和辻哲郎全集第八巻、岩波書店、421頁、2400円、1962.06.01(77.06.16.2p)
風土・イタリア古寺巡礼
総目次
風土………………………………………………………一
イタリア古寺巡礼………………………………………二五七
解説…………………………………………谷川徹三…四〇九 〔入力せず〕
(1) 序言
この書の目ざすところは人間存在の構造契機としての風土性を明らかにすることである。だからここでは自然環境がいかに人間生活を規定するかということが問題なのではない。通例自然環境と考えられているものは、人間の風土性を具体的地盤として、そこから対象的に解放され来たったものである。かかるものと人間生活との関係を考えるという時には、人間生活そのものもすでに対象化せられている。従ってそれは対象と対象との間の関係を考察する立場であって、主体的な人間存在にかかわる立場ではない。我々の問題は後者に存する。たといここで風土的形象が絶えず問題とせられているとしても、それは主体的な人間存在の表現としてであって、いわゆる自然環境としてではない。この点の混同はあらかじめ拒んでおきたいと思う。
自分が風土性の問題を考えはじめたのは、一九二七年の初夏、ベルリンにおいてハイデッガーの『有と時間』を読んだ時である。人の存在の構造を時間性として把捉する試みは、自分にとって非常に興味深いものであった。しかし時間性がかく主体的存在構造として活かされたときに、なぜ同時に空間性が、同じく根源的な存在構造として、活かされて来ないのか、それが自分には問題であった。もちろんハイデッガーにおいても空間性が全然顔を出さないのではない。人の存在における具体的な空間への注視からして、ドイツ浪浸派の「生ける自然」が新しく蘇生させられるかに見えている。しかしそれは時間性の強い照明のなかでほとんど影を失い去った。そこに自分はハイデッガーの仕(2)事の限界を見たのである。空間性に即せざる時間性はいまだ真に時間性ではない。ハイデッガーがそこに留まったのは彼の Dasein があくまでも個人に過ぎなかったからである。彼は人間存在をただ人の存在として捕えた。それは人間存在の個人的・社会的なる二重構造から見れば、単に抽象的なる一面に過ぎぬ。そこで人間存在がその具体的なる二重性において把捉せられるとき、時間性は空間性と相即し来たるのである。ハイデッガーにおいて充分具体的に現われて来ない歴史性も、かくして初めてその真相を呈露する。とともに、その歴史性が風土性と相即せるものであることも明らかとなるのである。
このような問題が自分に現われて来たのは、時間性の綿密な分析に首を突っ込んだ自分がちょうどさまざまの風土の印象に心を充たされていたためであったかも知れぬ。が、またちょうどかかる問題が自分に現われて来たために風土の印象を反芻しあるいは風土の印象に対して注視を向けるということにもなったのである。だから自分にとって風土の問題を自覚せしめたものは時間性、歴史性の問題であると言ってよい。これらの問題に媒介せられることなしには、風土の印象は単に風土の印象として留まったであろう。が、右のごとき媒介によったということは、ちょうど風土性と歴史性との相即を示しているのである。
この書は大体において昭和三年九月より四年二月に至る講義の草案を基礎としている。この講義は、外遊より帰って間のない時、人間存在の時間性・空間性の問題を立ち入って考究する余裕もなく、ただ風土の問題のみを取り上げて論じてみたのである。が、この書の大部分は、右の草案のそれぞれの個所をその後おりにふれて書きなおし、断片的に発表したものである。草案の形をそのまま保存しているのは最後の一章のみに過ぎない。が、もともと一つの連関において考えられたものであるから、未だはなはだ不備でほあるが、ここにびとまずまとめておくことにする。大(3)方の識者の是正を得ば幸いである。
昭和十年八月
このたび新版を出すに当たって第三章の内シナの部を書き改めた。もとこの文章は昭和四年、左傾思想の流行していたころに書かれたもので、風土の考察に当時の左翼理論への駁論を混じえていた。今それを洗い落として純粋に風土の考察に引き直したのである。
昭和十八年十一月
著者
目次
序言………………………………………………………一
第一章 風土の基礎理論…………………………………七
一 風土の現象………………………………………七
二 人問存在の風土的規定…………………………一四
第二章 三つの類型………………………………………二四
一 モンスーン………………………………………二四
二 沙漠………………………………………………四三
三 牧場………………………………………………六二
第三章 モンスーン的風土の特殊形態…………………一二一
一 シナ………………………………………………一二一
二 日本………………………………………………一三四
イ 台風的性格………………………………一三四
ロ 日本の珍しさ……………………………一五六
(6)第四章 芸術の風土的性格…………………………一七〇
第五章 風土学の歴史的考察……………………………二〇五
一 ヘルデルに至るまでの風土学…………………二〇五
二 ヘルデルの精神風土学…………………………二〇九
三 ヘーゲルの風土哲学……………………………二二四
四 ヘーゲル以後の風土学…………………………二三三
付録 昭和四年版『風土』第三章 第一節 シナ…二四二
(7) 第一章 風土の基礎理論
一 風土の現象
ここに風土と呼ぶのはある土地の気候、気象、地質、地味、地形、景観などの総称である。それは古くは水土とも言われている。人間の環境としての自然を地水火風として把捉した古代の自然観がこれらの概念の背後にひそんでいるのであろう。しかしそれを「自然」として問題とせず「風土」として考察しようとすることには相当の理由がある。それを明らかにするために我々はまず風土の現象を明らかにしておかなくてはならぬ。
我々はすべていずれかの土地に住んでいる。従ってその土地の自然環境が、我々の欲すると否とにかかわらず、我々を「取り巻いて」いる。この事実は常識的にはきわめて確実である。そこで人は通例この自然環境をそれぞれの種類の自然現象として考察し、引いてはそれの「我々」に及ぼす影響をも問題とする。ある場合には生物学的、生理学的な対象としての我々に、他の場合には国家を形成するというごとき実践的な活動をするものとしての我々に。それらはおのおの専門的研究を必要とするほど複雑な関係を含んでいる。しかし我々にとって問題となるのは日常直接の事実としての風土が果たして|そのまま〔付ごま圏点〕自然現象と見られてよいかということである。自然科学がそれらを自然現象として取り扱うことはそれぞれの立場において当然のことであるが、しかし現象そのものが根源的に自然科学的対象であるか否かは別問題である。
(8) 我々はこの問題を考えてみるために常識的に明白な気候の現象を、しかもその内の一契機に過ぎない寒さの現象を捕えてみよう。我々が寒さを感ずる、という事は、何人にも明白な疑いのない事実である。ところでその寒さとは何であろうか。一定の温度の空気が、すなわち物理的客観としての寒気が、我々の肉体に存する感覚機官を刺激し、そうして心理的主観としての我々がそれを一定の心理状態として経験することなのであろうか。もしそうであるならば、その「寒気」も「我々」もそれぞれ単独に、|それ自身において〔付ごま圏点〕存立し、その寒気が外から我々に迫り来ることによって初めて「我々が寒さ|を感ずる〔付ごま圏点〕」という志向的関係が生ずることになる。従って寒気の我々に対する影響なるものが当然考えられてよい。
が、果たしてそうであろうか。我々は|寒さを感ずる前に〔付ごま圏点〕寒気というごときものの独立の有をいかにして知るのであろうか。それは不可能である。我々は寒さを感ずること|において〔付ごま圏点〕寒気を見いだすのである。しかもその寒気が外にあって我々に迫り来ると考えるのは、|志向的関係〔付ごま圏点〕についての誤解にほかならない。元来志向的関係は外より客観が迫り来ることによって初めて生ずるのではない。個人的意識について考察せられる限り、主観はそれ自身の内に志向的構造を持ち、主観としてすでに「何ものかに向ける」ものである。「寒さ|を感ずる〔付ごま圏点〕」というその「感じ」は、寒気に向かって関係を起こす一つの「点」なのではなく、「……を感ずる」こととしてそれ自身すでに関係であり、この関係|において〔付ごま圏点〕寒さが見いだされるのである。だからかかる関係的構造としての志向性は、寒さにかかわる主観の一つの構造にほかならぬ。「我々が寒さを感ずる」ということはまず第一にはかかる「志向的体験」である。
しかしそれならば寒さは主観の体験の一契機に過ぎないではないか。そこに見いだされた寒気は「我れ」の境内の寒気である。しかるに我々が寒気と呼ぶものは、我れの外にある超越的客観であって、単なる我れの感じではない。(9)主観的体験はいかにしてこの超越的客観に関係し得るか。すなわち寒さの感じというごときものがいかにして外気の冷たさに関係し得るか。――この間いは志向的関係において|志向せられたもの〔付ごま圏点〕についての誤解を含んでいる。志向対象は心理的内容というごときものではない。従って客観的な寒気と独立に有るところの体験としての寒さが志向対象だというわけではない。我々が寒さ|を感ずる〔付ごま圏点〕とき、我々は寒さの「感覚」を感ずるのではなく直接に「外気の冷たさ」あるいは「寒気」|を感ずる〔付ごま圏点〕のである。すなわち志向的体験において「感ぜられたるもの」としての寒さは、「主観的なもの」ではなくして「客観的なもの」なのである。だから寒さ|を感ずる〔付ごま圏点〕という志向的な「かかわり」そのものが、すでに外気の寒冷にかかわっていると言ってよい。超越的有としての寒気というごときものは、この志向性において初めて成り立つ。従って寒さの感じが外気の寒冷といかにして関係するかというごとき問題は、本来存しないのである。
かく見れば主観客観の区別、従ってそれ自身単独に存立する「我々」と「寒気」との区別は一つの誤解である。寒さ|を感ずる〔付ごま圏点〕とき、我々自身はすでに外気の寒冷のもとに宿っている。我々自身が寒さにかかわるということは、我々自身が寒さの中へ|出ている〔付ごま圏点〕ということにほかならぬのである。かかる意味で我々自身の有り方は、ハイデッガーが力説するように、「外に出ている」(ex-sistere)ことを、従って志向性を、特徴とする。
そこでこういうことになる。我々自身は外に出ているものとしておのれ自身に対している。自己をふり返るという仕方でおのれ自身に向かうのでない時にも、すなわち反省を待つまでもなく、自己は我々自身にあらわである。反省は自己把捉の一つの様態に過ぎない。しかもそれは自己開示の仕方として原初のものではない。(もっともReflektierenをその視覚的な意味に、すなわち何ものかに突き当たってそこから|反射〔付ごま圏点〕すること、何ものかの方から反射においておのれを示すこと、の意味に解するならば、それは自己が我々自身においてそれ自身あらわである仕方を言い現(10)わしたものと見ることもできるであろう。)我々は寒さを感ずる。すなわち我々は寒さのうちへ出ている。だから寒さを感ずるということにおいて我々は寒さ自身のうちに自己を見いだすのである。しかしこのことは、我々が己れを寒さのなかに移し入れ、その移し入れられたる己れをそこにあるものとしてあとから見いだすのではない。|寒さが初めて〔付ごま圏点〕見いだされるときに我々自身はすでに寒さのうちへ出ているのである。だから最も根源的に「外に在る」ものは、寒気というごとき「もの」「対象」ではなくして、我々自身である。「外に出る」のは我々自身の構造の根本的規定でぁって、志向性もまたこれにもとづいたものにほかならない。寒さ|を感ずる〔付ごま圏点〕のは一つの志向的体験であるが、そこにおいて我々は、すでに外に、すなわち寒さのうちへ、|出ている己れ〔付ごま圏点〕を見るのである。
以上は寒さを体験する個人的意識の視点において考察せられたものであるが、しかしそこで「|我々は〔付ごま圏点〕寒さを感ずる」と言い現わしても何ら支障がなかったように、寒さを体験するのは我々であって単に我れのみではない。|我々は同じ寒さを共同に感ずる〔付ごま圏点〕。だからこそ我々は寒さを言い現わす言葉を|日常の挨拶〔付ごま圏点〕に用い得るのである。我々の間に寒さの感じ方がおのおの異なっているということも、寒さを共同に感ずるという地盤においてのみ可能になる。この地盤を欠けば他我の中に寒さの体験があるという認識は全然不可能であろう。そうしてみれば、寒さの中に出ているのは単に我れのみではなくして我々である。否、我々であるところの我れ、我れであるところの我々である。「外に出る」ことを根本的規定としているのはかかる我々であって単なる我れではない。従って「外に出る」という構造も、寒気というごとき「もの」の中に出るよりも先に、すでに|他の我れの中に出る〔付ごま圏点〕ということにおいて存している。これは|志向的関係ではなくして〔付ごま圏点〕「間柄」である。だから寒さにおいて己れを見いだすのは、根源的には間柄としての我々なのである。
(11) 寒さの現象が何であるかは以上においてほぼ明らかになったと思う。しかし我々は寒さというごとき気象的現象をただ一つ独立に体験するのではない。それは暖かさや暑さとの連関において、さらに風、雨、雪、日光、等々との連関において体験せられる。すなわち寒さは種々なる気象的現象の系列全体としての「気候」の中の一環に過ぎない。我々は寒風の中から暖かい室内にはいった時に、あるいは寒い冬のあとで柔らかい春風に吹かれた時に、あるいは激暑の真昼沛然とした夕立に逢った時に、常にそれらの我々自身でない気象においてまず我々自身を了解するのであり、従ってさらに気候の移り変わりにおいてもまず我々自身の移り変わりを了解するのである。が、この「気候」もまた単独に体験せられるのではない。それはある土地の地味地形景観などとの連関においてのみ体験せられる。寒風は「山おろし」でありあるいは「から風」である。春風は花を散らす風でありあるいは波を撫でる風である。夏の暑さもまた旺盛な緑を萎《な》えさせる暑さでありあるいは子供を海に嬉戯せしめる暑さである。我々は花を散らす風において歓びあるいは傷むところの我々自身を見いだすごとく、ひでりのころに樹木を直射する日光において心|萎《な》える我々自身を了解する。すなわち我々は「風土」において我々自身を、間柄としての我々自身を、見いだすのである。
このような自己了解は、寒さ暑さを感ずる「主観」としての、あるいは花を歓ぶ主観としての、「我れ」を理解することではない。我々はこれらの体験において「主観」に眼を向けはしない。寒さを感ずる時には我々は体を引きしめる、着物を着る、火鉢のそばによる。否、それよりもさらに強い関心をもって子供に着物を着せ、老人を火のそばへ押しやる。あるいは着物や炭を買い得るために労働する。炭屋は山で炭をやき、織布工場は反物を製造する。すなわち寒さとの「かかわり」においては、我々は寒さをふせぐさまざまの手段に個人的・社会的に入り込んで行くのである。同様に花を歓ぶときにも我々は「主観」に目を向けるのではなくして花に見とれる、あるいは花見に友人を誘い、(12)あるいは花の下で仲間とともに飲み踊る。すなわち春の風景とのかかわりにおいては、それを享楽するさまざまの手段が個人的・社会的に実践せられるのである。同様なことは炎暑についても、あるいは暴風洪水のごとき災害についても言えるであろう。我々はこれらのいわゆる「自然の暴威」とのかかわりにおいてまず迅速にそれを防ぐ共同の手段に入り込んで行く。風土における自己了解はまさしくかかる手段の発見としてあらわれるのであって、「主観」を理解することではない。
右のごとくして見いださるるさまざまの手段、たとえば着物、火鉢、炭焼き、家、花見、花の名所、堤防、排水路、風に対する家の構造、というごときものは、もとより我々自身の自由により我々自身が作り出したものである。しかし我々はそれを寒さや炎暑や湿気というごとき風土の諸現象とかかわることなく作り出したのではない。我々は風土において我々自身を見、その自己了解において我々自身の自由なる形成に向かったのである。しかも我々は寒さ暑さにおいて、あるいは暴風洪水において、単に現在の我々の間において防ぐことをともにし働きをともにするというだけではない。我々は祖先以来の永い間の了解の堆積を我々のものとしているのである。家屋の様式は|家を作る仕方〔付ごま圏点〕の固定したものであると言われる。その|仕方〔付ごま圏点〕は風土とかかわりなしに成立するものではない。家は寒さを防ぐ道具であるとともに暑さを防ぐ道具でもある。寒暑のいずれが|より〔付ごま圏点〕多く防御を必要とするかによって右の仕方はまず規定されねばならぬ。さらにそれは暴風、洪水、地震、火事などにも堪え得なくてはならぬ。屋根の重みは地震に対して不利であっても暴風や洪水に対しては必要である。家屋はそれぞれの制約に適合しなくてはならない。さらに湿気は家屋の居住性を厳密に規定する。強度の湿気に対しては極度に通風をよくせねばならぬ。木材、紙、泥などは湿気を防ぐには最もよき建築材料である。が、それらは火事に対して何の防御をも持たない。これらのさまざまの制約がその軽(13)重の関係において秩序づけられつつ、ついにある地方の家屋の様式が作り上げられてくるのである。そうすれば家を作る仕方の固定は、風土における人間の自己了解の表現にほかならぬであろう。同様なことはまた着物の様式についても言われる。これもまた着物を作る|仕方〔付ごま圏点〕が永い間に社会的に固定したものであるが、その仕方を規定するものは風土である。ある地方に特有な着物の様式が、その地方の文化的優越のゆえに、風土の異なる他の地方に移植せられるということは、家屋の様式の場合よりも容易に起こり得ることであるが、しかしいかなる地方に移されようとも|その様式がそれを産んだ風土に規定せられている〔付ごま圏点〕ということは決して抹殺されはしない。洋服は半世紀の間行なわれていても依然として洋服である。このことは「食物」において一層顕著であろう。食物の生産に最も関係の深いのは風土である。人間は獣肉と魚肉とのいずれを欲するかに従って牧畜か漁業かのいずれかを選んだというわけではない。風土的に牧畜か漁業かが決定せられているゆえに、獣肉か魚肉かが欲せられるに至ったのである。同様に菜食か肉食かを決定したものもまた菜食主義者に見られるようなイデオロギーではなくして風土である。そうして我々の食欲は、食物一般というごときものを目ざしているのではなく、すでに永い間にできあがっている一定の料理の仕方において作られた食物に向かう。パンか飯か、ビステキかさしみか、等々が空腹時において欲せられるものなのである。この料理の様式が一つの民族の永い間の風土的自己了解を表現する。魚貝や海草を食うことは我々の祖先が農業を習得するよりも前からすでに行なっていたことなのである。
我々はさらに風土の現象を文芸、美術、宗教、風習等あらゆる人間生活の表現のうちに見いだすことができる。風土が人間の自己了解の仕方である限りそれは当然のことであろう。我々は風土の現象をかかるものとして捕える。従ってそれが自然科学的対象と異なることは明白である。海草を使う料理の様式を風土現象として考案することは、風(14)土を単に自然環境と見る立場ではない。いわんや芸術の様式を風土的に理解することは、風土が歴史と離れたものでないことを端的に示すのである。風土の現象について最もしばしば行なわれている誤解は、我々が最初に提示したごとき常識的な立場、すなわち自然環境と人間との間に影響を考える立場であるが、それはすでに具体的な風土の現象から人間存在あるいは歴史の契機を洗い去り、それを単なる自然環境として観照する立場に移しているのである。人間は単に風土に規定されるのみでない、逆に人間が風土に働きかけてそれを変化する、などと説かれるのは、皆この立場にほかならない。それはまだ真に風土の現象を見ていないのである。我々はそれに対して風土の現象がいかに人間の自己了解の仕方であるかを見て来た。人間の、すなわち個人的・社会的なる二重性格を持つ人間の、自己了解の運動は、同時に歴史的である。従って歴史と離れた風土もなければ風土と離れた歴史もない。が、これらのことは人間存在の根本構造からしてのみ明らかにされ得るのである。
二 人間存在の風土的規定
前節において風土の現象は人間が己れを見いだす仕方として規定せられた。ところでその人問とは何であるか。それについての詳しい考察は他の研究に譲ってここでは立ち入らない。(おおよその輪郭は既刊『人間の学としての倫理学』の中に描かれている。詳しくは近く刊行すべき『倫理学』を見られたい。)が、風土を人間存在の一つの規定として説くためには、この規定が人間存在の構造の中でいかなる位置を占めるかを、おおよそ見当づけておかなくてはならない。
(一) ここに人間と呼ばれるのは単に「人」(anthr〔上に長音記号あり〕pos,homo,homme,man,Mensch)ではない。それは「人」でも(15)あるが、しかし同時に人々の結合あるいは共同態としての社会でもある。人間のこの二重性格が人間の根本的性格である。従ってその一面である「人」をのみ取り扱うアントロボロギー、またその他面たる「社会」をのみ取り扱う社会学は、ともに人間の本質を捕えることができない。人間を真に根本的に把捉するためには、個であるとともにまた全であるごとき人間存在の根本構造を押えなくてはならぬ。かかる見当の下に人間存在の分析を行なうと、それが絶対的否定性の否定の運動であることが明らかにされる。人間存在はこの否定の運動の実現にほかならない。
(二) 右のごとき人間存在は無数の個人に分裂することを通じて種々の結合や共同態を形成する運動である。この分裂と合一とはあくまでも主体的実践的なものであるが、しかし|主体的な身体〔付ごま圏点〕なしに起こるものではない。従って主体的な意味における空間性・時間性が右のごとき運動の根本構造をなすのである。ここに空間と時間とがその|根源的〔付ごま圏点〕な姿において捕えられ、しかも空間と時間との|相即不離〔付ごま圏点〕が明らかにせられる。人間存在の構造をただ時間性としてのみ把捉しようとする試みは個人意識の底にのみ人間存在を見いだそうとする一面性に陥っている。人間存在の二重性格がまず人間の本質として把捉せられるならば、右のごとき時間性に即して同時に空間性が見いだされなくてはならないことは、直ちに明らかとなるであろう。
(三) 人間存在の空間的・時間的構造が明らかにせられるとき、人間の連帯性の構造もまたその真相を呈露する。人間の作るさまざまの共同態、結合態は、一定の秩序において内的に展開するところの体系である。それは社会の静的な構造と考えらるるごときものではなく、動的な運動の体系である。否定の運動の実現である。歴史と呼ばれるものはかくして形成せられて行く。
(四) ここにおいて人間存在の空間的・時間的構造は風土性歴史性として己れを現わしてくる。時間と空間との相(16)即不離が歴史と風土との相即不離の根柢である。主体的人間の空間的構造にもとづくことなしには一切の社会的構造は不可能であり、社会的存在にもとづくことなしには時間性が歴史性となることはない。|歴史性は社会的存在の構造〔付ごま圏点〕なのである。ここに人間存在の有限的・無限的な二重性格も明らかとなるであろう。人は死に、人の間は変わる、しかし絶えず死に変わりつつ、人は生き人の間は続いている。それは絶えず|終わること〔付ごま圏点〕において絶えず|続く〔付ごま圏点〕のである。個人の立場から見て「死への存在」であることは、社会の立場からは「生への存在」である。そうして人間存在は個人的・社会的なのである。が、歴史性のみが社会的存在の構造なのではない。|風土性もまた社会的存在の構造〔付ごま圏点〕であり、そうして歴史性と離すことのできないものである。歴史性と風土性との合一においていわば歴史は肉体を獲得する。もし「精神」が物質と対立するものであるならば歴史は決して単に精神の自己展開であることはできない。精神が自己を客体化する|主体者〔付ごま圏点〕である時にのみ、従って主体的な肉体を含むものである時にのみ、それは自己展開として歴史を造るのである。このような主体的肉体性とも言うべきものがまさに風土性なのである。人間の有限的・無限的二重性格は人間の歴史的・風土的構造として最も顕わになる。
これが風土性の現われる場所である。ここにおいて人間は単に一般的に「過去」を背負うのではなくして特殊な「風土的過去」を背負うのであり、一般的形式的な歴史性の構造は特殊的な実質によって充実せられることになる。人間の歴史的存在が|ある国土におけるある時代の〔付ごま圏点〕人間の存在となるのは、右のことによって初めて可能なのである。しかしまたこの特殊的実質としての「風土」は、単なる風土として歴史と独立にあり、その後に実質として歴史の内に入り来るというのではない。それは初めより「歴史的風土」なのである。一言にして言えば、人間の歴史的・風土的二重構造においては、歴史は|風土的歴史〔付ごま圏点〕であり、風土は|歴史的風土〔付ごま圏点〕である。それぞれに孤立せしめられた歴史と風(17)士とは、右のごとき具体的地盤からの抽象物に過ぎない。我々の問題とする風土はかく抽象せられる前の根源的な風土である。
風土的規定が人間存在の構造において占める場所は右のごとくである。そうすれば風土の問題が古来のアントロポロギーにおける肉体の問題と何ほどかの相似を持つことは明らかであろう。アントロポロギーは個人的・社会的なる人間の二重性格から個人的性格のみを抽出して問題とする学問であった。そこでこの学問は、間柄から遊離せしめられた「人」を|身心の二重性格〔付ごま圏点〕において把捉しようと努力した。しかし|身心〔付ごま圏点〕の差別を明らかに把捉しようとする努力は、ついにこの差別における統一を見失わしめるに至った。その最も大いなる理由は身体をその具体的な主体性から引き離して「物体」と同視するに至ったところに存する。かくしてアントロポロギーは|精神論〔付ごま圏点〕と|身体論〔付ごま圏点〕とに分裂し、前者は心理学から哲学的認識論の方へ、後者は動物学の一分科たる「人類学」の方へ、あるいは生理学や解剖学の方へ、発展して行った。しかるに現代の哲学的アントロポロギーは、この分裂を克服して再び身心の二重性格における「人」を把捉しようと企てる。そこで問題の中心に来るのは、肉体が単なる「物体」ではないという洞察である。すなわち肉体の全体性である。しかしそれがアントロポロギーの伝統を守る限り、あくまでも「人」の学であって「人間」の学とはならない。そこで我々は人間の個人的・社会的な二重性格を最も根本的な問題とする立場に立って同様な問題を追跡してみる。肉体の主体性は人間存在の空間的・時間的構造を地盤として成り立つのである。従って主体的な肉体なるものは孤立せる肉体ではない。孤立しつつ合一し、合一において孤立するというごとき動的な構造を持つのが主体的肉体である。しかるにかかる動的な構造において種々の連帯性が開展せられる時、それは歴史的・風土的なものになる。風土もまた人間の肉体であったのである。しかるにそれは、個人の肉体が単なる「物体」と見られたよう(18)に、単なる自然環境として客観的にのみ見られるに至った。そこで肉体の主体性が快復さるべきであると同じ意味で風土の主体性が快復されなくてはならぬのである。そうして見ると身心関係の最も根源的な意味は「人間」の身心関係に、すなわち歴史と風土との関係をも含んだ個人的・社会的な身心関係に、存すると言ってよい。
風土の問題の担っているこの重要な意義は、人間存在の構造を分析する試みに対して一つの決定的な指針を与える。人間存在の存在論的把捉はもはや単に時間性を構造とする「超越」によってのみは遂げられないのである。それはまず第一に他人において己れを見いだし、自他の合一において絶対的否定性に還り行く、という意味での超越でなくてはならぬ。従って人と人との「間柄」が超越の場面でなくてはならぬ。すなわち自他を見いださしめる地盤としての間柄そのものが、本来すでに「外に出る」(ex-sistere)場面なのである。第二に超越は、右のごとき間柄の時間的構造として、本来すでに歴史的意義を帯びていなくてはならぬ。絶えず未来へ出て行くのはただ個人的意識においてのみではない。間柄そのものが未来へ出て行くのである。個人的意識における時間性は間柄の歴史性を地盤としそこから抽出せられたものに過ぎない。さらに第三に超越は風土的に外に出ることである。すなわち人間が風土において己れを見いだすことである。個人の立場ではそれは身体の自覚になる。が、一層具体的な地盤たる人間存在にとっては、それは共同態の形成の|仕方〔付ごま圏点〕、意識の|仕方〔付ごま圏点〕、従って言語の|作り方〔付ごま圏点〕、さらには生産の仕方や家屋の作り方等々において現われてくる。人間の存在構造としての超越はこれらすべてを含まなくてはならぬ。
かく見れば主体的な人間存在が己れを客体化する契機はちょうどこの風土に存するのである。風土の現象は我々がいかに外に出ている我々自身を見いだすかを示していた。寒さにおいて見いだされた我々自身は、着物、家というごとき道具となって我々に対立する。が、さらに、我々自身がそこに出て宿っている風土自身も、「使用せられるもの」(19)としての道具になる。たとえば「寒さ」は我々を着物の方向に働き出させるものであるとともに、また食物への関心において豆腐を凍らせる寒さとして使用せられる。「暑さ」は我々に団扇を使わせるものであるとともに、また稲を育てる暑さである。「風」は我々に二百十日の無事を祈らせるものであるとともに、また帆をはらます風である。我々はかくのごときかかわりにおいてもまた風土のうちへ出で、そこからまた我々自身を、すなわち使用者としての我々自身を了解する。すなわち風土における自己の了解は同時に道具を己れに対立するものとして見いださしめるのである。
人間存在において|最も手近に〔付ごま圏点〕見いださるる物が道具であるという洞察はまことに教うるところの多いものである。元来「道具」とは本質的には「……する|ための〔付ごま圏点〕もの」である。たとえば槌は「打つ|ための〔付ごま圏点〕もの」であり靴は「はく|ための〔付ごま圏点〕もの」である。ところでこの「……する|ための〔付ごま圏点〕もの」は、そのものが使用せられる目当てとしての「何のために」に対して、内在的な関係を持っている。たとえば槌は靴を作るための道具である。しかしまた靴も歩くための道具である。かく「何のため」を常に指示しつつ「するためのもの」であるところに、すなわち「ための連関」であるところに、道具の本質的な構造がある。そうして「ための連関」は人間の存在から出てくるのである。ところで我々はこのような「ための連関」を開始せしめる根元に人間存在の風土的規定を見いださざるを得ない。靴は歩くための道具であるが、しかし多くの人間はこの道具なくして歩くことができた。靴を必要としたのは寒さや暑さである。着物は着るためのものであるが、着るのはまず第一に寒さを防ぐためである。だから「ための連関」はその終局するところに風土的な自己了解を控えていると言わなくてはならぬ。たとえば我々は寒さや暑さにおいて自己を了解するとともに自己の自由にもとづいて「防ぐため」という一定の方向を取る。寒さ暑さの契機なしに全然自発的に着物を作り出(20)すのではない。従って「防ぐために」から「何をもって」に向かって己れを指し示すときに、すでにそこに風土的な自己了解が顕わにされるのである。だからこそ着物は暖かくあるいは涼しく、厚くあるいは薄く、種々の形において製作せられる。羊毛、綿花、絹というごときものが衣服の材料として社会的に見いだされてくる。かく考えれば道具が一般に風土的規定と密接な連関を持つことは明白だと言わねばならぬ。従って道具が我々にとって最も手近なものであるということは、風土的規定が対象成立の最初の契機をなすということにほかならぬであろう。
かくのごとく風土は人間存在が己れを客体化する契機であるが、ちょうどその点においてまた人間は己れ自身を了解するのである。風土における自己発見性と言わるべきものがそれである。我々は日常何らかの意味において己れを見いだす。あるいは愉快な気持ちである、あるいは寂しい気持ちである。このような気持ち、気分、機嫌などは、単に心的状態とのみ見らるべきものではなくして、我々の存在の仕方である。しかもそれは我々自身が自由に選んだものではなく、「すでに定められた」有り方として我々に背負わされている。このような既定性、気持ちは、必ずしも風土的にのみ規定せられているのではない。我々の個人的・社会的な存在は、すでに有るところの間柄としてそれに属する個人の存在の仕方を定め、従って彼に一定の気持ちを与える。あるいはすでに有るところの歴史的情勢として社会に一定の気分を与える。しかしそれらとともに、またそれらとからみ合って、風土的負荷もまたきわめて顕著である。我々がある朝「爽やかな気分」において己れを見いだす。これは空気の温度と湿度とのある特定の状態が外から影響して|内に〔付ごま圏点〕爽やかな心的状態を引き起こしたとして説明せられている現象であるが、しかし具体的体験においては事情は全く異なっている。そこにあるのは心的状態ではなくして空気の爽やかさである。が、空気の温度や湿度として|認識〔付ごま圏点〕せられている対象は、この爽やかさそのものと何の似寄りも持たない。爽やかさは「あり方」であって「もの」(21)でもなければ「ものの性質」でもない。それは空気というものに属してはいるが、空気自身でもなく空気の性質でもない。だから我々は空気という|もの〔付ごま圏点〕によって一定のあり方を背負わされるのではない。空気が「爽やかさ」の有り方を持つことは取りも直さず我々自身が爽やかであることなのである。すなわち我々が空気において我々自身を見いだしているのである。しかしまた|空気の〔付ごま圏点〕爽やかさは心的状態の爽やかさではない。それを最もよく示すものは朝の爽やかな気分が直接に我々の間の|挨拶〔付ごま圏点〕として表現せられるという事実である。我々は|空気の爽やかさにおいて〔付ごま圏点〕我々自身を了解している。爽やかなのは己れの心的状態ではなくして空気なのである。だからこそ我々は、他人の心的状態に目を向けるというごとき手続きを経ることなく、直接に互いの間において「いいお天気で」「いい陽気になりました」などと挨拶する。我々はともに朝の空気の中へ出て、ともに一定の存在の仕方を背負うのである。
このような風土的負荷は我々の存在の内にきわめて豊富に見いだされる。晴れた日の晴れ晴れしい気持ち、梅雨の日の欝陶しい気持ち、若葉のころの生き生きとした気持ち、春雨のころのしめやかな気持ち、夏の朝の清々《すがすが》しい気持ち、暴風雨の日のすさまじい気持ち、――恐らく我々は、俳諧において季を持つあらゆる言葉をあげても、なおかかる負荷を尽くし得ぬであろう。かくて我々の存在は、無限に豊富な様態をもって風土的に規定せられることになる。我々はただに過去を背負うのみならずまた風土をも背負うのである。
もとより我々の存在はただに負荷的性格を持つのみならずまた自由の性格を持つ。すでに有ることでありつつあらかじめ有ることであり、負荷されつつ自由である、というところに、我々の存在の歴史性が見られる。しかしその歴史性が風土性と相即せるものであり、従って負荷が過去を背負うに留まらずまた風土を背負うのであるならば、風土的規定は人間の自由なる発動にもまた一定の性格を与えるであろう。道具としての衣食住が風土的性格を帯びること(22)は言うまでもなく、さらに根本的に、人間が己れを見いだすとき、すでに風土的規定の下に立っているとすれば、風土の型はやがて|自己了解の型〔付ごま圏点〕とならざるを得ないであろう。種々なる風土における種々の人間が、その存在の表現においてそれぞれ顕著な特性を持つ、ということは、存在的には我々に明白なことである。今やその存在論的な究明は、|風土の型が人間の自己了解の型〔付ごま圏点〕であるというところに到達した。そこで必要なことは右のごとき風土の型の発見である。
しからば我々はいかにして風土の型というごときものを見いだし得るであろうか。
上来説き来たった人間存在の風土的規定は、人間の歴史的風土的構造一般の問題であって、具体的な人間存在の仕方の考察ではない。それは具体的な人間存在が必ずある国土ある時代に特有な仕方においてあるということを規定するに留まって、それがいかに特殊的であるかを問わない。従って存在論的に把捉せられた人間の存在の仕方は、直接に特殊存在の型を理解せしめるものではない。それはただかかる理解を媒介するものとして、存在的把捉を方法上導き得るに過ぎない。
しからば我々は具体的な人間の存在の仕方を、すなわちその特殊性における存在を、把捉するために、存在的な認識、すなわち歴史的風土的な現象の直接的な理解に向かわなくてはならぬ。しかしそれが歴史的風土的現象を単に客観的対象としてのみ取り扱うのならば、上来説き来たったごとき風土の意義は全然把捉せられないであろう。そこで我々は歴史的風土的現象の理解に当たって厳密に存在論的規定の指導を待たねばならない。すなわちこれらの現象が人間の自覚的存在の表現であること、風土はかかる存在の自己客体化、自己発見の契機であること、従って主体的なる人間存材の型としての風土の型は風土的歴史的現象の解釈によってのみ得られること、などに従わねばならない。(23)だからそれは特殊的な存在の特殊性に向かう限り存在的認識であるが、その特殊的な仕方を人間の自覚的存在の様態として把捉する限り|存在論的〔付ごま圏点〕認識である。かくして人間の歴史的・風土的|特殊構造〔付ごま圏点〕の把捉は、存在論的・存在的認識となる。風土の型が問題となる限り、かくならざるを得ないのである。
そこで我々の考察は、特殊なる風土現象の直観から出発して人間存在の特殊性に入り込もうとする。もとより風土は歴史的風土であるがゆえに、風土の類型は同時に|歴史の類型〔付ごま圏点〕である。我々はそれに触れることを毫も避けようとはしない。また避けることのできないものである。しかし我々はここに人間の歴史的・風土的特殊構造を特に|風土の側から〔付ごま圏点〕把捉しようと試みるのである。それはこの側からの考察が歴史の側からの考察に此して著しく閑却せられていることにも帰因する。閑却せられているのはこの問題が学的把捉にとってきわめて困難だからである。かつてヘルデルは「生ける自然」の「解釈」からして「人間の精神の風土学」を作ろうとした。そうしてそれはカントが批評したように、学的労作ではなくして詩人的想像の産物に類したものとなってしまった。この危険は風土を根本的に考察しようとする者を常に脅やかしている。しかしそれにもかかわらず風土の問題は根本的に取り扱われねばならぬのである。歴史の世界の考察が真に具体性を得るためにも、風土的特性の問題は根源的に明らかにされなくてはならない。 (昭和四年稿、六年改稿、十年補筆)
(24) 第二章 三つの類型
一 モンスーン
モンスーンという言葉はアラビア語の mausim(季節)から出たと言われている。アジア大陸とインド洋との特殊な関係から、太陽が赤道を北に超えてよりまた南に超えるまでの夏の半年は、南西モンスーンが陸に向かって吹き、冬の半年は北東モンスーンが海に向かって吹く。特に夏のモンスーンは、熱帯の大洋において極度にまで湿気を含み込んだ空気を強い風力によって陸に吹きつけるのであるがゆえに、世界における一つの特殊な風土を作り出しているのである。広義に解すれば、東アジアの沿岸一帯は、シナも日本も、風土的にモンスーン域に属すると言ってよい。
モンスーンは季節風である。が、特に|夏の〔付ごま圏点〕季節風であり、|熱帯の大洋〔付ごま圏点〕から陸に吹く風であ一る。だからモンスーン域の風土は|暑熱と湿気との結合〔付ごま圏点〕をその特性とする。我々はこれを湿度計に現わすことのできぬ人間の存在の仕方として把捉しようとするのである。
モンスーンのころにインド洋を渡った旅行者は何人も経験するところであるが、嵐の吹きつける側の船室は、いかに暑くとも窓を開くことができない。恐ろしい湿気を含んだ風を自由に受け容れることは、すなわちその室を住み難きものとするにほかならぬ。「暑さ」よりは「湿気」の方が堪え難いのである。しかもまた暑さよりは湿気の方が|防ぎ難い〔付ごま圏点〕。窓を密閉した船室の中で、しかも皮鞄の中の鉄が錆び塗金が変色するというような湿気に対して、我々は何(25)をなし得るであろうか。熱によって乾燥した空気を再び氷によって冷やし、それを鉄管によって配給するというほかに、対抗の仕方を見いだすことはできぬ。それは|寒さ〔付ごま圏点〕を防ぐ手段と|暑さ〔付ごま圏点〕を防ぐ手段との併用である。すなわちモンスーンの湿気は、それに|対抗し得るために〔付ごま圏点〕人に二倍の力を課する。しかもモンスーン域の人間は、寒国的人間や沙漠的人間のいずれに此べても、自然に対抗する力において弱い。二倍の力の要求せらるるところに一倍の力だもないのである。
それは何ゆえであろうか。我々はそれを「湿潤」自身から理解することができる。湿気は最も堪え難く、また最も防ぎ難いものである。にもかかわらず、湿気は人間の内に「自然への対抗」を呼びさまさない。その理由の一つは、陸に住む人間にとって、湿潤が|自然の恵み〔付ごま圏点〕を意味するからである。洋上において堪え難いモンスーンは、実は太陽が海の水を陸に運ぶ事にほかならぬ。この水のゆえに夏の太陽の真下《ました》にある暑い国土は、旺盛なる植物によって覆われる。特に暑熱と湿気とを条件とする種々の草木が、この時期に生い、育ち、成熟する。大地は至るところ植物的なる「生」を現わし、従って動物的なる生をも繁栄させるのである。かくして人間の世界は、植物的動物的なる生の充満し横溢せる場所となる。自然は死ではなくして生である。死はむしろ人の側《がわ》にある。だから人と世界とのかかわりは対抗的ではなくして受容的である。それは沙漠の乾燥の相反にほかならぬ。
が、理由の第二は、湿潤が|自然の暴威〔付ごま圏点〕をも意味することである。暑熱と結合せる湿潤は、しばしば大雨、暴風、洪水、旱魃というごとき荒々しい力となって人間に襲いかかる。それは人間をして|対抗を断念硝させせる〔付ごま圏点〕ほど.に巨大な力であり、従って人間をただ|忍従的〔付ごま圏点〕たらしめる。沙漠の乾燥は死の脅威をもって人間に迫るとしても、人間を生かすその力によって人間に襲いかかるのではない。人間はおのれの生の力によって死の脅威に対抗し得る。忍従はそこでは死(26)への忍従である。しかるに湿潤なる自然の暴威は横溢せる力(生を恵む力)の脅威であって、自然の側《がわ》に存する「死」の脅威ではない。死は人の側《がわ》にある。横溢せる生の力が人間の内にひそむ死を押し出そうとするのである。人間はおのれの生の力をもってその生の根源たる力に対抗することはできぬ。忍従はここでは生への忍従である。この意味においてもそれは沙漠の乾燥の相反にほかならぬ。
かくて我々は一般にモンスーン域の人間の構造を|受容的忍従的〔付ごま圏点〕として把捉することができる。この構造を示すものが「湿潤」である。
湿潤はしかしさらに細かにさまざまの特性に分析され得る。梅雨と台風とを特徴とする我々の国土は、古代の祖先が直観的に「豊葦原《とよあしはら》の瑞穂国《みずほのくに》」と呼んだように、特に湿潤の国土である。が、そこでは湿潤がまた|大雪〔付ごま圏点〕としても現われる。季節の著しい移り変わりはこの国土の宿命である。従って受容的忍従的なる特性もここではさらに特殊な限定を受けなくてはならない。揚子江のごとき世界的大河を持った南シナもまた湿潤の国土である。しかし北方に沙漠を控えたこの漠々たる大陸は、あたかもこの湿潤を悠々たる揚子江によって表現するかのように、我々とは著しく異なった仕方において風土を現わしている。それは何らかの程度に乾燥を含んだ湿潤である。我々はだから類型的なる湿潤を固有のモンスーン域に求める。それは南洋とインドである。
南洋の暑さは我々日本人にとって決して珍しいものではない。日本の盛夏を知るものは、かつて経験しなかったと思われる何物をもそこに見いだし得ぬであろう。植物の種類はなるほど我々に珍しいが、しかし椰子の林は、やや遠く離れて見るならば、形と色とにおいてきわめてよく松の林に似ている。ゴムの木の林も、我々の見なれた落葉樹の(27)林と、さほどに異なったものではない。全体として見れば自然の与える印象は日本の盛夏のそれに似ている。特に人間の生活としての「夏」は、我々が常に経験するそのままである。
「夏」とは一つの気候であるが、しかしその気候は人間の存在の仕方である。ただ気温の高さと日光の強さとのみでは我々は「夏」を見いださない。冬のさ中にまれに現われた高気温の日に、人は「夏のようだ」とは言うかも知れぬが、しかし夏の中にいるとは感じない。同様のことは冬のさ中に日本を出た旅行者が南洋に近づくに当たって経験するところである。香港《ホンコン》を出た翌日あたり、船の中の人たちは急に白い夏服になる。烈しい日光が濃紺の海を照らし、寒暖計は上り、人は汗を流す。いよいよ常夏の海にはいったとは誰でもが思う。しかるにシンガポアについた夕暮れ、町へドライブに出かけた旅行者は、草木の豊かに生い茂った郊外でにぎやかに鳴いている虫の音を聞いた時、あるいは露店の氷屋や果物店が立ち並んでいる間に涼みの人たちが白い着物で行き来する夏の夜の町の風景をながめた時、初めて強く「夏」を感じ、近い過去に日本に残して来た「冬」との対照を今さらに驚くのである。旺盛な草木の茂りや、虫の音や、夕涼みなどは、この旅行者にとっては、気温の高さや日光の強さよりも一層本質的な「夏」の契機であった。夏の「気分」を除いて夏はない。人間は夏として限定された一定の存在の仕方を持つのである。そうして我々が南洋において見いだすのは、すでに久しく「夏」として知っていたその存在の仕方にほかならぬ。
しかも我々にとって南洋は異境である。なぜならば我々がそこに「夏」として見いだしたものは|南洋にとっては「夏」ではない〔付ごま圏点〕からである。我々にとっての「夏」は、虫の音がすでに秋を含み、はずした障子が冬の風を含んでいる夏である。若葉や筍と百舌鳥や柿との間にはさまった夏である。しかるに南洋にとってはかかる秋冬春を含まざる単純な夏が、言い換えれば|夏でない〔付ごま圏点〕単調な気候が存するのみである。植物はその葉を変えるのに時を定めない。三月(28)の初めにゴムの木の紅葉と落葉と新緑と青葉とが立ち並んでいるように、六月未にも四つの季節は相並んでいる。果物も少数のものを除いては年じゅう絶えることがない。かかる単調な、|固定せる気候〔付ごま圏点〕は、絶えず|移り行く季節〔付ごま圏点〕としての「夏」とは同じものではない。人間が夏として存在するのは|気分の移り行き〔付ごま圏点〕として存在するにほかならぬが、南洋の人間はかかる移り行きを知らない。
我々はこれによって南洋的人間が何ゆえに文化的発展を示さなかったかを理解し得るであろう。南洋の風土は人間に対して豊かに食物を恵む。人間は単純に自然に抱かれておればよい。しかも人と自然との関係は、あらゆる移り行きを含まないものである。人間はその受容的忍従的な関係において固定する。猛獣毒蛇との戦いもこの固定を破ることはできぬ。そこでは生産力を発展せしむぺき何らの機縁も存せぬのである。だからまれにジャヴァにおいてインドの文化の刺激により巨大な仏塔が作られたということのほかには、南洋は文化を産まなかった。そうして文芸復興期以後のヨーロッパ人に易々として征服され、その奴隷に化したのである。
しかし南洋の風土の|単調さ〔付ごま圏点〕に堪え得るものは実はヨーロッパの人間ではなくしてシナの人間であった。ヨーロッパの知力が開発した南洋の富源を今その手中に蔵めつつあるものはシナの商人である。いかにしてこの事が起こり得たかはシナの人間の特性によって理解し得られるであろう。
南洋の単調さはしかし内容なき単調さではない。力の横溢の単調さである。たとえば感情の空疎な、何事にも興味を持ち得ぬ人の単調さではなく、激情に燃えて常に興奮している人の単調さである。だからもしその固定を防ぎ横溢せる力を動かし得るならば、そこに目ざましい発展のあることは当然であろう。
(29) 我々はこのことを一つの具象的な姿によって現わすことができる。ペナンの植物園はシンガポアのそれとは異なり、小山の渓間に位しているが、その山にむくむくと盛り上がっている濶葉樹の感じは、ちょうど日本で土用のまっ盛りに、ただ二三週間、椎や樫の茂った山に見られるあの盛んな力強い感じであった。ここではそれが年じゅうを通じてである。しかしそこを去って、広い椰子の林を抜け、ケーブル・カーの掛かった山に登り始めると、薄のように白い穂を出した草や、秋草に似た小さい紫の花があり、その間に淡々として愛らしいゴムの木の新緑や紅葉がある。山上はさらに涼しく、檜や木蓮に似た木が、あたかも日本の庭園におけるごとき枝ぶりや幹のさびをもって立っている。これらもまた年じゅう変わらぬ姿ではあろうが、欝蒼たる森の真夏に対してはまさしく春であり秋である。だからたとい季節の移り行きはなくとも、ちょうどそれに相応する|種々の変化〔付ごま圏点〕はこの風土の内に含まれている。いわば「時間的な移り行き」を欠くとともに「空間的な移り行き〔付ごま圏点〕」が存するのである。それを受容し得るものに取っては、南洋の単調さはただ季節の単調さであって、内容の単調さではない。
インドの人間はかかる受容性において優れていた。だからそこには極端な|歴史的感覚の欠如〔付ごま圏点〕とともに、恐ろしく豊富な|人生の種々相の洞察〔付ごま圏点〕がある。
インドはモンスーンの最も型通りに現われる土地である。そこで季節は、比較的涼しい乾燥期と、暑い乾燥期と、雨期との三つに分かれる。カルカッタにおいて涼しい一月の平均温度は一八・一度であり、最も熱い三月の平均温度は二八・四度である。しかしこの地の一年間の平均温度二四・八鹿は日本の九州の|夏の〔付ごま圏点〕平均温度とほぼ等しい。ラホールのごとく寒暑の開きの大きいところでも、一年の平均温度は二三・九度である。我々から見ればそれは依然として常夏の国にほかならぬ。季節的には単調である。しかしまた南洋に此べれば寒暑の変化がはるかに多い。従って常夏(30)の国として南洋的な生の横溢を持つとともに、南洋的な生の固定から脱るる機縁もまた存するのである。
が、インドの人間の受容性を活発ならしめる第一のものは、モンスーンによる雨季である。インドの人口三億二千万(全人類の五分の一)の内、三分の二以上を占める農民は、モンスーンに頼って耕作する。特に水の豊かな局部を除いて、大部分の地方は、モンスーンの遅延、中断、雨量の過小過多などのたびごとに、家庭の食料や家畜の飼料にさえ困難するほどの凶年に出逢うのである。頻々として起こるこの種の凶年のたびごとに昔は饑饉が起こった。現在の交通機関はかかる饑饉を防ぐことはできるが、しかし農民の経済的困難を防ぐことはできぬ。そこで人々は栄養不良に陥り、身体の抵抗力を減じ、疫病の流行を引き起こす。一九一八ー一九年のスペイン風邪の際には、罹病者一億千五百万、死者七百五十万と言われている。現代においてさえもインドの人間をかかる生の不安から解放するところの、自然への対抗的方法は存しないのである。
そこで我々は、インドの自然の力をして横溢せしめるちょうどその条件が、すなわち暑熱と湿潤との結合が、インドの人間に生を恵むとともにまた生を脅やかすのであることを見いだす。島嶼的なる南洋においてはかかる危険はなかった。人は単純に受容的であり得た。しかし大陸的なるインドにおいては受容的な関係が常に不安動揺を含まねばならぬ。受容的であってしかも|動く〔付ごま圏点〕ということは、受容性を活発ならしめること、すなわち|感受性の敏活〔付ごま圏点〕である。そこで自然の力の横溢は人間の|感情の横溢〔付ごま圏点〕となって現われる。
インドの人間の感情の横溢は、その受容的な態度から出ている。受容的な態度は同時に忍従的な態度である。生を恵む自然が、同時に、人間の対抗を圧倒しつくす巨大な威力をもって迫ってくる。持続的な暑熱そのものがすでに人間の対抗力を極限にまで必要とするのであるが、その暑熱が湿潤と結びついたとき、人はもはや|忍従〔付ごま圏点〕するほかはない。
(31) モンスーンは人間に対抗を断念させる。かくて自然は人間の|能動的な気力〔付ごま圏点〕を、|意志の緊張〔付ごま圏点〕を、萎縮し弛緩させるのである。インドの人間の感情の横溢は意志の統括力を伴なわない。
受容的忍従的なる人間の構造は、インドの人間において、|歴史的感覚の欠如〔付ごま圏点〕、感情の横溢〔付ごま圏点〕、意力の弛緩〔付ごま圏点〕として規定せられた。我々はこれが歴史的社会的にインドの文化型として現われているのを見るのである。
インド文化において歴史的社会的におのれを現わしているインドの人間は、|言語的〔付ごま圏点〕及び|人種的〔付ごま圏点〕にギリシアの人間と起源を同じくすると言われるにかかわらず、その特性を全然異にしている。「インド文化をその固有の姿に形造り、その努力に方向を与え、その理想に魂を入れたものは、インド自身である。インド・アリヤンの思想にその特殊性格を与え、その人生観全体を色づけた地方的環境は、ヒマラヤの北西地方とヒマラヤより流れ出づる大河の谷である。それはインドの聖地であった、そうして今なおそうである。」(Havel,The History of Aryan Rule in India,p.7.)南欧の多島海においてギリシア的「人間」が「ギリシア的」人間として現われた時にほ、それはすでにポリスの人間であった。ホメロスの名を負う叙事詩は、神々と人間とをすべてポリス的に描いている。しかるにインド的人間がインド的人間として現われた時には、それはポリス生活の束縛を忌み、|農業〔付ごま圏点〕と|村落共産体の組織〔付ごま圏点〕とが与えるところの独立を愛好する人間である。ギリシア的人間がその一つの長所とする商業の術は、ここでは侮蔑される。もとよりインドの人間も、インドの土地への侵入者征服者として、一面|戦士〔付ごま圏点〕でもあった。しかし彼らの戦闘は奪掠の戦闘ではない。彼らの勝利はその戦闘力をもってよりもむしろその優れたる|知力〔付ごま圏点〕によって得られた。片手に剣を持つとともに|他の片手には鋤を持った〔付ごま圏点〕戦士が、その農業的村落的なる共同生活において示した最も卓越せる力は、詩人哲学者としての智慧《ヴエダ》で(32)ある。「ヴェダ」はかかる戦士的詩人、戦士的哲学者の文化を表現する。(Havel,op.cit.,p.5.)戦士は同時に祭司であった。そうしてその祭るところは自然の神秘なる力であった。かかる方向はやがて戦士から祭司を独立させ、祭司を戦士の上に立たせることになる。部族的なる犠牲の祭儀において讃歌を歌っていたバラモンは、やがて奥秘なる智慧の保持者、人間の教師、精神的指導者となった。
これらはインドにおける部族的人間、すなわち村落共産体の表現である。それが沙漠における部族的人間と明白に異なるところは、戦闘的意力的ならざることである。神々は決して|一部族〔付ごま圏点〕の神としては現われなかった。あらゆる部族を平等に恵む自然の力は、人間の対抗を呼び起こさず、また一部族の戦神ともなり得ない。きわめて初期のヴェダには行動的な戦闘好きの人間が現われておらぬではない。リグ・ヴェダの歌い手はしばしば神々に戦勝を祈っている。しかしその神々は、リグ・ヴェダにおいては、生の窮迫を転脱するための意力的緊張から生じたのではなく、あくまでも、人間を恵む自然の力から神話的な姿にまで成生して行ったのである。多くの讃歌は「神」にではなくして「自然」に、たとえば太陽神にではなくして太陽自身に、水の神にではなくして流れ行く水あるいは雲より落つる水自身に、向けられている。神話的な姿がこれらの自然の力の人格化によって生ずることを、リグ・ヴェダの讃歌自身が立証する。(Winternitz,Geschichte d.Indischen Literatur,I.S.66-67.)だから神への関係は、むしろ恵みに甘える関係であって、沙漠的なる絶対服従ではない。旧約の詩篇における讃歌者がエホバに向けるあの身震いのするような崇敬や、巌のごとく固い信仰は、ここには見られない。神への祈りも沙漠におけるごとく魂の奥底から湧き出るのではない。ヴェダの讃歌者はむしろ「神々と睦まじい」のである。彼らは神への服従を誓い神の命令に従うことによって救いを求めるのでは克く、|ただ神々を詠嘆すること〔付ごま圏点〕によって地上の富の恵まれることを期待する。神よ、もし我れがあらゆ(33)る富の主であるならば、我れを讃むる者には喜んで恵むであろう、恵み深き神よ、(Op.cit.,S.70.)――かく歌う讃歌者は神を恐れてはいない。恵みに抱かれるというのが彼の信仰の態度である。かかる信仰の対象としての神々は、たとい人格化せられたとしても、沙漠の神におけるごとく人間の人格に絶えず関係し来たる「人格神」とはなり得ない。だからこれらの神々が「生を恵む力」として「一者」と考えられるということは、すでに早くリグ・ヴェダの哲学的なる讃歌の内に現われている。かかる汎神論的思想はブラーフマナやウパニシャッドにおいてブラフマンとなりアートマンとなる。それらはその深き意味においては|非人格的なる〔付ごま圏点〕創造原理である。哲学的にはあるいは「無」と呼ばれ、あるいは「有」と呼ばれている。ウパニシャッドの頂点としてのウッダーラカの「有」の説は、「無」を原理とする立場への反駁の上に坐するのである。
神々を讃えるヴェダはまた世界におけるこの種の古典のうち最も歴史的物語に遠いものである。旧約聖書が特に歴史的物語として著しいのは言うまでもなく、ホメロスの叙事詩さえもかかる性格を持たぬとは言えぬ。しかしヴェダは全然この性格を欠くのである。のみならずそれは、神々の事績や人間の生活を取り扱いはするが、それを客観的に描出するのではなくしてただ詠嘆するに過ぎぬ。むしろそれはその名の通り、神々と人間についての「智慧」を語るのである。しかも概念的にではなくして|抒情的に〔付ごま圏点〕。讃歌、咒文、旋律、犠牲の唱えの四種のヴェダは、すべて祭儀の実践に含まれ、宗教的感情に浸透された智慧にほかならぬ。かくてヴェダは|歴史的〔付ごま圏点〕なる旧約の物語や|彫塑的〔付ごま圏点〕なるホメロスの物語と著しく異なった様式を、すなわち感情の横溢の様式を示すのである。
かかる詠嘆的智慧はインドの人間の特性の二面を同時に我々に理解せしめる。一はインド的なる|想像力〔付ごま圏点〕であり、他はインド的なる|思惟〔付ごま圏点〕である。両者はヴェダにおいて密接に結合しているようにこの後の文化産物においてもしばしば(34)結合して現われる。しかし我々は同一の作品を一面からは芸術的に、他面からは哲学的に理解することができる。かく差別して理解することにより、両者が何ゆえに結合しやすいか、あるいは何ゆえに分化し難いかもまた理解することができるであろう。
ヴェダに現われたる想像力はインドの人間の感受性がいかに鋭敏であったかを示している。あらゆる自然の力はその神秘性のゆえに神化される。日、月、空、嵐、風、火、水、曙光、大地のごとき目ぼしいもののみならず、森も野も動物も、総じて受容的なる人間にある力を感じさせる限り、それは神かあるいはデーモンである。だからバラモンの神話の世界の住人は、恐らく他のいかなる神話のそれよりも豊富であろう。しかしかかる多数な神々は、血統的に一つの家族として|まとめられる〔付ごま圏点〕ということもなく、また自然現象の関連をモデルとして一つの体系に|統一される〔付ごま圏点〕ということもなかった。神々の根柢に統一的なる「一者」、あるいは「有」、あるいは「無」が置かれるに至っても、この哲学的なる統一は神々の姿を左右し得ない。神々の世界はますます乱雑の度を加えつつ仏教のファンタジーの中にさえ入り込んでいる。
が、我々にインドの想像力の特性を最も強く印象するものは、本生譚〔付ごま圏点〕である。そこではあらゆる生物が、すなわち人間を含めての「衆生」が、その共通の生において描かれている。神話的想像によって生じたあらゆる生き物――天上に住むもの、地獄に住むもの――のみならず家畜も野獣も昆虫も、すべて我々の生の場面である。我々は今人間にあっても次の世には牛として生きるかも知れない、また前の世には蛇であったかも知れない。従って今牛であり蛇であるものもかつては人間であり、また他日人として現われ得るものである。しからばこれらの衆生は、現象的形態に(35)おいてさまざまに異なるにしても、本質においてはすべて同一でなくてはならぬ。現象的形態の相違はただ同一なる生のさまざまの運命を表現するに過ぎない。ここにおいて本生譚的想像は、人間の歴史を、すなわち人間にのみ限られた「生」の時間的な移り行きを根本的に撥無するとともに、「生」の空間的な移り行きを、すなわち生のさまざまの変相を把捉すると言える。ここに匐う蛇はかつて人であり牛であり鳥であり、そうしてさまざまの愛と憎しみを体験して来たものである。現在蛇であることはこれらの過去によって決定されている。が、同様にあらゆる他の生物も|過去の生〔付ごま圏点〕によって|現在の姿〔付ごま圏点〕を決定されているのである。しからば過去のある時代を形作っていた衆生は|そのまま〔付ごま圏点〕また現代を形作っている。ただ異なるのは個々の成員がその姿を変えていることだけである。衆生の|現在の姿〔付ごま圏点〕は過去の生を残りなく含んでいる。人は歴史的発展をたどる代わりにただ現在の姿の種々相をたどればよい。だからこの想像においては、道を横ぎる蛇のそぶりの内に、あるいは牛の眼の表情のうちに、その人間的なる過去の生をも読み取るのである。かくして人間の日常生活は、直観的にきわめて豊富な生に取り巻かれていることになる。一歩踏み出して蟻を圧殺したとき、彼はかつて人でもあった一つの生の運命に参与したのである。
かかる受容性の敏活、感情の横溢が、本生譚となって夢よりもはるかに夢幻的な世界を展開する。文芸的作品としての様式もまたこれに応じている。がかかる様式の|特に顕著な〔付ごま圏点〕例としては我々はむしろ大乗の経典をあぐべきであろう。そこには感覚的な形象が無限に豊富に積み重ねられ、百千万億の菩薩の行動さえも描かれる。それは人間の直観能力を麻痺せしめるような形象の横溢である。言葉をもって描かれるにかかわらず、ただ巨大な交響楽にのみ比せられ得るような、動ける横溢である。我々はこの形象の横溢に酔わされて、夢幻的な世界に引き込まれて行く。しかしこのような形象の横溢は、全体を統一する構図への無関心や、個々の姿の彫塑的な鮮やかさに対する無関心によって(36)のみ可能となっている。すなわちこの様式は総じて「まとまり」を持たない感情の横溢の表現である。人はここに時と所との統一のごときを全然超越しなくてはならない。
かかる様式のさらに具象的な姿はインドの美術に見られる。彫刻にしろ、絵画にしろ、建築にしろ、細部の驚くべき豊富さに此べて構図の統一はきわめて弱い。たとえばアマラヴァティやサンチの浮き彫りのごとき、無数の人体のさまざまなる姿勢が、あふるるごとく刻み込まれ、見るものをしてほとんど昏迷せしめる。だから全体としては明白さを欠き、非構造的である。見るものの心を最初の瞬間に力強く打つところの、あの「|姿の鮮やかさ〔付ごま圏点〕」は存しない。これを弁護する学者はいう、インドの芸術家がその構図中に豊富なる生物のあらゆる形を群集させるのは、あらゆる生物の|統一〔付ごま圏点〕を象徴するためである。この動機によって、彫刻家は極度に多くの形象を積みかさね、建築家は尖塔の上に尖塔をつらね、その尖塔を無数の刻面に分裂させ壁面を無数の凹凸に分解する。そこに「多における一」という普遍的法則を象徴するのである。かかる統一は人間中心主義的な西洋の芸術的統一とは異なるが、しかし明らかに一つの統一的原理である。西洋風の古典的単純さがないゆえをもってインド芸術の|無統一〔付ごま圏点〕をいうことはできない。インド的統一の視点の下においては、細部のあの異常な豊富さにかかわらず、一々の部分が完全にその所を得、釣り合いを保っているのであると。(Havel,The Ideal of Indian Art,p.111 ff.)なるほど人間のみならず一般に衆生の生を一として感ずることはインド的人間の特徴である。受容性の敏活は一切の|対抗的関係〔付ごま圏点〕を閉め出そうとする。しかしちょうどその理由によってこの受容的な統一は、意力的能動的征服的な統一と異なるのである。芸術の統一は後者によってのみ可能となる。インドに受容的な統一があり、それが芸術によって表現せられるということは、インドの芸術が|形式的統一〔付ごま圏点〕を持つということとは全然別なことである。あらゆる生きものの一であることを象徴するためには、必ずしも(37)無数の形象を群集させるには及ばない。象徴の機能を理解する芸術家は、ただ二つの形象を結合することによってもそれを表現し得るであろう。よし群像を用いるとしても、芸術品の統一は細部の完全な支配、姿の鮮やかなまとまりによって得られる。しかし衆生の統一という観念的動機は直ちに細部の支配ではない。インドの彫刻や建築に細部の支配の欠けていること、全体はかかる細部の集合であって、異に統一的な全体となっておらぬこと、従って全体として|見とおしのつかぬ〔付ごま圏点〕、明白さの欠けたものであることは、いかなる強弁も覆い隠し得ない点である。インド美術の魅力は、細部の豊富さによって人を引き回し、酔わせ、その酩酊によって人を神秘的な気分にさそい入れるところにある。もし人がこの芸術に対して、全体の姿の鮮やかさをまず要求する態度をもって臨むならば、そこにはただ|崩れた〔付ごま圏点〕感じ、頽廃の感じをのみ受け取るであろう。まとまりなき感情の横溢はここに最も顕著に現われているのである。
インド的思惟の特性もまたそれにほかならない。ヴェダに現われている「情的思惟」の傾向は、哲学の盛期においても失われなかった。
情的思惟が哲学に与えた特性は、推理によらずして直覚に、あるいは直接的理解によることである。また普遍概念によらずして類型概念に、あるいは比喩的概念によることである。我々はそれが全然歴史的認識としてでなく、形而上学的認識として、あるいは生の現象学的認識として、働いているという点に、特に注目しなければならぬ。
人はギリシア初期の自然哲学とウパニシャッドの哲学との間に多くの類似を見いだすであろう。両者はいずれも世界の統一を予想している。そうして「初め」に何があったかを追究する。そこで答えられるのは「水」であり「火」でありあるいは「無」であり「有」である。ドイセンがパルメニデス・プラトン的思想とウパニシャッドの思想との(38)本質的同一を説いたのも、あるいは当然のことに見えるかも知れない。しかしながら我々は一つのことを見落としてはならぬ。ギリシアの哲学者は彼に|対立する世界〔付ごま圏点〕の「初め」を求め、それを論証の道によって捕えようとしたのである。だから世界質料としてアトムが見いだされると同じ地盤から「有」の原理も見いだされた。もとよりこの|対立的〔付ごま圏点〕関係は、あくまでも観照的関係としてであって実践的戦闘的なる対抗的関係ではない。しかしその意味の対立的関係もインドの哲学者には存しなかった。彼が求めたのは彼自身をも包む一切の「初め」である。だから「初め」に「有」があり、「有」が「火」となり「水」となり「大地」となると説かるる前に、この「初め」はすでにアートマン・ブラフマンである。すなわち「識るもの」であり「我」である。世界の根源が「我」であるとは我と世界の対立の撥無であり、そうしてこの理解が本来の意味のインドの哲学の出発点となる。哲学者はただこの理解を解きほごすのである。それは論証によらない、また普遍概念をも用いない。
ウッダーラカはアートマンの宇宙開闢説の神話を全く理論化した人であると言われている。彼によれば「初め」にはただ有るところのもの(sat,※[ギリシア語]に同じ)があった。それはアートマン(我)にほかならぬゆえに、また自ら識るものである。が、我々はかかる「有」あるいは「我」にいかにして到達したかを問うことはできない。それは「見られ」また感ぜられたる事実である。哲学者の関心はこの事実から現象の多様を解くことに存する。しからば一者たる「有」がいかにして多様を展開するか。第一歩はこの「有」が|多であり得ることを自覚する(|見る〔付ごま圏点〕)にある。そうしてこの自覚が「火」を生ぜしめる。ここに「火」と言われるのは「転変の原理」でもなければまた不生不滅の「要素」でもない。それは「|火の形における有〔付ごま圏点〕」である。燃ゆるもの、輝くもの、赤きもの、煮るもの等、すべて「火」の比喩によって理解せられ得るような有り方を持つものが、ここでは「火」として指し示される。かかる意味で「有」は(39)多化の第一歩に火として限定されるのである。しかしここでも我々はこの限定の必然性を問うことができない。それは太陽崇拝の伝統に生くる哲学者の直覚にのみ依存する。次いでこの「火の形の有」はさらに多化の可能を自覚して「水」を生ずる。「水」もまた「水の形における有」である。すべて流動的なるもの、明色を持つものが「水」として指示される。この多化の第二歩は日常の経験において親しい例証によっている。汗は、すなわち水は、暑さすなわち火から生ずる。雲や雨は太陽の熱から生ずる。第三に「水の形の有」が多化の可能を自覚した時「食物」(大地)が生ずる。これもまた雨によってのみ食物の生じ得る目前の例証にもとづくのである。かく見れば「有」の多化を説くウッダーラカの説は、|生を恵む自然の力〔付ごま圏点〕についての直接体験を此喩的なる概念によって表現したものと言い得るであろう。
我々はかかる思惟の仕方がインドの哲学の初期においてのみならず盛期においても明らかに存することを認める。仏教の哲学はアートマン(我)を原理とする形而上学を捨てて現実の生の真相を|見よう〔付ごま圏点〕とする。いわゆる法の如是観、如実観である。その根本直観は「我」の形而上学を捨てる点において無我観であり、一切の現実を流転と見る点において無常観であるが、さらにこの一切を苦と見るところの苦観において情的思惟の特徴を明らかに示している。苦はここでは単に経験せらるる苦痛ではなく、かかる苦痛を例証として直観せらるるところの苦一般である。一切の現実の「法」としての苦である。かかる直観はそれ自身すでにインドの感情の横溢を示すのみならず、その直観の把捉の仕方において、すなわち例証をもって普遍概念に代えるという仕方において、明らかにインド的である。我々は「法の体系」において組織されたる種々の法が、かかる直観にもとづくものであることを忘れてはならぬ。たとえば「老死」はこれかれの生物における老と死とではなく、それを例証として直観せられたる無常性であり、「眼」はこれかれの生物における視覚機関ではなく、それを例証として直観せられた「見ること一般」である。かかるインド的思惟の(40)特性は、他方に論証的悟性的なる思惟の薄弱を伴なっている。人は一つの普遍概念の下に多くの特殊を下属せしめ、それにょって複雑を単純化せしめる、というごときことを努めない。種々なる|法の羅列〔付ごま圏点〕はしばしば無統制に陥り、ついにはただ法の「数」のみが統一の役目をつとめるにさえ至っている。阿毘達磨哲学はそのよき例である。人はさまざまなる法を五位七十五法に秩序づけることすらも容易にはなし得なかった。論理的に最も鋭い竜樹においてさえ、諸法無自性の論証は、五蘊六入六界をはじめ阿毘達磨の哲学の羅列する諸法の一つ一つについて|繰り返されて〔付ごま圏点〕いる。いわんや論書ならざる経典に至っては、哲学的思想は全然論理を離れてただ直観的に、形象的に、描出されるのみである。
インドに発達した論理学もまた直観の明証を核心とする点において右の例に洩れない。此量(分別推理)は現量(直観)にもとづくとせられる。現量において把捉せられたるものが比量において明らかにせられるのである。因明の作法は已明の前提より未明の帰結を導き出す|推理〔付ごま圏点〕の形式ではなく、最初に断案(宗)を掲げ、これを理由(因)と比喩(喩)とによって論証するにほかならぬ。だから新因明の三支作法は形式論理学の推理の形式をち土うど逆にしたものであり、しかも大前提に当たる命題は此喩を含むのである。此喩はインドの論理学発達の最初より重大視せられ、発達の最高段階に至ってもなお欠くべからざる一項とせられた。かかる点においてインドの論理が直観の論理であるということは必ずしも過言でないであろう。
インドの哲学がさまざまの輝かしい発展を経た後に結局密教やインド教の象徴主義に堕して行ったのも、情的思惟の当然たどるべき道であったと見られ得る。インドの人間はその思弁への強い性向にもかかわらず、再び咒術の信仰に帰ったのである。やがて哲学的なる仏教は国外に放逐された。ヴェダンタの哲学は祭儀に所を譲った。感情の横溢(41)と意力の弛緩とが学問をそこに押し殺したということもできよう。
以上によって我々は歴史的社会的に現われた想像力と思惟とがいかにインド的人間の特殊構造を示すかを見た。非歴史的非統制的なる感情の横溢としての受容的忍従的態度がそれである。かかるインド的人間はヒマラヤを越えてシナや日本に侵入したが、しかしその侵入の仕方がまた戦闘的征服的ではなくしてあくまでも受容的忍従的であった。仏教を通じてインド的人間はシナや日本をおのれに|引きつけた〔付ごま圏点〕のである。シナや日本におけるインド的なるものをそれらの中から|引き出した〔付ごま圏点〕のである。それに反してインド自身が沙漠の侵入を受けた時には、その侵入は戦闘的征服的であった。インド的人間は内にひそむ沙漠的なるものを引き出さるることなく、ただ外から沙漠に圧倒されて、一層受容的忍従的になった。モハメダンの征服は文字通りインドの感情の横溢が沙漠的統一に従ったのである。インドモハメダンの建築がこの関係を具象的に示している。この建築様式が果たしてビザンツの流れをひいたモスクの輸入に過ぎぬか、あるいは逆にインドの建築から「尖ったアーチ」や「かぶら形の円屋根」を取ってできあがったものであるか、は議論のある点である。(Havel,Indian Architecture,p.4f.,16 ff.)が、いずれにしても細部の形象の横溢が古来インドに現われたことのない厳密な統一によって鮮やかに統制せられていることは、この建築様式の第一の特徴と認めて好い。
モハメダンの征服のあとにはさらにヨーロッパ的人間の征服が続いた。しかもインドの人間は最近に至るまでその戦闘的征服的性格を学び取ることができなかったのである。永い間の被征服の状態はむしろ感情の横溢を弱々しい感傷性に馴致したかに見える。南洋にまで進出している勇敢なインド人さえも、多くは従順忠実の化身のようであり、(42)その声や表情には常に気弱さを印象するところの感傷性がある。南洋とセイロン島との間の甲板乗客としてのインド人が印象するところもまさにそれである。多くの家族がそこで煮炊きし食事し遊び寝る。我々はそこで母親がいかに子供を愛撫するか、小さい兄や姉がいかに赤ん坊をあやすかを親しく目撃することができる。あるいは朝夕の食事においていかににぎやかに家族が団欒するかを見ることもできる。それは見る人をして涙を催さしめるほどに感傷的な感情の横溢である。同様な印象はまたセイロン島の瞥見からも得られる。途上の単純な所見、たとえば椰子の林の中の小舎の前に赤ん坊を抱いてたたずむ母親、髯の白い老人、カバンを下げた学校帰りの子供、あるいは夜、椰子の並み木の大きい葉の下の床几に涼んでいる家族の群れ、――それらは本来旅行者の心を特に動かすべき姿ではないにかかわらず、強烈に感傷をそそるのである。村の夜の祭りさえも、万灯をかざした行列や人ごみににぎわう華やかな気分の内に、覆い難き哀調を漂わせている。感情の横溢が、古《いにしえ》のインドのごとく我々を驚嘆せしめる代わりに、意力の不足として、圧迫への屈従として、我々の心を痛ませるのである。我々は圧抑の事実を全然目撃することなくしても、インドの人間そのものが被圧抑を表現しているのを感ずることができる。上海《シヤンハイ》・香港《ホンコン》において、実にあらわに西洋人の勢力が露出しているにかかわらず、シナの人間が圧抑されたものとしてよりもむしろ底力の強いもの、事実上の勝利者として感ぜられるのに比すれば、ここに人間の相違を見ざるを得ない。インドの人間はその受容的忍従的な特性のゆえに、言いかえれば戦闘的征服的な性格の|欠如〔付ごま圏点〕のゆえに、我々における戦闘的征服的な性格を刺激し|引き出す〔付ごま圏点〕。インドを訪れる旅行者が、その独立のための戦いを衝動的に欲するに至るのは、かかる事実にもとづくのである。
かかる意味においてインドの人間は、その綿が世界の市場に現わるる現代においても、依然として受容的忍従的である。無抵抗主義的な争闘がそれを示している。インドの労働者の体力はシナ人よりもはるかに弱く西欧の労働者の(43)三四分の一に過ぎぬと言われているが、それが短時日に革《あらた》まり得ないように人間の特性もまた知時日には変わり得ないであろう。それは風土的特性である。変革は風土の克服に待たねばならぬ。しかし風土の克服がまた風土的なる特殊の道によるほかはないのである。すなわち風土の自覚を歴史的に実現することによってのみ、人間は風土の上に出ることができる。 (昭和三年稿、四年加筆)
二 沙漠
「沙漠」という言葉は通例“desert”の同義語として用いられる。自分もその用語例に従って、この言葉によりアラビア、アフリカ、蒙古等に存するきわめて特殊な風土を言い現わそうとするのである。しかし「沙漠」と“desert”とが本来著しく意味を異にする言葉であることは、これらの言葉の意味を反省した人の直ちに気づくところであろう。同一の風土をあるいは沙漠と呼びあるいは desert と呼ぶのは、あたかも同一の図形をあるいは等辺三角形と呼びあるいは等角三角形と呼ぶごとく、その把捉の方向を異にするのである。そうしてかかる方向の相違の存し得ることが、すでに沙漠という現象の人間的意味を指示していると言わねばならぬ。
「沙漠」という言葉は我々がシナから得たものである。これに相応する日本語は存しない。「すなはら」は沙漠ではない。厳密な意味において日本人は沙漠を知らなかった。しからばシナ語としての「沙漠」は何を意味するであろうか。現代のシナ人は日本からの逆影響によって沙漠を desert の同義語とする。しかし古き用法においては「沙漠」はゴビの沙漠をその直観的内容とする言葉であった。「沙」はしばしば「流沙」の意義に用いられ、「漠」もまた北方の流沙をさす。それは巨大なる|砂海〔付ごま圏点〕であり、その砂が狂※[風+犬三つ]によって巻き揚がり|流れる〔付ごま圏点〕のである。シナ人はかかる風土の(44)外に住む人間として、この風土をばただ外からながめた特性において、すなわち莫々たる砂海として把捉した。
ギリシア人が ere※[長音記号あり]mia として、ローマ人が deserta として、さらに近代人が Wu※[ウムラウトあり]ste,waste,wilderness 等として把捉したものは、単なる砂の海ではなかった。それは|住むもののない〔付ごま圏点〕、従って何らの生気のない、荒々しい、極度に|いやな〔付ごま圏点〕ところである。人々はこの風土をその形においてではなく、その生気のなさにおいて捕えた。それは単に砂の海であるばかりでない、突兀たる岩石の露出した峩々たる山脈であり、礫の原となれる水なき大河床である。人はこれらの山河の中にあって、植物的にも動物的にも|住むもののない〔付ごま圏点〕世界を見いだした。あたかも「住むものなき家」が生気なく、空虚であり、荒れているように、これらの風土もまた desert である。しかし風土がかく desert と呼ばれるとき、それはもはや単なる外的自然ではない。desert なのは人と世界との統一的なかかわりである。ある家が、あるいはある町が、desert であり得るごとく、ある風土もまた desert であり得る。それは「人間」の(単に|人の〔付ごま圏点〕ではない、個人的・社会的な二重性格を持つ人間の)有り方であって、人間と独立なる「自然」の性質ではない。
desert が地理学的な用語とされたときには、しかし、人は「人間と独立なる自然」を取り扱うのであると信じた。それは雨量の欠乏によって生じた荒漠不毛の土地である。が、この場合にも人はアラビアやアフリカにおける荒漠不毛の土地を直観的内容として desert の概念を作った。突兀たる岩石の露出せる荒地は rock desert であり、礫の海は gravel desert であり、砂の海は sand desert である。従って沙漠の語はただ sand desert にのみ当たるのであって一般に desert に当たるのではない。しかも沙漠を desert の同義語とする我々にとっては、「|岩石の〔付ごま圏点〕沙漠」「|礫の〔付ごま圏点〕沙漠」「|砂〔付ごま圏点〕の沙漠」というごとき滑稽な訳語が、その滑稽さを強く意識させることもなく行なわれているのである。
吾人がここに「沙漠」として考察の対象とするのは、本来の意味における“desert”であつて沙漠ではない。沙漠と(45)いう言葉を用いるのは他に適当の言葉がないからである。
吾人は沙漠を「人間の有り方」として取り扱う。この場合、人間が個人にして同時に社会であること、及びかかる人間が歴史的にのみ存在し得ることを前提としているのである。従って人間の有り方としての沙漠は、人間の社会的歴史的なる性格と離すべからざるものである。沙漠はその具体性においてはただ人間の歴史的社会にのみ現出する。自然科学的なる沙漠に達するためには、人はこの具体的なる沙漢から、あるいは沙漠的なる人間社会から、あらゆる人間的性格を捨象するところの、抽象の立場に立たなくてはならない。自然としての沙漠はかかる抽象にはかならぬ。そうして「抽象」は人間の力の一つの偉大な特性である。抽象によって具体的なるものはその内容を明らかにする。しかし、だからと言って抽象的なるものと具体的なるものとを混同してはならない。吾人はかかる抽象的沙漠が人間の歴史的社会的現実に|いかに影響するか〔付ごま圏点〕を見ようとするのではない。むしろ逆にかかる抽象の行なわるる地盤としての歴史的社会的沙漠を明らかにしようとするのである。
しからば吾人はいかにしてその具体的なる沙漠に接近し得るであろうか。沙漠的人間にとってはそれはただ自己解釈の問題であるとも言えよう。しかし人間は必ずしも自己を自己において最もよく理解し得るものではない。人間の自覚は通例他を通ることによって実現される。しからば沙漠的人間の自己理解は霖雨の中に身を置くことによって最も鋭くされるであろう。このことは沙漠的ならざる人間が|旅行者〔付ごま圏点〕として具体的沙漠に接近し得ることを立証するものである。彼は沙漠において己が歴史的社会的現実のいかに沙漠的ならざるかを自覚するであろう。がこの自覚は沙漠の理解によって可能となるのである。たといこの理解が旅行者としての|一時的な〔付ごま圏点〕沙漠生活にもとづくとしても、それ(46)が沙漠の本質的理解である限り彼はそこから歴史的社会的なる沙漠に「入り込んで生きる」ことをなし得るのである。
旅行者はその生活のある短い時期を沙漠的に生きる。彼は決して沙漠的人間となるのではない。沙漠における彼の歴史は沙漠的ならざる人間の歴史である。が、まさにそのゆえに彼は沙漠の何であるかを、すなわち沙漠の本質を理解するのである。
「人間至るところ青山あり」とは広い人生への自由な生き方を示すところの一つの智慧の此喩的表現であって、風土に関する立言ではない。しかし、かかる表現が可能なのは、風土的に至るところ青山があり、そうしてかかる風土的なる青山がすでに内生括的なる意味を含んでいるからである。すなわち青山は「故郷」に代わり得るもの、何らかの意味で人がそこに落ち着き得るものである。しからば「至るところに青山があること」は風土的の意味においても人間の存在の仕方である。かかる青山的人間がある時インド洋を渡ってアラビアの南端アデンの町に到着したとする。彼の前に立つのは、漢語の「突兀」をそのまま具象化したような、尖った、荒々しい、赤黒い岩山である。そこには青山的人間が「山」から期待し得る一切の生気、活力感、優しさ、清らかさ、爽やかさ、壮大さ、親しみ等々は露ほども存せず、ただ異様な、物すごい、暗い感じのみがある。至るところ青山ある風土においては、いかなる岩山もかほどに陰惨な感じを与えはしない。ここにおいて青山的人間は明白に|他者〔付ごま圏点〕を見いだす。単に物理的なる岩山をではなくして、非青山的人間を。従って非青山的なる人と世界とのかかわりを。
非青山的であるとは、|抽象的〔付ごま圏点〕に言えば、山に|一本の草木もない〔付ごま圏点〕ことである。草木に包まれた山は植物的なる生命に包まれているのであり、従ってその色彩も形貌も植物的なる生を表現する。そこでは雨風はまずこの生と交渉するの(47)であって、無生物たる岩や土に直接に触れるのではない。しかるに草木なき山はいかなる生をも示さない。雨風は単に物理的に岩の肌に影響する。だからそれは山の「骨」である、死せる山である。山の輪郭も、岩の尖り方も、そのどす黒い色も、すべて死の表現であって生の力を感じさせぬ。
かかる草木なき岩山は、具体的には|物すごい、陰惨な〔付ごま圏点〕山である。そうしてこの物すごさ陰惨さは本来的に言えば物理的自然の性質ではなくして人間の存在の仕方にほかならぬ。人間は自然とのかかわりにおいて存在し、自然においておのれを見る。うまそうな果実においておのれの食欲を見、青山においておのれの心安さを見るように、物すごい山においてはおのれの物すごさを見る。言いかえれば非青山的人間を見いだすのである。
かかる人間の存在の仕方の特性を我々は風土的なる「乾燥」によって捕えることができるであろう。アデンにおいては強い日照にもかかわらず雨は年に四五度しか降らぬという。インド洋にモンスーンの吹き荒れているころでさえ、ここでははるかに高い空が薄白く曇るのみであって、日光をさえぎるほどにも至らない。いわんや他の時期においては、空は|完全に〔付ごま圏点〕晴れる。雲の浮かびやすい日没ごろに、いかにはるかな地平線にさえも一点の雲も現われぬというふうな晴れ方を、ここでは最も日常的な天気とするのである。しかもその晴れた空は、爽やかさを感じさせるあの空色ではなくして、あくまでも乾き徹った紺碧であり、しかも地平線に近づくに従ってその紺碧の色が薄らいで行くということすらも、ほとんどない、と言い得るほどに少ない。かかる空に覆われた大地もまた徹底的に乾き徹って、湿いを思わせるものは毛ほどもない。人工的に町なかに植えた少しばかりの樹木を除いては、世界はことごとく|乾燥そのもの〔付ごま圏点〕である。この乾燥が陰惨な山となり、物すごい砂原となり、巨大なるローマ人の貯水池となり、水を運ぶ駱駝となり、さらに遊牧となりコランとなる、……一言にして言えばアラビア的人間となるのである。
(48) かくて我々は「乾燥」を desert の本質的規定として把捉することができる。住むものなきこと、生気なきこと、荒々しいこと、これらはすぺて乾燥にもとづくのである。
アデンの陰惨な山は旅行者に対して沙漠の本質を「乾燥」として開示する。このことは沙漠について語る限り多くの人々の言い古したことである。にもかかわらず旅行者をして事新しく驚異を感ぜしめるのはなぜであるか。それは彼が初めて「乾燥」を|生活した〔付ごま圏点〕からである。乾燥は湿度計寒暖計によって示さるる空気の一定の湿度ではなくして、人間の存在の仕方だからである。
紅海の沿岸、特に歴史的に有名なシナイ山やアラビア沙漠のあたりに至れば、旅行者は死そのものを印象するごときこの風土を生くることによって、旧約聖書を新しく読みなおそうとする衝動を感ずるであろう。選ばれたる民が渡って歩いたのは、かくも物すごい砂の海、岩片の海であった。彼らがながめたのはあの岩骨のみの山脈、「死せる山」であった。かかる沙漠の物すごさは怒れる海も到底及ぶところではない。海はその絶えざる波の動きや、生々たる水の色や、波間に住む生きものなどのために、常に我々に生ける印象を与える。まれに暴風の怖れがあるとしても、我々から海への親しみを奪うほどではない。しかるに沙漠はその死せる静寂、死せる色と形、あらゆる生の欠乏によって、我々の生を根顔的に脅やかす。地上の物の形を覆いかくす沙漠の夜の闇さえも死のごとき気味悪さを含んでいる。(その闇に此ぺて空の星のみが実ににぎやかな、生々とした印象を与えることは、沙漠の夜の第一の特徴であろう。極度に乾煉せる空気が星の光を鮮やかに輝かせるばかりでなく、大小無数の星の小止みなき瞬きは、互いに響き合いつつ刻々として移って行き、あたかも壮大な交響楽を聞いているような印象を与える。このような溌剌とした、動いて(49)いる蒼い空は、実際沙漠の死から我々の生を救い取るのである。)かくのごとく地上にはただ死の脅威のみの充ちている土地、八か月を通じて一点の雲なき空から太陽があらゆるものを焼きつくし、日陰においてさえも温度は四十五度に上るという土地、そこを選ばれたる民は漂ったのである。シナイ半島がそうである。シリア・メソポタミア沙漠がそうである。エウフラテスやティグリスの河谷といえども、バビロンの平野に出るまでほ、きわめて狭い両岸が湿っているに過ぎぬ。しかもこの両河とアルメニアの山から出る川を除いては、広いアラビアの地に河がない。時たま驟雨があっても、その水は乾いた河床を流れ去って、数時間後には跡を留めない。もしこの沙漠のところどころに、春の雨に恵まれて緑の草の育つところがなかったならば、あるいは岩から出る泉や人の掘った井戸などがなかったならば、総じてアラビア的人間は存し得ないであろう。
乾燥の生活は「渇き」である。すなわち水を求むる生活である。外なる自然は死の脅威をもって人に迫るのみであり、ただ待つものに水の恵みを与えるということはない。人は自然の脅威と戦いつつ、沙漠の宝玉なる草地や泉を求めて歩かねばならぬ。そこで草地や泉は人間の団体の間の争いの種となる(創世記一三 六、二六 二〇以下)。すなわち人は生くるためには他の人間の脅威とも戦わねばならぬ。ここにおいて沙漠的人間は沙漠的なる特殊の構造を持つことになる。(一)人と世界との統一的なるかかわりがここではあくまでも|対抗的戦闘的関係〔付ごま圏点〕として存する。人が自然において見るところのおのれは死である。死を見ることによって人は生を自覚する。すべての「生産」は人の側《がわ》にあり、従って外なる自然の生産を「恵み」として待ち望むことはできぬ。草地と泉と井戸とを自然より戦い取ることによって人は家畜を繁殖させる。「産め、殖やせ」が死に対する生の戦いの叫びである。(二)自然との戦いにおいて人は団結する。人間は個人としては沙漠に生きることができぬ。従って沙漠的人間は特にその共同態において現われる。草地(50)や泉を|自然から〔付ごま圏点〕戦い取るのは共同態における人間である。しかしこの戦いにおいて人間はさらに|他の人間〔付ごま圏点〕と対立しなくてはならぬ。一つの井戸が他の部族の手に落つることは、自らの部族の生を危うくする。ここでは人と世界との統一的なかかわりが、人間と「他の人問世界」とのかかわりとなる。そうしてここでもまたそれが|対抗的戦闘的関係〔付ごま圏点〕であり、そこからまた人の子を「産め、殖やせ」という標語が生ずる。人口増殖の神の契約が「割礼」を人間に課したことは、沙漠的人間のこの特性を表現したものである。
沙漠的人間の構造は右のごとき二重の意味において対抗的戦闘的である。しかるに沙漠的人間はただ歴史的にのみ存在する。従って対抗的戦闘的なる特性の現わるる場所は、沙漠的人間の歴史である、歴史的に作られたる諸形像である。
自然への対抗は自然に対して人間を際立たせる一切の文化的努力に現われる。それは恵み深き自然に抱かれる態度でもなく、また自然を人間の奴僕として支配する態度でもない。あくまでも自然に対して人間を、あるいは人工を、「対峙」せしめる態度である。
沙漠においては「人間のもの」は本来すでに自然に対して他者である。夜の沙漠において見渡す限りの大地が黒く物すごき死の姿である時、はるかなる地平線に現われた一二の「灯火」は、異常な強さをもって人間の世界を、生を、暖かいなつかしさを印象する。それは海を渡るとき地平線に島の灯火を見いだした場合よりもはるかに強い感動を人に与えるであろう。昔沙漠を渡り歩いた人間が、たとえばユダヤからヘリオポリスヘの長い苦しい旅のあとで、もはや都へは一日行程に過ぎないあたりの夜営地から、はるかに地平線に都の灯火を望み見た時の嬉しさというごときも(51)のは、ただ沙漠的人間のみの知るところである。
