和辻哲郎全集第十一巻、岩波書店、502頁、2400円、1962.09.01(77.09.16.2p)

倫理学 下

総目次
倫理学 下………………………………………………………一
  本論
   第四章 人間存在の歴史的風土的構造

   付録………………………………………………………四一五
索引(人名・事項)……………………………………四四八
解説………………………………………………………………金子武蔵…四四九〔入力せず〕

倫理学 下

(1)     序言

 この書は人間存在の歴史的風土的構造を明らかにし、国民的存在の世界史における意義と、その当為とを考察したものである。この課題は上巻の序論(本全集第十巻三〇、三一ページ)に第四の問題として掲げたものであって、著者は、昭和十七年の春、中巻を脱稿してから、ひき続きこの間題を展開しようと試みていた。しかし事情はそれに幸いしなかった。著者の考察はかなたこなたへと課題の外に迷い出で、途中にして稿を捨てざるを得なくなったこと、二度三度に及んだ。この書はそれらの断片をもいくらかは利用しているが、大体において終戦の翌年に起稿し、今回ようやく曲がりなりにも脱稿したものである。最初このプランを思いついてから、もう十五六年の歳月がたっている。今さら、しみじみとおのれの非力を嘆ぜざるを碍ない。
 この下巻は、下巻のみを読まれる方にも通じやすいように意を用いたつもりであるが、しかし元来、ここに含まれている第四章は、言わば第二章と第三章との総合において、第一章の人間存在の原理を具体化しようと試みたものであるから、上巻、中巻を参照せられれば幸いである。
   昭和二十四年二月
                              著者

(3)     下巻目次

第四章 人間存在の歴史的風土的構造………………………………五
 第一節 人間存在の歴史性…………………………………………五
 第二節 人間存在の風土性…………………………………………九三
 第三節 歴史性風土性の相即(国民的存在)……………………一九一
 第四節 世界史における諸国民の業績……………………………二〇三
  一 世界史第一期…………………………………………………二〇四
     (イ) エジプト…………………………………………二〇七
     (ロ) メソポタミア……………………………………二一七
     (ハ) 原始国家…………………………………………二二八
     (ニ) エジプトの諸王朝………………………………二三三
     (ホ) メソポタミアの諸国家…………………………二四二
     (ヘ) 世界史第一期における沙漠的人間の業績……二五三
  二 世界史第二期…………………………………………………二五五
     (イ) 直系相続者ヘブライ民族………………………二五六
     (ロ) ギリシアとローマ………………………………二六〇
(4)     (ハ) インド……………………………………………二七八
     (ニ) シナ………………………………………………三〇二
  三 世界史第三期…………………………………………………三二〇
     (イ) イスラム的世界…………………………………三二三
     (ロ) 新しいシナ………………………………………三二七
     (ハ) 新しいヨーロッパ………………………………三三〇
     (ニ) 草原民族の活躍…………………………………三三四
     (ホ) 近世の開始………………………………………三三七
     (ヘ) 国民国家の形成と一つの世界への動き………三四一
 第五節 国民的当為の問題…………………………………………三四五
 付録 昭和十七年版『倫理学』中巻………………………………四一五
  序言…………………………………………………………………四一五
  第三章 第六節 文化共同体……………………………………四一六
  第三章 第七節 国家……………………………………………四一九

(5)     第四章 人間存在の歴史的風土的構造

       第一節 人間存在の歴史性

 我々は前に第二章において人間存在の構造として時間の問題を取り上げた。そこでは自然的時間の概念や時間の意識の立場よりもさらに深く主体的存在の層に掘り下げ、そうしてこの主体的存在が単に自我の存在であるにとどまらず、個人的社会的二重構造を有せる間柄的存在であるところに根源的時間を見いだした。主体的実践的連関としての人間存在をその動的な展開において捕えれば時間性にほかならぬのである。しかるに人間存在はかかる動的構造を有するがゆえに必然に人倫的組織として実現せられる。従って主体的実践的連関が家族、地縁共同体、文化共同体、国家等の諸段階を通じて具体化せられることは、同時に|時間性の具体化〔付ごま圏点〕にほかならない。視点をここに定めて人倫的組織をながめるならば、「現前において本に来る」という時間性の本質が、それぞれの段階において豊富な内容をもって展開し来たれることに気づかざるを得ないであろう。現前に形成さるる間柄がいかに限定された狭いものであるにせよ、過去は究極において|本来の〔付ごま圏点〕全体性であり、未来もまた究極においてその|本来の〔付ごま圏点〕全体性である。有限な人間存在はこの無限の根源よりいでてまたそこに還ろうとする運動の限定された姿として、究極の全体性に根ざしつつもさまざまに|限定された全体性〔付ごま圏点〕を形成する。してみれば、人倫的組織の実現は、時間性としておのれを展開せる|人間存在の「真実」〔付ごま圏点〕の実現にほかならない。
(6) この事態を人倫的組織の諸段階に即して詳細に考察することはここでは不必要と思うが、しかし例示的に二三の揚合を考察しておくことは、|時間性より歴史性への展開〔付ごま圏点〕を把捉する上に、必要のことと思う。右にあげた限定された全体性の最も手近なものは家族共同体であるが、しかしそれでさえも相当に複雑な構造を持っているから、ここにはその中に含まれた一つの契機に過ぎない三人共同体の、ある一つの特殊な姿を取り上げてみよう。一人の青年とその父母との間の親密な親子関係のごときがそれである。この親子の間柄には、今たくましい青年となっている子がかつて嬰児として、そのころまだ若かった父と母とに慈しまれたこと、特に母親は幾千度となくこの嬰児を抱き、愛撫し、あやしつつ哺育したのであること、あるいはまた彼が幼児として、さらに少年として、日夜に父母の深い配慮を受けつつ、その健やかな成育やその愛らしい言動をもって父母の生を充たしていたこと、などの数え切れない過去が、|現に生きている〔付ごま圏点〕のである。でなければ彼らは|この親〔付ごま圏点〕であり|この子〔付ごま圏点〕であることはできない。父母は今老いているが、しかし嬰児にとっての父母、少年にとっての父母がその中に生きているがゆえに、今現に父母なのであり、子は今たくましい青年であるが、しかし嬰児も少年もその中に生きているがゆえに、今現に子なのである。しかもその幼児にとっては他の女をもって代えることのできない母親、無限の信頼をもって一切の存在を委せ切っていた母親であるがゆえに、今や年老い力の弱まっている彼女が、このたくましい青年にとって依然として無限に優しい慈母であり、同様に体力において青年よりも弱くなっている父親が、依然として権威ある厳父である。また両親にとってはあらゆる宝よりも優ったものとして慈しんで来た愛子であるがゆえに、今やおのれたちよりも強く健やかである青年が、依然として底知れぬ配慮の的となるのである。この主体的な事実は数え切れぬほどさまざまな形に現われてくるが、その最も直接的なものの一つは|人相〔付ごま圏点〕であろう。親はたくましい青年の顔の内におのが乳を含んでいた幼児の顔、あるいは紙凧《たこ》(7)あげに夢中になっていた少年の顔、等々数え切れぬほど多くの過去の顔を認めることができ、子もまた年老いた両親の顔の内に、壮年のころの数々の顔を認めることができる。それらは近親の者を除いて他の人々の眼には映らない特殊の相である。「なじみ」としてこの過去の相の相互認識ほど深いものはない。が、それほど直観的ではなくとも、過去のさまざまの場面や出来事は記憶として双方の意識の中に形を現わしてくる。それらをことごとく叙述することは到底人力の及ぶところではない。そういう多量な過去がただ一つの親子関係の中にも存するのである。ところでその過去は、現在の親子としての主体的連関をまさに|この親子の〔付ごま圏点〕連関たらしめているその|主体的限定〔付ごま圏点〕にほかならない。従って過去は亡び去ったものでもなければ、また現在と異なったところにあるものでもなく、ただ|現在を現在たらしめているもの〔付ごま圏点〕なのである。しかしこれは現在と過去との区別をなくするということではない。青年は|かつて〔付ごま圏点〕母の懐の|幼児であった〔付ごま圏点〕がゆえに、今は|幼児でない〔付ごま圏点〕にかかわらずこの母の|子である〔付ごま圏点〕のである。すなわち|あった〔付ごま圏点〕ことが|ある〔付ごま圏点〕ことの不可欠の契機となっているのである。のみならずこの過去は主体的連関の過去であるがゆえに、主体的な広がりを持ったものとして、必然的に環境的な表現を含むことになる。たとえばこの青年が幼児として母に慈しまれたのは森の中の古いくすぶった家においてであった。その家の庭には池があり、鯉が泳いでいた。少年として日々に通った学校への道は山添いの小川の岸で、春には並み木の桜が美しく咲いた、というごとき、これも数え切きれない多量の姿を含んでいる。そうしてそれらが|この〔付ごま圏点〕親子の間柄を特定のものとして限定しているのである。かく見れば、このただ一つの親子の連関も数知れぬ過去の鑿のあとによって|現前のこの姿〔付ごま圏点〕にまで刻み出されているのだといってよい。
 ところでこの親子の存在は、彫刻像のようにただ静的に立っているのではなく、主体的行為的な連関において成り立つのである。従ってそれは|まだ現実でないことの実現を目ざして動いている〔付ごま圏点〕。母親がすでにたくましい青年となれ(8)るおのが子にとって依然として慈母であることは、かつて幼児の哺育に配慮したその同じ母親らしい配慮をもってこの青年の配偶を探すというごとき行為に現われるであろう。この種の未来への配慮は、日常の衣食住の些事から子の未来の運命のことに至るまで、これも数え切れぬほど種々雑多である。それに応えて老いたる父母を慰め、安心させようとする子の行為もまたさまざまの道を未来へ切り開いて行く。現前の存在においてはこの|主体的連関の未来〔付ごま圏点〕こそ最も強く関心を刺激するものでなくてはならない。しかるにその未来は、主体的行為的連関の未来であるがゆえに、著しく過去と異なった意義を担っている。過去は|すでに開示された事実〔付ごま圏点〕であるが未来は現前の行為的連関の内に|ただ方向としてのみ〔付ごま圏点〕存し、いまだ事実となっていないものである。それが現実化されて事実となるか否かの間に、古来自由意志の問題として論議されたようなさまざまの契機が含まれている。それは事実の領域ではなくして|当為の領域〔付ごま圏点〕である。親子はそれぞれ|なすべきことをなそうとしている〔付ごま圏点〕。しかしそのなすべきことは親子の道として一般的に規定された行為の仕方に尽きるのではない。過去はこの親子の連関を特定の姿に刻み出した。従って|なすぺき〔付ごま圏点〕こともまたこの姿に即して限定されなくてはならない。それはこの親子が一定の時に一定の場所において|なすべき〔付ごま圏点〕一定の行為としてである。未来はこのような個別的に限定された行為的連関の連鎖として現前の存在に|方向〔付ごま圏点〕を与える。
 以上は親子共同体の一つの姿を例として考えてみたのであるが、その他若い父母と幼児とのみの場合から老父母と子夫婦と孫たちの場合に至るまでのさまざまな姿を取ってみても、それらが主体的連関の過去によって個別的なこの親この子として限定されつつ、その特定の親子の連関として限定された未来へと働き込んで行く、という構造には変わりはないのである。従って時間性が親子共同体として展開するということは、親子共同体がさまざまな姿において|それぞれに個性を担いつつ〔付ごま圏点〕数え切れぬほど多数に形成せられるということにほかならない。すなわち現前において本(9)に来たるという人間存在の動きは、いかなる人をもある一定の親子共同体に属せしめることを通じて|その人に固有な〔付ごま圏点〕具体化の道をたどるのである。しかも親子共同体は家族共同体の中の一契機に過ぎない。家族的存在はさらに夫婦として、あるいは兄弟として、過去を蓄積しつつ未来へ向かう。そうしてそれによる限定はそれぞれの家族を固有のものたらしめる。従って時間性の具体化としての家族的存在は、重々無尽にして到底見渡し難いものというほかはない。
 が、現前において本に来たる人間存在の運動はさらに広汎な場面におのれを展開する。家族的存在の閉鎖性を超えた地縁共同体がそれである。ここでも例示的に村落共同体を取って考えてみると、そこには家族的存在と次元を異にする共同存在の過去が見いだされる。今この共同体をささえ守り導いている大人たちはかつては幼児として|隣りの児〔付ごま圏点〕の言葉や身ぶりをまねた。やや長ずると隣りの児たちとの間に|遊び仲間〔付ごま圏点〕を形成し、さまざまの遊びの仕方を覚え込んだ。鬼ごっこ、隠れん坊を初めとして、つくし採り、魚捕り、蝉捕り、あるいはタコあげ、コマまわし、ネッキの類である。それらは子供らしい驚嘆の情をともにする仕方であるとともに、また驚嘆の情をもって植物や動物を見いだし、小刀や鉈のごとき道具類に習熟するという楽しさをともにする仕方であった。やがて成長するに従ってさまざまの技術の習得をともにし、任務の負担をともにしつつ、この共同体の|一人前の〔付ごま圏点〕成員にまで育って来たのである。従って今、田植えをともにし、水の心配をともにし、暑熱の下の労働をともにし、風の心配をともにし、そうして収穫の喜びをともにしている彼らの生活には、遊び仲間としての、あるいは若者組としての|共同の過去〔付ごま圏点〕がある。その過去の世界においては、今、村の長老である誰彼が若盛りで元気であった。今はもはやなき人である誰彼も健在であった。その過去の世界はこの村、この山、この川の外のどこにあるわけでもない。人々は子供のころこの川で泳ぎを覚え、この山で茸を探したのである。もっともその山川は昔と同じ姿ではないかも知れない。しかし昔の姿は|今のこの村の(10)かつての姿〔付ごま圏点〕として今この村の中に生きているのである。それと同様にその過去の世界の中で子供として遊びをともにしていた仲間は、今この村をささえている大人たちの仲間の|かつての姿〔付ごま圏点〕として、今の村の存在の中に力強く生きている。大人たちが相互に|話し合う〔付ごま圏点〕仕方、|了解し合う〔付ごま圏点〕仕方、仕事をともにする仕方など、すべてこの過去に規定されていないものはない。しかもそれは当人たちが意識しているよりもはるかに深いのである。彼らは草や虫や魚や鳥や、あるいは雨や風や暑さや寒さや、その他土地に関する一切の現象についての驚嘆と会得とをともにして来た。従って無意識の底に渦巻いている感じや意欲の仕方をともにしているといってよい。彼らの日常生活において、互いに言葉をもって心を通じ合うよりもはるかに多くのことが、無言の内に互いに了解されるのは、そのゆえである。そこには、成人の後に他所からこの仲間に入り込んで来た人の容易に参与し得ないような、深い生の共同がある。人々はこの山この川に位置せるこの村で共同の過去を形成したのであり、従ってその過去に限定せられた共同存在はこの村固有のものとなっているのである。
 このような共同存在の過去は今の長老を視点として考察することもできれば、また若者組の立場からも見ることができよう。さらにまた|村の風習〔付ごま圏点〕を視点として古い過去にまでさかのぼることもできるであろう*。そのような過去が現前のこの村の共同存在をこの村のそれとして限定しているのである。が、この場合にもその共同存在はできあがった彫像のようなものではなくして動的な行為的連関なのである。それは絶えず現実でないことの実現を目ざしている。目の前には麦の畑が青々としていても、村人は田植えのために灌漑の水路の修復を共同の仕事として始める。目の前には稲の穂さえまだ見えない時に、村人は収穫の祭りのための共同の準備を始める。それらはこの村の過去に限定されてこの時この所において|なすぺき〔付ごま圏点〕こととなっているのである。村に存するさまざまの風習はちょうどこの|なすべき(11)こと〔付ごま圏点〕を表示したものといってよいであろう。それは衣食住の仕方から子供の育て方や婚姻の仕方、葬式の仕方に至るまで、それぞれの村の過去に即した|固有の仕方〔付ごま圏点〕として成り立っているものである。村人はそれに従って日々にその|なすべきこと〔付ごま圏点〕を見いだし、それを行為によって実現することにより、日々に生の共同を形作って行く。ここでも共同存在の未来は|方向〔付ごま圏点〕として現前の存在の内に含まれているのである。
 * 上巻一一七−一一八ページ参照。風習とは一定の|行為の仕方〔付ごま圏点〕にほかならないが、そのような仕方はこの土地における永い間の生活経験が最もよき生き方として生み出したものなのである。それらは固定してくればしばしば進歩のさまたげをもなすものであるが、しかしその底に深い叡智を隠していることもまれではない。そのような叡智を指摘したものとして寺田寅彦「天災と国防」(『寺田寅彦全集』第十一巻所収)がある。

 このような村落共同体もまた|それぞれに個性を担いつつ〔付ごま圏点〕無数に形成せられている。それらは水郷、山村、漁村、平野の村、川添いの村、台地の村というごとく、環境を異にするに従って風習を異にするのみではない。同じ山村、同じ漁村であっても、その過去を異にするに従ってこのただ一つの村としての特定の性格を作り出しているのである。その地方の住民にとっては、|何村の人〔付ごま圏点〕というだけですでに多くのことが了解される。が、村落共同体は地縁共同体の最も単純なものに過ぎない。地縁共同体としてはさらに村々を併せた一つの自治村、多くの自治村を併せた一つの地方というごとく、層々相重なっている。郡とか国とかと呼ばれる地方的区域は、行政上の意義を有すると否とにかかわらず、現実にはなお地縁共同体の面影を残しているといってよい。それらもまたそれぞれに固有の風習を持ち、共同の過去を担い、特定の性格を形成している。一つの地方において|何村の人〔付ごま圏点〕ということが充分の意味を持ち得るように、一つの国においては|何郡の人〔付ごま圏点〕ということが、さらに広い世間においては|何国の人〔付ごま圏点〕ということが、非常に多くのこ(12)とを了解せしめるであろう。他国者はしばしば土地の風習についての無知のゆえに生の共同から排除され、時には反感や侮蔑をさえ蒙ることがある。それだけにまた「|くに〔付ごま圏点〕の者」は名状し難いなじみの感じをもって迎えられる。もちろん、それはどこでも同じ強度をもって現われるとは限らない。同郷の感じのきわめて薄い地方もないわけではない。が、この感じ方の相違そのものがすでにそれぞれの地縁共同体の性格を示すといってよいのである。人は必ずかかる性格に参与している。少時以来諸地方を転々として移りつつ育ったがゆえに、郷土を持たないと感ずる人たちといえども、否定的に郷土に限定されているのである。従って時間性の具体化としての地縁共同体的存在もまた内容豊富にして見渡し難いものというほかはない。
 しかし現前において本に来たる運動はさらに地域的閉鎖性を超えて一層広汎な場面に展開する。その超越は|生の場面〔付ごま圏点〕を超えて|精神の領域〔付ごま圏点〕に突き入ることを意味する。文化共同体はこの領域において人間存在がその根源への還帰の運動を実現したものである。我々は前に(上巻、五二〇、五二一ページ)文化を規定するに当たってこれを|文化活動〔付ごま圏点〕と|文化産物〔付ごま圏点〕との両面より考察し、文化活動は共同性の表現としての文化産物を作ることにおいて人間の間柄を作る働きであり、文化産物はこの働きにおいて作られたものとして人間の合一を媒介するものであるといった。芸術、宗教、哲学のごとき文化産物は、究極において絶対者に連絡するものであり、それに媒介される文化共同体もそれぞれの仕方において絶対者を志向している。従って文化的共同存在の|過去〔付ごま圏点〕は、人間の本来の面目にかかわる自覚の業績であるとともに、その自覚をさまぎまの|具体的形態に表現したもの〔付ごま圏点〕である。文化共同体における現前の主体的行為的連関は、右のごとき独自の表現としての過去に規定される。ここに我々は文化共同体の最大の特徴を認めてよいと思う。そこでは主体的連関の|過去〔付ごま圏点〕が最も深く主体的根源にかかわっているにもかかわらず、しかもそれが|他者として〔付ごま圏点〕、すなわち(13)|対象的なるもの〔付ごま圏点〕として、結晶するのである。このことはまた文化的存在が|精神的存在〔付ごま圏点〕にほかならぬことをも示している。なぜなら精神は、それ自身決して対象的なものでないにかかわらず、しかも対象的なものにおいて己れを現わすことを本質とするからである。
 以上のごとく文化的共同存在の過去は|一定の文化産物として〔付ごま圏点〕表現せられている。これは文化的共同体を生の共同体から区別する重要な点である。生の共同にあっては過去は無意識の底から現前の主体的連関を規定する強い力であるが、しかし充分に自覚的な形態を取ってはいない。しかるに文化の共同にあっては過去は文化産物として特定の形態に結晶することによってのみ過去としての意義を担い得るのである。従って生の共同の過去を|学び取り〔付ごま圏点〕、それによって生の共同に歩み入ることは容易ではないが、文化の共同の過去は|あらかじめ学び取ることのできるもの〔付ごま圏点〕であり、それによって|明らかな意識をもって〔付ごま圏点〕文化の共同に歩み入ることが、ここではむしろ必須の条件となっているのである。原始集団における成年式はこの事態を顕著に示したものであるが、高度に発達した文化共同体にあってもそれはさまざまに形を変えて生き続けている。その共同体に固有な文化産物を通じてその過去に参与しない者は、その共同体に歩み入ることはできないのである。とともに、その過去を学び取った者たちは、たといこれまでかつて生を共同にしたことがない場合であっても、生の共同に根ざす以上の親しさをもって友人仲間となることができる。
 このような文化的共同存在の過去は文化産物として結晶しているという点において生の共同の過去のように捉え難いものではない。しかし文化共同体が種々雑多であるように、それに固有な文化産物も種々雑多であって、簡単に見渡し難いという点は前と変わりがない。同じく教団といっても、甲の教団と乙の教団とは経典を異にし、信条を異にする。そうして一つの経典や信条を奉ずることは、しばしば他のあらゆる経典や信条に対する|拒否〔付ごま圏点〕を意味している。(14)それは甲の理解が成り立つために乙丙等の理解が遮断されたことにほかならない。かくのごとく文化の共同の反面には文化の拒否が伴ない、その上にそれぞれの文化共同の固有性が成り立っているのである。その点に着目すれば、文化的共同の過去が文化産物を介して自覚的に学び取られるという事態は、同時にまた、それぞれの文化共同体の個性を自覚せしめ、対立をひき起こすゆえんともなる、ということがわかるであろう。
 ところで文化の共同は文化産物を作り出すことにおいて文化共同体を作る働きである。それは絶えず新しい創造に、すなわち|新しい〔付ごま圏点〕文化産物を生み出しそれを通じて|新しく〔付ごま圏点〕文化の共同を進展せしめる活動に、向かわなくてはならぬ。現前の文化の共同はこのような方向に、すなわち|未来〔付ごま圏点〕に支配せられている。しかしその方向は過去に限定されたものである。甲の教団における新しい創造は、その経典や信条に限定されて、甲の教団に固有な方向を示している。その教団において決然たる|改革〔付ごま圏点〕が行なわれる時にさえも、それはその教団に固有な形態を持ち、決して乙の教団にまごうことはない。ここでもそれぞれの文化共同体に固有な過去が、この時この所において|なすべきこと〔付ごま圏点〕を限定してくるのである。その過去は究極において絶対者に連絡し、人間の本来の面目にかかわるものであったがゆえに、そこから押し出されてくる|当為〔付ごま圏点〕もまた本来の面目を目ざすものにほかならぬが、しかし過去が特定の形態を担っていたように、当為もまた|独自の形態〔付ごま圏点〕を担いつつ、しかも|無限に〔付ごま圏点〕次から次へと現われてくるのである。
 文化共同体は右のごとき動的構造をもって時間性を精神の領域に具体化するのであるが、その大いさはわずかに数人の成員を有するごときものから数十万、数百万の成員を擁するものに至るまで、まことに多種多様である。もちろんかかる量の大小は文化共同体としての意義の大小にかかわりはない。道元禅師の語に、「汾陽は僅かに六七人、薬山は十衆に満たざるなり。然あれども皆仏祖の道を行じき。是れを叢林の盛んなるといひき」というのがある。しかし(15)大いなる意義を有する文化共同体がやがて量においても大となることはまれな現象ではない。そうしてそこにそれぞれの文化共同体に固有の過去が形成されるのである。が、我々はさらに文化共同体の内に|規模の大小〔付ごま圏点〕の存することをも忘れてはならない。規模が大であるということは、多くの文化共同体をおのれの内に含む|高次の文化共同体〔付ごま圏点〕だということである。同じく教団とか学園とかと呼ばれる共同体の内にも我々は右のごとき規模の大小を区別し得るであろう。また宗教、学問、芸術等の共同体をおのれの内に統一せる文化共同体も見いだすに難くない。かかる共同体の最大の規模におけるものを我々は|民族〔付ごま圏点〕として規定したが、民族の内含する文化産物は、言語にせよ、あるいは芸術宗教学問等にせよ、それぞれに|個性的な形態〔付ごま圏点〕を有し、明白に他民族のそれから区別せられる。規模の大は必ずしも個性的特徴の稀薄を意味するのではない。しかしまたこの民族的特徴は、その内部における個々の文化共同体の個性的特徴と抵触するものでもない。たとえば鎌倉仏教は顕著に日本的特性を示すものであるが、そのことは念仏宗と禅宗と法華宗とがそれぞれ固有の性椿を有することと並存し得るのである。この種の事態を数えて行けば、一つの民族の包含する文化内容は、実に豊富きわまりなきものといわねばならぬ。人間存在はかかる豊富なる内容においておのれを具体化しつつ究極者に向かって無限に迫り行くのである。
 以上のごとく現前において本に来たるという人間存在の時間性は、人倫的組織として展開することにおいて豊富な個性的内容を実現する。それはまことに端倪すべからざるものである。現前の人間存在の内に生きて現在を規定している|過去的内容〔付ごま圏点〕も、またそれに規定されつつ当為的に実現を要求する|未来的内容〔付ごま圏点〕も、人智をもってして|そのままに〔付ごま圏点〕把捉することのできるような単純なものではない。
 しかし人間の自覚的行動はこの横溢せる現実に対して無為に終わりはしなかった。過去はいかに豊富であるにもせ(16)よ、すでに|開示された事実〔付ごま圏点〕であって、整理統一を許さぬものではない。未来もまた無限に豊富ではあろうが、しかし当為を原理的に把捉することによって、その実現を規制することができる。前者の努力は「歴史」を産み出し、後者の努力は「道」の教えを産み出したのである。従って歴史の問題は時間性の中から特に|過去の契機〔付ごま圏点〕を取り出し、その端倪すべからざる内容を|一定の統一的視点〔付ごま圏点〕の下に把捉することにかかっている。
 では何がこの統一を可能ならしめるか。
 それは|人倫的組織を貫ぬく統一〔付ごま圏点〕にほかならない。この統一を我々は人倫的組織の人倫的組織としての|国家〔付ごま圏点〕において見いだした。従って人間存在の歴史性は国家においてあらわになってくるのである。

 この事情を端的に示すものは、|時間が紀年となる過程〔付ごま圏点〕である。
 我々は前に(上巻、二〇〇ページ以下)時間の成立をたどるに当たって、人間存在の中から時間が出てくる最初の段取りを「時」として見いだした。それは主体的連関におけるそれぞれの「時機」であり、角々の|きまり〔付ごま圏点〕であった。家族が寄り合って食事をする「時」、村人らがそろって野良に出る「時」、信者が礼拝に集まる「時」などがそれである。それらは人倫的組織における主体的連関に一定のリズムを与えるが、そのリズムに最初から深く結びついているのは|昼夜の交代〔付ごま圏点〕である。通例は|明るい時〔付ごま圏点〕に活動が、暗い時に休息が行なわれる。従って主体的連関はこのリズムに従って|日々の〔付ごま圏点〕行動様式を定めることになる。|一日〔付ごま圏点〕という時の単位は、なるほど太陽の運行を指し示しているには相連ないが、本来は右のごとき|主体的連関の統一〔付ごま圏点〕に基づくのである。だから一日は日没から日没まででも、あるいは日出から日出まででも、あるいは真夜中から真夜中まででも、いずれでもよい。さらに日出から日没までを一日とし、夜を日と区(17)別してもよい。とにかくそれは人間存在の単位としての日、季節によって長くなりあるいは短くなっても単位としての意味に変わりのない日なのである。ところでこの昼夜のリズムは、月の盈虚のリズムに包括される。夜は単に暗いのではなく、月の光にさまざまの程度に照らされ、満月の夜のごときは相当に明るい。その満月の夜ごとに祭りが行なわれるというごとき風習は、月が人間存在の一つの単位となって来たことの表現である。人々はそれによって働く日々の連続のなかに安息の日や祭りの日をつくり、それによって生活を規制する。この月のリズムをさらに包括するのは季節循環のリズムである。種を蒔く時とか収穫の時とかは、太古比来人間存在の重大な時機なのであるが、かかる時機を見いださしめるものは季節の循環であり、そうしてこれは日が長くなりあるいは短くなること、陽気が暖かくなりあるいは寒くなることと結びついている。そこで四季の一巡から「年」という単位が作られる。これもまた本来は|人間存在の統一〔付ごま圏点〕であって、単に抽象的な時間単位なのではない。原始民族においてはしばしば「年」は強い驚嘆の情において把捉され神秘的な実体として崇《あが》められた。それは年ごとに生まれ、栄え、衰え、死に、そうしてまた新しくよみがえる神なのである。この感じ方は年の|主体的な統一〔付ごま圏点〕としての意義を射当てたものであって、軽視すべきものではない。
 人間存在におけるそれぞれの「時」は、右のごとき日と月と年とによって統一され、|一定の序列〔付ごま圏点〕を得ることになる。そこで人は日において時刻を数え、月において日を数え、年において月を数える。それは本来人倫的組織における行為的連関の秩序にほかならぬのであるが、日と月とに投射されているがゆえに、人間存在から引き離し天体の運行として|観察する〔付ごま圏点〕道が開けてくる。日と月との精密な計算は実は|この観察〔付ごま圏点〕の発達を示したものである。しかしこの計算がいかに精密になって来ようとも、年月日の持つ主体的な意義には毫末も加えるところはないであろう。
(18) ここでの問題は、主体的な統一として成立した年が、いかにして数えられ始めたかということである。日を数えるのは月においてであり、月を数えるのは|年において〔付ごま圏点〕であるが、年は|何において〔付ごま圏点〕数えられるであろうか。一々の年にそれぞれ固有の位置を与えるような地盤は何であろうか。年が一つの主体的統一であるならば、この統一の|おいてある場所〔付ごま圏点〕は一層大きい主体的統一でなくてはならぬであろう。天体の観察はいかに精密であっても、一つの年に固有の位置を与えることはできない。年を数えるための基準は天体の運動の中には存せぬのである。
 では年を数えることを可能ならしめる主体的統−は何であろうか。人は|誕生の年〔付ごま圏点〕を基準として年を数えることができる。従って年齢のことは通例「年」と呼ばれる。それぞれの年は|何歳の時〔付ごま圏点〕として固有の位置を持つのである。この際右の主体的統一はその個人であるように見えるが、しかし誕生の年から彼の年齢を数え始めたのは、彼自身ではなくして彼の両親やその他の家族員である。従ってここに年を数えしめている主体的統一は、|実は家族共同体にほかならぬ〔付ごま圏点〕。彼の誕生は彼のみのことではなくして家族的な事件であり、彼の年々の成長李また家族全体の関心事なのである。しかしそれによってこの家族的存在に公共的な|紀年〔付ごま圏点〕が成立したわけではない。|家族員はそれぞれ異なった年を持つ〔付ごま圏点〕。−つの年はたとえば子の十歳の時であるとともに父の四十歳の時、母の三十歳の時である。この関係は地縁共同体においても変わらない。村人はそれぞれ|異なった年〔付ごま圏点〕を持つのであって、公共的な年の数え方はここにはまだ成立していない。文化共同体において、特に年が神化されるような共同体においては、当然公共的な年の数え方が成立しそうに思われるが、しかし年々|生まれて死ぬ〔付ごま圏点〕年の神は、永遠に当歳であって|年齢を持たない〔付ごま圏点〕。また同じ神が年ごとによみがえるのであるから、|代を重ねるわけでもない〔付ごま圏点〕。従ってこのような神への信仰をともにする共同体にあっては、「昔」として把捉されたものの中に無限の過去が|前後の序列なく〔付ごま圏点〕並在せしめられる。すなわちここにもまだ公共的な(19)年の数え刀は見られない。もっとも高度文化の共同体にあっては紀年を成立せしめているごとく見えるものがある。たとえば仏滅何年とか Anno Domini 何年とかいうのは、教祖の死あるいは生を基準とした教団内の紀年である。それはいわば|教団の年齢〔付ごま圏点〕を数えたものであって、明らかに公共的である。しかしこれらの教祖は|すでに紀年の行なわれている時代〔付ごま圏点〕に生まれ出たのであった。のみならず教団が教祖を基準として紀年を立てたのは教祖の没後何百年かの後であった。とすれば、教団の紀年は|他の立場において成立した紀年を模した〔付ごま圏点〕のであって、自ら紀年を生み出したのではない。ではその紀年を可能ならしめた立場は何であろうか。それは教祖の出現とか教団の成立とかに一定の位置を与え得るような一層大きい統一、すなわち|文化共同体をもおのれの内に含む主体的統一〔付ごま圏点〕でなくてはならぬ。それは前章に説いたごとく高次の人倫的組織としての国家のほかにないのである。
 国家の統一は主権者の人格に表現せられる。従って主権者の「主権者としての年齢」は、すなわち|在位年齢〔付ごま圏点〕は、この主権者の統治の下における国家の年齢である。ここに国家的民族の公共の「年」が数えられている。年はもはや同じょうに繰り返す無名のものではなく、主権者の|固有の名〔付ごま圏点〕の下にその|第何年〔付ごま圏点〕として固有の位置を持ったものになる。が、一人の主権者の在位にはおのずから限度があり、やがて他の主権者が位を嗣がねばならぬ。そこで新しい主権者の名に結びつく新しい年の系列が始まる。この相続によって年のほかにさらに主権者の「代」が数えられるのである。従って年は主権者の|名の系列と一々の名の下における年の順列〔付ごま圏点〕とによって固有の位置を示されることになる。これが紀年のそもそもの始まりである。
 しかしこのような始源の状態に関しては我々は確実なことはいい得ぬであろう。「代」を数えることと「年」を数えることとが初めからそろっていたかどうかも確言はできない。古事記は天皇の御代御代を整然と数えているが、しか(20)しそれぞれの御代の年数については、|語ることもあり語らないこともある〔付ごま圏点〕。また重大な出来事を語る場合には、いずれの御代の第何年のこととしてではなく、ただ|この御代の出来事〔付ごま圏点〕としてのみ語っている。これが古い言い伝えの形式であるのか、あるいは年をも数えるのが正式であって、それのないのは脱落であるのか、いずれともいうことができない。もし前者であるとすれば、年よりも大きい単位としての代を数えることが、年を数えることよりも先に行なわれていたと認めなくてはなるまい。そうなれば時間の紀年化が国家的統一において初めて可能になるという事態は一層顕著になってくる。なぜなら、ここでは日や月による時間の単位がほとんど力を持たず、ただ|主権者の人格〔付ごま圏点〕のみがさまざまの「時」を一つの統一にもたらし、そうしてそれに唯一回的なものとしての烙印を押すのだからである。従ってここでは、「時」が無名のものでなくなり、固有の位置を持ち始めるという事態が、全然太陽の運行や季節の循環と周係なしに、純粋に国家的統一の地盤から生じてくる。これが実は紀年の本質なのである。この「代」のなかで一一の年が序数をもって呼ばれるということは、いわば既に成立した「時の固有化」の跡仕末に過ぎぬであろう。この関係について示唆するところの多いのはギリシア古代の紀年である。そのころギリシアの都市国家では|年々に執政官が〔付ごま圏点〕選挙せられた。そうしてその年は|執政官の名〔付ごま圏点〕をもって呼ばれた。従ってあらゆる年が固有名詞と結びつき、序数の入り込む隙はないのである。
 以上のごとく紀年は|国家の統一において〔付ごま圏点〕可能になってくる。しかるにこの|紀年なくしては歴史は成立しない〔付ごま圏点〕のである。さまざまの共同体における豊富きわまりのない主体的連関の|過去〔付ごま圏点〕が、もし公共的な前後の順序に配列されず、従ってその内容がそれぞれ固有の位置を持たないとすれば、それらは到底|統一〔付ごま圏点〕にもたらすことはできないであろう。従って紀年の成立は単なる年の問題ではない。それは混沌として渦巻く過去に公共的な秩序をもたらし、人間存在の歴(21)史的意義をあらわならしめるものなのである。

 が、紀年の成立のみが歴史を可能ならしめるのではない。紀年と密接に結びついた年代記のごとき|記録〔付ごま圏点〕や|伝承〔付ごま圏点〕の類も同様に歴史にとっては欠くべからざるものである。そうしてその記録や伝承の類もまた国家の統一においてのみ成立し来たるものにほかならない。
 前に説いたごとく人間存在の過去は実に無量無辺の内容を含んでいる。ただ一つの親子の間柄だけを取って見ても、その過去を丹念にたどろうとするならば、何冊もの尨大な叙述をもってしても、充分に尽くすことはできないであろう。しかるにかかる親子の間柄は無数に存する。そうしてその一々が固有の過去を担ったものである。しかも親子の間柄は家族共同体におけるただ一つの契機に過ぎない。従って家族共同体のあらゆる契機を取り上げ、その具体的な個々の存在に即して過去を考察するならば、人智は到底その任に堪えない。いわんやその他の共同体をも考慮に入れ、一つの民族の担っている過去を全体として問題とするならば、まことに無量無辺というほかはないのである。しかしかく豊富な|過去〔付ごま圏点〕がことごとく|伝承され〔付ごま圏点〕あるいは|記録される〔付ごま圏点〕ということは決してない。むしろそれらの大部分は|伝承されず記録されない〔付ごま圏点〕のである。もちろんこのことは、それぞれの家において、あるいは村において、過去が語りつがれるということを否認するのではないが、しかしそれらは通例|公共的な〔付ごま圏点〕伝承や記録とはなっていないのである。また伝承や記録が公共的性格を帯びるに至っても、それがその共同体の|過去を把捉し保存したもの〔付ごま圏点〕であるとは限らない。たとえば原始民族は通例その民族に固有な神話を伝承するが、その神話はこの民族が代々繰り返して来た|驚嘆〔付ごま圏点〕や|感動〔付ごま圏点〕の体験の表現であって、民族の現在を規定している日常的人倫的な過去のありのままな把捉というごときものではない。(22)従って神話は通例|超人的神的な事蹟〔付ごま圏点〕の物語となり、人間的な通常の生活を顧みない。もちろんかかる表現もまたこの民族の過去を理解するための重要な資料であるが、しかしそれは神話が過去のありのままの把捉を動機としているのでないことを認めた上でのことである。神話の|伝承〔付ごま圏点〕そのものもまた驚嘆の情の相続であって、過去の把捉と保存を動機とするものではない。しかし高度文化の共同体において、たとえば教祖の生涯とか教えとかが|記録される場合〔付ごま圏点〕には、事情は全く異なるように見える。経典とか福音書とかは教団の所産であるとともにまた記録中の記録とも解せられているからである。それに対して我々は、この場合もまた本質的には神話の場合と異ならないことを主張する。なぜなら、教団が後代に至っていかに代表的な年代記を残したにもせよ、この教団の依って立つ経典の類は、驚嘆の体験の表現であって、過去の事実の客観的な把捉ではないからである。従ってここでも教団を形作った人々の主体的連関は顧みられず、それらの担う意義はすべて教祖の生活と教えとの中に投入される。勢い教祖は超人的神的な姿を取らざるを得ない。その最も著しい例は仏教の経典であろう。千年にわたる哲学の発展、信仰の変化、教団の成長は、すべて釈迦の一身に投げ込まれている。釈迦は永遠に現在する絶対者、あるいは絶対の真理になる。かかる釈迦の生涯や説教を語る経典が「記録」などであり得ないことはいうまでもなかろう。キリスト教は早くより経典の制作を制限したために、仏教ほどはなはだしくはないが、しかしそれでも福音書はきわめて神話的である。イエスは神の子であり、肉となれる神なのである。福音書の記者はなるほどイエスの生涯と教えとを書き記したには相違ないが、しかしかく記されるまでにイエスの姿は驚嘆の感動をもってすでに充分に神話的に形成されていたのである。そのような神の姿は|初次的に〔付ごま圏点〕「記録」されたりなどするものではない。
 しかるに国家の立場においては、明白に|過去を把捉し保存する意図をもって〔付ごま圏点〕記録が作られる。もちろんここでもそ(23)の中に含まれた無量の主体的連関の過去は打ち捨てられ、ただ|統治者の事績のみが記されることもある。しかし統治者の事績は決して私人的なものではなく、民族全体に連関する公のものである。たとい記者がそれを単に個人的な姿によって描こうとも、それによって表現されるのは民族全体の行動や運命にほかならない。いわんやそれが国家的事件の記録である場合には、ここに民族自身の過去の把捉と保存とが目ざされていることは明らかであろう。たとえば、「この御世に海部、山部、山守部、伊勢部を定めたまふ。また剣の池を作る。また新羅人まゐ渡り来つ」というごとき記述は、国内の社会組織や農耕の様式の由来、外国との接触や異民族の移住などに関する冷静な、客観的な把捉の態度を示している。すなわち記録は、大きい、包括的な影響を伴なうごとき、国家的な出来事を、驚嘆の感情によってでなく、|現実的な関心をもって〔付ごま圏点〕、確保しようとしたものなのである。
 何ゆえに記録がこのような性格を持つかは、恐らく記録そのものの本質から理解せられるであろう。記録は文字の発明とともに成立したものであるが、文字の発明の重要な意義は|時間的に展開する言語活動を凝固せる視覚形象によって表現する〔付ごま圏点〕ところに存する。しかるに言語活動は原本的には間柄的活動であり、主体の間の連関の了解を表現するものである。(上巻、五二七ページ以下)従って人は、たとえば|約束する〔付ごま圏点〕というごとき主体的連関を、ただに言語によって表現するのみならず、さらに文字によって表現することにより、その約束をば凝固せる視覚形象に固定することができる。約束は未来におけるある行為を|あらかじめ定める〔付ごま圏点〕ものであるから、右のごとく固定させられた約束は、その行為の行なわるべき未来において、約束の時と同じき確実さをもって当事者に認識され得るのである。記録はこのような実践的目的のために行なわれ始めた。しかし文字の使用は初期にあっては誰でもできることではない。従って古い時代には「読み書き」は専門の職業であった。そうしてこの専門家を最初に自由に駆使し得たものは|国家〔付ごま圏点〕にほか(24)ならなかったのである。国家はその成員の行為の仕方をあらかじめ規定するが、この規定を未来のために確立し得るものは記録であった。そこからして法律事務と記録との密接な関係が成り立ってくる。統治に関する種々雑多な国家の行動も、秩序と統一とを得るためには、記録によって明確にせられねばならぬ。かくして読み書きの専門家は国家に必須の官吏となる。「史」とは本来かかる官吏を意味する言葉であって、後に彼らの作った記録をも意味するに至ったのである。しからば記録が国家に即し現実的な関心をもって作られることは当然というべきであろう。
 右のごとくにして成立して来た記録が、紀年とともに、歴史を可能ならしめる。この関係をすでに言葉によって示しているのが前述の「史」である。それは記録を司どる|国家の官吏〔付ごま圏点〕であり、それによって作られた記録であり、そうして|歴史〔付ごま圏点〕なのである。国家の官吏の作る|公の記録〔付ごま圏点〕が、国家の含む無量無辺の私人的過去を切りすてて、ただ国家的な統一に即した出来事をのみ把捉し保存することは、理の当然であろう。かかる|強度の選択〔付ごま圏点〕を経た過去のみが歴史となるのである。
 もちろん我々は読み書きの発達とともに国家的記録でない無数の記録が発生してくることを認めないのではない。家族的生活乃至文化共同体的生活はさまざまに記録され、しかも時にはそれが歴史の中に不可欠の契機とさえなっている。しかしそれはこれらの記録が国家的に重大な意義を担いあるいは鮮明な類型を示すからであって、ある特定の家族乃至文化共同体の過去が|それ自身において〔付ごま圏点〕歴史となっているのではない。たとえば新井白石の自伝『折りたく柴の記』は、白石がただ子孫のためにのみ書き残した白石一家の物語であるが、しかしその内容は白石が学者・政治家として持つ国家的意義と不可分であって、単に家族的存在の過去をのみ記録したものではない。のみならず彼の描く祖父や父の姿は、戦国武士や、戦国の気風を失わない江戸初期の武士を、実に鮮明な類型として現わしている。我々(25)はそこに白石一家の私事でなく一つの時代の姿を看取し得るのである。同様なことは日蓮の自伝的な遺文などについてもいえるであろう。従って我々はいうことができる、国家的記録でない記録も、その含む国家的意義によって歴史となるのであると。これはいいかえればこれらの記録が|実質上〔付ごま圏点〕国家的記録だということにほかならない。
 が、記録のみではない。|伝承〔付ごま圏点〕もまた国家の立場において過去を把捉し保存するものとして成立してくる。「史」の意味が本来的に記録と結びついているのに対して、ドイツ語の Geschichte が|出来事〔付ごま圏点〕とともに|物語〔付ごま圏点〕を意味しているのは、右の事態に対応するものと解し得られるであろう。文字の使用せられる以前には、国家は「史」と同様な職分として「語り手」を置き、国家的に意義のある出来事や仕業を|物語らしめた〔付ごま圏点〕。わが国上古の語り部がかかる職分であったかどうかは明らかでないが、文字を使用しない原始部族に右のごとき「語り手」の身分の存すること、しかもその身分が相当に高い位置を占めていることは、フロベニウスのアフリカ研究などに顕著に現われているところである。ギリシア古代のホメーリダイなどもかかる視点から見らるべきものであろう。従って語り手の任務は公のものであり、その物語は|公の出来事〔付ごま圏点〕に関する。いかなる出来事でも直ちに物語を意味し得るのではなく、ただ国家的な出来事のみが、すなわち|公に物語らるべき出来事〔付ごま圏点〕のみが、物語となるのである。もとより物語は生ける言葉によって繰り返さるるがゆえに文字による記録ほど固定的ではない。語り手が故意に変更を意図しない場合においてもそれは変移しやすい。だから口誦伝承は過去の把捉保存としては記録はどには信憑せられない。しかしそれが|記録に次いで〔付ごま圏点〕歴史を可能ならしめることは認めざるを得ぬ。「史」が|記録〔付ごま圏点〕でありつつ「歴史」の意味を帯びて来たように、Geschichte もまた物語でありつつ「歴史」を意味するに至るのは、右の事情を示しているのであろう。
 が、以上はGeschichte(物語)を|口誦伝承〔付ごま圏点〕と解してのことである。通例 Geschichte の両義を論ずる場合には、そうは(26)解せられていない。すなわち Geschichte は一面出来事を意味するとともに他面において|散文による叙述としての歴史物語〔付ごま圏点〕を意味するとせられるのである。たとえばヘーゲルがこの両義の合一に偶然ならざる意義を認め、それを「歴史物語が本来的に歴史的な仕業や出来事と同時に現われること」の表示と解したとき、彼の眼中にあった歴史物語はヘーロドトスを祖とするごとき歴史叙述にほかならなかったのである。ところでヘーロドトスの歴史は本来 Historia すなわち「探究」であって、|記録〔付ごま圏点〕でも|物語〔付ごま圏点〕でもなかった。その叙述するところは探究の結果なのであって、単なる伝承なのではない。従ってこの意味の歴史は口誦伝承とは|次元を異にする〔付ごま圏点〕。ヘーロドトスは諸国に旅して|伝承〔付ごま圏点〕や|記録〔付ごま圏点〕を探究し、それらを材料として人間存在の過去を広汎な統一の下に把捉したのである。それは孔子が古い礼の認識について徴証を|文献〔付ごま圏点〕に求めたのと事情を同じくする。文は|記録〔付ごま圏点〕であり、献は賢人、従ってその伝え知っている|伝承〔付ごま圏点〕にほかならぬからである。もっとも孔子の場合は、徴証を記録と伝承とに求めて得なかったがゆえに、古い礼の叙述を断念したのであって、結果は逆である。しかし過去の認識を記録や伝承の上に築こうとしている態度は同一であると言わねばならぬ。この場合徴証とせられる|文〔付ごま圏点〕と|献〔付ごま圏点〕とが国家の立場において成立することは前述の通りであるが、それにもとづく|高次の統一〔付ごま圏点〕としての歴史が国家に依存することはさらに一層明瞭である。孔子作と称せられる『春秋』が国家の行動を記せるものであることはいうまでもなく、その後シナにおいて二十幾回にわたって作られた歴史はすべてそうであった。ヘーロドトスやツキュデイデースに始まる歴史もそうである。人間存在の歴史性が国家においてあらわになるということは、この種の歴史において一層顕著になる。このことをヘーゲルは、国家においてのみ本来的に歴史的なしわざや出来事が現われるといい現わしている。すなわち国家は歴史の叙述に|ちょうど適当な〔付ごま圏点〕内容を、否さらに|歴史の叙述そのものの産出者たる内容〔付ごま圏点〕を、初めて導き入れてくるのである。が、我々はこの歴史叙述の基底たる|文(27)と献とが〔付ごま圏点〕すでに国家においてのみ可能となることを特に注意しようとしたのであった。

 歴史を最初に可能ならしめる紀年も、また歴史の基底的な素材となる記録伝承も、ともに国家において成立する。従って紀年や紀録伝承の類は人間存在の歴史性が国家においてあらわになることを端的に示しているといってよい。
 ところでその同じ紀年や記録伝承の類は、歴史を可能ならしめると同時に、また国家が|於いてある場面〔付ごま圏点〕、国家が一つの統一体として活動する舞台をも指し示すのである。
 紀年は前述のごとく国家の主権者の代を数え、あるいは在位年数を数えることによって始まった。これは|主権者の人格〔付ごま圏点〕がさまざまの「時」を統一し、それに固有の位置を与えたことを意味する。従って紀年の地盤をなすものは国家の統一が|主権者の人格〔付ごま圏点〕に表現せられるという事実である。ところで|この事実は国家が有限的統一として他の有限的統一と対立し連関すること〔付ごま圏点〕を顕著に示している。いかに原始的な時代にあっても、またいかに隔離された地方の国家であっても、すでにその統一が具体的な一人の人の姿において表現せられるような段階に達している国家は、必ず他の国家の存在を認め、何らかの仕方でそれとの交渉に入り込んでいるものである。そこに我々は「国家の間」としての場面を認めざるを得ぬ。もとより紀年は国家の内部における時の統一として成立したものであるから、「国家の間」の時の統一は別種の事情に依らなくてはならないが、そういう時の統一の成り立つ以前に、国家の行動の行なわれる場面はすでに存立しているのである。
 この事態を一層明白に示しているのは記録や伝承であろう。国家はいかに単純なものといえども自覚的総合的な人倫的組織としての統一的構造を持っているのであるが、しかしそれを|実践的に実現〔付ごま圏点〕しているということは必ずしもそ(28)の構造の|理論的認識〔付ごま圏点〕を伴なうとは限らない。従って原始的な記録や伝承が作られる時代には、国家の統一を表現する主権者の人格が、しばしばその表現せる国家の構造と引き離してただその具象的な人の姿においてのみ取り扱われる、ということがありがちである。その結果として古い記録や伝承は王とその周囲の少数の者のみを物語り、国家の実質たる多数の民衆を眼中に置かないかのごとき印象を与える。これは記録者がまだ国家的行動をそれとして把捉する力を持たないことを示すものであるが、しかしそういう段階においてさえも、記録や伝承は|王と王との間の〔付ごま圏点〕さまざまの関係を丹念に記している。恐らくどの民族においても王の事績の大半は他の国家に対する交渉関係であろう。それが王と王との会盟とか、交驩とか、憎み合いとかというごとく、全然個人的な関係として描かれているにしても、そこに指し示されているのは国家と国家との間の交渉関係である。すなわち国家において記録や伝承がはじまったとき、すでにこの国家は超国家的な場面において動いているのである。
 このような場面において国家は歴史を形成する。従って歴史は国家の自覚であるといってよい。自己の認識は必ず他を媒介とするものであるが、国家もまたおのれを自覚するためには個の国家との交渉をまたなくてはならぬ。そうしてそこに得られる自覚が、歴史的自覚として、歴史を形成するのである。
 かく考えれば、時間的にはきわめて長いはずの人間の存在が、一定の時期に|歴史時代〔付ごま圏点〕に入り、それ以前を|歴史以前の時代〔付ごま圏点〕として区別するゆえんも明らかとなるであろう。何らかの形で紀年や記録がはじまり、さまざまの国家がそれぞれ他の国家に対してそれ自身の独自の存在を自覚するに至って、はじめて人間存在は|歴史存在〔付ごま圏点〕となったのである。しかしこのことは歴史時代における人間存在があますところなく歴史的存在になっているという意味ではない。現在においてすら、諸方に散在する原始部族はいまだ国家の段階にまで達せず、紀年や記録を持たない。彼らにとっての(29)過去はせいぜい三四世代であって、それ以前は無差別に「昔」と考えられ、その過去が明白に|神話的な形〔付ごま圏点〕で生きて働いている。その存在は|彼ら自身にとっては歴史的存在ではない〔付ごま圏点〕。が、このような部族の所在地がいずれかの歴史的国家の植民地となっている限り、それは歴史的世界の一部分と見られなくてはならぬ。たといそれがいずれの国家の植民地ともなっていない時代においても、すでに歴史的国民がそれを見いだし、それとの接触をはかるに至ったのであるならば、同様にそれは歴史的世界に組み込まれているのである。だから多くの人々が事実上歴史的自覚を持たないということは、人間存在が歴史的存在であることを妨げるものではない。このことは程度の差こそあれ文化国民にも通用するであろう。ここでは人々は「歴史」を教わり、紀年を暗記したり英雄の名を覚えたりしている。しかし彼らがその生まれ育った人間社会のなかで因襲に従って生きて行く限り、おのれの存在の歴史的限定をはっきり理解しようとしない場合は少なくない。従って異なった時代の出来事をおのれの時代の型にはめて理解するというごときことは、きわめて普通に行なわれていることである。すなわち歴史的世界のただ中においても歴史的自覚が徹底しているわけではないのである。
 このことを示す興味深い現象は文芸の作品におけるアナクロニズムである。これは題材として歴史的な物語を用いるのであるから、|歴史的自覚のある国民においてでなければ〔付ごま圏点〕現われて来ない。しかしその|歴史的自覚が不徹底でなければ〔付ごま圏点〕アナクロニズムに陥るはずはない。たとえばわが国の室町時代の物語は、神功皇后の新羅征伐を物語るに際して、皇后が唐綾おどしの鎧に身を装われたと記している。これは明治時代においてなお錦絵の形で残っていた想像で、我我が母親から聞いたのもこの姿においてであった。室町時代の作者は古代の武装を知らず、おのれの時代の武装によって神功皇后を想像したのであるが、そのアナクロニズムを作者が感じないのみか、明治時代に至るまでの看衆読者(30)も感じなかったのである。そこには古代のみならず室町時代自身の歴史的特性に対する無理解があり、それを前提として芸術的鑑寛が可能にされたのである。このような態度は江戸時代の最も傑出した戯曲作家近松にも見られる。彼の時代物はすぺて時代錯誤を平気で冒している。たとえば『大職冠』の初めに唐使来朝を迎える|都の町〔付ごま圏点〕の景況が描かれているが、それによると鎌足の時代、しかもそれは唐の貞観十九年ごろと指定されているのであるから明らかに大化の初めに当たる時代の日本の都が、あたかも元禄ごろの京の町ででもあるように、「錦の幔幕玉簾、引き続けたる金屏風」に飾られており、それを見物して回る鎌足公の娘が「わざと忍びの町乗り物」にのっている。そうして町の辻には編笠をかぶった読み売りが、「唐人の行列、唐人の行列、通辞詞《つうじことば》の次第、進物、土産《みやげ》、宝物の次第、つぶさに記し、上下は六銭、一冊で三銭、万里の彼方《あなた》までつぶさに知れる、唐人の行列」と声をはりあげている。その進物の中には象一疋、虎豹二疋、小人島の夫婦せいは六寸、孔子の自筆の論語大学、一里四方の毛氈百枚、麒麟の粕漬け、薄塩の人魚などがある。作者は初唐の文化の偉大さやその影響の下に立った大化時代の日本の革新的な気分などに対する歴史的理解は問題とせず、ただ江戸時代初期の南蛮貿易の知識の上に、元禄の風俗をもって、古代の世界を作り出しているのである。見物も恐らく作者がつれて行く通りの世界に入り込んだのであろう。今われわれがこれを読めば、鎌足やその娘が元禄の風俗をもって元禄の世界に現われてくるというアナクロニズムそのものが強い諧謔の味を与えるのであるが、しかし作者は恐らくアナクロニズムを念頭に置かなかったろうし、見物もそれを感じたわけではなかったろうと思われる。なぜなら、ここで作者は諧謔の味を出すために「小人島の夫婦」とか「孔子の自筆」とか「一里四方の毛氈」とか「薄塩の人魚」とかのごときくすぐりに過ぎぬものを点出して見物の笑いを買おうとしているからである。もしアナクロニズムの滑稽味が意識せられていたのであったならば、こんなくすぐりは全然不要といわなく(31)てはならぬ。従ってここでは作者も見物も歴史的感覚を欠いているのである。
 このような現象はわが国の民衆が歴史的自覚において特に遅れていたことを示すのではない。ヨーロッパにおいても中世の物語は室町時代の物語と同じ調子であったし、またアメリカ大陸の発見やインド・南洋・シナなどへの進出が行なわれた後の近代に至っても、たとえばシェークスピアの時代物は近松と同じ調子である。この稀世の天才は彼の時代に利用し得たあらゆる時代の題材を実に自由にこなし切っているのであるが、その際、近松と同じく、古代の世界を彼自身の時代の風俗によって描くことなどはきわめて平気なのである。古代ギリシアを最もよく表現しているホメーロスの詩から間接にか直接にか題材を取っているのは『トロイラスとクレシダ』であるが、その初めの方に、『イリアス』の初めの部分と同じような会議の場面がある。アキリーズが取って戦場を退いたあと、ギリシア方の旗色が悪く、それをいかにして挽回しようかと首領連が頭をなやますところである。その場面においてアガメムノーンは、戦争が思い通り運ばないからといって恥じるには及ばない、神はわれわれのねばり強さ(persistive constancy)を試《ため》しているのだ、と落ちついて語るいかにも英国風な政治家に変形されている。またユリシーズも、このようにうまく行かないのはギリシア軍のなかに階級(degree)を無視したり下の者が上を押えたりする風潮があるからだ、と熱心に主張する保守的政治家にされている。が、最も驚くべきことは、ギリシアの英雄の|典型〔付ごま圏点〕として二千年来通用してきたアキリーズが、ただ腕力の強さだけを誇りとして智慧の働きを蔑視するような、無思慮な、向こう見ずな、野性的でわがままな武士にされていることである。この反軍国主義的な価値倒換は、封建主義を克服しようとする近代精神の表現としてはいかにも鮮やかであるが、しかしギリシアの英雄時代の特性を全然顧みぬものというほかはない。同様にそのあとへつづく戦争の描写も、全然古代を離れて中世の風俗をもって描かれている。まずギリシアの陣営へ、(32)後にヴァージルの『イーニアッド』の主人公にされたイニアスが、ヘクターの一騎討ちの挑戦をもたらしてくる。その挑戦の言い分がまるで中世の騎士の仕合を型どっている。こうして古代ギリシアの英雄たちが、彼らのレディーのために仕合をするということになる。古代ギリシアは婦人を奴隷扱いにしたことで有名なのであるが、その時代の英雄が婦人尊崇の立場に立たされるのである。年老いたネスターは、もしギリシア軍中に愛のために戦うものが出ない時には、自分は銀髯を金甲に包み、やせ腕を鎧に通してヘクタ一に立ち向かい、自分の淑女は彼の祖母君よりも美しかったと告げよう、などという。イニアスはそれに答えて、諸天よ、それほど手不足でありませぬように、と祈る。するとそばからユリシーズが、「アーメン」と応ずる。こういうのが大体の調子なのである。だからギリシア人が文字を使いはじめた時よりも数百年古いはずの時代に、老人ネスターは書冊(volume)だの見出し(indexes)だのという言葉を使う。悪口屋のサーサイティーズは「書物なしで祷りを覚える」というきまり文句を使う。中でも最もおもしろいのは、トロイ城内で美人ヘレンをギリシア人に引き渡すかどうかの会議のとき、強硬に引き渡し拒絶を主張する二人の弟に対して、兄のヘクターのいう言葉である。
  「パリスとトロイラス、お前たちは二人ともよく話した。そうして当面の問題について注解を与えた、――が、うわすべりだ。アリストートルが、道徳哲学を聴くには適しない、と考えた青年たちに、かなり似ていなくもない。」
実に驚くべきことである。英雄アキリーズの好敵手でアキリーズよりもはるかに人間的なヘクターは、アリストートルの哲学にさえも通じ、哲学者のごとくに語るのである。これを前に言ったアキリーズの価値倒換と思い合わせれば、作者の意図に一貫したもののあることが推測せられるであろう。しかしアナクロニズムはここに至って頂点に達して(33)いるといってよい。
 われわれはシェークスピアの巧妙な描写に頭を下げるとともに、このアナクロニズムが歴史的感覚の稀薄を示すとは考えにくいのである。むしろ彼はギリシアの英雄時代やイギリスの近代初頭などの歴史的特性を鋭くつかみ、その理解の上に立って|故意に〔付ごま圏点〕時代を錯誤させ、そこに生ずるおかしみを通じて、古代ギリシアの理想を近代イギリス精神により克服しようと試みたのではないであろうか。もしそうであるとすれば、このアナクロニズムの背後には当時として珍しいくらいに深い歴史的洞察があったことになる。シェークスピアはベーコンに匹敵するほどの学者であったのでなくてはならない。しかし普通にはそうは考えられていないのである。その証拠としてはシェークスピアの作品に一般に見られるアナクロニズムの例が引かれるであろう。たとえば『ジョン王』においては、第三十字軍の時代の英仏の間の戦争を描くのに、盛んに「大砲」を持ち出している。史実からいえば大砲がヨーロッパに現われたのはジョン王よりも百年以上後のことであるが、シェークスピアはそんなことにはまるで頓着せず、ジョン王より四百年ほど後の彼の時代の進歩した大砲を眼中に置いてジョン王を描いているのである。この種のアナクロニズムは|故意に〔付ごま圏点〕何かをねらっているとは考えられない。それがシェークスピアの態度であったとすれば、彼がギリシアの英雄たちを彼の時代のイギリスの空気のなかで動かしたとしても、毫も不思議はないのである。実際彼はギリシアの古代に題材をとったいくつかの作品のなかで、ギリシアの市民を彼自身の時代のイギリスの市民の姿で描いている。それはむしろ彼に通有のやり方であった。従って一般の見物にとっても、ユリシーズがアーメンと唱えたり、ヘクターがアリストートルを口にしたりすることは、アナクロニズムのおかしみとして受け取られたわけではないであろう。もしそうであれば、今われわれの感ずる|深い歴史的洞察〔付ごま圏点〕は、シェークスピアのアナクロニズムが|偶然に〔付ごま圏点〕生み出したものであって、(34)彼自身の意識したものではないということになる。もっともこの時代にはチャプマンの『イリアッド』の翻訳が出ており、ルネッサンス以来の古代崇拝も相当に行なわれていたであろうから、シェークスピアがアキリーズを頭のからっぼな軍人に変形したことは、明らかに諷刺として受け取られたかもしれない。しかし|時代の相違を忘れた〔付ごま圏点〕古代崇拝も結局一つの時代錯誤である。そういう時代錯誤が行なわれていたために、それへの諷刺としてシェークスピアの思いついたことが、案外にも深い歴史的洞察を示すことになったと考えてもよいであろう。
 以上のごとき文芸作品に現われたアナクロニズムの現象は、広汎な範囲にわたって人々がおのれの存在の歴史的限定を|充分に把捉していない〔付ごま圏点〕ことを示すのである。しかしそれは歴史的限定がないということではない。国家の自覚においてすでに歴史がはじまっている限り、個々の成員がいかにそれに気づかないでいようとも、彼らの存在は歴史的存在なのである。そうしてこの事態をひき起こすものはまさに超国家的な場面にほかならない。

 歴史は超国家的な場面において現われてくる。国家の自覚が他の国家を媒介とするように、歴史の自覚は国家を形成せる民族が他の民族と接触してさまざまの興奮や危険を経験する際に起こるのである。かかる際にはその国民の共同体的構造が強く反省せられるとともに、いや応なしにその歴史的構造が注意せられるに至るからであろう。従って人間をただ個人の視点からのみ見ようとする立場や、国民をただその閉鎖的な自己圏内においてのみ見ようとする立場は、かつて歴史的自覚をもたらしたことがない。画期的な|歴史叙述の仕事や歴史哲学〔付ごま圏点〕などは、すべて超国家的場面における共同体の自覚と相伴なっている。われわれはそれを歴史的に実証することができると思う。
 まず歴史叙述の仕事の歴史を問題としてみよう。わが国においてはじめて歴史叙述の仕事が企てられたのは、朝鮮(35)との軍事的交渉以来、朝鮮及びシナとの交渉が漸次密接となってきた推古時代であり、さらにその仕事が実現したのは、シナ大陸に新しく興った唐と単に文化的のみならず軍事的にも接触した後である。文化的の影響はわが国に最初の社会的政治的な革新をもたらし、わが国をはじめて法律・制度の整った|国家〔付ごま圏点〕たらしめた。ついで軍事的の影響は九州のみならず四国や畿内にさえも要塞を築かしめたほどである。ここに日本の国家がシナの国家を媒介としておのれを自覚したという事態はきわめて明白である。そうしてちょうどそのあとに、神話時代以来の日本の歴史を記録したものとして日本書紀がつくり出されたのである。これは歴史叙述としてはなおきわめて幼稚なものであるが、しかし日本における歴史的自覚がここに|最初の表現〔付ごま圏点〕を得たということは認めてよいであろう。これをさきがけとしてこの後歴史叙述の仕事は国家の仕事として続けられたが、やがて中絶して私人の手に移った後にも、国際的な大きい出来事は必ず何か画期的な歴史叙述の仕事を呼び起こしている。蒙古襲来による甚大な刺激の後には、国家改造の運動と連関して北畠親房の『神皇正統記』が書かれた。さらに近世の初め、ヨーロッパ人の渡来、キリシタンの伝播、征韓の役などの大事件がそれぞれ大きい刺激を与えた後には、水戸光圀の大日本史編纂の仕事がはじめられた。これらの歴史叙述はきわめて閉鎖的な特徴を持ったものであって、ただ自国の歴史にのみ眼を向けているのであるが、しかしそういう歴史的自覚が起こるためにも他国の刺激、従って超国家的場面が必要だったのである。
 シナにおいても同じことがいえる。華と夷との区別が秦の万里長城において大げさな表現を得た後に、初めてシナの史書、司馬遷の『史記』がつくられた。国家的統一と歴史的自覚とはここでもつながっているのである。この後シナでは国家の仕事としての歴史が王朝ごとにつくられているが、それをほかにして史記につぐ名著たる『資治通鑑』も、五代における夷狄の侵入ののち北方に興隆してきた契丹の圧迫の下に作られたのである。しかしシナの特性は、(36)多くの異民族にとっての|超民族的な場面〔付ごま圏点〕でありつつ、同時に一つの国家となることである。従ってシナが一つの国家として他の国家と対立しあるいは折衝するということはまれであるといってよい。周囲の国家に対しては、超民族的な場面として、抱き込みにかかってくる。征服したのでない国々をもおのれの領域内にあるかのごとくに見なしてしまう。これがシナの特性としての中華思想である。この原理によってシナは次々に侵入しきたる異民族のるつぼとなり、絶えず他のものに転化しながらそれ自身の同一を保ってきた。この意味においてシナは超国家的場面を|おのれのうちに〔付ごま圏点〕含んでいたのである。その内部に抱き込まれた異民族は、おのおの一つの国家として歴史的に自覚するということなく、かえってシナが一つの統一的国家となるための刺激となったのである。
 この点では地中海をとりまく西方の世界は著しく趣を異にしているように思われる。もちろんここでもアレキサンドロスの時代やローマの世界帝国の時代には統一的な国家が形成されたが、しかしそれはむしろ例外的な時期であって、他の時代には通例この世界は超国家的超民族的な場面として存していた。その場面において多くの民族はその国家を形成し、互いの間の対立抗争を通じて歴史的自覚に近づいて行ったのである。中でも著しいのは、この場面を|さまよい歩いた〔付ごま圏点〕民族が、国家形成の理念に絶えず導かれつつ、歴史を形成して行った過程であろう。
 一部の歴史哲学者の主張によると、ギリシア民族は歴史的生の領域を理解せず、また理解しようともしなかった。歴史の自覚はヘブライ文化の功績である。メシアの理念とともに宇宙は歴史に転化する。ギリシアにおいては神的なるものは|自然のうちにのみ〔付ごま圏点〕啓示されたが、メシアの指し示すところは、神が|歴史のうちに〔付ごま圏点〕自らを啓示しようとする、ということであると。これはギリシア文化とキリスト教文化とのみを眼中に置き、その区別をやや誇張していい現わしたものであるが、あながち誤りともいえない。ギリシア民族は自己完結的な「芸術」と、普遍性を核とする「哲学」(37)とを特徴としているが、イスラエル民族は『旧約』を――すなわち、世界創造以来の人類の歴史を背負っている|選ばれた民〔付ごま圏点〕が、やがて祝福された|国土を〔付ごま圏点〕獲得するであろうという歴史的理念を――特徴とする。これはいわば国家の形成が歴史的理念として民族の生を貫ぬいているということである。この『旧約』がヨーロッパの文化に歴史の自覚を与えたとせられる。ところでその『旧約』は、この比類のない民族が、太古の伝説の時代からすでに異民族の間の、また諸国家の間の、「旅人」であったことを示している。エウフラテスの沿岸の国土からニルの沿岸の国土までを含む古い文化圏全体が、そのさすらいの舞台であった。右の伝説によれば、ノアの洪水ののちに初めて大いなるものとなった族祖|アブラハム〔付ごま圏点〕は、カルデアのウルから出てカナンの地に至ったのである。かるがゆえに彼の族は、エウフラテスの|彼岸から〔付ごま圏点〕来た人、|彼岸の人〔付ごま圏点〕(Ibrim)すなわちヘブライ人と呼ばれたといわれる。とすれば、ヘブライ民族とは、本来的に|土着でない〔付ごま圏点〕民族を意味するのである。アブラハムはカナンに来たってのちにも時にはエジプトに移り住んだ。そのアブラハムに対してエホバはいう、
  「なんじの子孫、他人《ひと》の国に|旅人〔付ごま圏点〕となりて、その人々に服事《つか》えん。彼ら四百年のあいだこれを悩まさん。」(創世記、十五ノ十三)
すなわちヘブライ民族は旅人としての民族なのである。この運命がこの民族に徹底的な|民族的自覚〔付ごま圏点〕を与えた。従ってこの運命の宣言にはまた神がその異民族を罰し、アブラハムの子孫を|強大な国民〔付ごま圏点〕となし、その子孫にカナンの国土を与えるという約束が伴なっている。そうしてこの|約束〔付ごま圏点〕が民族の歴史を貫ぬいて鳴り響いていることこそ、まさにこの民族の歴史的自覚にほかならぬのである。さすらいはアブラハムの孫|イスラエル〔付ごま圏点〕に至ってすでにはじまる。この孫はエウフラテスの国土でその苦労の多い青年時を送り、年老いてのちはその七十人の族をひきいてエジプトに移り住ま(38)なくてはならなかった。が、まさにそのエジプトで|イスラエルの子ら〔付ごま圏点〕は強大な民族にまで発展して行ったのである。しかしこの発展はエジプトの王の弾圧や迫害を呼び起こし、やがてモーゼによるエジプト脱出を必要とするに至った。その後モーゼの力強い統率、ヨシュアの敬虔な指導によって、(といっても実に残虐をきわめた戦争を通じて)約束の国土はイスラエルの子らの手に入り、ついにダビデやソロモンの時代にそこに王国が建てられた。これらの伝説を通じてこの国家の形成がいかに超国家的な場面における歴史的自覚と結びついているかが、実に露骨に示されているのである。それらが伝説であって厳密な意味での歴史でないということは、ここに歴史的自覚が表現されているということの反証とはならない。右の王国はやがてまたアッシリアやバビロニアの勢力に押されて亡び、選ばれたる民はエウフラテスの国土へ囚われる運命となるのであるが、そういう運命に刺激された歴史的自覚こそ、エホバがアブラハムに対してその子孫の旅人としての運命を宣言したというごとき伝説の|根源〔付ごま圏点〕であろう。かく考えれば|ユダヤ民族め旅人性〔付ごま圏点〕とその強い|民族的自覚〔付ごま圏点〕と旧約に表われた|歴史的自覚〔付ごま圏点〕とは、決して無縁ではないのである。神はこの民族の歴史においておのれを啓示する。これが旧約を貫ぬいている強い信念であった。この強さに押されてヨーロッパの諸国民は、千数百年の間、ユダヤ民族の神話伝説を人類の歴史だと思い込んでいたのである。
 歴史性を理解しなかったといわれるギリシア人は、最初にその過去を物語りはじめたとき、歴史の形をもってせずして、|叙事詩の形〔付ごま圏点〕をもってした。だからトロイア攻防の十数日間の争闘や、オデュッセウスの漂浪の苦労は、実に直観的にまざまざと描かれているが、それらの出来事を含む全体の過程については何事も物語られていない。歴史にとって|插話〔付ごま圏点〕であるはずの一二の出来事のみが明らかにされ、歴史そのものは姿を表わさないのである。しかし都市国家をつくりはじめた初期のギリシア人たちは、この插話によって過去の全体が|象徴されている〔付ごま圏点〕ことを感じた。すなわち(39)叙事詩が|歴史の役目〔付ごま圏点〕をつとめたのである。そうしてそういう役目をつとめ得る力はここでもやはり「旅」から出ている。叙事詩のなかで典型的に智慧の人として描かれているオデュッセウスは、「多く旅せる人」と呼ばれる。この英雄を主人公とする『オデュッセイア』はまさしくこの Andrap polutropon という言葉をもってはじまり、その旅人が、トロイアの陥落ののち、諸所方々をさまよい、多くの民の町を見、その心を知った、ということをもってこの長篇を歌い起こしているのである。そうしてまたその内容にはさまざまの異邦のことが物語られている。その中には魔女の島や死人の国もあり、またギリシア初期のポリスの姿を鮮やかに反映していると思われるプァイエーケスの島といえども明らかに無何有の郷として扱われているのであるが、しかし初期のギリシア人がその狭い都市国家の視圏を超えて広く世界を見渡そうとした態度はここに明らかに示されている。その立場においてギリシア人は歴史に代わる叙事詩によりその担っている過去を自覚したのである。
 『オデュッセイア』に比べれば『イリアス』はトロイアの地に定着した戦争の物語であるから、「旅」とは関係がないように見えるが、しかしここではギリシア民族は全体として旅に出ているのである。彼らは異邦人の土地で異邦人と日々に戦っている。否、それのみでない。この戦場はまた当時の世界中を、即ちエーゲ海沿岸のもろもろの国民を集めているのである。このことは『イリアス』が現形の統一に到達するまでの間に漸次強く意識されて来た。そうして第二歌の|勢ぞろえ〔付ごま圏点〕のごとき最も新しい層においては、作者は初期ギリシア人の眼界のなかにあったエーゲ海沿岸のあらゆる国民の名を数え上げるに至っている。アキレウスとヘクトールとの決闘はこういう世界的舞台での出来事として描かれたのであった。後代のギリシア人がこの対立を東洋とギリシアとの対立として感ずるようになったのは、この叙事詩がいかにギリシア民族の歴史的自覚として役立ったかを示しているのである。
(40) 以上のごとく見ればホメーロスの作品は、イスラエル民族に対して『旧約』がつとめた役目を、ギリシア民族に対してつとめている。それが叙事詩であって歴史的記録の形をとっていないということは、この民族がたぐいまれな|表現の天才〔付ごま圏点〕であり、特にイスラエル民族が全然欠いている|彫刻の才能〔付ごま圏点〕においてその頂点に達していることを思えば、むしろ当然の現象であったと見るべきであろう。象徴の機能を会得しているものにとっては、一つの顔が人類の姿を示し得ると同じく、十数日間の出来事の描写が数百年にわたる民族の身の上を語り得るのである。もしこの物語の「歴史性」を厳密に問題とするならば、歴史的記録の形をとっている『旧約』やまたその点においては五十歩百歩であることを忘れてはならない。
 が、このギリシア民族もついに「歴史」を、しかもある意味では「世界で最初の歴史」を、生み出すに至っている。そうしてその機縁となったのはまさにペルシアとギリシアとの、あるいは東洋と西洋との、対立・抗争・決戦である。この対立の意義を把捉するために、「歴史の祖」ヘーロドトスは、国家や民族を超えた広い場面を探究して歩いた。彼はこの探究の結果を Historia と名づけたのである。エジプトやペルシアや小アジアの国々についての叙述は、すべてその土地で集めた材料にもとづいている。そういう異邦人についての認識がギリシア民族の歴史的運命をはっきりと自覚せしめた。今から見ればその認識が学問的に正確であるかどうかは問題となるが、しかしそれがいずれであるにしろ、異邦人の習俗、宗教、神話などをみずから実地において見聞し、それらが著しくギリシア人のそれと異なることを理解することによって、かえってよくギリシア人の特性やその担っている任務を明らかにすることができたのである。
 かくしてヨーロッパにおける歴史叙述の仕事ははじまった。この後、ギリシア諸国家の間の抗争や、世界国家の成(41)立や、ローマの世界国家の辺境における異邦人との接触などは数々の目ぼしい歴史叙述の仕事を押し出してきた。歴史を単に物語としてのみならず|出来事の因果連関〔付ごま圏点〕として把捉し、そこに「鑑」としての意義を見いだすという|実用的歴史〔付ごま圏点〕がすでにそこにはじまっている。中世においては、十字軍のびき起こした諸国民の接触が、西ヨーロッパに初めて物語としての歴史を生み出した。が、近世に至ってヨーロッパの閉鎖性が破られ、世界的視圏が成立してくるとともに、|普遍史〔付ごま圏点〕あるいは|世界史〔付ごま圏点〕の理念が現われてくる。歴史の自覚を可能ならしめた超国家的な場面が、今やそれ自身の自覚を実現しなくてはならないのである。ちょうどそういう時期に|歴史哲学〔付ごま圏点〕もまた姿を現わしてきた。その目ぼしいものとしては十八世紀前半のヴィコ、後半のヘルダーをあげることができるであろう。両者はいずれも、人間存在の本質を把捉することによってその歴史的構造を理解しようと企てたのである。それを示す根本概念は前者においては umania※[記号あり]であり、後者においては Menschheit であった。そういう企てが十九世紀を通じて非常に力強い発展を見せ、二十世紀の初めには、ヴィコの時代に一般の哲学者が思いも及ばなかったほど歴史哲学を有力なものたらしめるに至ったのである。

 以上において我々は、現前の人間存在の内に生きて現在を規定している豊富きわまりなき|過去的内容〔付ごま圏点〕が、人倫的組織を貫ぬく統一によって、すなわち国家の視点の下に、秩序ある統一にもたらされること、及びそれが超国家的場面においてであることを明らかにした。そこで我々は歴史を一応次のごとく定義することができる。すなわち、歴史とは、国家を形成せる統一的な人間共同体が、超国家的場面において|自己の統一〔付ごま圏点〕を自覚するとともに、この統一的な共同存在の|独特な個性〔付ごま圏点〕を規定している過去的内容のうちの主要なるものを、共同の知識として何人も参与し得るごとき(42)客観的公共的な形〔付ごま圏点〕に表現したものである。
 この公共的な過去の自覚は、事実上国民のすぺてが参与しているわけではない。しかし何人の参与をも拒まず、むしろすべての人をこの共同知にひき入れようとしているものなのである。だから歴史は個人的主観にとっては|外から教え込まれるもの〔付ごま圏点〕という性格を持っている。このことは現代のように学校教育の普及した時代に初めて起こった現象なのではない。すでに歴史が形成せられる以前から、原始集団の担っている|過去〔付ごま圏点〕はその集団の若者に対して長老から教え込まれた。特に成年式の際には、神話的な形に結晶している過去の物語に|初めて〔付ごま圏点〕参与することが、人々の生涯の一大事なのであった。そういう風習から見ても集団の過去が客観的公共的な共同知に発展することは当然だったといってよい。そうしてその共同知は、ちょうど|鋳型のように〔付ごま圏点〕、あとから来るものの存在を決定して行く。『旧約』のモーゼの五書が伝えている伝説は、イスラエル民族にとってその独特な個性を規定している過去的内容にほかならなかった。ギリシアの叙事詩もまたギリシア人にとって同様に鋳型の用をなした。それらの民族あるいは国民のうちの少なからぬ部分が|事実上〔付ごま圏点〕その知識にあずからなかったとしても、それは当然|持つぺき知識〔付ごま圏点〕を欠如していたというに過ぎないのである。
 しかしこの共同の知識は、|現在の共同存在〔付ごま圏点〕の自覚として、|現在を〔付ごま圏点〕規定せる過去的内容にかかわるのであるから、|現在の状況〔付ごま圏点〕に従って絶えず新しく把捉しなおされなくてはならない。そうしてその現在の状況を決定しているものは、過去的内容に規定されながらもまだ限定されざる未来を|自由に〔付ごま圏点〕創り出そうとする働きである。この立場に立って過去的内容を観ると、かつて真実に過去の姿として把捉されていたことが、必ずしも真実ではなく、かつて過去の意義として理解されていたことが、必ずしも充分の理解ではなかった、ということが明らかになる。従ってある出来事をそ
(43)ばで見ていた人よりもかえって正確その真相を捕え、ある書物を書いた作者自身よりも一層深くその書物の意義を理解する、というごときことが企てられる。かくして歴史は書きかえられ、歴史的自覚は深まって行くのである。これは過去的内容が|作りかえられる〔付ごま圏点〕ことにほかならない。過去はすでに起こったこととして変更のできないものであるが、しかし変更不可能なのは出来事の過去的性格そのものであって、その出来事の中味や意義ではない。出来事の真相が新しく把捉され、その担う意義が一層深く理解されるならば、その過去的内容は前とは異なったものになる。これを作りかえと呼んでもさしつかえはないであろう。つまり人間存在の過去的内容は、人間自身がそれをいかに把捉するかに関係なく、|それ自身において〔付ごま圏点〕存立しているというごときものではない。それはただ人間自身の把捉において人間存在の内容となっているのである。従って把捉の仕方の発展は同時に過去的内容のつくりかえとならざるを得ない。
 この作りかえの働きのなかから歴史的探究の仕事が、すなわち歴史学が起こってきた。ヘーロドトスの最初の歴史が、Historia(すなわち探究、従って探究の成果として叙述)と呼ばれたのはゆえなきことではない。彼は単なる伝承に満足せず、諸所方々に資料を探し求めて、そこから真実と思われる客観的な知識を作り出したのである。この態度は多少の差こそあれ、司馬遷の『史記』にもあてはまるであろう。それらはすでに|学問的にまとめられた〔付ごま圏点〕過去の知識である。その後歴史的認識の仕方についてさまざまの進歩があったにしても、それが常に学問的探究の問題であり、従って真実に迫って行く運動であったことに変わりはない。歴史とは何であるかを考える場合に、|歴史学の認識論〔付ごま圏点〕が試みられるのは、右のごとき事情にもとづくのである。ここに|公共的な過去〔付ごま圏点〕の自覚としての歴史が、個人的主観的な過去の自覚と根本的に異なるゆえんが示されているといってよい。
(44) 歴史学の認識論の問題は右のごとく歴史が学問的に叙述されはじめたときすでに存していたのであるが、しかしそれが問題として自覚されたのはきわめて新しいことである。しかもそれは截然たる否定の道を通じて自覚されたように見える。ヨーロッパの近世は悟性の推理力による自然認識の急激な発展によってはじまった。それを記念しているものはベーコンの「発見の哲学」としての自然探究の理論であり、またデカルトの「方法的懐疑」における自我よりの出発である。この形勢のゆえに歴史的認識は陰へ押しやられた。そうしてついに認識論は|自然探究の認識論〔付ごま圏点〕としてカントにおいて明らかな自覚に達した。しかしカントの功績が大きければ大きいほど、歴史的認識が閑却されていることもまた人目につかざるを得ない。だから|歴史的探究の認識論〔付ごま圏点〕はカントの認識論を最も重視した新カント派の哲学者のなかから起こってきたのである。
 このような事情のゆえに歴史学の認識論は歴史探究の仕事自身のなかからではなくして自然探究の認識論との|対決において〔付ごま圏点〕まず試みられた。すなわちそれは自然認識の立場に対して歴史認識の立場を弁護し、救い出し、その権利を確立しようとする試みであった。だから二つの認識論はできるだけ平行的に、対等のものとして考えられている。第一、出発点において両者に甲乙はない。いずれも「人力をもって到底見きわめることのできないほど多様豊富な現実」から出発する。第二に認識活動としても両者に本質的な相違はない。見渡し難く錯雑した現実を認識の対象たらしめるものは、非常に強力な|選択〔付ごま圏点〕による単純化、統一である。このような|選択的総合〔付ごま圏点〕が両者を通ずる認識の本質にほかならない。両者において異なるのはこの|選択的総合のやり方〔付ごま圏点〕なのである。自然探究の場合には認識は普遍性という論理的価値を目ざしている。だから選択的絵合は個々の物や出来事の個別性をふりすててその共通性をとらえ、これを類概念とか法則とかで現わすというやり方で行なわれる。個々の物や物の間に起こることは総括して「自然」と呼ばれ(45)るのであるから、この自然を秩序ある全体たらしめるものは、概念や法則が個々の物や出来事に通用するという根本関係である。あらゆる自然探究は結局において普遍的な自然法則をめざしている。この点をとらえて自然認識の特徴は|普遍化的、法則定立的〔付ごま圏点〕であるといわれる。それに対して歴史探究の場合には、認識は個別的な現実の理解に向かっている。自然の認識にとっては個別的なものは価値にかかわりなき標本として普遍的なもののうちに包摂せられたのであるが、ここではそれのもつ|個性的〔付ごま圏点〕なもの、|特殊〔付ごま圏点〕なもの、|ただ一回的で繰り返すことのできぬ〔付ごま圏点〕独特な意義が問題なのである。従って歴史認識の特徴は|個性化的、個性記述的〔付ごま圏点〕であるといわれる。しかし現実は見きわめ難く錯雑しているのであるから、それをそのまま個別的にとらえて記述するなどということは人力の及ぶところではない。ここに|選択的総合〔付ごま圏点〕の必要は自然探究の場合よりも一層はなはだしくなってくる。その選択を導き、歴史認識に方向を与えているのが、|文化価値〔付ごま圏点〕である。それは歴史的現実の最高の条件であるといってよい。かかる価値は人間がその歴史的な生において作り出す文化産物のうちに現われているのであるが、そういう文化形象の全体をわれわれは歴史的世界と呼ぶのである。だからある出来事は、そのただ一回的な意義によって右のごとき価値に関係させられる限り、|歴史的な出来事〔付ごま圏点〕になる。歴史探究の仕事は錯雑した現実のなかから歴史的に無意義なものを捨て去り、文化価値の実現として目ぼしい個性的なものを拾い取って、それを文化価値の指し示す一定の秩序の下に連関させるにある。家族や氏族や民族などの古い|伝承〔付ごま圏点〕といえども無自覚的にすでにこのことを実行してきた。歴史学はそれを自覚的に行なうのである。
 以上のごとき考えは自然認識の立場に対して歴史認識の立場を特徴づけるという点において確かに功績のあったものである。しかし価値関係的に選択し総合するというだけでは個性的な現実の理解を説き明かすことはできない。この理解にはもっと具体的な、いくらか芸術家的直観に似たところがあるのである。優れた歴史的探究の成果はこのこ(46)とを実証している。そこで右のような普遍化的法則定立的な立場と個性化的個性記述的な立場との相違を承認しつつも、この差別をさらに根源的に|認識作用の区別〔付ごま圏点〕として把捉しようとする考えが現われてくる。自然認識において働いているのは論理的思惟である。我々は概念構成によって自然を説明することができる。しかし歴史認識において働いているのは|理解〔付ごま圏点〕である。我々は歴史的現実、文化的産物を理解するのであって説明するのではない。理解とは外から感覚的に与えられた「しるし」によって内なるものを認識する過程である。従ってそれは|表現〔付ごま圏点〕にかかわっている。それ自身を直接に示さず、必ず他者においておのれを示すもの、すなわち精神は、表現においておのれを展開する。その表現が文化的産物である。それは概念・判断のごとき論理的表現や芸術のごとき体験の表現ともなるが、また行為や、行為において固定せられた社会的形成ともなる。ここに表現せられているのは「人の社会的・歴史的現実」である。すなわち人間の歴史的存在である。このような歴史的世界の生の連関はただ表現を介して理解せられるほかはない。かかる理解は我がままな主観的なものではなく、解釈学として成立し得るような普遍的妥当性を持ったものである。そこでは生の|範疇〔付ごま圏点〕が見いだされ、生の|作用連関〔付ごま圏点〕が明らかにされる。それによって把捉されるのは主体的な人間存在の|動的構造〔付ごま圏点〕である。また|運命的に〔付ごま圏点〕動き展開する歴史的現実である。
 我々はこの考えが歴史認識論として前者よりもさらに一歩を進めたものであることを承認する。しかし前者において力説せられた|選択の必要〔付ごま圏点〕はここでどうなったであろうか。歴史学の所与は人間存在の表現であり、そうしてその表現は人間の作ったものとして必ず人間によって理解せられ得るであろうが、しかし前者において現実の見きわめ難い多様性が人間の把捉能力を絶していたように、ここでも表現の重々無尽な多様性は人間の理解能力を絶するのである。選択による統一は理解にとっても必須であるといわなくてはならない。ではここで|選択の原理〔付ごま圏点〕となるものは何であろ(47)うか。
 理解の立場を最初に説きはじめたディルタイは、「生の範疇」をもってこの要求に答えようとしたかのように見える。この範疇は自然認識の場合の範疇とは全然異なり、生をその特性において理解せしめる手段なのである。しかもそれは自然認識の範疇が感性的所与に外からかぶせられるように、生に対して|外から〔付ごま圏点〕選択的総合の作用を加えるのではない。生自身の本質に存するのである。すなわちこれらの範疇は生における「全体と部分との関係」のそれぞれの仕方を示している。従ってここに範疇として抽象的に表現せられているかかわり方が、生を理解する唯一の手がかりとなるのである。かかる範疇として例示せられているのは、意味、構造、価値、本質、目的、発展、理想などであるが、その数は限定することができず、またその間の関係を論理的形式にととのえることもできない。ただ意味の範疇のみは、生の本質に存する「全体と部分との関係」を端的に示すものとして、最も包括的な範疇だとせられる。我々が過去のある契機を意味ありとするのは、その契機が後々の時代の生の形成に対して積極的にか消極的にか大きい影響を与えているとか、あるいは未来の生のプランとして役立つとか、何かの形で全体との連関を、あるいは過去と未来との関係や個人と人類性との関係などを示しているからである。従って生の過程の|連関〔付ごま圏点〕はただ意味の範疇によってのみ把捉せられ得る。その点でこれは生の範疇の代表的なものといってよいのである。
 ディルタイはこのような生の範疇を主として|個別人の生〔付ごま圏点〕において明らかにした。従って個人の伝記が歴史叙述の出発点であるかのように取り扱われる。これはディルタイの考えの一つの特徴といってよい。彼にとっては伝記は「基礎的歴史的事実を純粋に、充分に、その現実性において、表現したもの」であり、かかる伝記に描かれる重要な個人は「歴史の基礎体であるのみならず、ある意味では歴史の最大の実在的な中味である。」だから彼の関心は時代や潮流(48)よりもむしろ天才的な個人に向かい、その生の追体験や、その製作の解釈につとめた。しかし普遍的な歴史が問題になってくると、彼はそこにとどまることができなくなった。晩年の彼がこの間題ととりくんだときの記録は、きわめて断片的な遺稿として残されている。(Gesammelte Schriften,7.S.252 ff.)それによると、彼はまず前記の生の範疇を世界史の場面に適用しょうと試み、意味や価値の範疇がそのままここでも通用することを見いだしたのであるが、しかしここで特に問題となってくるのは、全体との関係において意味を持っている|部分〔付ごま圏点〕が、個々の体験というごときものではなくして自己価値を持った自覚的な存在、唯一回的な定義し難い|個人〔付ごま圏点〕だということである。伝記の場合にはそういう個人の人格が全体の立場に立つが、広い歴史の場合にはそういう個人を数限りなく含んだ共同体や、さらに広く人類と呼ばれるものが、全体とならなくてはならぬ。かかる全体と部分の関係において意味の範疇は歴史に適用せられ得るのである。
 ここで突如として問題は新しくなってくる。彼は「歴史的連関の構造」を考えるに当たって「歴史の問題」を次のように形づけた。「一つの自己が他の自己から引き離されているところ、多くの力の相互の働き合いのみが起こるところ、そういうところでこれらの|多くの個人〔付ごま圏点〕のなかから、|一つの自己〔付ごま圏点〕のように行動し受難する|主体〔付ごま圏点〕がいかにして成立し得るか。」我々はこの言葉に特に注意を向けなくてはならない。なぜなら、それが彼にとって「歴史の問題」とせられているからである。しかも彼はこの問題に答えるために、まず個人と個人との間の空間的時間的連関に眼を向ける。個人たちは空間的にひろがっている。が、彼らは空間的に離れていながらも一つに結合することのできるものである。同様に個人たちは時間的にもひろがっている。個人たちの連関は長い時を通じて発展するものである。そういう空間的時間的構造をもって個人たちは|部分として〔付ごま圏点〕働き合うのであるが、しかしその連関は対象的な物の連関とは異なり、(49)|心的連関〔付ごま圏点〕に此せらるべきものである。すなわち個人たちの間の時間空間的連関があたかも意識の共同のごとくに実現されるのである。たとえば多くの人々の間に同一の根本感覚があるとか、一つの目的を共同にするとか、行動をともにするとかという類《たぐ》いである。かく人々の連関が共同意識と見られる限り、全体と部分の関係は個人的な心的連関の場合と異ならないであろう。しかし部分である個人が|それ自身一つの全体として独立し得る〔付ごま圏点〕という点においては、個人と個人との間の連関は|心的連関と全然異なっている〔付ごま圏点〕。ここにはどうしても特殊な取り扱いがはじまらなくてはならない。それに答えるものが「歴史的理性の批判」であると彼は主張する。
 何人の眼にも明らかなように、ディルタイがここで「歴史の問題」あるいは「歴史的理性の批判」の問題と呼んでいるのは、人間存在の構造の問題である。我々はそれを根本的構造から時間空間的構造へとたどり、その時間的構造が人倫的組織を媒介としていかに歴史的構造に具体化し来たるかを追跡してきたのであるが、ディルタイは「歴史的理性の批判」の問題としてこの過程全体を一挙に考えざるを得なかったのである。従って人間の個人的・全体的な二重構造も、時間的空間的な構造も、また心的連関とは構造を異にする人間の間柄も、充分の見究めなしにここにいっしょにされている。特に重要なのは人間存在の時間的構造が人倫的組織を媒介として歴史的構造に具体化してくるという最後の段階である。ここにこそまさしく歴史の問題があるわけであるが、ディルタイはそれを取り上げながらも、もはや充分に考えぬくほどの精力と時間とを持っていなかった。彼の遺した覚え書きはきわめて断片的で、わずかに考察のプランを示しているにすぎないのである。がそれによっても我々は、彼がさまざまの人倫的組織を媒介として歴史の構造を捕えようとしていることを知りうるのである。人倫的組織こそ人間存在における全体と部分との関係を本質必然的に実現したものであり、彼の求める歴史の範疇にちょうどあてはまるといってよいであろう。
(50) ディルタイがこの問題に関して着目しているのは、まず第一に共同体と歴史との密接な関係である。共同体の記憶としての歴史は、逆に|共同体を形成する〔付ごま圏点〕ように作用する。共同体が個人のごとく統一的に作用する|主体〔付ごま圏点〕となるのはそのゆえである。そこでこのような主体を視点として歴史を見る必要が生ずる。種族、民族等の具体的歴史的な主体、さまざまの文化体系、さらに経済、法律、道徳、宗教、芸術、学問などの組織、これらの諸組織の国家内での連関、文化の担い手としての国民、国民の間の相互作用と普遍史、などがここで取り上げられる問題である。そこではさまざまの組織についての解釈学さえも考えられている。民衆と国家、借者と教会、学問的生活と大学などの間には、共同精神、統一的生活形式というごときものが一定の構造連関に表現されるという関係がある。従って部分が全体から|意味〔付ごま圏点〕を得、全体が部分から|意義〔付ごま圏点〕を得るという部分と全体の関係がそこに成り立っている。これが解釈の範疇である。そうして覿織の構造連関のなかには、この範疇に対応するものがあって、それが規準となり組織の目的を実現させて行くのである。
 以上のごとき考えを見れば、歴史における選択的総合が、人倫的組織の統一によって行なわるべきだとしていることは明らかだといってよいであろう。これこそちょうど我々が目ざしてきたところなのである。歴史の選択的総合に際して我々の前にある|素材〔付ごま圏点〕は、自然科学の場合と同様な「見きわめ難く多様なる現実」なのではない。人と人との間に蓄積している過去的存在なのである。それは人間関係が重々無尽に入りくんでいるごとく複雑にからみ合い渦巻いている。が、また人間関係が一定の人倫的組織によって秩序立てられるごとく、一定の秩序に統一され得るものである。それを我々は選択的総合の原理と考える。かく見れば人倫的組織の人倫的組織としての国家が歴史に選択的総合の規準を与え、それによってまず「国家の歴史」が、すなわちいわゆる「政治史」が作られたということは、理の当(51)然なのである。現在においても政治史は最も正統的な歴史と考えられ、さまざまの文化史は政治史を前提とした特殊史と見られている。そうしてそれは文化共同体の地位から考えて必ずしも見当違いではないのである。
 しかしこのように人倫的組織の構造連関が生の範疇に代わって、あるいは生の範疇そのものとして、歴史の理解を導き、それに客観的妥当性を与えるのであるとすれば、人倫的組織の構造連関を明らかにしようとする|倫理学〔付ごま圏点〕こそ、まさしく「歴史的理性の批判」の役目をつとむぺきものとなるであろう。ディルタイはそこへは注意を向けなかったようであるが、しかしこの連関はすでにカントに芽ばえているのであり、歴史認識論を明白な自覚にもたらした新カント派に至って明らかに姿を現わしているのである。たとえばヴィンデルバントは倫理学の第一部において道徳の原理を、第二部において|意志共同体〔付ごま圏点〕、すなわち人倫的組織を、第三部において|歴史〔付ごま圏点〕を取り扱っている。すなわち歴史哲学は倫理学の一部分なのである。コーヘンにおいても倫理学は精神科学の、従って歴史学の、論理学であった。そのあとを歩いたゲールテントは倫理学を「世界史の批判」として取り扱っている。それらは方向においてまことに正しいのである。

