にはそれぞれ古い民間説話や歴史的伝説が秘められていると見なくてはならない。国家統一の事情も、そういう意味で神代史や上代史から見いだせるであろう。
大和朝廷の国家統一については、まず神武東征の物語が関係を持つ。津田氏はこの物語がそのままに歴史的記述と見られないことを、進軍路の不合理や奇蹟や筑紫の勢力の閑却や日向を発祥地としたことなどで、証明している。そうして神代と人代とを結びつける物語は特に作者の著しい潤色を受けたと主張する。しかし人名や地名や個々の事件などを別として、「国家を統一する力が九州から来た」という物語の中核は、果して作者の作為であろうか。大八洲を生んだイザナギの命の降臨地が大和に近く、そうしてその後に天孫が大八洲を治めるために天より降るとすれば、皇(60)室の発祥地を最初より大八洲の中央と定める方が、物語の構造としてはるかに自然である。人間のことでない天よりの降臨を、しかも悠久な古《いにしえ》の出来事を、大和から九州へ移すことによって、どれほど神秘的な意味が増すだろうか。ことに大和に都する皇室のためには、皇祖が大和に降臨したとする方が、政治的にもはるかに意味深い。物語としてもかえってその方が出雲国譲りの事件を活かせることになる。これらの好都合をすべて無視して、天孫を九州に降臨させ、国家統一のために神武東征を必要とするのは、作者の作為とは思われない。
建国の伝説が何らかの形に形成されて行くのは、建国の事実よりははるかに後のことでなくてはならない。国家が組織されてあり、人々がその組織を当然のこととして認めるようになっている時代に、起源を求める心が建国の物語を要求する。彼らがたずねて問うのは古老であろう。しかしその古老は、同じ要求を、いくらか弱い程度で感じていた人であろう。そうしてその古老が答え得たであろうだけのことは、彼が若い時に彼よりも一層その要求の弱かった先代の人から聞いたのである。そのようにこの要求は、さかのぼるほど漸次逓減して行くと考えられる。建国の当事者には彼らの大きい事業を、事実的にまたまとまった形で言い伝えようとするような、興味もなければまた能力もなかった〔七字傍点〕(このことははるか後代の物語の原始的な性質からも察せられよう)。彼らが好んで語ろうと欲したのは、この大きい事業の途上における断片的な插話以上には出なかったであろう。それらを語り伝える者も、その歴史的事実のいかんを問題とせず、ただ彼らにとって興味ある插話の中身を、彼らの興味のままに語つたであろう。かくしてそこに類型化された人物を主人公とする簡単な類型的な説話〔六字傍点〕の幾つかが形成されたであろう。起源を求める心が明白に起こって来た時、古老が答え得たろうものは、この種の説話にはかならないであろう。しかしかくのごとき事情に際しても、その建国の当事者が西の国から来た〔七字傍点〕というだけのことが――すなわち建国の事業の最も簡単な輪郭〔七字傍点〕が――伝え(61)られたろうと考えるのは、根拠のないことでない。古い英雄伝説がしばしば一つの部族の遷移のあとを一人の類型的人物によって語っていることを思えば、我々は神武東征〔二字傍点〕や神功東征〔二字傍点〕の説話に十分の意味を認めなくてはならぬ。もとよりそれらはそれを物語った時代の地理的知識〔それ〜傍点〕や、また地名伝説を作るごとき段階にある原始的な想像力〔七字傍点〕によって、肉づけられている。しかしそれらの肉づけの中核にある物語の動機――西からの人が武器の神秘的な力により、あるいは知力によって、大和に勝ったということ――は共通である。我々はこの物語の動機〔二字傍点〕が古伝説に幾度か繰り返されている点を注意すべきであって、その肉づけのいかんにより中核の意義をまで見失ってはならない。建国の物語における地名をある地に考定したところで、それは次々の時代の地理的知識を探っただけのことに過ぎぬ。かく考えれば我々は、種々の東征物語において歴史的事実を見いだそうとしてはならないとともに、またそれらの物語の動機が指示している一つの簡単な歴史的事実を認めなくてはならない。
古伝説から見いだされるのは、この簡単な「東征」という一事である。しかし我々は全然異なった方法によって、すなわち先史考古学の証示するところに従って、この問題を他の方面からながめることができる。
前節に説いた銅鉾銅剣は、九州北部において前漢鏡などとともに甕棺や箱式棺の中から見いだされたが、単独に地中からも多く発掘された。いずれにしてもそれは後の高塚式古墳とは関係を持つことが少ない。古墳の含有する武器は主として鉄製の甲冑刀剣であって、明らかに銅鉾銅剣よりは進んだ時代を示している。従って銅鉾銅剣に象徴せられる勢力と、古墳の証示する勢力すなわち大和朝廷の勢力とは、別系統のものと考え得られぬでもない。そこで我々は、これらの武器と伴出する他の遺物、特に鏡の考察によって、両者の関係をたどってみなくてはならぬ。
(62) 九州北部においては、銅鉾銅剣が、前漢〔二字傍点〕より王莽前後〔四字傍点〕にわたる時代の古鏡〔二字傍点〕や玉類〔二字傍点〕とともに甕棺の中から〔六字傍点〕見いだされた。この事実は西暦一世紀ごろ〔七字傍点〕の九州において鏡、玉、剣の三者がすでに宗教的意義を持っていたことを証示する。そうしてこの種の古鏡は、富岡氏(古鏡の研究、二九一、二九六、三三〇ページ)によれば、その様式の流行が比較的永続したと思われる二三の種類を除いて、ことごとく九州にのみ発見せられるものである。しかるに畿内の古墳から発見された多数の鏡の大部分は、二世紀以後のシナにおいて行なわれた様式あるいはその模造であって、その最も古き鏡も後漢代(西暦二世紀)のあまり早からざる時期に比定される。大和の古墳中比較的初期に属すると考えられる佐味田宝塚及び大塚字新山の古墳において見いだされた鏡は、梅原氏によって、古きは三世紀極初、新しきも四世紀初頭の製作と推定されている。そうしてこれらの古墳においては鏡〔傍点〕とともに玉類〔二字傍点〕及び刀剣〔二字傍点〕が副葬品の主要部を占めることますます顕著である。ここにおいて我々は、九州と大和とが鏡宝剣の尊崇という一点については同一の系統に属し、しかも鏡の年代によって証示せられるごとく、その尊崇が銅鉾銅剣及び前漢鏡の尊崇〔銅鉾〜傍点〕としてまず存し、一二世紀の後に鉄の刀剣〔四字傍点〕及び後漢〔二字傍点〕以後の鏡の尊崇として継続していることを知るのである。
なおこの場合、銅鐸が鏡及び銅剣と伴出した例も顧みられなくてはならぬ。大和吐田郷からは銅鐸とともに二紐を有する異様な鏡が出、安芸紀伊からは鐸とともにクリス形銅剣細形銅剣が見いだされた。前者の様式の鏡は長門及び朝鮮慶州において銅鉾銅剣と伴出し、比較的古き時代のものと考えられるが、しかし後代の鏡とは連絡を持たない。また後者はその発見地において二つの文化の接触した事を推測させるが、しかしその銅剣がまだ実用的な武器であって、崇拝の意味を暗示する非実用的な武器に変化しておらない事を注意せねばならぬ。従ってこの二例は、銅鐸と銅剣とが同時代に属することを証示するとともに、また古墳において顕著な鏡宝剣の尊崇が銅鐸と関係薄きものである(63)ことをも証示するのである。
かくのごとく高塚式古墳の示す文化は銅鉾銅剣の文化と一つの点において時間的に連絡する。しからば何らかの時期に前者が後者に代わったのでなくてはならない。一般的に言って、高塚式古墳が鉄の刀剣を副葬し銅鉾銅剣を副葬しないところから考えると、高塚式古墳の発生は銅鉾銅剣がすたって鉄刀がそれに代わってより以後と推定せられる。従って武器における銅が鉄に代わった〔八字傍点〕という事と高塚式古墳の発生とは密接の関係を持たねばならぬ。もし何らかの方法によって鉄の武器が優勢となった事情を決定し得れば、古墳の発生、従って大和朝廷の全国統一の事情もまた明らかにせられるであろう。
魏志倭人伝の語る所によれば、三世紀前半の倭人は兵器として矛、楯、木弓、竹箭、鉄鏃、骨鏃〔十字傍点〕等を使用していた。銅鉾が畿内の古墳から鉄の刀剣とともに発見されるのを見れば、鉄鏃がすでに卑弥呼の時代にあった事は注目に価する。魏より舶来した五尺刀が鉄刀と考えられるのとともに、卑弥呼時代が鉄の武器の時代であることは認められねばならぬ。しかし鉄鏃とともにあげられる矛は何を意味するであろうか。銅鉾の遺品は豊富であるが、鉄の矛はあまり残っていない。もしこの矛が銅鉾であるならば〔もし〜傍点〕、そうしてそれを魏人が目撃したのであるならば、三世紀前半の筑紫に〔三字傍点〕はなお銅鉾が行なわれていたのである。しかるに、三世紀の鏡を含有せる大和の古墳は、決して銅鉾を示さない。従って筑紫で発達した広鋒の銅鉾は、東方へ遷移せず、三世紀前半まで筑紫に残存していたことになる。この点をとらえて、高塚式古墳の発生〔八字傍点〕は銅鉾が捨てられた後、すなわち三世紀前半よりも後であり、銅鉾銅剣に関連して存した鏡玉剣の崇拝は、鉄の刀剣に関連せる鏡玉剣の崇拝に変化した後に〔鉄の〜傍点〕、大和に移った、と考えることもできよう。その場合には、大和の古墳から多数に見いだされた三世紀の鏡は、筑紫地方から大和に運ばれた後に副葬せられたと解す(64)ればよい。しかし鉄の武器が使用せられるに至ったからと言って、直ちに銅鉾が影をひそめなくてはならぬというわけはない。いわんやそれが数世紀の伝統を帯びた宝物である以上、武器として劣ることは毫もその宝物としての資格は傷つけはしない。だからそれが己れの生まれた故郷に遅くまでその存在を保っていたとしても、さほど不思議はないであろう。かく見れば筑紫でなお銅鉾が等崇せられている時、すでに大和において鉄の刀剣が尊崇せられていても、それによって銅鉾銅剣の文化と高塚式古墳の文化とが異なった系統に属すると考えねばならぬということはない。だから魏人のいわゆる矛が銅鉾であると仮定しても〔銅鉾〜傍点〕、高塚式古墳の発生を三世紀前半より後と断定することはできない。まして魏人の記録は筑紫人がすでに鉄の武器を知っていたことを明らかに示しているのであるから、筑紫における銅鉾の尊崇が三世紀にも存したかどうかははなはだ疑わしいのである。
そこで我々は、三世紀前半にすでに大和において鉄の刀剣を中心とする鏡宝剣の尊崇が起こっており、またそれの示す勢力が筑紫を支配していたことを認める。それはすでに三世紀よりも前から銅鐸の中心地〔六字傍点〕を鏡宝剣の中心地〔七字傍点〕に変えていたのである。しかるに、前述のごとく、西暦第一世紀はいまだ筑紫において銅鉾銅剣を中心として鏡宝剣の尊崇の行なわれている時代であった。そうすれば、鏡宝剣の尊崇の伝統が東方の銅鐸の中心地に入り込んだのは、まず二世紀ごろのことと推測するほかはないであろう。
ここに我々は、銅鉾銅剣の文化と銅鐸の文化とが対峙し接触し統一せられた地盤としての、弥生式文化を考察する必要に迫られる。小林行雄氏のきわめて好く要領を得た綜合的叙述によると、この文化は東亜の一角に発達した磨石器文化〔五字傍点〕の一支脈に相違ないが、しかしまた純然たる石器時代の文化でもなく、青銅器文化鉄器文化を重層的に含んだものであって、言わば純然たる石器文化と鉄器文化との媒介者にほかならぬのである。その最も著しい功績は、農耕(65)文化をわが国に移し植え、農具などの石器を漸次鉄器に置換して行ったことであった。初期〔二字傍点〕には大陸から輸入した銅利器やそれの石への模写や、あるいは、陶車を用いて作った、技術的にすぐれた美しい弥生式土器などが見られる。その中心地はいずれも筑紫地方であって、瀬戸内海沿岸から近畿地方にまで及んでいる。中期〔二字傍点〕には陶車の性能を極度に発揮せしめた弥生式の大甕や、国産青銅利器の鋳造が見られる。その中心地は同じく筑紫地方である。が、同じ時期には大和河内を中心として別種の注目すべき土器文様が発達している。それは陶車の利用による大量生産的な櫛描文様である。この文様は銅鐸の文様との連関を示唆するものであるから、銅鐸の鋳造をここに結びつけて考えてもよいであろう。が、この時期にはさらに別種の土器文様が関東、信濃、北越、陸前にわたって行なわれている。それは初期の弥生式と縄紋式との混和したものである。従って農耕文化を迅速に日本全国に広めた弥生式文化は、この期に三つの地方圏に分かれたと認め得るのである。しかるに後期〔二字傍点〕に至ると、弥生式土器は全国を通じて無文の土器に統一せられてしまう。そうしてこの時期に鉄器が全国的に行きわたって来たらしいのである。この大勢に照らし合わせて考えると、銅鐸の文化と銅鉾銅剣の文化との対峙は、ちょうど弥生式文化の中期の出来事であり、新来の農耕文化金属文化を消化して己れのものとなした時期に当たるのである。そうしてこの対峙の消滅はちょうど鉄器普及の時期の事件と認めてよい。
考古学におけるこのような証跡は、銅鐸と銅鉾銅剣の対峙が同じき弥生式文化圏の内部での出来事であって、決して異民族の対峙などを意味するのでないことを示すのである。もちろんそれは宗教的に、あるいは芸術的に、異なった形態を創作してはいる。しかしそれは同じき弥生式の土器、あるいは同じき青銅器の製作上における上部の相違であって、文化様式や文化段階の根本的相違ではない。根本には農耕文化を受け容れて石器を徐々に変革せしめて行く(66)同一の文化が存している。その文化が分裂を経て綜合に達する過程、それを我々は弥生式文化の発展の中に見いだすのである。
このような考古学的事実を前述の「東征」という事実に連関せしめてみる。弥生式文化は筑紫地方を中心として東方へ広がった〔七字傍点〕のであって、これを「東征」と考えても何らさしつかえはない。また武器尊崇も筑紫地方から起こって東方へひろがった〔八字傍点〕のであって、銅鐸尊崇がそのために消滅したことを「東征」と考えても、同じくさしつかえはない。とにかく新しい文化はいつも西から始まって東を征服した。古伝説の中に最も強力なモチーフとして東征が語られるのもゆえなきことではないであろう。が、鏡宝剣の尊崇を重大な特徴とする我々の神代史の立場から見れば、右の二つの東征のうち後者こそ中心的意義を担うべきものと考えられる。もっともそれは前者が全然無視されてよいということではない。前者についてのおぼろな記憶も恐らく後者の中に吸収せられて残ったであろう。だから我々は弥生式文化の渡来、伝播、分裂、綜合の全過程を、ちょうどホメーロスの叙事詩に対するミケーナイ文化の位置に置いて考えることもできるのである。
かく見れば、魏人の記録するところは、ちょうど弥生式文化の全過程が終わった時代に属するのであって、魏の鏡が多量に古墳に存することによっても知らるる通り、すでに古墳時代〔四字傍点〕にはいっていたと認めてよいであろう。
古墳の遺物は、一般に認められている通り、全国的に様式の統一せられたものである。従って我々は古墳の遺物からしては大きい対立や葛藤を推測することはできない。中で最も異色のあるのは、九州における装飾ある古墳である。それには井寺古墳の方形〔二字傍点〕の石室、穹窿〔二字傍点〕をなせる天井、壁面の装飾模様〔七字傍点〕などのごとく、筑肥地方以外に類を見ない特徴(67)がある。しかし浜田、梅原、島田諸氏は、この種の槨が漢文化の影響によって造られたに相違なく、またその遺物が応神、仁徳陵などの遣物と様式を同じくし、しかも壁画を持った高勾麗時代の墳墓とある関係を持つらしく考えられるところから、ほぼ六世紀ごろの所造と推定している。異色は外からの影響によるのであって、内の対立を示すのではない。それを実証するものの一は鏡を現わせる円形文様である。日奈久の石槨遺材(東京博物館)には、きわめて幼稚な手法をもって三条の同心円と、中央の紐座らしきものと、外縁の十七角の鋸歯状文様とを刻描している。これが最も単純なものであって、なお他に幾分浮き彫りらしいものに変化しかけている鏡紋はいくつか見られる。彩色模様のうちにも鋸歯状文様を持たない単なる円紋や、八つの放射形が彩られている円紋などがしきりに用いられている。(口絵1参照)この模様の解釈については、前者を鏡とし後者を太陽とし、単なる円紋を「鏡の簡単化」もしくは「太陽形が連想によって鏡と結合せるもの」とする説が浜田氏等によって提出せられている。鏡の尊崇が古くより認められる以上、墳墓の神聖な装飾として鏡が用いられるのは理解しやすい。それが太陽と結合しているとすれば、それは太陽神崇拝がすでに存していることを示すのである。ところで我々は、この同じき鏡紋が、装飾墳とはなはだしく技術を異にせる東方の古墳の棺において、はるかに進歩した手法をもって刻まれているのを見るのである。越前足羽郡社村小山谷の石棺(東京博物館)には八つの鏡紋が全然〔二字傍点〕浮き彫りとして刻まれている。さらに備前邑久郡美和村本坊山の陶棺(同上)にあつては、鏡紋の鋸歯状文様を変化せしめたらしい美しい花弁状(十六弁)の文様が彫り出されている。漢鏡の直線模様を断片的〔三字傍点〕に写し出した装飾墳の幼稚な試みに比べると、ここにははるかに進歩した物のつかみ方が見いだされる。石櫛や壁画は西方文化の影響によって作られ、同時代の東方の古墳よりも一歩進んだものであるとしても、文様においては東方よりもはるかに原始的である。それはこの文様が畿内中心に発達したものであって、それが(68)僻遠の肥後に伝えられたとき粗雅化したとも解せられようし、またこの古墳の装飾家が絵画的装飾の興味に傾き、円紋や鏡紋を浮き彫りにするとは異なった動機によって動いていたとも解せられよう。いずれにしてもこの様式の異なった古墳が鏡の尊崇の伝統の下に立っていることには変わりはないのである。
次には浜田氏のいわゆる直弧紋がある。浜田氏はこの不思議な文様を、組み物の組み目形状より変化した原始文様、あるいは漢土舶載の色彩華麗なる錦綾を写したものと解釈した。しかしさらにこれを漢字の印象〔五字傍点〕から作り出された特殊の文様と解することもできるであろう。大和新山古墳より出た三面の直弧紋鏡は、シナにおいてその例を見ないものであるが、しかし構図が整っているために、梅原氏は日本人の手になったかどうかを疑ったほどである。組み物から出た原始文様をこれほど整った構図にまとめることが日本人に可能であったか、あるいは鏡においてあの幾何学的に精緻な文様の指導の下にまず作られた文様が、鏡を離れて乱雑な直弧紋となったのか、――我々は後の推測の方が上代人に似つかわしいと思う。そうすればこの文様は上代人に対して神秘的印象を与えたシナ文字の表徴として起こったとも解し得られる。ところでこの直弧紋が、九州の古墳においては槨壁、棺内壁、石棺蓋などの装飾として盛んに用いられているのである。ここでもそれは備中加茂村古墳槨壁に描かれたものや、応神、仁徳陵等の埴輪に彫られたものに比べると、はるかに粗雑である。しかし大和において発生し何らか神秘的な権威の象徴として用いられた特異な紋様が、九州においても盛んに用いられているということに変わりはない。
以上のごとく古墳時代の遺物が、その最も異色あるものにおいてさえ、統一〔二字傍点〕を示唆し対立抗争の跡を示さないとすれば、わが神代史の主題となっているような大きい対立や抗争に関しては、どうしても弥生式文化の時代が顧みられなくてはならなくなるであろう。
(69) 銅鉾銅剣の分布は、九州、中国、四国、紀伊などにわたっているが、その分布の最も濃厚なのは、筑紫地方を初めとして、対馬、豊後、伊予、讃岐などである。それについでは、土佐、豊前、肥後などが著しい。それに対して銅鐸の分布は、近畿、四国、中国から、北は越前、東は三河、遠江に及んでいる。その分布の濃厚なのは、大和、紀伊、近江、三河、遠江、土佐、讃岐、阿波である。これによって見ると、両圏の接触点は、讃岐、土佐において著しい。その次は紀伊である。土器の分布においても大体に同様の傾向が認められる。
このような対立と接触との間に統一の力が西から動いたとすれば、そこにオオナムジ国譲りの伝説と類似した事件が起こったろうことは、想像してもよかろうと思われる。国讓りをすすめるための永い問の交渉というごときことも、筑紫と大和との間にあったかも知れない。その間に使者が敵に籠絡せられて味方を裏切ったような事件もなかったとは言えない。タケミカツチのような勇将が敵を威圧した事件も恐らくはあったであろう。そうしてその争闘が結局妥協的な降服に終わり、その君主が自分の娘を征服者に貢って僻遠の地に退いたというようなことも恐らくは起こったであろう。あるいは筑紫からの勢力が瀬戸内海を東航して紀伊から大和へはいったというようなことも、はなはだ推測しやすいことである。がそれらは恐らく長期にわたって〔七字傍点〕行なわれたことであろう。統一の事業は一通りの戦勝のみをもって完成せられるものではない。かつて征服せられた国もその半独立の状態を利用して再び古の状態に帰ろうとする傾向を持ったであろう。また征服の手の加えられない地方への徐々たる勢力拡張も自然に必要となったであろう。だから東征の事件、あるいは西日本の統一の事業は、数十年あるいはもっと長期にわたった大事件でなくてはならない。この時代の人心の興奮から多くの伝説が生まれたろうことは推測し得られるが、しかしそれらの伝説が正確な史(70)実を伝えていようとは考えられぬ。たとい銅器や鉄器の製作技術を知り、巧みに陶車を操ることをなし得たとしても、銅鐸のあの原始的な絵画をかいていた人々が、右のような大きい歴史的事件を簡明にまとめて歴史的に物語るというようなことをなし得たとは考えられないからである。しかしどれほど素朴な把捉の仕方にもせよ、これらの時代の心的興奮〔これ〜傍点〕から多くの伝説が生まれたことは確かであろうと思う。
しかし弥生式文化の時代における右の統一は、銅鐸文化圏と銅鉾銅剣文化圏との合一を意味するのであって、古墳時代の全国的統一とは区別されねばならぬ。かつて原勝郎氏は、浜名湖から越後の蛇足に至る斜線を、長期にわたる境界線として主張した。そうして、魏志倭人伝にいわゆる狗奴国を、この境界線の東方なる蝦夷の国と解した。つまり古墳時代文化の関東への拡大を西紀三世紀中ごろ以後の事実と見たのである。当時の関東の住民が蝦夷であったか否かは別問題として、浜名湖あたりに境界線があったということは、銅鐸分布の東端が遠江であり、また三河遠江にその分布が特に濃厚であることからも、是認せられ得ると思う。従って銅鐸文化圏を合一するという事業とは別に、魏の文化などを十分に吸収した大和朝廷の勢力が、改めて関東地方や北越地方へ進出したということは、すなわちここに第二次の統一事業が行なわれたことは、当然認めねばならぬ。そうしてそれは三世紀中ごろより四世紀へかけての事である。この時代の心的興奮からもまた多くの伝説が発生したに相違ない。崇神、垂仁、景行諸朝の出来事として伝えられる多くの物語は、右のごとき伝説と認めてよいであろう。征服事業の記憶として景行帝の巡国や日本武尊の武勇が物語られ、政治組織改革の記憶として諸神の祭祀や奇蹟が物語られ、社会組織改革の記憶として皇子分封や祖先神の出現が物語られたのであろう。
(71) 右のような統一事業とともに政治的組織もまた拡大せられて行ったと考えられるが、その政治《まつりごと》は祭事《まつりごと》であって単なる権力の支配ではなかった。この事を実証するものがまた銅鉾銅剣や銅鐸なのである。これらのものが実用の具ではなくして神聖なものであったことは今や一般に認められていることと思うが、この神聖なものが同時にそれぞれの文化圏の統一を示しているのである。小林行雄氏は鋒部の鈍い銅鉾銅剣の内九六%が墳墓以外の地から単独出土したこと、及び銅鐸がすべて墳墓以外の地の単独出土であることから、その埋蔵が公共的意義を帯びるものであり、恐らく祭りの形態の一つであったろうと推測している。すなわちそれは祭事《まつりごと》に属していたのである。しかも武器として役立たざる武器に神聖な意義を認め、これによって祭事《まつりごと》をなした一つの勢力が、地方的な神社崇拝のごときを超えて、筑紫を中心とする西日本の祭事的統一から、大和を中心とする中部日本及び西日本全体の祭事的統一に発展して行ったのである。この発展の間に鏡宝剣を神聖性の象徴とする祭事の統一が明白にできあがった。このことは、宗教的意義を捨象してただ権力による国家統一をのみ考える立場からは、理解せられないであろう。同様にまた国家的意義を捨象してただ神の祭祀や原始信仰などの発達、結合をのみ考える立場からも理解せられないであろう。政治は祭事《まつりごと》であるが、しかしこの場合には、何らかの神への信仰が政治の作用をしていたというのではない。祭事《まつりごと》を行なう者がそのまま神聖であったのである。すなわち天皇の神聖性が神々の祭祀よりも上位に立ったのである。
しかしこの初次の統一の後にさらに関東北陸に及ぶ統一の事業が行なわれるころには、地方的な神社崇拝――これもまた地方的な祭事《まつりごと》であるが――を天皇の手に総攬するという事態が実現せられたと思われる。すなわち地方的な神神もまた天皇が祭らしめる〔五字傍点〕のである。かくして天皇は全国の政治《まつりごと》を総攬するに至った。――この傾向が崇神垂仁朝の神の祭祀の物語に現われているのである。疫病によって大物主神が大和朝廷を脅かす。皇子を唖にすることによって(72)出雲大神が大和朝廷の崇敬を要求する。天皇の神聖な権威によって統一を遂行した大和朝廷も、奇蹟を行なう神にまで打ちかつことはできない。そうしてその神は、ある地方のある山ある土地に固着して、その土地の集団あるいは自らの子孫の祭事を要求する。大和朝廷もこの点は讓歩しなくてはならなかったのである。
この形勢は必然に氏姓制度の発達を促したらしい。氏姓制度のことは次章において論ずるつもりであるが、考古学的証跡との関係において一言触れておきたいのは、氏姓制度が混同されやすい「氏族」との区別の問題である。民族学にいわゆる「氏族」は、国家よりも古い段階としての血縁団体であるが、日本における考古学的証跡は、かかる氏族の痕跡を全然示していない。鏡宝剣の崇拝がすでに成立していたと思われる弥生式文化の時代の住居址は、村落的集団の存在を明白に示しているが、そこから氏族的構成を思わせるものを見いだすことはできない。魏人の記述している倭人の国々は、すでに氏族や部族の段階を超えて、国家の萌芽を見せているものである。しかもそれらの国々が一つの統一的な国家に組織され、その国家の範囲が西日本のみならず東日本をも含むに至ったころに、氏姓制度が発達し始めたのである。だからこれを血縁団体としての氏族に結びつけることは、よほど用心しなくてはならない。ここで氏姓制度のなかに組み入れられる「氏」は、何らかの大きさの人民の集団〔五字傍点〕を率いた有力者である。それは、新しい統一的国家において指導的立場に立っている政治家や武人である場合もあったであろうし、またかつて魏人によって「国」と呼ばれたような地方的集団の首長である場合もあったであろう。が、いずれにしてもその率いている集団は、統率者の血族とは限らない〔八字傍点〕のである。国造、県主、別、稲置などの尊称によって呼ばれていた首長は、族長であるよりもむしろ領主〔二字傍点〕であったであろう。これらの旧来の領主たちも、統一的国家の有力者たちに伍して、新しい組織のなかでその地位を確立しなくてはならない。そういう努力のなかから、集団の統率者や領主の「氏」の意識が発生(73)して来たのである。皇子分封の伝説のごときは、後代の諸氏が貴い祖先を欲する心から生まれたのであるかも知れないが、ちょうどこの氏の意識を反映するとも見られるであろう。氏の意識は、血縁の意識〔五字傍点〕であるには相違ない。しかしそれは統率者や領主の家族的血縁〔五字傍点〕の意識なのであって、その率いる集団全部を含めての血縁的団体の意識なのではない。この点で氏族とは明白に区別されなくてはならぬ。氏姓制度とともに強く意識せられて来た「氏」は、人民の集団を除外した統率者だけの〔六字傍点〕血縁関係である。統一的国家において実際に新しく行なわれたことは、数多くの地方的集団〔五字傍点〕を一つの全体に組織することであったが、それの意識的反映は、右のごとき氏の間に整然たる秩序を作り出すことであった。で、数多くの氏の間の競争や自己主張のなかから、徐々に血縁関係〔四字傍点〕というイデオロギーによって、もろもろの氏の組織が形成されて来たのである。すべての氏を神別、皇別として一つの祖先に帰属せしめるというのがそれであった。この傾向はまた逆に家族的血縁関係の意識を強めたらしい。父系による血縁の統一がはっきりと行なわれ始めたのも、恐らくこのころからであろう。この傾向は氏姓制度の成熟に伴なってますます強まって行ったと考えられる。
こういう社会の変革が宗教的信仰を動揺せしめたことも右の事情によって明らかである。国家統一前からすでに神秘的な権威を持つ君主の崇拝は起こっていた。この神聖な君主は死後にも民衆の崇敬をつないだ。しかしそれは初め地方的な現象として始まり、漸次他の地方を化して行ったのである。今や国民全体がこの神聖な君主に統治せられるに至ったことは、この君主の神威が、地方的〔三字傍点〕から国民的〔三字傍点〕に発展したことを意味する。天皇の大殿の内に祭られた天照大神や大和《ヤマトノ》国魂神は、ここにおいて共住不安というほどに神勢を増した。そうして天照大神は、大和から近江美濃を経めぐったあとで、五十鈴川上に鎮座した。しかしそれによって在来の雑多な原始信仰が清掃されたのではない。一(74)方では蛇であるところの大物主が崇拝せられる。地方地方の樹木や岩石も民衆の信仰をつないでいる。太占、巫女、大祓等の呪術的儀式は依然として盛んである。が、同時に他方では、知力の発達に伴なって、外界の現象に対する客観的な認識が開け始めた。それが旧来の信仰と調和するためには、神そのものの性質が変化しなくてはならぬ。その第一は漠然たる神秘力であった神々が特殊の権能を持つ神々に分化することである。例えば航海者の多い筑紫地方のスミノエの神が、航海者に崇拝せられるという理由で、海を支配する神として祀られるごときである。このことはまた神が地方的色彩を失って一般的な神に進化して行ったことをも意味する。それに従って第二には火の神、農業神、太陽神のごときいわゆる人文神の崇拝が強まって来る。これらはもはや恐怖の対象たる神秘力ではなく人間生活を守る恩恵の神である。第三にはこれらの神々が人格を具えた人間的な神として、具象的幻視的な性質を得て来た。これは神秘的な君主をその死後においても神として崇敬する信仰が国民の間に急速にひろまったことの必然的な結果である。そうしてこの結果は信仰の内容に著しい変動をひき起こす。なぜなら人格神と人との関係には、蛇と人、あるいは精霊と人との関係よりも、はるかに朗らかな、強い親しみの情があるからである。それを祖先として考えるにも無理がない。こうして数世紀の間に徐々に神代史に現われたような神々が造り出されて行ったのである。そこでは太陽神が中心的位置を占め、その神威によって天皇が現人神とせられる。新しい社会組織はこの信仰の上に立っている。もとよりこれは知識階級を主とする進歩であったかも知れない。しかしとにかくそれによって動揺を静めることはできたのである。神代史の神話よりもはるかに幼稚な民間の信仰が、漸次この神話に結びつけられたに見ても、それが一般の承認を得たことは明らかであろう。
かくして我々は、まず初めには西紀一二世紀のころに、次いでは三世紀中ごろより四世紀後半へかけて、大きい政(75)治的変動が日本に起こったこと、そうしてそれが文化の様態に力強く影響し始めたことを推定し得ようと思う。
日本に幾分か遅れて南朝鮮もまたその政治的状態を変えた。魏志の韓伝は魏の時代(220−264)に三韓が七十八国の部落に分かれ、その大国も万余戸、小国は六七百家に過ぎなかった事を伝えているが、その当時これらの部落の一つに過ぎなかった百済と新羅とは、四世紀の中ごろに、統一的な二大国として対立している。が、この変動は南朝鮮に留まらない。四世紀の初め鮮卑が遼東を占領して朝鮮における漢人の勢力を本国から断ち切ってしまうと、鴨緑江の谿谷から高勾麗が出て来て、たちまちの内に楽浪帯方の故地を占領しそこに国を立てた。が、この鮮卑の活躍はシナ外蛮の激烈な活動のほんの一部である。三世紀末より五世紀前半へかけて、江北一帯の漢文化中心地は、鮮卑匈奴※[氏/一]などの外蛮に占有され、漢人の政治的権力は地におちた。しかしこの外蛮の活躍は東亜に限らない。四世紀後半に始まった匈奴の西漸〔五字傍点〕は、ヨーロッパの古代文化を葬りヨーロッパ諸民族を造り変えてそこに新しい文化を芽ばえさせたところの、あの民族移転の大運動を引き起こした。日本の最初の対外進出はこの世界史的変動の時期に属するのである。
六 朝鮮への進出
長期にわたる日本人の国家統一がようやく完成されて来たのは、百済、新羅の興起と時を同じゅうしていた。そうして半島の一角には日本人の国があった。とすれば、その間に接触が始まるのは当然の勢いである。
神功皇后新羅征伐の伝説は、津田左右吉氏の主張するごとく、当時なお文化の発達していない新羅を宝の国、金銀の国と見、しかも筑紫より北方に当たる新羅を西方とし、その遠征にも魚が舟を背負うとか波が新羅に押し上げると(76)かの奇蹟があつた等の諸点から考えると、全然説話化せられた物語であって、材料としても雄略朝以後の対韓関係があみ込まれているらしい。しかし国家統一の完成後まもないころに、日本人の勢威が半島南部を圧していたことは、歴史的事実として存在する。
書紀に引かれた百済記の考察(津田氏)によれば、百済の近肖古王がわが国に使者を送ろうとした甲子年は西紀三六四年であるらしい(神功紀四六年)。当時国勢の盛んであった百済が、わが国に援助を求めようとしたのは、高勾麗や新羅の圧迫のゆえに相違ない。しかしまたわが国の勢力がこのころすでに弁韓地方に及んでいたからこそ、援助を求めることもできたのである。そうすると、わが国の韓半島における初期の征戦は、四世紀後半より、五世紀初頭へかけての三四十年にわたる長い出来事である。書紀が百済記から引用した職麻那那加比跪(千熊長彦《チクマノナガヒコ》)の新羅派遣や、同じく百済記によったらしい荒田別、鹿我別、木羅斤資《モクラコンシ》、沙沙奴跪《ササトク》等の新羅征戦、〓弥多礼《トムタレ》征服、ひいては百済王肖古の服属の誓い(同四八年)なども、事実でないとは言えない。また百済記の伝うる壬午年(382)の沙至比跪《サチヒク》の新羅征討(同六二年)も、日本に帰化しようとする弓月《ゆつき》の人夫百二十県を救いに行った襲津彦《そつひこ》の新羅事件(応神紀一四、一六年)も、恐らく事実の裏づけがあるに相違ない。さらにまた好太王碑文の考証によれば、「倭以辛卯年来渡海、破百残□□新羅、以為臣民」の辛卯年は三九一年〔四字傍点〕であり、「倭人満其国境、潰城池、以奴客為民」の己亥年は三九九年〔四字傍点〕であり、高勾麗が新羅を助けて日本人を任那加羅まで追いつめた庚子年は四〇〇年〔四字傍点〕であり、日本軍が百済の北辺漢江の流域から高勾麗を攻撃してかえって大破させられた甲辰年は四〇四年〔四字傍点〕である。
海峡を越えて遠征する日本人が国を賭して争う新羅を征服し、また北方高勾麗の地にまで攻め入ろうとしたのは、この時代の対韓関係が一二世紀後の対韓関係よりもはるかに緊張したものであったことを示している。たとい百済が(77)同盟国であったとしても、それに活力を与えたのは倭人であり、また敵から恐れられたのも倭人である。この倭人の旺盛な活力は、国家統一に現われた国民の心的興奮と相応する。それが永続的な植民地経営ともならず、また国民的精神を歌った叙事詩ともならなかったという理由で、この遠征をただ「政府の外交政策」「国民生活に関係なき官吏と軍人の事業」と見なしてしまう見解には、自分は賛同することができぬ。天竜川から先の東日本を最近の一世紀の間に統一した日本に植民地の必要が果してあったろうか。「百余国」に分かれていた日本を、一つの国家に統一し、緊密な氏姓制度を造り上げた、という数世紀にわたった大きい事業をさえ、きわめで素朴な皇室中心の神話として語っている当時の日本人が、朝鮮遠征をただ愛らしい新羅征伐の物語として語り伝えたとしても、さほど不釣り合いとは思えない。事件の意義はむしろ前掲のごとき遠征そのものから見いださるべきである。当時の軍人とは要するに一般民衆と変わりのない農人である。少数の指揮者を除いて〔少数〜傍点〕大部分は平和な農村の生活から立った。それが国内を行軍し、無数の船舶に乗り、多量の武器食糧をたずさえて国外に押し出し、そうして重大なことには、異民族と戦ったのである。たとい百済王に頼まれたとしても、ただ政府の道楽にこれだけの大事を始めるわけはない。団体心が強い意義を持つ時代にあっては、国民の間に大きい興奮がなくでどうしてこういう事業に取りかかれよう。朝鮮中部まで侵入した日本人の活動が大がかりであるだけに、この時代の征戦は軽視することができない。日本国のこの後の迅速な発達は、むしろこの征戦のたまものとも見られる。この意味からも、世界的な民族移動と同時に起こった極東民族の動揺が、日本国の発展の重大な背景となるのである。
しからばこの大きい国民的活動が何ゆえに詳しく記憶せられなかったか。そうして何ゆえに神功皇后新羅征伐のようなおとぎ話めいた説話のみを残したか。それは当時の日本人がまだ強い歴史的関心を持たなかったからである。前(78)述のごとく、説話化の素朴さにおいては、神武東征もまた新羅征伐に劣らない。彼らは事実として国家を統一し組織化した。その激動の結果として、信仰を変え家庭生活を変えた。それが彼らの記憶である。かくのごとき実際上の変化〔六字傍点〕のほかに、事件を知識化して保存する必要を、彼らは感じなかった。これは事件が歴史的に複雑であればあるほどもっともなことである。朝鮮との交渉が単純な説話に化せられたのも同様な事情に基づくであろう。また後代にこの説話を受けついだ人々も、その説話の歴史性を問題とするような歴史家ではなかった。さらにまたこれらの人々の書き残した材料を編纂した書紀の記者たちといえども、批判的でない点においては同様である。彼らは古い説話を採録したあとへ、それと矛盾する百済記の記事を平気で取り込んでいる。たとえば神功紀元年、新羅征討の記事の後に、高麗百済二国王の降服を記しているのであるが、同紀四十六年、甲子年には、百済王が東方に日本国ありと聞いて朝貢しようとしたという記事を掲げている。それによってもおよそ歴史的関心の程度は知られるであろう。
このような事情の下に、四世紀における対韓関係の詳しい事実〔五字傍点〕は、それが説話化せられたころには、もう忘れられていたらしい。当時の英雄としての武内宿禰は、前後数代にわたって活躍しているが、千熊長彦、木羅斤資、沙沙奴跪というような諸将は、説話の内に何の痕跡も残さず、従って書紀の編者にとっても「不v知2其姓1人」なのである。類型的英雄が多くの実在の人物を一身に兼ねるとともに、実在の人物はその姿を消したのであろう。しかし我々は種種の事情から推して、この説話よりも百済記の記述の方が幾分か詳しく事実の記憶を伝えていると認めねばならない。書紀が千熊長彦と記すのは、百済の職麻那那加比跪を翻訳したものであろう。他の諸将は翻訳ができなかったと見える。木羅斤資は、特に日本人らしい名でないので、「百済将也」と分注してある。しかし六十二年の条に引用した百済記には、沙至比跪が美女を賂《まいな》われて新羅征討の手をゆるめた時「天皇大怒、即遣木羅斤資」うんぬんとある。前後の(79)関係から見て百済の将とは思えない。なおまた応神紀二十五年の条に、大倭〔二字傍点〕木満致が百済王宮と相婬した話があって、「百済記云、木満致者、是木羅斤資討2新羅1時娶2其国婦1両所v生也。以2其父功1専2於任那1、来入2我国1往2還貴国1」と分注してある。木羅斤資が百済の将ならば、新羅の女との間に生んだ子が大倭であるはずはない。
が、書紀の編者にも神功紀についての一種の解釈はあったらしい。それは神功紀を魏の時代にあてはめ、魏志を引用するために、三十九年、四十年、四十三年の三項を設けていることにうかがわれる。この個所の分注は前記の木羅斤資や木満致の分注とともに後人の插入という説もある。しかし書紀の記者がちょうどそうなるように紀年を掲げていることは動かせない。編者たちは魏志の倭人伝を読んで、そこに記された「倭女王」と神功皇后の伝説との間に暗示の多い一致を見いだしたのであろう。がまた神功紀以前に諸国討伐の物語をならべ、新羅征伐の初めに神がかりの話を置くという書紀以前の旧記の筋書きも、すでにもう魏志の記事から暗示をうけていなかったとは断言し難いであろう。してみれば、魏人のいわゆる「倭女王」があるいは神功皇后の事績の聞き書きであるかも知れぬという解釈は、魏志が日本に伝わった時からすでに存していたと認めることもできるのである。
倭女王と神功皇后を結びつけることは、我々にとっても意味がなくはない。なぜなら新羅征討の物語そのものが、戦争談であるよりもむしろ「気長足姫の物語」だからである。まず最初に熊襲征討の議が起こった時、皇后に神がかりして新羅討伐の必要が伝えられた。それを信じなかった仲哀天皇は、その不信のゆえに〔八字傍点〕、神の呪いによってその場で息が絶えることになる。再び皇后に神がかりして、新羅征伐は天照大神を初め諸方の神々の命であることが伝えられる。また皇后の胎中の御子が新羅を獲られるであろうという予言や、軍船に御魂をまつれという命令などもある。かくて神々の力によるさまざまの奇蹟にまもられ、新羅を一挙に平らげて、帰国後、延引せる産の紐を解かれた。以(80)上は記紀の一致するところである。なお紀には、出征以前に筑紫地方の叛逆者を平定したこと、神の教えを信ずるゆえに奇蹟が現われたこと、西征について皇后が全然神の力に頼ったこと、自ら出征するには、群臣に議《はか》りその同意を得て決定したこと、大三輪神をまつると、集まり難かった軍卒が自《おのずか》らに集まったこと、などが詳しく記されている。すべての関心は皇后と神の力とにかかるのである。
気長足姫の物語が、このような超人間的な事蹟〔七字傍点〕への関心にもとづくものであるとすれば、これを語りついで来た上代の日本人が、初めて魏志の倭人伝に接し、そこでヤマト国の女王ヒミコの記事を読んだときに、思わず気長足姫を連想したことは、いかにも自然であるように思われる。恐らく彼らにとっては、ヒミコはまだ超人間性において足りない〔四字傍点〕と感じられたかも知れない。しかしそのヒミコでさえ、七八十年も前に即位した老年の女王として記されている。超人間的な気長見姫が、それに劣らず長命であっても、少しも不思議はないのである。そう考えると、書紀が七十年にわたる〔七字傍点〕神功皇后の摂政期を作ったのは、あるいは魏志の記事の影響であるかも知れない。
が、さらに一歩を進めて考えると、上代の日本人が感じた通りに、魏志の記したヒミコと日本側で伝えている気長足姫とが、同一人をさしていはしないか、ということも問題になり得る。気長足姫のような物語が発生するにはその地盤がなくてはならない。その地盤は、魏人のいうヒミコ女王についての、日本人側の記憶であるかも知れない。魏人のいうヒミコが現実に〔三字傍点〕倭女王であったとすれば、あれほど顕著な事実が日本人の間に何の記憶をも残さないということは、あまりにも不思議な現象である。そう考える人があるであろう。著者自身もかつてそう考えたことがある。ヒミコは実際に北九州を支配した女王である、ということを前提として認め、魏人がそれを記録した三世紀よりも後に、北九州の勢力が東の大和に移って西日本の統一を実現したのであること、そういう東征の物語がいろいろな形に(81)結晶して行くうちに、一つの形として気長足姫の物語が成立して行ったこと、従って気長足姫の物語にも東征を物語る部分が含まれていること、などを考え合わせたのである。しかしこの解釈では、畿内における最も古い古墳の説明がつきにくい。また東の大和にもっと古くから強い勢力が存したということや、西日本の統一を三世紀末あるいは四世紀前半まで引き下げるのが困難であることなどにも、おいおい気づいて来た。そうして最後に、魏志のヒミコの記事そのものを批判的に取り扱うようになったのである。倭女王の記事は、日の女神の神話の反映であろう。日の女神の神話の背後には、神聖な女子の支配という現実があったかも知れない。しかしそれはもっと古い時代のことであろう。そうなると、魏志の記している倭女王のごとき現実〔二字傍点〕が、記憶を通じて気長足姫の物語の地盤となっている、などとは言えないことになる。倭女王の記事に関係させずとも、気長足姫の物語を発生させるような地盤は、見いだすことができるであろう。神がかりによって神命を伝える女子の物語は、ほかにもたくさんあるのである。四世紀の中ごろ以後、数十年にわたって朝鮮との軍事的接触があったということは、事実として証明することができる。そういう興奮の時代に、実際に神がかりの女子が重大な役目をつとめたということも、非常にありそうなことである。そうなると、気長足姫の物語は、他に地盤を求めるまでもなく、物語自身が示している通り、四世紀後半における朝鮮関係自身のうちから発生したと認めてさしつかえがない。物語の内容はいかにも超人間的であり、史実と関係はないかも知れないが、しかし神秘的な力を持つと信じられた気長足姫の存在とか、それによる外征や国内統一の事業とかは、案外事実に近いかも知れないのである。
気長足姫の物語に東征という部分が含まれていることは、前に指摘した通りであるが、この東方平定の物語は、優越な知力によって克つという性格をはっきりと示したものである。髪のなかに弦をかくし、詐《いつわ》って降服した後に、か(82)くした弦を出して敵を討つ、というたぐいである。これは日本武尊に結びついている詭計の話とともに、国家平定の物語の一つの特徴である。が、朝鮮関係の始まる以前の時代、すなわち問題が国内にのみ関係している物語にあっては、代表的な英雄は日本武尊〔四字傍点〕として結晶し、朝鮮関係が始まって以後の時代にあっては、武内宿禰〔四字傍点〕として結晶している。これは非常に顕著な現象である。これはホメーロスにおいてアキレウスとオデュツセウスとの二つの英雄の類型が現われているのと、対比して考えることのできる問題である。日本武尊は日本の「武」を現わした英雄であり、武内宿禰もまた「武」を名とする内の宿禰(家臣)であって、いずれも固有名詞によってでなく普通名詞によって〔八字傍点〕呼ばれているのであるが、いずれの英雄も力の強さ〔四字傍点〕とか足の早さ〔四字傍点〕とか武術の巧みさ〔六字傍点〕とか胆の太さ〔四字傍点〕とかによって讃美せられているのでないという点において、ギリシアの英雄とは著しく異なっている。では何がゆえに「武」であるかと言えば、敵を平らげたという一点をあげるほかはない。その平らげる手段は、武力であるよりもむしろ知力〔二字傍点〕であったのである。ただその知力が、日本武尊にあっては、若さ〔二字傍点〕と美しさ〔三字傍点〕とに結びつき、武内宿禰にあっては、老熟〔二字傍点〕と思慮〔二字傍点〕とに結びついている、という相違があるだけである。しかしその結果として、日本武尊は、美しいもののもろさを思わせるような、あわれに美しい短命な生涯を送ることになる。その点においてアキレウスと同じである。それに対して武内宿禰は、あたかも天照大神に対する思金神のように、智者として気長足姫や天皇を補佐しつつ、恐らく二百歳に近い長寿を生き、五世紀、六世紀における有力な氏のほとんどことごとくをおのれの後裔として生み出すことになっている。どことなくオデュツセウスに似ているといえるであろう。朝鮮遠征のような長期にわたる大事業や、それにつづく国家組織の整備などの仕事は、特に著しく智慧を必要としたという事態が、この英雄の姿に反映しているとは言えぬであろうか。
(83) 以上のように考えれば、西紀四世紀の後半から五世紀初めへかけての時代は、日本の国家が初めて自覚の段階〔五字傍点〕に達し、対外的にもその存在を確立した時代だと言ってよいであろう。西紀一二世紀ごろに西日本を統一し、三四世紀ごろに東日本をも統一にもたらした上代の国家が、ここでひとまず完成の域〔四字傍点〕に到達したのである。
七 古墳の遺物
右に説いた時代の後期は応神天皇の治世に属するものであろう。そうしてこの応神朝の末期から仁徳履仲允恭の諸朝へかけての時代が、すなわち五世紀初頭より五世紀中ごろに至る時代が、朝鮮出征後の平和なる〔四字傍点〕建設期として、新しい組織、新しい生活を完成させた時代であろう。だから争闘を表徴する武器の類は、たといこの平和時代のものであっても、むしろそれ以前の時代を示すと見られるのである。
古墳の遺物は応神仁徳諸陵の遣物を標準として年代づけられる。従ってこれに似た遣物の多くは五世紀以後のものと見られている。しかし甲冑刀剣の類が最も多く用いられたのは、四世紀のころであろう。第二次の国家統一、朝鮮出征などの大仕掛けな事業は、伝説としてはただ小さい插話、もしくは内容の乏しい輪郭のみが残されているが、しかし事業そのものの性質から言えば、一世紀以上の年月にわたって、数十万あるいは数百万の人々の活躍した、国民全体の事件でなくてはならぬ。南史載する所の倭王武(雄略)の上表には、
自2昔祖禰1、躬※[手偏+環の旁]2甲冑1、跋2渉山川1、不v遑2寧処1、東征1毛人1、五十五国、西服2衆夷1、六十六国、渡2平海北1、九十九国。
とある。その国数が正確な事実を示すか否かは別として、とにかく雄略朝より遠からぬ時代の長期の征戦の記憶を示(84)していることは明らかであろう。そうしてこの征戦の事実をより現実的に我々に示すものは、古墳から見いだされた甲冑刀剣等の興味多い遣物である。我々はそれによって四世紀の征戦を如実に想像することができる。
まず兜から始める。上総国君津郡清川村祇園発掘の兜(東京博物館、口絵3参照)は、塗金が鮮やかに残っている点で興味の多いものである。構造は古墳時代の他の兜と同じく、多数の細い鉄板をたてに二段に並べ、中部と下辺とに鉄板の針巻をめぐらし、鉄板相互の間は細かい鋲でつなぎ合わせて、鉢形の、格好のいい帽子に仕上げてある。正面には、模様くずしの金銅薄板のひさしがある。細工はかなり精巧であって原始的なあとはいささかもない。この鉄板の表面全体には塗金が施してあったらしく、今もなお大部分は残っている。ことに中部の鉢巻には、塗金の上に針で描いたらしい竜紋がある。シナ起源の紋様であることは疑いのないところであるが、その描き方の幼稚な点において、あるいは日本人の手になったのではないかを思わせる。ひさしの意匠もまた漢鏡に見られる竜紋の変形である。これはさらに一歩を転ずると、他の兜におけるごとく、竜形の認められない不規則な模様に変わって行くらしい。
この兜が後漢より六朝へかけてのシナ工芸を指示するものであることは言うまでもない。しかしこの兜自身は、恐らく日本人の手になったものであろう。銅鏡の模造の発達から見ればこの種の武具の模造が可能であったことも察せられる。ことに四世紀は、何よりもまず武器が発達すべき時代であった。だからこの兜は、(もしこの兜が五六世紀ごろのものであるならば、この兜に似た四世紀の兜は、)シナ工芸品を最も多く輸入し、その模造に最もよく長じた社会での製作品であると見ることもできる。
(85) この兜に相応する鐙も同じく鉄板を鋲留めにして、体にピッタリと合うように、胸部をふくらませ腹部を細くし、人体の輪郭の美しい曲線を現わしたものである。これももとは塗金があったのであろう。製作の上からは兜よりもはるかに困難であるらしく思われるが、しかし模倣としてならばその困難もたいしたことではない。
太刀に至ってはシナの伝統が明らかに認められるとともにまた日本における変化のあとも著しい。刀身は鉄であるが、鞘、柄などには金銅の類が用いられ、その上に種々の装飾が施されている。数多い柄頭《つかがしら》(東京博物館)のうちには、竜頭をつけたものが最も多く、その竜頭にも、九州から出たものには、非常に複雑な形を彫ったのがある。両毛地方のものは比較的単純な竜頭であって、模倣を思わせるある拙さが認められる。方頭の太刀の柄頭にも、全体の意匠は明らかにシナ式でありながら、文様において過渡的段階であることを印象するものがある。勾玉形の文様はもと漢鏡の※[ダ、わにとよむ字]竜から出たのではないかと思われるが、勾玉の愛用とともに文様にもこの形が発達し、鞘の装飾には盛んに用いられている。左に掲げた文様に至ってはもはやシナ式らしい印象はない。さらに鞘の装飾に著しいのは二重円紋の並列である。これは鏡紋から変化した文様だろうと思われる。その円紋が点線でできていることも土器模様との関係を暗示しておもしろい。もしこの変化が三世紀の輸入品に基づいて四世紀、五世紀の間に行なわれたのであるとすれば、四世紀の征戦時代にはなお漢式の直模が流行していたかも知れない。
(86) そこで我々は躬※[手偏+環の旁]2甲冑1、跋2渉山川1した第二次統一時代の英雄や、軍船の先頭に「荒魂《あらみたま》」をたてて朝鮮海峡を押し渡った外征の英雄の姿を想像することができる。頭にはひさしのついた鉢形の鉄帽をかぶり、体には胴の細った曲線の美しい鎧をつける。剣は刀鐶によって腰につるすのである。そうしてそれらの武具はことごとく鮮やかな金色に輝き、それらをもって武装した軍将の姿は金人のごとく美しい。もし太陽がその上を照らせば、人目まばゆいほどに光るであろう。夜の闇さえもその超人的な姿を隠すことはできまい。それは畢竟漢文化の表徴である。が、当時の日本人にとっては、それは驚異すべき超人的な威力の表現であった。この種の金色の英雄が戦場において陣頭に立ち、甲冑を知らなかった東方の日本人に神のごとく畏れられたとすれば、そこに現人神たる天皇の統治する大きい統一的国家が成り立つのも自然であろう。また天皇の下に立つ多くの武将たちが、同じく金人の装いをして、吉備に向かい、丹波に向かい、越《こし》に向かい、東海に向かったとすれば、そこに新しい文化の勝利が至るところ実現せられたのも不思議でない。吉備地方、丹波地方、越前地方、あるいは両毛を中心とする関東一円に、たとい年代は下るにもしろ、同系統の遺物を出す古墳が少なくないという事実は、伝説にいわゆる四道将軍のごときものの征服事業を証拠立てるのであるかもしれぬ。また海峡のかなた朝鮮南部の古墳が武器等において全然同系統であることを示し、のみならず直弧紋〔三字傍点〕を有する刀剣角鹿装具のごとき全然日本起源のものを出土したことを考えれば、乏しい記録によって証拠立てられている朝鮮の征戦は、確かに右のごとき武装のもとに行なわれたに相違ないのである。古墳に見いだされる埴輪の武人がいかにも原始的な形をしているという理由で、この時代の武装そのものも同様に原始的であったと考えてはならない。埴輪は垣根であって偶像ではない。またそれの示している造形美術的技術が素朴であっても、鍛工、金工などが未熟であったとは限らないのである。
(87) 四世紀の征戦がかくのごとくシナ式の武具をもって行なわれたとすれば、この時代の人心の興奮がいかに漢文化の刺戟に負うところ多いか、ということは理解せられるであろう。発達の段階のはなはだしく異なっている漢文化からまず我々の祖先が受けた影響は、精神的文化の方面においてではなくして実用的な技術の方面においてであった。その刺戟によって呼び起こされた意志生活の異常な緊張と努力とが、やがて五世紀以後の神話や抒情詩の時代を作り出す地盤となったのである。我々はこの意味から四世紀を重大視せねばならぬ。
が、以上において我々の取り扱った武具は、遺物としては主として五世紀以後の古墳から見いだされた。というよりも、我々は、ほぼ四〇〇年ごろと推定される応神仁徳陵よりも明らかに古いと認められる古墳をきわめてまれにしか知らぬのである。大和の佐味田及び新山の古墳はそのまれな例に属するものであるが、そこに存した武具は破残参考すべからずとして廃棄された。わずかに残っている装身の金具は、六朝初期あるいはそれ以前のシナの製作品であることを示してはいるが、しかしそこに共存した銅鏡類には、明らかにわが国における模造品と認められるものがある。だから武器が輸入品であったか、あるいはわが国の製作品であったかは容易に推測し難い。かかる事情のために、古墳の遺物によって最もよく我々がうかがい得るのは、五世紀及び六世紀の状態なのである。そうしてそれらの古墳においては、前述のごとく、武器の装飾にシナ式を離れようとしているものが多く見いだされる。従って我々は五世紀ごろにこの種の武器が日本において盛んに製作されたことを推測し得べく、またそれが全国共通であって決して地方的な特異な発達を見せていない事をも認め得るのである。五六世紀ごろの古墳が、全国にわたって数多く存在し、その構造の大きさや副葬品の豊かさによって被葬者の権威と當とを示しているにかかわらず、それらの遺物の形式が(88)大和中心であり、そこに表示する意味が鏡宝剣の尊崇より流れ出ていることは、この時代の「まつりごと」の状態を指示していると思われる。全国にわたっての古墳の組織的な研究が完成すれば、五六世紀の政治状態もおのずから確定せられるに相違ない。自分がひそかに推測する所では、この時代の統一は、地方的権威を有する地方的君主が宗教的に〔四字傍点〕大和の中心的権威に服属していたことを意味するらしい。従って大和朝廷の権威は主として精神的なものであって、いまだ経済的及び政治的な中央集権には達していなかったろうと思われる。この種の統治の最盛期は四世紀、五世紀であり、六世紀に至ってはその危機が現われ、そこで、経済的政治的な中央集権の努力〔経済〜傍点〕と、危うくされた精神的統一への反省的努力〔危う〜傍点〕(それが神話伝説の組織化に現われる)とを呼び起こしたのであろう。
右に関連して武器尊崇の伝説をもう一度顧みてみよう。前に言及したごとく、漢土伝来の鏡や玉類が尊崇せられるとともに、武器類もまた神宝として特殊な尊敬をもって語られる。鏡が荒御魂、和御魂であり得たごとく、剣もまた神霊であり得た。たとえば神武東征の物語に次のごとき一節がある。
かれ神倭《かむやまと》いはれぴこの命《みこと》、そこより廻《めぐ》り幸《いでま》して熊野《くまの》の村に到《いでま》せる時に、大熊かみあらはれて即ち失《う》せぬ。こゝに神倭《かむやまと》いはれぴこの命、にはかにをえ〔二字傍点〕まし、また御軍《みいくさ》みなをえて伏《こや》しき。この時熊野の高倉下《たかくらじ》、一|横刀《たち》をもちて天神《あまつかみ》の御子《みこ》の伏《こや》せる地《ところ》に到て献《たてまつ》るときに、天神《あまつかみ》の御子《みこ》即ちさめまして、長寝《ながい》しつるかもと詔《の》りたまひき。かれその横刀《たち》を受取《うけと》りたまふ時に、その熊野の山の荒ぶる神、自《おのづか》ら皆切りたふさえぬ。ここにかのをえ伏《こや》せる御軍《みいくさ》悉にさめたりき。かれ天神《あまつかみ》の御子《みみこ》その横刀《たち》を獲つる所由《ゆゑ》を問ひたまへば、高倉下《たかくらじ》答へ曰さく、「己《おのれ》夢に、天照大神、高木神二柱の神の命《みこと》もちて、建御雷《たけみかづち》神をめして詔《の》りたまはく、葦原の中つ国はいたくさやぎてありけり、我が御子た(89)ち、やくさみますらし。かの葦原の中つ国は、もはら汝《いまし》が言向《ことむ》けしつる国なり。かれ汝《いまし》建御雷神|降《くだ》りてよとのりたまひき。こゝに答へ曰さく、僕《おのれ》降らずとも、もはらかの国|平《む》けし横刀《たち》あり、降《くだ》してむ。(この刀《たち》名は佐士布都《さじふつ》の神といふ。亦の名は甕布部《みかふつ》の神、亦の名は布都《ふつ》の御魂《みたま》。この刀《たち》は石上神宮にます。)この刀《たち》を降《くだ》さむ状《さま》は、高倉下が倉《くら》の頂《むね》を穿ちて、そこより堕《おと》し入れむ。かれ、あさめよく汝《いまし》取り持ちて、天神の御子に献れとまをしたまひき。かれ夢の教のまゝに且に己が倉を見れば、まことに横刀《たち》あり。かれこの横刀を以て献る耳。」(古事記)