かく人間に属するものが単に「人間に属する」という理由のみによってすら人間に感動を与え得るとすれば、|自然的には見いだされぬもの、人間のみの作り得るもの〔付ごま圏点〕が沙漠において特に愛好せられるのは当然であろう。旅行者にとってはアラビアの町の印象がすでにそれを開示する。アデンの港を訪れた旅行者は港の左方の平原に海を超えて見ゆるアラビアの町を、あの突兀とした岩山にも劣らず驚異するに違いない。低い平原はほとんど陸とは思われぬほどの、細《ほそ》い茶褐色の水平線となって見えている。海の水平線と異なるところはただその色彩のみである。その茶褐色の線の途中に、ちょうど海に浮いている白鴎のように、小さい四角な建物の群れが日光に輝いている。その白い壁や角のある形は、三四マイルのかなたに小さく見えているにかかわらず、しかも人間の作ったもの、人工的なるものという印象を強烈に与える。生命なき自然のただ中に「人間のもの」が浮かんでいる、――それはほとんど白昼の|夢幻〔付ごま圏点〕である。それほど鮮やかに人間の町が周囲の自然に対立する。
何によってそうなるか。我々はそれを形と色とのみからでも解くことができる。この町を形作る形と色とは周囲の自然において全然見いだし得られぬものである。突兀とした山は徹頭徹尾偶然的な形であって、そこに何らの規則、あるいは目的を感ぜしめない。海や平沙は横に長い直線を示しはするが、それは極度に単調であり、また何のまとまりをも含まぬ。しかるに人間の家のみは、方形、長方形などの、幾何学的に規則立った、完結せる形をもってその中に浮ぶ。それはまさに|人間の作り出した形〔付ごま圏点〕である。しかも自然の持つ形を人間的に活かせたのでもなければ、また自然の形を克服して人間的に統一したのでもない。明らかに自然に対抗する他者を創作したのである。色についても同様のことが言える。土地は茶褐色であり、そこに住む駱駝のごとき動物も全然土と同色であるにかかわらず、人間の(52)作ったもののみが純粋な白色を示している。かくして人間はその自然への対抗を町の形に具現したのである。
この特性はそのままアラビア美術として結晶した。あの華麗なアラビア風の装飾模様がいかに著しく|人工的〔付ごま圏点〕であるか、あるいはまたあの簡素と力強さとを輪郭に現わしたモスクがいかに著しく夢幻的であり離自然的であるか、それを正しく理解せしめるものは、沙漠的人間の自然への対抗である。
我々はピラミッドの形をもこの立場から理解することができる。古代エジプトの人間は決して純粋な沙漠的人間ではないが、しかしピラミッド自身の位置がそれを示しているように、ピラミッドは沙漠との関係において生じたものである。ニルの河谷に外から襲いかかるかのごとき沙漠は、砂の彼の無限に続く起伏であり、何らの規則をも示さぬ偶然的なうねりに過ぎぬ。ニルの河谷の内部においても、この平野を支配するものはニル河のゆるく大きいうねりである。水や田畑の水平面も皆不規則な曲線を輪郭とし、何の秩序をも示しておらぬ。かかる不規則な、どこにもまとまりのない自然の内に、ただピラミッドのみはきわめて規則的な、完結せる三角形をもって、立体的に、大きくそびえているのである。従ってそれは周囲の自然が全然持たない形として、力強く人間の力を感じさせる。古代エジプト人はそれをもって沙漠に対抗したのである。だからピラミッドのあの単純な、抽象的な形は、それが|単純〔付ごま圏点〕であり|抽象的〔付ごま圏点〕であるがゆえに、人間の力の象徴として働き得たのであると見られねばならぬ。もとよりかかる形も、沙漠に対抗し得るがためには、一定の|量の大いさ〔付ごま圏点〕を必要とする。空漠たる砂の海に対立して人間の威力を現わし得るのはその|巨大さ〔付ごま圏点〕であって、形のみではない。しかしもしここに高塚式古墳のごとき|巨大な塚〔付ごま圏点〕が築かれたとするならば、たといそれがピラミッドの数倍の大きさであっても、それによって沙漠に対抗する人間を表現することはできなかったであろう。
が、さらに我々はピラミッドの与える不思議な印象をも見落としてはならぬ。ピラミッドは人間の芸術的作品とし(53)てあまりにも単純すぎる、と人は考えるかも知れない。しかしそれはそのあるがままの位置においては、優れたる作品にも劣らぬ隠秘を印象するのである。我々に現われるのは常にその部分であって、全体でない。我々は常に「陰に隠されたもの」に引かれる。かかる印象を我々はこれほど強く他の物からは受けない。物は通例我々にその一面のみを示すのであるが、しかし我々は必ずしも見えざる他の面に引かれはしない。特に芸術品において、たとえばミロのグィナスの一面を見る時に、他の面を隠されたるものとは感じない。しかるにピラミッドはその芸術的な無内容のゆえにかえって「隠されたるもの」を印象し得るのである。
かかる両様の印象から我々はピラミッドが沙漠的人間の表現として必然のものであることを理解する。人はこの単純な形を巨大なモニュメントの構造上の必然から解こうとするかも知れない。しかし沙漠に対抗してかかる巨大なモニュメントを作ろうとする意欲そのものがすでに沙漠的人間を示すのである。
がしかし、自然への対抗が最も顕著に現われているのはその生産の様式である。すなわち沙漠における遊牧である。人間は自然の恵みを待つのではなく、能動的に自然の内に攻め入って自然からわずかの獲物をもぎ取るのである。かかる自然への対抗は直ちに他の人間世界への対抗と結びつく。自然との戦いの半面は人間との戦いである。
かかる戦闘的生活様式は、遠い古代から回教の時代に至るまで常に沙漠的人間の特性であった。アラビアの半島に住む種々の族は、創世記の命名に従ってセム族と呼ばれているが、その包括するアラビア人、ヘブライ人、フェニキア人、アルメニア人などは、その性格や精神的特性において共通であり、言語もはなはだよく類似している。そうして、「このセム族のあらゆる精神的特質、その考え方、その宗教、その国家的制度などは、すべて|沙漠の民族の生活条(54)件から〔付ごま圏点〕説明せられる。」(E.Meyer,Geschichte des Altertums,I.2,S.3880.)それが戦闘的生活様式である。
まず社会組織としての部族(Stamm)がそれである。部族は紀元前千年の古代から、現代アラビアのベドゥイネンに至るまで、沙漠における共同社会の形式として存在し続けた。それは単に「原始的」であるのではなく、アラビアの土地と密接に関連せるものである。形式から言えば部族の共同社会は同一の祖先から出た|血族〔付ごま圏点〕であるとのイデーによって結合している。そこでは一人前の(すなわち戦い得る)男たちは、風習道徳法律などの固い掟の下に密接に結合し、|共同の生活〔付ごま圏点〕を営むのである。が、内容から言えばそれは|防護団体〔付ごま圏点〕である。血族のどの一員が危険に瀕しても、それを救け防ぎあるいは復讐するというのが、団体の各員の義務である。人間はこの相互の義務によって結合するとともに、またこの結合によって団体の利害が、従って個人の利害が防衛される。団体の所有に属し団体の生活の根本条件となっているある草原やある泉は、他の部族との戦闘を賭しても護られるのである。
かかる部族の生活はまさしく自然及び人間への対抗を反映したものである。人間は単にその個別態においてのみは生きることができぬ。部族の全体性が個別的なる生を初めて可能にする。従って全体への忠実、全体意志への|服従〔付ごま圏点〕は、沙漠的人間にとって不可欠である。が、それとともに全体的行動は人間の個別態における運命を左右する。部族の敗北は個人の死である。従って全体に属する各員はおのが力と勇気とを極度に発揮しなくてはならない。感情の温柔さを顧慮する暇のない不断の|意志の緊張〔付ごま圏点〕が、すなわち|戦闘的〔付ごま圏点〕態度が、沙漠的人間にとって不可欠である。ここにおいて沙漠的人間は、|服従的、戦闘的〔付ごま圏点〕の二重の性格を得る。それは人間の構造における特殊性であり、また人間の全体性の最も強く現わるる一つの様式である。
沙漠的人間はかくして社会的歴史的なる特殊性格を形成する。ここでは沙漠は社会的歴史的現実であって、単なる(55)土地ではない。だから人間は単なる土地としての沙漠を空間的の意味において去ることはできても、社会的歴史的現実としての沙漠を同じ意味において去ることはできない。ここを去るためには人間は社会的歴史的に他のものに|発展する〔付ごま圏点〕を要する。しかしかかる発展においても人間は過去を捨て去るのではなくして保存するのである。沙漠的人間が水に豊かな土地に定着して農業的人間に転化するとしても、それはあくまでも沙漠的人間の発展であって他のものではない。
我々はこれをイスラエルの族の歴史において見ることができるであろう。沙漠に遊牧せるこの族にとっては水に豊かなカナーンの地は楽園のごとくに見えた。だから永い激しい戦いによってこの土地を獲得し、そこに土着して農業を覚える。沙漠的生活の制限は破られ、人口は盛んに増加し始めた。部族は殖え、連盟は固まり、ついに王国が成立する。それはもはや沙漠的なる部族社会のごとき緊密なる統一を持った社会ではない。しかしながらイスラエルの族がその宗教を確定し、種々の宗教文芸を作り始めたのは、このカナーン土着以後である。そうしてこれらの文化産物に現われているものは、顕著なる沙漠的人間の性格にほかならぬ。人々は本来の部族社会を一つの民族として実現しようとした。部族の全体性を表現する神は民族の全体性を表現する神となった。が、この神への絶対|服従〔付ごま圏点〕と他民族(従って他の神)に対する|戦闘〔付ごま圏点〕とは、依然としてイスラエルの族の特性である。カナーンの風土は社会的文化的に種々の発展を引き起こしたが、しかし発展したのはあくまでも沙漠的人間であって農業的人間ではなかった。
人はさらに|離散せるユダヤ人〔付ごま圏点〕がいかにその沙漠的性格を持ち続けたかを忘れてはならない。離散はすでに紀元前数世紀から始まっている。緊密なる|教団組織〔付ごま圏点〕をヨーロッパ人に教えたものは離散せるユダヤ人である。人間の全体性の最も強く現わるる砂漠的なる団体様式は、今や宗教の名において超民族的なる実現を要求する。しかしかかる教団組(56)織を教えたユダヤ人自身はこの教団から閉め出され、あくまでもその民族的特性を維持している。これを維持せしめたものはヨーロッパ人の迫害である。しかしこの迫害を呼び起こしたものはユダヤ人自身である。しからば社会的歴史的現実としての沙漠は、ヨーロッパの美しい牧場のただ中においても、またその封建的、ブルジョア的というごとき歴史的発展を通じても、なおそれ自身を保持する必然性を持っていたと言わねばならぬ。のみならずその|服従的戦闘的〔付ごま圏点〕なる人間生活の様式は、かつてヨーロッパ人を魅了し去ったように、今やまた新しく現代人を魅了しようとしているのである。
が、沙漠の外に沙漠が延びたのは右の場合のみではない。かつてイスラエルの族が農業的人間に転化したころには、これを沙漠的人間の堕落として嘲笑する他の群れがあった。沙漠的人間の誇りは荒野の猛獣のように奔放なその自由である。彼らは生活の安易よりも生活の豪放を愛する。「壁にかくれ一人の君主に隷属する」土着的人間の卑怯さは、彼らの眼には最も浅ましいものに見えた。かかる気風はイスラムの初めになお充分に生きていたと言われている。そこでこの|服従的戦闘的〔付ごま圏点〕なる、従って特に|意志的〔付ごま圏点〕なる沙漠的人間が、再びまた農業地に降り来たって、開化せる諸国民を征服した。イスラムの世界征服がそれである。
沙漠的人間の世界支配は現代においてなお生きている世界の宗教を通観すれば明瞭になるであろう。インドに生じたものを除いて、キリスト教、ユダヤ教、フイフイ教等はすべて沙漠的人間の所産である。特に宗教として現在現実的に生きている点においては、フイフイ教が最も力強いと言ってよい。しかし歴史的に見れば、あの小さいイスラエルの族――その最盛期においても国土は長さ五十里、幅三十里乃至十五里に過ぎなかったあの民族――の歴史を、あたかも人類全体の歴史であるかのごとくに、ほとんど二千年の間ヨーロッパ人に思い込ませていたあの力ほどめざま(57)しいものはないであろう。沙漠的人間は他の多くの人間を教育した。それは沙漠的人間がその特性のゆえに他の人間よりも深く人間を目覚したからである。
沙漠的人間の功績は人類に|人格神〔付ごま圏点〕を与えたことにおいて絶頂に達する。この種の功績において沙漠的人間に拮抗し得るものは、人類に|人格的ならざる〔付ごま圏点〕絶対者を与えたインド人のみであろう。
しかしこの人格神も初めは|部族の神〔付ごま圏点〕にほかならなかった。部族の全体性の内には神的なる力が生きている、この力によって部族の存在と生育が可能になる、――この信仰が出発点であった。だから部族が多いごとく神の名も多い。ヤーヴェはただその一つであった。かかる神は人間とともに生き、食事をともにし、戦いをともにし、猟の獲物や戦利品を受ける。大きい祭儀においては人間は神に犠牲をささげ、そうしてその肉を部族的にともに食するのである。かかる犠牲食は部族の生活において人間の平和な共同態が常に新しく築かれて行く重大な契機であった。そこでは部族的なる人間の全体性と個別性との関係は|それとしては〔付ごま圏点〕自覚されておらぬ。しかし犠牲食を体験し、神と人との血縁関係を信ずるというそのことにおいて、まさにこの|全体性への帰属〔付ごま圏点〕を実践するのである。そこで早くから道徳が神の命令として現われる。神は人間に対して「豊かなる土地と子孫」とを、あるいは「敵を亡ぼし疾病をのぞくこと」を、すなわち物質的生活の安全と繁栄を約束する。しかしその代わりに人間に対して衛生的及び道徳的なる命令を守るべき義務を負わせるのである。このことは言い換えれば沙漠における生が部族の|全体性の自覚〔付ごま圏点〕(それが神の命令として現われる)においてのみ可能であることを示すと言えよう。しからば沙漠的人間にとってはかかる自覚は「生の窮迫を転脱すること」(Not-wenden)にほかならぬ。すなわち部族神は沙漠的人間にとって必然的(notwendig)である。
(58) 部族の全体性を神として感ずることは一般に原始宗教の特徴であって沙漠にのみ限らない。しかし部族生活が単に原始的たるに留まらず特に沙漠的生活の様式として意味を持つと同じく、部族神の信仰も沙漠生活の|必然性〔付ごま圏点〕によって他のいずれの場合よりも強烈である。その特異性が部族神を|人格神〔付ごま圏点〕たらしめた。神は「|自然と対抗する人間〔付ごま圏点〕」の全体性が自覚せられたものであり、従って自然の力の神化の痕跡を含んではいない。自然は神の|下に〔付ごま圏点〕立たねばならぬ。ギリシアの神々はこれに反して|外なる自然〔付ごま圏点〕の神化(たとえばゼウス、ポセイドン)、あるいは|内なる自然〔付ごま圏点〕の神化(たとえばアフロディテ、アポルローン)にほかならなかった。部族の全体性を表現する神々は神話の作られるころすでに「英雄」の地位に堕とされていた。密儀宗教の神々、たとえばミトラ、オシリスの類も、自然の力の神化であって人間の全体性の表現ではない。これらの神々の生まれた土地においては、多少ともに|自然の恵み〔付ごま圏点〕が著しかった。しかし沙漠においては自然は死である。生は人間の側《がわ》にのみ存する。従って神は人格神たらねばならぬ。
しかしかかる部族神の一たるヤーヴェがいかにして統一的な人格神となったか。伝説はモーゼの事業を語っている。モーゼを通じヤーヴェの神によってイスラエルの族が「部族」の中の大いなるものとなったのである。が、もし学者のいうようにイスラエルが一つの部族の名でなく|部族の連盟〔付ごま圏点〕の名であるとすれば、すなわちイスラエルがヤーヴェを戦神守護神とする戦闘連盟、宗教連盟であるとすれば(M,Weber,Religionssoziologie,V.S.90 ff.)ヤーヴェは伝説の初めよりすでに諸部族を統一しているのである。そうしてこの事は何らまれなる例ではない。最も力強く自覚せられた人格神は、同じ傾向の諸部族の神をおのれの内に摂取する。かくしてヤーヴェは一部族の神ではなく|沙漠的人間の神〔付ごま圏点〕となったのである。それはこの民族の苦難と多くの予言者の熱信とを通じて、ますます明らかな形に結晶して行った。しかしその結晶せる形は、さらに新しくギリシア風世界における一人の仲保者を通じて、沙漠を越えて広く人間のう(59)ちに入り込んだのである。そこでヤーヴェは一般に|人間の神〔付ごま圏点〕となる。それが沙漠を通じて現われたと否とにかかわらず、――あるいは人間のいかなる生産の仕方、いかなる生産関係がその地盤に存するかを問うことなく、――ヨーロッパの人間はその求めつつあった神がここに与えられたと信じたのである。もとよりここでは神は、キリストを通じて、愛の神に転化している。しかしそれにもかかわらずこの「人格神」は、沙漠的人間が沙漠的であるがゆえにのみ見いだし得たものである。
この人格神がいかに沙漠的であるかを顕著に示したのはモハメッドである。彼は当時のアラビアの偶像礼拝に反抗して「アブラハムの神」への信仰に帰ることを標榜したと言われる。しかし彼の革命は当時の部族生活と相反する立場でなされたのではない。(Goldzieher,Die Religion des Islams,Kultur d.Gegenwart,I,V.1.)人は昔と同じく部族の団結を離れては自然の脅威に対抗し得なかった。部族の全体性への「服従」は依然として沙漠の生の可能根拠である。モハメッドはこの全体性の表現たる「人格神」を新しく活気づけた。部族への服従を|神へのイスラム〔付ごま圏点〕(服従)として力説した。彼はその部族の内部において、かつてのモーゼのように、この「神へのイスラム」を実現し、その力によって他の部族に対する戦闘を始めたのである。彼が迫害と戦ったというのは、この昔ながらの部族間の戦闘を戦ったのであって、個人として戦ったのではない。彼は戦いに勝ち、「神への服従《イスラム》による他部族の征服――アラブ族の団結」を実現した。アラブ全体が一つの部族として「服従《イスラム》の統一に到達した。そこで服従的戦闘的なるアラブは、きわめて迅速に沙漠の外にいで、当時の文化世界のほとんど大部分を征服した。「アブラハムの神」はフイフイ教において服従的戦闘的なる沙漠的性格を露出したと言ってよい。
(60) 以上によって我々は沙漠的人間の構造を明らかにした。それは「乾燥」である。乾燥とは人と世界との対抗的戦闘的関係、従って人間の全体性への個人の絶対的服従の関係である。このことを我々は古代エジプトの人間との対照によって一層明白にすることができるであろう。
エジプトの風土は|乾燥と湿潤〔付ごま圏点〕との奇妙な二重性格を持つ。そこでは雨はきわめて少ない。カイロの雨量は日本の七十分の一と言われている。従って空気も極度に乾燥している。沙漠に包まれた細長い河谷――下流の広原においても幅八里をいでず、上流においては最広二里を越すことのない狭い谷――として茫漠たる沙漠の乾燥に従うのは当然である。にもかかわらずこのニルの河谷は、アフリカ大陸のはるかなる奥地より流れ来る水によって、豊かに潤される。畑にはさまざまの穀物野菜が旺盛に生い育ち、その間には南洋的な樹木が生い茂っている。その沃野の|緑色〔付ごま圏点〕は湿潤なる極東や南洋のそれと性質を同じくするものである。古来この地を地上の最も豊饒な土地としたことは、決して誇張でない。
かくしてエジプトの風土は雨なく湿気なき湿潤である。乾燥なる湿潤である。だから古代エジプトの人間は、|沙漠への対抗〔付ごま圏点〕とともに|ニル河への帰依〔付ごま圏点〕をその構造の特性とする。沙漠への対抗においてこの人間は沙漠的人間に似るかも知れない、しかし自然への帰依において沙漠的人間とは全然異なった人間となる。エジプトの人間にとってはニル河が沙漠における部族の全体性に代わるのである。ニルの水量を上流の貯水池によって人工的に調整している現在でさえ、増水が通例の高さより五尺低ければ、デルタ地方には恐るべき荒廃が起こるという。まして自然のままに放任した古代においては、エジプトの生はただニルの恵みにのみ頼った。だから古来のエジプトの文化は、ニルの増水に対(61)する|受動的な関心〔付ごま圏点〕を中核として、すなわち自然に対して征服的に働きかけるのではなくただ|受動的に観照すること〔付ごま圏点〕において、発達した。従ってエジプトの人間は、外に対しては意志的戦闘的であり得ても、その日常の生活においては|静観的感情的〔付ごま圏点〕である。沙漠において見ることのできぬ知力の発達と美感の精練とがここでは特性的となる。豊かな優しい感情に彩られた不死の信仰によって、人々は情愛の生の永続を願い、それを防腐薬についての鋭い知識によって、すなわちミイラとして、表現した。王子ラホテップと妃ノフレットとのあの美しい夫婦像においても、我々はこの愛情の永遠を欲する心のきわめて柔らかい表現と生ける人体及びその表情についての鋭い写実との結合を見る。かくのごとき心情の柔らかさと直視の明徹との結合は、エジプトの最も特性的なるものとして、ただ恵み深いニルへの帰依の心からのみ理解し得られるであろう。そうしてそれらはまさに沙漠的人間の欠如せるちょうどそのものなのである。
シュペングラーはいう、「自然」とは人格的な中味をもって底まで飽和された体験である。だから一般的な自然は存しない。ただギリシア的、アラビア的、ゲルマン的特殊自然があるのみであると。かくて彼は文化の根柢に|空間問題〔付ごま圏点〕を置こうとする。が、彼はこの「空間」を人間の存在の仕方としての生ける風土として捉え得なかった。だから「|物象〔付ごま圏点〕から引き離された|抽象〔付ごま圏点〕としての世界空間」によって西欧のファウスト的精神とアラビアの咒術的精神とを|ともに〔付ごま圏点〕説明しようとする。それはアラビア的自然とゲルマン的自然との根本的な相違を見のがしたものである。
エドゥアルド・マイヤーははるかに具体的に沙漠の民族を特性づけた。(一)|思惟の乾燥性〔付ごま圏点〕。沙漠の生活においては実際的な事物に関しての観察・判断が鋭い。しかし利害打算的であって、知的観照や感情的陶酔を許さぬ。沙漠においては静観と受動とは滅亡を意味する。(二)|意力の強固〔付ごま圏点〕。必要あるところには、いかなる成り行きをも恐れず、野獣的残(62)酷さをもって、顧慮なく突進する。商人としての成功もこの素質にもとづいている。(三)|道徳的傾向の強烈〔付ごま圏点〕。全体性に対する帰属が人を犠牲的ならしめ、恥を知らしめる。だから沙漠的人間はしばしば力強い理想家として現われた。多くの予言者、モハメッド、イスラムの諸人傑。しかしこれらの理想家にも(一)と(二)の特性は欠けてはおらぬ。(四)|感情生活の空疎〔付ごま圏点〕。心情の優しさ暖かさを欠如している。従って想像力の創造的な動きも少ない。文学は乾燥している。美術と哲学(ここでも想像力は必要である)は生まれなかった。
これらの特性は一言にして言えば|実際的意志的〔付ごま圏点〕である。それは「観照的感情的」の対蹠をなす。これ我々が沙漠的人間の存在の仕方として沙漠から理解したそのものである。ただ我々はこれを「沙漠に住む民族の|性質〔付ごま圏点〕」として捉えるのではない。具体的には、沙漠を引き離してこの種の民族が存するのではなく、また人間と独立な沙漠が自然として存するのでもない。これらの民族は根源的に沙漠的人間であり、沙漠は歴史的社会的現実である。民族の性質あるいは特性と言わるるものは、その本質においては、人間の|歴史的風土的に特殊なる〔付ごま圏点〕存在の仕方にほかならぬ。 (昭和三年稿、四年加筆)
三 牧場
一
ここに牧場というのは Wiese とか meadow とかの訳語である。しかしこの訳語は全然当たっていない。「まき」は「馬城」であって、牛込、馬籠《まごめ》などと同じく、家畜を囲い置くところである。しかるに Wiese は家畜の飼料たる草を生育せしめる土地であり、さらに一般的には草原である。がまた草原という日本語は Wiese のように家畜の飼養との(63)密接な関連を意味してはいない。Wiese に当たる言葉は日本にはないのである。そこで明治初期の飜訳者は家畜を思わせる牧場の語を取って草原を意味させるように用いた。この訳語例に今は従うのである。
Wiese に当たる言葉が日本にないということは Wiese というものが日本にないことを意味する。日本の草原は利用価値のない、捨てられた土地である。しかるに Wiese は、同じく草原でありながら、畑と同じ意味を持っている。畑が人間の食料を栽培する土地であるに対して、Wiese は家畜の飼料を栽培する土地である。畑が耕されるに対して Wiese は耕されはしない。しかし人がその土地を看護し、そこから栄養価値あるものを採取するという点は同様である。このような Wiese には自然的なものもあり人工的なものもあるが、それらはいつでも畑に直し得られる。人工的な Wiese は通例畑の輪耕の一段階である。ちょうど日本の麦畑がある年にれんげ草の畑となっているのに等しい。だから Wiese を直観的に想像しようと思えば、|
非常に広い〔付ごま圏点〕れんげ草の畑の花の咲く前の姿を思い浮かべればよい。もっとも Wiese の草はれんげ草畑のように一種類ではない。れんげ草のようなうまごやし系統の草のほかに日本でいう冬草の類が多数に混じている。恐らく十種類から二十種類ぐらいまで数え得られるであろう。しかしそれらは皆冬草のように柔らかい草で、その上に裸体で横たわることもできるのである。録の Wiese を絨毯にたとえて Wiesenteppich と呼ぶのも決して誇張ではない。だからそれが日本の芝生と異なることも明らかであろう。
自分はこのような gru※[ウムラウトあり]ne Wiese をかりに牧場と呼んで、それによって|ヨーロッパの風土の特徴〔付ごま圏点〕を言い現わそうとする。近代大工業の発祥の地であるヨーロッパを「緑の牧場」によって特性づけるのは一見不穏当に、あるいは多少感傷的に思われるかも知れない。しかし鉄や石炭や機械などの「冷徹な現実」としての工業も、実は緑の牧場の延長なのである。すなわち工場もまた「牧場的」なのである。一般にヨーロッパの人間と文化とがいかに「牧場的」である(64)か、それをここで考察してみようと思う。
自分にこのような考察の緒を与えた人は京都帝国大学農学部の大槻教授である。自分たちがモンスーン地方から沙漠地方を経て地中海に入り、古《いにしえ》のクレータの南方海上を過ぎて初めてイタリア南端の陸地を管見し得るに至った朝、まず我々を捕えたものはヨーロッパの「緑」であった。それはインドでもエジプトでも見ることのできなかった特殊な色調の緑である。ころはちょうど「シチリアの春」も終わりに近づいた三月の末で、ふくふくと伸びた麦や牧草が実に美しかった。が、最も自分を驚かせたのは、古《いにしえ》のマグナ・グレキアに続く山々の中腹、灰白の岩の点々と突き出ているあたりに、平地と同じように|緑の草〔付ごま圏点〕の生い育っていることであった。羊は岩山の上でも岩間の牧草を食うことができる。このような山の感じは自分には全然新しいものであった。この時に大槻教授は、「ヨーロッパには雑草がない」という驚くべき事実を教えてくれたのである。それは自分にはほとんど啓示に近いものであった。自分はそこからヨーロッパ的風土の特性をつかみ始めたのである。
二
我々の国土から出発して太陽と同じに東から西へ地球を回って行くと、まず初めにモンスーン地域の烈しい「湿潤」を体験し、次いで沙漠地域の徹底的な湿潤の否定すなわち「乾燥」を体験する。しかるにヨーロッパに至ればもはや湿潤でもなければ乾燥でもない。否、湿潤であるとともに乾燥なのである。数字的に言えば、アラビアの雨量が日本の数十分の一であるに対してヨーロッパの雨量は日本の六七分の一ないし三四分の一である。体験的に言えばそれは|湿潤と乾燥との稔合〔付ごま圏点〕である。
このような湿度の弁証法はもちろん歴史的発展の弁証法ではない。それはまず第一に|旅行者〔付ごま圏点〕の体験における弁証法(65)である。しかし湿潤はモンスーン地域における|人間〔付ごま圏点〕の体験として、一つの文化類型に己れを形成する。同様にまた乾燥も沙漠地方の|人間〔付ごま圏点〕の体験であり、沙漠的なる文化類型となって現われる。これらの文化類型は、相互に歴史的影響のあるなしにかかわらず、風土的類型による文化の対立として、世界文化の構造内に相連関せる契機となっている。しからば湿潤、乾燥、その総合というごとき弁証法は、世界文化の構造連関における弁証法であるとも言い得られるであろう。そうしてまたこの視点から文化史上の事象を解釈することをも許すであろう。たとえばユダヤ教を内に含むパウロのキリスト教がヨーロッパの世界に成長して行ったとき、沙漠的宗教としてのユダヤ教の乾燥性は否定せられながらも、予言者たちの道義的情熱はますます内的に生かされて行った。とともに、沙漠に見るを得ない「潤い」がヨーロッパ的キリスト教の特徴となり、愛の宗教としての優しみというごときものが力強く育てられて行く。マリア崇拝のごときは沙漠的であるよりもより多くモンスーン的であると言ってよい。このような乾きと潤いとの総合というごとき特性は、ただ歴史的な発展としてのみは説き尽くされぬであろう。それはヨーロッパ的人間の|性格〔付ごま圏点〕にもとづく、ということは主張し得られる、しかしその性格がヨーロッパ的であるということはまさにそれが風土的であるということにほかならない。
そこでヨーロッパの風土は湿潤と乾燥との総合として規定せられる。それはモンスーン地域のごとく暑熱がもたらす湿潤ではない。従って夏は乾燥期である。が、沙漠地域のごとく乾いてもいない。だから|冬は雨期〔付ごま圏点〕である。この特性は、南と北との著しい相違にもかかわらず、ヨーロッパを通じての特性である。南と北との相違はこの根本的特性の地盤において太陽の力の強弱、晴天と曇天との多少というごとき形に現われている。雨量においては大体同様であるにもかかわらず、太陽の光の豊かな南方は夏の乾燥の度烈しく冬の湿潤の度も高い。しかもその南方の冬はしばし(66)ば晴天に恵まれ、北方の冬はほとんど曇り勝ちである。かかる点から第二義的な意味においてヨーロッパの風土が南と北とに分かたれる。そうして南は文化史的に言ってまず初めにヨーロッパであった。だから我々もヨーロッパ的風土をまず南から考察し始めよう。
三
南ヨーロッパは地中海の国土である。ところでこの「地中海」なるものは、その名の示しているように、「三大陸地に囲まれた海」として地球上唯一のものである。ここでは海は大地を囲むものではなく、また陸は海に囲まれるものでもない。従って地中海は文化史上最も目ざましい舞台の一つであるのみならず、また海としても大洋と著しく異なった珍しいものなのである。まずその海水の温度は、大洋の影響を受けないために、非常に温かい。最も深いところでも十二三度ぐらいはあると言われている。潮の干満もきわめて少なく、新月満月などの高潮時においてさえも一般には〇・三メートル、最も多いヴェネチアでようやく一メートルに達するという。これらの現象はジブラルタルの海峡がきわめて狭く、海水の流動が自由でない上に、大洋を|西に〔付ごま圏点〕控えているという事実にももとづくであろう。なおそのほかに地中海にそそぐ河水と雨水の量がきわめて少なく、海水の蒸発を補い得ぬ程度であるということも、この海を特殊なものとする一つの契機であるらしい。
自分の直接に触れたところによると、この海は、三月にも、五月にも、また十二月にも、我々が平生海と思っているものと同じでなかった。それは漠然たる印象に過ぎぬが、しかし自分にとってはかなりに強く感ぜられたのである。自分がマルセーユからニース、モナコを経てジェノアのあたりを泊まって歩いたのは、十二月の半ばから正月へかけてであったが、このリヴィエラの海岸はいかにも南国らしい暖かさで、ところどころには東洋から移し植えたらしい(67)竹の姿も見られ、その他種々の熱帯植物も生い育っていた。そうして昼間は外套なしに散歩していても汗ばむほどであった。この南国の海岸が我々の南国の海とははなはだしく趣を異にしているのである。ニースやモナコあたりの海岸通りが見渡す限りコンクリートで立派に固めてあるから、それで感じが違ったのだとは思われない。この道に添った波打ちぎわの白い美しい砂が、今掃き清められたように一点の塵埃さえも交じえないで、長くはるかの彼方まで続いている、その砂の具合がどうも我々には妙らしく感ぜられるのである。我々の南国でも、冬の海となれば、波打ち際はきれいであるが、しかしもっと「潮」にぬれているという感じがあると思う。海から吹いて来る風でもそうである。ここでは潮風らしい感じのない乾いた風が吹いて来る。冬の海には夏ほどの磯の匂いがないとしても、しかし我々の海にはもう少し海の匂いがあると思う。自分にはとにかくこの「海の感じのない海」が珍しく感ぜられたので、透き徹った海の水をのぞいて回ったことがある。渚に近い海底や海底の岩には、どこにも植物らしいものが見えず、また貝類の付着しているらしい影も見えなかった。そういうものがここの海に全然生育していないとは考えられぬが、しかし自分の眼にはついに触れなかったのである。そのためにここの海水の色の透き徹った化学的着色らしい感じが特に強く自分の心に烙きついた。これを我々の南国の海の複雑な色調を持った水の色に比べると、とにかくはなはだしい相違が感ぜられる。ここでは冬の海に海女たちが潜り込んで行って岩から海苔を掻いてくる、栄螺《さざえ》を採って来る。寒海苔《かんのり》や栄螺の壺焼きを賞美する人たちは、都会の真冬の食卓においてさえ強烈な磯の香をかぐことができるであろう。が、そういう感じは地中海には全然ない。それは生き物のあまりいない、海草の繁茂しない海なのである。だから自分にはこの南国の海において沖に出漁している漁船を見たという記憶が一つもない。海はいつもひっそりとして、ただ一つの帆影さえもなく、荒漠たるものであった。我々の南国の冬の海のあの勇ましい鮪漁《まぐりりよう》や鰤漁《ぶりりよう》を知っている(68)ものにとっては、これは全く死の海である。
幾日かイタリアの海岸を回って歩いた時にも自分の受けた印象は同じであった。アマルフィへ海岸づたいの崖道を車を走らせながら見おろした海には、海草や貝類の姿も、また漁船の影も、見えなかった。シチリアの島を回っても同様である。島の東でも南でも北でも自分は漁船を見なかった。また渚では貝殻の付いた岩、何らかの植物の付着した岩を見なかった。陸から今海へ持ち込んだ岩と、海水に久しく浸っていた岩とは、我々の海では一目して区別のできるものであるが、しかしシチリアの海岸で波に洗われつつ隠見している岩は、今陸上から持ち込んだばかりの岩と同じように、何物も付着しないさらさらとした岩であった。我々にとっては湖水でさえもこんなものではない。
自分はこれだけを見てからやっと地中海が何であるかに気づき始めたのである。それは海ではあるかも知れぬが、しかし黒潮の流れている海とは同じものでない。黒潮の海には微生物から鯨に至るまで無限に多種類の生物が生きている。しかるに地中海は死の海と言ってよいほどに生物が少ない。黒潮の海は無限に|豊饒な海〔付ごま圏点〕であるが、地中海は|痩せ海〔付ごま圏点〕である。地中海が荒涼な印象を与えたことは決して偶然ではなかった。それはいわば海の沙漠である。そこには本来「海の幸《さち》」が乏しい。従って地中海沿岸地方に漁業や魚食や海草食が発達しなかったことはきわめて当然のことなのである。旅行者にとってはマルセーユやヴェネチアの魚料理は印象の強いものであるが、しかし|この二つの町のみが〔付ごま圏点〕地中海での例外であることを忘れてはならない。というのは、ヨーロッパから地中海へ流れ込む河らしい河は、マルセーユの傍のローヌ河とヴェネチアの傍のポー河とのみであり、そうしてこれらの河口に近い海のみが魚類にとって食物の豊かなところだからである。海とあれほど親しかったギリシア人が主として獣肉のみを食ったということは、右のごとく見れば理解しやすくなる。それに比べれば我々の海は黒潮に洗われるのみならずまた無数の河口から(69)不断に栄養物を受け取っている。だから我々の島国が一つの大きい魚床として世界に比類なき漁場となるのも無理はない。日本の漁船の数は、日本以外の世界じゅうの国々の漁船の総数に匹敵し、日本の漁夫の数は同じく世界じゅうの漁夫の総計よりも多いと言われる。このような漁業国が魚肉と海草とのゆえに獣肉を必需品としなかったのは当然である。
そこでこういうことが言われる。地中海は古来「交通路」であり、そうしてそれ以上の何ものでもなかった。山は距てるが海は結びつける、ということは地中海についてのみは正しいのである。それに此して我々の海は何よりもまず食物を獲る畑であって交通路ではなかった。それが最近に交通路としても用いられるようになったまでは、むしろこの島国を大陸から距てる「障壁」であった。だから我々の海の観念を直ちに地中海に当てはめてはならない。歴史の舞台としての地中海は我々の考えるような海ではない。地中海の航行に関してはすでに『オデュッセイア』が|きわめて精確な〔付ごま圏点〕知識を披瀝している。それほど地中海は航海に便なのである。島が多い。港湾が多い。霧などはなくて遠望がきく。七か月ぐらいは好天気がつづき、天体による方位の決定が容易である。風はきわめて規則正しく吹いている。陸風と海風との交代もきわめて規則正しい。だから地中海は海の民族にとっての子供部屋だと言われている。イタリアから南フランス、イスパニアに至るまでギリシアらしい風土を持つ沿岸地方に必ず植民地を作ったギリシア人にとっては、地中海は実際に交通路であった。ローマとカルタゴとの激しい折衝もこの海が交通路でなかったならば起こらなかったであろう。
このような地中海の性格は、それが「乾いた海」であるということと連関する。もし地中海が太平洋のごとき湿潤な海であり無数の生物を繁茂せしめ得たならば、沿岸地方の人々はあれほど動き回りはしなかったであろう。しかる(70)にそれは「乾いた海」であったがゆえに海の生物に食を与え得なかったのみならず、また島々や沿岸の土地をも痩せしめた。マルセーユの海の小さい島々は、ちょうどアラビアの南端アデンの山のように、一本の樹もない赤裸の岩塊である。海岸の山々もまたそれに近い。リヴィエラの海岸では平地には熱帯らしい植物が繁茂してはいるが、その背後に切り立った山々はやはり日本には見られないほど乾燥した岩山である。イタリアの半島では海ぞいに走る山脈は内部の山脈よりもはるかに禿げており、また一定の高さ(ほぼ三四百メートルであろうか)より上は必ず岩山になってしまう。だから一般に海岸は貿易町としてしか開けない。言いかえれば海岸は交通路に面しているという以外に特に海から恵まれるところがないのである。そうしてそれは海が|乾いている〔付ごま圏点〕ことに起因する。南に広漠たるサハラの沙漠、東にはまたアラビアの沙漠を控えたこの海は、海水の蒸発くらいで空気を潤すことができない。大西洋からの湿気はピレネー、アルプス、アトラスなどの諸山脈にさえぎられてしまう。だから|暑熱の季節〔付ごま圏点〕、すなわち海水の蒸発の最も盛んな季節が、沙漠の乾燥した空気によって最もよく湿気の中和させられる季節であり、従ってこの地方の|乾燥期〔付ごま圏点〕になる。地中海とは、夏の太陽が烙きつけている土地に雨を送ることのできない海なのである。
四
|夏の乾燥〔付ごま圏点〕――ここで我々は牧場的なるものに出逢うのである。ヨーロッパには雑草がない。それは夏が乾燥期だということにほかならぬ。雑草とは家畜にとって栄養価値のない、しかも繁殖力のきわめて旺盛な、従って牧草を駆逐する力を持った、種々の草の総称である。我々が「夏草」として知っているものはまさにこの雑草である。ところでそれが我々に「夏草」と呼ばれることによっても明らかなように、それは|暑熱と湿気〔付ごま圏点〕とを条件として繁茂する。路傍、土手、あき地、河原などに五月ごろ芽を出し始め、梅雨に養われ、七月に至れば見る見るうちに数尺にものびる。そ(71)れは実に根強い、頑強な、従って練兵場にでも繁茂し得る草である。耕地でも住宅地でも、もし一二年の間放置せられるならば、たちまちこの種の雑草に占拠せられ、荒蕪地に化してしまう。しかし雑草にこの旺盛な生活力を与えるものは|暑熱と湿気との結合〔付ごま圏点〕である。すなわち梅雨とそのあとの照り込みとである。しかるに|夏の乾燥〔付ごま圏点〕はちょうど必要な時にこの湿気を与えない。従って雑草は芽ばえることができない。
イタリアのように太陽の光の豊かなところで夏草が茂らない、それは全く不思議のようである。しかし事実はまさにその通りなのである。そのよき例はマレンメン(Maremmen)であろう。これは狭義にはピサとローマとの間の海岸地方を言うが、広義にはピサの北方よりナポリ近くまでの海岸全体をいう。その中にはローマ郊外の平野カムパニヤやローマの東南の海ぞいの平野 Paludi Pontine などの有名な荒燕地が含まれている。これらはすでにローマ時代から夏のマラリアで名高く、従って人間は山の上に退却し、平野には住む人がない。このように捨てられた土地は、日本でならばどうにも手のつけようのない荒地に化してしまうであろう。しかるにこれらの広い平野、湿地及び丘陵地は、決して雑草に占領せられてはいないのである。もちろん雑草が全然ないというのではない。細い、弱々しい姿の雑草が、きわめてまばらに生い育ってはいる。しかしそれらは柔らかい冬草を駆逐し得るほどに旺盛でもなく、またこの土地から牧場らしい面影を抹殺し去るほどに繁茂してもいない。十月から四五月までの間はこれらの土地も羊の放牧地として立派に役立つのである。言いかえれば人力を加えない捨てられた土地さえもここでは「牧場」である。
かくのごとく夏の乾燥は夏草を生育せしめない。草は主として冬草であり牧草である。ヨーロッパ大陸の|夏の野〔付ごま圏点〕を覆うものはかかる柔らかい冬草である。が、地中海地方のみは|冬草〔付ごま圏点〕を|夏の野〔付ごま圏点〕に見ることができぬ。五月の未になれば南フランスでもイタリアでも野の草が黄ばんで来る。ちょうど麦畑が黄ばむときに牧場もまた黄ばむのである。そこ(72)でイタリアの夏の山野は緑であるよりもむしろ黄褐色なのである。もちろん山にはオリーブの銀緑色があり、またあまり大きからぬ落葉樹もある。しかし山野の色の基調をなすものは、樹の少ないイタリアにあっては、まさに草の色である。だから山野は文字通りに夏枯れによって黄ばみ、それがまた緑になり始めるのは雨期の始まる十月ごろである。牧場は冬の進むにつれて再び美しい緑の色を回復する。それはちょうど我々にとっての麦畑の緑色と同様である。
ここに夏の乾燥に対する|冬の湿潤〔付ごま圏点〕の意義が見いだされるであろう。十月の雨はちょうど我々にとっての梅雨であるが、もちろん梅雨ほどに湿潤でなく、日本の春雨に似た雨が時々降るという程度に過ぎない。こういう静かな秋の雨に恵まれて|暑熱を必要としない〔付ごま圏点〕冬草の類が穏やかに芽ばえてくる。そうして驚くべきことには、野原にのみではなく、岩山の岩の間にさえもこういう柔らかい冬草が育つのである。旅行者に親しいマルセーユのノートルダムの丘やローマのティヴォリの山はその手近い例として引かれてよい。そこには白い石灰岩の|風化しない〔付ごま圏点〕固い肌が地面の六七分を占めるほどに点々として露出しており、そうしてその隙間を右のような柔らかい短い草が美しく埋めているのである。我々の国の岩山にはこれほど|荒れない〔付ごま圏点〕山の肌を持つものもなく、またその岩間にはえるものがあるとしても、それは頑強な茅の類かあるいは小松、つつじなどであって、決して冬草ではない。だから自分が初めて船からながめて驚いたヨーロッパの緑も、この白い石肌と交錯した冬草の色にほかならなかった。このように冬草は岩山にさえも育つ。いわんや土の山には豊かに繁茂する。あまり高くない小山であれば全山がことごとく麦や冬草に覆われているということもまれではない。シチリアの南部のごときは見渡す限りのゆるやかな山々がその頂上に至るまでことごとく緑草に覆われ、樹木とてはただ谷間の底の果樹のみであった。
このように夏の乾燥と冬の湿潤とは、雑草を駆逐して全土を牧場たらしめる。このことは農業労働の性格を規定せ(73)ずにはいない。日本の農業労働の核心をなすものは「草取り」である。雑草の駆除である。これを怠れば耕地はたちまち荒蕪地に変化する。のみならず草取りは特に「田の草取り」の形に現われている。それは日本における最も苦しい時期――従って日本の住宅様式を決定している時期、すなわち暑熱の最もはなはだしい土用のころに、ちょうどそのころを繁茂期とする根強い雑草と戦うことを意味する。この戦いを怠ることはほとんど農業労働の放擲に等しい。しかるにヨーロッパにおいては、|ちょうどこの雑草との戦いが不必要〔付ごま圏点〕なのである。土地は一度開墾せられればいつまでも|従順な土地〔付ごま圏点〕として人間に従っている。隙を見て自ら荒蕪地に転化するということがない。だから農業労働には|自然との戦いという契機が欠けている〔付ごま圏点〕。農人は耕した土地に小麦や牧草の種を蒔いてその成長を待っていればよい。日本のように土地が湿潤でないから麦畑に畦《うね》を作る必要もなく一面に草原のように麦をはえさせる。麦の間に他の草が混じるとしてもそれは麦よりも弱い、従って麦に駆逐せられる冬草である。このような麦畑は牧場と同じに手がかからない。また少し離れて見れば牧場と麦畑との区別はつかないのである。両者の区別が明白に現われるのは四月未から五月ごろででもあろうか。麦があからみ初めれば牧草は苅り取られて乾し草にせられる。やがて麦の収穫が来る。農業労働には防御の契機はなく、ただ攻勢的な耕作、播種、収穫のみがあると言ってよい。
が、それは夏の労働と冬の労働との此較ではないか、と人はいうかも知れない。確かにそうである。|主要食物を得るための労働〔付ごま圏点〕がちょうどそういうふうに異なっているのである。地中海地方の夏の労働は葡萄やオリーヴの栽培であって主要食物の耕作ではない。しかも果樹栽培は持久的なものであって稲の栽培のように急激なものではない。夏の乾燥期に入るころに葡萄が芽を出し蔓をのばし初める。農人はその花が咲き実が熟するのを待っていればよいのである。イタリアでは葡萄の収穫量はほとんど小麦に匹敵すると言われているが、しかしそのわりに労働は激しくないで(74)あろう。もっともこの場合には、雑草との戦いの代わりに|害虫との戦い〔付ごま圏点〕を戦わねばならぬ。しかし夏の乾燥は昆虫類にとって有利な条件でない。日本のように昆虫の多い国から見れば地中海沿岸といえども物さびしいくらいに虫が少ない。だから果樹園における|害虫との戦い〔付ごま圏点〕は平野におけるマラリアの蚊との戦いよりもはるかに軽易なのである。十数里にわたる平野が草地として放置せられている地方でも、山の麓から山腹へかけては豊沃な耕地となっている。たとえばローマ付近のアルバノの山やティヴォリの山がそれである。山の斜面は、冬の雨期にあっては静かな細雨に潤されて緑の美しい畑地となり、夏の乾燥期にはオリーヴや葡萄の繁る果樹園となる。そうしてアルバノやティヴォリの農人たちは、土地の甘い葡萄酒に酔い、むだ話に時を移すことを楽しむところのきわめてのどかな生活に浸っている。イタリア人が怠け者であるということは、一つは農業労働の安易にもとづくのである。そうして農業労働が安易であるということは、|自然が人間に対して従順である〔付ごま圏点〕ということにほかならない。
五
夏の乾燥、冬の湿潤、すなわち暑熱が湿気と結びつかないということからして、我々は|自然の従順〔付ごま圏点〕を見いだした。ところでこの自然の従順を一層露骨に示すものは、地上の草よりもむしろ|気象〔付ごま圏点〕である。暑熱と結合した湿気は大雨、洪水、暴風というごときいわゆる「自然の暴威」として己れを現わすが、湿気が暑熱を離れたところにはこのような現象はきわめてまれなのである。
地中海地方の雨量は日本の三四分の一であるが、その雨も冬の雨期に静かに大地を湿すのであって、土地を洗うように降るのではない。もし日本でのように暑熱の大洋において作られた多量の湿気が豪雨となって陸を襲うのであったならば、イタリアのあの斜面の耕地は決して安らかではあり得ない。頂上まで耕されたシチリアの小山は数回の豪(75)雨によって草の根を洗われ、それに続く暑熱によってその根を枯死させてしまうであろう。葡萄やオリーヴの畑も土壌を洗い流されて畑の資格を失うであろう。だからこれらの耕地が豊沃な耕地であることは、一に大雨豪雨が稀有であることにもとづいている。
大雨がいかに少ないかを示す直接の証拠は河の堤防である。大雨によって急激に増水する怖れのあるところには、堤防は高く頑丈《がんじよう》に築かれる。しかし自分はこの種の堤防をほとんど見たことがなかった。イタリア第一の大河たるポー河は、なるほどその下流においては堤防を持ってはいる。しかしアルプスの湖水から流れ出て水量の豊富をもって有名な大河としてはあまりにも貧弱な堤防であった。アルプスの雪解けがしばしば大増水を惹起するにもかかわらず、しかも堤防はこれでよいとせられているのである。自分がこの地方を旅行した三月は、晴天の日がまれにしかないほどの珍しい雨つづきであって、ポーの流域の洪水は新聞に大きく報道せられていた。しかるにその洪水の現場へ行って見ると、堤防いっぱいになみなみと充たされている河水は、きわめてゆるやかな、流れるとも見えぬほどの速度で流れている。そうして堤防の高さの少しく低いところへ来ると、これもきわめて静かに、ちょうど湧き出る泉の水が岩の縁を越して音もなく流れ出るような静かさでもって、堤防を超えて畑の中へ流れ出ている。畑や牧場の中の低地はこの水に浸されてちょうど大きい雨水のたまりのような感じになる。なるほどこれも洪水には違いない。浸水した畑や牧場は、排水の困難のために、全然荒らされてしまうであろう。しかし自分は思わず滑稽な感じに打たれて笑い出さざるを得なかった。我々にとっての洪水は、奔騰する濁流が堤防を突き破って耕作地に襲い入り荒れ回ることである。そのすさまじい感じはここには全然見られぬ。何十年来のまれな長雨の際の洪水がこれである。平年の穏やかさは推して知ることができるであろう。
(76) 風は一般にきわめて弱い。たまには、特に冬期に、サハラの沙漠からシロッコが吹いてくるというが、自分のいた百日あまりの間には一度もそれに逢わなかった。風の弱いことを明らかに示しているのは|樹木の形〔付ごま圏点〕である。それは植物学の標本のように端正で、従って規則正しい。特に著しく目につくのは笠形の松と鉛筆形の糸杉とであった。円く饅頭笠《まんじゆうがさ》式に整った松は、ただに公園においてのみならず、野原にも山の頂にも多数に見られる。ただ下枝を払ったのみでそのほかに人工を加えない松が、枝を四方へ平等にびろげ、小枝を均等に繁茂させ、その正しい笠形を垂直の幹によってささえている。松と言えば幹に必ずうねりがあり、枝が必ず傾いているのを見慣れている我々には、このシンメトリーの形がいかにも人工的に見える。糸杉の垂直に細長くのびた形も同様である。植木屋が丹念に手入れをでもしたかのように、小枝は網のごとく細かに分岐して緻密にしかも整然と外面を作っている。これらの目立つ樹のほかにも、日本の庭園で檜やひばに植木屋がつけるような規則正しい形が、さまざまの樹におのずからにしてついている。そこには植物学の説く通りの規則正しい枝の張り方が認められる。それは我々に|人工的〔付ごま圏点〕という感じを与えるのみならず、その規則正しい、理屈に合った形のゆえに、さらに著しく|合理的〔付ごま圏点〕であるという感じをも与える。しかし考えてみるとこのような形が人工的に思えるのは我々の国土の不規則な樹の形を見慣れているからである。規則正しい形は我々の国においてこそ人工的にしか作り出せないものであるが、しかしそれは植物にとって|自然的〔付ごま圏点〕な形なのであり、従って不規則な形こそ不自然なのである。そこでわが国においては|人工的〔付ごま圏点〕と|合理的〔付ごま圏点〕とが結びつきヨーロッパにおいては|自然的〔付ごま圏点〕と|合理的〔付ごま圏点〕とが結びつくということも言い得られる。ルネサンスのイタリアの絵に背景として描かれるシンメトリーの樹の姿はイタリアにおいては自然的ででありつつ合理的な印象を与えるが、桃山時代の襖絵に描かれるうねった樹の姿は日本において自然的でありつつ非合理的な統一を表現している。いずれも自然の生の体験から創作し(77)つつその現わすところが異なって来るのである。そうしてこのような区別が帰するところは風の強弱である。暴風の少ないところでは樹の形が合理的になる。すなわち|自然が暴威を振るわないところでは自然は合理的な姿に己れを現わして来る〔付ごま圏点〕。
自然が従順であることはかくして自然が合理的であることに連絡してくる。人は自然の中から容易に規則を見いだすことができる。そうしてこの規則に従って自然に臨むと、自然はますます従順になる。このことが人間をしてさらに自然の中に規則を探求せしめるのである。かく見ればヨーロッパの自然科学がまさしく牧場的風土の産物であることも容易に理解せられるであろう。
六
我々は牧場的なる風土の特性を|夏期の乾燥〔付ごま圏点〕から理解した。暑熱と絶縁せられた湿潤は、|明るい、従順な〔付ごま圏点〕、従って|合理的な〔付ごま圏点〕自然の姿となって現われる。イタリアの自然はその代表的なるものである。特に本来のイタリア、すなわち|アペニン山脈の南〔付ごま圏点〕において、この特性が著しい。しかるにこの本来のイタリアこそ現代のヨーロッパにとって真実の「発祥地」であり、従って「ヨーロッパ的なるもの」の揺籃の地であった。ここで自然が征服せられ、美しい牧場が出現したということは、やがて北欧の原野の森林が切り開かれ、そこにも同じような牧場が出現するゆえんとなったのである。他の言葉で言えば、この地で発展したラテン語がヨーロッパのすみずみにひろがり、この地で作られたローマ法がヨーロッパの国々の法律となった。
がしかし、このヨーロッパの「発祥地」は、それ自身ギリシアの教育によって初めてかかる発祥の地となり得たのであった。このことはイタリア半島のうち|本来のイタリアのみ〔付ごま圏点〕がギリシアの植民地の作られた地方であることによっ(78)ても明らかであろう。ギリシア人は不思議な直覚をもって特にギリシア的な性格を持つ土地にのみその町を植えて行ったのである。そうして彼らが町を植えたということがやがてローマ人を引きのばし成長せしめるゆえんとなった。言いかえればギリシア人が地中海沿岸にギリシア的風土を探し回ったがゆえにそういう風土が特に際立って表へ出ることになったのである。そこで我々は牧場的なる風土の根源をさらにさかのぼってギリシアに求めなくてはならぬ。そもそもギリシア的風土とは何であるか。
ギリシア半島――特に古い文化の舞台であるエーゲ海沿岸は、山脈の屏風によって西をふさがれ、細長いクレータの島によって南の海から遮断された特殊の区域である。だから乾燥の度はイタリアよりもはるかにはなはだしい。雨量はイタリアの半分だと言われる。空気はイタリアよりも一層澄み透っている。雨期である冬の日にさえも、「澄みわたる碧空、輝き透る天日」がギリシアの自然の特徴である。ギリシアがしばしば「真昼《まひる》」という言葉によって特性づけられ、また「ギリシアには陰がない」と言われるのは、空気が|湿気を含まない〔付ごま圏点〕ことから来るこの明るさのゆえである。従ってギリシアでは、雲の色、山の色、土の色、岩の色というごときものが実に鮮明に、調子を鈍らせられることなく、くっきりと現われてくる。潮の色は実に「澄徹」であり、野の緑も全く濁り気がない。明朗を特徴とするイタリアもこの点でははるかにギリシアに及ばない。
アティカに例を取って言えば、空気の|明朗〔付ごま圏点〕と|乾燥〔付ごま圏点〕とは次のごとき数字によって理解せられるであろう。すなわち一年の間に一七九日は好晴、一五七日は半晴、陰欝な日はわずかに二九日である。もし普通の意味で晴天という言葉を用いるならば、年に三百日は晴天であり、一日じゅう完全に曇る日は年に十日ぐらいだろうと言われる。これは冬の半年がほとんど陰鬱な日のみである北方のヨーロッパとは実に雲泥の相違である。『オデュッセイア』の描いている(79)冥界がきわめてよく冬の英国に似ていることは決して偶然ではない。ギリシア人がジブラルタルの海峡を出て英国に漂着したならば、実際にその陰欝を死の国のものとして感じたであろう。ギリシアでは陰欝な日は冬の雨期に集中している。しかしその雨期にギリシアを旅行した安倍能成氏の記録するところによると、二週間の滞在中に好晴七日、半晴三日、曇天三日、雨一日である。しかもその曇天三日の内、一日は、朝海を見渡したときに「潮の色が実に澄徹であった。」また他の一日は、「食後月が出た。」残りの一日は午後カフェーに雨宿りするほどの雨があって夕方晴れた。そうしてその夜から翌日へかけて微雨が降ったのである。曇天の内二日はかなり烈しい風がぼうぼうと吹いたという。恐らくシロッコが来たのであろう。これがギリシアの最も陰欝な時期なのである。従ってギリシアの最も陰欝な時期も、我々にとっての最も明朗な時期よりは、さらに一層明朗であるということができる。
このように晴天つづきであるということは、しかし、単調を意味するのではない。四季の変化はかなり顕著である。三月には美しい寿が始まって六月まで続き、六月半ばから九月半ばにかけては通例|雨の全然降らない〔付ごま圏点〕暑い夏になる。シロッコがサハラの沙漠から埃を吹き送って来る日を除けば、空は毎日一様に蒼く、烈日は照り輝き、大地は乾き上がる。従って草は枯れ泉も涸れる。しかし九月には爽やかな驟雨が来て美しい秋が始まり、草が再び録になり始める。十一月末から三月までは、南風が湿気をもたらす雨期である。牧場の草や畑の麦が青々と育つ。冬とは言っても日本の冬よりははるかに暖かく、むしろ日本の春に近い。麗しく晴れた小春日和の間にいくらかじめじめした寒い日が混じるのである。シロッコの吹く日などは冬がどこかへ飛んで行ってしまう。
これがギリシアの気候である。それは夏の烈しい乾燥のゆえに樹木の生育に適しない。草は枯れてもまた芽を出すが、山の樹木はそうは行かない。だから山は多く岩山で、「峨々」「崔嵬」というごとき言葉によって形容せられるよ(80)うな形をしている。樹木としては畑に作られたオリーヴのほかには時々松、柳、糸杉などがあるくらいである。そこで最も目立つものは冬草である。現在でも土地のほぼ三分の一は牧場だと言われているが、古代にはその四分の三まで牧場として用いられた、あるいは牧場としてしか用いられ得なかった。畑地は牧場よりもずっと少なく、小麦、葡萄、オリーヴ、無花果《いちじく》などの畑を合して牧場の半ばくらいであるという。ことに小麦は少なく、国内の需要を充たすに足らない。農業労働の主要なものは|牧畜と果樹作り〔付ごま圏点〕とである。従って農業は気象の不安定に脅やかされることなく、規則正しい季節の循環雨期の到来によって、あまり豊饒ではないがまたあまり乏しくもない農産物を此較的確実に生産し得る。
このことは風土が生活必需品の生産を|牧場的〔付ごま圏点〕に規定しているということを意味する。そこでは自然の恵みが|豊かでない〔付ごま圏点〕がゆえに、従って|自然に忍従して恵みを待つを要しない〔付ごま圏点〕。とともに自然に対抗して不断に戦闘的な態度を取らなくてはならないほど|自然が人を脅やかしもしない〔付ごま圏点〕。自然は一度人力の下にもたらされさえすれば、適度の看護によって、いつまでも|従順に人間に服従して〔付ごま圏点〕いる。この自然の従順がまず|生産〔付ごま圏点〕を牧場的たらしめるのである。
が、自然の従順はさらに|受用〔付ごま圏点〕をも牧場的たらしめる。人は牧場の柔らかい草の上で裸で嬉戯することができる。ということは、自然の刺激を全然開放的に受け容れてもほとんど危険らしい危険がなく、むしろ歓びのみを感じ得るということを意味する。だからギリシア風の衣服は自然に対して肉体を守るという趣の最も少ないものである。さらにギリシア人が裸体で競技し、また裸体像を彫刻の様式として作り出したということも、この連関において理解せられねばならぬ。しからば受用が牧瘍的であるということはやがて創作が牧場的であることであり、従って生活必需品のみならず文化産物もまた牧場的に規定せられることを意味する。
(81) そこで牧場的な文化はギリシアにその根源を持つということになる。しかもそれは特にギリシア的風土に規定せられて起こって来た。ギリシア的風土の特性は、前に言ったように、あくまでも明朗な、陰のない、「真昼」である。そこではすべてが露わに見える。湿気の多い空気の中では、晴朗な日にでも濃淡陰影があって、何らか「覆う」という感じから離れることができないが、ギリシア的明朗は覆うものなき明るさである。従って自然の内に「見えざるもの」「神秘的なるもの」「非合理的なるもの」を求めるという傾向が強まらない。もちろんギリシアにも「夜」はある。だからデメーテル崇拝に見られるような暗い半面も無視することができぬ。が、ギリシア的なるものとして特に世界史的意義を担っているのは、明朗なる真昼の精神である。そうしてギリシア人はギリシア的風土と同化することにおいてここまで己れを高めたのであった。彼らももとは自然のうちの「見えざるもの」「非合理的なるもの」に脅やかされ、自然に対してただ恵みを乞うていたのである。しかるに明朗なギリシア的自然が彼らの肉体となって来たとき、彼らはこの隠さない自然から「見ること」を教わった。自然はすべてを見せている。隠し事をしていない。ところで何事をも隠さない仲は最も親しい仲である。人間と自然とは睦み合う。自然との調和と言われるものがそこに成立する。かくして自然の内に合理的なる規則を見いだしつつ自然と融合するというごときギリシア的特性が生じたのである。だからギリシア的風土がギリシア精神の特性として己れを現わしたとき、ギリシア文化もまた初めて芽ばえて来たと言ってよい。
もとより我々は、人間存在から引き離した対象的な風土が、風土的性格を持たない精神に対して、右のごとき影響を与えたというのではない。風土は主体的には人間存在の契機として働いている。そうして人間存在のさまざまの契機がある時期に著しく発展し他の時期には下積みとなっているように、風土的契機もまた時には著しく働き時にはそ(82)の力を弱める。一つの文化がその独特な形成に達するというごとき時には風土的契機もまた特に著しく活躍するのである。だから現在の晴朗なギリシアに古《いにしえ》のごときギリシア的真昼がないということは、現代のギリシアに古《いにしえ》のごときギリシア文化がないというに等しい。それはギリシア文化が顕著に風土的性格を持つということの反駁とはならないのである。問題はむしろいかなる時期にいかなる仕方で風土的契機が活躍したかという点に存する。そこで我々はギリシア人が初めてギリシア人となった時期に眼を向けなくてはならない。
七
ギリシア的自然は従順であり明朗であり合理的である。しかしそれは初めよりギリシア的な「真昼」、ギリシア的な合理性として現われていたわけではなかった。人間が従順なる自然への|支配を自覚し〔付ごま圏点〕、自然の支配者として|己れ自身の生活〔付ごま圏点〕を形成し始めたとき、右のごとく風土的性格がギリシア精神の性格となったのである。この自覚はしばしば|自然の拘束からの人間の解放〔付ごま圏点〕と呼ばれている。しかし自然が暴威を振るうところでは人間の解放はこの仕方では起こらなかった。自然が従順であり、従って原始時代にすでに技術的な自然への支配が行なわれていたからこそ、自然を人間に隷属せしめるという仕方でこの自覚が起こったのである。だからギリシアにおける自然との調和は自然の人間化であり人間中心的な立場の創設であった。そこで自然からの解放は|自然との戦いからの解放〔付ごま圏点〕、従って、|人間の活動の激成〔付ごま圏点〕となった。人間の競争、従って権力欲や遊戯欲による人と人との摩擦、あるいは人間の創造力の挙揚、従って知識欲による理性の発展や創作欲による芸術の産出、それらがこの新しい立場のひき起こした新しい形勢なのである。では右のような自覚はいかにして起こったか。
ギリシア語を話す民族が北方よりギリシアの土地に入り込んで来たのは、古くは紀元前二千年までもさかのぼると(83)言われているが、しかし紀元前千二三百年ごろまでエーゲ海を支配していた文化はこの民族のものではない。彼らの移住は長期にわたる部族的な移動であって民族的な大集団の移動ではなかった。遊牧しつつ徐々に半島に浸透し、ある土地に居つけば農業や果樹栽培を覚える。そういう農牧民としての部族生活が半島に移ってからも何世紀かの間続けられていたのである。マレーやハリソンの語るところによればこれらの部族の宗教はなおトーテム崇拝の段階にあったらしい。しかし我々がギリシア民族として類型的に考えているのは、ポリスを形成し芸術の創作に長じた民族であって、右のような部族民ではない。従ってギリシア語を話す民族がギリシア半島に入り込んで来たというだけでは、まだ本来の意味のギリシア民族は成立しておらない。それが成立したのは前十四世紀に始まって数世紀の間続いた大移動の時代だと言われている。
従順な自然の中で平和な農牧の生活を送っていたはずのこれらの民族が、何ゆえに海へ乗り出し小アジアの海岸にまで移らねばならなかったか。ベロッホは|人口の増加〔付ごま圏点〕とギリシアの土地の豊饒でないこととを原因としてあげている。この時代の人口の増加というようなことは証明のしようのない問題ではあるが、しかしそうであったかも知れない。もしそうであるならば、それはまず部族と部族との間の争闘を引き起こしたはずである。土地は豊饒でないにしても、自然との戦いに専心しなくてはならないような荒々しい土地ではない。従って食糧の不足は他部族の牧畜を奪掠する方へ向けられねばならぬ。かくして始められた人間の争闘が漸次熾烈になって来たときに、初めて農牧の民を|海へ追いやる〔付ごま圏点〕という情勢が現われてくる。そうして海が生活の舞台となるとともに、原始的な農牧の民は己れを新しく作りかえることになるのである。ギリシアの中心はエーゲ海そのものであると言われるが、その事情はこの時に始まるのである。
(84) マレーやヴィラモーヴィッツの想像するところによると、海からの移住は何らか切迫した事情のために男たちがその女子供や家畜を捨てて小舟を漕ぎ出すというような事件に始まっているらしい。あるいは向こう見ずの冒険的な若者たちが進んで海へ乗り出して行くというようなこともあったかも知れない。いずれにしてもそれは集団的な移動ではなくして、いわば部族的共同態の「断片」が海にさまよい出たのである。そうしてこれらの「断片」は、必要に迫られておのずから「海賊」に転化する。彼らはいずれかの島、いずれかの沿岸を襲うて食糧を得なくてはならない。陸上の争闘は、食糧の不足にもとづくとしても、奪掠によってのみ生きる人々の争闘ではない。しかし一度海に出れば、奪掠のみが生存の基礎であり、従って生活全体が争闘になる。海への進出と戦士への転化とは同一事である。しかし右のごとき「断片」はそれ自身のみでは有力な戦闘を試みることができない。そこでそれらは他の部族の、ある時には他の種族の断片と連合し、豊饒な島や沿岸を襲い得るほどの戦闘団体を結成する。戦って勝てばその土地を占領し、家畜と女たちとを自分たちのものにする。そこで混血が起こり、異部族の祭儀の混合が行なわれ、古い伝統が残りなく破壊せられる。ここに昔の農牧の生活とは著しく異なった新しい生活が始まる。かつては彼らの家族生活は、「兄弟なる牡牛」が犠牲として殺されるとき、この牡牛の死のためにさめざめと泣くというふうな女たちによって守られていた。今や「力」によって新しい土地に臨んだ彼らは、異なった言葉、異なった祭儀の女を、しかも彼らがその夫や親を殺したところの女を、妻とするのである。その妻が、夫や親の仇である新しい夫に対してどんな復讐をするかも知れないという危険は、日夜彼らの生活につきまとう。また彼らはかつては自ら畜群を飼い、その畜群によって生きていた。今や彼らは「力」によって屈服せしめた土着人に労働せしめ、自らはただその成果を味わう。だから彼らの新しい仕事はその「力」を練って自らを守ることである。武器の製作、武術の練習が彼らの主要事になる。す(85)なわち武士の生活が始まったのである。
このようにして農牧の民が武士の団体に転化するとともに、ギリシアの「ポリス」もまた初めて形成せられた。部族を異にし祭儀を異にする若者たちが争闘や奪掠のために団体を結成したとき、この戦闘団体にとっては部族や祭儀の別よりも敵に対する共同防衛の方が重大事であった。彼らはある土地を占領するとともに要害の場所をえらんで石垣を囲らし共同の敵に備える。この中で人々はその背負って来た伝統を振りすてて新しく生活の共同を実現する。ここにポリスの生活、ポリスの祭儀が新しく始まったのである。だからポリスは海からの移住民を受けた小アジアの海岸において初めて作られ、またそこにおいてまっ先に発達したのであった。
「ポリス」が作られたときに「ギリシア」もまた始まったと言われる。それならば農牧の生活から武士の生活への転化がギリシアの開始なのである。そうしてそれを媒介したものは|海への進出〔付ごま圏点〕であった。海へ出るということは土地から離れること、従って農牧生活からの脱却である。人々はこの脱却によって|自然の拘束から己れを解放した〔付ごま圏点〕。このことは二重の意味を持っている。すなわち人々は自然を看護してそこから物資を得るという生活を捨て自由な海の交通路へ出たのみでなく、また衣食住の必需品のみを作るところの生活を超えて|生活自身のより高い形成〔付ごま圏点〕に向かったのである。最初農牧の民を海へ追いやった原因が食糧の不足であったかも知れないということは、ただ右のごとき運動の機縁を示すのみであって、この運動の意義を把捉せしめるに足らない。食糧を得るために人々が冒険、征服、権力などに向かったのであったとしても、やがて冒険、征服、権力などは食糧よりもはるかに重大な意義を持つものとして生活を支配し始めた。畜群を獲るために争闘が行なわれる場合、その畜群が生命を賭するに価する高貴なものだというのではない。|生命を賭するという活動そのもの〔付ごま圏点〕、それによる征服、及び被征服者に対する権力、それらがそれ自(86)身において貴いとせられるのである。この生活態度は実用的打算的な態度とは全然異なっている。それは命がけの仕事であるにかかわらずしかも遊戯の性格を失わない。『イリアス』に描かれた戦争がその最もよき証拠であろう。ここにギリシア人の性格の顕著な特徴としての|競闘の精神〔付ごま圏点〕が見られるのである。
競闘の精神は、ニイチェも説いたように、|争闘を是認する精神〔付ごま圏点〕である。ヘシオドスの歌うところによれば、地上にはふたりの争いの女神がある。びとりは悪しき戦いや争いを奨める「残虐なる者」である。人々は皆この女神を好まないが、しかし必要に迫られればそれに服せざるを得ぬ。他のひとりは人間にとってはるかに善い神である。ゼウスはこれを大地の根元に据えた。この女神のゆえに、技拙き者もその仕事に精進する。財なき者は富める者を見て我れも同じく種蒔き植え家を斉えんといそしみ、隣人は互いに幸いを得んと競う。瓶作りは他の瓶作りを、大工は他の大工を、歌い手は他の歌い手を、あるいは恨みあるいは嫉む。かかる競争嫉妬をひき起こす女神をヘシオドスは善き神として讃えたのである。残虐なる戦いは単なる破壊として斥けらるべきであるが、しかし競争は人をより高きものの創造へ追いやる。争闘による創造、それが競闘の精神であった。だからギリシア人にとっては、自ら優らんとする努力を刺激する限り、嫉妬は悪徳ではなかった。名誉心も同様である。彼らは他と等しいことを忌み、常にそれを超えようと努める。だから人が偉大であればあるはど、また気高ければ気高いほど、それだけまた名誉心も強く、努力も大きい。これがギリシアに多くの天才人を生んだゆえんである。とともにまたこれが一般に専制を忌むゆえんともなる。ヘルモドロスを追放した際にエペソ人は言った、我々の間では何人も最上者であってはならない、もし何人かが最上の者に成り上がってくれば彼はどこか他の所へ行かなくてはならぬ、と。すなわち最上者の固定は競闘の否定であり、従ってポリスの生活の永遠の根源を涸らすことになる。いかなる天才者も一人で支配してはならない。一人の(87)天才者が現われれば直ちに第二の天才者が欲求せられる。もしこの競闘の精神が失われたならば、あとにはただ憎悪の残酷さや破壊の喜びのみが残るであろう。
かくのごとくギリシア人の創造は競闘の精神にもとづいている。そうして競闘の精神は農牧生活からの解放、従って物資生産のための奴隷の使用を前提とする。自然が従順であるのみならず自然を看護する人間の奴隷的従順があってこそ、競闘に生きる少数の武士の、言いかえればギリシア市民の、生活が可能なのである。自然が峻厳であるところでは、遊牧の民は決して他の民族の支配に甘んずるものではない。イスラエルの民はその永い奴隷的な境遇にもかかわらずついに奴隷化することがなかった。しかるにギリシアの奴隷は、家畜と同じように「生きた道具」として取り扱われている。だからまた逆に「牡牛は貧乏人にとっての奴隷である」と言われるのである。奴隷の生活を形成するものは労働と罰と食物とであって、原理的には畑を鋤く牡牛と異なるものではない。ギリシアのポリスの形成は他面においてかくまでも徹底した奴隷を作り出した。そうしてそれはポリスを形成した少数の人々――すなわちギリシアの市民――が農牧の生活から自己を解放したということにほかならない。
そこで我々はいうことができる、牧場はその否定を通じて特に人間的な創造活動に進展したと。緑の美しい牧場、すなわち従順な自然は、一方において人間の生に没頭する競闘の立場を作り出すとともに、他方において人間を自然の中へ押し戻してしまった。人間はここで神々のごとく生きる市民と家畜のごとく生きる奴隷とに分裂する。このように徹底した分裂は、地中海の古代世界を除いては、恐らく世界のどこにも起こらなかったであろう。ただわずかに近世の北アメリカにおける黒人奴隷の現象がこれと相似ているかも知れぬが、しかし黒人奴隷は古代の奴隷の観念に従ってヨーロッパ人が作り出したものであって、いわばギリシアの奴隷のコピーに過ぎない。自然の威力や恩恵が人(88)間の上にのしかかっているところでは、人間はかくまで徹底的に分裂することはできなかった。そうしてこの徹底的な分裂の上にのみギリシアのあの華やかな文化は創造せられ得たのである。ギリシアにおける自然との調和、人間中心的な立場の創設、というごときことも、奴隷を使役する少数のギリシア市民について言われるのであることを忘れてはならない。ベェクによればアテーナイの盛時の人口五十万に対して市民は二万一千人であった。かくも多数な奴隷を家畜のごとく従順ならしめたところにギリシアのポリスの特殊な意義がある。
八
ギリシア人は以上のごとくにして己れをギリシア人に作り上げた。だからギリシア人の出現はギリシア的風土と離すことができないのである。というよりも、ギリシア人がギリシア人になるに従ってギリシア的風土もまたギリシア的風土として己れを現わして来たと言うぺきであろう。ギリシアのポリスが作られたということは、奴隷が作り出されて市民が衣食住の必需に対する労働から解放せられたということである。そこで市民は右のごとき労働からの|一定の距たり〔付ごま圏点〕において「ながめる」立場、「観る」立場に立つことができる。しかるにギリシア市民は市民となったときすでに競闘の精神に充たされている。従って「観る」立場は活動なき停止ではなくして|観ることを競う立場〔付ごま圏点〕である。ここにおいて芸術的及び知的の創造が旺然として起こらざるを得ない。
自分はかつて津田青楓画伯が初心者に素描を教える言葉を聞いたことがある。画伯は石膏の首を指さしながら言った、諸君はあれを描くのだなどと思うと大間違いだぞ、観るのだ、見つめるのだ。見つめている内《うち》にいろんな物が見えて来る。こんな微妙な影があったかと自分で驚くほど、いくらでも新しいものが見えて来る。それをあくまでも見入って行くうちに手がおのずから動き出して来るのだ。――この言葉は恐らく画伯自身が理解していたよりも一層重(89)大な意味を含んでいるであろう。「観る」とはすでに一定しているものを映すことではない。無限に新しいものを見いだして行くことである。だから観ることは直ちに創造に連なる。しかしそのためにはまず|純粋に観る立場〔付ごま圏点〕に立ち得なくてはならない。単に|手段として〔付ごま圏点〕観るのならば、目的に限定せられた範囲以上に観る働きは進展しない。観の無限の発展は手段的性格からの解放、従って観の自己目的性を前提とする。ギリシアの市民はちょうどこの立場に立って、互いに観ることを競ったのである。
そこでギリシア的風土がその無限の意義を発揮する好機の到来となる。ギリシア人はあの明朗な、陰のない自然を観た。そこにはあらゆる物の「形」が此類なく鮮やかにながめられる。しかもその観は互いに競うことにおいて無限に発展する。それは対象的なる自然が無限に精細に観察せられたということではなくして、実は観るところの主体が観ることにおいて自ら発展したことにほかならない。だから明朗なる自然をながめる立場は直ちに|明朗なる主体的存在〔付ごま圏点〕を発展せしめたのである。そうしてそれが明朗なる「形」として、あるいは彫刻や建築に、あるいはイデアの思想に、表現せられたのであった。
かかる視点からして我々は、ある意味でヨーロッパの運命を決定しているギリシア文化の特性を理解し得るかと思う。ギリシア人が観の立場に立ったからといって彼らは一切の労働をやめたわけではない。かえって彼らはこの立場において新しい職業を、すなわち|純粋に人工的〔付ごま圏点〕な物資の生産を始めたのである。自然を看護する農牧の仕事は、自然に人工を加えるとはいっても、むしろ自然の生産に随順することであった。しかるに「形」を見るギリシア人は自然の素材にこの「形」を印刻するという仕事を始める。すなわち人工的な工芸品の製作がギリシア人にとっての労働となる。武器やその他の金属製の道具、織物、瓶などの製作は、前七世紀のころよりイオニアの諸都市に旺然として起(90)こり、アティカやアルゴリスにも広まった。これには地中海沿岸がギリシア人の勢力範囲となり、新しい植民地における需要が高まったという理由もあるであろう。しかし一層重大な理由は、人工的に形を印刻するための材料、すなわち無生物に対する支配が発展したということである。優れた陶土や銅鉱や鉄鉱は一度眼の開いた者には豊富に見いだされて来る。海には染料として貴い紫貝がある。牧場からは羊毛が絶えず生産せられている。これらの素材を知的及び芸術的に「形」づけること、それが今やギリシア人の関心を支配し始めたのである。「形」を観るギリシア人がその形を素材に印刻するという活動は、最も単純には|ギリシアの瓶〔付ごま圏点〕の製作に見られる。これがいかに盛大な産業であったかは、イタリアで発掘せられたギリシアの瓶の驚くべき数量によっても察せられるであろう。それに次ぐものは金属に形をつけることである。冶金術は初めイオニアの島に栄え、前六世紀には鉄の鍛接や鋳銅の術をギリシア本土に伝えるに至った。染織工業もミレトスを中心として盛んになり、そこで染められた織物は前六世紀にすでにイタリアの市場をまで支配していたと言われている。かかる製造工業は競闘の精神に煽られてあらゆる都市に栄え始めた。市民は手工業者に転化し、その技術を子に伝える。古典時代のかなり遅くまで、ほとんどすべての|彫刻家〔付ごま圏点〕はかかる手工業者の家から出たのであった。ソクラテスさえもそうである。しかしそれでもまだ手の足りないほど需要は多かった。だからこれらの工芸はさらに奴隷の使用、外国からの労働力の輸入によって発展することになる。もちろんこれには海外貿易の隆盛が伴なうのである。かくしてポリスの生活はますます|人工的技術的な仕事〔付ごま圏点〕を中心とし、それによって地中海を支配するに至った。この生活様式が特に「西洋的」としてヨー口ッパの運命を定める有力な契機となっているのである。
観る立場は以上のごとくギリシア人の生産の仕方をさえ決定している。いわんやそれが特に観照的な学問の特徴と(91)なるのは当然であろう。アリストテレスは言っている。人は本来知ることを欲するものであるが、その証拠の一として|感覚を喜ぶ〔付ごま圏点〕ということをあげることができる。感覚が何かのために役立つというばかりでない、感覚をそれ自身のために喜ぶ、中でも|視覚を喜ぶ〔付ごま圏点〕。すなわち行為するために見るというだけではなくして、行為を全然考えない時でも「|見る」ということ〔付ごま圏点〕それ自身が何よりもありがたいのである。これは「見ること」が他のあらゆる感覚に優ってものを知らしめ、ものの区別を明らかにするからである。このアリストテレスの言葉は一挙にして「見ること」と「知ること」との実践に対する優位を言い現わしている。感覚を喜ぶというギリシア人の特性さえもが、感覚的欲望の充足としてではなく、まさに「見ること」として把捉せられているのであるのみならず、彼は見ることから学問への発展を説くに当たって、前述のごとき「技術」に重大な役目を与える。技術はすでに真の知識なのである。それは経験を通じて得られた普遍的判断であって、すでに原因を知っている。学問はただ技術の純化にほかならない。このような技術の重視は、個人意識から出発して学問を考えるようになったとき、おのずから考察の外に押し出されてしまったが、ギリシア人にとっては本質的なものなのである。このことはまた技術が|観る立場の発展〔付ごま圏点〕であって実用の地盤から出たものでないことを意味する。だからアリストテレスは言っている。初め普通の知覚を超えた|技術〔付ごま圏点〕を発明したものは、人々から嘆賞せられた。しかしそれは発明が有用であったからのみではなく、その人が他の人々よりも大層賢く、優れていると思われたからである。その後多くの技術が発明され、そのある者は生活の必要を、他の者は生の喜びを目ざしていたが、後者はその知識が有用を目ざしていないという理由で、常に前者よりも賢いとせられた。だから最後に、人間が閑暇を持ち始めたところにおいて、|生の必要や生の喜びを目ざさない〔付ごま圏点〕学問が見いだされたのである。この見解は技術における観る立場をさらに発展せしめて純粋な観の立場すなわち theo※[長音記号あり]ria の立場に達することを説いて(92)いると言ってよい。かかる theo※[長音記号あり] の立場は沙漠地方やモンスーン地方においては決して作り出されはしなかった。
ところで観る立場の発展は観らるるものにおいてその中昧を獲得する。あくまでも明るい、見えぬもののない、そうして規則正しいギリシアの自然が、ここでは見る立場の中味になる。自然はすべてを露出している、そうしてそこには一定の秩序がある、この考えは自然哲学者を支配していたとともにまた芸術家を動かす力でもあった。ギリシア彫刻の最も著しい特徴は、その表面が、|内に何物かを包める面としてでなく、内なるものをことごとく露わにせるものとして〔付ごま圏点〕、作られていることである。従って面は|横に〔付ごま圏点〕広がったものではなくして看者の方へ|縦に〔付ごま圏点〕凹凸をなすものと言うことができる。面のどの部分どの点も内なる生命の露出の尖端として活発に看者に向かって来る。だから我々は、ただ表面を見るだけであるにかかわらず単に表面だけを見たとは感じない。我々は|外面〔付ごま圏点〕において|内面〔付ごま圏点〕を見つくすのである。彫刻家はそれを微妙な鑿の触れ方によって成し遂げている。たとえばパルテノンのフリーズの浮き彫りにおいては、衣文を刻んだ鑿のあとはまだまざまざと残っている。それは彫り凹めた跡であって決して滑らかな面を作ろうとした跡ではない。しかもそれによって柔らかい毛織物の感触は実に鮮やかに現われている。肉体の肌にはそれほど荒い鑿のあとは残されていないが、しかし肌のおのおのの点は鑿がそこまで彫り凹めたという感じをなお鮮やかに保っている。それは決して横にすべる面ではない。そうして毛織物の感触とは全然異なった生ける肌の感じを実に鋭く現わしている。このような微妙な面の感じはローマ時代の模作にはほとんど見ることができない。そこには横にすべる面のみが作られている。従って外面と内部とが離れてしまう。しかも様式そのものは外面によってそれの他者たる内的精神を表現するという立場に達していない。だからこれらの模作の与える印象ははなはだしく空虚なのである。しかしこのような空虚な模作によってもなお伝える事のできる一つの顕著な特性がある。それは|人体における規則正(93)しい〔付ごま圏点〕「比例」である。ギリシアの彫刻はすでにフィディアス以前からピタゴラス学派の数の論と密接な関係を持っていた。比例は彫刻家の重大な関心事の一つである。すなわち自然の秩序正しさは芸術家の観る立場の中で発展した。ここにギリシアの芸術の|合理性〔付ごま圏点〕がある。そうしてかく|技術において〔付ごま圏点〕把捉せられた合理性からして数学的学問が発展し出でたのである。だからギリシアにおいては、幾何学の知識が芸術を幾何学的な規則正しさに導いたのではなく、幾何学が成立する以前にすでに芸術家が幾何学的な比例を見いだしていたのであった。
このような合理性は、自然が予料し難いものを内に隠して不規則的に現われてくる地方においては、容易に見いだされ得ないものであった。そこでは植物や山野の形が不規則的であるのみならず、人体もまた均斉や比例を示していない。だから芸術家はギリシアにおけるごとく作品の統一を規則正しい形や比例に求めることができぬ。それに代わるものはいわば「気合い」の統一である。それは予測の許されない、非合理的な、従って「運」に支配された統一であり、従ってそこから法則を見いだすことは困難である。|気合いによる技術〔付ごま圏点〕が学問に発展しなかったゆえんはそこにある。
我々ほ芸術や学問におけるギリシアの合理性がヨーロッパの運命を支配した第二の重大な契機であると考える。それはギリシアの|人工的技術的〔付ごま圏点〕な傾向から生まれた。しかし人工的技術的な傾向がどこでも合理性を産むというわけではない。それはギリシア的風土においてこそ可能であったのである。我々は|ギリシアの学問や芸術の特に優れている点が合理性にあるとは思わない〔付ごま圏点〕。むしろそれは外が内であるところの明朗な表現性に見らるべきであろう。しかしかくも優れた学問や芸術が特に合理的性格をもって作られたということによって、合理性はそれ自身の発展を始めたのである。前にローマの模作が原作の芸術的優秀性を伝えずしてその合理性をのみ伝えたことを言った。これは芸術の(94)みならず一般の文化について言えることである。ローマ人の最も大きい業績は法律による生活の合理化であった。ギリシアの合理性はローマ人を通じてヨーロッパの運命を支配するのである。
九
ギリシア人が初めて己れをギリシア人に仕上げたときには、無数のポリスが相並んで作られた。しかるにローマ人が初めて己れをローマ人に仕上げたときには、|ただ一つ〔付ごま圏点〕、ローマというボリスが作り出されたのみである。この相違は何を意味するであろうか。
ローマがハンニバルの遠征に堪えカルタゴに打ち克ったとき、ローマの世界支配の道は開かれたのであった。だからハンニバル戦争は、古代史における決定的な岐路《クリシス》であったと言ってよい。ベロッホはそれについて言っている。この岐れ路は、世界がフェニキア的になるかラテン的になるかという意味で危機だったのではない。たといハンニバルが勝利を得たとしても、セム人のカルタゴが世界支配を始めるということはなかったであろう。なぜならカルタゴは|異邦人の傭兵〔付ごま圏点〕でもって戦っていたのである。半世紀に近いこの衝突の初期にローマ人は実にみじめな戦争をしなければならなかった。が、それはローマの兵士が優秀でなかったからではなく、用兵の術を知らない政治家が代わり合って指揮していたからなのである。ハンニバルが攻め込んで来てからでも、彼の勝利の重な理由はローマ軍の司令官の無能に帰せられる。たとえばフラミニウスやヴァロのような、弁舌のうまいデマゴーグに過ぎない人たちが司令官となっていたからである。それに反してカルタゴの方は軍令が政治によって煩わされることはなかった。司令官は永い間用兵の修練を積んだ専門家であった。だからイタリアに攻め込んだハンニバルも、その傭兵の組織の仕方や騎兵の訓練の仕方、さらにはその戦略などにおいてやすやすとローマ軍に打ち克ったのである。が、戦いの技術はうまくて(95)も傭兵は結局傭兵である。ハンニバルの軍隊には一路ローマに突進して行く気魄がなかった。だからカルタゴの敗北の結局の原因は傭兵ということに帰着する。ではなぜ傭兵を使わねばならなかったか。それは一つは人口が少なかったからであり、一つはフェニキア人が本質的に商人だったからである。ハンニバルがスペインから優勢な軍隊を連れ出すことができたのは、スペインの土人が戦争好きだったのと、その土地の豊富な銀鉱をカルタゴ人が利用し得たことによっている。だからハンニバルが勝利を得、カルタゴが地中海を制し得たとしても、ローマ人のように|政治的に支配する〔付ごま圏点〕ことには手をつけなかったであろう。そうすればギリシア人は依然としてギリシア国家を営み続けたであろうし、イタリアのエトルスキもまた独立の国として発展したであろう。|地中海沿岸はさまざまの民族のさまざまの文化が競うて発展する舞台になる〔付ごま圏点〕。ローマの世界征服がもたらしたような文化の頽廃は恐らく起こらなかったに相違ない。たとい起こったとしてもよほどそれを遅らせることができたであろう。しかるにローマの勝利はローマ人を地中海の独裁者にしてしまった。この後彼らは手の届く限りの国土をローマのポリスの中に取り入れる。文化の特殊的な発展が阻止せられて、空虚な普遍性がこの時から栄え始めるのである。
このことはヨーロッパの運命にとってはまことに大事件であった。だからハンニバル戦争は実際に世界史的な危機・岐路であったのである。人はあるいはアレキサンドロス大王の世界帝国の理念がすでにそれを示しているではないかと言うかも知れぬ。しかしこの大王の世界支配はギリシア精神にもとるものとして、たとえばデモステネスのごとき人によって力強く反対せられたものであった。また事実上ギリシア人はそれを持続しては行かなかった。大王の死後には東はバクトリア、西はエジプトやシリアにそれぞれ独立の国家が形成せられている。ギリシア文化の地方的な特殊的発展はようやく緒につきかけていたのである。だからもしローマ人がカルタゴに敗北していたならば、地中(96)海沿岸が一つのポリスに統一せられるというようなことは、恐らく起こらなかったであろう。
と言ってもアレキサンドロス大王の仕事とローマの勃興との間に何らの意味の連関もないというのではない。不思議にもこの二つの現象はちょうど時を同じゅうして起こったのである。すなわちローマ人がその狭い|国土の限界を超えて〔付ごま圏点〕初めてサムニウム人と衝突したのは、マケドニアの勃興と同時であった。もちろんそれまでにローマは原始的な部族から八千平方キロメートルの領土を有する国家にまで発展して来ている。その間に三世紀以上の年月もたっており、ポリスの組織にも変遷があった。が、それはローマ付近の平野と山地における小さい部族間の結合の歴史に過ぎぬのである。しかるにこの時にローマは|国外への〔付ごま圏点〕発展というべきものの第一歩を踏み出したのであった。そうしてその「統一的国家」としての優勢を利用してまもなくナポリ湾まで領土を広めた。そこで、五十万の人口と一万二千平方キロメートルの国土を有する新興の国家として初めてギリシアの植民地との抗争関係に入り込んで行ったのが、ちょうどアレキサンドロス大王の東方遠征のころであった。
このローマの歴史において我々の注意を特に刺激する点は、初めに言ったように、ギリシアのポリスがもともと|多元的〔付ごま圏点〕に発展しているのに対して、ローマのポリスが初めより|統一的〔付ごま圏点〕な傾向を有することである。それはティベル河の傍の小さな部落を核として、徐々に増大し展開して行く。だから最古のローマの町であるパラティンの丘はすでに前六世紀には狭すぎて来た。付近の丘やティベルとの間の平地が家に覆われ城壁に囲まれてくる。そこで「七つの丘の町」が成立する。やがて町は国家の増大につれてこの限界をも超えて拡大して行く。そうして前述のようにローマがその|国外への進出〔付ごま圏点〕を始めたちょうどその時期に、アピウス・クラウディウスが|最初の水道〔付ごま圏点〕をローマヘ引いたのである。(Aqua Appia,312 B.C.)