 歴史における選択的総合は人倫的組織の統一によって行なわれる。人倫的組織の構造連関が歴史の理解を導き、それに客観的妥当性を与えるのである。ここにおいて我々は第一章以来考察し来たった人間存在の原理の展開がことごとく歴史の問題の上に集中してくるのを看取しうるであろう。
 我々は人間存在が個人的・社会的であって単に個人的でもなければまた単に社会的でもないというところから出発した。この自明の事実は、|主体の構造〔付ごま圏点〕については、決して自明となってはいない。だから我々は主体の二重性格を明(52)らかにすることを根本問題とした。そうしてそのあとで、そのような主体的な存在構造の一つの面を、時間性として捕えたのである。それは主体が分裂や対立を通じて本来的な一に帰って行く運動、すなわち帰来の運動であった。しかるに|主体の間の〔付ごま圏点〕かかる運動によって形成せられるのは、さまざまの段階における人倫的組織である。それらは内的必然性をもって相互に連関し、整然たる段階的秩序を示している。国家の意義はかかる組織の形成とその秩序とを保証することにあった。
 今やこの秩序が|歴史〔付ごま圏点〕を可能にするものとしてあげられている。人間存在のうちに蓄積する無限の過去が、|この秩序の視点の下に選択され総合される〔付ごま圏点〕のである。一人の人の行為は家族の立場で行なわれた場合と、公共体の立場で行なわれた場合とでは、その記録的価値を異にする。夫婦喧嘩は記録に価しないが、村会とか県会とかあるいは労働組合の集会とかでの喧嘩は、おおやけに記錬せられるであろう。しかしこのような記録も、一つの宗教団体における教義解釈の争いとか、一つの学問の仲間における学説上の争いとかのごとき、文化共同体の立場での喧嘩の記録ほどには、|歴史的意義〔付ごま圏点〕を持つことができないであろう。なぜなら、その|公共性の大いさ〔付ごま圏点〕がはるかに異なっているからである。ところでこの公共性の大いさは、かかる出来事に関心を持つ人々の数によって定まるのではない。県会での喧嘩はその地方の多数の人々に注目され、学説の争いは学界の少数の学者たちに知られるに過ぎないかも知れぬ。しかし地縁的共同体の関心と文化的共同体の関心とは、原理的にその公共性の性格を異にするのである。地縁的共同の持つ閉鎖性をのり超えたところでなくては、文化的な、すなわち精神的な共同は実現されない。かかる関係を明らかにしたのは人倫的組織の段階的秩序であった。今やこの秩序に従ってさまざまな出来事の|歴史的意義の大小〔付ごま圏点〕が定まってくる。これは主観的な体験における意義の大小とは次序の異なったものである。|主観的には〔付ごま圏点〕家族生活における紛擾の方が地縁(53)共同体における紛擾よりもはるかに烈しい興奮をもたらしたかもしれない。しかしそれは両者の記録的価値を逆転させることはできぬ。ある男が恋のために命を捨てたことは、それだけとしては歴史の眼には一つの痴愚に過ぎぬが、ある男がその思想的立場のゆえに、あるいはその信仰のゆえに、わずかにただその地位を捨てたことすら、歴史は重大な意義を認めるのである。もとよりそれは個人の私人的な、あるいは家庭的な体験が、いつでも無意義だということではない。歴史の眼に大きい意義を有すると認められた「個人」の私生活は、その意義との連関において公共的な意義を獲得してくる。たとえばゲーテの主観的な体験は彼の作品の理解のために必要なのである。しかしそれはゲーテの歴史的な意義が認められたことに伴なって起こる現象であって、逆にその主観的な体験のゆえにゲーテが歴史的に認められたのではない。だから人類の歴史における第一級の偉大な事実としてのホメーロスの叙事詩やシェークスピアの戯曲は、作者の主観的な体験と全然関係なしに、巨大な歴史的意義を担っているのである。歴史はこれらの偉大な作者の私生活をほとんど全く記録しなかった。彼らの歴史的意義はただ文化共同体の立場においてのみ認められているのである。ここに我々は歴史を成り立たしめる|選択〔付ごま圏点〕がいかに強く行なわれるかの著しい例を見ることができるであろう。そうしてその選択の背後に控えているのがまさに人倫的組織の段階的秩序なのである。
 しかしここで我々は改めて考えはじめなくてはならない。人倫的組織の段階的秩序は、|選択的総合の原理〔付ごま圏点〕となって歴史を可能にするのではあるが、しかしそれ自身|歴史的現実〔付ごま圏点〕なのではない。人間存在が人倫的組織として段階的に展開するのは、人間存在の構造的連関ではあっても、歴史的展開なのではない。歴史的展開は|かかる構造的連関においてある人問存在がさらに全体として実現するところの動き〔付ごま圏点〕である。我々は前に人間存在の時間性を帰来の運動として把捉したが、それは人間存在の構造として人倫的組織に展開すべきものであった。今やかく展開した全体が、|全体と(54)して一つの帰来の運動を行なっている〔付ごま圏点〕のでないかどうか、それがここで問題となってくるのである。
 この問題に直面するとき、我々はエドゥアルド・マイヤーの言葉を興味深く思い出さざるを得ない。この優れた歴史家は、その名著『古代史』の序論の冒頭において、歴史の基礎理論をアントロポロギー(人間学)と呼んでいる。それは人間の生と発展との|普遍的形式〔付ごま圏点〕の学であるが、「しばしば誤って歴史哲学と呼ばれている」というのである。かくマイヤーは「歴史哲学」が本来人間学たるべきことを主張する。それは歴史の基礎理論が結局人間存在の構造の把捉にまでさかのぼらなくてはならないということなのである。我々は人間存在の構造の把捉の方から歴史にまでたどりついたのであるから、ちょうど途中で落ち合ったことになる。その道は|同じであった〔付ごま圏点〕のである。しかしマイヤーが歴史の方から人間存在の普遍的形式の学を目ざしているに反して、我々はその普遍的形式の学の方から歴史を目ざしている。この立場に立つと、普遍的形式の把捉だけでは|まだ〔付ごま圏点〕歴史の歴史たるゆえんは明らかになっていないといわなくてはならぬ。歴史は、普遍的構造を持つ人間存在が、|特定の、唯一回的な〔付ごま圏点〕形態をもって現われるところに成立するのである。それは人間の行為によって絶えず新しく形成され、決してくり返されることのない独自な形態の連続として一つの大きな流れを形成する。このような具体的な人間存在をその独自性、唯一回性において把捉し叙述するのが|歴史学〔付ごま圏点〕である。しかし歴史学はそのような唯一回性や独自性が|どこから出てくるか、何のために出てくるか〔付ごま圏点〕、というごときことを問題としはしない。それを問題とするのは歴史哲学である。だからマイヤーのいうように歴史哲学が全然その場所を持っていないのではない。普遍的形式の学が唯一回的な独自な実質の学とふれ合うところに、歴史哲学の問題は浮かび上がってくるのである。|人間存在の普遍的な原理は、唯一回的な独自な人間存在といかに関係するであろうか。人類の歴史は果たして人間存在の原理の具体的表現と見られ得るであろうか〔付ごま圏点〕。それがここでの問題である。
(55) 歴史の歩みのなかに何か原理的なものがありはしないかということは、きわめて素朴な段階における人間がすでに問題として取り上げているところである。我々はそれを神話的な意識のうちにさえ見いだし得るであろう。人間の出来事は「神の意志」あるいは「神々の意志」によって支配されているという考えがそれである。民族と民族との争い、ある英雄と他のある英雄との決闘、というごとき、大きい事件は、ことごとく神の意志によってひき起こされ、またその意志の通りに運ぶとせられる。しかもその神意の支配は、その出来事にあずかる個人の心理のそれぞれの瞬間にまで及んでいるのである。人がある行動を起こそうという気になる。当人は自分でそういう気になったと思うかもしれないが、実は神が|そういう気にならせた〔付ごま圏点〕のである。そうなれば人はどうしたって神意の支配を脱することはできないであろう。従ってそういう考えの支配するところでは、人々はおのれの意志を決定する前にまず|神意を問う〔付ごま圏点〕という態度をとらざるを得ない。この態度はあらゆる民族の一定の段階に共通なものである。異なるのはその神を表象する仕方や、儀礼の形式などに過ぎない。
 このような神意は、超人間的な無限の力をもって人間の事を支配する、と考えられる。その限りそれは原理への要求に応えているのである。しかしそれにもかかわらずこのような神意が実は人間の側から投射したものであることは疑いがない。それが人間に対して外から来るように感ぜられるのは、そこに投射せられているのが集団の生ける全体性だからである。そうなると、その集団の意識が幼稚で、人間存在の原理の把捉が曖昧である場合には、それに此例して神意もまた曖昧たらざるを得ない。それはしばしば神々の|出来心、気まぐれ〔付ごま圏点〕としてさえも語られている。気まぐれは原理とは正反対のものである。もっとまともに神意を一貫した統一あるものとして語る場合にも、それはしばし(56)ば|運命の前に挫折するもの〔付ごま圏点〕として取り扱われている。ゼウスは金の衡《はかり》がおのれの欲すると異なる方へ傾くのを見て、おのれの意志を断念するのである。運命の女神たち、モイライの決定したことに対しては、神々もまた服従しなくてはならない。その点においては運命の女神たちこそ最高の権力を持つのである。しかしこれらの女神の地位は、オリユムポスの神々の秩序において、決して高いものではない。従って原理の地位が運命の方へ渡されたというわけではない。にもかかわらず、原理は運命によって掣肘せられるのである。
 この矛盾を端的に示しているものは、神意を問うための占卜であろう。亀甲や獣骨の類を焼いて、そこに現われた|割れ目〔付ごま圏点〕によって神意を知るという。ところでこの割れ目は偶然性を最も顕著に示したものである。あるいは燔祭の獣の内臓の状態やそれぞれの部分の焼け痕によって神意を読むという。この加熱の現象もきわめて|偶然的〔付ごま圏点〕なものといってよい。その他鳥の飛び方、鳴き方、あるいは風による樹木や銅盤の鳴り方なども占卜に用いられるが、ちょうど旅に立とうとする瞬間に、眼の前で鳥がある飛び方をする、というごときことは、単に|偶然〔付ごま圏点〕というほかはないであろう。しかもこれらの偶然的なものが|神意の表現〔付ごま圏点〕として非常に強い影響力を持ち得たのである。そうしてみると、人が神意として信じたものは、|偶然性〔付ごま圏点〕と密着したものであるといわざるを得ない。それは神意が|気まぐれ〔付ごま圏点〕であるということとあまり距たったことではない。
 しかし我々は運命の前に挫折しない神意、運命の女神などの存在を許さない絶対の神のあることをも認めなくてはならない。それは『旧約』の神である。この神は一切のものの創造主であるから、人間の歴史もこの神の意志の支配をまぬがれることはない。にもかかわらず『旧約』の神話は、人間がその歴史の初めにおいて神意にそむいたことを語っている。エホバの神は人間に対して、エデンの園の木の実はすべて食ってよいが、ただ善悪の知識の木の果実の(57)みは食ってはならない、と命じた。しかるに人間はその命にそむいて知識の木の実を食い、その結果として産の苦しみや労働の苦しみを課せられた。すなわち人間の歴史は|神意に反して〔付ごま圏点〕始まったものである。一体これは何を意味するであろうか。運命の女神の掣肘をさえ受けない絶対的な神意が、何ゆえに無力な人間を支配し得なかったとせられるのであろうか。
 これは恐らく人間存在の原理が本来否定性であることの反映であろう。エホバの神はすべてを|あらしめる〔付ごま圏点〕神であって否定性の神ではないように見えるが、しかしその有はいつも最初の状態の|否定〔付ごま圏点〕としてのみ呼び出されているのである。人間の歴史もまた知識の木の実を食ってはならないという|禁止の命令〔付ごま圏点〕によって呼び出された。禁止の命令はそれの犯される可能性のあるところにのみ成り立つものであり、そうしてそれを|犯し得るもの〔付ごま圏点〕のみが充分な意味においてそれを守り得るのである。従って神が禁止の命令を与えたということは、人間がそれを犯すということと相表裏している。神意が否定の形に表現せられたように、人間の歴史も否定をもって始まるのである。その否定こそ自由と呼ばれるものにほかならない。
 カントはこの神話を材料として人間歴史の起源の|臆測〔付ごま圏点〕を試みているが、その際彼は|神の命令〔付ごま圏点〕の場所に|本能〔付ごま圏点〕を置き、神の命令にそむくことを本能の制限に対する|理性の反抗〔付ごま圏点〕と解した。理性が目ざめはじめるとともに、本能の制限を超えて|食物〔付ごま圏点〕の範囲が広められる。次いで|性の本能〔付ごま圏点〕が統制せられる。第三に|未来〔付ごま圏点〕への展望がひらけ、苦労がはじまる。第四に人間は、理性のゆえに、おぼろげながらもおのれが|自然の目的〔付ごま圏点〕であり、どの被造物も道具として用いてよいということを理解する。すなわち羊の毛皮を奪っておのれの衣にする。このように本能の支配のなかから理性のはたらきの方へ、すなわち|自然状態〔付ごま圏点〕から自由の状態の方へ、移って行くことが、人間の歴史の始まりだとせられるのである。(58)この移り行きは、神話の語っている通り、罪の始まりであり、一つの堕落であるが、しかしそこに罪が始まるゆえんは、超越的な神の命令にそむいたゆえではなくして、理性がめざめて自然と格闘をはじめたがゆえなのである。自然の状態にあっては、まだ命令とか禁止とかは現われず、従って犯罪もない。しかるに理性の自発的なはたらきがはじまるとともに、それの本能に対する命令や禁止が現われ、しかもそれらがしばしば|守られない〔付ごま圏点〕ということになる。だから自由の歴史は悪から始まるといわれるのである。
 このカントの「臆測」は神話の|解釈〔付ごま圏点〕ではない。神話を単にダシに使っておのれの考えをのぺたものである。その際「神」の場所へ「自然」を坐らせていることは、近代の立場を示したものとして興味深い。カントにとっては、超越的な神の命令に従うことは他律であって自由とはいえない。従って動物が|そむくことなしに〔付ごま圏点〕服従している神の命令は、本能に過ぎないのである。人間の自由がはじまるためには|本能の支配からの解放〔付ごま圏点〕、すなわち|神の命令への背反〔付ごま圏点〕がなくてはならない。この背反をひき起こすものは理性すなわち人間の自発性であり、それが人間の歴史の動力となるのである。かく見れば、堕罪が人間の歴史のはじまりであるということは、人間の歴史が自由の実現であるということの具象的な表現にほかならぬであろう。
 全能の神の意志が人間の歴史を支配するという考えと、理性が人間の歴史の動力であるという考えとは、すぐには一つになれない異なった立場であるが、しかし右のように人間の歴史が|神意に反して〔付ごま圏点〕起こったとする点において両者は一致することができるのである。ここに我々は歴史を支配する原理の|否定的な性格〔付ごま圏点〕を読みとることができるであろう。|当為〔付ごま圏点〕の法則はまさにこのような性格を持ったものであった。それはしばしば破られるが、破られてもその意義や効力を失いはしない。むしろ破られることによって意義や効力を強めてくる。かく|あるべき〔付ごま圏点〕ことは、たとい現実にお(59)いて一度もそうならなかったにしても、そう|あるべき〔付ごま圏点〕であるという要求の強さを減じはしない。現実において|そうでない〔付ごま圏点〕がゆえに、一層強くそうあるべきことが要求されるのである。とすれば、当為の法則は、|それに反することを通じて〔付ごま圏点〕おのれを現わしてくるともいえるであろう。人間存在の根本原理はまさにこのような性格をもったものであったが、人間の歴史を支配する原理はこの点においてまさにそれと一致するのである。

 自由は人間存在の否定的構造にほかならないが、その否定的構造は人間存在の個人的・社会的な二重構造として展開する。何らか全体的なものの|否定〔付ごま圏点〕において個人がおのれを見いだすところでなくしては自由は存しない。が、また個人の|否定〔付ごま圏点〕において何らか超個人的全体が形成せられるところでなくしては、同様に自由は存しない。この二つの契機は人間存在において常に同時に存していなくてはならないのである。前の契機を活かすために後の契機を無視し、あるいは後の契機を活かすために前の契機を無視することは、いずれも真に自由を把捉するゆえんではない。個人の解放の立場に立つものは同時に没我的奉仕をなし得るものでなくてはならず、献身的な奉仕の立場に立つものは同時に断乎として全体的なものを否定し得るものでなくてはならない。それのないところでは、自由は単なる動物的な|放縦〔付ごま圏点〕、もしくは|隷属〔付ごま圏点〕に堕し去るのである。が、この相関性にもかかわらずわれわれは右の二つの契機をそれぞれの立場においてはっきりと自覚していなくてはならない。それぞれの契機がその勢いを大にすれば、両者の間の矛盾はそれだけ大きくなるが、しかしそれだけ人間存在は具体的になるのである。
 |神の命令への背反〔付ごま圏点〕によって人間の歴史がはじまったということは、|個人の解放〔付ごま圏点〕の契機を神話的に表現したものといってよい。原始宗教の研究によれば、原始社会において神の命令として受けとられたものは、実はその社会の「生け(60)る全体性」がその成員に対して与える秩序にほかならないのである。従ってそれへの背反は、全体的なるものの否定において個人がおのれを見いだすことを意味する。個人の立場の覚醒なしには総じて人間の自由なる行為は不可能であり、従って歴史も形成され得ない。個人の解放が人間の歴史の本質であるという見方はたしかに正しいのである。
 しかしこのことは、個人が全然解放されていない社会がまずあって、そこから個人が解放されるとともに、歴史がはじまる、というようなことを意味するのではない。個人が単に細胞にすぎないような有機体的な社会とか、あるいは蜂や蟻の社会に似た人間社会とかいうごときものは、実証的には決して捕えることのできないものである。まだ歴史的段階に達していない原始社会においても、個人はすでに見いだされている。その証拠はこれらの社会の紐帯をなす原始宗教的な儀礼や慣習である。それらはタブーやトーテムの現象に見られるごとく、顕著に|禁止的な〔付ごま圏点〕色彩をもったものであるが、このような禁止的な規則はそれの|犯される可能性〔付ごま圏点〕のあるところでなくては生命をもつことができない。原始社会においてタブーなどが非常に強くはたらいているということは、犯される可能性が|非常に多い〔付ごま圏点〕ということを示すのである。原始社会における犯罪は文明社会に劣らない。すなわちそこにも、神聖な規則に|そむくこと〔付ごま圏点〕及び|そむく可能性〔付ごま圏点〕が、個人の解放せられた社会と同様に存しているのである。このような個人は|歴史が始まるまでに〔付ごま圏点〕、すでに家族とか部族とか教団とかというごとき人倫的組織を形成していた。それらは人間の自由なくしては形成され得ないが、しかし彼らは|歴史以前に〔付ごま圏点〕すでに久しくかかる生活を営んでいたのである。その源流に達するためには、われわれは遠く旧石器時代にまでさかのぼらなくてはならないであろう。
 個人の解放という意味での自由が人間の歴史の本質とせられるのは、実はそのように|初次的〔付ごま圏点〕な、自然の「類」から人間の人格を解放するというようなことでもなければ、また人間の自然的な欲望の統制としての人倫的観織の形成と(61)いうようなことでもない。それは周知のごとくギリシア民族がペルシア人と戦って、ポリスの制度の優秀性を自覚したときに問題とされたことなのである。そこには国家の間の出来事を見渡す世界史的な視圏があり、国家の組織において個人の自由がどれほど認めらるべきであるかというごとき人倫的な反省がある。それはエウフラテスやニルの沿岸に古くから作られていた諸国家の専制的な統治組織への批判でもあった。これらの専制的な国家組織も、自然的な類や自然的な欲望との連関においては明らかに人間の自由の実現なのであるが、今やそれがただ一人を除いてあらゆる人が自由を持たない制度として、あらゆる市民が自由であるポリスの制度に対比せられたのである。
 以上の事情を考えれば、個人の解放の問題が、「全然自由なき状態から自由の状態への移り行き」というごときことではなく、自由の実現の一つの段階を反映しているものであることは明らかであろう。原始社会以来作り出されたさまざまの人倫的組織は、その最初においてはいつも自由の実現を意味した。トーテムやタブーによって表現せられる社会組織といえどもそうである。しかし神聖な規則の支配が伝統の力によって力を増してくると、個人が容易に背反し得ないような重い圧力を持ちはじめる。その時にその同じ組織は|反対のものに転化し〔付ごま圏点〕、自由の圧殺者になる。だからこの組織に対して反逆し、人間の規則をもって神々の規則に代えるというごとき革命的な行動をなし得た個人は、自由の実現者として大きい功績を残したことになる。国家の形成のごときはかかる意義を担ったものであった。しかし、そういう君主の支配も、伝統の力によって力を増してくれば、専制政治として自由の実現の反対のものに転化する。それに対する個人の反抗は、非常な危険を冒しつつかろうじて個人を解放し得るのである。このような過程は幾度となく繰り返されて来たのであって、ただ一度に個人の解放が成就したのではない。
 しかしそれにもかかわらず、個人の解放はその都度自由を実現するという意味を担うのであり、個人はその都度|自〔付ごま圏点〕(62)由なき状態に反逆した〔付ごま圏点〕といい得られるのである。なぜなら、この個人の前に権威をもって通用していたものは、たといそれの形成せられるときに自由の実現を意味したとしても、今は自由を抑圧するものに転化しているからである。かかる意味であらゆる人間の進歩は在来通用していたものからの|背反〔付ごま圏点〕によって行なわれた。道徳や国家生活においてのみならず、学問、芸術、宗教などにおいてもそうであった。人間の歴史に最も大きい影響を与えたキリスト教はユダヤ教に対するイエスの背反からはじまっており、そのキリスト教に最大の変化を与えた宗教改革はローマの教会に対するルーテルの背反によってひき起こされた。近代における自然科学の開眼も、コペルニクスやブルーノーが示しているように、教会の権威への危険な背反として行なわれた。こういう個人の背反はいずれも生命の危険において行なわれ、その追随者もまた同様な危険にさらされたのであるが、しかし烈しい戦いののちに、さまざまの犠牲を通じて、ついに社会の意識を変え、全体の生活を改めるに至ったのである。こういう点に着目して人間の歴史をながめれば、その重要な部分がことごとく進歩や変革の発動者たる個人の名に結びついており、従って歴史を作り出すものが個人であることを、特に英雄や天才などのごとき力強い個人であることを、感ぜざるを得ないであろう。ここからして個人の活動のうちに歴史の創造的な契機を認める個人主義的史観が成り立ってくるのである。
 しかし個人主義的史観は、個人の契機を強調するのあまり、そこに全体性の力がともにはたらいていることを看過する傾向をもっている。素朴な歴史叙述がはじめられて以来、この史観が|最も普通に〔付ごま圏点〕行なわれていたとしても、それは右のごとき欠点を弁護する資料とはならない。それはしばしば歴史把捉が幼稚なためにひき起こされる態度でもあったのである。ある出来事にはたらいている全体性の力を捕えることは、民衆の意見や行動が注意深く記録されるような時代にならなければ、容易には行なわれない。そうしてそういう時代は実は個人の解放された時代なのである。(63)従って個人の解放を歴史の本質と認めるようなことの全然なかった東洋においても、英雄や天才を歴史の動力と認め、そういう個人たちの行動の描写を歴史と考えていた。してみれば、個人主義的史観は個人の自覚の稀薄なところに起こり、個人の自覚が進むに従ってかえって集合主義的史観が可能になる、とさえもいえるであろう。
 集合主義的史観は、歴史が全体の動きであり、歴史の意義が全体生活の変遷にあることを強調する立場である。その点においてちょうど個人主義的史観の欠点を補うことができる。しかしそれは前説のごとき個人活動の創造的契機を軽視し、ともすれば個人を全体の動きのなかの単なる歯車に見てしまうという傾向をもっている。この欠点は逆に個人主義的史観によって補われねばならぬ。つまりこれらの史観は、いずれも人間存在の一つの契機を鋭く捕えているとともに他の契機を軽視するという|一面性〔付ごま圏点〕に陥っているのである。人間の歴史は個人の解放において自由を実現するとともに、また|個人の全体への奉仕〔付ごま圏点〕においてその自由の実現を成就するのでなくてはならぬ。解放された個人がそのまま全体とのつながりを失ってしまうのであれば、それは人間の自由の実現ではない。ユダヤ教に背《そむ》いたイエスは、人類の救済のために十字架につき、超民族的なキリスト教の礎石を据えた。ローマの教会に背いたルーテルは、彼が真にキリスト教的だと考える教団のために献身的に努力した。背反による個人の発動は、全体への奉仕であることによってその意義を成就するのである。
 かく見れば、個人として解放されたもののみが真に自覚的に全体に奉仕し得るのであり、全体性との連関においてのみ個人の解放は意味をもつのであるということが明らかになるであろう。ある個人が在来通用していたものに対して断乎として反逆し、戦いと犠牲とを通じてついに全体の意識を変えるに至ったということは、その個人が全体意識においてすでに漠然と感ぜられていたことを明白な意識にもたらし、それを衆に先んじてそのあるべき形にまで形成(64)して見せることによって、全体意識を自覚に導いて行ったということなのである。従ってそれは本来全体生活の動きなのであって、個人はその先駆的役目をつとめたにすぎない。個人の発動が創造的契機であるとはいっても、全体生活のなかに全然存しない動力を個人が独自の立場において創造し、それを外から全体生活のなかに植えつけるというのではない。しかしまた個人が発動し率先することなしには、その動力は表面化して来ないのである。しかもその個人の発動が有効に作用し得るためには、全体生活の動きが一定の程度にまで成熟し、また個人がそれに相応した力量を持っていなくてはならない。機がまだ熟していないときには、非常な力量をもった個人の発動もついに無効に終わることがある。また機がすでに熟していても、発動する個人の力量の不足のために、同様に成功しない場合もある。それに反してすでに機が熟し、個人が適任者である場合には、その個人の発動が全体生活に対するあらわな反逆と見える場合でも、その反逆を核として迅速に新しい全体生活が形成されてくるのである。ここで反逆は没我的な献身に転化する。死刑に処せられた者は聖化され、あるいは英雄化される。この価値の倒換は、自由の抑圧に堕していた全体性が自由の実現として復活したことを示すのである。
 われわれは以上のごとき見方によって個人主義的史観や集合主義的史観の一面性を脱しうると思うが、それとともに歴史の動力の個人的全体的な二重性格を改めて明白に認めておかなくてはならない。人間存在の構造が根本的にこの二重性格をもったものである以上、歴史の動きもこれと離れることはできないのである。この二重性格を手近に最もよく示しているのは|言語〔付ごま圏点〕であろう。これは|民族のもの〔付ごま圏点〕であって、個人の作りうるものではないが、しかしまた民族が一つの全体として語り話すのではなく、必ず|個々の個人がおのれの言葉として〔付ごま圏点〕話し語るのである。従って言語にある変化が起こったとすれば、それは必ずある|個人がはじめた〔付ごま圏点〕ものでなくてはならない。しかし、ある個人がその人特(65)有の癖のある話し方をしたからといって、それが必ず言語に変化をもたらすのではない。その話し方が時好に投じ、周囲に模倣を呼び起こし、広く民族の間に行なわれることによって、初めて言語の変化となるのである。とすれば、大衆の意欲や好尚にかなうような話し方をある個人がはじめた場合にのみ、言語の変化は起こるのである。それは個人がはじめたのであるとしても、それを欲し好んでいたのは大衆であり、従って大衆の側に|先立って〔付ごま圏点〕動力があったといわなくてはならぬ。しかし個人がそれをはじめるまでは大衆はその欲し好むところを知らなかったのである。その点からいえば|先立って〔付ごま圏点〕存した動力の方が|あとである〔付ごま圏点〕ともいえよう。言語の変遷はこのような変化が無数に積み重なることによってひき起こされるのである。その途中で天才的な文芸家がこれらの変化に総合的な表現を与え、それによって言語の変遷に画期的な影響を与えることもあるであろう。が、その場合にもこの天才的個人の仕事は全体的な動きを自覚にもたらしたものにほかならない。
 言語の変遷に見られるこのような二重性格は、あらゆる文化的創造にも同様に看取することができる。シェークスピアの戯曲は、シェークスピアであるかベーコンであるかはとにかくとして、ある天才的個人の作であることは疑いがない。しかしこれらの創作を呼び出したものはエリザベス朝の看客大衆であり、さらに一般化していえば十六世紀末のイギリス国民である。当時恐ろしい力をもって勃興してきたこのねばり強い、現実的な、経験を重んずる国民の、全体的な動きが、この天才的な個人におのれを表現したのである。同様にホメーロスの叙事詩も、ホメーロスという名であったか否かはとにかくとして、ある天才的な個人によりその最も中枢的な構図の統一や優れた描写などがなされたことは、認めてよいであろう。しかしそれにもかかわらず、これらの詩の真の作家はギリシア民族自身であり、この民族がその優れた文化の創成期に数知れぬ詩人たちの手を通じ、長年月にわたってこれらの詩を形成したと見る(66)ことは、きわめて正しいのである。これらの例は作者の天才と個性とが実に顕著であるにかかわらず、その個人としての面影が実に稀薄である点において右のごとき二重性格のよき例となるのであるが、作者個人の面影を明白に知ることのできる場合でも、根本においては変わりはない。むしろこの場合には、歴史の発展に影響を与えたものが、その個人の個別的な恣意とか気質とか性癖とかではなく、その個人のうちに動いている全体生活の脈搏であることを、明瞭に指摘することができるであろう。従って史上の人物は、その個性が明らかとなればなるほど、超個人的な意義を担うものとなってくる。最も個性的なものが最も普遍的なのである。
 しかしその超個人的普遍的な意義とは何であろうか。右の議論において漠然と「全体」の名をもって呼ばれたものは、有機体的な全体でもなければ、また自然的な類としての全体でもなく、人倫的組織としてさまざまの段階を通じて展開されているものである。そのいずれの段階の人倫的組織も|個人に対しては〔付ごま圏点〕全体であり超個人的であるが、しかし同一の構造をもった全体なのではなく、それぞれに独自の構造と任務とをもち、一定の秩序によって他の段階と連絡しているのである。従ってこの全体は、|組織的な連関において一定の方向に人倫を実現して行く動き〔付ごま圏点〕であるといってよい。それぞれの段階における構造や形態はきわめて複雑に分化しているが、しかしそれらを貫ぬいているものは結局自他分裂を通じて自他不二を実現する動きなのである。|個人により〔付ごま圏点〕、しかも|個人を超えて〔付ごま圏点〕実現されようとするものは、この動きにほかならない。
 歴史の意義が右のごとき意味において人倫の実現にあるとすれば、それは当然既成の人倫的組織を超えた|一層広汎な〔付ごま圏点〕人間存在へわれわれを導いて行く。すでに説いたように歴史は人倫的組織の人倫的組織としての国家においてはじまるのであるが、しかし歴史をはじめる国家は他の国家との連関交渉においてその自覚に達したのであり、従って国(67)家の歴史は|国家的交渉の場面〔付ごま圏点〕すなわち|世界史の場面〔付ごま圏点〕との連関において成り立つのである。この場面はこれまでのところでは国家のような人倫的組織となったことがなく、従ってそれを人倫的組織の一つの段階として取り扱うことはできなかった。しかしもしそれが|国家よりも高い人倫的組織〔付ごま圏点〕の段階としていつの日にか実現されるとすれば、それこそまさに|世界史の問題〔付ごま圏点〕であるであろう。またもし人類が国家よりも高い組織としてでなくまさに|世界国家〔付ごま圏点〕として組織されるにしても、それも同じく|世界史の問題〔付ごま圏点〕である。歴史の動きが果たしてそのような方向を持つかどうか、それこそ倫理学の一部門としての歴史哲学の重要な課題でなくてはならぬ。

 国家よりも広い人間存在をさし示すものとしての「人類」の概念は、通例の用法においては、まず動物の一類としての人を意味している。さまざまの人種の相違にかかわらず、それらが|一つの類〔付ごま圏点〕を形成していることは、その特徴を「ことば」とか「二足にして毛なきこと」とかに認めた古代より、解剖学的に微細な点をまで規定するに至った現代に至るまで、異論のないところである。しかし生物学的な知識の発達はこの人類の有機的な統一をむしろ疑わしくする方に向かっているといってよい。たとえば、ある人種は解剖学的にいって文明人種よりもむしろ猿の方に近いと見られる。そういう相違を一つの血統から導き出すことはできない。従って人類の起源は多元的であろう。諸地方から発見せられた化石人骨はこのことを実証するように見える。そうなると、単に生物学的な範囲においても、人類の統一は容易にいうことができない。
 ここで問題とするのはそのような生物学的な概念としての人類ではなく、世界史の場面、国家を超えた人間存在としての人類である。「ことば」を特徴として人類を規定する場合には、このような人倫的概念としての人類が漠然と(68)指し示されているように思われる。それはさらに詳しく「人倫的組織をつくるもの」といいかえ得るであろう。なぜなら「ことば」はただ人間の間柄においてのみつくられ、そうしてその間柄はさまざまの人倫的組織に展開せざるを得ないものだからである。解剖学的に猿に近いといわれる人種でも、すでに「ことば」を有し、従って家族的氏族的部族的等の組織を形成している。すなわちそこには|同じ人間存在の理法〔付ごま圏点〕が、発展の段階を異にしながらも、はたらいているのである。それをわれわれは|人倫的概念としての人類〔付ごま圏点〕と呼びうるであろう。ところでそういう人類が一つの統一を、すなわち人倫的統一を形成したことは、いまだかつてないのである。歴史がはじまったときにはすでに|多くの国家の対立〔付ごま圏点〕があった。そこに保存された伝説に従ってさらに古くさかのぼって見ても、そこには多数の|氏族や民族の対立〔付ごま圏点〕がある。すなわち人間がおのれを歴史的に自覚しはじめたときには、|人類の統一は存せず〔付ごま圏点〕、ただ対立と争闘とのみがあったのである。その後の人類の歴史もまた対立と争闘との歴史であって、人類が|一つの人倫的統一〔付ごま圏点〕に達したことは、すなわち|生きた全体〔付ごま圏点〕を形成したことは、一度もない。従って人類は、事実的には、諸国家諸民族の|対立と争闘の場〔付ごま圏点〕にほかならない。
 しかし対立と争闘の場はまた|合一の場〔付ごま圏点〕でもある。その合一は絶えず対立と交錯し、従って人倫的合一の組織となることはできなかったが、しかしそういう|組織への展望〔付ごま圏点〕を開くことはできたのである。すなわち人類が民族や国家の別なく|一つの共同体〔付ごま圏点〕を形成し、それによって人間存在の理法を人類的に実現すべきであるという|理念〔付ごま圏点〕が、歴史的に産み出されるに至った。これが|人類の統一の理念〔付ごま圏点〕である。この理念において人類はおのれの本質を、すなわち同じ人間存在の理法が人類を人類たらしめていることを、|自覚した〔付ごま圏点〕のであるといってよいであろう。
 この自覚は人類の歴史の産物であるが、同時にまた|人類の歴史の意義の自覚〔付ごま圏点〕であるということもできる。組織的な(69)連関において一定の方向に人倫を実現して行く動きは、民族や国家の対立と争闘とのうちにすでに否定的に表現されているからである。合一は否定を通じてのみ自覚的に実現される。対立と争闘との場としての人類は、この否定的運動のゆえにまさに人倫的合一を媒介するものにほかならぬであろう。もとより歴史の歩みは多様であって、一義的に合一にのみ向かっているとはいえない。しかし何千年かの歴史を通じて明らかに看取しうることは、たとい一進一退があったとしても、人間の共同体が確実に拡大してきたということである。かつては人間は氏族や部族のごとき小集団として地上に散在し、接触しうる範囲においてはただ抗争をのみ事としていたが、そこから法の秩序によってこの抗争を止揚しうるような大きい集団、国家を形成した。しかし国家もまた無数に並び立ち、対立と抗争とを脱することはできなかった。そこで同じ民族のなかの多数の国家が合一するとか、あるいは異民族をも併せて国家を拡大するとかという仕方で、国家は漸次大きさを増した。この傾向は、ある時期においては、おのれの視界内のあらゆる民族あらゆる国家を一つに統一しようとするいわゆる世界国家への運動として発展してくる。そういう動きは地中海地方でもアジア大陸でも幾度か起こったのである。それらは一度形成されてもやがてまもなく崩壊したのであるが、しかし幾度かくり返されている間に、民族国家は前よりも広汎な人間共同体に成長してきたといってよい。そうしてこういうことの行なわれてきた場が人類なのである。だからこのような統一と分裂との動きのなかから人類の統一の理念が生まれてくるのは当然といわなくてはならぬ。
 アレキサンドロス大王の世界征服は右のごとき世界国家への動きの顕著な現われといってよいであろうが、このとき王はギリシア民族と異民族との別を全然撥無したような支配組織を作ろうとした。この無差別は東洋とギリシアとの文字通りの|混血〔付ごま圏点〕によって、同時に|文化混融〔付ごま圏点〕によって実現せられた。いわゆるヘレニズムの文化がそれである。この(70)混融の事業は彼の後継者たちによって西アジアやエジプトにおいて続行せられた。紀元前三世紀には世界語としてコイネーができあがった。これがこの時代全体にコスモポリタン的な特徴を与えている。その文化混融的な影響力はローマの世界国家が形成せられて後にも失われなかった。ローマもまたヘレニズムに化せられた。
 このヘレニズムの哲学としてのストア学派が、ポリスに固着していた本来のギリシア哲学を脱して、決然コスモポリタニズムを説きはじめたのである。ギリシア人と野蛮人、自由民と奴隷、男と女、そういう区別にかかわらずすべての人は.同じゼウス、すなわち正しい理性の、子である。神はすぺての人に|子としてのしるしを〔付ごま圏点〕潜勢的な理性の形で与えた。従って正しい理性を本性として持つ限りの人々は、同じ神の子として|兄弟〔付ごま圏点〕であり、生まれながらにしてこの同胞共同体に属している。人類はこのような|同胞共同体〔付ごま圏点〕なのである。この共同体の成員は、仲間から好意や愛ややさしさや寛容や友情をもって取り扱われる権利を持っている。これが|人道〔付ごま圏点〕である。それに比べると家族的な愛や、地縁的部族的な愛や、同じ国民としての愛などは、みな範囲の狭いものであるが、しかしこれらの団体を承認する限りにおいては、その愛も人道のなかに含まれてよい。このような全人類を包容する同胞共同体がストアによって当《まさ》に実現さるべき理想として掲げられたのである。
 このような|学的概念〔付ごま圏点〕の形における人類の自覚につづいて、ヘレニズムの世界はさらに|教理〔付ごま圏点〕の形における人類の自覚を生み出した。それはストア学派が出現して以来すでに三百年を経て、著しく宗教的色彩の濃い後期ストアの代表者エピクテートスを出すに至ったころのことであるが、コイネーの通用する諸地方の都市に、人類救済のため十字架についたキリストを信ずる教団が勃興してきたのである。それは著しく民族的であったユダヤ教の伝統を背負ってはいるが、しかしその福音がコイネーによって伝えられているごとく、明らかにヘレニズムの世界の出来事として民族的(71)閉鎖性を脱し異邦人への伝道において発展した。ユダヤ民族の神は今や人類の救済のためにそのひとり子を犠牲とする愛の神に転化した。この神の言《ことば》をききかつ行なうものは、民族の別や社会的地位の別にかかわりなく、すべて兄弟姉妹である。この人類の統一の理念は|啓示〔付ごま圏点〕にもとづくのであって、ストアにおけるごとく理性にもとづくのではない。だからそれはギリシアの哲学に対して嶮しい抗立の態度をもって説かれた。しかしヘレニスティックの世界国家を媒介として自覚せられた人類の統一の理念としては、一つの流れに属すると見られなくてはならぬ。
 同じ自覚はインドやシナにおいても、あるいはアラビアにおいても、起こらなかったとはいえない。しかし世界国家への動きが最も力強く体験せられたところで、この自覚もまた最も明白に現われたといってよい。現実における世界国家は充分に世界国家たることを得ずしてやがて崩壊し、やがてまた新しく世界国家への動きを呼び起こしたのであるが、人類の統一の理念は一度自覚せられて以来、かつて失われたことはない。むしろそれは、人類の場面における対立や抗争が激化することによって、かえって強められたといえるであろう。そうしてそこにわれわれは歴史の意義を読みうるのである。
 単純に、一層広汎な人間共同体の形成を歴史における|進歩〔付ごま圏点〕であるとするならば、世界国家が崩壊して小国家に分裂することは、明らかな|退歩〔付ごま圏点〕であるといわなくてはならぬ。しかしさまざまの民族や国家を武力によって征服し、それらを一つの支配組織のなかに組み入れることは、それだけでは自由の実現ではなく、従って無条件的に進歩とはいえないであろう。むしろそれぞれの民族や国家の|独自な個性〔付ごま圏点〕を抑圧し、それを外的な力に服属せしめるがゆえに、自由の破壊として退歩であるとさえもいえるであろう。その点に着目すれば、それぞれの民族や国家がその個性を自覚し、それを外力の抑圧から解放するために立ち上がることは、すなわち世界国家を崩壊せしめることは、自由の実現であ(72)り進歩であるといわなくてはならない。世界史はこのような「解放運動」の記録をも多量にもっているのである。もとよりこのような史実は、世界国家を形成する征服的国家の立場から見るのと、解放運動をなさざるを得ないような被征服国家の立場から見るのとでは、それぞれ解釈が異なってくるであろうが、そういう相違が生ずるのはこの世界国家が充分な意味において人間共同体と|なっていなかった〔付ごま圏点〕ことの証拠である。そこに含まれた矛盾は当然露出して来なくてはならぬ。そうしてその矛盾を明白に指示し得るものも、ほかならぬ人類統一の理念なのである。従って世界国家の形成のみならず、その崩壊もまたこの理念のはたらきであるといわなくてはならない。
 真の人類の統丁は、そこに包含せられた民族や国家がもはや|解放の要求〔付ごま圏点〕を持たなくてすむような統一、すなわちそれぞれの民族や国家の|個性を充分に尊重し〔付ごま圏点〕、それに抑圧を加えることなく、その独自の使命をあますところなく成就せしめるような統一でなくてはならない。そのような個性とか使命とかが何に基づくかは後に問題とするが、とにかくそういう個性や使命を没却すればその民族や国家の本来的な存在の意義は失われてしまうのである。もちろんその際にもそれらの民族や国家は|手段的〔付ごま圏点〕な意義を保持し得るではあろう。すなわち征服的な国家のための|奴隷としての〔付ごま圏点〕役には立つであろう。しかしその時そういう統一は、自由を殺すものとして、崩壊させられるぺきものに転化するのである。従って個性を没却した|一様化〔付ごま圏点〕としての統一、すなわち|抽象的統一〔付ごま圏点〕は、人類の統一の理念によって突き崩されるものにほかならないのである。
 しかしこの個性の尊重は、特殊な形態に形成せられた|おのれのみを〔付ごま圏点〕尊しとする立場ではない。このような立場は、おのれが征服的国家となったとき他のあらゆる民族や国家を|おのれの様式において〔付ごま圏点〕一様化する立場にほかならない。それはおのれの個性を自覚していないがために他の個性をも認めることができないのである。ある民族や国家の個性(73)はそれらのものの存在の意義を形作るが、しかし同時にまたその存在の|限定〔付ごま圏点〕を意味する。それらが特に|この〔付ごま圏点〕個性においてあり、|他のものでない〔付ごま圏点〕がゆえに、それは存在しなくてはならないのである。従って個性の自覚はまたおのれの|欠乏〔付ごま圏点〕や|不足〔付ごま圏点〕の自覚でなくてはならない。この自覚によってのみ民族や国家は、他の民族や国家の長所に気づき、それを学び取ることによっておのれの短所を補うこともできれば、またその特性を尊重して相補的に協力することもできる。そこからしてそれぞれの民族や国家は|おのれを超えて〔付ごま圏点〕成長し、|新しいおのれ〔付ごま圏点〕を創造しうるに至るのである。そういう相互の尊重や刺激において、あらゆる民族や国家がそれぞれ自主的に独自の使命を成就して行くところに、真に自由な人類の統一が実現せられるであろう。
 このような人類の統一はあくまでも|理念〔付ごま圏点〕であって、これまでかつて実現せられたことはない。しかし理念であるがゆえに絶えず実現をせまるものである。それは|世界的な人倫的組織〔付ごま圏点〕の理念と呼んでもよい。近代の初めに世界的な視圏が開けて以来、諸国家の間に対立と争闘とはますます激化し、ついに「世界戦争」と呼ばるるごとき大仕掛けな争闘にまで展開して行ったが、そういう否定的な道を通じて|人倫的な世界秩序〔付ごま圏点〕の要求はかえって強まって来た。人倫的組織の発展的連関を|自覚し確保し保証する〔付ごま圏点〕という国家の任務は、右のごとき世界秩序と合致することなしには、充分に果たされ得ない。国家はその主権を放棄もしくは制限して諸国家連合の統制下に入り、諸国家連合はその主権をふるうことなく諸国家の独立性を尊重するというごとき、どこにも主権のない複階的な国家構造のみが、人倫的組織の人倫的組織たる国家の任務を成就せしめる。すなわち国家は|世界的な人倫的組織の理念〔付ごま圏点〕とどうしても結びつかざるを得なくなってきたのである。これが今や世界史的な状況であるといってよい。歴史の意義が人類の統一の理念において看取せられるということは、この状況においては、もはやどうしても拒むことのできない事態なのである。
(74) 世界史の意義は世界的な人倫的組織への|方向〔付ごま圏点〕にある。しかしそれだけにはとどまらない。そういう人倫的組織においてはおのおのの民族や国家の|個性〔付ごま圏点〕はあくまでも尊重せられなくてはならないのであるが、その個性の問題は右に劣らず重大である。前に問題とした歴史の|唯一回性〔付ごま圏点〕や|独自性〔付ごま圏点〕がここに連関する。歴史の動きがいかに人倫の実現を意味するにしても、それはあくまでも唯一回的な独自な姿においてでなくてはならない。
 個別的な現象は、精密に見れば、一つとして「全然等しい」といえるものはない。貨幣とか名刺とかのごとく人工的に同じ形のものとして作られているものでも、拡大鏡で見れば一々の品の特徴を指摘することができる。いわんや自然にできたものは決して同形ではない。数多い砂利のなかからでも全然等しい二つの小石を拾い出すことはできない。一つの松の木は必ず他の松の木と枝ぶりを異にする。一つの犬は他の犬と相貌を異にすること、人間相互の間と異ならない。つまりあらゆる個物、あらゆる個々の現象は、くり返され得ぬ唯一回的な個性をもつといい得られるのである。この見地に立てば、宇宙の一切の現象の時間的な推移は唯一回的な推移であるといってよい。そこからして「宇宙は歴史である」という主張も現われてくる。
 しかし貨幣や名刺は、その微細な相違を無視して「全然等しい」ものとして取り扱われるように作られているのであり、従って一々の品の持つ個性的な|特徴〔付ごま圏点〕は何の意味をも担っていない。むしろ一々の品はその貨幣あるいはその名刺の|単なる一例〔付ごま圏点〕であることによってその意義を獲得するのである。自然の個物もそれに異ならない。小石は砂利の単なる一例たることによって、松の木は植物のこの種類の一例たることによって、犬は動物のこの種類の一例であることによって、それぞれ自然現象の秩序のうちに組み込まれ、またその限りにおいて人間の用をなすのである。この見(75)地においてはあらゆる個物、あらゆる個々の現象は、|一般的なるもの〔付ごま圏点〕の例に過ぎず、従っ一ていつでも|くり返し得るもの〔付ごま圏点〕と見られる。そういう仕方でのみわれわれは重々無尽の現象のうちに一定の|法則〔付ごま圏点〕を見いだし、それによって未来に起こるぺき現象を|予測〔付ごま圏点〕しうるに至ったのである。この予測なくしてはわれわれは自然を利用することはできなかったであろう。ということは、現象を|くり返すもの〔付ごま圏点〕として取り扱い得なければ、人間的な生は創り出され得なかったろうということを意味する。
 この一般化的な見方の勢力は歴史の世界にも及び、「歴史はくり返す」との視点のもとに、過去の体験によって未来を予測しあるいは警戒するというごときことがしばしば行なわれた。しかし歴史現象が自然現象と何らか性格を異にしていること、自然の法則のごとく確実性のあるものが歴史現象のうちには容易に見いだされ得ぬことも早くから気づかれていた。そこで自然の法則と性格を異にした|歴史の法則〔付ごま圏点〕を求めるという仕方で、依然として一般化的見方が歴史に対して生きつづけて来たのである。
 近代哲学が力強く展開をはじめたのちに、初めて歴史哲学を作ったイタリアのヴィコ(Giambattista Vico,1668−1744)は、デカルト派の哲学が数学や自然科学との連関のもとに歩を進めたのに反し、法学や文学や歴史学に、すなわち「自然」ではなく「人間の事」に関心しつつ、ヒューマニティーの哲学としての歴史哲学に向かったのであった。ヒューマニティーの把捉は個人意識からのみでは不可能である。それは宗教、文芸、言語、歴史等にあらわれた集団の共同意識によらなくてはならない。そこで民族の意識を反映した言語や文芸の研究としての|文学〔付ごま圏点〕と、絶対者不変者の学たる哲学との結合において、人間の事に関する正しい学的方法が見いだされるであろう。そういう見当のもとに彼は、『諸民族に共通なる本質を攻究する新しき学の原理』を書いたのである。
(76) 諸民族に共通なる本質はすなわち人間の本質でありヒューマニティーであるが、それを彼は、あらゆる民族が必ずたどるところの|本質的な歴史、イデア的な歴史〔付ごま圏点〕として捉えた。神々の時代、英雄の時代、人間の時代という三段階がそれである。この時代の名ははなはだ古めかしいが、彼がそれによって現わそうとしたものは明らかに近代的な考え方といってよい。神々の時代とは一つの民族が|原始宗教的な仕方〔付ごま圏点〕で初めて家族的人倫組織を形成し、同時に神話や言語を作り出す時代であり、英雄の時代とは征服によって|支配関係〔付ごま圏点〕が樹立され、国家が形成された時代、人間の時代とはその国家が合理化されて|法の支配〔付ごま圏点〕が確立してくる時代である。人間の時代は最高の発展段階であるが、やがて腐敗によって崩壊し、また新しく三段階がくり返される。古代の三段階はローマ帝国の崩壊、外蛮の侵入によって終末に達したが、そのあとに直ちに神々の時代が現われ、次いで中世の英雄時代となり、近世の人間の時代がそれにつづいた。それと同じようにあらゆる個々の民族はその独自な文化形成の裏に共通な三つの発展段階を蔵しているのである。
 ヴィコはこの歴史の循環運動の説を展開するに当たってさまざまの興味深い卓見を示している。特に原始的文化の考察において初めて教会の拘束の外にいで、自由な学問的な見方を開始した点については、充分にその功績を認めてよい。原始社会の団結が宗教的な紐帯によって成り立っていることや、原始人の物の見方考え方が特殊の性格を持っていること、従って神話は神話的な物の見方と密接に連関し、そのような原始的な生の|おのずからな表現〔付ごま圏点〕として生まれてくること、言語もまたそのような特殊の精神構造を反映していることなど、近来の原始社会の研究によって明らかに実証されてきたことを、彼はすでに洞察していたのである。従って彼は、現代においてシュペングラーやフロベニウスがはるかに広い眼界と豊富な資料とをもって主張している考えを、すでに本質的には提示していたといってよい。しかしそのような功績にもかかわらず、右の三段階を|本質的な歴史と考え、それに従って現実の歴史は|くりかえ(77)す〔付ごま圏点〕とするところに、われわれは一般化的見方の好例を見いださざるを得ないのである。
 ヴィコが文学と哲学との結合において諸民族に共通なる本質を見いだそうとしたことは確かに興味深いことであるが、しかしその本質は人間存在の原理たるべきであって、直ちに|歴史〔付ごま圏点〕とさるべきではなかったであろう。そういう本質が、すなわち普遍的なるものが、いかにして歴史として現われるかは、人間の本質を明らかに捉えた上で改めて提起さるべきであった。そうすれば歴史が初めから独自性を捨象した本質的歴史とされることもなかったであろう。一つの民族が発展的な三段階を持つということと、その民族がこれらの発展段階を通じて独自の文化形成を行なうということとは、区別して考え得られる別のことなのである。三段階的な発展はそれだけでは歴史的意義を持つわけではない。いかなる個人でも、幼稚な時代、青春の時代、円熟の時代を経て老衰死滅するが、もしこの段階的な発展を個人の本質的な生と呼び、あらゆる個人の生涯がこの本質的な生の具体化にほかならないと見るならば、ここに本質的な生といわれるものは|人格的な生〔付ごま圏点〕ではなくして単に|生物学的な生〔付ごま圏点〕に過ぎなくなる。|この〔付ごま圏点〕個人が|この〔付ごま圏点〕個人として担っている独特の意義、その独自な体験や個性的な業績は、右の本質的な生と何らかかわりがない。しかもこの個人の存在の意義がその独自の人格的生活にあり、従ってそこにこそその個人の本質的な生があるというべきであるならば、この個人があらゆる他の個人と共通に持っている段階的な発展は、本質的な生と呼ぶべきではなかった、ということになる。それと同様に、すべての民族が幼稚な時代からはじめて一定の発展段階をたどるということは、その民族の存在の本質的な意義ではない。そのような発展段階を通じてどういう独自な文化が形成され、その独自性のゆえに歴史の全体の歩みのうちにいかなる意義を獲得するか、という点にこそ、この民族がその本質的な生に即して担っている歴史的意義が存するのである。ヨーロッパの中世はギリシアのホメーロス時代と同じく|英雄の時代〔付ごま圏点〕であるとしても、(78)それはホメーロスの時代とは著しく異なった独自の形態をもって現われている。そうしてその中世の意義は同の側面においてではなく異の側面に認められなくてはならないのである。
 以上のごとく見れば、くりかえす「同」の側面に着目する本質的歴史の考えは、歴史の意義を捕えたものといえない。歴史の意義は唯一回的な、くり返さない「異」の側面において捕えられなくてはならないのである。もとよりそれは同の側面を無視してよいということではない。人間存在である限り、いかなる時代いかなる民族であっても、原理的には同一なのである。しかしその同一の人間存在がそれにもかかわらず相互に異なった唯一回的な形態をもって展開して行くという、ちょうどその点にこそ、人間存在の歴史的構造は成り立つのである。
 ところでこの唯一回的な独自性の問題は、いわば縦と横との二つの方向において考察することができる。ヴィコの問題に即していえば、ギリシアのホメーロス時代は、|時代の系列のなかで〔付ごま圏点〕一つの|独自な時代〔付ごま圏点〕として捉えることもできれば、またさまざまの|民族の対立の場面で〔付ごま圏点〕特にギリシア|民族の独自の姿〔付ごま圏点〕として捉えることもできる。前者の立場においてはホメーロス時代は|世界史的〔付ごま圏点〕に一つの独自な時代として取り扱われる。他のあらゆる民族の英雄時代と本質的に等しいというようなものではない。後者の立場においてはそれは世界の諸民族のなかで特にすぐれた天才的民族の独自の性格、才能、想像力、感じ方などを具体的に示したものとして取り扱われる。この両面は互いにからみ合い、ささえ合っているものであるが、一応それを切りはなして考えることによって、かえってよくそのからみ合いの意義が理解せられるであろう。

 |時代の独自性〔付ごま圏点〕は主として過去的内容の時間的性格のみから理解せられうるものである。歴史として集団の内部に、(79)人と人との間に保存せられた公共的客観的記憶は、集団の個々の成員がそれを意識すると否とを問わず、その集団における文化的創造や実践的行動を規定する。ホメーロスの時代を規定していたのは、エーゲ文化とその文化圏へ侵入した原始的なギリシア民族の移動や争闘や都市建設の努力などの公共的な記憶である。この規定はこの時代の代表的な文化産物たるホメーロスの叙事詩のきわめて特色のある形態として結晶した。これはいかなる時代にももうくり返し得ぬものであった。それに対してヨーロッパの中世を規定しているものは、ホメーロスにはじまったギリシア文化がその華々しい文化創造をなし遂げてついにヘレニスティックの世界文化となり、その中からキリスト教を産み出してそれをローマ帝国の継承者たらしめるに至った豊富きわまりのない歴史である。たとい中世人がその担っているこの豊富な過去的内容を充分に理解せず、心理的にホメーロス時代人と同程度の幼稚さにとどまっていたとしても、彼らを精神的に指導していた教会はこの過去的内容の保持者にほかならず、キリスト教に化せられた限りの中世の生活は全面的にこの過去的内容に規定せられていたのである。だからこの時代特有の騎士の物語は、たとい騎士の物語である点においてホメーロスの叙事詩に類似しているとしても、作品としてまるで異なったものであり、またその特徴においていかなる時代にももうくり返し得ぬものである。
 同様にホメーロスの時代に先立つ神々の時代と、中世の英雄時代に先立つ神々の時代ともまた本質的に等しいものとしてではなく、それぞれに独自の時代と見らるぺきである。ギリシアの神々が原始的な氏族生活や初期のポリス生活のなかからいかにして成立してきたかは、今は相当に詳しく追跡せられている。そこに我々は宗教の原始的な段階をはっきり読みとることができる。たといギリシア人に先立つエーゲ文化圏がかなり成熟した文化を見せていたとしても、そこで行なわれた宗教がほぼ同じ段階にとどまっていたことは、クレータあたりの豊富な遺品が証示するとこ(80)ろである。しかるにヴィコがローマ帝国崩壊直後の|神々の時代〔付ごま圏点〕と呼ぶもの、あるいはその先蹤に従ってシュペングラーがアラビア文化の|神話時代〔付ごま圏点〕とする原始キリスト教、西ヨーロッパ文化の|神話時代〔付ごま圏点〕とするゲルマン的カトリック教などは、全然その背景を異にし、従ってその意義をも異にするものである。原始キリスト教の時代に、いかに多く|原始宗教的な密儀〔付ごま圏点〕が残存していたとしても、ヘレニスティックの文化は前述のエーゲ文化とはまるで発展段階の異なったものであり、またこの文化圏内において巨大な旧約の文芸を保持しつつさらに新しく創作をつづけていたユダヤ民族は、移動時代のギリシア民族とはまるで程度の異なった文化民族に成長していた。福音書の伝えるイエス伝はなるほど神話的と見られうるが、しかし美しいイエスの説教は決して神話的な考え方を表現したものではない。そこにはプラトンやアリストテレスの後に現われてよい思想内容も見られる。従って原始キリスト教の時代は、ギリシアの神話時代とはまるで異なった独自のものである。しかもそれはヘレニスティックの文化圏における重大な一時代なのであって、アラビア文化の源頭としての神話時代などと見らるべきではない。それに此べれば、ローマ帝国の崩壊、外蛮侵入のあとに、直ちに|神々の時代〔付ごま圏点〕が現われたと見るのは、まだしも穏当だといえるかもしれない。外蛮語族はたしかにまだ原始的な段階を脱していなかったからである。しかし少しく精密に見れば、ゲルマン諸族の|神話時代〔付ごま圏点〕がローマ帝国の盛期とほぼ時を同じくしていること、その時代からすでにローマ帝国の高度の文化に影響され、ローマ帝国崩壊のころにはすでにその特色を失って、ランプレヒトのいわゆる類型的時代に移っていたことがわかる。たといそこになお神話的な物の見方が残存していたとしても、それはあくまでもローマ帝国の後に出で、ローマ帝国に規定された時代なのである。ローマの教会は帝国の遺産をうけつぎ、外蛮侵入のただ中にあってもその精神的活動を失わなかった。こういう時代の担う意味が、ホメーロス以前の神話時代と本質的に等しいなどとはいえないであろう。いわん(81)やこのキリスト教が外蛮諸族に対して華々しい勝利を得、そのキリスト教の意識によってヨーロッパに統一をもたらした時代、すなわちヨーロッパの中世を、単純にギリシア神話と「同時代」と見たところで、それによってこの時代の意義は把捉されないであろう。ギリシア民族の神話時代は|神話時代として〔付ごま圏点〕世界史的意義を担うが、ゲルマン諸族の神話時代は|跡方もなく失われて〔付ごま圏点〕キリスト教に接《つ》がれたという消極的な仕方で世界史的意義を担うのである。
 以上のごとく発展段階として、あるいは形態的に、|同時代〔付ごま圏点〕と見られるものが、それぞれその|独自の意義〔付ごま圏点〕を担っているとすれば、かかる唯一回的な時代の系列としての歴史は、|全体として唯一回的な歩み〔付ごま圏点〕を歩みつつあると見られなくてはならない。そこでこの歩みの|方向〔付ごま圏点〕が歴史を貫ぬく意義を開示することになる。しかしその|全体〔付ごま圏点〕とは何であろうか。われわれは人類の歴史の発端を知らない。また未来を予言することもできない。従って実証的な時代系列の全体はわれわれの手には合わない。しかし原理的にいって歴史は|国家において〔付ごま圏点〕はじまったものであり、そうして未来は人間が|当為に従って〔付ごま圏点〕創造するものである。すなわち発端は人倫的組織の人倫的組織であり、未来は当為的な理念において表示せられる。とすれば、この全体は本来性への帰来の運動としての人間存在の全体にほかならない。人間存在はこの帰来の運動を|唯一回的な時代の系列〔付ごま圏点〕として展開しているのである。してみれば、それぞれの時代は人間存在の全体性からしてその独自の意義を獲得することになる。しかるに人間存在の全体性は絶対的全体性の自己限定としてのみ全体性たりうるものである。絶対的全体性は絶対的否定性、絶対空にほかならない。(上巻、一〇五ページ)それぞれの時代はこの究極の根源につながることによって独自性を得、この独自の形態において絶対空を表現しているのである。唯一回的でくり返さないということは、一度過ぎ去ればもはや永遠に現われて来ないということであるとともに、その唯一回的な姿がそのまま|永遠の姿〔付ごま圏点〕だということである。だから過ぎ去った時代はそれにもかかわらず現代に生きて(82)いる。その独自性が明白であればあるほど現在に生きる力もまた強い。
 かく見れば、それぞれの時代はその独自の意義によって永遠の意義を現わしているのである。頽廃、混乱、悲痛の時代に生きるものにとっては、この自覚はまことに堪えられぬことに感ぜられるかもしれない。しかし頽廃や混乱の痛みに徹することは、健やかな生や秩序への情熱を燃え上がらせることである。従って現在を否定して永遠の価値を担う未来の時代を待望するという動きそのものが、この頽廃と混乱の時代の特徴となりうるであろう。周知のごとくイスラエルの予言文芸は人類の精神的遺産のうちの最も貴いものの一つといってよいであろうが、それを生み出したのはいつもイスラエル民族が危機に直面した時代、頽廃に瀕した時代、混乱に陥った時代、あるいは他民族に屈従した時代である。予言者はこの頽廃や混乱において失われたものを、この頽廃や混乱への反撃によって恢復しようとする。それはまさしく否定の否定の動きなのである。そうしてこれが盛んであった時代は世界史的に大きい意義を担うといわなくてはならない。ダビデやソロモンの時代はイスラエルの民族の|幸福と繁栄の時代〔付ごま圏点〕であったが、しかしその世界史的な意義はこの民族の|不幸と惨苦の時代〔付ごま圏点〕、イザヤやエレミアの時代に及ばない。このことはさらに、この民族が頽廃と混乱とのどん底に堕ちた時代に、原始キリスト教が成立したという巨大な例によって実証される。人類の最も貴ぶべきものが、人類の経験しうる限りの最も烈しい屈辱と苦痛との姿において現われたという考えは、このような地盤の上に立っているのである。一つの時代の意義を決定するのはその時代の|人倫的自覚〔付ごま圏点〕と|人倫的活力〔付ごま圏点〕とであって、幸福や繁栄ではない。そうしてその人倫的自覚や人倫的活力は、|大衆によって迫害されるただ一人の予言者〔付ごま圏点〕の姿においても現われ得るのである。もっとも予言者が|ただ一人〔付ごま圏点〕で大勢に抗したごとく見えるのは、歴史叙述の技術のゆえであって、事実ではないかもしれない。事実において一人の予言者を押し出して来たのは、大衆の無意識的な要求であ(83)り、従って権力のまわりに発生する付和雷同的な輿論よりも一層真実に民衆的な意志であるかもしれない。そうであればただ一人の予言者が|一つの時代の〔付ごま圏点〕人倫的自覚と人倫的活力とを表現するということは、一層当然のこととなるであろう。しかしそうでなくとも一人の予言者の出現はその時代の活力を示すものである。大衆が道徳的頽廃に陥ったときに、|ただの一人さえも〔付ごま圏点〕それに反抗し警告する人が現われないということは、永遠にこの時代を恥ずべきものたらしめてよいであろう。汝はそれを欲しないか。しからば汝ただ一人起て。汝ただ一人の力によって時代の永遠の意義を恥辱のなかから救い上げることができる。この時代に幸福と繁栄とをもたらすことは一人の力のよくするところではない。しかし不幸と惨苦とにかかわらずこの時代を偉大たらしめることは、一人の力にも可能なのである。
 しかし一つの時代が|その独自の姿において〔付ごま圏点〕永遠の意義を担うということは歴史を貰ぬく「進歩」の概念を否定するものではなかろうか。歴史的過程が一定の目標に向かう進行であり、後の時代が必ず前の時代より先へ進んでいるとすれば、一々の時代は|過渡的な意義〔付ごま圏点〕をしか持ち得ぬであろう。その目標が自由であるにしろ、あるいは価値の向上や実現であるにしろ、後の時代が一層高い程度にそれを成し遂げているとすれば、前の時代はもはやなくてよいものである。しかるに時代の独自性に永遠の意義を認める立場は、すでにのり超えられた段階をも進歩した段階と同様に尊重することによって、進歩の意義を消し去ってしまう。それは歴史の意義を見失うことではなかろうか。
 否、そうではないのである。なるほど歴史の歩みは|唯一回的〔付ごま圏点〕であるがゆえに、この時代は|独自のもの〔付ごま圏点〕として永遠の意義を持つが、しかしそれは孤立的にあるのではなく歴史の|歩み〔付ごま圏点〕のなかで、すなわち時代の系列において、一つの|時代〔付ごま圏点〕としての意義を持ち得るのである。そうしてその歩みの持つ方向もまた絶対の根源につながるものとして永遠の意義を担う。従って一々の時代の持つ|独自性〔付ごま圏点〕も、歴史の歩みにおける|段階性〔付ごま圏点〕も、同じく根源的であるといわなくてはな(84)らぬ。後の段階は前の段階よりも|価値を増す〔付ごま圏点〕わけではなく、|等しく〔付ごま圏点〕独自の価値を担うのであるが、しかし前の段階に後の段階が|続くことにおいて〔付ごま圏点〕価値は高められるのである。歴史の歩みはこのような|独自のものの連続〔付ごま圏点〕として「進歩」を意味する。それは一定の目標をもった|進行〔付ごま圏点〕であるには相違ないが、その進行は過ぎ去った時代を単にのり超えられたものとしてうしろに捨てて行くごとき進行ではなく、過ぎ去った時代が次の時代の不可欠の条件となり、相互の連関においてそれぞれの時代がその独自の意義を発揮するような仕方での進行なのである。それは恐らく音楽における進行に此せられ得るであろう。一々の楽節はその固有の美しさをもつが、それらが前と後に連続し照応することによって一層高い美しさが作り出される。過ぎ去った前の楽節が単に過ぎ去ったのではなく次に来る楽節を条件づけているがゆえに、対照というごときことが可能となるのである。そういう進行において楽章から楽章へと展開し、|その連関において〔付ごま圏点〕一つの曲の美しさが成就する。一々の部分がそれぞれ固有の美しさを持っていなくては、この全体の美しさは作り出せない。しかし全体の美しさはこれらの部分の|相依連関のうちに〔付ごま圏点〕成り立つのであって、単に部分自身の美しさの集積のみではないのである。してみると、音楽における進行は、一つの曲の美しさが徐々に成立して行く過程であるといってよい。それがちょうど歴史における進歩を比喩的に示すといってよいであろう。
 歴史における進歩が右のごときものであるとすれば、進歩に対して投げられる疑念が見当違いであることは直ちに明らかになる。このような疑念の例を芸術にとれば、ホメーロスの詩やパルテノンの彫刻は、その独自な完成において後のいかなるものも此肩することのできぬ高所に達しており、従って芸術に進歩があるという見方を疑わせる、といわれる。しかし後の時代の進歩は|ギリシア人の見なかった美しさ〔付ごま圏点〕を見いだし作り出すという独自性にあるのであって、同じ芸術意志のもとにただ技術をのみ進歩させるということにあるのではない。そうしてギリシア人の見なかっ(85)た美を見いだすということは、ギリシアのすぐれた芸術に条件づけられてのみなしうることなのである。ゴティックの芸術はギリシア人とは全然異なった芸術意志によって作り出されているが、そういう芸術意志を押し出したのは、ギリシアの芸術がその独自の完成において一つの美の様式を実に顕著に|界限し〔付ごま圏点〕、それによってその中に|ないもの〔付ごま圏点〕をはっきりと示したという事情である。ルネッサンスにおいて人々は古代の美の様式を復興させようと考えたが、しかし中世的な美の様式をすでに知っている人々はもはや古代の美の様式にのみたてこもるということはできなかった。彼らは古代的な美のうちにも中世的なるものを求め、中世的な美のうちにも古代的なものを求めた。その要求は古代中世のいずれの芸術によっても充たされはしない。ここに古代とも中世とも異なる芸術意志が押し出されてくる。レオナルドやミケランジェロの芸術はその最も美しい果実である。そこには古代人や中世人の見なかった新しい美が作り出されている。しかし古代や中世の芸術がなければこの新しい創造は不可能であったであろう。かく見れば、ギリシアの芸術は後の時代の追随し得ない高所に立って芸術の進歩の反証となっているのではなく、後の時代の新しい美の創造にいつも参加して重要な役割りをつとめているのであり、また後の時代の独自な芸術様式と相依り相連関して|芸術の進歩〔付ごま圏点〕を形成しているのである。それはこれらの芸術を受用し鑑賞する側から見れば一層明白であろう。中世人は古代人と異なる美を求めたがゆえにゴティックの芸術を作り出したのであるが、しかし彼らにして古代人と同じ美を味わおうと|欲するならば〔付ごま圏点〕、彼らは古代人の残した優れた作品によって充分にそれを味わうことができたのである。従って中世においては、人は古代の芸術と中世の芸術とのいずれをも味わい得たという意味において、古代よりも進歩した芸術を所有していたといえるであろう。事実上それを味わう人が少なかったということは進歩した芸術の存在を否定するものではない。いわんや古代を復活させた近代においては、古代中世近世を通じてのさまざまの芸術を思う(86)ままに味わい得るのであるから、古代芸術をしか知らなかった古代においてよりもはるかに進歩しているといってよい。かく見れば、過去の時代の芸術に対して理解の能力がある限り、|後の時代は必ず芸術的に高まって行く〔付ごま圏点〕といえるであろう。
 このことは文化一般についてもいわれうる。歴史的自覚が存する限り、歴史の歩みは|進歩〔付ごま圏点〕なのである。古代の世界国家が頽廃し、崩壊し、そのあとに野蛮な民族の跳梁する蒙昧な時代がつづいた。それが何の進歩であろうか、と疑われるが、しかしその頽廃や崩壊の時代にキリス†教は漸次その力をのばし、やがてローマの国教となり、ついにカトリック教会としてヨーロッパの精神的統一に成功した。この大事業をなしとげた時代の意義は、世界国家が隆盛であった時代の意義よりも小さくはないのである。のみならずこの、国家的に渾沌としていた時代にも、ローマ帝国の理念やローマ法の意義は忘れ去られたわけではない。そこに人倫の進歩を見るのは誤りでなかろう。やがてその教会も頽廃し、その絶大な権威は崩壊したが、そのあとにつづいた近代国家の対立や争闘の時代は、人間性の解放の時代として顕著な進歩を示すとせられている。それは知識や技術や産業などの発展とともにあらゆる封建的な残滓を焼きつくさなくてはやまなかった。が、機械や産業組織の発展はいつのまにか個人をその奴隷に化せしめている。人格の自由や尊厳は今や残りなく失われようとしているではないか。これほど危険な退歩はかつてなかった、とさえいわれる。この危険に対してデューウィーは1932年に|科学を克服すること〔付ごま圏点〕の急務を説いた。人間を奴隷化したのは近代の技術であり、その技術を生み出したのは近代科学である。ところでこの科学は元来は人間の道具なのであって主人なのではない。そうしてそれを本来の道具の位置にもどす道は、ただそれを|充分に理解する〔付ごま圏点〕ことのほかにはないのである。が、その後十年、世界的規模における大戦争において、アメリカ国民は人格の自由と尊厳との擁護を|旗印として〔付ごま圏点〕、(87)技術と科学とを使いこなした。そうしてその同じ旗印のもとに諸国家の世界的な組織を現実的な問題として取り上げるまでに至った。この間題の解決のためには、世界諸地方の植民地化をひき起こした近代の技術や産業組織が、今度はまるで反対の方向に、すなわち植民地諸民族における人格の自由と尊厳とを復活させるために、活用されなくてはならない。このことがまじめに努力されるとすれば、ここにひらけた展望もまた人倫の進歩を示すといってよいであろう。
 以上のごとく考えれば時代の独自性に絶対的の意義を認めつつ同時に歴史における進歩を認めることは決して困難ではないのである。

 しかし時代の独自性は密接に|民族の独自性〔付ごま圏点〕と連関する。単に過去的内容の時間的性格のみでは歴史の唯一回的な独自性はかほどまで顕著に現われて来ないであろう。
 ヴィコが諸民族に共通な本質を見いだそうと努力したのは、諸民族をそれぞれ異なったものとする認識が前提として存していたからである。もともと「異民族」は言語や風習や性格などを異にするものとして見いだされたのであり、従って民族の考察においてこの相違の認識が先立つことは当然の事態といわなくてはならぬ。しかし相違の認識は実は共通の本質を地盤としてのみ可能なのである。たとえば言語が異なるということは言語を持つという共通の地盤においてのみ見いだされる。だからこの自然的に見いだされた相違が反省されるに至れば、異なった民族もまた|同じ人問〔付ごま圏点〕であるという認識に到達せざるを得ぬ。このような人間の本質の自覚は、最初に人間が閉じこめられていた視界の狭さを打ち破るためにも、是非必要である。しかしそれはまだ歴史的自覚ではない。本質を共通にするものがそれに(88)もかかわらず異なった姿において現われているということ、従って異なった姿も|同じ本質〔付ごま圏点〕が根柢に存するという点において等しく尊重せらるべきであるとともに、それが|異なって現われている〔付ごま圏点〕という点において|独自の意義〔付ごま圏点〕を担うのであること、の理解において歴史的自覚が成り立つのである。
 このような独自性の意識は異民族との交渉においてはじめて現われるというわけではない。最も原始的な独自性の意義は恐らく|固有名詞〔付ごま圏点〕として表現されたものであろう。|人の名〔付ごま圏点〕とか|土地の名〔付ごま圏点〕とかは、われわれのさかのぼりうる最古の時代においても、またわれわれの現在見いだしうる最も未開の社会においても、|すでに〔付ごま圏点〕存している。それらは人とか場所とかが決して一般化され得ないもの、他の類例によって置きかえられ得ない唯一のものであることを示しているのである。それは現在においても同様である。では人の名が示している|個別的人格の唯一性〔付ごま圏点〕は何において成り立っているであろうか。われわれはそれを|共同性の否定〔付ごま圏点〕によって解いてきたのである。(上巻、六二ページ以下)自他の身体的存在は、精密に見れば指紋が示しているようにそれぞれ独自であるが、しかし生理学や解剖学はこれらの独自性を捨てて一般化する。心理的存在においても同様である。さらに対象的に認識され得ない主体的な体験の側においても、われわれは著しい共同性を指摘することができる。これらの点に着目する限り、どうしても一般化せられ得ない独自性はそこにはないといわねばならぬ。しかも自他の人格の個性は、そういう共同性を否定し、|自我を他我からひき放す〔付ごま圏点〕ことにおいて成り立ってくるのである。自我は他我と対することにおいて自我として自覚する。個人は他の個人と対することにおいて個人になる。このような|主体の間の対立〔付ごま圏点〕、従って|主体的な空間性〔付ごま圏点〕こそ、個別的人格の唯一性の基礎なのである。だから自他の人格の存在内容がほとんど異ならないとしても、それらが自他として対立する限り、自他不二で(89)あり、またその自他不二に向かって人倫的合一の動きが行なわれるとしても、それはあくまでも自他の対立を介して可能となるのである。このような人格の独自性の自覚が最初に|人の名〔付ごま圏点〕として現われ、また「われ」「なれ」「かれ」というごとき人称代名詞となったのである。
 しかし、ある人に|固有な名〔付ごま圏点〕は、|単なる個人の立場においては発生し得ない〔付ごま圏点〕。それは人格の独自性の表示であるにかかわらず、その独自の人格が相依って形成する人倫的組織の場面においてのみ、すなわち自他不二的な形成を通じてのみ、出現する。それはあるいは氏族であり、あるいは家族であるであろうが、とにかく一人の人にとって最も|親密な共同体〔付ごま圏点〕がまず彼に固有の名を与えるのである。このことは現代においても個人に|固有の名のみを呼ぶ〔付ごま圏点〕のが特に親しい間柄の表現であることによって知られるであろう。かく見れば、個人に固有の名はすでにこの名の発生の地盤としての|共同体〔付ごま圏点〕をさし示しているのである。
 この共同体、特に|家族〔付ごま圏点〕もまた個人と同じく名を持っている。しかし家族が固有の名を得るのは一層広い|地縁共同体〔付ごま圏点〕あるいはそれよりも大きい公共団体においてである。その地縁共同体もまたその固有の名を持ち、その発生の地盤として|民族や国家〔付ごま圏点〕を指し示している。その民族や国家もまた|固有の名〔付ごま圏点〕をもって呼ばれる。そうしてそこに表示せられている|民族や国家の独自性〔付ごま圏点〕がわれわれの問題なのであるが、これらの層々相重なる固有名詞を考察すれば、個人の名を取り巻くいくつかの名が漸次濃厚に|地名との親縁〔付ごま圏点〕を示してくることは、直ちに気づかざるを得ないのである。すなわち個人の自他の区別の基礎となっている|主体的な空間性〔付ごま圏点〕はここで漸次具体的にその姿を現わしてくるといってよいであろう。
 家族共同体の担う名は、古い氏族の伝統を担ったものとして、血縁を示すために|父祖の名〔付ごま圏点〕を用いるのが本来の姿で(90)あるかもしれない。この点においてはたとえばアガメムノーンにアトレイデース(アトレウスの子)という名をかぶせるギリシア人は、家名の本来の姿を保持しているといえるであろう。しかるにそのギリシアにおいては、家名あるいは姓はあまり重んぜられず、主として|個人の名〔付ごま圏点〕が呼ばれている。プラトンは「アリストーンの子」には相違ないが、プラトンだけで通用する。彼の作品のなかにもたとえば「フィリッポスの子プォイニックス」といういい現わしはあるが、「プァレロンのアポロドロス」とか「キュダテナィオンのアリストデモス」とかというごとき、|地名をかぶせた呼び方〔付ごま圏点〕の方が普通である。プァレロンはアテーナイの旧港の名、キュダテナィオンは同市の一地区の名であるから、東京で芝のなにがし、本郷のだれそれというのと同様である。すなわち|血縁を示す名〔付ごま圏点〕よりも|地縁を示す名〔付ごま圏点〕の方が有力となっているといえるであろう。
 近代においては家の名ははるかに重要な意義をになっている。プラトンと呼ぶと同じように|個人の名〔付ごま圏点〕だけで公共的に通用するのは、近代においてはジョンとかアンリとかいうごとき王様だけである。普通の場合には、ジョン・ロックとかアンリ・ベルグソンとかというごとく|姓をともに〔付ごま圏点〕呼ばなくてはその個人が確定して来ない。わが国においても世間で他の人を呼ぶ場合には、田中君、山下さんというごとく|家の名のみ〔付ごま圏点〕をもってする場合が多い。しかるにその重要な家の名は、大体において|地名〔付ごま圏点〕あるいは|職業名〔付ごま圏点〕なのである。特に家の名を伝説の時代までさかのぼりうるわが国においては、このことは実に明白である。中臣、大伴、物部というごとき氏の名は朝延における職掌から来ており、蘇我、菅原、清原、藤原、石川、葛城というごときはすべて地名である。そうしてこの後の氏の名の大部分は地名からきている。この風が一般に行なわれたために、後には田中、山下というごとく特定の地名でないまでも|地理的の位置づけ〔付ごま圏点〕を意味する言葉が家の名として慣用せられるに至った。このことは一つの家の独自の存在を|空間的な唯一性〔付ごま圏点〕によ(91)って把捉しようとしたことを意味するのである。主体的な空間性はここでは山や原や川などのごとき生活空間にまで具体化しているといってよい。
 以上のごとく家族共同体に固有の名はすでに地名と結びついているのであるが、さらにそういう名の定まってくる場面としての|地縁共同体〔付ごま圏点〕になると、もともと|土地〔付ごま圏点〕を媒介とする共同体であるがゆえに、土地との結びつきは一層顕著になる。村落共同体の名はそのまま地名として通用している。それよりも広い地縁共同体においてはもちろんのことである。前に地縁共同体を論ずるに際して(上巻、四五九ページ以下)その可能的な広さがほぼ「国」と呼ばれているものによって現わされていることを論じたが、その|国名〔付ごま圏点〕のごときは、むしろ|地名〔付ごま圏点〕として理解せられる場合の方が多いであろう。いわんやそういう国々を統一する国家をさす意味での国名は、いうまでもないことである。すなわち共同体の次元が高まれば高まるほど、その独自性を現わす固有名詞は、地理的な唯一性と一層強く結びついてくるのである。
 固有名詞の示しているこの事態は歴史的自覚にとって決して軽んずぺきものでない。なぜなら、歴史は固有名詞によって構成せられるものであり、固有名詞はその内容の唯一回的な独自性を表示するものだからである。我々は前にこの独自性を主として時間的性格の側から考察したのであるが、今や固有名詞はこの独自性の底に|空間的性格〔付ごま圏点〕の存することを開示してくれた。それによって考えると、たとえばホメーロス時代の独自性は、単にその背負っている過去的内容|からのみ〔付ごま圏点〕理解せらるべきではない。ホメーロスという固有の名のさし示すところは、時代のいかんを問わず他の個人と区別せられる唯一独自の人格である。またこの詩人の活動していたイオーニアの諸都市は、時代のいかんを問わず他の諸都市から区別せられる特性を持っており、これらの諸都市をふくむギリシア民族も、古代にあっては、(92)その内部の時代のいかんを問わず他の民族の追随を許さない優秀な性格を持っていた。ホメーロス時代の唯一回的な独自性は、これらの特性を無視しては充分に理解せられ得ないのである。それと同じくヨーロッパの中世の独自性は、ホメーロス以来の古代文化の展開を背負っているが|ゆえにのみ〔付ごま圏点〕ホメーロス時代と区別されうるのではなく、そこで叙事詩を作っている個々の詩人や、そういう詩人を保護していた個々の封建君主や、そういう封建制度を作り出したゲルマン民族などの、明らかに他と区別せられ得る特殊な性格によって、はじめて充分に理解せられ得るであろう。いわんやシュペングラーの対比したさまざまの文化潮流、すなわちエジプト、インド、ギリシア・ローマ、アラビア、西ヨーロッパなどの文化潮流は、何よりもまずそれを担う|民族の相違〔付ごま圏点〕という点から見らるべきであり、そうしてその相違は地理的な相違と不可分のものなのである。もとよりそれは同じ人間存在の展開なのであるから、シュペングラーのいうように「同時代的」な発展段階を持っているには相違ないが、そういう共通の本質の上にそれぞれ|独自の性格〔付ごま圏点〕を形成し、それによって歴史の|唯一回的な歩み〔付ごま圏点〕の契機となっているとすれば、その独自性の基礎に存する|地理的なもの〔付ごま圏点〕は、それぞれの時代と同じく|永遠の意義〔付ごま圏点〕を担うものとならざるを得ない。
 ここで我々は人間存在の風土的構造の問題に突きあたったのである。人間存在がもともと時間的・空間的な構造においてあるのであって、単に時間的|のみ〔付ごま圏点〕でない限り、このことは当然なのである。われわれは考察の便宜上、人間存在の時間的構造にのみ着目し、それが人倫的組織として展開することによっていかに|歴史的構造〔付ごま圏点〕として具体化してくるかをたどってみたのであるが、その最も重要な一つの点において、すなわち歴史の唯一回的な独自性の問題において、この考察の一面性を暴露せざるを得なくなったのである。時間性と空間性とは|相即〔付ごま圏点〕することによってその意義を成就するのであって、それぞれ単独に立ちうるものではない。だからこれまでの考察の過程においては、故意に空間(93)性の側面が括弧に入れられていたのである。次には改めてその看過された側面に眼を移さなくてはならぬ。

       第二節 人間存在の風土性

 われわれは前に第二章において人間存在の空間性を問題とした。そこでは自然的空間の概念や空間の直観などよりもさらに深く|主体的存在〔付ごま圏点〕の層に掘り下げ、そうしてこの主体的存在が単に自我の存在であるにとどまらず個人的社会的二重構造を有せる間柄的存在であるところに、根源的空間を見いだしたのである。人間存在は主体的実践的な連関としての|主体的なひろがり〔付ごま圏点〕にほかならない。すなわち人間は多くの主体に分離し対立しつつ、しかもそれらの主体を合一せしめようとして動いている。このような分裂と合一との動きが主体的なひろがりをさし示しているのである。主体が単に自我としてのみ把捉されていた間は、かかる|ひろがり〔付ごま圏点〕は問題とならなかった。しかしそれが人間存在として二重構造において把捉されて来た以上、この|びろがり〔付ごま圏点〕はどうしても問題とされざるを得ないのである。主体にひろがりがなければ、右のような動きは起こり待ない。それは人間存在が主体的な人間の「間柄」にほかならぬということなのである。従って主体的な空間性は、人間存在の動的展開を可能ならしめている根本的構造であるといってよい。
 客観的な物のひろがりとしての空間は、主体的な人間存在のなかから見いだされて来たものであって、逆に人間存在を可能ならしめる場面というごときものではない。従って主体的なひろがりこそ根本的な空間であり、そこから主体の客体的表現や客体的解放の度合いに応じて、環境的空間、定位せられた空間、等質的空間などが成立してくるのである。解放されつくした空間は全然客体的であっていささかも主体的な痕を残さないが、しかしその根源においては全然主体的な「間柄」として、いわば|実践的了解の場〔付ごま圏点〕のごときものである。それはものごとの|あらわになる主体的〔付ごま圏点〕(94)な場面〔付ごま圏点〕であり、あらゆる自然的対象の発見をそこから可能ならしめているような|理解の根源〔付ごま圏点〕なのである。個人の意識と異なり、身ぶりや言葉、交通や通信によって成立するものではあるが、しかしまた自然的空間と異なり、全然主体的精神的な場であって、むしろ社会意識とか団体心とかと呼ばれているものに近い。ただし、それは表現においてのみ接近し得られるのであって、それ自身観察の対象たり得るものではない。
 人間存在の|動的展開〔付ごま圏点〕は人倫的組織として具体化せられる。それをわれわれは第三章において問題とした。ところでこの人倫的組織は、主体的空間性の組織にほかならないがゆえに、同時に|空間性の具体化〔付ごま圏点〕であった。家族は|家の共同体〔付ごま圏点〕として「家」と呼ばれる一定の空間と本質的に結びついている。それは風雨や寒気を防ぐように作られ、そこで休息や食事が行なわれる場所である。かかる空間的規定における生の共同が、家族的人倫組織にほかならない。しかし家の包む空間は、そこにおいて衣食住の受用をともにするには充分であっても、受用せられる物資の生産をなし得る場所ではない。そこで人々は家の外に出て、一定の土地の上で、隣人たちとともに、衣食住の物資を生産する。土地とは人間がその存在において衣食住の物資を見いだし作る場面であると同時にまた隣人を見いだす場面であって、人が単独に自分の前に見いだすものではない。ただ一つの道具といえども、人は隣人との交渉においてでなければ見いだすことはできなかった。かくて土地の共同の上に|地縁共同体〔付ごま圏点〕が形成される。ここにわれわれは空間性の具体化の特に顕著な姿を見ることができる。それに比すれば|文化共同体〔付ごま圏点〕はむしろ時間性の具体化としての性格をもつといってよい。しかし地縁共同体が生の共同を実現するに対して、文化共同体は精神の共同を実現する。精神の共同は地縁の制限を超えていかなる遠方にも達することができる。その点に着目すれば、ここには超地域的な空間性、すなわち開放的な空間性の具体化があるということもできる。主体的空間性が精神的な相互了解の場であるということは、かえってよ(95)くここに示されているといえよう。さらに右のごとき諸段階の人倫的組織を統一する人倫的組織としての|国家〔付ごま圏点〕は、領土と本質的に結びついている。たとい国家が国際連合の組織によって世界的規模のものとなっても、その複階的な組織のなかには依然として領土の観念は残るであろう。すなわちここにも空間性の具体化が見られるのである。
 右のごとく人間存在が人倫的組織として動的に展開するに当たっては、その組織をいつも空間的構造として実現する。そうして本来性への還帰の運動は、人倫的組織の空間的拡大という傾向を伴なっている。還帰の運動の最も端的なものとしての宗教的愛の運動は、人類全体を同胞とし、世界を一つの共同体に作り上げようとするものである。この理想はこれまでかつて実現せられなかったとしても、またかつて見失われたことはない。そこにわれわれは人倫的組織の諸段階を通じて実現せられる|空間的拡大〔付ごま圏点〕の深い意義を看取すべきであろう。主体的空間性の本質は、「主体が多化しつつ合一しようとする」ということである。主体の多化なくしては主体の「間」は生ぜず、合一の動きなくしてその「間」が実践的連関であることができない。空間的拡大とはこの多化の範囲の増大であり、従って合一の動きの強化である。すなわち空間的拡大は人間存在の意義の向上にほかならない。人倫的組織の諸段階は、空間性の具体化によって、まさにこのことを実現しているのである。
 人間存在の空間性は右のごとき具体化を経由することによって|風土性〔付ごま圏点〕としておのれを現わしてくる。人倫的組織の諸段階は空間性から風土性への過渡段階である。ではその過渡はどういうふうに行なわれているであろうか。まず手近なのは|家の空間性〔付ごま圏点〕であるが、それは夫婦、親子、兄弟等の間柄として具体化せられている。この間柄は主体と主体との間の対立と合一とであるには違いないが、しかし無限定的にではなく特に同じ家における緊密な共同生活、日常的な|衣食住の共同〔付ごま圏点〕として実現せられているのである。まず第一にそれは身体的な親近を意味する。汝が身近にあると(96)いうことは文字通り身体的に傍にいるということである。が、その身体は生理学的対象としての肉体と同じものではない。われわれが通例身近に見いだす汝は|衣服〔付ごま圏点〕に包まれた汝である。その衣服は一定の社会や時代に特有な様式のものであるが、そういう広い連関は括弧に入れて除外しておくとしても、少なくともこの家の内部で母親とか主婦とかの配慮のもとに、作られ、保管され、そうして今ちょうど適切な季節服として汝を包んでいるのである。たとえば母親に抱かれている子は、夏ならばあせもを防ぐような薄い衣に、冬ならば風邪をひかないような厚い衣に包まれている。それは母親が絶え間のない配慮によって作り、えらび、着せるものなのである。従って我々は子供の姿において通例母親の配慮に包まれた子を、すなわち母子の間柄を表現している子を見いだす。敏感な観察者はそういう子供の姿を一見しただけで、この母子の間柄がどういう状態にあるかを見ぬきうるであろう。が、それは母子の間に限らない。夫の姿において妻の配慮の仕方を、妻の姿において夫の家族生活に対する態度を、親の姿において子の孝養のつくし方を、看取することもまた不可能でない。そのように衣服だけでも濃厚に間柄を表現している。われわれが身近に見いだす汝の身体は、このような表現に包まれた身体なのであって、その限り汝はすでに身体的に子あるいは親、夫あるいは妻であることを示している。その意義は着物をぬいだからといってなくなるものではない。が、着物はそれをのべびろげて示しているのである。ここにすでに主体的な「間」の客体的な現われが見られるといってよい。
 次にこの身近なものたちは家において|食事〔付ごま圏点〕をともにする。太古以来食事の共同は家の生活の最も著しい特徴とせられた。食事もまた一定の社会や時代に特有な様式を持つものであって、家の内部のこととのみは限らないのであるが、しかしそれが日々に行なわれる場所は家の生活なのである。それは衣服よりも一層多くの配慮をうける。食卓にのぼせられる食物は、不潔なもの、有害なものから注意深く引き離され、美味と滋養とに富むように熱心に調理されたも(97)のである。だから食物を構成する要素の大半は家内の人たちの調理の働きや心づくしだといってよい。(上巻、四八五ページ以下参照)共同の食事はこのような心づくしをともに受けともに味わうことである。他の言葉でいえば、それは生命の再生産の共同であり、従って生の共同である。それを食卓についている人々が主体的に実現するのみならず、その食卓、食卓の上の食器や食物、あるいはそれを調理する台所、そこで用いられるさまざまの道具、あるいはさらに食料を貯蔵する場所等の一切が表現している。ここにも主体的な間ののぺひろげられた姿があるといってよい。
 ところで以上のような生の共同の行なわれる場所は、屋根と壁とをもって仕切った空間、すなわち「家」である。それは食事のための一切の道具や、衣服類をすべて含んでいる上に、さらに睡眠休息のための場所や道具、寒暑をふせぐための設備などを含んでいる。家の様式もまた一定の社会や時代に属するのであって、家族共同体の立場のみから作り出されるのではないが、しかし家の使用は主として家族の成員たちのみによって行なわれる。だから家は家族共同体の具体的な表現でありまた多くの民族においてもそういうふうに取り扱われて来た。考古学者たちは先史時代の家族構成を発掘された住居趾から推論しようとさえしている。単に住居の|広さ〔付ごま圏点〕や|間取り〔付ごま圏点〕だけを見てさえも、家族の主体的の間柄がどういうふうに形成されていたかがわかるのである。いわんやさまざまの道具に充たされた家、現に住まれている家は、すみからすみまで間柄の表現によって充溢しているといってよいのである。だからたとえば茶の間とか食堂とかで食卓を囲んで一家の団欒している光景は、通例家族共同体の申し分なき表現として認められている。もっとも、通例の場合にほ、そこに表現せられているのがそれ自身対象的たり得ない主体的な空間性であるというごときことは全然問題とされていない。しかし、実践的には人々はその了解のもとに動いているのである。無心の子供たちさえも、食卓においておのれのすわる位置とか、おのれに配られる食物の種類や量とかについて、客体的には見(98)いだすことのできない別種の強い意義を了解することができる。すなわち彼らはそこに親との主体的な間というごときものを感じているのである。
 このような家の存在は、われわれが道具と交渉する最も手近な場面である。それは発生的にいってわれわれが道具との交渉というごときことを|習得する〔付ごま圏点〕場面であったのみならず、現象の構造からいってもわれわれが|まず最初に〔付ごま圏点〕道具を見いだす場所といえるであろう。衣服とか畳とか座ぶとんとか机とか椅子とか食器とかというごとき道具との交渉をわれわれはまずこの場面において教え込まれた。それは母との|間において〔付ごま圏点〕、あるいは兄弟との|間において〔付ごま圏点〕、見いだされてくるのであって、われのみの立場においてではない。われは母の愛にくるまれるという仕方ではじめて衣服との交渉を開始した。あるいは兄の愛にかばわれるという仕方で金槌との交渉を開始した。通例われわれはそういう開始の時を記憶せず、従ってこの種の交渉がわれわれの存在とともに始まったかのごとくに感じているが、しかし何らかの間柄を媒介とせずに見いだし得た道具などというものはないのである。恐らく多くの人は時計という道具との交渉の開始を記憶しているであろう。この交渉は此較的遅い時期にはじまり、その習得の苦心が記憶せられやすいからである。が、それ以前においてもある道具について「要領を得る」ことはすべて大人からの習得なのであり、そうしてその大部分は家族的な間柄を表現するものであった。そうしてそれが現象的にいって、人間存在の最も|手近な層〔付ごま圏点〕を形成しているのである。その意味においてわれわれは道具との連関において他者に出逢うのではなく、|他者との連関において道具に出逢〔付ごま圏点〕うのである。というよりも、存在構造としては、|道具との連関は他者との連関の一つの契機にすぎない〔付ごま圏点〕、というぺきであろう。この契機を介して、人間存在のなかから徐々に|対象的なるもの〔付ごま圏点〕が解放され見いだされてくるのである。
(99) 以上のごとき意味において手近な人倫的組織としての家族的存在は主体的空間性を具体化してくる。が、すでに言及しておいたように、衣食住の道具類は家の存在においてのみ見いだされ作り出されるものではない。家は太古以来「聚落」のうちの一つの家であり、衣服や食物もまた社会的に定まった様式においてでなくては着られあるいは食われることがない。従って家の存在はすでにそれを包む広い場面すなわち地縁共同体をさし示している。主体的空間性はここで一層広い存在の場として具体化されるのであるが、それを最も明白に示しているのは土地の現象にほかならないがゆえに、ここに形成される間柄は|土地の共同〔付ごま圏点〕として把捉されうるのである。
 土地の共同が何を意味するかについてはすでに第三章(上巻、四四四ページ−四六九ページ)においてやや詳しく述べて来たが、そこで特に力説したのは、土地が単なる自然現象として把捉されるよりも前に|主体的な人間存在の契機〔付ごま圏点〕として実践的に了解されているという点である。常識的にいっても、土地とは田畑であり山林であり、あるいは所有地であり借地であって、単なる自然物ではない。田畑を荒らすことは、単に自然物にある影響を与えることではなくして、その所有主の人格に害を与えることである。だから田畑を荒らす暴風や洪水も、空気や永のある強さや量を持った運動というにとどまらず、|人間存在を荒らす〔付ごま圏点〕ものとして|災害〔付ごま圏点〕の意義を担う。|暴風〔付ごま圏点〕とか|洪水〔付ごま圏点〕とかという言葉自身がすでにそういう意義をあらわしている。空気の運動としての風はいくら速力を増してもそれ自身には「暴」という意味を帯びて来はしない。河の水も堤防を破って田畑を侵すのでなければ、同じ量であっても「洪」とは呼ばれない。それらは人間存在においてはかられるがゆえに暴となり洪となるのである。従って土地や風や水のごとき現象が純粋に自然現象として把捉されるためには、人間存在の契機としての性格をことごとく洗い落とさなくてはならない。すなわち|はなはだしい抽象〔付ごま圏点〕によって人間存在から解放されなくてはならない。
(100) 右のごとき性格は常識が理解しているよりもはるかに根強いものである。たとえば田畑から何某の所有地とか何某の耕作地とかの性格をぬき取っても、それが人間存在の契機であることは少しも薄らがない。田に稲が穂波をそろえている、あるいは畑に麦が赤らんでいる、というごとき光景は、人間の営為《いとなみ》によって作り出されたものであって、決して|自然のまま〔付ごま圏点〕ではないのである。稲がインドの原産であり、麦がイラン高原の産物であるというようなことは、地縁共同体よりもはるかに広い人間の連関をさし示すものとして、ここでは触れないでおくが、とにかく稲とか麦とかのごとき|ただ一種の植物が〔付ごま圏点〕、他の多数の植物を押しのけて|一面にはえそろう〔付ごま圏点〕などということは、しかもそれが見渡す限りの広い平野を一面に覆うているというごときことは、自然のままの現象ではなくして、あくまでも|人間存在の現象〔付ごま圏点〕なのである。人間はかかる光景を現出するために、知られざる古い時代からさまざまの苦労を積みかさねて来たし、また現在においても怠りなく苦労を張りまわしている。もしその苦労が一二年放擲せられたならば、同じ土地に全然異なった光景が現出してくるのである。それを考えれば、稲のみのった田とか麦の穂のそろった畑とかは、人間存在の緊張が緩むとともにもろく崩壊し去るような、|きわめて人工的なもの〔付ごま圏点〕であるといわざるを得ない。その光景を形成している素材が植物であるということは、毫もその人工的性格を否定するものではない。衣服や家屋は明白に人工的なものと認められるが、その素材の多くは同じく植物である。人間の営為《いとなみ》に依存する度合い、従ってそのもろさの点に着目すれば、右のごとき田畑の光景の方が衣服や家屋よりも一層人工的であるといえるであろう。このような性格をもぬき去った土地を把捉しなければ純粋に自然現象としての土地には到達しないのである。
 以上において稲や麦を代表としてのべたことは、田畑の作物一般に通用することである。穀物としては稲や麦のほかにとうもろこしやコーリャンなども広い面積にわたって栽培される。穀物のほかにはさまざまの種類の果樹や野菜(101)があり、ところによっては穀物の栽培よりも優位を占めている。葡萄、オリーブ、大豆などがその例である。そうしてこれらは人工的なものである点において稲や麦に劣るものではない。人工的な変種が目につきやすいことや、その栽培の光景が顕著に人為を印象する点においては、むしろ果樹や野菜の方が稲や麦に優っているであろう。つまり作物の種類は異なっても、|田畑の田畑としての性格〔付ごま圏点〕は、人間の営為を離れることによって直ちに廃滅に帰し去るようなものなのである。
 が、土地に属するものは田畑に限らない。大ざっばに数えても、そこには山や丘があり、森林があり、河川があり、道路がある。が、これらのものも人工的である点においては田畑に異ならないのである。道路が人工的に作られたものであって、人間の営為を離れれば道路としての存在を失うということは、いうまでもなく明らかであるが、堤防にはさまれた河川といえども、ほぼそれに異ならないであろう。森林は植林によって作られた限り明らかに人工的なものである。植林を行なわずただ人間がそこの樹を切って用いたというだけでも、その森林の姿はもはや人工の加わらないものとはいえぬ。周知のごとく、「原始林」と呼ばれるものはきわめて稀有な現象であって、保護につとめなければ湮滅に帰するものである。従って現在においては原始林そのものも人間に保護されたもの、すなわち人間の営為によってのみ存在し得るものといわなくてはならぬ。それほどまでに人工の加わらない森林は少ない。ただそこでは田畑と異なって人工の加わり方が緩慢であるが、しかしそれは樹木が有用なものとして育ってくるのが緩慢であるためであって、もし時間の単位を変え、世代あるいは世紀をもって量るならば、森林もまた田畑と同じように人間の営為に依存していることがわかるであろう。山や丘は通例このような森林をもって覆われているのであるから、その限り人工的性格を持たざるを得ない。特に村落や町に近い山や丘は、木材薪炭の供給所として絶え間なく人間の作為をう(102)け、それによって土壌の性質や山丘の形に至るまで、自然のままではそうならなかったはずの状態を現出しているのである。もっとも森林や山丘の場合には、田畑や河川のように、人間の営為を離れた場合、|きわめてもろく〔付ごま圏点〕崩壊するとはいえないように見える。田畑に稲麦がはえそろっているように杉や檜をはえそろえしめた植林は、たとい放置されても植林以前の状態には逆転せず、依然としてその成育を続けるだろうからである。しかしこの場合にも年や月をもってでなく世代や世紀をもって量るならば、森林や山丘の持つ人工的性格がもろく失われて行くありさまをたどることはできるであろう。それを実証する例は容易にあげ難いが、千年の昔豊かに栄えていた国土で今荒廃に帰しているというごとき地方、たとえば中央アジア、などにおいてならば、見いだすことができるかも知れない。
 なおその他土地に属するものとして重大なのは動物であって、それとの交渉は人間存在の最も古い層を形作っているかもしれぬ。|家畜〔付ごま圏点〕が高度に人工的なものであることは何人の目にも明らかであるが、その形成にはトーテムやマナなど原始信仰の一切がかかっているであろう。この形成は同時に野獣と家畜との区別の形成であり、従って野獣との戦いの一切の技術、すなわち狩猟の技術の形成を伴なっている。家畜は草地や牧場と結びつき、狩猟は森林への働きかけと引きはなすことができない。かつては猛獣との戦いが国家の重大な行動でさえあった。従って家畜のみならず野獣のあり方もまた人間存在の様態を示しているのである。
 土地はこれらの一切のものを包含する。従って|土地の共同〔付ごま圏点〕とは、これらの一切の現象における人間存在の共同である。かかる共同の最も手近な例は村落共同体において見られるが、村人たちは|意識を持ちはじめた当初より〔付ごま圏点〕すでに稲とか麦とか、あるいは葡萄とかオリーブとかを「作物」として尊重することを教わり、また牛とか羊とかを親しい生き物として愛護することに馴れている。まず初めに単なる自然を見いだし、後にそれの担う社会的価値を会得する(103)というわけではない。物心のついたとき、すでに、稲の植えてある田は、誰かの労力の敷き詰めてある土地として、かりそめにも踏み込んではならない、タブーのかかった場所である。無心の子供たちがそこを自由な遊び場所として感ずるのは、稲が刈り取られて株のみの残っている時であろう。こういう仕方で田畑と交渉しはじめるということは、明らかに村落的な|存在共同の場面において〔付ごま圏点〕田畑が出逢うということである。すなわち村人としての主体的な間柄が田畑として姿を現わしてくるのである。こういう仕方で育ってきた人の存在を眼中に置いて考えると、村落共同体を勘定に入れることなしに単におのれのみの存在において田畑を手近なものとして見いだすというようなことは到底あり得ない。田に湛えられた水において彼は灌漑の水路に関する村人の共同作業の一切を了解している。その水位のわずかな上下、その水量に対する照り降りの影響などは、あくまでも共同の配慮に属する。だから「おのれの田にのみ水をひく」ということは、エゴイズムの直観的表現としてさえも用いられている。田畑は何よりもまず共同存在の表現なのである。その共同存在から「われ」が分離することにおいてのみ、田畑は「わが手のもの」すなわち「われの持ち物」になる。
 かかる存在の共同は、すでに前節において言及したように、通例意識せられているよりもはるかに深いのである。そのなかにはさまざまの草や虫や魚や鳥や獣や、あるいは雨や風や暑さや寒さや、その他数えきれない多くの現象についての|驚嘆と会得との共同〔付ごま圏点〕がふくまれている。この驚嘆と会得とは、幼児における言語の習得の例が示しているように、悟性による理解と全然異なったものである。幼児のとき自由に使い得た言語を、その土地から離れることによって残りなく忘れ去るように、右の驚嘆や会得も土地から離れることによって失われるではあろう。その代わりその土地に生い育った人々にとっては、それらが存在の最下層に深く根を張っているのである。それらは意識の表面に現(104)われて来ないでも、実践的了解として力強く作用している。それが田畑においてのみならず、村落の位置、家屋の構造、道路網の組織、耕作の仕方、作物の選択、その他さまざまの風習や年中行事として表現されるのである。
 このような土地の共同は村落共同体のような狭い範囲に限らず、同じ平野、同じ盆地、同じ川の流域、同じ海の沿岸というごとく、一層広い範囲においても顕著に存している。多くの村々を含んで見渡す限り田畑ののび連なっている平野の光景は、やはり一つの地方的な共同存在の表現である。山々が重なり、無数の谷に分かれている地方でも、至るところ同じ様式の家屋や同じ耕作の仕方が見いだされるならば、人はここに一つの共同存在を認めざるを得まい。
 以上のごとき意味において地縁共同体としての人倫的組織は主体的空間性を具体化してくる。土地の共同は|特に顕著に〔付ごま圏点〕この具体化を示すといってよい。それに比すれば地域的閉鎖性を超えた|文化共同体〔付ごま圏点〕は、空間性の具体化という性格をあまり明らかにあらわしてはいないといえるかも知れない。しかし文化的共同は精神的共同にほかならず、そうして精神の最も著しい特徴が、それ自身主体的なものとして決して対象化され得ないにかかわらず、しかも対象的なものにおいておのれを表現するという点にあるとすれば、文化的共同はかえって深刻に空間性の具体化を実現せざるを得ないのである。
 文化は一面において必ず|文化産物〔付ごま圏点〕としておのれを現わしてくる。文化的共同はかかる製作の地盤であるとともにまたかかる文化産物に媒介された共同存在である。従って文化産物は主体的な間柄の表現として空間性の具体化であるとともに、また分散した人間を一つの共同体に結合する意味においても空間性を具体化する。すなわち主体的空間性は文化産物の形において客観的空間的なものとしておのれを現わしてくる。芸術、宗教、学問等はすぺてそうである。まだ空間的な形をとっていないものは文化的に創造されたものとはいえない。すでに空間的な形をとったものは必ず(105)主体と主体との間の了解を媒介するものとしてはたらく。このような人間関係にかかわることなしには、総じて精神が、すなわち主体的なるものが、「外に押し出されて」客体的な形をとる必要はないのである。
 右のごとき事情はアテーナイのパルテノンとかイェルサレムの神殿とかが一定の精神共同体の自己表現であるとともにまたこの共同体を媒介するものとしてはたらいているというごとき例によって明らかに示されているが、しかしそれはこの種の特に代表的な建造物に限らず、非常に広汎に、あらゆるところに存しているといってもよいのである。原始社会の人間は、丘とか森とか鳥とか獣とか、彼らがその周囲にたやすく見いだしうる物象において、パルテノンにおけると同じ意義を感じていた。トーテムと呼ばれるものがそれである。一つの森が聖なるものとして彼らの部族の全体性を表現し、それを媒介として部族員が非常に固い共同を実現する。かかる場合その森は単なる自然物ではなくして霊異きわまりなき生き物である。しかも人々はそれをおのれ自身から|類推して〔付ごま圏点〕霊あるものと認めたというようなわけではない。少なくとも部族員たちははじめからそれをタブーのかかったもの、畏敬すべきものとして受け取ったのである。そういう共同意識の源流にあるものも、恐らく類推ではなくして直接の|驚嘆の情〔付ごま圏点〕であろう。彼らは主体的な存在の奥底にある不思議さを、外へ投射して、そこから逆に受け取ったのである。トーテムはその代表的な場合であるが、しかしそういう受け取り方はトーテムの場合に限らない。語をかえていえば、どの自然物もトーテムたり得るということは、一切の自然が「生ける自然」として霊異なものだということである。人々はまずはじめに単なる自然物を見いだし、あとから類推によってその中に霊を認めるというのではなく、|はじめから〔付ごま圏点〕主体的なるものの|表現〔付ごま圏点〕としての「生ける自然」を見いだしたのであった。それは|彼ら自身の存在の外化〔付ごま圏点〕にほかならなかった。そういう生ける自然のなかから単なる自然が取り出され、さらにそれが精練されて自然科学的自然となるまでには、実に長い間の(106)人間の精神的努力が必要だったのである。
 このような自然科学的自然がすでに把捉されている今日においては、原始的な「生ける自然」などが、何の意義を持ち得ようと考えられるかもしれない。たしかに自然の認識についていえばそうである。しかしわれわれの周囲の自然をそのままに主体的な人間存在の表現として取り扱うことは、そんなに無意義なことではない。文芸や美術は数千年来そういう取り扱い方をやりつづけている。自然の形象が美しいということは、自然科学的な自然とかかわりのないことである。花の|美しさ〔付ごま圏点〕は植物学的な研究がどれほど進んでも、また光や色についての物理学的な研究がどれほど精細に発達しても、説明され得ないであろう。なぜなら、花が美しいという|あり方〔付ごま圏点〕は人間存在にもとづくものであって、人間存在からひき離した花というものの性質なのではない。人間は花の美しさを感ずることにおいて、花のもとに出ているおのれの存在を受け取っているのである。詩人や画家がこの美しさを捕えて芸術的に結晶させると、そこにはもはや自然対象としての花そのものではなくして、ただ色や形だけが描写されているにかかわらず、かえってそれが花の真の生命をあらわにしているように感ぜられる。詩人や画家はこの花の姿において人間存在自身の深みを開示したのである。それを見て味わう人々は、おのれの|おぼろに感じていたもの〔付ごま圏点〕がそこに明白に把捉され、確保されているのを感ずる。それとともに自分の周囲に咲いている花の美しさが、もはやおぼろにではなくして、鮮やかに眼に映るようになってくる。「自然は芸術を模倣する」というワイルドの警句は、決して単なる逆説ではない。ここに芸術と呼ばれるものは最も広義に、感情に訴えるようになされた一切の人間の形作りを意味すべきであると思うが、とにかく自然に対する人間の感じは、そのような人為的形成に媒介され、従ってこの形成の地盤たるとともにまたそれによって実現される|精神的共同〔付ごま圏点〕を反映しているのである。
(107) このような自然の形象は古来花鳥風月などと総称されて来たが、しかしそれらにとどまらず、およそ自然の風景を構成せるあらゆる契機は同様な意義を担っている。前に問題とした田畑とか山川草木とか気象とかの現象は、ここでは人間の|労働的作為〔付ごま圏点〕ではなく人間の|感情的形成〔付ごま圏点〕にもとづく意味において、同じょうに全然人為的な光景になる。虫の音しげき秋の月夜の光景は、「物の哀れ」を感ぜしめる代表的なものとして日本人に親しいものであるが、しかし天文学的あるいは生物学的知識がどれほど進歩しても、そこから物の哀れの原因を説明することはできない。われわれの祖先が遠い昔からこの光景において|無限性〔付ごま圏点〕の感情に襲われ、そこに人間存在の深い底、底なき底への接触を体験して、それを詩歌に表現したからこそ、その感じ方がいわば月夜の観照の框となったのである。しかしそれは人々が各自の意識においてかかる哀感を体験するというだけではない。秋の月夜そのものがかかる哀れの色調を帯びた風景として現前するのである。すなわち対象的な風景そのものが、人間の感情的形成にもとづいて、存立しているのである。ここに文化的共同としての主体的空間性の具体化が見られる。この場合の文化的共同は各人が同じ哀感を心のうちに抱くというのみでなく、哀れさの沁みとおった月夜の光景が各人の前に展開しているということである。従って月夜の光景そのものが|文化的共同の中味〔付ごま圏点〕にほかならない。かかる意味において自然の風景全体が文化的共同の中味になる。それは芭蕉の数多い句が表現しているように、実に豊富きわまりのないものである。
 しかしそれだからといってわれわれは、自然の風景から一切の人間存在的性格を抜き去った自然科学的対象としての自然が、文化的共同の中味でないというのではない。なるほど自然科学的対象は、人間存在から解放され、人間と独立に有るものとして見いだされている。その世界においては人類自身も一つの自然科学的対象に過ぎない。しかし、かかる対象を見いだしたのは人間の学問的努力なのである。従って人間存在から独立したものとしての自然は実は|人(108)間存在の一契機〔付ごま圏点〕にほかならない。自然科学なくして自然科学的対象はないのであり、そうしてその自然科学は明白に人間存在に属する。しかもその自然科学は、芸術や哲学と異なり、個人の独創よりは、むしろ学問的共同の上に生い育ったものである。自然科学的認識、従って|自然対象が、文化的共同の中味である〔付ごま圏点〕ことは、当然といわなくてはならない。
 人間を単なる生物の一種として含んでいるこの自然科学的世界像が、それ自身人間存在の一契機にすぎないということは、言葉の上に現われているほど逆説的なことではない。生物の一種としての人間は全然客体的に|自然科学的対象〔付ごま圏点〕として把捉されたものであり、自然科学的世界像を一契機とする人間存在はあくまでも主体的に|自然科学的活動〔付ごま圏点〕を営んでいるものである。両者は次元を異にする。いかに前者をもって後者を包もうとしても、かく包もうと努力することにおいて後者のなかに包まれてしまうのである。最近の物理学がその微視的な観察の極点において、観察そのものが観察される現象に影響するということ、従ってそれ自身における現象は知り難いという事を問題としているのは、非常に興味深いことに思われる。それは観察するためには光線をあてなくてはならないということに起因するのであるが、同じ光線の問題は巨視的な観察の場合にも起こるであろう。一億光年とか十億光年とかの遠方の星は、一億年あるいは十億年前の光線によってその存在を知るのであるが、しかしわれわれの観察において同時性をきめるには光線よりも確かなものはないのであるから、光線の届いた時を今として観察するよりほかにいたし方がない。従ってこの一億年あるいは十億年以来にその遠方の星にどんなことが起こっていようとも、光線がわれわれに達する以前には全然知ることはできないのである。一億光年のかなたの星が五千年前に爆発したとしても、それはわれわれにとっては五千年後の未来の出来事にすぎない。してみれば、巨視的な宇宙の現象もわれわれの観察に相対的なものであって、(109)われわれと独立の、それ自身における現象などは、到底知ることはできないのである。従って自然科学的世界像が人間の認識に相対的なものであり、人間と独立に|それ自身においてある〔付ごま圏点〕ものではない、ということは、むしろ自明のことだとさえもいえるであろう*。
 * J.S.Haldane,Philosophy of a Biologist,p.27 ff.
   「カント以来の哲学にとって、もっとはっきりいえばアインシタインの発見以来、われわれの物理的経験の世界全体は知覚された経験の世界であって、知覚と独立には存在せぬ。(もっとも、単に個人的な知覚ではないが。)この意味において世界はわれわれの外には存せぬ。われわれは、空間や時間の最も遠い奥を想像するときにも、ただわれわれ自身の知覚の世界に属するものを理解しているだけである。」