明らかにこの横刀《たち》は霊異な力をもって敵を征服した。そうしてそれは「神」「御魂」として神社に祀られた。もしこの神名の「布都《ふつ》」が書紀の記すごとく「※[音+師の左]《ふつ》」に当たるならば、それは剣によって物の切られる音の形容である。甕布都《みかふつ》とは「陶器がフツと切れる」ということであろう。すなわち名剣の名が神の名となり、征敵の功によって神社に祀られたのである。
武器が神宝として神社に納められる話は、石上の神宝、出石の神宝、出雲の神宝などと例が少なくない。そうしてこれらの神宝は多くの場合に何らか伝説的背景を持っている。石上の甕布都は右に説いたとおりであるが、出石の神宝は珠、鏡〔二字傍点〕とともに天の日槍《ひぼこ》の持って来た太刀、槍《ほこ》などであって、輸入品としての記憶が伝説化せられたかに見える。出雲の神宝は「武日照の命又は天の夷烏《ひなどり》が天より将来《もちきた》れる」ものである。かく、尊貴なる武器の出所が、多く「新羅」とか「高天原」とかとせられることは、これらの武器が鏡とともに漢式のものである事実を、実におもしろく反映しているのである。
が、神宝の意義は、「神として祀られる」、あるいは「神を祀る」というだけではないらしい。神社は、ある集団の団結の中心である。そこに神宝として武器が納められるということは、平和な時期において武器を貴ぶゆえんである(90)のみならず、一朝事があった時に神威によって貴くされた武器を持ち出して敵と戦うという特殊の意義を発揮するのである。英雄日本武の尊が神剣をさずけられて東征の途についた伝説は、この事実を示すと見られるであろう。従って神社は、武器の捧安所であるとともにまた武器庫〔三字傍点〕であった。その著しい例は石上神宮である。旧事本紀によれば、この神宮は甕布都の神を祀るために崇神朝〔三字傍点〕に創立せられたのであり、新撰姓氏録によれば、仁徳朝〔三字傍点〕に初めて祀られたのであるが、垂仁紀〔三字傍点〕に属する伝説によれば、皇子五十瓊敷の命は剣一千口を作って石上神宮に蔵め、勅命によって石上神宝の管理者となった。五十年を経て、
八十七年春、五十瓊敷の命、妹《いろと》大中つ姫に謂て曰く、我老いぬ、神宝を掌ること能はず、今より後は必ず汝|主《つかさど》れ。大中つ姫|辞《いなび》て曰く、吾は手弱女《たをやめ》なり、何ぞよく天《あめ》の神庫《ほくら》に登らむ。命の曰く、神庫《ほくら》高しと雖、我よく神庫のために梯《はし》を造《たて》む、豈庫に登るに煩あらむや。かれ諺に「神の神庫《ほくら》も梯《はし》たてのまゝに」といふ。これはその縁なり。
しかし姫はこの役目を物部連に授けた。その因縁によって物部連は「今に至るまで」石上神宝を管理している。武人の家なる物部氏が武器庫を管理するに不思議はなく、またその武器が、桓武朝に平安京に移される時、単功十五万七千余人を要したほどの多量であったことも、武器庫としては当然であろうが、その武器庫の創立の時期を崇神朝、垂仁朝といい、あるいは仁徳朝というところに、我々は一つの意味を読むことができる。崇神垂仁朝は、第一次の国家統一事業のあと、武器が武庫に収納せらるべき時代である。出雲の神宝もこのころに大和朝廷に引き渡されたという。だからその時代に武器庫の創立をあてはめるのはいかにも自然である。がまた仁徳朝は、朝鮮遠征事業の終わったあと、同じように武器が武庫に収納せらるべき時代であった。だから石上神宮の創設をこの時期に持って来ても、同じく筋は通るのである。いずれにしても、石上神宮において武器収納の具体化した姿を認めたところに、これらの伝説(91)の意義が存するのでなろう。しかし書紀の記事を知っているはずの新撰姓氏録の編者が、あえてそれを仁徳朝の事件としたところに、我々は特別の意義を読むべきであるかも知れない。すなわち四世紀において盛んに用いられた武器は、五世紀に至って武庫に蔵められたのである。言いかえれば、武器の示すのは四世紀の精神であって、五世紀は平和な時期となっているのである。
なお石上神宮の遺物中に存する七枝刀は、銘文を有するゆえに注目せられている。銘文の年号は晋の泰始四年(268)であって、倭女王の使いが洛陽に行った後二年である。この七枝刀が百済の使者久※[氏/一]献上の七枝刀と同一物であるとすれば、百済献上の品物にシナ製のものがあったこと、従って百済から伝えた文物が主としてシナのものであったろうということが示される。が、右の比定は当たっていなくともよい。晋代の武器が直接に輸入せられて大和の石上神宮に蔵せられたとしても、いささかも不思議はないからである。いずれにしても神宝として尊崇せられたものの中にシナの武器〔五字傍点〕があったことに変わりはない。
武具を通じて見た四世紀の歴史は右のとおりである。その武具が戦場から帰って武器庫の中に捧安せられた五世紀には、また新しい生活の推移が起こらねばならぬ。
八 朝鮮出征直後の時代
高勾麗に敗られた日本人が半島における勢力を幾分失墜したことは確かである。そのために新羅も日本の威圧を脱したであろう。仁徳紀の新羅不朝貢の記事はその反映かも知れない。しかし日本人の任那領有が依然として続き、百済も大体日本の勢力に服していたとすると、闕貢の都度新羅を問責しあるいは討伐したという記事も、また事実の反(92)映でないとは言えない。が、大体の形勢から見て五世紀後半に新羅慈悲王の活動が始まるまでは、小さい出来事はとにかく、大げさな出征はなかったであろう。その間に百済との平和な接触が漸次わが国の文化を高めたということはきわめて自然の勢いである。
百済は帯方のシナ人を受け容れたのみならず、四世紀の後半からすでに南シナとの交通を始めた。シナ文化吸収においてはわが国よりも一歩を先んじて来たのである。だから縫衣女や良馬や経典や博士などの貢献は、百済によるシナ文化の伝達であると見てよい。なお弓月君の人夫百二十県や阿知使主《あちのおみ》の党類十七県等の帰化も、韓半島の形勢からみれば事実であるらしく、従ってそれが文化促進の動力となったことも察せられる。
書紀の応神朝仁徳朝の記事には、政治的意味を持つものが少ない。津田氏は、この時代の出来事の伝説が、神功皇后以前の時代にあてはめられたのであろうと推測している。が、この時代に属せしめられている伝説にも、当時の社会の状態を語るものがないのではない。
この時代の伝説は、大別すれば恋物語と皇位継承の物語と地溝を作る話とである。恋物語は必ずしもこの時代に限ったものではなかろう。しかし平和の徴にはなる。皇位継承の物語も、記紀編纂の目的から考えればこの時代のみの特徴とは思えないが、しかし皇位が争いの種〔四字傍点〕となり、あるいは皇子が即位を固辞する〔七字傍点〕というような点は、この時代の趨勢と関連して注意に価する。一々の物語がどれほどの歴史的事実を蔵するかは別問題として、とにかくこれは氏姓制度による政治組織のようやく固まろうとする時代の現象である。祭り事の統一としての宗教的意義が顕著であった初期の国家統一時代にあっては、この種の争いは比較的まれであろうが、祭り事が政治へ転化するに当たっては、有力な氏の間の競争がこの決定を困難にするという事情もあったであろう。六世紀に入って氏姓制度が固まってしまっ(93)た後にこの種の問題の起こっていないことは右の観察を裏書きする。なおまた皇位継承の物語は、領地に関する争いの物語や氏姓を正すクガタチの記事とともに、治者階級における家族制度の発達や氏姓の意義の変遷を示しているらしい。遠からぬ過去において「父」よりも「母」が重んぜられていたことは、子が父から離れて母と同居する風習や、母のみが「御祖《みおや》」と呼ばれ母のみが子の名をつけたというごとき物語によって察せられるが、しかし国家統一後には父系の重視も始まり、父の権力による家族の統括も(恐らくは政治上経済上の理由から)行なわれ始めたらしく思われる。「相続」が問題となり、財産(領地)が論ぜられ、氏姓の混乱が匡正されるというごとき現象は、皆その証拠である。「氏《うじ》」「姓《かばね》」などの意義を見ても、本来は単なる名であり敬称であったものが、新しい政治組織社会組織の完成するに従って一定の地位を示すものに変化する。すなわち「家」や「家格」についての意識がようやく開けてくるのである。
次に池溝を作る話は、農民の生活における重大な変革として注目せられなくてはならぬ。この種の記憶が後代までも消えないで残っていたことは、当時行なわれた開墾事業や灌漑法の革新が、農を主とする国民の心に甚大な印象を与えた証拠であろう。もっとも池溝の話は崇神垂仁両朝の記事にも見えているが、崇神朝〔三字傍点〕に作った依網の池を仁徳朝〔三字傍点〕にも作った(古事記)というふうに、記事そのものが曖昧であって、新羅征伐以後の事件をそれ以前の時代にあてはめたらしく思わせるのである。韓人池のごとき名称や伝説のあるところから考えても、この革新は帰化人とある関係を持つらしく、また事業そのものの性質から考えても、ある程度に軍事的動揺のやんだ後のことでなくてはならず、もしこれを「時代の大勢」と見るならば、その時代は四世紀後半より五世紀前半(すなわち主として応神仁徳朝)と考えられるのである。
さてこの池、溝、場防等の工事はいかなる土地にいかにして行なわれたか。池〔傍点〕が河水をひくことのできない高地に(94)灌漑するためであったことは言うまでもあるまい。多くは山の水を麓に貯えて下方の斜面を水田たらしめるのである。この方法によって曠原は耕地に化し、畑は田にも使えるようになる。溝〔傍点〕もまた灌漑のためであるが、これは河水を上流からひいて下流の郊原に注ぐのである。仁徳紀十四年の条に、
大溝を感玖《こむく》に堀る。乃ち、石河の水を引いて、上つ鈴鹿、下つ鈴鹿、上つ豊浦、下つ豊浦四処の郊原に潤《つ》け、以てこれを墾《つく》りて、四万余頃の田を得たり。故其処の百姓寛饒、凶年の患なし。
とある。明らかに灌漑法の進歩と郊原開墾とが並び立っている。が、この時代の河川は、我々の知るごとき「一つの河床に押し込められた河川」ではなかったであろう。少しく誇張して言えば、河川に沿える平地のことごとくが河床であって、河水はその欲するがままに自由にその路を変えたのであるかも知れない。そうであれば、川は雨期のたびごとにおびただしい土砂を運び、移し、あるいは堆積したであろう。かくして作られた平原は、雨期ごとに浸水しやすく、人間の住地としては不適当であったであろう。(ことに河口地方、あるいは平野のなかの低地が、一面に湿地であって、葦などの茂生に便であったことは、豊葦原の水穂の国という古い言葉からも察せられる。)しかしもし河水を一定の河床に押し込め水はけを好くすることができれば、これらの平原は美しい人間の住所に化する。それをなし得るものは堤防〔二字傍点〕である。大河の河口地方においてことにこの現象が著しい。で、仁徳紀(十一年)は難波の平原について語っている。
今朕この国を視れば、郊沢曠遠にして田圃少く乏し。且河水横に逝き、流未駛からず。聊か霖雨に逢へば、海潮逆上して巷里船に乗る。道路また※[泥/土]あり。故に群臣共に視て、横波を決して海に通じ、逆流を塞ぎて田宅を全うせよ。
(95) 冬十月、宮の北の郊原を掘り、南水を引きて西の海に入る。因て以て其水を号けて堀江といふ。また北の河の※[さんずい+勞]《こみ》を防がんとして茨田《まむた》の堤を築く。
この工事は困難であって人柱《ひとばしら》を立てる必要があった。またこの時に朝貢した新羅人もこの工事に使役せられた。(古事記によれば、秦人がこの工事に従事した。)が、それは伝説である。実際の工事は長年月にわたって、幾度かの失敗の後にようやく完成したのであろう。かくして淀川河口の平原は漸次耕地に化し、そこに幾十幾百の村落を出現せしめたのであろう。
記録に残っているのは大和朝廷の周囲に起こった事件のみである。が、日本の農村は、平地に存在するものである限り、必ず右のごとき起源をもっているであろう。ただそれが三百年前の開墾地であるか、あるいは六百年、千年、千五百年前の開墾地であるか、の相違を持つのみである。だからもし畿内地方において応神仁徳朝に盛んな開墾事業が起こったとすれば、全国の各地方にも同じょうに起こっていたと見られなくてはならぬ。当時秦、漢、百済等の移民は、おのおの万をもって数うるほどの多数であったと伝えられている。彼らは近畿のみならず、遠国にも移された。彼らがそれぞれある土地に落ちつくためには、新しい田畑が必要であった。のみならず、国家統一後の国民の新しい活気は、人口増殖の率をも急激に高めたであろう。この大勢に応じて新しい開墾地と新しい村落とが盛んに作られたことは、推測するに難くない。
この大勢は、村落生活に著しい影響を与えたらしい。新しい部落の頻々たる出現、開墾事業における共同作業、その結果として新しく意識せられた団結心。(もし「部《べ》」という言葉が漢音「部《ぶ》」の転じたものであるならば、氏姓制度の根柢をなす部民の団結は、この時代以後に国民の意識に上つたと見られなくてはならぬ。)この種の心的変化は前(96)代に始まった地方的集団の政治的変化をますます著しく推し進める。工業的部落や名代《なしろ》の部落の流行も、この機運の現われと見られよう。これらの現象は、統一前の古い団体の村落的な性格を、一層推し進めたものと言えるであろう。
この種の経済的社会的変化が、祭事的に形成せられた国家を政治的に生育せしめつつあった時代に、シナ南朝との交通も開始せられたらしい。倭王讃の朝貢は二度記されているが、もし讃〔傍点〕が大|鷦鷯《ささぎ》の音を縮写したものであるならば、仁徳天皇の治世が五世紀前半の注目すべき時代であったことは疑いの余地を残さない。当時の記録に現われる倭王は「使持節都督倭百済新羅任那秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」であって、もはや二世紀前の単なる倭王ではない。なお「讃〔右・〕死弟珍〔右・〕立」の時代にも遣使のことがあり、五世紀中ごろには倭王済〔右・〕が再度使いを送っている。シナは拓跋《たくばつ》の北魏〔二字傍点〕が江北を統一してようやく文教を興そうとしていたころである。日本の交通した南朝は、拓跋に圧迫せられて江南に退いている活気のない固有漢人の因であった。
文献によって我々の観察した五世紀前半の状態は、古墳の遣物によって示された状態と何ら抵触するところはない。さらに五世紀後半の雄略天皇時代に至れば一層そうである。対韓関係開始以後、韓人及びシナ人の移住が多く、またその工芸の技術も盛んに伝えられた。そうして古墳の遺物は、鏡玉剣にとどまらず、金製耳飾、帯金具、銅釧、金環、鈴、環鈴、指環、その他銅器類、馬具類など、六朝工芸とその模倣とを示す多数の種類を含んでいる。しかもそういう古墳は、東は関東地方より西は筑紫朝鮮まで、すなわち当時の日本全体にわたるのである。従って古い物語が大和朝廷を中心として物語るところは、各地方の文化をも代表していると考えてよい。
(97) 九 六朝技術摂取の時代
百済が北魏と交通を始めたのは西紀四七一−二年のころである(魏書、東夷伝)。高勾麗はすでにその半世紀前から北魏と交通し、新羅は十余年前から新しく活動を起こしていた。百済は北魏との交通によって高勾麗や新羅の圧迫に対抗する力を幾分かでも得ようとしていたに相違ない。任那を領有する日本がこの形勢に巻き込まれるのは当然の勢いである。
雄略七年に吉備人弟君と赤尾が新羅征討のため派遣せられたが、国つ神に妨げられて討伐のことを果たさなかった。当時の任那国司は、その美しい妻を奪われた怨みのためにひそかに自立を計っている吉備の上つ道の臣田狭、すなわち弟君の父であった。この年は書紀の紀年通りに解釈して四六三年である。ところが三国史記には慈悲五年(462)二月、倭侵2〓良城1、不v克而去とある。両者の間に関係がありそうである。続いて雄略八年には膳の臣|斑鳩《イカルガ》等が高麗軍を破って新羅を救う。九年には紀小弓が新羅を討って大勝する。ところで右に引いた慈悲王の記事のあとに、以3倭屡侵2疆場1、築2沿辺二城1とある。これは〓艮城の戦い以後にも〔四字傍点〕屡倭人が侵入したという意味に解せられないではない。そうすればこの間にも何かしら一致があるように思える。さらに雄略二十年には高麗が百済を亡ぼし、二十一年には日本がクマナリを与えて百済を再興する。四七六−七年ごろである。分注の百済記で見てもこれは事実らしい。慈悲二十一年(478)倭人挙v兵、五道来侵、竟無v功而還とある新羅本記の記事も、ここに何か関係がありそうに思える。こういういくつかの記事は事実の正確〔二字傍点〕な記録ではないかも知れない。しかし事実に基づいたものであることは疑いがなかろう。
(98) 雄略天皇は新羅親征を企て、神にはばまれて思い留まったという。この伝説は当時の対韓関係について一つの暗示を投げる。この時代の人心は朝鮮出征についてもはや前世紀のような興奮や緊張を持たなかったのである。神意とはこの時代にもなお全体意志の表現であった。たとい任那府を中心とする幾度かの征戦があったとしても、それは高勾麗の勢力を圧迫して百済の滅亡を救うというような活気のあるものではない。百済再興というのもただ王族を救い小さい土地を与えたという程度に過ぎぬ。この後二世紀にわたる対韓関係は、主として任那府の「維持」が目的なのである。
雄略朝にはまた呉との交通がある。(宋書、昇明二年戊午(478)南史、東夷伝、昇明二年)そこに記された倭王武の上表は立派な漢文で、帰化人の作らしいと言われている。その翌年(479)にも遣使の事が記されている。(南斉書、建元元年己未)この時代の南シナとの交通は、日本側にすでに半世紀間帰化人の影響が蓄積せられていただけに、前代よりもはるかに多くの意味を持ったらしい。手末才伎《タナスエテヒト》の輸入がその事実を語っている。
雄略朝の物語にこの才伎《テヒト》が重要な地位を占めていることは注目に価する。当時の貴族が一般に帰化人の才伎を寵用したことは、西|漢《アヤ》の才伎《テヒト》歓因知利が天皇の側に侍したとか、臣連等が秦の民を心のままに駆使したとか、あるいは秦《ハタ》の酒《サケ》の公《オモト》その他の帰化人が愛寵せられたとかというような話でもわかるが、なおその才伎《テヒト》を韓国に求め、呉に求めるに至っては、当時の貴族の関心がいかに急激に変化したかがうかがわれるのである。前代において治水灌漑等の農耕改良に用いられた力は、今や工芸の発展のために用いられた。養蚕の奨励、絹※[糸+兼]の尊重、呉の織女縫女の優遇、などはこの大勢の一端であろう。韓から連れて来られた陶部《スエツクリベ》、鞍部《クラツクリベ》、画部《エカキベ》、錦部《ニシゴリベ》、訳語《オサ》等の名が、呉の才伎女とともに特に記憶せられたというのは、これらの才伎が単に貴族を喜ばせたのみならず、またその手末《タナスエ》の技巧を当時の民衆(99)に伝えることによって、社会全体に強い刺戦を与えたためでないとは言えない。考古学的遺物が示しているように、すでに弥生式文化の時代にあっても、新しい技術に対する感覚はきわめて鋭敏であって、その習得、伝播はかなり迅速なのである。従ってこの時代の民衆が新しい手末の業を素早く学び取ったと考えても、大した誤りはないであろう。
しかし雄略朝より武烈朝に至るまでの諸伝説は、主として狩猟や、美女や、宴楽や、凶暴な官能的快楽や、または神怪奇異の興味に関するものであって、前代の伝説とは著しく性格を異にしている。皇統に関する物語で言えば、前代の諸皇子は多く温順な心情の持ち主であるが、この時代の天皇や皇子はその逆である。穴穂天皇は、大泊瀬皇子(雄略)のために幡梭姫を得ようとして、姫の兄大草香皇子を殺し、その妻を取って皇后とした。その結果、皇后が前に大草香皇子によって産んだ眉輪王のために弑せられた。大泊瀬皇子は「朝に見《まみ》ゆる女を夕に殺し、夕に見ゆる女を朝に殺す」という凶暴な君主で、皇位を継ぐためにその兄を殺すことも辞せなかった。清寧天皇即位の際には、天皇の兄弟二人と義母とが燔殺せられている。武烈天皇に至っては、シナの暴王のごとくに凶暴である。前代において辞退すべきものであった皇位が、何ゆえに血をもって得らるべきものに変わったか。その理由は、豪族問の競争という事実で説明せられて来た。清寧即位の争いは吉備の臣の勢力と大伴の大連の勢力との衝突である。武烈即位の争いは、清寧朝から政府の実権を握っていた大伴の大連と平群の大臣との衝突である。そう見れば、政治組織が完備するに従って権力争奪の烈しくなった形勢も理解せられる、というのである。しかし、何ゆえに日本で珍しい凶暴な君主が頻々としてこの時代にのみ現われたかは、この説明ではわからない。この疑問を抱いて書紀の記述を幾度か読み返してみると、我々はそこにこれらの記述の材料となったものの異質性〔三字傍点〕を感得せざるを得ない。すなわちこれらの記述の裏には、前代におけるような素朴な伝説があるのでなく、そういう伝説を語る素朴な上代人とは異なった心を持った人々(100)の書いたものがあるであろうと推せられるのである。これを前述のごとき急激な工芸の発達と照らし合わせて見ると、ちょうどこの時代に帰化人の文字使用の技術が利用せられ始め、老敗した漢人の心をもってする記録が作られ始めたろうことに思い当たるのである。そう見れば、シナ式の凶暴な君主自身がこの時代に現われ始めたのではなく、そういう君主を想像しまた君主をかかるものとして解釈する記者が〔三字傍点〕、この時代に現われ始めたのである。
このことは恋物語においてもっと著しい。前代の恋物語は深い感情のこもった美しいもののみである。軽《かる》の郎女《いらつめ》や女鳥《めどり》の王《みこ》の悲恋、衣通姫《そとおりひめ》のしめやかな愛情、忍坂の大中《おおなか》つ姫《ひめ》や石《いわ》の姫《ひめ》の嫉妬の悲しみ、それらは多く真情流露の抒情詩を入れて巧みに物語られている。しかるにこの時代の物語は海柘榴市《つばきいち》の歌垣の物語を除いて、他はほとんど皆詩のない、時には淫靡な、「事件の報告」である。雄略天皇は女についての多くの物語の中心として記されているが、しかしその物語には「恋愛」は現われていない。童女君《おむなぎみ》一夜娠の話、百済の貢女池津媛が姦淫のゆえに四肢を木に張られて焚殺せられる話、采女が天皇の怒りを鎮める話、栲幡《たくはた》皇女が姦淫の讒のために自殺する話、天皇田狭の妻を奪う話胸方神を祀る采女が姦淫のゆえに殺される話、伊勢采女が庭に倒れて姦淫の疑いをかけられる話、――すべてただ性的興味を主とするものであって、愛の感情は現われていない。特に代表的なのは、木《こ》の工《たくみ》猪名部の真根《まね》が斧を使う手練を誇ったため、その前に釆女を集め裸相撲を取らせて真根の手を誤らせた話、及び一夜娠についての物部の目の大連と天皇との問答《*》である。ここにこの物語記者の肉感的な興味が実に明白に示されている。この記者ならば飯豊の青の皇女の独身の理由《**》とか、武烈天皇淫虐の行ない《***》とか、そういう珍奇な事件を誇大したり〔五字傍点〕あるいはシナの典籍から焼きなおして使ったりすることは、あえて辞せなかったであろう。
* 雄略紀元年。 朕与一宵而※[月+辰]、産女殊常、由是生疑、大連曰、然則一宵喚幾廻乎、天皇曰、七廻喚之、大連曰、……臣聞易(101)産腹者、以褌蝕体、即使懐※[月+辰]、況与終宵、而妾生疑也。
** 清寧紀三年。 飯豊皇女於角刺宮与夫初交、謂人曰、一知女道、又安可異、終不願交於男。
*** 武烈紀八年春三月。 使女裸形坐平板上、牽馬就前遊牝、観女不浄、沽湿者殺、不湿者没為官婢。
奇事異聞を集めたのもかかる記者の興味にあるらしい。仙女と戯れた浦島の話や、誉田陵の土馬が駿馬に化して人を乗せた話や、三諸の神なる大蛇を捕うる話や、一事主神が天皇とともに遊猟する話などは、ただ単なる好奇心で物語られるに過ぎぬ。そこには古代日本人に特有な神秘的な感受は現われず、漢人の空想に似つかわしい神仙思想と怪異の嗜好のみが現われている。
雄略朝における帰化人の重用は著しい現象である。彼らは宮廷において文書を司どり、日常秘書の役をつとめた。だから彼らが自らの観察により自らの解釈をもって当時の出来事を記録したということはあり得ぬことではない。あるいはまた帰化人の間に伝わった噂話を後代の帰化人が空想をまじえて書きしるしたということもあったであろう。雄略天皇が大伴の室屋と東《やまと》の漢《あや》の掬《つか》の直《あたい》とに遺詔したとか、秦の酒の公の諫止によって采女の命を許したとか、あるいは、天下誹りて大悪天皇というにかかわらず、青《あお》、博徳《はかとこ》等の帰化人には非常に優しかったとかいうごとき話は、どうも帰化人から出たものとしか思えない。伝説全体に漢人の趣味の現われていることは前に説いた通りである。そうなれば、旧記編纂当時にこの時代の史料として用いられたものが、主として帰化人の私記であった、ということは、推測してよかろうと思う。
この点については古事記が有力な証拠になる。古事記の伝える雄略朝の伝説は、その抒情的な美しさにおいて書紀のそれと全然別物である。話そのものもほとんど皆食い違っている。若日下部《わかくさかべ》の王《ミコ》をつまどう歌も、婚《め》されずして老(102)いた赤猪子を憐れむ歌も、吉野の童女《おとめ》の舞を讃美する歌も、あるいはまた三重の釆女の過《あやま》ちをわびる歌も、皇后の天皇を讃《たた》える歌も、皆感情に充ちた率直なもので、肉感的な好奇心には煩わされていない。これは帰化人の心生活と関係なく日本人の間に伝えられた話であることの証拠であろう。
そう考えて行けば、シナ六朝文化の摂取がまず技術を先駆とし、いまだ文芸や思想にまでは及んでいなかったことが察せられる。
が、その後まもなく形勢は変化した。それは書紀の書き方が継体妃から急に改まり、古事記の記事が仁賢朝以後系譜のみとなっていることからも察せられる。記紀のこの変化は大体継体朝以前が伝説の時代〔継体〜傍点〕であり、以後が記録の時代〔五字傍点〕であることを示すに過ぎぬが、しかしある時代から詳しい記録が残り始めたということは、その時代のある変革を背景とせずには考えられない。
一〇 仏教渡来前後の時代
六世紀初頭の継体朝より同世紀末の仏教興隆に至るまでの時代は、実を言えば我々の観察の正面に来るべきものである。記紀の神話伝説に現われたあらゆる思想、風俗、感情、芸術等は主としてこの時代の理想によりこの時代の解釈によって我々に残されているのであって、その理想や解釈が重大な意義を持つ限り、我々の記紀伝説研究はこの時代の文化研究にほかならぬ。
応神仁徳朝より雄略朝へかけて天皇の神聖な権威についての意識が漸次高まって来たことは前に観察した通りである。それはかつて半独立であった数十の国々が、漸次完全な組織に編み込まれて行く大勢と相応じている。ところが(103)五世紀末より六世紀初頭へかけて、皇室の血統はほとんど絶えようとした。それは必然に有力な諸氏の権力増大や、それらの氏の間の有機的な共同を呼びさましてくる。そこで、皇室の神聖な権威は、諸氏の共同の上に自覚的に打ち立てられることになったのである。
現存の神代史の主導動機〔四字傍点〕は、恐らく右のような自覚に基づいたものであろう。それは何よりもまず皇室の権威の由来〔八字傍点〕を説明しなくてはならなかったのである。しかしそのために当時の人々のなし得たことは、当時残っていたさまざまの伝説を集め、それを一つのまとまりのある物語に仕上げることであったであろう。実際神代史の中にはさまざまの源泉から出たであろうと思われる雑多な要素があり、また主導動機の框には全然はまらないような種類のものもある。ああいう中身までも、この時代に、一定の意図の下に、「作られた」と考えることは、どうも無理なように思われる。一つにまとめるために相当の加工が行なわれたということは、想像されぬでもないが、我々の目につくのは、むしろ十分にまとまっていないという点である。神代史はただに皇室の由来を説いているだけでなく、またもろもろの氏の由来をも説いている。それはもろもろの氏を血統的に皇室の祖先神に結びつけるという意味で国家組織の説明になっているとともに、またさまざまな種類の伝説の集録である。丹念に分析し考究して行けば、あの中からは案外にいろいろなものが出てくるであろう。が、それを現存の神代史のような形に仕上げた、形成の働きは、あくまでもこの時代のものである。(神代史の成立事情、成立年代等については、津田左右吉氏が『神代史の新研究』以来詳しい考証を試みている。その結論によれば、「神代史の骨子」は、雄略朝より継体、欽明諸朝にかけて作られたらしい。が、まず初めに「一つの骨子」が造られ、それがさまざまに変化したということは信じ難い。)
上代伝説の編纂も同じ動機から同じころに行なわれたに相違ない。伝説それ自身としては神代史に入れられたもの(104)に比べていずれが古いとも言えない。仁徳雄略朝あたりからの伝説には時代の区別のつくものもあったであろうが、大部分はいつの時代からの伝承ともわからなかったであろう。風俗や思想感情等は編纂者自身の時代のものをあてはめたのであって、「時代の相違」は眼中になかったと思われる。歌謡の類もこの時代の時風を適宜に利用したのであって、農人の歌が英雄に付会せられるというようなことも自然に起こったらしい。こうして、単純な古い伝説が、さまざまの感情を盛った歌物語に化して行ったのであろう。
こう見れば、記紀の材料となった古い記録〔二字傍点〕が官府の製作であったとしても、その内容までがただ少数の作者の頭脳から出たとは到底考えられない。弥生式文化の時代からの古い伝承に加えて、三四世紀における第二次の国家統一や五世紀における国民の発達の間に自然に生まれて出た古い伝説が、六世紀を通じての無数の人々の想像力により、この時代の集団心に導かれつつ、漸次形をなして行ったのであろう。奈良朝に至って最後に編纂せられる際に特に明白な官撰的色彩を帯びさせられたとしても、それは物語の中核をまで変えてはいまい。この色彩を洗い落とせばそこには明らかに上代の国民的産物が、――単に貴族の生活のみならず、国民全体の生活を反映する物語が、――現われ出るのである。
そうなるとこの時代の歴史は、神代史や上代史の形成の背景として、明白に知られなくてはならない。が、また逆に、この時代の文化を示すものは神代史上代史の形成の仕方である。文化観察の材料として、想像力の産物が官府の記録よりもはるかに重大であることは、言うをまたない。しからばこの書の目ざす研究そのものがこの時代の解明として役立ち得る。ここにはただ上代史概観を完結するために簡単な観察を下すに止めよう。
(105) 書紀において紀年がほぼ確実となったのは、欽明朝中期以後元嘉暦に基づいてからである。それ以前の紀年について書紀のそれが信ずべからざるものであることは古くから説かれたが、その更正については方針が一定しておらない。更正の根拠とせられるのは、古事記の記せる干支及び天皇在位年数、法王帝説の記せる戊午仏教渡来、シナの史書の倭に関する記載、朝鮮との外交関係、などであるが、そのいずれも断片的であって、種々の解釈を容れる余地がある。仏教渡来の年のごときも、戊子〔二字傍点〕の読み誤りと主張する人もあれば、また庚午の誤りと見る人もある。左に書紀、古事記、原勝郎氏更正、久米氏、平子氏更正などを対照して掲げよう。これらの更正のいずれを取るとしても、雄略朝を中心とする時代に対して欽明朝を中心とする時代が対峙することは明らかであろう。我々はそれを仏教受容以前の文化の最後の相を示す時代と考えたい。
欽明前後の時代の記録に著しく現われた特徴は、大臣大連の執政と外交関係とである。大連大臣の重用はすでに雄略朝に始まっているらしいが、それによって造られた政治の組織は、雄略天皇崩によって明らかにその形をあらわして来た。天皇はしばしば皇嗣なく、皇位継承のために遠国より皇族がさがし出されるという事件が起こったが、すでに貴族によって固められた政治の組織はこの危機をも容易に切りぬけることができたのである。この際注目すべきことは、大連大臣の類が専制的に事を行なわずして、貴族間の合議により事を決したという調和的な気風の存在することである。大伴の金村は雄略朝以来の最高位の家に生まれ、武烈朝においては天皇のために大臣平群を誄滅した人であるが、継体天皇を擁立するに当たり、物部、許勢、その他の臣連と合議せずしては何事も行なわなかった。たまたま百済との外交において臣連の同意を得ない政策を決行したときには、大伴の大連百済の賂をうくという流言が起こった。明らさまにその失策を指摘されれば、大連は責めをひいて職を辞せざるを得ないのである。これらの政策はこ
(106)〔表省略〕
とごとく詔勅〔二字傍点〕に基づいて行なわれたものであるが、しかしその責任は大連にある。諸臣はその責任を問うことができる。これらの事情は、政治の実際の動力が貴族間の全体意志にあったことを語るのである。だから平群の大臣のごとく専横の振舞あるものは、やがて他の貴族によって打ち砕かれなくてはならない。このような政治状態においては天皇の神聖な権威は常に政争を超越する。武烈紀等に描かれたような専制君主は決して天皇の姿ではない。
任那問題はこの時代の記録のほとんど全部をおおうている。任那問題が困難となったのは主として新羅の興隆〔五字傍点〕によるのであって、必ずしも金村の失策とは言えないと思うが、しかし書紀の記事によれば、それは半島の形勢に暗い金村の外交的失策である。幾度かの征討軍も領土の割讓や回復に関する外交談判の紛糾によってそ(107)の力を振るうことができなかった。そうして結局は日本の勢力の失墜となった。
この問題の詳細な記述の内で最も我々の注意を引くのは、国民的意識の稀薄と混血の夥多とである。任那問題の発端として記された任那の四県の割讓においても、その地の国守であった穂積臣押山は、百済人の利益のために代弁し百済の臣のごとくに振る舞っている。貿易の要路たる加羅の多沙《たさ》の津をさえも百済に割譲すべく説いた。また一方では任那確立のために幾度か新羅遠征軍が送られ、任那復建が日本政府の外交方針として確定しているのに、他方では安羅の日本府の河内の直《あたい》、阿賢移那斯《あけむいなし》、佐魯麻都《さろまつ》等が計を新羅に通ずるという事件が起こっている。これが任那復建の最も大きいつまずきなのである。
それ任那は安羅を以て兄となし、たゞその意に従ふ。安羅の人は日本府を以て天となし、たゞその意に従ふ。今、的《いくは》の臣《おみ》、吉備《きぴ》の臣《おみ》、河内《かうち》の直《あたひ》等、みな移那斯、麻都が指揮に従ふのみ。移那斯、麻都、これ小家の微者といへども、専ら日本府の政を擅にす。もし二人をして安羅に在り、多く奸倭を行はしめば、任那建ること難し。請ふこの二人を移してその本処〔四字傍点〕に還さむ。佐魯麻都はこれ韓腹なりと云へども、位大連に居り、日本執事の間に交はり、栄班貴盛の列に入る。しかるに今反つて新羅の奈麻礼の冠を著く。即ち身心他に帰附すること照し易し。
以上は百済の上表として記されたところであるが、たといそこに外交的策略が蔵せられているとしても、とにかく日本府の官吏と大和朝廷との間に意志の疏通を欠いていた事実は、これによって明らかに示されている。そうしてこれらの官吏は、混血児であるものもなお日本の貴族として日本にその「本処」を有していた。従って彼らが日本政府によって任命せられたものであることは疑いがない。しからばこれらの日本府の官吏は、日本の利益を代表すべき位置にありながら、日本の利益を眼中に置いていないのである。この事実は当時朝鮮にあった日本人の国民的意識がい(108)かに稀薄であったかを示している。かつて国家統一の心的興奮が存在した時代には、日本人としての自覚はもっと強かったように見えるが、すでに国家が統一せられて数世紀の年月を経た時代においては、対外的緊張は消えていたらしい。この現象は、私人的には、混血によって激成せられたとも見られる。佐魯麻都は日本の官吏であったがゆえに日本国民としての忠誠を問題とせられるが、しかし麻都と同じく日本人の血をうけた混血児は、必ずしも日本の臣民であるとは限らなかった。紀の臣が韓の女によって生んだ紀臣弥麻沙は百済に仕えて奈率となり、百済の使いとして日本の官吏と折衝している。その他|物部《もののべ》の施徳麻※[加/可]牟《しとくまかむ》、物部の連《むらじ》奈率|用歌多《ようかた》、物部の奈率|歌非《かひ》、許勢《こせ》の奈率|歌麻《かま》、なども、日本の氏姓〔五字傍点〕を称する百済の臣〔四字傍点〕であって、日本との外交の衝に当たっているのである。もしこれらの混血児が、日本名族の出でありながら百済の臣となることを恥じなかったとすれば、同じく混血児である麻都らが新羅の臣となることを望んだのも不思議はないであろう。当時混血児の多かったことは、六万の兵をひきいて任那に行った近江の毛野の臣が、二三年その地に留まっていた間に、「日本人と任那人と頻に〔二字傍点〕児息を以て諍訟した」といわれているのによっても察せられる。混血児を意味するために韓子《からこ》という言葉があり、韓子をつくるのが必ずしも貴族のみでなかったとすれば、任那地方における日本人の少なからぬ数が紀臣弥麻沙や佐魯麻都などと同じ心持ちになっていたことも認めなくてはなるまい。
もっともこの混血は、人種的には重大なことではなさそうである。当時の日本人と南朝鮮人とは人種としてはかなり近く、ことに任那地方には古くより「倭人」と呼ばれるものが住んでいたらしい。重大なのは混血による風俗言語の混成であって、そこに民族的区別を稀薄にする有力な原因が存している。
日本において朝鮮からの帰化人が重大な役目をつとめていた間に、朝鮮においてもまた日本からの帰化人が重大な(109)役目をつとめていたことは、見のがしてはならない現象である。こういう現象の反映は上代の伝説の内にも少なからず認められると思う。
なおこの時代の注目すべき現象としては、屯倉〔二字傍点〕の創設をあげねばならぬ。これまでは子代、名代の部民を置くことによって皇族の領地を新しく開いたのであるが、この時代には主として貴族の領地たる既墾の土地を朝廷の直属に変更することが行なわれている。その方法は、記録によれば、罪を得た貴族が罪をあがなうために領地を献ずる場合が最も多い。それには、朝廷の意志によって貴族が領地を献上させられる場合もある。これらの屯倉の記事は継体、安閑、宣化、欽明の諸朝を通じて非常に多い。それもただ近畿地方のみのことではなく、関東より九州にわたってあらゆる地方に行なわれたのである。
この現象は国家の組織が単に政治的にのみならず経済的にもまた整備して来たことを示すらしい。中央政府はこれによって経済的の実力を増した。そうしてその中央政府は、自ら領主として一定の土地人民を統率している多くの貴族の組織的勢力を意味するのであった。この形勢が推古時代以後に明らかな形となって現われてくる。屯倉の増加は土地国有の可能性を自然に導き出し、政治的権力の組織化は中央集権の実現を自然に将来した。これらの改革がシナ文化の刺戟によって促進せられたのであるとしても、その刺戟が果実の多い結果を可能にし得たのは、すでに内において右の形勢が熟しつつあったからである。推古時代に理想が提示せられ、白鳳時代にそれが実現せられたところの「日本国の法制的完成」は、すでに継体欽明の時代において準備せられていたと見られなくてはならぬ。
こういう情勢の下についに仏教が伝えられてくるのであるが、それが百済から伝えられたという理由によって百済(110)を一概に先進国と考えるのは、誤解だと思われる。国家統一の事業のごときは、日本が三韓に先立っている。シナ文化を咀嚼する能力においても、日本は三韓よりも優れていた。ただその地理的相違のゆえに、文化の伝達は、まず朝鮮を経由しなくてはならなかったのである。
仏教の伝来もそうであった。この時代のシナの影響が前代に比を見ない力強さをもって朝鮮と日本に及んで来たことは、朝鮮や日本の文化がこのころにようやく原始的段階を脱したという事情にもよるであろうが、主としてはシナそのものの質的変化に基づくらしい。南方に余喘を保った漢人の文化は、海東の諸国と古くより接触していたにかかわらず、さほど著しい影響を与えることができなかった。しかるに民族の混融によって新しく興された北方異民族の文化は、その若々しい活気をもって、海東の若い国民の心に力強く食い入って来た。その文化は、古い漢人の文化を新しい血によって生かせた意味において、確かに新生の文化である。そこには西域の文化が、印度の文化が、異様な新鮮さをもって融け込んでいる。高勾麗に仏教を伝えたと称せられる前奏の符堅は、西域を平定し鳩摩羅什を招聘した氏族の王である。符堅の治世は短かったが、やがて起こった拓跋の北魏にも、高勾麗は少なからぬ影響をうけた。高勾麗古墳に残存する驚異すべき壁画は、漢式の線と西域式の彩色とをもって、この時代の末の異様な心的緊張を語っている。百済に仏教を伝えたと称せられる摩羅難陀も、もと西域の僧であって、民族混乱の北シナを通って来たのである。その後一世紀の間に百済が最も多く影響をうけたのは、遺物によって明らかなごとく、北魏の文化〔五字傍点〕であった。そうしてこの北魏の文化が、若々しい活気をもって漢文化の改鋳を敢行し始めたのは、五世紀の後半〔六字傍点〕、すなわちわが国の雄略朝に当たる時代であった。特にその孝文帝が漢文化の大胆な復興を試みたのは五世紀の末、次いで立った宣武帝が仏教を奨励して「僧徒の西域より来るもの三千余人、仏閣の数一万三千余」に及んだというのは六世紀の初頭、(111)清寧、武烈に当たる時代である。次いでかの孝明帝の時代、すなわち太后胡氏が朝に立って石窟寺、永寧寺等の大土木を起こした時代が来る。石窟寺の偉観は今なお遺跡によって忍ぶことができるが、全高千尺の九層木造建築たる永寧寺大塔に至っては空想によって再建するさえも容易でない。太后はまた宋雲慧生らによってガンダーラの文化をも輸入した。これらの事件がちょうど継体朝のころに起こったのである。だから三韓においても、仏教渡来は四世紀末のこととして伝えられてはいるが、その仏教の興隆〔二字傍点〕は北魏の形勢をうけた六世紀前半〔五字傍点〕のことであろうと思われる。少なくとも古韓彫刻の遺物はこの事実を語っている。従って欽明朝における戊午の年(538)の仏教渡来も、北魏文化の影響をうけた意味において、百済よりさほど遅れているわけではない。ただ地理的関係のゆえに百済を経て日本に渡来したというまでである。
継体朝における五経博士段揚爾及び漢《あや》の高安茂の渡来も、畢竟百済を通じて来た北魏の影響を示すのであって、百済の影響と見るべきではなかろう。これらのシナの学者は五世紀末より六世紀初頭にわたる孝文帝、宣武帝の漢学奨励の産物に相違ない。百済が段揚爾を献じた後に、高安茂をもってこれに代えむことを請うたというようなことは、百済自身がいかにこの種の学者を珍重していたかを示すのである。すなわちそれは百済においても宝物であったが、日本より任那の四県の地をもらったお礼として、それだけの土地に匹敵する価値あるものとして、日本によこしたのであろう。欽明朝における釈迦仏金銅像、経論等の献上も、医博士、易博士、七暦博士等の百済よりの交代勤番も、新羅の勢力に圧迫せられた百済が、日本より援助を得ようための重大な意味を含んでいるのである。言わば武〔傍点〕と文〔傍点〕の貿易である。
十五年春正月……内《うち》の臣《おみ》勅を奉じて答報して曰、即ち助軍数一千、馬一百疋、船四十隻を遣《おく》らしめむ。二月。百(112)済、下部扞率将軍三貴、上部奈率|物部《もののべ》の烏《かく》等を遣して救兵を乞ふ。仍て徳率東城子|莫古《まくこ》を貢《たてまつ》り、前の番《つかひ》奈率東城子|言《こむ》に代ふ。五経博士王柳貴〔三字傍点〕を固徳馬丁安〔三字傍点〕に代へ、僧曇恵等九人を僧道深等七人に代ふ。別に勅を奉じて、易博士施徳王道良〔三字傍点〕、暦博士固徳王保孫〔三字傍点〕、医博士奈率王有〓陀〔四字傍点〕、採薬師施徳潘量豊〔三字傍点〕、固徳丁有陀〔三字傍点〕、楽人施徳三斤〔二字傍点〕、季徳己麻次〔三字傍点〕、季徳進奴〔二字傍点〕、対徳進陀〔二字傍点〕を貢る。
これらのシナ人〔三字傍点〕は恐らく百済において官位の制定や律令の修撰に参与し、また仏教の興隆や漢学の教授に従事したところの、新知識の代表者であったのであろう。百済におけるこの革新が五世紀末の北魏孝文帝の時代に始まったと仮定すれば、わが欽明朝の時代にはすでに半世紀間の成熟を見ていた事になる。日本はこの種のシナの知識を熱望していたために、軍衆と武器との価において、これらの学者や僧侶を借り出したのである。
かくて日本人の受けた影響は何であったか。文字の術にその徴証を求めるならば、書紀の記述の継体朝以後における著しい変化を指摘しなくてはなるまい。これによって日本人は、(もしくは日本に帰化した秦漢人は、)このころから豊富な記録を残し始めたと認められるのである。またもし知力開明の程度にその徴証を求めるならば、この時代に至って探湯《くがたち》、誓《うけい》のごとき在来の信仰形式の破れ始めたことが指摘せられなくてはなるまい。人は熱湯に手を入れることによって混血児の親を確かめることのできないのを悟った。偽りを言わない者の手も、熱湯には焼かれる。無実の罪によって責められる者にも、誓《うけい》がその罪を証することがある。天文や医術の知識の輸入はこの啓蒙の風潮の力強い刺戟となったであろう。
こういう大勢の内に仏教は、幾度かの試練を受けつつも、根強くはびこって行った。そこに開け始めた新しい生活は、仏教渡来後の新しい時代の発端として観察せらるべきものである。が、この新しい生活の開始と時を同じゅうし(113)て、古い生活の美しい果実もまた成熟し切った。その果実を我々は後章において静かに味わおうとするのである。
(114) 第二章 漢文化の日本化過程
一 漢文化の運搬者としての帰化人の痕跡
奈良朝においては帰化人はもう完全に日本人になり切っている。帰化人としての唯一の痕跡は、新撰姓氏録によれば、固有の日本人が「天御中主命の後也」「神武皇子の後より出づ」などと称するに対して、「秦始皇帝の後也」「百済国都慕王の後也」などと称する点のみである。始皇帝も都慕王も天御中主命と同じ意味のものであって、「万方庶民、陳2高貴枝葉1」の一種に過ぎない。がまた、「三韓蕃賓称2日本之神胤1、時移入易、罕2知而言1」であつたとすれば、そうしてそれが争いの種となり、姓氏録撰述を促す理由の一部をなしたとすれば、右の「唯一の痕跡」さえもあまり明確なものであったとは言えない。混血によったかあるいは自然の適応によったかは別問題として、とにかく彼らは言語風俗ともに固有日本人と区別し難いものになっていたのである。従って彼らは官吏としても武人としても固有日本人に変わらず重用せられる。才幹に従って国守となり将軍となり、あるいは高位高官に叙せられて国政の枢機に参与することもできた。こういう状態に達すればもはや民族の差別は問題でない。
にもかかわらず、彼らはなお系譜上外国人であったことを標榜しているのである。新撰姓氏録は不幸にして京都畿内在住の貴族をしか記載していないが、それによると、平安京奠都後まもない時代においては、皇別と称する貴族三五七、神別と称する貴族四四九に対して、三七四の多数な貴族が外国人の後裔であることを標榜していた。たといそ(115)の系譜の大部分がでたらめに過ぎないにしても、とにかく彼らの間に「祖先は帰化人であった」という主張が存していたことは疑いのない事実である。
しからばこれらの帰化人は主としてどの時代に移住したのであるか。
姓氏録によると、河内のごときは全姓氏数の四割が帰化姓である。そうしてその帰化姓の内の三分の二は漢人である。彼ら自らの称するところによれば、秦、漢、魏等の名族の後である。が、彼らの帰化の年代は応神仁徳朝等の半ば伝説的な時代であって、その確かさは書紀の記事の確かさ以上にいでない。
姓氏録の帰化姓全部を通覧しても、その半数は漢人であって、京都在住の少数な隋唐人の子孫を除くほかは、すべて同じく秦漢魏等の名族の出であり、また同じく半伝説的時代の移住に基づいている。
漢人以外の帰化姓の内三分の二は百済人であるが、その多くも百済名族の後と称するのみで移住の年代を明らかにしない。百済人の移住には比較的新しいものが多く、ことに天智紀には百済滅亡の際の大挙移住を伝え、「百済百姓男女四百余人を近江国神前郡に居く」とか、「百済男女二千余人を東国に居らしむ」とかと記しているが、畿内在住の百済人はそういう新しいものではないらしい。
その他の高麗人、新羅人、任那人などの内には、欽明朝に衆を率いて投化したことなどを明らかに語るものもあるが、多くは伝説的な祖先をあげているに過ぎない。
これらの事実によって推測すると、京畿在住の帰化姓は大体において半伝説的の時代に移住したものである。比較的新しい移住民は、僧尼、才伎のごとき特殊の者のほかは、多く畿内以外の遠国に居住したものらしい。が、その遠国にもすでに古くからの帰化人が散在していなかったとは言えない。遠国に居住する古い帰化姓が表を上《たてまつ》って爵位を(116)乞うという事件は奈良朝の記録にしばしば現われるところである。推測の歩を一歩進めて言えば、奈良朝における帰化人の多さは全国にわたって京畿と同様であったかも知れぬ。ただ京畿のものが最も古く、従って最もよく同化していたと見らるべきであろう。
推古時代より藤原京時代へかけて漢人が政治上に活躍したことは明らかな事実である。壬申の乱に天武天皇方に加わった漢人のごときはおびただしい数に上っている。もしこの時代の文化が飛鳥地方と離し難いものであるならば、飛鳥檜前地方に蔓延して全住民の八九割を占めていたという漢人の諸氏は見のがし難い意義を持つことになろう。が、彼らの意義はそれだけに留まらない。彼らがすでに伝説の時代よりこれらの土地に住み、言語風俗に至るまで日本人と同一に化したということは、幾世紀かにわたる民族の混融を、従ってまた日本人の変化を、語るのである。奈良朝においてはそれはもう過去のことであった。しかし奈良朝よりも二三百年前の時代、日本人が新しい国民生活を始め、文字を習い、伝説を記録した時代においては、それは溌剌たる現前の事象にほかならなかった。
混融の結果〔二字傍点〕は奈良朝末の状態によって明らかである。ここにはその混融の径路を明らかにしなくてはならぬ。
二 漢人移住の伝説
日本における最古の文書が帰化人によって書かれたことは疑いがないであろう。宋書に記された倭王武の上表文がもし帰化人の書いたものであるならば、雄略朝においては彼らの間に立派な文章家が存したことを認めねばならぬ。しかし彼らのある者が文章を綴り得るのはこの時に始まったことではなく、すでにこの国土に移住する以前からのことに相違ない。日本人は彼らから文字を教わり、それを政治上の事務のために実用的な符徴として使用し始めた。そ(117)の意味で諸国に書記官を置いたのは、履仲天皇の時であった。しかし文字を教えた帰化人にとっては文字はもはや単なる符徴ではなくして思想表現の手段である。帰化人のある者が記録の目的をもってある事件、ある伝説を書き残しておいたことも恐らくはあったであろう。雄略紀及びそれ以前の記事にこういう記録の含まれているらしいことは何人も気づくところである。
帰化人の記録が古くから存したとすれば、彼らの渡来に関する記事の中にもまた古い根拠を持つものがあると見られねばならぬ。
秦氏、漢氏、百済の阿直岐、王仁らの帰化は、応神紀十四年より二十年の間に、まとめて記されている。秦氏については十四年の条に、
弓月《ユツキ》の君百済より来り奏して曰く、臣おのが国の人夫百二十県をひきゐて帰化せんとす。然れども新羅人の拒によって、皆加羅の国に留まれりと。こゝに葛城襲津彦を遣して、弓月の人夫を加羅に召す。然れども三年を経るまで襲津彦来らず。
十六年の条に、
八月、平群《へぐり》の木菟の宿禰、的《いくは》の戸田の宿禰を加羅に遣はす。仍て、精兵を授けて詔して曰く、襲津彦久しく還らず。必ず新羅人の拒によって滞れるならむ。汝等急に往いて新羅を撃ち、其道路を披けと。こゝに於て木菟の宿禰等、精兵を進めて新羅の境に莅む。新羅王驚いてその罪に服しぬ。乃ち弓月の人夫をひきゐて襲津彦と共に来れり。
しかるにこの襲津彦は、書紀の記すところ〔八字傍点〕によれば、八十年前〔四字傍点〕の神功紀五年にも新羅討伐に向かった。
(118) 乃ち新羅に詣《いた》り、蹈鞴津《たたらつ》に次いで草羅城《さはらのさし》を抜いて還る。この時の俘人《とりこ》等は、今の桑原、佐麋、高宮、忍海、すべて四邑の漢人《あやひと》らの始祖なり。
新羅を討って漢人を伴とするのは神功紀においては少し変であるが、弓月の君の伝説と結びつければ当然のことになる。さらにこの襲津彦は、神功紀六十二年にも新羅を討ったと記されている。そうしてそこに引いた百済記によると、壬午の年(382)に「沙至比跪《さちひく》」という武将が新羅征討に向かい、新羅に美女を賂《まいな》われてかえって加羅を討った。加羅国王の妹がそれを大倭に訴えたので、天皇〔二字傍点〕は大いに怒り、「木羅斤資」をつかわして加羅を回復せしめた。satihikuがSotuhikoであることは書紀の記者の比定した通りであろうから、襲津彦の活動が三八二年ごろであったことは、疑いがない。またこの百済記の記事には、「三年を経るまで襲津彦来らず、即ち木菟宿禰を遣した」という応神紀の記事と筋書きにおいて類似したところがある。なお襲津彦は、弓月君渡来より六十六年後の仁徳紀四十一年の条にも現われて来る。神功紀五年の新羅出征の時から数えると百四十六年目である。このようにしばしば繰り返されているところを見ると、「襲津彦という武将が四世紀末のある時期に漢人の移住に努力した」という伝承はかなり根づよいものと認めねばならぬ。
当時は百済、新羅、高勾麗のいずれも国家を統一して間のないころである。ことに高勾麗と百済との折衝によって、昔の帯方の地〔四字傍点〕は戦乱の巷になりかかっていた。前漢以来数百年その地に平和を楽しんでいた漢人のある者が、蛮族の跋扈する本国へも帰れず、自然に東方に遷移して日本に渡来しようとしたのは、きわめて当然の勢いである。
弓月の人夫が百二十県であったということも秦人の戸数七千五十三戸という欽明紀の記事から推して確かであるらしい。百二十の部落の移動は、日本軍の朝鮮出征と同じく、当時の大事件であったに相違ない。試みにそのありさま(119)を想像してみると、まず彼らを運ぶためには幾百かの船舶が必要である。公開に費やす日が多いために食料もまた多量でなくてはならぬ。たとい生活が簡単であったとしても、夜の寒さをしのぎ、その日の食物を調理するだけの衣類や道具は欠くわけに行かない。かくして男らは米やその他の食料品あるいは嵩《かさ》高の衣類包みを負い、女らは鍋釜を携えあるいは乳飲み子を抱き、小さい子供の手をひいて、ぞろぞろと船へ乗りこんで来る。幾十家族かが小さい船の中に雑然として群がる。食事時にもなれば炊事の煙は濠々として立ち上り、子供らは泣き叫び、母親らはののしり騒ぐ。そういう船が幾十か、あるいは幾百か、海をおおうて押し寄せてくるのである。陸に上がればまた彼らはおのおのの荷物を負い、おのおのの子供を携え、参々伍々に群れ立って、ぞろぞろと繰り出して行く。夜になれば恐らく森林のなかに急造の小屋を造って、炊事道具を並べ、衣類をひろげ、一夜の団欒を楽しむのであろう。一つの部落は一つの森に、他の部落は他の森に。かくして百二十の部落は、徐々として大地を這って行くのである。
大挙移住の伝説にはなお阿知便主《あちのおみ》の十七部落の渡来がある。これらも皆帯方の漢人であって恐らく同じ理由から同じ時代に渡来したものであろう。この氏族の後裔と称する坂上の苅田麿(田村麿の父)が一族の陞爵を願い出た上表文によると、彼らの祖阿智王は後漢霊帝の曾孫であって、後漢が滅び魏が興った時に、神牛の教えによって帯方に移住し、宮城のごとき形の宝帯瑞を得てそこに国邑を建てその人庶を保育した。が、また覆滅の恐れがあったので、女弟迂興徳及び七姓氏を携えて東方聖主の国に帰化するに至った。応神朝のことである。その時阿智王が奏していうには、――臣旧居帯方にあり。人民男女皆才芸を有す。此頃百済高麗の間に寓して去就を知らず。願くは使を遣して召し給はむことを。――すなわち八腹氏がつかわされ、阿智王の人民男女はことごとく随って渡来した(続日本紀、延暦四年六月)。明らかにこの上表は陞爵を願うために祖先の王族を言い立てたものである。漢末の国乱に際して彼らが帯方に(120)移住したことは事実であるとしても、その後高勾麗の勃興に至るまでには一世紀の平和な年月があり、百済、高勾麗の衝突が起こるまでにはさらに一世紀近い月日を経なくてはならぬ。魏初に漢土を離れた阿智王が百七八十年後の兵争の際に日本に来られるはずはない。確かにこの上表文は魏の時代を神功紀にあてはめた書紀の記載によって捏造されたものである。が、漢より帯方へ移住したと言い、神牛の教えによったと言い、あるいは武内宿禰の武力保護によって日本へ帰化することができたという類の伝説は、書紀から直ちに生まれたとは思えない。武力保護の点だけは弓月の君の記事から構想されたかとも考えられるが、しかし当時の大挙移住にこの種の保護が必須であったことを想えば、それも全然嘘ではあるまい。だからこの種の伝説にもある歴史的事実が含まれていることは認めていいであろう。
このほかにも集団的移住があったことは、俘人を連れて来た話などで大体察せられる。民族移住は当時の世界的大勢であった。人々は流行の心理に支配せられて、移住そのものに、ある心的牽引を感じていたかも知れない。
さらに個人的な移住に至っては、宮廷に関する伝説のみでもその数が少なくない。応神朝に百済から貢したものは、縫女二人、馬飼の阿直岐《あちき》、博士|王仁《わに》、七人の侍女をつれた王妹|斯斉都媛《しせつひめ》、等である。王仁が書《ふみ》の首《おふと》の始祖、阿直岐が阿直岐《あちき》の史《ふひと》の始祖として記されているところから推測すると、書紀の記事はこれらの首《おふと》や史《ふひと》の家伝によったに相違ない。なお宮廷の事以外に、個々の貴族が、特に朝鮮に往来した武将や官吏が、同じ意味で百済人などを連れて来るということも恐らくはあったであろう。宮廷において尊重せられるものは個々の貴族にとってもまた価値の高いものに相違ないからである。
個人的移住に関連して、韓人との雑婚も考えられねばならぬ。王妹と七人の侍女、二人の縫女、それらが日本人と婚したろうことは言うまでもない。襲津彦は新羅の美女をうけた。襲津彦を討ちに(あるいは救いに)行った木羅斤資(121)は、同じく新羅の女を娶って木満致《もくまんち》を生んだ。木満致は任那に勢威をふるい、百済の王母と通じた。これらの代表的な例は、当時朝鮮に往来した数多い軍卒の間の雑婚の流行を暗示するものであろう。
