和辻哲郎全集第十巻、岩波書店、660頁、3200円、1962.08.01(77.08.16.2p)

倫理学 上

     総目次

倫理学上…………………………………………………………一
  序論
  本論
   第一章 人間存在の根本構造
   第二章 人間存在の空間的・時間的構造
   第三章 人倫的組織
   付説  徳の諸相

倫理学上

(3)     序言

 この書は著者の前著『人間の学としての倫理学』において述べた立場に立って人間存在の理法たる倫理を体系的に叙述しようと試みたものである。著者の乏しい思索の力が右の意図をどれほど達成し得たかは、ただ識者の厳正な批判にまつほかはない。著者の望むところは、倫理の具体的な把捉に自ら努力せらるる人々に対して、この書が幾分かでも参考となり、あるいは幸福な場合にはよき伴侶とならむことである。
 が、在来の日本の倫理学書を見慣れた人々にとっては、この書の内容は倫理学書としてはなはだ異様に見えるかも知れない。ここに一言その点を釈明しておきたいと思う。著者自身は、すでに『人間の学としての倫理学』において述べたようにアリストテレスやカントやヘーゲルなどと同じような仕方で「倫理」を学的に取り扱おうとしているのであって、別に異様な倫理学を企てているのではない。もしそれが異様に見えるとすれば、その原因は著者が意識的に在来の倫理学書の弊風を避けようとしたことにあるのではないかと思う。その弊風というのは、いたずらに既成の倫理学書の定義や概念を並べ立ててその整理をもって能事おわれりとすることである。さらにはなはだしい場合には、右のような概念整理の書の|紹介〔付ごま圏点〕をもって能事おわれりとするものさえもある。しかし倫理学の任務は|倫理そのものの把捉〔付ごま圏点〕であって、だれがどう考えたかということの穿鑿ではないのである。倫理は我々の日常の存在を貫ぬいている理法であって、何人もがその脚下から見いだすことのできるものである。この生きた倫理をよそにしてただ倫理学書の内にのみ倫理の概念を求めるのは、自ら倫理を把捉するゆえんではない。我々は我々の存在自身からその理法を捉え、(4)それを自ら概念にもたらさねばならぬ。だからここにも「事実そのものに帰れ」(zur Sache selbst)という標語は必要なのである。もちろん我々はそれによって古来の倫理学を顧みる必要がないなどと主張するのではない。我々は倫理の把捉というごとき仕事に入り込むと同時に、すでにかかる努力の潮流の中に没入するのである。いかに我々が新しく始めようとしても古来の大力量の士がすでに指し示した道はなかなか脱却し得られるものではない。だから我々はできるだけ忠実にその思索の跡をもたどってみなくてはならぬ。しかしこのことは古来の学者の与えた定義や概念を覚え込むとか、あるいはその思索の成果を何々説として類別するとかというだけであってはならないのである。古来の学者もまた、真の倫理学者である限り、倫理そのものの把捉を目ざして努力したのであって、その思索の成果はただこの努力の指標に過ぎぬ。我々は彼らと目ざすところを等しくするがゆえに、彼らの努力によって導かれ、教えられ、また新しい道を示唆されるのである。もし彼らの思索の成果をのみ見て、そこに表現せられた倫理そのものへの探求の勢力を見失うならば、彼らとともに探求に努めることはできず、従ってその導きを受けることもできない。してみれば、我々は単に古来の学者の思想を学び知ることによってでなく、あくまでも倫理そのものを追求することによって、かえってよく彼らの導きをも受け得るのである。
 著者は右のごとき見解の下に人をしてできるだけ倫理そのものへ眼を向けしめるように努力した。倫理そのものは倫理学書の中にではなくして人間の存在自身の内にある。倫理学はかかる倫理を自覚する努力にほかならない。道は邇《ちか》きに在《あ》りとは誠に至言である。
   昭和十二年四月
                            著者
(5)     序言

 最初この倫理学は上下二巻をもって完結する予定であったが、上巻(二八ページ以下)に述べた第三の問題を展開して行く内に、それまで簡単に考えていたいくつかの問題が簡単ではすまされなくなり、またそれまで疑問を抱くことなく認容していたいくつかの見解を新たに考えなおす必要も生じ、漸次叙述を拡大して、ついにこの第三の問題のみをもって中巻を構成するのやむなきに至った。特に著者にとって困難であったのは、問題の性質上ちょうどこの個所において、社会哲学、経済哲学、文化哲学、国家哲学、さらに立ち入っては技術哲学、言語哲学、芸術哲学、知識哲学、宗教哲学等の諸問題に触れざるを得なかったことである。これらはただその一つのみを取っても相当に詳細な論述を必要とするものであるが、ここではただその根本問題をのみ取り上げ、上巻において展開した人間存在の原理をこれらの領域に貫徹しようと努めた。
 本書においては最後に国家の問題を取り扱っているが、しかしこの章では問題はなお一般的であって、わが国の国体や、世界におけるわが国の使命などに論及してはいない。これらの問題は下巻において、人間存在の原理をさらに風土哲学、歴史哲学に展開した後に、詳細に取り扱われるはずである。
   昭和十七年三月

 今度第四刷りを印行するにあたり、著者はところどころに修正の手を加えた。誤謬の訂正や、表現を正確にするた(6)めの変更のほかに、最後の第七節の後半にはやや長い修正が加えられている。目下の未曾有の大転換期に際して深刻な反省を促されたためである。国家の人倫的組織としての意義が今ほど痛切な問題となって来た時はないと思う。