 しかもこの自明のことが容易に承認されないのは、もともと自然科学的対象が人間存在からの|解放〔付ごま圏点〕、人間と独立に|有るもの〔付ごま圏点〕としての措定によって成立しているからである。このような解放的性格を最もよく示しているものは、自然科学的認識における普遍妥当性の要求であろう。それは時とところを超えて通用することを要求する。地動説が認められたとき、地球は中世においても古代においても太陽の周囲を回っていたと認められたのである。マラリヤ菌が発見せられたとき、昔ローマの外郊の瘴気と考えられていたものは、実は空気中の毒素ではなくして、蚊の媒介するこの黴菌にほかならなかったこともまた同時に発見されたのである。してみれば、古代や中世においては、|人間の認識と全然かかわりなく〔付ごま圏点〕地球が動きマラリヤ菌が活動していた。それと同じことは原子の構造とかヴィタミンとかについてもいえる。人間の認識は、人間と独立に|それ自身においてある〔付ごま圏点〕ものを、次第に見いだして行くだけであって、かかる対象をはじめてあらしめるのではない。かく人々は確信するに至るのである。
(110) しかしいかなる意味においても人間の認識にふれないものが、いかにして|あり得る〔付ごま圏点〕であろうか。遠隔の地から鋼鉄を崩壊せしめる光線なるものは、いまだ認識されていない。従ってそんなものはないのである。しかしアナトール・フランスがそれを空想した限りにおいては、すなわち空想されたものとしては、あるといえる。空想さえもされないものについては、あるともないとも全然問題が起こらないのである。そういうものが、それ自身においてあるものだとせられたところで、それはわれわれと全然縁のないものではなかろうか。それに比すれば原子のごときはすでに二千数百年前に人間がそれへの見当をつけはじめたものであり、ヴィタミンやマラリヤ菌のごときもすでにマナやタブーの観念においてそれへの接触のはじまっているものである。地動説のごときは、黄道十二宮の認識をすでに作り上げていた太古の時代以来の天体の認識の集積からついに押し出されて来た認識なのであって、それ自身においてあるものの端的な発見なのでは決してない。人間は実に長期にわたる認識の努力において、徐々に現在のごとき宇宙像を作り上げて来たのである。だから自然科学的|認識の共同〔付ごま圏点〕は、すなわち客観的|自然界の共有〔付ごま圏点〕にほかならない。自然科学的対象としての自然界が、学問の共同の中味であるというゆえんである。
 以上のごとく見れば、われわれの周囲の自然界と呼ばれるものは、一つの層においては人間の|労働的作為〔付ごま圏点〕によって現出した人為的光景であり、他の層においては人間の感情的形成にもとづく人為的世界であり、さらにこれらの層を洗い去った純客観的な層においても、人間の|認識的形成〔付ごま圏点〕によって成立した最も著しい人工的世界なのである。従って人間の文化段階が異なるとともに、その文化の共同において成り立つ人間共同体は、それぞれに|異なった自然界〔付ごま圏点〕を含んでいる。主体的空間性はそういう形に具体化しているのである。

(111) 以上のごとく主体が多化し対立することを通じて一に還ろうとするという人間存在の空間性は、人倫的組織として展開することにおいて、さまざまの具体的場面におのれを表現する。家族は家や庭に、地縁共同体は村落や田畑に、文化共同体は風景や自然界に。これらの具体的場面はすべて個々の共同体に|固有のもの〔付ごま圏点〕であって、すみずみまでもその固有の存在を反映している。室のすみの小さい置き物がこの家族にとって特殊の意味をもっているように、野のすみの小さい木もこの村人にとっては動かせない目じるしである。そういう個々の間柄的な意義を拾って行けば、かかる意義を担っている物象は地面に一ばいに敷きつめているといってよいであろう。これらの物象の総体を通例は|自然環境〔付ごま圏点〕という概念によっていい現わしているが、実はそれぞれの主体的共同存在の表現にほかならないのである。
 かかる表現としての自然環境は実に多種多様な内容を持っている。山一つ川一つ距てても著しい相違が現われてくる。いわんや多くの地縁共同体、文化共同体を含んだ広汎な人間存在の場面を問題とするときには、それは複雑きわまりのない織物となるであろう。従って、人々がこの多様性を統御すべき|統一的な視点〔付ごま圏点〕を持たないときには、この人間存在の具体的場面についての自覚に達することができないのである。しかるに人々は人倫的組織を貫ぬく統一の自覚において、すなわち国家の自覚において、この統一的視点を獲得する。それとともに前述のごとき人間存在の具体的場面は、「風土」としておのれを現わしてくるのである。
 人間存在の風土性が国家においてあらわになってくるということを端的に示しているのは、|国土〔付ごま圏点〕あるいは|領土〔付ごま圏点〕の概念である。それは人間存在と土地との密接な連関の自覚であるとともに、上来述べ来たったごとき主体的空間性の具体化が|風土性〔付ごま圏点〕としておのれを現わす緒となるものである。
 国土の概念は国家の統一に即して一定の土地を他の土地から界限すること、すなわち|土地の限定〔付ごま圏点〕を意味する。われ(112)われは前節において紀年の成立が毎年同じようにくり返している年に一定の固有な位置を与えることを見て来たが、それと同じように、国土の成立は一様に広がっている土地のある一部分に一定の固有な位置、固有な性格、固有な意義を与えるのである。それによってこの土地は、他の土地と勝手に取りかえることのできぬもの、この位置、この形態において一定の人間存在と不可分の連関を有するもの、従ってこの人間存在に属せざる人間をそこから排除するもの、として公共的に承認される。このような|土地の限定〔付ごま圏点〕が人間存在のうちに醸《かも》し出す構造こそ、風土性の問題にほかならないのである。
 国士として国家において自覚される以前には、右のような土地の限定は存しなかった。国家以前の人倫的組織は通例人的関係をのみ眼中に置き、領土的関係を含まないといわれている。これは原始部族が土地との連関を持たないということではなく、その連関を本質的なものとして自覚していないということなのである。|狩猟〔付ごま圏点〕を事とする部族は非常に広汎な地域を必要としたであろうが、しかし彼らのさしずめの関心の対象は動きまわる動物であって、土地ではなかった。同じ地域で他の部族が狩りをするということは、防ぐこともできなければ、また防ぐ必要もなかった。彼らにとって大切なのは、広い地域に散在している部族員の間の緊額な組織であって、土地の組織ではなかった。この事情は|遊牧〔付ごま圏点〕を事とする部族においても同様である。牧畜を営むということは狩猟に生きる段階に比してはるかに進んだ文明を示しているが、しかし家畜の群れをひきい、牧草を追うて移り歩く生活は、前の場合と同じく広汎な地域を必要としながら、しかも関心の対象とするところは牧草であって土地ではないのである。だからここでは時おりある草地に回って来てその草を利用し得ればよいのであって、その草地の排他的な占有は不可能でもありまた不必要でもあった。もしおなじ草地に多くの群れが落ち合って争いが起これば、アブラハムのように、「|地はみななんじの前にあるに(113)あらずや〔付ごま圏点〕。請う、われを離れよ。なんじもし左にゆかばわれ右にゆかん」ということができた。それらに比すれば農耕の技術を学び取った部族は、トーテム的な氏族組織を保持する段階にあってもすでに土地への定着を実現しているといえるが、もしそういう原始的な社会組織のうちにすでに|土地の組織〔付ごま圏点〕が含まれているならば、われわれはそこに|萌芽的な国家〔付ごま圏点〕の存在を問題としてよいのである。しかし容易に移動しうる部族、たとえば古代末期から長期にわたって民族移動を行なったゲルマーネンの諸部族のごときは、まだ土地へ定着していたとはいえない。彼らが土地との不可分な連関を設定したのは、民族移動を終わり、国家を形成した時のことである。
 かくのごとく|国家の形成〔付ごま圏点〕と|土地の限定〔付ごま圏点〕とが結びついているのは、人間存在の契機としての土地、すなわち人間の営為によって形成される土地が、家族とか村落とか文化共同体とかの立場だけでは充分に実現されず、それらよりもはるかに強力な立場、すなわちこれらの共同体の無数を統一して高次の人倫的組織たらしめるところの国家をまって、はじめて出現してくるのだからである。われわれが痕跡をたどり得る限りの最も古い国家は、チグリス・エウフラテスやニルの沿岸地方に形成されたと考えられるが、これらの国家の仕事は、大河の水を適当に処理して沿岸の平野の農耕に役立てるという治水灌漑の大工事やその灌漑組織の絶え間なき監視であった。この仕事のためには河水の増減に関する綿密な知識、その季節的な関係や栽培植物との連関などについての周到な観察、その他天文、地理、気象などのさまざまの知識が必要である。人類がいつのころからそういう知識を持ちはじめたかは明らかでないが、少なくとも黄道十二宮の知識、すなわち季節に応ずる一年間の太陽の位置の変化を星座によって認識するやり方は、すでにスメル王国の時に存していたと考えられる。穀物、菓物、家畜など、衣と食との重要な資料についても、現在と大差なきものがそのころにすでに知られていたはずである。そういう知識は家族とか氏族とか部族とかのごとき狭い立場(114)で得られたのではない。それらを包む広い国家の立場、あるいはさらに国家をも超えた広汎な場面において、ある稀有な天才や智者が例外的に到達し得た理解を、国家の力が活かし育てて、国土の全面にひろがるようにしたのである。だからそこには家族や地縁共同体を超えた広汎な地域にわたる水路網や堤防の工作、それに伴なう長大な道路網、それに適応した村落の配置、人口の分布などが綿密に配慮される。こうして大河の沿岸地方が、自然に放置された場合とは全然趣を異にする「組織された土地」に転化したのである。こういう仕事は国家のみがなし得たのであり、逆にいえばこういう仕事をなし得たがゆえに国家が形成されたのであった。だから国家はこの「組織された土地」をおのれに固有のものとして、|排他的に領有する〔付ごま圏点〕という意識を持ちはじめたのである。
 この事態は、右にあげたような太古の国家の場合に限らない。後代の国家の起源伝説などにも同じ事態が看取される。シナにおいては国家のはじまりは黄河の治水と結びついて語られている。わが国においても国のはじまりは「国土」の創造として語られ、そうして古いころの国家の重大事のなかには、地溝を掘り、堤防をきずくことや、四道八道の開設などを数えている。それらはおばろげながらも国家の成立と土地の組織との連関が|自覚されている〔付ごま圏点〕ことを示すのであって、ただに実践的に土地を組織してそれを領土として設定したというだけにとどまらないのである。
 これらに対してギリシアの|都市国家〔付ごま圏点〕の場合はやや事情を異にするように見える。なぜなら、ここでは城壁に囲まれた都市が国家の中核であって、領土はこの都市の一部分にすぎないからである。しかしこの形態が示しているのは、すでに国家が形成され土地が組織されていた地方を、新しい侵入族が|いかに征服し処理したか〔付ごま圏点〕、ということであって、はじめて土地を組織する時のことではない。征服族にとってはそれがはじめでの国家形成であったとしても、彼らはもはや土地の組織に努力するを要せず、すでに組織された土地とその住民とを受け取って、その|人民の新しい組織〔付ごま圏点〕に(115)努力すればよかったのである。それを彼らは先住民の奴隷化、従って社会の階般的組織によって解決した。これがギリシアの都市国家において領土の意義の軽いゆえんなのである。従って右のような征服の仕事が顕著でなく奴隷化の痕跡も少ないアッテイカ地方などでは、よほど事情が違ってくる。そこでは最初から|デーモスの組織〔付ごま圏点〕が顕著であった。デーモスとはまず|土地〔付ごま圏点〕を意味し、ついでその土地の|住民〔付ごま圏点〕を意味するに至った言葉である。アッテイカの地方ではまずいくつかのデーモスの組織が形成され、それらが漸次合一してアテーナイの都市を作り出すに至ったのである。だからここでは国家の形成は土地の組織と結びついている。城壁のなかへの共同居住はむしろ象徴的な意味で実現されたのであった。が、このように土地の組織をみずから営んだにしろ、あるいは先住民から受けついだにしろ、とにかく都市国家が土地の組織と密接に連関することは明らかである。複雑な灌漑組織もしくは排水組織などが古くから存していたことも実証されている。自給自足を理想とする都市国家にとっては実際土地の組織は重要だったのである。老年のプラトンが『法律』において理想的な都市国家の法制を構想しようとしたとき、|最初に取り上げた問題〔付ごま圏点〕は、その都市の地理的位置、その国土の性質などであった。もっともプラトンはこの際、衣食住の需要を充たすという視点からのみではなく、|国家の道徳的優秀性〔付ごま圏点〕を目ざして都市の位置や国土の性質を考察しているのである。が、土地の組織は当然このような精神的意義を頂点としなくてはならぬ。
 国家と国土との連関は以上のごとく密接である。そこである人々は国土を|国家の身体〔付ごま圏点〕と考えようとする。もし国土が私人の所有物と同じく国家の所有物に過ぎないならば、国家はその所有物を自由に処分しうるはずである。農夫はその所有する田畑を売り、他の地方に新しく田畑を買ってそこへ移住することができる。そのように国家もその国土を去って他の土地に移り得なくてはならぬ。しかるにこのことは国家にとって全然不可能である。かりにオランダ人(116)が女王のもとに全国民をあげてジャバに移住したとしても、それは「オランダ国」を移したのではない。ジャバには新しくオランダ人の国ができるであろうが、それにもかかわらず「オランダ国」はなくなるのである。それに反してオランダ国がジャバその他一切の植民地を失ったとしても、あの西ヨーロッパの低地ネーデルランドを保有する限り、俵然としてオランダ国である。そのように国家は固有の中核領土を持ち、それを変えることはできないのである。従って国家にとっては国土は住民よりも重い。住民の一パーセントが国外に移住してもさほど惜しがらない国家が、領土の一パーセントを失うことは戦争を賭しても拒もうとするであろう。その限り、国家は住民と連帯的であるよりも一層強く国土と連帯的であるといわなくてはならぬ。これらの点からして国土は|国家の身体〔付ごま圏点〕であり、|国家の人格に属する〔付ごま圏点〕といわれるのである。かつてイェリネックは国土が国家の客体ではなくして主体に属する契機であることを主張し、国家と国土との関係を物権的でなく人格権的性格のものとする国家学の見解に大きい意義を認めた。国土を害《そこな》うことは国家自体を害うことであり、財産に対する犯罪ではなくして人格に対する犯罪なのである。
 国土を身体に比するというようなことはもとより一つのアナロジーに過ぎないのであるが、しかし国土が単なる自然物ではなくして人間存在の表現であればこそ、このようなアナロジーも可能となるのである。国家のあるところには土地の組織があり、そうしてその組織は社会組織と同じく人間の実践的行動において存立する。それは絶えず監視され、保護され、また作り直されなくてはならぬ。従ってこの国土は、そこで営まれる人間の共同生活が絶えずしみ込んでくるところ、その共同生活とともに変遷しまた発展するところである。数え切れぬ世代の人々が、この国土にょって養われ、この国土の開発と組織とのために働き、そうしてこの国土の土のなかへ帰って行った。だからそこには祖先の墓があり、祖先以来耕し続けて来た田畑があり、祖先以来漸次発達して来た灌漑組織がある。それは文字通(117)りに「父祖の国」「祖国」である。人々はそこに深い連帯感を抱かざるを得ない。ところでこれら一切の人間の営為を統一し持続させているのが国家の力である。地方のすみずみまで行きわたる秩序立った行政、それと同じく複雑に張りまわされた交通網の形成、さまざまの公共的労働の組織、などはみなそこから出る。かくして国土が開発されるに従い、国家は一層強く国土と結びついてくるのである。
 国土はこのように国家との絶えざる|相互影響〔付ごま圏点〕の下に立っている。従って、国土を失えば国家が亡びるように、国家を失えば国土もまた亡びるといい得るであろう。もっとも国家が崩壊しても地縁共同体や文化共同体が健全に残っている限り、国土は直ちに崩壊はせぬであろう。また一つの国家が亡びても、直ちにそのあとに国家が組織され、地縁共同体や文化共同体の保衛に任ずるならば、同じく国土は荒廃せぬであろう。国破れて山河ありといわれているが、そのように亡びないで残っている山河は、人間存在からひき離された自然対象を意味するか、あるいはもし国土を意味するならば、国の興亡に頓著なく土地を耕作している人民大衆の存在を示唆しているのであろう。もし亡国によって土地への人間の営為が妨げられるようになれば、国土はたしかに亡びるのである。著しい例をあげれば、チグリス・エウフラテスの沿岸、グァダルキビルの河谷、イタリアのマラリヤ熱海岸などがそれであろう。これらの地はバビロニア人やマウル人や古代ローマ人などが活発に土地の組織に努めていた時代の国土と決して同じではないのである。彼らの時代にはこれらの地は豊饒な繁華な国土であった。しかし彼らのあとに来た住民は灌漑や排水の設備を荒廃させ、豊饒な土地を不毛な土地、瘴癘の土地に変化させてしまった。ここに出現したのは前とは異なる新しい国土である。これらの例が示しているように、国土もまた国家と興廃をともにする。国破るれば国土もまた破れるのである。
(118) 国土は以上のごときものとして、数多くの家族や地縁共同体や文化共同体などの具体的中味に|統一〔付ごま圏点〕を与える。家屋の形態、料理や食事の仕方、衣服の作り方、あるいは田畑の整え方、耕作や牧畜の様式、さらに進んでは風景の感じ方に至るまで、たとい地方的にこまかな無数の変化があるにもせよ、大体において|一つの国土の基礎的な様式〔付ごま圏点〕が定まってくる。このことが風土性の自覚にとってきわめて重要な点なのである。
 もし個別的なものの差違に固執するならば、一つの家における料理の仕方とか食事の作法とか座敷の整え方とかは、それぞれ他の家と異なった個性を持ち、一として同一とはいえぬであろう。また一つの村の田畑の整え方、水のひき方、種まきや収穫の仕方などは、目の前にある川向こうの村のそれとさえ異なった特色を持つであろう。が、さらに一層広い地方的な差別に着目すると、家々村々の差別などを問題とさせないほどの顕著な特色が現われてくる。しかしそれさえもさらに大きい地方的区別の前には影が薄らぐであろう。そういう数重にも重なった特性に着目すれば、一国内の差別は実に多様をきわめている。しかしそれにもかかわらず、一つの国土における衣食住の様式とか耕作の様式とかは、はっきりと取り出せるのである。そこには個別的な差別や地方的な差別と次元を異にする大きい特性がある。これは通例一つの国土が、山脈とか海とかのごとき|自然的限界〔付ごま圏点〕によって他の国土から距てられ、その内部において同じ河による共同灌漑とか、同じ海の利用とかによる密接な連帯性を形成していることにもとづくのであるが、しかしそういう限界がなく、なだらかに続いた土地においても、国境が久しく定着していた場合などには、同様な特性が形成せられている。すなわち自然的限界よりも|国土としての統一〔付ごま圏点〕の方が根本的な意義を担っているのである。国境が自然的限界によらずただ人為的観念的に一つの平地のなかに引かれているにかかわらず、その両側において景観が著しい差違を示してくることは、実際驚くべきことである。そこではただに家屋の形や聚落の様式が異なってくる(119)のみならず、畑や森や山などの姿さえも変わってくる。これは明らかに自然の相違ではなくして|人為の相違〔付ごま圏点〕であり、そうしてそれは|国土が異なること〔付ごま圏点〕を意味しているのである。
 このような|国土の特性〔付ごま圏点〕は、無数の世代の人間の営為が無意識のうちに作り出したものであって、それを作りつつある国民自身は必ずしも|自覚〔付ごま圏点〕しているとは限らない。しかし無自覚的ではあっても、それを作り出したということはすでにそこに|実践的了解〔付ごま圏点〕が存したことを示しているのである。その顕著な例は地中海の沿岸にギリシア人の作った植民地であろう。当時のギリシア人はまだギリシア的な国土の特性というごときことを自覚してはいなかった。しかしそれにもかかわらず、イタリアの南半、南フランス、スペインなどの沿岸に点々として作られた植民地は、実に明白にギリシア的国土という|選択の標準〔付ごま圏点〕を彼らがすでに持っていたことを示している。イタリアの北半、植物の種類が明らかに南半と異なっている地方には、彼らは一つの植民地をも作らなかった。が、この例の示すような実践的了解は、およそ国土を経営する限りのどんな民族にも存するのである。
 われわれの問題はいつそれが自覚されはじめたかにかかっている。われわれの手にある証拠の示す限りにおいては、それは|歴史的自覚と相伴なった〔付ごま圏点〕ものである。そうして歴史的自覚が超国家的場面においてひき起こされたように、国土の特性の自覚、すなわち風土性の自覚もまた超国家的場面において現われてきたのである。他の国土を全然知らないものはおのれの国土の特性をも自覚することができず、従って国土の特性が人間存在において有する意義をも理解することができない。それに反し、他の国土のさまざまの珍しさを経験したものは、いや応なしに風土の相違の意義を理解しはじめるのである。この点より見れば、超国家的場面における他の国家との接触は、歴史的自覚においてよりも風土的自覚において一層必要であるというぺきであろう。
(120) しかしまたわれわれは、事実問題として、風土的自覚が歴史的自覚に付随するものとして起こってきたということをも認めておかなくてはならない。これは他の国家との接触において歴史的自覚の方が|優先的〔付ごま圏点〕にひき起こされることを意味する。他の国家から文化的刺激のみを受ける場合はいうまでもなく、他の国家の軍事的な圧迫を受ける場合にさえも、|その国士がいかなるものであるかを知ることなくして〔付ごま圏点〕、しかもその国家の存在を痛切に体験することはできる。かかる場合には強い歴史的自覚は起こるにしても、風土的自覚は起こりえないであろう。風土的自覚のためには他の国土の感覚的体験、もしくはそれにもとづく知識がなくてはならない。これは単純に他の国家の存在を体験する場合よりもよほど具体的な条件を必要とする。そうしてそれが風土的自覚を媒介するとすれば、風土的自覚が歴史的自覚よりも遅れることは当然であろう。人間存在の構造においては風土性は歴史性と同じく根源的であるが、自覚される場合の先後は認めざるを得ないのである。
 わが国においてはじめて歴史叙述の仕事が企てられたのは、朝鮮やシナとの文化的及び軍事的な接触の後であったが、その叙述のなかには付随的にさえも風土に関する部分を含んではいない。しかし全然風土の自覚がないかというと、そうもいえないのである。われわれの神話がその冒頭に「国土」の創造を語っていることは、一つの注目すべき事実としてすでに言及したが、その国土を神話のなかでいかに呼んでいるかに注目して見ると、それはほかならぬ「大八島国」及び「豊葦原の瑞穂の国」であって、いずれも風土的な自覚を表現した名だといってよいのである。わが国が島国であり、しかも|多数の島〔付ごま圏点〕よりなる国であるということは、わが|国土の基礎的な特徴〔付ごま圏点〕だといってよい。しかもそれは大和の国とか吉備の国とかという意味での「国」の立場で把捉し得られることではない。九州とか本島とかのごとき広い土地をも島として把捉し、それを他の小さい島々とともに「一つの国土」として自覚した立場、すなわ(121)ち朝鮮やシナに対してわが国土を島国として自覚した立場がここに示されているのである。また「葦原の中つ国」とか「豊葦原の瑞穂の国」とかいうごとく「葦原」をもってこの国土の特徴を現わすことも、非常に含みの多いやり方といわなくてはならない。葦が一面に生いしげり、その穂が見渡す限りうちつづいているというごとき光景は、治水工事が整う前の大河の流域には、普通に見られたものであろう。が、それは役に立たない土地であり、従って愛すべき光景ではないはずである。それを特にとりあげ、この国土の特徴的な姿として強調することは、この国土をのみ眼中に置いていた人々のなすところとは思えない。ここでも恐らく朝鮮の乾燥した景観を見て来た人々が、葦のごとき頑強な禾本科植物の繁茂にもかかわらず、その湿潤な景観のうちに水田耕作への豊かな将来を看取し、そこにこの国土の基礎的な特徴を見いだしたのであろう。もっとも葦原はただ外縁でありその中の国が問題であれば、従って瑞穂は葦の穂ではなくして稲の穂にほかならないとすれば、事情は異なってくる。葦原につづいて広い水田が展開しており、それが中つ国の光景となるからである。この解釈は少しこじつけであるとは思うが、もしそうであるならば、大河の流域は中ば開墾され、水田耕作が国民の|主要な関心事〔付ごま圏点〕となっている。暑熱と湿潤とを条件とするこの水田耕作の光景がわが国土の基礎的な特徴として自覚されることは、必ずしも朝鮮の国土との対此をまたぬであろう。が、それにしてもこういう自覚が朝鮮と関係しはじめて以後に起こったろうことは疑う余地がないのである。
 朝鮮との関係を一層強く連想せしめるのは、日本武《やまとたける》の尊《みこと》の愛らしい説話にはめ込まれている「国しぬび歌」である。
  やまとは国のまほろば、たたなつく青垣山、こもれるやまとし、うるはし。
これは端的に緑の美しい山々に取り囲まれている国土の美しさを歌ったものである。説話では能煩野《のぼの》までようやくたどりついた日本武の尊のやまとへの思慕として掲げているのであるが、しかし鈴鹿の地方もまた緑の山々は美しいの(122)であって、そこでの国しぬび歌が単に緑の山々をのみ歌うということは、いかにもあり得ぺからざることである。従ってこの国しぬび歌は、他の境位においてできたものが後にこの説話に結びついたものと見られなくてはならない。そうしてその境位はまさしく朝鮮なのである。朝鮮にいくらかでも滞留した人が、わが国に近づいて来て最初に受ける強い印象は、まさしく青垣山の美しさであろう。上代においては幾万かの日本人がこの体験をくり返した。それを背景としてこの国しぬび歌を見れば、これはまさしく日本の国土を思慕する歌であることがわかるであろう。そうしてここに把捉せられているものもまたこの国土の基礎的な特徴の一つなのである。
 わが国における最初の歴史叙述のうちにも右のごとき意味においてさまざまの風土的自覚が含まれているのであるが、さらにこの歴史叙述よりもやや後に『風土記』の編纂が試みられていることは、見のがすわけには行かないであろう。『風土記』は、その撰述に際して与えられた指令によれば、銀、銅、彩色、草木、禽獣、魚虫などの地方的物産、土地の沃瘠、山川原野の名の由来、古老のいい伝える旧聞異事などを叙述すべきものであった。(続紀、和銅六年五月二日)これは風土の把捉を目ざしたものと見てさしつかえないであろう。もっともこの風土記の構想は充分に実現されたとはいえない。現存の常陸や播磨の風土記は主として古い言い伝えや地名伝説を集めたものであって、風土記への関心をほとんど示さない。ただ出雲風土記のみは、かなり丹念に物産や地理を記録し、また地方の神話や地名伝説のうちにも、冒頭に語られている国引きの話のように、出雲の国の地形と関係を持つらしい話を集めている。これらの残された例によって察すれば、風土記の構想は半ばほどにも実現されなかったといわなくてはならない。しかしそれにもかかわらず、日本人が最初に歴史を編纂したあとで、すぐひき続いて|風土の把捉を試みた〔付ごま圏点〕という事実は、示唆するところが多いのである。なぜなら、その把捉に成功したと否とにかかわらず、かかる試みの行なわれたことだけ(123)で、風土的自覚の存在を明らかに実証しているからである。
 以上のごとき日本の場合に比すれば、シナの最初の歴史書たる『史記』は、一層明白に風土的自覚を示している。天官書、封禅書、河渠書等において、天文・地理・治水等、風土の現象を特に取り扱っているのがそれである。中でも河渠書は、分量よりいえばいうに足りない小篇であるが、シナの国土の基礎的な特徴が治水に存することを鮮やかに指摘した点よりいえば意義すこぶる大なるものである。黄河の治水事業は禹の治水神話に凝縮せられているが、そのいい現わそうとするところは、無数の川や沢の処理のみならず、最後に黄河を治めたときシナの国土が形成されたということである。しかし治水はさらに揚子江に及んで行く。これはシナの国土が南にひろがったことである。上流は成都より下流は河口近くに至るまで、ところどころに渠を掘って支流と支流との間や湖沼との間を連絡し、排水と舟行の便と灌漑とを計ったのである。そういう治水が眼に見えて効能を発揮した例としては、水工鄭国が三百余里の渠をつくって関中を沃野と化したことがあげられている。これによって秦は富強となり、ついに天下を統一するに至ったというのである。司馬遷自身の時代には、黄河の堤防が何百年ぶりかで決潰し、国家の大問題となった。その補修は容易ではなかった。河東の地にしきりに運河を掘って運輸と灌漑との整理につとめたが、充分には成功しなかった。ついに二十余年の後、旱して雨少なき年に、国家の全力をあげて黄河の復旧に努力し、ようやくにして禹の旧迹に復することができた。この時天子が決潰の個所に臨んで、工事の難を悼んで作ったとせられる二首の歌は、治水の要に対する国民的自覚を反映したものといってよいであろう。これは最も顕著なものであるが、その他全国的に治水灌漑の工事が行なわれた。シナの国土がまことにかかる人間の営為によって形成せられていることを河渠書は実に明瞭に指摘しているのである。
(124) この国土こそ、秦以来シナ人が万里の長城をもって防衛しようとしたものにほかならなかった。ここに形成せられた国土が朔北の原野と異なるものであることの理解をこの人工的な境界が明らかに示している。それは確かに風土的境界でもあるのである。『礼記』の月令が保存しているような風土の知識は、この国土の経営に即したものであろう。この後シナに興った王朝ごとに編纂せられた史書は、多少ともに風土の記述を怠らない。長城の北や西にひろがる沙漠や草原がいかなるものであるかについては、唐詩が示しているように、すでに一般の知識人が充分の関心を持っていた。東方の海島や南方の熱帯的風土についても、すでに相当のことが知られていた。しかしシナの特性としての|中華思想〔付ごま圏点〕が周囲の|他の国土〔付ごま圏点〕に自国と対等の重さの意義を認めしめなかったこともまた事実である。
 それに比すれば、アジアの西の端で歴史的自覚をはじめて顕著に押し出して来たといわれるあの「さまよえる民族」の|選民思想〔付ごま圏点〕は、よほど他の国士への態度を異にしているといってよい。選民思想にとっては、|その国土〔付ごま圏点〕が世界じゅうの最も優れたところであるのではなく、|その民族〔付ごま圏点〕があらゆる民族のなかで特に神のものとして選ばれているのである。国土についていえば、それは最初「カルデアのウル」すなわち|エウフラテスの国土から出た〔付ごま圏点〕といい伝えられ、また次の重大事としては|エジプトから脱出して来た〔付ごま圏点〕といわれる。いずれも国土から|ひきはなす〔付ごま圏点〕話であって、「さまよえる民族」が一つの土地と不可分に結びついている|のでないこと〔付ごま圏点〕をすなわち|土地なきこと〔付ごま圏点〕を反映しているのである。アラビアの遊牧の民は畜群をひきい沙漢の間の草地をたずねまわるのであって、ある土地にしばりつけられているのではない。それが彼らの自由の生活であり、彼らのほこりであった。しかし徹底的に国土と無関係であるならば、この選ばれたる民の|歴史〔付ごま圏点〕は展開しなかったであろう。そうでなくして、国家を形成し歴史を展開するために当然持つべき国土を|欠いていた〔付ごま圏点〕のであるがゆえに、その|欠けたもの〔付ごま圏点〕が遊牧の民を衝き動かす最も有力な刺激となったのである。エウフラテ(125)スの豊沃な国土から出て来た族祖アブラハムに対して、エホバはしばしば|カナンの」地〔付ごま圏点〕を与えると約束する。特にアブラハムが族祖として宣言せられたときの物語は、|選ばれたる民〔付ごま圏点〕と|約束の国土〔付ごま圏点〕との不可分の関係を示しているのである。
  われなんじとわが契約を立つ。なんじは多くの国民の父となるぺし。なんじの名をこののちアブラムと呼ぶべからず。なんじの名をアブラハム(多くの人の父)とよぶべし。そはわれなんじを多くの国民の父となせばなり。われなんじをして多くの子孫を得しめ、国々の民をなんじより起こさん。王たちなんじより出づぺし。われわが契約を、われとなんじ及びなんじの後の世々の子孫との間に立て、とこしなえの契約となし、なんじ及びなんじの後の子孫の神となるぺし。われなんじとなんじの後の子孫に、このなんじのやどれる地、すなわち|カナンの全地〔付ごま圏点〕を与えて、|とこしなえのもちもの〔付ごま圏点〕となさん。しかしてわれ彼らの神となるべし。(創世紀十七ノ四−八)
なおこのあとには契約のしるしとして割礼を命じたことが記されている。すなわちこれはこの独特の民族とその風習との|起源伝説〔付ごま圏点〕にほかならないのであるが、その起源伝説のなかに|カナンの地〔付ごま圏点〕の約束が重大な契機として含まれているのである。カナンの地を神から与えられたアブラハムは、依然としてその外郭の草原と沙漠とをさまよい、カナンの地のなかに住むことはできない。すなわち神においては土地と結びついているこの民族が、依然として土地なき民族としてさまよっている。それが国土を|欠いている〔付ごま圏点〕ということの意味である。
 以上のごとくイスラエルの民は、族祖アブラハムの時からしてすでにカナンの地を与えられていながら、しかもそれを所有していないものとして語られているのである。そういう意味深いカナンの地とは何であるか。それは人類の最も古い文化の開けたエウフラテスの国土とニルの国土との中間に横たわり、沙漠と草原とからなるアラビアの地と反対に、地中海の影響をうけて豊饒な土地となっている海添いの細長い地域である。北方には古くから栄えたフェニ(126)キアの国土や、後にダマスクス、アンティオキアなとの大都会を栄えしめた国土があるが、特にイスラエルの民と結びつき、蜜と乳の流るるカナンの地として問題とされたのは、右の細長い地域の南部三分の一、パレスティナ地方であった。ここはわが国の九州よりは少し狭いくらいの地域であるが、その中に実に多様な景観を集め、欠けているのはただ原始林と氷河とのみだといわれるほどである。北を限っているのは、この沿海地方で最も高いリバノン山脈であって、その最高峰は三千メートルを超え、夏に至るまで雪に覆われている。従ってそこの高地には準アルプス的な気候がある。南方はシナイ半島の熱い沙漠で、熱帯のヌビアに劣らない。西方は海に洗われ、さわやかな海風に吹かれている。東方はヨルダンの沃野で、太陽の照りつける下に麦や牧草が生い育ち、熱帯的な果樹も繁茂している。東へ行くに従ってそれが草原になり沙漠になってしまう。そういう周囲につつまれてこのカナンの地はまことに「|エホバの園〔付ごま圏点〕のごとくエジプトの地のごとく」感ぜられたのであるが、海岸的、山岳的、沙漠的、あるいは準寒帯的、温帯的、熱帯的等のさまざまの性格を含んでいる点より見れば、エジプトやバビロニアとも著しく異なっていたのである。
 こういう変化に富んだ珍しい土地、クローバーが青々と生いひろがり、その中にチューリップ、アネモネ、ヒヤシンス、シクラメン、特に「野の百合」が咲きつづいている土地、葡萄、オレンジ、レモン、いちじく、オリーブなどが豊かに実っている土地、それをイスラエル人は蜜と乳の流るるカナンの地と呼んだのであるが、それを神から与えられたアブラハム及びその子孫が実際に天幕を張っていたと伝えられる土地は、カナンの地の南境、雨期にのみ草のはえる沙漠地帯である。それは繁栄し行く民族を養い得る土地ではなかった。で、ついに饑餓に追われて西方エジプトの地に逃げ込んだといわれる。エジプトといってもそこはデルタ地帯の東端で、農耕よりもむしろ牧畜に向いた土地であった。ここでイスラエルの民はようやく強大となることができたのであるが、それに対してエジプトの王が賦(127)役を課しはじめたとき、誇りの強い遊牧の民はそれを奴隷化として受け取った。そこでこの民族を奴隷化より救い、その本来の面目を回復したのがモーゼだとせられる。モーゼは再びこの民をシナイの沙漠のなかにつれ戻し、神に選ばれた民としての自覚を強化した。この宗教的結紐によってはじめてこの遊牧の民が|一つの民族に成長して来た〔付ごま圏点〕のである。ここにおいてシナイの沙漠地帯からカナンの地を目ざす運動が一つの|民族的運動〔付ごま圏点〕となった。アブラハムの伝説のごときはむしろこの民族的運動の反映に過ぎないであろう。しかしこの民族的運動は長期にわたる辛抱づよい努力にもかかわらず、なかなか成功しなかった。モーゼは死海の東、パレスティナのすぐ外のネボの山にのぼって、ヨルダンの東側を遠くレバノンの麓まで、ヨルダンの西を遠く地中海までのぞみ、近くの棕櫚の町エリコの谷の原をながめただけで没したといわれる。(申命記三十四)が、こうして長い間沙漠に鍛えられ、神の約束に対する信仰をますます強化し、しかもエジプトの文化の影響を保存しているこの遊牧民族は、ついにモーゼの後継者ヨシュアの指導のもとに、頑強な攻撃、残虐な戦争を通じてカナンの全地を占領するに至った。かくして|約束の国土を獲得したとき〔付ごま圏点〕に、この|さまよえる民族の国家〔付ごま圏点〕もまたはじめて形成せられたのである。約束の地力ナンに関する物語は、国家にとって国土がいかに欠くべからざるものであるかという自覚を此類なき強さをもって現わしているとともに、エウフラテスやニルの国土、及びアラビアの沙漠と実に顕著に異なっている|この独自な多様性の国土〔付ごま圏点〕が、人類の文化に絶大な影響を与えたイスラエル民族の宗教の生成と不可分に結びついていることの自覚をも明白に示しているのである。
 この後この国土において遊牧の民の性格はさまざまに変化し、いく度かの危機や頽廃を通じてさまざまに鍛えなおされた。旧約が保存している多数の歴史的記録や予言者の書は、この民族の歴史においてパレスティナの風土的性格がいかに重大な契機となっているかを全面的に示しているといってよい。
(128) この「さまよえる民族」に対して、ギリシア人もまた「多く旅せる人」オデュッセウスのさすらいをあたかもおのが民族の過去であるかのごとく熱心に唄ったことは前に言及したところであるが、このさすらいにおいてさまざまの|異なった国土〔付ごま圏点〕が経験されるにかかわらず、それらがおとぎ話めいた想像に彩られ、ただ故郷への思慕を高めるようにのみ用いられていることは否定することができない。この物語がもともと「帰国」を主題とする物語から成長したものであることによっても知られるように、物語を貫ぬいているものは、|故郷を恋しがり〔付ごま圏点〕一時も早く故郷に落ちつきたいとあせる心持ちである。すなわちギリシア人は、「さまよえる民族」とは異なり、土からはえた植物のように、本質的に国土と結びついているといえる。彼らは実はギリシアの地に外から侵入して来た民族であるにかかわらず、その意識した限りにおいてははじめから神の与えた土地に生まれ育っているのであって、カナンの地への思慕のごとき、目的の国土への憧憬などを全然持っていない。といって彼らが新しい国土へ出て行くということをしなかったというのではない。イオーニアの諸都市をはじめとしてギリシア人は地中海のあらゆる方面に植民した。が、その植民地の選択には、前にもいったように、すでに「ギリシア的なもの」が標準として働いているのである。そういうギリシア的風土の反省として最も早く現われたのは、ヘーシオドスの『仕事と日々と』であろう。ここには農耕や牧畜に関して一年間の季節の移り行きに応じたさまざまの行事がつまびらかに歌われている。それは礼記の「月令」よりも一層具体的で鮮やかな描写である。
 が、地中海をめぐる諸地方への視圏の拡大は、やがてイオーニアの哲学者をして地理学的な反省を行なわしむるに至った。ヘーロドトスが広い世界を探究して歩いたときには、そういうイオーニアの知識を前提としつつ、みずからの観察によってそれを批判し訂正して行ったのである。彼の Historia はこのような地理的風土的な探究の結果でも(129)あった。異民族の習俗、宗教、神話などの考察は、ギリシア的な物の見方によって幾分歪められているようにも見えるが、風土の観察はそれよりも客観的で、ずっと鮮やかにできているといってよい。が、彼の記述したのは実地に踏査した地方のみではなく、さらに広くヨーロッパ、アジア、アフリカの遠隔の地方にまで及んでいる。アジアはインドを東の限界としているが、インダス河を下って河口に出で、そこからエリュトラ海(インド洋)を渡って紅海に周航し得ることは、すでに知られていた。またアフリカがアジアと連なる個所を除いて|四面海である〔付ごま圏点〕ことも、エジプト王ネコがプォイニーケ一人をしてアフリカ周航を敢行せしめたことなどによって、知られていた。この周航には二年以上を要し、その途中で太陽の位置が右から左に変わった、と報告せられており、それをヘーロドトスは信じ難いとしているのであるが、それだけにこの周航の伝説はわれわれの興味を呼ぶのである。後にカルタゴ人もアフリカの四面が海であることを唱えたという。それに此べると最も知られていないのはむしろヨーロッパであった。
 ヘーロドトスの実地観察のあとの最もよく現われているのは、まず第一にはエジプトである。彼はデルタ地方やニルの河谷の地勢を論じ、この地方がもとアラビア湾のごとく陸地に湾入した海であったろうことを主張する。土壌の質がニル河の運んで来た泥であることを示しているからである。従って固有のエジプトは、イオーニア人の主張するように、デルタ地方ではない。沈澱層が増大するに従って上流のエジプト人が移って来たのである。その際エジプト人は、ニル河の水のあふれる地方はすぺてエジプトであり、エレフアンチネより下流に住んでニル河の水を飲むものはすべてエジプト人であるとの意識を持っていた。|ニル河の氾濫〔付ごま圏点〕こそはエジプトの国土を形成しているのである。エジプト人はギリシアの土地に河水の氾濫がなく、ただ雨を待って耕作していると聞いて、それではさぞ饑饉が多いであろうという。雨に何の期待をもかけず、ただ河水の氾濫を待って耕作しているエジプト人から見れば、そういわざ(130)るを得ないであろう。この耕作様式はまことに独特なものであって、地はほとんど耕すに及ばない。洪水がひけば、種を蒔いて豚にふみにじらせればよい。穀物はおのずから成長しおのずから成熟する。そこでまた家畜に成熟した穀物を踏みにじらせる。かくして脱穀した穀粒を人間はただ蒐集し保存すればよい。実に容易な農業である。そうしてそれを可能ならしめているのがニル河の氾濫なのである。
 そこでヘーロドトスは、何ゆえにニル河が夏期百日の間規則的にあふれるかを問題とする。この問いに対してはエジプト人は一人も答えるものがなかった。説をなすものはむしろギリシア人のうちにあったが、その説一として取るに足るものがない。そこで彼自身の考えたところは、太陽が真上へくればその地の河水は涸れるという理屈である。冬になると太陽は南に移ってニル河上流のリビア地方の真上へくる。従ってニル河の水量が減る。夏になるとエジプト近くの空へ帰ってくるが、上流地方では前ほど吸い上げられず、従ってニル河の水量は増す、というのである。これも今から見れば窮した説であるが、しかしこれにはニル河の水源地についての探究が結びついている。この水源の問題についても、エジプト、リビア、ギリシアなどに答えるものはないが、ヘーロドトスはさまざまの報道を集めて、エレファンチネより舟行陸行四か月ほどの上流まで追跡して見ることができた。これはエジプトからは非常な遠方である。そのあとは酷熱の沙漠であって誰もはっきりしたことはいえない。しかしリビアの大沙漠のなかを西の方から流れてくるといわれている。従って水源は未知であるが、太陽の暑熱の影響をうける区間が非常に長大であるということは疑えないのである。これが前述のごとき仮説の根柢となっている。
 以上のごとくヘーロドトスはエジプトの風土の特徴を鋭く捉えているのであるが、それにも劣らずわれわれを驚かせるのは、黒海の北側、ウクライナ地方の叙述である。ここは遊牧民族スキュタイ人の国土であるが、車輌を家とし(131)家畜を追うて自由に移り歩く彼らの生活様式は、地勢平坦であって牧地に富んでいるこの地方にちょうど適合しているのである。ヘーロドトスはこの地方の河をドナウ河からはじめて、ドニエステル、ブグ、ドニエプルなどからドン河まで数えている。特にドナウ河(イステル河)は、ケルト人の住む地方から出て全ヨーロッパを貫流し、スキュタイ族の国土の境において黒海に注ぐ大河であって、ニル河に比せらるべきものであるとしている。水量はニル河に及ばないが、冬と夏とで水量に増減のない点においては、まさに河の王であるという。それにつぐものはドニエプル(ポリステネス河)であるが、これは水利の点では全世界でニル河につぐものであって、沿岸一帯は実に地味豊饒である。
 スキュタイ人はドナウ河からドン河に至るまでのこの沃野に遊牧の生活を営んでいたのであるが、その生活様式はおのずから独自の習俗をつくり、ギリシアの文化に染むことを好まない。ヘーロドトスはその祭儀や占卜や葬儀などの独特な点を熱心に列挙しているが、特にわれわれに興味深いのは、ペルシアのダリオス王がこの地に攻め込んだときの|スキュタイ人の防御の仕方〔付ごま圏点〕である。スキュタイ人は、ボスフォロス海峡に架橋して大軍をヨーロッパに渡した驚くべきペルシアの勢力に対して、到底抗し得ぺからざることを知っていた。そこで彼らの考えたのは、ペルシア軍の侵入する地方の|あらゆる物資を破壊しつつ、一歩ずつ先に逃げて回る策〔付ごま圏点〕である。一方では、ペルシア軍の追うにまかせて黒海の岸を東方へドン河まで退却して行く本軍がある。もしペルシア軍が退却をはじめれば、すぐひき返してそれを追尾するはずなのである。他方には、ペルシア軍の前方一日程のところで、井を埋め、泉を涸らし、穀物を焼き、ペルシア軍をなるべく異部族の方へ誘導して行こうとする遊撃軍がある。これらの異部族ははじめペルシア軍に対する共同防御を拒んだのであるが、その前へペルシア軍を引きよせていや応なしに衝突せしめようというのである。こういう退避戦や遊撃戦を行なうために、スキュタイ族は妻子を車輌にのせて家畜とともに北方に避難させ、あとには(132)騎馬の精鋭のみが残ってペルシア軍を迎えた。ペルシア軍は果たして予想通り、ドナウを超えてから東方へウクライナの地を席巻し、ついにドン河(タナイス河)を渡ってスキュタイ族北端の地方まで敵を追いつめた。しかし追いつめられたスキュタイ族は実は予定通りあらゆるものを破壊しつつ一日程ずつ先んじて移動したのであって、少しも勢力を減じなかった。ダリオス王はやむなくボルガ(オアロス河)の河畔にとどまって要塞の築造につとめたが、その要塞によって防ぐはずの敵はその間に北から回ってスキュタイの故地へ、すなわち背後の方へひき返してしまったのである。ダリオス王はあわてて軍をかえしたが、それに応対したのは敵の遊撃軍であった。それを追撃して行くと、スキュタイ族でない諸部族の地に誘き入れられる。そういうことをくり返してダリオス王は、敵に打撃を与えることもできず、むなしくドン河やドニエプル河の流域の平原をひき回された。ついに王はこらえ切れず、スキュタイ王に対して、|逃げることをやめ〔付ごま圏点〕決戦するか降服するかいずれかを選べと申し入れた。それに対するスキュタイ王の答えがおもしろい。われわれは逃げるのではない。さまよい歩くのはわれわれの常態である。戦わないのはわれわれに守るべき都市や耕地がないからである。われわれが守ろうとするのはただ祖先の墓のみであるから、もし戦いを欲せばそれを侵しに来るがよい。降服は決してしない。われわれが主とするのはただゼオスとヴェスタの神のみである。スキュタイ王はかく答えるとともに遊撃戦を活発化した。一方ではドナウ河を守っているイオーニア人にしきりに働きかけ、他方では隙を伺ってペルシア軍に奇襲を試みる。こうして、輜重のつづかないペルシア軍を、窮地におとし入れようとしたのである。危険に気づいたペルシア王は、いかにして無事に軍を撤収しようかと苦慮し、ついに敵を欺いて夜陰ひそかに退却をはじめた。翌朝に至ってこれを知ったスキュタイ軍は急いで追撃をはじめたが、地理に明るいスキュタイ人はかえってその知識のゆえに判断を誤り、ペルシア軍と道を異にして突進した。だから彼らはペルシア軍を(133)なやます代わりにそれよりも先にドナウ河に出てしまったのである。そこで彼らはイオーニア人を説いてペルシア軍に背き橋を撤することをすすめたのであるが、イオーニア人はペルシアに背く勇気なく、ただ外面上その勧告を容れるかのごとくスキュタイ軍を欺いて、その鋒《ほこさき》をペルシア軍の方へ転ぜしめたのであった。しかしスキュタイ軍は道を異にしたペルシア軍を探し出すことができなかった。その際にペルシア軍はようやくにして危険を脱出することができたのである。
 こうしてスキュタイ軍は結局ペルシア軍をおのれの地方から追い出すことができたのであるが、このいきさつを後代のナポレオンのロシア侵入や二十世紀における二度のドイツ軍のロシア侵入と比較して考えると、そこにほとんど同じ経過がくり返されていることを感ぜざるを得ないであろう。が、そこに同じ性格として現われているのは、実はこの地方の|国土の性格〔付ごま圏点〕にほかならない。それをヘーロドトスは戦争の仕方として人間存在に即して鮮やかに捉えているのである。
 以上にあげた二つの場合、エジプトとスキュタイ地方とは、最も目立つ例といってよいのであるが、そのほかにも、アフリカ北岸リビアの地、今のトリポリ地方など、かなり丹念に叙述されている。ここは沙漠地方として前二者とも著しく異なっているのであるが、その異なる点を風習に即しつつ把捉している点は、今日といえども興味深い。これらすべての叙述においてわれわれはこの偉大な旅行家の鋭い観察に感嘆せざるを得ないのである。従ってこの旅行家が、ただ「歴史の祖」とされるのみならず、さらに「地理学の祖」と呼ばれるのは、決してゆえなきことではないと思う。
 このようにして「歴史」とともに風土の自覚がはじまったのであるが、そのヘーロドトスより一世代後のヒッポク(134)ラテースは、医学の立場から|風土の理論〔付ごま圏点〕を作った。彼は小アジア沿岸のコスの島に生まれた人であるが、相当に広く旅行し、またアテーナイをはじめ多島海北方の諸所の都市に住んだ。哲学者としても有名で、ソクラテスに比肩するといわれた。その彼が空気や水や土地の性質によっていかに諸民族の性格が決定せられるかを説いたのである。風土が|外から〔付ごま圏点〕人間の体質、気質、精神などに影響を与えるという考え方で通例言われるようなことは、大体ヒッポクラテースによって言いつくされているといってよい。
 が、歴史と独立に|地理学〔付ごま圏点〕が一つの学問として形成せられて来たのは、歴史叙述の仕事よりも遅れて、アレキサンドロス大王の遠征による急激な視界拡大の結果であった。すでにアリストテレスの弟子のディカイアルコスがこの方面で注目すべき仕事をしたといわれているが、最初の体系的な地理学書を書いたのは、アレキサンドリアの図書館長エラトステネース(276−196 B.C.)であった。その後ローマ時代にはストラボーン(60 B.C.−24 A.D.)のような有名な地理学者が出、ケエザルなどの将軍たちも地理的知見をひろめた。こういう古代の地理学的知識を集成したのが、二世紀にアレキサンドリアで活動したクラウデイォス・プトレマイオスの地理学である。天文学者、数学者としてこの後千年以上にわたり権威を持ちつづけたような世界像をつくり上げた彼は、大地の現象に関しても、地球の大きさを計算し、経度や緯度によって重要地の位置を決定するというような仕方で、厳密に数学的な根柢の上に彼の地理学をきずいたのである。近世以後の地理学や地図をひく術はすべてここから出て来たのであった。
 こうしてできあがった地理学が、人間の風土的自覚というよりも、むしろ自然科学的な大地の研究としての傾向を強く現わしたのは、当然のことといってよい。地球の表面にはきわめて多くの|未知の部分〔付ごま圏点〕が残されていた。すでに明らかにされた限界のかなたには、いつも魅惑的な秘密が人を招いていた。無限探究の精神をひき出すには、これが最(135)も手近な、直観的な刺激となったのである。もちろんそこには未知の国土への宗教的あるいは軍事的関心、貿易上の利益の追求などが働いており、単に認識上の関心のみが人を動かしたとはいえない。しかし地球の表面が一通り知りつくされるまでは、この大地の秘密が非常な魅力を持っていたことも否定することができない。そうしてこの事情を顕著に示しているのが、中世の終わりから近世のはじめへかけての|地理学的発見〔付ごま圏点〕の時代である。
 航海者ヘンリー王子を先駆とするポルトガルやスペインの雄大な探検航海の運動は、香料貿易への関心やアラビア人との対抗意識などに刺激されて起こったものであり、決して単なる学術探検の試みではなかった。しかしそれにもかかわらず、この運動の|筋がね〔付ごま圏点〕は、地理的な祝圏の拡大の要求に存したといえる。ヨーロッパ人が近世における世界の先頭に立ち得たのは、この強靱な認識欲のゆえである。地上における|未知の世界〔付ごま圏点〕を切り開いて行くこと、これこそ認識における無限追究の最も直接的な段階であるといってよい。エジプト王ネコがすでに試みたというアフリカ大陸の周航が、まず最も手近に横たわる課題であった。この課題を少しく解いて、熱帯地方にまで航海して行くことができたとき、その地理学的な成果とは比べものにならないほどの大きい|精神的効果〔付ごま圏点〕が得られた。近代精神は、ここではっきりと開眼せられたのである。このことはベーコンが力説した「発見」という標語によってはっきりと示されている。発見はすでにはじめられた。あとはただその方法を押し進めればよかった。だからやがてインド航路の発見となり、アメリカ大陸の発見となり、太平洋航路の発見となった。それとともに地球の表面に関する認識が、人類の歴史はじまって以来、はじめて一つの統一に達したのである。世界という言葉が地球の表面全体をさし示すようになったのは、この時であった。
 この発見の時代は地理学の急激な発達の時代であったが、発見の仕事そのものはなお十八世紀に至るまで継続され、(136)それに伴なって地理学も漸次整って来たのであった。が、かくして成熟してきた地理学は、ただに超国家的場面を明らかにしたというにとどまらず、総じて|人間存在を超出して〔付ごま圏点〕全然自然科学的な対象界としての大地を取り扱う学となってしまったのである。この点においてわれわれは|歴史の自覚と風土の自覚jとが|異なった仕方〔付ごま圏点〕で実現されたことを注意しておかなくてはならない。歴史はいかに因果連関の認識に没頭して行っても、全然自然科学的となることはなかった。しかるに風土の自覚は、その人間存在的な具体性を捨象し去って、全然自然科学的になることができたのである。この差別は時間性と空間性との差別にもとづくであろう。空間性は単なる|物のひろがり〔付ごま圏点〕として、その主体性をふり落としやすいのである。従って「自然」に対する関心が「歴史」に対する関心をさえ圧倒し去っていた十七・八世紀に、国土の担っている主体的な意義が看過されてしまったのはきわめて当然だといってよい。

 以上によってわれわれは、人間存在の風土性の自覚が|国土の認識〔付ごま圏点〕として|超国家的場面〔付ごま圏点〕において起こって来たこと、しかもその超国家的場面は人間存在としての意義を失って|自然的世界〔付ごま圏点〕に転化し去ったことを見て来たのであるが、しかしそれによって風土性の自覚が途絶えてしまったというわけではない。前に風土的自覚は事実上歴史的自覚に付随するものとして起こって来たということを注意しておいたが、それは古代においてのみならず近代においてもそうなのである。地理学的発見によってもたらされた世界的視圏の成立は、これまで知られなかったさまざまの国土や民族を明らかにすることによって、漸次|歴史学〔付ごま圏点〕の方面に著しい影響を与えるに至った。その結果として十八世紀には「世界史」あるいは「普遍史」あるいは「人類史」の理念が成立し、同時に|歴史哲学〔付ごま圏点〕が形成されたのであるが、そのなかにこれまで忘られていた|人間の地理学や風土の哲学〔付ごま圏点〕が含まれていたのである。
(137) われわれはその代表的なものとしてヘルダーの歴史哲学あるいは人類史のなかに含まれている|精神風土学〔付ごま圏点〕の考えをあげることができる。この考えにはアフリカやアメリカや南洋などへの視界の拡大がいかに風土性の自覚を導いたかがありありと伺われる。地理学が自然対象として捉えた現象は再び人間存在の問題のなかへ導き返されたのである。ヘルダーによれば、風土の現象は単なる自然現象ではなくして、主体的なるもの「精神」が外におのれを現わした|しるし〔付ごま圏点〕なのである。われわれはその|しるし〔付ごま圏点〕を解読してその意味を会得しなくてはならぬ。人類はおのれを風土化している。あらゆる民族の心や性格は風土的である。従って風土は一つの国土に根ざした民族の風俗や生活の様式や物の考え方、感じ方などの全面に露出している。それをヘルダーは人間の精神の風土的構造として明らかにしようとしたのである。すなわち第一に、|人の感覚〔付ごま圏点〕が風土的である。たとえば味覚はその土地の水や気温や動植物などと密接に連関し、その土地固有の料理の様式として発展する。第二に、|想像力〔付ごま圏点〕が風土的である。熱帯地方ではサンタ・クロースは作り出されない。第三に、|実践的な理解〔付ごま圏点〕が風土的である。そこからそれぞれに異なった風習や制度が発生する。第四に、|感情や衝動が〔付ごま圏点〕風土的である。それによって人間の愛の結合がさまざまの異なった仕方を持つようになる。第五に、|幸福〔付ごま圏点〕もまた風土的である。ヨーロッパ人の幸福の観念をもって他の国土の住民の幸福を量ってはならない。素朴な存在の喜びや静かな家族的な愛などにおいて、文明人が必ずしも原始人よりも幸福であるとはいえない。そうして人類の幸福が人間の努力の目標であるならば、それぞれの土地の姿における幸福は無視してはならないのである。
 以上のごとくヘルダーの精神風土学は、それぞれの民族の価値個性を風土の側から鋭く捉えようとしたものである。それは在来の地理学と異なり、地理学的風土的現象をあくまでも|人間の生の〔付ごま圏点〕表現として|理解〔付ごま圏点〕の対象たらしめたとともに、また啓蒙主義的な歴史哲学とも異なり、全然|個性的な形成〔付ごま圏点〕をその生ける具体性において把捉しようと試みた。だ(138)からそれは地理学に対して人間の地理学を示唆する革命的な意義を持つとともに、また歴史学に対しても|民族の個性〔付ごま圏点〕を力説する点において一つの決然たる展望を開いているのである。いかなる民族もそれ自身の特殊性において|独自の意義〔付ごま圏点〕を担い、|その独自性のままで充分に人道〔付ごま圏点〕(Humanita※[ウムラウトあり]t)|の実現たりうる〔付ごま圏点〕とせられる。すなわちそれらは、人類の究極目的への発展の一過程として、単に|前後継起の秩序〔付ごま圏点〕においてのみながめられるのではなく、|並在の秩序〔付ごま圏点〕において、それ自身に目的としての資格あるものとして尊重せられる。ここで注目せられるのは|生起〔付ごま圏点〕ではなくして|有の秩序〔付ごま圏点〕であり、個々民族の|行為〔付ごま圏点〕ではなくしてその|彫刻的な姿〔付ごま圏点〕である。ある|特定の民族のみ〔付ごま圏点〕が世界精神の意志の道具(すなわち選民)として世界史の舞台の上に現われるのではなく、|あらゆる民族〔付ごま圏点〕がその個性のゆえに、すなわち特殊な唯一的な仕方で実現した生の価値のゆえに、世界史の対象とせられなくてはならない。そうして、それぞれの民族にこの個性を与えるものは、まさに風土にほかならないのである。
 人間存在の風土性の自覚としてはヘルダーは確かに急所をおさえているといってよいのであるが、しかし彼がその独特な|生ける自然の解釈〔付ごま圏点〕の方法のなかに雑然と自然科学的方法を混淆しているやり方は、何といっても弱点といわざるを得ない。そうしてその弱点は即座にカントによって指摘された。そのため彼のメリットはむしろ過少に評価されているのであるが、しかし彼のすぐれた直観は決して影響なしにはすまなかったのである。フィヒテにおける民族の個性の力説や、シェリングにおける生ける自然の把握や、ヘーゲルにおける世界史の地理的根柢の認識などは、たといあらわにいわれないまでも、彼の説いた「並在の秩序」と無関係ではないと思う。特にヘーゲルに至っては、ヘルダーと同じき精神風土学の構想を示しているといってよい。
 ヘーゲルにおいては、精神はおのれを自然として定立することにより具体化する。だからさまざまの段階みおける(139)自然規定性や地理的規定性は決して軽視するを許されない。人倫的精神の段階においても、この精神は地理的風土的に規定されることによって|個々の特殊な民族として〔付ごま圏点〕現実化するのである。もっともそれはそこにとどまるのではない。それはさらに世界精神としておのれを実現することにより|世界史〔付ごま圏点〕を形成しなくてはならぬ。しかしその実現の所行をなすものは個々の特殊の民族なのであり、しかもその所行はおのれの特殊性の超克でなくてはならないのであるから、この特殊性、従って精神の地理的風土的規定性は、充分に明らかにしておく必要がある。ヘーゲルはそれに気づいているのである。だから彼はその精神哲学のなかに、|歴史哲学〔付ごま圏点〕と対峙し得るような位置を|風土哲学〔付ごま圏点〕に対して与えるべきであったろう。しかるに彼が風土哲学にそれほどの比重を与えず、依然としてヘルダーと同じように|歴史哲学の一部分として〔付ごま圏点〕、その序論に付加してこの問題を取り扱っているのは、恐らく地理学が自然科学の一科としてとどまり、まだ人間の地理学となっていなかった実情を反映したものであろう。しかしそれにもかかわらず彼の「世界史の地理学的根柢」は、ヘルダーとともに人間の地理学への道を開いたものということができる。
 ヘーゲルはこの論文において、世界史的な民族の背負っている特殊原理が、それぞれの民族の自然的風土的規定性として、それぞれの民族に別個の特殊な姿を与えていること、そういう自然的風土的な相違は|精神がおのれを展開する特殊な可能性〔付ごま圏点〕と見らるぺきであること、従ってそれぞれの地方の|自然型〔付ごま圏点〕はそれぞれの|民族の性格〔付ごま圏点〕と密接に連関し、そうしてその民族の性格はこの民族が世界史に歩み入りそのなかで地位を得る仕方そのものにほかならぬこと、などを説いたのちに、|三つの自然型〔付ごま圏点〕を説いた。(一)は広い草原や平地を持った|水のない高原〔付ごま圏点〕。ここには遊牧の生活と族長政治とがあり、時に文化世界に対して強い刺激を与えるが、それ自身においては発展し得ない土地である。(二)は大河が貫流し灌漑する|河谷の平野〔付ごま圏点〕。これは移り行きの国土である。ここでは農業と大国家とが発達し、文化の中心地に(140)なる。所有や君主と奴僕の関係などが著しく現われる。(三)は海と直接に関係する|海岸の国土〔付ごま圏点〕。これは世界の連関を現わすことを特徴とする。海ほどよく国々を結びつけるものはない。だからここでは商業が発達する。しかしまた海は規定されないもの、限局されないもの、無限なものの表象を与える。だからここでは限定を超えて外へのびて行く勇気が育成され、征服欲、冒険欲が湧き上がってくる。とともに市民の自由が自覚される。歴史は(一)の高原にはじまり、(二)の平野において普遍的なるものへの反省にめざめ、(三)の海岸においてこの反省を発展せしめた。アジアには高原と平野とが結びついて存し、ヨーロッパには高原と平野とが融合して移り行きの温和な自然となったもの、及び海岸が存する。ギリシアやイタリアは海岸の国土であり、中部北部のヨーロッパは明白に高原とか河谷とかといえない両者の中間の国土である。だから歴史は東洋においてはじまり、東洋において普遍者への反省を開始した。西洋はただその発展をのみひきうけたのである。世界史が太陽の進行と同じく東からはじまって西に終わるといわれるのはゆえなきことではない。東洋ではただ|一人の人〔付ごま圏点〕が自由であることを知るのみであるが、ギリシアやローマでは|若干の人々〔付ごま圏点〕が自覚し、ゲルマンの世界に至ってはじめて|すべての人々〔付ごま圏点〕が自由を自覚した。この歴史の歩みの根柢に三つの自然型が存するのである。
 以上のヘーゲルの考えは、当時における世界史の知識に合うように三つの自然型を考えたまでであって、自然型の発見により新しく世界史の理解の道を開いたというわけではない。しかしそれにもかかわらず、自然や風土の類型がそれぞれの民族の世界史的役目と密接に連関すること、従って地理学的な現象が人間存在にとって非常に重要な意義を担っていることは、彼によって充分に指摘されたといってよい。そうなればここに|人間の地理学〔付ごま圏点〕は当然呼び出されて来なくてはならないのである。
(141) 人間の地理学をはじめて科学的に形成したのは、ヘーゲルと同時代の人で、ヘーゲルよりも二十八年後まで生きていたアレキサンダー・フォン・フンボルト(1769−1859)及びカール・リッター(1779−1859)である。このフンボルトは兄のウィルヘルムとともに十九世紀初頭のドイツにおける最もすぐれた学者の一人で、有力な政治家でもあった兄ウィルヘルムが文学や言語学の方面で大きな業績を残したのに対し、|自然研究者〔付ごま圏点〕として広汎な範囲にわたり大きい足跡を残した。が、特に注目すべきは、兄ウィルヘルムとともにゲーテやシラーと親しく交わったフンボルトが、根本的な実験を重んずる特殊研究に努力するとともに、また全体的把握への強い衝動を持っていたことである。その点においてわれわれはヘルダー的な精神がこの着実な自然科学者のうちに生きつづけていたことを感ぜしめられる。実際彼の青年時代の著作は、この時代の芸術家的・象徴的・思弁的な物の見方が彼をも捕えていたことを示しているのである。その彼を自然哲学に陥る危険から救ったのは、三十歳の年から六年にわたって試みたアメリカ旅行(1799−1804)であった。この旅行はこの後の学術探検旅行の模範となったものであるが、またフンボルト自身もこの旅行によって大学者にまで成熟したのである。この旅行の成果の発表にはほとんど二十年の歳月を要しており、その内容もきわめて多方面にわたっているのであるが、そのなかに風土学的な人間の地理学がふくまれているのである。メキシコやキューバやヴェネズェラの地誌がそれであった。地理学的発見の時代の最も大きい発見地であったメキシコやペルーが、ここで人間の地理学のための|最初の研究対象〔付ごま圏点〕となったことは、決して偶然ではない。フンボルトの仕事は発見の時代にはじまった仕事の完成にほかならないのである。
 このフンボルトとともにいわゆる此較地理学の創始者として地理学を科学たらしめたのがカール・リッターだといわれる。彼はその主著を『自然及び人間歴史への関係における地理学』(Die Erdkunde im Verha※[ウムラウトあり]ltnis zur Natur und (142)zur Geschichte des Menschen,1817−18,2 Bde.)と名づけているが、それによっても知られるように、彼は地理学の課題を大地表面の叙述としてのみならず、地表が気候や動植物に、及び人間やその作業に及ぼす影響の叙述として把握したのである。彼はこの書の第二版を非常に拡大し、第一巻(1822)においてアフリカを一つの完結した全体として取り扱い、第二巻から十巻まで(1832−59)においてアジアを記述した。そういう仕事が進むに従い、彼はおいおい自然の側面を閑却して人間の側面に関心を集注する。あらゆる時代にわたって人間との関係が追跡され、ついには彼自身の意図を裏切って歴史地理学のようになってしまう。が、そこに彼の、フンボルトと著しい対照をなすような特徴が存しているのである。
 フンボルトもリッターもこの画期的な仕事を La※[ウムラウトあり]nderkunde として実現したのであるが、Land は単なる土地ではなくして国土であり、国である。国土の記述は人間存在にふれざるを得ない。フンボルトはかかる国土を植物や気候の側から捕え、後に|景観〔付ごま圏点〕の概念において発展せしめられたような国土の姿を、自然科学的に、包括的な自然の記述として仕上げたのであった。それに対してリッターは、海岸線とか土地の形態とかのごとき自然を記述しはするが、その主たるねらいは人間の考察であった。そうしてそこにはヘルダーの影響がなお力強く残っていた。これらは二つの異なった傾向を示すものといってよい。前者は自然地理学としてその後急速に発達し、後者は一時その勢いに押しのけられるようにさえ見えていた。そこにダーウィンの進化論の刺激をうけつつ生物学的方法にもとづいてリッターの人間地理学を再興したのがラッツェル(1844−1904)である。
 ラッツェルの果たした仕事は地理学の自然科学的な発達に添いつつ人間の地理学(Anthropogeographie)を作ることであった。だからこの人間はあくまでも生物学的な人類なのであり、ここで論ぜられるのは他の生物と同じ生物た(143)る人類の空間的規定性なのである。彼によれば「生」の特徴は運動であり、運動とは空間征服である。樫の実は双葉を出し、その双葉は漸次成長して幾かかえもある大木になる。これは明らかに空間征服である。それと同じように嬰児は乳を求めて母の方へ動き、成長して後には職を求めて広い世界へ出て行く。人間の衣食住の活動はすぺて空間征服である。民族や国家のような大きい人間集団においてはそれは一層顕著だといってよい。すなわち人間存在は空間征服としての運動である。人間の歴史も運動である。とすれば、あらゆる人間の動きはその占めた空間によって規定されざるを得ない。それは動植物におけると毫も変わりはない。ところでかく人間存在を規定する空間は、根本的には全地球的に理解さるべきものであるが、直接には地球上の一定の|位置〔付ごま圏点〕である。空間がここで特定の大いさに限定され、特殊な形態の土地として、固有な気候、土壌、動植物などを含んだものになる。すなわち位置とは特殊な風土を指し示す概念なのである。民族や国家の動きはかかる位置において土地に束縛されている。ちょうど波が一定の形の岩に打ち寄せた場合いつも同じ形に砕けるように、生の動きも一定の自然条件のもとにおいてはいつも同じ道をたどるのである。もとより生の空間といえども絶対に不変なのではないが、しかし生の運動に比すれば不変といってよいほどに変化は緩慢である。だから|不変な自然〔付ごま圏点〕のなかで|変化する歴史〔付ごま圏点〕が動いて行き、その動きがいつも同じように不変な自然によって規定せられるところに、地理学の捉えようとする意義が存する。かくしてラッツェルの人間の地理学は、地的基体が諸民族の運命を盲目的な残酷さをもって規定するということを力説するところの、|地理的決定論〔付ごま圏点〕となったのである。
 このラッツェルの仕事は自然科学的であることによって一般の歓迎をうけた。この理論をいち早くアメリカに適用して歴史を地理学から説明しようとしたのがセンプルの『アメリカ史とその地理的条件』(E.C.Semple、American (144)History and its Geographic Conditions,1903)である。その後この立場はアメリカにおいて栄え、ハンチントンの人間地理学(E.Huntington,Civilization and Climate,1915.Principles of Human Geography,1920)となって現われた。それらはそれぞれに興味深い研究ではあるが、しかし人間存在に関する限り地理的決定論が異論なしに通るというわけには行かない。ラッツェルが取り扱ったのは|生物学的な生〔付ごま圏点〕であり、従ってそれが地理的環境によって決定的な影響をうけるとしても、何ら不斉合な点は存しないであろう。しかし彼がかかる生の動きを「歴史」として把捉したとすれば、それはちょうど彼と時を同じゅうして彼の国において渦巻いていた|自然科学〔付ごま圏点〕と|歴史科学〔付ごま圏点〕(あるいは精神科学、文化科学)との対決の問題に全然耳を傾けていなかったことを示すものである。歴史をつくる人間存在が自然科学的対象と同じ|次序に属するものでない〔付ごま圏点〕ことを、この時代ほど明白に自覚した時代はないのである。そこでもし真に人間の地理学が形成さるべきであるならば、生物学的な人類をでなく、歴史をつくる人間を取り扱いうる立場に立たなくてはならない。そうしてこのことをなし得たのが、ラッツェルと同時代のフランスに現われ、そうして一歩ずつあとから仕事をしたヴィダル・ドゥ・ラ・ブラーシュ(1845−1918)である。
 ヴィダル・ドゥ・ラ・ブラーシュもまたフンボルト及びリッターから出発した。そうして同じところから出発した一歳上のラッツェルがリッターの理念を人間地理学として再興するのを見、その影響をも受けた。その限り彼にも生物学的な方法は顕著に存している。しかし彼はラッツェルのような自然科学者ではなくして歴史学者であった。だから彼は歴史的見地の重要性をすなおに承認することができたのである。自然環境が人類社会に影響を与えるとはいっても、その自然環境は人間に影響されなかったものなのではない。ローマ時代に原始民族の住んでいた森林地帯が、今は煙突の林立する工場地帯となっている。あるいはわずか三百年前にインディアンの狩猟地であった森林地帯が、(145)今は世界で最も繁華な都会地となっている。これらのことは歴史的な見地を入れずにただ自然環境というだけで説明のつくものではない。そういう見地のもとに、歴史を充分に地理学にしみ込ませたのがヴィダル・ドゥ・ラ・ブラーシュの功績なのである。
 が、ヴィダル・ドゥ・ラ・ブラーシュはこの仕事をするために着実な実地踏査からはじめた。この点においては彼はフンボルトの精神を新しく活かしたかに見える。一方でラッツェルが大きい体系的な概論書を書いていた間に、他方ではヴィダル・ドゥ・ラ・ブラーシュ及びその弟子たちが、フランスの諸地方の地域的な特殊研究をはじめた。これはそれぞれの比較的狭い地域の特徴を具体的に把握する試みである。それはいわばそれぞれの国土あるいは地域の|肖像画〔付ごま圏点〕であるということができる。肖像画を描きうるのは一般化的見方ではなくして個性の把握であり、生物学的な生の認識ではなくして人格の理解である。それを土地について試みるということは、国土あるいは地域を人間存在の表現として取り扱うことにほかならぬであろう。彼が郷土の人々の間に行なわれている用語を、自然との接触から直接に生まれてきた生ける表現として、非常に尊重したということは、かかる消息を示すものといってよい。
 このような具体的研究の上に立って彼は|人間と環境との連関〔付ごま圏点〕を精確に捉えようと試みた。従ってここでは大地とか気候とか人間とかのごとき大きい概念を簡単にふりまわすことはできないのである。彼の研究を体系的にまとめたものは遺稿として出版せられた『人文地理学原理』(Principes de Ge※[記号あり]ographie Humaine、1922.飯塚浩二訳)であるが、その緒論において彼はこの点を鮮やかに指摘している。大地といっても人間の営為によって変更せられなかったもの、すなわち全然人間から独立なものは存しない。人間は、かつて考えられていたよりもはるかに古い時代から、地球のほとんどあらゆる部分に分布し、道具を作り火を用いることを知っていた。その技術がいかに幼稚であったとしても、(146)周囲の自然への影響力は決して軽視すべきものではない。たとえば彼らが原始林に火をつけて焼き払ったとすれば、その土地はもう決してもとの自然のままにはならないのである。そう考えると、旧石器時代の狩猟や新石器時代の農耕が地表に刻みつけた痕は相当に深いといわなくてはならぬ。大地がそのように人間に影響されたものであるとともに、人間もまた周囲の自然から独立のものではない。人間は一様に地上にひろがっているものではなく、非常に古い時代からどこか|特定の地点〔付ごま圏点〕に集まって集団を形成していた。そういう土地は人間の営為をうけてさまざまの可能性を発揮し、生活のしやすいところになる。従ってそこへはさらに多くの人々が集まり、さらに多くの営為を土地に加え、さらに多くの人々を吸い寄せることになる。そういう国土には人類の沖積層が堆積しているといってよい。現在においてもそういうところではさまざまの異質的な要素を分析し出すことができる。しかるにその異質的な諸集団は相結合して一つの社会組織をつくり、一つの緊密な全体となっているのである。彼らは生産や消費の仕方において同一である。風習、言語、宗教などにおいて同一である。そこには彼らをして異質的であることを自覚せしめるような何ものも存していない。そうしてこの同一は大抵の場合環境の影響によるのである。すなわち同じ国土に住むものは、その血統がいかにもあれ、その|国土の色〔付ごま圏点〕に染まらざるを得ない。このような現象は特に選ばれた土地、特に沖積層の厚い土地においてでなくても、広く一般的に認められる。異質的な集団の混在していないような土地は、地球上にはきわめてまれであって、アフリカ内地の森林地帯などにさえ沖積の現象は認められるのであるが、そこでも環境の影響は顕著である。
 してみると、人間に影響されない土地や、土地に影響されない人間などは、到底捉えることができないのである。土地を把捉しようとすればそこに積み重なった人間の営為を見いだすであろうし、人間を把捉しようとすればそこに(147)烙きつけられた土地の性格を見いだすであろう。これは地理的決定論などによって解決されうる関係ではない。人間はただ|受動的〔付ごま圏点〕に環境に影響されるだけでなく、能動的に環境に働きかけるものであり、環境もまた人間の営為に従ってさまざまの|可能性〔付ごま圏点〕を発揮するものである。植物界での競争によって特定の地点に押しこめられていた麦とか稲とかのごとき植物が、人間の営為によって他の植物を押しのけ大地一面を覆うような大群落として繁茂する。あるいは猛獣の脅威の下にひそやかに生きていた羊のような動物が、人類の庇護のもとに数知れぬ大群となって繁栄する。かと思えば灌漑組織によって豊沃な農耕地となることのできた土地が、その組織の荒廃によって、それまで抑えられていた他の可能性を発揮してくることもある。それは必ずしも人力が加わる前の状態への復帰ではない。そこには自然界の新しい調和も形成されるであろうし、また人間の他の生活の仕方も作り出されるであろう。大地の蔵するさまざまの可能性は人間の自発的な力を触発する機縁となり、人間の自発的な力はこの可能性の発見者、実現者となるのである。
 このような見地のもとに書かれたヴィダル・ドゥ・ラ・ブラーシュの人間の地理学は、人間存在の風土的構造を捉えるという仕事に最も近づいているといってよい。彼の取り扱うのは|人類の集団〔付ごま圏点〕と|環境〔付ごま圏点〕との連関なのである。人類の集団はいかなる|密度〔付ごま圏点〕や|形態〔付ごま圏点〕をもって地球上に分布しているか。各地方の集団の風土的特性は何であるか。それらの集団の形成した文明はいかなる風土的規定を持つか。それらを彼は生産の様式や衣食住の様式などにわたってきわめて綿密に考察しているのである。

 人間の地理学は歴史学よりも一歩遅れていたとはいえ、今はもう肩をならべて進んでいるといってよい。そこで歴(148)史の認識論と同じく|地理学の認識論〔付ごま圏点〕が起こって来なくてはならない。この点においても地理学は歴史哲学に追随し、はじめは|自然科学〔付ごま圏点〕と|文化科学〔付ごま圏点〕(あるいは歴史科学)との区別に即して問題を提起した。地理学はこの両者のいずれであるかというのである。ところで地理学がこの両側面を有することは、何人の眼にも明らかである。そこである人は両者に属するといい、他の人は両者の中間あるいは切断面にあるという。さらに他の人は自然科学的な自然地理学と、文化科学的な人文地理学と、両者の相接触する地誌学との三者を認めるという。人間存在の光景としての国土の景観が記述せられるに至った限り、|個性化的個性記述的〔付ごま圏点〕な側面が認められざるを得ないのである。
 しかし右の区別は自然科学に対し歴史科学を権利づけようとする動機から起こったのであって、地理学がひき起こした問題ではない。地理学に刺激された問題の設定としては、むしろラッツェルの人間の地理学が機縁となった|社会学との対決〔付ごま圏点〕があげらるべきであろう。デュルケムは社会的事実たる行為の仕方の定着したものとしての|有り方〔付ごま圏点〕(manie※[記号あり]res d'e※[記号あり]tre)が社会学の重要な研究対象であることを説き、社会を構成する要素の数量、その秩序づけの仕方、その結合の密度、人口の地理的分布、交通の仕方、住居の形態などをその有り方として数えているが、そのデュルケムにとってはラッツェルの人間の地理学の目ざすところは|社会諸科学〔付ごま圏点〕の取り扱うぺきものにほかならなかった。土地の性質や気候の特性が人類の|集団的表現〔付ごま圏点〕に与えた影響を研究するのは、宗教社会学や芸術社会学である。またそれらが諸国民の性格や風習や制度に与えた影響は、集団的性格学によって研究されねばならぬ。さらにそれが人類の分布に与えた影響は、人口学の研究対象である。これらは社会学の分科であって地理学ではない。もし総合的研究が必要とならば、モースの捉唱した|社会形態学〔付ごま圏点〕のごときがその役を果たしうるであろう。これは社会の物質的基体の学である。すなわちそれぞれの社会が地上に定着するに当たって帯びてくる形態、人口の数や密度や分布、その他集団生活の基(149)礎となる事物の総体を研究する学である。土地は|社会の〔付ごま圏点〕基体として意味があるのであるから、研究の目ざすのは|社会であって土地ではない〔付ごま圏点〕。すなわちそれは地理学ではない。かくして人間地理学|の代わりに〔付ごま圏点〕社会形態学を、地理学的方法の代わりに社会学的方法をという主張が地理学に向けて投げられたのである。
 この論争がはじまったのは十九世紀の末、ラッツェルの人間地理学が出版されたときであるが、その後四半世紀を経て刊行されたフェッヴルの『大地と人類の進化』(Lucien Febvre,La Terre et l'Evolution Humaine.1922.飯塚浩二訳)は、この論争をその方法論の主要題目としている。彼の取り上げた社会形態学からの抗議の第一の点は、地理学者が|あらゆる人類の集団〔付ごま圏点〕は地的基体の上に立っているとするに対して、|地理的根柢を持たない集団形成〔付ごま圏点〕があるではないかと指摘したことである。原始社会におけるトーテム的集団形成がそこで問題とされた。この集団形成は現実においては地縁的集団形成と入りくんでいて、決して単純な問題ではないが、今それをひき離して考えるとして、社会形態学暑が問題とするのは、トーテム的集団は、明白な形態を持った土地、図形的表現を与えうるような土地、すなわち|固有の領土〔付ごま圏点〕を持たないということなのである。これは当然認めなくてはならぬ。しかし領土がないということはいかなる意味でも土地とつながりがないということではない。デュルケム自身も、ある社会集団がその占居する土地に対してどんな形のつながりも持たず全然その印象を帯びないということはあり得ないといっている。トーテム集団の|組織〔付ごま圏点〕が土地にもとづかないにしても、この集団の生活はさまざまに土地の産物や気候と連関しているのである。その限り、かかる集団も地理学の対象たりうる。抗議の第二の点は、地理学があまりに野心的で、地理的契機のない社会集団をまでも地理学によって説明しようとし、また地縁集団についても地理学が権利を持っていない範囲にわたって地理学のみで解決しようとしているということである。この抗議は|地理学の行きすぎ〔付ごま圏点〕を突いているともいえる。稲作(150)地方において家族や村落の強い構成が社会の主要な支柱となっているという事実からして、地理的条件による農耕様式とその地の社会組織との間に|因果関係〔付ごま圏点〕を認めるというごときやり方はこの行きすぎの一例である。地理学者の言いうる限度は、稲作地方において稲の耕作が家族的組織を維持し強固にすることにあずかって力があったということだけであろう。社会組織やその様式は地理的条件から出てくるものではない。同様に諸地方の家屋や東落の様式についても、地理学者はともすればそれを地理的条件のみから説こうとするが、地理学者が言いうる範囲は、それらにおける地理的な契機だけなのである。そのほかになお歴史的影響や人種的影響が存することを忘れてはならない。これらの点において社会学からの非難は当たっている。が、それは地理学が不必要で社会形態学に所を譲るべきだということではない。|風土と人間生活との連関〔付ごま圏点〕は社会形態学の問題でもなければまた歴史学の問題でもないであろう。個々の地理学者の行きすぎと、本来の人間地理学の任務とは別である。この任務は、歴史をつくる人間が自然との間に営みつづけている諸関係を、その継続の各瞬間において、把捉することにほかならない。
 こうしてフエッヴルは、あくまでもヴィダル・ドゥ・ラ・ブラーシュの立場を擁護しつつ、|社会学との対抗上〔付ごま圏点〕、一歩自然科学の方へ退いたのである。グィダル・ドゥ・ラ・ブラーシュはリッターのほかにフンボルトの|景観の分析〔付ごま圏点〕をも充分に尊重し、地理学とは景観の分析につきるとさえ言った。また地理学は|場所の科学〔付ごま圏点〕であって人間の科学ではないともいった。地理学が目ざしているのは人類の生活の繰りひろげられている|環境〔付ごま圏点〕であって、人類自身ではない。人類が問題とされるのは、この環境に働きかけ、そこに印象を捺しつけ、それに変更を加えた限りにおいてである。すなわちその土地への投影を介してである。もし人間の地理学が|社会の〔付ごま圏点〕地的基体を研究することによって|社會の〔付ごま圏点〕研究を目ざしているごとくに見えたとすれば、それは行きすぎであって訂正されなくてはならぬ。地理学の目ざすのはあく(151)までも|土地であって社会ではない〔付ごま圏点〕。
 このように人間の地理学が社会科学との対決によっておのれの立場を確立しようとしたことは、歴史学が|自然科学との対決〔付ごま圏点〕によっておのれの領域を確立した前例と対照して、非常に示唆するところが多い。地理学が自然科学の範囲内にとどまらず、社会科学の領域のなかへ奥深くはいり込んで行ったからこそ、このような争論が起こって来たのである。そうしてまたその進入は決して越権というわけではなかった。人間の地理学は社会学と同じく|人間存在に閲する学〔付ごま圏点〕に相違ないのである。しかしまたそこに社会科学の方から押し戻してくる理由のあることも認めざるを得ない。そうしてその点に地理学が自然科学と文化科学との、両者に属するといわれ、あるいは両者の接触点であるといわれるゆえんも存するのである。社会学が目ざすのは人間の|人倫的組織としての存在〔付ごま圏点〕であるが、それは人間存在の|時間的空間的〔付ごま圏点〕構造が具体的に展開したものであって、そのなかに|空間性の具体化〔付ごま圏点〕という契機をふくまないのではない。従っていかなる社会構造も土地と無関係であることはできない。しかし社会学者は、このことを充分承知の上で、しかも|土地の個性〔付ごま圏点〕を顧慮することなく、社会構造だけを問題とすることができる。しかるに人間の地理学は、|人倫的組織において具体化している人間存在の空間性〔付ごま圏点〕に特に着目し、それを問題とするのである。そこには人倫的組織そのものの問題や、そこに具体化している人間存在の時間性の問題も連関しているに相違ないが、しかし地理学者は、そのことを充分承知の上で、ただ|土地の個性〔付ごま圏点〕のみに注意を集中するのである。そこで|特定の地域の具体的な景観〔付ごま圏点〕を一つの生きた全体として把捉し記述することが、人間の地理学の|最後のねらい〔付ごま圏点〕になる。それが自然科学的な知識を活用し、また自然科学的な方法を用いるとしても、一般化的法則定立的な態度はここでは捨て去られて、特殊的なもの、個別的なもの、不規則的なものに執着するところの個性化的個性記述的な態度が、ここでは不可欠なものになる。このような|地(152)理的個別性〔付ごま圏点〕の把捉は社会学や歴史学の目ざすところではなかった。が、また自然法則の発見を目ざす自然科学の任務でもないであろう。ここに人間の地理学の独自な地位があるのである。
 以上のごとく地理学の認識論は、|地理的決定論〔付ごま圏点〕を斥けて|人類の諸集団と環境との連関〔付ごま圏点〕を把捉するという立場に立ちつつ、社会科学と異なるその目的及び方法を反省したのであった。

 われわれは如上の反省を充分の興味をもって迎え入れなくてはならぬ。が、人間存在の風土的構造の問題としては、この反省のうちになお一歩押し進めるぺき点がありはしないかと思う。それは環境とか土地の個性とかとして問題とされているものがあくまでも|人間存在に属する〔付ごま圏点〕ということ、従って環境は人類の諸集団に対立するものではなくして、集団の|存在的中味〔付ごま圏点〕にほかならぬということである。この点は人間存在の空間性にまで反省を深めたのでない人々、他の自然科学と同じく地理学もまた安んじて自然空間から出発してよいと考えている人々にとっては、恐らく問題とならないであろう。しかし空間の問題をその根漁にまで、すなわち主体的な空間性にまで掘り込んで見たわれわれにとっては、環境の問題も結局この根源とつながらざるを得ず、そうしてそこからのみ人間存在の風土的構造としての意義を把捉しうるのである。
 ヴィダル・ドゥ・ラ・ブラーシュやフエッヴルは地理的決定論を排除する点においてまことに鮮やかな功績をあげた。土地とか気候とかというごとき抽象的なものを一方に考え、他方に同じく抽象的な人というものを対立させて、前者の後者に対する影響を明らかにするというごとき考え方は、人類学、医学、気候学などには通用するであろうが、進んだ地理学者はもはや取ろうとはしない。地理学者にとっては気候の人類に及ぼす作用は植物界を媒介としてのも(153)のであり、従って土地もまた気候的植物的地帯として把捉される。しかるにかかる地帯としての山野の景観は著しく人間の営為によって変えられたものであって決して自然のままではない。従って人間に対立する他方の項としての大地というごときものは、抽象的な曖昧な概念にすぎぬのである。それと同様に土地や気候に対立する人、ルソーの考えたような孤立的利己的な自然人などというものも、全然非現実的な抽象物にすぎない。かかる自然人がまず性的に結合して家族をつくり、漸次集団の範囲を拡大して国家を形成するに至ったというごとき在来の考え方も、今となっては捨て去らなくてはならない。国家的集団の形成は非常に古いのであって、家族その他の小集団は逆に国家の地盤において可能になるともいえる。もし国家を広義に解し、萌芽的な政治的集団をもそこに入れて考えるならば、国家は人類とともに古いといってよいであろう。すなわち、人類ははじめから集団的に存在しているのである。有史以前の言語や宗教がそれを証拠立てる。|環境と連関するのはこのような集団なのであって〔付ごま圏点〕、ルソー風の自然人ではない。孤立的な原始人が自由に周囲の自然を利用するなどという状態はかつてなかった。非常に古い時代から、広大な集団が広大な地域にわたって能動的受動的に土地と関係していた。この環境との連関において人間の側に作り出されたのは、常に|集団的なもの〔付ごま圏点〕、すなわち|社会的習慣〔付ごま圏点〕や|宗教的観念〔付ごま圏点〕である。衣食住の物資を生産する仕方、受用する仕方、すべてこの集団的拘束のもとに立たぬものはない。個々の人がその欲望を充足させるために自然的産物を取って用いるという場合、その間には必ず集団的な観念や習俗が媒介として立っているのである。環境と連関するのはこのような集団の活動にほかならない。
 このような見方は地理的決定論を克服するものとして充分にわれわれを納得せしめるが、しかしルソー風の原始人と食物戸棚のような自然との関係を排撃するのあまりに、ここでは|集団における個人的契機〔付ごま圏点〕があまりにも軽視され、(154)集団をあたかも一つの有機体のごとく考えていはしないであろうか。個人があくまでも集団における個人であるとともに、集団もまた個人の間の結合である。主体的な間なくして集団はあり得ない。これは原始集団においても同様である。未開人の衣食住に禁止、拘束、タブーが強力に働いているのは、一面において集団の習俗や観念の支配を示すとともに、他面において個人の背反の可能性が非常に強いことをも示すと見なくてはならない。個人が有機体の細胞のごとく全体に服属するところでは、禁止や拘束の必要はないであろう。とすれば、環境と連関する|集団の活動〔付ごま圏点〕は、環境という相手に対して、集団という一つのものが働きかけるのではない。個人と個人|との間の〔付ごま圏点〕主体的連関のなかに、あるいは集団と集団|との間の〔付ごま圏点〕主体的連関のなかに、いいかえれば集団自身の内部に、すでに環境的なるものが含まれているのである。人と人との交際や結合のなかには、交通路や家屋や田畑や工場というごときものが当然ふくまれる。土地の耕作がおのれのみならず家族を養うためであるとすれば、この土地への働きかけは|家族的連関の中味〔付ごま圏点〕であって、家族的連関とそれに対立する土地との間の関係なのではない。その耕作において夫と妻とが|共同して〔付ごま圏点〕働いているとしても、その共同はやはり家族的連関の中味であって、土地にとっては二人の力の合力が働きかけているというわけではない。土地に実際に力を加えているのは|個々の人〔付ごま圏点〕であって集団ではなく、それが集団の土地への連関であるといわれうるためには、個々の人の土地における労働が集団構成の契機となるのでなくてはならない。だからある地域の|景観〔付ごま圏点〕は、その地の集団が|おのれに対立する自然〔付ごま圏点〕のなかへのおのれの印影を刻みつけたというわけのものではなく、むしろその集団がおのれの|人倫的組織の中味を土地の姿において表現したもの〔付ごま圏点〕なのである。そうなると景観は|人間存在のなかの光景〔付ごま圏点〕であって、人間を|外からとりまく環境〔付ごま圏点〕なのではない。この点においては環境の概念は、個人の立場において形成されたものとして、個人と個人との間である人間存在には不向きであろう。しかし景観が主体的な人間存在を(155)|客体的に〔付ごま圏点〕表現している点に着目すれば、それは人間存在そのものではなく、人間存在にとっての|他者、外なるもの〔付ごま圏点〕ということもできる。事実われわれは具体的な景観に対して一定の抽象を加えることにより人間に対立する自然を取り出すことができるのである。そういう他者性あるいは外在性は環境の概念に依然としてささえを与えるであろう。が、この外なるものがそれにもかかわらず人間存在の表現であるということ、主体的な人間存在はただ|この他者においてのみ〔付ごま圏点〕把捉されうるのであることをわれわれは忘れてはならない。
 右のごとく環境が人と人との間の光景にほかならぬとすれば、|環境〔付ごま圏点〕と|人類の集団〔付ごま圏点〕との連関を問題とするという考え方が、なおはなはだ不徹底であることは、おのずから明らかとなるであろう。そこではなお依然として|二つの項〔付ごま圏点〕の間の連関が問題とされている。一方の項は環境あるいは自然的地域であり、他方の項は人類の集団である。ところで前者は、気候的植物的な地域として、太古以来の人間の営為により著しく変化して来たものである。そこには耕作された田園や植林された山地があり、また水流に添って並ぶ町々とか平野に散らばる村落とかがある。それらはすでに|人類の集団の姿〔付ごま圏点〕にほかならないのであるが、これを環境として一方に立てるとすると、それに対する人類の集団は何らか空間的な姿でないものとして立てられなくてはならぬ。そこで集団的なるものは、習俗とか社会的拘束とか宗教的儀式などによって示される。それらは自然と人との間に介在する「観念」であって、人と人との間の生きた関係なのではない。とすると、ここで|環境〔付ごま圏点〕対|人類の集団〔付ごま圏点〕として掲げられるものは、「具体的な人間社会の姿」とそこに働いている「観念」との対比にほかならぬであろう。これは環境と人類の集団との連関という主題が印象したとははなはだ異なる内容である。なぜそういうことになったかといえば、ここで取り扱わるぺき問題が、実は人間存在の|客体的な表現〔付ごま圏点〕とその|主体的な根柢〔付ごま圏点〕との間の関係にほかならなかったからである。人類の集団において習俗とか社会的拘束とか宗(156)教的儀式とかとして観念的に固定されたものは、実は主体的な人間存在の構造にもとづく|行為の仕方〔付ごま圏点〕なのであって、それなしには景観のごとき客体的な姿は形成されないとともに、また客体的な姿におのれを現わすことなしにはその意義は充実されないのである。たとえば稲の耕作には一定の仕方がある。ある季節になると苗代をつくらなくてはならない。苗を植えるべき田を耕さなくてはならない。灌漑の準備をしなくてはならない、等々と|なすべきこと〔付ごま圏点〕の系列がある。それをなさないのは、農家の働き手としても農村の一成員としてもその義務を怠ることである。そこでその|なすべきこと〔付ごま圏点〕が果たされると、稲が広い平野に一面に生い育っているというごとき景観が実現されてくる。この実現と離れてただ耕作の仕方というものだけが独立に存在しているのではない。もちろんそういう耕作の仕方だけを抽出して観念的に把捉することはできる。しかしその場合にもこの仕方がどこかで具体的に実現されて土地の姿となっていることを観念しうるのでなくては、耕作の仕方としての意義は充実しない。そう考えてくると、いかなる景観も主体的な行為の仕方を根柢とすることなしには現われて来ないのである。そうして|客体的な景観〔付ごま圏点〕と|主体的な根柢〔付ごま圏点〕との間の関係は、同じ次序に属する|二つの項〔付ごま圏点〕の間の関係ではなくして、次序の異なるものの間の表現関係である。すなわち両者は異でありつつ同なのである。客体的にはわれわれは景観を見るのみであって、しかもそこに主体的な人間存在を理解している。しからばわれわれは|環境〔付ごま圏点〕と|人類の集団〔付ごま圏点〕との間の連関を考察するのではなくして、いわゆる|環境において〔付ごま圏点〕人類の集団そのものの姿を見るのである。
 かく考えれば人間の地理学が|地域的景観の記述〔付ごま圏点〕によって|土地個性の把捉〔付ごま圏点〕を目ざすということは、非常な卓見だといわなくてはならない。それは|土地の個性〔付ごま圏点〕と言い現わされているが、まがいもなく人間存在の、すなわち多くの人々の間としての存在の個性なのである。ここにわれわれは人間存在の風土的構造の問題の核心を見いだすことができる。(157)それは人間存在における個性の根源を突きとめることである。われわれは前に歴史の唯一回性を追究して、一方は時間的な唯一回性すなわち|時代の独自性に〔付ごま圏点〕、他方は空間的な唯一所性すなわち|地域の独自性〔付ごま圏点〕に到達した。その地域の独自性の問題が人間の地理学の本来のねらいとして取り上げられているのである。では一々の時代が独自の姿において永遠の意義を担っていたように、一々の地域もまたその個性において永遠の意義を担うものとして明らかにされているであろうか。

