和辻哲郎全集第八巻、岩波書店、421頁、2400円、1962.06.01(77.06.16.2p)
風土・イタリア古寺巡礼
総目次
風土………………………………………………………一
イタリア古寺巡礼………………………………………二五七
解説…………………………………………谷川徹三…四〇九 〔入力せず〕
(1) 序言
この書の目ざすところは人間存在の構造契機としての風土性を明らかにすることである。だからここでは自然環境がいかに人間生活を規定するかということが問題なのではない。通例自然環境と考えられているものは、人間の風土性を具体的地盤として、そこから対象的に解放され来たったものである。かかるものと人間生活との関係を考えるという時には、人間生活そのものもすでに対象化せられている。従ってそれは対象と対象との間の関係を考察する立場であって、主体的な人間存在にかかわる立場ではない。我々の問題は後者に存する。たといここで風土的形象が絶えず問題とせられているとしても、それは主体的な人間存在の表現としてであって、いわゆる自然環境としてではない。この点の混同はあらかじめ拒んでおきたいと思う。
自分が風土性の問題を考えはじめたのは、一九二七年の初夏、ベルリンにおいてハイデッガーの『有と時間』を読んだ時である。人の存在の構造を時間性として把捉する試みは、自分にとって非常に興味深いものであった。しかし時間性がかく主体的存在構造として活かされたときに、なぜ同時に空間性が、同じく根源的な存在構造として、活かされて来ないのか、それが自分には問題であった。もちろんハイデッガーにおいても空間性が全然顔を出さないのではない。人の存在における具体的な空間への注視からして、ドイツ浪浸派の「生ける自然」が新しく蘇生させられるかに見えている。しかしそれは時間性の強い照明のなかでほとんど影を失い去った。そこに自分はハイデッガーの仕(2)事の限界を見たのである。空間性に即せざる時間性はいまだ真に時間性ではない。ハイデッガーがそこに留まったのは彼の Dasein があくまでも個人に過ぎなかったからである。彼は人間存在をただ人の存在として捕えた。それは人間存在の個人的・社会的なる二重構造から見れば、単に抽象的なる一面に過ぎぬ。そこで人間存在がその具体的なる二重性において把捉せられるとき、時間性は空間性と相即し来たるのである。ハイデッガーにおいて充分具体的に現われて来ない歴史性も、かくして初めてその真相を呈露する。とともに、その歴史性が風土性と相即せるものであることも明らかとなるのである。
このような問題が自分に現われて来たのは、時間性の綿密な分析に首を突っ込んだ自分がちょうどさまざまの風土の印象に心を充たされていたためであったかも知れぬ。が、またちょうどかかる問題が自分に現われて来たために風土の印象を反芻しあるいは風土の印象に対して注視を向けるということにもなったのである。だから自分にとって風土の問題を自覚せしめたものは時間性、歴史性の問題であると言ってよい。これらの問題に媒介せられることなしには、風土の印象は単に風土の印象として留まったであろう。が、右のごとき媒介によったということは、ちょうど風土性と歴史性との相即を示しているのである。
この書は大体において昭和三年九月より四年二月に至る講義の草案を基礎としている。この講義は、外遊より帰って間のない時、人間存在の時間性・空間性の問題を立ち入って考究する余裕もなく、ただ風土の問題のみを取り上げて論じてみたのである。が、この書の大部分は、右の草案のそれぞれの個所をその後おりにふれて書きなおし、断片的に発表したものである。草案の形をそのまま保存しているのは最後の一章のみに過ぎない。が、もともと一つの連関において考えられたものであるから、未だはなはだ不備でほあるが、ここにびとまずまとめておくことにする。大(3)方の識者の是正を得ば幸いである。
昭和十年八月
このたび新版を出すに当たって第三章の内シナの部を書き改めた。もとこの文章は昭和四年、左傾思想の流行していたころに書かれたもので、風土の考察に当時の左翼理論への駁論を混じえていた。今それを洗い落として純粋に風土の考察に引き直したのである。
昭和十八年十一月
著者
目次
序言………………………………………………………一
第一章 風土の基礎理論…………………………………七
一 風土の現象………………………………………七
二 人問存在の風土的規定…………………………一四
第二章 三つの類型………………………………………二四
一 モンスーン………………………………………二四
二 沙漠………………………………………………四三
三 牧場………………………………………………六二
第三章 モンスーン的風土の特殊形態…………………一二一
一 シナ………………………………………………一二一
二 日本………………………………………………一三四
イ 台風的性格………………………………一三四
ロ 日本の珍しさ……………………………一五六
(6)第四章 芸術の風土的性格…………………………一七〇
第五章 風土学の歴史的考察……………………………二〇五
一 ヘルデルに至るまでの風土学…………………二〇五
二 ヘルデルの精神風土学…………………………二〇九
三 ヘーゲルの風土哲学……………………………二二四
四 ヘーゲル以後の風土学…………………………二三三
付録 昭和四年版『風土』第三章 第一節 シナ…二四二
(7) 第一章 風土の基礎理論
一 風土の現象
ここに風土と呼ぶのはある土地の気候、気象、地質、地味、地形、景観などの総称である。それは古くは水土とも言われている。人間の環境としての自然を地水火風として把捉した古代の自然観がこれらの概念の背後にひそんでいるのであろう。しかしそれを「自然」として問題とせず「風土」として考察しようとすることには相当の理由がある。それを明らかにするために我々はまず風土の現象を明らかにしておかなくてはならぬ。
我々はすべていずれかの土地に住んでいる。従ってその土地の自然環境が、我々の欲すると否とにかかわらず、我々を「取り巻いて」いる。この事実は常識的にはきわめて確実である。そこで人は通例この自然環境をそれぞれの種類の自然現象として考察し、引いてはそれの「我々」に及ぼす影響をも問題とする。ある場合には生物学的、生理学的な対象としての我々に、他の場合には国家を形成するというごとき実践的な活動をするものとしての我々に。それらはおのおの専門的研究を必要とするほど複雑な関係を含んでいる。しかし我々にとって問題となるのは日常直接の事実としての風土が果たして|そのまま〔付ごま圏点〕自然現象と見られてよいかということである。自然科学がそれらを自然現象として取り扱うことはそれぞれの立場において当然のことであるが、しかし現象そのものが根源的に自然科学的対象であるか否かは別問題である。
(8) 我々はこの問題を考えてみるために常識的に明白な気候の現象を、しかもその内の一契機に過ぎない寒さの現象を捕えてみよう。我々が寒さを感ずる、という事は、何人にも明白な疑いのない事実である。ところでその寒さとは何であろうか。一定の温度の空気が、すなわち物理的客観としての寒気が、我々の肉体に存する感覚機官を刺激し、そうして心理的主観としての我々がそれを一定の心理状態として経験することなのであろうか。もしそうであるならば、その「寒気」も「我々」もそれぞれ単独に、|それ自身において〔付ごま圏点〕存立し、その寒気が外から我々に迫り来ることによって初めて「我々が寒さ|を感ずる〔付ごま圏点〕」という志向的関係が生ずることになる。従って寒気の我々に対する影響なるものが当然考えられてよい。
が、果たしてそうであろうか。我々は|寒さを感ずる前に〔付ごま圏点〕寒気というごときものの独立の有をいかにして知るのであろうか。それは不可能である。我々は寒さを感ずること|において〔付ごま圏点〕寒気を見いだすのである。しかもその寒気が外にあって我々に迫り来ると考えるのは、|志向的関係〔付ごま圏点〕についての誤解にほかならない。元来志向的関係は外より客観が迫り来ることによって初めて生ずるのではない。個人的意識について考察せられる限り、主観はそれ自身の内に志向的構造を持ち、主観としてすでに「何ものかに向ける」ものである。「寒さ|を感ずる〔付ごま圏点〕」というその「感じ」は、寒気に向かって関係を起こす一つの「点」なのではなく、「……を感ずる」こととしてそれ自身すでに関係であり、この関係|において〔付ごま圏点〕寒さが見いだされるのである。だからかかる関係的構造としての志向性は、寒さにかかわる主観の一つの構造にほかならぬ。「我々が寒さを感ずる」ということはまず第一にはかかる「志向的体験」である。
しかしそれならば寒さは主観の体験の一契機に過ぎないではないか。そこに見いだされた寒気は「我れ」の境内の寒気である。しかるに我々が寒気と呼ぶものは、我れの外にある超越的客観であって、単なる我れの感じではない。(9)主観的体験はいかにしてこの超越的客観に関係し得るか。すなわち寒さの感じというごときものがいかにして外気の冷たさに関係し得るか。――この間いは志向的関係において|志向せられたもの〔付ごま圏点〕についての誤解を含んでいる。志向対象は心理的内容というごときものではない。従って客観的な寒気と独立に有るところの体験としての寒さが志向対象だというわけではない。我々が寒さ|を感ずる〔付ごま圏点〕とき、我々は寒さの「感覚」を感ずるのではなく直接に「外気の冷たさ」あるいは「寒気」|を感ずる〔付ごま圏点〕のである。すなわち志向的体験において「感ぜられたるもの」としての寒さは、「主観的なもの」ではなくして「客観的なもの」なのである。だから寒さ|を感ずる〔付ごま圏点〕という志向的な「かかわり」そのものが、すでに外気の寒冷にかかわっていると言ってよい。超越的有としての寒気というごときものは、この志向性において初めて成り立つ。従って寒さの感じが外気の寒冷といかにして関係するかというごとき問題は、本来存しないのである。
かく見れば主観客観の区別、従ってそれ自身単独に存立する「我々」と「寒気」との区別は一つの誤解である。寒さ|を感ずる〔付ごま圏点〕とき、我々自身はすでに外気の寒冷のもとに宿っている。我々自身が寒さにかかわるということは、我々自身が寒さの中へ|出ている〔付ごま圏点〕ということにほかならぬのである。かかる意味で我々自身の有り方は、ハイデッガーが力説するように、「外に出ている」(ex-sistere)ことを、従って志向性を、特徴とする。
そこでこういうことになる。我々自身は外に出ているものとしておのれ自身に対している。自己をふり返るという仕方でおのれ自身に向かうのでない時にも、すなわち反省を待つまでもなく、自己は我々自身にあらわである。反省は自己把捉の一つの様態に過ぎない。しかもそれは自己開示の仕方として原初のものではない。(もっともReflektierenをその視覚的な意味に、すなわち何ものかに突き当たってそこから|反射〔付ごま圏点〕すること、何ものかの方から反射においておのれを示すこと、の意味に解するならば、それは自己が我々自身においてそれ自身あらわである仕方を言い現(10)わしたものと見ることもできるであろう。)我々は寒さを感ずる。すなわち我々は寒さのうちへ出ている。だから寒さを感ずるということにおいて我々は寒さ自身のうちに自己を見いだすのである。しかしこのことは、我々が己れを寒さのなかに移し入れ、その移し入れられたる己れをそこにあるものとしてあとから見いだすのではない。|寒さが初めて〔付ごま圏点〕見いだされるときに我々自身はすでに寒さのうちへ出ているのである。だから最も根源的に「外に在る」ものは、寒気というごとき「もの」「対象」ではなくして、我々自身である。「外に出る」のは我々自身の構造の根本的規定でぁって、志向性もまたこれにもとづいたものにほかならない。寒さ|を感ずる〔付ごま圏点〕のは一つの志向的体験であるが、そこにおいて我々は、すでに外に、すなわち寒さのうちへ、|出ている己れ〔付ごま圏点〕を見るのである。
以上は寒さを体験する個人的意識の視点において考察せられたものであるが、しかしそこで「|我々は〔付ごま圏点〕寒さを感ずる」と言い現わしても何ら支障がなかったように、寒さを体験するのは我々であって単に我れのみではない。|我々は同じ寒さを共同に感ずる〔付ごま圏点〕。だからこそ我々は寒さを言い現わす言葉を|日常の挨拶〔付ごま圏点〕に用い得るのである。我々の間に寒さの感じ方がおのおの異なっているということも、寒さを共同に感ずるという地盤においてのみ可能になる。この地盤を欠けば他我の中に寒さの体験があるという認識は全然不可能であろう。そうしてみれば、寒さの中に出ているのは単に我れのみではなくして我々である。否、我々であるところの我れ、我れであるところの我々である。「外に出る」ことを根本的規定としているのはかかる我々であって単なる我れではない。従って「外に出る」という構造も、寒気というごとき「もの」の中に出るよりも先に、すでに|他の我れの中に出る〔付ごま圏点〕ということにおいて存している。これは|志向的関係ではなくして〔付ごま圏点〕「間柄」である。だから寒さにおいて己れを見いだすのは、根源的には間柄としての我々なのである。
(11) 寒さの現象が何であるかは以上においてほぼ明らかになったと思う。しかし我々は寒さというごとき気象的現象をただ一つ独立に体験するのではない。それは暖かさや暑さとの連関において、さらに風、雨、雪、日光、等々との連関において体験せられる。すなわち寒さは種々なる気象的現象の系列全体としての「気候」の中の一環に過ぎない。我々は寒風の中から暖かい室内にはいった時に、あるいは寒い冬のあとで柔らかい春風に吹かれた時に、あるいは激暑の真昼沛然とした夕立に逢った時に、常にそれらの我々自身でない気象においてまず我々自身を了解するのであり、従ってさらに気候の移り変わりにおいてもまず我々自身の移り変わりを了解するのである。が、この「気候」もまた単独に体験せられるのではない。それはある土地の地味地形景観などとの連関においてのみ体験せられる。寒風は「山おろし」でありあるいは「から風」である。春風は花を散らす風でありあるいは波を撫でる風である。夏の暑さもまた旺盛な緑を萎《な》えさせる暑さでありあるいは子供を海に嬉戯せしめる暑さである。我々は花を散らす風において歓びあるいは傷むところの我々自身を見いだすごとく、ひでりのころに樹木を直射する日光において心|萎《な》える我々自身を了解する。すなわち我々は「風土」において我々自身を、間柄としての我々自身を、見いだすのである。
このような自己了解は、寒さ暑さを感ずる「主観」としての、あるいは花を歓ぶ主観としての、「我れ」を理解することではない。我々はこれらの体験において「主観」に眼を向けはしない。寒さを感ずる時には我々は体を引きしめる、着物を着る、火鉢のそばによる。否、それよりもさらに強い関心をもって子供に着物を着せ、老人を火のそばへ押しやる。あるいは着物や炭を買い得るために労働する。炭屋は山で炭をやき、織布工場は反物を製造する。すなわち寒さとの「かかわり」においては、我々は寒さをふせぐさまざまの手段に個人的・社会的に入り込んで行くのである。同様に花を歓ぶときにも我々は「主観」に目を向けるのではなくして花に見とれる、あるいは花見に友人を誘い、(12)あるいは花の下で仲間とともに飲み踊る。すなわち春の風景とのかかわりにおいては、それを享楽するさまざまの手段が個人的・社会的に実践せられるのである。同様なことは炎暑についても、あるいは暴風洪水のごとき災害についても言えるであろう。我々はこれらのいわゆる「自然の暴威」とのかかわりにおいてまず迅速にそれを防ぐ共同の手段に入り込んで行く。風土における自己了解はまさしくかかる手段の発見としてあらわれるのであって、「主観」を理解することではない。
右のごとくして見いださるるさまざまの手段、たとえば着物、火鉢、炭焼き、家、花見、花の名所、堤防、排水路、風に対する家の構造、というごときものは、もとより我々自身の自由により我々自身が作り出したものである。しかし我々はそれを寒さや炎暑や湿気というごとき風土の諸現象とかかわることなく作り出したのではない。我々は風土において我々自身を見、その自己了解において我々自身の自由なる形成に向かったのである。しかも我々は寒さ暑さにおいて、あるいは暴風洪水において、単に現在の我々の間において防ぐことをともにし働きをともにするというだけではない。我々は祖先以来の永い間の了解の堆積を我々のものとしているのである。家屋の様式は|家を作る仕方〔付ごま圏点〕の固定したものであると言われる。その|仕方〔付ごま圏点〕は風土とかかわりなしに成立するものではない。家は寒さを防ぐ道具であるとともに暑さを防ぐ道具でもある。寒暑のいずれが|より〔付ごま圏点〕多く防御を必要とするかによって右の仕方はまず規定されねばならぬ。さらにそれは暴風、洪水、地震、火事などにも堪え得なくてはならぬ。屋根の重みは地震に対して不利であっても暴風や洪水に対しては必要である。家屋はそれぞれの制約に適合しなくてはならない。さらに湿気は家屋の居住性を厳密に規定する。強度の湿気に対しては極度に通風をよくせねばならぬ。木材、紙、泥などは湿気を防ぐには最もよき建築材料である。が、それらは火事に対して何の防御をも持たない。これらのさまざまの制約がその軽(13)重の関係において秩序づけられつつ、ついにある地方の家屋の様式が作り上げられてくるのである。そうすれば家を作る仕方の固定は、風土における人間の自己了解の表現にほかならぬであろう。同様なことはまた着物の様式についても言われる。これもまた着物を作る|仕方〔付ごま圏点〕が永い間に社会的に固定したものであるが、その仕方を規定するものは風土である。ある地方に特有な着物の様式が、その地方の文化的優越のゆえに、風土の異なる他の地方に移植せられるということは、家屋の様式の場合よりも容易に起こり得ることであるが、しかしいかなる地方に移されようとも|その様式がそれを産んだ風土に規定せられている〔付ごま圏点〕ということは決して抹殺されはしない。洋服は半世紀の間行なわれていても依然として洋服である。このことは「食物」において一層顕著であろう。食物の生産に最も関係の深いのは風土である。人間は獣肉と魚肉とのいずれを欲するかに従って牧畜か漁業かのいずれかを選んだというわけではない。風土的に牧畜か漁業かが決定せられているゆえに、獣肉か魚肉かが欲せられるに至ったのである。同様に菜食か肉食かを決定したものもまた菜食主義者に見られるようなイデオロギーではなくして風土である。そうして我々の食欲は、食物一般というごときものを目ざしているのではなく、すでに永い間にできあがっている一定の料理の仕方において作られた食物に向かう。パンか飯か、ビステキかさしみか、等々が空腹時において欲せられるものなのである。この料理の様式が一つの民族の永い間の風土的自己了解を表現する。魚貝や海草を食うことは我々の祖先が農業を習得するよりも前からすでに行なっていたことなのである。
我々はさらに風土の現象を文芸、美術、宗教、風習等あらゆる人間生活の表現のうちに見いだすことができる。風土が人間の自己了解の仕方である限りそれは当然のことであろう。我々は風土の現象をかかるものとして捕える。従ってそれが自然科学的対象と異なることは明白である。海草を使う料理の様式を風土現象として考案することは、風(14)土を単に自然環境と見る立場ではない。いわんや芸術の様式を風土的に理解することは、風土が歴史と離れたものでないことを端的に示すのである。風土の現象について最もしばしば行なわれている誤解は、我々が最初に提示したごとき常識的な立場、すなわち自然環境と人間との間に影響を考える立場であるが、それはすでに具体的な風土の現象から人間存在あるいは歴史の契機を洗い去り、それを単なる自然環境として観照する立場に移しているのである。人間は単に風土に規定されるのみでない、逆に人間が風土に働きかけてそれを変化する、などと説かれるのは、皆この立場にほかならない。それはまだ真に風土の現象を見ていないのである。我々はそれに対して風土の現象がいかに人間の自己了解の仕方であるかを見て来た。人間の、すなわち個人的・社会的なる二重性格を持つ人間の、自己了解の運動は、同時に歴史的である。従って歴史と離れた風土もなければ風土と離れた歴史もない。が、これらのことは人間存在の根本構造からしてのみ明らかにされ得るのである。
二 人間存在の風土的規定
前節において風土の現象は人間が己れを見いだす仕方として規定せられた。ところでその人問とは何であるか。それについての詳しい考察は他の研究に譲ってここでは立ち入らない。(おおよその輪郭は既刊『人間の学としての倫理学』の中に描かれている。詳しくは近く刊行すべき『倫理学』を見られたい。)が、風土を人間存在の一つの規定として説くためには、この規定が人間存在の構造の中でいかなる位置を占めるかを、おおよそ見当づけておかなくてはならない。
(一) ここに人間と呼ばれるのは単に「人」(anthr〔上に長音記号あり〕pos,homo,homme,man,Mensch)ではない。それは「人」でも(15)あるが、しかし同時に人々の結合あるいは共同態としての社会でもある。人間のこの二重性格が人間の根本的性格である。従ってその一面である「人」をのみ取り扱うアントロボロギー、またその他面たる「社会」をのみ取り扱う社会学は、ともに人間の本質を捕えることができない。人間を真に根本的に把捉するためには、個であるとともにまた全であるごとき人間存在の根本構造を押えなくてはならぬ。かかる見当の下に人間存在の分析を行なうと、それが絶対的否定性の否定の運動であることが明らかにされる。人間存在はこの否定の運動の実現にほかならない。
(二) 右のごとき人間存在は無数の個人に分裂することを通じて種々の結合や共同態を形成する運動である。この分裂と合一とはあくまでも主体的実践的なものであるが、しかし|主体的な身体〔付ごま圏点〕なしに起こるものではない。従って主体的な意味における空間性・時間性が右のごとき運動の根本構造をなすのである。ここに空間と時間とがその|根源的〔付ごま圏点〕な姿において捕えられ、しかも空間と時間との|相即不離〔付ごま圏点〕が明らかにせられる。人間存在の構造をただ時間性としてのみ把捉しようとする試みは個人意識の底にのみ人間存在を見いだそうとする一面性に陥っている。人間存在の二重性格がまず人間の本質として把捉せられるならば、右のごとき時間性に即して同時に空間性が見いだされなくてはならないことは、直ちに明らかとなるであろう。
(三) 人間存在の空間的・時間的構造が明らかにせられるとき、人間の連帯性の構造もまたその真相を呈露する。人間の作るさまざまの共同態、結合態は、一定の秩序において内的に展開するところの体系である。それは社会の静的な構造と考えらるるごときものではなく、動的な運動の体系である。否定の運動の実現である。歴史と呼ばれるものはかくして形成せられて行く。
(四) ここにおいて人間存在の空間的・時間的構造は風土性歴史性として己れを現わしてくる。時間と空間との相(16)即不離が歴史と風土との相即不離の根柢である。主体的人間の空間的構造にもとづくことなしには一切の社会的構造は不可能であり、社会的存在にもとづくことなしには時間性が歴史性となることはない。|歴史性は社会的存在の構造〔付ごま圏点〕なのである。ここに人間存在の有限的・無限的な二重性格も明らかとなるであろう。人は死に、人の間は変わる、しかし絶えず死に変わりつつ、人は生き人の間は続いている。それは絶えず|終わること〔付ごま圏点〕において絶えず|続く〔付ごま圏点〕のである。個人の立場から見て「死への存在」であることは、社会の立場からは「生への存在」である。そうして人間存在は個人的・社会的なのである。が、歴史性のみが社会的存在の構造なのではない。|風土性もまた社会的存在の構造〔付ごま圏点〕であり、そうして歴史性と離すことのできないものである。歴史性と風土性との合一においていわば歴史は肉体を獲得する。もし「精神」が物質と対立するものであるならば歴史は決して単に精神の自己展開であることはできない。精神が自己を客体化する|主体者〔付ごま圏点〕である時にのみ、従って主体的な肉体を含むものである時にのみ、それは自己展開として歴史を造るのである。このような主体的肉体性とも言うべきものがまさに風土性なのである。人間の有限的・無限的二重性格は人間の歴史的・風土的構造として最も顕わになる。
これが風土性の現われる場所である。ここにおいて人間は単に一般的に「過去」を背負うのではなくして特殊な「風土的過去」を背負うのであり、一般的形式的な歴史性の構造は特殊的な実質によって充実せられることになる。人間の歴史的存在が|ある国土におけるある時代の〔付ごま圏点〕人間の存在となるのは、右のことによって初めて可能なのである。しかしまたこの特殊的実質としての「風土」は、単なる風土として歴史と独立にあり、その後に実質として歴史の内に入り来るというのではない。それは初めより「歴史的風土」なのである。一言にして言えば、人間の歴史的・風土的二重構造においては、歴史は|風土的歴史〔付ごま圏点〕であり、風土は|歴史的風土〔付ごま圏点〕である。それぞれに孤立せしめられた歴史と風(17)士とは、右のごとき具体的地盤からの抽象物に過ぎない。我々の問題とする風土はかく抽象せられる前の根源的な風土である。
風土的規定が人間存在の構造において占める場所は右のごとくである。そうすれば風土の問題が古来のアントロポロギーにおける肉体の問題と何ほどかの相似を持つことは明らかであろう。アントロポロギーは個人的・社会的なる人間の二重性格から個人的性格のみを抽出して問題とする学問であった。そこでこの学問は、間柄から遊離せしめられた「人」を|身心の二重性格〔付ごま圏点〕において把捉しようと努力した。しかし|身心〔付ごま圏点〕の差別を明らかに把捉しようとする努力は、ついにこの差別における統一を見失わしめるに至った。その最も大いなる理由は身体をその具体的な主体性から引き離して「物体」と同視するに至ったところに存する。かくしてアントロポロギーは|精神論〔付ごま圏点〕と|身体論〔付ごま圏点〕とに分裂し、前者は心理学から哲学的認識論の方へ、後者は動物学の一分科たる「人類学」の方へ、あるいは生理学や解剖学の方へ、発展して行った。しかるに現代の哲学的アントロポロギーは、この分裂を克服して再び身心の二重性格における「人」を把捉しようと企てる。そこで問題の中心に来るのは、肉体が単なる「物体」ではないという洞察である。すなわち肉体の全体性である。しかしそれがアントロポロギーの伝統を守る限り、あくまでも「人」の学であって「人間」の学とはならない。そこで我々は人間の個人的・社会的な二重性格を最も根本的な問題とする立場に立って同様な問題を追跡してみる。肉体の主体性は人間存在の空間的・時間的構造を地盤として成り立つのである。従って主体的な肉体なるものは孤立せる肉体ではない。孤立しつつ合一し、合一において孤立するというごとき動的な構造を持つのが主体的肉体である。しかるにかかる動的な構造において種々の連帯性が開展せられる時、それは歴史的・風土的なものになる。風土もまた人間の肉体であったのである。しかるにそれは、個人の肉体が単なる「物体」と見られたよう(18)に、単なる自然環境として客観的にのみ見られるに至った。そこで肉体の主体性が快復さるべきであると同じ意味で風土の主体性が快復されなくてはならぬのである。そうして見ると身心関係の最も根源的な意味は「人間」の身心関係に、すなわち歴史と風土との関係をも含んだ個人的・社会的な身心関係に、存すると言ってよい。
風土の問題の担っているこの重要な意義は、人間存在の構造を分析する試みに対して一つの決定的な指針を与える。人間存在の存在論的把捉はもはや単に時間性を構造とする「超越」によってのみは遂げられないのである。それはまず第一に他人において己れを見いだし、自他の合一において絶対的否定性に還り行く、という意味での超越でなくてはならぬ。従って人と人との「間柄」が超越の場面でなくてはならぬ。すなわち自他を見いださしめる地盤としての間柄そのものが、本来すでに「外に出る」(ex-sistere)場面なのである。第二に超越は、右のごとき間柄の時間的構造として、本来すでに歴史的意義を帯びていなくてはならぬ。絶えず未来へ出て行くのはただ個人的意識においてのみではない。間柄そのものが未来へ出て行くのである。個人的意識における時間性は間柄の歴史性を地盤としそこから抽出せられたものに過ぎない。さらに第三に超越は風土的に外に出ることである。すなわち人間が風土において己れを見いだすことである。個人の立場ではそれは身体の自覚になる。が、一層具体的な地盤たる人間存在にとっては、それは共同態の形成の|仕方〔付ごま圏点〕、意識の|仕方〔付ごま圏点〕、従って言語の|作り方〔付ごま圏点〕、さらには生産の仕方や家屋の作り方等々において現われてくる。人間の存在構造としての超越はこれらすべてを含まなくてはならぬ。
