萬葉集考叢  山田孝雄    1955年(昭和30)5月20日發行、寶文館
 
(1)序
 本書は余が從來萬葉集に關して發表したる小篇又講演の筆記を集め録したるものなり。初め余はかくの如きものを世に出すことを好まず。古くは土田杏村氏が在世の時に態々書を寄せて、この事を需められしことありしかどその好意を謝しつつも應ずること能はざりしなり。それよりして十數年昭和二十三年の頃松田好夫君、伊勢の寓居にふりはへ來られし際萬葉集に關する從來の考説を集め一書として刊行せよと奨められたれど、余之を肯ずること能はず。茲に松田君みづからそれらの勞を執るが故に、その事を諾せよと切に請はる。茲に至りて余辭する能はずしてその事を同君に一任す。同君即ちそれを美夫君志會に圖りてその會の選書の第三篇として發行すべく豫定せられたりしなり。これ實に昭和二十四年の事なりき。然るに、その後、出版者に意外の支障生じて實現困難なるに到りし由にて、之を余の手に委ねられたり。ここにその資料と美夫君志會にて行ひし講演の筆記とを集めて、一冊子とし以て之を世に送る。その名は美夫君志會の與へたるものなり。顧みるに、その説の古きは三十餘年前のものあり。今日にして見れば殆ど隔世の感あり、而してこの學の進歩はこれらの説は既に常識となりて何等新鮮のことなく、今更かくの如きものを以て紙に災すべ(2)きものとも思はれず。然れども既に松田君に約したる事にしあれば醜を千歳に暴すの嫌ありとは思へども敢へて之を刊行せしむることとせり。若し、本書が何等かの用に立つことあらば松田好夫君と美夫君志會との賜といふべし。
  昭和三十年二月五日
                     山田孝雄識
 
    萬葉集考叢目次
 
萬菓集名義考………………………………………………………………一
萬葉集の、編纂は寶亀二年以後なるべきことの澄 ………………一四
古事記と萬葉集…………………………………………………………二〇
萬葉集と大伴氏…………………………………………………………五一
萬葉集の左注なる「右何首」と書せることの意義…………………七八
萬葉集巻二挽歌最初の左注について…………………………………九七
相聞考…………………………………………………………………一〇七
 相聞考補遺…‥……………………………………………………一一三
 相聞考(補改)……………………………………………………一一四
藤原宮之役民作歌……………………………………………………一二五
巻三、長皇子遊獵路池之時柿本朝臣人磨作歌の反歌について…一三二
山部宿禰赤人詠春鶯歌について……………………………………一三七
萬菓集訓義考…………………………………………………………一四三
   一
夜隱……………………………………………………………………一四三
玉久世…………………………………………………………………一四六
屋中毛波可自…………………………………………………………一四七
   二
力士※[人偏+舞]…………………………………………………一四九
 力士※[人偏+舞]補説…………………………………………一五一
腋草……………………………………………………………………一五二
於能等母於能夜………………………………………………………一五四
   三
棚無小舟………………………………………………………………一五七
於をウヘとよむこと…………………………………………………一六二
須加能夜麻……………………………………………………………一六六
帯解替而廬屋立…………‥…………………………………………一六九
   四
占墾地使………………………………………………………………一七二
斯和何伎多利斯………………………………………………………一七四
古屋 鮫龍……………………………………………………………一八〇
   五
毛古呂…………………………………………………………………一八二
母許呂乎………………………………………………………………一八四
自伏……………………………………………………………………一八五
野島波見世追…………………………………………………………一八六
   六
山乎茂…………………………………………………………………一八八
秋去者…………………………………………………………………一九五
   七
よよむ…………………………………………………………………二〇〇
行行……………………………………………………………………二〇二
明日香川………………………………………………………………二〇四
   八
都萬麻…………………………………………………………………二〇七
 「つまま」禰考……………………………………………………二〇八
 「つまま考」附言…………………………………………………二一一
葦附……………………………………………………………………二一二
可頭能木………………………………………………………………二一四
『綜麻形』の訓に關する一提案……………………………………二一七
日並皇子の尊殯宮の時柿本人麻呂作歌のよみ方…………………二二五
ひさかた考……………………………………………………………二三〇
「うれ」の考…………………………………………………………二三六
伊久里考………………………………………………………………二四五
許知碁知の考…………………………………………………………二五四
「母等奈」考…………………………………………………………二六三
吉備酒と糟湯酒………………………………………………………二七三
堅鹽考…………………………………………………………………二七九
天橋考…………………………………………………………………二八四
姨捨山の成俊僧都の碑………………………………………………二九一
萬葉集と古今六帖……………………………………………………二九五
萬葉集の版本…………………………………………………………三二一
萬葉集防人歌…………………………………………………………三四五
萬葉集に佛教ありや…………………………………………………三八九
 
 萬葉集考叢
 
(1) 萬葉集名義考
 
 萬葉集の名義につきては萬世の義なりといふ説と萬の言葉なりといふ説と二樣世に行はる。これが本意を知らむとせば編纂の當時に用ゐられし意義を討究すべきものにして後人の臆斷を加ふべきにあらざるなり。
 今先づ、その萬の言葉なりといふ説につきて研究せむ。この解釋は近くは荷田東麿賀茂眞淵二大人によりて唱へられて殆ど定説の如くなりてあれど、必ずしも盲從すべきにあらず。抑もこの説は蓋し仙覺が萬葉抄を初とすべきか。曰はく、
  先此集を萬葉と名づくるは何の意ぞや。これはよろづのことの葉の義也。
といひ、かくて萬葉集とのみいひて古今和歌集の如く和歌の文字を加へざるものは萬葉に言葉の義あるによるといへり。近世に至りては契沖は兩義をあげて一決せず。その萬の言葉の義としての説に曰はく、
  古今集眞字序曰各獻2家集并古來舊歌1曰2續萬葉集1 於v是重有v詔、部2類所奉之歌1勤爲2二十卷1名曰2古今和歌集1。 假名序曰やまと歌は人の心を種として萬の言の葉とぞなれりける。云々。此萬の言葉と云るに續萬葉と名付たる最初の心籠るべし。
と。眞淵翁はこれらを敷衍して力説せるのみにして新義を發見せるにあらず。
 さてかく論ずる所を見れば一往の理ある如くなれど、必ずしも首肯すべからず。その古今集の眞字序に「曰2續萬(2)葉集1」といへるは本朝文粹に載する文には無き所なれど、そを本より有るものとしたりとて、これを以て假名序に「萬の言のは」といへるが、萬葉の文字を下にふみて書けりとはいはるべからず。萬のことのは即萬葉の義にてありしならば何が故に眞字序に之に對する語を萬葉とも言葉ともせずして詞林とはいへりや。今之を對比して示すこと次の如し。
  やまと歌〔四字傍点〕は人の心を種として〔六字右○〕よろづのことの葉〔八字右◎〕とぞなれりける。
  夫和歌〔二字傍点〕者託2其根於心地〔四字右○〕1發2其花於詞林〔五字右◎〕1者也。
見るべし、「心を種とする」を「棍於心地」といひ、「萬の言葉」といふを「詞林」にあてたるを、「ことのは〔四字右○〕」即「詞〔右○〕」に相當し、その多きを「林」にあてたるなり。「萬葉」に既に萬の言葉の義あらば、何ぞ「詞林」をここに用ゐるべき。ことにいはんや、萬葉集の續編を以て任ずるものならば、なほさらこの萬の言葉の義をここに聲言すべきにあらずや。これを以て見れば、この序を以て論をなすは全く不可なりとすべきなり。
 次に萬葉集を萬の言葉の集とせずば何を集めたりとも解せられぬ由いへるは如何。惟ふにこれ所謂英雄欺人の言なり。若しこれをその本心より出でたりとせばこれ實に書名を解する能力だになきものの言といふべきに至らむ。抑も集といふ語はもと支那の語にして一人若くは衆人の詩賦文章等を輯めたる書の總名にして六朝の頃既にこの名目あり。隋書經籍志に既に經史子集の分類を用ゐたり。本邦にても、大宗文皇帝集、許敬宗集、※[まだれ/叟]信集、群英集等の名、天平の古文書に見ゆるのみならず、天平勝寶八載の東大寺献物帳にある聖武天皇宸筆の雜集現存するにあらずや。その集の名には作者の名を冠して何の文集くれの詩集といふこともあれど、又人名のみを冠し又は地名年號を以て名づくるものあり。かくの如きを一々何を集めたりや解せられずと咎めだてもせらるべきものにあらず。か(3)の人々の論法を以てせば、たとへば陶潜集といふは陶淵明を多く集めたりと釋すべきか。その論の通ぜざること極めて明かなり。要するに集といふ文字あれば、そが詩文の集たることは自明の事に屬す。若し集字を用ゐざる場合あらば、その時こそかへりてそれに詩歌文章などの文字を加ふるを要すべきものなれば、これらの論は全然とるに足らざるなり。
 ここに於いてこの萬葉を萬の言葉といふ義に釋せむには、その命名せられし時代にこれが用例ありといふことを示さざるべからず。余この事を決せむが爲に諸書を通覽したれど、管見の及ぶ所、萬葉を以て萬のことばの義とせるもの一も存するを見ざるなり。惟ふに萬葉集にこの義ありとせば、その名を命ぜし人にかく用ゐるだけの時代上の素地存せざるべからざるなり。萬葉集の編纂は吾人が既に心の花誌上(大正十三年十二月號・本書一四頁)にて論じたる如く、寶龜二年以後なるべきが、その時代は如何に下りたりとも大同の頃より後にあらざるは明なるが、この頃にあらはれたる萬葉の熟字多しといへども、一も萬のことばの義なるを見ざるなり。近頃ある學者ありて、萬葉集は類聚歌林に對したる名にして歌林萬葉と對句をなせるより出づといふ如き説をなせりと聞く。されどかくの如きは對句といふべきものにあらずしてかかる對句は古今に一も見たることなきものなり。「歌林」の對に「葉」字を用ゐんとならば「言」とか「語」とか「詩」とか「謠」とかの如き文字を冠せしむべきものなり。又「萬葉」を基とせば「林」字には千とか百とか、若くは疎對となれど、「茂」とか「蓊」とかいふ語を加へざるべからざるものなり。若しここに「歌林萬葉」といふ成語ありしを分割しては一は歌林といひ一は萬葉といへりといふならば、論は面白かるべきものなれど、さる事もとよりなし。況んや「萬葉」を萬の言葉とするに當りては豫めこの「葉」字に「ことば」の意ありといふことを證明しての上ならざるべからざる筈のものなり。論者果して之を證し得るか。
(4) ここに於いて吾人は更に眼を轉じて萬葉集を萬の言葉と釋する如く葉字を言集に用ゐたる例ありやと見るに、勅撰集にては金葉集をはじめ玉葉集、その他新葉集等あるを知る。これらは金玉の言葉などいふ義なること明かなり。しかもこの金葉集より以前にかかる書名は殆ど存するを知らず。果して然らば金葉集の頃より「葉」字をことばの義に用ゐたりとすべきか。然れども今輕々しく之を決するを得ざるなり。
 抑も萬葉といふ熟字は漢語にして國語にあらず。「ことば」といふ語に言葉といふ文字を宛つるによりて萬葉即ち萬の言葉なりといふが如き解釋は今日にても小學生などのいふ事にして苟くも漢字を正しき意義にて用ゐむと欲するものの夢想だにせざる所なり。この故に「言葉」といふ漢語の熟字の成立は無造作に提言せらるべきものにあらず。されば契沖はその據として劉※[にすい+煕]が釋名に、
  人肥え曰v歌、歌柯也。如3草木有2柯葉1。
といふを引きて葉に歌の意ありとせり、かくては萬の言の葉といふ意にあらずして、萬の歌の集といふべきこととなりて、契沖が、先に論ぜしものと意かはれり。しかもこの釋名の釋は同音の語を以て比喩としたるものにして「歌」は「柯」に比したるまでに止まり、「葉」は言語上傍及せるにすぎず。されば、これは葉即歌といふ義を示したるものにあらざるのみならず、葉即ち歌なりといふことを實例に示せるもの一も有することなきなり。ことに況んや葉即「ことば」といふ義をや。これを以て吾人はこれに依りて論を立つることを得ざるなり。
 ここに於いて吾人はこの葉字を以て「ことば」の義とせむには必ず先づ「言葉」の熟字の漢文の上に存せざるべからざるを豫想せり。而してその「言葉」といふ熟字は「樂花禮葉」の語に見る如く必ずや「詞花言葉」といふが如き熟字中に對語としてあらはれたるべきを豫想せり。よりて之を古書中に求めしに「詞華」の語は杜甫の詩に存(5)するを見たれど、これに對して「言葉」といへるを見ず。かくて初學記を閲して
  辭條 言葉〔四字右○〕
の對語の記されたるを見たり。その「辭條」の出典には
  陸士衡文賦曰普2詞條〔二字右○〕》與文律1良予膺之所v服。
をあぐ。この「詞條」は標題の如く文選には「辭條」に作れり。「言葉」の出典には
  王充論衡曰「或曰著書之人博覧多聞、」學問習熟則能推v類興v文。文(由)v外而(興)、未2必實才(學)文相副1也。且淺2意於華葉之言〔七字右○〕1無2根※[草冠/亥]之深〔五字傍点〕1不v見2(大道體要)1也。(超奇篇の文なり。括弧内は原書により補ひ若くは訂したるなり。)
を引けり。之によりて見るに論衡には言を華葉に比していへるのみにして言葉といふ成語の存するにあらず、且つその華葉の言といふは根※[草冠/亥]の深きもののなき言をいへるにて、今の語を以ていへば、浮華にして棍柢なき言といへるに似たるものにして本邦の「ことば」の義には相當るものにあらず。然るに初學記には成語たる辭條に對する語とせるものは豈に王充の本意にあらむや。惟ふに初學記編纂の當時辭條に對して言葉の語あるも可なりとは認めたれど、これが出典を求めて得ず。王充の似而非なるものをとりて強ひて出典の如くにして一時を糊塗せしものなるべし。
 兎に角に「言葉」といふ成語はここにあらはれたり。初學記は唐の徐堅等の撰にして藤原佐世の見在書目にも載せたれば、古く本邦に渡來したりしを見れど、その言葉の熟字の用例は支那のものにては未だ之を見ず。本邦にても萬菓編纂の頃に用ゐられしを見ず。
(6) 今本邦にて「言葉」といふ成語の用ゐられし實例を見るに、續本朝文粋に載する藤原義忠(寛弘元−長久二)の「菊爲花第一」を賦する詩の序をはじめとするものの如し。曰はく、
  詞條言葉〔四字右○〕之花、翰墨成v林、麟趾鹿鳴之篇、雅頌溢v巷矣。
と。これまさしく初學記の對語を踏襲せるものにしてその「言葉」は論衡の原意にあらずして本邦の「ことば」の意となれり。按ずるにこれより先、本朝文粋に載する大江以言の「松竹」の對策の問に、
  南條北葉之詞明根※[草冠/亥]〔九字右○〕而露布。
とあるは、これ初學記の「辭條言葉」の條に準據せるはじめにして、これより漸をなして後かの義忠の序の如くになれりしものなるべし。次には惟宗孝言の文二あり。一はその「讀晋書詩」の序なり。曰はく、
  雲客霹才之旁來也、言葉〔二字右○〕振2金玉之韻1、儒道吏途之咸集也、詞華〔二字傍点〕※[手偏+離の左]2錦繍之文1。
一は延久三年の「納和歌集於平等院經藏記」なり。曰はく、
  徒飛2虚詐花餝之言葉〔二字右○〕1互載2輪廻生死之罪報1。
と。次には藤原正家(萬壽三−天永二)の「勝地植松樹」の詩の序なり。曰はく、
  棘路※[木+巳]梓之才卿振2言葉〔二字右○〕於春木之筆1、蓬壺鴛鴦之羽客瑩1詞霹〔二字右○〕於夜月之文1。
と。次には藤原敦隆(鳥羽の御宇)の和歌類林の序なり。曰はく、
  淺香山之篇裁2錦文於言葉〔二字右○〕之上1、明石浦之什振2金聲於詞浪〔二字右○〕之中1。
と。
 今これらを通覽するに第一にあらはれたる義忠の文は初學記そのままといひて可なり。これに次いで「言葉詞花」(7)といふ對語生じ、次に「詞露」「詞浪」に對して「言葉」といひ、後には專ら單に「言葉」として用ゐらるゝに至りしものなるべくて、その漸進の經路まことに歴然たるものあり。惟ふに、唐にては初學記に「言葉」といふ成語をあげたれど、その證適切ならずして用ゐられざりしが、本邦には「ことのは」又は「ことば」といふ語もとよりありて之を「言葉」とかくに適するによりて之を襲用するに至りしが、漸次に發展して「言葉」を單獨に用ゐるに至りしならむ。かくの如く義忠より敦隆に至るまで約八十年の間に馴致せられて「言葉」といふ熟字は漸く世の耳目に熟したりと想像すべし。
 かくの如く考へ來れば、金葉集といふ書名のかの時に起りしは偶然にあらざるを見る。この集は白河院の勅を奉じて源俊頼の撰せしものにして大治二年に成りしものなれば、略敦隆の時と同じとす。即ちこの時は「言葉」といふ熟字の流行せし時なれば、金玉の言葉の義にとりて「金葉集」とはいひけむか。かくてこの頃の歌集に「言葉」(惟宗廣言の集の義なるべくして「ことば」の意にはあらじ、されど「言葉」の「葉」にこの意あり)後葉集などの名の存するも同じ意によれるならむ。
 惟ふに萬葉集を萬の言葉の集なりと解するは恐らくは此の時代に流行せし「言葉」といふ語に基づくものにして、決して古き解釋にはあらざるべきのみならず萬葉集編纂の當時には「言葉」といふ熟字だになし。況んや「葉」字を以て「ことば」にあつるが如き當時の人の夢想だにもせざりし所なるべきなり。
 按ずるに、萬葉といふ語の文字通りの意義は多くの草木の葉といふことにあるはいふまでもなく、その意義にての用はもとより多し。その例は佩文韻府にも少からず。淮南子精神訓に
  伐v樹而引2其本1、千枝萬葉莫v弗v從也。
(8)とあるよりはじめて一々あぐるに堪へざるが、降りては白氏文集の截樹といふ詩に
  一朝持2斧斤1手自截2其端1萬葉落2頭上1千峯來2面前1。
とあるなど皆その義なり。されどそれらは今ここに論ずる限りにあらず。
 かくして殘る所は萬葉を以て萬世の義とする解なり。抑も「葉」の字を世代の義に轉用せることは由來甚だ古く、詩經の商頌に
  昔在中葉〔二字右○〕看v震且業。
とある毛氏の傳に「葉世也」と注せり。かくして三葉、五葉、七葉、八葉、九葉、十葉、千葉をはじめ、上葉、中葉、後葉、來葉、季葉、累葉、重葉、奕葉等世代の意にて用ゐたる熟字頼る多し。而して萬葉の熟字は上にいへる如く本來の草木の葉の義なるものの例もとより少からねど、萬世の義なるものも頗る多しとす。それらの例は一々あぐるに堪へざるなれど、二三の例をあぐれば、次の如し。文選顔延年の曲水詩序に
  拓v世貽v統固萬葉而爲v量者也。
とあるはその一例なり。李善が之に注せるに
  晋中興詔桓玄曰、蕃衛王家垂2固萬葉1。
とあり、同じ人顔延年の武帝謚議には
  道固2萬葉1。
とあり。晋書武帝紀論に
  見2土地之廣1謂萬葉而無v虞。
(9)沈約の立太子恩詔(文館詞林六六九)に
  長世流祚垂2之萬葉1。
隋書薛道衡傳に
  叶2千齡之旦暮1當2萬葉之一朝1。
とあるなどにて見るべし。唐代の例は太宗の貞觀十一年詔に
  庶敦2反本之俗1暢2於九有1貽2諸萬葉1。
又貞觀中誕皇孫恩降詔に
  一人之慶既洽、萬葉之祇無疆。
とあり。又李※[災の火が邑]の曲阜孔廟碑に
  廟食列邦不v假2手于復續1、君長萬葉必歸2心乎素王1。
とあり。更に白樂天には新樂府の法曲歌に
  中宗肅宗復2鴻業1、唐祚中興萬萬葉。
といへる如き例もあり。いづれも萬世の義なり。唐以後のものは今要なし。かくして萬の言葉の意義なるものは支那のものにては唐までには一も見たることなし。
 然らば本邦に於いては如何といふに、その萬葉の熟字の用例を見るに、すべて萬世の義なるのみにして萬の葉の義なるだに見えず。況んや萬の言葉の義をや。先づ、この集の名をいへるものを除き、その他にして「萬葉」の字面の正史の上に古く見ゆるは日本後紀の延暦十六年二月に載する上續日本紀表に
(10)  庶飛v英騰v茂與2二儀1而垂v風、彰v善※[病垂/單]v惡傳2萬葉〔二字右○〕1而作v鑒。
とあるものなるが、桓武天皇御筆大般若經十六會序に
  洗2客塵於八區1、霈2玄滋於萬葉1。
とあり。これより先に左大臣藤原魚名が平城涼に萬葉寺といふ寺を建てしことあり。日本高僧傳要文抄に引きたる延暦僧録に
  又於2奈羅西山1造2萬葉寺〔三字右○〕1
と載す。魚名は延暦二年七月に薨じたるものなれば、これは明に奈良朝の軍に屬せり。次には廷暦二十年十一月に記したる多度神宮寺縁起并資財帳に
  次願聖朝文武フ2水※[さんずい+帝]1善動2乾坤1誓2千代平朝萬葉〔二字右○〕常君1。
と記したるあり。又日本後紀大同元年五月に載する五百枝王の上表に、
  伏冀長沐2霈澤1保2終吉於一門1、遠貽2孫謀1榮2宗枝於萬葉〔二字右○〕1。
又大同二年に上れる古語拾遺に
  隨v時垂v制流2萬葉〔二字右○〕之英風1、興v廢繼v絶補2千載之闕典1。
と見え、弘法大師の三教指歸に
  戴盆元請永傳2萬葉1。
と見ゆ。又續日本後紀の承和元年十二月令義解を施行する詔の中に
  宜d頒2天下1普使c遵用u畫一之訓垂2於萬葉〔二字右◎〕1。
(11)とある、いづれも萬葉の義ならざるなし。これらより後の文にしては本朝文粹なる菅原文時の「侍宴冷泉院」の詩序に
  冷泉院者萬葉〔二字右○〕》之仙宮、百花之一洞也。
とある萬葉は百花に對せる故に木葉の如くに見らるる如くなれど、なほ萬世の義なること疑ふべからず。次には朝野群載卷十六なる阿闍梨齊朝の傳法灌頂歎徳文に
  結縁灌頂之秘法者是累代〔二字傍点〕萬葉〔二字右○〕之御願、群類人望之玄門也。
といひ、續文粋なる藤原敦光の白居易祭文に
  誠是一代之詩伯、萬葉〔二字右○〕之文匠也。
といへり。この齊朝、敦光の時代は既にいへる如く、「言葉」といふ字面の流行せし時なるに、いづれも萬世の義にして萬の言葉の義をあらはしたるを見ざるなり。これを以て考ふれば、本邦に用ゐたる萬葉の字面は和習を帶びざる限りいづれも萬世の義にして萬の言葉の義に用ゐたることは和漢を通じて古今に一も例を見ずといふべきなり。(以上萬葉の語例に關しては橋本進吉氏の助言に得たる所少からず。記して謝意を表す。)
 ここに余は更にこの萬葉集の名につきて考察せむとす。萬葉集の名の史籍に見ゆるうちにつきては古今集雜部に
  貞觀の御時萬葉集〔八三字右○〕はいつばかりつくるぞととはせ給ひければ云々
とあるを以て最も古しとすべし。次には新撰萬葉集の序に
  夫萬葉集〔三字右○〕者古歌之流也。(中略)于時寛平五戟秋九月廿五日云々
とあるものなり。次には古今集の假名眞名の兩序あり。新撰和歌の序あり。これらいづれも萬葉集の名を掲げたる(12)のみにしてこれが義を證する資料とするに足らず。
 ここに至りて余はかの萬葉集の最初の點者と目せらるる源順が如何に見たるかを檢せむ。源順集に曰はく、
  天暦五年宣旨有て、初て大和歌撰ふ所梨壺におかせ給ふ。古萬葉集〔四字右○〕よみときえらはしめ給ふなり。めしおかれたるは河内掾清原元輔・近江掾紀時文、讃岐掾大中臣能宣、學生源順、御書所預坂上茂樹也。藏人左近衛少將藤原朝臣伊尹其所之別當にさためさせ給ふに云々
と。この時伊尹を撰和歌所別當に任ぜられたる宣旨奉行の文案は、源順が草せるものなる由本朝文粹にて明かなり。その文中に、
  昔雖d柿本大夫振2芳聲於萬葉〔二字右○〕1、華山僧正馳c高興於片雲u
といふ語句あり。これは萬葉集をさせるに止まりて、強ひて萬世の義に釋すべきにあらざるべし。而して、その撰和歌所なる梨壺に於ける制札たる「禁制闌入事」の文案も亦順が草せるものなるに、その文中に
  右藏人少内記大江澄景仰云、件所名渉2妖艶1實入2神秘1、振2萬葉〔二字右○〕之曩篇1、知2百代之遺美1。
といへり。これまさしく萬葉を百代に對せしめしものにして萬世の義に釋すべきを證せり。順にして之を萬世の義にとれりとせば、その以前に萬の言葉と考へてこれが名を命じたりといふことは益強言たるを見るべきなり。
 以上論ずる所によりて萬葉集の名の萬世の義なることは殆ど、否認せらるまじと信ず。なほこれにつきていふべきことあり。源順の頃より後の諸書に多くはこれを古萬葉集〔四字右○〕といへり。この事亦一往顧みるべき點あり。この古萬葉といふ名は古今集序なる續萬葉に對していへるにあらずして、實に新撰萬葉集に對していへる名目たるなり。この新撰萬葉集は萬葉集に繼ぐを旨とせることはその序に記せる所なるが、その載する所の歌三百餘首に過ぎざるな(13)り。若し萬葉集の名、萬の言葉の義なりと認めしならば、菅公はその三百餘首を録したる集を以て萬葉の名を冐すを快しとはせざりしならむ。これを以て見てもそれが萬世の義なることいよ/\信ずべきなり。
 萬葉集を萬世の義の名なりとするにとりてもなほ考ふべきことあり。往時萬世の歌を收めたる義とすべきか、或は古今の歌を收めたる義とすべきか、はた將來萬世に傳はれと冀へる義とすべきか。今本邦に於ける萬葉の字面の用例を通覽するに將來をいへると古今を通じたるとの二樣あるのみにして單に往昔のみの義にとれるは一も存せず。更に溯りて支那の例を見るにまた然り。然れば、萬葉集の名義は古今の歌を集めたる義か、若くは萬世に傳はれと祝する義かのいづれかにあるを考ふべし。古今集はそのはじめ續萬葉集といひしを部類を立て編纂の體裁を改めたるによりて古今集と改め稱へたる由なるが、その古今も亦萬葉の意をいひ換へたるまでのものなるべければ、萬葉集も亦古今の歌を收めたる集の義とすべきか。しかもなほ後來萬世に傳はれと冀へる意にもとらるれば、それはまさしく千載集と同じ意にて命名せられしものの如し、かの集の序に曰はく
  過ぎにし方も年久しく今ゆくさきも遙かに止らむため、この集を名づけて千載和歌集といふ。
萬葉集の名義之に準じて略推知するを得む。しかも寧ろ千載集の名は萬葉集の名に範をとれるものといふべきなり。
   (大正十四年二月、國語と國文學第二卷第二號)(昭和二十四年十二月四日補修)
 
(14) 萬葉集の編纂は寶龜二年以後なるべきことの證
 
 萬葉集の撰者につきては古來或は橘諸兄公なりといひ大伴家持卿なりといひ諸説一定せず。然れども今に於いてこれが撰者を論定せむは容易のわざにあらず。次にその編纂の年代につきても或は奈良朝にありとし、或は平城天皇の朝とす。これも亦容易に論決せらるべき問題にあらず。
 今これらの編纂の年代につきて從來の説よりはやゝ確實に或る年代以降なるべきを證すべき事案をあげて世の識者に教を請はむとするに先だちて古來本書の年代に關して如何なる論議の行はれしかを一瞥せむ。
 紛々たる想像論は余輩の研究には何等の價値なきものとして一掃し去らむが、契沖の説は古來傾聽すべきものとせられたり、曰はく、
  今此集の前後を見てひそかにこれを思ふに中納言大伴家持卿若年より古記類聚歌林家々の集まで殘らずこれを見て撰び取りその外むかし今の歌見聞にしたがひ或は人に尋問ひて漸々にこれを記し集めて天平寶字三年までしるされたるが、その後とかく紛れて部顆もよくとゝのへられぬ草案のまゝにて世に傳はりけるなり。
といへり。げに卷中に年代を明に記せるは天平寶字三年までなればかくいへるは然るべきことなり。かくてこれより後大方この論によりて年代を論ずるに止まり、その他はすべてただの想像にすぎざるなり。
 然れども余はかの卷第十四なる東歌の國名の順次によりてこれはそれよりも遙に下りて寶龜二年以後なるべきこ(15)とを論證するを得るなり。
 今先づ萬葉集全部を通觀するにこはまさに次の如く十四種の歌集の集合體なるを見る。
  一、卷第一第二、相通じて雜歌、相聞、挽歌の三に分類せり。
  二、卷第三第四、相通じて雜歌、譬喩歌、挽歌、相聞の四に分類せり。
  三、卷第五、雜歌、特別の一卷なり。
  四、卷第六、雜歌、年代順に排列せり。
  五、卷第七、雜歌、譬喩歌、挽歌歌の三に分類せり。
  六、卷第八、春、夏、秋、冬に分ち、各雜歌、相聞の二に分類せり。
  七、卷第九、雜歌、相聞、挽歌の三に分類せり。
  八、卷第十、分類卷第八におなじ。
  九、卷第十一、第十二、總括して古今相聞往來歌類(上、下)と題せり。
  十、卷第十三、雜歌、相聞歌、問答歌、譬喩歌、挽歌の五に分類せり。
  十一、卷第十四、東歌。
  十二、卷第十五、一種の體裁あり。
  十三、卷第十六、有由縁雜歌。
  十四、卷第十七、第十八、第十九、第二十、年代順にして家持の手稿本に基づくべし。
 以上の如くにしてこの十四踵は本源必ずしも一ならざるものにして、第一類第七類の如きはその編纂頗る古きも(16)のなるべく、第十四類の如きは採録のまゝにして整理を加へざるものなるべきなり。
 かくてその一類として特立すべき卷第十四の編纂法を見るに、先づ卷頭に題して東歌と記して特別の一類なることを示せり。而してこれを通覽するに、第一に、國名の明なるものと未勘國の歌とに大別せるを見る。その未勘國のものは下半部に載するものにして、
  未勘國雜歌十七首
  未勘國相聞往來歌百十二首
  未勘國防人歌五首
  未勘國譬喩歌五首
  未勘國挽歌一首
と記せるものこれなり。この未勘國の東歌の分類は
  雜歌 相聞往來歌 防人歌 譬喩歌 挽歌
とせるものなるが、かくの如き分類は甚だ異樣にして防人歌を一種の目とせしが如きは頗る變例に屬す。これを除きて見れば、これは卷第七、又卷第九に似たれど、それらよりも項多くして二者を一にしたるさまなり。畢竟これは未勘國の分なる爲に分類を整へざりしものと見えたり。きてその國名の明なるものにつきて見るにまさに次の如く三に分類してしかも國名を繰返して列記せるを見る。(順序は原本のまゝにして同じ國名を一行に見安く記したるなり。)
 雜  歌  相 聞 往 來 歌   譬 喩 歌
(17)     遠江覿相聞往來歌    遠江國譬喩歌
       駿河國相聞往來歌    駿河國馨喩歌
       伊豆國相聞往來歌
       相模國相聞往來歌    相模國譬喩歌
       武藏國相聞往來歌
 上總國雜歌 上總國相聞往來歌
 下總國雜歌 下總國相聞往來歌
 常陸國雜歌 常陸國相聞往來歌
 信濃國雜歌 信濃國相聞往來歌
       上野國相聞往來歌    上野國譬喩歌
       下野國相聞往來歌
       陸奥國相聞往來歌    陸奥國譬喩歌
かく雜歌相聞往來歌譬喩歌の三類法をとりてしかもかゝる順序をとりて配列せるはいづれの部類にもなき一種の分類法なりとす。さてこの三分類中の國名の配列を見るに遠江にはじまりて、陸奥に終り、之を分解して考ふれば東海道は遠江より東山道は信濃よりして東を東歌の區域とせること略現時の東國方言の區域に一致せり。而してその配列は東海東山兩道の國の順序に一致するを見れば、これは漫然と配列して偶然にかくなれるにあらざるを考ふべし。
(18) 今かく考へ來るときはこゝに、この編纂は寶龜二年以後にありといふを考へざるを得ざるなり。その故如何とならば今相模と上總との間にある武藏はまさにこれ東海道に屬してあることを證せるものと見るべきが、武藏はその昔東山道にして東海道にはあらざりしものなるを以てなり。武藏園が、東山道より東海道に編入せられしは實に寶龜二年にありとす。
 續日本紀卷第三十一、寶龜二年冬十月の條に曰はく、
  己卯太政官奏、武藏國雖v屬2山道1兼2承海道1、公使繁多祗供難v堪、其東山驛路從2上野國新田驛1達2下野國足利驛1此使道也。而枉2上野國邑樂郡1經2五箇驛1二2藏國1事畢去日又取2同道1向2下野國1。今東海道者從2相模國夷參驛1達2下總國1其間四驛往還便近。而去v此就v彼損害極多。臣等商量改2東山道1屬2東海道1。公私得v所人馬有v息。奏可。
と。その東山道より除きて東海道に改め屬せしめられしに到れる理由は余輩往年これを新公論といふ誌上にて論じたりしことあるを以て今之を略す。とに角にこれを以て、この東歌の卷の編次は武藏國が東海道に編入せられし後にあるべきは明なりとす。若し寶龜二年以前の編纂とせば、武藏の位置は、續日本紀卷六(和銅六年五月)同卷二十二(天平寶宇三年九月)に記せる如く、上野と下野との間にあるべきものなりとす。
 この卷第十四に採録せる歌はもとより古かるべきものなれども、この編次は寶龜二年以後なるべきことは考へられざるべからず。從つて萬葉集全部の編纂はこの卷第十四の編次より古かるべき道理なければこれも亦寶龜二年以後とせざるべからず。しかもこの寶龜二年より延暦十三年の遵都まで、二十四年あればこの間に編せられたるものとせばなほ奈良朝時代の編纂たりといふを妨げず。されど普通には光仁天白皇の御宇までを奈良朝といへれば、これ(19)より後十年間に編纂せられてはじめて奈良朝の編纂なりといふを得べきなり。
 かく考へ來れば、かの契沖の天平賓字三年云々の説も必ずしも首肯せられねやうになるべきなり。何となればその材料に明記せられたる年代はまさしく天平寶字三年を最後とすれど、かく賓龜以後に編次せし證を見れば、天平寶字三年までに成りしものをそのまゝ踏襲せりといふを得べからぬを以てなり。
 かくて從來考へられし年代及撰者の論は當然に再考を要求せざるべからざることとなる。これにつきては余も考ふる所なきにあらねど、そはこの編の本旨の外なれば他日を期せむ。敢へて世の識者の教を俟つ。
   (大正十三年十二月、心の花第二十八卷第十二號)
 