応神朝に「呉」の縫工女《きぬぬいめ》を求めしめた話は、津田氏によると、雄略朝のそれと同じ事件を意味するらしい。また応神朝以前の天《あめ》の日槍《ひぼこ》の来朝は、純然たる物語であって、そこから史実を透見するのはむずかしい。日槍《ひぼこ》の系統に常世の国へ使いした田道間守《たじまもり》があり、神功皇后もその血統となっているが、これらの伝説は、歴史的に証明のできるものではない。田道間守《たじまもり》を卑弥呼女王の臣難升米〔三字傍点〕に比定する説は、これらの伝説の源流を探究する上に、示唆するところが多い。日槍《ひぼこ》の伝説もまた古い移住の話の転化したもので、それが新羅の王子とされたのは新羅征討以後のことであるとしても、移住の事実はもっと古くにあったかも知れない。また日槍《ひぼこ》来朝の由来話に現われた「女と日光と玉」の話がそのまま高勾麗祖先の伝説に存しているのを見ると、日槍《ひぼこ》の伝説は、百済人の持って来た「女と玉」の話が、ある移住の話と結びついて日本で成長したものであるかも知れない。いずれにしても移住と関係はあるであろう。
応神朝以後には、仁徳紀五十三年の条に、上つ毛野の君田道が新羅を討って「四邑の人民」を虜にして帰った話がある。このころにはまだ襲津彦が百七十歳以上の年齢で生きており、襲津彦の娘が仁徳后として履仲天皇を生んだとされているほどであるから、この「四邑の人民」も百五十年前の「四邑の民の始祖たる俘人」と同じようなものであるかも知れない。これらの伝説の中での百五十年はまずまず同じ時代と認めてよいであろう。その後雄略朝に至るまでは集団的移住の記事は見えない。雄略朝に至って百済の才伎《てひと》を徴発する話があるが、これはやや多数であったらしく、「大島の中に集《つど》へ聚《あつ》める」とか、「病み死するもの多し」とか、その残余を「上桃原、下桃原、真神原の三所に遷し居らしむ」とか記されている。
(122) 応神朝以後の個人的移住については、允恭紀に新羅の医者を召す話があり、雄略紀に百済の慕尼夫人《むにはしかし》の女「適稽|女郎《えはし》」や、呉の才伎《てひと》「漢織《あやはとり》呉織《くれはとり》」、衣縫《きぬぬい》「兄媛《えひめ》弟媛《おとひめ》」などを召す話がある。この漢織、呉織、衣縫等が、後の飛鳥《あすか》の衣縫部《きぬぬいべ》、伊勢の衣縫等の祖先とせられているところを見ると、それらは雑婚によって栄えたものであろう。なお韓土との交通が引き続いて行なわれていたことを考えると、記録には残らないまでも、多くの個人的移住はあったに相違ない。
漢人及び韓人の移住の伝説は大体以上の通りである。我々はそれが単なる伝説に過ぎぬとは考えることができぬのである。
三 氏姓制度
しからばこれらの帰化人は日本人の生活にいかに関係したであろうか。
奈良朝においては「姓《かばね》」は爵位を意味している。しかしもっと古い時代には、それは単なる爵位ではなくして、「氏《うじ》の名」をも意味したのである。「うづまさ」という姓《かばね》を給う、「小子部《ちひさこべ》の連」という姓《かばね》を給う、というごとき例においては氏《うじ》と姓《かばね》の区別は見いだせない。この姓《かばね》と氏《うじ》が氏姓制度の発達に伴なって漸次明確な区別を得たのであるとすれば、その区別の確立は秦漢人の渡来よりも後でなくてはならぬ。しからば「氏姓制度」なるものにも帰化人の影響は認められぬであろうか。
上代史概観において述べたごとく、国家統一以前に国民が小団体に分かれていたことは、初次の統一後にもなお三十国、あるいは九十五国というごとく国内にさらに国々が数えられていたことによって察せられる。第二次の統一事(123)業が進むにつれて、中央の権力は増大し、地方の団体はかえって小さくなった。かかる団体は、かつては民族学にいうところの「氏族」あるいは「部族」であったかも知れぬが、氏姓制度の関する限りにおいでは、それは国家的な組織の内部における地縁的集団〔五字傍点〕であって、国家の統一が進むにつれその団体としての自覚を高めて来たものなのである。
元来この種の地縁的集団は、旧来の統率者をその核として緊密に団結していた。彼らは同一の土地に住み共同の生活を続けた永い年月の歴史によって、共同の祖先を有すると信ずるようになっていたかも知れぬが、しかし血縁団体なのではない。彼らが団結するのは制度によって強要せられるからではなくして、自然的に心情の事実として親しみを感ずるからである。彼らの統率者たる国造も、単に人民から租税をとるばかりではなく、外に向かって人民の利益を代表する。国造が地名〔二字傍点〕によって呼ばれるのは、ただその土地に居住するという意味ではなくして、その土地の人民全体の統率者たることを意味するのである。
が、これらの古い団体に対して、四世紀前半に全国を統一した勢力は、無数の新しい団体を創造した。「部《べ》」「伴《とも》」によって現わされる人民の団結がそれである。「伴《とも》」という言葉によって明らかなごとく、それは友情的団結であって血縁的団結ではない。その後の共同生活や結婚関係によって結局「共同の祖先」を有すると信ずるに至ったとしても、最初は全国統一の功業に参与した人々の新しく造った団体であろう。同一職業あるいは同一職務を有する人々の団結、たとえば中臣部《なかとみべ》、忌部《いみべ》、土部《はじべ》のごときは、全国的統一が実現せられた後の大きい社会組織における「分業」の開始を語るものであって、それ以前の社会にはいまだ存しなかったらしい。また子代の民、名代の民の類は、明らかに全国統一の英雄が、その名のため、あるいはその勢力のために、新しく創設した団体である。さらに帰化人や俘虜をもって組成した「部」が、四世紀末以後に属することは言うまでもない。「むら」(村)という語さえも韓語だといわれてい(124)る。韓土の地名に付せられた牟羅〔二字傍点〕から来たと見るのである。これには反対説もあるが、とにかくこの言葉が日韓共通であったことは疑いがない。
これらの新しい団体も、伴造をその統率者として、旧来の団体に対抗する。忌部《いみべ》の連何某とは忌部《いみべ》という団体の統率者何某の意である。
こういう大勢において、相互の刺戟がますます団体の発達を促し、それに伴なって団体としての意識がますます成長するのは当然である。そこで、ちょうどこの際に移住して来た秦漢民が、沸きのぼりつつあるこの団体意識に対して、知識的な援助を与えたというようなことも、想像されなくはない。ことに秦漢民移住に伴なって盛んに起こった地溝の開鑿や荒地開墾の事業は、民衆の共同作業を刺戟し、あるいは新しき村を出現させることによって、民衆の団体的生活に著しい影響を与えたであろう。たとえば一村の人民が活気立った数個月の労働によって一つの大きい池を掘る。そこに満々たる水がたたえられる。その水の与える幸福も憂慮も村人の心においては一つである。池は共同の心の表徴とならざるを得ない。あるいはまた新村の経営が新しく焼き払われた郊原に行なわれる。村主の家や守護神の祠が中心となってその周囲に村民の人家が並ぶ。彼らの心はこの経営において結びついている。天災があれば神に祈る心において彼らは一つになる。収穫があれば神に感謝する心においてもまた彼らは一つである。かくして守護神は団体の祖先神となり、村民はその神から出たものとして共同の祖先を信ずるようになる。こういう心的変遷の時代に、新来の帰化人が同じく開墾事業を営み、同じく新しい村を建設する。檜前《ひのくま》の村のごとく、大和の最も古い土地にさえも帰化人の村は現われている。その場合、帰化人の知識が、彼らの村落生活により、具体的に新しい例証となって日本人の前に現われ、日本人に強い影響を与えたということは、当然起こらなくてはならない現象である。
(125) 固有の地域的団体としての村々、新しく創設せられた部の民、帰化人によって経営せられる新しい村、――これらの種々の団体が、帰化人の刺戟を受け、新興の活気をもって発達して行く間に、その団体の統率者もまた政府における位置を確保しなくてはならぬ。そこに氏姓制度の形成されるゆえんが存するのである。彼らはその土地〔二字傍点〕の名により、あるいは職業職務〔四字傍点〕により、あるいはその統率する部〔傍点〕の名によって、おのおのその個人的な名の上にかぶせるもう一つの「名」を持っている。この名にはトーテムを思わせる痕跡は全然ない。物部、忌部のごときは、職業的団体〔五字傍点〕を意味する言葉であり、物部の連はこの団体の統率者を敬称によって呼んだものである。葛城、蘇我等は地名であって、その土地の地域的団体〔五字傍点〕を指し示している。これらの「名」は配下の人民の団結が緊密であるに従って、ある伝統的な、ひいては血統的な意義を獲得する。多数であるべき共同の祖先が一人の祖先によって代表せられ、その祖先によって「名」の重さが生ずるのである。しかるに彼らが統率者として受ける敬称には臣《おみ》、連《むらじ》、首《おふと》、直《あたい》、県主《あがたぬし》、稲置《いなぎ》というごとく多数の種類がある。これらの敬称は、白鳥庫吉氏によると、皆純粋の日本語であって、その意義の間に尊卑の差があるわけのものではない。「おみ」omiは漢字「臣」に当るものではなくして、「みみ」mimi「もり」mori「いみ」imiなどとともに尊貴高上を意味するmaという言葉の発達したものである。「むらじ」murajiもまたそれと同様であって、「連」の字をあてたのは帰化人のしわざに過ぎぬ。「おふと」oputo,opitoは秀出を意味する「ほ」poが転化して接頭語と結びついたものであって、太《ふと》puto人《ひと》pitoと相通ずる。「首」字はこの敬称が首長たる統率者に用いられるゆえの意訳に過ぎぬ。「主《ぬし》」nusiは「いなぎ」inagiとともに高、上を意義するna,ne,niなどの開展した形であって、neが価値を意味しani,ane等が敬称であると同じく統率者に対する敬称語にほかならない。以上の考察がもし是認せらるべきものであるならば、これらの敬称語の間に高下の差別がついたことは、その語自身の性質によるので(126)はなく、おのおのの敬称を常用した団体統率者の政治的地位による、と見なくてはならない。すなわち五世紀以後において臣連《おみむらじ》の敬称をもって呼ばれた統率者が優勢であったゆえに、臣連は高貴な姓を意味し、県主、稲置等の敬称は権力の少ない統率者に多く用いられたゆえに、前者よりもひくい姓を意味するに至った、と解しなくてはならない。かくして単なる「名」と「敬称」とがそれぞれの団体及びその統率者の地位を現わす特殊の語に進化した径路は、氏姓制度が形成されて行った径路と平行的に説明せられるであろう。
こういう変遷が実際行なわれていた時代に、帰化人が「氏」「姓」のごとき言葉〔二字傍点〕あるいは概念〔二字傍点〕を伝え、そうしてそれが現実の団体にいかに適用せられるかを示した。そこで本来はシナの氏姓と異なったものであったわが国の名や敬称が、いつともなくそれに結びつくに至ったと考えられる。
その著しい証拠は言葉である。「うぢ」という言葉は「氏」という漢字の朝鮮音に接頭語「う」を加えたものと言われている。また「かばね」という言葉も、新羅においてkyoroi(族〔傍点〕の義)の音を現わすために用いられた「骨」という字を、そのまま日本語でかばねと読んだものと言われている。(宮崎道三郎氏説)しからば「氏《うじ》」「姓《かばね》」はともに朝鮮伝来の言葉である。が、かかることは単に「氏姓」の二語に留まらない。「臣《おみ》」は大、貴等を意味する韓語omよりいで、「連《むらじ》」の連字はorun(首長)を現わすために用いられたものをそのまま借用した。否、これらの言葉のみに留まらない。姓《かばね》制度そのものも韓国よりの輸入である。(中田薫氏説)
もとよりこれらの説に対しては、同じく言語の研究によって反対説も提出せられている。「かばね」kabaneはなるほど骨《ほね》である。しかしこの言葉は「株《かぶ》」kabuなどと同じく「根本」を意味するものであって、「かみ」kamiと語源を同じゅうしている。骨《ほね》なる「かばね」が姓なる「かばね」に転化するのは、幹茎を意味する「から」karaが宗族を意(127)味する「うから」ukaraに転化するの類に過ぎない。国語においては通有のことである。また「おみ」が韓語omと関係のあることも疑いがない。しかし語源をたどって行けばomすなわち日本語のmaである。同一系統に属する言語が語源を等しゅうするのは不思議でない。ただomが韓国において開展して種々の韓語となり、maが日本において開展して種々の日本語となっている以上、omとomiとの相違は、韓語と日本語とがおのおの独立した言語となって相違しているのに等しい。すでに古い時代にomがmaと分かれ、そのmaからしてomiが生じた。omを直ちに〔三字傍点〕omiと関連させるのは正当でない。(白鳥庫吉氏説)
が、語源はいずれであるにしても、「うぢ」や「かばね」はもと団体の「名」であって「氏姓」ではなかった。その「名」が血統的な意義〔六字傍点〕を獲得して「氏姓」となったのは漢人渡来後の事件である。当時の社会にはこの変遷を生むべき実際の事情があった。そこへ漢人が姓氏というごとき言葉と概念とを伝えた。実際に起こりつつあった変化はこの言葉と思想とによって明瞭に形づけられた。しかし氏《うじ》も姓《かばね》も最初は著しい区別のあるものでない。ともに血統を示す名〔六字傍点〕である。ただ姓《かばね》は天皇より賜わるというような意味で氏《うじ》よりも多く公式の意味を持った。この点が在来の敬称と結びつき、敬称に差別的意義が生ずるに従って、血統よりもむしろ家格〔二字傍点〕を示す語に転ずる。かくして姓《かばね》は漢字「姓」の意義から離れて純粋に爵位のごときもの〔八字傍点〕に変化して行ったのである。この変化は帰化人が「姓」の概念を伝えた後に起こった。もろもろの氏の間の階級的組織も、血族国家の思想も、その根柢としては血縁的団結の意識が必要である。そうしてその意識の発達あるいは具体化に力強い助力を与えたものは、「氏」「姓」というごとき言葉と概念を伝えた帰化人でなくてはならぬ。
以上の観察を要約すれば、「かばね」制度が韓国よりの輸入であると否とを問わず、とにかく氏姓制度や血族国家の(128)思想は、その発達の初期において、著しく帰化人の刺戟を受けたものである、ということになる。神代史に現われているゆえをもってこれらのものが非常に古いと考えるのは間違いである。
四 漢字の習得
日本人が漢字に接したのは古く弥生式文化の時代のことである。模造鏡がその事実を明らかに示している。西紀三世紀に日本人が漢字を使用していたことも、魏志の記録によって推測せられる。しかし漢字を日本化したのは、朝鮮との交渉以後のことに属するらしい。文字に対するこのような態度の変化は、知力に対する態度の変化を示唆する。しかるにちょうどその問題に答えるかのように、全国統一の事業を背景とするらしい諸伝説には、「知力の尊重」が著しく現われている。日本武尊の武勇譚は、「女装」と言い「木刀のすり換え」と言い「草薙ぎ」と言い、すべて狡智と機智の物語である。英雄武内宿禰はあたかも天の安の河原における思金の神のごとく、あるいはトロヤにおけるオデユツセウスのごとく、武力の英雄であるよりもむしろ知力の英雄であるらしい。この種の知力の尊重は、これらの伝説が形造られつつある時代に、いかに智慧が珍しくまた驚異すべきものであったかを示している。奸計も、詐欺も、優秀な知力を現わす意味においては、讃美すべきものであった。虚偽を卑屈として斥けるような心持ちは、旺盛な知力讃美の心持ちにおおい隠されていたのである。ところでこれらの諸伝説の現在の形は、その強度の説話化から推測すると、統一の事業や朝鮮出征の事件からかなり年月を経た後の時代に形成されたに相違ない。すなわち秦漢人渡来後のことと考えられるのである。従って漢字が応神朝に渡来したという伝説には、幾分かの真実が含まれているであろう。
(129) 「漢字」の習得は、第一に「話される言葉」から「書かれた言葉」への推移を意味する。第二にそれは単なる書写の開始ではなくして、すでに千年の文化背景を持つ象形文字の翻訳〔二字傍点〕である。写音文字を輸入して固有の言語を写すのみならば、その影響はまだ軽い。が、すでに複雑な内容を持った象形文字を、ある日本語にあてはめるということは、同時にその日本語にこれまでなかった内容を賦与するということになる。その影響は思想内容に深く立ち入らざるを得ない。
第一の場合については、日本人が実用的目的のために漢字、漢文を用いたということと、漢字を日本語の表現〔六字傍点〕に用いたということとを、厳密に区別しなくてはならぬ。前者はすでに三世紀に行なわれていたことであり、日本人への影響も少ない。重大な意味を持つのは後者である。「音」によって現わされる言葉が「字」によって現わされる言葉となることである。不断に流動する生命と相応じて自由に環境に適応し得る言葉が、話す「人」から離れて、一つの不思議な独立したものになる。音響によって活きていた言葉が、沈黙し凝固しつつ、しかもある働きを有する別種の存在に変ずるのである。最初は恐らく国名、地名、人名のごときが主として書かれたのであろうが、これらの名も、書かれることによって固定の傾向を強めたに相違ない。氏姓の固定のごときはそれに関係があるであろう。国名が何らか直観的の意味を持つ「言葉」であったにかかわらず、漢字〔二字傍点〕のあて字〔三字傍点〕によって固定されるに従い、純粋に不動の「名」となり切ったごときも、ここに原因を持っているであろう。さらに時代が進んで伝説や歌謡が書きつけられることになると、そこには話される言葉によって伝えられたものを永続的な不変の形に結晶させようとする要求が見られる。不断に流動する直観の世界の上に一つの変わらざる「考え出された世界」を築こうとする企てが起こったのである。だからわが国の上代においては文字使用の発達と伝説の発達とは平行して進んでいるのである。
(130) が、第二の意味の文字の刺戟は結果においてさらに重大である。「やま」という言葉を「邪馬」と写さずに「山」と書き、「かは」という言葉を「珂波」と写さずに「河」と書くためには、すでに、視覚形象としての漢字と日本語との結合がなくてはならぬ。このことは世界にまれな漢字の性質に基づくものであり、従ってこの結合も世界にまれな文化現象である。山という文字そのものは、サンという言葉もヤマという言葉も、あるいはmountという言葉をも、自由に現わし得る視覚形象なのであって、漢語に固着したものではない。漢字のこの性質を鋭敏にとらえ、それを自国語の表現に用い始めたのが日本人なのである。かかることは恐らく他のいかなる国にも起こらなかったであろう。しかしそれも直観的な物象に限られる間は大したことではない。さらに進んで抽象的な言葉を翻訳することになると、日本語の直観的傾向と漢字に表現された漢語の抽象的傾向とが、否おうなしに交叉しなくてはならぬ。例えば「かみ」という言葉である。それが「上」「髪」「狼」などによって現わされる場合には、問題はない。が、同じ語でありながらも「かみ」なる言葉には驚嘆畏敬の念を現わす敬称としての意味内容がある。それにあてはめるために「神」という文字が用いられる。そこで問題が複雑になるのである。「神」という文字によって現わされた漢語は確かに「かみ」なる言葉と交叉する点を持つ。しかし「かみ」が「上」や「髪」の方へ連絡するに反して、「神」は超人的な力やものの方へ連絡する。敬称である〔五字傍点〕「かみ」には本来「超人的なもの」を意味する傾向はないが、すでに漢語の「神」と結びつき、そうして上代信仰の対象たる畏敬すべき神聖なものの敬称として〔五字傍点〕常用せられることになると、そこに漢語「神《しん》」の有する超人的な意味が滲透して行かずにはいない。かくして「かみ」は「神《しん》」に近づいて行く。しかし直観的な日本人は漢人の意味するままの「神《しん》」に落ちつくことなく、それよりもはるかに具象的な「神《かみ》」の表象を作った。それがこの後日本で用いられている「神《かみ》」という言葉の内容となったのである。
(131) 同じ例は「あま」「あめ」を「天」によって現わしたことにも認められる。「あま」という言葉に広大あるいは高大の原義があることは、それが「海《あま》」であるとともに「天《あま》」であることによって明らかであるが、それと関連して尊崇あるいは嘆美の意味を含んでいることも「天《あめ》の日槍《ひぼこ》」というごとき人名の例において明らかである。ところでこの言葉が漢語「天」に結びついたとなると、そこには単なる蒼空あるいは嘆美の意義以上に、宇宙万物を支配する力というごとき抽象的な意義が加わってくる。このことは、素朴な太陽崇拝者の直観的な心に対して、かなりに大きい変化を与えたであろうと思われる。元来、原始的な太陽崇拝者にとっては、太陽は身近に親しく感じられるものなのである。日の神が現われてくれば、世界が明るくなる。その光はじかに我々のところに届き、我々の肌の上にその力を感じさせることができる。すなわち我々は日の神と触れ合うのである。そうしてまたそのことによって我々の生はささえられているのである。そういう親近な感じ〔五字傍点〕のゆえに、人々のあがめ敬う統率者を日の神の子〔五字傍点〕と感じ、逆に日の神を人の子の親として感ずるというようなことも、きわめて自然に起こってくる。その場合、太陽と地上との距離はあまり問題にならないであろう。従って日の神の住む高天原は地上の世界と非常に近いもの、簡単に往来のできるものとして想像されたであろう。しかるにシナ人の「天」の思想がはいってくるとともに、高天原は非常に遠い、超人間的な世界として、人間から引き離されて行くことになる。宇宙の中心にあって宇宙を主宰する神、すなわち天の御中主の神などが考えられたのは、恐らくその結果であろう。天の御中主の神は北斗星であるとも解せられているが、この星と太陽とは、直観的には〔五字傍点〕まるで価値が違う。太陽はその光や熱をもって人間に触れてくるが、星はほとんど感覚に訴えて来ない。北斗星が不動の星〔四字傍点〕として天の中心にあるというごときことは、ただ認識の力によってのみ把捉されるのである。が、その認識の力がここにはいってくれば、高天原の想像がその素朴な姿のままで発展して行くことはで(132)きなくなるであろう。実際我々は神代史のなかにそういう影響のあとを喚ぎ分けることができるのである。
なおまた「あて字」の使用によって在来の言葉が全然新しい内容を得ることもある。「やく」という言葉に「焼」をあて、「つ」という言葉に「津」をあてるのは、単なる漢字の日本語化であるが、「やきづ」という地名に「焼津」をあてるに至っては、純然たる借字に過ぎない。しかもこの「やきづ」は「焼津」と書かれたがゆえに、日本武尊東征の物語に現われたごとき地名伝説を生み出したのである。「あづま」を「吾妻」とかき、「あづまはや」の伝説に結びつけたのも、また同じ例であろう。三輪山伝説もそう見てよい。これらは、象形文字がその固有の性質によって、ただに日本語の意味を変えたのみならず、また日本人の空想をも刺戟したということの有力な例証である。
かくのごとき例は二三に留まらない。が自分はこの種の漢字の刺戟によってのみこれら伝説が生まれたと言い切るのではない。伝説の成立には想像力の活動におけるそれ自身の動機があるであろう。ここに明らかにしたいのは、漢字の輸入と消化とがいかに日本人の知力的発達を助けたか、従ってそれがいかに神話や伝説の開展に影響したか、という点のみである。
が、もしこの種の漢字の使用がただ帰化人の社会においてのみ行なわれたとしたらどうであろう。漢字の学習の内に日本文化と漢文化との混融を認める企ては根柢からくつがえされはしないか。
そこで一応上代記録の成立を検査してみなくてはならぬ。
五 上代日本文の成立過程
帰化人のうちにはもと帯方郡にいた漢人、あるいはその子孫が多かった。それらの漢人も日本に来る前には一世紀(133)ぐらい百済の治下にいたのであるから、言語の上ではあるいは百済化していたかも知れない。しかし母国語をことごとく失い去っていたろうとは思われない。数世紀後には彼らは全然日本語を話す民に化しているのであるが、移住当時にはまだ漢語を知っていたと考えても、さほど見当違いではないであろう。しかしその場合にも少数者のほかは必ずしも漢文字〔三字傍点〕に通じていたとは考えられない。日本における漢学の教師として、百済人〔三字傍点〕王仁及び阿直岐の名が伝えられているのは、這般の消息を語るものと思われる。百済にも帯方以来の漢人は住んでいたはずであるが、しかし彼らも学問を持っているとは限らなかった。彼らの間に新しく学問を起こすためには新しく漢本土から教師を連れてくる必要があったであろう。が、そこで最もよき生徒となるものは帯方以来の帰化人であったに相違ない。王仁、阿直岐等はそういう人々であったかも知れない。同様に日本においても、王仁、阿直岐のごとき教師に学んだ生徒の内には、多数の帰化人があり、またこの帰化人が最もよき生徒であったと想像される。これは政治上の事務を整理する書記官として多くの帰化人が使用せられたのに見ても根拠のない想像ではない。が、これらの帰化人といえども、漢字漢文は学問として日本の統治者のために学んだのであって、彼ら自身の日用の必要によるのではなかったであろう。これは注目すべきことである。なぜなら、帰化人が漢字漢文を学ぶのも、日本人がそれを学ぶのも、根本においては変わりがないからである。
もし帰化人が漢語の記憶を持っていたとすれば、漢字漢文の学習は日本人よりも容易であったであろう。しかし彼らが文字をもって日本人の役に立つためには、何よりもまず日本語に通ずることが肝要である。その意味で彼らはまず日本人として立たねばならなかった。かく見れば、帰化人の漢文学習も、日用の言語から離れた「学問としての学習」であり、従って「日本人としての学習」である。たとい文字の使用が帰化人の間にのみ限られていたと仮定して(134)も〔五字傍点〕、それはもう日本文化と無関係ではない。
古い文書から推測し得る限りでは、初期の文字使用は単に漢語を記すためではなく日本語を表現する〔八字傍点〕ためであった。倭王武の上表文のごとき堂々たる漢文も残ってはいるが、あれはシナ人に当てたものであって日本人の用に供したものではない。国内においてはやはり「日本語の音訳」と「漢字の日本化」とが主要な問題であった。それに努めたものが主として帰化人であったとしても、仕事そのものは「日本人としての仕事」である。ことに漢字の日本語化は、この後千五百年の日本文化と深い関係を持つところの、「特に日本的な」仕事である。
この仕事がいかにしてなされたかを検するために、まず古事記を観察して起点を定め、そこからさかのぼって源を探ってみよう。
古事記は、太の安万侶の序文が信ずべきものであるならば、和銅五年(712)に撰録せられた。秦漢人の移住の時代からは三世紀以上の年月を距てている。唐との直接交通が始まってからもすでに一世紀を経過していた。漢語漢文の学習が官吏の必須条件として、大学国学によって広められてからも、すでに相当の年月が過ぎていた。だから古事記製作の時代においては、初期の漢字使用はすでに前代の遺風として「幾分解し難いもの」に化していたのである。天武天皇が「諸家の齎《もた》らせる帝紀及び本辞」の虚偽多きを憂え、「帝紀を撰録し旧辞を討覈して、偽を削り実を定めむ」ことを企てた時に、まず取りかからねばならない仕事は、「帝皇の日継及び先代の旧辞」というごとき古書を、「誦《よ》み習ふ」ことであった。そうしてこの仕事のためには、「目に度れば口に誦み、耳に払《ふる》れば心に勒《しる》す」というごとき特に聡明な人(稗田の阿礼)が必要であった。しからばこの古書はこの時代の人々にさえもかなり読みにくいものであっ(135)たと認められなくてはならぬ。太の安万侶の仕事は、阿礼の誦習した右のごとき古書を当時の時風に書き改めることにほかならなかった。彼自らの言によれば、
「上古の時、言意並に朴にして、文を敷き句を構ふること、字に於て即ち難し。已《すで》に訓によって述べたるものは、詞《ことば》心《こころ》に逮ばず。全く音を以て連ねたるものは、事の趣更に長し。是を以て今或は一句の中、音訓を交へ用ゐ、或は一事の内全く訓を以て録す。即ち辞理見え〓《がた》きは注を以て明す。意況解し易きは更に注せず。また姓の日下に玖沙珂《くさか》と云ひ、名の帯の字に多羅斯《たらし》といふ、かくの如きの類は本に随て改めず。」
明らかに安万侶は、漢字の古い使用法を新しい使用法に変えたというだけであって、「偽を削り実を定める」というごとき大事業の苦心を語っているのではない。彼が僅々四個月をもって古事記の製作と浄書とを仕上げたことからも、彼の仕事が単に文字の改作に過ぎなかったことは察せられるであろう。
古事記の文章は「仮名まじり漢文」である。日本語にあてはまる漢字が見いだせない時には万葉仮名で書き、漢字が頭に浮かべば、それを日本語訓みにして使う。このやり方が奈良朝時代の普通文であったことは正倉院文書によって明らかにせられている。古事記もまた当時の普通文によって書かれた。「二柱《ふたはしら》の尊《みこと》」というごとき言葉も、当時の往復文書には明らかに「御両人様」の意味で使ってあって、古伝説に限られたものではない。が、このことは、古い書の言葉が奈良朝の言葉と大差なかったことを示すのみであって、古事記が「言葉」をまで新しく変えたという証拠にはならない。だから古事記製作のおもな理由は、読みにくい古書の文字〔二字傍点〕を読みやすい普通文の文字〔二字傍点〕に書き改めるということに尽きているのである。
では安万侶の取り扱った旧辞の類はどういう書き方のものであったか。音、訓ともに用いられていたところから見(136)ると、漢字〔二字傍点〕と仮名〔二字傍点〕の混合であったことは疑いない。「已《すで》に訓によって述べたるもの〔に訓〜傍点〕は、詞心に逮ばず」という「己に〔二字傍点〕」の一句から判ずると、訓によって述べることは後代の流行であって、古い書には比較的珍しいことであったらしい。「全く音を以て連ねたるものは事趣更に長し」という批評は、仮名のみをもって書かれた部分が多かったことを暗示している。で、安万侶の仕事の主要部が「音訓を交へ用ゐ」あるいは「全く訓を以て録す」という二事に尽きるならば、旧辞の類は古事記よりもはるかに仮名の多い、従って音と訓との区別のつきにくいものであったと見られねばならぬ。
古事記よりも半世紀近くは古かろうと思われる文書に、「上宮聖徳法王帝説」がある。これは僧侶の書いたもので、地の文は大体漢文であるが、中に記された固有名詞は音と訓とを統一なく用いている。たとえば「蘇我伊那米宿禰」とも書き「宗我稲自足尼」とも書く。一方に「穴穂部間人《あなほべのはしひと》」「佐富《さとみ》」「橘豊日《たちばなのとよひ》」というような訓で記した名があるかと思うと、他方には「止余美気加志支夜比売《とよみけかしきやひめ》」「阿米久爾於志波留支広庭《あめくにおしはるきひろには》」というように主として音で記したものもある。これらは右に言った旧辞の性質に幾分適合するものと認めていいであろう。なおこの書には推古時代の仏像の銘や繍帳の文も集録せられているが、それは現存の遺品が証明する通り、間違いなく推古時代の文章〔七字傍点〕であって、古事記以前の文体を知るための貴重な材料である。天寿国繍帳の文に曰く、
斯帰斯麻《しきしま》宮治2天下1天皇、名阿米久爾意斯波留支比里爾波乃弥己等《あめくにおしはるきひろにはのみこと》、娶2巷奇《そか》大臣名|伊奈米足尼《いなめすくね》女、名|吉多斯比弥乃弥己等《きたしひめのみこと》1為2大后1、生2名|多至波奈等已比乃弥己等《たちはなとよひのみこと》、妹名|等已弥居加斯支移比弥乃弥己等《とよみけかしきやひめのみこと》1。
これらの仮名は前にあげた仮名と比較しても著しく違っている。すなわち音を現わす字が一定していなかったことを示すのである。一例をあげて並べてみると、
(137) 等已弥居加斯支移比弥
止余美気加志支夜比売
である。これが古事記に至って訓を交え、
豊御気炊屋比売《とよみけかしきやひめ》
に進化し、さらに書紀に至って、
豊御気炊屋姫
となる。同様に他の名も、
阿米久爾意斯波留支比里爾波
阿米久爾於志波留支|広庭《ひろには》
天国押《あめくにおし》波流岐|広庭《ひろには》
天国排開広庭《あめくにおしはるきひろには》
というふうに短縮する。が、また一方では、
多至波奈等已比乃弥己等
橘豊日命
のごとく一躍して訓のみとなるものもあり、
吉多斯比弥
支多斯比売
(138) 岐多斯比売
堅塩媛《きたしひめ》
のごとく書紀に至ってようやく訓を利用するものもある。が、大体において推古時代−法王帝説−古事記の変遷は、訓読の利用、すなわち漢字の日本語化にはかならないのである。
しかし文章〔二字傍点〕はどうであったか。天寿国繍帳文の一節を引いてみると、
我大王所v告、世間虚仮、唯仏是真、玩2味其法1、謂、我大王応v生2於天寿国之中1、而彼国之形、眼所v〓v看、〓因2図像1、欲v観2大王往生之状1。
これは純然たる漢文である。もし古記がすべてこの種の漢文であったならば、阿礼や安万侶の苦心はいらない。が、推古時代には漢文以外に変態の文章も存在した。推古十五年作、法隆寺薬師三尊の光背銘にいわく、
池辺大宮治2天下1天皇、大御身労賜時〔六字傍点〕、歳次丙午年、召3於大王天皇与2太子1而誓願賜〔四字傍点〕、我大病大平欲v坐、故将2造v寺薬師像作仕奉1詔〔四字傍点〕、然当時崩賜〔二字傍点〕、造不v堪者、小治田大宮治2天下1大王天皇、及東宮聖王、大命受賜而〔五字傍点〕、歳次丁卯年仕奉〔二字傍点〕。
この文章は、明らかに、純粋の漢文ではない。漢字の間に「てにをは」を補い、訓をもって読まなくてはならぬ。「大御身《おほみみ》労み賜ふ時」である。「薬師像を作り奉れと詔《の》る」である。「大命《おほみこと》受け賜はりて」である。そうしてこれらの「賜」「奉」「受賜」等の漢語〔二字傍点〕は、「たまふ」「たてまつる」「うけたまはる」等の日本語〔三字傍点〕に一応あてはまるに相違ないが、しかしここでは敬語的に用いられているのであって、漢語自身の意味においてではない。「うけたまはる」は「拝承」の義であって「受賜」と意味を異にし、「たまふ」「たてまつる」は単に敬語であって「賜」「奉」の字義には合わ(139)ない。だから右の文章にはすでに漢字の日本語化に次いでその転用までも行なわれているのである。
この文章は訓の発達において古事記とほとんど同等の程度に達している。「池辺大宮治2天下1天皇」は、古事記の「坐2池辺宮1、治2天下1」を「池辺《いけべ》の宮《みや》にましまして天《あめ》が下《した》治《しら》す」と読むごとく、「池辺の大宮《おほみや》に天が下治す天皇《しらすめらみこと》」と読むべきものであろう。「崩り賜ふ〔二字傍点〕」「労み賜ふ〔二字傍点〕時」というような場合には、古事記は多く「天皇崩後」「天皇幸行之時」というごとく「賜」字を省いて記しているが、しかし時には「八田の郎女《いらつめ》を治《をさ》め賜《たま》はず」「御歌《みうた》遣《おく》り賜ふ」というごとく「賜」字を使用した場合もある。かく推古時代の文章が古事記と同じ程度に達しているとすれば、安万侶の書きなおした旧辞は、これらの文章よりもさらに古い書き方のものでなくてはならない。安万侶の古事記序が嘘と認められない限り、これは当然の推測である。しかしまた一方で固有名詞の書き方が漸次変遷して行ったことを考えると、推古時代以後文体においてある推移がなかったとは信ぜられない。だから右にあげた薬師三尊光背銘の文章は奈良朝の普通文の先駆であって、この流風が行なわれるとともにそれ以前の文体は漸次すたれて行ったと認むべきであろう。安万侶はこの種の普通文には慣れていたが、それ以前の古い書き方には慣れていなかったのである。
古事記の材料となった帝紀旧辞の類が推古時代よりも古いものであるとすれば、推古時代の遺文は当然それよりも新しい書き方を示すはずである。が、天寿国繍帳の文に現われた系譜の書き方だけは、古事記の系譜の書き方よりもさらに古めかしく、古い帝紀の抜萃ではないかを思わせるものである。で、我々はこの点を古事記自身の含んでいる古い痕跡と比較して、推古以前の古い文章を推測してみようと思う。
古事記においても歌謡は全部仮名である。それは奈良朝初期の歌謡が仮名であると同じく、朗唱せらるべき言葉を写す場合の一つの習慣であったらしい。だから安万侶が手を加えたのは主として地の文であろう。が、地の文におい(140)ても、安万侶が書き改めることに困難を感じた個所は、なかったとは言えない。例えば古事記の発端に、
久羅下那洲多陀用幣琉《くらげなすただよへる》之時
宇麻志阿斯※[言+可]備比古遅《うましあしかびひこぢ》神
のごとき書き方が、「並独神威坐而《みなひとりがみなりまして》」「天之常立神《あめのとこたちのかみ》」のごとく、訓によって読ませる文章の間にはさまっている。前者は安万侶のいわゆる「事の趣更に長き」書き方であって、当然彼の改造を受くべきはずのものである。それを彼が書き改めなかったのは、適当な訓訳字が見つからなかったためとしか思えない。そうしてこれらの言葉の書き方は、天寿国繍帳の系譜ときわめて類似したものである。あの系譜においては「ひめのみこと」というごとき言葉が仮名であるかと思うと「天皇《すめらみこと》」「大臣《おほおみ》」「大后《おほきさき》などはすでに漢語を利用している。右にあげた古事記の書き方が「事の趣更に長き」ものでありながら「時《とき》」「神《かみ》」のごとき漢語を利用しているのと同様である。
こういう比較がもし旧辞の文体を明らかにし得るならば、古事記のあらゆる部分はその材料を提供するだろう。例えば右に引いた例のすぐあとに、
於是天神諸命以、詔……二柱神、修理固成〔四字右△〕是多陀用幣流之国〔七字傍点〕、賜天沼矛而、言依賜也、故二柱神立天浮橋而、指下其沼矛以画者、塩許袁呂許袁呂邇画鳴而、引上時〔塩許〜傍点〕、自其矛末垂落之塩累積成嶋〔四字右△〕、是淤能碁呂嶋。
とある。大体において薬師三尊銘と同じき文体であるが、しかし一方に「修理固成」「累積」というごとき漢語を用い、他方に「多陀用幣琉《ただよへる》之国」「塩|許袁呂許袁呂邇《こをろこをろに》画鳴而」というごとき仮名書きの個所を保存することは、たといそれが当時の普通文に通有のことであっても、なお我々に対して古い痕跡を示さずにはいない。普通文において仮名を交えるのは適当な漢字が思い出せないからである。今、安万侶は旧辞を書きなおしている。すなわち、文字に移され(141)ていない言葉を初めて文字に移そうとするのではなく、すでに一つの文字に移された言葉を他の文字に移し直そうとするだけである。従って適当な漢字を思い出さない場合に彼のなすべきことは、すでに旧辞に書かれた仮名をそのまま写し取ることである。しからば古事記の仮名がきの部分は旧辞の文体の痕跡でなくてはならない。ここにおいて、 塩《しほ》こをろこをろに画き鳴《な》して引き上ぐる時
という一句は、旧辞の文体の一つの標本と認められるのである。ところでこの一句が描写するところは、澱粉を煮固める時の光景のごときを海水にあてはめた空想である。「こをろ」は凝固の意であろう。「しほ」は潮〔傍点〕であって塩〔傍点〕ではない。「かきなす」は攪き成す〔四字傍点〕であって画鳴〔二字傍点〕ではない。塩や画鳴の漢字は、すでに日本語化せられたものがさらに新しく転用せられたのである。そうして安万侶のいわゆる「詞心に逮ばざる」の現象を呈したのである。
以上によって、古事記の材料となった旧辞が推古時代の文章よりも古く、また一層漢文から遠ざかったものであったことは、明らかであろう。が、また漢字の日本語化が、すでに著しく成功していたことも明らかだと言わねばならぬ。もし旧辞の編纂が継体、欽明朝に行なわれたとすれば、そのころにはすでに主要な漢字は日本語を表現する文字となっていたであろう。例えば神《かみ》、天《あめ》、天皇《すめらみこと》、天下《あめがした》、宮《みや》、卜《うら》、内《うち》、外《そと》、名《な》のごときである。しかし、この種の漢字の日本語化は、旧記編纂の時代にはすでにある程度までできあがっていたのであって、その日本語化が現実に行なわれていた時代は、それ以前の一世紀間でなくてはならない。すなわち応神、仁徳朝のころより雄略、仁賢朝のころに至るまでの一世紀である。そうしてこの時代はまた帰化人の日本化の過程において最も意義深い時代なのである。
文字の使用が最初政治上あるいは経済上の実用のためであったとすれば、諸国の書記官によって書かれた文字は主として地名、人名等を現わすものであったろう。その際まず音訳、すなわち、漢字の写音文字としての〔八字傍点〕使用が試みら(142)れ、それを軽便化するために、絶えず繰り返される部分の訓訳が行なわれ始める、ということは、きわめて自然の径路である。天寿国繍帳文の系譜が示すごとく、固有の名の訓訳は比較的発達していないが、その下に付せられる共通の敬語は、天皇、大臣などのごとく、すでに意訳によって現わされている。同じょうに、「国」「山」「川」「池」などのごとき、固有の名に付せられる文字は、しばしば繰り返されるものであるだけに、早くより音訳の仮字に代わって用いられたであろう。そういう点になると漢字は写意文字としての性質を強く発揮し始める。すでに、ある字の原義を知っている人に取っては、たといそれをただ音のために借字として使用している場合にも、なおその原義の力に対して無関心であることができない。例えば「池」の字を「いけ」として頭に入れた人は、「多池波奈《たちばな》」とは使いにくい。すなわち池の字が写意文字としての性質によって写音文字たることを拒むのである。かくして、漢字の理解の広まるにつれ、漢字の日本語化はおのずから起こらずにはいられない。しからば旧記編纂までにできあがっていた漢字の日本語化〔七字傍点〕は、日本人がどの程度に漢字を理解していたかを反映する、と見てよいであろう。
そこで振り返って出発点へ帰る。そこでは帰化人が日本へ来てから漢字〔二字傍点〕を学んだことに注意した。また彼らの学習が日本人としての学習であったことにも注意した。彼らは漢語〔二字傍点〕の記憶を保存していたかも知れないが、しかし日本語にも通じていたに相違ない。そういう人たちが漢字を学べば、この漢字は彼らの記憶する漢語〔二字傍点〕と新しく覚えた日本語〔三字傍点〕との結合点になる。例えば彼らは「せん」という漢語を知っている。そうしてそれが日本語〔三字傍点〕の「やま」に当たることをも知っている。そこで「山」という漢字を習う。彼らにとっては「山」は同時に「せん」であり「やま」である。かくして帰化人は漢字の理解と漢字の日本語化とを同時にやった。こうなれば日本人がそれを学び始めないはずはないであろう。漢字が帰化人の独占であったと見るのは、それが異国のものとして近づき難いという理由に基づく。すでに(143)帰化人がそれを近づきやすいものに変じてくれた以上は、もはやその理由は存しない。つまり上代の日本人は、我々が子供の時代に漢字を習うのと大差のない方法をもって、漢字を学んだのである。すなわち「山」はやま〔二字傍点〕であって音を「せん〔二字傍点〕」というと教わったのである。この場合、「神」「天」のごとき、直ちに日本語に適応するもののない漢字は、一部分のみ接触する「かみ」「あめ」などにあてはめられる。しかし日本人がシナの文章を(例えば論語を)学ぶとすれば、この種の漢字はただ在来の「かみ」「あめ」の意味のみでは理解ができない。そこで「神」「天」等の含む抽象的な意味が説明せられる。それをきいた日本人にとっては「かみ」「あめ」等の日本語は内容に変化を来たすのである。
明らかにこれは日本人の仕事である。しかしそれを可能ならしめた者は漢語と日本語とにともに通じた帰化人でなくてはならない。
ここで前節の終わりに提出した疑問に答えることができる。たとい漢字が帰化人の社会のみに行なわれていたとしても、古記録の示す漢字の日本語化は、「日本人としての仕事」である。しかも漢字が日本人に学ばれなかったという証拠はない。だから古記録の示す漢字の日本語化は、帰化人と固有日本人とを問わず、とにかく日本人の仕事である。漢字の学習の内に文化混融を認めるのは誤りではない。
六 帰化人と技芸
帰化人に関する伝説の多くが才伎才芸について物語るところを見れば、上代日本人が帰化人から受けた最も大きい印象は、その巧芸の技術であったに相違ない。そうしてこの巧芸は、日本人の美意識に影響するところの多いものである。
(144) 帰化人の技芸は衣食住の全面にわたっており、食についてさえ獣肉料理人の団体たる「宍入部《ししひとべ》」の創設が物語られているが、最も著しいのは何と言っても衣に関するものである。養蚕業は古くから日本人に知られていたが、しかしその発達には帰化人の貢献するところが多かったらしい。百二十県の弓月移住民は養蚕の業に最も長じていたらしく、絹※[糸+兼]を租税として献じたゆえに朝廷の眷顧を受けたと言われている。恐らくそのためであろうが、彼らは移住以後諸方の臣連に劫略せられ、秦氏の部下に残るものわずかに十分の一にも足りなかったという。で、雄略朝に秦の酒の公《おもと》の願いによって召集せられ、九十二部二万八千六百七十人が集まった。これらの秦民はやがてまた桑によき国々に散らし遷して養蚕に従事させられる。朝廷は彼らが租税として献ずる絹※[糸+兼]のゆえに彼らを愛護するのである。九十二部落の国内移住、すなわち老幼男女二万八千人が幾十組かに分かれて山野に寝ねつつ旅行する。それが養蚕奨励のためであったとすれば、この運動が一般日本人に与えた刺戟は相当のものであろう。また諸国の臣連に劫略せられた帰化人の内には、混血により、あるいは他の事情によって、自らそこに留まり技術を伝えたものもあるであろう。かくして帰化人の養蚕の技術は、一般民衆の間に広まって行ったと思われる。
そこで豊富に産出せられ始めた絹糸は、織って絹※[糸+兼]となし、縫って衣裳とされる。その織り方、縫い方等の進歩もまた帰化人の刺戟によったらしい。手末《たなすえ》の才伎《てひと》漢織《あやはとり》、呉織《くれはとり》、及び衣縫兄媛《きぬぬいえひめ》、弟媛《おとひめ》を呉から輸入した伝説は、この間の消息を語るものである。これらの女の名は、もちろん日本に来てからその才芸のゆえにつけられたものであろうが、(あるいは伝説とともに後に至って作られたものであろうが、)とにかく織縫に巧みな帰化人があり、その名の下に幾つかの「部」が発達したことは事実であろう。そうであれば才伎女の伝説は、織縫の技術の社会的発達を反映しているのである。家庭にあって織縫を日常の職業とした当時の女は、――すなわち当時の「働き得る人」の半数は、――(145)新しい技術によって強い刺戟を受けざるを得なかったであろう。女は恋愛のゆえにいかなる時代にも美に関心する。より美しく自らを飾ろうとするのは、彼らの本能である。さらにまた愛人のために衆にすぐれた美衣を造ろうとするのは、恋する女の自然の情である。こういう女の心にとって、すでに久しく願望の対象であった漢土の美しい織物衣服を自ら造り得る技術は、情熱的な模倣の対象たらざるを得ない。貴族の女さえも機《はた》に坐して愛人のために「御襲《みおすひ》がね」を織った時代である。もしくはその宮殿において女どもに「御衣《みおすひ》がね」を織らせた時代である。衣縫部の出現が家ごとの織縫工芸に強い影響を及ぼすのは当然であろう。
帰化人の才芸が右のごとき意味を持ったとすれば、雄略朝に新しく百済から輸入せられた漢人もまた注目すべきものである。新《いまき》の漢《あや》として名前の記されたのは五人であるが、しかしこれらの人々――陶部《すえつくりべ》高貴、鞍部《くらつくりべ》堅貴、画部《えかきべ》因新羅我、錦部《にしごりべ》定安那錦、訳語《おさ》卯安那――は、おのおの一つの部の代表者であるから、五人はすなわち五つの団体を意味するらしい。彼らが桃原、真神の原などに居住せしめられたということは、そこに陶器製造や、鞍製造や、あるいは装飾文様の製作、錦の織り出しなどを専門とする職工の部落が出現したことを意味するのであろう。これらは専門的技術を必要とするだけに、誰もが模倣し得たとは思えないが、しかしこの種の技術にたずさわる日本人に対しては、強い影響を与えたであろう。
斎瓮が朝鮮伝来の土器様式であることは、遺物の比較によって証明されている。朝鮮においてももとは弥生式に似た土器を造っていたらしいが、漢式土器〔四字傍点〕の影響が加わるに及んで、かの斎瓮を製作するに至った。それが日本に伝えられたのは恐らく三世紀であり、そうして最初はただ神聖な場所にのみ用いられたのであろう。天の香山の土《はに》をもって厳瓮《いつへ》を造り天神地祇を祀ったという神武紀の伝説は、こういう初期の斎瓮使用を暗示するものでないとは言えない。(146)が、斎瓮の流行は朝鮮移民の渡来後であって、弥生式土器の製作者も漸次斎瓮の製作に移ったらしい。この際日本人は窯法を彼らから学んだのみならず、土器の形や文様をまでも模倣せずにはいなかった。もし日本風の特徴があるとすれば、それは模倣の努力の間に知らず知らずに現われたのであって、強いて独自性を現わそうとしたものではない。だから遺物に即して言えば、斎瓮なるものは、日本土器に朝鮮の影響が加わったというよりも、むしろ朝鮮土器に日本の影響が加わったと見らるべきものである。
斎瓮についで影響の著しいのは建築であったらしい。播磨白国の家形埴輪(東京博物館)に見てもシナ風の楼閣が建てられたことは明らかであるが、伝説によればこの種の建築は当時の人心に一種の驚異の念を起こさせたのである。雄略紀にいう、木工闘鶏《こたくみみつげ》の御田《みた》が初めて楼閣を起こした時、伊勢の采女は楼上を疾走する御田の飛行するごとき姿に驚いて庭上に倒れた。宮女でさえもそうであったとすれば、一般の人民はなおさらのことであろう。それだけにまたこの影響は特殊の建築に止まったとも考えられるが、しかし家形埴輪や、石棺、古墳などに徴すると、当時の建築にはすでに切妻造りや四注造りや入り母屋造り(類似)が行なわれており、棟梁軒等の構造にもかなり進んだものがある。しかもこれらの埴輪や古墳は関東より九州に至るまで、あらゆる所に見いだされるのである。たといそれが貴族に限られたことであったとしても、とにかく「日本全国」にこの種の発達した木造建築があったことは認めねばならぬ。そうしてこれは恐らく帰化人の伝えたシナ木造建築の影響であろう。雄略紀に伝えられる猪名部の真根はその巧妙な木工の技をもって天皇を驚かせたのであるが、そういう木工の伝説は、当時の急激な建築の発達を反映したものであろう。(口絵2参照)
(147) 七 伝説歌謡における外来的要素
工芸の技術における帰化人の影響は以上の通りであるが、伝説歌謡等における影響もそれに劣るものでない。
天の日槍《ひぼこ》の伝説が他の古伝説とともに上代史の内にあみ込まれていることは、伝説と帰化人との関係を暗示するところが多い。この伝説は古事記によると次の通りである。
新羅の国に一つの沼あり。名をあぐぬまといふ。この沼のほとりに或る賤《しづ》の女《め》昼寝したりき。ここに日のひかり〔五字傍点〕虹の如その陰《ほと》を指したるを、また或る賤《しづ》の夫《を》、そのさまを異《あや》しと思ひて、つねにその女《をんな》の行《おこなひ》を伺ひけり。かれこの女《をんな》、その昼寝したりし時より姙みて、赤玉を生みぬ。ここにその伺へる賤の夫《を》その玉を乞ひとり、恆に包みて腰につけたりき。この人、田を谷の間につくりければ、耕人《たびと》どもの飲食《くらひもの》を一牛《うし》に負はせて、谷の中に入り、その国主《こにきし》の子天の日矛《ひぼこ》に逢へり。かれその人に問ひけらく、何《な》ぞ汝《いまし》飲食《くらひもの》を牛に負せて、谷へは入るぞ。汝必ずこの牛を殺して食ふならむ。即ちその人を捕へて獄囚《ひとや》に入れむとす。その人答へけらく、吾牛を殺さむとにはあらず、唯|田人《たびと》の食《くらひもの》を送る耳《のみ》。然れどもなほ赦さざりければ、その腰の玉を解きて、その国主《こにきし》の子に幣《たてまつ》りぬ。かれその賤《しづ》の夫《を》を赦し、その玉をもち来て床の辺に置きしに、即ち美麗《うつく》しき嬢子《をとめ》になりぬ。かれ婚《まぐはひ》して嫡妻《むかひめ》としたり。ここにその娘子《をとめ》、常に種々《くさぐさ》の珍味を設けて、その夫《を》に食はしむ。かれその国主の子、心奢りて妻《め》を詈《の》れば、その女《をみな》言へらく、凡|吾《われ》は、汝《いまし》の妻《め》になるべき女《をみな》にあらず、吾が〔二字傍点〕祖《おや》の国に〔三字傍点〕行《い》ななむ〔三字傍点〕。即ちひそかに小船にのり、逃げ渡り来て難波に留《とどま》りぬ。(こは難波の比売碁曾《ひめこそ》の社にます阿加流比売《あかるひめ》といふ神なり。)
日矛はこの女のあとを追うて日本に渡来するのであるが、日矛が明らかに新羅の王子とせられているに反して、その(148)妻は日本を「祖《おや》の国」と呼び、日本において神に祀られている。しかも彼女は新羅の一賤女によって生まれたのである。しからば彼女が日本を「祖《おや》の国」とするゆえんは、彼女の母が「日の光」によって妊んだという点になくてはならない。
ところでこの話は、高勾麗祖先の伝説と同一の起源を有するものではないかと論ぜられている。魏書高勾麗伝によると、夫余王のために室中に閉じ込められていた河伯の女が、日に照らされ〔河伯〜傍点〕、身を引いてこれを避けても日光がまた逐い来たって、ついに孕んだ。そこで生まれたのが五升大の卵〔傍点〕であった。夫余王はこれを棄てて犬に与えたが、犬は食わずして棄てた。豚に与えたが豚も食わなかった。王自ら割ろうとしても割ることはできなかった。で、結局その母に還し、母親が物に包んで暖所に置くと、中から一男が生まれた。それが高勾麗の先祖朱蒙である。この話の骨子は「日に〔二字傍点〕照らされて卵を〔二字傍点〕生んだ」という点であって、魏志扶余〔二字傍点〕伝の「〓離国王の侍婢が鶏子〔二字傍点〕の如き気の天より〔三字傍点〕下れるに感じて妊んだ」という話と幾分の類似を持つ。扶余の伝説として古くから存したものらしい。百済の帰化人の上表文に、「百済の太祖都慕大王は、日神霊を降し、扶余〔八字傍点〕を奄ひて国を開き、天帝※[竹/録]を授け諸韓を惣べて王と称せり」とある。(続紀、延暦九年七月)ある方法でこの伝説が日本に伝わっていたことも確かである。もしこの考証が信ずべきであるならば、日矛の妻の話は韓人の伝えたものに相違ない。
古事記の説話も韓地伝来の痕跡を示してはいる。しかし日本においての変化はさらに著しい。それが「新羅」の話となっていることは、新羅征討の刺戟を強く受けていた日本人の心理の無意識的な働きに相違ない。扶余〔二字傍点〕は日本人にとって意義が少ないためにその影を没したのであろう。河伯の女〔四字傍点〕が沼のほとりに昼寝する農婦と変わったのも、牧歌的な日本人の心の作用に基づくと見られる。日光にほとを照らされる描写も、「日光が逐い来たる」というよりははる(149)かに直観的で、日本の他の諸伝説に現われたこの種の描写と一致する。生まれたものが卵〔傍点〕でなくて赤玉〔二字傍点〕であることも、玉を尊崇する日本人の直観的な心にふさわしい。卵から生物が生まれるという知識的な連想をかりるよりも、美玉が直ちに生命を得て人に化する方が、彼らにとって自然なのである。天照大神の勾玉から天の忍穂耳の尊が生まれ、床の辺に置かれた丹塗の矢が美しき男子に化するというふうの考え方は上代人の好むところであった。だから高勾麗で卵がかえるまでの無趣味な、知識的な話が物語られるのに対し、日本では赤玉の行くえについての農人らしい詩趣ある話が物語られる。卵は結局「暖められて孵る」のであるが、赤玉は「王子の床の辺に置かれる時」美しき女に化して王子と婚するのである。これらの諸点から見ても、この話は明らかに日本人の心を通過している。さらにその結末に至って、「日光」の子であるがゆえにこの女が日本を「祖国」と呼ぶのは、純然たる日本的想像でなくてはならない。
かく見れば帰化人が与えたのは知識であり材料であって、想像ではなかった。が、日本人の想像力の作用は、帰化人が伝えた知識のゆえに、かえって活発に動き出したらしい。
この関係が古い伝説の内にどれほどまで見いだせるかはむずかしい問題である。しかしそれがどれほどの程度に見いだせたとしても、帰化人が日本人の想像力を刺戟し発達させた〔八字傍点〕という以上の影響は存しないであろう。
ただ一つここに注意すべきは、雄略天皇が一言主の神に逢う話である。古事記には次のように記している。
天皇《すめらみこと》葛城山に登り幸《いでま》せる時、百官の人ら、悉《ことごと》く紅紐つける青摺の衣《きぬ》を給はりて服《き》たりき。その時に向ひの山の尾より山の上に登る人あり。既に天皇の鹵簿にひとしく、またその装束《よそひ》のさま、及び人衆《ひとども》、相似てわかれず。ここに天皇|望《みやらし》て問はしめ曰《たまは》く、この倭の国に吾《われ》を除《お》きてまた王《きみ》は無し。今誰人ぞかくて行く。即ち答へ曰《まを》せる状《さま》もまた、天皇の命《みこと》の如くなりき。ここに天皇大に怒らして、矢《や》刺《さ》したまひ、百官《ももつかさ》の人らも悉《ことごと》に矢刺しければ、そ(150)の人らもまた皆矢刺せり。かれ天皇また問はしめ曰《たまは》く、然らばその名を告らせ、各《おのもおのも》名《な》を告《の》りて矢|弾《はな》たむ。ここに答へ曰《まを》さく、吾まづ問はれたれば、吾まづ名のりせむ。吾は悪事《まがこと》も一言《ひとこと》、善事《よごと》も一言、言離《ことさか》の神、葛城の一言主の大神なり。天皇ここに畏《かしこ》みて白《まをしたまは》く、恐《かしこ》し我大神、「うつしおみ」有《まさ》むとは覚《さと》らざりき、と 白《まをしたまひ》て、大御刀及び弓矢を始めて、百官《ももつかさ》の人らの服《け》せる衣《きぬ》を脱がせて、拝《をろが》み献《たてまつ》りき。かれその一言主の大神、手打ちてその捧げ物を受けたまひき。かれ天皇の還りますとき、その大神、満山の末、長谷の山の口に送りまつりき。かれ一言主の大神は、その時に顕はれませるなり。
書紀は同じ物語を次のごとく伝えている。
天皇葛城山に射猟す。忽ち長人を見、来って丹谷に望めり。面貌容儀、天皇に相似たり。天皇これ神なりと知れども猶故らに問ひて曰、何処《いづく》の公《きみ》ぞ。長人対へて曰、現人《あらひと》の神《かみ》ぞ、先づ王の諱《みな》を称《なの》れ、然る後に道《い》はむ。天皇答へて曰、朕はこれ幼武《わかたけ》の尊《みこと》なり。長人次に称《なの》りて曰、僕はこれ一事主の神なり。遂にともに遊田《かり》を盤《たの》しみ、一鹿を駆逐《かりお》ひて、箭を発《はな》つことを相|辞《ゆづ》り、轡《くつわ》を並べて馳騁す。言詞恭恪。有v若2逢仙1。ここに日晩れて田《かり》罷み、神天皇を侍送して来目の水《かは》に至る。是時百姓咸言く、有徳天皇也。