   昭和二十一年三月
                           著者

(7)     上巻目次

 序言………………………………………………………………………三
序論…………………………………………………………………………一一
 第一節 人間の学としての倫理学の意義……………………………一一
 第二節 人間の学としての倫理学の方法……………………………三一
本論…………………………………………………………………………五一
 第一章 人間存在の根本構造…………………………………………五一
  第一節 出発点としての日常的事実………………………………五一
  第二節 人間存在における個人的契機……………………………六二
  第三節 人間存在における全体的契機……………………………九二
  第四節 人間存在の否定的構造……………………………………一〇六
  第五節 人間存在の根本理法(倫理学の根本原理)……………一二五
 第二章 人間存在の空間的・時間的構造……………………………一五二
  第一節 私的存在と公共的存在……………………………………一五二
(8)  第二節 人間存在の空間性………………………………………一六二
  第三節 人間存在の時間性…………………………………………一八九
  第四節 空間性時間性の相即………………………………………二三五
  第五節 人間の行為…………………………………………………二四六
  第六節 信頼と真実…………………………………………………二七八
  第七節 人間の善悪 罪責と良心…………………………………二九八
 第三草 人倫的組織……………………………………………………三三〇
  第一節 公共性の欠如態としての私的存在………………………三三〇
  第二節 家族…………………………………………………………三三六
    一 二人共同体 性愛と夫婦…………………………………三三六
    二 三人共同体 血縁と親子…………………………………三八二
    三 同胞共同体 兄弟姉妹……………………………………四〇三
    四 家族の構造とその人倫的意義……………………………四一一
  第三節 親族…………………………………………………………四三五
  第四節 地縁共同体(隣人共同体より郷土共同体へ)…………四四四
  第五節 経済的組織(付 打算社会の問題)……………………四六九
  第六節 文化共同体(友人共同体より民族へ)…………………五一九
(9)  第七節 国家………………………………………………………五九二
  付説 徳の諸相………………………………………………………六二七

(11)    序論

       第一節 人間の学としての倫理学の意義

 倫理学を「人間」の学として規定しようとする試みの第一の意義は、倫理を単に個人意識の問題とする近世の誤謬から脱却することである。この誤謬は近世の個人主義的人間観に基づいている。個人の把握はそれ自身としては近代精神の功績であり、また我々が忘れ去ってはならない重大な意義を帯びるのであるが、しかし個人主義は、人間存在の一つの契機に過ぎない個人を取って人間全体に代わらせようとした。この抽象性があらゆる誤謬のもととなるのである。近世哲学の出発点たる孤立的自我の立場もまさにその一つの例にほかならない。自我の立場が客体的なる自然の観照の問題に己れを限る限りにおいては、誤謬はさほどに顕著でない。なぜなら自然観照の立場はすでに具体的な人間存在を一歩遊離したものであり、そうして各人が標本的に「対象を観る者」すなわち主観として通用し得る場面だからである。しかるに人間存在の問題、実践的行為的連関の問題にとっては、右のような孤立的主観は本来かかわりがないのである。しかも人と人との行為的連関を捨象した孤立的主観の立場がここでは強いて倫理問題にまで適用せられる。そこで倫理問題の場所もまた|主観と自然との関係〔付ごま圏点〕に限定せられ、その中で認識の問題に対立する意志の問題としての己れの領域を与えられる。従って自然に対する自己の独立とか自己の自己自身に対する支配とか、自己の(12)欲望の充足とかというごときことが倫理問題の中心に置かれる。しかしどの方向に理論を導こうとこの立場でのみ問題を解決することはできない。結局|超個人的〔付ごま圏点〕なる自己、あるいは|社会〔付ごま圏点〕の幸福、|人類〔付ごま圏点〕の福祉というごときことを持ち出さなくては、原理は立てられないのである。そうしてこのことはまさに倫理問題が個人意識のみの問題でないことを示している。
 倫理問題の場所は孤立的個人の意識にではなくしてまさに|人と人との間柄〔付ごま圏点〕にある。だから倫理学は人間の学なのである。人と人との間柄の問題としてでなくては行為の善悪も義務も責任も徳も真に解くことができない。しかも我々はこのことを最も手近に、今ここで我々が問題としている「倫理」という概念自身において明らかにすることができるのである。