 
(20) 古事記と萬葉集
 
 古事記と萬葉集との關係は表面的に見れば頗る簡單で深いかゝはりは無いやうに見ゆるが、その内面に立ち入つて考ふれば頗る緊密なつながりがあるやうに思はれてくる。今先づその表面的の事柄に目をつけて見る。
 萬葉集古義の總論一に引用書目と題して
  古事記、日本書紀、古歌集、柿本人麿集、笠金村集、高橋蟲麿集、田邊福麿集、山上憶良類聚歌林、以上八部の書は此集編るとき家持卿などの引用られしものとおぼゆ。中には此集より後の人の書加へとおぼゆる處もあり。此餘に或本(ニ)曰、一書(ニ)曰などあるはおほくはかの仙覺などが諸本を校しとき書注したるものと見ゆ。
と云つてゐる。これは萬葉集の編纂にあたつて、これらの古書を資料として參照したものであると古義の著者が考へた由を物語つてゐるのである。但しその或本曰、一書曰などあるのを仙覺などが諸本を校合したとき書き注したものとする考はそのまゝ賛成出來ぬ。それらのうちには古義のやうに考へねばならぬものもあるかも知れないが、その多くは仙覺以前の古寫本に見る所であり、原本に既にさういふことを注し加へたらうと思はるゝこと明らかなものもあるからである。
 さて、然らば古事記は如何なる所に引用せられてあるかといふに、卷二の首に、仁徳天皇御宇の「磐姫皇后思天皇御作歌四吉」が載せてある。その第一の歌は
(21)    君之行氣長成東山多都禰迎加將行待爾可將待(八五)
      右一首歌山上憶良臣類聚歌林載焉
とある。さうしてその四首を掲げた後に
      或本歌曰
   居明而君乎者將待奴婆珠乃吾黒髪爾霜者零騰文(八九)
      右一首古歌集中出
とある。之は第三番の歌に對照せしめたものであらう。かくてその次に「古事記曰云々」と詞書を加へて、
    君之行氣長久成奴山多豆乃迎乎將往待爾者不待(九〇)
      此云山多豆者
      是今造木者也
といふを出し、左注には古事記と類聚歌林と「所説不同云々」と説いて日本紀を參考として論じてゐる。それらに就いては下に論ずるであらう。古事記を引用したのは卷十三にも一ケ所ある。それはその卷の相聞の中の三二六三番の長歌で、それには左注として
      檢古事記曰件歌者木梨之輕太子自死之時所作者也
とあるのである、萬葉集の中に古事記の名の見ゆるのは右の二ケ所に止まるのである。
 以上の古事記に關する歌及び左注は萬葉集の原本から在つたものか、又後人が加へたものかといふに、一般には原本から在つたものと信ぜられてゐる。又卷二にある古事記の歌は普通には本文として取扱つてゐるけれど、萬葉集古義は八五番の歌の左注の次に「古事記曰云々」以下の文と歌と更にその歌の左注の長い文とを引きつづいた左(22)注として、
  古事記曰云々の文歌共に舊本下の或本歌曰|居明而《ヰアカシテ》云々の下に本文の列に載しは誤れるものなるべし。故今改て此間に小書せり。云々
と云つてゐる。かやうにこれらをすべて左注としてしまつたが、それは原本に左注としてあつたといふのか、後人の加へた注と考へたといふのか、何とも云つてゐない。かくてその卷十三の長歌の左注の「檢古事記云々」については
  此註は此(ノ)集を編たる人の書たるか、または彼仙覺などが註せるにもあるべし。今姑(ク)本のまゝに載つるなり。
と云つてゐるが、暗に後人の注であつて原本の注で無いかも知れないといふやうな口ぶりを示してゐる。それ故にこれらの點に就いて明確な決定をしておかねば論は進められぬ。
 萬葉集の今の本に見る所の左注には編者の自ら加へたものもあると思ふが、又後人の加へた注も少くは無いと見ゆる。今卷十三から例をとつて見れば、三二二四番の歌の左注に「此一首入道殿讀出給」とあり、三二三一番の歌、三二三五番の歌の左注にも略同じことが見ゆる、これらは皆後人の注記であることは明かである。しかしながら、三二二七番(長歌)、三二二八番、三二二九番(反歌)の次に
      右三首、但或書此短歌一首(三二二九)無有載之也
とあるのや、三二三〇番(長歌)、三二三一番(反歌)の左注「此歌人道殿讀出給」の次の行に
      右二首、但或本歌曰、故王都跡津宮地也(三二三一番に對して)
とあるのや、三二四〇番(長歌)、三二四一番(反歌)の左注に
(23)     右二首、但此短歌(三二四一番)者或書云穗積朝臣老配於佐渡之時作歌者也
とあるのは皆原本の自注であらう。更に又三二五五番(長歌)三二五六番、三二五七番(反歌)の次に
      或本以此歌一首(三二五七)爲之紀伊國之濱爾縁云鰒珠拾爾登謂而往之君何時到來歌之反歌也。具見下也。但依古本亦累載茲
      右三首
とあるのは明白に編者の注したものと認めらるゝ。即ちそれはこの卷の問答歌の末の三三一八番の長歌が
    木國之濱因云鰒珠將拾跡云而妹乃山勢能山越而行之君何時來座跡玉桙之道爾出立云々
の反歌四首の第二の三三二〇番の
    直不往此從巨勢遺柄石瀬踏求曾吾來戀而爲便奈見
をさしたことは明白である。又三三四七番の歌の左注に
      或本歌曰覊乃氣二爲而
とあるは第二句に異なる傳があるのを示したのである。又、三三四四番の長歌の反歌(三三三五)の左注に
      右二首、但或云此短歌者防人妻所作也、然則應知長歌亦此同作焉
とある。これはその反歌を防人妻の所作とする説があるといふのであり、さうだとすればこの長歌も同人の作だらうと考へたといふのであるが、これもやはり原注なのであらう。しかし、又原本の注で無いと思はるゝものも散見する。三二六〇番の長歌に伴ふ反歌(一三六一)
    思遣爲便乃田付毛今者無於君不相而年之歴去者
(24)の左注に
      今案此反歌謂之於君不相者於理不合也、宜言於妹不相也
とあるのや、三二八四番の長歌に
    菅根之根毛一伏三向凝呂爾吾念有妹爾縁而者言之禁毛無在乞常云々
の左注に
      今案不可言之因妹者應謂之縁君也、何則反歌云公之隨意焉
とあるのはその反歌(三二八五)に
    足千根乃母爾毛不謂※[果/衣]有之心召縦公之隨意
とあるので、それの詞と相照して論じてゐるのであるが、その論は三二六一の左注と同じ趣であつて一理窟述べたててゐるので、原本の左注とは思はれぬ。恐らくは萬葉集研究家の意見の記入であらうが、しかも、それらは元暦本にも天治本にもあるのであるから、それも頗る古いものであると思はるゝのである。しかも、原本にあつたものだといひ得ないやうである。
 かやうに卷十三の一卷だけでも、左注にはいろ/\あるやうだが、他の卷々も之に準じて考へらるゝ。それ故に、左注には原本からあつたと思はるゝものがあり、後の記入と思はるゝものもあり、その後の記入も仙覺よりも古い時代の研究者の記入が少からずあると思はるゝ。さうするとこの卷十三の三二六三番の歌の左注は原本のものか、後人のものか、よくよく吟味せねばなるまい。この
      檢古事記曰、件歌者木梨之輕太子自死之時所作者也
(25)といふ左注は天治本にも元暦本にもあるのみならず、類聚古集にも同樣に加へてあるから、その以前の萬葉集に既にあつたことは明かで、仙覺などのしわざで無いことは明白である。問題は原本にあつたか、古點などの時の注記かといふ點にあるであらう。しかしながら以上の例どもを參照してもそれらによつてそのいづれであるかを決定することは困難なやうである。さてこの卷十三の組織は「雜歌、相聞歌、問答歌、譬喩歌、挽歌」の五部を立ててあつて一卷一類となつてゐるが、このやうな部立は他に見えぬ。最も古い部立は「雜歌、相聞、挽歌」で卷一、卷二の一類が之であるが、卷九もこの三部を立ててゐる。ここに卷十三に近いものとして卷九をとり、その左注に就いて見るに、後人の加へたものと認めらるゝものは無いが、春日藏歌一首(一七一九)の左注に
      右一首、或本云小辯作也、或記姓氏無記名字、或※[人偏+稱の旁]名號不※[人偏+稱の旁]姓氏、然依古記便以次載、凡如此類下皆效焉
とあるは卷十三の三二六一番の左注、三二八四番の左注と同じ程度の注である。古義は「これは後人の裏書なるべし」と云つてゐる。しかしながら卷九のこの前後の作者の名は「槐本歌」(一七一四)「山上歌」(一七一六)「春日歌」(一七一七)「高市歌」(一七一八)「春日藏歌」(一七一九)(春日藏首のことで春日藏が氏の名である)までが氏の名であり、その次から元仁歌(一七二〇−二二)絹歌(一七二三)島足歌(一七二四)麻呂歌(一七二五)等は名だけをあげてある。かやうに、氏だけで傳へた歌と名だけで傳へた歌とがあつたかlら、便宜上氏だけのものを一まとめにし、名だけのものをも一まとめにして、その中間に上の左注が加へられたので「凡如比類下皆效焉」と云つたのはこれらの如き記載法のすべてにわたつての説明であらうから、これは後人の注記では無く、必ず編者の注記で無くてはならぬ道理である。それから、この卷の首の
(26)      泊瀬朝倉宮御宇天皇御製歌一首
    暮去者小椋山爾臥〔右○〕鹿之今夜者不鳴寐家良霜(一六六四)
の左注に
      右或本云崗本天皇御製、不審正指、因以累載
とある。これは卷八秋雜歌のはじめに
      崗本天皇御製歌一首
    暮去者小倉乃山爾鳴〔右○〕鹿之今夜波不鳴寐宿家良思母(一五一一)
とあるのをさしたので、「臥」と「鳴」との差だけで殆ど全く同じ歌と云つてむよい程であるが、作者の傳が違ふので重ねて載せたといふのである。又
      沙彌女王歌一首
    倉橋之山乎高歟夜※[穴/牛]爾出來月之片待難〔三字右○〕》(一七六三)
の左注に
      右一首間人宿禰大浦歌中既見、但末一句相換、亦作歌兩主不敢正指、因以累載
とあるは卷三に「間人宿禰大浦初月歌二首」のうち第二首
    椋橋乃山乎高可夜隱爾出來月乃光乏寸〔三字右○〕(二九〇)
をさしたことは明かである。かくの如くに殆ど同じ歌をばその傳への異なるによつて重ねて掲げ而してその由を注したのであるから、かやうな左注は原本に既に在つたものと認めてよいであらう。又(27)
      大寶元年辛丑冬十月太上天皇大行天皇幸紀伊國時歌十三首
のうちの第一首
    爲妹我玉求〔右○〕於伎邊有白玉依來〔四字右○〕於伎都白浪(一六六七)
の左注に
      右一首、上見既畢、但歌辭小換、年代相違、因以累載
とあるのは同卷の第二首(この歌一つおいて前の)の歌をさすのであるがそれは「崗本宮御宇天皇幸紀伊國時歌二首」の第一首たる
    爲殊吾玉拾〔右○〕奥邊有玉縁持來〔四字右○〕奥津白浪(一六六五)
をさしたことは明白である。さて又上の十三首の第七首
    風莫之濱之白浪徒於斯依久流見人無(一六七三)
の左注に
      右一首山上臣憶良類聚歌林曰、長忌寸意吉麿應詔作此歌
とある。これは原注であることは著しい。又七夕歌一首并短歌(一七六四、一七六五)の左注に
      右件歌或云中衛大將藤原北卿宅作也
とあるのも原注であらう。以上卷九の左注の多くの例に照して見ると、卷十三の三二六三番の歌の左注の「檢古事記曰云々」の文も原注であらうと思はるゝのである。
 かやうに次第に左注の多くの例を見てくると、上の樣に考へらるゝのであるが、卷二に於いての「古事記云々」は(28)どうであらうか。卷二の古事記云々は左注では無くて、「或本歌曰」などと歌詞のやうにして書いたものと同じ性質のものと思はるゝもので左注といふことは出來ない。古義は上にも述べたやうに、八五番の歌の左注の次に「古事記曰」以下の長い文を九〇番の歌をもこめて左注としてしまつてゐるけれど、これはその文の位置をまで變更してゐるので甚しい武斷であるといはねばならぬ。
 この卷二のは古事記の歌(九〇)を掲ぐる爲にその出典たる古事記の語を抄出して題詞の如くにしたのである。かやうな記載例は稀だけれども、その歌の出典を題詞の如くに記して示した例は澤山にある。今卷一だけで少しく例を示す。天武天皇御製歌(二五)の次に
      或本歌
    三芳野之耳我山爾時自久曾雪者落等言(下略)(二六)
      右句々相換因此重載焉
とあり、又、五五番の歌の次に
      或本歌
    河上乃列列椿都良都良爾雖見安可受巨勢能春野者(五六)
      右一首、春日藏首老
とあるは上一首を隔てた歌
    巨勢山乃列列椿都良都良爾見乍思奈許湍乃春野乎(五四)
      右一首坂門人足
(29)に對しての異傳をあげたのであるが、この樣に歌を隔てて後にその異傳の歌をあげたのはこの古事記の歌の上げ方に似てゐる。又最初から
     或本從藤原京遷于寧樂宮時歌(七九、八〇)
と題したのもある。かくの如く「或本」と標して異傳をあげた例は甚だ多く一々枚拳することが出來ぬ。卷二には又
      一書曰、近江天皇聖體不豫御病急時太后奉獻御歌一首(一四八)
と標記したものがある。之は天智天皇の御代の部であるが、別にこの歌に對して異説異傳が他に示されてゐない。たゞその一書たるものが何か特別の書であつたのかも知れない。これと似たやうな題目が天武天皇の御代の部にもある。これは
      一書曰天皇崩之時太上天皇御製歌二首(一六〇、一六一)
と題したのである。これも、この歌に對しての異説異傳があるといふ譯ではあるまい。上にある歌(一五九)には
      天皇崩之時太后御作歌一首
とあるが、その太后も太上天皇も共に持統天皇をさすのであり、太后とあるは持統天皇即位前に記したもの、太上天皇とあるは御譲位後に記したもので、その出典が違ふからであらう。かくの如く或本、一書としてあげたのが多く、書名をあげたのは稀であるけれども、又卷十三には
      柿本朝臣人麿歌集歌曰(三二五三、三二五四)
      柿本朝臣人麻呂之集歌(三三〇九)
などの例がある。以上の種々の場合に照して考ふるに、「古事記曰云々」と書いて題詞の如くにしてその歌を記す(30)ことは異例では無いといふことを考へうるであらう。
 しかしながら、卷二の「古事記曰云々」として掲げたのはたゞその歌を掲ぐる爲にしただけのものではないので、上の類聚歌林に載せた歌(八五)に對して異説異傳をあげたのである。それ故にたゞその歌の出典を記した、卷十三の「柿本朝臣人麻呂歌集歌曰」「柿本朝臣人麻呂之集歌」の場合と同じ性質のものでは無い。そこでこの場合に似た例としては卷一の「二五」に對して「或本歌」とした「二六」を掲げ、その左注に
      右句々相換因此重載焉
とあるが如き意味で掲げ示したものと考へらるゝ。
 上の樣に考へてもなほ考ふべきことがある。この古事記の歌は最初の歌に對しての異傳では無いか、然らば古義の如くにすべきで無いかといふことである。思ふに上の歌四首は磐姫皇后御作歌としての一群である。それ故にそれらを中斷せずに列擧したものであらう。さて八九番は八七番の異説であるが、やはり磐姫皇后の御歌として傳へられたものであつたから之を先にしたのであらう。古事記のは第一首の異説だけれどもそれは歌の形もかはり作者もちがふといふ著しい異傳だから最後においたものであらう。かやうに見れば、別に問題も無くなる。
 萬葉集に古事記の名をあげてある所は上來説く通り二ケ所あるけれども、そのあげてある意味は各別であるから、それらの事を説明するにはそれ/”\別々に説かねばならぬ。卷二のは先づ磐姫皇后御作歌四首の第一たる八五番の歌は左注に、山上憶良の類聚歌林にも載せてあるといふのだが、それと略々同じ歌が古事記にあつてそれは衣通王の歌として傳へられてゐるといふのである。その歌そのものについては後に論ずることとしてここに編者の論ずる所を顧みよう。先づ曰はく
(31)      右一首歌古事記與類聚歌林所説不同、歌主亦異焉
とある。之はその二つの歌を並べて見ると、
    君之行氣長成奴山多都禰〔四字右○〕迎加〔右○〕將行待爾可待〔五字右○〕(八五)
    君之行氣長久成奴山多豆乃〔四字右○〕迎乎〔右○〕將往待爾著不待〔五字右○〕(九〇)
とあつて、第三句以下に著しい異同があり、歌主も違ひ、又時代も違ふのであるといふことを説いてゐるのである。そこで編者はそのいづれが正しいかを日本紀によつて見ようとした。即ち日本紀の仁徳天皇二十二年正月の記事、三十年九月の記事の磐姫皇后と天皇とに關係ある記事を抄出して磐姫皇后のこの歌に關する記事が日本紀に在るか否かを檢した事を示し、次に同じく允恭天皇の二十三年正月、三十四年六月の記事を抄出して木梨之輕太子及び輕太郎女に關してそれらの歌のあるか否かを檢して、さて曰はく、
      今案二代二時不v見2此歌1也
と。即ち日本紀にてはこの二の歌いづれをも証明することが出來ぬといふ結論になつたのである。今この判定の語を見て連想せらるゝは卷四の
      岳本天皇御製一首并短歌(四八五、四八六、四八七)
の左注である。曰はく、
      右今案高市岳本宮後岡本宮二代二帝各有異焉。但※[人偏+稱の旁]岡本天皇未v審2其指1
とあるのとその口ぶりの似てゐることである。高市岡本宮の天皇は舒明天皇であり、後岡本宮の天皇は皇極天皇である。契沖はこの歌は女帝の口つきで無いから舒明天皇の御製であらうとして、この左注を「撰者の詞には非ずし(32)て後人の注したるを書加へけるにや」と云つてゐるが、しかもかの卷二の左注は撰者の加へたものと考へてゐるのである。私はその物のいひ方の似てゐる点から見ても共に編者の言であらうと考へてゐる。
 以上の如く考へて私は萬葉集の編者が古事記を參考にしたことを思ふ。ここにその古事記の本文とこの萬葉集の記載とを相照して見ようと思ふ。この卷二の「山多豆乃」の歌も卷十三の「己母理久乃」の歌も共に允恭天皇崩御後の記事にあるのであるが、それらの歌はすべて日本紀には見えぬのである。先づ卷二の歌の事を論ずる。古事記は
  天皇崩之後定木梨之輕太子〔三字右○〕》所知日繼、未即位之間※[(女/女)+干]〔右○〕其伊呂妹輕大郎女〔四字右○〕。而歌曰(略)此者志良宜歌也。又歌曰(略)此者夷振之上歌也。是以百官及天下人等背輕太子而歸穴穗御子。爾輕太子畏而逃入大前小前宿禰之家而(略)故大前小前宿禰捕其輕太子率參出以貢進。其太子被捕歌曰(略)故其輕太子〔四字右○〕》者流於伊余湯也〔六字右○〕(萬葉集に伊豫とす)亦將流之時歌曰(略)此三歌者天田振也。又歌曰(略)此歌者夷振之片下也。其衣通王〔三字右○〕獻歌、其歌曰(略)故後亦不堪戀慕而、追往時歌曰〔十字右○〕(この次に彼の歌がある。)
とあるのを節略して萬葉集の文としたことは明かである。ここに輕太郎女を衣通王とあるのは古事記の原文のまゝであるが、それは允恭天皇の御子達の記事に、輕太郎女亦名衣通郎女とあるのである。さてその歌は古事記にあるのは全部音字で書いたが萬葉集には美夫君志に
  此歌古事記には文字の音のみを用ゐて所謂假字かきなるを此は本集の撰者の改(メ)かけるなり。
と云つてゐる通り、過半の語を義字で記したといふ差異はあるけれども、よみ方は完全に一致してゐるものである。さて又その「山多豆乃云々」の注文も同じである。私はここにその「造木」の事を一言せう。之は古來難解と(33)して來たが加納諸平がミヤツコ木とよむべく、今の「にはとこ」(接骨木)といふ木だと説明してからはじめて明かになり、かくして古來の疑問が氷解したのである。それ以前は古くは顯昭でも、近くは契沖、眞淵、宣長、その他の人々皆臆斷を逞しくして諸説紛々としてゐたのである。この事をここに説くのは脱線のやうだけれども、「山多豆乃」が「山多都禰」と變形する契機がここに存するので、後に論ずる場合に關係があるから豫め一言しておくのである。
 さて古事記には上の「山多豆乃」の歌の次の文に
  故追到之時待壞而歌曰
として「許母理久能波都世能夜麻能云々」「許母理久能波都勢能賀波能云々」の二の歌をあげて
  如此歌即共自死、故此二歌者讀歌也
と記してゐる。萬葉集卷十三にあるのはその川の歌に似てゐるのである。先づ、その古事記の歌をあぐる。それは
    許母理久離、波都勢能賀波能、賀美都勢爾、伊久比袁宇知、斯毛都勢爾、麻久比袁宇知、伊久比爾液、加賀美袁加氣、麻久比爾波、麻多麻袁加氣、麻多麻那須、阿賀母布伊毛、加賀美那須、阿賀母布都麻、阿理登伊波婆許曾爾〔右○〕、伊幣爾母由加米、久爾袁母斯怒波米〔四字右○〕
といふのである。萬葉集のは
    己母理久乃、泊瀬之河之、上瀬爾、伊杭乎格、下湍爾、眞杭乎格、伊杭爾波、鏡乎懸、眞杭爾波、眞玉乎懸、眞珠奈須、我念妹毛〔右○〕、鏡成、我念妹毛〔二字右○〕、有跡謂者社〔右○〕、國爾毛家爾毛由可米、誰故可將行〔國爾〜右○〕(三二六三)
とあり、その左注に
(34)      檢古事記曰件歌者木梨之輕太子自死之時所作者也
とあるが、その「自死」の字面は古事記の文によつたことは著しい。しかし、この二の歌は全然同じだとはいはれぬ。古事記は例の如く一字一音の假名で書き、萬葉集は義字を少からず加へて書いてある。二者共に、十七句から成つてゐて、第十一句までは同じだけれども、第十二句、第十四句、古事記は「阿賀母布伊毛」、「阿賀母布都麻」であるのを萬葉集は共に「我念妹毛〔右○〕」としてゐる。第十五句の末、古事記は「許曾爾」であるが、萬葉集は「社」だけで「爾」が無い。第十六句第十七句は古事記の「伊幣爾母由加米久爾袁母斯怒波米」として終つてゐるが、萬葉集の第十六句は「國爾毛家爾毛由可米」となつてゐる。これは古事記の第十六、第十七句の二句を約して一句にしたものと見ゆる。而して萬葉集の終第十七句は「誰故可將行」となつてゐるが、之は古事記に比ぶれば寧ろ無くもがなのもので蛇足の感があるは かくの如く大分に變更があるけれども、左注にいふ古事記の歌に基づいてゐることは疑ふべくも無い。
 萬葉集に見ゆる古事記の歌は僅かに上の二首に止まるのであるが、ここに奇異に感ぜらるゝことは二首共に木梨之輕太子と輕衣通王との關係の歌であることである。古事記に載する所の歌は長歌短歌等とり交へてすべて百十三首あるのに、上の二首にとゞまつてゐるのはどういふ事なのであらうか。これは恐らくは上の二首が特に人心を撃つものがあるといふ事情によるのでもあらう。しかしながら、これらよりもすぐれた歌が古事記に無いといふことは出來ないことである。卷二の場合は類聚歌林にもある歌の引合ひに出したのであり、卷十三のは左注ではじめて明かにした程度であつて、古事記の歌だからと云つて特に掲げたのでは無く、上の二つの歌を何かの文獻によつて(35)掲げて後、氣がついて見たれば古事記の歌だつたといふ位の認識なのでは無からうか。要するに、萬葉集の編者ははじめから古事記をその歌を徴する資料としては仰がなかつたものと思はるゝ。このやうなことは日本紀も同樣であつたと見らるゝが、それは岐路に入るからここに委しくは説かぬ。
 古事記日本紀共に萬葉集の歌の資源とはしなかつたが、類聚歌林も同樣であつたと思ふ。萬葉集美夫君志の別記に曰はく、
  左注の類聚歌林は皆本集の撰者の引たるものなり。其證は卷二の始に磐姫皇后の君之行《キミガユキ》云々の御歌を載て右一首山上憶良臣類聚歌林載焉とあり、其奥に古事記の輕太郎女の君之行《キミガユキ》云々の御歌を示し、其左注に右一首歌古事記與類聚歌林所説不同歌主亦異焉と記し、更に日本紀の文を引きて其歌共に日本紀には見えざるよしを注せり。如此類聚歌林を以て本文とし其參考として古事記の歌を載せたるを見れば類聚歌林は全く本集撰者の引用したるものなること明かなり。これによりて他所に引きたる類聚歌林も本集撰者の引きたるものなる事を曉るべし。
と云つてゐる。類聚歌林を引いたのは編者であるといふことは同意すべきことである。しかしながら類集歌林を以て本文としたといふことは賛成出來ない。類集歌林の名が左注にあらはれてゐる所は卷一の六番の左注を始めとして七番、八番、一二番、一八番の左注、卷二では今いふ八五番の外に二〇二番の左注、卷九の一六七三番の左注すべてで八ケ所である。以上いづれも左注にとゞまり、その題詞や詞書の異同、若しくは作者の異傳を參照したものだけでそれから轉載した歌だとことわつたものは一首も無い。若し、この四首金體を類集歌林から採つたのならば、四首の終の八八番の左注にそれをことわらねばならぬ道理である。又四首一連の第一首だけを類集歌林から採り、(36)他の文獻から別に三首を採り加へて四首とし、彼の標題を加へたといふことならば私意を加へた作り事と斷ぜねばならぬ。すなほにこれを理會する途はこの四首一連は類聚歌林以外の所傳であつてそれを採録したものと見るより外に無く、而してその第一首(八五)は類聚歌林にもこの形でこの作者の歌として載せてあつたにより、それを注したと見るべきである。然らば他は皆異説を注してあるのに、この一ケ所のみ標題にも歌にも同意しての注であるのは異例では無いかといふ論も生ずるかも知れぬ。案ずるにこれは後に古事記にある異傳をあぐるが故に、それに照應せむが爲に豫めここにその事を注したので古事記の歌をあげて論ぜむが爲の準備だと解せねばならぬ。かくの如くにしてここの類聚歌林の取扱方が古事記の論の上に一の重要性を有するのである。
 ここに私は古事記の文と歌とが萬葉集の中に如何に取扱はれてあるかを熟視して見よう。古事記の記事が萬葉集に採録せられてあるのは卷二の磐姫皇后御作歌の參照として引用した部分だけであり、而して萬葉集のその所の文句は現存の古事記の原文に據りそれを節略して要を採つたものと見らるゝことは上に示した所である。又その歌は古事記と萬葉集と表記の字面は異なつてゐるけれども之をよみ下せば全然同じ歌であつて、少しの變更も無いのであり、ことに彼の山多豆に關しての注記は文字までも現存の古事記の通りである。それ故に我々はこの萬葉集の引用により現存の古事記が萬葉集編集の當時の面目を傳へてゐるものであることを信じうるのである。これは簡単な事柄のやうだけれども、古事記について後人の僞託だなどといふ説を唱ふる人に對して警告を與へ反省を促すに足る大なる事實であらねばならぬ。
 抑も萬葉集の編集はいつの頃で誰人の手に成つたか。舊説では橘諸兄公の撰といひ、大伴家持卿の續撰といふ。其の他諸説紛々として未だ一定した説を見ないが、少くとも奈良朝の末期の編集であるといふことだけはおのづか(37)ら一致してゐる。さうして見ると、古事記を平安朝時代に入つてからの僞託の書だなどいふ説はこの卷二の記事だけでも明かに反證せらるゝであらう。かくの如くに萬葉集が古事記の古く成立してゐたことを保證することを見れば、その點からだけでも重んずべきことである。古事記は和銅五年正月に奏上した書である。萬葉集の成立は明かで無いがその歌の日附の最も後のものは天平寶字三年正月であり、その間約五十年を隔ててゐる。萬葉集そのものの編集は恐らくはこれよりも後であり、少くとも卷十四の編は寶龜二年以後であるべきことは私が既に論じた所であるが、しかしながら奈良朝を降るものではあるまいと思ふことも私は推定してゐる。その編集の時は明確で無いにしても、古事記が萬葉集編集の際に參考に供せられてゐることは爭ふべからざる事實である。從來古事記の古くから存してゐたことの證として重きを置かれたのは弘仁の日本紀私記の序に「所謂古事記三卷者也」とある文であるけれども、これは弘仁時代に既に存したといふことの證にはなるが、これだけでは奈良朝に溯りて證し得ないのである。今、この萬葉集にはその本の編者が古事記をば日本紀、類聚歌林等と共に參考に供して、便宜所々にそれらを記入したとする時に古事記が奈良朝時代に既に行はれてゐて、しかもその文が現存の本とかはりの無いことを證しうることは文獻學上の重大な事項の一といはねばならぬ。
 ここに上來述べて來た二首の歌に就いて顧みることにする。卷二の八五番の歌は古事記の歌(九〇)と本來は一つであつたらうと思はるゝものであるのに、萬葉集では第三句以下が「山多都禰迎加將行待爾可將待」となつてゐる。この著しい相違は古事記の「山多豆乃」は「迎へ」の枕詞であるのに萬葉集のは「山を尋ねて」のやうに行動を説いた語になつてゐることである。下の二句は萬葉集では「迎へに行かうか、或は待つてゐようか」と二途《フタミチ》かけて思ひ迷つてゐる意であることは明かであり、古事記のは「待つてゐるなどといふ生ぬるいことは出來ぬ、何とし(38)ても迎へに往かうよ」といふ一途《イチヅ》な思ひの強い表示である。それ故に二者を比べて見れば、古事記の歌はその調も切迫して堪へられぬ強烈な情がよく示されてゐるが、萬葉集の歌はその調も緩かでとりつおきつ惑ふ所が見ゆるもので、古事記の歌に比して戀情の強さは劣るといはねばならぬ。しかしながら之を四首一連の起首の歌とする時にはこの方がまことによくあてはまつてゐ、第二の歌でその迷ひを排して戀情を高潮に達せしめ、第三の歌で一轉してその戀情のさむる期なからむを決意し、第四の歌で更にその悶々の情の綿々として盡くる期なきことを述べたものである。それ故に四首一連の歌としてはまことに佳作ともいふべく、その場合の起首としては八五番の形の方が寧ろよいので、その點から見れば別に批難すべきことも無いのである。しかしながら單に八五番の歌だけを切りはなして獨立の一首として見るときは古事記の歌に及ばざること遠く、男まさりの強烈な感情の主たる磐姫皇后の御歌とも見えない程のめそめそとした歌であるといはねばならぬ。
 そこで問題とするのは、八五番の歌は元來萬葉集の如く四首連作の起首として作られたのか、又古事記の如く一首獨立のものかといふことであるが、この點は上に述べた通りで一首獨立とすれば、古事記の如くあらねばならぬものであるから八五番の歌は何としても四首連作の起首として見らるべきものである。そこで考ふるに、磐姫皇后の連作の第一首を獨立せしめて強調したのが衣通王の歌となつたのか、衣通王の歌の異傳があつて、それが基になつてこの四首一連の歌となつたのかといふ問題が生ずる。しかしながら、そのやうなことは今日に於いて如何に論じても最後の斷案は下し得べきものではあるまい。いづれにしても、この二の歌は甚だ似たものであつて、一方が元で他が變形であるらしく考へらるゝのであるが、歌としては古事記の歌の方が古い形であらうかと考へらるゝのである。一體、古事記の歌はその編者が「山多豆」に對して注を加へねばならぬ耳遠い詞を含んでゐるのである。(39)恐らくは太安麿が之を筆録した和銅の頃には「山多豆」といふものは一般の俗人には通用せぬ古めかしい語であつたらう。さうで無ければ「是今造木者也」といふ注の必要はない筈である。尤も萬葉集卷六雜歌の部にある、天平四年藤原宇合が西海道節度使に遣はされた時に高橋連蟲麿が贈つた歌(九七一)に「山多頭乃迎參出六公之來益者」とあるから、この語が「迎へ」の枕詞として用ゐらるゝことが全く無かつたのでは無い。その天平四年は古事記奏上から二十餘年の後である。その頃にはこの枕詞は復活したのかも知れない。けれども彼の八五番の歌は恐らくは「山多豆乃」といふのでは何の事か了解しかねた爲の變形であるであらう。「山多豆」乃ち接骨木は枝葉の相對生するものであるによつて「むかへ」の枕詞に用ゐられたのであるが、それには「たづたづし」といふ心が微かに響いてゐるとしても「たづね」といふ程の意味は無い。「山たづね」は恐らくは「山多豆乃」の訛か誤解かから導かれて生じたものであらう。さやうに考へてくるとその歌を載せてゐた類聚歌林を問題にせねばならぬのであるけれど、この書は今は亡びてしまひ、内容もわからぬから何もわからぬ。
 次に卷十三の三二六三の長歌は左注に「檢古事記云々」とあるけれど、それは上にいふ如く末の四句が著しく變形してゐるものである。なほその上に反歌を伴つてゐる。即ちその長歌の次に
      反歌
    年波麻弖爾毛人者有云乎何時之間曾母吾戀爾來(三二六四)
      或書反歌曰
    世間乎倦跡思而家出爲吾哉難二加還而將成(三二六五)
      右三首
(40)とある。右三首とあるのはその長歌と反歌二首とを一括してあるのである。隨つて、ここではその長歌は反歌を有するものとなり、しかもその反歌は二樣に傳はつてゐるのである。かやうにして古事記には單獨の長歌であつたものが、末の方の形をかへられて反歌を伴ふこととなり、しかもそれらが二樣になつてゐたのである。之は何と云つても古事記の歌が源で、萬葉集の所傳はそれの著しい變貌であることは何人といへども否認し得ぬであらう。
 古事記の上述の二の歌を中心として見ると、一は變貌して連作四首の首章となり、一は變貌した上に元無かつた反歌を伴ひ、しかもその反歌が亦二樣になつてゐる。之を以て見ると、古事記のこの二の歌が發生してから萬葉集に採録せらるゝまで、少くとも二百餘年の間にかくさまに變貌展開したのである。かくの如きことはこの二の歌が久しい間引きつゞいて人口に膾炙して來たことを示すと共にそれらの歌が誰人の詠で如何なる場合の詠だといふ委曲の事情は忘れられ、又顧みられずに、たゞ興味本位に傳へられつゝ年月を經る間におのづから傳ふる人の興味のままに次第々々に變貌したものと思はるゝのである。今、一往は上の如くに想定してもなほ考へさせらるゝことはかの木梨の輕太子の關係の歌のみにかやうな現象のあるのはどうしたことであらうか。しかもその後の傳ふる歌は作者を忘れてしまつてゐる。それ故にこれは輕太子の悲劇を傳ふるが故にかうなつたのでは無からう。その二の歌はそれ/”\卷は違ふが、いづれも相聞の部に收めてある。これはその歌の人の情を動かす所強く烈しくあつた所以に基づくものであらう。即ち相聞歌のうちにても感動深く情熱溢るゝが如くに極めて著しいものとして永く人心を動かして來た爲であらう。
 なほ考ふるに古事記に允恭天皇の皇太子の詠としたものを萬葉集は仁徳天皇の皇后の詠と傳へてゐるのは時代に於いて百餘年を溯ることになつてゐる。しかし、かやうな異傳は古書に少く無い。古事記上卷八千矛神の妻※[不/見]の歌(41)は日本紀には無い。而して日本紀卷十七に安閑天皇の春日皇女を聘せられた時の長歌は古事記の八千矛神の妻※[不/見]の歌の變貌であることは著しいことであり、又萬葉集卷十二の二九〇六番の歌、卷十三の三三一〇番の長歌等は上の歌どもに基づいて詠じたことは著しいことである。
 以上の外に古事記と萬葉集との交渉は無いのであらうか。之については古事記の歌が萬葉集の歌に影響を與へたものがあるか、どうかといふことも或は考へた方がよいといふこともあらうが、それらの事は僅かの量の古事記の歌のある部分が萬葉集にも見ゆるといふことを以てそれが影響したのだと見るのは早計でもあり、鑿説の樣にも思はるゝであらう。而してそれらが確定して動かぬ證の無い限り、空論に陷るといふ危險もある。それ故に私のこの論はこの邊で終にすべきであらう。
 古事記と萬葉集との内面に立ち入つての關係はどうであらうか、これは表面だけでは容易に捕捉し難い事でもあるが、又想像を逞しくすればいくらでも擴げられ、空論饒舌に墮するおそれがある。私はここになるべく要をとつて簡単に述べよう。
 一般的にいへば、古事記も萬葉集も古典としての共通性を有し、古事記は國語によりて古傳を後世に傳へむとするものであるし、萬葉集は歌によりて古來の精神を後世に傳へてゐるものであり、共に言靈の助により、而して古事記は奈良朝の初期に撰録せられ、萬葉集は奈良朝の末期に編纂せられたもので、時代性も略ゝ共通してゐるし、精神の相通ずるものがあるに相違無い。近世國學の祖、荷田春滿が「古語通ぜずば古義明かならず」と信じて終世萬葉集の研究に從事して古語に通ずることを冀ひ、その高弟賀茂眞淵その志を繼ぎて又萬葉集の研究に全力を傾けつくし、晩年に本居宣長に會ひて古事記の研究を大成すべくすゝめたのは名高い話であるが、この事は玉勝間のう(42)ちに「あがたゐのうしの御さとし言」と題した文にのせてある。その眞淵の語として、
   われももとより神の神典《ミフミ》をとかむとおもふ心ざしあるを、そはまづからごゝろを清くはなれて古のまことの意をたづねずばあるべからず。然るに、そのいにしへのこゝろをえむことは古言を得たるうへならではあたはず、古言をえむことは萬葉をよく明らむるにこそあれ。さる故に吾はまづ、もはら萬葉をあきらめんとする程に、すでに年老て、のこりのよはひ、今いくばくもあらざれば、神の御ふみをとくまでにいたることえざるを、いましは年さかりにて行さき長ければ、今よりおこたることなくいそしみ學びなば其心ざしとぐること有べし。
と述べてゐる。この教に基づいて宣長は三十五年間努力をつゞけて古事記傳四十四卷を完成したのである。ここに萬葉集と古事記との間に密接の關係あることの一大事實を見るのである。今この事だけを見ると、萬葉集は古事記の研究の方便であるかのやうに考へられ易い。しかしながら、萬葉集はそれ自體獨立の偉大な存在であつて、古事記の研究の方便として生れたものでも無く、又古事記研究の方便に供せらるゝが爲編纂せられたものでも無い。しかしながら萬葉集そのものはおのづから古事記と相通ずる所のあることは萬葉集古義にいふ所を見ても知らるゝ。古義はその總論のうちに、
  余が萬葉をよく/\よみあぢはひて、一には皇神の道義《ミチ》をあきらめ、一には言靈の風雅《ミヤビ》をしたへと常にいふはことに所見《コヽロ》ありていふことなれば
といひ、又それに應じて
  皇神の道は八百萬千萬御代までたかみくら天つ日嗣のうごくことなく、かはることなく、神代も今も一日のご(43)とく天地にてりたらはしてしろしめしきぬるがゆゑにかたじけなくも神事と歌詞には神代のてぶりのたがふことなくあやまつことなく遺れるなれば、皇神のいつくしき國、言靈のさきはふ國とはいへるぞかし。かれその言靈のさきはひによりてぞ皇神のいつくしき道もうかゞはれける。されば皇神の道をうかゞふにはまづ言靈のさきはひによらずしては得あるまじく、言靈のさきはふ由縁《ヨシ》をさとるべきはこの萬葉集こそ又なきものにはあれ。
と説いてゐる。これも亦古事記と萬葉集との内面的關係を考へしむる重要な言である。
 ここに古事記に就いてその根本精神を顧みよう。古事記の編纂は天武天皇の叡慮によりて企てられて略々形を整へ、元明天皇の勅命によつて撰録せられたことは今更いふまでもあるまい。抑も天武天皇の即位は尋常の場合と異なり、壬申の亂を經ての結果である。かくして後、古事記の編纂も企てられたのである。ここにこの大變亂が何故に起つたかを顧みることを要する。この大變亂の起つたのは遠因近縁種々のことが絡み合つてゐるので一二の事件だけによるものではあるまいが、その根柢たる大原因は世情の安定を上下一同が期望したことにあるであらう。之より先、世態は動搖著しくして國の根柢をゆるがし、民族の古今を通じて安心立命の基とした恆常性の失はれようとする虞があつたので之を挽回して思想の安定を求めてゐたのは意識するとせぬとにかゝはらず上下一般の心の底にあつたであらう。惟ふに應神仁徳の兩朝以來國運は隆昌を呈した樣であるが、それは外貌だけのことで、内面の精神的の方面はさうでは無かつたと思はるゝ。それは當時外來の文化を謳歌し萬事之に基づいて行動する樣になり一面は世界的開明に赴くといふ長所もあつたが、反面それが爲に固有の道が輕んぜられ、國の基も動搖する樣の事態が頻々として起つたのである。即ち當時支那の文物の盛んな移入につれて種々の思想を受け入れたが、支那は所謂(44)易姓革命の國であるが上に、當時は南北朝の分立、又五胡十六國といふ語の示す通り、政朝の興亡、民族の混淆盛衰、朝夕に地を易ふるが如き有樣で、思想も亦大混亂の時代のことであるから、我が國も亦それらの影響を受けて世態は著しく變貌したことは古事記日本紀の乏しい記事の上でも看取し得るのである。更に又佛教の移入に伴ひ、新舊思想の矛盾衝突を生じ、之に乘じて豪族の政權の爭奪がその事とからみあひ、その極實に言語道斷の事にも及んで蘇我氏の專横止まる所を知らぬ程になつた。そこで、之に對處する應急策として蘇我氏の討滅となり、引きつづき政治上、社會上の拔本塞源的の大策として大化の改新が行はれたのであつた。しかしながら病はそのやうな外面的の治療で恢復する程輕症では無くて、固有精神の復活は望まれなかつた。かくて大化改新以後天武天皇即位前後までの國内の事情は改革につぐに改革を以てしても眞に安定といふ所まで往かなかつた。この擧句が壬申の亂となつたのである。この事變は種々雜多の事がこれ亦絡み合うてゐるので順逆の論を以てすれば、さま/”\醜い事、議すべき事が少く無いのである。然しながら大處高處より見れば日本といふものが眞に生き拔くためには勢の赴く所あゝなるより外は無かつたのであらう。即ちあの亂は日本精神の安定を得る爲には止むを得ざる勢によつて生じたもののやうである。壬申の亂は倫常の上でも政治の上でも、形の上から見れば逆なやうなものであつたのに、國民の大多數が之を批難しなかつたのは恐らくその根本がここにあつたからであらう。かくして天下が一往平靜に歸したが、古事記の編纂は恐らくその日本精神挽回の根本方策として又國家統治の指導原理を明かにせむが爲に企てられたものであらう。古事記の上表文のうちに崇神天皇の敬神、仁徳天皇の愛民、成務天皇の國郡制定、允恭天皇の氏姓審定の事を擧げて、これら皆古を稽へ今を照して、風猷を既に頽れたるに繩し、典教を絶えなむとするに補はれた大御業だと説いてゐるのは、これらの事が邦家の經緯王化の鴻基であるといふことを示すと共に、時には隆(45)替があるもので、その弊の甚しくなつた場合、時の宜しきを制して、この道を新にせられたといふことを述べてゐるのであるが、それと同時に、天武天皇のこの御事業も同じ性質のもので、それらの先蹤を追はれたものであらうといふ精神で述べてゐるものと思ふ。これは古事記のみならず、國史の編纂をも企てられたので國家本來の面目を明かにしその精神の顯揚が主たる目的であつたらう。しかしながら、それはたゞ古事記といふ書の編纂といふ一事件に止まるものでは無くして、當時の世の空氣が意識しても又意識しなくても一般にさういふことを望み、さういふことに共鳴してゐたので、それが天武天皇の御心に結晶して、古事記となつたといはねばならぬと思ふ。若し果してさうだとすれば、さういふ雰圍氣の内に生活してゐた人々はおのづからさういふ精神で歌をも詠じたであらう。私はここに萬葉集を顧みることにする。
 萬葉集は如何なる目的を以て編纂せられたものであるか。之に關しては集の中に之を論定すべき徴證は無い。惟ふに萬葉といふ漢語は元來萬世の意であることは著しいことで今更論ずるまでもなく、集といふ漢語も詩文の集をいふのでそれを歌の集の名に借りたのであるから萬葉集といふ名義は萬世にわたる歌集といふ意味であらう。後に醍醐天皇が勅を下して萬葉集以降の歌を獻らしめて編纂せしめられた歌集を續萬葉集と名づけられたが、後、更にそれを改め編せしめられた時に改めて古今和歌集と名づけられた。これは萬葉集の名と意味相通ずる名稱であらう。かくして萬葉集は上は仁徳天皇より以後の代々の歌を集したものであるが、その歌はすべて後世に永く傳ふるに足ると認めたものを採録したことは集中に所々取捨を行つた由の注記があり、又往々傳誦者の名を録してまで採つた者が少く無いのを以ても知らるる。かくしてその採録せられた歌は四千五百餘首、作者は天皇、皇后、皇族より文武の官吏、婦人、僧尼、庶民に至り、乞食者の詠までを網羅して、日本最大の歌集であると共に内容の多趣多樣な(46)ことも類を絶してゐる。作者の時代は古事記日本紀と重なる部分もあるけれど重複する歌の無いことは上にも述べた所である。それ故に歌だけでいへば、萬葉集は記紀の續篇とも見らるゝ點がある。
 一體に歌謡は人情の自然の發露であつておのづから人心の機微に觸るゝものがある故に、時世の風尚が敏感にあらはるゝものである。さういふ方面から見ると、柿本人麿の如き偉大なる歌人が、彼の古今無比の逸品を殘し、それにより、我が國固有の偉大な精神を永く後世に傳へたのも偶然では無いと思はるゝ。今古事記と重なる時代の歌を見ると仁徳天皇朝(卷二に五首、卷四に一首)允恭天皇朝(卷十三、一首)雄略天皇朝(卷一、卷九、卷十三各一首)推古天皇朝(卷三、一首)の四代、十一首を傳へてゐるが、柿本人麿の如き國家意識の盛んな作は無い。その次、日本紀と重なる時代では推古天皇朝(卷三、一首、卷十三、四首)舒明天皇朝(卷一、五首、卷四、三首、卷八、一首、卷十三、六首)齊明天皇朝(卷一、九首、卷二、卷九各二首)天智天皇朝(卷一、八首、卷二、二十一首、卷四、六首、卷八、三首、卷十三、二首)と歌も數は多くはなつたが、その思想は前代と傾向を同じくしてゐる。天武天皇朝になると三十四首(卷一、四首、卷二、十七首、卷三、一首、卷四、二首、卷八、卷九各一首、卷十三、五首、卷十六、一首、卷十九、二首)を算するけれど、未だ著しいものが無い。但し、その卷十九に大伴家持が採録した二首は特別のものである。即ち
      壬申年之亂平定以後歌二首
    皇者神爾之座者赤駒之腹婆布田爲乎京師跡奈之都(四二六〇)
      右一首大將軍贈右大臣大伴卿作
    大王者神爾之座者水鳥乃須太久水奴麻乎皇都常成都 作者不詳(四二六一)
(47)      右件二首、天平勝寶四年二月二日聞之、即載於茲也
とある。この歌に呼應してゐるのは、卷三のはじめにある
      天皇御遊雷岳之時柿本朝臣人麿作歌一首
    皇者神二四座者天雲之雷之上爾盧爲流鴨(二三五)
といふ歌である。この天皇は持統天皇であるが、この天皇の時より國家意識が高調に達したことを萬葉集の歌は明かに示してゐるが、その代表的歌人は柿本人麿である。人麿の作と明言せられたものが九十首許あるが、そのうち、年代のはつきりしてゐる最も古いものは持統天皇三年四月に薨じた日並皇子の殯宮之時の作歌(卷二、一六七、一六八、一六九)であり、同十年七月高市皇子の薨じた時の城上殯宮作歌(卷二、一九九、二〇〇、二〇一)は集中第一の大作且つ傑作である。しかも人麿の詠はそれが歌としてすぐれてゐるだけで無く、國家精神の純眞にしてしかも雄大宏壯なことは古今にその比を見ないのである。惟ふに、人麿は彼の天武天皇が時世を挽回する爲に古事記の編纂を企てられた比に人となつた人物であつて、おのづからその時代の雰圍氣にひたつてゐたものと思はるゝ、かくして彼の古事記編纂の精神とその底流を一にするものであり、その精神が人麿の純眞な胸臆にやどつて結晶してあのやうな詠歌の形をとつたものであらう。されば古事記編纂の指導原理となつた大精神をば人麿は詠歌として表示したといふべきであらう。
 柿本人麿に雁行して山部宿禰赤人がゐる。この人は叙景に長ずるといはれてゐるが、その富士山の歌の如きは古今の絶唱と賛せられてゐる。赤人と時を同じうし稍後れて大伴宿禰旅人がゐる。大伴氏は、代々朝鮮半島の經營の(48)任にあたり、續いて太宰府の長官として外交を掌り、且つ累代の武人として重きをなした家柄である。隨つてその職務上外來文化にいちはやく接觸した人々を出したが、又歌人としてすぐれ人々が男女ともに輩出した。旅人の詠には讃酒歌、梅花詠など外來文物に關係ある歌も少くないけれども、しかも、よく外來文化を包攝しつゝ民族固有の精神を失ふことが無かつた。旅人と同時に山上臣憶良がゐる。この人は遣唐使の隨員として唐に赴きかへり諸官を歴任し筑前守に任ぜられた。その學は儒佛にわたつてゐたけれど、しかもそれらに溺れず、よく民族精神に徹してゐたことはその多くの詠歌によつて知らるゝ。又この集の結集者と目せらるゝ大伴宿禰家持は旅人の子として恥ぢない人物であつた.その詠歌の風は奈良朝末期の風で後世の調を導くべき兆が見えて人麿の作などに比しては平淡ではあるが、決して凡庸な作家といはれぬ。その作の根柢をなす思想は大伴氏が神代以來大君の御守りとして傳へ來た精神氣魄を失ふこと無く、事毎にその精神を強調したのである。その喩族歌(卷二十、四四六五)の如きは特にすぐれたもので、千歳の後の今なほ之を唱ふるに感懷せしむるものがある。
 以上、人麿、赤人、旅人、憶良、家持等はその著しいものを摘出したのであるが、この萬葉集四千五百首を通じて、深く恩はしめらるゝことは當時隆盛を極め、上下を風靡した儒佛の思想を詠じたといふべき歌が殆ど全く見えぬことである。今、山上憶良をその例にとらう。この人が儒教佛教に造詣のあつたことは日本挽歌の前に加へた漢文と詩、又哀世間難住歌の序、沈痾自哀文、悲歎俗遺假合即離易去難留詩及びその序(すべて卷五にある)などに著しく見ゆるけれども、歌に於いて令反惑情歌(卷五、八〇六)又その序等又他の多くの歌に於いても日本民族の著實の思想を詠じてゐる。大伴旅人も讃酒歌など、支那清談の徒の事を資料として詠じたものはあるけれど、虚無思想など詠じたことは無い。又佛前唱歌と題した歌が卷八にあるけれど、それは
(49)    思具禮能雨無間莫零紅爾丹保敝流山之落卷惜毛(一五九四)
といふので眼前の風景を詠じたものである。その他「佛造る」(卷十六、三八四一)とか「法師等」(卷十六、三八四六)とかいふ語が見えてもいづれも戯謔の歌である。かくして佛教の教養も思想も信仰も歌はれたものは殆ど一も見えぬのである。奈良朝は儒教を以て政治を行ひ、詩文の盛んに行はれた時代であり、佛教も亦教學として信仰としていたく重んぜられ、南都六宗の教學が、夙くから根をおろしてゐたのであり、叉三國第一と誇る大佛が營造せられ、天皇が自ら沙彌と稱し三寶の奴として佛法僧に叩頭し、僧がやがて太政大臣となり法王となりて乘輿に擬するまでになり、前にも後にも例の無い言語道斷の佛教の盛時であつた。然るに萬葉集四千五百首にそれら儒佛を謳歌し、若くは儒佛の教義教理によるもの又は儒佛の思想を根柢にした歌又はそれらの信仰を歌つたものと認むべきものが殆ど一首も無いといふことは奇蹟ともいふべき驚くべき事實では無いか。
 以上述べた種々の事を綜合して考へて見ると、この萬葉集總體の上にあらはれた姿といふものは異國文化の最も盛んな眞唯中に毅然として立ち、古今を呑吐してゐる國民の自覺の大宣言ともいふべきものであらう。これが底流には或は結集者たる大伴氏の傳統として累代騫けず崩れず守り傳へた神代以來の純眞の道が貫流して然らしめたのかも知れない。それは如何にもあれ、事實は蔽ふべからざるものである。かく考へ來れば萬葉集は如何なる目的を以て編纂せられたかといふことは一言もどこにもその證とすべきものが無いけれど、日本民族の生命の原理といふべきものがその底流として一貫してゐることは明白である。さやうに考へてくると萬葉集はやはり古事記と精神上つながつてゐるといふことが看取せらるゝ。
 以上の見地よりすれば、萬葉集は古事記の精神的續編といふべきものであらう。古事記は應神仁徳の時以來三四(50)百年に次第に榮えた儒佛の道には觸れてゐない。萬葉集も亦その時に特に隆盛を極めた儒佛の道を謳歌した詠を一首も持たぬ。これらの点は二者の精神の貫通して一であることを證するものであらう。古事記を神の心の記録とせば萬葉集は神の心が人にやどつて營んだ精神生活の記録といふべきものであらう。先哲がこの二者を離るべからざるものと認めたのは、この事實を識得體認したからであらう。(昭和二十七年十二月十一日稿、萬葉集大成第一卷所載)
 
 
(51)  萬葉集と大伴氏
 
         一
 
 この標題を以て萬葉集と大伴氏との關係の深いことを説かうとする。しかし、この事は既に誰でも知つてゐることで今更説くまでも無いとも云へるが、之に就いて私は往年この美夫君志會で講述したことがあつた。その筆記は戰災で亡失したやうであるが、自己の手許には當時の覺書が少しく殘つてゐるので、その時の講述の記念として、ここにその覺書に基づいて大略を叙する。
 
         二
 
 萬葉集の撰者については古來屡々説かれた所であるが、最後の斷案を下すまでには未だ到つてゐない。之に關する文獻で現存のものとして最も古いのは古今集卷十八雜下に
   貞觀の御時「萬葉集はいつばかり作れるぞ」と問はせ給ひければよみて奉りける ふんやのありすゑ
  神無月時雨ふりおける奈良〔二字右○〕の葉の名におふ宮〔右○〕のふることぞこれ
といふ歌である。文屋有季といふ人は古今集以外に傳ふる所があるか否か私は知らない。ここに奈良の宮の古詞であるといふ、その奈良の宮といふについて二説がある。一は我々が今いふ奈良朝の意味にとり、一は平城《ナラ》天皇の朝(52)であるとするのである。それ故に、これではどちらともいへぬ。次には新撰萬葉集の序文である。これには萬葉集の事を叙して
  夫萬葉集者古歌之流也。……於v是奉2綸※[糸+悖の旁]綜※[糸+輯の旁]1之外、更在2人口1。盡以撰集成2數十卷1。云々。
とある。これは寛平五年九月二十五日の文であるが、これでは勅命によつて數十卷をなしたといふだけで卷數もちがひ、その時代も撰者もわからぬ。古今集の眞字序には
  昔平城〔二字右○〕天子詔2侍臣1令v撰2萬葉集1。自v爾以來時歴2十代1數過2百年1
とある。平城天子は有季の歌の解釋と同じく二樣にとりうる。しかしながら、醍醐天皇より十代上とすれば平城天皇であり、延喜五年より百年溯れば、平城天皇即位の延暦二十五年になるが、二者を照して見れば、平城天皇の詔によつて出來たと信じてゐたこととなる。下つて榮花物語月の宴の卷の記事には
  むかし高野の女帝の御代天平勝寶五年には、左大臣橘卿、諸卿大夫等集りて、萬葉集をえらばせ給ふ。
とある。しかし、これは現存の萬葉集の内容と齟齬する。現存の萬葉集には天平寶字三年正月一日の歌がある。これは天平勝寶五年より六年の後である。平安朝末期の歌學者顯昭の古今集序注には勝命の説として
  萬葉集第廿卷之奥哥者。孝謙御代藤原眞楯撰加v之。
と云つてゐるが、眞楯の撰といふことは何を根據としたかわからぬ。眞楯の歌は萬葉集卷三、六、八、十九にいづれもその前名八束の名で出てゐるが、その人が撰者であるといふことは集中にも證據となるものを見ぬ。仙覺の萬葉集抄にも時代と撰者とを論じてゐるうちに
  又如2前兵衛佐顯仲入道抄物者1、萬葉集者。橘諸兄、藤原眞楯等、奉v勅撰v之云々。
(53)と云つて更に之を駁してゐる。橘諸兄の歌も卷六、十七、十八、十九、二十の諸卷に見え、ことに卷十九には諸兄の子但馬按察使奈良麻呂を餞する宴の歌の家持の詠(四二八一)に對してはその左注に
  左大臣換v尾云、伊伎能乎爾須流、然猶喩曰。如v前誦v之也、
とあるが如く、家持の作歌に批評を加へてゐる程であるから、一般に和歌に深い關心をもつてゐたことは窺はるるけれども、撰者であることは別に證も無いのみならず、諸兄は天平寶字元年に歿したのに萬葉集にはその後の歌の存することは上に述べた通りである。
 萬葉集の歌の最後の年月は天平寶字三年正月一日で、この日の大伴宿禰家持の歌が萬葉集の終であるが、私がかつて論じた如く、卷十四の東歌の中の武藏國歌の今の東海道の順序になつてゐることは寶龜二年十月の勅命以後のことであらう。この年は天平寶字三年より十二年も後の事である。
 萬葉集撰定の時代の決し難い事は前の通りである。これが爲に顯昭の萬葉集時代難事だの藤原俊成の萬葉集時代考(萬時と略稱す)だのといふ論文も出來たが、前述の通り決著はせぬ。撰者も亦いろいろの人を指定したが、これも前述の通り決著せぬ。藤原定家は拾芥抄に引く所の京極中納言抄に於いて
  撰者又無2慥説1。世繼物語云。萬葉集。高野御時諸兄大臣奉v之云々。但件集橘大臣奉之後歌多書之。似2家持卿之所1v注。尤以不審。
と説いてゐる。ここに撰者として大伴家持を擬する説が起つた。仙覺はその萬葉集抄序には橘諸兄、大伴家持兩人の撰といふ説を立ててゐる。しかし諸兄といふ説の成立し難いことは既にいふ所である。契沖は代匠記の惣釋(清撰本)には
(54)  勅撰ニモアラス、撰者ハ諸兄ニモアラスシテ、
として家持の私撰とすべきことを主張してゐる。今、これらの説を一々述ぶることをしないで、大伴家持が之に關係の深いことだけに止めて、寓葉集の組織に一往意を注いで見る。
 