この二つの物語は語り方の著しい相違にかかわらず現人神《あらひとがみ》の出現において一致している。そうしてこういう現身的な出現は、神代史の神々には〔八字傍点〕、ほとんど見られないところである。神々はその意志を神がかりや太占や夢やなどによって人間に伝える。しかし自らその姿を人の前に現わしはしない。ただ一つ例外として大物主神の美女と婚する話があるが、しかしこの神が主として活動するのは神代史の外において〔九字傍点〕であり、またその出現も神と婚する美女にのみ現われるのであって、一言主の神のように衆人の前に現われるのではない。前者は、蛇が美女となって人あるいは神に(151)婚する話とともに、上代説話中の一形式に過ぎないが、後者は明らかにシナの神仙〔二字傍点〕との類似を思わせ、上代伝説中に唯一のものである。だからこれを帰化人の影響と見ることは不穏当ではなかろう。雄略朝の奇事異聞の類に帰化人の伝えたらしいものの多いことはすでに説いた。漢人の心に深く浸み入っている神仙の思想がそれらの場合に活らき出さなかったとは思えない。もし一言主の話をその徴証と認め得るならば、そこからまた神仙の思想がいかに日本人の直観的な空想を刺戟したかも考えることができる。
次には歌謡であるが、特に記紀の長歌については、シナ文芸の影響の著しいことが説かれている。すなわち修辞的にはシナ文芸に多い「対句法」が模倣せられ、形式的には「規律的に語を排列すること」を学んだと見るのである。が、シナ文芸の影響は、日本人の歌謡を刺戟し発達させたというまでであって、「模倣」「学習」と呼ばれるほどのことではないであろう。日本語の根本の性質を考え、古い民謡に現われた自然の律動を味わえば、長歌の律格にも確かにある必然性が見いだせる。音数の問題も、母音の多い多綴の日本語と、子音の多い単綴のシナ語とでは、同じ意義を担うことはできまい。シナの詩賦においては、言葉の響きと音の抑揚とが律格の根本となるであろうが、日本の歌においては、音数と呼吸との関係がそれに代わるであろう。音数の少ない一句が軽く、多い一句が重く感ぜられるのは、この理由に基づくのである。そこで、軽重高低が音数によって塩梅せられ、心情の律動もそれによって現わされる。記紀の歌においては、音数の定まらぬ多くの民謡の内にも、この種の律動の現わし方が一貫して用いられている。この率直で自由な形式が何ゆえに音数の定まった律格となったかは、あらゆる芸術が形式の完成に進んで行くと同じき理由によって説明せられるであろう。すなわちそれ自身の内に存する雑多なものを整理し、純粋化しようとする要(152)求によるのである。この要求はシナの詩賦の整然たる形式に刺戟せられて起こったかも知れない。しかしその要求が実現したところは、あくまでも自らの内から出た開展であって、知識的な模倣ではない。修辞法においてもそうである。繰り返しのすきな日本人が、心生活の複雑さを加うるにつれてこの繰り返しに 「変手《ヴアリエイシヨン》」を求め、対句に似た句法を自然に造り出すということは恐らくはあったであろう。繰り返しそのものがすでに音楽的には均斉を意味する。日本人はこの流れ行く前後の均衡を愛して、一句ごとに繰り返しを用いることを好んだ。
いざ子ども、野びる〔三字右△〕 つみに〔三字傍点〕 ひる〔二字右△〕 つみに〔三字傍点〕
つぎねふ山代川を、宮〔右△〕のぼり〔三字傍点〕 我〔右△〕 のぼれば〔四字傍点〕、……
すすこりが醸《か》みしみきに〔五字右△〕、我れ酔抄にけり〔七字傍点〕、ことな〔三字右△〕 ぐし〔二字右・〕 ゑ〔右△〕 ぐし〔二字右・〕に〔右△〕、我れ酔ひにけり〔七字傍点〕。
人にありせば太刀はけ〔四字右△〕 ましを〔三字傍点〕、衣きせ〔三字右△〕 ましを〔三字傍点〕。
こういう繰り返しによって上代人はその感情の横溢を現わし得たと感じたのである。だからそれが一歩進むと、この繰り返しそのものを基調とする歌が生まれなくてはならぬ。記紀の長歌がそれである。右にあげた一句ずつの繰り返しは、ここでは全篇に押しひろげられている。この場合繰り返し句の前につく言葉が一々変えられて行く間に、偶然〔二字傍点〕反対観念を対立させることも起こるわけであって、必ずしもそれが知識的に作為せられたわけではないであろう。
さか〔二字右△〕しめをありと聞かして〔十字傍点〕、くは〔二字右△〕しめをありと聞こして〔十字傍点〕、さ〔右△〕よばひにあり〔六字傍点〕たたし〔三字右△〕、よばひにあり〔六字傍点〕かよはせ〔四字右△〕、太刀が〔三字右△〕緒も未だ解か〔六字傍点〕ずて、おすひ〔五字右△〕をも未だ解か〔六字傍点〕ねば〔二字右△〕、おとめの鳴すや板戸を、おそふ〔三字右△〕らひ我が立たせれば〔九字傍点〕、ひこづ〔三字右△〕らひ我がたたせれば〔九字傍点〕
のごとき、反対観念を対立させたところはない。強いて言えば最後の 「押す」「引く」の二語がそれに当たるであろう(153)が、これらも他のものと同じく繰り返しの必要〔七字傍点〕から直観的な形容あるいは物象を述べたのみであって、対句の形式をまねたとは言えない。すでに繰り返しを日本人の趣味と認める以上は、これらの長歌はその著しい現われと見られなくてはならぬ。
歌謡においてもし漢人の影響が認められるとすれば、それは心生活全般における漢人の影響の結果に過ぎまい。歌謡そのものの芸術的特性においては、この種の影響はほとんど認められないと思う。
(154) 第三章 古事記の芸術的価値
一 古事記の成立年代
古事記の成立年代に関しては、すでに津田左右吉氏が詳細な考察を試みた。それによると、古事記の原形〔六字傍点〕が製作せられたのは継体朝より欽明朝に至る時代であって、その製作の目的は皇室の由来を説明する〔十字傍点〕にあった。しかしその原形はさまざまに改作せられて現在の形に到達したのであるから、現形古事記〔五字傍点〕の成立はもっと後のことになる。この考察は古事記を非常に古い伝説の記録であると認めていた在来の考えを動揺させるに十分であったが、その後さらに一歩を進めて、古事記の成立年代を平安朝初期まで引き下げる説が現われて来た。それは中沢見明氏の『古事記論』である。この書の主張は、消極的には、古事記に関する公の記録〔四字傍点〕が奈良朝に全然存していないことに基づき、積極的には、古事記の内容が、日本書紀の採録したさまざまの異本のうちのどれか一つに合致するのでなく、むしろそれらの諸異本を合糅して〔八字傍点〕成り立っていることに基づいているのであって、決していい加減な主張なのではない。この主張にとって最も明白なつまずきとなるものは、太安万侶の古事記序であるが、中沢氏はこれを偽撰として立証するのに骨を折っている。また古事記が日本書紀に対して持っている特徴は、スサノオの尊の神統に関して書紀の伝えよりも詳細な伝えを保存していることであるが、ちょうどそこに中沢氏は偽撰の動機を見いだし、撰述者の見当をさえつけている。すなわち古事記は、弘仁のころに、京都の松尾・下鴨・日枝神社の系統の或る神主が、日本書紀を材料として、(155)古い伝承らしく装って、書き上げたものである、というのである。この考証は非常に丹念で、相当に人を説得する力を持っている。そう簡単に論駁され得るものではない。
これらの研究は、古事記を非常に古い伝承だと考える立場に対して、十分に反省を促す力を持っていると思われる。しかし古事記のような雑多な内容を持ち、しかもそれに特殊なまとまりのついている作品が、皇室の由来を説明するというような政治的必要によって、政治家の工夫や力でもって、製作され得る〔六字傍点〕だろうとは、わたくしにはどうしても考えられない。一つの時代を指導した政治家は、偉大な力を持っていたには相違ないが、しかし想像力の働きとは縁が遠く、古事記のような美しい物語を構想し得るものではなかろう。いわんや、仏教隆盛の時代に、下積みになって失意の状態に追い込まれていた無名の神主が、今我々の所有しているあの日本書紀を前に置いて、あの中から材料を取って古事記を書くというような仕事を、いかにしてなし得たであろうか。それほどの能力のある人ならば、古書の偽撰〔二字傍点〕などをせずとも、平安朝初期を記念するはどの価値高い物語を製作し得たであろう。それらの点を考えると、古事記が一定の政治的意図によって製作せられたとか、あるいは一定の個人的意図によって偽撰せられたとか、のごとき考えには、どうも賛同することができない。
これは古事記という作品の与える印象〔二字傍点〕に基づいた立言であって、それをくつがえす確証があれば、あっさりと撤回するほかはないのであるが、今までの所では、まだ確証と言い得るほどのものは提出されていない。中沢氏の主張に対しても、古事記序の漢文の文体がかなり古く、平安朝初期のものなどであり得ないことを主張する人もある。また中沢氏は、古事記の用いている仮名が、日本書紀におけるさまざまの試みの中から、最も便利な字を選び取ったものであることを主張するのであるが、それに対して、古事記の仮名が日本書紀の仮名よりも忠実に日本語の古音を保存(156)していることに注意し、古事記の方が古いことを承認する説もある。中沢氏の主張のうち最も説得力のあるのは、古事記が書紀の列記せる諸異本を合糅しているという点であるが、この合糅は諸異本の成立〔六字傍点〕よりも後でなくてはならないにしても、書紀の編纂〔五字傍点〕よりも後でなくてはならないわけではない。例えば推古時代にこの種の合糅が行なわれたとしても、それまでにさまざまの異本の成立していたことを認めさえすれば、理屈は立つのである。
こういう合糅の仕事と、さまざまの異本の成立とは、区別して考えるべきであろう。合糅の仕事だけに着目すれば、ある時代にある人がやったということも考えられる。しかしそこで合糅された材料は、長期にわたって、数知れぬ多くの人々によって〔長期〜傍点〕、製作せられたものであろう。しかもその製作は、説明を要求する驚異の心に基づき、幾重もの想像力の働き〔十字傍点〕によって、成されたのであって、計画的な意図によるものではなかろう。従って、その源流となった伝説は、案外に古いものであるかも知れない。そういう伝説は世代から世代へと受けつがれ、成長し、分岐し、入り乱れ、また統一されなどしつつ、漸次大きい構想に近づいて行ったであろう。そうして継体朝より欽明朝に至る間に、ついに文字によって記録されるにも至ったであろう。そういう際に、津田氏の推測するような、「皇室の由来を説明する」という意図が、力強く働くということも、あるいはあったかも知れない。しかしそれは、長い間に成長して来た伝説群に、記録的な形を与える場合の、整理の方針〔五字傍点〕というごときものであって、創作的な働きではなかったであろう。従ってこの時代にできたのは、一つの物語〔五字傍点〕ではなくして、多くの物語で〔五字傍点〕あったであろう。前にさまざまの異本と呼んだものがそれに当たるのである。そういう異本を前に置いて、それを合糅し、一つの物語〔五字傍点〕に仕上げようと試みたのが、ほかならぬ古事記だと考えられるのである。この合糅の時期は、前にちょっと示唆したように、推古時代であるらしい。かく推定する根拠は、前章の「上代日本文の成立過程」において問題とした太安万侶の古事記序の中にある。太(157)安万侶の仕事は、単に文字の書きかえであって、内容の変更ではなかった〔内容〜傍点〕。だから安万侶の古事記の内容は、彼の時代の人々が読みにくいと感ずるような古い書き方で書かれていた書物〔古い〜傍点〕の内容と、同一のはずである。その古い書物の書き方は、現存古事記に残存している痕跡から判断すると、推古時代の書き方よりも古い。従って古い旧辞類を合糅した古事記の原本は、推古時代よりも下ることはできないと思われるのである。
しかしそれにしても、推古時代の合糅によってできた「一つの物語」が、現存の古事記と同一の体裁であったかどうかは、疑わしいと思われる。太安万侶の序文では、「帝皇の日継」と「先代の旧辞」とは別の書物〔四字傍点〕らしく書かれている。しかるに古事記では、この両者が入り混じっているのである。してみるとこの混合は安万侶のしわざであって、推古時代にできた物語は、「先代の旧辞」として、系譜の入り混じらないものであったかも知れぬ。
このことは、古事記を一つの作品として見る場合には、相当に重要なことである。古事記の読者はきわめて容易に系譜〔二字傍点〕の部分と物語〔二字傍点〕の部分とを識別することができる。系譜と物語とは元来性質の異なるものである。前者は散文的な現実の記録あるいは自然主義的記述であり、後者は想像力による詩的叙述あるいは理想主義的描写であって、もともと一つに結合さるべきものではない。で、もし我々が周到に両者をひき離し、「帝皇の日継」と「先代の旧辞」とを復元するならば、両者はかえってその本来の意義や美しさを発揮するようになると思われる。
日本書紀は上古の旧辞の類を数多く異本として採録している。中には古事記ときわめてよく似た内容のものもあり、従って古事記もまた一異本としてそこに採録せられていると考えられやすい。しかしそういう仮定のもとに書紀の「一書曰」を古事記と対照して行くと、当然古事記が一異本として引用せられるべき個所であってしかも引用せられていないのがいかに多いかに驚くであろう。そういう対照の結果おのずから出てくるのが、前にあげた合糅説なので(158)ある。古事記は一異本であるよりもむしろ多くの異本の合糅であると見る方が、この事態には適応するであろう。もしそうであるならば、古事記は、あるいはその原本たる先代の旧辞は、すでに諸異本の統一を試みたもの〔諸異〜傍点〕として、諸異本とは別格に取り扱われていた〔諸異〜傍点〕のであろう。それが安万侶の古事記撰録において特に台本として用いられたゆえんであり、また書紀の記者から一異本として待遇されなかったゆえんであろう。かく考えれば数多くの旧辞類のなかで特に古事記が優れているゆえんも理解せられるし、また書紀が編纂せられた後に古事記はすでに用を終えたものとして陰に押しやられたゆえんも理解せられるであろう。
以上の考えを要約すると、継体、欽明朝のころに書き記された種々の異なった旧辞類を、巧みに綜合した先代旧辞は、たぶん推古朝のころに作られ、それが奈良朝の初めに古事記として書き改められたということになる。これは初めに異説を置き、後にその綜合を考える点において、津田氏の説とちょうど逆になる。津田氏によれば、継体、欽明朝に製作せられたのはもろもろの旧辞の原形であって、それがさまざまの異体に分かれたのは推古朝以後の改作にかかるのである。しかし諸種の異説の間に共通の骨格があるゆえをもって、その骨格がある時期に突如として製作せられ、その後に徐々として異なった肉をつけたと見ることは、この種の作品の製作過程としてどうも穏当でないように思われる。何人も承認するだろうごとく、旧辞の中心興味は神話伝説の類にある。そうしてこれらの神話伝説は遅くとも〔四字傍点〕古墳時代の初めごろより徐々として国民の心に結晶して来たものである。継体、欽明朝のころにこれらの神話伝説の間に種々の異説の存したことは当然であろう。たといこの時期に神話伝説の全体を総括する構想〔二字傍点〕が、「宮廷において」作られたと仮定しても、その構想によって統一せられる材料が異なっている限り、そこにそれぞれ異なった旧辞が生まれ出るのは不思議でない。いわんやその種の構想はすでに古墳時代の初めに起こり得たのであり、従って神(159)話伝説の類は初めからかかる構想に支配せられていたかも知れぬのである。そうなれば、旧辞の異本の間に共通の骨格のあることは、材料に内存する構想が一つであったことを示すに過ぎないのである。
推古朝以後の改作を証拠立てるためには、古事記の歌謡の中に形式の新しいもののあることが指摘されている。しかし古事記のそれらの歌謡は推古朝に作られたとしてもさしつかえはないであろう。法王帝説等に伝える数首の推古朝の歌は、古事記の最も進歩した形式の歌に比して、さらに一歩万葉の歌に近づいている。例えば、
いかるがのとみの井の水いかなくにたぎてましものとみの井の水
いかるがのとみの小川の絶えばこそわが大君の御名忘らえめ
のごときがそれである。それは必ずしも古事記中の名歌より優れているとは言えない。が、推古朝においては、特に歌人でない人さえも、右のごとき歌を作り得たのである。
二 文芸的作品としての構図
古事記から帝紀を取り去って旧辞のみを残すことは、神武天皇以後においてはきわめて容易である。しかし神代史においては、系譜と物語との特殊な関係から、異なった見方をしなくてはならぬ。巻首及び巻尾の系譜が遊離し得るものであることは明らかであるが、その間にはさまった皇統の正系、すなわち天照大御神より鵜葺草葺不合《うがやふきあえず》の尊に至るまでの系譜は、物語の進行に何らの障礙をも与えないほど簡単であり、また調和もしている。イザナギの尊の生産目録はかなり冗長であって物語の進行を妨げないでもないが、創造の物語に被創造物の名を列挙するのは止むを得ないこととも見られよう。明らかに問題になるのは、ただスサノオの尊の系譜である。物語の構造から見れば、スサノ(160)オの尊の後の十七世の神々とその母神の名を列挙することは、必ずしも必要でない。いわんやスサノオの尊が大年《おおとし》の神、宇迦《うか》の御魂のごとき自然神を生み、大年の神がさらに十六柱の自然神、人文神を生むことはイザナギの尊の創造に対して重複である。だからスサノオの尊の系譜は神代史の暗礁と見られなくてはならぬ。(中沢見明氏が古事記偽撰論の支点としたのはこの系譜である。)しかし、帝皇日継がスサノオの尊の系譜を含まなかったことは明らかであり、従って安万侶がこの混合を行なったのでないことも認められる。しからばこの暗礁は先代旧辞の内にすでに含まれていたのである。が、この点の詳しい考察は神話の研究に譲ることとして、ここにはただ、これらの系譜が純粋の系譜ではなく半ば想像力の産物であることを注意するに止めよう。我々にとって単に「名」に過ぎない神々も、これらの物語が作られた時代においては、現前に生きている祭祀の対象であったと思われる。その生きた神々の問の血統の関係を考慮することは、何らか神秘的な感動なくしてはできることでない。
古事記の内の先代旧辞を右のごとく確定し得るとすれば、ここに我々はこの作品の全体の構造を観察することができる。
最初に来るものは化成神話である。国土は流動して形をなさず、日月いまだこの土を照らさない混沌の世界に、男女の二神が現われて天上の浮橋から下界を探る。その矛先から滴下する潮は自《おのずか》ら凝って島となった。それが二神生殖の霊場である。ここに男女の交媾が極度の無邪気さをもって描かれる。日本の国土のみならず、海神、風神その他の数多き神々は、この交媾の結果として生まれるのである。が、生殖の裏には死が現われねばならぬ。女神は火の神を生んだがゆえにほとを焼かれて死んだ。男神はその枕べにはい足辺《あとべ》に匍うて慟哭した。彼は、造化神であるゆえに、(161)この際にさえもなお神々を産むが、しかし死に打ち勝つことはできない。女神は黄泉国《よもつくに》にいる。男神は愛妻を連れ戻すために後を追うて黄泉にまで行ったが、「見るな」という禁を犯したために、ついに二神の中は争闘に終わった。かくて女神は日に千人の死没を誓い、男神は日に千五百人の出生を誓った。
男神はみそぎによってさまざまの神を産む。その最後に来たるものが天照大御神、月読《つくよみ》の命、須佐之男《すさのお》の命、の三神である。それをきっかけに物語は高天原に移る。発端は海原を治《し》らすべき須佐之男の命の「青山を枯らし河海を乾す」という壮大な慟哭である。その原因は母なる女神の根の堅洲国に行かむとするにあった。父なる男神は怒ってその子を「この国」より放逐した。で、須佐之男の命は、暇乞いのために、山川国土を揺り動かせつつ、姉の大神のいます高天原に上って来る。天照大神はその物音に驚き、「我《あが》なせの命」が高天原を奪おうとするかと疑うて、武装して出でて迎えた。須佐之男の命は異心なきを証するため「誓《うけひ》て子を生む」ことを申し出で、天安河において互いに誓《うけい》を立てた。須佐之男の命の剣からは三柱の女神が生まれ、大御神の勾玉〔二字傍点〕から五柱の男神が生まれた。「女を生む」ことは心の清き証拠であるゆえに、誓は須佐之男の命の勝ちとなった。勝ちに乗じた須佐之男の命は、畔放ち溝埋め等の乱暴を行ない、ついに大神のいます忌服屋《いみはたや》に逆剥の馬を投げ入れる。ここで大神の石屋戸ごもりとなり、鏡〔傍点〕と玉〔傍点〕とによる祭祀や、ふと祝詞《のりと》や、宇受売《うずめ》の踊りなどが行なわれる。大神は鏡の力によって石屋戸からつれ出されて来る。この事件の結果として須佐之男の命は、八百万の神の決議により、千位置戸を負わされ、手足の爪を抜かれて、高天原から放逐せられた。(162) ここからまた舞台が変わって出雲神話になる。まず須佐之男の命の蛇《おろち》退治である。前段においてただ我がままな乱暴な神であった須佐之男の命は、ここでは美女のために冒険する英雄となったのみならず、三種の神器の一として後代にのこった草薙の剣を手に入れることになる。後代の民衆によって愛唱せられたらしい「やくも立つ」の歌もこの神の婚姻に結びつけられている。そうしてこの婚姻から、後代の諸国に祀られている農神「大年の神」や、稲の魂であってあるいは稲荷神社の本尊かも知れない 「字迦《うか》の御魂《みたま》」が生まれている。また英雄神の系統を引いた方では、古事記神代史中最も美しい部分の主人公である大国主の神が現われてくる。天孫の統治権を明らかにするのが神代史の目的であったとしても、この書の作者自身は出雲神話に対して満幅の同情を注いでいるのである。
大国主の神の物語は「稲羽《いなば》の白兎」をもって始まる。大国主の神は兄弟八十神とともに稲羽の八上姫を得むとして稲羽に行く途上気多《けた》の崎で裸兎に逢った。隠岐より本島に渡ろうとして「わに」を欺いたために、怒った「わに」がその衣を剥いだのである。前に行った八十神は「潮をあびて風に吹かれろ」と言った。その教えに従った白兎は、赤裸の肌の痛みに堪えかねて、泣き伏していた。あとから来た大国主の神は温かい同情をもって淡水と蒲黄《かまのはな》とにより白兎の膚を癒えさせた。そこで白兎は大国主の神を祝福して「八上姫を得たまはむ」と予言した。果たしてその通りになった。
次は大国主の神の受難の物語である。八上姫への求婚に敗北した八十神たちは、勝者たる大国主の神を殺そうとして、赤猪を捕えさせると称して焼け石を抱かせた。それによって大国主の神の殺されたのを見た母の神若姫〔五字傍点〕は、哭き患えて高天原に上り、神産巣日《かみむすび》の命に請うて、〓貝《きさがい》姫と蛤貝《うむき》姫との助力を得、ついにわが子を蘇生させることができた。それを見た八十神は、また欺いて山に連れ込み、大木の裂け目に插み殺した。母の神〔三字傍点〕はそれをさがし出して再び(163)蘇生させ、将来の危難を脱れるために、木の国の逃れさせた。
そこからまた大国主の神は須佐之男の命の根の堅洲国に行く。この物語は伊邪那岐の命の黄泉下りとかなり著しく類似したものであるが、たとい同一源泉から出ているとしても、すでに別種の説話に成長している。「見るな」の禁はここにはない。かれは恋愛の破綻に終わるが、これは恋愛の成功に終わっている。その中心の興味は、須佐之男の命の残酷な試みを切り抜けて、その娘を奪い去るというところにあるらしい。蛇の室、呉公《むかで》と蜂の室、及び八田間《やたま》の大室の苦難は、須勢理姫の心づくしに救われ、燃ゆる野の苦難は鼠によって救われた。そうしてついにそのやさしい須勢理姫と、生太刀《いくたち》、生弓矢《いくゆみや》、天の詔琴《のりこと》などを奪って、逃げ出すのである。黄泉比良《よもつひら》坂まで追い出でた須佐之男の命は、はるかに望んで「おのれ大国主の神〔五字傍点〕となれ」と呼んだ。大国主とは大きい国土を統治する君主の謂である。そこで、須佐之男の命の言葉のごとくに、大国主の神の統治が始まることになる。
次は大国主の神の恋愛の物語である。八上姫は嫡妻《むかいめ》須世理姫の嫉妬を恐れて稲羽へ帰ったが、それで事件が終わったのではない。大国主の神は妻の嫉妬を恐れずして高志《こし》の沼河《ぬなかわ》姫を愛した。「八千矛の神」の恋愛を歌う長歌がここに插入されている。またそのあとに、須世理姫の嫉妬と愛情とを歌う美しい長歌が続いている。これらの長歌はもと独立して語られたものに相違ないが、旧辞の作者は歌詞の縁をたどって大国主の神の物語に編み込んだのであろう。編み込み方は巧みとは言えない。しかしこれらの歌の柔らかな美しさによって、徐々に高まって行く出雲神話の律動は、最も望ましい頂点に達するのである。
長歌のあとに神々の系譜が来る。そのあとに神産巣日の子少名彦名の出現や、海原をてらして寄り来る神の出現が物語られる。前者は天の羅摩《かがみ》の船《ふね》にのり鵞《ひむし》の皮を衣服《きもの》にして帰来《よりく》る神であって、大国主の神とともにこの国を作り堅(164)め、後に常世の国に去った。後者は自ら「倭の青垣東山」に祠られることを望んだ御諸《みもろ》の神であって、人間的な英雄神の朗らかさとまるで異なった幽暗な陰をひいている。
出雲神話の最後にはまた大年の神から生まれた農業の神、竈の神、その他十数神の名が列ねられている。
出雲神話のこの結末は、その薄暗い低調によって、一種縹渺たる感じを与える。そこに突如として新しい高天原の物語が、「水穂《みずほ》の国は我御子の知らさむ国」という天照大御神の宣言によって開かれる。この場面の転換は注目すべきものである。最初の造化神話の舞台は地上であったが、それが第二段の高天原神話に移る際には、その間の楔として須佐之男の命の上天が物語られた。次いで第三段の出雲神話に移る際にも、同じく須佐之男の命の高天原よりの追放が物語られた。しかるに今や第四段に移るに際しては、何の楔もない。地上の国には大国主の神のごとき優れた神が君臨しているにかかわらず、天上においては、何のきっかけもなく、新しい地上の君主が指名せられる。地上の国には愛と信仰とに充たされた平和な生活があるにもかかわらず、地上に降さるべき天つ御子は、天の浮橋に立って下界をながめ、「水穂の国はいたくさやぎてありけり」と報告する。明らかにこの物語は、新しく始まるのである。しかも、最初に伊邪那岐《いざなき》の命の物語が、天神の命と天の浮橋とによって始まったごとく、この物語もまた大御神の命と天の浮橋とによって始められている。このことは、もし語り手の唯一の目的が皇室の統治権の正当性を立証するにあったとすれば、かなり大きい破綻でなくてはならない。なぜなら、大国主の神を極度の同情によって描いたあとでは、非常に強い理由が楔として存しなければ、この神を斥ける企ては正当と感じられないからである。が単に芸術的作品としてこれを見れば、この間に楔のないことはかえって効果を高めるゆえんと見られるであろう。天と地との関係はこれ(165)までにも幾度か描かれている。伊邪那岐の命は最初の「創造」に失敗したとき、相談のために天へのぼった。天照大神を生んだときには、この子を高天原にのぼらせた。須佐之男の命は地上に降った後にも、草薙の剣を高天原に捧げている。大国主の神の母神はその子を助けるために天へのぼって神産巣日の神の助力を得た。神産巣日の神はその子を大国主の神のために地に降した。これらの物語において、天と地とはかなりに親しい。が、地上にはすでに天照大御神の子孫でない神が美しい国を立てている。その国に天照大御神の直系が君臨すべきであるとすれば、――それはこの物語の語られる時代においての事実であった、――それならば両者の間の断然たる結合〔六字傍点〕が試みられなくてはならぬ。それを語り手は、芸術的に試みようとするのである。そこでこれらの物語を貫ぬいて流れて来た律動が、次に現わるべき大きい律動をきわ立たせるために、一瞬の間、停頓しなくてはならない。その停頓がこの場合の場面転換に現われているのである。出雲神話を冷遇し省略した書紀においてこの転換が目立たず、大国主の神の物語に一つの頂点を置いた古事記においてこの転換が著しく目立っているのは、語り手が無意識にやった右のごとき技巧の結果であろう。
天照大御神の宣言によって始められた高天原の物語には、まず八百万の神の会議がある。大御神の勾玉から化生した天つ御子は、地上に降される途上、「水穂の国のさやげる」を見て、天の浮橋から引き返した。水穂の国の征定は、君主自らでなくして、力ある武神の任務である。そこで八百万の神の会議は、思金《おもいかね》の神に指導せられて、天の菩比《ほひ》の神の派遣を議決した。が、この神は、地上に降るとともに大国主の神に媚びついて、三年に至るまで復命しなかった。再び会議が催され、天《あめ》の若日子《わかひこ》の派遣が議決せられた。しかるに若日子もまた、大国主の神の娘下照姫と婚して、八年を経るまで復命しなかった。ここに、若日子を中心とする一つの插話が物語られている。若日子の淹留を問題とす(166)る会議は、雉《きぎし》の鳴女《なきめ》を問責使として地上に送った。雉は若日子の家の門にある楓にとまって、天神の命をのべたが、若日子は天の加久矢をもってその雉を射殺した。矢は雉の胸を貫ぬいて、逆さまに天上なる安の河原にまで届いた。そこには天照大御神、高御産巣日《たかみむすび》の神が諸神とともに会議に坐っている。高御産巣日の神は、その矢が若日子の矢であることを認め、諾神の前に誓いつつ矢を投げ返した。その矢は、胡床に寝た若日子の胸にまっすぐに当たった。そこで、夫の死を悲しむ下照姫の声が、風に送られて天上まで聞こえて来た。それを聞いた若日子の父と妻子は、地上に降って若日子のために喪屋をつくり、河鴈〔二字傍点〕をキサリ持ちに、鷺〔傍点〕を掃持《ははきもち》に、翠鳥《そにどり》を御食人《みけびと》に、雀〔傍点〕を碓女に、雉を哭女《なきめ》にと定め、八日八夜の遊びをした。この時、下照姫の兄|阿治志貴高日子根《あじしきたかひこね》の神が弔いに来たのであるが、その容姿が若日子と酷似していたために、遺族が間違えて取りついた。高日子根は、穢き死人と間違えられたのを怒って、喪屋を蹴こわして飛び去った。それを見送って下照姫は、「み谷|二亙《ふたわた》らす、あぢしき高彦根の神ぞや」と讃嘆する。
一方天の安河原の会議では、そこに出席した諸神の内に適任者がなく、ついに安河の河上《かわかみ》に立てこもっている天《あめ》の尾羽張《おはばり》の神を勧誘して、その子|建御雷《たけみかずち》を派遣することになる。ここでいよいよ大国主の神との国ゆずりの談判が始まるのである。建御雷は「十|掬剣《つかのつるぎ》を浪の穂に逆さまに立て、その剣の先に趺坐して」大国主の神に対した。「汝が統治《うしはけ》る葦原の中つ国は、我御子の治《し》らさむ国と言よさし賜へり。汝が心いかに。」大国主の神は決答をその子に讓った。事代主は直ちに国譲りを承諾する。しかし建御名方《たけみなかた》は千引《ちびき》石を手末《たなすえ》に差し上げつつ、「誰ぞ我国に来て忍び忍びかく物云ふ、然らば力競べせむ」と決闘をいどんだ。そうして建御雷のために「若草の如く」つかみひしがれ、科野《しなぬ》の洲羽《すわ》の海まで逃げて降服した。そこで大国主の神は、葦原の中つ国を献じ、己が祀らるべき社を「天神《あまつかみ》の御子の天の御巣」と同じく造られむことを乞うて退隠した。
(167) 葦原の中つ国が平定せられた以上は、そこに天つ御子が降臨して来なくてはならぬ。が、天つ御子はその役目を高御産巣日《たかみむすび》の神の娘によって生んだ己れの子に譲った。そこで天孫の降臨ということになる。従う者には「手弱女なれどいむかふ神におもかつ神」なる天の宇受売《うずめ》の神以下五伴緒、及び勾玉、鏡、剣、思金《おもいかね》の神などがある。鏡は天照大御神の御魂であり、思金神は「政を為す」ものであって、ともに高天原の神威を象徴する。かくて天孫は「天の石位《いはくら》を離れ、天の八重たな雲を押分け、いつのちわきちわきて、天の浮橋に浮きじまり、そり立たして、」日向の高千穂のくじふる峰《たけ》に天降ってくるのである。
ここで物語の舞台は九州に移る。しかしその移動は単に「舞台」のみならず物語の興味そのものにおいても認められる。天地交渉の段に現われた政治的関心は、天孫降臨とともに消失した。大国主の神を圧迫して献上させた葦原の中つ国も、九州神話には無関係である。今や興味の中心は恋と魚貝の話にかかっている。かつて天孫降臨の際に「上は高天原を照らし下は葦原の中つ国を照らして」天の八衢《やちまた》に現われた雄大な猿田昆古《さるたひこ》の神も、漁《すなどり》してひらぶ貝に手をはさまれ、そのために海潮《うしお》に沈溺した。あるいは、海魚をことごとく集めて、天つ御子に仕えまつるか否かを問うた。笠沙の崎《みさき》に御殿《みあらか》を造られた天孫についても、その新しい国土の統治は問題とされず、ただ美女との婚姻のみが物語られている。天孫は美しい「木の花咲くや姫」を見て、「吾《われ》汝《いまし》と目合《まぐあひ》せむと思ふはいかに」と言う。姫の父は姉娘なる醜い「石長《いはなが》姫」をも副えて奉るが、天孫は姉姫を返して妹姫とのみ婚する。そのために天孫の寿《いのち》は「木の花」のごとく散りやすくなったという。また天孫は、木の花咲くや姫が一夜にして妊んだのを疑うて、「そは我子に非じ、必ず国つ神の子ならむ」という。姫は誓によって身の潔白を証するために、戸なき八尋殿に火をつけて、その中で産をする。(168)火が燃え上がってから衰えるまでの間に、三人の御子がつつがなく生まれる。
九州神話の大部分を占める「日子穂々手見《ひこほほでみ》の命の物語」も同じ調子のものである。この命は「山の幸彦《さちひこ》」として狩猟に従事したが、兄なる「海の幸彦《さちひこ》」に、その幸を易えて用いむことを乞うて、三度断わられた。が、ようやくその望みを達した時には、一尾の魚も釣れないのみならず、兄の命の鉤《つりばり》をまでも失ってしまった。兄の命は「山幸《やまさち》も己《おの》が幸々《さちさち》、海幸も己が幸々」と言って鉤の返還を求めた。兄の強徴に対して弟の命は、十掬の剣を破って五百鉤千鉤を作って償おうとしたが、兄はおのれの鉤を求めてきかなかった。で、海辺に出て泣いていると、塩椎《しおつち》の神が「間《ま》なしかつまの小船」に乗せて、「魚鱗《いろこ》の如《ごと》つくれる海《わたつみ》の神の宮」への道を教えてくれる。命はその宮門に至って、井のかたわらなるゆつ香木《かつら》にのぼった。海神の女豊玉姫の侍女が玉器を持って水を汲みにくる。命《みこと》は水を乞うて、その玉器に頸の珠を吐き入れた。珠は玉器について離れなかった。それを見た豊玉姫は、自ら門に出て、香木の上なる「麗《うるは》しき男」を見感《みめで》て、目合《まぐあい》する。海神もまたそれを許し、八重に敷ける海驢《みち》の皮の畳、※[糸+施の旁]《きぬ》畳の上に請じて歓待した。かくて三年の月日がたった。ある日命は、鉤の事を思い出して長嘆を洩らした。姫はそれを気にして父神に告げた。命もついに事情を打ち明けた。海神は大小の魚類をことごとく召集して鉤《つりばり》の詮議を始めた。赤海〓魚《たい》が鉤をのんで病気していることがわかった。鉤を取り返した命は、海神から兄を苦しめる策をさずかり、塩盈珠《しおみつたま》、塩乾珠《しおひるたま》を携え、一尋|和邇《わに》の頸にのって上つ国へ帰って来た。――ここまでは描写がきわめて詳細である。しかし兄の命を苦しめてついに満干の珠を用いるに至る件《くだり》は、ほとんど省略したと言ってもいいほどに簡単である。明らかに、語り手の興味は、海宮を背景とする恋愛譚にあって、兄弟の争闘にはない。従ってこの物語の末尾には、豊玉姫の愛が再び詳しく物語られている。すでに妊身となって産時に臨んだ海神の女は、海原において天つ御子を産むべきでないと考え、夫の命のあと(169)を追って陸上に来た。そうして海辺に鵜の羽をもって葺いた産殿を造らせた。その屋根がまだ「葺き合へぬ」内に、姫はすでに産気づいて来た。そこに「見るな」の禁が現われる。が、物語においては、常にこの禁は破られるのである。夫の命は、姫が八尋|和邇《わに》となってとぐろを巻いているのを見て、驚いて逃げ出した。姫はこの辱しめを憤って、産まれた児を置き去りにして海宮に去った。しかし後には、恋心に堪えかねて、妹姫により恋歌を送って来た。夫の命も豊かな感情をもってその歌に答えた。この二つの歌がこの物語の結末である。
赤玉は緒さへ光れど白玉の君がよそひし貴くありけり
沖つ鳥鴨どく島にわがゐねし妹は忘れじ世のことごとに
これらの歌は、物語へあとから付加せられたものであろう。ことに「鴨どく島」の歌には、実感よりいでた詠嘆としての感情の直接さがある。「魚鱗《いろこ》のごとき宮」の空想と同質の抒情詩ではない。しかしこの両者の結合は先代旧辞の製作よりも古いことであろう。書紀の一書にもこの歌は出ているが、その使い方は古事記とかなり違っている。古事記の方が心理的に見てはるかに自然である。すなわち、同一の材料を用いた物語でありながら、古事記は文芸的に優れているのである。
海神の女によって生まれた鵜葺草葺不合《うがやふきあえず》の命はただ名のみであるが、この命がまた海神の女によって「神倭《かむやまと》いはれ彦の命」を生んだ。ここで物語は、これまで二つに分かれていた政治的関心と恋愛の興味とを合流する。舞台もまた九州から倭へ移る。
この命の物語は三段に分かれている。第一は倭の征服である。東征の議とその途上とはきわめて簡単に語られ、物(170)語は直ちに河内から始まる。まずながすね彦との戦いがある。それに敗れて、軍は南へ回り熊野に行く。熊野山の神は、その毒気をもって命の軍勢を無力にする。天照大御神と高木の神が、高天原から建御雷の剣を下して危難を救う。次いで熊野から吉野へ出るについても、高木の神が天より下した八咫烏の助力がある。いよいよ大和へはいると、そこには「尾ある人」が住んでいる。宇陀の兄《え》うかし弟《おと》うかしへの勧降使に立ったのは、人ではなくて八咫烏である。倭の征服はまずこういう世界の出来事として物語られているのである。
大和にはいってからの征戦は、歌謡と結びつけて物語られている。兄《え》うかしが敵を欺き殺そうとした押機《おし》によって自ら殺されたあとには、饗宴においてそれを嘲笑する歌が歌われる。また尾ある土《つち》ぐもを討つ時には、天つ御子の歌に従って、八十膳夫《やそかしわで》が剣を抜くのである。とみ彦及びしきの征伐に至っては、ただ歌のみが記されている。これらの歌もまた、その詠嘆の直接さにおいて、物語と同質でない。ただ同じき地名が現われているゆえに、あるいは物語の比喩と見らるべき一つの言葉が含まれているゆえに、あるいはまたそれが軍歌であり争闘を歌ったものであるがゆえに、いつともなくここに結合したものであろう。また逆に、古くから歌われていたこれらの歌謡が、物語の動機となったということもあり得るであろう。語り手はすでにかく結びついた材料を取り扱ったのであって、ここには前段のごとき歌と物語との渾融は見られない。ただ征戦の物語の間に、「みつみつし久米の子ら」「うちてし止まむ」「ええしやこしや」というごとき比較的強剛な律動を響き出させることは、歌の意味が何であろうとも、とにかく相当の効果を与えている。
第二段の恋物語に至っては、むしろ歌が物語を従えている。序として物語られる神婚伝説も歌の気分と合わなくはない。美和《みわ》の大物主の神はせやたたら姫の美を愛して、丹塗りの矢となってその富登を突いた。姫は「走りいすすぎ」(171)て、その矢を床の辺に置く。矢は美男に化して姫と婚した。その子なる「ほとたたらいすすぎ姫」が、今七人の乙女に交《まじ》つて高佐士野《たかさじぬ》に遊んでいる。姫を大后《おおきさき》に推薦しようとする大久米の命は、神倭いわれ彦の命に向かって歌う、
やまとの高佐士野を七行《ななゆ》く乙女ども誰をしまかむ
いわれ彦の命の答歌、
かつがつもいや先だてるえをしまかむ
その先頭の乙女が「神の御子」なる姫であった。大久米の命が、大命を伝えるために姫に近づくと、姫は大久米の黥《さける》利目《とめ》を見て歌う、
あめつつちどりましとと何《な》どさけるとめ
大久米の答歌、
乙女に直《ただ》に逢はむと我がさけるとめ
かくていわれ彦の命は姫の家に一宿《ひとよ》御寝《みね》ますことになった。のち姫が宮内《おおみやのうち》に参った時の命の御歌、
葦原のしこけき小屋《をや》に菅畳《すがたたみ》いやさやしきてわが二人寝し
こういう物語になると古事記の語り手はいつも確実である。そうしてそういう場合には常に歌謡が中心の力となっている。
第三にはいわれ彦の命崩後の皇位争奪の乱が物語られる。日向の女によって生まれた長皇子は、庶母なるいすすぎ姫を娶り、その腹なる三弟を穀さむとした。姫の患苦《うれい》の歌、
さゐ川よ雲たち渡り畝傍山《うねびやま》木の葉さやぎぬ風吹かむとす
(172) 畝傍山昼は雲とゐ夕されば風吹かむとぞ木の葉さやげる
この歌をきいた皇子は、庶兄の殺意をさとって、逆に庶兄を攻め殺した。――ここでも歌は原意でないらしい比喩の意味に使われている。しかしこの歌がもと単なる叙景の歌であり、また叙景の歌として万葉集中の傑作に比肩し得べきものであることは明らかである。その形式の整備している点からこれを古事記中の最も新しい層と見ても不穏当ではあるまい。恐らく、これらは推古朝の歌であろう。もし我々にして先代旧辞の編者の才能を信じ得るとすれば、この種の歌は編者自身の作と見ることもできるであろう。しからば右の二首の歌は、人皇初代の物語を力強い律動によって結ぶために、編者があえて挿入したものと解してよいのである。
右の物語は九州神話と同じき神話的気分をもって始められ、末尾に至るに従ってようやく人間的伝説の気分に移って行く。が、まだその移行は完全でない。次の御真木入日子《みまきいりびこ》の命の物語もなお強く神話的気分を残している。それは漸次減少しつつも息長帯姫《おきながたらしひめ》の物語までは消失しないのである。
御真木入日子《みまきいりびこ》の命の物語は大体において神倭いわれびこの命の物語に現われた三つの主題の繰り返しと見られる。その第一段は「人民を疫病から救うための祭事の物語」である。人民の死滅を憂えつつ神牀にます命の夢に、大物主の神が現われて、「こは我が御心《みこころ》ぞ、おほたたねこをしてわが御前《みまへ》を祭らしめば、国安からむ」という。おおたたねこをさがし出して見ると、それは大物主の神の後裔であった。そこでおおたたねこが三輪の神主にされる。またその他の諸神の祭祀も盛んに起こされる。第二段はおおたたねこが神の子であるゆえんを説く三輪の神婚伝説である。曾祖父の母なる美女|活玉依姫《いくたまよりひめ》は、夜ごとに倏忽として現われて来る美しい男を愛して、やがて妊身となったが、男の名は(173)知らなかった。で、その父母の入れ知慧に従って、ある夜ひそかに麻糸をつけた針を男の裾に刺しておいた。朝になって見ると麻糸は鉤穴《かぎあな》を通って外へ引いている。それをたどって行くと三輪山の神社へ出た。この時、麻糸が姫の室に「三勾《みわ》」残っていたので、「三輪」という地名ができたというのである。第三段にはまた歌謡を交えて御真木入日子の命の庶兄|建《たけ》はにやすの反乱が物語られる。その歌は、高志《こし》征伐に向かった大彦の命が、山代《やましろ》のへら坂において「腰裳つけたる少女《をとめ》」から聞くのである。
こはや、御真木入日子《みまきいりびこ》はや、御真木入日子はや、己《おの》が命《を》を、盗み弑《し》せむと、後《しり》つ戸《と》よ、い行《ゆ》き違《たが》ひ、前つ戸よ、い行き違ひ、窺《うかが》はく、知らにと、御真木入日子はや。
この歌によって反乱は暴露され、式埴安は攻め殺されるのであるが、明らかにこの歌は「さゐ川よ」の歌よりも形式が古く、また物語の中核をなしている趣がある。
これらの三つの主題は実によく神倭いわれ彦の命の物語と似ている。第二段のごときは同じ三輪の神婚伝説が用いられているのである。だから御真木入彦の命が「初国知らしし御真木の天皇」と称《たた》えられているのも、ゆえなきことではないという印象を与える。
さらにその後の物語も同じ主題を繰り返しているのではあるが、しかしそれは同じ調子をもって進んで行くのではない。政治的背景のある恋愛の物語、恋愛の挿話に充たされた英雄の伝説、英雄的行為を輪郭とした神秘的信仰の物語、というふうに、政治的興味を主にした一方の流れは、恋愛の興味を主にする他方の流れを絶えず伴奏としつつも、漸次高潮に達して、ついに新羅出征というごとき一つの頂点に行きつく。そこでこれまで伴奏であったものが漸次力強く表面に現われ、すでに極度まで高まった律動をば、全然異なった旋律の内に、すなわち愛らしい抒情的なさまざ(174)まの物語の内に、弛緩させることなく押し進めて行くのである。が、応神仁徳両朝の物語を過ぎると、二つの流れは再び短い波長をもって交錯し始める。そこで初めの主題が交互に繰り返されつつ漸次律動が低まって、ついに音なく消えて行くのである。
いくめいりぴこの命の御后さほ姫の物語は、高まり行くうねりの最初の徴候として現われる。佐保姫が后《きさき》となった時、兄の佐保彦は「夫《を》と兄《いろせ》といづれか愛《は》しき」ときいた。この情熱的な襲迫が悲劇の核である。姫は「かく面問《おもと》ふに勝たずして」「兄《いろせ》ぞ愛《は》しき」と答えた。兄は、それならば夫の命を拭しまつれと迫った。夫に愛を捧げる姫は、己《おの》が膝に枕して寝ねます夫の命の上に、兄の授けた小刀を三度ふりかざしながら、さめざめと泣いた。その涙が夫の顔にかかり、眠りは破れた。姫はついに、兄の叛意を白状した。が、夫の命の軍によって攻め殺されようとする兄をも忍びかねて、懐妊の身なるにもかかわらず、後門より逃れ出て、兄の稲城に入った。夫の命は、御|后《きさき》と御子とに対する愛のゆえに、攻迫の手をゆるめられた。やがて姫は、稲城の内で生まれた御子を、「もし大君の御子と思ほしめさば、をさめたまへ」と申し出た。夫の命は、御子を連れて外に出て来た姫を、御子とともに奪い取ろうと企てた。しかし死を決した姫は、髪を剃り衣を腐らせて、捕えようとする者の手からすり抜け、まさに焼かれようとする稲城の中へ帰って来た。こうして御子については母らしく、夫の命に向かっては妻らしく振る舞いながらも、ついに兄とともに死についた。
これは皇位の争いを背景とする恋愛の物語である。が、恋愛の心理をこれほど複雑に描写した物語は、この物語以前には現われなかった。その意味でここに話勢の上昇が感ぜられるのである。
右の物語にはもはや神話的気分はない。三輪山の神婚伝説のすぐあとに来る物語としては、非常な変化に見える。(175)が、前にも言ったように、神功皇后の物語までは、神話的気分が全然なくなることはない。垂仁朝の物語としても、佐保姫の悲劇についで、佐保姫の御子の神話的な物語が付加されている。稲城の内で生まれた御子は「八束鬚|胸《むな》さきに至るまで」口《くち》をきかなかった。それは、太占《ふとまに》によって、出雲の大神のたたりとわかった。そこで「うけひ」が語られる。この大神を拝んで真実に験があるならば、「この鷺巣の池に住める鷺、うけひ落ちよ」というと、鷺は地に落ちて死んだ。で、出雲に行って大神を拝むと、帰途から口《くち》をきくことができるようになった。また御子は、出雲において、一夜肥長姫と婚した。ところがその美人は、ひそかに竊み見ると、蛇であった。御子は驚いて逃げ出した。姫は患《うれた》みて「海原を照らして」追って来た。御子はますます驚いて、船を山越えさせて逃げた。これらは明らかに神話的な物語である。
次の景行朝の物語は、全然〔二字傍点〕小碓《おうす》の命の英雄伝説によって充たされている。書紀の採録しているような種々の小話には、一顧をも与えていないのである。
まず最初に小椎の命とその兄なる大碓《おおうす》の命との関係が物語られる。大碓の命は天皇の愛された女を横取りした。この大椎の命が「朝夕《あしたゆふべ》の大御食《おほみけ》」に顔を出さないので、天皇は小確の命をしてさとさしめられた。小椎の命は、朝|厠《かわや》にはいっている兄の命を捕えて、「つかみひしぎ、その枝を引き闕《か》き、」こもに包んで投げ捨てた。
このような「たけく荒き」情《こころ》のゆえに、小碓の命は熊襲征伐に派遣せられた。そのころ命は髪を額に結っていたので、姨《おば》倭姫の衣裳をつけ、その額の髪を少女のごとく梳き垂れて、熊曾建《くまそたける》の宴楽の日に、女人の中に交じって建に近づいた。そうして建《たける》の寵愛を得つつ、宴酣の時に剣を出して建の胸を刺し通した。瀕死の建は命に「倭建《やまとたける》」の名を献(176)じた。命は「熟《うめ》る瓜」のごとく振りさいて、熊曾建《くまそたける》を殺した。そうしてその還り路で、山の神、河の神、穴戸の神を征定した。
次は出雲建《いずもたける》の征伐である。命は出雲に至ってまず建《たける》と友情を結んだ。それから木刀を佩いてともに肥の河に水浴に行き、河から上がって自分の木刀を出雲建の剣とすり換えた。そうして決闘をいどみ、相手を打ち殺したのである。そこに引かれた歌、
やつめさす出雲建《いづもたける》が佩ける太刀《たち》黒葛《つづら》さは巻き真身《さみ》なしにあはれ
というのは、この伝説とともに古いものであろう。
次いでまた東方征伐がある。命は伊勢に行って倭姫に「天皇《すめらみこと》早く吾を死ねとや思ほすらむ」と言って、嘆き訴えた。姫は草薙の剣と嚢《ふくろ》を命に与えた。命は尾張に至って美夜受《みやず》姫と婚を約し、山河の神を平定しつつ、相模の国まで行った。ここの国造は、命を欺いて、野火で殺そうと企てた。が、その危難は、倭姫の嚢にはいっていた火打ちと草薙の剣とによって救われた。次いで走水の海の難航の際には、后《きさき》弟橘《おとたちばな》姫が自ら進んで犠牲になった。その后の辞世の歌は、過去の危難の際の心の結合を思い出した惻々たる愛情の表白である。
さねさし相模《さがむ》の小野《をぬ》に燃ゆる火《ひ》の火中《ほなか》に立ちて問ひし君はも
この愛情に対しては足柄峠における命の「あづまはや」の長嘆がある。が、この湿やかな心情の流露と対照するがごとくに、やがて次には、美夜受《みやず》姫の愛が語られている。その中心をなすものはきわめて感覚的な月経の歌である。先代旧辞の語り手は確かにこの恋において英雄の運命の破綻〔八字傍点〕を示そうとしたらしい。なぜならここで彼は、「姫と合ふ」こと、「草薙の剣を姫の許に残す」こと、及び「伊吹山の神を徒手にて弑さむとする」ことを、書紀におけるよりもは(177)るかに意味深く連結しているからである。のみならずまた彼は、傾いて行く英雄の運命をいくつかの短い地名伝説によって急調に語り、国しぬび歌によってその悲哀を力強く響かせた後に、死の床における英雄の哀歌として、
乙女《をとめ》の床の辺に、わが置きし剣《つるぎ》の太刀《たち》、その太刀はや
と歌っている。美夜受姫との恋がこの英雄からその宝剣を――すなわちその幸運を――引き放した、というふうに彼が物語ろうとしているということは、ここにおいてもう疑いの余地がない。
この英雄の最後を飾る数多い歌は、短く急調に歌われている。歌自身は、国しぬび歌にしろ、片歌にしろ、また葬《はふり》の歌にしろ、本来この物語と関係のあるものではなく、旧辞製作の時代に「天皇の大葬に際して歌う歌」として、あるいは「望郷の歌」として、民衆の間に行なわれていたものと思われるが、それを英雄の最後に結びつけ、悲哀の情の表白としてきわめて有効に使ったのは、恐らく彼の腕前であろう。小碓の命の物語を一つの全体として見るとき、この美しい結末は、全体を活かすための最も有力な部分であり、また最も成功した部分である。
書紀においてはこれらの物語は、強いて史書の体裁を作ったために、きわめて散漫雑駁なものとなっている。しかし先代旧辞においては、一つの美しい全体である。この傾向は仲哀神功の物語においてさらに著しい。書紀が仲哀紀神功紀を分かち、年と月とをあげて、雑多な材料を羅列して行くに反し、古事記はただ一つの「息長帯姫《おきながたらしひめ》の物語」を物語るのみである。
姫には「神がかり」の力があった。熊曾征伐の際、天皇が琴をひき、建内《たけのうち》の宿禰が「沙庭《さには》」にいて神命を請うと、姫は神がかりして「西方の国を帰服させよう」という。天皇は「西の方にはただ大海があるのみだ」と答え、詐《いつわり》をい(178)う神だと思いつつ、琴をひくのをやめた。神は怒って「この天の下は汝《みまし》の知らすべき国にあらず、汝は一道《ひとみち》に向ひませ」といった。この呪いの言葉はもちろん姫の口を通じて伝えられたのである。そこで建内の宿禰が「恐《かしこ》し、我が天皇、なほその大御琴をあそばせ」と熱心にすすめた。天皇はなまなまに琴をひき始めた。やがて琴の音が絶えた。火をあげて見ると、天皇はすでに崩ぜられていた。
大祓の後にまた建内の宿禰が「沙庭」にいて神命を請うた。姫はまた神がかりして先の日と同じ神命を伝え、「凡そこの国は汝が命《みこと》の御腹にます御子の知らさむ国なり」と言った。神の名を問うと、天照大神、底筒《そこつつ》の男、中筒の男、上筒の男の名が答えられた。そうして西方の国を征定する方法、――天地山川の諸神に幣帛を奉ること、神の御魂を船にまつること、真木の灰を入れた瓠《ひさご》や箸やひらでを多量に海に浮かべること、――などが指示された。教えの通りにして軍船を乗り出すと、大小の海魚がことごとく集まって船を負い、順風が大いに起こり、ついに船の波が新羅の国の半ばまで押し上った。その国王は直ちに降服して服従を誓った。姫は新羅を御馬飼《みまかい》、百済を渡《わた》の屯家《みやけ》と定め、杖を新羅王の門につき立て、墨江の大神の荒御魂を国守神に祭って凱旋した。
これは新羅征討の物語というよりもむしろ息長帯姫の奇蹟談である。だから物語の語り手は、この征討の余談として、姫が産時を延ばすために裳の腰に石をまとったこと、裳の糸を抜き取って魚を釣ったことなどを物語っているのである。
新羅征討の終わった後には「汝が命の御腹にます御子の知らさむ国」という神命が実現されなくてはならぬ。そこで香坂《かごさか》王|忍熊《おしくま》王の反乱とその征定が物語られる。まず喪船を仕立てて敵を欺き、次に弓弦を髪に隠し、詐って降服して、敵の虚を突く、というような策略戦が遂行せられ、ついに忍熊王は近江の海に攻め殺されるのである。太子は建(179)内の宿禰と共に禊《みそぎ》のために角鹿《つぬが》に行き、そこの大神の寵うけた。
太子が建内の宿禰とともに倭に帰ってくると、そこには息長帯姫が待酒を醸して待っている。そこで奔放な力強い「酒楽《さかほがひ》の歌」が姫と建内の宿禰との間に唱和せられることになる。この結末もまた嘆美すべきものである。
ここで物語の流れに一つの転向が始まる。神話的な物語り方はここから消えて行き、恋愛が物語の主題としてようやく勢を得て来るのである。奇蹟的な誕生の伝説を負った「ほむだ別の命」も、ここではただ人間的な恋愛の主人公に過ぎない。
まず矢河枝《やかわえ》姫との恋愛がある。そうして恋人との酒宴に歌われる長い歌がある。
次に髪長姫を太子|大雀《おおさきぎ》の命に譲るという話がある。四つの美しい歌がここに結びつけられている。書紀が同じくこの歌を引きながらその解釈を異にしているところを見ると、歌は古くより誉田別の命や大雀の命に帰せられていたが、この物語は必ずしも古くから確定していたものではないらしい。歌の解釈やそれによって試みられた主人公の心理描写は、古事記の方がはるかにおもしろい。
なお恋愛のほかに大雀の命の剣を讃美する歌や、酒を献ずる歌などもある。そのあとに部《べ》の制定、池の築造、百済との交通のごとき公的事件が簡単に記され、また帰化人にして醸酒に巧みな「すすこり」の酒を讃美する歌もある。これらは前の恋愛歌よりも軽く取り扱われている。しかし誉田別の命の崩後の反乱は、恋愛談に劣らぬ熱心をもって物語られる。すなわちこの種の説話はまだ伴奏とはなり切らないのである。
ところでここに突然「天の日矛の物語」と「春山秋山の物語」とが插まれているのは何ゆえであるか。それは「昔(180)の話」とせられている。しかも三輪山伝説におけるごとく物語中の人物と関係のある話なのでもない。だからそれは、神話的ではあるが、神話的分子の消滅という物語の流れの大勢を食い留めることはできない。が、この、出雲神話にでも插まれてしかるべき物語が、何ゆえにかく新しい部分に插まれなくてはならなかったのか。思うにそれは、起源を異にする伝説群として、これまでの物語の流れのいずくにも插入し難かったためであろう。書紀においては、天日槍の渡来は、歴史的事実であるかのごとくに、垂仁紀三年の条に記されている。そうして玉や女の説話は、角《つの》ある王子「つぬがあらし」に結びつけて、二年の条の割り注に編み込まれている。編者が插入の場所に苦しんだことは同様である。しかしいずれにしても遊離した趣を消し得ないとすれば、すでに新羅征討や韓人の渡来が物語られたあとに、全然連絡のない插話として、何の細工もなくそれを記した先代旧辞の編者のやり方の方が、書紀のそれよりもはるかに巧妙だと言わなくてはならぬ。ことに古事記においては、天の日矛の伝説のごときは、その材料が韓土伝来のものであるにかかわらず、すでに日本人の想像を通って来た一つの渾然たる物語にできあがっているのである。
が、この二つの物語がここに插入せられたのは、ただ韓土関係が物語られた機会を利用したというばかりでもあるまい。作者の興味がようやく恋愛の強調に向かって来た場合としては、このさまよえる伝説群をここに取り入れることは、最も好ましいことであろう。日光に肌を照らされる昼寝の女、玉が化して成る美女、夫の虐遇のために逃走する妻、――これらはまさに旧辞の作者の愛好する題材である。さらに「春山秋山の物語」に至っては、上代の恋愛説話の一つの類型とさえも見られるであろう。
天《あめ》の日矛《ひぼこ》の娘に出石乙女《いずしおとめ》というのがある。八十神が得むとして皆失敗した。ここに秋山の下氷男《したびおとこ》、春山の霞男《かすみおとこ》という兄弟の神があって、兄の秋山が弟にいうには、出石乙女は手に合わない、汝これを得ることができるか。弟は、容(181)易に得ようと答えた。兄は衣服、酒、及び山河の物ことごとくを賭けた。弟はそれを母に告げた。母は藤葛《ふじずら》をもって一夜の間に衣《きぬ》、褌《はかま》、沓《くつ》、弓矢等をつくり、それを子に着用させて乙女の家にやった。衣褌も弓矢もことごとく藤の花になった。霞男は、その藤の花になった弓矢を乙女の厠に置き、乙女が驚異してそれを持ち行く時に、自分もまた藤の花に包まれてあとに従い、家に入った。そうして乙女を得た。しかし兄は賭けた物を与えなかった。弟はまた母に告げた。母は竹の葉と塩と石とをもつて呪詛した。兄はその呪いのために病枯して、憐れみを乞うに至ったので、母は呪いを解いた。
それは「応神天皇記」を結ぶ記事としてはふさわしくない。しかし奇蹟によって生まれた御子の恋物語を結ぶものとしては、まことにふさわしいのである。