(97) ここで我々は風土的なるものに連絡する。ローマを訪れる人々が古蹟の内の最も印象深いものの一つとして「水道」をあげるように、ローマ人と水道とは離すことのできないものである。が、何ゆえにかくも水道が著明なのであろうか。それは一つはローマの水道が巨大な人工的構築物であることにもよるであろう。しかし水道がかく大仕掛けに作られたということは、|人工によって自然の拘束を打ち破った〔付ごま圏点〕ということにほかならない。ローマは水道によってギリシアに見られないような大都市に発展することができた。それは同時にローマ人が土地の制限を破ってギリシアに見られないような巨大なポリスを作り出すに至ったことを、その仕事の初期において、すでに象徴的に示しているのである。
亀井高孝氏はギリシア旅行のあとで、ギリシアのポリスの大きさは|水の制限〔付ごま圏点〕にもとづくのではないかと語った。自分にはこの洞察が非常に興味深く感ぜられる。なるほど水道はすでにクレータの宮殿にもあった。アテーナイでもとヒメトスやペンテリコンの水を引いている。テーバイやメガラにもその痕跡はある。しかしギリシア人は|水の制限〔付ごま圏点〕を覆すほど大きい水道を作ろうとはしなかった。むしろ逆に、ポリスの大きさを|限定されたもの〔付ごま圏点〕として考えているのである。アリストテレスはポリスの人倫的組織としての任務から見てその限界を定めている。市民が相互にその特性を知り合い得る程度の人口がちょうど好いのである。しからばボリスは本質上大都市となるべきものではない。従って水の制限を破る必要もないのである。このようなポリスの考え方は必然にポリスの並立を是認することになる。しかるにローマ人はローマを一つの国家に仕上げるとともに直ちに水の制限を打破し始めた。これはローマ人がギリシア人から学び取ったのではない固有の天才を働かせたものと見られねばならぬ。が、またギリシアにおいて容易に思いつくことのできない水の制限の打破を、ティベル河の側では容易に思いつくことができたという事情も考慮されねばな(98)らぬ。イタリアはギリシアほど乾いてはいない。ティベル河はケフィソス河よりもはるかに水量の多い河である。だから|人工的な自然征服〔付ごま圏点〕をギリシア人から教わったローマ人が、人工的な水道によってちょうど|ギリシア人のなし得なかった自然征服〔付ごま圏点〕に着手したということは、ローマ人がティベル河の傍にいてケフィソス河の傍にいなかったということにもとづくと言ってよい。
このようにローマの水道は、ポリスの制限の否定、従ってポリスの並在の否認、言いかえれば|絶対的な統一の要求〔付ごま圏点〕を象徴する。ここに我々はギリシアにおける「多様性への努力」に対立して、ローマにおける「統一への努力」を取り出すことができる。ところでギリシアの多様性への方向はギリシアの自然にもとづくと言われている。なぜならここではすべてのものが多様な形に分離しているからである。それならばローマの統一への方向もまたイタリアの自然にもとづくと言い得られるであろうか。ここではすべてのものが一つの原理に帰するように見えるのであろうか。
我々はそこに何らかこれに類する特性の存したことを推測する。同じくギリシア人の作った文化の中でも、イタリアにおいて作られたものには|地方的な特性〔付ごま圏点〕が存すると言えぬであろうか。哲学においてはエレア哲学がイタリアの所産であった。クセノファネスはエレアやシチリアに住んだ人であるが、力強く多神教に反対して一神教的傾向を示している。パルメニデスの「有」もまた明らかに絶対的な統一への要求を示している。ゼノンが多様性の矛盾を鋭く指摘したのは著明なことである。文芸においては叙事詩と劇との中間に位するような「牧歌」の様式がシチリアの所産であった。それは叙事詩のように人物を丸彫りにせず、また劇のように性格を際立たせない。いわば物語を抒情詩的な大気の中へ融かし込んだものである。このような哲学と文芸の特性はイタリアの自然にもとづくとは言えぬであろうか。シチリアはギリシアに到底見られぬほど潤いのある緑の美しい国土である。そこに牧歌が生まれることはいか(99)にもふさわしい。エレアは今でもギリシアの殿堂の残っているペスツゥムに近い海岸で、東に六千尺のチェルヴァティを負い、南は五十里の海を距ててシチリアに対する。イタリア海岸の植民市のうちでもまず北辺に近い方で、風景の秀麗のほかになお特殊な静けさがあったであろう。ここに有の哲学が生じたことは、少なくとも自分には、はなはだ当然のように思われる。特にこれらのイタリアの自然が、適度の湿潤のゆえに、ギリシアよりもはるかに豊沃であったこと、従って食糧をそこから求める人間にとってはギリシアの自然よりもさらに一層従順であったということ、それが文芸や哲学に一味の静けさを与えたと見ることもできよう。
このことはイタリアの風土がギリシアよりも一層合理的であったことを意味する。そこはギリシアと異なってもと森林に覆われていた。しかもそれが開墾されて畑となり果樹園となり牧場となるに当たって、人工の支配が一層有効に行なわれ得たのである。だから人工的合理的な自然の支配という点においては、イタリアはギリシアに優ると言ってよい。これがローマ人をして人工の支配を無制限に押し進めるという傾向を持たしめたのであろう。だからギリシアの文化がすでに前八世紀のころよりイタリアに植え込まれ、イタリアの生活のすみずみにまでその影響を及ぼした永い年月の間に、ローマ人はギリシア人の|表現性〔付ごま圏点〕をではなくして|合理性や人工の喜び〔付ごま圏点〕を学び取ったのである。宗教、芸術、哲学、言語、文字等、およそ|生の表現〔付ごま圏点〕に関する限りにおいては、ローマ人はただギリシアの産物を受け容れるのみであって、己れ自身の表現をなし得なかった。しかるに合理性による自然と人間の征服に関しては、彼らはギリシア人のなし得なかったことをまでなし得るに至ったのである。ローマの偉大な建造物は、その表現性においてはほとんど言うに足りない。が、その|人工の威力〔付ごま圏点〕を示している点においてはギリシアをはるかに凌ぐのである。瓦のように薄い煉瓦を豊富な天然モルタルで固めた厚さ二メートル三メートルの壁などというものは、石に形をつけることを(100)のみ考えていたギリシア人の思いも及ばぬところであろう。ローマ人がギリシアを征服してその豊富な彫刻を己れのものとしたときにも、彼らはそこに合理的な人工の喜びを見いだしたのみであって、その豊かな表現性を感ずることはできなかった。このような合理的な人工の喜びが人間の事に関して現われるとき、そこにローマ人の世界史的な貢献としての万民法が結晶するのである。
かく見ればローマ人における|統一への傾向〔付ごま圏点〕もまたイタリアの風土から理解せられる。Civitas Romana はまさにイタリアの産物であってギリシア的なポリスでなかった。そうしてこのローマの「統一」が、後にはカトリク教会として、すなわち統一的あるいは普遍的教会として、千数百年にわたってヨーロッパを支配したのである。
一〇
ローマの教育の下に中西ヨーロッパがおいおい開けてくるに従って、ヨーロッパ文化の中心もまた漸次中西ヨーロッパに移って行く。近代、特に文芸復興期以後に至れば、地中海沿岸はむしろ故蹟地に化してしまう。このように文化の展開においても|土地が移る〔付ごま圏点〕という契機は顕著に存しているのである。そこで古代対近代というごとき|文化の相違〔付ごま圏点〕が同時にまた南欧と西欧との|風土の相違〔付ごま圏点〕という視点からもながめ得られることになる。かかる風土の相違はいかなるものであろうか。
ベェクは古代と近代との文化の特性を次のような七つの範疇によって対照している。
古代 近代
自然の支配 精神の支配
被束縛性 自由
(101) 個性 普遍性
多様性への努力 統一への努力
実在論 観念論
外面性 内面性
客観性 主観性
この対照は細かな点においては種々の異論があるであろう。特にそれは芸術における古典様式とバロック様式との対照にも親近性を示しており、従って一時代の文化の内部における二つの類型としても立てられ得るのである。たとえば古代において、ギリシア文化対ローマ文化の対照は、何ほどか右のごとき範疇によって理解せられるものを持っているであろう。が、もしローマの精神がその法律とともに西ヨーロッパに染み込んでいるとすれば、この類似は当然だと言われねばならぬ。またイタリア文芸復興期における古典様式がギリシア満神の復活という意味を持つ限りにおいては、上記の親近性もゆえなきことではない。一般にイタリアの文芸復興期はローマよりもむしろギリシアの復活である。ローマ帝国の理念はすでに久しくアルプスの北に移っていた。中世末から新しくイタリアに起こった諸都市は、Civitas Romana と何の似寄りもない、ギリシアのポリスのような都市国家であった。そうしてそれちの諸都市の間にはギリシアにおけると同じく烈しい|競争〔付ごま圏点〕があり、その諸都市の政治家や芸術家はギリシア人と同じく烈しい|名誉心〔付ごま圏点〕に動かされ、そうしてそこから作り出される美術はギリシアのそれと同じく顕著に|表現性〔付ごま圏点〕と|合理的傾向〔付ごま圏点〕とを示している。だから近代の範疇にはまってくるのは、バロック様式が始まった以後であり、そうしてそのころにはイタリアの諸都市の繁栄は大西洋岸の諸都市に奪われてしまうのである。だからベェクの範疇は|ギリシア〔付ごま圏点〕の古代と|西欧〔付ごま圏点〕の近(102)代とを対照する意味において、ほぼ正鵠を得ていると見てさしつかえないであろう。
ところでこのベェクの範疇は、我々から見れば、ちょうどまたヨーロッパの地中海沿岸地方と大西洋沿岸地方との対照をも示しているのである。我々はそれを絵括して|ギリシア的明朗〔付ごま圏点〕に対する|西欧の陰欝〔付ごま圏点〕と呼ぶことができるであろう。しかし我々はこの相違が牧場的風土の中での地方的相違であることを忘れてはならない。西欧の陰欝は牧場的風土の陰欝であってステッペの陰欝ではない。だから我々はこの陰欝を捕える前に西欧の風土の牧場的性格を省みておかなくてはならない。
一一
西欧の風土が牧場的であることは、それが湿潤と乾燥との総合、夏の乾燥、というごとき点において地中海沿岸と共通であることによってすでに示されている。しかしここでは地中海沿岸におけるように太陽の光が豊かでなく、従って温度ははるかに低い。特に冬の寒さは南欧に見られない酷しいものである。このような風土が南欧と同じく「自然の従順」を特徴とすると言えるであろうか。自分はしかりと答える。西欧の自然は南欧のそれよりも一層従順なのである。
西欧の冬の気温は日本よりもはるかに低い。昼中の気温が零下六七度というのは普通のことである。ドイツでは寒い時には零下十七八度くらいにはなる。しかし気温に比例して寒さが|凌ぎにくい〔付ごま圏点〕というわけではない。第一空気の含む湿気が少ない。だから空気は純粋に|冷たい〔付ごま圏点〕のであって、底冷えのする寒さを感じさせはしない。第二に朝夕の変化が少ない。だから体が寒さに引き回されるという感じがない。第三に寒風の吹きすさぷことが少ない。だから寒さが目立って攻勢的に人間に迫って来るという感じがない。もし|寒さ〔付ごま圏点〕と|冷たさ〔付ごま圏点〕とを区別して考えるならば、西欧の冬にお(103)いて烈しいのは冷たさであって寒さではない。そこには淀んだ、冷たい空気はあるが、しかし空気を媒介として人間に迫り、人間を萎縮させずにはおかないような、暴圧的な寒さはないと言える。だから人間は内から緊張することによって比較的容易に寒さに堪え得るのである。のみならずこの緊張感が何らか望ましいものにさえもなる。ドイツ人は空気の冷たさを Frische(清涼とでも訳すべきであろうか)と呼び、その引き締まる感じを喜んでいる。零下六七度くらいの気温はむしろこの清涼に属するであろう。厳寒のころに寝室を温めないで寝る人も決してまれではない。もちろんそれは他方に保温の設備の行き届いた室があるからでもある。が、この保温の設備そのものが湿気少なく風なき冷たさに対しては、比較的に容易なのである。人は凌ぎにくい暑熱と湿気を全然考慮に入れることなく、ただ冷たい空気をのみ目標として家を建てることができる。そこでは空気の絶えざる流通によって湿気の定着を防ぐというような必要がない。従って温められた空気は乾いた厚い壁によって外界から仕切られ、人為的に室外に追い出されるまでは室内に淀んでいる。だから空気の冷たさは湿気を帯びた暑熱よりもはるかに征服しやすいのである。が、この保温の設備さえもフランスや英国ではかなり簡単なものが多い。日本よりはるかに多くの薪炭を使っているとは必ずしも言えないと思う。一言にして言えば西欧の寒さは人間を萎縮せしめるよりもむしろ溌剌たらしめる。それは人間の自発的な力を内より引き出し、寒さに現われた自然の征服に向かわしめ、そうしてそれを従順な自然たらしめている。家屋の構造と保温の設備とは、人間から寒さへの恐れを全然洗い去っているのである。
このような自然の従順は同時に自然の単調を意味する。我々が通例冬の風情として感じているものはそこには存しない。たとえば寒風が身に沁みるように寒いとともにまた日向ぼっこの楽しみがあり、牡丹雪がふわふわと積もるかと思えば次の日は朗らかに晴れて雪解けの雫の音がのどかに聞こえる、というようなことは、湿気と日光と寒さとの(104)合奏なのであって、ただ冷たさからだけでは生じない。湿気の少ないところでは気温が零下十何度になってもめったに雪は降らないのである。また日光の弱いところではたまに晴れても月光のように暖かさのない光線が射すだけで、昨日の雪を解かすなどは思いもよらない。このように変化の少ないことがそのまま自然の従順さを示すのである。だから西欧の冬の風情はただ室内に、炉辺に、劇場に、音楽堂に、舞踏室に、すなわちただ人為的なものにのみあると言ってよい。それは冬が人間の自発性を引き出したということにほかならぬのである。(亀井教授の説によれば、西欧における「機械」の発明もまたこの室内における人間の自発性に帰着するらしい。しかし氏はさらにこの自発性を冬の陰欝に対する対抗に関係させて考えている。)
烈しい暑熱はこのように容易に征服されるものではない。人は暑熱を寒さのように人為的に防ぐことができない。また暑熱を閑却して人為的なものに没頭することもできない。しかも西欧の風土は、この凌ぎにくい暑熱の代わりに凌ぎやすい寒さを置き換えたものと言うことができるであろう。それは南欧に見られないような寒い冬を持つとともに、また南欧のごとき烈しい夏を持たないのである。イタリアの二月はドイツや北フランスの四五月のころに当たり、イタリアの五月が後者の真夏に当たるであろう。だからイタリアでは五月に黄ばんで刈り取られる麦が、ドイツでは七月の末から八月の末へかけて刈り取られ、イタリアでは麦とともに姿を消す牧草が、ドイツでは夏を通じて青々と茂っている。だから西欧の夏は南欧の晩春初夏に過ぎぬのである。主観的によほどの暑さを感ずる日でも、気温はせいぜい二十六七度に過ぎない。真夏でも冬服で通すことができ、また実際そうしている人がまれではない。老人などは冬外套をかぶっているのさえも見かけられる。女は薄い絹の着物の肩に首のついた毛皮を背負って歩いている。夏服と称せらるるものも我々が十一月に着て歩くことのできるものである。このような夏がきわめて凌ぎやすいもので(105)あることは言うまでもないであろう。
しかし夏の自然の従順は湿気と暑熱とによる変化のないことにほかならない。それはヨーロッパから雑草を駆逐し全土を牧場的ならしめた根本条件であるが、同時に西欧の夏から我々が夏の風情と考えるものを駆逐したゆえんである。たとえば夏の朝夕の爽やかさとか、暑さを払って流れて行く涼風とか、炎天のあとの気持ちのいい夕立とか、あるいは蝉の声、虫の音、草の露等々はそこには存しない。が、このことは、気象の変化に慣れた東洋の旅行者が、西欧の夏の自然を物足りなく感ずる、というだけのことではない。空気に湿気が乏しく昼と夜の気温の相違が少ないために、早朝の牧場に出ても草の露に足を濡らすということがないという事実は、同時に農人が夕暮れにその農具を畑に野ざらしにして家に帰るということを意味するのである。日本の農人が鋤鍬を田畑から担いで帰り、泥を洗って納屋にしまい込むのを見慣れている我々にとっては、これはかなり大きい事実である。夜、農具を畑に放置してもそれが決して錆《さ》びないというようなことは、恐らく日本の農人の思いも及ばぬ所であろう。いわんやドイツにおけるように家から畑への距離の遠いところでは、農具の運搬の手が省けるということは少なからぬ労働の軽減を意味するのである。同様に虫の音が聞こえぬということは、夏の夜を寂寞たらしめるだけではない。それは一般に昆虫が少なく、従ってまた農作物の害虫が少ないことを意味する。自分はかつてベルリン近郊のグリユーネワルドやワイマルに近いテューリンガーワルドで、昆虫を探して歩いたことがあるが、下草のほとんどないこれらの林や森には、ついに一匹の蟻をさえ見いだすことができなかった。ただ一種の蛾が同じ方向に幾つも飛んで行くのを見たきりである。日本の夏山の無限に多い昆虫の営みを見慣れている眼には、初めはほとんど信ぜられないほどであった。害虫の繁殖が台風、洪水、旱魃に次いで農作の脅威である日本から見れば、比較にならない理想郷であるとも言えよう。
(106) ここに台風や洪水をあげたことに関連して西欧における風と雨とを取り上げてみよう。我々にとっては夏の自然の暴威は台風と洪水とにおいて頂上に達する。そのように西欧の夏の自然の温順もまた風と雨との温順に帰着するのである。
我々は前にしばしば空気の淀みを語った。それは冬に寒風少なく夏に涼風の少ないことを意味するのであるが、しかしなおその上に「淀み」としての積極的な意味を持っている。それは凝乎として動かない空気であって、我々の国土ではまれにしか経験し得られないと思う。それが特に感ぜられるのは空気の冷たい時あるいは熱い時である。冷たいあるいは生温い空気が都会を包んで全然流れることのない時、我々はあたかも空気が凝結あるいは膠着したかのように感ずる。かかる時には煙突の煙は乱れることなくまっすぐに昇って雲の中に消えて行き、飛行機が空に描いた煙文字は永い間薄れずに形を保っている。そうしてこのような空気の淀みの方がむしろ西欧の風土にとっては持ち味なのである。
さらに風の少ないことを客観的に示すものを求めれば、たとえば北ドイツの土地そのものがそれであろう。そこは非常に細かな、粟粒よりも小さい、そうして粘着性を持たない砂によってできている。しかもこの細かな砂が風によって飛ばされない。日本の海岸で数倍の大きい粒が絶えず風に運ばれるのを見ている者には、実際不思議に感ぜられる。だからまたこういう砂地に茂っている松の木も、そろってまっすぐに立っている。広々とした牧場の間に立っている落葉樹も同様にまっすぐである。一般にドイツの樹木は直立している、と言ってもよい。このことはテューリンガーワルドのような山林においては一層著しい。林とは直立せる樹木の並列であって、幹と幹とは精確に平行線をなしている。このような感じは日本の杉林檜林にもまれである。自分はいくらかそれに近いものを吉野の杉林で見たこ(107)とがあるが、吉野は日本としては風の少ないところであろう。これは樹木が風圧を受けつつ.育ったのでないことを示している。だからたまに我々がやや強いと思う程度の風が吹けば、日本で家を倒すほどの大暴風が吹いた時のように、これらの樹木が根こそぎに倒されるのである。ルトウィヒはその『世襲山林監督官』のなかで山林の樹をすかすかすかさないかの議論を描いている。すかしてならない理由としてあげられるのは、すかした場合に一度暴風が来れば樹木がことごとく倒れるからである。それほど暴風はまれで、また樹木が風に慣れていないのである。樹木のこのような直立性はドイツの風景が整然とした感じを与える理由の一つだと思われる。フランスではこれほどまっすぐではない。しかしそれでも北フランスなどでは、牧場や畑の間に並ぶ一列の楊の木が、|同じようにそろって〔付ごま圏点〕一方へ曲がっているのが見受けられた。曲線でありながらも|平行している〔付ごま圏点〕のである。これは風が整然として吹くことを示している。
風の少ないと同じく|雨の降り方〔付ごま圏点〕がまた実に穏やかである。夏の雨でさえも、日本の春雨のように、降るともなく降るという降り方をする。だから通例は雨傘を必要としない。きわめてまれに傘の必要な、ズボンにハネの上がる程度の雨が降るにしても、その時しばらく人の家の入り口に雨宿りをしていれば、それで済んでしまうのである。しかもこの程度の雨が半時間も続けば、都会では道路に水があふれて地下室に浸入し、消防自動車が出動して排水するという騒ぎになる。それほど雨水に対する排水の設備が小さいのである。またその程度の雨が二三度も続けば、田舎では低地の牧場が水に浸ってしまう。なぜならば雨水を河まで導いて行く小溝などというものは牧場や畑の間には全然ないのだからである。日本では広い斜面が両方から流れ降りて谷を形作っている場合には通例その谷底に小川を見いだすことができる。しかしドイツあたりではほとんどそれを見ることができない。小川の流れているのはよほどの大きい谷である。従ってまた有名な川が我々にとっての小川に過ぎない場合もある。たとえばワイマルを流れている有名(108)なイルム川は代々木《よよぎ》から千駄谷《せんだがや》の谷を流れている小川と同じくらいのものである。河川が国土にとっての排水の設備であると言い得るならば、この設備もまたきわめて小さい。ラインが大きいのは「ヨーロッパの屋根」アルプスの水を運ぶからであるが、しかしそれでも我々を驚かせるほど大きい河ではない。ザクセンからボヘミアまでの広い山々の水を集めたエルベ河さえ、ベルリンの南方デッサウあたりでは、境防もなく牧場の中を流れる優しい川に過ぎない。このように都会にしろ国土全体にしろ排水の設備が小さいということは、取りも直さず雨の降り方が穏やかだということなのである。
実際西欧の大陸のように土地の傾斜のゆるいところで我々の国土におけるごとき猛烈な雨が降ったならば、その排水は容易なことではなかろう。ベルリンは海から五十里離れているが、海抜はわずかに百尺である。北ドイツでエルベやオーデルが運河で連なっているように、フランスでもローヌ、ロアール、セーヌ、ラインなどはすべて運河で連絡している。ところどころの運河の堰で水位を調整しつつ、地中海から北海までの水行の通が通じているのである。こういう傾斜のゆるい平原が、沼沢にもならず美しい牧場や畑として適度に乾いているということは、もともと排水の必要が少ないからなのである。まれに例外的な雨があるとしてもそれは風土の性格を破ることはできぬ。
ところで風雨が穏やかであるということは一般に気象の変化が緩慢だということなのである。このことは季節の変化の緩慢、特に植物の生活の驚くべき悠長さに現われている。落葉樹は四月の初めにはすでに芽を出し始めるが、しかしその芽は時計の針のように動きを感じさせない。毎日の印象にかつて芽が伸びたという感じがないのである。そうして我々が新芽の姿に飽き果てたころに、すなわち五月上旬から中旬へかけて、いつ伸びたともなく新緑の豊かさうぃ示してくる。これは我々にとっての新緑とはまるで調子の違ったものである。ここでは新芽は日ごとに姿を換え、(109)一夜見ぬ内に驚くほど成長する。むしろ我々の方が新芽の成長に追い立てられるように感ずる。このような印象は西欧の新緑からは受けることができぬ。やがて夏になればようやく麦が黄ばんで来るが、七月の末にすでに黄熟した麦は、静かに直立したまま八月の末まででも姿を変えずにいる。これはわが国においては稲が急激に成長して花を開くまでの期間である。
このような植物の生活はそのまま農人の生活に反映する。麦の収穫時は恐らく年中の最も忙しい時期と思われるが、しかしそれは七月の末から八月の末まで悠々として続いている。だから収穫時の広い野原を見渡しても、刈り取りの仕事をしている農人たちの姿はまれにしか見ることができない。これは麦の収穫から田植えへと目まぐろしく働く日本の農人の生活とはまるで調子の違うものである。人間は自然に追い立てられることなく、悠々として自然を従えて行くことができるのである。
このように温順な自然は、ただその温順さからのみ見れば、人間にとって最も都合のよいものである。温順の半面は土地が痩せていることであり、従って一人の支配する土地の面積は広くしなくてはならないが、しかし一人の労力をもって何倍もの土地を従えて行くことのできるのは、自然が温順だからである。昔ゲルマン人が半遊牧的な原始共産主義の社会を作っていたころには、そこは暗い森に覆われた恐ろしい土地であったかも知れない。しかし一度開墾され、人間の支配の下にもたらされるとともに、それはそむくことなく従って来る自然となったのである。実際西欧の土地は人間に徹底的に征服せられていると言ってよい。それは広々とした大陸であるにかかわらず、すみからすみまで人力の支配の届かない所がない。深いと言われる山でさえも、植林はすみずみまで行なわれ、道路は絶頂まで通じている。それは山の傾斜が緩慢だからであるが、しかしまさにそのゆえに山のどの部分の樹も馬車で運び出すこと(110)ができるのである。だから西欧には利用され得ない土地はほとんどないと言ってよい。
この事実は人力をもって容易に支配することのできない山地に充たされた我々の国土とは非常な相違を見せている。これらの山地も全然利用され得ないとは言えぬであろう。しかしアメリカの材木が日本の山の中でさえも使用せられるとすれば、日本の山は材木の生産地として充分な資格を持つとは言えない。そうしてそれは山が嶮峻で運搬が困難だからなのである。のみならず日本の山には植林が容易でなく、ただわずかに薪炭を供給するに留まるものが多い。しかもこのような山地が日本の国土の大部分なのである。だから日本の土地の大部分はいまだ充分に人間の支配を受けていないということができる。日本人はただ国土の僅小な部分のみを極度に働かせて生きているのである。その僅小な部分も決して温順な自然とは言えない。それは隙さえあれば人間の支配を脱しようとする。その代わりにそれは豊饒な、いくらでも強度を高め得る土地である。このことが日本の農人に世界じゅうで最も優れた「技術」を与えた。百五十年前にヘルデルによって世界じゅうの最も不毛な土地の例に引かれたカリフォルニアを、今や世界じゅうの最も豊饒な農芸地に仕上げたのも、日本の農人の力である。ただしかし日本人はこの「技術」の中から自然の認識を取り出すことができなかった。そこから生まれて来たものは「理論」ではなくして芭蕉に代表せられるごとき「芸術」であったのである。
これを思うと西欧の自然の温順は自然に対する人間の「作業知」の開発と引き離すことのできないものである。従順な自然からは此較的容易に法則が見いだされる。そうして法則の発見は自然を一層従順ならしめる。かかることは突発的に人間に襲いかかる自然に対しては容易でなかった。そこで一方にはあくまでも法則を求めて精進する傾向が生まれ、他方には運を天に委せるようなあきらめの傾向が支配する。それが合理化の精神を栄えしめると否との岐れ(111)路であった。
が、その限りにおいては西欧は一般にヨーロッパ的であって特に西欧的ではない。西欧的なるもの、従って近代の精神を捕え得るためには、我々は西欧の陰欝に目を向けなくてはならぬ。
一二
西欧の陰欝とは直接には日光が乏しいことである。それは特に冬の半年において顕著に見られる。高緯度であるために昼間が非常に短いのが第一の原因である。十二月ごろには、たとい晴れた日であっても、三時ごろにはもう夕方らしくなる。しかるにその晴れた日が非常に少なく、暗い曇天の日が続くのである。自分はかつて五月にロンドンを訪れて、その冬をそこに送った宮島清君に逢い、ロンドンもなかなか好い天気ではないかと言って怒られたことがある。こういう晴天の日に逢うためにどれだけ永い、欝陶しい冬の日に堪えて来たかを知りもしないで、たまたま五月の晴れた日にロンドンへ飛び込んで来て、のんきなことを言うな、というのである。それほどに冬の陰欝は日本人にとって苦しい。雲の深い日には一日じゅう電灯の下でなければ書物を読むこともできない。美術館では薄暗がりのなかでボンヤリと画布に浮いた人物をながめ得るだけである。電灯をつけない図書館では大きい窓の側に席を占めてもなお字を見るに不便を感ずる。つまり夜が明けたという感じがないのである。
それでは夏の半年はどうであるか。有名な五月の陽気はなるほど麗らかである。が、その五月にさえも晴朗な日はわずかに二三日で、あとは薄ら寒い陰欝な日が続くこともある。それがちょうど日本の冬の曇り日ほどに陰欝なのである。太陽の威力の最も激しい七八月のころにさえも、日光の力は充分に強いとは言えない。ドイツでは樹木の土用芽が緑になれないで白色に留まっている。土地は夏の日にもカラカラに乾くというようなことがない。大都会のアス(112)ファルトの上では幾分暑気を感ずるとしても、田舎や山に行けば夏の日の散歩がちょうど我々の五月の散歩のような気分なのである。しかもこの時に西欧の国土は最も豊かな日光に恵まれている。そうしてそのことが陰欝な冬に堪えて来た西欧人にとっての非常な喜びなのである。我々にとっては春が来夏が来るということは樹が芽ばえ花が咲き新緑が茂るということであって、日光の享受ではない。しかるに西欧人にとってはそれはまず第一に再び日光を迎えるという意味を持っている。だから我々が冬のものと考えている「日向ぼっこ」を、すなわち日光浴を、夏の間に熱心にやっておこうとする。夏の公園や広場はこの日光浴の人に充たされている。我々がやや暑さを感じて日陰をえらんで歩くような時にさえも、人々は日向のベンチに坐してじっと日光を浴びているのである。時には赤ん坊を乳母車にのせて日向に乾しているのさえも見受けられた。特に自分に印象の深いのはベルリンのトゥレプトヴの公園の夏であった。縦の長さは二三キロメートルもあろうと思われる広い草地に、上衣や肌着を取り去って上半身を裸にした男どもが、芋を洗うようにいっぱいに散らばって日光に浴している光景は、全く自分には珍しいものであった。真夏の炎天にそうやって甲羅が干せるのは日光の力が弱いからでもあるが、しかし自分はこの光景においてドイツ人がいかに日光を恋しがり日光を賞美しているかをまざまざと見得たのである。そうしてそれはやがて西欧における日光の乏しさの表現にほかならない。
しかしこのような日光の乏しさはただそれだけに留まるものではない。ヨーロッパを北から南へ、すなわち日光の強まって行く方向へ旅した者は誰しも必ず感ずることと思うが、日光の力の強まるに従って人間の気質は漸次興奮的感激的になって行くのである。ドイツ人の沈欝は南ドイツではよほどその度を減ずる。フランス人は静かではあるがもはや沈鬱ではない。イタリア人になればむしろ騒々しいという言葉が当てはまるであろう。風土の陰鬱は直ちに人(113)間の陰欝なのである。ここに西欧の文物を古代ギリシアのそれから区別する最も顕著な特徴が見られる。シュペングラーの説いたようなアポロン的な心とファウスト的な心との区別は、確かに肯綮に当たると言ってよい。ギリシアのあくまでも明るい日光の下では、すべての物の形が彫刻的に際立ち、数限りなき個々のものがそれ自身をあらわに示している。かかる「現象」の世界からその個々のものを取り除いた、一様な、無限の空間というごときものは、容易に取り出せるものでない。しかるに西欧の陰欝な曇り日においては、すべての物は朦朧《もうろう》として輪郭を明らかにせず、かかる不分明な物を包む無限の空間がかえって強く己れを現わしてくる。それは同時にまた無限の|深さ〔付ごま圏点〕への指標である。そこに内面性への力強い沈潜がびき起こされる。主観性の強調や精神の力説はそこから出て来るのである。そこでギリシアの古代が静的、ユークリッド幾何学的、彫刻的、儀礼的であるに対して、西欧の近代は動的、微積分学的、音楽的、意志的であると言われる。西欧の芸術の最も代表的なるものはベートーヴェンの音楽、レムブラントの絵画、ゲーテの詩などであるが、これらはいずれも無限の深さを表現する動的・ファウスト的な性格を最も著しく示しているものである。音楽はギリシアの教育において中心的地位を占めてはいたが、しかしギリシア人はそれによって唱われる詩の内容を重視したのであって、視覚的形象と結びつかない純粋の音の世界を見いだしていたわけではなかった。見ゆる現象をことごとく消し去り、言語の担う表象をも脱却して、ただ音の律動旋律によってのみ魂を直接に語らしめるというごときことは、明朗なギリシアの世界においては不可能だったのである。ただドイツの陰欝の中でのみ純粋音楽の創造という偉大な事業は成し遂げられた。またギリシアの美術を代表するものは第一にはギリシア的明朗を結晶せしめた彫刻であるが、それに対して近代を代表するレムブラントの絵画は、まさに|西欧の陰欝を結晶せしめた〔付ごま圏点〕ものと言われ得るのである。文芸復興期のイタリアの巨匠の何人もが描き得なかったあの薄暗い雰囲気と幽かな光と(114)の微妙な交錯は、精神の無限の深さを表現したものとして、世界の美術の最高峰に位するものであるが、しかしそれはこの天才が西欧の陰欝を通してのみなし得た仕事なのである。ヴェラスケスはその技巧の卓越において決してレムブラントに劣るとは言えない。しかし彼の描いたのはスペインの光であった。画家は見ることにおいて創造する。レムブラントといえども、スペインの光の下では彼のごとき画は描けなかったであろう。同様にゲーテのファウストは、その主人公が毒杯を手にした薄暗いゴティクの室から復活祭の野辺へ出てくるように、西欧の陰欝の中から無限に深いものを押し出してくる。「光を求めて無限に働く」という性格をこれほど鋭く切り出した例は、古代の文芸のどこにも見られない。ギリシアの叙事詩が最も類型的な自然児を描いているとすれば、ファウストは最も類型的な精神人を描いているのである。そうしてこの精神人の特性は、一言にして言えば「陰欝の苦悶」にほかならぬであろう。眼を転じて学問をながめても同様である。西欧の学問の代表的なるものは、文芸復興期ではなくしてバロックの時代に始まった、力と量との物理学、あるいはカントに朝宗する当為の哲学であるが、これらはいずれも動的であり無限追求的であって、古代の静学的物理学や有の哲学に対立するのである。特にそれは、カントにおける空間や形式の概念が示しているように、個々の内容を捨て去るところの「抽象」への傾向において著しい。抽象し得るということも一つの偉大な能力である。西欧の陰欝はこの点において古代の哲学者のなし得なかったことをドイツの哲学者になさしめ得たのである。
右のような偉大な文化的創造において己れを展開している西欧の特性は、神秘的なるものへの共鳴の地盤として、早くよりキリスト教の最もよき培養基となった。キリスト教が流れ込んだ地方は決して西欧にのみ限るのではない。しかも西欧におけるほど深くキリスト教が根を下ろした地方は他に見られないここでは陰欝から押し出されてく(115)る深さと抽象とへの傾向が、まずキリストの信仰を通じて己れを現わし始めたのである。沙漠の自然の恐ろしさに対抗する民族の宗教であったユダヤ教は、本来土地に定着せず、土地からの抽象を特性とした。それがキリストの復活を通じて改新せられたのは、ちょうど世界国家が実現せられていた時期である。従ってキトスト教は土地からの抽象に加えてさらに国民からの抽象を特性とした。すなわちそれは沙漠の所産でありユダヤ民族の宗教であったにかかわらず、初めより民族宗教、国民宗教でないものとして形成せられた。だから西欧人は超国民、超土地の宗教としてキリスト教を受け容れつつ、しかも全然沙漠的、ユダヤ民族的な考え方に化せられてしまったのである。旧約聖書はユダヤ民族の記録であるにかかわらず、今や人類全体の歴史を語るものと考えられる。そこに伝えられる習俗は沙漠の習俗であるにかかわらず、今や彼ら自身の習俗とならなくてはならない。彼らが原始時代以来伝承した祭儀や世界観は、今やユダヤ民族のそれによって置きかえられてしまう。このように完全な精神的征服が何ゆえに可能であったのであろうか。それは陰欝の苦悶がちょうど|沙漠の恐怖〔付ごま圏点〕と共鳴したからなのである。意志的人格的な唯一神を西欧人ほどよく受け容れたものはなく、また旧約の予言者たちの意志的倫理的な情熱を西欧人ほどよく理解したものもないであろう。
しかしこのことは前にあげたような偉大な文化的創造がキリスト教的精神からのみなされたということを意味するのではない。キリスト教のみからしては偉大な学問や芸術は生まれ得なかったのである。中世の哲学がギリシア哲学に乗って神と人とを思索したように、ゴティクの建築や彫刻といえどもそれらが芸術的である限りにおいてはただロマネスクを通じてのみ発展し得たのであった。西欧の陰欝は学問や芸術にその西欧的特性を与えたとしても、本質においてはそれらは牧場的であり、従って古代と共通の地盤の上に立っているのである。西欧の近代が古代精神の「復(116)興」をもって始まるということは決して偶然ではない。合理性を尚び人工を喜ぶところの古代人の遺産を通じて、西欧人はその陰欝の底にある牧場的性格を自覚した。そうしてこの自覚によってのみ特に西欧的なる文化の創造が成し遂げられたのである。だから偉大な創作に関する限りにおいては、西欧の陰欝は合理主義と離れたものではない。理性の秩序の確立、理性による自然の征服、それが無限の深みを追求する陰欝の精神を指導し行くところの、根本方向なのである。
この点を顧みずしてもし西欧の陰欝にのみ着目するならば、我々はそこに恐るべき陰惨残忍を見いだすであろう。中世の都市の刑罰の残忍さは今なお残されている処刑の器具によっても忍ばれる。中世の宗教美術の表現している生々しいむごたらしさは我々をして眼を覆わしめるほどである。なるほど福音書はキリストの十字架をまざまざと描いてはいる。しかし古代人は血みどろのキリストの像を作りはしなかった。古代の没落期においてさえも、ラヴェンナの美しいモザイクが描いているのは、若い健やかな羊飼いである。しかるに中世人は十字架のキリストをでき得る限り生々しく、陰惨に、見る者をして|現実的な〔付ごま圏点〕痛みや苦しみを感ぜしめるように表現するのである。従ってそれは神の子の表現でもなければ神の愛の表現でもなく、ただ残虐と苦痛との再現におわっている。いわんや殺伐な地獄絵のごときに至っては、残虐の|喜び〔付ごま圏点〕を表現するものとさえも言い得られるであろう。我々はそこに西欧人の野蛮性をまざまざと見ることができるのである。その印象は中世の武器の陰惨な感じと相通うものがある。剣や槍はもともと殺人の道具ではあるが、しかしその形は必ずしも陰惨な印象を与えるとは限らない。日本の刀剣のなだらかな彎曲線のごときは清らかな美しさをさえ感ぜしめる。しかるに西洋中世の武器の形は残忍そのものを具体化したような物すごさを持つのである。ホメロスの英雄たちは決してこのように陰惨な武器をもって戦いはしなかった。
(117) 中世のみがそうなのではない。すでに文芸復興が近代の文化の幕を開き、ドイツでは宗教改革が達成せられ、フランスでは近代哲学が芽ばえていた十七世紀にさえも、三十年戦争というごとき実に我々の了解し難いほど残忍な現象が起こっている。しかもそれが宗教の名において、すなわち宗教改革への反動運動(Gegenreformation)として行なわれているのである。元来宗教改革は|西欧の陰欝におけるルネサンス〔付ごま圏点〕であった。アルプスの南では美しい芸術の華が開いたのに対して、アルプスの北では|内面的に深められた〔付ごま圏点〕古代精神、すなわち人文主義が擡頭したのである。しかるにちょうどその人文主義者の国土において、しかもその人文主義への反動として、世界史上にも比類のない陰惨な内乱が惹き起こされた。この内乱によってドイツの国土は至るところ荒廃に帰し、ドイツの人口は四分の一にまで減じたと言われている。このような悲惨な相互殺戮を人文主義者の誰が予測していたであろうか。それもドイツ人が己れの信念に忠実であるがゆえだと言えぬではない。しかし新教と旧教との対立はかほどまでの相互殺戮を是認し得るほどに意義深いものであろうか。自分はこの戦争における小さい一つの挿話をその故蹟において回想した上き、その悲惨に打たれて覚えず涙を催したことがある。それは南ドイツの古い自由市ローテンブルグにおいてであった。この町は近代の新しい交通路をはずれたがために、近代の文明から取り残されて、中世の面影を破壊されることなく、静かな田舎町全体が一つの骨董品のごとき観を呈している。従ってこの町が三十年戦争の時、カトリクのティリーの大軍に囲まれて永い間苦戦した遺蹟もほとんどそのままに残されているのである。この時の戦いは当時の市長の巧みな外交によって結局惨害の少ない降服に終わったのであるが、しかしそこに至るまでの間、市民は老若男女を問わず一体となって防戦に努めたのであった。鉄砲がまだ充分発達しない時代であるから、市民は城壁内に見いだされ得る限りの石や煉瓦をもって戦う。男はすべて城壁の上で、傷つきながらも退くことなく、迫り来る敵に石を投げている。女た(118)ちはその夫や父のもとへ力限りこの武器を運んで行く。中には三つ四つの子供が、石を抱いてヨチヨチと血みどろになった父親のもとへ運んで行くのがある。つまり女子供までがことごとく参与するような戦いをこの城壁において戦ったのであった。こういう戦争を自分はローテンブルグへ行くまでかつて思ってみたこともなかったのである。戦争は戦闘員の資格(それが自ら選んだものであるにせよ、また団体から規定せられたものであるにせよ)を持つものの間にのみ行なわれるはずであった。日本の戦国時代においてさえそうである。一つの町や村の住民が女子供をまでも加えて防戦に努めたというような戦争は、恐らく日本には一回もないであろう。だから自分は、ドイツにおける戦争がいかに破壊的であるかをこの時に初めて理解し、そうして三十年戦争が人口を四分の一に減じたゆえんをもほぼ推測し得たのであった。西欧の陰欝は戦争にもその特性を現わす。それは中世の武器の与えるあの陰惨な印象と相通ずるものを持つのである。
しかしこのような陰惨と残忍とが存するからといって、西欧人が世界の文化に寄与した功績は減ずるものではない。西欧の陰欝は右のごとき頽廃にも陥り得るものであるにかかわらず、しかも無限の深みを追求する内面的な傾向として働き、そうしてまさにその力によって明朗な理性の光を再び顕わに輝かし始めたのである。近代のヨーロッパが世界の文化の指導者となり得たのは、主としてこの理性の光によってであって、裏面に蔵する残忍性によるのではない。我々の国が最近一世紀の間にヨーロッパから学び取ったところも、また主としてこの明朗な理性の光であった。そうしてみれば西欧の文化的功績は、陰欝なる特殊性を通じて発揮せられた牧場的性格に帰着することになる。西欧が自らギリシアの正嫡をもって任ずることは、必ずしも不当ではないであろう。
一三
(119) 我々はヨーロッパの牧場的風土からしてその文化を珊解しようと試みた。しかしこの風土がこの文化の原因だというのではない。文化においては歴史性と風土性とは楯の両面であって、その一をのみ引き離すことのできないものである。風土的性格を持たない歴史的形成物もなければ、また歴史的性格を持たない風土的形象もない。だから我々は歴史的形成物の内に風土を見いだすこともできれば、風土的形象の内に歴史を読むこともできる。我々は|風土に視点を置きつつ〔付ごま圏点〕この両方向の考察を雑然として試みたに過ぎぬ。
が、我々はこの考察によって次のごときことを結論し得るであろう。人間が己れの存在の深い根を自覚してそれを客体的に表現するとき、その仕方はただに歴史的にのみならずまた風土的に限定せられている。かかる限定を持たない精神の自覚はかつて行なわれたことはなかった。ところでこの風土的限定は、ちょうどそれにおいて最も鋭く自覚の実現せられ得る優越点を提供するのである。比論をもって語るならば、聴覚の優れた者において音楽の才能が最もよく自覚せられ、筋肉の優れた者において運動の才能が最もよく自覚せられる。もちろん我々はこの自覚が実現せられた後にそれぞれの機官の優秀を見いだすのであるが、しかしそれだからといって自覚が初めて機官を優秀ならしめるのではない。ちょうどそのように、牧場的風土においては理性の光が最もよく輝きいで、モンスーン的風土においては感情的洗練が最もよく自覚せられる。それならば我々は、音楽家を通じて音楽を己れのものとし、運動家を通じて競技を体験し得るように、理性の光の最もよく輝くところから己れの理性の開発を学び、感情的洗練の最もよく実現せられるところから己れの感情の洗練を習うべきではなかろうか。風土の限定が諸国民をしてそれぞれに異なった方面に長所を持たしめたとすれば、ちょうどその点において我々はまた己れの短所を自覚せしめられ、互いに相学び得るに至るのである。またかくすることによって我々は|風土的限定を超えて〔付ごま圏点〕己れを育てて行くこともできるであろう。(120)風土を|無視〔付ごま圏点〕するのは風土を超えるゆえんではない。それはただ風土的限定の内に無自覚的に留まるに過ぎない。しかし限定を自覚することによってその限定を超えたからといって、風土の特性が消失するわけではない。否、むしろそれによって一層よくその特性が生かされてくるのである。牧場的国土はある意味では楽土であるが、しかし我々は己れの国土を牧場に化することはできない。しかも我々は牧場的性格を|獲得する〔付ごま圏点〕ことはできるのである。そうしてその時には我々の台風的な性格は新しい生面を開いて来る。なぜなら我々が我々の内にギリシア的なる晴朗を見いだし、合理的なるものを充分に育て上げるときに、かえってよく我々の「勘」や「気合い」の意義が生かされて来るであろう。そうして超合理的な合理性があたかも台風のごとくに我々を吹きまくることをも自覚するに至るであろう。
かく考えて過去を振り返るとき、我々の祖先がきわめて敏感に急所を直覚していたことを見いださざるを得ぬ。第一にキリシタンに対する異常な傾倒と異常な恐怖とがそれである。キリシタンの侵入はある意味では沙漠的なるものの侵入であるが、それに対する傾倒も恐怖もともに沙漠的なるものがちょうど我々に欠けているものであることの直覚を示すのである。第二には厳密な鎖国を透して徐々に浸入して来たヨーロッパの科学に対する熱烈な関心である。それは己れに欠けている牧場的なるものへの渇望にほかならない。東洋の諸国の中でこれほどの渇望を示したものはどこにもない。ただしかしこれらの直覚において我々の風土が牧場にも沙漠にもなり得ないことの洞察が欠けていた。それが今や我々にとっての眼前の問題である。 (昭和三年稿、十年改稿)
(121) 第三章 モンスーン的風土の特殊形態
一 シナ
モンスーン地域を広義に解すればシナの大陸をも含めることができる。しかし熱帯の大洋から湿気を陸に運ぶという点にモンスーンの特質を認めるならば、太平洋の影響を受ける限りのシナ大陸がモンスーン地域であると言わねばならぬ。ところでこの影響は、直接に台風に見舞われる中シナ、南シナの沿岸地方のみならず、大陸の奥の方までも及んでいる。シナの風土を代表的に示しているものは黄河と揚子江とであろうが、少なくとも揚子江はモンスーンの大陸的具象化だと言ってよいであろう。ではその揚子江はどんな姿をしているであろうか。
我々日本人にとっては揚子江の第一印象は実際に案外なものである。船が上海《シヤンハイ》に近づくにつれてまず驚かされるのは、十三四カイリの速力の船がまる一日じゅう走って行く間、海が全然|泥海〔付ごま圏点〕であることであった。これは泥水を吐き出す揚子江が全長約千三百里の大河であって、ライン河の四倍半、日本全島の長さよりも長いということを考えれば、いかにも当然の現象なのであるがしかしそれをまのあたりに見ると我々は不思議な感じに打たれる。我々の「海」の観念の中にはこのような茫々たる|泥海〔付ごま圏点〕は含まれていなかったのである。ところで揚子江の河口はまたこの泥海と区別がつかないほど茫漠としている。すでに揚子江をさかのぼりつつあるのだと教わっても、眼に見えるものははるかな地平線が海におけるよりも|やや太い〔付ごま圏点〕ことだけであった。しかもそのやや太い地平線は河口に横たわる崇明島と揚子江(122)右岸とを示しているのであって、揚子江の左岸は全然視界の外にあるのであった。こうなると我々の持っていた海の観念や河の観念がぶち壊されてしまう。我々はたとえば明石海峡において「海」を見ていた。しかるにこの「河」は大阪湾ほどの幅を持っているのである。しかも大阪湾の場合ならば須磨の浜から和泉の山が見え、堺の浜から淡路の山が見えるが、揚子江の場合には対岸にただ地平線があるだけなのである。
もっともこれは揚子江の|河口の姿〔付ごま圏点〕であって揚子江の通例の姿とは言えないかも知れぬ。しかしその河幅が三里となり二里となり一里となって来た場合でも、我々にとっては依然として驚くべき姿である。我々の「海」である明石海峡は一里ほどの幅に過ぎない。しかもそれが岸に迫った山々にはさまれている。しかるに揚子江は茫々たる平野を流れる。ということは、陸地の方に|河をはさむ〔付ごま圏点〕という印象を与える力がないのである。これは言いかえれば揚子江がその流域の平野に|君臨している〔付ごま圏点〕ということになるであろう。
このことはまた揚子江流域の平野の性格をも明らかにする。揚子江を溯航する船が江岸に近づいて、樹木を見、畑を見るほどになっても、船ぐらいの高さからはこの平板な平野はいくらも見渡せない。せいぜい十町か二十町であろう。あとはただ空である。たといこの平野が平坦なままで百里も千里も広がっているにしても、我々に見えるのはただ十町ほどのひろがりに過ぎぬ。それでは我々は大平野を見たという印象を受けることはできないのである。我々ははるかかなたに遠山をながめて平野のひろさを感ずるに慣れている。遠山の見えるのは十里か二十里ほどに過ぎないであろうが、しかしそれでも我々の直観能力に対しては十分な広さである。しかるに揚子江流域は、遠山も見えないほどの真に大きい平野であるにかかわらず、その大きさを我々に印象することができない。これが揚子江の作り出した大平野の姿である。ここでもまた逆な意味で我々の大平野の観念がぶち壊される。
(123) 揚子江とその平野とは水の作り出した姿である。そうしてその水は太平洋から主としてモンスーンによって運ばれた。してみると揚子江やその平野の姿をモンスーンの大陸的具象化と呼ぶことは必ずしも言い過ぎではない。では前に我々が|受容的忍従的〔付ごま圏点〕として規定したモンスーン的性格は、ここにどういうふうに現われて来るであろうか。
揚子江とその平野との姿が我々に与える直接の印象は、実は大陸の名にふさわしい偉大さではなくして、ただ|単調〔付ごま圏点〕と|空漠〔付ごま圏点〕とである。茫々たる|泥海〔付ごま圏点〕は我々に「海」特有のあの生き生きとした生命感を与えない。また我々の海よりも広い泥水の大河は、大河に特有な「漫々として流れる」というあの流れの感じを与えない。同様に平べったい大陸は我々の感情にとって偉大な形象ではない。我々の思惟にとってこそ、揚子江から黄河にわたる平野はわが国の関東平野の数百倍にのぼる大平野であるが、その中に立つ者の|視野〔付ごま圏点〕に入るのはその平野のほんの一部分に過ぎず、その中をいかに遠く歩いて行ってもただ同じような小さい部分の繰り返しがあるだけである。従ってシナ大陸の大いさは、直接にはただ変化の乏しい、空漠たる、単調な気分としてのみ我々に現われる。言いかえれば、我々はかかる「大陸」との交渉において、|単調にして空漠たるおのれ〔付ごま圏点〕をすでに見いだしているのである。ところでこの風土のなかに代々生きて来た人間は、かかるおのれをのみ常に見いだし、それ以外のおのれを見いだす機会に恵まれないのである。そこで受容的忍従的な性格は、|この単調空漠に堪え切るところの意志の持続、感情の放擲〔付ごま圏点〕、従ってまた|伝統の固執〔付ごま圏点〕歴史的感覚の旺盛となって現われる。これはインド的人間の性格とちょうど対蹠的なものである。インド的人間を特にその感情の横溢において特徴づけるならば、シナ的人間は特にその|無感動性〔付ごま圏点〕において特徴づけらるべきであろう。
自分は揚子江の姿のみをもってシナの風土を代表させ得ると考えたのではない。シナ大陸の他の半面は|黄河〔付ごま圏点〕によっ(124)て示されねばならぬ。しかし自分は黄河及びその地方についての直観的な印象を持たない。そうして事、風土に関する限り、直観ははなはだ大切なのである。従って自分は黄河について何ら積極的な視点をつけ加えることができない。ここにはただ間接的な知識をもって前述の観察を補うに留めたいと思う。
古来「南船北馬」と言われて来たように、揚子江地方は水郷であり、黄河地方は|乾燥地〔付ごま圏点〕である。「南船」という特徴は近代に至って揚子江上の汽船や軍艦の姿となって現われたが、黄河は水運の発展と全然縁がなかった。また揚子江の平野は米作地であるが、黄河の平野は麦作地である。ところでこれらの特徴は、黄河が|沙漠から出てくる河〔付ごま圏点〕であるという一語によって言いつくせるであろう。すなわち黄河とは|沙漠とモンスーン〔付ごま圏点〕とを媒介する河なのである。
このことは黄河の平野を形成する|黄土〔付ごま圏点〕の素性からも言えることである。黄土のきわめて細かい粒子はもと沙漠で寒気によって作られたという。それは水のみならず風によっても運ばれたが、風によって運ばれ堆積したものはまた後に水によって運ばれた。ところでその水がまた太平洋から運ばれたとすれば、黄土地帯は沙漠とモンスーンとの合作なのである。そうしてその合作を具象化しているのが黄河にほかならない。
かく考えるとシナの人間は沙漠的なるものと無縁ではない。彼らに著しく|意志の緊張〔付ごま圏点〕があり、従ってその忍従性の奥に|戦闘的なるもの〔付ごま圏点〕をひそめていることは、モンスーン的性格と沙漠的性格との結合を語るものであろう。しかしそれはモンスーン的性格の特殊形態を形成しているのであって、シナにおける沙漠的性格の存在を示すのではない。沙漠的人間におけるごとき絶対服従の態度はシナの人間には存しないのである。シナ人の「非服従的性格」と呼ばれるものがここに関連する。シナ人は|血縁的〔付ごま圏点〕もしくは|地縁的〔付ごま圏点〕団体の拘束以外にはいかなる拘束をも肯んじない人間である。「国家の賦税負担を肯んぜず、兵役の義務に服せず、命令を無視し、法律を空文にして賭博に耽り、鴉片《アヘン》を吸引する(125)等、およそ対国家的束縛から逃れて自己の欲するまま奔放にふるまう」人間である。(【小竹文夫『近世支那経済史研究』二五ページ】もちろん抵抗し難い力に対しては忍従する。しかし、「表面的に唯々諾々、すこぶる服従的観を呈しても、面従腹背、両面詭随の語あるごとく、内面的に容易に服従する性格ではなかった。」(【同上、二九ページ】この|非服従的な忍従〔付ごま圏点〕は彼らの無感動性と密掛に連絡する。それは無感動的であるからこそ執れる態度であるとともに、またこの態度において無感動性が育成されてくるのである。
自分は昭和二三年のころに右のごときシナ人の性格を瞥見した。それは香港と上海とにおいてである。
香港の九竜側に碇泊した船からながめると、多数のシナ人のジャンクが外国船のまわりに集まって貨物を積み取っていた。そのジャンクには幾家族かのシナの労働者が住んでいるらしく、四つ五つの愛らしい子供たちが甲板に群れて遊んでおり、また若い女や老婆なども帆綱にとりついて働いていた。その光景はまことに和気藹々としたものであった。ところがその同じジャンクが、へさきにもともにも数門の旧式大砲を据えつけているのである。それはもちろん海賊に備えるための武器であろうが、しかし海賊もまた同じような武器をもって迫ってくるのであろうから、結局それは、このジャンクの貨物輸送の仕事が、脆弱な木船をもって海賊と砲戦することを予想しつつ行なわれていることを示していたのである。これは自分には非常な驚きであった。砲戦を予想する運輸労働は平時のものではない。しかもシナの労働者は、これを家常茶飯事として、女子供を伴ないつつ、平然として遂行しているのである。こういう労働者が世界のどこか他の国にあるであろうか。
自分はこの労働者の姿においてシナ人そのものを見るように感じた。彼らは砲撃の危険の前にさえも離れようとし(126)ないほどの緊密な血縁団体の中に生きている。そのまわりには同じように緊密な地縁団体の防壁があるであろう。従ってあの多くのジャンクは恐らく相互に助け合うのであろう。しかしそれ以上に彼らの生命を衛るものはないのである。シナの領海の中で海賊の襲撃に対抗するものはただ彼ら自身の力のみであって国家の権力ではない。従って彼らは無政府の生活に徹底し国家の保護力を予想することなしに生きている。それが彼らの血縁団体や地縁団体を緊密ならしめるゆえんなのであるが、また同時にこの小さい団体を超えた強大な力に対して率直に抵抗を断念し忍従の態度をとるゆえんなのでもある。ここにかの「没法子《メイフアーズ》」という態度が成り立つ。それは受容的忍従的な態度でありながら、しかも底しれぬふてぶてしさを蔵したものである。この態度が大砲を積んだ木船に家族をつれて平然として生きている姿となって現われる。そこには一家を殲滅せられる危険があり、またそのゆえにこそ大砲を積んでいるのではあるが、しかしその|可能的な〔付ごま圏点〕危険を恐れ、|予料的に心をなやます〔付ごま圏点〕ようでは、この生活は営まれ得ないのである。危険が予想せられるからこそ大砲を積んでいる。それ以上に「感情」を動かしたからといって毫末も危険は軽減せられない。危険が可能性に留まる限りこれに対して|無感動的〔付ごま圏点〕であることが最もよき防御法である。とともに、またこの危険は十分な儲けをもたらさなくてはならぬ。金銭の蓄積はおのれを衛る力の蓄積である。従って危険を冒すことが最もよき防御法なのである。没法子の態度はこのような|打算〔付ごま圏点〕と|無感動〔付ごま圏点〕とを含んでいる。それが無政府の生活の強みなのである。
かかるシナ人の強みを自分は昭和二年二月上海において一層あらわに目撃した。ちょうどロシアのボロジンがシナにおいて勢力の絶頂に達し、蒋介石軍が初めて揚子江流域を席巻しつつある時であった。蒋の北伐軍はすでに上海へ数マイルのところまで迫っており、郊外に近い住宅区域では日夜その砲声が聞こえるという。そこで上海の労働者は蒋介石軍に呼応して同盟罷工を断行した。郵便局は閉ざされ、電車は動かなくなった。伝統や水道も今日あたりは止(127)まるかも知れぬと噂された。時を得た共産党は全市にわたって扇動に狂奔し、民衆は今やそれに動かされようとしている。ロシア人以外の外国人は生命の危険なしにはシナ町に近づけぬ。そこで上海を守っている北軍は共産党弾圧のためにあらゆる非常手段を用い始めた。嫌疑者は捕えて斬る。そうして電柱に首をさらす。これからまだどれほどこの種の殺戮が行なわれるかもしれぬという。それに対して在留の外国人が最も怖れていたのは、上海の外で上海を防御している北軍が、蒋軍に追われて上海へ逃げ込んで来た時の騒ぎである。そうなればその軍隊がいずれの側であるかなどは全然問題ではない。ただ武装した苦力《クーリー》の群れが掠奪強姦殺人等の暴行をもって町を荒らすだけの話である。かく外国人たちは考えた。そこで彼らは恐怖に慄えながら、ただただ彼らの|国家の威力〔付ごま圏点〕が彼らを護ってくれるだろうことにのみ望みをかけた。それに応じて諸国の軍艦は続々上海に入港し、陸戦隊を上陸せしめた。これで恐らく租界だけは安全に防げるであろう。しかし租界外の住宅にまで手が届くとは思えない。今夜あたりは家族を租界内の港に近い安全な場所に移さなくてはならぬ。かく外国人たちは語り合っていた。彼らにとっては国家の力のみが頼りなのである。最後の手としては彼らは国家の力が完全に保護してくれる本国へ向けてこの物騒な土地から逃げ出さなくてはならぬ。そのためにはすでに大きい汽船が港で待期している。それほどに外国人の間では物情騒然であった。国家の保護に慣れている外国人たちは、|その保護の圏外に出るかも知れぬ〔付ごま圏点〕という可能性の前に烈しい恐怖や心細さを感ぜずにはいられなかったのである。
ところで国家の保護の下へ逃げ込むという道を全然与えられていないシナ人たちは、――もっと正確に言えばいつ武装した掠奪者に変わるかも知れない危険な苦力の軍隊によって守られているシナ人たちはどんなにしていたか。なるほど店を閉じている家もあるにはある。が、これは労働者の同盟罷工と同じく蒋軍への同情を現わしたものである(128)という。そうしてこの消極的な表情のほかには、目前の「物情騒然」を反映している何らの表情もシナ人にはなかった。街頭に立って見ると、興奮のしるしを毛ほども示さない、のんきそうな、茫漠とした顔つきのシナ人が、悠々として往来し悠々として物を売っている。そのころ日本の円の相場を支配していると噂された為替の取引所にも相変わらずシナ人が雲集し賭博に熱中していた。今日にも野蛮な掠奪に逢い生命を失うかも知れぬというような不安の感じはどこにも漂っていなかった。金を儲ける機会が与えられている間は、彼らにとっては非常時はまだ起こっていない。非常時が起こったときにはできるだけ上手にかくし、かくれ、あるいは逃げる。それならば、まだ起こらない事に対して感情を動かし神経を疲らせるのは、何の益もないむだなことではないか。かかる感情の浪費をもってしてはシナにおいて生きることはできない。かく彼らの顔つきが語っていた。国家の保護などということを全然当てにしていないシナ人にとっては、その保護の圏外に出るかも知れぬという可能性のごときは何の刺激にもならなかったのである。
自分はこの著しい対照に心から驚きつつ上海を立ち去ったのであったが、その後上海では電柱のさらし首以上に物騒なことはなんにも起こらなかった。事態はシナ人の無感動な態度にちょうど合うように展開したのである。そうなると市外の砲声におびえて神経を尖らし焦燥に囚われていた外国人たちは、確かに「何の益もないむだなこと」をしていたことになる。ここにもまた無政府の生活の強みが見られるであろう。これは一切の生活を国家に帰一せしめる我々の立場からは、全く思いもかけなかった事態なのである。
シナ人が無感動的であるということは、シナ人が感情生活を持たないということではない。シナ人の感情生活の様態が無感動的であるというのである。空漠たる単調さにおいておのれを見いだしている人間は、変化を求めて感じ動(129)くことを必要としない。この点においては、きわめて変化に富む質的多様性においておのれを見いだしている日本人は、シナ人の相反の極にあると言ってよい。雲雀籠《ひばりかご》を手にさげて一日じゅう空を見上げているシナ人の姿は、日本人の眼によほど不思議であったと見え、古くから語り伝えられているが、そういう波長の長い律動は我々にとっては|感じ動く〔付ごま圏点〕ものとは見えないのである。が、このような無感動性は好い側面から見れば、「悠々として迫らず」という態度となって現われる。この態度は、絶えず何らかの意味において迫る傾向のある日本人にとっては、一つの修練の目標とさえもなるのであるが、シナでは農民の間にも商人の間にもおのずから現われている。従って日本人がこせこせしているに対してシナ人はゆったりしているとも言える。しかしそれは感情の細かなあるいは過敏な動きを|超克して〔付ごま圏点〕到達した境地、すなわち物事に動じなくなった腹の据わりなのではない。もともと彼らは動じないのである。従ってその態度は道徳的な功績を意味するのではない。
我々はシナの文化産物においても同様の特質を見ることができる。シナの芸術には一般にゆったりとした大きさがある。大づかみながらきわめてよく要を待ている。とともに半面において感情内容の空疎を感ぜしめる。繊細な|きめ〔付ごま圏点〕の細かさはそこには全然見いだせない。この性格を代表的に示しているのはシナ近代の宮殿建築である。それは巨大な規模を持ち、壮大な印象を与えるが、しかし細部はきわめて空疎なもので、ほとんど見るに堪えない。ただ遠見《とおみ》の印象だけが好いのである。しかし芸術としては、遠見さえよければ細部が空疎であってよいというわけではない。細部をおろそかにするのはやはり無感動性の一つの表現にほかならないであろう。
もっとも二千年にわたるシナの芸術をこの種の建築で代表させることは無理かも知れない。楽浪出土の漢代の遺物で見ると、シナの芸術にもずいぶん繊細なものがある。特に玳瑁の小箱に描いてある細画などは、画象石で漢代の美(130)術を想像していた自分の考えを粉々《こなごな》に打ち砕くほどの力があった。ロンドンにある顧ト之の画巻も実に繊細な感じのものである。少し下って大同雲崗や竜門などの浮き彫りの中には、まことに豊醇な、きめの細かい芸術がある。そういう性格は唐代の芸術においてかなり顕著に現われており、宋代に至ってもなお失われてはいない。しかしこういう偉大な芸術の性格を考える場合に、我々は二つの視点を忘れてはなるまいと思う。一つはこれらの優れた芸術がすべて黄河文化圏の産物であるということ、そうして黄河的風土を|それだけとして独立に〔付ごま圏点〕考える時には、見方を変えなくてはなるまいということである。もう一つは、右にあげたような芸術の性格が、宋元以後、特に明清から現代に至るシナにおいて、|全然消失し去っていること〔付ごま圏点〕、それにもかかわらず先秦の古銅器より漢唐の芸術を経て明晴以後のそれに至るまで一貫した別個の性格が明らかに存しているということである。人はシナ近代の家具や室内装飾の様式のうちに先秦の古銅器の伝統を感じないであろうか。また漢の画象石の|抽象性〔付ごま圏点〕や雲崗竜門の大石仏の|巨大性〔付ごま圏点〕のうちに遠見を主とする宮殿建築の|空疎性〔付ごま圏点〕と通ずるもののあることを感じないであろうか。唐代の豊醇な彫刻のなかにも、大づかみで大味なものは多数に存する。特に優秀な作品を除いてこれらの平凡な作品のみに着目していれば、それらは必ずしも明晴の作品と縁遠いものではない。それに反して両漢より唐宋に至る間の繊細にしてきめの細かい芸術に着目しつつ、それと親縁あるものを現代のシナに求めても、人は決してたずね当てることがないであろう。かく考えればシナ文化を|一貫する性格〔付ごま圏点〕として無感動性を取り上げることは一応許されてよいのである。
同じことは一切経や四庫全書のようなシナ独特の大編纂事業についても言えるであろう。こういう巨大な叢書あるいは集成が古い文献の保存を可能にしそれによって後代に与えた利益は測り知るべからざるものがある。しかしこの功績は必ずしもこの仕事の内容の|きめ〔付ごま圏点〕の細かさを意味するのではない。たとえば一切経は初めインド伝来の仏教文献(131)のシナ訳をそれぞれの時代において|包括的に余すところなく〔付ごま圏点〕集成しようとしたものであって、批判的に取捨整理しようとしたものではない。後にはシナにおいて著作せられたものをも包括するに至ったが、この種の文献の包括に当たってはさすがに厳密な取捨が行なわれている。しかしその際にも訳軽に関する限りにおいてはことごとく包括しようとしたのである。唐代に至ってそれは一応完備し、大小乗経律論伝七目、惣一千七十六部、五千四十八巻、四百八十帙と言われた。その最初の版刻は宋代である。もとよりそこには一定の|経典分類法〔付ごま圏点〕が用いられてはいる。しかしそれはいわば外から縛る繩であって、玉石を分かち内面的な整理を遂行した体系的な統一ではない。従ってその外観の秩序整然たるに反し、内容においては雑然たる材料の山積であると言ってよい。四庫全書に至ってはこの傾向が極端に現われ、叢書としての生きた機能を発揮し得ざるに至っている。
かかる性格をさらに端的に現わしているのは、シナにおいてしばしば現われた統一的な大帝国である。ヨーロッパでこれに拮抗し得るものはただ最盛期のローマ帝国のみであるが、シナでは秦漢以来あとからあとから現われ、最後の大清帝国は近いころまで続いていた。この点のみを見ればシナ人はすぐれた政治家のように見える。しかしこの大帝国なるものは、国土のすみずみまで統治の行きわたった|きめ〔付ごま圏点〕の細かな国家ではなかったのである。外観は整然たる大帝国でありながら、民衆は本来無政府的であり、国内の匪賊は常に百万乃至二百万を数える、それがシナの本来の姿なのであった。
前に引用した小竹文夫氏の説明によると、シナの平原は交通が便利であって経済的な相互交渉が起こりやすく、秦漢のころよりすでに広大な地域にわたって経済的統一が実現せられていた。これはシナの風土による必然の形勢なのであって、古代の封建的割拠のごときはむしろ不自然の状態であったと言ってよい。その証拠は諸侯の国が初めから(132)城墻都市〔付ごま圏点〕であり、その領土を防御するために|人為的に〔付ごま圏点〕長城を築いたことである。すなわちシナの国土は|強いて区切る努力〔付ごま圏点〕をしなければ小さい国の併立を許さないのである。特に宋代以後になるとシナの全地域にわたる経済的な相互滲透が顕著に実現せられている。シナの民衆は国家の力を借りることなくただ同郷団体の活用によってこの広範囲の交易を巧みに処理して行った。従って無政府的な性格はこの経済的統一の邪魔にはならなかったのである。シナの国家と言われるものはこういう民衆の上にのっている|官僚組織〔付ごま圏点〕なのであって、国民の国家的組織ではなかった。|官人〔付ごま圏点〕は古くは貴族から出たが、宋以後は平民から科挙によって抜擢された。それは読書人すなわち知識人であって、武人ではなかったが、専制君主に裏づけされて大きな権力をふるうことができた。で、官人は通例この権力を利用して私の富を作る。「宋代国家専売のほか、政府および官吏自身が諸種の経商に従い、明清時代文人官僚が口に商人の理財を賤しみつつ実際にはその蓄積した富を土地のほか多く経商に投じたこと顕著なる事実である。現在シナの官吏のみならず、学者と称される者でも経商に関係しているもの多きはむしろ一驚を喫する。」(【前掲書三〇ページ】)してみると国家そのもの、政府そのものが無政府的であると言わねばならぬ。
最後の大帝国が崩壊して以後、この官僚は分化して軍閥や財閥となり、外国の資本と結びついて致富に努めた。今度の戦争の起こるまで上海や香港がシナの心臓となっていたという事実は、シナ国家の無政府性を露骨に示したものと言ってよいであろう。シナを動かしている政治家たちの力が上海や香港の銀行のなかにあり、そうしてその銀行が外国の銀行でない場合でも外国の国家権力によって保護せられていたということは、シナの国家といわれるものがシナの民衆の上に外からのっかっていたということにほかならないのであるが、もともと国家に対して非服従的である民衆は、それをさほど気にもしていなかったのである。たまたま孫文のような先覚者はこの事実を痛切に感じた。彼(133)によると、一九二四年ごろのシナは列強の経済力の圧迫をうけて|完全な植民地〔付ごま圏点〕に化している。否、ほんとうの植民地よりももっと不利な立場に置かれている。しかるにシナ人はこの経済力の圧迫に対してさほど痛痒を感じていない。この孫文の認識はまことに正しかったのであるが、しかし彼と事をともにした人たちは、この桎梏からシナを解放するどころか、一層深く外国の資本と結びつき、ついにシナをして世界の資本主義競争の焦点たらしめるに至ったのである。この傾向はシナ人の民族的自覚に幾分貢献したかも知れない。しかし背後にある動力がシナの植民地化を強化しようとするものである限り、その民族的自覚はシナをその植民地性から解放するという正しい方向には向かい得なかったのである。シナ人の無感動性はついにシナの民衆を最大の不幸にまで追い込んで行ったように見える。
おのれの性格を明らかに認識することは、その性格の限定を超えて進む道をもさとることである。それはまたおのれと異なる性格を理解し、他の長を取っておのれの短を補う道をも開くであろう。
日本人は明治維新までの千数百年間、シナの文化を尊敬し、おのれを空しゅうしてその摂取につとめた。衣食住の末に至るまでそうであった。しかし日本人の衣食住がシナ人のそれと著しく異なったものになったごとく、日本人の摂取したシナの文化はもはやシナのそれではない。日本人が尊重するのは、空漠たる大いさではなくして|きめ〔付ごま圏点〕の細かさである。外観の整備ではなくして内部のすみずみにまで行きわたった醇化である。形式的な体面ではなくして心情における感動である。日本人がいかに深くシナ文化を吸収したにしても、日本人はついに前述のごときシナ的性格を帯びるには至らなかった。しかしそれにもかかわらず日本の文化は、先秦より漢唐宋に至るまでのシナ文化の粋をおのれの内に生かしているのである。シナ人はこれを理解することによってかえって現代のシナに消失している過去の高貴な文化の偉大な力を再認し得るであろう。そうして現在行き詰まっているシナ的性格の打開の道をそこに見いだ(134)すこともできるであろう。
シナは復活しなくてはならぬ。漢や唐におけるごとき文化の偉大さを回復しなくてはならぬ。世界の文化の新しい進展にとってはシナの文化復興は必要である。徹底的に外国の植民地に化する方針を固執するごとき財閥軍閥たちは、シナ民族自身の敵に過ぎない。シナ民族はまず自らの足場に立たなくてはならない。そこに偉大なるシナの復活が始まる。 (昭和四年初稿、昭和十八年改稿)
二 日本
イ 台風的性格
人間の存在は歴史的・風土的なる特殊構造を持っている。この特殊性は風土の有限性による|風土的類型〔付ごま圏点〕によって顕著に示される。もとよりこの風土は歴史的風土であるゆえに、風土の類型は同時に歴史の類型である。自分はモンスーン地域における人間の存在の仕方を「モンスーン的」と名づけた。我々の国民もその特殊な存在の仕方においてはまさにモンスーン的である。すなわち|受容的・忍従的〔付ごま圏点〕である。
しかし我々はこれのみによって我々の国民を規定することはできない。風土のみを抽象して考えても、広い大洋と豊かな日光とを受けて豊富に水を恵まれ旺盛に植物が繁茂するという点においてはなるほど我々の国土とインドとはきわめて相似ているが、しかしインドが北方は高山の屏風にさえぎられつつインド洋との間に|きわめて規則的〔付ごま圏点〕な季節風を持つのとは異なり、日本は蒙古シベリアの漠々たる大陸とそれよりもさらに一層漠々たる太平洋との間に介在して、きわめて変化に富む季節風にもまれているのである。大洋のただ中において吸い上げられた豊富な水を真正面か(135)ら浴びせられるという点において共通であるとしても、その水は一方においては「台風」というごとき|季節的ではあっても|突発的〔付ごま圏点〕な、従ってその弁証法的な性格とその猛烈さとにおいて世界に比類なき形を取り、他方においてはその積雪量において世界にまれな|大雪〔付ごま圏点〕の形を取る。かく|大雨〔付ごま圏点〕と|大雪()との二重の現象において日本はモンスーン域中最も特殊な風土を持つのである。それは|熱帯的・寒帯的〔付ごま圏点〕の二重性椿と呼ぶことができる。温帯的なるものは総じて何ほどかの程度において両者を含むのではあるが、しかしかくまで顕著にこの二重性格を顕わすものは、日本の風土を除いてどこにも見いだされない。この二重性格はまず植物において明白に現われる。強い日光と豊富な湿気を条件とする熱帯的な草木が、ここでは旺盛に繁茂する。盛夏の風物は熱帯地方とほとんど変わらない。その代表的なるものは稲である。しかるにまた他方には寒気と少量の湿気とを条件とする寒帯的な草木も、同じく旺盛に繁茂する。麦がその代表者である。かくして大地は冬には麦と冬草とに覆われ、夏には稲と夏草とに覆われる。しかしかく交代し得ない樹木は、それ自身に二重性格を帯びて来る。熱帯的植物としての竹に雪の積もった姿は、しばしば日本の特殊の風物としてあげられるものであるが、雪を担うことに慣れた竹はおのずから熱帯的な竹と異なって、弾力的な、曲線を描き得る、日本の竹に化した。
風土のみを抽象して考察した場合に見いだされるこれらの特徴は、具体的には人間の歴史的生活の契機である。稲及びさまざまの|熱帯的〔付ごま圏点〕な野菜や、麦及びさまざまの|寒帯的〔付ごま圏点〕な野菜は、人間が自ら|作る〔付ごま圏点〕のであり、従ってそれに必要な雨や雪や日光は人間の生活の中へ降り込み照らし込むのである。台風は稲の花を吹くことによって人間の生活を脅やかす。だから台風が|季節的〔付ごま圏点〕でありつつ|突発的〔付ごま圏点〕であるという二重性格は、人間の生活自身の二重性格にほかならぬ。豊富な湿気が人間に食物を|恵む〔付ごま圏点〕とともに、同時に暴風や洪水として人間を|脅やかす〔付ごま圏点〕というモンスーン的風土の、従って(136)人間の|受容的・忍従的〔付ごま圏点〕な存在の仕方の二重性格の上に、ここにはさらに熱帯的・寒帯的、季節的・突発的というごとき特殊な二重性格が加わってくるのである。
まずモンスーン的な|受容性〔付ごま圏点〕は日本の人間においてきわめて特殊な形態を取る。第一にそれは熱帯的・寒帯的である。すなわち単に熱帯的な、単調な感情の横溢でもなければ、また単に寒帯的な、単調な感情の持久性でもなくして、|豊富に流れ出でつつ変化において静かに持久する感情〔付ごま圏点〕である。四季おりおりの季節の|変化〔付ごま圏点〕が著しいように、日本の人間の受容性は|調子の早い移り変わり〔付ごま圏点〕を要求する。だからそれは大陸的な落ちつきを持たないとともに、はなはだしく|活発〔付ごま圏点〕であり|敏感〔付ごま圏点〕である。活発敏感であるがゆえに|疲れやすく持久性を持たない〔付ごま圏点〕。しかもその疲労は無刺激的な休養によって癒されるのではなくして、新しい刺激・気分の転換等の感情の変化によって癒される。癒された時、感情は変化によって全然他の感情となっているのではなく、依然としてもとの感情なのである。だから持久性を持たないことの裏に持久性を隠している。すなわち感情は|変化において〔付ごま圏点〕ひそかに持久するのである。第二にそれは季節的・突発的である。変化においてひそかに持久する感情は、絶えず|他の感情〔付ごま圏点〕に変転しつつしかも同じ感情として持久するのであるがゆえに、単に季節的・規則的にのみ変化するのでもなければ、また単に突発的・偶然的に変化するのでもなく、|変化の各瞬間に突発性を含みつつ前の感情に規定せられた他の感情に転化する〔付ごま圏点〕のである。あたかも季節的に吹く台風が突発的な猛烈さを持っているように、感情もまた一から他へ移るとき、予期せざる突発的な強度を示すことがある。日本の人間の感情の昂揚は、しばしばこのような突発的な猛烈さにおいて現われた。それは執拗に持続する感情の強さではなくして、野分《のわき》のように吹き去る猛烈さである。だからそれはしばしば執拗な争闘を軋がわずして社会を全面的に変革するというごとき特殊な歴史的現象をさえ作り出している。さらにそれは感情の昂揚を非常に尚びながらも(137)執拗を忌むという日本的な気質を作り出した。桜の花をもってこの気貿を象徴するのは深い意味においてもきわめて適切である。それは急激に、あわただしく、華やかに咲きそろうが、しかし執拗に咲き続けるのではなくして、同じようにあわただしく、恬淡に散り去るのである。
次にモンスーン的な|忍従性〔付ごま圏点〕もまた日本の人間において特殊な形態を取っている。ここでもそれは第一に熱帯的・寒帯的である。すなわち単に熱帯的な、従って|非戦闘的な〔付ごま圏点〕あきらめでもなければ、また単に寒帯的な、|気の永い〔付ごま圏点〕辛抱強さでもなくして、|あきらめでありつつも反抗において変化を通じて気短に辛抱する忍従〔付ごま圏点〕である。暴風や豪雨の威力は結局人間をして忍従せしめるのではあるが、しかしその台風的な性格は人間の内に戦争的な気分を湧き立たせずにはいない。だから日本の人間は、自然を|征服〔付ごま圏点〕しようともせずまた自然に|敵対〔付ごま圏点〕しようともしなかったにかかわらず、なお戦闘的反抗的な気分において、持久的ならぬ|あきらめ〔付ごま圏点〕に達したのである。日本の特殊な現象としてのヤケ(自暴自棄)は、右のごとき忍従性を明白に示している。第二にこの忍従性もまた季節的・突発的である。反抗を含む忍従は、それが反抗を含むというその理由によって、単に季節的・規則的に忍従を繰り返すのでもなければ、また単に突発的・偶然的に忍従するのでもなく、|繰り返し行く忍従の各瞬間に突発的な忍従を蔵している〔付ごま圏点〕のである。忍従に含まれた反抗はしばしば台風的なる猛烈さをもって突発的に燃え上がるが、しかしこの感情の嵐のあとには突如として静寂なあきらめが現われる。受容性における季節的・突発的な性格は、直ちに忍従性におけるそれと相俟つのである。反抗や戦闘は猛烈なほど嘆美せられるが、しかしそれは同時に執拗であってはならない。|きれいにあきらめる〔付ごま圏点〕ということは、猛烈な反抗・戦闘を一層嘆美すべきものたらしめるのである。すなわち俄然として忍従に転ずること、言いかえれば思い切りのよいこと、淡白に忘れることは、日本人が美徳としたところであり、今なおするところである。桜の花に(138)象徴せられる日本人の気質は、半ばは右のごとき突発的忍従性にもとづいている。その最も顕著な現われ方は、淡白に生命を捨てるということである。この現象はかつてキリシタンの迫害に際しての殉教者の態度としてヨーロッパ人を驚嘆せしめたように、近くは日露戦争において彼らに強い驚きの印象を与えた。反抗や戦闘の根柢に存するものは生への執着である。しかも生への執着が大きい・烈しい客観的な姿に現われたときに、その執着のただ中において最も目立つものは、生への執着を全然否定する態度であった。日本人の争闘はここにその極致を示している。剣道の極致は剣禅一致である、すなわち争闘をば執拗な生への執着から生の超越にまで高めることである。これらを我々は台風的な忍従性と呼ぶことができる。
そこで日本の人間の特殊な存在の仕方は、豊かに流露する感情が変化においてひそかに持久しつつその持久的変化の各瞬間に突発性を含むこと、及びこの活発なる感情が反抗においてあきらめに沈み、突発的な昂揚の真に俄然たるあきらめの静かさを蔵すること、において規定せられる。それは|しめやかな激情(1)、戦闘的な恬淡〔付ごま圏点〕である。これが日本の国民的性格にほかならない。しかしこの国民的性格は歴史においておのれを形成しているのであるゆえに、歴史的な形成物を除いてどこにもその現われている場所はない。そこで我々はこの性格をその客観的表現において追究してみなくてはならぬ。
人間の第一の規定は個人にして社会であること、すなわち「間柄」における人であることである。従ってその特殊な存在の仕方はまずこの間柄、従って共同態の作り方に現われてくる。
人の「間」の最も手近なものは、アリストテレスも指摘したように、男と女との「間」である。男といい女という区別は、すでにこの「間」において把捉せられている。すなわち間における一の役目が男であり他の役目が女で(139)ある。この役目を持ち得ない「人」はいまだ男にも女にも|成っていない〔付ごま圏点〕のであり、男にも女にも成っていないものをいくら結合させてもそこに「男女の間」は成立しない。だから男といい女という時にはすでに「間」において人を役目づけているのである。従って「人」は独身であることができるにしても「男女」は互いに相手なくしては存在し得ないということができる(2)。
かかる「男女の間」が日本においていかに特殊に形成せられているか。それは古事記や書紀における恋愛譚を初めとして、あらゆる時代を通じて他のいかなる題目よりも豊富な材料によって答えられる。そこに見いだされるものは、「激情を内に蔵したしめやかな情愛、戦闘的であるとともに恬淡なあきらめを持つ恋愛」として、明らかに日本的なる一つの恋愛の類型を示している。古事記の物語るいくつかの素樸な悲恋は、旧約にもまたギリシアの物語(3)にも見いだせないほど|しめやか〔付ごま圏点〕なものであるとともに、またシナやインドに見いだせないほどな台風的激情性、戦闘的な力強さを持っている。しかもそれが「情死」において恬淡な静かなあきらめを最も明白に具体化しているのである(4)。この素樸さは時代とともに失われたが、しかし恋愛に物の哀れを看取する平安朝においても(5)、また恋愛を宗教と結合した鎌倉時代においても、さらにまた恋愛の根源的な力を謡った足利時代においても、右のごとき恋愛の類型は明らかに認めることができる。仏教は決して恋愛の位置を貶しはしなかった。むしろ煩悩即菩提の思想によって霊と肉との乖離を防いだ。徳川時代の文芸が好んで主題とした情死のごときも、単に精神的な「あの世」の信仰にもとづいたものではない。それは生命の|否定〔付ごま圏点〕において恋愛の|肯定〔付ごま圏点〕を示しているのである。恋愛の|永遠〔付ごま圏点〕を欲する心が|瞬間的〔付ごま圏点〕な昂揚に結晶するのである。たといそれが人間の男女としての役目のゆえに他のあらゆる役目を蹂躙するという意味において|人間の道をはずれている〔付ごま圏点〕としても、それによって日本的なる恋愛の特性を示しているということには変わりはないので(140)ある。
かくして日本的なる恋愛の類型においては、まず第一に恋愛が生命的なる欲望よりも優位を持っている。恋愛が欲望の手段ではなくして欲望が恋愛の手段である。だからそこでは、個人的なる欲望に距てられない間柄、すなわち男女の間の|全然距てなき結合〔付ごま圏点〕が目ざされる。|しめやかな〔付ごま圏点〕情愛として言い現わされるのは右のごとき全人格的な結合である。しかし第二に恋愛は常に肉体的であって単に魂のみの結合ではない(6)。恋愛はその手段として肉欲を欠くことができない。そこで人格的なしめやかな情愛が同時に激情的になる。全然距てなき結合は離れたる肉体を通じて試みられなくてはならない。魂の永遠の欲望が肉体において瞬間に爆発する。そこで第三に肉体的生命を惜しまない恋愛の勇敢となり、第四にその裏として突如たるあきらめとなる。すなわち全然距てなき結合が肉体においては不可能であるとのあきらめである。そこで肉体的な恋愛が恬淡に肉体を否定する。それは情死の現象において拡大せられるまでもなく、恋愛を常に肉体的に把捉している日本人が肉体的に最も|恬淡〔付ごま圏点〕であることによって示されている。そこで日本的恋愛の型は、恋愛を魂の事件として把捉しつつも肉欲的に執拗である他の型よりも、一層高き品位を保っているのである。
しかし「男女の間」をただ右のごとき恋愛の関係にのみ限るのは実は抽象的である。それは「め・おとの仲」として同時に夫婦関係であり、従って「親子の間」を含んでいなくてはならぬ。しかしこの親子の間は夫婦がその間に産まれた子に対して持つ関係のみではない。夫婦が子に対して父母となるとともに、夫婦自身が親に対して子である。だから人は|男女〔付ごま圏点〕であるとともに|夫婦〔付ごま圏点〕であり|親〔付ごま圏点〕であり|子()であるのである。子としての役目を持ったことのない男女なるものは絶対的にあり得ない。従って男女の間はあくまでも夫婦親子の間にもとづくと言わねばならぬ。これが「家族」(141)としての人間の共同態である。だから人は家族の全体性において初めて夫婦親子男女として役目づけられるのであって、逆に男女夫婦親子の集合により家族が成立するのではない。
家族としての人の「間」は、牧場的、沙漠的、モンスーン的に明白に相違している。牧場的文化の始まりはギリシア人の海賊的冒険であった。その郷土の牧場を離れた冒険的な|男たち〔付ごま圏点〕が、多島海沿岸の諸地方を|征服〔付ごま圏点〕して原始的ポリスを建設し始めたとき、被征服地の|女〔付ごま圏点〕を取って妻とした。すなわち家族から脱出して来た|男〔付ごま圏点〕と、殺戮によって家族を破壊せられた|女〔付ごま圏点〕とが、ここに新しく家族を形成したのである。ギリシアの古い伝説に残虐な夫殺しの話が多いのは、このような史的背景にもとづくと言われている。だからギリシア人がもと強い祖先崇拝の上に立ち、またヘスチアの崇拝を根強く保存したにもかかわらず、ポリスの形成以後においては、家の意義はポリスに対してはるかに軽くなっている。家族は|夫婦〔付ごま圏点〕の見地から把捉せられ、血統的には|何某の子〔付ごま圏点〕としてせいぜい父があげられるだけである。それに対して沙漠的な家族は、祖先以来の血統を背負った伝統的な存在として把捉せられている(7)。処女から生まれたイエスさえも「アブラハムの裔」「ダビデの裔」である。しかし沙漠的な存在の仕方は、この家族の優位をむしろ「部族」に譲った。遊牧生活の単位は部族であって家族ではない。部族の団結の厳しい制約の下においては、家族的な生活の共同はその意義を弱めてくる。家族的な生活の共同に最も強く重心を置いたのは、モンスーン的な家族である。特にシナ及び日本における「家」である。それは沙漠的な家族と同じく血統的な存在ではあるが、しかし部族に解消し去るということがない。
「家」は家族の全体性を意味する。それは家長において代表せられるが、しかし家長をも家長たらしめる全体性であって、逆に家長の恣意により存在せしめられるのではない。特に「家」の本質的特徴をなすものは、この全体性が(142)歴史的に把捉せられているという点である。現在の家族はこの歴史的な「家」を担っているのであり、従って過去未来にわたる「家」の全体性に対し責任を負わねばならぬ。「家名」は家長をも犠牲にし得る。だから家に属する人は親子夫婦であるのみならずさらに祖先に対する後裔であり後裔に対する祖先である。家族の全体性が個々の成員よりも|先である〔付ごま圏点〕ことは、この「家」において最も明白に示されている。
このような「家」が日本の人間の存在の仕方として特に目立つものであることは、家族制度が日本の淳風美俗として力説せられることによっても知られる。しかしその特殊性はどこにあるであろうか。またこの特殊な存在の仕方は、家族制度がすたれて行くとともに消滅し去るようなものであろうか。
我々が日本的なる恋愛の特殊性について語ったことは、そのまま家族としての存在の仕方にも通用する。ここでは男女の間ではなくして夫婦の間・親子の間・兄弟の間が問題であるが、この「間」がまず第一に全然距てなき結合を目ざすところのしめやかな情愛である。素朴な古代人は夫婦喧嘩や嫉妬を物語(8)るに際してすでにこのような距てなき家族の情愛を示している。さらに万葉の歌人憶艮の「しろがねも黄金も玉もなにせむにまされる宝子にしかめやも」の絶唱は、日本人の心を言い当てたものとして、永く人口に膾炙している。憶艮の家族的情愛はかの罷宴の歌においてさらに一層直観的に現われる。「憶良らは今は罷《まか》らむ子|哭《な》くらむその子の母も吾《あ》を待つらむぞ。」このようなしめやかな情愛は大きい社会的変革を引き起こした鎌倉時代の武士にも見ることができる。熊谷蓮生坊の転心は子に対する愛情にもとづくのである(9)。さらに足利時代の謡曲においては、親子の情は最も根源的な深い力として描かれている。徳川時代の文芸が人の涙を絞ろうとする時にこの親子の情を使ったことは言うまでもない。あらゆる時代を通じて日本人は家族的な「間」において|利己心を犠牲にすること〔付ごま圏点〕を目ざしていた。自他不二の理念はこの場面において比類な(143)く実現せられているのである。従って第二にそれはしめやかであると同時に激情的になる。情愛のしめやかさは単に陰欝に沈んだ感情の融合ではなくして、横溢する感情を変化においてひそかに持久させたものである。強い感情が燻しをかけられて静かな形に現われたものである。だから距てなき結合を目ざす力は表面の静かさにもかかわらずその底力においてきわめて烈しい。利己心の犠牲も、単に便宜上必要な程度に留まるのではなくして、あくまでも徹底的に遂行せられようとする。そこで障礙に逢うごとにしめやかな情愛は激して熱情的になる。それは家の全体性のゆえに個人を圧服し切るほどの強い力を持っている。だから第三に家族的な「間」は生命を惜しまない勇敢な・戦闘的な態度となって現われてくるのである。曾我物語に現われているような親の仇討ちの思想がいかに強く日本の民衆の血を湧かせたかがそれを示している。親のために、また家名のために、人はその一生を犠牲にする。しかもその犠牲は当人にとって人生の最も高い意義として感ぜられていたのである。「家名」のために勇敢であった武士たちは皆そうであった。家の全体性は常に個人より重いのである。従って第四に人はきわめて恬淡に己れの命をも捨てた。親のためあるいは子のために身命を賭すること、あるいは「家」のために生命を捨てること、それは我々の歴史において最も著しい現象である。家族のために勇敢であることが必ずしも利己心にもとづかず、従って執拗に生を欲するのでないということは、しめやかな情愛がすでに利己心の犠牲をふくむということによっても理解し得られるであろう。
かくして「家」としての日本の人間の存在の仕方は、しめやかな激情・戦闘的な恬淡というごとき日本的な「間柄」を家族的に実現しているにほかならぬ。そうしてまたこの間柄の特殊性がまさに「家」なるものを顕著に発達せしめる根拠ともなっているのである。なぜなら、しめやかな情愛というごときものは、人工的・抽象的な視点の下に人間を見ることを許さず、従って個人の自覚にもとづくところの、より大きい人間の共同態の形成には不適当だからであ(144)る。そこで「家」なるものは日本においては共同態のなかの共同態として特に重大な意義を帯びてくる。それはまさに日本の人間の存在の仕方の特殊性なのであって、それにもとづいた家族制度というごときイデオロギーよりも一層深い根柢的な位置を持っている。
家族制度が現代において徳川時代のごとく顕著に存せざることは何人も承認するところであろう。しかし現代の日本の人間の存在の仕方は、「家」を離れているであろうか。ヨーロッパの近代資本主義は人間を個人として見ようとする。家族もまた経済的利害による個人の結合として理解せられる。しかし資本主義を取り入れた日本人は「家」において個人を見ず、個人の集合において家を見るようになったであろうか。我々はしかりとは答えることができぬ。
最も日常的な現象として、日本人は「家」を「うち」として把捉している。家の外の世間が「そと」である。そうしてその「うち」においては|個人の区別は消滅する〔付ごま圏点〕。妻にとっては夫は「うち」「うちの人」「宅」であり、夫にとっては妻は「家内」である。家族もまた「うちの者」であって、外の者との区別は顕著であるが内部の区別は無視せられる。すなわち「うち」としてはまさに「距てなき間柄」としての家族の全体性が把捉せられ、それが「そと」なる世間と距てられるのである。このような「うち」と「そと」の区別は、ヨーロッパの言語には見いだすことができない。室の内外、家の内外を言うことはあっても、家族の|間柄〔付ごま圏点〕の内外を言うことはない(10)。日本語の|うち・そと〔付ごま圏点〕に対応するほど重大な意味を持つのは、第一に|個人の〔付ごま圏点〕心の内と外であり、第二に家屋の内外であり、第三に国あるいは町の内外である(11)。すなわち精神と肉体、人生と自然、及び大きい人間の共同態の対立が主と七て注意せられるのであって、家族の間柄を標準とする見方はそこには存せぬ。かくて|うち・そと〔付ごま圏点〕の用法は日本の人間の存在の仕方の直接の理解を表現しているといってよい。
(145) かく言語において表現せられていることは同時に「家」の構造にも現わされている。すなわち人間の|間柄としての〔付ごま圏点〕家の構造はそのまま|家屋としての〔付ごま圏点〕家の構造(12)に反映しているのである。まず第一に「家」はその内部において「距てなき結合」を表現する。どの部屋も距ての意志の表現としての錠前や締まりによって他から区別せらるることがない。すなわち個々の部屋の区別は消滅している。たとい襖や障子で仕切られているとしても、それはただ|相互の信頼において〔付ごま圏点〕仕切られるのみであって、それをあけることを拒む意志は現わされておらぬ。だから距てなき結合そのものが襖障子による仕切りを可能にするのである。しかし距てなき結合においてしかも仕切りを必要とするということが他方では距てなき結合の含んでいる|激情性〔付ごま圏点〕を現わしているのである。従ってそれは家の内部における|対抗性〔付ごま圏点〕を示すとともに、またそれをことごとく取り払って一切の仕切りのない恬淡な開放性をも実現することができる。
第二に「家」はそとに対して明白に区別せられる。部屋には締まりをつけないにしても外に対しては必ず|戸締まり〔付ごま圏点〕をつける。のみならずその外にはさらに垣根があり塀があり、はなはだしい時には逆茂木や濠がある。そとから帰れば玄関において下駄や靴をぬぎ、それによって外と内とを截然区別する。そとに対する|距て〔付ごま圏点〕が露骨に現われているのである。
かくのごとき家が日本においては依然として存続している。そうして単に外形的にのみならず生活の仕方をも規定しているのである(13)。それが人間の存在の仕方としていかに特殊的であるかは、ヨーロッパのそれと此較することによって明らかになる。ヨーロッパの家の内部は個々独立の部屋に区切られ、その間は厚い壁と頑丈な戸とによって距てられている。その戸は一々精巧な錠前によって締まりをすることができ、従ってただ鍵を持つもののみが自由に出入し得るのである(14)。これは原理的に言って|個々相距てる構造〔付ごま圏点〕と言わねばならぬ。内外《うちそと》が第一に個人の心の内外を意味す(146)ることは、家の構造に反映して、個別的な部屋の内外となるのである。だから部屋の戸口から出ることはちょうど日本において玄関から出ることと同様な意味を持つ。室の中では、すなわち個人的には、真裸でもよい。しかし室を出て家族の間に加わるときには、きちんとしていなくてはならぬ。一歩室を出れば、家庭内の食堂であると街のレストランであると大差はない。すなわち家庭内の食堂がすでに日本の意味における「そと」であるとともに、レストランやオペラなどもいわば茶の間や居間の役目をつとめるのである。だから一方では日本の家に当たるものが戸締まりをする個人の部屋にまで縮小せられるとともに、他方では日本の家庭内の団欒に当たるものが町全体にひろがって行く。そこには「距てなき間柄」ではなくして距てある個人の間の社交が行なわれる。しかしそれは部屋に対してこそ外であっても、共同生活の意味においては内である。町の公園も往来も「内」である。そこで日本の家の塀や垣根に当たるものが、一方で部屋の錠前にまで縮小したとともに他方で町の城壁や濠にまで拡大する。日本の玄関に当たるものは町の城門である(15)。だから|部屋〔付ごま圏点〕と|城壁〔付ごま圏点〕との中間に存する家はさほど重大な意味を持たない。人はきわめて個人主義的であり従って|距てがある〔付ごま圏点〕とともに、またきわめて社交的であり従って|距てにおける共同〔付ごま圏点〕に慣れている。すなわちまさしく「家」に規定せられるということがないのである。
日本人は外形的にはヨーロッパの生活を学んだかも知れない。しかし家に規定せられて個人主義的・社交的なる公共生活を営み得ない点においては、ほとんど全ぺヨーロッパ化していないと言ってよいのである。路面にアスファルトを敷いても、それが足袋はだしで出て行ける場所であると誰が感ずるであろうか。あるいはまた靴をはいても、そのままで畳の上にも上がれるはき物であると誰が感ずるであろうか。すなわち「家の内」と「町の内」との同視がどこに存するであろうか。町をあくまで家の外として感ずる限り、それはヨーロッパ的ではないのである。開放的な(147)日本の家屋に住み得る限り、彼らは依然として「家」に規定せられているのである。
かくして我々は「家」としての存在の仕方が特に顕著に国民の特殊性を示すことを承認しなくてはならぬ。ところで日本の人間が|その全体性〔付ごま圏点〕を自覚する道も、実は家の全体性を通じてなされたのである。人間の全体性はまず神として把捉せられた。しかしその神は歴史的なる「家」の全体性としての「祖先神」にほかならなかった。それは古代における最も素樸的な全体性の把捉であるが、しかし不思議にもその素樸な活力が国史の展開を通じて活き続けているのである。明治維新は尊皇攘夷という形に現わされた国民的自覚によって行なわれたが、この国民的自覚は日本を神国とする神話の精神の復興にもとづき、この復興は氏神の氏神たる伊勢神宮の崇拝に根ざしている。原始社会における宗教的な全体性把捉が高度文化の時代になお社会変革の動力となり得たというような現象は、実際、世界に類がないのである。だから明治時代に他の国民との戦争において燃え上がった国民的自覚さえも、学者はそれ自身において理論づけようとはせず、依然として家のアナロギ一によって説こうとしたのである。いわく、日本の国民は皇室を宗家とする一大家族である。国民の全体性は、同一祖先より出づるこの大きい家の全体性にほかならない。そこで国家は「家の家」となる。家のまわりの垣根は国境にまで拡大せられる。家の内部におけると同じく国家の内部においても距てなき結合が実現せられねばならぬ。家の立場において孝と呼ばれる徳は、家の家の立場において忠と呼ばれる。だから忠孝は本質において一致する。それはいずれも全体性によって個人を規定するところの徳である。
この忠孝一致の主張が理論的にも歴史的にも多くの無理を含むことは一見して明らかである。家の全体性は決してそのままに国家の全体性ではあり得ない。家族は直接の生活の共同として人間の共同態の|初め〔付ごま圏点〕であり、国家は精神的(148)共同態として人間の共同態の|終わり〔付ごま圏点〕である。前者は最も低次の全体性であり、後者は最高の人間全体性である。連帯性の構造が両者において異なっている。だから人間の構造として家族と国家を同視するのは間違いである。また歴史的に言っても、江戸時代に力説せられた「孝」は必ずしも家族の全体性による個人の規定の全部を尽くしてはいない。シナにおいては父子の間は「親」であったが、江戸時代においては孝はただ親《おや》に対する子の奉仕的関係のみを意味する。同様に忠もまた封建君主とその臣との間の|個人的関係〔付ごま圏点〕をのみ意味して、国家の全体性とかかわるところはなかった。だから国家の全体性への帰属を意味する|尊皇〔付ごま圏点〕は、本質的に江戸時代の忠とは異なるのである(16)。従って親に対する奉仕的関係が封建君主に対する奉仕的関係と合致するということは、|尊皇の意味における忠が〔付ごま圏点〕(すなわち個人的関係ではなくして全体性への個人の帰属という意味における忠が)家族の全体性による個人の規定としての孝と合致するということの証明にはならないのである。
にもかかわらず我々は、家のアナロギ一によって国民〉の全体性を自覚しようとする忠孝一致の主張に充分の歴史的意義を認める。それはまさに日本人が|その特殊な存在の仕方〔付ごま圏点〕を通じて人間の全体性を把捉する|その特殊な仕方〔付ごま圏点〕にほかならぬのである。そうしてこのような特殊な仕方が可能であったということは、日本の国民の特殊性が家としての存在の仕方に最もよく現われているととも(17)に、国民としての存在の仕方そのものに同様な特殊性の存することを示唆しているのである。
日本においても国民の全体性はまず|宗教的に〔付ごま圏点〕把捉せられた。それは神話を通じてのみ理解し得られを原始社会の事実である。そこでは人はまだ個人として物を感じ考えるということがなかった。人間の意識は団体の意識であり、団体の生活にとって不利なことはタブーとして個々の人を束縛した。かかる社会において人間の全体性が神秘的な力と(149)して自覚せられたのである。だから神秘的な力への帰属は全体性への帰属にほかならず、宗教的に何かを祭ることはその祭儀において全体性を現わすことにほかならなかった。そこで祭り事を司どる者は全体性の表現者として禅的なる権威を帯びて来る。rain maker が Zeusu になる。これは原始宗教一般の傾向であるが、わが国においては特に模範的に示されている。天照大神は神にますとともにまた祭り事を司どられる。祭り事がそのまま政治を意味するに至ったことはこの事情を最も明白に示している。
そこで原始社会における日本国民は、右のごとき祭り事によって確保せられた一つの|教団〔付ごま圏点〕の意味を持ったのである。武力的経済的には充分組織せられないにもかかわらず、しかも日本国民がきわめて緊密な団結を形成し、多数の軍隊を朝鮮にさえ送り得たのは、かくのごとき宗教的な結紐によるのである。このことは全国的に一様に見いだされる古墳時代の遺物がすべて鏡玉剣の崇拝を示していることによっても知られるであろう。ところでこの教団的な人間の共同態が、ちょうど家としての共同態と同じく、個人の自覚を必要としない|感情融合的な共同態〔付ごま圏点〕であり、そうしてそのゆえに日本の人間の存在の仕方を顕著に現わし得る場所となったのである。
我々の神話がさまざまの原始信仰の痕跡を示すにもかかわらず、しかも力強く|一つの祭り事〔付ごま圏点〕によって統一せられていることは、ギリシアやインドの神話に比べて最も特異な点といってよい。それに比すべきものはただ旧約の神話のみである。しかし旧約の神話においては神と人とは截然区別せられた。しかるに日本の神々は人間ときわめて親密であり、血縁関係において理解せられている。前者においては人間の全体性が峻厳な、特に意力的な、威厳をもって人に臨むが、後者においてはそれは決して己れの意志をもって命令を発することなく、常に和やかな、特に感情的な、慈愛をもって人に臨む。天照大神の描写がまさにそれを示している。それは取りもなおさず教団としての人間の間柄(150)が、「距てなき結合」「しめやかな情愛」を特性としていることの証拠である。ギリシアの神々は人間に近い点においては似ているが、しかしすでに知力的な、共和政治的な間柄を反映している。それはギリシアの民族が一つの祭り事に結合し得なかったことを示すのである。
一つの祭り事における距てなき結合は、しかしキリストの教会におけるごとき魂のみの結合ではなかった。これは宗教的であるとともに肉体ある人間の結合であった。だからそれは超国民的な神の教会としてではなく、国民的団結として実現せられたのである。神の教会においては「祭り事」はあくまでも魂に関することであって、地上生活の「政治」とはならなかったが、国民的教団においては祭り事は他面において政治であった。天皇は法王と同じく全体性の表現者に坐《いま》すと同時に、法王とは異なって国家の主権者であられた。そこで教団的な距てなき結合は、肉体ある人間の結合として、あくまでも|距てにおいて〔付ごま圏点〕実現せられる。従ってそこに激情的な性格が現われざるを得ない。和やかな慈愛の神天照大神は同時に断乎として怒る神に坐《いま》した。ここに国民としての存在の仕方の「しめやかな激情」という二重性格が示されている。
教団的な結合でありながらしかも超地上的ではなくしてあくまでも地上的であることは、右のごとく距てなき結合を|距てにおいて〔付ごま圏点〕成立せしめる。それはこの結合が常に|対抗を含む〔付ごま圏点〕こと、すなわち|戦闘的〔付ごま圏点〕であることを意味している。争闘はすでに神々の間に行なわれ、神話は戦いの物語に充たされている。教団的結合は決して対抗なき融合ではなかった。人が我々の国民の尚武的精神と呼ぶものはこの戦闘的性格である。
しかしこの戦闘的性格は日本の国民を数多のポリスに分裂せしめるごときものではなかった。戦闘を通じて一つの祭り事が実現せられたように戦闘自身が距てなき結合への道であった。それは戦闘的性格の裏面に存する|恬淡性〔付ごま圏点〕によ(151)って可能であったのである。神話の物語る戦闘はすべて恬淡であった。恬淡であるとは戦闘が猛烈でないということではなくして、猛烈な戦闘が突如として融合に転ずることである。ここに我々は国民としての存在の仕方の「戦闘的恬淡」という二重性格を見いだすことができる。
以上のごとく古代の|教団的な〔付ごま圏点〕国民の結合は、家のアナロギーによって解せられ得るような特殊性を持っているのである。それは激情的ではあってもしめやかな結合を含むのであり、戦闘的ではあっても恬淡に融合するのである。このような特性は、たとい烈しい争闘の中に対立していてもなお敵手を同胞として感ずるというごとき、きわめて人道的な人間の態度を可能にする。敵を徹底的に憎むということは日本的ではなかった。ここに我々は、日本人の道徳思想の産み出されて来る生きた地盤を見ることができる。そこでは道徳はいまだ「思想」として形成せられてはいないが、しかし人間の行為と心情は「貴し」「明《あか》し」あるいは「きたなし」「卑し」として評価せられる。かかる評価の内にすでに国民の特殊性が反映しているのである。
我々はこの特殊な評価から次の諸点を最も重大なものとして選び出すことができる。第一は国民としての存在を教団としての存在たらしめた宗教的な信念である。貴さはまず第一に祭り事を司どる神において認められる。それは国民の全体性への帰依があらゆる価値の根源であることを意味する。我々はそれを|尊皇心〔付ごま圏点〕として言い現わすことができる。第二は人間の距てなき結合の尊重である。和やかな心情、しめやかな情愛は、すべての英雄の欠くべからざる資格であった。しかもそれは家族的な直接の情愛としてのみならず、一般に国民の間の相互の関係として把捉せられているのである。だからそれは一方において|人間の慈愛〔付ごま圏点〕の尊重であり、他方において|社会的正義〔付ごま圏点〕の尊重となる。第三は戦闘的恬淡に根ざした「貴さ」の尊重である。勇気は貴く美しく、怯懦は卑しく穢い。しかし単なる強剛は醜く、残(152)虐は極度に醜である。なぜならそこには勇気のみならず執拗な利己的欲望が存するからである。勇気の貴さは自己を空しゅうする所に存する。勇壮な戦闘的性格は同時に恬淡な自己放下を伴なわねばならぬ。かかる意味において貴さと卑しさとは生命よりも重大な価値であった。
これらの三者が古代における主要な徳であったことは、神話や伝説を材料として立証され得る。しかし古代におけるこの国民の特殊性は、|教団としての結合〔付ごま圏点〕というごとき原始信仰にもとづいている。それは文化が迅速に発達した後の時代にも同様に見いだされ得るであろうか。個人の存在が強く自覚せられた後にも、なお国民的な距てなき結合というごときことが存し得たであろうか。
我々は右に説いたような神話・伝説の時代を、古墳時代として考える。それは壮大な古墳の築造や朝鮮との軍事関係を絶頂とする時代である。そうしてその時代は、全国土にわたるわが国民の統一が|祭り事の統一〔付ごま圏点〕として宗教的に力強く実現された時代であった(18)。そのように我々はその後の時代をも、大きい社会的変革を中心として考察することができる。|第二〔付ごま圏点〕の大きい変革は|大化の〔付ごま圏点〕改新である。第一の変革すなわち祭り事の統一の全国的実現がもたらしたのは、宗教的な封建社会の組織であった。封建君主は天皇の宗教的権威によって、従って鏡玉剣の権威によって、それぞれの地方の民衆の全体性を表現した。しかし朝鮮におけるシナ人及びシナ文化との接触は、ようやく原始的信仰の新鮮な活力を衰えしめた。宗教的権威に変わって武力的経済的な|権力〔付ごま圏点〕が地方君主の支配力となった。ここにおいて祭り事の統一は政治の統一を含まなくてはならない。ミヤケの増置による中央集権の運動はこの政治の統一の前駆である。かくレて宗教的権威を危うくしたシナ文化自身が、新しい政治的統一の武器とせられ、それによって|初次の封建社会の顛覆〔付ごま圏点〕、中央集権的国家の形成が行なわれたのである。大化の改新によってもたらされたのは、土地公有主義にもと(153)づく国家社会主義的な礼会組織であった。そうしてこのような断然たる改革は、経済的実力に裏づけられた宗教的権威の力によって、小さい内乱さえもなしに遂行せられたのである。