かく見れば主体的な人間存在が己れを客体化する契機はちょうどこの風土に存するのである。風土の現象は我々がいかに外に出ている我々自身を見いだすかを示していた。寒さにおいて見いだされた我々自身は、着物、家というごとき道具となって我々に対立する。が、さらに、我々自身がそこに出て宿っている風土自身も、「使用せられるもの」(19)としての道具になる。たとえば「寒さ」は我々を着物の方向に働き出させるものであるとともに、また食物への関心において豆腐を凍らせる寒さとして使用せられる。「暑さ」は我々に団扇を使わせるものであるとともに、また稲を育てる暑さである。「風」は我々に二百十日の無事を祈らせるものであるとともに、また帆をはらます風である。我々はかくのごときかかわりにおいてもまた風土のうちへ出で、そこからまた我々自身を、すなわち使用者としての我々自身を了解する。すなわち風土における自己の了解は同時に道具を己れに対立するものとして見いださしめるのである。
人間存在において|最も手近に〔付ごま圏点〕見いださるる物が道具であるという洞察はまことに教うるところの多いものである。元来「道具」とは本質的には「……する|ための〔付ごま圏点〕もの」である。たとえば槌は「打つ|ための〔付ごま圏点〕もの」であり靴は「はく|ための〔付ごま圏点〕もの」である。ところでこの「……する|ための〔付ごま圏点〕もの」は、そのものが使用せられる目当てとしての「何のために」に対して、内在的な関係を持っている。たとえば槌は靴を作るための道具である。しかしまた靴も歩くための道具である。かく「何のため」を常に指示しつつ「するためのもの」であるところに、すなわち「ための連関」であるところに、道具の本質的な構造がある。そうして「ための連関」は人間の存在から出てくるのである。ところで我々はこのような「ための連関」を開始せしめる根元に人間存在の風土的規定を見いださざるを得ない。靴は歩くための道具であるが、しかし多くの人間はこの道具なくして歩くことができた。靴を必要としたのは寒さや暑さである。着物は着るためのものであるが、着るのはまず第一に寒さを防ぐためである。だから「ための連関」はその終局するところに風土的な自己了解を控えていると言わなくてはならぬ。たとえば我々は寒さや暑さにおいて自己を了解するとともに自己の自由にもとづいて「防ぐため」という一定の方向を取る。寒さ暑さの契機なしに全然自発的に着物を作り出(20)すのではない。従って「防ぐために」から「何をもって」に向かって己れを指し示すときに、すでにそこに風土的な自己了解が顕わにされるのである。だからこそ着物は暖かくあるいは涼しく、厚くあるいは薄く、種々の形において製作せられる。羊毛、綿花、絹というごときものが衣服の材料として社会的に見いだされてくる。かく考えれば道具が一般に風土的規定と密接な連関を持つことは明白だと言わねばならぬ。従って道具が我々にとって最も手近なものであるということは、風土的規定が対象成立の最初の契機をなすということにほかならぬであろう。
かくのごとく風土は人間存在が己れを客体化する契機であるが、ちょうどその点においてまた人間は己れ自身を了解するのである。風土における自己発見性と言わるべきものがそれである。我々は日常何らかの意味において己れを見いだす。あるいは愉快な気持ちである、あるいは寂しい気持ちである。このような気持ち、気分、機嫌などは、単に心的状態とのみ見らるべきものではなくして、我々の存在の仕方である。しかもそれは我々自身が自由に選んだものではなく、「すでに定められた」有り方として我々に背負わされている。このような既定性、気持ちは、必ずしも風土的にのみ規定せられているのではない。我々の個人的・社会的な存在は、すでに有るところの間柄としてそれに属する個人の存在の仕方を定め、従って彼に一定の気持ちを与える。あるいはすでに有るところの歴史的情勢として社会に一定の気分を与える。しかしそれらとともに、またそれらとからみ合って、風土的負荷もまたきわめて顕著である。我々がある朝「爽やかな気分」において己れを見いだす。これは空気の温度と湿度とのある特定の状態が外から影響して|内に〔付ごま圏点〕爽やかな心的状態を引き起こしたとして説明せられている現象であるが、しかし具体的体験においては事情は全く異なっている。そこにあるのは心的状態ではなくして空気の爽やかさである。が、空気の温度や湿度として|認識〔付ごま圏点〕せられている対象は、この爽やかさそのものと何の似寄りも持たない。爽やかさは「あり方」であって「もの」(21)でもなければ「ものの性質」でもない。それは空気というものに属してはいるが、空気自身でもなく空気の性質でもない。だから我々は空気という|もの〔付ごま圏点〕によって一定のあり方を背負わされるのではない。空気が「爽やかさ」の有り方を持つことは取りも直さず我々自身が爽やかであることなのである。すなわち我々が空気において我々自身を見いだしているのである。しかしまた|空気の〔付ごま圏点〕爽やかさは心的状態の爽やかさではない。それを最もよく示すものは朝の爽やかな気分が直接に我々の間の|挨拶〔付ごま圏点〕として表現せられるという事実である。我々は|空気の爽やかさにおいて〔付ごま圏点〕我々自身を了解している。爽やかなのは己れの心的状態ではなくして空気なのである。だからこそ我々は、他人の心的状態に目を向けるというごとき手続きを経ることなく、直接に互いの間において「いいお天気で」「いい陽気になりました」などと挨拶する。我々はともに朝の空気の中へ出て、ともに一定の存在の仕方を背負うのである。
このような風土的負荷は我々の存在の内にきわめて豊富に見いだされる。晴れた日の晴れ晴れしい気持ち、梅雨の日の欝陶しい気持ち、若葉のころの生き生きとした気持ち、春雨のころのしめやかな気持ち、夏の朝の清々《すがすが》しい気持ち、暴風雨の日のすさまじい気持ち、――恐らく我々は、俳諧において季を持つあらゆる言葉をあげても、なおかかる負荷を尽くし得ぬであろう。かくて我々の存在は、無限に豊富な様態をもって風土的に規定せられることになる。我々はただに過去を背負うのみならずまた風土をも背負うのである。
もとより我々の存在はただに負荷的性格を持つのみならずまた自由の性格を持つ。すでに有ることでありつつあらかじめ有ることであり、負荷されつつ自由である、というところに、我々の存在の歴史性が見られる。しかしその歴史性が風土性と相即せるものであり、従って負荷が過去を背負うに留まらずまた風土を背負うのであるならば、風土的規定は人間の自由なる発動にもまた一定の性格を与えるであろう。道具としての衣食住が風土的性格を帯びること(22)は言うまでもなく、さらに根本的に、人間が己れを見いだすとき、すでに風土的規定の下に立っているとすれば、風土の型はやがて|自己了解の型〔付ごま圏点〕とならざるを得ないであろう。種々なる風土における種々の人間が、その存在の表現においてそれぞれ顕著な特性を持つ、ということは、存在的には我々に明白なことである。今やその存在論的な究明は、|風土の型が人間の自己了解の型〔付ごま圏点〕であるというところに到達した。そこで必要なことは右のごとき風土の型の発見である。
しからば我々はいかにして風土の型というごときものを見いだし得るであろうか。
上来説き来たった人間存在の風土的規定は、人間の歴史的風土的構造一般の問題であって、具体的な人間存在の仕方の考察ではない。それは具体的な人間存在が必ずある国土ある時代に特有な仕方においてあるということを規定するに留まって、それがいかに特殊的であるかを問わない。従って存在論的に把捉せられた人間の存在の仕方は、直接に特殊存在の型を理解せしめるものではない。それはただかかる理解を媒介するものとして、存在的把捉を方法上導き得るに過ぎない。
しからば我々は具体的な人間の存在の仕方を、すなわちその特殊性における存在を、把捉するために、存在的な認識、すなわち歴史的風土的な現象の直接的な理解に向かわなくてはならぬ。しかしそれが歴史的風土的現象を単に客観的対象としてのみ取り扱うのならば、上来説き来たったごとき風土の意義は全然把捉せられないであろう。そこで我々は歴史的風土的現象の理解に当たって厳密に存在論的規定の指導を待たねばならない。すなわちこれらの現象が人間の自覚的存在の表現であること、風土はかかる存在の自己客体化、自己発見の契機であること、従って主体的なる人間存材の型としての風土の型は風土的歴史的現象の解釈によってのみ得られること、などに従わねばならない。(23)だからそれは特殊的な存在の特殊性に向かう限り存在的認識であるが、その特殊的な仕方を人間の自覚的存在の様態として把捉する限り|存在論的〔付ごま圏点〕認識である。かくして人間の歴史的・風土的|特殊構造〔付ごま圏点〕の把捉は、存在論的・存在的認識となる。風土の型が問題となる限り、かくならざるを得ないのである。
そこで我々の考察は、特殊なる風土現象の直観から出発して人間存在の特殊性に入り込もうとする。もとより風土は歴史的風土であるがゆえに、風土の類型は同時に|歴史の類型〔付ごま圏点〕である。我々はそれに触れることを毫も避けようとはしない。また避けることのできないものである。しかし我々はここに人間の歴史的・風土的特殊構造を特に|風土の側から〔付ごま圏点〕把捉しようと試みるのである。それはこの側からの考察が歴史の側からの考察に此して著しく閑却せられていることにも帰因する。閑却せられているのはこの問題が学的把捉にとってきわめて困難だからである。かつてヘルデルは「生ける自然」の「解釈」からして「人間の精神の風土学」を作ろうとした。そうしてそれはカントが批評したように、学的労作ではなくして詩人的想像の産物に類したものとなってしまった。この危険は風土を根本的に考察しようとする者を常に脅やかしている。しかしそれにもかかわらず風土の問題は根本的に取り扱われねばならぬのである。歴史の世界の考察が真に具体性を得るためにも、風土的特性の問題は根源的に明らかにされなくてはならない。 (昭和四年稿、六年改稿、十年補筆)
(24) 第二章 三つの類型
一 モンスーン
モンスーンという言葉はアラビア語の mausim(季節)から出たと言われている。アジア大陸とインド洋との特殊な関係から、太陽が赤道を北に超えてよりまた南に超えるまでの夏の半年は、南西モンスーンが陸に向かって吹き、冬の半年は北東モンスーンが海に向かって吹く。特に夏のモンスーンは、熱帯の大洋において極度にまで湿気を含み込んだ空気を強い風力によって陸に吹きつけるのであるがゆえに、世界における一つの特殊な風土を作り出しているのである。広義に解すれば、東アジアの沿岸一帯は、シナも日本も、風土的にモンスーン域に属すると言ってよい。
モンスーンは季節風である。が、特に|夏の〔付ごま圏点〕季節風であり、|熱帯の大洋〔付ごま圏点〕から陸に吹く風であ一る。だからモンスーン域の風土は|暑熱と湿気との結合〔付ごま圏点〕をその特性とする。我々はこれを湿度計に現わすことのできぬ人間の存在の仕方として把捉しようとするのである。
モンスーンのころにインド洋を渡った旅行者は何人も経験するところであるが、嵐の吹きつける側の船室は、いかに暑くとも窓を開くことができない。恐ろしい湿気を含んだ風を自由に受け容れることは、すなわちその室を住み難きものとするにほかならぬ。「暑さ」よりは「湿気」の方が堪え難いのである。しかもまた暑さよりは湿気の方が|防ぎ難い〔付ごま圏点〕。窓を密閉した船室の中で、しかも皮鞄の中の鉄が錆び塗金が変色するというような湿気に対して、我々は何(25)をなし得るであろうか。熱によって乾燥した空気を再び氷によって冷やし、それを鉄管によって配給するというほかに、対抗の仕方を見いだすことはできぬ。それは|寒さ〔付ごま圏点〕を防ぐ手段と|暑さ〔付ごま圏点〕を防ぐ手段との併用である。すなわちモンスーンの湿気は、それに|対抗し得るために〔付ごま圏点〕人に二倍の力を課する。しかもモンスーン域の人間は、寒国的人間や沙漠的人間のいずれに此べても、自然に対抗する力において弱い。二倍の力の要求せらるるところに一倍の力だもないのである。
それは何ゆえであろうか。我々はそれを「湿潤」自身から理解することができる。湿気は最も堪え難く、また最も防ぎ難いものである。にもかかわらず、湿気は人間の内に「自然への対抗」を呼びさまさない。その理由の一つは、陸に住む人間にとって、湿潤が|自然の恵み〔付ごま圏点〕を意味するからである。洋上において堪え難いモンスーンは、実は太陽が海の水を陸に運ぶ事にほかならぬ。この水のゆえに夏の太陽の真下《ました》にある暑い国土は、旺盛なる植物によって覆われる。特に暑熱と湿気とを条件とする種々の草木が、この時期に生い、育ち、成熟する。大地は至るところ植物的なる「生」を現わし、従って動物的なる生をも繁栄させるのである。かくして人間の世界は、植物的動物的なる生の充満し横溢せる場所となる。自然は死ではなくして生である。死はむしろ人の側《がわ》にある。だから人と世界とのかかわりは対抗的ではなくして受容的である。それは沙漠の乾燥の相反にほかならぬ。
が、理由の第二は、湿潤が|自然の暴威〔付ごま圏点〕をも意味することである。暑熱と結合せる湿潤は、しばしば大雨、暴風、洪水、旱魃というごとき荒々しい力となって人間に襲いかかる。それは人間をして|対抗を断念硝させせる〔付ごま圏点〕ほど.に巨大な力であり、従って人間をただ|忍従的〔付ごま圏点〕たらしめる。沙漠の乾燥は死の脅威をもって人間に迫るとしても、人間を生かすその力によって人間に襲いかかるのではない。人間はおのれの生の力によって死の脅威に対抗し得る。忍従はそこでは死(26)への忍従である。しかるに湿潤なる自然の暴威は横溢せる力(生を恵む力)の脅威であって、自然の側《がわ》に存する「死」の脅威ではない。死は人の側《がわ》にある。横溢せる生の力が人間の内にひそむ死を押し出そうとするのである。人間はおのれの生の力をもってその生の根源たる力に対抗することはできぬ。忍従はここでは生への忍従である。この意味においてもそれは沙漠の乾燥の相反にほかならぬ。
かくて我々は一般にモンスーン域の人間の構造を|受容的忍従的〔付ごま圏点〕として把捉することができる。この構造を示すものが「湿潤」である。
湿潤はしかしさらに細かにさまざまの特性に分析され得る。梅雨と台風とを特徴とする我々の国土は、古代の祖先が直観的に「豊葦原《とよあしはら》の瑞穂国《みずほのくに》」と呼んだように、特に湿潤の国土である。が、そこでは湿潤がまた|大雪〔付ごま圏点〕としても現われる。季節の著しい移り変わりはこの国土の宿命である。従って受容的忍従的なる特性もここではさらに特殊な限定を受けなくてはならない。揚子江のごとき世界的大河を持った南シナもまた湿潤の国土である。しかし北方に沙漠を控えたこの漠々たる大陸は、あたかもこの湿潤を悠々たる揚子江によって表現するかのように、我々とは著しく異なった仕方において風土を現わしている。それは何らかの程度に乾燥を含んだ湿潤である。我々はだから類型的なる湿潤を固有のモンスーン域に求める。それは南洋とインドである。
南洋の暑さは我々日本人にとって決して珍しいものではない。日本の盛夏を知るものは、かつて経験しなかったと思われる何物をもそこに見いだし得ぬであろう。植物の種類はなるほど我々に珍しいが、しかし椰子の林は、やや遠く離れて見るならば、形と色とにおいてきわめてよく松の林に似ている。ゴムの木の林も、我々の見なれた落葉樹の(27)林と、さほどに異なったものではない。全体として見れば自然の与える印象は日本の盛夏のそれに似ている。特に人間の生活としての「夏」は、我々が常に経験するそのままである。
「夏」とは一つの気候であるが、しかしその気候は人間の存在の仕方である。ただ気温の高さと日光の強さとのみでは我々は「夏」を見いださない。冬のさ中にまれに現われた高気温の日に、人は「夏のようだ」とは言うかも知れぬが、しかし夏の中にいるとは感じない。同様のことは冬のさ中に日本を出た旅行者が南洋に近づくに当たって経験するところである。香港《ホンコン》を出た翌日あたり、船の中の人たちは急に白い夏服になる。烈しい日光が濃紺の海を照らし、寒暖計は上り、人は汗を流す。いよいよ常夏の海にはいったとは誰でもが思う。しかるにシンガポアについた夕暮れ、町へドライブに出かけた旅行者は、草木の豊かに生い茂った郊外でにぎやかに鳴いている虫の音を聞いた時、あるいは露店の氷屋や果物店が立ち並んでいる間に涼みの人たちが白い着物で行き来する夏の夜の町の風景をながめた時、初めて強く「夏」を感じ、近い過去に日本に残して来た「冬」との対照を今さらに驚くのである。旺盛な草木の茂りや、虫の音や、夕涼みなどは、この旅行者にとっては、気温の高さや日光の強さよりも一層本質的な「夏」の契機であった。夏の「気分」を除いて夏はない。人間は夏として限定された一定の存在の仕方を持つのである。そうして我々が南洋において見いだすのは、すでに久しく「夏」として知っていたその存在の仕方にほかならぬ。
しかも我々にとって南洋は異境である。なぜならば我々がそこに「夏」として見いだしたものは|南洋にとっては「夏」ではない〔付ごま圏点〕からである。我々にとっての「夏」は、虫の音がすでに秋を含み、はずした障子が冬の風を含んでいる夏である。若葉や筍と百舌鳥や柿との間にはさまった夏である。しかるに南洋にとってはかかる秋冬春を含まざる単純な夏が、言い換えれば|夏でない〔付ごま圏点〕単調な気候が存するのみである。植物はその葉を変えるのに時を定めない。三月(28)の初めにゴムの木の紅葉と落葉と新緑と青葉とが立ち並んでいるように、六月未にも四つの季節は相並んでいる。果物も少数のものを除いては年じゅう絶えることがない。かかる単調な、|固定せる気候〔付ごま圏点〕は、絶えず|移り行く季節〔付ごま圏点〕としての「夏」とは同じものではない。人間が夏として存在するのは|気分の移り行き〔付ごま圏点〕として存在するにほかならぬが、南洋の人間はかかる移り行きを知らない。
我々はこれによって南洋的人間が何ゆえに文化的発展を示さなかったかを理解し得るであろう。南洋の風土は人間に対して豊かに食物を恵む。人間は単純に自然に抱かれておればよい。しかも人と自然との関係は、あらゆる移り行きを含まないものである。人間はその受容的忍従的な関係において固定する。猛獣毒蛇との戦いもこの固定を破ることはできぬ。そこでは生産力を発展せしむぺき何らの機縁も存せぬのである。だからまれにジャヴァにおいてインドの文化の刺激により巨大な仏塔が作られたということのほかには、南洋は文化を産まなかった。そうして文芸復興期以後のヨーロッパ人に易々として征服され、その奴隷に化したのである。
しかし南洋の風土の|単調さ〔付ごま圏点〕に堪え得るものは実はヨーロッパの人間ではなくしてシナの人間であった。ヨーロッパの知力が開発した南洋の富源を今その手中に蔵めつつあるものはシナの商人である。いかにしてこの事が起こり得たかはシナの人間の特性によって理解し得られるであろう。
南洋の単調さはしかし内容なき単調さではない。力の横溢の単調さである。たとえば感情の空疎な、何事にも興味を持ち得ぬ人の単調さではなく、激情に燃えて常に興奮している人の単調さである。だからもしその固定を防ぎ横溢せる力を動かし得るならば、そこに目ざましい発展のあることは当然であろう。
(29) 我々はこのことを一つの具象的な姿によって現わすことができる。ペナンの植物園はシンガポアのそれとは異なり、小山の渓間に位しているが、その山にむくむくと盛り上がっている濶葉樹の感じは、ちょうど日本で土用のまっ盛りに、ただ二三週間、椎や樫の茂った山に見られるあの盛んな力強い感じであった。ここではそれが年じゅうを通じてである。しかしそこを去って、広い椰子の林を抜け、ケーブル・カーの掛かった山に登り始めると、薄のように白い穂を出した草や、秋草に似た小さい紫の花があり、その間に淡々として愛らしいゴムの木の新緑や紅葉がある。山上はさらに涼しく、檜や木蓮に似た木が、あたかも日本の庭園におけるごとき枝ぶりや幹のさびをもって立っている。これらもまた年じゅう変わらぬ姿ではあろうが、欝蒼たる森の真夏に対してはまさしく春であり秋である。だからたとい季節の移り行きはなくとも、ちょうどそれに相応する|種々の変化〔付ごま圏点〕はこの風土の内に含まれている。いわば「時間的な移り行き」を欠くとともに「空間的な移り行き〔付ごま圏点〕」が存するのである。それを受容し得るものに取っては、南洋の単調さはただ季節の単調さであって、内容の単調さではない。
インドの人間はかかる受容性において優れていた。だからそこには極端な|歴史的感覚の欠如〔付ごま圏点〕とともに、恐ろしく豊富な|人生の種々相の洞察〔付ごま圏点〕がある。
インドはモンスーンの最も型通りに現われる土地である。そこで季節は、比較的涼しい乾燥期と、暑い乾燥期と、雨期との三つに分かれる。カルカッタにおいて涼しい一月の平均温度は一八・一度であり、最も熱い三月の平均温度は二八・四度である。しかしこの地の一年間の平均温度二四・八鹿は日本の九州の|夏の〔付ごま圏点〕平均温度とほぼ等しい。ラホールのごとく寒暑の開きの大きいところでも、一年の平均温度は二三・九度である。我々から見ればそれは依然として常夏の国にほかならぬ。季節的には単調である。しかしまた南洋に此べれば寒暑の変化がはるかに多い。従って常夏(30)の国として南洋的な生の横溢を持つとともに、南洋的な生の固定から脱るる機縁もまた存するのである。
が、インドの人間の受容性を活発ならしめる第一のものは、モンスーンによる雨季である。インドの人口三億二千万(全人類の五分の一)の内、三分の二以上を占める農民は、モンスーンに頼って耕作する。特に水の豊かな局部を除いて、大部分の地方は、モンスーンの遅延、中断、雨量の過小過多などのたびごとに、家庭の食料や家畜の飼料にさえ困難するほどの凶年に出逢うのである。頻々として起こるこの種の凶年のたびごとに昔は饑饉が起こった。現在の交通機関はかかる饑饉を防ぐことはできるが、しかし農民の経済的困難を防ぐことはできぬ。そこで人々は栄養不良に陥り、身体の抵抗力を減じ、疫病の流行を引き起こす。一九一八ー一九年のスペイン風邪の際には、罹病者一億千五百万、死者七百五十万と言われている。現代においてさえもインドの人間をかかる生の不安から解放するところの、自然への対抗的方法は存しないのである。
そこで我々は、インドの自然の力をして横溢せしめるちょうどその条件が、すなわち暑熱と湿潤との結合が、インドの人間に生を恵むとともにまた生を脅やかすのであることを見いだす。島嶼的なる南洋においてはかかる危険はなかった。人は単純に受容的であり得た。しかし大陸的なるインドにおいては受容的な関係が常に不安動揺を含まねばならぬ。受容的であってしかも|動く〔付ごま圏点〕ということは、受容性を活発ならしめること、すなわち|感受性の敏活〔付ごま圏点〕である。そこで自然の力の横溢は人間の|感情の横溢〔付ごま圏点〕となって現われる。
インドの人間の感情の横溢は、その受容的な態度から出ている。受容的な態度は同時に忍従的な態度である。生を恵む自然が、同時に、人間の対抗を圧倒しつくす巨大な威力をもって迫ってくる。持続的な暑熱そのものがすでに人間の対抗力を極限にまで必要とするのであるが、その暑熱が湿潤と結びついたとき、人はもはや|忍従〔付ごま圏点〕するほかはない。
(31) モンスーンは人間に対抗を断念させる。かくて自然は人間の|能動的な気力〔付ごま圏点〕を、|意志の緊張〔付ごま圏点〕を、萎縮し弛緩させるのである。インドの人間の感情の横溢は意志の統括力を伴なわない。
受容的忍従的なる人間の構造は、インドの人間において、|歴史的感覚の欠如〔付ごま圏点〕、感情の横溢〔付ごま圏点〕、意力の弛緩〔付ごま圏点〕として規定せられた。我々はこれが歴史的社会的にインドの文化型として現われているのを見るのである。
インド文化において歴史的社会的におのれを現わしているインドの人間は、|言語的〔付ごま圏点〕及び|人種的〔付ごま圏点〕にギリシアの人間と起源を同じくすると言われるにかかわらず、その特性を全然異にしている。「インド文化をその固有の姿に形造り、その努力に方向を与え、その理想に魂を入れたものは、インド自身である。インド・アリヤンの思想にその特殊性格を与え、その人生観全体を色づけた地方的環境は、ヒマラヤの北西地方とヒマラヤより流れ出づる大河の谷である。それはインドの聖地であった、そうして今なおそうである。」(Havel,The History of Aryan Rule in India,p.7.)南欧の多島海においてギリシア的「人間」が「ギリシア的」人間として現われた時にほ、それはすでにポリスの人間であった。ホメロスの名を負う叙事詩は、神々と人間とをすべてポリス的に描いている。しかるにインド的人間がインド的人間として現われた時には、それはポリス生活の束縛を忌み、|農業〔付ごま圏点〕と|村落共産体の組織〔付ごま圏点〕とが与えるところの独立を愛好する人間である。ギリシア的人間がその一つの長所とする商業の術は、ここでは侮蔑される。もとよりインドの人間も、インドの土地への侵入者征服者として、一面|戦士〔付ごま圏点〕でもあった。しかし彼らの戦闘は奪掠の戦闘ではない。彼らの勝利はその戦闘力をもってよりもむしろその優れたる|知力〔付ごま圏点〕によって得られた。片手に剣を持つとともに|他の片手には鋤を持った〔付ごま圏点〕戦士が、その農業的村落的なる共同生活において示した最も卓越せる力は、詩人哲学者としての智慧《ヴエダ》で(32)ある。「ヴェダ」はかかる戦士的詩人、戦士的哲学者の文化を表現する。(Havel,op.cit.,p.5.)戦士は同時に祭司であった。そうしてその祭るところは自然の神秘なる力であった。かかる方向はやがて戦士から祭司を独立させ、祭司を戦士の上に立たせることになる。部族的なる犠牲の祭儀において讃歌を歌っていたバラモンは、やがて奥秘なる智慧の保持者、人間の教師、精神的指導者となった。
これらはインドにおける部族的人間、すなわち村落共産体の表現である。それが沙漠における部族的人間と明白に異なるところは、戦闘的意力的ならざることである。神々は決して|一部族〔付ごま圏点〕の神としては現われなかった。あらゆる部族を平等に恵む自然の力は、人間の対抗を呼び起こさず、また一部族の戦神ともなり得ない。きわめて初期のヴェダには行動的な戦闘好きの人間が現われておらぬではない。リグ・ヴェダの歌い手はしばしば神々に戦勝を祈っている。しかしその神々は、リグ・ヴェダにおいては、生の窮迫を転脱するための意力的緊張から生じたのではなく、あくまでも、人間を恵む自然の力から神話的な姿にまで成生して行ったのである。多くの讃歌は「神」にではなくして「自然」に、たとえば太陽神にではなくして太陽自身に、水の神にではなくして流れ行く水あるいは雲より落つる水自身に、向けられている。神話的な姿がこれらの自然の力の人格化によって生ずることを、リグ・ヴェダの讃歌自身が立証する。(Winternitz,Geschichte d.Indischen Literatur,I.S.66-67.)だから神への関係は、むしろ恵みに甘える関係であって、沙漠的なる絶対服従ではない。旧約の詩篇における讃歌者がエホバに向けるあの身震いのするような崇敬や、巌のごとく固い信仰は、ここには見られない。神への祈りも沙漠におけるごとく魂の奥底から湧き出るのではない。ヴェダの讃歌者はむしろ「神々と睦まじい」のである。彼らは神への服従を誓い神の命令に従うことによって救いを求めるのでは克く、|ただ神々を詠嘆すること〔付ごま圏点〕によって地上の富の恵まれることを期待する。神よ、もし我れがあらゆ(33)る富の主であるならば、我れを讃むる者には喜んで恵むであろう、恵み深き神よ、(Op.cit.,S.70.)――かく歌う讃歌者は神を恐れてはいない。恵みに抱かれるというのが彼の信仰の態度である。かかる信仰の対象としての神々は、たとい人格化せられたとしても、沙漠の神におけるごとく人間の人格に絶えず関係し来たる「人格神」とはなり得ない。だからこれらの神々が「生を恵む力」として「一者」と考えられるということは、すでに早くリグ・ヴェダの哲学的なる讃歌の内に現われている。かかる汎神論的思想はブラーフマナやウパニシャッドにおいてブラフマンとなりアートマンとなる。それらはその深き意味においては|非人格的なる〔付ごま圏点〕創造原理である。哲学的にはあるいは「無」と呼ばれ、あるいは「有」と呼ばれている。ウパニシャッドの頂点としてのウッダーラカの「有」の説は、「無」を原理とする立場への反駁の上に坐するのである。
神々を讃えるヴェダはまた世界におけるこの種の古典のうち最も歴史的物語に遠いものである。旧約聖書が特に歴史的物語として著しいのは言うまでもなく、ホメロスの叙事詩さえもかかる性格を持たぬとは言えぬ。しかしヴェダは全然この性格を欠くのである。のみならずそれは、神々の事績や人間の生活を取り扱いはするが、それを客観的に描出するのではなくしてただ詠嘆するに過ぎぬ。むしろそれはその名の通り、神々と人間についての「智慧」を語るのである。しかも概念的にではなくして|抒情的に〔付ごま圏点〕。讃歌、咒文、旋律、犠牲の唱えの四種のヴェダは、すべて祭儀の実践に含まれ、宗教的感情に浸透された智慧にほかならぬ。かくてヴェダは|歴史的〔付ごま圏点〕なる旧約の物語や|彫塑的〔付ごま圏点〕なるホメロスの物語と著しく異なった様式を、すなわち感情の横溢の様式を示すのである。