大雀の命によって統括せられる次の物語群は、美しい抒情詩によって充たされている。すでに髪長姫の物語において大雀の命は強い同情をもって語られているのであるが、ここでもまたさまざまの抒情詩がこの主人公の上に注がれるのである。
物語はまず大雀の命の温かい心情を示すために三年免税の話をもって始められる。次にはそれと対照するがごとくに、大后《おおきさき》石《いわ》の姫の激烈な嫉妬が、非常な熱心をもって語られている。命の恋は常にこの嫉妬と交錯するのである。吉備の美人黒姫は、后の嫉妬を恐れて、郷国へ逃げ下った。それを追いかける情緒は歌によって現わされている。さらに自ら吉備へ忍び下る話もまた美しい愛情の歌によって語られる。別れの時の姫の歌、
やまとへに西風《にし》吹き上げて雲《くも》離《ばな》れそき居りとも吾忘れめや
(182) やまとへに行くは誰《た》が夫《つま》こもりづの下《した》よはへつつ行くは誰《た》が夫《つま》
のごときは、やまとへやる夫に恋を誓う歌として、またその夫の愛情を深く感じ得た女が別離をともに悲しむ歌として、それ自身独立した価値を持っている。しかしここに姫の歌として利用せられると、この歌の心持ちの内には、后《きさき》の嫉妬が背景として力強くはいってくる。離居を必要ならしめるものは后の嫉妬である。「下よはへつつ行く」のも別離の悲しみのためよりはむしろ后の目を忍ぶためである。こうして物語の語り手は、歌の内容を変えつつ、この歌の利用によって物語を力強いものに高めている。
八田の若郎女《わきいらつめ》との恋に至っては、后の嫉妬によって中断せられるというよりも、むしろ后の嫉妬の物語の導火線となっている。すなわち后は、自分が饗宴のための柏葉を取りに木の国へ行った留守に夫の命《みこと》が八田の若郎女を愛していると聞き、怒りのあまりに、船に載せて来た柏葉を海に投げ捨てて、難波の宮へ帰らずに、山城から大和の方へと行ってしまう。それを聞いた夫の命は、舎人《とねり》の鳥山《とりやま》をして后を追わせ、また次いで口子《くちこ》の臣《おみ》を派遣する。ついには自ら后の避難所へ出向いて行く。その話が、恐らく民謡であったらしい六首の「志都歌《しつうた》の返歌《かへしうた》」を中心として、語られているのである。中でも、
山代《やましろ》にいしけ鳥山《とりやま》いしけいしけ吾愛《あがは》し妻にいしき遇はむかも
のごときは非常にいい効果を見せている。
八田の若郎女との恋はかくして后に距てられる。そこで二人の恋人は離れつつ物を思う。
八田の一本菅《ひともとすげ》は、子《こ》持《も》たず立《たち》かあれなむ、あたら菅原、ことをこそ菅原と言はめ、あたら清《すが》し女《め》
八田の一本菅は、ひとり居りとも、大君し、よしときこさば、ひとり居りとも
(183)明らかにこれらの歌は、八田の美女の運命を詠嘆する民謡と思われるが、しかし右のごとき物語に編み込まれても、きわめてよくはまっている。それはこの語り手の腕であろう。書紀の物語ではこうは行っていないのである。
次に物語られる女鳥《めどり》の王《みこ》の悲恋にもまた石の姫の嫉妬は関係している。なぜなら、女鳥の王が大雀の命の恋を斥けたのは、「大后《おほきさき》の強《おずき》によりて八田の若郎女をも治め賜はず、故《かれ》仕へまつらじ」という理由によったのだからである。女鳥の王はかく命の恋を斥けるとともに、媒《なかだち》となった速総別《はやぶさわけ》を愛した。そうして、大雀の命が自ら彼女のもとに行き、機《はた》に坐した彼女に向かって、
女鳥の吾大君《あがおほきみ》の、織《お》ろす服《はた》、誰が料《かね》ろかも
と問いかけた時、決然として、
高行くや隼別《はやぶさわけ》の御襲《みおすひ》がね
と答えた。大雀の命に対する女鳥の反抗心はさらに女鳥をして、
雲雀《ひばり》は天に翔ける、高行くや隼別《はやぶさわけ》、雀《さざき》取らさね
と歌わしめるに至った。ために彼らは大雀の命によって攻め殺されようとする。そこで女鳥を率《ひき》いて倉梯山《くらはしやま》に逃げ上ったはやぶさ別は、
梯立《はしたて》の倉梯山《くらはしやま》の嶮《さか》しみと岩かきかねて我手取らすも
梯立の倉梯山は嶮しけど妹《いも》と登れば嶮しくもあらず
と歌う。実に美しい歌である。物語全体もまた美しい。もし最後の二首が様式上雲雀の歌よりも新しいとすれば、ここにもまた先代旧辞の編者の腕を認めなくてはならぬであろう。
(184) 女鳥は大雀の命に反抗して殺された。石の姫の同情が女鳥に集まるのは当然である。ある饗宴の日に、姫は自ら柏葉を取って氏々の女に酒を賜うたが、その時、女鳥の玉釧《たまくしろ》を手にまとうた女を見いだした。姫は激怒して、女鳥の「肌も温かい内に玉釧を剥いで来た」その夫を、死刑に処した。ここに石の姫はいかにも石の姫らしい感情の激しさを見せている。八田の若郎女の場合と対照するためにもこの物語は必要である。しかるに書紀は、同じ物語を採録しながらも、その時の后《きさき》を八田の若郎女として、石の姫には結びつけていない。物語の心理的連絡について全然無関心である。この点についても古事記の方がはるかに芸術的に高い。
全然抒情詩的な右の物語群は、雁や琴を歌う本岐歌《ほぎうた》、志都歌《しずうた》をもって、静かに終わっている。そうして次には反乱の話、反乱と殺戮との話、恋と宴楽との話、というふうに交互に他の主題を繰り返しつつ、ついに皇位の絶えようとする話に至って物語の流れを止めるのである。
まず物語られる反乱の話においては、皇位を得むとする墨江《すみのえ》の中《なか》つ王《みこ》が、突然難波の宮に放火する。饗宴のあと、酒に酔い臥していたいざほ別《わけ》の命《みこと》は、帰化人なる阿知《あち》の直《あたえ》に助け出され、馬に乗せられて倭の方へ落ちて行く。丹比野《たじひぬ》に至って酔いが醒め、阿知の直に事情を聞かせられて、
たぢひ野《ぬ》に寝むと知りせば立薦《たつごも》も持ちて来ましもの寝むと知りせば
と歌う。埴生坂に至れば、難波の宮の火はなお赤く見えている。そこでまた、
埴生坂《はにふざか》吾《あが》立《た》ち見ればかぎろひの燃ゆる家むら妻が家のあたり
と歌う。かくて命は武器庫である石上の神宮へはいった。ところで、右の歌は、明らかにこの種の反乱の歌ではない。(185)あわただしい逃走の途上「寝むと知りせば」と歌うのがおかしいごとく燃ゆる宮殿を見て「かぎろひの燃ゆる家むら」と歌うのもおかしい。むしろそれはたじひ野の夏の夜の恋の詠嘆であり、また埴生坂の春昼ののどかな恋心の表現であって、全然情調を異にしたものである。そういう歌を強いて反乱の物語に編み込むところに、この編者の気稟が現われている。彼は争闘の叙述をも抒情詩的にしなければ気がすまないのである。そうしてそういう企てのためにしばしば失敗しているのである。
墨江の中《なか》つ王《みこ》の反乱はむしろ散文的な後半においてよりよく物語られている。すなわち水歯別《みずはわけ》の命《みこと》が中つ王の隼人を欺いて、その隼人に主人を殺さしめるのである。が、この描写にも、これまでのような強い想像的香気は失われかけている。
次に物語られるのは軽《かる》の太子《みこ》とその妹《いもうと》の(美しきがゆえに衣通《そとおし》の王《みこ》と呼ばれる)軽の大郎女《おおいらつめ》との恋である。同母兄妹の恋は最も忌むべきものであった。しかし恋は危険を冒させる。危険のゆえに情熱が高まる。かくて軽の兄妹の歓喜と悲痛とに緊張した恋愛は、しらげ歌、夷振《ひなぶり》、天田振《あまだぷり》などの、恐らく民衆に愛せられたらしい数首の歌をもって、――自分の見るところによれば、古事記中の絶唱である六七首の歌をもって、ききわめて情熱的に物語られるのである。恋を遂げた太子の苦痛に充ちた歓喜を歌う歌には、
あしひきの山田をつくり、山高み下樋《したび》を走《わし》せ、下聘《したどひ》に吾《あが》とふ妹《いも》を、下泣《したなき》に吾泣く妻を、今日《こふ》こそは安く肌触れ。
小竹葉《ささば》に、打つやあられの、たしだしに率寝《ゐね》てむ後は、人《ひと》議《はか》ゆとも、愛《うる》はしと真寝《さね》し真寝《さね》てば、苅《かり》こもの乱れば乱れ、真寝し真寝てば。
民衆にそむかれて捕えられた太子が妻の悲しみを思う歌には、
(186) 天《あま》だむ軽の乙女、いた泣かば人知りぬべし、はさの山の鳩の、下泣きに泣く
さらに伊予の湯に流される途上では、
天とぶ鳥も使ぞ鶴《たづ》が声《ね》の聞えむ時は我名問はさね
夫を思う衣通《そとおし》の王《みこ》がその女らしい愛情を歌った歌には、
夏草の相寝の浜の蠣貝に足踏ますな明かして通れ
妻は恋慕に堪えずして流された夫のあとを追う。その悲しい歓びが二つの長い歌によって歌われる。そうして二人は自殺する。
これらの歌が歴史上の人物としての軽の兄妹の自作であるか否かは知る由がない。たといこの恋が実際の出来事であったとしても、そうして右の歌がこの恋を歌ったものであったとしても、歌の作者はこの恋に感激した他の人であり得るであろう。我々に残されたものはもちろん語り手の想像を通した物語であって史実ではない。そこではすべての歌が主人公の感情の詠嘆でなくてはならない。そうしてこの物語ではそれが完全にできている。その意味でこの物語は古事記の恋物語中の絶頂である。
この絶頂が大雀の命の物語以後の短い交錯の間に現われたことは、古事記の終末をきわめて効果あるものにする。なぜなら、次いで物語られる目弱王《まよわのみこ》の弑逆や大長谷《おおはつせ》の王子《みこ》の強暴は、緊張した律動をもってする力の強い物語であり、その次に来る大長谷《おおはつせ》の若建《わかたけ》の命の恋愛と宴楽との話は、(多くの歌をもって美しく物語られるにかかわらず、)むしろ平和な、静かに落ちついた感情を響き出させたものであって、ひとたび鋭く昂揚した律動をばゆるく大きくうねらせつつ、最後の低調に手ぎわよく流し込むからである。
(187) 若建の命の恋物語は、若日下部《わかくさかべ》の王《みこ》をつまどう話にしろ、赤猪子《あかいこ》の老ゆる話にしろ、また春日の乙女が岡に隠れる話にしろ、すべて歌をもって物語られてはいるが、しかし恋とも言えぬほどに淡泊な、感情の乏しいものである。狩猟の話も同じく歌をもって語られながら、同じく感情に乏しい。そうしてこれらの話の間には何らの連絡もない。ただ最後の宴楽の話のみは、天皇の尊貴を讃美し、あるいは酒宴の楽しさを歌う天語歌《あまことうた》、宇岐歌《うきうた》等によって、これまでの物語に現われなかった一つの感情を流露させている。が、それも情熱的ではなく、ただ豊かに長閑《のどか》だというまでである。
かくていよいよ最後の「をけ、おほけ、兄弟の命の物語」になる。天皇の讃歌が豊かに響いたあとで、ここには、天皇たるべき王子たちが、庶人の家の火たき童《わらわ》として見いだされた、という話が物語られている。針間のしじむという人の新室の宴に、火たき童もまた舞を舞わされたが、そこで「をけの命」が詠《ながめごと》をしてその名を名のり、臨席した国司を驚かすのである。が、かくして見いだされた王子は、臣《おみ》の子の侮りを受ける。「をけの命」が召そうとした美女は、歌垣において志尾《しび》の臣に手をとられた。そこに闘歌《かがいうた》のやりとりが始まり、しかもそれが恋のみならず天皇の権威にかかわってくる。志尾《しび》の歌いかけた歌、
大宮のをとつ鰭手《はたで》隅《すみ》傾《かたぶ》けり
とは皇室の衰微をあざけるのであろう。それに対して「をけの命」は、
大匠《おほたくみ》拙劣《をぢな》みこそ隅傾けれ
と答える。皇室の衰微を大臣《おおおみ》らの責めに帰するのである。次に志尾《しび》は裏から迫って、
大君の心を寛《ゆら》み臣《おみ》の子の八重の柴垣《しばがき》入り立たずあり
(188)と歌う。大君ならば大君らしく臣下の恋の邪魔はせぬものだというのである。そこで命は答えに窮して「しび」という名を嘲笑する。
潮瀬《しほせ》の波折《なをり》を見れば遊び来る鮪《しび》が鰭手《はたで》に妻立てり見ゆ
明らかにこれは「鮪《しび》の鰭《ひれ》の傍に女が立っていて滑稽だ」という単純な嘲罵である。志毘《しび》もまた怒って単純に「大君の柴垣」を「切れむ柴垣、焼けむ柴垣」とののしる。王子はついに、
大魚よし鮪つくあまよ其《し》が荒ればうら恋《こほ》しけむ鮪つく鮪
と歌って、翌朝には志尾《しび》を攻め殺す。それはこの物語の帰結として当然のことである。
右の闘歌の順序は古事記のままで意味が通る。本居宣長のごとく順序を変え歌い手を変える必要はない。が、この歌垣の物語は、書紀においては、ただ一首のほかことごとく異なった歌によって語られている。そうしてその方がある点では美しい。だから両書を通じて「一つの史実」を見いだし得ると考える人は、書紀の物語の方へ古事記の物語を近づけて行こうと企てるのである。宣長もその一人であろう。しかしこの両様の物語が、ある材料を異なった想像によってまとめたものである以上、そういう企ては無意義である。むしろこの物語の低調なことが、古事記の末尾としてふさわしいとも見られる。
次にこの「をけの命」が父王の骨を求め、また父王の仇なる大長谷の天皇の陵を壊《こぼ》とうとする話がある。前者においては、父の埋葬所を知っていた淡海の老媼が非常な恩寵にあずかる。後者においては、「おほけの命」が「父の仇にはあれど天の下治らす天皇なり、天皇の陵は破るべからず」として、陵辺をわずかに掘るだけに留める。そうしてこれが古事記の物語の終末である。
(189) 以上我々は、古事記中の先代旧辞を構成するさまざまの物語とその間の連絡、及びその連絡を通じて流れる律動の変化、従って「一つの〔三字傍点〕叙事作品」としての先代旧辞の構造を観察した。明らかにここには、たといそれが幾人かの手を経て完成せられたものであるとしても、結局は「一つの心」から出たに相違ない統一が認められる。それは書紀とは非常に違ったものである。
三 文芸的作品としての特徴
古事記の中から一つのまとまった作品を見いだし得るならば、我々はその作品を貫ぬく想像力を問題とすることができる。まず取り上げられるべきは、その想像力の特異な性質である。
想像力とは何であるかを厳密に規定することは、すこぶる面倒な仕事である。ここではただ単純に、官能の知覚によって生じた数多の表象を連結して、そこに自由に新しい表象群を、一つの全体として造り出す力として規定しておこう。それは単なる再現でも連想でもなく、一つの新しい全体にまとめ上げる力である。だから想像力は思惟作用の根柢にも認められ、その方面からは感性的経験を範疇に則とって綜合する構想力として捉えられている。作品の創造にあずかる想像力は、その産み出したものが常に直観的表象である点において、認識作用たる構想力と区別せられるが、しかしこの直観的な想像力も、「統括し構成する力」としての根本の性格においては、同じものなのである。思惟作用の発達しない状態においては、想像力の構成する力もまた弱い。従って一つの全体にまとめられた個々の表象のおのおのに引きずられて、その全体の統括が危うくされる。
(190) わが上代人の想像力はまさにこの状態にあった。思惟の力の未発達は、その想像力の矛盾した活動を許している。例えばいざなぎの命の黄泉下りの話である。いざなぎの命が愛妻を慕うて黄泉に下り、見るなの禁を破ったために、よもつ平坂まで追いかけられた、という話の筋にはまとまりがある。しかし第一段を語る時には、その場面だけに引きずられて、第二段を忘れている。いざなぎの命が黄泉に下ると、いざなみの命は「殿より戸をあ〔七字傍点〕げて出で向ふ」。これは上代の女が恋人を迎える光景である。思惟の力の制御を受けない想像力は、この方向に走らねばならぬ。そこでいざなぎの命は「愛《うつく》しき我《あ》がなに妹《も》の命《みこと》、吾《あれ》汝《みまし》と作れりし国、未《いま》だ作り竟《を》へざれば、還りまさね」と呼びかける。いざなみの命はそれに答えて、「悔しきかも〔五字傍点〕、速《と》く来まさずて〔六字傍点〕、吾《あ》は黄泉《よもつ》へぐひしつ。然れども愛《うつく》しき我《あ》がなせの命《みこと》、入り来ませること恐《かしこ》ければ、還りなむを。まづ具《つばら》に黄泉神《よもつかみ》と論《あげつら》はむ。我をな視たまひそ」と言って殿の内に還り入る。これは明らかに恋の場面を頭に浮かべた描写である。いざなぎの命の言葉の内、「黄泉へぐひしつ」と「黄泉神」との二個所を消すか変えるかすれば、それはそのままに現在においても通用する愛の表白となるであろう。――しかし第二段はまた「見てはならない黄泉の光景」を描くことに引きずられて、第一段の描写を全然忘れている。第一段においては、黄泉国《よもつくに》は闇の国ではない。いざなぎの命は殿の外にあって、殿より出で向かって来た美しいいざなみの命を、直ちに認めた。しかるに第二段においては、殿の内は闇である。そうしていざなみの命の体は、「蛆《うじ》たかれとろろぎて、」腐っている。これは墓場と屍体とによって黄泉を想像したための必然の結果である。が、さらに、第三段になると、この穢い描写がまた忘れられている。第二段においてはいざなみの命は裸体で、しかもその体は腐っていた。「見るな」の禁を活かせるにはこれでなくてはならなかった。しかし第三段においては、怒ったいざなみの命は、自ら黄泉平坂《よもつひらさか》まで追いかけて来て、いざなぎの命に向き立って問答する。そのありさまは第一段に相応するものである。
(191) 上代人の想像力はかく部分的の深入りのゆえに全体を忘れる。複雑な事件あるいは長年月にわたる事件の描写においてはしばしばこの現象が現われている。例えば天地交渉の段のごとき、地上の事件が興味深く物語られるために、高天原の会議は常に同じ所に停止しているような感じを与える。また火遠理《ほおり》の命の海宮行きも、そこに興味が集められる時には、最初の動機たる釣り針が閑却せられ、三年後に主人公を帰国させる必要の生じた時に至って、「このごろ〔四字傍点〕釣針を飲んだ」という鯛がようやく引き出されてくる。また豊玉姫の産についても、「見るな」の禁を活かせるために、「本国の姿」ということを重大な意味に使うが、その時には、火遠理の命が姫の本国〔二字傍点〕に行きそこで三年の間姫と暮らしたことを忘れているのである。この種のことは人代の物語においても同様に見いだされる。雄略天皇が赤猪子《あかいこ》と婚約する物語は、「召し出されぬ内に乙女が盛りを過ぎた」というところに興味の中心を置くゆえに、乙女をして「八十年の間」むなしく待たしめている。
こういう傾向は物語全体の構図の上にも見られる。出雲国讓りの物語が熱心に物語られた後に天孫が九州に降り、すでに譲られたはずの統治権を確立するために再び神武東征が物語られるごとき、その最も著しい例である。
が、このような弱点にかかわらず、なお物語全体には一つの明らかな統一がある。上代人の想像力は、いかに部分的表象に引きずられて行っても、この統一を破るほどではない。それは想像力を動かしている動機が、現在の内に生きている「過去」に対しての驚嘆の感情であり、従ってその過去を知ろうとする熱烈な要求だからである。あらゆる表象は、いかに不釣り合いに結合せられているとしても、とにかく〔四字傍点〕同じ方向に結合せられている。そうしてその方向は過去の説明という一点に帰着する。ここにおいて思惟の力の不足は、驚嘆の感情の強さによって補われるのである。
このことは個々の説話のまとめ方においてすでに現われている。ある事件の結果として生じたとせられる地名、人(192)名、儀式、あるいは自然的な現象は、物語られる時には結末であるが、しかし実は物語の動機なのである。例えば、「ここを以て一日に必ず千人《ちひと》死に、一日に必ず千五百人《ちいほひと》生るるなり」という現象は、いざなぎの命黄泉下りの結果として物語られているが、実は上代人が驚異の情をもってながめていた人の生死の現実なのであり、そこからこの物語が生み出されたのである。また「ほとたたらいすすぎ姫」という人名や、「みわ」という地名は、大物主の神の恋の結果として物語られているが、これも同じくこれらの物語の動機であって、想像力の活動はここから出発したのである。古事記中に無数に存する地名伝説は、すべてこの種のものでなくてはならない。さらに著しいのは、歌謡を中心とする物語である。歌謡は自然に流露する詠嘆として物語に関係なく生まれるが、それを歌いついだ後代人は、その歌の背景として何らかの事件を想像せずにはいられなかったのである。
かくしてまとめられた説話は、その動かし難い核心のゆえに、いかに岐路に入って物語られるとしても、なお素朴な統一を失わない。そうしてこの種の多くの説話が、一つの系列に並べられる場合にも、同じくまた核心となるべき主題があり、それに対する驚嘆の感情がある。その主題となったものは、皇室に神聖な権威があり、もろもろの伴や部がそれによって調和的に組織せられているという現前の状態である。これらの状態は古事記に物語るごとき事情によって生じたのではなく、むしろ古事記全体の構図〔八字傍点〕が、これらの状態から生じたのである。あの多数な物語が比較的混雑なく並べられているのは、この種の「歴史を要求する心」から出た想像力が、材料を「歴史的」に排列するというところに、その主要な力を揮ったゆえであろう。
ここにおいて我々は上代人の想像力の特徴をあげることができる。彼らの想像力は合理的な統一に欠けているが、しかし素朴な驚嘆の感情〔五字傍点〕による統一を持っている。驚嘆の感情は一種縹渺たる気分の統一を造り出す。それは素朴な(193)原始芸術の美しさである。
このような古事記の美しさはイリアスの美しさと比せらるべきものではない。イリアスにも神々の事蹟がある。その神はサモトラケの山の上から地響きを打たせつつ数歩をもってトロヤまで駛けて来るというふうである。しかしイリアスには、きわめて顕著な合理的統一がある。いかなる神の描写も、神を人から区別する注意深い用意を欠いてはいない。神の世界は常に神の世界であり、人の世界は常に人の世界である。そうしてそのおのおのの世界がそれぞれ自らの立場においてきわめて合理的なのである。のみならず、その合理的な世界を描くに当たって、古いギリシア人はすばらしい芸術的表現の力を見せた。時、所、心理的推移、などにおける厳密な統一。事件全体を総括する構図の力強い確かさ。急所のみを択ぶ巧妙な材料の取捨。描写の誇張なき素直さ。言葉の簡素。すべてこれらの精練せられた技巧は、我々の目にも驚嘆に価する。この偉大な芸術品の美しさは、「原始的」からははるかに距たっている。しかるに古事記の美しさは、なお「原始的」から脱してはいない。たといある部分にi例えば神々の性質や描写の直観的なところに――類似が認められるとしても、「芸術品」としては非常に異なるものである。
上代人の想像力は統一の作用において弱く、従って大きい複雑な世界を力強く浮き彫りにするということはできなかった。しかしそれは直観的な豊かさを持たないということではない。古事記の描写は「豊富な直観を弱い統一力によってまとめた」という印象を与える。想像力が「形象をもってする思惟」であると言い得られるならば、ここに働く想像力は、横溢せる形象をもってする力弱い思惟であるとも言われよう。その描写は確かに大いさにおいて欠けている。しかしその直観的な新鮮さにおいては実に捨て難い美しさがある。例えば、
(194) 国わかく浮脂《うきあぶら》の如くにして、くらげなす漂へる時に、葦牙《あしかび》の如|萌《も》えあがるものによりて成りませる神……
という描写には、水よりもはるかに濃厚であってしかも固体とならない浮脂のどろどろした感触や、形あってなきがごとき柔らかいくらげの水に浮いた感じや、また沼沢地の泥の間から勢いよく萌え出てくる葦の芽の力強い生の感じなどが、きわめて巧みに用いられている。天地創造前の世界の状態をこれほど感覚的に鮮やかに描いた例はない。「大地は形なく空虚であった。その深みの面《おもて》には闇があった。そうして神の霊が水の面《おもて》に動いていた。」これは創世紀巻頭の創造前の世界の描写であるが、しかしそれらは大地から形と物と光とを捨象した消極的な描写であって、積極的に渾沌の世界を描いたものでない。ギリシア人の chaos はそれよりは具象的であった。彼らは地と海と空との渾融した、固形でもなく流動体でもなく透明でもない渾然たる状態を想像した。しかしそれも思想的な有である点において創世紀と変わらない。シナ人に至っては、書紀がその巻頭に引用した「渾沌如鶏子」のごとく全然思想的な比喩をもって語っている。これらに比して古事記の描写は、とにかく最も具象的な、最も鮮やかなものである。
しかしこれが創造説という立場から見て優れた描写であるとは何人も思うまい。天と地との大なる原形を描くに浮脂とくらげは適切でない。上代人は確かにその直接経験をもってその空想を語った。が、それは実に愛らしい、小さい形象であって、天地の大いさを現わすに足りなかった。全局を見渡す力が足りない。釣り合いをとる力も足りない。この弱点は、大きい場面を描く場合に、しばしば現われてくる。例えば彼らは多数の神々の騒擾を描くに、
万《よろつ》の神の声は、さ蝿なす皆|満《わ》き、
という。さ蝿の群がり騒ぐありさまは、その感触において確かに「騒擾」を現わすに足りる。しかし天地に満ちわたった万神の騒擾を現わすには適当でない。
(195) 右の二例はたまたま比喩にのみ傾いているが、ある事件全体の描写についてもこのことは言えるであろう。例えば国土創造を物語るために男女二神の交合を描く。「創造」ということをこれほど生の力に即して描いた例は、他にはない。が、同時にそれは国土〔二字傍点〕創造というような大きな出来事には不向きになっている。また天と地との交渉を描くに際して、両者の関係をただ一本の矢によって現わす場合がある。地上から射た矢が天の安河原に届く。高木の神がその矢を同じ穴から〔五字傍点〕突き返す。これは確かに「目に見えるように」描かれている。しかしそれは天と地との間の大きい交渉を表わすにはふさわしくない。この種のことは英雄の事蹟を物語る場合にも同様に認められる。日本武の尊は、童女に扮して熊曾を討つ時も、焼津の野で火攻めに逢う時も、常に一人〔二字傍点〕で働いている。またその「一人」という所に物語の核心があるのであって、もし軍衆がともにあれば、これらの説話は成立しない。すなわち語り手はただ英雄の一身にのみ注意を集めて、その事蹟の含む大きい意味や、その事蹟の背景としての軍衆の行動などを、全然眼中に置かないのである。
この弱点がほとんど現われて来ないのは恋愛を描く場合のみである。そこでは事件が私人的であるために全局を見渡す力はいらない。従って釣り合いの破られる怖れもない。上代人の直観の力は、外なるものを直ちに内なるものとするその単純さをもってしてもなお恋の心理を知るに十分であった。だからすべての恋物語は、心理的な統一によって豊富な直観をまとめている。古事記の最も美しい部分が恋物語であるのも不思議はない。前にあげたいざなぎの命の黄泉下りの内の「殿より戸をあげて」いざなみの命のいで向かう場面のごときは、あれだけ離せば美しい描写である。その他、大国主の神の関係するすべての恋物語、天孫を中心とする二つの恋物語、また三輪の神や天の日矛や春山霞男などの恋物語は、すべて皆美しく描かれていると言ってよい。人代の恋物語に至っては言うまでもなかろう。(196)ことに佐保姫、石《いわ》の姫、女鳥の王《みこ》、軽の郎女、などを女主人公とする物語は上代人の想像力の最も美しい結晶である。
ここに上代人の直観の特徴がある。彼らにおいて感覚的に知覚せられるものは同時に心の現われを意味した。従って彼らは心を描くために感覚を描いた。その際彼らは、最も多く心情のわななきを含んだ感覚を択び出すゆえに、簡単な描写をもって長い内容を暗示することができる。例えば、
天皇《すめらみこと》その 謀《はかりごと》を知らさずして、その后《きさき》の御膝《みひざ》を枕《ま》きて御寝《みね》ましき。ここにその后《きさき》、紐小刀《ひもがたな》を以て、その天皇の御頸《みくび》を刺さむと、三度|挙《ふりあ》げたれども、哀《かな》しき情《こころ》に忍《た》えず、頸を刺しえずて、泣く涙|御面《みおも》に落ち溢《なが》れき。
のごとき、后の愛に信頼する天皇の心と、二つの愛に迷う后の心とは、「后の御膝を枕して眠られる」という姿と、「小刀を振りあげつつ悲しみの涙を流す」という姿とによって、きわめて明らかに現わされている。また、反逆者に従って、焼かるべき稲城にはいった后《きさき》に対しての愛着も、
汝《みまし》の堅めしみづの小佩《をひも》は誰かも解かむ。
というごとき一語に、実に力強く現わされている。これらの描写は、ただその瞬間の心を現わすのみならず、またその愛の心の過去の経験全体をも暗示するのである。
愛に関連する描写にはすべてこの種の特徴がある。女鳥の王の殺戮の際に、その手の玉釧《たまくしろ》を奪掠した男は、皇后|石《いわ》の姫から、
それの奴《やつこ》や、己が君の御手にまかせる玉釧を、膚《はだ》も※[火+媼の旁]《あたた》けきに剥ぎ持ち来て、己が妻《め》に与へつ。
とののしられるが、この「膚も※[火+媼の旁]けきに」の一語は若く美しい女鳥の王《みこ》の血に塗《まみ》れて横たわった酷い姿を思わせるとともに、その女鳥の手から玉釧を奪おうとする男の冷酷な心に対する強い憎しみをも感じさせる。特にこの一語を択(197)び出した上代人の描写能力は軽視せらるべきでない。
古事記の価値を技巧の方面から見れば、右のごとき点にその頂上が認められるべきであろう。
古事記の評価にはなお他の視点がある。気品の高下、内容の深浅、などである。
古事記の調子にはおとぎ話的な無邪気な愛らしさがある。透明で、朗らかで、子供のように罪がない。最初に描かれる原始性交のごときさえもそうである。
その島に天降《あもり》まして、天の御柱を見立て、八尋殿を見立つ。ここにその妹《いも》いざなみの命に、汝《な》が身は如何になれる、と問曰へば、吾が身は成り成りて成り合はざるところ一|処《ところ》あり、と答曰ふ。ここにいざなぎの命《みこと》、我身は成り成りて成り余れるところ一処あり、かれこの吾身の成り余れるところを汝が身の成り合はざるところに刺し塞ぎて、国生み成さむと思ふは如何に、と詔ば、いざなみの命、然《し》か善けむ、と答曰ふ。ここにいざなぎの命《みこと》、しからば吾と汝とこの天の御柱を行き廻り逢ひて、みとのまぐはひせな、と詔ふ。かく云ひちぎりて乃ち、汝《な》は右より廻り逢へ、我《あ》は左より廻り逢はむと詔ひ、ちぎり竟へて廻ります時に、いざなみの命先づ、あなにやし愛《え》上をとこをと言ひ、後にいざなぎの命、あなにやし愛《え》上をとめをと言ふ。各言ひ竟へて後に、其《その》妹《いも》に、女人《をみな》先づ言ふはよからず、と告曰ふ。しかれどもくみどに興して、子水蛭子を生みき。
この描写の無邪気さは、やがて古事記全篇を通ずる無邪気さである。ここにおいて古事記の気品は「貴さ」と「卑しさ」との対立を絶した天真な心の、無意識の貴さを見せていると言える。
もとより古事記にも前後の調子の相違はある。神話的色彩の濃厚な部分では、兎や鼠や魚や鳥などが人間に交じっ(198)ていろいろの役目をつとめても、また神が丹塗りの矢となり、玉が女と化し、女が蛇に姿を変えても、それが不自然であるという感じをまるで与えないほどに、物語全体がおとぎ話的である。しかしこの調子は後半に至って漸次弱まり、この種の物語を插む場合に、特に古い話として断わっておく必要が生じた。息長帯姫の渡海に「魚が船を負うて渡った」というのが、歴史的伝説に現われたおとぎ話の調子の最後である。後半を支配するのは、自然児らしい怒りや憎み、あるいは田園的な愛情の歓びや悲しみであって、おとぎ話的とは言えない。この調子の変化は、全体の構図が「歴史的排列」に基づいている点から考えても、きわめて自然のことである。が、この変化にかかわらず、天真から出た気品は依然として変わりがない。あらゆる恋愛の描写は、たとい兄妹相姦であっても、透明にして朗らかである。あらゆる争闘の描写も、弑虐と残虐とを問わず、常に同じく透明にして朗らかである。
ここには一例として復讐と争闘の物語をあげよう。七歳の目弱《まよわ》の王《みこ》は、讒者を信じて父を殺した穴穂の御子を、――己が母である父の妻をば、父の流した血のなかから取り来たってその后とした穴穂の御子を、――その寝殿において刺した。その事件は次のごとく描かれている。
天皇《すめらみこと》神牀《かむとこ》に坐《ま》して昼《ひる》寝《みねまし》き。かれその后《きさき》と語《かた》らひて、汝《みまし》思ほすことありやと曰《のりたま》ひければ、天皇の敦《いつくしみ》深《ふか》ければ何思ふことあらむ、と答曰《まをしたまひ》き。ここにその大后《おほきさき》の先《さき》の子《みこ》目弱《まよわ》の王《みこ》、是年|七歳《ななつ》になれり。この王、その時に当りてその殿《との》の下《もと》に遊びき。されど天皇《すめらみこと》その若き王《みこ》の殿の下《もと》に遊べるを知《しろしめさ》ずて、大后に詔《の》りて、吾は恆に思ほすことあり、何《なに》となれば、汝《みまし》の子《みこ》目弱の王、人と成りたらむ時、吾《あ》がその父王《ちちみこ》を殺《し》せしと知らば、還《かへ》して邪《きたな》き心《こころ》あらむか、と言《のりたま》ひき。ここにその殿の下に遊べる目弱の王、この言葉を聞きとりて、便《すなは》ち天皇の御寝《みねませる》を伺ひて、その傍なる太刀を取りて、その天皇の頸《みくび》を打斬《うちきりまつ》りて、つぶらおほみが家に逃げ入りき。
(199) ここに語り手は三人の人物のいずれに対しても同様の同情を注いでいる。彼は自ら知らずして「去私」である。もとより上代においても、法律的に罰すべき行為と是認すべき行為、あるいは道徳的に排斥すべき行為と賞讃すべき行為の差別はあった。しかし作者はその種の差別に束縛せられることなく、ただ作中の人物に同化して、その感情のままに動いている。このことは次の条に至ってなお一層明らかである。
ここに大長谷《おほはつせ》の王子《みこ》、其当時《そのかみ》童男《をぐな》なりしが、この事を聞かして慷〓忿怒《うれたみいかり》、乃ちその兄《いろせ》黒日子の王《みこ》の許に到《いた》り、人《ひと》天皇を取《とりまつ》れり、如何にせまし、と曰《まをしたま》ひき。然るにその黒日子の王驚かずて怠緩の心あり。ここに大長谷の王、その兄《いろせ》を詈《の》りて、一《ひと》つには天皇にまし一つには兄弟《はらから》にますを、何《な》ぞも恃心《たのもしげ》なく、その兄《いろせ》を殺《し》せるを聞きて驚かずて怠るや、と言ひて、即ちその衿《くび》を握《と》りて控《ひ》き出で、刀《たち》を抜きて打殺したまひき。またその兄《いろせ》白日子の王に到りてさきの如《ごと》状《ありさま》を告《の》るに、また黒日子の王の如|緩《おほろ》かなりき。即ちその衿を握りて引率来《ひきゐき》て、小治田《をはりだ》に到り穴を掘りて立ちながらに埋みしかば、腰を埋む時に至りて二つの目走り抜けて死にき。また軍《いくさ》を興《おこ》してつぶらおほみの家を囲みたまひき。かれ軍《いくさ》を興して待ち戦ひ、射出る矢|葦《あし》の如来散る。ここに大長谷の王《みこ》、矛《ほこ》を杖としてその内に臨みて、我《わが》相言《あひい》へるをとめは若《も》しこの家にありや、と詔《のりたま》ふ。ここにつぶらおほみ、この詔命《みこと》を聞きて自ら参出《まゐい》で、佩ける兵《つはもの》を解きで八度拝み、白者《まをしけるは》、さきに問ひ賜へる娘から姫〔三字傍点〕は侍《さもら》はむ、また五|処《ところ》の屯宅《みやけ》を副へて献《たてまつ》らむ、然るにその正身《むざね》参向《まゐこ》ざるゆゑは、古より今に至るまで、臣連《おみむらじ》の王《みこ》の宮に隠《こも》るは聞けど、王子《みこ》の臣《おみ》の家に隠《こもりませ》るは聞かず、ここをもて思ふに、賤奴《やつこ》おはみは力をつくして戦ふとも更に勝つべくもあらず、然れども己を恃《たの》みて随家《やつこのいへ》に入りませる王子《みこ》は、死ぬとも棄てじ。かく白《まを》してまたその兵《つはもの》を取りて、還り入りて戦ひき。かれ力つき矢もつきぬれば、その王子に白けらく、僕《あ》は手|悉《ことごと》に傷つき矢またつきぬ。今はえ戦はじ、如何にせむ。その王子、然(200)らば更にせむすべなし、今は吾を殺《し》せよ、と答詔ふ。かれ刀をもてその王子を刺し殺し、乃ち己が頸をきりて死にき。
明らかに語り手は復讐欲に燃えた大長谷の王の感情にも同情を注いでいる。しかし稚い目弱の王のために身命を犠牲にするつぶらおおみの感情には、一層強い同情を注ぐのである。ここには弑虐を特に問題とする態度はない。またある点を特に誇張する偏頗な心もない。語り手が本能的につとめるところは、材料そのものに最もよく沈潜して、それを最も端的に現わすことである。彼の天真な心は右の材料から烈しい復讐心と勇ましい義侠心とを見いだした。彼は無心にそれらの感情に同じた。そうして無心にその感情を表現した。かくして右の文章は、子供の心のように透明で朗らかである。
右のごとき無心の美しさは、必然に内容の深刻さを欠く。経験の深刻さは常にこの無心を破る反省から、――原始的統一を破る内心の抗争から、生まれ出るのであるが、我々の上代人は、人性に具備するさまざまの性情の、相互の抗争に苦しめられなかった。もとより彼らといえども、この抗争を全然知らなかったのではあるまい。ただそれに煩わされなかったのである。例えば大長谷の王子は、その復讐欲にかられた時には、単純に復讐欲の権化として描かれる。そこに何らの抗争もない。が、復讐欲に燃えたアキレウスはそうは描かれていない。彼の上にはヘクトルを殺すことによって自己が短命に終わるべき運命がかかっている。そうして彼自身もヘクトルの屍を乞う老いたるプリアムの言葉に涙を流した。また例えばつぶらおおみは、稚い目弱の王への同情のゆえに、単純に献身的な義侠心の権化として描かれる。そこには自己を省みるがための抗争はない。が、犠牲の行為の深刻さは、「ヘラス」のために美しい已(201)が娘を捧げるアガメムノンの苦しみのごとく、捨てるものへの愛着が烈しいところに生ずるのである。こう見れば、古事記の深さの欠乏は、また温順にして淡泊なわが上代人の性情に基づくのであって、必ずしも意識の開展の幼稚にのみ基づくのではない。ここにおいて「深刻さの欠乏」という弱点は、その半面に愛らしい田園的情調を伴なうことになる。
古事記の諸物語、特に恋の物語が、その子供らしい無邪気さの内に、常に湿やかな、情け深い調子を含んでいることは、何人も見脱し得ぬほど著しい事実である。あれほど数多い恋の物語の内に、男を翻弄する妖婦や、女に薄情な誘惑者は、一人たりとも現われていない。蛇であった女はある。しかし彼女が怒ったのは男が誓いを破ったからであって、蛇としての妖しい愛情のゆえではない。また多くの女を愛するゆえに愛人を苦しめる男はある。しかし彼らはただ女の、愛の独占の要求を充たさないだけで、どの女をも捨てるのではない。新しい恋人を得たゆえに古い恋人を捨てるという話は、一つも存しない。恋として物語られる限りは、いかなる場合でも、常に真情のこもった、情け深い、正直なものである。これはあらゆる古代民族の文芸に比して、注意すべき特徴ではなかろうか。少なくとも「一人の妖婦」をさえ持たないという一点は、自分の知る限りでは、どの民族にも見られない。
この特徴はまた、古事記に現われた諸英雄の性質においても認められる。彼らはすべて「子供」であるが、しかし常に情け深い。最も残虐に見える二三の英雄さえも、残虐それ自身を楽しむという事はない。すさのおの命の大国主の命に対する残酷な仕打ちも、その末尾の言葉から察すると、「偽悪」である。大長谷王子の殺戮は一見凶暴に見えるが、しかしつぶらおおみを攻め殺す前にはその娘を救い出した。しかもその恋物語によれば、「姿態痩萎」の赤猪子に対してすらも、
(202) 吾《あ》は既に先の事を忘れたり。然るに汝《みまし》志を守り命《みこと》を待ちて、徒らに盛の年を過ごせり。是れ甚《いと》愛悲《いといとほし》。
という。そうして、
心裏《こころ》に婚《め》さまく欲《おもほ》せども、その極《いた》く老いぬるを憚りて、え婚さずて御歌を賜ふ。その御歌に曰く、
ひけたの若栗栖原《わかくるすばら》若くへに率《ゐ》寝てましもの老いにけるかも
かれ赤猪子の泣く涙、悉《ことごと》にその服《け》せる丹摺《にずり》の袖を湿しき。その大御歌に答へて歌ひけらく、
みもろに築《つ》くや玉垣築き余し誰《た》にかも依らむ神の宮人
かれ多《さは》なる禄《もの》をその老女《おうな》に給ひて返し遣り給ひき。
これは大長谷の命を情け深い人として現わそうとする物語である。古事記中の最も凶暴な殺戮者をさえも語り手はそういうふうに描こうとする。他の優しい英雄に至っては言うまでもない。
古事記における「深刻さの欠乏」はこの humane な人生の見方によって償われる。古事記全体に漂うている田園的な美しさは、この湿《うるお》える心情の流露である。深刻さを欠くことが一つの弱点であるとしても、この湿える心情を欠くほどに大きい弱点ではない。シナの古い神話伝説を録した史書は、その大きさと深刻さとにおいて古事記に優っているかも知れない。しかし芸術的作品としては古事記に及ばないであろう。なぜならそこには感情が足りない。特に右のごとき湿える心情が足りない。古事記は、「子供」の表現であるとしても、その美しさにおいては、必ずしも「大人」の表現に劣るものではない。
(203) 第四章 歌 謡
一 国民文芸としての上代歌謡
古事記はその物語のために歌謡を使っている。しかしすでに幾度か注意したごとく、これらの歌謡はそれ自身独立の意義と価値とを持っているのである。時には物語から引き離した方がかえって歌謡自身のために有利なこともある。で、ここに古事記及び日本書紀がその物語のなかに〔六字傍点〕記載した歌謡をば、独立した歌謡として観察してみようと思う。
記紀の物語にあっては、歌謡の大部分は、ある神もしくはある貴人に結びつけられている。しかしこれは上代の歌謡が貴族社会の専有物であったという証拠にはならない。歌謡自身の内容から見れば、多くは、貴族と平民とを問わず、上代の民衆に共通な体験を表現したものである。従ってそれは一般の民衆に理解せられ得たのみならず、また民衆の間からも生まれ得たであろう。歌謡の作者が何人であったかを問うとすれば、それは「国民」であったと答えるほかはない。
この点については上代の貴族と平民との間に著しい心理的相違のなかったことも考え合わさねばならぬ。貴族の衣食住が平民よりどれほど贅沢であったかは容易にはわからぬ。恐らく大体において共通ではなかつたかと思われる。漢土渡来の珍奇な装飾品類を所有しまた生産する点においては、貴族は著しい特権を持っていたであろう。しかしそれらは貴族間に珍重せられるよりははるかに強い熱情をもって平民の間に「尊敬」せられた。従ってそれは両者の間(204)の理解を妨げるものでない。また生産的情況について見ても、貴族の肉体は平民のそれより優れてはいても劣ってはいなかった。体力を必要とする点で貴族は農人以上である。貴族の女も、農人の女と同じく自ら糸をつむぎ機を織る。従って貴族には、後の時代におけるごとく、特殊の繊鋭な感覚を生み出すような生理的条件はなかった。従ってその体験の内容が著しく異なるはずはないのである。恋愛、争闘、農作、遊猟、宴楽。すべての歓びと悲しみとは共通である。そこで一人の貴族が人目をそばだてしめるような恋愛事件を惹起したとすれば、それは「貴族」に限られた特殊な事件としてではなく、民衆の心情を代表しやすい地位に立った人の代表的な事件として通用するであろう。だからこの代表的事件を詠嘆する歌は、それが貴族の間から生まれたと民衆の間から生まれたとを問わず、常に民衆の心情の表現である。もし同じような事件がある農村に起こり、その農村からある歌が生まれ出たとしても、それが民衆の間にひろまって行く内には、右のような代表的事件に結合されてしまうであろう。
もとより貴族と平民との間には、漢文化の影響を受ける度の相違によって、知識的な相違が生じていたかも知れない。しかし歌謡の核をなすものは詠嘆であり、詠嘆を生み出す胎は心情である。そうして漢文化の影響はこの心情に対して最も弱かった。もしそこにも何らか影響があったとすれば、それは平民もまた貴族と同じく影響を受け得た範囲においてである。
上代の歌謡が主として貴族社会の所産であり、一般民衆と関係のないものであったとすれば、そこには互いに理解し合うことのできない別種の心生活が存したのでなくてはならぬ。しかし我々はそういう区別を見いだすことができない。しからばこれらの歌謡は、いかなる事情のもとに作られたにもしろ、とにかく一つの「上代人の心生活」から生まれたのである。ある歌は貴族が机上で作ったのであって民衆の間に自然に発生したのではないかも知れぬ。が、(205)その貴族の歌う心情が、民衆の心情を代表し得るものであるならば、それは民衆の心を現わした言語芸術であって、貴族のみの芸術ではない。民衆の間に自然に発生した歌謡といえども、ある一人の作者から出たということはあり得る。それがある一人の作者〔七字傍点〕の作品ではなくして民衆の芸術であるのは、民衆の心がそこに表現せられているからである。作者が貴族であると農人であるとは問うところでない。またその歌が民衆の間に愛唱せられたか否かも問うところでない。自分には記紀の歌は皆民衆の間に愛唱せられたものと思われるが、たといそうでない歌があるとしても、それが民衆の心を表現している限り、民衆の所産と見らるべきである。いかなる民族においても優れた芸術の製作者は少数であって字義通りの民衆ではない。しかもその芸術が「民族」を現わすとせられるのは、少数者が多数者の心生活の代表者であったからでなくてはならない。上代日本民族のみが例外である理由はない。
このことはなお歌謡の詳しい観察によって明らかにせられると思う。とにかく上代の歌謡は、貴族平民を包括する「上代日本人」の心の表現である。
二 上代歌謡の特質
記紀の歌謡の内には音数の規律の整ったものと整わないものとがある。万葉の歌を標準として見るならば、前者は新しく後者は古い。ここにはまず古い方から観察を始める。
この種の古い歌謡は言うまでもなく皆抒情詩である。しかし同じく抒情詩ではあっても万葉のそれとは同趣でない。万葉においては、
帰りける人|来《きた》れりと云ひしかばほとほと死にき君かと思ひて(十五)
(206)のごとく、感情を内から〔三字傍点〕表現したものが多いのに反して、ここにはそういう主観的な感じを与える歌がほとんどない。また万葉においては、
ひむがしの野にかぎろひの立つ見えて顧みすれば月傾きぬ(一)
のごとく、我れと自然との対立を意識した上で、その自然に我れを投入し、かくて自己の感情をば客観的な自然の情景において現わす、という歌が多いが、記紀にはそういう純粋な叙景の歌は少ない。まれにあれば、
さゐ川よ雲たち渡り畝傍山木の葉さやぎぬ風吹かむとす(記、伝二十)
のごとく、形式の整った、恐らく時代の新しい歌である。形式の古いものでは、
倭は国のまほらば、たたなつく青垣山、こもれる倭し、うるはし(記、伝二十八)
のごとく、自然と自己との区別が稀薄であって、ただ単純に己れの国土への愛着を投げ出したものである。これらは純粋な叙景の歌とは言えない。叙景らしいものでも、
千葉《ちば》の葛野《かづぬ》を見れば百千足《ももちたる》家庭《やには》も見ゆ国のほも見ゆ(紀十)
のごとく、「風景に現われた美」を詠嘆してそこに自己の感情を現わすのではなく、家々を含んだ生の場面としての国土を今自分が見晴らしている〔七字傍点〕という、その体験をありのままに表白したに過ぎぬ。
この区別を心理的に見ると、万葉の歌人は自己の感情を自己に集注して自己の内に〔二字傍点〕凝視し、あるいは自己から離して、客観せられた自然の美として、自己に対立する自然において味わうのであるが、上代の作者においては、自己の感情はなお単一な体験として、主観的客観的の分裂に煩わされていないのである。
この区別は技巧上にも見られる。直観性の豊かな、響きの多い、感覚と心とを直指する言葉は、万葉の歌にも上代(207)の歌謡にも等しく用いられているが、しかし万葉においては、そういう言葉によって描かれたおのおのの形象が、一つの情緒に求心的〔三字傍点〕に結びついている。
うち日さす宮道《みやぢ》を人は満《み》ち行けど吾《わが》念《も》ふきみはただ一人のみ(十一)
のごときいわゆる「正述心緒歌」や、あるいは、
あしびきの山河の瀬の鳴るなべに弓月が嶽《だけ》に雲立ち渡る(七)
のごとき純粋に自然を詠ずる歌においでは言うまでもないことであるが、自然を詠じながら恋を歌う歌、例えば、
我妹《わぎも》子が赤裳《あかも》の裾《すそ》のひづちなむ今日の小雨に吾《われ》共《さへ》ぬれな(七)
のごとき、あるいは「寄物陳思歌」と呼ばれる、
吾《わが》せこが浜行く風のいや急《はや》に急事《はやこと》なさばいやあはざらむ(十一)
のごとき歌においても、雨や風は完全に恋の情緒に従属させられている。すなわち中心の情緒が歌の各部を浸しているのである。しかるに上代の歌謡は、むしろ遠心的〔三字傍点〕に、中心の情緒を歌の各部に隠匿している趣がある。例えば望郷の歌とせられている記(伝二十八)の歌、
命《いのち》の全《また》けむ人は、たたみこも平群《へぐり》の山の、くまかしが葉を、髻華《うず》に挿せ、その子
のごとき、確かに異郷において命を失おうとする人の倭を思う悲しみの心を歌ったものに相違なく、またその悲しみも力強く現われているのであるが、しかし歌の表面に現われたものは、「命の全けむ人」と、そういう人にのみ許された故郷の山の初夏の行楽とである。新緑の美しい平群の山にかしの若葉を頭に飾して遊ぶという光景は、悲哀の情緒との関係において、右にあげた雨や風の恋に対する関係ほど密接でない。むしろそれは悲哀と正反対な長閑《のどか》な気分を(208)きわ立たせることによって、自《おのずか》ら現在の悲哀を現わすのである。従ってまた、歌の大部分が平群の山の行楽の詠嘆であるにかかわらず、その光景をそれとして詠嘆するのでもない。その光景は現在の悲哀に触発せられて、その悲哀のゆえに歌われるに過ぎない。明らかにこの歌い方は、純粋に主観的あるいは客観的に歌い出すことのできない心から生まれたものである。
恋の歌から同様な例を取るとすれば、やや形式の整ったものではあるが、
さねさし相模《さがむ》の小野《をぬ》に燃ゆる火の火中《ほなか》に立ちて問ひし君はも(記、伝二十七)
のごときをあげることができる。この歌は現在において君を悲しむ歌である。しかしその恋心と「相模の小野に燃ゆる火」との間には、前の歌におけると同じく、密接な関係がない。ただ「火中に立ちて問ひし」という過去のある情景が、その時の嬉しさのゆえに現在の悲しさを現わすに役立つのである。従ってこの歌は、最後の一句を除くほかことごとくその情景を描くために費やされているにかかわらず、その情景をそれとして詠嘆したのでもない。と言って現在の悲しみが、歌われたものの全体を浸しているわけでもない。万葉の歌人ならばこの種の情緒をこうは歌わない。もしこの歌を「恋の別離」の歌と解して比較するならば、
我せこをやまとへやると小夜ふけて暁《あかとき》つゆに吾立ちぬれし(二)
のごときをあげることができる。作者は別離の悲しみを凝視するゆえに恋の過去を顧みるごとき余裕は持たない。またもしこの歌が遠き恋人を思う歌ならば、
わがせこは幸《さき》くいますと帰り来てわれに告げ来む人の来ぬかも(十一)
のごときと比べていい。ここでも作者はただ現在の心持ちをのみ歌う。またもしこの歌が亡き恋人を思う歌であるな(209)らば、
かざ早の三保の浦わの白つつじ見れどもさぶしなき人思へば(三)
のごときと比べればよい。作者は現在の悲哀のゆえに目前の自然を悲しむのである。またもしこの歌が失われたる恋を悲しむものであるならば、
夕されば物念《ものもひ》まさる見し人の言問《ことと》はすさまおもかげにして(四)
のごときと比べてよい。ここでは過去の追憶も、ただ現在の苦しさのためにのみ歌われるのである。すべてこれらの万葉の歌は、詠嘆すべき情緒を鋭く一点に集中して表現する。ある刹那の感動を内から強く捉えることによって、周囲の情景や恋の歴史などをその感動に浸してしまうのである。それに比べて「問ひし君はも」の歌は、確かに遠心的な歌い方と言えるであろう。
かく上代の歌人には物の見方〔四字傍点〕にもその歌い方〔三字傍点〕にも同一の特徴がある。この特徴のゆえに彼らはある情緒を担う形象をば単純に詠嘆することを好む。
はしけやし我家の方よ雲ゐ立ち来も(記、伝二十八)
乙女の床の辺に、わが置きし剣の太刀、その太刀はや(同)
のごときはその好例である。これらは単純に雲を歌い太刀を歌う、しかも実は恋の歌である。こういう単純な詠嘆のしかたは、後の時代には見られないと思う。
この詠嘆の仕方の単純さが、古い歌謡の第二の特徴である。
(210) ある事件を歌う場合に彼らはその事件の興味ある部分を何の曲折もなく直叙する。例えば、
やつめさす出雲たけるが佩ける太刀つづらさは巻き真身《さみ》なしにあはれ
のごときである。真身なき太刀がこの事件においていかなる役目をつとめ、いかなる感動の原因となったかというふうなことについては何の詠嘆もない。ただ単純に太刀の真身なきを歌って、他のすべてを想像に委せているのである。
またある物象を歌うにしても、
大坂につぎのぼれる石《いし》むらを手越に越さば越し難《が》てむかも(紀五)
のごとき、石むらの与える印象を実に単純に歌ったのみで、自己の情緒をそこに滲み出させることも、石むらの険しさを叙景的に描き出すことも、試みてはいない。
ある特殊な感情を詠嘆した歌においてはこの特徴はさらに著しい。彼らは「内」を凝視しない。従って内なる情緒の濃淡を歌い出しているとは言えない。が、彼らは主観と客観とを区別しない境地において、一つの感情を直接法的〔四字傍点〕に叫び出すのである。例えば、
忍坂《おさか》の大室屋《おほむろや》に、人さはに入り居りとも、人さはに来《き》入り居りとも、みつみつし久米の子らが、頭椎《かぶつつい》石椎《いしっつい》持ち、打ちてし止《や》まむ
いまはよ、いまはよ、ああしやを、いまたにも、あごよ、いまたにも、あごよ(紀三)
という久米歌のごとき、それがどんな歴史的事実を背景とするにもせよ、とにかくある争いの場合の、「やっつけろ」という掛け声のような、一向きな感情を現わしている。こういう直接法は万葉集中の古い歌にもまれに認められはするが、しかしそこに叫ばれるのは多く主観的な感情であって、この歌ほどに単純な詠嘆ではない。この歌においては
(211)自我と大賞との対立はない。「人さはに入り居りとも」の繰り返しは内に燃え立つ敵愾心を鳴り響かせ、「みつみつし」の形容は内なる力の自信を流露させる。そうしてその力の発動は、「頭椎《かぶつつい》石椎《いしっつい》持ち」という単なる外面の描写によって歌われてはいるが、しかもそこに「いまはよ、いまはよ」というあえぐような詠嘆と釣り合うだけの感情がある。それは彼我を分かたない単純な叫び出し方の最もよく成功したものである。
この種の歌においては、その美しさはただその律動にかかっている。感情の捉え方の巧妙、その描写の織鋭というようなことは、ここでは問題でない。そういうことを問題にするにはこれらの歌はあまりに単純である。ただその単純な感情をいかに力強く響き出させているか、いかによくそのあえぐような情熱を言葉の間に生かせているか、それのみが価値をつくるのである。その意味でこの種の久米歌には、太い線のうねっているような美しさがある。
こういう見方からすると、ある歌は物語の背景を払い去った時に初めてその全幅の美しさを示すということができる。例えば、
宇陀の高城《たかき》に鴫《しぎ》羂《わな》張る、我待つや鴫はさやらず、いすくはしくぢら〔三字傍点〕さやる、前妻《こなみ》がな〔傍点〕乞はさば、たちそばの実の長《な》けくを、こきしひゑね、後妻《うはなり》がな〔傍点〕乞はさば、いちさかき実の大《おほ》けくを、こきだひゑね、ええしやこしや、ああしやこしや
のごときである。物語においてはこの歌は、兄宇迦斯《えうかし》が押機《おし》をもって神倭いわれ彦の命を殺そうとし、かえって自らがその押機によって殺されたことを意味するとせられている。恐らくこの物語は、「鴫羂」の「わな」という言葉と密接に連関するものであろう。従ってこの物語の語り手を信用する後の学者が、「以2皇軍1喩v鴫、以2兄猾1喩v鯨、以2天皇1喩2後妻1、以2兄猾1喩2前妻1」とか、「鯨の肉の饒きに皇軍の盛大なることを譬へ、………小さき謀もて害ひ奉(212)らむとせしことのおほけなさよと、兄宇迦斯が所為を賤しめ嘲り賜へる下の意なり」とかと解するのも不思議はない。が、単純な詠嘆を好む上代人が、このような回りくどい比喩を果たして用いたであろうか。継体朝以後の語り手が、古い久米歌の内に「宇陀」なる地名と「鴫羂」なる言葉とのあるのを捉えて、この歌を兄字迦斯征服の伝説に結びつけたということは、いかにもありそうなことである。しかしそれとても既存の歌に対する解釈であって、新しい比喩を作り出したのではない。いわんやこの歌の「こきしひゑね」という言葉が暗示するような古い時代に、そういう直観的でない比喩が用いられようとは思えない。そこでこの歌をそのままに単純な詠嘆として解釈する。それは疑いなく山猟の歌〔四字傍点〕である。宇陀の山上の鴫の通路に当たるところに、一面に羂を張り回して、暁の薄明に沼沢の方へ降りて行く鴫を捕えようとする。羂は恐らく麻か葛かを細くして編んだ網であろう。鴫がそれに首を突き入れてまごついているところを、下に待ち受けて捕えるのである。しかるに待ち受けた鴫は羂にかからないで、「いすくはしくぢら」が掛かった。〓《いすか》の觜《はし》のような牙をむき出した猪が羂の裾に引っかかって、網にまといつかれたのである。そこで猟夫はこの猪を仕留めて、暁の露をふみながらそれを村里へと運んで行く。意外の大猟に興奮した彼は、日ごろ煩いの種であった前妻と後妻との間のいざこざに対しても「何だ、そんな小さい事を」と笑ってしまいたいような寛大な心持ちになって、「さあ女ども、ほしいだけ持って行け」と叫ぶ。その優越の感じにあふれた喜びが、「ええしやこしや」という罵りのような歓呼に現われるのである。かく解する時、この歌には上代人にふさわしい単純な詠嘆としての天真の美が感ぜられるであろう。
が、自分はこの歌が勝利の祝宴の際などに久米の子らによって歌われたことを否定するのではない。右に説いたような喜びを現わす歌としてすでにそれが民衆の間に行なわれていた以上は、歌の内容と関係のない場合にも、ただ(213)「喜びの表現」のために、歌われるはずである。そこでは「勝利」の喜びがこの歌によって現わされたかも知れない。しかしそれはこの歌がその「勝利」を比喩的に歌ったものだという意味にはならない。