|第三〔付ごま圏点〕の大きい変革は、|鎌倉幕府〔付ごま圏点〕の樹立による封建的組織の再興である。土地公有主義にもとづく社会組織は、人間の私有欲に満足を与えなかった。力あるもの優れたるものは、荘園というごとき「公有制度の癌」に隠れて、私有制度をひそかに発展せしめた。荘園において養われた武力的権力が、ついに将軍とそれに属する守護地頭によって組織せられた第二次の封建制度をもたらしたのである。従って土地公有主義にもとづく国家の法律が廃棄せられないにもかかわらず、実際においては将軍の軍令が法律の役目をつとめ始めたのである。
|第四〔付ごま圏点〕の大きい変革は|戦国時代〔付ごま圏点〕である。封建制度そのものは覆されなかったが、しかし支配階級は|実質的に〔付ごま圏点〕覆され、一揆の運動によって民衆の中から出た勢力がそれに変わった。とともに町が発達し、町人の経済的実力が武力をひそかに圧倒し始めた。
|第五〔付ごま圏点〕の大きい変革は|明治維新〔付ごま圏点〕である。ここで封建制度は再び顛覆せられた。中央集権的国家は再び形成せられた。永い封建制度の間を通じて|権力なき権威〔付ごま圏点〕であった天皇の権威は、依然として将軍の権力よりも上にあり、依然として国民の全体性を表現するものである、ということが明白に示された。原始的な信仰は決して死んではいなかった。
これらの大きい変革を通じてそれぞれの時代を考察するならば、我々は前にあげた国民の特殊性とそれにもとづく道徳思想が、歴史的にいかによく実現せられているかを知り得るのである。教団としての結合を表現する|尊皇心〔付ごま圏点〕は、まさに第五の明治維新の動力であった。それによって武力的に対抗せる封建君主が何らの分裂をも引き起こし得ず(19)、国民の全体性の前に解消し去ったのである。また古代における貴さの自覚は、第四の戦国時代に民衆の中から涌き出(154)でた|武士道〔付ごま圏点〕として、特に顕著に姿を現わして来る。武士道の根本精神は恥を知ること、すなわち卑しさ(卑怯、卑劣、卑屈)を恥ずることである。ここに善悪ではなくして|尊卑の道徳〔付ごま圏点〕が模範的に現われる。さらに古代における人間の慈愛の尊重は、第三の鎌倉幕府の時代に、力強い鎌倉仏教の勃興において、|慈悲の道徳〔付ごま圏点〕として現われた。距てなき結合は絶対的な自他不二の実現として把捉せられ、生命をも恬淡に捨てるような慈悲の実行が実践の目標となった。慈愛の尊重と根を同じくする社会的正義の尊重は、第二の大化の改新において|土地公有主義〔付ごま圏点〕として現われている。それは教団としての国民の全体性を、新しく受け容れた仏教と儒教の理想によって裏づけ、この理想を現実的に国民においで実現しようとしたものである。
我々は右のごとき顕著な道徳思想を特に重大視しなくてはならぬ。それはその本質において決して日本特有のものではない。しかし日本において特殊な力強さをもって自覚せられたものである。そうしてこの自覚の特殊性はまさにしめやかな激情・戦闘的恬淡というごとき国民の特殊性にもとづくにほかならない。 (昭和六年稿)
(1) 愛情を「しめやか」という言葉で形容するのは、ただ日本人のみである。そこには濃やかな感情の静かな調和的な融合が言い現わされている。「しめやかな激情」とは、しめやかでありつつも突如激情に転じ得るごとき感情である。すなわち熱帯的な感情の横溢のように、単調な激情をつづけて感傷的に堕するのでもなければ、また湿っぽく沈んで湧き立たない感情でもない。
(2) もっとも独身という語の通例の用法は、真に独立の人を意味するのでなく、配偶の欠けていることを意味する。すなわち本質的には相手と相俟って存在するものが非本質的にその相手を欠ける様態である。
(3) 代表的な例としてトロヤの戦争の動機たるヘレネを取って、古事記のサホ姫と対照せよ。ヘレネの恋は戯れである。ギリシア人はヘクトル及びオデュッセウスにおいて、夫婦の間の濃やかな情を描いたが、命を賭するような恋は描かなかった。
(155) (4) 本全集第三巻『日本古代文化』二四九ページ以下参照。
(5) ここでは、世の中という言葉がまず第一に男女のなかを意味した。
(6) いわゆるプラトニック・ラヴは英国製であって、本来のギリシア的恋愛ではない。日本においても英米人が伝えるまではプラトニック・ラヴはなかった。
(7) 現代のヨーロッパにおいて目立って親孝行をしているのはただユダヤ人のみである。
(8) 最も原始的な夫婦生活の描写としての諾冊二神の国生みの物語をアダム・イヴの物語と比較せよ。夫婦生活は原罪によって始まるのではなくして「相補う」ために始まるのであり、妻の死は罪の報いではなくして、ただ夫の烈しい悲嘆にのみ価するものである。その悲しみは夫自身をもヨミの国まで行かせるほどに強い。ヨミの国での両神の争いは、生と死との対抗の物語であって、実は夫婦生活そのものの物語ではないのである。――また嫉妬についてはたとえば八千矛の神や磐の姫の歌を見よ。
(9) 長門本平家物語。
(10) 家庭を最も強調しているのは英人であるが、しかし Home は本来「住みか」「土地」の意味であって「内」の意味と関係はない。
(11) 英語ではさらに政府党を ins 在野党を outs という。
(12) この構造が風土的であることはいうまでもない。我々はまさに人間存在の風土的特性を問題としているのである。
(13) たとえば靴をぬがないでもよい所は内として感じない。従って公共の建物では泥靴のままで室へはいってくる。はなはだしいのは下駄のままではいってくる。
(14) 錠前と鍵との発達の程度はヨーロッパと日本において恐ろしく異なっている。ヨーロッパ中世といえども、その錠前と鍵との精巧さにおいて、現代日本よりははるかにすぐれている。それに此すれば日本のかんぬきや土蔵の鍵などほはとんど原始的と言ってよい。
(15) これは現代においては|国境〔付ごま圏点〕に変わっているのであるが、しかし町の城門といえどもいまだ全然その意味を失ってはおらぬ。(156)イタリアの町は所によると郊外との交通をさえも、城門の税関において監視している。
(16) だからある学者は、徳川時代の忠の概念が誤ったものであること、従って天皇に対する忠のみが其の忠であることを力説する。
(17) 個人と全体との関係において、個人が全体に帰属するという関係を特に強く現わしているのが家である。家において特殊性が最もよく現われているとすれば、その特性は個人の全体への帰属が特に著しいということである。その同じ特性が国民としての存在の仕方にも見いだせる。
(18) 本全集第三巻『日本古代文化』中の「上代史概観」参照。古墳時代は西暦一・二世紀のころから仏教の影響を受けるに至った時代までを意味する。
(19) ドイツにおいては六十年前までそれぞれの封建君主が独立の国家を支配していた。今日といえどもその余風は残っている。
ロ 日本の珍しさ
ヨーロッパを初めて見物して何か「珍しい」という印象を受けたかと聞かれると、自分は明白に「否」と答えるほかはない。そこには深い感動を与えるいろいろなものがあったが、しかし「珍しい」という点では、途中で見たアラビアやエジプトの沙漠の足下にも及ぶものがなかった。ところで旅行をおえて、日本へ帰って来て見ると、この「日本」というものがアラビアの沙漠にも劣らないほど珍しい、全く|世界的に珍しい〔付ごま圏点〕ものであることを、痛切に感ぜざるを得なかったのである。どういうふうに珍しかったか、なぜ珍しかったか、それをここに問題にしよう。
元来「珍しい」という言葉は「愛《め》ずる」という意味から出たむのと言われているが、しかし日常の用語例からいうと、愛《め》ずるという意味はこの言葉の本質に属するものでない。たとえば、「冬としては珍しく暖かい」という場合には暖かさを愛《め》ずる意味が伴ない得るにしても、「珍しい寒さである」という時には決して寒さを愛《め》ずるのではない。だか(157)ら珍しいことと愛《め》ずることとは本質的には分けておかなくてはならぬ。珍しいということの本来の意義は「世の常でないこと」、「稀有なこと」である。それは「世の常に通例にあること」を前提とし、その地盤において、「常で|なく〔付ごま圏点〕通例で|ない〔付ごま圏点〕」、すなわち「|まれ〔付ごま圏点〕である」という有り方として現われてくるのである。常に通例にある有り方がすでに何らかの意味において理解せられていなければ珍しさが見いだされないとともに、またすでに理解せられている通例の有り方のままに有るものにおいても珍しさは見いだされない。だから山野の通例の有り方を草木に覆われるということにおいて理解していたものにとっては、沙漠は極度に珍しいものであった。とともに洋風建築の通例のあり方を日本の都会における洋風建築から理解していたものにとっては、その有り方の通りにあるヨーロッパの都会が珍しいものでなかった。これは地理の教科書で沙漠に草木のないことを教わってもそれが沙漠の有り方についての理解とならず、かえって日本の都会の洋風建築がヨーロッパの都会のあり方についての具体的な理解を与えていたということを言いかえたにほかならぬ。ところで、ヨーロッパから日本へ帰ってそれに異常な珍しさを感ずるということは、永年その中に住んで見慣れていた日本が、これまで通例の有り方として理解せられていたことと異なった有り方を持つに至ったか、あるいは日本の方がそのままであるのにその通例のあり方として理解していたことが自分の側においていつのまにか変わって来たのか、いずれかでなくてはならぬ。あるいはまた、そのいずれかではなくしてその双方であるかも知れぬ。というのは、年来その中に住んで見慣れていたその通例の有り方がそのままであるとともに、その底にこれまで理解せられていなかった一層根本的な有り方が呈露され、それが在来理解せられていた通例な有り方に対して、
通例でないこと、|まれ〔付ごま圏点〕であることとしてつかまれたのであるかも知れぬ。
手近な例でそれを明らかにしよう。我々は日常日本において自動車や電車を見慣れている。それは西洋から輸入さ(158)れあるいは西洋のそれを模して作られたものであるが、しかし我々日本人がそれらのものにおいて珍しさを感ずるということは、今日においては通例はないであろう。従ってヨーロッパへ渡ってそこで自動車や電車に珍しさを感ずるなどということも全然あり得ない。むしろ我々はタクシーのきたなさや電車の小ささに驚くほどである。どの都会の街上電車でも、窓ガラスの優良であることを除いては、我々が日本で見慣れている街上電車よりもはるかに「貧弱」な感じしか与えない。地下鉄道の電車でも、省線の電車に較べればはるかに軽小な感じである。その寸法や重量が実際に小さく軽いのかどうかは、(恐らくそれは実際に小さく軽いのであろう、街上のボギー車のごときはヨーロッパのどの町でも見なかったし、地下電車も天井はよほど低い、)がそれはここでは問題でない。とにかく我々はそう「感ずる」のである。そうしてそこにはもちろん「珍しさ」の感じは含まれておらぬ。ところで日本へ帰って街上の自動車電車を見る。それはまるで麦畑の中を猪が暴れまわるような感じである。電車が突き進んで来るときには、左右の家並みはちょうど大名行列に対して土下坐している平民どものように、いくじなくへいつくばっている。電車の方が一階の軒よりも高く、また一軒の間口よりも大きく、そうしてもしそれが暴れ込めば家の方がめちゃめちゃにこわれるだろうと思われるように堅固で、しかもそれが木造家屋の力を圧倒し去るような勢いをもって突き進んで来る、それが右のような印象を与えるのは当然であろう。電車がそばにくれば向こう側の家は見えなくなって電車の屋根の上に空が見える。背の低い自動車でさえも時には同じように偉大なものとして現われてくる。ある小路では自動車が運河に|はい〔付ごま圏点〕った鯨のように横たわり、そうしてそれが実際に一軒の家の間口よりも大きく軒よりも高いのである。ヨーロッパの町々では、家に比べてはるかに小さいこれらの交通機具が、いかにも交通|のための〔付ごま圏点〕「道具」らしく、従って町や人間に服従した家来らしく、そのものの持つ意味にぴったりと合った感じをしか与えない。しかるに日本の町では、(159)これらの「道具」「家来」であるものが人を圧し家を圧し町を圧してのさばり回っている。自動車や電車そのものがほぼ同じ形同じ大きさであるだけに、この同じものが家や町との間に持つこの奇妙な釣り合い、というよりも|不釣り合い〔付ごま圏点〕が実にいちじるしい珍しさを印象するのである。我々は前にはその不釣り合いを感じなかった。そうしてヨーロッパに渡ってそれを|本来の釣り合い〔付ごま圏点〕においてながめたときにも、ただそれらのものが小さく感じられたというだけで、そこに根本的な釣り合いの変化が起こったことには気づかなかった。これは見慣れたものにおいて不釣り合いを自覚していなかったとともにすでにその本来の釣り合いを|あるべき〔付ごま圏点〕釣り合いとして理解していたことを示すのである。しかるに今この不釣り合いが|珍しさ〔付ごま圏点〕として見いだされたということは、前には|あるべき〔付ごま圏点〕釣り合いを理解していながらもそれが目前に|欠けていること〔付ごま圏点〕を理解していなかったこと、それが今や本来の釣り合いの地盤の上にその明らかな欠乏の様態として見いだされたことを示すにほかならぬであろう。
ここに見いだされた不釣り合いが日本の町のまことのありさまであるということは、我々がもう古くより感じていた日本現代文明の錯雑不統一ということの中にすでに含まれていたことには相違ない。しかしかほどにあらわに、露骨に、しかも滑稽なほど珍しい姿で、町々のすみにまで現われているということは、実は気づいていなかったのである。我々は道路が広げられて自動車や電車の交通が便利になることをただその便利になるという視点からだけ見ていた。しかしそれは自動車電車と家や町との間の不釣り合いを道路と家や町との間に押しひろげることにほかならないのであった。我々は新しい「都市計画」によって次々に新式の|立派な〔付ごま圏点〕道路を与えられる。その幅員、その舗装、すべてヨーロッパの大都市のそれに劣らないものである。ところでヨーロッパの都市においては、同じような道路をはさんで縦に高い長屋が立っている。半町の道路の左右には百戸ぐらいの家が並び、一人あての道路面積がほんのわずか(160)ですむ。それを日本の町では、同じ程度の間口の家ならばわずかに十幾戸ではさむことになる。家は平べったく大地に食いつき、ただ道路のみがびろびろと空に向かって開いている。それは格好な風の通路を形作り、塵埃を盛んに巻き上げることを最も顕著な特徴とする。こういう道路を屋内の廊下と同じように清潔にすることは、塵を運んで来る風が少なく雨量もきわめて少ないヨーロッパの都市において、しかも一人あての道路の面積がきわめてわずかである場合にさえも、経済的にさほど軽い負担ではない。同じことを雨量の多い、泥の多い、また湿度の関係で塵埃の産出の豊かな日本の土地で、しかも一人あての道路面横が数倍に上っている日本の町で、同じように試みようとすれば、その経費は恐らく十倍ではすむまい。こういう贅沢きわまる道路が、広々と空に開いて、ヨーロッパよりは幾倍か貧弱な家並みを左右に控えている、――それが日本の都会の立派な、恐らく立派過ぎる道路なのである。道路はもはや人間の交通|のための〔付ごま圏点〕実用的な「道具」ではなくして、人間がその生活を苦しくしつつ何かわからない理由のために追い立てられて作っている贅沢品なのである。
こういう道路があるということは、さらに根本的には、日本の都会のこのだだっ広い、平べったい構造にもとづくのであろう。ニューヨークが高さのために病める都会の世界的な例であるならば、東京は広さのために病める都会の世界的な例となり得よう。東京の、家屋の密集した地面の面積は、バリーの何倍かに当たるそうである。たとい同じ面積であっても、雨量の関係から言えば、パリーのような下水の設備では東京に間に合わない。それがさらに面積の側から何倍かの設備を要するとすれば、東京に近代的都市の一つの根本的な資格を与えるためには、非常な贅沢をしなくてはならぬ。それは言いかえれば、このだだっ広いことが近代的都市を成立させる必然性とちょうど背馳しているということである。単に下水に留まらない。道路や電車線路の異常な延長、電線やガス管などの異常な分量、交通(161)のために要する時間と神経の浪費、これらはすべてだだっ広さにもとづくと言える。つまり日本では、大都会になればなるほど不便なところになる。経済的にも心理的にも非常な浪費をしながらしかも生活はいっこう快適にならない。それが帰するところ都会と家との不釣り合いにもとづくのである。
なぜこのように自動車や電車に対しても道路に対してもまた都会そのものに対しても不釣り合いな家が、――実に珍奇なほどに小さな家が、――依然として地に食いついた姿を都市のまん中に示すのであるか。人はそれを経済的な理由に帰するであろう。日本はまだヨーロッパほどには富んでいない、だから高層建築が起こらない、と言うであろう。しかし日本の都会がそのだだっ広さのために浪費している金高を考えれば、右の理由は容易に首肯し難い。地に食いついた小さな家の建築費を数十戸合算し、それに敷地の費用を考慮に入れ、さらに右にあげたごとき種々な浪費を計上するならば、堂々たる鉄筋コンクリートの高層建築といずれが安価であるかは容易に言い難い。これらの高層建築が建てられないのは、経済的の力がないからではなく、ただ共同的に、また公共的に都市が営まれないからにほかならぬのである。ではなぜ人は共同的に公共的に都市を営もうとしないのであろうか。その方が便利であり、その方が快適であり、そうしてまたそれが初めて都市の意義を発揮するものである方法を、どうして選ぼうとしないのであろうか。
それを選ばないちょうどその理由が、日本の「家」にあらわれている、と自分は考える。そこで家というものの有り方がここで問題になる。
ヨーロッパの都市の家は、豪富の人をのぞいて、個人が一つの「建物」を占居するのではない。建物をはいると左右に一戸ずつの「家」がある。階段をのぼればそこにも左右に一戸ずつの家がある。五階ならば十戸、六階ならば十(162)二戸が廊下に面して存している。さらに入り口から中庭へ抜けて他の入り口に行けば、そこにも階段を持った同じ意味の廊下が同じ建物の中を上へのびている。この廊下はいわば道路の延長である。否、本来の意味における往来である。そこでこの往来を通ってどれかの「家」の戸口をはいるとする。そこに「家」の中の廊下がある。室々の戸口がこの廊下に向かって開いている。が、その室の戸口は鍵で密閉し得るものであり、室相互の間の通路もまた密閉し得るようにできている。従ってわずかに一挙手によっておのおのの室が独立した一つの「家」となり得る。その家庭に属しない人がその家庭に何の煩いも与えずに、この室を一つの「家」として住み得る。この点からは家の中の廊下もまた往来の資格を得ることができる。借り間している人のもとへ書留郵便を届けようとする配達夫が建物の中の廊下の往来を通り、家の中の廊下を通って、その人の室までやってくるのは、この往来の意味をあらわに示したものである。配達夫のみならず書店の小僧でも運送屋の人夫でも百貨店の小使いでも皆そうする。日本や家の「玄関」に当たるものがここでは個人の室の中にある。そうなると往来は個人の室の前まで来ていることになる。個人が直接に往来に、従って町に接触するのである。
が、また逆に考えることもできる。個人はおのが室に、あるいはおのが「家」にいるままの通常の姿で廊下へ出る。そこでちょっと帽子を頭へのせて(あるいはこれを省いてもよい)も一つ外の廊下へ出る。それから階段をおりて建物の入り口からさらにもう一つ外の――「廊下」へそのままの姿で出る。なぜならそこにあるアスファルト敷きの通路は朝水で洗ったものであり、建物の中の廊下よりも汚いわけではないからである。(建物の中の廊下でも時にはこのアスファルト敷きの通路より汚いことがある。)ただそれが屋内の廊下と異なるのは上に空が見え冬には暖房の設備がないことだけに過ぎぬ。人はこの廊下を通って飲食店へ行って食事する。あるいはカフェーへ行って一杯のコーヒ(163)を前にして音楽を聞きカルタを弄ぶ。それは大きい家の中で、長い廊下を伝って食堂へ行きあるいは客間へ行くと何の異なるところもない。それは単に一つの室を家とする独身者に限ったことでなく、一つの家族としても日常にわなうところである。彼らはちょうど日本の家族が茶の間に集まってむだ話をしたりラディオを聞いたりすると同じ意味で、カフェーヘ行って音楽をききカルタを遊ぶ。カフェーは茶の間であり、往来は廊下である。この点から言えば町全体が一つの「家」になる。鍵をもって個人が社会からおのれを距てる一つの関門を出れば、そこには共同の食堂、共同の茶の間、共同の書斎、共同の庭がある。
しからば廊下は往来であり、往来は廊下である。両者を判然と区切る関門はどこにもない。ということは、「家」の意味が一方では個人の私室にまで縮小され、他方では町全体に押しひろげられるということにほかならぬ。それはつまり「家」の意味が消失したということである。家がなくしてただ個人と社会とがあるということである。
日本には明らかに「家」がある。廊下は全然往来となることなく、また往来は全然廊下となることがない。その関門としての玄関あるいは入り口は、そこで截然と廊下往来の別、内と外の別を立てている。我々は玄関をはいる時には「脱ぐ」ことを要し、玄関を出るときには「はく」ことを要する。配達夫も小僧もこの関門を入ることはできない。カフェーも飲食店もすべて「よその家」であって、決して食堂や茶の間の意味を持たされない。食堂や茶の間はあくまでも私人的であって共同の性格を帯びることがない。
日本人はこのような「家」に住むことを欲し、そこでのみくつろぎ得る。たといどれほど小さくとも、このような「家」としての資格を有するものを住居として求める。それほどの執着を起こさせる魅力はどこにあるのであろうか。「家」は截然と外なる町に対しておのれを区別しているが、しかしその内部においては室の独立というごときこ(164)との全然ないものである。室をへだてるのは、襖、障子であるが、それらは|鍵をかける〔付ごま圏点〕というごとき防御的対抗的な「へだて」の意志の表現としての性格をかつて帯びたこともないし、またその可能性も持たない。それを明けようと欲する人に対してはそれを拒み得る何の力もそこに与えられておらぬ。しかもそれがある意味の「へだて」として役立つのは、それが閉ざされているということによって表示されでいる「へだて」の意志が、他の人によって常に尊重されるという相互の信頼にもとづくのである。すなわち「家」の中にあっては人々はおのれを護って他に対するという必要を感じない。それは言いかえればおのれと他との間に「へだて」がないことである。鍵は他の意志に対して「へだて」の意志を表現するが、襖障子はむしろ「へだてなき」意志を表現しつつ、その「へだてなさ」の上においてただ室を仕切るものに外ならぬ。いわばそれは一つの西洋間の中に置かれた衝立《ついたて》の意味しか持たない。鍵をもって護るというような意味の個人は、「家」の中では解消する。かかる「へだてなさ」を内に包みつつ、外の世界に対しては鍵のあらゆる変形(その内には高い板塀や恐ろしげな逆茂木などもある)をもって対抗するのが日本の「家」である。もしそこに魅力があるとすれば、それはこの小さい世界の内部における「へだてなさ」にほかならぬであろう。
が、人は問うかも知れない、このような小さい世界は西洋風の長屋においても保存し得るではないかと。しかしこの西洋風の長屋は、それを作る時に共同的な協力を必要とするのみならず、その存立が住人の共同的な態度を予想するものである。たとい廊下を距てた隣と互いに交際をしないような状態においても、それはなお一つの組織であって、暖房の設備、湯の設備、昇降器の使用、等々において常に共同的であることは免れない。そうしてこの共同的であることがちょうど日本人を最も不安ならしめるものなのである。それは総じて日本における最も強い「へだて」が、家と外なる世界との間に存することによって顕わにされている。ヨーロッパにおいては最も強い「へだて」は過去にあ(165)っては町を取り巻く城壁であり現在にあっては国境であるが、日本にはそのいすれもが存しない。桃山時代の前後に諸地方の城下町は初めて壕と土手をもって取り囲まれたが、しかしそれは武士の一群が他の攻撃を予想して作った防御工事であって、この町が他に対し己れを護り距てる意志を表わしたものではない。ヨーロッパの町の城壁に当たるものは、日本においてはまさしく家のまわりの垣根であり塀であり戸閉まりである。従ってヨーロッパ人が城壁の内部の世界において永い間訓練されたと同じことを、日本人は垣根の内部のもっと小さい世界において訓練されたのである。城壁の内部においては、人々は共同の敵に対して団結し、共同の力をもっておのれが生命を護った。共同を危うくすることは隣人のみならずおのが生存をも危うくすることであった。そこで共同が生活の基調としてそのあらゆる生活の仕方を規定した。義務の意識はあらゆる道徳的意識の最も前面に立つものとなった。とともに、個人を埋没しようとするこの共同が強く個人性を覚醒させ、個人の権利はその義務の半面として同じく意識の前面に立つに至った。だから「城壁」と「鍵」とは、この生活様式の象徴である。しかるに垣根の内部の小さい世界においてはその共同は生命を危うくするというごとき敵に対するものでなかったとともに、また容易に献身的な態度を引き出し得るごとき自然的な情愛にもとづいたものであった。夫婦、親子、兄弟、――そこでは義務の意識よりも愛情が先立つ。個人は喜んでおのれを没却しつつそこに生活の満足を感じ得る。共同が「個人」を待って初めてその意義を発揮し得るとすれば、個人が喜んでおのれを没却するこの小さい世界においては共同そのものが発達し得なかったのは当然であろう。そこで人々はおのが権利を主張し始めなかったとともに、また公共生活における義務の自覚にも達しなかった。そうしてこの小さい世界にふさわしい「思いやり」、「控え目」、「いたわり」、というごとき繊細な心情を発達させた。それらはただ小さい世界においてのみ通用し、相互に愛情なき外の世界に対しては力の乏しいものであったがゆえに、(166)その半面には、家を一歩出づるとともに仇敵に取り囲まれていると覚悟するような非社交的な心情をも伴なった。だから「家」のまわりの垣根がちょうど城壁と鍵に当たるのである。かく見れば「家」の内部における「距てなさ」への要求が強ければ強いほど共同への嫌悪もまた強いというゆえんが明らかになるであろう。
日本の社会の欧米化は確かに顕著な現象に相違ないが、しかしそれがいかに顕著であっても、この「家」が頑強に都会の地に食いついて平べったく存している間は、すなわち世にも珍しい不釣り合いが存立している間は、それは根本的にはまだ過去の地盤を離れないのである。人は「洋服」を身につけ、「アスファルトの道路」の上を「靴」でもって歩み、「自動車」「電車」に乗り、「洋風建築」の何階かの事務所で仕事をする。そこには「洋風家具」があり、「電灯」があり、「蒸気暖房」がある。どこに日本が残っているか、と彼は反間するであろう。が、彼はそこで「万年筆」をもって書き「洋式帳簿」に何事かを記入したあとでやはり「家」へ帰るではないか。なに、その家がまた西洋建てなのだ、と彼は言うかも知れない。なるほどそれは外形だけは西洋風にできている。しかしそこには門があり、垣根があり、玄関があり、しかも滑稽なことにはその玄関で「脱が」なくてはならないではないか。そこには日本の「家」としての資格は何一つ失われておらない。問題はこの家の大小ではなくしてその有り方にかかわる。人がもしヨーロッパの都会においてかかる資格を持った一つの家に住もうとするならば、彼はとにかく富豪でなくてはならない。その同じ資格を持った家に、ヨーロッパの都会でならば長屋のうちのあまり上等でない一軒に住むだろうほどの収入を持った人が、さほどの困難もなく住み得るのは何ゆえであろうか。それはこの西洋建てと言われる日本の「家」が、根本においていささかもヨーロッパ風に化していないからである。
もう少し進んでこの「洋服」を着た「洋館」に住む人を追求してみよう。彼はその洋館の前庭に芝生を敷き花壇を(167)作っている。時には植木屋を入れてその手入れをする。それは彼とその家族とがそこにおいて楽しむためである。しかし彼は町の公園に対しては何の関心をも示さぬ。公園は「家」の外にある、だから他人のものである。それはあらゆる人から「他人のもの」として取り扱われ「我々のもの」としての愛護を受けることがない。市の経営であるということはその経営を託された吏員以外の何人もがそれにおいて義務を感じないということである。そこで市の公共の仕事が、市民一般の関心をうけることなく少数の不正直な政治家の手に放任される。そこでさまざまな不正が行なわれる。しかし洋館に住む人はそれが「家」の外のことであるがゆえにおのが事としては感じない。彼は洋館に住むほどの新しい人として子供の教育には熱心であり、子供がもし不正なことを平気でやるようなことがあれば、その全心情を傾けて関心するのであるが、公共のことについての政治家の不正に対しては、その百分の一ほどの熱心も示さぬ。さらにまたこの種の政治家によって統制される社会が、その経済的の病弊のために刻々として危機に近づいて行くのを見ても、それは「家の外」のことであり、また何人かが恐らく責めを負うであろうこととして、それに対する明白な態度決定をさえも示さぬ。すなわち社会のことは自分のことではないのである。というのは、この人の生活がいささかもヨーロッパ化していないということである。
洋服とともに始まった日本の議会政治が依然としてはなはだ滑稽なものであるのも、人々が公共の問題をおのが問題として関心しないがためである。城壁の内部における共同の生活の訓練から出た政治の様式を、この地盤たる訓練なくしてまねようとするからである。「家」を守る日本人にとっては領主が誰に代わろうとも、ただ彼の家を脅やかさない限り痛痒を感じない問題であった。よしまた脅やかされても、その脅威は忍従によって防ぎ得るものであった。すなわちいかに奴隷的な労働を強いられても、それは彼から「家」の内部におけるへだてなき生活をさえ奪い去るご(168)ときものではなかった。それに対して城壁の内部における生活は、脅威への忍従が人から一切を奪い去ることを意味するがゆえに、ただ共同によって争闘的に防ぐほか道のないものであった。だから前者においては公共的なるものへの無関心を伴なった忍従が発達し、後者においては公共的なるものへの強い関心関与とともに自己の主張の尊重が発達した。デモクラシーは後者において真に可能となるのである。議員の選挙がそこで初めて意義を持ち得るのみならず、総じて民衆の「輿論」なるものがそこに初めて存立する。共産党の示威運動の日に一つの窓から赤旗がつるされ、国粋党の示威運動の日に隣の窓から帝国旗がつるされるというような明白な態度決定の表示、あるいは示威運動に際して常に喜んで一兵卒として参与することを公共人としての義務とするごとき覚悟、それらはデモクラシーに欠くべからざるものである。しかるに日本では、民衆の間にかかる関心が存しない。そうして政治はただ支配欲に動く人の専門の職業に化した。ことに著しいことは、無産大衆の運動と呼ばれているものが、ただ「指導者」たちの群れの運動であって指導せられるものをほとんどあるいはまれにしか含んでいないという珍しい現象である。もとよりそれはこの運動が空虚であることを示すのではない、しかし日本の民衆があたかもその公園を荒らす時の態度に示しているように、公共的なるものを「よそのもの」として感じていること、従って経済制度の変革というごとき公共的な問題に衷心よりの関心を持たないこと、関心はただその「家」の内部の生活をより豊富にし得ることにのみかかっているのであることは、ここに明らかに示されていると思う。だから議会政治が真に民衆の輿論を反映していないと同じように、無産大衆の運動も厳密には無産運動指導者衆の運動であって無産大衆の輿論を現わしたものではない。それが顕著にロシア的性格を示すのは、ロシアが昔も今も専制国であってかつて政治への民衆の関与を実現したことがないという事実と、日本の民衆の公共への無関心、非共同的な生活態度との間に、きわめて近い類似が存するからである。(169)だからここにも日本特有の珍しい現象としての指導者のみの運動が「家」と外との区別にもとづいて起こったということはできるであろう。
我々はなお「家」にもとづいた多くの「珍しい」現象を数え上げることができるであろう。が、それらは皆結局あの最も平凡な街上の姿に、すなわち猪のような電車の前にうずくまっている珍奇な小さい家の姿に、帰着する。これは諸君が日常目撃して、それを明らかに意識すると否とを問わず、情けない姿として、胸に感じていられるちょうどそのものであろうと思う。 (昭和四年)
(170) 第四章 芸術の風土的性格
一
「あらゆる時代や民族からさまざまの芸術の形式がわれらに迫ってくる。文芸の|種類の区別〔付ごま圏点〕とか|規則〔付ごま圏点〕とかというものはみなことごとく消え失せてゆくように見える。のみならず東洋からは、原始的な、無形式な文芸や音楽や絵画が押しょせてくる。それらは半ば野蛮であるが、しかし今でも長いロマーンや二十フィート幅の絵画においてその精神の戦いを戦いきるというような、そういう民族の心たくましき活力に充たされたものである。――こういう無支配の情勢において芸術家は|規則〔付ごま圏点〕から離れ、批評家は価値を定めるにただ一つ残された標準として彼自身の個人的感情に頼るということになる。そこで、公衆が支配者になる。巨大な展覧会場や、さまざまな劇場や、また貸し本屋などに押しよせてくる群衆が、芸術家の名声を作ったりこわしたりする。――このような趣味の無支配状態は、いつでも、現実の新しい感じ方がこれまでの形式や規則を破り去って芸術の新しい形式が生まれ出ようとしている時代を示すのである。しかしそれは決して長続きするはずのものではない。芸術と美学的思索との間の健全な関係を再び打ち立てることは、今日の哲学や美術史、文芸史の生ける任務の一つである。」
ディルタイが「詩人の想像力」の初めに右のごとく書いたのは今からもう四十年前であった。しかし考えてみるとそのころはもうフローベルの『マダム・ボヴァリー』から三十年、トルストイの『戦争と平和』からでも二十年近く(171)たっていた。十九世紀絵画の絶頂としてのセザンヌももうおのれの様式を完成しつつあった。ディルタイが待ち望んだ「芸術の新しい形式」はすでに生まれていたのである。現代はこれらの形式をもすでに過去の形式と見るほどに移り変わっている。そうして芸術の種類の差別や規則が無視されていることはとても四十年前の比ではない。ことにこの四十年の間には、人類の歴史が始まって以来いまだかつて現出したことのない新しい世界の姿が成り立った。世界の交通は著しく容易となり、政治と経済とは全世界を通じて敏活に影響し合う。そのようにあらゆる文化は互いに交錯し、染め合い、響き合う。古いヨーロッパの文化世界においても、ギリシア・ローマの芸術圏が主導的な地位を占める時代はもう過ぎ去った。アフリカの怪奇な野蛮趣味や石器時代の幼稚な趣味が百貨店の飾り窓を占領する。日本、シナ、インドなどの古い伝統を持った東洋趣味も、ただ異国的という興味で一色に塗られてはいるが、同じようにそこに肩をならべている。この混沌の状態に対してディルタイの右の言葉は、四十年前の時代によりもむしろ現代に一層よくあてはまるであろう。そうしてそのゆえに、彼自らが答えようと試みた問いは、我々にとっても依然として新鮮な意味を持つであろう。「人間の本性に根ざし従ってあらゆるところに働ける芸術創作力が、いかにして|民族〔付ごま圏点〕と|時代〔付ごま圏点〕とにより異なる種々の芸術を作り出すか。」この問いは人類のつくり出すさまざまな文化体系に現われた精神生活の歴史性の問題にふれる。「創作力として同じ形に現われる人間本性の同一性がいかにしてその変易性、その歴史的本質と結合せられるであろうか。」
この問いは明らかに二つの問題を含んでいる。「とき」によって異なる芸術と「ところ」によって異なる芸術との問題である。もとより「ところ」によって異なる芸術も、それ自身の内部において「とき」により異なる様式を持っている。両者は密接に交錯して具体的な芸術品の特殊性を規定する。また現代におけるごとく全世界の文化の接触が著(172)しいときには、世界はあたかも「一つのところ」に化したように見え、従ってただ「とき」の問題のみがあらわになってもくる。しかしながら世界が「一つのところ」に化したように見えるというちょうどその事情のゆえに、かつて世界がいくつかに別れて「ところ」の相違が著しかった時代に、いかにその相違が芸術の形式を規定したか、従って「ところ」の相違が芸術の形式のいかなる深みまで関与するものであるか、ということの反省が、一層容易にされるのである。それによって逆に、「ところ」の相違を無視した芸術品が、実は単なる移植であって、その「ところ」の生活の深みから生い育ったものでないことを示し得るかも知れない。特に我々東洋人にとっては、その永い特殊な芸術の伝統を捨て去って顧みないのでない限り、「ところ」の相違が関心の中心とならざるを得ないであろう。ヨーロッパにおいてさえも、美術史文芸史等の研究から出た最近の芸術学が、初めには「とき」の問題を根柢として考え国民的特殊性のごときを第二次の問題としたに反して、ようやく「ところ」の問題の重要さを自覚し始め、「とき」と「ところ」との相違に等しく場所を与え得るごとき芸術意志の特殊性を論ずるに至ったのは、世界が一つのところに化したように見えるという最近の情勢にかえって促されたものであろう。我々はこの方向に問題をせばめて、「同じ人間の本性に根ざした創作力がいかにして『ところ』により異なる芸術を作り出すか」という問いをここに提出することにしよう。この間いは精神生活の「ところ」による特殊性を問うことにもなるであろう。
問題をかく限ると、それは恐らくディルタイが目ざしてはいなかったろうと思われるところへ入り込むことになる。ディルタイが自然主義時代の文芸を前にしてかかる芸術の規則を明らかにする芸術論を求めたときには、確かにこの文芸の理論は幼稚であつた。いな、その後といえども、自然主義は理論的には幼稚に留まった。そうしてその幼稚を脱しようとする理論的な努力は、自然主義に対する反動とともに起こり、現代の芸術の先駆をなした。芸術はただ一(173)回的な偶然的なものを表現すべきでない、法則的なものを表現すべきである。季節や天候によって異なる風景は、ただ移り行き消え去る現象の姿に過ぎぬ。その風景の不変なる構造、組み立てこそ画家の目ざすべきものである。そうしてそれは単なる視覚においてではなく、芸術的体験の深みにおいてつかまれる。自然に忠実であることはもはや問題ではない、ただ右のごとき芸術的体験の現実が表現されることこそ第一の重要事である。自然は体験から作られるのであって、芸術家が自然に仕えるのではない。「すべて感覚的なものは象喩に過ぎぬ。」このような理論は、恐らくディルタイ自身の芸術論にも影響されているのであろうが、しかし結局、偉れた芸術品を産み出す代わりに、形而上学となり認識論となってしまった。形而上学的核実をして自然物象の表面的性格に打ち克たしめようという目標がいかに誇らしいものであるにもせよ、現代ヨーロッパの芸術がかかる仕事をなし得たとはどうしても考えられない。ディルタイが欲したように芸術論が作品に伴なって盛んになったときには、四十年前とはまるで逆な関係において依然として芸術と美学的思索とが「健やかに」相伴なってはいない。ディルタイはこの兩者の健やかな関係をゲーテ・シラーの時代の模範によって考えているのであるが、そのねらいはみごとにはずれたと言わなくてはならない。現代のヨーロッパが近い将来にこの「ねらい」を当たらしめるほど旺盛な芸術的生産力を持っているかどうかも今のところ疑問であろう。その代わりにこのヨーロッパをただ一部分とする世界全体を見渡したとき、恐らくディルタイにとって重大でなかったろうと思われる他の目標が強い意義を持って現われてくる。人はただヨーロッパの|芸術〔付ごま圏点〕を忘れればよい。現代ヨーロッパの|芸術論〔付ごま圏点〕が、ただわずかの修正をもって、いかによく東洋芸術のあるものにあてはまることであろう。自然主義に対する「憎しみ」と「呪い」の|反動〔付ごま圏点〕や漠然とした無限に遠い|予感〔付ごま圏点〕などから生まれたと言われる新しい芸術論が、何ゆえにそれと縁遠き古い東洋芸術にあてはまるのか。総じてかかる芸術の特殊性や、それを産んだ(174)精神生活の特殊性は何であるか。
この間題が東洋の芸術を「原始的」「無形式」「半野蛮」と呼んだ四十年前のディルタイに存しなかったことは当然である。が、今日といえども、はたしてその事情は変わっているであろうか。彼が「東洋」によって何を意味したかは知らぬが、しかし半野蛮でありながらそこにその民族の「心たくましき活力」を認めしめた長いロマーンは、トルストイやドストエフスキーのそれであったかも知れない。ところでドストエフスキーにおいて「東洋」の偉大な精神を讃えるということは、大戦後においてさえもたとえばドイツの小説家ヘルマン・ヘッセがやった。「東洋」の語にょっていかに漠然と「非ヨーロッパ的なるもの」が意味せられているかはこれによってもわかるであろう。「東洋」とは「原始的活力」のあり場所であり、依然として「半野蛮」である。東洋を恋うるそこばくの人々はまさにこの「原始的」な生活の姿のゆえにそれを恋うるにほかならぬ。彼らはいう、――あまりにも忙しいこの「文明」の生活のどこがありがたいか。何事か意義ある仕事をでも追うて行くように急がしく駛せ交う無数の自動車は、つまるところ生活に疲れたものを墓場に追い立てているのである。意義もない報道をさも一刻を争う重大事であるかのように目まぐろしい電気文字で現わしたり、生活をせき立てることにしか役立たないジャズの音楽で踊ったり、せめてその間は静かな私の生活に落ちつけそうな時間をさえもラディオによってかき乱したり――すべてそこには生活の深さ、美しさ、柔らかさが失われ、ただ機械化された存在があるに過ぎぬ。一度このような文明的都会生活の忙しさを離れて、アフリカやアジアや太平洋の遠い島々に旅をしてみるがよい。いわゆる醇化された文明の代わりに太古以来の静かな健やかな生活が人間生活の本来の深さ美しさを開き示している。そこにこそ「生活」があるではないか。――我らはヨーロッパ人のある者が抱くこの憧憬を理解し得ないではない。しかしそれはただ機械化されたヨーロッパの生活に(175)苦しむものが「ヨーロッパ的ならざるもの」に対して抱く憧憬であって、「東洋」の生活の積極的な理解に根ざしたものではない。ヨーロッパ的でないことがどうして直ちに「原始的」であり得よう。たとえば日本の生活のごときはその「原始性」を失っている点においてはむしろヨーロッパ以上である。ヨーロッパ人がその生活の機械化にかかわらずなお多分に保っている「子供らしさ」のごときは、日本人には到底見られない。その点においてはヨーロッパ人の方がむしろ原始的活力に富むとも言われよう。とともに衣食住の一切の趣味に現われた「渋み」や「枯淡」への愛好、あるいは日常の行儀における「控え目」や「ゆかしさ」に対する感じ方のごときは、ヨーロッパ人の理解し得ざるほどに洗練されたものである。機械化という意味での文明においては日本は今追随の最中であるが、しかし趣味や道徳においてはむしろヨーロッパの方が野蛮であるとも言い得られる。かかることは、「ヨーロッパ的ならざるもの」を恋いながらもなお心の底においてヨーロッパを世界の中心として感じているヨーロッパ人の、理解し得ざるところであろう。そうしてこの理解が充分でない限りは、「ところ」によって異なる芸術の特殊性の問題も、その値するだけの重要さにおいては認められないであろう。
二
我々が問うのは、人間の本性に根ざし従ってあらゆるところに同様に働いている芸術創作力が、いかにして「ところ」により異なる種々の芸術を作り出すかである。そこで我々は、(一)異なる芸術がどう異なっているか、(二)その特殊性が「ところ」の特殊性とどう関連しているか、あるいはかかる特殊性が芸術創作力をどう規定するか、という二つの問いに分けて考察を進めよう。
(176) まず、種々の異なっている芸術がどう異なっているかを、問題にする。それには我々はその相違の最も著しいものを捕えればよい。ヨーロッパの芸術の代表的なものと、東亜の芸術の代表的なものとを。そうしてそれを最も著しい特徴の下に比較し、その相違を明らかにすればよい。
ここに自分は最も重要な視点として「規則にかなうこと」を選び出そう。それは近世の哲学が始まるとともに芸術の本性として認められたことであった。感覚的印象における美的なよろこびは「合理的なこと」あるいは「論理的なこと」にもとづくとするデカルトの考えを受けて、合理的美学の大成者としてのライブニッツも、感覚的なよろこびを感官知覚のうちに隠されている「悟性にかなうこと」から導き出そうとした。詩の形式の論理的性棉、特に多様なるものにおける統一が、詩の与える美的なよろこびの根拠である。秩序から美が出る。そのように音楽における音の秩序正しい響き、舞踏における規則正しい運動、詩における長短の綴音の規則正しい連続、すべて秩序正しさが美的のよろこびをもたらすのである。視覚芸術における「比例」のよろこびもこれにほかならない。芸術的創作は、思惟の構成的な統一によって宇宙の秩序を把捉する能力と相並んで、構成的な形作る試みによってかかる秩序を持った対象を模倣し、いわば神のごとくに或るものを創造する能力である。――かくて美とは感覚的なるものにおける「論理的なること」の現われであり、芸術とは調和的な世界連関の感覚的な現わしである。芸術家はこの世界連関を、論理的にではなく溌剌とした感情において、感覚的に見る。そうしてそれをその自由な創造力によって表現するときに、この世界連関が合理的なものであるに従って、おのずから「規則」のもとに立つことになるのである。
このような合理的美学は十七世紀のヨーロッパにおける、特にフランスにおける合理主義的な社会状態や人間の懸度を反映している。しかしながらこの時代の合理主義的な色づけを洗い去り、美や芸術の領域の独自性を認めるに至(177)っても、芸術において合理的なもの規則的なものを認める傾向は決して消えては行かなかった。十八世紀の経験主義的な美的印象の分析においても、「多様の統一」や「シンメトリー」や「比例」や「同じき構造を持つ部分の結合」などは、依然として美的効果の要素であるとせられる。たといかかる要素の|集合〔付ごま圏点〕が芸術品となるのではなく、美的効果自身が本来統一的なものであると反駁せられるにしても、右のごとき美的形式原理を前代と同じく認める点は反駁せられなかった。十九世紀において芸術学における歴史的方法が人間の創作力の考察から出発し心理学を事実の解釈に利用して美的創造力の分析を始めたときには、単なる合理主義の明らかにし得ざる|体験の深み〔付ごま圏点〕への注目が著しく増した。しかし芸術の生きた歴史性の分析から得た概念をもって多様における統一や秩序というごとき抽象的定理に代わらせるとは言っても、かかる統一や秩序を天才の創造力の上に立つ|芸術の法則〔付ごま圏点〕としてもちろん認めているのである。ただ多様の統一とかシンメトリーとか此例とかの原理に従って作品をまとめる場合にその|まとめかた〔付ごま圏点〕において現われる作品の個性、すなわちその「様式」の歴史性が関心事とされたにほかならぬ。また心理学的方法が美意識の研究に深入りして行ったときには、統一性の原理はその根拠を宇宙の合理的な秩序においてではなく心生活の統一において見いだした。しかしかくして考究したのは美的形式原理をいかに基礎づけるかという問題であって、形式原理そのものの普遍妥当性が疑われたわけではなかった。芸術の本質を「感情にかなう形式」というごとき点に認め、美的形式原理から独立に考察しようとする試みは、ようやく最近に至って現われたものである。
我々はここに作品の|まとめかた〔付ごま圏点〕の特殊性が右のごとき形式原理のうちにさえも食い入っていることを問題にしようとするのである。もとより芸術が多様の統一を根本原理とすることは、いかなる芸術を眼界に引き入れたところで、揺らぐべきではなかろう。しかし「|まとまり〔付ごま圏点〕」が果たして規則的なことによってのみ得られているかどうか、「つりあ(178)い」が果たしてシンメトリーや比例のごときことによってのみ得られているかどうか、そこには確かに疑いがある。そうしてこのような疑いが起こると起こらないとは、理論があとを追うている芸術の作品そのものの特殊性に基づくに外ならぬ。
ヨーロッパにおける芸術作品の代表的なるものは、規則にかなえることを問題とせざるを得なかったほどに合理的な色づけを持ったものである。偉大なギリシア人の天才が、一方に数学的学問を出発させるような素質を持ちつつ同時に模範的な芸術を作り出したということが、一つにはこの傾向を産み出したのであるかも知れない。ギリシアの芸術はたしかに世界に冠たるほどに優れたものであるとともにその合理的な性質においても著しい。まとまりは規則的なことによって得られ、つりあいはシンメトリーや比例によって得られている。模範的な芸術におけるこのような|まとめかた〔付ごま圏点〕は、従って芸術の本性に属するものと考えられやすい。しかしながら自分は、ギリシアの芸術の優れているゆえんがこのような模範的な|まとめ方〔付ごま圏点〕にあるとは考え得ないのである。だから右のような形式的原理にもとづいたまとめかたを芸術の一つの特殊な様式として明らかにする前に、まずこの芸術の優れているゆえんがどこにあるかを顧みておかなくてはならない。
例をギリシアの彫刻に取る。ポリュクレイトスの「ドリュフォロス」は古来人体此例の規準(カノン)として有名なものである。ピュタゴラス学徒が数学的関係に無限に深い意義を認め、音楽やシンメトリカルな物象などの持つ魅力を数学的関係に帰して考えようとしていた時代に生まれたこの彫刻家は、人体の絶対的に妥当な比例を求めてこのカノンすなわち抽象的な比例の規則に到達し、それをこのドリュフォロスの像に具体化したのであると伝えられている。(179)このような比例の「研究」が果たして創作の力となり得たかどうかは疑問であるが、しかしこの作品がこのような伝説にふさわしいほど比例の整然としたものであることは認めなくてはならない。我々は今その原作を見ることはできないが、ヴァテイカンやナポリの大理石の写しは、もし事がこの此例にのみ関するのならば、充分原作の面影を伝えていると言ってよいであろう。しかるにこの作品は、他のローマ時代の種々の写しと同じく、印象のはなはだ稀薄なものであって、ギリシアの原作にのみ見られるあの生き生きとした、鮮やかな、心にしみ透るような力を持ってはいない。幾何学的な比例の完全さは決して胸を打つ力とはならないのである。それに対して自分はローマのテルメ美術館のいわゆる「商業銀行のニオベの娘」を比べてみたい。それはニオペの若い娘が背中にアポロの矢を射込まれて、両手でそれを抜こうとあせりつつ片膝を地につこうとする瞬間の姿を捕えたものである。頭は仰向き、衣は肩から落ちてほとんど全身をあらわにしている。作の年代は五世紀の中葉、パルテノン以前であり、従って女体の裸像としては今まで知られた限り最も古いものであると言われる。そこでこのような裸体の、しかも烈しい異常な運動の問題を解こうとした大胆な試みのゆえに、そこにはアルカイックな固さと未熟とのほかにさまざまの破綻が現われ、特に右腕のごときは解剖学的に不可能な姿勢である、と評せられている。ところがこの「固さ」や「破綻」を持っているといわれる彫像が、ギリシア芸術の優秀さをあらわに示している点では、ほとんど間然するところがないのである。それは実に生き生きとした力をもって心にしみ透ってくる。我々はこの特性を簡単に次のごとく言いあらわすことができるであろう。「この作品は内なるものを残りなく外にあらわにあらわしている」と。ここでは内なるものは外なるものである。我々はこの作品のあらゆる点においてそれを感ずる。この彫刻は内に何ものかを包みつつ|表面にひろがっている〔付ごま圏点〕「面」から成り立つのではない。|内から盛り上がる起伏〔付ごま圏点〕で成り立つのである。その起伏は実に微妙をきわめ(180)たもので、たとえば乳房から下腹部へかけての起伏のごときは、ただあえぐ心をもってそれに従うほかいかんとも名状し得る道はない。そうしてこの微妙な起伏は内なるものを残りなくあらわにしているという点で、何ものかを限界づける「輪郭」という印象を与えない。起伏は横より見れば相連なって線となるには相違ないが、しかしそれは内から盛り上がった点の連続であって、横に流れる動きを現わした線ではない。一々の点を連続させているのは内から流露しているいのちである。だから試みに乳房から下腹部へかけての無限に微妙な起伏の線を注視しつつこの像を一周してみると、その起伏の線の千変万化は、横に流れる動きの変化としてでなく、ただ起伏の変化として、すなわち内から外に流露するいのちのリズムとして感ぜられる。このことを我々は彫刻家の鑿《のみ》のあとからも裏づけることができる。たとえば右足を覆うて|流れている〔付ごま圏点〕衣のひだは、我々が通例衣の重さの印象から上より下へ「流れる」ものとしてのみつかんでいるものである。しかるにそこに残っている顕著な鑿のあとは、明らかに凹凸を作ることをねらって上より下へと流れる面に捕われてはいない。無雑作に彫りくぼめたところは、凸部との間の滑らかな連絡などをほとんど顧慮しておらぬ。明らかにそこには、肉体におけるとは種類の異なるいのちではあるが、同じく内より外に流露するいのちをあらわにしようとする努力がある。だから肉体にまといつき肉体のふくらみをあらわしていながら、その肉体と全然性質の異なるものであることが実によくあらわにされている。これらはローマ時代の写しなどに到底見られないことである。肌の面に残された鑿のあとは衣紋におけるほど露骨ではないが、しかしなお細かい線としてあるいは点として看取することができる。それも常に凹凸を作るという志向のあらわなものであって、それが肌から滑らかに表面を流れる感じを奪い去り、柔らかに内から盛り上がる感じを強くあらわしているのである。
このような特質を自分は総じてギリシアの原作に認めることができた。それは多くの場合間然するところなきシン(181)メトリーや比例と結合して存する。たとえばルドヴィチの王座におけるいわゆる「ヴィナスの誕生」はシンメトリーの美を模範的にあらわしたものと言えよう。海より生まれるヴィナスと解せられている乙女を、左右の岸に立った二人の娘が身をかがめて引き上げようとしている。ヴィナスを中心にして左右の女の姿勢はほぼ同じく、衣紋もまた同じように流れる。ヴィナスは両手を左右にひろげて、左右から同じょうに出した女の手のささえるにまかせている。左右の女の他の手は同じように下に垂れて今やヴィナスを包もうとする乾いた衣をささえている。この六本の腕の交錯や左右の女の三つに折れた肢体などは相対して厳密に均斉を保つのである。中心線上にあるヴィナスの首の円みは左右の女の胴によって包まれ、ヴィナスのあげた腕と胸とによって作られた鈍角は左右の女の膝の鈍角に対応する。特にヴィナスの乳のふくらみがからみ合う三本ずつの腕のふくらみにのびて相対しているのは実に美しい。これらの均斉に伴なってあらゆる細部もまた厳密に均斉を保つ。左右の女がうしろに引いた足、その足の下に踏まれる円い小石、女の肩、腰、膝を流るる衣文。確かにこれは厳密なシンメトリーのゆえに強く鮮やかさを印象する作品の好例である。しかしながらこの作品の優秀さの核をなすものは依然としてこのシンメトリーではなくして、シンメトリーにまとめられているおのおのの物の姿の、内なるものをあらわに外に出している刻み方である。いかによく物の姿が内よりもり上がる起伏としてつかまれていることだろう。片すみにきざまれているあの円い小石さえも、(これは日本では到底見られないほどの柔らかい円みにまでこすり上げられた小石である、そうしてたとえばローマの公園の路上などで普通に目賭し得るものである、)その小石さえも内を現わすことなき無生なるものの表面としてではなく、我々がかかる小石において持つ触覚を外にあらわにした起伏としてつかまれている。ヴィナスの体に濡れてぴったりと密着している柔らかいヒトンと、ヴィナスの高くあげた二の腕に覆いかかっているニムフの乾いた衣との、あの著し(182)い刻み方の相違も、それぞれの衣の「内なるもの」をいかによくあらわにするかを心得たやり方である。いわんやあの単純な肉体の刻み方には、その単純さにもかかわらず、内なるものをあらわに外に起伏させるに充分な力量がうかがわれる。総じてこの種の優れた|浮き彫り〔付ごま圏点〕は、微妙な起伏をもって内なるものをあらわにするコツを心得ていた者のみが、製作し得たのであるとも言われよう。
この彫み方の特徴はパルテノンのフリーズや破風《はふ》の彫刻においても強く感ぜられる。何人でもこれらの彫刻においてはその衣文の美しさに打たれざるを得ないのであるが、この衣文が鑿のあとの明らかに見わけられる荒い刻み方のものであって、そこでは滑らかに表を流れる面を刻み出そうとは決してしていない。凹みのつけ方などはただ凹ませればよいという無雑作なやり方である。しかもその凹みの「度合」についてはきわめて細心であって、ただこの起伏の仕方のみが関心事であることを明らかに示している。だからこの衣文における起伏の感じと肉体における起伏の感じとは実に鮮やかに区別されつつそこにからみ合っている。あの有名な「タウシュウェスター」(三人のグレースとも言われる首のとれた三つの女の群像)のごとく、柔らかい衣が豊醇な女体にからみついている場合でも、そのからみついている衣の起伏とその衣を通じて現わされている肉体の起伏とは、実に明らかに感じわけることができる。
ギリシアの彫刻のすぐれているゆえんは、この「内なるものを外にあらわにする」という点に存する。それは外にあらわなるもののほかに内なるものが存せぬことである。ローマ時代のうつしに至ってはこの特性は残りなく失われた。模作家は内よりの起伏としての面を平面的にひろがる面として受け取り、それを丁寧に模写する。面は滑らかにきれいになるが同時に何ものかを|包む〔付ごま圏点〕面となる。ところで粉本たるギリシアの彫刻は何ものをも|包まない〔付ごま圏点〕ものであるから、何ものかを包むという意味を持った面が何ものをも包まずして立つことになる。これが模作の持っている強い(183)空虚な感じのもとである。しかもかかる模作がその幾何学的に正確な比例やシンメトリーのゆえに感嘆されるようになると、本来は生きたいのちの言葉の担い手に過ぎなかったこれらの形式がその中心の生命から抽離されて意義を持たせられるに至るのである。
かくてヨーロッパ的なる美術は、それが優れたものであるときにもまた浅ましいものである時にも、同じように規則にかなうことを重大視するものとなった。このことは建築についても文芸についても同じように言えると思う。ギリシアの神殿建築の偉大さは、それが石という材料を徹底的に生きたものにしているところにある。それは機械的な構造ではなくして有機的な全体である。細部はこの全体の生命において生きている。しかしギリシア人はこの生きたものを幾何学的に正確な形において作り上げた。数学的な規則にかなうことがこの建築の生きた感じを作り出しているのではないにかかわらず、かかる生きたものが数学的な規則にかなう形において完成されたということのために、ここでも規則にかなうことがそれ自身として意義を持たせられるに至った。そうして同じ規則にかなう建築をその後多数に作ってみたが、ギリシア人のそれのように生きたものはついに作れなかった。またギリシアの文芸の偉大さはその鮮やかなる直観性に存する。人間の心のさまざまなるありさまや働きざまはあらわに直観的な姿に表現された。しかしギリシア人がこれを厳密な律格や統一の規則に従った形において形作ったがために、かかる規則にかなうことが詩の本性として重んぜらるるに至った。そうしてかかる規則にかなった多くの駄作をさえも作り出した。
すべてかかることは、ルネサンスにおけるギリシア文化の復興とともにヨーロッパにおいて著しく目立って来たことである。が、近代の学問がギリシアの学問の伝統を受けつつその芸術的あるいは解釈学的な側面よりも数学的な側面を強調しこの側においてめざましい発達を遂げたと同じく、これはまさにギリシアの芸術における数学的な側面を(184)のみ強調することであった。そうしてそれが近代ヨーロッパの文化の特殊性にほかならぬのである。だから美的形式原理を自覚しそれにもとづいて作品をまとめるということも、この特殊性との連関において理解せられなくてはならぬ。近代ヨーロッパ人は確かにギリシア人の教化のもとに育ったには違いないが、彼らはそれを実際的なローマ人の手を経て受け取り、さらにそれを|抽象性の愛好〔付ごま圏点〕という彼ら自身の素質に応じて咀嚼した。だからギリシア人の芸術的天才が彼らと異なった素質を持った民族を刺激した場合に、そこに彼らと異なった方向において果実を結ぶだろうことには思い及ばなかったと言ってよい。
さて以上のごとく規則にかなうことを特徴とするヨーロッパの芸術に対して、我々は、合理的な規則をそこに見いだし得ぬような作品を東洋の芸術の内に見いだす。もとよりそこにも|まとまり〔付ごま圏点〕はある。そうしてその|まとまり〔付ごま圏点〕は何らかの規則にもとづいてもいるであろう。しかしその規則は数量的関係というごとき明らかな合理的なものではない。ではそれはいかなる性質のものであろうか。
この問題への橋渡しとしてここに庭園芸術の例を取ろう。庭園芸術は古典時代のギリシア人が模範を示しておかなかったものであるが、ヘレニズムの時代の東方の|大都市〔付ごま圏点〕には公共的な庭園が芸術的技巧をもって作られるに至り、ローマ帝政時代には皇帝の別業などにおいて一層発達した。もっともそれは純粋の庭園というよりはむしろ種々の設備を持った|遊楽場〔付ごま圏点〕にほかならなかったのであるが、人工的に形をつけた樹木や幾何学的な形をした花壇やまた規則的な形をした掘割りや池などによってきわめて規則的にまとめられ、その框となるもの骨組みとなるものあるいは中心と(185)なるものは常に建築的彫刻的の装飾であった。かくローマ人によって完成せられたということが庭園の問題にとっては重大な意味を持つように思われる。
元来ギリシア人が庭園を芸術的に作らなかったのは、狭いポリスの生活がそれを要求させなかったからである。しかしギリシア人は自然の風景に対して無関心であったのではない。「かつていかなる民衆も、外界の美について古いギリシア人ほど深い印象を受けたものはなかった」とブチャーも言っている。このことはギリシアのポリスが多くの場合美しい見晴らしを持った場所に位置を占めていることによっても裏書きされるであろう。アテンのアクロポリスが雄大にしてまた明媚なながめを持っていることは有名であるが、イタリアにおける植民地、たとえばペスッゥム、タオルミナ、シラクサ、アグリゲントゥム、セジェスタのごとき町々は、いずれも海と山と野とのながめのきわめて美しい場所を選んでいる。海辺からある距たりを持った小高みということは、防衛の必要条件であったかも知れない。しかし同様に或るそれ以上に必要条件を充たすいくつかの近接した場所のうちから、特にこのながめ美しき場所をのみ選んでいるというところに、我々はこれらのポリスの建設者の意図を推測せざるを得ない。たとえばタオルミナは海辺より見上げた場合には決して特に防衛に都合よき位置とは見えぬ。むしろこのような中途半端な場所を選んだことに不審を抱かせるほどである。しかし、ひとたびこの町の位置までのぼって見ると、我々はそれが必然であったことを感ずる。下方には砂の白い山裾の磯辺が美しく彎曲し、その上にはヨーロッパとしては珍しく優美な姿をした白いエトナが大らかにかかっている。このまとまったながめは、町の位置を四五町移すことによっても崩れるのである。もともと荒れた感じのない、自然のままですでに手入れの届いているような平野や海辺を持ったこの国土では、ただ適当な位置から過当に限界づけてながめることによって、風景はまとまったものになる。それをギリシア人はポリス(186)の位置の選定によってやっているのである。これだけの証拠でまだ不充分であるならば、我々はさらにこれらのポリスの劇場を証拠としてあげることができる。この劇場は音響学的に実に巧妙な構造によってまず我々を驚かせるものである。比較的に小さいタオルミナの劇場はいうまでもなく、かなり大きいシラクサの劇場においても、観覧席の最も背後の高いところとオルケストラとの間で我々は日常の会話と同じ高さの声でやすやすと会話することができる。しかもそれが蒼空の下でのことである。しかしそれよりも一層強く我々を驚かせたのは、観覧席から見晴らせる風景であった。タオルミナの劇場はローマ時代の増築が幾分それを妨げるようになってはいるが、しかし観覧席から見ると、演技の演ぜられる世界を区切っている神殿の上には、ちょうど額縁にはめられたように、遠い海と白い磯とエトナの優美な姿とがくっきりと現われている。わりに開いた土地であるシラクサにおいても、劇場は南に海をうけた斜面を選んで、美しい平野と海と岬とがまとまって見晴らせるようになっている。セジェスタの劇場に至っては神殿の丘よりもはるかに高い小山の絶頂の、しかも美しいガゲラの谷のかなた十マイルのところにはるかに海を臨む場所を選んで、海に向かって開いた形に作ってある。セジェスタの神殿のほとりにあって周りを取り巻く山々をながめているときには、これが海の見える土地であるとは何人も考えないであろうが、劇場のある個所まで登って初めて人はこの土地の持つ最も開闊な大きい風景に接するのである。このような劇場のつくり方は、演技に注意を集中させるために舞台をできるだけ外界の印象から引きはなすというやり方とはちょうど正反対である。あたかも昔の日本人が祭りの日には見晴らしのよい高みへ上って、そこで食い飲み踊ったと同じように、ギリシア人は宗教的祭儀から出た劇を自然の美しさの与える晴れ晴れしい昂《たか》まった気分において味わおうとしたのである。すべてこれらのことは風景の美しさがギリシア人にとって欠き難いものであったこと、そうしてポリスの生活はこの自然との合一をさまたげるよう(187)なものではなかったことを立証する。ギリシア人はこのような風景の愛以上にさらにこの風景を理想的に高めようという要求は持たなかった。
しかるにローマ人は、その発明した円形劇場や公衆浴場などが示しているように、風景の美を顧みないでただ人工的なものの内に享楽することを特徴とした。有名なローマの水道は、古代の都市を一定の大いさ以上に発達せしめない自然の制限を、人工の力で打ち破ったというローマ人の仕事を象徴するものであるが、このような人工のよろこびが、都会を離れた皇帝の別業というごときものにも著しく現われている。皇帝は都会のもつ一切の娯楽機関を彼自身のものとしてそこにそろえたのである。神殿、劇場、浴場、図書館、スタディウム、ポイキレ一等。そうしてその一つとして全然人工的に、幾何学的な形を持った庭園がつくられた。だから庭園において人が喜んだのは、自然を支配する人工の力のよろこびにほかならぬ。この伝統を恐らく受けているであろうと思われる近代のイタリア人も自然の風景のうちに規則的なるものをそそぎ入れることによって庭園の芸術を作った。ちょうどそれが博物学的な自然研究の興味のもとに動物園や植物園の作られる時代であったためでもあろう、造園はただ幾何学的な規則にかなうように自然を区切るということのほかの何ものでもなかった。人はローマ郊外ティヴォリにあるエステ家別荘の庭園を、ルネサンス時代の最も美しい庭園の一つとして賞讃する。それはカムパニヤのはるかなる野を見おろした絶好の斜面に位するものであり、土地は豊饒、水は潤沢である。ところでこの庭園が庭園として賞讃されるのは、幾何学的な直線や円の道路をもって地面や植物を区切ったこと、斜面を利用した石段が同じくその強い幾何学的な印象をもって庭園全体を支配していること、及び直線的に数十間にわたって並列されたりあるいは種々の技巧をもって組み合わせられている|噴泉〔付ごま圏点〕が人工の支配を庭のすみずみにまで感じさせることなどである。それは確かに自然を人工的にしたとは言(188)えるであろう。しかしそれによって自然の美しさが醇化され理想化されたと言えるであろうか。直線的に並列した並み木が直線的な道路を立体的な角度の正しい溝に仕上げているということは、このような幾何学的な物の形を石の代わりに木でもって作ったということにはなるであろう。しかしそれによって群生する植物の|美しさ〔付ごま圏点〕が醇化されたのではない。イタリアでは自然のままの松や糸杉が実に規則正しい形をしているのではあるが、その規則正しさをさらに純粋化するということは、樹の形を幾何学的にするというだけのことに過ぎぬ。自然のままの規則的な樹の形は、わずかに伴なっている不規則的な部分のゆえに、かえってよく自然に内在する規則を思わせる。その不規則的な部分をさえも人工的に取り去るならば、そこに高められるのはむしろ自然より離れる感じである。人工化の感じである。これはギリシア人が人体の規則的比例をあらわした仕事とは根本的に異なるものであろう。ギリシア人は人体の美を醇化し理想化したが、しかし人工化はしなかった。かかる点より言えば、人工を加えない自然のままの牧場やオリーブ畑が、ただ適度に框の中にはめられさえすれば、ルネサンスの庭園よりははるかに美しいと言えるであろう。たとえばティヴォリに近いハドリアヌスの別荘は、それの廃墟としての魅力を別にしても、一定の框の中に入れられた自然の景色として、エステの庭よりもはるかに強く我々の心を捕える。ローマの昔この別業に一切のローマ風建築がそろっていたときにはそれは人工的のものとして意味があったであろう。今その人工が崩れてそのあとに麦畑があり緑草の原がありオリーブが、野生しているときには、人工よりも美しい自然がそれ自身の美しさを発揮する。しからば人工的な庭園を作るということは自然の美を殺すことにほかならぬであろう。
それに対して我々は日本の庭園において自然の美の醇化理想化を見いだす。ヨーロッパ人はこれをヨーロッパにおける自然庭園と同一様式であると解するが、しかし近代のイギリス庭園あるいは自然庭園なるものは、ただ|自然のま(189)ま〔付ごま圏点〕の風景を一定の框に入れたものにほかならぬ。それは自然の美を活かす点において人工庭園にはるかに優るものであるが、しかしそこに加わる芸術的創作力はきわめて弱い。我々はミュンヘンの自然公園の美しさを正直に承認する。しかしそれが美しいのは南ドイツの田舎の牧場や落葉樹や小川が美しいのと同じであって、それが芸術的に作られているからではない。しかるに日本の庭園は決して|自然のまま〔付ごま圏点〕ではないのである。ヨーロッパの自然が自然のままでも決して荒れた感じにならないのに対して、日本の自然は自然のままの形においては実に雑然と不規則に荒れ果てた感じになる。ヨーロッパの牧場ほどに整然とした感じの緑草の原を作るためには、日本においては除草や草刈りや排水の配慮や土の固まり方などについて不断の注意手入れを怠ることができぬ。だからヨーロッパにおいて自然のままの風景を一定の框にはめることによって得られるほどの効果を得るためにも日本においては数十倍の人間の努力を必要とする。かくのごとく無秩序な荒れた自然のうちから秩序やまとまりを作り出すという努力が、日本人をして造園術についての全然異なった原理を見いださしめた。自然を人工的に秩序立たしめるためには、自然に人工的なるものをかぶせるのではなく、人工を自然に従わしめねばならぬ。人工は自然を|看護すること〔付ごま圏点〕によってかえって自然を内から従わしめる。雑草を、あるいは一般に遮るもの、むだなるものを取り除くことによって、自然はそれ自身のまとまりをあらわにする。かくて人は無秩序な荒れた自然のうちに自然の純粋な姿を探り求めた。そうしてそれを庭園において再現したのである。この意味において日本の庭園は自然の美の醇化理想化にほかならぬ。仕事そのものの意義においてはギリシアの芸術と規を一にすると言ってもよい。
さてかくしてできあがった庭園はいかなるまとまりかたを持っているであろうか。簡単なものになると、それはただ杉苔の生い育った平面に一本の松、あるいは五七の敷き石があるきりである。(たとえば大徳寺真珠庵方丈の庭、玄(190)関先、桂離宮の玄関先など。)それは統一すべき多様さを持たない、従って本来統一されている単純なむのに過ぎぬとも言えよう。しかしこの杉苔は自然のままではこのように一面|に生いそろ〔付ごま圏点〕うことのないものである。それはただ看護によって得られた人工的なものにほかならぬ。しかもこのように生いそろうた杉苔は刈りそろえられた芝生のような単純な平面ではない。下より盛り上がって|微妙に起伏する柔らかな緑である〔付ごま圏点〕。その起伏のしかたは人間が左右したのではない自然のままのものであるが、しかし人間はこの自然のままの微妙な起伏が実に美しいものであることを知って、それを看護によって作り出したのである。従ってこの起伏する柔らかい緑と堅い敷き石との関係にも庭作りは非常な注意を払っている。敷き石の面の刻み方、その形、その配置、――面を平面にし形を方形にするようなことも、幾何学的なシンメトリーとして統一を得るためではなく、苔の柔らかい起伏に対する対照のためである。従ってその配置は、苔の面が細長い道である時には直線的に、苔の面がゆるやかに広がるときには大小相呼応して参差と散らされる。それは幾何学的な比例においてではなく、我々の感情に訴える力の釣り合いにおいて、いわば気合いにおいて統一されている。ちょうど人と人との間に「気が合う」と同じように、苔と石と、あるいは石と石との間に、「気」が合っているのである。そうしてこの「気」を合わせるためには規則正しいことはむしろ努めて避けられているように見える。このようなまとめ方は庭を構成する物象が複雑となればなるほど著しく目立って来る。人工を加えない種々の形の自然石、大小の種々の植物、水、――これらはすべてできるだけ規則正しい配列を避けつつしかも一分の隙もない布置においてまとめられようとする。たとえば池の形は長方形とか十字形とか円形とかいうごとき規則正しい形をできるだけ避けるとともに、また漫然と無秩序な自然の池を模したのではない。磯辺とか川の岸とか池の渚などにおいて自然がまれにまた部分的に示している美しい姿を模範として、これを総合して一つの美しい全体に、しかも人(191)工的の印象を与えない全体に、まとめ上げるのである。だから優れた庭の池は、決して一目ではその全体の形を捕えしめず、いかなる方向からながめても常にそこに新しいまとまりのある姿を感ぜしめるように、無限に複雑な面を具えたものとして作られている。また樹木にしても種々なる性質形状を持ったものの取り合わせがここでは重大であり、従って四季の変化を通じての色彩のまとまりが作り出されねばならぬ。此較的に変化の振幅の少ない常緑樹とそれの大きい落葉樹と、――その落葉樹も新緑の色に濃淡遅速があり紅葉の色に薄い黄色から深紅までの開きがある。常緑樹といえども裏金のような輝きを持った新芽もあれば、鈍い銀を底から光らせる新芽もあり、また松のように盛夏に近づいて美しい緑青の芽をそろえるものもある。これらの種々の樹をそれぞれの位置にそれぞれの大いさに布置し、季節の移り変わりに従って|移り変わりつつ調和を保つ〔付ごま圏点〕まとまりを作り出し得なければ、優れた庭とはならない。これらをも人は自然のままなる山野のある個所に偶然に現われている調和を模範としそれを偶然ならざる全体にまとめるのである。このような複雑なまとめ方はすべて幾何学的な規則正しさによってはなし得ないものである。そこに何らか規則があるとしても、それは人間が合理的にはつかみ得ないものにほかならぬ。だから日本の造園術において規則として考えられていることは、実は規則ではなくしてすでに作られた一定の庭の様式を模範とすることである。
庭園芸術におけるかかる相違から我々は容易に他の芸術の特殊性へ渡って行くことができるであろう。
庭園のまとめ方に最もよく似たまとめ方を持つものほ、恐らく庭作りがそこから多くを学んだろうと思われる絵画である。長方形の画面の上部左寄りに濃淡を異にする四五の竹葉が墨をもって描かれている。それを受けた淡い竹幹が左の縁に沿うて立つ。その他の大部分の画面は空白であるが、そのただ中に、竹葉のやや下に、濃く描かれた一羽の雀が飛んでいる。かかる絵の構図にはシンメトリーというごときことはいかなる意味でも認められない。しかもそ(192)こには寸分の隙間もない|釣り合い〔付ごま圏点〕が感ぜられる。何ものも描かれざる空白が、広い深い空間として濃い雀の影とつり合い、この雀の持つ力が、淡い竹葉のうちに特に際立って濃くされた二三の竹葉の力と相呼応する。こうしてそれぞれのものが動かすことのできない必然の位置を占めている。このような気合いとしてのつり合いの関係によって、物象がただ片隅に描かれているようなこの画面をも豊かなまとまりあるものとして感ぜしめるのである。この種のまとめ方は宋元舶載の小さい画帖の絵にも、足利桃山から徳川へかけての大きい襖絵屏風絵にも、非常に多く認められる。梅の枝に雀のとまった小画、梅花が水に面して立つ屏風絵、御所車のまわりに人の群れている小屏風絵、――そういうものにおいて不規則に画面の横から突き出た梅の枝の形や、その上の梅の花の配置や、その中にとまった雀の位置などの間の実に|ほどのいい〔付ごま圏点〕つりあい、あるいは咲き乱れた紅梅の木の形とそれに面する水や築山の間の|ほどのいい〔付ごま圏点〕色や線の調和、あるいは御所車を画面の端に寄せて、人物の向きを巧みに配合しつつ空白である他の側に向かって漸次人の群れを薄め減らして行く構図の|ほどのいい〔付ごま圏点〕動きかた、――すべてこれらの|ほどのよさ〔付ごま圏点〕は一目して明瞭であるが、しかしこのほどのよさの基礎となっている規則を我々は見いだすことができない。それはただ直覚的に得られた、そうして一分も動かすことのできない「気合い」である。
このような絵画のまとめ方の特殊性は、工芸晶を通じて我々の日常生活に親しいものとなっている。西洋皿やコーヒー茶碗のあの規則正しい模様に対して、日本の皿や茶碗の、一見でたらめのようでありながら、しかも規則正しい模様以上に妙味のある、見飽きのしない模様が、いかに無意識的に日本風の感じとして承認せられていることだろう。それは芸術的に高められれば光悦や光琳の硯箱のごときものになる。あの極度に規則正しさを離れた、しかも実に鮮やかにまとまったニュアンスの芸術は、いかに高価な金属を用いていてもただ機械的の感じをしか与えないインキ壺(193)やペン皿に対して、明白に右の特殊性を示している。
が、絵画のまとめ方の特殊性はこのような「気合い」によるもののみではない。それは空間芸術として一目に見渡せる場合のまとめ方、すなわちシンメトリーや比例に代わるものとしてのまとめ方であるが、我々の絵画においてはさらに時間的な契機を入れた特殊なまとめ方が重要な位置を占める。すなわち絵巻物のまとめ方である。西洋の絵画においては物語を題材とした続きものを描く場合でも、続いているのはただ物語の内容だけであって、絵自身は一々独立した構図を持つか、あるいは一々独立しつつ装飾的な大きい全体にまとめられているかである。しかるに絵巻物においては|構図そのもの〔付ごま圏点〕が時間的に展開し行くように作られている。物静かな構図に始まってそれが徐々に複雑の度を加えつつついに無数の物象の組み合わせによる極度に複雑な構図となり、やがてまた徐々に単純に帰りつつきわめて簡素な構図をもって局を結ぶというごとく、それはむしろ音楽の展開のしかたに似たものである。我々はこの集まっては散り散っては集まるというごとき移り変わりによってしばしば胸を打つごとき美しさを感じさせられることがある。もとよりこの種の絵のおのおのの部分は、それだけ切り離してもまた絵としてまとまった構図を持ち得るであろう。しかしそれは本来展開し行く全体のある一定の部分として作られたものであって、その部分の意義は全体において初めて充分に発揮される。伴大納言絵巻のごとく一つの物語を題材とするものはもとよりであるが、鳥羽僧正筆と称する鳥獣戯画巻のごとき、あるいは雪舟の山水長巻のごとき、全然題材の束縛を受けないものにおいても、全体としての構図の展開は確かに主要事とされている。構図の移り変わりに従って筆調もまたおのずから移り変わっているごときは、展開し行く全体にづいての充分な理解を示すと言えよう。しかしこの展開の仕方においても我々は音楽におけるような規則的なるものを見いだすことができない。それは同じテーマを繰り返す展開ではなくして常に他の(194)姿に移りゆく展開であり、しかも全体として一つにまとまっているのである。それはもし比すべきものを求めるならば、非合理的なる契機に充たされている生の統一的展開のほかにないであろう。
この種の特殊なまとめ方を思うとき、連想は我々を文芸の一つの特殊な形式「連句」に連れて行く。連句においてはおのおのの句は一つの独立した世界を持っている。しかもその間に微妙な|つながり〔付ごま圏点〕があり、一つの世界が他の世界に展開しつつ全体としてのまとまりをも持つのである。この句と句との間の展開は通例異なった作者によって行なわれるのであるから、一人の作者の想像力が持つ統一は故意に捨てられ、展開の方向はむしろ「偶然」にまかせられることになる。従って全体としてのまとまりは「偶然」の所産であるが、しかもそのために全体はかえって豊富となり、一人の作者に期待し碍ぬような曲折を生ずるのである。しかしながら「偶然」がどうして芸術的な統一を作り出し得るであろうか。ここでも答えは気合いである。しかも人格的な気合いである。一座の人々の気が合うことなしには連句の優れたまとまりは得られない。人々はその個性の特殊性をそのままにしつつ製作において気を合わせ、互いの心の交響呼応のうちにおのおのの体験を表現する。かかる詩の形式は西洋人の全然思い及ばなかったものであろう。
連句以外にも日本文芸はこれに類似した特殊性を持っている。かけ詞による描写のごときがそれである。内容的には何のつながりもないように見えるものが、ただ言葉の連想によって次から次へ並べられる。内容の論理的な脈絡に従って描写するやり方に此ぺると、これはまさしく非合理的のはなはだしいものである。しかもこのような連想による言葉の羅列が、全体として強く一つのまとまった情調を浮かび出させる。なぜならばそれは言葉の知的内容から見て脈絡のないものであっても感情的内容から見て互いに相つながっているものだからである。人はこの種の描写の代表的なものを太平記や近松の戯曲の道行きなどにおいて容易に見いだし得るが、さらに現実の直写をもって聞こえた(195)西鶴においてさえも著しく目立つものであることに気づかねばならぬ。西鶴は確かにその作品のところどころを連句の呼吸で描写した。前句の言葉の感情的内容が、その知的内容と独立に次の句を呼び起こし、かかる句の連鎖をもって事件の率直な描写に代えている場合が少なくない。このような言葉による一種の点描法も、知的内容において合理的な脈絡を見るのでなくただ気合いにおいて言葉の脈絡を感ずるという特性によってのみ可能とさるるものであろう。
この種の特徴は気合いの芸術としての能樂においても、茶の湯においても、歌舞伎においても、それぞれに見いだし得ると思う。はるかにギリシアの伝統を引いている仏教美術においてさえ、それはいくつかの適例を持っている。元来日本人は芸術的な国民として世界に許されているものであり、また実際内なるものを直観的な姿においてあらわにするという能力には優れた国民である。しかしギリシア人が|見ること〔付ごま圏点〕において感じたのに対して、日本人が|感ずること〔付ごま圏点〕において見たという相違は見のがすわけに行かない。そうしてこの特殊性においては日本はシナやインドと共通である。ただ異なるのは気合いによるまとめ方であって、その点から見るとインドの芸術はまた全然異なったものになる。裸像が混沌として群がっているようなアマラヴァティの浮き彫り、尖塔が混沌として集まっているようなヒンドゥの殿堂、――それらに見られるまとまりは合理的な規則にもとづくものでないとともにまた右に言うごとき気合いによるものでもない。われわれはそれが何であるかを言うことはできぬが、ただそれが合理性を圧倒することによって、また感覚を酔わせることによって得られるものであるとだけは言い得ると思う。
我々は「規則にかなうこと」を視点として東西の芸術を比較してみた。そうしてそれが西洋の芸術の性格であるとともに東洋の芸術の性格ではなかったことを明らかにした。我々はなおこのほかにもいくつかの視点を選ぶことがで(196)きるであろう。特に「人間中心主義」のごときを。しかしここには問題を簡単にするためにただ右の一つの視点を保ちつつ次の問いに移ろう。右のごとき特殊性は「ところ」の相違とどう関連しているであろうか。
三
「ところ」の相違と芸術の特殊性との関連の問題は、「ところ」を地方的に細かくすればするほど様式の微細な部分の問題となり、「ところ」の相違を大きくすればするほど芸術の性格の深みに関して来るように見える。この点から言えば右に明らかにした芸術の相違と東西洋の土地の相違との関連は、この間題を最も郭大して見せることになるであろう。
東洋と西洋との土地としての相違を最も顕著に感ぜしめるものは、「湿気」である。モンスーンの影響を受けるインド、シナ、日本にあっては、暑熱の候が雨季であって、あらゆる植物が水と日光とに恵まれつつ旺盛に発育する。雨量は大体においてヨーロッパの三四倍ないし六七倍であり、空気中の湿気もはるかに多い。これに対してアラビア、エジプト等の近東は極度の乾燥地帯であって、特殊の条件のない土地はすべて沙漠となり、全然植物に包まれない骸骨のような山野を現出している。つまりヨーロッパから見れば東洋とは湿潤と乾燥との両極端である。冬を雨季とするヨーロッパは、雨量が少ない上にその雨によっても空気中の湿気をさほど多量ならしめない。夏の乾煉期は地中海沿岸においては線草を枯らすほどであるが、しかしそのために根強い雑草を繁茂させず、やがて十月の雨とともに柔らかい弱い牧草の成育を可能にする。日光の弱い中北ヨーロッパではそれほどの乾燥さえもなく年を通じて柔らかい草が茂っている。
(197) このような漆器と日光との関係が自然の風貌を著しく異なったものにする。湿潤な東洋においては日光と水とが豊富に植物を恵むとともにまた同じ原因によって暴風や大雨や洪水などが植物を迫害する。だから湿潤な東洋の植物は旺盛に成育しているとともにまた荒らびびねくれ雑然として立つ。日本の風景が優美であると言われるのは、変化に富んだ小規模の起伏や鮮やかな色彩や大気の濃淡などによるのであって植物の形が温順であるからではない。|植物の形〔付ごま圏点〕にのみ着目して言えばそれはむしろ|荒々しい〔付ごま圏点〕乱れた風景である。それに反してヨーロッパでは、日本のごとき根強い雑草がはびこらず、従って柔らかい牧草が穏やかに大地を包み、樹木は風の苦労を知らない整った姿で立っている。それは実に|温順な〔付ごま圏点〕感じである。人がここから秩序正しさを感ずるのはいかにも自然なことであろう。
湿気はまた大気の感じを著しく異なったものにする。日本において我々が日常に触れている朝霧夕靄、あるいは春霞などの変化に富んだ大気の濃淡は、一方では季節や時刻の感じあるいは長閑さや爽やかさの気分というごときものとして、他方では風景自身の濃淡のおもしろみとして、非常に重大な役目をつとめている。しかし湿気の乏しいヨーロッパの大気は、単調な靄あるいは霧を作り出しはしても、それによって我々の気分に細かい濃淡を与えるほどの変化には富んでいない。北欧の特徴である|単調に〔付ごま圏点〕陰欝な曇り日、南欧の特徴である|単調に〔付ごま圏点〕晴朗な晴天、――この|単調さ〔付ごま圏点〕が確かにヨーロッパの特徴であると言えよう。これはまた気温の変化とも密接に関係する。寒暖計はヨーロッパの一日にも気温の高低のあることを示してはいるが、しかしそれはただ物理的な事実であって、我々の気分の上には決して顕著でない。湿気と温度との相関関係から起こるあのさまざまな現象、――たとえば夏の夕方の涼しさ、朝の爽やかさ、秋には昼間の暖かさと日暮れ時の肌寒さとの間に気分を全然変化させるほどの烈しい変化があり、冬でさえも肌をしめるような朝の冷たさの後にほかほかとした小春日の暖かさが来る、――そういう変化に富んだ現象を我々は(198)ヨーロッパにおいて経験することができない。北欧の夏の暑さは冬着でも堪え得るほどの穏やかなものには相違ないが、しかし日が暮れても爽やかな涼しさがあるわけでなく、夕立が来てからりと気が晴れるというような変化があるわけでもない。少しく誇張して言えばそれは数か月にわたる単調な一つの夏の気分である。単調に慣れたヨーロッパ人でさえもさすがにそれには堪え兼ねて土地を変えることによりその単調の苦しさを脱れようとする。冬になれば昼間も夜と大差なく零下何度の大気が静かにじっと淀んでいる。我々の肉体を緊縮させるという点では零下三度も零下十度も気分の上でいっこう変わりがない。たまに晴れた日があって日当たりのいい個所に行っても、その日光はちょうど月光と同じように何の暖かさもないものであり、従って日陰と日向にいささかの変わりもない。それは北を遮った日向がほかほかと暖かいのに一歩外に出れば寒風が肌を刺すというような日本の冬よりも、かえって堪えやすいのみならず、また進んでこの寒さを征服しようとする人間の意力を刺激するものでもあろう。だから人はこの単調さを、人工的に作った暖かい世界で人工的なさまざまの刺激によって克服することに努力する。
こういう気候の特性は、人が自ら自覚している以上に我々の体験の深みにからみ合っているものである。植物でさえも顕著にそれを示している。日本において我々が見る新緑は、春をまちかねた心が鮮やかな新芽の色を心ゆくばかり見まもるひまもないほど迅速に、伸び育ち色を増す。柳が芽をふいたと気づいてからそれが青々と繁り出すまでは、実にあわただしいと思うほど早い。しかるにヨーロッパの新緑はちょうど時計の針を見まもるような感じを与える。新芽は育っているに相違ないし、一月たてばかなり変わりもするが、決して我々の胸を打つような変化を示さない。紅葉もまたそうである。八月にはもう黄ばんだ葉がからからと音をさせている。しかし艶のない黒ずんだ緑は相変わらず陰欝に立っている。そうしていつ変わるともなく緑の色が徐々に褪せて弱々しい黄色に変わって行く。十月下旬(199)にあらゆる落葉樹の葉が黄色になるまでの間、かつて我々の目を見はらせるということがない。夜の間の気温の激変で初霜がおり、一夜の間に樹の葉が色づくというようなあの鮮やかな変化は決して見られない。植物におけるこのような気候との関連は、移して我々の心の姿とも言い得るであろう。我々はヨーロッパ人の中に身を置いた時我々自身がいかにはなはだしく気分の細かな変化を必要とする人間であるかに驚かざるを得なかった。単調になれたヨーロッパ人はちょうど樹の芽が落ちついていると同じように落ちついている。ヨーロッパ人のうちで最も興奮性に富むと言われるイタリア人ですら、その言葉の抑揚や身ぶりが変化性に富んでいるほどには決して気分の細かな変化を求めない。もとよりこの落ちつきは、偉い禅僧が獲得しているであろうような、根深い人格的な落ちつきではない。ただ気分の単調に慣れているというだけの、いわば気分の持続性である。それに比して我々は、夏の日に蝉の声を開かず秋になっても虫の音を聞かぬというようなことにさえ著しく淋しさを感ずるほどに、日常生活にさまざまの濃淡陰影を必要とする。ヨーロッパの近代文明を実に忠実に移植している日本人が、衣食住においては結局充分な欧化をなし得ず、きものや米飯や畳に依然として執着しているということは、それが季節や朝夕に応じて最もよく気分の変化を現わし得るという理由にもとづくのではないであろうか。
気候の特性はただに気分のみならずまた実用的な意味においても人間の生活を規定する。最も著しい例について言えば、ヨーロッパの農業は雑草との戦いを必要とせず暴風洪水の憂い少なく季節の迅速な移り変わりにせき立てられることもない、はなはだ悠長なものでぁる。湿気の関係からうねを作る必要もなく一面にバラ蒔いた麦は、黄熟してからでも静かに一月ぐらいは立っていてくれる。七月の終わりに悠々と麦刈りをやっている農人は、九月の初めにもまだ悠々としてそれを続けている。それに比べれば、旬日の間に麦を刈って田を植え、しばらくたつと炎天の水田に(200)田の草を取り、その息をつくまもなく台風と暴雨というごとき人力のいかんともし難い自然の威力の前に心を悩ませるという日本の農人の労働は、そのめまぐろしさと烈しさとにおいて到底同日の論でないばかりでなく、自然と交渉する態度においてもおのずから異ならざるを得ないであろう。単調にして温順な自然に征服的に関係するヨーロッパ人が、土地のすみずみをまで人工的に支配しまたその支配を容易ならしめるために|熱心〔付ごま圏点〕に機械を考えるに対して、徹底的に征服するというごときことを人間に望ませないほど暴威に富んだ自然からその暴威の半面としての潤沢な日光と湿気を利用して豊かな産物を作り出そうとする東洋人は、人工的な手段を思うよりもむしろ自然自身のおのずからなる力を巧みに捕え動かそうとする。かかることがやがて合理的な性格の著しい技術とただコツをのみ込む事によって得られるような技術との相違となって現われるのでもあろう。
かくのごとく自然と人間との交渉において自然の特殊性が人間の生活の特殊性となって現われることは恐らく何人も否定し得ないところであろう。人間が外界としての自然に対立するものとしておのれを見いだした時には、すでに人間はその自然の特殊性をおのれの特殊性としているのである。あくまでも晴朗な、乾燥のゆえに濃淡のないギリシアの「真昼」の明るさは、やがて現象が残るところなくおのれをあらわにしているという思想となる。自然の温順さ、――湿気のない暖かい大気や柔らかな牧草や表面の滑らかな石灰岩は、やがて自然に対して自らを守るという趣の少ない解放的なギリシアの衣となり、裸体の競技となり、裸体像の愛好となる。それは自然現象が原因となって白紙のごとき人間の精神に特殊な結果を引き起こしたという意味ではない。人間はかつて周囲の自然から引き離された白紙の状態にいたことはない。ギリシアの真昼の明るさは初めよりギリシア人の明るさであり、ギリシアの自然の規則正しさは初めよりギリシア人の合理的傾向であった。だから自然の特殊性はその自然においてある人間の精神的構造に(201)属する問題であると見られなくてはならぬ。
かくて東洋と西洋というごとき「ところ」の相違が精神的構造の相違を意味することになる。それはただに芸術の特殊性の問題に関するのみならず、物質的生産の仕方にも、世界観や宗教の形式にも、総じて人類の一切の文化産物に関する。我々が初めに単純に「湿気」として言い現わしたことは、ただ単に気象学の問題とさるる現象ではなく、一方に峻厳な人格神の信仰を産んだ乾燥な沙漠生活の極度に意志的実践的な生き方、他方にあらゆる|生物〔付ごま圏点〕の一であることを信ずる湿潤な地方の極度に感情的冥想的な生き方、そうしてその両者に対して人間中心的な知的静観的な生き方を区別せしめる精神的構造上の一つの原理である。もとよりこれらは歴史的影響によって他の「ところ」にも移され得るものに違いない。たとえば沙漠生活の生んだ旧約聖書が千年にわたってヨーロッパ人を呪縛し、同じ沙漠から出たコランが現在のインドに強い勢力を持っているごとき、「ところ」の特殊性が絶対的のものでないことを示している。しかしそれにもかかわらず、旧約聖書とコランとは沙漠生活の特殊性の理解なくしては正当に理解し得られぬものである。この理解を欠くことがかえってこれらの文化産物に神秘的な光を添えたということはあるかも知れないが、それによって特殊性の理解が無意義にされたとは言えない。
さてしかし我々の問題はただ芸術の特殊性に関する。「ところ」の特殊性が精神的構造の特殊性を意味するごとく、それはまた芸術の従ってまた芸術家の想像力の特殊性をも意味するのである。芸術創作力そのものは人間の本性に根ざしたものとして「ところ」の相違により本質を二三にするということはないであろうが、しかし具体的にある芸術家の創作力として或る「ところ」に現われる限り、その「ところ」の特殊性をおのが性格とせざるを得ぬ。ポリユク(202)レイトスが比例の正しい人体彫刻を作ったとき、それは確かに彼のうちにあって表現を迫る体験が外に押し出されたものにほかならなかった。彼の日常寓目する人間の肉体は彼の想像力によって作りなおされ、高められ、類型化され、そうしてたとい現実には存せずとも彼の体験においては溌剌として生きている人間の姿として外に押し出されて来た。この過港は推古仏の作者が胴体の細長い、人らしい筋肉を持たないような推古仏を作った時にも変わる事はないであろう。しかしながらポリュクレイトスにおいては、その豊富な人体の経験において意味深い形として彼の|感情〔付ごま圏点〕を動かし、彼の想像力の変形(メタモルフォーシス)のはたらきを刺激したものは、人体における微妙な数量的関係であった。そうしてこのような規則正しさが想像力のはたらきを導くということは、彼の寓目する人体が人類のうちで最も規則正しい形を持ち、しかも周囲の温順な自然がこの人体を裸で遊戯せしめそれを|自然の中心〔付ごま圏点〕として感ぜしめるようなものでなかったならば恐らく起こり得なかったことであろう。(もしこのような整った人体がホメロスに結実した騎士時代の永い間の体育によって作り上げられたというならば、さらに|名誉欲、冒険欲〔付ごま圏点〕を中枢とする騎士時代の生活がエーゲ海沿岸地方のごとき温順な自然の内にでなく、たとえば自然の脅威の物すごい沙漠のなかで、可能であったかどうかを問題とせねばならぬ。)芸術家がその体験において規則正しさに動かされるのは、その体験が自然の規則正しさを含むからである。同じ人種であり同じく裸形に近い風俗を持ちながら、インド人の想像力はこの規則正しさとは最も縁遠いものであった。そうしてそれは人に秩序を感ぜしめないほどに横溢するインドの自然の力と姿とから理解し得られる。
かくて我々は自然の合理的な性格と非合理的な性格とのいずれが著しく目立っているかによって芸術に著しい相違が現われて来たのを見る。それはちょうど人が自然において何を求めているかを反映したことにもなるであろう。ヨ(203)ーロッパにおいては、温順にして秩序正しい自然はただ「征服さるべきもの」、そこにおいて法則の見いださるべきものとして取り扱われた。特にヨーロッパ的なる詩人ゲーテがいかに熱烈な博物学的興味をもって自然に対したかはほとんど我々を驚倒せしめるほどである。人はその無限性への要求をただ神にのみかけて自然にはかけぬ。自然が最も重んぜらるる時でも、たかだか神の造ったものとして、あるいは神もしくは理性がそこに現われたものとしてである。しかるに東洋においては、自然はその非合理性のゆえに、決して征服され能わざるもの、そこに無限の深みの存するものとして取り扱われた。人はそこに慰めを求め救いを求める。特に東洋的なる詩人芭蕉は、単に美的にのみならず倫理的に、さらに宗教的に自然に対したが、そこに知的興味は全然示さなかった。自然とともに|生きること〔付ごま圏点〕が彼の関心事であり、従って自然観照は宗教的な解脱を目ざした。かかることは東洋の自然の端倪すぺからざる豊富さを待って初めてあり得たことであろう。人はかかる自然に己れをうつし見ることによって、無限に深い形而上学的なるものへの通路をさし示されていることを感ずる。偉れたる芸術家はその体験においてかかる通路をつかみ、それを表現しようとするのである。それがよし風景画であっても、彼はその体験によって風景の内の「法則的なもの」「不変なる構造」を捕えようとするのでは決してない、あたかも優れたる禅僧がその解脱の心境を単純な叙景の詩によって表わすごとく、風景を単なる象徴として無限に深いものを現わそうとするのである。もとより自分はかかる事を東洋の芸術家のすぺてがなし得たというのではない。ただ東洋の自然の荒々しく不規則であってしかも豊富な姿から最も意義深きものを学び得た芸術家の「気合い」のなかにほ、ヨーロッパの芸術に求めることのできないかくのごとき志向が強く現われていることを指摘したいのである。
これらはすべて過去のことである。そうして世界が一つになったように見える今では、異なる文化の刺激が自然の(204)特殊性を圧倒し去ろうとするかに見える。しかしながら自然の特殊性は決して消失するものではない。人は知らず識らずに依然としてその制約を受け、依然としてそこに根をおろしている。かかる過去の伝統から最も勇敢におのれを解放したかに見えるロシア的日本人たちでさえも、その運動の気短い興奮性においていかによく日本の国民性を示していることだろう。変化に富む日本の気候を克服することは恐らくブルジョアの克服よりも困難である。我々はかかる風土に生まれたという宿命の意義を悟り、それを愛しなくてはならぬ。かかる宿命を持つということはそれ自身「優れたこと」でもなければ「万国に冠」たることでもないが、しかしそれを止揚しつつ生かせることによって他国民のなし得ざる特殊なものを人類の文化に貢献することはできるであろう。そうしてまたそれによって地球上の諸地方がさまざまに特徴を異にするということも初めて意義あることとなるであろう。(昭和四年)
(205) 第五章 風土学の歴史的考察
一 ヘルデルに至るまでの風土学
風土の問題は歴史家の直観においては常に有力に働いている。古代においても近代においてもそうであった。従って歴史の議論はいつもそれを当然の問題として取り扱っていた。それをそうでなくしたのは近代の歴史哲学なのである。
近世においてこの問題を特に取り上げたのは、歴史学精神科学の上に新時期を画したヘルデルである。ちょうど啓蒙時代の合理主義的な文化解釈、悟性的な目的概念に導かれた歴史叙述、などが流行していた時代に、彼はおのおのの国民おのおのの時代の独自の価値を承認し、それを風土との連関において考察したのである。しかもそれが自然科学の力強い勃興の時代、従って認識論がただ自然科学の基礎づけにのみ努力していた時代に起こった、というところに、非常に大きい意義が認められる。彼以前にあっては自然環境と歴史(あるいは運命)との連関の問題は、自然科学的な見方と精神科学的な見方との無自覚的な混淆の下に取り扱われていた。彼はこの混淆に打ち克って、それを精神科学的な問題として立てようとしたのである。
そこで彼以前の風土学を概観して彼の仕事の意義を明らかにしたいと思う。
古代においては近代の歴史論の主要問題たる「発展」の観念がなかったと言われる。その代わりに種々の国民の特(206)殊性に関しては充分に眼が開けていた。そうしてこの特殊性は主として風土の特殊性に制約せられると考えられていたのである。ヘロドトスやツキュディデスにおいてもすでにこの考えは散見している。ところでそれを一つの理論にまとめたのは、医学の祖として名高いコスのヒッポクラテス(Hippokrates,460−377)である。もちろん彼が「医学の祖」であったというのは事実ではない。彼以前にすでに医学や生理学は存していた。ただ彼は、これらの材料を前にして、抽象的な原理を斥けつつ、|経験に現われるままの〔付ごま圏点〕人を捕え、個々の特殊な場合からの帰納によって、健康と病気との法則を立てようとしたのである。しかし彼は特殊から出発しつつも自然哲学者の普遍化の方法を学び取ることを忘れなかった。特殊を普遍的条件の下に類別するのが彼の主たる努力であった。そこからして彼は|風土〔付ごま圏点〕や|場所〔付ごま圏点〕に特に注意を払うに至ったのである。彼の名によって伝わる多数の著作中(1)、彼の作として疑いのないものはわずかに四五に過ぎないが、そのうちに風土を取り扱った『空気と水とところ』(De aere,aquis,logis)が含まれている。この事は彼の著作中最も興味深いものと言われ、それによってヘルデルは彼を「風土に関する主要著作家」と呼ぶに至ったのである。
(1) Littre,1839−61.10 vol.仏訳を添う。――Kuhn,1 26−7−3 Bde.―Kuhlewein,1894,1902.――Eremerius,1859−63.3 Bde――独訳書、Upman,1847.3 Bde;Fuchs,1895−99.3 Bde.――日本訳、ヒッポクラテス全集。
ヒッポクラテスによれば、風土は暑さ寒さ、その変化の多少などによって、人体に影響する。また空気の湿潤乾燥は呼吸の難易、血行の遅速、肉体の弛緩活発などを結果する。だから風土の特殊性に|慣れる〔付ごま圏点〕ことによって民族の特殊な性質ができあがるのである。たとえば根気が続くか続かぬか、怠惰であるか活発であるか、興奮しやすいか冷静であるか、勇敢であるか怯懦であるか、というごとき。同様に土地の特殊性も美的の側から、あるいは食物の特殊性と(207)して、人々の心情や肉体の特殊性に連関する。かかる見地からして彼はアジア人とヨーロッパ人を比較した。これはアリストテレスの「市民の特性」の論(Poltica、Z,7.)に関係あるものとして有名である。アリストテレスによれば、北方の寒い風土やヨーロッパにおける民族は活発勇敢ではあるが知力と技術とにおいて欠けており、アジアの民族は知力技術に富んではいるが怯懦である。しかるにヘラスの民族は、「ところ」において中間であるごとく特性においても中間であって、勇気と知力を兼ね備えている。この考えと同じくヒッポクラテスもまたアジアの民族が戦争を好まず静かな心情を持っているのは四季の変化が乏しく寒暑ともに大差のない風土にもとづくと考えるのである。
風土の人間に及ぼす影響というごとき意味で今でも普通に考えられていることは、すでにヒッポクラテスによって言いつくされていると言ってよい。気候の変化は肉体を刺激し、肉体の刺激は構神を興奮させる。しかもかく興奮させられる精神が歴史の原動力である。だから気候風土は国民の特性や運命を規定する。明らかにここには風土が人間の外なるものとして前提せられ、風土現象の本質が何であるかは問われておらぬ。そうしてこのような風土観がいわば常識として古代人を支配した。前二世紀の有名な歴史家ポリュビオス(Polybios)や、前一世紀に大部な地誌を書いたストラボー(Strabo)などすべてそうである。しかしこの考え方はいわば自然環境が人間の歴史や運命を支配するという所に帰着せざるを得ない。従ってかかる支配をなし得るものがただ神のみであるとする立場、すなわち一切の歴史や土地の特殊性がすべて神の意志にもとづいているとする中世の世界観においては、全然捨て去られることになったのである。
十六世紀の末にフランスのポダン(Jean Bodin,De la republique)にょって風土の問題が再び取り上げられた時にも、根本の考えは古代と変わらなかった。ボダンによれば、人間(個人、民族)の行為は「自然的素質」によって規定(208)せられる。しかるに自然的素質は風土によって異なるものである。だからそれぞれ特殊な風土を持った国土はそれぞれ特殊な民族の性格を示している。特に重大なのは、風土の相違によって|労働の仕方の相違〔付ごま圏点〕がひき起こされ、それが強く自然的素質に影響するという点である。たとえば豊沃な土地においては努力の必要が少なく従って肉体や精神の能力が発達しない。しかるに痩せた土地は人の頭と体を緊張させ従って種々の能力、技術、学問等を発展させる。痩せた土地の民族が産業的商業的になるのはそのゆえである。ところでかく労働の仕方が異なるに従って異なった能力が発展するとすれば、人間の天賦、傾向などにも特殊性が現われざるを得ない。
以上のボダンの考えは風土の人間への影響を考える限りにおいて古代と異ならないのであるが、しかしその影響の仕方について「労働の仕方」を媒介として導入した点においては全然新しいのである。またその点においては二百年後のモンテスキュー(Muntesquieu、De l'esprit des lois.1748)よりも進んでいると言われている。モンテスキューはしばしば歴史における地理的要素の意義を指示した最初の人のごとく言われているが、しかし彼の説いたのは主として|人の肉体的性質に対する風土の生理学的な影響〔付ごま圏点〕であって、風土の人間存在における意義ではない。もちろん彼はそこから出発して種々の国土における地方的社会的条件がいかに法律・制度の発達を規定するかを論じ、従って種々の国土における国家形式の相違を必然のものとして示そうとしたのである。しかし風土はあくまでも自然科学的対象に過ぎず、その影響は生理学的影響に留まった。ポダンが風土を人間の労働活動の規定としたことは、これよりも一歩を進めているのである。
十八世紀末のドイツの文化史家の間には、幽かながらもこの方向への進展が見られる。シュレーツェル(1)にとっては、風土は民族に形をつけるもの、民族をさまざまの労働の仕方・生活の仕方に押しつけるものであった。それはただに(209)「食物の種類」によって人の身心に影響するのみでない。また空気の湿度や温度によって人の性情に影響するのみでない。実に|人間をして自然を征服し変化させるさまざまの態度にいでしむるもの〔付ごま圏点〕、すなわち自然との戦いにおいて互いに結合し、種々の社会を作らしめるものなのである。またアーデルング(2)においては、一層一般化的な見方が加わって、人口の密度と土地の広さとが歴史的の諸文物を規定するものとなった。広い土地を占有して任意に広がることのできる民族は、谷や島の民族ほどに、あるいは沙漠に取り巻かれた民族ほどに、強度の文化を作ることができない。なぜなら限られた土地における人口の増加は生活を困難にし人間をして緊張せしめるが、人口の増加とともに外に広がって行ける場合にはかかる事がないからである。この考え方は十九世紀の人文地理学の先駆をなしている。似寄った地形によって民族の類型を分け、文化発達の段階を定めるというやり方である。しかしそれでは同じ地形における民族の互いに異なっている特殊性を理解することはできぬ。
(1) August Ludwig von Schlo※[ウムラウトあり]zer,Weltgeschichte nach ihren Hauptteilen im Auszug und Zusammenhang,1785.