かかる詠嘆的智慧はインドの人間の特性の二面を同時に我々に理解せしめる。一はインド的なる|想像力〔付ごま圏点〕であり、他はインド的なる|思惟〔付ごま圏点〕である。両者はヴェダにおいて密接に結合しているようにこの後の文化産物においてもしばしば(34)結合して現われる。しかし我々は同一の作品を一面からは芸術的に、他面からは哲学的に理解することができる。かく差別して理解することにより、両者が何ゆえに結合しやすいか、あるいは何ゆえに分化し難いかもまた理解することができるであろう。
ヴェダに現われたる想像力はインドの人間の感受性がいかに鋭敏であったかを示している。あらゆる自然の力はその神秘性のゆえに神化される。日、月、空、嵐、風、火、水、曙光、大地のごとき目ぼしいもののみならず、森も野も動物も、総じて受容的なる人間にある力を感じさせる限り、それは神かあるいはデーモンである。だからバラモンの神話の世界の住人は、恐らく他のいかなる神話のそれよりも豊富であろう。しかしかかる多数な神々は、血統的に一つの家族として|まとめられる〔付ごま圏点〕ということもなく、また自然現象の関連をモデルとして一つの体系に|統一される〔付ごま圏点〕ということもなかった。神々の根柢に統一的なる「一者」、あるいは「有」、あるいは「無」が置かれるに至っても、この哲学的なる統一は神々の姿を左右し得ない。神々の世界はますます乱雑の度を加えつつ仏教のファンタジーの中にさえ入り込んでいる。
が、我々にインドの想像力の特性を最も強く印象するものは、本生譚〔付ごま圏点〕である。そこではあらゆる生物が、すなわち人間を含めての「衆生」が、その共通の生において描かれている。神話的想像によって生じたあらゆる生き物――天上に住むもの、地獄に住むもの――のみならず家畜も野獣も昆虫も、すべて我々の生の場面である。我々は今人間にあっても次の世には牛として生きるかも知れない、また前の世には蛇であったかも知れない。従って今牛であり蛇であるものもかつては人間であり、また他日人として現われ得るものである。しからばこれらの衆生は、現象的形態に(35)おいてさまざまに異なるにしても、本質においてはすべて同一でなくてはならぬ。現象的形態の相違はただ同一なる生のさまざまの運命を表現するに過ぎない。ここにおいて本生譚的想像は、人間の歴史を、すなわち人間にのみ限られた「生」の時間的な移り行きを根本的に撥無するとともに、「生」の空間的な移り行きを、すなわち生のさまざまの変相を把捉すると言える。ここに匐う蛇はかつて人であり牛であり鳥であり、そうしてさまざまの愛と憎しみを体験して来たものである。現在蛇であることはこれらの過去によって決定されている。が、同様にあらゆる他の生物も|過去の生〔付ごま圏点〕によって|現在の姿〔付ごま圏点〕を決定されているのである。しからば過去のある時代を形作っていた衆生は|そのまま〔付ごま圏点〕また現代を形作っている。ただ異なるのは個々の成員がその姿を変えていることだけである。衆生の|現在の姿〔付ごま圏点〕は過去の生を残りなく含んでいる。人は歴史的発展をたどる代わりにただ現在の姿の種々相をたどればよい。だからこの想像においては、道を横ぎる蛇のそぶりの内に、あるいは牛の眼の表情のうちに、その人間的なる過去の生をも読み取るのである。かくして人間の日常生活は、直観的にきわめて豊富な生に取り巻かれていることになる。一歩踏み出して蟻を圧殺したとき、彼はかつて人でもあった一つの生の運命に参与したのである。
かかる受容性の敏活、感情の横溢が、本生譚となって夢よりもはるかに夢幻的な世界を展開する。文芸的作品としての様式もまたこれに応じている。がかかる様式の|特に顕著な〔付ごま圏点〕例としては我々はむしろ大乗の経典をあぐべきであろう。そこには感覚的な形象が無限に豊富に積み重ねられ、百千万億の菩薩の行動さえも描かれる。それは人間の直観能力を麻痺せしめるような形象の横溢である。言葉をもって描かれるにかかわらず、ただ巨大な交響楽にのみ比せられ得るような、動ける横溢である。我々はこの形象の横溢に酔わされて、夢幻的な世界に引き込まれて行く。しかしこのような形象の横溢は、全体を統一する構図への無関心や、個々の姿の彫塑的な鮮やかさに対する無関心によって(36)のみ可能となっている。すなわちこの様式は総じて「まとまり」を持たない感情の横溢の表現である。人はここに時と所との統一のごときを全然超越しなくてはならない。
かかる様式のさらに具象的な姿はインドの美術に見られる。彫刻にしろ、絵画にしろ、建築にしろ、細部の驚くべき豊富さに此べて構図の統一はきわめて弱い。たとえばアマラヴァティやサンチの浮き彫りのごとき、無数の人体のさまざまなる姿勢が、あふるるごとく刻み込まれ、見るものをしてほとんど昏迷せしめる。だから全体としては明白さを欠き、非構造的である。見るものの心を最初の瞬間に力強く打つところの、あの「|姿の鮮やかさ〔付ごま圏点〕」は存しない。これを弁護する学者はいう、インドの芸術家がその構図中に豊富なる生物のあらゆる形を群集させるのは、あらゆる生物の|統一〔付ごま圏点〕を象徴するためである。この動機によって、彫刻家は極度に多くの形象を積みかさね、建築家は尖塔の上に尖塔をつらね、その尖塔を無数の刻面に分裂させ壁面を無数の凹凸に分解する。そこに「多における一」という普遍的法則を象徴するのである。かかる統一は人間中心主義的な西洋の芸術的統一とは異なるが、しかし明らかに一つの統一的原理である。西洋風の古典的単純さがないゆえをもってインド芸術の|無統一〔付ごま圏点〕をいうことはできない。インド的統一の視点の下においては、細部のあの異常な豊富さにかかわらず、一々の部分が完全にその所を得、釣り合いを保っているのであると。(Havel,The Ideal of Indian Art,p.111 ff.)なるほど人間のみならず一般に衆生の生を一として感ずることはインド的人間の特徴である。受容性の敏活は一切の|対抗的関係〔付ごま圏点〕を閉め出そうとする。しかしちょうどその理由によってこの受容的な統一は、意力的能動的征服的な統一と異なるのである。芸術の統一は後者によってのみ可能となる。インドに受容的な統一があり、それが芸術によって表現せられるということは、インドの芸術が|形式的統一〔付ごま圏点〕を持つということとは全然別なことである。あらゆる生きものの一であることを象徴するためには、必ずしも(37)無数の形象を群集させるには及ばない。象徴の機能を理解する芸術家は、ただ二つの形象を結合することによってもそれを表現し得るであろう。よし群像を用いるとしても、芸術品の統一は細部の完全な支配、姿の鮮やかなまとまりによって得られる。しかし衆生の統一という観念的動機は直ちに細部の支配ではない。インドの彫刻や建築に細部の支配の欠けていること、全体はかかる細部の集合であって、異に統一的な全体となっておらぬこと、従って全体として|見とおしのつかぬ〔付ごま圏点〕、明白さの欠けたものであることは、いかなる強弁も覆い隠し得ない点である。インド美術の魅力は、細部の豊富さによって人を引き回し、酔わせ、その酩酊によって人を神秘的な気分にさそい入れるところにある。もし人がこの芸術に対して、全体の姿の鮮やかさをまず要求する態度をもって臨むならば、そこにはただ|崩れた〔付ごま圏点〕感じ、頽廃の感じをのみ受け取るであろう。まとまりなき感情の横溢はここに最も顕著に現われているのである。
インド的思惟の特性もまたそれにほかならない。ヴェダに現われている「情的思惟」の傾向は、哲学の盛期においても失われなかった。
情的思惟が哲学に与えた特性は、推理によらずして直覚に、あるいは直接的理解によることである。また普遍概念によらずして類型概念に、あるいは比喩的概念によることである。我々はそれが全然歴史的認識としてでなく、形而上学的認識として、あるいは生の現象学的認識として、働いているという点に、特に注目しなければならぬ。
人はギリシア初期の自然哲学とウパニシャッドの哲学との間に多くの類似を見いだすであろう。両者はいずれも世界の統一を予想している。そうして「初め」に何があったかを追究する。そこで答えられるのは「水」であり「火」でありあるいは「無」であり「有」である。ドイセンがパルメニデス・プラトン的思想とウパニシャッドの思想との(38)本質的同一を説いたのも、あるいは当然のことに見えるかも知れない。しかしながら我々は一つのことを見落としてはならぬ。ギリシアの哲学者は彼に|対立する世界〔付ごま圏点〕の「初め」を求め、それを論証の道によって捕えようとしたのである。だから世界質料としてアトムが見いだされると同じ地盤から「有」の原理も見いだされた。もとよりこの|対立的〔付ごま圏点〕関係は、あくまでも観照的関係としてであって実践的戦闘的なる対抗的関係ではない。しかしその意味の対立的関係もインドの哲学者には存しなかった。彼が求めたのは彼自身をも包む一切の「初め」である。だから「初め」に「有」があり、「有」が「火」となり「水」となり「大地」となると説かるる前に、この「初め」はすでにアートマン・ブラフマンである。すなわち「識るもの」であり「我」である。世界の根源が「我」であるとは我と世界の対立の撥無であり、そうしてこの理解が本来の意味のインドの哲学の出発点となる。哲学者はただこの理解を解きほごすのである。それは論証によらない、また普遍概念をも用いない。
ウッダーラカはアートマンの宇宙開闢説の神話を全く理論化した人であると言われている。彼によれば「初め」にはただ有るところのもの(sat,※[ギリシア語]に同じ)があった。それはアートマン(我)にほかならぬゆえに、また自ら識るものである。が、我々はかかる「有」あるいは「我」にいかにして到達したかを問うことはできない。それは「見られ」また感ぜられたる事実である。哲学者の関心はこの事実から現象の多様を解くことに存する。しからば一者たる「有」がいかにして多様を展開するか。第一歩はこの「有」が|多であり得ることを自覚する(|見る〔付ごま圏点〕)にある。そうしてこの自覚が「火」を生ぜしめる。ここに「火」と言われるのは「転変の原理」でもなければまた不生不滅の「要素」でもない。それは「|火の形における有〔付ごま圏点〕」である。燃ゆるもの、輝くもの、赤きもの、煮るもの等、すべて「火」の比喩によって理解せられ得るような有り方を持つものが、ここでは「火」として指し示される。かかる意味で「有」は(39)多化の第一歩に火として限定されるのである。しかしここでも我々はこの限定の必然性を問うことができない。それは太陽崇拝の伝統に生くる哲学者の直覚にのみ依存する。次いでこの「火の形の有」はさらに多化の可能を自覚して「水」を生ずる。「水」もまた「水の形における有」である。すべて流動的なるもの、明色を持つものが「水」として指示される。この多化の第二歩は日常の経験において親しい例証によっている。汗は、すなわち水は、暑さすなわち火から生ずる。雲や雨は太陽の熱から生ずる。第三に「水の形の有」が多化の可能を自覚した時「食物」(大地)が生ずる。これもまた雨によってのみ食物の生じ得る目前の例証にもとづくのである。かく見れば「有」の多化を説くウッダーラカの説は、|生を恵む自然の力〔付ごま圏点〕についての直接体験を此喩的なる概念によって表現したものと言い得るであろう。
我々はかかる思惟の仕方がインドの哲学の初期においてのみならず盛期においても明らかに存することを認める。仏教の哲学はアートマン(我)を原理とする形而上学を捨てて現実の生の真相を|見よう〔付ごま圏点〕とする。いわゆる法の如是観、如実観である。その根本直観は「我」の形而上学を捨てる点において無我観であり、一切の現実を流転と見る点において無常観であるが、さらにこの一切を苦と見るところの苦観において情的思惟の特徴を明らかに示している。苦はここでは単に経験せらるる苦痛ではなく、かかる苦痛を例証として直観せらるるところの苦一般である。一切の現実の「法」としての苦である。かかる直観はそれ自身すでにインドの感情の横溢を示すのみならず、その直観の把捉の仕方において、すなわち例証をもって普遍概念に代えるという仕方において、明らかにインド的である。我々は「法の体系」において組織されたる種々の法が、かかる直観にもとづくものであることを忘れてはならぬ。たとえば「老死」はこれかれの生物における老と死とではなく、それを例証として直観せられたる無常性であり、「眼」はこれかれの生物における視覚機関ではなく、それを例証として直観せられた「見ること一般」である。かかるインド的思惟の(40)特性は、他方に論証的悟性的なる思惟の薄弱を伴なっている。人は一つの普遍概念の下に多くの特殊を下属せしめ、それにょって複雑を単純化せしめる、というごときことを努めない。種々なる|法の羅列〔付ごま圏点〕はしばしば無統制に陥り、ついにはただ法の「数」のみが統一の役目をつとめるにさえ至っている。阿毘達磨哲学はそのよき例である。人はさまざまなる法を五位七十五法に秩序づけることすらも容易にはなし得なかった。論理的に最も鋭い竜樹においてさえ、諸法無自性の論証は、五蘊六入六界をはじめ阿毘達磨の哲学の羅列する諸法の一つ一つについて|繰り返されて〔付ごま圏点〕いる。いわんや論書ならざる経典に至っては、哲学的思想は全然論理を離れてただ直観的に、形象的に、描出されるのみである。
インドに発達した論理学もまた直観の明証を核心とする点において右の例に洩れない。此量(分別推理)は現量(直観)にもとづくとせられる。現量において把捉せられたるものが比量において明らかにせられるのである。因明の作法は已明の前提より未明の帰結を導き出す|推理〔付ごま圏点〕の形式ではなく、最初に断案(宗)を掲げ、これを理由(因)と比喩(喩)とによって論証するにほかならぬ。だから新因明の三支作法は形式論理学の推理の形式をち土うど逆にしたものであり、しかも大前提に当たる命題は此喩を含むのである。此喩はインドの論理学発達の最初より重大視せられ、発達の最高段階に至ってもなお欠くべからざる一項とせられた。かかる点においてインドの論理が直観の論理であるということは必ずしも過言でないであろう。
インドの哲学がさまざまの輝かしい発展を経た後に結局密教やインド教の象徴主義に堕して行ったのも、情的思惟の当然たどるべき道であったと見られ得る。インドの人間はその思弁への強い性向にもかかわらず、再び咒術の信仰に帰ったのである。やがて哲学的なる仏教は国外に放逐された。ヴェダンタの哲学は祭儀に所を譲った。感情の横溢(41)と意力の弛緩とが学問をそこに押し殺したということもできよう。
以上によって我々は歴史的社会的に現われた想像力と思惟とがいかにインド的人間の特殊構造を示すかを見た。非歴史的非統制的なる感情の横溢としての受容的忍従的態度がそれである。かかるインド的人間はヒマラヤを越えてシナや日本に侵入したが、しかしその侵入の仕方がまた戦闘的征服的ではなくしてあくまでも受容的忍従的であった。仏教を通じてインド的人間はシナや日本をおのれに|引きつけた〔付ごま圏点〕のである。シナや日本におけるインド的なるものをそれらの中から|引き出した〔付ごま圏点〕のである。それに反してインド自身が沙漠の侵入を受けた時には、その侵入は戦闘的征服的であった。インド的人間は内にひそむ沙漠的なるものを引き出さるることなく、ただ外から沙漠に圧倒されて、一層受容的忍従的になった。モハメダンの征服は文字通りインドの感情の横溢が沙漠的統一に従ったのである。インドモハメダンの建築がこの関係を具象的に示している。この建築様式が果たしてビザンツの流れをひいたモスクの輸入に過ぎぬか、あるいは逆にインドの建築から「尖ったアーチ」や「かぶら形の円屋根」を取ってできあがったものであるか、は議論のある点である。(Havel,Indian Architecture,p.4f.,16 ff.)が、いずれにしても細部の形象の横溢が古来インドに現われたことのない厳密な統一によって鮮やかに統制せられていることは、この建築様式の第一の特徴と認めて好い。
モハメダンの征服のあとにはさらにヨーロッパ的人間の征服が続いた。しかもインドの人間は最近に至るまでその戦闘的征服的性格を学び取ることができなかったのである。永い間の被征服の状態はむしろ感情の横溢を弱々しい感傷性に馴致したかに見える。南洋にまで進出している勇敢なインド人さえも、多くは従順忠実の化身のようであり、(42)その声や表情には常に気弱さを印象するところの感傷性がある。南洋とセイロン島との間の甲板乗客としてのインド人が印象するところもまさにそれである。多くの家族がそこで煮炊きし食事し遊び寝る。我々はそこで母親がいかに子供を愛撫するか、小さい兄や姉がいかに赤ん坊をあやすかを親しく目撃することができる。あるいは朝夕の食事においていかににぎやかに家族が団欒するかを見ることもできる。それは見る人をして涙を催さしめるほどに感傷的な感情の横溢である。同様な印象はまたセイロン島の瞥見からも得られる。途上の単純な所見、たとえば椰子の林の中の小舎の前に赤ん坊を抱いてたたずむ母親、髯の白い老人、カバンを下げた学校帰りの子供、あるいは夜、椰子の並み木の大きい葉の下の床几に涼んでいる家族の群れ、――それらは本来旅行者の心を特に動かすべき姿ではないにかかわらず、強烈に感傷をそそるのである。村の夜の祭りさえも、万灯をかざした行列や人ごみににぎわう華やかな気分の内に、覆い難き哀調を漂わせている。感情の横溢が、古《いにしえ》のインドのごとく我々を驚嘆せしめる代わりに、意力の不足として、圧迫への屈従として、我々の心を痛ませるのである。我々は圧抑の事実を全然目撃することなくしても、インドの人間そのものが被圧抑を表現しているのを感ずることができる。上海《シヤンハイ》・香港《ホンコン》において、実にあらわに西洋人の勢力が露出しているにかかわらず、シナの人間が圧抑されたものとしてよりもむしろ底力の強いもの、事実上の勝利者として感ぜられるのに比すれば、ここに人間の相違を見ざるを得ない。インドの人間はその受容的忍従的な特性のゆえに、言いかえれば戦闘的征服的な性格の|欠如〔付ごま圏点〕のゆえに、我々における戦闘的征服的な性格を刺激し|引き出す〔付ごま圏点〕。インドを訪れる旅行者が、その独立のための戦いを衝動的に欲するに至るのは、かかる事実にもとづくのである。
かかる意味においてインドの人間は、その綿が世界の市場に現わるる現代においても、依然として受容的忍従的である。無抵抗主義的な争闘がそれを示している。インドの労働者の体力はシナ人よりもはるかに弱く西欧の労働者の(43)三四分の一に過ぎぬと言われているが、それが短時日に革《あらた》まり得ないように人間の特性もまた知時日には変わり得ないであろう。それは風土的特性である。変革は風土の克服に待たねばならぬ。しかし風土の克服がまた風土的なる特殊の道によるほかはないのである。すなわち風土の自覚を歴史的に実現することによってのみ、人間は風土の上に出ることができる。 (昭和三年稿、四年加筆)
二 沙漠
「沙漠」という言葉は通例“desert”の同義語として用いられる。自分もその用語例に従って、この言葉によりアラビア、アフリカ、蒙古等に存するきわめて特殊な風土を言い現わそうとするのである。しかし「沙漠」と“desert”とが本来著しく意味を異にする言葉であることは、これらの言葉の意味を反省した人の直ちに気づくところであろう。同一の風土をあるいは沙漠と呼びあるいは desert と呼ぶのは、あたかも同一の図形をあるいは等辺三角形と呼びあるいは等角三角形と呼ぶごとく、その把捉の方向を異にするのである。そうしてかかる方向の相違の存し得ることが、すでに沙漠という現象の人間的意味を指示していると言わねばならぬ。
「沙漠」という言葉は我々がシナから得たものである。これに相応する日本語は存しない。「すなはら」は沙漠ではない。厳密な意味において日本人は沙漠を知らなかった。しからばシナ語としての「沙漠」は何を意味するであろうか。現代のシナ人は日本からの逆影響によって沙漠を desert の同義語とする。しかし古き用法においては「沙漠」はゴビの沙漠をその直観的内容とする言葉であった。「沙」はしばしば「流沙」の意義に用いられ、「漠」もまた北方の流沙をさす。それは巨大なる|砂海〔付ごま圏点〕であり、その砂が狂※[風+犬三つ]によって巻き揚がり|流れる〔付ごま圏点〕のである。シナ人はかかる風土の(44)外に住む人間として、この風土をばただ外からながめた特性において、すなわち莫々たる砂海として把捉した。
ギリシア人が ere※[長音記号あり]mia として、ローマ人が deserta として、さらに近代人が Wu※[ウムラウトあり]ste,waste,wilderness 等として把捉したものは、単なる砂の海ではなかった。それは|住むもののない〔付ごま圏点〕、従って何らの生気のない、荒々しい、極度に|いやな〔付ごま圏点〕ところである。人々はこの風土をその形においてではなく、その生気のなさにおいて捕えた。それは単に砂の海であるばかりでない、突兀たる岩石の露出した峩々たる山脈であり、礫の原となれる水なき大河床である。人はこれらの山河の中にあって、植物的にも動物的にも|住むもののない〔付ごま圏点〕世界を見いだした。あたかも「住むものなき家」が生気なく、空虚であり、荒れているように、これらの風土もまた desert である。しかし風土がかく desert と呼ばれるとき、それはもはや単なる外的自然ではない。desert なのは人と世界との統一的なかかわりである。ある家が、あるいはある町が、desert であり得るごとく、ある風土もまた desert であり得る。それは「人間」の(単に|人の〔付ごま圏点〕ではない、個人的・社会的な二重性格を持つ人間の)有り方であって、人間と独立なる「自然」の性質ではない。
desert が地理学的な用語とされたときには、しかし、人は「人間と独立なる自然」を取り扱うのであると信じた。それは雨量の欠乏によって生じた荒漠不毛の土地である。が、この場合にも人はアラビアやアフリカにおける荒漠不毛の土地を直観的内容として desert の概念を作った。突兀たる岩石の露出せる荒地は rock desert であり、礫の海は gravel desert であり、砂の海は sand desert である。従って沙漠の語はただ sand desert にのみ当たるのであって一般に desert に当たるのではない。しかも沙漠を desert の同義語とする我々にとっては、「|岩石の〔付ごま圏点〕沙漠」「|礫の〔付ごま圏点〕沙漠」「|砂〔付ごま圏点〕の沙漠」というごとき滑稽な訳語が、その滑稽さを強く意識させることもなく行なわれているのである。
吾人がここに「沙漠」として考察の対象とするのは、本来の意味における“desert”であつて沙漠ではない。沙漠と(45)いう言葉を用いるのは他に適当の言葉がないからである。
吾人は沙漠を「人間の有り方」として取り扱う。この場合、人間が個人にして同時に社会であること、及びかかる人間が歴史的にのみ存在し得ることを前提としているのである。従って人間の有り方としての沙漠は、人間の社会的歴史的なる性格と離すべからざるものである。沙漠はその具体性においてはただ人間の歴史的社会にのみ現出する。自然科学的なる沙漠に達するためには、人はこの具体的なる沙漢から、あるいは沙漠的なる人間社会から、あらゆる人間的性格を捨象するところの、抽象の立場に立たなくてはならない。自然としての沙漠はかかる抽象にはかならぬ。そうして「抽象」は人間の力の一つの偉大な特性である。抽象によって具体的なるものはその内容を明らかにする。しかし、だからと言って抽象的なるものと具体的なるものとを混同してはならない。吾人はかかる抽象的沙漠が人間の歴史的社会的現実に|いかに影響するか〔付ごま圏点〕を見ようとするのではない。むしろ逆にかかる抽象の行なわるる地盤としての歴史的社会的沙漠を明らかにしようとするのである。
しからば吾人はいかにしてその具体的なる沙漠に接近し得るであろうか。沙漠的人間にとってはそれはただ自己解釈の問題であるとも言えよう。しかし人間は必ずしも自己を自己において最もよく理解し得るものではない。人間の自覚は通例他を通ることによって実現される。しからば沙漠的人間の自己理解は霖雨の中に身を置くことによって最も鋭くされるであろう。このことは沙漠的ならざる人間が|旅行者〔付ごま圏点〕として具体的沙漠に接近し得ることを立証するものである。彼は沙漠において己が歴史的社会的現実のいかに沙漠的ならざるかを自覚するであろう。がこの自覚は沙漠の理解によって可能となるのである。たといこの理解が旅行者としての|一時的な〔付ごま圏点〕沙漠生活にもとづくとしても、それ(46)が沙漠の本質的理解である限り彼はそこから歴史的社会的なる沙漠に「入り込んで生きる」ことをなし得るのである。
旅行者はその生活のある短い時期を沙漠的に生きる。彼は決して沙漠的人間となるのではない。沙漠における彼の歴史は沙漠的ならざる人間の歴史である。が、まさにそのゆえに彼は沙漠の何であるかを、すなわち沙漠の本質を理解するのである。
「人間至るところ青山あり」とは広い人生への自由な生き方を示すところの一つの智慧の此喩的表現であって、風土に関する立言ではない。しかし、かかる表現が可能なのは、風土的に至るところ青山があり、そうしてかかる風土的なる青山がすでに内生括的なる意味を含んでいるからである。すなわち青山は「故郷」に代わり得るもの、何らかの意味で人がそこに落ち着き得るものである。しからば「至るところに青山があること」は風土的の意味においても人間の存在の仕方である。かかる青山的人間がある時インド洋を渡ってアラビアの南端アデンの町に到着したとする。彼の前に立つのは、漢語の「突兀」をそのまま具象化したような、尖った、荒々しい、赤黒い岩山である。そこには青山的人間が「山」から期待し得る一切の生気、活力感、優しさ、清らかさ、爽やかさ、壮大さ、親しみ等々は露ほども存せず、ただ異様な、物すごい、暗い感じのみがある。至るところ青山ある風土においては、いかなる岩山もかほどに陰惨な感じを与えはしない。ここにおいて青山的人間は明白に|他者〔付ごま圏点〕を見いだす。単に物理的なる岩山をではなくして、非青山的人間を。従って非青山的なる人と世界とのかかわりを。
非青山的であるとは、|抽象的〔付ごま圏点〕に言えば、山に|一本の草木もない〔付ごま圏点〕ことである。草木に包まれた山は植物的なる生命に包まれているのであり、従ってその色彩も形貌も植物的なる生を表現する。そこでは雨風はまずこの生と交渉するの(47)であって、無生物たる岩や土に直接に触れるのではない。しかるに草木なき山はいかなる生をも示さない。雨風は単に物理的に岩の肌に影響する。だからそれは山の「骨」である、死せる山である。山の輪郭も、岩の尖り方も、そのどす黒い色も、すべて死の表現であって生の力を感じさせぬ。
かかる草木なき岩山は、具体的には|物すごい、陰惨な〔付ごま圏点〕山である。そうしてこの物すごさ陰惨さは本来的に言えば物理的自然の性質ではなくして人間の存在の仕方にほかならぬ。人間は自然とのかかわりにおいて存在し、自然においておのれを見る。うまそうな果実においておのれの食欲を見、青山においておのれの心安さを見るように、物すごい山においてはおのれの物すごさを見る。言いかえれば非青山的人間を見いだすのである。
かかる人間の存在の仕方の特性を我々は風土的なる「乾燥」によって捕えることができるであろう。アデンにおいては強い日照にもかかわらず雨は年に四五度しか降らぬという。インド洋にモンスーンの吹き荒れているころでさえ、ここでははるかに高い空が薄白く曇るのみであって、日光をさえぎるほどにも至らない。いわんや他の時期においては、空は|完全に〔付ごま圏点〕晴れる。雲の浮かびやすい日没ごろに、いかにはるかな地平線にさえも一点の雲も現われぬというふうな晴れ方を、ここでは最も日常的な天気とするのである。しかもその晴れた空は、爽やかさを感じさせるあの空色ではなくして、あくまでも乾き徹った紺碧であり、しかも地平線に近づくに従ってその紺碧の色が薄らいで行くということすらも、ほとんどない、と言い得るほどに少ない。かかる空に覆われた大地もまた徹底的に乾き徹って、湿いを思わせるものは毛ほどもない。人工的に町なかに植えた少しばかりの樹木を除いては、世界はことごとく|乾燥そのもの〔付ごま圏点〕である。この乾燥が陰惨な山となり、物すごい砂原となり、巨大なるローマ人の貯水池となり、水を運ぶ駱駝となり、さらに遊牧となりコランとなる、……一言にして言えばアラビア的人間となるのである。
(48) かくて我々は「乾燥」を desert の本質的規定として把捉することができる。住むものなきこと、生気なきこと、荒々しいこと、これらはすぺて乾燥にもとづくのである。
アデンの陰惨な山は旅行者に対して沙漠の本質を「乾燥」として開示する。このことは沙漠について語る限り多くの人々の言い古したことである。にもかかわらず旅行者をして事新しく驚異を感ぜしめるのはなぜであるか。それは彼が初めて「乾燥」を|生活した〔付ごま圏点〕からである。乾燥は湿度計寒暖計によって示さるる空気の一定の湿度ではなくして、人間の存在の仕方だからである。