 倫理という概念は倫理という言葉によって言い現わされている。ところで言葉というものは人間の作り出したものの内の最も不思議なものの一つである。いかなる人も自ら言葉を作り出したと言い得る者はない。しかも言葉は何人にとっても自分の言葉である。このような言葉の性格は、言葉が人間の主体的連関をノエーマ的な意味に転化する溶炉だということに起因する。それは他の語で言えば意識以前の存在の意識化である。ところでこの存在は、あくまでも対象的たり得ない主体的現実であるとともに、すでに実践的行為的な連関である。だからそれが意識化せられたときには、個人的意識の内容であるにもかかわらず個人的存在をのみ根源とするものでない、という構造を持つのである。この意味で言葉もまた人間の主体的存在の表現であり、従って我々に主体的存在への通路を提供する。倫理の概念を明らかにしようとするに当たってまず言葉を手づるとするのは右のごとき理由に基づくのである。
 さて倫理という言葉は、「倫」「理」の二語から成っている。倫は「なかま」を意味する。「なかま」とは一定の人々(13)の関係体系としての団体であるとともに、この団体によって規定せられた個々の人々である。シナの古代においては父子、君臣、夫婦、長幼、朋友などが「人の大倫」であった。すなわち最も重要な「なかま」であった。父子関係は「倫」である、一つの「なかま」である。ところで父と子とが別々にまずあってそれが後に関係を作るというわけではない。この関係の中で初めて父は父としての、子は子としての資格を得るのである。すなわち彼らは「一人のなかま」であることによって父となり子となる。しかし何ゆえに甲の「なかま」がそのなかまの一人一人を父及び子として規定するのに対し、乙の「なかま」はそれを友人として規定するのであろうか。それは「なかま」が|一定の連関の仕方〔付ごま圏点〕にほかならぬからである。従って「倫」は「なかま」を意味するとともにまた人間存在における一定の|行為的連関の仕方〔付ごま圏点〕をも意味する。そこからして倫は人間存在における「きまり」「かた」すなわち「秩序」を意味することになる。それが人間の道と考えられるものである。
 右のごとき行為的連関の|仕方〔付ごま圏点〕は行為的連関と離れてそれ自身にあるのではない。それはあくまでも人間における行為の|仕方〔付ごま圏点〕として、行為的連関に即しでのみ存在する。しかし動的な人間存在が絶えず繰り返して|一定の仕方〔付ごま圏点〕において実現せられて行くとき、人はこの|常に〔付ごま圏点〕現われる仕方をその動的存在の地盤から引き離して把捉することができる。それがノエーマ的な意味に化せられた「倫」あるいは「五倫五常」というごときものである。倫と結合せられている「理」という言葉は、「ことわり」「すじ道」を意味し、主として右のごとき行為の仕方、秩序を強めて言い現わすために付加せられた。だから倫理は人間の共同的存在をそれとしてあらしめるところの秩序、道にほかならぬのである。言いかえれば倫理とは社会存在の理法である。
 しからば倫理はすでに実現せられているのであって当為としての意味を持たないのであろうか。そうでもあり、そ(14)うでもない。朋友有信と言われているように、朋友としての一つの団体が実現せられている限りにおいては、行為的連関の仕方としての「信」はすでにその根柢に有るのである。信なくば朋友は成立しない。しかし団体は静的なる有ではなくして、動的に、行為的連関において存在するものである。前に一定の仕方によって行為せられたということは、後にこの仕方をはずれることを不可能にするものではない。従って共同存在はあらゆる瞬間にその破滅の危険を蔵している。しかも人間存在は、人間存在であるがゆえに、無限に共同存在の実現に向かっている。そこからしてすでに実現せられた行為的連関の仕方が、それにもかかわらずなお当《まさ》に為《な》さるべき仕方としても働くのである。だから倫理は単なる当為でなくしてすでに有るとともに、また単なる有の法則ではなくして無限に実現せらるべきものなのである。
 我々は右のごとくして倫理という言葉の意味から倫理の概念を明らかにすることができる。もちろんこの言葉はシナの古代の思想史を背負っているものであり、そうしてこの思想史はシナ古代の社会形態を宗教社会学的に考察すればするほど興味深い意義を発揮し来たるものである。しかし我々はシナ古代の社会形態に基づいた人倫のイデオロギーをそのまま活かそうとするのではない。ここではただ倫理があくまでも人と人との間柄の問題であるという我々の主張のために、人間関係における道としての倫理の意義を蘇生せしめようと試みるだけなのである。
 が、かく倫理の概念が明らかにせられるとともに、それを明らかにしたのが人と人との間柄、人間存在、行為的連関というごとき概念にほかならなかったということも明白である。倫とは「なかま」である、さらになかまとしての行為的連関の仕方である、かく言われた。しかし一体その「なかま」とは、人間とは、何であろうか。それは自明のことではない。倫理を問うことは畢竟人間の存在の仕方を、従って人間を問うことにほかならぬ。すなわち倫理学は(15)人間の学である。