(2) Johan Christian Adelung,Versuch einer Geschichte der Kultur des menschlichen Geschlechts,1782.
二 ヘルデルの精神風土学
ヘルデル(Herder)は右にあげた文化史家たちと時を同じゅうして出たのである。風土に関する彼の思想を示しているものは、
Auch eine Philosophie der Geschichte zur Bildung der Menschheit,1774.
Ideen zur Geschichte der Menschheit,1784.
(210)の二者であって、シュレーツェル、アーデルングなどの著書と相前後して現われた。が、彼において顕著に現われているのは、彼が風土を歴史に関係させて説くときに、それを自然科学的な「認識」の対象としてではなく、||それにおいて内的なものの現われている「しるし〔付ごま圏点〕」(Zeichen)として取り扱っていることである。彼のねらっているのは、風土の精神(Geist des Klima)を捕えること、人の思惟力感受力全体の風土学(Klimatologie aller menschlichen Denkund Empfndungskra※[ウムラウトあり]fte)を作ることであった。ここに彼が風土学の歴史において特に重視さるべきゆえんが存するのである。
まず一般的に彼の方法について考えてみょう。彼の『人類史の構想』は、当時の自然科学的知識にもとづいて、まず天体の世界における地球の位置から説き起こし、次いで地球上の動植物の組織、その中での人の組織の特性、従って人の存在の意義に説き及び、そこから種々の民族の特性に論じ入って行くのである。しかし彼がかく自然科学的知識を利用したとしても、「自然」は彼にとっては「認識」の対象界としての自然ではなかった。彼は『人類史の構想』の序文の中で言っている。「自然は独立自存のものではない。神がすべてのものにおいてその業《わざ》を現わしているのである。……我々の時代の多くの書物によって自然という名を意味のない卑《ひく》いものに考えるようになっている人は、それの代わりにあの全能な力・善・智慧を考えるがよい。そうして人間の言葉が現わし得ないあの|見えざるもの〔付ごま圏点〕をただ心の中で名づけるがよい。」(Ideen,I,S.]XT.)だから彼にとっては、万有引力も物理的化学的な種々の法則も、すべて|神のわざ〔付ごま圏点〕であった。彼が人類史の哲学を作ろうとしたのは、自然においてかくも整然とした秩序を作った神が、人類の歴史において無計画であったとは考えられぬからなのである。しかしながら彼のいう神は教義の教えるままの神ではなかった。自然及び人類の運命の内に現われた無限に深い神秘、それが神なのである。だから彼は形而上学的思弁(211)を目して自然の経験とアナロギーとを離れた空中旅行に過ぎぬという。人は「自然における神の歩み」を聖書として、それを直接に読むことを学ばねばならぬ。「自然の大いなるアナロギーは、あらゆるところで自分を宗教の真理に導いた。しかし自分はそれを骨折って押えつけねばならなかった。なぜなら自分は宗教の真理をあらかじめ頭に置いて観察してはならない、ただ歩一歩と忠実に「隠されているところの、働く神の現在」からしてさして来る光を捕えねばならないのだからである。」(do.,S.]X.)かくして彼は自然の底にある神秘なるものを、あえて神とは名づけずに、考察する。生物において彼の見いだす神秘は、「生ける有機力」と名づけられている。彼は動物が母胎内において創造せられる過程を叙述したあとでいう、「この奇蹟を初めて見たものは何と言うであろうか。生ける有機力がそこにあるとほか言えないであろう。自分はこの力がどこから来るかは知らぬ。またその内部において何であるかも知らぬ。が、こういう力がそこにあることは疑うわけに行かないのである。」(do.,TT,S.85.) かかる生の力は我々すべての内にある。我々自身は知らずとも我々の肉体の内にはそれが溌剌として生きている。理性の能力というごときものは、この肉体を道具として働いてはいるが、しかし肉体を充分に知る力さえもなく、いわんや肉体を作ったものではない。精神的思惟といえども肉体の組織や健康に依存するのであるから、我々の心情に起こるあらゆる欲望や衝動が動物的な暖かみと離し難いものであることは当然であろう。これらは何人も疑うことのできぬ|自然の事実〔付ごま圏点〕なのである。これの承認が最初の哲学であったごとく、またそれは最後の哲学でもあるだろう。ところでかくのごとき生の力は、ただ「神秘」を指示した名に過ぎない。我々はいかにしてそれに接近し得るのであろうか。学問の方法はまさにこの通路によって定まるのである。彼はそれが「認識」によって達せられるとは考えなかった。彼の目ざす学問は、上述のごとき|生ける自然の解釈〔付ごま圏点〕(Auslegen)である。|目に見える形に現われている精神を通訳すること〔付ごま圏点〕(Dolmetschen)である。(212)(do.,TT,S.93,)人について言えば、その姿形《すがたかたち》はただ内部にある衝動構造の外皮に過ぎない。しかもその形態は一つの統合せられた全体をなしている。その個々の部分をいかに丹念に解剖してみたところで全体の意味はわからない。ちょうど言葉におけるように、個々の綴り文字はなるほど言葉に属してはいるが、しかし意味を持つのは綴られた全体としての単語であって、個々の文字ではない。だから外に現われた形姿において内なるものを指示すること(deuten)、文字の連結からして意味を理解すること、それがここでは学問の方法になる。彼はこの方法を比論的に Physiognomik(人相学)Pathognomik(情相学)などと呼んでいる。Physiologie(生理学)Pathologie(病理学)に対してphysis や pathos の真の意味を捕える学問の意である。それは認識の立場に対して理解の立場を宣揚する。しかもそれは決して根拠なきことではない。我々は日常生活においてすでにかかる人相学を使っている。慣れた医者は病人の態度や顔つきを見てその病気を直覚する。子供は相手の顔つきやそぶりから子供好きであるか否かを見破ってしまう。もっと一般的には、人の顔つきを見ただけでその人の心に渦巻いている感情を理解することができる。すなわち我々は普通に|人相学的な眼〔付ごま圏点〕を使って、形姿に開示されている精神を理解しているのである。このような日常生活的人相学情相学を学問的に純粋にしたのが彼の方法にほかならぬのである。
ヘルデルの主張する「人間の精神の風土学」は、上述のごとき|解釈の方法〔付ごま圏点〕によって、人間の日常生活的な姿から神秘的な生の力の諸形成を見いだそうとする。それを彼が|方法論的に〔付ごま圏点〕明らかに自覚していたというのではない。むしろ彼自身がその芸術家的な素質によって遂行したところの「解釈」の技術そのものの内に、この方法が示されているのである。だからそれは時には材料の豊富に圧倒されて迷い出し、自然科学的民族誌的な叙述に陥ってしまうこともある。にもかかわらずそれが精神の風土学として興味深いのは、風土や生活の仕方を単なる認識の対象として取り扱わ(213)ず、常にそれを主体的な人間存在の表現と見る態度が一貫していることである。
それではヘルデルは風土についていかなる意味を解釈し出《い》だしたであろうか。
彼は人類が多種多様な姿において地上に現われていながらしかも|同一の人類〔付ごま圏点〕であるということを観察した後に、この同一の人類が地上のあらゆる「ところ」において己れを|風土化している〔付ごま圏点〕という点に論を導いて行く。まずアジアの草原におけるモンゴールや、沙漠におけるアラビア人や、世界の端のカリフォルニア(と言っても今は世界の中心になりかかっているあのカリフォルニアのことであるが)の土人などを、その|生ける生活の姿において〔付ごま圏点〕描写し、そうしてあらゆる国民がその土地と生活の仕方とによって性格づけられていることを、すなわち風土的であることを、示そうとする。「それによって、その国土との密接な連関において形成せられている感性的な民族が、その国土に忠実であり、その国土から離れ難く感ずる、ということの理由がまず明らかになる。それは彼らの肉体や、生活の仕方の性質や、子供の時から慣れている娯楽や仕事などが、言い換えれば彼らの心の全眼界が、風土的だからである。彼らからその国土を奪うことは、彼らからすべてを奪うことにほかならぬ。」(do.,TT,S.70,)
かくのごとく人類が己れを風土化していること、国民の心も性格も風土的であることは、与えられた事実である。人間は常に風土的に特殊な姿においてしか現われない。そこで問題は|風土と人間との関係〔付ごま圏点〕を明らかにすることである。その方法は大体二つに分かたれ得るであろう。一は、人間と風土とを引き放し、それらをおのおの独立に考察して、その後に両者の間の因果関係を見いだそうとする方法である。他は、人間生活そのものが風土的であるという具体的な姿を重んじ、人間から引き放した風土、風土から引き放した人間というごとき抽象的なものを問題とせず、人間の生の構造の契機として風土を考察する方法である。第一の方法においては風土は人間存在から抽出され、単に客観的(214)な自然現象になる。そうしてそれが同じように自然現象化された生理学的人体に対して物理的生理的心理的な影響を与え、それによって具体的な特性を持つところの風土人が現われると考えられる。ヘルデルは明らかな自覚をもってではないが絶えずこの方法の不充分であることを指摘しつつ、前掲の第二の方法にはいって行くのである。「風土とは何か。それは人の肉体と心霊との形成にいかなる影響を与えるか」という章(do.,XTT,S.3.)が取り上げているのはこの問題である。その中で彼はまず当時の自然科学的知識がいかに風土の説明に不充分であるかを指摘する。あらゆる風土の根柢を地球の構造やその自転公転などの法則に求めてもむだである。太陽との関係において全然同等である場所が風土において同等であるとは言えない。海に近い、風が多い、山に近い、高原である、谷である等の無数の事情が地方的規定となって、相隣る土地にも全然反対の風土を現出せしめる。|普遍的法則〔付ごま圏点〕などは到底求め難い。風土とは極言すれば地球上のそれぞれの|土地に固有な、唯一のもの〔付ごま圏点〕なのである。それは鋭敏な観察によって叙述することはできても、普遍的な結論に到達せしめるものではない。それに対してこの風土から影響を受けるとされている人体が、また生理学的な一般法別にのみ従うものではない。熟を受け取りまた送り出す仕方において、動物には種々の特性があり、人類にも地方的に相違がある。体熱よりも暑い風土には生活し得られない、などというのは、温帯地方の人体についての、すなわちすでに風土的な人体についての、生理学的法則に過ぎない。いわんや人体の生理については、知られていることよりも知られていないことの方が多いのである。このように不明瞭な人体に対する風土の影響を、あたかも簡単な物理学的実験における因果関係のごとく単純に取り扱うということは、危険この上もないやり方と言わねばならぬ。人体の生理学的構造についてさえもこの通りであるとすれば、精神的構造に対する風土の影響のごときは一層説き難い問題である。暑さが人体をだらけさせ、寒さがそれを引きしめるということは、我々に知れわたっ(215)た経験ではあるが、しかしそこから種々の生理学的現象を説明し、ひいては民族の特性やその精神的活動の特性を結論するというごときことは、到底許されない。かかる方法によって人間の精神の風土学に達するには、我々は|今のところあまりに物を知らなさ過ぎる〔付ごま圏点〕。そこでこの、自然科学的には到底克服され得ない因果関係の混沌を、その具体的な生きたままの姿において捕え、その構造契機としての風土の意義を捕えようとする方向が、歴史哲学者としてのヘルデルによって選び取られることになる。|生きた自然〔付ごま圏点〕の解釈がそれである。
このヘルデルの見当はまことに正しいと言ってよい。しかし彼はそれを自然科学的方法に対する精神科学的方法の相違として把捉したわけではなかった。従って彼は己れの用うる「自然」の概念が自然科学の対象としての自然と異なることを力説しながら、その区別を徹底させることができなかったのである。だから彼によれば、自然の生ける神秘は、自然科学的な認識によって明らかにされ得るものなのである。ただ我々の認識がいまだそこまで達していないゆえに、未来に徐々に認識され得るであろうところのものを、今は直覚的方法によって解釈するのである。かかる考えによって彼は結局自然科学の対象たる自然に解釈の方法を適用するごとき誤謬に陥った。たとえば「空気」は、寒さ暑さによって我々に影響するのみならず、また我々に知られざる種々の力の貯蔵所である。空気中には電流が流れている。しかし我々の体がそれといかに関係するかをまだ我々は知らない。我々は空気を吸って生きている。が、我々はその中にある生命の糧が何であるかをいまだ知らない。ある地方の空気は種々の病毒を持ち、他の地方の空気は健康をもたらす力を持つ。しかし我々はそれが何のゆえであるかを知らぬ。等々。しかもこの知られない一切の力が空気中に存し、そうして|生きている〔付ごま圏点〕。それが|空気の秘密〔付ごま圏点〕である。かくて空気は、その秘密のいまだ認識せられない「生けるもの」として、その生ける資格において取り扱われる。この際彼は、彼のいう所の秘密がいかに発見されて(216)行っても、たとえば空気中の生命の糧は酸素であり、空気中の病毒と言われるものはマラリアの蚊の仕事であったというごときことが明らかにされて行っても、それが自然科学的立場での仕事である限り、人間の精神の風土学に寄与するものではないということ、従って空気を生けるものとして取り扱うというごときことが彼の本来の目標とは合致しないということを理解していなかったのである。しかし彼が自ら理解せずしてしかも実際に遂行した空気の取り扱い方は、空気が単に客体的な対象ではなくして、人間が己れの生をそこにおいて見いだすものにほかならぬことを示している。空気が生けるものとなったのは人間が空気において己れの生を見いだすからなのである。空気の秘密とは実は人間の生の秘密であった。
空気について言える事は、水、日光、土地の形・性質、その土地の動植物、産物、食料や飲料、生活の仕方、働き方、着物、娯楽の仕方、その他種々の文化的産物の一切について言うことができる。それらはすべての人間の生の開示として、「風土の絵」を形成する。風土はこれらの一切を含む日常生活の全体の姿から見いだされねばならぬ。「風土は、ある国土に根ざした民族においては、その風俗や生活の仕方の全体の姿において見いだされ得るところの、微妙な素質を作り出す。それは非常に表示し難い、特に一々離しては到底現わし得られぬものである。」(do.,TT,S.84.)
かかる見地からヘルデルは人間の精神の風土的な構造を明らかにしようとした。まず第一には、人の|感覚が風土的である〔付ごま圏点〕。人がその日常生活において出合うものの特性は、同時に感覚の特性になる。たとえば「味覚」について言うと、水が乏しく植物も少ない土地において、かかる環境から食物をもぎ取るというごとき烈しい生活をしている国民にあっては、食物はただ食欲を充たし饑えを脱れ得れば足るものとして、味を問わず種類を問わずただ貪り食われるがゆえに、味についての繊細な感覚のごときはほとんど発達しておらない。しかるに豊かな恵まれた地方において自(217)由に好むものを食し得る国民は、饑餓の脅威を受けないがゆえに、食欲において恬淡であり、また小食であり、同時に厳密に種類をえらぶ。いい油、いい匂い、いい味、色合いのよさ、というごときものが見いだされる。そこできわめて刺激的な食物を欲するとともにまた水の味をも味わい分けるというような繊細な味覚が発達する。同様に皮膚の「触覚」においても、ほとんど無感覚に近い国民から最も鋭敏に感ずる国民に至るまで風土的にさまざまの相違がある。「視覚」や「聴覚」も同様である。広漠たる平原や沙漠に生きる民族は、ヨーロッパ人が何物をも見得ないほど遠方の煙を見、物音を聞くことができる。明るい光の国土では視覚が繊細に発達し、暗い陰欝な国土では聴覚が鋭敏に発達する。そこでヘルデルはいう、「種々の地方や異なった生活の仕方における人の感覚を観察すればするほど、自然があらゆる所においていかに恵み深いかが見いだされる。ある官能が満足され得ないところでは、自然はそれを刺激せずして静かに眠らせておくのである。また自然が官能を開いたところでは、それを満足させる手段もともに与えられている。」(do.,TT,S.116.)
第二には、|想像力が風土的である〔付ごま圏点〕。すべての感性的民族はその国土において感受せるもののほかは表象や概念になし得ない。従って表象の仕方、把捉の仕方において風土的に限定せられている。それがさらに想像力を限定するのである。のみならず想像力は伝承の力に強く影響せられる。子供は言い伝えられた伝説を熱心に聞き、そこに彼らの現在見ているものが説明されたことを感ずる。この場合それぞれの民族の生活の仕方と精神とが力強く子供の心に浸み込むことは言うまでもない。羊飼いは漁夫と異なった眼で自然を見、異なった仕方で想像の世界を作り上げる。暑い国の人にはサンタ・クローズを作り上げることはできない。
第三には、|実践的な理解が風土的である〔付ごま圏点〕。それは生活の仕方の必要から生じ、民族の精神、伝承、習慣を反映する。(218)人々が果実を取り、獣を狩り、魚を捕え、家畜を養い、穀物を植えることによって生活する場合、彼らはこれらの物との交渉においてすでにそれらを理解しているのである。この理解がなければ彼らは餓えなくてはならぬ。ところでこの理解は、それぞれの相手に従って異なっている。同一の相手が風土的に異なるのみならず、いずれの物を相手とするかが風土的に決定せられているのである。そこで遊牧の民は家畜とともに生き、家畜からその実践的な理解を発展させる。そうしてその遊牧の生活そのものから自由の自覚を発生せしめる。それに対して農業の生活は、「我れのもの」「汝のもの」を発見させ、人々を土地に縛りつける。従ってこの生活からは自由は自覚せられない。そこに恐るべき専制主義と奴隷制との発展し来たるゆえんがある。
第四には、|感情や衝動が風土的である〔付ごま圏点〕。それらは人間生活の状態とその組織とによって規定せられている。特に重大なのは人と人とを結びつける愛情である。男女の婚期は風土によって異なっている。それは男女の愛をそれぞれに異なったものたらしめる。女の取り扱い方、特に女を享楽の手段とするかあるいは人格として尊重するかというごとき相違は、多く風土にもとづいている。古いドイツ人が女の美しい性質、怜悧、貞節、勇敢、信実などを認めたのはその一例である。友愛もまたその結合の仕方において風土的に異なっている。
最後に|幸福もまた風土的である〔付ごま圏点〕。幸福はヘルデルにとって特に重要な概念であるが、彼においては文明あるいは文化は必ずしも幸福を意味しない。ただ素朴な、健やかな生の歓びこそ、真の幸福なのである。「肉体の健康」「感覚の健やかな使用、生の現実に際しての溌剌とした理解、活発な想起・すばやき決断・よき結果などを伴なえる強き注意力」「我々の生を愛と喜びとによって充たす静かな感情」「これらによって、生ける者はその生を歓ぶのである。彼は|何のために〔付ごま圏点〕存在するかを問わない。彼の存在が彼には目的であり、目的はその存在そのものである。(do.,TT,S.163−(219)167.)ここにヘルデルは彼独特の人道(Humanita※[ウムラウトあり]t)の観念を明示する。人が何人をも支配せず、また何人にも支配せられず、自及び他に対して幸福であれと思う、それが人道である。かかる人道の見地よりすれば、上記のごとき健やかな存在の理解の代わりに種々の小面倒な学問や綱渡り的な技術を発達させることは、――あるいは静かな愛の感情の代わりに技巧的な意志規定を自覚することは、人々を毫も幸福たらしめず従って人道に寄与するところがない。「静かな喜びをもって妻子を慈《いつく》しみ、己れの部族に対しても己れの生に対してもただ控え目に働く、――そういう野蛮人の方が人類愛に興奮する人々よりも一層真実な人間だと思う。人類愛などと言っても、単なる名に過ぎない人類の影に有頂天になっているのであり、そういう愛に生きる人は現実の人ではなくて教養ある影(gebidete Schatte)なのである。」(do.,TT,S.170.)かかる見地からは国家もまた重大でない。大きい国家において一人の王冠をつけたばか者が栄えるために多数の者が餓え、圧抑され、殺されるというごとき状態よりも、国家なくしてすべての人が静かな生を楽しむ小さい団体の方が、はるかに人道に合する。「父と母、夫と妻、子供と兄弟、友だちと仲間――これが我々を幸福ならしめる自然の関係である。国家が我々に与え得るものは人為的な道具であるが、しかしそれは一層本質的なものを、すなわち我々自身を、奪い取ってしまう。」(do.,TT,S.172.)かかる立場からしてヘルデルは、|全世界を荒らし回っているヨーロッパ人〔付ごま圏点〕に警告する。ヨーロッパ人の「幸福」の観念をもって他の国土の住民の幸福を量ってはならない。ヨーロッパ人は幸福という点において決して最も進歩しているもの、あるいは模範となるべきものではない。ただヨーロッパ特有の一つの類型を示しているに過ぎないのである。世界の各地方には、人道の見地から見て決してヨーロッパに劣らない幸福が、それぞれの土地の姿において存している。すなわち幸福は風土的なのである。
ヘルデルの風土学の内容は大体右の通りである。彼はさらに進んで言語、芸術、学問の問題に立ち入って行くが、(220)しかしこれらの問題は風土的には取り扱わなかった。
以上によって明らかなように、ヘルデルの「精神の風土学」は、自然と精神とを区別しない自然の概念にもとづいて、個々の国民の価値個性を極端に力説したものである。ここに彼がドイツ観念論の歴史哲学に対峙して持つところの特殊な意義が存する。まず第一にはその解釈の方法である。彼はそれを方法的自覚においてよりもむしろその詩人哲学者としての警抜な才能にょって実現した。彼が歴史において求めたものは、人類のさまざまなる生の表現の直観である。特殊的なるものを生ける個別者たらしめるところの特性的なるもの、全然個性的な形成、――それらの生ける全体を把捉するのが彼の目標であった。第二には国民の個性の尊重である。彼にあっては国民は|それ自身の特殊性において〔付ごま圏点〕独自の意義を持ち、|人道の実現として完成せるものたり得るのである。だから個々の国民の姿をば、人類の究極目的への発展の単なる一過程として、ただ|前後継起の秩序〔付ごま圏点〕においてのみ見るのは、彼の極力排斥するところであった。それは|並在の秩序〔付ごま圏点〕において把捉せられなくてはならない。従って彼は、(一)弁証法的運動におけるごとく生起を主導的に見る立場に対して、静的な、美しい、生の「有の秩序」を見ようとする。(二)国民をその劇的動作において見る立場に対して、彫刻的に、あらゆる方向から状態的恒常的なものをその静的構造においてながめようとする。(三)究極目的の見地が国民の間に優劣を見、あるいは|特定の〔付ごま圏点〕国民を世界精神の意志の道具(すなわち選民)と見るに対して、個々の民族の個性を平等に尊重する。かくして国民は、その歴史的な業績においてよりも、特殊な唯一的な仕方で実現した特殊な生の価値において、すなわち国民性の実現としての生の価値において、世界史の対象とせられる。
かくのごときヘルデルの歴史哲学に対していち早くその弱点を指摘したのはカントであった。(Rezensionen von Herders ideen zur Philisophie der Geschichte der Manschheit,1785)これはまずヘルデルの方からカントに当たり散ら(221)したゆえでもある。カントはちょうど認識批判の仕事を終えて、倫理学への移り行きとして、歴史哲学の問題を考えていたところであった。この鋭い方法論者が昔の聴講生であったヘルデルに方法への反省を促したのである。まず前掲の第一の特徴に対しては、ヘルデルの方法論が|学的でない〔付ごま圏点〕ことを指摘する。「概念規定における論理的な正確や、原則の注意深い区別・保持ではなくして、一所に永く留まらない理解力に富んだ観察、アナロギーの発見に満足する敏感な智慧。しかもそれを用いる場合には、大胆な想像力が、わからない対象を感情や感受で受け取る巧みさと結びついて、働いているのである。」(WW.,Cass.Augs.,TX,S.179.)「表現を活気あらしめている詩人的精神が、時々著者の哲学に食い入って、同義語を説明に代わらせ、比喩を真理とする。哲学の領域からいつか詩の国に移行するゆえに、両者の限界や領分が全然乱されている。」(do.,S.195.)これは批判哲学者カントとしては誠にもっともな批判であるが、しかしヘルデルの取り扱おうとした世界がちょうどカントの見落とした対象界すなわち歴史的世界であったということも考えてみなくてはならぬ。カッシーラーも言っているように(]T,S.2459.)ヘルデルにはその|概念の欠乏〔付ごま圏点〕にもかかわらず大きい全体直観がある。だからこの詩人哲学者が直観より直接に概念へ、概念より直観へというふうに移行しているその考え方の内にも、カントに見られない具体的な理解は存しているのである。カント以後具体的な現実、個性的な現実の解決が問題となり来たるとともに、歴史的世界の理解の問題は方法論的にも頭を擡《もた》げざるを得なかった。その萌芽がここに見られるのである。
第二の特徴については、カントはちょうどここに己れの立場の相反者を見いだしたのであった。カントの歴史哲学は彼の目的論の体系に属するものであって、第二・第三批判において充分に基礎づけられるのであるが、しかし如上のヘルデル批判や少しくそれに先立つ歴史哲学的小論文(Idee Zu einer allgemeinen Geschichte in Weltbu※[ウムラウトあり]rgerlicher (222)Absicht,1784.Beantwortung der Frage : Was ist Aufkla※[ウムラウトあり]rung? 1784.)において、彼はそれまで動いていた「有」の領域から「当為」の領域へ移ったことを明らかに示している。彼によれば厳密な意味における「歴史」は、出来事の一定の系列をただその時問的な継起あるいは因果連関において把捉するに留まらず、それらを|内在的目的の観念的統一〔付ごま圏点〕に関係させる時初めて成立するのである。自然法別の妥当性は、所与の自然が法則を持つのでなく法則の概念が初めて自然を構成するという洞察によって示された。それと同じく「歴史」もまた、既定の事実や出来事があとから意味や目的を持ってくるのでなく、かかる意味目的を前提とすることにおいて初めて可能となるのである。ところで歴史は単なる出来事の系列ではなく、「行為」の系列において成立する。しかるに行為は「自由」の地盤において行なわれるのである。しからば|歴史哲学の原理は倫理学の内に求められるほかはない〔付ごま圏点〕。かかる立場においてカントは初めて「歴史」を見いだした。「人類の精神的歴史的な発展は、自由の思想の深化発達にほかならぬ。」自己解放の過程、自然的束縛から自律的意識への進展、それが出来事の真の意義である。かかる歴史観がようやく内に熟しつつあったカントは、ヘルデルにおける「並在の秩序」に対して「前後継起の秩序」を強調し、人間の状態の価値ではなくして究極目的に規定せられるその存在自身の価値、従って人類の不断の進歩を主張せざるを得なかった。これもまたきわめて当然の主張である。特にこの対立の背後にはカントの倫理的原理とヘルデルのそれとの対立がある。すなわち人間の全体的規定と幸福との対立が。この点においてヘルデルの幸福原理が到底カントに敵し得ないものであることは言うを要しない。彼が最も人道的な幸福として掲げるものはカントのいゎゆる人間性の原理なくしては不可能なものなのである。しかしながらかくカントの主張が正しいということは、直ちに並在の秩序の排斥を是認せしめるものではない。この排斥が必要なのは、人においてただ理性者としての本質をのみ見、その個性、性格、自然的素質よいうご(223)ときものをすべて偶然事として捨て去る彼の立場のゆえである。だから彼においては「人類の性格」とは人が理性者であるという最も普遍的な規定をさすのであって、個別者の特殊の個性を意味するのではない。ここがちょうどドイツ浪漫派の思想家たちのカントを離れた急所であった。しかしカント自身においても個性の捨離は幾何《いくばく》かの不斉合をもたらしていると考えられる。彼は「世界市民的見地における普遍史の構想」の中で言っている。「生物のあらゆる自然的素質は一度は充分に合目的的に発展すべきよう規定せられている」のであり、そうしてそれは「隠されたる自然の計画」によって導かれているのである。しからば並在する種々の国民の自然的素質の相違というごとき個性の問題も、何らか自然目的にもとづくものと考えざるを得ないではなかろうか。この書における自然目的が「摂理」あるいは「世界の創造主」を言い換えたものに過ぎぬことはしばしば論ぜられているところであるが、もしそうであるならば、神は何ゆえにさまざまの地方とさまざまの風土とさまざまの特殊民族とを作ったかが問われねばならぬ。彼は後にはかかる自然目的を摂理から引き離し、道徳的主体としての人の見地から与えられるところの「自然全体の合目的性」として意義づけたが、しかし前掲の『構想』においては、「自然」は人類に理性や自由意志を|与えた〔付ごま圏点〕ものであり、また人類がその動物的な有り方を超える一切の所行を全然自発的に行なうように|欲した〔付ごま圏点〕ものなのである。自然がかく|与え〔付ごま圏点〕また|欲する〔付ごま圏点〕ものであるならば、ある国民には道徳的努力を刺激するような環境を|与え〔付ごま圏点〕、他の国民には義務と傾向性とが調和しやすいような環境を|与える〔付ごま圏点〕ということも、単なる偶然とは考えられない。自然は風土的な相違を|欲し〔付ごま圏点〕、従ってそれによる個性の相違を|欲した〔付ごま圏点〕のである。言いかえれば人間の道が種々の形態において実現せられることを欲したのである。それならばヘルデルのいわゆる「並在の秩序」もまた自然の目的として承認せられなくてはならないであろう。風土的特性と人類史の使命とは離して考えることができぬのである。
(224) 三 ヘーゲルの風土哲学
カントの道徳的史観は「出来事」の深き意義を指示したものとしてドイツ観念論に強い影響を与えたものであるが、しかしヘルデルの力説した「並在の秩序」もまた、種々な形に生き残って、全然消え去りはしなかった。フィヒテにおいては|国民の個性〔付ごま圏点〕の力説として、シェリングにおいては|生ける自然〔付ごま圏点〕や|価値の完成〔付ごま圏点〕の主張として、さらにヘーゲルにおいては精神の現われであるところの自然の特殊性が民族の文化的形成に貢献することの承認として、それぞれこの間題への関係を保っている。
フィヒテはその歴史観の根柢においてはカントを継承する人である。彼においても歴史の究極目的は理性の自由にほかならない。しかしカントが価値の普遍性をのみ重んじ、特殊をその事例としか見ないのに対して、フィヒテは、理論的に根拠づける事のできない、ただ直接の感じによってのみ知られるような、個々の価値個性を力説するに至った。価値全体性としての全体者は、ただ個々の価値個性において、またそれを通じてのみ現われるのである。国民はまさにかかる価値個性として、個人をその成員とする全体者であるとともに、またそれ自身人類としての全体者の一成員である。カントにおいては個人は孤立せる一見本として抽象的普遍に対立したが、ここでは個人の上に「真に現実的な全体個性、真の具体的普遍」が見いだされた。フィヒテが『ドイツ国民に告ぐ』(Reden an die deutsche Nation)において力説したのは、このような国民の個性なのである。「|精神的自然〔付ごま圏点〕は、人類の本質をばただ極度に多様な度合いにおいて、個別者に、また全体的な個別性に、すなわち種々の民族に、現わすのである。……この国民の特性は、己れの眼には見えないものであるが、しかしそれによって国民が根源的な生の源泉と絡《つな》がるのであって、そこにのみ(225)国民の現在及び将来の品位、徳、業績が保証せられる。もしこの特性が混合や摩擦によって鈍らされるならば、その国民は|精神的自然〔付ごま圏点〕から離れて行くのである。」(Lask,Ges.Schr.,T,S.266)すなわち国民の生命はその特性である。国民は神的なるものの自己開展における|ある特殊な法則の下に〔付ごま圏点〕立っている。この特殊な法則をともにすることが、永遠の世界において、従ってまた時間的な世界において、人間の群れを一つの|自然的な〔付ごま圏点〕緊密な全体に結合させる。またこの根源的なものの発展の法則が、一つの民族の国民性と呼ばるるものを徹頭徹尾規定するのである。(Fichte,Schriften,XTT,S.381.)かかる法則は、それがあるということはわかるが、しかしその下に立っている個人には決して|概念的に明らかにされ得るものでない〔付ごま圏点〕。国民あるいは民族がその統一を|自覚〔付ごま圏点〕するのは「歴史」によってである。共同の行動や苦悩、すなわち、支配者、土地、戦争、勝利、敗北等を共同にすること、それが人間の群れを民族として自覚させる。しかしこれなき場合にも、ドイツ民族のごとく、|形而上的存在〔付ごま圏点〕の力によって民族の統一の概念を保ったものもある。これはドイツの国民性の著しい特徴とせられている。しからば民族の特性は|超歴史的の意義〔付ごま圏点〕を持つことになるであろう。それは歴史的展開の内に具体化せられるが、しかしそれ自身の根拠を|形而上的な精神的自然〔付ごま圏点〕の内に有しているのである。フィヒテ自身はこれを風土として理解していないが、しかし我々の風土の問題はまさに形而上的な精神的自然の内に、従っで彼自身のいわゆる「神的なるものの特殊法則」として、存するのである。
シェリングにおいては、彼を超越論哲学から引き離して直接の直観へ導いたのは、価値個性ではなくしてまさに|自然〔付ごま圏点〕であった。カントの第三批判における自然と自由との統一から出発した彼は、「生産せられたもの」としての自然ではなくして「生産性」としての自然を見いだしたのである。自然を客観として生産するフィヒテの自我が、今やこの生ける自然に移され、|主体としての自然〔付ごま圏点〕になる。従って自然は精神なのである。合目的者においては形式と実質、概(226)念と直観とは融け合ってしまう。これこそ観念的なるものと実在的なるものとが絶対的に合一するところの精神の性格である。だからあらゆる有機体には何らか象徴的なものがある。あらゆる植物はいわば心霊の込み入った姿である。我々の眼前に日常起こっていることは、明らかに自然の生産力が合目的的に形成しつつあることを示している。「生」とはこの「現象における自律」である。通例の自然の見方においては、個々の分離した物的要素が機械的に結合されて一つの体系をなすと考えられるが、しかしこのような自然は全然|人工的〔付ごま圏点〕なものであって実在的なものではない。真の現実は「生」であり「生産性」である。それは直接の直観において、すなわち生自身の内的統一において、明らかにされる。「我々」が自然を知るのではなくして、「自然」の方が先なのである。自然の内にある個々のものは|すでにあらかじめ〔付ごま圏点〕全体者によって、すなわち自然一般の|理念〔付ごま圏点〕によって、規定せられている。この理念は課題、要求というごときものではない。それ|創造的な力、形成の原理〔付ごま圏点〕であって、|生自身において己れを現わす〔付ごま圏点〕。人が物を分別し反省して認識する以前に彼自身の自然を|了解〔付ごま圏点〕しているのは、彼が自然と同一だからである。このような了解は、純粋直観あるいは創造的想像力がすでに古くより発明しているところの|象徴的言語〔付ごま圏点〕において、明らかに示されている。我々が|自然を反省的に考える度を少なくすればするほど、自然は一層わかりよく我々に話してくれる〔付ごま圏点〕。このような「生ける自然」の概念は、ヘルデルのそれにはなはだ近いと言ってよいであろう。たといシェリングの主たる関心が、かかる自然における生の段階系列を自由への徐々たる近寄りとして前後継起の秩序において見るにあったとしても、なお彼がヘルデルの流れを汲んでかかる生の形成に「芸術的な完成」を認めたこと、すなわち一切の有をただ自由への進歩の通路として暫定的なものとのみ見ず、完成せるものがいかなる時にも出現し得ることを認めた点において、並在の秩序への若干のつながりを示しているように思われる。もしこの自然哲学を前述の価値の問題と結合したならば、そこ(227)にヘルデルの「精神の風土学」を新しく押し進める道が開けるであろう。
ヘーゲルはまさにこの結合を示しているのである。たといそれがある程度のことに過ぎなかったとしても。
若きころのヘーゲルの主たる関心は「歴史」であった。そうしてそのころの民族宗教に関する論文のごときは、明らかにヘルデルの精神において書かれている。(Noh1,Hegels theologische Jugendschriften,S.3 ff.; Dilthey,Schriften,TX,S.28 ff.)が、やがて彼の側では彼よりも若いシェリングの華やかな仕事が始まる。悟性的な範疇に反抗して直観の権利を主張し、物理的世界を精神的なるものの現われとして説くのである。この影響の下にヘーゲルの神秘的汎神論とも呼ばるべき根本思想が成立した。二人の交際は体系形成の時期において一層意味深いものになる。「自然」から出発したシェリングと「歴史」から出発したヘーゲルとは、世界全体性の認識という一点において出合い、相ともに助けて知的直観の体系を形成したのである。このような歴史的背景を持つヘーゲルの歴史哲学が、「発展」を中心思想としながらも自然規定性を軽視しなかったのは、当然の事と言ってよい。
ヘーゲルの体系は彼自身の探求の旅を反映している。初め歴史的現実から出発した彼は、この現実の根柢に存する理法へと迫って行った。そうしてそれが把捉せられた時に、これを抽象的一般的な論理として仕上げた。そこで次にはかかる論理が自然や歴史を通じていかに己れを実現して行くかの段階をたどることになる。「エンチュクロペディー」における体系がそれである。従って彼の論理学が「思惟の根本形式」を示すとともにまた「現実の構造」を――すなわち絶対的精神が己れを有限性の内に実現する規定の連関を――示しているとせられるのも、ゆえなきことではない。歴史的現実としての己れを|展開し来たる〔付ごま圏点〕論理は、もと歴史的現実の理法として|見いだされた〔付ごま圏点〕ものだったのである。しかしもしこの体系的連関を無視して単に思惟の根本形式に過ぎない論理学が、すなわち絶対的理念に朝宗する(228)ところの観念の体系が、それ自身の規定に従って、まず他者として自然になり、さらに己れに還って精神となると考えるならば、論理的関係そのものがすでに自然や精神における|個性化〔付ごま圏点〕への進行を含まなくてはならなくなる。思惟が現実を産み出すというふうに解せられるのは、右のごとき考えにもとづくのである。我々はヘーゲルの考えがそうであったとは思わぬ。ヘーゲルにおける「精神」は、観念として己れを自覚するとともにまた己れを客体化して自然となり、さらにこの自然において己れを実現しつつ文化を形成して行くような、|主体的なるもの〔付ごま圏点〕である。だから思惟や観念も精神には違いないが、それだけが精神なのではない。物質もまた精神なのである。論理はこのような精神の働き方なのであって、単なる思惟形式ではない。かかる意味において論理は精神の働きであるところの現実の構造を示すのである。
ヘーゲルの歴史哲学は右のごとき体系において一定の場所を占めている。すなわち精神の発展の第三段階たる精神哲学の中の、さらに第二段階としての客観的精神の内で、その第三段階たる人倫の中のさらに第三段階なのである。歴史は彼においても「自由への発展」にほかならぬが、しかしそれは同時に「精神の自覚」であり、そうしてこの自覚は|外面性における実現〔付ごま圏点〕という契機を欠くことができない。だから歴史はそれ自身すでに幾層もの外面化とその克服とを含んでいるのである。絶対的理念を頂上とする概念が、「自然」において己れの完全な外的客観性を持った後に、この自己外化を止揚して己れ自身に還った時、それは精神と呼ばれる。しかるに精神の本性は自己示現、自己啓示である。そうしてこの自己啓示は精神の客観性の定立すなわち|自然を彼の世界として〔付ごま圏点〕定立することにほかならない。だから精神の第一段階たる主観的精神のさらに第一段階たる「心」は、まず第一に直接の自然規定性において現われるのである。すなわちそれは、その全体性において「地理的な部分世界」の自然を表現し、従って人種の相違を形作る(229)ところの、|特殊な自然精神〔付ごま圏点〕として、分かれて現われている。この相違は自然の「偶然性」の中に入り込み地方精神とも呼ぶべき特殊者になる。そうして諸民族の外面的な生活の仕方、働き方、体格、素質、さらに内面的な知的及び倫理的の傾向、性能、などの内に現われる。このような地方的精神を直接態として、そこから主観的精神の論理的発展が説かれるのである。(Encyklopadie,§299−§312.)
同様に客観的精神の第三段階たる人倫的精神においても、人倫的精神それ自身は|個々の特殊な民族において〔付ごま圏点〕その現実性を持っている。個々の民族の全体性は直接的な自然性を現わす。それが|地理的及び風土的規定〔付ごま圏点〕である。かく規定された民族はそれぞれの精神生活の特殊な発展段階において存在し、その段階の中でのみ己れを把捉する。そこで人倫的精神が、「並在」及び「前後継起」の秩序における一定の規定の下に、個々の個体として自己を現わしたもの、それが民族だということになる。言い換えればそれは「特殊な民族としての精神」なのである。このような特定の民族精神はその|特殊原理〔付ごま圏点〕に規定された彼自身の現実の発展、すなわち「歴史」を持つのであるが、しかしそれは|限定された〔付ごま圏点〕精神であるというまさにその理由によって、普遍的な世界史に移って行く。そうして世界史においての、すなわち精神が世界精神になって行く所行においての、さらに言い換えれば人倫的実体が個々の民族としての特殊性から己れを解放する運動においての、|一つ〔付ごま圏点〕の契機、段階となるのである。(do.,§442−§449.)
かくのごとく精神は、その特殊性においてあるがゆえに個々の民族として現実的なのであり、この現実的な民族精神を契機とするがゆえに精神の発展があり得るのである。しからばこの|特殊性〔付ごま圏点〕は、精神の発展において克服さるべきものであるとともに、またその発展を可能にするものでなくてはならない。その意味においてこの特殊性は必須のものである。さらにそれが地理的風土的に規定せられているとすれば、この規定性もまた必須のものでなくてはならな(230)い。しからば民族精神の内に止揚せられた契機として含まれている地方的精神もまた「偶然的」ではなくて「必然的」でなくてはならぬであろう。そこでもし「心」の風土的規定性が「必然的」として認められるということになれば、エンチュタロペディ一における精神現象学は風土的な色彩を帯びなくてはならなかったのである。
ヘーゲルの『歴史哲学』の序論に含まれている「世界史の地理的根柢」(Geographische Grundlage der Weltgeschichte)は、よほどそれに近いことを言っている。「人倫的全体(すなわち人倫的精神)の普遍性、あるいはその個々の行為する個性から見るならば、民族精神の自然連関は確かに外面的である。しかしこの自然連関は精神がそれにおいて動くところの地盤と見られなくてはならない。従って|本質必然的に根柢〔付ごま圏点〕をなすのである。精神の理念は、|現実的に存在する民族〔付ごま圏点〕としてのさまざまな外的な姿において、世界史の内に現実に現われる。この現実的な存在の側面は、自然物の有と同じく、|時間の内にあるとともに空間の内にある〔付ごま圏点〕のである。世界史的な民族が背負っている「特殊原理」は、同時に|自然規定性として〔付ごま圏点〕彼自身の内にある。かかる自然性の姿に己れを現わすところの精神は、その特殊な姿を|別々に〔付ごま圏点〕(auseinander)並べている。なぜなら個別は自然性の形式であるから。このような|自然の相違〔付ごま圏点〕は、|精神が己れを展開する特殊な可能性〔付ごま圏点〕と見らるべきものであってそこに地理的根柢を与えるのである。我々が念とするのは、土地をば「外面的な地方」として知ることではなく、かかる土地の子としての民族の性格循・類型と精密に連関せる「地方の自然型」(Naturtypus der Lokalita※[ウムラウトあり]t)を知ることである。|民族の性格〔付ごま圏点〕はまさしくその民族が世界史に歩み入りそこで地位を得るその仕方にほかならない。」(WW.,T],S.98f.)ここに我々は「精神の風土学」の立派なプログラムを見いだすと言えないであろうか。「精神が己れを展開する特殊な可能性」としての「自然の相違」は、もはや決して「偶然性」ではない。民族の性格がその地方の自然類型と連關しつつ同時にその民族の世界史における|働き方〔付ごま圏点〕を決定するとすれば、(231)自然類型の意義はまさに本質必然的である。もちろんヘーゲルが上記の文のすぐあとで言ったように、「柔らかいイオニアの空はホメーロスの詩の優美さに多くを寄与したが、しかしそれのみではホメーロスを産み出すことはできぬ。」しかし精神がこの芸術を産み出したときに、この芸術にあのような特殊な姿を与えたのは、自然類型なのである。ヘーゲルもその点は明白に認めている。|自然は人間の一切の自己解放の運動の最初の立脚点として、その文化産物の特殊性を規定する〔付ごま圏点〕。自然があまりに優勢である時には、かかる自然として己れを外化している精神をして、己れに還らしめないことさえもできるのである。(do.,S.121.)
かかる見地からしてヘーゲルは、三つの自然類型を分けて、それを世界史の考察において常に働かせている。(一)広い草原や平地を持った水のない高原。(二)大河の貫流し灌漑する河谷の平野。移り行きの国土。(三)海と直接に関係する海岸の国土。(一)の高原においては遊牧の生活と族長政治とがあり、時に文化世界に対して強い刺激を与えるが、それ自身においては発展し得ない。(二)の平野には農業と大国家とが発達し、文化の中心地になる。所有、君主と奴僕の関係、などが著しい。(三)の海岸国土は、世界の連関を現わすようにできている。海ほどよく結びつけるものはない。そこで商業が発達する。が、また海は非規定的なもの、非限局的なもの、無限なもの、などの表象を与える。そこでそれを己れの内に感ずる人々は、限定を超えて外へ延び行く勇気を育て上げる。征服欲冒険欲が湧き上がってくる。とともに市民の自由が自覚されるのである。
歴史は(一)の高原において始まり、(二)の平野において普遍的なるものへの反省に醒め、(三)の海岸においてこの反省を発展せしめる。アジアには(一)の高原と(二)の平野とが結合して存し、ヨーロッパには(三)の海岸及び(一)(二)の融合して移り行きの温和な自然となったものが存する。地中海のギリシア、イタリア等は(三)であり、中欧北(232)欧は高原と河谷というごとき顕著な対立を有せざる、両者の中間である。そこで歴史の始まりや普遍者への反省の開始は、東洋においてのみ見られるのであり、西洋はただそれの発展をのみ引き受けたことになる。だから世界史は太陽の運行と同じく東から始まって西に終わると言われている。すなわち東洋ではただ|一人の人〔付ごま圏点〕が自由であることを知るのみであるが、ギリシア、ローマの世界では|若干の人々〔付ごま圏点〕が自覚し、ゲルマンの世界に至って|すべての人〔付ごま圏点〕が自由を自覚する。これがヘーゲルの世界史の根本思想なのである。
ヘーゲルの世界史が内容的に言ってもはや用うべからざるものであることは何人も異論のないところであろう。世界歴史の研究は彼の没後一世紀の間に迅速な発達を示しているからである。特に東洋のことに関しては彼の時代の欧州人ははなはだしく無知であった。それは何よりもよく彼自身のシナやインドに関する記述を見ればわかる。だから上記のごとき世界歴史の見方は、そのままではもはや何の意味もない。しかしながら彼が、世界史をあくまでも欧州文化の歴史と見る立場に立ちながら、しかも欧州以外に眼を放ってその自然類型を考えなくてはならなかったところに、我々は充分の意義を見いだし得るのである。もし彼にしてシナ文化やインド文化の充分な意義を理解し得るような時代にあったならば、彼はこれらの文化の地理的根柢についてさらに深く考えねばならなかったであろうし、またそこに取り出される自然類型の意義をもさらに深く反省しなくてはならなかったであろう。従って彼の掲げた自然類型を此較的効果薄きものたらしめたのは、世界史に対する彼の眼界の狭小のゆえであって、自然類型の意義が少ないからではない。彼は理論的には地理的根柢の意義を強く把捉していたが、しかしそれを現実によって充分に充実することができなかったのである。我々はヘーゲルのごとく欧州人を「選民」とする世界史を是認することができない。欧州人以外の諸国民を奴隷視するのはすべての人の自由の実現ではない。世界史は風土的に異なる諸国民にそれぞれ(233)その場所を与え得なくてはならない。
四 ヘーゲル以後の風土学
ヘーゲル以後においてまず注目すべきはマルクスである。マルクスはヘーゲルにおける形而上学的目的論的な形式を全然捨て去って、ただ論理学的合理的な形式をのみ受けついだと言われている。言い換えれば方法を、弁証法を、ヘーゲルから得たのである。だからヘーゲルの精神哲学、特にその一部分たる歴史哲学はマルクスによって捨てられたものに属する。ヘーゲルにおいて「精神」が占めていた位置は、今や「物質的生産過程」あるいは「社会的生活過程」というごとき経済過程によって占められる。ヘーゲルにおいて精神の自己外化であった「自然」は、今や精神から切り離され、自然科学的対象としての自然に変容されてしまう。にもかかわらず、ヘーゲルの弁証法がその形而上学的な性格のゆえに持っていた魔力は決して捨てられてはいない。ヘーゲルはそれを最初歴史的現実の理法として見いだしたのであるが、マルクスの物質はまさにこの理法にもとづくところの物質なのであって、単なる自然科学的物質ではないのである。だからそれは精神から切り離されながらしかも精神が与えたところの活力を保持している。言い換えればそれは浪漫派の衣裳を自然科学の衣裳に脱ぎかえただけの「生ける自然」なのである。この点に注目すれば、マルクスがヘーゲルの「ブルジョア社会」の概念をそのまま取って用いているゆえんも容易に理解せられるであろう。
このマルクスの風土に関する見解は、彼の「国民」に関する諸論文(Neue Rheinische Zeitung,1848−49.)に見られる。彼は国民を定義して、土地、気候、種族等の特定の自然基底の上に、歴史的伝承、言語、性格の特徴、などを同(234)じくしつつ、歴史的社会的発展過程によって生じた大衆的形成体であるとする。ここに明白に|自然基底〔付ごま圏点〕と|歴史的社会的発展〔付ごま圏点〕との二つの契機を認め、物質的生産過程が人間と自然との共働として自然に規定せられること、従って生産の仕方が地理的空間の自然的条件に依存することを承認している。しかしながらこの自然は、人間存在から引き離された時には、何ら歴史的発展に関与することなきものである。ただそれが労働力及び技術と結合して経済過程の一要素となった時にのみ、それは史的発展に参与する。たとえば豊沃な風土はその豊かな天産物のゆえに貧痩な風土よりも多くの人口を養うであろう。しかし農業への発展はこの自然の条件が引き起こすのではなく、人間が農業を発明習得した時にのみ起こるのである。従って豊沃な風土は技術的能力と結びついた時に初めてその特殊の影響を歴史に与える。かく見ればここに自然基底と言われるものが、人間の経済的存在の一契機にほかならぬことは明らかであろう。風土はかかる意味において物質的生産過程を規定するのである。
しかしマルクスは考える。生産の仕方の進歩は漸次右のごとき風土的規定を脱して来た。資本主義産業に至ってはどこでも同じ形態であって、地方的限局はほとんどなくなる。そこで現代において重大なのは歴史的社会的発展のみである。この考えはしばしば無批判的に信奉せられているが、しかし同じ機械を使っていればどこでも産業は同じであると考えるのは、機械も手工具も同様に道具であると考えるのと少しも変わりがない。それは誤謬であるとは言えないであろうが、しかしいささかも具体的な事態を理解させない。近代産業において、紡績業は何ゆえに特に英国において栄えたか。紡績には一定の湿度が必要であり、そうしてそれがちょうど英国の風土において見いだされるからである。日本が明治以後あらゆる近代産業を学び取ろうとした時、何ゆえに特に紡績業のみが長足の進歩をしたか。日本の湿度がよき条件だったからである。では何ゆえに綿の産地でありまた湿気を有するインドにおいて旺盛な発達(235)を見ないか。インドにおける気温と湿気との結合が人体に堪え難いものだからである。しかしそれならば英国の紡績業と日本の紡績業とはいかなる風土的相違を持つであろうか。日本の湿気が英国のそれよりも烈しいということであろうか。それもあるかも知れぬ。しかし最も重大なのは社会の風土的特性としての家族生活の特殊形態である。日本の紡績職工は年ごろの娘によって形成せられている。それは家庭から出て来て、数年間働いて、また家庭へ帰って行く。この流れをちょっとせき止めさえすれば、任意に何パーセントかの職工を減ずることができる。またこの不断の流動は、賃金を高給にまで押し上げることがない。これを英国の紡績職工に比すれば、全然別物であることがわかるであろう。後者は幾人もの家族を養う大の男が、長年の勤務によって熟練職工として高給を取っているのである。それらは容易に解雇することのできない、また能率を高めることを欲しない、強い力として経営者に対立する。しかもその能率は日本の小娘の半ばにも及ばないのである。かかる事態の下に紡績業は日本も英国も変わりがないなどと言えば、それは大嘘になるであろう。
我々はなお他のあらゆる近代産業の部門にわたって社会の風土的な特殊形態がいかに特異な性格を作り出すかを数え上げることができる。物質的生産過程における風土的規定は決して弱まってはいないのである。が、問題はそれに尽きない。なぜなら風土的規定の働く場所は物質的生産過程にのみ留まらないからである。風土的規定は人間存在の構造に属するがゆえにまた人間存在の全面にわたって働いている。それは階級の対立が激化したからといって消滅するようなものではない。日本が地理的に特殊な位置を持っているという単純な事実でさえも、対立せる両階叔(?)に同一の烙印を押している。ブルジョアがアメリカを鵜呑みにすると全然同様にプロレタリアはロシアを鵜呑みにする。遠い離れたものを美化して見るという点において両者は共通であり、その点においてヨーロッパの諸国民の有せざる(236)性格を共同的に持っているのである。同様に日本人の著しい敏感性、テンポの早い感情の動き、陰気さを印象する疲労性、などの特徴も、季節の移り変わりの烈しい日本の風土の表現であって、階級の別には関せない。これらのことは物質的生産過程にのみ着目する立場からは解くことができないであろう。
しかしマルクス自身は自然基底に規定せられた国民的存在の深い根を知っていたように見える。なぜなら彼は、プロレタリアが政治的支配を獲得した後には、己れを|国民的階級に高め〔付ごま圏点〕、己れを|国民に構成しなくてはならぬ〔付ごま圏点〕と言っているからである。同じ経済的境遇がプロレタリアからその国民的特性を洗い落としてしまったのであるなら、右のごとき言葉は全然無意義である。現在「国民」と呼ばれているものはブルジョアの独占であってプロレタリアを参与させぬ、ということと、プロレタリア自身にも国民的特性が存するということとは、同視せられてはならない。マルクスはその戦術上の必要から前者を主張しつつ、内実は後者を承認していたのである。だからこそ、プロレタリア全体が国民を構成したとき、|国民は真に国民になる〔付ごま圏点〕、などと説き得たのである。しかし何ゆえにプロレタリアが国民を構成しなくてはならぬか。彼の答えは恐らく最初に掲げた国民の定義の外に出ないであろう。すなわち、答えは自然基底と社会的歴史的発展との二つの契機のほかにない。
マルクスについで注目すべきは、ヘルデルの考え方を大成して人文地理学を作り上げたと言われるラッツェル(Fr.Ratzel)である。その主要な著書は、
Anthropogeographie,4882−91,2 Bde.;Bd.T in 2.Aufl.1899.
Vo※[ウムラウトあり]lkerkunde,1886−88,3 Bde.; 2.Aufl.1894,2 Bde.
Politische Geographie,1807 2 Aufl.1902
(237) Die Erde und das Leben,eine vergleichende Erdkunde,1901−2.
などであるが、これらを特徴づけているのは地理学を人間生活に密接に結びつけるという努力である。彼は国家とその領土との間の関係を追求して、この両者の関係が本来認められていたものよりもはるかに深いことを見いだした。従って国家はその発展のあらゆる段階において自然有機体と見られねばならぬ。もっとも単なる有機体としては不完全な状態に過ぎないのであって、より高い段階に至ればむしろすでに精神的人倫的なものに化しているのであるが、しかし重大なことは国家がまず第一に|領土及びそれに属する民衆の国家的組織〔付ごま圏点〕であるという点である。「国家は人類の一片であるとともにまた組織せられた土地の一片である。」(Politische GeOgraphie,S.4.)このような考えの基礎理論としては、『生の空間』(Der Lebensraum,1901.)を取るべきであろう。この書において彼は生物学的なる「生」と地球空間との連関を論じ、空間が単に一様の広がりというごときものではなくしてまさに生の空間であることを明らかにする。人々は生の転変には着目するが、その生の依存せる大地の転変を忘れている。しかし地球の表面は絶えず変わっているのである。たとえば気候帯、陸と海などの情勢は常に変化する。ところでこの変化は生と関係なき空間的変化というごときものではない。それは生の根柢、生の条件の変化である。すなわち|生の空間〔付ごま圏点〕の変化である。一様の広がりとしての空間には変わりはないとしても、空間の|内的性質〔付ごま圏点〕は著しく変わってくる。その変化とともに新しい生の形式が生起する。かかる変化の内の最も重要なものは|陸と永との連関〔付ごま圏点〕である。すなわち湿潤、乾煉等の転変である。湿潤から生が生じ、乾燥は生を殺す。しかも我々の見渡し得る時間の範囲内において、地球が一様に水に覆われていたなどと考え得る理由は一つもない。いつも陸と水があり、その連関が変わっているのである。ところで「生」の特徴は運動であり、運動は|空間征服〔付ごま圏点〕である。樫が双葉を出す。それは空間的にひろがることにほかならぬ。さらに双葉(238)は幾抱えもある大木に成長して行く。それは空間征服である。あらゆる生物の生はかくして発展して行く。嬰児は乳を求めて母の方へ動く、すなわち母の占める近接空間を獲得する。衣食住の活動はすべて空間征服である。かくして生物はすべて空間と結合せられているが、そのゆえにまた逆に空間が生に働きかける。生の空間は無数の特殊な、大小の、生の空間に分かたれている。そうしてそれに応じてそれぞれの生の形式が生起する。このような「生の空間」を考えたところにラッツェルの最も鋭い洞察が見られるであろう。しかし上述の概観によっても明らかなように、彼の取り扱う「生」はあくまでも生物学的な生であって、主体的な生ではない。また地理学者たる彼に主体的な生を問題とせよというのは無理でもあろう。しかし彼が深い意義を認めているヘルデルの要求には、主体的な生への促迫が含まれていたのである。そこでもし主体的な生の立場から「生の空間」を問題とすればどうなるか。それは生ける空間、主体的な空間となるほかはないであろう。我々の求めるのはちょうどそれなのである。ラッツェルの生の空間は我々をこの本来の問題の入り口まで連れて行く。
ではラッツェルのあとにこの入り口を通り抜けた人はないであろうか。そこで問題となるのはスウェーデンの国家学者ルドルフ・チェルレン(Rudolf Kjelle※[記号あり]n)である。彼は『生の形式としての国家』(Der Staat als Lebensform,1924.)において、ラッツェルの仕事を引きついでいる。彼によれば国家は個人と同じく「|感性的〔付ごま圏点〕、理性的なるもの」である。単なる法の主体ではなくして、生ける有機体、超個人的な生物である。それを彼は「国土及び民族」(Reieh und Volk)として把捉する。国土としての国家を論ずるのが国土学(Geopolitik)であり、民族としての国家を論ずるのが民族国家学(Ethnopolitik)である。国土学は国家を地理的有機体として取り扱う。国土は国家の身体である。従って国家には地理的な個性がある。もちろん国家が逆に国土に影響することはるが、しかし国土なき国家はあり得(239)ない。ちょうど個人において身体の危害を加えることは、その人の所有物を害うことではなくしてその人自身を、その人格を、害うことであるように、領土に危害を加えることは国家そのものに危害を加えることにほかならぬ。|国土は国家の人格に属する〔付ごま圏点〕。このような考えは国土の主体性について一歩を進めているごとく見えるであろう。しかし彼は決してラッツェルの立場を離れてはいないのである。国家を生物学的な有機体と考えることがすでにそれを明示している。ここでも我々は国家の人格に属する国土の主体性をさらに明らかに把捉すべき拍車を感ずるのである。
しかしチェルレンが現実において拍車をかけたのは国土学(Geopolitik)の運動であった。一九二八年『国土学雑誌』(Zeitschrift fu※[ウムラウトあり]r Geopolitik)が創設せられたときの宣言はこの運動の傾向を明らかに示している。「国土学は政治的過程が大地に縛られていることの学である。それは地理学の広汎な根柢、特に政治的空間有機体とその構造の学としての政治的地理学の根柢に立脚する。……国土学は政治的行動に武器を与え、国家生活において指導者たろうとする。従ってそれは実際政策を具体的に指導し得る技術論になる。……国土学は国家の地理的良心たらんと欲し、またたらねばならぬ。」これによっても明らかなように、Geopolitik は国土学であるよりもむしろ「領土政策」、びいては殖民政策に近いのである。我々の風土学はそこから多くを期待することはできない。
国土学的な傾向を有する学者としてあげられているのは、ドイツでは地理学者 Karl Haushofer,Erieh Obst,Otto Maull,Richard Hennig,Hermann Lautensach.歴史家 Walter Vogel.政治学者 Artur Dix.フランスでは Vidal de la Blache,Pinon,Brunhe※[記号あり]s,Vallaux.英国では Mackinder,James Fairgrieve などである。
なお最後に|風土の心理学的研究〔付ごま圏点〕としてヘルパッハの著をあげておくべきであろう。
Willy Hellpach,Die Geographische Erscheinungen,Wetter und Klima,Boden und Landschaft in ihren Ein(240)fluss auf das Seelenleben,1923.