紅海の沿岸、特に歴史的に有名なシナイ山やアラビア沙漠のあたりに至れば、旅行者は死そのものを印象するごときこの風土を生くることによって、旧約聖書を新しく読みなおそうとする衝動を感ずるであろう。選ばれたる民が渡って歩いたのは、かくも物すごい砂の海、岩片の海であった。彼らがながめたのはあの岩骨のみの山脈、「死せる山」であった。かかる沙漠の物すごさは怒れる海も到底及ぶところではない。海はその絶えざる波の動きや、生々たる水の色や、波間に住む生きものなどのために、常に我々に生ける印象を与える。まれに暴風の怖れがあるとしても、我々から海への親しみを奪うほどではない。しかるに沙漠はその死せる静寂、死せる色と形、あらゆる生の欠乏によって、我々の生を根顔的に脅やかす。地上の物の形を覆いかくす沙漠の夜の闇さえも死のごとき気味悪さを含んでいる。(その闇に此ぺて空の星のみが実ににぎやかな、生々とした印象を与えることは、沙漠の夜の第一の特徴であろう。極度に乾煉せる空気が星の光を鮮やかに輝かせるばかりでなく、大小無数の星の小止みなき瞬きは、互いに響き合いつつ刻々として移って行き、あたかも壮大な交響楽を聞いているような印象を与える。このような溌剌とした、動いて(49)いる蒼い空は、実際沙漠の死から我々の生を救い取るのである。)かくのごとく地上にはただ死の脅威のみの充ちている土地、八か月を通じて一点の雲なき空から太陽があらゆるものを焼きつくし、日陰においてさえも温度は四十五度に上るという土地、そこを選ばれたる民は漂ったのである。シナイ半島がそうである。シリア・メソポタミア沙漠がそうである。エウフラテスやティグリスの河谷といえども、バビロンの平野に出るまでほ、きわめて狭い両岸が湿っているに過ぎぬ。しかもこの両河とアルメニアの山から出る川を除いては、広いアラビアの地に河がない。時たま驟雨があっても、その水は乾いた河床を流れ去って、数時間後には跡を留めない。もしこの沙漠のところどころに、春の雨に恵まれて緑の草の育つところがなかったならば、あるいは岩から出る泉や人の掘った井戸などがなかったならば、総じてアラビア的人間は存し得ないであろう。
乾燥の生活は「渇き」である。すなわち水を求むる生活である。外なる自然は死の脅威をもって人に迫るのみであり、ただ待つものに水の恵みを与えるということはない。人は自然の脅威と戦いつつ、沙漠の宝玉なる草地や泉を求めて歩かねばならぬ。そこで草地や泉は人間の団体の間の争いの種となる(創世記一三 六、二六 二〇以下)。すなわち人は生くるためには他の人間の脅威とも戦わねばならぬ。ここにおいて沙漠的人間は沙漠的なる特殊の構造を持つことになる。(一)人と世界との統一的なるかかわりがここではあくまでも|対抗的戦闘的関係〔付ごま圏点〕として存する。人が自然において見るところのおのれは死である。死を見ることによって人は生を自覚する。すべての「生産」は人の側《がわ》にあり、従って外なる自然の生産を「恵み」として待ち望むことはできぬ。草地と泉と井戸とを自然より戦い取ることによって人は家畜を繁殖させる。「産め、殖やせ」が死に対する生の戦いの叫びである。(二)自然との戦いにおいて人は団結する。人間は個人としては沙漠に生きることができぬ。従って沙漠的人間は特にその共同態において現われる。草地(50)や泉を|自然から〔付ごま圏点〕戦い取るのは共同態における人間である。しかしこの戦いにおいて人間はさらに|他の人間〔付ごま圏点〕と対立しなくてはならぬ。一つの井戸が他の部族の手に落つることは、自らの部族の生を危うくする。ここでは人と世界との統一的なかかわりが、人間と「他の人問世界」とのかかわりとなる。そうしてここでもまたそれが|対抗的戦闘的関係〔付ごま圏点〕であり、そこからまた人の子を「産め、殖やせ」という標語が生ずる。人口増殖の神の契約が「割礼」を人間に課したことは、沙漠的人間のこの特性を表現したものである。
沙漠的人間の構造は右のごとき二重の意味において対抗的戦闘的である。しかるに沙漠的人間はただ歴史的にのみ存在する。従って対抗的戦闘的なる特性の現わるる場所は、沙漠的人間の歴史である、歴史的に作られたる諸形像である。
自然への対抗は自然に対して人間を際立たせる一切の文化的努力に現われる。それは恵み深き自然に抱かれる態度でもなく、また自然を人間の奴僕として支配する態度でもない。あくまでも自然に対して人間を、あるいは人工を、「対峙」せしめる態度である。
沙漠においては「人間のもの」は本来すでに自然に対して他者である。夜の沙漠において見渡す限りの大地が黒く物すごき死の姿である時、はるかなる地平線に現われた一二の「灯火」は、異常な強さをもって人間の世界を、生を、暖かいなつかしさを印象する。それは海を渡るとき地平線に島の灯火を見いだした場合よりもはるかに強い感動を人に与えるであろう。昔沙漠を渡り歩いた人間が、たとえばユダヤからヘリオポリスヘの長い苦しい旅のあとで、もはや都へは一日行程に過ぎないあたりの夜営地から、はるかに地平線に都の灯火を望み見た時の嬉しさというごときも(51)のは、ただ沙漠的人間のみの知るところである。
かく人間に属するものが単に「人間に属する」という理由のみによってすら人間に感動を与え得るとすれば、|自然的には見いだされぬもの、人間のみの作り得るもの〔付ごま圏点〕が沙漠において特に愛好せられるのは当然であろう。旅行者にとってはアラビアの町の印象がすでにそれを開示する。アデンの港を訪れた旅行者は港の左方の平原に海を超えて見ゆるアラビアの町を、あの突兀とした岩山にも劣らず驚異するに違いない。低い平原はほとんど陸とは思われぬほどの、細《ほそ》い茶褐色の水平線となって見えている。海の水平線と異なるところはただその色彩のみである。その茶褐色の線の途中に、ちょうど海に浮いている白鴎のように、小さい四角な建物の群れが日光に輝いている。その白い壁や角のある形は、三四マイルのかなたに小さく見えているにかかわらず、しかも人間の作ったもの、人工的なるものという印象を強烈に与える。生命なき自然のただ中に「人間のもの」が浮かんでいる、――それはほとんど白昼の|夢幻〔付ごま圏点〕である。それほど鮮やかに人間の町が周囲の自然に対立する。
何によってそうなるか。我々はそれを形と色とのみからでも解くことができる。この町を形作る形と色とは周囲の自然において全然見いだし得られぬものである。突兀とした山は徹頭徹尾偶然的な形であって、そこに何らの規則、あるいは目的を感ぜしめない。海や平沙は横に長い直線を示しはするが、それは極度に単調であり、また何のまとまりをも含まぬ。しかるに人間の家のみは、方形、長方形などの、幾何学的に規則立った、完結せる形をもってその中に浮ぶ。それはまさに|人間の作り出した形〔付ごま圏点〕である。しかも自然の持つ形を人間的に活かせたのでもなければ、また自然の形を克服して人間的に統一したのでもない。明らかに自然に対抗する他者を創作したのである。色についても同様のことが言える。土地は茶褐色であり、そこに住む駱駝のごとき動物も全然土と同色であるにかかわらず、人間の(52)作ったもののみが純粋な白色を示している。かくして人間はその自然への対抗を町の形に具現したのである。
この特性はそのままアラビア美術として結晶した。あの華麗なアラビア風の装飾模様がいかに著しく|人工的〔付ごま圏点〕であるか、あるいはまたあの簡素と力強さとを輪郭に現わしたモスクがいかに著しく夢幻的であり離自然的であるか、それを正しく理解せしめるものは、沙漠的人間の自然への対抗である。
我々はピラミッドの形をもこの立場から理解することができる。古代エジプトの人間は決して純粋な沙漠的人間ではないが、しかしピラミッド自身の位置がそれを示しているように、ピラミッドは沙漠との関係において生じたものである。ニルの河谷に外から襲いかかるかのごとき沙漠は、砂の彼の無限に続く起伏であり、何らの規則をも示さぬ偶然的なうねりに過ぎぬ。ニルの河谷の内部においても、この平野を支配するものはニル河のゆるく大きいうねりである。水や田畑の水平面も皆不規則な曲線を輪郭とし、何の秩序をも示しておらぬ。かかる不規則な、どこにもまとまりのない自然の内に、ただピラミッドのみはきわめて規則的な、完結せる三角形をもって、立体的に、大きくそびえているのである。従ってそれは周囲の自然が全然持たない形として、力強く人間の力を感じさせる。古代エジプト人はそれをもって沙漠に対抗したのである。だからピラミッドのあの単純な、抽象的な形は、それが|単純〔付ごま圏点〕であり|抽象的〔付ごま圏点〕であるがゆえに、人間の力の象徴として働き得たのであると見られねばならぬ。もとよりかかる形も、沙漠に対抗し得るがためには、一定の|量の大いさ〔付ごま圏点〕を必要とする。空漠たる砂の海に対立して人間の威力を現わし得るのはその|巨大さ〔付ごま圏点〕であって、形のみではない。しかしもしここに高塚式古墳のごとき|巨大な塚〔付ごま圏点〕が築かれたとするならば、たといそれがピラミッドの数倍の大きさであっても、それによって沙漠に対抗する人間を表現することはできなかったであろう。
が、さらに我々はピラミッドの与える不思議な印象をも見落としてはならぬ。ピラミッドは人間の芸術的作品とし(53)てあまりにも単純すぎる、と人は考えるかも知れない。しかしそれはそのあるがままの位置においては、優れたる作品にも劣らぬ隠秘を印象するのである。我々に現われるのは常にその部分であって、全体でない。我々は常に「陰に隠されたもの」に引かれる。かかる印象を我々はこれほど強く他の物からは受けない。物は通例我々にその一面のみを示すのであるが、しかし我々は必ずしも見えざる他の面に引かれはしない。特に芸術品において、たとえばミロのグィナスの一面を見る時に、他の面を隠されたるものとは感じない。しかるにピラミッドはその芸術的な無内容のゆえにかえって「隠されたるもの」を印象し得るのである。
かかる両様の印象から我々はピラミッドが沙漠的人間の表現として必然のものであることを理解する。人はこの単純な形を巨大なモニュメントの構造上の必然から解こうとするかも知れない。しかし沙漠に対抗してかかる巨大なモニュメントを作ろうとする意欲そのものがすでに沙漠的人間を示すのである。
がしかし、自然への対抗が最も顕著に現われているのはその生産の様式である。すなわち沙漠における遊牧である。人間は自然の恵みを待つのではなく、能動的に自然の内に攻め入って自然からわずかの獲物をもぎ取るのである。かかる自然への対抗は直ちに他の人間世界への対抗と結びつく。自然との戦いの半面は人間との戦いである。
かかる戦闘的生活様式は、遠い古代から回教の時代に至るまで常に沙漠的人間の特性であった。アラビアの半島に住む種々の族は、創世記の命名に従ってセム族と呼ばれているが、その包括するアラビア人、ヘブライ人、フェニキア人、アルメニア人などは、その性格や精神的特性において共通であり、言語もはなはだよく類似している。そうして、「このセム族のあらゆる精神的特質、その考え方、その宗教、その国家的制度などは、すべて|沙漠の民族の生活条(54)件から〔付ごま圏点〕説明せられる。」(E.Meyer,Geschichte des Altertums,I.2,S.3880.)それが戦闘的生活様式である。
まず社会組織としての部族(Stamm)がそれである。部族は紀元前千年の古代から、現代アラビアのベドゥイネンに至るまで、沙漠における共同社会の形式として存在し続けた。それは単に「原始的」であるのではなく、アラビアの土地と密接に関連せるものである。形式から言えば部族の共同社会は同一の祖先から出た|血族〔付ごま圏点〕であるとのイデーによって結合している。そこでは一人前の(すなわち戦い得る)男たちは、風習道徳法律などの固い掟の下に密接に結合し、|共同の生活〔付ごま圏点〕を営むのである。が、内容から言えばそれは|防護団体〔付ごま圏点〕である。血族のどの一員が危険に瀕しても、それを救け防ぎあるいは復讐するというのが、団体の各員の義務である。人間はこの相互の義務によって結合するとともに、またこの結合によって団体の利害が、従って個人の利害が防衛される。団体の所有に属し団体の生活の根本条件となっているある草原やある泉は、他の部族との戦闘を賭しても護られるのである。
かかる部族の生活はまさしく自然及び人間への対抗を反映したものである。人間は単にその個別態においてのみは生きることができぬ。部族の全体性が個別的なる生を初めて可能にする。従って全体への忠実、全体意志への|服従〔付ごま圏点〕は、沙漠的人間にとって不可欠である。が、それとともに全体的行動は人間の個別態における運命を左右する。部族の敗北は個人の死である。従って全体に属する各員はおのが力と勇気とを極度に発揮しなくてはならない。感情の温柔さを顧慮する暇のない不断の|意志の緊張〔付ごま圏点〕が、すなわち|戦闘的〔付ごま圏点〕態度が、沙漠的人間にとって不可欠である。ここにおいて沙漠的人間は、|服従的、戦闘的〔付ごま圏点〕の二重の性格を得る。それは人間の構造における特殊性であり、また人間の全体性の最も強く現わるる一つの様式である。
沙漠的人間はかくして社会的歴史的なる特殊性格を形成する。ここでは沙漠は社会的歴史的現実であって、単なる(55)土地ではない。だから人間は単なる土地としての沙漠を空間的の意味において去ることはできても、社会的歴史的現実としての沙漠を同じ意味において去ることはできない。ここを去るためには人間は社会的歴史的に他のものに|発展する〔付ごま圏点〕を要する。しかしかかる発展においても人間は過去を捨て去るのではなくして保存するのである。沙漠的人間が水に豊かな土地に定着して農業的人間に転化するとしても、それはあくまでも沙漠的人間の発展であって他のものではない。
我々はこれをイスラエルの族の歴史において見ることができるであろう。沙漠に遊牧せるこの族にとっては水に豊かなカナーンの地は楽園のごとくに見えた。だから永い激しい戦いによってこの土地を獲得し、そこに土着して農業を覚える。沙漠的生活の制限は破られ、人口は盛んに増加し始めた。部族は殖え、連盟は固まり、ついに王国が成立する。それはもはや沙漠的なる部族社会のごとき緊密なる統一を持った社会ではない。しかしながらイスラエルの族がその宗教を確定し、種々の宗教文芸を作り始めたのは、このカナーン土着以後である。そうしてこれらの文化産物に現われているものは、顕著なる沙漠的人間の性格にほかならぬ。人々は本来の部族社会を一つの民族として実現しようとした。部族の全体性を表現する神は民族の全体性を表現する神となった。が、この神への絶対|服従〔付ごま圏点〕と他民族(従って他の神)に対する|戦闘〔付ごま圏点〕とは、依然としてイスラエルの族の特性である。カナーンの風土は社会的文化的に種々の発展を引き起こしたが、しかし発展したのはあくまでも沙漠的人間であって農業的人間ではなかった。
人はさらに|離散せるユダヤ人〔付ごま圏点〕がいかにその沙漠的性格を持ち続けたかを忘れてはならない。離散はすでに紀元前数世紀から始まっている。緊密なる|教団組織〔付ごま圏点〕をヨーロッパ人に教えたものは離散せるユダヤ人である。人間の全体性の最も強く現わるる砂漠的なる団体様式は、今や宗教の名において超民族的なる実現を要求する。しかしかかる教団組(56)織を教えたユダヤ人自身はこの教団から閉め出され、あくまでもその民族的特性を維持している。これを維持せしめたものはヨーロッパ人の迫害である。しかしこの迫害を呼び起こしたものはユダヤ人自身である。しからば社会的歴史的現実としての沙漠は、ヨーロッパの美しい牧場のただ中においても、またその封建的、ブルジョア的というごとき歴史的発展を通じても、なおそれ自身を保持する必然性を持っていたと言わねばならぬ。のみならずその|服従的戦闘的〔付ごま圏点〕なる人間生活の様式は、かつてヨーロッパ人を魅了し去ったように、今やまた新しく現代人を魅了しようとしているのである。
が、沙漠の外に沙漠が延びたのは右の場合のみではない。かつてイスラエルの族が農業的人間に転化したころには、これを沙漠的人間の堕落として嘲笑する他の群れがあった。沙漠的人間の誇りは荒野の猛獣のように奔放なその自由である。彼らは生活の安易よりも生活の豪放を愛する。「壁にかくれ一人の君主に隷属する」土着的人間の卑怯さは、彼らの眼には最も浅ましいものに見えた。かかる気風はイスラムの初めになお充分に生きていたと言われている。そこでこの|服従的戦闘的〔付ごま圏点〕なる、従って特に|意志的〔付ごま圏点〕なる沙漠的人間が、再びまた農業地に降り来たって、開化せる諸国民を征服した。イスラムの世界征服がそれである。
沙漠的人間の世界支配は現代においてなお生きている世界の宗教を通観すれば明瞭になるであろう。インドに生じたものを除いて、キリスト教、ユダヤ教、フイフイ教等はすべて沙漠的人間の所産である。特に宗教として現在現実的に生きている点においては、フイフイ教が最も力強いと言ってよい。しかし歴史的に見れば、あの小さいイスラエルの族――その最盛期においても国土は長さ五十里、幅三十里乃至十五里に過ぎなかったあの民族――の歴史を、あたかも人類全体の歴史であるかのごとくに、ほとんど二千年の間ヨーロッパ人に思い込ませていたあの力ほどめざま(57)しいものはないであろう。沙漠的人間は他の多くの人間を教育した。それは沙漠的人間がその特性のゆえに他の人間よりも深く人間を目覚したからである。
沙漠的人間の功績は人類に|人格神〔付ごま圏点〕を与えたことにおいて絶頂に達する。この種の功績において沙漠的人間に拮抗し得るものは、人類に|人格的ならざる〔付ごま圏点〕絶対者を与えたインド人のみであろう。
しかしこの人格神も初めは|部族の神〔付ごま圏点〕にほかならなかった。部族の全体性の内には神的なる力が生きている、この力によって部族の存在と生育が可能になる、――この信仰が出発点であった。だから部族が多いごとく神の名も多い。ヤーヴェはただその一つであった。かかる神は人間とともに生き、食事をともにし、戦いをともにし、猟の獲物や戦利品を受ける。大きい祭儀においては人間は神に犠牲をささげ、そうしてその肉を部族的にともに食するのである。かかる犠牲食は部族の生活において人間の平和な共同態が常に新しく築かれて行く重大な契機であった。そこでは部族的なる人間の全体性と個別性との関係は|それとしては〔付ごま圏点〕自覚されておらぬ。しかし犠牲食を体験し、神と人との血縁関係を信ずるというそのことにおいて、まさにこの|全体性への帰属〔付ごま圏点〕を実践するのである。そこで早くから道徳が神の命令として現われる。神は人間に対して「豊かなる土地と子孫」とを、あるいは「敵を亡ぼし疾病をのぞくこと」を、すなわち物質的生活の安全と繁栄を約束する。しかしその代わりに人間に対して衛生的及び道徳的なる命令を守るべき義務を負わせるのである。このことは言い換えれば沙漠における生が部族の|全体性の自覚〔付ごま圏点〕(それが神の命令として現われる)においてのみ可能であることを示すと言えよう。しからば沙漠的人間にとってはかかる自覚は「生の窮迫を転脱すること」(Not-wenden)にほかならぬ。すなわち部族神は沙漠的人間にとって必然的(notwendig)である。
(58) 部族の全体性を神として感ずることは一般に原始宗教の特徴であって沙漠にのみ限らない。しかし部族生活が単に原始的たるに留まらず特に沙漠的生活の様式として意味を持つと同じく、部族神の信仰も沙漠生活の|必然性〔付ごま圏点〕によって他のいずれの場合よりも強烈である。その特異性が部族神を|人格神〔付ごま圏点〕たらしめた。神は「|自然と対抗する人間〔付ごま圏点〕」の全体性が自覚せられたものであり、従って自然の力の神化の痕跡を含んではいない。自然は神の|下に〔付ごま圏点〕立たねばならぬ。ギリシアの神々はこれに反して|外なる自然〔付ごま圏点〕の神化(たとえばゼウス、ポセイドン)、あるいは|内なる自然〔付ごま圏点〕の神化(たとえばアフロディテ、アポルローン)にほかならなかった。部族の全体性を表現する神々は神話の作られるころすでに「英雄」の地位に堕とされていた。密儀宗教の神々、たとえばミトラ、オシリスの類も、自然の力の神化であって人間の全体性の表現ではない。これらの神々の生まれた土地においては、多少ともに|自然の恵み〔付ごま圏点〕が著しかった。しかし沙漠においては自然は死である。生は人間の側《がわ》にのみ存する。従って神は人格神たらねばならぬ。
しかしかかる部族神の一たるヤーヴェがいかにして統一的な人格神となったか。伝説はモーゼの事業を語っている。モーゼを通じヤーヴェの神によってイスラエルの族が「部族」の中の大いなるものとなったのである。が、もし学者のいうようにイスラエルが一つの部族の名でなく|部族の連盟〔付ごま圏点〕の名であるとすれば、すなわちイスラエルがヤーヴェを戦神守護神とする戦闘連盟、宗教連盟であるとすれば(M,Weber,Religionssoziologie,V.S.90 ff.)ヤーヴェは伝説の初めよりすでに諸部族を統一しているのである。そうしてこの事は何らまれなる例ではない。最も力強く自覚せられた人格神は、同じ傾向の諸部族の神をおのれの内に摂取する。かくしてヤーヴェは一部族の神ではなく|沙漠的人間の神〔付ごま圏点〕となったのである。それはこの民族の苦難と多くの予言者の熱信とを通じて、ますます明らかな形に結晶して行った。しかしその結晶せる形は、さらに新しくギリシア風世界における一人の仲保者を通じて、沙漠を越えて広く人間のう(59)ちに入り込んだのである。そこでヤーヴェは一般に|人間の神〔付ごま圏点〕となる。それが沙漠を通じて現われたと否とにかかわらず、――あるいは人間のいかなる生産の仕方、いかなる生産関係がその地盤に存するかを問うことなく、――ヨーロッパの人間はその求めつつあった神がここに与えられたと信じたのである。もとよりここでは神は、キリストを通じて、愛の神に転化している。しかしそれにもかかわらずこの「人格神」は、沙漠的人間が沙漠的であるがゆえにのみ見いだし得たものである。
この人格神がいかに沙漠的であるかを顕著に示したのはモハメッドである。彼は当時のアラビアの偶像礼拝に反抗して「アブラハムの神」への信仰に帰ることを標榜したと言われる。しかし彼の革命は当時の部族生活と相反する立場でなされたのではない。(Goldzieher,Die Religion des Islams,Kultur d.Gegenwart,I,V.1.)人は昔と同じく部族の団結を離れては自然の脅威に対抗し得なかった。部族の全体性への「服従」は依然として沙漠の生の可能根拠である。モハメッドはこの全体性の表現たる「人格神」を新しく活気づけた。部族への服従を|神へのイスラム〔付ごま圏点〕(服従)として力説した。彼はその部族の内部において、かつてのモーゼのように、この「神へのイスラム」を実現し、その力によって他の部族に対する戦闘を始めたのである。彼が迫害と戦ったというのは、この昔ながらの部族間の戦闘を戦ったのであって、個人として戦ったのではない。彼は戦いに勝ち、「神への服従《イスラム》による他部族の征服――アラブ族の団結」を実現した。アラブ全体が一つの部族として「服従《イスラム》の統一に到達した。そこで服従的戦闘的なるアラブは、きわめて迅速に沙漠の外にいで、当時の文化世界のほとんど大部分を征服した。「アブラハムの神」はフイフイ教において服従的戦闘的なる沙漠的性格を露出したと言ってよい。
(60) 以上によって我々は沙漠的人間の構造を明らかにした。それは「乾燥」である。乾燥とは人と世界との対抗的戦闘的関係、従って人間の全体性への個人の絶対的服従の関係である。このことを我々は古代エジプトの人間との対照によって一層明白にすることができるであろう。
エジプトの風土は|乾燥と湿潤〔付ごま圏点〕との奇妙な二重性格を持つ。そこでは雨はきわめて少ない。カイロの雨量は日本の七十分の一と言われている。従って空気も極度に乾燥している。沙漠に包まれた細長い河谷――下流の広原においても幅八里をいでず、上流においては最広二里を越すことのない狭い谷――として茫漠たる沙漠の乾燥に従うのは当然である。にもかかわらずこのニルの河谷は、アフリカ大陸のはるかなる奥地より流れ来る水によって、豊かに潤される。畑にはさまざまの穀物野菜が旺盛に生い育ち、その間には南洋的な樹木が生い茂っている。その沃野の|緑色〔付ごま圏点〕は湿潤なる極東や南洋のそれと性質を同じくするものである。古来この地を地上の最も豊饒な土地としたことは、決して誇張でない。
かくしてエジプトの風土は雨なく湿気なき湿潤である。乾燥なる湿潤である。だから古代エジプトの人間は、|沙漠への対抗〔付ごま圏点〕とともに|ニル河への帰依〔付ごま圏点〕をその構造の特性とする。沙漠への対抗においてこの人間は沙漠的人間に似るかも知れない、しかし自然への帰依において沙漠的人間とは全然異なった人間となる。エジプトの人間にとってはニル河が沙漠における部族の全体性に代わるのである。ニルの水量を上流の貯水池によって人工的に調整している現在でさえ、増水が通例の高さより五尺低ければ、デルタ地方には恐るべき荒廃が起こるという。まして自然のままに放任した古代においては、エジプトの生はただニルの恵みにのみ頼った。だから古来のエジプトの文化は、ニルの増水に対(61)する|受動的な関心〔付ごま圏点〕を中核として、すなわち自然に対して征服的に働きかけるのではなくただ|受動的に観照すること〔付ごま圏点〕において、発達した。従ってエジプトの人間は、外に対しては意志的戦闘的であり得ても、その日常の生活においては|静観的感情的〔付ごま圏点〕である。沙漠において見ることのできぬ知力の発達と美感の精練とがここでは特性的となる。豊かな優しい感情に彩られた不死の信仰によって、人々は情愛の生の永続を願い、それを防腐薬についての鋭い知識によって、すなわちミイラとして、表現した。王子ラホテップと妃ノフレットとのあの美しい夫婦像においても、我々はこの愛情の永遠を欲する心のきわめて柔らかい表現と生ける人体及びその表情についての鋭い写実との結合を見る。かくのごとき心情の柔らかさと直視の明徹との結合は、エジプトの最も特性的なるものとして、ただ恵み深いニルへの帰依の心からのみ理解し得られるであろう。そうしてそれらはまさに沙漠的人間の欠如せるちょうどそのものなのである。
シュペングラーはいう、「自然」とは人格的な中味をもって底まで飽和された体験である。だから一般的な自然は存しない。ただギリシア的、アラビア的、ゲルマン的特殊自然があるのみであると。かくて彼は文化の根柢に|空間問題〔付ごま圏点〕を置こうとする。が、彼はこの「空間」を人間の存在の仕方としての生ける風土として捉え得なかった。だから「|物象〔付ごま圏点〕から引き離された|抽象〔付ごま圏点〕としての世界空間」によって西欧のファウスト的精神とアラビアの咒術的精神とを|ともに〔付ごま圏点〕説明しようとする。それはアラビア的自然とゲルマン的自然との根本的な相違を見のがしたものである。
エドゥアルド・マイヤーははるかに具体的に沙漠の民族を特性づけた。(一)|思惟の乾燥性〔付ごま圏点〕。沙漠の生活においては実際的な事物に関しての観察・判断が鋭い。しかし利害打算的であって、知的観照や感情的陶酔を許さぬ。沙漠においては静観と受動とは滅亡を意味する。(二)|意力の強固〔付ごま圏点〕。必要あるところには、いかなる成り行きをも恐れず、野獣的残(62)酷さをもって、顧慮なく突進する。商人としての成功もこの素質にもとづいている。(三)|道徳的傾向の強烈〔付ごま圏点〕。全体性に対する帰属が人を犠牲的ならしめ、恥を知らしめる。だから沙漠的人間はしばしば力強い理想家として現われた。多くの予言者、モハメッド、イスラムの諸人傑。しかしこれらの理想家にも(一)と(二)の特性は欠けてはおらぬ。(四)|感情生活の空疎〔付ごま圏点〕。心情の優しさ暖かさを欠如している。従って想像力の創造的な動きも少ない。文学は乾燥している。美術と哲学(ここでも想像力は必要である)は生まれなかった。
これらの特性は一言にして言えば|実際的意志的〔付ごま圏点〕である。それは「観照的感情的」の対蹠をなす。これ我々が沙漠的人間の存在の仕方として沙漠から理解したそのものである。ただ我々はこれを「沙漠に住む民族の|性質〔付ごま圏点〕」として捉えるのではない。具体的には、沙漠を引き離してこの種の民族が存するのではなく、また人間と独立な沙漠が自然として存するのでもない。これらの民族は根源的に沙漠的人間であり、沙漠は歴史的社会的現実である。民族の性質あるいは特性と言わるるものは、その本質においては、人間の|歴史的風土的に特殊なる〔付ごま圏点〕存在の仕方にほかならぬ。 (昭和三年稿、四年加筆)
三 牧場
一
ここに牧場というのは Wiese とか meadow とかの訳語である。しかしこの訳語は全然当たっていない。「まき」は「馬城」であって、牛込、馬籠《まごめ》などと同じく、家畜を囲い置くところである。しかるに Wiese は家畜の飼料たる草を生育せしめる土地であり、さらに一般的には草原である。がまた草原という日本語は Wiese のように家畜の飼養との(63)密接な関連を意味してはいない。Wiese に当たる言葉は日本にはないのである。そこで明治初期の飜訳者は家畜を思わせる牧場の語を取って草原を意味させるように用いた。この訳語例に今は従うのである。