         三
 
 萬葉集は二十卷であるが、首尾貫通統一した組織をもつてゐるものでは無い。その最も著しい差違は卷一乃至卷十六の一團と卷十七乃至二十の一團とである。さてその卷十六までの一團と云つてもこれ亦種ゝの組織から成つてゐて十三種程に分けて考へねばならぬ。先づ卷一、卷二は一團をなしてゐる。即ち、雜歌(卷一)、相聞、挽歌(卷二)と歌を三種に分類し、各部類のうちに難波高津宮御宇天皇代(相聞のはじめ)、泊瀬朝倉宮御宇天皇代(雜歌のはじめ)、(後崗本宮御宇天皇代(挽歌のはじめ)より寧樂宮(雜歌の終、挽歌の終)とやうに宮の號を以て天皇の代を標示し、その下に年月の明かなものはその次第により歌を排置してあるから、その他のものも古きものを前に排したものであらう。この分類と排置とは他に類が無い。しかし卷九は多少之に近い。これは雜歌、相聞、挽歌の部類を分ち、各部に古きものより次第して歌を記したことも似てゐるが、某宮御宇天皇代といふ標目を置かぬ点に差違がある。この卷一、卷二の一團は最も古いものでこれだけで一の歌集であつたらうといふことは誰しも認めねばならぬことであらう。
 次は卷三、卷四の一團である。之は雜歌、譬喩歌、挽歌(卷三)、相聞(卷四)の部類を分けてゐる。この部類立は卷一、二の一團と違つてゐるが、その各部に某宮御宇天皇代といふ標目を置かぬ点も違つてゐる。載せてある歌(55)は相聞では難波天皇妹奉d上在2山跡1皇兄u御歌をはじめ岳本天皇御製から大伴家持の贈答歌に及び、雜歌では持統天皇の時の柿本人麿作歌から山部赤人等の歌に及び、譬喩歌は紀皇女の歌からはじめ家持の歌に終り、挽歌は聖徳太子の御歌をはじめとし、家持の歌の次に高橋朝臣の歌をのせて終つてゐる。かくの如く、各部のはじめは時代の前後が甚しい差違を呈してゐるが、家持及びその周圍の歌で終つてゐる點で一致してゐる。この一團に近いものは卷十三である。しかし、それには問答歌といふ一部があるから同じでは無い。この卷三、四の一類では既に大伴家持の手が加はつてゐることを見得るのである。
 卷五は雜歌と標してゐるが、これには大伴旅人、山上憶良兩人の歌が中心になつてゐる。而してこの雜歌といふのは卷一、卷三の雜歌といふのとは違つて分類しない歌といふ意味であらう。この卷五は山上憶良の撰かといふ説もあるが、どうも清撰した歌集とは見えぬ。しかし、これだけで一の歌集とも見らるるのである。
 卷六も亦一卷で一單位をなしてゐて、又雜歌と標してゐるが、それは卷五の場合と同じであらう。この卷は養老七年癸亥夏五月の笠金村の歌をはじめとし、それぞれ年號月日を追うて、天平十六年甲申に至り、種々の人の歌を集めてゐるが、大伴旅人家持父子一族の歌が目立つ。末に田邊福麿の歌集から二十一首を抄して加へたのを見ても、誰かの特に編集したものであることを想はしむる。
 卷七も亦一卷一單位である。これは雜歌、譬喩歌、挽歌の三部類を立ててあるが、一切作者の名が無く、而してすべての歌には漢字の題目が加へてある。例へば雜歌部には詠天、詠月、又芳野作、覊旅作、問答、臨時作、就v所發v思、寄v物發v思、行路等の如きものである。而してその末に旋頭歌二十四首を載せてある。譬喩歌の部は寄衣、寄絲、乃至寄藻、寄船の如く題してあるが、ここにも末に旋頭歌一首を加へてゐる。挽歌は雜歌十二首と或本歌一(56)首とであるが、末に覊旅歌一首を加へてある。この卷には柿本朝臣人麿之歌集出として注記したものが雜歌の中に九ケ所十八首と旋頭歌二十三首と譬喩歌のはじめの十五首とがあり、覊旅作の中に右七首藤原卿作とあるが、この藤原卿を房前であらうと契沖は説いてゐる。「古集中出」「古歌集中出」としたものがあるが、その古集、古歌集といふものの本體はわからない。
 卷八も亦一卷一單位である。これは春雜訝、春相聞、夏雜歌、夏相聞、秋雜歌、秋相聞、冬雜歌、冬相聞といふ分類をして載せてある。作者の名を一々あげてあるが、名の無いのも稀に見ゆる。それらには「右一首依2作者微1不v顯2名字1」(草香山歌、一四二八)「右二首若宮年魚麻呂誦之」(櫻花歌、一四二九、一一四三〇)「右一首高橋連蟲麻呂之歌中出」(惜v不v登2筑故山1歌、一四九七)「右二首作者未詳」(太宰諸卿并官人等宴2筑前國蘆城驛家1歌二首、一五三〇、一五三一)「右一首作者未詳。但竪(豎)子阿倍朝臣蟲麻呂傳誦之」(御2在西池邊1肆宴歌、一六五〇)と一々その由來を注してゐる。而してその歌の古いのは秋雜歌のはじめの崗本天皇御製歌てあるが、それにつづいては藤原夫人歌(夏雜歌のはじめ)、大津皇子御歌(秋雜歌の第二)等四五人の歌を古い部類とし、その他は春相聞が大伴家持の歌にはじまり夏相聞が大伴坂上郎女の歌にはじまるが如くに家持を中心とした時代のものである。而して、「右一首天平四年三月一日佐保宅作」(一四四七)といふやうに年月を記したものが少く無い。その年月の最も後のものは「天平十五年癸未八月十六日作」(大伴宿禰家持鹿鳴歌二首、一六〇二、一六〇三)である。
 卷九も亦一卷一単位をなすもので、これは卷一、二の一團に近いが、それとも違ふことは上に述べておいた。而して、その載する所も卷一、二に肩を比ぶる程に古い。雜歌は「泊瀬朝倉宮御宇大泊瀬幼武天皇御製歌一首」「崗本宮御宇天皇幸2紀伊國1時歌二首、」「大寶元年辛丑冬十月太上天皇大行天皇幸2紀伊國1時歌十三首」よりはじまり、(57)挽歌は「宇治若郎子宮所歌一首」を以てはじまる。而して、年代のわかつてゐるものの最後は「天平五年癸酉遣唐使舶發2難波入v海之時親母贈v子歌一首并短歌」(一七九〇、一七九一)である。この卷は「柿本朝臣人麻呂之歌集所出」「或云柿本朝臣人麻呂作」「或云河島皇子御作歌」「高橋連蟲麻呂之歌集中出」といふ如く、種々の資料から收めたものと見え、又卷首の泊瀬朝倉宮御宇天皇御製歌としてあげた。
  暮去者小椋山爾|臥〔右○〕鹿之今夜者不鳴寐家良霜(一六六四)
には左注に
  右或本云崗本天皇御製、不v審2正指1。因以累載
とあるが、之は卷八秋雜歌のはじめに崗本天皇御製歌としてあげた。
  暮去者小倉乃山爾|鳴〔右○〕鹿之今夜波不鳴寐宿家良思母(一五一一)
をさしたものであらう。その差違は「臥鹿」と「嶋鹿」との一語だけである。又沙彌女王歌の
  倉橋之山乎高歟夜※[穴/牛]爾出來月之片待難〔三字右○〕(一七六三)
には左注に
  右一首間人宿禰大浦歌中既見。但末一句相換、亦作歌兩主不2敢正指1。因以累載
とあるが、之は卷三に間人宿禰大浦初月歌二首とある末の一首
  椋橋乃山乎高可夜隱爾出來月乃光乏寸〔三字右○〕(二九〇)
をさしたものであらう。これらにて見れば、卷九の編者は卷三や卷八が既に出來てゐた後に之を編したものであると共に、それらの編とこの卷の編とは別の時であつたことが考へらるる。而して、この卷は天平五年までの年は明(58)記してあるが家持の名は見えぬ。大伴氏の名は「檢税使大伴卿登3筑波山1時歌」(一七五三)と「鹿島郡苅野橋別2大伴卿1歌」(一七八〇)と二所見ゆる。之は家持の父旅人が常陸國の檢税使として下つたことがあつての事かと推測せらるる。この外に大伴氏の名は見えぬ。
 卷十も亦一卷一單位であるが、その部類は卷八と全く同じである。而して各部類の内部では卷七のやうに雜歌には詠鳥、詠霞等といひ、相聞に寄鳥、寄花等といふ。なほ、雜歌、相聞の末に譬喩歌、旋頭歌を加へ、問答といふ目を相聞、雜歌の末に加へてある。その作者を注せぬことも卷七に似てゐる。但し「柿本朝臣人麿歌集出」「古歌集中出」と所々に注記してあり、ただ一所「右柿本朝臣人麿之歌集出也。但件一首或本云三方沙彌作」と注してある。この一首はいづれをさしたのか、左注のすぐ前の歌とせば、二三一五の歌であらう。又年代も注記せぬが、これもただ一所、二〇三三の歌の次に「此歌一首庚辰年作之」とあり、而してそれは柿本人麿歌集中の歌である。庚辰とは天武天皇の八年か聖武天皇の天平十二年かでなければならぬが、人麿が天平十二年まで生存してゐたことは考へられねから天武八年であらうか。さうだとすれば人麿歌集の年代の一據點を得たことになるのでなからうか。それはともあれ、この卷は卷八に部類を學び、細目を卷七から思ひついて新な試をした者と見らるる。
 卷十一、十二の二卷は一單位をなす。卷十一には「古今相聞往來歌類之上」と標して目次に
  旋頭歌十七首
  正述心緒歌百四十九首
  寄物陳思歌三百二首
  問答歌二十九首
(59)  譬喩歌十三首
を載せ、卷十二は「古今相聞往來歌類之下」として
  正述心緒歌一百十首
  寄物陳思歌一百五十首
  問答歌三十六首
  覊旅發思歌五十三首
  悲別歌三十一首
といふ目次を載せてゐるが、卷十一のはじめの旋頭歌は
  右十二首柿本朝臣人麿之歌集出
  右五首古歌集中出
として出所を示してゐる。以下も柿本人麿歌集からとつた由を所々に注してゐるけれども大部分は出所を注してない。さて、その正述心緒歌百四十九首、寄物陳思歌三百二首、問答歌二十九首はこの卷に於けるそれらの歌の總計を示したもので、この目次の順序によりこの三種をきつかりと區切り記載したものではない。即ち旋頭歌の次に、正述心緒と標して四十七首、次に寄物陳思として九十三首、次に問答として九首を載せ、その次に
  以前一百四十九首柿本朝臣人麿之歌集出
と注してゐる。かくして又更に正述心緒と標して百二首、寄物陳思として百八十九首、問答として二十首を載せてゐる。これらの二者を合せてはじめて目次の數に一致する。その次に譬喩と標して十三首を載せてある。卷十一の(60)後の部分は出典を注せず、所々に人麿歌集との異同を注してゐる。卷十二に於いても同樣で、先づ
  正述心緒十首 寄物陳思十三首
をあげて、次に
  右二十三首柿本朝臣人麻呂之歌集出
と注し、その次に
  正述心緒百首 寄物陳思百三十七首
をあげ、炎に
  問答歌二十六首、覊旅発思五十三首 悲別歌三十一首 問答歌十首
をあげてゐる。ここに柿本人麿歌集と古歌集とが特別に取扱はれゐることを知る。しかも末の方に問答歌が二所に分れてゐるのは恐らくは出典の差違によるものであちうが、注記が無いから何もわからぬ。この二卷も作者を注しないが、二七四二の左注には「右一首或云石川君子朝臣作之」とある。この人は卷三の二七八の作者で「石川少郎歌一首」と標し、左注に「右今案石川朝臣君子號曰2少郎子1也」とある人である。又卷十二の三〇九八の左注に
  右一首。平羣文屋朝臣益人傳云、昔聞紀皇女竊嫁2高安王1、被v責之時御2作此歌1、但高安王左降任2之伊與國守1也
とある。紀皇女の歌は卷三にもある。高安王が伊與守に任ぜられたのは養老三年である。
 卷十三も亦一卷一單位であり、これには雜歌、相聞歌、問答歌、譬喩歌、挽歌の五の部類を設けてあるのは卷三、四の一團に似て問答歌の一部類が多い。この卷には旋頭歌一首の外は長歌とその反歌とだけをのせてある點に(61)特色がある。作者は之を注記しない。ただ三二四〇、三二四一の長歌反歌の左注に
  右二首。但此短歌者或書云、穗積朝臣老2配於佐渡1之時作歌者也
とある。穗積老の流されたのは養老六年である。又三二六三の歌は左注にもいふ通り、古事記にある木梨輕太子の詠を傳へたものであらう。
 卷十四も一單位をなすもので、東歌を一括してあげた卷である。先づ東歌と標して、
  上總國雜歌 下總國雜歌 常陸國雜歌 信濃國雜歌
をはじめとし、次に
  遠江國相聞往來歌  駿河國相聞往來歌
とやうに、順次、伊豆、相模、武藏、上總、下總、常陸、信濃、上野、下野、陸奥の相聞往來歌をあげ、次に
  遠江國譬喩歌  駿河國譬喩歌
とやうに、順次、相模、上野、陸奥の譬喩歌をあげ、次に未勘國の雜歌、相聞往來歌をあげ、次に
  末勘國防人歌 未勘國譬喩歌 未勘國挽歌
といふ部類によつて東歌を收載してゐる。この雜歌、相聞、譬喩の部類は卷三、四に似てゐるが、相聞往來といふのは卷十一、十二に倣つたものであらう。ここに未勘國防人歌五首が加はつてゐる。いづれも作者の名は無い。而して、所々に「或本歌曰」として似て別なる歌を注してゐるのは、當時この類の歌がなほ多くあつたことを告ぐる。
 卷十五も亦一單位をなすものであるが、この卷は部類立は行つてない。先づ目次によると
(62) 天平八年内子夏六月遣2使於新羅國1之時、使人等各悲別贈答及海路之上、慟v旅陳v思作歌并當所誦詠古歌
と記して、その下に小字で一百四十五首と注してある。この注記は恐らくは後人の加へたものであらうが、杜撰なものでは無い。かくして卷首の三五七八番の歌より
  回2來筑紫1海路入v京到2播磨國家島1之時作歌五首
の終(三七二二)までが一括せられて上の題の下に集つたのである。天平八年云々の年月は本文に見えないが隨ふべきであらう。續日本紀を按ずるに、天平八年夏四月丙寅に「遣新羅使阿部朝臣繼麻呂等拜v朝」と見えるが、その人々が六月に出發したのであらう。而して、同九年正月辛丑に「遣新羅使大判官從六位上壬生使主宇太麻呂、少判官正七位上大藏忌寸麻呂等入京、大使從五位下阿部朝臣繼麻呂泊2津島1卒、副使從六位下大伴宿禰三中染v病不v得2入京1」とあり、三月壬寅に「遣新羅使副使正六位上大伴宿禰三中等四十人拜v朝」とある。ここに一括せられた百四十五首を一々説明する必要も無いが、その「當v所誦詠古哥」といふのは「三六〇二」(詠雲)「三六〇三、四、五」(戀歌)から七夕歌一首(三六一一)の十首である。而してその五首は柿本人麿の歌と比較してあり、七夕歌は「右柿本朝臣人麿歌」と注してある。なほこの外に「古挽歌一首并短歌」(三六二五、三六二六)があり、その左注に「右丹比大夫悽2愴亡妻1歌」とある。この丹比大夫は何人かはつきりはしない。之は旅の物悲しさに誰かが誦する所を注記しておいたものであらう。この外は大體發程から歸路までの順序によつての所詠を記しておいたものと見ゆる。それ故にこれは遣新羅使一行の歌の覺書ともいふべき一の記録である。かくしてその詠じた人の名が所々に記してある。今それを記載の順に抄出して見ると
 秦間滿 (三五八九)
(63) 大判官(三六一二)(三六六九)(三六七四、五)(三七〇二)
 大石蓑麿(三六一七)
 田邊秋庭(三六三八)
 羽栗(三六四〇)
 雪宅麿(三六四四)
 大使(三六五六)(三六六八)(三七〇〇)(三七〇八)(三七〇八)
 大使之第二男(三六五九)
 十師稻足(三六六〇)
 秦田麿(三六八一)
 娘子(三六八二)
 葛井連子老(三六九一、二、三)
 六鯖(三六九四、五、六)
 副使(三七〇一)(三七〇七)
 小判官(三七〇三)
 對馬娘子名玉槻(三七〇四、五)
以上の通りであるが、かく名の有る歌は三十首に止まり、他の百餘首には名を注してをらぬ。それらのうち最初の十一首の贈答は名を略したとしても
(64) 右三首臨v發之時作歌(二五九一、二、三)
 右八首乘v船入v海路上作歌(三五九四−三六〇一)
 風速浦舶泊之夜作歌二首(三六一五、六)
 備後國水調郡長井浦舶泊之夜作歌三首
の大判官作一首の(三六一二)外の二首(三六一三、四l)
 安藝國長門島舶泊2磯邊1作哥五首
の大石蓑麿作一首(三八一七)の外の四首(三六一八−二一)
 從2長門浦1舶出之夜仰2觀月光1作歌三首(三六二二、三、四)
 屬v物發v思歌一首并短歌(二首)(三六二七、八、九)
 周防國玖珂郡麻里布浦行之時作歌八首(三六三〇−三七)
 過2大島鳴門1而經2再宿1之後追作歌二首
の田邊秋庭作(三六三八)の他一首(三六三九)
 熊毛浦船泊之夜作歌四首
の羽栗作(三六四〇)の外の三首(三六四一、二、三)
 佐婆海中忽遭2逆風漲浪1漂流經宿而後幸得2順風1到2著豐前國下毛郡分間浦1。於v是追2憺艱難1悽※[立心偏+周]作歌八首
の雪宅麿作(三六四四)の他の七首(三六四五−五一)
(65) 至2筑紫館1遙望2本郷1悽愴作歌四首(三六五二、三、四、五)
 七夕仰2觀天漢1各陳v所v思作歌三首
の大使作の他の二首(三六五七、八)
 海邊望v月作歌九首
の大使之第二男、土師稻足作の他の七首(三六六一−六七)
 到2筑前國志麻郡之韓亭1舶泊經2三日1。於v時夜月之光皎皎流照。奄對2此華1旅情悽噎各陳2心緒1聊以裁歌六首
の大使、大判官作の他の四首(三六七〇、一、二、三)
 引津亭船泊之作歌七首
の大判官作二首の他の五首(三六七六−八〇)
 肥前國松浦郡狛島亭舶泊之夜遙望2海浪1各慟2旅心1作歌七首
の秦田麿、娘子作の他の五首(三六八三、四、五、六、七)
 到2壹岐島1雪連宅滿忽遇2鬼病1死去之時作歌一首并短歌(三六八八、三六八九、三六九〇〜
 到2對馬島淺茅浦1船泊之時不v得2順風1經停五箇日。於v是瞻2望物華1各陳2慟心1作歌三首(三六九七、八、九)
 竹敷浦舶泊之時各棟2心緒1作歌十八首
の名ある外の九首(三七〇九−一七)
 回2來筑紫1海路入v京到2播磨國家島1之時作歌五首(三七一八−二二)以上の多くの歌に作者の名を注せぬはどうしたことであらうか。それには卷八の草香山歌の如く作者の微賤の爲に(66)名字を顯さぬものもあつたであらう。(竹敷浦舶泊之時の十八首の九首などはさうであらう)しかしながら雪連宅滿の死を悼んだ挽歌(三六八八、三六八九、三六九〇)の如き堂々たる作を、しかも他作の挽歌には名を注しながらそれよりも上に記したものに名を注せぬは頗る怪むべき現象である。私は之をこの一括した記録を世に殘した人の作でなくてはならぬと思ふ。然らばそれは誰であらうか。この時の大使は歸路對馬で歿してゐる。隨つてこの遣新羅使の長として最後まで任に當つたものは大伴宿禰三中であつた。私は之は三中宿禰の旅嚢中に入つて京に將來されたものであり、その署名の無いものの中には三中宿禰の作が少からずあると思ふ。もつとも、一々これこれが三中の作と指定することは出來ぬが、少くとも、あの挽歌は三中の作であらうと思ふ。三中には卷三に
  天平元年己巳攝津國班田史生丈部龍麿自經死之時判官大伴宿禰三中作歌一首并短歌(四四三、四、五)
の長歌と反歌二首とがある。それとこれとを對照して見るに、恐らく同一手に出たものと思はるる。今、自分の研究はこの一點に止まつてゐられないから、之を學界に提案して大方の吟味を請ふこととしておくが、少くとも、卷十五の前半百四十五首は三中の力によつて今に傳はつたものと信ずる。卷十五の後半は目次に
  中臣朝臣宅守娶2藏部女嬬狹野茅上娘子1之時勅斷2流罪1配2越前國1也。於v是夫婦相2嘆易v別難1v會各陳2慟情1贈答歌六十三首
とある一團である。これは渾然たる一團の贈答で、抒情歌の上乘として當時より人口に膾炙し、かくて今に傳はつたものであらう。
 卷十六も亦一單位をなす。これは有2由縁1雜歌と題してあるが、ここに古來の傳説をよんだ歌又種々の戯笑の歌、又筑前國志賀白水郎歌、豐前國白水郎歌、豐後國白水郎歌、能登國歌、越中國歌、乞食者詠歌、怕物歌に及ん(67)でゐるが、いづれも尋常の歌で無い。即ち、前半は古傳説を詠じたもの又は古く傳へた歌を収め、後半は戯笑歌以下地方の地下人の詠を收め、所々に作者の名も見ゆるけれども、大部分は作者の名は無い。家持の詠は二首あるが、察するに、之は或は家持が編集したものかと思ふ。
 以上、十六卷は十三種の歌集の累積であつて一貫した統一點は見えない。之に反して卷十七以下の四卷は一連續の歌の記録で、卷十七の、
  天平二年庚午冬十一月太宰帥大伴卿被v任2大納言1【兼v帥如v舊】上v京之時※[人偏+兼]從等別取2海路1入v京。於v是悲2傷覊旅1各陳2所心1作歌十首
を最初とし、次に
  (同)十年七月七日之夜獨仰2天漢1聊述v懷一首
からして、卷二十の最後に
  (天平寶字)三年春正月一日於2因幡國廳1賜2饗國郡司等1之宴歌一首
とあるに至るまで、年月を追うた歌の記載で一貫してゐる。而して、この間に古歌の記載もあり、又種々の人々の詠歌も少くは無いけれども、それらは皆大伴家持を中心とした記録である點で統一してゐる。隨つてここに四卷に分けたのは内容の分量の關係であつて、性質の上の問題では無い。即ち卷十七は天平二十年正月二十九日の大伴家持の詠につづいての越中國守として諸郡を巡行した際屬目して詠じた歌外二首にて終り、卷十八は
  天平二十年春三月二十三日左大臣橘家之使者造酒司令史田邊宿麿饗2于守大伴宿禰家持館1。爰作新歌并使誦古詠。各述2心緒1
(68)からはじまつて、二十四日、五日、六日とつづき、四月に一旦年月が中絶し、三月十五日となるが、これは天平二十一年であるらしい。がこの年四月に改元あつて天平感寶元年となつた。かくて天平感寶元年五月五日に「饗2東大寺之占墾地使僧平榮等1。于時守大伴宿禰家持送2酒僧1歌一首」があり、それから閏五月、六月、七月の歌がつづく。七月に更に改元あつて天平勝寶元年となるが、その年號では、天平勝寶元年十一月大伴宿禰池主作の贈歌六首、十二月大伴宿禰家持作の
  宴席詠2雪月梅花1哥一首
から同二年正月二日の詠、一五日の詠に及び、二月十八日の詠で終る。卷十九は天平勝寶二年三月一日の詠からはじまり、同五年二月二十五日の詠で終り、卷二十は同五年五月に家持が傳聞した先太上天皇(元正)の御製歌と舍人親王奉和の歌を記し、それから同年八月十二日の詠から順次年月を逐うて記してゐる。この間に家持が採録した防人歌もある。而して、これらは先にもいふ通り、種々の人の詠もあり、又古歌もあるけれど、家持の歌が中心で、その他は家持と贈答したもの.家持に關係ある饗宴等の歌、家持が傳聞した古今の歌の記載せられたものであり、いはばこの四卷は家持の歌日記のやうなものと見らるる。
 
           四
 
 以上、萬葉集を通觀すると大伴氏との關係が極めて深いことが看取せらるる。その卷十七以下は家持の歌日記ともいはるべく、卷十五の前半も大伴三中の傳へたものと想像せられ、その他にも大伴一族の歌が頗る多いから、大伴氏と萬葉集とは何としても因縁が淺くは無い。
(69) 萬葉集の作者として著しい歌人は柿本人麿、山部赤人、山上憶良、高市黒人、高橋蟲麿、笠金村、女性では額田王、狹野茅上娘子と大伴家では旅人、家持の父子、坂上郎女とである。ことに大伴坂上郎女は女流作家の第一人者である。かやうに歌を好み歌をよくした大伴家一族と萬葉集とが深い縁故をもつてゐることは偶然とはいはれないであらう。
 大伴家一族と歌との關係は上述の三人に限らぬ。萬葉集に見ゆる大伴氏の人々は人數として四十人を超え、そのうち歌人として許さるべきは二十七人、このうち四人は女性である。歌の數でいへば、家持が最も多くて四百七十八首、次は坂上郎女で八十三首、次が旅人の七十九首(上の數は多少不確定のものを除いてある)その他では池主の三十首、駿河麿、書特の各十二首、坂上大孃の十一首を著しいものとする。三中のは名の明かなのは五首に止まるけれども、もし私の想像が事實ならば、明白では無いが、その外に多くの詠が傳はつてゐることてあらう。
 大伴家持が萬葉集の撰者に擬せられたことは上に述べ來つた所を見て一往は肯かるるであらうが、他の人々橘諸兄、藤原眞楯はどうであらうか。橘諸兄はもと皇族で葛城王といひ、天平八年十一月に臣籍に下り橘宿禰の姓を賜はつた。天平十五年に左大臣となり、天平勝寶元年四月に正一位に上り、同二年正月に朝臣の姓を賜はり、同八歳に致仕し、天平寶字元年正月に薨じた。詠歌は集中に計八首ある。歌に關心をもつてゐたことは既に述べた通りではあるが、歌人といふ程の力量は認められないし、又特に歌を愛好して之を後世に傳へようとしたといふ事もきかぬ。その子奈良麿も家持と交際がありその家での宴に家持の詠じた歌が卷二十などにあるけれども、奈良麿の詠は卷六に三首あるだけであり、これらの人々の手に萬葉集が撰せられたとは考へられぬ。藤原眞楯は房前の子で、萬葉集では八束の名で歌が出てゐる。天平寶字のはじめに眞楯の名を賜はつたのである。神護景雲二年正月に大納言(70)となり、同三月に薨じた。詠歌は集中に八首あり、卷三に二首、卷六に一首、卷八に三首、卷十九に二首である。歌は拙劣といはれないが、この人が撰者であるべき事情は何としても考へられぬ。
 萬葉集の總歌數四千五百十六首のうち大伴氏一族の詠が六百六十一首あるから百中十五を含むことになる。その作者の名の無い卷七、十、十一、十二、十三、十四の六卷を除いた二千三百首に對しては十分三の比である。之を以て見ても大伴氏一家と萬葉集との關係の深いことは爭はれない。そのうちでも家持が最も深い關係にあることは勿論である。家持は旅人の長子である。弟書拜も歌は詠んだが、その數も伎倆も兄には及ばず、兄に先だち歿した。家持は天平十八年三月に宮内少輔に任ぜられ、六月越中守に任ぜられた。任に越中國に在ること滿五年を過ぎたが、その在任中の詠は卷十七から卷十九の半に及んでゐる。天平勝寶三年七月に少納言に遷り、同六年四月に兵部少輔になつた。卷二十に防人歌を採録したのは兵部少輔として防人の事を司つてゐたからである。天平寶字元年六月兵部大輔に昇任し、その後右中辨となる。天平寶字二年六月に因幡守となる。本集最後の天平寶字三年正月因幡での歌はこの在任中の詠である。これよりの詠は見えぬが、家持はその後薩摩守、太宰少貳、左中辨、相模守、衛門督、參議、右大辨、中納言等に歴任し、桓武天皇の延暦四年八月に歿したのであるが、萬葉集の最後の歌の天平寶字三年から二十六年の後である。家持の歌は本集卷三より見ゆるが、それは天平十六年の詠である。年月を記したもので最も古いのは卷八秋雜歌にある秋歌四首であつて「右四首天平八年丙子秋九月作」と左注にある。
 今、本集と家持との關係を知らむと欲する故に、卷十七以下の内容に少しく目を注ぐ。卷十七卷頭の十首は詞書に
  天平二年庚午冬十一月太宰帥大伴卿被v任2大納言1【兼v帥如v舊】上v京之時※[人偏+兼]從等別取2海路1入v京。於v是悲2傷覊旅(71)各陳2所心1作歌十首
と記して、三野連石守作一首と作者不v審2姓名1九首とを載せてゐるが、これは卷三の挽歌の部に
  天平二年庚午冬十二月太宰帥大伴卿向v京上道之時作歌五首(内三首は過2鞆浦1日作歌。二首は過2敏馬埼1日作歌)
の別記とも見るべきものである。さうすると、家持はこの卷三の補遺をここに注記したと見てもよからう。そこで卷三を顧みると、この故人の歌の前に天平元年に大伴三中が攝津國班田史生丈部龍麿の死を悼んだ歌を載せ、この旅人の歌の次には同じく旅人の「還2入故郷家1即作歌三首」、次には天平三年に旅人の薨じた時に仕人金明軍、内禮正縣犬養人上の追悼の歌を載せ、それから天平七年に大伴坂上郎女が尼理願の死を悲嘆した歌、天平十一年六月に家持が亡妾を悲傷した歌、弟書持が和した歌、引きつづいてその悲しみをよんだ歌十三首、それから天平十六年二月安積皇子の薨じた時に家持のよんだ歌六首を載せ、最後に死妻を悲傷した高橋朝臣作歌を載せてある。かくして更に翻つて考ふるに、ここは挽歌の部である。その中に旅中の歌と還2入故郷1即作歌との混入してゐるのが異樣に見ゆる。そこで考ふるに、之はその次の旅人の死を悼んだ歌をここに編入するに際してそのすぐ前に記してあつた五首、三首を捨つるに忍びずして序に記入しておいたと思はるる。然らばそれは誰がしたかといへば家持であらうと思はるるのは自然の勢である。かくしてそれらを記した記録が大伴家に保存してあつたであらう。その中からこの卷三の旅の歌の補遺として卷十七の卷頭に載せたものであらう。かやうにして考へてくると、この挽歌の部の後半は大伴氏一族の作を列記し、最後に高橋氏の一首を加へた形に見ゆる。そこでその前の譬喩歌の部を見るとはじめの紀皇女御歌は別としてその以下は造筑紫觀世音寺別當沙彌滿誓、太宰大監大伴宿禰百代、金明軍(この人は旅人の仕人である)の三人は故人と關係の深い人、それから笠女郎の大伴家持に贈つた歌、大伴駿河麻呂の梅歌、(72)大伴坂上郎女の親族を宴する日に吟んだ歌等大伴氏一族の歌が中心になり、その間に藤原八束の梅歌(之は次にある駿河麻呂の梅歌と關聯してゐる)佐伯赤麿の歌(佐伯氏は大伴の一族である)市原王歌、大網公人主歌が交つてゐるが、これらは何か大伴氏一族に關係があつたのではなからうか。その前の雜歌部に於いてはかやうな關係は見えないが、三三一以下五首は帥大伴卿歌とあり、次に沙彌滿誓の歌、山上憶良の歌があり、その次に旅人の讃酒歌十三首がある。この一團は旅人關係の記録からとつたものであらう。さて雜歌の末にある三八七の歌は若宮年魚麻呂作とあり、その次の覊旅歌一首并短歌の左注に「右歌若宮年魚麻呂誦v之。但未v審2作者1」と見ゆるが、卷八の櫻花歌一首并短歌(一四二九、三〇)の左注にも「右二首若宮年魚麻呂誦v之」とある。これによると、卷八は卷三と同じ源をもつてゐる部分があると考へてよからう。そこで卷八を見ると、既に述べたやうに、春相聞、秋相聞は殆ど全く大伴氏一族の詠とそれに關聯するものと見られ、その他の部門も約半は大伴氏一族とそれに關聯するものである。
 卷十七の上述十首の次は天平十年七月七日の夜に天漢を仰いで詠んだ家持の歌であり、その次に
  追2和太宰之時梅花1新歌六首
があるが、之は「天平十二年十一月九日」の家持作である。なほ卷十九にも「追2和筑紫太宰之時春花梅謌1一首」(天平勝寶二年三月二十七日作)がある。この太宰之時梅花の歌は卷五の梅花歌三十二首をさしたものである。之は天平二年正月十三日太宰帥大伴旅人の宅で宴會を行つた時に主人はじめ大貳紀卿、小貳小野大夫、同粟田大夫、筑前守山上大夫、豐後守大伴大夫、筑後守葛井大夫、笠沙彌、その他大監、少監、大典、少典、大判事、藥師、筑前介、壹岐守、神司、大令史、小令史、陰陽師、※[竹冠/下]師、大隅目、筑前目、壹岐目、對馬目、薩摩目等三十二人の詠じたもので、それに「後追和梅歌四首」が加はつてゐる。即ちこの天平二年の詠が家持の手許に傳はつてゐたので十(73)年の後二十年の後に、家持がその舊記に感じて追和したものに相違無い。その歌の舊記が卷五そのものであつたか、又別のものであつたかは今日に於いて斷定は出來ないが、若し卷五であつたとすれば、この外にまだ手がかりがあるかも知れない。卷五は神龜五年六月の太宰帥大伴旅人の凶問に報ゆる歌とそれに對して七月二十一日に筑前國守山上憶良の弔問の文詩及び日本挽歌からはじまり、憶良の令v反2惑情1歌、思2子等1歌、哀2世間難1v住歌を載せ、次に旅人の相聞歌とその答歌、日本琴を中衛大將藤原房前に贈る状と歌とを載せ、又房前の答状と歌とを載する。これは天平元年十月十一月のことである。次には憶良の詠鎭懷石歌、それから梅花歌とその員外思故郷歌と後追和梅花歌とがある。その次に遊2於松浦河1贈答歌八首があるが、これはその作者を記さず、舊記を傳へて之に後人追和之詩三首を加へた形になつてゐるが、次の吉田宜の文と歌とによつて見れば、旅人の創作であらう。宜の文は旅人に與ふる啓であつて、「梅花芳席。群英檎v藻。松浦玉潭。仙媛贈答、云々」とあり、「奉v和2諸人梅花歌1一首」「和2松浦仙媛歌1一首」と他に二首を加へ、天平二年七月に相撲部領使に托して筑紫に贈つたものである。さうすると旅人が上の二種を京なる吉田宜に贈つて見せたことは著しい。次には憶良の松浦歌三首を報じた天平二年七月十一日の書状があり、その次に、詠領巾麾嶺歌、後人追和、最後人追和、最最後人追和二首がある。作者の記載はどこにも無いが、松浦河の歌とすべてが殆ど一致してゐるから旅人の作であらう。次には書殿餞酒日倭歌四首、聊布2私懷1歌三首は左注に「天平二年十二月六日筑前國司山上憶良謹上」とある。旅人は天平二年十月一日に大納言に任ぜられたので、上京することになり、その爲の餞別の宴であつたらうことは明かである。さてその次にあるのは三島王の後追和松浦佐用嬪面歌一首で、次は大伴熊凝の死を悼んだ太宰大典麻田陽春の詠んだ歌、次は憶良がそれに和して熊凝の爲に詠んだ六首の歌とその序でその以下は憶良の歌と漢文詩とである。かくしてそれら(74)に、貧窮問答歌には「山上憶良頓首謹上」とある。好去好來歌には「天平五年三月一日良宅對面獻三日山上憶良謹上 大唐大使卿記室」と宛名があるが、之は遣唐大使多治比眞人廣成に贈つた歌である。而して老身重病經v年辛苦及思2兒等1歌七首は天平五年の作である。以上の如く卷五は旅人及その人に關しての歌と山上憶良の歌だけで天平五年頃までの作を載せてある。編者は誰であるか、わからぬけれど、太宰府關係の歌として一卷になり傳はつたものであらう。卷十九に「慕v振2勇士之名1歌」がある。その左注に「追和山上憶良臣作歌」とある。これは天平勝寶二年三月の作であるが、憶良のどの歌に唱和したのであらうか卷五には見えぬ。大伴熊凝を悼んだ歌かと見るけれど、それは勇士といふ點は見えぬ。然るにその反歌の
  大夫者名乎之立倍之後代爾聞繼人毛可多里都具我禰(四一六五)
といふ歌は卷六の山上臣憶良沈v痾之時歌の
  士也母空應有萬代爾語續可名者不立之而(九七八)
に和した歌といふことが出來る。恐らくはこの短歌に和して長短歌各一首を作つたものであらう。さうだとすれば、ここに家持の伎倆を認めなければなるまい。
 以上、卷十七以下では家持の手になつたことは疑ひはあるまい。而して卷三が家持の編したものとなれば卷四もそれにつれて家持の編となる。しかし、卷一、二はそれより以前に既に成立してゐたであらう。卷五と卷十五とは恐らくは大伴家に傳はつてゐたものをそのままとつたものであらう。卷八は大伴家の歌が大部分で、その部門の全部又は後半部を占めてゐるから、これ亦同樣であらう。かういふやうに考へてみると、大伴一家と萬葉集の編纂とはもはや切つても切れぬ關係のあることは考へねばならぬ。ここに想像を逞くすれば、卷一、二は古く成立してゐ(75)たもので大伴氏の手に成つたなのではないかもしれないが、をれに續編として加へたものが、卷三、四の一團で、これは大伴氏の手に成つたものであらう。而して、それに大伴氏に傳つた太宰府時代の歌の記録をそのまま加へたのが第五卷であらう。かくて第五卷までが一往成立した。それらは恐らくは家持の手に成つたであらう。その後更に増補を企て、卷六、卷七が加はつたであらう。その卷六は作者の知られた歌であるが、卷七は作者不明の卷として、同時に編者の新しい試みとしての題目を加へたりしたのであらう。その後又思ひ立つて卷八が編纂せられた。ここには又新たな分類法が案出せられたが、内容として卷一以下の補遺の性をも加へてゐるが、相變らず大伴氏一族の詠が中心となつてゐる。卷九も略同樣であるが、一層古い歌の補足と見えて、家持などの詠は混じてゐない。しかし、卷三や卷八が既に出來てゐた後の編纂でなければならぬ事は既に述べた所である。卷十は部類は卷八と同じくその部類の内部の題目は卷七に倣つてゐる。それ故に、これは卷七、卷八の後に出來たものであらう。而して作者の無いことも卷七に似てゐる。之を卷六、卷七に比ぶるに、その名あると名無きの關係は卷八、卷十とつづけて考ふべきものである。さうすると卷九は卷一、卷二の補遺たる性質に於いて稍異なるもので卷六、卷七が一團、卷八、卷十が一團、卷九はその中間に入るべきもののやうである。卷十一、卷十二は卷十のつづきで特に無名の相聞歌の集成であらう。卷十三は既にいふ如く、卷三、卷四の補遺の如きもので之も無名の長歌の集成であり、卷十四も同樣で、これは東歌の集成である。而して卷十五は從來傳はつた歌の記録をそのまま收録したので卷五と性質が似てゐる。そこで思はるることは歌の表記の方法に於いて卷五と卷十五とが同樣の有樣を呈してゐるには意味があらうといふことである。恐らくは卷五までで一往出來上り、更に加へ加へて卷十五で又一往出來上り、それに有由縁歌の卷十六を加へたのが、卷十六までの一團であらう。この十六卷までの間には古い歌集や歌の記録をそのま(76)ま取り入れた部分もあるが、いろいろさまざまに歌の集の編纂法の試みられたのがそのまま傳はつてゐることまことに貴ぶべきことであらう。さうしてかやうなことを行つたのはやはり家持であつたらう。かくしてその後はさやうな編纂は行はず歌の記録をそのまま傳へたのが卷十七以下の諸卷であらう。以上は私の想像を逞くした假想であつて、一々根據を問はるれば殆ど答ふることが出來ぬであらう。しかしながら、道理を推して行けば右の樣に考へ得るのである。
 以上のやうに想像はするものの、ここに疑問がある。若し、家持が編したものとすれば天平寶字三年から忽然として歌が無くなり、その後二十六年の間の詠が一首も無いのはどうしたことであらう。又天平寶字三年までに編したものとすれば、東歌の、武藏國が寶龜二年以後の順になつてゐるはどうしたことであらう。萬葉集が天平寶字三年までの歌稿にとどまらず、そのあともあつたのが何かの事情で散逸したとすれば、上の問題は一往かたがつくが、東歌の問題はそれだけではをさまらぬ。そこで國名の順序は後人のさかしらだとすれば、一往かたがつくやうなものの筋の通らぬことである。いづれにしてもこの二つの疑問は容易ならぬ問題である。ここに思ふべきことがある。家持は延暦四年八月に死んだのであるが、その死後二十餘日に大伴繼人、竹良等が中納言藤原種繼を射殺した事が發覺し、大伴氏一統が罪を蒙つた時に、それに坐して未だ葬らざるに家持は庶人に貶せられ財産皆官没せられたのである。その際に、この萬葉集も亦官没せられて世から忘れられてしまつたので無からうか。さうだとすれば、それが再び世に出でたのは平城天皇の朝になつてからでなからうか。その種繼は桓武天皇朝の權臣で山城遷都の主動者であつた。大伴繼人等は之が反對者として立つて事を起したので、それはもとより政治上の爭であつた。平城天皇はその謚の通り、平城京を愛せられ、遜位の後も平城京に居住せられ、終に都を平城に遷さうとまでせられた方(77)であつた。延暦二十五年三月桓武天皇病篤くましましその十七日に勅あつて、延暦四年の事によつて罪せられたものを赦されて、大伴家持の本位を復せらるる等の事があり、その日桓武天皇は崩御せられた。この大伴氏の赦免は皇太子即ち平城天皇の御取計であつたことは著しい。かやうな次第で一時埋没してゐた萬葉集がその官没品の中から再び世に出たのでは無からうか。苦しさうだとすれば古今集の序に「昔平城天子詔2侍臣1命v撰2萬葉集1。自v爾以來、時靂2十代1數過2百年1」とあるのは大體事の實際を述べてゐるのでは無からうか。さうしてその際萬葉集は既に殘缺となつてゐたのでは無からうか。若しこの事が實地に何かの證據を得らるるならば、卷十四の武藏國の位置もそれらの時におきかへられたかも知れぬ。しかしながら、天平寶字三年以後の事は何等の確證は無い。ただ勅撰集の序文ともあらうものが、百年許前の事をでたらめに書くといふこともあるべきで無いと思ふ所から生じた推測である。  
 (昭和二十三年十二月稿、昭和二十六年十一月、萬葉集新説所載)
 
 
(78)  萬葉集の左注なる「右何首」と書せる事の意義
 
 萬葉集中左注に「右一首云々」「右三首云々」の如く記せるもの少からず。これにつきては殆ど疑義あるまじく思はるるさまなれど事實につきて見れば、長歌と反歌とある場合に、その反歌一首のみをさすか、若くは長歌と反歌とを併せて一首とすべきかといふが如き問題が生じてあるが如し。ことにこれが見解如何によりては特にその歌の作者如何といふが如き問題も關聯して起るに至ることあり。現に、卷三なる「山部宿禰赤人望2不盡山1歌一首并短歌」(「三一七」「三一八」)の次に無名の「詠2不盡山1歌一首并短歌」と題して長歌一首(「三一九」)の次に反歌と題して短歌二首、(「三二〇」「三二一」)を載せ次の左注に
  右一首高橋連蟲麻呂之歌中出焉。以v類載v此。
と記せるものありて、それにつきて「右一首」は最後の一首(「三二一」)なりと考ふる説と、長歌反歌をこめて「右一首」といへるなりといふ説とを生じて、古來、學界に多少の問題となれるものなり。而して上に同樣の歌あり、その左注の末に「以v類載v此」とあるものが、またこの間題を紛糾せしむる縁ともなれり。そは如何といふに、若し、この場合に上に赤人の詠なくして、この長歌のみならば、「右一首」は明かに短歌一首と解せらるべきに、前に同樣の不盡山の詠あり、しかも、ここのは無名氏なれば、一層この問題をして曖昧ならしめたり。ここに於いて、これを歌の體より論じて決定せむとする説も出でたれども、余はそれらの態度を以て論ずるは早計なりと思惟し、(79)ここにこれら「右一首」「右三首」等と數を明記せるものをすべて調査し、それよりして一般の記載法を確認せばこの問題は恐らくは氷解すべしと思ふが故に、ここにその調査を施したるその結果を報告して、學界の是正を請はむと欲す。
 先づ、余は本書の左注に「右何首」とかけるもの一切を網羅してこれを分類したるが、その短歌のみの部分をその數量のままに計算して疑義を生ずることなきもの、たとへば卷九に
  與妻歌一首 (「一七八二」)
  妻和歌一首(「一七八三」)
  右二首柿本朝臣人麻呂之歌集中出
といひ、同じ卷に
  宇治若郎子宮所歌一首(「一七九五」)
  紀伊國作歌四首(「一七九六」「一七九七」「一七九八」「一七九九」)
  右五首柿本朝臣人麻呂之歌集出
といひ、卷十九に
  霖雨晴日作歌一首(「四二一七」)
  見2漁夫火光1歌一首(「四二一八」)
  右二首五月
と書けるが如きものは、ここに必要なければ、一々あぐることを止むべし。又長歌につきても、その長歌が、一(80)首に止まりて反歌なきものを「右一首」と書きて疑義を生ずべき餘地なきものも亦ここに必要なければあげず。その他の場合即ち長歌と短歌若くは旋頭歌とを混淆して記載せる末に「右何首」として計算せるものにつきて、それらを類別してあぐれば次の如し。
       一、長歌一首、反歌一首に對して「右二首」と記せるもの。(次下括弧を施さぬは、原本の文字)
 卷一 額田王下近江國作歌云々
     (長「一七」反「一八」)
  右二首歌、山上憶良大夫類聚歌林曰……
 卷八 櫻花歌一首并短歌
     (長「一四二九」反「一四三〇」)
  右二首、若宮年魚麻呂誦之
 卷九 鹿島郡苅野橋別2大伴卿1歌一首并短歌
     (長「一七八〇」)
     (反「一七八一」)
  右二首、高橋連蟲麻呂之歌集中出
 卷十三 (長「三二二三」)
     (反「三二二四」)
   此一首入道殿讀出給
(81) 右二首
 卷十三、(長「三二二五」)
     (反「三二二六」)
  右二首
 卷十三 (長「三二三〇」)
     (反「三二三一」)
   此歌入道殿讀出給
  右二首、但或本歌曰……
 卷十三 (長「三二三二」)
     (反「三二三三」)
  右二首
 卷十三 (長「三二三四」)
     (反「三二三五」)
   此歌入道殿下令讀出給
  右二首
 卷十三 (長「三二四〇」)
     (反「三二四一」)
(82) 右二首、但此短歌者或書云……
 卷十三 (長「三二四三」)
     (反「三二四四)
  右二首
 巻十三 (長「三二四五」)
     (反「三二四六」)
  右二首
 巻十三 (長「三二四八」)
     (反「三二四九」)
  右二首
 巻十三 (長「三二五八」)
     (反「三二五九」)
  右二首
 巻十三 (長「三二六六」)
     (反「三二六七」)
  右二首
 巻十三 (長「三二六八」)
(83)    (反「三二六九」)
  右二首
 巻十三 (長「三二七〇」)
     (反「三二七一」)
  右二首
 巻十三 (長「三二七二」)
     (反「三二七三」)
  右二首
 巻十三 (長「三二七四」)
     (反「三二七五」)
  右二首
 巻十三 (長「三二七六」)
     (反「三二七七」)
  右二首
 巻十三 (長「三二七八」)
     (反「三二七九」)
  右二首
(84) 卷十三 (長「三二八九」)
    (反「三二九〇」)
  右二首
 卷十三 (長「三二九一」)
     (反「三二九二」)
  右二首
 卷十三 (長「三二九三」)
     (反「三二九四」)
  右二首
 卷十三 (長「三二九五」)
     (反「三二九六」)
  右二首
 卷十三 (長「三二九七」)
     (反「三二九八」)
  右二首
 卷十三 (長「三三〇三」)
     (反「三三〇一」)
(85) 右二首
 卷十三 (長「三三二四)
     (反「三三二五」)
  右二首
 卷十三 (長「三三二七」)
     (反「三三二八」)
  右二首
 卷十三 (長「三三三三」)
     (反「三三三四」)
  右二首
 卷十三 (長「三三四四」)
     (反「三三四五」)
  右二首、但或云此短歌者防人妻所v作也、然別應v知2長歌亦此同作1焉。
 卷十三 (長「三三四六」)
     (反「三三四七」)
  右二首
 卷十八 天平感寶元年閏五月六日以來撃2小旱1百姓田畝稍有2凋色1也。至2于六月朔日1勿見2雨雲之氣1。仍作雲(86)歌一首短歌一絶
     (長「四一二二」)
     反歌一首(「四一二三」)
  右二首、六月一日晩頭守大伴宿禰家持作之。
 卷十九 慕v振2勇士之名1歌一首并短歌
     (長「四一六四」)
     (反「四一六五」)
  右二首、追2和山上憶良臣作歌1。
 卷十九 從2京師1來贈歌一首并短歌
     (長「四二二〇」)
     (反「四二二一」)
  右二首、大伴氏坂上郎女賜2女子大孃1也。
 卷十九 (長「四二二七」)
     (反「四二二八」)
  右二首歌者三形沙彌承2贈左大臣藤原北卿之語1作誦之也。……
 卷十九 悲2傷死妻1歌一首并短歌作主未詳
     (長「四二三六」)
(87)    (反「四二三七」)
  右二首、傳誦遊行女婦蒲生是也
 卷十九 爲應詔儲作歌一首并短歌
     (長「四二六六」)
     (反「四二六七」)
  右二首、大伴宿禰家持作之
       二、長歌一首旋頭歌一首に對して「右二首」と記せるもの
 卷十三 (長「三二三二」)
     旋頭歌(三二三三」)
  右二首
       三、長歌一首、反歌二首に對して「右三首」と記せるもの
 卷三 悲2傷死妻1高橋朝臣作歌一首并短歌
     (長「四八一」)
     (反「四八二」「四八三」)
  右三首、七月廿日高橋朝臣作歌也。云々
 卷九 思2娘子1作歌一首并短歌
     (長「一七九二」)
(88)    (反「一七九三」)「一七九四」)
  右三首、田邊福麻呂之歌集出。
 卷十三 (長「三二二七」)
     (反「三二二八」「三二二九」)
  右三首、但或書此短歌一首(三二二九)無有載之也。
 卷十三 (長「三二五五」)
     (反「三二五六」「三二五七」)
  或本以2此歌一首1爲2之|紀伊國之《キノクニノ》濱爾縁云鰒珠拾爾登謂而往之君何時到來歌(三三一八)之反歌1也。具見v下也。但依2古本1亦累載v茲
  右三首
 卷十三 (長「三二六〇」)
     (反「三二六一」)
  今案此反歌謂2之於君不相1者於v理不v合也。宜v言2於妹不相1也。
     或本反歌曰(「三二六二」)
  右三首
 卷十三 (長「三二六三」)
     反歌{「三二六四」)
(89)   或書反歌曰(「三二六五」)
  右三首
 卷十三 (長「三三三〇」)
     (反「三三三一」「三三三二」)
  右三首
 卷十五 到2壹岐島1雪連宅滿、遇2鬼病1死去之時作歌一首并短歌
     (長「三六八八」)
     反歌二首(「三六八九」「三六九〇」)
  右三首、挽歌
 卷十九 (長「三六九一」)
     反歌二首(「三六九二」「三六九三」)
  右三首、高井連子老作挽歌
 卷十九 (長「三六九四」)
     反歌二首(「三六九五」「三六九六」)
  右三首、六鯖作挽歌
       四、長歌二首、反歌一首に對して「右三首」と記せるもの
 卷十三 (長「三二三六」)
(90)    或本歌曰 (長「三二三七」)
     反歌(「三二三八」)
  右三首
     五、長歌一首、反歌三首に對して「右四首」と記せるもの
 卷十三 (長「三三一四」)
     反歌(「三三一五」)
     或本反歌曰(「三三一六」「三三一七」)
  右四首
 卷十八 讀居2幄裏1遙聞2霍公鳥喧1作歌一首并短歌
     (長「四〇八九」)
     反歌(「四〇九〇」「四〇九一」「四〇九二」)
  右四首、十日大伴宿禰家持作之
     六、長歌二首、反歌二首に對して「右四首」と記せるもの
 卷十三 (長「三二八〇」)
     或本歌曰(長「三二八一」)
     反歌(「三二八二」「三二八三」)
  右四首
(91) 卷十三 (長「三三一〇」)
     (反「三三一一」)
     (長「三三一二」)
     (反「三三一三」)
  右四首
     七、長歌一首、反歌四首に對して「右五首」と記せるもの
 卷十三 (長「三三一八」)
     (反「三三一九」「三三二〇」「三三二一」「三三二二」)
  右五首、
      八、長歌二首、反歌三首に對して「右五首」と記せるもの
 卷九 神龜五年戊辰秋八月歌一首并短歌
     (長「一七八五」反「一七八六」)
    天平元年己巳冬十二月歌一首并短歌
     (長「一七八七」反「一七八八」「一七八九」)
  右件五首笠朝臣金村之歌中出
 卷九 詠2勝鹿眞間娘子1歌一首并短歌
     (長「一八〇七」反「一八〇八」)
(92)  見2菟原處女墓1歌一首并短歌
     (長「一八〇九」反「一八一〇」「一八一一」)
  右五首、高橋連蟲麻呂之歌集中出
 卷十三 (長「三二五〇」反「三二五一」「三二五二」)
    柿本朝臣人麻呂歌集歌曰
     (長「三二五三」反「三二五四」)
  右五首
      九、長歌三首、反歌二首に對して「右五首」と記せるもの
 卷十三 (長「三二八四」反「三二八五」)
    或本歌曰 (長「三二八六」反「三二八七」)
    或本|反〔右○〕歌曰(反字なき本あり。長歌なり「三二八八」)
  右五首
 卷十三 問答(長「三三〇五」反「三三〇六」)
     (長「三三〇七」反「三三〇八」)
    柿本朝臣人麻呂之集歌(長「三三〇九」)
  右五首
     十、長歌三首、反歌四首を一括して「右七首」と記せるもの
(93) 卷九 過2足柄坂1見2死人1作歌一首(長「一八〇〇」)
    過2葦屋處女墓1作歌一首并短歌
     (長「一八〇一」反「一八〇二」「一八〇三」)
    哀2弟死去1作歌一首并短歌
     (長「一八〇四」反「一八〇五」「一八〇六」)
  右七首、田邊福麿之歌集出
     十一、長歌三首、反歌六首を一括して「右九首」と記せるもの
 卷十三 (長「三二三五」)
     (長「三三三六」反「三三三七」「三三三八」)
     或本歌
    備後國神島濱調使首見v屍作歌一首并短歌
     (長「三三三」反「三三四〇」「三三四一」「三三四二」「三三四三」)
  右九首
     十二、長歌六首、短歌十五首を一括して「右二十一首」と記せるもの
 卷六 悲2寧樂故京郷1作歌一首并短歌
     (長「一〇四七」反歌二首「一〇四八」「一〇四九」)
    讃2久邇新京1歌二首并短歌
(94)    (長「一〇五〇」反歌二首「一〇五一」「一〇五二」)
     (長「一〇五三」反歌五首「一〇五四」「一〇五五」「一〇五六」「一〇五七」「一〇五八」)
    春日悲2傷三香原荒墟1作歌一首并短歌
     (長「一〇五九」反歌「一〇六〇」「一〇六一」)
    難波宮作歌一首并短歌
     (長「一〇六二」反歌二首「一〇六三」「一〇六四」)
    過敏馬浦時作歌一首并短歌
     (長「一〇六五」反歌二首「一〇六六」「一〇六七」)
  右二十一首、田邊福麿之歌集中出也
 以上はそれらのすべてをあげたるなり。これに照して考ふれば、かの左注に何首とかぞふるは事案上長歌反歌にかかはらず、すべて一首と計算せるものにして、端書に長歌反歌をこめて一首とかきて反歌を計算に入れざると同じ性質の書きざまにあらざるを見る。かくて、第八にあげたる卷九の二の例、第十以下にあげたる諸例を見れば、それらはその詞書より見れば第八にあげたる卷九のは各二首といふべきに「右件五首」又は「右五首」と左注に記し、第十にあげたる卷九の例は詞書よりいへば三首といふべきに、「右七首」と左注に記し、第十一にあげたるものは二首といふべきに、「右九首」と左注に記し、卷十二にあげたるものは五首といふべきに、「右二十一首」と左注に記せるを見るときには、詞書にいふ所と、左注にいふ所とはその計算の主義に於いて異なる點の明白に存することを見る。即ち詞書に於いては長歌を本體として、反歌はそれの附屬として、反歌の有無、及び反歌の數は其の(95)歌を一首とかくが上には影響する所なきなり。然れども、左注に於いてはすべて、事實のまま計量せるものにして詞書の一首云々といふことに拘泥するものにあらざること明かなり。この故に數個の長歌を總合していふ時、その詞書にては歌の組織上の單位を以てかぞへ、左注にては長歌反歌各一首づつとしてその數量を個別にかぞふるものたるを見る。ここに於いてかの卷三の場合に若し、
  詠不盡歌一首并短歌
をば「高橋蟲麻呂之歌中出焉」といふ意を示さむとならば、必ず、「右三首」と記して「右一首」とは書くべからぬことは上述の事例に照して明白なることなり。この故にこの點より見れば、「右一首」の語を以て「三一九」の長歌以下三首を一括せりといふ給は全然根據なき論なりといふべきなり。
 次に又他の方面を顧みて、長歌の次に反歌二首以上を連記して、その左注に「右一首」と記せる例を按ずるに、かの卷三の例の外には二の例あるを見る。その一は
 卷一 中大兄近江宮御宇天皇三山歌一首
     (長「一三」)
     反歌(「一四」「一五)
  右一首歌今案不v似2反歌1也。但舊本以2此歌1載2於反歌1。故今猶載2此次1。
とあるものなり。これは「右一首歌」を以て長歌以下すべてをさすものとせば、全く意義をなさず。ここに「不v似2反歌1也」とあるは、反歌としてあげたる二首の中の末の「一五」の歌が、三山歌の反歌として似もつかぬが故にいへることは古來すべての學者の一致して認むるところなり。他の一は
(96) 卷五 戀2男子名古日1歌三首【長一首短二首】
     (長「九〇四」、反「九〇五」「九〇六」)
  右一首、作者未詳、但以3裁歌之體似2於山上之操1載2此次1焉。
とあるものなり。これも古來多少の疑義あるものなれど、端書に三首とあるに照して考ふれば、左注の「右一首」は最後の「九〇六」のみに對するものなることは毫も疑ふべからず。かくて上述の左注の「右何首」とあるものはすべて實際の歌の數をさせるものなれば、ここも卷三のも同様にその直前の一首をさすものたることを知るべきなり。
 以上は甚だ明白にして論議を費すべき餘地も無き程のことなり。然るに、古來學の間に甲乙論駁の絶えざるは一の奇觀といふべし。ここに私見を呈して識者の批判を請ふ。
        (昭和七年二月、國語國文第二巻第二號)
 