 地理的な景観が人間存在の光景であるならば、土地の個性は人間存在の個性である。地理学者が描こうとする|土地の肖像画〔付ごま圏点〕はまた|人間の集団の肖像画〔付ごま圏点〕にほかならない。しかしこの肖像画はどんな土地をでも任意に描くというわけではない。そこに取り上げられるのは、「一つの全体」としてまとまった一定の広さの地域、すなわち界限された地域である。
 前にわれわれは地上の個物が一として唯一的な個性を持たぬはないということに注意した。(七四ページ参照)路上の小石にすら一として全然ひとしいものはない。従ってただ百坪の庭も、狭い村落の土地も、それぞれに土地の個性を持っている。それを画家の風景画のように丹念に描き取ることも不可能ではない。しかしそういう肖像画を作って行くとすれば、何千何万という肖像画を作り上げてもなお一つの地方を描きつくすことはできないであろう。いわんや一つの国土、あるいは広く地表全体を考えれば、そういう仕方は到底用いることができない。かりに無数の描写ができ上がったとしても、それを見つくすことは容易でなく、またそこからまとまった知識を得ることもできない。だから地理学者がねらっているのはそういう無限に多様な個性をそのまま捉えることではなく、それらの中から特に重(158)要なもののみを|選び取り〔付ごま圏点〕、それを|総合して〔付ごま圏点〕一つの全体を形成することである。この選択的総合の原理は、歴史の場合と同じく、|人倫的組織の統一〔付ごま圏点〕にほかならない。家の庭は家族的存在の光景であり、村落の土地は地縁共同体的存在の光景である。それらはさらに大きい人倫的組織のもとに統一され、|国土〔付ごま圏点〕として明白に界限された土地になる。かかる「一つの全体」としての土地が、地理学者の個性描写の対象となるのである。
 ヴィダル・ドゥ・ラ・ブラーシュにはじまるフランス地理学派の独創的な業績として注目されているのは、ピカルディーとかフランドルとかノルマンディー本部とかバス・ブルターニュとかのごときフランスの「地方」の綿密な具体的研究であった。これらはフランスの国土の部分に過ぎぬではないかともいえるであろう。しかしこれらの「地方」が「一つの全体」として取り扱われうるのは、それがもともと「国土」として一つのまとまりを形成したからである。前に地縁共同体を論ずる際に(四五九ページ参照)言及したごとく、これらはほぼ地縁共同体の可能的な最大限の広さを示すものであって、その「一つの全体」としてのまとまりは、あくまでも人倫的組織の統一にもとづくのである。同一の河川の|利用〔付ごま圏点〕とか、同一の交通路による|連絡〔付ごま圏点〕とか、中心地への距離が一日の|騎馬行程〔付ごま圏点〕以内であるとか、従って同一の|経済的中心地への依存〔付ごま圏点〕とか、そういう|人間関係〔付ごま圏点〕がこの土地にまとまりを与えた。そこでこの地域内には、いつともなしに|文化の共同〔付ごま圏点〕が成り立ってくる。まず言語の共同。これが方言として形成される。その他耕作の仕方とか家の建て方とかのごとき風習の共同や、郷土愛のごとき感情の共同なども形成される。たといこの地域内へ血統の異なった集団が幾度か流れ込んだとしても、それらはこの文化の共同において一つになってしまうのである。そうなるとこの地縁共同体であり文化共同体である地域が、おのれを一つの全体として自覚し、それを防衛しょうとする|政治的組織〔付ごま圏点〕に到達するのは、きわめて当然のことでなくてはならぬ。それはこの土地に「大国家」が形成されるよりも(159)前の古いことであったではあろうが、とにかくこの地域は|国土として〔付ごま圏点〕界限されたのである。その後の歴史的変遷はこの地域をさまざまの政治的組織のもとに立たせたでもあろうが、かつて国土として界限された地域的特性は、その後の変化や発展を通じて持続し得たのである。この種のことは信濃の国とか薩摩の国とかのごとき日本の国々にも通用するであろう。
 が、このような|小さい国土〔付ごま圏点〕あるいは|地方〔付ごま圏点〕の理解には、それらの|於いてある場面〔付ごま圏点〕、すなわちフランスとか日本とかの国土の理解が先立たなくてはならぬ。フランス全体を知っているものにとって初めてフランドルとかブルターニュとかの個性が理解されるのであって、ブルターニュの中に閉鎖的に眼界の限られている田舎人にはおのれの担っている地方的特性は見えない。日本の場合でも同様である。ところでフランスとか日本とかのごとき国士は、各地方のそれぞれの異なった個性を含みながらも、その多様を統一して、さらに「一つの全体」を形成している。薩摩の国と陸奥の国とは実に顕著に異なっているが、しかしその相違にかかわらずいずれも日本の国土である。この種の全体の前では、地方的な差別は二次的なものになる。それはこの全体を成り立たしめる選択的総合が、地方の場合よりも一層大きい人倫的組織の統一にもとづいているからである。ここに存する文化的共同は、言語を例としていえば、さまざまの方言を統一した|一つの国語〔付ごま圏点〕として形成されている。方言は互いに異なっていても、人々はなおともに語ることができるが、国語を異にすればもはやともに語ることができない。従ってここには、地方の場合よりも広汎であるとともにまた|一層境界の明らかな〔付ごま圏点〕文化共同体がある。それを一つの全体として自覚し、それを防衛しようとする政治的組織は、地方の場合よりも一層明白に|国家〔付ごま圏点〕としての性格を現わしてくる。|国土〔付ごま圏点〕は国境によって界限された|国家の領土〔付ごま圏点〕になる。
 「一つの全体」としての国土はここで非常に明白に形成されたように見えるが、しかし国家の領土は歴史的情勢に(160)従ってさまざまに変化するものであって、|地理的な一全体〔付ごま圏点〕としての国土を精確に著わすとはいえない。その点ではフランドルというごとき地方あるいは小さい国土の方が、国家の領土よりも明らかに地理的な一全体を示すといえよう。またドイツの国土のようにかつては数多くの国家の領土に分裂していた場合もあれば、一つの国家の領土が本来の国土のほかにそれとまるで異なった植民地を包含している場合もある。従って地理的全体としての国土は、|一つの文化共同体と国家の組織とが相覆うている場合の国家の領土〔付ごま圏点〕というように限定しなくてはならぬ。かかる意味の国土こそ地理的単位として一層顕著に界限され、また一層明白に個性を有するものなのである。
 しかしこの国土の個性はその中に閉鎖的に閉じこもっているものの眼には見えない。それはただ他の国土との比較において、すなわち国土が|於いてある場面〔付ごま圏点〕を見渡すことによってのみ理解される。その場面は今では地表全体として把捉されうるが、しかしこの地理的視圏が成立したのはわずかに四百年来のことであって、それ以前にはそれぞれの時代の制限された視圏が「世界」あるいは「天下」としてその役目をつとめた。ヘーロドトスの世界は地中海を中心としてヨーロッパ、西アジア、アラビア、北アフリカを含むものであって、その中に多数の国土が散在している。古代シナ人の天下も中央アジア以東太平洋に至る地域で、中原の周囲には東夷南蛮北狄西戎その他八荒の異民族の国土があった。古代インド人のシャバ世界も西にヨナ人の世界、北にヒマラヤを控えて、多数の国土を包容している。しかしこのような世界は、もろもろの国土の|於いてある場面〔付ごま圏点〕たるにとどまらず、それ自身|一つの国土〔付ごま圏点〕としてのまとまりを持ったものである。インドとシナはこの点において政治的変遷に煩わされないほど確固とした国土的性格を獲得している。地中海を中心とする世界もアレキサンドロスの世界国家やローマ帝国のもとにそれに近い情勢を作り出していたのであるが、イスラムの勃興のゆえに両断され、エジプトからインドへまで広がるイスラム的な国土と、ヨーロ(161)ッパとに分かれた。そう考えてくると、ヨーロッパ文化圏、イスラム文化圏、インド文化圏、シナ文化圏などをそれぞれ|一つの地理的全体〔付ごま圏点〕と考えることは決して無理ではない。かつて一つの国家の領土となったことがあり、そうして強い文化的共同が依然として持続しているところには、地理的な意味において一つの国土としての性格が認められるのである。かかる意味においてわれわれは、ヨーロッパ的国土、イスラム的国士、インド的国土、シナ的国土、あるいはヨーロッパ的景観、イスラム的景観、インド的景観、シナ的景観などを問題とすることができる。
 以上のごとく国土の意義は一義的ではない。ヨーロッパ的国土、フランスの国土、ブルターニュの国土というごとき用法は、いずれも正当な根拠を持つのである。ブルターニュもヨーロッパも現在国家的組織を持っていないが、しかしそれらの土地が国土的性格を帯びて来たのは国家的組織との関連においてである。土地が人間の歴史の刻印を深く受けたものである限り、このように土地の性格が層位的に重なっているのは当然といわなくてはならない。それは重なってはいてもそれぞれに個性を持つことを妨げない。言語のアナロジーをもっていえば、フランス語はインドゲルマン語の特徴を保持しつつフランス語であり、ブルターニュの方言はフランス語の特徴を保持しっつブルターニュの方言である。ヨーロッパ的国土というごときものはちょうどこのインドゲルマン語に当たるであろう。
 しかし、このような区分は歴史的文化的な視点からなされたものであって、土地自身の認識から出発したものではない。土地の個性の把捉やそれによる地域の区分は、歴史的文化的な視点に煩わされずに、まず純粋に地理学的になされなくてはならない。そこでいわゆる地理学的地域が考えられる。その際区分の標準となるのは|気候〔付ごま圏点〕であるが、しかし人間の地理学において問題とすべき気候は、単に人体に影響を及ぼすものというにとどまらず、大地の形状性質などに深刻に作用し、その上に生ずる植物や動物に甚大の影響を与えるものである。人間はこの植物界、動物界との(162)交渉において衣食住の物資を生産するのであるから、気候と人間存在との連関はあくまで植物界、動物界、特に植物界を妹介とするものでなくてはならない。従って地理学的地域は、さまざまの|植物分布を生み出す気候〔付ごま圏点〕に従って、気候的・植物的区画として考えられなくてはならぬ。その第一は|湿潤熱帯地域〔付ごま圏点〕である。この地域の特徴の最もよく現われているのは赤道に近い熱帯平地の森林地であって、気温が高く、湿気が多く、植物は旺盛に発育して六十メートル以上に達する樹が少なくない。また降雨量が多く、巨大な河が流れる。アフリカのコンゴ河、南アメリカのアマゾン河などがそれである。そういう大河の流域やまたニューギニア、ボルネオ、マレー半島、スマトラ、セイロン、マダガスカルなどの諸地方に、恐ろしく植物の繁茂した熱帯森林がひろがっている。そこでこれらの特徴を合わせて、熱帯降雨林地域と呼ばれる。それに対して赤道をやや遠ざかり、雨量の少なくなっている地域には、森林が減り草地が現われてくる。降雨の季節が短く乾煉の季節が長いからである。これは熱帯草原地域と呼ばれ、第二の地域への移り行きの地帯となっている。第二は|乾燥地域〔付ごま圏点〕である。その特徴の最もよく現われているのは沙漠であって、雨量少なく植物をささえることができない。山地や台地では岩石が露出し平地や盆地には砂丘が発達している。人間はところどころのオアシスにおいてのみ生活することができる。北半球ではアフリカのサハラ、リビア、アジアへはいってアラビア、ペルシアのルート、北西インドのタール、中央アジアのトルキスタン、アメリカではメキシコ、コロラド、グレートベースンなど。南半球にも南アフリカのカラハリ、マダガスカル南部、南アメリカのパタゴニア、オーストラリアの中西部など、なかなか多い。しかし沙漠ほど乾燥せず季節的に降雨のある地域では草原が出現してくる。これはロシアの南部でステッピと呼ばれたもので、中央アジアから蒙古地方へまで広がっている。北アメリカではプレーリーと呼ばれ、南アメリカではパンパと呼ばれているがいずれも広大な草原地域である。第三は|湿潤温帯地域〔付ごま圏点〕で、北(163)半球では北アメリカ、ヨーロッパ、アジアなどの重要部分、南半球ではアフリカの南部、南アメリカのアルジェンチンの一部、オーストラリアの南部などがそれに含まれる。気温はかなり高くもなるが、雨量が適度に多く、もとは種類の多い濶葉樹と種類の少ない針葉樹の自然林に覆われていたが、今は田畑と人工林とに化している。農耕が盛んで居住人口も多い。が、この地域は、夏季に乾煉する地域、冬季に乾燥する地域、一年間適度に降雨のある地域の別に従って、かなり顕著に植物景観を異にする。夏季乾燥地域の代表的なのは地中海地域であって、月桂樹、オリーブ、葡萄、レモンなどが栄えている。同様の地域はカリフォルニア、南アフリカ突端、オーストラリア南部にも見られる。
 冬季乾燥地域の目ぼしいのは東海岸をのぞいたシナ大陸であるが、そのうち北シナから満州へかけては冬が恐ろしく寒く夏が暑いことで特殊の地域とされている。オーストラリアの東北部、アフリカの南部、南アメリカの中部にも同じように冬乾燥する地域がある。温潤な地域、夏冬ともに適当な雨のある地域のうちで、此較的に温度の低い地域は、地中海沿岸をのぞいたヨーロッパであって、他にはわずかにオーストラリアの東南端、北アメリカ西海岸の北部、南アメリカのチリーなどがあるだけである。それに対して此較的温度の高い地域は、北アメリカ合衆国の東半部、アルジェンチンの主要部、シナ東海岸、日本の大部分などを含んでいる。第四は|寒冷地域であって、針葉樹を主とする森林が多く、落葉濶葉樹はわずかに樺や榛ぐらいのものである。麦の耕作限界もこの地域にある。さらに寒冷の度が加わると、土地は深いところまで凍結し、表面だけが夏の日に融けて植物を生育させる。その植物も極地性の草本や柳樺の短小な灌木類から、やがて蘇苔や地衣の類だけになってしまう。しかし、そういう地域でもなお人類は住んでいるのである。人類の定住を許さないのは、もう一つ寒い極地の氷の上だけにすぎない。だからこの寒冷地域は、シベリアやカナダ、及びその以北の地帯で、かなりの広さを占めている。
(164) 以上のごとき四つの地理学的地域を認めることは、一応何人も反対することができないであろう。|湿潤熱帯地域〔付ごま圏点〕では、アマゾンのほとりでも、コンゴのほとりでも、ニューギニアでも、同じように恐ろしい密林が人類を圧倒している。その景観は|寒冷地域〔付ごま圏点〕の雪の積もった針葉樹林と対照して実に顕著な相違を示すといってよい。これらの地域の特徴に此すれば、|湿潤温帯地域〔付ごま圏点〕のさまざまの国土の間に存する相違のごときは、物の数でもないであろう。しかし、そういう地域が人間存在の光景として持つ意義はそれほどに重大であろうか。なるほど湿潤温帯地域では、どこでもよく耕作ができており、熱帯の密林や寒帯の積雪林に対して|共通の特徴〔付ごま圏点〕を持つといえる。しかしその「共通の特徴」を示している耕作地の景観が、一方では暑熱に湧く稲の水田であり他方では真夏の太陽に輝く黄ばんだ小麦の畑である場合に、人間存在の光景としてのこの|相違〔付ごま圏点〕が、熱帯の密林と温帯の耕作地との間の|相違〔付ごま圏点〕よりも意義が少ないといえるであろうか。少なくともこの二つの相違が次序の異なりたものであることは認めざるを得ないであろう。右の景観の相違を文化の相違に翻訳していえば、前者は日本やシナの文化とヨーロッパ文化との相違であり、後者は右のごとき高度の文化と未開人の原始文化との相違である。相違が顕著であるという点においては後者の方がはなはだしいであろうが、しかしその相違が担っている|意義の重大性〔付ごま圏点〕においては前者の方がはるかに重いのである。そうなれば湿潤熱帯地域と湿潤温帯地域との区別よりも湿潤温帯地域の内部における地域の別の方が意義において重大であるといわざるを得ない。
 このことはさらに湿潤温帯地域というごときまとめ方がいかに具体的な景観にとって無理であるかを反省せしめる。この温潤地域には、夏あるいは冬の季節に乾燥する地域と、一年間適度の降雨に恵まれる地域とがある。これは植物にとっては重大な相違であるから、この地域の別を認めることに依存はない。ところで一年間適度に雨に恵まれると(165)いう点では、日本はヨーロッパと同じ地域に属し、夏季乾燥地域たる地中海沿岸に対立することになる。そうなると疑問が生ぜざるを得ない。なるほど同じヨーロッパでも、地中海地域とそれ以外のヨーロッパとは風土を異にしている。フランスやドイツで緑の牧草が美しく生い茂っている夏の季節に、南フランスの海岸地方やイタリアなどでは、ほとんど緑草を見ることができない。日本での冬枯れと同じように、草は夏枯れをするのである。従って|夏草が生い茂る〔付ごま圏点〕という点では日本とヨーロッパとは同じであって、地中海地域とは異なる、といえそうに見える。しかしそうではないのである。日本の夏草は稲と同じょうに暑熱と湿潤とを条件とする文字通りの夏草であって、ヨーロッパではほとんど見ることのできない種類のものであるが、ヨーロッパの牧草類は、クローバーにしろその他のものにしろ、みな日本の冬草の類である。日本ではこれらの冬草は、麦が稲と交代すると同じころに、夏草と交代する。しかるにヨーロッパでは、麦のとり入れが八月一杯かかると同じように、冬草もまた真夏に繁茂するのである。つまり実質的には日本の五月が夏一杯にのびるのであって、日本と同じ夏があるのではない。それに反して地中海地域は、|日本と同じく〔付ごま圏点〕、五月に麦や冬草を終了させてしまうが、しかしそのあとに日本と同じく稲や夏草を生育せしめることなく、穀草や牧草に関する限りでは|ブランクになってしまう〔付ごま圏点〕。その代わりそこには葡萄やオリーブの栽培という別種の夏がはいってくる。そうしてみると、五月に終わるか八月までかかるかという遅速の別はあっても、実質的にはヨーロッパも地中海地域もともに麦と冬草との支配する土地としてきわめて近似しているのである。地中海地域の特徴は、さらにその上に果樹栽培の夏が加わって来るというに過ぎない。それに此べると、日本とヨーロッパとの差違ははるかに大きい。水田の稲が生い育っている日本の夏の景観は、実に根本的にヨーロッパ的でないものといってよかろう。かく考えれば、日本とヨーロッパとを同じ地域に属せしめ、この地域を地中海地域から区別するというようなことは、(166)人間存在の風土性の理解の上に毫も資するところはないのである。
 純粋に地理学的に考えられた地域が以上のごとく人間存在における意義の軽重と相合わないものであるとすれば、われわれはやはり歴史的文化的視点からなされた地域の区分に従うべきであろうか。この間題について示唆するところの多いのは、ヴィダル・ドゥ・ラ・ブラーシュが試みた人口分布による地域の区分である。人類は地表に一様に散らばっているのではなく、さまざまの密度をもってかたより、ある地域に集中している。そういう人類の衆団に着目すると、シナ、インド、ヨーロッパ、北アメリカなどが人間存在にとって重要な意義を持つ地域であることが明らかになる。人口の集中、大集団の形成は、地理的な契機と密接に連関するものである。衣食住の物資の生産に都合のよい土地へは人口が集中する。集まった人々は土地に加工して一層多くの物資を生産し、それによってますます人口の集中を誘う。そういう土地は人類の大集団を可能ならしめるとともに、また逆に人工によって顕著な性格を刻みつけられるであろう。だから大集団のあるところに一つの全体として個性をもつ地域が成り立つということは、理の当然なのである。
 ところでこの視点をとれば、現在人類の大集団の存在するシナ、インド、ヨーロッパ、北アメリカのほかに、|かつて〔付ごま圏点〕他のいずれの地方よりも大きい集団の存在していた地域、すなわち|エジプト〔付ごま圏点〕や|カルデア〔付ごま圏点〕が問題とならざるを得ない。エジプトは現在においても揚子江沿岸やガンジス河沿岸やライン沿岸と同じく人口密度の最も高い地域であるが、しかし人口の絶対数においてはインドやシナの二三十分の一にすぎない。カルデアはさらにそのエジプトの五分の一にすぎないであろう。だから比較的にいえば人類の大集団とはいえないのである。しかし人類の歴史がはじまって以来久しい間、これらの地域は世界における最も大きい人類集団を養っていたと思われる。ギリシア人たちはこれらの大(167)社会に驚嘆していたのである。イスラムの盛期においてもなおこの大集団はヨーロッパやインドのそれに此して遜色がなかったであろう。だからこの地域をシナ、インド、ヨーロッパなどと対立せしめて一つの地域と見ることは、充分の理由を持つといってよい。
 この分け方は人口の密度や集団の大小に従って人間存在における意義の軽重を判断し、その重要なものに注意を集中するやり方であって、人類の分布の少ない地域はおのずから閑却されることになる。がその結果は、前に歴史的文化的視点から得られた包括的な国土の区別、すなわちヨーロッパ的国土、イスラム的国土、インド的国土、シナ的国土の別に一致するのである。ここにさらにヨーロッパ的国土の近代における発展として、|アメリカ〔付ごま圏点〕及び|シベリアを含むロシア〔付ごま圏点〕をそれぞれ一つの全体として把捉し、取り残された世界としてアフリカ内地や大洋州を包括するならば、それによってほぼ地表全体をつくすことになるであろう。それによってわれわれはそれぞれの文化圏と地理学的地域との一致を確立しておくことができるのである。

 かつて拙著『風土』において風土の類型を|モンスーン、沙漠、牧場〔付ごま圏点〕の三つとして掲げたときには、眼中にあったのはシナ及びインドの東洋的国土と、イスラム的国土と、ヨーロッパ的国土とのみであった。それらは近代に至るまでの世界史の舞台であり、従ってそれによって世界史的に展開されて来た人間存在の風土性はほぼつくされうると思ったのである。しかしそのときには|二つのこと〔付ごま圏点〕が閑却されていた。一つは黒海から太平洋までの広大なアジア大陸を一つの国土たらしめたあの蒙古帝国の存在である。それは世界史的には一つの挿話に過ぎないように感ぜられた。またその国土は、インド、シナ、ヨーロッパ及びイスラム的国土のように、一つの文化圏としての性格を帯びてもいない。(168)しかし人類を一つの連関にもたらす動き・世界的視圏の形成の運動にとっては、蒙古帝国の成立は甚大な意義を担っているのである。それを考えると、この広漠たるステッペ及びそれに続く寒帯森林や凍原などの広大な土地が、すなわちシベリアが、近代において再び世界史の舞台にひき入れられたことは、相当に大きい出来事といわなくてはならない。従ってかつては蒙古帝国の領土であったロシアのステッペをも含めて、この広大な|ステッペの国土〔付ごま圏点〕を一つの風土の類型と考えるべきことは当然であると思われる。もう一つは近代におけるヨーロッパ人の|地理的発見〔付ごま圏点〕の事業の重大な意義である。これは蒙古帝国の刺激によってひき起こされた世界的視圏への動向をヨーロッパ的知性によって大きい世界史的現実にまで押し進めたものにほかならない。この世界的視圏の確立によって、人類を一つの連関のもとに考えることが、はじめて可能となった。世界史は真に充分な意味で世界史となった。これは世界史自身にとって未曾有の画期的な出来事である。が、それは在来孤立し分裂していたさまざまの世界を一つの世界たらしめたというにとどまらない。世界史の舞台がアメリカの「新しい世界」にまで押し広められるとともに、またこの新しい舞台における|世界史の新しい所作〔付ごま圏点〕が押し出されてきたのである。それは一面から見ればヨーロッパ的風土に制約された人間が新しい世界を|ヨーロッパ化した〔付ごま圏点〕ということであるが、しかしこの仕事はヨーロッパ的限定をのりこえて|新しい風土性〔付ごま圏点〕を創造することなくしてはなされ得なかったのである。ここに人間存在の風土性の|新しい展開〔付ごま圏点〕がある。従ってアメリカもまた一つの風土の類型として、他の風土類型との連関において理解せられなくてはならない。
 そこでわれわれはこれ以上に簡単化することのできない類型として、モンスーン、沙漠、牧場、ステッペ、及びアメリカの五つをあげることができる。そのほかになおアフリカ内地や西南太平洋諸島があり、風土性の問題の上に深い関心をそそるのであるが、これはまだ展開せられない風土性として残しておくことにしよう。
(169)
 さて第一の|モンスーン的風土は、アラビア語の|季節風〔付ごま圏点〕を意味する言葉によって名づけられている。インド洋で夏の半年は南西モンスーンが熱帯の海の湿気をアジア大陸に運び、冬の半年は北東モンスーンが大陸から大洋の方へ向かって吹く。これを最も早く認識したアラビア人は、それを利用してインド洋からシナ沿岸に至るまでの航路を開いたのである。マレー半島以東の海では季節風の方向はインド洋と同じではないが、しかし夏季には大洋の湿気が陸に運ばれ、冬季には大陸の空気が海の方へ流れるという点においてほぼ変わりがなく、従って東南アジアの沿海地方全体がモンスーン地域と呼ばれうるのである。
 モンスーン的風土の特質は、|暑熱と湿気との結合〔付ごま圏点〕にある。といっても地理学的に湿潤熱帯地域と呼ばれている地帯のように一年間を通じて熱暑・湿潤なのではなく、ただ|夏季にのみ〔付ごま圏点〕そうなのである。インドでは暑さは冬半季においてもなお持続するが、しかし降雨はほとんどなくなり、非常に明瞭な乾燥期が現われる。シナや日本では降雨は一年を通じて持続するが、しかし暑さは夏季のみに限られ、涼寒季の方が長い。だからいずれの地域においても、夏季に降雨があって、|この時期にのみ〔付ごま圏点〕湿潤熱帯地域におけるような猛烈な植物の生育が現われるという点においては共通なのである。そこで、芽ばえてから数か月のうちに結実し枯死するというような、短期熱帯的植物の一群が、ここでは旺盛に繁茂する。その中に数多くの食用植物があって、この地方の食料の基礎となっているのであるが、中でも稲は、その成長の迅速なこととその要する面積に比してその生産する栄養価値が多量なこととにおいて、他に類のないものである。だから数多くの夏草を駆逐してこの稲を守り育てることがこの地域における食料生産の主要作業となった。それを具象的に示しているのが水田である。
 水田は人間生活の基礎が|暑熱と湿気との結合〔付ごま圏点〕の上に置かれているということ、すなわち人間存在の|モンスーン的特(170)性〔付ごま圏点〕の表現である。それは日本人にとってはまことに平凡な、あたりまえな景観にすぎないが、しかし存在的には実に多くのことを示唆している。「米は文明の象徴である」という言葉は決していい過ぎではない。元来稲は、インドの大河川のはとりの低地に、すなわち夏季の増水期には浅く水を被り、減水期には露出してくるといったような泥地に、野生していたものであろう。人間は早くよりその実を採集して食っていたかも知れない。しかし、ある時期に人間はその栽培をはじめた。そうしてその「栽培植物」としての稲がインド以外の地にひろまり、ついにモンスーン地域全体にわたって、広汎な地面を覆うに至ったのである。これは人類の歴史において決して小さい出来事とはいえない。人類の半ば以上は水田耕作の上に立っている。彼らは米によって養われるのみならず、水田耕作をその生活内容とし、その上に人倫的組織を形成しているのである。
 周知のごとく、稲を栽培するためには、水をたたえうるような水平の地面をつくらなくてはならない。さらにその田へ水をひくための灌漑の設備をこさえなくてはならない。この労働は畑の耕作や牧畜とは質の違ったものである。灌漑の設備はいかに小さくとも村落共同体のごとき団体の力を要するものであって、小麦の栽培のように一家の小人数だけでもなしうるというわけではない。またその設備は共同的にのみ使用されうるものであって、独立に、他を煩わすことなく使用することのできないものである。最もよく共同することによって各自の需要が最もよく充たされるという村落的秩序がそこに作り出される。そこでは「畔放《あはな》ち溝埋《みぞう》め」というようないかにも他愛のない行為が、最も憎むぺき大罪なのである。そういう点からして水田耕作は、戦闘的でもなく利害打算的でもない|平和な、おだやかな感情融合的な団結〔付ごま圏点〕を特徴とした地縁共同体を出現せしめる。そういう形の村落が社会の有力な構成要素となっていることは、インド、シナ、日本などに共通な現象である。またそういう灌漑設備を使用して稲を栽培する技術も、非常(171)に綿密な配慮や労作を必要とするものであって、少なくとも家族共同体のごとき団体の力をまたなくてはならない。土を耕して水平にならし水田をつくる作業、その水田の泥の中へはいって手でもって苗を丹念に植えつける仕事、それらを短期間に、都合のよい降雨の条件をねらって遂行するためには、団体的協力が極度に必要なのである。だから田植えは非常に古い時代から集団的になされていた。そうしてその後の苗の成長を看護する仕事、特に炎天下の水田のなかへはいって手でもって雑草を駆除する仕事は、小麦栽培の場合などとは此較にならない烈しい労働である。それらはただ親密に助け合い、かばい合う共同生活によってのみ、堪えしのいで行くことができる。だから水田耕作は家族共同体をも非常に強固ならしめるのである。しかもそれは意志的な団結においてよりも、|感情融合的な〔付ごま圏点〕、距てのない合一において著しい。
 以上のように「田園的」な村落や家族が社会の有力な構成要素であることは、モンスーン地域の顕著な特徴である。日本の神話においては神々の生活は明らかに村落的家族的であって、オリユムポスの神々の生活がポリス的であるのと著しい対照をなしている。同じ特徴はインドの神話にも見いだせるであろう。インドへ侵入したアリアン族は、ガンジス河の上流に入るころまではなお乾燥地方で形成した集団形式を保っていたが、それより東方あるいは南方の降雨の多い地方へ移るとともに集団は分散的となり、「農業的共同体となった家族」とでもいうぺき小部落の群を出現せしめた、といわれている。シナにおいても家族的あるいは同族的な集団が農業的共同体として小部落を形成していることは、鄭家屯とか揚家屯とかのような村名が示している通りである。
 この特徴は大国家の形成においても同じょうに現われてくる。インドにおいてもシナにおいても、水田耕作のはじめは大河の下流の沖積平野ではなくして、上流の傾斜の多い地方であった。灌漑の技術は最初はどこでも傾斜地にお(172)ける水流の誘導としてはじまっているのである。が、やがてガンジスの下流デルタ地方とか、揚子江と黄河の間の沖積平野とかが開拓される際には、村落共同体などとは此較にならない大きい団体の力が必要となった。そうしてその大土木事業、広範囲の灌漑設備を遂行したのが、|国家〔付ごま圏点〕なのである。日本においても同様に、池、溝、堤防などの築造が、上代国家の主要な事業として言い伝えられている。つまり水田耕作を核心として、村落共同体が小規模にやったことを国家は大規模に遂行したのである。従ってこれらの国家もまた「田園的」であったということができる。その具象的な姿は、これらの国家の政治的中心たる「都」が、村落の集合にほかならなかったということに見られるであろう。城壁に囲まれた都市、園地を伴なわない家屋のみの密集した都市は、遅くまでこの地方に出現しなかった。
 もとより国家の形成は、右のごとき水田耕作の拡大運動にのみもとづくというわけではない。大土木事業を起こし得たのは国家が|すでに〔付ごま圏点〕形成されていたからである。田園的な小集団、無数に散在せる小集団を一つの大きい全体にまとめた力は、何よりもまず|共同の文化〔付ごま圏点〕であった。同じ言語、同じ宗教、同じ物の感じ方、あるいは同じ耕作の仕方、同じ料理の仕方、同じ家屋の建て方など、|存在の共同〔付ごま圏点〕を表現する一切の文化的所産が、地縁的共同の限界を超えて広い範囲にわたり共同存在の自覚を呼びさまして行く。そういう|文化共同体〔付ごま圏点〕の上に国家が形成されたのである。ところでこのような文化的共同は、モンスーン地域においては、水田耕作と密接に連関せざるを得ない。人々は、水田耕作やそれにもとづく生活様式をともにしているのであり、従ってかかる生活様式のなかで起こる|物の感じ方〔付ごま圏点〕をもともにしているのである。それは、たとえば遊牧の生活における物の感じ方とは著しく異なっている。そういう物の感じ方の総体を、それぞれの民族の宗教が表現しているとすれば、その特性をわれわれは、水田耕作的及び遊牧的として理解しうるであろう。同様に芸術や学問もまた、モンスーン地域においては水田耕作的な特性を持つということができ(173)る。
 以上のごとくモンスーン地域における人間存在はその人倫的組織の全面にわたって共通の特性を示している。この風土的性格の立ち入った分析は拙著『風土』に譲るが、簡単にいえばそれは|暑熱と湿気との結合〔付ごま圏点〕を特質とするモンスーン的風土の人間存在的表現にほかならない。暑熱と湿気とは相寄って驚くべく旺盛な植物の生育を可能にする。それは一面において|人間に対する大きい恵み〔付ごま圏点〕である。この事実の原始的な把握が|太陽神崇拝〔付ごま圏点〕にほかならない。が、それはまた他面において|人間に対する恐ろしい圧力〔付ごま圏点〕である。暑熱と結合せる湿気はしばしば大雨、暴風、洪水、旱魃などとして人間に襲いかかる。これらは人間の抵抗を無意味ならしめるような巨大な力である。たとえばインドにおいては、モンスーンの少しの狂いがたちまち恐るぺき饑饉をひき起こす。しかしモンスーンを調整するなどは人力の及ぶところでない。そこでもしこの種の圧力を受けまいとすれば、同時に自然の恵みをも断念しなくてはならない。それはモンスーン地域において人口を稠密ならしめたその生活様式を放棄することである。従ってここでは、恵みと相表裏した|暴威〔付ごま圏点〕に対しての|忍従〔付ごま圏点〕が必須となる。これは沙漠における生活と著しく異なる点である。沙漠は恵まない。沙漠の脅威に対する忍従はそのまま滅亡である。だから沙漠はあくまでも抵抗すべきもの、屈従してはならないものである。
 以上のごとくモンスーン的人間は、自然の恵みを受けつつ自然の暴威に忍従する。すなわち|受容的・忍従的〔付ごま圏点〕である。人間は自然と対抗してそれを征服しようと努めるのでなく、自然と合一してその中に生きようとするのである。この性格はモンスーン的人間の営為の全面に現われている。人間が|能動的〔付ごま圏点〕に自然に働きかけるという点においては、実際上水田耕作の方が小麦耕作や果樹栽培よりも烈しいのであるが、しかしその|働きかける仕方〔付ごま圏点〕が受容的忍従的なのであ(174)る。だからここでは、人工的なるものを喜び理性的自発的活動を尚ぶという傾向よりも、自然的なるものを嘆美し感情の流露を尚ぶという傾向の方が著しい。人倫的組織においては、愛の合一を本質とする家族や、互譲を不可欠の契機とする村落共同体などが特に強力に栄え、理智的な打算による結合があまり尚ばれなかった。その観念的な自覚として仏教の|慈悲〔付ごま圏点〕や儒教の|仁〔付ごま圏点〕は非常に広汎な理解を得たが、|正義〔付ごま圏点〕の要求はそれほど顕著でなく、むしろ|無差別平等〔付ごま圏点〕として慈悲や仁のなかに含意されると考えられた。この傾向は国家組織の受容的忍従的な性格として最もよく現われている。インドのアショーカ王の国家は慈悲の実現を目ざしたものであった。それを統治する君主は、一切の私心をすててただ法の実現にのみ腐心する転輪聖王たるぺきであった。シナの古代国家の政治理想もまた仁の実現であって、君主はただ天命にのみ従って道の実現に努める聖人たるべきであった。現実の国家はしばしばこの理想からはずれるが、しかし国家たる限りその本来の使命を果たさぬでもない。だから人民は一面において慈悲とか仁とかの実現を見、恵みとしての正義を受けるとともに、他面においてその専制的権力に忍従するのである。この忍従的態度は外から見れば奴隷的態度に見えるかもしれない。しかしモンスーン的性格としての忍従は|自ら作り出した態度〔付ごま圏点〕であって、力により他から強要された態度なのではない。
 モンスーン的風土はさまざまの特殊形態を含んでいる。海洋的で、漁業が盛んに行なわれ、魚類や海草類を食う量において世界に比類がなく、また冬の半年には麦をも栽培する日本は、その変化の多い台風的な性格において、はっきりとシナやインドから区別される。ここでは受容的忍従的という存在の仕方が、さらに季節的・突発的、熱帯的・寒帯的というごとき二重性格を持つのである。それに対して|シナ〔付ごま圏点〕は、沙漠や草原につながり、広大な冬季乾煉地域を含んでいる点において、モンスーン地域中最も多く沙漠的傾向を示すものといえる。従ってその受容的忍従的な性格(175)は著しく無感動的・意志的な色彩を帯びている。その点においてシナとほとんど正反対なのが|インド〔付ごま圏点〕である。ここでも冬は乾燥期であるが、しかしその冬は比較的涼しいというまでであってヨーロッパの夏よりは熱い。従ってそれは常夏の国であり、自然の力の横溢する国である。受容的忍従的な性格はここで最も深刻に現われ、感情の横溢や意力の弛緩を特徴とするようになる。このような特殊形態が、それぞれインドやシナや日本の文化において、具体的に表現せられているのである。
 次に第二の類型は|沙漠的風土〔付ごま圏点〕である。沙漠といっても必ずしも砂の原のみでなく、岩石の露出した台地や礫の原をも含むのであるが、その本質的な規定は、わずかな乾性植物のほか植物を生育せしめ得ないほどに乾燥した土地ということである。植物さえ生き得ないところでは人間はもちろん存在し得ない。従ってそれは生の反対としての desert である。人間がこのような非存在と戦いつつその存在を押したてたところに、沙漠的風土の人間存在における意義が看取せられる。
 北アフリカからアラビアを経て中央アジアに至るまでの地域には、このような沙漠がひろびろと広がっている。人間はいかに沙漠と戦っても、沙漠そのものを住所とすることはできない。が、少しでも生の余地のあるところは、沙漠から救い取って desert |でないもの〔付ごま圏点〕に仕上げているのである。その最も著しいのは沙漠のただ中でまれに泉のあるオアシスであろう。それについでは、沙漠の縁辺で、短いながらも降雨の季節を持ち草地となっている地方が、|遊牧の生活〔付ごま圏点〕を可能ならしめている。これは沙漠との戦闘的接触せ最もよく表現したものである。最後にこれらの沙漠の間へ遠隔の地から豊富な河水の流れ込んでいる細長い地帯がある。ここでは明らかに|沙漠と対抗しつつ〔付ごま圏点〕、その内部に|沙漠的ではない生活〔付ごま圏点〕を展開した。なぜなら、それは乾燥のただ中へ湿潤がしのび込んでいるのだからである。かくして(176)沙漠的風土のなかには、特に|沙漠的な遊牧の生活〔付ごま圏点〕と、|沙漠的でない農耕生活〔付ごま圏点〕とが、ともに展開している。そうしてそれらが人類の最も古い歴史を形成したのである。
 アラビアの沙漠の縁辺における遊牧生活は、旧約の古い物語の地盤である。それはエウフラテスの河谷とニル河のデルタの間を、海岸ぞいの農耕生活に入らずに、さまよい歩くことであった。彼らの求めるのは家畜を養い得るだけの草地と水とである。その草地が利用しつくされれば、沙漠を渡って他の草地に向かわなくてはならぬ。そこにはかつて幕屋を張ったことがあり、かつて掘っておいた井戸もある。その井戸をもし他の部族が占領しているならばそれを奪回しなくてはならぬ。そういう生活をアブラハムの子らは営んでいた。エジプトを脱出したモーゼも、イスラエルの子らをひきいてシナイ半島でそれを続けた。そこにわれわれは|沙漠的人間〔付ごま圏点〕の典型的な姿を見ることができると思う。とすれば、沙漠的人間の特性は、旺盛な植物の生育による生の恵みを待ち望むことなく、乾燥した土地の上にわずかな草地や水を探し求め、強引に生を戦い取るという|能動的戦闘的〔付ごま圏点〕な態度である。それは沙漠的自然に対抗するのみならず、乏しい草地や水を奪い取ろうとする他の部族にも対抗しなくてはならぬ。受容的忍従的に自然や人間に対すれば、そこには死があるのみである。だから沙漠的人間は戦闘的団体として固く結束し、軍隊のごとく機動的に移ることができる。それがアブラハムの昔より現在のベドウィン族に至るまで持続している生括様式、すなわち|遊牧的な部族生活〔付ごま圏点〕なのである。
 遊牧的な部族は、同一祖先から出た血族であるというイデーの下に、きわめて固い存在共同を形成している。団体のどの一員が危険に瀕しても、団体はそれを助け、防ぎ、復讐する。この団体の力に頼らずしては、個人は沙漠において生きることはできないのである。とともに、団体の各員は団体の課する掟を忠実に守り、義務を忠実に果たさな(177)くてはならぬ。だからここでは全体への忠実、|全体意志への服従〔付ごま圏点〕が何よりもまず重大であるとせられる。ここからして沙漠的人間は|服従的・戦闘的〔付ごま圏点〕という二重性格を得てくる。それを反映しているのが|唯一神への絶対服従〔付ごま圏点〕の立場に立ってあらゆる他の民族や他の神々と戦う態度である。ヤーヴェの神への絶対服従と他の神々の排斥とはイスラエル民族の最も顕著な特性であった。それと同じようにモハメットのはじめた|神へのイスラム〔付ごま圏点〕(服従)の運動もまた沙漠的な特性を顕著に示したものである。
 全体への服従を要求することは人間存在一般に通有のことであって、沙漠的人間には限らない。しかしそれを源泉として現在の世界を支配している大宗教を、しかも三つの大宗教のうちの二つをまで、流れいでしめたことは、沙漠的人間の比類なき功績といわなくてはならぬ。沙漠的人間はそれほどにまで強く「人間の生ける全体性」を体験し、それによって人間存在の普遍的な深い根柢にまで徹することができたのである。が、それとともに沙漠的人間は柔らかい感情や豊かな直観には欠けているといえよう。乾燥が思惟や感情にまで入り込めば、実際的な利害打算が目立ち、情のうるおいが失われてしまう。しかし意志の力はますます不屈に、残酷なまで強靭になるであろう。この特性のゆえに沙漠的人間から多くの予言者が輩出し、その独特の功績をおさめることができたのである。
 北アフリカのニルの河谷やメソポタミアのチグリス・エウフラテスの河谷は、沙漠に包まれながらも|沙漠的でない農耕生酒〔付ごま圏点〕を可能ならしめている。これは|沙漠以外の地〔付ごま圏点〕でできた水が沙漠のなかに流れているからである。小アジアの山地の春の雨はエウフラテスの洪水となって沖積土を運び、人類の最古の国家建設の地盤を作った。やがてスメル、アッカド、バビロニアなどの諸王国の大運河工事が行なわれるようになると、この河谷は当時の最も進んだ文化の中心地となった。が、それよりも一層大仕掛けなのは、赤道アフリカからインド洋の湿気を流してくるニル河である。(178)それは沙漠のなかに豊饒な植物的生を栄えしめる。だからここにもカルデアに劣らない古い文化、古い国家が形成された。
 これらの土地の農耕生活はニル河やエウフラテス河の水に|恵まれた〔付ごま圏点〕ものであって、その水の利用がいかに人為的な加工によってなされているにもせよ、モンスーン的風土と同じく|受容的〔付ごま圏点〕な性格をもたざるを得ない。特にエジプトにおいてそれが著しい。ニル河への帰依や古いエジプト美術の示している柔婉な感情の流露は、沙漠的遊牧的なものとおよそ正反対であるといってよい。しかもニル河は、モンスーン地域における自然のように暴威をふるうことをしない。従って恵むものへの忍従もここでは必要でない。しかし沙漠は絶えずこの狭い河谷を脅やかしている。それはただに乾燥をもってするのみならず乾燥の具体化としての遊牧的部族をもってするのである。この脅威はあくまでも戦闘的な態度をもって対抗されなくてはならぬ。なぜなら、それへの忍従は滅亡にほかならないからである。ここに|受容的戦闘的〔付ごま圏点〕な性格が成り立ってくる。
 このような沙漠的人間の表現をわれわれはエジプトやカルデアの古い天文学や古い美術のうちに見ることができる。それは|沙漠への対抗〔付ごま圏点〕であるが、しかし意力的にでなく|静観的〔付ごま圏点〕になされたものである。乾燥を具体化した沙漠は、徹頭徹尾「生と美との反対」のものであるが、しかしちょうどその乾煉が|夜の空〔付ごま圏点〕を実に美しいものにする。あらゆる星が鮮やかに輝き、その小やみなき瞬きがあたかも壮大な交響楽のように響き合っている。それはまことに「生と美との最も純粋な姿」ともいえるであろう。人間の注意は醜悪な地上よりもこの美しい夜の空に集中せざるを得ない。そうしてそこに見いだされたのが天体の間に存する|驚くべき秩序〔付ごま圏点〕であった。黄道十二宮の知識のごときはスメル王国の時にすでに存していたらしい。人間存在のうちに一定の理法を見いだすということも、恐らくはこの宇宙の秩序に媒介(179)せられたのであろう。王がその一切の行動を天体の運行に合わせて行なったというごときことがそれを示唆する。人間はこの秩序の自覚において絶大の力を感じた。その力が人間を、徹底的に無秩序な沙漠に対して、護ったのである。これと同じ傾向がエジプトのピラミッドの形にも看取せられる。エジプト人は非常な労力を用いて巨大な三角形を沙漠の縁辺に築いているのであるが、これほど重要な記念営造物を何ゆえにこれほど無能な形に作ったかといえば、ちょうどこのような|規則的な整然とした形〔付ごま圏点〕が沙漠に最も欠けているものにほかならないからである。従ってこの単純な抽象的な形こそまさに沙漠に対して人間を護る絶大な力の表現であった。それはいいかえれば人間が|知力をもって〔付ごま圏点〕沙漠に対抗したということなのである。そうしてそれがこれらの地域において人類の歴史の開けはじめたゆえんでもあった。
 第三の類型は|牧場的風土〔付ごま圏点〕である。ここに牧場というのは、家畜を放牧する草地のみならず、家畜のための牧草を育てる畑をも意味している。そこには栄養価値の豊かな|牧草のみ〔付ごま圏点〕が生い茂っているのであって、わが国の草地や芝生に見るように、栄養価値の乏しい雑草類や葉の堅い芝の類が根を張っているのではない。そういう雑草類がヨーロッパにはないのである。従って自然のままに放置された草地も、牧草を育てる畑も、実質において変わりはない。そういう草地が相当に高い山の中腹にまでも広がっているのである。
 このような牧場は、植物の生と動物の生とをともに人間の従順なしもべたらしめていることを意味する。そういう牧場をつくるためには人間は原始林と戦わなくてはならなかったであろう。今の中部ヨーロッパが広い森林に覆われていたのは、そんなに古いことではない。それを追いしりぞけて耕地や草原にしたのは人間の力である。が、もしもモンスーン地方であったならば、この仕事が成功したかどうかはわからない。暑熱と湿気との結合は夏草を旺盛に繁(180)茂させて、「録の絨毯」の代わりにとげや刃のような葉などに充たされた草むらを作り上げる。これを緑の絨毯にひきなおすためには年ごとに開墾の仕事をしなくてはならない。あるいは樹を伐った山に豪雨がしばしば襲いかかれば、山の肌はたちまち荒らされて牧草などを育て得なくなる。従って牧場が作られ得たのは、モンスーン地方よりもはるかに|乾燥の地〔付ごま圏点〕であって豪雨などに見舞われることがなかったからだといわなくてはならない。しかしまた沙漠地方のように烈しく乾燥すれば、あの柔らかい牧草が育つはずはない。現に地中海地域の夏季においては草は枯れてしまうのである。が、九月になれば静かな雨が降りそそいで草の芽を育て、翌年の四五月ごろまで適度な降雨を欠かさない。夏季の乾燥のない地方では前年の十月に種を蒔いた冬小麦が春から夏へかけてふくふくと育っている。こうしてヨーロッパの土地は「緑の絨毯」となるのである。してみると、人間が牧場をつくることに成功したゆえんは、ヨーロッパがモンスーン的|でもなく〔付ごま圏点〕また沙漠的|でもなかった〔付ごま圏点〕ところに、言いかえればモンスーン地方よりも沙漠的|であり〔付ごま圏点〕沙漠地方よりもモンスーン的|であった〔付ごま圏点〕ところに、あるといってよい。それがすなわち牧場的風土なのである。
 牧場的風土においては、植物の生長はモンスーン地方におけるほど旺盛でなく、気象もそれほど荒々しくはない。従って自然の恵みに頼り切ることができないとともに、その暴威に忍従するにも及ばない。が、また沙漠地方においてのように自然が死の脅威をもって迫ってくるわけではなく、従って自然に対して戦闘的態度をとる必要もない。人間は自然と仲よくつき合い、自然も温和でその規則性を容易に人間に知らせる。たとえば植物は、豪雨なく暴風なき地方においては、実に規則正しい整然とした形をしている。それはいかにも|人工的〔付ごま圏点〕な、また|合理的〔付ごま圏点〕な感じを与えるが、しかし考えてみるとこれが植物にとって|最も自然的な〔付ごま圏点〕形なのであり、幹のうねった不規則な形こそ本来の自然をはずれたものなのである。そうなると自然的な形は|合理的な形〔付ごま圏点〕として自然における|法則〔付ごま圏点〕を露出していることになる。人間(181)がそれに気づき、進んでそれを追求しはじめるのは当然である。自然はその法則に従って取り扱われれば、きわめて従順に従ってくる。従って法則を見いだした人間は容易に自然を支配することができる。もちろん、原始林を開墾したり、沼沢地を干拓したり、沖積地を海から奪い取ったりする最初の仕事は、容易であったとはいえないが、しかし、ひとたび人力のもとにもたらされさえすれば、あとは適度の監視によって自然は|従順に人間に従うもの〔付ごま圏点〕になる。それを最も顕著に示しているのが|牧場〔付ごま圏点〕なのである。従って牧場的人間の根本的態度は、|能動的・静観的〔付ごま圏点〕、あるいは|自発的・合理的〔付ごま圏点〕であるということができる。ヨーロッパ的人間はこの特性のゆえにやがて機械を発明し、緑の牧場を煙突の林立する工場地帯に化した。が、そういう工場地帯も本質的には牧場的風土に属するのである。
 牧場的風土のなかでも地中海地域と中部北部のヨーロッパとは著しく異なっている。歴史的にいっても古い文化は地中海地域においてまず作られ、中北のヨーロッパは中世以後に開けて来たのである。しかしヨーロッパ的特性はすでに地中海地域において形成せられているといってよい。そこは中北ヨーロッパよりもはるかに強い日光に恵まれ、植物の生もまたはるかに旺盛である。野菜などはイタリアに至ってはじめてうまくなる。しかし|夏期の乾燥〔付ごま圏点〕のために七八両月は草が枯れてしまう。そこで家畜の群れは山地の涼しい牧場に移らなくてはならぬ。が、ここは冬季には雪が多いので、秋の雨季の後には家畜の群れは再び平地の牧場に帰ってくる。この|季節的な家畜移動〔付ごま圏点〕のやり方は、平地における穀物栽培と相容れず、従ってところによっては農夫はただ年に二回、十月には種蒔きのために、六月には刈り入れのために、平地に姿を現わすに過ぎないというまでになっている。夏期乾燥のもう一つの影響は、長い根によって地下の水を吸いとることのできる灌木類、特に葡萄、いちじく、オリーブなどが非常に多く栽培されたことである。これらの果樹は灌漑を必要としない。表土が乾いて牧草が枯れつくすような地方にも楽々と育つことができる。(182)だからこれらの果樹の栽培はしばしば穀物栽培よりも優勢である。そこからしてこの地域では、「畑」と区別された「園」、「種を蒔く土地」と区別された「木を植える土地」という観念が、古くから発達している。これらの諸条件からして、この地域では、山麓の傾斜地、ほぼ三百メートル前後の高さのところに、最も稠密な人口が認められるのである。そこでは何百年を経たかと思われるオリーブの古木の立ちならぶ間に、大麦、そら豆、小麦などの「緑の絨毯」が広がり、それらが黄ばんで刈り取られたころには、葡萄の蔓がのびてささえの木の枝々にまつわり、大きい葉をひろげているいちじくの下には、唐がらし、サラダ、南瓜、メロン、西瓜などの豊かな野菜畑がある。家畜は夏はもっと上の山地で、冬はもっと下の平地で、草を食うのである。ここにホメーロス以来ヨーロッパ人を養って来た食事の様式が展開せられている。それは最も|栄養の偏らない、調和のとれた〔付ごま圏点〕食事様式なのである。
 が、それは清禅的な栄養においても同様であった。ホメーロスにはじまるギリシア人の文化産物は、能動的・静観的な、あるいは自発的・合理的な仕方で、いずれにも偏らない、調和そのものであるような人間存在の表現を示しているのである。そこにも感情の流露や愛の強調が認められはするが、しかしモンスーン的人間におけるように「感情の横溢」や「突発的な激情と諦念との転換」などに落ち込むということがない。ロゴスの統御は感情の横溢を防いでこれを彫刻的な輪郭のなかへ鮮やかにまとめ込んでしまう。また戦闘的意志的な態度も欠けてはいないが、しかし沙漠的人間におけるように「自然への敵対」や「唯一神への絶対服従」などへ偏りはしなかった。ギリシア人の功績は人間に自由の自覚を与えたポリスの創成や自然のうちに深い秩序と法則とを見いだした哲学的探究などであって、宗教、マホメット教のような世界宗教によって、現在までも人間存在に深い影響を与えるあの不思議な力は、ギリシア人にはなかったといわなくてはならない。しかしヨーロッパ文化はギリシア(183)から流れ出ているのである。そうしてそれは自発的合理的な態度の伝統であるといってよい。近世以来世界的視圏の拡大や自然科学の発達によってヨーロッパ人が世界に最も重きをなすに至ったのは、まさにこの態度のゆえである。
 ギリシアのポリスは夢のように過ぎ去ってしまったが、しかし人倫的組織としてのポリス的形態は決して過ぎ去りはしなかった。地中海地域においては、牧畜と果樹作りと麦の耕作とに努めている農人たちの部落が、明らかにこのポリス的形態のなごりを示している。それはモンスーン地域における農村のごとく平野に散在するのではなく、山の中腹に城壁に囲まれて立派に町を形成しているのである。それくらいであるから、近世以来急激に勃興してきたヨーロッパの諸都市が、いろいろな点でポリス的形態を蘇生させたことは、何人の眼にも明らかであろう。それはさらに大きく国家の形式にも現われてきた。つまりそれは自発的合理的な存在の仕方の人倫的具体化として、人倫的組織のどの段階をも特性づけているのである。スペイン人がはじめてアメリカ大陸と接触し、そこかしこにその冒険の足だまりを作ろうとしたとき、ほとんど自明のことのように行なわれたのは、ギリシア人がコロニーを作ったとほとんど同じ仕方で、ポリスと同じように立法や行政や司法の組織を持った都市を建設するということであった。これはこの後の北アメリカの開発に際しては一層まじめに実行され、ついにフランス革命を先駆する共和国の建設にまで発展して行ったのである。このようなコロニーの建設は近代史の最も重大な、また最も特徴的な出来事といってよいのであるが、それは本来モンスーン的でも沙漠的でもなく、ただヨーロッパ的人間のみが遂行したことであった。
 第四の類型たる|アメリカ的風土は〔付ごま圏点〕、ヨーロッパからのこの植民と離して考えることのできないものである。これまで観察して来た三つの風土類型は、いずれも太古以来人間が彫琢を施し、その結果原始的自然の面影を全然残していない土地にかかわるのであるが、アメリカ大陸はその点において著しく異なり、植民開始以来のわずか三百余年の間(184)にほとんど原始的な自然から高度の人工的景観にまで変化した土地なのである。メキシコやペルーはしばらくおいて、現在世界の中心としての意義を獲得している北アメリカの地は、三百余年前には一面に|巨大な森林〔付ごま圏点〕や|広漠たる大草原〔付ごま圏点〕プレーリーであった。しかもこの地はヨーロッパと異なり、モンスーン地域と同じく大陸の東南側にあって、同じように暑熱と降雨に恵まれている。だから森林の樹木は恐ろしい大きさにまで成長し、プレーリーは丈余の草に覆われていた。そういう自然のなかでアメリカン・インディアンは、わずかなとうもろこしの畑を作るほか、森や草原に猷を狩りして暮らしていたのである。しかも広漠たる大陸で、森から森へと移って歩いた彼らは、この土地に彫琢を加えるというほどのことはほとんどできなかった。最初イギリス人のたどりついた東海岸でさえそうであった。そこには一面に森林があり、森林の間には不健康な沼沢地があり、夏は熱帯地方のごとく暑く、冬は寒帯地方のごとく寒かった。その上季節の変化や気温の変動が激しく、ヨーロッパとは此較にならないほど荒々しい気候の土地であった。だから最初のころの移民たちは一年の間に半ば以上死んでしまったといわれている。ヨーロッパ的風土を存在内容とするヨーロッパ的人間は、|そのままでは〔付ごま圏点〕ここで存在を続けることができなかったのである。しかるにヨーロッパ的人間の自発的合理的な性格は、アメリカの風土を変えることによっておのれ自身の風土的性格を変える道を見いださしめた。特にイギリス人は、自発的合理的な性格をベーコンの|発明の哲学〔付ごま圏点〕という形において表現したばかりの時代であるから、この仕事に最も適していたといってよい。彼らはきわめて果断に森林を焼き払って湿気や霧に抵抗した。これは太古の人間が長期間にわたって地面に加えて行った彫琢を短期間に圧縮して敢行したものである。もし何かの理由で住居が快適でないときには、また同じように果断に百キロでも移動した。こうしてできるだけ健康な土地を作り出し見いだすことに努めるとともに、他面においては毎日肉を食うとか、はだしで歩くのをやめるとか、家屋や衣服(185)の清潔を重んずるとか、当時のヨーロッパ農民がまだ知らなかった衛生法をあみ出した。こういう努力を辛抱づよく続けることによって、ついに風土を著しく変えるとともに人間自身をも変えることに成功したのがアメリカ的人間なのである。従ってアメリカ的人間とアメリカ的風土とは相連関して成立したといってよい。それは努力の内容からいえば北アメリカの土地の|開拓〔付ごま圏点〕であった。アメリカ的人間は「開拓者」にほかならず、アメリカ的風土は「開拓された風土」である。他の地域におけるごとく知られざる太古以来の知られざる開拓の集積ではなく、自覚的になされた開拓が具象的に景観となって現われている風土なのである。
 もとよりアメリカ的人間といえども、寒暑の差はなはだしく豪雨や暴風の多いアメリカの荒い気候を、温和なものに変え得たというわけではない。メキシコ湾はインド洋や太平洋のように広くはないけれども、それでも熱帯の海の湿気を運ぶ暴風をミシシッピの大平原へ吹きつけてくる。この平原にはさえぎる山脈もないので、上陸した暴風ははるかに大湖地方へまで吹きぬけるという。世界第一の大河ミシシッピはこういう気候の具体的な姿である。かかる自然の威力に対しては、モンスーン的人間ならば、ただ受容的忍従的な態度をとるほかはなかったであろう。しかしベーコンを先駆として自然に対する道を心得て来たイギリス人は、それを|認識する〔付ごま圏点〕ことによってそれに|抵抗する〔付ごま圏点〕仕方を見いだした。発明の最も必要であったのは、この発見された土地においてである。機械に対する強い関心、その熱心な使用、それが開拓を促進した。丈余の草に覆われたプレーリーなどは、耕作機械の発明によってはじめて開発され、ついに広大な農産地域となったのである。
 が、アメリカ開拓の仕事は農業や牧畜の方面のみではなかった。それは|はじめから〔付ごま圏点〕地下資渡の開発を最も有力な動機としていた。これは他の諸地域と異なり近代のコロニー建設の重要な特徴をなすものといわなくてはならぬ。北ア(186)メリカにおいてもその東部の山地には豊富な炭田や鉄鉱が見いだされた。その開発はやがて諸方に工業地域を出現せしめる。ミシシッピの上流から東へ、大湖地方をも含んで、大西洋岸に至るまでの地域は、ついに全体としてアメリカの工業地帯と呼ばれるに至った。その中には六十六個の工業都市群があるといわれる。その後石油の開発がはじまると、テキサスの湿潤な森林地帯が一躍して近代的設備を有する油田地方となった。こういう地下資顔の開発もまた開拓者的性格を一層強めたものといってよい。
 こういう開拓者の国土においては、中央ではなくして|辺疆〔付ごま圏点〕が重要な意義を帯びてくる。アメリカの偉人はいつも辺疆地方から出たといわれている。ワシントンは西ヴァージニアを測量し発見し征服し開墾した人である。フランクリンもペンシルヴェニアの奥地を探検し征服し経営した。リンカーンはミシシッピへの植民者の子、開拓者の町の弁護士であった。かく辺疆がアメリカ的人間の尖端であるということは、アメリカ的人間が開拓者であるということにほかならない。開拓者は新しい土地を征服しつつそれに|順応する〔付ごま圏点〕。新しい土地の規律に従い、その土地の特殊な季節のリズムを|受け容れる〔付ごま圏点〕。その限り|受容的〔付ごま圏点〕であるが、しかし忍従するのではなくしてあくまでも対抗的戦闘的である。しかもその戦闘は、自然の法則の認識によって、すなわち合理的に、機械力によって行なわれる。そうしてみれば、アメリカへ移住した自発的合理的な|牧場的人間〔付ごま圏点〕は、|モンスーン的〔付ごま圏点〕及び|沙漠的性蒋〔付ごま圏点〕を獲得することによって、アメリカ的人間となったのである。
 最後に第五の類型として|ステッペ的風土〔付ごま圏点〕をあげておかなくてはならぬ。ステッペとは南部ロシアで草原をステッピと呼んでいたことから出て、一般に乾燥地域における草原地帯を言い現わす術語となったものであるが、しかしここでは特にステッペの本源地とその当方への延長、すなわちシベリアや蒙古を経て太平洋岸に至るまでの広大な草地や(187)森林地帯をさすことにする。それはほとんどアジア大陸の大半を占め、われわれ日本人の到底想像し得ないような広漠たる土地である。しかしそれにもかかわらず、そこにはほとんど均質な風土があるといわれている。
 このステッべ地方が現在におけるごとく一つの国土となったのは、アメリカの開発と時を同じゅうして十六・七世紀にロシア人が迅速に進出して来たからである。従ってこの地域もまた、|開拓された土地〔付ごま圏点〕である、ということができるであろう。しかしここは、アメリカとは異なり、古代以来幾度か世界史の舞台となったところなのである。前にヘーロドトスの叙述に従って、南ロシアの地にいたスキュタイ人が、ペルシア軍の侵入に対し、いかに巧みに退却戦術を用いたかに言及したが、それはまさに国土の草原的性格を示したものにほかならなかった。その後ジンギス・カンが蒙古の草原から出て未曾有の大帝国を作り、西洋と東洋との接触の緒を開いたときにも、この草原地域が一つの国土となったのであった。蒙古人もまた古代のスキュタイ人と同じように、その移動の軽易と迅速とによって、土地に固着した諸民族を圧倒したのである。二代目のオゴタイのときに、ジンギス・カンの甥のバツは、ロシアの全土を征服し、1241年にほハンガリー、ポーランド等にはいって、まさにドイツへ突入しようとしたとき、オゴタイの訃音をきいて軍をかえした。翌年バツはこのロシアの地に封ぜられ、キプチャック国を建ててヴォルガの支流に沿うサライを都とした。(今のスターリングラードの東方、ツァレウの町の付近で、今でも大きい廃墟を残している。)この後1480年に至るまでの二世紀半の間、ロシアは蒙古人の支配の下に立ち、|草原的国土の一部〔付ごま圏点〕となっていたのである。だから独立後二百年の間に逆にロシアがこの地域の統一に成功したとしても、その草原的統一は初めてのことではなかったのである。
 ではその近代における新しい開拓は何を意味したであろうか。ロシアに住む東スラヴ民族は、もともと草原に近く(188)ウクライナ地方に住んでいたものであって、非常に古くから農業を営み、牧畜を知らなかった。その農業は森林を伐り倒して焼き、その灰の上に穀物を蒔くという伐木農業であった。それは一年役立つだけで翌年はさらに新地をつくらなくてはならない。従ってこの農業は年々に草原を押しひろげ、そのひろがるに従ってスラヴ人は北に移った。あとの草原には牧畜を心得た民族が入りこんで、スラヴ人をますます北へ圧迫した。このスラヴ人は草原を作ることには貢献したが、草原的民族ではなかったといわなくてはならない。しかるに九世紀に至って北方からノルマン人がロシアの地に入りこんで来た。このノルマン人は、ヨーロッパの西海岸では|海を渡って〔付ごま圏点〕諸所方々に入り込み、中でもイギリスでは最初の国家形成をひき倒してノルマン征服者の王朝を開始するに至ったのであるが、ロシアに入り込んだ連中は、海の代わりに|草原を渡る術〔付ごま圏点〕をたちまちに習得し、それによってスラヴ人たちの支配者となった。というのは、ノルマン人はここで|武士団〔付ごま圏点〕を結成し、その指揮者が諸侯としてスラヴ農民に君臨したのである。その武士団は必ずしもノルマン人ばかりで構成されたのではなかった。それは構成分子からいえば|超民族的〔付ごま圏点〕で、東部の|草原地帯の異種族〔付ごま圏点〕を多分に含んでいた。が、その核心はノルマン人であり、従ってこの団体はノルマン人の権力の基礎となったのである。かくのごとく武士団は本来スラヴ的なものではなかった。スラヴ人があまり家畜を持たず、騎馬を得意としないのに反し、武士たちは騎兵であり、その力によってスラヴ人を圧倒した。ノルマンの海賊たちもロシアの草原では騎士になった、といわれるのはそのゆえである。これはロシアの地における|草原的性椿の自覚〔付ごま圏点〕だといってよい。ロシア国家の形成はこの自覚の時にはじまる。武士団をひきいた諸侯がそれぞれ各地に統治組織を作ったのである。が、この自覚はさらに長期の訓練を経なくてはならなかった。それが蒙古人の侵入と支配である。ロシアの諸侯はキプチャックの蒙古王から任命され、租税その他内政にも干渉を受けた。時に独立運動も行なわれたが、たちまち圧服された。(189)それは草原的統一の訓練にほかならない。この期間にモスクバがロシアの首府となり、蒙古語でクレムルと呼ばれる城が築かれたり、また蒙古軍の手でそのモスクバが焼かれたり、いろいろな事件が起こるのであるが、結局蒙古人をロシアの地から追い払い、ロシアの自由を回復するのが、ロシア人の最大の仕事となった。それがモスクバ大公イバン三世の手によって終局的に成功したのは十五世紀末であるが、しかし十四世紀末にはすでに民間にコサックなるものが出現していた。このコサックが前述の新しい開拓の中心的意義を形成しているのである。
 コサック(カサーク)とは蒙古語の「自由なる戦士」を意味する語から出た名である。モスクバの支配に甘んじない剽悍な連中が、近隣の蒙古人に対峙しつつ、何人にも従わない自由なる戦士の軍隊としての集団を作った。つまり蒙古人の草原的性格がスラヴ民族のなかに働き込んでそこから引き出したものである。蒙古人の権力がヴォルガからドンの流域へかけてまだ確固としていたころに、ドンのコサックやヴォルガのコサックはもうかなりの大勢力となっていた。十五世紀末に蒙古人の勢力が打倒された後にもヴォルガ河畔の広大なコサック地域はモスクバには従わなかった。両者の間に連絡ができたのは、1570年に最初のツァール、イバン四世が、ドン・コサックに認証を与えてからである。その時からコサックは自分たちの自由な決議によってツァールの軍隊に加わるようになった。その後十年ほどを経て、あまりの乱暴のためにツァールの不興を蒙ったコサックのイエルマックが、同志を集めて遠征にのり出し、はじめてシベリアヘ進出した。これが皮切りとなってコサックのシベリア遠征が続々と行なわれ、五十年後の1632年にはすでにカムチャツカにまで到達しているのである。
 以上の経緯から見てロシアのシベリア開拓が蒙古人のロシア征服と決して無関係でないことがわかるであろう。いずれも草原的統一であり、また|いずれも人口過剰や生産の不足などに押し出されたものではない〔付ごま圏点〕。限りなく遠く遠く(190)とひろがっている草原が人間存在の内容となっていれば、人間はこの無限に連続的な統一にかかわらざるを得ないのである。それが「ほとんど先天的ともいうべき土地拡大の要求」というふうに言い現わされる。これが人間の草原的性格である。しかしこの性格も|純粋に草原である蒙古の奥地〔付ごま圏点〕を発祥地とする場合と、その草原の末端であり|古い文化圏の中心ビザンチウムに近い南ロシア〔付ごま圏点〕を発祥の地とし、そのビザンチウムの文化のなかで、ギリシア正教を受け容れつつ育った、という場合とでは、相当に異ならざるを得ない。ロシア人は草原をつくり、また草原に入り込むことによって、草原的性格を習い取ったのである。そこでは一方にこの単調な広い土地に対応した比類のない|辛抱づよさ〔付ごま圏点〕が目立っている。それはまさに極度に|忍従的〔付ごま圏点〕であると言ってよい。しかしそれはあふれるように恵みを与える自然とのかかわりにおいて現われるのではなく、きわめて乏しい自然、ただ広さによって乏しさを補っている自然とのかかわりにおいて現われる。従って人間は絶えず|能動的〔付ごま圏点〕に動かなくてはならない。しかしまたその自然は沙漠におけるように死であり敵であるのではなくして生であり味方である。だからその能動性は単純に敵対的ではなくして融和的である。ここに辛抱づよさと結びついた、受け身の、退却によって勝つというような、独特な|戦闘的〔付ごま圏点〕性格が現われてくる。もちろんそこには爆発、突進というような契機が欠けているのではない。草原地域の短い夏は、農耕労働を爆発的ならしめ、人間の感情生活にもそのような性格を与えた。しかしそれが辛抱づよい忍従的な生活に服属しているのでなければ、長い冬をしのいで行くことはできないのである。
 このような草原的性格は、今やアメリカ開拓の影響をうけて、その能動的な一面を自発的合理的なものとして展開しようとしている。草原のところどころには盛んな工場地帯が出現する。が、これは本来欠けていた傾向を外から取って付けたというわけではない。イェルマックがはじめてシベリアへ進出するとき、その相棒となったストロガノフ(191)兄弟は、当時すでにウラル地方で塩坑や鉄坑を持っていた人の子で、自分たちも鉱山や塩坑の発見経営にのり出し、ウラル山脈の近くへ移住していた人たちである。そういう点においてシベリアの開拓は、ヨーロッパ的人間の進出という趣を持たないのではない。しかしそれにもかかわらず、ここにはアメリカ的人間と全然異なったものが形成された。ロシア帝国の形成はアメリカの開拓と時を同じゅうして進行したのである。従ってアメリカにおいて民主的な共和国が成熟しつつあったちょうどその時に、ロシアにおいては君主の独裁政治が比類なき強さに発展しつつあった。ここにわれわれは草原的人間の忍従的性格がいかに自発的合理的な傾向よりも強いかを看取しうると思う。

       第三節 歴史性風土性の相即(国民的存在)

 以上二節においてわれわれは、人間存在の時間性が人倫的組織を通じて歴史性に、また人間存在の空間性が人倫的組織を通じて風土性に、具体化してくることを明らかにした。ところでかく具体化する「時間性」と「空間性」とは、すでに第二章(上巻二三五ページ以下)において考察したように、人間存在の別々の構造なのではなくして、|同一の構造の〔付ごま圏点〕二つの相なのであり、従って本来相即不離のものである。それをひきはなし、その具体化の筋道を別々に考察したのは、一つには混雑をふせぐためのやむを得ない方法上の処置であり、もう一つにはそれぞれの相をその特性において捉えることにより両者の相即をかえって顕《あら》わならしめるためであった。今やわれわれはその相即不離な点に眼を向け、歴史性と風土性とが人間存在の具体的構造としていかに密接に連関しているかを明らかにしなくてはならない。
 人間存在の時間性は対立を通じて合一する不断の|主体的な動き〔付ごま圏点〕にほかならないが、かかる動きは主体が|おのれの外(192)に〔付ごま圏点〕他の主体を見いだし、それと対立する、という|主体的なひろがり〔付ごま圏点〕、すなわち人間存在の空間性なくしてはあり得ない。が、またこの主体的なひろがりも、主体が多化することを通じてその統一を実現する運動、すなわち否定の道を通じてその本源へ帰るという帰来の運動なくしては、おのれを展開することができない。この相即不離の構造において、主体の間に動的即静的に作り出される連関が|人間の行為〔付ごま圏点〕であり、この行為において具体化される人間存在が人倫的組織である。従って人倫的組織は無数の行為によって編み出される行為的体系である。そういう組織が積み重なって大きい人倫的組織の統一、すなわち国家ができあがってくると、この組織内で具体化された時間的契機の体系的統一が|歴史〔付ごま圏点〕となって現われ、同じくこの組織内で具体化された空間的契機の体系的統一が|風土〔付ごま圏点〕として形成される。その歴史ほあくまでもこの風土に即したものであり、その風土はあくまでも歴史的に形成されるのであるが、しかしそれを初めから意識的な形で自覚するとは限らない。だから歴史性と風土性との相即不離に関する自覚は、歴史が充分に発達した意味での歴史として書かれるに至った時、すなわちヘーロドトスの出現を待たねばならなかった。が、それ以前においても、記録された歴史は明白に風土的性格を帯びており、作り出された風土は明白に歴史的性格を持っていた。すなわち風土的に特殊に形成された人間存在のみが歴史を持ち、歴史的に特殊な伝統を担う人間存在のみが風土を持つ、といってよいのである。ここにおいてわれわれは、国家を形成するに至った人間存在が、唯一回的、唯一所的というごとききわめて顕著な個性をもって具体化されていることを、見いださざるを得ない。それをわれわれは|国民的存在〔付ごま圏点〕と名づけるのである。
 普遍的な構造を持った人間存在が、その具体化の極限においてこのような|個性的なもの〔付ごま圏点〕になるということは、好むと好まざるとにかかわらず、人間存在の現実である。われわれはその現実の担っている意義を把捉しなくてはならな(193)い。それは人間存在における個性的なものの意義を明らかにすることによって達せられるであろう。
 人間存在にあっては、普遍的原理はただ個性的なるものにおいてのみ具体的に実現される。それは個人の場合であると集団の場合であるとを問わない。人間性を最も顕著に実現した人が最も顕著に個性的であるように、人倫的組織を最も力強く実現した集団もまた最も明らかに個性的である。反対に、おのれの個性的な意志や判断を守ることを忘れ力や富をもって迫るものの意を迎えて付和雷同する個人が、その人格の尊厳を自ら蹂みにじり、卑屈の底に落ち込むのであるように、おのれの文化の個性を忘れて事大自卑に陥った一つの国民も、自らその人倫的組織の任務を賤しめ、存在の権利や意義を放棄するにひとしい。個人がその個性において天職をもっているように、一つの国民もまたその唯一回的唯一所的な個性のゆえに、永遠なるものと直接するのである。
 もちろん、個性的なるものは一面的である。その特徴は長所であるとともに弱点であることを脱れない。古来のどれほど偉大な個人を取って見ても、欠けたところ、足りないところのない人はない。それと同じく一つの国民も、個性的な特徴が明らかであればあるほど、ちょうどその点において制限され、限定されているのである。しかしその制限を超え、限定を克服するという自由の行動は、|その限定を明らかに自覚することなくしては行なわれ得ない〔付ごま圏点〕。従って国民の個性の問題から眼をそむける人は、みずからその限定の底に惑溺してその超克の努力を放棄する人である。が、また限定を自覚しそれを超克する人も、|依然としてその個性から脱することはできない〔付ごま圏点〕。なぜなら、一つの限定を超克しようとする努力そのものが、その超克さるぺき限定によって限定されているからである。|重い荷〔付ごま圏点〕を投げ捨てた人と、|軽い荷〔付ごま圏点〕を投げ捨てた人とでは、荷から脱れたということにおいて共通であっても、その気分を等しくするとはいえぬ。いわんや質を異にする限定は、それから解放された情態の質をも異ならしめるであろう。たとえば感情が(194)強く意志の弱い性格の人が、この特性を自覚し、その超克につとめて、ついに冷静な意志の強い人になることができたとすれば、この人は、もともと冷静で意志の強い性格の人と、決して同じような人柄にはならない。なぜなら、後者は、感情の統御に努力したり、あるいは自ら鞭うったりする必要のない人、言いかえれば感情が乏しく人間的な弱さへの理解の欠けた人であるが、前者は豊かな感情を統御し、自彊不息の精進を怠らない人、すなわち人間味のある苦労人となっているからである。それと同様に、一つの国民もまたその特性の否定の努力においてかえって新しくその特性を活かし得るであろう。たとえばある国民が、その感情生活の形成においてきわめて繊細な発展を遂げ、それを表現する芸術において他に比類のないほどに醇熟した優雅な形態を作り出しているが、合理的な思索力や学問的な探求においては著しく欠けているとする。この場合、その欠点はこの国民の芸術的優秀性を尊重する妨げとはならない。その芸術の独特な美しさは、あるいはこの欠点によって推進せられているかもしれない。しかしその欠点を自覚し、合理的思索力の練磨につとめれば、右の独特の美しさはあるいは鈍ってくるであろうが、それに代わってその芸術に明晰な大きい統一が現われてくるであろう。そうしてそこに感情の織細性が簡素な偉大さにまで高められてくるであろう。それとともに、ここに新しく発展せしめられる学問的探求は、豊富な直観と結びついた具体的なものとなって現われるであろう。これは、もともと感情の潤い乏しく実用的な知力にすぐれている国民とは、全く異なった個性である。ある特性を脱却しようとする努力によって作り出されるのが、依然として|新しい特性〔付ごま圏点〕であることは、人間存在が歴史的風土的構造を持つものである限り、避けられないことであろう。
 しかし一つの国民が、その個性の限定を自覚し、それを超克しようとするということは、個人の修養というような単純な仕事ではなく、複雑な人倫的組織を通じて国民の文化を全面的に革新するという、きわめて大がかりな歴史的(195)事業である。そのためにはまず国民大衆の間に、この国民の個性の正しい認識を実現しなくてはならない。ただ少数の識者がかかる認識を持っただけでは充分でない。さらにこの認識のなかから国民的個性に含まれた限定を超克しようとする強い要求を湧き立たせなくてはならない。これらのことはただ力強い予言者的人物を待ってのみ起こることかもしれぬ。国民大衆の要求が湧き立ってくれば、やがて新しい文化の創造をなしうるような天才的な人物が呼び出されてくるであろう。これらのことはかつていくつかの偉大な国民がなし遂げたことであるとともに、また将来に向かって諸国民に課せられている実践的な課題である。国民的存在の担っている永遠の意義が充実せらるべきであるならば、どの国民もこの実践的課題を解かなくてはならぬ。そこに国民の当為の最も重要な問題がある。
 がここでの問題は、国民の個性が固定したものではなくして、絶えずその特性の超克を含みうるものだということである。逆にいえば、一つの時代における国民的特性が否定され去っても、その国民の個性は失われないということである。もちろんそれは固定することもあり得る。しかしその場合には、その固定した個性を初めに作り出した時代がその創造的意義を担うのであって、それを単に保守的に維持する時代は一時代としての独立性を持たず、初めの時代の付属物にすぎない。そういう固定の最も著しい例はエジプトに見られるが、そういう「因襲化」の現象は必ずしも強い個性的印象を与えるとは限らない。プラトンは『法律』のなかで(656.d ff)この因襲化の現象を賞讃しているが、それは恐らくギリシアにおける変遷の激しさや個人的恣意の跳梁に対する反動であって、変遷の激しいギリシアの方が一層顕著な個性的印象を与えるという事実と矛盾するものではない。国民の個性の尊重があたかもこの|固定の尊重〔付ごま圏点〕であるかのごとくに解せられるのは、明らかに誤解である。
 もっとも、この誤解をひき起こすような国粋主義が存しないのではない。種々の国民がおのおの異なった特殊性を(196)もって対立するとき、その対抗の情熱が他の特殊性を排しおのれの特殊性を固守するという形で現われることは、まれな現象ではない。それはしばしば衣食住の些細な習俗の固執としてさえも現われている。たとえば豚肉を食わないとか割礼を施すとかのごとき習俗の固執がそれである。割札はその衛生学的な意義において「些細」な習俗ではないといえるかもしれぬが、しかしそれに与えられた大きい、宗教的な意義に此較すれば、その実質は些細であるといわなくてはならない。しかもそういう習俗を固守する情熱は、他の国民の理解を絶するほど強いのである。これはある国民の特殊性の尊重が、|特殊性のための特殊性の尊重〔付ごま圏点〕となっているからにほかならない。そこでは他の国民との相違の認識が、おのれの特殊性の|限定〔付ごま圏点〕を自覚せしめるどころか、むしろ逆にその|絶対化〔付ごま圏点〕を刺激するのである。こういう現象を見れば、人間存在の原理の実現のために、総じて特殊性の尊重を斥けたくなるのも無理はない。しかしこういう意味の国粋主義は、実は特殊性に対する理解の欠如を示すものにほかならないのである。特殊性に意義があるのは、それが|普遍的な原理を実現する唯一の道〔付ごま圏点〕であるからであって、それ自身においてではない。従ってある国民の特殊性の尊重は、|普遍性のための特殊性の尊重〔付ごま圏点〕でなくてはならない。これは一切の文化産物において、いうを要しないほど明らかなことである。一つの国民の作り出したきわめて特殊な芸術様式は、他のどの国民も示し得なかった角度から美そのものを照らし出したがゆえに価値があるのであり、この普遍性実現の意味がなければそれは総じて芸術様式ではないであろう。同様に一つの国民の作り出した特殊な習俗は、その国民が人倫の道を最もよく実現する仕方として意義があるのである。もしそれが普遍的な道の実現にとってどうでもよい仕方であるならば、それは尊重される価値を持たない。従ってある歴史的風土的制約の下に非常に必要な習俗が、他の歴史的風土的制約の下にあってはほとんど無意義であるということもあり得る。しかし自分にとって無意義であるからといって、それが他の国民における道(197)の実現の仕方であることを忘れ、それを端的に無意義として排撃するならば、それは普遍的な道の実現を妨げることにほかならない。そういう特殊な風習が普遍的な道の実現という本来の目的を逸脱しているとか、あるいはその歴史的風土的制約が超克さるべきものであるとか、という場合には、その国民の自覚や自発的な革新の努力が激成せらるべきであって、歴史的風土的制約の異なる他の国民の習俗を外から押しつけるべきでない。自覚や革新の努力は普遍的な道の実現を目ざさなくてはならない。それによってのみ一つの国民はその個性を発揮しうるのである。
 このように国民の個性の意義を認めてくると、人間存在の具体的な姿は、かかる個性によって充満せられたもの、多種多様な個性においてその普遍的な原理を展開するもの、として明らかになってくる。どれほど進歩した国民でも、否、進歩した国民であればあるほど、おのれの特殊性を他に押しつけることはできない。なぜなら、そういう国民は、最も高度に個性を発達させた国民であって、容易に他の国民の追随を許さないはずだからである。もしそれを武力によって強制するというふうなことをやれば、強制された国民は恐らく|無性格的な、背骨なきもの〔付ごま圏点〕となるであろう。それは人倫的には頽廃するということである。進歩した国民はかかる頽廃をもたらすことを欲しない。彼らが進歩しているゆえんは、普遍的な道の実現が個性的に行なわれることを理解し、従って自他の個性を最もよく尊重するところにある。おのれの個性を絶対化して他に押しつけるのは、ただファナチシズムの態度にすぎぬのであって、人間存在の貧困化や荒廃がその当然の結果となるであろう。人間存在の豊かさは、あらゆる国民の個性が最も自由に発揮せられ、それによって普遍的な原理が、できるだけ多面的に、できるだけ可能性をつくして、実現せられるところにある。それによって人間存在は、ますます壮大に、ますます意義深く、|多様の統一〔付ごま圏点〕を具現してくるであろう。(198)この多様の統一の視点は、国民的存在の理解にとってきわめて重要である。国民的存在は、人間存在の歴史的風土的構造の具体的実現として、その|個性において〔付ごま圏点〕普遍の道を実現するところにその意義を有するのであるが、そういう個性的な意義は、単独にひき離された存在としては、全然失われてしまうのである。それはただ人倫的組織として意義を有するにとどまり、それがどういう具体的な形態に実現されたかは、どうでもよいことになってしまう。従って|この〔付ごま圏点〕人倫的組織の形成が、人間存在の展開全体のなかで占める独自の地位、すなわち永遠とつながる唯一回的唯一所的な意義は、そこには存しない。これは国民的存在が国民的存在としての意義を失うにひとしい。従って国民的存在の意義は、あくまでも他の国民との連関において、すなわちさまざまの|異なった諸国民の世界史的連関のなかで〔付ごま圏点〕、はじめて成立するのである。
 この理解はまた世界史の意義の考察にとっても重要である。世界史の意義はただ時代的な展開のなかにのみあるのではない。それは同時に個性を異にした|諸国民の間の連関〔付ごま圏点〕のうちにも存するのである。すでに見てきたように、歴史的自覚と風土的自覚とはその進歩の歩度を異にし、風土的自覚はいつも遅れているのではあるが、しかしそれでも歴史の意義を諸国民の連関のうちに認めることは、イスラエルの民族がやり、ヘーロドトスがやった。もちろんそこでは視界は沙漠的地域、あるいは沙漠的地域と牧場的地域とのみに限られている。しかしこの限られた地域内において、エジプトの国民とメソポタミアの国民との間に漂浪しつつその約束の国土を求める国民の運命、あるいほ沙漠的地域の代表者としてのペルシア国民と牧場的地域の代表者としてのギリシア国民との対決、それらが歴史の主題とされていた。この態度を拡大された世界的視圏のなかで生かせるとすれば、右のごとき諸国民に対してモンスーン的地域における諸国民がいかに連関するか、さらに草原地域における諸国民はどうであるか、などの問題が世界史の正面の問(199)題としで取り上げられなくてはならぬ。これは世界史の意義を単に|前後継起の秩序〔付ごま圏点〕においてのみ把捉せず、さらに|並在の秩序〔付ごま圏点〕において、すなわち諸国民にそれぞれその固有の地位や価値を認めるものとして、取り扱うことを意味する。もちろん、諸国民もまた時代的に展開するのであるから、並在の秩序は|凝固した並在〔付ごま圏点〕のそれではない。|前後継起を含む並在〔付ごま圏点〕のそれである。がまた、前後継起の秩序も、|流動するのみの前後継起〔付ごま圏点〕のそれではない。|並在する前後継起〔付ごま圏点〕のそれである。従って世界史の舞台を単純に|ただ一つ〔付ごま圏点〕と考え、その一つの舞台へ世界史的民族が|つぎつぎに〔付ごま圏点〕登場する、というふうに解することは、もうやめなくてはならぬ。世界史は|多くの舞台において〔付ごま圏点〕、さまざまの国民によって、演ぜられつつあるのである。世界史の舞台とは畢竟人間存在にほかならないのであるから、|多くの舞台〔付ごま圏点〕に分かれて対立しつつ、しかも|一つの舞台〔付ごま圏点〕になろうとするということは、その構造の固有の性格である。多くに分かれた舞台は、それぞれに風土的に異なり、従ってまたそこで演ぜられる劇やその演技の様式を異にする。しかしどの舞台で演ぜられるのも人間の演技であり世界史である。そういうふうに世界史は、長い間分かれて演ぜられて来たのちに、ついにそれらの全体をふくむ|一つの舞台〔付ごま圏点〕において演ぜられるようになった。|一つの舞台〔付ごま圏点〕ではあるが、それは多くの面を持ち、そこでそれぞれに異なった様式の所作が演ぜられている。そういう所作の連関が世界史を形成しているのである。舞台が一つになったからといって、得意不得意を問わずあらゆるところで同様の所作が行なわれなくてはならぬというのではない。がまた、得意に従ってそれぞれ独自の様式を守るからといって、それらの所作はそれぞれ孤立して他と無関係に演ぜられるというのでもない。すべては一つの舞台における所作なのである。従ってそれぞれの様式は、互いに影響し合い、刺激し合う。そこで、もし諸国民がその当為に忠実であったならば、やがては対立するものの間に釣り合いが、入り乱れるものの間に総合が、実現されてくるであろう。そうしてついには、互いに異なった個性の交響(200)のうちに、|一つの大きい調和、大きい統一的な動き〔付ごま圏点〕が顕現してくるであろう。しからずしてもしその当為が無視されるならば、ある国民はおのれの個性を絶対化してこれを他に押しつけ、他の国民はおのれの個性を卑下してその独自の存在の意義を失い、それによって人間存在の一様化、貧困化をもたらすであろう。それは抽象的な統一であって具体的な統一ではない。やがてその中からあらゆる混乱、争闘、破壊が勃発してくるであろう。その場合には、|世界が一つになる〔付ごま圏点〕という課題は、またまた先へ押しやられるのである。
 が、この当為の問題は後の問題として、世界史の舞台が|数多くの舞台〔付ごま圏点〕から|一つの舞台〔付ごま圏点〕にまとまってくるまでの人間存在の展開を考えてくると、世界史の過程が常に|二つの面から〔付ごま圏点〕考察されなくてはならないことが明らかになる。一つの面は、世界史の|一々の段階〔付ごま圏点〕が、他の段階と異なった固有の原理、特殊的に限定された原理をもつということであり、他の面は、世界史の|並在の秩序〔付ごま圏点〕において、それぞれの国民的存在が他の国民的存在と異なった固有の原理を持つということである。この両者は異なった秩序を示すものであって、決して同視せらるべきものではない。しかし国民的存在はおのれのうちに歴史的な発展段階を含んでおり、歴史的段階もまたおのれのうちに多くの異なった国民的存在を含んでいる。両者をひき離して把捉することはできないのである。人間存在の具体的現実は、いつも歴史的段階としての特殊原理と国民的存在としての特殊原理との交錯において把捉されるほかはない。
 このような反省をもって人間存在の展開を見渡すと、世界史的過程がいつもただ|風土的特殊圏〔付ごま圏点〕のなかでそれぞれの国民の行為として行なわれたことが明らかになる。その風土的特殊圏は地上にいくつか存しているのであるから、世界史の過程もまたいくつかに分かれて流れた。それが世界史の舞台の複数であるゆえんである。がまた、風土的特殊性にもかかわらず大地が一つの統一を持っているように、世界史のいくつかの流れの間に、合一への動きもまた絶え(201)ず存していた。舞台は多化しつつも一つになろうとしていたのである。そうしてそれがついに|一つになった〔付ごま圏点〕こと、少なくとも諸国民の対立や争闘が一つの舞台において行なわれていること、それが現代の特徴だといってよい。これは人間存在の展開の見透しにとってきわめて重要なことである。
 |人間の歴史が開ける前には〔付ごま圏点〕、人類の生活の仕方はあらゆる地方において奇妙なほどよく似ていた。それは石器時代の遺物によって明らかに示されている。石器とか、骨角器とか、土器とかの形や性質は、地域や民族のいかんを問わず、世界のあらゆる地方において共通である。もちろんそれはわれわれから見てそうなのであって、それを使っていた人々にとってはそうでなかったかもしれない。石器や土器の形、あるいはその作り方の、きわめてわずかな相違でも、その人々には非常に多くのことを語っていたのかもしれない。しかしそういう相違を充分に勘定に入れて考えても、土地の距たりの著しいのに比べて、これらの道具の近似性、あるいは一様性は、全く驚くばかりである。何がかく一様ならしめたかは、われわれにはわからない。が、それが一様であることによって、それの表現する|人間存在もまた一様であった〔付ごま圏点〕ことを推測することは、容易にできる。
 しかるに|歴史が始まるに至って〔付ごま圏点〕、地域の別や国民の別による人間存在の相違は、実に顕著になってくるのである。社会組織、政治形式、産業の様式などから、宗教的象徴や芸術的表現に至るまで、一として一様なもの、共通的なものはない。そういう異なったものが、実は同じ発展段階に属し、共通の原理の上に立っている、というごときことは、丹念な研究の後にはじめてわかってくることなのである。してみると歴史的展開は、それぞれの国土に従って|特殊化する動き〔付ごま圏点〕にほかならない。進んだ文化の形成もまた風土的特殊化の傾向とひきはなすことができない。歴史以前に存した人類の普遍性は、ここでは残りなく失われ、進んだ文化を作り出した国民ほど、その存在を特殊化し、従って強(202)い差別意識を持つようになる。他国民を夷狄とかパルバロイとかと呼ぶのは、この意識の表現である。がそれにもかかわらず、そのように特殊化した国民的存在において、かえって強く、人間存在の普遍的な原理が自覚されてくるのである。世界を一つにしようという努力が最も力強く現われてくるのも、最も独自な発展を遂げた国民においてなのである。
 ところで右のような特殊化の開始、すなわち|歴史の始まる時期〔付ごま圏点〕は、人類に一様に起こるのではない。それは地域的に異なり、また民族的に異なる。すなわち特殊化を始めるか始めないかという点においてすでに差別が現われるのである。エジプトやカルデアでは、今よりも六千年前にすでに金属器の使用をはじめ、文字を作り、国家を形成していた。しかるにギリシア人、ローマ人、シナ人、インド人など、古代の高い文化を創り出した諸国民は、それよりも二千年以上もおくれて、やっと同じ段階に達したのである。これはかなり著しい相違であるが、しかし現代の文明人たちの祖先がこの段階に達したのも、やはり古代人よりは二千年以上後のことである。そうしてこの文明人の面前でさらに二千年も遅れてやっと十九世紀に至って石器を捨て火器を取った民族もある。これらの相違は石器時代の永い期間に比すれば何ほどのことでもないといえるかも知れないが、しかし人間存在の歴史的自覚にとっては、実に大きい相達である。
 しかもこの相連は、風土の相違と相関的であるように見える。最初に歴史がはじまったのは|沙漠的地域〔付ごま圏点〕においてである。それより二千年後に歴史をはじめたのは、|牧場的地域〔付ごま圏点〕や|モンスーン的地域〔付ごま圏点〕である。さらに二千年後に現代の文明人が歴史的段階に達したときには、|草原的地域〔付ごま圏点〕を媒介として右の諸地域が密接な連関に入り込みはじめた。そうして今ようやく歴史的段階にはいろうとしている諸民族の住んでいる地域は、アフリカとか大洋州とかのような新しい(203)風土的地域である。そう考えると、前後継起の秩序における特殊性の展開と、並在秩序におけるそれとの間の、密接な連関に想到せざるを得ない。
 人間存在の具体的展開は、右のごとき|特殊化の進展〔付ごま圏点〕である。が、また特殊化が激化すればするほど、その|統一の自覚〔付ごま圏点〕は高まってくるのである。世界が事実上一つであったと推定せられる石器時代においては、世界が一つであるという自覚は全然なかった。歴史が始まり、多くの国民的存在が分化してくるに従って、その間の統一の動きもまた始まった。そうして国民国家が隆盛となってきた近代において、人類の歴史始まって以来初めて、|一つの世界〔付ごま圏点〕が、少なくとも一つの視圏として、把捉せられるに至った。今やその|一つの世界〔付ごま圏点〕を人倫的に実現することが、人間存在の最も大きい課題となっている。それは国民的存在の個性を廃棄することによって達せられるのではない。逆に、個性的実現の極致において、かえって一つの世界の実現も極致に達し得るのである。

       第四節 世界史における諸国民の業績

 以上のごとき視点の下にわれわれは、世界史がいかに諸国民の行為によって形成せられて来たかを、できるだけ簡単に見渡してみたいと思う。
 今より六千年ほど前に、最初に歴史を作りはじめた一群の諸国民がある。それは時代的には世界史の第一期であり、風土的には沙漠的人間の業績といってよい。この時期の歴史が一通り展開をおえ、その創造的な活力を失った後に、――年代的には二千年ほど遅れて、――世界史の第二期がはじまる。この時期には牧場的地域やモンスーン的地域がそれぞれその独自の文化を展開してくる。われわれの文化にとって直接の教育者となったのは、この時期の文化であ(204)る。やがてそれも一通りの展開をおえ、その創造的な活力を失ってくる。そこでまた二千年ほど遅れて、世界史の第三期がはじまる。それがわれわれの生きている世界史的時代である。われわれ日本国民も、欧米の諸国民も、この時期に歴史的に生まれ出た。そうして今、この時期の大きい世界史的課題を解こうとしている。
 これらの全体が人間存在の具体的内容であり、そうして諸国民の当《まさ》に為《な》すぺき自由な創造の素材となるものである。
          一 世界史第一期
 人間の歴史を開い.たのは|沙漠的人間〔付ごま圏点〕であった。モンスーン地域も牧場地域も草原地域もすべてまだ石器時代の闇につつまれていた間に、|突如として〔付ごま圏点〕――とわれわれには見える――沙漠のなかの細長いオアシスにおいて、人間の最初の文明の光が、すなわち金石併用の産業が、輝きはじめたのである。
 エジプト、アラビア、シリアなどの沙漠には、非常に古い旧石器時代の遺物が少なからず見いだされる。恐らくそのころには沙漠の乾燥の度は今よりも少なく、住民も此較的多かったらしい。しかるにその後、最後の氷期に入り、その末期の融解の時期には、大洪水や気温の低下をひき起こした。エジプトやメソポタミアは長期にわたって|無人の境〔付ごま圏点〕となった。この時期がヨーロッパの|旧石器時代後期〔付ごま圏点〕、すなわち人によっては|中石器時代〔付ごま圏点〕(あるいは古石器時代及び中石器時代)と呼んでいる時期に当たるのである。南フランスの諸洞窟、特にアルタミラの洞穴に残された巧みな動物の絵はこの時期のものである。氷に覆われなかったのはアフリカやシベリアで、やがてそこからの住民の移動が行なわれたらしい。次いで現われたのが新石器時代で、石器顆の製作に長足の進歩が見られる。この時代が何千年か(あるいは一、二万年も)続いた後に、前述のごとく|突如として〔付ごま圏点〕、ニルの河谷及びチグリス・エウフラテスの河間で、石器とともに金属器を製作し使用する時代が現われたのである。
(205) この両地方のいずれが先に開けたかは容易に定め難いが、最近のウルの発掘以来、河間地方のスメル人の方が先であるという主張は非常に有力になった。いずれにしても、|冶金術〔付ごま圏点〕を発明した民族が先頭に立っていたことは疑いがない。しかるにその発明がどこで行なわれたかは不明なのである。両河の間には旧石器時代の遺蹟はなく、また|鉱山も全然ない〔付ごま圏点〕。従ってこの地方に入り込んだ新石器時代人が、この地方において冶金術を発明したということはあり得ない。従ってスメル人はすでに冶金術の知識をもって河間に入り込んだのでなくてはならない。とすればスメル人の故地、恐らく両河の東北方の山地が、その源であろう。しかしその山地に、両河地方のごとく文明の進んだ地域があったという証拠は何もない。といって|ほかにそういう土地も見つからない。つまり、冶金術の発明はどこか河間以外の土地で行なわれたが、その冶金術を駆使して金属工業を発達させたのは、まさしく河間の地方なのである。
 同じことはエジプトについてもいえる。ニルの河谷では、旧石器時代の遺蹟のあとには永い隙間があって、持続的な発展を示していない。そうしてエジプト人が住み込んだときには、彼らは精巧な石器とともに|すでに金属器を使用している〔付ごま圏点〕のである。彼らがこの土地に古くから住み、この土地で冶金術を発明するに至ったという証跡はどこにもない。といってその術をどこからもたらしたかはわからない。彼らもまた|この河谷において〔付ごま圏点〕この術を著しく発達させたのである。
 以上いずれの場合においても、彼らが|これらの河谷に入り込んだ〔付ごま圏点〕ということ、すなわち|沙漠にとり巻かれたオアシスを開いた〔付ごま圏点〕ということが、金属工業の発展や歴史の開始の最も有力な契機となっているのである。ここに沙漠的人間の形成と歴史の開始との間の密接な連関が看取せられる。
 沙漠においては人は烈しい努力をもって自然から生命をもぎ取って来なくてはならない。動植物が旺盛に繁茂し、(206)その生命の果実をただ摘み取ればよい、というような、自然の恵みを受動的に受け取るという態度は、ここでは全然不可能である。ニルやエウフラテスの河谷といえども、自然のままでは決して恵み深いものではなかった。そこには一方に暑熱があり、他方に水があったが、両者は人間の生に都合のよいように結びついてはいなかった。生命の果実を豊かに人間に恵むような動植物の繁茂はそこにはなかった。しかし人間が|能動的にその知力を働かせ〔付ごま圏点〕、暑熱と水とを都合よく結びつけさえすれば、動植物は盛んに繁茂し得たのである。すなわち|灌漑の工作〔付ごま圏点〕によってこれらの河谷は沃野に変じ得たのである。
 これは土地を人間化する営みとしては、恐らく最も気づきやすいものであったであろう。当時のヨーロッパは深い森林に覆われて、牧場などではなかった。沙漠が今ほど乾燥していなかったとすれば、ヨーロッパの森林地帯も今よりははるかに湿っぽかったであろう。そういう森林は豊富な野獣や果の実を供給する。それを狩りする人々は、森林や沼沢の開拓などを夢みるには至らない。いわんやモンスーン地域における森林の繁茂は物すごいものであったであろう。人はこの横溢する生命の姿を人為的に変えようなどとは、考える必要もなくまた考えもしなかった。それらに比べると、沙漠の乏しい自然の姿は、人々を考える必要に押しつけ、そうして考えさせたのである。そこでは問題の解決もまた比較的に容易であった。乾燥した土地に水をひいて草を生ぜしめれば、それだけで家畜の飼養が容易になる。沼沢地の水をぬいてやれば、そこに穀物の種を蒔くことができる。そういう人為的な工作の見透しが、他の地方と異なって、容易につけられるのである。そうしてそういう人為的工作は、一度はじめられれば、次から次へと成長して行く。知力の能動的な働きはますます活発になって行く。金属工業の発展はそのさしずめの成果にほかならない。
(207) 沙漠的人間はかくして形成された。従って彼らが、人類の大部分に先立って歴史を開始し国家を形成したことは、沙漠的人間であることと無関係ではない。ここに、世界史の初めにおいて、普遍的な人間存在ではなく、特殊的に形成された国民的存在が問題となってくるのである。
          (イ) エジプト
 ニルの河谷は広漠たるアフリカの沙漠から見ればまことにいうに足りない狭い河谷で、その自然状態においては狩猟者にも遊牧者にも好ましい土地ではなかった。それよりも縁辺の高地の方が、はるかに遊牧に適していたらしい。それらの高地は、歴史時代に入ってからの樹木伐採や沙漠の砂の襲来のために漸次不毛の地に化したが、もとは樹木も草も生い育っていた。だからエジプト人の祖先を考える場合には、そういう高地や、今ほど乾燥していなかったリビアの沙漠などを念頭に置かなくてはならない。祖先たちはそこからニルの細長い河谷や下流のデルタの沼沢地方へおりて来たのである。
 そこでこの|無人の境〔付ごま圏点〕を住みうる土地に化するために、彼らは、これまでと異なった力強い活動をはじめた。まず堤防をきずいて河の水を一定の水路に押しこめる。次に沼沢を干し、やぶを開いて、耕地をつくる。とともに、住居を構えるため、洪水の水の届かない高台をきずき、それらの間を土手道で連絡する。こういう活動は、個人的な移住者とか、氏族のような小団体では、うまく行かない。もっと多人数の、大仕掛けな共同が必要である。そこで|地縁的な結合〔付ごま圏点〕が緊密に形成される。やがてそれは連結されて国家組織にまで成育する。かくしてエジプト人は、力強い君主の統治する農業国民となった。そうしてきわめて独特なエジプト文化を発展させ、ニルの下流を地球上の最も豊沃な国土に化した。
(208) この開拓事業や国家形成がいつごろのことであるかは明白にはわからないが、しかし王朝の開始よりもはるかに先であることは疑いがない。その一つの証拠は、エドゥアルド・マイヤーの力説する|エジプトの暦〔付ごま圏点〕である。この暦は、第一王朝のメネス王(前三三〇〇年ごろ)よりもさらに千年ほど前に、すなわち前四二四一年に、すでに下エジプトにおいて作られていた。それは夜の空が地上よりもはるかに美しく、そうして実に生き生きとしている沙漠的風土の、一つの特徴的な産物といってよい。エジプト人はニル河の源流についての探究よりもむしろ天体の運動の秩序についての探究の方を先に押し進めたのである。ところでこの暦が非常に興味深いのは、天体の観測からして|一年を三百六十五日〔付ごま圏点〕と定めた後に、それを|永い間変えずに用いていた〔付ごま圏点〕という点である。周知のごとくそれは、ジュリアン暦の一年に此べると、四年に一日の割りで短い。従って暦の|年の初め〔付ごま圏点〕の日は、四年で一日ずつ早くなる。この元日の移動を続けて行くと、4×365=1460で、ちょうど一か年早くなって、またもとへ帰ってくる。そういうふうに移動する暦の元日、従って暦年は、|季節と全然無関係〔付ごま圏点〕であるが、しかし季節的なニルの洪水と本質的に結びついているエジプト人は、|季節的な年の初め〔付ごま圏点〕に無関心であることはできない。そこで|恒星シリウスが朝東天に現われる日〔付ごま圏点〕を季節的な年の初めとした。この日に|ニル河が増水をはじめる〔付ごま圏点〕のである。やがてそれは洪水となって、エジプト人への恵みである泥を運んでくる。そうしてその規則正しい減水のあとで、農耕播種が行なわれるのである。このシリウス年は、年々ずれるということがない。従ってシリウス年の元日と暦年の元日とは、四年に一日ずつくい違いを増し、一四六〇年の間に三六五日のくい違いを作って、またいっしょになる。四年間は両者が合致している。これを視点として調べて行くと、紀元前四二四一年−四二三八年のころに、両者の一致していたことがわかる。その次の一致点は前二七八一年ごろで、すでに久しく暦の行なわれていた後であるから、暦が作られたのは、恐らく右の前四二四一年のころであろう、とい(209)うのである。
 一年を三六五日とする暦がすでにそのころに作られ、そうしてそれがその後永い間変えずに用いられていたということは、エジプトにおける|初期の国家形成〔付ごま圏点〕が非常に古いことを思わせる。暦年が季節とずれるにかかわらず保持されたのは、それを必要としまたそれを支配していた人倫的組織が、すでに確固とした存在を獲得していた証拠である。とともにまた、他方では、ニルの増水と連関したシリウス年を見いだし、それによって産業を規正し得るような、知力の発達があった証拠でもある。これは六千年前の現象としては実際特異であるといわなくてはならない。
 ニルの河谷の|最古の遺蹟は、上流ではテーベ付近、下流ではメンフィス付近の住居跡や墓であるが、その墓の遺物は主として石器で、その中に銅器や金のかざりを交えている。特に中期においては、石器の技術が比類のないほど巧妙で、エジプト最古の文化の特徴となっている。石の瓶などの細工は実に驚嘆すべきものである。ほかに彩色土器もかなり発達している。そういう優秀な作品は、製作当時は王者向きであって一般民衆の道具とはならないが、しかし次の代には民衆のものとなっている。その時には王者向きには新しい様式が作り出されているのである。そういう仕方で、第一王朝に至るまでの間には、エジプト美術にも盛んな成長が見られる。エジプト様式が固定してくるのはそれよりも後のことである。
 こういう活気立った金石併用の時代には、|農耕〔付ごま圏点〕と|牧畜〔付ごま圏点〕とはすでに確立されていた。それは十九世紀まで続けられていたのと同じやり方のものである。家畜は水牛が主で、山羊、羊、驢馬がある。土地を耕すには水牛にひかせた|すき〔付ごま圏点〕や草かきを用いる。作物は小麦大麦の類である。洪水の直後に、牡羊か豚かを使って種を柔らかい土の中に踏みつけさせ、みのった麦は、たたきの上で牛にふませて脱穀し、粘土でできた穀倉とか、大きい瓶とかに入れて保存する。(210)食糧としてはほかにナツメヤシその他野菜類があり、魚や鳥も盛んに漁獲する。大麦からはビールをつくるが、ほかに葡萄も栽培していた。衣料としては亜麻から取ったリネンを用いる。パピルス葦からは綱や敷物を作った。
 このような農業のほかに、都市では手工業や商業が行なわれていた。水路による交通も非常に盛んであった。そういう開けた生活を、人々は、|ニルの谷に入り込んだ後に〔付ごま圏点〕、数知れぬ世代の間に築き上げて行ったのである。だからそこには全面的にエジプト特有の様式がつくり出されている。
 中でも最も注目すべきことは、人々が|エジプト特有の仕方で国家を形成しはじめた〔付ごま圏点〕ことである。それは恐らく|人類最初の国家形成〔付ごま圏点〕であったであろうが、同時にニル河谷独特のものであった。というのは、この後の永い人類の生活において、通例原始的萌芽的な国家形態とせられているあの|氏族組織〔付ごま圏点〕が、ここでは|痕跡をさえ残していない〔付ごま圏点〕のである。氏族の名などはどこにも見いだされない。民族的結合もなければ、血の復讐もなく、民族的祭祀もない。個人を組み入れる社会的範疇としての氏族もない。個人はただ|地位と職業とによって〔付ごま圏点〕身分を異にするだけである。がその身分も、特権団体的なものではない。個人はおのれの力次第で、また王者のめがね次第で、最高の地位にまでのぼることができる。
 このように血縁的組織が稀薄であるのに反して、エジプトの国家の含んでいる唯一の下部組織は、純粋に地方的な|土地の組織〔付ごま圏点〕である。人はその生まれた都市に、その郷土に、従ってその郷土の神の支配域に、属している。すなわち血縁団体ではなくして|地縁団体〔付ごま圏点〕のみが、エジプトの国家の根柢となっているのである。
 この地域的な統一、エジプト語で h※[下に・あり]sp と呼ばれ、ギリシア語でノモスと訳されている統一は、わが国の言葉では「くに」というに近い。|郷国〔付ごま圏点〕である。歴史時代になると、郷国は、政治的独立を失い|行政区画〔付ごま圏点〕になってしまうが、し(211)かしそれでもなお、宗教や風習や歴史的伝統などによって、截然と隣りの郷国から区別することができる。エジプト王国の権力が弱まってくれば、いつでも郷国は行政区画たることをやめてもとの政治的独立に帰ってしまう。そういう根深い地域的統一を、ニル河谷に入り込んで来た太古のエジプト人たちが、|土地との交渉〔付ごま圏点〕のなかからまず最初に作り出したのである。前にもいったように、ニル河の利用における共同の作業とか、沙漠の不断の脅威に対する共同の防衛とかは、氏族というごとき小さい団体によって遂行されうるものではない。恐らく当時の人間のなし得た|最大の団結〔付ごま圏点〕がそこには必要であった。そうしてそれに成功したことがすなわちニル河谷の開発に成功したことであり、開発の成功は人間の能動性を促進してその|団結の自覚〔付ごま圏点〕、従って|国家の形成〔付ごま圏点〕にまで人々を導いて行ったのである。ここに|人類の最初の国家形成〔付ごま圏点〕が特にニル河と結びついているゆえんがある。
 ではこの郷国、すなわち「くに」は、どれほどの大きさであったか。通例あげられているのは、上エジプトに二十二、下エジプトに二十という数である。これらは必ずしもそのままにかつての独立国家だというわけではない。後に行政上の必要から作られたものもあり、宗教的混淆によって合併したものもある。しかしおおよその大きさはこれによって察し得られる。一つの郷国の広さはほぼ|歩行の一日行程〔付ごま圏点〕なのである。これは地縁共同体の最大の規模と考えてよい。従って国家が初めて形成される時の領土の大きさとしても、いかにも自然なのである。
 が、この地縁共同体はただ|労働において〔付ごま圏点〕結合したのみではなかった。それは同時に精神共同体として、驚異の情をともにし、人生観をともにするものであった。すなわち郷国は同時に|宗教的団体〔付ごま圏点〕なのである。どの郷国もその|特有の神〔付ごま圏点〕を持つ。その神の坐が郷国の中枢である。人々はこの聖所のまわりに集まって住み、そこに都市を発生せしめる。神の名は|象徴的なしるし〔付ごま圏点〕によって現わされるが、そのしるしは同時に|郷国の紋章〔付ごま圏点〕になる。名のほかに特定の神聖な獣(212)や、固有の仕方の祭儀などが、それぞれの郷国の特徴となっている。それらの宗教的象徴を作り出す|根本的直観〔付ごま圏点〕は、どの郷国にも共通なのであるが、その具現された形態は郷国ごとに異なり、それが郷国の団結の紐帯となるのである。従って郷国と郷国とは必ず対立し、時には激しく闘争する。神が|一つの郷国〔付ごま圏点〕の全体性を表現するという現象は、ここに顕著に現われている。
 そこでこの地域的な宗教的団体は、必然的に|政治的団体〔付ごま圏点〕の性格を帯びてくる。宗教と政治とはここではひき放すことができない。これが大きい統一的な国家の|前段階〔付ごま圏点〕としての、|原始国家、郷国〔付ごま圏点〕である。このエジプトの原始国家が、スメル人の原始国家よりも古いかどうかは、われわれにはわからない。が、同じように人類の最初の国家形成でありながら、両者がそれぞれ独特の形態を持ち、一様でないということは、明らかに看取することができる。
 エジプトの郷国の最古の姿は、エジプトの宗教の最古の姿を探ることによって知られる。後にエジプト全土の大いなる神となった神々も、もとはどこかの|郷国の神〔付ごま圏点〕であった。その神は一定の地域を領域とする|土地の〔付ごま圏点〕主《ぬし》である。この土地の住民はすべてこの神に奉仕するように生まれ、またこの神の保護の下に生存する。なおこの主神のほかに大小さまざまの神的な力があり、主神とともどもに「いのち、健康、持続、力、勝利、繁栄」などを恵んでくれる。そういう神々が、|動物〔付ごま圏点〕あるいは|植物の姿〔付ごま圏点〕に現われるのである。動物では、牛、羊などの家畜から、獅子、わに、河馬、毒蛇、さそりなどの恐ろしい生き物に至るまで、どこかの郷国で崇拝されている。犬、猫、猿、魚、鳥、蛙なども咒力を持つとされる。植物では、いちじく、杉、オリーブの樹などが祀られている。これらのうちのいずれかを神の姿として選んだ郷国においては、その種類のもの全体を神聖視し、特にその内の一つを神の化身として神殿に祀るのである。従って同じ種類の動植物を殺したり食ったりすることは、この郷国の住民にとっては、死に価する冒涜である。(213)がそれだけに、隣りの郷国の神聖な獣を殺して食うことは、勇気や敵愾心の証拠になる。
 しかしこれらの動植物は、神々がおのれを現わす姿なのであって、神々そのものではない。神はいつでもそういう動植物を出て他のものに移ることもできるし、また多くのものに同時に宿ることもできる。石や柱にも宿れば、また物のなかに閉じこめられることもある。エジプトの神殿ではどこでも、神聖な獣のほかに、箱に入れた|秘密の神体〔付ごま圏点〕を蔵している。その他、神聖な獣の|模像〔付ごま圏点〕や、人身獣首の像〔付ごま圏点〕をも祀っている。神像には着物をきせ香油をぬりおまもりをつるす。祭儀の際には、そういう神体の箱とか、神像とかを、祭司たちがかついで民衆の前に現われる。特に祭りの行列とか戦争とかの際には、神獣の像やしるしのついた|神の標幟〔付ごま圏点〕を民衆の先頭に立てる。神はいつもそういう象徴の中に宿っているのである。従って祭儀や戦争の際の団体的な精神昂揚は、神的な現象と考えられる。興奮した団体のどよめきとか叫び声とか歓声とかはみな神の声なのである。
 このような神聖な獣の崇拝は、フロベニウスが説いたように、中石器時代以来の永い伝統を負っているかもしれない。南ヨーロッパの洞窟には意味ありげな「眼」を描いた牛の画が残っているが、同様な牛の画は、北アフリカのサハラ・アトラス地方や、フェッツァン地方などの、巨岩の上にも線刻されている。フェッツァンはリビア沙漠の西辺で、そこからは一路エジプトヘ通ずるのであるが、その岩壁画のなかには、牛の両角の間に|光輪を描き〔付ごま圏点〕、明らかにこの牛が象徴的意義を担うことを示しているものもある。これらの画と、エジプトの神聖な牛の画との間につながりがあるとすれば、牛を媒介として人間がおのれの存在を自覚する段階は、実に永く続いていたといわなくてはならぬ。しかしエジプトにおいては、神聖な牛は、もはや民族的団体の成年式に連関するというごときものではなかった。ここではすでに地域的な統一としての国家がはじまっており、そうして神聖な獣はかかる|原始国家の象徴〔付ごま圏点〕となっている(214)のである。従ってわれわれは、神聖な獣の崇拝のうちに、野獣の馴養から家畜の育成に至るまでの永い歴史を、国家形成の背景として、読みとることができる。