右の解釈において「くぢら」を猪と見るのはやや強弁のきらいがある。自分の理由は「いすくはし」が〓觜《いすかはし》と解せられ得ること、及び猪肉を山鯨と呼ぶことの二点に過ぎない。「山くぢら」の称呼が比較的新しいとすれば自分の理由は半ば消滅する。が、万葉においては鯨は主として「いさな」であって「くぢら」ではない。くぢらという言葉の記紀に用いられたのもただここだけである。しからば上代の「くぢら」が鯨だという確証はないわけであろう。また上代人の比喩のとり方がいかに突飛であるとしても、山中の鴫羂と鯨とはあまりに離れすぎる。従って饗宴の美味の内に鴫と鯨肉とが並んでいたためであろうというような想像も必要になる。しかしすでに調理せられた鴫と鯨とから、単に知識的に右のような歌を作り出すことは、他の歌謡から察しても、上代人にふさわしくない。なお「いすくはし」という言葉を勇細《いさくはし》と解して勇魚《いさな》に結びつけるのも妥当とは言えない。「香くはし花橘〔六字傍点〕」のごとく「くはし」は通例名詞のあとにつく。その用例に従って「鯨《いさ》くはし鯨《くぢら》」と解しては意をなさない。かく従来の解釈とてもその強弁である程度が右の解釈に劣らないとすれば、歌謡の内容にとって最も自然である右の解釈は最も妥当と認めらるべきであろう。
この種の歌は物語から離して味解されねばならぬ。それを物語の通りにその場で作られた歌と考え、歌の内容をもそれに合わせて解釈しようとするのは、この種の物語を精確な史実の報道だと信じ込んでいるからである。そういう信仰からは我々はまず自由にならなくてはならない。そうして歌謡自身の内容に即して解釈しなくてはならない。そういう態度にとっては、この「宇陀の高城」の歌はよきテストケースになると思う。この歌を実際に神倭いわれ彦の命の即興歌であると考えたり、その饗宴の席に鴫と鯨の肉とが並んでいたであろうと考えたりするのは、神武天皇の(214)史蹟を決定しようとして騒ぎ回るのと同じ程度のことである。我々はそういう騒ぎを見ると、どうもふき出さずにはいられない。
しかしそれだからと言って、記紀の記載する歌がすべて史的事実の背景を持っていない、と主張するのではない。ある歌はそういう史実の反映として、それを利用している物語よりもかえって古いかも知れない。前にあげた「忍坂《おさか》の大室屋」の歌のごときも、その大室屋に立てこもった反乱事件を背景としているのかも知れない。従ってそういう事件の際に、即興的に〔九字傍点〕この種の歌が作られるということも、全然なかったとは言えぬであろう。しかしそういうことを我々に判定せしめるものは、それぞれの歌の内容である。ある事件の後に、それを追想して詠嘆したものであるか、あるいはその事件を前にして、現前の興奮を歌として放出したものであるか、それは歌自身が我々に示してくれる。今我々が問題にしているのは、興奮を直接に放出したような歌である。そういう歌は、それを利用している物語からひき離しても、何かの事件とのつながりを思わせる。例えば、
御間城入彦《みまきいりひこ》はや、己《おの》が命《を》を殺《し》せむと、ぬすまく知らに、姫なそびすも(紀五)
のごとき歌は、御間城入彦の命の運命に関する民衆の憂いを直接に投げ出したものとして、国家統一時代のある争乱の前に実際に民衆の間から生まれたものであろう。また、
いざあぎ、いさち宿禰《すくね》、たまきはる内《うち》の朝臣《あそ》が、頭椎《かぶつち》の痛手《いたで》負はずば、にほとりの潜《かづ》きせな(紀九)
のごときも「内《うち》の朝臣《あそ》」と呼ばれる英雄の事蹟に伴なって実際に発生した歌に相違ない。なお「内《うち》の朝臣《あそ》」に関したものでは、
をち方《かた》の、あらら松原、松原に渡り行きて、つく弓にまり矢をたぐへ、うま人《ひと》はうま人どちや、いとこはもいと(215ど、いざ合はな吾《われ》は、たまきはる内《うち》の朝臣《あそ》が、腹《はら》の内《ち》は砂《》あれや、いざ合はな吾は(紀九)
というのがある。物語では「いざあぎ」の歌の前にあって内の朝臣の敵が歌ったものとせられている。歌の中でも「腹の内は砂あれや」と内の朝臣をあざけっている。歌の形式のととのつている点からいうと、これまでにあげた諸歌よりははるかに新しいが、内の朝臣をののしる歌が内の朝臣の英雄化せられた後に生じ得ないとすれば、少なくともこの歌は内の朝臣が活動していた時代に、すなわち頭椎《かぶつち》の太刀が造られ国家統一の事業がなお続行せられていた時代に、戦陣の間から生まれ、それが後代に至って潤色せられたものに相違ない。もしこの歌からその原形を透見し得るとすれば、それは単純な感情の放出としてもよき例である。
彼我を一にして歌う、直接法的である、という二つの特徴を自分はあげた。しかし直接法的であるということは古い歌謡が比喩の類を用いなかったという意味ではない。比喩はもちろん盛んに用いられている。しかしその比喩にも上述の特徴と相応ずるような単純さや直接性が認められるのである。
上代人がその単純な詠嘆の内に自然物を人に喩えようとする傾向のあったことは、
尾張に、直《ただ》に向へる、尾津の崎なる、一つ松、あせを、一つ松、人にありせば、太刀佩けましを、衣きせましを、一つ松、あせを(記、伝二十八)
という歌によって明らかである。前半においては遠く尾張を望む広濶な海辺の一つ松の姿が、「直に向へる」の一句によって巧みに直写せられている。が、その松に対する嘆美の情を現わすために「人にありせば」と歌い出すのは、松の姿に対する愛着を幽かながらも人間的な形において豊富にしようと試みている証拠である。それを「雄々しい」と(216)形容する代わりに「太刀佩けましを」と歌った心理には、「一つ松あせを」という繰り返しが印象すると同じき素朴な柔らかさがある。しかしこれはまだ松を人に喩えたのではない。松に対する愛情〔二字傍点〕を人に対する愛情〔二字傍点〕に喩えたまでである。
一歩進むと、外形や感触の似寄ったものを形容として用い始める。例えば、
つぎ苗生《ねふ》山代女《ふやましろめ》の、木鍬《こくは》もち打ちし大根《おほね》、根白の白腕《しろただむき》、纏《ま》かずけばこそ、知らずとも言はめ(記、伝三十六)
のごとき、前半においては白い腕を形容するための大根が歌われる。前に説いた「人にありせば」の歌は似寄った「感情」をもって他の感情を形容したのであるが、ここでは似寄った「物」をもって他の物を形容するのである。が、この二つのものも、双鳥を夫婦に比するような概念的な意味で比べられるのではない。双鳥と夫婦は「二つ並んで離れない」ということが共通であるために種々の似寄った情緒を呼び起こすのであるが、白い腕と大根の白い肌との類似はただ感覚的であって、意味の上のことではない。そうしてこの感覚的な結合点を堺として前後に歌われるものも、意味の上では連絡がなく、ただ漠然とした連想によって連絡するのである。すなわち前半に歌うところは、つぎ苗の生うる山代の野に、(恐らく白い腕の持ち主である)女が、木鍬を持って大根を作っている光景であり、後半の詠嘆は、「白い腕にこの体を抱かせたのでなければ、そ知らぬ顔もしていられよう」という女への愛情の表白であって、後半の恋に前半の背景を結びつけるのは白い腕と山代女との間のきわめてゆるやかな連想に過ぎない。
が、こういう連想すらも次の歌においてはやや困難になる。
つぎ苗生《ねふ》山代女《やましろめ》の、木鍬《こくは》もち打ちし大根《おほね》、さわさわに汝《な》が言へせこそ、打ち渡すやがはえなす、来入りまゐ来《く》れ(記、伝三十六)
(217)ここでは「大根」が「sわさわ」と並ぶ。大根の持つ清らかな感触を「汝が言葉」のさわやかな印象に比したのである。恋を許す女の言葉を大根の白い清らかさで形容するなどは、古い歌でなければ見られないおもしろさであろう。なおこの歌においては「打ち渡すやがはえなす」の一句も比喩として用いられている。が、木鍬を持って畑にある女の姿と、女の言葉に歓喜してまといつくような心持ちで女のもとに忍んで来た男の心とは、前の歌におけるほどすぐには結びつかない。畑の女がこの恋の相手で「ある」とも見られ、また「ない」とも見られる。この漠然たる不即不離の関係は、もともとこの歌の作者が漠然たる感情によってこの両者を結びつけたことに起因するのではなかろうか。またこの歌のおもしろみも、知識的に明白な対照を試みていないところに存するのではなかろうか。
もっともこの歌の解釈は一般には右のごとき自由なものでない。もともとこの歌が石《いわ》の姫嫉妬の物語において大雀の命の詠嘆として記されているために、解釈もまた物語に合うように下されているのである。例えば「さわさわ」という言葉は大根の「清爽《さやさや》」を意味するとともに石の姫の嫉妬の「喧擾《さわさわ》」をも意味するという。すなわち「喧擾《さわさわ》」と言い起こすために音のみ似かよって意味のまるで異なった「清爽《さやさや》」を連想し、そのために大根を引き、さらにその序として山代女を持ち出したと見るのである。しかしこの歌を独立したものとして見れば、そういう無理な解釈はいらない。また「やがはえなす」という言葉も、大雀の命が石の姫のあとを追うありさまの形容とすれば、供奉者の盛大なことをでもさすと見なくてほならないが、しかしこの解釈の典拠として引かれた祝詞の文においては、「やがはえ」は樹木茂盛の意味にとれるとともに、また「鞠躬如」という心持ちを現わし得る蔓性の植物の名であるとも解せられる。そうしてその方がこの歌にはつきやすい。上代の他の歌謡に多数の人衆の並び立つありさまなどを詠み入れた例がない以上、この歌のみにその種の解釈を許すのは妥当でない。のみならず、これを一つの独立した恋の歌として見れば、(218)それは必要でもない。もしこの言葉を書紀の「ながはえ」に従って「長延《ながはへ》」と解し得るならば、言葉の意味からも、植物の名としても、右の解釈には一層都合がよいであろう。
ここでは自分は前の解釈に従って論歩を進める。右の歌の前半は単に「さわさわ」と言い起こすための序ではない。後半の詠嘆にある感情の色をつけるための、異なる内容を持った他の詠嘆である。それが「さわさわ」に続くとともに「白き腕」にも続くのは、ただ言葉の連想にのみよるのではなくして、恋の情緒の表現の上に伴奏として〔五字傍点〕の効果を持ったゆえであろう。従ってこの前後の句の対立には、比喩としての意味は認められないのである。
比喩なるものは、直接に言わむとするところを力強く豊富に表現するために、内的に似寄った〔七字傍点〕他の表象を付加することである。だから松に対する愛を「衣きせまし」という言葉で現わし、白い腕や女の言葉のさやけさを大根によって描き、女のもとに忍ぶありさまを「やがはえなす」という類は、明らかに比喩である。が、これらの比喩は、右に例示したごとく、多くは局部的〔三字傍点〕であって歌全体にかかるものではない。女が畑を打つ光景と恋の情緒との間には著しい内的の類似〔五字傍点〕は存しない。従ってこれを比喩とする見方を取る者は、この両者を結びつけるために、中間に置かれた局部的な比喩の上へ前段の表象全体が引つかかるのだと考える。すなわち女が畑を打つ光景は、ただ大根と言い起こすための、序詞として〔五字傍点〕描かれたと見、かく見ることによってこの歌の美的統覚が得られるとするのである。しかし自分はこの見方を疑う。前段の表象をほとんど無意味と見るまでに軽視して、比喩のみを重視するのは、歌全体をゆがめるものである。比喩は単に部分的に働くに過ぎない。歌の前半と後半は、おのおの独立に、内的類似なき形象を歌って、ただ情緒の上で漠然たる交響を目ざしているのである。そうしてその間を、局部的な比喩によって、きわめてなだらかに結びつけているのである。もしそうでないならばこの歌はその素朴な活力を失ってしまうであろう。
(219) 比喩の使い方の素朴さにおいてこれらの古い歌はシナの古民謡と著しい対照をなしている。詩経の多くの詩が示すように、シナ人は比喩によって前後均斉《シンメトリイ》の詩形をさえも作り出した。例えば詩経巻頭の、
関々雎鳩《かんかんしよきゆう》、在河之洲《ざいかししゆう》、窈窕淑女《ようちようしゆくじよ》、君子好逑《くんしこうきゆう》
参差※[草がんむり/行]菜《しんしこうさい》、左右流之《さゆうりゆうし》、窈窕淑女《ようちようしゆくじよ》、寤寐求之《ごびきゆうし》
のごとき、二つの表象列が前後に規則的に並べられ、しかもその間の内的類似が注意深く強調せられている。ことに後者は、「柔らかい※[草がんむり/行]菜《あさざ》」と「しとやかな女」、「参差たる※[草がんむり/行]菜の中から特に柔らかそうなのを左顧右眄して〔六字傍点〕さがし流《もと》めること」と「多くの女の中から特に美しく淑《しと》やかな女を寝ても覚めて〔七字傍点〕もさがし求めること」というふうに、すみからすみまで対応させている。この注意深い比喩に対して前にあげた二三の歌の比喩のごときは実に単純をきわめたものである。
しかしこの単純さと、漠然たる情緒の交響を目ざす心とは、かえって隠喩(Metapher)としてある成功を見せている。隠喩とは主たる表象を後方に斥け、それと内的に類似する他の表象を表面に出すやり方である。無意識的に情緒によって表象を択み出す上代人にとっては、平行せる二つの表象を都合よく相応ずるように対等に並べ立てるよりも、むしろ情緒の表現に適した「一つ」の表象をもって終始する方が容易であったろう。例えば、
八田《やた》の一本菅《ひともとすげ》は、子持たず立ちかあれなむ、あたら菅原《すがはら》、ことをこそ菅原《すがはら》と云はめ、あたら清《すが》し女《め》
のごときである。子は「竹の子」におけるごとく植物の芽をも意味する。従って八田《やた》と清《すが》し女《め》との間に插まれた詠嘆は、女を意味する一本菅をもって貫ぬかれている。「ことをこそ」の一句は、言葉で菅原と言っただけでは言い足りないという心を現わしたものであろう。かく女を後方に退かせて、野に立てる一本菅を表面に出す歌い方は、明らかに(220)隠喩である。もしここに女を対等に出せば、
中谷有〓《ちゆうこくゆうたい》、嘆其乾矣《かんきかんい》、有女〓離《ゆうじよひり》、〓其歎矣《がいきたんい》、〓其歎矣《がいきたんい》、遇人之艱難矣《ぐうじんしかんなんい》
という詩経の詩のごとく、少しく味わいが理智的になる。この詩はまず、「山間《やまあい》に益母草《めはじき》がある、乾き萎れている」と詠嘆し、それと対等に「女が夫に離れて、嘆き悲しんでいる」と歌う。後者はあたかも注釈のごとくに響く。もし前者に後者の意を含めることができれば、詩としてはさらに美しいであろう。
隠喩において、後方に退かせられる主たる内容がますます大きくなり、それを適切に現わし得る前面の表象がますます小さくなれば、芸術としてはますます美しい。そうしてこの大小の間隔が極度に広がれば、それは象徴(Symbol)と名づけられるものになる。上代の歌謡にはこの間隔の大いさによって象徴詩と呼ばれそうなものがないでもない。しかしその間隔は、主たる内容が非常に大きくなったためではなく、むしろ表面へ出る表象が非常に小さくなったために起こっているのである。もしくは主たる内容とそれを表現する表象との間に非常な突飛な種類の差異があるために起こっているのである。正当な象徴においては、表面へ出る表象が小さく見えるのは、内容が無限に大きいためであるが、ここでは内容は常に恋であり、あるいは単純な争意である。従ってそれを現わす表象は、単純な恋や争意に比べてさえも非常に小さく見えるものでなくてはならぬ。かくして生まれた歌には真実の象徴が持つような深みはない。しかしその表現法がやや象徴的〔三字傍点〕であるということは言えようと思う。
左にあげる三例は大体隠喩と見るべきものであろうが、右に言ったような間隔は、一本菅の歌よりも大きい。女性のある感じを一本菅に比する場合にきわめて自然にそれを受け入れる我々の心も、男性の緊張した力の活動を韮《かみら》や薑《はじかみ》や細螺《したたみ》に比する場合には、驚きに似た感じを受けずにいられない。
(221) みつみつし、久米の子らが、垣もとに、粟生《あはふ》には、韮《かみら》ひともと、そのがもと、そねめつなぎて、撃ちてしやまむ
みつみつし、久米の子らが、垣もとに、植ゑし薑《はじかみ》、口ひびく、我は忘れず、撃ちてしやまむ
神風《かむかぜ》の、伊勢の海の、大石にや、い延《は》ひ纏《もと》へる、細螺《しただみ》の、細螺の、あごよあごよ。細螺《しただみ》の、い延《は》ひ纏《もと》へり、撃ちてしやまむ、撃ちてしやまむ(以上三首、紀三)
第一の歌は小さい韮を引き抜く心持ちをもって敵を撃つ心持ちを歌い、第二の歌は薑《はじかみ》の味をもって敵を憎む心持ちを現わし、第三の歌は細螺が大石にまといつく状をもって敵と戦う状を歌ったのである。これらは、久米歌として兵士の間に歌われ、従ってまた民謡としても行なわれていたものに相違ない。小さい植物や魚貝に非常な親しみを持っていた上代人は、この種の歌い方によって人間殺戮の凶暴な意図を現わし得たと感じたのであろう。しかし我々には、その同じ感じは伝わって来ない。我々の方で韮や薑や細螺に対する天真な感触を失ってしまったからでもあろうが、人間の争闘そのものが、直接の描写を不可能ならしめるほどの巨大な内容ではないからであろう。がまた、人間の争闘心を表現するのに、かほどまで愛らしく小さい表象〔九字傍点〕を用いたという例は、ほかにはあまりないようである。これはむしろ上代の日本人の、和《なご》やかな柔らかい心を示す証拠になるかも知れない。
右の諸例よりもさらに象徴的なものには、
いざ子ども、野蒜《ぬびる》摘《つ》みに、蒜《ひる》つみに我が行く道の、香《か》ぐはし花橘《はなたちばな》、上枝《ほつえ》は鳥《とり》居枯《ゐか》らし、下枝《しづえ》は人《ひと》取枯《とりか》らし、みつぐりの、中《なか》つ枝《え》の含蕾《ほつもり》、赤ら乙女《をとめ》を、誘《いざ》ささば宜《よ》らしな(記、伝三十二)
という歌がある。美女にいどむことをすすめる歌である。が、その女の美しさを形容するために縁の遠い蒜摘みや橘が歌われている。のみならずその蒜つみは、「いざ子ども」という出発の情緒から歌われ、橘については鳥や人の狼藉(222)までも歌われる。作者の感情は明らかに美女の肌より遠のいて、野蒜摘みや花橘そのものに傾いているのである。が、いかなる人もその感情を流露させる詠嘆の内に全然無意義な言葉を連ねるものではない。この歌もそれを歌った上代人にとっては、美女の形容として適切であったのであろう。ではそこに現わされたのは何か。それは、自然物採集に強い情熱を持っていた自然児の、心臓と感覚とである。それが彼らにとって女の美しさの感動に似ていたのである。我々は幼いころの茸狩《たけがり》、潮干狩、土筆取りなどの興奮を想起して、彼らの心持ちに同感することができる。「いざ子ども」の呼び掛けは、歌全体を統括する言葉でもあろうが、同時にまた力強く野遊びへの出発の歓びを響かせている。繰り返された「蒜つみ」の言葉にも、自然児のあの情熱が、(すなわちたとい野蒜のようなささやかなものでも、それをさがす心にはその時の唯一の生の目的であって、その単純な強い生の統一のゆえにそこには野蒜三昧があるとも見らるべきあの情熱が、)含まれているのである。そこで突如として現われる花橘も、またこの心持ちの内に浮かせて見なくてはならない。彼らが野蒜三昧に入って野山を心行くまで歩き回った後に、ふと恍惚からさめて渇を意識したとする。自然児たる彼らはたちまち渇三昧に入って、およそ酸味を帯びた果物の類は山海のあらゆる珍味よりも、(この瞬間にはあらゆる美しい女の肌よりも、)望ましいと感じるであろう。その時突如として道の辺に蜜柑の木が見いだされる。彼らの鋭い喚覚はすでに香果の匂いを喚ぎ、彼らの集中しやすい情熱はたちまちにその絶妙な味わいに躍りかかって行く。その全感覚全意識が「香ぐはし」の一語に含められているのである。彼らはこの香ぐわしさに興奮しつつ花橘の木に馳せ寄って、黄金色の香果をさがす。上の枝は鳥に居枯らされている。下枝は人に取り枯らされている。しかるにその中枝の茂り重なった緑の蔭からは、ちょうど生々《ういうい》しく色づいた黄金の香果が、処女の笑いのごとくにのぞいている。その香果の色と形と肌と匂とに現われた極度に新鮮な感触の上に、彼らの渾身の歓喜が掛かるのである。(223)こういう自然児の単純で烈しい体験を背景として見れば、豊潤な感覚的刺戟お与えるはじらえる美人を、やっと見つけた香ぐわしい果《このみ》によって描くことは、少なくとも彼らにとっては、適切なことに相違ない。だから彼らは女や恋から非常に縁の遠い蒜つみや花橘によって女の美しさを歌い得るのである。そのためにこの歌は、きわめて素朴ではあるが、一種象徴的な趣を具えていると言える。
こういう例は他にも少なくない。右の歌と同じところに記されている歌に、
水たまる依網《よさみ》の池《いけ》の、堰杭《ゐくひ》うち、菱殻《ひしがら》の刺しける知《し》らに、蓴菜《ぬなは》延《くりは》へけく知《し》らに、わが心しいや袁許《をこ》にして、今ぞ悔しき
というのがある。物語の語り手の解釈によれば、この歌は、自分が妻にしようと考えていた女をいよいよ召し出して逢おうとする時に、自分の愛子がその女に恋していると聞いて、残念ながらその恋を讓るという心持ちを歌ったものである。しかしそういう背景は必ずしも必要でない。ただこれが、上代の歌の常として、恋に関係のある「悔しさ」を歌ったものと見られれば十分である。ここにも我々はその「悔しさ」の情緒が、恋とは非常に縁遠い農人の経験によって現わされているのを見る。まず「水たまる」という枕詞は、後代の歌、例えば、
仏《ほとけ》つくる真朱《まそは》足らずは水たまる〔四字傍点〕池田の朝臣《あそ》が鼻の上《へ》を掘れ
というごとく、単に音調の上から(あるいは鼻汁を連想させる諧謔のゆえに)池という言葉〔二字傍点〕についているというようなものではない。むしろまだ因襲的な「枕詞」になっていない生きた描写である。池に水を貯えて耕作に利する農人たちにとっては、水の心配の多い夏期に、池の水の豊かなのを見る時ほど安心と幸福とを感じることはない。のみならず帰化人渡来後の池溝開鑿によって「池」なるものの喜びはなお民衆の心に新しかったであろう。依網の池のごとき(224)も右の機運によって造られたものである。だから「水たまる依網の池」の一句には池水の漫々たる心持ちとともに農人の喜びの漫々たる状もまた響かせてあると見なくてはならぬ。さてそういう満足に浸った農人が、堰杭を打ちに池の中に降り立つ。水に愛情を持った農人の心には、水の冷たさはただ官能の快さのみではない。そこで彼は朗らかにのびた体力を振るって、柔らかい泥のなかに杭を打ち込む。仕事はなだらかに終わる。が、その暢然たる心持ちはいつの間にか足を刺していた菱殻と足にまといついていた蓴菜とによってくずされる。彼は余裕のある心持ちながらも菱殻の尖角の痛さと蓴菜の蔓の煩わしさとに対して腹を立てる。これは比喩ではなくして農人の経験そのままの実感である。それが望みをかけていた女を自分の油断から人に奪われた時の、怒りもできない悔しさと通ずるのである。「わが心」とは女を思う情であろう。「いや袁許《をこ》」とはこの上もなくばかばかしいの意味である。すなわちこの歌は、恋に関係のない一つの悔しさを詠ったあとで、「ああおれの思いはばかばかしかった」と詠嘆するに過ぎない。過去の思いを追懐するのでもなければ女の心を恨むのでもない。しかもそこに恋の悔しさは、きわめてよく表現せられているのである。
こういう表現の仕方を上代人は意識的に試みたのではあるまい。恐らく彼らの素朴な心的状態がその直覚的な取捨によって自然に作り出したのであろう。だから意識の明瞭の度が加わり、統覚の活らきが鋭くなるに従って、この種の表現の仕方もまたすたれて行くのである。このことは前にあげた二つの特徴についても同じように言えるかも知れない。が、たといこれらの特徴が素朴な心的状態の所産であるとしても、同程度に素朴な民族は必ず同様な抒情詩を作り出すというわけではない。そこには民族の気質がある。知識の開明が遅れているわりに感情が豊富であり、感情が豊富であるわりに意力が弱い、というような特殊な状態が、素朴ながらにも個性の著しい一つの気質を作り出し、(225)そうしてその気質のゆえに、上述のごとき特徴をば、ある特殊な朗らかさ、愛らしさ、柔らかさ等をもって実現しているのである。しかしその点は後に論じよう。ここにはただ素朴な心生活が産み出した時代特有のものとして三つの特徴を注意すればよい。
三 形式の発展
さて、これらの古い歌謡は、いかにして形式の整った新しい歌謡に移って行ったか。
長歌、短歌、旋頭歌等の形式は万葉集においては明らかに確定している。記紀の内にもすでに万葉のそれと等しいものが存在する。この形式の発達を漢詩の形式的模倣によって説明しようとする試みも現われているが、しかしそれを歌謡自身の、内から出た発達と見ることは、果して不可能であろうか。
そもそも詩歌の詩歌たるゆえんは、音調上の特殊な注意によって、感情の表出にふさわしい特殊な声音の美しさを言葉の上に作り出すところにある。音の長短強弱〔六字傍点〕を規則的に排列することによって言葉の流れに美しい律動《リズム》をつくり、あるいはまたその律動的な流れの内にある間隔を置いて同じ音を響かせる〔八字傍点〕ことによって一句ずつの独立とその独立した句の間の融合的な連絡をつくる。その律動〔二字傍点〕と韻〔傍点〕とは詩歌に欠き難いものである。シナの古詩においてもこれはすでに十分に発達していた。しかるに日本の歌謡はそれを持っていない。少なくとも歌の作者はそれを顧慮しない。これは詩歌としては実に珍しい例である。この現象は何ゆえに起こったか。恐らくそれは日本語の性質に基づくのであろう。日本語には音の長短抑揚がない。従って詠歌するものは自由にいずれの音をも強めあるいは伸ばすことができる。また日本語においてはすべての音が母音によって終わっている。従って同じ母音の頻出が、あたかも韻の蹈まれてい(226)るような効果を見せる。例えば左の歌のよみ方は、
Uda no takaaki ni (−−(−−(
Sigi-Wana haru. (−−(−−
Waga matuya (−−(−
Sigi wa sayarazu (−−(−−(
lsukuhasi (−−(−
Kuzirasayaru. (−−(−
のごとくすることができる。脚韻もまたiとuとの隔句韻であって、ただ一個所ふみ落としがあるのみである。こういう見方で行けば大抵な歌には律動があり韻がある。例えば「いざ子ども」の歌はabbabccbの脚韻を持っている、「八田の一本菅」の歌もabeebaddの脚韻を持っている、という類である。すなわち母音の多い日本語はたくまずして韻律を持ち得るのである。が、この容易さは同時に韻律の効果の微弱さを意味する。変化の少ない五つの母音が、いかに排列せられたにしても、その印象は単調であることを免れない。同じ強さや同じ長さの音をほしいままに抑揚づけるのでは、本来抑揚のある言葉を巧みに排列したほどの妙味はあり得ない。従って日本語は韻律を発達せしめるには適しない言語である。
しからば日本の歌謡が歌謡たるゆえんはどこにあるか。言うまでもなく音数の関係にある。なだらかで単調な日本語は、三音ないし八音位の短い句の中で、一音と二音との波動によって、軽重強弱等の変化ある音調を出し得るのである。それは主として一定の速度を持った呼吸とその間に発音せられる音数との関係から起こるらしい。そうして、(227)音数の少ない句が軽快な印象を与え、音数の多い句が沈重な印象を与える、という結果になるらしい。この関係によって起こる律動は、一音ごとに存する律動よりも波が大きく、また内なる感情の律動を現わすにも適したものである。例えば、
君を松島、をしまの海人《あま》の
という歌は、通例、(−((−−( (−−((−(という風に発音せられる。しかしこの律動は人の注意を引かない。むしろ、
きみを まつしま をしまの あまの
という「短、長、長、短、」もしくは「軽、重、重、軽、」の律動が、切実に人心を動かすのである。これはさらに二一、二二、二二、二一すなわち重軽、重重、重重、重軽に分解され得る。
上代の歌謡ももちろんこの種の律動によってできている。それは散文と比較すれば明らかである。例えば、
左のみづらに刺せるゆつつま櫛《ぐし》の男柱《をばしら》ひとつ取りかきて、ひとつ火《び》ともして、入り見ます時に、蛆《うじ》たかれとろろぎて、頭《かしら》には大雷《おほいかづち》居り、胸には火《ほ》の雷居り、云々
というごとき散文においては、言葉の流れはなだらかに続いて、ほとんど高低のないゆるやかな波を描いているきりである。しかし、
尾張に直《ただ》に向へる尾津の崎なる一つ松、アセヲ、一つ松、人にありせば太刀佩けましを、衣きせましを、一つ松、アセヲ
のごとき歌になると、これを棒読みにしようとする場合にも、なお言葉の流れを切っている音数の関係に支配せられ(228)る。例えば言葉の意味からちょっと句切りたいと思う個所は、ちょうど呼吸の関係から句切りたくなる個所と一致している。どの句も前の散文におけるほど長くはない。のみならず「一つ松」「佩けましを」などのごとく、否おうなしに区切らなくてほならないものもある。かくてこの歌には、
尾張に ただに 向へる 尾澤の 崎なる 一つ松 アセヲ 一つ松 人にありせば 太刀佩けましを 衣きせ ましを 一つ松 アセヲ
のごとき長短の句による律動が感ぜられるのである。この際句と句の間の休止の軽重も複雑な意味を持つらしい。右の歌において二字開きの個所と一字開きの個所とには確かに軽重の相違がある。従って語数は四、三、四、というふうに進んで行きながら、また四、七、としても感ぜられる。しかし同じ七も三四の場合と四三の場合とで感じが異なっているとすれば、この七は三四の律動を内に含んだ七である。が、さらに進んで考えると、この三と四とがまた内に二一及び二二の律動を含んだものである。「ただに向へる」は三四であるとともに二一二二であって、長短長長と流れつつその(長短)(長長)をまとめて短長と感じさせるのである。従って四三は二二二一であり、五は二二一あるいは二二一である。かく一及び二が基礎となり、その上に三四五七が感ぜられるのであると思う。
古い歌謡にはいずれも右のごとき「長短」の律動がある。しかも特に強く感ぜられるのは句と句の関係である。が、その長短の間に規律があるとは言えない。語数が不定であるから、長と短もまた相対的である。例えば四は三に対して「長」であるが、五に対しては「短」である。けれどもその四が三と結びやすく、五に対していくらかの距離を持つとすれば、それはまた七として「長」である。この二重の関係が規律を困難にするらしい。しかしそういう無規律の間にも、律動としての根本の意義はすでに備わっている。すなわち言葉の流れの単調を破るために、長と短とが交(229)互に現われる〔十二字傍点〕という傾向は、明らかに存しているのである。またこの律動が、短長、短長、というふうに短をもって始まるという傾向も認められなくはない。古い民謡と見らるべきものでも、
つぎねふ 山代女《やましろめ》の 木《こ》くはもち うちし大根《おほね》 ねじろの 白ただむき まかず けばこそ 知らず とも云はめ
のごとき、明瞭にこの二つの傾向を示したものである。「八田の一本菅」「宇陀の高城」「いざ子ども」「水たまる」なども皆そうである。これは日本語を律動的に並べようとする企てが自然に産み出した傾向として、上代歌謡の形式の、根本的性質と認めてよい。
もっともこれには例外らしい歌もある。例えば、
ほむだの 日のみこ 大さざき 大さざき はかせる太刀《たち》 もとつるぎ すゑふゆ ふゆきのす からが下木《したき》の さやさや
のごとき、長短の交錯がきわめて不規則であるのみならず、初めの二句が結びつきやすいために八の句として次の五に対し、また中央の二句も六五、最後の二句も七四というふうに、むしろ「長短」の律動を持っている。これは後世の俗謡、特に農人の間の俗謡等にしばしば見られる八五五二八五の形式と幾分似かよったものであるが、しかし上代人がそれを特に愛好したとも思われない。だからこの種の例外は上述の観察を妨げるものではない。
古い民謡にすでに右の二傾向があったとすれば、それが時とともに万葉の長歌の方へ推移して行くということも、見やすい道理である。この歌謡の発達が外来の刺戟によって起こったか、あるいは歌詞の流動をさらに美しく軽妙にしようとする要求から起こったか、という点については、議論の余地もあるが、しかしここにその双方を認めたところで大して不都合はない。ただその発達が上代歌謡の本来の性質を押し進めたものであることを認めさえすればよい。
(230) この発達を最も雄弁に語っているのは、右にあげた民謡の諸例よりも少しく長く、そうして調子の整っている歌である。例えば、
この御酒《みき》は わが御酒《みき》ならず 酒《くし》のかみ 常世《とこよ》にいます 石《いは》たたす すくな御神《みかみ》の 神《かむ》ほぎ ほぎ狂ほし とよほぎ ほぎもとほし まつり来し 御酒ぞ あさず飲《を》せ ささ
のごときである。末尾の二三句を除けば、他はことごとく「短長」の律動をもって進んでいる。しかも初めが五七をもってゆるやかに始まり、半ば過ぎると四六の急調になり、ついに「御酒ぞ」「ささ」などの切迫した調子に終わっている。もとよりこれは感情の流露の自然に従ったものであって、強いて工《たく》まれたものではない。古い民謡においてその末尾を詠嘆的な叫び声や、あるいは「あたら、清《すが》し女《め》」「今ぞ、悔しき」「知らず、とも云はめ」「誘《いざ》ささば、宜《よ》らしな」というふうの感情に充ちた短い重句によって結ぶ、というやり方が、ここに自然に現われているのである。このことは、右の例ほど著しくないまでも、多くの長歌の結び方において必ず認められる。純然たる長歌に進んでいるものにおいてさえもそうである。
前に古い形式の歌に混じて引用した「内の朝臣」に関する長歌のごときも、ここに引くべき好例であろう。「をち方の、あらら松原」と五七の律動をもって歌いながら、「いざ合はな、吾は」という句を途中に投げ込み、またこの句をもって終わりを結んでいる歌い方は、形式が著しく整っているにかかわらず、なお古民謡の歌い方から脱しないことを示しているのである。
このことは、より進んだ長歌についても言えないことではない。これらも畢竟古い民謡の延長である。しかしここに注意す、べき相違は、詠嘆する心持ちに余裕ができ、感情の表出に委曲をつくそうとする企てが始まっていることで(231)ある。このために作者は切迫した詠嘆の叫びをできるだけ先へのばして行く。従ってそこまで行く律動にある落ちつきができてくる。落ちつきが形式を整わせる。かくてそこに保存せられている古い民謡の歌い方も、かなり異なった印象を与えるようになるのである。
この場合に起こった形式の進歩は、短長、短長、の律動を、勢いづいた流れのように押し流して行くことである。古い民謡においては、この種の直線的な流動は、始まるや否や直ちに方向を変えさせられる。「この御酒は」「をち方の」等の歌においては、なお十分調子づかないうちにすでに終局に達する。しかし記紀中の最も長い六七首の長歌においては、この流動は水の流れのように滑らかで美しくなっている。その点からもこの種の長歌の新しさは疑うことができないであろう。
なおこれらの長歌が、きわめて軽微ながらも叙事的要素を加味し、幾分物語詩に近づいていることは、律動の変化と関係するところがあるであろう。自分の推測によれば、この種の歌は五世紀後半以後享楽的生活の発達や饗宴の隆盛に伴なって生まれたものであるらしい。単純な抒情詩が歌われ舞われた時代から、歌が単独に歌われるという時代に移り、歌の内容の複雑さを要求する傾向が現われる。そうしてその種の鑑賞上の要求は、音楽堂や劇場を兼ねた饗宴の席から生まれなくてはならぬ。かくて単純な抒情詩は幾分物語詩に近づき、その物語詩は、饗宴の聴衆に対して歌われるという関係から、より〔二字傍点〕なだらかな律動を必要としたのであろう。かく見るときに、これらの長歌は最も生きてくる。演者と聴衆との間の距離は少なかったであろうが、しかしそれは一つの演芸として演ぜられたものである。その繰り返しの多い言葉の流れも、美しくこそあれ単調ではない。聴衆はそこに歌われる感情をば直ちに自己の感情として感ずるごとき素朴な心の持ち主であったであろう。こういう事情の下に、歌の形式がそれ自身の内から発達す(232)るということは、最も自然なことである。
これらの歌は旧辞編纂の時代にすでに民衆の愛唱するものとして存していたであろう。長歌の末尾にある「ことの語りごとも、こをば」「豊御酒《とよみき》奉らせ」のごとき句は、饗宴の席に歌われた演芸としての明らかな証拠である。すでに饗宴の席において喝采を博したものは、その饗宴がいかなる貴人の饗宴であったとしても、民衆の間に広まらずにはいない。歌の内容から見てもそれが民衆に愛されるのはきわめて当然のことである。すなわち長歌は、民謡の発達した形式として、民衆の間に一つの演芸らしい位置を持っていたと認められるのである。
しかし長歌がかく演ぜらるべきものとして発達するとともに、直接の詠嘆のためには古い民謡の形式が依然として残存したこともまた認めておかなくてはいけない。聖徳太子の歌として伝えられる「しなてる片岡山」の歌は、「をち方の」などと同じく、古民謡の歌い方を脱していない。
長歌の発達が右のごとくであるとすれば、短歌や旋頭歌の発達もまたそれに並行したものでなくてはならぬ。
古い民謡に長いものと短いものとがあることは明らかな事実である。そうしてその長短が詠嘆すべき感情の長短によって自然に生じたことも疑う余地がない。ところでこれらの詠嘆は、右に述べたごとく、必ず「短長」の律動をもってせられている。長いものも短いものも、この点においては変わりがない。しかし短い詠嘆は、短長の律動が始まるとともに直ちに終結しなくてはならない。そうしてその終結も、詩形が短ければ短いほど、感情を長く響かせたものでなくてはならない。例えば
はしけやし 我《わぎへ》家の方よ 雲ゐ立ち来も
(233)のごとき最も短い詩形において、もし最後の句が第二句よりも短かったならば、さらにそのあとに長い句を期待させるであろう。だからこの歌が、短長、長、となっているのは、詠嘆する心がそれを必須とするからである。短長の律動が二度繰り返されたあとでも、終結はやはり同様でなくてはならない。例えば、
乙女の 床の辺に わが置きし 剣《つるぎ》の太刀《たち》 その太刀《たち》はや
あまだむ 軽《かる》をとめ しただにも 寄りねてとほれ 軽《かる》をとめども
のごときである。第四句までは短長、短長の律動であって長い詠嘆と変わりがない。ただそれを短い歌として留める仕方が、長歌にない特殊な形なのである。
右の例においては感情は一流れで留まる。だから終止句は一つである。が、短い詩形、特に短長長の詩形は、詠嘆の心を現わし尽くさない不足の情を意識させる。そこで一度流れ留まった感情を再び繰り返して流れさせる。例えば、
八田の 一本菅は 一人をりとも 大君し よしと聞《き》こさば 一人をりとも
すすこりが 醸《か》みし御酒《みき》に われ酔ひにけり ことなぐし ゑぐしに われ酔ひにけり
のごときである。前半と後半とは同じ詠嘆の繰り返しであり、従って前半の終わりにも終止句がはいる。これも詠嘆の心から出る必然の詩形である。
第一の例は「短長長」であって片歌と呼ばれる形式であり、第二の例は「短長短長長」であって通例短歌と呼ばれる形式、第三の例は「短長長短長長」の旋頭歌の形式である。これらは詩形が短いだけに、内なる律動と外なる律動との間の動きの取れない関係がある。従って長歌よりも形式が確定しやすい。ことに第二の短歌の形式は、短い詠嘆を盛《も》るに最も通したものとして最も著しい発達を見せた。
(234) 長い民謡を物語詩に近づけて行ったあの形勢は、同時にまた、短い民謡の形式をも醇化した。長歌はその長さのゆえに、また長さによる流動性のゆえに発達する。その任務は先広がりに大きい。しかし同じ注意が短歌に向けられたとなると、その局限せられた長さの中で試みられることは、流動性を高めることではなくして、流動を美しくすることでなくてはならぬ。ここに短長の律動がはっきりと五七の律動に化し始めるという傾向も現われてくるのである。
三七とか四六とかの律動よりも五七の律動がなぜ美しいか。これは日本の詩歌の形式についての重大な問題である。すでに五七あるいは七五の形式が因襲的に固まった時代にあっては、四とか六とかの句が異様に新鮮な印象を与える。従って五や七の句の美しさを立証するのがむずかしい。しかしこの場合の四や六の美しさは、因襲を破った自由な感じに負うところが少なくない。言いかえれば五七の権威を認めた後の美しさである。我々がここに問題にしようとするのは五七の確定以前のことであって、五七以後のことではない。五七以前においては自由が基調であった。従って自由の印象を与えるものは、それがために特に美であることはできなかった。四六も五七も同様に自由であり、同じ重さをもって用いられた。そういう状態のなかから何ゆえに五七が特に選び出されたか。すでにあげた例によって明らかなごとく、上代の歌謡は、二、三、四等の根本的な音数に分解することができる。そうしてこの短い句は互いにきわめて結びつきやすい。二と三、三と四のごときは特にそうである。これらは結びついたあとで非常に落ちついた感じを与える。恐らくそれは、呼吸との関係上、最も適度な長さだというような事に基づくのであろう。そこで五七は、漠然たる上代人の心にも、最も美しい律動として感ぜられたのである。
この傾向によって短歌が漸次発達して来た形跡は、大体記紀の歌においてたどることができる。前にあげた「乙女の床の辺に」の歌においては、短長、短長、長、という律動はすでに明らかであるが、音数は四五、五六、六、であ(235)って、美しい流動とは言えない。同じところにあげた「あまだむ軽をとめ」の歌になると、四五、五七、七、の後半がよほど美しく感ぜられるにかかわらず、第二句と第三句とのつなぎ目が、依然として円滑でない。両者はともに五の重複によって災《わざわい》せられているのである。一歩を進めて、
うま酒《ざけ》 三輪の殿《との》の 朝戸にも 出《い》でて行かな 三輪《みわ》の殿門《とのど》を(紀五)
うま酒 三輪の殿の 朝戸にも 押しひらかね 三輪の殿門を(同)
のごとき歌になると、四六、五六、七となって全体の均斉がよほど整ってくる。しかし短長の区別が弱いために、律動の感じがかなり漠然としている。さらに、
みもろの いつ白檮《かし》がもと 白檮がもと ゆゆしきかも かし原をとめ(記、伝四十一)
みかしほ 播摩はやまち いはくたす かしこくとも 吾《われ》養はむ(紀十一)
などにおいては、四七、五六、七、の第二句の七がよほど律動を活発にする。しかしこの七の出現のために、第四句の六が、「うま酒」の歌においてよりも、一層弱い感じを与える。それは、
押照《おして》る 難波《なには》の崎の 並び浜 並べむ床《とこ》ぞ その子はありけめ(紀十一)
さねさし 相模の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも(記、伝二十七)
のごとく、第四句が七となることによって全然救われる。かく第二、第三、第四の三句が短長の関係において明白な対照をつくるようになると、第一句及び結句の長短は比較的に影響するところが少ない。ここでさらに第一句が五となれば短歌の形式はほとんどもう完成に近づいて来るのである。
衣《ころも》こそ 二重《ふたへ》もよき 小夜床《さゆとこ》を 並べむ君は かしこきろかも(紀十一)
(236) 夏虫の 火虫の衣《ころも》 二重《ふたへ》着《き》て かく宵辺《みやたり》は あに好《よ》くもあらず(同)
多治比野《たぢひぬ》に 寝《ね》むと知りせば 立薦《たつごも》も 持ちて来ましもの 寝むと知りせば(記、伝三十八)
埴生坂《はにふざか》 吾立ち見れば かぎろひの 燃ゆる家群《いへむら》 妻《つま》が家《いへ》のあたり(同)
大魚《おふを》よし 鮪《しび》つく海士《あま》よ 其《し》が荒《あ》れば うら恋《こ》ほしけむ 鮪《しび》つく鮪《しび》(記、伝四十三)
韓国《からくに》の 城《き》の辺《へ》に立ちて 大葉子は ひれ振らすも やまとへ向きて(紀十九)
これらの歌においてほ、あるいは第二句が六となり、あるいは第四句が八となり、あるいは結句が八、九、六などとなっている。しかしそれらはもはや整った律動の感じを破るほどではない。あたかも後代にいうところの字足らず字余りのごとき、一種の破格的な妙味をさえも感じさせるのである。もとよりこれらの字足らず字余りは、形式が確定する以前のことであって、「破格」たるべくもなお「格」は存しない。しかもそれが「破格」らしい印象を与えるとすれば、「格」はすでにこれらの歌において成立しているのである。
右のごとく形式が完成に近づいてくると、句と句との間の連絡関係もまた重大な変化を起こして来る。「乙女の床の辺に」等の歌においては、五つの句が短長、短長、長となって、中間に二つの比較的長い休止がはいる。この短長二句の結合と二つの休止とは「うま酒」「みもろの」等の歌においてもなお明らかに認められる。しかし「押照る」などのごとく大体短歌の形式の固まりかかったものになると、第二、第三両句の間に融合的な関係ができ、それに伴なって各句の間の休止が、ほぼ均等な重さを持つことになる。例えば「押照る 難波の崎の 並び浜」において二つの休止のいずれが重いとも言えない。「並び浜 並べむ床ぞ その子はありけめ」の二つの休止も同様である。「さねさし 相模の小野に 燃ゆる火の」のごとき、「燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも」のごとき、いずれの休止を(237)も他より重んずることはできない。さらに形式の整った歌においては、この事は一層明らかである。これは五七五七七の進歩に平行した事実であって、五や七の音数が自然に生み出したことであろう。すなわち五や七は比較的独立した存在を持つために、必ずしも他と結合して自らをささえる必要がないのであろう。かくてこれらの句は、他の句との単一な関係を超えて、前後の句に対する二重の関係を持つようになる。これは詩形が短いために起こり得たことであろうが、すでにできあがってみると、長歌の句法に対して著しい特徴となるのである。かく見れば、上代の短歌が「五七、五七、五」であるという見方は、正しいとは言えない。それは確かに「短長、短長、長」であった。しかし五七の句法ができあがった時には、すでに「五、七、五、七、七」となっている。「五七」の繰り返しではなくて、「五」と「七」との微妙な交錯である。
短歌は右のごとき径路によってついに完全な形式に到着する。
八雲立つ出雲八重垣妻ごみに八重垣つくるその八重垣を(記、伝九)
沖つ島鴨|著《ど》く島にわが率寝《ゐね》し妹は忘れじ世のことごとに(同十七)
畝傍山昼は雲とゐ夕されば風吹かむとぞ木の葉さやげる(同二十)
みちのしり細肌《こはだ》をとめは争はず寝しくをしぞも愛《うるは》しみ思ふ(同三十二)
朝妻のひかの小坂を片泣《かたな》きに道行くものも偶《たぐ》ひてぞよき(紀、十一)
大坂に逢ふやをとめを道問へば直《ただ》には告《の》らず当麻路《たぎまぢ》を告《の》る(記、伝三十八)
梯立《はしだて》の倉梯山《くらはしやま》を険《さが》しみと岩掻《いはか》き兼《か》ねて我手取らすも(同三十七)
のごとき歌はその美しい例である。第一第二の例は神代史中に記載せられたものであるが、形式より見ればもちろん(238)新しい。しかしこれらの同じ形式の歌の内にも、その感情の現わし方や現わされた感情の複雑の度から、新古の区別はつけることができる。第一の歌は最も古く、第四、第六はそれに次ぎ、その他の四首は最も新しい。そうしてその新しさの度はまた美しさの度にも相応する。最も新しい四首に至っては、その律動の美しさにおいて万葉集の優れた歌に劣らない。第二の歌の結句「世のことごとに」のごときは、いかにもよく内なる律動を現わし、外なる律動を活かせている。第三の歌の「風吹かむとぞ」の一句、最後の歌の「我手取らすも」の一句、などにおいても、その末尾に置かれた詠嘆の一音のために、いかにもよく全体を活かせている。――が、これらの歌も万葉の歌と全然同種のものではない。両者の間には、古民謡と万葉との間に存在するごとき相違が、幾分かずつまだ残っている。その詳しい論は後に讓ることとして、とにかくこれらの最も新しい歌も先代旧辞編纂の時代より新しいものではない。
右のごとき短歌の発達は大体どの時代に行なわれたのであるか。「乙女の床の辺に」の歌が四世紀の征戦時代のものであるとすれば、その発達は四世紀以後でなくてはならない。輕おとめの恋物語を歌う歌がもし軽太子という歴史的人物に幾分かの関係を持つならば、(そうしてその軽太子がシナの史書にいわゆる世子興であるならば、)「あまだむ」の歌によって明らかなごとく、この原始的な短歌の形式は五世紀の中ごろになお行なわれていたわけである。だから短歌の発達がそれ以前に始まっていたとしても、五世紀の中ごろよりあまり古くさかのぼることはできまい。しかし五世紀後半の享楽的な時代にそれが長足の進歩をしたろうことは疑いの余地のないところであって、もし「鮪《しび》」を歌った歌垣の歌が六世紀初頭の作と認められ得るならば、この時代にはすでに短歌は八九分通り完成の域に達しているのである。もとよりこの時代にはなお律格は「自然に生み出されたもの」に過ぎまい。それが律格として意識せられたのは恐らく六世紀の中ごろ、旧辞製作の時代の出来事であろう。だから短歌の形式は、五世紀後半がその基礎(239)をつくり、六世紀がそれを完成したと見られるのである。
以上のごとく見れば、長歌の発達も短歌の発達も、ともに同じ時代の同じ大勢によって、民謡の内から自然に生まれ出たことになる。その大勢がシナ文化の刺戟によって促進せられたものであることはもちろんであるが、その影響は、まず国民の実生活を動かし、そのゆえに歌をも動かした、という意味のものと解せられなくてはならぬ。
四 歌謡に現われたる上代人の感情
記紀中の形式の新しい歌謡は、古い歌謡に比して段違いに豊富な感情を現わしている。それを次に考察してみようと思う。
もとよりこれらの新しい歌謡も、前に古い歌謡についてあげた三つの特質を失っているわけではない。が、その特質は漸次薄れて来た。第一の特徴としてあげた主客未分の抒情という点はなお認められはするが、しかしすでにそれを脱ぎ捨てた少数の例外も現われている。例えば
梯立《はしだて》の倉梯山《くらはしやま》を険《さが》しみと岩掻き兼ねて我手取らすも(記、伝三十七)
埴生坂吾立ち見ればかぎろひの燃ゆる家群《いへむら》妻が家のあたり(同三十八)
のごとき歌においては、恋の詠嘆と自然に対する詠嘆とは離し難く結合しているが、
衣《ころも》こそ二重《ふたへ》もよき小夜床《さゆとこ》を並べむ君はかしこきろかも(紀十一)
のごとき歌になると、衣や小夜床に対する直接の詠嘆は弱く、これらの物象をすべて恋の詠嘆に集中しようとする趣がある。さらに、
(240) わがせこが来べき宵なりささがにの蜘妹の行ひ今宵しるしも(紀十三)
ささらがた錦の紐を解きさけてあまたは寝ずにただ一夜のみ(同)
などに至ればこの傾向は一層明らかである。それに伴なってまた自然に対する詠嘆も、
さゐ川よ雲立ち渡り畝傍山木の葉さやぎぬ風吹かむとす(記、伝二十)
のごとく全然客観的な抒情になる。この種の歌は多数ではないが、しかし形式の整備に伴なって素朴な心理状態の破れて来たことを示している。
同じ推移は第二の特徴としてあげた歌い方の単純さについても言える。
道のしり細肌《こはだ》をとめを神のごと聞えしかども相枕《あひまくら》まく(記、伝三十二)
山がたに蒔《ま》ける青菜《あをな》も吉備人《きびびと》と共にしつめば楽《たぬ》しくもあるか(同三十五)
のごときはこの特徴を現わした好き例であるが、しかし、
朝妻《あさづま》のひかの小坂を片泣きに道行くものも偶《たぐ》ひてぞよき(紀十一)
というごとき歌になると、もはや右のごとき素朴な単純さは見られない。「ひかの小坂を泣きしおれて行く人がある。さぞ悲しいことがあるのであろう。が、悲しみの中にあっても、ああして男女《ふたり》で泣いて行くのならば、不幸とは言えない。」かく詠嘆する心には歌の言葉に現われた以上の深い感情がある。それを単純に投げ出さずにただ一端によって暗示した歌い方は、前の歌には見られない。しかしこの種の歌も万葉の歌に比べればまだ古風である。内なる感情を凝視してそれを鋭く割って見せる技巧は、ここではまだ現われていない。
第三の特徴としてあげた比喩の象徴的性質もまた同じ機運によって減退する。長歌が叙事的性質を帯びてくるとい(241)うような事情は、「いざ子ども」の歌に見るごとき象徴に近い表現を許さない。また「八田の一本菅」に見るごとき巧妙な隠喩をも不可能にする。しかしこの種の表現法の名残は豊富な比喩として新しい歌に残っている。
ひさかたの天の香山《かぐやま》、利鎌《とがま》にさ渡るくひ、ひは細手弱腕を……(記、伝二十八)
ささばに打つや霞《あられ》の、たしだLに率寝《ゐね》てむ後《のち》は……(同三十九)
のごとき、「根白の白腕《しろただむき》」と同様の比喩も、新しい長歌においては愛用せられるのであるが、さらにこの種の比喩を短縮して、句ごとに異なったものを用いている場合がある。例えば、
八千矛《やちほこ》の神の命《みこと》、ぬえ草の女《め》にしあれば、わが心|浦渚《うらす》の鳥ぞ、今こそは千鳥にあらめ、後《のち》はなどりにあらむを……(記、伝十一)
ぬば玉の黒き御衣《みけし》を、まつぶさに取り装《よそ》ひ、おきつ鳥|胸《むな》見る時、はたたぎもこれはふさはず、へつ波《なみ》磯《そ》に脱ぎうて……(同)
のごとく、女には「ぬえ草」と言い、心には「浦渚《うらす》の鳥」「千鳥」「などり」と言い、黒きを言えば「ぬば玉」、胸見ると言えば「おきつ鳥」、磯と言えば「へつ波」を引く。おのおのの表象はほとんど皆それを豊富にすべき他の表象を伴なうのである。しかもその形容の詞は、上代人にとって新鮮であった官能の経験を含まぬはない。ぬえ草の柔らかく麾く感触、浦渚の烏のしおらしい姿、千鳥の鳴く音の急調、沖つ鳥が水に浮かびつつ頸をのべておのが胸を見るごときあの格好、磯波の怒りの感情に似た烈しさ、――これらすべては自然に近い上代人の素朴な心に強い印象を与えたものである。彼らはこの感覚的経験を含む詞をもって、歌おうとする表象を豊富にした。これを因襲的な「冠辞」と見てしまうのは妥当でない。たとい一つの詞が連想によって他の詞を呼び起こしているとしても、そこに意味せられ(242)るのはその詞の含む情緒であって単なる言語上の遊戯ではない。
やまとへに西風《にし》吹き上げて雲《くも》離《ばな》れ離《そ》き居りとも吾《われ》忘れめや(記、伝三十五)
とこしへに君も逢へやも勇魚《いさな》とり海《うみ》の浜藻《はまも》の寄る時々を(紀十三)
のごとき、離れ雲は「離《そ》き居る」という詞から、海の浜藻は「寄る」という詞から、連想によって引き出されたのかも知れない。しかし恋人のいる方へ風に吹かれて離れて行く雲は、恋心を担うに最も適したものである。また勇魚とりが勇ましく漕ぎいでて行く海べの、香の高い浜藻の打ち寄せたあたりは、恋人の密会にいかにふさわしいであろうか。この種の生きた描写はただ冠辞として葬られてはならない。
この特徴は上代の歌を万葉の歌から区別する力は持たないかも知れぬ。しかし古い民謡の特徴を幾分保存するものとして、万葉の歌の枕詞よりは新鮮な印象を与えると言ってよかろう。
ではこれらの歌に現われた感情はどういう特徴を示しているであろうか。
上代の歌において最も著しく表現せられているものは恋愛〔二字傍点〕である。新鮮な驚異の情に充ちた上代人の心にとって、蒼空の神秘や運命の不可思議よりも、人の世の恋の力が最も詠嘆すべきものであったことは、注目に価する。恋の苦悶、恋の歓喜は、彼らがその全生活を投入するに価する最高の生の瞬間であった。だから彼らは、超自然的な力に対する恐怖と歓喜とを歌わずして、ただ人間的な生の喜びをのみ歌う。悲哀さえも生の歓喜に震える悲哀である。
こういう上代人にとつては恋愛は他の原理と対立するものではない。彼らはその恋を官能的に歌う。しかし霊と肉との区別を知らない彼らが、官能的な喜びのない恋をどうして想像し得るだろう。彼らの心理は極度に直観的である。(243)彼らは主観と客観との別をさえも十分に意識しない。内なるものと外なるものとは一つである。その彼らにとっては、官能によって知られたものは、直ちに心でなくてはならない。たましいは官能の端々にも躍っている。従ってたましいのない単なる官能は彼らには存しない。
かくて彼らの恋は全人格的であった。彼らは恋において人生の意義を感じた。このことは「八千矛の神」を中心とする一群の物語歌において明らかに認められる。
八千矛《やちほこ》の神の命《みこと》は、八島国|妻《つま》まぎ兼ねて、遠々《とほとほ》し越《こし》の国《くに》に、賢《さか》し女《め》をありと聞《き》かして、くはし女《め》をありと聞こして、さよばひにありたたし、よばひにあり通《かよ》はせ、太刀が緒も未《いま》だ解かずて、襲覆《おすひ》をも未だ解かねば、乙女の鳴《な》すや板戸を、押《お》そふらひ、吾《わが》立たせれば、引《ひ》こづらひ吾立たせれば、青山にぬえは鳴き、さ野《ぬ》つ鳥|雉《きぎし》はとよむ、庭つ鳥|鶏《かけ》はなく、うれたくも鳴くなる鳥か、この鳥も打ちやめこせね、いしたふや天敵使《あまはせづかひ》、ことの語りごとも、こをば
八千矛の神の命、ぬえ草の女《め》にしあれば、わが心|浦渚《うらす》の鳥ぞ、今こそは千鳥にあらめ、後はなどりにあらむを、命《いのち》はな死《し》せ給ひそ、いしたふや天馳使、ことの語りごとも、こをば
青山に日《ひ》が隠らば、ぬばたまの夜は出でなむ、朝日の咲《ゑ》み栄え来て、栲綱《たくづぬ》の白き腕《ただむき》、あわ雪のわかやる胸を、そだたき叩《たた》きまながり、またま手たま手差しまき、腿《もも》ながに寝はなさむを、あやにな恋ひきこし、八千矛の神の命《みこと》、ことの語りごとも、こをば(記、伝十一)