(97)  萬葉集巻二挽歌最初の左注について
 
 萬葉集巻二の挽歌は「有間皇子自傷結松枝歌二首」よりはじまり、次に「長忌寸意吉麿見結松哀咽歌二首」あり、その次に「山上臣憶良追和歌一首」ありて、その次に
  右(ノ)件《クダリノ》歌等雖3不2塊v柩之時(ノ)所作》1准〔右○〕2擬歌意1故(ラニ)以載2于挽歌類1焉。
と注せり。こゝにある「准」字は流布本等に「唯」に作れど、金澤本、神田本、又元暦本の朱書によりて、正せり。「准」も「擬」も「ナズラフ」といふ字なれば、二字にて「ナズラフ」といふ語をあらはしたるなるべし。さてこの左注はさまで本文に関係なきやうなれど、從來の説明には服する事能はざる點あれば、次に之を述べむとす。
 この左注につきて契沖は曰はく
  此注は以下の歌後に有けむが、傳寫の後誤て此に來れるなるべし。其故は齊明天皇の御代と標して載たるは有間皇子の二首にて次下の四首は類を以て因に此に載る故に後人の難を避む爲に注するなり。
この左注を施せる旨趣はまことにこの言の如くなるべし。されどその文句の意は如何といふに契沖は之に言及せざるなり。
 萬葉考はこの注につきて
(98)  今本ここに注あれど用なくいまだしき事なればすてたり。
といひ、なほ別記に
   結松の歌に追和たる憶良の歌の左の注に
  右件(ノ)歌等雖v不2挽v柩之時|所作《ヨメルニ》1唯〔右○〕擬2歌意1故以載2于挽歌類1焉といへり。此集の挽歌と有下には右の有馬皇子の御歌の如く、いにしへの事をきゝ傳へしをも載つれば、たゞ悲しみの歌とふことのみなるを挽歌の字は借たる也亡今更に柩をひきひかぬなどいふは餘につたなき注也。
といへり。略解は又
  挽歌の字に泥みて只哀傷の歌と心得ぬものの書加へたる也。
といへるが、これより後はすべてこれと大同小異の論をのみなせり。考證は
  さて左の(注の文略す)云々とあるは本《モト》のことをばしらずして、挽歌は柩を挽ときうたふ歌ぞとのみ心得たる人のしわざにてとるにたらず。
といひ、古義には
  舊本此(ノ)下山上(ノ)憶良(ノ)追和歌の左註に(左注の文略す)といへるは既く岡部氏がさだせし如く餘にをさなき説にあらずや。此集の挽歌と有(ル)部内にはいにしへの事をきき傳へしを載つれば、たゞかなしみ歌てふことのみなるは著しきを挽歌の字に就て、今更に柩をひきひかぬなどいふべきことかは。
といひ、注疏には
  挽歌の字に泥みて哀傷とはことなるやうに思へる後人の加筆なり。
(99)といひ、美夫君志には
  さて左の(左注の文略す)とあるは柩を挽く時うたふ歌とのみ心得たる人のしわざにて論ずるにも足らず。
といへり。
 以上の如く從來の諸大家同音にこの左注を罵倒せるが、果して、しか論ずるに足らぬ無學の沙汰より出でし結果なるか。はた又後人の加筆なるか。余は未だ遽にこれらの諸家の説に賛意を表するを得ずと思惟するなり。
 先づ、本集中挽歌の部類に載する歌多きが、ここにいへる如く實際柩を挽く時の詠としてつくれるもの果して存するか否か。文字通りにせば、挽歌は柩を挽く時の歌といふことなるべきが、さる歌は一首も存するを見ず。その意に最も近きものとしても葬送につきていへるものに止まれり。されば一般にこの萬葉集に挽歌としてあげたるものは必ず柩を挽く時の歌と認めてあげたりとは信ぜられざるなり。この故に當時挽歌をその文字通りに解釋したりといふことは信ずる事能はず。然るにここに「挽柩之時所作」の語を用ゐたるものは何等か特別の事情存せるにあらずやと思はしむる點存するを考へざるべからず。
 次には又この挽歌をばただ悲しみの歌の意にしてこの左注の如き歌も本集には一般に挽歌といひたるか如何といふ點も考慮すべきなり。今第二卷の挽歌につきて見るに
 聖躬不豫之時     一四七、一四八
 崩御之時       一四九、一五〇、一五九、一六〇、一六一
 大殯之時       一五一、一五二、一五三、一五四
 從山陵退散      一五五
(100) 皇子皇女薨時    一五六、一五七、一五八、二〇四、二〇五、二〇六、二二六、二三一、二三二、二三三、二三四
 崩之後夢裏      一六二
 皇子皇女薨之後    一六三、一六四、二〇三
 移葬之時       一六五、一六六
 量子皇女殯宮之時   一六七、一六八、一六九、一七〇、一七一――一九三、一九六、一九七、一九八、一九九、二〇〇、二〇一
 葬之時        一九四、一九五
 妻死後哀慟      二〇七、二〇八、二〇九、二一〇、二一一、二一二、二一三――二一六
 死時         二一七、二一八、二一九、二二四、二二五
 視死人        二二〇、二二一 二二二、二二八、二二九
の如く、人の死に連關するものをさせるものにしてただの悲しみの歌をさせりとも思はれず。卷二の挽歌中人の死に直接關係なきは、この左注までの五首と、左注の直次の「一四六」の歌と、「二二六」の「丹比眞人擬柿本人麿之意報歌」とその次の或本歌とに止まれり。この丹比眞人の歌は上の「柿本朝臣人麿死時依羅娘子作歌」に答へて柿本人麿のよめるものに擬したるものなれば、因に載せたるものにして、その次の一首も亦その歌の異傳なり。然るときにこれを通じて考ふるに、挽歌は「挽柩之歌」にはあらねど、又單なる悲しみの歌の義にあらずして、死喪に關する歌なることは明かなりとす。然りとせば、「たゞ悲しみの歌てふことなるを挽歌の字は借たる也」といへるものは當らざることにして、「柩を挽く時うたふ歌とのみ心得たる人のしわざにて論ずるにも足らず」といへることは事實を精査せぬ人の空論といふべきなり。
(101) 次にこの左注の文意はそれらを挽歌と認めたるものか如何といふに、「故以載2于挽歌類1」と特にことわれるを見れば、この注者はそのさせる歌をば本來挽歌にあらざることを自ら認めたるものなること明かなり。而して之を上に述ぶる死喪の場合の詠を挽歌といふに對照するに、これらは一も死喪の歌にあらねば、挽歌にあらざるは勿論にして、左注の記者も自らしか信じたる故にこの言をなせるものといはざるべからず。然るに之を罵りて挽歌の文字に拘泥せりといへるが如きは誣言といふべきなり。
 次に、これを後人の加筆と認むべきか如何と見るに、後人の加筆とも見えざるなり。先づ、第一にこの左注のかきぶりは卷一「一九」の左注に
  右一首歌今案不v似2和歌1。但舊本載2于此次1故以〔二字右○〕猶載焉。
又卷一「八三」の左注に
  右二首今案不v似2御井(ノ)所作〔二字右○〕1若疑當時誦之古歌歟。
とあると同じ語氣をあらはせり。これによりてこれを後人の追記とせば、其れと共に、上の左注等も同じ取扱とすべきなり。加之これを後人の追記とせば、その左注と共に追記せし歌の存すべき筈なるべきが、この左注はいづれの歌に對しての注なるか。惟ふに「件|歌〔右○〕等」とあるによりて「山上憶良追和歌一首」をさせるに止まらぬことは明かなり。然らば、長忌寸意吉麿の二首までをこめてさすかと考ふるに、これは有間皇子の事ありてより後四五十年の後の詠にして挽歌にあらざるは明かなれば、これをもこめていへるは考へうべきことなるが、なほ考ふるに、有間皇子の詠二首も亦挽歌にあらずして、生前に自らよまれしものなればこれをもこめていへりといはざるべからず。然するときは「件歌等」は以上の五首すべてをさせるは疑なかるべし。即ちこの五首が、事實挽歌にあらぬは(102)明かなるに、ここに挽歌の部類に入れたれば、その意を明かにせずば世人の感を惹き起さむとおそれ、この左注を加へたりといふことは考へうべきなり。
 然れどもこれにつきてはなほ契沖のいへる如き疑あり。即ち有間皇子の歌のみなるが原本の姿にして、次々の三首は後人の加へしものにして、その加へし人が「類を以て因に此に載る故に後人の難を避む爲に注」したるものならむといふことなり。然れども、若し然りとする時は有間皇子の歌は正しき挽歌なりとせざるべからず。然るに、その歌二首共、如何にしても挽歌と目すべからず。この故にこの左注を萬葉集の編者の語にあらずとせば、有間皇子の歌をはじめて、五首すべてが後人の記入なりとすべきこととならむ。若し果して然りとせば、その標目の「後崗本宮御宇天皇代」には一首の歌も無くなり、その標目も全く無用とならざるべからず。然れどもかゝる事は殆どありうべからざる事にして、「後崗本宮御宇天皇代」といふ標目存せば、有間皇子の歌なかるべからず。有間皇子の歌ある以上は左注なかるべからざるなり。從つてかりに、長忌寸意吉麿の歌山上憶良の歌が後人の記入なりとすとも、その左注ははじめより存して、有間皇子の歌に對しての注なりしものとせざるべからず。いづれにして左注は有間皇子の歌を含めていへるものなりとせずば、解するを得べからず。然りとせば、これは編者のしわざにして、その編著は挽歌といふことは「挽柩之時」の歌なりとやうに考へてあらざりしものなることは上に述べし如く疑ふべからず。然るにかゝる文章を草せる所以は如何。これには何等かの理由なかるべからずと思はる。余はこの事を論ぜむとするに先だち、まづ萬葉集に用ゐられたる挽歌といふ語の意を一往取調べ見むと欲す。
 挽歌といふことはもと崔豹の古今注に「薤露蒿里並喪歌也、出2田横門人1。横自殺、門人傷v之爲2之悲歌1。言人命如2薤上之露1易2晞滅1也、亦謂、人死魂魄歸2乎蒿里1故有2二章1……至2孝武時1李延年乃分爲2二曲1。薤露送2王公貴(103)人1、蒿里送2士大夫庶人1、使2挽v柩者歌1v之。世呼爲2挽歌1。」といひ、初學記所引干寶の捜神記に「挽歌者喪家之樂、執v※[糸+弗]者相和之聲也」といへるが如き意義のものなり。さて、晋書禮樂志に、「挽歌出2於于漢武帝役人之勞1。歌聲哀切遂以爲2送終之禮1」と見ゆるが、これにてはその起原の説異なれど、その歌聲の哀※[立心偏+宛]なるによりて柩を挽く時の歌に適せしさまのものたりしならむ。この時は主として聲樂なりしものならむが、かくて後その送終の禮に用ゐるを目的としてつくりたる所謂挽歌といふ一體の詩あるに至れりと見ゆ。そは文心彫龍の注に引ける文章志に、「繆襲字※[にすい+煕]伯作2魏鼓吹曲及挽歌1」とあるにて知らる。さて降りては文選に詩の類別中に挽歌の目を立て、それらの詩をば挽歌詩といへり。而してその挽歌詩はもはや挽柩時の歌曲にも又送終禮に用ゐる歌曲にもあらずしてただ死者を哭する詩の義になれりと見ゆ。かくて又この挽歌詩を往々挽詞ともいへり。以上の如く、挽歌といふ名目は、本原は柩を挽く時の歌といふ文字通の義なりしが、後には汎く葬儀に用ゐる歌の義となり、更に變じて喪を哭する一體の詩となりしものと見ゆ。さて本集の用例を見れば、葬歌の義にあらずして、支那の所謂挽歌詩の義に近く、しかもそれよりも少しく汎く後世の歌集に所謂哀傷歌といふに似たる用をなせるものなり。かくてなほ考ふるに、本邦にていふ挽歌は支那の本義の挽歌の意にあらずして、挽歌詩又挽詞といへるに該當するものにして、これを冗長を厭はずしていふ時は「挽〔右○〕歌體のうた〔二字右○〕」といふべきものなり。然るときは或は支那の挽歌詩又は挽詞に對して詩又は詞といふ文字を「歌」にかへて「挽歌」といへるにて支那の本原の挽歌の意に用ゐたるにあらざるべきなり。
 以上説く所の如く、萬葉集の挽歌は實は文選、玉臺新詠などに挽歌詩といへるものに比すべきものにして本原の挽歌といふ名義をそのまま蹈襲せりとは認められざるなり。されば、この集の編者が挽歌の本義も轉義も十分に心得ての上に左注を施せりと見ざるべからず。而してこの集の漢字の用ゐざま、漢文の體を見るに、今のなみなみの(104)學者などの容易に及ぶべからざる程度に、この學の素養ありしものと思はる。然るに、上述の如き文を草せしものは何等かの理由なくばあらず。
 余萬葉集を研究し初めし時は上述の諸大家の説を信じて、こは注者の妄なるによるものと信じてありしが、漸くこの編者の學識の凡ならざるを感ずるに至り、それと同時に、この左注が恐らくは原本より存せしものなるべきを思ふに至り、かゝる編者がさる妄なる語遣をなすべきにあらざるべきを思ひ、これには何等か斯くすべき理由あるべしと熟考せしが、ふとこはもとより漢文なれば、漢文として見て論ぜざるべからざる點に心付きぬ。かく心付きて顧みればこれは決して注者の妄なるにあらずして、文章の上よりかくすべき必要ありてせしものならむと思ふに至りぬ。そは如何といふに、これ即ち漢文の作法上避板の法の爲にかくせしものなるべしと思ひ得るに至りぬ。避板の法とは文章の平板に陷るを避くる爲に同一の語をも文字をかへ語をかへて記述する方法をいへるなり。こは淇園文訣に難法といへるものに同じくして、同書に委しき説明あり。曰はく、
   文章ニ避法アリ。避クルワケハ、タトヘバ詠物ノ詩ヲ作ルニ其物ノ名ヲ出セバ、其物ヲ詠スルコトニナラヌ故ニ其名ヲ避ケテ言出サヌナリ。文章ノ避法ヲ用ユルモ是ト同ジ意持ニテ、英名ヲ出セバ聞者ノ心ニ、外物ニ別ケテ思フ意ガ立ツ故ニ尚其物トヨソ/\シキ氣味ニナル故ニ其處ヨリハ一段深カク外ヲ忘レテ其物ニコミ入ラセテ思ハセントスル時ニ此避法ヲ用ユルコトナリ。コミ入リテ其内ナル意味ニシテ言ヒ出サントスルモ同ジク避法ヲ用ヒテ書カフルコトアリ。
    然龍弗v得v雲〔右○〕、無3以神2其靈1矣。失3其所〔右○〕2憑依〔二字右○〕1信不可歟【韓退之雜説】(本圏なし。今便宜之を加ふ)此所憑依ノ三字ハ即チヤハリ雲ノコトナレトモコミ入リテ龍ノ身分ニ付ケテ言フ故ニ、雲ノ字ヲ避ケテ書カヘ(105)テ所憑依トセルモノナリ。
    楊子咲而應v之曰、客徒(ニ)欲2朱丹吾轂〔五字右○〕1不v知2一趺將1v赤2吾之族1也【楊雄解嘲】
此ハ前ニ客ノ辭ニ、今吾子與2群賢1同行歴2金門(ヲ)1上2玉堂1有v曰矣ト云タルヲ書カヘテ欲v朱2丹吾轂1ト書タルナリ。玉堂ニ上ルベキ貴位ニナレバ乘車ノ轂ヲ朱丹ニ塗ルモノ故ニ客ノ言タルコトニ取付キ會釋シテ、其事ニ思ヲハメテ、其事ニナナリテノ、コミ入タル處ヲ引出シテ、カクハ書カヘタルモノナリ。文章ニ此ノ如ク書替テ行クベキ事甚多キモノナリ。此一ヲ以テ萬ヲ例シテ工夫シ見ルベシ。又其一趺將赤吾之族ハ後ノ炎々者滅隆々者絶ト云ニアタラントテ先ヅ其ヲ其身ニ切ナル深キ處ノコトニシテ言タルモノニテ此モヤハリ避法ナリ。
 この避板法は修辭學上古今に通じたることにして、文の姿體を美にせむには守るべき一法にして、今も之を論ずるものあるは、たとへば五十嵐力氏の新文章講話に避板法とてあげたるそのうちの用語轉換法といへるものそれに當るといふべし。
 今この左注の文もこの避板の法によりてかけるものにして、その意は
  右件歌等雖v不2挽歌〔二字右○〕1准2擬歌意1故以載2于挽歌〔二字右○〕(ノ)類1焉。
といふに止まるものなることは明かなり。然らば何が故に「挽v柩時之所作」といへるかといふに、これ即ちこの短き文中に挽歌といふ語の頻繁にあらはれて、讀者をして平板の感を抱かしめむことを厭ひ、之を避け有が爲に「挽歌」といはむかはりにこの語を用ゐたるものにして、その文中の價値は次の如き方程式にて示すを得べし。
  (挽柩時之所作)=挽歌
而してこの避板法によれる筆法は、かの韓退之雜説に、次の如き關係にて
(106)  雲=(所憑依)
避板の法を用ゐたると揆を一にすといふべし。たゞ二者の異なる所は韓文は正しき語を先にあらはして、後に避法を用ゐたるが、この左注は先に避法を用ゐて、後に正しき語をあらはしたる點にあり。而してこの左注にありて、これを逆に行はむか、全く文をなさざるに至らむ。これを以て考ふるに、この僅々二十四字の短文の間にかくも用意周到なることの行はれてあるを知ると共に、これが注者はなみ/\の文章家にあらざるをさとるべきなり。
 余は上述の如き事情を以てこの左注の文章にても深く敬服して措かざるなり。然るに從來の諸大家この用意周到なることを知るや知らずや、漫りに注者を攻撃して挽歌の意義をも知らざる妄人なりとせるは如何。注者の周到なる用意も、これらの諸大家の妄説の爲に世に認められざるに至りしは遺憾なりといふべし。余をしてこれら諸大家をばその筆法をかりて評せしめば、それらの論は「こゝに全く用なく」「未だしき事にして」「餘に拙き人の説にして」「論ずるに足らず」とやいはまし。         (昭和四年四月、奈良文化第十六號)
 
(107) 相聞考
 
 萬葉集に相聞といふ一部門を設けてあることは人皆知れり。されどその相聞とは如何なる意義を有せるかについては世人必ずしも皆よく知れりとは見えず。それらの人々は大抵萬葉考に
  相聞《あひぎこえ》 こは相思ふ心を互に告聞ゆればあひぎこえといふ。後の世の歌集に戀といふにひとし。されど此集には親子兄弟の相思ふ歌をも此中に入てこと廣きなり。
といへるによれるものにして、略解に
  相聞 是は相思ふ心を互に告聞ゆればかく言へり。後の集に戀と言ふにひとし。されど此集には親子兄弟の相したしみ思ふ歌をも載せてこと廣きなり。
といへるもこれに基づけり。かくて世の萬葉家大抵かくの如く見るを常とせり。
 これらの見解につきては二の明かにすべき點存す。一は相聞の文字は相ひ聞ゆといふ國語にあてたる文字なりや否やといふことにして一は後世の歌集にいふ戀の部にあたる部門なるか否かといふことなり。
 按ずるに相聞の字面は國語を漢字にてあらはしたるものにあらずして實にこれは漢語の熟字より來れるものなりとす。この事は古義既にこれを論ぜり。
  相聞の字はからぶみ文選曹植が呉季重に與《おく》れる書に適對2嘉賓1口授不v悉往來數々相聞とありて呂向が注に聞(108)問也といへるに全《もはら》よりたるものなり。其故は十一十二の兩卷を古今相聞往來歌類の上下と別たる相聞往來の四字みながらかの文選に出たるにてしるし。さて相聞は相問といふに同じきことかの書の注にて明けし。即四卷相聞部に大伴宿禰駿河麿歌一首不相見而云々大伴坂上女郎一首夏葛之云々とありて、右坂上郎女者佐保大納言卿女也、駿河麻呂者高市大卿之孫也、兩卿兄弟之女孫姑姪之族、是以題v歌送答相2問起居1。とある相問と全同じければなり。
と論ぜり。この論まさに然るべきことなり。然れどもなほ説きて委しからざる憾あり。先づここに文選の例一のみを引きてこの文選の文が唯一の出典なるが如くにいひ、全然この文によりて相聞といふ部門を萬葉集に立てたるやうにいへるは未だ首肯するを得ず。抑もこの文選の與呉季重書にある相|聞〔右○〕の文字は異本には相|問〔右○〕とありてうけばりて相聞の出典と主張するを得ざるものなりとす。されど相聞と相問との同義たることはこの六臣注本の呂向が注にて明かにせられたりといふべし。かくて相問の字面は周禮大行人の條に
  凡諸侯之邦交歳相問也
と見えその注に「小聘曰2相問1也」とあり。これは蓋當時相問といふ普通語ありしをこの特種の小聘をいふ爲に用ゐたるものなるべし。
 されど文選の相聞の文字は上述の如くに不確實のものなれば他になほ出典あるべきなり。岡本保孝は相聞の文字は南史三十二卷にありといへり。これは佩文韻府にあげたる相聞の唯一の例にして、そは張敷が傳の中の語なりとす。曰はく
  善持2音儀1盡2詳緩之致1與v人別執v手曰金(ヒテ)相聞(セン)
(109)とこれ即ち保孝のさせる例なりとす。橘守部は又唐の月儀に「朋友相聞」とありといへり。こは余未だ實見せずといへども、美夫君志にいへる欝岡齋法帖をさせるなり。その美夫君志の説はこの問題に重要なる關係を有せり。曰はく
  先師岡本保孝の説に狩谷※[木+夜]齋先生の筆記中に相聞とは互に問ひかはすといふ事なり。欝岡齋法帖に載たる唐無名書月儀に十二月朋友相聞書と題せり。此月儀はここの往來といふものの如く毎月の贈答の文章を作れるものにして男女の情を通はしたるものにあらず云々とありといへりき。正辭云本集なるは男女の情を通はしたるものを廣くいふなり。
この※[木+夜]齋翁の説まさに然るべき卓見なるが唐の法帖の如きはただ傍例といふべきものにして未だ出典とするに足らず。
 余ははじめこの字面を六朝の慣用語ならむと推せしに、事實はそれよりも古くして既に漢代にありしなり。この字面の現今の余の管見にて最も古く見えたるは漢書なりとす。同書卷第七十鄭吉傳に
  神爵中匈奴乖亂。日逐王先賢憚欲v降v漢、使2人與v吉相聞〔二字右○〕1吉發2渠黎龜茲諸國五萬人1迎2日逐王1口萬二千人、小王將十二人隨v吉至2河曲1頗有2亡者1吉追斬v之。遂將詣2京師1。漢封2日逐王1爲2歸徳侯1。
と見え又同書卷第九十二遊侠傳中の陳遵が傳に、
  又日出醉歸、曹事數廢。西曹以2故事1適(セム)v之。侍曹輙詣2寺舍1白v遵曰、陳卿今日以2某事1適(メラシ)。遵曰滿v百乃相聞〔二字右○〕(セヨ)。故事有2百適1者斥(ケラル)。
とあり。さればこれは少くも編者班固の時代に用ゐたるを見るべく、班固が史料を其のまま用ゐしものとせば前漢(110)に既に存せしものといふを得べし。
 又晉の干寶が捜神記卷第十八に相聞の文字を用ゐたり。曰はく
  呉時廬陵郡都亭重屋中常有2鬼魅1宿者輙死。自後使官莫2敢入v亭止宿1。時丹陽人湯應者大有2膽武1。使至2廬陵1便止v亭宿。(中略)至2三更1竟忽聞v有2叩v閣者1。應遙問2二是誰1。答云部郡相聞〔二字右○〕(セント)。應使v進致v詞而去。頃間復有2叩v閣者1。如v前。曰府君相聞(セント)。應復使v進。身著2※[白/十]衣1云々
と。これ老※[獣偏+希](ヰノコ)の府君に化け老狸の部郡に化けたるが害をせしなりといへり。ここにある相聞は即ちまさに當時の通用語たりしを見るべし。
 又陳の孝穆が編せる玉臺新詠に載する晋の簡文帝の樂府採桑篇にもこの字面見ゆ。曰はく
  寄v語採v桑伴訝2今春日短1 枝高攀不v及葉細籠難v滿 年々將3使君歴亂遣2相聞〔二字右○〕1 欲v知2琴裏意1還贈2錦中文1 何當v照2梁日1還作2入山雲1。
この採桑篇は古樂府の日出東南隅行に基づくものにして、ここに「將3使君歴亂遣2相聞〔二字右○〕1」といへるは古樂府に「使君〔二字右○》遣3吏往|問〔右○〕2此誰家妹1」とあるを受けて詠ぜるものなり。玉臺新詠は文選に次ぐ古歌集にして古く本朝にも渡來して現在書目にも登録せられてあり。かの萬葉集に「イヅ」とよむべき「山上復有山」の詩謎は實にこの集によりて傳へられたるものと思はるるなり。
 次に又齊の王僧虔が勅を奉じて撰せる古來能書人名にも「相聞」の字面を用ゐたる所あり。次にこれを摘出せむ。
  頴川鐘※[謠の旁+系](中略)鍾書有2三體1。一曰銘石之書最妙者也。二日章程書傳2秘書1教2小學1者也。三曰行狎書相聞〔二字右○〕者(111)也。
  河東衛覬(中略)覬子※[王+灌の旁]字伯玉爲2晋太保1。採2張芝法1以2覬法1參v之、更爲2草藁1。草藁是相聞〔二字右○〕書也。
とあり。その行狎書は今いふ行書にして草藁は又藁書といひて今の草書たることは諸家既に明記せり。而してこれらに注して相聞〔二字右○〕といふものは何ぞや。萬葉研究家まさに三思を要すべし。
 又唐の韋續が五十六種書に
  三十藁書行草之文也。董仲舒欲v言2災異1主父偃竊而奏之。晋衛※[王+灌の旁]〔二字右○〕索靖善v之。亦云相聞之用〔四字右○〕也。
とあり。これらをわが古來の萬葉家のあげたる出典、文選、南史、唐の月儀帖と相合せて考ふれば、こはこれ本邦人のつくり出でたる字面にあらずして遠く漢代に溯るを得べき語なるを知るべきなり。
 然らば、この相聞の文字は本邦にてはわが萬葉撰者がはじめて採用したるものなりやといふにこれまた然らざるを知る。その證は聖徳太子の撰なる勝鬘經義疏に、
  且上(ニ)父母相聞〔二字右○〕(シテ)既云(ガ)d聖徳(ハ)無量(ナリト)不v可2備陳1故但略歎2三徳1爾u也所以(ニ)勝鬘亦從(テ)但嘆2三徳1也。
とあり。この義疏ははやく支那に輸されて珍重せられ唐僧明空が更にこれを祖述して私鈔をものしたりしを貞觀十三年に智證大師が本邦に齎し歸りし名高きものにして疏の文はまさしく太子の撰なり。さてこゝに父母相聞云々とあるは上の經文に
  時波斯匿王及末利夫人信v法未v久、共相謂(テ)言(ク)、勝鬘夫人是我之女、聰慧利根通敏易v悟。若見v佛者必速解v法、心得v無v疑。宜(ク)d時遣v信發c其道意u。夫人白言今正是時。王及夫人與2勝鬘書1、略讃2如來無量功(ノ)徳1。即遣2内人名旃提羅1。使人奉v書至2阿踰闍國1入2其宮内1敬授2勝鬘1。云云
(112)といへるをさせるものにして勝鬘夫人の父母たる波斯匿王及び末利夫人が信書を以て意中を告げたるをさせるものなり。これを以て見れば、この相聞の字面は本邦人にしては聖徳太子の用ゐられしを最古しとすべく萬葉の撰者はまた當時の通用に從ひしに過ぎざるものなるべし。
 以上述ぶる如くなれば相聞といふ文字の意は上述の諸例につきて求めざるべからず。按ずるに漢書鄭吉傳のは今日の交渉の意に近く同書遊侠傳のは今日の報告といふに近く又捜神記の二所と玉臺新詠のとは共に訪問の意に近く、文選のも亦訪問の意に近し。南史のは訪問の意か若くは信書を通じて訪はむの意なるべし。王僧虔の用ゐたるは二者共に往來消息の文書の意にして韋續及び月儀のも亦これに同じ。而してわが勝鬘經義疏のは明にこの信書を以て消息を通じたるをいへり。以上を通覽すれば相聞とは概括していへば往復存問の意なるを見るべし。而してその文字の面を以て推すに相は交互の意にして聞は以聞の聞にして意志を傳達する義なり。されば相聞の熟字はこれを用にしていへば消息を通じ意見を交換する義にして、これを體にしていへば、往來の信書なるなり。而してその用をあらはすが本義にして體となれるは轉義なること明かなり。
 されば萬葉集に相聞とかけるは先づ「アヒギコエ」といふ國語ありてそれにあてたるものにあらざること明なれば、これを「アヒギコエ」とよむが如きは理由も根據もなき所なるを以て挽歌と等しく音讀すべきものなるべし。この時代に字音の行はれしことなき反證なきのみならずかへりて字音の用ゐられし證存すればなり。
 かくして殘れる問題はこれが後世の歌集の戀部に當るものといふべきか否かといふことなり。按ずるにこの集にて部門としてあげたる主たる名目はすべて五あり。即ち
  雜歌 相聞 挽歌 譬喩歌 問答歌
(113)の五種にしてそのうち譬喩歌の目は卷第三、卷第十三、番第十四の中にあり。問答歌は卷第十三の中にあるのみにして雜歌、相聞、挽歌の三部を以て主たる部類とせり。而してその相聞の部につきて如何なる種類の歌を收容せるかを檢するに所謂戀歌なるはもとより多かれど、また然らざるものも少からず。この事は戀歌におなじといへる萬葉考も略解も共に明言せるところなればこと更にいはず。さてかく相聞といふ大なる範圍より導かれたる自然の現象にして相聞とは即ち戀なりといふ意を以て立てし部門にあらざることは明なりとす。されば卷第十一、卷第十二を通じて「古今相聞往來歌類」といひ卷十四中に相聞往來歌といふ目をあげたるもの、これ實に相聞といふ部類の本義を示したるものにして、戀の歌の意にはあらざること※[木+夜]齋の説の如くにあるべきなり。而して古今集以下の部類別けはこの萬葉集の部類別けとは根本より主義を異にするものなるを以て彼と此とを相會通して説かむとすることは不可能の事といふべきなり。
       (大正十三年二月、心の花第二十八卷第二號)
 
       相聞考補遺
 
 拜啓。先刻は種々御高話拜承、難有存上候。さて心の花に御掲載被下候相聞考之補遺として、次の一例を得申候。唐の顛眞卿の撰并書なる撫州麻姑仙壇記中に、
  因遣v人與2麻姑1相聞〔二字右○〕(セシム)
とあり。この用例は、かの漢書鄭吉傳なると同義に有之候事と存候に付御報申上候。次に本月號に御掲載之橋川氏の教化の報文、有益のものと存候が、六卷帖なる法花讃嘆の「ツカヱ〔右○〕テソエシ」の「ヱ」を二所とも「ワ」とし、(114)しかもそれは勿論「へ」の誤なりといはれしは、如何に考へられ候か不審に御座候、これは「王」の草體なる「※[王の草書]ならんと考へ誤られしものならんが、「慧」の略體なる片假名「セ」にして、かかる假名遣は鎌倉時代普通に有之、何の誤にも疑ふべき所も無之ものと被存候に付、老婆心ながら序に申進候。恐々頓首。
      (大正十三年四月、心の花第二十八巻第四号)
 
       相聞考(補改)
 
 萬葉集に相聞といふ一部門を設けてあることは人皆知れり。されど、その相聞とは如何なる意義を有せるかについては世人必ずしも皆よく知れりとは見えざりしを以て、余は往年雑誌心の花第二十八卷第二號に相聞考といふをものして世に公にしたり。然るに年月を經るにつれて、その雜誌も世に見ること少くして往々人よりその説の委細を問はれ、一々之に委しく答へむこと容易にあらず。如之其の意見は今もかはらねど、その後に見出でたる實證旁例も少からねば、今それを補ひて改めて再び世に問はむと欲す。
 さて從來多くの人々は大抵萬葉考に
  相聞《アヒギコエ》 こは相思ふ心を互に告聞ゆればあひぎこえといふ。後の世の歌集に戀といふにひとし。されど此集には親子兄弟の相思ふ歌をも此中に入てこと廣きなり。
といへるものにして、略解は
  相聞 是は相思ふ心を互に告聞ゆればかく言へり。後の集に戀と言ふにひとし。されど此集には、親子兄弟の(115)相したしみ思ふ歌をも載せてこと廣きなり。
といへるも、これに基づけり。かくて世の萬葉家大抵かくの如く見るを常とせり。
 これらの見解につきては先づ明かにすべき二の點存す。一は相聞の文字は相ひ聞ゆといふ國語にあてたる文字なりや否やといふことにして、一は後世の歌集にいふ戀の部にあたる部門なりや否やといふことなり。
 第一の問題はそれが日本製の熟字なりや否やといふことを先決問題として有するものにしてこれが日本製ならざることが明かになれば支那にて用ゐたる本來の意味を研究することによりて上述の第一第二の問題も自然に解決せらるべきものなり。
 按ずるに相聞の字面はもと相ひ聞えといふ國語ありて、漢字にあらはしたるものにあらずして、實にこれは漢語の熟字より來れりものなりとす。この事は、岸本由豆流の攷證にも、鹿持雅澄の古義にも、橘守部の檜嬬手、木村正辭の美夫君志にも詳略の差はあれど、説く所あるものなり。されど、それらの説には簡略にして捕捉するに苦しむものあり、一部は賛成しがたきものあり。なほ説きて到らざるものあり。ここにそれらの説を紹介しつゝ説く所あらむとす。
 岸本由豆流の萬葉集攷證卷二のはじめに「相聞」につきてそれを「アヒキコエ」と假名を施して説いて曰はく
  考に、後の世の歌集に、戀といふにひとし云々といはれつるはたがへり。相聞とは、思ふ事を相たがひに聞えかはす意なる故に、この卷にも戀の歌ならぬがいと多し。たゞ贈答歌、あるは答へはなくとも、いひやれる歌と心得べし。國語□語(孝雄云齊語)に、世同居少同游、故夜戰聲相聞、足2以不v乖、畫戰目相視、足以2相識1云々。文選曹子建與2呉季重1書に、口授不v悉、往來數相聞云々などある、相聞と云字も一の標目にはあら(116)ねど、たがひに聞えかはす事也。これらにても相聞は戀にかぎらざるをしるべし。又わが友狩谷望之が讀書筆記に、相聞とは、互に聞えかはすといふ事なり。欝岡齋法帖に載る、唐無名書月儀に、十二月朋友相聞書と題せる是也。この月儀はこゝの往來といふものゝごとく、毎月贈答の文章を作りたるものにして、男女の情を通はしたる文にはあらず云々といへるがごとし。又和歌童蒙抄(孝雄云、卷十、相聞歌の條)に萬葉集に、相聞往來歌類也。その歌どもは、多くは戀の心、或は述懷、覊旅、悲別、問答にて、それとたしかにさしたる事はなし。たゞ花紅葉をもてあそび、月雪を詠ぜるにはあらで、おもふこゝろをいかさまにもいひのべて、人にしらする歌を相きかする歌と名づけたるなるべし云々とあるも予が説にちかし。
といへり。この説大體に於いて首肯せらるべきものなれど純ならざるものあり。このうちに國語を引けるが、それはたゞ「相ひ聞く」といふ普通の意味と思はるゝものにして、曹子建の書文月儀にいへる相聞の意味とは同一にあらざるものなればこれは無用の言なり。さて、上の文の中の※[木+夜]齋の説は、蓋しこの説の端緒をなせるものならむか、橘守部が
  相聞は、男女相聞あり、朋友相聞あり、唐の月儀に朋友相聞と云へり。往來と云はんが如し。
といへるは、自己の發見か否か知らねど、簡にすぎて、月儀なるものを知らぬものには領解せられかぬべきことなり。※[木+夜]齋の説は美夫君志にも「先師岡本保孝の説に云々」として效證にいふ所と略同じ文を引けるが、この説はまさに然るべきことにして、誠に卓見と稱すべきなれど、唐の法帖の如きはたゞ旁例といふべきものにして未だ出典とするに足らざるなり。
 岸本由豆流の説に於いてはその文選の曹子建の書を引ける、それこそこの出典ともいふべくその本意を徴すべ(117)き大切なる例鐙ともいふべし。古義はこれを主として説を立てたるものなり。曰はく、
  相聞の字はからぷみ文選曹植が呉季重に與《おく》れる書に適對2嘉賓1口授不v悉往來數々相聞とありて、呂向が注に聞問也といへるに全《もはら》よりたるものなり。其故は十一十二の兩卷を古今相聞往來歌類の上下と別たる相聞往來の四字みながらかの文選に出たるにてしるし。さて相聞は相問といふに同じきことかの書の注にて明けし。即四卷相聞部に大伴宿禰駿河麿歌一首不相見而云々、大伴坂上女郎一首夏葛之云々とありて、右坂上郎女者佐保大納言卿女也。駿河麿者高市大卿之孫也。兩卿兄弟之女孫姑姪之族、是以題v歌送答相2問起居1とある相問と全同じければなり。
と。この説まさに然るべきことなり。然れどもなほ説きて委しからざる憾あり。先づ、ここに文選の一つのみを引きて、この文選の文が唯一の出典なるが如くにいひ、全然この文によりて相聞といふ部門を萬葉集に立てたるやうにいへるは未だ首肯するを得ず。そもそも、この文選の與呉季重書にある相聞〔二字右○〕の文字は異本には相問〔二字右○〕とありて、うけばりて、相聞の出典と主張するを得ざるものなりとす。されど、相聞と相問との同義たることはこの六臣注の呂向が説にて明かにせられたりといふべく、その相問の字面は周禮大行人の條に
  凡諸侯之邦交歳相問也
と見え、その注に「小聘曰2相問1也」とあり。これは蓋し、當時相問といふ普通語ありしをこの特種の小聘をいふ爲に用ゐたるものなるべし。
 されど、文選の相聞の文字は上述の如く不碓實のものなれば他になほ出典あるべきなり。岡本保孝は相聞の文字は南史三十二卷にありといへり。これは佩文韻府にあげたる相聞の唯一の例にして、そは張敷が傳の中の語なりと(118)す。曰はく
  善持2音儀1盡2詳緩之致1興v人別執v手曰念(ヒテ)相聞(セン)
とこれ即ち保孝のさせる例なりとす。然れどもこれ唯一を以てここの出典とすべきものにあらず。
 余ははじめこの字面を六朝の慣用語ならむと推せしに、事實はそれよりも古くして既に漢代にありしなり。その字面の現今の余の管見にて最も古く見えたるは漢書なりとす。その一は霍光傳のはじめに
  父中孺……與2侍者衛少兒1私通而生2去病1、中孺吏畢歸v家、娶v婦生v光、因絶不2相聞〔二字右○〕1。
とある文にして、他の一は鄭吉傳に、
  神爵中匈奴乖亂、日逐王先賢※[手偏+單]欲v降v漢、使d人與v吉相聞〔二字右○〕u。吉發2渠黎龜茲諸國五萬人1迎2日逐王1、口萬二千人小王將十二人隨v吉至2河曲1。頗有2亡者1、吉追斬v之。遂將詣2京師1。漢封2日逐王1爲2歸徳侯1。
と見え、又遊侠傳中の陳遵が傳に
  又日出醉歸、曹事數廢。西曹以2故事1適(セム)v之。侍曹輙詣2寺舍1、白v遵曰、陳卿今日以2某事1適(メラル)。遵曰、滿v百乃相聞〔二字右○〕(セヨ)。故事有2百適1者斥(ケラル)。
とあり。されば、この語は少くも班固の時代に用ゐたるを見るべく、若し又、班固が史料をそのまゝ用ゐしものとせば、前漢に既に存せしものといふを得べし。
 漢代に既に用ゐたらば、魏晋六朝に用ゐられたることは疑ふまでもあらざるなり。今その例を少しくあげむ。晋の干寶が捜神記卷一に
  介※[王+炎]者不v知2何許人1也。……甞往2來東海1暫過2秣陵1與2呉主1相聞〔二字右○〕。呉主留v※[王+炎]……
(119)とあり、又卷十八に
  呉時廬陵郡都亭重屋中常有2鬼魅1宿者輙死。自後使官莫2敢入v亭止宿1。時丹陽人湯應者大有2膽武1。使至2廬陵1便止v亭宿……至2三更1竟忽聞v有2叩v閣者1。應遙問2二是誰1。答云部郡相聞〔二字右○〕(セント)。應使v進致v詞而去。頃間復有2叩v閣者1、如v前。曰府君相聞(セント)。應復使v進。身著2※[白/十]衣1云々
とあり。この第十八のは老※[獣偏+希](ヰノコ)の府君に化け、老狸の部郡に化けたるが害をせしなりといへり。されば、ここにある相聞は即ちまさに當時の通用語たりしを見るべし。
 宋の劉義慶の著したる世説新語は所謂當時世間に行はれたる説話※[車+失]事を録したるものにして當時の世態を知るに效多きものなるが、言語の上には當時の俗用のものを録せりと見ゆるが、ここにも相聞の字なり。その一例をいはば、卷五任誕の第に桓野王と王子猷との事につきて
  王子猷……王便令2人與相聞〔二字右○〕1云。聞君善吹v笛試爲v我一奏。
とあり。
 又陳の孝穆が編せる玉臺新詠に載する歌謠にも見ゆ。その一例は卷七にある晋の簡文帝の樂府、採桑の篇にあるものなり。曰はく
  寄v語採v桑伴、訝2今春日短1、枝高攀不v及、葉細籠難v滿、年年將3使君歴亂遣2相聞〔二字右○〕1、欲v知2琴裏意1、還贈2錦中文1、何當v照2梁日1、還作2入山雲1。
これは同じ書にも傳へられたる古樂府の日出東南隅行に基づくものにして、ここに「將3使君〔二字傍点〕歴亂遣2相聞〔二字右○〕1」といへるは古樂府に「使君〔二字傍点〕遺3吏往問〔右○〕2此誰家妹1」とあるを受けて詠ぜるものにして「相聞」の「問」の義あることを(120)これにても見るべし。なほこの書卷五沈約の秋夜の詩にも
  巴童暗理v瑟、漢女夜縫v裙、新知樂如是、久要※[言+巨]相聞〔二字右○〕。
とあり。玉臺新詠は文選に次ぐ古歌集にして、古く本朝にも渡來して現在書目にも登録せられてあり、かの萬葉集に「イヅ」とよむべき「山上復有山」の詩謎は實にこの集によりて傳へられたるものと思はるゝなり。
 又晋の王羲之の書蹟を集めて釋を記したる王右軍書記に
  想官舍無恙、吾必果二十日後乃往、遲喜散v恙、比爾自相聞〔二字右○〕也。
とあり。これその書牘の文なりしならむ。
 又齊の王僧虔が勅を奉じて撰せる古來能書人名にも「相聞」の字面を用ゐたるものあるが、それは、ここに深き關係ありと思はる。その文は
  頴川鍾※[謠の旁+系]……鍾書有2三體1。一曰銘石之書最妙者也。二曰章程吉傳2秘書1教2小學1者也。三曰行狎書相聞〔二字右○〕者也。
  河東衛覬……覬子※[王+灌の旁]字伯玉、爲2晋太保1採2張芝法1以2覬法1參之、更爲2草藁1、草藁是相聞〔二字右○〕書也。
とあるなり。又唐の韋續の五十六種書に、
  三十藁書行草之文也。董仲舒欲v言2災異1、晋主父偃竊而奏之。晋衛※[王+灌の旁]索靖善之。亦云相聞〔二字右○〕之用也。
とあり。その行狎書は今いふ行書にして、草藁は藁書と同じくして行草の文をいふこと明かにしてそれらに注して相聞といひ相聞書といひ相聞之用といふものは何ぞや、萬葉研究家まさに三思を要すべし。
 以上は主として六朝以前の例につきてあげたるものなるが、唐時代にももとより用ゐたり。その一二例をあげむに、本邦人に最も親まれたる白氏文集の例を見るを便とすべし。その卷第十五に載する燕子樓三首の序文に
(121)  徐州故張尚書有2愛妓1曰2眄眄1、善2歌舞1、雅多2風態1、予爲2校書郎1時遊2徐泗間1、張尚書宴v予。酒酣出2眄眄1以佐v歡、歡甚、予因贈v詩云、醉嬌勝不v得、風嫋牡丹花。盡v歡而去、爾後絶不2相聞1※[しんにょう+台]v茲僅一紀矣。
あり、卷第十七夢2微之1(元和)十二年八月二十二日夜には
  晨起臨v風一※[立心偏+周]帳、通川※[さんずい+盆]水斷2相聞1、不v知憶v我因2何事1昨夜三廻夢見v君。
とあれば、なほ尋ぬるに隨ひて多くの例を見るをうべし。
 以上あげたる所と從來の萬葉學者のあげたる出典、文選、南史、唐の月儀帖と相合せて考ふれば、こはこれ本邦人のつくり出でし字面にあらずして隋唐の慣用語たるを知るべく、その起源は未だ詳かにし難しといへども、遠く漢代に溯るを得べき語なるを知るべきなり。
 然らば、この相聞の文字は本邦にてはわが萬葉編者がはじめて採用したるものなりやといふに、これまた然らざるを見る。その證は聖徳太子の撰なる勝鬘經義疏に
  且上(ニ)父母相聞〔二字右○〕(シテ)既云(ガ)d聖徳(ハ)無量|不《ズ》v可(ニ)2備陳1故、但略歎2三徳1爾u也、所以(ニ)勝鬘亦從(テ)但嘆2三徳1也。
とあるなり。この義疏ははやく支那に輸されて珍重せられ、唐僧明空が更にこれを祖述して私鈔をものしたりしを貞觀十三年に智證大師が本邦に齎し歸りし名高きものにして、疏の文はまさしく太子の撰文なり。さてここに父母相聞とあるは上の經文に
 時波斯匿王及末利夫人信v法未v久、共相謂(テ)言(ク)、勝鬘夫人是我之女、聰慧利根通敏易v悟。若見v佛者必速解v法、心得v無v疑、宜(ク)d時遣v信發c其道意u。夫人白言今正是時。王及夫人與2勝鬘書1、略讃2如來無量功(ノ)徳1。即遣2内人名旃提羅1、使人奉v書至2阿踰闍國1入2其宮内1敬授2勝鬘1云々
(122)といへるをさせるものにして勝鬘夫人の父母たる波斯匿王及び末利夫人が信書を以て意中を告げたるをさせるものなり。これを以て見れば、この相聞の字面は本邦人にしては聖徳太子の用ゐられしを最古とすべく萬葉の編者はまた當時の通用に從ひしに過ぎざるものなるべし。さて又これが萬葉集以後には用ゐられぬものかといふに、これ亦然らず。弘法大師の文鏡秘府論の論文意の中に
  一切文章皆如2此法1。若2相聞、書題、碑文、墓誌、赦書、露布、※[片+賤の旁]、章、表、奏、啓、策、檄、銘、誄、詔、語、辭、牒、判1用2此法1
とあり、これは或は基づく所支那の書にあらむかと思へども、しかも、これを自らの説明に用ゐたるを見れば、當時の人の「相聞」といふものをその以下の「書題乃至牒判」と並び稱すること及びその「相聞」が先づ擧げらるゝは最も耳目に親しかりLが爲なるを思ふべきなり。
 以上述ぶる如くなれば、相聞といふ文字の意は上述の諸例につきて求めざるべからず。按ずるに漢書鄭吉傳のは今日の交渉の意に近く、同書遊侠傳のは今日の報告といふに近く、捜神記の二の例は共に訪問の意に近く、玉臺新詠の採桑の篇のも訪問の意に近く、文選のも亦略同じかるべし。世説のは訪問なりといふべきが、それは交渉の意を主とせるものなり。漢書霍光傳のは訪問の意も音信を通ずる意も含みたりと見らるゝが、南史のと、玉臺新詠の秋夜の詩と白氏文集のとはそれと同樣の意あるべく思はる。王右軍書記のは訪問の意なるが、これが信書の文なることは注意をひく。王僧虔の用ゐたるは二者共に往來消息の文書の意にして、韋續及び月儀のも亦これに同じ。而して勝鬘經義疏のは明かにこの信書を以て消息を通じたるをいひ、文鏡秘府論のは信書をいへり。以上を通覽すれば相聞とは概括していへば、往復存問の意なるを見るべし。而してその文字の面を以て推すに相は交互の意にし(123)て、聞は以聞の聞にして、意志を傳達する義なり。されば相聞の熟字は之を用にしていへば、消息を通じ意を交換する義にして、これを體にしていへば、往來の信書の義たるなり。而してその用をあらはすが本義にして體となれるは轉義なること明かなり。
 されば萬葉集に相聞と書けるは先づ「アヒギコエ」といふ國語ありてそれにあてたるものにあらざること明かなり。而して又「相ひ聞ゆ」といふが如くいひたる例も古來無き所なれば「アヒギコエ」とよむが如きは理由も根據もなき所なるを以て挽歌と等しく音讀すべきものなるべし。この時に字音の行はれしことなき反證なきのみならず、かへりて字音の用ゐられし證存すればなり。
 かくして殘れる問題はこれが後世の歌集の戀部に當るものといふべきか否かといふことなり。按ずるに、この集にて部門としてあげたる主たる名目はすべて五あり。即ち
  雜歌 相聞 挽歌 譬喩歌 問答歌
の五種にして、そのうち譬喩歌の目は卷第三、卷第十三、卷第十四の中にあり、問答歌は卷第十三の中にあるのみにして、雜歌、相聞、挽歌の三部を以て主たる部類とせり。而して、その相聞の部につき如何なる種類の歌を收容せるかを檢するに、所謂戀歌なるはもとより多かれど、また然らざるものも少からず。この事はこれを戀歌におなじといへる萬葉考も略解も共に明言せるところなれば、こと更にいはず。さてかく相聞の部類の中に戀の歌の存するは相聞といふ大なる範圍より導かれたる自然の現象にして怪むべきにあらぬことなるが、それと共に相聞とは戀なりといふ意を以て立てたる部門にあらざること明かなりとす。されば卷第十一、卷第十二を通じて「古今相聞往來歌類」といひ、卷第十四の中に相聞往來歌といふ目をあげたるものこれ實に相聞といふ部類の本義を示したるも(124)のにして戀の歌の意にあらざること※[木+夜]齋の説の如くにあるべきなり。而して古來の學者また、かやうに認めたることは藤原範兼の和歌童蒙抄の説を見ても知られたり。(その文は既に岸本の説に引きてあればここには略す。但し、文字に少しく異同あり。)而して古今集以下の部類別はこの萬葉集の部類別けとは根本より主義を異にするものなるを以て、彼と此とを相會通して説かむとするは不可能の事に屬すといふべきなり。
   (昭和十三年三月十五日補改、昭和二十五年三月、日本文學研究第二卷第三號)
 