この書は自然科学的心理学の立場から、天候、気候、土地、景観というごとき「自然現象」の意義を明らかにし、それと心生活との因果関係を明らかにしようと試みたものである。それはその立場の研究としては興味深いものであるが、しかし立場そのものはこの論文の初頭にあげたヒッポクラテスと同様である。それが具体的な風土現象に対して持つ関係は、一般に自然科学的心理学が具体的な人間生活に対して持つ関係と等しい。 (昭和三年十一月ー四年一月)
自分は地理学のことにはきわめて暗く、前文を草した当時、フランスの人文地理学がいかに躍進的な発展を遂げていたかを少しも知らなかった。前文末尾に、国土学的な傾向を有する学者の一人としてく Vidal de la Blache の名をあげたのは、Richard Hennig,Geopolitik,1928 に拠ったのである。しかるにそれよりも六年前にすでにこのヴィダル・ドゥ・ラ・ブラーシュの Principes de Ge※[記号あり]ographie Humaine が出版されていた。また同じ年には Lucien Febvre の La Terre et l'E※[記号あり]volution Humaine も刊行され、ラッツェルの方法に対するきわめて鋭利な批判とともに、人文地理学の向かうべき正しい道が指示されていた。もし当時自分がそれらの書に親しむことができたのであったら、風土学の歴史的考察はよほど違ったものになったろうと思われる。
その後これらの書は飯塚浩二氏の努力によって日本語に移され、岩波文庫として出版された。
ブラーシュ著飯塚浩二訳『人文地理学原理』上下二巻、昭和十五年。
フェーブル著飯塚浩二訳『大地と人類の進化』上下二巻、昭和十六、七年。
(241)の二書がそれである。これらの書が広く日本において読まれたとなると、自分の乏しい知識による風土学の歴史的考察は、全く無くもがなの感に襲われるのであるが、しかしこの書の第一章において述べているように、自分の風土学のねらいは必ずしも人文地理学と同じではないのであるから、そのための暗中模索の記録として、前文は原形のままに保存することにした。
なおこの書以後に到達した風土学的な考えについては、近刊『倫理学』下巻を参照されたい。そこではこの書の第一章に述べたプランを幾分体系的に展開してみたのである。 (昭和二十三年十二月)
(242) 付録
昭和四年版『風土』
第三章 モンスーン的風土の特殊形態
第一節 シナ
自分の瞥見したシナは、上海《シヤンハイ》、香港《ホンコン》、シンガポアなどのシナである。それらは最近一世紀足らずの間に欧米の資本主義が作り上げた欧米人の町であって、シナ固有の町ではない。しかもその「シナ固有|でない〔付ごま圏点〕」町においてちょうど「シナ固有なもの」が最もあらわに現われている。一歩を進めて言えばシナ固有でないこの種の国際的都市がシナの国土にシナの町として出現したというちょうどそのことが最も著しくシナ的なのである。
人は近代の大都市が著しく国際的に化したという。なるほどそこには世界のあらゆる国々の人が住み、あらゆる国語が話され、あらゆる料理が賞味され、あらゆる産物が売買され、あらゆる趣味が愛用される。ベルリンは著しくフランス化しアメリカ化した。パリの趣味を支配しているのは外国人である。しかしながらかかる国際化はいわば我々が日本風住宅のうちに椅子テーブルを置き油絵を飾るというほどのことに過ぎない。いかに調度を変えても、日本風の家はあくまでも日本風の家である。ロンドンの町で黒ん坊やインド人やシナ人や日本人が頻々として見受けられるとしても、それらはただ「外国人」であり、町はあくまでもイギリス人の町である。しかるにシナの国際的都市においては、|シナ人の待ち〔付ごま圏点〕が国際化したのではない。それは初めから外国人の町である。町の形貌がシナとかかわりなき外(243)国風であるばかりでなく、町を管理するのは外国人であり、町を防衛するのは外国の軍隊である。というのは、シナの国家的勢力が微弱であってシナの国土内に外国の植民市を作られたということにほかならないのであるが、しかもシナ人はこれらの外国人の町を実質上シナ人のものとしてしまっているのである。なるほどシナ人は武力をもって反抗することは断念している。政治的権力を回復することもまじめには望めない。都市や建築の様式にシナの国粋をよみがえらせ、それによって外国風の町をシナ化しようなどということにはてんで興味を持たない。しかしながらこれらの外国人の町の住人は大多数シナ人である。――また「これらの町が|シナの国土〔付ごま圏点〕にある」ということの主要な意味はそこにある。――そうしてこのシナ人が|実に頑固に〔付ごま圏点〕シナ人である。住民の大多数が頑固にシナ人であるがゆえに、政治的権力や武力がどうであろうと、外国人の町は実質上シナ人のものとなっているのである。ここにシナ人の底の知れぬ強さがあり、そうしてそれがまさにシナ的である。
シナ人は実に頑固に「シナ人」であるという。そのシナ人とは何であるか。自分はそれを一二の直観的な姿で現わしてみたいと思う。
香港では外国船の貨物をシナ人のジャンクに積み取っている。香港で陸揚げせずにそのまま広東《カントン》あたりへ輸送するためであろう。そのジャンクには数家族のシナ労働者が住んでいるらしく、四つ五つの愛らしい子供が甲板に群れて遊んでおり、また若い女や老婆などが帆綱に取りついて働いている。ところでこの女子供の嬉々とした光景を乗せているその同じジャンクが、へさきにもともにも数門の旧式大砲を据えつけているのである。それはもちろん海賊に備えるためであろう。しかし海賊もまた同じような武器を持っているとすれば、この貨物輸送の仕事は、脆弱な木船を(244)もって海賊と砲戦することを予想しつつ行なわれているのである。そうしてみるとこのシナの運輸労働者は、日常の労働のために他国の労働者に見られないほどの生命の危険にさらされていることになる。しかも彼らは女子供を伴ない、家常茶飯事としてそれに対しているのである。同じような場合を他に求めるならば、欧州大戦の当時ドイツの潜航艇の脅威の下にあった海員がそれであろう。しかし彼らはこの非常時の異常な緊張を伴なった仕事を、何ら国家の威力の保護なしに、彼らの平時の日常の仕事として選び得るであろうか。しかもそれを家族とともにする家常茶飯事として取り扱い得るであろうか。恐らくかかることはシナの労働者以外世界の何人もなし得ぬことであろう。シナの労働者にとってはおのが生命を衛ることはおのれの仕事であって他の保護に待つべきことでない。この点において彼らは無政府の生活に徹底し、国家の保護力を予想することなく生きているのである。平素国家の権力を否定すべきものと主張しつつ、おのが生命の脅威を感ずるに当たって直ちに国家の権力の保護を求めるというような卑怯さは、――あるいは国家の権力を否定する主張をさえも国家の権力の保護の下にその保護を予想しつつ行なうというごとき卑怯な矛盾は、彼らには毫も存しない。彼らはただおのれ自身の力に頼る。しかもおのれ自身の力が弱小であることを知るがゆえに、抵抗し難き強大な力に対してはきわめて率直に忍従する。言いかえれば「おれのことはおれが始末する、始末のできない時にはどうにでもなれ」である。だから日常の仕事において、それに付随する|可能的〔付ごま圏点〕な危険を恐れ、|予料的に心をなやます〔付ごま圏点〕というごときことはほとんどない。可能的な危険に対してはただ実際的に予料し打算的に備えておけばよい。それ以上に「感情」を動かすことは全然不必要である。だから彼らはいかなる危険に対してもそれが可能的に留まる限りきわめて|無感動的な〔付ごま圏点〕「のんきさ」をもって対する。同時にまた彼らは、おのれ自身を衛るおのれの力が金銭として蓄積されることを知っている。おのれを保護する力としては、国家ではなくして金銭がある。(245)だから彼らは可能なることに対しては、|感情的に〔付ごま圏点〕きわめて無感動であるとともに、|実際的〔付ごま圏点〕にきわめて怜悧である。無政府の生活の強みはこの無感動と打算とに存する。そうしてそれがシナ人の強みである。
かかるシナ人の強みを自分は上海において一層あらわに目撃した。ちょうどロシアのボロジンがシナにおいて勢力の絶頂に達し、蒋介石が獅子のごとく揚子江流域を席巻しつつある時であった。革命軍はすでに上海へ数マイルのところまで迫っており、郊外に近い住宅区域などでは日夜その砲声を聞くことができるという。そこで労働者は革命軍に呼応して同盟罷工を断行した。郵便局は閉ざされ、電車は動かず、電灯及び水道もきょうあたりは止まるだろうと信ぜられる。共産党は全市にわたって扇動に力をつくし、民衆は今やそれに動かされようとしている。外国人は生命の危険なしにはシナ町に近づけぬ。ただロシア人のみが安全であり大もてである。かく情勢が切迫したために、上海を守る北軍は共産党弾圧にあらゆる非常手段を用い始めた。嫌疑者は捕えて直ちに斬る、そうして路傍の電柱に首をさらす。これからまだどれほど殺戮が行なわれるかもしれない。ことに外国人が恐れているのは、今上海を守っている北軍が、革命軍に追われて上海へ逃げ込んで来た時の騒ぎである。そうなればその軍隊が敵であるか味方であるかなどは全然問題ではない。ただ武装した苦力《クーリー》の群れが掠奪強姦殺人等の暴行をもって町を暴《あ》らすだけの話である。今共産党に向かって試みられている簡単明瞭な弾圧――さらし首――のようなことが、次には相手の見さかいもなく行なわれるであろう。――そこで外国人は、恐怖に慄えながら、ただただ彼らの国家の威力が彼らを護ってくれるだろうことにのみ望みをかけている。続々として諸国の軍艦が入港し、陸戦隊が上陸する。恐らく租界だけは安全に防げるであろう。しかし租界外の住宅をまで国家の力が保護し得るとは思われない。今夜あたりは家族を租界内の港に近い――従って軍艦に近い――安全な場所に移さなくてはならぬ。それでもまだ充分に安全とは言えないから、いざと(246)なればすぐ、国家の力が完全に保護してくれる本国へ向けてこの物騒な土地から逃げ出せるように、大きい汽船が待ちかまえている。それほどに外国人の間においては物情騒然である。というのは、国家の権力の保護に慣れている外国人たちは、その|保護の圏外に出るかも知れぬ〔付ごま圏点〕という可能性の前に、烈しい恐怖、心細さ、興奮に捕われていたのである。――ところで国家の保護の下へ逃げ込むという道を全然与えられていないシナ人たちは、――というよりも、いつ武装した掠奪者に変わるかも知れない危険な苦力の軍隊に守られているシナ人たちは、どんなにしていたか。なるほど店を閉じている家もあるにはある。が、これは労働者の同盟罷工と同じく国民軍への同情の表示であるという。そうしてこの消極的な表情のほかには、目前の「物情騒然」を反映している何らの衷情もシナ人から見いだすことができなかった。きわめてのんきな、興奮のしるしを毛ほども示さない、茫漠とした顔つきのシナ人が、悠々として往来を歩み悠々として物を売っている。日本の円の相場を支配していると言われる金銭の取引所にも、相変わらずシナ人が雲集して賭博をやっている。きょうにも野蛮な掠奪に逢い生命の危険にさらされるかも知れないというような不安は、全然感じていないように見える。金をもうける機会が自分の前にある間は、彼らにとってはまだ非常時は起こっていない。非常時が起こったときいかに財をかくしていかに生命を守るかは、すでに打算的に彼らに明らかである。それならば、まだ起こらない事に対して感情を動かし神経を疲らせるのは、何の益もないむだなことではないか。かかる感情の浪費をもってしてはシナにおいて生きることができない。かく彼らの顔つきが語っている。そうして――結局彼らの見当が当たった。上海では電柱のさらし首以上に物騒なことはなんにも起こらなかった。
これがシナ人である。内乱に際して、しかも市外に砲声が聞こえる時にさえも、彼らの示しているこの|無感動〔付ごま圏点〕、(247)――これがやがて大砲を積んだジャンクの形にも現われる。彼らの根強い金銭追求の努力は、かかる無感動の上に立ち、赤裸々の力と力との格闘において、あくまでも金銭それ自身を目的として行なわれるのである。無感動であるがゆえに彼らは疲れることを知らず倦きることを知らない。その執拗さ、根強さにおいて日本人のごときは到底彼らに敵することができない。国家的にきわめて脆弱であるシナ人が、経済的にはシナの国土においてのみならず海峡植民地や南洋の諸島において勝利者となっているのも、この根強さのゆえである。この点においてシナ人に匹敵し得るものは、世界じゅうただユダヤ人あるのみであろう。
シナ人の無感動な性格と対此するとき、我々は日本人の易感性がいかに日本人にとって性格的なものであるかを痛感せしめられる。これは日本人が生存競争においてシナ人よりも弱いことを意味するが、しかし同時にその心情においてはるかに多く人間的であることをも意味する。この対比にとってきわめて興味深いのは、十六世紀ごろのキリシタン事件及び現代における共産党事件である。
キリシタンの信仰は日本において異常な感激を呼び起こした。日本の国民がそれまでかつて経験しなかったような猛烈な信仰上の弾圧を引き起こしたほどにも深くそれは一部日本人の心情に食い入った。そうして悲壮な殉教者を続々として輩出させた。この純粋な殉教者、その心情上の革命が彼らの生命よりもはるかに価値あることを確信していた勇敢な信者、――それはこの信仰を伝えた当時の欧州にさえももはやまれにしか見ることのできなくなっていたほど純真な信仰を示している。シャビエルをして日本人の純粋な気品高き性格を讃嘆させたのも、またこの殉教の報告が当時のヨーロッパ人を驚異させたのも、皆この心情の純真のゆえである。しかもそれが応仁以来一世紀半にわたる(248)下剋上の時代、すなわち人々がその赤裸々の力をもって角逐した時代のすぐあとの出来事である。ところがシナにおいては、心情上の問題はかかる大事となり得なかった。布教者が北京《ペキン》において有力な地位につき、日本における弾圧迫害よりも一世紀後まで公然布教し得たにかかわらず、たかだかシナ固有の信仰との妥協に関する教理上の問題が起こったくらいで、心情全体の革変を引き起こすごとき強い刺激はシナ人には与えられなかった。清朝《シンちよう》の耶蘇教《ヤソきよう》禁止や迫害に際しても、我々は日本におけるごとき殉教の話を聞かない。かくのごとき無感動のゆえに、十六世紀初頭以来絶えず西欧との接触を保ちながら、日本が維新前後の半世紀の間に受けた影響の何分の一の影響さえ受け得なかったのである。もとよりこの間にシナ人は多量の品物をヨーロッパ人に売りつけた。しかし文化的に影響を受けたという点では、むしろヨーロッパ人がシナから得たことのほうがはるかに多くまた意義深いであろう。
同じような相違が現在我々の前に展開している。日本の青年の一部がマルキシズムを迎えた迎え方は、まさしくその昔のキリシタンの迎え方である。マルクスを生んだヨーロッパには、もはやかほどまでに「純真」なマルクス追随者は見いだされない。恐らく第二のシャビエルが出て、かほどまでに純粋にして熱烈な帰依者を出した点で、日本をロシア以外の全世界に冠たるものとして賞讃するであろう。そうしてそこに実践的理想主義者としての日本人の純真にして勇敢なる性格を認めるであろう。ところでシナにおいては、ボロジンが自ら親しく指導したにもかかわらず、その内乱が依然としてもとのままの内乱である。旗印としてはさまざまの新しい標語が用いられるが、しかしたとえば打倒帝国主義を掲げる日貨排斥は、レーニンの意味での資本主義最後の段階を倒壊せしめようというごとき運動では決してなく、日貨販売に際して幾割かのコンミッションをせしめようとする一つの|職業〔付ごま圏点〕にほかならない。それは暴力の示威の下に行なわれる点で、昔の諸侯が山上に城を構え下を通る商隊から高い関税を取ったのと変わりはない。(249)政治家が民衆をひきいて三民主義の下に社会主義的革命を行なうというのも、実は一つの資本家的企業である。なぜならばこの革命の主勢力たる民衆は、資本主義打倒のために結合したものでは決してなく、ただその|労銀のために〔付ごま圏点〕雇われた労働者にほかならぬからである。彼らがその労働のために用いる機械は銃砲弾薬である。この種の資本の豊富な企業家が競争において勝つ。従ってこの企業は資本を要する。幸いにしてこの企業が暴力を生産する事業であり、合理的な計算以外の暴利をもたらし得るゆえに、また一つの勝負としてシナ人の好む賭博に類するがゆえに、この企業への投資は決して乏しくない。株主は南洋諸島や海峡植民地や香港、上海にすらも多数に存する。もしこの企業において労働者がその労働の危険に相当する高率の賃銀を要求するならば、しかも武装せるこの労働者たちが団体交渉権を持ち団結して企業家に当たるならば、この企業は直ちに破滅に陥らなくてはならない。しかし、幸いにシナの労働者は、大砲を据えたジャンクに乗って運輸労働に従事するのをあたりまえの事と考えている労働者である。しかもシナにおける戦争という労働は、日本人の戦争などとは異なり、敵が逃げるか味方が逃げるかの戦争であって、危険率がきわめて低い。だからここには労働問題は起こらず、企業家の掲げる標語が軍隊によって支持されているかのごとき外観を呈する。しかしこの種の「革命戦争」によってシナにおける財産の私有制度が共有制度に転化しつつあるなどと考えるのはまるきりの見当違いである。シナ人はいわば私有欲の権化ではあるけれども、シナに「私有制度」が確立しているわけではない。個人の所有権を確保するごとき国家の権力はシナには存しない。もしシナ人の私有財産が「法律」の保護の下にあるとすれば、その法律は外国の法律であり、その背後にシナ以外の国家の権力が控えている。上海、香港、満州において、あるいは海峡植民地、南洋諸島において。だから問題がシナ国内に関する限り、自己の財産を確保するものはただ自己の力であって、法律でも制度でもない。共有制度を創造するために「私有制度(250)を破壊する」などという仕事は、シナ国内には成立し得ないのである。語をかえて言えば、他の諸国の革命家の目ざしている目標はシナの国土には存在しないのである。だからシナにおいて破壊しなければならないのは、実は「制度」ではなくして、人々がおのれの財産を生命の危険の下にでも守ろうとしているその「私有欲」である。この私有欲の撲滅によって革命家はシナに共有制度を創造することができるであろう。そうしてその仕事はただ力によってのみなされ得るであろう。ところでその「力」はどこから出るか。民衆は社会的正義の実現というごとき実践的理想主義に動いているのではない。彼らは私有欲の権化である。撲滅さるべきものがその撲滅の力の出所である。これは果たして可能なことであろうか。ロシアにおけるように農民の土地私有欲を巧みに利用して土地私有制度を壊すことはできるであろう。しかしこの私有欲から出た農民の力は、私有欲自身を壊すことはできなかった。現在のロシアを最も苦しめているのはこの問題である。ところでシナにおいては、ロシアにおいて成功した「制度を壊す」仕事がもはや存せず、ロシアにおいても不可能であった私有欲克服の仕事のみが存する。従ってロシア風の革命によりシナに一つの共産主義的な「制度」が創造されようなどとは、たといシナにロシアと同じ程度の共産主義的精神が湧き上がって来たとしても、不可能なことである。いわんや無感動にして打算的な目下のシナ人にとっては、ほとんど縁なきことである。シナ人はそんな非実際的な人間ではない。
日本の純真なマルクス帰依者が、シナの革命運動をプロレタリア革命の一種として解釈するならば、それは「生命を賭して行動する」彼らの態度に日本人的な心情の興奮を移入して感じたものに過ぎない。無政府的生活に慣れたシナ人にとって家常茶飯事であることが、ここでは英雄的行為の色彩をもって再現される。しかしこれは現実のシナの認識とは言えない。シナにおける真の資本家階級は、外国の保護の下に立ちつつシナより南洋にわたって経済上の実(251)権を握っているシナ商人である。従って真に資本家階級と戦うことは、この階級を法律上保護せる諸外国と戦うことにほかならず、従って真の階級争闘は国際戦争とならざるを得ぬ。しかも国際的競争に堪えうる実力を持つものは、国内に軍隊を擁する英雄たちではなくして、右のシナ商人たちである。そうして国内の英雄たちも実はこれらのシナ商人の実力に支配されているのである。シナの革命が成就し、シナが一つの統一ある組織として仕上げられるのは、まずこの資本家階級の統治が実現される時であろう。このブルジョア革命の完成により、シナが無政府の状態を脱して私有財産の「制度」を確立した後に、初めて通例の意味におけるプロレタリア革命も云為され得るに至るであろう。
革命家は民衆をつかみ得なくてはならぬ。そのつかみ方は民衆の素質によって異なる。無感動的で利益の前に生命を賭し得る民衆も、またきわめて興奮しやすくかつ純真な人間性を多分に持っている民衆も、すべて同じく無産者としての資格においてのみながめられるならば、そこにその民衆をつかむ具体的の仕方は見いだされない。国民性の理解が重要であるゆえんはそこにある。
シナ人の無感動的な性格は、その無政府的な社会の情勢からも説明せられ得るであろう。しかし同じような無政府の状態が同じような無感動的性格を作るとは言えない。日本において応仁以来一世紀半の間、ほぼ似寄った無政府の状態が続いたとき、日本人は無感動的になったであろうか。彼らはなるほど無感動的な境地を求めた。たとえば剣をもって相対する時には、己れを空しゅうしてあらゆる感動を離れるのが極意であった。農民の子が腕力をもって諸侯となったとき、その最大の慰楽は静寂なる茶の湯であった。しかし彼らは決して無感動的な性格を持ったのではな(252)い。戦国末期のいわゆる英雄の大部分は激情的な性格の持ち主である。そのゆえに彼らは極度の静寂を求めたのである。同じ激情的な性格が他の仕方で現われてくれば、そこに狂熱的な殉教者がある。剣道の極意や茶の湯の趣味とキリシタンの殉教者とは、一見はなはだ異なるごとくにして、実は同じき精神、同じき性格の現われである。だから日本においては、一世紀半の無政府の状態は、日本史上まれに見る溌剌とした、感動的な時代を作り出したと言える。従って無政府的な状態|だけが〔付ごま圏点〕無感動的な民族の性格を作るとは言えない。
そこで国土が問題になる。シナは日本とは異なって茫漠たる大陸である。上海に近づいてまず我々が驚くのは、十三四カイリの速力の船がまる一日じゅう走る間、海が全然泥海であることであった。これは泥水を吐く揚子江が全長約千三百里の大河であり、ライン河の四倍半、日本全島の長さよりも長いことを思えば、何ら不思議な現象ではない。しかし直観的には、この茫々たる|泥海〔付ごま圏点〕は、我々の「海」の観念に革命をもたらす力を持っている。さて上海に近づいて揚子江をさかのぼる。右のごとき大河が巨大な河幅を有するのも当然な話である。しかし、はるかな地平線に海におけるよりはやや太い線が見え、しかもその線が河口に横たわる島の影でありまた両岸の内我々に近い方の岸であると知った時、従って遠い方の岸は視界外にあるのであると知った時、ここでも我々の河の観念はぶちこわされる。我々はたとえば明石海峡において「海」を見ている。ところでこの河は大阪湾ほどの幅を持つのである。さてまたその「やや太い地平線」に近づいて、樹木を見、畑を見るようになっても、この平板な平野は船ぐらいの高さではいくらも見渡せない。十町か二十町の遠さまでは見えるが、あとはただ空である。これも大河の流域の平坦な土地としては当然のことであろう。しかし我々は大平野を見るときに、はるかかなたに遠山をながめて平野のひろがりの大いさを感ずるに慣れている。十町ほどのひろがりを見るだけでは、大平野を見たという直接の印象を受けることがで(253)きない。ここでもまた逆な意味で大平野の観念がぶちこわされる。遠山も見えないほどの真に大きい平野は、直観的にはその大きさが見えない、すなわち大きくはない。
かかる大陸が我々に与える直接の印象は、実は偉大さではなくしてただ|単調〔付ごま圏点〕と|空漠〔付ごま圏点〕とである。茫々たる|泥海〔付ごま圏点〕が我々にあの海特有の生き生きとした生命感を与えないように、また海のように広い泥水の大河が大河に特有なあの「漫々として流れる」という感じを与えないように、平べったい大陸は我々の感情にとって大陸ではない。視野にはいるのは平野のほんの一部分であり、その平野をいかに遠く歩いて行ってもただ同じょうな部分の繰り返しがあるのみである。だから大陸の大いさは、直接にはただ変化の乏しい、空漠たる、単調な気分として我々に現われる。言いかえれば我々はかかる「大陸」との交渉において単調にして空漠たるおのれをすでに見いだしている。無感動的な人間生活は、かかるおのれをのみ常に見いだし、それ以外のおのれを見いだす機会が少ないという特殊な風土的負荷から理解せられ得るであろう。
揚子江の河口地方がシナの国土全体を代表し得ると自分は言うのではない。ただ地理的に計量して量が大きいということが直ちに我々にとって質の偉大さを印象するのでないことを言うのみである。もとよりシナにも大山があり、そこからこの茫漠たる大平原を望むこともできる。しかし我々人間の表象能力には一定の限度があり、それ以上に我々の感情は進み得ぬ。那須から望んだ武蔵野は日本においてこそ最大の平野であろうがシナの平野に比べればほとんど言うに足らない。しかも我々にとっては、あれ以上にいかなるひろがりがあろうとも、それに応じてその広さの感じを強めるということはできないのである。だからシナの大陸が質的な偉大を印象する点において日本の持たない特殊なものを持つとはいうことができない。日本に見いだされずしてそこに見いだされるものは、ただその空漠たる単(254)調さである。この点において日本はまさにシナの相反の極にある。我々は我々の国土との交渉において極度に変化に富むおのれを見いだすに慣れている。だから空漠たる単調さは我々にとって最も堪え難いものである。すなわち我々は常に感じ動くことを必要とする人間である。空漠たる単調さがおのれの最も普通な様態であり、従って感じ動くことを必要としないシナ人とは、この点において最も遠く離れる。
シナ人が無感動的であるということは、シナ人が感情生活を持たないということではない。その感情生活の様態が無感動的であるというのである。だからそれは、「悠々として迫らず」というような言葉で言いかえられてもよい。日本人が絶えず何らかの意味において「迫る」のに対して、シナ人はいかなる意味においても迫らない。だからある場合には日本人がこせこせしているに対してシナ人がゆったりしていると言える。が、他の場合には日本人が人間的であり正直であるに対してシナ人が非人間的であり狡猾であると言える。
我々は過去の文化産物においてもこの特質を明らかに見ることができる。シナの芸術にはゆったりとした大きさがある。大づかみではあるがしかも要を得ている。が、それはまた半面に感情内容の空疎を伴なっている。繊細な|きめ〔付ごま圏点〕の細かさをそこに見いだすことができない。同じことは一切経や四庫全書のような大編纂事業についても言える。それはあらゆるものを包括する巨大な叢書である。部分に拘泥しては到底成立し得ない大づかみなものである。が、その大きさは空漠たる大きさであって、内容においては雑然たる材料の山積にほかならぬ。内容のすみずみまでも秩序の行きわたった統一的な組織ではない。シナにおいてしばしば現われた統一的な大帝国がまたこれと同じである。西方においてはまれにしか現われなかったような大帝国が、シナではあとからあとから現われて最近まで続いていた。(255)ただこの点のみを見ればシナ人はすぐれた政治家のように見える。しかしこの形式的に整った統治は、国土のすみずみまで行きわたっていたわけではない。無政府状態は国内の至るところに存し、官吏はしばしば掠奪者であった。
この種の例はなお多くあげることができるであろう。日本人は維新までの千数百年間、かかるシナ文化に浸り、おのれを空しゅうしてそれを模倣しようとした。しかしその衣食住がシナとはなはだしく異なったものになったごとく、日本におけるシナ文化はもはやシナのそれではない。日本人が関心するのは空漠たる大いさではなくして|きめ〔付ごま圏点〕の細かさである。輪郭の整備ではなくして局部的にもしろ内容の支配である。形式的な体面ではなくして心情における感動である。日本人がいかにシナ文化につちかわれたにもしろ、日本人はついにシナ的性格を帯びることなくして過ぎた。シナ文化が我々の内より引き出し開展せしめたものよりは、我々の国士が我々の内より引き出し開展せしめたものの方が、はるかに力強いのである。
かかる性格の相違を我々は軽視してはならない。シナ人は生活の芸術化を全然解せざる実際的国民であり、日本人は生活の芸術化をやり過ぎる非実際的国民である。その点においてシナ人はユダヤ人よりももっとユダヤ人的であり、それに反して日本人は、ギリシア人よりももっとギリシア人的である。日本人がその団結を失って個人の立場においてシナ人と対するならば、日本人は到底シナ人の敵ではない。そうしてシナ人が勝つということは、人間性にとっては一つの退歩である。(昭和四年)
以上の観察を書いた時に比べると、シナの事情は著しく変わった。最も著しいのは南洋におけるシナ商人の勢力の減退である。これが本土における軍事企業の形勢をも変えて来た。しかしこの五六年の間の目まぐろしい転変(256)――満州事件、上海事変、国際連盟における日支の抗争、鮭済事情の変化、日貨の世界的進出、シナのパニック等々――を通じて見ても、自分の観察は大体において誤りなかったと思う。
イタリア古寺巡礼
(259) 序
この書は、二十数年前著者がイタリアを旅行したとき、行く先々のホテルで気軽に書いた私信を集録したものである。そこに書いたような印象を公にする場合には、もっと考えなおしたり調べなおしたりして念の入ったものにするつもりであったが、長く放置していた間に、書いたこと以外は忘れてしまい、どうにも手のつけようがなくなった。だから文章の末節をいくらか直したほかはもとのままである。絵はがきの裏とか、写真の裏とかに書きつけたものは、それらの写真をすべてさし絵にしないと意味が通じないことになるので、それを避けるために幾分変更せざるを得なかった。最後の「ヴェネチアに病む」という一節だけは今度新たに書いた。
古い印象記、しかも怱卒の間に書いたものを、今さら公にするのも気恥ずかしいが、しかし今の状態であればこそこういうものを公にする意味もある、と思えないでもない。
一九五〇年二月二十七日
著者
(261) 目次
序…………………………………………………………………………………………二五九
一 出発……………………………………………………………………………………二六五
二 イタリアに入る………………………………………………………………………二八四
三 ローマ滞在……………………………………………………………………………二九四
四 ナポリとその付近……………………………………………………………………三三二
五 シチリアの春…………………………………………………………………………三四一
六 アシシの壁画…………………………………………………………………………三六二
七 フィレンツェ滞在……………………………………………………………………三七〇
八 ボローニャ、ラヴェンナ、パドヴァ………………………………………………三九一
九 ヴェネチアに病む……………………………………………………………………四〇二
〔262〜263の「插絵目次」は省略〕
(265) 一 出発
一九二七年十二月十九日、パリにて。
Hはロンドンから帰って来た。別にさわりもなかった。しかし医者は早く日本へ帰って療養するようにとすすめるので、予定よりも早く一月九日ナポリ発の鹿島丸で帰ることにした。そんなわけで南フランスからイタリアというふうに暖かい地方だけしか見物ができない。だいぶがっかりしている様子で気の毒だ。それに病後の一人旅は心細そうだから、ローマまでついて行くことにする。
一昨土曜日にはHを案内してルーヴルを一回りし、それからトーマス・クックへ行ってローマまでの切符を買った。フランスの国内は二等、イタリアへはいってからは一等ということにして七百四五十フラン、六十円余りに当たる。日本の国内で少し遠いところへ行くような感じである。
クックを出てからエトワールの付近の常盤《ときわ》という日本料理屋へ行って夕食をしたが、もう帰ろうとしていた時に、京都の浜田さんが田中豊蔵君や小島祐馬君といっしょにやって来られるのに逢い、またひき返して話し込んだ。浜田さんは前日の晩にパリに着き、偶然、田中君のいるホテルに泊まられたので、すぐわれわれの消息もわかり、田中君からは私のところへハガキを出してくれたとのことであった。浜田さんはスウェーデンの皇太子のところに滞在して来られたので、その皇太子の家庭生活の話が非常におもしろかった。宮殿への出入りがきわめて自由であるばかりで(266)なく、宮殿内の生活がまことに簡素で、昼食などは給仕なしのセルフ・サーヴィスだという。そういうなごやかな雰囲気のなかへ何のこだわりもなしに日本の客を取り入れ、太子妃も姫たちも気持ちよくもてなしてくれられた、ということを、浜田さんは心から賞讃していられた。皇太子の有名な蒐集晶の話よりもむしろこのことの方が熱心であった。
パリも四五日前からひどく寒くなって来たが、特にこの日の寒さはひどかった。体が縮み上がってしまうくらいだった。あとで聞くと零下六七度に下がっていたという。田中君はこの晩風邪をひいて、翌日は三十八度ほど熱を出し、寝込んだとのことであった。パリの暖房設備はあんまりよくない。窓は一重だし、それも隙間から外の空気が忍び込んで来るので、われわれの動いている範囲では、どこへ行つても体が十分には暖まらない。レストランなんかでも寒い。Hは病気上がりのせいでひどくこたえると見え、早く南へ行こうという。私もこれには賛成で、ニースあたりへ早く漕ぎつけたいと思うが、しかし妙なもので、零下三四度から五六度ぐらいの空気のなかを歩いていても、その苦しさは日本の冬と大差はない。現に私は日本で着ていたと同じだけ着込んで済ましている。違うところはやはり生活の様式だと思う。日本で外の寒いところから家へ帰って来て、炬燵に足を突っ込んだり、風呂へ飛び込んだり、湯気の立ち上る寄せ鍋を食ったり、とにかく日本の普通のやり方で、体がほかほか暖まってくるというあの気分は、こちらではどうにも味わえない。もっともパリでも裕福な人はもっと暖房を熱くしているのかも知れぬが、われわれの泊まっている安下宿や、浜田さんの泊まっている中流のホテルでは、暖房のステイームはそんなに熱くない。中流の人たちでも家庭を持っていれば寒い日にストーヴを焚くとか何とかやれるであろうが、われわれにはこのぬるいステイーム以外に全然暖をとる方法がないのである。室の温度は華氏で五十八度ぐらいになっているから、日本の室よりは(267)暖かい。しかし五十八度の気温では外で冷えた体は到底暖まらない。室内の温度は四十度でもいいから、火鉢か炬燵か、何か直接皮膚に暖を与えるものがほしい。つまり空気を暖めるという暖房の考えと、直接体に熱を加えるという防寒の考えとの相違だと思う。
もっともこんなに寒いことはこちらでも四十年来ないことだといわれている。昨日の朝はパリでも零下十度ぐらいに下がり、ベルリンでは零下二十何度とかになったという話だ。そういうふうに例外的な寒さだとすると、ここの暖房の設備がそれに適応することのできないのも当然かも知れない。日本の火鉢がいいなどとは言っても、それは日本が暖かいからで、もし零下十度とか二十度とかになるとすれば、日本の家ではとてもやり切れないかも知れない。
昨日曜日は、午前中室に引きこもって、亡父を偲びつつ、香奠を贈られた方々へのお礼状を書いた。Hは友人のS氏が来てその家へ連れて行った。
午後には亀井高孝君といっしょにルーヴルへ行き、そこでまたばったり浜田さんに逢った。連れ立って外へ出てカフェにはいり、浜田さんの昔の洋行談を聞いた。十四五年前の話、世界戦争の始まる前から戦争中へかけてのことだ。浜田さんはその時のことを非常になつかしがり、思い出の場所をしきりに訪ねたがっている。若い時に見たヨーロッパは強い感銘を与えたが、今度はさほどではないらしい。
夜はHの友人のS氏の招待でオペラに行った。出し物はファウスト。オーケストラはベルリンほどよくないように思われる。役者は同じぐらいか、あるいはこれもベルリンの方がいくらかいいかも知れない。舞台装置は、機械力の利用とか電気の使い方など、明らかにべルリンの方が進んでいる。しかし色彩の趣味という点になると、パリの方が(268)段違いに好い。色電気などでも、ベルリンのは太陽の七色のような単純な色であるが、パリのはもっと複雑な、渋味のある、気持ちのいい色調を見せている。衣裳の色でもそうだ。ドイツ人は間色をあまり使わないが、ここのは間色の方が多く、その使い方がわりにおかしくない。マーガレットをやったのは Berthou といって、声も顔もきれいな女だったが、しかし一番有名なオペラうたいではないという話だった。メフィストをやったのはボルドン、これはなかなかうまかった。しかしメフィスト役者ではジュルネーの方が評判が好いという。ファウストはオードゥアンという役者がつとめた。
ベルリンのオペラには、いろいろな気分がまじっているにしても、なお音楽をききに来たという気分がはっきり出ていたと思う。ここのオペラでは上流の交際場だという気分の方が強い。もっともそれは私たちが土間にいたせいかも知れない。土間や二階三階あたりがそういうふうなので、四階五階へ行けばまるで気分が違うかも知れない。拍手などでも、熱心なのは上の方から聞こえてくる。しかしとにかくこの晩の感じでは、数年前に帝国劇場で見たロシアの旅役者のオペラの方が、ずっとおもしろかった。聴衆の態度がそれを示している。こちらでは慣れっこになっているし、出し物も役者も別に目新しいことはないし、聴衆が何となくだれた気持ちになっているのは無理もないと思う。しかし帝国劇場の場合には、聴衆がオペラというものに初めて接するという強い緊張を持っていた。ほんとうに音楽を聞きに来ているのであって、交際のためとか、お義理を果たしにとか、とにかく芸術鑑賞のためでない別の必要で来ているのではなかった。だから舞台も見物も実際によかったのだと思う。客観的に比較すれば比べものにはならない。背景の大道具は段違いに大仕掛けだし、役者の数は数倍である。仕出しの兵隊とか町の人とかはうんとおおぜい出てくる。またそういう下っ端の役者でもわりに粒がそろっている。帝国劇場のあの舞台やロシアの旅役者の貧弱な(269)のとは到底此較にならない。しかしそういう点は結局枝葉のことだと思う。
今日は午前中に亀井君といっしょに浜田さんを訪ね、連れ立って大使館に行った。金を受け取ったり、イタリア行きを届けたり、いろいろ用事をすませて、さてそのあとは、昼食から夕食まで浜田さんと話していた。これからの旅行の計画などがおもな話題であった。
浜田さんはこれから南フランスを回ってスペインヘ行く。まずフランスとスペインとの国境地方でバスク人の遺跡や遺物を見、それからスペインへはいって、三四百年前に栄えた古い町々を見て歩くつもりらしい。そのころ日本人として初めてヨーロッパの地を踏んだ九州諸大名の遣欧使節が、その若々しい心で興味深くながめたであろうと思われるその町や山や野の姿を、自分も一度自分の眼で見ておきたいというのである。その使節たちが旅をして歩いたイタリアの町々は、先年の遊学の際に心ゆくまで見て歩いたが、大戦の勃発のためその時にはスペインを回る機会が得られなかった。今度こそはどこを措いてもスペインだけは見のがすわけに行かない。そういう気持ちで浜田さんのスペイン熱はなかなか烈しいものであった。
三四年前、木下杢太郎君がだいぶ熱心にスペインやポルトガルを回り、若いころの南蛮熱を復興したらしい。去年だったか京都へ来たときには、その方の興味ばかりで、大学の図書館以外にはどこも振り向こうとはしなかった。やがて日本にはまたキリシタン物がどしどし現われてくるであろう。
浜田さんとスペインのことを話しているうちに、イタリアヘ私たちと同行しようと言っていた亀井君は、急に意が動いてスペインへ行くと言い出した。私自身もそうしたくなったが、しかし病後のHを一人だけ突き放すわけには行(270)かない。ここは辛抱して予定通りに行動するほかはない。浜田さんはHの船の次の次の船に乗るはずだから、やがてまたローマで浜田さんや亀井君に落ち合うことにして、明後日、一足先に出発する。明日は旅の支度をしたり、雑用を片付けたりしなくてはならない。
十二月二十三日、マルセーユにて。
一昨二十一日朝パリを立った。相変わらず寝坊で、宿のギャルソンに起こされたのが八時に二十分前。汽車は九時に出るのだから、大急ぎで支度にかかり、まだ顔を剃り切らないうちに、近所にいる務台君が見送りに来てくれた。そうして「今朝は大変ですよ、町がすっかり凍っちまって、私のところから半町足らず歩いて来る間に、二度もころびそうになった」という。やがてコーヒを飲んでいるところへ、Hが支度ができてやって来たので、さっそくタキシを呼んでもらうように頼んだところ、ギャルソンはまもなく引き返して来て、「宿のマダムがいうには、今朝はタキシがないかも知れない」という。はなはだ心細い。それでもギャルソンは呼びに行ってくれた。電話で呼ぶのでなく通りへ出て捕えてくるのだ。往来に突っ立って一分も待っていれば、必ず空車が来る。普段はそれですむのだが、この朝はそうは行かなかった。道が凍っているので、タキシはすべるのを恐れて出動していないらしい。八時十五分になっても、二十分になっても、八時半になっても、ギャルソンは姿を見せない。これはいよいよ乗り遅れかなと思っているうちに、四十分ごろになってやっと一台つれて来た。肥ったギャルソンはふうふう言っていたが、この鈍重な男の親切さをこの時ほど感じたことはない。そこで務台君や亀井君もいっしょに四人の人と荷物とを詰め込んで急いで停車場へ出かけた。車がすべるかと思って心配したが、出てみるとあたりまえに走る。はらはらしたほどのこともな(271)く、汽車にはちゃんと間に合った。
あとで新聞を読んでみると、この朝往来が凍ったのは verglas(雨氷)というやつで、細かい雨が地面へつくと片端から凍り、五分ぐらいの厚みのつるつるした氷でアスファルトの上を一面に覆うているのであった。ヨーロッパでは気温の交錯でこういう現象が起こりやすいらしく、パリでも珍しいことではないそうであるが、しかし二十一日の朝のは、「パリの記憶しているうちで最もひどい verglas の一つである」と書いてあった。新聞の記事は少し大げさかも知れないが、早朝に外へ出た人は、歩こうとしても、滑って歩けない。タキシはエンジンを一所懸命にまわしても、車がからまわりするばかりで、前へはちっとも動かない。馬車は、馬がしきりにあがいているのに、じっと停止している。地下電車も故障で動かない。郊外から勤め人を乗せてくる汽車は、その勤め人たちが停車場まで歩いて来られないために、半分がらあきでパリへ着く。中央市場へは食料品が着かない。牛乳も来ない。あるきまじめなイギリス人はその中を無理に歩いて来たが、二マイル歩くのに四時間かかった。それも、途中でカフェへとび込んで、藁をかり靴を包んで、やっと歩けたのだという。普通の靴のままで歩けなかったというのはほんとうであろう。タキシの窓からのぞいていると、ズックの布で靴を巻いて歩いている人が眼についた。すべってころんで、撲ちどころが悪く死んだ女が一人、怪我人はだいぶあった、というのも、パリのような大都会だからほんとうであろう。そういう騒ぎで、市役所の人夫が出動して町を歩けるようにするまで、すべての活動が平常の日より三時間遅れたという。私たちはそれほどの騒ぎとも知らず、汽車に間に合ってまあよかったというだけで、九時にパリを去った。
パリからマルセーユヘの沿道の景色は、この前に見たのも三月未のまだ木の芽の出ない時だったので、あまり変わりばえはしなかったが、しかしドイツの国内を歩き回って来た眼で見ると、いくらか趣が違うように感ぜられる。こ(272)こは大体フランスの東部で山の多い地方ではあるが、その間にひろがっている平地が、ドイツの中部地方のように大きく波の形にうねっているのではなく、幾分傾斜はあるにしても、ほぼ「平野」らしい感じを持っているのである。従って山もまたその平野に対してはっきりと山らしく立っている。と言っても日本で見るように平野と山との截然とした区別があるわけではないが、しかしドイツに此べると、よほど日本の感じに近いように感ぜられる。そうしてその近さの度合いと、野菜や肉類の味がよくなってくる度合いとが、どうも一致しているらしい。それには水も関係して来るであろう。この汽車の走っている道筋は、初めのうちはセーヌ河の上流に沿い、分水嶺を超えると、マルセーユの近くで海に入るローヌ河の上流、ソーヌ河の沿岸へ出る。そういうふうに大河の流域であるため、フランスでも特に豊沃な地方なのかも知れない。どうも山と水とのそろった所でないと、うまい食料品は産しないらしい。
途中の景色は相変わらず牧場と畑とであるが、その牧場の緑色がドイツのよりも幾分柔らかい色調を持っているように感じられる。冬でも録色をしている草の中に混じって、枯れて黄色になっている草が、ドイツよりも多いのではないかと思う。南方へ寄っただけにそういう冬枯れの草のことが考えられるが、しかしこれは側へ寄って見ないのだから確かなことは言えない。とにかく野原一面の緑色が、鈍い、燻《いぶ》しをかけたような、ほんのりとした色で、どうも日本では見たことのないきれいな色だと思った。
十二月二十四日、ニースにて。
今夜はクリスマスの前夜で、大きいホテルやキャシノーでは華やかな晩餐会や舞踏会があるらしいが、ここのホテルは静かで、いっこう変わりがない。そこで室に引っ込んで、ストーヴのそばで昨日の続きを書く。
(273) マルセーユヘは二十一日の夜九時四十五分に着いた。自動車に乗ると空気がばかに暖かく感じられる。手袋をはめていないでも手がちっとも冷たくない。これにはまず驚きを感じたが、やがてホテルヘ着いて室へ通って見ると、大きな室にパリの宿の小さい室の蒸気暖房と同じ大きさの暖房設備があるだけであるのに、ねまき一枚でいても寒くない。何という大きい相違だろうと驚かざるを得なかった。翌日は頸巻きなどはしないで外へ出たが、パリと同じ身じたくをしていると暑くてしようがないので、とうとう毛のシャツを脱いでコットンの白いシャツ一枚になった。それでちょうどいいくらいであった。恐らく陽気が急変したので、パリでもヴェルグラの日以来暖かくなっているのではあろうが、何分にも変わり方がひどいので、南国へ来たという気分を非常に強く味わった。ヨーロッパの人たちの南国に対する感じ方も、なるほどとわかるように思った。
マルセーユへ二度目に来て見ると、初めて船からヨーロッパの地へ上がったときに、いかに自分の気持ちが興奮のため上《うわ》ずっていたかを、しみじみと感じさせられた。もちろん印象は初めの方が強いのではあるが、しかし物のけじめがはっきりと見えなかったのではないかと思う。今度落ちついて観察して見ると、マルセーユのつまらなさとおもしろさとが別々に眼に映ってくる。シャヴアンヌの壁画のある美術館へも行って見たが、これはいっこうつまらなかった。この春のぼったノートルダム・ド・ラ・ガードの丘の上へもまたのぼって見たが、寺の建築そのものは、前の時と違って、一目で近代の悪作であることがわかった。しかし丘から見おろしたマルセーユの町の姿は、ヨーロッパ中部の町とはよほど違った趣を持っていて、非常におもしろかった。地中海の沿岸にあるということは、かなりはっきりした特徴を持つことを意味している。アフリカの沙漠は海を距ててかなり遠くにあるのであるが、しかしそのことをつい思い起こさせられるほど、何とはなしに熱帯的なものが感じられる。色の調子がよほど明るい。この春初め(274)て見たときは熱帯の町々を見て来たあとであったためにそれを感ぜず、今度は薄黒く煤けた陰欝な色の町から来たためにそれを感じたのであるかも知れぬ。その上、マルセーユに着いた月の翌日は午前に、翌々日は午後に、雨が降ったのであるが、その雨が、パリと違って、日本と同じような降り方のものであった。これも南国らしい気分を起こさせる有力な原因であったらしい。
Hは商船のエージェントに逢いに行ったので、私はひとりでぶらぶらとノートルダムの傍の丘へのぼり、永い間海をながめた。それからまたぷらぶらと場末の町を歩いて古い港の入り口にある要塞の傍の、サン・ヴィクトルという、マルセーユで最も古い寺院を見に行った。これは最初五世紀ごろにでき、サラセン人に破壊され、十一二世紀ごろに再建されたものであるが、まるで牢屋と砦《とりで》とをいっしょにしたような感じであった。厚い石の壁、銃眼、上部の胸壁、方形の塔、いかにも物々しい。最初はどうしても寺院だとは思えず、幾度も地図を見なおしたくらいであった。マルセーユはギリシア人が開いて以来ずいぶん幾度も争奪の的になったが、この建築のできたころは一種の都市国家として栄え、地中海の海運を押えていたらしい。第八十字軍の時には軍隊の輸送を一手に引き受けたといわれる。その後イタリアのジュノアやピサの活動で競争に負けてしまったが、その古い港の盛時にでも寺院をこのように武装する必要があったと見える。
マルセーユのおもしろみは港町らしいところにある。各国人がうようよと歩いており、自動車の運転手やホテルのボイは客から巧みに金を絞り取ることばかり考えている。新聞を売る十二三歳の子供でさえ、傍へ寄って来て巧みに新聞を売りつけて行く。古い港の傍では、牡蠣その他の貝類を往来ばたで売っている。港に面して魚料理の家も並んでいる。その内のバッソーという有名な家でマルセーユ名物のブイアベースを味わってみたが、これは汁の多い魚の(275)煮込みというか、あるいは魚を入れた濃汁というか、いずれにしても魚よりは汁が甘い。エキストラのブイアベースを注文したところ、|こち〔付ごま圏点〕のぶつ切りのほかに大きい伊勢えびがはいっていた。この伊勢えびはパリで食うと相当に高い。久しぶりでうまい魚が食えたわけだが、しかし正直に言って、料理は大して上手《じようず》というほどでもない。
十二月二十五日、ニースにて。
咋二十四日、十時過ぎの汽車でマルセーユを立って、三時半ごろニースに着いた。天気は半晴半曇、途中の景色はなかなかよかった。どうも日本の景色にかなりよく似て来たように思われる。まず山の形であるが、これが中国辺の山を思わせる。堅い岩山で、その岩の肌が白く出ていて、日本の最もひどい禿山と同じ程度であるが、しかし山の北側は白い肌がところどころにしか見えないくらいに緑に覆われている。そういう山が、あるいは陣笠形に円く、あるいは折り烏帽子形に突兀として、谷の両側に続いている。谷は山と山との間の「平地」であり、その中央には小さいながら川が流れている。平地には葡萄畑、オリーヴ畑、麦畑、牧場などがある。いかにも南国らしいのどかな景色で、フランス国内の最も豊沃な土地の一つといわれているのも、なるほどと思われる。もっとも、北方に比べて豊沃なのであって、伊豆あたりのような豊かな気持ちでは決してない。
そういう景色のなかを、時には海岸へ出ることもあるが、大体は山あいや平地のなかを通って、三時間あまり走ると、サン・ラファエルという町へ出る。そこからは海岸伝いの狭い通路である。汽車は岩を切り割った間だの、崖の上だのを通って行く。海岸がずっと下に見える。こうしてカンヌを経てニースヘ着いたのであるが、ニースが有名なのはそこに人口十万ほどの町ができ、大きいホテルやキャシノーやオペラなどがあるからであって、景色が好いから(276)ではない。ただ景色だけからいえば途中の海岸にいくらもいい所があった。永く滞在するならば町の小さいカンヌの方が好いと思う。
ニースヘ来る途中で著しく眼についたのはオリーブの木であった。葉の色は薄い銀色を混じえた線色で、変に美しい。山の木は松の類らしく、葉の色は日本のよりは浅い緑であるが、大体見慣れた感じである。しかるにオリーヴの葉の色だけは、白っぽいような、妙な感じを持っている。それが景色の中核であるかのように、ひどく眼につくのである。日本で例をひくと、若葉のころに京都の南郊を黄檗宇治から奈良の方へ汽車で行けば、畑の間の柿の木の新緑がひどく眼につくであろう。ちょうどああいう具合である。日本では麦畑や茶畑の間の柿の木であるが、こちらのオリーヴの木は、ただ草のはえた地面の上に、二三間の距離を置いて、立ち並んでいる。老木と見えて幹はかなり太いが、高さは一間か一間半ぐらいにつめてある。丹念に手入れをした庭木のような格好である。この銀緑色のオリーヴの木を、日本の柿の木――葉の落ちて枝だけになっている柿の木、あるいは新緑に輝いている柿の木、あるいは明るく紅葉している柿の木――に比べて考えてみると、何か非常に示唆的なものがあるように感じられる。それらは確かに截然として別趣のものである。ところでその相違は、平生われわれが西洋の油絵と日本の花鳥画や水墨画との間に感じていた相違と、大体同じものであるように思われる。芸術において西洋風があるように、ここいらの風景はいかにも西洋風に感じられる。それは一つはこの景色の中にある建物の様式にもよるであろうが、それよりもこのオリーヴの木の印象の方が一層強い契機になっているであろう。
果樹としてオリーヴにもっと近いものを持ってくれば、伊豆や国府津あたりの蜜柑の木であるが、あれは緑の色がずっと濃く、また葉の間には明るい強い蜜柑の色がちらついていて、いかにも暖かい感じを与える。しかしオリーヴ(277)の色は妙に冷たい感じで、全く印象が違う。この地方はそう光線が弱いわけではなく、またこの二三日の経験では雨が少ないわけでもなさそうだのに、この緑の色はどうしたことかと不思議に思われた。もっとも空気は日本よりもずっと乾燥している。空気のなかに湿気が多いということは何と言っても日本の特徴であろう。文明国の中では恐らく日本が随一ではないかと思われる。
この海岸地方からマルセーユの北方アヴィニョンあたりへかけての暖かい地方、つまり海岸アルプスに近い地方は、古くからプロヴァンスと呼ばれ、ローマやイタリアの影響の最も深く滲み込んでいるところだ。十二三世紀のころ、ルネッサンスの先駆になるトゥルーバドゥールの詩人たちを生み出して有名なプロヴァンスは、もっと広く南フランス一帯を意味するらしいが、そういう運動の発祥の地はやはりオリーヴの木の繁る狭義のプロヴァンスであろう。中世の陰欝な雰囲気がそろそろ明るくなり始めたのは、空の青いイタリアやプロヴァンスからであった。
ヨーロッパ人はニースの空が青いと言って喜ぶ。ロンドンからニース行きの急行が出て、それに婆さんや娘さんや夫婦者などがどっさり乗っている。パリからも同じく急行が出る。このあいだマルセーユまで同車したイギリスの婆さんは、やはりニースかカンヌあたりへ来るらしかったが、「英国はひどく寒い」と言って嘆息を洩らしていた。ところで、そういうふうにヨーロッパ人が皆あこがれているニースの空の青さというものはわれわれ日本人にはさほど珍しいものではない。なるほど今朝起きて見ると、一天くまなく青々と晴れ上がっていた。しかしそれはわれわれが日本で好晴の日に日なたぼっこをしながら見慣れている空である。日本ではそういう日でもひるすぎになると雲が出て来て、きれいな空は永くは続かないではないか、といえばいえるが、ここだって同じことで、今日は午後の二三時ごろから空がすっかり曇ってしまった。
(278) しかし日本と違っている、日本よりも暖かだ、と思わせた点が二つある。今日は朝食後海岸へ出て、ぷらぶらと昔の城の跡へのぼって見たが、驚いたことには|風がほとんどない〔付ごま圏点〕。そうして日光の直射の力が日本でよりも強い。日なたでは「暖かさ」ではなく「暑さ」を感じさせられる。外套はもちろん暑くて着ていられない。シャツは薄毛ので十分である。緯度で言えば北海道の北端と同じくらいで、太陽は南へずっと低くなっているのであるが、それでいてこのように暖かいのは、風のないことと、空気中の湿気が少ないこととによるのではないかと思われる。熱海あたりで天気のいい、風のない日ならば、これくらい暖かであるかも知れぬが、どうも私の感じではそれ以上に暖かなようである。この土地には椰子など熱帯植物が植えてあるが、それが並み木に使えるほど旺盛に育つというのは、日本と暖かさの質が違うからであろう。
ニースの町で主要な樹はその椰子である。海岸通りは立派な舗装路で、海沿いに何マイルも続いているが、その海寄りの人道と車道との間に大きい椰子の並み木があって、それが蜿蜒と続いている。二つのキャシノーの間にある海岸近くの公園へ行くと、ここでも目立つのは椰子である。ばかに幹の太いのがある。その傍に松なども植わっているが、小松でひょろひょろしている。(もっともこの地方の松が皆そうだというわけではない。公園の松の木の松ぼっくりはごく小さかったが、ホテルでストーヴの焚きつけに持って来た松ぼっくりは、両手で包み切れないほど大きかった。)そういうふうに椰子の樹を主導音に使って、いろいろ熱帯植物が植えてある。竜舌蘭らしいものや、アナナスに似た葉の大きい熱帯植物などもむやみにたくさん芝生のなかに並んでいる。
これは今まで見て来たリヴィエラの自然の風景ではない。人工的に移植して作り出したものである。そのようにニースの町全体がひどく人工的で、大都会の一部分をそっくりここへ持って来たという感じである。海岸へ来たとか、(279)自然の中へ出て来たとかいう気持ちはちっともしない。|リヴィエラ特有の気分〔付ごま圏点〕などというものはどこにあるのかわからない。
せめて城山へでも昇って見たら何かあるだろうと思って、椰子の並み木のはずれから石段を伝って山の上まで行って見た。十八世紀にあったという城の痕跡などはほとんどなく、やはり椰子や熱帯植物の公園になっている。そこへ昇って何よりも嬉しいと感じたのは、久しぶりで|砂まじりの土〔付ごま圏点〕を踏んだことであった。もう一つは、町を超えて遠く山々を見晴らしたことであった。近くの低い山々の上には点々として別荘らしい建物が見えるが、その上に、たぶん海岸アルプスであろう、相当に高い山脈が蜿蜒として連なっている。他方は色の鮮やかな静かな海である。やっぱり美しい景色といわなくてはならぬ。が、それは伊豆あたりの景色とはっきり違う。こちらの方がずっときれいである。野趣とか、鄙とかという言葉で現わしているような要素、自然の荒々しさにもとづく不規則性、そういうものがここにはないのである。一言でいうと、景色全体がいかにもハイカラなのである。
今晩は特別の料理とてはなかったが、それでもクリスマス・ブッディングを付け、メヌをきれいに印刷し、一々のテーブルにその客の国の国旗を立てた。イギリス、アメリカ、ドイツ、イタリアなどの旗が見えた。あいにく日本の旗がないと言って、ホテルの主人がしきりに言いわけをした。
この主人がわれわれに大変愛嬌をふりまくばかりでなく、泊まり合わせていたイギリスの爺さんが二人、しきりにわれわれに話しかけた。一人は、「五十年前、君たちのまだ生まれていない時分に日本に行った」という人、もう一人は一八九五年に日本へ来たという人、いずれも日本を知っているので、われわれに親しみを感じたのであろうが、し(280)かしこうして話していると、だんだん|リヴィエラ特有の気分〔付ごま圏点〕がわかりてくるように感じられた。それは町の外形に現われるようなものではなく、ヨーロッパの各国から集まって来た人々の問に醸し出される国際的な気分であるらしい。これはもっとゆっくり滞在してこの地の生活に浸り込まないとはっきりつかむことのできないものである。
十二月二十六日、ニースにて。
今日はニースから電車でモナコとモンテカルロへ行って来た。その電車は大体江の島電車くらいのものであるが、速力はあれよりずっとのろい。海岸の切り立った岩の崖に沿って走るので、海をながめる景色はなかなかよかった。黒ずんだ代赭色の岩を波が噛んでいる。山手の方を見ると、中腹から上は赤黒い岩の肌が露出し、それから下の方には松らしい木がはえている。その麓の急な斜面にはずっと続いて別荘が並んでいる。別荘の庭の植物は椰子にオリーヴにシトロンである。それに細い竹を植えている家がだいぶあった。そのほかに竜舌蘭らしいもの、サボテンの一種ではないかと思われるものなど、熱帯植物がよほど愛好されているように見える。(シトロンだと思ったのはあるいは蜜柑であるかも知れない。ホテルで食後に種のある小さい蜜柑を出した。日本でもわれわれの子供の時分にはこの小さい蜜柑が普通であった。今の蜜柑のように甘いのではなく、ちょっと苦みのある、皮の薄い、あの蜜柑である。傍へ行って見なかったのでどちらだかわからない。)
途中でふと目についたのは、岩の上の松である。海の中へ二三十間岩が突き出ていて、小さい島になっている。その島の上に五六尺の松がはえているのであるが、岩の上だからすっかりひねこびて盆栽風な形がおのずからにしてついている。日本の岩山などにはえている松と全然同じ格好である。こういう姿はヨーロッパの絵には全然出て来ない(281)ので、ヨーロッパにはないものと思い込んでいたが、この通りちゃんとある。一体にこの海岸では樹木が直立式でない。枝がいくつにも分かれ、それがくねくねと曲がっている。オリーヴの木がそうであるし、松の木もそうである。さすがに舞子の松のようにひどくうねった松はなく、枝や幹が曲がりくねっていても、全体としては均斉のとれた形であるが、しかしそれでも北方の樹木のように直立の感じがない。これは北方から来て見ると著しく眼につく点である。
こういう点だけ取り上げると、いかにも日本の風景に似ているように聞こえるが、しかし感じはまるで違っている。そうしてその違っているゆえんは、空気が乾燥していることにあるらしい。一見してすぐ感じるのがその点である。山や野の色はいかにも潤いのない色で、見るからにカサカサしている。岩山が堅い岩のままで露出しているのも、恐らく雨が少ないために日本ほど風化しないからであろう。従って山の形が角ばっている。日本のような円みがない。モナコもモンテカルロも、そういう岩山の、海に突き出た上にある。いかにも西洋の町らしく、自然に対して人工を際立たせるやり方で、自然と融け合う感じをできるだけ抜きにしたものである。従って人工の加わらないところが残っていると、いかにも未完成のような、半端な感じを与える。たとえば海岸沿いの山の上に別荘が立ち並んでいる場合、日本でならばこんなに建物がふえて景色をこわしてしまうと感じるが、こちらでは、建物がまばらでは形がつかない、なるべく隙間のないように立ち並んで山を覆いかくしてしまうくらいにならないと落ちつきがないと感じる。だからこの海岸の名所は、カンヌでもニースでもモンテカルロでもマントンでも皆家のぎっしり立ち並んだところである。自然の風景だけでは名所の資格にならない。
モンテカルロは賭博場で有名なところであるが、ちょうどその建物の前まで行くと、昼になったので、何の気なし(282)にその向こう側のレストランヘはいったが、これが失敗であった。客は皆金のありそうな顔をした人ばかりだし、給仕は皆ずるそうな顔をしている。手軽にすませて出るつもりで二皿ほどあつらえると、平気な顔をしてあつらえもしないアスパラガスを持ってくる。フランスのアスパラガスではなくアメリカ舶来のアスパラガスで、高いにきまっている。癪にさわって突き返したが、勘定書きを取って見るとちゃんとそれがつけてある。万事その調子ではなはだ不愉快であった。が、モンテカルロでは結局この給仕の顔が一番印象に残っている。
賭博場をちょっとのぞいて見たが、大広間につづいたとっつきの室に、長方形の大きいルーレット台が十数台並んでいた。玉突き台よりは少し長めだったと思う。まん中に三十六まで数字を刻んだ大きい|こま〔付ごま圏点〕があり、その外側に玉のころがる円帯がある。|こま〔付ごま圏点〕を回すといっしょに玉を反対の方向にころがす。やがて玉が|こま〔付ごま圏点〕のなかへころがり込んで、いずれかの数字の框の中にはいる。それで勝負がきまるのである。賭け方は丁半、赤白、及び三十六の数字で、台の上にそれぞれ記してある場所へ、貨幣代わりのエボナイトの札を載せておく。勝負がきまると中央及び両端にいる役人が、柄の長い掻き寄せ道具で当たらなかった札を全部掻き寄せ、当たった札のところへ配当を差し寄せてくる。丁半、赤白の場合は当たれば二倍、一つの数字の場合は当たれば三十六倍というわけである。一つの台のまわりには爺さん、婆さん、若い女、若い男取り混ぜて三四十人ほど腰をかけ、夢中になって金を賭けている。たいていの人は丁半、赤白か、あるいは数字に賭けるにしても三四か所、五六か所へ分散して賭けている。一つの数字に思い切って賭けるというような人は一人もいなかった。従って勝負はごく小さいように見えた。それでも台を取り巻く人たちは、しいんとしていて、
ほとんど口をきかなかった。賭博場を何か騒々しいところのように想像していた私には。この静かさは案外な印象であった。
(283) ルーレットはそれでも見ればわかるが、奥の方でやっているトランブの勝負になるとてんで見当がつかない。カーやブリッジなどもやっているのではあろうが、どの組がそれであるかさえわからなかった。
番人に尋ねてみると、ここで自殺する人などもないことはないが、すばやく運び出してしまうので、勝負に熱中している人たちは気づかないであろうとのことだった。この番人の言葉でおもしろく感じたのは、「私はフランスからここへ通っている」ということだった。彼の家はこのキャシノーから五六百メートルのところにあるのではあるが、しかしモナコの国境外で、フランスの領土なのである。
モンテカルロとともにモナコ国を形成しているモナコは、キャシノーのある所から一キロほど海岸を伝って行ったところにある。見るところは宮殿や海洋博物館であるが、大して印象に残るほどのことはなかった。宮殿の前の絵はがき屋に寄ると、十歳くらいの女の子が、一人はサンドウィッチを頬ばりながらわれわれを盗み見て笑う、もう一人はちゃかちゃかとわれわれの金を受け取り勘定して釣り銭を出す。いかにもかわいい。それが最も印象深かったといえるかも知れぬ。
(284) 二 イタリアに入る
一九二七年十二月二十九日、ジェノアにて。
二十七日朝、十時少し前の汽車でニースを出発、十一時十五分に国境に着いた。ここで時計を一時間すすめて、イタリア時間の十二時十五分にする。イタリアの汽車は一時半に出発、六時十分にジエノアに着いた。この汽車は「急行」としてあるが、十分か二十分走ると、きっと停車場へとまる。走り方もはなはだのろのろしている。その代わり汽車の中からゆっくり外を見物することができた。
汽車はジェノアまでずっと海岸伝いに走った。短いトンネルが無数にある。そのトンネルはたいてい、堅い岩をくりぬいたものである。このあたりの地勢はニースあたりと大体同じであるが、しかし国境地方が一番嶮峻で、東に来るに従い山と海との間が広がり、それがおいおいに広い土地に開けて行く。山も、岩肌を見せない、緑で覆われたのが、時々眼に映るようになってくる。
イタリアしにはいって著しく目につくのは、農家のきたないこと、村の多いことである。ニースから国境地方へかけては、ヨーロッパ人の遊び場が続き、別荘やホテルがぎっしりと並んでいるが、同じ海岸でもイタリア側ではそういう町はサン・レモくらいのものである。あとは農村や小さい工場町が多い。畑には葡萄や野菜や花などを作っている。カーネーションの花が一面に咲いている畑などもあった。畑や農村の具合は、ヨーロッパの中では、最も日本に似て(285)いるといえるであろう。しかし空気が乾煉していて、野山に潤いの感じがないということは、依然として同じである。それに加えてもう二つ、日本と著しく違う点が目についた。
その一つは、農村が|山の中腹〔付ごま圏点〕に位していることである。そうでない場合もないことはないが、通例はそうなっている。日本でも、山国に行けばそういう例は見られる。しかしそれは平地がない場合である。すぐ四五町下の山の麓に広々とした平地があり、そうしてそこに十分の余地がある場合に、わざわざその平地を捨てて山の中腹に村を作るということは、日本では決してない。しかるにここでは、山の麓に広々とした平野があり、そこに住んでも何のさしつかえもなさそうに思われるにかかわらず、村は山へ四五町ものぼった所にあるのである。しかもその山は灌木ばかりでいっこう茂っておらず、飲み水をどうするのかと心配になるくらいであった。
農村がこういう位置を取ることになったのは、一つは平地に多いマラリヤの蚊を避けるためであったかも知れぬ。もちろんマラリヤの蚊などということは近ごろの発見で、昔はマラリヤを瘴癘の気に帰していたのであるが、しかしその立場においてでも、平地よりは高地の方が瘴癘の気に乏しいということはわかったのである。だから農耕牧畜が可能である限りの高地に住むということが、村の位置を決定したとも考えられる。しかしそういう認識がどの時代に始まったかということになると、何とも見当がつかない。ギリシアのポリスは元来山の上のアクロポリスから始まっている。それは通例外敵の来襲に備えるためであったと解せられているが、どういう理由によるにもせよ、住居地を高所に営む伝統はすでにそのころにできている。この海岸地方は古くギリシア人が植民した地方であるから、そういう町の作り方もギリシア人から学んだかも知れない。また実際生活の上でも、マラリヤなどよりは敵の来襲の方が緊急事で、それに備えるためには不便を忍んでも高地を選ばなくてはならなかったかも知れない。そうであるとすれば、(286)マラリヤを避けるということよりも|敵を防ぐ〔付ごま圏点〕ということの方が村の位置を決定するのに有力であったとも考えられる。
もう一つ目についたのは、葡萄畑、桃畑、野菜畑などのまわりに、|石の塀〔付ごま圏点〕がめぐらしてあることである。高さは一間ぐらいで、小川の流れているところでは小川の両岸にそういう塀が作ってある。初めは風よけかとも思って見たが、どうもそうではないらしい。やはり普通の塀と同じように、他人の侵入を防ぐための障壁だと思われる。そういうものを畑のまわりに作るということはいかにも珍しい。フランスの方でも牧場などに低い垣根をめぐらしているところはあったが、こんなに高い石の塀はかつて見たことがない。もっともこの地方には石が多く、木などを使うよりは安いのかも知れない。しかしそれにしてもこういう石の塀が、野原にうねうねと、むやみにたくさん並んでいるのは、まことに殺風景であった。
ジェノアは今でもイタリア一流の港で、近代的商工業が盛んで、大きい造船所もある。そのためHはここで二日たっぷりの用事があるという。私はこの町で二日は少々閉口だと思っていたが、見物に歩いて見ると、実に見るものの多いのに驚く。特に目ぼしいものが少ないというためでもあるが、あまりたくさんのものを見すぎてどれもこれも印象が薄くなってしまった。
そのなかで一番強く興味を引いたのは、ジェノアという町全体の印象である。町の中心には十九世紀末から二十世紀初めへかけて作った大建築もあり、また新市街へ行けばすっかり近代的になっているらしいが、しかし固有のジェノアの町は、これまでヨーロッパのどこでも見なかったほど古風な姿を保存している。ドイツの古い町でもこれほどでない。あるいはイタリアの町が皆そうなのかも知れないが、とにかくこの町を歩いて最初に感じたのはこの点であ(287)る。
まず第一に目についたのは、町幅の狭いことであった。町の中央で二十世紀にできた大建築の並んでいるところだけは少しは広いが、それでも銀座よりは狭い。古くからある目ぬきの通りはせいぜい三間半ぐらいの幅で、しかもその両側に十六世紀中ごろの古い建築が立ち並んでいる。大体四階建てぐらいの、相当高いパラッツォ(宮殿)である。横町は一間半から一間ぐらいで、両側の住宅は五六階建てである。時には四五尺のものさえある。昔からある古い町はこういう路地(vico)でできていて、古い寺などの前面にだけ五十坪か百坪の空地がある。この町の姿には全く驚かざるを得なかった。
この町の名物はそういう古い建築である。ルネッサンス後期の建築がこれはど多い町はほかにあまりないといわれている。目ぼしい宮殿建築のうち、二つは美術館になり、あとは大学とか銀行とかに使われていて、皆それぞれ現在の生活に編み込まれているのである。ほかにロマネスクやゴシックやルネッサンスの寺院も相当あるが、皆現に寺院として活動している。いかにも過去の遺物らしく現在の生活から遊離して保存してあるのは、コロンブスの家くらいなものである。これは小さい、廃墟のような感じのものであるが、すぐ側にある十二世紀の市の東南門、ポルタ・ソプラナは、その|太い円塔〔付ごま圏点〕で近代の五六階建ての建築を圧しながら、半身をそういう新しい建築のなかに没入してしまっているのである。古い建築と現在の生活とのからみ合いは、そういうところに具象的に現わされているように思う。
この町の中央寺院カテドラーレは、十二世紀の初めにロマネスク式ででき、十四世紀の初めにゴシック式で改修され、十六世紀にルネッサンス式の円屋根をつけたという建物であるが、ゴシック式と言っても正面の入り口のアーチが頂点で心持ち尖っていること、前面にパリのノートルダムのを簡単にしたような円い文様窓がついていることなど(288)をさすのであって、北方のゴシックのように天を刺すような尖ったアーチや尖塔があるわけではない。むしろその逆で、建物全体に白と黒との大理石で|横線〔付ごま圏点〕を引いている。上へ燃え上がるような勢いはこの線で完全に押えられてしまう。ゴシック式としてはむしろ細部の装飾が問題となるであろう。入り口の細かい装飾になっている彫刻には十二世紀から十四世紀へかけてのものがある。前に言ったような狭い小路をぬけてひょいとこの寺院の前に出ると、堂全体の形よりはむしろこの細部に眼をひかれる。入り口に飾りつけてある多数の細い柱の下部は、ちょうどわれわれの背たけの高さで鋸の歯のように角ばったギザギザになっているが、その中ほど、われわれの胸のあたりのところに白い大理石の幅一尺五寸ぐらいの横の線が走っていて、それにいろいろな文様が彫刻してある。その彫刻などが著しく目についた。しかしこれも北方のゴシック式の装飾とはまるで感じが違って、よほど明るく、また|あっさり〔付ごま圏点〕している。
それと似たことは、中央寺院のすぐ近所にあるサン・マテオという十三世紀の小さいゴシック寺院でも感じた。この堂も同じように黒と白との横線が全面を覆うているのであるが、注目をひいたのはその御堂ではなく、付属の僧院の中庭をとり巻いている|回廊〔付ごま圏点〕である。上部は何の飾りもないただの壁であるが、それを受けて立ち並んでいる柱は全然ビザンチンの感じであった。ゴシックの装飾がビザンチンの影響で出てくるということを、ここではまざまざと見せつけられたように感じた。庭の中央にある井戸も円いあっさりとした形で、いわゆるゴシックの感じなどは少しもない。
港の傍にあるサン・ジョルジオの宮殿というのがやはりそうであった。これは十三世紀の建築で、その後幾度も手の加わったものであるが、今は港務所になっている。この建築もアーチの頂点がちょっと尖っているだけで、非常にあっさりした、簡素な感じのものである。三階の建物であるが、壁が多く、一階ごとに横に仕切ってあるので、むしろ(289)ろ古典的な印象をさえ与える。しかしそういうあっさりした中で窓框の細部だけがひどく目立っている。窓の縁に色石でダンダラ模様をつけたり、窓のアーチに鋸歯状のギザギザをつけたりしている点である。
ルネッサンスの建物になると、あまり多くて取り上げようがない。高いところからこの町を見おろすと、ゴシック風の尖塔は一つもなく、塔は皆円屋根である。二日の間町をぶらぶら歩いているうちに、ルネッサンス式の建築というものがすっかり慣れっこになってしまったような気がする。印象に残っているものを探すと、案外こまごましたものしか出て来ない。前に言ったサン・マテオ寺院の向かい側に|ドリアの宮殿〔付ごま圏点〕というのがあるが、細い露地の側の入り口に立って見ると、左右の柱や入り口の上部に一面に浮き彫りが施してある。このやり方はドイツのルネッサンスの建築でも見たが、よほど感じが違う。あっさりした広い壁に対して、袈飾が所々に|ちりばめてある〔付ごま圏点〕せいかとも思う。そういう細部の味が舌に残っている。
美術館になっている|白い宮殿〔付ごま圏点〕や|赤い宮殿〔付ごま圏点〕にはルーベンスやファンダイクの絵もあったが、どういうわけかそれよりもスルバランの「聖ユーフェミア」とカルボーネの「ジェノアの貴婦人」とが眼に残った。これらの画家はこれまで気に留めたこともない人たちであるが、ここの絵は非常に美しい。両方とも白い宮殿にある。スルバランはスペインの十七世紀の画家で、色彩の豊富と写実の精緻とに聞こえた人ではあるが、このユーフェミアの像にはそういう点が遺憾なく現われている。体をくねらせてうしろを振り返っている顔の頬の紅さがいかにも活き活きしており、体にぴったりと着《つ》いた上衣の暗緑色、大きくひだを寄せた裳の暗黄褐色、肩にかけた布の暗紅色などが、実に鮮やかに釣り合っていた。カルボーネの方は静かに立っている婦人の豪華な衣裳を丹念に描いたものであるが、肩から胸を覆うているケープのようなものや、派手に縁を取った裳などが、たぶん繻子かなんかであろう、白銀色のまじった薄い青色(290)で、非常に美しい。上衣や縁の飾りに派手な色も使ってあるが、絵全体には暗青色の色調があって、落ちついたよい感じである。
大学はクリスマスの休暇中で森閑としていたが、建物はなかなか好い。あまり広くない通りにじかに面しているので、外観はさほどでもないが、中庭はアーチをささえた二本並びの廊柱が取り巻いており、一階や二階が横に整然と統一されていて、いかにもルネッサンスらしい感じである。回廊の向こうの階段も非常にうまく付いている。こういう建物のなかに研究室や講義室があるということは、全くうらやましいと思う。
十二月三十一日、ローマにて。
昨三十日、朝十時の汽車でジエノア出発、ローマに向かう。大体は海岸伝いであるが、途中どの辺であったか、Hに注意されて見ると、普通の砂浜にじかにクレーンを立てて、相当大きな船を作っていた。造船所といえば大がかりな設備が必要なものと思っていたので、あんなことでどうしてできるのだろうときくと、Hは、いやあれでもやれるものなのだ、日本の造船所は設備の方が立派すぎるという。これは案外であった。なかなか考えさせられる問題を含んでいると思う。
途中汽車からながめて著しく眼についたことは、まず第一に、海岸の近くに日本の山と同じような格好をした山が続いていることであった。山々の樹木の具合は日本の中国あたり、瀬戸内海沿岸の山に似ているが、松のほかにオリーブのはえているのもある。そういうふうにとにかくも樹木に覆われている山々は、輪郭がわりに円みを帯び、とげとげしていない。ルネッサンスの絵の背景に描かれているような嶮峻な岩山は、このあたりにはほとんどない。ちょ(291)うど日本の水墨画や文人画などに、円い山を描かず、突兀とした切り立った山を描いているのと、同じようなものかも知れない。しかしそういう円みを帯びた低い山々の向こうにやや高い山、たとえば頂に雪のあるような山が見えると、それらはたいてい輪郭の角ばった山である。比叡ほどの高さもなかろうと思われる山でもそうなっている。やはり空気が乾燥していて、岩の風化が日本ほどひどくないのであろうと思われる。とにかく、比叡山とか、伊吹山とか、箱根山とかいうような、わりに大きくてなだらかな感じを持った山には一度もお目にかからない。ちょっと高いと思うともうアルプス式に尖っている。
第二に眼についたのは、これほど日光が強いくせに、雑草が依然としてはびこっていないことである。牧場の草はドイツと同じようにやはり柔らかい草、冬草であって、それが青々と茂っている。ただ幾分違うのは、リヴィエラ地方と同じように、緑草の間にまじっている雑草、すなわち黄いろく枯れている草が、幾分ドイツよりは多く、ちょいちょい眼につくほどである。多いところでは緑草六分、枯れ草四分くらいの割合にさえなっていた。そのため牧場の緑草は、遠くから見ると、よほど浅い緑に見える。また明るい色という感じをも与える。しかしそういう雑草も、細いヒョロヒョロしたもので、とても日本の雑草のような頑強なものとは見えない。気候は大体日本と同じであり、日光も日本に劣らず強いのであるが、それにもかかわらず雑草がこんなに少ないところを見ると、雑草の繁茂には夏の湿気がよほど必要だということになる。そういう意味で日本が、特に夏の半年の間は、太平洋の湿気をふんだんに受けているということが、日本の風土と非常に重大な関係を持っていると思われる。
第三に眼についたのは、イタリアには落葉樹よりも常緑樹の方が多いということである。しかもその緑色は案外に濃い。この春初めてイタリア南端の景色を見て、浅い明るい録色を「ヨーロッパの色」として感じたのは、今から思(292)えば右にあげたような牧場の線色や、オリーブの葉の銀色のまじった鈍い暗緑色を見たからであった。これは確かにヨーロッパの色に相違ないが、松とか、その他の常緑樹の緑は、そんなにひどく日本とは違っていない。ところでそういう常緑樹も、ただ一つ日本と恐ろしく違った点を持っている。それは|樹の形〔付ごま圏点〕である。特に松や杉の類が著しい。田舎の畑の間にある松並み木、あるいはところどころで見かける松林などで、松の木は整然とした円い形をしている。これと同じ形は、日本では、修学院の離宮の下の茶屋と上の茶屋との間の道路などに見られる。ほかにもどこかの離宮で見たように思うが、とにかく丹念に手入れをして、左右均斉にきちんとそろえて作った松である。そういう形は日本では自然のままの松は決して持っていない。しかるにここでは自然のままにのびた松がその形をしているのである。百本でも二百本でも、松林がことごとく、植木屋の丹念な手入れを受けたかのように、小枝をそろえて円い形になっている。これには驚かざるを得なかった。もう一つはサイプレス(糸杉)という木であろう、日本の檜と杉とに少しずつ似た木であるが、それが長い筆の穂のような形をして、整然と突っ立っている。百姓家のまわりなどに五六本ずつ並んで立っているのがよく眼につく。これもイタリアの景色の一つの特徴である。と言っても、ドイツ式にあくまでも直線的に直立した樹木はほとんどない。右の松や杉の類でも、幹はわりあいに不規則な線になっている。にもかかわらず全体の形が右のように人工的と見えるほどに整っているのである。これは自然の具合がよほど違っている証拠といわなくてはならない。もちろん、植物の葉としては、円く枝の形がまとまり、葉をそろえているのが、日光を受ける最もよい方法であろう。従ってこの形になるのが最も自然にかなっているのであろう。しかし日本では、人工を加えず自然のままに放任してある樹木は、決してこんなに整った形を取らないのである。そうなるとわれわれは異なった自然を問題とせざるを得ない。イタリアの自然は、気候が温和で風などが少なく、植物にこういう整った形(293)をおのずと取らせるのであろう。それに反して日本の自然は、荒い風や荒い雨が多く、植物をもおのずと不規則な形にならせるのであろう。
咋三十日は夜ローマに着き、取りあえず停車場の傍のテルメの広場の端にあるグランド・ホテルへ宿を取った。
今日は午前中に大使館へ行っていろいろ用事をすませ、その足でHとともに近所のパンテオンを見物した。円形の建物や円い屋根はすっかりローマ式のものである。古いローマ建築のうちで、壁や円屋根がちゃんと残っているのは、このパンテオンだけだといわれている。建築としては大して美しいものでないはずであるが、傍へ行って実物に面すると、その大きさのために一種の|力強さ〔付ごま圏点〕を強く感ずる。それで気がついたのであるが、ローマ建築というものは形の持っている質によって人を動かすよりも、むしろその大きさ、量によって人を圧倒するものなのであろう。壁は日本の瓦ぐらいの厚みの煉瓦を積み、その煉瓦の間をモルタルで接合したもので、実に堅固なものである。しかもその壁の厚さは一間以上あるであろう。この建築の構造上、これほど強い壁が必要だとは思えない。恐らく必要よりも何倍か強く、そのために力のあり余つた感じを与えるのではないかと思われる。
それを皮切りにローマの遺跡を回って来たが、これはどうも案外に偉いものだ。至るところで驚嘆を感じさせられる。これはちょっと手がつけられない。
今夜は大晦日の夜で、町はなかなかにぎやかであるらしい。出て見たい気がしないでもないが、しかしもうくたくたに疲れてしまった。湯にはいって寝るほかはない。
(294) ローマ滞在
一九二八年一月七日、ローマにて。
大晦日から初めて正月の四日まで、毎日Hとともにローマ見物に歩いた。正月と言ってもこちらは別に変わりはない。ホテルはほとんど満員だし、遊覧客もふだんの通りに歩いている。普通に見ることになっている個所はたいてい見て回ったが、あまりに見るものが多く、夜は疲れてしまって、印象を書き留めておく気にもなれなかった。
Hは六日の午前に無事にナポリに向かって立った。私はいつまでもあの豪奪なグランド・ホテルにいるわけにも行かないので、Hが立ったあとで、バルベリニ広場の近く、カプチンの寺に向き合った下宿にひき越した。そこには藤懸静也君や川路柳虹君が二三日前から泊まっているとのことで、途中で逢って教わったのである。バルベリニ広場はごく小さい貧弱な広場であるが、そのまん中にトリトンの彫刻の噴水がある。鴎外さんの訳したアンデルゼンの『即興詩人』で有名なところである。
Hといっしょに数日の間見て回って、ローマはやはり古代の遺跡だと思った。ルネッサンスのものなどは影が薄く、ローマ時代の巨大な建築と、ギリシアの彫刻とが、おもにわれわれに迫ってくる。ギリシア人はやっばり偉いとつくづく思う。カピトリノの美術館にあるヴィナスなどは、そう大したものだろうとも思っていなかったが、実物を見ると案外にいい。大理石が実にほのかな好い色をしているのみならず、肌の起伏が新鮮な生きた感じを持っている。こ(295)の形のヴィナスはプラクシテレースの〈クニドスのヴィナス〉――実物は残っていない、有名なコピーがヴァティカンにある――の流れを汲むものといわれているが、そういうプラキシテレース模倣者の作のうちでは、相当いいものであったかも知れない。一般に認められているように、この作がとにかく|ギリシア人の作〔付ごま圏点〕であるということは、私も認めたいと思う。もちろんそれはギリシアの一流の彫刻家の作ではなく、そういう作の影響の下におのずと模倣に陥らざるを得なかったエピゴーネンの作とは言えるであろうが、しかしそれでも創作であってコピーではなかろう。肌の表面は、コピーに通有な、鈍い、冷たい、死んだ感じではなく、とにかく生き生きしている。横にすべる面の感じでなく、中から盛り上がってくる感じである。
ローマ名物の大円形劇場コロセウムも見に行ったが、やはりこの大きさが印象を与える。そこからHと二人で新アピア街道の方へドライヴしてみたが、このアピア街道から見えるローマの水道の遺跡が、同様にローマの力の大きさを感じさせた。
前便に書いた樹木の形はローマでも同じである。アピア街道に沿って整然とした形の松が並んでいる。糸杉やポプラの細長い形も同様である。ローマの町で見たのでは、糸杉よりもっと|ふくらんだ形〔付ごま圏点〕の檜に似た木がある。日本の庭でよく見る形である。傍へ寄って見ると、鋏を入れたあとは全然見えない。小枝は自然のままにそろっている。
この一週間の印象から断片的に頭に浮かんでくるのは、まずそんなところである。
一月九日、ローマにて。
咋八日ほ日曜日で、美術館は早く閉めてしまう。朝のうち手紙を書いたりなどしているうちに昼になってしまった(296)のでどこへも行くあてがなく、昼食後ぶらりと散歩に出ようとすると、玄関の帳場にいる男が、今日はアフガニスタン王が来るので大騒ぎだと教えてくれた。そこでその騒ぎを見物しようという気になって、停車場の方へ足を向けた。
近ごろ新聞にはアフガニスタンの問題がだいぶ大きく出ている。ソグィエト・ロシアがシナで失敗したので、今度はインドをねらって、まずアフガニスタンから手なずけようとしている、というのである。そういうことが問題にされているちょうどその時に、アフガニスタン王が英国訪問にやって来るということになって、途中まずエジプトで大歓迎を受け、ついで今日ローマに着くことになった。ローマでもだいぶ歓迎の準備をやったらしい。先日、たしかローマに着いた翌日だったかに、オペラのことを聞き合わせると、アフガニスタン王が来るので今修繕中だという返事であった。その時は変なことをいうと不思議に思ったが、なるほどこの歓迎の準備をやっていたのである。
下宿から一町ほどでバルベリニの広場へ出るが、その広場の南側がバルベリニの館《やかた》で、バロック建築としては有名であり、一部は画廊になっている。その館の前をだらだら上りに、噴泉の名を担った通りが南東へのびているが、停車場へ行くにはこれが最も近い。その通りまで出るとちょうど軍隊の行進にぶつかった。赤い垂れ毛の付いた帽子をかぶり、肩やズボンに赤い飾りのある派手な服を着た軍楽隊が二三十人、先頭に並んで行く。そのうしろに六十近い士官が軍旗を肩に担いで歩き、それに続いて普通の水兵服の水兵隊が行進して行くのである。町を通る人は軍旗が前に来ると皆脱帽したり、手を上げたりして敬礼している。軍楽隊のやっているのは、オペラの「アイーダ」の行進曲だった。オペラの方をさきに知っていたせいか、ちょっと意外に感じたが、しかし考えてみると、オペラの方がこういう軍隊の行進をまねたので、オペラの行進曲そのものが本来軍隊式の感じのものなのである。従ってオペラめいた華やかな感じは、こちらの軍隊の持ち味であるに相違ない。そうなると賓客の歓迎のために軍隊をくり出すという意(297)味もよくわかる。
停車場付近の広場まで出て見ると、そこには水兵隊のみならずあらゆる兵種が集まっていた。最も眼についたのは、オペラの舞台よりももっと華やかな騎兵隊である。帽子はギリシアやローマの昔使っていたような兜で、頭を覆うている部分は銀色、後頭部から頭の上まで彎曲して突き出ている部分は金色、その中間や額の正面は赤色で縁取っている。そういう兜が日光にきらきら輝いているのである。その上肩には金色の房が付き、紫色のたすきをかけ、一丈以上ありそうな槍を携えている。敬礼する時には槍を高く立てて、前へ斜めに傾ける。どうも実に時代離れのしたものである。騎兵隊のほかに砲兵も来ている。大砲を引っ張って来て並んでいる。その帽子はヘルメットのような格好のものである。なおほかに槍を持たない騎兵もいる。そのかぶっている帽子は、ナポレオン時代の絵に見るような、三角形で、つばが左右へ長く出、前後へは出ていないあの形である。前には赤い房が立っている。赤い房はなお肩にもある。華やかではあるが、何となく子供じみていて、滑稽に感じられるくらいである。
ぼんやり立ってながめていると、すぐ前を忙しげに行き来する士官がある。それらの人たちがまた金、銀、赤、紫などのかざりをむやみにつけている。見なれない眼にはまるで西洋の時代祭りの行列のように見える。桜威《さくらおどし》とか緋威《ひおどし》とかの鎧を着て歩くのとあまり違わないのである。実際あの兜をかぶった竜騎兵たちは、胴に鎧をもつけているので、王様の行列が彼らの前を通り、彼らがいっせいに敬礼をしたときに、私はそれに気づいた。その時彼らの胸から背へかけて、銀色にぴかぴか光ったのである。
駅前の広場には相当見物人も集まっているが、しかし人垣で見えないなどというほどではない。やがて時刻が近づいてくると、飛行隊が三組、けたたましい音を立てて飛んで来て、七機ずつ雁の隊形で上空を回っている。隊形はき(298)ちんと整ってきれいに見えた。次には大きな飛行船がやって来て、これもしきりに上空を回っている。そういう中を、華美な竜騎兵に守られて、幌なしの馬車で、まずイタリア王とアフガニスタン王次いでイタリア王妃とアフガニスタン王妃とが、同乗して通って行く。見物は皆帽子をぬぐ。アフガニスタン王は、色は日本人ぐらい黒いが、顔だちはペルシア人だから西洋風である。体格は大きい。
このお祭り騒ぎを見ていると、軍国的なことや貴族的なことにおいて日本どころではないという気がした。見物も皆それを嬉しがっている。軍人もなかなかはばを利かせている。ところでムッソリーニはというと、華やかな馬車が宮廷婦人たちを乗せて見せもののように十台ほども続いて行ったあとから、普通の箱型の自動車で、すうっと音もなく通って行った。傍にいた見物人が、ムッソリーニ、ムッソリーニ、といって騒がなければ、私などは気がつかなかったであろう。ムッソリーニが通るとやっと見物が崩れはじめた。この男、なかなか味なことをやっているなと思わずにいられなかった。
今九日は午前中に美術館のパスをもらいに大使館へ行った。研究者のためには国家の管理するあらゆる美術館へ自由にはいれる許可証を政府が出してくれるのである。ところでそれには写真が二枚要るというので、大使館で教わって、届書用・証明書用の手ふだ形写真を即座に作ってくれる家へ写しに行った。
一月十三日、ローマにて。
この下宿に移つて生活が規則的になったせいか、だいぶ毎日の気持ちが落ちついて来た。で、このごろは、昼食までにどこか美術館か寺かを一つ見て、ゆっくり味わって、昼食には宿へ帰ってくる。昼食後は少し休んで、晩餐まで(299)仕事をする。その間に疲れれば近所の公園へ散歩に行く。公園へ本を持って行って詠むこともある。一月の半ばではあるが、公園のベンチに腰かけていてもさほど寒くはない。晩餐後には宿のサロンで新聞などを読み、十時ごろ室へ帰って寝る。二三日前から同宿のドイツ人の建築技師となじみになり、サロンで落ち合うといろいろ話し合ったり、西洋将棋をやったりしている。静かで上品な人である。イタリア人の騒々しいのは閉口だ、君は静かでいい、などとお世辞を言ってくれるが、どうもイタリア語は片言しか話せず、食卓で聞いていてもところどころ単語がわかるだけなのだからいたし方がない。このドイツ人も同じ程度であるらしい。
去る十日には、朝、金の用事でトーマス・クックへ行って、その足で、ミケランジェロのモーゼ像を見るために、サン・ピエトロ・イン・ヴインコリという寺へ行った。コロセウムの少し北の方にある。(第1・2図)
このごろギリシア彫刻に感心させられているせいか、ミケランジェロの作を見ると、ひどくギリシア彫刻に圧迫されているという気がしてならない。ミケランジェロはギリシア彫刻の偉さを実によく理解していた人であった。そのことを示す逸話も残っている。古代の彫刻はルネッサンス以後いろいろ補修を受けているものが多く、腕をつぎ足すとか、首をつけるとか、鼻をつぐとか、そういう補修のためにかえって印象をこわしているのであるが、ミケランジェロは、ベルヴェデレのアポロだったか何だったかの像に腕を補ってくれと頼まれたとき、どうしても付けることができなかったという。原作がよくわかればわかるほどそうなると思う。このモーゼの像を見ても、ギリシア人と同じやり方では到底かなわない、ギリシア人のやらなかった道を見つけたい、という気持ちが非常によく出ていると思う。これはルネッサンスの芸術家がたいてい持っていた気持ちで、ミケランジェロ一人には限らないであろうが、しかしミケランジェロは特にその気持ちが強かったであろう。モーゼの像もギリシア彫刻と同じく、「中から盛り出るもの」(300)を刻み出そうとしているのであって、決して上っつらの、中の空っぽな形だけを作ろうとしているのではないが、しかしそれをギリシア彫刻とまるで違ったやり方でやろうとしている。モーゼの髯でも、着物のびだでも、腕や肩の肉でも、ほとんど全体の形を無視するかのように、むくむくもり上がっている。その局部的な表現力で、全体の輪郭などをわざと見せないようにしているのではないか、と思われるほどである。この像の写真を見たときにはあまりごたごたしていていやに感じたが、実物を見てやっとそのわけがわかったように感じる。ギリシア人の重んじた簡素さ、輪郭の鮮明さを犠牲にしてまでも、このむくむくともり上がるものを生かせようとしたのであろう。古来この像は体の釣り合いが悪い、たとえば首のわりに肩や腕が大き過ぎる、と言われているが、それはわざとやったことに相違ない。そういう仕方で「内なるもの」を、あるいは精神を、外に押し出すことができる。それが彼のねらいであったと思われる。内と外の区別のないギリシア人、内が外であるギリシア人には、そんなことは問題にならなかったのである。ミケランジェロは確かに新しい境地を開いた。しかしこの二様の仕事を比べて見ると、ギリシア人は、全体の調和のなかでいかにも朗らかにやっている。ミケランジェロは、それより「深刻」に、あるい.は「精神的」になったかも知れないが、しかし偏っている。二つを比べろといわれれば、ミケランジェロの負けだというほかはない。ミケランジェロが圧されているというのはその意味である。
十一日に自由入場券をもらったので、十二日にはテルメ国立美術館へ行った。ジオクレチアン帝の浴場の遺跡にある美術館である。ここにはギリシア彫刻の本物、しかも一流の優れたものがある。いわゆるルドヴィチの王座〈ヴィナスの誕生〉などはその中でもまた一番美しいものである。Hと二人で初めてこの前に立ったときには、私はむしろ(301)落ちつけなかった。これはゆっくり見に来よう、もっと落ちついて見に来よう、そんなふうに心のなかでつぶやいた。その後もう何度かこの彫刻をながめに来た。見るたびに何ともいえない味が出てくる。何と言ってもローマ第一等である。(第3・4・5図)
〈ヴイナスの誕生〉の大理石の色はほんのりとした黄褐色である。これは石の特色ばかりでなく、地中に埋もっていたときのさびであるかも知れない。
この像が最初に与える印象は構図の妙である。中央の海から出ようとするヴイナスが両方に腕をあげ、それを左右から二本ずつの腕が出て助け上げようとしている、その六本の腕の交錯。左右にヴィナスに向かって膝をかがめている二つの肢体と、その外側に外方へ向けて膝をかがめている二人の女(笛吹きと花嫁)。それらの肢体を包んで左右に垂れている衣文。それらが実に美しいシンメトリーをもって対し合っている。どの部分もこの構図のなかで意味を持たぬものはない。たとえば左右の女のうしろへ引いた足、ヴィナスの両方の脇の下からちょっと見える三本の指、など。しかし主導的に働いているのは、やはりヴィナスの美しい首や胸や肩や腕などと、左右のニンフの胴体や腕などとの|からみ合い〔付ごま圏点〕である。女の腕や乳房などの|柔らかいふくらみで〔付ごま圏点〕構成されているこの微妙な旋律は、実に何とも言えない好い印象を与える。ヴィナスの腕から脇の下へ走っている線のリズムは、ニンフの腿から脚へかけてのリズムにおいてくり返されている。ヴィナスの額から顔を超えて頸の方へ走る線、あるいは円い頭の線のリズムは、ニンフの胸から腿へかけてのかがめた胴体の線のリズムでくり返されている。衣文の美しい流れもすべてこの中心の旋律に伴奏するものである。実に鮮やかな統一、微妙な調和、一点の晦渋さもない。しかもこの厳密なシンメトリーには機械的なくり返しはいささかも含まれていない。左右のニンフの体を覆うている衣は、明らかに|別種の布〔付ごま圏点〕でできている。(302)衣文の流れ方の相違で、われわれはその布の触覚の相違をさえ感じ得るように思う。上衣においてその相違が実に顕著であるのみならず、下肢を覆う裳にもそれははっきり出ている。左足にまとう布の皺のより方は、截然と違っている。二の腕に垂れる布もそうである。二人のニンフの|足の置き方〔付ごま圏点〕もはっきり違っている。左のニンフの両足ははっきりと現わされているが、右のニンフは右足だけである。右足を斜めうしろへ、左足を斜め奥へ、幾分交叉するような具合に足を踏みしめているのである。このように足の置き方が異なるために、左のニンフの左の膝頭だけが、二の腕の上へ現われている。そういうふうに見て行くと、左と右とで|等しい〔付ごま圏点〕と言える物の姿は全然ないであろう。左右の女の腕の肉づきさえも、かなり異なっていることが看取されるであろう。さらに外側の笛吹きと花嫁になると、左右を異なった姿で現わそうという意図は実に露骨に出ているといってよい。つまりあの厳密なシンメトリーは、それぞれに異なった、|個性を持った部分〔付ごま圏点〕によって構成されているのである。ギリシア人の作る統一は決して|一様化ではない〔付ごま圏点〕。あくまでも|多様の統一〔付ごま圏点〕である。
が、この〈ヴィナスの誕生〉では、ヴィナスはまだ|薄い衣をきている〔付ごま圏点〕。海水に濡れてぴったり肌に着いてはいるが、それでも決して裸体ではない。これは神々をまだ裸になどはしない時代、すなわち紀元前五世紀初めの、まだアルカイズムを脱却し切らない時代の作だからである。やがて数十年の後にはギリシア彫刻の最盛期が現われてくるので、この作はいわば「前夜」の作なのであるが、私にはどうもその、絶頂よりは一歩手前というところが、非常に気に入るのである。
この美術館にはそういう絶頂の時代を思わせる作が一つある。それは〈ニオベの像〉である。紀元前四五〇年乃至四二五年のころに、相当な彫刻家が作ったものであろう、といいうことになっている。これはニオベがアポロの矢を背中(303)に射込まれて、その瞬間に、ひざまずこうとしつつ、同時に手で背中の矢を抜こうと焦《あせ》っている、そういう|瞬間的な非常な動作〔付ごま圏点〕を現わそうとしたものである。そのためにこの像は、アルカイックな静止した像の伝統を破る必要があった。その伝統破壊はいろいろな点に現われているが、その一つは裸体である。ニオベは右のような危急の際の激烈な動作のために、着物がぬげて肉体が露出することなどをかまっていられない。これはこの作のモーティヴが必然に要求するところである。この作の時代にはまだ裸体はあまり作らなかったのであるから、当時としては相当に大胆な作であったろうと思われる。たぶんそういう関係によるかと思うが、この作は他の裸体像に見られないような|非常に新鮮な〔付ごま圏点〕印象を与えるのである。私は裸体彫刻を見てこれほど美しいと思ったことは一度もない。これもローマへ来て一番驚いたものの一つである。(第6図)
この像の大理石も、ほんのりとした黄褐色で、どこにも石の堅さや冷たさを思わせるところがない。が、驚いたのはこの石を刻んだ鑿《のみ》のあとである。(写真には写っていない。)ニオベの肌を注意して見ると、細かい線が無数に見える。またその線のほかに無数の細かい凹凸が見える。針の先はどの凹凸である。顔、胸、腕、どこでもそうである。この細線と凹凸とのために、この像の肌は表面という感じがしない。横にすべる面とは違った、柔らかい、中から盛り上がってくる肌の感じが、強く現われているのである。
もっとも大理石を刻む技術からいえば、誰がやったってそうなるではないかといえるかも知れない。しかし見たところではそうではないのである。横にすべる面、横に広がった面、従って何かを包むような面が、普通には見受けられるのである。それに対してこの像の肌は、中から盛り出す起伏を刻み出している。この相違は鑿を使う人の態度にもとづくのかも知れない。すなわち表面を作ろうとする態度と、奥から何かを掘り出そうとする態度、――前者は力(304)が横に動き、後者は力が縦に食い込んで行く。そういう態度の相違が、無数の細かい線や凹凸に異なった序列を与えるのではなかろうか。