これらの歌は八千矛の恋を「物語る」歌であって、恋人たちの直接の詠嘆ではない。だから作者は三人称によって歌おうとしている。が、直ちに歌の内容に没入し、そこに自らの感情の表現を見る上代人にとっては、三人称と一人称(244)との区別は、さほど重大ではないらしい。叙事はいつか「吾」の詠嘆に変わり、それに対して恋せらるる女の「吾」が返事をする。その返事もまた右の第三の歌に至っては、叙事的に始められて最後に吾の詠嘆に変化する。客観的な描写が主観的な詠嘆と混合するのである。が、それによってもこの歌が物語歌としてある作者の手に成ったことは明らかであろう。そこで我々はこの作者の〔五字傍点〕恋愛に関する態度を観察することができる。まず八千矛なる恋の英雄が「八島国妻まぎ兼ねて」とは何を意味するか。もし恋にして単に官能的であるならば、官女三千を蓄える豪奢は試みられても、広い国土に一人の女をさがす心は生まれまい。しからばこの厳密な選択の要求は、女の官能的な美において自己のたましいに最も親しいたましいの現われを求める心であろう。されば遠い越の国にまでたずねて行くのは、「くはし女」であるばかりでなくまた「賢《さか》し女」である。そうしてこの女を得むがためには、夜を徹して乙女の戸に立ち、暁を告ぐる鳥を呪う。その恋の遂げられぬ悲嘆がいかに大きいかは、女の詞として歌われる「命《いのち》はな死せ給ひそ」という一句に現われている。女もまたその恋の受容においてただ「心」に頼る。言い寄られて騒ぐ心を巧みに「千鳥」によって現わした作者は、ただ女のたましいをのみ捉えたのである。が、かくたましいの合一する恋の幸福は何によって描かれるか。栲綱のごとく白く強い女の腕、あわ雪のごとく白く柔らかな女の胸、そうしてそれを愛撫しつつ手を差しまき、ももながに寝ること。それが彼らの命をかけて得ようとする生の高潮である。作者はこの種の描写を愛用し、聴衆もまたこれを聞くことを好んだらしい。それは確かに官能的である。しかしそれがたましいに充たされた官能であることは言をまたない。作者はこの幸福の心持ちを現わすに、「朝日の咲み栄え来て」という。日の出時の新鮮にして朗らかな心持ちと、恋人が心を許して咲み交わす心持ちと、――それはむしろ霊の歓びと見らるべきものである。かく作者はこの恋愛の描写において霊肉を分かたない全人格的な心境を捉えた。
(245) 上代の恋はかくのごときものである。そうしてこの恋のほかに 男女の結合はない。婚姻とは恋の成就である。夫婦とはこの恋によって結ばれた男女である。恋愛と離れて成立する結婚もなければ、恋愛のないところに男女の結合を続けしめるような硬化した婚姻制度もない。これこそ男女の結合の最も自然的な、そうして最も理想的な状態であろう。が、こういう状態を可能にするためには、恋が単に肉をもてあそぶことではなくしてたましいを一つにすることであり、一時の戯れではなくして運命をともにすることであるという「愛の深さ」が存しなくてはならない。そうしてそれは上代に存した。八千矛の歌物語がそれを証明する。
ぬば玉の黒き御衣《みけし》を、まつぶさにとり装《よそ》ひ、おきつ鳥|胸《むな》見る時、はたたぎもこれはふさはず、へつ波|磯《そ》に脱ぎうて。そに鳥の青き御衣を、まつぶさに取装《とりよそ》ひ、沖つ鳥胸見る時、はたたぎもこもふさはず、へつ波磯に脱ぎうて。山県にまきし茜《あかね》つき、染木《そめき》が汁《しる》に染衣《しめごろも》を、まつぶさに取り装《よそ》ひ、おきつ鳥胸見る時、はたたぎもこしよろし。愛《いと》こやの妹《いも》の命《みこと》、群鳥《むらとり》の我《わが》群れ往なば、引け鳥の我《わが》引けいなば、泣かじとは汝はいふとも、やまとの一本薄、項《うな》かぶし汝《な》が泣かさまく、朝雨の真霧《さぎり》にたたむぞ、若草の妻の命。ことの語りごとも、こをば
八千矛の神の命や、吾《あ》が大国主、汝《な》こそは男《を》にいませば、打ち見る嶋の崎々《さきざき》、かき見る磯の崎おちず、若草の妻持たせらめ、吾《あ》はもよ女《め》にしあれば、汝をきて夫《を》はなし、汝をきて夫《つま》はなし。文垣《あやがき》の柔《ふは》やが下に、蒸《む》し衾《ぶすま》和《にこ》やが下に、拷衾《たくぶすま》さやぐが下に、あわ雪のわかやる胸を、栲綱の白き腕《ただむき》、そだたきたたき愛撫《まなが》り、真玉手《またまで》玉手さし巻き、腿長《ももなが》に寝《い》をしなせ。豊御酒《とよみき》奉らせ(記、伝十一)
これはすでに恋を得た八千矛が、恋人と争う歌である。前の歌においては八千矛は死を賭した求婚者であり、女は恩恵を与える優者の地位にあった。今や八千矛は、黒衣が似合わない、青衣が似合わない、というような小さいことに(246)腹を立てて恋人を困らせている。妻が夫のために自ら衣を織り、染め、縫った上代の家庭生活においては、これは夫婦喧嘩の種として典型的なものであろう。のみならず夫は、「おれが行ってしまえば、泣かないと言ったとてお前は泣くにきまっている、」というような威張ったことをいう。女らしく反抗する妻を威嚇する言葉である。そこで女は打ち砕かれて、「あなたは男だからどこにでも若い女が見いだせよう、私は女だ、あなたのほかに夫はない、」というふうに、ひたすらにすがりつく。そこで喧嘩が終わり、恋の歓びが帰ってくる。男と女の位置は全然正反対である。が、この最も自然的な恋愛の推移において、単に官能的ならざる愛の深さが見いだされる。恋の初期における異常な興奮が、恋の遂げられるとともに鎮まって行くのは自然である。恋はここにおいて試錬に逢う。単に官能的な恋にとっては、官能的な魅力の減退は直ちに恋愛そのものの減退を意味しなくてはならぬ。しかしたましいの充溢した恋においては、官能的な魅力が減退するころには、すでに恋人のたましいが相互の内生に食い入っている。彼らは互いに恋人をもって自己の一部とする。だから彼らが最初の魅力の減退のゆえに争いやすくなるとしても、――例えばかつて恋の陶酔を起こすに足りた「妻の手になった衣」も、今は気まぐれな癇癪を触発するに過ぎぬ、というようなことがあっても、――それはただ表面の小波であって、底には太い根がしっかりとからみ合っている。右の歌においては主として女の側の感情が歌われているが、しかしそれは作者の興味が女に集まっているからであって、男の感情がそれに相応ずるものであることは、初めからきめてかかっているのである。
右のごとき恋愛は永続的な夫婦の関係を可能にする。それは最も人間的な、また最も自然的な男女の結合である。上代においては何ら制度の束縛を加えることなくして、男女の間に右のごとき調和が存した。しかし、もしこの素朴な霊肉一致が「我」の覚醒のために、――素朴な主我的享楽欲のために、――破られることになれば、そこに男女の(247)間の調和が危うくされる。男女関係が乱れるのである。それをふせぐためには恋愛の自由が束縛せられねばならぬ。従って婚姻制度は硬化してくるであろう。シナの最古の民謡は、すでに明らかにこの種の束縛を語っている。女は恋愛の動機によることなくして親の手から夫の手へと渡されるのである。右の八千矛の歌に比すべき夫婦の不和を歌うものに、
我行其野《がこうきや》、蔽〓其樗《へいひきちよ》、婚姻之故《こんいんしこ》、言就爾居《げんしゆうじきよ》、爾不我畜《じふがちく》、復我邦家《ふくがほうか》。
我行其野《がこうきや》、言采其〓《げんさいきちく》、婚姻之故《こんいんしこ》、言就爾宿《げんしゆうじしゆく》、爾不我畜《じふがちく》、言帰斯復《げんきしふく》。
我行其野《がこうきや》、言采其〓《げんさいきふ》、不思旧姻《ふしきゆういん》、求爾新特《きゆうじしんとく》、成不以富《せいふいふ》、亦祀以異《えきしい》。
というのがある。その韻律を無視してこれを日本訳〔三字傍点〕にすると、
我《ワレ》行《ユク》2其(ノ)野(ニ)1、蔽〓(タル)其樗(アリ)、婚姻|之《ノ》故(ニ)、言《ココニ》就(テ)v爾《ナンジニ》居(リキ)、爾|不《ズンバ》2我(ヲ)畜《ヤシナワ》1、復(セン)2我《ワガ》邦家(ニ)1。
我《ワレ》行《ユイテ》2其(ノ)野(ニ)1、言《ココニ》采(ル)2其(ノ)〓《チクヲ》1、婚姻|之《ノ》故(ニ)、言《ココニ》就(テ)v爾(ニ)宿(シキ)、爾不(ンバ)2我(ヲ)畜(ワ)1、言《ココニ》帰(リ)斯《ココニ》復(セン)。
我《ワレ》行(テ)2其野(ニ)1、言《ココニ》采(ル)2其〓(ヲ)1、不《ズ》v思(ワ)2旧姻(ヲ)1、求(ム)2爾(ノ)新特(ヲ)1、成《マコトニ》不《ジ》2以|富《トマサ》1、亦|祇《マサニ》以異(ナリ)。
ここには訳詩としての一種の味がある。それは翻訳に伴なって起こった別種のものである。しかし詩の意味は同様であろう。その意味は、「私が野に出て見ると枝葉の栄え繁った樗(きつねのちゃぶくろ)がある。外観は立派だが何の役にも立たぬ木だ。あなたもちょうどそんな人であった。しかしすでに婚姻したもの〔九字傍点〕であるから、私はあなたのそばにいた。あなたが私を養ってくれないのなら、私は里方《さとかた》へ帰ろう。――私は野に出て〓(おんばこ)を摘む。うまくもない草だが、ほかになければ仕方がない。私も婚姻したものであるから、あなたのそばに寝た。しかしあなたが養ってくれないなら里方へ帰ろう。――私は野に出て野生の細根大根《ほそねだいこん》を採る。堅くて食べられはしない。あなたは古いな(248)じみの妻を忘れて新しい妾を追っている。家を富ますどころではない。やはりただ女色を目ざしているのだ。」
明らかにこの妻は愛の冷却を嘆いているのではない。彼女は愛なくして婚姻し、夫に反感を抱きながらも婚姻のゆえに〔六字傍点〕堪える。しかるに今やその生活さえも破られようとする。妻はそれを嘆くのである。この嘆きを「吾はもよ女にしあれば汝をきて夫はなし」の嘆きに比べる時、二つの生活の相違は実に明らかになる。恋愛の自由、愛と婚姻との同義、それは後者にのみあって前者にはない。
もとより自分はシナ人に恋愛がなかったというのではない。ただ古くより婚姻制度が硬化していたというのである。古い文化を持ったシナでは、わが上代人がようやく歴史を持つに至った時代に、すでに文化開展の一通りの経過を終えていた。もし「為焦仲卿妻作」という長篇詩が伝えられる通り漢末の作であるならば、八千矛の歌の製作の時代よりも三百年以上も古い時代に、すでに感傷的な姑の嫁いじめの悲劇が歌われているのである。それはわが国の文芸においては徳川時代のある物と比せらるべきであって、上代の歌謡と比せらるべきでない。これによって見ても、上代人の恋愛の感情がいかに漢人のそれと相違していたかは明らかであろう。
上代の恋愛が右のごときものであったとすれば、恋愛の高潮を歌うものが悲劇的な「愛の勝利の歌」であることも不思議ではない。漢代のシナ人はその享楽主義のゆえに恋愛の頂上として官能的歓楽郷を夢想した。それは西洋中世におけるごとき陰欝な背景を持たず、ただ夢のごとくはかない、ヴィナスの山Venusbergである。その描写には日本の歌謡に見られない官能の豊かさがある。しかしこの恋の理想は豊満な肉への陶酔であって、肉を輝かす心の炎の昂揚ではない。ここに、若い日本民族と老いたる漢民族との間の、著しい相違が認められるであろう。
(249) 軽《かる》の太子とその妹《いもうと》軽の郎女との恋物語に插入せられた数首の歌は、悲劇的な愛の勝利の歌として最もよき例である。
あしひきの山田をつくり、山高み下樋《したび》を走《わ》しせ、下《した》どひに吾《わが》とふ妹《いも》を、下泣きに吾泣く妻を、今日《こふ》こそは安く肌触れ(記、伝三十九)
ささ葉に打つや零《あられ》の、たしだしに率寝《ゐね》てむ後は、人《ひと》議《はか》ゆとも、愛《うる》はしと真寝《さね》し真寝《さね》てば、苅りこもの乱れば乱れ、真寝し真寝てば(同)
あまだむ軽《かる》の乙女《をとめ》、いた泣かば人知りぬべし、はさの山の鳩《はと》の、下泣きに泣け(同)
あまだむ輕乙女《かるをとめ》、下たにも寄りねて通《とほ》れ、軽乙女ども(同)
あまとぶ鳥も使ぞ鶴《たづ》が音《ね》の聞えむときは我名問はさね(同)
夏草の相寝の浜の蠣貝《かきがひ》に足蹈ますな明《あ》かして通れ(同)
君が行き気《け》長くなりぬ山《やま》たづの迎へを行かむ待つには待たじ(同)
こもりくの泊瀬《はつせ》の川の、上つ瀬に斎杭《いくひ》を打ち、下つ瀬に真杭《まくひ》を打ち、斎杭には鏡をかけ、真杭には真玉を掛け、真玉なす吾《あが》思《も》ふ妹、鏡なす吾《あが》思《も》ふ妻、ありと云はばこそに、家にも行かめ、国をも忍《しぬ》ばめ(同)
物語はこれらの歌のあとにこの二人の恋人の情死を語っている。その情死とこれらの歌との実際の関係はともかくとして、少なくともこれらの歌には、情死に終わるにふさわしい強い情熱が認められる。まず最初の歌には、山田にひいた下樋をもって忍ぶ恋を形容し、運命の恐ろしさにふるえ泣く女をついに恋の陶酔に導いた歓喜が歌われる。(「あしひき」とはゆるやかに流れた山の尾の形容であって、「あしひきの山田」はそういう山の斜面につくられた田を意味(250)している。その灌漑は、より高い谷間の方から地中を通した暗樋によって行なわれる。その暗樋から渾々として水の流れ出るありさまが忍ぶ恋の感じに似るのである。とともにまたこの種の山村の光景が恋の背景として描かれているのである。)次の歌には女の心と体とを完全に自分のものとした男の、恋に生命を捧げようとする死に身な情熱が歌われる。これは世人に指弾さるべき恋である。しかしこの恋の前には指弾が何であろう。この恋を遂げたゆえに二人の生活は乱れた苅りこものように乱れるに相違ない。しかし恋は生活の安らかさよりも貴い。ここにおいて恋は社会のあらゆる束縛を拒否する。またそれは、官能の陶酔に終わらずして、運命をそこに投げ込んだ、人格的な、たましいの陶酔に達しようとする。第三の歌は、かく興奮した男の、女に対する優しい配慮である。「泣くのは無理もない。しかしこの恋が粗雑な世人の目によって乱されるのはつらい。泣くならばはさの山の鳩のように忍びやかに泣いてくれ。」ここに使われた鳩の比喩は実によく生きている。鳩の姿の愛らしさ、鳩の鳴く音の肉感的な連想、それは感情に打ち倒された女を描くにふさわしい。ことに軽の乙女は「あまだむ」すなわち「天飛ぶ」という言葉によって形容せられるような軽やかな姿の持ち主である。(あまだむが「軽《かる》」という言葉の連想から来たものであるとしても、太り肉《じし》の女に「天飛ぶ」という枕詞を付けるようなことは上代にはなかったであろう。)しからば鳩の姿は軽やかな乙女の姿とも相通《あいつう》ずるのである。第四の歌は恐らく別離の際に男を送りに立った女の悲しみの姿をいとおしむ歌であろう。第五の歌は離れ住む恋人の愛の誓いである。自分の心が常に恋人の傍にあるという意味を、ここでは「あまとぶ鳥」や「鶴《たづ》が音《ね》」によって現わしている。同時にまたそれは鳥の声を聞いて離れた恋人を思う人の姿をも暗指する。この歌はその音調の美しさにおいて、またその感情表出の複雑さにおいて、前の讃歌とは様式を異にしている。第六の歌も同様である。夏の草の生い繁ってなびき合っている浜べには、隠れた蠣貝も多いであろう。その蠣貝を踏んで足を(251)傷つけないように、足元《あしもと》を見明《みあ》かして通るがよい。これこそ恋に熱した女が、遠く離れる恋人に対しての最も愛らしい愛情の表現である。この場合作者がほかの大きい表象を持ち出すことなく、ただ蠣貝の傷の恐れをのみ歌ったことは、女らしい感情の急所を捉えた意味で、特に賞讃せられなくてはならぬ。女が恐れるのはただ男の足の小さい傷である。異常に興奮した男にとってほとんど顧みるに足りない小さい傷である。しかし女は蠣貝に切られた傷の鋭い痛みを知っている。そうしてその痛みを男の足において想像しその痛みのゆえに戦慄する。彼女の心はすでに男の全身に行きわたっているのである。この愛の深さが別離の悲しみに異様なうるおいをつけている。第七の歌は万葉二には「君が行き気長くなりぬ山たづね迎へか行かむ待つにか待たむ」とある。こうなると行くえ不明の夫を思う憂苦不安の歌であるが、前者は別離の寂しさに堪えかねて決然夫の傍に行こうとする決意の歌である。そこには緊張があり強さがある。最後の長歌に至っては、泊瀬の川瀬の杭に飾る鏡や玉によって妻を描き、その妻が「家」よりも「国」よりも貴いことを歌い切る。鏡や玉は宗教的な威厳を持った最高尊貴の象徴であり、同時に好愛の頂上を意味する宝物である。妻をこれに比するとき、すでに妻に対する無上の尊重が現わされている。「家」も「国」もこの妻あってこそ意味があるのは当然である。ここにおいて愛を生かせるために家を捨て、国を捨て、ついに現世を捨てることもまた当然でなくてはならぬ。
すべてこれらの歌において恋愛は最高の生である。そこには心の炎が肉を通じて燃え上がっている。いかなる現世的な障礙もこの炎を消すことはできない。死にさえも愛は勝つ。かくのごとき愛の強さがまことに上代の恋愛の特徴である。恋愛を制度の奴隷としたシナにおいては、――恋愛が淫楽に過ぎなかったシナにおいては、――かくのごとき全人格的な愛の強さは描かれていない。
(252) 恋愛がかく全人格的であるとすれば、それが人生に対して持つ意義もまた大きい。恋愛は人生の支柱である。
梯立《はしだて》の倉梯山《くらはしやま》は嶮《さが》しけど妹と登れば嶮《さが》しくもあらず
という歌はまさにこの事実を暗指したものである。
が、かくのごとき恋愛にとって多妻主義〔四字傍点〕は何を意味するか。家族制度が固定し、妻妾が居を同じゅうしたシナにおいては、制度の圧力が恋愛の自然を亡ぼし、独占の要求を静めた。(わが国においても武家時代以後にこの現象が認められる。)しかし制度の圧力のないわが上代にあっては、恋愛が自然的であるがごとく独占の要求もまた盛んであった。もし男が一人の女をもって満足することなく多くの女〔四字傍点〕を独占しようとするならば、一人の夫を独占しようとする女の要求は、必然につまずかなくてはならない。ここにおいて嫉妬が上代説話の著しい題目になる。
もとより幸福な恋愛の場合には上代人もまた一夫一婦である。恋愛の高潮は常にこの意味において歌われている。しかし一夫一婦が恋愛の理想であったとしても、一夫多妻は男の要求に基づく自然的な事実であったであろうし、また優れた男の特権とさえ見られていた。しかしその事実はシナにおけるごとき恋愛の不自然を導き出しはしなかった。このことの主要な理由は恐らく夫婦の別居〔五字傍点〕にあるであろう。恋愛は結婚〔二字傍点〕を意味したが、しかし必ずしも同棲を意味しはしなかった。妻にとっては嫉妬の機会が少なく、夫にとっては同棲による倦怠が少なかった。これらの事情は比較的穏やかに多妻を可能にする。が、恋愛にしてその自然の性質を失わない限り、多妻は女の愛の要求と一致しはしない。多妻が男における自然の現象ならば、嫉妬もまた女における自然の現象である。
恋の物語はこの事を示している。八千矛の神が恋の英雄であるとともに、妻のすせり姫は嫉妬をもって名高く、大(253)雀《おおさざき》の命が恋の英雄であるとともに、后《きさき》石《いわ》の姫《ひめ》は嫉妬の権化である。神々の王ゼウスの配ヘラを、すなわち世界最初の「妻」を、同じく嫉妬の権化としたギリシア人の空想は、いかにもこれらの物語と類似している。自然児にとっては、嫉妬はまさに愛の半面であった。
石《いわ》の姫《ひめ》の物語に挿入せられた歌の内の二三は、嫉妬の歌として代表的と見られよう。
美人《うまひと》のたつることだてうさゆづる絶間《たゆま》継がむに並《なら》べてもがも
衣《ころも》こそ二重《ふたへ》もよき小夜床《さゆとこ》を並べむ君はかしこきろかも
押照る難波の崎の並び浜並べむ床《とこ》ぞその子はありけめ
夏虫の火虫の衣《ころも》二重《ふたへ》着《き》てかく宮辺《みやたり》はあに好くもあらず(以上四首、紀、十一)
第一の歌は男が両妻を並べむことを思う歌である。それに対して女は、「衣《ころも》なら二重もよかろう、夜の床の二つは恐ろしい」と答える。第三の歌は男が多妻による子孫の繁栄を歌う歌である。それに対して女は「火を慕う夏の虫のようにじりじりと焦がれる衣を二重着たところで、この宮の生活に何の栄えがあろう」と歌う。愛の独占を求める心がきわめて露骨である。
愛の自然を制度によって圧迫したシナの風習は、「夫人妬忌の行なく、恵を賤妾に及ぼし、君に進御せしむ」ということを、賞讃すべき女の徳とした。従って賤妾その分を超えざる限り、夫人の苦しみは認められなかった。
〓彼小星、推参与昴、粛粛宵征、抱衾与※[衣+周]、寔命不猶(召南)
幽かに光る小星、参や昴、それが妾の身分である。彼らは衾や※[衣+周]を抱いて、粛々として夜の伽に出る。月に比すべき夫人とは格が違う。それが理想の家庭である。しかしもし妾が夫人を僭するごときことあれば、そこに夫人の苦しみ(254)は十分の是認を得る。
緑兮衣兮、線衣責裳、心之憂矣、曷維其已。
緑は美しい。しかし間色である。卑しい色である。下裳にならばふさわしいが、衣とすべきでない。しかるに「縁の衣」がつくられている。しかも正色たる黄が下裳に用いられている。浅ましいことだ。――これは美しくして卑しい妾と、正しく貴い夫人との比喩である。夫人はこの苦労がいつやむことかと嘆く。しかしそれは愛の苦しみであるよりもむしろ秩序の乱された苦しみ〔十字傍点〕である。この点においてもシナの古民謡はわが上代の歌と著しく相違する。
恋愛が自然であるところでは、多妻主義もまたシナ風のものではなかった。正妻であると否とを問わず、恋愛は常に同等の力を持つ。その間に貴賤の相違はない。正妻でない女も、
わがせこが来べき宵なりささがにの蜘蛛《くも》の行ひ今宵しるしも
とこしへに君も逢へやも勇魚《いさな》とり海の浜藻の寄る時々を
というごとき歌を詠み得る境遇にあった。これを小星の詩に比するとき、両者の恋の内容がいかに相違するかは明らかである。シナの妾は肉体をもって主人に奉仕する。わが上代の女は、いかにその恋が官能的であるとしても、たましいをもってせずしては恋をしない。
恋愛における上代人の感情は大体右の通りである。そこには上代人の、素朴に統一せられた美しい心がある。その心はまた自然に対する感情〔八字傍点〕においても認められなくてはならぬ。
上代人がその素朴な驚異の心をもっていかによく自然の美を感じていたかは、あらゆる恋の歌に詠み込まれた自然(255)の情趣によっても明らかに知られる。彼らは自然を愛して、そこに渦巻ける生命と一つになる。自然の美は直ちに彼らの内生である。この親密な自然との抱擁は、自然を思惟の対象とすることを許さない。また自然を感傷的な主観的詠嘆の奴隷とすることをも許さない。しかし彼らがその内生を歌おうとする時には、それは必然に自然の印象によって現わされる。それほどに自然は彼らの心と親しい。
例えば鳥である。彼らは鳥の声〔三字傍点〕をその心に沁み込ませている。暁のさわやかな心持ちを思う時、彼らの心には、青山に鳴くぬえの声、野にとよむ雉の声、庭に鳴く鶏の声が、生き生きとして響いてくる。打ちさわぐおのが心を感ずる時には、あたかも胸の内に千鳥が鳴くかのように感ずる。女が感情に息をつまらせて忍び音に泣く声には、直ちに山鳩の低い音《ね》が連想される。同じようにまた鳥の姿〔三字傍点〕も彼らの心にしみ込んでいる。衣裳をつけた自分の姿を自ら見まわすありさまが、直ちに水鳥の頸をのべて胸を見る姿を連想させるごときは、水鳥に深い親しみを持っている心の出来事である。青い衣の色を見て、そに鳥の羽色を思うのも、そに鳥との親しさに基づくであろう。そのほか、「群鳥《むらどり》のわが群れ去《い》なば」というごとき、あるいは、
雲雀《ひばり》は天《あめ》にかける、高行くや隼別《はやぶさわけ》、雀《さざき》とらさね
隼《はやぶさ》は天《あめ》にのぼり、飛びかけりいつきが上の、さざきとらさね
近江《あふみ》の海《み》勢多《せた》のわたりにかづく鳥《とり》目にし見えねばいきどほろしも
というごとき、鳥についての深い注意を示すものである。
鳥のみならず上代人の生活をとり巻く自然物はすべて同様に彼らの愛を受けている。苅薦《かりこも》、笹葉《ささば》、下樋、一本菅、隠《こも》り水《ず》、蓴菜、菱殻、大根、青菜、薑、のごとき愛らしい農村の風物や、辺つ波、海藻、蠣貝、細螺のごとき小さい(256)海浜の風物は、特にそうである。やや大きい風景としては、「青山に日が隠らば」「西風《にし》吹き上げて雲離れ」「たたなづく青垣山」のごとき、あるいは、
埴生坂吾立ち見ればかぎろひの燃ゆる家むら妻が家のあたり
沖方《おきへ》には小舟《をぶね》つららくくろざきのまさづこ吾妹《わぎも》国へ下《くだ》らす
つぎ苗生《ねふ》や山代川を、みや上《のぼ》りわが上れば、青土《あをに》よし奈良を過ぎ、小楯《をだて》やまとを過ぎ、吾《わが》見がほし国は、葛城《かづらき》、高宮《たかみや》、わざ家《へ》のあたり
のごとき、きわめて穏やかな、やさしい風光が愛される。大雨、雷鳴、電光、洪水、暴風、怒涛、というごとき雄大荘厳狂暴等を印象する自然現象は、歌謡には〔四字傍点〕全然現われて来ない。畢竟上代人はその愛において自然と抱擁し、愛すべからざる自然をば拒否したのである。純粋な叙景の歌の中には、
さゐ川よ雲立ち渡り畝傍山木の葉さやぎぬ風吹かむとす
畝傍山昼は雲とゐ夕されば風吹かむとぞ木の葉さやげる
のごとく、やや暴々《あらあら》しい風を歌ったものもあるが、しかしこの歌は「雲立ち風吹かむとする」暴風の前の光景〔七字傍点〕を畝傍山の木の葉のさやぎによって巧みに歌ったのであって、暴風そのものの烈しさを歌ったのではない。そうしてこの種の「動かむとする刹那」の巧みな捕捉は、畝傍山一帯の平和なやさしい風光に対する強い愛着があるゆえに可能だったのである。
かく上代人は自然を愛して自然と一つになった。そのためにただ愛すべき自然のみが彼らの心に生きた。この傾向は幾度か姿を変えつつも後まで生き残って行くものである。
(257) 恋愛や自然に対する感情のほかになお著しいものは、君主に対する感情である。
やまとのこの高市《たけち》に、小高《こだか》る市《いち》のつかさ、新嘗屋《にひなへや》に生ひ立てる、葉広ゆつ真《ま》椿、そが葉の広りいまし、その花の照りいます、高光る日の御子に、豊御酒《とよみき》たてまつらせ。ことの語りごとも、こをば
この献酒歌に現われた君主讃美の感情は、同種の讃歌にみな共通のものであるが、しかしそれはただ直接単純に君主の威容を讃美する感情に留まって、国家的感情や忠君思想などを伴なったものではない。もしここに日本人特有の何ものかを求めるとすれば、それは君主の威容〔五字傍点〕を描くために「椿」を用いたという点であろう。この愛らしい、平和と温情とに充ちた比喩こそは、自分の知る限り、どの古代民族にも見いだされない。
五 湿やかな心情
以上のごとく恋愛においては体と心との微妙な調和があり、自然観照においては安らかな自然との抱擁があり、そうして君主に対しては和やかな愛着の情がある、というような上代人は、疑いもなくきわめて愛らしい湿《しめ》やかな心情の持ち主である。ここに恐らく上代人の、最も著しい特性が見られるであろう。
しかしこの特性を認めるとともに、その上代人が、全然自然児であった、ということを忘れてはならない。彼らは朗らかな心持ちをもって自然のままに動く。彼らは柔らかい優しい心情の持ち主であると同時に、また何ら良心の苛責を感ずることなくして、粗暴に振る舞い得る人々である。彼らはその情の動くままに完全に自己を犠牲にするという没我的な人にもなるが、同時にまたその情に従って極端なエゴイストにもなる。この至純な「子供らしさ」こそは、(258)民族的特性よりもさらに深い、「人」としての上代人の特性である。
外は即ち内であり、内は即ち外である。肉は即ち霊であり、霊は即ち肉である。同様にまた凶暴なエゴイストは即ち優しい心の愛他者であり、優しい心の愛他者は即ち凶暴なエゴイストである。自然児に共通なこの偉大な「子供らしさ」のなかで、わが上代人は、愛らしい湿やかな心情をその特徴とした。すなわち彼らの民族的特性は、その自然児としての特性をさらに限定する。ここに至って第二次的である民族的特性も、重大な意味を持ち得るに至るのである。
糜爛せる文化になやむものは、たましいの母の国として自然児の偉大な「子供らしさ」を慕う。内と外との過度の乖離が彼らの生を危うくしたからである。しかしこの事実の上には、偉大な「子供らしさ」がいかにして没落したかの全歴史がかかっている。意識の発達に伴なってこの没落が起こるのは当然であるが、しかしその没落は、自然児の気質の相違に従って、時に猛烈であり、また時に微温的である。強剛な心情を特徴とする民族においては、この没落はきわめて激烈に起こる。内と外との乖離が「子供らしさ」の根本をくつがえすのである。そこに、極端な官能享楽主義が現われるとともに、また極端な霊の王国も生まれる。この二つの原理が、血をもって争いつつ、深刻な歴史を築き上げて行く。この争いに疲れたものが「子供らしさ」の母の国を慕うのである。が、何人も知るごとく、日本人の間からは、この子供らしさを慕う声は聞こえなかった。そうしてここに日本における没落の歴史がある。愛らしい心情の持ち主である日本の自然児は、内と外との極端な乖離から生まれた仏教に接したにかかわらず、右の没落を、きわめて微温的にしか経験しなかったのである。昔の「子供らしさ」は、その根本を揺るがされることなく、きわめて徐々に仏教の精神を摂受した。かくして日本人は官能享楽主義と霊の王国との間に常に調和的な広い緩衝圏を造り(259)出した。そこに仏教の特殊な生育があった。古くは中宮寺の観音、新しくは親鸞の宗教、――それらはただ日本においてのみ見られる特殊な形式によって、最も深い、最も普遍的な、美と真とを現わしている。そうしてそれは日本において形成せられた文化の最も著しい徴証である。
この種の歴史が上代人のあとに開展した。その源泉は彼らの、優しい心情によって規定せられた、至純な「子供らしさ」である。そうしてそれを最も端的に示しているものは、ここに観察した歌謡の類であろう。これらの歌謡を味読した者は、日本民族の祖先が世界に類なき平和な、和やかな、調和的な生活を営んでいたことを、認めないわけに行かぬであろう。これはすでに説いたように、大八島国の風土〔二字傍点〕とも関係のある問題であり、また日本民族が民族闘争〔四字傍点〕を経験しなかったことにも基づくと思われる。が、何に由来するにせよ、ここに湿やかな心情が具現せられているという事実は、動かすことができぬのである。
(260) 第五章 上代の宗教、道徳、美術
一 信仰と神話
未開人という言葉には蔑視の意味が含まれている。従って未開人の信仰も一段低いものとして軽視せられる。しかし未開人は、その「未だ開けざる」知識状態にかかわらず、生の神秘に対する感覚において、我々よりもすぐれた能力を持っている。
それは彼らの新鮮な驚嘆の感情である。フロベニウスのいわゆるBetroffenheitである。この感受力は、悟性の働きが発達し、概念が用いられるに従って、減退して行く。従って我々は、我々をとりまく無限に深い生の神秘に対して、彼らよりも鈍感になっている。しかし彼らはまだ新鮮である。恋愛、結婚、出産、播種、収穫、狩猟、争闘、旅行、葬儀、というごとき、彼らの全生活を通じて、彼らはその健やかな驚嘆の情を失っていない。もちろん、その幼稚な知識は、彼らをさまざまの誤謬におとし入れるであろう。しかしその代わり、知識によって驚嘆の情を鈍らせてはいないのである。かくて彼らは、科学の進歩した今日においても依然として不可知であるところの神秘の世界に対して、きわめて溌剌たる心のおののきを持ち続けているのである。その経験の内容は我々にとって珍しいものではないかも知れぬ。しかしそれを経験する心の態度、情熱の強さ、においては、未開人はしばしば我々よりも正しく、我我よりも優れていると言わなくてはならぬ。
(261) 驚嘆の心を鈍らせたものは、宗教からは遠ざかる。我々の時代は宗教に遠ざかった時代である。科学の勝利がもたらした「迷信の打破」は、同時に驚嘆の情の撲滅を意味し、従ってまた宗教の無力化をも意味した。迷信の打破によって信仰を精錬し、驚嘆の情を純粋化し、宗教を深めるということは、科学のなすべくして、しかも十分になし得ざるところであった。この時代に比べると未開の時代は、その新鮮な驚嘆の感情のゆえに、はるかに強く宗教的である。未開人は不可知なる力が彼らに働きかけることを切実に感ずる。彼らはその力が何であるかを知らない。その力についての概念をも造らない。しかしその力は彼らにとって現実である。彼らの日常生活はその力に取り巻かれている。従ってその力に逆らわず、その力に守られんがためのさまざまの儀礼は、彼らの生活のあらゆる場面につきまとうのである。
記紀の示すところによれば、わが上代人もまたかくのごとき状態にあった。彼らは石や木や水においてさえも不可知なる力を感ずる。しかも彼らはそれをただ精霊としてのみならず、また人間の運命を支配する神秘的な力として、あるいは意志感情を有する超人的な存在として、感じ得る程度に達していた。この三段の信仰に対応する三つの現象は、すでに説いたごとく、三世紀のシナ人の記録にも明らかに記されているのである。
不可知なる力に対する驚嘆がデモンに対する怖れとなって現われるのは、未開人の信仰として最も古い。彼らはデモンの力をふせぐために民族学者のいわゆるタブーや呪術を発明する。タブーは「物忌み」である。死者及びその一族に近よってはならない。だから喪屋《もや》を立てる。産婦に近よってはならない。だから産屋《うぶや》を立てる。これらの上代の風習は、それが破られた時、そこに必ず悲劇が起こるほどの、重大な意義を担ったものである。イザナギの命《みこと》が妻の命の屍に対して「近づくな」の禁を破ったために人間の死が始まったという話、あるいはホデリの命が妻の命《みこと》の産時(262)に「見るな」の禁を破ったために海陸の交通が絶えたという話などがそれを証する。この風習ももとは「死」や「出産」において感ぜられる生の神秘が、驚嘆する心に宗教的な興奮を起こさせたのに基づくであろう。「死」は我々にとって不思議であるよりもさらに深く彼らにとって不思議であった。死者に近づくことによってもしその病菌に感染することがあれば、それは彼らにとって不思議な精霊の作用である。出産もまた、生理的には自然人にとってはるかに苦痛の少ない軽易な出来事であったにかかわらず、新しい生を産み出すという不思議さにおいて、死の不思議に劣らないものであった。ことに、産時における母婦の異常な生理的及び心理的状態、新生児の驚くべく微妙な生命などは、自然人の心に強い驚嘆を呼び起こしたであろう。この際起こり得べきあらゆる災厄は、すべて精霊の作用と感じられた。産室は精霊に取り巻かれている。産室は極度に静穏でなくてはならない。かくして神秘に対する驚嘆の情は、生理学的必要をすべて神秘化し、そこに神聖な儀礼を作ったのであろう。
呪術は精霊を追い「祓《はら》ふ」儀式に見られる。やむを得ずして死者に近づいたものは、葬送の後に水にはいって「みそぎ」をする。あるいは「ぬさ」をもって祓《はら》い清める。また死者がなお葬られない時には、親族は喪屋にこもり、親族以外のものは集まって飲酒し歌舞する。これらもまた明らかにイザナギの命《みこと》のみそぎ、息長帯姫《おきながたらしひめ》の大祓い、天の若日子の喪屋、天の岩戸の踊りなどにおいて神話化せられている。この神話化は、これらの風習が上代においてきわめて重大な儀礼であったことの証拠である。この儀礼も、神秘に対する驚嘆の情から起こったものであることは、疑いのないところであろう。人々は神秘なる出来事の無限の深さを恐れ、そこに人間の隙をうかがうさまざまの精霊を感じた。そうしてそれを追い祓うために、本能的な確かさをもって、最も合理的な方法をえらんだ。死者に近づいたものが水をもって全身を洗うのは、病毒に対する正しい防禦である。また穢れのゆえに心理的な弱みを持ったものが、(263)大祓いによって心理的健康を回復することも、同じく正しい病毒の防禦である。さらに死者を前にして歌舞することは、歌舞に伴なう生理的及び心理的の興奮によって、恐怖を払い、心的強健を維持し、病毒に対する抵抗力を増させたであろう。これらはきわめて自然的な衛生法である。しかし彼らはそれを宗教的な意識によって、神聖な儀礼として行なった。もしこのために災厄を避け得たとすれば、それは彼らにとって、呪術が精霊を鎮めたことを意味するのである。
タブーや呪術は精霊に対して人間を保護する。しかし人間の運命には、この種の儀礼によっていかんともすることのできない深潭がある。ここにおいて彼らはきわめて漠然と運命を支配する神秘な力を感じた。そうしてその力への服従を「太占《ふとまに》」という形式で現わした。魏志には、「其俗挙v事行来、有v所2云為1〔四字傍点〕、輒灼v骨而卜、以占2吉凶1」とある。議論が分かれたときその決定を占卜に委すのである。従って太占に現われたところの決断は、神秘の顕現として、絶対に神聖な権威を持った。「先告v所v卜、其辞如v令〔四字傍点〕」とはこの間の消息を語って余りがある。この太占は神話の中にも、また神の祭祀に関する伝説にも、明らかに現われている。しかし中には単純な占卜でなく「夢の告げ」や「神がかり」と結びついたものがある。そこではある特定の神の意志が太占から読み出されるのである。この太占の変化は、運命を支配する力が「漠然たる神秘力」から「意志感情を有する超人的存在」へと進歩したことを語るのでもあろう。
「夢の告げ」「神がかり」等の物語〔二字傍点〕に現われた信仰は、すでに明らかに人格神を示している。上代人の驚嘆の情は、ついにその神秘感を神として結晶せしめた。災厄は精霊の所行であるよりもむしろある神のたたりである。「大物主神、御夢に顕はれて、こは我が御心ぞといふ。」あるいは、「八十万の神をつどへて卜問《うらと》ふ時に、倭のととびももそ姫に神がかりて、我を祭らば国平ぎなむといふ。」この種の夢の告げと神がかりとは、祭祀の起源の物語に頻々として現(264)われている。が、これらの「神」は夢の告げや神がかりの現象によって漸次明らかな姿を得たのであって、「神」がすでに信ぜられたがゆえに夢の告げとなり、神がかりとなったのではあるまい。神秘な力が漠然と〔三字傍点〕信ぜられている場合にも、神がかりの現象は起こり得る。物語に現われたところでも、息長帯姫の神がかりは、琴〔傍点〕をひく天皇と沙庭にいて神命を請〔十字傍点〕う武内宿禰とを必要としたが、何の神〔三字傍点〕の命を請うのであるかは、初めは問題でなかった。神命が下った後に強いてたずねなければ神の名はわからなかったのである。これによって見ても、神がかりの現象は人格神の信仰よりは古い。しかし「神がかり」という言葉が示しているごとく、我々に残された神がかりの物語は、すでに人格神が成立した後の解釈によって物語られている。そこにまた神がかりの現象がいかに人格神の発生を助けたかも推察せられるのである。
上代の宗教心は右のごとき三つの形式に明らかに現われている。が、これらの形式は、ただ上代にのみ限られたものではない。それが生の神秘に対する切実な驚嘆の情から生まれたものである限り、そこには普遍人間的な真実がある。物忌み、厄払い、占卜、神がかり、等の現象は、人類を通じ、各時代を通じて、現在に至るまでなおその生命を失わない。だからタブーや呪術等の存続のゆえに直ちにその時代の宗教心全体を原始的と見るのは妥当ではあるまい。
上代の信仰の特徴をなすものは、一方では右にあげた「驚嘆の情」である。しかしこの点における「原始的なるもの」は、むしろ失われたる「黄金時代」を意味する。それに反して真に原始的な特徴は、彼らがその信仰を「思惟」せずして「行動」したという点である。彼らの思考力は抽象に堪えなかった。彼らは意味内容を形式から離すことができなかった。だから彼らにとっては信仰は直ちに儀礼であり、儀礼は直ちに神秘である。ここにタブーや呪術の原(265)始的な特徴が見られる。
この特徴は神の祭祀〔四字傍点〕においても引きつがれた。しめ縄、ぬさ、斎浴、神楽、等がそれである。これらの儀礼はその原義から転じて、神と人との間の神秘的な関係を設定した。が、ここにはさらに新しい儀式〔五字傍点〕が付加せられる。それは一度創設せられるとともにその神聖性のゆえに後代に対して神秘的な権威を持った。従ってそれは、神代史成立の時代の人から見れば、神の意志からいで神の信仰とともに古い〔神の〜傍点〕ところの、神聖犯すべからざる儀式であった。
その儀式とは何であるか。まず第一は平瓮《ひらか》厳瓮《いつべ》等の斎瓮をもって神を祀るという儀式である。大国主の神が自己の祭祀を遺言した話によれば、平瓮は神に食物を捧げるための食器である。また神武紀の「天つ神の訓《おしえ》」によれば、敵地の土で造った平瓮厳瓮をもって天神地祇を祭ることは、強敵折伏の呪力を持った儀式である。崇神紀の諸神の祭祀の物語においても平瓮は祭祀に必須の道具として取り扱われている。第二は矛、盾等の武器をもって神を祀る儀式である。崇神紀及びその以後の神の祭祀には、特にこのことが著しい。第三には、さらに一歩を進めて、武器そのものを、特に〔二字傍点〕刀剣を、神として祀る儀式がある。神武東征の物語に現われる建御雷の太刀は明らかに「サジフツの神」「ミカフツの神」「フツの御魂」などと呼ばれている。また草薙の剣が神として祀られたことも伝説とともに古い。第四に、さらに著しいのは、鏡である。多くの神社には神体として鏡が祀られている。これは恐らく神社の出現とその時を同じくして始まったことであろう。神代史においても「鏡を我が御魂として祀れ」という天照大神の神勅は、神話の各部分を統一し、それを入代に結びつける最も重要な契機となっている。
これらの儀式は、上代の信仰によれば、神とともに古い。が、我々にとってもまた、その儀式の古さは神の信仰の古さを示しているであろう。遺物によって明らかなごとく、斎瓮は漢式瓦器を学んだ韓人の土器と全然同様である。(266)この窯法が伝わったのは、たぶん三世紀のころであろう。武器や鏡は漢式の直模であって、それよりも古い。しからば右のごとき儀式は、いかに古くとも西紀前二世紀ごろ以前にさかのぼることはできず、事によれば紀元後三世紀ごろまで降るかも知れない。とすれば、右の儀式の起源は、大和朝廷の成立よりもあまり古くはないのである。儀式の起源がここにあるとすれば、「鏡を御魂」としてそこに神を感ずる信仰も、また同じ時に始まらなくてはならない。
かく神の祭祀の起源について時代の見当をつけ得るとすれば、上代人の宗教心が推移して行った時代も、ほぼ見当がつけ得られるであろう。
神話及び祭祀の伝説は、常に「儀式」の後に生ずるものである。未開人はその儀式を「思想」からでなく、直覚的に造り出した。儀式の意味は儀式を行なうこと〔五字傍点〕、儀式に没入すること〔六字傍点〕を離れては存しなかった。しかしやがては彼らの驚異の心が、儀式の「意味」を求め始める。その時に至って彼らの想像力は、現前の儀式に基づいて過去の歴史を造り、そこにさまざまの神話伝説を現われしめるのである。
我々の神代史及び人代の祭祀の伝説もその例に洩れない。上代人は儀式の真の起源を記憶するほどに歴史的ではなかった。しかし儀式は彼らにとって信仰である。儀式の暗示するところは直ちに「真実」でなくてはならない。かくて驚異の心が生んだ幻想的な説明も、彼らには歴史的事実として信ぜられる。それが我々の古い神話と伝説である。
が、もとよりこのことは、単純に、短期の間になされ得るものではない。神代史のごとき統一ある物語が成立するまでには、すでに断片的に多くの神話伝説が生まれていなくてはならない。すでに古く神の観念の存しない時代から、儀式は行なわれていた。その儀式に対する驚嘆の情は、神の祭祀が始まるまでに、すでに多くの説話を造っていたは(267)ずである。例えば性の神秘から生まれて婚姻の際に行われたあ儀式が、イザナギ・イザナミ性交の説話を生み、死者に対するタブーがイザナギ黄泉下りの伝説を、みそぎの儀式がイザナギのみそぎ祓いの話を、うけいの儀式が剣と玉による両神のうけいの話を、葬時の呪術としての歌舞が天の岩戸の歌舞の話を、産時のタブーが豊玉姫の伝説を、また蛇に対する神秘的な怖れが三輪山伝説のごとき神婚説話を、おのおのその原形におい〔おの〜傍点〕て生み出していた、というふうな事は推測してよいであろう。さらにまた第二段として、国家統一の事業が推し進められて行った時代に、この統一をひき起こした神聖な権威やそれに伴なう祭祀の儀式が、神話を産み出したという事も考えられる。大国主の神及び天照大御神が、「君主」としての性格を最も著しく示しているのは、恐らくかかる事情に基づくのであろう。この際この儀式において重要な役目をつとめたらしい鏡、玉、剣のごときも、神話の母胎となっている。書紀の一書によれば、天照大御神自身も、鏡から生まれたのである。
伊弉諾尊曰、吾御宙の珍子を生まむと欲す。乃ち左手を以て白銅鏡を持す。即ち化出せる神あり。是を大日霊《おほひるめ》の尊と謂ふ。
剣については、スサノオの尊の冒険譚は言うまでもないが、他にもイザナギの尊がカグツチを斬る話や、天上のうけいにおいて十拳の剣から神々の化生する話がある。また矛についてはイザナギの命が滄溟を探る矛や、大国主の神が治国に用いた広矛の話があり、玉については、天上のうけいにおいて、天の忍穂耳の命の生まれる話がある。これらによって見れば、神代史の構想上最も重大な説話は、すべて鏡、玉、矛、剣などの尊崇から生まれたものである。しからばこれらの説話が、鏡、玉、武器などによる君主尊崇〔四字傍点〕の儀式よりも新しいことは明らかであろう。
右のごとき種々の神話がすでに久しく民間に存続した後に、神代史はそれを統括するものとして別種の動機をもっ(268)て生み出された。神秘なる儀式に対する直接の驚嘆ではなくして、皇室の尊厳や諸氏の権威や、またそれによって組成せられた社会組織などに対する驚嘆が、神代史を成立せしめた動機なのである。上代人はかくのごとき社会の状態がいかにして成立したかを知ろうと欲した。そうしてその要求に答えるために、皇室の由来、諸氏の由来、及び現前の社会組織の由来が、すでに存する神話を材料として物語られた。だから神代史は、その構想の示すごとく、皇室や諸氏や、それらによって造られた社会組織などの「歴史」なのである。ただその「歴史」が神話の上に立つものであることは、見落とすわけには行かない。
神代史の材料となった神話を神代史から引き離して考えてみる。
すでに説いたごとく神話は儀式の後に生まれたものである。従って古い儀式からは単に「祭られる神」すなわち自然神〔三字傍点〕が生まれ、新しい儀式からは「神を祭る神」すなわち君主〔二字傍点〕としての神あるいは英雄神〔三字傍点〕が生まれなくてはならぬ。そうしてこれらの神々を説明するものとして最後に造化神〔三字傍点〕が造り出されねばならぬ。かく見れば神話学者の言うところの神話発生の順序と一致してくるであろう。が、自分の見るところによればそれは我々の神話の事実とは一致しない。儀式に対する驚嘆の情から最初に神話が発生した時には、その神話の主人公は決して自然神ではなかったであろう。古い儀式において信ぜられた神秘的な力――人間の禍福を支配しながらも、全然人間的な姿を持たずまた人間的な行動をしない神――それは上代人の幻想にははいり得ないのである。かかる神々は実際に〔三字傍点〕「祭られている神」であった。しかし神話の神ではなかった。だから神代史に記すところのもろもろの自然神は、独立しては何らの説話をも負っていないのである。神話における神らしい神は最初から人間的に行動する神であった。従って神話の発生が「神(269)を祭る神」「英雄あるいは君主としての神」「恋愛し子を生む神」に始まるということは、承認してよかろうと思う。この種の神が幻想せられた後に、自然神もまた右の幻想の潤色によって、人間的な神として神話に取り入れられた。そうして最後に造化神が造られ、なおその先に「混沌」が空想せられた。だから神話発生〔四字傍点〕の順序は、英雄神、自然神、造化神、混沌というごとく、神話の物語るところを全然逆倒するのである。
かく見れば造化神の出現は最も新しく、また最も空想的である。それはこの神の礼拝儀式から生まれたものではなく、この世界と神々との生成の不思議を説くために、すでに存する生産説話を、国土と神々との創造にまで押しひろめたものであろう。イザナギの命が創造の神であるにかかわらず実際において大きい信仰を受けていないこと、その創造譚に「大八島国」の概念が含まれていること、などは、明らかにこの神話の新しさを示しているのである。
儀式の説明として生じた人間的な説話や、君主崇拝から生じた英雄神話の類が、ついに造化神を得て一つの系統立った神話にまとめられたことは、右の観察からすれば、あまり古いことではない。とにかくそれは国家統一後でなくてはならない。が、神代史に現われたところでは、「造化神――自然神――英雄神」という系統にまとめられ得べき二種の神話〔五字傍点〕が、明らかに並行して存している。高木敏雄氏はかつてここに神話の原形を見いだそうと試みた。それによればスサノオの尊が造化神としての地位を得てくる〔スサ〜傍点〕のである。イザナギ、イザナミ両尊の「国土及び自然神」の生産は、神代史全体の発端としてきわめて詳細である。神代史製作の時代には、あらゆる神々をここに帰せしめようとする企図が、恐らくあったであろう。しかるに「祭られる神」のある者は、イザナギの尊から直ちに生まれずして、スサノオの尊〔六字傍点〕及びその子孫から生まれている。しかもその「祭られる神」は、大年の神や御年の神のごとく、後代までも実際に祀られた神である。この系譜には何か動かし難い根拠があったであろう。そうなると、スサノオの尊を特(270)殊な地位に置いて見る解釈が可能になって来る。この神は多くの自然神を生んだ。のみならずその体から樹木を化成させた。これはかつてスサノオの尊が造化神であったことの痕跡でなくてはならない。すなわちスサノオの尊は、神代史の材料となった神話においては、イザナギの尊と対等の位置にあったと考えられるのである。
かく見れば二つの神話の並行はきわめて明らかである。イザナギの尊は天照大神〔四字傍点〕を産んでこの神に高天原の統治を命じた。スサノオの尊もまた大国主の神〔五字傍点〕を産んでこの神に「地上の国の君主」となることを命ずる。天照大神は高天原にあって「神を祀る」ための衣を織り、また八百万神と合議しつつ「その国」を統治した。大国主の神もまた「海を照らして依り来る神」を祭って、その国を作り堅めることに努力する。天照大神の傍には常に高御産巣日《たかみむすび》の神があって大事の決断に与るが、大国主の神には大事のたびごとに神御産巣日《かむみむすび》の神の助力が与えられている。これらの神々は独り神〔三字傍点〕として身を隠したと記されているにかかわらず、前者はその娘〔三字傍点〕を天照大神の御子の配とし、後者はその子〔三字傍点〕を大国主の神の助力者として下している。
もしこの二種の神話が銅鉾、銅剣文化圏における神話、銅鐸文化圏における神話、というふうに、文化圏を異にして発達したものであるならば、それは国家統一以前のことでなくてはならない。が、国家統一以前にできたとしても、その時の原形がどういうものであったかは、知り得られないであろう。二つの文化圏の対峙の時代には、日本を一括して一つの国土と考えるはずはなかった。しかしイザナギの尊の国土創造の話はこの考えなくしては成り立たない。またスサノオの尊の神統には筑紫〔二字傍点〕にいます神々があり、その伝説は紀伊と韓土とに特殊の関係を持つ。それによって見てもこれらの伝説の現在の形はかなりに新しい。だからたとい国家統一以前にすでに造化神〔三字傍点〕が現われていたとしても、それがいかなるものであったかは、神代史からは知り難い。天照大神、大国主の神のごとき「君主としての神」(271)は、右の両文化圏対峙の時代にすでに現われていたとしてもさほど無理ではないが、しかしすでに指摘したように、神代史の中には銅鐸の痕跡が全然ないのである。だからたとい二種の神話の起源がこの時代までさかのぼり得られるとしても、現在の形はその後に語り直されたもの〔八字傍点〕と認めねばならぬ。
しからば祭り事が統一せられて後に何ゆえに二種の神話が語り継がれたのであろうか。その説明は容易である。出雲には多くの民衆の信仰を集めた出雲の大神が存した。そうしてその神の威力は大和朝廷の権威にも屈しなかった。すでに神があり神社があり儀式がある。その説明として一つの神話の系統が造られるのは当然である。他方には国家を統一する大和朝廷がその権威の由来として皇室の神聖な神統を語り、その神聖性を裏書きする天照大神を信仰している。大神が「我が魂として祭れ」と命じた神鏡は、現前に祀られている。その説明としてここに一つの神話の系統が造られるのも当然である。
かく二つの神話は、すでに存する「出雲の大神の信仰」と「鏡に象徴せられる天照大御神の尊崇」とから出発した。これらの神々は神話の発生以前からすでに「君主としての神」である。もしくは「神となった君主」である。従って出発点は「神化せられた記憶」であって、歴史的記憶ではない。そこに幻想せられる由来話も、神話であって歴史ではない。
これらの神話を材料として民族の別〔四字傍点〕を論ずるのは、はなはだしい見当違いである。これらの神話に現われた区別は信仰の相違であって、民族の別ではない。「神代史」に至っては右の二種の神話を一つの系統にまとめようとしている。そこには国家統一時代の征服の記憶が――伝説化せられた形において――用いられているかも知れない。しかしそれも同一民族の内部での出来事であって、民族移住のごとき古い過去を語るのではない。
(272) 神話には、我々の祖先の気質が、明らかに現われている。
「女」と「生殖」とに対する神話の態度は、その神話を造った民族の気質を反映する。ユダヤ人の神話にあっては、原始性交はすなわち原罪であった。古代ユダヤ人はその著しい現世肯定の傾向にかかわらず、すでにここに後代の深刻な霊肉乖離を予示している。ギリシア神話にあっては、プロメテウスに贈られた最初の女は、あらゆる害悪の使者であった。ギリシア人がその朗らかな自然人としての性質にかかわらず、美の表現の頂上を悲劇において実現したということは、すでにここにその緒を現わすらしい。それに比べて我々の生産神話は、いかにも子供らしく無邪気なものである。最初には失敗があった、それは「女が言|先立《さきだ》てる」ためであった。しかしこれは恋愛における女の受動性を言い現わしただけであって、女の害惡を語っているのではない。受動性は女の自然である。自然に従う時すべては調ってくる。かくて最初の男女は、その性交によって国土や草木を生んだ。かくのごとき創造神話はきわめて珍しい。性交に対して何らかの暗い陰を感ずるものは、こういう神話は作らないであろう。我々の祖先にとって、性の事実は最も自然であるとともにまた深い神秘であった。そこには清浄と汚穢、明と暗、尊貴と卑賤というごとき区別はなかった。この朗らかな無邪気さは、幾度か形を変えつつも、我々の文化の内に生き残っている。時には致命的な弱点として現われ、時には他の民族に決して見られない、独自な美しい特性として現われる。我々の民族が体験の深刻さを欠くとすれば、それは前者の場合である。またこの民族が人間生活の純真な調和、すなわち霊肉浄垢の対立を絶した渾然たる生活の美しさを体現し得たとすれば、それは後者の場合である。かく見れば神代史初頭に記されたる生産神話は、我々の文化の象徴になる。好悪は別として、それは事実である。
(273) 次に著しいのは、神話に現われた恋愛である。我々の神話は性交の描写をもって始まる。が、その描写の中核は、「あなにやし、愛乙女《えをとめ》を」「あなにやし、愛男《えをとこ》を」という愛の叫びにほかならない。すなわち最初の男女は、悪魔の誘惑のゆえではなくして、愛のゆえに結びついた。従ってこの愛妻を失った男神の悲嘆は、自己の半ばを失ったことの悲嘆であった。彼は女神なくしてはその生活を、すなわち創造を、続け得ないと感ずる。そこで彼は女神を黄泉国にまで追って行く。これは真実なる愛の最も普遍的な図式である。なおこのほかにも、スサノオの命《みこと》はクシナダ姫のために生命を賭して大蛇を退治する。大国主の神は八上姫を得むがために二度殺され、スセリ姫を得むがために四度生命を賭する。また天上より出雲につかわされた天の若日子は下照姫を得たがためにその使命を忘れた。すべてこれらの物語においても、上代の恋歌が示すと同じき「全人格的な恋」が認められる。ここに自然児はその独特な生活の統一を持っている。彼らは愛のゆえに我欲を捨てるのではない。彼らは露骨に我がままである。が、また彼らは、我欲に縛られてもいない。彼らは完全に相手と合一することができる。恋人の苦しみは彼らにとって直ちに〔三字傍点〕自らの苦しみである。この間に彼我の差別はない。ここにおいて彼らは「自己のため」にすると同じき情熱〔五字傍点〕をもって「恋人のため」にする。これは献身的な愛、没我的な愛と異なる所がない。すなわち彼らの愛は極端に主我的であると同時に極端に没我的である。
この種の素朴な渾融的統一はまた神の性質においても見られる。神はすべて自然児である。善の原理である神〔傍点〕と、悪の原理である悪魔〔二字傍点〕との対立は、ここには存しない。正義の神、判者としての神もまた顕著に現われていない。
この観察を明瞭にするために神代史に現われた神々を分類してみると、次のようになる。第一〔二字傍点〕は、実際に祀られた神ではなく、ただ神代史にのみその名を出しているもの。例えば天の御中主の神のごときである。イザナギの尊《みこと》以前(274)の神々として古事記書紀に列挙した諸神、(高御産巣日、神御産巣日を除く、)その他八十禍津日《やそまがつび》の神、深淵《ふかふち》の水《みず》やれ花《はな》の神、木《こ》の花《はな》ちる姫などのごとく、作為の跡を示す名の神々は、すべてこの部類に属すべきであろう。第二〔二字傍点〕は、これも実際に祀られた神ではないが、物語の中で盛んに活躍する神々。例えばイザナギ、イザナミの尊のごときである。もとよりこれらの神々は、神話が作られた後に、幾分かの祭祀を呼び起こしたかも知れない。しかしそれとても言うに足りない程度である。第三〔二字傍点〕は、実際に祭られた神でありながら、神代史にただ名のみを載せているもの。例えば底筒男《そこつつのお》、中筒男、上筒男三柱の墨江《すみのえ》の大神、大年の神、御年の神、のごときである。その他山の神河の神雷の神水門の神の類は、すべてここに属すべきものであろう。第四〔二字傍点〕は、実際に祭られた神であるとともに神話においても盛んに活躍する神、例えば天照大神、大国主神、大三輪神のごときである。
神話は主として第二〔二字傍点〕及び第四〔二字傍点〕の神々の物語である。だから我々の当面の問題はこれらの神々にかからなくてはならない。第三の「祭られる神」は、それが実際の信仰の対象でありまたすでに漠然たる精霊から自然神にまで発達していたとしても、神話においては重要な役をつとめない。またかの「邪神」なるものも、古い精霊の信仰を言い現わしたまでであって、神話の神々に伍するものではない。例えば、
彼地|多《さは》に螢火の光る神及び蠅声《さばへなす》邪神〔二字傍点〕あり。また草木|威《みな》能《よ》く言語《ものい》ふことあり。(紀二)
のごとき、「邪神」は明らかに精霊であって、「正神」に対立する邪神ではない。