 ではこのような郷国の対立のなかから、どういうふうにして、エジプトの統一国家が成り立って来たか。
 それをしめしているのもまたエジプトの神話である。神々は他の神々と戦って勝ちあるいは征服される。これは郷国と郷国との間の争闘と征服の関係を示している。あるいは神と神との間に婚姻が行なわれる。これは郷国と郷国との間の平和な結合を反映している。そういう仕方で、プタフ・ソカル・オシリスのような複名の神も出てくれば、またオシリス、イシス、ホルスのような三つ組の神も出てきた。そういう神々の神話において、郷国の神は、漸次、特殊な性格の神、あるいは特殊な働きの神として、専門化してくる。これは|神々の体系〔付ごま圏点〕のはじまりであって、エジプト国家の成立を反映したものといえよう。なぜなら、一つの郷国の神が恋愛の神として一般に認められてきたとすれば、地域的な制限はその限り打ち破られているからである。そういう意味において最も大きい役目をつとめたのは、宇宙の大きい力に結びついた神、すなわち日の神、月の神、星の神、あるいは天の女神、地の男神などであった。所々の郷国神は、日の神であるということにおいて一つに結びついてくる。あるいは日の神であるということによって一般的な承認を獲得する。そういう過程は複雑であって一概にはいえぬが、しかし地域的制限を超えてエジプト全体に通用する神々が、おいおいに現われてきたということは、エジプトが|一つの国家として〔付ごま圏点〕統一されてきたということと、平行しているのである。
 最古の統一的エジプト国家は、光の神|ホルスの崇拝者の国〔付ごま圏点〕として建てられた。それは|南の国〔付ごま圏点〕と|北の国〔付ごま圏点〕とに分かれ、(215)その境界はカイロの南方五十キロほどのところにあった。首府は、南ではテーべよりも百キロほど上流、北ではデルタの北西の端、海に近いところ、つまりエジプトの南端と北端とにあった。しかしいずれの首府も、河をはさんだ双子町で、一方の側にはその郷国の守護神を、他方の側には光の神ホルスを祀り、君主はホルスの町にあって支配した。南と北とに分かれていても、同一のホルス崇拝者の集団によって作られた国家であることは疑いがない。その発祥の地は、恐らくオンの町(後のヘリオポリス、デルタの入り口)あるいはブシリス(デルタ中部)などであろうといわれている。すなわち国家統一運動は下エジプトにはじまり、後に上エジプトに及んで、そこの主神セートを圧迫したのである。だからそこではホルスはオシリスとイシスの子としてでなく、セートと不断に戦う光の神として崇拝されていた。
 前に言及したエジプト暦は、このホルス崇拝者の国家においてはじめて作られたのである。だからマイヤーは、紀元前四二四一年七月十九日(グレゴリ暦六月十五日)という日付が、世界史における最初の確実な日付であるといっている。
 暦とともに、後のプァラオの国家におけるような、整備した支配組織もまた創成された。その中で特に顕著なのは君主の性格である。君主は|人の形をした実在の神〔付ごま圏点〕、すなわち|ホルスの化身〔付ごま圏点〕であった。王の宮殿にはホルスの鷹の像があり、王の頭布には日の神と同じく火を吐く毒蛇の留め針がさしてあった。だからホルスの鷹は、文字として、「王」を意味すると同時に「神」を意味していたのである。このような王と神との同一性、あるいは|王の神性〔付ごま圏点〕は、由来はもっと古いにしても、この時代に至って初めて|明白な表現に達した〔付ごま圏点〕といってよい。そうしてそれは統一的な国家形成と密接に連関しているのである。
(216) 集団の生きた全体性を神として表象することは、すでに久しく郷国の立場で行なわれてきたが、そういう神々は対立し戦う神々であって、統一の原理ではなかった。今や超地域的な神ホルスの崇拝者たちが、多くの郷国を連結して統一的な国家を形成したのである。そうしてそういう大きい統一の原理であるホルスを、国家組織の統一者たる君主の姿に投射し、そこに|神聖な王〔付ごま圏点〕を作り出したのである。これは郷国の立場において|神聖な獣〔付ごま圏点〕を祀っていたときとは、著しい相違だといわなくてはならぬ。このような神聖な王の出現に至ってエジプト的国家はその様式を完成した。
 エジプトの第一王朝は、上エジプトの第八郷国(首府はティニス)から出た|メネス王〔付ごま圏点〕が、南の国と北の国とを一つにした時に始まった。それはマイヤーによると紀元前三三一五年ごろである。しかしこの時には、エジプトの文化やエジプトの国家の根本形態は、|すでに定まっていた〔付ごま圏点〕、といわれている。というのは、その根本形態の形成が、王の名の残されていないホルス崇拝者たちによってなされた、ということなのである。ところで、このホルス崇拝者たちの時代の末期の、南の国の遺品のなかに、すでに歴史的記念物と認めてよいようなものがある。中でも、王妃の持ち物であったらしい片岩の|化粧板〔付ごま圏点〕は、薄肉彫りの図様のなかに、|メソポタミアとの接触〔付ごま圏点〕を示している。戦争の場面の描写や、動物の絵や、象形文字などにおいて似ているのみならず、特にメソポタミア名物の怪獣、すなわち獅子の体に鷲の翼やくちばしのついたグリフィスとか、蛇の首を持った獅子とかが、ここにも現われ、またメソポタミア特有の、動物をシンメトリーに組み合わせるやり方が、ここにも盛んに用いられている。従ってエジプトへのメソポタミアの影響が当然考えられてくる。マイヤーはこの見方を強く斥けているが、しかし最近のウルの発掘にょって知られたスメル文化のことを思うと、この問題は簡単には片づけられない。しかも、歴史にとって最も重要な|文字の成立〔付ごま圏点〕が、ちょうどこの時代のことなのである。で、われわれは方向を変えて、メソポタミアのことを少しく考察してみよう。
(217)          (ロ) メソポタミア
 メソポタミアとは、エウフラテスとチグリスとの「河の間」の地域をさすギリシア名である。その下流の地方ではバビロニアが、上流の地方ではアッシリアが栄えた。が、その開けはじめははるかに古く、ニルの河谷といずれが先かわからない。
 開けはじめたのは下流の方からである。旧約の創世記ではシナルと呼ばれている。そこに、人類の最古の文明を創り出したといわれるスメル人の国土があった。それは、エウフラテスとチグリスとが山を出たのち漸次相近づいてついに三四十キロにまで寄り合っている地点、すなわち後にバグダードの町の作られたあたり、から|下流の地方〔付ごま圏点〕である。がそれも、現在のように広かったのではない。そのころにはペルシア湾が現在両河の合流しているあたりまで湾入していた。またチグリスの本流も現在よりは百キロあまり西方の、シャト・エル・ハイ、シャト・エル・ガラフなどのところを流れていた。エウフラテス自身も現在の河流より三四十キロ東方、シャト・エン・ニールの水路を流れていたらしい。古いスメルの町々は、これらの河の岸に、特にシャト・エン・ニールの岸に、並んでいたのである。従ってそのころ両河の抱いていた下流地方は、現在の三分の一ほどに過ぎぬであろう。
 この両河地方、シナルの地は、広漠たる沃野というわけではない。大河に抱かれてはいても、水の届かぬあたりは全然荒野に過ぎない。チグリスの東方、山に至るまでの間も、荒涼たる草原である。エウフラテスの南と西とにほ、何ともしようのないシリア・アラビアの沙漠がひろがっている。下流一帯は沼沢であった。だからシナルの沃地と呼ばれているものは、エジプトのそれよりは狭かったのである。古い町々は、長さ二百キロ、幅三四十キロほどの地域に群がっていた。しかもこの地域が一面に連続的に耕されて一つの沃野となっていたわけではない。|沙漠のなかに〔付ごま圏点〕、(218)河流や運河に添うて、ところどころに灌漑され開墾された沃地が象嵌されていたのである。つまり河間地方もまた沙漠のなかの細長い、数珠のようにつながったオアシスに過ぎなかった。
 このシナルの地の東南端、海に最も近いところに、アブラハムの生地として有名な「カルデアのウル」(創世記、一一の三一)がある。一九二六−九年にこの地を発掘して、未曾有の収穫を得たレオナード・ウーリーは、それにもとづいて次のような叙述をやっている。すなわちウルの歴史は、伝説で有名な「洪水」よりも古い。その太古の時代には、エウフラテスの下流は沼沢であって、人の住むところではなかった。が、河は小やみなく泥を運んで沼沢を埋めて行く。やがて、「水は一つところに集まり、乾いた土が顕われる」(創世記、一の九)というようになる。そこヘアラビアの高地や河の上流から人間が移り住み、「地は青草と、たねを生ずる草と、その類に従って実を結びみずからたねを持つところの果樹とを、生ぜしめた。」(同上、一の一一)ウルはこういう島々のうちの一つであったのである。
 この時代の住居跡からは、手づくりの彩色土器やさまざまの石器類が見いだされた。これは明らかに新石器時代のもので、当時の人間がすでに農耕牧畜を営み、機《はた》を用いて布を織ったことを示している。その種族は不明であるが、恐らくセム人(アッカド人)であったろう。ウルではこの種族が非常に永く続いたらしく、住居跡が幾重にも重なり、もとの低い島が小山ほどに高まっている。
 そこへいつの日にか、どこからか、新しい種族が入り込み、もとの住民と相並んでこの地に定住した。それがスメル人である。旧約は恐らくスメルの古伝を用いたと思われるが、「ここに人々|東より移りて東シナルの平野に来たりそこに住めり*」(同上、一一の二)と記している。スメル人自身は、彼らの祖先が|農業〔付ごま圏点〕や|冶金術〔付ごま圏点〕や|文字〔付ごま圏点〕などすでにできあがった文明を携えてこの地に移って来たのであって、その時以来この地において新しい発明などはなかったのだと信じ(219)ていた。発掘の結果によってもこれは是認せざるを得ない。冶金術が全然鉱石のない河間地方で発明されるはずもない。そういう文明を携えて来たスメル人は、旧来の丘の村を町に改造し、煉瓦の家や、厚い城壁を作った。先住民は農奴にされ、丘の麓か平地かに住まさせられたのであろう。この時代の遺物を含む層からは、旧来の|手づくり〔付ごま圏点〕の彩色土器と並んで、|ろくろ製〔付ごま圏点〕の瓶や、精巧な石の器《うつわ》が出てくる。
 * ウーリーはこの個所を原文通り|東より移りて〔付ごま圏点〕と読んでいるが、邦訳は伝統に従い「東に移りて」としている。
 かくして幾世紀かを経、ウルの城山がだんだん高くなったころに、「大洪水」が襲来したのである。この洪水の伝説は、旧約のノアの洪水としてのみならず、プラトンの著作などにも現われており、古代世界では広く知られたものであった。その源流は|スメルの伝説〔付ごま圏点〕であって、紀元前二千年に、すなわち創世記の成立よりもはるかに前に、記録せられている。すなわちスメルの年代記者は、王統の系譜のなかに、「次いで洪水起こる。洪水の後、王は再び天より降《くだ》る」と書いているのである。このスメルの伝説は、これまで史実性の疑わしいものとされていた。学者によってそれを年の神の神話、あるいは太陽神話として解釈するものもあった。そういう解釈を斥けるマイヤー自身も、その伝説の由来を河間の土地の性格から説いている。すなわち河間における人間の生は、神々がその恵み深い秩序をちょっとでも変えれば、すぐに亡んでしまう。そういう危険がただ神々の恩寵によって防がれている。この意識が洪水の伝説となって現われた、というのである。しかるにウーリーは、ウルの発掘において、数限りない世代の人間の生活を証示する厚い塵芥層の下に、|八尺の厚さのきれいな泥の沈澱層〔付ごま圏点〕を見いだし、さらにその下に、彩色土器やスメル人の遺物を含んだ塵芥層を掘り出した。八尺の泥の層は実に大きい|洪水の痕跡〔付ごま圏点〕といわなくてはならぬ。しかも|この大洪水以前に〔付ごま圏点〕、すでにスメル人はこの国土に住み込み、そうして煉瓦造りの堅固な町、「文明人の都市」を形成していたのであ(220)る。
 この証跡によって大洪水の史実性は疑うを得ないものとなった。大洪水のもたらした生活の変化もまた指摘することができる。洪水前にはスメル人は先住民とともに住んでいたが、洪水後にはスメル人のみが残り、先住民のあとをとどめない。洪水前の煉瓦は、|尺度、釣り合い、土質等において〔付ごま圏点〕、洪水彼のどの時代のものとも異なっている。これらは大きい社会的変化を示唆するものである。しかしスメル人が|洪水以前にもすでに進んだ文明を持っていた〔付ごま圏点〕ことは、疑いがない。壜の栓であったらしい堅い粘土の遺物には、持ち主の|印章〔付ごま圏点〕が押されている。そのなかの動物文様の形象など、いかにも生き生きと作られているが、|文字〔付ごま圏点〕もすでにあったかもしれない。大洪水はそういう時代の出来事なのである。
 この古いウルの町よりも十数尺も上の方で、ウーリーは数多くの王や女王の墓を見いだした。それらはウルの第一王朝(紀元前三一〇〇年ごろ)よりも前のもので、ほぼ三五〇〇年−三二〇〇年のころと推定される。エジプトの第一王朝は三三一五年ごろからであって、王の墓のうちの古いものよりも後である。従ってこれらは、ホルス崇拝者の時代の末期、すなわち前にメソポタミアとの接触が認められるといったちょうどその時代に当たるのである。ところでこの時代の王や女王の墓のうち、幸いに盗掘を脱れていたものは、実に驚くべき数々の遺品を、五千年後のわれわれの前に、開示したのであった。
 発掘者ウーリーがその報告において力説していることは、ここにすでに進んだ「文明」が形成せられていたということである。スメルよりも古い「文化」はある。しかし「文化」と区別した意味での「文明」は、スメルのものが最初である。そこでは芸術や学問がかなり進んでおり、法の原理にもとづいた社会組織が確立されている。それは個人(221)の権利を保証しつつ個人をして国家の利益に奉仕せしめる。そこでは思想や物資の交易に必要な交通も、きわめて活発である。これらは|都市生活〔付ごま圏点〕や|文字の術〔付ごま圏点〕なくしては不可能な組織であるが、そういう組織が、エジプトのホルス崇拝者の時代に、すでに南メソポタミアにおいて開花していたのである。
 スメル人はあらゆる他の民族に先立って「車」を発明した。それを運輸にも使えば戦車としても用い、また土器製作のろくろにも応用した。|金工〔付ごま圏点〕においては、すでに鋳金術を知っていたのみならず、青銅やエレクトルム(琥珀金)のような|合金〔付ごま圏点〕を作っており、特に金銀の細工は実に巧みであった。黄金の|牛の首〔付ごま圏点〕とか、黄金の|かぶと〔付ごま圏点〕とか、銀の|獅子の首〔付ごま圏点〕とか、今でも傑作と呼ばざるを得ないような優れた彫刻が掘り出されている。その他黄金の短刀、杯、鉢、あるいは黄金や瑠璃の髪飾りなど、実に精巧で美しい。|建築術〔付ごま圏点〕もそれに劣らず進歩していた。煉瓦の用法においては、最高の域に達していたといわれる。遺蹟はエジプトほど壮大ではないが、建築の科学的知識においてはエジプト人以上であった。今日用いられているあらゆる基礎的な形式は、すでにスメル人の用いたところである。
 が、これらの技術よりも一層重大なのは、文字の術である。文字もまた冶金術と同じくスメル人が外から持って来たものであるかもしれぬ。しかしあの精妙な楔形文字を作り出したのは、エウフラテスの河岸においてである。最古の王の墓の特徴である|線状文字〔付ごま圏点〕は、楔形文字の円熟した体系に比べてみても、美しさにおいてやや劣るだけだといってよいほど、進んでいる。これは前三五〇〇年ごろのもので、今までに発見されたうちでは世界最古の文書である。
 すでに文書を用いていた社会の組織が、複雑に発達していたことはいうまでもない。王の墓の遺物によって考えると、この社会があれほどの巨大な富を持っていたということだけでも、すでにこの社会が確固たる法律の基礎の上に立っていたこと、人民の間に秩序のあったこと、などを示している。黄金は王の墓のみならず普通人の墓からも多量(222)に見いだされた。従って統治の形式は相当にリベラルで、一般的な福祉が実現されていた、と推測される。しかし農業や牧畜のみの土地で、どうしてあのように豊富な金銀宝玉の類が集められたのであろうか。これらの材料はみなメソポタミアのデルタには産しないものである。金銀はペルシアや北方の山岳地帯から輸入しなくてはならぬ。青銅はアラビア東端のオマンから、銅や瑠璃はパミール高原から、貝殻や白方解石はペルシア湾から、その他孔雀石、閃緑岩、堅い木材なども、すべてどこからか持って来たものである。戦利品とか被征服民族の貢とかということも考えられるが、それだけで間に合うような分量ではない。とすると、大部分は|貿易〔付ごま圏点〕によったものであろう。その貿易も物々交換ではないであろう。なぜなら、土地の産物は家畜と穀物のみで、遠くへは運べないし、また遠くからの需要もなかった。そうなると唯一の道は、|原料を輸入して加工品を輸出した〔付ごま圏点〕ということである。紀元前三五〇〇年のころに、ウルの町はすでに|大工業都市〔付ごま圏点〕となっていた。輸入原料の支払いを製品によって済ませつつ、ウルの市民は、その|技術の巧みさ〔付ごま圏点〕によって、富を集めたのである。その貿易の範囲はかなりの遠方に及び、そうしてよく組織されていた。北はカウカソスのかなたまで、西はシリアから小アジア、あるいは遠く中央ヨーロッパまで。この貿易がいかに盛んであったかは、メソポタミアの最古の粘土板文書が、ほとんど商用のもののみであることによっても察せられる。
 このように工業と商業とを強味とする富裕な都市が、前三五〇〇年ごろのシナルの地に、すでに栄えていたのである。そこには、奴隷、羊飼い、農民、職工、商人、祭司、兵士、官吏というような、身分の別による上下の組織もできあがっていた。醇化された家庭生活もあった。そのような都市が、古いエウフラテスの水路シャト・エン・ニールに沿うて、上流はバビロン、シッパルのあたりから、下流はウルやエリドゥに至るまで、二十近くも並んでいた。それらは沼沢や沙漠によって互いに距てられた|小さい地方〔付ごま圏点〕の中心地なのであるが、しかしここではエジプトにおけるよ(223)うに|地縁共同体〔付ごま圏点〕が顕著な存在を持っているのではなく、それぞれの|都市〔付ごま圏点〕が、後代のギリシアにおけるように、強固な統一体として表面に現われているのである。ここにまずわれわれはエジプトとの著しい相違を見いださざるを得ない。
 シナルの地においても、エジプトと同じく、氏族のごとき血縁団体の痕跡は見いだすことができない。スメル人がどこからかこの地に入り込んで来たときに、先住民の村落のあった丘を占領して構築したのは、煉瓦の厚い防壁に取り巻かれた「町」であった。そこで彼らは先住民を農奴として使用しつつ、その優れた工芸の技術によって富を集め、後の粘土板文書に示されているような種々の|契約〔付ごま圏点〕の上に立つ社会組織を形成して行ったのである。こうしてそれぞれの都市が一つの国家としての組織を持ちはじめ、その支配者は王(lugal)とか主(en)とかと呼ばれた。それはちょうどエジプトの郷国に当たる段階なのである。
 エジプトにおいて多くの郷国を統一するホルス崇拝者の国家が形成され、やがて第一王朝の樹立となったように、メソポタミアにおいても、各都市の独立の状態が何世紀か続いたのちに、これらの都市全体を統一したスメル人の国家が形成されるに至った。それは多くの都市の王の上に|上位の王〔付ごま圏点〕を認めることによってなされた。この上位の王は、国王(lugal kalama)と呼ばれることもあれば、王の住む都市、すなわち首都の名によって呼ばれることもある。ウーリーの発掘以前に知られていたところでは、最古の国王はバビロンの東にある|キシュ〔付ごま圏点〕の王で、これが紀元前三一〇〇年ごろに王朝を建てていた。それと競争的な地位にあったのは、チグリスの古い本流に沿うていたラガシュの町*で、キシュがシナルの地の西端にあるに対し、これは東端に位している。その後他の町々の王も国王となり王朝を建てた。町々の間の競争は激甚であって、王朝の交替もそれに伴ない頻繁であった。
 * テロの遺蹟。De Sarzecs の発掘によって有名である。
(224) ウルの発掘によって明らかにされた|古いウルの王たち〔付ごま圏点〕は、右のような形勢がはじまる前、紀元前三五〇〇−三二〇○年ごろに属するとされている。そのころの王の担っていた意義について、非常に教えるところの多いのは、|殉葬の問題〔付ごま圏点〕である。王以外のものの墓には、どれほど金銀宝玉が豊かであっても、殉葬のあとはなかった。ウルの発掘品中の最も優れた作品といわれている黄金のかぶとを出したのは、「よき国の英雄、メス・カラム・ダグ」の墓であるが、この英雄さえも殉死者を伴なってはいなかった。しかるに王や王妃の墓になると、殉死者の埋葬によって実に驚くべき光景が展開されていたのである。
 王妃シュブ・アドの墓は、王妃の屍を納めた長方形の石室と、その石室の外の、殉死者のための広い穴とから成っていた。その王妃の石室だけでも驚くべきものがある。石室の一端に棺架を据えて王妃の屍をのせているのであるが、その手には黄金の杯があり、上半身は、金、銀、瑠璃、瑪瑙、玉髄などの珠数に覆われていた。頭部には有名な髪飾りがあった。大きいかつらのまわりに広い黄金のリボンをめぐらして台とし、その上に瑠璃と玉髄の珠数を三重にまとうて、そこから三重の冠を垂らしている。下のは額にかかる黄金の環の垂れで、中のは黄金のぶなの葉、上のは同じく黄金の柳の葉の三つ組で、その上に黄金の大きい花が咲き、その花びらには青や白の象嵌がある。髪のうしろには黄金のスペイン櫛をさし、その五つの端は瑠璃を中核にした黄金の花になっている。かつらの側面には黄金の渦巻がつき、耳には大きい半月形の黄金の環がかかっていた。なおそのほかに、王妃の体のそばに、もう一つの髪飾りが置いてあった。それの白い皮片で作った王冠の上には、何千という小さい瑠璃の珠をぬいつけ、その重厚な青地の上に黄金の鹿や牛や羊がついている。その間には、葉かげのざくろが三つ、他に黄金と肉紅玉髄の果実をつけた黄金の樹などがある。これら一切をのせた棺架のそばには、頭部に一人、足部に一人、女の屍体があった。石室の他の側《かわ》に(225)は、あらゆる種類の供物が並んでいる。黄金の鉢、銀器、銅器、石の鉢、食物を入れた甕、銀の牛の首、供え物を並べる銀の机、青い顔料を入れた鳥貝、その鳥貝を金銀で模したもの、などである。
 死者にこういう装いをさせ、こういう供物をささげることは、それだけでも我々を驚かせるに足りるが、しかしこの石室の外の光景は、それどころではない。まずその穴へおりて行く斜道の端には五人の男が並んで倒れていた。その奥には、王妃のと同じ様式の髪飾りと、瑠璃肉紅玉髄などの頸飾りをつけた官女たちが、十人ずつ二列に並んで倒れていた。その端には、音響盤のところに黄金の牛の頸のついた美しい立て琴があって、それを最後まで弾いていたらしい立て琴弾きが、これも黄金の冠をつけて、その上に倒れかかっていた。これらが|殉死者の群れ〔付ごま圏点〕なのである。その群れの手前には、木の戦車があって、瑠璃のたてがみを持った金の獅子や、銀の牝獅子や、その他いろいろの首の飾りがついている。その前には、馬具をつけた二疋の驢馬の骨がある。戦車の近くには、象嵌をした美しい遊戯盤、黄金の鑿や鋸、灰色の滑石の大鉢、鋼のうつわ、金と瑠璃の長い吸い管、衣服を入れたらしい大きい木の箱、その他、金銀銅石などのさまざまのうつわが並んでいた。中でも、玉座の飾りであったかと思われる二つの|銀の獅子の首〔付ごま圏点〕は、今でも傑作と呼んでよい彫刻である。
 これは全く驚くべき光景である。が、それは王妃へのものであった。その夫、ア・バル・ギ王への殉葬の光景に至っては、さらに一層大仕掛けである。王の墓は王妃の墓の六尺下にあった。殉死者を埋めた場所はちょうど上下に重なっていた。ここでは斜道の根もとに六人の兵士が、銅の槍、銅のかぷとを持って倒れており、その奥に二輌の四輪車が、おのおの三疋の牛にひかれていた。王の石室の壁外には、九人の宮女が、前にのべた王妃と同じように、黄金のぶなの葉の垂れた晴れの髪飾り、大きい半月形の黄金の耳環、黄金の花のついた銀の櫛、瑠璃と黄金の頸飾り、な(226)どをつけて、整然と並んで倒れていた。ここにも立て琴があった。この宮女の列と二輌の車との間、及び石室の横の空地にも、数多くの男女が倒れていた。殉死者の総計は六十二人である。その中には金鋒銀鋒の槍を四本ずつまとめて携えた兵士、銅の浮き彫りの楯を持った兵士などもあった。また石室の壁ぞいの屍体のうえにも立て琴があって、それには非常にすぐれた黄金の牛の首がついていた。
 このような殉葬の例をウーリーはなおほかの墓でも見いだした。殉死者の最も多いのは、男六人、女六十八人の場合であった。そこでも屍体は整然と並んでいて、暴行を加えたあとや、恐怖に襲われたあとは見いだせなかった。恐らく殉死者は、生きたままで墓に入り、整然と位置についた後に、何か薬を飲んだのであろう。そうしてそのあとで、土をかぶせる以前に、誰かがはいって行って形をなおしてやったのであろう。してみるとこの殉葬は、よほど|特別の意味を持った儀式〔付ごま圏点〕だったに相違ない。ウーリーは右の殉死の女六十八人のなかから、この謎を解くような発見をした。というのは、そのうち二十八人は髪に黄金のリボンをつけていたが、あとの|飾りを持たない女たち〔付ごま圏点〕のうちの一人が、ポケットに|巻いたままの銀のリボン〔付ごま圏点〕を携えていたのである。それによって、髪飾りのない女たちが|実は銀のリボンをつけていた〔付ごま圏点〕ことを推測しうる――なぜなら、巻いたままの銀のリボンは保存され得たが、ほどいて髪に飾ったのは腐蝕し去って痕をとどめないのだから――とともに、この一人の女だけは、|式に急いで〔付ごま圏点〕髪に巻くのが間に合わなかったのだ、と考えられるからである。それによってウーリーは、|彼らがいそいそと式に馳せ参じた〔付ごま圏点〕光景を想像した。当時の女の衣裳は、痕跡から判ずると、赤い毛織物であったらしい。女たちは赤い衣に金や銀の髪飾りをつけて、晴れやかな気分で殉葬の場に立ち並んだのである。  これらの、また其の他の証拠からして、ウーリーは、殉死者は犠牲の獣の屠られるように屠られたのでないことを(227)結論した。彼らは名誉ある人格として、晴れの式服をつけ、この|楽しい儀式〔付ごま圏点〕に――すなわちこの世における神への奉仕から、あの世における神への奉仕へと移り行く儀式に――列席したのである。このことは、殉葬が王や王妃の墓にのみ限っていることからも、立証せられるであろう。はるか後のスメル王でも、生前にすでに神化され、死後にも神として崇められた。いわんやウルの史前の王が、右のごとく、王ならざるものと明白に異なった儀式をもって葬られているとすれば、彼らが神として取り扱われたことは、疑うべくもない。すでに言及したように、スメルの年代記は、「洪水の後に王は再び|天より下った〔付ごま圏点〕」と記している。かく王が神であるならば、その王は人のごとく死ぬのではない。|不死の国に移される〔付ごま圏点〕のである。しからば、王に伴ない王への奉仕を続け得ることは、人としての最大の特権でなくてはならない。
 以上のごとく考えれば、王の墓の副葬品の意味も理解しやすくなる。王妃シュプ・アドの墓には四つ以上の立て琴があったが、その一つには黄金の牡牛の首、第二には銀の牝牛の首、第三には銀の鹿の首、第四には銅の二疋の鹿の全身がついていた。ウーリーは牡牛がバス、牝牛がテノル、鹿がアルトであろうと推測している。そういう楽器のかなでる音楽が、薬をのむ殉死者たちの耳に響いていたのである。のみならず、同じ墓穴のなかには、アブラハムがわが子を燔祭にささげようとするあの話に出てくる「牡羊ありてその角やぶにかかりたり」(創世記、二二の一三)を思わせるような、黄金の山羊の像が、二つまでも置かれてあった。これが宗教的意義をもつものであることは疑いがなく、そのはるかなる響きの末がアブラハムの話に現われた、ということも、あり得ぬことではない。アブラハムの話は|人身犠牲から動物犠牲への〔付ごま圏点〕移り行きを反映していると解する学者もあるが、その同じ「やぶにかかった山羊」が、スメルの王の墓では、人身犠牲と結びついているわである。そういう宗教的な信仰と音楽による陶酔とが、殉死者の心情(228)をいかなる状態に導いたかは、おおよそ想像ずるに難くないであろう。殉葬のごとき現象さえも、その最初の時期においては、創造的な意義を担っていたのである。
          (ハ) 原始国家
 シナルの地において、工芸の技術を強みとする「都市」が、右のような王のもとに小国家を形成していたとき、エジプトにおいては、「郷国」の対立のなかから、南北の王国が作り出されていた。そうしてそのころに、両者の間に接触があった。エジプトではその後に第一王朝が起こり、シナルの地においてもキシュ王朝やラガシュ王朝がそれに続いた。してみるとちょうどこのころが、|人類の歴史において初めて「国家」という人倫的組織の作り出されてくる時期〔付ごま圏点〕であったのである。
 これはいわば|最初の発明〔付ごま圏点〕であった。この後さまざまの時代に、さまざまの民族が、|初めて国家を形成する〔付ごま圏点〕という段階に達したが、しかし、そこには必ず模範となった先蹤があり、従ってその国家形成は模倣であって発明ではなかった。ことに初期の国家がその新鮮な人倫的自覚の意義を失って硬化し因襲化した後に、ただその制度をのみ学び取った場合には、全然人間の自由を無視したかに見える専制君主国も現われた。しかし、このような専制君主制の打破において新しく自由の国家を実現しようとする努力も、すでに模倣の系列のなかにはいっているのであって、原初的な発明とはいえない。だから最初の発明はよほど重大視されてよいのである。
 かかる連関において、レオ・フロベニウスの描いた太古の国家形態は、きわめて示唆するところが多いと思われる。それは右に問題とした時代のエジプトやメソポタミアを眼中に置き、アフリカ研究の結果にもとづいて、原始国家に独自の解釈を与えたものである。
(229) そのころにはすでに、|都市〔付ごま圏点〕があり、|国家〔付ごま圏点〕があった。そうして人間の生活には、すみずみまでも|秩序〔付ごま圏点〕があった。農耕や手工芸は盛大に営まれ、人々は規則正しく職業にいそしむ。その生活は|全然宗教的〔付ごま圏点〕ではあるが、しかしその宗教は地上生活に|健やかな規律〔付ごま圏点〕を与えるものであって、生活否定的、禁欲的なものではない。だから家族生活も幸福に営まれ、市の立つ日も規則正しくくり返している。行政もきわめて優秀である。地方は天の四方に従って四区に分かれている。各区の長は|祭司と知事と〔付ごま圏点〕をいっしょにしたようなものである。人間の生活感情が|全然宗教的〔付ごま圏点〕なのであるから、まだ聖と俗とが分かれるに至っていない。
 国家を統治する王は、四つの門のある町に住んでいる。王の統治に容喙し得る地上の勢力はほかにはないのであるから、王は|絶対君主〔付ごま圏点〕である。その王は、月が大きくなるに従って、だんだん多く公衆の前に現われ、ついに満月の日に、すなわち民衆の祝祭日に、最も華やかな姿で現われて恵みの品を撒き散らす。そのあとはまただんだん引きこもり、ついに全然姿を現わさなくなる。そうして新月とともに、また少しずつ姿を見せはじめるのである。
 王の宮廷には多数の官吏があって、四人の長官の下に秩序正しい階叔組織を形成している。そこには軍隊の長官や建築事業の長官と並んで、宮廷婦人部ハレムの取り締まりの長官がある。なぜハレムがそれほど重大であるかというと、王の機能と密接に連関しているからである。ハレムもまた階級的に組織され、王座には|王の母〔付ごま圏点〕なる女王が、次には|正式の王妃〔付ごま圏点〕が、席を占める。王妃は王と父母を同じくする妹であった。王の妃たちはこの正妃によって導き入れられ、王との交渉もこまかなところまで規則によって定められていた。というのは、王の性交は特に|儀式的〔付ごま圏点〕な意味を持ったものであって、任意の室においてではなく、高い塔の上で行なわれたのである。妃たちの順番は、ただに階級的秩序に従ったのみならず、|星座の位置に合わせて〔付ごま圏点〕定められた。この際正妃の進退は金星(ヴィナス)の運行に従って定(230)められたらしい。これは王の出現が月の満ち欠けに連関すると同じ考え方を示している。
 星座の位置と王との関係は、さらに重大な決定をもたらしてくる。それは王の統治期間の終結である。金星の運行によって年を計って行くと、この遊星が星座の間に占める位置はいろいろと変わって行くのであるが、特に月の入りに際して特殊な星の配置が現われてくる。その時王の統治期間は終わるのである。しかも王は、退位するのではなくして、殺されなくてはならない。そうして、王を絞め殺すという恐ろしい役目をつとめるのは、ほかならぬ四人の長官と、恐らく正妃とであったらしい。
 この王殺しの古い風習は、民族学者の間では一般に認められている。そういう風習の地盤たる原始的信仰の生きているところでは、それは決して残酷な所行なのではなかった。一定の期日に、その社会の最大の祭儀をもって、葬られることに定められた王は、おのれの死がおのれの属する社会全体の福祉をささえる、ということを堅く信じており、またこの死のゆえにおのれ自身が考え得る限りの最も幸福な未来を獲得する、ということにも何ら疑いを抱かない。従って定められた死に対しては全然暗い感じを持たず、きわめて朗らかに、心から幸福そうに、それを迎えることができた。王を殺す人々も、王個人には最大の幸福を与え、社会全体にはその福祉を確保するという、公の、儀式的なつとめを果たしたに過ぎぬ。そうしてみると、この王の葬儀において、多数の男女の殉死者が、同じく喜んで王のお伴をしたということは、きわめて理解しやすいことなのである。
 が、なぜこのように、星の一定の配置からして、王の死すべきことが読み取られたのであろうか。フレーザーは次のように答える。もし現人神《あらひとがみ》が病気や老衰で死ねば、その神聖な精神もまたその衰弱にあずかることになる。とすれが、この現人神をおのれたちのささえとしている集団全体が危険に陥る。だから人々は、神聖な王が心身ともに活気(231)に充ちている間にこれを殺し、聖なる精神が活き活きと後継者に移ることを望んだのである、と。しかしフロベニウスはこのような打算的な考えを読みとる立場に反対し、あくまでも|宇宙の秩序や法則に対する感動〔付ごま圏点〕(Ergriffenheit)からして解釈しようとする。この時代に沙漠的人間は、あらゆる他の人類に先立って、周囲の世界の移り行きに現われた|秩序〔付ごま圏点〕と|様式〔付ごま圏点〕とに目ざめて来たのである。特に|星の運行〔付ごま圏点〕における秩序の本質、それと結びついた季節循環の本質、そういうものが沙漠的人間の心を奥底から捉えた。そこで沙漠的人間は、この秩序を悟性的に把捉するより前に、まず実践的に、|この秩序をみずから演出しょう〔付ごま圏点〕としたのである。天の四方は地上の秩序にうつし取られる。星の運行も地上においてまねられねばならぬ。特に月や金星などのような|目ぼしい天体〔付ごま圏点〕の運行は、王やその一族によって演出されることになる。こういう仕方で沙漠的人間は、|おのれの存在の理法〔付ごま圏点〕を、天体の運行に投射することによって、自覚しはじめたのである。
 このように、主体的な存在の理法を、客体的な現象の法則性に投射して、理解するというやり方は、すでにその以前から|植物や動物の本質〔付ごま圏点〕に即して行なわれていた。植物の生との交渉において、その発芽や成長や成熟の現象に驚嘆し感動した人間は、植物の生を模してみずからそれを演出しはじめる。人間がいわば植物のなかに生き込むのである。そこで植物の本質が、人間の文化の、自然における現われとなる。そこで|農耕〔付ごま圏点〕が作り出された。それと同じく、動物の本質が人間の心を捉え、人間をして動物の役目を演出せしめた結果が、ついに|牧畜〔付ごま圏点〕となったのである。しかしそれだけではまだ人間は、国家を組織するというごとき人倫的自覚には達しなかった。それは天と地、季節、星の運行などを演出するに至って、はじめて到達せられた段階である。だから沙漠的人間が最初に国家や王を作り出したときには、その仕事は密接に|天文学的知識〔付ごま圏点〕と結びついていた。国家の発明が、夜の空の美しい沙漠地方において行なわれた(232)ことは、決して偶然ではないのである。
 では天地の現象のうちの何が王殺しを示唆したのであろうか。それは秩序整然たる恒星の運行のなかで遊星のつとめている特殊の役目である。それによって人間は、時の流れのうちに「切断」を入れることを学んだ。この切断によって、それぞれの「時期」が一つのまとまりを持ってくるとともに、またその時期と時期との間の連絡も成り立ってくる。王殺しはこの|切れ目〔付ごま圏点〕の意義を担っている。それは怖れの日、覆滅の日、暴行が許され忍従が課せられる日であった。通常は模範的に秩序ある生を営んでいた国民が、ここで突如、無秩序の中に突入する。やがて新王の即位の喜びとともに、またもとの秩序が帰ってくるのである。が、その新王もやがて|切れ目〔付ごま圏点〕に逢着しなくてはならぬ。これは人間存在における否定的契機の鋭い把握であるとともに、また絶対君主たる神聖な王が、後代におけるごとき専制君主となることを防ぐ、有力な方法でもあった。
 以上のごとく見れば、王の悲劇は、沙漠的人間が国家を発明したころの、大きい記念碑であるといえる。その時期は世界の歴史における|最も力強い時期〔付ごま圏点〕の一つであった。その記念碑も人類の偉大な創造の一つである。そこに確立された秩序や法則は、天体の現象や季節の現象に投射されたものであって、主体的な存在自身の理法としては把握されていなかったが、しかしそれでも、|自分たちの見いだした法則に従って自分たちが行為する〔付ごま圏点〕、という根本原則は、すでに自覚されているといってよい。それはやがて感動(Ergriffenheit)の立場から悟性的理解の立場へ移されなくてはならなかった。それとともに神聖なものと世俗的なもの、宗教と政治とが分離し、王の地位が独立してくる。王殺しはやまり、世襲によって王位の継承される王朝も成立する。歴史が確立されるのもその時である。しかしその第一歩は|法の支配の樹立〔付ごま圏点〕であった。それを沙漠的人間は王殺しというような特異な形態によって実現したのである。
(233)          (ニ) エジプトの諸王朝
 紀元前三三〇〇年ごろ、メネスがエジプトを統一して第一王朝をはじめた時から、「死者の名を生かせる」ために、|碑文〔付ごま圏点〕が書きはじめられた。王についてのみではない、|王のお伴をして〔付ごま圏点〕周囲に埋められた人々についても同様である。そのころから数えると、|古帝国〔付ごま圏点〕の絢爛な文化の創造や、|中帝国〔付ごま圏点〕の封建的国家の組成などを経て、第十三王朝のころに混乱状態に陥り、ついに紀元前一七〇〇年ごろアジアの遊牧民族ヒュクソスに征服せられるに至るまででも、千六百年は経《た》っている。その後異民族を追い払うことに成功し、|新帝国〔付ごま圏点〕の強大な権力を築くに至ったが、その末期、紀元前一一〇〇年ごろに、第二十王朝が倒れ、再び他民族の支配がはじまった。その時まで数えれば、エジプトの王朝の歴史は二千年以上にわたることになる。これは簡単に見渡せるような年月ではない。それをたどることはここでは断念しなくてはならぬ。
 が、人類の歴史における「エジプト的なるもの」の意義は、まず第一に、右に説いて来たような|国家組織の創成〔付ごま圏点〕であった。それは人倫的自覚において沙摸的人間のみのなし得た功績なのである。そこで第二に、この国家組織が|いかに展開せられ〔付ごま圏点〕、いかに仕上げられたかが、重要な意義を帯びてくる。エジプト人はその沙漠的存在において可能なかぎりの|あらゆる方向に〔付ごま圏点〕進んでみたといってよい。エジプトの王朝は右にあげた時代まででも二十を数えるが、アレキサンドロスの征服までを数えれば三十に達する。このように国家が|統一〔付ごま圏点〕と|内乱〔付ごま圏点〕と|被征服〔付ごま圏点〕との交錯において、あるいは|富強〔付ごま圏点〕と|荒廃〔付ごま圏点〕との交代において、幾度となく作り変えられ、そのたびごとに統治の仕方を工夫しては、また古いあやまちを繰り返して行ったのであるが、|基本的な国家形態〔付ごま圏点〕は案外に変わらなかった。すなわちエジプト人にとっては、その可能性そのものが|特殊的に限定されていた〔付ごま圏点〕のである。だからこの先蹤を踏んで国家の創成に到達し得た新しい世代(234)の諸民族は、おのれの持つ異なった可能性に従い、右の限定を超えて新しい国家組織にのり出すことができたのであった。
 エドゥアルド・マイヤーはいう。エジプトの長い間の歴史的変遷にもかかわらず、すでに|第一王朝の第一王の下において〔付ごま圏点〕、エジプト文化やエジプト国家の|不変な根本形態〔付ごま圏点〕は、ほぼ整った姿にできあがっている。この驚くべき事実を、当時の遺品が開示している、と。この見方からすれば、第一王朝や第二王朝の「ティニス時代」は、すでに前掲のごとき王殺しの時代を脱し、神聖なものと世俗的なものとの分離を実現して、国家を人倫的組織として自覚して来た時代だといえる。王殺しの痕跡、すなわち王位に期限がついていたという痕跡は、王が即位後三十年にして再び|即位しなおす〔付ごま圏点〕セト祭において見られる。この再即位によってすべてが新しくくり返されるのである。が、そういう痕跡をほかにしては、エジプトの国家はすでに後代と同じ根本形態を持つに至っている。
 と言ってもこの初期の国家が宗教的色彩を持たなかったというのではない。それはまだきわめて顕著であった。王はホルスの化身、人の姿をした生ける神である。神であるがゆえに、人民の生と死とを司どり、臣下に対してはどんなことでもすることができる。臣下の王に対する態度はただ畏懼である。人々は王の名を呼ぶことをさえもはばかって、「大きい家」(パロ、プァラオ)と呼んだ。(これは偶然ながらわが国における|おおやけ〔付ごま圏点〕(大宅)、|みかど〔付ごま圏点〕(御門)、|おやかた〔付ごま圏点〕(御館)などと同じ用語法である。)しかしまた王は、同じく神であるがゆえに、|儀式〔付ごま圏点〕や|制度〔付ごま圏点〕によることなくしては、何事をもなすことができない。臣下との関係はその儀式によって規定されている。制度は王自身が具現しているものなのである。王の任務は、国家に権力と勝利とをもたらし、人民に安全と福祉とを与え、正義の秩序をしっかりと保つことであった。国家は|王のために〔付ごま圏点〕あるが、しかし王もまた|国家のために〔付ごま圏点〕あるのである。王の神聖性は同時に王権に(235)対する強い制限にほかならなかった。もし王が定められた規則を厳密に守らないならば、彼はもはや神ではないのである。だから王はおのれの恣意によってのみその絶対的権力をふるうということはできない。この王の下に成立している国家は、精密に組織された|官僚国家〔付ごま圏点〕であった。官吏の印が職名と王名とをのみ記して個人の名を示さないところを見ると、官吏もまた官僚組織の一つの歯車に過ぎない。司法や行政はすべて法律にもとづき文書によって行なわれたが、そういう複雑な活動全体が王の活動だったのである。
 こういう国家においては、すべては王に集中してくる。第三王朝にはじまる|古帝国〔付ごま圏点〕(第三、四、五王朝。紀元前約二八九五−二五四〇年)の最奥の本質はピラミッドに表現されているといわれるが、それは国家全体が「大いなる神」すなわち王の人格に集中され、国家の最高の任務が王の享楽生活を死後にまでも永遠に確保することにある、と考えられたことを意味する。王の即位とともに|新しい都〔付ごま圏点〕が建設されることは古くよりの風習であるが、ここでは王は、おのれの住む|新しい宮殿〔付ごま圏点〕のみならず、|死後に住むべき墓〔付ごま圏点〕の建設をも同時にはじめる。そうしてその在位の間、毎年の洪水期に、全国の労働力をこの営造のために動員した。だから在位年数が長ければピラミッドもまた壮大となるのである。
 ピラミッドは第三王朝のはじめの|層階ピラミッド〔付ごま圏点〕にはじまる。カイロの南方サッカーラのピラミッドがそれである。さらにその南方ダシュールのいわゆる|曲折ピラミッドを経て、第四王朝の始祖スノフル王の墓(曲折ピラミッドの北方にある)に至って、はじめて純粋のピラミッド形式に達した。この王は在位二十四年の間、全国の労働力を上れに用いたといわれる。ついで二代目のケオプスは、ピラミッド中最大のものとして有名なギゼーのピラミッドを築いた。それにつづくのはケフレン王、ミュケリノス王などのピラミッドで、これらが三大ピラミッドといわれている。ピラミッドを作る伝統はこの後長く続いたが、その絶頂はすでにその開始期に達せられていたのである。
(236) ピラミッドは王にのみかかわる孤立的なものではない。ピラミッドのまわりには、后妃や王子や廷臣や官吏たちのために、墓地が与えられた。そうしてこれらの人たちも王と同じく生前から熱心に墓を作った。だからピラミッドのまわりには、街路を挟んで墓屋の立ちならぶ|第二の町〔付ごま圏点〕ができあがった。それは、今墓を作らせている人たちが死んでその墓にはいったとき、|死者の町〔付ごま圏点〕となるものである。そういう|来世の町〔付ごま圏点〕が、ニルの河谷のなかの|現世の町〔付ごま圏点〕と平行して、沙漠の縁辺に出現した。しかも墓の主たちがその権力や富力を傾けて美しい芸術的表現に努力していたのは、むしろこの|来世の町〔付ごま圏点〕の方であった。墓の主がこの仕事を完成せずして死んだ場合には、その子が遺志をついで完成に努めたでもあろうが、しかし主としてこの営造に努めたのは、その墓にはいるはずの人であった。最大のピラミッドを築いたケオプス王についで立ったのはテテフレー王であるが、在位ただ八年であったために、そのピラミッドは未完成のままで残っている。|死者の町〔付ごま圏点〕は文字通りに|まだ死なない死者、生きている死者〔付ごま圏点〕の町なのであって、あとに残った者が作る追善の町なのではない。
 この土とはピラミッドを中心とする墓の意義を理解する上に、きわめて重要な点だと思われる。もちろんこの死者の町は、死者の屍の保存や死者の供養の場所である。死屍は鄭重にミイラにせられている。死者の霊を供養する設備も整えてある。これは|墓の主の死後の営み〔付ごま圏点〕である。しかし、数多く並べられている死者の彫像や、壁に浮き彫りあるいは絵画で描き出されている死者の生活は、墓の主が|生前に〔付ごま圏点〕見て楽しんだものである。壁には、墓の主の伝記的描写のみならず、|日常生活のあらゆる場面〔付ごま圏点〕の描写がある。墓の主は今おのれの家において|現実に〔付ごま圏点〕営んでいる生活を、この「永遠の家」においては芸術的表現によって観ることができる。家族や、数多くの召使いや、さまざまの悦楽に取りまかれているおのれの姿、あるいは農夫たちが畑を耕し、牛を飼い、鳥や魚を捕えている光景、そういう一切の姿が、(237)ここで壁面に浮かんでいる。こういう壁画は、第四王朝の末から第五王朝に至って、実に盛んに描かれた。そういう壁画は、|死者の霊〔付ごま圏点〕が見て楽しんだというよりも、まだ|死なない死者〔付ごま圏点〕が、死後に営む生活として、すでに|生前において〔付ごま圏点〕満足をもってながめていたのである。彫像にしても、これを作った彫刻家は、|まだ死なない死者〔付ごま圏点〕を前に置いて、充分にながめながら製作したものであろう。有名なラホテップ夫妻の像のごときを、その死後に、ただ記憶によって刻んだとは、どうしても考えられない。とすれば、死者の彫像もまた死者がまだ死なないうちにみずから観て楽しんだものである。彼はそれをおのれの霊の宿るべき座、そこにおいておのれが永遠に生きる場所と考えたかも知れない。しかし彫像の形にそういう永遠の意義を読んでいる者は、まだ死んではいないのである。してみれば、彼らの営む|死者の町〔付ごま圏点〕は、実は現実の生と対立する観念の世界、実践の世界と対立する芸術的表現の世界のごときものである。そこにおいて彼らがおのれの生を永遠ならしめ得ると考えたことは、究極においては見当違いでなかったといわなくてはならない。
 もちろん彼ら自身は右のように考えていたわけではない。この短い人生をその地上的な悦楽のままに永遠ならしめること、これが彼らの端的な願望でもあったであろう。古帝国のエジプト人は、そういう不可能事が可能であることをまじめに信じて、その国家と文化との総力をあげてその実現に努力したのであるかも知れない。が、そういうエジプト人も、かくして作られた建造物や芸術的作品が、ただ|仮象の世界〔付ごま圏点〕を作り出したのみであって、現実的に世界を変えたのではない、ということを感じていた。屍体はどれほどよく保存されても再び生きては来ない。だから屍体の代わりに彫像でも充分であり、供物も描かれたものでたくさんなのである。この感じ方が充分自覚にまでもたらされていたとはいえないが、しかし芸術的な「形」に結晶させられたものが、その形のゆえに現実の流転を越えた存在を持(238)つという考えは存していたといってよい。従って、ピラミッドを中心とする死者の町は、原始的な死者供養とは異なった考えにもとづいていたのである。おのれの墓を作る人たちは、おのれの現実の生が流転せざる「形」に客観化せられるのを見て、非常に喜びを感じたのであり、そうしてそこに墓の主要な意義を認めたのであった。すなわち生ける人として墓をながめたのであって、死者としてではなかった。そうなると、生者の町ではなくして死者の町が、エジプト人の「生」の最もよき記念碑だということになる。
 そこでこの記念碑は、神である王を絶対君主とする中央集権的官僚国家の、最もよき表現だといわれる。第四王朝は、神である王の理念に支配され、地上生活の物質的な関心をそのまま永遠ならしめようと努力したのであった。しかし王が神ではなくして、人間らしいあらゆるもろさをもった人であるということは、やがて否応なしに暴露されざるを得ない。王の権力が無制限であればあるほど、この弱みもまた強く現われてくる。最大のピラミッドを築いた王たちは、官僚を意のままに動かし得たでもあろうが、やがて官僚が逆に王を左右し、王位を混乱におとしいれてしまった。そこで新しく、|日の神の神威〔付ごま圏点〕のもとに、第五王朝が興されたのであるが、その王たちにおいては、神と王との同一の理念は崩れ、神は超地上的・天上的なものとなってくる。ここに宗教上の大きい変革が行なわれたのである。
 世界を支配する太陽神レーは、これまでエジプトにおいては崇拝せられなかった。ただヘリオポリスのアトゥムー神と同視せちれただけであった。しかるにエジプトが全世界の中心となるごとき偉大な文化国として発展するに従い、このエジプトの守り神もまた、地方神ではなくして、世界を支配する|日の神〔付ごま圏点〕たらざるを得なくなった。第五王朝の最初の王ウセルカフはヘリオポリスの祭司長であったらしいのである。かくして日の神レーがかつてのホルスに代わって全國の神になった。王とその人民とは、日の神への感謝のために、聖壇をつくり犠牲をささげなくてはならない。(239)そこで王は、即位とともに、日の神のための|巨大な神殿〔付ごま圏点〕を作りはじめる。これも、ビラミッドと同じょうに、メンフィスの西方の|沙漠の縁辺〔付ごま圏点〕に築かれるのである。その主要な部分は、壇上の巨大なオベリスクと、その前の祭壇とである。神は日々に天上において世界を照らしているのであるから、ここには神像もなければ神の家もない。王は、町の方から、屋根のある廊を昇ってこの聖壇の上にいで、東天に姿を現わしてくる神を礼拝し、犠牲をささげる。が、その|廊の壁〔付ごま圏点〕、あるいは廊に付属する|室の壁〔付ごま圏点〕には、精巧な浮き彫りをもって、日の神の地上における創造、すなわち植物や動物の生の過程が、描き出されている。それらの全体をふくめて、日の神の神殿もまた一つの大きい宗教的理念の形象化にほかならない。
 王は前王朝の時と同じく死者の町を作るほかに、このような日の神の神殿を作らなくてはならなかった。この日の神の尊崇は、地方のくにぐにに深く根を張っている旧来の地方神崇拝を追いのけるほどには行かなかったが、しかし普遍神の観念を植えつけることには成功した。この時以来、地方の神々は、日の神の現象形態、あるいは日の神の妻や母として、説明せられるに至った。また王も、この後漸次明白に「日の神の子」と呼ばれるようになっている。王は直ちに神なのではなくして、より高い神の意志に従うもの、となったのである。
 こういう仕方で第五王朝は、古帝国の最盛期を作り出した。当時の浮き彫りや彫像などの驚くべき製作に接したものは、この後のエジプトのどの時代も、否、ある意味では人類の歴史のどの時代も、これほどの高さには達しなかった、と感ぜざるを得ない。そのように、エジプト国家の形成も、この時に完成の域に達したのである。国家組織の形成という|創造的な仕事〔付ごま圏点〕は、この時に終わった。それは千年以上続いた大事業であった。この後のいかなる民族も、もはやこの「発明」の苦労をくり返す必要はなかったのである。
(240) そこでこの後のエジプトの歴史は、この国家組織をいろいろな変曲にして見せることであった。元来エジプト人は|神聖な王を媒介として〔付ごま圏点〕精巧な中央集権的官僚国家を形成したのであるが、すでにかく仕上げられた国家組織は、|それ白身に〔付ごま圏点〕活力を持つに至り、必ずしも神聖な王を必要としない。国家の権力を背景として、官吏は漸次大地主に転化し、その大地主の勢力にもとづいて、地方のくにぐには再び権力を回復してくる。すでに第五王朝においても、最後の二代の王は日の神の神殿を築くことができなかった。ついに第六王朝に至ると、地方の「くに」の支配者の独立、|封建的国家の形成〔付ごま圏点〕がはじまった。この後第十王朝に至るまでの四百年の間は、地方的君主の間の争闘の時代であった。国家の統治者の性格はここで力強い変化をうけることになる。
 上エジプトのテーベの地方的君主が再び統一的国家を形成したとき、エジプトの|中帝国〔付ごま圏点〕(第十一、十二王朝、紀元前二一六〇−一七八五年)がはじまる。この時にはすでにピラミッド時代の中央集権的絶対君主制は消えうせ、王の他に封建君主たちが独立している|封建的国家〔付ごま圏点〕が形成されていた。それは単にエジプトの古いくにぐにがその力を回復したということではない。諸侯は|その実力をもって〔付ごま圏点〕国家的な組織を作ることを覚えたのである。彼らはもはや王の墓のまわりにではなく、おのれの郷国に墓を作った。そうしてその墓は王の墓と同じ意義を担うものであった。これは君主の人間的な個性が物をいいはじめたことを意味する。最初には|神聖な王を媒介として〔付ごま圏点〕人間存在の法や秩序を自覚し、それによって国家としての人倫的組織を作り出すことに成功したのであるが、今や|その組織を媒介として〔付ごま圏点〕個人的な意志が権力を持ちはじめたのである。この段階のはじめにあっては、ただ対立や争闘のみがひき起こされた。従って国家は衰弱し分裂した。そこにアジアからヒュクソス民族が入り込み、エジプトの王位を奪って、第十四王朝よlり第十七王朝に至る「牧人王」の時代を現出したのである。
(241) エジプトの|新帝国〔付ごま圏点〕(第十八−二十王朝、紀元前一五八〇−一一〇〇年)は、この異民族の束縛から脱しようとする努力によって形成された。ヒュクソスの家来となっていた諸侯のうちで、まずテーベの君主が反抗をはじめ、エジプト人の力を集結してヒュクソスを追い払うことに成功したのであるが、かかる事業において最も必要なのは|組織の力〔付ごま圏点〕である。有能な|組織者〔付ごま圏点〕でなくては英雄となることはできなかった。しかしここで英雄は国家組織を|発明する〔付ごま圏点〕必要はなかったのである。現前においてその組織が崩れているにもせよ、それはすでに古帝国において完成の域にまで仕上げられたものであった。英雄はこの組織を|使いこなすこと〔付ごま圏点〕ができればよかったのである。新帝国の創始者たちは、南方ヌビアの征服や、北方アジアへの遠征によって、それを遂行した。シリアはエジプトの版図となり、バビロニアやアッシリアの王たちさえもエジプト王に贈り物をするようになった。だからエジプトの新帝国は、後代の意味での|エジプト帝国〔付ごま圏点〕なのである。そこでは王は、|精巧な国家観織を媒介として〔付ごま圏点〕、絶大な権力をふるうことになる。それを後代の人は、王ただ一人のみが自由であり人民のすべてが奴隷であるところの専制君主国と見たのであった。
 このことは新帝国のエジプトの王が、古い伝統に従い首府のテーベに壮麗比類なき大神殿を築いたことによって、一層顕著に示されているといってよい。それは周囲の諸民族を征服した|世界的大帝国〔付ごま圏点〕が、その世界より集めた富を傾けて造営したものである。その仕事の規模の大いさは決してピラミッド時代の盛期に劣らない。しかもこの大事業をなさしめたものは、国家的組織の完成のための媒介となった「神聖な王」ではなくして、王の神聖性や完備した国家組織をも|おのれの意志〔付ごま圏点〕の遂行のための手段として用いる「個人的な王」なのである。この時代にも、地方神に固執する古い宗教に代えて、|唯一神としての〔付ごま圏点〕日の神の崇拝を、強制的にひろめようとする試みが行なわれたが、しかしそれは、第五王朝における日の神崇拝の導入とは異なり、それを試みた王の死後に、直ちに反動を呼び起こし、かえって(242)唯一神の運動そのものを壊滅せしめるに至った。しかもこの壊滅が同時に第十八王朝の崩壊となっているのである。
 このような世界帝国としてのエジプトの新帝国は、西アジアやアフリカや地中海の諸民族と接触し、その教育者となった。紀元前千百年ごろ以後には、これらの諸民族が、逆にエジプトを支配するに至っている。世界史の第二期がそこにはっきりと現われてくるのである。
          (ホ) メソポタミアの諸国家
 エジプトの国家は、地縁共同体たる郷国から発展してきたという特徴を、いつまでも失わずにいた。そこでは|生活共同体〔付ごま圏点〕と|精神共同体〔付ごま圏点〕とが密接に相覆うている。従ってくにぐにを統一したエジプト国家は、|民族的な統一〔付ごま圏点〕と相即したものである。そこでは王の神聖性は結局において民族の全体性の底から汲み出されており、そうしてその統一は、古帝国、中帝国、新帝国などにおけるように、長期にわたり持続し得るものであった。しかるにメソポタミアの国家は、|都市から発展してきた〔付ごま圏点〕という別の特徴を持ったものである。最古のスメル人の時代から、この国家は、激しい都市間の競争の上に立っていた。スメル民族の統一は、そこではただ|力をもって〔付ごま圏点〕作り出されるだけであって、おのずからなる共同体として成り立ったことはなかった。だからやがてメソポタミアは|さまざまな民族の競争の〔付ごま圏点〕舞台となり、そこに作られる国家は、異なった諸民族を支配し、それらに法を課するという、|世界帝国〔付ごま圏点〕の性格を、エジプトよりもはるかに顕著に、また早く、現わしてくることになる。
 そういう伝統の初頭において、スメル人がいついかなる仕方で|統一的な国家〔付ごま圏点〕を創り出したかは、まだ充分明らかになってはいない。スメルの書記の作った王の表の写しで、紀元前二千年よりも古いと思われるのが見いだされているが、それによると、|大洪水後〔付ごま圏点〕の第一王朝は|キシュの第一王朝〔付ごま圏点〕であって、二万年以上続き、それについだ第二王朝は|ウ(243)ルクの第一王朝〔付ごま圏点〕であって、二千三百年で倒れ、第三王朝は|ウルの第一王朝〔付ごま圏点〕であって、わずか、わずか百七十一年続いたことになっている。キシュはシナルの地の北端にあって、両河上流のセム人に対するスメル人の最前線をなしていた。それに対してウルは、シナルの地の南端、最も海に近いところにあり、ウルクはそのやや上流に位している。最前線の辺境にあるキシュにおいて、第一王朝が作られた、ということは、いかにもありそうなことに思われる。しかしこれらの記録は、神話的なものとして、あまり信用されなかった。しかるにウーリーは、ウルの町、その付近のアル・ウバイドなどの発掘によって、|ウルの第一王朝〔付ごま圏点〕の建築や遺物や王名を誌した石板などを見いだしたのである。ウーリーはそれをほぼ紀元前三一〇〇年ごろのものと認めている。(マイヤーの年立てではさらに一二百年さかのぼらせなくてはなるまい。)この第一王朝は、前に述べた|王の墓の時代〔付ごま圏点〕よりも|数百年の後〔付ごま圏点〕なのであるから、この王朝よりも前にすでに盛大な王朝があったということは、否むわけに行かない。ウルクの王朝やキシュの王朝も、もはや神話的とのみはいえないのである。
 伝説の上では、ウルの第一王朝の時代にすでに東方スーサのエラム人の侵入があり、この王朝はそれによって征服されたことになっている。そのエラム人の手からシナルの地を奪還したのは、キシュの第二王朝とせられているが、再びまたエラム人た征服され、それをウルクの第二王朝が奪還したといわれる。そのあとにウルの第二王朝とか、アダブの王朝とか、マリ王朝とかが続き、キシュの第三王朝に至って、北方|アッカド〔付ごま圏点〕のセム人との接触がはじまってくるのである。
 そのころに、南方では、ラガシュの町が優勢であった。ウーリーはウルの町から、このラガシュの王エンテメナの首のない石像を発掘したのである。この石像はラガシュの町がウルの町を征服したときに建てられたものであるが、(244)その後ウルの町が独立したとき、市民たちは復讐のために王の首を切ったのである。このエンテメナ王は紀元前二九〇〇年ごろ(ウーリーは紀元前二七五〇年ごろとする)の人であるが、そのころまでにラガシュ王朝はすでに何代か続いていた。特に父王のエアンナトゥムは、初めのころなおキシュの王に臣事していたのであるが、近隣の町々を征服したほかに東北からのエラム人の侵入を斥けて勢威を増し、ついに北方辺境のキシュやオピスの町を打ち破るに至った。この事件が、これらの町々における|セム人の支配〔付ごま圏点〕を誘発したといわれている。
 このようにアッカドのセム人が擡頭してきた後に、右のラガシュの町についで、ウルクやウンマの町々がまた勃興して来た。特にウンマの町から出たウルク王ルーガルズァッギシ(マイヤーによると紀元前二八〇〇−二七五〇年ごろ)は、ペルシア湾より地中海にわたる大帝国を築くに至ったのである。この帝国が|ウルクの第三王朝〔付ごま圏点〕(マイヤーはこれを第一王朝とする)であって、|スメル人の作った国家のうちの最大のもの〔付ごま圏点〕であるが、しかしその栄華は短く、二十五年後にはセム人のアッカドの国に打ち倒された。
 アッカドの国の勃興は、メソポタミアの国家の世界帝国的性格を決定的ならしめたものである。アッカド人は、アラビア沙漠のはえぬきの子であるセム族のうち、最も早く両河地方に定着した部族であって、スメル人の文明の強い影響をうけつつ.急激に成長してきた。国家の形成や文字の使用など、すべてスメル人に学んだのである。文字においては、彼らはスメル字をそのまま自国語の表現として用いた。古碑文などスメル語であるかセム語であるかの判断に迷わしめるものがある。しかしそれでも最古のセム語の碑文は同時代のスメル語のそれよりも、文字として整っているといわれる。美術においても、出藍のほまれが認められている。風俗や戦術などはかなり独特である。そういうセム人が、スメル人の最前線たるキシュの町の支配を獲得し、スメル諸都市の激烈な競争の隙を伺うに至った。それ(245)がセム人の国家アッカドの勃興の起点となったのである。もちろん、初めのうちは、彼らはスメル人の王朝に服属していたのであるが、そのスメルの国家がウンマの王のもとに未曾有の大帝国となったのち、|セム人の王サルゴン〔付ごま圏点〕は、ついに謀反を企て、帝国を覆滅し、バビロンの上流シッパラの町の付近に、|アッカドの町〔付ごま圏点〕を建てたのであった。このアッカドの名は、やがて|北の国〔付ごま圏点〕全体をさすこととなり、メソポタミアの統一的国家の王は、この後「スメルとアッカドの王」と呼ばれるに至ったのである。
 右のサルゴン王は、貧しい女の産んだ|父なし子〔付ごま圏点〕で、葦の箱に入れて河の流れに捨てられたが、セムの女神イシュタルに慈《いつく》しまれて成人し、ついに王となった、と伝えられている。この原始王伝説は、モーゼやペルセウスやロムルスのそれと同じく、型通りの神話と考えられていたが、しかし発掘された遺物や記録は、おいおいにこの王の実在を証明するに至った。ウルの発掘もまた、サルゴン王の王女が、ウルの月神の神殿の祭司となっていたことを実証している。時代は紀元前二七七五年ごろ(ウーリーによると二六三〇−二五七五年ごろ。ドラポルトによると二八四五年ごろ)とせられる。
 サルゴン王はシナルの全地を支配したのみならず、東方ではエラム人やペルシア湾内の島々を征服し、西方では、沙漠から出てきて定住の生活に移ろうとしていたセム族の他の一派(アモル人)を従え、多島海の島々にまで接触をはじめた。エジプトとの交渉も、たぶんあったであろう。サルゴンの後、五代目のナラーム・シン王に至ると、さらにアラビアの東部を征服し、アラビア奥地との貿易をはじめたらしい。このようなアッカドの国の世界帝国的な性格は、当時の人々にもすでに自覚されていた。サルゴン王朝の王は四代目あたりから「アッカド及びエルリルの支配する世界の王」と呼ばれ、ナラーム・シン王に至ってはさらに「|四方世界の王〔付ごま圏点〕」と呼ばれている。エルリルは|スメル民族の(246)主神〔付ごま圏点〕である。それはまた「山国の王」とも呼ばれているところから、スメル人がメソポタミアに来る前からの神であろうと推測されている。スメル諸都市の間に統一をもたらす|上位の王〔付ごま圏点〕は、この神から統一者としての権威を与えられるのであった。従ってアカッド及びエルリルの支配する世界の王とはアッカドとスメル全地の王というも同じである。四方世界の王はそれよりもさらに広く外の世界の支配を意味している。
 このアッカドの王朝は、ルーガルズァッギシ王の世界帝国とは異なり、二百年ほども持続した。その点からして、|歴史上の最初の世界帝国〔付ごま圏点〕として取り扱ってよい。この世界帝国においても君主は神化されているが、しかしエジプトのプァラオのように民族共同体の底から湧き出てきた神性を持つのではなく、さまざまの|異なった民族を支配〔付ごま圏点〕し、それらすべてに法律を課するところの、|世界君臨の権力〔付ごま圏点〕の表現として、神聖視されたのであった。ここにこの世界帝国の|征服国家としての〔付ごま圏点〕性格が見られる。この性格は、その半面に、民族的統一のごとき|固い団結を欠く〔付ごま圏点〕という特質を具えている。統一はただ|強制によってのみ〔付ごま圏点〕実現されるのであり、そうしてその強制力は、|武力〔付ごま圏点〕であった。この点はエジプトと著しく相違しているのである。
 この世界帝国において、スメル人はセム人の支配の下に立ち、逆にさまざまの影響をうけるに至った。そうして、言語や風習の相違にもかかわらず、両者の間に|統一的な文化〔付ごま圏点〕を作り出すことに成功した。それは古いスメル的な根柢の上にアッカド的な特色や発展を加えたものである。恐らくスメル人は、セム人の帝国の人民のなかでも、依然として支配的民族の地位を保っていたのであろう。行政、財政、戦争というごとき方面は、セム人が掌握していたとしても、美術、文章、産業、農耕、その他土地や天文に関するさまざまの知識は、スメル人のものであったと考えられる。そういう状態であれば、たといアッカド化したといっても、スメル人はその底力を失ったわけではない。アッカドの(247)王朝の|強制力〔付ごま圏点〕が鈍ってくるとともに、スメル人の反抗運動は活発に動き出した。
 この反抗運動の先頭に立ったのは、サルゴン王に倒された最後のスメル人王朝の都ウルクである。二百年の後に、ウルクの町は、逆にサルゴンの王朝を崩壊せしめ、新しいウルクの王朝を樹立した。同じころにラガシュの町も新しく栄え、スメル的な美術の最高潮というべきものを作り出している。|しかしこのスメルの復興は短かった〔付ごま圏点〕。わずか二十六年の後に、シナルの地は、チグリス東方山地のグタイ族によって猛烈な掠奪をうけたのである。しかもこの蛮族の支配は半世紀(あるいは一二四年間ともいわれる)に及んでいる。この外蛮の支配を打ち倒したのもまたウルクの町に始まったスメル人の反抗運動であったが、しかしこのウルクの新しい王朝も、三十年ほどしか続かなかった。
 このようにスメル人の帝国再興は、いかにも名家の末路を思わせるようなもろさにつきまとわれていたのであるが、しかしそれに打ち克つだけの強靭さを取り返し、|持続的な整った国家〔付ごま圏点〕を実現することによって、|スメル人の国家形成力の最後の華〔付ごま圏点〕を飾ったのは、|ウルの第三王朝〔付ごま圏点〕である。これはほぼ紀元前二四六九年−二三五三年(ウーリーによると紀元前二三〇〇年−二一八〇年)とせられている。ウルの王ウル・エングルは、ウルクの王朝を倒して「スメルとアッカドの王」となり、サルゴン王のアッカド帝国と同じく、ペルシア湾よけ地中海に至る大帝国を、|スメル人の立場〔付ごま圏点〕において再興した。すなわちスメル人がセム族に対する優越の地位を保持しつつ帝国の統一に成功したのである。ウーリーはこの王朝の盛時の面影をウルの町の遺蹟から掘り出した。高さ二十六尺、根もとの厚さ七十七尺で十町に七町の地を囲んでいる城壁。煉瓦を積み上げて作った巨大な段塔(Ziggurat)すなわち「神の山。」――この段塔なるものは、スメル人が最初山地からシナルの平野に降りてきたとき、山地で崇めていた神を同じようにして崇めるために、人工的に作り出した山である、と解釈されている。スメル人の町のあったところには、少なくとも一つは見いだされ(248)る。その最も大きいのは創世記にいわゆる「バベルの塔」であって、今でもその巨大な平面設計を見ることができる。ウルの段塔はバビロンの塔ほど大きくはないが、それでも十尺の高さの壇の上にさらに第二の壇があり、その上に長さ二百尺、幅百五十尺、高さ七十尺の塔が立っている。壇上には土を置いて樹木を植えたらしい。祭儀のときには、この壇へのぼる三つの階段を、美しく着飾った人々が昇り降りしたのである。天へ届く梯子《はしご》を天使が昇り降りするというヤコブの夢(創世記、二八ノ一二)は、あるいはこういうところにつながりがあるかも知れぬといわれている。
 このウルの王朝は、二代目のドゥンギ王の時代に、さらに版図を拡大した。東方はスーサを都とするエラム、北方は後にアッシリアの起こった地方、西方はセム族の一派アモル人の国、などである。アモル人は前にアッカド帝国のときにも征服されたが、このドゥンギ王の時代には恐らく「スメルとアッカド王」の|傭兵〔付ごま圏点〕として多数に入り込んでいたであろうといわれている。こういう大版図を手に入れたドゥンギ王は、ついにアッカドの王の先例にならって、「四方世界の王」と称し、神として崇められることを要求するに至った。この四方世界の王は、なおこの後にも三代続いているが、しかしこのスメル人の世界帝国は、世界帝国であるがゆえのなやみによって、やがて弱まり崩れざるを得なかった。西方においては、剽悍なアモル人の侵攻を防ぐためにすでに三代目の王の時に「アモル人防壁」が件られたが、しかしこのセム人の後続部隊は、絶えず帝国の権力を揺るがさずにはいなかった。また東方では、エラム人がついに謀反して独立し、ウル王朝の最後の王を捕虜とするに至った。この謀反を指導したスーサの王は、前にアッカドの王が任命した官吏であったらしい。セム人のアッカド国の言語や文字がエラムにおいて使用せられているところを見ると、エラムの人民へのセム的影響は非常に顕著である。このようにスメル人の世界帝国は、東からも西からもセム的な勢力によって揺るがされ、ついに崩壊するに至ったのである。
(249) ウルの第三王朝のあとに起こったのはイシン王朝であるが、このイシンの町は、シナルの宗教的首府ニップルの近くにあったらしい。イシンの王は依然として「スメルとアッカドの王」と称しているが、恐らく|アモル人の傭兵隊長〔付ごま圏点〕であったろうといわれている。この王朝においてはもはや帝国の統一は保たれなかった。ウル王はラルサの町に拠って、自ら「スメルとアッカドの王」を称し、イシン王朝と覇を争った。しかしこの対抗は、もはや、セム化した王朝に対する|スメル民族の反抗〔付ごま圏点〕というわけではない。ラルサのウル王は後にはエラム人となっている。この時シナルの地を争奪していたのは、西方から侵入したアモル人と、東方から来たエラム人とであった。
 こういう帝国分裂のさなかに、北方アッカドの地においては、新来のアモル人が|バビロンの第一王朝〔付ごま圏点〕を建てた。紀元前二二二五年のことである。これはメソポタミアの歴史において|一つの時期を画するもの〔付ごま圏点〕といってよい。なぜなら、この後は、かつてスメル人の辺境であったバビロンの地が、漸次メソポタミアの中心地となり、両河地方の歴史はバビロンの名において展開するようになるのだからである。
 と言っても、バビロンの王朝がメソポタミアの統一を成し遂げることは、決して容易なわざではなかった。この新来のセム人たちが、古くから入り込んでいた同じセム人のアッカドの国を征服し統一するだけにでも、王朝建設以来二代を要した。その征服の後にも、シナルの地はなおイシン王朝とラルサの町のウル王との間の争覇の舞台であったが、その争いに最後の勝利を占めたのはエラム人の王であり、そのエラム人の王に打ち克ってバビロン王朝がついにスメルとアッカドとの全土を統一したのは、さらに三代の後、王朝建設以来百余年を経てからである。だから|有名なバビロン王ハムラビ〔付ごま圏点〕(前二一二三−二〇八一年)が、帝国の統一に成功したときには、|スメル民族は〔付ごま圏点〕、七十余年にわたる民族争闘の結果として、半ばは壊滅せられ、半ばは同化せられて、ほとんど|その影を没してしまった〔付ごま圏点〕といわれる。
(250) もっともこの後にも、なおスメルとアッカドとの余燼のように、「海の国」と呼ばれるものが残っていた。それはアモル人に押されてシナルの地から外へ、すなわちエウフラテス下流の新しい沖積地帯、沼沢が多くて未開の地であった地方へ、逃げ出たスメル人アッカド人たちの建てた国である。この国はハムラビの次の王の時に起こり、遂にはシナルの地の宗教的首府ニップルを回復するまでに至った。この「海の国」のシナル回復運動は、バビロン王朝の勢力をもってしても、容易に押えることはできなかったのである。
 しかしこれは、バビロンを中心とする世界帝国への、外夷の侵入という形になっている。両河地方の主人公は新来のセム人であって、もはやスメル人でもアッカド人でもない。この意味において、千年にわたる|スメル人とセム人との競争〔付ごま圏点〕は、ついに幕を閉じ、そのあとに、|バビロンを中心として〔付ごま圏点〕、千年以上にわたる|新しい民族の競争〔付ごま圏点〕が、、幕を開いたのであった。ここに新しく登場してくる民族のうちには、カスピ海の東から移動して来た|アリヤン人〔付ごま圏点〕がある。小アジアの山地に住んでいた|ヘティート〔付ごま圏点〕(Hittite,Chetiter)がある。その東部にいた|ミタニ〔付ごま圏点〕(Mitani,Mitanni)がある。イラン高原から両河地方へ下りてきた|カッシュー〔付ごま圏点〕(Kas※[記号あり]su,Kassite,Kossaeer)も、ミタニやアリヤンと関係があるらしい。そのほかセム族の|アッシリア〔付ごま圏点〕人も新しく頭角を出してきた。それにエラム人、「海の国」の民も加わり、両河地方は武力による覇権争奪の舞台となったのである。
 バビロンの世界帝国を完成したハムラビは、その制定した|法典〔付ごま圏点〕(一九〇一年にスーサで発見された)によって有名となっている。この法典の目ざすところは、多年の戦乱の後にようやく統一を打ちたてたバビロン新帝国を、永続的な根柢の上に据え、新帝国の人民の産業生活に確固とした、犯されない規範を与えることであった。そこには古くから行なわれていたスメルの法も多く採用せられているが、また現前の新しい事情、すなわち新来のアモル人と旧来のス(251)メル・アッカドの住民との混融によって成り立った新しい社会の事情に応じて、さまざまの改正法も制定されている。この法典は石に刻んで諸所の町に建てられたらしいが、制定後千年ほど経って、エラム人が戦利品としてスーサに持ち帰った、それを今世紀の初めに発見したのである。ハムラビは、この法典をスメル語でなく誰でも読めるアッカド語で書いた、ということを、そのなかで誇っている。スメル語はそのころには「聖語」として宗教において保存せられる以外には、死語と化しつつあったのである。ということは、スメル民族が民族としての存在を失いつつあったことを意味する。
 この現象は宗教の上にも認められる。スメル語が「聖語」として保存せられたことは、|スメルの神々の権威〔付ごま圏点〕がアッカド人の政治的支配を通じて生きつづけてきたことを示すのであり、従って「スメルとアッカドの王」もニップルの町のエルリルの神によって王位を承認されたことは明らかであるが、ハムラビはこれに対して、古い神話をもじり、あるいは改作し、|バビロンの神マルドゥクが最高位を得る〔付ごま圏点〕ようなふうに、宗教改革を行なった。そこで、|ニップルの町の代わりに、バビロンがメソポタミアの宗教的首府となった〔付ごま圏点〕。これは宗教を新しい政治的情勢に適合させ、バビロン帝国の権力を宗教によって裏打ちしたものにほかならぬが、それとともに、スメル人の神はセム人の神に吸い込まれ、スメル民族の独自の存在はその中核を失い去ったのである。
 このようにして、文化的に優れたスメルの要素が減退するに従い、バビロンの世界帝国は、一層顕著に|帝国的精神〔付ごま圏点〕を具現するに至った。この傾向が、数世紀にわたる民族的競争に激化されつつ|アッシリア〔付ごま圏点〕帝国において極度に発展せしめられたのである。これらのセム人――バビロニア人やアッシリア人――の間においては、|戦争〔付ごま圏点〕が人生の最重要事であり、|軍事的制度〔付ごま圏点〕が国家の最大の関心事であった。だからそれらは特殊な発達を見せた。強者が弱者を利用するこ(252)とは、当然のこととして容赦なく行なわれた。勝利だけでは充分でない。勝利のあとには組織的な虐殺や大仕掛けな追放が行なわれねばならぬ。バビロンでは、征服された王の眼をくりぬくという楽しみは、王のものとして取って置かれた。アッシュールでは、戦争は単に手段ではなくして、しばしば目的とされた。暴虐を行なうために戦い、人を苦しめる楽しみのために勝つのである。アッシリアの王たちの数多い凱旋碑は、敵の戦士たちの舌をぬいて殺し、あるいは生きながら燔祭にささげ、あるいは犬や狼の餌食とした、というごときことを語り、「そういう所行によって余は偉大なる神々の心を悦ばせた」といっている。
 こういう血なまぐさいアッシリア帝国が、メソポタミアの世界帝国の最後の姿として現われてくるまでには、ハムラビのバビロン帝国以後、なお千余年の変遷がある。まずバビロン帝国がカッシュー人や「海の国」の民の絶えざる侵攻によって弱められ、ついにヘティート人によって倒された。そのあと「海の国」の民が覇権を回復して一世紀半の間王朝を建てたが、これはカッシュー人に取って代わられた。カッシュー人はアリヤン人と密接な連関があるらしく、アリヤン人の得意とする|馬の使用〔付ごま圏点〕によって優勢を得たと考えられる。彼らの建てたバビロン王朝は五百七十六年の長期にわたって持続することができた。が、その間にアッシリアが強大な帝国にまで成長して行ったのである。
 このような代々のメソポタミア世界帝国が、千年以上にわたって周囲の民族にさまざまの影響を与えた。イスラエル人、フェニキア人、リディア人、さらに多島海の諸民族は、直接にあるいは間接に、積極的にあるいは消極的に、その影響をうけている。たといあらわにその影響を示さないところでも、この人類の先蹤が与えた教育的効果は決して少なくないであろう。世界史第二期はそういう影響の下に歴史時代にはいって来た諸国民によってはじめられたのである。
(253)          (ヘ) 世界史第一期における沙漠的人間の業績
 エジプト人が理想主義者であるに対して、メソポタミア人は現実主義者であったといわれる。確かにそういう相違は彼らの芸術や宗教や経済や国家形成などの全面に現われているといってよい。がまた、エジプトの国家形成が|情誼的な地縁共同体から〔付ごま圏点〕発展し出でたに対し、メソポタミアのそれが|打算的な都市的社会〔付ごま圏点〕から成育したという区別も、それに劣らず重大であろう。エジプトにおいては、その文化産物を通じて柔婉な情緒の流露が見られ、その国家形成のいかなる時期にも民族的団結の根柢を失い去ることがなかった。しかるにメソポタミアでは、冷酷そのもののような峻厳な感情が目立ち、武力による強制が国家形成の最後のよりどころとなっている。こういう|二つの類型〔付ごま圏点〕が、人類の最初の歴史的段階において、すでに鮮やかに刻み出されていることは、非常に興味のある事実といわなくてはならない。それは結局においては、広漠たる沙漠のなかに此較的|閉鎖的〔付ごま圏点〕に存しているニルの河谷と、沙漠に取り巻かれながらも東や北や西の山地との距たりが少なく、それらの非沙漠的地方に対して|開放的〔付ごま圏点〕であった両河の間の地との、地理的性格の相違を反映したものであろう。
 が、そういう相違にもかかわらず、この二つの地方の文化は、|沙漠的人間の歴史的業績〔付ごま圏点〕であるという点においては一つである。他のあらゆる人間に先立って、この沙漠的人間のみが、|文字を発明し、暦を作り、土地を組織し、国家を形成した〔付ごま圏点〕。それは沙漠的人間の能動的戦闘的な性格が、大河の河畔の湿える地を経営するという仕事を通じて、受動的静観的な態度と結びついたときに可能となって来たことである。そこに|人間の自発性〔付ごま圏点〕の自己形成がはじまった。|人間存在の秩序〔付ごま圏点〕は天体の運動に投射されつつ、自覚にもたらされてくる。戦闘的性格の反面であった|服従的性格〔付ごま圏点〕が、天体に投射された聖なる秩序への服従の態度として、この秩序の自覚を実践的に展開する。人倫的組織としての国家(254)がここにはじめて形成され、人類の歴史がここに展開しはじめたのである。
 これは何といっても偉大な仕事だといわなくてはならない。人間の自由はこの時からはじまったのである。絶対権力を持つ「神聖な王」の支配も、|秩序への自発的な服従〔付ごま圏点〕を実現するための、最初の創造的な発明であった。かかる王のもとに綿密に形成された行政組織や法の秩序も、人倫的組織の高次の実現として、新しい創造的意義を担っていた。これを、文字も暦もない原始段階に此べて見ると、非常な距たりといわなくてはならぬ。多くの他の民族はなおこの原始段階にとどまっていた。しかるに沙漠のなかのこの二つの地方でのみは、人間の生活を支配する秩序が人間自身の意識によって確保された。そこには、秩序ある生活の産物である|知力〔付ごま圏点〕や|技術〔付ごま圏点〕が、急速に発達した。国民は法の秩序のなかでその産業を楽しむことができた。そういう国家組織のなかでは、国民は、原始段階におけるよりもはるかに自由に、安全に、その生を営むことができたのである。そういう国家の機能から見れば、神聖な君主の専制は、国民の自由を護り生かすものであった。逆にいえば、そういうものであるがゆえにこそ君主は神聖たり得たのである。
 しかし後の発展の方からながめれば、事態は異なってくる。絶対的な君主専制が|一つの制度〔付ごま圏点〕として固定してくれば、それを生み出した活力、すなわち秩序の発見の努力は忘れ去られ、その中に含まれた人倫的意義も弱まるのである。君主は神聖なもの普遍的なものを表現するという役目を忘れ、おのれの個人的な恣意によって逆に宗教的権威を使うことができる。メソポタミアにおいてはこの傾向が特に顕著に現われた。国家の組織が整っていればいるほど、王はその権力を悪用しやすい。そこで国家は漸次軍隊化し、王は漸次司令官に転化する。こうして王がおのれの恣意により国家の権力を使いはじめると、国家の法は、絶対権力を持つ王が国民に|強制的に課する〔付ごま圏点〕もの、従って国民にとって|外的な力〔付ごま圏点〕、になってしまう。こういう国家は国民の自由を護るよりもむしろそれを抑圧するもの、国民を道具として(255)用いるものである。
 以上のような二つの面を持った国家の形成と発展とが、最初に、沙漠的人間によって営まれた。そうして沙漠的人間の戦闘的服従的、あるいは受容的戦闘的な性格によって、彼らに可能な限りのあらゆる形態を、極端な形にまで押しつめつつ、実現して見せた。この二千年にわたる沙漠的人間の業績は、何といっても世界史の偉観である。そういうものが跡かたもなく消えて行くということは、人間存在においては決してない。一度見いだされ、また形成されたものは、タルドのいわゆる模倣射線として次から次へと生きて行く。それは実に予想外のところまでつながっているのである。
 世界史第二期は、そのような地盤のなかから展開してくるのである。
         二 世界史第二期
 世界史第一期の舞台たる沙漠的世界のなかから、第二期の役者として現われて来た国民は、ペルシア人やヘブライ人などであろう。しかしペルシア人は、ギリシア人との対立や抗争において、東洋を代表する大きい役目をつとめたとはいえ、世界史第二期において沙漠的人間特有の一つの文化潮流を作ったとはいえない。その業績はむしろギリシア文化の潮流のなかの一つの契機として数えらるべきものと思われる。それに比べると、ヘブライ人の業績は、沙漠的人間が世界史第一期の歴史を背負いつつ、世界史第二期において、新しく創り出した、沙漠的文化であるといえる。その意味において、第一期世界史の直系的相続者は、ヘブライ民族であるといってよかろう。
 しかし世界史第二期において歴史を創りはじめたのは、この直系相続者のみではない。第一期の歴史の渦巻と多少の直接交渉はあったとしても、主として間接の影響をうけていたギリシア人口ーマ人のような|牧場的人間〔付ごま圏点〕も、その独(256)自の性格において歴史をつくりはじめた。それのみか、遠くこの渦巻を離れていて、どういう影響をうけたかも明らかでないシナ人やインド人のような|モンスーン的人間も〔付ごま圏点〕、ちょうど時を同じゅうして歴史的段階にはいった。それはエジプトとメソポタミアとが|時を同じゅうして〔付ごま圏点〕開けはじめたのと同じように注目すべき事実である。この同時性を直観的に示す現象として、われわれは|孔子〔付ごま圏点〕(553−479 B.C.)|釈迦〔付ごま圏点〕(466−386あるいは557−477 B.C.)|ソクラテス〔付ごま圏点〕(469−399 B.C.)、の三人をあげることができよう。これらの人たちはそれぞれシナとインドとギリシアとの|歴史的成熟点〔付ごま圏点〕を示しているのであるが、ともにほぼ同時に生きていたのである。なおそれに加えて、ヘブライ民族の歴史の結晶たる旧約の主要部分が、ほぼ同じころにできあがったということを数えてもよいであろう。われわれはこの同時性がいかなる原因にもとづくかを知ることはできぬ。ただこの興味深い同時性の事実にもとづいて、世界史の展開の意味を読みとるほかはない。
          (イ) 直系相続者ヘブライ民族
 ヘブライ民族、すなわちエウフラテスのかなたから来た民族が、メソポタミアとエジプトとの間をさまよい歩いた民族であることは、歴史的自覚の発生について論じた際に言及した。(本書三七ページ以下参照)またこのさまよえる民族が、カナンの国土をめざしていかに熱心に動いて行ったかについても、風土的自覚の発生を論ずる際に言及した。(本署一二四ページ参照)それらの個所でくり返していったように、族祖アブラハムは「カルデアのウル」から出たと伝えられており、ヤーヴェ教の開祖モーゼはこの民をひきいてエジプトから脱出したといわれている。この二つの文化の中心地にこれほど密接な連関を持った民族は、世界史の第二期以後の役者の中には、ヘブライ民族のほかにないのである。しかもこの民族の神話や伝説を保存した旧約の中には、きわめて多量にこの二つの文化の影響が含(257)まれているらしい。従って世界史第一期の沙漠的人間の業績を最も切実にわれわれに伝えてくれるものは、ほかならぬ旧約であるといってよい。
 その点に注意を向けると、世界史第二期における偉大な創造のうち、インドの仏教やシナの儒教やギリシアの哲学などに対して、キリスト教が、特に重大な意義を持っているゆえんが明らかになる。それは一つには世界史第三期における発展の仕方にもよるが、しかし一層重要な理由としては、数千年にわたる世界史第一期の人類の苦労を、咀嚼し反省しつつおのれのものとした旧約の文化が、キリスト教を生み出す地盤となっていること、そのことをあげなくてはならぬ。
 もとよりこのことは旧約の古い伝説にそのまま歴史性を認めるということではない。旧約のなかに第一期文化の深刻な摂取があるというまでである。ウーリーがウルの発掘によって大洪水の証拠を見いだしたとしても、ノアの洪水の話がそのまま史実となるわけではない。しかしノアの洪水の話の背後に、メソポタミアにおける古い洪水伝説が存在していることは、もはや確実といわなくてはならない。ヘブライ民族は先進文化国民から多くのものを受け容れつつその独特な一神の信仰を育てて行ったのである。
 この仕事にとって最も有力な刺激は、メソポタミアやエジプトにおける|優勢な国家の存在、特に絶対的権力を持った君主の存在〔付ごま圏点〕であろう。ヘブライ民族がこのことに眼を開いてきたのは、これらの国家が世界帝国としての性格を明瞭に現わし、君主が宗教をも手段として絶対的権力をふるうに至ってから後である。族祖アブラハムは、「シナルの王|アムラベル〔付ごま圏点〕」(創世記、十四ノ一)すなわちバビロン王朝の|ハムラビ〔付ごま圏点〕と同時代の人として語られている。バビロン王朝は前に言ったようにメソポタミアの歴史において前と後との時期を画するものである。スメル民族はこのころに影を(258)没してしまった。あるいは|シナルの地から外へ〔付ごま圏点〕押し出されてしまった。そのころにアブラハムがウルを去ったという伝えは、この時代の民族の移動を反映しているかも知れない。それは世界帝国的な圧力を逃れること、あるいは諸民族の激しい覇権競争の舞台から脱出すること、でもあり得る。「約束の地」を追い求めることは、自由の国土への憧憬でもあったであろう。
 モーゼのエジプト脱出もまたエジプトの|新帝国〔付ごま圏点〕が形成され、エジプトの国家が|世界帝国としての性格〔付ごま圏点〕を最も顕著に現わしてきた時代のことである。イスラエルの民はプァラオの課する賦役を奴隷化的抑圧として受け取った。そこでこの民族は、恐らく紀元前十二世紀のころに、エジプトのデルタ地方からシナイ半島の沙漠地方に移った。この時の絶大な苦労が国民的記憶の上に消し難い痕跡を残したものと考えられる。|イスラエル民族を作り出したのは、実はこの体験なのである〔付ごま圏点〕。唯一神の信仰が固まったのもこの時からである。唯一神はその強い力をもって彼の民をプァラオの桎梏から救い出した! これが揺るぎなき選民の信念を築いたのである。とすれば、唯一神を奉ずる神の選民を押し出してきたのが、世界帝国的な圧力であるということは、一層明らかであろう。
 イスラエルの民が沙漠の遊牧の民であったということは、この民族が|原始的な状態〔付ごま圏点〕にとどまっていたということではない。従って旧約の伝説のなかに人類の原始状態を認めようとする在来の見方は、よほど警戒されなくてはならぬ。ウルの発掘においてアブラハム時代の(すなわちハムラビ時代の)多くの住宅を見いだし、それによって中流の市民の日常生活や精神的関心などを明らかにし得たウーリーは、それにもとづいて「ヘブライの族祖についての考えを直す必要がある」といっている。ウルにおいて若いアブラハムが営んでいた生活は、かなり進んだ|文明の生活〔付ごま圏点〕であって、決して原始的な生活ではない。それを起点とする民族の歴史は、原始的な部族生活の段階にとどまっていたはずはな(259)い。またモーゼの伝説の示すところによれば、イスラエルの民族を作り出したこの有力な統率者は、嬰児のときプァラオの王女によって救われ、プァラオの宮廷において育てられた、ということになっている。モーゼという名さえエジプト語であって「子」を意味するという。イスラエル民族の救出にのり出してから後も、絶えずプァラオと接触し、プァラオの手から民を救い出す活動をやった。その民もプァラオのためにエジプト人と同じようなさまざまの労働をさせられていたのである。従ってイスラエルの民は、文明の程度においては、二千年の歴史を持つエジプト人と同じ水準に達していた、と見るほかはない。異なるところはただそのプァラオの支配に対する|否定的態度〔付ごま圏点〕である。そこにこの民族の新しい任務があったといわなくてはならぬ。
 世界帝国的な圧力から逃れて沙漠に出たこの民族は、その激しい戦闘的服従的な性格をもって、人間の王の代わりに|唯一神の支配〔付ごま圏点〕を打ち建てた。これは神聖な王を経て人間的な王に至るまでの王の伝統を、充分承知の上で、新しく選んだ道なのである。人が王となって絶大な権力を握る限り、どういう制度をもってそれをささえようと、人間の有限性にもとづく破綻は現われざるを得ない。従って絶対の権力を握るものは|人であってはならない〔付ごま圏点〕。しかもその人間以上の権力者を、|伝統的な王の姿において〔付ごま圏点〕把捉すること、それがここで始められた道であった。ヤーヴェの神の専制君主的な性格はそれによって理解せられる。沙漠的人間はこのことを強烈な想像力によってなし得たのである。メソポタミアやエジプトで神々の崇拝が行なわれ、巨大な神殿が作り始められたのは、この時よりも二三千年も前のことであるが、しかしその神を|人格神〔付ごま圏点〕として、鮮やかな体験にもたらすためには、神聖な王や人間的な王の迂路をたどり、数限りなき戦争や統治の苦労を経て来なくてはならなかった。
 この|唯一神の支配〔付ごま圏点〕こそ、旧約の諸書を貫ぬいている基調である。この支配の下にイスラエルの民はやがて約束の地(260)カナンを獲得し、ついに紀元前十一世紀のころに王国を形成するに至るのであるが、しかしその王国が分裂し、あるいはエジプトやメソポタミアの帝国によって征服せられるに至っても、唯一神の支配は決して失われなかった。数多くの予言者を通じてこの支配の情熱は持続せられて行く。それをはっきりと実証しているのが旧約の諸書である。唯一神の支配が失われない限り、国家は亡びようとも、イスラエルの民は亡びない。これは沙漠的地域のどの国民もが知り得なかった新しい道である。やがてペルシア帝国が支配し、次いでギリシア人の支配するヘレニスティックの時代となり、そのあとにローマの支配が続くのであるが、しかし唯一神の支配が失われない限り、イスラエルの|国民的存在〔付ごま圏点〕は失われなかった。そうしてこのローマの支配下において、|世界史第二期における最も大きい創造〔付ごま圏点〕、すなわち|キリスト教〔付ごま圏点〕が、イスラエルの国民的存在のなかから押し出されてくるのである。それとともに旧約は、将来に向かって生き続けるに至った。旧約が生きている限り、イスラエルの国民的存在もまた生きている。世界史第一期の文化の直系的相続者は、世界史第三期の現代においても、決して影を没してはいないのである。それのみか、予言者の声は、今や世界じゅうにその力を蘇らせようとしている。
 が、キリスト教が起こったのはヘレニスティックの文化圏内でのことであって、イスラエルの国民的存在のみにかかわることではなかった。この時にはイスラエルのみならず沙漠的世界全体がギリシア人の文化によって統一され、世界史の第一期においては見ることのできなかった|大きい世界的統一〔付ごま圏点〕ができあがっていたのである。キリスト教はこの世界的統一と密接に連関する。してみれば、それはまた沙漠的世界の外に起こった新しい文化、すなわちギリシアの文化の問題でもあるわけである。世界史第二期の|新しい風貌〔付ごま圏点〕は、むしろこの方面にあるといってよい。
(ロ) ギリシアとローマ
(261) ギリシアが世界史第二期の牧場的文化の代表者であることは、きわめて明白であって疑問の余地はないが、そのギリシアの多島海に古く栄えた文化、特にクレータの|海上帝国〔付ごま圏点〕は、どう位置づけるぺきであろうか。二十世紀の初めの発掘によって急激に明らかにされたところでは、クレータの島はすでに紀元前三千年のころより金石併用時代に入り、二千四百年代からは海上貿易によって銅と錫とを豊富に手に入れ、青銅工業を発達せしめるに至っている。青銅時代はこの後千年ほど続くのであるが、その間を通じてクレータ人の海上支配は衰えなかった。紀元前二千年ごろからはクノッソス、プァイストス、マリアなどの都市に、壮大な王宮が建てられはじめた。そこでは文字も用いられ、精巧な行政組織も作られていたらしい。これらの最初の王宮は二世紀半ほどの後に徹底的な破壊をうけたが、千七百年ごろからまた復興し、以前に劣らぬ壮観を呈した。そうしてその一、二世紀の後には、クレータの最盛期を実現した。しかしそれでも、クレータ全島の政治的統一は、容易に実現されなかったらしい。クノッソスの王が他の諸都市やそこの王宮を破壊して全島を統一したのは、紀元前一四五〇年のころで、その後わずか半世紀ほどしか続かなかった。それはクレータの海上帝国の|最後の段階〔付ごま圏点〕であって、そのあとをついだのがアカイア人(すなわち最初のギリシア人)のミュケーネー王国なのである。
 以上の経過によって見ると、クレータが開けたのはエジプトやメソポタミアよりも千年以上遅れている。クレータが青銅工業によって海上の支配を握りはじめたころには、エジプトではすでに古帝国が終わろうとしており、メソポタミアではすでにサルゴン王朝の世界帝国も崩壊して、スメル人の最後の王朝であるウルの第三王朝が起こっていた。またクレータで|初めて〔付ごま圏点〕王宮が作られたころは、エジプトは中帝国の盛期であり、メソポタミアはハムラビのバビロン帝国の末期であった。われわれはここに明らかな段階の相違を認めざるを得ない。しかもクレータが、青銅工業をは(262)じめるよりも前からエジプトと接触していたこと、クレータの海上における繁栄が、主としてエジプトとの貿易によるものであること、などは、明らかに実証された事実なのである。王宮が営まれはじめた時代には、クレータの|カマレスの瓶〔付ごま圏点〕は上エジプトにまで達しており、またバビロニアの印章は、クレータの島まで来ている。こういう密接な接触が先進国との間にあって、しかもその教育的影響をうけないということはあり得ない。|クレータの文字〔付ごま圏点〕は、今までのところでは、必ずしもその証拠と認められてはいないようである。ある学者はエジプトの原型を模したものだというが、他の学者は全然独立に自発的に発達したものだという。特に左から右へ読む点と、生物の形象がうしろ向きである点とは、エジプト文字と根本的に違う特徴だとせられる。バビロニアの文字とも、外形的には似ているが、全然影響をうけていないといわれている。しかしこの文字はいまだ何人にも読解せられていないのである。しかもその発達と使用とは、エジプトやメソポタミアに比してはるかに後代なのである。クレータ文字が、まだ形の整わない、ばかげて大きい絵文字から、型にはまった象形文字に転化して来たのは、ずっと新しく、王宮が作りはじめられた時代、すなわち紀元前二千年ごろであった。しかるにその象形文字は、すでに|音義文字に近づいて行く傾向〔付ごま圏点〕を示している。これは先進国において非常に永い期間を要した発達なのである。しかもこの傾向は、三世紀の後、第二期王宮が建設せられるころに、|文字の線文字化〔付ごま圏点〕とともに強度に押し進められている。純粋の|綴り文字〔付ごま圏点〕へは、もうただの一歩というところであった。こういう迅速な発達は、世界史第一期における長期の営みを踏んでいたからこそ、可能であったのであろう。先進文化の影響は、必ずしも|そのままの模倣として〔付ごま圏点〕現われるとは限らない。幸福な場合にはそれは発明への機縁になる。すなわちそこに達するまでの長期の苦心を後進者から取り除き、その代わりに先へ進む苦心に追い立ててるのである。この後進者としての位置は、クレータ文字が読解せられるようになったとき、恐らく明白になるであ(263)ろう。
 これはただに文字に関してのみではない。クレータの|金属工芸〔付ごま圏点〕が非常な巧みさを持っていたことは、二十世紀の初頭以来の発掘によっても、また『イリアス』のなかのアキレウスの楯の描写においても、充分に証拠立てられるのであるが、しかし同じような技術や巧みさは、すでにそれよりも千五百年前に、スメル人が持っていた。しかもクレータにおいて|神聖なものの象徴〔付ごま圏点〕として特に目立っている「両刃の斧」は、スメル人においては、普通の武器の一つの形態に過ぎなかった。われわれはその間の関係を証示することはできないが、しかしその間に関係がなかったということを証拠立てることもできない。先進国における普通の武器が後進国において神器に化することは、このほかにも例が多いのである。のみならずわれわれはこの金属工業そのものに何らかのつながりを感ぜざるを得ない。スメル人はその古い時代から、一切の金属を、|特に錫を〔付ごま圏点〕、貿易によって手に入れていた。その繁栄は都市における工芸と、その巧みな製品の広汎な貿易とによって得られていた。その同じやり方がクレータに現われているのである。錫は青銅工業にとって欠くべからざるものであるとともに、また産地の著しく限定されたものである。東ではマレー半島とその付近、及びシナの一部、西ではスペイン、フランス、イギリスなど。すなわち西アジアや東地中海地方には全然産地がないのである。従ってここで銅と錫との合金を作るためには、ただに冶金術の知識のみならず、貿易上の広汎な知識を必要とする。この知識はクレータの島の中だけで、あるいは多島海の中だけで、得られるものではない。だからここに広汎な文化の影響を認め、カルデアではじめたことが、エジプトや、フェニキアの海岸や、多島海の島々に伝わったのだ、とするドゥ・モルガンの推測は、いかにも|もっとも〔付ごま圏点〕と考えられる。
 こう考えてくると、クレータを中心として開けた多島海の文化は、エジプト及びメソポタミアを中心とする世界第(264)一期文化の、|最も近い〔付ごま圏点〕影響の下に、|最も早く〔付ごま圏点〕現われてきた|世界史の第二段階〔付ごま圏点〕であるといえるであろう。同じころに小アジアで勢力を得て来たヘティート人が、第一期の末期の一現象たるに過ぎないのに対して、クレータ人は、この後多島海において開展する偉大なギリシア文化の|先駆者〔付ごま圏点〕としての光栄を荷なうのである。
 ところでこの|新しい舞台〔付ごま圏点〕は、沙漠にとり巻かれたエジプトやメソポタミアとは異なり、世界じゅうで最も美しい海といわれる地中海の透明な碧色の波に囲まれた島々や半島なのである。沙漠のかわりに海、平原の代わりに小さい島や山に区切られた小さい地方、従って生活の仕方の一様性の代わりに地方ごとに異なる個性、それに加えて沙漠的な炎暑の代わりに爽やかな海風に吹かれる温暖な気候――これほどの著しい相違が、文化形成の上に現われないはずはないのである。
 小アジアとギリシアの半島とにとりかこまれた多島海は、実に数多くの大小の島々を含んでいるのみならず、至るところで陸地に深く入り込み、ほとんど陸と海とが相交錯するというような情態を呈している。こういう土地に住む人々が海に馴れるのは当然のことである。ここでは鋤と同じように橈《かい》が日用の道具になる。これを使えば、どの方向へ行っても、あまり遠くないところに有無を交換しうる国土がある。しかも海陸の情況は、航海の発達にきわめて好都合であった。どの海岸に立って見ても、島が見えないというところはない。その島伝いに帆走すれば、かなり長い航海も不安なしにやれる。東西の交通が島伝いに容易である上に、南北の交通には潮流の助けがある。中央には北から南へ大きい潮流が流れ、両側、すなわちギリシアと小アジアの沿岸には、南から北への反対潮流が流れているのである。その上風も、春から秋へかけては、規則的に吹いている。陸と海との風の交代で、漁師は夕方に出て暁方に帰って来られる。また北風が吹きつづいて、多島海からクレータへ、クレータからエジプトへの航海を容易にする。冬(265)だけは風向が一定せず、暴風も多いが、一年間の季節的な変化やその規則性を捉えさえすれば、航海は容易に発達し得たのである。これはエジプトやメソポタミアの先進国から学ぶことができず、ただ|多島海のみが教え得る知識〔付ごま圏点〕であった。だからエーゲ海地方に住んだ民族は、その出自のいかんを問わず、「海の民族」となった。クレータ人がそうであったように、北方の山地から出てきたギリシア人もそうであった。彼らにとっては海こそほんとうの祖国なのである。だから彼らは島々や沿岸に住み深く内陸に入り込まない。集団が大きくなって土地の拡張が必要となれば、陸の方へはのびずに海を渡って遠くの沿岸地方に植民する。かくして、世界史上にそれまでなかった|海上貿易〔付ごま圏点〕と|植民〔付ごま圏点〕とがエーゲ海民族によって発明されたのである。
 このことはエーゲ海が世界のあらゆる海のなかで|最も統御しやすい海〔付ごま圏点〕であったことと連関する。難破して流されても島々のどこかへ着くことができる。最も不幸な場合でも、地中海のなかを漂流するだけであって、広漠たる大洋のなかへ出ることはない。オデュッセウスは大海のなかの未知の島からさえも筏で帰ることができた。そういう限られた框のなかで、風向や潮流の規則性をさえのみ込めば、海を支配することはさほど困難ではなかった。だからこの海は、|牧場的な海〔付ごま圏点〕と名づけてもよい。これは沙漠とはまるきり異なったものである。沙漠が示唆するものは、死である。人はいかにしても沙漠とは親しむことはできない。しかしこの海は生き生きとした印象を与え、それと親しむことができる。沙漠は人間にただ対抗の意識を植えつけたが、この海は融和や調和の意識を呼びさました。
 そういう海と結びついている陸は、山の多い、平地の少ない、島や半島であって、決して豊沃な地ではなかった。が、そこに住むためには、大河地方のような、|巨大な人間の組織を必要ともしなかった〔付ごま圏点〕。灌漑や排水の工事は少しはあるが、小さい人間の団体の手に合う程度である。山に囲まれた小さい平地で、家畜を飼い、果樹をつくり、麦を栽(266)培することは、氏族というような小さい団体にでもできる。夏期には雨がなくて草が育たず、家畜を飼うに困難であるが、その時家畜をつれて近くの山地の涼しい牧場に移ることは、さほどの人手を要しない。あとの乾煉した土地には、根が深くて乾燥に堪えうる葡萄やオリーブやいちじくが生い茂っている。秋に麦を蒔こうと思うころには、適当に雨が降ってくれる。してみれば、この土地は、小さい人間の組織をもってしても人工的に統御し得る土地である。すなわち豊沃ではないにしても|従順な土地〔付ごま圏点〕である。ここで組織的な対抗を必要としたのは、むしろ他の人問の侵略に対してであった。だから民族的な団体よりも大きい組織は、ただこの見地から作られた。しかしそれも山に区切られた平地が狭いものであったと同様に、きわめて小さいものであった。たかだか|数千の人々〔付ごま圏点〕、それが平地にわずかの畑をつくり、周囲の山々に森や牧場を持つ。そのほかには、危急の際に立てこもる小山、日常必需品を交換する市場、外の世界と交通する港、――これがその小国家の骨組みである。
 それに加えて気候は、沙漠地方と此較にならないほど温和であった。夏の熱い時には海の風が吹いてくれる。冬の寒い時にも日光は相当に強い。しかも永久の春というような単調なものではなく、季節の変化や寒暑の開きが相当に著しい。従ってそれは人間を活発にし能動的にするが、沙漠的人間のような烈しい偏《かたよ》りには陥らせない。エジプト人に見られるようなあの地上生活への猛烈な執着、メソポタミア人に見られるようなあの恐ろしい闘争の享楽などはここにはない。物質的欲望ははるかに淡白である。麦粉のパン一つ、あるいは大麦のスープ一椀、オリーブやいちじくの一つかみ、玉葱二つあるいは大蒜一片、それがエーゲ人の日常の食事であった。魚は好んで食うが、獣肉は祭りの日の犠牲の時のほかは食わない。葡萄酒は豊富であるが、生《き》のままでは飲まない。日常の飲み物は水である。衣服も簡素で、腰を包むだけであった。家は寝部屋のほかは吹きぬけである。人々は一日の大部分を戸外で送った。家庭に(267)とどまる女たちも、四壁に囲まれた室内にいるのではない。室は小さくて、家具もあまり備えてないが、それに囲まれた中庭が、比較的広いのである。
 小さい国家と、このような淡白な生活とは、人々を沙漠的人間のように戦闘的ならしめる代わりに、顕著に|静観的〔付ごま圏点〕ならしめた。観察力が鋭くなる。視力は確実となり、思考力は素早くなる。とともに美の感覚も発達してくる。が、この態度は単に受動的なのではなくして、沙漠でならば戦闘的性格として現われたであろうと思われるあの|能動的な活力〔付ごま圏点〕と結びついている。この能動性は、人間の主体的存在の底から出る|自発性〔付ごま圏点〕にほかならないのであるが、戦闘的性格において現われれば、|対象との対決〔付ごま圏点〕を主要な関心とし、静観的態度において現われれば、|自発的合理的な活動〔付ごま圏点〕に重点を置くようになるのである。
 このことはエーゲ海沿岸の|小さい国家の形成〔付ごま圏点〕をきわめて特徴的なものにした。それぞれの国家はその|自発的な独自性〔付ごま圏点〕を重んじ、その小さい人倫的組織の|独立性〔付ごま圏点〕と、その文化形成の|特殊性〔付ごま圏点〕とを、あくまでも守ろうとする。従ってそこではさまざまの素質や能力が自由に発展せしめられ、|文化の無限の多様性〔付ごま圏点〕が実現せられる。文化的創造における活発な競争は、エーゲ海域全体の都市や個人を、他の地方に見られないほど活気立たせた。もちろん、この競争は、メソポタミアの都市の間の競争と同じく、しばしば戦争の形を取りもしたが、しかしメソポタミアのそれが、結局において戦争を自己目的とするような烈しい征服戦争・破壊戦争に発展して行ったのに対し、エーゲ海域では、『イリアス』の描写が示しているように、多分に競闘的或は競技的な色彩を帯びた戦争に発展して行ったのである。この相違の背後に、われわれは次のような事情を看取せざるを得ない。平原は、風土的に単調であって、あらゆるところに同じ植物や動物を生育せしめると同じく、同じような人間、同じような文化を形成せしめる。シナルの平原において烈しい(268)競争をやっていたスメル人の諸都市は、遺物によって知られる限り、それぞれに著しい特性を持っていたとは見えない。だからその間の覇権競争は、文化的な競争ではなくして、ただ|力の競争〔付ごま圏点〕とならざるを得なかった。しかるにエーゲ海域の海と山とは、それぞれの土地に他と異なる個性を与えるとともに、その競争をも主として|個性の競争・文化の競争〔付ごま圏点〕たらしめたのである。
 こういう仕方でエーゲ海域には、後のギリシア人が到着する以前に、すでに数多くの都市や、その都市における王の統治組織が、形成せられていた。特にクレータ島においては、農業都市、工業都市、漁業都市、貿易都市というごとく、分業的に発達した都市さえも見られる。これらの諸都市を最後に統一した|クノッソスの王ミノース〔付ごま圏点〕は、これまでギリシア神話によって知られていたのであるが、今世紀初の発掘はこの王の統治に関するさまざまのことを明らかにした。|王は祭司として〔付ごま圏点〕宗教的権威を持っていた。王の任務もまた神の与えた神聖な法律を護持し、正義を実現するにあった。その権威の象徴は、|笏〔付ごま圏点〕や|両刃の斧〔付ごま圏点〕である。このような王が、数百人の官吏をひきい、|王の印章〔付ごま圏点〕を押した文書を用いて、統治を行なっていた。財政の状況や軍隊の組織もほぼ明らかになっている。
 ところで、こういう国家組織や、|王の笏・王の印章〔付ごま圏点〕などの担っている意義は、すでにミノース王よりも二千年も前から先進国で成立していたものである。それは人類が初めて国家を営むに至ったころの、長期にわたる精神的努力を記念する。クレータで民族組織が崩壊し国家組織が形成されるに至ったころに、クレータ人が独立に自発的に案出したというわけではない。だからこそ|これらの象徴が〔付ごま圏点〕、不思議なほどに強い威力を持ち得たのである。こうしてクレータ人がエーゲ海特有の仕方で生かせた|過去の遺産〔付ごま圏点〕を、バルカンから移ってきた初期のギリシア人、すなわち|アカイア人〔付ごま圏点〕たちは、まもなく学び取った。山地から来た農牧の民でありながら、エーゲ海域では直ちに|舟乗り〔付ごま圏点〕となってしまっ(269)たように、彼らは、エーゲ海域の都市生活や国家組織を、おのれのものとしてしまったのである。|王の笏〔付ごま圏点〕がアカイア人にとってどれほど強い威力を持っていたか、クレータの工芸品がアカイア人にとってどれほど神聖なものに見えたか、などということは、ホメーロスの叙事詩によっても、考古学的発掘品によっても、知ることができる。そういうアカイア人の業績を通じて、あとから来たギリシア人たち、すなわちアイオリス人、イオーニア人、ドーリス人たちは、世界史の第一期の遺産を受けついだのであった。
 ギリシア人の|都市国家〔付ごま圏点〕は、ギリシア人の創作である。しかし彼らはそれをバルカンの山地から携えて来たのではなかった。彼らがエーゲ海域に入り込み、先着のアカイア人たちと同じく|舟乗り〔付ごま圏点〕に転化して行った間に、エーゲ海沿岸の|小さい国家の形態〔付ごま圏点〕、独立性や独自性を特徴とする都市国家の形態も、また彼らのものとなったのであった。ただ彼らは、アカイア人たちと異なり、旧来の社会形態を|そのまま襲用したのではなかった〔付ごま圏点〕。反対に彼らは、|それを破壊すること〔付ごま圏点〕によってかえってそれを身につけたのである。もともと彼らは、民族的組織を持った小さい集団として、あとからあとから波状的に侵入して来たのであって、統一的な大集団として侵略に来たわけではなかった。従ってエーゲ海域全体は、はなはだしい混乱に陥りはしたが、一つの力に征服されたのではなかった。特に島々や小アジア沿岸では、|複発な民族の混合〔付ごま圏点〕がひき起こされたのであって、新来のギリシア人と先住民とが明瞭に対立したわけではなかった。だからそういう混乱や混合によって旧来の小さい国家が破壊されるとともに、そのあとに再建されたものもちょうどその破壊された国家と同じような|小さい国家〔付ごま圏点〕、独立性と独自性とを特徴とする|都市国家〔付ごま圏点〕たらざるを得なかったのである。しかも彼らは、それを再建するに当たって、小さい氏族的組織、あるいはその破片から出発して、二三百年の短期間に、先進的民族が数千年の経験によってなし得たところまで追いつくことができたのであった。この経験は、(270)エーゲ海式の社会形態を新しく|自覚にもたらす〔付ごま圏点〕という画期的な意義を担っていた。この社会形態に内在する根本的な性格、すなわち自発的合理的な性格は、ここで顕著に表面に現われるに至ったのである。
 沙漠的人間がはじめて国家をつくり出したときにも、それは|小さい国家〔付ごま圏点〕としてはじめられた。ニルの沿岸の郷国も、メソポタミアの都市も、それぞれ特有の神を持った|宗教的団体〔付ごま圏点〕であるとともに、また一つの|防衛団体〔付ごま圏点〕であり、|統治組織〔付ごま圏点〕であった。だからその統治者は、団体の生ける全体性を表現するものとして、神聖な王となった。しかしこの小さい国家組織のなかで、人倫的な契機が充分な自覚にもたらされる以前に、王の権威の発揮によって国家は大きい民族国家、あるいは征服による大きい世界帝国の方へ発展して行った。こういう大きい組織にとっては王の権威はますます必要となり、ついに専制君主の支配する整った官僚組織や軍事組織が作り上げられる。しかるにエーゲ海式の小国家は、その風土的な性格のゆえに、容易に民族国家や世界帝国を形成させなかった。それがバルカンの方から来たギリシア人の民族的集団をさえ防ぎ得なかったゆえんであるが、同じことはまたあとから来るギリシア人の侵入に対してもくり返された。そうしてこの地域において民族的統一や世界帝国などを実現するに至るまでに、|この小さい国家組織のなかで、人倫的な契機を充分な自覚にもたらす〔付ごま圏点〕、という仕事をしたのであった。この意味でギリシア人の都市国家は、世界史第二期における最も創造的な仕事の一つだといってよいのである。
 ギリシア人の都市国家も一面においては宗教的団体であり、初めは神聖な王に統治せられた。その法律は神から与えられた神聖な掟であった。が、そういう原始段階においてさえ、同じく神聖な伝統を担っている|氏族の王〔付ごま圏点〕たちが、|共同のかまど〔付ごま圏点〕のまわりに座を占めて、一人の王の専制を抑えていた。だからギリシアにおける神聖な王の統治は、初めから|合議による統治〔付ごま圏点〕、ロゴスの働く統治たらざるを得なかったのである。この傾向が発展するとともに、一人の王(271)の統治権は縮小され、数人あるいは数十人の統治委員会がそれに代わることになる。が、すでに合議が必要とされている以上、限られた特権者だけの合議では充分でない。多数の貴族たちも評議会を開いてその衆智を統治委員会に伝えなくてはならぬ。さらに市民全体の会議も開かれなくてはならない。それによって合議による統治、ロゴスの支配は、はじめて徹底する。だから後には、市民全体の会議が、主権を有するものとなった。
 かくして都市国家は、「神々の法則」の代わりに「人間の法則」が、あるいは「地下的な暗い法則」の代わりに「真昼のような明るい法則」が、支配する組織となった。これは世界史第一期においてはどこでも実現することのできなかったものであるが、それを実現する機縁となったのは|エーゲ海式の小国家〔付ごま圏点〕なのである。互いに知り合い語り合うことのできる数千の人々、アクロポリスから一目に見渡せる国土、――そこでは国家のことが各人に共同の関心であり、従って各人は国家のことについて充分の知識を持って語り合うことができた。全体意志の決定は、宗教の迂路を通り聖なるものに投射されるという仕方でなくとも、直接に討議や投票によってなすことができた。従って市民各自にとって、国家の法はおのれの立てたもの、国家の行動はおのれの決定したものであった。彼らは国家に対し|一切をささげて奉仕する〔付ごま圏点〕が、しかもおのれを|自由の民〔付ごま圏点〕として感じた。これが世界史上にはじめて現われたデモクラシーの国家の姿なのである。ここに国家における|自発的合理的〔付ごま圏点〕な統治の形式が、一応は実現された、と言ってよいであろう。
 このような都市国家においては、市民は、その個性や才能を極度に発揮することができた。そこにヘーゲルのいわゆる「美しき個性」が見られる。それぞれの都市国家が美しき個性を示しているように、そこで形成された文化もまた美しき個性の結晶であった。叙事詩も悲劇も哲学もそうである。そういう比類なき内容を持った都市国家が、いろいろな仕方で、この後の世界史の上に大きい影響を与えたのである。
(272) ここにわれわれはエジプトやメソポタミアにおいてなされ得なかった新しい世界史の展開を見ることができる。ここで国家の人倫的意義は一歩深く自覚された。ここで人間の文化は自由な形成に到達した。しかしこの業績が個性的個別主義的な小さい都市国家に結びついていることは他面においてギリシア人の仕事の限界を示すことになる。エジプト人やメソポタミア人に課せられていた主要な問題、すなわち|巨大な人間の組織〔付ごま圏点〕を作る問題は、ギリシア人によっては解決されなかった。ギリシア人の発明した議会政治は、互いに語り合える程度の、少数の市民の場合にしか通用しない。十万人もの人が集まれば、|国家は到底形成され得ない〔付ごま圏点〕、というのが、彼らの間の定説であった。従って数十万、数百万、あるいは数千万の人民を組織し、そこに都市国家におけると同じょうな自由、同じょうなロゴスの支配を樹立するという問題は、古代においては解決され得なかった。同じギリシア文化圏内で、ギリシア人の諸国家を統合し、一つの民族国家を形成するという仕事すら、彼らには到底できなかったのである。
 がそれにもかかわらず、ギリシアの歴史は最後に世界帝国の形成に向かっている。これは結局においてメソポタミアの世界帝国の刺激にもとづくといってもよいであろう。この世界帝国の伝統を最後にうけついでいたアッシリア帝国は、おのれの内からペルシア帝国を生み出した。このペルシア帝国が東方からギリシア文化圏を圧迫したとき、ギリシアの諸都市はその防衛において初めて結束することができた。この結束は一時的に過ぎなかったが、しかしこの時、ペルシアとギリシアとの対立、東洋と西洋との対立、あるいは君主専制国と自由国家との対立、というごとき意識がはっきりとギリシア人のなかに起こった。これは|ギリシア文化の統一の自覚〔付ごま圏点〕でもあるのである。この自覚はやがてアレキサンドロス大王の|ペルシア遠征〔付ごま圏点〕という形で|世界帝国の形成〔付ごま圏点〕にまで発展して行く。がそのように。ペルシア帝国国の刺激によって引き出されたということは、やがてアレキサンドロス大王がメソポタミア風の|神聖な絶対君主に転(273)化する〔付ごま圏点〕、という、非ギリシア的な現象として実を結ぶことになる。従ってこの世界帝国は、自由の国家がその新しい立場において世界的国家にまで発展した、というのでは決してないのである。
 もっともギリシアの都市国家のなかにも幾分世界帝国への傾向が萌していなかったとはいえない。都市国家のデモクラシーが煽動政治家に荒らされて衆愚政治に堕して行くに従い、国家を救う唯一の道として哲学者が考えたのは、|哲人政治〔付ごま圏点〕であった。デーモスの支配ではなく、知慧を愛する人の支配において、真にロゴスの支配が実現される。それが容易に望めないならば、せめては智慧を愛し得る¥賢明な君主〔付ごま圏点〕の支配が樹立されなくてはならぬ。かく考えて哲学者は、マケドニアの君主制にさえも望みをかけ、王子アレキサンドロスの教育に力をつくしたのである。だからホメーロスの詩に感激している若い王がペルシア遠征の途に上った時には、彼の心を占めていたのは、東洋と西洋との対決、自由なき国家に対する自由なる国家の挙揚であった。しかしこの遠征が見る見るうちに成功し、たちまちの間に未曾有の大世界帝国が建設せられたとき、そういう大国家を自由の国家として形成するプランは、若い王の心になかったばかりでなく、ギリシアの哲学者の心にもまだ浮かんでいなかった。ストアの哲学者が人類的共同体を考えるようになったのは、アレキサンドロスよりも一世代二世代も後のことである。
 アレキサンドロスの世界帝国は世界史第一期における世界帝国の型にはまったものとなったが、しかし第二期における世界帝国としての特徴を全然持たないというわけでもない。というのは、かつての世界帝国が沙漠的地域内での現象であったのに対して、今や牧場的地域から沙漠的地域を越えてモンスーン的地域にまで伸び広がる大規模な世界帝国となっているのである。のみならず、たといその国家組織が武力的な君主専制として東洋的であったにしても、その帝国内の|文化的統一〔付ごま圏点〕は、ギリシア文化の主導の下に行なわれた。その点からは、牧場的なるものの沙漠地域やモ(274)ンスーン地域への浸透を見ることができる。アレキサンドロスは西方エジプトにギリシア的都市アレキサンドリアを建設したのを初めとして、その世界帝国内の至るところ、東方パクトリアやインドに至るまで、多数のギリシア的都市をつくり、ギリシア人のみならずギリシア文化を植えつけた。そうしてそれらの間の交通、通信、経済的交流、などを盛んにするとともに、ギリシアの学問を活用して世界的視圏の確立に努力した。だから、当時の世界の全面に自発的合理的な態度が行きわたり、「一つの世界」という自覚がかつてないほど強く起こって来たことは、否定しがたい事実なのである。
 この文化的統一の事業は大きい世界史的意義を担ったものである。アレキサンドロスの覇業そのものはきわめて短期間で終わり、あとは後継者たちの争いのために、エジプト、シリア、マケドニアなどの諸王国に分裂してしまったが、しかし|一つのヘレニズムの世界〔付ごま圏点〕は崩れなかった。そこにはエジプトの|アレキサンドリア〔付ごま圏点〕や、シリアの|アンティオキア、セレウキア〔付ごま圏点〕などのような|世界的大都市〔付ごま圏点〕が発達した。それらの間の交通も活発であり、世界語すなわちコイネーも形成された。西方ではアレキサンドリアに当時の世界の学術を集大成したような大図書館が作られ、東の端ではシナの新疆省のすぐ西側にバクトリア王国が建設せられた。少しく後になると、北西インドにギリシア風の都市やギリシア人の王国が建てられている。これらを両端とするあらゆる地方で、ギリシア劇が演ぜられ、ギリシアの詩が吟誦され、ギリシア貨幣が通用したのである。もちろんそこには、また逆に、エジプトやペルシアの文化がギリシア人に与えた影響も顕著である。ヘレニズムの世界は決して純粋にギリシア化された世界ではなかった。がそれにもかかわらず、ギリシア文化の主導の下に、この世界が一つの共通性格を作った、というところに、ヘレニズムの世界の永続的な意義が存するのである。
(275) この世界はやがて徐々に新興のロ−マ人に征服され、ついにケーザルのもとに再び世界帝国として統一された。そうして今度は、アレキサンドロスの場合とは異なり、数百年にわたってその統一を持続し得たのである。それには、この世界帝国の中心がローマにあり、沙漠的地域に対する|牧場的地域の優位〔付ごま圏点〕をはっきりと保っていたことも、関係があるであろう。東方においては、エウフラテス以東が容易に征服されず、従ってアレキサンドロスの世界帝国よりもはるかに後退しているが、しかし西方においては、地中海沿岸全体からライン河までを版図とし、牧場的地域において前者よりもはるかに拡大している。こういう仕方で.ローマ人は、アレキサンドロスの仕事を完成したのである。そうしてそこにローマ人がギリシア人と異なるゆえんも存するであろう。
 ギリシア人の特徴はその自発的な個別主義に、すなわち小さい自由国家を無数に作り出したことに見いだされる。ローマ人もまた七つの丘の|小さい都市国家〔付ごま圏点〕から出発したが、しかしローマ帝国は|この一つの都市国家が拡大して行った〔付ごま圏点〕のであって、無数の対立する都市国家から組織されたのではない。内部には古くから階級の対立があったが、しかしローマ人と呼ばれる人々の間の国家的対立はなかった。だからローマの国家は、|最初から統一的性格を持っていた〔付ごま圏点〕といえる。この国家は前六世紀の末にはすでに王政を脱して共和政となっていたが、激烈な階級争闘にもかかわらず、ギリシアのデモクラシーのような頽廃には陥らなかった。ローマ人の国家に対する献身的な奉仕、彼らの峻厳な団体的訓練、――それが国家拡大の主要な動力であった。ヘーゲルはローマ国家のこの特徴をきわ立たせるために、ローマは|盗賊国家〔付ごま圏点〕としてはじまった、といっている。まずはじめに、盗賊的な牧人が、周囲の地からローマの丘に集まり、新しい都市を作った。この丘は犯罪者の隠れ家には持って来いの地勢であった。そこへ彼らはサビニの女を掠奪して連れて来た。宗教をも、彼らは、ただ手段として用いた。そういう都市へやがて近隣の住民や征服された都市の住民(276)が流れ込み、後には外国人もひき寄せられるに至ったのである。だからこの国家においては、団体の目的のために犠牲となることや、仲間の間の厳格な規律は、最初からの特徴であった。血縁的な氏族団体から発展して来たのでなく、最初から|力によって人為的に作り上げた団体〔付ごま圏点〕であるから、その団結は|力によって〔付ごま圏点〕ささえて行くほかはない。従ってそれは人倫的な自由な団結ではなく、強制された服従の状態である。パトリキ(貴族)とプレブス(庶民)との関係がそうであった。もともと力ずくの軍人によって作られ、戦争の上に立っていた国家なのであるから、そういう力強いもの、従って富を握っているもの、すなわち貴族に対して、弱いもの、富を持たぬものは、服従せざるを得なかったのである。かくしてローマの国家は、|専制君主〔付ごま圏点〕と|奴僕〔付ごま圏点〕とによって作られた、といわれる。この構造が、個人と国家との統一を頑強に護りつづける|ローマ的偉大さ〔付ごま圏点〕として、現われたのである。国家の命ずるところには何のためらいもなく一切をささげて服従するという態度は、ローマの軍人や使節たちが示しているのみではない。|貴族に対して謀反している庶民たちさえも〔付ごま圏点〕、国家に対しては、同一の態度をとる。このような国民的性格の根柢を、ヘーゲルは、|盗賊仲間から発展して来た〔付ごま圏点〕、という点に認めたのである。
 この特徴は、ローマがイタリア半島を統一し、カルタゴに打ち克って、地中海制覇に成功するとともに、きわめて顕著に現われて来た。それは軍事的な征服事業の拡大であって、自由の実現としての人倫的組織の拡大ではなかった。初め半島を征服するに際してローマ人が作り出したのは、|植民地〔付ごま圏点〕と|交通路〔付ごま圏点〕との組織であったが、その植民地の性格がギリシアのそれとは異なっている。ギリシア人にとっては、植民地は|母なる都市〔付ごま圏点〕から生み出される|子としての都市〔付ごま圏点〕であって、一人前に育てば当然独立した都市国家になるべきものと考えられたが、ローマの植民地は|軍事的要地、軍隊の駐屯地〔付ごま圏点〕であって、中央と密接な連関に立っている。交通路はこの連関を表現する軍道であって、ロ−マから放射状(277)に四方にひろがり、軍隊の統一的な活動を容易にする。こういう|軍事的組織の框のなかで〔付ごま圏点〕、被征服国は、それぞれ|自治を許されていた〔付ごま圏点〕のである。が、やがて征服事業が海外に広がるに及んで、被征服国に対する寛容な政策は変更され、属領における苛斂誅求も著しくなった。侵略的帝国主義は漸次露骨となり、兵力を握る将軍の政治的干与もはじまった。それを決定的にしたのは、将軍マリウスの時代における|軍隊の職業化〔付ごま圏点〕である。この大勢はついにユリウス・ケーザルを出現せしめ、共和制の代わりに|東方的専制君主制〔付ごま圏点〕を実現するに至った。それはケーザルの暗殺によっても阻止されず、後継者オクタヴィアヌスの時代には、元老院や人民がそれを希望したのであった。軍隊の最高指揮官を意味する|インペラトール〔付ごま圏点〕という言葉が、皇帝と訳されるような意味を担いはじめたのは、この時である。そのほか|ケーザル〔付ごま圏点〕という人名も皇帝の意味を担いオクタヴィアヌスが元老院から与えられた|アウグスツス〔付ごま圏点〕(神聖なるもの)という尊号も同じく皇帝を意味するに至っている。かくして一切の権力を振った皇帝のもとに、ローマの軍隊は、西アジア、エジプト、ヨーロッパ等の各地方に駐屯し、その威力によって揺るぎなき世界帝国を形成したのである。
 これはアレキサンドロスの世界帝国と同じく、第一期の世界帝国の型を追ったものであって、その限り進歩とはいえない。しかしまた、ヘレニズムの世界の文化統一が大きい意義を担っていると同じく、ヨーロッパ及び沙漠地域に|超民族的な世界的統一の理念〔付ごま圏点〕を伝えた点において、歴史的功績を持つともいえる。中世ヨーロッパにおけるキリスト教的な統一的世界も、沙漠的地域におけるイスラムの統一的世界も、ローマの世界帝国を媒介としてのみ起こり得たのである。そうして世界史第三期における「一つの世界」への動きは、まさに右の二つの世界の対立のなかから生まれてきた。してみればローマの世界帝国は、世界史第一期における世界帝国が担っていた課題を第三期における近世諸国民に伝え渡す、という大きい役目を背負っていたことになる。
(278) なお右のほかに、イスラエル民族の存在がローマの世界帝国のなかに包み込まれ、そこからキリスト教を生み出したことを考えると、世界史第一期から第二期への展開は、第一期の舞台をおのれの世界のなかへ包み込んだギリシア・ローマを|本流として〔付ごま圏点〕行なわれたということは、どうも認めざるを得ないであろう。
          (ハ) インド
 モンスーン地域における世界史第二期の展開は、第一期の舞台とやや離れて行なわれただけに、どれほどの連関があるか、明白には知り難い。しかし第一期の歴史的成果の影響を受けていないとは到底考えられないのである。それは沙漠的世界と|極端に異なった〔付ごま圏点〕モンスーン地域において行なわれたがゆえに、ヨーロッパにおけるとははなはだしく|異なった可能性〔付ごま圏点〕の展開であった。だから同じ影響もはなはだしく異なった結果をもたらしたと考えなくてはならない。|本流でない〔付ごま圏点〕ということは、必ずしも価値の低さを意味するのではない。それは世界史第二期の展開に|著しい多様性〔付ごま圏点〕をもたらし、その点において第二期をば第一期と非常に異なったもの、また第一期よりも豊富なものたらしめた。これは世界史への貢献として決して軽いことではない。その担っている意義は、第三期における「一つの世界」への動きのなかに、なお将来にわたって発揮せらるべきものであろう。
 ではインドはいかなる意味において第一期文化の影響を受けたであろうか。ギリシアにとってのエーゲ海文化に当たるものは、インドにとっては何であろうか。その点を明らかにすべき端緒は、メソポタミアのウルの発掘と同じころに行なわれた、|モヘンジョ・ダロ〔付ごま圏点〕の発掘によって、与えられたかのように見えた。これはインダスの下流右岸の廃墟で、きわめて古いインダス文字の|印章〔付ごま圏点〕を出したことから注意をひき、一九二七年までに大規模の発掘作業が行な(279)われたのである。その結果ここには、紀元前三二五〇年ごろから二七五〇ごろまでの間に最も栄えたと推定せられる|古い都市〔付ごま圏点〕が掘り出された。その都市には|二階建て〔付ごま圏点〕煉瓦作りの住宅、下水の設備、道路の舗装などがあり、市民は、金銀象牙等の優れた細工品、銅の器具、貨幣などを用い、スメル文字に似た象形文字の|印章〔付ごま圏点〕を使って、エラムやメソポタミアとの間に通商を行なっていた。この証拠によって、インダス河流域がメソポタミアの古い文明と接触していたことは、疑いのない事実と認められる。しかしこれは特に顕著に|都市的な文明〔付ごま圏点〕である。そういう文明が、特に|都市的でなかった〔付ごま圏点〕といわれるインドの地に、どれほど広がっていたのか、また後にインドに侵入してきて、インド文化を創造したアリヤン民族と、どういう関係に立っていたのか、これらの点を解くべき手だてはまだ何にもないのである。