具体的の例でいえば、衣文の刻み方である。ニオベの右足にかぶさって衣文は上下に流れている。その衣のひだをどういうふうに刻んでいるかと注意して見ると、(これも写真ではわからないが)鑿のあとは明らかに凹凸を作ることだけをねらっている。きわめて無雑作に彫りくぼめて、凸部と凸部との間を円滑につなげようなどとはしていない。凹凸を適当に作りさえすれば、衣文はおのずから流れているように見えるのである。
この根本の態度が、肉体の刻み方を支配している。中から円くもり上がる肉を、その微妙な盛り上がり方において、すなわち微妙な凹凸において、しつかりとつかんでいる。比較的単純なふくらみである腿でも、中から大きく盛り上がってくる感じは十分に現わされているのであるが、乳房から下腹部へかけてのごとき微妙で複雑な凹凸になってくると、その表現力は一層いきいきとしてくるのである。試みに乳房下の前面胴体のシルエットを見つめながらこの像を一周して見ると、乳より臍に至る問の起伏の曲線が実に微妙な変化を示すのに驚かざるを得ないであろう。
この像の右手は解剖学的に言って無理があるといわれている。なるほどうしろへ回って見ると、腕のつけねのところなど、少し不自然のように見える。しかしそういう欠点があるにかかわらず、この像は、そういう欠点を持たない像よりも美しいのである。正面からのみならず、横より見た姿も美しい。顔などは横顔の方がよい。のどから乳房の高まりを超えて腹の方に至る線の起伏も実に美しい。
この作に比べると、〈アナディオメネのヴィナス〉あるいは〈キレーネーのヴィナス〉は、少し落ちるように思う。このヴィナスはここの美術館でニオベよりも大事にされているし、また世間でもニオベの像よりも有名である。写真な(305)ども十種類ぐらいできている。アフリカのリビアのキレーネーから発掘したもので、たぶん紀元前四世紀の初めころのものだろうといわれているが、どうも私にはいろいろと腑に落ちないところがある。
なるほどこの〈キレーネーのヴィナス〉は、美しいには相違なかろうが、しかしどうも感じが固い。どうしても|石の肌〔付ごま圏点〕であって生きた肌ではない。肌の表面がつるつるして、ぴかぴか光っているが、これは磨いたものではなかろうかと思われる。足の傍にかけてある衣のひだの中などには、磨かない部分が残っているらしく見える。しかしもし磨いたものであるとすれば、それはギリシアの彫刻家自身がやったのではなく、恐らくローマ時代に誰かがやらせたのであろう。あるいはまた、最初からこういう滑らかな肌が作ってあったとすれば、それは四世紀ごろの原作に従ってローマ時代に作った模作であろう。凹凸を主にする刻み方が理解されなくなり、ただ輪郭だけを主にする態度にならなければ、こういう結果を生ずるはずはないのである。
美術史家のうちにはこの像を最大級の言葉でほめている人がある。そういう人の手前、この像を模作だとするのは少し酷であるかも知れない。しかし私は、少なくとも原作の表面を磨くくらいのことはやってあると思う。肌の凹凸がどうも新鮮さを欠いている。生き生きとした感じがない。特に下腹部の凹みあたりのところにその感が深い。ギリシアの彫刻家の細かい鑿のあとは、|磨けば消えてしまう〔付ごま圏点〕のである。ニオベの肌は細かい線や凹凸に充たされているが、しかし実に|きめの細かな柔らかい肌〔付ごま圏点〕の感じを与える。しかるにこのキレーネーのヴィナスの肌は、光線を反射して艶艶と光るくらいに磨いてあるのに、|ざらざらした荒い肌〔付ごま圏点〕の感じを与える。大理石の質にも関係があるかも知れないが、しかし肌の細かな凹凸はそれはど重大なのである。凹凸がないほどすべすべさせればさぞ柔らかな肌になるであろうなどと機械的に考えたのは、どうしてもローマ人に相違ない。
(306) 今十三日はローマ時代の古い遺跡のあるパラティノの丘を一回りして、帰りに狭い裏道を通って、カピトリノ美術館へ〈カピトリノのヴィナス〉を見に行った。この作の最初の印象が案外によかったことは前にちょっと書いたが、昨日〈ニオべの像〉や〈キレーネーのヴィナス〉をゆっくり味わって見た関係で、今日はこの彫刻をもう一度ゆっくりながめなおしたくなったのである。このヴィナスはニオベの像やキレーネーのヴィナスのように特別の室に置いて周囲を回れるようにしてあるわけではないが、その代わり台をぐるぐる回せるようになっている。番人がチップをもらいたさに回しに来てくれる。私にも回してくれたが、私の見ている間にほかの見物人のために六七度回してくれた。
この像の大理石はほんのりと薄黄色を帯び、いかにも暖かい感じがある。キレーネーのヴィナスの冷たく固い感じとはだいぶ違う。(第7図)
この像の肌も磨いて艶が出してある。しかしそのつるつるした光は、少し離れて見れば、眼に映って来ない。二三尺の距離から見てもその光が邪魔になるということはない。どういうわけかと思って少し子細に調べて見たが、それは、肌の面が磨いてあるにもかかわらず、細かな凹凸を磨滅してしまうほど強くは磨いてない、ということに基づくらしい。もっと詳しくいうと、細かな凸点だけを磨り落とし、細かな凹点を残しているのである。だから磨いた面には少し凹んだ細点が一面に見える。その凹点が右た言ったような重大な効果をあげているのであった。してみると、もし凸点が磨り減らされずに残っていて、光線を微妙に受けていたならば、その効果はもっともっと大きかったであろう。ギリシア人がこのことを心得ていなかったはずはないのである。
が、とにかく半分でももとの凹凸が残っているせいか、肌の感じが非常に新鮮である。中から肉のもり上がる感じ(307)が生きている。ギリシアの原作であることに間違いはないと思う。しかしギリシア人として優れた芸術家の作であるとはちょっと言い難い。まずプラキシテレースの亜流とでもいうところであろうか。ギリシアの正しい芸術の伝統のなかで育った人、しかしみずから一つの様式を創造するというような天才的な仕事をしたのでない人、むしろそういう天才に導かれてそのあとをついて歩いている人、そういう感じである。
この像は、ちょっと見ると肌の起伏が非常に少ないように見えるが、なかなかそうではない。キレーネーのヴィナスほどどぎつく現わしていないだけで、実は非常に敏感に注意を行き渡らせている。たとえば乳房の下、臍のまわりなどには、非常に複雑な起伏がある。ことに、上体を少しく前屈みにしている関係で、臍の上部に大きい深い谷ができている。横腹のところも大きくうねっている。背部になるとますます著しい。
もっともこういう起伏をつけるだけならローマ時代のコピーでも同じようにやっている。ここで問題にするのは、そういう起伏がいかに生きているか、いかなる意味を担わせられているか、という点である。肉体を解剖学的な事実に添うて単なる形として把捉する、というのでなく、中からもり出ているものとしてつかむこと、部分部分の面は中にあるものを|包んでいる〔付ごま圏点〕のではなくして逆にそれを|表出する〔付ごま圏点〕ものとして作られねばならぬこと、それを心得ているといないとでは、肌の面の生き方がまるで違ってくるのである。このヴィナスの肌の面は実によく生きている。特に脇腹、腰、背筋、背中の下部など、驚くべく微妙に、複雑に、また大胆にやってある。
どうも私には、キレーネーのヴィナスよりもよほど優れているように思われる。
一月十九日、ローマにて。
(308) 去る十五日日曜日の朝、黒板勝美先生が突然来訪された。先生は二度目の漫遊で、昨年七月下旬日本発、ジャバ、インドシナ、インド、ペルシア、バグダード、ダマスク、コンスタンチノープル、ウィンナ、ヴェニス、フローレンスを経て、十一日にローマに着いたとのことであった。私よりは十五歳も年上の人だが、私よりはよっぽど元気である。これからスペインヘ行き、ドイツを回り、四月中ごろロンドンからアメリカに渡るという。この先生といっしょにひるまえに美術館を一つ見、昼食の御馳走になり、牛後は先生のお伴をしてローマの郊外アルバノ、フラスカティなど、山の上の町まで自動車の遠乗りをした。
ローマの東南の郊外、古い水道の遺跡のある新アピア街道を、まっすぐに東南へ飛ばして行くと、いつのぼるともなくだんだん山の尾をのぼって行き、やがてローマの平野を見おろす高地へ出る。平野を超えて西の方には海も見える。と思うと、その眺望とは反対の側の山の方に、大きく山に取りかこまれて、ずっと低く湖水が見える。アルバノの湖である。湖の周囲の山の樹木はあまり大きくはなく、従って幽邃な趣は少しもないが、しかし一方に広い平野を望み、他方に静かな湖水を見おろす景色は、なかなかよかった。平原の方へなだらかに下って行く山麓の斜面は、オリーブの林――というよりもオリーヴ畑――と、葡萄畑になっている。葡萄の方は、今は、一本一本が四五尺のたけに刈り込まれていて、葉も何もないが、オリーヴの方は、白緑の葉をふくふくと盛り上がらせ、一面に地面を覆うている。なかなか豊かな感じである。そういう果樹畑よりも下の方の野は、麦畑か牧場になっていて、いずれもきれいな緑に覆われている。この野原を見おろしていればいっこう冬らしい感じはしない。しかし湖水のまわりの山は、くぬぎに似た雑木の枯れ葉で、いかにも冬めいている。が、それよりも一層冬めいていたのは、この眺望のいい場所に立ち並んでいるホテルや別荘であった。これらは皆夏向きのものだと見えて、今は窓に鎧戸をおろし、ひっそりとし(309)ている。
そこから山の尾根を少し降り気味に伝って行くと、葡萄酒で名高いフラスカティという町へ出た。一体ヨーロッパの古い町や村は、中心に寺院と役所を建て、その前に広場を作るのが定石であるが、こういう山の上の町でもやはり定石通りに広場を作っている。その広場が人でいっぱいになっているので、きいてみると、今日はお祭りだという。古めかしい行列が寺から出て、町じゅうを練って歩くのである。坊さんの前と後は、ローマ風の兜をかぶった兵士が守護している。先頭の方には|たいまつ〔付ごま圏点〕めいた灯を持った連中が、帽子をかぶらず、服の上に何かガウンのようなものをはおって、しずしずと並んで行く。その行列の沿道には、町じゅうの人々がたかって、帽子をふったり、手をあげたりして、敬意を表している。いかにも町じゅうの人々がいっしょになってお祭りをやっているという感じである。そういう人だかりのしている往来は、せいぜい二間幅ぐらいであるが、その狭い往来へ大きい自動車を乗り入れて行っても、別に怒る人もなく、のんきそうによけてくれる。そういう調子でわれわれはまず町を通りぬけて、町はずれの古いヴィラを見に行った。
それはヴィラ・ルッフィネラといったと思う。十六世紀の建築である。が、その建築よりも何よりもまず私の眼を驚かせたのは、ここの別荘の|風情〔付ごま圏点〕であった。左右に|破れ築地〔付ごま圏点〕がある。石を積んで漆喰で固めた|石の壁〔付ごま圏点〕であるが、いかにも破れ築地の風情《ふぜい》を感じさせる。道端の石には|苔がついて〔付ごま圏点〕いる。これはヨーロッパで見た最初の苔であった。門をはいって行くと、そこの感じが何となく日本の古い廃寺の庭へでもはいった気持ちに似ている。庭の土は関東あたりのような濃い色で、林の中についている道がいかにも湿っぽく感じられる。下草としてむやみにいろいろな潅木が乱れ合っている。ことに林の中には昔の庭の池の跡があるが、その池のまわりをたたんであった石には、苔がいっぱい(310)ついている。ヨーロッパに来て以来、こんなに日本の景色に似たものを見たのは初めてである。
そう感じるとともに私は、こういう類似を作り出している要素が、すべて要するに|湿気から来ている〔付ごま圏点〕、ということに気づいた。ローマにはこんなに湿気はない。古い建物のさびは皆乾いたさびである。しかしこれだけ山の上に来ると、湿気がよほど違ってくるらしい。樹木は平野に少なくて山の上に多い。フラスカティの町のあるあたりの高さ、すなわち海抜千尺くらいのところが、植物にとって最も都合のよい条件を与えるらしい。その条件の内の有力な一つは湿気である。フラスカティは|苔の成育〔付ごま圏点〕に都合がよい程度の湿気に恵まれているのである。
が、ここにも日本と著しく感じの違うものがあった。廃他のまわりに並び立っているサイプレスである。細長く、まっすぐに、まるで手入れをして形をつけたように、池を取り囲んで糸杉が整列している。もちろんそういうふうに植えたものに相違ない。この糸杉の整列をながめていると、中の池の|幾何学的な形〔付ごま圏点〕をしていることが、いかにももっともに思われてくる。
帰りに案内者のすすめるままにフラスカティの地酒を飲ませる家へ寄った。ここのは白葡萄酒である。店の中は大きい樽がごろごろころがっているだけであった。その樽の口からガラスのフラスコに出して、水のみコップと同じ形のコップで飲む。いかにもコップ酒の感じである。われわれがはいって行くと、飲んでいた連中は笑いながらあいさつした。葡萄酒は、あまい葡萄の絞り汁をそのまま飲んでいるような味のもので、あまり酒という感じがしなかった。それで少し油断して飲んだせいか、自動車でローマへの中途あたりまで来た時、酔いがひどく出て来た。決して弱い酒ではない。ただ口あたりが好いのである。そこで翌日宿の食卓でフラスカティを持って来させたが、これはまるで味の違う、うまくない葡萄酒であった。
(311) 翌十七日には黒板氏のお伴をしてトエスカというローマ大学の美術史の教授を訪ねた。法隆寺の壁画の保存に関連して、いろいろ壁画保存法の意見を聞くためである。そこを辞してからヴァテイカンやローマ時代の遺跡などをもいっしょに回った。黒板氏はその夜九時半の汽車でミラノに向けて立った。
十八日には市立の美術館コンセルヴァトリへギリシア・ローマの彫刻を見に行った。その中にムッソリーニ美術館という名で近ごろの発掘品を並べた部屋ができている。ギリシアの原作はあまりないが、ローマ時代のものでも彩色のはっきりと残ったのなどがあってなかなかおもしろい。ローマの町の道路工事トンネル工事などで偶然掘り出したものもかなりある。この調子だとまだどのくらい埋もっているかわからない。
十九日はグァティカンヘ行ってミケランジェロの大壁画をゆっくり味わって来た。今日で三度目であるが、たび重なるごとにだんだんよくなる。しかしこの壁画のことはまたあとで書こう。
ヴァティカンから帰って来て見ると、留守中に大西克礼君と古屋芳雄君とが訪ねて来たということであった。不意のことでちょっと驚いたが、あとで連絡して夕食にはこの宿へ来てもらった。十一月初めにベルリンで別れて以来である。ヴェネチア、フィレンツェなどを見物して昨夜ローマに着いたという。ベルリンの寒かったことがしきりに話題になった。
一月二十五日ローマにて。
今朝はヴァテイカンヘ行ってシステイン・チャペルの壁画を見るつもりで宿を出ようとすると、玄関の男が数通の(312)手紙やはがきを渡してくれた。二十七日には浜田さんがスペインの方からやってくるという。亀井、梅原両君は途中少し寄り道をするので、来月一日ごろになる。
今日はシスティン・チャペルで大西、古屋、それに若い竹山道雄君などに落ち合った。ちょうど昨日日本から食料品の小包が着いたところなので、日本の珍味があるからと言って皆を私の宿へ引っ張って来た。そうして虎屋の羊羹、焼きうに、貝の柱、うにのついたほしいか、海苔のついた豆などを並べて、玉露を出した。あいにく、ローマの水道の水はひどく石灰が混じっているらしく、茶の味は全然出なかった。しかし羊羹をはじめどれもこれも非常に好評であった。京都にはうまいものがあるなあと皆が言った。竹山君などは、こういううまいものが日本にあるのかなあ、と感心していた。実際久しぶりに食ってみると、匂いや味の豊醇なことに驚く。ことに|匂いの強さ〔付ごま圏点〕は全く案外のことであった。小包をほどいた時に、これは弱った、この匂いがホテルじゅうに広がって物議を起こしはしまいか、と思ったほどであった。海苔、うに、するめなど、皆ヨーロッパにない匂いで、その上恐ろしく強烈である。何だか空気の具合が違っているために異様に感じるのではないかとさえも思われる。ヨーロッパで食わせられる日本料理というものが、実は日本料理の影、形の上だけの日本料理であって、実際は日本料理ではないのだということが、これでよくわかった。こういう豊醇な匂いや味が抜きになっているのである。そうしてみると、船に乗って日本の土地を離れたときに、日本の味からも離れたのだ、ということになる。
大西君たちが来てから案内がてらにもだいぶ方々を歩いたが、この四五日の間に痛切に感じたのは、大本山サン・ピエトロの建築のよさである。(第8・9図)
(313) 元来この堂は、ミケランジェロが晩年に、死ぬまでの十八年ほどの間、関係していたものである。ミケランジェロが建てたのは、あの堂の上にそびえて堂全体を支配している円屋根やその下の部分である。ところがその大切な部分は、堂の正面から見ると、|ほとんど見えない〔付ごま圏点〕ようになっている。堂の前部三分の一ほどはそれよりも後の継ぎ足しで、それが邪魔をしているのである。普通にある堂正面の写真は、堂前の広場のこなたにある家の三階か四階かからとったものではないかと思う。広場の中の×印のところでながめると、円屋根はほんの少ししか見えない。広場のこなたの端の電車の停留場あたりからながめると、やっと円屋根の部分だけがすっかり見えてくる。横幅の広い堂の前面はそれくらいに事こわしになっている。前の回廊はそれを救うために作られたとさえ言われる。ミケランジェロのプランでは、円屋根とその下の堂体とが連続して、全体が|統一的な姿〔付ごま圏点〕に見えるはずであったが、そういう統一は今は見られないのである。
ところが、二十三日の午後、宿の近所のピンチオの丘の公園を散歩して、ちょうど日没ごろに、町を見おろす崖の上に出た。見ると、夕日がこのサン・ピエトロのすぐ左へ落ちて行くところで、円屋根が赤い西の空にくっきりと浮いており、その下の窓を通して夕日の光が輝いている。実に立派な、雄大な感じである。奇妙なことに、堂のすぐ前の広場に立ってながめても、私はかつてこのような|堂の大いさ〔付ごま圏点〕を感じなかった。十町も距てて見る今の方が、|はるかに大きく〔付ごま圏点〕見える。ことに円屋根の円みの具合、曲線の流れ落ちる具合、下の建物との釣り合い、などということは、今遠くから見て初めてはっきり見えたような気がする。こいつは偉いものだ、とつくづく感じた。ミケランジェロの企てた統一的な姿が見えたのである。
そこで今日は、ヴァテイカンへはいる前、お堂のうしろを回るついでに、できるだけ堂から遠いところへ行って、(314)堂の|うしろ姿、横の姿〔付ごま圏点〕などをながめて見た。横とうしろは、ミケランジェロの考えにほぼ近くできたのが、そのまま残っているはずなのである。そうすると、果たして、正面から見たのとまるで違った、実に立派な、堂々とした姿が目にはいって来た。これまでヴァテイカンヘ行くたびごとに、いつもこの堂のまわりを回っていたのであるが、堂のすぐ下を通るので、円屋根はもちろん見えず、壁の一部分が次々に眼にはいってくるだけだったのである。一部分ずつでもなかなかいいとは思っていたが、しかしこれほどまでに全体の形の整った、すばらしいものだとは、気づかないでいた。今日は先日の夕日のおかげで、その時の遠望よりもずっと明瞭にこの堂の壮大さを味わうことができた。
このサン・ピェトロのうしろ姿や横の姿は、写真に写されていないわけでもない。しかし普通にあるのはうしろ横の|丘の上から〔付ごま圏点〕見おろして取ったもので、円屋根を|下から仰ぎ見た時〔付ごま圏点〕の姿を捕えていない。あまり近くで見上げたのでは写真に写らないが、しかしせめて同じ平面からながめた姿でないと、この建物の感じは出ない。丘の上からでは、堂の体が小さく、円屋根ばかりが大きく見えているが、しかし堂の側の四五階建ての家が堂の軒まで届いていないくらいであるから、堂はずいぶん大きいのである。私は堂から一町あまり離れた×印の家の前でながめたのであるが、堂の軒までがかなり高く、堂々として見えた。その高い軒の上にさらに高く美しい円屋根が見えるわけである。だから堂体の巨大さと上の円屋根とが実によく釣り合って見えた。何よりも著しいのはその統一の感じで、そのために全体が実に雄大ないい形に見える。それに色が実にいい。円屋根はたぶん銅葺きであろう、青くさびているが、その緑青色が、ほんのりとした、調子の鈍い、渋みのあるいい色で、下の方の黄褐色の石のさびと実によく調和している。この建物ばかりでなく一体ローマの建物のさびは薄い黄褐色であって、朗らかな明るい色なのであるが、そのさびの最も美しく最もよく生きているのは、このサン・ピエトロの横姿、うしろ姿であると思われる。
(315) ミケランジェロのプランでは、この堂は十字形のまん中に円屋根がのり、左右とうしろの出っ張りが複雑な輪郭にモディファイされ、正面だけがまっすぐな玄関になるはずであった。だから正面の出っ張りもうしろの出っ張りと同じくらいで、二つの円屋根のあるところまでが堂の体、その前に玄関がつくことになる。従って正面からながめた時にも、左右の翼が見え、円屋根と堂体との続き合いも見えたはずである。その関係は今は横とうしろで見られるのであるが、そこは主として石の壁である。しかも単純な壁面をなしているのではなく、角柱の寄り集まりで複雑な面になっている。ある部分ではその複雑な面が全体としてまっすぐになり、他の壁面と直角に交わって角《かど》を作っている。かと思うと他の部分は角柱の並ぶ壁面が全体として彎曲して円壁になっている。そういう角や円でできている左翼と後翼との輪郭をわれわれはたどって歩くことができるのである。ミケランジェロのプランでは、この輪郭はもっとひどく、全部ぎざぎざのようにするつもりだったらしい。とにかくそういうふうに、無数の力強い角柱に分かれた壁が、さらに大きく凹凸しつつ、巨大な堂体をつくっている。その堂体の上から、美しい円屋根が、遺憾のない力をもって統一しているのである。
永遠の都ローマの宝冠はサン・ビエトロだといわれている。あの堂を宝冠だなどとは言い過ぎだと思っていたが、そうではない、これこそ宝冠だ、とつくづく思うようになった。
ヴァテイカンにあるシスト礼拝堂のミケランジェロの壁画や天井画のことは、書こうとしてもちょっと書けなかった。どうもこれは偉いものである。(第10・11・12・13図)
最初Hといっしょに見物に行ったときは、ここの礼拝堂全体がさびのある落ちついた色になっているので、あっと(316)驚くような気持ちになった。ここの絵のことはいろいろと紹介で知ってはいたが、この|堂内の気分〔付ごま圏点〕というふうなものをついぞ想像していなかったからである。壁から天井から一面の絵であるが、しかし色は褐色かにぷい赤、緑、青などであって、明暗も色調もあまり強くない。全体が沈んだ落ちついた調子になっている。堂の中にはいっていると、心持ちのいい色彩に身をくるまれているような、不思議な感じをうける。これほどすみからすみまで絵で覆われているお堂であるのに、うるさいという感じは少しも起こらない。やはり大したものである。
もう一つ最初に感じたことは、事実上、この堂自身が壁画や天井画のためにあるのであって、絵がお堂のためにあるのではないということであった。この印象も案外であった。ここは礼拝堂であるし、壁画や天井画はそれの装飾に相違ないからである。しかし実際は、その位置を逆倒しているのである。堂の内部は四壁と天井とだけでできている。そうしてその四壁と天井とはことごとく絵や文様で覆われている。絵と結びついていない部分は、出入り口の扉と、窓と、説教壇と、ぐらいなものである。絵にとって都合の悪いような建築的部分は、ほとんどない。しかし、こういうふうに、堂の構造そのものが|絵のために〔付ごま圏点〕できている結果として、絵の効果は十分に発揮され、堂内は芸術的な美しさに満たされたものになる。すなわち世界にたぐいのない美しい堂になる。つまり、堂がおのれをむなしゅうして絵に仕えている結果、絵は完全にその効能を発揮して堂を飾り、堂の装飾の役目を果たしていることになる。両者が互いに生かせ合っているのである。
この関係をミケランジェロは実によく理解しているように見える。特に天井画がその証拠である。この長方形の堂の天井は、長い方の壁から突き出た六個ずつの山形のささえによって左右から持ち上げた形になっているが、そのささえの外は一面に平らかな彎曲面である。だからこれを|一つの画面〔付ごま圏点〕にすることもできるのであるが、ミケランジェロ(317)はそこへ柱とか壁とかいろいろな建築的要素を描き込んで、無数の画面に区切ったのである。その描かれた柱は、実際の柱よりも浮き出して見え、従って実際の建築的な要素である山形のささえよりも一層建築的に見えるのであるが、そういう建築的な要素をミケランジェロは自分の注文通りのところへ注文通りの|形〔付ごま圏点〕や|大きさ〔付ごま圏点〕や|深さ〔付ごま圏点〕をもって置くことができた。ことに驚くべきことは|深さ〔付ごま圏点〕の巧みな活用である。同じ一つの平面に描かれていながら、柱頭にいる人物と、柱の間の壁の前にいる人物と、壁面に描かれた画中の人物とは、それぞれ明らかに|層を異にして〔付ごま圏点〕見えるのである。そういう立体感の活用によってそれぞれの画像の間の連絡統一が実に巧妙に行っている。彼は天井の壁面において自由自在に建築し、またその建築を自由自在に絵で飾ることができたのである。
この天井画は写真などで見るといかにもゴタゴタしているように見えるが、実際は少しもゴタついていない。複雑な構図のために、かえって、全体がきちんと整って見える。もし天井全体を区切らないで、一つの絵として描いたならば、これほどの統一を実現することができたかどうか疑問である。ミケランジェロは、区分して支配するというローマ人の統一のコツを、実によく会得していたように見える。
さてそのミケランジェロの絵であるが、これはちょっと息を入れないと書きつげない。実にミケランジェロという男は、途方もない男である。巨人というか、超人というか、何ともあきれるほかはない。
一月三十日、ローマにて。
シスト礼拝堂の壁画のことを続けて書こうと思っているうちに、二十七日の朝、浜田さんがローマへ着かれた。私の宿へ案内して、目下同宿中である。(318)浜田さんはずっと前にローマに十か月ぐらいいられたことがあるので、ローマはなかなか詳しい。二十七日には午食後ぶらぶら散歩に出て、まず近所のピンチオの丘へ行ったが、そのうち、私がまだ行ったことがないというので、アヴェンチノの丘の方へ連れて行かれた。そこには中世以前の寺や、サン・ピエトロを遠景に取り入れた庭や、ガラス張りの食堂の中でローマの廃墟を見おろしながら食事のできる料理屋などがある。その料理屋は昼食だけで夕食は出さないというので、ちょうど日没ごろの景色をながめながら、お茶だけ飲んだ。そこを出てぶらぶら丘をおりたが、この丘には今しきりに金持ちの家らしいのが新築されつつある。中には日本の文化住宅のような小さいのもある。ふと見ると新築の家の軒が日本の家の軒のように突き出ている。軒の上は瓦葺きの屋根である。垂木《たるき》は日本と同じく木でできている。これは日本家屋の軒をまねたのかな、と思いながら歩いていると、古いこわれかかった家がやはり同じような軒を持っていた。なるほど考えてみると、ローマの町の建築には、ルネッサンスの宮殿建築を初めとして、軒を持ったのが多い。今急にそれが注意をひいたのは、木の垂木を使ったり、日本風に垂れ下がった軒だったりした関係であろう。イタリアは日本のように雨が多くないし、また吹き降りも少ないであろうが、しかし北の方のヨーロッパに比べると、雨の降り方はよほど強いであろう。それが軒を必要とするゆえんだと思われる。これはなかなかおもしろい現象だと思った。
アヴェンチノの丘をおりたところに、古い寺やこわれかかった古い建物が二三あるので、それを見て、ついでにその近所の町の中を歩いた。私たちの宿のあるあたりとは違って、ここらはずいぶんきたない町だが、その町の中に子供たちがうようよ集まって遊んでいる。その感じも何となく日本と似ている。見ると、五六人で敷き石の上に線をひいて、|石けり〔付ごま圏点〕らしい遊びをしているのがある。しかし蹴っているのは石ではなくして|蜜柑の皮〔付ごま圏点〕なのである。見まわす(319)と、なるほど小石などはどこにも落ちているはずがない。陋巷といえども全部敷き石なのである。違うといえばずいぶん違うが、しかし貧乏人が多く子供が多いという事態は、よく似ていると思う。イタリアは日本よりも暖かく、自然も日本ほど荒っぽくないが、山が多くて使える土地が少なく、土地の割合に人口が多いという点では、日本と同じような条件を持っている。
もう一つ北方から来て著しく感ずるのは、人の顔の色の黒いこと――日本人そっくりなのもある――それから体の小さいこと、北方人のようにぬうっと落ちついていないで、せかせかしていることなどである。これはどうも風土的性格というほかはない。イタリアは北方の人から見ると太陽の国、青空の国で、好晴の日が多く、気候は確かに暖かい。夏は日本よりも暑いくらいであろう。日本ほど湿気がないので、太陽の光はきっばりとして明るい。そういう日光を浴びていれば、色はおのずから黒くなる。また寒い時がほとんどなく、苦しいのは暑い時だけだとすれば、生活が寒さよりも|暑さに制約されてくる〔付ごま圏点〕のは当然である。食事から言っても、イタリア料理は油気があまりなく、塩がわりに利いている。あっさりしている点では日本人向きである。脂もフライなどはオリーヴ油を使うので、からっと上がっていて、天ぶらのようである。それと同様に生活全体が暑さに規定される。寒い国では体をひきしめる習慣がつくが、暑い国ではだらける場合が多い。ひきしめる習慣は体格をよくするであろうし、だらける習慣は体格を悪くする。だからドイツ人にはいい体格をしている人が多い。女でもそうである。イタリア人には日本人と同じくらいに貧弱なのが多く、ことに女に日本風の痩せ方をしたのがある。ドイツ人が勤勉で、イタリア人が怠け者だといわれるのも、これと関連しているであろう。ドイツ人は神経が遅鈍なのではないかと思われるくらいで、なかなか疲労を見せないが、イタリア人はすぐ興奮する代わりに疲れやすい。こういう点で日本人とイタリア人とは似ている。他面には(320)ずいぶん違ったところ、むしろ根本的に違ったところもあるのではあるが。
二十八日には、大西や古屋が郊外に行こうとさそいに来たので、浜田さんも勧誘して、古代のアピア街道の方へ馬車で遊びに行った。この街道ぞいには例の有名な地下墓地カタコムがある。地上は少し春霞のかかったいい天気で、青々とした牧場の景色がまことに気持ちよいのであるが、地下には複雑に入り組んだ死者の町がうねうねと広がっているのである。
浜田さんは十何年か前に一二度寄ったことがあるというので、街道ぞいの一ぜんめしやのような家へはいって、マカロニを食べ地酒を飲んだ。この地酒の酔いが帰りの馬車の上で出て来て、ローマへ近づくにつれてだんだん苦しくなり、コロセウムのそばの坂道の途中でとうとうこらえ切れなくなった。
二十九日には、浜田さんの旧師ペトリー先生が、避寒かたがた物を書きに来ていられるというので、浜田さんのお伴をしてちょっとその常宿を訪ねた。ペトリー先生はエジプトやシリアの考古学的発掘で大きい業績をあげた人、ちょっとその風貌に接したく思ったが、あいにくまだ到着していられなかった。で、その足で浜田さんの旧知の考古学者メンガレリさんの家を訪ねた。
今日は午食後浜田さんと竹山道雄君と三人で、浜田さんの思い出のある場所を二つ三つ歩き回った。浜田さんの思い出に対する執着には実に強いものがある。以前ローマに滞在していた時に読んで非常におもしろかったというので、ホーソーンの『大理石の半獣神』を、スペイン階段の下の書店で買って与えられた。今日も即興詩人に出てくるアラ・ロェリという寺などに行った。
(321) ちょうど日本の春雨くらいの雨が今日はしょぼしょぼと降っている。
二月五日、ローマにて。
この一週間は動き回るのでいそがしく、机の前にすわるひまがなかった。
二月一日には朝九時四十分の汽車でローマを立ち、一時間ばかりかかるチェルヴァトリという村へ行った。そこはエトルスキの古い町があった所で、その町の墓地をもう十何年来、先日訪ねたメンガレリさんが発掘しているのである。浜田さんがその発掘を見に行くについて、誘われるままに私も同行したのであった。
この日は実によく晴れた日で、文字通りに一点の雲もなかった。その空を見ていると、蒼空そのものはわれわれにさほど珍しいものではないが、その空と野や丘とが相接するあたりに、何となく珍しい感じがあることに気づいた。日本でならば地に接するあたりの低い空はよほど蒼さが薄らいで白っぽくなっている。しかるにイタリアでは、蒼さの薄らぐ度合がごくわずかである。地平線に近い空もよほど蒼い。だから、緑の牧場の上にすぐに蒼い空が続いていて、実にきれいである。
汽車がローマの南郊を回って西へ出はずれると、そこはもう大都会の付近とは思えないような、純粋に田舎めいた牧場の中である。羊の群れが往来をぞろぞろ歩いて行く。少し斜めにうねっている広い牧場のなかにも、羊の群れが一面に散らばっている。ローマと海との間にある起伏の多い野原であるが、よほど地味が悪いと見えて、畑はなくただ牧場だけである。その牧場も、雑草の枯れたのが半分もまじっているようなところが少なくない。従って見渡す限り人家は見えない。そういう広漠とした景色を見ていると、イタリアは山が多くて日本に似ているなどと言ったのは(322)間違いだったという気がしてくる。日本よりはよほど土地に余裕があり、のんびりしている。土地が不毛で仕方なしにそうなっているのかも知れないが、日本にはあんなにのんきに使っている草地はないと思う。また日本ではあれだけだだっ広い草地を、ああいうふうに牧場にしておくには、かえって非常に手がかかるかも知れない。この辺と武蔵野とはちょっと地勢が似ているのであるが、しかし武蔵野には薄のような大きい草が茂っており、また樹木が多い。遠く見渡した場合に森や林が見えないということはない。しかるにここでは、見渡す限り草原で、樹木らしい樹木はほとんど見えない。海に近い平原であるにかかわらず、日本の高原のような感じである。そういう中を汽車はだいぶ長い間走った。
汽車の窓から見ているうちに、だんだん牧場の縁が濃くなり、ちらほら樹木が見えてくると、やがて村があって汽車が停った。ローマの近郊を出はずれてから、この最初の停車場、最初の村までの間は、一様に右のような景色であった。ちょうど沙漠を渡ってオアシスヘ着いた感じである。その停車場を出て次の村へつくまで、また同じような野原を二十分くらいも走った。そのころから少し土地の具合が豊かになり、停車場と停車場との間が短くなって、やがてパロ・チェルヴァトリという停車場に着いた。パロは海から六七町離れた小さい村、チェルヴァトリはそこから山手の方へだらだらと斜面になっている野を一里くらいのぼって行った丘の上の村である。その間に乗合自動車が通っている。それに乗って走りながら外をながめると、緑の牧場のすぐ向こうに濃い色の海が見える。海岸に松林があるでもなく、砂の白い磯べが見えるでもなく、牧場がすぐ海につながって見えるのである。こういう景色は日本でも瀬戸内海あたりにないではない。麦畑の麦の色が海の色に続いて見える、麦畑の崖の下が海だ、というようなことは、ないでもない。しかしどうも感じが違う。なだらかな曲線を描いた広い牧場がそのまま海に続いているこの感じは、(323)私には初めてのものである。そこへよく晴れた、水平線まぎわまであまり色の薄らがない蒼空がかかっているので、実に色彩のきれいな、優しい、穏やかな景色に見える。
この特徴は、チェルヴァトリの村からの眺望、ことにメンガレリ氏の発掘している古墳のあたりからの眺望に、一層よく現われていた。古墳の発掘地は、鉄条網で垣根をして、かなり広く草原を囲っている。自然のままに放置してあるのであるが、その草原の光景は今まで見て来た牧場と大差はない。直径は十町ぐらいもあったであろうか。その中に五六間ぐらいの高さの円塚が、あちらにもこちらにも散在している。小さい無数の墓は横穴であって、塚になってはいない。古墳などということを別にして、ただ景色としてながめると、ゆるい斜面の丘の上にところどころ小さい円山があり、その斜面が牧場とつらなって、はるかに海までうねって行く。水平線はかなり高く、円山の肩あたりに濃い海の色が見える。かと思うと、高い位置にある円山は、蒼い空にくっきりと食い込んでいる。海までの斜面はきわめてゆるやかで、いかにも広漠とした野原の感じを持っているとともに、他面にはその線の優美なうねり方やきれいな緑の色のためにいかにもやさしい和やかな印象を与える。つまり、ゆったりした大陸的な大きさと、日本にもないくらいなやさしさとを、いい具合に結合しているのである。その代わり、あまりにも隅から隅まできれいで、渋みや荒れた感じの少しもないことが、何となく物足りなさを感じさせる。どうも少し甘《あま》すぎる、見あきがしそうだ、という気持ちである。
チェルヴァトリの村は、そういう眺望をほしいままにする丘の上にある。昔このところに、ローマが強くなる前から、エトルスキの町があった。海から一里ほど離れていて、そうして海を見晴らし押える丘の上、――それは古代の定石的な都市の位置である。トロイアでもアテーナイでも皆そうであった。今は小さな村であるが、それでも乗合自(324)動車が村の入り口までのぽって来たときにふと見ると、そこの広場のまん中に、近代の作ではあるが立派な彫刻が据えてあった。また村の中にはいると、中央に広場があって敷き石が敷きつめてある。その広場に面した料理屋でメンガレリ先生から昼食の御馳走になった。牛の脳のフライが出て、しきりにお代わりをすすめられたには、少しまいった。食後別のコーヒ店へ行ってコーヒを飲んだが、そこで村の若い者に紹介され握手などをした。メンガレリ先生はいかにも愉快そうに歓待してくれる。一つは遠い日本から自分の仕事を見に来たということを村の人たちに見せたい気持ちもあったであろうが、一つにはまた実際嬉しくもあったらしい。十何年この仕事に没頭しているだけあって、アナトール・フランスの描いた学者のように、世間ばなれのしたよさ、一つのことに身をまかせ切っている人の持つ一種の貴さや愛らしさがある。もう相当の老人であるが、最も年少の私が疲れて閉口するほど多数の墓を引き回し、なおその上に、私たちの帰りの汽車の時間を気にして時計を見い見いしながらも、もう一つ、もう一つと言って、自分が先に立ってとっとと次の墓へ引っぱって行く。墓の中のエトルスキの建築、彫刻、絵画の類もおもしろくはあったが、この老人の仕事に打ち込んでいる姿は一層愉快であった。
一日にわれわれがチェルヴァトリヘ出かけたすぐあとへ、亀井君がフランスの方から到着した。夜逢ってこの日の話をすると、亀井君はきわどいところで同行のできなかったことを残念がった。
翌二日には亀井君も加わって浜田さんとともにヴァテイカンへ行った。昼には、先日食事のできなかったアヴェンチノの丘の上の魚料理屋へ行って、浜田さんから御馳走になった。ここはローマの廃墟ばかりで、なく、遠くローマの周囲の山々が見晴らせる。
(325) 三日には、パラティノ美術館に行き、夕方、サン・クローチェという尼寺へ尼さんのお勤めを聞きに行った。堂の中央に仕切りがあり、その向こうにまっ白な服を着た尼さんが三四十人腰かけている。男の司祭が祭壇の前で何かやるにつれて尼さんたちはお経を読む。それがずいぶん長く続いてから、パイプ・オルガンが鳴り出し、歌が始まる。姿の見えないところにも尼さんがいるらしく、その方から声が聞こえてくる。なかなかいい合唱だった。最後に繰り返して歌われた讃美歌は、初めがお経で終わりが歌になるような調子のもので、時宗のお寺などでよく聞いたことがあるという気がした。
夜は浜田さんにすき焼きの御馳走をし、そのあとで十三夜らしい月をながめにコロセウムへ行った。大きな、円い、こわれかかった建物の中から、月を仰いで見た感じは、一種異様なものであった。
四日は午前中ローマの廃墟を歩き、午後浜田さんを停車場に送った。この一週間、浜田さんのおかげでいそがしくもあったが、また楽しくもあった。ずいぶんいろいろなところを見せてもらった。
今日はひる前にテルメ国立美術館に行き、午後は久しぶりにこれを書いている。途中でピンチオの丘ヘ夕日を見に行き、ついでに十五夜の月を公園の中でながめた。空気が澄んでいるせいか、月がひどく球形に見えるように思われる。が、いずれにしても、日本では立春のころに月見をしたことはない。これだけローマが暖かなのであろう。
ヴァティカンの美術館のこと、特にシスティン・チャペルのことを書く余裕がなかなか出て来ない。
二月十一日、ローマにて。
十五日ごろに立って、ナポリやその付近を見、それからシチリアの島を回ってくる計画を立てた。ギリシア人の作(326)った古い町の遺跡を見るのがおもな目的である。それで出発までにローマで見残したところを見てしまうつもりで、亀井君といっしょに方々を見て回った。六日には小さい寺を三つ四つ見て昼食にアヴェンチノの丘へ行き、七日にはローマ時代の廃墟をかなり詳しく見た。見るものが多いと印象が散乱して結晶して来ない。
八日には、ローマの町の南の端にあるサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノという大きい寺を見に行った。前にも二度ほど見物に行ったが、詳しくは見なかったし、また傍にある美術館にもはいらなかったので、亀井君が見に行くのを幸いに見なおしに行ったのである。ところで、前に行った時には大したこともないだろうと思って二度とものぞいて見なかったキオストロ(四面回廊)が、なかなかおもしろいもので、ちょっと驚かされた。一体ローマには中世のものはあまり残っていないし、残っていても大しておもしろくないのであるが、このキオストロだけは例外のように思われる。回廊の立ち並んだ柱や、その上部の欄間についている文様は、皆モザイックである。普通の石でなく、赤や紫などの色を塗ってその上に薄くガラスをかけたような石を使っている。だから色彩は自由に濃くすることができる。その文様の効果は、写真で見るといやにひつっこくて感じが悪そうであるが、実際は不思議にさびのある落ちついた感じであった。金を薄く張った石も使っているが、これがよほどいい効果を出しているように思われる。ビザンチンの影響の著しいもので、同じ十三世紀ごろの北方のロマネスクやゴシックとはまるで感じが違う。北方のロマネスクは、ローマを模倣したもの、「ローマ式」のものに相違ないのであるが、しかしそれはアーチ形の窓をつけたり、円塔を作ったり、天井でアーチを交叉させたり、技術的にローマ式を取り入れただけで、芸術的印象の上にローマ的なるものを出そうとはしていない。むしろ反対に、森厳な感じ、厳粛な感じ何となく神秘的な陰欝な感じを出そうと努めている。ゴシックになると、その傾向は一層強まってくる。末期のゴシックなどは陰欝すぎてむしろ病的な印(327)象をさえ与える。しかるにこのキオストロは、そういう陰欝さや重苦しさのまるでない、実に朗らかな明るい感じのものである。むしろ愛らしい点さえあるといえるであろう。モザイックの文様や、ねじれた柱などでも、北方だとあくどい陰惨な感じを与えるのであるが、ここではいかにもしゃれた感じになっている。だから北方の僧院のような感じはここにはまるでない。芸術の様式として非常に違ったものであるが、感じの上からは、平安朝時代の寺院建築などに似通うものがある。(第14図)
こういう印象を受けてつくづく感じたことであるが、同じ中世でも、イタリアでゴシックが勢力を持ち得なかったということは、よほど意味のあることらしい。またしてもそれが、太陽の明るい、南国的な風土と関連して考えられる。イタリアの中世は、政治的軍事的に北方のゲルマン人に支配されていたために、種々の点において北方の影響を脱れることはできなかったが、しかし根本においては北方と違っていたのであろう。ダンテのころからきざし始めるルネッサンスというものも、このイタリアの特殊な気分とよほど関係があるであろう。中世が北方の中世のようなものだけであったならば、ルネッサンスは起こり得なかったかも知れない。
キオストロがおもしろくなったので、翌九日には、同じようなキオストロを見るために、ローマの西南の郊外にあるサン・パオロという寺へ行った。本堂は十九世紀中ごろに再建されたものであるが、大体は四世紀末にできたバジリカ式のもとの形を踏襲したのだという。大きい柱のずらっと並んだ、なかなか壮大なものである。その本堂のそばにやはり十三世紀のキオストロがあって、それが大きい本堂よりもよほどおもしろい。中庭は荒れていたし、モザイックなどもラテラノのものほどよくはなかったが、しかし大体の感じは同じであった。
(328) サン・パオロの寺のそばから馬車に乗ってローマの郊外をぼかぽかと走らせ、ドミテリアのカタコンベという古い墓を見に行った。この前おおぜいで見たカリストのカタコンペの近くで、地上は牧場になっている丘であるが、地下に狭いトンネルを作って、その左右に墓穴がある。古代のローマの貧民が、地上に墓地が買えないため、地下の穴を墓地にしたのだという。『クォ・ヴァディス』でよく知られているように、初期のキリスト教徒はそこを集会場などに使った。秘密結社の運動に加わることを「地下にもぐる」と言い現わすのは、ここから始まったことである。初期キリスト教時代の壁画や石棺類が残っている。
この前にもちょっと書いたが、地上には平和な、のどかな牧場があるのに、そのすぐ下の地面の中にこういう陰惨なものがあるのは、よほど妙な気持ちのものである。ローマ時代の貧富の階級の距たりや、初期キリスト教徒の殉教的な戦いなどが、いかに深刻なものであったかをつくづく思わせる。日本人などは、未来は知らないが、これまでにはこれほど深刻な人間の争いは経験しなかったように思われる。武家階叔ができて以来、ずいぶん戦争は多いが、しかしそれらは、ギリシアの古代のように、何となく|競技的性格〔付ごま圏点〕を持ったものである。ただ一つ比較のできるのは、キリシタン迫害であろう。ローマではキリスト教徒を珠数つなぎにして猛獣に食わせるというような残虐な迫害をやったというが、日本ではそれほどでなくとも相当残虐な手を使っている。殉教者が不屈であればあるほど迫害者も残虐の度を増すのである。しかし日本では、ローマでのように地下にもぐることができなかった。日本の土地は湿気が多くて到底地下の住居を許さないのである。はなはだ此喩的になるが、|日本の湿やかさ〔付ごま圏点〕は人間の争いを深刻ならしめない。
(329) 二月十日には、ローマから電車で半時間ほどかかる海岸近くのオスティアへ行った。テベレ河の河口近くで、昔ローマに物資を運び入れる港のあったところである。今のオスティアは海水浴場になり、ホテルなどもたくさんあるが、昔のオスティアは小さい村で、そこにローマ時代の町が発掘されている。大きい石を敷いた道の左右に人家があり、町の中央にはフォラムや神殿、その付近に劇場、浴場などが残っている。人家で最もよく残っているのは、一階の屋根まである。たいていは土台から二三尺くらいであるが、酒場の酒壷、酒を売る台、壁に描いた果物や魚の絵、台所のかまど、というふうなものを見ることができる。
これはポンペイについで有名な古い町だそうであるが、すっかり見るのに一日かかった。
今日は昼食前にヴァティカンへ行ってラファエルのいろいろの絵を見て来た。ラファエルは有名なわりに平凡な画家だと思っていたが、やはり有名になるだけのことはあるということがわかった。
ヴァテイカンにはラファエルの大きい絵がずいぶんたくさんある。純粋にラファエルの手になったのは〈ボルゴの火事〉くらいのものだといわれているが、あとのも大体よく似たものである。案外であったのは、〈アテーナイの学校〉とか〈モーゼ神の恩寵を祈る〉とかのような絵の色彩で、後者のごときはむしろ大和絵の色彩の感じに近かった。遠くに見える島は群青、近くの丘は緑青、最も手近な天幕は一方は緑青、他方は暗緑色と赤褐色、その間に建て並んだ七八つの天幕は赤褐と暗緑の縞や赤と白のだんだらになっている。その間に立ちのぼっている煙は白と灰色である。〈アテーナイの学校〉の方も、暗褐色の建物の奥に空の青い色が際立っていて、非常に魅力のある空間が作り出されている。偉大な絵とは言えないが、気持ちのいい絵である。
(330) 二月十四日、ローマにて。
咋十三日には天気がよかったので亀井君といっしょにティヴォリヘ遊びに行った。朝九時半ごろの汽車でローマを立ち、十一時前に途中ヴィラ・アドリアナの傍で下車して、ヴィラを見物する。ハドリアヌス皇帝の別荘の遺跡である。入り口のまっすぐな道の左右に糸杉の直立した並み木がある。葉は檜葉《ひば》をもっと細かくしたようで、小枝が血管のように細かく分かれ、自然のままで、手入れをした檜葉の垣根のようになっている。庭には一面に緑の草がはえており、ところどころにオリーヴの古木がある。白銀色のまじった渋い緑で、ちょっと見ると新芽のように見える。まるで日本の四月の末の野原のようである。夏はかえって黄いろくなるので二月の今の方が緑は美しいのであろう。ハドリアヌスの別荘のあとは廃墟になって残っているが、こういうところを見るとなるほど|廃墟の美しさ〔付ごま圏点〕というものが感じられる。糸杉の突っ立っている合い間からは遠くに一面のオリーヴの畑が見え、見渡す限りの美しい緑のなかに、いかにも破壊そのものを具象化したような、ゴツゴツした煉瓦の壁が残っている。もしこの壁がこれほど竪牢でなかったなら、またそれを取り巻く自然がこれほど温順でなかったら、こういう廃墟の美しさは現出して来ないであろう。もし廃墟というものの標準をこういうところに認めるとすれば、日本には廃墟などというものはない、と言ってよい。
二時間ほどして次の電車に乗り、だらだら坂をのぼって山の上の町ティヴォリに着いた。相当に高く、ローマの周囲のうねうねした野原がすっかり見晴らせる。が、この町が有名なのは、山の上の方から流れて来た川がここで急に滝になって落ちているからである。そこでまずティヴォリ一番の大滝を谷のこちらの岸からながめる崖の上の料理屋へはいつて昼食をしたためる。ちょうどこの崖の上にローマ時代の殿堂の廃墟があって、柱が数本残っている。料理(331)屋ではその柱の下に食卓を出して、そこで給仕してくれる。谷の向こうの滝のしぶきで虹の出ているのをながめながら、ここの川で取れる鱒の子トゥロタのフライを食べるのである。
ティヴォリではヴィラ・デステが一番の見ものとされている。枢機官エステの別荘で、ルネッサンス時代の庭園としてはこの右に出るものはないというのである。なるほどこの別荘の露台からながめた景色はなかなか好い。急角度の斜面になっている庭の中の糸杉の大木の梢から、ローマの野の全景が見える。またこの見晴らしのための露台の具合や窓の具合も大変いい。しかし庭そのものは、噴水をむやみに並べたりなどして、おかしなものである。糸杉のこういう大木を育てたということ、大木越しに遠景をながめるために遠景が非常に引き立つのであること、を除外すれば、この庭にはまず功績はないと言ってよい。
夕方ローマに着いて何の気なしに外に出ようとすると、そこに税関があった。ティヴォリから来るものでさえも税関を通らなくてはならないのである。私たちは幸い卵もキャベツもチースも買って来てはいなかったので、何のことはなかった。
(332) ナポリとその付近
一九二八年二月十六日、ナポリにて。
咋十五日午後三時四十分ローマ発、六時三十分にナポリに着いた。途中相変わらず田舎の景色が眼につく。ローマ平野と、ローマから四五十マイル南へ来たあたりの野山の具合とは、非常に違っている。これはおもしろいと思った。
ローマ平野、いわゆるカムパニヤは、厳密な意味で「平野」ではない。武蔵野と同じく、うねうねと波打った野原で、丘ともいえない程度の丘や、谷ともいえない程度の谷が続いている。その野原がたいていは牧場で、ただの草原のままほってある。見渡す限り森も見えず村も見えない。その草原には一尺以上の草などはまれにしかなく、どちらかといえば荒れた感じ、磽※[石+角]な感じである。ところが、汽車で一時間ほど走ると、この丘ともいえぬ丘の起伏する地帯を脱して、まっ平らな野原へはいって来る。山は岩山で、白い石の肌がところどころに露出している間に、オリーヴの乾いた緑が見える。つまりまだらに緑に覆われているのである。形はわりに円い。そういう山の麓から、海の方へかけて、水平の野が続くのである。日本では水田の関係で少し広く開けた土地はたいてい平野になっているが、こちらでは野原が平野とは限らず、むしろ平野の方が珍しい。そういう平野のなかへ出てくると、不思議にも畑の区切り方が小さくなってくる。ちょうど日本の田畑ぐらいの大きさである。しかも同じように不規則である。そぅいう畑に、麦や野菜が植わっている。たまにレモンの実の黄いろく輝く果樹園があるが、それも狭い。ローマ平野とは地質(333)的にもよほど相違があるのであろうが、農耕の風習の上にも何か截然として区別がありそうに思える。どうも日本に似た感じである。
しかしそれでもやはり著しい相違は眼についてくる。山の色がいかにも乾いた色であること、畑の色が日本よりもきれいな緑であるとともに、ひどく単調に見えること、などである。日本でも麦が五六寸にのびたころは緑はやはりきれいではあるが、しかし野原には麦の色のほかにいろいろな色調の緑があり、そのほかに去年の枯れ草の黄色とか、土の色とか、いろいろ複雑な色が混じっている。どうもこれほど単調ではない。やはり湿気の具合が違うのであろう。日本では岩山でも岩に黒くさびがついている。つるつるした白い岩肌が出ているなどということはない。しかもその間に草がはえ、オリーヴが育つというほどに土ができている場合には、表面の風化はもっとひどく、松か雑木かが生い茂っているであろう。だから山の色はどうしても違う。野もそうである。日本で冬黄いろくなっている雑草類は、烈しい日光と強い湿度とによって夏の間に旺盛に育ったものである。そういう草の葉は霜にやられると強烈な黄色を現わしてくる。麦のように霜に負けない|冬草〔付ごま圏点〕に対して、はっきり|夏草〔付ごま圏点〕が対立しているのである。ところでその霜は、寒さだけで出てくるものではない。空中に湿気がなければ霜はおりない。零下十度などでも霜はめったに見なかったが、イタリアへ来て見ると、昼間は十度くらいの暖かさであるのに、雨の日の翌朝は霜や霜柱が眼についた。しかしその霜にやられて真黄に輝き出す夏草が、ここにはあまりないのである。すなわち夏の間、日光はあっても湿気がないのである。
もう一つ顕著な相違は、こういう豊沃そうな|平野〔付ごま圏点〕に、村が一つも見えないことであった。ところどころにきわめてまれに一軒ぽつんと立っている家があるが、住家であるかどうかわからない。しかるにこの平野に臨んだ|山の上〔付ごま圏点〕には、(334)時々、村というか町というか、|人家の塊り〔付ごま圏点〕がある。人の住居がそういうふうに一か所に凝集しているという感じである。こういう村落の位置はイタリアヘはいった途端に眼についたことで、あんな所ではさぞ不自由であろう、水などはあるかしら、と思われるくらいの高さのところにあるのであるが、それが、ナポリに近づいてくると、ちょうど「城」のような感じの、いやにがっしりした姿を取ってくるのである。こうなると、「村落」という言葉が似合わなくなってくる。城壁に囲まれてその中に|家が密集している〔付ごま圏点〕のは、ポリスとかブルグとかと呼ばれてよいものであろう。しかもそれが、農民の住んでいる唯一の場所なのである。
これは古代のポリスの伝統と関係のある現象なのか、あるいはマラリヤの蚊に追い上げられて後に形成された聚落様式なのか、というような問題が、また頭に浮かび上がってくる。マラリヤの蚊の問題も、ローマのカムパニヤの光景を見ると、なかなかばかにはできない大問題だと思われる。ローマの野には一つの村さえない。このあいだティヴォリへ行ったときには、汽車で一時間半走る間、一つの村も町もなかった。そうして山にかかると、あっちにもこっちにも町が見えた。アルバノの山の方へ行ったときにもそうであった。山の頂上にある町さえあった。人間が平野の蚊を避けて周囲の山へ逃げたという趣がいかにもよくわかるように思われる。中世にはマラリヤの猛烈な流行のためにローマの人口が二三万にまで減ったとさえいわれている。もっともそこにはゲルマン人の侵入ということも結びついている。蚊ばかりでなぐ、敵をも避けたのであろう。従って両者は相合してこういう聚落様式を維持し存続させたのであるかも知れぬ。
今日はナポリの美術館で一日暮らした。なかなか見るものが多い。
(335) 亀井君のほかに大西君の一行ともいっしょで、なかなかにぎやかである。明日はポンペイの遺跡を見に行く。
二月二十日、ナポリにて。
このホテルはナポリの海岸にある。前にかなり広い公園があって、その外が海沿いの散歩道路である。なかなか景色はいいが、しかしローマに比べると恐ろしく人気が悪い。
十七日にポンペイの遺跡を見に行った。曇天でヴェスヴィオは見えず、景色はあまりよくなかった。午後はしょぼしょぼと春雨らしい雨が降った。遺跡のいろいろな発掘もおもしろくはあったが、こういう町が土に埋もれていて、その上が葡萄畑になり、千何百年かの間、人々がその上でなんにも気づかずに葡萄を作っていたということが、私にはひどく興味あることに思えた。ここはすでに発掘したからその間の関係が明瞭であるが、しかしまだ発掘されないところ、そんなものが埋もっていると誰も気づかないところのことを思うと、妙な気がする。気づかない限りそんなものは|ない〔付ごま圏点〕のである。そういう場合には、ポンペイの町の何尺か上で葡萄を作りながら、地下にそんなものがあるとは全然思っていなかった人と、われわれもまた全然同じ立場に立つのである。そういうことがいかに多いだろう。いや、そういうことの方が多いのではないか。そんなことを考えながら私はヴェスヴィオの裾野をながめていた。
発掘されたポンペイの町は実際大したものである。紀元七十九年現在の相当繁華な町をヴェスヴィオの噴火の灰で埋めてそのまま罐詰めのようにしていたのであるから、十八世紀の中ごろに初めてその一部を開いたときに、時の人が驚喜したのも無理はない。学術的な発掘は十九世紀の半ばを過ぎてからであるが、古代の認識のためにこの遺跡の貢献したところは非常に大きい。一目見て回ってもあまり詳しく見ることはできないくらいである。が、芸術的に非(336)常に印象の深いものがあるかというと、どうもそうはいえない。われわれの受ける第一の印象は、ローマ人の実際的な性格である。|公共的なもの〔付ごま圏点〕に対する感覚である。われわれ日本人のように「都市」の経営についてのセンスの欠けたものから見ると、この時代にすでに立派な都市の伝統のあったことがつくづくうらやましく感ぜられる。個人の住宅が多く残っている関係からローマ人の家庭生活をのぞいて見ることもできるが、これはあまり大したものではない。
二月十八日と十九日とはナポリの国立美術館の見物で暮らした。これで三日間美術館ばかりを見ていたわけである。それほどここには物が多い。ローマ時代のコピーがおもであるが、ギリシアの原作も少なくない。
その中で飛びぬけて優れているのは、ナポリ北方二十マイルほどのモンドラーゴーネから発掘されたヴイナスである。そこに昔シヌエッサという町があった関係から、(シヌエッサのヴィナス)と呼ばれている。発掘されたのはまだ新しく、一九一一年のことで、案内記などには帝政時代の作だなどと記されているが、昨年児島喜久雄君はこの像がギリシアの原作に相違ないこと、その作者は紀元前四世紀の代表的彫刻家の一人であるスコパスと推定せられること、などを主張した論文を発表した。この児島君の意見は非常に卓見だと思う。これほど鮮やかに原作としての印象を与えるものがどうしてローマの帝政時代の作だなどと言われるのか、全く理解に苦しまざるを得ない。しかもその美しさはパリにある〈ミロのヴィナス〉の比ではなく、今まで発見されたヴィナスの裸像のうちでこれほど優れたものはないと言ってよいのである。この美術館に並んでいる実に多数な作品全部を持って来ても、このただ一つの彫刻よりは軽い。それほどだと思うのに、この傑作は薄暗い隅っこに立っていて、見るのに難渋した。美術館が今修繕中だという関係もあるかも知れないが、やはり当事者がこの作の価値を十分に認めていないせいではないかと思われる。
(337) このヴィナスは、首、肩、両腕、胸の半分が欠損したトルソーであるが、しかし残っている下半身だけでもこの彫刻が神品であることを感ぜしめるに十分である。肉体の表面が横にすべっているという感じは寸毫もない。あらゆる点が中から湧き出してわれわれの方に向いている。内が完全に外に現われ、外は完全に内を示している。それは「霊魂」と対立させた意味の「肉体」ではなく、霊魂そのものである肉体、肉体になり切っている霊魂である。人間の「いのち」の美しさ、「いのち」の担っている深い力、それをこれほどまでに「形」に具現したことは、実際に驚くべきことである。そういう「いのち」の秘密を肉体から引き離した領域に求めるようになると、このような表現は不可能になる。内は|隠れたもの〔付ごま圏点〕となり、外はただ|包むもの〔付ごま圏点〕となる。表面は横にすべってしまう。(第15・16図)
もっともこういうことはギリシアの原作に通じて言えることであって、何もこの作に限ったことではないのであるが、しかしこういう傑作の前では特にその点をはっきりと感ずるのである。
この作に特有な感じ、ローマの〈ニオベの像〉や〈カピトリノのヴィナス〉に見ることのできないこの作の特徴は、その|雄大さ、雄揮さ〔付ごま圏点〕である。女体の裸像にこのような雄大な感じが現わされるということは全く不思議である。これは恐らく作者の個性や天才にもとづくことであろう。ニオべの像の肉体は非常にデリケートな感じである。ヴィナスの像で有名なプラキシテレースもきわめてデリケートな女体を作ったといわれる。しかしこの像の作者がねらっているのはそういう繊細な感じではない。剛宕とさえも言えるような成熟した女体の美しさである。
この像を見ていると、あとはもうどうでも好いような気持ちになるのであるが、しかしここにはポンペイやヘラクレネウムなどの遺跡から出た作品、特に銅像などになかなか好いのがある。そのほかにも、たとえばポリクレートスの〈ドリフォロス〉の模作とか、リシッポスの〈息えるヘルメース〉の銅像とかのような、美術史のさし絵でおなじみの(338)ものも相当並んでいる。ポンペイの壁画で有名なものもたいていここにある。 今日はこれから二三十マイル南方のサレルノの町に向かって出発する。そこからさらに南方二三十マイルの海岸にペストゥームの遺跡があって、そこにギリシアの殿堂が残っているのであるが、そこを見物するのに、汽車の都合で、ナポリからではどうも具合が悪く、そのためサレルノへ行って泊まるのである。こういう交通の便はどうも日本ほどよくないと思う。
二月二十一日、アマルフィにて。
今朝サレルノの町から汽車でペストーに行った。昔のポセードニアで、紀元前六百年ごろにシバリスのアカイア人によって建てられ、前三世紀にローマ人の手に帰してからペストゥームとなったところである。帝政時代にはマラリヤの害がひどく、だんだん衰えて行った。九世紀にサラセンが侵略して来たとき、住民は一マイルほど東の山手に逃げてカッパチオの町を作った。遺跡は数世紀の間ほってあったが、近代に至って注目されるようになったのである。
停車場は海岸から二十町あまりのところにある。人家などあまりない荒れたところで、停車場から海の方角へ二町ほども行くと、もとのペストゥームの町の遺跡のなかにはいる。遺跡と言っても見えるのは城壁くらいのものではなはだわびしい感じである。何となく期待はずれのような気持ちで田舎道を六七町歩いて行くと、突然ネプチューンの神殿が眼にはいってくる。その途端に私は、虚を突かれたように、驚きを感ぜざるを得なかった。今まで見なれて来た建築とまるで|種類の違うもの〔付ごま圏点〕が現われて出たのである。
この神殿は紀元前五世紀中ごろのもので、ドリス式である。石は大理石でなくトラヴェルチノ、すなわち小穴だら(339)けの石灰岩であるが、軟らかい黄褐色のさびが付いていてなかなかいい。高さはわりに低く、柱は下太りで、いかにもどっしりとした感じであるが、そのくせ石という材料をすっかり征服して、隅から隅まで|生き生きとした感じ〔付ごま圏点〕になっている。彫刻の上でギリシア人がそういう仕事をしていることは、これまでにはっきり気づいていたが、しかし建築の上にまでそれがあるとはつい思い及ばなかったために、突然の驚きを感じさせられたのである。ローマで見た建築はそれぞれに美しかったが、しかしそれはメカニズム(機構)の美しさであった。しかるにここにあるのは、いわばオルガニズム(有機体)の美しさである。石でできた建築が有機体などであるはずはないのであるが、しかしいかにも生きている。その点でとにかくはっきりと感じが違うのである。ギリシア人はローマ人ほど巨大なものは作らなかったが、なるほどこれでは作れないはずである。逆に言えば、ローマ人はこの生きた美しさを犠牲にすることによってのみ、巨大な構築をなし得たのであろう。
この神殿に驚嘆するとともに、このペストーの地が急に輝いで見え出した。堂のまわりをぶらぶら歩きながら、生きたような柱の中からギリシア人の息吹きを感ずるようにも思えた。とにかくギリシア人というものは不思議なものである。
午後の汽車でサレルノまで引き返し、そこかち自動車でアマルフィへ来た。ちょうど伊豆の東海岸のような海岸の崖の上の道を走らせるのであるが、運転手が乱暴で猛烈に飛ばすので、時々冷や冷やさせられるばかりでなく、実に寒かった。その上前の車の上げる埃がたまらなかった。大西君たちもいっしょで一行四人であったが、ホテルに着いてまず皆が異口同音に求めたのは、体を暖めることであった。ところでここでは伊豆のようにすぐ温泉に飛び込むわ(340)けには行かない。栓をひねると湯が出るというふうなバスの設備はここにはない。温浴を頼むと、これから特別に沸かすので暇がかかるという。それではといって火を頼むと、火鉢を持って来ましょうかという。アマルフィは温かいので、平生はストーヴをどんどん燃すようなことはしないのである。それをやいやい言って薪を持って来させ、炉で盛んに燃やして、やっと人心地がついたのであった。
そういうわけで、伊豆の東海岸に似ているというのは、ただ海岸に崖が切り立っていて、その中腹を道が通っているということだけである。その山は伊豆のように茂っているわけでなく、またその崖は伊豆のように山崩れの恐れのあるものでもない。全体がかっちりとした岩山で、いかにも涸いた感じである。浪打ちぎわを見ると、海までが伊豆とは感じが違う。海水の色はよほど化学的な感じで、磯らしい気分がまるでない。どうも地中海というものは太平洋とよほど違うのではないかと思われる。
アマルフィでは昔イブセンが泊まっていたというホテルに宿を取った。自動車でさんざんな目に逢った関係もあって、この日の夕食は非常にうまかった。
(341) 五 シチリアの春
一九二八年二月二十四日、シラクーサにて。
二月二十二日の午前中は、アマルフィの町をぶらぶら歩いて、一二の古い寺を見物した。崖の上の、もと僧院であったところの庭で、景色をながめながらお茶を飲んだりなどもした。
サン・アンドレアという中世の寺には、ちょっとおもしろいキオストロがある。様式はビザンチンとサラセンの影響でできたノルマン式であるが、丸いアーチをいくつも組み合わせて、その交叉の結果で、おのずからゴシック式の尖ったアーチができている。キオストロの柱と柱との間に、空を見上げるように空いているアーチは、そういう尖ったアーチである。ゴシックはノルマンの発明だ、というふうに考える人もあるようであるが、そう言い切るわけには行かないにしても、尖ったアーチがゴシックの独創でないことだけは、はっきり言えると思う。
このキオストロにこの地で出た古い石棺が並べてある。その浮き彫りで見ると、ギリシアのごく末期、ヘレニスティックの時代のものと思われるが、まだローマ時代の石棺浮き彫りのようにごたごたしていないで、単純な統一を保持している。個々の人体もなかなかしっかりできており、中にはうまいなあと思うようなのもあった。
二十二日には午後三時半ごろにアマルフィを出発、四人でサレルノまで引き返した。ここで大西君たちと別れ、亀井君と二人で九時の夜汽車に乗り込んだ。
(342) サレルノからメシナ海峡まで汽車で十時間ぐらいかかるが、この間に下車して泊まれるような町がない。なるべくなら昼間の汽車で途中を見物しながら旅行し、夜は降りてホテルで泊まるようにしたかったのであるが、第一、昼間にそういう具合のいい汽車がなく、第二に途中で泊まれない、というわけで、やむを得ず夜汽車にしたのである。それくらい、イタリア南部の西海岸は土地が痩せているとみえる。
二十三日の朝、六時ごろに眼をさまして外の景色をながめると、もうシチリアの山が海の向こうに見え、汽車の沿線にはところどころに豊沃そうな野原もあった。しかし海沿いの山から海までの間がかなりの急斜面で、農耕には適しないであろうと思われるような地勢のところも、少なくはなかった。山は岩山で、せいぜいオリーブの木がはえているくらいである。全体にひどく涸いた感じがする。
八時過ぎにメシナ海峡を汽車のまま船に乗って渡った。メシナの町は瞥見しただけで九時近くに出発、町を離れて田園にはいると、急に周囲の豊沃なのが眼についてくる。畑にはレモンの木が見渡す限り続き、葉の間から黄色の果実が暖かそうに輝いている。レモンのないところは麦畑で、麦がもう三四寸にのびている。畑の間にはところどころに桜ん坊の生《な》る桜の木に花が咲いているが、もう満開は過ぎて七分通り散ったあとである。全体の感じは、伊豆ほどみずみずしい感じはしないが、しかしちょっと似たところがある。
そういう春めいた、日本の四月下旬のような景色のなかを、一時間半ほど走ってタオルミーナに着いた。山が海に迫っていて、わずかに鉄道や街道が通じるくらい。停車場の裏はすぐ波打ちぎわである。その山の上に、昔ギリシア人の作ったタオルミーナの町がある。そこが今はヨーロッパの余裕ある人たちの避寒地になっている。停車場から見(343)上げると、すぐ四五町上に見えるのであるが、馬車や自動車の通じる道はうねうねと迂回しているので、一里くらいはあるであろう。その道をのぼって行くと、やがて雪を頂いたエトナの山の美しい姿が見えてくる。山の勾配は非常にゆるやかで、一つの火山でありながらほとんど山脈のように見える。下を見ると蒼い海や蜿蜒とつづく波打ちぎわも見えている。山は白く、水は蒼い。なるほどこれはヨーロッパで一度も見なかった山水明媚な風光である。タオルミーナの町はそういう景色を見晴らすところにあった。
このタオルミーナの町に、ギリシア人が作りローマ人が改造した劇場が残っている。その劇場を見物に行って、ただ地形だけ残っている見物席の一番下の段に立って見ると、ちょうどエトナの山の頂上だけが見える。一番上の段へ上ると、エトナの全山から海岸の波打ちぎわまで、全景が見晴らせる。ギリシア人はこういう明媚な風光を背景にしながら蒼空の下で演劇を鑑賞していたのである。これは私には実に案外なことであった。これまでいろいろと劇場の構造や演劇のやり方について書いたものを読んだことはあるが、その演劇が、蒼い空、蒼い海、白い山などを見晴らしながら鑑賞せられていたということを、私たちに注意してくれた人はなかった。これは演劇鑑賞の心理を考える上に相当重要なことではないかと思う。ギリシア人はこのことを勘定に入れているのである。その証拠は、この劇場の|位置の選定〔付ごま圏点〕で、この場所こそタオルミーナの町のうちで最も眺望のよいところなのである。
私たちが見に行ったときに、滞在客らしいドイツ人が、見物席と舞台とに立って、声がどのくらい通るかをためしていた。声は非常によく通る。野天であるにかかわらずこれだけ楽に聞こえるのは、音響の具合がよほどよく考えてある証拠ではないかと思う。見物席の上の方にいても、舞台あたりのところで見物人が普通の声で会話しているのが聞き取れた。見物席は半円形の擂鉢形《すりばちがた》であるが、その擂鉢形の傾斜度がよほど具合よく行っているのであろう。舞台(344)は擂鉢の底にあるわけである。見物席の段々は天然の地山の石を利用して作ってあったのだそうであるが、今はあとかたもなく、ただ草が青々とはえているだけである。その草の上で、避寒客たちが、日なたぼっこをしながら景色をながめていた。
タオルミーナの景色が気に入ったので、劇場のすぐ下のホテル・ティメオへ昼食に寄ったついでに、ここへ泊まる気になって、室はないかと聞いてみると、お気の毒だが満員だという。しかし近所の何とかホテルで今日一室明くはずだから、聞いてみてあげようかなどともいう。あとでベデカーをあけて見ると、タオルミーナはシーズンにはいつも満員のところで、あらかじめ申し込んでおいても当てにならない、と書いてあった。今はこの地のシーズンである。二月一日から三月へかけてプリマヴェラ・シチリアナ(シチリアの春)のためにローマやナポリからシチリアのパレルモへ五割引きの往復切符が売り出されている。われわれの乗って来た汽車もわりに込んでいた。今この地にうんと客の集まっているのも無理はない。そういう中へ無理に割り込むほどのこともなかろう、というので、やはり予定通り、今日のうちにシラクーサまで行くことにした。
山を下りて二時四十分のころの汽車に乗り、エトナの裾野を走った。エトナの裾野の海に近いあたりはなかなか豊沃で、相変わらずレモン畑、麦畑、牧場などが続いている。しかしこのエトナの東側、海に近い方の裾野は、わりに起伏が多く、小さい山と谷とになっている。谷には水のない、石のごろごろしている川のあるところもあった。
エトナの南側、カタニアの町までくると、エトナの山の姿がすっかり変わってくる。よほど斜面が急になり、一つの山らしくそびえた姿になる。ここから南にもまだエトナの裾野が続いているが、やがてエトナを周って西から東へ流れているシメト河の流域に出ると、かなり広い平野になる。この平野を南へ突っ切るまでの間、エトナは常に見え(345)ており、その姿もちょっと富士山に似てくる。なかなかいい山である。
夕方六時ごろシラクーサに着いて、海岸のオテル・デ・ゼトランジェーというのに泊まった。このホテルではどういうわけかわれわれを非常に歓待してくれる。さっそく風呂にはいって昨夜の汽車の疲れを洗った。
昨日の汽車の骨休めに今日は寝坊して、十時過ぎからこの地の美術館を見に行った。この町のギリシア人の遺跡から掘り出したものがたくさん並んでいる。ギリシアの瓶やテラコッタの類は数え切れないほどあり、中にはずいぶんみごとなものもある。彫刻では、ローマ時代のもののほかに、ヘレニスティックの時代のものが五六点あった。
この美術館の名物は、〈アナディオメネのヴィナス〉である。ヘレニスティックの時代の作だといわれている。写真で見たときには大したものでもなかろうと思っていたが、実物を見るとなかなかいい。まっ白な大理石で、首と右腕のほかは全部よく残っている。ナポリの〈シヌエッサのヴィナス〉のようなどっしりした荘重な趣はまるでないが、柔婉織細な感じをねらった型のものとしては、現存のヴィナスのうちで屈指のものと言っていいかも知れない。もっともギリシア彫刻の内部で考えれば、これは末期のもの、頽廃期のものであるに相違ない。しかしこれだけの女体像は、ギリシア以後の時代ではなかなか見られるものではない。この像の前に立ってながめていると、ローマの〈カピトリノのヴィナス〉よりもあるいはこの方がいいかも知れない、という気持ちがした。
明日はシラクーサの郊外にあるギリシア時代の遺跡を見に行く。シラクーサは昔ギサシア人の町として栄えていた。アィスキュロス、ピンダロスなどの詩人が栄えたり、プラトーンがやって来たりなどしたところである。その時代の(346)町は今の町よりもずっと大きい。
明後日は午前中の汽車でシチリア南岸のジルジェンチヘ向けて立つ。そこにはギリシアの神殿が残っている。
二月二十七日、ジルジェンチにて。
二十五日にはシラクーサの昔の町のあとを自動車で見て回った。この町はギリシア人の作った町としては珍しく広い町で、紀元前四百年ごろにできた城壁は、周囲が十七マイルあるという。その広い町の遺跡の大部分は、岩がごつごつ露出していて、その間に緑草がはえている、というような荒れた土地である。今残っている遺構は、城、城壁、劇場、石切り場、などであるが、それらはほとんど皆廃墟で、ただ石がごろごろしているだけだといってよい。
中で最も印象の深かったのは劇場である。擂鉢形半円形の見物席の段々は、全部地山の石をじかに腰掛けのように刻んだものであった。従って見物席全体が一枚岩というわけである。この見物席はタオルミーナの劇場のそれよりもよほど勾配がゆるく、格好もよかった。その代わり非常に開いた感じになるので、声の具合はどうであろうかと思って、亀井君と二人で舞台と見物席との間で声の試験をしてみたが、普通の声でも見物席の上の方までよく通る。それは実際不思議なほどであった。この劇場はタオルミーナのそれよりもよほど大きく、円の半径は三十六七間くらいある。ギリシアの劇場のうちでは最大のものの一つである。それでいて声の通りは私がこれまで経験したどの講堂よりもよかった。
この劇場は紀元前五世紀にできたものである。その五世紀の中ごろには、悲劇作家アィスキュロスがこの町に来ていた。その後この見物席から、ギリシア悲劇の傑作の数々がながめられたことであろう。ここでもまた見物席は海の(347)方を向いている。よい眺望である。
城は昔の町の西北隅、一番高いところにある。石垣がかなり残っているところもある。石垣から岩の中へ地下道が掘り込んであるので、試みにはいって見ると、一枚岩をくりぬいたトンネルで、穴の四方がきれいな岩の肌であり、それが全然湿気を帯びていない。恐らく昔のままであろうと思われる。これはプラトーンがこの地に来たときよりも半世紀近く前にできたものである。
城の上に立ってながめると、シラクーサの昔の町が一目に見渡せるのみならず、海があり山があり、なかなか景色がいい。遠くエトナの白い姿も見えるはずであるが、あいにくこの日は春雨めいた雨がしょぼしょぼと降っていて、遠望が利かなかった。その代わりごろごろした岩の間の柔らかそうな緑草が、雨にぬれてしっとりとしていた。何という名か、赤い小さい花が草の間にたくさん咲いていて、なかなか風情があった。
シラクーサのもう一つの名物は石切り場であるが、これは建築材としてのトラヴェルチノを掘り出した跡が、湮滅のしようもなくおのずから残ったものに過ぎない。しかしそれを見てわかったことは、地中にあるトラヴェルチノが非常に柔らかくて切り出しやすいことである。たぶん小穴が多く水気を含んでいるからであろう。ところでそれを建築材として使うと、非常に堅くなってくる。なかなか便利な石なのである。石を切り出した跡にいろいろな細工がしてあるのは、地中の石が柔らかい関係で、石工の遊戯心を刺激したのであろうと思われる。
それほど石に豊富で、いろいろな建築があったはずのシラクーサに、ギリシア建築は残っていない。しかしシラクーサの中央寺院は、ギリシア時代のアテーネーの神殿の柱をそのまま使っている。ドリス式のどっしりした柱である。神像を据えていた室の壁も、アーチ形をくりぬいて柱のようにして残されている。まことに変な感じである。
(348)
二十六日、シラクーサを立ってジルジェンチに向かう。昔のギリシア人のアクラガス、ローマ人のアグリゲントゥムで、その名を復活して今はアグリジェントと改称している。天気はまたよくなった。エトナの裾野まで引き返し、エトナの南側を西の方へ、シチリア島の中央部へ向けてはいって行くのである。
この日沿道の景色で実にめずらしく感じたのは、起伏する山や谷が一様に――すなわち谷の底から山の頂まで――畑や牧場に覆われていることであった。地図で見るとこの鉄道の沿線でも高い山は三千尺くらいあり、線路自身が二千尺くらいの高さまで上っているのであるが、しかし全体が高くなって行くので、車窓の外に見える景色は少しも変わらず、いつも同じように丘が起伏しているだけなのである。そうしてその丘は、たいていゆるやかな斜面を持った円い丘で、頂上まで麦や緑草で覆われ、そのためにきわめて|細い輪郭〔付ごま圏点〕を見せつつ、直ちに空に接している。こういう丘の輪郭をわれわれはあまり見たことがないのである。われわれの知っているのは樹木に覆われた丘で、それが空に描き出す輪郭は決して土地の線ではない。たとい樹木がなく茅に覆われた丘であっても、その茅の厚味は一間くらいはあって、土地自身の線を隠している。しかるにここでは、今四五寸に伸びた麦が、あるいはそれよりも短い緑草が、土地を覆うているだけなのである。従ってそれが空に印する輪郭は、非常に細い感じになる。あるところでは、丘の上の畑を馬で耕している農夫の姿が、蒼空の中にシルエットになって見えた。これは私には実に珍しい感じであった。
同じことは北方のヨーロッパでも見られそうなものであるが、私は一度も出会わなかった。それは恐らく丘の起伏の波が非常に大きく、傾斜が非常にゆるいせいであろう。全体の印象からいうと、あれは平野が歪んで起伏しうねっ(349)ているという感じであるが、しかしシチリアのは、われわれが普通に考えている通りの形をした丘であって、傾斜がわりに急であり、また一つ一つに小さくまとまった形をしている。この相違のゆえに、シチリアで特にこの現象が眼についたのではないかと思う。
とにかくそれは珍しい景色であった。丘があり谷があって、しかもそこに一本の樹木もない。全体が麦畑かそら豆畑か牧場かであって、一面に緑に覆われている。そういう景色が汽車で数時間走る間続いた。一時間ほど昼寝して眼をさまして見ても、窓外はやはり同じ景色であった。
谷底の畑の間には、かえって樹木が見える。それはアーマンドやピーチなどの桃のたぐいである。シチリアにはいった途端にはこの木を桜ん坊のなる桜桃かと思ったが、それは間違いであった。今日汽車の中で傍のイタリア人に聞いてその間違いがわかった。木の形は日本の梅の木そっくりで、花の具合は桃の花によく似ている。小枝の具合が日本の桃と違うので、つい桜桃かと思ったのであったが、やはり桃の種類であった。それが今、所によっては満開、所によっては半ば散っている。遠くから見ると、ちょうど日本の桜を遠望する時のように、ぼうっと白っぽく見える。それが谷底の低いところに時々立っているのである。緑のきれいな草原の傍に、枝ぶりのおもしろいアーマンド桃が咲き、その下を小川が流れて、石の橋がかかっている。――そういう風景を見ると、日本で十分手入れの届いた庭園と同じような感じがある。
咋二十六日八時過ぎにアグリジェントに着き、町からだらだらと少し下って土地第一のホテルに宿をとった。その時にはもう暗くてホテルからの眺望はわからなかった。
(350) 今朝起きて窓から見ると、下の方の緑の丘を超えて静かな海が見え、そこまでのゆるい斜面には相変わらずアーマンド桃が咲いている。ホテルの下の畑にもそれがある。その桃の花の間から、ギリシアの神殿がはるかに黄色っぽく見えている。
朝食を終えるとすぐにホテルの庭から畑へ出て、谷の向こうの、神殿のある丘へと目ざして行く。畑にはそら豆の花が咲いており、畦には桜草のような赤い花や、菜の花に似た黄色の花が散らばっている。そうしてそれらの花の上には相変わらず桃の花がかぶさっている。海が近いせいか、陽気の具合も湘南あたりの桃の花のころと同じようで、ぽかぽかと暖かい。ヨーロッパでこんなふうな空気の肌ざわりをこれまで感じたことがない。非常にいい気持ちである。
まずたどりついたのは低い丘の上にあるカストルとポルックスの神殿である。柱が四本だけ残っている。傍に桃畑があるので、梅のような枝ぶりの桃の花の間から、黄色に輝いている柱が見える。下には緑の草がふさふさと生い茂って絨毯のようである。昔ピンダロスが、人間の町のうち最も美しいものと歌った、その町の片鱗がここに見られるのである。(第17図)
そのギリシア人の町は、海から十四五町離れて、この丘陵地帯から今のアグリジェントの町を含む高みにあった。今の町の最も高いところは海抜千尺くらいあるが、右の殿堂のあたりはよほど低い。ちょうどこのあたりから、海岸線とは斜めに、東西に細長い丘が隆起している。この丘は後にローマ人の町の南側の城壁になったのであるが、その上にギリシア人の神殿が二つ残っているのである。
埃っぽい住家をたどって丘の中ほどまで行くと、いかにも取り残されたという感じで、いわゆる〈コンコルディアの(351)神殿〉が立っている。柱は三十四本、全部そろって残っており、柱の上の横石も、東西の破風《はふ》も、大体もとのままである。中世にキリスト教の寺院になっていた関係でこのように保存がいいのだという。(第18図)
そこからさらに東の方へ、丘のはずれの一番高いところまで行くと、そこにいわゆる〈ユノの神殿〉がある。これはコンコルディアの神殿についでよく残っているが、欠けた柱も相当にあり、柱の上の横石もそろっていない。これは紀元前五世紀に建てられたドリス式の神殿で、コンコルディアの神殿よりも少し古いと言われている。太い柱の間から向こうの景色をながめているとなかなかいい気持ちになる。北方の丘の頂上には今のアグリジェントの町があるが、そこは昔のアクロポリスのあった場所だそうである。そこからこの殿堂の丘の下までのゆるい斜面に、今はオリーヴの木が点々とあり、その間には、名は知らぬが、かなめもちと椿との合いの子のような木や、花の咲いている桃の木などが続いている。桃の花の咲き続いているところは花の雲のようである。いかにも春らしい。
ここの神殿は皆大理石でなく、この地方から出る小穴だらけの石灰岩でできている。磨けば滑らかになるであろうが、風雨にさらされているために、まるでぼろぼろの柔らかい石のように見える。もとはこの石の上に白い漆喰を塗り、彩色を施したらしく、少し残っているところもあるが、今はほとんど全部地肌が出て、黄色っぼく見える。その地色がなかなかおもしろいのである。
これらのギリシア建築を見て、まず第一に受けた印象は、その|粛然とした感じ〔付ごま圏点〕である。この感じだけは、後の時代のどんな美しい建築にもないように思う。実に静かで、しんとしていて、そうして底力がある。これは恐らく他の時代の建築に見られないあの「単純さ」に起因するのかも知れない。もっともこの単純さというのは、内容が少なく、(352)簡単だ、ということではない。豊かな内容を持っていながらそれに強い統一を与え、その結果結晶してくる単純さである。
この粛然とした感じを味わって、これに比べることのできるのは、むしろ唐招提寺の建築だと思う。ロマネスクのいい建築には|厳粛さ〔付ごま圏点〕や|力強さ〔付ごま圏点〕が認められるが、こんな粛然とした感じはない。ゴシックのいい建築にも神秘的な神聖さを感じさせるところはあるが、もっとはるかに熱情的で、こういう静かさを持たない。ルネッサンスのものはもっとにぎやかで、派手で、複雑である。そこへ行くと、唐招提寺の建築などに現われたあの魂の静かさほ、かえってこれと通じるものがあるであろう。
しかし、似てはいても、他方に非常に異なった点のあるのは、もちろんのことである。ギリシアの神殿の屋根が直線でできており、日本の仏寺のそれが曲線でできている、という相違ばかりでない。木材と石材という材料の相違もなかなか重大なものである。木材は本来「生きもの」であったせいか、材料自身において死んだ感じを伴なっていない。だから材料に生き生きした感じを与える努力を、さほど必要とはしない。しかるに石材は、材料自身においていかにも死んだ感じのものである。従ってこの材料を生き生きとさせること、その中に生命を吹き込むことに非常に努力しなくてはならぬ。ギリシア人はこの努力に力を集中している。これが非常な相違を作り出しているのである。
ギリシア建築を見て第二に受けた印象は、まさにこの点に関している。それは、石材を完全に征服して、生きたものにしている、ということであった。柱の円み、そこにつけた竪溝(フリユーティング)、さらに軒回りの三条の竪線、そういうものが集まって、不思議に石を生き生きしたものにしている。ペストゥームの神殿で感じたのもこのことであった。これだけひどく荒れた柱でも、そういう魅力をまだ失わないでいるのである。
(353) 柱は皆同じ石で作ってあるが、何の具合か、非常によく保存されている個所と、ひどく風化した個所とがある。ひどい所は竪溝がなくなるくらい深く蝕損している。石の質が均等でないためかも知れない。アテーナイのパルテノンなどは、全部大理石であるためか、このような風化は見られないという。ギリシアの建築に接するためにはやはりパルテノンを見に行かなくてはなるまい。
三月二日、パレルモにて。
二月二十八日、ひるごろの汽車でアグリジェントを立ち、五時過ぎシチリアの首都パレルモに着いた。ここはシチリアの北岸、昔カルタゴ人の町のあったところである。
この日は空がどんより曇っており、アーマンドの花の景色もあまり朗らかでなかった。空が曇ると心も同じように曇って来て、哀愁の気持ちに襲われるからかも知れない。そのせいか、シチリアの中部を南海岸から北海岸へ突きぬける汽車の沿線は、あまりおもしろく感じなかった。相変わらず山には木がない。頂上まで草に覆われているのは低い山で、少し高くなると岩ばかりになる。島のまん中あたりのところには岩山が多かった。水の少ない、石ころばかりの川も眼についた。
北海岸へ出ると、急に土地が豊饒な感じになる。海から山までの間の、あまり広くない斜面であるが、見渡すかぎりレモンの畑があり、麦畑、野菜畑も豊かに青々としている。海岸づたいにパレルモまでの間は、汽車で一時間近く走ったが、その間に相当大きな町もあり、人口もかなり稠密らしい。シチリアではこのパレルモ付近の北海岸が最も開けているのであろう。
(354) パレルモの町を散歩していると、アグリジェントの神殿をキルクで模造した一尺くらいの置き物が店にならべてあった。キルクが非常によくあの神殿の石の感じを出しているので、この思いつきにはちょっと感心した。実物はもちろんキルクとは感じが違うのであるが、小さい雛型にして見ると、ちょうどキルクの肌合いが石にそっくりに見える。色合いもキルクによく似ている。あの古い柱のいかにも物寂びた、ほんのりとした黄色が、キルクで現わせるなどとは思いがけないことであった。
二十九日はパレルモの町の見物で暮らした。この町はなかなか見るものが多いのである。
まず最初に中央寺院に行った。これは大体において十二世紀の末に|ノルマン人が建てたもの〔付ごま圏点〕で、なかなかおもしろい感じである。ヨーロッパとしては「異国的な感じ」なのであろう。それがまたパレルモ特有の情調でもある。しかしそのノルマン建築の感じは純粋に保存されているわけではない。中央の円屋根は全然あとのものであるが、建築全体としてはこの円屋根に支配されるところが多い。正面左手の入り口は一四五〇年に作ったもの、正面向かって左端の塔も一三〇〇年から一三五九年の間に建てたという話で、ひどく後の要素が混合している。ちょっと見わけのつかないところもある。(第19図)
ノルマン建築の特徴が最もよく現われているといわれる東面には、この間アマルフィのキオストロで見たと同じような、円いアーチのからみ合わせがはっきりと出ている。二つのアーチが交叉して、そこにおのずから|尖ったアーチ〔付ごま圏点〕ができてくるのである。それと同じょうな、頂点において心持ち尖っているという程度の、幽かに尖ったアーチが、窓などにも使ってある。その他ゴシックそっくりの窓もある。それらがゴシックの影響でここに使われたのか、ある(355)いはアーチの交錯からおのずからできた尖ったアーチを活用したのか、私にはわからないが、建物全体の感じは決してゴシックではない。上と下とが整然とした釣り合いを持ち、ゴシックのように上昇的な感じを与えない。様式としては根本的に違うものである。
窓と、窓の飾り柱との関係などを見ても、これはゴシックとは別に発達したものだと考えざるを得ない。正面右手の外回りにある窓は、最初からのものと思われるが、窓の上辺が三段に凹んでアーチ形を形成しているのに従い、その一々のアーチを受けて小さい柱が三本立ててある。あくまでも別々の柱であって、柱の束ではない。しかるに十四世紀の補修だという左方の塔の窓を見ると、柱が三つ並び立つのではなくして、その内の二本が密接にくっついている。ちょっと見ると塔の四すみが細い柱の集まり、柱の束でできているような感じである。こういうふうに、柱を多数の細い縦の線に分解するというやり方は、ゴシックの著しい特徴といってよいであろう。ここでは、十四世紀の補修にはその傾向が見られるが、最初のノルマン建築においては、外形が近似しているにかかわらず、そういう意図が現われていない。だからその与える印象も実際に違っているのである。
パレルモの町にはこの中央寺院のほかに昔の王宮があって、その中にモザイックで有名な礼拝堂カペラ・パラチナが残っている。モザイックはこのほかにマルトラナという小さい寺にもあり、またパレルモの郊外にあるモン・レア一レの寺院にも非常に立派なのが残っている。これはよほどおもしろいものであるが、しかしモザイックの感じはどうも写真には出ないようである。それはたぶんモザイックの方が絵画よりも一層光の復雑な役目を必要としているからであろう。薄くガラスをかけた、きらきら光る色石を使って、画面を構成して行くと、その光が画面に重大な役目(356)をつとめることになる。日本の襖や屏風の金箔の感じがどの色彩にもあるのだと思えばよい。事実またこの金箔の感じと同じものを使っている場合もある。マルトラナの寺のモザイックのマリアの像では、マリアの背景は一面に金色の石で埋め、マリアその他の人物だけを色石で描いている。この金色の地の感じは、金屏風の金地よりは厚ぼったい感じで、どこか金糸の織物のような気持ちのところがある。そういう金地に人物が浮かび出して小るところ、ちょっと類のない美しさがある。金地は光り、色石のところはあまり光らないのであるから、その浮かび出した感じは光の具合で出てくるのである。ローマでもモザイックというものはだいぶ見たのであるがそのおもしろみはよくわからなかった。パレルモに来て、わりによく残っている三つの寺のモザイックを見て、初めてなるほどと思った。(第20図)
王宮の礼拝堂でモザイックを見たのち、エレミテのサン・ジョヴァンニという小さいノルマンの寺に行った。十二世紀にできたもので、よほどサラセン式である。おわんを伏せたような円屋根の寺と、そのそばのキオストロとが有名であるが、キオストロは非常に小さいもので、柱の高さはちょうど私の背たけぐらいであった。モザイックはもはや少しも残っておらず、柱も円柱ばかりでねじりん棒などはなく、あっさりしていて、なかなかしゃれたいい感じであった。(第21図)
この日はなおこのほかにパレルモの国立美術館にも行った。ここにはセリヌンテのギリシア彫刻の遺物がだいぶ並んでいる。セリヌンテはシチリアの南岸でほとんど西端に近いところにある。初めわれわれもアギリジェントから海岸伝いにセリヌンテに出、そこからもう一つセジェスタの遺跡を見て、最後にパレルモに来るつもりであったが、汽(357)車の便が恐ろしく悪く、その上ギリシアの神殿も皆崩れて、ただ石がごろごろしているだけだ、というので、アグリジェントから直ちにパレルモに出てしまったのである。ここでセリヌンテの遺物を見れば、もう現地まで行く必要はない。(第22図)
遺物は神殿の軒まわりの浮き彫りである。ごく古い時代のものと、それより少し新しい時代のものと、二種類になっている。ごく古いと言っても紀元前六世紀で、フィディアスなどの出た時代とわずか百年しか距たっていない。しかしその浮き彫りは、ギリシア彫刻の初期アルカイックの時代の一つの代表的な作として、美術史などによく掲げられているものである。実際、かなりに古拙なもので、エジプトやアッシリアの影響もあるらしく、ギリシア美術固有の美しさはまだちっとも現われていない。石は神殿の建築材と同じく目の荒い石灰岩で、表面がざらざらしている。堂々とした雄大なドリス式神殿を建てるようになった時代にも、彫刻はこういう拙いものだったのである。
ところが、それからわずか半世紀ほどあとでできた神殿には、見ちがえるほど上手になった浮き彫りが軒回りの三条線の間を、すなわちメトープを、飾っていたのである。その浮き彫りのうちのあるものが幸いにして残っている。それが実に驚くべきものなのである。というのは、この浮き彫りも同じく目の荒い石灰岩に刻んだもので、ひどい風化のために表面がざらざらになっており、傍へ近寄ってよく見ようとすると、荒れた石の面の凹凸のために人物の形が消え去ってしまうほどなのであるが、少しく距離を置いてながめれば、実に|鮮やかに〔付ごま圏点〕その姿が浮き上がってくるのである。この|鮮やかさ〔付ごま圏点〕は実際ただごとではない。近づいて見れば実にわずかな石の凹凸に過ぎないのに、それが一目で、ローマ時代の浮き彫りなどの決して与えることのできない彫刻的な鮮明さを、はっきりと印象するのである。石の肌のこのひどい荒れにかかわらず、このような力を依然として保持していることは、この浮き彫りの骨骼がいかに(358)確実であるかを立証するものといえる。ここに恐らくギリシア彫刻の秘密がひそんでいるのであろう。
これらの浮き彫りもまだアルカイックの域を脱しないものではあるが、しかしもうギリシア的な美しさははっきりと出ている。もう一息でフィディアスの時代になるということは十分に肯ける。前の古拙な浮き彫りの時代から、実にわずかな年月の間に急に技術が上達した、ということを、これらの二種の遺物が示している。その前に立って両者を比べて見ていると、こんなふうな上達の仕方をしたギリシア人というものが実に不思議に思える。もちろんギリシア人は、あの古拙な作を刻んでいた時代にあっても、すでにイリアスやオデュッセイアを持っていたのである。だから彫刻が拙いからといって文化がまだ低かったというわけでは決してない。彫刻の方面では、「できない」のではなくして、「しようと思わなかった」のであろう。しかし「しよう」と思い出すとともにこういうふうに迅速に上達するところが、どうもただごとではない。ちょうどこの時代は、哲学の方でも、やっと少し芽ばえて来てようやく進歩が始まったという程度であるが、やがて彫刻よりも一足遅れてソークラテースやプラトーンを出すことになる。同じように進歩はきわめて迅速である。
ヨーロッパでは通例、文化の歴史をギリシアから始める。美術史、文芸史、哲学史、いずれもそうである。近来考古学の研究の進歩につれてエジプトやカルデアがだいぶ問題にされるようになったが、しかしそれを後代の文化潮流とはっきり結びつけて論ずるまでには至っていない。これはやがて改められる時期が来るであろうが、今のところ、ギリシア人の文化の発達の仕方が人類の古代の文化の発達の仕方を代表するような形になっている。しかしギリシア人のやったことは、どうも実に例外的、天才的である。どの民族でもそういうふうに行くわけではないであろう。ギリシア人は人類通有の文化発達の仕方を代表しているのではなく、その天才的な才能によって人類を|あるべき〔付ごま圏点〕方へ引(359)きずって行ったのである。そういう民族が傍におり、その民族の仕事によって教育されたということは、地中海沿岸諸民族の、ひいてはヨーロッパ全体の、非常な幸福であったといわなくてはならぬ。そういう点からもギリシア人の偉さをつくづく感ぜざるを得なかった。
セリヌンテの遺跡を訪ねることは断念したが、セリヌンテとの中間にあるセジェスタにはギリシアの神殿が残っているので、翌三月一日にはそこを訪れた。パレルモから二十里くらいで、汽車でも行けるが、停車場から二里ほどの道に馬車があるかどうかわからないというので、パレルモから自動車で行った。
途中、パレルモ近郊のモン・レアーレで、前に言ったモザイックのある寺を訪ねた。この寺もノルマン式の建築で、背後から見るとその特色が非常によく残っている。黒い石をはめ込んで、アーチ形の交錯や、横線、円などの装飾をつけている。寺の内部のモザイックは、パレルモでは最もよかった。堂が大きく、従ってモザイックの画面が広く、その大部分が金地である。だから画面の中の人物の像が金色の中に浮かんで見え、なかなかいいと思った。
なおこの寺にしゃれたキオストロがある。これまで見た中では一番大きい。柱でささえたアーチの外側にもモザイックが残っており、また柱にモザイックをはめているのも非常に多い。ローマで見たキオストロは円いアーチであったが、ここのは皆心持ち尖ったアーチである。またローマのは柱列のところどころに太い柱がはいっているが、(あるいはあとで入れたのかも知れぬが、)ここのは全部細い柱でそろっている。装飾はひどくごてごてしているけれども、なかなかしゃれた美しさがある。これはヨーロッパでは東洋風のものとなっており、サラセン、ビザンチンと系統をたどって行けば、あるいはペルシアあたりの影響があるかも知れぬ。とにかくギリシアの流れを汲むものとはよほど(360)味が違っている。(第23・24・25図)
モン・レアーレを出てから、自動車は山越しにかかった。パレルモに近いあたりでは、山の中腹以下に樹木があり、谷あいにもアーマンド桃の花などが咲いていてなかなか豊かな感じであったが、だんだん峠にかかってくると、全山岩ばかりの山がふえてくる。少し勾配の急な山はたいてい岩肌を露出している。あるいは七分通り岩で、その岩の合い間が緑草に覆われている、というようなのもある。亀井君の話では、これらの山はギリシアの山に似ているという。雨期が冬であり、その冬が暖かいので、秋の半ばから冬へかけて草が茂り、地面が青々としてくるが、五六月から先は雨が少なく、その上暑いために、草はからからに枯れてしまう。オリーヴの木を除いて緑色のものは見えなくなる。そういうところでは落葉樹はもちろん育つことができない。オリーヴ以外にはせいぜい松ぐらいのものである。
そういう山あいをぬけて、また野原へ出る。アーマンド桃の花や菜の花がきれいに咲いている中を、自動車が気持ちよく走る。野山の景色にまたのどかな感じが出てくる。こうして十二時半ごろにセジェスタの神殿についた。
ここで神殿をながめながら弁当を食べたが、珍しいことにここの神殿は低いところにある感じである。これでも海抜千尺くらいの丘の上にあるのだそうであるが、しかし周囲に高い山があるせいか、いかにも谷底にある感じがする。神殿はよく残っているが、しかしもともと未完成であったらしく、柱の竪溝などがついていない。何となく場違いの感じがつきまとって離れない。ところでその神殿の傍から小道を伝って山にわけ入り、二三十分ものぼって行くと、頂上にギリシア人の劇場のあとがある。その劇場の見物席から舞台越しに北方を見晴らすと、四里くらいある山あいの谷の彼方に海が見えるのである。海から四里も引っ込んだところに町を作るのは、ギリシア人としてはどうも異例(361)のように思われるが、この劇場の位置や構造はいかにもギリシア的である。町もまたこの劇場の付近、山の上にあったらしい。そうしてみると、神殿の位置はますます不可解になる。あるいは石材をこの山上まで運ぶのが困難であったせいかも知れない。
セジェスタで三時ごろまで遊んで帰途についたが、帰りは海岸の道を伝って来た。海ぞいの野はなかなか豊かでいい心持ちであった。しかし山が海に迫っているあたりの磯ばたを通るときには、海岸の岩に驚かされた。実に恐ろしい形をしている。日本にはちょっとない感じである。
三月四日、ローマにて。
二日夜の汽船でパレルモを立ち、翌日朝ナポリ着、午後ローマに帰った。