 そこで我々はこれまで漫然と用いた人間の概念をも明らかにしておかなくてはならぬ。特にそれは近ごろ流行する哲学的アントロポロギーとの区別のためにも必要である。哲学的アントロポロギーは、たとえばシェーラー(Scheler,Die Stellung des Nenschen im Kosmos.S.30)においては生の衝迫と精神との統一としての「人」を把捉しようとしている。それは「人」を心身の統一という視点からのみ見る問題域の中での一つの新見解に過ぎない。彼が古来のアントロポロギーの諸類型としてあげているものも(Philosophische Weltauschauung,“Mensch und Geschichte.”1929)すべてこの問題域に属する。(一)キリスト教的信仰における人の観念。すなわち初めに人格神によって作られ、堕罪によって罪にあずかり、キリストによって救われるところの人である。それは霊と肉の問題を中心とするアントロポロギーの出発点となっている。(二)理性あるものとしての人(homo sapiens)。(イ)人は精神すなわち理性を持っている。(ロ)この精神は世界を世界として形成する。(ハ)精神すなわち理性は感性を待たずしてそれ自身に活動的である。(ニ)歴史的民族的に変わるところがない。(この最後の点のみはヘーゲルによって克服された。)このアントロポロギーがギリシア人の発明に過ぎぬことを見破ったのは、ディルタイとニーツシェである。(三)働くもの、技術者としての人(homo faber)。前者への反立である。人と獣との間に本質的な差別はない。ただ言語や道具を作り、脳髄が特に発達している獣として他の獣類と区別せられる。自然主義実証主義の立場におけるアントロポロギーがこれである。(四)精神を持つがゆえに病衰せる人。これはホモ・サピエンスへの新しい反抗である。(五)超人。人の自己意識を高揚する偉大な人格のアントロポロギーである。以上五つの類型はいずれも人を社会的団体から抽象し、自立せるものとして取り扱う。従って人の問題はいつも精神か肉体か自己かである。だからアントロポロギーが身体論として「人類学」に発展したのに対(16)抗し、それへの区別から|哲学的アントロボロギー〔付ごま圏点〕として唱道せられるとしても、人の本質を個人においてのみ見ようとする根本の態度は変わらないのである。
 この傾向は思うに anthro※[記号あり]pos,homo,man,Mensch などという言葉が個体的な人をしか意味し得ないに基づくと思われる。かかる立場に立てば人と人との間柄、共同存在、社会というごときものは、何らか人から区別せられた言葉によって現わさねばならぬ。しかし人が本来社会的動物であるのならば、間柄とか社会とかというものは人から引き離さるべきでない。人は個体的にあり得るとともにまた社会的であるところのものでなくてはならぬ。そうしてこのような二重性格を最もよく言い現わしているのが「人間」という言葉なのである。だから「人間」の立場に立てば「人の学」(アントロポロギー)と「社会の学」とを何らか別個のものとして立てるということは具体的な人間からその契機を抽象的に取り出して独立させるということにほかならぬ。もし人間をその具体性において考察すべきであるならば、それは一つの人間の学でなくてはならぬ。が、それとともに人間の学は人の学と社会の学とを漫然結合したものではなくして、両者から根本的に異なったものとならねばならぬ。なぜなら、人と社会とを人間の二重性格として把捉し、そこに人間の最も深い本質を見いだすということは、人と社会との一義的な区別を前提とする立場においては全然問題とせられ得ないからである。
 それでは人間という言葉はいかにして右のごとき二重性梅を意味し得るか。日常の用法においては人間は man や Mensch の同義語であり、また人間学はアントロポロギーの訳語ではないか。確かにそうである。人間という言葉はそのような意味をも背負っている。しかしそれだけではない。人間という字面そのものが示しているように、それはまた人の間、すなわち「よのなか」「世間」を意味する言葉でもあった。しかもそれがこの語の本来の意味なのである。(17)日本人が取り入れたシナの文芸においても仏教の経典においても、人間は常に「よのなか」「世間」の意に用いられている。しかも日本人はその永い歴史生活の間にこの語を個体的な人の意味に転用したのである。かかる転用を媒介したものは、輪廻的人間観を描く仏教経典のシナ訳の訳語の用法であった。そこで|畜生界〔付ごま圏点〕を意味するインドの言葉が便宜上|畜生〔付ごま圏点〕と訳され、人間という言葉と絶えず並べて用いられたがために、人間は畜生との区別という視点から人類を意味しさらに人を意味するに至ったのである。しかし重大なのはこの偶然事ではなくして、いかなる媒介によるにもしろ、「よのなか」を意味する人間という言葉が「人」の意味を担い得たという歴史的事実である。人間について立言せられるさまざまの詩句、金言、格言の類は、シナから伝えられて日本人の間に膾炙せられた。それらにおいては人間はいつも「よのなか」を意味している。|しかも「よのなか」について言われることはすべてその中に住むところの人に通用する〔付ごま圏点〕。かかる体験が言葉の転用として表現せられたのである。
 かかる事実を眼中に置きつつ、人間の全体と部分とを言い現わす他の言葉を考察してみるがよい。「なかま」は団体である、しかも|一人の〔付ごま圏点〕なかまと言われる。郎党もまた団体である、しかもそれに属する個人が郎党と呼ばれる。ともだち、兵隊、若衆、連中等すべてそうである。人間の存在において、部分に全体があり、全体において部分があるということを、これらの用法は露骨に示している。だから人の全体性としての「よのなか」を意味する人間という言葉がその世の中における人を意味するに至ったところで、決して特異な例ではないのである。