 アリヤン民族とメソポタミアの文明との接触は、恐らく彼らがインドにはいって来る前にあったであろう。アリヤン民族は、紀元前二千年に近いころに、カスピ海東方の地域から動き出し、一部は南東に向かってインダスの流域に入り、他の一部は西に向かってイラン高原やメソポタミアの方へ広がったと推定せられている。彼らと密接な関係のあったカッシュー人は、紀元前十八世紀のころから六百年の長期にわたってバビロンの第三王朝を建てていた。その西には、アリヤンが支配していたらしいミタニ王国が、十五六世紀のころに栄えていた。このアリヤン民族の優勢は、|馬の使用〔付ごま圏点〕にもとづくらしい。馬に戦車をひかせる新しい戦術が、驢馬をしか知らなかったメソポタミアを圧倒したのである。ところでこのメソポタミアは、すでに古くから海路によってインドと交通していたのであるから、初期のインド・アリヤンの移住が|海からも〔付ごま圏点〕行なわれた、ということは、ないとは限らない。そこでハヴェルは次のような推測を持ち出している。紀元前一三六七年ごろ、ミタニの王ドゥシュラッタの没後に、ミタニ王国はアッシリアとヘティートとの挟撃によって崩壊した。その時アリヤンの武士たちは、エウフラテス河を下り海からインドに逃げて来たら(280)しい。その証拠は、ラーマーヤナの物語に伝えているドゥシュラッタの名である、と。この推測が許されるとすると、インドにきたアリヤン民族は、メソポタミア文明のかなり新しい段階を担っていたことになる。しかし古いヴェダの示すところによると、初期のアリヤン人は|農牧者であって航海者ではなかった〔付ごま圏点〕。彼らのたどった道もヒマラヤ山脈の|西北の入り口〔付ごま圏点〕からであった。しかも彼らの顕著な特徴は、メソポタミアの場合と同じく、馬 asva をたずさえて来たことであった。すなわち陸路によってインドにはいったのがインド・アリヤンの主流なのである。が、この場合にでも、インド・アリヤンたちが、メソポタミアの平原に下りて強大なバビロン帝国を乗っ取った仲間と比べて、開化の度が遅れていたとは考えられない。ヴェダの創造を証拠として考えれば、これらの仲間のうちでは、インド・アリヤンが最も優れていたのではないかと思われる。いずれにしても、インドへはいったアリヤン人が、ギリシアへはいった同じ民族に劣らず世界史第一期文化の影響のもとに立っていたことは、認めてよいのである。
 しかしそれにもかかわらず、インドでは、実に著しくギリシアと異なった文化が展開されてくる。ギリシアでは侵入者はたちまちに|船乗り〔付ごま圏点〕に転化し、無数の|小さい都市国家〔付ごま圏点〕を作り出した。しかるにヒマラヤの南、パンジャブの大平原に居ついたインド・アリヤンは、北方から持ってきた農牧の生活――片手に剣、片手に鋤の生活――を捨てないのみならず、|都市生活の拘束を忌みきらい、商業を賤しみ〔付ごま圏点〕、村落共同体の組織が与える独立と自由とをいつまでも愛し続けたのである。そういう生活は、ギリシアでは、アルカディアに取り残された世捨て人の生活に過ぎなかった。しかしここでは、新しいインドを創り出して行く創造的なアリヤン戦士の生活なのである。戦士たちは、この大山脈と大平原のなかで、詩人となり哲学者となった。出発点からしてすでに道は分かれている。そうしてそれは、彼らの入り込んだインドが、|モンスーン地域〔付ごま圏点〕だということでもあるのである。
(281) インダス川の流域は、東南にインド沙漠を控え、インドでは最も乾燥した地方である。ヒマラヤの雪融けの水に霑《うるお》される上流の|五河地方〔付ごま圏点〕でも、インドの他の地方に比べれば、雨量は少ないといわれている。しかしあの巨大な山脈の壁に吹きつけるモンスーンの雲は、何といってもこの地方にインド的特徴を与えずにはいない。特に五河地方の東部、サラスヴァティー河の流域は、インダスの流域では最も雨量の多い地方であるが、そこがちょうどヴェダ文化の中心地なのである。そこでは恐ろしい暑熱と湿気とが結びついているが、しかしまた秋冬の乾燥期には、気候は涼しくひきしまってくる。自然の力が横溢するありさまは、到底地中海沿岸の比ではない。
 こういう土地にアリヤン人の到着以前から住んでいた人間の数は、よほど多かったはずである。そのなかで最も開化していたのはドラヴィダ族だといわれているが、|現在のインド土着人の研究〔付ごま圏点〕からさかのぼって推定されたところによると、そのドラヴィダ族もその当時はまだ|狩猟生活〔付ごま圏点〕の段階にあり、|母系制〔付ごま圏点〕の社会観織を持っていたという。そこでは母親たちとその子供たちが定住社会の中核をなし、異部族の男である父親たちは、狩猟によって共同の食糧を得るために、しばしば村から遠ざかっている。同じ村のなかでは、男たちの住む場所と女たちの住む場所とは違っている。子供たちは、部族を異にする若い男女が季節の祭りのときに森林の空地に集まって踊り合う、その時の性交からできたものである。従って父親は同じ村に住まず、しばしば子供には知られていない。同じ部族の男女は|きょうだい〔付ごま圏点〕たちであった。こういう定住生活が一層進んでくると、母親たちは村の近くで草の根や木の実を採集して共同の食糧に加える。やがて耕作がはじめられる。それが農耕として形をなしたのは新来のアリヤン人の教えによるらしいが、こうして耕地ができあがれば、それもまた村の共有地になる。その耕地のどこを誰が耕作するかは、定期的な村の集会できめられるのである。
(282) 以上のごとき原始村落生活の推測は、どの程度に当たっているかわからない。ドラヴィダ族の狩猟生活と母系制とが立証されたにしても、それだけで上記のような村落生活は出て来ない。元来母系制というのは、子供がどの氏族に属するかを母親によって決定するという|法的な制度〔付ごま圏点〕なのであって、現実的な家族生活の形態なのではない。母系制のもとにあっても、夫婦とその間の幼児が一つの小屋の中に住むということは、通例行なわれている。そういう現実の家族生活が、父親の氏族の村で行なわれるか、母親の氏族の村で行なわれるかの別はある。が、いずれにしても|一つの村落〔付ごま圏点〕が、氏族あるいは部族を異にする|男女の夫婦〔付ごま圏点〕を含んでいるということは、母系制の下においてもあるのである。しかるに上記の村落生活では、母親と子供たちとの住む村には、父親ほ住まないことになっている。その村の男は母親の兄弟たちだけである。そうするとその村落生活は、性的結合を全然含まないものになってしまう。そういうことは現実にはなかったであろう。母系制なるがゆえに|父親が子供たちを養うのではない〔付ごま圏点〕という関係は、父親と母親と子供とが同棲している村落生活においても実現されているのである。父親たちが狩猟によって得た共同食糧は、おのれの子供たちやその母親たちの食糧となるのではなくして、おのれの姉妹たちやその子供らの食糧になる。おのれの子供やその母親を養ってくれるのは、母親の兄弟たちである。従って父親たちの獲物は姉妹のいる他の村々へ配られてしまい、父母子の食糧となる獲物は母の村から届けられる。だから母系制の下においては、村と村との間の人倫的関係がきわめて密接であって、人々はいつも|他の村にある〔付ごま圏点〕おのれの血族のために働くことになる。ドラヴィダ族の狩猟生活と母系制なるものも、そういうものとして理解さるべきではなかろうか。
 が、それはいずれであるにしても、ここで必要なのはその村落生活である。|豊富な植物と動物とに取りまかれ〔付ごま圏点〕、その動植物の生を人間の生と織り交じえた村落生活である。村の長老たちは、少年たちにさまざまの|森の伝説〔付ごま圏点〕を教える。(283)あるいは森の獣の習性とか、狩りの道具の使い方とか、部族の伝統的な法や習俗とかを教える。そこにはいつのころからとも知れぬ永い間の部族の体験が堆積しており、そうしてそれが概念の言葉によってではなく|驚嘆の感情〔付ごま圏点〕によって語られる。子供たちはそういう眼で森の生活を見るようになる。こうして育ったのがこの森のなかの村々の住人であった。
 そういう住人たちが占居していたインドの平野へ、北方の山地から色の白いアリヤン人が降りてきた。それは同じ民族がバビロンで王朝を建てたときよりは何世紀か前であったろうが、しかしすでに軍隊組織を高度に発達させ、農業の知識をも充分に獲得してから後のことであった。彼らは快活な、自由を愛する民族であって、生の歓びにあふれ、日々にその家畜を護り穀物を熟させる善き精霊への讃歌を――すなわち人々の日々の労働を祝福し隣人たちへの愛を醸し出すような|呪術的な力〔付ごま圏点〕に満ちた讃歌を、歌っていた。しかし一度戦いや防衛のために召集されると、彼らは馬を戦車につけ、弓を張り、剣と槍を取って立ち上がる。そうなると彼らは屈することを知らない戦士である。アリヤンの名を恥ずかしめるよりは、むしろ死を択ぶであろう。
 この初期のインド・アリヤン人の社会は、父親を大家族の長とする|家長制〔付ごま圏点〕に達していた。部族の指導者は|戦士〔付ごま圏点〕であったが、しかしアリヤン人のおもな仕事は、戦争ではなくして牧畜と農業であった。そこで、家長制的な大家族のいくつかが、首長の住む城山のまわりに群居する。城山は共同防衛の中心であり、また共同の部族的燔祭の場所、家長たちの集会の会場であった。家畜や耕地の共有は認められていなかったが、ただ牧場のみは共同であったらしい。
 アリヤン民族はあとからあとから到着し、なかにはメソポタミアの都市生活や農業の経験をもたらしたものもあったらしい。それとともに先着のアリヤン人は、絶えず南へ、東へと押しやられて行った。こうしてアリヤン人は、広(284)いインドの平野のなかへ、土着の穀物である米のほかに、メソボタミアや小アジアの大麦、小麦、きび、油の実などを広めたのである。
 こうしてアリヤン人がインドの地に広がって行くに従い、土着人との同化もまた行なわれはじめた。これはアリヤン人がモンスーン的風土に同化したことをも意味する。そこに創り出されたのが、|インド・アリヤン的な村落組織〔付ごま圏点〕なのである。これはドラヴィダ族の村落の共同的原理を基底とし、アリヤン人の精神的理想から出た文化や組織を上部構造としたものであった。ドラヴィダ族の村落生活が生み出したフォーク・ローアは、いろいろな仕方でアリヤンの神話的観念と結びつき、変形させられている。がそれとともに、アリヤンの精神的特徴もまた変貌を呈せざるを得なかった。
 アリヤンの部族の|政治的組織〔付ごま圏点〕は、右のごとくにして形成された|村落共同体の組織〔付ごま圏点〕の上に、その上他組織として形成されたデモクラシーであった。いくつかの村が、相互防衛のために連合し、一人のラージャあるいは王を立てて、その統治をうける。王は選挙されることもあり、また世襲のこともあるが、その至高の権威にもかかわらず、アリヤンの慣習法や伝統には絶対に服従しなくてはならない。
 村落の類型的な形式は、恐らく初期アリヤン侵入者の|陣営〔付ごま圏点〕から出たものと思われるが、少し長目の|方形の囲い〔付ごま圏点〕のなかに、中央で交わる|東西と南北の大道〔付ごま圏点〕があり、その両端にそれぞれ東門西門、南門北門の|四門〔付ごま圏点〕がある。垣の四隅にも副門があるから、外への通路は|八道〔付ごま圏点〕であるが、特に東西と南北の大道は、村と村との交通路であり、商業用の公道であり、また軍道でもある。だからそれは王の費用、あるいは村々の共同出資によってささえられる。この大道の交叉点、すなわち村の中央は、長老たちの集会所であって、石か煉瓦を敷いた台の上に、会議の樹、すなわち|菩提樹〔付ごま圏点〕(智慧)(285)の樹)が植えられている。その樹陰で村のことが討議されるのである。
 二つの大道によって村は四つの区画に分けられるが、それがさらに小さい這によって細分され、そこにアリヤンの社会の区別に応じた特殊区域が定められる。村人の住宅、公共の浴場、公園、公の果樹園なども、それぞれ定まった位置にある。住宅は自由人の家産であったが、しかし共同体の同意なくしては他へ譲り渡すことができなかった。なお村の外側の区画と周囲の囲いとの間には、村を一周する広い通路があって、そこを村の支配者たちが、村を祝福する呪文を唱えつつ、巡回して歩いた。その通路はまた村の防衛のためにも用いられるので、戦《いくさ》の神にささげられていた。
 村を取り巻く広い土地は、村人たちの耕作する共有地と、村人の家畜のための共同の牧場とであった。家畜は、野獣や敵の襲撃に備えて、飼い手が厳重に護っているが、その上、村の門の上の高い塔あるいは柵の上から、見張り番が監視していた。共同の福祉のためのこういう活動は、それぞれの村人が分担するのであるが、そういう仕事の割りふりは村の|評議会〔付ごま圏点〕がやる。毎年、自由村民の一般集会を開き、五人の評議員を|選挙〔付ごま圏点〕して、アリヤンの法と慣習とにもとづき村の行政を行なわしめるのである。この選挙という方法は、名目上、王をきめる際にも適用せられているが、しかし王の場合には、幾つかの家系に|世襲権〔付ごま圏点〕を認めるという方法に代えているところもある。こういうところでは、自由民の一般集会は、選挙母体というよりも、むしろ世襲の執政者が諮問する会議となっているが、しかしその会議の力は、人民の権利を保持するに充分なほど強かったといわれている。
 こういう村落の|位置の選定〔付ごま圏点〕には古くから定まった伝統があった。通例、河の岸、海岸、湖の側などである。水浴の便宜のためであろう。水浴はインドの生活に欠き難いものであって、古くから宗教的な儀式の前の必須の準備行動と(286)され、さらにそれ自身一つの儀式となっていた。で、その点から適当な場所を見当づけると、次にその地の土が農耕に適しているか、よい井戸水が得られるか、の二つの点を調べる。それがよいとなると、村民の集まった前で神々の祝福を祈り、土地をすき返す。二疋の牡牛の角や蹄に金か銀の環をかけ、儀式用の新しい犂《すき》をひかせて、儀式を指揮する建築師が、最初のうねを鋤くのである。すき返された土地にはいろいろな種類の犠牲の種を蒔く。やがてそれが芽ばえ育って花を開くころになると、そこへ村の家畜を追い込んで食わせる。そこでいよいよ建築工作がはじめられるのである。建築師は日時計を使って村の外郭や門の位置をきめ、東西と南北の大道をつける。ついでさまざまの設備の位置が定められる。それらはすべて原始的信仰にもとづいた象徴的意義を担っている。建築師は祭司長としての地位に立っているのである*。
 * この村落組織のことは、Silpa-Sa※[記号あり]stra の記述が非常に古い伝統を伝えていると仮定しての上での解釈である。この仮定が通用しないとすると、右の状態はだいぶ時代を下げて考えなくてはならぬ。
 こういう村落共同体は、協働や相互防衛のために、十か村、二十か村、百か村、千か村、あるいはそれ以上の群に結合する。それぞれの群は、部族の長の指揮のもとに、一つの城のまわりに集まっている。がその部族の長も、一層大きい群の支配者に服従する。そうしてその支配者の上にはさらに|最大の群〔付ごま圏点〕の支配者が立っている。それぞれの村落は、部族の団結によって受ける保護に答えるために、村長を通じて部族の長に租税を払う。あるいは一定数の戦士を出す。あるいほ家畜や穀物を納める。部族の長もまた、その収入に応じて、上位の支配者に同じように貢ぎ、その支配者もさらに最高の支配者に貢をささげる。こういう結合や協働の原理は、交通路の維持、灌漑工事、旅舎の施設、公会堂の建設、公園の設置、その他農工商のさまざまの仕事に適用される。
(287) こううい社会組織や政治組織はヴェダの宗教と密接に連関しているのであって、その点からいえば、|ヴェダの宗教がアリヤンの村落共同体組織の原動力であった〔付ごま圏点〕、といってよいであろう。そのゆえにこそアリヤンの村落組織は、先住民のそれを取り入れながらも、高い倫理的社会的な理想に導かれ、健全な法律に基礎を置いた新しい段階の村落組織となったのである。そこには、この思索に長じた民族の、実践哲学から編み出された、|インド独特の共同体の図式〔付ごま圏点〕が見られる。
 この独自性は、アリヤンの村落組織が、その土地に根ざしそこから自然に発生してきた|地縁共同体として起こったのではない〔付ごま圏点〕、ということに関係する。アリヤンは初め、戦闘団体的に結成された移住者の集団としてインドの地にはいって来たのである。しかも彼らは、このモンスーン地域の森林や田園のなかで漸次勢力を拡大して行くに従い、その集団の戦闘団体的性格を薄め、むしろインドの地に根ざした村落の形式の方へ近づいて行った。これはインドの風土への適応と見ることもできる。この過程の間に彼らは、インドにはいる前からの神々を漸次インド的な神々に変えて行くのであるが、その変遷のなかにすでに万有を包容する|全一への動き〔付ごま圏点〕が見られるのである。もっとも、世界を支配する秩序の観念は、彼らがイラン高原にいたときにも、なかったわけではない。しかしそれがここでは、自然と人間との一切の現象を貫ぬく|理法リタの観念〔付ごま圏点〕として、非常に顕著に現われて来たのである。火すなわちアグニを崇拝するのは古い伝統ではあったが、今やそれが一切を貫ぬく「普遍の火」になる。神々はその個性においてよりも、むしろその共通性において重んぜられ、従って個別的な神々は「ただ一つなるもの」の異名とさえもされてくる。こうしてリグ・ヴェダの末期には、宇宙の本源たる「唯一」の観念にまで到達しているのである。そういうヴェダの宗教が、アリヤンの村落組織の原動力なのであった。
(288) アリヤン民族がますます東南に進出し、ガンジス河の中流地方が文化の中心地となったころには、|新しいヴェダの時代〔付ごま圏点〕が到来する。インドの征服はほぼ終わり、アリヤン人は数においてはるかに多い土着民族の間に介在することになった。この征服を可能ならしめたのは、もとより武器や戦術の優秀にもよるが根本においては|知力の優秀〔付ごま圏点〕であった。馬にひかせた戦車は土着民族を圧倒しはしたが、しかし彼らは決して殲滅戦争を行なわず、一層有効に、その優秀な知的性質をもって、すなわち彼らの法律や政治的制度や宗教的観念をもって、多数の土着人を化して行ったのである。アリヤンと非アリヤンとが漸次結合し、ついに|一つの国民〔付ごま圏点〕としての強い意識をもつに至ったのは、混血よりもむしろ精神的紐帯によるのである。ところで、このように知力の優秀が大きい働きをするとともに、|戦士〔付ごま圏点〕と|智慧あるもの〔付ごま圏点〕との地位が逆になってくる。かつて戦士階級の手にあったさまざまの|司祭の権利〔付ごま圏点〕は、その祭儀に列席して讃歌を唱い聖器を取り扱うに過ぎなかった|ブラフマンの手に移行した〔付ごま圏点〕。ブラフマンは、アリヤン人たちが自ら所有すると信じていた|貴い知識〔付ごま圏点〕、おのれたちの護りである大切な知識を、特に保持するように|訓練された人々〔付ごま圏点〕なのである。その訓練は厳格であり、その目ざす道徳的目標も高かった。特に|世間的な名誉を斥ける心構え〔付ごま圏点〕が大切であった。そのほかにも克己や清貧や身心の清浄が要求された。そういう代々の訓練が、ブラフマン階級から漸次優秀な思想家や詩人を輩出せしめるに至ったのである。その結果としてブラフマン階級は、戦士階級から一切の祭司的機能をとりあげ、その上位の地位を獲得した。今や社会の指導権は|智慧あるもの〔付ごま圏点〕の手に移り、|知力が武力を支配しはじめた〔付ごま圏点〕のである。
 このアリヤンの思想家たちにとっての最大の問題は、アリヤン民族とその奉ずる神聖な啓示とを、いかにしてインド的なものへの没入から護りうるかということであった。それは民族の血の純潔を保つ問題であったとともに、またアリヤン民族が|神々に導かれているという深い自信〔付ごま圏点〕を保持して行く問題でもあった。その問題の解決のために思想家(289)たちが努力したのは、アリヤンと非アリヤンとをはっきりと別け、アリヤンのなかに四つの色(純粋な階級)を区別することであった。四色はブラフマン(祭司)クシャトリヤ(戦士)ヴァイシャ(農工商などの生業に従う民衆)スードラ(賤しい労働者)である。これらはリグ・ヴェダ時代には分業を意味するに過ぎなかったが、それが今や階級的区別とされるに至ったのである。
 このカーストの制度は、その窮屈な|排他性〔付ごま圏点〕や|桎梏性〔付ごま圏点〕をもって有名であるが、しかしこれらの特徴は|中世以後に現われた〔付ごま圏点〕のであって、古い時代はもとより、ブッダやその後の時代にもなかった。また、カーストを厳格にしたのは、祭司階級の権力欲にもとづく陰険な策略である、との見方も行なわれているが、これも当たっていない。カーストも初めには創造的な意義を担っていた。インドにおいてアリヤン文化を産み出した特殊事情は、かかる制度を必要としたのである。非常に多数な異民族に取りまかれている少数民族が、深い洞察によって、周囲の民族よりもはるかに高い生の法則を自覚したとする。その場合には、厳格な婚姻法によって少数民族の純潔を保持し、その貴い自覚が失われないように配慮することは、大局において人類の進歩に貢献することになろう。カーストの法は、少なくとも|その最初の段階においては〔付ごま圏点〕、この優れた民族をしてその優秀性を発揮せしめる精神的優生学の法であった。その法の効果を顕著に示しているのが、第一にはブラフマン階殻であり、第二にはクシャトリヤ階級である。そう考えればカーストの制度も、それが硬化しない間は、インド文化創造の積極的な契機だったのである。
 かくしてインドの社会は、精神的なるものが武力の上に立って支配しつつ、その人倫的組織をあくまでも|村落共同体の地盤において〔付ごま圏点〕形成するという、きわめて独特な性格のものとなった。これは同じ民族から出たギリシア人が、ほぼ同じ時代にエーゲ海地方において形成した|都市国家の組織〔付ごま圏点〕と対照して、非常に注目すべき現象である。それをわれ(290)われは、牧場的な風土とモンスーン的な風土との相違として把捉することができる。
 これはアリヤン民族がインドに侵入して以来、恐らく千年に近い間の出来事であって、その間にヴェダや古ウパニシャッドなどのすぐれた文化財が作り出されたのであるが、それとともにブラフマンの階級にも硬化や頽廃の現象が現われ、|創造的な力はかえってクシャトリヤ階級のなかから動いてくる〔付ごま圏点〕ようになった。ウパニシャッドの哲人のなかには、戦士階級出の人が少なくないのである。これは恐らく社会状勢の大きい変化を語るものであろう。すなわち|政治的組織の発達〔付ごま圏点〕が、戦士階級の力を再び表面に現われしめたのである。ブラフマンが精神的指導者であるという地位は依然として変わりがないとしても、政治的権力の重要さは著しく増して来たと見なくてはならない。
 インドの叙事詩『マハーバーラタ』と『ラーマーヤナ』とは、現形において西暦紀元以後のものと思われるが、しかしそのなかにはヴェダ時代にまでさかのぼり得るほどの古い層をも含んでいるといわれる。この長期にわたる形成は、戦士階級がその創造力を解放してくる過程の反映であるとも見られよう。物語の題材は、|大戦争〔付ごま圏点〕や|南インドの征服〔付ごま圏点〕であって、まさに戦士階級の仕事である。そういう題材の背後に歴史的事件がひそんでいるかどうかは、もとより明らかでない。が、アリヤン民族がガンジスの中流地方にひろがり、さらに東方へ、ベンガル地方へ突き進んで行き、それらの地方に強力な|王国〔付ごま圏点〕や|共和国〔付ごま圏点〕を形成したことは、歴史的事実として疑いがない。そういう地盤から戦争や征服の物語が生まれてくるのは、いかにも自然なことである。
 この時期の主要な政治的発展は、ヴェダの時代の特徴である小さい部族的連合が、世襲の王朝に支配されるかなりのおおきさの国家に固まってきた、ということである。しかしその際、アリヤンの国家においては、世界史第一期に著しく現われたような「神聖な王」は出現しなかった。これはブラフマン階級が権威を持っていたゆえであろう。王は(291)絶対権を持たず、ただアリヤンの法によって授けられた権利を持つに過ぎなかった。そうしてもし王がこの法に背《そむ》き、あるいは王としての義務を怠るときには、白由人の一般集会とか大臣の会議とかは、王を廃位もしくは科料に処することもできた。王を世襲にしたのは、支配階級のなかでは王の一家が王事を行なうのに|最も熟練しており〔付ごま圏点〕、従ってアリヤンの伝統を最もよく保持すると認められたからである。本来王はクシャトリヤ階級のなかから選挙すべきであるが、しかしそれは必ずしも定法ではなく、時にはスードラの階級に属するものが、その才幹によって王位に昇ることもあった。王の主要な義務は、国家を守り、人民全体を幸福にすることであった。それは村落共同体の長がその狭い範囲でやっていることと同じである。村の長が長老たちと相談して村を治めるように、王もまた自由な民衆の代表たる大臣たちと相談し、アリヤンの法と道とにかなうように統治しなくてはならぬ。アリヤンの自由民の権利は、いかなるときにも侵されてはならない。もっとも戦争等の非常時においては、常時の法が停止され、王に独裁権を与えることがあったかもしれぬ。しかしそれでも、王や大臣の権威が、地方の集会や村落の評議会の権威を全然圧倒し去ることはなかったのである。
 このような王国として古くから有名なのは、パンチャーラ、コーサラ、やや小さいのでは、ヴイデーハ、マガダ、カーシーなどである。が、そういう王国が起こった当時にも、一人の王が統治するのでなく、いくつかの貴族の家によって構成される評議会が統治する、という部族連合は、なお数多く存していた。また、一般集会やその執行委員会が統治するという、純粋な共和国も、少なくなかった。従って政体としては、君主制、寡頭制、共和制の|三者が並び存した〔付ごま圏点〕といえる。しかしこの三者の間の発展関係はギリシアの場合と同じではない。ここではむしろ|君主制に向かって〔付ごま圏点〕発展して行ったのであって、それが後にアレキサンドロスの遠征の刺激により大帝国を出現せしめる地盤となった(292)のである。が、三者のいずれの場合にも国家の政治的単位が村落共同体であったことに変わりはない。この特徴は|都市生活との連関〔付ごま圏点〕において一層顕著になったといえるであろう。
 インドにおける都市の出現は、国家が右のごとく強化され、その首府が政治や経済の中心となるに従って、おのずからひき起こされたことであった。村落の設計と同じ原理にもとづいて、王宮と城砦のまわりに、それぞれの区画(その一つ一つが一つの村落である)が配置される。そこへは支配下の村々から富が集まってくる。遠くからの隊商が貿易にやってくる。従って種々の産業が盛んになる。そういう都市としては、パンチャーラ国のマトゥラー、コーサラ国のサーヴァッティー(舎衛城)、マガダ国のラージャグリハ(王舎城)などが早くから栄えた。カーシー国の首府は今のベナレスである。そのほかブラフマンの村落のうちには、いわゆる大学町に発達したものもある。アリヤンの青年が方々から教育を受けに集まってきたからである。が、こういう都市の繁栄も、インドにあっては、周囲に散らばっている無数の村落の活力によるのであって、都市の方から村落を支配したのではない。都市がどれほど大となり、どれほど政治的影響力を持つようになっても、地方の村落の独立を制限したり、その人生の展望を狭《せば》めたりするようなことはなかった。アリヤンの文化が|村落から出た〔付ごま圏点〕のであって|都市からではない〔付ごま圏点〕、といわれるのは、この特徴のゆえである。
 がそれにしても、王国や都市の出現は、新しい段階を示すといってよかろう。これがクシャトリヤ階級の業績なのであった。この新しい形勢に対応してブラフマン階級もまた政治的社会的に変化してくる。彼らは依然としてヴェダの専門家として尊敬せられるのではあるが、しかしそのための特殊の訓練は、戦争や政治の|技術〔付ごま圏点〕に通達することをも可能にした。ブラフマンの大学は、戦術や外交や政治学などの学校となった。だからやがてブラフマンの階級から、(293)有力な外交家や政治家が出て、王の評議会を構成する大臣たちのなかの指導的な地位を占める、というようなことも起こってくる。しかしアリヤンの法によれば、主権的な権力や地位はあくまでもクシャトリヤ階級のものである。ブラフマン階級には王となる特権はなかった。従って国家の組織が強大となるとともに、この二つの階級の間の敵対感情は強まらざるを得ない。そこでブラフマン階級は、ヴェダにもとづく祭儀や呪文の規定を複雑化し、この方面から公私の生活を束縛しはじめる。その態度は|保守的〔付ごま圏点〕である。それに対してクシャトリヤ階級は、社会生活の生きた問題に結びつき、非アリヤン的なものの摂取をも辞せず、自由に|進歩的〔付ごま圏点〕にふるまった。この対立はやがて|バラモン教と仏教との烈しい対立〔付ごま圏点〕となって現われてくるのである。
 世界史第二期におけるインドの創造力の展開は、前に言ったように、ブッダを絶頂とすると考えてよい。そうしてそのブッダは、まさしく|クシャトリヤ階叔の創造的な活力〔付ごま圏点〕のなかから出てきたのである。しかもその創造が、この階級の特技たる|武力〔付ごま圏点〕によるのではなくして、それとは正反対の|慈悲の宗教〔付ごま圏点〕として現われたところに、われわれはモンスーン的な特徴を認めざるを得ない。
 この後のインドの全歴史を通じて、ブラフマンたちが最も忌み恐れているのは、ブッダとその教団である。その恐れは、必ずしも正統ブラフマン思想へのブッダの理論的反駁によるのではない。理論的批判はブラフマン階級の内部においても盛んであったし、またブッダの教えに似た哲学もすでにその内部に始まっていた。恐るべきは、|ブラフマン階級の存在の地盤をくつがえす〔付ごま圏点〕ような、社会改革家としてのブッダの力であった。その力はきわめて正確にブラフマン階殻の硬化の病弊を突いたのである。この病弊は、ブラフマン階級の|知識の独占〔付ごま圏点〕に起因し、すでにはなはだしい|迷信〔付ごま圏点〕を煽りつつあった。|言葉の神的な力〔付ごま圏点〕を鋭く把捉したのはヴェダの詩人の大きい功績であるが、しかしそれは今や(294)呪文として〔付ごま圏点〕、ブラフマンの手により、民衆の日常生活をすみずみまで束縛するために用いられている。また|犠牲の祭儀〔付ごま圏点〕の持つ神的な力は、原始宗教が一般に認めるところであって、ブラフマンの宗教には限らないのであるが、しかしブラフマンはその祭式を極度の精緻さにまで発達させ、専門家でなくては有効に行なえないものにしてしまった。従ってここでも公私の生活はすみずみまでブラフマンに束縛されることになる。人は生まれてから死ぬまで、一家のことも一国のことも、ことごとく祭儀や呪文によって保護され指導されなくてはならぬ。もしそれを怠れば、どんなひどい刑罰をうけるかもしれない。ブラフマンはそういう|呪力〔付ごま圏点〕を得るために、常人の到底堪え得ないような|苦行〔付ごま圏点〕を経て来た人である。彼らは自由にその呪力をふるい得るであろう。かくしてブラフマンは、|恐怖によって〔付ごま圏点〕民衆の生活を縛り上げていた。ちょうどその点が、ブラフマンの病弊の中核だったのである。そこでブッダは、|呪文の恐怖や犠牲祭式の重圧から、人々を解放しようとした〔付ごま圏点〕。そのために、戦士階級の名家の出であるこの青年ゴータマは、身をもって呪文や祭式の無力であることを示し、そういう末梢的手段の核心となっている本来的な宗教的要求に訴えて、「アリヤンの八道」を説いたのである。
 ブッダの成功は、主としてその比類なき自由な人格や、人間的感情の奥底にしみ通る教えなどによるであろうが、しかしまた彼が、ブラフマン階級の宗教独占とは異なり、アリヤンの宗教を|あらゆる人々のものにしようとしたことにもよるであろう。階叔のいかんを問わず、あらゆる人が理解し行ないうる宗教、民衆に精神的な自由を与え、全社会を健康に幸福にする宗教、それを彼は作り出したのである。その点からいえば仏教は、|宗教改革〔付ごま圏点〕であるよりもむしろ|社会改革〔付ごま圏点〕であった。仏教の教団の自由な一員たるためには、ブラフマンが規定したようなどんな条件も必要でない。ただ貪瞋痴のような煩悩の火を鎮めること、すなわち心の清浄だけが必要なのである。
(295) この教団は|アリヤンの村落共同体〔付ごま圏点〕の制度にもとづいて作られている。教団の集会では、あらゆる成員は受戒の先後に従って着席する。首座が開会を宣し、動議が読まれると、提案者がその主旨を説明し、反対者だけが討議を続ける。そのあとで首座は、動議を採択すべきか否かを諮る。三度諮って反対がなければ通過を宣するが、反対があれば票決に付し、教団の多数(欠席者をも含む)によって決する。しかしこの票決は、仏教の法に合わないときには、有効でない。もしこの法の解釈について疑義が起こったときには、ただ教団の|一般集会〔付ごま圏点〕のみがそれを定めることができる。普通の集会においては、選挙された裁決者が、票決の有効か否かを裁決する。これらは皆古い村落共同体のやり方だったのである。
 しかし教団の成員は受戒によって心の清浄を誓った人々である。従ってここに形成されるのは|理想的に高められた村落共同体〔付ごま圏点〕であって、現実のそれではない。たといその理想が充分に実現され得ないとしても、なお現実に対して模範となるべきものであった。だからその目ざすところは、アリヤンの古い伝統を新しく蘇生させ、|四海同胞の立場において〔付ごま圏点〕インドの社会を再組織することであったといってよい。そのゆえに仏教は、さまざまの異民族の混在するインドを|一つの国民〔付ごま圏点〕たらしめるにあずかって力があったといわれている。次の時代に至って|マウルヤ王朝の大帝国〔付ごま圏点〕が出現してきたのは、社会的政治的にこのような準備があったからだとも見られる。
 ギリシアにおいてと同じように、インドにおいても、文化の創造力が一つの絶頂に達したあとで|大帝国〔付ごま圏点〕が出現した。しかもそれは、実に文字通りにギリシアの影響によって起こったのである。
 インドと西方との交渉はすでに紀元前六七世紀のころから始まっていた。ペルシアのダリオス王はインドの一部をその属邦とさえもしていた。インドの狙撃兵はペルシア軍に加わってマラトーンの戦いに参加している。インドにお(296)ける諸王国の勃興には幾分西方の影響が加わっているかもしれぬ。しかしそれらは、アレキサンドロスのインド遠征が与えた大きい刺激に比べれば、物の数でもない。アレキサンドロスは、インド遠征に三年の年月を費やしたが、その間、十九か月は北西インドにあって、数々の国家に実地教育を与えた。その最も著しいのは、彼の|絶大な組織力〔付ごま圏点〕が与えた印象である。彼はインドに侵入するまでにも、多くの敵を征服しつつ要所要所に守備隊を残してヨーロッパの基地との連絡を絶たない。彼がインドに最も奥深く侵入していたときにさえ、本国から、五千の騎兵、七千の歩兵が、二万五千着の新しい甲冑をたずさえて、救援にやってきたほどである。また、インドで降服しあるいは内応した諸国の軍隊を使いこなすことも巧妙であった。抵抗するものに対しては実に容赦はないが、一度彼に服したとなると、また実に寛容に、礼をもって扱う、というのが彼のやり方であった。こうして彼は、彼の軍隊に|数十倍する〔付ごま圏点〕ほどのインド人軍隊のいる土地を征服し、その上帰路には、陸路として二筋、海路一筋の新しい連絡路を探検しつつ、スーサの都に引き上げて行ったのである。このアレキサンドロスに対して、相当に手剛い抵抗を試みたインドの国家は、王国や部族連盟など、十を下らない。そうしてその内の一国だけでも、軍勢はアレキサンドロスのそれに劣らず、時にはその倍であった。しかしそれらの国々の間に何の統一もなく、むしろ古くからの敵対関係に固執して、一方が侵入軍に抵抗すれば他方は侵入軍と協力してそれを攻めるというありさまであった。敵を前にして初めて結合を意図するに至った国々も、アレキサンドロスの敏活な機動に機先を制せられ、それを実現することができなかった。
 こういう実状を現場で見ていたのが、当時二十四五歳の青年であったチャンドラグプタである。彼はマガダ国の王家の庶子で、賤しい母のカーストに属していたが、王の不興を受けて亡命し、北西インドのタキシラに来ていた。タキシラは当時ブラフマンの大学町としても有名であった。そのタキシラの王は、アレキサンドロスがインドにはいる(297)前に、あらかじめよしみを通じ、紀元三二六年の二、三月ごろには、その軍隊をタキシラに迎え入れて休養せしめた。その後数か月を経て六月初めに、二百の象を中核とした三万の歩兵、四千の騎兵、三百の戦車、というインドの大軍が、アレキサンドロスの六千の歩兵、四千の騎兵によって、殲滅的な打撃をうけるというヒュダスペスの会戦が行なわれた。この時のインド軍はタキシラの旧来の敵国たるポーロス王の部族連盟の軍であるから、タキシラ王は五千の兵をもってギリシア方に参加している。チャンドラグプタがこの時インドの弱点を痛感したことは察するに難くない。プルタルコス(アレキサンドロス伝、六七)によると、チャンドラグブタはアレキサンドロスに逢った。そうして後には、アレキサンドロスが容易に全インドを征服し得たろうことをしばしば語った。
 このチャンドラグプタがマガダ国の王位にのぼりマウルヤ王朝を建てたのは、アレキサンドロスの没した翌年である。それより前、アレキサンドロスがまだスーサヘの凱旋の途上にあったとき、すでに後に残した知事の一人が暗殺されるというごとき反抗の気勢が起こっているが、その気勢は大王の死の報が届いた年の秋、ついに爆発した。その指導者はチャンドラグプタであった。彼はパンジャブ地方の諸部族を結集し、ギリシアの守備隊を殲滅して、この地方を統一した。マガダ国の王位を奪ったのは、この統一の前であるか後であるか明らかでないが、とにかくその翌年のことである。そうしてそれから数年の間に、マウルヤ帝国の版図は、東の海から西の海まで広がったのである。これまで何百という王国や共和国に分かれていたインドの国土は、この時に初めて、中央政府のもとに統一され、どんな外敵の侵入をも防ぎ得るような組織を持つに至った。その証拠は紀元前三〇五年に起こったセレウコスのインド遠征である。このアレキサンドロスの後継者は、インドから手ひどく撃退されたのみならず、カーブルの谷などをインドに割譲するという屈辱的な条約を結ばなくてはならなかった。またその結果としてセレウコスは、マウルヤ帝国の(298)首都パータリブトラに大使メガステネースを送った。インドの歴史が此較的正確になってきたのは、このギリシア人のおかげである。
 以上によって見ると、アレキサンドロスのインド遠征の直後にインドにおいて大帝国が起こったということは、決して偶然ではない。組織された武力による大きい統一、これまでインドに欠けていたその統一を、チャンドラグプタは、組織的武力と武力的組織との天才であるアレキサンドロスの感化のもとに、|インドにおいて初めて〔付ごま圏点〕創り出したのである。だから、インドにおける政治学の教科書として有名な Kautili※[記号あり]ya-Arthasa※[記号あり]stra は、|チャンドラグプタの宰相チャーナキャ〔付ごま圏点〕が書いた、ということになっている。もちろんそれは事実であるかどうかわからない。今でもそれを事実として是認する学者もあるが、また他の学者は、この書に取り扱われているのが、マウルヤ帝国のような大帝国の形成される以前の小国対立の状態であることを指摘して、一層古く見ようとしているし、さらに他の学者は、メガステネースが全然チャーナキャのことに言及していないこと、叙事詩や古仏教文芸の知識がこの書に含まれていること、などを論拠として、紀元後三世紀よりも古くはないと主張している。が、それがいずれであるにしろ、マキアヴェリに比せられるような特徴を持ったこの書の著者が、最初の帝国と結びつけて考えられていることは、決してゆえなきことではない。統一は確かに武力によって達成されたのである。六十万の歩兵、三万の騎兵、八千の戦車、九千の象などという数字がそれを示している。
 がそれにもかかわらず、チャンドラグプタは決して|ペルシア風の専制君主ではなかった〔付ごま圏点〕といわれる。彼が権力を得たのは、パンジャブの|共和的な〔付ごま圏点〕部族の助けによるのであり、また彼が熱心につとめたのは、インド的な村落共同体を全国民的な整然たる組織のなかに編み込むことであって、その共和的な自治形式を抑圧することではなかった。彼の(299)統治を圧制的だと言ったのはギリシア人の記者だけであって、ほかに証拠はない。反対に、彼がアリヤンの古来の法や風習を尊重したことは、同じギリシア人も認めているのみならず、ほかにも証拠がある。チャーナキャの著書といわれるものには、王の人民に対する義務を規定しているが、王の神聖な特権などには言及していない。チャンドラグプタは世界征服などを夢みはしなかった。彼の目ざしたのは、ただアリヤンの国土を統一し、堅めることであった。その際彼が古来のアリヤンの法を認め、その制度を彼の統治組織のなかに取り入れているとすれば、彼はまさしく立憲君主であったといえる。
 この見方はなお議論の余地のあるものであるが、しかしマウルヤ王朝の最大の意義が、チャンドラグプタの孫アショーカ(阿育)によって創り出された独特なインド的帝国にあるとすれば、われわれは右の見方に賛同せざるを得ないであろう。アショーカ王は、マウルヤ帝国の巨大な権力を傾けて、|ダルマ(法)の支配〔付ごま圏点〕を打ちたてようとした。その法は特にブッダにょって説かれたもの、慈悲の理想を原理とするものである。国家の仕事は民衆の道徳的教育に集中せられた。それによってアショーカは、アリヤンと非アリヤンとの間を融合し、インド人を|一つの国民〔付ごま圏点〕たらしめたのみならず、それまで中インドの狭い地域の一宗派に過ぎなかった仏教を、|世界宗教〔付ごま圏点〕にまで拡大したのである。この仕事はしばしばローマのコンスタンティヌス大帝のキリスト教に対する仕事に比せられているが、しかしキリスト教はそれまでにすでに世界宗教となっていたのであって、皇帝はただそれを国家にとり入れたに過ぎない。しかるにアショーカ王は、使徒パウロがやったと同じ仕事を、皇帝としてやったのである。かかる現象ほインド独特といわなくてはならない。
 アショーカは太子としてタキシラやウッジャインの知事をやった。タキシラは当時インドの最大都市の一つとなっ(300)ており、全国から上流の子弟が学問のために集まって行った。中でも医学が有名であった。ウッジャインは西インドの首都で、同じく教養の中心であり、天文学が有名であった。アショーカがこれらの都市において相当の教養を身につけたことは疑いがない。しかし彼は初めから法の支配を志したのではなかった。彼は王位に即いて大帝国の権力を握ってから十三年目に東南インドの征服を遂行している。が、この戦争の残虐は、彼の心を転向せしめた。仏教が彼の心にはいってきたのはその時からである。その後二年半にして彼は、在位のまま、受戒して|教団にはいった〔付ごま圏点〕。その後没するまでの二十七年の間、あらゆる力をつくして法の宣揚につとめたのである。その事績は、磨崖や石柱に刻まれた王自身の誥文によって、詳らかに伝えられている。彼はブッダの教えた法を平易に、民衆に理解せられやすい形で、言い現わした。ブラフマンが異論を唱えそうな形而上学的な議論は、注意深く避けている。最高のカーストたるブラフマンに対しても、最低のカーストたるスードラに対しても、あるいは非アリヤン人に対しても、彼の与えた命令は全然同一である。あらゆる生きものをいつくしめ! こうしてアショーカは、強大な帝国の最高権力を、道徳的な法と一つにした。このようなアショーカの統治は、インド文化の最大の時期であったのみならず、世界史における一つの偉大な事件である。
 古い仏典の伝えている|転輪聖王の理想〔付ごま圏点〕は、恐らくアショーカ王の事績の反映であろう。それはモンスーン地域において後代までも統治者の理想として力を持っていた。しかしマウルヤ帝国は、アショーカ王の没後急速に衰え、四十七年の後には崩壊してしまった。権力と結びついた教団は頽廃し、宗教と結びついた権力は人倫的な晴朗さを失う。人類はまだ道徳的な法の支配を永続きさせるほど成長してはいなかったのである。
 マウルヤ帝国の崩壊とともに、南インドは独立し、北西インドは外国人の手に移った。外国人というのは、バクト(301)リアにいたギリシア人や、ペルシアの故地に国をたてたパルティア人などである。ギリシア人の王としては仏典にミリンダ王として名を残しているメナンドロスが有名であるが、しかし彼のほかにも、貨幣に名を残している王たちは、三十七人に及んでいる。タキシラやマトゥラーの町はいつもこれらの外国人の支配の下にあった。この形勢は、シナの辺境から起こった民族移動の波と結びついている。紀元前一七〇年前後のころに、匈奴に追われた月氏の五十万乃至百万の集団が、シナの甘粛省から西に向かって移動しはじめ、ついに天山山脈を西へ出て、シル河の北方にいた塞民族の土地を占領した。塞は追われてバクトリアやパルティアの国土へ侵入し、さらにインドへも入り込んできたのである。が、そのあとに居ついた月氏は、紀元前後のころ、強固な国家を結成するに至り、バクトリアや北西インドをその支配下に置いた。紀元一世紀の中ごろ以後には、三代目の王カニシカが、東において漢帝国と対抗しつつ、南においてはインドを奥深く征服したのであった。
 この月氏の支配は、クシャン王朝あるいはインド・スキタイ王朝などと呼ばれているが、二二五年まで二世紀の間続いた。ちょうどそのころに、西にはローマ帝国、東には漢帝国があり、中央の月氏の領域を媒介として、世界的な交通が開けていたのである。この月氏の帝国は、マウルヤ帝国と同じ意味でインド帝国とは呼び難い。がそれにもかかわらず、ここには、アレキサンドロスのあとに一つのヘレニスティックの世界が残されていたのと同じ意味で、|仏教文化の世界〔付ごま圏点〕が形成されていたことを見のがすわけには行かない。それは北西インドを中心として、ヒマラヤの北と南とを包む世界であった。この時代にこの地域で興起した大乗仏教は、インド的ならぬ多くの要素をも抱き込んでいるが、しかしそれを総合したのは紛う方なくインドの精神である。そうしてそこには、受容的・忍従的で、感情の横溢を充分に統御し切れないというモンスーン的性格が、実に顕著に現われているのである。
(302)          (ニ) シナ
 インドから転じてシナの地域に眼を向けると、同じモンスーン的風土がまた異なった歴史の姿となって現われていることを強く感ずる。シナの文化は|黄河の流域〔付ごま圏点〕にはじまったが、その黄河が茫漠たる草原地域と連なっていることを、われわれは絶えず念頭におかなくてはならないであろう。シナにおいて世界史第二期の展開が一通り行なわれたころには、シナはモンスーン的性格の国土として、|長大な人工的城壁をもって〔付ごま圏点〕おのれを草原地域から区別したが、かく|区別の努力〔付ごま圏点〕をしなくてはならなかったことは、逆にその|つながり〔付ごま圏点〕の密接であったことを示すものである。この点は、ヒマラヤ山脈を障壁として持っているインドと、著しく相違するといってよい。
 シナにおける歴史の初まりを語っている伝説が、その史実としての信憑性を失って以来、それに代わって古い時代を明らかにする考古学的な研究は、ようやくこの二十余年来関始されたばかりであったが、それもこの十年来の不幸な状勢によって停頓している。目下の段階において決定的な意見を立てることは、恐らく何人にも不可能であろう。しかしそれでも、スウェデンの地質学者アンダーソンが明らかにした|彩色土器の遺蹟〔付ごま圏点〕は、シナの古代の考察に新しい時期を画したものといえよう。それにつづいてシナや日本の多くの考古学者の活発な探究が行なわれ、|黒色土器の遺蹟〔付ごま圏点〕や|白色土器・青銅器の遺蹟〔付ごま圏点〕も急激に明らかにされるに至った。われわれはそれによって、おぼろげながらも文化の推移を見当づけることができる。
 アリヤンが初めてインドに侵入したのは、恐らく紀元前二千年のころであろうと推定せられているが、ほぼそのころ、あるいはそれよりも前の時代に、シナの地域の文化状態はどうであったか、それを示しているものが右の彩色土器や黒色土器の遺蹟なのである。それらは主として|新石器時代〔付ごま圏点〕の様相を開示したが、そのあるものは著しく進んでお(303)り、青銅時代との連絡を示すかに見える。
 シナの彩色土器は、西トルキスタンのアナウ、ペルシアのスーサ、南ロシアのトリポリエなどの彩色土器と酷似しており、特に彩色土器の西方群としてのトリポリエその他バルカン地方のものと親縁を有するといわれている。それが民族的な連関を示すのか、あるいは文化的連関に過ぎないのであるかは明らかでないが、しかし新石器時代のシナの住民が、|世界史第一期の文化と無関係ではなかった〔付ごま圏点〕、ということは、これによって推測せられると思う。そういう彩色土器は、シナの西部の甘粛・青海地方から、陝西省、山西省を経て、河南省の洛陽や安陽などに至るまでの地域、さらに少しく離れて山西北部から熱河省、奉天省、関東州などにわたる地域に分布している。そうしてこの土器を用いた住民は、その遺蹟によって見ると、すでに|広大な聚落〔付ごま圏点〕を形成していた。アンダーソンが最初に彩色土器を発掘した洛陽方面の仰韶遺蹟は、東西四八〇メートル、南北六〇〇メートルといわれる。そのほか山西省の西陰遺蹟は五六〇メートルに八〇〇メートル、青海省の朱家寨遺蹟は九〇〇メートルに五〇〇メートルであった。村落としては相当広いといわなくてはならぬ。住居は底面の広い袋形の竪穴であるが、住民はすでに農耕を営み、米、黍、稷などを作っていた。豚、羊、犬などの家畜も飼っていた。衣服は麻布であったらしく、紡錘車の痕跡も認められた。彩色土器はかなり焼成度の高いものであるから、窯も相当に発達していたと認めなくてはならない。が、この種の遺蹟には、彩色土器のほかに粗製の|黒褐色の土器〔付ごま圏点〕も見いだされた。日用の食器料理器として用いられたのは、むしろこの方である。ところでその中には、後の鼎の形を思わせる|三本足の土器〔付ごま圏点〕などもまじっている。これは彩色土器と異なった文化との接触を示唆するものである。
 彩色土器が西方とのつながりを示すに反して、黒色土器は|シナの東部地域〔付ごま圏点〕の特徴を示すように見える。今までに発(304)掘された最も著明な遺蹟は、山東省済南の付近の|城子崖〔付ごま圏点〕である。ここの新石器時代住居址は、東西約三九〇メートル、南北約四五〇メートルの|土城〔付ごま圏点〕によって囲まれ、その外に濠があった。土城の厚さは根もとで十メートル以上あり、高さは六メートルぐらいはあったろうといわれる。このような堅固な防備を持った聚落は、集団組織のよほど進んだものでなくてはならない。この遺蹟で見いだされた石器のうちには、|農具〔付ごま圏点〕と考えられるものが多く、従って住民が土城の外に出て農耕を営んでいたことは明らかであるが、なおそのほかに|多数の獣骨〔付ごま圏点〕が発掘された。そのなかには豚、羊、犬のみならず、|牛や馬〔付ごま圏点〕の骨が見いだされた。彩色土器の遺蹟になかった|牛と馬〔付ごま圏点〕とがここに存することは、注意すべき相違である。馬はメソポタミアにおいてもずっと遅れて現われて来たもので、前にも言及したごとく、アリヤン民族が第一期の文化国民を圧迫し始めたのは、馬の使用によると考えられる。その馬がここにいた点はよほど注目されなくてはならない。が、この遺蹟を最も特色づけているのは、|黒色土器〔付ごま圏点〕である。精粗いろいろの種類があるが、その上質のものは漆黒色で、美しく磨き上げられ、焼成度もかなり高く、|ろくろ〔付ごま圏点〕を使っている。土器として相当に進んだものである。その形には、|三本足の鼎〔付ごま圏点〕や、|三つの袋足〔付ごま圏点〕を持ったかなえの変種などがある。これは|シナ固有の形式〔付ごま圏点〕と考えられるものである。そのほかにも杯、盆、豆《とう》、皿、壺など、後の銅器とのつながりを思わせるものがある。これらは彩色土器と全然様式を異にしている。そこでわれわれは、土城に囲まれた聚落を営み、牛馬を飼い、黒色土器を作った山東地方の石器時代人を、河南の彩色土器人と|はっきり〔付ごま圏点〕区別して考えねばならぬ。
 ところでこの黒色土器は、前に言ったように、彩色土器の遺蹟からも見いだされた。とすればこの両者は、同時代に接触していたものと考えられる。彩色土器が黄河沿岸において|洛陽安陽の線より東方には発見されない〔付ごま圏点〕、という点から推測すれば二つの文化は|東と西とに対立していた〔付ごま圏点〕のである。また彩色土器と黒色土器との併存する遺蹟が河南(305)山西にのみ存する、という点より考えれば、この地方が|東と西との接触点〔付ごま圏点〕だったのである。が、両者は単に同時代であったというだけではない。殷墟で名高い安陽の|後岡〔付ごま圏点〕においては、彩色土器、黒色土器、白色土器の三種が、ほぼ層位を異にして重なって存するのが見いだされた。彩色土器よりも後に黒色土器が行なわれたのである。同様な結果を示す遺蹟はほかにも発見された。してみると両者は、|同時に行なわれた〔付ごま圏点〕とともにまた|前後して行なわれた〔付ごま圏点〕のであり、そうして黒色土器の方が|あとに残った〔付ごま圏点〕のである。この点から考えると、彩色土器の様式が次の時代の青銅器の様式に|全然つながりを持たない〔付ごま圏点〕のに反し、黒色土器の器形が顕著に銅器の器形と似ていることは、非常に理解しやすくなる。|黒色土器を作っていた文化活動のなかから、ある時期に、青銅器の製作がはじまった〔付ごま圏点〕のである。これは両者の器形の類似を認めるものがどうしても否定し得ない点であろう。
 これはきわめて明白な事実である、といえるかも知れない。しかしそこには、|青銅の使用、文字の使用、白色土器の製作、シナ独特の怪獣文・電文などの創出〔付ごま圏点〕、というごとき、実に飛躍的な創造活動が含まれている。そういう画期的な仕事を、いつ、どうして、黒色土器人がなし得たのであろうか。これは明白などころではない。ほとんど見当がつかないのである。
 一九二八年以来学術的な発掘作業の行なわれた殷墟の遺品については、まだ充分に報告せられてはいないが、しかし右のような文化産物がすでに「できあがった様式」のものとして見いだされたということは、疑いのないところである。その遺蹟の年代を紀元前十四−十二世紀とする推定が許されるとすれば、そういう様式を作りはじめた時代、青銅や文字の使用をはじめた時代は、それよりもかなりさかのぼるものと見なくてはならぬ。紀元前二千年ごろにまだ石器時代にあったと考えられる黒色土器人は、いかにしてそういう飛躍をなし得たのであろうか。
(306) 紀元前二十世紀乃至十四世紀のころといえば、メソボタミアの世界史第一期の展開にとっては、ずっと|末期〔付ごま圏点〕であった。バビロンのハムラビの王朝も崩壊し、「海の国」の人やカッシュー族の王朝が建てられて、歴史は暗黒のなかに落ち込んでいた。それでも文字の使用や青銅の使用は、一向珍しいことではなかった。そういう文化圏とシナの地域との間のつながりは、彩色土器が示しているように、決してあり得ぬことではない。筋道は全然わからないにしても、亀甲や獣骨にしるされた古い文字、銅器を飾る怪獣文、鋳金の技術などは、どうもこの間のつながりを考えるように誘惑する。スメル人はきわめて早くから太陰暦をつくり、数を「六十」のまとまりで数える特殊なやり方をやっていた。それと符節を合わせたような十干十二支の数え方が、殷墟の甲骨の卜辞に現われている。黒色土器を作っていた石器時代人が、ただ|数世紀の間に、自分たちだけで〔付ごま圏点〕、太陰暦を作ったり、十干十二支を考え出したりしたとは、どうも考えにくいのである。
 貝塚茂樹氏はその著『中国古代史学の発展』において次のような仮説を立てている。城子崖の黒色土器遺蹟に見いだされた牛、羊、馬などの痕跡や、卜に用いられた鹿骨などによって考えると、山東省にいた殷民族は、河南省の農耕民族を征服して殷墟のところに都を造り、殷王朝を建設したのであるらしい。鹿の肩胛骨に裏から穴をあけ、火にあぶって表に出た兆によって吉凶を卜《うらな》うというかれらの方法は、殷墟から出る亀甲牛骨の卜法と同じである。そのうち|穴を三つずつ並べてあける方式〔付ごま圏点〕は、城子崖では|新しい層〔付ごま圏点〕からのみ発見されたが、殷墟においては|最も古い層〔付ごま圏点〕にその痕跡を残している。その間に連続があると認めざるを得ない。また黒色土器人は羊のほかに牛と馬とを持っていたが、殷墟でも、卜辞で犠牲にささげられる家畜は主として牛と羊とであり、またある王墓には馬骨のみの陪冢があった。ここにも連絡があるように見える。史記の材料となったと考えられる世本によれば、殷王朝は、牛や馬を家畜化した(307)祖王を高祖神として祀っていたという。これも一つの証拠である。以上二点のほかに、なお、黒色土器が|甲骨文字といくらか似た符号のごときもの〔付ごま圏点〕を持っていることや、古本竹書紀年に、殷王朝が盤庚のとき山東省の曲阜から殷墟へ遷都したとあることなども、証拠のうちに数えられる。
 この仮説はいかにももっともに思われるが、しかしそれだけでは、青銅器の鋳造がはじまるとか、文字が作られるとか、というような|大きい飛躍〔付ごま圏点〕が、どこで、どうして起こったかということは、依然としてわからない。せめて|牛や馬の使用の系譜〔付ごま圏点〕が明らかにせられるならば、この点に新しい光を投げるかも知れぬ。シナの北西郊から西南アジアまでの間の草原地域は、近世における海と同じように、案外に遠方への交通を可能にしていた。牛や馬、特に馬がこの草原を渡って来たものであることは、いかにもありそうなことである。その馬が太陰暦や鋳銅術を運んできたということも、あり得ぬとはいえぬ。殷墟の王墓において馬骨のみの陪冢が見いだされたということは、案外に大きい意味を担っているのかも知れない。戦争に馬や戦車を使用し始めることは、相当に大きい時期を画すべきものであろう。しかしわれわれはそれについて何一つ確実に知ることができぬ。ただシナにおける青銅器文化のはじまりが、インドとほぼ時を同じくしているであろうと想像し得るのみである。
 がいずれであるにしろ、殷王朝の後半の都であったと推定せられる殷墟の遺品(梅原末治著『河南安陽遺宝』)は、すでに明らかに|シナ的な性格をもった文化〔付ごま圏点〕の成立を示している。それはできつつあるもの、あるいはできたばかりのものではなくして、すでに成熟したものである。
 もし殷王朝が、付近の部族を|征服すること〔付ごま圏点〕によって王国としての統一を作り出したのであるならば、武器こそは王国の最も顕著な表現でなくてはなるまい。殷墟はそれに答えるように、青銅の鋭い矛、戈、戉、斧、刀などを出して(308)いる。戈《か》は矛と異なり、柄の先の刃が直角に横に出たもの、戉《えつ》は斧の一種、まさかりの類である。これらの形はメソポタミアにもあるが、しかしそれに比べるとむしろ|単純化している〔付ごま圏点〕といってよい。が、それよりも我々の眼をひくのは、これらの武器のうちに顕著に|非実用化、宝器化〔付ごま圏点〕の傾向を示したもののあることである。|銅の矛〔付ごま圏点〕は通例三四寸の尖角三角形の穂を長い柄の先に付けたものであるが、その穂を青銅ではなくして|良質の玉〔付ごま圏点〕をもってつくり、それをきれいに研き上げて、銅製の袋部にはめ込んだ、文字通りの「玉矛《たまぼこ》」がいくつか発見された。その袋部には、|怪獣や竜の文様〔付ごま圏点〕が鋳出されているのみならず、その文様に細かに青石が|象嵌〔付ごま圏点〕してある。これは何と言っても|宝器〔付ごま圏点〕であって|実用の武器ではない〔付ごま圏点〕。戈《か》のうちにも、柄と直角の刃を大きい玉で作り、その根元に|象嵌〔付ごま圏点〕の文様をつけた|美しい玉戈〔付ごま圏点〕がある。また玉戈でないものにも、根元に怪獣や竜の文様をいろいろな仕方で飾りつけたものが多い。さらに|まさかり〔付ごま圏点〕の類になると、この装飾文様は一層顕著で、中には刃先に近いところまで|透かし彫り〔付ごま圏点〕のようなふうに|竜文〔付ごま圏点〕を鋳込んだものさえぁる。これらは、武器としての用途からすっかり離れている、という印象を強く与える。そのほか、銅刀や、異形の武器のなかにも、怪獣や竜の装飾文様の方を主としているもの、従って武器であるよりもむしろ儀器であると認むべきものが少なくない。この現象は、|武力よりもむしろ祭儀的な力の方が勝っていた〔付ごま圏点〕ことを示すものである。従ってわれわれは、祭儀的な契機を考えずに、ただ武力的な征服だけを認めることはできないと思う。
 武器でさえもすでに右のような傾向を示しているのであるから、遺品全体のうちで|祭儀器が中核をなして〔付ごま圏点〕いることは、いうまでもなかろう。シナの古銅器として古くから知られている独特な様式の青銅食器類がそれである。多くは|酒の容器〔付ごま圏点〕であるらしいが、器形は実にざまざまで、中には鶏形をしたものなどもある。そういう器具が、怪獣文、竜文などの独特な文様によって、平面的に、あるいは立体的に、すみずみまで飾られ形づけられているのである。それ(309)は芸術的な作品としても現在なおわれわれを驚嘆させるものであって、その洗練された技術は、原始的などという段階からははるかに遠い。ところでこういう器具は、日常の道具としてではなく、|祖先祭祀のための宝器〔付ごま圏点〕として、特別の意味をもって作られた。銅器の銘には、たとえば、「子が、小子某に、王からの賞与の貝を与えた。小子はそれをもって父己宝尊を作る」というごときがある。この「子」は貴族の子弟の集団|多子族〔付ごま圏点〕の長たる王子、「小子」はその集団の成員と解せられる。(貝塚氏、前引書六六ページ以下)当時の人々は、おのれの用い得る富をもって|最も価値あるもの、最も永続すべきもの〔付ごま圏点〕を作ろうと欲するときには、父祖を祀るための銅器というごときものを作らしめたのである。とすれば、これらの銅器は、この時代の|宗教的・芸術的な記念碑〔付ごま圏点〕だといってよいであろう。
 これらの銅器と酷似した様式を持つ白色土器や、石器、玉器、牙器、骨器の類も、またそれに似た意義を担っていたらしい。宗教的な意味を帯びることなしに、単に美術品として賞玩するということは、このころには恐らくなかったであろうと思われる。ところでそのような特徴を記録の上から示しているのが、亀甲や牛骨の上に刻まれた文字なのである。その文字は、羊、馬、鹿、豕、犬、竜などを示す字が例証しているように、まだ明らかに|絵画的な象形〔付ごま圏点〕の痕跡を残したものであるが、その用いられた目的は、主として|卜いのため〔付ごま圏点〕であって、王の事績の記録とか、契約のしるしとかのためではなかった。それによってある戦争の事実が知られるのは、|それを卜つた〔付ごま圏点〕からであって、勝利を記念碑的に記録したからではない。この点においてはメソポタミアの先例とは著しく異なっている。殷墟の豊富な卜辞が示しているところは、|王の公私の生活がすみずみまでも亀卜骨卜によって規定せられていた〔付ごま圏点〕、ということである。天地山川や祖宗の祭祀、外国の征伐、年穀の豊凶、晴と雨、などのような公的な事柄から、王の病気、その出入、漁猟、などの私的な事柄に至るまで、一々|卜わずしては行なわなかった〔付ごま圏点〕。というのは、これらの事柄はすべて|天命によ(310)り未来にわたって定まっている〔付ごま圏点〕のであるから、その定まった過程をあらかじめ知ることができれば、それに合わせて行為し得る、という考えが支配していたのであろう。これは、王の恣意によって集団の休戚を左右されることを防ぎ、集団の行動を絶えず客観的に定まった、見えざる規矩に従って決した、ということを示している。このような王国において、武器が儀器に化し、最も念を入れた文化産物が祭儀の器であったのは、いかにももっともなことである。
 殷墟卜辞の研究によると、卜辞に署名した|貞人〔付ごま圏点〕(すなわち祝)には|三つの群れ〔付ごま圏点〕があって、それぞれ異なった時代を示している。すなわちどの時代にも王の側《そば》には一つの|貞人団〔付ごま圏点〕があって、事ごとに亀甲に問いをかけていたのである。卜師が亀甲を灼いて割れ目を生ぜしめると、|卜儀を主宰する王〔付ごま圏点〕が見て吉凶を判ずる。その判定は、吉か凶かの二者択一の場合は容易であるが、次の十日間を卜うというごとく、十日のうちのどの日に凶事があるかを判定するごときは、容易でない。そういう判定のためには、恐らく巫による口頭の神託が用いられたであろう。巫師は十人で、王は|巫師長〔付ごま圏点〕の位置にあったらしい。(貝塚氏、前引書二七七ページ)そうなると、|貞人団〔付ごま圏点〕と|巫師団〔付ごま圏点〕とによって行なわれる占卜が、国家の統治にほかならなかったのである。
 こういう統治の形式は、彼らに統治せられる|集団の意識〔付ごま圏点〕を反映しているのであって、少数の支配階級だけの意識を現わしたものではない。支配者の与える命令が、支配者の恣意ではなくして|天命〔付ごま圏点〕であると解せられるがゆえに、被支配者はその絶大な権威に服したのである。従ってこの形式は、もともと小さい部族や氏族の集団においてはじまり、漸次拡大して、王というごとき大きい組織においての|大きい占卜組織〔付ごま圏点〕になったと考えられる。殷代の卜辞のなかにも、王の占卜組織においてでなく、貴族子弟の集団|多子族〔付ごま圏点〕において、集団長たる王子が卜問したものもある。(貝塚氏、同上二八八ページ以下)祭儀を共同にする団体は同時に占卜団体でもあったのである。とすれば、国家の統一が行なわ(311)れたときに、個々の部族的或は氏族的な占卜団体から、この種の司祭を中央に送り、それが|王の側の貞人団〔付ごま圏点〕を形成した、と考えてよいであろう。王もまたその一人であったのである。従って王朝の占卜機関は、部族あるいは氏族の連合を表現するものであった。王はこのような連合的祭祀の|司祭長〔付ごま圏点〕として、その宗教的権威によって王国を支配したのである。
 しかるに殷墟の卜辞は、時代が下るとともに、|この関係が変わった〔付ごま圏点〕ことを示している。甲骨文における|貞人の署名は漸次減少し〔付ごま圏点〕、署名なきものが増大する。晩期には|王が親ら卜貞する形式〔付ごま圏点〕のものがふえている。|貞人の属する連合的な占卜機関の権威が衰え、壬の個人的な占卜の力が増したのである〔付ごま圏点〕。これは|帝王の権威の興隆〔付ごま圏点〕を示すというほかはない。王が司祭の宗教的権威を独占し、それぞれの団体の首長と比較にならないほどの大きい権力を握って来たのである。
 殷代においてすでに王が、|世俗的な独裁君主〔付ごま圏点〕として、宗教的権威から分離したかどうかは、明らかにはいえない。
 最後まで占卜が盛んに行なわれているからである。しかし王の権威の増大が殷の滅亡と何らか関係があったらしいことは、察するに難くない。卜辞の古いものには祖宗に|雨乞い〔付ごま圏点〕をする農耕行事が盛んに現われてくるが、それは時代が下るとともに度数を減じ、その代わりに初め少なかった|狩猟〔付ごま圏点〕が頻々として現われてくる。王の権威の増大は、公共的な関心が薄れ、個人的な享楽追求が強まる、という傾向を示しているのである。こういう形で王の権威が高まるということは、その権威の地盤たる集団の宗教的意識と衝突する。そこで、最初に背いたのが、殷の故地たる山東半島であったらしい。卜辞では殷の統制に服しない独立国は「方」と呼ばれているが、王朝の末期には、山東半島の諸部族は連合して「人方」すなわち「夷方」を形成した。殷の紂王はこの人方を征するために大軍を動かしたのであるが、(312)その征戦が、西方の周に、王朝覆滅の機会を与えたのである。
 殷王朝の統治組織は、首都商邑及びその郊外を直轄地として、ここに王族、多子族などの諸部族を住ませ、その外方の被征服地域には、殷王朝に服属した|侯〔付ごま圏点〕あるいは|伯〔付ごま圏点〕のもとに、在来の部族国家を半独立の状態に保つ、というふうであったらしい。これらの付庸国の外方にはさらに独立国「方」があり、侯伯たちはこの「方」の征伐に際し王命をうけて従軍している。侯伯の下にはさらに「田」と呼ばれる小諸侯があった。そういう田や侯伯は、殷と異なった部族として、それ自身の組織を持っていたと考えられる。
 殷墟の卜辞によると、周は、すでに古くから侯と呼ばれ殷王朝に服属していたらしいが、また殷から討伐をうけた場合もある。周という文字は、田の形の区画のなかに農作物を植えた象形であるから、このころすでに農業によって栄えていた国であろう。殷王国の西方においてそういう土地を探すと、山西省の汾水流域と陝西省の渭水流域のほかにはない。たぶん汾水流域が周の故地であり、殷の勢力によって渭水流域へ追われたのであろう。(貝塚氏、同上三〇八ページ以下)そうしてここで堅実な農業国を再建し、殷王朝に服事しつつ、漸次強大となったのでぁろう。
 この周侯が西方の諸国を糾合してついに殷王朝を覆滅したのであるが、古い伝説はここで、周の文王、武王、成王などの名をあげている。|文王〔付ごま圏点〕が周国を飛躍的に強大ならしめ、|武王〔付ごま圏点〕が戦争によって殷王紂を倒し、|成王〔付ごま圏点〕のとき叔父の|周公、召公〔付ごま圏点〕などの助けによって周王朝の組織を完成した、というのである。これらの王名はいかにも作りものの感じを与えるが、しかし陝西の故都|宗周〔付ごま圏点〕のほかに河南の洛陽の地に|成周〔付ごま圏点〕の都ができたということは、どうにも疑うわけには行かない。こうして周の時代がはじまったのは、ほぼ紀元前十一二世紀のころといわれている。
 この周初の事蹟は、|周公〔付ごま圏点〕の政令といわれる|尚書〔付ごま圏点〕の諸|誥《こう》や、文王武王の偉業を讃美した|詩大雅周頌〔付ごま圏点〕の諸篇などによっ(313)て伝えられ、それを儒教が最も重要な経典として尚んだために、永くシナの国土における政治や道徳の規範となった。その意味で|周の民族性〔付ごま圏点〕は|シナの民族性〔付ごま圏点〕の原型となったといわれる。もちろん右の伝説をどれほど史実として認めてよいかは疑問であるが、しかし近来、殷代金文などとの比較によって、尚書の諸誥のうちに、同時代史料と認めてよいようなものも見いだされて来たので、周代の歴史的意義は再び高まったといってよい。この見地から殷周革命の意義を非常に重大視し、そこに単なる王朝の交替ではなくして、|文化的社会的大変革〔付ごま圏点〕を認める説も捷出せられている。殷代の|氏族的制度〔付ごま圏点〕がここで打破せられ、全然新しい周代の|封建的礼制〔付ごま圏点〕が起こった、とするのである。この説は細部においていろいろ批判をうけてはいる。周代の封建制といっても、儀礼周礼礼記などに記されているような整ったものが周初にあったわけではないし、また殷代に封建制がなかったというわけでもない。周初の諸侯の等級は侯田男の三等であって、公侯伯子男の五等爵ではないが、殷代の諸侯もすでに侯伯と田との二等に分かれており、|その差は一歩〔付ごま圏点〕である。相続制についても同様のことがいえる。しかし、そのような批判にもかかわらず、ここにかなり|根本的な変化〔付ごま圏点〕を認めることは、可能であるらしい。それは、占卜による|宗教的な統治方式〔付ごま圏点〕が、道徳的な意義を主にする|礼の統治方式〔付ごま圏点〕に変わったということなのである。
 このことは、周代に至って|亀卜が捨てられた〔付ごま圏点〕、ということを意味するのではない。亀卜は依然として行なわれ、後にはその中から易を発展せしめている。しかし亀卜が行なわれるということと、それによって一々の政治的決定がなされるということとは、全然別のことである。殷代は私事のみならず|公事の決定に占卜を用いた〔付ごま圏点〕がゆえに、実に豊富に甲骨文を残している。しかるに周代の甲骨文は、今のところでは、少しも発見されていない。このことは|周代の政治家が天命に対する考え方を変えた〔付ごま圏点〕ということを示唆する。ちょうどそれと対応するかのように、尚書の召誥《しようこう》におい(314)て、召公は、殷の滅亡が|徳を敬せず〔付ごま圏点〕して天命を墜《おと》したものであること、従って周の王は|徳を敬し徳を行なうこと〔付ごま圏点〕によって天の永命を祈るべきであること、を宣言している。この「命」は天から与えられた運命を意味するが、その運命を一々の行為の際に亀卜によって判じなくても、徳をつつしみ徳を行ないさえすれば、それを守りまた永くすることができる、というのである。それならば亀卜に心を労するのはむだである。徳を行なうことほど心を安んぜしめるものはない。ここに礼を重んずる周代文化の基礎が確立されたのである。
 この変革をわれわれは、|甲骨文〔付ごま圏点〕が影をかくし、|周の銅器〔付ごま圏点〕が盛大に製作された事情のうちに、読みとることができる。銅器の種類や形や、その製作のために費やされた精力などから考えると、祖先の霊や天地の神を祀る祭儀は、殷代よりも一層盛んに行なわれたらしいが、しかしその祭儀は、祀る者の運命に呪術的な影響を与えるものとしてよりは、むしろ祀る者の|敬虔の念の表現〔付ごま圏点〕としてすなわち礼として、行なわれたのであった。ここに示された|新しい方向〔付ごま圏点〕をずっと引きのばして行くと|神秘主義的な色彩を全然欠いている孔子の〔付ごま圏点〕態度や教えに突き当たることになる。先祖の霊や天地の神を祀ることに対しては、孔子は決して反対はしないが、しかし冷淡であった。彼の関心事は、ただ生きている人々につくすこと、すなわち人倫の道だけであった。この孔子の立場をさらにひきのばして行くと、礼祀などのような漢代の学者の説につき当たる。ここでは殷と周とが次のように比較されている。殷人は神を尊び、民をひきいて神に事《つか》え、祖先の霊を先にして礼を後にした。周人は礼を尊び、民への施しを重んじ、祖霊や神に対しては敬事しはするがそれらを遠ざける態度をとった、と。これは周初から千年を経た後の学者の解釈に過ぎないが、しかし案外に当たっているかも知れない。王国維は『殷周制度論』において、周公の諸制度の目ざしたところは、「上下を道徳に納め、天子諸侯卿大夫士庶人を合して一つの道徳的団体を形成する」にあった、といっているそうであるが、恐らくそうい(315)う見方もできるであろう。
 礼の尊重は|人倫的な秩序〔付ごま圏点〕の尊重である。従って礼による国家の組織は、人倫的組織としての国家の意義の自覚にほかならない。ところで、ここに問題とされた人倫的秩序は、主として|血縁共同体の秩序〔付ごま圏点〕であった。いわゆる|宗法的秩序〔付ごま圏点〕がそれである。これは「同姓不婚」とか「嫡庶の別」とかを重要な規定とする民族的な秩序であって、大国家の組織にはいかにも不向きのように見えるが、周王朝はこれを封建的国家組織に作り上げることに成功したのである。周公召公のごとき政治家は、おのれ自身の卓抜な才能にもかかわらず、自ら権力を握ろうとはせずに、|兄王の嫡子〔付ごま圏点〕を擁護して黄河平原の平定に努力した。そうして殷王国の故領故地たる河南河北山東の地域に衛、魯、斉、燕などの諸侯国を建て、そこへ自分たちの弟とか、長子とか、王の母后の氏族のものとかを封じた。これらの侯国は、いわゆる方伯として、さらにその下に同姓の小国や異部族の付庸国を従えるのである。殷代にあってはこういう諸侯国は異部族のものであって、殷王の民族的秩序のもとにはもたらされなかった。しかるに周代には、周王室の民族的秩序を黄河沿岸の国土全体の上に拡大し、それによって多くの異部族を殷代よりも一層緊密に国家組織のなかに組み入れたのである。
 この過程はエジプトとの比較においてわれわれの関心を刺激する。エジプトでは氏族的な団結の痕跡は国家組織のなかに残っていなかった。大河の流域での灌漑工事の必要が、早くより氏族以上の大きい団体を、すなわち地縁共同体を形成せしめたのである。しかるにシナでは、同じく大河の流域で、治水の必要が一層強く感ぜられるにもかかわらず、|氏族的団結の痕跡〔付ごま圏点〕が顕著に存在し、地縁共同体を圧倒するほどである。|宗廟の祭祀〔付ごま圏点〕は|社稷のそれ〔付ごま圏点〕よりも重んぜられている。これは初期の水田耕作が大河の流域でなく|小さい支流の流域〔付ごま圏点〕で行なわれたこと、黄河の治水は初期国家よりも後の事業であったことに連関する。受容的忍従的なモンスーン的性格にとっては、黄河はどうにも手に合わな(316)いものであった。が、さらに北西方において草原的地域と連なり、牧畜を相当に営んだことにも連関するであろう。固い民族的団結は草原の遊牧民族の特色だからである。が、いずれにしてもこの現象は、一面においてい血縁的な情誼が非常に重大視せられたことを示すとともに、他面においては、血縁的なつながりによって非常に大きい団体を作ることが可能であった、ということを示している。しかしこの組織は、平面的にではなく、ただ複階的にのみなされ得た。従って宗法的な封建社会は、複雑な|階叔制度〔付ごま圏点〕において実現された。その最高階に位する王族が、一つの氏族によって、広大な国家を組織し得たゆえんである。従って周代の礼は、主として血縁関係に即したものであるとともに、またはなはだしく階殻的なものなのである。
 こういう階級組織は通例は|征服国家〔付ごま圏点〕において形成されると考えられている。その考えによれば、征服者たちは|治者階級〔付ごま圏点〕となり、被征服者は|半自由民〔付ごま圏点〕や|奴隷〔付ごま圏点〕にされるのである。周王朝は殷を征服し、さらにその故地山東半島を征服することによって建てられた。その後も東南地方の討伐を続けている。天子諸侯卿大夫などというのは|征服者の階級〔付ごま圏点〕なのである。とすれば、この封建制度は、|武力による民衆の抑圧〔付ごま圏点〕であって、人倫的な秩序の樹立などと見るべきではなかろう。礼はこの抑圧の組織に過ぎない。
 なるほどそう考えられる点もないではない。しかし周の文物は、|武よりも文を重んずる〔付ごま圏点〕という性格のはっきりと現われたものであって、武力的な専制国家の面影を見せない。天子の理想にも武の要素は全然含まれていない。すでに殷代において武器が著しく儀礼化していることを前に注意したが、その傾向は周代の礼の重視として発展している。封建諸侯も文による治者であって|武将ではなかった〔付ごま圏点〕。その下にも|専門の武士はいなかった〔付ごま圏点〕。軍隊は、必要があれば、徴兵によって組織する。指揮者は諸侯以下、政治を行なっている士大夫たちである。これは治者階級が軍人にほかな(317)らなかったスパルタなどとは明らかに異なる点である。
 このような周王朝の|礼による統治〔付ごま圏点〕――すなわち宗法的秩序を国家的に拡大し、宗廟や天地の神の祭儀を中心として、王侯卿大夫士庶の|階級の別〔付ごま圏点〕により国民を統一する、という仕方は、シナの地域における国家の特殊な性格を示すものといってよい。|血縁共同体的な紐帯〔付ごま圏点〕がシナの社会の基盤であることは、その後現代に至るまで変わりがないといわれているが、その紐帯の上に道徳的色彩の濃い国家組織――武力による強制でない国家組織を作り上げたことは、一つの独自な創造であった。このようなことは、戦闘的性格の強い民族においても、また合理的性格の著しい民族においても、起こり得なかった。それはただ忍従的情誼的な農業民族のみがなし得たことである。
 が、このような礼の統治も、やがて硬化して創造的な力を失ってしまう。血縁的紐帯によって緊密に結びついていた諸侯国は、時とともにその結合をゆるめ、やがて敵のように対立抗争をはじめる。諸侯国の結合の上に立っていた周王朝の権威はそれとともに失墜せざるを得ない。かくして出現したのがいわゆる春秋時代(710−404 B.C.)で、諸侯の国々はただおのれの富強につとめ、周室をしのぐに至った。孔子が出現したのはこの時代の未(551−479 B.C.)である。彼は周王朝の創造的な意義を周公の人物や仕事において看取し、そこに示されている|徳治の理想〔付ごま圏点〕を再び蘇らせようと努力した。その意味で彼の仕事は周の文化の大きい記念碑だといってよい。
 春秋列国の覇権競争は漸次激烈となってついに戦国時代(403−220 B.C.)を将来した。諸侯のうちの強大なものは王と称し、独立国としての制度を整えた。それらの国々は、外部に向かって戎狄の征服につとめるのみならず、互いの間にも激烈な武力争闘をはじめた。合従連衡というような国際間の接衝も盛んに行なわれた。この情勢は、長い間行なわれてきた封建的な礼制を、|実力によって覆す〔付ごま圏点〕ことを意味する。ちょうどそういう時期に、|鉄器の使用〔付ごま圏点〕が開始さ(318)れ、耕作・灌漑の方法や、戦術などの上にも、かなりの変革があった。商工業も勃興した。才能あるものは階叔のいかんを問わず重用される。まさに実力の解放である。諸子百家が現われてさまざまの部門にわたり、さまざまの説を立てたのは、この解放の気運を示すものといえよう。
 こういう沸騰が起こるについて、|外からの刺激〔付ごま圏点〕がありはしなかったか、という疑問は、誰の心にも浮かぶであろう。時代はちょうどアレキサンドロス大王の東征の前と後にわたる二世紀聞である。が、その証跡は案外に少ない。今までのところでは、考古学の方面から|スキタイ文化の影響〔付ごま圏点〕が実証せられている。(梅原『戦国式銅器の研究』『漢以前の古鏡の研究』)スキタイは欧亜の草原地域にあってペルシアやギリシアとの接触を保っていた。シナがこれを介して西方の刺激をうけたことは疑いがない。が、もっと大きい影響はないであろうか。わたくしは|秦の勃興〔付ごま圏点〕がそれを示すのではないかと疑っている。戦国時代の諸国のうち、西方との接触の地たる陝西甘粛を領していたのは秦である。その秦が巧みな外交と武略とによって他の諸国をことごとく征服しおえたのは、アレキサンドロスよりも百年ほど後の紀元前二二一年である。そうしてこの秦の作り出したのが、アレキサンドロスやチャンドラダプタの世界帝国と同じく、シナにおける世界帝国なのである。
 秦の始皇帝が|皇帝〔付ごま圏点〕という尊号を用いるに至ったのは、戦国時代に諸侯がみな王を称し、従って王号が|天子〔付ごま圏点〕を現わし得なくなったからである。今や諸王国を征服して|天下を統一したもの〔付ごま圏点〕は、王と次序を異にする「皇帝」でなくてはならぬ、と考えられた。この意識は明白にこの「帝国」が新しい時期を画することを示している。それはこの帝国の制度において実現された。|文字〔付ごま圏点〕や|度量衡〔付ごま圏点〕や|通貨〔付ごま圏点〕などは、それぞれの王国が、その独自の様式を用いていたのであるが、今やそれが一つの規格に統一され、帝国内どこでも通用することになった。政治の上では、封建制度が全廃され、(319)中央集権的な郡県制度が創り出された。これは秦の一国内に発達していた直轄地統治方式を帝国の全版図に押しひろめたものと思われる。地方の郡県を治めるものはすべて中央政府の官吏である。地方の都邑の防備は撤廃され、兵器は鋳つぶされ、武力もまた中央に集中された。その中央の武力の自由な駆使のために、盛んに|道路〔付ごま圏点〕や|運河〔付ごま圏点〕も構築された。こうして大軍を動かし得るに至った帝国は、数十万の遠征軍を送って北方の匈奴を攘い、すでに部分的に作られていた|長城〔付ごま圏点〕を大成して、西は甘粛省から東は奉天省に至る|長大な城壁〔付ごま圏点〕を作った。これは、|各地の都邑の城壁を破毀した代わりに、それらを帝国の外側に移した〔付ごま圏点〕、というわけであって、帝国形成の意義を直観的に示したものといってよい。長城には守備兵を配して帝国を守らせた。こういう武力的大帝国が、アレキサンドロスの世界帝国よりは一歩遅れるとともに、ローマ帝国よりは一歩先んじて、シナの地において形成されたのである。
 この大きい変革は、荒ごなしができただけですぐ反動に逢ったが、しかし秦帝国の崩壊はシナにおける大帝国形成の気運の挫折ではなかった。漢初に復興された封建制度は、高祖(202−195 B.C.)より武帝(140−87 B.C.)に至るまでの数代の間に漸次その実を失い、王侯の名目は残っても、実際は中央集権的郡県制と異ならないものになった。秦の始皇帝が一挙に断行しようとしたことを、漢帝国は一世紀かかって成し遂げたのである。それを完成した武帝は、同時に武力をもって漢帝国の版図を、西は甘粛省、南は安南、雲南、東は朝鮮北半に至るまで、押しひろげた。特に西方において匈奴を撃破したことは非常に意義が大きい。その結果、今の新疆省からロシア領中央アジアにわたる西域諸国が、漢帝国に服属するに至った。紀元前一世紀後半の漢帝国は、ただパルティア(安息国)によってのみローマ帝国と距てられていたのである。
 ここにわれわれは、シナの地においても、世界史第二期の展開が、結局、武力の上に立つ君主専制の世界帝国を生(320)み出していることを見るのである。それは、血縁共同体的な秩序にもとづき、礼による統治を実現しようとする、徳治国家の理想のなかから、生まれ出たものではない。武力的競争のただ中から、世界的な統一が目ざされ、その解決として、世界史第一期と同じような結論に逆転してしまったのである。
 しかしそれにもかかわらず、シナの地における世界帝国が、ローマ帝国と異なった性格を持つことは、指摘し得られぬではない。ローマ皇帝は本来「将軍」であるが、シナの皇帝は決して将軍ではなく、理念上「天子」であり「道を行なうもの」であった。こういう考えは儒教にもとづくのであろうが、その儒教を帝国の国教として採用したのは、ほかならぬ漢の武帝その人なのである。徳治国家の理想は武力による世界帝国の現実とはなはだしく距たったものであるが、しかしその理想をもってこの帝国を飾ることがシナでは必要であった。|武よりも文を重んずる伝統〔付ごま圏点〕はそれほど根強かったのである。漢帝国が、その強大な武力にもかかわらず、ついに最後まで|軍隊の職業化〔付ごま圏点〕という現象をひき起こさず、|軍人が政権を握ることもなく〔付ごま圏点〕、民衆の中から科挙によって選び出された官僚を綿密に組織することによって、絶対君主制の大帝国を、とにかく四世紀問にわたり維持し得たのは、何といってもシナ独特の現象である。
 こういう漢の帝国において、三皇五帝以来のシナの伝統を記したと称する数多の古典が編纂せられ、その解釈の学が栄えた。またシナ最初の歴史書も書かれ、文芸の作品にも見るべきものが作り出された。美術においても、先秦のそれと著しく異なった、優美にして尖鋭な様式が現われた。これらすべてにおいてシナ独特の性格はきわめて顕著である。それは、ギリシア・ローマの文化やインドの文化に対して、ほぼ対等の地位を要求しうるであろう。
         三 世界史第三期
 世界史の第一期に比して、第二期は、以上のごとく豊富な文化を展開した。西アジア・アフリカの沙漠地域でのみ(321)展開せられた人間存在の可能性に対して、ここには沙漠地域や牧場的地域やモンスーン地域にそれぞれ異なった花が競って咲いたという趣がある。特に国家の自覚、歴史の形成において、第二期は明らかに第一期よりも高い段階に進んでいるといってよい。しかしその|国家を世界的な組織に高めるという課題〔付ごま圏点〕においては、第二期は必ずしも段階的な進歩を示しているとはいえない。いずれの地域も軌を一にしたように絶対君主制的な帝国の創設をもって終わっているのである。
 |世界史の第三期はこの形勢の崩壊をもってはじまる〔付ごま圏点〕。この崩壊の究極の原因が何であるかは、いまだ明白になっているとはいえないが、恐らく|欧亜にまたがる草原地域〔付ごま圏点〕がその震源地なのであろう。この地域が世界史の第二期のころに、今よりもずっと住みょい、豊沃な地であったことは、ほぼ確かであるらしい。シナの新疆省タリム盆地のことだけを考えても、いま沙漠となっている地方に昔は文化の華やかな町々が栄えていたのである。ロシア領の中央アジアにしても、昔はそこにギリシア人がパクトリア王国を建てていた。そういう地方が現在のような情態に変化したのは、一に風土の変化にもとづくであろう。しかしこの|風土の変化〔付ごま圏点〕が最初に最も深刻な形に現われたのは、この地域に住んでいたさまざまの|部族の移動〔付ごま圏点〕としてである。それはたちまちに周囲の民族に影響せざるを得ない。その波動は欧亜大陸の全体に及んで行った。ヨーロッパで|民族大移動〔付ごま圏点〕と呼ばれているのは、この波動が西方へ打ち寄せたものである。それによってゲルマン諸族はローマ帝国の版図内に浸透し、すでに硬化衰頽の状態にあった帝国の崩壊、|新しいヨーロッパ〔付ごま圏点〕の形成、などの情勢をひき起こしたのであった。この著しい変革に比較して、東方における変革はそれほど注目されてはいないが、しかしそれは西方よりも一層直接的で、一層早かったように見える。漢帝国はすでに二世紀の末に硬化衰頽に陥り、三世紀にはついに三国に分裂して互いに覇を争うことになったが、そのころから西方の戎狄の(322)内地浸透が行なわれ、四世紀には匈奴を初めとして次々に異民族が中原に国を建てるに至った。五胡十六国といわれるのがそれである。人民は一世紀間を通じて流離顛沛の災いになやんだ。五世紀には幾分の統一的傾向が現われ、漢人の南朝と異民族の北朝とが対峙するに至ったが、それでも混乱がしずまったわけではない。こうしてほぼ|四世紀間にわたる〔付ごま圏点〕異民族の侵入のあとで、やっと隋唐の|新しいシナ〔付ごま圏点〕が作り出されたのである。
 この東西両端の更新に対して、中央に位する沙漠地域はどうであったろうか。そこへは草原地域からの直接の刺激は、後代ほどには加わらなかったかも知れない。しかしちょうど時を同じゅうして、|沙漠地域自身の含んでいた本来的な底力〔付ごま圏点〕が爆発し、前二者よりももっと著しい変化をつくり出したのである。すなわち沙漠のベドゥウィン族がまた新しく飛び出してきて、沙漠地域全体を|イスラム的世界〔付ごま圏点〕として統一するという、未曾有の大事業を遂行したのである。この運働の機縁となったのは、あるいは、草原地域に動揺をひき起こしたと同じ|風土の変化〔付ごま圏点〕であったかもしれない。乾燥地域が同じ時代に同じように動き出すには、何か共通の事情があったろうと推測されるからである。が、そうでないにしても、間接的には民族大移動の影響があったであろう。モハメットが出現するころまでの沙漠地域の情勢がそれを示している。
 沙漠地域は久しくローマ帝国の版図であったが、しかしローマの支配に抵抗し続ける力は残っていた。イラン高原に国を建てたパルティアは、久しくローマと両河地方を争っていたし、これに代わったササン王朝の新ペルシア国は、ヘレニスティック文化の影響を洗い去って固有の言語や固有の文化を復興することに努力している。ローマ皇帝ヴァレリアヌスを捕虜としたり、シリアや小アジア地方をまでもローマから奪い取ろうとしたのは、このころのことである。が、民族大移動の影響によって西ローマ帝国が亡びるころには、ペルシアも同じように北狄の侵入になやまされ(323)ていた。五世紀の初めには、すでにトルコ民族の一派|エフタル族〔付ごま圏点〕の侵入をうけ、まもなくその勢力の支持によって王となるものさえも出て来た。六世紀の中ごろになると、さらに強大なトルコ民族の集団(突厥)が欧亜の草原に勃興し、エフタル族を討滅してペルシアからその煩累を除くとともに、みずから一層大きい圧迫を加えはじめた。その間には東ローマ帝国からの攻撃もある。六世紀の末には、ペルシア軍、トルコ軍、東ローマ軍などが、三つ巴となって互いに弱め合っていたのである。
 このような状勢の下にあった沙漠地域に、突如としてモハメットが現われたのであった。そうしてきわめて迅速に、東西両端の文化世界よりも先に、世界史第三期の大きい仕事を成し遂げたのである。このモハメットの仕事は、|新しいヨーロッパの形成〔付ごま圏点〕、従って|新しい世界的統一の運動〔付ごま圏点〕への、最も有力な刺激となっている。われわれはそれを第三期の展開の先駆者と認めてよいであろう。
         (イ) イスラム的世界
 モハメット(570−632 A.D.)は、セム人共通の唯一神アラー(エロヒム)の観念を洗練し、ユダヤ教やキリスト教の要素をも取り入れて、剽悍なアラビア人の国民宗教を作り上げた。唯一神アラーへの|絶対服従〔付ごま圏点〕の宗教、すなわちイスラム(服従)の宗教である。アラー以外に神はない。アラーの信仰を護りあるいはひろめるための戦いは、神聖な義務である。かくして服従的・戦闘的な沙漠人の性格が、ここに最高の表現を得た。モハメットはこの狂熟的な信仰によって、奔放と自由とを何よりも愛する沙漠の遊牧民ベドゥウィンの、分立した多くの氏族を結合し、それを国家にまで結成することに成功したのである。|宗教的紐帯によって国家が結成される〔付ごま圏点〕、という原始的な現象――かつて四五千年前に同じ沙漠地域において人類最初の現象として現われたと同じ性格の現象――が、ギリシア・ローマの文化の千(324)年に近い間の滲透ののちに、その同じ沙漠のなかから、湧き出たのであった。 この宗教的・戦闘的な国家は、|世界史第三期〔付ごま圏点〕の幕を開くものとして、実に大きい意義を担っている。その地盤には世界史第一期以来沙漠において蓄積せられたものがあり、その特徴をなすものはアラビア沙漠の遊牧民の性格である。そこでは個人の自由もかなり重んぜられるが、しかしそれは支配者の恣意の自由として現われ得るものである。それはかつて強大な権力を持つ絶対君主の姿に現われた。絶対服従の立場の秘密はそこにあるであろう。ここには階級的組織や祭司階級の特権は存せず、|ただアラーの支配の下に〔付ごま圏点〕、実力だけが物をいう。そういう剽悍な遊牧民が、予言者モハメット及びその代理者(Kalif)を首長として結束したとき、実に未曾有の強烈な戦闘的団体ができあがった。衰頽に瀕した東口ーマ帝国や、ペルシアのササン王朝などは、物の数ではなかった。モハメット没後十年の間には、東は両河地方よりペルシアまで、西はシリアからエジプトを超えてトリポリあたりまで、すなわちもとのローマ帝国の属邦とペルシアの版図とを、ことごとくイスラムに帰服せしめた。そうして、地方的な自治を許容しながらも、|全体を厳格な軍事的組織〔付ごま圏点〕によってまとめ上げたモスレム帝国を組成したのである。ここにアレキサンドロスの作ったヘレニスティックの世界の統一が打破し去られるとともに、第一期世界史の舞台であった沙漠的世界の統一が、再び打ち立てられたのである。
 が、この宗教的・戦闘的な国家形態は、世界史第三期にとっては、時代錯誤的な現象であった。その矛盾は、オンマヤ王朝(661−750)がダマスクスを都として世俗的性格の顕著な帝国を組織したときに表面化した。予言者の血統を重んじ、宗教的団結としてのモスレムの組織を主要事とする一派は、シーア派として分裂し対立した。この対立はまた、国民主義的・貴族主義的な傾向と、普遍主義的・平民主義的な傾向との対立であるともいえよう。シーア派が栄(325)えたのは両河地方からイラン高原へかけての古い文化圏であって、|異民族のモスレム化〔付ごま圏点〕が、ここでは重要な課題であった。オンマヤ王朝はやがてこの派によって覆滅せられるのであるが、それとともに|民族としてのアラビア人〔付ごま圏点〕の支配は終わったといわれる。あとに続いたアッバス王朝(749−1258)は、アラビア人とペルシア人との融合をはかり、首府をも両民族の間にあるバグダードに移し、有能なペルシア人を政治家として起用することをも辞せなかった。このやり方によって|超民族的なモスレム文化圏〔付ごま圏点〕が確立されるに至ったのである。
 八世紀から九世紀へかけて、バグダードを中心としたモスレムの世界の文化は、実に華々しいものであった。西アジアから北アフリカ全体にわたる広大な世界において、アラビア語は国家及び教団の用語として通用した。中でも、エジプト、シリア、メソポタミアは、アラビア人の移住が多かったために、|アラビア語国〔付ごま圏点〕になってしまった。しかもかくアラビア化した地方で、古くから残存していた|ギリシアの学問〔付ごま圏点〕が力強く復活させられ、それを基礎とした学芸が盛んに起こってきたのである。諸方の都市は競って、大学、図書館、天文台などを創設した。そういうところで仕事をした人々は、一応アラビア人であるには相違ないが、しかしそれは、|アラビア語を使って仕事をしたイスラム教徒〔付ごま圏点〕、という意味であって、血統的にアラビア人であったとは限らない。ギリシア哲学の大家として著作を残しているアラビアの学者でも、|ファラビ〔付ごま圏点〕はトルキスタンの人であり、|アヴィチェンナ〔付ごま圏点〕はペルシア人である。すなわち出自のいかんを問わず、|アラビア文化を担う人〔付ごま圏点〕がアラビア人と呼ばれているのである。
 こういう仕方で作られてきたアラビア文化圏は、もはや一つのアラビア帝国ではなかった。それは国家的な統一を失いながら文化的統一を維持していたヘレニスティック文化圏に比せらるべきものであろう。国家組織としてのカリフの統治は、暗殺や権力争いの充満したものであって、沙漠的な君主専制の病弊を露骨に暴露している。だからそれ(326)は単なる国家としては永続きし得るものではなかった。が、カリフは単なる専制君主ではなくして予言者の形代《かたしろ》である。一切の権力を失ってただ精神的な権威を保持するだけになっても、なおそれは続き得たのである。
 このようにアラビア文化圏は、メッカ、メジナに精神的中心を有する|イスラム〔付ごま圏点〕文化圏として緊密な統一を持ったのであって、ローマ帝国と同じものではなかった。そういうものとしてこの文化圏は、西は地中海の最西端スペインの地から、陸では北アフリカ、アラビア、メソポタミア、ペルシアを経てインドまで、海では地中海、紅海、ペルシア湾、インド洋を経て南洋の諸島やシナの沿岸に至るまで、実に広汎な地域にわたっていた。その|西端〔付ごま圏点〕のスペインの地には、アラビア人は数多くの美しい町や大学をつくり、ヨーロッパ人に数々の刺激を与えた。|ギリシアの学問、ペルシアの騎士道、南洋の香料〔付ごま圏点〕などをヨーロッパに伝えたのもアラビア人である。またその|東端〔付ごま圏点〕のシナ沿岸においては、アラビア人は活発な貿易を営んでいた。広州、泉州などの貿易港には立派な居留地があり、多数の富めるアラビア人が来住していた。その大きい富や豪華をきわめた生括は、シナ人の間でも有名であった。彼らはそこにイスラム教の会堂を建て、イスラムの風習を守りつつ、その独特な奢侈を楽しんでいたのである。その政治的勢力も決して軽視することのできぬものであった。――|東西両端〔付ごま圏点〕における以上のごとき光景は、当時の広大なイスラム文化圏の壮観を彷髴せしめるに足りるであろう。
 がそれにもかかわらず、イスラム文化圏は|閉鎖的〔付ごま圏点〕であって、世界を一つにするエネルギーに欠けていた。メッカ、メジナへの|求心的傾向〔付ごま圏点〕に示されているようなその顕著な沙漠的性格が、一面において|無限にのびて行く発展性〔付ごま圏点〕を妨げるとともに、他面において|広い包容生〔付ごま圏点〕を不可能ならしめたのである。だからそれは西端のスペインにおいては、|ヨーロッパ人に深刻な敵対心を植えつけ〔付ごま圏点〕、ヨーロッパとイスラム文化圏との間の|決闘〔付ごま圏点〕をおびき出すにいたった。これは世界(327)史第三期の発展にとっては非常に大きい契機となっている。それに反して東方モンスーン地域では、大したことは起こらなかった。それは一つには、アラビア人の活動が主として海上交通による貿易であったことにもよるであろうが、もう一つにはモンスーン地域において沙漠的な狂熱性が中和されたことにもよるであろう。マレー半島やジャバ島はモスレム化されたのであるが、それは商業による|平和的浸透〔付ごま圏点〕であって、モスレム独特の狂熟的征服ではなかった。だからここでは敵対心を刺激するということもなかったのである。
         (ロ) 新しいシナ
 沙漠地域においてイスラム的統一が急激に作り出されて行ったと同じころに、シナの地域においては新しい|隋唐の統一〔付ごま圏点〕が作り出された。それはモンスーン的性格をもつものとして明らかにイスラム的なるものと異なっているのであるが、しかしその間には|似寄った時代的性格〔付ごま圏点〕を見いだすことができる。
 シナの地には三世紀以来四百年にわたってさまざまの異民族が入り込み、それとともにさまざまの異なった文化を持ち込んだのであるが、中でも著しいのは、|仏教〔付ごま圏点〕とそれに伴なった西域の文化とであった。これを記念するものは、敦煌、雲崗、竜門などの石窟石仏、羅什はじめ多くの西域僧の参加した訳経の仕事である。これらはシナ固有の文化と著しく様式を異にするものであるが、そういう新しい要素を、民族移動の大混乱のなかで、実に驚くべき精力をもって取り込んでいるのである。
 隋唐の統一は、この民族移動の最も激しかった北シナの地において、異民族の王朝のなかから湧き出て来た勢力によって、なし遂げられた。新しい王朝の創始者が異民族の血を混じえた人であったのみならず、その部下の有力な政治家や将軍のうちにも、異民族の出のものが多かった。彼らはシナの地に入ってその古い文化に化せられてはいたが、(328)しかし固有のシナ人とは異なり、新しい文化要素、すなわち異国的な文化要素の摂取に対して、きわめて自由であり奔放であった。これは漢民族が、異民族との混融によって、この時|新しいもの〔付ごま圏点〕になったということを意味する。そういう新鮮な活気を持つ民族として、みずからの内に秩序を回復するとともに、さらに|外囲の異民族〔付ごま圏点〕を征服したとき、ここに新しい統一的な大帝国ができあがったのである。
 この外囲の異民族のうちで最も強力であったのは、当時西方でペルシアや東口ーマ帝国と角逐していたトルコ民族の大集団であった。隋唐の王朝は初めからこの勢力に対峙し、時には逆に圧迫されていたが、ついに七世紀の中ごろに、唐の王朝はこれを根本的に撃破して、中央アジアをカスピ海までも征服したのである。そこで西方は新興のアラビア帝国と境を接するに至った。他方東では満州朝鮮からカラフトまで、南では安南コチンチャイナ地方まで、版図を広げたのであるから、ここにはイスラム的統一に劣らない大統一ができあがったのである。
 この大帝国は|武力的征服〔付ごま圏点〕によって作られたものであるが、しかしローマ帝国におけるほど軍事的経略が徹底していたとは見えない。一度征服された民族も、おのれ自身の統治は自治によったのであって唐の政府の支配をうけたわけではない。ただ唐の皇帝に対して服従の態度をとり、平和的な交通や貿易を続けて行けば、この民族は唐の版図にはいったと認められたのである。従って唐の帝国は、多くの|小さい独立国家〔付ごま圏点〕が唐王朝を中心として平和的文化的に連関し合う|世界的国際的な組織〔付ごま圏点〕であったといってよい。その反映が唐代文化の世界的国際的な性格のうちに見られる。この文化は、世界史第二期におけるシナを規準としていえば、シナ的なものとはいえない。漢民族固有のものでもない。ここでは儒教は重要な地位を占めず、非シナ的な仏教が異常な勢力を示している。シナ仏教のさまざまな宗派は、それまでシナの地にかつて芽ばえて来なかった壮大な哲学大系を次から次へと築き上げた。そうしてそれは|西域人とシ(329)ナ人との共同の仕事〔付ごま圏点〕であった。仏教の作り出した美術もまた、周の銅器の示しているシナ固有の様式や、それの著しく繊鋭となった漢の様式と、まるで異なった、豊潤にして艶美なものである。そこにはインド的なもの、ギリシア的なもの、ペルシア的なものなどが、シナ独特の感触をもって統一せられている。それと呼応して、唐の詩もまた、漢の詩に全然見られないような柔らかさ、豊かさを、同時に沙漠地方の詩に見られない和らかな感情の流露を、示している。これらすべては、当時中央アジアから太平洋に至るまでの地域に栄えていた諸文化の渾融の産物なのである。
 これは学芸の上のみのことではない。政治や法制の上にも同じ傾向は認められる。儒家が理想として説いていた|井田の法〔付ごま圏点〕を、思い切って実現したのは、|異民族の王朝〔付ごま圏点〕であった。田地をことごとく国有とし、それを一定の率によって人民に均分したのである。この|均田の制〔付ごま圏点〕を、隋唐の王朝は襲用した。|府兵の制〔付ごま圏点〕も同様である。これは儒家の徴兵の理想を異民族の王朝が実行に移したものであるが、唐の王朝はそれを襲用した。その他シナ固有の構想で因襲のために生命を失っていたものを、新鮮な活力によって蘇らせたものが少なくない。万人に対して機会を均等ならしめる官吏試験制度とか、民間の自治制度とか、みなそうである。これらは異民族の眼をもっておのれを見直したものといえるであろう。
 このように唐代の文化は、世界的国際的であったがゆえに、四囲の民族によって容易に受け入れられ、広大な|唐文化圏〔付ごま圏点〕を成り立たしめた。それとともに、この文化圏にはいった若い諸民族は、急激に成長し、それぞれに国民的自覚を高めるに至った。わが日本が法制の完備した国家となったのはこの時である。新羅が韓民族の最盛期を作り出したのもこの時である。その他、渤海、契丹、突厥、回※[糸+乞]、吐蕃など、みなこの時に興隆し、中にはおのれの国字を作って記録を残すものさえ出て来た。この点から見れば、唐の文化圏は、|新しい諸国民の出現する母胎〔付ごま圏点〕であったといって(330)よい。
 これはただにシナ外郭の諸民族についてのみのことではない。シナ自体がそうであった。契丹、突厥などの興隆に圧迫されて、シナの地域に新しく押し出されて来たのは、|宋王朝の統一〔付ごま圏点〕であるが、これは唐代とは異なり、顕著に|シナ固有の色彩〔付ごま圏点〕を復活せしめたものである。儒教は再びシナの学問の中心となり、芸術もシナ固有の様式につながるものとなった。が、その儒教が、仏教を媒介として著しく形而上学的になっているように、末代の国民的自覚は唐代の国際的文化を媒介として獲得されたものと見られる。すなわち|新しいシナ国民〔付ごま圏点〕が唐の文化圏を母胎として出現して来たのである。
         (ハ) 新しいヨーロッパ
 以上のごとく、沙漠的なイスラムの文化も、モンスーン的な唐の文化も、それぞれ|超民族的な文化圏〔付ごま圏点〕を形成することによって新しい諸国民の自覚を促進したのであるが、同じころに、牧場的なヨーロッパの国土においても、同じ現象が起こりつつあったのである。
 ヨーロッパにおいて唐の文化やイスラムの文化に比肩すべき文化の華を開いていたのは、さしずめ|ビザンツの文化〔付ごま圏点〕であるといえよう。これは西口ーマ帝国の崩壊にもかかわらずビザンチウム(コンスタンチノープル)を首府としてその統一を維持していた東口ーマ帝国の業績である。この帝国は、六世紀のエスチニアヌス一世のころには、新来のゲルマン民族を逆襲して、一時アフリカからイタリアやスペインに至るまでの旧帝国版図を奪回し、地中海帝国の昔に帰ったほどであった。ローマ法大系の編纂や、サンタ・ソフィアの大建築などが、当時の偉観を記念している。しかし、もともと東ローマ帝国は、ギリシアや小アジアなど、古いギリシア文化の中心地を地盤とする国家であって、ラ(331)テン的な西ヨーロッパとは明らかに性格を異にしている。従ってそれはローマ帝国であるよりも、むしろ「ギリシア帝国」であったのである。この性格の相違のゆえに、やがてまたラテン的な西ヨーロッパは分離し、ギリシア帝国は、東ヨーロッパ小アジアの諸民族を包容しつつ、その独特なビザンツ文化を形成して行ったのであった。
 ビザンチウムはヨーロッパの東南の端、狭い海峡を距ててアジアに接する要地にあった。南の地中海地方と北の黒海地方とを結ぶのも、またこの地である。これらの諸地方は当時の西ヨーロッパよりもはるかに富んでおり、文化もまたはるかに進んでいた。そういう諸地方の中心地として、ビザンチウムは、|数十にのぼる異民族〔付ごま圏点〕の群がり集まる大都市となり、数百年にわたって|百万の人口〔付ごま圏点〕を保っていたといわれる。その中で主導権を握っていたのは、|古代ギリシア人の裔〔付ごま圏点〕としてその文化的遺産をうけついでいたビザンツ人にほかならぬのである。今は湮滅して見ることのできない多くのギリシア古典も、そのころにはなお保存されていた。それに加えて、前には|ペルシアの文化〔付ごま圏点〕、後には|イスラムの文化〔付ごま圏点〕が、ここでは自由に摂取された。そういう諸文化の渾融によって、当時の西ヨーロッパには見られない華やかなビザンツ文化が、作り出されていたのである。
 この文化は後に十字軍のころに、西ヨーロッパ人の目を駕かし、ヨーロッパを衝き動かす甚大な影響を与えた。またルネッサンスの運動にとっても一つの強い原動力となった。が、それよりも一層著しいのは、束ヨーロッパにおいて、新しい諸国民を自覚にまで導いて行く教育者となったことである。スラブ語民族はビザンツ文化圏に入ることによってはじめて国家を形成し得るような文化段階に達したのであった。
 それに比べるとラテン的な西ヨーロッパは、七八世紀のころには、まだ暗黒のなかにあったといえぬでもない。しかしそれにもかかわらず、世界史的にきわめて意義の大きい情勢が、すでにそこにできあがりつつあった。|それはカ(332)トリク教会による西ヨーロッパの統一〔付ごま圏点〕である。
 ローマの教会がキリスト教世界に支配的な権威を持ちはじめたのは、|ゲルマン民族の侵入以後〔付ごま圏点〕のことである。それ以前には、ローマの司教は、ビザンチウム、アンティオキア、アレキサンドリア、イエルサレムなどの司教と同じ地位にあり、同じようにパパと呼ばれ、帝国の首府ローマにいるという以外には、何ら特別の優位を持たなかった。そのローマの司教が、パパの尊称や使徒の座の資格を独占し、教皇として絶大の権威を持つに至ったのは、西ヨーロッパにおける異教徒教化の活動を通じて、ローマの教会が、ローマ帝国の権威を受けついだからなのである。かかることが起こり得たのは、一面において、ロ一−マ帝国の統一の理念や永遠の首府としてのローマの栄光が、ゲルマン諸族をも含めて西ヨーロッパ人全体の心に刻みつけられていたためであり、他面において、政治的権力を失ったローマ人の子孫のうちの俊秀が、相ひきいて教会に集まり、世間を離れた僧院のなかで、ヘレニスティック文化の遺産を深く摂取しつつ、そのローマ人的な才能に新しい生命を与えたからであった。
 ローマ教会は西ヨーロッパを一つの文化圏に統一した。それはヘレニスティック文化の最高の所産であるキリスト教と、ローマの世界帝国の理念との結合であって、いずれの側からも超民族的であることを特徴とする。が、その超民族的な文化圏のなかから|新しい諸国民の自覚〔付ごま圏点〕が湧き出でたことは、ここでも同様なのである。その第一期は、ゲルマン民族がとにかくその原始集団の段階を超えて|国家を形成するに至った〔付ごま圏点〕ことであった。それは彼らが原始宗教を捨ててキリスト教に帰依したことと連関している。本来平等の身分を保持していた氏族団体のなかに、教会の階級組織を巻き込んだのである。彼らのさしずめの仕事は武力による秩序づけや防衛の仕事であったが、その仕事に即して彼らは戦士階級を分立させ、それを|封建的主従関係〔付ごま圏点〕によって組織するという仕方で国家を形成したのである。それが最(333)も大仕掛けに顕著に現われたのは、|イスラム教徒〔付ごま圏点〕がヨーロッパに侵入しフランス中部までも進出して来た時であった。その時には、西ヨーロッパのキリスト教世界も東方におけると同じく崩壊し去るかと見えたが、カール・マルテルはフランク人を蹶起せしめて敵を撃退した。この事件をきっかけに封建的主従関係は大規模なものとなったのである。この組織の力はやがてカールの孫|カール大帝〔付ごま圏点〕をして西口ーマ帝国崩壊以来はじめての大帝国を建設するに至らしめた。ローマ教会が作り出した西ヨーロッパの文化的統一は、ここで政治的地上的な統一となった。が、その時には、すでに第二期の現象が、すなわち西ヨーロッパにおける|諸国民の自覚〔付ごま圏点〕が、始まりつつあった。カール大帝の没後まもなく、その帝国の版図は、イタリア、東フランク(後のドイツ)、西フランク(後のフランス)に分裂し、そうしてその後ついに一つになることができなかったほど顕著な区別を作り出した。この後の歴史は、これらの異なった国民の自己形成の歴史である。それに加えてスペインの地では、イスラム教徒を押し返す永い争闘が続けられ、それによって他地方と異なる国民を激成しつつあった。またイギリスや北西フランスでは、剽悍なノルマン族の海からの侵入によって、新しい国民の形成が行なわれた。
 こういう諸国民を一人前に教育したのはキリスト教である。特に|十字軍による教育〔付ごま圏点〕は甚大な影響を与えた。ローマ教会はスペインにおける|イスラム教徒との対抗〔付ごま圏点〕を常に|信仰の戦い〔付ごま圏点〕として把捉せしめようと努めているが、かかる意味の神聖な戦いのために西ヨーロッパ全体を蹶起せしめたのが、十字軍なのである。スペインの騎士たちは、|国土奪還のため〔付ごま圏点〕の戦いを続けているうちに、やがておのれを|キリスト教の守護者〔付ごま圏点〕と感ずるようになった。それと同じく西ヨーロッパの王たちは、|キリスト教を守護する王〔付ごま圏点〕として、教皇の指導のもとに、聖墓奪還を目ざして軍を起こした。それは西ヨーロッパ全体を湧き立たせるような大事件であったが、それによって「東方」への対抗の意識、従って西ヨー(334)ロッパの統一の意識は、深く深くヨーロッパ人の心に植えつけられたのである。
 が、ちょうどこの対抗と統一との意識のなかで、西ヨーロッパ諸国民の特性は漸次明白に養成されつつあった。そうしてそれが表面に現われて来るとともに近世ヨーロッパが形成されるのである。
         (ニ) 草原民族の活躍
 その近世が始まるまでの間に、欧亜の大陸には異常な現象が起こった。それは草原地域の民族が未曾有の活躍を始めたことである。
 草原地域からの遊牧民族の進出は、シナにおいては五胡十六国の混乱を、ヨーロッパにおいては民族の大移動をひき起こし、世界史第三期の幕をあけたのであるが、その同じ草原地域において、十三四世紀のころに、突如として大帝国が出現し、近世の形成に大きい衝動を与えたのである。それを作りはじめたのは、|ジンギスカン〔付ごま圏点〕であった。十二世紀末に彼が立ち上がったときには、彼はまだ蒙古草原における小さい部族の酋長に過ぎなかった。その初期の活動も同じ蒙古民族のなかの部族間の争覇戦にすぎなかった。が、彼の意力や決断力や統率力は、よほど非凡であったに相違ない。一二〇六年、当時四十四歳の彼が、蒙古のオノン河源のあたりに諸部族の長を集めて総会議を開き、初めてジンギスカンの尊称を受けて以来、その没するに至るまでの二十二年の間に、束は北シナを征服して黄河の岸に至り、西は黒海の北岸やエウフラテス河畔まで、南はインダス河畔までを席巻した。そうしてその世界征服の遺志をついだ後継者たちは、わずか二三代の間に、西はロシアを征服してポーランドやハンガリーに至り、西南はバグダードのカリフを倒して小アジアまでを征服し、南はインドのガンジス河まで、シナははるか南方まで全部を版図とするに至った。欧亜大陸のなかでこの蒙古人の蹂躙をうけなかったのは、ただ西ヨーロッパとインドの半分だけである。この(335)ような大帝国は世界史上かつて作られたことがなかった。その点においてはこの草原民族の仕事は実際に比類がない。
 蒙古草原の遊牧民族が突如としてこういう世界帝国を作ったことは、いかにも不思議に思われるが、しかし少し前にアラビアのベドゥウィンも突如として強大なイスラム帝国を作った。遊牧民族にはそういう強みがあったのである。彼らは馬その他の家畜をひきい、天幕その他の家財道具を携えて移動するのであるから、適当な草原を見つけさえすればどこにでも落ちつくことができる。いかに遠く出動しても兵糧の心配はいらない。その上、馬は一人当たり数頭をひきいており、必要あるごとに迅速に機動することができる。が、最も大きい強みは、この草原民族の特殊な組織であった。それは細胞組織と呼んでもよいものである。この民族にあっては武器を持ちうる男子はことごとく軍人なのであるが、その軍人は十人をもって一つの|基礎単位〔付ごま圏点〕を形成している。その内の一人がこの細胞の指揮者である。十個の細胞が集まって上位の単位をつくるが、ここでは十人の什長のうちの一人が百戸の長となって|九人の什長〔付ごま圏点〕を指揮する。同じように|九人の百戸〔付ごま圏点〕は千戸に属し、|九人の千戸〔付ごま圏点〕は万戸に属している。この命令関係はきわめて厳格で、上長への服従は絶対でなくてはならぬ。そこで、最高の指揮者ジンギスカンが司令官に命を伝えると、それはたちまち網の目のようにひろがって細胞にまで達する。独裁者の意志が敏活に一兵卒までを動かし得るのである。こういう徹底した独裁と徹底した服従とは、草原地域独特のものといってよいであろう。服従を標語として掲げたイスラム教徒も、人間関係においてはこれほど服従的ではなかった。『世界征服者の歴史』を書いたアラビア人アラーウッ・ディーンは、蒙古人のような絶対の服従は到底イスラムの国々には見られない、と言ったそうである。
 しかしこの独裁権力が草原的であったように、この権力によって作り出された統一も実に草原的であった。それは広大な統一であるには相違ないが、ただ単調で、茫漠としているだけであって、千差万別の個性的な内容に充たされ(336)ているわけではない。その征服した地方は、両河地方といい、インドといい、シナといい、それぞれに独特な文化の華を咲かせていたのであるが、それらの価値を認め、その個性を活かせ、それぞれにその所を与えながらそれらを統一するというごとき、具体的な統一は、蒙古人のなし得るところではなかった。彼らの目ざしたのはただ|力ずくの征服〔付ごま圏点〕であって、おのれよりも優れた文化を学びとることではない。征服を確実にするためには、少しでもおのれに危懼を与えるものを|ことごとく破壊する〔付ごま圏点〕ことを辞せない。だから蒙古人の足跡の印するところ、ただ廃墟と髑髏とを見るのみといわれている。彼らの統一は、征服地の個性的な文化内容を消し去ることであった。降服して生き残った被征服民も、破壊の力のテロリズムに屈して、ただ奴隷化するほかはなかった。例をシナにとれば、宋代においてシナ独特の優れた国民的文化を展開した人々は、蒙古人の支配の下にあっては、実に|社会の最下層〔付ごま圏点〕に落とされたのである。彼らのような文化人よりも外蛮の金や高麗の人々の方が社会的地位は高かった。が、それらよりもアラビア人や西域人など、「色目」と呼ばれていた異民族の方が、さらに上であった。これらは最上位にある蒙古人に使われ、その支配を助けていたのである。が、それでもシナでは、これらの幾重ものおもしを跳ねのける力が最下層に残っており、それが結局国土や文化を荒廃から救い上げることができた。その結果からいうと、蒙古人の破壊は、シナにおける伝統的勢力の駆逐、民衆の力の解放、として働いたともいえる。それに比べると西方の両河地方ははるかに悲惨である。そこは人工的な灌漑や治水によって豊沃な国土とされたところであり、また不断の人工的看護を必要とする。その看護の組織や設備を破壊して何世代か放置すれば、そこはもうどうにも仕方がなくなるのである。両河地方は五千年の間に幾度も劫掠に会ったが、しかし右のような徹底的な破壊を受けたことはなかった。それを蒙古人がやったのである。
 もし蒙古人の仕事のうちに何らか積極的なものを求めるとすれば、その一つは、彼らが|草原的地域のうちに残した(337)感化〔付ごま圏点〕であろう。蒙古人がロシアを支配していた二世紀半の間にロシア人に教え込んだのは、ただにその緻密な財政組織のみならず、またシベリアを太平洋岸まで突進して行ったあの草原的性格であろう。この感化は、世界史的に言って、蒙古人の最大の業績であったといえるかも知れない。もう一つは、蒙古人の帝国統一が、アラビア文化をシナに伝える機縁となったとともに、またマルコ・ポロなどのヨーロッパ人の極東旅行を可能にしたことである。それによってインド、シナ、日本などの状態がヨーロッパ人に紹介され、彼らの|東方への衝動〔付ごま圏点〕を強く刺激することになった。これは近世の開幕にとって大きい意義を担った事件であるとともに、蒙古人の世界帝国が「一つの世界」の課題と密接に連関せるものであることを示すものである。
         (ホ) 近世の開始
 十四五世紀のころ、イタリアのルネッサンスを先駆として、|ヨーロッパの諸国民〔付ごま圏点〕が競って開始した近世の諸運動は、世界史第三期の中枢的意義を担うものである。この第三期の初めには、イスラム文化圏やシナの文化圏の方がむしろ活発に諸国民の自覚を推し進めていたのに、どうしてこの時期に至ってヨーロッパの方が先頭に立つに至ったのであろうか。
 ここでまず念頭に浮かぶのは、蒙古人の破壊力の影響である。それぞれの文化圏は、この破壊力の影響をうける前に、すでにほぼ|同じような試煉〔付ごま圏点〕を受けていた。ヨーロッパではイスラム教徒との戦いから十字軍の騒ぎに至るまでの対外的な抗争がそれである。イスラム文化圏においては、西からヨーロッパ人の反撃を受けるのみならず、東方バグダードのアッバス王朝はトルコ民族の浸透になやまされていた。シナにあっては、契丹の勃興が宋王朝を南方へ押しつけてしまった。こういう試煉のなかで、新しい創造力が養成されるか否かが、それぞれの国民にとって切実な問題(338)となっていた。ちょうどそこへ突如として蒙古人が起こり、この形勢を変えてしまったのである。西ヨーロッパは|偶然のことで〔付ごま圏点〕この破壊の手をまぬがれたがために、十字軍による試煉を積極的に生かせ、そのなかから全世界への進出というごとき新しい活力を生み出すことができた。しかるにイスラム文化圏は、バグダードの王朝を蒙古軍に滅ぼされ、両河地方を救い難く荒廃させられたがために、その勢力の半ばをそがれてしまった。この打撃は蒙古帝国の崩壊によっても癒やされず、あとにはオスマン・トルコが起こって、東ローマ帝国を滅ぼすとともにまたイスラム文化圏の支配者ともなったのである。トルコのスルタンは|カリフの相続者〔付ごま圏点〕と認められた。アラビア人の創造的な力はついに影をひそめ、あとにはただ頑固な、保守的なもののみが残ったように見える。シナに至っては、一世紀にわたって蒙古帝国の中枢部となったのであるから、その影響は一層著しい。ちょうどイタリアのルネッサンスが始まったころに、シナでは民衆が蜂起して蒙古人の手からシナを奪回する運動をはじめ、明の太祖がこの運動にのって蒙古帝国を倒しシナ人の帝国を再興したのであるが、かく奪回が主要な目標であったがために、明帝国は保守保存の態度をはっきりと示している。しかも奪回の相手が蒙古人であったがために、その結果は著しく蒙古的性格を帯びて来たように見える。広大で無内容な草原的統一がそれである。明代の文化産物には巨大で包括的な蒐書類が多いが、その内容は|保存集成〔付ごま圏点〕であって新しい創造ではない。ここでも、シナ人の創造力が涸渇してきた、と小う印象を与える。
 イタリアのルネッサンスの爆発的な創造力の沸騰に比べると、これらの創造力の涸渇は非常に顕著である。ルネッサンスの現象は、世界史第三期のヨーロッパ、すなわちキリスト教的に統一されたヨーロッパの中へ、第二期のヨーロッパ文化が|蘇生してくる〔付ごま圏点〕ことであった。もちろんその蘇生は単なる過去の再現ではなくして、新しい創造となったのである。しかるにシナにおいては、第二期の|周漢の文化の蘇生〔付ごま圏点〕はすでに蒙古人の破壊以前に|宋代において〔付ごま圏点〕行なわ(339)れ、それのもたらすべきエネルギーを使い果たしたのであるから、破壊以後のシナを救うべき力とはなり得なかった。明代がただ過去の保存集成にのみ傾いたのはそのゆえである。トルコ人の支配するイスラム文化圏において、第二期の沙漠文化を蘇生せしめる力のなかったことはいうまでもない。そう考えてくると、|過去を生かせることによって〔付ごま圏点〕新しい創造にのり出すことのできたヨーロッパは、非常に恵まれた境遇にあったといわなくてはならない。過去を生かせることのできなかった諸国民は、かえって保守的なよどみのなかに落ち込んでしまったのである。
 ヨーロッパにおける新しい創造は、信仰の束縛からの|知力の解放、無限追求の精神の勃興〔付ごま圏点〕をも意味した。それは沙漠的要素を原動力とするキリスト教の支配の下から、|本来の牧場的精神が〔付ごま圏点〕、ギリシア文化の刺激によって蘇生し反撥して来たのであるといえよう。イスラム文化圏やシナ文化圏においてはかく反撥し蘇生すべき|本来的なもの〔付ごま圏点〕がなかった。そこに沙漠的なるもの、モンスーン的なるものに対する牧場的なるものの優位がある。しかし同じく人間であるから、イスラム文化圏やシナ文化圏にそのような可能性が全然なかったというわけではない。アラビア人はヨーロッパ人よりも先にさまざまの科学を発達させていた。航海術においても、ヨーロッパ人よりは一歩先に進んでいた。もし旧約の予言者の構神がアラビアの学問のなかに蘇生し得たとすれば、あれほどの衰頽には陥らなかったであろう。シナにおいても、古く諸子百家が示していた思索の精神は、相当に高く評価してよいものである。もしその精神が、蒙古人による視圏の拡大やアラビアの学問の刺激のもとに、健やかに蘇生して来たならば、シナの文化は新しい創造に歩み出たであろう。|印刷術、火薬、羅針盤などの発明〔付ごま圏点〕は、すでに宋代に実現されていたのである。が、それらはことごとく蒙古人の破壊によって阻止された。本来、自発的合理的な性格が牧場的地域におけるほど顕著でないところへ、牧場的地域には見られなかったほどの大破壊が加えられたからである。それを考えると、世界史の展開における(340)蒙古帝国の意義は、消極的ながらも非常に大きい。
 ヨーロッパにおいては、右にあげた三つの発明、すなわち印刷術、火薬、羅針盤の発明が、近世の幕を開いた。|無限追求の精神〔付ごま圏点〕がこの出口から活発にほとばしり出たからである。中でも目ざましいのは、ヨーロッパ人がその冒険的航海によって|世界的視圏の形成〔付ごま圏点〕にのり出したことであった。これは通例、地理上の「発見」と呼ばれている。シナや日本への航路を発見しようとする努力が、イスラム文化圏からインドを経てシナに至るまでを「一つの世界」として実践的に把捉することを可能ならしめたのみならず、さらにアメリカ大陸の発見として発展し、世界史上はじめて|全世界を一つのものとして見る立場〔付ごま圏点〕を作り出したのである。世界史第一期以来の「一つの世界」の課題は、この時にはじめて、真実の具体性を獲得した、といってよい。
 この視圏の成立、従って地理的な発見は、ヨーロッパ文化圏でのことであって、発見された側での出来事ではなかった。イスラム文化圏もインドやシナの文化圏も、ただ受け身であって、自分の側からの世界的視圏を持たなかった。この相違は実に甚大である。一つの世界の|課題〔付ごま圏点〕が具体的になったといっても、それはヨーロッパ諸国民にとっての課題であって、他の文化圏における諸国民の課題とはならなかった。この相違は、ヨーロッパ諸国民による|全世界の植民地化〔付ごま圏点〕として発展して行ったのである。
 しかしこの場合の世界征服は、在来の世界帝国の場合とは明らかに異なっている。というのは、統一的な一つのヨーロッパ国があって、それがヨーロッパ以外の地を征服して版図としたというわけではないのである。ヨーロッパが|多くの国民〔付ごま圏点〕に分裂し、その|国民国家〔付ごま圏点〕が急激に発展してくるというのが、ちょうど時を同じゅうして起こったヨーロッパの形勢であった。ここにわれわれは世界史第三期の課題が|二つの面〔付ごま圏点〕を持っていることを、はっきりと看取し得るの(341)である。すなわち|国民国家の形成〔付ごま圏点〕と、|一つの世界の形成〔付ごま圏点〕と。この両者はからみあいつつ発展し、ついに二十世紀に至って「一つの世界」の課題がもろもろの国民の眼前に切実な現実の問題として現われるに至ったのである。
         (ヘ) 国民国家の形成と一つの世界への動き
 国民国家における|個人の覚醒、個人の解放〔付ごま圏点〕は、近世ヨーロッパの最大の強みであった。中世末期以来、諸所に発達していた自由市が、古代のポリスの政治様式や精神を、生き生きと蘇生させたのである。そこでヨーロッパ人は、世界各地を植民地化するという運動と平行して、ヨーロッパの国民国家をポリス的なものとして形成するという運動をやった。しかもそのいずれの仕事をも、諸国民は、互いに競争しまた戦争しながら、遂行したのであった。これは世界史第二期においてギリシアの都市国家のような小仕掛けな国家で実現された|自由の国家観織〔付ごま圏点〕を、大きい国民国家において実現するという課題と、そういう国民国家の競争のなかから「一つの世界」を実現しようとする課題とを、同時に解こうとする運動であるといってよい。
 ヨーロッパの近世の国民国家は、ローマ帝国を模範とし、君主専制国として始められたのであったが、しかしその内部にギリシアのポリス風の政治組織についての理解が行きわたっていたことは、スペイン人がアメリカで植民都市を建設する場合の態度などに顕著に現われている。当時のスペインはヨーロッパの先頭に立つ強力な君主専制国であったが、アメリカヘ出かけた征服者たちは、たとい数百人の団体で一つの都市を建設する場合にでも、立法、行政、司法の三つの組織を明確に作り上げた。立法は市民全体の会議により、行政はその会議が選出した委員たちによってなされる。そうして司法は通例本国より派遣された司法官の手に委ねられた。力ずくで仕事をしようとする征服者たちさえも、このやり方を当然のこととして守っていたのである。
(342) それほどであるから、十七世紀の初めに、信教の自由を求めて北アメリカに移住したイギリス人たちが、その地にポリス的な自由の政治組織を創成しようと努力したことはいうまでもない。イギリスはヨーロッパの他の諸国民に先立って、すでに十三世紀の初めに王権を制限するマグナ・カルタを作った国であるが、しかし議会政治の発達は必ずしも急速であったとはいえない。十七世紀の中ごろはその苦悶の最中であって、ついにクロンウェルの革命を押し出した時であった。が、やがてその世紀の末には政党内閣を出現させるまでに至っている。その同じ時期に新しい世界において、旧慣や因襲に囚われることなく、「新しいイギリス」を作った人々は、本国よりも一歩先んじて、幾つかの自由の国家(state)を形成した。それは困難な|開拓事業〔付ごま圏点〕の|共同の苦労〔付ごま圏点〕のなかから生まれてきた、|下から〔付ごま圏点〕の国家形成であり、民衆がみずからの手によってみずからを秩序立てる正真のデモクラシーであった。このような開拓事業や国家形成が一世紀にもわたって続けられると、新大陸には|新しい風土〔付ごま圏点〕が創成されるに至った。それはもはやアメリカ・インディアンの住んでいた国土と同じ国土ではない。森林や沼沢は消失して美しい耕地美しい牧場となり、湿潤な空気は晴朗な空気に変わった。が、またそこに住んでいる住民も、もはやヨーロッパ人ではなかった。ヨーロッパ的風土を背負っていた人々は、新しい土地と戦う烈しい苦労のなかで、その殻をぬぎ捨て、みずからの汗で潤した|土地の子〔付ごま圏点〕となった。すなわち土地の側からも人の側からも新しくなったのである。こうして十八世紀の後半に入ると、本国がこの自由の国家の市民に対して|課税〔付ごま圏点〕しようとした事件をきっかけに、「新しいイギリス」の十三の自由国家は、連合して、独立を宣言するに至った。一七七六年七月四日のことである。
 これは近世の国民国家が、ギリシアの都市国家のような自由の国家であろうとする運動の|先頭を切った〔付ごま圏点〕ものといえよう。言いかえれば、ヨーロッパにおける近世の運動は、ヨーロッパ以外の地域から、新しい風土の国から、導かれ(343)たのである。それを示しているのが、アメリカ合衆国の|独立成功後十年〔付ごま圏点〕にしてヨーロッパの中央に起こった|フランス革命〔付ごま圏点〕である。ヨーロッパの代表的な国民国家が、ここで自由の国家組織に到達した。もちろんそれは、一度きりで成功したのでもなければ、また反動を経験しなかったのでもない。しかしこの革命によって、|民衆みずからおのれを統治する〔付ごま圏点〕のが国民国家の正常の形態である、という常識ができあがったのである。これは世界史第二期において蒔かれた種が芽を出して来たという意味において、世界史第三期の進歩であるといってよい。
 が、この国民国家の発展は、世界じゅうにひろがる|植民地競争〔付ごま圏点〕と相伴なっていた。アメリカ合衆国が右の発展の先頭を切ったということ自体が、すでに植民地との密接な連関を示しているのである。この植民地競争は絶えず戦争を伴なっていたが、十九世紀の未、世界じゅうの植民地の分配が一応終了したのちに、ついに世界戦争の形を取るに至ったのである。このような戦争自体がすでに「一つの世界」への消極的な動きだといえぬでもないが、しかしその戦争の惨禍に懲りた人々は、積極的に「一つの世界」の考案をめぐらすようになった。第一次世界戦争の後に考えられた|国際連盟〔付ごま圏点〕がそれであった。しかしそこでは|植民地の所有そのもの〔付ごま圏点〕が戦争の原因であり、「一つの世界」の形成を妨げているという認識は、明白に出てはいないと思う。果たしてそれが、もっと正確にいえば植民地を持たない国々がそれを持とうとする動きが、第二次世界戦争を押し出してきた。そのあとで「一つの世界」の形成は一層重要事となり、|国際連合〔付ごま圏点〕の組織が作り出された。それに連関して、植民地の所有そのものが害悪であり、それを廃棄しない限り「一つの世界」の実現は不可能であるとの認識も高まって来たように思われる。それに添うて世界最大の植民地であるインドは独立を認められた。フィリッピン、ビルマ、朝鮮などの独立も認められた。ジャバやマレーやセレベスなどの独立も、もはや当然のことと考えられている。ここにわれわれは、世界史第三期の最大の課題、「一つの世界」の形成(344)への、最も現実的な鍵があると思う。
 |植民地を作る〔付ごま圏点〕ということは、近世の初め、世界的視圏の成立と同時に起こった運動である。それは一つの「征服」の形態であった。従って植民地保有が認められる限り、そこには「征服国家」が認められ、従って「一つの世界」は世界史第一期以来の|世界帝国〔付ごま圏点〕たらざるを得ない。その限りこの課題は毫も解かれないのである。従って植民地廃棄は、近世初頭以来の運動を断然停止し、ここで|運動の向きを逆にすること〔付ごま圏点〕を意味する。この逆の方向において|世界的な経済組織〔付ごま圏点〕が樹立され、それぞれの国民がその風土と才能による特殊の生産にいそしみつつ、|互いに補い合う〔付ごま圏点〕調和的な関係を作り出し得るか否かは、人類全体の前に今や痛切な|当為の問題〔付ごま圏点〕としてかかっているのである。
 この間題に連関してアメリカ合衆国とソヴィエト・ロシアとの間にいわゆる「冷たい戦争」が起こっていることは、周知の通りである。アメリカ合衆国が形成されて行くのと時を同じゅうして、ロシア人がシベリア開拓にのり出し、アメリカ人が北アメリカの大陸を東の海から西の海まで開拓して行く間に、ロシア人も西の海から東の海まで開拓しつくした。同じくこの開拓の仕事によって鍛錬された国民は、しかし、同じような国家を形成したのではなかった。アメリカ合衆国が自由主義民主主義の突端を行く国家として形成されたのに反して、欧亜大陸の方には絶対的君主専制の強大なロシア帝国が形成されたのである。このツァーの帝国は、何といっても世界史第一期以来の帝国の形態を保持したものであって、世界史第三期の課題に参与した国家だとはいえない。しかるにその国家が、第一次世界戦争の途中に、突如変革してマルキシズムを実現するというプロレタリアの国家となったのである。自由主義の代わりに統制主義、資本主義の代わりに共産主義、階級的社会の代わりに階級なき社会がそこで実践に移された。これはただに一国内においてのみ成就される仕事ではない。それは世界革命によって世界全体を搾取なき世界、階級なき世界に(345)作りかえねばならぬじ ここに「一つの世界」への異なった道が提示される。そういう形でソヴィエト・ロシアは世界史第三期の課題に急激に参加して来たのである。かくして「一つの世界」の課題は二つの道の上に、「冷たい戦争」の上に、かかることになった。いかにしてこの困難な問題を解決すべきか。これが人類全体の上にかかっている当為の問題の具体的情況なのである。