Wiese に当たる言葉が日本にないということは Wiese というものが日本にないことを意味する。日本の草原は利用価値のない、捨てられた土地である。しかるに Wiese は、同じく草原でありながら、畑と同じ意味を持っている。畑が人間の食料を栽培する土地であるに対して、Wiese は家畜の飼料を栽培する土地である。畑が耕されるに対して Wiese は耕されはしない。しかし人がその土地を看護し、そこから栄養価値あるものを採取するという点は同様である。このような Wiese には自然的なものもあり人工的なものもあるが、それらはいつでも畑に直し得られる。人工的な Wiese は通例畑の輪耕の一段階である。ちょうど日本の麦畑がある年にれんげ草の畑となっているのに等しい。だから Wiese を直観的に想像しようと思えば、|
非常に広い〔付ごま圏点〕れんげ草の畑の花の咲く前の姿を思い浮かべればよい。もっとも Wiese の草はれんげ草畑のように一種類ではない。れんげ草のようなうまごやし系統の草のほかに日本でいう冬草の類が多数に混じている。恐らく十種類から二十種類ぐらいまで数え得られるであろう。しかしそれらは皆冬草のように柔らかい草で、その上に裸体で横たわることもできるのである。録の Wiese を絨毯にたとえて Wiesenteppich と呼ぶのも決して誇張ではない。だからそれが日本の芝生と異なることも明らかであろう。
自分はこのような gru※[ウムラウトあり]ne Wiese をかりに牧場と呼んで、それによって|ヨーロッパの風土の特徴〔付ごま圏点〕を言い現わそうとする。近代大工業の発祥の地であるヨーロッパを「緑の牧場」によって特性づけるのは一見不穏当に、あるいは多少感傷的に思われるかも知れない。しかし鉄や石炭や機械などの「冷徹な現実」としての工業も、実は緑の牧場の延長なのである。すなわち工場もまた「牧場的」なのである。一般にヨーロッパの人間と文化とがいかに「牧場的」である(64)か、それをここで考察してみようと思う。
自分にこのような考察の緒を与えた人は京都帝国大学農学部の大槻教授である。自分たちがモンスーン地方から沙漠地方を経て地中海に入り、古《いにしえ》のクレータの南方海上を過ぎて初めてイタリア南端の陸地を管見し得るに至った朝、まず我々を捕えたものはヨーロッパの「緑」であった。それはインドでもエジプトでも見ることのできなかった特殊な色調の緑である。ころはちょうど「シチリアの春」も終わりに近づいた三月の末で、ふくふくと伸びた麦や牧草が実に美しかった。が、最も自分を驚かせたのは、古《いにしえ》のマグナ・グレキアに続く山々の中腹、灰白の岩の点々と突き出ているあたりに、平地と同じように|緑の草〔付ごま圏点〕の生い育っていることであった。羊は岩山の上でも岩間の牧草を食うことができる。このような山の感じは自分には全然新しいものであった。この時に大槻教授は、「ヨーロッパには雑草がない」という驚くべき事実を教えてくれたのである。それは自分にはほとんど啓示に近いものであった。自分はそこからヨーロッパ的風土の特性をつかみ始めたのである。
二
我々の国土から出発して太陽と同じに東から西へ地球を回って行くと、まず初めにモンスーン地域の烈しい「湿潤」を体験し、次いで沙漠地域の徹底的な湿潤の否定すなわち「乾燥」を体験する。しかるにヨーロッパに至ればもはや湿潤でもなければ乾燥でもない。否、湿潤であるとともに乾燥なのである。数字的に言えば、アラビアの雨量が日本の数十分の一であるに対してヨーロッパの雨量は日本の六七分の一ないし三四分の一である。体験的に言えばそれは|湿潤と乾燥との稔合〔付ごま圏点〕である。
このような湿度の弁証法はもちろん歴史的発展の弁証法ではない。それはまず第一に|旅行者〔付ごま圏点〕の体験における弁証法(65)である。しかし湿潤はモンスーン地域における|人間〔付ごま圏点〕の体験として、一つの文化類型に己れを形成する。同様にまた乾燥も沙漠地方の|人間〔付ごま圏点〕の体験であり、沙漠的なる文化類型となって現われる。これらの文化類型は、相互に歴史的影響のあるなしにかかわらず、風土的類型による文化の対立として、世界文化の構造内に相連関せる契機となっている。しからば湿潤、乾燥、その総合というごとき弁証法は、世界文化の構造連関における弁証法であるとも言い得られるであろう。そうしてまたこの視点から文化史上の事象を解釈することをも許すであろう。たとえばユダヤ教を内に含むパウロのキリスト教がヨーロッパの世界に成長して行ったとき、沙漠的宗教としてのユダヤ教の乾燥性は否定せられながらも、予言者たちの道義的情熱はますます内的に生かされて行った。とともに、沙漠に見るを得ない「潤い」がヨーロッパ的キリスト教の特徴となり、愛の宗教としての優しみというごときものが力強く育てられて行く。マリア崇拝のごときは沙漠的であるよりもより多くモンスーン的であると言ってよい。このような乾きと潤いとの総合というごとき特性は、ただ歴史的な発展としてのみは説き尽くされぬであろう。それはヨーロッパ的人間の|性格〔付ごま圏点〕にもとづく、ということは主張し得られる、しかしその性格がヨーロッパ的であるということはまさにそれが風土的であるということにほかならない。
そこでヨーロッパの風土は湿潤と乾燥との総合として規定せられる。それはモンスーン地域のごとく暑熱がもたらす湿潤ではない。従って夏は乾燥期である。が、沙漠地域のごとく乾いてもいない。だから|冬は雨期〔付ごま圏点〕である。この特性は、南と北との著しい相違にもかかわらず、ヨーロッパを通じての特性である。南と北との相違はこの根本的特性の地盤において太陽の力の強弱、晴天と曇天との多少というごとき形に現われている。雨量においては大体同様であるにもかかわらず、太陽の光の豊かな南方は夏の乾燥の度烈しく冬の湿潤の度も高い。しかもその南方の冬はしばし(66)ば晴天に恵まれ、北方の冬はほとんど曇り勝ちである。かかる点から第二義的な意味においてヨーロッパの風土が南と北とに分かたれる。そうして南は文化史的に言ってまず初めにヨーロッパであった。だから我々もヨーロッパ的風土をまず南から考察し始めよう。
三
南ヨーロッパは地中海の国土である。ところでこの「地中海」なるものは、その名の示しているように、「三大陸地に囲まれた海」として地球上唯一のものである。ここでは海は大地を囲むものではなく、また陸は海に囲まれるものでもない。従って地中海は文化史上最も目ざましい舞台の一つであるのみならず、また海としても大洋と著しく異なった珍しいものなのである。まずその海水の温度は、大洋の影響を受けないために、非常に温かい。最も深いところでも十二三度ぐらいはあると言われている。潮の干満もきわめて少なく、新月満月などの高潮時においてさえも一般には〇・三メートル、最も多いヴェネチアでようやく一メートルに達するという。これらの現象はジブラルタルの海峡がきわめて狭く、海水の流動が自由でない上に、大洋を|西に〔付ごま圏点〕控えているという事実にももとづくであろう。なおそのほかに地中海にそそぐ河水と雨水の量がきわめて少なく、海水の蒸発を補い得ぬ程度であるということも、この海を特殊なものとする一つの契機であるらしい。
自分の直接に触れたところによると、この海は、三月にも、五月にも、また十二月にも、我々が平生海と思っているものと同じでなかった。それは漠然たる印象に過ぎぬが、しかし自分にとってはかなりに強く感ぜられたのである。自分がマルセーユからニース、モナコを経てジェノアのあたりを泊まって歩いたのは、十二月の半ばから正月へかけてであったが、このリヴィエラの海岸はいかにも南国らしい暖かさで、ところどころには東洋から移し植えたらしい(67)竹の姿も見られ、その他種々の熱帯植物も生い育っていた。そうして昼間は外套なしに散歩していても汗ばむほどであった。この南国の海岸が我々の南国の海とははなはだしく趣を異にしているのである。ニースやモナコあたりの海岸通りが見渡す限りコンクリートで立派に固めてあるから、それで感じが違ったのだとは思われない。この道に添った波打ちぎわの白い美しい砂が、今掃き清められたように一点の塵埃さえも交じえないで、長くはるかの彼方まで続いている、その砂の具合がどうも我々には妙らしく感ぜられるのである。我々の南国でも、冬の海となれば、波打ち際はきれいであるが、しかしもっと「潮」にぬれているという感じがあると思う。海から吹いて来る風でもそうである。ここでは潮風らしい感じのない乾いた風が吹いて来る。冬の海には夏ほどの磯の匂いがないとしても、しかし我々の海にはもう少し海の匂いがあると思う。自分にはとにかくこの「海の感じのない海」が珍しく感ぜられたので、透き徹った海の水をのぞいて回ったことがある。渚に近い海底や海底の岩には、どこにも植物らしいものが見えず、また貝類の付着しているらしい影も見えなかった。そういうものがここの海に全然生育していないとは考えられぬが、しかし自分の眼にはついに触れなかったのである。そのためにここの海水の色の透き徹った化学的着色らしい感じが特に強く自分の心に烙きついた。これを我々の南国の海の複雑な色調を持った水の色に比べると、とにかくはなはだしい相違が感ぜられる。ここでは冬の海に海女たちが潜り込んで行って岩から海苔を掻いてくる、栄螺《さざえ》を採って来る。寒海苔《かんのり》や栄螺の壺焼きを賞美する人たちは、都会の真冬の食卓においてさえ強烈な磯の香をかぐことができるであろう。が、そういう感じは地中海には全然ない。それは生き物のあまりいない、海草の繁茂しない海なのである。だから自分にはこの南国の海において沖に出漁している漁船を見たという記憶が一つもない。海はいつもひっそりとして、ただ一つの帆影さえもなく、荒漠たるものであった。我々の南国の冬の海のあの勇ましい鮪漁《まぐりりよう》や鰤漁《ぶりりよう》を知っている(68)ものにとっては、これは全く死の海である。
幾日かイタリアの海岸を回って歩いた時にも自分の受けた印象は同じであった。アマルフィへ海岸づたいの崖道を車を走らせながら見おろした海には、海草や貝類の姿も、また漁船の影も、見えなかった。シチリアの島を回っても同様である。島の東でも南でも北でも自分は漁船を見なかった。また渚では貝殻の付いた岩、何らかの植物の付着した岩を見なかった。陸から今海へ持ち込んだ岩と、海水に久しく浸っていた岩とは、我々の海では一目して区別のできるものであるが、しかしシチリアの海岸で波に洗われつつ隠見している岩は、今陸上から持ち込んだばかりの岩と同じように、何物も付着しないさらさらとした岩であった。我々にとっては湖水でさえもこんなものではない。
自分はこれだけを見てからやっと地中海が何であるかに気づき始めたのである。それは海ではあるかも知れぬが、しかし黒潮の流れている海とは同じものでない。黒潮の海には微生物から鯨に至るまで無限に多種類の生物が生きている。しかるに地中海は死の海と言ってよいほどに生物が少ない。黒潮の海は無限に|豊饒な海〔付ごま圏点〕であるが、地中海は|痩せ海〔付ごま圏点〕である。地中海が荒涼な印象を与えたことは決して偶然ではなかった。それはいわば海の沙漠である。そこには本来「海の幸《さち》」が乏しい。従って地中海沿岸地方に漁業や魚食や海草食が発達しなかったことはきわめて当然のことなのである。旅行者にとってはマルセーユやヴェネチアの魚料理は印象の強いものであるが、しかし|この二つの町のみが〔付ごま圏点〕地中海での例外であることを忘れてはならない。というのは、ヨーロッパから地中海へ流れ込む河らしい河は、マルセーユの傍のローヌ河とヴェネチアの傍のポー河とのみであり、そうしてこれらの河口に近い海のみが魚類にとって食物の豊かなところだからである。海とあれほど親しかったギリシア人が主として獣肉のみを食ったということは、右のごとく見れば理解しやすくなる。それに比べれば我々の海は黒潮に洗われるのみならずまた無数の河口から(69)不断に栄養物を受け取っている。だから我々の島国が一つの大きい魚床として世界に比類なき漁場となるのも無理はない。日本の漁船の数は、日本以外の世界じゅうの国々の漁船の総数に匹敵し、日本の漁夫の数は同じく世界じゅうの漁夫の総計よりも多いと言われる。このような漁業国が魚肉と海草とのゆえに獣肉を必需品としなかったのは当然である。
そこでこういうことが言われる。地中海は古来「交通路」であり、そうしてそれ以上の何ものでもなかった。山は距てるが海は結びつける、ということは地中海についてのみは正しいのである。それに此して我々の海は何よりもまず食物を獲る畑であって交通路ではなかった。それが最近に交通路としても用いられるようになったまでは、むしろこの島国を大陸から距てる「障壁」であった。だから我々の海の観念を直ちに地中海に当てはめてはならない。歴史の舞台としての地中海は我々の考えるような海ではない。地中海の航行に関してはすでに『オデュッセイア』が|きわめて精確な〔付ごま圏点〕知識を披瀝している。それほど地中海は航海に便なのである。島が多い。港湾が多い。霧などはなくて遠望がきく。七か月ぐらいは好天気がつづき、天体による方位の決定が容易である。風はきわめて規則正しく吹いている。陸風と海風との交代もきわめて規則正しい。だから地中海は海の民族にとっての子供部屋だと言われている。イタリアから南フランス、イスパニアに至るまでギリシアらしい風土を持つ沿岸地方に必ず植民地を作ったギリシア人にとっては、地中海は実際に交通路であった。ローマとカルタゴとの激しい折衝もこの海が交通路でなかったならば起こらなかったであろう。
このような地中海の性格は、それが「乾いた海」であるということと連関する。もし地中海が太平洋のごとき湿潤な海であり無数の生物を繁茂せしめ得たならば、沿岸地方の人々はあれほど動き回りはしなかったであろう。しかる(70)にそれは「乾いた海」であったがゆえに海の生物に食を与え得なかったのみならず、また島々や沿岸の土地をも痩せしめた。マルセーユの海の小さい島々は、ちょうどアラビアの南端アデンの山のように、一本の樹もない赤裸の岩塊である。海岸の山々もまたそれに近い。リヴィエラの海岸では平地には熱帯らしい植物が繁茂してはいるが、その背後に切り立った山々はやはり日本には見られないほど乾燥した岩山である。イタリアの半島では海ぞいに走る山脈は内部の山脈よりもはるかに禿げており、また一定の高さ(ほぼ三四百メートルであろうか)より上は必ず岩山になってしまう。だから一般に海岸は貿易町としてしか開けない。言いかえれば海岸は交通路に面しているという以外に特に海から恵まれるところがないのである。そうしてそれは海が|乾いている〔付ごま圏点〕ことに起因する。南に広漠たるサハラの沙漠、東にはまたアラビアの沙漠を控えたこの海は、海水の蒸発くらいで空気を潤すことができない。大西洋からの湿気はピレネー、アルプス、アトラスなどの諸山脈にさえぎられてしまう。だから|暑熱の季節〔付ごま圏点〕、すなわち海水の蒸発の最も盛んな季節が、沙漠の乾燥した空気によって最もよく湿気の中和させられる季節であり、従ってこの地方の|乾燥期〔付ごま圏点〕になる。地中海とは、夏の太陽が烙きつけている土地に雨を送ることのできない海なのである。
四
|夏の乾燥〔付ごま圏点〕――ここで我々は牧場的なるものに出逢うのである。ヨーロッパには雑草がない。それは夏が乾燥期だということにほかならぬ。雑草とは家畜にとって栄養価値のない、しかも繁殖力のきわめて旺盛な、従って牧草を駆逐する力を持った、種々の草の総称である。我々が「夏草」として知っているものはまさにこの雑草である。ところでそれが我々に「夏草」と呼ばれることによっても明らかなように、それは|暑熱と湿気〔付ごま圏点〕とを条件として繁茂する。路傍、土手、あき地、河原などに五月ごろ芽を出し始め、梅雨に養われ、七月に至れば見る見るうちに数尺にものびる。そ(71)れは実に根強い、頑強な、従って練兵場にでも繁茂し得る草である。耕地でも住宅地でも、もし一二年の間放置せられるならば、たちまちこの種の雑草に占拠せられ、荒蕪地に化してしまう。しかし雑草にこの旺盛な生活力を与えるものは|暑熱と湿気との結合〔付ごま圏点〕である。すなわち梅雨とそのあとの照り込みとである。しかるに|夏の乾燥〔付ごま圏点〕はちょうど必要な時にこの湿気を与えない。従って雑草は芽ばえることができない。
イタリアのように太陽の光の豊かなところで夏草が茂らない、それは全く不思議のようである。しかし事実はまさにその通りなのである。そのよき例はマレンメン(Maremmen)であろう。これは狭義にはピサとローマとの間の海岸地方を言うが、広義にはピサの北方よりナポリ近くまでの海岸全体をいう。その中にはローマ郊外の平野カムパニヤやローマの東南の海ぞいの平野 Paludi Pontine などの有名な荒燕地が含まれている。これらはすでにローマ時代から夏のマラリアで名高く、従って人間は山の上に退却し、平野には住む人がない。このように捨てられた土地は、日本でならばどうにも手のつけようのない荒地に化してしまうであろう。しかるにこれらの広い平野、湿地及び丘陵地は、決して雑草に占領せられてはいないのである。もちろん雑草が全然ないというのではない。細い、弱々しい姿の雑草が、きわめてまばらに生い育ってはいる。しかしそれらは柔らかい冬草を駆逐し得るほどに旺盛でもなく、またこの土地から牧場らしい面影を抹殺し去るほどに繁茂してもいない。十月から四五月までの間はこれらの土地も羊の放牧地として立派に役立つのである。言いかえれば人力を加えない捨てられた土地さえもここでは「牧場」である。
かくのごとく夏の乾燥は夏草を生育せしめない。草は主として冬草であり牧草である。ヨーロッパ大陸の|夏の野〔付ごま圏点〕を覆うものはかかる柔らかい冬草である。が、地中海地方のみは|冬草〔付ごま圏点〕を|夏の野〔付ごま圏点〕に見ることができぬ。五月の未になれば南フランスでもイタリアでも野の草が黄ばんで来る。ちょうど麦畑が黄ばむときに牧場もまた黄ばむのである。そこ(72)でイタリアの夏の山野は緑であるよりもむしろ黄褐色なのである。もちろん山にはオリーブの銀緑色があり、またあまり大きからぬ落葉樹もある。しかし山野の色の基調をなすものは、樹の少ないイタリアにあっては、まさに草の色である。だから山野は文字通りに夏枯れによって黄ばみ、それがまた緑になり始めるのは雨期の始まる十月ごろである。牧場は冬の進むにつれて再び美しい緑の色を回復する。それはちょうど我々にとっての麦畑の緑色と同様である。
ここに夏の乾燥に対する|冬の湿潤〔付ごま圏点〕の意義が見いだされるであろう。十月の雨はちょうど我々にとっての梅雨であるが、もちろん梅雨ほどに湿潤でなく、日本の春雨に似た雨が時々降るという程度に過ぎない。こういう静かな秋の雨に恵まれて|暑熱を必要としない〔付ごま圏点〕冬草の類が穏やかに芽ばえてくる。そうして驚くべきことには、野原にのみではなく、岩山の岩の間にさえもこういう柔らかい冬草が育つのである。旅行者に親しいマルセーユのノートルダムの丘やローマのティヴォリの山はその手近い例として引かれてよい。そこには白い石灰岩の|風化しない〔付ごま圏点〕固い肌が地面の六七分を占めるほどに点々として露出しており、そうしてその隙間を右のような柔らかい短い草が美しく埋めているのである。我々の国の岩山にはこれほど|荒れない〔付ごま圏点〕山の肌を持つものもなく、またその岩間にはえるものがあるとしても、それは頑強な茅の類かあるいは小松、つつじなどであって、決して冬草ではない。だから自分が初めて船からながめて驚いたヨーロッパの緑も、この白い石肌と交錯した冬草の色にほかならなかった。このように冬草は岩山にさえも育つ。いわんや土の山には豊かに繁茂する。あまり高くない小山であれば全山がことごとく麦や冬草に覆われているということもまれではない。シチリアの南部のごときは見渡す限りのゆるやかな山々がその頂上に至るまでことごとく緑草に覆われ、樹木とてはただ谷間の底の果樹のみであった。
このように夏の乾燥と冬の湿潤とは、雑草を駆逐して全土を牧場たらしめる。このことは農業労働の性格を規定せ(73)ずにはいない。日本の農業労働の核心をなすものは「草取り」である。雑草の駆除である。これを怠れば耕地はたちまち荒蕪地に変化する。のみならず草取りは特に「田の草取り」の形に現われている。それは日本における最も苦しい時期――従って日本の住宅様式を決定している時期、すなわち暑熱の最もはなはだしい土用のころに、ちょうどそのころを繁茂期とする根強い雑草と戦うことを意味する。この戦いを怠ることはほとんど農業労働の放擲に等しい。しかるにヨーロッパにおいては、|ちょうどこの雑草との戦いが不必要〔付ごま圏点〕なのである。土地は一度開墾せられればいつまでも|従順な土地〔付ごま圏点〕として人間に従っている。隙を見て自ら荒蕪地に転化するということがない。だから農業労働には|自然との戦いという契機が欠けている〔付ごま圏点〕。農人は耕した土地に小麦や牧草の種を蒔いてその成長を待っていればよい。日本のように土地が湿潤でないから麦畑に畦《うね》を作る必要もなく一面に草原のように麦をはえさせる。麦の間に他の草が混じるとしてもそれは麦よりも弱い、従って麦に駆逐せられる冬草である。このような麦畑は牧場と同じに手がかからない。また少し離れて見れば牧場と麦畑との区別はつかないのである。両者の区別が明白に現われるのは四月未から五月ごろででもあろうか。麦があからみ初めれば牧草は苅り取られて乾し草にせられる。やがて麦の収穫が来る。農業労働には防御の契機はなく、ただ攻勢的な耕作、播種、収穫のみがあると言ってよい。
が、それは夏の労働と冬の労働との此較ではないか、と人はいうかも知れない。確かにそうである。|主要食物を得るための労働〔付ごま圏点〕がちょうどそういうふうに異なっているのである。地中海地方の夏の労働は葡萄やオリーヴの栽培であって主要食物の耕作ではない。しかも果樹栽培は持久的なものであって稲の栽培のように急激なものではない。夏の乾燥期に入るころに葡萄が芽を出し蔓をのばし初める。農人はその花が咲き実が熟するのを待っていればよいのである。イタリアでは葡萄の収穫量はほとんど小麦に匹敵すると言われているが、しかしそのわりに労働は激しくないで(74)あろう。もっともこの場合には、雑草との戦いの代わりに|害虫との戦い〔付ごま圏点〕を戦わねばならぬ。しかし夏の乾燥は昆虫類にとって有利な条件でない。日本のように昆虫の多い国から見れば地中海沿岸といえども物さびしいくらいに虫が少ない。だから果樹園における|害虫との戦い〔付ごま圏点〕は平野におけるマラリアの蚊との戦いよりもはるかに軽易なのである。十数里にわたる平野が草地として放置せられている地方でも、山の麓から山腹へかけては豊沃な耕地となっている。たとえばローマ付近のアルバノの山やティヴォリの山がそれである。山の斜面は、冬の雨期にあっては静かな細雨に潤されて緑の美しい畑地となり、夏の乾燥期にはオリーヴや葡萄の繁る果樹園となる。そうしてアルバノやティヴォリの農人たちは、土地の甘い葡萄酒に酔い、むだ話に時を移すことを楽しむところのきわめてのどかな生活に浸っている。イタリア人が怠け者であるということは、一つは農業労働の安易にもとづくのである。そうして農業労働が安易であるということは、|自然が人間に対して従順である〔付ごま圏点〕ということにほかならない。
五
夏の乾燥、冬の湿潤、すなわち暑熱が湿気と結びつかないということからして、我々は|自然の従順〔付ごま圏点〕を見いだした。ところでこの自然の従順を一層露骨に示すものは、地上の草よりもむしろ|気象〔付ごま圏点〕である。暑熱と結合した湿気は大雨、洪水、暴風というごときいわゆる「自然の暴威」として己れを現わすが、湿気が暑熱を離れたところにはこのような現象はきわめてまれなのである。
地中海地方の雨量は日本の三四分の一であるが、その雨も冬の雨期に静かに大地を湿すのであって、土地を洗うように降るのではない。もし日本でのように暑熱の大洋において作られた多量の湿気が豪雨となって陸を襲うのであったならば、イタリアのあの斜面の耕地は決して安らかではあり得ない。頂上まで耕されたシチリアの小山は数回の豪(75)雨によって草の根を洗われ、それに続く暑熱によってその根を枯死させてしまうであろう。葡萄やオリーヴの畑も土壌を洗い流されて畑の資格を失うであろう。だからこれらの耕地が豊沃な耕地であることは、一に大雨豪雨が稀有であることにもとづいている。
大雨がいかに少ないかを示す直接の証拠は河の堤防である。大雨によって急激に増水する怖れのあるところには、堤防は高く頑丈《がんじよう》に築かれる。しかし自分はこの種の堤防をほとんど見たことがなかった。イタリア第一の大河たるポー河は、なるほどその下流においては堤防を持ってはいる。しかしアルプスの湖水から流れ出て水量の豊富をもって有名な大河としてはあまりにも貧弱な堤防であった。アルプスの雪解けがしばしば大増水を惹起するにもかかわらず、しかも堤防はこれでよいとせられているのである。自分がこの地方を旅行した三月は、晴天の日がまれにしかないほどの珍しい雨つづきであって、ポーの流域の洪水は新聞に大きく報道せられていた。しかるにその洪水の現場へ行って見ると、堤防いっぱいになみなみと充たされている河水は、きわめてゆるやかな、流れるとも見えぬほどの速度で流れている。そうして堤防の高さの少しく低いところへ来ると、これもきわめて静かに、ちょうど湧き出る泉の水が岩の縁を越して音もなく流れ出るような静かさでもって、堤防を超えて畑の中へ流れ出ている。畑や牧場の中の低地はこの水に浸されてちょうど大きい雨水のたまりのような感じになる。なるほどこれも洪水には違いない。浸水した畑や牧場は、排水の困難のために、全然荒らされてしまうであろう。しかし自分は思わず滑稽な感じに打たれて笑い出さざるを得なかった。我々にとっての洪水は、奔騰する濁流が堤防を突き破って耕作地に襲い入り荒れ回ることである。そのすさまじい感じはここには全然見られぬ。何十年来のまれな長雨の際の洪水がこれである。平年の穏やかさは推して知ることができるであろう。
(76) 風は一般にきわめて弱い。たまには、特に冬期に、サハラの沙漠からシロッコが吹いてくるというが、自分のいた百日あまりの間には一度もそれに逢わなかった。風の弱いことを明らかに示しているのは|樹木の形〔付ごま圏点〕である。それは植物学の標本のように端正で、従って規則正しい。特に著しく目につくのは笠形の松と鉛筆形の糸杉とであった。円く饅頭笠《まんじゆうがさ》式に整った松は、ただに公園においてのみならず、野原にも山の頂にも多数に見られる。ただ下枝を払ったのみでそのほかに人工を加えない松が、枝を四方へ平等にびろげ、小枝を均等に繁茂させ、その正しい笠形を垂直の幹によってささえている。松と言えば幹に必ずうねりがあり、枝が必ず傾いているのを見慣れている我々には、このシンメトリーの形がいかにも人工的に見える。糸杉の垂直に細長くのびた形も同様である。植木屋が丹念に手入れをでもしたかのように、小枝は網のごとく細かに分岐して緻密にしかも整然と外面を作っている。これらの目立つ樹のほかにも、日本の庭園で檜やひばに植木屋がつけるような規則正しい形が、さまざまの樹におのずからにしてついている。そこには植物学の説く通りの規則正しい枝の張り方が認められる。それは我々に|人工的〔付ごま圏点〕という感じを与えるのみならず、その規則正しい、理屈に合った形のゆえに、さらに著しく|合理的〔付ごま圏点〕であるという感じをも与える。しかし考えてみるとこのような形が人工的に思えるのは我々の国土の不規則な樹の形を見慣れているからである。規則正しい形は我々の国においてこそ人工的にしか作り出せないものであるが、しかしそれは植物にとって|自然的〔付ごま圏点〕な形なのであり、従って不規則な形こそ不自然なのである。そこでわが国においては|人工的〔付ごま圏点〕と|合理的〔付ごま圏点〕とが結びつきヨーロッパにおいては|自然的〔付ごま圏点〕と|合理的〔付ごま圏点〕とが結びつくということも言い得られる。ルネサンスのイタリアの絵に背景として描かれるシンメトリーの樹の姿はイタリアにおいては自然的ででありつつ合理的な印象を与えるが、桃山時代の襖絵に描かれるうねった樹の姿は日本において自然的でありつつ非合理的な統一を表現している。いずれも自然の生の体験から創作し(77)つつその現わすところが異なって来るのである。そうしてこのような区別が帰するところは風の強弱である。暴風の少ないところでは樹の形が合理的になる。すなわち|自然が暴威を振るわないところでは自然は合理的な姿に己れを現わして来る〔付ごま圏点〕。
自然が従順であることはかくして自然が合理的であることに連絡してくる。人は自然の中から容易に規則を見いだすことができる。そうしてこの規則に従って自然に臨むと、自然はますます従順になる。このことが人間をしてさらに自然の中に規則を探求せしめるのである。かく見ればヨーロッパの自然科学がまさしく牧場的風土の産物であることも容易に理解せられるであろう。
六