(125) 藤原宮之役民作歌
 
 この歌は萬葉集卷一(五〇)にありて人の熟知せる所なるが、その意義につきては古來異説ありて容易に統一點を見出す能はざりしものなり。
 按ずるに、この歌は先づ二大段落に分ちて見るべし。第一の大段落は
  八隅知之、吾大王、高照、日之皇子、荒妙乃、藤原我字倍爾、食國乎、賣之賜牟登、都宮者、高所知武等、神長柄、所念奈戸二〔五字右○〕、天地毛、縁而肩許曾〔四字右○〕、磐走、淡海乃國之、衣手能、田上山之、眞木佐苦、檜乃嬬手乎、物乃布能、八十氏河爾、玉藻成、浮倍流禮〔二字右○〕
とある文にして、最後の「ながせれ」は上の「あれこそ」とある「こそ」の結の爲に已然形を用ゐたることしるし。かくてこの段落は更に二小段に分つべし。第一小段は
  所念奈戸二
までにして藤原宮を造りたまはむとの天皇の御思召をいへるなり。第二小段は前段を受けて天神地祇の天皇の思召を翼賛せられてあることをうたひ、かねてその宮材の田上山より宇治川と木津川との川合(淀川の八幡附近の地點こゝまでを宇治川とす)まで自然力(即ち神祇の力)によりて流れつくことをいへるなり。
 さてこの第二大段落の末の「うかべながせれ」をば略解にも古義にも「ながせれば〔右○〕」の略せられたる形なりとせ(126)り。已然形に「ば」を附せずして條件を示すことは萬葉集及びその以前に盛に行はれたる語法にして既に上の「天地もよりてあれこそ」も後世ならば「あれば〔右○〕こそ」といふべき格なるを「ば」を附けぬなれば、この事も勿論あり得べきことにはあれど、今この歌につきて見れば、上にある「こそ」に對してまさしく已然形を以て終止せるにて接續の例とは見なすべからず。何となれば、上に「あれこそ」とありて接續せるに、こゝを亦「ながせれば」の意とせば、その勢の至り止まる所なきのみならず、修辭上より見ても甚だ拙なるものとなるべきなり。
 第二の大段落は
  其乎取萱、散和久御民毛、家志、身毛多奈不知、鴨自物・水爾浮居而、吾作、日之御門爾、不知國、依巨勢道〔三字右○〕從、我國者、常世爾成牟、圖負留、神龜毛、新代登、泉乃〔二字右○〕河爾、持越流、眞木乃都麻手乎、百不足、五十日太爾作、泝須〔二字右○〕良牟、伊蘇波久見者、神隨爾有之〔五字右○〕。
にして先段に神力の幇助をうたへるに對して國民の協力奉仕するさまをうたへるものにして最終の一句は全篇の歸結たるなり。
 さてこの第二大段落はその間にあらはるゝ地名につきて、古來諸説紛々として存し、その關係を明かにせぬ時は全段を正當に釋すること能はざる状勢にあれば、今先づこれを論ぜむ。
 かく異説紛々たる所以は上の田上山より宇治川を下せること明かなるに、こゝに巨勢道といふ語ありて下に泉の河とあるによりて地理の辨じ難きに至るといふに基づく。
 先づ略解に、
  田上の宮材を宇治川まで流して宇治にてとりとゞめて陸へあげてさて泉川へもちこす也。
(127)といへるは如何。一旦宇治にて陸上運搬をはじめたる以上、何が故に、泉川(今の木津の邊を主としていへるならむ。)に持ちこして再び水中に投ずることをしたるか。木津川の末と宇治川の末とが八幡附近にて一となることを思へばかゝる徒勞をなすべきにあらざると共に木津よりさきは全く陸上運搬によらざるべからざるものなれば、特に泉川といふことをうたふべき必要なきなり。こは文勢より見てその宮材を八幡邊にて筏につくりて木津川を溯りしこと明かなり。これ末の文中に「いかだにつくりのぼすらむ」といへる所以にして即ち人力を要するわざなるを知らば、この大段落のはじめに
  其を取るときわぐ御民も云々
といへるに照應すといふべきにあらずや。
 今かくの如く見來れば、中間にある「巨勢道より」といへる語は浮きて不要となるのみならず、かへりて文意を害することとなる。巨勢は藤原宮地より南西にありて紀州に赴く道に當れり。若しこの田上よりの宮材を實際巨勢道より運びしものとせば淀川より大阪灣に出で茅渟海をわたり紀川口に入りて之を溯り大和なる吉野川の某地點より陸上に上げて巨勢道を通らざるべからず。この故に玉勝間に
  近江より宇治川に流れ來る材木を一旦泉川にもちこして筏につくり、そを宇治川にかへし、淀川を經て海に流し、今の攝津和泉の海を經て、紀伊の紀川の河口に到り、この河をさかのぼせて大和に至り巨勢道路を經て藤原に運ぶなり。
といへり。これを實なりとせば、古人は甚しき愚物のみなりしといはざるべからず。第一に淀川を下して海に出すものならば宇治川より直ちにそのまゝ流し下さばよきにあらずや。それをば力を盡して宇治よりわざ/\木津まで(128)陸上の運搬をなし再び之を流して同じ淀川を下さむこと何等の愚人かかゝる徒勞をなさむ。次に吉野川の某地點より巨勢道を經るものとせば吉野の下淵乃至五條邊より藤原宮地に至る距離は木津よりすると大差なきのみならず、丘陵多くして道路は遙に困難なり。かくわざ/\海路を迂回して一層の難路をとるといふこと常識の是認しうべき所にあらず。されば如何に考へてもかゝる愚なる方法は古今を通じて行はるべきものにあらざるや論をまたざるなり。
 以上の如く論じ來れば、この第二大段落は從來の諸説にては妥當の解を得べからざるは明かなり。然るに井上通泰博士の萬葉集新考にはこれに對して明快なる釋あり。曰はく
  ワガツクル、日ノ御門ニ、シラヌ國ヨリ、コセヂヨリ、ワガ國ハ、トコ世ニナラム、フミオヘル、アヤシキ龜モ、新代ト、以上九句はイヅミノ河の序、その中にて更にワガツクル、日ノ御門ニ、シラヌ國ヨリ、の三句二言はコセヂの序なり。書紀には見えざれど持統天皇の御治世の初に大和の巨勢路より神龜の出でしことあるなり。(孝雄云、この事は實證なし。この歌詞にては實證とするに足らず。天智天皇の期に龜書を得たる事あれどこの事と別なり。されど、その意はこれより外にあらじ。)今は其の事實を述べてイヅミノ河の序とし更に外蕃來貢といふ祝意をコセヂの序としたるなり。
と。かく見來れば巨勢路は次の「ふみおへるあやしき龜」といへる縁にいへるに止まりて、實際巨勢路より材木を運びしにあらぬこと明かになりたりといふべし。而してこれは「いづみの河」の「いづ」にかけて「巨勢道より神龜いづ」といひその神龜は支那の河圖洛書の思想よりして、「我國は常世に成らむとしるせる圖を負へり」、といひて聖代を頌し、その「巨勢」の地名に「こす」といふ動詞をかけ、「知らぬ國より」といひて、外國の歸服し來る(129)をいひてこれまた聖代を頌したるに止まるものにしてその外蕃の來朝し、神龜を貢献する「日の御門」をば今吾等が作りつゝある由をうたへるなり。これ一面に於いて時世を頌し、他面に於いて「いづみの川」の序とせるものにして、その修辭の巧妙いふべからざるものありとす。
 今かくの如く見來れば、この古來の難問はわが井上通泰博士によりて殆ど解決し得られたりといふべきなり、されば、この大段落は詞長けれど、更に小段に分つを得ず。要する所その宮材を取るとて御民等は水に浮き居て、筏に作りて持越して泉河に溯らする由をうたへるなるが、その陸揚する地點などは別に歌詞の上にあらはれてはあらぬなり。
 以上の外歌詞の意など今一々こゝに論ずべきにあらず、要は古來の難問を解決せむとするにあるが、そは既に井上氏の新考に明かにせられたれば、實は余が贅言を弄するを要せざる所なり。然るに余がなほ之に加へていはむと欲する點あるは當時の宮材處理の實状を推して見むと思へばなり。
 第一にいふべきは近江の「田上山のまきさく檜の嬬手」なり。「つまで」は既に木造したる材なることは古來定説となれり。さればこれ木材を切り出したる儘にあらざるは明かなり。今正倉院文書を閲するに、天平寶字六年正月の雜材並檜皮和炭等納帳を載す。そが内に材木を高嶋山より買ひ、立石山より取り、伊賀山より買ひ、三雲山より大石山より採りたる由は明かに知らるゝが、田上山につきてはいづれも「田上山作〔二字右○〕所」とあり。たとへば、
  廿八日収納雜材六十三物(品目略ス)
   右自田上山作所〔五字右○〕附2玉作子綿等1進上如v件
                主典安都宿禰 下道主
(130)とあり。かくの如き文この文書にて二十九所もあり。今この「田上山作所」といふを考へ見るに、「作所」は高島山、甲賀山にもみえたる所にしてまさに今の製材所に當るべく田上山に當時製材所を置かれしにて、こゝに莫大の樹木の生ぜしにあらざるを考へ見るに足る。この田上作所の事は同じ文書にこの前後に頗る多く散見せり。これらの文書は石山寺東大寺等の造寺の料の爲なるものなれど、その田上山の製材所は蓋し大略の加工をなし以て田上川宇治川の水利を利用せむが爲に設けられしものなるべければ、藤原宮造營の頃も、こゝに製材所ありしものなるべく考へらる。かくてはじめてかの「田上山〔三字右○〕のまきさくひのつまで〔三字右○〕」の意も明になるべきなり。さてかの田上山より水利もて粗製材を宇治川に放流するものとせば、そは必ず、淀川と木津川との合流點たる淀の邊まで自然力に任せて運搬せしめ、その邊にて集めて筏に組みて木津川を溯らしめたりしは當然のことなり。かくてその陸揚地點は何處ぞといふに、同じく正倉院文書に載する天平十一年六月四月の泉木屋所解といふものを見るに、
  泉木屋所解 申買進上寫經所材木事
  合請錢肆※[人偏+千]肆伯※[さんずい+(ヒ/木)]拾貳文
  用状
一合買材木壹伯肆拾壹材直并運車壹〔二字右○〕拾※[さんずい+(ヒ/木)]兩賃錢肆※[人偏+千]肆伯陸拾捌文(下略)
とあり。これによれば、今の關西線の木津驛附近にその泉木屋所のありしは想像せらる。今の木津の名も材木の集ふ津の意にして蓋し、その木屋所ありしに基づきしものなるべきなり。しかしてそれよりは車にて運びしことこゝに明證あり。
 以上の證を以てすれば、近江の高島郡その他の杣木は多くは田上山の製材所にて大略の加工をなし、宇治河を下(131)し淀の邊より木津川を溯りて木津の木屋所に收め、さて後は、車にて運びしこと明かなり。この天平の頃は勿論奈良京の事なれど、藤原朝の時とても、上述の如き迂路をとるべき理由なければ、略かくの如くにありしなるべきなり。然する時は、かの井上氏の新考の説はますます實を得たりとすべきにあらずや。記して世の識者の教を俟つ。
       (大正十三年八月、自然第三卷五號)
 
(132) 卷三、長皇子遊獵路池之時柿本朝臣人麿作歌の反歌について
 
 萬葉集卷三の長皇子遊獵路池之時柿本朝臣人麿作歌の反歌は
  久堅乃天歸月乎網〔右○〕爾蘭刺我大王者蓋爾爲有(二四〇)
といふ歌なるが、この歌は古來
  ヒサカタノアメユクツキヲアミニサシワカオネキミハキヌカサニセリ
とよみ來れるを萬葉考に「網」を「綱」の誤として「ツナニサシ」とよみたるより諸家多く之に從ひ、最近に新訓萬葉集が誤字を認めざる以外には考の説を奉ぜざるもの殆どなき有樣なりとす。
 かくてこの説は萬葉考に基づくものなれば、先づその説を次にあぐべし。曰はく
  綱にて月を刺取て蓋となし給へりと云なり。此綱〔右○〕を今本に網と有によりて説くといへどもかなはず。綱つけてひかへるものなれば、かく譬しなり。伊勢大神宮式の蓋の下に緋(ノ)綱四條とある是なり。後撰和歌集に「照月にまさきのつなをよりかけて」ともよみつ。
といへるなり。然るにこの所諸本みな「網」とありて「綱」とある本一も存せず。最も「網」「綱」相似たる字にて誤り易しといふことは認めらるれども、古來一も「綱」とかける本のなきは「網」といひて意通じたりしが故な(133)るべく思はるれば、今の活版の誤植の有無と一樣には論ずべくもあらず。この故にそれを「綱」と改むるには「網」とありては如何にしても解しうべからざることの決定しての後、さて又「綱」とあるべきことの合理的なりと肯定せられての後にあるべきことなりとす。
 さてかく、殆どすべての學者が考の説に隨へる間にありて、ひとり岸本由豆流の攷證のみはそれに反對して文字も訓も古のままなるをよしとせり。その説長けれど、必要なるが故に次に引くべし。曰はく。
  眞淵宣長久老などみな網《アミ》は綱《ツナ》の誤りとしてつなにさしと訓れたれど、皆非也。まづこれらの説をあげて後に予が説をいはむ。
  考云(中略)宣長の説はこれに同じ。久老云、今本|網《アミ》とあるは綱《ツナ》の誤りにて蓋には綱《ツナ》ありて、そをとるものを綱取《ツナトリ》といふと契沖いへり。まことにさる事にて、江次第などにもその事見えたり。さるを、おのれ疑《タガヒ》けるは綱《ツナ》にはさすといふ言の集中にも何にも見えぬに、綱《アミ》にはさすといふ言のありて、卷十七にほとゝぎす夜音《ヨゴエ》なつかし安美指者《アミサヽバ》。おなじ卷に二上乃乎底面許能母爾安美佐之底安我麻都多可乎《フタカミノヲテモコノモニアミサシテワガマツタカヲ》とも見え、端書に、張2設羅網1とあれば、刺とはあみをはる事にて、こゝも今本の字のまゝに蓋に網《アミ》をはるにやと思へりしかど、蓋には網《アミ》はさらによしなければ猶|綱《ツナ》の誤りとすべき也云々。これらの説みな非也。予案るに、本集十七【十二丁】に保等登藝須夜音奈都可思安美指者花者須具等毛可禮受加奈可牟《ホトヽギスヨコヱナツカシアミサヽバハナハスグトモカレズカナカム》とあるはほとゝぎすの夜る鳴聲のなつかしき故に網《アミ》を張《ハリ》て外へ飛ゆかざるやうに留《トド》めおかば、花は散て過ぬともいつもなかましといへる意にて、安美指者《アミサヽパ》は網《アミ》を張《ハツ》てほととぎすの外へ飛行を留むる意なれば、こゝも網《アミ》を張《ハリ》て天往月《ソラユクツキ》を留《トド》めて君が蓋《キヌカサ》にしたまへりといふ意にて、網爾刺《アミニサシ》は天歸《アメユク》月を留めん料にのみいへるにて蓋《キヌガサ》へかけていへるにはあらざる事|天歸《アメユク》月のゆく〔二字傍点〕といふ言に心をつけて(134)往《ユク》を留《トド》めんがために、網《アミ》を張る意なるを、十七卷のほとゝぎすを留めんとて網《アミ》をさせるに思ひ合せてしるべし。かくの如く見る時は本のまゝにてやすらかに聞ゆるを、先達やゝもすれば、文字を改めんとのみして古書をたすくるわざをはからざるはいかなる事ぞや。こはよくも思ひたどらざるよりいでくるわざなるべし。
と慨嘆せり。まことにこの説の如くにして、よくも考へずして文字を※[口+刀]りに改むるなどは慎むべきことにして、ここも、このまゝにて意通り、文字もなほさずしてすむなり。されど、攷證の説にも補正すべき點なきにあらねば愚按を欠に述べむ。
 この歌の語遣につきて先づ考ふべきは上の「天歸月乎」といふ語の「ヲ」といふ格はいづこに關係すべきものなるかといふことなり。こはもとより「アミニサシ」にも關係すべけれど、その主眼點は「蓋にせり」にあり。即ち「わが大王は天往く月を蓋にせり」といふを本體とするものにして、「網にさし」はその月をば蓋にする事の手續を述べたるものなることは明かなり。さてこの「網」といふ字がよきか「綱」といふ字がよきか、歌全體の意味の上より決定せらるべきものにあれど、直接には「刺す」といふ語と關係ありや否やといふことを出發點とすべきなり。かくて考ふれば、この「刺す」といふ語が「綱」に緑なき語にして「網」に縁ある語なることは久老が既に述べたる所なれば、今更いふまでもなきことなれど、「綱《ツナ》をさす」「綱《ツナ》にさす」などいふ語遣は今もいふことなしとす。されば「綱」といふ語は採用し難きこと論なし。次に「網に刺し」といふ語は「月」にかかれるか、「蓋」にかかれるかといふに、この歌にては「月」にのみかかれるものにして「蓋」には直接に關係なき語なること明白なり。若し「網に刺し」と「蓋」と關係ありとせば、それはその「網に刺し」たる後の事をいふにすぎざるものにして、網に刺したる結果が「蓋」になれるものたるに止まれり。而して、かくの如くに考へ來れば、攷證の説の如く(135)網《アミ》を刺し(即ち張り設け)て、月を留めたりといふ事なるべく解釋すべきさまなれど、ここにいふ所はさる單純なる意にあらずして、それよりも意強く、月を網にてとりたりといふことなりと思はる。そは如何にして考へらるゝかといふに、凡そ鳥を獲むとて網を張るは、その鳥の必ず通るべき要路に設けおくことにて、そこを行く鳥が、知らずしてその網にかゝりて止められ、或は首を網の目に入れ、或はそこにて、と惑ひして、網の袂(網を段々にゆるく張りてあれば、そこに鳥の入るとき鳥の重みにて袋の如くなりて鳥はつゝまれて出で難くなる)におちて、とらるゝなり。この事は、余少年の時、後園に網を張りて小鳥をとりてよく經驗せることなり。かく考ふるときは「天ゆく月」とわざと「ゆく」といへることの意明確となるべし。普通の網は空行く鳥をとるものなるが、ここにはその網が廣大なるものとなりて、月の往く空中にまで張りわたされたることとしてよめるならむ。更にいふべきことは「月を〔右○網に〔右○〕刺し」といへるいひ方なり。これは「網にて〔二字右○〕月を〔右○〕とりたり」といふ意をあらはさむとてのいひ方なるべくしてただ「網を張りたり」といふ意にはあらざるべし。さて又なほいふべきは、この歌はその題詞にて既に示されたる如く遊獵の際の歌にして本たる長歌には鳥獣の獲物の甚だ多かりし由をうたへるなるが、それの反歌たるこの歌にその遊猟の意全くなしといふことあるべからず。然るに「綱」といふ文字を主張する諸家一人もこの點に言ひ及べる人なきは何ぞや。攷證は「網」といへることを説明したるはよけれど、これも獵に關係あることをいはざるなり。されどこれは皇子の御獵の幸多かりし由を祝し、さては月まで網にてとりて蓋にしたまへりといへるものなることは明かなるをや。
 さても、これは獵の歌の反歌として月を網にてとりて蓋にしたまへりといひたるものなることは疑ふべからざれど、「蓋にせり」とうたへるは、漫然といへるにあらずして、恐らくはこの御獵のはてたる時、夜に入りて月の暈(136)などかゝりてありしを見てのことなるべし。月の暈を「かさ」といふことは今現にいふ所なるが、この語は和名類聚抄にもあれば古くよりいひしものならむ。
 以上説く所の如くなれば、「網」はもとより誤字にあらずして、かくありてこそ、この場合にふさはしき歌となるべきことを思ふべし。而して、一首の意は「この度の御獵はいたく獲物も多かりしが、はては天を行く月をば網を刺し張りてそれにてとどめとりて、わが皇子はそれを蓋にまでもしたまひしよ」といふならむ。さては、又皇子は神の御子にてましませば、月をとりて蓋にしたまふなど、不思議偉大なる御わざもましますよといへるならむ。
        (昭和十年六月、奈良文化、第二十八號)
 
(137) 山部宿禰赤人詠春鶯歌について
 
 萬葉集卷十七に山部宿禰赤人詠春※[(貝+貝)/鳥]歌一首と題して次の歌をあげたり。
  安之比奇能山谷古延底野豆可佐爾今者鳴良武宇具比須乃許惠《アシヒキノヤマタニコエテヌヅカサニイマハナクラムウグヒスノコヱ》(三九一五)
而してこれが左注には
  右年月所處未v得2詳審1、但|隨《ママニニ》2聞之時(ノ)1記2載於茲1。
とあり。この卷十七以下は大伴家持の手録ならむと考へらるゝ説もあり、それも然るべきことゝ思はるゝが、今は論ぜず。たゞこの左注によれば、この編をなせる人が、天平十三年四月三日より後、天平十六年以前に於いて、この歌を赤人の詠なりと傳へたる人あるによりてその聞き得たるまゝにこゝに採録しおけりといふのみ。隨つてこの歌の何處にて何時よまれたりといふ傳をも知らずといふなり。
 今、余はこの歌が赤人の詠なりや否やを考證せむとにもあらず、又この歌が何時何處にてよまれたりといふことを考へむとにもあらず。たゞこの歌が赤人の詠なりといふ故を以て叙景の歌なりと考へられてあるやうに思はるゝが、恐らくは然らざらむと思はる點あることを述べむとするなり。
 先づこの歌につきてはよみ方に、古來少しく變化あり。八雲御抄には※[(貝+貝)/鳥]の注に「やつかさに鳴」とあるが、これは「野豆可佐」をその頃「ヤツカサ」とよみたるによられたるなり。それを仙覺が
(138)  のつかさと點ずべし つかさといふはつゞきといふ詞也 野つゞきに※[(貝+貝)/鳥]のなく心なり。
といひてより「ノツカサ」とよむことゝなれり。然れども「野つかさ」を「野つゞき」といへるは誤なり。その事は下にいふべし。なほ又古義には「今者」の「者」を「香」の誤ならむといひたり。されど、こゝにはいづれの本にも誤字と認めうべきことなきのみならず、「今者」とありて不都合もなきことなれば隨ひがたく、もとのまゝにてあるべきなり。
 さてこの歌は辭、平明にして、歌の意は誰人にもさとらる。たゞ「野つかさ」といふことの仙覺が誤を正しおくべし。これは契沖が
  野つかさにさきに野上とよめり。野つかさも野のたかき所をいふなるべし。第二十にもよめり。第四にのつかさとよみ第十には山のつかさとよめり。おの/\そのたかき所をいふにこそ。
といへるに大略知らるべし。今、その「野つかさ」の語例をあぐれば卷二十に
  多可麻刀離宮乃須蘇未乃努都可佐〔四字右○〕爾伊麻左家流良武乎美奈弊之波母(四三一六)
とあるが、まさしくこゝと同じ趣の假名書の例にして、卷四に
  佐保河乃涯之官〔右○〕能小歴木莫苅鳥在乍毛張之舜者立隱金(五二九)
とある「官」又卷十に
  里(旦?)異霜者置艮之高松野山司〔右○〕之色付見者(二二〇三)
の「司」はいづれも「ツカサ」とよむべき字にして、その意は一なりと思はれたり。これにつきては萬葉考はこの歌の下にて
(139)  野のすこし小高き所をいふなり。
といひたり。
 この「つかさ」といふ語は古き語と見えて、古事記雄略卷の歌に
  夜麻登能、許能多氣知爾、古陀加流伊知能都加佐〔三字右○〕、云々
とあり。これに對して古事記傳には
  市之高處《イノツカサ》なり
といひ、又
  凡て宮司《ツカサ》と云はもと最も高處を云より出たるなるべし。
ともいへり。
 さてこの歌は赤人の作と傳へられ、赤人は多く叙景の歌を詠じたるによりてこれも叙景の歌として論ぜらるゝ樣子なるが、余はこの歌が叙景の歌として受取らるといふ事に對して先づ疑を容るゝものなり。その第一の理由は「野つかさに今は嶋くらむ〔二字右○〕」といへる「らむ」といふ語遣なり。「らむ」は推量の複語尾なるが、推量の複語尾「めり」「らし」「べし」「らむ」の四種のうちに於いて最も主觀的のものなり。この「らむ」を用ゐたる場合には少くもその「らむ」の用ゐられたる當面の語は決して純客觀とはいひうべきものにあらず。されば「今は鳴くらむ」といへるときには今そこに鳴くをききたりとすることは無理といふべし。若しその「今は鳴く」といふことが、純客觀にして動かぬものなりとせば、その「らむ」を用ゐたるが爲に、その鳴くことについて連關せる事柄が、主觀的のものとならざるべからざるものなり。即ちこの歌に於いて、「野つかさに今鳴く」鶯をきゝての詠とせば、山谷を越えて(140)野つかさに來りしことを推量せることゝせざるべからず。若し又山谷を越えて鶯が出でたりといふ事を客觀的に知悉せる場合には「今は野つかさにて鳴くらむ」と推量せられたるものとせざるべからず。しかも若しこの二者共に客觀的事實ならずとせば、こゝにこの歌全體が「らむ」によりて推量的主觀の詠となるべき運命を有す。而して余はこれを主觀の歌にして客觀的叙景の歌とは思はざるものなり。そのかく考ふる事情はこの歌は恐らくは題詠の如き歌にして、しかも支那の詩に源を有するものと思惟するが爲なり。
 先づこの歌は第一に詩經小雅の伐木篇によれる點ありと考ふ。その詩に曰く
  伐木丁々、鳥鳴嚶嚶、出自幽谷、遷于喬木〔十二字右○〕、嚶其鳴矣、求其友聲〔八字傍点〕
即ちこの詩に基づく所あらむと思ふなり。「あしひきの山谷越て」は「出自幽谷」なり。その「遊于喬木」を木とせずして、こゝには「野つかさ」とせることに、この歌の趣ありといはゞいはるべし。而して、この歌全體は「嚶其鳴矣求其友聲」といふ思想を下におきて考ふるときに多少の趣はあらむ。しかも、要するにこの詩に藍本を得てこれを翻案せしものといふに止まらむ。なほいはゞ、この歌は上の詩一首のみによれるものにあらずして更に同じく小雅の緜※[鑾の金が虫〕篇にもよれるところありと考ふるなり。その詩に曰く
  緜※[鑾の金が虫〕黄鳥止2于丘阿1 (下略)
  緜※[鑾の金が虫〕黄鳥止2于丘隅1 (下略)
  緜※[鑾の金が虫〕黄鳥止2于丘側1 (下略)
緜※[鑾の金が虫〕は黄鳥の鳴く聲をいへるなり。黄島はわが國の鶯と同じからざるが如しといへども、古來うぐひすと同じものと認め來れり。丘阿、丘隅、丘側と三ついひかへたるが、その歸する所は丘陵をいひ、その隅の樹木の森鬱とした(141)る所をさせるなり。
 さて上の伐木篇にてはたゞ「鳥鳴」といひてその鳥の名を明かにせず。されどこれを古來鶯なりと認めて歌にもいへり。たとへば、古今集に
  鶯の谷より出づるこゑなくば春くる事を誰か知らまし
といへるが如きこれなり。たゞ「鳥鳴」とあるをかく「うぐひす」と認むるに至れるは支那にては唐よりなるが如くなれど、わが國にてはいつよりの事か明かならず。かくてこの歌の「うぐひす」といふ鳥の名をいだせるは寧ろ緜※[鑾の金が虫〕篇によれるならむ。黄鳥の字面は萬葉集に見えねど、玉篇に「※[(貝+貝)/鳥]黄鳥也」とあれば、同じものと認めたること疑なし。かくして、その黄鳥即ち※[(貝+貝)/鳥]が幽谷より出でて丘陵になくといへるならむ。然るに伐木篇には「遷于喬木」あるにこの歌に「ぬつかさ」とありてあはざるが如し。然れども、これを緜※[鑾の金が虫〕篇に照せば、意明かに考へらる。ここに丘阿といひ、丘隅といひ、丘側といへるいづれもたゞのはだかの丘陵をいふにあらずして、その丘陵の一部にある木の茂みをさすこと古來の注釋の認むるところなり。さればこゝに「ぬつかさ」とあるも、たゞ丘陵といふのみに止まらずしてその丘陵の一部にある木の茂みをさすことゝ考ふべし。かく考へ來れば、これ亦「遷于喬木」といふをいひかへたりとも見らる。詮ずる所、この歌は、詩經小雅の前述二篇の詩に基づく所あるものにして單純なる叙景の詩とは認め難きものなり。
 抑も萬葉集の歌は素朴雄渾にして天眞爛漫些の技巧を弄するものなきが如くに崇拜せられてあり。されど、余は、しかく無差別に崇拜すること能はざるものと思ふ。萬葉集をあしざまにいはむと思ふ念は毫末もなけれど、こゝにあるものはすべて天眞爛漫些の技巧なく、又すべて日本思想の純なるものゝみなりといふことは躊躇せざるべか(142)らざるなり。かの七夕の詠の如き、又梅花を讃するものゝ如きは決して日本固有の思想にあらずして支那思想の傳承たること明かなり。さればその歌の言語の上にも構想の上にも支那の詩歌文藝の影響なしとは斷言しうべからざるなり。既に契沖以來屡々學者のいふ如く、遊仙窟中の語句の飜案になれる歌又荘子の語によれる歌などの萬葉集の中に存することは疑ふべきことにあらざるなり。されば、こゝに詩経の詩に基づけるものありとても、今更驚くにもあたらぬ事ならむ。余はたゞこの歌が客観的の叙景の歌にあらずして、題詠の如き歌ならむといふことをいはむとするなり。その詩經の影響に關する一般論の如きは他日を期せむとす。(昭和九年四月十四日午前旅行に出立たむとするいそぎのうちに之を認む)     (奈良文化第二十六號)
 
 
(143)       萬葉集訓義考
 
            一
 
        〇夜隱
 
 卷三 間人宿禰大浦初月歌二首のうち
  椋橋乃山乎高可夜隱爾出來月乃光乏寸(二九〇)
とあるを古來
  クラハシノヤマヲタカミカヨコモリニイデクルツキノヒカリトモシキ
とよめり、この第三句を「ヨコモリ」とよめる人々の釋は略解に
  よこもりは夜と成て遅く出るにて夜深くと云ふが如し(中略)さて此歌全く初月の歌にあらず別に端書有しが脱たるならん
といひ、古義には
  本居氏云夜隱とは宵のかたよりも云ひ曉のかたよりも云ふことばなりいづかたよりも深きかたをこもるとは云ふなりたとへば山にこもると云に東の麓の方よりこもるは西へこもるなり西の麓の方へこもるは東へこもるなりその如く曉の方よりいふはまた夜の深きことをいふ宵のかたよりいふは夜ふかくなることいふなりさればこ(144)の歌は二十日以後夜ふけて出る月をよめるなり。
といへり。玉の小琴には
  さて夜隱とは夜の末の長く殘りて多き也後の物語文に年若き人を世こもれると云も末の長くこもりて多き意なれば夫と同意也未夜の末長く殘て多きに早く山へ入て纔の程なくては見えぬ由也。
と。かくてこの歌初月と題するをも誤りとするに至れり。強ひたりといふべし。これ明に初月の歌と注せるをかく獨斷の注にて意を改めたるにて從ふべきにあらず。
 按ずるに夜隱は「ヨナバリ」とよむべくして地名なるべし。隱の字を「ナバリ」と讀むべきは卷十六乞食者詠の爲蟹述痛作歌の
  忍照八難波乃小江爾廬作難麻理弖居葦河爾乎云々 (三八八六)
とある「難麻理」が、隱れこもりてあるをいふ語なると同じくして地名の名張にこの字をあてて、
  隱乃山(卷一、四三) 隱之山(卷四、五一一) 隱野(卷八、一五三六)
などかけるにてしるし。さて「ヨナバリ」も地名にて集中にも「吉隱」とかけり。
  吉隱之猪養乃岡(卷二、三〇二)卷八に吉名張乃猪養山(一五六一)とあり
  吉名張乃野木爾(卷十、二三三九)吉魚張とかけるは卷十に二處(二一九〇、二二〇七)あり。
その地は古く書紀持統天皇九年に
  幸2菟田吉隱1
とあり、又諸陵式に吉隱陵とある地なり。その地はかく書紀には菟田と記し、式には吉隱陵の所在を大和國城上郡(145)と注せり。その所在に變更はなけれど、政治上管轄の變遷ありし故なるべし。その地は倉梯山に近しと見ゆ。今の地圖を按ずるに吉隱は大和國城上郡初瀬と宇陀郡萩原との街道の中間にあり。これ飛鳥京より伊賀に至る道に當り古の東海道の要路たりし地なり、さればこそ集中に屡この地名の見ゆるなれ。古人とても漫りに地名をよめるにあらで、實地にあたりておのづから詠みたりし事情をよくよく想像せざるべからず。
 かくて此の歌はその吉隱の地にてよめる歌なるを例の戯書に「夜隱」とかけるに過ぎざるなり。さてはその倉橋山と吉隱の地との關係を明かにせば、この歌の初月をよめるもおのづからに明かなるに至るべし。倉橋山は和漢三才圖會に、「西は高市郡、東十市郡の堺」と注せり多武峯の東北につゞきてある山なり。或は古は多武峯をもこめていひしかも知られず。この山の東麓の邊即ち倉橋村なり。今この倉橋山と吉隱の地との關係を見るに正に上の圖の如し。
 即ち吉隱よりは西南に當りて高き山見ゆるが倉橋山にてあるべきなり。かく地の理明かなるを以て天上の三日月の出づるを考ふるに、三日月の見ゆるは實に西南の方にあり。されば、吉隱の地にては西南に倉橋山ありて時しもその方より見ゆべき三日月を見ること難きを嘆きてよめるがこの歌なり。按ふにこの歌眞に傳ふる如くならば、間人宿禰が事ありて吉隱に宿せし時の實地を詠める歌なるべし。(大正九年十一月余雨を冐して吉隱陵に詣で實地を檢してこの説を立つ)
 然るにこの歌と殆と同じき歌九番にあり。そは沙彌女王歌として
(146)  倉橋之山乎高歟夜※[穴/牛]爾出來月之片待難(一七六三)とあり。これを古來
  クラハシノヤマヲタカミカヨコモリニイデクルツキノカタマチカタキ
とよめり。これ結句の異なるのみなり。この「夜※[穴/牛]」も上にいへるに從ひて「ヨナバリ」とよむべし。※[穴/牛]は牢の異體にして籠と通ずる字なり。※[穴/牛]を「ナバリ」とよめる例集中に見あたらねど、かく讀むべきこと疑ふべからず。
 
        ○玉久世
 
 卷十一正述心緒歌に
  玉久世〔三字右○〕》清河原身※[禾+祓の旁]爲齋命妹爲(二四〇三)
とかける歌あり。古來
  タマクセノキヨキカハラニミソキシテイノルイノチモイモカタメナリ
とよめるを略解に「いのる」を「いはふ」と改め結句を「いもがためこそ」となほせるはさる事ながら、その玉久世につきては
  和名抄山城久世郡久世郷みゆれば玉久世といへる川の名有か(中略)宣長云玉は山の誤にて代を脱し清は能の字ならんさらばやましろのくせのかはらにと訓べしといへり。されどここは能の字を添ふべき書ざまにあらず考べし。
と云へるを古義には之によりて
(147)  故按に山背久世河原とありけむを山を玉に背を清に誤りたるよりつひに錯置しならむ。
といへり。かく誤字あるが上に更に錯置ありとせるはいづれも臆測たるに止まり、學者をして首肯せしむべくもあらず。余はこの歌には脱字も誤字も錯置もなきものと認め、文字はそのまゝにしてよみ方も略古來のまゝにして「ノ」を加へず、「タマクセ、キヨキカハラニ」とよむべきものなることを主張せむ。
  按ずるに天治本新撰字鏡卷第六灘字の注に
  加波良久世又和多利世又加太
とあり。灘の字は享和本の注に
  砂聚也淺水曰顯也
となる如く川の水淺くして石多き所をいへり。今いふ「カハラ」又淺瀬の石多き地をいふなるべし。よりて按ふに天治本の注の「カハラ」と「クセ」とは二語にして同義のものなるべし。「クセ」といふ語はこれの外に普通には見えねど、地名には山城國に久世郡、久世郷あり。その地は蓋、木津川の渡瀬のありし所なるべし。又巨勢と云へる地名もこの「クセ」の一轉せし語ならむ。さてこの歌を顧みるに「玉久世」は字のまゝに「タマクセ」とよみ、その久世即ち河原の石の清きを玉になぞへて稱美したる語なるべく清き河原といへる語に對して重ねていへる語にして殆ど枕詞といふべき位置に立てりと認むべし。さればこの歌たゞ清き河原に身祓きして妹が爲に齋ふといふに止まれるに似たり。かく證の存する以上は誤脱轉倒などの説は無用なりとすべし。
 
        ○屋中毛波可自
 
(148)卷十九に
  梳毛見自屋中毛波可自久左麻久良多婢由久伎美乎伊波布等毛比底(四二六三)
  クシモミジヤヌチモハカジクサマクラタビユクキミヲイハフトモヒテ
と云ふあり。第二、三句の「屋中も掃かじ」につきて仙覺は
  人のものへありきたるあとには三日は家の庭はかずつかふくしをみずといふ事のある也
といひ、略解は之に加へて
  今も旅行し跡を掃事をいめり
といひ、古義には
  今(ノ)世にも人の出去し跡をやがて掃ことを忌り、本居氏(玉勝間十)云人の出行し跡を掃ことをいむは葬の出ぬる跡をはくわざある故なり(下に台記を引きて證せり)
といへり。按ふに、この仙覺の三日といへるも古義を失へるものにしてその次々の説いづれも實際に觸れざる臆言なり。
 わが郷国越中の山中に有峯といふ地あり、古、菜葉の流れ來しを見てその水上に人家あるを知るに至りしと傳ふる地なり。之を世に平家の落人の竄れし所と云ふは必ずしも信ぜられず。されど、太古の風の言語習俗に存することは否むべからず。去る大正三年に上新川郡教育會より探險隊を派遣したることあり。その中にも古來の習俗の固く守られてあるも見えたり。そのうちに
  村民は非常に迷信が深く村内到る處に山葵が密生してゐるが、それを採取したならば山の神の激怒に觸れ大風(149)が吹き起るといふて恐れてゐる。又家内の者〔五字傍点〕で假令ば長棟とか茂住とか他へ出掛けた場合は歸宅するまで箒を使用しないといふやうな類の事が盛んに行はれてゐる。(大正三年七月八日北陸タイムス)
とあり。この家人の旅行中全く箒を使用せずと云へる習俗即ち上の歌の「屋中毛波可自」といへる句の生きたる説明なり。惟ふに萬葉時代には國内一般にこの風習の行はれしものなるべく、そが、大正の今に至りては山間の人跡殆ど到らざる僻地にたまたま保存せられてあるなり。されば仙覺のいへる事既に實を失へり。その後の注者ますます實際に遠ざかりしは宜なりと云ふべし。さるにてもかく一千年以前に行はれし習慣の實際に保存せられてありしはと奇しきばかりの事といふべし。(補言 昭和の今はこの有峯は水力電氣の水源地として買收せられて住民は他に移住せりといふ)
 
            二
 
        ○力士※[人偏+舞]
 
 卷十六に「詠白鷺啄木飛歌」と題せる
  池神力士※[人偏+舞]可母白鷺乃梓啄持而飛渡良武(三八三一)
  イケカミノリキシマヒカモシラサキノホコクヒモチテトヒワタルラム
といふ歌あり。この力士※[人偏+舞]につき契沖は
  初の二句に二つの意侍るべし、一つには地神のために鷺の桙啄持て力士※[人偏+舞]をなすなり、二つに池神の鷺と化して力士※[人偏+舞]をしてみづから心を慰さむるなり、第九の細領巾の鷺坂山とよめるに付て詩を引つる如く鷺の羽を舞(150)人の翳として用る事あればおのづから其よせあり、第十に※[(貝+貝)/鳥]をよめる歌にも青柳の枝啄持てと讀たり。
といへり。されどこれにては力士※[人偏+舞]といふものにつきての意見を見るべからず。契沖は更に説をなして
  いにしへ力士まひとて鉾を持てまふ舞の有けるなるべし、神の手力あるを力士といふ、執金剛を金剛力士といふもちからによりて得たる名なり。
といへり。この後の諸家ただこれらを踏襲して施すべき所を知らぬさまなり。
 抑もここにいふ力士※[人偏+舞]とは伎樂即ちかの推古天皇の朝に百濟人味麻之の傳へたりといふ呉樂の一曲にして、伎樂は傳來以後專ら佛樂として用ゐられ、奈良朝の盛時に諸大寺に行はれたりしことは記録に存するのみならず、それに用ゐし遺物の法隆寺又は東大寺の正倉院に保存せられて今に傳はるものあるにても思ひ半にすぐるものあり。
 伎樂は代面をつけて舞ひ、笛と腰鼓と銅※[金+拔の旁]子とを伴奏としたるものなり。その曲は余がもてる源博雅の笛譜には
 伎樂
  師子 呉公 金剛 迦樓羅 崑崙〔二字傍点〕 力士〔二字右○〕 婆羅門 大孤 醉胡
と記して九曲あり。この笛譜は庚保三年に博雅の自署せる跋あるものなり。なほ下りて鎌倉時代の著なる教訓抄を見るにその曲は
  師子 呉公 迦樓羅 金剛 波羅門 崑崙〔二字傍点〕 力士〔二字右○〕 大孤 醉胡 武徳樂
の十曲とせり。これにては順序も多少違ひ、且武徳樂の一曲増せり。この武徳樂は恐らくは庚保以後に加へしものならむ。さてこれらは先にもいへる如く元來專ら佛會に奏したりしが、中世以後高麗樂に攝せられ世傳を失ひ、僅に南都の十伎樂と稱するものにその名義を存するに止まるに至れり。
(151) さて上の如く曲の位置の異動あるはこれおのづからその曲の正しき傳の失せしことを語るものなるが、そがなかにも崑崙と力士とは常に續けるはこれ偶然にあらずして實にこの二曲合せて一曲たるが故なり。今教訓抄によりてその状を按ずるにこの力士※[人偏+舞]は崑崙に次ぎて合せて一曲を構成する者にして、其状、先づ、崑崙の曲にて五人の女燈爐の前に立ち、後舞人二人出で舞ひ五女の内二人を懸想する由を演ず。力士の曲は之を承くる者にして、最初に力士手をたたきて出で、かの五女に懸想せる外道崑崙を降伏せしむる状を演ずるなり。
 この歌に棒啄持ちてといへるはげに契沖の説の如くにてあるべきが、或はそは兵仗の桙にはあらで後參《ごさん》の如きものなりしならむか。後參とは舞樂にて舞人の手にする桴《はち》の如きものにして別の物もたぬ舞人は往々之を持つものなり力士※[人偏+舞]の實際は今之を見るを得ず。或はいづれかの古寺に傳はらずともいふべからず。その舞の状を見るを得ば、これらの疑は明らむるを得べし。今この歌に白鷺を以て比するを考ふれば、その力士は白衣にてありしならむと考へらる。
 正倉院の御物又法隆寺に傳來せる伎樂の面又は装束等にて力士※[人偏+舞]の具を發見し得ずとも限らず。なほ注意すべきなり。
 終にいふこの力士※[人偏+舞]あるを以て考ふれば、池神は寺の名か、寺の在りし地なるべきは殆ど想像しうべし。かくて池と白鷺と縁ありてよめるならむが、その池神といふ寺か地かに實際池はありしならむと思はる。
 
       ○力士※[人偏+舞]補説
 
 力士※[人偏+舞]の説を發表して後正倉院御物拜觀の思澤に浴せり。拜觀せしうちに果して金剛又は力士ならむと認めらる(152)る伎樂面二あるを見たり。ここに於いて愚考のいよいよ實に近づきたるを感じたり。さて又かの桙は如何にといふに、南倉階下陳列品中に樂桙二口あり。一は刃に一枝あり、一は刃三叉なり。この桙はたゞ樂桙、と名づけてあるのみ。唐樂か高麗樂か、はた伎樂か容易に斷言すべからずといへども、今日の所謂雅樂にかかる桙もてるものを見ざるを以て推せば恐らくは伎樂の桙ならむ。さて又考ふるに天平寶宇八年四月十一日の木工所解(正倉院文書)に
   金剛力士戟持白衫壹領
    右爲八日會所請件衣盗失云々
天平神護二年四月二十三日の樂具缺失物注文(正倉院文書)に
   金剛捧持 緋捧萱片
  右爲用四月八日齋會自倉代請下呉樂二具之内所缺如件
とあるを以て考ふれば、金剛も力士も桙を持ちて舞ひしものにしてその桙を持つ從者のありしこと知られたり。
 かくて考ふるに金剛と力士とは對をなすものにして力士の桙をもてりしこと上の例によりて疑ふべからず。余が先に後參云々といへりし説は不要に歸せり。さて又考ふればかの金剛又は力士と思はるる代面あり。桙又二あり。即ち伎樂の具は恐らくは散佚せずして正倉中に保管せられてあらんか。洩れ承るに最近にこの伎樂の器を精査せられむとすといふ。果してこの擧あらんか、力士の服装も亦かにせらるる期なしといふべからず。後來更にこの説を補正するを得ば余一人のみの幸にあらざるべきなり。
 
       ○腋草
 
(153) 卷十六 平群朝臣が穗積朝臣を嗤れる歌に
  小兒等草者勿苅八穗蓼乎穗積乃阿曾我腋草〔二字右○〕乎可禮(三八四二)
とあり。之を
  ワラハトモクサハナカリソヤホタデヲホツミノアソガワキクサ〔四字右○〕ヲカレ
とよみて、その腋草といふをば古來腋毛とせり。かくて古義はただ腋毛といふにては嗤る意に足らぬを心つけるにや
  穗積氏の腋の下の毛の多かりけるを嗤りていへるなり。
と釋せり。されど腋の毛を腋草といへる事古今更に證なし。蓋、これ臆測にして、しかも、強ひて之を釋するには古義の如くいはざるを得ざるに至らむ。然も牽強附會の説たるを免るること能はじ。按ずるに「ワキクサ」は琉球語にては腋臭をいへり。琉球語は往々わが古言を傳へ、古書を解くによきたよりとなれるもの一二に止まらず。されば、これまた腋臭なること明かにして穗積氏に腋臭ありしを嗤りしなり。
 かくて本邦の古書には腋臭を「ワキクソ」といへるが多くして「ワキクサ」といへるもの殆ど見あたらざりしが伊呂波字類抄の原本と見ゆる世俗字類抄を見し時
  胡※[臭の大が死]ワキクサ
とあるを見出せり。されば「ワキクサ」はなほ「ワキクソ」の本の言にして古く存せし語なるを知るべし。なほ後に見れば物集氏の大辭林にも「わきくさ」を腋臭と注せり。即ち腋臭をば音の似たるより戯れて腋草といひ、それに因みて「刈れ」といへるものならむ。かく解して見ればかの平群朝臣の赤鼻とよき對をなせりと覺ゆ。
 
(154)       ○於能等母於能夜
 
 萬葉集卷十八に大伴池主が家持より鍼嚢を得て戯に贈れる歌四首中に
  芳理夫久路等利安宜麻爾敝於吉可邊佐倍波於能等母於能夜〔七字右○〕宇良毛都藝多利(四一二九)
といふあり。この第五句の於能等母於能夜〔七字右○〕といふにつきての古來の説承服し難し。先づ代匠記には
  下句は己が針袋とも己が針袋や裏も表の如く樣々に續集めたりと云へる歟、若此針袋は人たがへにもやと思ひて引かへして裏を見れば囑をなしつる羅を續たるにて己がための袋と慥に知る意にや。
といへり。これ「おの」をば「己」の義と見たる説なれど、然せば、下の語と如何なる關係に立てるかの説明なかるべからず。この説は後來の學者皆之に從はず。略解には
  おのともは能と母と相通へばおもてもといふならん、心は針袋を取揚て前に置てうら返しみれば、表も表よ裏さへに綴てわろき袋かなといへるなるべし、契沖はおのれがともおのれといふ也といへり、いかがあらん。
といへり。これ眞淵の説によりたるものなるが「おもて」を「おのと」といふこと古今になきところなり。僻説といふべし。古義は別に説なしと見え之によれるがさばかりやかましき説を立つる鹿持氏も窮したりと見ゆ。按ずるにこの「おの」は古き感動詞に「おの」といふある、それなるべし。そは新撰字鏡に
  吁【虚于反疑恠之辭也於之】
とある語にして漢籍の古訓には「オノ」又は「オンノ」として屡用ゐられし語なり。一二例をいはば豐宮崎文庫藏の古文尚書正和の古鈔本なるに
(155)  吁《オノ》呼
と注せり。又西園寺家記録に「室町春日參詣」と題するあり。こは明徳二年の記録にして丹鶴叢書に收むるものなるが、そは文選の零卷を反故とせしものにしてその文選の書寫は鎌倉時代を下るものにあらず。その中に
  海内同(シ)悦(ヒ)吁《オノ》漢帝之徳|侯《コレ》其|※[衣+韋]《ヨシ》
と注せり。之を以てその用例を見るべし。
 この「オノ」は漢籍の吁の訓としては後に「オンノ」と轉訛せり。その例次の如し。
 古文尚書標註(天明三年刊本)卷一、堯典に(二三あるうち一を示す)
 
  帝曰|吁《ンノ》※[囂の頁が臣]訟、可乎《ナランヤ》。
又卷二皐陶謨にも次の如く見ゆ(以上ただ一斑を示すのみ)
  禹曰|吁《ンノ》咸(ナ)若(シ)v時(ノ)惟帝其(レ)難(ンス)v之(ヲ)
これは亦文選の古訓にもありて、そは文選字引にも「吁《ウ・ク》【アヽ、ヲンノ ヲドロク ナゲク ウタガフ】」と記せるにて知らる。
 さて又これは今現に土佐國の方言に存して「オオノ」といへり。余はじめてこの語を耳にせる時その古言「オノ」のなごりなるをさとらざりしが故に怪しと思ひしが、その盛に用ゐらるるを知るに至りて漸くその訛語ながらも據あるべきものなるを考へて、上の「吁」の訓と源を一にするをさとるに至れり。この土佐の語は古義の注釋の文にも見えたり。その三卷中、
  痛醜賢良乎爲跡酒不飲人乎熟見者猿二鴨似(三四四)の條に(國書刊行會本二卷二一五頁)
  抑阿那は云々今俗に阿々能《アアノ》また於々能〔三字右○〕或は夜禮夜禮《ヤレヤレ》などいふ聲と同じ。
(156)といへる「オオノ」これ即ち土佐人たる鹿持氏の通用俗語なるをあげたるなり。
 さてかく考ふれば上の「於能等母於能夜」といへる「於能」はこの「吁」の訓に當る「於能」にして即ち疑ひ恠む意の感動詞なるを知るべし。而その「トモ」とは「こり〔二字傍点〕とも〔二字右○〕こり〔二字傍点〕ぬ」「神〔傍点〕とも〔二字右○〕神〔傍点〕と傳へくる」などいふ時の「とも」にして意を強むる爲に同じ語を重ぬるに用ゐたるものにして「や」は感動の助辭なり。されば一首の意はその鍼嚢を取り上げて兎角もてはやすうちに試に裏を返して見たれば、さても驚きたることよ、裏までも見事に繼ぎてありといへる、その驚き喜ぶ意をば「オノ」といふ語にてあらはし、それを強めむとてぞ重ねて「おのともおのや」といへるなるべき。
 なほこの「裏もつぎたり」につきての諸説の解同意し難し。即ちこのつぐをば、裏地は小切を繼ぎ綴りたるものと見たるは如何。こは漢語の諺に「貂不v足狗尾續」などいふ「續ぐ」裏をば表に縫ひ續ぎてあるをいへるにすぎざるをや。
 因にいふ。この「オノ」といふ語古書には從來新撰字鏡の外漢籍の訓のみに見えて殆ど他には用ゐざる如くなれど、難波江卷一に「小野小町があなめ/\の歌」につきて載せたる説の中に
  ※[木+夜]齋又云々コノ歌ノ四ノ句オノ〔二字傍線〕字鏡吁於乃トアルコレナリ。小野ニイヒカケタルハ假字タカヘリ。
  孝思ふに其假字のたかへるもこの物語の虚誕なるの一證なり。
とあり。げに※[木+夜]齋の説の如く
  秋風之吹仁付天毛阿郡目阿波目小野〔二字右○〕止波不成薄生計里(江次第十四卷)
の「小野」は「吁」の義なるべくして假名違なり。されどまた保孝の説の如くこの假名違にてその歌の成れる時(157)代の古からぬを知るべし。そは兎も角もあれ、※[木+夜]齋が之を「吁」なりといひしは確かに卓見といふに足る。かくて又この「オノ」はさる假名遣の亂れたる頃にも用ゐられしものなるを見る料としてさるかたに又貴重なる資料といひつべし。
 