        第五節 国民的当為の問題

 これまで考察してきたのは、諸国民が過去において|為した〔付ごま圏点〕行為であって、現に活動しつつある諸国民が|何を為すべきであるか〔付ごま圏点〕の問題ではなかった。過去においてしかじかのことを為したからといって、将来においても同じことを為すべきであるとは、直ちにはいえない。われわれは改めて、諸国民は何を為すべきであるかを問わなくてはならない。
 しかし過去において諸国民がなしたことは、ただ恣意的に、あるいは意志を用いずただ必然的に、なしたというわけではない。彼らはそれぞれの仕方においてその|なすべきこと〔付ごま圏点〕を、すなわち|普遍的な人間の道〔付ごま圏点〕を、実現しようとしたのである。六千年以来彼らの作ったさまざまの人倫的組織の形態がそれを示している。特に第一期における国家の発明、第二期における自由の国家の創造、第三期におけるその拡充、すなわち国民国家の実現などは、その顕著な証跡である。もとよりそれらは、|あるべき通りに実現されたということはかつてない〔付ごま圏点〕。その最も創造的な時期においても、欠点は目立っているのである。いわんやそれが創造的な活力を失って硬化してきた時期には、弊害は実にはなはだしくなる。しかしそういう欠如態はいつも|あるべき状態に対する自覚〔付ごま圏点〕を刺激した。多くの場合にその自覚は遅すぎたかもしれない。ミネルヴァの梟は夕暮れに飛ぶと言われるゆえんである。が、その国民にとって遅すぎた自覚も、人間(346)存在の展開全体にとっては、みのりの多い自覚であった。時には、遅すぎて間に合わなかったという悲劇が、かえってその自覚を有効ならしめた場合もある。従って諸国民の過去の行為は、将来に何をなすべきかの問題と無関係なわけではない。
 のみならず諸国民は、独自の仕方で国家を実現することを通じて、すでに「一つの世界」の形成に努力してきた。それは第一期における世界帝国の形成によって課題として現われ、第二期において全世界の各地域にうけつがれ、第三期に至って、ヨーロッパ人の全世界への進出という形で、いよいよ解決を迫る具体的な問題となってきた。今世紀においては、それは全世界の諸国民がいや応なしに直面させられている最も痛切な問題である。諸国民が何をなすべきかの問題は、主としてこの「一つの世界」という課題をめぐって存するといってよい。
 以上のごとく見れば、諸国民が将来に向かって何を為すぺきかの問題は、歴史的・風土的負荷とひき放して、全然初発的に考察されうるものではない。ちょうど個人の具体的な行為がその背負っている間柄によって規定せられるように、一つの国民もまたその為すぺきことを風土的・歴史的な負荷によって規定される。ある国民にとっては、そういう負荷は断乎として|投げ捨てるぺき〔付ごま圏点〕であるかもしれない。しかしその時には、その負荷は、|否定の道を通じて〔付ごま圏点〕一層深くこの国民を規定するであろう。イタリア・ルネッサンスの豪華な創造は、イタリア国民の背負っていた「中世」の否定とひきはなして考えることができない。歴史的・風土的負荷が新しく独自の創造を押し出してくるのは、むしろこの否定の道による場合の方が多いのである。「一つの世界」の課題のごときは特にそうであろう。
 そこでわれわれは、諸国民の過去の行為のうちに|当為として〔付ごま圏点〕働いていた諸問題を取り出し、それが将来に向かって諸国民の当為たり得るか否かを問題として取り上げようと思う。その中では右にあげた「一つの世界」の問題が目下(347)の最も痛切な問題であるが、しかしこの課題の解決に参与し得るためには、いかなる国民もまず一つの国民としての人倫的組織の実現に努めなくてはならない。国民として存在することは、すでに成し遂げられた既定の事実なのではなくして、実践的に不断にこの実現に努めることなのである。だからわれわれはこの問題をまず|対内的な〔付ごま圏点〕国民的当為の問題として取り上げ、その後に「一つの世界」の問題を|諸国民の間の連関における〔付ごま圏点〕国民的当為の問題として考察しようと思う。
 一つの国民は、家族、地縁共同体、経済組織、文化共同体などの多くの人倫的組織を含み、それらの無数の組織が日々に実践的に実現されつつ、さらにそれらの間の秩序があるべきように日々に形成されて行くことにおいて、その存在を保つのである。そういう実現や形成の努力は、それぞれの組織の成員たる個人によってなされるのであるから、いかなる国民も、その成員に対して、それぞれの人倫的組織に即する|行為の仕方〔付ごま圏点〕を教え込み、その仕方に合うように行為することをしつける。それは幼児が言葉を覚えるころから始められ、一人前になるまで続けられるのであるから、母国語が各人に深く根をおろしていると同じように、各人の存在に深く沁み込んでいる。そういうふうに教え込まれる「行為の仕方」が、それぞれの国民の有する|既成道徳〔付ごま圏点〕なのである。
 通例「道徳」という場合にはこの既成道徳をさしていることが多いのであるが、それは既成道徳の成り立ちから見れば当然といってよい。どの国民も|普遍的な人倫の遣〔付ごま圏点〕を実現しようとして行為の仕方を定めたのであって、おのれたち|のみに〔付ごま圏点〕通用する特有の道などを目ざしたのではない。もし初めから他との差別が意識せられていたとすれば、そこには、これこそ|真の人倫の道〔付ごま圏点〕であり、従って他の国民もこの道を|守るべきである〔付ごま圏点〕との信念が存していたであろう。すなわち既成道徳は|普遍的な道徳〔付ごま圏点〕として立てられたのである。しかもそれは、歴史的・風土的な制約の下に自覚せられ(348)たものであるがゆえに、事実上|特殊な性格〔付ごま圏点〕を持って現われてくる。だからそれぞれの国民が道徳として理解しているものは、それぞれ多少の相違を示すことになるのである。
 このような相違が何を意味するかについてはすでに上巻(三〇四ページ以下)において論じたが、そこでの結論は、外形上非常に異なって見える既成道徳も、|本質的には異なったものではない〔付ごま圏点〕ということであった。しかもそれを異なった形に現われしめたのは、人間の信願関係の|広狭の差〔付ごま圏点〕、あるいは|様式の差〔付ごま圏点〕である。それらは|文明の程度の差〔付ごま圏点〕を反映することもあるであろうし、また風土的制約による|社会構造の差〔付ごま圏点〕を反映することもあるであろう。あるいはまた人間存在としての|健全と頽廃との差〔付ごま圏点〕を示すこともあるかもしれない。そこでこの相違の認識は、それぞれの国民をその|個性的な存在への反省〔付ごま圏点〕に導く。文明の遅れた国民は、その道徳の特徴に反映した後進性を自覚し、文明の獲得の努力によってその|道徳を革新しなくてはならぬ〔付ごま圏点〕。社会構造の上に風土的な特性を持つ国民は、その特性が人倫の道の実現の上にプラスであるかマイナスであるかを反省し、|その制限の超克に努力しなくてはならぬ〔付ごま圏点〕。そういう反省は文明の最も進んだ国民にも起こり得る。前世紀の末に画家のゴーガンがタヒチの島の原始的な生活を讃美したような例は、決して軽視せらるべきものではない。あるいはまた、新しいもの好きな、旧習墨守を固陋として卑しめる国民は、試験ずみのやり方を信頼してどっしりと落ちついている国民から、多くの学ぶぺきものを見いだすであろうし、反対に、新奇に走ることを軽佻として卑しめる国民も、冒険的に新しい試みの中へ突進して行く勇敢な国民から、多くを学びうるであろう。
 かく考えればそれぞれの国民における|道徳の相違の自覚〔付ごま圏点〕は、普遍的な人倫の道の実現の上に欠くべからざるものである。それはそれぞれの国民を|うぬぼれ〔付ごま圏点〕から救い、その|個性的制限〔付ごま圏点〕を超克すべき努力に駆り立てて行く。進歩した国(349)民はこの超克を重ねて来たのであって、そ二に立てられた行為の仕方も普遍的な人倫の道を最もよく実現するように形成せられているのであるが、しかし同時にそれは最も高度に個性的であって、どの国民にもそのまま通用するというわけではない。しかもその個性的制限を超克すべき努力は、ただその国民のみがなし得るのである。
 右のごとき個性的存在への反省、個性的制限の超克は、あらゆる国民に課せられた人倫的任務であって、その遂行によってのみ普遍的な人倫の道の実現における進歩が見られる。が、またそれはそれぞれの国民がその複雅な組織を通じて集団的に実現する仕事であって、簡単に見とおすことのできない|特殊の状況〔付ごま圏点〕を持っている。それを個々の国民について具体的に考察することは、世界史上における諸国民の業績を考察するよりも一層困難な仕事である。ここでは主として|わが国民の場合〔付ごま圏点〕を眼中に置き、その個性的存在への反省と個性的制限の超克とを考察するほかはない。