我々は牧場的なる風土の特性を|夏期の乾燥〔付ごま圏点〕から理解した。暑熱と絶縁せられた湿潤は、|明るい、従順な〔付ごま圏点〕、従って|合理的な〔付ごま圏点〕自然の姿となって現われる。イタリアの自然はその代表的なるものである。特に本来のイタリア、すなわち|アペニン山脈の南〔付ごま圏点〕において、この特性が著しい。しかるにこの本来のイタリアこそ現代のヨーロッパにとって真実の「発祥地」であり、従って「ヨーロッパ的なるもの」の揺籃の地であった。ここで自然が征服せられ、美しい牧場が出現したということは、やがて北欧の原野の森林が切り開かれ、そこにも同じような牧場が出現するゆえんとなったのである。他の言葉で言えば、この地で発展したラテン語がヨーロッパのすみずみにひろがり、この地で作られたローマ法がヨーロッパの国々の法律となった。
がしかし、このヨーロッパの「発祥地」は、それ自身ギリシアの教育によって初めてかかる発祥の地となり得たのであった。このことはイタリア半島のうち|本来のイタリアのみ〔付ごま圏点〕がギリシアの植民地の作られた地方であることによっ(78)ても明らかであろう。ギリシア人は不思議な直覚をもって特にギリシア的な性格を持つ土地にのみその町を植えて行ったのである。そうして彼らが町を植えたということがやがてローマ人を引きのばし成長せしめるゆえんとなった。言いかえればギリシア人が地中海沿岸にギリシア的風土を探し回ったがゆえにそういう風土が特に際立って表へ出ることになったのである。そこで我々は牧場的なる風土の根源をさらにさかのぼってギリシアに求めなくてはならぬ。そもそもギリシア的風土とは何であるか。
ギリシア半島――特に古い文化の舞台であるエーゲ海沿岸は、山脈の屏風によって西をふさがれ、細長いクレータの島によって南の海から遮断された特殊の区域である。だから乾燥の度はイタリアよりもはるかにはなはだしい。雨量はイタリアの半分だと言われる。空気はイタリアよりも一層澄み透っている。雨期である冬の日にさえも、「澄みわたる碧空、輝き透る天日」がギリシアの自然の特徴である。ギリシアがしばしば「真昼《まひる》」という言葉によって特性づけられ、また「ギリシアには陰がない」と言われるのは、空気が|湿気を含まない〔付ごま圏点〕ことから来るこの明るさのゆえである。従ってギリシアでは、雲の色、山の色、土の色、岩の色というごときものが実に鮮明に、調子を鈍らせられることなく、くっきりと現われてくる。潮の色は実に「澄徹」であり、野の緑も全く濁り気がない。明朗を特徴とするイタリアもこの点でははるかにギリシアに及ばない。
アティカに例を取って言えば、空気の|明朗〔付ごま圏点〕と|乾燥〔付ごま圏点〕とは次のごとき数字によって理解せられるであろう。すなわち一年の間に一七九日は好晴、一五七日は半晴、陰欝な日はわずかに二九日である。もし普通の意味で晴天という言葉を用いるならば、年に三百日は晴天であり、一日じゅう完全に曇る日は年に十日ぐらいだろうと言われる。これは冬の半年がほとんど陰鬱な日のみである北方のヨーロッパとは実に雲泥の相違である。『オデュッセイア』の描いている(79)冥界がきわめてよく冬の英国に似ていることは決して偶然ではない。ギリシア人がジブラルタルの海峡を出て英国に漂着したならば、実際にその陰欝を死の国のものとして感じたであろう。ギリシアでは陰欝な日は冬の雨期に集中している。しかしその雨期にギリシアを旅行した安倍能成氏の記録するところによると、二週間の滞在中に好晴七日、半晴三日、曇天三日、雨一日である。しかもその曇天三日の内、一日は、朝海を見渡したときに「潮の色が実に澄徹であった。」また他の一日は、「食後月が出た。」残りの一日は午後カフェーに雨宿りするほどの雨があって夕方晴れた。そうしてその夜から翌日へかけて微雨が降ったのである。曇天の内二日はかなり烈しい風がぼうぼうと吹いたという。恐らくシロッコが来たのであろう。これがギリシアの最も陰欝な時期なのである。従ってギリシアの最も陰欝な時期も、我々にとっての最も明朗な時期よりは、さらに一層明朗であるということができる。
このように晴天つづきであるということは、しかし、単調を意味するのではない。四季の変化はかなり顕著である。三月には美しい寿が始まって六月まで続き、六月半ばから九月半ばにかけては通例|雨の全然降らない〔付ごま圏点〕暑い夏になる。シロッコがサハラの沙漠から埃を吹き送って来る日を除けば、空は毎日一様に蒼く、烈日は照り輝き、大地は乾き上がる。従って草は枯れ泉も涸れる。しかし九月には爽やかな驟雨が来て美しい秋が始まり、草が再び録になり始める。十一月末から三月までは、南風が湿気をもたらす雨期である。牧場の草や畑の麦が青々と育つ。冬とは言っても日本の冬よりははるかに暖かく、むしろ日本の春に近い。麗しく晴れた小春日和の間にいくらかじめじめした寒い日が混じるのである。シロッコの吹く日などは冬がどこかへ飛んで行ってしまう。
これがギリシアの気候である。それは夏の烈しい乾燥のゆえに樹木の生育に適しない。草は枯れてもまた芽を出すが、山の樹木はそうは行かない。だから山は多く岩山で、「峨々」「崔嵬」というごとき言葉によって形容せられるよ(80)うな形をしている。樹木としては畑に作られたオリーヴのほかには時々松、柳、糸杉などがあるくらいである。そこで最も目立つものは冬草である。現在でも土地のほぼ三分の一は牧場だと言われているが、古代にはその四分の三まで牧場として用いられた、あるいは牧場としてしか用いられ得なかった。畑地は牧場よりもずっと少なく、小麦、葡萄、オリーヴ、無花果《いちじく》などの畑を合して牧場の半ばくらいであるという。ことに小麦は少なく、国内の需要を充たすに足らない。農業労働の主要なものは|牧畜と果樹作り〔付ごま圏点〕とである。従って農業は気象の不安定に脅やかされることなく、規則正しい季節の循環雨期の到来によって、あまり豊饒ではないがまたあまり乏しくもない農産物を此較的確実に生産し得る。
このことは風土が生活必需品の生産を|牧場的〔付ごま圏点〕に規定しているということを意味する。そこでは自然の恵みが|豊かでない〔付ごま圏点〕がゆえに、従って|自然に忍従して恵みを待つを要しない〔付ごま圏点〕。とともに自然に対抗して不断に戦闘的な態度を取らなくてはならないほど|自然が人を脅やかしもしない〔付ごま圏点〕。自然は一度人力の下にもたらされさえすれば、適度の看護によって、いつまでも|従順に人間に服従して〔付ごま圏点〕いる。この自然の従順がまず|生産〔付ごま圏点〕を牧場的たらしめるのである。
が、自然の従順はさらに|受用〔付ごま圏点〕をも牧場的たらしめる。人は牧場の柔らかい草の上で裸で嬉戯することができる。ということは、自然の刺激を全然開放的に受け容れてもほとんど危険らしい危険がなく、むしろ歓びのみを感じ得るということを意味する。だからギリシア風の衣服は自然に対して肉体を守るという趣の最も少ないものである。さらにギリシア人が裸体で競技し、また裸体像を彫刻の様式として作り出したということも、この連関において理解せられねばならぬ。しからば受用が牧瘍的であるということはやがて創作が牧場的であることであり、従って生活必需品のみならず文化産物もまた牧場的に規定せられることを意味する。
(81) そこで牧場的な文化はギリシアにその根源を持つということになる。しかもそれは特にギリシア的風土に規定せられて起こって来た。ギリシア的風土の特性は、前に言ったように、あくまでも明朗な、陰のない、「真昼」である。そこではすべてが露わに見える。湿気の多い空気の中では、晴朗な日にでも濃淡陰影があって、何らか「覆う」という感じから離れることができないが、ギリシア的明朗は覆うものなき明るさである。従って自然の内に「見えざるもの」「神秘的なるもの」「非合理的なるもの」を求めるという傾向が強まらない。もちろんギリシアにも「夜」はある。だからデメーテル崇拝に見られるような暗い半面も無視することができぬ。が、ギリシア的なるものとして特に世界史的意義を担っているのは、明朗なる真昼の精神である。そうしてギリシア人はギリシア的風土と同化することにおいてここまで己れを高めたのであった。彼らももとは自然のうちの「見えざるもの」「非合理的なるもの」に脅やかされ、自然に対してただ恵みを乞うていたのである。しかるに明朗なギリシア的自然が彼らの肉体となって来たとき、彼らはこの隠さない自然から「見ること」を教わった。自然はすべてを見せている。隠し事をしていない。ところで何事をも隠さない仲は最も親しい仲である。人間と自然とは睦み合う。自然との調和と言われるものがそこに成立する。かくして自然の内に合理的なる規則を見いだしつつ自然と融合するというごときギリシア的特性が生じたのである。だからギリシア的風土がギリシア精神の特性として己れを現わしたとき、ギリシア文化もまた初めて芽ばえて来たと言ってよい。
もとより我々は、人間存在から引き離した対象的な風土が、風土的性格を持たない精神に対して、右のごとき影響を与えたというのではない。風土は主体的には人間存在の契機として働いている。そうして人間存在のさまざまの契機がある時期に著しく発展し他の時期には下積みとなっているように、風土的契機もまた時には著しく働き時にはそ(82)の力を弱める。一つの文化がその独特な形成に達するというごとき時には風土的契機もまた特に著しく活躍するのである。だから現在の晴朗なギリシアに古《いにしえ》のごときギリシア的真昼がないということは、現代のギリシアに古《いにしえ》のごときギリシア文化がないというに等しい。それはギリシア文化が顕著に風土的性格を持つということの反駁とはならないのである。問題はむしろいかなる時期にいかなる仕方で風土的契機が活躍したかという点に存する。そこで我々はギリシア人が初めてギリシア人となった時期に眼を向けなくてはならない。
七
ギリシア的自然は従順であり明朗であり合理的である。しかしそれは初めよりギリシア的な「真昼」、ギリシア的な合理性として現われていたわけではなかった。人間が従順なる自然への|支配を自覚し〔付ごま圏点〕、自然の支配者として|己れ自身の生活〔付ごま圏点〕を形成し始めたとき、右のごとく風土的性格がギリシア精神の性格となったのである。この自覚はしばしば|自然の拘束からの人間の解放〔付ごま圏点〕と呼ばれている。しかし自然が暴威を振るうところでは人間の解放はこの仕方では起こらなかった。自然が従順であり、従って原始時代にすでに技術的な自然への支配が行なわれていたからこそ、自然を人間に隷属せしめるという仕方でこの自覚が起こったのである。だからギリシアにおける自然との調和は自然の人間化であり人間中心的な立場の創設であった。そこで自然からの解放は|自然との戦いからの解放〔付ごま圏点〕、従って、|人間の活動の激成〔付ごま圏点〕となった。人間の競争、従って権力欲や遊戯欲による人と人との摩擦、あるいは人間の創造力の挙揚、従って知識欲による理性の発展や創作欲による芸術の産出、それらがこの新しい立場のひき起こした新しい形勢なのである。では右のような自覚はいかにして起こったか。
ギリシア語を話す民族が北方よりギリシアの土地に入り込んで来たのは、古くは紀元前二千年までもさかのぼると(83)言われているが、しかし紀元前千二三百年ごろまでエーゲ海を支配していた文化はこの民族のものではない。彼らの移住は長期にわたる部族的な移動であって民族的な大集団の移動ではなかった。遊牧しつつ徐々に半島に浸透し、ある土地に居つけば農業や果樹栽培を覚える。そういう農牧民としての部族生活が半島に移ってからも何世紀かの間続けられていたのである。マレーやハリソンの語るところによればこれらの部族の宗教はなおトーテム崇拝の段階にあったらしい。しかし我々がギリシア民族として類型的に考えているのは、ポリスを形成し芸術の創作に長じた民族であって、右のような部族民ではない。従ってギリシア語を話す民族がギリシア半島に入り込んで来たというだけでは、まだ本来の意味のギリシア民族は成立しておらない。それが成立したのは前十四世紀に始まって数世紀の間続いた大移動の時代だと言われている。
従順な自然の中で平和な農牧の生活を送っていたはずのこれらの民族が、何ゆえに海へ乗り出し小アジアの海岸にまで移らねばならなかったか。ベロッホは|人口の増加〔付ごま圏点〕とギリシアの土地の豊饒でないこととを原因としてあげている。この時代の人口の増加というようなことは証明のしようのない問題ではあるが、しかしそうであったかも知れない。もしそうであるならば、それはまず部族と部族との間の争闘を引き起こしたはずである。土地は豊饒でないにしても、自然との戦いに専心しなくてはならないような荒々しい土地ではない。従って食糧の不足は他部族の牧畜を奪掠する方へ向けられねばならぬ。かくして始められた人間の争闘が漸次熾烈になって来たときに、初めて農牧の民を|海へ追いやる〔付ごま圏点〕という情勢が現われてくる。そうして海が生活の舞台となるとともに、原始的な農牧の民は己れを新しく作りかえることになるのである。ギリシアの中心はエーゲ海そのものであると言われるが、その事情はこの時に始まるのである。
(84) マレーやヴィラモーヴィッツの想像するところによると、海からの移住は何らか切迫した事情のために男たちがその女子供や家畜を捨てて小舟を漕ぎ出すというような事件に始まっているらしい。あるいは向こう見ずの冒険的な若者たちが進んで海へ乗り出して行くというようなこともあったかも知れない。いずれにしてもそれは集団的な移動ではなくして、いわば部族的共同態の「断片」が海にさまよい出たのである。そうしてこれらの「断片」は、必要に迫られておのずから「海賊」に転化する。彼らはいずれかの島、いずれかの沿岸を襲うて食糧を得なくてはならない。陸上の争闘は、食糧の不足にもとづくとしても、奪掠によってのみ生きる人々の争闘ではない。しかし一度海に出れば、奪掠のみが生存の基礎であり、従って生活全体が争闘になる。海への進出と戦士への転化とは同一事である。しかし右のごとき「断片」はそれ自身のみでは有力な戦闘を試みることができない。そこでそれらは他の部族の、ある時には他の種族の断片と連合し、豊饒な島や沿岸を襲い得るほどの戦闘団体を結成する。戦って勝てばその土地を占領し、家畜と女たちとを自分たちのものにする。そこで混血が起こり、異部族の祭儀の混合が行なわれ、古い伝統が残りなく破壊せられる。ここに昔の農牧の生活とは著しく異なった新しい生活が始まる。かつては彼らの家族生活は、「兄弟なる牡牛」が犠牲として殺されるとき、この牡牛の死のためにさめざめと泣くというふうな女たちによって守られていた。今や「力」によって新しい土地に臨んだ彼らは、異なった言葉、異なった祭儀の女を、しかも彼らがその夫や親を殺したところの女を、妻とするのである。その妻が、夫や親の仇である新しい夫に対してどんな復讐をするかも知れないという危険は、日夜彼らの生活につきまとう。また彼らはかつては自ら畜群を飼い、その畜群によって生きていた。今や彼らは「力」によって屈服せしめた土着人に労働せしめ、自らはただその成果を味わう。だから彼らの新しい仕事はその「力」を練って自らを守ることである。武器の製作、武術の練習が彼らの主要事になる。す(85)なわち武士の生活が始まったのである。
このようにして農牧の民が武士の団体に転化するとともに、ギリシアの「ポリス」もまた初めて形成せられた。部族を異にし祭儀を異にする若者たちが争闘や奪掠のために団体を結成したとき、この戦闘団体にとっては部族や祭儀の別よりも敵に対する共同防衛の方が重大事であった。彼らはある土地を占領するとともに要害の場所をえらんで石垣を囲らし共同の敵に備える。この中で人々はその背負って来た伝統を振りすてて新しく生活の共同を実現する。ここにポリスの生活、ポリスの祭儀が新しく始まったのである。だからポリスは海からの移住民を受けた小アジアの海岸において初めて作られ、またそこにおいてまっ先に発達したのであった。
「ポリス」が作られたときに「ギリシア」もまた始まったと言われる。それならば農牧の生活から武士の生活への転化がギリシアの開始なのである。そうしてそれを媒介したものは|海への進出〔付ごま圏点〕であった。海へ出るということは土地から離れること、従って農牧生活からの脱却である。人々はこの脱却によって|自然の拘束から己れを解放した〔付ごま圏点〕。このことは二重の意味を持っている。すなわち人々は自然を看護してそこから物資を得るという生活を捨て自由な海の交通路へ出たのみでなく、また衣食住の必需品のみを作るところの生活を超えて|生活自身のより高い形成〔付ごま圏点〕に向かったのである。最初農牧の民を海へ追いやった原因が食糧の不足であったかも知れないということは、ただ右のごとき運動の機縁を示すのみであって、この運動の意義を把捉せしめるに足らない。食糧を得るために人々が冒険、征服、権力などに向かったのであったとしても、やがて冒険、征服、権力などは食糧よりもはるかに重大な意義を持つものとして生活を支配し始めた。畜群を獲るために争闘が行なわれる場合、その畜群が生命を賭するに価する高貴なものだというのではない。|生命を賭するという活動そのもの〔付ごま圏点〕、それによる征服、及び被征服者に対する権力、それらがそれ自(86)身において貴いとせられるのである。この生活態度は実用的打算的な態度とは全然異なっている。それは命がけの仕事であるにかかわらずしかも遊戯の性格を失わない。『イリアス』に描かれた戦争がその最もよき証拠であろう。ここにギリシア人の性格の顕著な特徴としての|競闘の精神〔付ごま圏点〕が見られるのである。
競闘の精神は、ニイチェも説いたように、|争闘を是認する精神〔付ごま圏点〕である。ヘシオドスの歌うところによれば、地上にはふたりの争いの女神がある。びとりは悪しき戦いや争いを奨める「残虐なる者」である。人々は皆この女神を好まないが、しかし必要に迫られればそれに服せざるを得ぬ。他のひとりは人間にとってはるかに善い神である。ゼウスはこれを大地の根元に据えた。この女神のゆえに、技拙き者もその仕事に精進する。財なき者は富める者を見て我れも同じく種蒔き植え家を斉えんといそしみ、隣人は互いに幸いを得んと競う。瓶作りは他の瓶作りを、大工は他の大工を、歌い手は他の歌い手を、あるいは恨みあるいは嫉む。かかる競争嫉妬をひき起こす女神をヘシオドスは善き神として讃えたのである。残虐なる戦いは単なる破壊として斥けらるべきであるが、しかし競争は人をより高きものの創造へ追いやる。争闘による創造、それが競闘の精神であった。だからギリシア人にとっては、自ら優らんとする努力を刺激する限り、嫉妬は悪徳ではなかった。名誉心も同様である。彼らは他と等しいことを忌み、常にそれを超えようと努める。だから人が偉大であればあるはど、また気高ければ気高いほど、それだけまた名誉心も強く、努力も大きい。これがギリシアに多くの天才人を生んだゆえんである。とともにまたこれが一般に専制を忌むゆえんともなる。ヘルモドロスを追放した際にエペソ人は言った、我々の間では何人も最上者であってはならない、もし何人かが最上の者に成り上がってくれば彼はどこか他の所へ行かなくてはならぬ、と。すなわち最上者の固定は競闘の否定であり、従ってポリスの生活の永遠の根源を涸らすことになる。いかなる天才者も一人で支配してはならない。一人の(87)天才者が現われれば直ちに第二の天才者が欲求せられる。もしこの競闘の精神が失われたならば、あとにはただ憎悪の残酷さや破壊の喜びのみが残るであろう。
かくのごとくギリシア人の創造は競闘の精神にもとづいている。そうして競闘の精神は農牧生活からの解放、従って物資生産のための奴隷の使用を前提とする。自然が従順であるのみならず自然を看護する人間の奴隷的従順があってこそ、競闘に生きる少数の武士の、言いかえればギリシア市民の、生活が可能なのである。自然が峻厳であるところでは、遊牧の民は決して他の民族の支配に甘んずるものではない。イスラエルの民はその永い奴隷的な境遇にもかかわらずついに奴隷化することがなかった。しかるにギリシアの奴隷は、家畜と同じように「生きた道具」として取り扱われている。だからまた逆に「牡牛は貧乏人にとっての奴隷である」と言われるのである。奴隷の生活を形成するものは労働と罰と食物とであって、原理的には畑を鋤く牡牛と異なるものではない。ギリシアのポリスの形成は他面においてかくまでも徹底した奴隷を作り出した。そうしてそれはポリスを形成した少数の人々――すなわちギリシアの市民――が農牧の生活から自己を解放したということにほかならない。
そこで我々はいうことができる、牧場はその否定を通じて特に人間的な創造活動に進展したと。緑の美しい牧場、すなわち従順な自然は、一方において人間の生に没頭する競闘の立場を作り出すとともに、他方において人間を自然の中へ押し戻してしまった。人間はここで神々のごとく生きる市民と家畜のごとく生きる奴隷とに分裂する。このように徹底した分裂は、地中海の古代世界を除いては、恐らく世界のどこにも起こらなかったであろう。ただわずかに近世の北アメリカにおける黒人奴隷の現象がこれと相似ているかも知れぬが、しかし黒人奴隷は古代の奴隷の観念に従ってヨーロッパ人が作り出したものであって、いわばギリシアの奴隷のコピーに過ぎない。自然の威力や恩恵が人(88)間の上にのしかかっているところでは、人間はかくまで徹底的に分裂することはできなかった。そうしてこの徹底的な分裂の上にのみギリシアのあの華やかな文化は創造せられ得たのである。ギリシアにおける自然との調和、人間中心的な立場の創設、というごときことも、奴隷を使役する少数のギリシア市民について言われるのであることを忘れてはならない。ベェクによればアテーナイの盛時の人口五十万に対して市民は二万一千人であった。かくも多数な奴隷を家畜のごとく従順ならしめたところにギリシアのポリスの特殊な意義がある。
八
ギリシア人は以上のごとくにして己れをギリシア人に作り上げた。だからギリシア人の出現はギリシア的風土と離すことができないのである。というよりも、ギリシア人がギリシア人になるに従ってギリシア的風土もまたギリシア的風土として己れを現わして来たと言うぺきであろう。ギリシアのポリスが作られたということは、奴隷が作り出されて市民が衣食住の必需に対する労働から解放せられたということである。そこで市民は右のごとき労働からの|一定の距たり〔付ごま圏点〕において「ながめる」立場、「観る」立場に立つことができる。しかるにギリシア市民は市民となったときすでに競闘の精神に充たされている。従って「観る」立場は活動なき停止ではなくして|観ることを競う立場〔付ごま圏点〕である。ここにおいて芸術的及び知的の創造が旺然として起こらざるを得ない。
自分はかつて津田青楓画伯が初心者に素描を教える言葉を聞いたことがある。画伯は石膏の首を指さしながら言った、諸君はあれを描くのだなどと思うと大間違いだぞ、観るのだ、見つめるのだ。見つめている内《うち》にいろんな物が見えて来る。こんな微妙な影があったかと自分で驚くほど、いくらでも新しいものが見えて来る。それをあくまでも見入って行くうちに手がおのずから動き出して来るのだ。――この言葉は恐らく画伯自身が理解していたよりも一層重(89)大な意味を含んでいるであろう。「観る」とはすでに一定しているものを映すことではない。無限に新しいものを見いだして行くことである。だから観ることは直ちに創造に連なる。しかしそのためにはまず|純粋に観る立場〔付ごま圏点〕に立ち得なくてはならない。単に|手段として〔付ごま圏点〕観るのならば、目的に限定せられた範囲以上に観る働きは進展しない。観の無限の発展は手段的性格からの解放、従って観の自己目的性を前提とする。ギリシアの市民はちょうどこの立場に立って、互いに観ることを競ったのである。
そこでギリシア的風土がその無限の意義を発揮する好機の到来となる。ギリシア人はあの明朗な、陰のない自然を観た。そこにはあらゆる物の「形」が此類なく鮮やかにながめられる。しかもその観は互いに競うことにおいて無限に発展する。それは対象的なる自然が無限に精細に観察せられたということではなくして、実は観るところの主体が観ることにおいて自ら発展したことにほかならない。だから明朗なる自然をながめる立場は直ちに|明朗なる主体的存在〔付ごま圏点〕を発展せしめたのである。そうしてそれが明朗なる「形」として、あるいは彫刻や建築に、あるいはイデアの思想に、表現せられたのであった。
かかる視点からして我々は、ある意味でヨーロッパの運命を決定しているギリシア文化の特性を理解し得るかと思う。ギリシア人が観の立場に立ったからといって彼らは一切の労働をやめたわけではない。かえって彼らはこの立場において新しい職業を、すなわち|純粋に人工的〔付ごま圏点〕な物資の生産を始めたのである。自然を看護する農牧の仕事は、自然に人工を加えるとはいっても、むしろ自然の生産に随順することであった。しかるに「形」を見るギリシア人は自然の素材にこの「形」を印刻するという仕事を始める。すなわち人工的な工芸品の製作がギリシア人にとっての労働となる。武器やその他の金属製の道具、織物、瓶などの製作は、前七世紀のころよりイオニアの諸都市に旺然として起(90)こり、アティカやアルゴリスにも広まった。これには地中海沿岸がギリシア人の勢力範囲となり、新しい植民地における需要が高まったという理由もあるであろう。しかし一層重大な理由は、人工的に形を印刻するための材料、すなわち無生物に対する支配が発展したということである。優れた陶土や銅鉱や鉄鉱は一度眼の開いた者には豊富に見いだされて来る。海には染料として貴い紫貝がある。牧場からは羊毛が絶えず生産せられている。これらの素材を知的及び芸術的に「形」づけること、それが今やギリシア人の関心を支配し始めたのである。「形」を観るギリシア人がその形を素材に印刻するという活動は、最も単純には|ギリシアの瓶〔付ごま圏点〕の製作に見られる。これがいかに盛大な産業であったかは、イタリアで発掘せられたギリシアの瓶の驚くべき数量によっても察せられるであろう。それに次ぐものは金属に形をつけることである。冶金術は初めイオニアの島に栄え、前六世紀には鉄の鍛接や鋳銅の術をギリシア本土に伝えるに至った。染織工業もミレトスを中心として盛んになり、そこで染められた織物は前六世紀にすでにイタリアの市場をまで支配していたと言われている。かかる製造工業は競闘の精神に煽られてあらゆる都市に栄え始めた。市民は手工業者に転化し、その技術を子に伝える。古典時代のかなり遅くまで、ほとんどすべての|彫刻家〔付ごま圏点〕はかかる手工業者の家から出たのであった。ソクラテスさえもそうである。しかしそれでもまだ手の足りないほど需要は多かった。だからこれらの工芸はさらに奴隷の使用、外国からの労働力の輸入によって発展することになる。もちろんこれには海外貿易の隆盛が伴なうのである。かくしてポリスの生活はますます|人工的技術的な仕事〔付ごま圏点〕を中心とし、それによって地中海を支配するに至った。この生活様式が特に「西洋的」としてヨー口ッパの運命を定める有力な契機となっているのである。
観る立場は以上のごとくギリシア人の生産の仕方をさえ決定している。いわんやそれが特に観照的な学問の特徴と(91)なるのは当然であろう。アリストテレスは言っている。人は本来知ることを欲するものであるが、その証拠の一として|感覚を喜ぶ〔付ごま圏点〕ということをあげることができる。感覚が何かのために役立つというばかりでない、感覚をそれ自身のために喜ぶ、中でも|視覚を喜ぶ〔付ごま圏点〕。すなわち行為するために見るというだけではなくして、行為を全然考えない時でも「|見る」ということ〔付ごま圏点〕それ自身が何よりもありがたいのである。これは「見ること」が他のあらゆる感覚に優ってものを知らしめ、ものの区別を明らかにするからである。このアリストテレスの言葉は一挙にして「見ること」と「知ること」との実践に対する優位を言い現わしている。感覚を喜ぶというギリシア人の特性さえもが、感覚的欲望の充足としてではなく、まさに「見ること」として把捉せられているのであるのみならず、彼は見ることから学問への発展を説くに当たって、前述のごとき「技術」に重大な役目を与える。技術はすでに真の知識なのである。それは経験を通じて得られた普遍的判断であって、すでに原因を知っている。学問はただ技術の純化にほかならない。このような技術の重視は、個人意識から出発して学問を考えるようになったとき、おのずから考察の外に押し出されてしまったが、ギリシア人にとっては本質的なものなのである。このことはまた技術が|観る立場の発展〔付ごま圏点〕であって実用の地盤から出たものでないことを意味する。だからアリストテレスは言っている。初め普通の知覚を超えた|技術〔付ごま圏点〕を発明したものは、人々から嘆賞せられた。しかしそれは発明が有用であったからのみではなく、その人が他の人々よりも大層賢く、優れていると思われたからである。その後多くの技術が発明され、そのある者は生活の必要を、他の者は生の喜びを目ざしていたが、後者はその知識が有用を目ざしていないという理由で、常に前者よりも賢いとせられた。だから最後に、人間が閑暇を持ち始めたところにおいて、|生の必要や生の喜びを目ざさない〔付ごま圏点〕学問が見いだされたのである。この見解は技術における観る立場をさらに発展せしめて純粋な観の立場すなわち theo※[長音記号あり]ria の立場に達することを説いて(92)いると言ってよい。かかる theo※[長音記号あり] の立場は沙漠地方やモンスーン地方においては決して作り出されはしなかった。