         三
 
       ○棚無小舟
 
 卷二大寶二年太上天皇幸于參河國時歌のうち高市連黒人のよめる
  何所爾可船泊爲良武安禮乃崎榜多味行之棚無小舟〔四字右○〕(五八)
といふあり。又卷三に同じ人のよめる※[覊の馬が奇]旅歌八首のうちに
  四樋山打越見者笠縫之島榜隱棚無小舟〔四字右○〕(二七二)
といふもあり。この棚無小舟につきては古義には
  棚無小舟は和名抄に※[木+世](ハ)大船(ノ)旁板也不奈太那とありて小舟には其(ノ)※[木+世]なければ、しかいふ(古今顯註に舟棚はせかいとて舟の左右のそばに縁の樣に板を打つけたるなり、それを踏ても行なりとあり)
といへり。これにて明かなるが如くなれど、よく考ふれば如何なる小舟なるか明かならぬ心地す。
 按ずるにこの棚無小舟は今いふ一枚棚といふ小舟なるべし。余が辞書の原稿として草せる一枚棚といふ船の説明次の如し。
  和船の構造簡單なるもの。『みよし』戸立並に『しき』の兩側に各一枚の『かしき』を以て形成し、恰も箱状(158)をなせるものにして多くは河川湖沼或は沿岸に接近せる場所に使用せらる。小なるは肩幅三尺、大なるは四五尺にして現今琵琶湖、秋田、新潟、富山等に使用せらる。昔『たななしをぶね』といひしものこの類ならむ。
この稿は現今の造船の書によりて草せるものなるが、後に至りて和漢船用集卷五を見しにその説ありて余が見と殆ど符合せり。その説
  棚無小舟《タナナシヲブネ》 萬葉注に童蒙抄に云たなとはうらうへのふなはたに打たる板を云舷と書りそれもなき小舟也と見へたり、八重垣に舟はともにもへにもたなをかきてその上にのほりてかちをとりろをおす也、ちいさき舟にはたななしといへり、是は船のわけもしらずおしすいに棚の字義をもて註せるゆへ誤る者也。しらさることををしすいに注するは世に惑をおしゆる也。ともにもへにも棚をかくと云はとも板屋板と云て棚とわいはず、軍書板子と書り踏立板《フタテイタ》と云者也。萬葉の注にて見るへし、凡棚なき舟釼先舟一枚棚三枚棚の類なり。
  (萬葉)しはつ山打こし見れはさかゆひの島こきかくるたななし小舟
同卷劔先舟の説明に、
  劔鋒《ケンサキ》舟 又劔先舟と書、凡荷物十六駄を載す、大和河内荷物|運送《ウンソウ》の舟なり、古劔先――在劔先新劔先舟の別あり是所謂字彙に形如v刀故に※[舟+刀]と名付るの類にて形の似たるを以て名とす、長サ九尋餘深サ一尺四寸直くして艫先《ヘサキ》とかり如v劔一枚|※[木+世]《タナ》にしてよことも也、大船なれとも板薄くしてよく淺川を行。
又一枚棚、三枚棚の説明に
  一枚※[木+世]《イチマイタナ》 是歌によめるたななし小舟也平田作にて上棚なき者通舟又耕作舟に用。
  三枚※[木+世]《サンマイタナ》 同上舟也武備志に三板船《サンハンセン》と云者舟側二枚底一枚也是三枚船と云へきを三枚※[木+世]と呼來れり、是も棚なし(159)丹也其制一枚※[木+世]とは各別にて細く狹くして長さ者其長さ四間餘幅二尺二三寸一本水押にて摸舳也河※[刀三つ]に用て耕作舟とす。
とあり。以上にて棚なき舟は三種あるを知るべく、その棚無小舟といふべきは實に一枚※[木+世]なることを知るべきなり。
 かく「たななしをぶね」を釋するに當りて明かにしおくべきはその「たな」といふ語なり。こは萬葉に「ふなたな」といへるものにして、卷十七に
  奈呉能安麻能都里須流布禰波伊麻許曾婆敷奈太那〔四字右○〕宇知底安倍底許藝泥米(三九五六)
とあるなり。これにつきて古義は
  敷奈太那宇知底、和名抄に野王按(ニ)※[木+世](ハ)大船(ノ)旁(ノ)板也和名布奈太那 榮花物語に水の面も所なくうきたるほどに舟にことことなる棚と云物をかしくつくりて云々契沖古今集のほり江こぐたななし小舟といふ歌につきて顯昭(ノ)註云たななし小舟とはちひさき舟にはふなだなのなきなり萬葉に棚無小船とかけりふなたなとはかいとてふねの左右のそはにえんのやうに板をうちつけたるなり、それをふみてもあるくなり、とものかたにつけたるをしたなといふ尻たななり(已上)今の歌は櫓かいをもてこぎやるさまうつやうなるを云なるべしといへり。又本居氏今もふなだなをかしましくうつ事有其音に魚のより來るなりと云り猶考(フ)べし。
といへり。かくいへるも注者の心に落居ざりしは猶考ふべしといへるにて知られたり。
 按するに和名抄に※[木+世]を注して「大船旁板也」とせるは實を得たる釋なれど、船の構造に心得なき人には了會せられざるべし。又新撰字鏡には
  舷 に 布奈太奈
(160) 艦 に 船樓也不奈太奈又舟屋
  柵 に 竪木曰柵左須又不奈太奈
 類聚名義抄佛下本には
  舷(【タナ フナタナ】)
と注せり。この舷に布奈太奈の訓あるは最も人にその本質を了會せしめやすきものなり。艦字の注の「船樓也」は舟屋に相當するものにして「ふなたな」に關せず。柵字の竪木も「左須」に相當して「ふなたな」に關係なし。「ふなたな」につきては船用集卷十「上※[木+世]《ウハタナ》」の條に
  上※[木+世] 《ウハタナ》 上の舷側也和名類聚に曰野王按に※[木+世]は大船の旁板也字又作v※[木+曳]和名不奈太那萬葉集敷奈太那と書、註に仙曰舟※[木+世]打てとは舷をたたく同事か、又童蒙抄に曰たなとはうらうへのふなはたに打たる板を云舷といへり、日本紀神代歡曰事代主神蹈2船※[木+世]《フナハタヲ》1而避、注に船※[木+世]此云2浮那能倍1(中略)八雲御抄船はらと有も※[木+世]のことなり。古事記に曰不v乾2船腹1と見へたり。漁父辭皷v※[木+世]注に扣2船舷1也舷の字注に船邊と見へたり。邊は側也※[木+范]※[舟+范]舷※[木+噴の旁]※[木+良]※[木+曳]並に同又※[木+危]淮南子注に般舷板と見へたり。凡たなと訓すへき者多く有に棚の字を用ること甚非也、棚は物を置の棧、帆棚、下主棚等に書へし、中棚上棚と書は誤也。萬葉棚無小舟と書は假名《かな》を以て呼ゆへ字義にかかわらざる者多く有、この故に萬葉假名と云。
と。これにて「ふなたな」の舷をなす板なるを知るべし。その成體につきていへば船の側面を「ふなばた」といひ、その材料たる板につきては「ふなたな」といふなり。かくて棚無小舟はこの「ふなたな」たる舷側の※[木+世]板なきなり。然るになほその舟にも舷あり。この故に「たな」の説明と共に和船の構成を説かずば、なほ首肯しかぬる人(161)あらむ。次に之を略説せむ。
 和船の構成に於いて最初の基礎となるものを敷《しき》といふ。敷とは船體の底をなして舳より艫へ通じて全體を支ふる軸の材にして最下部にありてその状恰も肋骨に對する胸骨の如くにして大體の基礎をなす。通例松杉樅等の木理よく通りて節少き材を以て之に充て、其長さは凡そ船幅の四倍三分の一、厚さは幅の六七分の一にして後方凡そ三分の二乃至四分の三の所より折り曲げ之を前敷艫敷の二に分つ。この敷は又「かはら」ともいひたり。平家物語に二つかはら三つ棟造りの船とあるはこの「かはら」を前敷艫敷の二あるをいふなるべし。前敷又胴敷、胴かはらといひ、艫敷又「あとしき」「ともかはら」といふ。
 この「かはら」又「しき」といふものを底として、その兩側につけて箱形になす側板を「かしき」といふ。「かしき」は「側敷」の義なりといふ。和船の側面の最下部の板にして「しき」の直上に連なれるもの。「しき」と共に喫水線下にありて水の上壓力を受くる處にして一定の勾配を附す。普通の船にありてはこの上に側板を附く、即ち「ふなたな」なり。「ふなたな」は數層あることありよりて上※[木+世]《うはたな》中※[木+世]《なかたな》などの名目あり。これらに對してこの「かしき」を「したたな」「ねたな」といへり。かの棚無小舟といふは、この上※[木+世]中※[木+世]なく、加敷のみにて舷をなせるものたるなり。
 序に「ふなたな」「うはたな」「なかたな」の事をもいはむ。「ふなたな」は總名にして、和船の船體の外圍を形成する材なり。「しき」「みよし」「とだて」に接着し船梁に支持せられ上※[木+世]、中※[木+世]の二よりなる。主に杉檜等の節少く木理よく通れる材を以て之に充つ。上※[木+世]は「かしき」の上にある「たな」にして喫水線上にある部分なり。敷の面に直立ならずして外方或は内方に傾けるものとす。上※[木+世]と根※[木+世]即ち「かしき」との中間に側板を加ふることあ(162)り。之を中※[木+世]といふ。これは二枚以上あることあり。川船は多くは之を備へず。
 以上にて「ふなたな」は大船(ノ)旁(ノ)板也といへる和名抄の説明も明かに知らるべく、又この「たな」のなき小舟即今一枚棚(この棚は根※[木+世]即ち「かしき」にしてそれ一枚のみにて舷をなせるよりいふ)といへるが棚無小船なること明かに知らるべし。
 
       ○於をウヘとよむこと
 
 萬葉二に
  礒之於〔右○〕爾生流馬醉木乎手折目杼令視倍吉君之在常不言爾(一六六)
とある「於」をウヘとよめり。之につきて契沖は
  イソノ上は(中略)石の上なり、神功皇后紀に登2河中石上1とあるをイソノウヘと點せり、大和の石上又同じ。於〔右○〕は上なり、文武紀に憶良の氏を山於とかけり、南京の法相宗の學者内典を讀時某に於いてを某のうへに〔三字右○〕と讀習へるは古風の故實なるべし。
といへり。なほ萬葉集中「於」をウヘとよむべきは
卷三 柿本朝臣人麿獻新田部皇子歌一首並短歌と題せる長歌の
  八隅知之吾大王高輝日之皇子茂坐|大殿於《オホトノヽウヘニ》久方天傳來自〔右○〕(白イ)雪仕物往來乍益及常世(二六一)
卷七 曉跡夜烏雖鳴此山之木末之於〔右○〕者未靜(一二六三)
卷十 靈寸春吾山之於〔右○〕爾立霞雖立雖座君之隨意(一九一二)
  一六三
卷十一級刀諸双之於《0》荷去觸兩所殺鴫將死戀管不宥者(三ハ三六)
卷十三 挽歌に「春避者殖槻於〔右○〕之遠人待之下道湯」「朝裳吉城於〔右○〕道從」(三三二四)とあり
卷十九 攀折堅香子草花歌一首
  物部能八十乃※[女+咸]嬬等之※[手偏+邑]亂寺井之於〔右○〕乃堅香子之花(四一四三)
卷十九 詠霍公鳥歌一首
  二上之|峰於〔左○〕乃《ヲノヘノ》繁爾許毛爾之波霍公鳥待騰未來奈賀受(四二三九)
などあり。又その文武紀なるは大寶元年正月丁酉遣唐使任命の條に
  先位山於〔二字右○〕億艮少録
とある山於〔右○〕億良は和銅七年紀正月には山上臣憶良とかき萬葉集の作者として名高き人なり。この事につきて考證は
  靈龜二年四月(ノ)記作2山上(ノ)臣(ニ)1萬葉集同(中略)狩谷氏曰於字訓2ウヘ(ト)1萬葉集靈異記太神宮儀式帳多度寺資財帳和名抄郷名等用2此字1又法相宗(ノ)僧讀書(ノ)法語助(ノ)於字訓2ウヘ1
といへり。大日本古文書を見るに神護景雲四年七月の自奉寫一切經司經本納并返上帳に「山於三上」といふ署名を數通に見る、これも山上氏なるべきなり。きてその靈異記なるは下卷減2塔階1仆2寺幢1得2惡報1縁第三十六に
  手(ノ)於〔右○〕(ニ)置v※[火+爵]燒香行道讀2陀羅尼1
  咒v之禅師手(ノ)於〔右○〕(ニ)燒v香彼煙也
とあるなり。※[木+夜]齋は之に注して
  成唯識論於(ノ)字皆訓2ウヘ1
(164)といへり。皇太神宮儀式帳なるは
  於葺御門三間 各長一丈五尺弘一丈高九尺
  於不葺御門八間 各長一丈三尺高九尺
とあるなり。考證は之に注していはく
  於葺ハ宇倍布玖とよむべし(【宇倍布氣留とよむはわろし】)此三門は現存の瑞垣玉串御門第四御門なり各草を葺たり於を宇倍とよむは古代常のことにて云々(下略續日本紀考證などにおなじ)
又止由氣宮儀式帳にも止由氣太神御装束物の條に
  御床於敷細布御帳壹條 長八尺四幅
  於覆帛御被一具 長八尺四幅
とある「於」も「ウヘ」とよむべきなり。多度寺資財帳なるは
  神社以東有2井於〔右○〕道場1
とあるにて「ヰノウヘ」といふ地名なり。これと同じ地名は和名抄河内國志紀郡の郷名にも見えてそこは
  井於〔右○〕爲乃倍
と記せり。これ他の地にて「井上」とかけるに同じ。又この文字をかける氏あり。天平神護二年紀四月丁未に
  攝津國人正七位下甘尾雪麿賜姓2井於〔二字右○〕連1
續日本後紀承和十年十二月に文室宮田麿の反に與し罸を受けたる人々の中に
  井於枚麻呂
(165)あり。これらみな「於」を「ウヘ」とよむべきものなり。
 さて契沖がいへる法相宗の學者の經論をよむに「於」を「ウヘ」とよめるは※[木+夜]齋が指せる如く成唯識論などなり。その一二例をいはゞ
  今造(スルコトハ)2此論1爲(ナリ)d於《ウヘニ》2二空(ノ)1有(ル)2迷誤(スルコト)1者(ノニ)生(セシメムガ)c正解(ヲ)u 一・一オ
  於《ウヘニセシコトハ》2唯識(ノ)理(ノ)1如(ク)v實(ノ)知(シメントノ)故(ナリ)  一・一ウ
の如し。この本は明詮の本を模寫したるものにしてその讀法の奈良朝時代のまゝなることを思ふべし。更に因明論大疏を見るに又かくよめる例少からず。
  眞(ノ)現比(ハ)於《ウヘニ》2境(ノ)幽顯(ナルガ)1倶(ニ)明(ナリ)  上本・九ウ
  其惣(ノ)聲|於《ウヘニ》別(ノ)亦轉(ス)如言(カ)燒(クト)   上本・六ウ
  於《ウヘ》此比量作(テ)決定相違(ヲ)1(頼長奥書本ニヨル)中本・三十三ウ
而して、この因明論大疏も亦明詮の本を模寫して今に傳へたるものなり。
 我が古書に、佛書に「於」をウヘとよめるはその據る所漢籍になかるべからず。按ずるに尚書酒※[言+告]に
  王曰封、予不2惟若茲多※[言+告]譜1、古人有v言曰人無2於v水監〔三字右○〕1當2於v民監〔三字右○〕1。今惟殷墜2厥命1我其可v不3大監撫2于時1
とあるは、普通にいへば「監於水」「監於民」とあるべきものなるが、かくおけるままによまば「水ノウヘニ監ミル」「民ノウヘニ云々」とよむべき勢にあり。又左傳昭公十九年に
  曰彼(ノ)何(カアル)罪諺所謂室於〔二字右○〕》怒市於〔二字右○〕色者楚之謂矣
とあるも「怒於室」「色於市」とあるべきなるが、かくおけるままによまば「室ノウヘニ怒リ」「市ノウヘニ怒ル」(166)とよむべきなり。これにつきて經傳釋詞一の於字の條に
 廣雅曰於于也常語也亦有d於句中倒用者u。書酒誥曰人無2於水監1當2於民監1猶v言2無監於水者當監於民1也僖九年左傳曰入而能民土於〔右○〕何有言何有v於v土也【凡言於何有者放此】昭十九年左傳曰其一二父兄私族於〔右○〕謀而立2長親1言私謀v於v族也【杜注曰於2私族之謀1宜v立2親之長者1文義未v安】又曰諺所v謂室於〔二字右○〕怒市於〔二字右○〕色者楚之謂矣、言怒v於v室而色v於v市也
といへり。これは於字の位置の論なるが、これは全くの助字としての見解なるが上の論なれど、或はその起原名辭なりしものにして「上」の義に用ゐたりしものにあらざるか。於の字は支那にても主として助字たるものなれば、わが國にて「ニ」とよむはそれによれるものなれど、又「オイテ」「オケル」などよめるは全く助字にあらで用字の性を帶べり。これ居字の義あるより來れるものにして韓愈の詩 示兒に
 前榮饌2賓親1冠昏之所v於
又孔融書に
  擧杯相於
とあるが如きこれなり。然れば、我訓點は字の本義に基づくものなるべし。然れども、その實字たりし時期は甚だ古くして現存の文獻にて未だ證を得べからぬものなるべし。
 因にいふ。上の尚書、左傳などの訓は或は「ウヘニ」とよめりしかと思はる。されど古抄本にしかるを未だ見ねば斷言するを得ず。恐らくは將來發見するを得べし。
 
       ○須加能夜麻
 
(167) 卷十七に大伴家持が「思放逸鷹夢見感悦作歌」と題して長歌一首短歌四首あり。その短歌の第四首は
  情爾波由流布許等奈久須加能夜麻〔五字右○〕須可奈久能未也孤悲和多利奈牟(四〇一五)
なり。この須加能夜麻をば、代匠記には「此も射水郡に有にや越中をば出べからず」といひ、古義には「源平盛衰記三十に越中(ノ)國に須川《スカ》山と云あり是なるべし」といひ、わが郷人高澤瑞信が著せる越路廼栞には
  此山は礪波郡今宮島村|須川《スカ》の山なるべし此村には冷泉も出で名のある所なり三※[刀三つ]志に宮島郷四十七村中の横谷須川法樂寺等の順村にて今も石動町の東北にあり、今子撫村の字宮須と云なり古義には源平盛衰記の倶利伽羅の役に須川《スカ》ノ林に云々とある所なりと見えたれども、本集本歌の須川山とは全々異所なり思ひまがふべからず。
といひたり。然れどもこの須川の邊の山をばすかの山といひしこと他に證なきのみならず、他の三首中にある三島野、二上山、松田江の濱、氷見の江、多古の島、古江はいづれも鷹の飛び去りし地と思はるる地を次第によみしものと見ゆれど、この一首は中に地名なき歌をへだててあれば、鷹の逸れ行きたりと思はるる地をよみしにはあらで、ただ「すがなく」とよまむ爲によみたりしと思はる。さてかくよむにつれてはその「すかの山」と名づけたる山は打渡して目にまづ觸るるが如き地なるべく思はる。然らずしてさる山の奥なる山の名をわざわざとりいづること如何にや。これを以てその宮島村なる須川ならぬを思ふべし。きて又源平盛衰記なる須川は燧、長畝、三條野(以上越前)並松、鹽越、須川山〔三字右○〕、長竝、一松、安宅、松原、宮腰(以上加賀)倶利伽羅、志雄山(越中ト加賀又ハ能登トノ堺)竹濱(能登の高濱か)と次第したれば、加賀國なること論なく、なほ平家が篠原を落ちて山に入り極樂林、小野寺村に亂入したれば、源氏續いて平攻に攻め福田、熊坂、江沼邊をも攻越えて濱まで政懸たりといふこと見ゆれば、今の大聖寺附近なり。さればこの須川を越中なりとする諸説悉く失考なり。
(168) 按ずるに須加能夜麻はなほ射水郡の中なるべし。その證は次條(占墾田使の條)にもいふ所の大日本古文書四に載する天平寶字三年十一月十四日の東大寺越中國諸郡庄園惣券中、射水郡の條中に
  須加村地參拾伍町壹段貳伯貳拾肆歩(【東大葦原里五行與六行堺畔南西伯姓口分北須加山】)
とある須加山即これなるべきを以てなり。この須加村開田地圖は當時の實物正倉院に保存せられ、その須加山も明かに記載せられてあり。(越中史料にも寫眞版にて複寫して載せたり)然るに須加村須加山の地名今存することなし。而、越中の射水郡の現在の地勢を以て見るに所謂澁谷の崎を除きては北方はすべて海岸に沿うていづれも平地にして山と名づくべきものあることなく、又須加村といふ地も無し。然るにこゝに北須加山とあるを見れば、現今の状態にては全くその地あることなしとすべし。おもふに、諸國に須加といへる地名多きが、いづれも海岸の砂丘をいへるに似たり。淺井了意の東海道名所記白須賀の條に
  東海の俗語に汐のあつまりて小高きをば須賀といふなり。
といへり。この語はあながち東海の俗語と限らず汎く行はれしなるべし。かくてその北方にありしこと、又今須賀村といふ地無きことに合せ考ふれば、この須加山といへるはその砂丘の著しきが射水郡の海岸にありしなるべし。しかもその地は國府より打渡し眺めらるべき地なりきと思しければ、今の堀岡、明神、練合などの北にありしならむか。かくいふ故は越中一帶の海岸は年々に沈降し行き、名ある神社の鳥居一二里の沖合の海中にありなどいひ、或は近年にもかくて國道を南へ/\と移し築きしをば余まのあたり知れり。又生地といへる町などはもと新治といへる町なりしが久壽年中に全村海中に没したりしを新に興したりなどいふ事もあれば、一千年前の昔の海岸の地海底となりしことあらむも不思議とすべからず。かく海岸一帶の沈降するは越中に限らず加賀にも越後にもあり。か(169)の安宅關址なども今の安宅町の沖合一里餘の海底に没し去れりといふなり。
 
       ○帶解替而廬屋立
 
 卷三の勝鹿眞間娘子墓を過りし時に山部赤人がよめる長歌に
  古昔有家武人之倭|父《(文(ノ)訛)》幡乃帶解替而〔四字右○〕廬屋立〔三字右△〕妻問爲家武勝牡鹿乃眞間之手兒名之奥槨乎云々 (四三一)
  イニシヘニアリケムヒトノシヅハタノオビトキカヘテフセヤタテツマトヒシケムカツシカノママノテコナガオクツキヲ云々
 とある「帶解替而廬屋立」といへる句のつづきにつきて古來一定の説なきが如し。
 契沖は
  帶解替てと云へるは語らへる男有やうに聞ゆ、第九の歌は定たる男なしと見ゆ、異議にや。フセヤは賤しき者の住家なり、別に註す。家には妻と云物の有故に妻と云はんとて此句あるか、又賤しき者なれど此女をすゑむとて別にふせ屋を立と云か、又按ずるに第九に處女墓をよめる歌にふせやもえすずしきほひてあひたはけしける時には云々。此はすずしと言はむ爲に、ふせやもえとおきたれば、今もふせ屋立は、妻もつづけむ爲にあらで此下に二句ばかり落たるにや然らば帶解替てと云も賤しき者の爭ひの樣なるべし。
といひたれど、説く所錯雜して何の事か明かならず。略解は
  廬屋立は翁はふせやたつとよみて枕詞とせり、おもふに是は古訓のままにふせやたてとよむべし。ふせやは集中に田ぶせともふせいほともよめり。たては妻どひせん料に廬を建る也。古しへつまどひするには先其屋をた(170)てし事すさのをの尊のつまごみにやへがきつくるとよみ給へるをもおもへ。宣長説もしかり。
といひたれど、これはそのつづき方の説明としては何もなく「廬屋立」のみの説に止まれり。古義は
  帶解替而は帶解|交《カハ》してといふに同じ、互に帶解てといはむが如し。
といひ次に「廬屋立」の説明あれど、この二句のつづき方の説なきは故意か偶然か知らねど不親切といふべし。ここに於いて井上通泰博士の新考には之につきて頗る深き研究を加へられたり。曰はく
  帶トキカヘテを久老は「トキカヘテはトキカハシテなり」といひ雅澄は「帶解|交《カハ》シテ」といふに同じといへり。されど眞間娘子は九卷の長歌によればいづれの男にも逢はで死にしなれば帶トキカハシテ又は互に帶解テなど云ふべからず。或は赤人は九卷の長歌とは異なる傳説によりて此歌を作れるなりとせむか。さてもなほ互に帶ときて寢る事はふせ屋を建てて妻問する事より後に云はざるべからず。(中略)さてフセ屋タテツマドヒシケムを新に家を造り女を迎へて妻とせむことを言ひ入れしこととすれば上なるシヅハタノ帶トキカヘテを(上に擧げたる十卷の歌なるコマニシキ紐トキカハシに準じて)帶をときかはす意としては否オビトキカヘテとありては通ぜず。案ずるに日本紀に大君ノ御帶ノシヅハタムスビタレとありて太子すら倭文の帶を着けたまひしを見れば東の賤の男、ふせ屋に住むばかりの賤の男が倭文の帶を着けけむは決して平時の装にあらじ。試に言はゞ武烈紀に
    大君の御帶のしつはたむすびたれ
  又本集十一卷に
    いにしへの倭文はたおびをむすぴたれたれとふ人も君にまさらじ
(171)  とあるを見れば帶解替而は帶結垂而の誤字にて妻どひせむとて賤の男の盛装しけむを言へるにあらざるか。果して然らば
    しづはたの帶ゆひたれてふせやたてつまどひしけむ
  と訓みて倭文の帶を結び垂れ又新に家を立てて娘子をよばひし事とすべし(但テの言あまりて聞ゆれば而は衍字にてムスヒタレにてもあるべし)
といはれたり。この説かの句のつづきに從來の諸家の説の考への足らざりしを指摘せられたるは多とすべきなれど、之を誤字なりとする事は首肯せらるべくもあらず。
 余按ずるに、この歌はその構造入り組みてあるが故にかかる誤解もいで又難解とも思はれしなれど、一旦その構造を分解する時は釋然たるものあるなり。この歌は文の脈絡は「古昔に有けむ人の」より直に「廬屋立て妻問ひしけむ云々」に續くる意にして「倭文幡の帶解き替へて」は「ふせや」にかかる序詞たるなり。かかる形式なる序詞は他にもあり。たとへば卷三の(四十八丁オ)
  (山際從〔三字傍線〕)出雲〔二字右○〕兒等者(四二九)
といふ歌、又同卷角鹿津乘船時笠金村の作なる長歌に
  草枕客之有者獨爲而見知師無美(綿津海乃手二卷四而有珠手次)懸而〔二字右○〕之努櫃日本島根乎(三六六)
とあるが如きこの例なり。
 かく考へ來れば「倭文磯の帶解替へて」は古義の釋にて足りぬべく、この一句は「ふせや〔三字右○〕」の「ふせ」にかかれる序詞たるに止まれり。即ち「男女帶解きかはしてふすと」いふ意にて「ふせや」の「ふせ」にかかりて之を修飾せ(172)るに止まれり。かかるが故に、この一句は眞間の手兒奈の所業には何等の關係もなきなり。之を手兒奈のわざと見るが故に難解となり。誤解も生じ又誤寫説も發るに至れるなり。今この一句をただの序詞と見れば、何等の矛盾もなく、すらすらと解かるべし。余が考上の如し。世人の判ずる所如何。
 
            四
 
       ○占墾地使
 
 卷八第十七張
   天平感寶元年五月五日饗東大寺之古〔右○〕墾地使僧平榮等于時守大伴宿禰家持送酒僧歌一首
  夜岐多知乎刀奈美能勢伎爾安須欲里波毛利敝夜里蘇倍伎美乎等登米牟(四〇八五)
  ヤキタチヲトナミノセキニアスヨリハモリヘヤリソヘキミヲトトメム
といふあり。この「古」字目録には「占」に作れり。按ずるに當時東大寺の墾田の越中國にありしことは正倉院文書にその證あり。大日本古文書卷四に載する東大寺越中國諸郡庄園總券と題するものこれなり。これによれば、その墾田地すべて七ケ處惣地積五百八十七町七段十八歩にして内開田百五十四町六段四十六歩なり。さてその地如何といふに、礪波郡に伊加流伎野地百町、射水郡に※[木+俣の旁]田《くした》村、(今櫛田村といふ)須加村、鳴戸村、鹿田村、四ケ村にて二百五十三町六段百六十六歩、新川郡に丈部村大藪野二處にて二百三十四町二百十二歩なり。かくてこの文書の末に
  以前去天平勝賓元年占定野地〔天平〜右○〕》且墾開如件
    天平寶字三年十一月十四日※[竹/卞]師散位正八位下小橋公石正
(173)  造寺判官外從五位下上毛野公眞人
  佐官師平榮〔二字右○〕   知開田地道僧承天
                 都維那僧仙主
とありて次に國司の連署あり。これに添へる地圖數葉現にこれまた傳はり存せり。續日本紀天平二十一年四月朔の宣命の中に「又寺寺爾墾田地許奉利云々」と見え、同日に天平感寶元年と改められしなり。なほ同年閏五月に詔ありて諸大寺に※[糸+施の旁]、綿、布、稻、懇田地を施捨せられ、同七月には諸寺の墾田地を定められたり。その最も多きは東大寺にて四千町、次は元興寺の二千町、次は大安寺藥師寺等の千町、次は法隆寺及び國分寺の五百町、次は國分尼寺の四百町、其の他普通の定額寺は百町なり。かくて東大寺は諸國にその庄園の地を定めたるが、越中にては約五百九十町を定めしなり。この文書によりて本文詞書の「古墾地使」の「古」字は「占」の誤なること明かなるがその占字も實は點字の義なることはこの時の事を記載したる天平神護三年二月の民部省符(越中國司宛)の文中に
  國依符旨依天平二十一年四月一日詔書點件野地〔四字右○〕矣天平寶字三年※[手偏+僉]田使佐官法師平榮〔九字右○〕造寺使判官上毛野眞人就元野地取捨勘定造圖籍申上已畢
と見えたるにて知られたり。されば占定は點定の義にて(點の略字は占)卜占の義にはあらざること明かなり。今これらを以て考ふるにこの時その墾田の地を點定せむ爲に東大寺より越中國に派遣せられし僧の上首たりしもの即ち平榮ならむ。この文書には天平感寶とあらで天平勝寶とあるは同じ年にして天平感寶元年七月二日に更に改元ありて天平勝寶元年となりたれば、その點定の事を了へしは七月以後なりしことをも知るべし。
 僧平榮の傳は古義に「詳ならず」といひしが、この文書によりて東大寺の役僧たりし事知られ、なほ、天平寶字(174)三年十二月二日に署せる東大寺開田越前國足羽郡糞置村地圖の奥にも名見えたり。なほ溯りていへば、天平勝寶元年七月の東大寺奴婢返券には知事平榮とあり、同三年八月倶舍衆牒には寺主法師平榮とあり、同八歳八月二十二日の東大寺三綱牒(奴婢券)には佐官兼上座法師平榮とあり、なほ左券、庄地賣買券等にも屡この名を署し、天平寶字五年十一月廿七日の大和國十市郡池上郷屋地賣買券には佐官兼寺主法師平榮とあり。いづれも學僧にあらで役僧なりしことを證せり。その傳の詳なることは知られざれど、この時點墾田地使として所々に派出せしこと知られたり。その下向の時國司が之を饗せし事ありし折の歌これなり。
 礪波關は今の倶梨迦羅峠にありきといふ説あれど、當らず。僞書舊事大成經などに推古御宇栗柄路を開くといへるは僞説なり。延喜式を按ずるに加賀國に田上驛あり。その地は今金澤市の東に上田上、下田上とて存す。又越中國に坂本驛あり。その地は今礪波郡福光町の西にある坂本村なり。その田上より坂本に越ゆる路は二股越といひて福光金澤間の捷徑なり(六里許)。さてこの關は何處にありしかと考ふるに礪波の關といひ、家持卿が守部を遣り添ふといへるに合せ考ふれば、越中の内なること明かにして足柄、碓氷なども皆坂本に關を置きたる例に照してこの坂本村にありしならむといふ説をよしとす。
 
       ○斯和何伎多利斯
 
 卷五、哀世間難住歌と題する長歌の中に
  美奈乃和多迦具漏伎可美爾伊都乃麻可斯毛乃布利家武久禮奈爲能 (一云略ス)意母提乃字倍爾伊豆久由可斯和何伎多利斯(八〇四)
(175)といへる對句あり。この上句は今いふを要せず。下句の「斯和何伎多利斯」をば代匠記には
  斯和何伎多利斯は皺掻垂《シワカキタリ》しなり、皺と云物のいづくに有てか今面に出來てかきたるるとなり、かきは詞なり、たるるとは肉の薄らぎて皺の出來れば皮の垂りさがる意なり。何處ゆかと云へば皺が來りしとも意得つべけれど唯初の意なるべし。
といへり。さてかく二説考へつきながら皺掻き垂るといふを自らよしとせるよりして從來の學者皆之に盲從せり。
 略解には
  くれなゐの云々、紅顔にいつよりか皺掻垂《シワカキタリ》しといふ意也、又何をここは濁音にのみ用たればいづくゆか皺が來たりしといふかともおぼゆれど、古語の體にあらず。
といひ、古義は別に説なく之に從へるさまなり。
 按ずるに既に略解にいへる如く「何」の字はすべて「が」にして濁音にのみ用ゐたり。今この第五卷中の例をすべてあげて次に示すべし。
  伊毛何美斯阿布知乃波那波《イモ○ミンアフチノハナハ》(妹が〔右○〕見し楝の花は)(七九八)
  和何那久那美多《ワ○ナクナミダ》(我が〔右○〕泣く涙)(七九八)
  和何那宜久《ワ○ナゲク》(我が〔右○〕歎く)(七九九)
  奈何名能良佐禰《ナ○ナノラサネ》(汝が〔右○〕名告らさね)(八〇〇)
  奈何麻爾麻爾《ナ○マニマニ》(汝が〔右○〕隨意)(八〇〇)
  年月|波奈何流流其等斯《ハナ○ルルゴトシ》(年月は流《なが》るる如し)(八〇四)
 
(176) 遠等呼《ヲトメ》(※[口+羊])良何遠等呼《ラ○ヲトメ》(※[口+羊])佐備周等《サビスト》(處女等が〔右○〕をとめさびすと)(八〇四)
 遠等呼《ヲトメ》(※[口+羊])良何佐那《ラ○ナサ》(那佐の轉倒)周伊多斗乎《スイタドヲ》(處女等が〔右○〕鳴さす板戸を)(八〇四)
 多都可豆惠許志爾多何爾提《タツカヅヱコシニタ○ネテ》(手束杖腰にたが〔右○〕ねて)(八〇四)
 和何世古我《ワ○セコガ》(我が〔右○〕夫が)(八一二)
 可武奈何良《カムナ○ラ》(神なが〔右○〕ら)(八一三)
 和何則能爾《ワ○ソノニ》(我が〔右○〕園に)(八二二)
(176) 佐欲比賣能故何比列布利斯《サヨヒ(ノ)○コヒレフリシ》(佐用媛の子が〔右○〕領巾振りし)(八六八)
 佐用比賣何許能野麻能閉仁必例遠布利家無《サヨヒメ○コノヤマノヘニヒレフリケム》(佐用媛が〔右○〕此山の上《ヘ》に領巾を振りけむ)(八七二)
 波波何手波奈例《ハハ○テハナレ》(母が〔右○〕手離れ)(八八六)
 意乃何身志《オノ○ミシ》(己が〔右○〕身し)(八八六)
 和何余須疑奈牟《ワ○ヨスギナム》(我が〔右○〕世過ぎなむ)(八八六 一云)
 波波何目美受提《ハハ○メミズテ》(母が〔右○〕目見ずて)(八八七)
 波波何刀利美婆《ハハ○トリミバ》(母が〔右○〕取り見ば)(八八九)
 阿米欲里由吉能那何列久流加母《アメヨリユキノナ○レクルカモ》(天より雪のなが〔右○〕れ來るかも)(八二二)
 和何弊能曾能爾※[さんずい+于]米何波奈佐久《ワ○ヘノソノニウメ○ハナサク》(我が〔右○〕家《へ》の園に梅が〔右○〕花咲く)(八三七)
 伊夜之吉阿何微《イヤシキア○ミ》(賤しき我《ア》〔右○〕身)(八四八)
 多多世流古良何伊弊遲斯良受毛《タタセルコラ○イヘヂシラズモ》(立たせる子等が〔右○〕家路知らずも)(八五六)
(177) 知知波波袁意伎弖夜奈何久阿我和加禮南《チチハハヲオキテヤナ○クアガワカレナム》(父母を置きてや長〔右○〕く我が別れなむ)(八九一)
 伊等能伎提痛伎瘡爾波鹹塩遠灌知布何其等久《イトノキテイタキキズニハカラシホヲソヽグチフ○ゴトク》(灌ぐちふが〔右○〕如く)(八九七)
 栲縄能千尋爾母何等慕久良志都《タクナハノチヒロニモ○トネガヒクラシツ》(千尋にもが〔右○〕とねがひ暮しつ)(九〇二)
 千年爾母何等意母保由留加母《チトセニモ○トオモホユルカモ》(千年にもが〔右○〕と思ほゆるかも)(九〇三)
これ卷五にある「何」字の用例のすべてなり。この諸例いづれも「が」の濁音に用ゐたるを見るべし。然るときはこの一例のみを清音にするには何等かの特別の理由なくば許さるべからず。なほいへば、萬葉全集中「何」はいづれも濁音に限りて用ゐられたるものにして、この事は萬葉集の假名遣を論ずるもののすべて認むる處なり。現に古義の如きもその總論には明に「何」を濁音の中に入れて示せり。然るにこの本文には清音に取扱ひて一言の辯もなきは不條理なる事といふべし。「何」字が本來濁音の字なることは韻鏡にても知られたり(その第二十七轉の圖を見よ)。されば、古事記をはじめとして皆「が」の濁音に用ゐたり。一二例をあげむに、古事記上卷八千矛神の詠なる長歌中に
  和何多多勢禮婆《ワ○タタセレバ》(我が〔右○〕立たせれば)
延喜式神名帳近江國犬上郡なる
  多何《タ○》神社(今の官幣大社多賀神社、俗におたが〔右○〕さまといふ)
など、皆然り。かの貴族院議員「何禮之」といふ人の苗字の「何」字は今も「が」とこそはいへ。漢の三傑たる蕭何の「何」も「が」なり。今人の清音によむこそ異例なるなれ。(其一)
 さてかく「何」字が濁音なるに之を代匠記にも略解にも排斥せしは「古語の體にあらず」と考へたるなり。この(178)古語の體にあらずといふは蓋し「が」にて主格を示すことの今の俗語に似たるよりの考へなるべし。然れどもこれ古語の格を僻心得しつるより來れる誤解なり。この卷中にある「何」字の例にても(我が汝がの例はいふまでもなく)
  をとめらが〔右○〕をとめさびすと
  をとめらが〔右○〕鳴さす板戸を
  梅が〔右○〕花咲く(梅が花を一の語と見る時はこの例にあらず)
  さよ媛の子が〔右○〕ひれふりし……
  さよひめが〔右○〕此の山上に領布を振りけむ
  母が〔右○〕とり見ば
の如くその語格既に古にあり。この卷ならぬにて少しく例をあげむか、
  多都我〔右○〕奈伎安之敝乎左之弖等妣和多類(鶴が〔右○〕鳴き葦邊をさして飛び渡る)(卷十五、三六二六)
  阿良多麻能登斯賀〔右○〕岐布禮婆(荒玉の年が〔右○〕來經れば)(古事記中)
の如きこれなり。これらにてこれ古語の格にあらずといふことの批難は撤回すべきものなり。(其二)
 さてかく「何」を「が」とよみ、之を主格を示す語とする時は、當然下なる「伎多利斯」の四字は「來りし」の意に解せざるべからず。この「きたる」といふ語は從來「く」(來)といふ語の連用形に所謂助動詞の「たり」のつけるものの變形なりと説きたれど、かくては語法の上に不條理あり。これは榮田猛猪氏がかつて國學院雜誌にて發表せし説の如く「來至る」の約なるべし。その傍證といふべきは「參至」の「まゐたる」(佛足石歌)「這入」の「はひる」、「陷入」の「おちる」の如きもの皆然り。さてこの語は萬葉集中既に屡用ゐられたり。その一二をあ(179)げむ。先、この今論ずる長歌の中に
  等利都都伎意比久留母能波毛毛久佐爾勢米余利伎多流〔三字右○〕(八〇四)
といひ、又有名なる憶良の思子等歌に
  伊豆久欲利枳多利斯〔四字右○〕物能曾(八〇三)
といへり、この語は既に日本書紀繼體天皇卷に
  柯羅〓※[人偏+爾]鳴以柯※[人偏+爾]輔居等所梅豆羅古枳駄樓〔三字右○〕武※[加/可]佐屡塵樓以祇能和駄※[口+利]鳴梅豆羅古枳駄樓〔三字右○〕
とある皆この「きたる」といふ語の古くよりありしを證す。さればこれらを以て「皺が來りし」といふことの不當ならぬを知るべし。(其三)
 次に又上に「何處ゆか」とあるに對して「來りし」といふこと妥當なり。若しそれを「掻き垂りし」とせむか、その皺が、何處より垂るべきか、これ實に語をなさぬにあらずや。若し皺に掻き垂るといふことを許すとせむに、その垂るる根元の處は顔面外にありてそれより顔面の上にそれが垂れ届く義とせざるべからず。然れども事實の上より見ても歌の面より見ても顔面以外に皺の生ずべき理なし。然れば何の故に更に「何處ゆか」と疑ふを要せむ。されば、これはなほ「皺が何處より顔の面に來りしかと疑ふ意」とせずば語意通らずといふべし。(其四)
 更に又一歩を讓りて「掻き垂りし」とせむか。皺には古今通じて「よる」といひ、歌にては「浪のよる」に喩へてこそいひたれ、皺の垂るといへる事は古より今に至りてかつて聞きも及ばぬことなり。この故にこれを主張せんとする人は皺の垂るといへる語の存する事を立證すべき責ありとす。(其五)
 以上五の點よりして吾人は之を「何處よりか皺の出來りし」意と解すべきものと主張す。而してこれをこの二句(180)の構成の上より見れば、かく解してはじめて完全なる對句をなすなり。
  蜷の腸〔三字傍線〕 か黒き髪〔四字傍線〕に〔右○〕 何時の〔四字傍線〕間〔二重傍線〕か〔右○〕 霜〔三重傍線〕の〔右○〕降りけむ〔四字三重傍線〕
  紅の〔二字傍線〕 面の上〔三字傍線〕に〔右○〕  何處ゆ〔三字傍線〕か〔右○〕 皺〔三重傍線〕が〔右○〕來りし〔三字三重傍線〕
かく完全なる對句たるものを「掻きたりし」とせば、最後に至りて對句の體破るるなり。されば語意の上より見ても語法の上より見ても句格の上より見ても吾人の見る所當を得たりといふを得むか。
 
       ○古屋  鮫龍
 
 卷十六 境部王詠數種歌
  虎爾乘古屋乎越而青淵爾鮫龍取將來釼刀毛我(三八三三)
といふあり。この鮫龍を舊本にサメとよみたれど今はみな官本によりてミツチとよめり。かくよめるはよけれども鮫字を蛟の誤字とせるはいかが。この誤字説は契沖にはじまれるか。曰く
  鮫龍は六帖に此歌を虎の歌に入れたるにもさめとあれど鮫は淵にある物にあらず鮫は※[虫+交]にて蛟龍の二字引合せてみづちなりけむを昔より誤て鮫に作ける故字に隨て點じける歟鮫は誠に鮫なれど龍の字をばいかが意得べき
と、これより諸家皆之を蛟の誤字とせり。然れども愚按によるに、これ決して誤れるにあらずして木村博士の説の如く古は通用せしなり。同氏は
  按に蛟鮫古へ通用なり中庸の※[元/鼈の下]※[囂/鼈の下]鮫龍の釋文に本又作蛟とあるにて知るべし。
といへり。西域記には蛟※[虫+璃の旁]の文字あり。慧琳の音義には之に注して(181)
  上音交下書恥知反
  並龍魚之種類也
といへり。之によれば、鮫、蛟通用せしこといよいよ明かなり。
 なほこの歌の古屋につきて契沖は履仲紀に鷲住王が八尋屋を馳越えたるを例に引きたれど、古屋と八尋屋とは一に論ずべきにあらず。八尋屋を馳越ゆとはその擧動の活溌よく大なる家を飛び越ゆるをいへるなるに、古屋にては大小の義なし。されば據とすべからず。考には古屋を地名ならんといひたるにつぎて略解には「神樂歌に伊曾乃加美不留也遠止古乃多知毛可奈(中略)とよめるふるや是か、(中略)古屋といふ所大和にありて且むかし名高き武夫ありしか」といへり。今多くは之に從へるやうなり。愚按ずるに、この歌はくさぐさの畏き物をとりあつめて詠まれたるものなるべし。虎はいふにおよばず※[虫+交]龍も勿論畏きものなり。青淵は枕草子にも名おそろしきものといへり。その間にある古屋また畏き物の一ならざるべからず。惟ふに、この古屋は人の住まずなりたる古き家にて鬼などの領すとして當時恐れて近づかざりし家をさせるなるべし。かくの如き家は漢語にては凶宅といへり。白氏文集に凶宅詩あるが如きその例なり。河原院の譚、三善清公の行きしといふ鬼殿の譚などこの類なり。靈異記にある道場法師の譚また之を證す。
 われ萬葉集を讀誦すること數百回、不思議にもこの歌常に脳裡に止まりて去らざるものあり。蓋し、この歌に一種の強き力ありて吾を引き付けしが故なるべし。今試に之を釋せむか、「人の最も怖るといふなる虎を馬にかへて之に騎り、人の怖れて近づかずといふなる野中の一ツ屋ともいはるゝ古屋を通りすぎ、さてその奥なる青淵に至りて領して栖める蛟龍を一擧にして屠り去らむに劔太刀の用もあるべし。あはれかくも威靈ありといへるものをもの(182)ともせずそこをわがものがほに心のままにそれらを征服せばや」との意なるべし。契沖が
 此歌は虎、古屋、淵、蛟、劔の五種を故ありて讀たまふに依て壯志をふるひて讀給へる歟、若佛法の喩ならば云々
といへるは古屋の釋なきと佛法に合せたるとは如何なれど、その他は大方に意を得たりといふべきか。
 
         五
 
       ○毛古呂
 
 古事記訓義考の中に「もこ」の説明をあげたり、今此の「もこ」と引きつづきて考へらるべきは「もころ」といふ語なり。この「もころ」といふ語は十四卷に
  於吉爾須毛乎加母乃母己呂〔三字右○〕也左可杼利伊伎豆久伊毛乎於伎※[氏/一]伎努可母(三五二七)
  オキニスモヲカモノモコロヤサカドリイキヅクイモヲオキテキヌカモ
又二十卷に
  麻都能氣乃奈美多流美禮婆伊波比等乃和例乎美於久流等多多理之母己呂〔三字右○〕
  マツノケノナミタルミレバイハヒトノワレヲミオクルトタタリシモコロ(四三七五)
といふあり。この「もころ」は既にいひし「もこ」に「ろ」音を加へたるものにしてこの意は日本書紀神代卷下に「夜者若※[火+票]火〔三字右○〕》而喧響之」とある「若※[火+票]火」を「ほべのもころ」とよめるにて知らるるなり。「ほべ」は火瓮にして「もころ」は「ごとし」の意をあらはせり。今本集の「もころ」も亦「如し」といふ意にとりて當れるが如し。十(183)四卷なるは「小鴨の如く」の意、「たたりしもころ」は「立有りし如し」の意にて聞えたり。さてかく用ゐるに至れるものは、「もこ」の本義より一轉して同樣なりといふ意をあらはす一種の語となりしものにして、この際には必ず「ろ」を下に添ふるものと思はれたり。
 かく考へ定めて後考ふるに、卷二の明日香皇女木※[缶+瓦]殯宮之時柿本朝臣人麿作歌のうちに
  何然毛吾王乃立者玉藻之如許呂臥者川藻之如久〔立者〜右○〕靡相之宜君之朝宮乎忘賜哉夕宮乎背賜哉(一九六)
とある、今圏點を加へたる所をば普通には
  タテバタマモノゴトク、コロブセバカハモノゴトク、
とよませたり。これは上の句も下の句も「ゴトク」にて結びたればよく對せるやうなれど之を比するに
  タテバ  (三音)  タマモノゴトク (七音)
  コロブセバ(五音)  カハモノゴトク (七音)
一方は上、三音一方は五音なれば完全なる對句をなさぬなり。然るに前田侯爵家の舊藏にして近頃獻納して御物となれる俊頼筆の萬葉集第二卷には右の處の上の「如」字を「母」とし、
  立者玉藻之母許呂(一九六)
  タテバタマモノモコロ
とよませて假名書も副はりてありと承はるなり(後にその本の寫眞を見れば實に然有り。)。かくすれば
  タテバ タマモノモコロ
  フセバ カハモノゴトク
(184)にて完全なる對句をなせるうへに一方は「モコロ」一方は「ゴトク」と意同じくして語をかへたるにてかへりて綾を加へたりといふべきなり。されば流布本の「如許呂」の三字も「モコロ」とよむべく「如」一字にてあるべきに「許呂」を加へて之を明かに示せるものと見るべく、これによりて流布本のよみ方の誤を正すべきなり。
 
       ○母許呂乎
 
 次に「もころ」と共に明かにすべきは「もころを」といふ語の意なり。この語は九番の見菟原處女墓歌のうちに
  後有菟原壯士伊仰天※[口+立刀]於良妣※[足+昆]地牙喫建怒而如己男爾負而者不有跡〔如己〜右○〕懸佩之小劍取佩冬※[草冠/叙]蕷都良………(一八〇九)
とある圏點の處をば
  モコロヲニマケテハアラジト
とよみなせり。又十四番には
  可奈思伊毛乎由豆加奈倍麻伎母許呂乎〔四字右○〕乃許登等思伊波婆伊夜可多麻斯爾(三四八六)
  カナシイモヲユヅカナベマキモコロヲノコトトシイハバイヤカタマシニ
と云ふもあり。こすらの「もころを」につきて古義は「如己とかけるは如自己男と云義にてわれわれなみの男にと云意なり(己が同輩にと云ふが如し)」といへり。諸家殆ど同説なり。是らは意義まさに然るが如くなれどもここに引ける歌の釋としては未だ心ゆかず。蓋しこれかれらは「もころ」を如とする意のみを知りて既にいへる如き「もこ」の本義を知らざる人々なりしが故にかく云ひしなれ。抑も「如己」とかけるは實は我に匹敵する意にて「もこ」の本義を以て「を」に接せるものこの「もころを」にして「ろ」はここにては全く音の助けに止まれりと見らる。(185)これやがてわが「もこ」即ち「かたき」又漢語にていへば匹敵者の義なるが如し。即ち卷九なるは一婦人を共に得むとする競爭の對手なれば「もこ」の本義に全くあへり。卷十四なるは意義稍異なりといへども相手が男ならばの意を下に含みて相手の男のことにてあるならばと云ふ意なるに近し。さてはこの「もころを」といふ語は今の俗語にていはば「張り合ひてある男」と云ふ義にて通ずる所あるなり。されば單に己と同輩といふ意にとれるは不十分にして「わが相手の男」と解するをよしとす。
 
       ○自伏
 
 卷二の末つ方にある讃岐狹岑島視石中死人柿本朝臣人麻呂作歌のうちに
  名細之狹岑之島乃荒礒面爾廬作而見者浪音乃茂濱邊乎敷妙乃枕爾爲而荒床〔二字右○〕自伏〔二字右◎〕君之家知者往而毛將告〔君之〜○〕云々
とある圏點の處をば古來
  アラドコニコロブス〔四字右◎〕キミガイヘシラバユキテモツゲム
とよみたるこれ「自伏」の二字を「コロブス」とよみたるにて古來殆ど一人の異論もなきやうなり。
 今按ずるに「自」字を「コロ」とよめることは何によりての事にか。古來この自字に「コロ」と訓ずべき故を的確にとける人もなく、又吾人の管見にも之を「コロ」とよむべき理由を證するもの一も入り來らず。おもふにこは恐らくは「自伏」の二字をば「コロブ」の義と見なしたるならむ。然れども顛倒の義ならば自伏の二字或は當らむと許すとしても「コロブ」とこそいへ「コロブス」といふべくもあらず。即ち「ころぶす」と云ふ語は國語としては不成立のものにして「自」の文字より云ひても「自伏」の二字の訓としても誤讀なるべきこと明かなり。
(186) さてかく不明なる語を古來、誤ともいはで過ぎ來りしは抑も故なからずばあらず。そは上に云へる卷二の明日香皇女の挽歌に「立者玉藻之如許呂臥者川藻之如久」(一九六)とある「許呂」は本來「モコロ」の意をあらはす爲に「如」の下に加へしものなるを「如」を「ゴトク」とよみなしたるより許呂を臥に加へて「コロブセバ」とよみたりしより「コロブス」と云ふ語の存在せりしが如く妄信せしよりの事なるべし。然れどもここは上に云ひしごとく上につけて「モコロ」と云ひ下は單に「フセバ」とよむべきこと明かになりたれば、これを以て「コロブス」の語の存在を證することは不可能となるなり。
 さて「コロブス」とよめりし例若しありとせば前にあげし一例のみなれど、これ既に誤なりといふ事明かになれる以上は之を傍證としてこの「自伏」を「コロブス」と讀まむこと不合理となるなり。然らば「自伏」は如何によむべきかといふに、余は之を「ヨリフス」と讀むべしと主張せむ。「自」の字は出自の自にて「ヨリ」とよむべきことは誰人も異議なからむ。而してこの場合には意義は依憑の義にて下の床に依り伏す義の假名に借り用ゐしなり。「よりふす」といへる語は萬葉には他に例を見ずといへども平安朝の物語薪には其例少からざるなり。なほ卷二なる
  玉藻成依宿之妹乎(一三一)
などもまた似たる詞遣なり。これによりてここは「よりふす」とよむを穩なりと考ふるなり。
 