では第二及び第四の神々の内に、果たして善神に対する惡神が存在するであろうか。神々の内ではスサノオの命が最も惡神に近い。しかしこの神は最も著しい「自然児」の典型であって、悪の原理ではない。彼はその我がままのゆえに「青山を枯山になす」ほどに泣いた。天にのぼる時には国土山川が震動するほどに乱暴であった。だから天照大(275)御神はその「邪心」を推測したが、しかし安の河原の誓《うけい》は邪心のないことを明らかに証している。その後この神は乱暴な行ないのゆえに八百万の神に罰せられるが、しかしその「悪態」なるものは「畔離ち」「溝埋め」のごとく共同耕作の地盤において「つつしむべきこと」をつつしまなかったのであって、惡の原理としての所業ではない。だから彼は地上に下るや否や直ちに大蛇退治を、すなわち「邪神の征服〔五字傍点〕」を行なっている。スサノオの命のほかになお大国主の神に対する八十神がある。彼らは兎に対して意地惡であった。また大国主の神を殺そうとした。しかしこの意地悪の神も悪の原理とは言えない。また彼らは大国主の神に害悪をもたらしたが、しかし害悪をもたらすことをその本質とする神でもない。
かくのごとく我々は純粋の惡神を見いだすことができない。神々は殺戮を平気でやる。イザナギの命は、その出産が母神の死をもたらしたゆえをもって、カグツチを斬殺した。また窃盗も平気である。大国主の神はスサノオの命の娘と武器とを盗んで逃げた。また平気で誓いを破る。イザナギの命は女神との約束を守らなかった。が、神々は同じ重さをもって他を救い、他を許し、また自己を犠牲にする。それらの行為は彼らにとって一つである。
正義の神と悪魔と、罪人と審判者と、主我的態度と献身的態度と、霊と肉と、――すべてこれらの対立は我々の神話には見いだせない。あるものはただ天真なる自然性のみである。
が、これらの神話を一つの動機によってまとめた「神代史」にあっては、顕著な一つの対立が見いだされる。それは「服従するもの」と「服従せざるもの」との対立である。
神話発生の当時すでに君主崇敬が存したことは、疑いのない事実であろう。だから皇祖神としての天照大御神、神(276)威の象徴たる三種の神器、神的のものとしての皇室の位置、などは、むしろ神話よりも古い。しかし個々の神話は、この神聖な権威と独立に発生することもできた。しかるに今や神代史が皇室の由来、国家組織の由来を説こうとするに当たっては、個々の神話はこの視点の下に統一されなくてはならない。ここにおいて皇室の神威は、個々の神話に対して価値の標準になる。この神威に服従せざるものはすべて惡なのである。
造化神たるイザナギ、イザナミの命は神々の祖先であるがゆえに、(すなわち「服従するもの」と「せざるもの」、「支配者」と「服属者」のいずれをも生み出した神であるがゆえに、)右の評価には縛られない。しかし皇祖神が現われた後には、すべての神はこの束縛を受ける。スサノオの命はその不従順のゆえに悪である。さばえなす神々もその不従順のゆえに悪である。使命を怠った若日子もその不従順のゆえに惡である。それに反して皇祖神の命を忠実に行なった神々は、賞讃すべき善き神である。大国主の神もまたその従順のゆえに善き神とせられる。
ここに我々は善悪よりも一層根源的に働いている価値の標準を見いだすことができる。これは他の語で言えば全体性の権威への服属と否とである。人倫の最も深い原理がここでは神話的に把捉されたのである。そこに上代人の皇室尊崇の観念も明らかに現われている。「日本国は皇祖神の命によってその統治者を定められている。それは日の御子としての天皇である。だから皇室には神威がある。不従順なものはその神威を涜すのである。」
我々は神話〔二字傍点〕において「自然児の神化」を見た。神代史〔三字傍点〕においては「皇室尊崇の宗教」を見る。この両者は明確に区別し得べきものである。ことにこの後千数百年の文化が、そのいずれをいかに活かしたかにおいて、一層相違が著しい。前者は早くよりその形を失った。しかしその生命はフェニックスのごとくに幾度か新しい姿に宿ってよみがえった。後者は万世一系の事実が示すごとく、かつて一度もその形を失ったことがない。しかしその内容は幾度か変わっ(277)た。江戸時代の古道がその素朴な内容を取り返した後にも、すでに明らかな変遷がある。この相違は注意すべきものである。前者は、人生観を色づける内的傾向として、異なった形式の内にも〔十字傍点〕生き続けるところに、その特殊な意味を持っている。が、後者は、内容の変遷にもかかわらず〔内容〜傍点〕、その形式を維持し続けるところに、その重大な意義を持つのである。
皇室尊崇の宗教は、全体性の権威を確固として把握した点において、不動の意義を担うものであるが、しかしその表現には上代人の素朴な信仰の反映が含まれている。だからこの素朴な世界観をそのまま復興しようとした江戸時代の神道家は、「不合理〔三字傍点〕なるがゆえに信ずる〔三字傍点〕」という絶対帰依の態度を執らなくてはならなかった。その最も著しい例としては本居宣長をあげる事ができる。彼にとっては神代史の批判は神威の冒涜であった。江戸時代の学者がすでに試みた神代史、上代史の合理的解釈等例えば神代の百七十九万余歳というごときを論ずるに足らざる虚妄とし、地神五代の初を西漢(前二世紀)に当て、神武紀元を六百年短縮し、天孫を海外よりの渡来者とする、というごとき解釈、すなわち明治時代の史学者が保持したと同種の〔三字傍点〕解釈――は、彼の目には「漢意《からぶみごころ》の小ざかしさ」「皇統を卑めんがための作り事」に過ぎなかった。神代の神秘は人智の測り知るべきでない。神代の古さは百七十万年はおろか、幾百万年であるかもわからない。わずか二三千年の年月を古いと思う漢土の歴史のごときは、絶対にここに比せらるべきものでない。天照大御神誕生の地として万国に冠たる神国であるがゆえに、日本のみは天地初発以来の真事実〔三字傍点〕を伝えているのである。その真事実に対して人智が不合理を感ずるのは畢竟人智が神秘に対して無能力である事を暴露するに過ぎぬ。かくて神代史は神秘の啓示書として我々の上に掛かっている。懐疑は絶対に許されない。天照大御神が太陽であるならば、この神の出生以前には、石屋戸ごもりの時と同じく、世界は闇でなくてはならぬ、という抗議に対し(278)て彼は答える、この神が太陽であることは記紀に明らかに記されている〔記紀〜傍点〕。またこの神の出生以前に世界が闇でなかったことも、記紀に明らかに記されている〔記紀〜傍点〕。それを疑うのは疑いそのものが間違いである。もちろんこの疑いは合理的であるかも知れない。しかしそれは子供にだって考えられる理屈である。もし神代史が人間の造ったも〔八字傍点〕のであるなら、子供にだってわかるような不合理を入れておくはずはない。だからこのわかり切った不合理を含んでいる所に、神代史が人間のものでないゆえんが存しているのである。この種の神秘の記録に対しては、人間の智慧は謙遜にならなくてはならない。人智の力は程度の知れたものである。人智によって測り得られぬものは我々の眼前にも無数にころがっている。手近い例を「大地」に引く。もしこの大地が円球であって空中にかかっているとすれば、何ゆえに落ち行かないのであるか。それは知り難き不可思議である。知力は頼りにならない。
明らかに本居は宗教的情熱をもって神代史を信じているのである。しかも彼はその発達した知力をもって素朴な上代人の信仰に帰って行こうとするのである。そこには「驚嘆の情」の復活がある。神秘の前に人智の殻を破ろうとする正しい情熱がある。その心の態度に対しては尊敬を惜しむべきでない。しかし我々は直ちに彼の信仰に同ずることができるであろうか。「太陽」が真に天照大御神であり皇祖であることを信ずることができるであろうか。恐らくそれは現代人には困難であろう。しかしまた、太陽を直ちに天照大御神として信じ得なければ、皇室の伝統的権威が倒れるというわけではない。神代史の説いた天皇の権威は、素朴な上代人の驚嘆の情を通して自覚せられたものではあるが、その射当てているのは人倫の深い根柢である。だからこの素朴な通路を別にしても、その根本的な意義は変わらない。だからこそ、儒教や仏教の盛行にかかわらず、伝統的権威は力強く生き続けたのである。のみならず儒教や仏教がこの権威の中に摂取され、その内容として活かされさえもしたのである。この点に着眼すれば、後代の「皇室(279)尊崇」が、上代人あるいは本居宣長のそれと異なっていても不思議はない。そうしてその異なった内容〔六字傍点〕は、明治時代においては、憲法の条文や教育勅語となって現われた。それが上代のそれと明白に異なり、時代特有のもの〔七字傍点〕であるということについては、何人もその眼を閉ずべきでない。
二 道徳思想
日本民族固有の道徳を神代史や上代史から引き出そうとする企てがある。それは果たして可能であろうか。
おのおのの時代はその時代特有の道徳思想〔四字傍点〕を持っている。おのおのの民族もその民族特有の道徳思想史を持っている。これは疑いのない事実である。しかし人倫の道は時と所を絶して万人に通用するものでなくてはならぬ。従ってもし道徳が人倫の道を意味するならば、「ある民族に特有」の道徳〔二字傍点〕はあるべきでない。たといそれが「ある民族」に根深く存在するとしても、人倫の道である限りは、その民族に特有ではなくして、人類に共通すべきものである。またもし道徳〔二字傍点〕が、人倫の道の自覚形態としての道徳思想〔四字傍点〕を意味するならば、この場合にも「日本民族固有の道徳」なるものは存しない。日本民族は目ざましい歴史的発展を示している民族であるから、ある時代の思想に固着したりなどはしない。しかし「古代日本民族固有の道徳思想」は、明らかに存在する。それは「王朝時代日本民族固有の道徳思想」や、「武家時代日本民族固有の道徳思想」などとともに、その時代の日本人の生活から特殊な性格を与えられているものである。
いずれにしても日本民族固有の道徳を神代史、上代史から引き出すということは不可能である。そこから引き出されるものは「古代〔二字傍点〕日本民族固有の道徳思想〔四字傍点〕」でなくてはならない。この古代日本人の道徳思想は、ある意味で現代の(280)道徳思想よりも優れている。もしそこに古代への郷愁〔六字傍点〕を感ずる人があるとすれば、自分もまたある意味で賛成する。しかしその郷愁が何を意味するかについては、以下に説くところによって十分の諒解を得ておかなくてはならぬ。
すでに観察したごとく、神話には善神と惡神の対立がない。このことは直ちに、行為の道徳的評価において、善と悪との対立のないことを意味する。すなわち上代人は「善悪の彼岸」にいたのである。ここに上代の道徳的評価意識の第一次の特徴がある。
神話は「自然児の神化」であった。そのごとく道徳的評価においても「自然性の無条件的肯定」が見られる。人間の自然的性質に基づくものは、いかなる衝動、いかなる欲望であっても、そのままに非とすべきではなかった。しかるに上代人は、その単純な生活のゆえに、きわめて容易に衝動や欲望にその全人格を集中することができる。そこにおいては彼の人格は、一つの衝動一つの欲望に化し切るのである。従って彼らの行為は、本来非とすべきでない自然性そのものとして現われる。どの行為も同じように無邪気なのである。スサノオの命は、手足の爪を抜かれて天から逐われた時に、食物を恵んでくれた大《おお》ゲツ姫を、その食物の穢《きたな》さのゆえに殺戮した。食物の穢さによって侮辱を感じ、その侮辱に対する烈しい復讐欲に燃えたのである。が、その同じスサノオの命は、大蛇の犠牲に供せられようとするクシナダ姫の生命を救うために、大蛇退治の冒険をあえてする。他の生命を尊重するがゆえに全然没我的になるのである。が、この二つの行為においてスサノオの命自身の心情には何ら異なるところがない。彼は善悪の区別を超脱しているのである。
上代人は右のごとき神を描いた。そうしてそれは彼らがあらゆる神々と人間の事蹟を物語る場合の態度である。ス(281)サノオの命は親イザナギの命に対して不孝〔二字傍点〕であった。夫婦喧嘩、兄弟喧嘩は神々や皇族の間に盛んに行なわれている。幾人かの天皇は、父天皇の后をさえ娶《めと》ろうとし、あるいは娶っている。これらの「親不孝」「夫婦の不和」「兄弟の不友」「長幼の無序」などの現象は、後代の道徳思想において最も非難すべきものとせられているにかかわらず、神聖な神々の行為として、平然として物語られているのである。
もとよりこれらの行為は、それによって直接に害を受ける側から見れば、悪である。しかしその悪は害悪あるいは禍害なのであって、行為の道徳的非価値なのではない。
このような善悪の彼岸は、神代史によって「国民道徳」を樹《た》てようとする企てに対しては、最も不利なものである。が、江戸時代の国学者はこの点について明らかな目を開いていた。彼らは神代史から善悪の道徳を引き出そうとはしなかった。神々の行為には確かに悪もある。しかし神々は善事にまれ悪事にまれ「真心」に従って行なうゆえに、すべてそのままでいいのである。神々の行為は善悪の彼岸において神聖なのである。この見解が、普遍的な善悪の道徳を説く者の説と、相容れないのは当然であって、そこに神道と儒教道徳との明らかな対立を引き起こした。
その例として、自分は本居宣長の「葛花」を引こうと思う。この論戦においては、皇室尊崇の熱烈な使徒たる宣長は、言わば官憲に反抗する「危険思想家」の立場にあり、聖人の道を説く「まがのひれ」の著者市川匡は、官憲の庇護の下に立つ「健全な思想家」の立場にあった。
「まがのひれ」の著者の主張はこうである。
――「上代ノ古事ハ後ノ天皇ノ御慮ニ令成ツル秘事」に過ぎぬ。天照という名も太陽から連想してつけた名であって、太陽がすなわち神なのではない。わが国の上代は神代史の説くごときものではなく、むしろ今日の蝦夷《えぞ》のごとき(282)状態であったろう。その後聖人の道〔四字傍点〕も伝わり、天皇がこの道によって政治《まつりごと》をとられるようになって初めて秩序ある国となったのである。宣長がこの事実を無視して日本のみを特異な神国と言いなすのは穏当でない。学者の勤むべきは、万国万人の規範たるべき「道」を学ぶことになくてはならぬ。いかに特異な所があろうとも、道にかなっていなければ取るには足りない。もし優れたところがあればそれは道にかなっているからである。歴代天皇の聖徳も皆この「道」を体現したところにある。道にかなうゆえに「聖徳」なのである。宣長のごとく道を貶《けな》すのは同時に聖徳を貶すことになるであろう。天照大御神の神勅や歴代天皇の詔勅は、すべて聖人の道を説いているがゆえに尊い。聖人の道が貶さるべきものならば、これらの詔勅もまた貶さるべきである。宣長が道を斥けつつ神代を嘆賞するのは、かえって皇徳をそこなうゆえんであろう。「善悪ノ論ヲ捨テ畏敬奉ルハ、タヾ妾婦ノ道ナリ。」「サレバ大神モ、天皇悪シク坐ストキ、ソノ詔必ウケ給ハルベシトハ詔リ給ハヌヲヤ。」善悪を忘れてただ畏敬せよというはまさしく「道ヲミダル狂言《まがごと》」である。「抑モ御国ノ迦微《かみ》トイフ言ハ、上代ニハ凡テ物ヲ呼ブ名ニテ、……ソノ所為ハタ、世ヲ治ムベキ道トスルニモ足ラザルモノナリ。神ノ字ニ迷ヒタルナルベシ。」上代の庶母との婚、異母兄妹の婚、姑甥《おばおい》の婚などは後代の範となることはできない。人倫の教えあって初めて「人島畜生島ノ堺」が分かれるのである。
右の主張は一面より見れば確かに正しい。神々の行為に「日本民族固有の道徳〔二字傍点〕」を見いだそうとする立場は、すでにここにおいて破られている。しかしこの主張には善悪の彼岸についての理解がない。論者は善悪の此岸〔二字傍点〕において「善悪の論を捨てた」境地を論じている。上代人の心生活が江戸時代のそれといかに相違するかというごときことも、彼には全然問題でない。宣長はこの点に目を開いていた。彼はその「真心《まごころ》」という概念において善悪を超えた「人倫」の問題を射当てている。ただそれを純粋に倫理学的に展開せず、むしろその宗教的情熱に頼ろうとしたところに彼の(283)主張の弱点がある。彼の弁駁は次のごとくである。
――まのあたり天照大御神の大御光を頭上に頂きながら、「太陽は神ではない」とは、何という恐れ多い邪説《たわこと》ぞ。汝ら儒者の心には漢籍の毒酒が沁みわたっている。まずその狂える酔い心を醒まして己の言うことを聴け。上代の古事が、後の天皇の御慮に成り、その天皇が聖人の道を体現していられたとすれば、神代史には何ゆえに聖人の道に違うことが書いてあるのか。道に違うことを攻撃したいならば後の天皇の御慮うんぬんは撤回するがよい。わが上代にはたとい文字はなくとも、万国に優《まさ》れる言霊《ことだま》の徳によって、天地初発以来の其事実を誤らずに伝えているのである。従って天照大御神が日本に生まれられた日の神〔日本〜傍点〕であることは、疑うを許さぬ第一の事実である。この神国を蝦夷に比し聖人の道によって初めて秩序ある国家となった、と説くごときは、冒涜の限りと言わなくてはならぬ。皇国は天照大御神以来、万国に優れて徳に充ちた国である。最初より秩序のある国である。そうしてその秩序はかつて破られたことがない。その証拠に天神の皇統は連綿として続き、天神のさずけ給える神鏡は歴然として残っている。しかるに漢国は盗賊多き国、君臣の道の定まらぬ国である。臣下が帝王を殺し、帝王が匹夫の女を娶り、人臣は狡猾を競う。聖人のごときも、狡智あるがために人を欺き、その尊敬をかすめ取った盗賊に過ぎぬのである。孔子はやや難が少ないが、孟子のごときは王道を口実に諸国の謀反を勧めて歩いた。湯武同然の大悪人である。聖人の道はこの種の悪人の自己弁解に過ぎない。だから聖人の道があるにかかわらず、いかなる国も乱臣賊子に滅ぼされる。そういう国の聖人の道が、いかにして万世一系の国体を造り得よう。ここにおいて皇国の優れた特徴は、一点の疑いをも許さない。
――論者は「道」を学ぶのが学者の勤めだという。しかしそれは外国の「聖人の道」のことであろう。皇国の神の道に心を向けるものが、どうして戎狄の賊の道に心を向け得よう。また論者は、道が「万国万人の規範」だという。(284)しかし聖人の道は自国をさえ治めることができなかったではないか。それに反して皇国の神の道は、上代より今に至るまで天下を治め通した。皇統連綿の事実がその証拠である。たといこれが「道」とするに足らぬものであろうとも、天下治まりて失なくば、真の善き道である。後世日本に乱多きは、異国の道のはびこれるゆえに、禍《まが》つ日神の怒りが現われたのであって、神の道のゆえではない。
――論者はまた詔勅が聖人の道を説いているという。しかしそれは言葉を借りたのみであって、聖人の道を説いているのではない。上代には忠孝礼儀等の言葉はなかったが、行為はあった。また論者は善悪を捨てることを非難する。しかし人心の善悪は神のしわざに基づくのであって、必ずしも禍つ日神が悪心に乗ずるばかりではない。人間には皇産霊《むすび》の神の御霊《みたま》による生得の「真心《まごころ》」がある。その真心は智愚巧拙善悪などの種類に分かれている。それに従って行なえば、善事も悪事も皆ともにそのままでいいのである。なお婚姻の論のごときは漢国の悪風俗にかぶれた論であって顧みるに足りない。
以上の論駁の第一段において、宣長は、その宗教的情熱を披瀝している。そうしてそれが、我が国体と密接に関係するものであることを示している。ここに神道の祭政一致的傾向が著しく顕われ来る。従って第二段においては、「道」の意義は国家に即して理解せられている。「天下を治め得る道」でなければ道ではない。神の道が天下を治め得たことは「皇統連綿」の事実によって明らかである。だから皇国の「遺」は、人間の行為の遺徳的意義を「天皇への服従」という根源に帰せしめるのである。天皇の権威は無限に深い全体性の権威にほかならないのであるから、この全体性への帰属が道の大本なのであって、逆に道にかなうがゆえに天皇に服従するのではない。ここに宣長は道が人倫的組織の理法たることを十分見ぬいているのである。しかし宣長は聖人の道といえども同じく人倫的組織に即す(285)るものであることを見ようとしなかった。だから「まがのひれ」の著者が、聖人の道をあたかも超歴史的な普遍的法則であるかのごとくに説いている誤謬を指摘することができなかったのである。第三段に至ってその欠陥が正面へ現われる。彼は神の道が善悪の彼岸であることを大胆に認めているが、しかし善悪の彼岸なる神の道が何ゆえに儒教の道よりも優れたる道であるかを十分に論証し得なかった。彼の主張するのはただ日本の政治が漢土の政治よりも優れ、日本人の実生活が漢人のそれよりも平和であること、日本に道徳の「教え」がなくとも徳の実行は漢土よりも進んでいること、などである。宣長はそれによって、善悪批判の立場よりも一層深い人倫の立場がここにあることを言いたかったのであろうが、それは十分な表現に達しなかった。従って全体性への服属という人間の根本的な道が、五倫の道徳においてよりも、清明心の道徳において一層深く自覚せられているということを、理論的に展開することもできなかった。
が、この議論の勝敗はとにかくとして、神の道と聖人の道との対立が「善悪の彼岸」と「普遍的な善悪の道徳」との対立として現われているのは注意すべきことである。宣長の思想が徹底的でないにしろ、古神道と儒教道徳との結合に腐心した学者に比べれば、彼の眼は確かに曇ってはいない。
人性の自然として存するものは、たとい吉凶禍福〔四字傍点〕の意味において善悪であるとしても、道徳的には善悪の差別はないという。この事は上代人が人倫の道を知らなかったという事ではないのである。上代につ〔二字傍点〕みと呼ばれているものがこの事を示している。つみ〔二字傍点〕として数えられるものは、
畔放《あはな》ち、溝埋め。
(286) 屎戸。(白人、胡久美。)
生剥、逆剥。(生膚断《いくはだだち》、死膚断。)
上通下通婚。(おのが母犯せる罪、おのが子犯せる罪、母と子と犯せる罪、子と母と犯せる罪。)
馬婚、牛婚、鶏婚、犬婚。(畜犯せる罪。)――(記、伝三十。括弧内大祓詞)
のごとき五種である。第一の畔放ち、溝埋め〔六字傍点〕は、高天原におけるスサノオの命《みこと》の乱行の最初にもあげられているが、こういう一見些細な所行が非常に大きい罪として数えられていることを、我々は特に注目しなくてはならぬ。これらの所行は、共同労働によって灌漑の設備に努力した水田耕作の農村を背景としなければ理解せられぬものである。畔を壊《こわ》し溝を埋めることは、土の耕作の秩序を破壊し、農村共同体を危殆ならしめる。従ってこれは反逆罪にも相当するほどの大罪なのである。たとい外的には子供らしい些細なことであっても、全体性への背反を示す点においては、非常に重大な所行と言える。第二の屎戸もまたスサノオの命の乱行の一つであって、寄生虫や微生物の多いわが国ではきわめて意義深い罪である。衛生的な意義を担った行為の仕方が神の命令として立てられるのはわが国の神話に限ったことではないが、ここに問題とせられるのは、おのれの生命を安全に守るための行為の仕方ではなくして、一つの部落〔五字傍点〕あるいはもっと広い社会〔四字傍点〕の安全を目ざしたものである。この点から見れば、糞便の始末についての一定の行為の仕方を破ることは、社会の安全を脅かすことにほかならぬ。第三の生剥、逆剥は家畜などに対する残虐な行為である。スサノオの命の乱行においてはこの行為が最も重い、許すべからざる罪とせられたが、しかしそれはかかる行為をもって神聖なるものを冒涜したからであって、この行為自体が第一、第二の罪より重い罪であるとは見られぬ。第四の上通下通婚は婚姻関係におけるタブーであり、第五の獣婚は性行為のタブーである。いずれも人倫の秩序を乱す(287)ことのはなはだしいものである。
これらは明らかにつみ〔二字傍点〕であり、祓わるべきものである。そうしてそのつみ〔二字傍点〕という言葉には、漢字「罪」が当てられている。それらは全体性への背反であり、あるいは人性の自然にもとるがゆえに非とせられるのであって、悪なるがゆえに罪とせられるのではない。通例悪行と考えられている殺人、窃盗のごときは、つみ〔二字傍点〕の内に数えられていない。
しかし全体性への背反や人性の自然にもとる行為を罪として非認するということは、すでに為すべき行為と為すべからざる行為〔為すべき〜傍点〕との差別があることを意味する。為すべき行為は善き〔二字傍点〕行為であり、為すべからざる行為は悪しき〔三字傍点〕行為であって、善悪の差別は明白に存するのではないか、と人はいうかも知れない。もちろん、善と悪との意義を右のように規定すれば、その差別は認められている。しかし上代人は果たしてある行為が「為すべき」であるがゆえに「善き」行為であるというごときことを考えたであろうか。あるいはまた逆にある行為が「善き」行為であるがゆえに「為すべき」であると考えたであろうか。我々はそういう連関をいずれも認めることはできぬ。総じて上代人が「よし」「あし」と呼ぶものは、必ずしも道徳的善悪と相覆うものではないのである。
現在の字書の記するところによれば、「よし」「よろし」等の語が意味するところは、好、佳、美、吉、嘉、貴、可、易、善、良、等である。また「あし」「わろし」等の語が意味するところは、不好、不佳、醜、凶、卑、不可、難、悪、不良、等である。これらの用法は平安朝の文芸に明らかに現われているが、記紀においても大体相違はないと言ってよかろう。そうすると「よし」「あし」の語は、単に行為においてのみならず、人生と自然の全体において、「望ましきもの」と「望ましからざるもの」とを現わすと見られる。
しからばこの「よし」「あし」が特に行為にのみ限定して用いられる時には何を意味するか。よき〔二字傍点〕行為は、好き、美(288)しき、吉き、貴き〔好き〜傍点〕行為を意味し得るのであって、必ずしも善き〔二字傍点〕行為とは限らぬ。そうして上代人が、いかなる行為を好き行為、美しき行為、貴き行為と見たかについては、上代人がその願望を結晶させた物語の主人公において、明らかな証拠が見られる。
まず神代史の主神、天照大御神を例に取る。太陽は光明の源泉、あらゆる美の源泉である。だから国土創造の神は、「吾御子多にあれども、かくばかり貴き〔二字傍点〕御子はあらず」と頌えた。かくのごとき神の行為はまたすべて美しく貴きものでなくてはならぬ。大神はスサノオの命の上天に際して「我国を奪はむとする不善心〔我国〜傍点〕」を推測した。宣長はこれを「うるはしき心ならじ」と読ませている。同じことはまた「邪心」と書かれているが、これも宣長によれば「きたなき心」である。それに対して大神は、雄々しく武装して「いつのをたけび蹈みたけび」つつ、向かい立った。これは大神にふさわしい美しく貴き行為である。(しからば脅威を前にして奮い立つことのできない臆病は、醜く卑しき行為でなくてはならない。)次いで安の河原の誓いに勝ったスサノオの命が、乱行をもって大神を苦しめた時に、大神は、「酔ってしたのだろう」というような寛容な同情をもって、その行為をとがめなかった。これもまた大神にふさわしい美しく貴き行為である。(しからば同情なき不寛容は醜く卑しい。)が、スサノオの命の乱行はついに度を過ごした。大神は怒って岩屋戸にこもった。美の神の隠遁は世界を醜化する。世界は不幸になる。しかし大神は、この不幸をあえてしても、怒るべき時に怒った。これもまた美しく貴き行為である。(しからば過度の寛容、怒るべき時に怒らないことは、醜く卑しい。)また大神は、安の河原に八百万神を集《つど》えて事ごとに協議せしめた。そうしてその議決したところを行なった。これも君主としての大神の美しく貴い行為である。(しからば専権独裁は君主の行為として醜く卑しい。)
(289) 右によって見れば、美しく貴い行為とは、「勇気」「寛容」「怒るべき時に怒ること」「衆議に従うこと」の類である。上代人はこれらを必ずしも善き行為とは見ていない。ちょうど天照大御神が貴く美しい神として尊崇せられながら、善神とは呼ばれていないように、行為の貴さ〔二字傍点〕の方が行為の善さ〔二字傍点〕よりは重大であったのである。
この種の価値意識は英雄の物語からいくつでも見いだすことができる。我々はここに一つの民族的特徴を認め得ると思う。
自然児がどこにおいてもそうであるように、わが上代人は強き者、驕傲なる者を嘆美した。彼らはこの種の人格的性質に大いなる価値を認め、それに対して驚嘆の感情を持つのである。たとえば上代人は、死せる友の喪屋を蹴散らしたアジシキ高彦根の神の乱暴を、嘆美の情によって描いている。高彦根の神は死せる友と間違えられたのを怒って、十掬《とつか》の剣をもって喪屋をきり伏せ、足で蹴散らし、面ほでりしつつ飛び去るのである。そうしてそれを見た高姫の命は、兄の「名を顕はさむ」がために、
天《あめ》なるや乙《おと》たなばたの、うながせる玉のみすまる、みすまるに穴玉《あなだま》映《は》や、み谷《たに》二《ふた》わたらす、あぢしき高彦根の神ぞや
と歌う。明らかにこれは強力に対する嘆美の歌である。また上代人は、出雲の神々を威圧した建御雷の神の事蹟をも、嘆美の情によって描いた。建御雷の神はいなさの小浜の浪の穂に十掬の剣を逆さまに立て、その鋒先に趺坐して出雲の神々に対する。そこに現われた建御名方は、千引《ちひき》の石《いわ》を手末《たなすえ》に捧げるほど強力であり、また「誰ぞ吾が国に来て、忍び忍びかく物云ふ、然らば力競べせむ」と挑戦するほど勇猛である。しかし建御雷の神は、この敵を若葦のごとくつかみひしいで投げ離った。そうして諏訪の湖まで追いかけて降参させた。この争闘が天孫の降臨を可能にするので(290)ある。ここには強力に対する嘆美が明らかに現われている。
しかしこれは我々の英雄の物語において最も著しい点だとは言えない。むしろ強力は、それが過度に現われる時には、醜いものとせられた。スサノオの命は強剛な神である。しかしその「青山を枯山のごとく泣き枯らす」という壮大な泣哭は、嘆美せらるべきものではなくして、万物の妖の原因であった。また、「山川《やまかは》悉《ことごと》に動《とよ》み、国土《くにつち》皆《みな》震《ゆ》る」という雄大な上天も、光明の神を憂えしむるに過ぎず、天上の子供らしい悪戯も、天地を闇とするに過ぎなかった。かく過度に強い神は千位《ちくら》の置戸を負わされて、高天原より追放せられる。しかもそこに「苦痛に堪える悲壮な偉大さ」は認められていない。黄泉の国における彼は、頭髪の中に虱と蜈蚣とを有する穢い神である。すなわち過度の強剛は、追放すべきもの、醜なるものと見られる。
強き者に対する嘆美が著しくないとすれば、著しいものは何であるか。それは天照大御神において見られるごとき柔和なる心情〔六字傍点〕に対する嘆美である。もとより上代人は柔弱を是認しようとはしない。過度に走らない限り、勇気と強さは必要である。しかしこの勇者強者が、他を寛容し衆議に従うというごとき柔和なる一面を有する時、そこに最も嘆美すべき英雄が現われる。その最も著しい例は大国主の神である。彼は鰐に衣をはがれて泣き苦しめる兎を憐れんだがゆえに、八十神の中から特に八上姫に択び出された。また彼は恋の復讐を企てた八十神の奸計に、何の疑念をも插まずして陥るほどの素直な心を持っていたゆえに、母の神の愛と天神の恩恵とを一身に集めて再び蘇生することができた。また彼は、恋の英雄であったがゆえに、黄泉におけるスサノオの命の数々の悪戯を脱れた。かく大国主の神はその柔和な心情〔五字傍点〕のゆえに嘆美せられる。しかし彼は怯者でも弱者でもない。彼は過度に強剛なスサノオの命から武器と娘を盗むことができた。また彼はその武器をもって八十神を征服し、国家を統治することができた。明らかに彼(291)は武力をもって第一人者となり得るだけの勇者であり強者である。ただこの勇者強者が、その勇と強とのゆえに嘆美せられずして、その愛情のゆえにのみ〔八字傍点〕嘆美せられるところに、注目すべき特徴が存するのである。かく見れば彼の物語に上代長歌中の最も優れた八千矛の歌が付加せられていることも、たやすく理解せられるであろう。
上代の諸伝説においてもこの傾向は著しい。英雄の大部分は情愛を解する優しい心の持ち主である。神武天皇には
葦原の醜《しこけ》き小屋《をや》に菅畳《すがだたみ》いやさや敷きてわが二人寝し
の歌があり、崇神天皇には人民のための憂慮があり、垂仁天皇には皇后に対する深い愛があり、日本式尊には数多い恋があり、神功皇后には酒楽の歌がある。応神仁徳その他の諸天皇に至っては言うまでもない。すべてこれらの英雄は、強者勝利者としての事蹟においてよりも、むしろ最も人間的な心情を示す事蹟において、上代人の嘆美を受けている。
これは上代人の価値意識の著しい特徴である。彼らは人生の自然よりいづる行為をすべて是認した。いかなる行為も、真情の流露である限り「悪」ではなかった。しかしこれらの悪でない行為の内にも「よし」「あし」の相違は、すなわち「美しいもの」と「美しからぬもの」、「貴いもの」と「貴からぬたの」の相違はあった。そうしてその最も美しいとせられるものは、最も人間的な優しい心情であった。
が、上代人は以上のごとき価値意識を物語の描写の中に表現したのであって、一つの概念に作り上げているわけではない。だから我々はここに、上代人が善悪の価値に代わるものとして貴さ卑しさの価値を掲げた、というふうに言い現わすことはできぬ。上代人自身はこの価値を「よし」「あし」の語によっても言い現わしているのである。
(292) しかるに我々は他面において善悪の価値に代わるごとき他の価値が明白に掲げられているのを指摘することができる。それは「清さ」と「穢さ」の価値である。我々はここに「罪」の概念とまっすぐに連絡するものを見いだし得るであろう。
清さの価値を明白に示しているのは「清明心」の概念である。これはキヨキアカキ心と読まれている。清さは同時に明るさ、明朗性であって、闇《くら》さに対する。汚れなく明るい心と、穢い闇い心との対立が、上代人にとっては根本的な価値の差別であった。
我々はここに、罪の意識において明らかにされたような、全体性への傾従と背反、人性の自然に即するものと悖るものの別を見いだすことができる。清く明るい心とは、共同体の内部において己れを全体に帰属せしめ、何らの後ろめたい気持ちにも煩わされぬ明朗な心境である。だからそれは同時に和順の心境とも言い得られるであろう。それに対して穢い闇い心とは、主我的な衝動によって全体から背き、後ろめたい気持ちによってひそかに心を悩ますような心境である。だからそれはまた反逆の心境とも言い得られるであろう。かく解すれば清きと穢さとの価値は明らかに全体性への態度に即して現われる。上代人が特に遺徳的な意味において善悪の語を用いる時には、実はこの清さ穢さをさしているのである。前に引用したごとく、高天原に上り行くスサノオの命は天上の国を奪わんとする「不善心」「邪心」あるいは「異心」を疑われているが、これは宣長の解するごとく、「うるはしからぬ心」「きたなき心」なのであって、この嫌疑を晴らすためにスサノオの命の努めるところは、己が心の「清明」(あかきこと、きよきこと)を証明することであった。してみると、全体性への背反において罪を認めた上代人は、同じく全体性への背反において「穢さ」を認め、全体性への傾従を「清さ」「明るさ」として貴ぶのである。
(293) この視点に立って前に論じた行為の「美しさ」「貴さ」を顧みるならば、それが結局同一の事態をさしていることを認めざるを得ぬであろう。天照大神において典型的に示された寛容〔二字傍点〕や衆議の尊重〔五字傍点〕は、いうまでもなく全体性への順従を具体的に表現したものであるが、そこに共に示される勇気〔二字傍点〕や怒り〔二字傍点〕といえども、同じく全体性への順従にほかならぬのである。勇気の本質は各人がその持ち場を死守することであるが、持ち場の死守は全体性への奉仕なのである。神聖性の冒涜を怒ることは全体性の権威に対する背反を怒ることであり、従ってかかる怒りは全体性の情熱と呼ばれてよい。それは正義が犯されるのを見て公憤を感ずるのと同じ事態を示しているのである。かく見れば、柔和や優しさにおいて貴さの価値を見いだしたということは、清き心、明き心において最も賞讃すべきものを見いだしたということと、別のことではないのである。
ところで上代人は、全体性の権威を無限に深い根源から理解して、そこに神聖性を認めた。そうしてその神聖性の担い手を現御神や皇祖神として把握した。従って全体性への服従を意味する清明心は、究極において現御神や皇祖神への無私なる帰属を意味することになる。この無私なる帰属が、権力への屈従ではなくして、柔和なる心情や優しい情愛に充たされているところに、上代人の清明心の最も著しい特徴が看取せられるべきであろう。
三 造形美術
仏教渡来前の造形美術として自分の視野にはいって来るものは、鏡、武具装飾、斎瓮、埴輪、石槨壁画、石棺陶棺浮き彫りなどである。これらはすべて「美術」として独立したものではないが、しかし祭祀、戦争、死などのごとき、上代人にとって最も重大な生活の契機に関するものとして、我々の時代の工芸品よりははるかに深い意義を担ってい(294)る。ここに我々の見いだすものは、すでに文芸、宗教、道徳等において見いだしたものと異なってはいないのであるが、しかし我々はそれを直観的〔三字傍点〕に見得るという点において、深い興味を覚えるのである。
これらの遺品は大体二種類に分かつことができる。一は鏡、斎瓮、武器、棺槨などのごとく、シナ及び朝鮮の様式を模倣したもの、他は埴輪、石槨壁画、陶棺浮き彫りなどのごとく、外来の様式を混じないものである。
第一類においては鏡が最も重要である。しかしこの場合、我が国において多量に発見せられるシナ製〔三字傍点〕の鏡は問題にならない。我々はただ上代人によって製作せられた模造鏡のみに向かわなくてはならぬ。
模造鏡の特徴としては次の諸点があげられている。(一)鋭利鮮明なシナ鏡の文様が、その鋭利さ、鮮明さを失い、図像は硬化せられて時に全く無意義のものとなり、線は堅さを失って柔らかく円くなる。(二)シナ鏡においてある意義をもって配列せられた文様が、その意義を顧慮することなく一様に文様化せられる。(三)シナ鏡において重大な意味を持つ銘文が、多くは省略せられている。銘文らしいものを刻んだ場合にも、ただ字体が模せられただけで、文字になってはいない(富岡氏、古鏡の研究)。これらの特徴は、この模造が単なる直模でないことを示している。しかし「直模でない」のは何ゆえであるか。技術が幼稚なために直模し得なかった〔八字傍点〕のであるか、あるいはまた、直模する必要を感じなかったのであるか。遣物によって見れば、きわめて原型に接近していると推測せられる模造鏡においては、技術は決して幼稚ではない。作者は直模し得べき技術をもって、あえて自由なる変更を試みているのである。その例を挿絵(1)に掲げた対照によって観察してみよう。この対照は相似の最も著しいものではない。なお他に外区内区ともに全然等しい対照を掲げることもできる。が、この原型は、年代の確実〔二字傍点〕に知られる最古の漢鏡として、またその純粋
插絵1 原型鏡推定模造鏡対照図(梅原氏写真による)(P294参照)
原型
新莽王氏四神鏡
推定模造鏡
大和北葛城郡新山出土
(295)に漢式な文様の美しさやその製作の優れた技量において、特に注目せられている新莽王氏四神鏡なのである。その点でこの模造は興味が深い。王莽鏡においては、鈕座の周囲に十二支の文字があり、内区にはT字形L字形V字形及び八個の内行花紋乳の間に、四神、鳥獣、人物、唐草紋などが描かれている。右肩にあるのは青竜である。その下に、唐草紋の間に、二羽の鳥があり、うしろを向いた鳥の前には一人の人物がひざまずいて手をあげている。右下は朱雀である。その左に四羽の鳥があって、左下には騎獣の人物が白虎と対している。左上は蛇と亀との結合たる玄武である。なお青竜の前の小円中には日を表徴する三本足の烏があり、白虎の側には月を表徴する蟾蜍がある。すべてこれらの図像は、漢式の尖鋭な線をもって、きわめて力強く簡潔に描かれている。そうしてその外の銘帯には、右肩から、
王氏作竟四夷服 多賀新家 民息 胡虜殄滅天下復 風雨時節五穀孰 長保二親子孫力 官位尊顕蒙禄食 伝告後世楽母歿 大利兮
とある。しかるに一見きわめてよくこれと類似した模造鏡においては、十二支の文字は左右列を取り違え、字体もでたらめである。外区に置かれた銘文は直線と弧線を並べて漢字らしき印象を与えはするが、実は字になっていない。L字形は逆である。図様に至っては変化がさらに著しい。位置が逆になっているばかりでなく、四神、鳥獣、人物などの形が全く崩れ、要領を得ない文様に変じている。また外区の図案は、王莽鏡よりもやや時代の新しい神獣鏡のある物を模したらしい。すなわちこの模造は原型の忠実な模写でない。しかもその製作の技量は、ほとんどシナ鏡に劣らない。この例をもって推せば、模造鏡の製作者は、直模の必要を感ぜず、自由にその好むところに従って改作を行なったのである。ここに模造鏡もまた日本人の心を現わし得るという余地がある。
この改作が示している第一の事実は、わが上代人がシナ鏡の図様の知識的内容を理解せず、ただその文様としての(296)美しさをのみ摂取したことである。右にあげた例によっても明らかなごとく、シナ人にとっては、文様を構成する一一の図像及び文字〔九字傍点〕がある概念を示していた。しかしそれは知識的な約束に基づく意味の表現であって、図様全体の美的印象による意味の表現ではない。鳥獣人物の形の「美しさ」は、この図様にとって何の意味をも持たないのである。だからこの図様の全体としての印象は、鳥獣人物を模様化してその形の美しさをきわ立たせたというのではなく、ただ単に、曲線と直線とを交錯した文様の美しさに過ぎない。かく見れば図像や文字は、この文様の美的価値にとっては、第二義のものである。従って図像や文字を無意義な文様に化した模造鏡は、美的価値において必ずしも原型に劣るとは言えない。王莽鏡の単純な外区文様を神獣鏡の複雑な外区文様に変えたことは、成功とは言えないが、しかし内区文様の曲線の律動は、模造鏡の方がより自由であると言える。
第二に注意すべきは、線及び文様の性質の変化である、右の例においては線はなお漢式であるが、挿絵(2)に示すごとき諸鏡においては、線は著しく漢式の尖鋭さを失って柔らかく円くなる。そうしてこの変化は原型との距離が遠いほど著しい。考古学者によれば、原型に近いものほど時代が古く、形のくずれたものほど時代が新しいという。原型に近いものがすでに原型から自由に離れようとする傾向を示しているのであるから、この観察は恐らく当たっているだろう。しからばシナ鏡の立場から見て文様の堕落と認められるものは、上代人の製作という立場から見れば、より多く自己を現わし得たものと認めてよい。そうしてその自己は、尖鋭さを斥け、柔らかさ円さを愛するという点に現われているのである。もしくは精確な〔三字傍点〕幾何学的文様から離れて、子供の絵に近づくという点に現われているといってもよい。
これらの文様も、挿絵(2)の六に示した狩猟紋のごとき特殊文様を除いては、すべてシナ鏡の文様の伝統を引いた(297)ものである。しかし、そこに現われた美しさは、もはやシナのものではない。それは複雑に開展したシナ人の生活とは全然世界を異にする単純な自然人の、なおきわめて直観的な心生活からのみ生まれ出る美しさである。烈しい試錬に逢うて過度に緊張した意力の暗い悩みから生まれる怪異な幻想、不断の抗争に煽り立てられた力感の昂揚から生まれた堅硬尖鋭への愛などは、ここには全然縁がない。それはただ素朴に和らかな平和な心生活の現われである。そのたどたどしい線の引き方には新鮮な驚異の心がふるえている。その柔らかい曲線の文様には、愛らしい、(勾玉を愛する心と密接に相応ずるような、)優しい情緒が現われている。ここにも我々は、あの愛らしい神話や抒情詩に現われていると同じものを見いだすのである。
鏡の文様に見いだされることは、武具の装飾においても同様に見いだされるであろう。ここでも漢式の怪異な、あるいは尖鋭な形象は、時とともに柔らかく円く和らげられた。怪異なる神獣は単なる曲線文様に化し、やがて勾玉形の柔らかな文様に近づいて行く。(插絵(3)参照)竜頭を柄頭に飾るよりも、単純に円くふくらんだ頭椎《かぶつち》を柄頭とする方が、彼らにも好もしかった。極度に物すごさを印象しようとした漢式武器の装飾は、日本にあってはできうるだけ物すごさを減ずるように変化させられている。人間殺戮の器具である武器においてさえもこのような傾向が認められることは、上代人の心生活の特徴を最も簡明に示すと言ってよい。
斎瓮は日本における形の変化をあまり著しくは示さない。それはろくろによる製法が自由な変形を許さないのに依るかも知れぬ。しかしこの種の土器の一部に用いられた文様、及び鳥獣人物の土偶などには、同じ意味の日本化が認められる。鋸歯状のとがった文様から転じたらしい円みを帯びた花紋、小さい円を一面に散らした文様、などはその(298)よき例である。(六七ページ本文参照)土偶は形の正しい斎瓮の周辺に装飾として付加せられたものであるが、斎瓮の輪郭が規則的なのに反して、きわめて自由な、幼稚な、また愛らしい趣を具えている。例えば蓋の把手に付けられた小さい鳥形(東京博物館、三河大塚村出土斎瓮のごとき、恐らく鳩を意味するのであろうが、その幼稚単純な手法をもってして、鳩の持つ優しい愛らしさを、遺憾なく現わしている。その他、少女、騎馬の人物などにも、子供の製作に見られるような、単純のおもしろさがある。この種の宗教的儀式に用いられる器具には、ともすれば怪異な形が愛用せられるものであるが、ここにはまるでその反対のものが現われているのである。
以上は外来の様式に支配せられている種類の遺物であるが、次には第二類の、上代人に固有であるらしい造形物に移ろう。
まず九州の装飾古墳における壁画に目を向ける。それは大体に円、三角形、直線、弧線、などによってできたきわめて原始的な彩色文様、及び直弧紋、鏡などを現わした原始的な線刻である。鏡、剣などの半浮き彫りも、この中に含めてよい。(口絵1参照)これらの文様は、外来の様式の模倣ではなくして、上代人が自己の心から造り出したものである。しかしそれらが外来のものと全然無関係であるとは言えない。鏡を現わす円紋がその明白な証拠である。日本人はここにシナの形象を用いながらシナにおけると全然異なった意味を現わした。直弧紋と呼ばれる不思議な文様も、恐らくシナの錦綾あるいは鏡背の漢字に対する驚異から生まれたものであろう。こういう見方からすれば、壁画に多い三角形の羅列はシナの鏡の鋸歯紋から、また鋭い尖角をそろえている重山形の線紋はシナの鏡の整然たる尖角波紋から、脱化したと見ることができる。鏡を描いた線刻には、鏡の文様の中から特に鋸歯紋のみを抽出しているも(299)のがあり、模造鏡のなかにも、内区の文様にたたこの鋸歯紋のみを現わしたものがある。確かに上代人はこの尖角の文様に対して特殊の注意を払っているのである。しからば鏡を墳墓の壁に描くと同一の理由から、鋸歯紋及び尖角波紋を動機とする三角形や重山形が、墳墓に盛んに用いられたとしても不思議でない。かく見れば九州古墳の壁画は、主としてシナ文化への驚異を現わすのである。すなわちシナとの交通がある程度に進み、シナの文物が日本において特殊な意義を獲得するに至った時代の、特殊な地方的現象なのである。
このことはまた文様自身の性質からも明らかにされるであろう。石器時代末期に属する弥生式土器の文様、及び時代不明なる銅鐸の文様は、大体日本人固有のものと見られてよい。しかるにこの固有の文様は、直線、曲線、円などを盛んに使用しているにかかわらず、九州壁画の文様と全然性質を異にするものである。その線は常に柔らかい。波紋を描く時には波のごとく柔らかであり、水流紋を描く時には水のごとく流れており、円紋を描く時には小石のごとく不規則の円みを帯び、碁盤格子紋を描く時には植物の細い幹を思わせ、直線を羅列する時には細く削った竹、あるいは緊張した糸の感じを伴なう。そこには常に直観的な経験内容が動機として存しており、従って自然に流露する内心の律動が、きわめて率直に現わされているのである。しかし九州の壁画には線におけるこの種の直観性や律動が認められない。そこに用いられる三角形や円や尖角線は、純粋に幾何学的であって、ただ思惟の力のみが造り出し得るものである。
伝統は「以前」において認められないばかりでなく、また「以後」においても認められない。模造鏡の確証するところによれば、文様の日本化はすなわち線の軟化、尖鋭性の減退である。漢式の線の鋼のごとき鋭さは、土器文様に見られる素直な柔らかさに変わり、角のとがった正確な波紋は角のとれたなだらかな波紋に化している。(插絵(2)参(300)照)鏡の文様を模したらしい斎瓮の文様に花弁紋の現われているところを見ると、鋸歯紋もまたその尖角を柔らげて花弁紋に変ずるのである。これが日本化であるとすれば、仁徳雄略朝のごとき新しい時代においても、固有の趣味は依然として土器文様の伝統である。とすれば、九州古墳の壁画に現われた正確な三角形や円形や鋭い尖角線などは、上代人固有の趣味と相容れないものである。
壁画は右のごとく地方的である。しかし埴輪はそうでない。それは古墳時代の日本国のほとんど全部から見いだされる。
埴輪の起源については、垂仁紀にあの有名な伝説が記されている。殉死に代えるために人形を造ったというのである。しかしこの話はそのままに信ずることはできぬ。第一、埴輪の本来の形は円筒であり、本来の用は墳墓の垣根であって、土偶ではない。それがある動機から土偶にまで変じて行く径路は、円筒の上に頭と手との載せられているような中間の形に見られるであろう。だから埴輪の真実の起源は伝説の通りであることができぬ。第二、殉死の禁と土偶の出現とが同時であるということにも疑いの余地がある。堺市東方の仁徳陵〔三字傍点〕には陪塚が多い。それが殉葬者の塚であるならば殉死は五世紀中ごろまでは続いていたと見られなくてはならぬ。しかるに河内古市の応神陵には埴輪の馬があった。帰化人|田辺史《たなべのふひと》伯孫の話がそれを伝えている。殉死の禁よりは土偶の出現のほうが先である。第三、殉死の悲惨についての物語が、やや荒唐の趣を具えている。「近習者を集へて生きながら陵のめぐりに埋め立つ〔生き〜傍点〕。数日は死なずして昼夜泣き叫《おら》び、遂に死して爛《くち》腐りぬ」という描写は、事実に基づいたものとは思えない。陪塚が殉死者のものであるならば、殉死者はもちろん「生きながら埋め立てられた」のではない。魏志倭人伝は、女王卑弥呼の殉葬(301)者百余人と伝えているが、生き埋めについては語らない。もし生き埋めが倭人殉葬の古風であるならば、この珍奇な風俗が魏人の注意を引かないはずはない。明らかにこの伝説は殉死の風習を残酷なものとして感じた後代人の心から空想し出されたものである。そうしてこの後代人はもはや直接には殉葬の光景を知らず、ただ土偶が「陵のめぐりに埋め立てられた〔陵の〜傍点〕」光景のみを知っていたのである。
以上のごとく見れば埴輪の起源伝説は、五世紀中ごろ〔六字傍点〕よりかなり年月を経た時代に、殉死を知らない人によって造られたものである。そうして土偶は、遅くとも五世紀初頭にすでに存し、殉死は五世紀中ごろになお行なわれていたのである。で、もし殉死と土偶との間に何らかの関係を認めるとすれば、それは伝説とは逆に、土偶の発達が殉死の禁を導き出したと見るべきであろう。殉死が行なわれるのは、死者の霊魂〔五字傍点〕の存在と、それに奉仕し得る可能性とが信ぜられるからである。しかるに土偶の類は、木石以上に「意味ある形」であるからして、時には強い生気を印象する事がある。田辺史伯孫は娘の出産を祝うために聟の家を訪れた帰途、誉田陵の下で赤馬に乗った人に逢う。赤馬の逸物であるのをうらやみながら馬を並べて駆ける。ついに馬を交換し得て、歓喜しながら家に帰り、馬に秣をやって眠る。翌朝見ると赤馬は土馬に変じている。驚いて誉田陵へ行って見ると、自分の馬は陵辺の土馬の間につないであるこの話の根柢をなすものは、土馬の与えた生気の印象である。士馬すでにしかりとすれば、人形が生気の印象を与えたのはもちろんであろう。そこで人里離れた幽暗な墳墓を想像する。木々の間、草むらの中に、無数に並んだ人形や馬形が見える。そこに異様な生命の感じがある。葬られている人の霊魂は孤独ではない。この感じが起これば、人形が殉死に変わるのは、もはや当然ではなかろうか。(口絵2参照)
が、この想像が当たっているとしても、それによって知られるのは殉死禁制の時期であって、土偶出現の時期では(302)ない。土偶出現の時期を明らかにするものは、ただ埴輪の使用せられるごとき大きい墳墓の形式がどの時代に始まり、そうしてその埴輪がいかにして土偶に変じたかという事のみである。埴輪の焼き〔二字傍点〕は弥生式土器と斎瓮との中間に位すると言われている。埴輪は斎瓮の盛行する時代にも焼かれたのであるから、この焼き方が直ちに埴輪の起こった時期を示すとは見られないであろうが、しかし埴輪の伝統とともに焼き方もまた伝統として固定したとも考えられる。そうすれば埴輪の起源は弥生式文化から古墳時代文化への過渡期に属するとも見られ得るであろう。
埴輪土偶の美術としての特徴は、全然文芸の特徴と相応する。それは直観的であり、また部分に対する細かな興味を含んでいる。しかし全体を統括する力には、著しく欠けたところがある。彼らは頭部に注意を注ぐ。手足を顧みない。彼らは甲胃に注意を集中する。中に包まれた肢体を顧みない。手足の閑却せられた人形にも、装飾の玉は細かに写されている。この種の統括力の欠乏は、全体を同時に呈露する彫刻にあっては、特にはなはだしく目立つものである。人体の美の表現は全体を貫ぬく微妙な調和を持たなくてはならない。それの些細な欠乏も我々をして不安を感ぜしめる。従って全体の調和を我々の想像に委したトルソオは、多くの場合、より強く我々の感情を捉える。この意味で埴輪土偶は、ただ断片としてのみ美しい。そのあるものは、頭部のみを胴体から引き離して味わいたいという欲望を、痛切に感ぜしめるほどである。
が、この幼稚な彫刻においても、その顔面の表情は特別の注意に価する。目と口はただ穴をあけたに過ぎぬこの単純な顔面が、奇妙なことに一種独特な生々《ういうい》しさ、あるいは優しさをたたえている。あるものは恥ずかしさに顔を赧らめる生娘のようであり、またあるものは長者の前に立った十二歳の少年のようである。最も力強い表情のものも、ただ美しい青年男女であって、凶暴あるいは怪異を印象するものではない。(插絵(4)参照)このことは我が上代人の天
插絵4 埴輪土偶(梅原氏写真による)(P.302参照)
1.跪ける男 常陸国行方郡青柳出土
2.武 人 武蔵国北埼玉郡中条村出土
3.女 下野国河内郡雀宮出土
插絵5 陶棺装飾浮き彫り画(梅原氏写真による)(P.305参照)
陶棺側面
美作国英田郡平福村出土
(303)其な心の表現として、またその心情の柔らかい潤いの表現として、特に注目すべきである。これらの土偶はいかに新しくとも推古時代以前のものであり、またその製作は関東地方にも多数に残っている。従ってそれは仏教渡来前の日本人の心を、(畿内地方のみならず全国にわたる日本人の心を、)現わすと認められる。そうしてその優秀なものは、上代のすぐれた抒情詩を生み出した時代の作品としてふさわしいのである。もとより造形の技巧は、特殊の事情のない限り、いつの時代においても詩の技巧よりは遅れる。埴輪もまたその例に洩れない。しかし埴輪の到達した高さは、これを詩の領域に移せば、かの美しい抒情詩となり得るものである。
が、埴輪人形の顔面に関しては、なおもう一つ他の観点からながむべきものがある。前に述べたように埴輪は人里離れた広大な高塚の木々の間に立ち並んでいたのである。従ってそれは通例かなりの遠距離からながめられる。その場合には、「目と口はただ穴をあけたに過ぎぬ」とは言われないのである。埴輪の目は、相当の距離において見られた人間の目を立派に現わしている。瞳や白眼が区別されていたり、瞼が細かく作られたりした目は、近くの目であって遠くの目ではない。遠くの目は、目全体が瞳として働くような、黒い生きた窓なのである。埴輪の作者は巧まずして遠くの目を捉え得たのである。そう見れば埴輪の技巧の内にもなかなかばかにできないものがあることになる。口や鼻や頬についても同様のことが言えるかも知れない。さらにあの素朴な胴体についても、垣根としての構造上の要求と連関して、案外に深い人体把握が見られるかも知れない。
埴輪彫刻全体について言い得ることを最も簡明に表示しているものは、插絵(5)に掲げた陶棺の浮き彫りである。
中央に一人の女が立って、左右の馬の口のところに手をさし出している。女の左右には莟んだ蓮の花のような植物(304)がある。この植物は女に比して非常に大きく、女もまた馬に比して非常に大きい。すなわち大小の関係は、実際のものとは全然逆である。また馬の耳及び足はほとんど平面に並べられている。浮き彫りであるから作者はこれらのものを埴輪のようには作り得なかったのである。しかも作者は、馬の背を一つの統一ある心持ちで作った後に、別種の動機によって、すなわち「馬の足は四本である」という意識によって、馬の腹部に足をつけた。足の位置などはどうでもよいらしく、後足は腹部の中央につき、後足のうしろに要領を得ない余地が残っている。上より見れば尻であるが、下より見れば腿でも尾でもない。そういうふうにこの浮き彫りは、全体を統一する力の著しい欠乏を示している。
が、部分に着目すると、そこには作者の直観を思わせる柔らかな美しさがある。女の頭部は、(恐らく背面であるらしく、)ただ輪郭のみによって知られるのであるが、そこには豊かな髪を思わせる柔らかい円みがつくられている。肩から左右に流れ下る両腕の形は、この浮き彫り中の最も美しい部分であって、上代造形美術を顧みないでいた自分の心に、かつて強い驚嘆の情を呼び起こした。肩の円みが腕となり、その腕が肘から柔らかに静かに屈曲して行くあたりは、女の腕の美しさを思わせるに十分である。馬の背もまた美しい。そこには騎馬の経験から得られた馬に対する愛が明白に活かされているようである。
これらの美しさに応じて、浮き彫り全体の上に流れている情緒も、また抒情詩的に美しい。女と馬との上に描かれた柔らかい山形は、その意味で浮き彫り全体を統一している。女も馬も植物も一つの柔らかさに融け入り、そこに平和な、静かな、調和に充ちた気分を造り出しているのである《*》。
この陶棺は美作国平福村から出た。美作は吉備から出雲への通路であって、上代には有力な集団の占拠した地方である。そうして神話に有力な地位を占める「出雲」なるものと、ある密接な関係を持つらしい地方である。のみなら(305)ずまたこの地方の豪族は、三韓関係において有力な役目をつとめた。この陶棺自身も、屋根形の蓋を持ち、馬の浮き彫りに飾られている点において、韓土との関係の浅くないことを思わせる。こういう環境から右の浮き彫りが生まれ出たことは、上代文化について示唆するところが少なくない。
* この印象は陶棺の補修以前に受けたものである。補修以後には、挿絵(5)の示しているように、感じが全然こわされている。
以上簡単に観察したところによって、上代の造形美術が神話や文芸と全然同じき立脚地に立つことは明らかである。しからばこれらの造形美術は、上代の文芸、宗教、道徳などの指標と見られてもよい。そこでこの上代の指標を、推古時代の美術と比較する。その差異は実に甚大である。文芸、宗教、遺徳などにおいても同様な差異が存しなくてはならぬ。仏教渡来とその受容は文化的に見て、明らかに一時代を画するのである。
〔2011年10月20日(木)午後5時30分、入力終了〕