 我々はかくも意義深い「人間」という言葉を所有する。この語義の上に我々は人間の概念を作ったのである。人間とは「世の中」で|ある〔付ごま圏点〕とともにその世の中における「人」で|ある〔付ごま圏点〕。だからそれは単なる「人」では|ない〔付ごま圏点〕とともにまた単なる「社会」でも|ない〔付ごま圏点〕。ここに人間の二重性格の弁証法的統一が見られる。人間が人で|ある〔付ごま圏点〕限りそれは個別人とし(18)てあくまでも社会と異なる。それは社会|でない〔付ごま圏点〕から個別人|である〔付ごま圏点〕のである。従ってまた個別人は他の個別人と全然共同的でない。自他は絶対に他者である。しかも人間は世の中である限りあくまでも人と人との共同態であり社会であって孤立的な人ではない。それは孤立的な人|でない〔付ごま圏点〕からこそ人間なのである。従って相互に絶対に他者であるところの自他がそれにもかかわらず共同的存在において一つになる。社会と根本的に異なる個別人が、しかも社会の中に消える。人間はかくのごとき対立的なるものの統一である。この弁証法的な構造を見ずしては人間の本質は理解せられない。
 この構造を吉田静致博士が同円異中心の此喩によって示されたことははなはだ興味深いことであるが、しかし同円にして多数の異なった中心を持つことは矛盾の統一としてでなくては可能でない。有限の円にあってはかかることは不可能であるから、博士はこの円の半径を無限とされた。個々の中心は人格の個別性を示し、無限半径の円は人格の無限性を示すというのである。無限性においてはあらゆる差別相は同に帰する。ところでこの同異円満はいわば|個人〔付ごま圏点〕と|無限者〔付ごま圏点〕との関係であって、右にいうごとき個人と社会との関係ではない。社会はいかなる形態のものにしろ有限な人間存在であって、此喩的に言えば|有限半径〔付ごま圏点〕の円である。かかる円においても同円異中心が言い得られなければ、我々の場合にとって適当な此喩とはならない。そこで我々は半径の有限な円が半径の無限な円の限定である場合を想定する。半径の無限が否定せられて有限となった時、無限円の実現としての有限円が成り立つ。無限円における同円具中心の関係は有限円において実現せられている。かかることは幾何学的には不可能であろうが、人間存在はまさにかかる構造を持つのである。そこで無限円に裏打ちされた有限円がちょうど社会を示すことになる。中心点は|点としては〔付ごま圏点〕円の否定であり個々別々でありながら、|中心としては〔付ごま圏点〕同一円の中心である。かかる構造を言い現わしたものとして(19)のみ同円異中心という比喩はその意義を持ち得るのである。
 さて人間の概念は、アントローポスとは異なり、「世の中」にして「人」という二重性格において規定せられた。しかるにその際我々は「世の中」「世間」と言われるものを直ちに共同存在或は社会に置き代えて理解した。それははたして正しかったであろうか。かく問うことによって我々は現代哲学の一つの中心問題すなわち「世の中」の意義の考察に接近する。
 ハイデッガーが人の存在を「世の中に有ること」として規定したとき、彼がその飛び台として用いたものは現象学の|志向性〔付ごま圏点〕の考えである。彼はこの構造を一歩深く存在の中に移し、道具との交渉というごときものとして理解した。だから「世の中」と言われるものの|主体的〔付ごま圏点〕な意義を開示した点においては実に模範的なものである。しかし彼においては、人と人との交渉は人と道具との交渉の陰に隠れている。彼自身それを無視するのでないと力説するにもかかわらず、それが閑却せられていることは明白な事実である。そこで彼の弟子のレェヴィト(K.Lo※[ウムラウトあり]with)がこの陰に隠されたものを表に出し、世の中をば主として人と人との交渉の側から開明しようと試みた(Das Individuum in der Rolle des Mitmenschen,1928)。ハイデッガーの研究は一般的現象学的オントロギーであるが、レェヴィトはそこから離れてアントロポロギーに移るのである。しかしこのアントロポロギーは個別的な「人」を取り扱うのではなくして、自他の間柄を、すなわち人の相互のかかわりを取り扱う。従って人は「ともにある人」であり、世界は「ともにある世界」すなわち世間であり、「世の中に有ること」は「互いにかかわり合うこと」である。そこでこのアントロポロギーは倫理問題の基礎づけとならざるを得ない。なぜなら人が相互にふるまい合う態度を取るのが生の関係であり、そうしてこのふるまい、態度は人の根本態度、|根本的身持ち〔付ごま圏点〕、すなわち Ethos をふくむからである。だから人の相互存在の研(20)究は倫理学になる。かかる見地から世の中を人の間柄として分析するのが彼の仕事であった。
 このレェヴィトの見るところによれば、ドイツ語の Welt には|人間的な意味〔付ごま圏点〕がある。(その意味は我々から見れば日本語の世間に当たるものである。)Ein Mann von Welt(世慣れた人)、weltkundig(世間通)、weltfremd(世間知らず)、weltflu※[ウムラウトあり]chtig(人ぎらい、世間に出るを好まぬ)、weltlich gesinnt(交際好き、世間向き)、weltvera※[ウムラウトあり]chter(世間を白眼視する人)、alle Welt(世間)、その他 Ma※[ウムラウトあり]nnerWelt,Frauenwelt,vornehme Welt,Halbwelt などはそれぞれ一定の社会圏を意味している。つまり Welt は自然界ではなくして人と人とのかかわり合い、すなわち共同存在、社会なのである。In-der-Welt-sein の分析は共同生活の分析とならねばならぬ。