       ○野島波見世追
 
 卷一なる中皇命往于紀伊温泉之時御歌三首中の一に
  吾欲之野島波見世追底深伎阿胡根能浦乃珠曾不拾(一二)
(187)  ワガホリシノシマハミセツソコフカキアコネノウラノタマゾヒロハヌ
といふあり。この歌古來難解として滿足に解きおほせたるを見ず。これが爲に諸家多くは左注の一本によりて上句をば「ワガホリシコシマハミシヲ」に改めて本文とせり。それは説く人の見識なれば如何にもあれ、この本文のままの歌にて解くすべなしとは如何に口惜きことにあらずや。
 按ずるに野島は諸家既にいへる如く熊野街道にあたれる一村にして島の名にはあらず。その地は日高郡の御坊町の南に鹽屋と云ふ村あるその南にあり。而してこの邊の海邊をば「あこねの浦」と云ふ由なり。されば地理上野島と阿古根の浦とは離るべからぬを見る。之を子島に改めむか。子島といふは和泉の南端紀州に近き海岸の一村なり。ここと阿古根の浦とはあまりに隔たれり。この歌の意を考ふるに野島を見たれど珠を拾はぬと嘆息せるなれば野島と阿古根浦とは同所か、しからずば一目に見渡さるる處なるべき心地す。きれば子島にては前後あはぬにあらずや。
 きてかく野島と阿古根浦と程近き所として一目に見渡しての歌と解して見むになほこの野島は自ら實地に踐み見たるにあらずして見渡したる所にありし由をこの言語によりて考ふるを得るなり。これらを以て考ふるにこの御歌は海上より野島を眺めたまひしものならむと思はる。然すれば野島は見せつといへるも由ありて聞ゆるなり。即ち海上より見れば船の進行の自然の順序としてかねて吾がいかで行きにしがなと冀ひたりし野島をば見せたり。されどこの浦に舟をよする事なければわがかねて拾はむと欲りしたりし珠も貝も拾ふことなきよと嘆息せるなり。即ち阿古根浦の海上を舟は通れど船の上なれば海底深くして貝も拾はれぬとなり。當時所謂海道と名づけられし地方は陸路よりは海路を主とせしこと、かの寶龜年中まで武藏國が東山道にして東海道にはあらざりし事などを思ひわた(188)して見るべく、又古けれど仁徳天皇の皇后の熊野にいでまししも船路なりしをも思ひ渡せば、余が説の誤言にあらぬをさとるべし。若し果して余が言の如く舟中にての御歌とせばこの野島は見せつといはれたること又「底深き」と云はれたること眞に實境をよくうたはれしものと見ゆるは如何。
 
           六
 
       ○山乎茂
 
 卷第一の額田王の春秋を判せる歌に
  山乎茂入而毛不取(一六)
といふ句あり。これは古來
  ヤマヲシゲミ〔三字傍点〕イリテモトラズ
と訓じ來りしを、考に「ヤマヲシミ〔二字傍点〕」とよませてより以來諸家悉く之に從へり。かくよみ改めしは蓋しその六音なりしを五音にせむとの點よりならむと考へらるゝが、その説を見るに
  しみは茂まり也、其しげを略《ハブキ》てしといひ、まりを約《ツヅメ》てミといふ也、さて此集には春の繁山、春の茂野など云て春深き比の草木を茂き事とす。
といへり。然れども、用言の語尾などはかく容易に約めらるべきものにあらず、若しかく約められたりとせば、ここに直ちに用言の活用をもかへたることとなるなり。畢竟この説明は深く典據とすべきものにあらざるなり。然るに諸家皆之を踏襲せり。それらの諸家既に之を踏襲せる以上は相應の根據なかるべからざるなり。
(189) 今略解を見るに、單に
  山をしみは茂くして也。
といへるのみ。古義は
  山乎茂は山が茂さにの意なり(岡部氏の考も略解もわろし)茂は木の茂きをいふ、山に入て鳥(ノ)音を聞むとすれど木茂くて聞て賞《メデ》がたきを云。
といへり。この「み」を「さに」と譯するは、上の歌の「心乎痛見」の條下に既にいへるごとく上に形容詞の語幹を受くる「み」にして「空蝉之命乎〔右○〕惜美〔右○〕」「爲便乎〔右○〕無美〔右○〕」「面奈美〔右○〕」などの美と同じとせるなり。守部の檜嬬手には
  茂《シミ》の志《シ》は繁の約り、美《ミ》は風を痛みなどの美にて茂き故にと云ふ意。
といへり。又美夫君志には
  しみ〔二字右○〕のみはサニ〔二字傍線〕の意にて山の草木の繁きに入ても花をたをらずと也、考にしみは茂《シゲ》まり也。其しげを略てしといひ、まりを約てみといふ也といへるは非也、しげを古言にはしとのみもいふなり、猶下の藤原(ノ)宮御井(ノ)歌の註にいふべし。
といひ、その藤井宮御井歌の註にいふといへるは「之美佐備立有」の條にして、
  之美佐備立有|繁進立《シミサビタテリ》也、之美は繁なり、こはたた繁の字の意の一の古言なり。卷十七【九右】に烏梅乃花美夜萬等美爾安里登母也《ウメノハナミヤマトシミニアリトモヤ》ともあり。
といへり。この美夫君志の説は最も進歩せる如くに見えて大なる矛盾をあらはせり。上には「しげ」を古言には「し」とのみいふといひて下に之を説くべく約束しながら下には「之美」は繁なりといひて「之美」を以て繁の字(190)の意の古言なりとせり。即ち後には「しみ」を一の繁字にあて、上には「し」を以て繁の古言とせり。かくては二の語ある譯となるなり。
 今これらを以て通じ考ふるに、これは「し」を繁の意ありとするか、「しみ」を以て繁の意ありとするかの二途その一を決定せざるべからず。而して下の「み」を以て形容詞の語幹につきて動詞の如くならしむる接辭の「み」とするときは「し」を繁の意とせば「しみ」となり、「しみ」を繁の意とせば「しみみ」となるべきなり。以上の如き事項を決せむとせば、吾人は一方に「しみ」といへる例の如何なる場合に成立せるか、又「しみみ」といふ語なきか、更に又「し」にて繁の意をあらはせるものなきかを檢せざるべからず。
 今集中を檢するに、「之美」と假名書にせるは美夫君志の例に引ける卷十七の
  鳥梅乃花美夜萬等之美〔二字右○〕爾安里登母也如此乃未君波見禮登安可爾勢牟(三九〇二)
といふが一首あるのみ。その他には卷九に
  妹等許今木乃嶺茂立〔二字右○〕》嬬待木者古人見祁牟(一七九五)
とある「茂立」を「シミタテル」とよみたるあるのみ。さて「茂立」を「シミタテル」とよむことは「茂」を「シミ」とよむことの成立せではよまれざるものなるが故にこれは證とはならず。
 今ここに翻りて上の「ミヤマトシミニアリトモヤ」の句を考ふるにこれは「シミ」が所謂古言に繁の意なる「シ」ありてそれに「ミ」加はれるものとも見られざるにあらずと雖も「みやまもさや〔二字右○〕に」「せなのが袖もさや〔二字右○〕にふらしつ」などの「さや」などと同じく副詞又は之に准ぜらるべき性質のものとも見らる。さればこれのみにてはいづれとも決し難きなり。
(191) さて又一方には「シミミ」といへる語あり。その假名書なるは
  内日指京思美彌〔三字右○〕爾〔右△〕里家者佐波爾雖在(卷三、四六○)
  欲見吾待戀之秋芽子者枝毛思美三〔三字右○〕荷〔右△〕》花開二家里 (卷十、二一二四)
  家人者路毛四美三〔三字右○〕荷〔右△〕雖來吾待妹之使不來鴨(卷十一、二五二九)
  大舟爾葦荷刈積四美見〔三字右○〕似〔右△〕裳妹心爾乘來鴨(卷十一、二七四八)
  藤原王都志彌美〔三字右○〕爾〔右△〕》人下滿雖有…………大殿之砌志美彌〔三字右○〕爾〔右△〕》露負而靡芽子乎(卷十三、三三二四)
にして、又十二卷なる
  萱草垣毛繁森〔二字右○〕雖殖有鬼之志許草猶戀爾家利(三〇六二)
とある「繁森」の二字を「シミミニ」とよみたれど、これは「シミミ」といふ語の存在してはじめてしかよまるるに止まり、證とはならず。
 さて上の「シミミ」をば從來の諸家いかに説きてありしかと顧みむ。これにつきては古義の説最もくぱしく、その他は單に「繁き也」といへる如き程度なり。古義はかの卷三の歌に注して
  思美彌は繁森《シミモリ》なり(モリ〔二字右○〕の切ミ〔右○〕)森は森に早成《ハヤナレ》とよめる如く繁(ク)盛(リ)なるをいふなり。
といひて、卷十、卷十二、卷十三なるを引けり。さてその卷十一の「大舟爾」の歌の條にては
  四実見は繁々《シケミ/\》といはむが如し。
といひたり。かくのみにて異なる説殆どなし。
 今この「しみみ」をば、形容詞の語幹に「しみ」といふありてそれに「み」といふ接辞の付けるものかと見る(192)に、いづれも下に「に」といふ助詞ありて、上には「を」といふ助詞なし。之を以て考ふるにこれは一の副詞にして用言の轉成せるものにはあらざるなり。
 かく考へてかの「みやまとしみに」を考ふるに、これも亦下に助詞「に」を踐み、上に助詞「を」なきこと亦相似たり。惟ふにこの二者實は根源一にして「しみみ」は即ち「しみ」の疊語にして本來「しみしみ」とかさねていふべきをば、下は一音のみにしたること、「たわ」の疊語が「たわわ」となり、「いと」の疊語が「いとど」となり、「しと」の疊語が「しとど」となりたると同じさまにてその意は單に「しみ」といふよりも、「しみみ」といへる方一層強く聞ゆるの相違あるのみならむ。かの「繁森」の二字も古義にいへる如き訓を以てあてたるにあらずして、「繁蔚」「鬱森」などといふと同じく本義よりして熟字として漢籍に用ゐられてありしを「しみみ」と訓みて用ゐしならむか。
 上に述べたる如く考ふれば「山を茂《シ》み」といふ語の傍證たるべきものは殆ど見られざるなり。されど、なほ一つ美夫君志にいへる如く
  日本乃青香具山者日經乃大御門爾春山跡之美佐備〔四字二重傍線〕立有(卷一、五二)
の「シミサブ」といふ語あり。こは次に「山佐備伊座」「神佐備立有」とある如く、「サブ」はハ行上二段の活用をなせる接辭にして他の語を受けて動詞とする性を有するなり。今其の上に接すべき語を考ふるに、「山」も「神」も共に名詞なり。又他の例にて推すに「をとめさび」「おきなさぴ」などいづれも名詞を伴へり。さればこの場合の「シミ」は純たる名詞ならぬは明かなれど名詞に准ぜられて取扱はれたるを見るべし。さてかく之を名詞に准ぜられたるものとせばこれは動詞の連用形か形容詞の語幹か、副詞かの一を出づべからず。然るに「しむ」といへる四(193)段活用の動詞存在するを聞かず、又上にいへる如く「しみ」は形容詞の語幹にもあらず。さればなほ上に略決定せしめし副詞なること今はかへりて疑ふべからざるなり。
 かく決定し來りて上の「山を茂《シ》み」とよむことの以上の諸案の外に成立すべき要件を考ふるに、ここに至りては「シ」といふ語幹ありて「しく」「しき」などいふ形の形容詞ありしことを證明せざるべからず。しかるに古來一もかかる證を存せざるのみならず。又之を如此説きし人もなきが如し。ただ一つこの説を持ち支ふべき證の如く見ゆるは卷三なる柿本人麿が新田部皇子に獻れる長歌に
  八隅知之吾大王高輝日之皇子茂座〔二字右○〕大殿於久方天傳來白雪仕物往來乍益及常世(二六一)
とある「茂座」の二字をは「シキイマス」とよむべきによりて「茂」に「シキ」の訓ありとせむとするなり。こは如何にも「シキ」とよむべく見ゆる所なれば、或はしか訓みて宜しからむか。然れどもかくよみたればとてこれが直ちに形容詞の「茂」の意の「シク」「シキ」の存在を證する語とはならぬなり。按ずるにこは形容詞にはあらで一の動詞なるなり。その證は日本書紀卷二
  枝葉扶疏
とかけるを古來「エダハシキモシ」とよみ來れるその「シキ」これなればなり。この扶疏は漢苴武五子傳に
  是以支葉扶疏異姓不v得v間也
とある字面に同じくして説文に「扶疏|四布《ヨモニシク》也」とあるにてその意明かなり。又郭注爾雅に「如2松柏1曰v茂」とあるに注して「枝葉婆娑」と見え、又「如v槐曰v茂」とあるにも注して「言亦扶疏茂盛」とあるにて「茂」を「しき」とよめる意は明かに知らるべし。即ち「シキ」は布及の字に同じく「モシ」は「茂」の字義に同じき古語と見えたり。(194)さればこの「シキ」は四方に廣ごり布く意にして四段活用の動詞の連用形なるを知るべし。或はこの「シキ」といふ動詞には本來「シゲル」の意ありしか、或は本來「茂」の字に當る意なけれど、枝葉四布の意より「茂」字をよむに至りしか。この二者をいづまじきなり。
 以上論ずる如く「シシ」といふ形容詞の存せぬによりて「山をしみ」といふべくもあらず。然りとせば「山乎茂」を如何によむべきかといふに、たとひ六音なりとも、もとより厭ふべき所にあらざるべきを以て「ヤマヲシゲミ」といふ古來の訓によるべきなり。かく「シゲミ」とよむべき例は卷二に
  人事乎繁美〔二字右○〕許知痛美己母世爾未渡朝川渡(一一六)
とあるにて見るべく、草木に「シゲミ」といへるは
  夏野乃繁見〔二字右○〕丹聞有姫由理乃不所知戀者苦物乎(卷八、一五〇〇)
などにて見るべく、元來かくいふ「シゲミ」は「シゲシ」といふ形容詞の語幹に「み」を添へたるものなれば「シゲシ」の語の存在を證するを第一の要義とす。その草木に對しての「シゲシ」といふ語の存せしことは卷一に
  夏草香繁〔右○〕成奴留(二九或云)
卷十四に
  乎都久波乃之氣吉〔三字右○〕》許能麻欲(三三九六)
などあるにて明かに知るべきなり。
 以上の理由によりて余は古來の訓によらむことを主張す。
 
(195)       ○秋去者
 
 卷第一の卷末なる歌、即ち長皇子與志貴皇子於佐紀宮倶宴歌と題せる歌に
  秋去者今毛見如妻戀爾鹿將鳴山曾高野原之字倍(八四)
といふあり。これは、舊板本には訓を附してあらず。契沖は「秋去者」を「秋サレバ」とよみ、さて
  歌の心は已に野山も面白くみゆる秋になりたれば此後も今見る如くにて妻戀する鹿の音さへ興を添て聞ゆべければ又來り遊ばんとなり。
といへり。考には
  アキサレバイマモミルゴトツマゴヒニシカナカムヤマゾタカノハラノウヘ
とよみ「今毛見如」につきては
  今も見る如くにゆく末の事もかはらじと云也。此(ハ)言例多し。
といひ、次下の句に對しては
  今も見る如、ここの興の盡すまじきにつけて志貴(ノ)皇子を常にこひむかへて遊びせんてふ事を鹿の妻ごひに添給ふならん。且ここに住初めたまふ言《コト》ぶきもこもれり。
といへり。
 以上の諸説略一致する處あるやうなるものの、これらの説にては鹿の嶋くらむことを豫想する其の時の何時にあるかを明かにすることなし。即ち「鹿將鳴」の三字は「シカナカム」とよむべきを以てそのよめる時未だ秋にあら(196)ぬこと明かなりとす。されば、初句の「秋去者」を「アキサレバ」とよみては、不合理なりとすべし。然れども、之を「アキサラバ」とよめば、下の鹿將鳴には合致すれど「今毛見如」には打合ふこと難し。さて、ここに「アキサラバ」とよめる、諸家の説を見るに略解には委しき説なし。守部は
  秋さらば、今日の如く又宴して遊ばん鹿のよくなく山ぞ此高野原のほとりはとなり。
といへり。されどこの歌の趣にては「今も見るごと」はその宴には直接にかかることにあらで鹿の鳴くことにかかれるにあらずや。之をしも今も見る如く遊ばんとはいかでいふをうべき。古義には又「秋去者」につきては
  秋になりなばの意なり。此宴(ノ)せさせ給ふは秋時なるべし。されば又も秋になりなばの意とみべし。
といへり。然れど、現に今秋なりとせば、更に來年の秋になりなばといふ意を以て「あきさらば」とは如何に、かかることは古人とてもいふべくもあらぬことなり。きて又上の句と「今毛見如」との二句につきては
  此(ノ)御二句の意は畢竟は今眼(ノ)前に見る如く又も秋になりなばと詔へるなり。
といひ、第三、第四の二句につきては
  今見る如くに又の秋も妻戀すとて鹿のなかむ山そやと賓志貴(ノ)皇子にまをし給へるなり。
といひ、一首の意を總括して
  今目(ノ)前にかくめで興ずるごとく、又の秋も此(ノ)高野原は妻戀鹿の鳴(キ)などいと面白からむぞ、止ずいでまして興したまへとのたまへるなり(中略)こは秋の時此(ノ)處に宴し遊び賜へるが高野原の風景のあかずて甚|※[立心偏+可]怜《オモシロ》く見ゆるに附てかく宣《ノタマハ》せるなり(此(ノ)御歌諸説解得ざりしはいかにぞや)。
といへり。かく傲語せるに關らず、かの「秋去らば」と「今も見るごと」との矛盾は更に解決せられざるは如何。(197)さて、上の如く矛盾衝突あることは井上博士の新考によく之を指摘せられたり。その説にいはく
  アキサラバといひ鹿ナカムと云へるは春又は夏の調なり(現に御杖は「春夏のほどなりけるなるべし」といへり)、然るに春又は夏の歌としてはイマモミルゴトといふこと通ぜざるによりて考と古義とには秋の歌とせり。さては又アキサラバと未來に云へるがかなはぬによりて考には
  今も見る如くにゆく末の事もかはらじと云なり
といひ、古義には
  畢竟は今眼前(ノ)に見る如く又も秋になりなばとのたまへるなり
といへり。もし果して「マタモアキニナリナバ」といふ意ならば極めて修飾の拙き歌なり。いかにもこの説の如く以前の諸家の説は不合理なることいふまでもなし。しかも井上博士は
  つらつら思ふにアキサラバ…………鹿ナカムと未來にいへるとイマモミルゴトと現在に云へるといかにしても相かなはず。されば初句四句に誤訓あるか又は二句に誤訓あるなり。
と斷じて初句を「秋されば」とよみ、第四句を「シカナク山ゾ」と改められたり。この改められたる歌の意の果して通ずべきか否かは、今論ぜず。余はたださばかり學殖深く、詠歌に堪能なる博士の之を誤字誤寫ありとして改められたるを遺憾とするなり。
 余按ずるに、この歌は何等の誤字も誤寫もなくかの略解などの如く
  秋さらば今も見るごと妻戀に鹿鳴かむ山ぞ高野原の上
(198)とよみてよく通ずる歌なりと思ふなり。先づこの歌の詞の文法の關係をいはむに、第四句は如何にしても「鹿鳴かむ」と未然言にすべきものなるが故に、之を基として考ふればこの歌をよまれし時は鹿の未だ妻戀に鳴かぬ時なること著し。されば春又は夏なることいふまでもなければ第一句はまさに「秋さらば」とよむべきなり。されど、かくする時は第二句の「今も見るごと」の「今」はその春又は夏ならざるべからず。然るに、この歌は鹿の鳴くことをもさしていへば、ここに前後矛盾の感を生じ來りて全篇の意をして五里霧中に彷徨する感あらしむるに至れるなり。
 さてこの歌全體を通覽して考ふるに、その「今も見るごと」といふ句を以て下の句にかけて見れば、現在鹿鳴けるにあらざるべからず。されど、鹿の鳴くは秋なれば、今を秋とせば第四句の「なかむ」といへるにあはぬのみならず、第一句を「さらば」とよむべきにあらず。しかもなほ「今も見るごと」といへるによりて心をつけてこれをよめば、鹿の鳴くきまを現に見てありてよまれたりといはざるべからず。しかもその「今」は秋にあらぬこと明かなり。然るによくよく考ふれば、最も深く注意すべき點一あり。そはここに「今も見る〔二字右○〕ごと」といはれたる「見る〔二字右○〕」といふ語なり。元來鹿の鳴くは聽く〔二字右○〕べきものにして見るをうべきものにあらず。如何に古なりとて鹿の鳴かむを見る〔二字右○〕べきにあらず。彼是を照し合せて考ふるにこれはこの御宴の席に鹿の山にありて妻を戀ひ鳴ける状を象れる洲濱又はその状をかける繪などのありしならむ。その洲濱又は繪を見そなはして今もこの席にて見る〔二字右○〕如く、秋にならば、實地に鹿の鳴かむ山ぞといはれしならむ。
 余が上の如く推斷する由は酒宴の席に興を添へむとて作物をなせること古より行はるるところにして、平安朝の頃には物語にも記録にも屡見るところにて人々の熟知せるところなり。この奈良朝にも亦然ありしことは殆ど、想(199)像に堪へたるところなるが、現にこの集中にも酒宴の席に興を添へむ爲に作物をなして、時ならぬものを見せたる例は卷第十九に天平勝寶三年正月三日に越中介内藏忌寸繩麻呂の館にて守大伴家持以下を請して宴樂せし時に積雪を彫りて巖の状をつくりて之に瞿麥等の草樹の花をつくりつけしことありしを見ても知られたり。その語にいはく、
  于時積雪彫2成重巖之起1奇巧綵2發草樹之花1屬v此、
と。この時に掾久米朝臣廣繩がよめる歌
  なでしこは秋咲くものを君が宅の雪の巖にさけりけるかも (四二三一)
又遊行女婦蒲生娘子がよめる歌に
  雪島の巖におふるなでしこは千世に開かぬか君が挿頭に (四二三二)
と。これらを以て當時の風習を想ふべし。
 かく考へ來ればこの歌矛盾も誤字もなくして釋せらるべきなり。即ち余が按によれば、大略次の如く釋するを得む。
 今この宴席にて見る作物の如くに、秋にならばこの高野原の邊は實地に鹿が妻戀ひて鳴かむ山にてあるぞ。その時にはこの作物よりも一層面白く興趣更に湧くが如くならむにより、またもとぶらひたまへとなり。
 右愚按をあげて世に問ふ。果して當れりや否や。
 
        七
 
(200)       ○よよむ
 
 卷四に紀女郎贈大伴宿禰家持歌に對して家持が和せる歌として
  百年爾老舌出而與余牟〔三字右○〕友吾者不厭戀者益友(七六四)
といふあり。この「老舌出而」は老いたる人の齒おちて舌の出で見ゆるをいふことと古よりいひ來れるが如し。「與余牟」につきては略解は
  よゝむは齒おちたる老びとの物いふ聲をいふ、物語文によゝとなくといふも泣く聲をいへるよし宣長云へり。
と釋せり。代匠記には
  ヨヽムとは物を云に吃るやうの心なり、よゝと泣と云はさくり上げて泣を云へばよゝむも同じ詞なり、六帖には翁の歌として老口ひそみなりぬとも我はわすれじとて載たり、字に當たるにはあらで改たるなるべし。云々
とあり。他の諸家みな大同小異の説なり。然れどもこのよゝむを泣くと解してその意妥當なりや試みに熟考せよ。その當らざること明かなるべし。されば井上道泰氏は
  ヨヨムは老人の言語の不明なるをいふなるべし。
とせられたり、されど、その證なければ、これ亦確かなりとすべからず。
 按ずるにヨヨムといへる語は從來この萬葉卷四以外に一も發見せられたることなきを以て諸の字書ただこれをのみ引きて臆説を逞しくするに止れり。倭訓栞の如きまた然り。萩原廣道は源氏物語評釋に夕顔卷「よゝとなきぬ」の釋に
(201)  萬葉によゝむとあるは舌のもつれて聲のあやなき意と聞えたり。
といへり。これ井上氏の説のよる處なるべし。要するに諸説皆よゝと泣くを根據として「よゝむ」を釋せむとせるなり。然れども「よゝむ」といふ語と「よゝとなく」といふ語とは連絡ありといふ證なければこの説成立ち難し。余は之を解して新に説を立つ。その説次の如し。
 大正八年余正宗敦夫氏と謀りて類聚名義秒を天下の學者に供給せむことを企て、その校合を擔ふ。ここに於てその校合に從ふや卷一の倚字の注に「ヒヒム」といふあり。その訓の義知るべからず。百方研究の結果この觀智院本は古體の「※[与の一なし]」(ヨ)をば殆ど悉く「ヒ」と誤記せることを發見しぬ(※[一に縦棒四つ](四十)二人を「ヒソフタリ」と記せる如き見易き例なり)。ここに於てこの倚字は「ヨヨム」とよむべきものなるを知り、更に他の字書にその訓ありやと檢せしに、字鏡集には
  倚ヨヽム
と注し、この訓は二十卷本も七卷本も一致せれば誤にあらずと斷ずるを得たり。大正九年に至り、京都大學圖書館に於いて類聚名義抄の別本たる三寶類字集を閲せしに、かの倚字には明かに「※[与の一なし]ヽム」と注せるを發見しぬ。ここに於いて、かの觀智院本名義抄の「ヒヽム」が「※[与の一なし]ヽム」の誤寫なること全く疑なきに至りぬ。余はここに至りて萬葉の「よゝむ」はこの倚字の義に當るべきものなりと思ひぬ。
 かくてこの倚字につきて上の歌の意に通ずべき字義を徴すれば、荀子脩身篇に「倚魁之行」とある語の倚の注に楊氏方言を引きて
  秦音之間、凡物體全而不v具謂2之倚1、
(202)とあり。倚を「よゝむ」とよむはこの義にあてたるものなるべし。今本の方言には「凡全物而體不v具謂2之倚1」とあり。この倚は畸と通ずる語なり。即ち之を以て見れば人の身體に不完全なるところなくてしかも作用の具備せざるところあるをいふと見ゆ。されば身體不隨意の状態にあるをいふならむ。或は今の俗に「よいよい」といへるが如く身心痿えて意の如く活かし得ざるをいふならむ。
 余かく考へて、更にこの倚字の用例を見まく欲せしが、偶教訓秒を閲せしに、その採桑老の詠の一説に
  三十性方靜 四十氣力靡 五十始衰老 六十行歩倚〔五字右○〕 七十鬢毛白 八十座巍々
とあり。これ老人の衰頽せる状を詠ぜるものなるがその「六十行歩倚」の倚はまさに「ヨヽム」とよみて上の釋の如くにすべきか。かくの如く見來れば、かの倚字の釋にもかよひ、この歌の意をおだやかに釋き得るが如し。
 
       ○行行
 
 卷第十一に
  行行不相妹故久方天露霜沾在哉(二三九五)
とかける歌あり。この行行の二字を舊訓に
  ユケトユケト
とよめり。契沖は之を疑ひて
  發句はユキ/\テと讀べきか、古詩云行々重行々。但此古詩並に伊勢物語にゆき/\てとかけるは遠路の意なり、今の歌は夜な/\行意にて詞は同じけれど意替れり。今の點は雖行雖行と書たらむには叶ふべし。
(203)といへり。この疑は道理あることなれど意見を決しかねたるはあかぬことなり。
 これより後略解古義等いづれも「ユケドユケド」とよみて異論なきは何の故ぞ。それは契沖のいへる如く文字のままにては「ユキユキテ」とはいふべくして「ユケドユケド」とはよまるべからず。若し「ド」といふ接續助詞を加へてよむべくば「雖」といふ文字を加ふるか。或は「杼」字などを加へざるべからず。「行行」の文字を直ちに反接の意によむべきにあらざるなり。萬葉新考にも意義通ぜずとしたるはよけれど誤として「待々」の二字とし更に反接の「ど」を加へてよむべしとせるは服すべきにあらず。
 これは「ユケドユグド」とよむべきにあらざるは勿論ながら「ユキユキテ」とよまむも契沖の既にいへる如く意義通ぜざればこれも亦從ふべきにあらず。
 按ずるにこは「行行」の文字のままにて誤にあらざるべし。而してその「行行」は漢文の熟字をそのまま用ゐたるなるべし。「行行」の熟字は契沖のあげたる「ユキユキテ」の意なる外になほ他の意義なるものあり。論語先進篇に孔子が子路を評せる語に
  子路行行如也
といふあり。鄭玄が注に曰はく
  行行剛強貌
と。さてこの意の「行々」の熟字の用例は文選に二あり。一は班固の幽通賦にありて
  固(ヨリ)行々(トシテ)其(レ)必凶
といひ、一は崔※[王+爰]が座右銘にありて、
(204)  行行(タル)鄙夫(ノ)志
といへり。いづれも剛強貌の意なり。されば山崎久作の文選字引には次の如く注せり。
  行行【カタクツヨキ貌・コハクツヨシ】
おもふに、この歌の「行々」は行く意にあらずして心の剛強なることをいへる形容の語なるべし。萬葉集に漢語の熟字を自在に用ゐたることは著しき事實にして今一々例證をあぐるまでもあらざるべきなり。
 さてかく「行々」を心の剛強なる貌とせば「不相妹故」といふ語と意義誠によく通ずるにあらずや。この故に余はこの意に釋すべきを主張す。而してそれを如何によむべきか。漢字の意によるときは「こころこはく」とよむべきに似たり。
 この「こころこはく」とよめる例は拾遺集に見えて意はここに通へり。萬葉集にはこの用例他に見えず。但「こはく」といふ詞はあり。或は「ツレモナク」又は「ツレナクモ」ともよむべきかと考へたれどなほ「こころこはく」とよむをよしとすべきに似たり。されど更によき訓あらば、われはそれに從ふに吝なるものにあらず。識者の教を俟つ。
 
       ○明日香川
 
 卷第十秋雜歌詠黄葉歌のうちに
  明日香河黄葉流葛木山之木葉者今之散疑(二二一〇)
とあるをば古來
  アスカガハモミヂバナガルカツラキノヤマノコノハハイマシチルラン
(205)とよめり。この訓み方には大なる異論もなけれども歌全體の説明につきては異論あり。萬菓考にいはく。
  伊勢の本居の宣長がいふ。かづらきの木の葉飛鳥川へ流れん事いかが、ただおもひやれるかとおもふに今の飛鳥川はみなぶち川のながれならん、されど古へかつら木の方の水も落合まじきにあらず、高鴨は葛城なり、下つ鴨の邊の川飛鳥川へ行ふれしか。
といへり。かく飛鳥川の古今流域の變更あるべきを想像したれど、そは根據なきことなり。若しこの説の如くならば、大和の飛鳥川は先づ西の方曾我川に合し、その曾我川をすぎて、更に西して葛城川に合すとせざるべからず而してその葛城川はその川合の地(もとよりあるべきにあらねど假にいふ)よりも上流のみの名となり、その川合の地より以下の葛城川はすべて飛鳥川なりさとせざるべからず。されど、これは何の證もなき事にして從はるべきにあらず。
 略解以下はただ宣長の説に從へるのみ。然るに新考には
  葛城山は無論明日香川の水源にあらで兩者全く没交渉なればカヅラキノ山ノコノハモとあらざるべからず。者〔右○〕は母〔右○〕などの誤なるべし。
といはれたり。かく誤宇ありとせられたるはただ大和の飛鳥里附近にある川のみと思ひて他にも同名の川のあるを忘れたるなり。今ここによめる飛鳥川は蓋河内國古市郡の飛鳥里の傍を流るる川をさせるなり。この飛鳥川は河内志に
  飛鳥川 源自2石川郡二上嶽1過2山田春日1經2本郡駒谷飛鳥1入2于石川1
と記せるものにしてその駒谷村の邊より川と道路と相沿ひ漸く遡れば飛鳥の里あり。これより上春日の里を經て河(206)内大和の堺の邊に至つて源を探るべし。この川を遡るに川に沿ひたる道路は所謂竹内峠を越えて東をさして大和の高田に達し、更に直に進めば八木町、櫻井町に通ず。その櫻井より高田に至るまで殆ど一直線をなせる道にしてこれ大和|國中《クニナカ》より河内攝津に越ゆる最も平易なる道路にして古飛鳥京時代に河内攝津及び山陽西海に赴く大路にして、その竹内峠は即ち古、大坂(この大坂を今の穴蟲越といふ説あれど、如何なり。委しくは別にいふべし)と呼ばれし地なるべし。
 この飛鳥川と大和の飛鳥川とは同じ名なりしことは古代よりなりしなるべし。かくいふ故は古事記履中天皇卷に
  大坂山云々……故號2其地1謂2近飛鳥1也
とあり。萬葉卷十に、「大坂乎吾越來者二上爾黄葉流志具禮零乍」(二一八五)とあるも同じ所なり。又同じ地を書紀には飛鳥山とかけり。されば飛鳥川の名も古くよりありけむこと疑なし。
 さて此飛鳥川の水源は三ありて、二は二上嶽の西より出で一はそれよりも長くして南に出でたり。而して其二上嶽も葛城山のうちなることは卷二挽歌の詞書に
  移葬大津皇子屍於葛城二上山之時云々
とあるにて知らるべし。
 さればこの歌は河内の飛鳥川に黄葉の流るるを見てその水源なる葛城山の木葉の散りて流れしならむことを推定せるにて、實景をよめるものにして誤にもあらず誤字もなしと知るべし。
 
        八
 
(207)       ○都萬麻
 
 卷十九に過澁溪埼見巖上樹歌一首 樹名都萬麻
  礒上之都萬麻〔三字右○〕》乎見者根乎延而年深有之神佐備爾家里(四一五九)
  イソノウヘノツママ〔三字右○〕》ヲミレバネヲハヘテトシフカカラシカムサビニケリ
とある歌の都萬麻といふ木古より詳かならぬものにいへり。代匠記には
  此都萬麻と云木は北陸或は總じて田舍にのみある木なるべし、其故は梅櫻松杉などの如くならば過澁溪埼見巖上都萬麻歌一首と云て樹名都萬麻とは注すべからず、第十七云東風【越俗語東風謂之安由乃可是也】葦附【水末之屬】と注sっるも越の國の風俗にして他處の人の知るまじきをかねて意得てなれば今の注も此に准へて思ふべし。
といひ、爾來誰人も之を解し得ざりき。六帖にも木の部にこの歌を引けり。しかれどもこれも木の名とのみにて實を知らであげたりしならむ。
 おのれ越中に生れたれど、つままといふ木ありといふことかつて聞かず。然るに近來之をアイヌ語にて「イヌツゲ」を「トママシ」といふによりて考へてこの「イヌツゲ」即ち「つまま」なるべしといふ説あり。「トママシ」と「つまま」とは必ずしも一致せずといふべけれどアイヌ語の「トママ」は「ツママ」と日本人にはきこえしこと疑ふべからず。されば「シ」の音の下略せられたるものと見るべし。越中に限らず古はアイヌ人の多く住みたりしことは言語の上に證あり。按ずるに越中國に礪波郡とある「トナミ」もアイヌ語なるべし。「トナムイ」は沼の如き地の義なり。この「トナムイ」即ち「トナミ」なるべきなり。
(208)「イヌツゲ」は一名「ヤドメ」といひ、越中の山地には頗る多く野生し、專ら「ヤドメ」の名にて呼ばる。然らばこの木當時も多くありしを見るべし。但越中にては多く灌木状をなす。これ地の寒き故なるべし。さてかく長大にならねども常緑の木なれば年の緒ながく神さび立てりしならむ。澁谷崎の地今は恐らく海中となりしなるべく今は澁谷新村といふぞ海岸に殘れる。
 以上の余が説は實に大正八年十月に草せしものなるが、この頃わが郷里の五十嵐和絃翁新に萬葉集草木圖譜を著され余に一閲を求めらる。受けて之を讀むに上の愚説と符を合するのみならず。その實状を説ける點は余の及ぶ所にあらず。次に之をあげむ。
  和絃云|都萬麻《ツママ》他に見る所なし。思ふに黄楊《ツゲ》の類ならん。越中氷見の海岸及び放生津海岸に此黄楊多し。真樹各古樹にして岩上に生ずるものの如き、根をさらけ出して繁茂する處歌にある根を延て年深くあるに思ひ當るべし。
以上は説明の部なるが圖には
  いぬつげ……びんかかず……かしらけづり
  こつげ……やどめ
二種としてあり。然れば余が「いぬつげ」即ち「やどめ」とせしは或は誤にして二種は別ならむか。かくて氷見海岸に多きはその「いぬつげ」なるべきを以てますますこの「つまま」の今いふ「いぬつげ」にてありしことをさとるべし。
          「つまま」補考
 以上の説をなして後、白井光太郎博士の樹木和名考を見たるに、種々説きたる末に(209)
  尚ツマヽに似たる植物名にトママシあり。此は蝦夷の方言なり。東蝦夷物産誌にトママシ、ライバノボリに産す。鑿子木也とあり。云々。
とありて余が上の言を證せらるゝ如くに思はれたり。然るに其の後ツマママはイソツツジなることを知りてその説を撤回せられたる由なり。ここに於いて余はバチェラー氏のアイヌ語辭典を※[手偏+僉]して同じくイソツツジと譯してあるを見たり。されば東蝦夷物産志等の説は不十分なりといふべく、余が説もここに撤回してイソツツジが果して之に當るか否かを改めて精査してそれが相當するかせざるかの確立するまでは立言を差控ふべきものと思惟するなり。
 然るに、別にこの「つまま」をば「たぶのき」なりとする説あり。これは山本章夫の萬葉古今動植正名に載する説にして、その説は
  諸説あるも形状分らねば確論の立つべきなし。
と一旦いひながら、つゞきて、
  今越中國射水郡澁谷村の岩崎と云ふ所につまゝの木なりとて、小木を栽ゑ、紀念石を建たり。何の年何の人のなせるか明ならず。其葉からだもに似たり。だもと名づくるもの、もと品類多し。くろだもは即やぶにくけいにして葉に三縦道ありて子《み》黒し、しろだもはやぶにくけいに似て葉背特に白く、亦三縦道ありて子《み》色赤し。又單にだもといひ、からだもといふあり。この葉をみるに、だもなるものに近し。葉背やゝ白く、縱理左右に排列せり。是果して古のつまゝなるや。(つた通音)(まも通普)なればだもはつまゝの下略にして即ち眞のつままなるにや。
と説けり。この説は「だも」即ち「つまゝ」なりとは斷言せるものにあらず。たゞかくいへりといふに止まり、若(210)しそれが眞の「つまゝ」ならば「つまゝ」「だも」の通音なるべしといふ意見なり。然るに、「つまゝ」と「だも」と通音なりといふことはその「だも」が「つまゝ」なりといふことの確立しての上のことなるべく、それの確立もせぬに通音説は成立すべくもあらず、その通音説を無理に成立せしめてその木を確定せしむべきにあらざるなり。動植正名はその岩崎に栽ゑたるを「何の年何の人のなせるか明ならず」とあれど、白井博士の樹木和名考に
  是は安政年中越中射水都太田村の人大島宗九郎といふ人が此木を穿鑿し、其實物を世に彰はさんが爲に路傍に此木一本を植ゑ石碑を建てゝ宣傳せりといふ。是は大正元年富山高等女學校松井嚴夫君の書面にて予に教示せられたる事實なり。
と見ゆるにてその由來を知るべし。今これによれば、その大島宗九郡といふ人の熱情と誠意とには深く敬意と感謝とを捧ぐべきなれど、何の理由によりてたぶの木即ち「だも」が「つまま」なることが證せられたるか、一向に明かならず。動植正名の論は所謂循環論法にして一も確定すべき楔子無きものなり。然るに、これを合理的なりと思ふ人少からぬは何故ぞや。「だも」は越中にもあれど、それを「つまゝ」といふことは何等の根據によれることを知らず。加之、礒の上といふことは大なる山又は島の上といふものをさすとは考へられず。伏木邊より太田村にわたる海岸に見るは今も所謂磯といふべき岩礁なり。それら岩礁の上にたぶの木の如き、喬木の生育しうべきか。況んや「根をはへて年深からし」とあれば、然るべき老木と見らるゝなり。さやうなる老木たるたぶの木の生ずべきにあらず。余が「いぬつげ」なりと考へたるは、それは老木にても著しく長大になるものにあらずして巖上に盤根をおろして老木として生じ得べしと考へたるが故なり、「いそつつじ」といふもの越中に生じ得るものならば巖上に磐踞して老大に至りうべきものならむ。されどこれは遽かにいひうべからざるものなり。(昭和二十四年十二月四日禰)
(211)          「つまま」考附言
 加賀の學者森田柿園の明治十二年に著したる越中萬葉遺事には上の歌を掲げてさて曰はく、
  按に澁溪崎は天平十八年八月七日の夜家持卿館の宴歌に「馬並ていざうちゆかむしぶたにのきよき礒まによする浪見に」宗祇が名所方角抄に澁谷は二上のうちなりとあり、二上山養老寺記に往古境内構2四門1東門者城光寺村、北門太田村澁谷と載たり。今二上山のうちこしなる太田村の地つゞきにしぶたにといへる地是なり。先年此地邊の新開地に澁谷新村といへる邑名を建たり。此邊りは二上の尾崎海邊の礒邊へせまれり。故にいにしへ師部溪崎と呼べるならむ。きて此礒邊は雨やどりの岩などの怪巖奇石多く、今その怪巖の中なる一岩に碑石を建て萬葉なる都萬麻の古歌をば彫刻せり。此岩に少しく雜木生たれども普通の雜木にて近く好古の雅人がものせしことなればもとより證とするに足らず。いにしへ巖上に生へ居たる都萬麻てふ樹は今土人とても知るものなし。或説にいにしへ都萬麻てふ樹の生たる巖は今いふ雨宿の巖ならむ。今はさる樹も生ざれども波濤の爲に絶たるにやといへり。此巖は俗傳に義經奥州下りの時爰に雨宿りせし故に雨やどり岩と呼べりと。予先年至り見るに、平なる大石の室の如く成れる體人力の及ぶ處に非ず、彼の靜の岩屋に類せりとも云て可ならむ。
と。この人かのつまゝの記念の碑を既に見てありしなり。しかも「つまゝ」といふ樹をば認めざりしこと上の言にて明かなり。又越中國人高澤瑞信が明治三十三年頃に著したる萬葉越路廼栞に
  都萬麻はいかなる木にか未だ詳ならず。
といひて上にいへるだもの木をば全然認めざるなり。この高澤瑞信といふ人は氷見郡阿尾村大字北八代村の累代の神職にして、その父瑞穗といふ人も一廉の學者なり。この父子共に余が父の親かりし人にして余も亦屡面接せり。(212)この人々の縣下各地に赴くには常に必ずこの澁谷崎を通らねばならぬなれば、そのつまゝの木なりといふものを見ざることは無かりしに一向に之を顧みずして未だ詳かならずとすること森田柿園と同じ態度なり。五十嵐和絃翁は名高き國學者五十嵐篤好の嗣子にして家學を繼げる人なり。この人又それを認めず。然るに何の證も無きにそれを正しきものゝやうに唱ふる人々の學術上の正確なる證明こそきかまほしきことなれ。
 
       ○葦附
 
 卷十七越中國礪波郡雄神河邊作歌一首
  乎加未河泊久禮奈爲爾保布乎等賣良之葦附〔二字右○〕【水松之屬】等流登湍爾多多須良之(四〇二一)
  ヲカミガハクレナヰニホフヲトメラシアンツキトルトセニタタスラシ
とある葦附はその自注に見る如く水松《ミル》の如きものなるは誰も考へうる所なるが、その實物は他の地方には存せぬものとおぼえたり。
 この葦附は食しうるものにしておのれ少年の時二杯酢にしたるを一度味ひたりしことありき。味甚だ淡白なるものなり。かくてこの東京なる友人に實物を示さむとて數年前に五十嵐和絃翁にその事を乞ひおきしに、大正十二年五月二十八日に至りて同翁よりその實物を送附せられぬ。然るにその時余病床にあり、加之親戚に止み難き複雜の事ありて強ひて病床より出でては事を處し、他の事は何事も心に任せざりしが爲に友人に之を分つ素志を果さざりしは今に遺憾とする所なり。しかれどその小塊は標本として今に保存せり。
 さてこの葦附といふものは植物學上よりいへば藍藻類に屬し念珠藻と稱へらるる種類なり。今五十嵐翁の草木圖(213)譜の説を轉載せむに、次の如し。
  是は我越中礪波郡【今西礪波】戸出町の南字大清水又同東【今東礪波郡】中田町の南字上麻生と云處にて庄川【雄神川なり】の東西にして本川分流なる小川あり。今其流れに五六月の頃水中の石に附着して生るものなり。採て食す。形|木水母《キクラゲ》に似たり。大なるは二三寸に達す、色緑、塩つけとして貯ふることを得べし。或人云、寒中より石に着て大豆大の如く青し。此頃は香氣高く味よし。又他の「川もそこ」又「川のり」と云ものあり。是等皆同じ種なりといへり。
さてこれを翁の私信によりて少しく、補はむに
  此葦附は二十四日に取り候ものに御座候。採る期節有之處其頃雨天續き水濁りては採事六ケ敷、又生ずる箇所を知らざれば採得ず。期限に後れ候はば流れて無之、六ケ敷ものに有之候。採たる處は東礪波郡東保村上麻生之地内庄川本川の右岸枝流清水川なり。
  (孝雄云清水川といふは川の名にあらず、自然湧き出づる清水を源とする川流の謂なり)
川水三四寸位の處にて清水《セイスヰ》にて瀬の在る處に生ず。余下の略地圖をあぐる所以は後世或はその生ふる所
 
      (西ノ方)             戸出町
   大清水と云處             
    此邊の清水川にも出ると云
   
    庄川     橋
 
 
   清水川上麻生……東保村   下麻生
 
(214)を知らざるに至らむを惧れてなり。この葦附の所在は知る人稀にして余等多年求むれども得ざりしが、幸に五十嵐翁の知人に故老ありて之を知るを以てその人によりてかくは目的を達し得たるなり。
 なほこの外下麻生より川下なる廣上村地先字清水といふ所よりも生ずといふこと、他よりきけるを以てこれも序に記し留む。
 惟ふに念珠藻は世界至る所に存す。しかれども千歳の古に文學にうたはれ儼然たる文獻に記載せられたるものは世界に恐らくは比類なかるべし。若しかの政府の天然紀念物保存の事業にしてこの生産地を保護するなくんば或は後世その處を失ふに至らむか。
 さてこの葦附の産地とその採取時期とを聞きてかの歌を考ふるに、かの歌は即ちこの庄川のあたりに於てよまれたりしならむ。この戸出町より中田町に通ずる路は古より巡檢使街道といひて礪波郡の中央を東西に通ずる要路なれば古もなほこの邊は國司が國内巡察の要路とせしものなるべく思はる。次にこの葦附を採れる時に見てよめりしなれば、その時は今の五月頃即ち舊暦の四月頃にてありしならむと思はる。
 かくてこの歌を再びよめば五月頃天氣うららなる時に紅顔のをとめが葦附をとるとて雄神川即ち庄川の瀬に(川瀬に生ずるものなること上にいふ如し)立てりし古のさま目に見る如く思はるるなり。
 
       ○可頭乃木
 
 卷十四に
  阿之賀利乃和乎可鷄夜麻能可頭乃木〔四字右○〕能和乎可豆佐禰母可豆佐可受等母(三四三二)
(215)  アシガリノワヲカケヤマノカヅノキノワヲカツサネモカツサカズトモ
とある歌の「可頭乃木」につきては古義には未詳ならずといへり。契沖は
  可頭乃木は持《ヂ》と頭《ヅ》と通ずれば穀《カヂ》なり。和名云玉篇云楮【都古反】木也唐韻云【音穀和名加知】木名也紙にすく木なり。
といひて、今の楮《カウゾ》なりとせり。略解は之を受けて半信半疑の状なり、曰く
  かづの木は穀《カヂ》か猶外に有か。
 按ずるにこの「かづの木」は今も世に多き「ぬるで」なるべし。内外植物志によれば「ぬるで」の一名に「かづのき」の語あり。而して現に武藏殆ど一帶にこれを「かづのき」と今もいへり。この「かづのき」の名は常陸にも存せりと見え、又本草啓蒙によれば「かつき」「かつぎ」「かつのき」の名もありとす。
 「ぬるで」は人も知る如く山野に自生する落葉喬木にして葉は奇數羽状複葉をなし、小葉は長卵形をなし、總葉柄に翅を具ふ。花は小形白色にして果實は漆實よりも小にして扁圓なり。外皮に白粉を生じ、之を嘗むれば味鹹し、これ鹽麩子の漢名ある所以なり。この樹枝或は葉に瘤状の不正なる塊を有す。その塊の状鐸に似たるより「ヌリテの木」といひ、訛して今は「ぬるで」といふ。これ蟲の爲に生じた瘤にして五倍子《フシ》といひて染料に供す。この故にこれを一名「ふしのき」ともいふ。この木の材は白色にして堅からず、小細工に用ゐ、又白箸をつくるに用ゐる。今宮中に用ゐらるる御箸は武藏青梅附近の地よりこの材にてつくりて納むるなりと同地の岩村博といふ人にきけり。この木は「ぬるで」を本名とするが、密教の修法の護摩を焚く料とするによりて又護摩木の名あり。聖徳太子が之にて四天王の像を刻み髻に納めて守屋と戰ひたまひしが、戰に勝ち給ひしにより勝軍木といふとの傳説あり。されどもこは「かづのき」の名に基づきてつくりし通俗語源説にすぎざるべし。わが故郷越中にては之を「かつ(216)き」といへり。五十嵐翁の草木圖譜にも同じく鹽麩子なるべきかの考あり。又越中國酉礪波郡石堤村の山中、氷見郡と接する邊に「勝木原《ノデハラ》」といふ地あり。文字は「勝木」にして「ので」と讀む。「ので」は「ぬるで」の訛略にして勝木即ち「ぬるで」なることこれにて著し。
 以上を以て考ふれば。「かづのき」は「ぬるで」なること著し。現に武藏にては「ぬるで」といふよりも、「かづのき」といふを通名とし、而も明かに「かづのき」と「づ」を濁りて唱ふるにてしるく、足柄地方にても古今を通じて亦しか唱ふるなるべしと考へらるるなり。
    (大正九年十月よりアララギ第十三卷第十、第十一號、第十四卷第四、第六、第十號、第十五卷第四號、第十六卷に續載したるを録し、少しく補ふ所あり)
 