ところで観る立場の発展は観らるるものにおいてその中昧を獲得する。あくまでも明るい、見えぬもののない、そうして規則正しいギリシアの自然が、ここでは見る立場の中味になる。自然はすべてを露出している、そうしてそこには一定の秩序がある、この考えは自然哲学者を支配していたとともにまた芸術家を動かす力でもあった。ギリシア彫刻の最も著しい特徴は、その表面が、|内に何物かを包める面としてでなく、内なるものをことごとく露わにせるものとして〔付ごま圏点〕、作られていることである。従って面は|横に〔付ごま圏点〕広がったものではなくして看者の方へ|縦に〔付ごま圏点〕凹凸をなすものと言うことができる。面のどの部分どの点も内なる生命の露出の尖端として活発に看者に向かって来る。だから我々は、ただ表面を見るだけであるにかかわらず単に表面だけを見たとは感じない。我々は|外面〔付ごま圏点〕において|内面〔付ごま圏点〕を見つくすのである。彫刻家はそれを微妙な鑿の触れ方によって成し遂げている。たとえばパルテノンのフリーズの浮き彫りにおいては、衣文を刻んだ鑿のあとはまだまざまざと残っている。それは彫り凹めた跡であって決して滑らかな面を作ろうとした跡ではない。しかもそれによって柔らかい毛織物の感触は実に鮮やかに現われている。肉体の肌にはそれほど荒い鑿のあとは残されていないが、しかし肌のおのおのの点は鑿がそこまで彫り凹めたという感じをなお鮮やかに保っている。それは決して横にすべる面ではない。そうして毛織物の感触とは全然異なった生ける肌の感じを実に鋭く現わしている。このような微妙な面の感じはローマ時代の模作にはほとんど見ることができない。そこには横にすべる面のみが作られている。従って外面と内部とが離れてしまう。しかも様式そのものは外面によってそれの他者たる内的精神を表現するという立場に達していない。だからこれらの模作の与える印象ははなはだしく空虚なのである。しかしこのような空虚な模作によってもなお伝える事のできる一つの顕著な特性がある。それは|人体における規則正(93)しい〔付ごま圏点〕「比例」である。ギリシアの彫刻はすでにフィディアス以前からピタゴラス学派の数の論と密接な関係を持っていた。比例は彫刻家の重大な関心事の一つである。すなわち自然の秩序正しさは芸術家の観る立場の中で発展した。ここにギリシアの芸術の|合理性〔付ごま圏点〕がある。そうしてかく|技術において〔付ごま圏点〕把捉せられた合理性からして数学的学問が発展し出でたのである。だからギリシアにおいては、幾何学の知識が芸術を幾何学的な規則正しさに導いたのではなく、幾何学が成立する以前にすでに芸術家が幾何学的な比例を見いだしていたのであった。
このような合理性は、自然が予料し難いものを内に隠して不規則的に現われてくる地方においては、容易に見いだされ得ないものであった。そこでは植物や山野の形が不規則的であるのみならず、人体もまた均斉や比例を示していない。だから芸術家はギリシアにおけるごとく作品の統一を規則正しい形や比例に求めることができぬ。それに代わるものはいわば「気合い」の統一である。それは予測の許されない、非合理的な、従って「運」に支配された統一であり、従ってそこから法則を見いだすことは困難である。|気合いによる技術〔付ごま圏点〕が学問に発展しなかったゆえんはそこにある。
我々ほ芸術や学問におけるギリシアの合理性がヨーロッパの運命を支配した第二の重大な契機であると考える。それはギリシアの|人工的技術的〔付ごま圏点〕な傾向から生まれた。しかし人工的技術的な傾向がどこでも合理性を産むというわけではない。それはギリシア的風土においてこそ可能であったのである。我々は|ギリシアの学問や芸術の特に優れている点が合理性にあるとは思わない〔付ごま圏点〕。むしろそれは外が内であるところの明朗な表現性に見らるべきであろう。しかしかくも優れた学問や芸術が特に合理的性格をもって作られたということによって、合理性はそれ自身の発展を始めたのである。前にローマの模作が原作の芸術的優秀性を伝えずしてその合理性をのみ伝えたことを言った。これは芸術の(94)みならず一般の文化について言えることである。ローマ人の最も大きい業績は法律による生活の合理化であった。ギリシアの合理性はローマ人を通じてヨーロッパの運命を支配するのである。
九
ギリシア人が初めて己れをギリシア人に仕上げたときには、無数のポリスが相並んで作られた。しかるにローマ人が初めて己れをローマ人に仕上げたときには、|ただ一つ〔付ごま圏点〕、ローマというボリスが作り出されたのみである。この相違は何を意味するであろうか。
ローマがハンニバルの遠征に堪えカルタゴに打ち克ったとき、ローマの世界支配の道は開かれたのであった。だからハンニバル戦争は、古代史における決定的な岐路《クリシス》であったと言ってよい。ベロッホはそれについて言っている。この岐れ路は、世界がフェニキア的になるかラテン的になるかという意味で危機だったのではない。たといハンニバルが勝利を得たとしても、セム人のカルタゴが世界支配を始めるということはなかったであろう。なぜならカルタゴは|異邦人の傭兵〔付ごま圏点〕でもって戦っていたのである。半世紀に近いこの衝突の初期にローマ人は実にみじめな戦争をしなければならなかった。が、それはローマの兵士が優秀でなかったからではなく、用兵の術を知らない政治家が代わり合って指揮していたからなのである。ハンニバルが攻め込んで来てからでも、彼の勝利の重な理由はローマ軍の司令官の無能に帰せられる。たとえばフラミニウスやヴァロのような、弁舌のうまいデマゴーグに過ぎない人たちが司令官となっていたからである。それに反してカルタゴの方は軍令が政治によって煩わされることはなかった。司令官は永い間用兵の修練を積んだ専門家であった。だからイタリアに攻め込んだハンニバルも、その傭兵の組織の仕方や騎兵の訓練の仕方、さらにはその戦略などにおいてやすやすとローマ軍に打ち克ったのである。が、戦いの技術はうまくて(95)も傭兵は結局傭兵である。ハンニバルの軍隊には一路ローマに突進して行く気魄がなかった。だからカルタゴの敗北の結局の原因は傭兵ということに帰着する。ではなぜ傭兵を使わねばならなかったか。それは一つは人口が少なかったからであり、一つはフェニキア人が本質的に商人だったからである。ハンニバルがスペインから優勢な軍隊を連れ出すことができたのは、スペインの土人が戦争好きだったのと、その土地の豊富な銀鉱をカルタゴ人が利用し得たことによっている。だからハンニバルが勝利を得、カルタゴが地中海を制し得たとしても、ローマ人のように|政治的に支配する〔付ごま圏点〕ことには手をつけなかったであろう。そうすればギリシア人は依然としてギリシア国家を営み続けたであろうし、イタリアのエトルスキもまた独立の国として発展したであろう。|地中海沿岸はさまざまの民族のさまざまの文化が競うて発展する舞台になる〔付ごま圏点〕。ローマの世界征服がもたらしたような文化の頽廃は恐らく起こらなかったに相違ない。たとい起こったとしてもよほどそれを遅らせることができたであろう。しかるにローマの勝利はローマ人を地中海の独裁者にしてしまった。この後彼らは手の届く限りの国土をローマのポリスの中に取り入れる。文化の特殊的な発展が阻止せられて、空虚な普遍性がこの時から栄え始めるのである。
このことはヨーロッパの運命にとってはまことに大事件であった。だからハンニバル戦争は実際に世界史的な危機・岐路であったのである。人はあるいはアレキサンドロス大王の世界帝国の理念がすでにそれを示しているではないかと言うかも知れぬ。しかしこの大王の世界支配はギリシア精神にもとるものとして、たとえばデモステネスのごとき人によって力強く反対せられたものであった。また事実上ギリシア人はそれを持続しては行かなかった。大王の死後には東はバクトリア、西はエジプトやシリアにそれぞれ独立の国家が形成せられている。ギリシア文化の地方的な特殊的発展はようやく緒につきかけていたのである。だからもしローマ人がカルタゴに敗北していたならば、地中(96)海沿岸が一つのポリスに統一せられるというようなことは、恐らく起こらなかったであろう。
と言ってもアレキサンドロス大王の仕事とローマの勃興との間に何らの意味の連関もないというのではない。不思議にもこの二つの現象はちょうど時を同じゅうして起こったのである。すなわちローマ人がその狭い|国土の限界を超えて〔付ごま圏点〕初めてサムニウム人と衝突したのは、マケドニアの勃興と同時であった。もちろんそれまでにローマは原始的な部族から八千平方キロメートルの領土を有する国家にまで発展して来ている。その間に三世紀以上の年月もたっており、ポリスの組織にも変遷があった。が、それはローマ付近の平野と山地における小さい部族間の結合の歴史に過ぎぬのである。しかるにこの時にローマは|国外への〔付ごま圏点〕発展というべきものの第一歩を踏み出したのであった。そうしてその「統一的国家」としての優勢を利用してまもなくナポリ湾まで領土を広めた。そこで、五十万の人口と一万二千平方キロメートルの国土を有する新興の国家として初めてギリシアの植民地との抗争関係に入り込んで行ったのが、ちょうどアレキサンドロス大王の東方遠征のころであった。
このローマの歴史において我々の注意を特に刺激する点は、初めに言ったように、ギリシアのポリスがもともと|多元的〔付ごま圏点〕に発展しているのに対して、ローマのポリスが初めより|統一的〔付ごま圏点〕な傾向を有することである。それはティベル河の傍の小さな部落を核として、徐々に増大し展開して行く。だから最古のローマの町であるパラティンの丘はすでに前六世紀には狭すぎて来た。付近の丘やティベルとの間の平地が家に覆われ城壁に囲まれてくる。そこで「七つの丘の町」が成立する。やがて町は国家の増大につれてこの限界をも超えて拡大して行く。そうして前述のようにローマがその|国外への進出〔付ごま圏点〕を始めたちょうどその時期に、アピウス・クラウディウスが|最初の水道〔付ごま圏点〕をローマヘ引いたのである。
〔未記入あり〕
(97) ここで我々は風土的なるものに連絡する。ローマを訪れる人々が古蹟の内の最も印象深いものの一つとして「水道」をあげるように、ローマ人と水道とは離すことのできないものである。が、何ゆえにかくも水道が著明なのであろうか。それは一つはローマの水道が巨大な人工的構築物であることにもよるであろう。しかし水道がかく大仕掛けに作られたということは、|人工によって自然の拘束を打ち破った〔付ごま圏点〕ということにほかならない。ローマは水道によってギリシアに見られないような大都市に発展することができた。それは同時にローマ人が土地の制限を破ってギリシアに見られないような巨大なポリスを作り出すに至ったことを、その仕事の初期において、すでに象徴的に示しているのである。
亀井高孝氏はギリシア旅行のあとで、ギリシアのポリスの大きさは|水の制限〔付ごま圏点〕にもとづくのではないかと語った。自分にはこの洞察が非常に興味深く感ぜられる。なるほど水道はすでにクレータの宮殿にもあった。アテーナイでもとヒメトスやペンテリコンの水を引いている。テーバイやメガラにもその痕跡はある。しかしギリシア人は|水の制限〔付ごま圏点〕を覆すほど大きい水道を作ろうとはしなかった。むしろ逆に、ポリスの大きさを|限定されたもの〔付ごま圏点〕として考えているのである。アリストテレスはポリスの人倫的組織としての任務から見てその限界を定めている。市民が相互にその特性を知り合い得る程度の人口がちょうど好いのである。しからばボリスは本質上大都市となるべきものではない。従って水の制限を破る必要もないのである。このようなポリスの考え方は必然にポリスの並立を是認することになる。しかるにローマ人はローマを一つの国家に仕上げるとともに直ちに水の制限を打破し始めた。これはローマ人がギリシア人から学び取ったのではない固有の天才を働かせたものと見られねばならぬ。が、またギリシアにおいて容易に思いつくことのできない水の制限の打破を、ティベル河の側では容易に思いつくことができたという事情も考慮されねばな(98)らぬ。イタリアはギリシアほど乾いてはいない。ティベル河はケフィソス河よりもはるかに水量の多い河である。だから|人工的な自然征服〔付ごま圏点〕をギリシア人から教わったローマ人が、人工的な水道によってちょうど|ギリシア人のなし得なかった自然征服〔付ごま圏点〕に着手したということは、ローマ人がティベル河の傍にいてケフィソス河の傍にいなかったということにもとづくと言ってよい。
このようにローマの水道は、ポリスの制限の否定、従ってポリスの並在の否認、言いかえれば|絶対的な統一の要求〔付ごま圏点〕を象徴する。ここに我々はギリシアにおける「多様性への努力」に対立して、ローマにおける「統一への努力」を取り出すことができる。ところでギリシアの多様性への方向はギリシアの自然にもとづくと言われている。なぜならここではすべてのものが多様な形に分離しているからである。それならばローマの統一への方向もまたイタリアの自然にもとづくと言い得られるであろうか。ここではすべてのものが一つの原理に帰するように見えるのであろうか。
我々はそこに何らかこれに類する特性の存したことを推測する。同じくギリシア人の作った文化の中でも、イタリアにおいて作られたものには|地方的な特性〔付ごま圏点〕が存すると言えぬであろうか。哲学においてはエレア哲学がイタリアの所産であった。クセノファネスはエレアやシチリアに住んだ人であるが、力強く多神教に反対して一神教的傾向を示している。パルメニデスの「有」もまた明らかに絶対的な統一への要求を示している。ゼノンが多様性の矛盾を鋭く指摘したのは著明なことである。文芸においては叙事詩と劇との中間に位するような「牧歌」の様式がシチリアの所産であった。それは叙事詩のように人物を丸彫りにせず、また劇のように性格を際立たせない。いわば物語を抒情詩的な大気の中へ融かし込んだものである。このような哲学と文芸の特性はイタリアの自然にもとづくとは言えぬであろうか。シチリアはギリシアに到底見られぬほど潤いのある緑の美しい国土である。そこに牧歌が生まれることはいか(99)にもふさわしい。エレアは今でもギリシアの殿堂の残っているペスツゥムに近い海岸で、東に六千尺のチェルヴァティを負い、南は五十里の海を距ててシチリアに対する。イタリア海岸の植民市のうちでもまず北辺に近い方で、風景の秀麗のほかになお特殊な静けさがあったであろう。ここに有の哲学が生じたことは、少なくとも自分には、はなはだ当然のように思われる。特にこれらのイタリアの自然が、適度の湿潤のゆえに、ギリシアよりもはるかに豊沃であったこと、従って食糧をそこから求める人間にとってはギリシアの自然よりもさらに一層従順であったということ、それが文芸や哲学に一味の静けさを与えたと見ることもできよう。
このことはイタリアの風土がギリシアよりも一層合理的であったことを意味する。そこはギリシアと異なってもと森林に覆われていた。しかもそれが開墾されて畑となり果樹園となり牧場となるに当たって、人工の支配が一層有効に行なわれ得たのである。だから人工的合理的な自然の支配という点においては、イタリアはギリシアに優ると言ってよい。これがローマ人をして人工の支配を無制限に押し進めるという傾向を持たしめたのであろう。だからギリシアの文化がすでに前八世紀のころよりイタリアに植え込まれ、イタリアの生活のすみずみにまでその影響を及ぼした永い年月の間に、ローマ人はギリシア人の|表現性〔付ごま圏点〕をではなくして|合理性や人工の喜び〔付ごま圏点〕を学び取ったのである。宗教、芸術、哲学、言語、文字等、およそ|生の表現〔付ごま圏点〕に関する限りにおいては、ローマ人はただギリシアの産物を受け容れるのみであって、己れ自身の表現をなし得なかった。しかるに合理性による自然と人間の征服に関しては、彼らはギリシア人のなし得なかったことをまでなし得るに至ったのである。ローマの偉大な建造物は、その表現性においてはほとんど言うに足りない。が、その|人工の威力〔付ごま圏点〕を示している点においてはギリシアをはるかに凌ぐのである。瓦のように薄い煉瓦を豊富な天然モルタルで固めた厚さ二メートル三メートルの壁などというものは、石に形をつけることを(100)のみ考えていたギリシア人の思いも及ばぬところであろう。ローマ人がギリシアを征服してその豊富な彫刻を己れのものとしたときにも、彼らはそこに合理的な人工の喜びを見いだしたのみであって、その豊かな表現性を感ずることはできなかった。このような合理的な人工の喜びが人間の事に関して現われるとき、そこにローマ人の世界史的な貢献としての万民法が結晶するのである。
かく見ればローマ人における|統一への傾向〔付ごま圏点〕もまたイタリアの風土から理解せられる。Civitas Romana はまさにイタリアの産物であってギリシア的なポリスでなかった。そうしてこのローマの「統一」が、後にはカトリク教会として、すなわち統一的あるいは普遍的教会として、千数百年にわたってヨーロッパを支配したのである。
一〇
ローマの教育の下に中西ヨーロッパがおいおい開けてくるに従って、ヨーロッパ文化の中心もまた漸次中西ヨーロッパに移って行く。近代、特に文芸復興期以後に至れば、地中海沿岸はむしろ故蹟地に化してしまう。このように文化の展開においても|土地が移る〔付ごま圏点〕という契機は顕著に存しているのである。そこで古代対近代というごとき|文化の相違〔付ごま圏点〕が同時にまた南欧と西欧との|風土の相違〔付ごま圏点〕という視点からもながめ得られることになる。かかる風土の相違はいかなるものであろうか。
ベェクは古代と近代との文化の特性を次のような七つの範疇によって対照している。
古代 近代
自然の支配 精神の支配
〔未記入確認〕
(101) 個性 普遍性
多様性への努力 統一への努力
実在論 観念論
外面性 内面性
客観性 主観性
この対照は細かな点においては種々の異論があるであろう。特にそれは芸術における古典様式とバロック様式との対照にも親近性を示しており、従って一時代の文化の内部における二つの類型としても立てられ得るのである。たとえば古代において、ギリシア文化対ローマ文化の対照は、何ほどか右のごとき範疇によって理解せられるものを持っているであろう。が、もしローマの精神がその法律とともに西ヨーロッパに染み込んでいるとすれば、この類似は当然だと言われねばならぬ。またイタリア文芸復興期における古典様式がギリシア満神の復活という意味を持つ限りにおいては、上記の親近性もゆえなきことではない。一般にイタリアの文芸復興期はローマよりもむしろギリシアの復活である。ローマ帝国の理念はすでに久しくアルプスの北に移っていた。中世末から新しくイタリアに起こった諸都市は、Civitas Romana と何の似寄りもない、ギリシアのポリスのような都市国家であった。そうしてそれちの諸都市の間にはギリシアにおけると同じく烈しい|競争〔付ごま圏点〕があり、その諸都市の政治家や芸術家はギリシア人と同じく烈しい|名誉心〔付ごま圏点〕に動かされ、そうしてそこから作り出される美術はギリシアのそれと同じく顕著に|表現性〔付ごま圏点〕と|合理的傾向〔付ごま圏点〕とを示している。だから近代の範疇にはまってくるのは、バロック様式が始まった以後であり、そうしてそのころにはイタリアの諸都市の繁栄は大西洋岸の諸都市に奪われてしまうのである。だからベェクの範疇は|ギリシア〔付ごま圏点〕の古代と|西欧〔付ごま圏点〕の近(102)代とを対照する意味において、ほぼ正鵠を得ていると見てさしつかえないであろう。
ところでこのベェクの範疇は、我々から見れば、ちょうどまたヨーロッパの地中海沿岸地方と大西洋沿岸地方との対照をも示しているのである。我々はそれを絵括して|ギリシア的明朗〔付ごま圏点〕に対する|西欧の陰欝〔付ごま圏点〕と呼ぶことができるであろう。しかし我々はこの相違が牧場的風土の中での地方的相違であることを忘れてはならない。西欧の陰欝は牧場的風土の陰欝であってステッペの陰欝ではない。だから我々はこの陰欝を捕える前に西欧の風土の牧場的性格を省みておかなくてはならない。
一一
西欧の風土が牧場的であることは、それが湿潤と乾燥との総合、夏の乾燥、というごとき点において地中海沿岸と共通であることによってすでに示されている。しかしここでは地中海沿岸におけるように太陽の光が豊かでなく、従って温度ははるかに低い。特に冬の寒さは南欧に見られない酷しいものである。このような風土が南欧と同じく「自然の従順」を特徴とすると言えるであろうか。自分はしかりと答える。西欧の自然は南欧のそれよりも一層従順なのである。
西欧の冬の気温は日本よりもはるかに低い。昼中の気温が零下六七度というのは普通のことである。ドイツでは寒い時には零下十七八度くらいにはなる。しかし気温に比例して寒さが|凌ぎにくい〔付ごま圏点〕というわけではない。第一空気の含む湿気が少ない。だから空気は純粋に|冷たい〔付ごま圏点〕のであって、底冷えのする寒さを感じさせはしない。第二に朝夕の変化が少ない。だから体が寒さに引き回されるという感じがない。第三に寒風の吹きすさぷことが少ない。だから寒さが目立って攻勢的に人間に迫って来るという感じがない。もし|寒さ〔付ごま圏点〕と|冷たさ〔付ごま圏点〕とを区別して考えるならば、西欧の冬にお(103)いて烈しいのは冷たさであって寒さではない。そこには淀んだ、冷たい空気はあるが、しかし空気を媒介として人間に迫り、人間を萎縮させずにはおかないような、暴圧的な寒さはないと言える。だから人間は内から緊張することによって比較的容易に寒さに堪え得るのである。のみならずこの緊張感が何らか望ましいものにさえもなる。ドイツ人は空気の冷たさを Frische(清涼とでも訳すべきであろうか)と呼び、その引き締まる感じを喜んでいる。零下六七度くらいの気温はむしろこの清涼に属するであろう。厳寒のころに寝室を温めないで寝る人も決してまれではない。もちろんそれは他方に保温の設備の行き届いた室があるからでもある。が、この保温の設備そのものが湿気少なく風なき冷たさに対しては、比較的に容易なのである。人は凌ぎにくい暑熱と湿気を全然考慮に入れることなく、ただ冷たい空気をのみ目標として家を建てることができる。そこでは空気の絶えざる流通によって湿気の定着を防ぐというような必要がない。従って温められた空気は乾いた厚い壁によって外界から仕切られ、人為的に室外に追い出されるまでは室内に淀んでいる。だから空気の冷たさは湿気を帯びた暑熱よりもはるかに征服しやすいのである。が、この保温の設備さえもフランスや英国ではかなり簡単なものが多い。日本よりはるかに多くの薪炭を使っているとは必ずしも言えないと思う。一言にして言えば西欧の寒さは人間を萎縮せしめるよりもむしろ溌剌たらしめる。それは人間の自発的な力を内より引き出し、寒さに現われた自然の征服に向かわしめ、そうしてそれを従順な自然たらしめている。家屋の構造と保温の設備とは、人間から寒さへの恐れを全然洗い去っているのである。
このような自然の従順は同時に自然の単調を意味する。我々が通例冬の風情として感じているものはそこには存しない。たとえば寒風が身に沁みるように寒いとともにまた日向ぼっこの楽しみがあり、牡丹雪がふわふわと積もるかと思えば次の日は朗らかに晴れて雪解けの雫の音がのどかに聞こえる、というようなことは、湿気と日光と寒さとの(104)合奏なのであって、ただ冷たさからだけでは生じない。湿気の少ないところでは気温が零下十何度になってもめったに雪は降らないのである。また日光の弱いところではたまに晴れても月光のように暖かさのない光線が射すだけで、昨日の雪を解かすなどは思いもよらない。このように変化の少ないことがそのまま自然の従順さを示すのである。だから西欧の冬の風情はただ室内に、炉辺に、劇場に、音楽堂に、舞踏室に、すなわちただ人為的なものにのみあると言ってよい。それは冬が人間の自発性を引き出したということにほかならぬのである。(亀井教授の説によれば、西欧における「機械」の発明もまたこの室内における人間の自発性に帰着するらしい。しかし氏はさらにこの自発性を冬の陰欝に対する対抗に関係させて考えている。)
烈しい暑熱はこのように容易に征服されるものではない。人は暑熱を寒さのように人為的に防ぐことができない。また暑熱を閑却して人為的なものに没頭することもできない。しかも西欧の風土は、この凌ぎにくい暑熱の代わりに凌ぎやすい寒さを置き換えたものと言うことができるであろう。それは南欧に見られないような寒い冬を持つとともに、また南欧のごとき烈しい夏を持たないのである。イタリアの二月はドイツや北フランスの四五月のころに当たり、イタリアの五月が後者の真夏に当たるであろう。だからイタリアでは五月に黄ばんで刈り取られる麦が、ドイツでは七月の末から八月の末へかけて刈り取られ、イタリアでは麦とともに姿を消す牧草が、ドイツでは夏を通じて青々と茂っている。だから西欧の夏は南欧の晩春初夏に過ぎぬのである。主観的によほどの暑さを感ずる日でも、気温はせいぜい二十六七度に過ぎない。真夏でも冬服で通すことができ、また実際そうしている人がまれではない。老人などは冬外套をかぶっているのさえも見かけられる。女は薄い絹の着物の肩に首のついた毛皮を背負って歩いている。夏
〔未記入あり〕
(105)あることは言うまでもないであろう。
しかし夏の自然の従順は湿気と暑熱とによる変化のないことにほかならない。それはヨーロッパから雑草を駆逐し全土を牧場的ならしめた根本条件であるが、同時に西欧の夏から我々が夏の風情と考えるものを駆逐したゆえんである。たとえば夏の朝夕の爽やかさとか、暑さを払って流れて行く涼風とか、炎天のあとの気持ちのいい夕立とか、あるいは蝉の声、虫の音、草の露等々はそこには存しない。が、このことは、気象の変化に慣れた東洋の旅行者が、西欧の夏の自然を物足りなく感ずる、というだけのことではない。空気に湿気が乏しく昼と夜の気温の相違が少ないために、早朝の牧場に出ても草の露に足を濡らすということがないという事実は、同時に農人が夕暮れにその農具を畑に野ざらしにして家に帰るということを意味するのである。日本の農人が鋤鍬を田畑から担いで帰り、泥を洗って納屋にしまい込むのを見慣れている我々にとっては、これはかなり大きい事実である。夜、農具を畑に放置してもそれが決して錆《さ》びないというようなことは、恐らく日本の農人の思いも及ばぬ所であろう。いわんやドイツにおけるように家から畑への距離の遠いところでは、農具の運搬の手が省けるということは少なからぬ労働の軽減を意味するのである。同様に虫の音が聞こえぬということは、夏の夜を寂寞たらしめるだけではない。それは一般に昆虫が少なく、従ってまた農作物の害虫が少ないことを意味する。自分はかつてベルリン近郊のグリユーネワルドやワイマルに近いテューリンガーワルドで、昆虫を探して歩いたことがあるが、下草のほとんどないこれらの林や森には、ついに一匹の蟻をさえ見いだすことができなかった。ただ一種の蛾が同じ方向に幾つも飛んで行くのを見たきりである。日本の夏山の無限に多い昆虫の営みを見慣れている眼には、初めはほとんど信ぜられないほどであった。害虫の繁殖が台風、洪水、旱魃に次いで農作の脅威である日本から見れば、比較にならない理想郷であるとも言えよう。
(106) ここに台風や洪水をあげたことに関連して西欧における風と雨とを取り上げてみよう。我々にとっては夏の自然の暴威は台風と洪水とにおいて頂上に達する。そのように西欧の夏の自然の温順もまた風と雨との温順に帰着するのである。
我々は前にしばしば空気の淀みを語った。それは冬に寒風少なく夏に涼風の少ないことを意味するのであるが、しかしなおその上に「淀み」としての積極的な意味を持っている。それは凝乎として動かない空気であって、我々の国土ではまれにしか経験し得られないと思う。それが特に感ぜられるのは空気の冷たい時あるいは熱い時である。冷たいあるいは生温い空気が都会を包んで全然流れることのない時、我々はあたかも空気が凝結あるいは膠着したかのように感ずる。かかる時には煙突の煙は乱れることなくまっすぐに昇って雲の中に消えて行き、飛行機が空に描いた煙文字は永い間薄れずに形を保っている。そうしてこのような空気の淀みの方がむしろ西欧の風土にとっては持ち味なのである。