 かく Welt について言われることは「世の中」「世間」についてはいっそう顕著に言われ得るのである。Welt という語が本来「世代」及び「人の集団」を意味したと同じく、「世」もまた「世代」及び「社会」を意味する。すなわち世は時間的に推移するものであるとともに、またそこから遁《のが》れ出るその中を渉り歩くというごとき何らか場所的なものである。しかるにさらに「世間」「世の中」と言われる時には、単に「世」すなわち Welt であるのでなく、間、中というごとき語と結合せられている。すなわち In-der-Welt となっている。しかもこの間、中という語が、in とは異なって、単に空間的な意味のみならずまたハイデッガーにおけるごとき道具との交渉関係のみならず、さらにきわめて明白に|人間関係〔付ごま圏点〕を言い現わすのである。男女の間、夫婦のなか、間を距てる、仲違いする等の用法がそれを示している。ところでこのような人間関係は、空間的な物と物との関係のごとく主観の統一において成り立つところの客観的関係なのではない。それは|主体的に〔付ごま圏点〕相互にかかわり合うところの「交わり」「交通」というごとき、人と人との間の|行為的連関〔付ごま圏点〕で*ある。人は主体的に行為することなしにはいかなる間、仲にも存在し得ぬとともに、また何らかの間、(21)仲においてでなければ行為することもできない。だから間、仲は主体的行為的連関としての生ける動的な間である。世間、世の中という言葉は、このような間、仲と、時間的場所的な世という言葉との結合から成っている。そうして|世間〔付ごま圏点〕に知られる、|世の中〔付ごま圏点〕を騒がせるというごとく、何らか一つの主体的なるものをさす言葉として用いられているのである。ここに世間、世の中が|主体としての社会あるいは共同存在〔付ごま圏点〕を意味していることは明らかであろう。二三の友人が知っているだけでは世間が知っているのではない。一二の人が騒ぐだけでは世間が騒ぐのではない。知る主体、騒ぐ主体としての世間は、人と人との間の行為的連関でありつつしかもこの連関における個別的主体を超えた|共同的な主体〔付ごま圏点〕、すなわち主体的共同存在にほかならぬのである。
 * 行為と言わるるものの本来の意義は、この主体的な、従って対象的たり得ない者の間の相互連関に存する。在来はこの人格的連関を無視して、人と自然との関係においてのみ行為を見ようとした。そこで行為は(1)明らかな目的観念あるいは動機を有し、(2)思慮、選択、決心を経て、(3)それを自覚的に実現せんとする、(4)人の身体運動だと言われた。しかし、それだけならばただ人の活動であって、必ずしも人格的動作あるいは人の「行ない」とはならぬ。たとえば広い河原とか海岸とかで、ある目標を目がけて石を投げる場合など。ところで同じ動作を学校内で窓ガラスを目がけてやれば行為になる。なぜか。ここでは目的観念が他の人格あるいは団体との連関を含んで来る。思慮、選択、決心などが右の連関における己れの態度決定を意味する。すなわち目的観念、思慮、選択、決定などが主体的な相互連関の上で動いている。そこに「行ない」としての意義が生じてくるのである。この事は第二章において詳細に取り扱う。

 このような世間、世の中の概念が Welt の概念に対して持っている優越性は、それが主体的共同存在の時間的・空間的な性格を共に把捉しているという点である。Welt は前に言ったように「世代」及び人がそれにおいてある場所と(22)しての「人の集団」「人の総体」を意味した。しかし時とともにこのような時間的場所的な意味は脱落し去り、ついには客体的自然物の総体としての世界の意味に片寄って行った。しかるに世間、世の中の場合にあっては、絶えず移り変わるものでありつつ何らか主体的にひろがったものとしての意味が強く保存せられている。だから世間の概念においては人間存在の歴史的・風土的・社会的な構造がすでに含まれているのである。言い換えれば、世間、世の中とは、歴史的・風土的・社会的なる人間存在である。
 そこで我々は、「世の中」にして「人」であるところの人間において、右のごとき「世の中」としての性格を|人間の世間性〔付ごま圏点〕あるいは|社会性〔付ごま圏点〕と名づけ、それに対して「人」としての性格を|人間の個人性〔付ごま圏点〕と名づける。人間を単に「人」と見るのは個人性の側面からのみ人間を見るのであって、方法的抽象としては許されるが、それだけでは具体的に人間を把捉するゆえんでない。我々はあくまでも人間を右の両性格の統一として把捉しなければならぬ。
 ところで我々は右のごとき構造を持つ人間をあくまでも|主体的なるもの〔付ごま圏点〕として規定した。それは行為的連関として主体的な共同存在でありつつ、しかもその連関において行為するところの個人なのである。この主体的動的な構造は、人間を一つの「もの」あるいは「実体」と解することを拒む。人間は絶えず動き行く行為的連関なしには人間でない。それは絶えず個人を生産しつつその個人を全体の中に没せしめる。このような人間の|有り方〔付ごま圏点〕、否厳密に言えば有から無へ、無から有への転変、従って人間の|成り方〔付ごま圏点〕、それを我々は「存在」という概念によって現わそうとするのである。従って我々の「存在」の概念は Sein,einai,esse などに当たるものではない。また我々の存在の学は Ontologie に当たるものではない。