しばらく休養して、今度はアシシやフィレンツェから始めて北イタリアを回るつもりである。同行は亀井君。ミラノからスウィスヘ抜ける予定のため、シチリアの旅と違って、荷物をすっかり持って歩かなくてはならぬ。これはなかなか厄介である。
(362) 六 アシシの壁画
一九二八年三月十四日、アシシにて。
十一日にローマを立ち、アシシに来た。アシシの町はスバシオ山の裾野のちょっと高くなったところにあって、ウンブリアの野を遠くまで見晴らすことができる。世界じゅうで最も景色の好いところと言われているが、他との此較はとにかくとして、実際気持ちがよい。すっかり気に入って、今日でもうまる三日腰をおろしている。
アシシでの名物は何と言ってもサン・フランチェスコの寺である。サン・フランチェスコの墓の上に建てられ、その名を負うている寺である。中でもこの寺にあるジォットーの壁画である。
ジォットーの作といわれる絵はここには二十くらいあるが、後の補修の相当加わったものもあり、必ずしもすべてが好いわけではない。全体として、写真で想像していたほどよくはなかった。写真で想像していたよりも実物の方が|よい〔付ごま圏点〕と思ったのは二つしかない。その一つは、日本でも色刷りをよく見かけるあの有名な〈聖フランチェスコ小鳥に説教する図〉である。色刷りでは赤みと黄みとが出すぎているが、実物には赤色が使ってなく、非常に清楚な感じで
ある。背景の山は、下の方が純粋の群青、上の方が純粋の白線で、全然黄みはない。左右に立っている樹の幹は褐色で、これにも赤色は混じていない。人物の衣は灰色で、少し紫が混じっている。鈍い色であるが、きわめて澄んだ感じである。だから全体の感じが非常に涼しく、すっきりしている。その点で色刷りの複製はあまり原画の面影を伝え(363)ていないと思う。(第26図)
背景の群青や白緑のところは、たぶん山だろうと想像されるが、何を描いてあるのかはっきりとはわからない。たぶん後の補修のため変になっているのであろう。しかしとにかく群青や白緑が画面を支配していて、しいんと落ちついた、気持ちのいい絵である。この絵を見ていると、これほどの色の調子の出せる人が、どうして他の絵にあのような色を使うのか、不思議だという気がする。
たとえば〈ラザロの復活〉の図である。構図はなかなかよく、静かで力強い感じを与える。色の調子も全体としてはなかなかいい。空は紺青、山は白緑に黄の混じったような色、樹木は白緑、これはオリーヴの木であろう。しかしおおぜい並んでいる人物の衣が、あまり感じのよくない赤や青に塗ってあって、それがびどく感じを損っているように思う。左方に立っているキリストは、上衣が赤、下が緑。うしろに立っている弟子の衣も赤である。前にひざまずいている人物の衣などは特に|濃い赤〔付ごま圏点〕で、ひどく目に立つ。右方の人物は、ラザロが繃帯巻きで白、あとは薄い黄褐色と紺色とで、さほど目立たず、落ちついた感じであるが、中央から左方へかけての赤色は実に感じが悪い。そのためにすっかり画品が落ちているように思われる。日本の仏画の優れたものにもかなり赤色は使ってあるが、その赤色をこれほどいやに感じたことはない。
しかしこの絵などはまだいい方なのである。ほかに二間四方もあろうと思われる大きい画面で、赤い色の使い方の実にひどいのがある。聖フランチェスコの伝記画であるが、寺院建築や町の建築を背景にしてフランチェスコが手をあげて立っている絵などでは、町の中に見える塔がいくつも赤い色に塗ってある。それが非常に目ざわりである。どうもこれはジォットーの責任ではなく、後の補修の時に赤く塗ったのではないか、という気がする。他の部分には|し(364)み〔付ごま圏点〕が出て色のさめているところが多いのに、赤色のところがいやに生々しいのである。前の絵にしても赤色の部分が補修だということになると、よほど肯ける気持ちになるであろう。
もっともジォットーの絵に対して色彩を問題にするのは場違いであるかも知れぬ。ジォットーの特色は色ではなく、人体を彫刻的に描くことである。それによって彼は、装飾的な、平板な中世の絵から、近世的な絵画への道を開いたといわれている。が、その点は写真でもほぼ想像のつく点であり、また写真の方が一層よくわかるかも知れぬ。衣文なども、写真で見れば、その彫刻的な把握の仕方がはっきりわかる。しかしそれが不愉快な赤色で塗られているとなると、その色の印象が右の点への注意を弱めてしまう。絵画である以上、色彩の効果を無視することはできないのである。
ジォットーの先輩のチマブエもこの寺にだいぶたくさんの絵を残している。
中でも傑作は、聖フランチェスコを描き込んだ聖母像である。中央に嬰児キリストを抱いた聖母が腰かけており、左右に二人ずつ天使が立っている。その外側の右端に聖フランチェスコが正面向きで立っているのである。もとは左端に聖アントニオがいて、左右の釣り合いがとれていたのを、後に塗りつぶしたのだという。色彩は美しいというわけには行かない。現状では、背景の紺青色をのぞいて、画面全体が一色になっている。しかしそのために、色の調和という問題が起こらず、色彩を超越して絵を見させるようになる。つまり写真で見ると同じわけである。もっとも大きさからくる印象は同じとは行かないが。(第27図)
チマブエの聖母像は、ルーヴルにも大きいのがあるが、あれよりはこの方がずっと生き生きしている。元来チマブ(365)エは、中世の固い型を破って人間らしい聖母や天使を描き出した最初の人だといわれているが、そういう人間らしさは写真ででもよくわかると思う。チマブエがアシシへ呼ばれて来たのは一二七七年であるから、北方ではゴシックの全盛時代で、こういう人間らしい聖母や天使は全然現われていない。文芸復興期になっても、北方の絵にはこれほどの柔らかみはないといってよい。
チマブエの生まれたのは一二四〇年ごろで、ジォットーよりは三十五六年も古い人らしい。遺作としてはルーヴルに一枚、フィレンツェに一枚、そのほかはこのアシシばかりである。アシシにはこの聖母像のほかに十字架のキリストの像や天使の像などだいぶたくさんあるが、十字架のキリスト像などはすっかり変色して、ちょうど写真のフィルムのように、顔でも衣でも明暗が逆になっている。非常に惜しい気がする。
ジォットーの弟子の作だろうと言われている絵もたくさんあるが、皆赤色を使い過ぎておもしろくない。たとえば〈キリストの誕生〉の絵などがそれである。厩でマリアが生まれたばかりのキリストを抱いている。ヨセフや助産婦も傍にいる。そこへ二人の羊飼いが半の群れをつれてやって来ており、空にも屋内にも天使の群れが漂っている。構図はなかなかおもしろい。しかしそれは写真でもわかることであり、また写真の方がよい。色彩がじゃまになるのである。マリアの衣が群青色で、あとは黄みを帯びた赤褐色であるが、それがあまり感じのいい色ではない。しかしジォットー風に物の形は彫刻的に描いてあり、構図もジォット一風な簡素なところを持っているから、写真にうつせばおもしろい絵に見えるのである。実物の下に立ち、天井を仰いで最初にこの絵から受ける印象は、色の感じが主でぁるから、決していいとはいえない。むしろゲッソリするような感じで、おもしろい図柄だなどとはちょっと思えない。(366)つまり色を取り去ればよくなるのである。
サン・フランシスコの堂内は、こういうふうに色の悪い絵でもって天井も壁も一面に覆われているのであるから、全体の感じはあまりよくない。ことに天井や壁の高いところなどの絵は、どれだけ装飾的効果があるか疑わしくなる。壁画を描く情熱は、堂内の装飾という以上に、形象をもって物語るという別の動機に結びついているのであろう。
チマブエ、ジォットーなどのフィレンツェ派の画家に対抗して、少し後にシエナの画家がここへ来て壁画を描いている。その一人はシモネ・マルチニで、これがなかなかいい。
シモネ・マルチニの作〈サンタ・キアラ〉は、聖クララ、すなわち聖フランシスの一の女弟子の画像である。アシシでは最もポピュラーなもので、写真を売る店などには、この絵の大きい複製や、木に描いたものなど、たくさん並べている。一つは聖クララに対する崇拝が生きているせいでもあるが、またこの絵の魅力にもよるのであろう。背景は濃紺の白っぽく寂びたもの、光背は黄金色の沈んだもの、頭を包んだ布は薄い肉色を混じた白、衣は薄い紫のくすんで灰色のようになった色、そのまん中の胸のところに渋い赤褐色が見える。全体に調和がとれて、色の調子が非常にいい。(第28図)
しかしこの画像が特に優れているのではない。これと同じ程度のできの聖者像は、壁にずらりと並んでいる。クララはその中の一人なのである。ほかのも皆それぞれになかなかいい。これらをながめていると、シエナ派の絵の特徴がよくわかる。ジォットーの流派は|簡素〔付ごま圏点〕と|力強さ〔付ごま圏点〕とを特徴としているが、シエナ派は|洗練〔付ごま圏点〕と|甘美〔付ごま圏点〕とをもってこれに対抗しているのである。色でも形でも実にスィートな感じで、それが魅力となっている。こういう傾向を発展させて(367)行くとやがてラファエロのような絵になるわけであろうが、しかしラファエロのようにすべての整い過ぎた、隙のないものになってしまうと、かえって感じが浅くなる。それよりもこの素朴な時代の絵の方が、スウィートな感じは一層深い。色彩の点について言っても、この絵の方がラファエロよりもずっとよい。寂びのついた関係があるかも知れぬが、そればかりではなさそうである。
クララの絵の色刷りの複製を見ると、この絵の場合でもやはり黄みや赤みが出すぎている。そのため原画の沈んだ色調とまるで違った感じになる。またそのために頭布と衣との明るさの違いが消されてしまう。頭布は衣よりもずっと明るいのである。その点写真の方が真に近い。
シエナ派のもう一人は、ビエトロ・ロレンゼッティである。作はかなり多いが、中で横長の聖母像が一番いい。横一間ぐらいの絵である。右にヨハネ・左に聖フランシスが立っている。背面全部金色、光背も金色である。マリアの衣は群青色で金の縁を取っている。右側のヨハネの肩からかけた衣が少しくすんだ赤みを帯びているほか、衣の色は皆紫の少しまじった灰色で、赤を使わない。だからマリアの衣の群青色が非常に濃いにかかわらず、全体が調和していてなかなかいい感じである。ことに背面の金地が、日本の障壁画の金地と同じ感じで、よくきいている。金色と色彩とのからみ合いもなかなか味がある。(第29図)
こういう絵を見ていると、あんなにむやみに天井や壁に絵をかき散らさずに、大体は文様で装飾して、ところどころにこういう絵をはめた方が、はるかに気持ちがいいのではないか、とつくづく思う。シスト礼拝堂のように、もともと壁画を考慮に入れた構造のものは別であるが、普通のお堂はやはり絵が建築を生かし、建築が絵を生かすように(368)描くぺきであろう。‥
右側のヨハネの左肩と腕の線は、金色で引いてある。その肩や腕のところに、ところどころ紺青色が残っている。剥落して少し残っているのか、あるいは初めから少ししか塗ってなかったのか、よくはわからぬ。衣の皺の陰は紫がかった灰色でつけてあるから、肩や腕を包む衣が紺青色でなかったことは明らかである。ことによると、金線の文様のはいった薄ものの下から紺青色の下着が透いて見えるところを描いていたのかも知れない。そうだとするとよほど技巧の進んだものであったということになる。
このロレンゼッティという画家は、ジォットーとほぼ同じ時代に働いていた人である。従ってダンテの時代にも生きていたことになる。シエナにはこのロレンゼッティやシモネ・マルチニなどのいい絵がだいぶたくさんあるらしい。寄れるかどうかわかちないが、何とかしてちょっとでも寄るような計画を立てたいと思っている。
アシシの町からスバシオの山腹をだらだら上りに斜めに一時間半ほど歩いて行くと、昔聖フランシスが籠っていたというカルチェリへ出る。途中はオリーヴの畑で、ゆるい傾斜がはるかに平野につながっている。そのオリーヴ畑を出はずれると、石のごろごろした、あまり木のない、痩せた山腹へ出る。それをぐるりと回って行ったところに、この地方としては珍しく樹木の茂った谷間が見える。常盤樹では椎の木に似た常緑槲がむくむくと茂っており、その間にはオーク樫などの落葉樹もまじっている。そういう森に囲まれてカルチェリの僧院が寂然として立つているのである。ちょっと日本の山の中の寺のような感じがあって、ヨーロッパではひどく珍しく感ずる。森が茂っているために、下草の具合や土の具合が、特に苔などの生えている具合が、よほど日本に似た感じになっている。山門めいた石の門(369)をはいって、石塀伝いに一間幅ほどの道を二三町行くと僧院の前に出るのであるが、その道の感じなどは実に日本めいていた。僧院の前庭に立ってウンブリアの野を見晴らしていると、森の中の小鳥の声がしきりに聞こえてくる。近くにはこのような森がないためにおのずから小鳥がここに集まってくるのであろうが、しかしその小鳥の声をきいてまず思い浮かべたのは、ジォットーの〈聖フランチェスコ小鳥に説教する図〉である。
(370) フィレンツェ滞在
一九二八年三月十八日、フィレンツェにて。
フィレンツェには十五日の夕方に着き、アルノー河の岸のホテルに落ちついて、翌日からまる三日間、方々を見物して回ったが、すばらしいものがむやみにたくさんあってすっかり圧倒されてしまった。印象を書きとめる余力などはまるで残らない。なるほど、よく言われるように、ルネッサンスの絵はフィレンツェへ来て見なければわからないというのはほんとうだと思う。どこに何があるということを一通り頭に入れるだけでも、五日や六日はかかりそうである。少しゆっくり味わう段になれば、一月あっても足りないであろう。アシシでは静かなのんびりした心持ちになっていたので、フィレンツェへ来ると、ちょっと度胆をぬかれてしまったような気持ちになった。
アシシからフィレンツェへの道はなかなかおもしろかった。ローマからアシシヘ来るまでの間にもちょっと眼についたが、北の方へ来るにつれて樹木のある山がだんだん多くなってくる。山には樹のあるものと考えなれているわれわれには、これで何となく景色が整って来たように感じられる。野原の様子もローマあたりよりはよほど豊かで、畑にはたいてい葡萄と麦、あるいはオリーヴと麦をいっしょに植えている。
ウンブリアの平野の首府ペルジアは、下車して見物することを省略したが、小高い丘の上にあって、豊沃な広々と(371)した野を控え、いかにも美しい町であった。ここはローマを流れているテベレ河の上流である。ここから少し西北へ行ったところに、トゥラシメーノというちょっと大きい湖水があるが、その湖水に沿って山があり、湖水の中に島がある。その島には樹が茂っている。山は日本で通例湖水の傍にあるような高い山ではないが、しかしそれでもこの湖水の風景は、ヨーロッパの北の方とはまるで違って、いくらか日本を思わせるようなものを持っている。この湖水から少しフィレンツェの方へ行ったところで、汽車からながめていると、沿線の石垣に|白い苔〔付ごま圏点〕のついているのが眼についた。日本で石灯籠などに普通に付いているあの苔である。これもヨーロッパに来てから初めてであった。すべてこういう野や山や水や石の風情が、結局湿気のいくらか多いことを語っているのである。湿気が多ければ植物が繁茂し、植物が繁茂するに従っていくらかずつ日本に似たものが出てくる。日本の自然と文物とが湿気に関係するところの多いのを今更つくづくと感じさせられる。
フィレンツェの町を歩いてまず強い印象を受けるのは、ルネッサンスの建築の簡素なよさである。ヴュルフリンのいわゆる古典様式がここには最も純粋な形で現われている。剛宕なパラッツォ・ピティは、宮殿というよりも要塞のような感じを与える。実に力強い。今は左手二階が絵画館になっている。パラッツォ・ストロッチは、ルネッサンス盛期の建築としてフィレンツェの宮殿建築の様式が最も完全に進歩したものといわれているが、全くその通りで、ただ力強い感じばかりでなく、実に端然とした、優雅な感じをも伴なっている。それとの中間にあるのがパラッツォ・ヴェキオ、すなわち古宮の建築で、今は市役所になっている。(第30・31図)
このパラッツォ・ヴェキオの前はちょっとした広場になっているが、そこはサヴォナロラが焚殺されたので有名な(372)場所である。今日の日曜日には、ファシストの首領株のトゥラティという人が来るとかで、この広場は大変なお祭り騒ぎであった。初めそれとは知らず、午食後町へ出ると、ファシストの少年隊が黒シャツのそろえで行進して行く。何事かと思って見ていると、やがて中学生くらいの年輩の青年隊が続いてくる。皆楽隊を先に立てている。それでもまだ気づかずに、寺を一つ見物してからこの広場に出たのであるが、見ると警官が四方を固めて普通人を中へ入れない。そこへいろいろな職業組合の連中が、旗を先立ててのり込んでくる。ファシストの武装隊が銃を持ってやつてくる。いずれも青年と老人との入り混じったものである。ことに驚いたのは、職業組合の労働者らしいのが、あとからあとからいくつでも旗を立てて乗り込んでくることであった。二時間近く見物していた間じゃう、それが続いた。イタリア人は祭り好きのせいでこういうことをやるのでもあろうが、しかしそれにしてもファシズムがこんなに繁昌していようとは、全く案外であった。見ていて一番かわいらしかったのは少年隊である。白い上衣の女の先生が引率していて、幼稚園くらいの小さい子供たちが、いかにも楽しそうに、ファッ――ショ、ファッ――ーショという号令に合わせて歩調を取っていた。教育が根本だというところへ、ムッソリーニは眼をつけているらしい。
フィレンツェの中央寺院は、宮殿建築とはだいぶ感じの違うものである。黒その他の色石で建物全体に文様がつけてあり、窓の形などにもゴシックのやり方が残っていて、華やかというか、おもちゃみたいだというか、ちょっと妙な感じのもので、宮殿建築の重々しい現実的な感じに対して、いかにも明るい、軽い、夢想的な気持ちを現わしているように思われる。建築は十三世紀の末から十四世紀前半へかけてのもので、画家のジォットーも一時建築家として参与していた。正面右方の塔はそのころジォットーが設計したというので、ジォットーの鐘楼と呼ばれている。後方(373)の円屋根の部分は十五世紀になってブルネレスキのつけたものである。ミケランジェロなどにとっては、これが円屋根の模範であったらしい。ローマのサン・ピエトロの円屋根を作ったときにも、彼はこのブルネレスキの円屋根をのり越え得たとは考えなかったらしい。しかし位置やその他いろいろの関係もあって、われわれはローマの本山の円屋根から受けるような感銘をフィレンツェの円屋根からは受けることができなかった。
中央寺院で一番印象に残っているのは、ギベルチの青銅浮き彫りの扉である。
三月二十日、フィレンツェにて。
サン・マルコの寺のそばにサン・マルコ僧院がある。それが今はサン・マルコ美術館になっている。フラ・アンジェリコの絵で有名なところである。
そこに、鏡台のような形の美しい彫りのある額縁のなかへ〈受胎告知〉と〈マギの礼拝〉との二つの場面を描いた絵をはめたのがある。ごく小さいもので、絵の部分は二尺はなかったように思う。従ってマリアなどは三四寸の大きさである。金地にこまかい文様を描き、その上へきわめてはでな青、赤、金などの色彩を使って、緻密に人物をかき起こしている。そのはでな色がここではちっともおかしくない。金の色と釣り合って、いかにも宗教画らしい感じになっている。こういう感じは、仏壇とか仏画とかの感じと通ずるものがあると思う。しかし描かれている天使は仏画の天人よりも写実的であるし、マリアは観音よりもはるかに人間味を持っている。その点でまるで違った感じになる。
と言っても、アンジェリコの絵は、人間性の偉大さを強調したり、人間のうちに神的なものを見いだしたりするような傾向を示しているのではない。マリアでも聖者でも、彼の描いたのは皆天使のように見える。彼のあとにまもな(374)く人間らしいマリア、「母親」というものの最も純な型を描いたようなマリアが出てくるのであるが、彼の目ざしたのはそれではないように思われる。アンジェリコという名は彼がアンジエロ(天使)を巧みに描いたためにできた名だといわれているが、実際、こういう絵を見ていると「天使画家」に相違ないという気がする。(第32図)
右の絵と同じくらいの大きさで、同じやり方のマドンナ像がある。額縁のなかのマリアばかりでなく、縁に措いてある天使もやはりきれいな色彩である。それらは理屈なしにいかにも天使らしく感じられる。そういう感じの起こる姿を描く点では、この画家は全く独特である。しかしこの絵を見ながらふと感じたことは、天使の翼の不自然さである。天使は飛ぶものだから翼がなくてはいけないのかも知れないが、人の背中へ巽のついている形はあまり感心ができない。翼をつけることはすでにギリシアに始まっており、キリスト教よりも古い伝統であって、ヨーロッパ人の想像には根ぶかく食い込んでいるのかも知れぬ。従って描く方も見る方も当然のこととして何のつまずきをも感じなかったのであろう。しかし天使の姿と鳥の翼とはどうにも調和させようのないものである。天人に翼をつけないインド人の想像の方が、想像としては一層高いと思われる。
フラ・アンジェリコの絵は、こういう小さい絵、針の先で措いたような絵に好いのが多い。大きい絵になると、色などもいいとは言えないし、この画家特有の愛らしさも失われてくる。これらはテンペラ画で板にかいてあるのであるが、その絵の具の関係もあるかも知れない。
ところが壁画となると、そうではなくなる。サン・マルコ僧院の廊下の壁にある〈受胎告知〉の絵は、フラ・アンジェリコの絵のうち最もポピュラーなものであって、高さ七尺六寸という大きい画面であるが、これなどは実にいい絵である。それはフラ・アンジェリコがフレスコの場合にテンペラの時と調子を変えたからでもある。フレスコは一体(375)に色の調子が沈んで見えるもので、けばけばしい色よりも静かな色を使った方が成功するのであるが、アンジェリコは壁画に対してはテンペラの場合のようにけばけばしい色を使わず、壁に吸い込まれて少し乾いたような感じになるのにちょうど釣り合った、鈍い調子の色を、主として使っているのである。この〈受胎告知〉の絵なども、絵の大部分を占めている柱や壁は灰白色であるし、天使の衣も白っぽく、大体の調子が非常に落ちついていて、なかなか感じがいい。画題は福音書にある受胎告知で、天使が処女マリアに妊娠を知らせに来ているところである。この画題を取り扱った絵はフィレンツェには非常に多い。寺の祭壇にこの絵を描いているところも少なくない。そういう絵のうちでこれは確かに最もすぐれたものの一つである。(第33図)
アンジェリコの絵に対しては、「中世風の|感じ〔付ごま圏点〕を近代的な仕方で感じ近代的な手法で現わした」というふうなことが言われているが、これはよく当たっていると思う。
ウフィチの画廊には実に驚くべき絵がたくさんあるが、案外なことにこれまで予期していなかった絵にかえって心をひかれた。その一つはジォットーのマドンナ像である。アシシでジォットーの絵に親しんで来た結果かも知れない。
このマドンナ像は、これまで見て来たジォットーの絵と違って、板に描いたものである。アシシのは|壁画〔付ごま圏点〕であって破損がひどかったし、フィレンツェにあるジォットーの壁画も暗い礼拝堂にあってはなはだ見にくかった。それに対してこの絵は、画廊で明瞭に見ることができるのみでなく、色や形がほとんど完全に残っている。ジォットーの偉さはこの絵ではっきりとわかったように思う。(第34図)
まず第一に、色彩が壁画のように悪くない。アシシの壁画でひどく気になった赤の色が、この絵ではなかなか美し(376)い。ずいぶん濃い朱の色が使ってあるのであるが、それが優れた仏画の場合と同じように、なかなかよく利いているのである。マリアが上にはおっている衣は濃紺色で、これもずいぶん濃いのであるが、全体の調和の上で少しもおかしくないばかりか、色自身がなかなか美しい。左右に並んで立っている天使の暗緑色の衣は、それほど濃くはなく、いい感じに落ちついている。下の左右にびざまずいている天使の衣は白色で、衣文の陰は薄い青色である。壁画でいつも気になったような色がこの絵では非常にいいのである。しかもそれらの色の配列が実におもしろくできている。絵の中心のマリアは濃く描かれ、端へ行くほど色の調子が弱くなる。しかし中心の濃い色の中央には、マリアの顔や胸などの白っぽい色が包まれている。マリアの衣は白の勝った色である。そういうふうに全体の色の配列をきっちりと引きしめておいて、その間へ赤の色を巧みに点綴している。マリアの右手の下、嬰児キリストの腰の下あたりに、紺の衣の裏の濃い朱がちょっとのぞいている。マリアの腰の左右にも、玉座に敷いた朱色の布の端が見える。玉座の周辺の装飾文様のなかにも細かく紅の色がまじっていて、ちょうど赤い色でマリアを取り巻く形になる。その中へマリアの抱いている嬰児の衣を、薄紅《うすくれない》に描き込んでいるのである。そういう点から見て赤色を実にうまく使いこなしているということができる。もっともこの赤色の効果は、金色とからみ合うことによって発揮されているのであって、両者をひき放すことはできないであろう。マリアの光背やキリストの光背の金色、さらに玉座の背面の壁の金色などはいうまでもなく、マリアの衣の縁には金糸の装飾があり、玉座の敷物にも、装飾文様にも、すべて金の細い線が入り混じっている。その金色が濃朱や濃紺の色と相映発して、なかなか荘厳な感じである。しかしそれは決してごてごてと飾り立てた感じではなく、きわめてさっぱりとした、※[さんずい+肅]洒な感じだと言ってよい。こういう色彩の美しさは、ジォットーの壁画と比べて、雲泥の相違だといわなくてはならぬ。
(377) 第二にこの絵は構図がなかなかうまい。マリアの顔が構図の中心になるとともに、意味の中心にもなる。じっとこの絵を見つめていると、天使たちに比べてマリアだけを大きく描いていることが、実に必然的のことに見えてくる。この絵全体の持っているいろいろな美しさは、すべてマリアに集中して感じられるように思う。
第三にこの絵は、いかにもよく慈悲の女神としての聖母マリアを描き出していると思う。ジォットーの特徴は、物の形を彫刻的に描き出す、すなわち平面的にではなく立体的に現わすという点に認められているが、この絵においては、そういう彫刻的なかっちりとした姿を描き出す能力が、ただ写実的な描写にではなく、超現実的な理想への憧憬を|形象化するため〔付ごま圏点〕に用いられているのである。この形象化の力強さには、実際、ジォットー独特の偉さがあると思われる。マリアの次にしても、天使の衣にしても、いかにもよく衣の性質を現わしているが、そういう意味の生き生きとした現実性が、この絵においては、マリアと天使たちとの|
超自然的な〔付ごま圏点〕大きさの釣り合いと、少しも抵触しないのである。それは実際案外なほどであった。そういう特徴がこの絵では中心のマリアに集中して現われてくる。マリアの顔は実によく描けている。立体的な厚み、肉の弾力性、色合いなどは、実に現実的な明白さをもって描かれているのではあるが、そのくせ描かれているものは単なる人の顔ではなく、何か人間以上のもの、聖なるものであるという気がする。見ていれば見ているほど人間の持たない力強さがそこに現われているように思われてくる。これはジォットーが、現実的な|触覚に訴える〔付ごま圏点〕という傾向の急所を捕えることに巧みであったとともに、精神的な意味を担うものを他のものからはっきりと選びわける鋭い感覚の持ち主であったことを示すものであろう。急所を捕えるということ、有意味のものだけを拾いとるということは、不必要なものを一切捨て得るということである。それによってのみ純粋な形は結晶することができる。
(378) 三月二十二日、フィレンツェにて。
この前にジォットーのマドンナ像のことを書いたから、その続きとしてマドンナ絵について感じたことを少し書きつけておきたいと思う。
ウフィチの画廊にミケランジェロの〈聖家族〉がある。マリアが体をよじって、うしろにいるヨセフから嬰児イエスを受け取ろうとしている図である。衣の色は薄い赤や青であって、あまりいい色とはいえない。不調和でなく、いやでもないという程度で、色を抜き去ってもこの絵の特長は失われない。人間の肉体の持っている美しさを捕え、肉体の担っている意味を鋭くつかむという点では、ミケランジェロは何と言っても第一人者だと思われる。特にこの絵はマリアの取っている非常にむずかしい姿勢を巧みに描いたという点で有名な絵であるが、実際その点はうまいものだと思う。が、それとともにマリア像によって画家のねらっているところが、すっかり変わって来ていることをも認めなくてはならない。前に書いたジォットーやフラ・アンジェリコと、このミケランジュロやレオナルドやラファエルなどとの間には、だいぶおおぜいの天才が出ていろいろと変遷の段階を歩いているが、その途中ではちょっと気づかない相違も、ここまで来てしまうと、実にはっきりわかってくる。ここではもう慈悲の女神を描くような気持ちは少しもない。人間のうちの気高いもの、深いものを捕えることだけがねらいである。この〈聖家族〉なども、福音書の物語を藉《か》りて人生の一つの重要な姿を、すなわち「家族」というもの、両親と子供の間柄というものの担っている最も深い意味を、典型的に描き出そうとしているのである。それは描き出された|力の関係〔付ごま圏点〕から言ってもぬきさしのならない三つの人物のからみ合いであるが、そこにわれわれは人生の姿そのものを見るように感じさせられるのである。
(379) ピティの画廊にあるラファエルのいくつかのマドンナ像なども全くそういう感じのものである。ここに選び出したのはそのうちで〈グランドゥカのマドンナ〉と呼ばれているものであるが、これはもう明白に慈悲の女神などを描き出そうとしているのではなく、「母と子」というものの永遠の姿――人生に意味がある限り、常にその意味の核心のなかに存しているであろうと思われる深い事実――を描き出そうとしているのである。その姿の捉え方や現わし方は、それぞれ天才の個性に従って違っているが、しかしいかなる特殊な形に現わすにもしろ、人間性の中の偉大な契機として、「母と子」そのもの、「母と子」の本質、を典型的に現わそうとする点では同じだと思われる。こうなればもう、この赤ん坊が大きくなってヨハネの洗礼を受け、キリストの自覚に達し、十字架につけられるとか、この母親はあらゆる他の母親とは異なり聖霊によって妊んだのであるとか、という伝説的な内容は、この絵の本質的な価値をなすものではない。ただ母性の偉大さ、清浄さ、母の愛の中にある嬰児の天真な美しさ、生い育ち行く豊かな命の芽ばえとしての嬰児の肉体の清らかな美しさ、――それらは実際に人間の存在のなかで最も美しいものである、――そういう美しさを具象的に、鋭く、あるいは豊かに、あるいは優雅に現わしている点にこそ、絵の価値はかかっているのである。ラファエルはその中で清浄さや優雅さを特にねらった画家であるといってよい。
が、そういう眼で見て行くと、ウフィチの画廊にあるレオナルド・ダ・ヴインチの〈マギの礼拝〉は、この問題をいかにもレオナルド式に取り扱ったものとして注意にのぼってくる。画題は例のイエス誕生の時の東方の博士たちの礼拝の話であるが、謎の笑いを浮かべたジォコンダの作者は、ここにもそれに類する仕事をしようとしたように見える。画面はかなり大きく、構図は複雑であるが、未完成のままである。全体はセピア色で、濃淡だけがわかる。しかし未完成の方がおもしろいのかも知れない、とさえ思われるほど、レオナルドの偉さを感じさせる絵である。(第35図)
(380) この絵はかなり複雑な背景を描こうとしている。遠景には山があり、その手前に「ダビテの町ベツレヘム」の建築の一部が見える。その傍に人馬の群れがいくつか描かれ、その中の一つの群れはマリアたちのすぐうしろのところまで来ている。東方の博士たちが訪ねて来たのであるから、その従者たちの群れが描かれているのであろう。が、そういう複雑な構図においても、嬰児を抱いた母親の姿があくまでも絵の中心であって、構図全体は実に厳密にこの中心に統一されている。描かれた人物は、黄金、乳香、没薬などを捧げる博士たちを初めとして、すべて中心に力強くひきつけられている。すなわちこの絵も「母と子」の姿を描いた絵にほかならないのである。しかもレオナルドは、ラファエルのように清浄さや優雅さだけをねらうのではなく、もっと複雑な、謎のような深さをねらっている。「母と子」の永遠の姿は、|永遠の謎の姿〔付ごま圏点〕であるかも知れない。それはラファエルの作った典型とは恐ろしく違ったものであり、またはるかに優れたものである。しかし「母と子」の永遠の姿を作ろうとするという点においては同じであるといわなくてはならない。
こういう点を考えて行くと、ジォットーやフラ・アンジェリコのころまでは宗教芸術であったものが、十五世紀後半に至って|宗教芸術でなくなってくる〔付ごま圏点〕、という一つの転機を認めなくてはならぬ。題材は同じものを襲用して行くのであるが、しかしそれを現わす人間の姿は、題材から独立したそれ自身の意義を担ってくる。ここにイタリアのルネッサンスの根本的な意義は現われているように思われる。
同じ問題は〈受胎告知〉の絵についても起こっている。フラ・アンジェリコのそれに比べると、レオナルド・ダ・ヴインチの作と称せられる〈受胎告知〉は、すっかり感じの違ったものになっている。もっともこの絵はレオナルドの若いころの作だという人もあり、レオナルドの作と認めない人もあって、はっきりはわからないが、パリにある小さい(381)〈受胎告知〉の絵でレオナルドの真筆と認められているものに比べると、この方がよほど落ちるように思われる。ことに背景の風景がレオナルドとしては少し拙すぎる。そこにはイタリアの樹木の行儀のいい形が標本のように並べられているが、まん中に糸杉を立てて左右を均斉にしたやり方など、あまり感じがよくない。しかし若描きということになれば、円熟したレオナルドの技術をもって計るわけには行かず、何ともいえないことになる。(第36図)
この絵は非常にポピュラーで、日本へも写真が古くから行っているので、このマリアの顔などは知っている人が多いと思うが、実際このマリアは、作者がレオナルドであると否とにかかわらず、なかなかいいものである。この絵では「処女」というものの深い意味が典型的に現わされていると言ってよいであろう。フラ・アンジェリコの〈受胎告知〉ではあくまでも聖母マリアを描き出すのが主であって、処女そのものを典型的に描くというような意図はない。しかし人間的な処女性が強く現わされることになってくれば、受胎告知という画題は、よほどきわどいものになってくる。清浄な処女が受胎の事実を知る瞬間を描く、ということになるからである。そこでマリアに非常な驚きの表情を与えるというやり方が始まってくる。ボティチェリの〈受胎告知〉の絵などがその代表的なものである。しかるにこの絵では、手の表情に幾分それが現わされているだけで、顔にはほとんど現われていない。ただまじめな顔、重大なことにぶつかったという顔をしているだけである。その重大なことがまさに処女性なのである、といっても間違いはないであろう。処女でありながら処女でなくなることを知る瞬間、処女性が否定を通じて最も銑く自覚される瞬間、それがここに具象化されている、ということもできる。
この絵もウフィチの画廊にある。どうもウフィチだけでも大変なものである。ボティチェリの絵など、あまりいろいろなことを感じさせられるので、ちょっと手がつけられない。
(382) 三月二十五日、フィレンツェにて。
一昨二十三日に、フィレンツェから汽車で二時間ほどのシエナの町へ、日帰りで見物に行った。アシシでシエナの画家たちに非常に興味を覚えたので、ちょっとでもいいからのぞいて見たいと思ったのである。急がしく市庁と美術館と中央寺院とを見て歩いただけであったが、しかし古い建物が非常に多く、町の気分にも古風なところがあって、なかなか趣のあるいい町だと思った。
市庁の前には半円形のカムポの広場がある。中世の面影をそのまま伝えている広場として有名であるが、広場を取り巻く建物にも十四五世紀のものが多く、なかなかゆかしい感じであった。市庁パラッツォ・プブリコはその中で最も大きい建物で、広場の南側に高い塔を持ってそびえている。十三世紀末十四世紀初めの建築で、窓などにはゴシック風を残しているが、全体の感じはルネッサンスの古典様式に近く、どっしりした豪宕な建物である。フィレンツェの市庁パラッツォ・ヴェキオにも負けないであろう。
この市庁のなかに、マッパモンドーの広間とか、平和の広間とか、シエナの画家の壁画に飾られた有名な広間があるのである。マッパモンドーの広間には、シモネ・マルチニの大きい聖母像がある。聖母の左右におおぜいの聖者たちが並んでいる構図は、仏画そっくりである。聖母や聖者たちの描き方にも非常によく似たところがある。が、シモネはまた横長の、ちょうど屏風の絵のような構図で、そのころのシエナの将軍の像を描いている。画面は非常に広いのであるが、左手には山の上にいくつもの塔の群れ立っている城があり、右手の遠景にも城壁をめぐらした城や城の外の幕営が描かれている。この方の城と幕営には数多くの旗が風になびいている。その二つの城の間、ちょうど絵の(383)まん中に、ずっと手前へ寄せて横向きに馬を駆る将軍の像が描かれているのである。珍しいことに、この一人の将軍以外には、広い背景の中にただ一人の人も描かれていない。これは毎日見ている絵の中でもめったに出逢わないことである。そのせいかこの絵は非常に屏風の絵に近いような印象を与えた。仏画のような感じの聖母像といい、この将軍像といい、十四世紀初めのシエナの画家には非常に東洋風な感じがあるのである。(第37図)
平和の間にはロレンゼッティの大きい壁画〈善き統治〉がある。よき統治に必要ないろいろな契機を擬人化して描いたり、よき統治の結果現われた町の繁栄の姿を描いたりしている。その町の光景には何となく初期の浮世絵を思わせるものがある。擬人化された姿のなかでは「平和」が目立っている。(第38図)
この市庁の建物を出て中央寺院へ行くには、広場の西のすみからちょっとのぼって行けばよい。この中央寺院の建築は、イタリアでかなり珍しい程度にゴシック式を濃厚に出したものであるが、しかしそれでも北方のゴシックと違ってかなり華やかなものである。黒、白、紅の三色の大理石でだんだらの文様が出してある。写真で見るとそういううるさい色が見えなくてかえって感じがいい。この堂の正面の作者はピサーノ、時期は十四世紀の末である。
中央寺院の内部にもいろいろなものがあるが、それよりも付属の美術館の方がおもしろい。特にそこにあるドゥッチオのマドンナ像はなかなかすばらしいものである。マリアの外衣は紺青色で、陰は黒ずんでいる。嬰児イエスの衣は薄紫である。玉座にかけてある布は暗紅色の地に金線の文様がはいっていて、金欄のような感じになっている。光背はもちろん金色だし、衣の縁の飾りも金である。左右に並び立っている聖者たちも丹念に描いてある。左右の両端に立っている女の姿などでもなかなか美しい。衣は白っぽい黄色の地に細かく金で文様が描いてある。思わず仏画の截金などの文様を思い出さずにはいられなかった。
(384) このドゥッチオの聖母図は、もと中央寺院の祭壇を飾っていたもので、製作は十四世紀の初めである。ウフィチにあるジォットーの聖母像とよく似たものであるが、この方が一層古風で、ジォットーのように近世画への動きを妊んでいるというようなものではない。年代からいうとドゥッチオはジォットーより少し年上で、十五六年先に没しているが、この時期にあってはそれだけの年の差でも影響するところが大きかったかも知れぬ。が、その代わり、ドゥッチオの絵は、宗教画として少しも動揺のないものである。
中央寺院付属の美術館のほかに、なお美術のアカデミアと呼ばれる美術館がある。そこにはドゥッテオのほかにサノ・ディ・ピェトロなどのいい絵がだいぶたくさんある。聖母像など、サノ・ディ・ピェトロのものだけでも幾通りも並んでいる。中でもここにあげたのは、色が濃くてなかなか好い。いかにも宗教画という感じである。聖母の衣は藍色で、白い紋が散らしてある。すぐ左手の女の衣は白地に緑藍の文様である。外側に立っている聖者の衣は、左の方が灰色、右の方が黄土色で、あまり目立たない。聖母のうしろの布は、赤地に黄色で文様を描いている。絵の高さは二間ぐらいである。これなどは観音を描いた仏画と同じょうな感じだといってよい。
そういうふうに言えるものが、ここにはなおたくさんある。一体にそれがシエナ派の画家の特徴だといえるかも知れない。そういう特徴に着目すると、ルネッサンスの傾向のはっきりと現われて来ていないものの方がおもしろい。
今日は雨の中をピサ見物に行って来た。ヨーロッパの北の方ではあまり経験しなかったが、イタリアへくると、たまには日本らしい雨が降る。今日などはそれで、相当びしょびしょしている。しかしピサでは、中央寺院や墓地を見ればまずそれでよい、というわけで、雨の中を行って来たのである。
(385) ピサの中央寺院や斜塔は、汽車からでもよく見える。去年の暮れにジェノヴァからローマヘ行く途中、汽車から初めて見た。白っぽい、手のこんだ建物で、なかなかしゃれたものだというのが第一印象であった。今日傍へよってよく見たが、その印象は変わらない。白っぼいのは大理石を使っているせいである。雨がわりに多いのと、大理石にはさびが付きにくいのとで、いかにも新しいもののようにきれいなままで残っている。北方ではこうは行かない。ベルリンで公園に立ててある大理石像などは、十九世紀末のものであるが、表面はひどく荒れているし、煤煙がいつともなく付いて、実にきたない色になっていた。それに比べると、ここの大理石は、爽快と言っていいほどに|きれい〔付ごま圏点〕である。建てたのは十一世紀の末ごろから十二世紀の初めへかけてであって、北方はゴシックの時代であるが、ここのは大体ロマネスクで、それも北方のロマネスクのように重々しい、お城のような感じとは違って、いかにもデリケートな、しやれた味を出したものである。だから土地の特殊性を認めて、トスカナ風ロマネスク建築などといわれている。白い柱の列など、実際爽やかな感じがする。
本堂のうしろに円屋根の洗礼堂がある。これは本堂よりは百年はど後、十二世紀中ごろから十三世紀中ごろへかけて建てられたものであるが、十四世紀になって二階から上にゴシックの飾りを付け足した。それで非常ににぎやかな感じになっている。それのない、本来のロマネスクの方がいいかどうかは、ちょっとわれわれにはわからない。あるいは少し寂し過ぎる感じがあったのかも知れぬ。(第39図)
この堂へはいって、説教壇の浮き彫りを見ようとしたとき、すでに五六人の先客が来ていた。五十格好の男と、その連れの若い女たちであった。円屋根の内部が音響学的に非常によくできていて、音をきわめて敏感に反響する、ということを堂の番人が教えているところであった。若い女たちは歌を一|節《ふし》歌ってみたり、口笛を吹いたり、などして、(386)無遠慮に騒ぎ出した。
カンポ・サントー(墓地)は堂のすぐ北側にある。イタリアでは墓地を芸術的に作るという風習があって、近ごろでも新しく非常に費用をかけて作っているところがある。ジェノヴァやミラノがそうである。ピサのは十三世紀から十五世紀へかけて作ったもので、中央寺院に劣らず名物になっている。やはり大理石を使って、立派な建築である。窓の形がなかなかおもしろい。ゴシック風の細い柱、細長い形を使っているが、しかしそれを統一しているのは円いアーチで、全体の感じはゴシックとはだいぶ違う。これもなかなかしゃれたものである。この建築の内側が長い廊下のようになっていて、そこに大きい壁画がある。これも有名なものであるが、大したことはなかった。(第40図)
三月二十六日、フィレンツェにて。
フィレンツェの絵ではボティチェリのことをまだ書かなかったが、一言でいうと、ボティチェリもまた写真で見て想像していたときの方がよかったと思う。色彩という点ではあまり優れた人とは思われない。
ボティチェリの作ではやはり〈ヴィナスの誕生〉が一番いいと思う。色もわりにあっさりしていていい。しかし実物を見てあっと驚くほどのことはなかった。中央のヴィナスの頭の毛などは、金色でなかなか美しいし、右側のニンフの白い衣に散らしてある藍色の文様などもなかなかいいと思ったが、しかし全体の色調は何となく眠そうな、鈍い調子である。写真で想像していた、デリケート過ぎるほど鋭い神経の慄え、といったようなものは、色彩の上では見いだすことができなかった。(第41・42図)
中央のヴィナスと似寄った格好をしたヴィナスの絵がベルリンにある。あれは非常に感服して見たものであった。(387)あれを思い出して、この本物と比べてみると、どうもこの本物の方は、ベルリンの絵のようにボティチェリ式ではない。これははなはだ皮肉な現象であるが、実際、ボティチェリ風の癖は本物の方が少ないのである。肉体の描き方の非常にデリケートな鋭さというようなものは、ベルリンの絵の方が強く感じさせる。そこでおのずから次のように感ぜざるを得なかった。癖というものは本人よりもむしろそれを模倣して描く人の方に強く出るのであろう。ベルリンの絵はボティチェリの真作かどうか疑問となっているが、ここの真作を見た上での感じでいうと、どうもあれは上手な弟子の模写であるらしい。
も一つ強く感じたことは、ボティチェリの流麗な線ということについてである。ボティチェリは運動を表現するに妙を得ている。ことにそれを線で現わすのがうまい。西洋のあらゆる画家のうちで、ボティチェリほど巧みに線を駆使したものはない。そういうふうに言われている。これは確かにその通りなのである。写真で見ても彼のひいている線がいかに流麗であるかははっきりわかる。私はそのこと自体を否定する気持ちは少しもない。しかしこの絵は非常に大きい画面の絵である。それをながめるためには一間なり一間半なりの距離を置かなくてはならぬ。ところで、その距離からながめるとなると、問題の線は、決してそうはっきりと眼に映ってくるものではないのである。そうなると彼の流麗な線は、彼の絵を一つの全体として味わうときには、あまり重要な役目をつとめていないことになる。
〈ヴィナスの誕生〉についで目ぼしいのは〈春〉であるが、この絵でも、衣文の線の流れ方など、全く流麗なものであって、線が主要な働きをしていることはもちろん認められるのではあるけれども、しかし近く寄って細部をこまかに見た場合に感嘆を禁じ得ないあの線の美しさは、絵全体をながめるときには感ずることができないのである。たとえばこの絵の下部に、地面を覆うて美しい草花が描いてある。そばへ寄ってながめると、一々の草花が実に細かに線と(388)色とをもって描かれており、桃山時代の極彩色の絵でも見るような感じである。そういう部分を写真にうつしたのを見れば、実物を見るときよりも一層よく線の働いているのを見ることができる。ところが、前の絵と同じようにこの絵を全体として鑑賞し得るほどの距離からながめると、色彩の暗いせいもあって、そういう線などはほとんど見えず、絵全体に対する効果もほとんどないのである。日本の障壁画でこういう草花が描かれている場合には、それを描いている線のリズムそのものが、画面全体の主要なモーティヴになっており、それを中心として全体の美しさが作り出されているのであるが、ここでは画面を埋めるためのほんの添え物に過ぎないのであって、画面全体にはあまり影響しない方がよいのかも知れぬ。しかし他方からいうと、これだけ草花をおもしろく描き得る人が、どうしてこれをもっと大きく取り扱い、これだけで一つの絵を作ろうとしなかったか。草花の美しさだけでも取り扱いようによっては人体を描く以上の仕事ができるということをどうして考えなかったか。それが不思議に思える。しかしこれはヨーロッパ人の芸術意志と東洋人の芸術意志との相違であって、当時においてはいかんともいたし方がなかったであろう。ルネッサンスの人々にとっては自然の美は添え物以上の意味を持ち得なかった。自然は人間に従属すべきもの、それ自身において人間以上の重要性を持ち得ないものであった。この点には実に著しい相違がある。(第43・44図)
絵の細部のおもしろさから言えば、〈春〉の草花などずいぶんおもしろいに相連ないが、しかし絵全体として、風景と人物との釣り合っている点から言えば、やはり〈ヴイナスの誕生〉の方がずっとすぐれている。特にヴィナスの肢体は非常に美しい。しかし、そういうふうにこの絵に感心しながらも、やはり何となく物足りなさを感ずるのは、この絵の世界を作り出している構想そのもののせいである。たとえば、ヴィナスの右の方から「風」がヴィナスを吹いている。ヴィナスの髪がその風で動き、ニンフの捧げている衣も、その風を孕んでなびいている。ところ(389)でこの「風」は、そういう物の動きにだけ現われる風ではなくして、人物の姿に現われた風、擬人化された風なのである。構図上から言って、ヴィナスの右方にも人物が必要であるために、こういう風を描いたのかも知れぬが、しかしこういう擬人のおもしろみというものは、われわれにはほとんどわからない。ヴィナスの全裸の姿において女体の美しさを描き出そうという芸術家の意図は、ヨーロッパではもう古くからの伝統である。ボティチェリがその伝統に従って彼独特の解決をこの問題に与えようというのであるならば、もっと人体そのものの描写を主にし、ヴィナスと背景の海との簡単な構図にしてくれた方が、どれほどありがたかったか知れない。波や風のおもしろみを女体の美しさにからませようというのであるならば、波や風をもっと表へ出し、ニンフなどはできるだけ軽くあしらって、邪魔にならない程度にしてもらいたかった。このままではどうもわれわれには道具が多すぎてうるさい感じがする。これも結局芸術意志の相違に帰する問題かも知れぬが、ボティチェリのすばらしい天才を見るにつけて、つい感ぜざるを得なかったところである。
フィレンツェには実にいい絵が多い。シエナ派のシモネ・マルチニの好い絵もあれば、ずっと新しくヴェネチアのティチアノのすばらしいヴィナスの裸像もある。これらの絵と此べると少し影は薄いが、デューラーの絵も数枚ある。そのほか彫刻にもミケランジェロのダビテの像とか、メディチ礼拝堂の諸彫刻とか、ルカ・デラ・ロビアの浮き彫りとか、数えて行くときりがない。それらのものについても印象の薄らがないうちに書きとめておきたいが、何分にも見物は疲れるもので、なかなか気持ちの余裕が出て来ない。今日もまずこれくらいにしておこう。
(390) 今日は久しぶりに晴れたので、フィレンツェ郊外のフィエソーレへ電車で行って見た。景色がいいというので世界的に有名なところであるが、しかし私にはアシシの方がずっと好いように思える。ローマ郊外のティヴォリでももっと好いと思う。フィレンツェ付近の山はいやに不規則にでこぼこしていて、山と谷との気持ちがはっきり出ていない。フィエソーレが有名なのは結局フィレンツェに近いからである。フィレンツェの芸術のすばらしさが、そこからの|息抜きの場所〔付ごま圏点〕としてのフィエソーレを有名にしたのであろう。
フィレンツェ付近では、フィレンツェとピサとの間に、アルノー河の流れに添って、なかなか景色のいいところがあった。フィレンツェから汽車で半時間ほど行くと、山が左右から迫って来て、その間にただアルノーの流れだけを残したような、狭い峡谷になる。そのあたりに、驚いたことには、松山があった。例の行儀のいい傘松が、山腹から頂上へかけて一面に茂っている。日本では頂上まで木のある山は別に珍しくもないが、こちらでは実に珍しく感じる。そのために風景に非常にうるおいが出て来たように思った。
(391) 八 ボローニャ、ラヴェンナ、パドヴァ
一九二八年三月二十七日、ボローニャにて。
昨日牛後四時ごろの汽車でフィレンツェをたち、ボローニャの町へ来た。家の前の廊下が人道になっていて、なかなかおもしろい。
フィレンツェからボローニャに来る道は、イタリアの半島を斜めに両断しているアペニン山脈を突っ切るので、電気機関車を列車につけて、山をぐるぐるのぼって行く。山には雑木林が目につくようになって来た。これだけ北へくると、樹木の具合がだいぶ日本に似て来たように思う。しかし何と言っても樹木が少ない。大木などというものは全然眼にはいって来ない。雑木林などでも、たいていは一間ぐらいの高さのものである。山間を流れている川は水力電気に利用している。なかなか急流で、谷川らしい感じがあった。
途中でまた雨が降り出したが、汽車の窓から見ていると、小学生が三人づれでこうもり傘をさして山間の小道を帰って行くのがあった。そういう姿が何ということなしに哀感をそそる。妙な連想ではあるが、子供の姿を見るごとに、戦争などというものはいやなものだと思う。
ヨーロッパの画家は、ヘロデの嬰児殺戮の図を好んで描いているが、私にはあれほど残酷な印象を与えるものはない。ああいう残酷さは恐らく古来の日本人の知らない所であったろうと思う。人口制限のための嬰児殺戮が行なわれ(392)ていたことはキリシタンの宣教師がしきりに指摘しているところであるが、しかしそれとこれとは違うと思う。
今日もまた一日雨に降られて、見物があまり愉快でなかった。その上、ボローニャには大して偉いものも残っていない。少々張り合いぬけのていである。
中央寺院はだいぶドイツ式の感じのものであった。絵画館(ピナコテカ)では、ラファエルのサンタ・チェチリアが一番の呼びものである。サンタ・チェチリアが天上の楽《がく》に聞きほれて自分の楽器を忘れているところを描いている。右にマグダラのマリア、左にパウロ、パウロのうしろに福音記者のヨハネがいる。有名なほどいいとも思わなかったが、ラファエルのものとしてはいい部類に属するかも知れぬ。
今日はこれからまたラヴェンナに向かって出立する。
三月三十日、ヴェネチアにて。
ラヴェンナという町は、ボローニャの東方四五十マイル、東海岸から四五マイルのところにある田舎町で、外観はいかにも物寂しく、世間から取り残されているような感じであるが、しかしかつてはローマ帝国の都がここに移されていたことがある。そのなごりは今モザイックの絵として残っている。モザイックの絵ではほかにこれに及ぶものはないように思われる。
その儀れたモザイックの残っている遺跡は、まず第一に、西ローマ帝国最後の女皇として数奇な運命に弄ばれた|ガラ・プラチディアの墓〔付ごま圏点〕である。この墓は、外観がいかにも見すぼらしい煉瓦建てで、建築としての美しさなど少しも(393)ないものであるが、中にはいって見てあっと驚いた。中と言ってもごく狭く、幅はせいぜい二間くらいに過ぎないが、下方の大理石の壁を除いて、アーチ形の天井や側壁に一面に豪華なモザイックの絵や文様がひろがっている。それが保存もよく出来栄えも実にすばらしい。特に感心したのは、モザイックのある壁面のうち、わずか四分の一か五分の一だけが絵で、あとは全部文様で埋めていることである。絵は全部で六面しかない。天井やアーチ形の梁のところは、すべて文様である。だからところどころにある絵が非常に引き立って見えるばかりでなく、絵と絵の間の文様も、装飾としての効果をかえって高めてくる。後代のモザイック――シチリアのは皆ずっと後代のものである――や、さらに壁画などにおいて、壁面を所きらわず絵で埋めているのは、絵と絵が互いに邪魔し合ってその効果を減殺し、そのため装飾としても効果が少ないことになっている。あのやり方には前々から疑念を抱いていたが、ここにはそうでないやり方の立派な模範がある。実際この壁面の装飾の統一的な感じはすばらしいものである。(第45図)
文様は卍字文様、波文様、S字文様、菊花文様、葡萄文様、唐草文様などいろいろある。菊花と言ってはおかしいかも知れぬが、菊という字の主要な要素になっている※[米のような図形]形が、あるいは円形の中に、あるいは外に、散らしてあるのである。これは花の形に相違ないが、同時にまた十字を二つ組み合わせたものかも知れない。
そういう文様にしても、絵にしても、色彩の使い方が実にうまい。金、紺青、白、黄土色などがおもな色であるが、そういうけばけばしい色を使いながら、同じ色の面を広く大きくしているのと、色彩相互の調和がいいのとで、しつくりと落ちついたいい感じになっている。それに加えてモザイック特有の光沢が非常によく利いている。窓にはアラバスターの薄板が張ってあるので、日光が琥珀のような感じになってはいってくる。それに輝《て》らされてそれぞれの色が具合よく光るのである。写真で見ても使徒の白衣が輝いたり、文様がきらきら光ったりしている具合が、おおよそ(394)わかるであろう。
もう一つ注意をびいたのは、絵の|構図の簡素な〔付ごま圏点〕ことである。六面の絵のうちでは〈よき羊飼い〉の図が一番複雑で、あとはもっと簡単にできている。こういう簡単な構図は、今まで見て来た絵にはほとんどないところである。最も複雑な〈よき羊飼い〉の図にしても、キリストを描いてこのように|キリストただ一人〔付ごま圏点〕を出している絵は、ほかにはなかったと思う。少なくとも天使とか使徒とかを傍に並べるのが普通である。この図が複雑になっているのは、羊や草や岩などを並べたからであって、人物を組み合わせたからではない。これでも羊が多すぎるといえばいえないこともないが、しかし牧場に動いている|羊の群れ〔付ごま圏点〕のことを思うと、これはまず極度の簡単化だといってよいであろう。その羊や草が|背景〔付ごま圏点〕として人物よりも引っ込んだ別の層になっているのでなく、人物と同じ層に人物を囲んで置かれていることも、ほかにはないことである。このように自然を重く取り扱うということ、自然と人物とがちょうど平衡に釣り合っているということは、どうもヨーロッパ風の感じでない。むしろ東洋風といってよいものであろう。
この〈羊飼い〉の図は、写真ではよくわからないが、なかなかいい作品である。これはキリストを髯のない、美しい青年として表現している点で有名なものである。古代末期にはキリストの像はアポローンの像に近いのであるが、このモザイックの絵も古代最末期のものとしてその伝統に従っている。色の調子はわりに鈍くしてあるが、しかしなかなかおもしろく調和して、いい感じである。空は薄い青色、土地は黄色、キリストの衣も黄色、これは金色かとも思ったがそうではないらしい。羊は白色、草は緑色で文様化して描いてある。全体に色の調子がいかにもしゃれた感じで、ヨーロッパの宗教画に見られないデリケートな好みを現わしていると思う。
つまりこれらのモザイックは|ビザンツの美術〔付ごま圏点〕を示しているのである。東ローマ帝国において形成されたビザンツの(395)文化は、イタリアの地で栄えた西ローマの文化と異なり、ギリシア的なものを多量に保存するとともに、またペルシアその他|東方の文物〔付ごま圏点〕を強く取り入れているのである。すなわち東洋的なのである。この東洋は東アジアの東洋と同じものではないが、しかしヨーロッパ的でないという点においては共通であろう。
台の上にただ二人の使徒の立っている図も非常におもしろかった。台の上面は黄色で、側面は陰のごとく少し濃い。使徒の衣は白色、その背後は紺青色である。従って台は高く紺青の空の中へ突き出た感じになっている。その上に立っている二人の白衣の人は地上より非常に高くぬき出ているように見える。(第46図)
四月一日、ヴェネチアにて。
ラヴェンナのモザイックのことを書きさしたままなので、続けて書いてしまおうと思う。
ラヴェンナではガラ・プラチディアの墓へはいって行こうとする入り口のところにサン・ヴィターレという寺があって、プラチディアの墓よりはちょっと時代が新しいが、やはりモザイックで有名である。われわれは墓よりも先にこの寺を見物したのであるが、堂の中へはいって最初に眼についたのは、〈アブラハムの物語〉を描いたモザイックであった。つまりこれがラヴェンナで最初に見たモザイックなのであるが、その瞬間に、これは噂に違わず偉いものだと思った。
この図は、時代が新しいだけに、プラチディアの墓のモザイックよりも構図が複雑になっている。しかしまだ全体に簡素な感じを失っていない。薄い緑の地の上に白衣の人が浮かんで見える感じはなかなかいい。一体にモザイックは遠見が利くので、はめ込んである一々の石の形が見分けられないくらいの距離からながめると、色はほんのりとし(396)た底光りを帯び、それが互いに映発し合って、絵画では見られない特殊な効果を発揮するのである。それをこの時代のモザイックは十分に心得ていて、その特殊の効果に重きを置き、物の形はできるだけ簡単化しておいて、色と光との効果の全体をもって一つの心持ちを伝えようとしているかに見える。しかるに十一二世紀のころのモザイックになると、物語をしようとする要求の方が主導的になってくる。さらにルネッサンスになると、絵画と同じ効果をねらってモザイックの特性を忘れてしまう。それらに比べると、このアブラハムの物語などは、よほどモザイック特有の味のあるもので、画面の色彩と光沢との具合は非常にいい。モザイックの表面は細かい凹凸でできているように見え、ちょっと縮緬のような感じになっている。これは光沢のせいに相違ない。石をはめ並べた面であるのに、非常に柔らかい感じで、薄い緑の地の色など、実に美しい。全体にさらっとした、清らかな感じが出ている。これはどうも写真では捕えようのないものである。
その感じは堂内の唱歌隊席のモザイックなどにもよく出ている。そこの穹窿には、プラチディアの墓と同じく若い美しい青年としてのキリストが描き出されているが、しかしその左右には天使たちやサン・ヴィターレ、サン・エクレシオなどが立っており、それらの足下には美しい草花が咲いている。その正面のキリストの頭の上のところ、普通ならば陰で一番黒く見えるはずのところが、ここではほんのりと明るくなっている。モザイックの|金地の光〔付ごま圏点〕のせいである。その他壁面のところどころの文様なども金地のところが光っている。金地の壁面は一面に単調な金色の面として見えるのではなく、見るものの位置のとりようによって、光ったり、陰になったりする。だから彎曲している壁面にいろいろな光がこもって戯れているような、生き生きとした感じを与えるのである。それは実際、千四百年前のものとは思えないような、新鮮な感じであった。(第47・48図)
(397) ラヴェンナにはもう一つ、サンタ・ポリナーレ・ヌオボというモザイックのある寺がある。初めテオドリックが建て、後五六〇年にローマ・カトリック寺院に改造されたものである。モザイックのあるところではこれが一番新しい。
ここでは中舟の欄間が区切らずにひと続きの横に長い画面になっている。一方は、祭壇に近い端にキリストを描き、それに続いて使徒や聖者などの男の姿を、同じ白い衣で、ずらっと並べ、その長い列の他方の端に建築が描いてある。それに面した他の側では、祭壇の近くに聖母像を描き、次に聖母を礼拝する三人の博士たちを並べ、そのあとには正面向きの女の聖者たちを並べて、最後がここでも家の図になる。女の聖者の衣は金と白である。ラヴェンナでは、これが最もできの悪いモザイックということになっているが、それでもなかなかよかった。同じような人物をずらりと並べて装飾的な効果をあげているところや、片方は金地に白い衣、他方は金地に金と白の衣で、きわめて簡素に色の統一をつけているところなど、相当にうまいと思った。
その中でマギの礼拝は最も多彩な部分である。思い切って濃い色をも使っているが、趣味は悪くない。背壁は上の方が金、下の方が緑である。帽子は三人とも赤、衣の色の取り合わせは一人一人違う。右の博士は、マントが暗紫色、上衣が赤色、ズボンが銀地に文様、中のは緑青に白色に金地、左のは白色に暗紫色に赤地。色の種類が少ないわりに取り合わせはなかなかおもしろい。(第49図)
マギの礼拝に続いて並んでいる女の聖者たちは、金色の背壁の前、椰子の葉と葉の間に並んでいるのであるが、金壁の上部には黒字で一人一人の名前が記してあり、椰子の葉は金色の上に緑の色が美しい。写真ではいずれも黒ずん(398)でいてはっきり区別がつかないが、実物では非常に明白に際立っている。光背はやはり金色であるが、光背として示すために白色の線が入れてある。頭髪も金色であるために白い輪郭が取ってある。衣も金色の地で、文様により感じは違って来ているが、それを際立たせているのは白い垂れ衣である。裳の正面に垂れている飾りと、裳の下からのぞいている鞜と、そうして肩のあたりに垂れている椰子の実とには、赤色が使ってある。膝のあたりから下に見える背壁は緑色である。こういう仕方で二十数人、ずらりと並んでいるところは、なかなか美しい。
端の方にある建築でも色の調子は非常にいい。正面の入り口の左右の柱は白色で、その間は金色であるが、絞ってある垂れ幕は白地に金の文様、金の縁のついたものである。柱の上の壁は金色で、白の横線がはいっている。屋根の瓦は赤色である。左右の入り口は、白い柱の間が濃褐色、白い垂れ幕には横縦に金のすじがはいっている。全体に白色の使い方がきわめてうまい。(第50図)
この時代のキリストには髯がないはずであるが、このモザイックのキリストは髯を持っている。これは後の修復だろうといわれている。キリスト伝を描き出す場合でも、十字架のキリストは描いていない。十字架上で血みどろになっているキリストを描くのは、たぶん中世の趣味であって、六世紀ごろにはそういう陰惨な表現をきらっていたのである。
ラヴェンナは町としてはあまり美しい町でなく、ただ田舎めいているだけであったが、次にパドヴァの町へ来ても、やはりあまり美しくなかった。ラヴェンナと違ってよほど近代化しているのであるが、しかしどこと言って取り柄のない町である。
(399) しかしパドヴァにあるスクロヴェニ礼拝堂、すなわち|ジォットーの礼拝堂〔付ごま圏点〕は大したものであった。外観はごく平凡であるが、中へはいって見ると、壁から天井からすべてジォットーの壁画で埋められている。つまりジォットー壁画館のようなものである。ミケランジェロのシスト礼拝堂はこの伝統を追ったものにほかならなかった。もちろん礼拝堂としての役目もつとめるのではあろうが、その点では別に特異な存在ではなく、ただジォットー壁画館としてのみ世界にユニックな存在なのである。(第51図)
ジォットーの壁画は、何と言ってもここのが一番よい。キリスト一代記の数多い場面や、最後の審判の大壁画など、十四世紀初頭の仕事として、十六世紀の初めあるいは中ごろのミケランジェロの仕事と比べると、いろいろ感ぜしめられることが多い。しかし大体から言って、アシシで感じたように、色はあまりよくない。写真で想像する方がいいと思える絵もだいぶある。ことにラヴェンナでモザイックの美しい色を見て来た直後であるために、一層その感じが深かった。しかしジォットーの絵の写真を見てつくづく感じることは、一体に非常に硬く映っていることである。ほんのりとした肉色も写真では黒く映ってしまう。従って実物では柔らかい顔に見えているものが、写真では恐ろしくきつい顔になっている。その上、大きさと距離との関係がまるで狂ってしまう。写真は大きい画面を小さく写しているが、しかし実は近距離から写しているのであるから、ブラッシュのあととか壁のきずとか、傍へ寄らなければ見えないようなものがちゃんと写っている。肉眼で遠くから見れば絵はやはり小さく見えるが、しかしその場合には細かなことは眼に映らず、感じはよほど違うのである。
ここの無数の壁画のなかで最も感服したのは、天井にあるマドンナの絵である。この絵は写真で想像するよりもずっといい。それは色の具合がいいからであろう。背後は金で、頭布にはやや赤色を混じえ、上に羽織った衣は紺青色、(400)下の衣は陰を暗褐色に塗り、明るいところを白くしている。全体の感じは、金と白とで描かれた姿の中に、赤と朱とが混じって単調を破っている、というふうに言い現わしてよいであろう。衣の縁の金色や嬰児キリストの背光の金色が非常によく利いているために、そういう感じを受けるのかも知れない。(第52図)
この絵は高さ七間ぐらいの天井にある。しかも下から見上げて、ちょうど見ごろだという感じがする。写真で見るよりもはるかに柔らかみがあって、感じもこれより明るく、暖かい。顔や手などには幽かに肉色を用いている。
この絵で写真と実物との相違を数え上げてみると、写真では顔のところに壁の割れ目が著しく目だっているが、実物を七間の距離からながめたときには、それはほとんど目だたなかった。胸のがいくらか目につく程度であった。顔はもっと面長に見えた。これは天井の彎曲と関係のある問題かも知れない。顔の陰影は写真で見るように暗くついているわけではない。陰のところは肉色を幾分濃くしているために黒く映ったのである。そのため、頬の陰と外衣とが同じ黒さに見えるが、しかし実際は、たとい陰になっていても頬には明るい肉の感じがあり、それに対して外衣は紺青の濃い色で、まるで調子が違うのである。全体として、マドンナはなかなか美人に見え、キリストもなかなかかわいい子に見えるのであるが、その感じはちっとも写真には出ていない。自分の眼の迷いであったかしらと疑わしくなるくらいである。
ジォットーの礼拝堂の近所にイル・サントーと呼ばれる寺院がある。丸屋根がむくむくといくつも並んでおり、その間に細い塔が突っ立っていて、ちょっとおもしろい外観である。平面図はフランスのゴシックから取ったものだそうであるが、丸屋根はビザンチン式で、北方のゴシックとはだいぶ感じが違う。
(401) イル・サントーにはマンテニャの壁画があった。マンテニャはなおそのほかにエレミタニの寺にもあった。これは実に不思議な技能を持った画家で、空間の描写では誰にもできないような離れわざをやる。しかしそれほど鮮やかに立体的に把捉された人物が、彫刻と同じょうに凝固した感じになっている。これも実に不思議である。
パドヴァからヴェネチアまでは汽車で一時間余りに過ぎなかった。途中車窓からイタリアのアルプスが白く見えた。海からいくらも高くないまっ平らな平野が四五十マイルくらいも続いていて、その向こうに六七千尺くらいの雪の山が続いているのである。なかなかいいながめであった。幸いその日の夕方は空が晴れていたので、このながめを十分楽しむことができた。
ヴェネチアの印象はこれから書く。
(402) ヴェネチアに病む
「ヴェネチアの印象はこれから書く」という四月一日付の手紙を最後として、そのあとの旅行の印象を記した手紙が一つも残っていない。たぶん書かなかったのであろうと思う。それは、ヴェネチアに着いてから三四日後に熱が出て、元気がなくなったからである。
ヴェネチアに着いたのは三月二十九日の夕方であったように思う。汽車で一里くらいもラグーン(潮入湖)の中の堤防の上を走って、はるかに陸から離れたヴェネチアの町へはいったときには、これまであまりはっきりと頭へはいっていなかったこの町の位置のことが、やっとはっきりとわかった。その感じを今も覚えている。ヴェネチアの町はそれほど広いラグナ・ヴェネタの中の島なのである。ラグーンの幅はヴェネチアのところで二里半ぐらい、南北の長さは十数里に達するであろう。だから長さ一里ほどのヴェネチアも、まず海の中の小島と言ってさしつかえはない。このことがこの町の存在と重要な関係のあることも、この時にやっと飲み込めたのであった。というのは、もともとこの島が開け始めたのは、アッチラの侵入でヴェネトの国の沿岸の町々が破壊され、その住民が島へ避難した時である。その時にはラグーンの小さい島々が皆避難の場所になり、必ずしもヴェネチアのあるリヴォアルト島が最も重大というわけではなかった。二世紀ほど後に島々の間に同盟ができたときも、中心はヘラクレアとかマラモッコとかであって、リヴォアルトではなかった。が、そういう状態でゲルマン人の影響を拒み、ビザンチン帝国の保護の下に、この(403)島々の人民がその独立の存在を保った、それがヴェネチアの国家のそもそもの始まりである。九世紀の初めにペピンが攻撃した時にも、島々の人民はそれを撃退することができた。しかし陸に近い島は占領されたので、当時政府の所在地であったマラモッコの住民はリヴォアルト島に避難した。その機会に、この島が最も安全なところとして、政府の所在地にされ、後のヴェネチアの基礎を置いたのであった。してみるとヴェネチアの国家の存在と、それが島であるということは、本質的に結びついているのである。それが国家としてだんだん有力になって行ったのは、すべて海上での活躍の結果であった。それはどうもわかり切ったことなのであるが、ヴェネチアヘ着いて見て、なるほどと初めて理解ができたのであった。
それにはもう一つ、停車場の税関が理解を助けたかも知れない。今はもうヴェネチア国などというものはないのであるが、しかしフィレンツェで託送しておいた旅行鞄を受け取るためには、ちゃんと税関の調べを受けなくてはならなかった。その感じは外国へはいる時と全然同じであった。
ホテルはサン・マルコの広場に近いボンヴェキアティという家であった。運河沿いに二町ほど歩いて、にぎやかな通りをちょっと抜けると、すぐサン・マルコの広場の西の端に出る。広場は石で敷きつめてあるが、その上へ鳩が下りて来て、餌をくれる子供たちのまわりに集まっている。その広場の向こうの端に、恐ろしくにぎやかな姿をしたサン・マルコのお堂が、広場におっかぶさるようにそびえているのである。その印象はいかにもヴェネチア独特で、同じイタリアの国内ではあるが、やっぱりヴェネチアという独立の国へ来たような気持ちを起こさせる。
そのすぐ南側にはパラッツォ・ドゥカーレ〈ドージの館《やかた》〉(第53図)があるが、この建物がやはりヴェネチアの町の歴史を一挙にして思い起こさせるような、ヴェネチア独特のものである。その中を見物するだけでも一日ではすまなか(404)った。
最初二三日はそういうところを愉快に見物して回ったのであるが、たぶん四月の二日か三日のころに、昼食にホテルヘ帰って食卓に向かうと、まるで食欲の起こらないのに気づいた。ホテルヘ帰る途中では、今日もまたヴェネチア名物の魚のフライを食おうと、幾分楽しみにさえしていたのであるし、食卓についてからもそういう気分でいたのであるが、最初スープを飲み始めると、何となく胸がつかえるようで、あとを口に入れる気がしない。やがてフライが出ても、頭ではうまいはずだと思うのであるが、どうしても手をつける気持ちが起こって来ない。結局、皿とにらめっくらをした末に、残念ながらそのままさげてもらう。どうも変だ、そんなはずはないが、と思って、室に帰って念のために熱を量って見ると、七度五、六分ほど熱が出ている。どうも風邪をひいたらしい、今のうちに癒してしまおう、というわけで、その日はアスピリンを飲んで寝てしまった。夕食も抜いたように思う。
翌朝眼をさまして見ると、気持ちはさっばりしている。熟もない。朝食はうまかった。もうこれで風邪は防げたらしいと安心して、午前中はまた見物に回った。ところが、昼の食卓について見ると、昨日と同じ現象がまた起こって来たのである。昨日は昼と夜とを抜いたのであるから、今日は少し栄養を取っておかなくては、と考えるのであるが、何としても食物を口に入れる気がしない。ただわずかに水が喉を通るだけである。さては、朝熱がなかったのは、アスピリンのせいであった。風邪はまだ退散しないのだ、と思って、この日もまた午後は床についた。
次の日になると、朝はまたきわめて爽快な気持ちで、食欲にも変わりがなかった。こうなると、どうもいつもの風邪ではなさそうだという気がしてくる。とすると何の熱だろう、と少し薄気味悪くもなったが、しかし大したことでもなさそうに思えるので、その日から寝るのをやめ、なるべく夕食をとるように努めた。そうしていても別に病勢が(405)高まってくるというわけではなかった。ただ全体として気分が暗くなって来たことは事実である。
そういう関係でヴェネチアの印象はいかにも薄暗く、かすれてしまった。それを今無理に記憶の底から呼び起こしてくる努力をしてみようとも思わぬが、ただ一つヴェネチアの印象としてはっきり残っていることは、|ヴェネチアには色彩がある〔付ごま圏点〕と感じたことである。
ローマでもフィレンツェでも、イタリア・ルネッサンスの偉大な絵を見ていつも感じたことは、色彩の弱点である。その感じをその時の通信では、「写真で想像していたほどよくはない、」という言葉で現わしている。しかるにヴェネチアに来ると、写真ではどうしても想像することのできないような、色彩の美しい絵が眼についてくる。その代表はティチアンである。特に眼に残っているのは、ティチアンの最後の作、美術のアカデミアにあるピエタである。この絵の色と光との美しさには、絵画のみのなし得る非常に深いものが現われている。そういう仕事をなし得た点では、ティチアンはルネッサンスの第一人者である、とその時に強く感じた。(第54図)
この印象は私が初めてパリでレオナルド・ダ・ヴィンチの〈ジォコンダ〉とレンブラントの〈エマオのキリスト〉とを見たときの印象と連なっている。ジォコンダはなるほどすばらしい傑作だと思ったが、しかしそれを初めて見たときに何の驚きも感じなかった。それは期待していた以上のものでもなかったし、また以下のものでもなかった。しかるにエマオのキリストは、実に私に驚嘆の感情を起こさせたのである。私はこの絵の相当に大きい写真を額にして書斎に掛けていたこともあったし、またレンブラントの芸術の偉大さについてはいくらか読んだこともある。この絵に対する期待が小さかったとはいえない。しかしこの絵は期待をはるかに超えたものであった。あの薄暗い色と、色のな(406)かから輝いている不思議な光とは、絵画をもってこれほどのことまでも成し得るのかと、私を心の底から驚かせたのであった。
このレンブラントの絵から受けた感銘と同じょうな感銘を私はティチアンの絵から受けたのである。ヴェネチアの町のさまざまの印象は、運河も、運河をはさむ数々のパラッツォも、またその運河の向こうにあったアカデミアの建物の姿も、すべて皆薄れてしまったが、ただあのティチアンの絵で、十字架から取りおろしたキリストの裸体の像に見えたあの不思議な美しさ、その裸体を膝にのせている聖母の頭の背後に輝いていたあのほのかな光の深い美しさ、それのみはまだまざまざと二十数年後の私の心に生きている。
ヴェネチアを去ってヴェロナヘ行ったときにも、健康の状態は同じであった。ヴェロナではずいぶんいろいろなものを見たはずであるが、印象はほとんど残っていない。ちょうど午後の熱の出てくるころになると、見物している古い寺の建築などがいかにも暗澹として見えた。
ついでミラノに着いて、中央寺院やスカラ座に近いホテルに泊まり、たぶん二日ぐらいは見物して歩いたかと思う。中央寺院は屋根の上まで昇って見たし、ブレラ宮殿の美術館ではティントレットやボルドーネを丹念に見たし、アムブローシアナ図書館の画廊ではレオナルド・ダ・ヴインチの手記類を見た。レオナルドの有名な最後の晩餐の壁画も、少し離れたサンタ・マリア・デル※[小字]レ・グラチエの寺の傍まで見に行ったが、そのころから少し体の具合が変で、とうとうその晩には高熱が出た。そうして翌日も翌々日も熱は下がらなかった。
同行の亀井君は親切に世話してくれたが、三日目だったか四日目だったかに、自分の愛用している解熱剤だからた(407)めしてみるがよいと言って、キニーネの錠剤を買って来てくれた。私はいっこう利かないアスピリンの代わりに、このキニーネの錠剤を飲んだ。すると、翌朝には熟は下がっていた。その日一日寝てはいたが、もう熱は出て来なかった。
キニーネがてきめんによく利いたというので、私はマラリヤのことを連想した。記憶をたどってみると、ボローニャからラヴェンナヘ行く汽車のなかで、足を蚊に食われて実にかゆかったことがある。あの日は雨がびしょびしょしていやな日であったし、地方線の汽車の車室も見すぼらしかった。かつて西口ーマ帝国の最後の栄光がこの地方で輝いていたとしても、今はただわびしい気持ちばかりがする。そういう気持ちで、靴下の上から踝《くるぶし》あたりのところをしきりに掻いていたのであったが、その時にはイタリア人を平野から山の中腹へ追い上げたあの蚊の勢力のことを、つい忘れていた。これはどうもとんだ失策だといわなくてはならない。その時にすぐ蚊に対するセンスを働かせて、ラヴェンナに着くとさっそくキニーネを買って服用すべきであった。そうしておけば、ヴェネチアの印象も、ヴェロナやミラノの印象も、取り留めることができたであろう。残念ながらそれに気づくのが二週間遅かった。
熱が下がったあとでも、スカラ座をのぞいて見ようとする勇気さえ出なかった。早くマラリヤの蚊のいないところへ行こう。そういう気持ちで、急いでサンゴタルドを超えスウィスのルツェルンへ出た。そうして湖水の美しい景色をながめつつ復活祭を迎え、毎日キニーネを飲んだのである。
〔以下の付録は参考のために入力者がつけたものです〕
戸坂潤「増補 世界の一環としての日本1」平凡社東洋文庫、原板は白揚社1937年4月
18 和辻博士・風土・日本
私は前に「『やまと魂』学派の哲学」に於て、権藤成卿翁や鹿子木員信博士と、和辻哲郎博士(もっとも当時はまだ博士ではなかったが)とを並べて、和辻博士のモダーン哲学は、ヨーロッパ的カテゴリーと大和魂的国粋哲学のカテゴリーとの絡らみ合ったもので、結局において日本主義イデオロギーの最もハイカラな形態なのである、というようなことを指摘したのである。ところがこの点、其の後になると、ますます判然として来たと見ることが出来る。特に一九三五年の秋に出版された論文集『風土――人間学的研究』は、『人間の学としての倫理学』と共に、和辻哲学の一般的な哲学法と、特定な関心との対象とを明らかにしたもので、翻読に値いするものと云わねばならぬ(『人間の学としての倫理学』の批判は拙著『日本イデオロギー論』に載せてある)。
すでに書いたことだが、和辻博士の哲学の誕生には、外部的内部的な一つの必然性があって、それが今日の姿を産み出していることを、まず注目しなければならぬ。氏はまず初めにニーチェとキールケゴールとの発見者として現われた。哲学が日本ではまだ充分に思想として、また思想のメカニズムとして発育していない頃、大学を出た氏としては、ニーチェや特にまたキールケゴールを哲学的な学的共感を以て見出すことは、それだけで卓抜な眼の所有者であることを証明するものなのだ。ニーチェやキールケゴールは勿論、イラショナリズムとか、ヴォランダリズムとか、または宗教的形而上学とか、また哲学的文化とか、其の他其の他の普通の哲学概論式命名によっては少しも内容を説き明かされることは出来ない。それは今日から云えば、大体において、人間学という課題として最もよく理解出来るものだったのだ。然し人間学という観点がアカデミックな哲学に於て今日のような意味を得て特殊の優待をさえ与えられるようになったのは、日本ではごく最近のことであるし、ヨーロッパでも極めて新しい現象なのだ。今日、この意味での人間学は、一種の流行哲学である。その代表者の一人が風土史論者としての、また倫理学者としての、和辻博士自身なのだが、この人間学の先駆者としての古典はニーチェ、特にキールケゴールなのだ。古く之を自分の哲学的な関心対象として発見した博士の眼は、決して平凡であったとは云えないしまた決して偶然に基いたものであったとも云うことは出来ない。
しかし、博士の眼光の力は、さることながら、この眼光が、こういうやり方で働きはじめた心理的動機を見ておくことも亦右に劣らず大切な要点となるだろうと思う。氏の独創的なそして警抜な眼光は、決してそれ自身の内部的な情念の必要からばかり働きはじめたのではない。それは大いに外部同時代者からの影響の結果によるものであり、しかもこの影響に対する反作用(特には之は反動を意味する)や反抗が、精神上の動機力をなしているのである。ニーチェやキールケゴールは、当時の日本のアカデミー哲学の俗物的平板さに反抗するために取り上げられたとも見られる。この点、和辻思想を理解するのに根本的な参考になるのだ。そして、この反抗は、いつも一種の文化人的貴族性によって着色されているという点も亦、参考に必要だ――。『日本古代文化史』は津田左右吉氏等の日本文学史に対抗するために、日本文学の一種の優越性を結論しようとしたものであり、そしてそこに使われた方法論はまた当時流行であったリッケルト一派の歴史学方法論に対抗するために、ランプレヒトの心理学的方法を担いだものだった。アメリカニズム(と云うのは、つまり、資本主義文化の普遍性に相当するもののことだが)に対抗するためには氏がアメリカニズムの原型と考えたローマ主義に対抗する必要があるというので、それを動機として「原始キリスト教」の研究が発表される。
この貴族的反抗性反作用性の特色と共に、和辻氏の卓抜さに於ては、思想上学術上のモードの新しさを追い求めるという一つの心理も亦、これに劣らず重要な役目をもっている。『日本古代文化史』や『古寺巡礼』や『日本精神史』(また『続日本精神史』)では、日本や古代日本というものを、一つの新しいモードとして追い求めているのを見出すことが出来るだろう。ひとり関心や省察や研究のテーマだけがアラモードであるだけではない。研究・省察・関心・の方法や態度そのものが又、アラモードなのだ。『原始仏教の実践哲学』では、この研究・省察・関心・におけるファッション・アラ・モードぶりは、絶大な威力を発揮した。原始仏教の教義内容をば、当時からドイツで広く行なわれている斬新哲学たる「現象学」を使って、見事に解剖したものである。現象学上の哲学的省察法が、じつは原始仏教そのもののもつ省察法であったという次第である。かくて、とに角、原始仏教は二十世紀の文化人にも極めて理解しやすい文化財となったわけだ。これまでの僧侶的な仏教学者達の思いも及ばぬ古典紹介ぶりであったのだ。
だが、この頃から、和辻思想には、一つの方法というものが形を取りはじめたのである。たとえば、『日本精神史』などにおいては、まだ何等自覚的な方法が省察されてはいなかった。方法は明らかに見えてはいるが、それの省察がまだ充分に自覚的ではなかった。ところが今や、方法はまず、フッセルル式な「現象学」のそれを利用して、形を取りはじめたのである。
思考の仕方におけるファッション・アラ・モードぶりというのは、しかし、決して謂わゆる進歩的ということとは一致しない。進歩とか反動とかいう歴史の運動における大局的な必然の動向とは関係なしに、大衆的に、あるいはインテリの支配的な勢力として、大勢をなすものに対する貴族主義的反抗が、じつはこの際のファッション・アラ・モードだ。あまり普及してしまったファッションはもはやファッションとも云うことは出来まい。まして、アラ・モードなものなどではあり得ない。でこうなると、真の意味において、歴史の大勢から云って、新しいということは大して問題ではないので、そこでは新しさよりも大勢への反抗の方が、思考の興味をそそることになるのである。和辻博士は、学生の左翼化を、一つの普及しすぎたファッションと見て取り、この古い流行に新流行の反逆をさせようと思って、みずから右翼化ないし反動化したのである。だから氏の反動家ぶりなるものは、それ以来、常に、敵本的なものであり、いつも多少なりとも、逆襲的で、皮肉な性質をもっているのである。
さて、この逆襲的反動性を結果する貴族主義的な一般的反抗性(アマノジャク性)そのものがじつは和辻思想の方法を前進させたのだということは、非常に興味のある点である。なぜというに、博士はここで、マルクス主義的哲学方法という一つの方法論上の対立物を、敵手を、いな好敵手を、発見したからである。というのは、詰り、和辻的方法を生長させるに持って来いのいい対手を持ち合わせたからである。――ところが当時ドイツのブルジョア哲学の最も有力な(そしてアラ・モードな)哲学の一つは、フッセルルの『現象学』からハイデッガーの『存在論』ないし『人間学』への移行であった。これの日本における最初の代表者は、三木清氏であったが、三木氏がこれを初めマルクス主義との友誼関係において捉えようとしたとは事かわって、和辻博士の方は之を、ほかならぬマルクス主義反対のための、いなマルクス主義打倒・撲滅・のための、そして、やがてマルクス主義弾圧(政治的行政的弾圧だ)のための、何より有効な武器として自覚したのである。――かくして和辻思想の哲学法は、ここのところ、内部的にも対外的にも、まさにほかならぬ人間学、あるいはもっと正確に云うなら、人と人との間の学(「人間」の学)になければならないのだ。それが反唯物論の殆んど唯一の残された道だからだ。倫理学の教授としての氏は、これによって、人間の学としての倫理学を建設できる。ところで、そういう倫理学は、国際的に共通なものであるよりも寧ろ「ところ、ところ」によって異る「人間」の、それぞれに特有の倫理学でなくてはならぬ。して見れば、日本には、日本特有の倫理学が之によって見出される筈だ。ところが、そうなると、文化史家としての和辻氏は、一つの飛躍を可能にされる。いったい「ところ、ところ」によって人間が異るとは、どういうことか、という問題へ前進するのである。ここに風土なるものが発見されたのである。――人間学は風土理論に行くことによって、初めて文化史の方法として完備する。そして大切なことは、之によってまた初めて、マルクス主義的な史的唯物論に逆襲を試み、これを皮肉りそれの虚をつくことが出来る、というわけだ。なぜなら「風土」によると日本の特異性を強調することが出来、それによって初めて「ロシア的日本人」(!)の漫画を描けるかも知れないからである。
こう考えて来ると、『風土――人間学的考察』という本の題はきわめてピッタリとした名づけ方であると同時に、たいへん正直な題だということも判るだろう。この本が和辻思想にとってまた現代日本の支配者の文化理論にとって、いかに重大な意義があるかということは、もはや説明を必要としないのである。痴鈍なるインテリ大衆や人民大衆に反抗する、選良インテリの軒昂たる意気から云っても、その着眼のスマートさから云っても、その方法のファッション・アラ・モードぶりから云っても、そして更に行政上の反動政策の文化的顧問力から云っても、その意義の重大さは、いまは広く認められているのである。
私がこういうと、読者のある者は、和辻博士の学的労作が、何か出鱈目なもので、取るに足りないものででもあるように考えるかも知れない。あまりに馬鹿々々しい反動論者を沢山見せつけられている読者が、そう思うのも無理ではないが、しかし和辻博士の場合は、決してそうではないのである。博士の眼は常に警抜であり、新鮮であり、そのリーズニングは、はなはだ細心なものがある。それだけではない。博士は木によって魚を求め得るばかりでなく、魚によって木を求めることさえ出来る或る魔術の所有者だ。この魔術あるが故に、一切のテーゼに対しては、いつでもアンティ・テーゼを対抗させることが出来るのだし、常にアラ・モードでモダーン乃至シークな学術を紡ぎ出すことも出来るのである。これはインテリゲンチャにとっては胸のすくような演技である。博士の学術はだから、文化的に非常に水準が高いのだということを忘れてはならぬ。博士の、一見我儘な結論は、常にアカデミックな論証からの結論なのだ。――だがこの魔術の秘密はどこにあるのだろうか。風土とは一体、氏によってどういう概念として持ち出されているか。それを見ればこの点一等よくわかるだろう。
博士は云っている。吾々が寒さを感じるというのは、客観的な寒さがあって、それを吾々という主観が感じ取るというのではないのだ。「寒さを感ずる時、我々自身は既に外気の寒冷のもとに宿っている。」で、外にあるものは、寒気というような「もの」や「対象」ではなくて、実は我々自身なのである。我々が寒気の内へ、外へ出ている(Ex-istieren)のである。だが吾々が共通に寒さを感じるのは、この外なる寒気が実は吾々自身であるばかりではなく、更にこの寒さの共通が実はまた吾々という相互の「間柄」に他ならないということを意味する。吾々が共通に寒さを感じるということは、吾々が吾々自身を寒さという吾々人間の間柄として、了解することに他ならない。して見ると、吾々が寒さを感じるという現象は、寒さとして吾々自身の間柄を、つまり人間として吾々自身を、そういうものとして自己了解するということだ。寒さを感じることは吾々が自己を了解することだ。自分の人間的存在の理解に他ならぬのだ、というのである。
ところでこの寒さは「気候」というものの中の一環に過ぎなく、そして気候というものは「ある土地の地味地形景観」などとの連関においてのみ体験せられる。ところでつまり、これが風土というものだ。だから我々は、風土において、我々自身を、間柄としての吾々自身を、見出すのであり、吾々自身を了解するのである。――かくて風土とは、吾々人間存在の間柄が、自己了解される一つの仕方を指すわけだ。人間の自己了解のあり方の一つが風土というわけだ。
さて注意すべきは、この風土というものが主観でも客観でもないものだという、一つの根本的な観点である。風土が素より主観なのではあり得ないのは当然だ。だが又それは客観でもない。つまり主観に何等かの作用(或いは因果関係)を与えるだろう客観、つまりそれは自然と普通呼ばれているものだが、そうした自然なのではないのである。風土はそういう自然科学的な範疇ではなくて、主客の対立などを根源的に踏み越えたところの、正に人間学的なカテゴリーと考えられている。風土は人間に影響を与えるところの自然現象のことではなくて、かえって逆に、人間の自己了解の一つの現象だというのである。人間を何等か風土によって説明する事は正しいことではない。むしろ人間が自己を了解し理解するという現象そのものの一つが取りもなおさず、ただちに風土なのだという。
風土は、いわゆる自然にはぞくさない。それは人間の自己了解の仕方であった。だがこの自己了解の運動は、同時に歴史的であるのだから、そこで歴史と離れた風土もなければ、風土を離れた歴史もない。が、いずれにしても、人間存在の根本構造からしてのみ、この関係は明らかにされるのであって、自然と社会の発達史的な連関などから説明されるべきではないと云うのである。
だが、それにも拘らず、風土は、和辻博士によると、いわゆる自然の人間学的代用物としての役目をチャンと帯びさせられている。吾々はこの点を見落してはならないのだ。人間存在の構造(敢えて存在物の構造とは云わぬ、正に人間存在の構造だ)は時間的空間的だと考えられているが、その空間的というものが、この風土に相当するのである。風土はつまり「ところ」にほかならない。元来この空間なるものが、いわゆる空間のことではない。存在物の根本存在性を示す性質でもなければ、存在の形式でもない。まったく人間存在の構造内に宿るところの或る一つの契機を意味する。内なるものが外に出るという関係か連関が、空間(じつは空間性)だ。こうした人間学的な空間概念に関係づけられて、風土は空間的な「ところ」となる。そうすると今度は自然というものも亦(それは空間性をもち処を占める)正にこの風土によって、人間存在の構造に帰着せしめられることとなる。自然は人間存在の一連関のこととなる。こうした自然は、とりもなおさず風土として理解されているわけだ。
だから、和辻博士による風土なるものは、要するに人間学的に解釈された自然のことにほかならず、あるいは少なくとも、自然の人間学的な代用品にほかならない。つまり風土という観念は、自然を人間学化し主体化するための、一つのカラクリ道具だったわけだ。風土というものを持ち出すことによって、自然はその自然としての特性、つまり人間に先んじて成立しているという特性、を見事に剥脱されて、客体的である代りに、まさに主体的であるものにまで、変貌させられてしまう。こうした魔術の言葉が風土だったのである。――で今や、和辻博士の例の魔術の秘密は風土のこの観念から見当がつくことになった。自然を人間に帰着させるということは、自然を自然としてではなくて、自然でないものとして説明することにほかならない。この調子で行けば黒いものを白いものとして説明することも出来れば、白いものを黒いものとして説明することも出来るだろう。つまり黒も白を意味したり、白も黒を意味したりすることは、事実不可能ではないからだ。それが意味するというかぎりにおいてはだ。と云うのは、事物の連関、ここでは人間存在なるもの、をば、それに与え得るいろいろの意味において解釈するのなら、どういう解釈でもつけることが出来るわけだ。空間については、あるカント主義者はこれを論理学的想定にほかならぬと解釈した。風土観においては単に、それが人間学的カテゴリーとして解釈されたに過ぎない。
風土は人間学的解釈学の独特の愛用語とされているように見える。いや自然や歴史を人間学的に解釈学的に(同時に又、文献学的にということにもなるが)、片づけるためには、まずこうした風土の観念は大へん必要だったのだ。なぜなら、これによって、人間学や解釈学にとって、元来苦手であるところの自然の客観性というものを、手際よく手なずけて「主体」化すことが出来るわけだからだ。とともに、唯物論の第一テーゼから、見ごとに解放されることになるからなのだ。風土がなぜ和辻博士の特別な興味を惹いたかという理由は、ほかでもない、ここにあるのである。自然を科学的に、というのは唯物論的に、取り上げることは、すでに時代おくれの野暮なやりかただと説明することによって、自然を人間学化し、解釈学化し、かくて又それを主体化して、自家薬籠中のものとして見せる。これこそアラ・モードな自然観だ、というわけだ。風土はだから、唯物論ないし史的唯物論を無用にするために召し出された一つの根本概念であったということがハッキリするだろう。
もちろん風土というものを述べるのに、和辻博士が用いた方法――人間学・解釈学・――は、ほとんど完全にハイデッガーのものであり、そして、それの東洋的ないし日本的文献学(フィロロギー)による一展開である(人間の間というものは東洋的フィロロギーから導かれている)。そしてこの種の方法は、今日、日本のブルジョア哲学の可なりの部分を支配している。が博士のオリジナリティーは之に基いて風土という一種の武器を造り出したことの内に横たわる。この武器の考案は前にも云ったように、マルクス主義社会科学の虚を衝こうという意図から出ている。生産関係や生産力というカテゴリーを辱しめるために呼び出されたものであった。だが、効用はそれだけではない。風土は「ところ」である。それぞれところどころによって異る地方の特異性を強調するのに何より便利であろう。と云うのは之によって、日本や東洋の特異性、日本的・東洋的・現実の特異性、を強調する一つの一般方法を提供することが出来る。特に日本文化・東洋文化・は、史的唯物論では説明できないということを強調するには、之が手頃の効用があるらしく見える。ここが風土と和辻的観念の最後のねらいどころだったのだ。
和辻博士が、世界における風土の型を三つに分けたことは、相当ひろく知られていると思う。モンスーン、砂漠、牧場の三型である。いまは他の型は論外としよう。日本はモンスーン型にぞくする風土をもつ。いな日本に於ける人間的存在は、モンスーン的風土に於て自己了解し、間柄をもつ、と云うべきなのだろう。とに角、卒直な事実は、吾々が日本という土地に住んでおり、その土地はモンスーン地帯にぞくしているということだ。
モンスーンは季節風である。この風土的類型にぞくする日本は、さらに、突発的な季節風に見舞われるという意味に於て特に台風的風土をもつ。そこで博士は云っている。「だから台風が季節的でありつつ突発的であるという二重性格は、人間の生活自身の二重性格に他ならぬ」と。台風は自然科学にぞくする気象学的研究対象であろうが、そして、それが日本人の生活に影響を与えるということは、誰知らぬ人もないが、和辻氏によると、台風が稲の花を吹くことによって人間の生活を脅かすというので、この気象学的対象は忽ち人間的構造へと昇格させられる。そこで気象学的二重性格は、すなわち日本人の人間的二重性に他ならぬということになる。事実は単に、自然科学的な台風が吹いて、稲がやられて、農民が生産生活に心配が多いということだが、それが人間的風土論から行くと、台風という自然現象は、人間存在の構造の内で吹きまくらねばならぬこととなる。しかしそれはそれとして、ここでは次のような人間存在の構造が発見される。「豊富な湿気が人間に食物を恵むと共に同時に暴風や洪水として人間を脅かすというモンスーン的風土の、従って人間の受容的、忍従的な存在の仕方の二重性の上にここには更に熱帯的、寒帯的、季節的、突発的という如き特殊な二重性格が加わってくるのである」と。
まず念のために注意しておくのだが、この熱帯的寒帯的とか季節的突発的とかいうのは、動植物や風のことではなくて、「人間存在の仕方」のことだということを。これによって日本の人間の存在の仕方が、つまり俗に云う日本の国民性というようなものが、解釈学的に演繹(?)されるのである。曰く「豊富に流れ出でつつ、変化において静かに持久する感情」、之が日本の人間存在の受容性の特有な内容となる。また「あきらめでありつつも反抗に於て変化を通じて気短かに辛抱する」というのが、モンスーン的忍従性の内でも、日本の人間に固有な特異性だという。でつまり「しめやかな激情、戦闘的な恬淡」が「日本の国民的性格」に他ならない。そしてこの本性は事実上、客観的に歴史を通じていろいろに表現されている。日本の人間存在に於ける男女の間、家族、家、国家、宗教、その他に一つ一つ、それと覚しく解釈できるものが見出される。等々。
こうした日本の人間の心理の特有性、それの文化上に於ける表現、の考察は極めて興味もあり、示唆にも富んだものだろう。だが吾々の問題はそこにあるのではない。問題はかかる「日本の国民的性格」と、例の台風との関係如何にあるのである。いったいラジオの気象通報で放送される台風の気象学的な二重性から、如何にしてまた演芸放送で放送される日本国民的なナニワ節や軍人の講演に於ける二重性が、発生するのであるか。その因果関係については、和辻博士の細かい叙述にも拘らず、何物を聞くことも出来ない。――しかもそれは実は初めから当然だったので、元来博士の人間学的解釈学は、自然によって人間の心情を説明しようという、そうした何等かの科学的因果づけは初めから問題にしていなかったのだ。これを問題にしないためにこそ、あらかじめ自然と心理とを一緒にして、風土と主体というものになおし、そして風土、即主体という定式を与えておいたのだった。因果的な説明などはいらない。必要なのは解釈だけだ。――しかも、その解釈は実際を見ると、和辻式に警抜なファンタジーとアナロジーと、また時とすると、思いつきと、あて推量と、そして更に、こじつけとにさえ基くことが出来る。しかも牽強付会される個々のタームは極めて実証的な引例や経験に基いているというわけだ。だが、とにかく解釈学と雖も、さすがにここまで来ると、フィロロギーでは役立たぬと見える。
そして博士は云うのだ、「我々はかかる風土に産まれたという宿命の意義を悟り、それを愛しなくてはならぬ」、「ロシア的日本人」などになってはならないのだと。誰か自分の運命を愛しないものがあろう。自分を愛せよ、と云う場合には、すでに何かの伏線があるのだ。つまり、その愛し方に或る注文をつけているのだ。――だが、なぜ、博士はそういうことをわざわざ云いたくなるのだろうか。風土をああいうような観念として強調したくなるのであろうか。根本的な理由は極めて簡単だ。科学的な分析は日本的現実を分析し得ないという、極めて卑俗な迷信がそれだ。
この迷信は、しかし決して和辻哲郎博士だけのものではない。今日の大部分の曖昧思想家や曖昧文士のアラ・モードの意匠が之なのであり、粉黛が之なのである。だがこの粉黛こそは却って、日本なる彼女の愛嬌を著しく殺減する随一のものだ、ということを思わねばならぬ。
風土を見出したこと、風土から日本を見たこと、之は和辻氏の没することの出来ない業績だろう。ただ風土の和辻的観念とその観念適用の心事とが、この業績を濁ったものにしているのである。
〔2026年5月28日、午後20時、入力終了〕