 まず人倫的組織の簡単なものから始めるとして、|家の道徳〔付ごま圏点〕に着目すると、そこには「孝」の問題が浮かび上がってくる。孝を最も主要な徳としたのは古代のシナ国民であって孝経がその記念碑となっている。これは家族共同体を社会の基盤としたシナ国民の特性を反映したものである。わが国民は古代シナの文化の教育のもとに歴史時代にはいったのであるから、歴史の初めより孝を重んじ、初めて大学を設立したときには論語と並べて孝経をあらゆる学生の必修課目と定めている。しかし日本の古い社会がシナと同じように家族共同体を唯一の基盤としたわけではない。そうであったように考えたのはシナ思想の影響であって、社会的な事実ではない。氏とか姓とかのごとき言葉や概念もシナより輸入したものである。わが国での社会の基盤はむしろ村落共同体であった。それは神話や伝説に反映し、また上代の社会組織にも現われている。が、水田耕作に制約せられた村落共同体は、特に顕著に感情融合的な共同体であ(350)って、孝の徳の座である家の共同体ときわめて密接にからみ合っていた。だから孝を主要な徳とするシナ風の考え方は、何の抵抗もなく受け容れられ、深く国民的存在のなかに沁み込んで行った。しかしその際にシナ風の家長権の考えもともに取り入れられたか否かは問題である。従って孝は、|子の父に対する奉仕的な義務〔付ごま圏点〕というよりも、むしろ|親子の間の愛〔付ごま圏点〕として理解せられていたように見える。|親が子に対して孝養する〔付ごま圏点〕という言い方は、戦記物などには目立って現われているところである。従って子の親に対する孝養も、愛の行ないであって義務的な奉仕ではなかった。そういう孝が久しく国民の常識であった後に、江戸時代に至って、家長権が重視され、子の父への奉仕を主要な内容とする孝の概念が、新しく力説され始めたのである。これは、江戸時代の封建制度を儒教道徳によって基礎づけようとする運動の一つの現われであった。そういう機運に乗って中江藤樹は、|孝を宇宙の原理とする〔付ごま圏点〕独特の哲学を作った。人は孝をつくすことによって絶対者に帰入しうるのである。それほどでないにしても、儒教の五倫の通が普遍的な人倫の道そのものとして信奉せられ、中でも父子之親、君臣之義が最も重いとせられたのであるから、孝は忠と並んで徳のなかの徳となった。幕末の会沢正志斎に至っては、この忠孝の道において「国体」を看取し、肇国以来の皇国の道はすなわち忠孝の道であると力説した。この考えは、周知のごとく、明治以後に生きのび、「国民道徳」の名によって唱道せられたのである。
 以上の歴史によって見ると、わが国における孝の重視は、必ずしもシナにおけると同じではない。わが国の孝は一面においでは|父母と子との間の愛〔付ごま圏点〕の尊重であって、家長たる父への奉仕関係ではなかった。他面において、家長たる父への奉仕関係が重視される場合には、孝はいつも忠と結びつき、忠の下位に立った。だからわが国民は、純粋な孝の問題においては、|母子の間の愛〔付ごま圏点〕を除いて考えることはできない。また孝がどれほど報本反始の道として力説されて(351)も、それを天地の大道というごとき公共的なものと感ずることもできない。孝はもっとひそやかな、家の中の問題である。これらの点において、孝を重視しながらも、シナとは明らかに異なるといえるであろう。その他の諸国民を見渡すと、孝を主徳とするというようなことは、ほとんど見いだされない。ギリシアの元徳も、キリスト教のそれも、仏教の戒律も、孝などを数えてはいない。ただわずかにモーゼの十誡のなかに「父母を敬え」とあるのが、唯一の似寄った例であるが、しかしその位置はさほど重くはない。してみるとわが国における孝の重視は、確かにわが国民の個性的特徴であるに相違ないのである。これは一体どれほどの意味を持つのであろうか。
 人々は今封建的遺習を斥けることに熱心である。孝も恐らくその中に数えられるのであろう。しかし孝を重んじたということ、すなわち親が子を愛し、子が親を愛することを非常に尚んだということは、それだけとしては一つの積極的な功績であって、決して斥けらるべきことではない。およそ家の生活のあるところには、親子の愛はなくてはならない。最も未開の社会から最も文明の社会に至るまで、すべてそうである。孝を元徳のうちに数えないギリシアにおいても、親子の愛を尚んだことはきわめて顕著である。問題が起こるのは、孝を重要視するのあまりに他の徳に不当な取り扱いを与える場合、言いかえれば親子の愛を実現するために他の重要な人間関係を犠牲にする場合である。すでに論じたように(上巻、三八二ページ以下)親子関係は人倫的組織の系列のなかで|一定の位置〔付ごま圏点〕を持ち一定の任務を与えられているのであって、その限界を超えた要求を持ってはならない。家族共同体の内部においてさえも、それは三人共同体としての厳密な制限を、すなわち超克さるべき私的性格を帯びているのである。だから公共的存在におけるさまざまの任務に対しては、孝の徳は私的なるものとしてその場所を譲らなくてはならない。シナ古代において孝が主徳とされたのは、家族共同体が社会構造上重要な位置を占め、国家よりも切実に公共的存在の意義を担っていた(352)からであろう。従ってそれは、地縁共同体や文化共同体が複雑に発達し、公共的存在の意義を家族共同体から奪い去った社会においては、そのままには通用しない。子の奉仕を要求する家長権のごときも、ここでは影が薄れてしまう。しかもこの差別を無視して孝を重んじ、孝のために他の人倫関係を多少とも抑制しあるいは犠牲にするとすれば、それは明らかに親子関係の過重であって、人倫的組織を正しく実現する仕方ではない。もしそういう不正な仕方が一つの国民の個性的特徴となっているとすれば、それは断乎として廃棄されなくてはならない。が、ここで廃棄さるべきなのは、孝を重んじたこと自体ではなくして、そのゆえに他の人倫関係を軽《かろ》んじたことなのである。
 この問題に最も関係の多いのは、家の生活において、|親への孝〔付ごま圏点〕のために|子の夫婦生活〔付ごま圏点〕が犠牲にされるという問題であろう。これがわが国の特異の問題として多くの悲劇をひき起こし、明治時代の小説家によき材料を提供したことは周知の通りである。現在においては、家風に合わないという理由による離婚とか、姑の嫁いびりとかは、もはやそれほど顕著な現象ではないであろう。しかしそれでも子の夫婦生活が親への配慮によって制約されるという傾向はなお残っている。婚姻に関する法律が改められ、子夫婦は親の家と異なった|新しい家〔付ごま圏点〕を創立するのだということになっても、親への配慮を全然放擲するのが正常の状態であるとは、一般には認められていない。従ってこの問題はなお生きていると言ってよい。しかしこれは単純に夫婦関係と親子関係との間の連関の問題とはいえないのである。すでに説いたように(上巻、三八七ページ以下)親子関係は|夫婦関係の私的性格を超克したところにのみ〔付ごま圏点〕成立する。夫婦が父母に変容したところでなくては父母子の関係は成り立たない。が、この本質的な連関は、子夫婦がその間にもうけた子との間に形成する親子関係にあてはまるのであって、子夫婦と親夫婦との間に存するのではない。子の妻は本来夫の両親の子ではなく、従ってその両親に対しては、ただ夫の両親であるがゆえにおのれの両親であるかのごとくに仕え(353)るのである。従って子の両親と子の妻との間の|義理の親子関係は、子夫婦の愛に媒介された〔付ごま圏点〕ものである。この愛の合一が緊密であればあるほど、妻は義理の両親に対して夫と同じ感情を抱くようになる。両親もまた、子に対する関係においては自分たちの夫婦としての愛に媒介されているが、しかし子の妻に対する関係においては|子夫婦の愛に媒介されて〔付ごま圏点〕子に対すると同じ感情を抱くようになるのである。このような義理の親子関係が子夫婦と親夫婦との間の関係に含まれているとすれば、この親子の間の愛が実現されるためには、子夫婦の間の愛は充分に尊重されなくてはならぬ。親への孝のために子の夫婦生活が犠牲にされるということは、あってはならないのである。親の側においても、もし親子の間の愛の実現が重要な人倫の道であると理解されているならば、そのためにも子の夫婦の間の愛が最もよく実現されるように配慮しなくてはならぬ。この配慮に対して子夫婦の側からは、夫婦の愛の私的性格を超克して親への愛を実現しようとする配慮が応えてくるであろう。こういう親子の愛は、子夫婦の生活を犠牲にするどころか、むしろそれを発展させることによって実現されるのである。
 してみると|親への孝〔付ごま圏点〕のために|子の夫婦生活〔付ごま圏点〕が犠牲にされるということは、孝の本質としての親子の愛がひき起こす問題ではなくして、孝と呼ばれる何か別のものに起因した問題であろう。親夫婦がその数十年の生活の間におのずから作り上げた家庭内の習慣を、あたかも絶対的な行為の仕方であるかのように子夫婦に強いるとか、あるいは在来子の愛を独占していた母親が子の妻を競争者として感じそれに対して嫉妬を抱くとか、そういう類《たぐ》いの親の態度が|孝の名において〔付ごま圏点〕子夫婦を抑圧した例は少なくない。これは親子関係において親の側に子に対する甚大な責務のあることを理解せず、ただ子の側から理非を問わず親の意志に従うのが孝行であるとする間違った考えを現わしている。(上巻、四〇二ページ以下参照)そこでは親の子に対する支配権は重視せられているが、親子の間の愛の関係としての孝は理(354)解せられていない。このような親の専制としての孝は、他の人倫関係を軽《かろ》んずるどころか、親子関係そのものをも軽んじているのである。従ってそれは、孝を重んずるという名目の下に|孝を否定する態度〔付ごま圏点〕にほかならない。かかる態度を斥け、親の専制を打破することは、「封建的悪風」を超克するために必要であるのみならず、|親子の愛としての真実の孝の徳を救う〔付ごま圏点〕ためにも必要である。
 が、孝の問題はまた、家の制度において|性的存在共同〔付ごま圏点〕に重きを置くか、あるいは|血縁的存在共同〔付ごま圏点〕に重きを置くか、の問題とも密接に連関している。欧米の諸国民が近世に至って判然と前者の立場を取ったのに対し、わが国民が最近まで後者の立場を維持し、血縁的存在共同に重きを置く家族制度を「わが国固有の美風」と考えて来たことは、顕著な事実である。そうしてそれは必ずしも固陋の見とのみは言えないであろう。働き盛りの壮年の夫婦が、愛らしい子供たちとともに、にぎやかな楽しい家庭を営んでいるのに、その壮年の息子を育て上げた老年の親夫婦は、――あるいはすでに一方が欠けて独りぼっちの翁か媼となった親は、――別の淋しい家で張り合いのない晩年を送っている、というような光景よりも、それらの人々がともに一つの家に住み、老父母は祖父祖母としてただ孫たちを可愛がる以外に家のことに口を出さず、息子や嫁は生い先の短い老父母をできるだけやさしくいたわる、というような光景の方が、人倫的にはるかに優れており、従ってはるかに美しいと呼んでさしつかえはないのである。それはヨーロッパ人自身も明らかに認めているといってよい。かつてベルリンに住み込んでまもなく、一人の青年が母親らしい老婦人を優しくいたわりつつ散歩しているありさまを瞥見し、宿に帰ってそういう親孝行のやり方についての意見を主婦に求めたところ、主婦は言下に「それはユダヤ人でしょう。あれだけは|実にうらやましい〔付ごま圏点〕」と感動の調子をもって答えた。それは恐らく偽らない真情であろう。ドイツ人の普通の考えから言えば、子を一人前に育て上げるのは親の義務であ(355)る。この義務が果たされ、子が一人前となれば、もはや子の面倒を見る必要がないとともに、また子から何かの奉仕を期待する権利もない。子が結婚すればそこに一つの新しい家族が形成されるのであって、親の家とは別のものである。老父がただ一人で老病になやみ、看護するものは女中のほかにないという場合でも、隣の町で牧師をつとめている息子は、時おり見舞うだけで、それ以上に老父につくそうとはしない。われわれから見れば、息子は公務が手放せないにしても、せめて息子の妻は父の家に宿り込んで最後の世話をしたらよさそうに思われる。しかし息子の妻は|父の家の嫁ではない〔付ごま圏点〕のであるから、|おのれの家における主婦としての義務〔付ごま圏点〕を放擲してまで、他の家のことをする必要はないのである。平生がそうであれば、病になやむ時に、父の方から特別の世話を|懇請する〔付ごま圏点〕ということは、病苦よりもかえってつらいことであるかも知れぬ。従って老父も息子夫婦に死に水を取ってもらうことを期待しない。息子夫婦もそれを重大な義務とは考えない。それが普通の風習なのである。しかしそうであるからといって、息子夫婦が真に愛情をもって看護してくれることが、老父にとって望ましいこと、幸福なことでないというわけではない。そういう状態は「実にうらやましい」ことであるに相違なかろう。だから夫婦を主とする家の制度よりも、親子夫婦の複雑な連関を含み血縁的存在共同に重きを置く家の制度の方が、|一層大きい人倫的意義を担う〔付ごま圏点〕ということは、洋の東西を問わず通用することなのである。
 しかし「一層大きい人倫的意義を担う」ということは、そこに課せられている行為の仕方が一層多くの「私」の克服を要求し、従って人倫的に一層大きい努力を必要とするということであって、そこに一層よく人倫の道が|実現せられているということではない〔付ごま圏点〕。従って実現の度合いという視点より見れば、人倫的意義の少ない家の制度の行なわれているところの方が、その意義の大きい家の制度を固守するところにおいてよりも、|一層人倫的価値の高い家族生活〔付ごま圏点〕(356)を実現している、ということもあり得る。親夫婦と同居することによって、よき息子よき嫁としての資格に欠けることを暴露した男女も、初めより夫婦のみの家庭生活を営んでいれば、よき夫よき妻として欠くるところがなかったかもしれない。また親の側でも、子夫婦と同居することがなければ、子を慈しみ育てた親として終わることができたであろうに、同居の結果としてよき親よき舅姑としての資格に欠けることを暴露した、という場合もある。のみならず、そういう煩累の結果として夫婦生活そのものがあるべきように営まれないということもまれではない。してみれば、「美風」があるためにかえって家の人倫的意義が充分に実現されないという逆説的な結果も生じ得る。かかる結果を避けるために、美風の実現に|道徳的精力を傾けると〔付ごま圏点〕、道徳的訓練が家の生活を中心として行なわれるようになり、それ以上に広い|公共的生活での行為の仕方がゆるがせにされる〔付ごま圏点〕、というような別の結果を招くことになる。これは前者よりも一層大きい弊害といわなくてはならない。わが国において家の制度が導き出した最も大きい弊害は、|公共道徳の未発達〔付ごま圏点〕である。これは家の道徳がいかによく実現されてもなお償うことのできない大損失なのである*。
 * 風土(本全集第八巻)一六一−一六九ページ参照。この損失の叙述は二十年後の今日に一層よくあてはまると思う。
 この点を考えれば、血縁的存在共同に重きを置く家の制度を「わが国固有の美風」として力説し、そこへ|道徳的精力を集中しようとした〔付ごま圏点〕ことは、確かに誤りであったといわなくてはならぬ。それは美風であるには相違ないが、しかしそのために人々の道徳的精力を独占し、また家族よりも段階の高い共同存在への訓練を犠牲にしてよいようなものではない。従って家族的共同存在への努力の負担を軽減し、より高い公共的存在への努力を容易ならしめるということは、人倫的組織全体の立場から見て「利巧」なやり方であるのみならず、また正しいやり方であるといってよいのである。
(357) が、この革新はどういうふうにして行なわれるであろうか。家に関する|民法の規定〔付ごま圏点〕を変えただけでは、家に関する国民の行為の仕方が全般的に変わるというわけには行かない。ではその行為の仕方をどういうふうにして変えることができるであろうか。そもそもまた、家に関する行為の仕方が、全般的な行為の仕方とひき離して、独立に革新されうるものであろうか。
 この革新の問題としてまず取り上げられたのは|婚姻の方式〔付ごま圏点〕であった。在来のわが国の婚姻は、|家と家との間の〔付ごま圏点〕縁結び、従って一つの家に他の家から「嫁」をもらうのであって、一人の独立した青年が他の独立した少女と愛において結合し、そこに一つの家を新しく作る、というわけではなかった。そこで革新の立場はいう。そのような|家の間の〔付ごま圏点〕縁結びは、愛の合一としての家の本質に合わない。愛の合一は人格的関係である。婚姻する男女は、親の意志によらず自らの意志によって、自由に配偶を選択しなくてはならぬ。そうしてその作る家は、世代の異なる親たちの意見とか、親たちの「家風」とかに煩わされることなく、自らの意志によって性格づけられねばならぬ。でなくてはここに婚姻する男女は自己に忠実であることも、また確信をもって次の世代を育成することもできない。
 この革新的な意見はいかにももっともであって、反対の余地はない。が、驚くべきことには、この革新の対象となっている「家の間の縁結び」の立場といえども、この意見に毫も反対ではないのである。周知のごとく、嫁を迎えるという考えの支配していた時代にも、青年男女が自由に相手を選び、二人の好むがままに新しい世帯をつくるということは、行なわれていた。それは親の同意を要したが、しかし同意のない場合にもしばしば行なわれた。また親たちも、すでに行なわれた選択に対しては同意するのが通例であった。が、親たちが選んで嫁が結ばれる場合といえども、(358)当人たちの自由意志を無視するのではない。親たちはただ|候補者〔付ごま圏点〕を選ぶのであって、最後の決定は当人たちによるのである。この際当人の意志を無視する親は、利己主義者かばか者と見なされていた。してみれば、相手を選ぶ機会が|偶然に与えられた〔付ごま圏点〕にせよ、あるいは親たちによって|準備せられたにせよ〔付ごま圏点〕、その選択は当人たちの意志によったのであって、親の意志によったのでない。しかもこの二つの場合は、結婚後の成り行きをも勘定に入れて、永い間比較考量せられて来たが、|いずれがよいとも言えなかった〔付ごま圏点〕。だから親たちが深い配慮をもってその|選択の機会を準備する〔付ごま圏点〕という風習は、容易に衰えなかったのである。
 婚姻に関する民法の規定が変わっても、|この風習は容易に衰えないであろう〔付ごま圏点〕。なぜなら、こういう風習は社会全般にわたるさまざまの風習や制度からひき離して、それだけで革新し得られるものではないからである。若い男女が自由に相手を選択しうるためには、男女が自由に交際しうる社会的風習が成り立っていなくてはならない。そうしてそういう風習は、永い間の試煉を経て確立してくるものである。若い男女が何の規律もなく放縦に接触し合うところでは、結局、多くの不幸や惨害を背負い込まなくてはならないのは、その男女自身であろう。その反省からして、男女がおのおの身を護るための一定の|身の持ち方〔付ごま圏点〕が見いだされてくる。その時にこの風習はようやく確立するのである。それは合理的に物を考え得る国民にとっては此較的に容易であろうが、意志の弱い、感情に溺れやすい国民にとっては、なかなか容易ではなかろう。感情に溺れた瞬間には、理性的な考慮が何かくだらないことのように投げ捨てられる。そうしてそれによって惹起された不幸な結果に対しては、敢然として自ら責任をとるだけの意志力がなく、人を怨み社会を呪う。そういう国民にとっては、よほど長期にわたって多大の犠牲を払うか、あるいは国民全体がよほどの熱心をもって自覚の努力をするのでなければ、規律の確立は成功しないであろう。が、さらに一歩を進めていえば、(359)そういう男女交際の風習は、社会一般に|社交的な風習〔付ごま圏点〕の存するところにおいて、その一契機として可能なのであって、非社交的な社会にそれのみを発達させることはできないであろう。その点からいえばこの間題は一つの国民が形成する社会組織の伝統的な性格にも連関するであろう。ヨーロッパ諸国民における社交的風習や、個人の社交的性質は、「町」としての社会的組織や、それに強く影響されている村の組織などに、深く根をおろしている。そこには古代の都市国家の伝統さえも無関係であるとはいえない。人々が日常的に相集まって、あるいは語り合い、あるいは食事をともにするという風習、――そのためにはおのおのの家庭が解放されるのみならず、さらにその目的に合うようなさまざまの設備が発達する――そういう風習の背後には、共同の関心によって作られた「公共的なもの」としての町がある。中央には市民全部が集まり得るような広場があり、そこで一定の日に市が立つ。その広場のまわりには議事堂や教会が建てられ、その付近に町の最も大きい料理屋などもある。市民はこの町をおのれたちのものとして感じ、街路をば|廊下〔付ごま圏点〕のように、カフェや料理店を|茶の間〔付ごま圏点〕のように取り扱う。そうしてちょうど家のまわりに垣根を結うと同じ気持ちで町のまわりに城壁をめぐらす。そういう町の中でこそ|社交的な風習〔付ごま圏点〕がはっきりと成り立って来たのである。そこでは社会的な批判や制裁が人々をしつけ、人々を規律に服させる。|社交上の礼儀作法〔付ごま圏点〕がおのずから人々のふるまいに沁み込んでくるのみならず、一般に|社会人としての礼儀作法〔付ごま圏点〕、すなわち公衆道徳と呼ばれるものが市民の常識となってくる。ところでそういう社交的な風習を、伝統の異なるわが国において、どうすれば作り出すことができるであろうか。家のなかでは実に距てのない生活をしているわが国民が、家のまわりには厳重に垣根を結って他と距てるという閉鎖的な態度、それに伴なって町や村を「おのれたちのもの」とは感ぜず、公園を荒らし公共建築物を毀って平気でいることができるというあの公共性への無関心の態度、あるいは社会人としての礼儀作法にほとんど無感覚と(360)さえ見えるあの利己主義的な態度、そういう態度を根本的に革新することなしには、社交的な風習は確立され得ず、従って男女交際の風習の確実な地盤も作り出され得ないのである。
 こう考えてくれば、婚姻の方式というごとき簡単な問題でも、|社会全般にわたる伝統的な性格〔付ごま圏点〕を革新することなしには、根本的に改めることができない、ということが明らかになる。それは家に関する行為の仕方全体についても同様である。それらは家を超えた公共的な人倫的組織と密接に連関しているのであって、家だけの問題ではない。
 わたくしはかつてヨーロッパと日本との|家の構造〔付ごま圏点〕の相違を文字通りに|住宅の構造〔付ごま圏点〕の相違において捕えてみようと試みたことがある。(風土、本全集第八巻一四五ページ以下)それと同様に、|家の制度〔付ごま圏点〕の革新の問題もまた|住宅様式〔付ごま圏点〕の革新の問題に反射させて考えてみることができるであろう。周知のごとく、日本の住宅は木と紙と土とで作られ、火、水、風、地震のいずれに対しても弱い。しかも日本はそれらの天災がいずれの国よりも多いところである。従ってわが国民は、耐震、耐火、耐水、耐風の設備の|最も必要な〔付ごま圏点〕条件の下に生きつつ、しかもそういう設備の|最も少ない〔付ごま圏点〕住宅を好むという、最も非合理的な態度を取っているように見える。しかもこのような住宅の様式は、ただに物理的に言って非合理的であるのみならず、心理的に言っても人間の生活の進歩を妨げるものである。障子や襖による間仕切りは、それぞれの室の独立性を不可能にし、従って家族員の個性を発達せしめない。それは家族員の間の距てのない情愛を育てるかも知れないが、その代わりに社会人として不適当な性格、特に背骨のない、付和雷同的群集人的性格をも育て上げる。これは地震洪水火事などによって毎年ひき起こされる莫大な損害よりも、もっと重大な損害だといわなくてはならない。それを思えば|住宅様式の改造〔付ごま圏点〕は断乎として行なうべきである。しかもそれは、どうしてよいかわからない、というような面倒な問題なのではない。耐震耐火耐風耐水の建築様式はすでに鉄筋コンクリート建築にお(361)いて実現されている。この様式によって大きいアパートメント式住宅を――すなわち長屋《ながや》の代わりに高屋《たかや》を――建てさえすれば、住宅様式の革新は一挙にして成るのである。それは洋風の間仕切りを採用することによって在来の日本住宅の個性没却的な弊害をも除きうるであろう。これは実に明白なことであって、もはや論議を必要としない。それを断行し得ないとすれば、野蛮蒙昧と呼ばれても抗弁することはできないであろう。かく一方においては主張されているのである。
 しかし問題はそれほど単純であろうか。わが国民はこの単純な問題を解決し得ないほど蒙昧なのであろうか。そもそもこの木と紙と土との脆弱な住宅は、単に蒙昧の産物に過ぎないのであろうか。人類が古くから家屋の材料として用いたのは、木と煉瓦と石とである。沙漠地方では煉瓦や石による構法は非常に発達していた。わが国民も金属の用法とともにこの構法を学ばなかったのではない。が、それは地震国には不適当であったし、また特に湿気の多いわが国の風土にあっては、決して気持ちのよいものではなかった。石や煉瓦は空気中の湿気を吸収することなくただ表面で凝結させる。従ってそれは空気中から湿気を集める作用をするのである。従ってその中に住む人は空気中の湿気以上に多くの湿気に触れなくてはならぬ。これは健康にひどくこたえる。それに比べると木や紙や、また煉瓦のように焼き固めない壁土は、湿気を吸収しはするが、気温と距たりがなく、湿気を凝結させるということがない。従って木や紙や土に取り囲まれた室の中では、湿気はそれらに吸収されてかえって少なくなるのである。木と紙と土との家の|住みごこちのよさ〔付ごま圏点〕は主としてここに起因するのであろう。これは暑さや寒さのように感覚的に顕著なものではないが、しかし何か月か、あるいは何か年か、そこに住む間には、感覚的に顕著なものよりも|はるかに根深く〔付ごま圏点〕気分を支配してくるものである。この点をはっきりと認識すれば、この|日常的な住みごこちのよさ〔付ごま圏点〕のために、数年あるいは数十年に(362)一度の地震、洪水、暴風、火事などの危険をあえて冒そうとする態度は、決して理解し得られぬものではない。われわれの祖先の永年の経験は、時たま起こる地震や火事の害よりも、持続的な湿気の害の方が大きいということの理解を推し出したのであろう。それにはわが国における|木材の豊富〔付ごま圏点〕ということも考え合わせなくてはなるまいが、しかしそれは二次的の問題である。もと森林に覆われていたヨーロッパの諸国民は、やがて木材をすてて煉瓦や石に移って行った。、わが国でそうしなかったのは湿気のためである。
 が、論者はこれに答えていうであろう。もし湿気が唯一の障害であるならば、それを防ぐことはきわめて容易である。鉄筋コンクリートの集合住宅においては、暖房の設備を乾燥の設備に結びつけることができる。冬は暖かい空気を、夏は涼しい乾いた空気を、室内に通ずればよい。かりにその設備ができかねるとしても、現在の日本の大都会においては、旧来の木造住宅に執着する結果、それの与える日常的な住みごこちのよさよりも、それと釣り合いの取れないほど大きい|日常的な不快〔付ごま圏点〕が醸し出されている。それは木造住宅のために大都会が世界に類のないほど|面積の広いもの〔付ごま圏点〕となり、市民の大部分が交通のために精力の少なからぬ部分を消耗するということである。それはさらに結核などの多くの病気をも伴なっている。そういう害は湿気の害どころではなく、心理的にも市民の気力をそぐこと甚大である。それをもなお忍ぼうとするのは蒙昧というほかはない。都会はあくまでも都会らしく人々が便利に交際し得るように作らなくてはならない。そのためにはどうしても日本家屋を捨て、高層の鉄筋コンクリート建築によって住宅を上へ積み重ねなくてはならない。
 いかにももっともである。できればそれに越したことはない。しかしそれは日本の富の程度から言って到底不可能ではないか。在来の住宅様式も富の程度との相関関係によって定まったのであって、単に住宅様式だけを考えて作り(363)出したのではない。日本の労働者が、工場へは歩いて行けるほどの所に、冬はスティームか暖かい空気かで暖められ、蒸し暑い夏には涼しい乾燥空気の供給を受けて、薪炭や蚊帳の心配なしに暮らせるということは、確かに望ましいことには相違ないが、しかし単なる夢に過ぎないのではないか。その先決問題は日本の富である。すなわち住宅問題ではなくして経済問題である。
 この抗議もまた次のように答えられるであろう。富が先決問題であるには相違ないとしても、たとえば戦前の日本において、右のごとき住宅改造、都市改造をなし得る富がなかったとはいえない。ただ人はそれを個々の住宅についてのみ考え、社会的に費やされる富を勘定に入れていないのである。高層集合住宅を作れば、敷地は数十分の一ですむ。そこで用いられる鉄管とか電線とかも同様である。さらに道路や交通のための設備も著しく軽減する。固定した設備がそうであるのみならず、日常の物資の輸送とか交通とかのために日々に節約せられる経費を勘定に入れれば、十年百年の間の相違は大したものである。小さい木造住宅をだだっ広く並べて、多くの富を殺して消費する代わりに、それを集中し組織すれば、段違いに贅沢と思えるようなものが作れるのである。してみれば、ここに欠けているのは、|富ではなくして、富の集中的な組織、集団的な経営〔付ごま圏点〕の精神である。かかる組織の立場に立って、前記のごとき耐震耐火の高層住宅建築に充たされた、面積の狭い、便利な都市を作れば、それに費やされた富が決して不経済なものではなかったということは、半世紀ならずして証明せられるであろう。今のままでは、年々に火災によって消耗せられる富だけでも莫大なものであるが、それに加えて数年に一度の洪水、暴風、数十年に一度の地震の損害を加算すれば、半世紀の間には、かえって倍額の富を失うかも知れない。みじめな木造住宅に住み、満員の電車で精根を疲らせながら、しかもかえって多くの富を費やしていることは、何と言っても利巧とはいえない。
(364) なるほどそれももっともである。しかしここで一層明らかになったことは、もはや問題が住宅様式の革新の問題ではなくして、わが国民の「公共的なるもの」に対する態度、能力、自覚などを、いかに革新すべきかの問題に移っているということである。自覚的に都市をつくるという経験を伝統的に背負っている国民、――数十人あるいは数百人の人々がある新しい土地にたどりつくと、まだ住宅さえもないその場所で、まず市会を形成し、市長や参事会員を選び、党派的関係のない人(時には本国から付けられて来た官吏)を裁判官として、ここに一つの都市が建設されたことを宣言する、というやり方を常識的に心得ている国民、――そういう国民の「公共的なるもの」に対する態度を学び取り、都市をば公共のものとして共同的に経営するという心構えが市民各自のうちに生きて来なければ、都市における住宅様式の革新は徹底し得ないのである。
 家の制度の革新は住宅様式の革新と運命をともにするであろう。難易の別をいえば、後者の方が容易なのであるが、それさえもなかなか実現し難い。日本のいわゆる洋風住宅とか文化住宅とかと呼ばれているものは、「玄関で靴を脱ぐ」のである限り、本質的に西洋の住宅とは異なる、ということをかつて説いたが、(風土、本全集第八巻一六三、一六六ページ)結婚によって一家を創立する新しい家の制度においても、そういう玄関はいつまでも残るであろう。その革新には人倫的組織の全面的な革新が必要なのである。
 家の制度について言ったことはまた|地縁共同体〔付ごま圏点〕についても通用する。農村の家族生活の革新は農耕の様式や農村の組織の革新と相伴なわなくてはならないが、その農耕様式、農村組織の革新は決してそれだけで簡単に行なわれ得るものではない。
 わが国民の現に用いている農耕様式が、木と紙の家と同じく、さまざまの弱点を伴い、断固たる革新を必要とす(365)るものであることは、何人も異論のない点であろう。この狭い国土にこれほど多くの人口を養い得たのは、主として稲作の効果であり、従ってわが国の農耕様式は稲作を中心とするものであるが、その稲の作り方は、原始的なやり方と何ほどの相違もなかろうと思われる。水をたたえる必要から土地を小さく区切って作った田を、手でもって、あるいはたかだか牛か馬の力をかりて、鋤きかえし、ならし、そこへ水をひいて水田にする。そうしてその上へ稲の苗を|手でもって〔付ごま圏点〕一株ずつ丹念に植えつけて行く。それがやや成長しはじめると、炎天下の水田のなかを這い回って、またもや手でもって草取りをやる。その水田に適当に水がたたえられているか否かは日夜看視せられなくてはならぬ。が、この水の供給は川とか池とかに依存するのであるから、年ごとの降雨の状況に支配せられ、人力ではいかんともすることができぬ。やがて稲が成育して花を開くころには、台風の襲来の最も多い季節になる。それがちょうど開花の最中にぶつかれば、収穫の見込みはなくなる。が、これも人力で防ぐことはできぬ。すべては自然まかせで、その年々の気象の成り行きを傍観するほかはない。これが現在でも守られている稲作の様式である。そこには機械力はほとんど用いられない。人為的な自然支配の工夫もほとんどなされない。そこで用いられる道具とか家畜の力とかは、すでに五六千年前の農耕において用いられていたのとほとんど変わりがない。最も多く用いられるのは人力であるから、農村の家庭では男も女も子供もまっ黒になって働かなくてはならぬ。これは文明国の農耕様式に比すれば何といっても|原始的〔付ごま圏点〕というそしりを免れない。それはただに労働の様式として原始的であるばかりではない。体力の消耗のために精神的関心が薄らぎ、文化的なるものへの理解の道が塞がれるとすれば、農民の精神生活そのものもまた原始的たらざるを得ないであろう。これは一つの国民の文化水準を高めるという視点から見れば|非常な大事件〔付ごま圏点〕でむる。今の時代において農村をこのような原始状態に放置することは、一つの国民の道徳的な責任問題としてあくまでも追究せら(366)れなくてはならぬ。人はしばしばデンマークの農業の驚嘆すべき発達を説き、これを模範とすべしと唱道するが、原始的な農耕様式を守りつつ、機械化された農業をいかにして模範とすることができよう。機械力によって体力使用の過重を救わなくては、知力の発達やその活発な活動は期待せられない。だから農耕の機械化が何よりもまず先決問題である。それによって農村に知力的経営の伝統が打ち立てられ、そこからさまざまの革新の動きが出てくるようになれば、人為的な自然支配に対する国民的な運動もまた始まるであろう。組織的な植林やダムの設備によって、わが国に多すぎる雨量を巧みに貯蔵すれば、一面において洪水を防ぎ得るとともに、他面において石炭を用うることなく一年間の電力を起こし旱魃の怖れを絶って水田の灌漑水を確保することもできる。その上に台風に対する防御方法を考え出すことができれば、日本の農耕は面目を新たにするであろう。これらのことはわが国民の当然なすべきことであり、しかもそのやり方がすでにわかっていることである。
 確かにその通りである。がこの場合にも、革新はそれほど簡単な問題であろうか。水田耕作の機械化はどういうふうにしてなされ得るであろうか。機械化農業の先例が示しているところは多く|畑作〔付ごま圏点〕である。麦や綿やとうもろこしの耕作においては、|土地のうねりは〔付ごま圏点〕一向にさしつかえなく、従って広い耕地を一気に機械で耕作することもできる。しかし水田はそうは行かない。日本の水田が小さく区切られているおもな理由は、大きくうねった地面に水平の田地を作る必要があったからである。が、それは機械力によってならせばならせぬこともない。ただ耕地がそれだけ高価なものになってくることは認めておかなくてはならない。そこでそういう広々とした水田が作られ、それを機械力によって耕すとする。そういう水田へこれまで通り手でもって早苗を植えつけるのでは、水田耕作の重な部分が機械化されないということになる。といって、人の足さえも相当に深くめり込むような柔らかい水田の中へ、重い機械を入(367)れることはできまい。また指先で苗を柔らかい泥のなかにさし込むようなデリケートな仕事を、機械にやらせるのも容易ではあるまい。とすれば|直接播種〔付ごま圏点〕のほかはないのである。それも種播き機械を水田へ入れるわけには行かないのであるから、空から飛行機によって播くほかはなかろう。そういうふうに一面に種を播いた田へは、田の草取りにはいるわけには行かない。たとい田の草取りの機械を発明しても、その使用は不可能であろう。従って|雑草〔付ごま圏点〕ははえるに委せておかなくてはならぬ。肥料を入れた田で雑草が自由にのびうるとすれば、日本では変なことになる。現在の稲作労働の最も主要な部分で同時に最も苦しい部分は、田の草取りである。農民はこの労働から解放される代わりに、収穫が激減することを覚悟しなくてはならぬ。結局、水田耕作の機械化によってもたらされるところは、田植えや田の草取りの人手がいらなくなるとともに、米の収穫が半分ぐらいになることであろう。そこで日本の農民の大部分は不必要となり、この国土は今の半分の人口しか養えないことになる。これは一言で稲作様式の「改良」とはいえないことである。
 が、それだけにはとどまらない。もし稲作機械化によって直接播種が行なわれるとすれば、その播種の時期は、今苗代に播種する時期と同じでなくてはならず、従って梅雨期よりも早く、麦の成熟期と衝突することになる。今のやり方ならば苗代で稲を発芽させて麦の成熟を待つことができるが、直接播種の場合にはそれができず、従って同じ耕地を稲と麦との双方に用いることができない。しかるに日本の耕地の大半は稲と麦との二毛作をやっている。麦が赤るみ、実った時に、それを大急ぎで刈り取り、その麦畑を鋤き返して水田に作りなおし、そこへ相当に成長した稲の苗を大急ぎで植えかえる、というのが、日本の農繁期の特殊な慌しさである。それはまた稲の収穫時にも繰り返されるのであって、稲を刈り取ったあとを鋤き返して麦畑に作りなおし、そこへ麦を播く、という手続きを少し遅らせれ(368)ば、麦の播種期を逸することになるのである。が、このきわどさは麦の収穫時の方がはなほだしいであろう。これをヨーロッパのような麦作のみの地方の、収穫時におけるのびのびした気持ちと比べると「まるで違っている」ということができる。そのきわどさは日本における|小麦の地位〔付ごま圏点〕にも反映しているのである。小麦は大麦よりも成熟期が半月近く遅いのであるが、それは一方では成熟期が梅雨期にかかるということであり、他方では田植え時のせわしさを倍加するということである。田植えの安全を期するためには小麦よりも大麦を選ばなくてはならぬ。また|穀物の質〔付ごま圏点〕は成熟期の乾燥に依存するのであるから、よき質の麦を欲するならば、やはり小麦よりも大麦を選ばなくてはならぬ。日本において小麦が重用されなかったのはこれらの事情にもとづくのである。粉食が充分発達しなかったことも小麦の賀の悪さと関係があるであろう。が、とにかくこのきわどい時期に繁忙をきわめた労働によって農民たちは米と麦とをともに収穫することができるのである。しかるに飛行機で稲の直接播種をやるということになれば、二毛作地方の麦作は断念しなくてはならぬ。もしそれを断念せず、今の田植え時に播種するということになれば、稲の生育にとっては今よりもはるかに不利であろう。雑草との競争が一層烈しいからである。そうなると米の収穫は一層減少すると見なくてはならぬ。米が減るか、麦が減るか、いずれにしても機械化の結果は食糧の減産のほかはない。
 以上のごとく考えてくれば、現在のような「原始的」な農耕様式が守られているのは、必ずしも未開のためとのみはいえないのである。それは機械化によっては達せられないような集約農法を可能にした。そうしてこの集約のゆえに、同じ面積の耕地によって得られる最高の能率を発揮することができた。この事実は充分に認識しておかなくてはならない。が、それは現在の様式がそのまま革新を必要としないということではない。この機械文明の時代に、五六千年前と同じ道具や動力をしか使わないという態度は、何といっても改められなくてはならぬ。また実際上、脱穀な(369)どの方法においてはすでに機械や電力が使われ始めているのである。が、この機械化は、集約的農法に適合し、またそれを活かせるものでなくてはなるまい。広漠たる未墾の平野をこなして行ったような大機械をもって、千年来|手でなでまわして来た〔付ごま圏点〕熟墾地を処理するということは、確かに場違いである。すべてが小さくて狭いこの国土では、農耕機械もまた小さく軽いものにするほかはない。そこに独創的な工夫が必要になる。が、そのゆえにまた農耕様式の革新は、農耕機械の発明だけでは遂げられないであろう。むしろ|農業経営の方法〔付ごま圏点〕や|農村の組織〔付ごま圏点〕の合理化の方が、一層重要な役目をつとめるであろう。大きい牧場を作る余地のないこの国土において畜産を発達させるためには、少しずつ分散して飼養する家畜を、統一的に処理する組織が作り出されなくてはならない。食糧貯蔵の方法がもう少し工業化され組織化されるならば、今よりも有効に使える物質は多量に存在する。そういう仕方で|食糧の多様化〔付ごま圏点〕をはかり、米食偏重の食養様式を改革することができれば、国民の体質や心理状態や、さらに経済や文化に対する影響は、実に甚大なるものがあるであろう。農村自身もそれによって文化水準を高め、蠅や蚊の駆逐による農村の清潔化、農業経営の多角化による生活の安定、その合理化による生活の余裕、その余裕を文化的に生かすことによって得られる生活内容の充実、などが実現せられるであろう。その時には農村の人々は、大都市における窮屈な、機械の歯車のような生活よりも、自然のただ中にあってそれを馴養し支配する生活の方に、はるかに強い創造的なよろこびを感ずるであろう。
 が、これらの革新は、日本の農耕様式を大農式に機械化しょうとする場合ほどではないにしても、なお経済組織全体と連関せずには行なわれ得ない。ただ一つの機械の発明でも、農村自身から出てくるのではなくして、経済界がそれを押し出してくるのである。いわんや農業経営の方法全体は、経済界との連関において生きもし死にもする。畜産の発達とか、食糧貯蔵の方法の革新とか、食糧の多様化とかのごとき問題は、本来農村の問題であるよりはむしろ経(370)済界の問題なのである。経済界がそれを要求すれば、それに応じて技術や設備が現われてくる。農村はそれに追随し、それに適応して、おのれの組織や活動を改めてくるのである。とすれば、問題はむしろ経済界にかかっていることになる。
 前に日本の都市がはとんど都市としての意義を実現していないこと、その病弊は日本式の木造家星であるから、当然鉄筋コンクリートの高層建築に改めらるべきこと、それは長い目で大局的に見れば決して賛沢ではないこと、などを考察したが、しかしそういう住宅建築が作られるか否かは経済界の問題である。これまではそれは実現されなかった。まれに作られた高層集合住宅は、贅沢な人だけの住める高級住宅であって、木造の長屋からすぐ引っ越せるものではなかった。とすると今の経済界は、国民全体の立場から見て贅沢でないはずのものが、贅沢としてしか作れないような組織のものなのである。そういう経済界から見れば、たとい農耕機械が日本農業の革新に必要であるといっても、それを採算の取れるものとして作り出せるかどうかわからない。畜産にしろ、食糧貯蔵にしろ、それが利潤をもたらすとわかっていれば、とっくに始められていたはずである。そうでないのは利潤の見込みがないからであり、利潤の見込みがない限り、いかに農村の革新に必要であっても始められはしないであろう。経済組織はそれでよいのであろうか。ここにも革新の必要はないであろうか。
 この問題に関してはすでに久しく資本主義経済の打倒や私有財産制の廃止が叫ばれている。それは今や国内の政治闘争の標語であるのみならず、世界的な国際的対立の標語でもある。が、党派的な論争の立場を離れて、経済組織を一つの人倫的組織として理解するならば(上巻、四八二−四八九ページ)利潤を自己目的とし、人倫的合一の媒介物(371)たるべき財のためにかえって人間を手段として用いる、という資本主義経済は確かに人倫的意義の逆倒の立場にあるといってよい。経済組織は|財を媒介とする相互奉仕の組織〔付ごま圏点〕に改められなくてはならぬ。搾取はいうまでもなく人倫の破壊である。経済観織が人倫的組織であるべきならば、当然それは搾取なき組織たるべきである。このような|革新〔付ごま圏点〕の目標については、理性的に物を考え得る限り、何人にも|異論があるはずはない〔付ごま圏点〕。しかも共産主義者は、搾取なき社会の実現を目ざすのが|彼らのみ〔付ごま圏点〕であり、彼らに追随せざるものはすべて搾取の立場の擁護者であるかのごとくに主張する。それは闘争手段としての革新目標の|独占〔付ごま圏点〕であって、公正な判断ではない。異論があるのは、右のごとき革新目標を実現するための|手段や方法に関して〔付ごま圏点〕である。たといさまざまの欠点はあっても、すでに試験済みで前途の見とおしのつく安全な方法によって、徐々に理想に近づいて行こうとするのが、|保守的な態度〔付ごま圏点〕であり、欠点を直ちに取り除くために、その試験済みの方法を放擲して一挙に理想実現の冒険を敢行しようとするのが、|進歩的〔付ごま圏点〕あるいは|革命的〔付ごま圏点〕な態度である。歴史はこの革命的な冒険がいつも誤謬を冒し、不必要な犠牲を払っていることを教える。だから保守主義者は、そういうむだを省いて徐々に進む方が、結局目的地へ早くつくと考える。それに対して進歩主義者は、たとい誤謬を冒すにしても、思い切った飛躍をやらなくては進歩を実現することはできないこと、安全な道を選ぶのは結局目的の実現を欲しないのも同様であることを主張する。この二つの考え方は、いずれも相当の理由に基づいたものであって、簡単に片づけることはできないのであるが、その対立に処する態度がまた二つに分かれる。一つは、両者がいずれも相当の理由にもとづくことを認め、そういう主義について|責任を持つ人たち〔付ごま圏点〕に、|互いに代わり合って〔付ごま圏点〕その実現をやらせてみる、という態度である。特定の場合にどの主張者に実行を委せるかは、国民全体の判断によってきめる。拙く行けば国民は反対の主張者に代わらせ、やり直させる。人間の事は自然現象のように実験を許さず、起こっ(372)たことは一度きりで、純粋のやり直しはできないのであるが、しかし反対の主張を押し切って一つのことを実行し、そうしてそれが反対者の主張した通りに失敗に終わったとすれば、その実行者は失敗の責任を取り、反対の主張者はかかる責任なきものとして自由にその失敗の改善をなし得るであろう。かくしていずれの立場も、反対派からの批判の面前で、その主張を実現してみることができるのである。他の一つは、両者がいずれも相手の立場を容認せず、|力ずくででも〔付ごま圏点〕相手を倒そうとするに伴ない、国民がそのいずれかの立場に片づいてしまう、という態度である。ここではいずれかの主義の|専制〔付ごま圏点〕が行なわれ、反対の立場からの自由な批判が抑圧される。従って一つの立場の主張者がその実行について責任を負うということもない。たとい失敗しても、それは国民が計画通り動かなかったからであって計画そのものの誤りではないと主張される。あるいはその失敗の事実が国民の眼から隠される。そうなると党派的な利害が先に立ち、冷静な認識は不可能になってしまう。
 最近の歴史によって見れば、これらの異なったやり方は、それぞれの国民によって代表的に示され、あたかもそれらの国民の個性的特徴であるかのごとくに見える。従って自由批判を尚ぶ国民は一つの主義の専制を極度にきらい、かかる専制の下にある国民は反対の主義の存続が明白な罪悪であるかのごとくに考える。それらの諸国民においては、|対内的〔付ごま圏点〕な国民的当為はそれぞれに異なった形において形成されるであろう。それは世界の諸国民が目下営々として努力しつつあるところである。それを一々考察することは、諸国民の当面する時事問題に通暁した上でなくてはならない。われわれにとってはわが国民の当面する問題だけでも、なかなか容易に見とおすことはできぬ。だからここでは視野をわが国民に限るほかはない。
 ところでこの問題に関して、わが国における一つの顕著な現象としてあぐべきことは、現在わが国の輿論を表現し(373)ていると考えられる新聞雑誌の諭調において、保守主義に対する攻撃がきわめて盛んであるにかかわらず、保守主義を名のる論者や主張が、ほとんどないと言ってよいほどに少ないことである。保守主義の主張のないところに攻撃のみが盛んであるということ自身がすでに奇妙な現象であるが、原始的な農耕様式を依然として持続している国民、封建的な家族制度をなお充分に離脱し得ない国民、すなわち保守的な傾向のきわめて著しい国民のなかに、保守主義的な主張や論者がきわめて少ないということは、一層奇妙な現象ではないであろうか。しかも数年前には、日々の新聞や月々の雑誌の上に、少しでも物を考え得る人ならば顔をしかめざるを得ないような原始的な思想や表現が、横溢していたのである。それを見ると、この半世紀来の進歩的な教育はことごとく無効に終わったのかと嘆ぜざるを得ないほどであった。そういう現象を見ると、いわゆる輿論なるものが、国民の意見を反映しているのではなく、ただ「公開された意見」に過ぎないのであるということ、国民の大多数は|その意見を公開しないでいる〔付ごま圏点〕のだということが明らかになる。では何ゆえわが国民は、|各自の意見〔付ごま圏点〕を公開しないのであろうか。恐らく数百年にわたる武力統治、思想統制がかかる習性を作り上げたのであろう。いつの時代にも、勢力のある考え方、流行の思想に追随していれば間違いがない、そう人々は考え慣れたのであろう。それがわが国民に著しい|付和雷同性〔付ごま圏点〕の由来であるかも知れない。しかしそれによってわが国民は、|自ら考える力〔付ごま圏点〕や|自ら判断する衿持〔付ごま圏点〕を失い去ったわけではない。力あるものに阿付するような性格を卑しみ、|背骨の堅い操守ある人〔付ごま圏点〕を尚ぶ、というような道義的感覚は、今の時代にもなお底流として残っている。ことに心強いことは、過去半世紀の実証によると、文化的創造において真に価値あるものを残した人々が、みな個性の明らかな、背骨の堅い人々だということである。国民はそういう人々の作品を古典として認めはじめた。こういうところにこそ国民の真の輿論の現われが認めらるべきであろう。
(374) 経済組織の革新をいかにすべきかについても、国民は付和雷同的にではなく、まじめに、自己に忠実に、思いをめぐらすべきである。資本主義的、自由主義的な経済組織にも、創造的な長所はあった。マルクスがそれを否定する理論を組み立てて以後の一世紀の間に、諸国民の経済組織に長足の進歩をもたらしたものは、むしろ資本主義的な企業であった。もちろんそこには弊害も著しい。それを是正するために社会主義的、統制主義的な経済組織もいろいろと試みられた。が、今までのところでは、統制主義がはじまるとともに経済活動の能率が衰え、国民が不愉快や不自由を経験したこともまた明らかな事実である。「共産」ということを実現すべきであるならば、資本の国有は避くべからざる方法と考えられるが、わが国においては鉄道や通信機関の国有をすでに半世紀近く前から実行している。これはソヴィエトにおいては共産主義革命以後に、英国においては最近の社会主義的革新として、実現せられた政策である。が、国営の鉄道が私営の鉄道よりも能率の悪いことは、すでに国民の眼に明らかに映っている。のみならずその国有鉄道の従業員は、|持ち主が国民全体であることを忘れて〔付ごま圏点〕、資本主義的企業の場合と全然同じ仕方で、労働争議を始めている。資本が国有であるということ、すなわち共産であるということは、この場合ほとんど無意義になっているのである。一体この場合においては搾取は誰がやっているのであろうか。国民全体が従業員を搾取しているのであろうか。それとも国民全体の方が、多くの不便や不愉快を耐え忍んでいるのではなかろうか。むしろ鉄道を資本主義的経営に戻し、あらゆる|自由競争〔付ごま圏点〕を許すことによって、国民は現在の不便や不愉快を脱し得るのではなかろうか。
 そう考えれば、いずれの方法も一利一害である。あらゆる資本を国有化し、私有財産を廃棄してみたところで、直ちに理想的な経済組織が実現されるとはいえない。三百万の共産党員で一億六千万の民衆を統制するというような一種の武家政治の下に共同経営の経済組織を立てれば、その共産党員にとっては理想的であるかもしれぬが、大多数の(375)国民は奴隷化させられるだけである。そこで|統制のない自由主義の経済〔付ごま圏点〕を営みつつ、しかも|利潤を自己目的としない〔付ごま圏点〕ようなやり方はないものであろうか、ということが問題になる。
 過去半世紀の日本において、最も著しい進歩を示した産業は、軽工業、特に紡績業であった。それは国内で衣料生産のやり方を一変したのみならず、ついには自働織機のような機械の発明を促し、マンチェスターを圧倒するほどの力を発揮しはじめたのであった。この発達はわれわれの面前で行なわれたのである。わたくしは幼時の記憶をたどって、紡績業が変革をもたらした以前の日本における衣料生産のやり方を思い浮かべることができる。農村には普通に綿畑や桑があった。綿を繰る道具や養蚕の設備もあった。冬の夜には糸を紡ぐ車の鈍い響きが戸ごとに聞かれた。やがて糸がたまると、それを絞って村の紺屋で染め、その染め糸をいろいろに合わせて機《はた》にかけた。その機の音が春の日永にはほとんど毎戸から響いた。蚕の繭を煮て糸をとり、それを布に織り上げる仕事も、同じようにして行なわれた。こういう女たちの労働が国民の衣料を供給していたのである。わたくしはそれに連関した音や匂いや女たちの問答や動きなどをまざまざと思い起こすことができる。その女たちの活動は見る見るうちに紡織機械によって駆逐された。日露戦争以前にすでにその変革は終わっていたように思う。そこでこの衣料生産の労働を代わってひき受けたのは、農村や山村から紡績工場に集まって来た女工たちであった。彼らは数において在来の紡織する女たちの何百分の一に過ぎなかったであろうが、生産量においては在来の何倍かに達した。かくしてついにマンチェスターを圧倒し得るような力が、日本の農村や山村の|婚期前の娘たち〔付ごま圏点〕の、お手玉やおはじきで訓練したデリケートな手先から、流れ出ることになったのである。しかしそういう力を組織し活用したのは|資本主義的な企業家〔付ごま圏点〕であって、平民新聞を出していた社会主義者ではなかった。婚期前の娘が、マンチェスターで一家を養っている熟練労働者の二倍三倍の織機数を(376)受け持っているというような、奇蹟に近い現象を作り出したのも、その企業家たちであった。それはとにかく積極的な功績である。資本主義的な経済組織に弊害が伴なうからと言って、国民の産業能力を高めたという功績そのものは無視さるべきではない。
 ではそこに伴なった弊害はどんなものであろうか。それは右のごとき功績をあげた|自由競争〔付ごま圏点〕の立場が、功績の半面として「必然的」に醸し出したものである。紡績業者はその製品の売りさばきのためにコストの切り下げに競争した。従って右のように奇蹟的に能率をあげた女工たちの貸金は、マンチェスターの熟練職工の何分の一かに過ぎなかった。そうしなければ競争に堪えることができない、というのが資本主義的経営の常識であった。しかしこの競争は実は|国内競争〔付ごま圏点〕であって、|対外競争ではなかった〔付ごま圏点〕のである。対外的には五割の関税を掛けられても競争に負けないくらいであった。なぜそのように労銀が安いかといえば、女工の大部分が婚期前の娘たちで、勤続は数年に過ぎず、絶えず入れ代わっていたからである。年功によって賃金が高くなるという程度が非常に少なく、また人員の整理が自由自在である。ちょっと募集を手控えれば、一割ぐらいの淘汰はすぐできる。こういう情勢を企業家は巧みに利用して、国内の同業者の間の鍔ぜり合いをやり、その結果として世界の諸国民から公正でない投げ売りだという非難を招いたのであった。紡績業者はそれに対して、日本の生活水準から見れば女工の貸金は特別に安いわけではない、と弁解したが、しかし対外的に労働の安売りであったことは疑いのないところである。あの際もし紡績業者が、日本の生活水準の向上、農山村の女たちの教養の向上、ひいては日本文化全体の向上、というごときことをもおのれの任務として自覚し、競争をただ|国外への競争〔付ごま圏点〕に止めて、国内的にはこれらの任務の遂行に協力したならば、国民に対する貢献は実に偉大であったかも知れない。資本主義経済の目ざすのは|利潤であって国民への貢献ではない〔付ごま圏点〕、というのがそれに対する答(377)えであるが、そこにこそちょうど資本主義の弊害の根があるのである。
 経済組織も一つの人倫的組織であり、従って「財」を媒介として人倫の道を実現しようとするものである。利潤を自己目的とし、無制限に利潤を追求する立場は、人倫の喪失態にほかならない。あらゆる産業は|人間の生活〔付ごま圏点〕のためである。利潤もそうである。そうして人間の生活の意義は人倫の道を実現するところにある。利潤が自己目的となれば、人間の生酒は利潤のための手段となり、その意義を喪失するであろう。だから経済組織はあくまでも人倫の道に合うように革新されなくてはならない。国民への貢献を目ざしつつ、しかもおのれの能率を極度に発揮するような組織に改められなくてはならない。それは単に自由主義でもなく、また統制主義でもなく、|個性の解放〔付ごま圏点〕を徹底することによってかえって|全体への奉仕〔付ごま圏点〕が実現されるような、二重構造を持ったものでなくてはならぬであろう。これは|個と全とが相即連関する人間存在の構造〔付ごま圏点〕を忠実に経済組織の上に実現することである。そこでは自由競争による|能率の増進〔付ごま圏点〕が充分に活かされるとともに、その弊害が統制主義的な全体への見とおしによって取り除かれ、計画経済による|全体の調和・むだの排除〔付ごま圏点〕が達成せられるとともに、その圧制の弊害もまた自由主義的な活動の喜びによって打ち克たれる。企業家は無制限な利潤を目ざす代わりに事業に必要な利潤におのれを制限し、その技倆や手腕を国民への貢献の方へ振り向けるであろう。そうしてこの態度は彼の事業をして一層意義あるものたらしめるであろう。それとともに労働者は、その労働の公共的な意義を問わずしてただ単に貸金の値上げにのみ専心するというごとき態度をすて、その労働における熟練や製作の向上のうちに人倫の道を実現する喜びを感ずるに至るであろう。そうしてこの態度は彼の労働を一層価値高きものたらしめるであろう。
 国民の当《まさ》に為《な》すべき経済組織の革新は、右の方向に向かわなくてはならぬ。資本主義経済の弊害をそのまま維持し(378)ようとする態度が当為にはずれているとともに、その弊害のゆえをもってとにかく一度破壊してしまおうとする態度もまた乱暴である。現在まで実現された限りにおいては、共産主義経済の弊害も決して資本主義のそれに劣るものではない。破壊に先立って、|そういう弊害のない〔付ごま圏点〕経済組織のプランが示され、そうしてその実現の責任を負う人々への信頼が湧き上がって来たときに、初めて破壊の主張は是認され得るのである。が、そういうプランが示されたとしても、資本主義と共産主義とが相容れないものとして対立する限り、いずれも一面的たるを免れないであろう。その一面性を脱する道は、個と全との相即連関する人間存在の構造に忠実であることのほかにはない。が、この立場において経済組織を革新するためには、このような人間存在の構造に対する自覚が国民のうちに行きわたっていなくてはならない。それは経済組織の問題ではなくして、国民の文化や文化共同体の問題である。文化的な革新と相伴なうことなくしては、経済組織の真の革新は実現され得ないであろう。

 文化の革新は、特に学問・芸術・宗教などの革新であるが、それは同時にかかる文化の|創造と受用とに〔付ごま圏点〕かかわる共同体の革新である。それはいいかえれば|国民の〔付ごま圏点〕文化的革新にほかならない。一つの国民における学問の進歩は、さしずめ真理の探求に専心するよき学者が輩出すること、すなわちその学者たちが名利のためでなくただ智慧の愛のために互いに助け合い協力して研究に従うことによって達せられる。しかしそういう真理探求の共同体が健全に活発に成長するためには、真理探求の努力を尊重し、またその成果を理解し得るような人々の群れが、すなわち受用の共同体が、国民のうちにできていなくてはならぬ。もとよりそれは国民の成員のことごとくによって構成されるのではない。が、国民の学問的な関心や能力はことごとくそこに現われるのである。(379)そういう国民の関心が、よき学者、よき学問共同体を産み出してくる。だから国民にこの関心のないところでは、学問の進歩も見られない。明治以来のわが国民には、その関心がなかったわけではない。が、著しく目立つのは、学問への関心が純粋な真理追求への関心としてでなく、|功利的な関心〔付ごま圏点〕として現われたことである。従って学問は政治や産業のための|技術の習得〔付ごま圏点〕として取り扱われ、かかる技術の基礎となる学問、特に真理探求の棉神は、あまり重要視されなかった。その結果として、専門の技術にのみ通達した|眼界の狭い〔付ごま圏点〕政治家、産業家、技師、軍人、官吏などが輩出した。一度そういう人たちが権力を握り、|眼界の狭さ〔付ごま圏点〕や|基礎的な学問への無関心〔付ごま圏点〕が立身出世にとって何の妨げにもならないということが立証されると、あとから来るものは真理探求の精神をますます無視するようになる。大学は真理探求の共同体としてでなく、職業学校として発達する。東京には何十かの大学が次から次へと作られ、それが学生の授業料によって経営された。これは世界じゅうに類例のない現象である。そうしてそういう現象を産み出したのは、国民の学問に対する|偏った関心、功利的のみの関心〔付ごま圏点〕なのである。
 わたくしはわが国民がもともと真理探求の精神を持たない国民だとは思わない。また認識能力、思考能力を持たない国民だとも思わない。感情の動きが思惟の働きよりも強く、従って合理的に着実に考えを進めるよりも直観的な把捉の方を喜ぶという傾向はあるにしても、なお道理を尚び、合理的な思考を重んずるという傾向も、決して弱くはないのである。戦国の武士のなかには、その争闘の体験のなかから結局合理的思惟の最も重んずべきことを悟った多胡辰敬のような人もある。キリシタンの宣教師たちは、日本人が合理的な説明を非常に強く要求したことを語っている。もしそのころから日本人がヨーロッパの文明に接触し、近代の学問の目ざめや、その画期的な業績を目のあたりに経験したのであったならば、近代の自然科学を発達せしめた|根本の動力〔付ごま圏点〕はわが国民のなかにも|順当に〔付ごま圏点〕育って行ったであ(380)ろう。しかるにわが国民は、近代科学が目ざめたとたんに国を鎖し、その後三百年近い間の世界の学問の進歩の仲間はずれとなったのである。従って再び国を開いてヨーロッパの十九世紀文明に接した時には、その著しい進歩に眩惑され、|順当の手続き〔付ごま圏点〕をふんで追いつく努力をするというようなのんきなことはできないと感じた。ただ大急ぎで|研究の成果〔付ごま圏点〕をのみ取り入れ、その技術を習得するのが精一杯であった。だから機械を|発明する力を養成しようとはせず〔付ごま圏点〕、できあがった機械を輸入して、その使用法を学ぶのが、学問とされた。それでもさしずめ間には合う。外形的には、ヨーロッパの文明に追いついたことになる。この努力の間に前述のような学問への功利的関心が支配するようになったのである。
 これは学問においてヨーロッパに追いついたということではない。学問の進歩は真理探究の活動の進歩、合理的な思考力の進歩、発明する力の進歩でなくてはならない。その根柢を培わず、ただ他所での研究の成果を輸入してそれを学問の進歩と考えたような|眼界の狭さ〔付ごま圏点〕が、ついにわが国民に未曾有の不幸をもたらしたのである。この機会にこそわが国民は、三百年間の鎖国の深刻な意義を悟り、近代文明の根本動力たる学問的精神に心底から目ざめなくてはならぬ。それによって学問は「根のあるもの」、すなわちみずからの力によって生きるものとなり、大学は真に真理探究の場所となるであろう。
 が、それのみではない。学問が何らか既成の知識、あるいは指示された公式を「覚え込む」ことではなく、|みずから考える力〔付ごま圏点〕を養うことである、というきわめて簡単な原則が国民の間に組み込んで行けば、それによって教育は全般的に改まるであろうし、国民の日常生活も政治生活もすべて面目を新たにするであろう。みずから考え、みずから判断する力を持った市民は、もはや思想上の付和雷同に陥ることもなく、また思想統制などに屈することもない。そう(381)いう市民に対しては、作為的宣伝は、左であると右であるとを問わず、無効に帰するであろう。そうしてただ作為的宣伝を行なう煽動政治家への|不信〔付ごま圏点〕のみが結果するであろう。その時政治家は、事実を正直に発表するのが最もよき宣伝であることを理解し、誠実な政治を行なうに至るであろう。そのように、学問的精神の徹底は、実践の場における真理の支配をも実現し得るのである。そういう状態のために国民は、永い意志をもって努力しなくてはならぬ。
 芸術についても同じことがいえる。一つの国民における芸術の進歩は、天才的な芸術家や、その天才を活かせるような芸術の共同体によって達せられるとともに、またそういうものを呼び出す|国民の関心〔付ごま圏点〕にまたなくてはならぬ。エリザベス朝の好劇家たちがシェークスピアを呼び出したといわれるように、近松の戯曲や、人形使いの名手を産み出したのも、元禄時代の看衆である。これらの看衆に代表された国民の関心が、真に深い芸術愛であるところに、天才芸術家もまた現われたのである。このことはまた、芸術家の社会的地位と芸術の品位との相関関係となっても現われる。支配階級が芸術を護持するところでは、芸術家は名誉ある市民として取り扱われ、芸術は公共的に高い価値を持つものとして尊ばれる。美術館、図書館、音楽堂、劇場などは、一つの都市がみずからを都市と称し得るためには、欠くことのできないものである。そういう社会においては芸術は、真に市民の心の糧として、その教養を高め、眼界を広くし、よりよき人倫の実現を助けるであろう。しかるにわが国では、|そういう伝統が確立していない〔付ごま圏点〕のである。その理由は、近代の日本の芸術を産み出したのが|町人階級〔付ごま圏点〕であり、そうしてその町人階級がヨーロッパにおけるごとく|支配階奴とならなかったこと〔付ごま圏点〕にあるであろう。近松や人形浄瑠璃を産み出した元禄の町人は、気宇が剛宕であり、文化の上でも創造的であったが、武力をもってこれを抑圧していた武士たちは、政治と道徳のこと以外には指導権を握ろうとせず、町人の芸術的創造をも、「卑しい身分の者たちの卑しい仕事」という価値づけの上で、比較的自由に許(382)していた。そこで芸術家たちは、この価値づけに対する反抗が武士の権力による抑圧をさそい出すことに注意し、むしろその価値づけに迎合する態度を取るとともに、武士が卑しめている領域において思う存分に自由にふるまうことを試みたのであった。その結果芸術は頽廃的な傾向を帯び、政治や道徳に連関するような|公共的役目をみずから捨ててしまった〔付ごま圏点〕。芸術家は戯作者・芸人などと呼ばれ、一般の国民よりも社会的地位の低いものとして取り扱われた。彼らの芸がいかに人気に投じ世間の賞讃を集めているとしても、彼らは時々風俗壊乱の責めを負うて禁錮や島流しに処せられる無頼漢に過ぎず、国民の精神的指導者などになれるはずのものではなかった。そういう状勢の下に、美術館、図書館、音楽堂、劇場などが公共的営造物として都市を飾るなどということは、どうしたってあり得ないのである。
 しかし明治以後、芸術に対する取り扱いは、ヨーロッパ風を学んだではないか、と人はいうであろう。まさにその通りである。しかもそれ以来一世紀近い年月がたっているのである。が、その間に何が起こったか。演劇は江戸時代に完成した歌舞伎劇の様式を守り続けただけで、新しい様式の創造をなし得なかった。いろいろの試みはあったが、芸術として歌舞伎に比肩し得るもの、あるいは代わり得るものでは到底なかった。音樂もまた江戸時代の様式を踏襲するだけで、全然新しい発展はなかった。ただ日本音曲と相並んで西洋音楽が摂取されたことだけが新しい現象である。しかし西洋音楽において独創的な創作はまだ現われているとはいえない。絵画や彫刻においてはそれよりも顕著な発展があったといえる。私室の床の間の掛け物として、あるいはその座敷に立てめぐらす屏風の環境で静かに味わう絵として発達した日本画が、展覧会や公共建築で公共的に鑑賞される画になったことは、最も大きい変化である。それに伴なって|外形的に〔付ごま圏点〕様式の変化のあったことも認めなくてはならない。しかし物の見方、感じ方、表現の仕方などに根本的な変化があったかというと、必ずしもそうとはいえぬ。今はその苦悶の最中であると(383)いうべきであろう。日本画と相並んで熱心に摂取された西洋画は、西洋音楽とは異なり、すでに相当に独創的な作品を示しているといってよい。明らかに|新しい様式〔付ごま圏点〕を作り出したのは文芸である。ヨーロッパの文芸の影響は日本の文芸の様式を根本的に変えた。明治以来のすぐれた作品を見ると、江戸時代の戯作的性格は残りなく捨て去られ、明白に国民の心の糧としての役目をつとめるようになっている。が、芸術全体としては、いまだ脱皮の途中にあるというほかはない。江戸時代の伝統はそれほど力強く根をおろしているのである。
 このことは|国民の芸術に対する態度や芸術家自身の芸術に対する態度〔付ごま圏点〕において一層顕著である。国民は学問をただ功利的見地からのみ取り扱ったように芸術をもただ「立身出世」の立場からのみ見ようとした。その立場から、芸人や戯作者になることを、世人が尚ぶはずはない。親たちは通例おのれの子が芸術に志すことを非常に悲しんだ。文士よりは俥夫の方がまだよいという言葉を、わたくしは実際耳にしたことがある。そういう国民の常識を考えると、この半世紀の間の芸術家の仕事は、よくやったといって讃めてよいものであろう。しかし今日といえどもその常識が全然変わって来たとはいえない。それは美術館、図書館、音楽堂、劇場などに対する国民の態度を見ればわかる。国民はまだそれらに対してヨーロッパ人の十分の一の関心をも示していないのである。が、それについては芸術家の側にも責任があることを認めないわけには行かぬ。優れた芸術家は別として、数多い芸術家の仲間には、古い戯作者気質や芸人気質が意外に根強く存続しているのである。この気質は、武士階叔が芸術から本来の権威を奪い去ったことを逆用し、|公共的な任務の放棄〔付ごま圏点〕、従って|無責任な行動の自由〔付ごま圏点〕として生かせたことにもとづいている。それは芸術家のボヘミアン風の気質と通ずるものがあると考えられ、芸術がその権威を回復した後にも生き続けた。しかし芸術家は、世間の習俗の型にははまらずとも、芸術の無上命令には従わなくてはならぬ。それを通じて芸術家は|厳粛な義務〔付ごま圏点〕を果(384)たすのである。そこに|公共的な任務の遂行〔付ごま圏点〕がある。その時芸術家は、国民の精神的休戚に対する責任感の強い人として、立派な品格を具えてくるであろう。しかるに戯作者気質や芸人気質は、そういうまじめさ、そういう筋骨を欠いているのである。それに対して国民が敬意を払わないということは、当然だといわなくてはならぬ。「恥を売る」のが芸術家の任務ではない。いかなる題材を取り扱おうとも、芸術家は美を創造しなくてはならぬ。
 かく考えれば、芸術の社会的地位を高め、芸術をしてその本来の公共的機能を果たし得るようにすることは、今なおわが国民に課せられている当為である。国民はおのれの教養の基礎としての芸術を要求することによって、それに応える芸術家を呼び出さなくてはならぬ。すでに出ている芸術家に関しては、この要求に応える人々を無責任な芸術家から区別し、真の芸術に対して充分の愛と尊敬とを示さなくてはならぬ。それによって国民は芸術的に進歩する。そのために必要なのは、|みずから味わい、みずから理解する力〔付ごま圏点〕の養成である。おのれの個性に適応した心の糧を求めることは、おのれの個性にとって必須のことであるのみならず、また国民の芸術的進歩のためにも欠くことができぬ。そういう個性的な要求に応えるものは、古今の芸術のうちには必ず見いだせるであろう。もし国民の各自が、現前の流行のいかんを問わず、ただおのれの個性的要求に従ってのみ芸術を求めるならば、芸術家もまた安んじておのれの個性の発揮に専念することができる。そういう仕方で天才芸術家が呼び出されてくるのである。
 芸術に比べると宗教の革新は一層困難である。それは宗教の本質に起因する。宗教は本来、絶対者にかかゎる立場なのであるが、しかし実現された限りにおいては一つとして絶対的なものはない。むしろ強度の相対性、すなわち|宗派的対立〔付ごま圏点〕こそ、既成宗教の最も顕著な特徴なのである。それはキリスト教、イスラム教、仏教などとして大きく対立するのみならず、さらにこれらの宗教の内部において、多数の宗派として対立している。しかもそういう対立は、人(385)類の経験した最も苛酷な戦争や殺戮としてさえも現われているのである。在来の有名な宗教革新の運動は、この対立に根ざしたものであった。今でも、一つの宗教が現実的な活力を持っている限り、それに伴なう対立の感情もまた猛烈である。そういう意味の革新の問題のなかに巻き込まれることは、一つの国民としてはむしろ避くべきことであろう。
 わが国民は幸いにしてそういう対立のなかに深く巻き込まれたことがなかった。従ってわが国民は宗教的な不寛容の伝統を持たず、信仰のことに関しては一般的に寛容である。例外はキリシタンの迫害であるが、これは宗派的な対立に根ざすのではなく、主として政治的理由にもとづいたものである。もちろん仏僧のうちにはキリシタン攻撃にいきり立ったものもあり、またキリシタン側でも寺社の廃棄に努力した地方があった。しかし教団と教団との間、信者と信者との間の対立や抗争は、さほど激甚とはならなかった。従ってキリシタン迫害が峻烈をきわめたにもかかわらず、その背後にいずれか一つの信仰を正統派の信仰として強要するということはなかった。キリシタンでさえなければ、どの信仰を選ぶことも自由であり、欲するならば信仰を持たなくともよかった。無神論者であることは少しも危険なことではなかった。
 もっともこの信仰の自由に関しても例外はある。明治維新の時、勤王運動と結びついていた平田派の神道家は、|神道を国教とし〔付ごま圏点〕、仏教を廃棄しようと企てたことがある。政府は一時それを実行に移すかに見えた。地方によっては仏教信徒の中から殉教者をさえ出した。その時は短期間の後に方向の逆転があり、信仰の自由の原則のもとにキリシタン禁制も解かれるに至ったのであるが、そういう信仰強制を望む人は全然跡を絶ったわけでなく、六七十年の間、国民のあまり知らない黒幕的な右翼勢力として、その暗い存在を続けた。そうして変質的な軍人の勢力と結びつき、つ(386)いに再び神道を国民に強要するごとき形勢をひき起こしたのである。その時には実に思いがけない人々までが、|みそぎ〔付ごま圏点〕とか、神社参拝とかを力説するようになった。しかしそういう人々に神道の信仰があったなどとは到底考えられない。みそぎや神社参拝は、軍人の勢力に対して|従順である〔付ごま圏点〕ということの表示に過ぎなかった。だからこれも純粋な宗教的統制の現象ではなく、むしろ|政治的現象〔付ごま圏点〕だったのである。もしあの時に信仰の自由を捨てた人があったとすれば、そういう人の信仰は信仰とも言えないほどのものであろう。従って軍人の勢力の壊滅とともに、あとには信仰の自由のための戦いなどというものは、全然必要とされていない。
 わが国民にとっては、問題はむしろ宗教的寛容という点から生じてくる。この寛容のゆえに、国民は、仏教やキリスト教のような世界宗教を欲するがままに選び得るのみならず、さらに|原始的な信仰をも含めての実に雑多な信仰〔付ごま圏点〕を、少しも駆逐しようとせずに、生かせているのである。これを見ると、異教に対するキリスト教の不寛容の態度が、なるほどと肯かれぬでもない。仏教はその最盛期においてもこれらの雑信仰を掃除しようとせず、むしろそれを抱き込み、混淆主義弥に殖やして行った。その結果は仏教自身の純粋性をも害うに至っている。そういう信仰は、近代の自然科学の前にも一向動揺するけしきなく、知識階級の人々が実に案外とするほど根強く残存しているのである。それは、もし見いだそうとする関心さえあれば、日常生活のすみずみからも発見し得るであろう。その日その日の吉凶、方角のよしあし、運勢、合性、などの類は、今なお少なからぬ人々の行動を支配している。そういうことを書き込んだ暦は、天文学者がどれほど駆逐に努力しても、容易に成功しない。それを迷信であるとして明らかに論証してみたところで、信仰はもともと不合理であることを恐れるものではない。その他、稲荷、聖天、不動、大師、天神等々の信仰は、今なお不思議なほど数多くの人々の心を捕えている。のみならず一層悪いことには、それと同じ類の信仰が(387)なおますます|殖えて行く傾向〔付ごま圏点〕を示しているのである。明治以来|新しく作られた宗教〔付ごま圏点〕は、天理教、金光教、大本教などを初めとして、かなりの数にのぼっている。現在われわれの眼前においてもなおいくつかの新しい宗教が現われつつある。それらの信者に対して、汝の宗教の開祖は精神病者に過ぎないのだと言って聞かせると、信者たちは|この迫害のゆえに〔付ごま圏点〕一層信仰を堅くしてくる。そういう信者の数は決して少なくないのである。時にはそういう信者たちの大群のために全国に何本もの特別列車が動いていた。
 この状態は、キリスト教国やイスラム教国から見れば、恐るべき|宗教的混乱〔付ごま圏点〕と見えるであろう。それらの国々においては、新しい宗教運動は、|キリスト教内の、あるいはイスラム教内の、新しい運動〔付ごま圏点〕として起こるのであって、新しい宗教としてではない。世界宗教を背景とせずに、単に原始的な信仰形態をもって世界宗教に対抗することは、そこでは不可能なのである。しかるにわが国における宗教的寛容の結果は、原始的な宗教形態に対してくり返しくり返し発言権を与えることになった。信仰の自由を守る必要よりも、むしろ|信仰の自由の弊害〔付ごま圏点〕の方が大きい問題なのである。国民はまじめにこの間題を反省し、そこに革新の道を見いださねばならないであろう。
 が、不寛容の態度を取らず、信仰の自由を犯すことなしに、この革新を行なうことは、決して容易なことではない。いわんやそういう雑多な信仰と結びついた|習俗〔付ごま圏点〕が国民の生活のなかに根をおろしている限り、かかる|習俗の根本的革新〔付ごま圏点〕が行なわれなくては、宗教的な心情や気分を革新することはできないであろう。しかるにそういう習俗の革新は、衣食住の様式の革新と同じように困難なのである。一例をあげると、敗戦後の日本においては、神社崇拝や神道などは急激に廃ったと伝えられているが、しかしその日本の最も進歩した大都市において、何々の神社の祭りの|神輿かつぎ〔付ごま圏点〕などは、かえって盛大に行なわれている。それは現在の社会の気分と著しく異なったものであり、また市民たちが(388)おのれの生活の公共的な表現として認め得るものでもない。しかし|現在の生活に即して集団感情を表現し得るような祭りの様式〔付ごま圏点〕が創り出されない限り、時代錯誤的な祭れの様式でもなおその生命を失わないのである。そうしてそういう古い様式に合わせて騒ぎ回っている若者たちは、日常の生活にもはやあるとも見えなかったような気分のうちに浸り込んでいる。それはあるいは日常の生活が|外形的〔付ごま圏点〕に変わっているだけで、本質的には変わっていないことを示すのであるかも知れない。それと連関してもう一つ目立つのは、|葬儀〔付ごま圏点〕の様式である。仏教の信仰を持つとも見えないような人々の間でも、葬儀は通例仏式によって行なわれている。どの信仰にももとづかない葬儀の様式はまだ作り出されておらず、葬儀なしに死者を葬ることは人々の欲しないところだからである。ところで葬儀は、人々が|愛するものの死〔付ごま圏点〕を経験し、生の激動を受けたときに行なわれる。従って葬儀を形成する経文や歌や音楽や動作は、ちょうどこの激動した心に沁み入るようになっている。それはしばしば葬儀の基礎にある信仰へ人々を導いて行く。信心はただ老人のものとのみ考えていた村の若者が、母親を失ったあとで、熱心に御詠歌を唱えるようになり、経文の一くさりをも覚える、というような例は、今でも決して乏しくない。一度緒がつけば、世界宗教の持っている豊富な内容は、どこからでも人の心を捕え得るのである。そういう点から考えれば、ある葬儀の様式が惰性的に行なわれているということも、決して意義の軽いことではない。それは|一定の気分〔付ごま圏点〕を伴なっているのであるから、簡単をもって代えることはできない。
 これらの点を考えると、宗教的革新の問題は、個人個人の信仰の問題であるにとどまらず、|国民生活全般の様式や、国民全体の文化水準〔付ごま圏点〕などと、密接に連関した問題である。それだけを引き放して簡単になし遂げられうるものではない。
(389) さて上来観察し来たった人倫的組織の諸段階を包括し、それを統一的に秩序づける人倫的組織が|国家〔付ごま圏点〕である。この国家の立場において立てられる行為の仕方が在来は|国民道徳〔付ごま圏点〕と呼ばれて来た。家の道徳が「孝」によって言い現わされたように、この国民道徳は「忠」として言い現わされた。そうして「報本反始」というごとき根拠から、その忠と孝との本質的な同一が主張され、忠孝一本の国民道徳として力説されたのであった。
 このような道徳は、わが国民の歴史的風土的な特性を示すものであって、必ずしも内容の空虚なお題目であったとはいえない。わが国に武士の社会が形成せられて以来、主従君臣の間の情誼的な関係は、きわめて顕著な|献身的奉仕の風習〔付ごま圏点〕を作り上げて行った。それは「家」における距てなき情愛をそのまま主従関係に移し入れたような情愛的な関係であった。わが国民がそれを高く評価したことは、『曾我物語』と相並んで『義経記』が非常にもてはやされ、近世初期の文芸や戯曲の主要な題材となっていることによっても知られるであろう。やがて儒教道徳の強い影響がはじまるとともに、五倫のなかから特に父子有親、君臣有義の二倫を選び取り、忠孝を|元徳として〔付ごま圏点〕力説することが行なわれ出した。周知のごとくシナではそういうことはなかったのである。日本で特にこのことが行なわれたのは、各地方において小国家を支配している封建君主が、一面において政治的支配者でありつつ他面において家臣を成員とする一家の家長のごとき性格を持っていたからであろう。家臣たちは「お家の大事」のためには身命を賭して奉仕した。主君との情誼的関係は家族のそれと異ならなかった。だから家臣たちは曾我兄弟と同じ心持ちで主君の仇討ちのために身をささげたのである。そこには確かに忠孝一本の実があった。これが模範となって、家臣自身も、その召使いとの間に同じ関係を設定している。さらにそれは封建的君臣関係の埒外にある一般民衆の間にも普及し、雇人は「奉公人」(390)として「主家」のために忠義をつくすべきものとされた。かくして忠孝は、封建時代のわが国民の上下を通じての根本道徳となったのであるが、しかしその限りにおいては、|国民的統一の意識〔付ごま圏点〕とかかわるところはなかった。
 国民的統一の意識は、武士たちが武力的政治的に相対峙し、分裂や征服を繰り返していた期間を通じて、むしろ|国民大衆の問に〔付ごま圏点〕保持せられたものであった。それは「天皇の御代」という理念や、伊勢神宮崇拝の風習などとして、「関」を超えて全国的に流れていた。この意識が江戸時代の末に、外国の刺激によって、いや応なしに|武士階級のなかへも〔付ごま圏点〕侵入して来たのである。彼らは外国に対して日本国を守るという事態に初めて直面するとともに、封建制の弱点に目ざめた。どの封建君主も日本の統一的な君主ではなく、日本の国民的統一の上に立っていないことが理解された。そこで武士たちのうちにその統一的な君主としての天皇の意義を反省するものが現われて来たのであるが、しかしこの反省は武士のイデオロギーをもってなされた。だからたとえば会沢正志斎のごとく、忠孝の封建道徳をそのまま|皇国の道〔付ごま圏点〕に押しびろめ、「主君」に対する封建的意識をそのまま天皇の方へ移す、ということが最も理解されやすい方法だったのである。
 明治維新の指導勢力は、反幕府的であったにもせよ、とにかく|武士たち〔付ごま圏点〕であった。だから西洋の近代国家に範をとり、立憲君主制の国家組織を作り上げて行く間にも、忠孝の封建道徳において「国体」を看取するという会沢風の考えは、どうしても抜けなかった。ここに封建的な小国家における|直接的な君臣関係〔付ごま圏点〕と、近代的な大国家における|立憲君主対人民の広汎複雑な関係〔付ごま圏点〕との、不用意な混淆が始まったのである。前者はたかだか|数百人の家臣〔付ごま圏点〕と主君との間の関係であるから、|個人的な接触〔付ごま圏点〕、具体的に情意を触れ合わせることのできる関係であった。だから|忠実な奉仕〔付ごま圏点〕というようなことを、きわめて行ないやすいことであった。しかし後者は|何千万の人民〔付ごま圏点〕と天皇との関係であって、到底個人(391)的接触たり得ないものである。それをあたかも|同じ関係〔付ごま圏点〕であるかのように、義は君臣、情は父子などと説いて聞かせたのは、乱暴と言っていいか、無責任といっていいか、誠に驚くべきことである。すでに封建時代においても、封建君主の領内の数万あるいは数十万の領民は、その領主に支配されてはいたが、領主と主従関係を結んでいたわけではなかった。数百人の家臣こそは、領主のために献身的な奉仕をなすぺき立場にいたであろうが、数多い領民は、掟を守る以外には、領主に対して何の義務をも負わなかった。だから赤穂の家臣の忠義が|江戸時代の民衆〔付ごま圏点〕の絶大な賞讃を受けていたときに、誰一人として赤穂の領民から同じ忠義を期待してはいなかった。封建時代でさえそうであるのに、立憲君主制の時代において、封建時代の家臣と同じ忠義を何千万の人民から期待したとすれば、そういう考えは実に空虚なお題目に過ぎないのである。
 責任ある立場からそういう混淆が奨励されたわけではなかった。帝国議会の開設と同じころに発布された教育勅語は、決してそんなことを説いてはいなかった。すでに論じた通り(上巻、六二二ページ以下)そこに|臣民の道〔付ごま圏点〕として指示されているのは、家族、地縁共同体、経済的組織、文化共同体、国家などにおける|人倫の道〔付ごま圏点〕であって、封建的な「君主への奉仕」などを含んでいない。「忠良の臣民」たるためにはこれらの普遍的な人倫の道を実現すればよいのであって、特に君主のために何かをするという必要はないのである。逆にいえば、それぞれの人倫的組織において道を実現することが忠をつくすゆえんなのである。これは|封建的な忠義道徳からの完全な解放〔付ごま圏点〕であるといってよい。もしこの勅語が充分に理解され、国民が新しい立憲国家の立場においてそれぞれの人倫の道にいそしんだならば、そうして自ら国憲を重んじ国法に遵うのみならず、政治家や軍人が国憲国法を重んずるように監視したならば、皇運も、わが国民の運命も、今日のごとき悲境に陥ることはなかったであろう。しかるにこの「臣民の道」は充分に実現されなかっ(392)た。そうしてその勅語の権威の下に、封建的な忠君思想がしきりに振り回された。その結果として、近代国家における国民の道の理解はかえって阻害され、最も強烈に忠君思想を振り回した連中が、最もはなはだしく国憲を軽《かろ》んじ国法を蹂躙するに至ったのである。
 この形勢の馴致には、いわゆる国民道徳論によって右の傾向に迎合した明治時代の学者も責めを負わなくてはならぬ。彼らのなかには、新しい生物学的知識をもって「報本反始」の主張を根拠づけようとした人もあり、また|家族国家というごとき概念によって忠孝一本の思想を説き直そうとする人もあった。日本国民は皇室を宗家とする|一大家族〔付ごま圏点〕である、家族道徳と国民道徳とは一致する、というごときことが、相当の学者によってさえも平然として説かれた。しかし家族は人倫的組織の|最初の、直接的な段階〔付ごま圏点〕であり、国民はその|最後の、幾重にも媒介された段階〔付ごま圏点〕であって、その構造の単純と複雅、その人倫的意義の重さと軽さの差別は、到底無視することを許さないものである。それを学問的認識に携わる人々が無視したということは、一般の世間人が無視したということとは、意味が違う。わが国民は一般的には物を厳密に考えることを好まない。そういう厳密な態度は何か野暮臭いこと、人情味に欠けたこととして取り扱われる。だからわが国民の形成するさまざまの人倫的組織のうちに、|情誼社会的傾向〔付ごま圏点〕が非常に顕著であることを|感じた〔付ごま圏点〕人々が、その特徴を言い現わすために「家族的」という言葉を用いたとしても、そういう言い現わしそのものはわが国民の|直感的な性格〔付ごま圏点〕を示すものとして、興味深く観察され得るであろう。しかし学者はそういうアナロギー的表現にとどまっていてはならなかったのである。むしろそういう直観的な態度が近代国家の高度に論弁的推理的な性格への認識を阻害することに注意し、そういう言い現わしを避けるべきであった。そうして皇室を宗家とするというふうの感じ方が含んでいる皇室への親愛の情を、わが国民のの歴史的伝統に即して、国民的規模において把捉し直すべき(393)であった。
 かく考えれば、明治以来の国民道徳論は、功績よりもむしろ弊害の方を多く残しているのである。当時力説せらるべきであったことは、封建的道徳によって天皇の存在を意義づけることではなく、わが国民の歴史全体を通じての天皇の存在の意義を闡明《せんめい》し、それを近代国家において活かせることであった。天皇が長い歴史を通じて|国民的統一〔付ごま圏点〕の表現者であつたということ、新しい国民的国家においてはこの国民的統一が何よりも重大なのであり、そうしてそれが古くより「おおやけ」(公)として把捉せられていたということ、今やこの「公」が「公共的なるもの」として明らかな自覚にもたらさるべきであり、従って天皇への奉仕が|公共的なるものへの奉仕〔付ごま圏点〕として理解し直さるべきであるということ、それらがそこでの緊急の問題であった。それを誤ったがために、公共的道徳は依然として未発達の状態にとどまり、公共的なるものへの奉仕の心構えは一向に昂揚されず、国民的統一の重要性に対する理解も充分に行きわたらなかったのである。
 今やこの点についての深い反省によって国民道徳論は根本的に革新されなくてはならぬ。まず第一に必要なのは国民的統一の重要性を闡明することである。国民的統一はあってもなくてもよいというようなものではない。それは国民的存在にとっては根本的なものであり、それが失われれば国民的存在そのものが失われる。個人の意識の統一が失われた場合にわれわれはその人を正常な一人格として取り扱い得ないように、統一を失った国民はもはや一つの国民ではないのである。が、国民的統一があるということは、その国民の内部に何らの対立もないということではない。どんな国民の内にも利害の対立はある。それを表現するさまざまの団体が権力を得ようとして争ってもいる。しかし|国民的統一はそれらを超越したもの〔付ごま圏点〕である。対立する団体は国民的統一を破ろうとして対立しているのではなく、む(394)しろ国民的統一を真に具体的ならしめようとして対立しているのである。従ってこの対立の最も明確である英国においては、国民的統一もまた最も確実である。いかなる対立団体も、国民的統一の権威には服従する。しからずしてもしある団体が、国民的統一の権威を認めず、あるいはさらに国民的統一そのものの存在をさえも認めようとせず、ただ党派的対立をのみ現実とし、反対党の撲滅によってのみ統一が得られると主張するならば、かかる党派は|国民的統一の破壊、おのれの党派の専制独裁〔付ごま圏点〕を目ざしているのである。これは反対意見に対する不寛容、従って自由の撲滅を意味するのであって、その標榜する思想が右であると左であるとを問わず、国民を奴隷化する態度だといわなくてはならぬ。国民をこの奴隷化の危険から護るためには、あらゆる利害の対立や党派的対立を超えた国民的統一を尊重し、その権威に服する態度を堅持しなくてはならない。
 そのためには、第二に、|公共的なるものへの奉仕〔付ごま圏点〕、従って国民全体性への奉仕の心構えが、もっと具体的に養成されなくてはならぬ。この心構えはまだ近代国家にとって必要な程度にまでは養成せられているとはいえない。言葉としては|公への奉仕〔付ごま圏点〕を言い現わした「奉公」という言葉があり、それが「義勇奉公」の標語として振り回されていた。しかしその言葉はすでに久しく|公共性への関係を失い〔付ごま圏点〕、単に主人への奉仕というごとき個人的関係を言い現わすものとなっていた。この封建的遺習のゆえに、奉公という言葉は、英米人が service という言葉によって言い現わしているような、誇らしい意識を伴なっているとはいえない。サーヴィスはもともと主人への奉仕であって、奉公の語のように「公」への関連を含意してはいないが、しかし公共的なるものへの奉仕の意識が強まるに従い、実質上|公への奉仕の意義を獲得した〔付ごま圏点〕のである。The service といえば軍務のことであり、take service といえば現役兵になることである。そのように、公共的なるものへの奉仕がサーヴィスの重要な意義となっている。従って鉄道や郵便の仕事は、(395)国営でなく営利事業として行なわれる際にも、railway service,mail service として把捉されている。鉄道の仕事全体がサーヴィスなのであって、末梢的な客扱いだけがサーヴィスなのではない。このように奉仕そのものが公共的な性格を得ているところでは、奉仕するものがその職務について責任を自覚しているとともに、国民もまた彼らを信頼し、その職務を尊重する。そこに奉仕が誇りを伴ない得るゆえんも存するのである。従って貸金値上げの要求のために公務員が|その職務を放棄する〔付ごま圏点〕というごときことは、そこでは考えられない。適当な貸金を支給しないことはその職務を尊重しないことであるに相違ないが、それを理由として職務を放棄することは全然責任を解しない所行である。そういう事態は内乱の一歩手前であって、もはや正常な状態とはいえない。しかるに「奉公」が個人的関係に転落したところでは、それと同じ事態がほとんど常習的に現われ、国民はその無責任な職務放棄に苦しみながらも、おとなしくそれを見送っている。これは根本的に革新されなくてはならない態度である。公共的なるものへの奉仕の心構えこそ、国家を存立せしめる根本の条件である。それによって国民は一つの人倫的組織としておのれを形成することができる。
 そこで第三にこの公共的なるものにおける統一、すなわち国民的統一を、いかにして表現するかが問題となる。わが国民は、原始時代以来、さまざまの政治的変遷にもかかわらず、ただ天皇においてのみ国民的統一の表現を認めて来た。その間、幾人かの目ざましい英雄も現われたし、また精巧な権力組織も作られたが、しかし国民は武力や権力による支配を国民的統一とは認めなかった。将軍は「武士の棟梁」ではあっても国民全体の棟梁ではなかった。国民的統一はこれらの権力争奪を超越したものであり、従って天皇もその超越的地位を持続された。この永い歴史的伝統のゆえに、国初以来の未曾有の悲劇に際しても、国民的統一の表現者としての天皇の地位は動かなかったのである。(396)この歴史的伝統は簡単に放棄してよいものであろうか。あらゆる党派的対立を超越した国民的統一は、他の何らかの方法によって一層よく表現せられ得るであろうか。
 それぞれの国民は、同じ仕方で国民的統一を表現してはいない。それはその国民がおのれを人倫的に組織する特殊の仕方に応じて特殊の仕方を取る。数百人の同志が明らかな意識をもって公共体を作り、同志の全体意志をもってこの公共体の最高権力とする、というごとき具体的な体験から出発して、そういう公共体を大きい国家組織にまで発展せしめた国民は、「国民の合致せる意志」に絶大の権威を認め、それに対して従順に服従する。従ってかかる意志の表現が|国民的統一の表現〔付ごま圏点〕にほかならない。かかる意志の決定によって一つの党派に統治が託せられるならば、反対党がそれに対立していても、国民的統一は破られるのではない。大統領は一つの党派の代表者でありつつ国民的統一の表現者であることもできる。が、この事態の背後には、公共体形成についてのこの国民の体験の堆積が、すなわち歴史的伝統が、躍如として動いているのである。伝統を異にする国民において、同じやり方が同じように効果を持つとは限らない。特に、投票や選挙による全体意志の決定にきわめて不慣れである国民、従ってかく決定された全体意志に対して充分の権威を認め得ない国民にあっては、右のごときやり方では国民的統一は見失われやすいであろう。現にわが国において歴史的伝統の放棄を主張する論者は、国民的統一の優位を欲せず、従ってそれを表現する天皇の存在を好まないのである。国民の自由に表明せられた意志にもとづいて天皇を国民統合の象徴とする憲法が決定せられた後においてさえも、この国民の決定が何らか真実でないものであったかのように説き、そこに権威を認めまいとするのが、そういう論者の態度である。しかしその決定は、この憲法の草案が発表せられた後に国民によって選出せられた代議士たちにより、国会において正規の手続きをふんでなされたのであって、たといその選挙や議決が理想通りに(397)うまく行かなかったとしても、目下のところそれ以上に正しく国民の全体意志を決定する方法はなかったのである。その決定がおのれの意志に反したからといって、それを軽《かろ》んじ無視する態度は、国民の合致せる意志を侮蔑し、少数者の独裁をのみ目ざすものと言ってよい。この意図にとっては国民的統一は最も大きい邪魔物になる。だから投票や選挙に対する不信を強調し、国民的統一を見失うように導いて行こうとするのである。こういうことの行なわれ得る国民にとっては、|同じ仕方で〔付ごま圏点〕国民的統一を表現することはできない。しかも国民的統一は国民的存在にとって不可欠の根本契機である。とすれば、そういう国民は、|おのれに最も適した仕方〔付ごま圏点〕によって、国民的統一を見失わないように努力しなくてはならない。そこに歴史的伝統が不滅の生命をもって現われてくるのである。われわれはこの歴史的伝統を放棄してはならない。われわれは、国内の諸対立を超越した国民的統一を、天皇によって表現する以上によき方法を持たないのである。

 以上の種々の段階における国民的当為の問題は、いつもわが国民の|歴史的風土的な特性〔付ごま圏点〕と連関してくる。この特性がそれぞれの行為の仕方の|独自性〔付ごま圏点〕を規定しているのである。従ってそれを革新する仕方もまた同じ特性に規定せられざるを得ない。ところでその国民の特性は、|長所〔付ごま圏点〕としても現われるが、また|短所〔付ごま圏点〕としても現われる。長所にのみ眼をつけてその特性をむやみに高く評価するのが間違いであるように、短所にのみ眼をつけてそれをひどく貶しめるのも正しいとはいえない。長所のゆえに短所をかばうことなく、また短所のゆえに長所を捨てることのない用意が必要である。そのためにはまず何よりも特性の冷静な把捉に努めなくてはならぬ。それによって長所を殺すことなく短所を克服する道も開けてくるのである。
(398) わたくしはかつてこの特性を、モンスーン的性格の特殊形態としての|台風的性格〔付ごま圏点〕、と名づけたことがある。(風土、本全集第八巻一三四ページ以下)モンスーン的性格は、|受容的忍従的〔付ごま圏点〕という根本規定を持つものであるが、台風はモンスーンのように規則的な季節風ではなく、きわめて|突発的〔付ごま圏点〕であり、また|変化も多い〔付ごま圏点〕がゆえに、受容的・忍従的な性格を著しく変形して現われしめる。受容的性格としての感情の横溢は、ここでは変化的な、突発的な姿に現われる。忍従的性格もまた無抵抗の態度をもってただあきらめるのではなく、反抗的戦闘的な態度を持しつつ、しかも突如としてきれいにあきらめるという形に現われる。それをわれわれは|しめやかな激情・戦闘的な恬淡〔付ごま圏点〕というごとき二重性格として把捉することができるというのであった。
 この性格は人倫的組織の作り方の上に全面的に現われている。性的結合の様式がそうである。それは徹底的に距てのない結合を目ざしつつきわめて肉体的激情的であり、しかもその肉体を恬淡に否定する情死のごとき現象を著しい特徴としていた。さらに家族的結合の様式全体がそうである。具象的に家屋の構造において示されているように、そこでは距てのない情愛の実現が主要事であったが、しかしその成員は家のためにおのれを犠牲とすることをも恐れなかった。親のために永い一生を恬淡に捨て去った曾我兄弟は国民的英雄にまで高められた。それはさらに地縁共同体における顕著な情誼社会的性格、文化共同体における顕著な教団的性格となって現われている。それらの一切を総括するものとしての国民的結合がまた著しく教団的・感情融合的な形をもって始められ、内部に著しい対抗や争闘を含みつつも、その分裂を徹底的に押し進めるということなく、国民的統一の権威を恬淡に承認して来た。こういう特徴を言い現わすために、人々は人倫的組織の始めと終わりとをあげて、皇室を宗家とする家族国家というごときことを言ったのである。
(399) この特性はそれ自身としては非難すべきものではない。それは人倫的結合において情愛の深さ、こまやかさ、和《やわ》らかさなどを比類なき程度に実現することができた。これは人倫的な愛の合一の実現として高く評価されなくてはならぬ。またそういう感情融合的な態度のゆえに、自然観照において、比類なき感受のこまやかさや、汎神論的な深さを実現した。これもそれ自身においては価値高き功績である。われわれはそれを見失ってはならない。しかしこの同じ特性は、他面において、|自発的・戦闘的な性格が稀薄である〔付ごま圏点〕ことを意味している。そうしてこの不足のゆえに生じてくる弊害も決して少なくはないのである。国民的当為の問題にとっては、この弊害を取り除き、欠けた性希を補う努力の方が一層重大であろう。
 自発性の弱さは感情融合的な態度と相表裏している。感情の流露を尚ぶがために、|理詰めの思索〔付ごま圏点〕を何らか小うるさい、「こちたき」態度として、賤しめ斥けるごときは、その著しい現われである。家、地縁共同体、文化共同体、などのいずれであっても、周囲の意見に同ぜずしておのれ自身の考えを立て、理性の導くままにどこまでも討議を続けて行こうとするごとき態度は、決して喜ばれなかった。必要なのは愛の合一であって黒白を別けることではない。理性が納得しようとしまいと、情において互いに肯き合うことができれば、それでよいではないか。これがそこに支配する常識であった。その結果、自発的に物を考え、|理性の納得するまでどこまでも追求して行くという習性〔付ごま圏点〕は、ついに形成されなかった。これはわが国民の性格の最も大きい弱点である。思惟能力においてさほど弱いとも思えないわが国民が、|生活全般の合理的処理〔付ごま圏点〕という点において著しく遅れているのは、この弱点のゆえである。真理を求める情熱もまた台風的な烈しさをもって燃え上がるのであるが、やがてそれは突如として恬淡なあきらめに変わり、信仰の立場に役目を譲ってしまう。最近の一世紀に西洋の学問を取り入れて以後、この弱点は、一層明らかになって来た。それ(400)はただに学問の上のみならず、社会組織の上においても著しい。近代国家の組織、労働組織などはすぺて高度に思惟の働きを必要とするものであるが、そういう社会組織の合理的形成力がなお箸しく弱いといわなくてはならぬ。
 戦闘的性格の弱さもまた感情の流露を尚んで|意志の力の持続的な粘り強さ〔付ごま圏点〕を重んじないことと結びついている。これは単純に意志の力が弱いということではない。それは台風的に一時的な猛烈さを示し、人をして恐ろしく戦闘的ならしめる。戦闘的たり得ないものは、いくじなしとして賤しめられるのである。しかしその戦闘的性格は、ある点まで行けば突如としてあきらめに転ずるものであって、根本的に戦闘的なのではない。だから「恬淡」が尚ばれ、「執拗」は何らか醜い、賤しい態度として貶しめられる。たとい自己が正しい場合でも、その「正しさ」をあくまで主張することは、「我を張る」態度、依怙地な態度であるとせられた。いわんやその正しさのゆえには生命を賭してもその主張を枉げないというような|道徳的背骨〔付ごま圏点〕は、小乗的なこだわり、融通のきかない狭量さとして貶しめられた。その結果、正義のためにあくまでも戦うという態度の代わりに、|妥協し互譲する習性〔付ごま圏点〕ができあがったのである。これは付和雷同性の最もよき地盤であった。ここに道徳的背骨に対する感覚の欠乏、正義の防衛を放棄する怯懦な態度に対しての感覚の欠乏、などがひき起こされてくる。
 これらほ何と言っても超克されなくてはならない弱点である。そうしてちょうどそれらの点において、牧場的性格や沙漠的性格がよき模範を示している。われわれはそれを学び取って|国民的性格を打ち直さなくてはならない〔付ごま圏点〕。それを可能ならしめる唯一の道は、それぞれの特性の充分な理解である。特性が限定であることを理解しなければ、限定を超える道は開けて来ないのである。

(401) 以上によってわれわれは最初に|対内的な〔付ごま圏点〕国民的当為の問題と呼んだものを一通り考察し終えたのであるが、その最後に到達したのは、世界史的視野において国民的性格を打ち直すという問題であった。それによってわれわれは|諸国民の問の連関〔付ごま圏点〕における国民的当為の問題に直面したのである。
 この節の最初に述べたように、この間題は今や「一つの世界」の形成という世界史的課題を中心としている。この課題は、世界史の第一期において武力的征服による世界帝国の形成として現われて以来、漸次その規模を拡大しつつ、幾度か解決の努力を見たのであったが、しかしかつて解決されたことはなかった。その解決の方法が|武力による征服〔付ごま圏点〕である限り、獲得された統一はまた武力によって覆されざるを得ない。近世以後、世界全体を見渡す世界的な視圏が確立され、ヨーロッパ人の植民政策がこの世界のすみずみにまで行きわたるに至った後にも、事情に変わりはなかった。帝国主義的な植民地競争は十九世紀末に至って絶頂に達し、ついに二十世紀における世界戦争として爆発した。それは一度にとどまらずすでに二度目を繰り返したのである。その結果は、|帝国主義的な世界統一が到底不可能であること〔付ごま圏点〕を示したように見える。十九世紀末までは非常な熱意をもって作られて来た植民地が、第二次世界戦争の前後のころから漸次独立国として解放せられるに至ったということは、この自覚を反映したものであろう。武力的征服によっては決して真実の「一つの世界」は形成され得ないのである。このことの認識のためには、さらにもう一度世界戦争が行なわれる必要はない。そこで「一つの世界」は、|諸国民の間の人倫的組織〔付ごま圏点〕として、武力によらず道理によって、形成されなくてはならぬ。これが世界史第三期における新しい課題としてわれわれの直面しているところである。
 諸国民の間の人倫的組織としての「一つの世界」は、|世界国家〔付ごま圏点〕である。が、この世界国家は、一人の主権者が万民を支配する世界帝国のごときものではない。と言って、民主国家の人民主権と同じように、世界じゅうの人類の各員(402)が一票ずつを投ずることにより全体意志を決定するというような、世界的民主国家でもあり得ない。同一の言語や風習を持ち、同一の文明程度にあって、発達せる交通や通信によって密接に結びつけられている|一つの国民〔付ごま圏点〕においてすら、地方的な自治体、地方的な政府は必要である。しかるに世界じゅうの十何億の人々は、言語や風習や文明程度などの実に著しく異なった無数の群に分かれており、その間の交通や通信も決して全面的に活発であるとはいえない。同一の問題、同一の利害に関して、同じように関心を抱くということは、今日のところではまだ不可能である。そういう人類を、目前の民主国家と同じような仕方で、一つの国家に構成するなどということは、到底できるものではない。取りあえずひとまず、言語や風習やその他の文化の共同によってできた国民共同体の立場で、確固たる人倫的組織を形成し、さらにそれらの諸国民の間に組織を作る、というのでなくては、世界国家は成り立ち得ない。そこでこのような世界国家への動きを示しているのが、かつての国際連盟、目下の国際連合である。
 ところで、このような国際的組織が真に人倫的組織としての実を備えるためには、この組織にはいった国民国家が、それぞれ|その主権を放棄する〔付ごま圏点〕のでなくてはならない。それぞれの国家が他の何ものにも制肘されない至上権を持ち、ただ武力的征服のみがこれを屈服させ得る、という状態において、諸国民が一つの人倫的組織として統一されるということは不可能である。かつての国際連盟はこの点においてつまずき、目下の国際連合もまたこの点において困難に逢着している。が、国民国家の主権の放棄がない限り、この困難は打開せられないであろう。世界国家は個々の国民国家に対して命令を発し得る至上権を握らなくてはならない。
 しかしそのような|世界国家の主権〔付ごま圏点〕はどこに成立するであろうか。世界国家を形成するのは|もろもろの国家〔付ごま圏点〕であって、そのなかの一二の強国が覇権を握るというわけではない。従って主権は、|もろもろの国民国家の全体意志〔付ごま圏点〕にあるので(403)ある。個々の国民国家は、おのれ自身の主権を放棄するとともに、世界国家の主権にあずかるようになる。してみると、世界国家の主権は、国民国家に上から君臨するものとして、国民国家と離れて独立にそれ自身においてあるのではなく、かえって|国民国家において、国民国家のなかに〔付ごま圏点〕、あるのである。すなわちそれぞれの国民国家は、その主権の放棄によってかえって主権を獲得するのである。この意味において世界国家の主権は世界じゅうの人民の手にあると言えることになる。
 このように、国家の主権が、国民国家の側《がわ》にも、また世界国家の側にも、一方的に固着して存するのではなく、|両者が相依って立つところに成立する〔付ごま圏点〕、という事態こそ、目下の世界史的課題を解決する唯一の道である。その道の実現は非常に近づいているようにも見えれば、また非常に遠いようにも見える。ということは、それが目下の諸国民の決意のいかんにかかっているということである。
 この実現のためにまず何よりも先立って努力すべきことは、|世界的経済組織の合理的自覚的な形成〔付ごま圏点〕であろう。世界の諸国民の間に有無を通ずる貿易が行なわれたのは、人類の歴史の最初からのことであり、近代の資本主義経済に至ってはそれを不可欠の契機とするに至った。植民地の急激な発展はその結果である。世界の諸地方はその物産を通じて複雑にからみ合うに至った。が、この経済的なからみ合いは、もうけを自己目的とする活動が、人倫的組織の形成などを全然顧慮することなく、従っていわば|盲目的〔付ごま圏点〕に、作り出したものであった。植民地の経営なども本国の経済的利益を主眼として行なわれたのであって、一つの世界の形成というごとき人倫的目的に支配されたものではなかった。しかるに二十世紀における再度の世界戦争は、右のごとき世界経済や植民地経営に重大な変化をもたらしたのである。今や植民地の解放、国民国家への復帰が、必然の勢いとなった。本国の経済的利益に従属していたそれらの土地は、(404)今やおのれの生活水準の高上のために活動し得る。その土地の購買力を目あてに生産していた文明国の産業は、おのれのもうけのみならず、その土地の繁栄をも顧慮しなくてはならぬ。それがかえってその土地の購買力を高めるゆえんともなるのである。この新しい情勢は、経済的なからみ合いをただ盲目的に形成していた時よりもかえって双方を調和的に繁栄せしめることとなるであろう。そのようにして、世界の諸国民の間に複雑に織り混ぜられている需要供給の関係を、精密に調査し、合理的に組み合わせて行けば、諸国民の間の有無は活発に通ずることができ、|諸国民をことごとく繁栄に導く〔付ごま圏点〕ことも不可能ではあるまい。そういう世界的な経済組織が、結局、世界の諸国民全体にとって利益であることは、今や一般に理解せられて来たように見える。在来世界の経済に種々の困難をもたらしたのは、無政府的盲目的な競争である。同種の産業は、少しく発達すれば直ちに激甚な競争に陥り、販路の争奪に努めなくてはならなかった。もうけを自己目的としながら、過冗生産のゆえにもうけを失うという矛盾にも陥った。しかし世界全体の立場から見れば、乏しい生活をしている民衆の方がはるかに多いのであって、生産が多すぎたなどということはあり得ないのである。だから|世界的な組織が充分合理的に作られ〔付ごま圏点〕、旺盛な生産を人類全体の生活水準の高上のために活用し得るに至れば、生産過冗による経済的困難というごとき現象は消滅するに至るであろう。かくして世界の諸国民は、|労働によって互いに奉仕し合い、物資を媒介として一つに結びつく〔付ごま圏点〕ということになる。征服によらざる世界統一の展望もまたそこから開けてくるであろう。
 ところでそのような合理的な世界経済組織は、諸国民が互いに他の国民の必要とするような物資を生産し得なければ、形勢されるはずがない。それにはそれぞれの国民がその|特産物〔付ごま圏点〕を持たなくてはなちぬ。そこに有効に働いてくるのが、それぞれの国土の|風土的特性〔付ごま圏点〕である。たとえばゴムの産地、砂糖の産地、綿の産地などがそれを端的に示して(405)いる。他の地方で同じものができないというのではない。が、ある特定の地域においては、それが特別に有利な条件において生産され得るのである。鉄や石炭の産地における鉄工業、適度の湿気や温度を具備した土地における繊維工業、などもその例に数えられるであろう。従って風土的な特性を充分に活用すれば、それぞれの国民は何らか他の国民の必要とする特産物を生産し得るのである。そうしてそういう産物に関する限り、世界的規模における地域的分業もまた可能であろう。分業は周知のごとく産業を発達させ生産を高める有力な方法であるが、同時に他面において総合を、すなわち分化した産業の間の相互依存を、必要とするものである。従って世界の諸国民の間に|分業〔付ごま圏点〕が行なわれることは、同時にそれらの諸国民が依存し合うことでなくてはならない。そういう仕方で互いの生活を豊かにする諸国民は、経済的に一つに結びつかざるを得ないのである。
 かく考えれば、世界の諸国民が労働によって互いに奉仕し合うことを可能ならしめるのは、|風土的特性〔付ごま圏点〕だということになる。これは風土的特性がそれぞれの国民に経済的側面においてさえも個性的特徴を刻みつけることを示しているのであるが、その事態は文化的側面においては一層顕著とならざるを得ない。
 一つの世界を形成するために、諸国民が|同一の文化〔付ごま圏点〕を持たなくてはならない、という考えは、世界史第一期における世界帝国以来、|征服による世界統一〔付ごま圏点〕の際にいつも現われていた。征服された諸国民は、征服者の言語を学び、征服者の宗教を受け容れなくてはならなかった。ところで言語や宗教の共同は|国民共同体〔付ごま圏点〕の特徴であって、|諸国民の間の統一〔付ごま圏点〕を特徴づけるものではない。従って征服者の言語や宗教を統一された世界全体にひろめようとする努力は、被征服国民を征服国民のなかへ|同化しよう〔付ごま圏点〕とする努力にほかならない。そういう努力は、地上にさまざまの国民を作り出した人間存在の歴史的風土的な構造に逆らうものである。だからそれは決してよき結果をもたらしはしなかった。征(406)服者の武力におびえてその意志に迎合するような国民は、もともと無性格であり非創造的であって、同化してみても何の足しにもならなかった。積極的に文化の創造に与《あずか》り得るような個性的な国民は、たとい征服者の同化の勢力に対してあらわな反抗を示さなくとも、その独自の存在を容易に捨てようとせず、機会があればその本来の国民的存在へ帰ってしまった。だから一つの世界を形成するために|文化の同一化〔付ごま圏点〕をはかるということはむだである。一つの世界は|国民的存在を超えた統一〔付ごま圏点〕としてのみ作られ得るのである。
 しかし諸国民の文化のうちには、高度に発達したものとそうでないもの、強力なものと微力なものというごとき差違があるであろう。その際、発達した強力な文化がおのずから他の国民を感化し、強制せずとも世界全体がその色に塗られるということはあり得るであろう。アレキサンドロス大王の世界帝国は短期にして滅んだが、しかしギリシア風の文化に彩られた「一つの世界」は数世紀にわたって持続した。それと同じ意味で、二十世紀においては、英語が話され、キリスト教が主要な宗教となり、アメリカ風の人生観が支配的になる、というような「一つの世界」が作り出されるのではないであろうか。これは力による同化ではない。優秀な文化がおのずからにしてひき起こす同化である。そういう意味の|文化の同一化〔付ごま圏点〕は望ましいことではないであろうか。
 こういう考えは、十九世紀以来の世界の大勢からして、いかにももっともに思えるかも知れない。英語はすでに久しく世界語としての性格を帯びている。キリスト教は世界宗教のうち最も伝道に熱心な宗教であって、すでに世界じゅうに広まっている。アメリカ風の人生観もまた最も通用しやすいものである。そういう情勢は第一次世界戦争後にすでに明白にできあがっていた。それが第二次世界戦争後に一層強化されるだろうことも疑いがない。しかし問題は、その程度のことで、|同一の文化を持つ一つの世界〔付ごま圏点〕ができあがったなどといえるかどうか、ということである。世界至(407)るところの港で英語によって用を便ずることができる。世界至るところの貿易商と英語によって取り引きすることができる。そういう情勢はすでにできていた。しかしそれは英語が|それらの国民の〔付ごま圏点〕言語となっていたということではない。英語の片言《かたこと》が話せても、それによっておのれの体験を委細に言い現わすことはできない。また英語で表現された文化財の繊細な味わいを理解することもできない。そうなると、英語を母語とする国民と、それを片言として用いる国民とは、「言語を一つにしている」などとは言えないのである。いわんや宗教、人生観など、歴史的伝統を背負っている複雑な文化現象は、たとい国民の一部に徹底的な同化者が現われたとしても、それによって国民的に同一化したなどとは到底いえない。逆に、その徹底的な同化者において、当人が完全に模倣し得たと考えている点がいかになお原物と異なっているかを、われわれは容易に指摘し得るであろう。永い伝統の産物は、一朝にして同化することのできるものではない。しかも非常に骨折って同化してみても、同化そのことは文化的に何の功績でもないのである。優秀な文化の感化をうけるということはもとより望ましいことであるが、その感化によっておのれの文化に独自の発展をもたらしてこそ、文化的な功績があるといえるであろう。それでなくては人類の文化への新しい貢献であることはできない。
 かく考えれば、一つの世界は、国民的存在を超えた統一として|作られ得る〔付ごま圏点〕というのみでなく、またそういう統一として|作られなくてはならない〔付ごま圏点〕。国民的存在を超えるということは、一つの国民の存在のなかへ他の国民を|同化する〔付ごま圏点〕というごとく|同一次元において〔付ごま圏点〕統一をはかるのではなく、|それよりも高い次元〔付ごま圏点〕において統一をはかることである。諸国民の文化をそれぞれその独自の性格において発展せしめつつ、しかもそれらの異なった文化を互いに補足し合い交響し合うようにする。そういう|多様の統一〔付ごま圏点〕こそ、一つの世界として実現せらるぺきものなのである。そのためにはあら(408)ゆる国民の独自性が、犯すべからざる尊厳を持つものとして、等しく尊敬されなくてはならない。機械文明において最も劣っている国民でも、なお文明国民の追随を許さないような独自の創造をなし得る。その点に関しては、文明国民といえども敬意を表さなくてはならない。が、おのれの独自性に対して他よりの承認を求めることは、同時に他の国民の独自性に対する承認の態度を伴なわなくてはならぬ。他の国民の文化の独自の価値を理解し尊重し得る国民ほど、またおのれの独自の創造をもなし得るのである。
 このような多様の統一において、それぞれの国民が、互いに刺激し合い助け合いつつ、人間存在のあらゆる可能性を充分に開展せしめることこそ、一つの世界を形成する勢力の中心的意義でなくてはならない。しからばそれぞれの国民の特性を、できるだけ払拭することではなく、できるだけ顕著ならしめることが、将来の課題である。歴史的風土的な性格の理解がますます必要となるゆえんは、ここにもあるといえるであろう。

 われわれはこのような一つの世界の形成に参与する一つの国民としての当為をも充分に自覚していなくてはならない。
 国民的存在はその個性において尊厳と価値とを担う。このことは一つの世界を形成すべき諸国民の連関において寸時も忘られてはならないことである。|他の国民〔付ごま圏点〕の存在を害《そこな》うこと、それをおのれの存在に隷従せしめ、あるいは強いておのれに同化しようとすることは、人間存在の尊厳を涜《けが》すことにほかならないが、しかしそれと同様に、|おのれの〔付ごま圏点〕国民的存在の個性を軽視し、みずからそれを害うてはばからないのは、おのれの担う尊厳をみずから蹂躙することである。従って、いかなる国民も、他の国民を支配してはならないとともに、他の国民に支配されてはならない。支配(409》してよいのはただおのれ自身のみである。
 わが国民は歴史的風土的にきわめて顕著な個性を持っている。それは|世界においてただ一つのもの〔付ごま圏点〕である。もっとも、唯一的であることは、あらゆる他の国民の個性においても同様であって、わが国民の個性に限ったことではない。従ってその唯一性を価値性であるかのごとくに誤認し、他愛のない国自慢に陥るのは、眼界の狭小を示すだけのことである。しかしその国自慢が見っともないからといって、個性の唯一性そのものから眼をそむけようとするのは現実に直面するゆえんではない。好むと好まざるとにかかわらず、われわれの存在は国民的個性を担っている。われわれの同胞のうちのある人たちが、「自分はフランスに生まるぺきであった」とか、「自分はイギリス人として生まれたかった」とか、というごとき嘆声を、心の底から洩らしているとしても、そういう嘆声そのものがすでに顕著に日本的である。生粋のフランス人やイギリス人は決してそういう嘆声を発しはしないのである。われわれはおのれの個性を超克する努力においてすでにその個性に制約せられている。そういう個性を発揮し、それによって独自の文化的創造を「多様の統一」のなかに寄与することこそ、わが国民の世界史的任務でなくてはならない。
 ではその唯一性はいかなるものであるか。それをわれわれは歴史的風土的な規定において見いだすことができる。わが国民の存在はまず第一にモンスーン的である。水田耕作がこの存在の性格を実質的に規定しているのみならず、世界史第二期においてモンスーン地域に華を開いたインド文化とシナ文化とが、精神的営養としてこの国民を育成した。そこで世界史第三期に初めて歴史時代にはいったこの国民は、これらの地盤の上にその文化を形成したのである。そこで第二に台風的な性格が顕著に現われてきた。シナやインドの文化のなかの大陸的沙漠的な契機はほとんど摂取されず、ただモンスーン的なもののみが受け容れられ、それが台風的に変容されて行ったのである。それには、直接(410)に大陸を見ずまたその生活にも触れなかった島国的孤立性が、与《あずか》って力があったと思われる。だからインドとシナの文化を基調としながら、それと著しく異なった文化を展開したのである。
 この地理的な孤立性は、わが国民の文化の著しい制限となった。手近な衣食住の様式について言っても、世界じゅうで日本のそれほど|特異なもの〔付ごま圏点〕はない。それと同じことが|文化全般の様式〔付ごま圏点〕において存するのである。それはすでに十世紀ごろから形成され、十五六世紀ごろに至ってはますますその度を高めていたのであったが、十七世紀の初めに断行された|鎖国〔付ごま圏点〕は、いよいよこの制限を|宿命的な重さ〔付ごま圏点〕でもってわが国民の存在に刻みつけることになった。それはポルトガル人やスペイン人の活躍によって、人類の歴史始まって以来初めて真に世界的な視圏が成立してから、すでに百年もたっていた時のことである。その時に、この近世の運動とちょうど正反対の|鎖国政策〔付ごま圏点〕が、世界じゅうのどの国民にも見られないほどの厳密さをもって、遂行された。これも全く唯一的な現象である。こういう政策が選び出されたこと、またそれが|行なわれ得た〔付ごま圏点〕ことは、それ自身すでに著しく特異な素質を示しているのであるが、しかしその結果としてひき起こされたことは、さらに一層特異な性格を帯びざるを得なかった。というのは、この鎖国は、十七、十八、十九の三世紀の間、すなわち近世諸国民が|目ざましい成長〔付ごま圏点〕を遂げて今あるごとき諸国民となってくる時期に、その発展や進歩に触れることなく、|孤立しておのれを形成した〔付ごま圏点〕、ということを意味する。ところで一つの国民は、個人の場合と同じく、他の多くの優れた国民と接触し、互いに刺激し合い影響し合うことによって、その素質を充分にのばし得るのである。従って孤立的な自己形成は、|ほとんど畸形といってよいほど〔付ごま圏点〕の特異性を産み出した。それは、非常に繊細で醇熟した技能を示すとともに、またその|眼界のはなはだしい狭さや〔付ごま圏点〕偏《かたよ》|り〔付ごま圏点〕をも示している。
 この鎖国の烙印は容易に消し去ることのできないものである。それは実に案外なところに痕跡をとどめている。し(411)かもわが国民は、その台風的性格によって、突如として果断に開国を実行したとき、一挙にして鎖国の弊から脱し得たと考え、どこにその烙印が残るかを充分冷静に反省してはみなかったのである。なるほど日本国民は、これまで拒んでいた欧米文化を活発に取り入れ、|急激に〔付ごま圏点〕近世の文明に追いつこうとした。そういう台風的な現象は他の諸国民には見られなかった。しかしその際、鎖国的性格の中枢たる|眼界の狭小や偏り〔付ごま圏点〕は果たして克服されたであろうか。世界地理の知識が広まるとともに精神的な眼界もまた世界的となったであろうか。否、そうではないのである。欧米の文化は軍事や産業の目的のためにきわめて偏った仕方で摂取された。その文化の根本は移されずに、主として枝葉の技術のみが輸入された。だから欧米の精神文化についてはほとんど無知にひとしいような科学者や技術家、軍人や政治家が輩出した。それらの人々を見ると、人生や文化のことに関しては、江戸時代の武士の方がまだ眼界は広かったと思われるほどである。が、そういう方面に比して、わずかに一パーセントほどの努力や経費しか払われなかった精神文化の摂取の方面においても、偏りは同じように著しかった。イギリスの文化に親しんだ人は、イギリス人以上にイギリスの|国自慢〔付ごま圏点〕をする。ドイツの場合でもフランスの場合でも同じである。それは江戸時代の漢学者のシナ崇拝に劣らぬものがあった。あるいは哲学、史学、文学なせの専門家が、互いに専門の城壁を守り、専門外に出ることを怖れた。そういう分派的、孤立的な気風が、親分子分の伝統と相からんで、わが国の人文科学のいずれをも偏った、畸形的なものたらしめた、という事実は、覆うことができない。日本の今の大学は university に当たるものとして作られているが、この universitas すなわち|分かたれざる全体〔付ごま圏点〕、学問の統一、という理念は、ほとんど生かされていないと言ってよい。この理念はヨーロッパ文化の根と密接に結びついたものである。それの生かされないところでは、科学も技術も自発的に伸びて行くことはできない。鎖国の烙印はそういうところまで痕を残しているのである。
(412) この制限は打ち破られなくてはならぬ。世界の他の諸国民の文化に対しても、また文化のさまざまの領域に対しても、われわれの眼界はできるだけ押しひろげられなくてはならぬ。そのためにはまずわれわれの文化の閉鎖性が徹底的に自覚されなくてはならぬ。どこに制限があるかを悟ることは、その制限の外の存在を悟ることである。
 が、そのためにわれわれは過去の伝統の一切を投げ捨てなくてはならないであろうか。それを投げ捨てなくてはヨーロッパ文化の消化はされ得ないのであろうか。なるほどそうも考えられる。受容的忍従的な性格を捨てなければ、自発的合理的な道は歩けない。激情的ではあっても突如として恬淡にあきらめるような性格であっては、無限探求の道はたどれない。しかし、そういう性格を捨てて新しい性格を獲得するということが、衣更えのように簡単にできるものであろうか。忍従的な性格のものが、その性格の弱点をさとり、何事にも自主的な探求や判断に努めずにはいないという習性を作ったとする。その苦労は人間を作りかえずにはいないであろう。そこには生まれながらにして自発的合理的であった人々の性格とは|異なった性格〔付ごま圏点〕が形成されるであろう。同様に恬淡な性格の人が、真理の探求にあきらめのあり得ないことを悟り、執拗な探求に身を委せるようになったとすればそこにも|新しい性格の創造〔付ごま圏点〕がある。衣更えのように簡単に性格を変えたのではない。それと同様に、日本の伝統を捨てても、ヨーロッパ人と同じにヨーロッパ文化を理解し得るようになるとはいえない。伝統を捨てるということは、おのれの存在の奥底までいつのほどにか沁み込んでいるものを捨てることである。そういう革命的なことをなし得た人と、そういうことをかつて問題とせずおのれの伝統のうちに安住している人とは、それだけでもすでに著しく異なるであろう。しかるに、日本の伝統を捨てるという努力は、|日本人のみのなし得る特殊な体験〔付ごま圏点〕である。そういう体験の上に立ってヨーロッパ文化を消化しようとすれば、そういう体験を全然持たないヨーロッパ人と|同じになり得るはずはない〔付ごま圏点〕のである。それならば、伝統(413)を捨ててかかる効能はないといわなくてはならぬ。ヨーロッパ人と同じにではなくとも、ヨーロッパ文化は理解することができる。時には、ヨーロッパ人自身がさほどの価値を認めないところにさえも、われわれは大きい価値を見いだすこともできる。ある作品の価値を作者自身よりも一層深く理解する、ということは、国民についても通用するであろう。そういうことは、われわれがおのれの伝統を捨てることなく、しかも謙虚に外なる価値高きものを受け容れようと構えたときに、かえって起こりやすいかも知れない。異なる立場から見れば異なる面が見えやすいからである。そう考えれば、過去の伝統を投げ捨てるということは必ずしも必要なことではない。投げ捨てたい人は自由に投げ捨ててよいし、投げ捨てたくない人は自由にそれを保持してよい。要はヨーロッパ文化の摂取によっておのれを新しくすること、|新しい国民的性格の創造、新しい文化の創造〔付ごま圏点〕に邁進することである。
 東西文化の総合という掛け声は、すでに聞くこと久しいものである。総合の実が一向現われないうちに、掛け声は古びようとしている。しかしこの総合のうちに日本国民の新しい創造の道があることは依然として正しい見当であるといってよい。インドとシナの古い文化を存在の奥底に弛み込ませているということは、厄介な制限であるとともに、また欧米人の持たない有利な点でもある。その地盤の上に牧場的文化や沙漠的文化を思い切り摂取して行けば、欧米人のなし得ない独自の創造をなし得ることも、恐らく望みがあるであろう。が、そのためには、すでにできあがった文化財を受け取って消費するだけではなく、かかる文化財を作る|文化活動、主体的な働き方〔付ごま圏点〕を、おのれのものとしなくてはならぬ。たとえば食事様式において、西洋料理やシナ料理はただ味わうだけであって自ら料理の仕方を知らず、自ら料理し得るのはただ日本料理のみであるという場合には、料理の上に何ら新しい創造は行なわれないであろう。それに反してこれらの料理の術を心得てさえおけば、気分や季節や材料に応じてこれらの料理を活用し、いずれの料(414)理も単独には提供し得ないような変化と豊かさとを食卓の上に実現することができるであろう。それと同じく異種の文化の摂取において肝要なのは、その文化活動の仕方を取り入れることである。これが行なわれさえすれば、異種の文化の摂取は新しい国民的性格の創造とならざるを得ない。
 このことは一つの世界の形成に参与するわが国民にとって、最も重要な当為である。多様の統一としての一つの世界の中に、一つの独自な文化を貢献し得ないとすれば、わが国民は世界史的任務に堪えないものといわなくてはならぬ。「無性格」ということが人倫的に言って最も恥ずべきことであるのは、個人の場合に限ったことではない。一つの国民としてもその通りである。

(415) 付録

     昭和十七年版『倫理学』中巻

     序言

 (本文5ページ11行と同12行の間に挿入)
 上巻の最後の節を執筆していた時、著者は箱根山中でシナ事変の突発に逢い、「文化的創造に携わる者の立場」(『面とペルソナ』所収)に書いたような心持ちで、日々航空機の往来を見まもっていた。中巻はその後の五年の間に書かれたもので、その半ばはすでに一度発表したことがあるが、そのあいだじゅう右の心持ちは持続していた。そうしてこの巻の最後の節を執筆していた時に、今度の大東亜戦争の勃発に際会したのである。この世界史の転換は五年前に予測したよりもさらに一層大仕掛けで、実に文字通りに未曾有の大事件である。が、我々の覚悟は今でも右の文章に書いた通りでよいと著者は確信している。







(434)義から見ておのずから明らかであろう。国家は個人にとっては絶対の力であり、その防衛のためには個人の無条件的な献身を要求する。個人は国家への献身において己が究極の全体性に還ることができるのである。従って国家への献身の義務は、己が一切を捧《ささ》げて国家の主権に奉仕する義務、すなわち忠義であるといわれる。そうしてこの義を遂行する勇気が義勇なのである。命令への絶対服従、全然の没我、それが人間|業《わざ》とは思えぬような溌剌たる行動となって現前する、それが義勇である。人はこの義勇においておのれを空じ、全体性に生きるという人間存在の真理を最高度に体験することができる。その義勇はあくまでも奉公の義勇であって、単なる勇気ではない。がまた奉公は、国法に遵う日常の行為において実現せらるべきであって、必ずしも義勇を要するものとは限らない。