 存在という言葉が Sein の同義語として用いられている現代において、何ゆえことさらに異を立てて存在の概念を(23) Sein から引き離そうとするのか。それは存在という言葉の意味があまりにもはなはだしく Sein の意味と異なっているからである。Sein が哲学の中心問題どして背負わされていた特殊の意義はほとんど存在の語には見いだされない。フィヒテ哲学の出発点においては Sein は「措定」である。A ist A の Sein である。ヘーゲルの論理学の出発点たる Sein も直接無限定の「である」であって存在ではない。これらの Sein が意味においては形式論理学の繋辞(copula)と同じであること、しかも繋辞として働く Sein が他面において「がある」をも意味すること、そこに Sein の問題の急所があるのである。逆に言えば、物|がある〔付ごま圏点〕ことを意味する「あり」が他面において繋辞「である」として働いているという事実からして、思惟と有との連関の問題が発生した。すでにアリストテレスにおいて einai は関係自体を表現すると言われている。ホッブスに至っては、est は単に結合のしるしたるにとどまらず、結合の根拠 causa を示すということが力説せられる。すなわち est は essentia を示すのであって existentia を示すのではない。空が青くあると言われるとき、空と青との結合の根拠たる同一のものが est によって現わされるのである。これに対してジェ・エス・ミルは est が existentia をも現わすということを主張する。コプラはなるほどホッブスの言うように主辞へ賓辞を結合するしるしである。それ以上にコプラの est が existentia を現わすとの考えは神秘主義に過ぎぬ。人馬セントールは詩人の想像の産物|である〔付ごま圏点〕と言っても、セントールがあるということは毫も意味せられていない。しかし est はコプラとして働くばかりでない。est は他面において existentia を現わしている。言いかえれば est は「である」でもあれば「がある」でもある。ところでこのような essentia と existentia との問題こそ、アリストテレスに基づくところの中世オントロギーの中心問題なのである。しかしこれら一切の問題において、est を存在という言葉に置きかえたらどうなるであろうか。「存在」がコプラとして働いたり、あるいは essentia を現わしたりすることができるので(24)あろうか。否、決して。それならば Sein を存在と訳するのは、Sein の問題についての盲目を表示すると言われても仕方があるまい。
 それでは存在という言葉は本来何を意味しているのか。
 「存」の本来の意義は|主体的な自己保持〔付ごま圏点〕である。忘失に対する把持、亡失に対する生存である。が、主体の保持する自己は、客観化せられて観念的あるいは物的な志向対象になる。存身、存生、存命、存録などと言わるる場合には、自己を身体、生命、記録等の形において存するのである。ところでかく|存せられるもの〔付ごま圏点〕は、それによって有り続けることができるゆえに、また自ら存することにもなる。主休が|身体を存する〔付ごま圏点〕場合にはまた|身体が存する〔付ごま圏点〕のである。かくして一般に|物が存する〔付ごま圏点〕という用法が生じてくる。しかしこの場合にも存は亡失に対している。自己|を存する〔付ごま圏点〕にしろ物|が存する〔付ごま圏点〕にしろ、「存」はあらゆる瞬間に「亡」に転じ得るもの、すなわち時間的性格を本質的規定とするところの、|存亡の存〔付ごま圏点〕である。
 「在」の本来の意義は|主体がある場所にいる〔付ごま圏点〕ことである。だから在は「去」に対すると言われる。去るのは|自ら去り得るものが〔付ごま圏点〕ある場所から他に移り行くことである。従って自ら去来し得るもののみがある場所にいることができる。在荷、在宅、在郷、在世などの用法は皆これを示している。ところで主体のいる場所は、宿、宅、郷、世などの|社会的な場所〔付ごま圏点〕である。言いかえれば家族、村、町、世間というごとき人間関係である。従って在は主体的に行動する者が何らかの人間関係のなかを去来しつつその関係においてあることにほかならない。もちろん在は物についても言われるが、しかし物は自ら去り得るものではない。かかる物が|ある場所にある〔付ごま圏点〕というのはもとは擬人的な言い現わしであったのである。場所の限定は人間の仕事であり、従って物がある場所にあることは人間がその物を場所的に限定して(25)有つことに過ぎない。
 以上のごとく「存」が主体の自己把持であり、「在」が人間関係においてあることにほかならぬとすれば、「存在」とはまさに|間柄としての主体の自己把持〔付ごま圏点〕、すなわち「|人間」が己れ自身を有つこと〔付ごま圏点〕である。我々はさらに簡単に、存在とは「人間の行為的連関」であると言い得るであろう。従って存在とは厳密な意味においてはただ「人間存在」である。物の存在は人間存在から派生して来る「物の有」を擬人的に言い現わしたに過ぎない。
 我々は右のごとき言葉の意味に即して存在の概念を作ったのである。しからばそれが Sein に当たらないということは当然の話である。が、まさにそのゆえに我々ほ人間の主体的実践的動的な構造を言い現わすに存在の概念をもってすることができるのである。