さらに風の少ないことを客観的に示すものを求めれば、たとえば北ドイツの土地そのものがそれであろう。そこは非常に細かな、粟粒よりも小さい、そうして粘着性を持たない砂によってできている。しかもこの細かな砂が風によって飛ばされない。日本の海岸で数倍の大きい粒が絶えず風に運ばれるのを見ている者には、実際不思議に感ぜられる。だからまたこういう砂地に茂っている松の木も、そろってまっすぐに立っている。広々とした牧場の間に立っている落葉樹も同様にまっすぐである。一般にドイツの樹木は直立している、と言ってもよい。このことはテューリンガーワルドのような山林においては一層著しい。林とは直立せる樹木の並列であって、幹と幹とは精確に平行線をなしている。このような感じは日本の杉林檜林にもまれである。自分はいくらかそれに近いものを吉野の杉林で見たこ(107)とがあるが、吉野は日本としては風の少ないところであろう。これは樹木が風圧を受けつつ.育ったのでないことを示している。だからたまに我々がやや強いと思う程度の風が吹けば、日本で家を倒すほどの大暴風が吹いた時のように、これらの樹木が根こそぎに倒されるのである。ルトウィヒはその『世襲山林監督官』のなかで山林の樹をすかすかすかさないかの議論を描いている。すかしてならない理由としてあげられるのは、すかした場合に一度暴風が来れば樹木がことごとく倒れるからである。それほど暴風はまれで、また樹木が風に慣れていないのである。樹木のこのような直立性はドイツの風景が整然とした感じを与える理由の一つだと思われる。フランスではこれほどまっすぐではない。しかしそれでも北フランスなどでは、牧場や畑の間に並ぶ一列の楊の木が、|同じようにそろって〔付ごま圏点〕一方へ曲がっているのが見受けられた。曲線でありながらも|平行している〔付ごま圏点〕のである。これは風が整然として吹くことを示している。
風の少ないと同じく|雨の降り方〔付ごま圏点〕がまた実に穏やかである。夏の雨でさえも、日本の春雨のように、降るともなく降るという降り方をする。だから通例は雨傘を必要としない。きわめてまれに傘の必要な、ズボンにハネの上がる程度の雨が降るにしても、その時しばらく人の家の入り口に雨宿りをしていれば、それで済んでしまうのである。しかもこの程度の雨が半時間も続けば、都会では道路に水があふれて地下室に浸入し、消防自動車が出動して排水するという騒ぎになる。それほど雨水に対する排水の設備が小さいのである。またその程度の雨が二三度も続けば、田舎では低地の牧場が水に浸ってしまう。なぜならば雨水を河まで導いて行く小溝などというものは牧場や畑の間には全然ないのだからである。日本では広い斜面が両方から流れ降りて谷を形作っている場合には通例その谷底に小川を見いだすことができる。しかしドイツあたりではほとんどそれを見ることができない。小川の流れているのはよほどの大きい谷である。従ってまた有名な川が我々にとっての小川に過ぎない場合もある。たとえばワイマルを流れている有名(108)なイルム川は代々木《よよぎ》から千駄谷《せんだがや》の谷を流れている小川と同じくらいのものである。河川が国土にとっての排水の設備であると言い得るならば、この設備もまたきわめて小さい。ラインが大きいのは「ヨーロッパの屋根」アルプスの水を運ぶからであるが、しかしそれでも我々を驚かせるほど大きい河ではない。ザクセンからボヘミアまでの広い山々の水を集めたエルベ河さえ、ベルリンの南方デッサウあたりでは、境防もなく牧場の中を流れる優しい川に過ぎない。このように都会にしろ国土全体にしろ排水の設備が小さいということは、取りも直さず雨の降り方が穏やかだということなのである。
実際西欧の大陸のように土地の傾斜のゆるいところで我々の国土におけるごとき猛烈な雨が降ったならば、その排水は容易なことではなかろう。ベルリンは海から五十里離れているが、海抜はわずかに百尺である。北ドイツでエルベやオーデルが運河で連なっているように、フランスでもローヌ、ロアール、セーヌ、ラインなどはすべて運河で連絡している。ところどころの運河の堰で水位を調整しつつ、地中海から北海までの水行の通が通じているのである。こういう傾斜のゆるい平原が、沼沢にもならず美しい牧場や畑として適度に乾いているということは、もともと排水の必要が少ないからなのである。まれに例外的な雨があるとしてもそれは風土の性格を破ることはできぬ。
ところで風雨が穏やかであるということは一般に気象の変化が緩慢だということなのである。このことは季節の変化の緩慢、特に植物の生活の驚くべき悠長さに現われている。落葉樹は四月の初めにはすでに芽を出し始めるが、しかしその芽は時計の針のように動きを感じさせない。毎日の印象にかつて芽が伸びたという感じがないのである。そうして我々が新芽の姿に飽き果てたころに、すなわち五月上旬から中旬へかけて、いつ伸びたともなく新緑の豊かさ
〔未記入あり〕
たものである。ここでは新芽は日ごとに姿を換え、(109)一夜見ぬ内に驚くほど成長する。むしろ我々の方が新芽の成長に追い立てられるように感ずる。このような印象は西欧の新緑からは受けることができぬ。やがて夏になればようやく麦が黄ばんで来るが、七月の末にすでに黄熟した麦は、静かに直立したまま八月の末まででも姿を変えずにいる。これはわが国においては稲が急激に成長して花を開くまでの期間である。
このような植物の生活はそのまま農人の生活に反映する。麦の収穫時は恐らく年中の最も忙しい時期と思われるが、しかしそれは七月の末から八月の末まで悠々として続いている。だから収穫時の広い野原を見渡しても、刈り取りの仕事をしている農人たちの姿はまれにしか見ることができない。これは麦の収穫から田植えへと目まぐろしく働く日本の農人の生活とはまるで調子の違うものである。人間は自然に追い立てられることなく、悠々として自然を従えて行くことができるのである。
このように温順な自然は、ただその温順さからのみ見れば、人間にとって最も都合のよいものである。温順の半面は土地が痩せていることであり、従って一人の支配する土地の面積は広くしなくてはならないが、しかし一人の労力をもって何倍もの土地を従えて行くことのできるのは、自然が温順だからである。昔ゲルマン人が半遊牧的な原始共産主義の社会を作っていたころには、そこは暗い森に覆われた恐ろしい土地であったかも知れない。しかし一度開墾され、人間の支配の下にもたらされるとともに、それはそむくことなく従って来る自然となったのである。実際西欧の土地は人間に徹底的に征服せられていると言ってよい。それは広々とした大陸であるにかかわらず、すみからすみまで人力の支配の届かない所がない。深いと言われる山でさえも、植林はすみずみまで行なわれ、道路は絶頂まで通じている。それは山の傾斜が緩慢だからであるが、しかしまさにそのゆえに山のどの部分の樹も馬車で運び出すこと(110)ができるのである。だから西欧には利用され得ない土地はほとんどないと言ってよい。
この事実は人力をもって容易に支配することのできない山地に充たされた我々の国土とは非常な相違を見せている。これらの山地も全然利用され得ないとは言えぬであろう。しかしアメリカの材木が日本の山の中でさえも使用せられるとすれば、日本の山は材木の生産地として充分な資格を持つとは言えない。そうしてそれは山が嶮峻で運搬が困難だからなのである。のみならず日本の山には植林が容易でなく、ただわずかに薪炭を供給するに留まるものが多い。しかもこのような山地が日本の国土の大部分なのである。だから日本の土地の大部分はいまだ充分に人間の支配を受けていないということができる。日本人はただ国土の僅小な部分のみを極度に働かせて生きているのである。その僅小な部分も決して温順な自然とは言えない。それは隙さえあれば人間の支配を脱しようとする。その代わりにそれは豊饒な、いくらでも強度を高め得る土地である。このことが日本の農人に世界じゅうで最も優れた「技術」を与えた。百五十年前にヘルデルによって世界じゅうの最も不毛な土地の例に引かれたカリフォルニアを、今や世界じゅうの最も豊饒な農芸地に仕上げたのも、日本の農人の力である。ただしかし日本人はこの「技術」の中から自然の認識を取り出すことができなかった。そこから生まれて来たものは「理論」ではなくして芭蕉に代表せられるごとき「芸術」であったのである。
これを思うと西欧の自然の温順は自然に対する人間の「作業知」の開発と引き離すことのできないものである。従順な自然からは此較的容易に法則が見いだされる。そうして法則の発見は自然を一層従順ならしめる。かかることは突発的に人間に襲いかかる自然に対しては容易でなかった。そこで一方にはあくまでも法則を求めて精進する傾向が生まれ、他方には運を天に委せるようなあきらめの傾向が支配する。それが合理化の精神を栄えしめると否との岐れ(111)路であった。
が、その限りにおいては西欧は一般にヨーロッパ的であって特に西欧的ではない。西欧的なるもの、従って近代の精神を捕え得るためには、我々は西欧の陰欝に目を向けなくてはならぬ。
一二
西欧の陰欝とは直接には日光が乏しいことである。それは特に冬の半年において顕著に見られる。高緯度であるために昼間が非常に短いのが第一の原因である。十二月ごろには、たとい晴れた日であっても、三時ごろにはもう夕方らしくなる。しかるにその晴れた日が非常に少なく、暗い曇天の日が続くのである。自分はかつて五月にロンドンを訪れて、その冬をそこに送った宮島清君に逢い、ロンドンもなかなか好い天気ではないかと言って怒られたことがある。こういう晴天の日に逢うためにどれだけ永い、欝陶しい冬の日に堪えて来たかを知りもしないで、たまたま五月の晴れた日にロンドンへ飛び込んで来て、のんきなことを言うな、というのである。それほどに冬の陰欝は日本人にとって苦しい。雲の深い日には一日じゅう電灯の下でなければ書物を読むこともできない。美術館では薄暗がりのなかでボンヤリと画布に浮いた人物をながめ得るだけである。電灯をつけない図書館では大きい窓の側に席を占めてもなお字を見るに不便を感ずる。つまり夜が明けたという感じがないのである。
それでは夏の半年はどうであるか。有名な五月の陽気はなるほど麗らかである。が、その五月にさえも晴朗な日はわずかに二三日で、あとは薄ら寒い陰欝な日が続くこともある。それがちょうど日本の冬の曇り日ほどに陰欝なのである。太陽の威力の最も激しい七八月のころにさえも、日光の力は充分に強いとは言えない。ドイツでは樹木の土用芽が緑になれないで白色に留まっている。土地は夏の日にもカラカラに乾くというようなことがない。大都会のアス(112)ファルトの上では幾分暑気を感ずるとしても、田舎や山に行けば夏の日の散歩がちょうど我々の五月の散歩のような気分なのである。しかもこの時に西欧の国土は最も豊かな日光に恵まれている。そうしてそのことが陰欝な冬に堪えて来た西欧人にとっての非常な喜びなのである。我々にとっては春が来夏が来るということは樹が芽ばえ花が咲き新緑が茂るということであって、日光の享受ではない。しかるに西欧人にとってはそれはまず第一に再び日光を迎えるという意味を持っている。だから我々が冬のものと考えている「日向ぼっこ」を、すなわち日光浴を、夏の間に熱心にやっておこうとする。夏の公園や広場はこの日光浴の人に充たされている。我々がやや暑さを感じて日陰をえらんで歩くような時にさえも、人々は日向のベンチに坐してじっと日光を浴びているのである。時には赤ん坊を乳母車にのせて日向に乾しているのさえも見受けられた。特に自分に印象の深いのはベルリンのトゥレプトヴの公園の夏であった。縦の長さは二三キロメートルもあろうと思われる広い草地に、上衣や肌着を取り去って上半身を裸にした男どもが、芋を洗うようにいっぱいに散らばって日光に浴している光景は、全く自分には珍しいものであった。真夏の炎天にそうやって甲羅が干せるのは日光の力が弱いからでもあるが、しかし自分はこの光景においてドイツ人がいかに日光を恋しがり日光を賞美しているかをまざまざと見得たのである。そうしてそれはやがて西欧における日光の乏しさの表現にほかならない。
しかしこのような日光の乏しさはただそれだけに留まるものではない。ヨーロッパを北から南へ、すなわち日光の強まって行く方向へ旅した者は誰しも必ず感ずることと思うが、日光の力の強まるに従って人間の気質は漸次興奮的感激的になって行くのである。ドイツ人の沈欝は南ドイツではよほどその度を減ずる。フランス人は静かではあるがもはや沈鬱ではない。イタリア人になればむしろ騒々しいという言葉が当てはまるであろう。風土の陰鬱は直ちに人(113)間の陰欝なのである。ここに西欧の文物を古代ギリシアのそれから区別する最も顕著な特徴が見られる。シュペングラーの説いたようなアポロン的な心とファウスト的な心との区別は、確かに肯綮に当たると言ってよい。ギリシアのあくまでも明るい日光の下では、すべての物の形が彫刻的に際立ち、数限りなき個々のものがそれ自身をあらわに示している。かかる「現象」の世界からその個々のものを取り除いた、一様な、無限の空間というごときものは、容易に取り出せるものでない。しかるに西欧の陰欝な曇り日においては、すべての物は朦朧《もうろう》として輪郭を明らかにせず、かかる不分明な物を包む無限の空間がかえって強く己れを現わしてくる。それは同時にまた無限の|深さ〔付ごま圏点〕への指標である。そこに内面性への力強い沈潜がびき起こされる。主観性の強調や精神の力説はそこから出て来るのである。そこでギリシアの古代が静的、ユークリッド幾何学的、彫刻的、儀礼的であるに対して、西欧の近代は動的、微積分学的、音楽的、意志的であると言われる。西欧の芸術の最も代表的なるものはベートーヴェンの音楽、レムブラントの絵画、ゲーテの詩などであるが、これらはいずれも無限の深さを表現する動的・ファウスト的な性格を最も著しく示しているものである。音楽はギリシアの教育において中心的地位を占めてはいたが、しかしギリシア人はそれによって唱われる詩の内容を重視したのであって、視覚的形象と結びつかない純粋の音の世界を見いだしていたわけではなかった。見ゆる現象をことごとく消し去り、言語の担う表象をも脱却して、ただ音の律動旋律によってのみ魂を直接に語らしめるというごときことは、明朗なギリシアの世界においては不可能だったのである。ただドイツの陰欝の中でのみ純粋音楽の創造という偉大な事業は成し遂げられた。またギリシアの美術を代表するものは第一にはギリシア的明朗を結晶せしめた彫刻であるが、それに対して近代を代表するレムブラントの絵画は、まさに|西欧の陰欝を結晶せしめた〔付ごま圏点〕ものと言われ得るのである。文芸復興期のイタリアの巨匠の何人もが描き得なかったあの薄暗い雰囲気と幽かな光と(114)の微妙な交錯は、精神の無限の深さを表現したものとして、世界の美術の最高峰に位するものであるが、しかしそれはこの天才が西欧の陰欝を通してのみなし得た仕事なのである。ヴェラスケスはその技巧の卓越において決してレムブラントに劣るとは言えない。しかし彼の描いたのはスペインの光であった。画家は見ることにおいて創造する。レムブラントといえども、スペインの光の下では彼のごとき画は描けなかったであろう。同様にゲーテのファウストは、その主人公が毒杯を手にした薄暗いゴティクの室から復活祭の野辺へ出てくるように、西欧の陰欝の中から無限に深いものを押し出してくる。「光を求めて無限に働く」という性格をこれほど鋭く切り出した例は、古代の文芸のどこにも見られない。ギリシアの叙事詩が最も類型的な自然児を描いているとすれば、ファウストは最も類型的な精神人を描いているのである。そうしてこの精神人の特性は、一言にして言えば「陰欝の苦悶」にほかならぬであろう。眼を転じて学問をながめても同様である。西欧の学問の代表的なるものは、文芸復興期ではなくしてバロックの時代に始まった、力と量との物理学、あるいはカントに朝宗する当為の哲学であるが、これらはいずれも動的であり無限追求的であって、古代の静学的物理学や有の哲学に対立するのである。特にそれは、カントにおける空間や形式の概念が示しているように、個々の内容を捨て去るところの「抽象」への傾向において著しい。抽象し得るということも一つの偉大な能力である。西欧の陰欝はこの点において古代の哲学者のなし得なかったことをドイツの哲学者になさしめ得たのである。
右のような偉大な文化的創造において己れを展開している西欧の特性は、神秘的なるものへの共鳴の地盤として、早くよりキリスト教の最もよき培養基となった。キリスト教が流れ込んだ地方は決して西欧にのみ限るのではない。
〔未記入ありお〕
地方は他には見られない。ここでは陰欝から押し出されてく(115)る深さと抽象とへの傾向が、まずキリストの信仰を通じて己れを現わし始めたのである。沙漠の自然の恐ろしさに対抗する民族の宗教であったユダヤ教は、本来土地に定着せず、土地からの抽象を特性とした。それがキリストの復活を通じて改新せられたのは、ちょうど世界国家が実現せられていた時期である。従ってキトスト教は土地からの抽象に加えてさらに国民からの抽象を特性とした。すなわちそれは沙漠の所産でありユダヤ民族の宗教であったにかかわらず、初めより民族宗教、国民宗教でないものとして形成せられた。だから西欧人は超国民、超土地の宗教としてキリスト教を受け容れつつ、しかも全然沙漠的、ユダヤ民族的な考え方に化せられてしまったのである。旧約聖書はユダヤ民族の記録であるにかかわらず、今や人類全体の歴史を語るものと考えられる。そこに伝えられる習俗は沙漠の習俗であるにかかわらず、今や彼ら自身の習俗とならなくてはならない。彼らが原始時代以来伝承した祭儀や世界観は、今やユダヤ民族のそれによって置きかえられてしまう。このように完全な精神的征服が何ゆえに可能であったのであろうか。それは陰欝の苦悶がちょうど|沙漠の恐怖〔付ごま圏点〕と共鳴したからなのである。意志的人格的な唯一神を西欧人ほどよく受け容れたものはなく、また旧約の予言者たちの意志的倫理的な情熱を西欧人ほどよく理解したものもないであろう。
しかしこのことは前にあげたような偉大な文化的創造がキリスト教的精神からのみなされたということを意味するのではない。キリスト教のみからしては偉大な学問や芸術は生まれ得なかったのである。中世の哲学がギリシア哲学に乗って神と人とを思索したように、ゴティクの建築や彫刻といえどもそれらが芸術的である限りにおいてはただロマネスクを通じてのみ発展し得たのであった。西欧の陰欝は学問や芸術にその西欧的特性を与えたとしても、本質においてはそれらは牧場的であり、従って古代と共通の地盤の上に立っているのである。西欧の近代が古代精神の「復(116)興」をもって始まるということは決して偶然ではない。合理性を尚び人工を喜ぶところの古代人の遺産を通じて、西欧人はその陰欝の底にある牧場的性格を自覚した。そうしてこの自覚によってのみ特に西欧的なる文化の創造が成し遂げられたのである。だから偉大な創作に関する限りにおいては、西欧の陰欝は合理主義と離れたものではない。理性の秩序の確立、理性による自然の征服、それが無限の深みを追求する陰欝の精神を指導し行くところの、根本方向なのである。
この点を顧みずしてもし西欧の陰欝にのみ着目するならば、我々はそこに恐るべき陰惨残忍を見いだすであろう。中世の都市の刑罰の残忍さは今なお残されている処刑の器具によっても忍ばれる。中世の宗教美術の表現している生々しいむごたらしさは我々をして眼を覆わしめるほどである。なるほど福音書はキリストの十字架をまざまざと描いてはいる。しかし古代人は血みどろのキリストの像を作りはしなかった。古代の没落期においてさえも、ラヴェンナの美しいモザイクが描いているのは、若い健やかな羊飼いである。しかるに中世人は十字架のキリストをでき得る限り生々しく、陰惨に、見る者をして|現実的な〔付ごま圏点〕痛みや苦しみを感ぜしめるように表現するのである。従ってそれは神の子の表現でもなければ神の愛の表現でもなく、ただ残虐と苦痛との再現におわっている。いわんや殺伐な地獄絵のごときに至っては、残虐の|喜び〔付ごま圏点〕を表現するものとさえも言い得られるであろう。我々はそこに西欧人の野蛮性をまざまざと見ることができるのである。その印象は中世の武器の陰惨な感じと相通うものがある。剣や槍はもともと殺人の道具ではあるが、しかしその形は必ずしも陰惨な印象を与えるとは限らない。日本の刀剣のなだらかな彎曲線のごときは清らかな美しさをさえ感ぜしめる。しかるに西洋中世の武器の形は残忍そのものを具体化したような物すごさを持つのである。ホメロスの英雄たちは決してこのように陰惨な武器をもって戦いはしなかった。
(117) 中世のみがそうなのではない。すでに文芸復興が近代の文化の幕を開き、ドイツでは宗教改革が達成せられ、フランスでは近代哲学が芽ばえていた十七世紀にさえも、三十年戦争というごとき実に我々の了解し難いほど残忍な現象が起こっている。しかもそれが宗教の名において、すなわち宗教改革への反動運動(Gegenreformation)として行なわれているのである。元来宗教改革は|西欧の陰欝におけるルネサンス〔付ごま圏点〕であった。アルプスの南では美しい芸術の華が開いたのに対して、アルプスの北では|内面的に深められた〔付ごま圏点〕古代精神、すなわち人文主義が擡頭したのである。しかるにちょうどその人文主義者の国土において、しかもその人文主義への反動として、世界史上にも比類のない陰惨な内乱が惹き起こされた。この内乱によってドイツの国土は至るところ荒廃に帰し、ドイツの人口は四分の一にまで減じたと言われている。このような悲惨な相互殺戮を人文主義者の誰が予測していたであろうか。それもドイツ人が己れの信念に忠実であるがゆえだと言えぬではない。しかし新教と旧教との対立はかほどまでの相互殺戮を是認し得るほどに意義深いものであろうか。自分はこの戦争における小さい一つの挿話をその故蹟において回想した上き、その悲惨に打たれて覚えず涙を催したことがある。それは南ドイツの古い自由市ローテンブルグにおいてであった。この町は近代の新しい交通路をはずれたがために、近代の文明から取り残されて、中世の面影を破壊されることなく、静かな田舎町全体が一つの骨董品のごとき観を呈している。従ってこの町が三十年戦争の時、カトリクのティリーの大軍に囲まれて永い間苦戦した遺蹟もほとんどそのままに残されているのである。この時の戦いは当時の市長の巧みな外交によって結局惨害の少ない降服に終わったのであるが、しかしそこに至るまでの間、市民は老若男女を問わず一体となって防戦に努めたのであった。鉄砲がまだ充分発達しない時代であるから、市民は城壁内に見いだされ得る限りの石や煉瓦をもって戦う。男はすべて城壁の上で、傷つきながらも退くことなく、迫り来る敵に石を投げている。女た(118)ちはその夫や父のもとへ力限りこの武器を運んで行く。中には三つ四つの子供が、石を抱いてヨチヨチと血みどろになった父親のもとへ運んで行くのがある。つまり女子供までがことごとく参与するような戦いをこの城壁において戦ったのであった。こういう戦争を自分はローテンブルグへ行くまでかつて思ってみたこともなかったのである。戦争は戦闘員の資格(それが自ら選んだものであるにせよ、また団体から規定せられたものであるにせよ)を持つものの間にのみ行なわれるはずであった。日本の戦国時代においてさえそうである。一つの町や村の住民が女子供をまでも加えて防戦に努めたというような戦争は、恐らく日本には一回もないであろう。だから自分は、ドイツにおける戦争がいかに破壊的であるかをこの時に初めて理解し、そうして三十年戦争が人口を四分の一に減じたゆえんをもほぼ推測し得たのであった。西欧の陰欝は戦争にもその特性を現わす。それは中世の武器の与えるあの陰惨な印象と相通ずるものを持つのである。
しかしこのような陰惨と残忍とが存するからといって、西欧人が世界の文化に寄与した功績は減ずるものではない。西欧の陰欝は右のごとき頽廃にも陥り得るものであるにかかわらず、しかも無限の深みを追求する内面的な傾向として働き、そうしてまさにその力によって明朗な理性の光を再び顕わに輝かし始めたのである。近代のヨーロッパが世界の文化の指導者となり得たのは、主としてこの理性の光によってであって、裏面に蔵する残忍性によるのではない。我々の国が最近一世紀の間にヨーロッパから学び取ったところも、また主としてこの明朗な理性の光であった。そうしてみれば西欧の文化的功績は、陰欝なる特殊性を通じて発揮せられた牧場的性格に帰着することになる。西欧が自らギリシアの正嫡をもって任ずることは、必ずしも不当ではないであろう。
(119) 我々はヨーロッパの牧場的風土からしてその文化を珊解しようと試みた。しかしこの風土がこの文化の原因だというのではない。文化においては歴史性と風土性とは楯の両面であって、その一をのみ引き離すことのできないものである。風土的性格を持たない歴史的形成物もなければ、また歴史的性格を持たない風土的形象もない。だから我々は歴史的形成物の内に風土を見いだすこともできれば、風土的形象の内に歴史を読むこともできる。我々は|風土に視点を置きつつ〔付ごま圏点〕この両方向の考察を雑然として試みたに過ぎぬ。
が、我々はこの考察によって次のごときことを結論し得るであろう。人間が己れの存在の深い根を自覚してそれを客体的に表現するとき、その仕方はただに歴史的にのみならずまた風土的に限定せられている。かかる限定を持たない精神の自覚はかつて行なわれたことはなかった。ところでこの風土的限定は、ちょうどそれにおいて最も鋭く自覚の実現せられ得る優越点を提供するのである。比論をもって語るならば、聴覚の優れた者において音楽の才能が最もよく自覚せられ、筋肉の優れた者において運動の才能が最もよく自覚せられる。もちろん我々はこの自覚が実現せられた後にそれぞれの機官の優秀を見いだすのであるが、しかしそれだからといって自覚が初めて機官を優秀ならしめるのではない。ちょうどそのように、牧場的風土においては理性の光が最もよく輝きいで、モンスーン的風土においては感情的洗練が最もよく自覚せられる。それならば我々は、音楽家を通じて音楽を己れのものとし、運動家を通じて競技を体験し得るように、理性の光の最もよく輝くところから己れの理性の開発を学び、感情的洗練の最もよく実現せられるところから己れの感情の洗練を習うべきではなかろうか。風土の限定が諸国民をしてそれぞれに異なった方面に長所を持たしめたとすれば、ちょうどその点において我々はまた己れの短所を自覚せしめられ、互いに相学び得るに至るのである。またかくすることによって我々は|風土的限定を超えて〔付ごま圏点〕己れを育てて行くこともできるであろう。(120)風土を|無視〔付ごま圏点〕するのは風土を超えるゆえんではない。それはただ風土的限定の内に無自覚的に留まるに過ぎない。しかし限定を自覚することによってその限定を超えたからといって、風土の特性が消失するわけではない。否、むしろそれによって一層よくその特性が生かされてくるのである。牧場的国土はある意味では楽土であるが、しかし我々は己れの国土を牧場に化することはできない。しかも我々は牧場的性格を|獲得する〔付ごま圏点〕ことはできるのである。そうしてその時には我々の台風的な性格は新しい生面を開いて来る。なぜなら我々が我々の内にギリシア的なる晴朗を見いだし、合理的なるものを充分に育て上げるときに、かえってよく我々の「勘」や「気合い」の意義が生かされて来るであろう。そうして超合理的な合理性があたかも台風のごとくに我々を吹きまくることをも自覚するに至るであろう。
かく考えて過去を振り返るとき、我々の祖先がきわめて敏感に急所を直覚していたことを見いださざるを得ぬ。第一にキリシタンに対する異常な傾倒と異常な恐怖とがそれである。キリシタンの侵入はある意味では沙漠的なるものの侵入であるが、それに対する傾倒も恐怖もともに沙漠的なるものがちょうど我々に欠けているものであることの直覚を示すのである。第二には厳密な鎖国を透して徐々に浸入して来たヨーロッパの科学に対する熱烈な関心である。それは己れに欠けている牧場的なるものへの渇望にほかならない。東洋の諸国の中でこれほどの渇望を示したものはどこにもない。ただしかしこれらの直覚において我々の風土が牧場にも沙漠にもなり得ないことの洞察が欠けていた。それが今や我々にとっての眼前の問題である。 (昭和三年稿、十年改稿)
(121) 第三章 モンスーン的風土の特殊形態
一 シナ
モンスーン地域を広義に解すればシナの大陸をも含めることができる。しかし熱帯の大洋から湿気を陸に運ぶという点にモンスーンの特質を認めるならば、太平洋の影響を受ける限りのシナ大陸がモンスーン地域であると言わねばならぬ。ところでこの影響は、直接に台風に見舞われる中シナ、南シナの沿岸地方のみならず、大陸の奥の方までも及んでいる。シナの風土を代表的に示しているものは黄河と揚子江とであろうが、少なくとも揚子江はモンスーンの大陸的具象化だと言ってよいであろう。ではその揚子江はどんな姿をしているであろうか。
我々日本人にとっては揚子江の第一印象は実際に案外なものである。船が上海《シヤンハイ》に近づくにつれてまず驚かされるのは、十三四カイリの速力の船がまる一日じゅう走って行く間、海が全然|泥海〔付ごま圏点〕であることであった。これは泥水を吐き出す揚子江が全長約千三百里の大河であって、ライン河の四倍半、日本全島の長さよりも長いということを考えれば、いかにも当然の現象なのであるがしかしそれをまのあたりに見ると我々は不思議な感じに打たれる。我々の「海」の観念の中にはこのような茫々たる|泥海〔付ごま圏点〕は含まれていなかったのである。ところで揚子江の河口はまたこの泥海と区別がつかないほど茫漠としている。すでに揚子江をさかのぼりつつあるのだと教わっても、眼に見えるものははるかな地平線が海におけるよりも|やや太い〔付ごま圏点〕ことだけであった。しかもそのやや太い地平線は河口に横たゎる崇明島と揚子江