 以上によって我々は、倫理、人間、世間、存在という四つの根本概念を規定した。倫理とは人間を人間たらしめる行為的連関の仕方である。すなわち人間の存在の仕方である。従って倫理学は人間存在の学として人間の学である。かくのごとき学は、「有」や「当為の意識」などの実践的根源を追究する学であるがゆえに、また「有の学」や「当為意識の学」に対して基礎的地位を要求する。人間存在が根本的に解明せられることによって、そこから客体的な有がいかにして成立し来たるか、あるいはそれぞれの時代にいかに当為の|意識〔付ごま圏点〕が発生し来たるか、などの問題が解かれ得るのである。そこでこのような基礎的地盤の解明が、一切の自然的なる有や観念的なる当為に先立つものとして、あくまでも|主体的実践的なる存在の層〔付ごま圏点〕においてなされねばならぬ。
 このような主体的存在の解明が|いかにしてなされ得るか〔付ごま圏点〕は、次節において考究すべき|方法の問題〔付ごま圏点〕である。もしそれがなされ得るとすれば、そこに人間の存在構造がその固有な|二重性からして〔付ごま圏点〕解かれるであろう。我々は人間の学とし(26)ての倫理学の問題をあらかじめ見透しておくために、人間存在のこの二重構造がいかなる問題を含んでいるかを、ただ輪郭的に指示してみようと思う。
 まず第一は、人間存在の二重構造そのものである。我々は人間の日常的存在のどこを捕えても、そこからして直ちにこの二重構造に入り込んで行くことができる。ところでこの二重構造は、それを詳細に把捉してみると、まさしく否定の運動にほかならぬのである。一方において行為する「個人」の立場は何らかの人間の全体性の否定としてのみ成立する。否定の意味を有しない個人、すなわち本質的に独立自存の個人は仮構物に過ぎない。しかるに他方においては、人間の全体性はいずれも個別性の否定において成立する。個人を否定的に含むのでない全体者もまた仮構物に過ぎない。この|二つの否定〔付ごま圏点〕が人間の二重性を構成する。しかもそれらは|一つの運動〔付ごま圏点〕なのである。個人は全体性の否定であるというまさにその理由によって、本質的には全体性にほかならぬ。そうすればこの否定はまた全体性の自覚である。従って否定において個人となるとき、そこにその個人を否定して全体性を実現する道が開かれる。個人の行為とは全体性の回復の運動である。否定は否定の否定に発展する。それが否定の運動なのである。ところで人間存在が根源的に否定の運動であるということは、人間存在の根源が|否定そのもの〔付ごま圏点〕、すなわち|絶対的否定性〔付ごま圏点〕であることにほかならない。個人も全体もその真相においては「空」であり、そうしてその空が|絶対的全体性〔付ごま圏点〕なのである。この根源からして、すなわち空が空ずるがゆえに、否定の運動として人間存在が展開する。否定の否定は絶対的全体性の自己還帰的な実現運動であり、そうしてそれがまさに人倫なのである。だから|人倫の根本原理〔付ごま圏点〕は、個人(すなわち全体性の否定)を通じてさらにその全体性が実現せられること(すなわち否定の否定)にほかならない。それが畢竟本来的な絶対的全体性の自己実現の運動なのである。かく見れば人倫の根本原理が二つの契機を蔵することは明らかであろう。一(27)は全体に対する|他者〔付ごま圏点〕としての|個人〔付ごま圏点〕の確立である。ここに自覚の第一歩がある。個人の自覚がなければ人倫はない。他は全体の中への個人の棄却である。超個人的意志あるいは全体意志の強要と呼ばれたものも実はこれであった。この棄却のないところにも人倫はない。
 かくのごとく人倫の根本原理が把捉せられるならば、良心、自由、善悪などと呼ばれる倫理学の根本問題が|皆この原理の内に含まれている〔付ごま圏点〕こともまた明らかになる。良心は本来の全体性の呼び声であり、自由は否定の運動の否定性そのものにほかならず、善悪はこの運動の還帰的方向と背反的方向とである。しかし、この原理の範囲内ではこれらの問題はまだ具体的な中味を得ることができない。なぜなら、そこでは人間の|個と全との二重性〔付ごま圏点〕が着目せられたのみであって、|多数の個を含む全体性の構造〔付ごま圏点〕に立ち入っていないからである。全体は個人の否定において成り立つと言われるが、しかしただ一人の個人の否定からは出て来ない。個人は多数であり、その多数の個人が個別性を捨てて一となるところに共同存在としての全体が成り立つのである。しかし、いかなる全体においても個別性が消滅し尽くすということはない。否定された個人はすぐにまた全体を否定して個人となり、そうしてまた新しく否定の運動をくり返す。この|運動においてのみ〔付ごま圏点〕全体は存するのである。そうしてみれば|多数の個人への分裂〔付ごま圏点〕と|その共同〔付ごま圏点〕という動的な構造が全体性を成り立たせていることになる。人間存在はただに個と全との間の否定の運動たるにとどまらず、さらに自他分裂において対立する無数の個人を通じての全体性の回復でなくてはならない。
 第二の問題はこのような人間存在の構造を取り上げる。主体的な人間存在がいかに自他の個人に分裂するか。そもそも主体の分裂とは何であるか。またこの分裂が否定せられて一に帰するとはいかなることであるか。ここに最も根源的な空間性・時間性の問題が現われてくる。主体の分裂、分裂せる主体の合一、この分裂と合一との運動が根源的