 
(217)       『綜麻形』の訓に關する一提案
 
 萬葉集卷一なる額田王下近江國時作歌井戸王即和歌と題せるうちの最後の歌の
  綜麻形乃林始乃狹野榛能衣爾著成目爾都久和我勢(一九)
とある歌のよみ方及び解釋につきては古來の難問あり。先づ元暦校本の傍訓には
  ミヲカタノハヤシハシメノサノハキノキヌニツクナルメニツクワカセ
とよみたれど、義をなさず。仙覺は上句を
  ソマカタノハヤシハシメノサノハキノ
とよむべしとして釋していはく
  そまかたのといへるは林のしげくして杣山などの形のごとくはやし初むる心地。
といへり。されど、その如くによみても心通れりとは覺えず。
 契沖はこれにあきたらずして、一案を立てたり。曰はく
  日本紀に綜麻をヘソとよめり、始の字は第十九に始水をミヅハナと點したれば水はなは水の出さきをいへば今はサキと訓じてヘソカタノ林ノサキノと讀むべきか、古歌に山深くたつをだまきとよみ、狹衣に谷深く立をだまきは吾なれや思ふ心の朽てやみぬるとよめるも木の打しげりて丸に見ゆるがをだまさのやうなればやがて押(218)て苧環と名付たるか、若爾らばへそかたの林といはむ事も可v准v之。(中略)さてこれは所の名歟、狹野榛狹は(中略)にだ野棒也榛ははりの木俗にはんの木と云、古は此皮を以て絹を染めたるを榛染と云(中軒)衣爾著成、是はキヌニツクナスと讀べきにや、神代紀に如五月蠅をサバヘナスとよめるはさつきの蠅のごとくと云心なれば、つくなすもつくごとくなり。(下略)
といへり。これによれば
  ヘソカタノハヤシノサキノサノハリノキヌニツクナスメニツクワガセ
とよむべきことゝなるにて、よみ方は殆ど無難といふべきなり。されどその「ヘソカタ」といへるが、なほ人の心に落付かぬ感を與へたりと見えたり。
 荷田春滿は代匠記の説を見られざりしにや僻案抄には「そまかたといふ古詞みへず、はやしはしめなどもけしからぬ詞也」といひて一案を呈して
  みわやまのしけきかもとのさぬはりのきぬにつきなすめにつくわかせ
とよむべしとせり。この「綜麻形」を「みわやま」とよめるはこれ春滿の卓見なりと稱せらるゝところなるが、その説に曰はく、
  三輪山の名はもと綜麻の三※[螢の虫が糸]遺りたる形より名付たる由來古記の證すくなからず。土佐國風土記云倭迹迹媛皇女爲2三輪大神婦1毎夜有2壯士1密來曉歸、皇女思v奇以2綜麻1貫v針反2壯士之曉去1也以v針貫v襴及v旦也看v之唯有2三輪遺v器者1故時人稱爲2三輪村1社名亦然云々綜麻の二字此記も一證なるべし。よりて綜麻形の三字を三輪山の義にかけりとす。
(219)と。この説の可否は後に述ぶべし。又「林始」を「しげきがもと」とよめるも僻案抄をはじめとす。その説にいはく
  林は木の繁きをいへば、林の字をしげきとよむべし、始ははじめなればもとともよむべし。よりてしげきがもととはよむ也。はやしはしめと云古語はみへず、しげきがもとといふ古語は大祓祝詞にも彼方之繁木本乎と云古語あり、延喜式卷第八祝詞式にみえたり。三輪山は神山なれば、古來木をきらねば繁木がもとのさぬはりも理相かなへり。
といへりこれより後の諸家おほかたこの僻案抄の説に同せり。萬葉考には
  ミワヤマノシゲキガモトノサヌハギノキヌニツク〔右○〕ナスメニツクワガセ
といひて、一語を改めたるのみ。「キヌニツキ〔右○〕ナス」とよむことは古語の格にあらず。「ツクナス」とよむべきは代匠記の既に説ける所なるが考の改めたるはそのよきをとれるなり。略解には
  みわやまのしげきがもとのさぬばり〔右○〕のきぬにつくなすめにつくわがせ
とよみて、考の説によりて「榛」をば春滿の舊にかへりて「ハリ」と改めたり。燈、攷證これに從へり。
 楠守部の檜嬬手に至りては
  ソマカタノハヤシノサキノサヌハリノキヌニツクナスメニツクワガセ
とよめり。即ち、「綜麻形」は舊訓により、「林始」は契沖の説によれるものなりとす。「綜麻形」につきては後に論ずべし。その林始を「しげきがもと」とはよみ難しといへるは正しき論にして「林」を「しげし」とよめる場合なきにあらねどそは木の叢生するをいふ語にして山林とは一ならず。且又古語の「しげき」(大鏡の繁樹などは後の語なり)といふは灌木にして「しげきがもと」はその灌木の根元をさせり。されば「しげきがもと」といへばその(220)榛は小き雜草ならざるべからざる筈にして今の語にせば「林」を「灌木」とし「榛」を「雜草」と見ざるべからざることとなれるを誰もこれを疑はざりしは疎漏なりとす。この故に契沖説によれるをよしとす。次に萬葉集古義には
  ヘソガタノハヤシノサキノサヌハリノキヌニツクナスメニツクワガセ
とよみて、殆ど全く契沖の訓にかへり、美夫君志は又
  ミワヤマノハヤシノサキノサヌハギノキヌニツクナスメニツクワガセ
とよみたり。かくてみれば、近世に至りては第二句以下は殆どすべて一致して契沖説によれりといふべく、ただ「榛」を「ハギ」とよみ、「ハリ」とよむの二樣の説あるに止まれり。
 こゝに於て問題は「綜麻形」のよみ方のみとなれり、かくてこれを「ソマカタ」とよむべきか「ミワヤマ」とよむべきか「ヘソカタ」とよむべきかの三案世に存することとなれり。今これらにつきて批判を下さむ。
 抑も「綜麻形」を「ミワヤマ」とよむべしとするは僻案抄にはじまるものなるが「攷證」などは「感ずべきこと也」と嘆賞したるものなり。されどこの説は從ひ難し。その僻案抄の説は所謂三輪山傳説を基としての説なるが故に人をして面白しと感ぜしむる點あれど、よく考ふれば當らぬことなり。先づ僻案抄に引ける土佐國風土記は仙覺抄卷一に引ける逸文なるがそれには三輪といふ語を以て神酒の義とせるものなり。古人既に三輪を神酒の義とせば、これを綜麻の義としたりといふこと如何なり。なほこの綜麻の三輪のこれりといふ傳説は古事記にもその傳へありて當時世人のよく知れりしものなるが、その三輪といふは綜麻そのものをいへるにあらずしてその絲の殆ど皆盡きて僅に絲の三匝せるもののみ殘れるをいへるものなり。されば綜麻の全形とその三輪とは似もつかねものなりとす。この故に三輪山の形が綜麻の形によし似たりともこの傳説には緑遠きものなるが故に從ふべからず。抑も綜(221)麻といふは績みたる苧を卷きて球状とせるものにして俗に「をだまき」といふものこれなり。今よし三輪山が綜麻の形に似たりとすともこの三輪山の傳説とは殆ど關係なしといふべし。そは既にいひたる如く傳説の主眼はその殘れる苧の三匝なるにありてしかもその「ミワ」といふ語の本義は神酒を「みわ」といふにあるものなり。なほ數歩を讓りてその傳説に關係なくして綜麻の形が三輪山に似たりといふ事とせばなほ一説としての價値存すべし。然るに事實上三輪山はその形綜麻に似たりとは見えざるを如何にせむ。この故にこの説は一種の卓見の如くに見ゆれど、從ふべき理由を發見せず。彼の諸家これに從へるは如何なりとす。
 次に「ソマカタ」と讀む説は如何といふに「杣山の形」といへる仙覺説は通ずべくもあらず、或は又「杣の方」などいふも意義不明なるなれば種々の説も出でたる事なるが、橘守部はこの歌全體を錯簡ありて位地顛倒せるものなりとして次の蒲生野に遊獵したまふ時の額田王作歌なりと斷じ、さてこれを「ソマカタ」といふ地名なりとせり。その説にいはく
  杣縣は近江志に滋賀郡杣縣は信樂田上兩杣の入口也(云々)淺井家譜云谷上杣方壘見ゆ。綜麻は三八蘇麻山と書ける類の假名書也
といひ、一首の意を釋しては
  此道の行くてなる杣縣 林の前なる野榛乃若葉の(云々)かくて此道のついでは先づ大津宮より出立たして同じ滋賀郡なる滋樂杣の下より栗本郡田上杣の下を歴て甲賀野洲蒲生野とかかり賜ふなりければ、此歌は出立ちて間もなく、信樂田上兩杣の入口杣縣の野にてよまれたる也
といへり。この説頗る適切なるが如くに見ゆ。然れども地理を案ずるにかくの如き順路をとられしことは蓋しある(222)まじきなり。勢田橋の事日本書紀壬申の亂の條に既に見えたれば近江朝の頃既に存せりしなり。然りとせば大津より蒲生野に行くには勢田橋を渡りて行くこと順路なりといふべく特に迂廻して田上信樂の奥を經て行くことは特別の事情あらざる限りあるべからざる事なりとす。況んや「綜」を「ソ」とよむことは集中かつて例なき事なるや。
 「綜麻形」を「ヘソカタ」とよむことは文字の上よりいへば最も妥當なるものなり。古は績みたる麻を「ソ」といへるその「ソ」を綜《へ》て卷ける球状のものを「ヘソ」といへり。この「へソ」といふ語は余等も少時内外の祖母等のつくれりしを知る。即ちその形も目に見、その名も耳にのこれり。倭名類聚抄に卷子を「ヘソ」とよめるこれなり。その文に曰はく
  卷子 楊氏漢語抄云卷子【閇蘇今案本文未詳但閭巷所傳續麻圓卷名也】
と。その「續麻圓卷」といへる「續」は「績」の訛にして績みたる麻を圓く卷けるものの義たるなり。「ヘソ」の語の古き證は古事記崇神卷なるかの三輪山傳説の條に
  以2赤土1散2床前1以2閇蘇〔二字右○〕紡麻1貫v針刺2其衣襴1
とあるにも明かなり。又「綜麻」の文字は日本書紀崇神卷に天皇の御母をいひて
  母曰2伊香色謎命1物部氏遠祖大綜麻杵〔四字右○〕之女也
といへるこの「大綜麻杵」といへる人をば新撰姓氏録には「大閉蘇〔二字右○〕杵命」とかかれたり。これを以て綜麻を「ヘソ」とよむこと「ヘソ」といふ語の古普通に行はれしを見るべし。
 かく論じ來れば「ヘソカタ」とよむことの無理ならぬは明かなるが、これを如何に釋すべきか。契沖の説にては前にいへる如く古歌を引いて「木の打しげりて丸に見ゆるがをだまきのやうなればやがて苧環と名付たるか、若爾(223)らばへそかたの林といはむ事も可准之」といひ次に
  さてこれは所の名歟。
といひたり。これは前の説にて比喩として説かむとしたれど、なほ定めかねたれば地名かといへるなり。地名とせば穩に釋せらるべきが、その地の何處なるかは容易に知り難きなり。
 古義も「ヘソカタ」とよめるなるが、曰はく
  綜麻形《ヘソガタ》は地(ノ)名なるべし。崇神天皇紀に大綜麻杵《オホヘソキ》と云人(ノ)名あり、由あるか、形は左野方《サヌカタ》、山縣《ヤマガタ》など地(ノ)名に多し、その縣なるべきか、按に此は三輪山の古(ヘ)の異名なるべきか。
といひて、三輪山の古名とせり。されど、その説はかの僻案抄の説を基にてただよみ方を改めたるのみなれば、吾人はその地名といへる説には賛意を表すれど、綜麻の形を以て三輪山にあつることはよみ方こそ異なれ、僻案抄と同じ意なれば賛すること能はざるなり。
 今吾人はこれを「ヘソカタ」とよむことの穩當なるを認め、次にその「カタ」の縣《アガタ》の意にして「ヘソ」といふ名の地方をさせる義なるを認む。殘る所は「ヘソ」なるが、かく論究し來れば「ヘソ」は固有の名稱なるべく考へられざるべからざることとなれり。かくて「ヘソ」といふ名の地名を求むるに、近江國栗太郡に「綣村」といふありて「ヘソムラ」とよめり。この村は古くより名ありし地と見えて、その地なる大寶神社は由緒古くして、その社に在る狛犬は優秀なる作として世に知られ、今は國寶となれり。この村は草津より北に進むこと一里に滿たずして守山に近き所にあつて中仙道の街道に當れり。この故に若し守部の説の如しとせば、大津より蒲生野に至るに必ず經由すべき要地なりとす。ことにその地古より由緒ある神社もありて古くさかえし地なるを思ふべし。以上は守部の(224)説の如くに錯簡ありとしての場合には、殆ど動かすべからぬ説となるべしと雖も、その錯簡ありといふことは容易に肯定すべきことにあらねば、その「ヘソ」の地名を大和に得るか若くは錯簡の證明せられむまでは決定は保留せらるべきことなるべし。
         (大正十五年四月、奈良文化第八號)
 
 
(225)        日並皇子尊殯宮の時柿本人麻呂作歌のよみ方
 
 萬葉集卷第二挽歌中なる日並皇子尊殯宮之時柿本人麻呂の作れる長歌(一六七)の初めにある
  天地之初時之〔右・〕
といふ句をば、古來「アメツチノハジメノトキシ〔右○〕」とよみ來れり。しかるに、萬葉考にはこれを「アメツチノハジメノトキノ〔右・〕」と改め讀めり。かくてその後略解以後また古にかへりて「トキシ〔右○〕」とよめり。而してこれが可否を論じたる人あるを知らず。萬葉集のよみ方がかく輕視せられて、しかも萬葉集の研究盛なりといはるる今の世は不思議の時代なりといふべし。余は今これにつきて論ずる所あらむと欲す。
 先づこの「之」の字は萬葉集一部を通じて義訓して「ノ」とよみ、音讀して「シ」といふことをうるは論なき所なるが、その最古の部分なる第一卷第二卷を通じても同樣の現象あれば、その點よりいへば、「シ」にても「ノ」にてもよき事といふべし。
 然れども、「シ」といふと「ノ」といふとは同じく助詞ながら、その資格に大差あるのみならず、文句の意義の上に全く異なる關係を呈するものなり。この故に「ノ」にても「シ」にてもよしなどいふことは萬葉集を味ふものにありては決していひうべからぬ言なりとす。
 「シ」とよむときは古來休め字といひ、吾人が間投助詞と呼べる性質の助詞となるなり。かく休め字などいふに(226)よりて世人は之を輕視して殆ど何等の意義も力もなきものの如く見る弊あり。されど、この「シ」は單獨なる助詞として用ゐられたる場合は甚だ力強きものにして係詞に殆ど等しき力を有するものなり。今萬葉集中より、今の例の如く時を示す語につける例をあぐれば、
  今思〔右○〕悔裳     (卷七、一四一二)
  今時〔右○〕來等霜    (卷十、二一三一)
  今之〔右○〕將落     (卷十、一八五五)
  今之〔右○〕散疑     (卷十、二二一〇)
  今之〔右○〕悔毛     (卷十一、三一四三)
  伊麻之〔右○〕久夜思母  (卷十四、三五七七)
  伊麻之〔右○〕久良之母  (卷二十、四三〇五)
の如きみな下なる述語に強く影響を與ふるものなり。然るに、この歌の場合には下に之を受けて結ぶ語なきにあらずや。若し又これに對する述語が下につづく爲に結びのなきに至るものとせば、次の例の如く
  保登等藝須今之〔右●〕來鳴者〔右○〕………… (卷十七、三九一四)
  荒山毛人師〔右●〕依者〔右○〕…………    (卷十三、三三〇五)
  月四〔右●〕有者〔右○〕…………       (卷四、 六六七)
  君志〔右○〕通者〔右○〕………        (卷十六、三八八一)
  君師〔右○〕不産者〔右○〕………       (卷三、 四五七)
(227)多くは接續助詞「ば」のあらはるるありて、それの力に吸收せられてその力を下に及ぼさざるやうになるものなり。しかるにこの歌にてはかくの如き現象をも呈することなし。かくては助詞たる「シ」の力の收まる所なきなり。これを以て試みにこれを「シ」としてよみ試み行きてみよ。意義必ずおちつかぬ心地するにあらずや。その落ちつかぬ心地するは即ち「シ」の力の收まり所なきが故なるをさとるべし。
 以上の理由にて「シ」とよむことの不可なるを知るべし。しからば、「の」とよみては如何といふにこれには先づ旁例を以て説くを便とす。
 「の」といふ助詞はその用法種々なるがうちに、上下同等なる語を重ねて下を修飾するが如き用をなすことあるなり。その例、
  八束〔二字傍線〕穗〔右●〕能〔右○〕伊加志〔三字傍線〕穗〔右●〕  (祝詞)
  萬千〔二字傍線〕秋〔右●〕乃〔右○〕長〔傍線〕秋〔右●〕  (祝詞)
  安〔傍線〕幣帛〔二字右●〕乃〔右○〕足〔傍線〕幣帛〔二字右●〕  (祝詞)
  千〔傍線〕名〔右●〕乃〔右○〕五百〔二字傍線〕名〔右●〕  (萬四、七三一)
  左〔傍線〕手〔右●〕乃〔右○〕吾奥〔二字傍線〕手〔右●〕 (萬九、一七六六)
これらは上下の語が共に簡單なるによりてその關係の認め易きものなるが、そのやや複雜なるものに至りては次の例の如し。
  春日乎春日〔五字傍線〕山〔右●〕乃〔右○〕高座之御笠乃〔六字傍線〕山〔右●〕 (萬三、三七二)
  天地爾〔三字傍線〕悔事〔二字右●〕乃〔右○〕世間乃〔三字傍線〕悔言〔二字右●〕 (萬三、四二〇)
(228)  風離(雜)雨〔四字傍線〕布流欲〔三字右●〕乃〔右○〕雨雜雪〔三字傍線〕布流欲〔三字右●〕 (萬五、八九二)
   丹管士乃將馨〔六字傍線〕時〔右●〕能〔右○〕櫻花將開〔四字傍線〕時〔右●〕 (萬六、九七一)
   白雲之棚曳〔五字傍線〕國〔右●〕之〔右○〕青雲之向伏〔五字傍線〕國〔右●〕 (萬十三、三三二九)
   走出之宜〔四字傍線〕山〔右●〕之〔右○〕出立之妙〔四字傍線〕山〔右●〕 (萬十三、三三三一)
これらも亦上下同等の語を重ねたるものなるが、上下共に多くの修飾を有するを以て前の數例よりは關係を認め易からぬものなり。されど上下共に「山」「こと」「夜」「時」「國」等の語を主眼とし、これに相當の修飾を加へたるものなることは明かなるべし。
 今これらの諸例を認めたる頭脳を以て本論の歌の組織を見ればまさに同樣の關係の存するを見るべし。即ち
 天地之初〔四字傍線〕時〔右●〕之〔右○〕 久堅之天河原爾八百萬千萬神之神集集座而神分分之〔久堅〜傍線〕時〔右●〕爾
 といふ組織にして『天地之初時』即ち『天河原に八百萬千萬神の神集に集ひ座して神分りに分りし時』なるを重ねいへるものなり。ただこの場合が上述の諸例と異なる點は上述諸例が、上下同等の組織の語を以てせるに、これは上下不等の組織をとれるにあり。しかれども、かくの如きは修飾上、甚しく發達せる巧妙なるものにして尋常歌人のよくしうべき所にあらず。即ち上の語は頗る簡なるに下の語は極めて複雜にして上の語を説明詳述するが如き關係に立ち、一面に於いては叙述の歩を進め、一面に於いては上下同等の語格をとれる點は實に古今に稀なる手腕にして人麻呂の靈筆ならずしては古來何人も企て得ざる所なりとす。かくの如き實例は他に多からねど、かの卷一の藤原宮役民作歌と一面似通へる趣ありとす。かく複雜なる叙述法をとれるが爲に古來これが可否を述ぶること能はざりしものなるべきなり。
(229) 以上の如く考へ來れば、萬葉考のよみ方は人麻呂の眞意を得たりといふべく、賀茂眞淵翁が近世無比の歌人にして、ことに長歌に長ぜられしによりてこそこのよみ方を發明せられたるならめといはまほし。余が説當たれりや否や。世の歌に心得ある人々のこの歌を熟讀玩味して可否を決せられむことを冀ふなり。
           (大正十四年五月、奈良文化第六號)
 
 
(230)        ひさかた考
 
 枕詞の「ひさかた」といふ語は人口に膾炙すれど、その意如何と顧みれば、異説紛々として適從する所をしらぬさまなり。
 今古來よりの説をみるに、先づ、範兼の童蒙抄には
  ひさかたとはそらを云。ひさしくかたしと云心也。久堅とかけり。
といひ、それより後の歌人多くこの説に從ひて釋せり。契沖などもただ之を敷衍したるにすぎず。これらの説に反對して新説を主張せるは賀茂眞淵の冠辭考なり。その説先づ、
  今思ふに、上つ代にことばの下に之といふは必體の語に有ことにて、用の語にいふことなし(既に淨御原藤原などの御時に至ては用を體にとりなして用の語より之の辭をいふもかつがつは見ゆれどかかる上つ代の語には必なきなり。)。然れば堅きとは用の語なれば久しく堅き之《ノ》といふ語は有べからず。(注略す)又久しき方のてふは之《ノ》の辭はいふべけれど、方《カタ》てふ語のいひざま古の人の言とも聞えず、且凡の語を神代の事にもとづきて意得るは常ながら、古への語のもとづき樣はみやびかにしてやすらかなり。右の二つは意つたなくしておもくれたり。よく古意古語を思はでゆくりなくおもひよれるものなるべし。
といひて舊來の説のよるべからぬを論じ、次に己が説を主張して、
(231)  されば年月に思ひて漸おもほしき事あり。そは先久堅久方ともに例の借字とす。さて天の形はまろくて虚《ウツ》らなるを※[誇の旁+包]《ヒサゴ》の内のまろくむなしきに譬て※[誇の旁+包]形《ヒサカタ》の天といふならんと覺ゆ。續日本後紀(興福寺の僧が奉る長歌)に※[誇の旁+包]葛の天と書しを、荷田宇志の比佐加多乃阿米と訓れしぞ即是なりける。(注略す)禮記てふからふみに云々、大報v天而主v日也掃v地而祭2於其質1也器(ハ)用2陶※[誇の旁+包]1以象2天地之性1也(注略す)てふも陶は土器なれば即地に象り、※[誇の旁+包]は空にみなりて内の虚なれば天の形に象といふ歟。此外に天地の形に象るべき物なければ注にもしかいへりけん。唯天産の物もてする意のみならば、徳とはいはじやと思へばこれをも思ひ合すべきなり。但仁徳紀に全※[誇の旁+包]を宇都比佐碁《ウツヒサゴ》とよみ、和名抄に沫雨を宇太加多とよめるも虚象《ウツヒサゴ》の意なるをおもひむかへよかし。
といへり。この※[誇の旁+包]形の意といへる説はよく思ひ得られたりと稱ふべき事なれど、この説明物たらぬ感あれば、これより後また異論なほ存するなり。或は「日差す方」なりといひ、「日の放《サ》る方」なりといひて一定の説なし。古義には別に一説あり。曰はく、
  比佐可多乃は字はくさくさ書たれど、皆がら借り字にて提勝間之《ヒサカツマノ》といふことなるべし(略中)天を編目の意にとりなして(ミメ〔二字右○〕の切メ〔右○〕)提勝間之編目《ヒサカツマノアメ》といふ謂《ココロ》につづけたるならむ。
といひ、別に大神景井が考に「日榮足《ヒサカタリ》」の意ならむといへりといふ説をあげたり。
 以上の説どもをみわたすに、かの久堅久方の字義によれる説のとるに足らぬはいふまでもなく、「日さす方」は「ひさかた」と略するを得べき語にあらず。又「日放る方」「日榮足」の説の如きはまた、首肯せらるべき説にあらず。古義の提勝間の略とするが如き、その説牽強甚しといふべきのみならず、古にさる器ありしことかつてきかぬ所なり。されば、ただ冠辭考の説最も首肯せらるべきものにあれど、説きて肯綮にあたらざる憾ありとす。
(232) 按ずるに、和名抄に、杓字に、注して曰く、
  唐韵云杓音酌比佐古斟v水器也瓢符※[雨/肖]反奈利比佐古※[誇の旁+瓜]也※[誇の旁+瓜]音護※[誇の旁+瓜]也※[誇の旁+瓜]薄交反可v爲2飲器1者也
と見えたり。この比佐古は即ち今の柄杓の源語にして、その「ヒサコ」といふものは、「なりひさご」即ち今「へうたん」又「ふくべ」といへる植物の果實なるなり。その果實なる點よりして「なりひさご」といひ、その用器となれるものをば「ひさご」といひたるものなり、而してその飲器とせるものは、現今まで朝鮮にて使用せる※[誇の旁+瓜]まさにこれなるべし。朝鮮にて用ゐるものは、殆ど球形をなせる※[誇の旁+瓜]を半に截ちて内を空くせる半圓形の器にして、今之を其地にて「パカチ」といふ。「パク」は※[誇の旁+瓜]の朝鮮の古名なり。されば大小種々ありて、上下一般に之を以て井より桶に水を汲みとり、又桶より小なる器に移すなど、又直ちに水を呑む際にも用ゐるなり。その半圓大の物に柄をつくれば今多く手水鉢に添へて用ゐる銅製の柄杓の形となるを以て、その實物を想像し得べきなり。
 本邦にてのこの柄杓の本原は、天生の「ナリヒサゴ」の果實を半截して用ゐしこと、恐らくは朝鮮の現代の如くにありしものならむが、そがいつしか木にて彫りてその形を模したるものいで、更に轉じて金物にてつくり、竹筒にてつくりなどするに至りしならむ。※[木+夜]齋はかの比佐古の條に注して曰はく
  按今俗呼2比車久1者比佐古之※[言+爲]轉又呼2車久1亦比車久之省非2杓字音1也、又按比佐古者蓋刳v木作v之似2今俗杓子1而深者、不d與2今比車久之屈v木作者1同u、大神宮儀式帳木杓、外宮儀式帳木※[誇の旁+瓜]即是、北山抄灌佛條取2黒漆杓1酌2東邊鉢水1膝行灌v佛一杓。
と。これにて延暦頃すでに木製の杓ありしを知るなり。然れども、かの皇大神宮儀式帳に、
  木杓廿柄|※[草冠/袴]《ナリヒサゴ》廿柄
(233)と見えたるを以て考ふるに、なほ「なりひさご」を器として用ゐられしが如くに見ゆれど、幾柄とあるを見れば、なほ柄をつくりつけし木造のものなるべし。又
  ※[誇の旁+瓜]一百九十柄及雜物
と見えたる文字によれば、なほ天然の※[誇の旁+瓜]を利用せしものと見ゆれど、押しはりていふを得べからず。造酒司式にも、
  ※[誇の旁+瓜]十口 供奉酒料
  大※[誇の旁+瓜]柄【各受二斗】雜給料(その外※[誇の旁+瓜]十二柄廿五柄など多く見ゆ)
とあり。この「口」を以てかぞへたるは、柄のなかりしものと見ゆれば、これ恐らくは古式を存したるものなりしならむ。又按ずるに、正倉院文書天平六年十二月廿四日の尾張國正税帳に
  進上交易※[草冠+※[誇の旁+瓜]]壹拾肆口 直稻玖束捌把 口別七把
とあり。これは※[誇の旁+瓜]は同院の他の文書には幾柄とあるに、ここに口をかけるは、その柄なき天然生の※[誇の旁+瓜]を用ゐし證とすべきに似たり。
 きて又按ずるに、和名抄調度部佛塔部の火珠に注して、
  楊氏漢語抄云火珠塔乃比散久賀太
とあり。これは塔の九輪の上方に寶珠の形を構へ、その周圍を火※[火+稻の旁]の形にて装飾せるその寶珠の實體をさせるものなり。これを「ヒサクガタ」といへるは、即ち「ヒサゴカタ」にして※[誇の旁+瓜]の形をかたどれるものとするによりて名づけたるなり。
 かくの如く「ヒサク」即ち「ヒサゴ」にして、これ即ち水を斟む器なりとせば、かの朝鮮のは「パカチ」即ち古(234)代の※[誇の旁+包]《バク》なりしを見るべし。之につきてなほいふべきはかの仁徳紀に、
  唯衫子取2全※[誇の旁+包]兩箇1臨2于難v塞水1乃取2兩箇[誇の旁+包]1役2於水中1。
とある全[誇の旁+包]の文字なり。これは、[誇の旁+包]の天生のままの形にて水を汲む器として半に截らぬものなることを明示せるものと思しければ、即この時には[誇の旁+包]の半切なるものもありしものと思はるるなり。
 今この事、即ち「ヒサゴ」を以て天の形に比すとせよ。これ實に自然に人の思ひ」浮ぶべき思想なり。この事は古代質朴の時代の思想たるのみならず、現今の進歩せる天文學者も亦、便宜上この思想を繼續して採用するなり。一例として理學博士横山又次郎氏の天文講話を引かむ。曰はく
  天トハ吾人ノ頭上ヲ半球状ヲナシテ被覆スル圓天井ノ如キモノヲ云フノデアル。昔ハ現ニ之ヲ固形物ヨリ成レル天井ト思ヒ、星ハ皆此ノ天井ニ固着セルモノトシタノデアル。然ルニ今日デハ天ハ空デ無窮無限境界ナドハ少モナク星ハ此ノ中ニ吾人ヨリ種々ノ距離ニ浮游シテ居ルモノデアルト云フコトガ、分カツタノデアル。天ガ圓井ノ如ク見ユルノハ畢竟星ノ距離ガ肉眼デハ分ラヌカラデアル。皆同距離ニアルヤウニ見ユルカラデアル。然シ天文學者ハ此ノ眼ノ誤リヲ利用シテ天ヲ矢張圓天井ト見做シ之ヲ天球ト稱ヘテ其ノ面ニ種々ノ線ヲ假設シ星ノ位置ヤ運動ヲ定ムルノデアル。
と。きれば古代のわれらの祖先が天を半球状の圓天井と見做したりとすること、これ何等の附會の説にあらざるを見るべく、それと同時に日常使用したる[誇の旁+包]の形に似たりと考へたることも、最も自然にして最も正當なる比喩といふべきにあらずや。而して塔の「ヒサクカタ」といふ名を旁例として考ふれば、古く「ヒサコカタ」といふ語の用ゐられたりしを考ふべきなり。この故に、本來「ヒサコカタ」といふべきを「コカ」の二のカ行音の重なるを以て、(235)故意に「コ」を省きて「ヒサカタ」として用ゐたりしか、或ははじめ「ヒサコカタ」なりしが、いつしか自然に省かれて「ヒサカタ」となりしかの二途を出でずして、天の比喩はなれりしならむ。
 この比喩成りてより後、天のみにかぎらず、或は日に、或は月に、或は雨に枕詞として用ゐ、轉じて、みやこの枕詞とするに至りしものとすべきなり。
             (大正十二年四月、心の花第三百號)
 
 
(236)  「うれ」の考
 
 大正九年九月十七日品田太吉氏と同氏の「うら、うれ」考(萬葉集中の末又は上の字を「うれ」と強ひてよむに及ばず、「すゑ」又は「うへ」とよみてあるべしといふを主とせる説なり。同氏は余が説などを參照して更に之を訂正したる後雜誌「アララギ」に寄稿せられたり。)を前にしつつ意見を交換したる結果「うれ」といふ語の眞義を明かに知り得たりと思ふによりて今聊之を記して世の教を俟つ。
 萬葉集に「宇禮」と假名にかけるものの例は
  卷二  後將見跡君之結有磐代乃子松之宇禮〔二字右○〕乎又將見香聞《・ノチミムトキミガムスベルイハシロノコマツガウレヲマタミナムカモ》(一四六)
  卷八  玉爾貫不令消賜良牟秋
、芽子乃字禮〔二字右○〕和和良葉爾置有《・タマニヌキケタズタバラムアキハギノウレワワラバニオケルシラツユ》白露(一六一八)
  卷十  打靡春立奴良志吾門乃柳乃字禮〔二字右○〕爾※[(貝+貝)/鳥]鳴都《・ウチナビキハルタチヌラシワガカドノヤナギノウレニウグヒスナキツ》(一八一九)
  卷十四 古非思家婆伎麻世和我勢古可伎都楊疑宇禮〔二字右○〕都美可良思和禮多知麻多牟《・コヒシケバキマセワガセコカキツヤギウレツミカラシワレタチマタム》(三四五五)
  卷十六 豐國企玖乃池奈流菱之字禮〔二字右○〕乎採跡也妹之御袖所沾計武《・トヨノクニキクノイケナルヒシノウレヲトルトヤイモガミソデヌレケム》(三八七六)
  卷二十 美知乃倍乃宇萬良能字禮〔二字右○〕爾波保麻米乃可良麻流伎美乎波可禮加由加牟《・ミチノヘノウマラノウレニハホマメノカラマルキミヲハカレカユカム》(四三五二)
さてこの「うれ」といへる語は如何なる義なるか、古義はその卷二の「うれ」の條下に
  宇禮は梢をいふ。集中に末(ノ)字をウレ〔二字右○〕ともウラ〔二字右○〕ともよめる其(ノ)字(ノ)意なり。土佐日記にも見渡せば松の宇禮毎《ウレゴト》に住鶴(237)はとよめり。今も土佐國山里にては木梢をウレ〔二字右○〕と云り。
といへり。これにて明かなる如くなれど、實は然らず。如何とならば今萬葉集中の例にかぎりてのみ論ずるもその梢といへるは
  卷二 子松〔二字右◎〕之宇禮〔二字右○〕 卷十 柳〔右◎〕之宇禮〔二字右○〕
  卷十四 可伎都楊疑〔二字右◎〕宇禮〔二字右○〕都美可良思
には適する解なれど
  卷八 秋芽子〔三字右◎〕乃宇禮〔二字右○〕  卷二十  宇萬良〔三字右◎〕能宇禮〔二字右○〕
  卷十六 菱〔右◎〕之宇禮〔二字右○〕
には適すべくもあらず。萩茨などは莖やや木めきたれば強言もし得べきさまに見ゆれど、菱にては梢の解釋を容るる餘地なし。されば古義は八卷の條には
  宇禮和和良葉は末〔右◎〕のわわけたる葉をいふ。
といひ、十四卷の條には
  宇禮都美可良思は末摘刈《ウレツミカラ》しめなり奴僕などに令せて柳の末を採み刈しめて越易からしむとなり。
といひ、二十卷の條にはただ
  宇萬良能宇禮爾は荊之末《ウマラノウレ》になり。
といひたり。これにては末といふ漠然たるいひ方なるが故にいづれとも解を容るる餘地あれど、それだけ不確なるなり。古義にてはこれ以上の解義なきかといふに、その卷十の條には(238)宇禮は末枝《ウラエ》のつづまれるなり。
といへり。これ一往はいはれたるやうなれど、「うれ」「うら]もと同派の語なるべければ、然らば「うら」とは如何といふ問題同時に起りて止まるべからず。かく考へ來れば梢といふは木の場合にのみいひて可なれど、その他の場合には通ずべからず。ひろく末といひても亦この度は漠然として捉へ難きなり。
 按ずるに集中に古來末字を「うれ」とよませたるものあり。今之を檢するに
  卷二  妹之名者千代爾將流姫島之子〔二字右◎〕松之〔右○〕末爾蘿生萬代爾《・イモガナハチヨニナガレムヒメシマノコマツガウレニコケムスマデニ》(二二八)
  卷十  卷向乃檜原毛未雲居者子松〔二字右◎〕之末由沫雪流《・マキムクノヒハラモイマダクモヰネバコマツガウレユアワユキナガル》(二三一四)
  卷十一 平山子松〔二字右◎〕未〔右○〕有廉〔二字右△〕叙波我思妹不相止者《・ナラヤマノコマツガウレノウレムゾハワガモフイモニアハズヤミナム》(二四八七)
等なり。この「末」字は通常「すゑ」とよめる文字なるが故に「すゑ」とよみてもあるべく思はるるに古來「うれ」とよめるは故なからずはあらず。今これらのうち卷十一の歌をみるに、「うれ」は下なる「うれむぞ」といふ語と同音の縁語にもなりてあれば、まさしく「うれ」と讀みたる證とすべし。然るが故にこれらの「末」字はなほ古よりのままに「うれ」とよむべきものなるべし。而してここに注意すべきはこの場合にはすべて「子松の末」なる點なり。これ奇なるが如くなれどただ奇として止むべきにあらずしてこの間に深き理由あるべきなり。
 惟ふに一方に「すゑ」といへる語あるに、また同じ意の「うれ」といふ語ありといふことは注意すべき現象にしてそのさす所全然同一なるか、若しくは意義少しく差異ありやの二點に考察を進むべきが、その全然同一の場合には古語と新語との差異又は固有語と外來語との差異若しくは中央の語と方言との差異などその二者の並び存するには相當の理由なかるべからず。然れども余はこの二語はさる點に差異あるものにあらずしてその差異は意義の上に(239)存すと考ふるなり。
 かかる考を生ずるに至りしは「若末」の二字を古來「ウレ」とよませたるものあるによれり。そは卷十の詠鳥の長歌に
  (云々)神名備山爾明來者柘之左枝爾暮去者小松之若末爾里人之聞戀麻田山彦乃答響萬田霍公鳥都麻戀爲良思左夜中爾嶋《・カムナビヤマニアケクレバツミノサエダニユフサレバコマツガウレニサトビトノキキコフルマデヤマビコノコタフルマデホトトギスツマコヒスラシサヨナカニナク》(一九三七)
とある「若末」は古來「うれ」とよみて異論なし。ここにて注意すべきはこれ亦「子松」が「うれ」なる點なり。又別に「若末」の字を用ゐたるもの同卷秋歌に
  我屋前之芽子〔二字右◎〕之若末〔二字右○〕》長秋風之吹南時爾將聞跡思乎《・ワガヤドノハギノウレナガシアキカゼノフキナムトキニサカムトオモフヲ》(二一〇九)
とある「若末」を古訓に「ワカタチ」とよめるを契沖は
  若末は上の詠鳥長歌の中に「ウレ」と讀たれば「ウレナカシ」と讀べし。
といひて訓を改めてより後學者皆之を是認せり。當に然るべきことなり。この「若末」の二字を一語としたるもの古來「うれ」とよみ來りつればこそあれ。然らぬとき何とよみてよかるべきか、今の吾人には殆ど考へ及ばざる異樣の熟字なり。按ずるにこの「若末」の「末」はその體を示し「若」はその状を示せるものなるべくして之を木にて云へば、まさに若き梢當年長せる部分をいへるならむ。されど末字の例はすべての草木に通じていへるものなればこの若末の熟字はその生長しつつある草木の末をいへるものなるべし。かくの如き植物の部分には今日の語には特別に用ゐるべき單語なきが故に之を一言して表すること難きなり。されば「うれ」はもとより「うれ」にて「末」とは同じ語にはあらざるべきなり。これにても古人が自然界に對して如何に鋭敏なる觀察を下し、如何に豐富なる(240)語彙を有せしかを考ふべきなり。
 今この「若末」の二字の示す意が「うれ」といふ語なりとせば吾人は之を釋して植物の生長の盛なる若々しき末の部分といふを得べきか。然る時は
  子松のうれ
は最も吾人の目にも心にもふさはしきものと映ずるを見る。今人ならば若松の梢といふべきなり。されど梢は枯木にもいふを得べき語にして水々しき若き梢に限りていふべしとにはあらず。「うれ」は即ちその若く水々しき生長の盛にある部分を考へしむるなり。かく考へて萬葉集のすべての例を通じて考ふるに
  柳のうれ 萩のうれ 茨のうれ
皆よく目に見る如く了會せられ、殊に「菱のうれ〔四字右○〕」の如きはこの見解によりてはじめて了會せられうるにあらずや。菱は人も知る如く地上にての植物にとりていはゞ西洋苺などの如く生長してその節に新しく根と葉とを生じつつ延び行くものなればその新しく延びて生長せる部をこそ「うれ」とはいひたるなれ。
 さて又この「うれ」を用ゐたる語の「木《コ》のうれ」といふべきを約めて「こぬれ」といへるあり。そが假名書の例
  卷五  波流佐禮婆許奴禮〔三字右○〕我久利※[氏/一]宇久比須曾奈岐※[氏/一]伊奴奈流烏梅我志豆延爾《・ハルサレバコヌレガクリテウグヒスゾナキテイヌナルウメガシヅエニ》(八二七)
  巻十三 冬木成春去來者朝爾液白露置夕爾波霞多奈妣久《・フユゴモリハルサリクレバアシタニハシラツユオキユフベニハカスミタナビク》汗湍能振|樹奴禮〔三字右○〕我之多爾※[(貝+貝)/鳥]鳴母《・コヌレガシタニウグヒスナクモ》(三三二一)
  巻十七 (長歌)安之比紀乃山能許奴禮〔三字右○〕】爾白雲爾多知奈比久等安禮爾都氣都流《・アシヒキノヤマノコヌレニシラクモニタチナビクトアレニツゲツル》(三九五七)
  卷十七 (長歌)之麻未爾婆許奴禮〔三字右○〕波奈左吉吉許己婆久毛見乃佐夜気吉加《・シマミニハコヌレハナサキココバクモミノサヤケキカ》(三九九一)
  卷十八 安之比奇能夜麻能許奴禮〔三字右○〕
等里天可射之都良久波知等世保久等曾《アシヒキノヤマノコヌレノホヨトリテカザシツラクハチトセホグトゾ・》(四一三六)
(241)この「こねれ」も從來梢と同じと説かれたれど「うれ」がたゞの末にあらぬ以上は「こねれ」も亦梢と異なるべきなり。即ち梢は枯木にもいはるれど「木ぬれ」は必ず生長しつゝある木の末に限るべきなり。今上の「コヌレ」と假名書にせる例を見るに或は春につきて或は花につきて或は寓生《ホヤ》(これは松樅※[木+解]等常緑樹にのみ寄生す)につきていへるにて木の葉の茂生せるさまに想はる。
 さて又集中「木末」とかきて「こぬれ」とよめるもの少からず。これらも上の例に准じて意義通ずるものは「こぬれ」とよみてよかるべし。
  巻三 牟佐々婢波木末〔二字右○〕求跡足日木乃山能佐都雄爾相爾來鴨《・ムササビハコヌレモトムトアシヒキノヤマノサツヲニアヒニケルカモ》(二六七)
  卷七 三国山木末〔二字右○〕爾住歴武佐佐妣乃待鳥如吾俟將痩《・ミクニヤマコヌレニスマフムササビノトリマツガゴトワレマチヤセム》(一三六七)
これらは※[鼠+吾]鼠の棲處とするなれば「こぬれ」といふは葉茂れる由を明かに示せれば適當なり。
  巻六 三吉野乃象山際乃木末〔二字右○〕爾波幾許毛散和口鳥之聲可聞《・ミヨシヌノキサヤマノマノコヌレニハココダモサワグトリノコヱカモ》(九二四)
これも茂き木ぬれに鳥のさわぐにてよかるべし。この他なほあるもの之に准じて可否を定むべきなり。
  巻七 曉跡夜烏雖鳴此山上之木末〔二字右○〕之於者未靜之《・アカツキトヨガラスナケドコノミネノコヌレガウヘハイマダシヅケシ》(一二六三)
これも木ぬれに棲む鳥の上をいへるなればよし。古義に「木末之於《コヌレノウヘ》といはむは言重りいたづらなる如くなれど云云」といひて辯護せれど、これは上にいへる如き意あるものなれば單なる末の義にあらねば重言とはいふべからざるなり。以上みなただ梢といへるにあらずして生長盛りの部分をいへるなれば「こぬれ」とよめること適當なりといふべし。
 かく「うれ」を考へ來れば、之に關連して問題となるは、巻二なる石川女郎の大伴田主に贈れる歌
(242)  吾聞之耳爾好似葦若末〔三字右○〕乃足痛吾勢勤多扶倍思《・ワカキキシミミニヨクニバアシノウレノアシヒクワガセツトメタブベシ(一二八)
 (「アシヒク」の訓は私案なり)
といふ歌なる「葦若末」の三字なり。こは古來「アシカヒ」とよみ來れるやうなれど、その理由を知らず。葦牙をこそ「アシカヒ」とはいひ來りたれ。不審の一なり。按ふに古書「未」「末」區別なきこと少からざるを以てすれば、この「未」は疑もなく「末」の誤なり。然るときはこの「若末」も亦まさしく上にいへる「うれ」なるべきなり。今「葦牙」と「葦若末」との文字につきて意義の差を考ふるに「牙」は即芽と同字なれば、今いふ「め」なり。然るにわが考ふる「うれ」はその芽の生長したるものにして同日に談ずべからず。これにつきては既に略解に本居宣長翁の説ありて載せたれば次にひくべし。
  若末をカヒとは訓がたし、卷十長歌に小松之若末爾と有はウレとよめればここもアシノウレノとよみて足痛はアナヘテとよまんか、蘆芽はなゆるものにあらず、一本若生とあるによらばカビとよむべし
これよくいはれたる説にして、上來述べ來りし説より見れば、こは「あしのうれの」とよむべきこと殆ど論ずるまでもなきやうになれるにあらずや。
 以上説ける處を以て考ふれば末字を「うれ」といふべきはその場合に限りありて「末」字をみな「うれ」とよむはかへりて誤なるべし。こは品田氏の主張せらるる説なるが余はこれに同意を表するを躊躇せず。今古義などを見るにこの「末」字を殆どすべて「うれ」とよまむとするに似たり。たとへば
 卷十六 暮立之雨打零者春日野之草花之〔右○〕末乃白露於母保遊《・ユフダチノアメウチフレバカスガヌノヲバナノスヱノシラツユオモホユ》(三八一九)
の「草花之末」を「ヲバナガウレ」とよめり。之は卷十に重出して
(243)  暮立之雨落毎春日野之尾花之上〔右○〕乃白露所念(二一六九)
とあり。これによれば「末」は「上」にかよふ意にして「スヱ」とよみてあるべく思はる。又卷十の
  外耳見筒戀牟紅乃末採花〔三字右○〕乃色不出友《・ヨソニノミミツヽコヒナムタレナヰノスヱツムハナノイロニイデズトモ》(一九九三)
とあるを古義には
  本居氏、末は集中に宇禮とのみよめれば「ウレツムハナ」とよむべしといへり。さることなり。
といへり。この本居翁の説も「ウレ」の「若末」の義なるに心づかざるものなれば、決して賛すべからず。こは源氏物語の卷名などにて名高き「すゑつむはな」にしてもと「うれつむはな」といひしを平安朝時代に至りて遽に改めて呼べりとは考ふべからず。なほ古よりいへる如く「スヱツムハナ」なるべきなり。
 按ずるに上の尾花、末摘花にありては、「うれ」といふ語を用ゐるべきものにあらざるべし。如何といふにこれらはその生長しつつ彌榮えゆく部分にあらずしてこれにて生長のとまれる點なればなり。されば「尾花がすゑ」「すゑつむはな」と古よりいひ來れるは即ち極めて妥當にして之を強ひて「うれ」といはむとするこそ強言とはなるなれ。
 この宇禮の説に對して、品田氏は「卷二に子松之宇禮乎とあるは大寶元年紀伊國に行幸し給ひし時の歌なり。此行幸は卷一に大寶元年辛丑秋九月(卷九には冬十月)とあり、九月より十月にかけての時にて松の梢は古枝になりつつあるなり。又卷十に子松の末由《ウレユ》沫雪流とあるは冬の歌なり云々」といひて秋冬の頃に然言はむは不審の事なりといひて異論あるやうなれど、吾人の所説に十分の理會をなし、且植物の實際に注意する時はかく反對せらるべからず。余が「うれ」とさす點はその年の新生の部分をいへるなり。この新生の部分は常磐木の類にありては略翌年(244)の新芽の生ずる頃まではその新生の部分たること認めらるべし。ことに小松の如きはその新生の部分は樹膚青緑色を呈して多年を經たる部分と明かに區別せらる。これ余が上文に「子松の末」といふ語の多く見ゆるは特に注意すべしといへる點なり。又萩の如きは、その多年を經たる部分は木質をなせど、今年新生の部分は色も青みを帶び、柔弱にして翌年新生の部分即ち余がいふ「うれ」の生ずる頃に至りてはじめて木質に變ずるなり。さればかくの如き部分を生ずる植物は新生の〔右○〕時にあらずとも新生の部を認めうべきなり。これ萩松などに秋の頃もうれといへる所以なるべしと考ふるなり。
          (大正十年十一月、心の花第五萬葉號)
 
(245)         伊久里考
 
 萬葉集卷第二相聞の末なる柿本人麿の長歌の中に
  角障脛、石見之海乃、言佐敝久、辛乃埼有、伊久里〔三字右○〕爾曾、深海松生流、荒磯爾曾、玉藻者生流。(一三五)
とあり。この「いくり」とは如何なるものか。これを海中の石なりといふことは普通の説なり。然れども、海中にある石はすべて「いくり」といふか如何。この語は日本紀應神卷なる歌に
  ※[言+可]羅怒烏《・カラヌヲ》、之褒珥椰枳《・シホニヤキ》、之餓阿摩離《・シガアマリ》、虚等珥菟離《・コトニツクリ》、※[言+可]枳譬句椰《・カキヒクヤ》、由羅能斗能《・ユラノトノ》、斗那※[言+可]能《・トナカノ》、異句離〔三字右○〕珥《・イクリニ》、敷例多菟《・フレタツ》、那豆能紀能《・ナヅノキノ》、佐椰佐椰《・サヤサヤ》。
ともあり。これにつきて釋日本紀には釋して
  句離謂v石也。異助語也。
とあり。普通の説は蓋しこれに基づけるなり。なほ日本紀の同じ歌は古事記下卷仁徳卷にも見えて、
  加良怒袁《・カラヌヲ》、志本爾夜岐《・シホニヤキ》、斯賀阿麻理《・シガアマリ》、許登爾都久理《・コトニツクリ》、加岐比久夜《・カキヒクヤ》、由良能斗能《・ユラノトノ》、斗那加能《・トナカノ》、伊久理〔三字右○〕爾《・イクリニ》、布禮多都《・フレタツ》、那豆能紀能《・ナヅノキノ》、佐夜佐夜《・サヤサヤ》。
とあるなり。
 さてこの「いくり」といふ語をば近世には如何に解したりしかを顧みるに、連歌師宗碩の撰と傳ふる藻鹽草に、
(246)  いくり 石也。いくり石なども云、おなし事也。八雲御説
と見ゆ。これはなほ釋日本紀の説の系統のままにして眞義を知れりや否やは明かならねど、古の傳へのままなりと評すべし。然るに同じく連歌師ながら下りて、紹巴の撰と傳ふる匠材集を見るに、
  いくり、石なり、俗に小石をくりいしといふ。
とありて、今吾人がくり石と稱ふるものを以てこの「いくり」に擬せむとしたり。これより一層降りて入江昌喜の幽遠隨筆を見るに、
  世俗に川原などに有ちいさき石をくり石といふは重ねことばにて、閼伽の水といふたぐひなるべし。くりといふは石なり。山陰道の風俗、石をくりといふとぞ。萬葉集に人丸「辛の崎なるいくりにぞとよめるも、いは發語、くりはいし也と有」(以下、紀の歌と釋紀の説とを擧ぐ。)。
とあり。ここに至りては海中ならぬ川原の石をもいふ由にいへるのみならず、必ず小石に限るものと思はれたるが如し。これより以後多くはこれらに同じ考をなせり。萬葉集の注にては、はやく代匠記にこの説見えて、
  今の世なべてくり石と申はちひさきを申せば、栗ばかりの石と云心にや。
といへり。これより後國學者も亦多くこれらの説に從へるを古事記傳には之につき論じて曰はく、
  くりといふにつきて栗を思ひて小き石をいふと云説は非也。海松の生とよめるにても小きに限らぬ事をしるべし。又海の底なる石をいふと云も非也。古事記の歌も底なる石にては叶はず。六卷の歌に海底とよめるはただ奥の枕詞にていくりへかかれる言にはあらず。海底なるをも又うへに出でたるをもいひ、又小きをもいひ、大きなるをもいふ名也。
(247)といへり。さて古事記傳に六卷の歌といへるは萬葉集なるをいへるにて、その歌は
  淡路乃野島之海子乃海底奥津伊久利〔五字右○〕二鰒珠左盤爾潜出云々《・アハヂノヌシマノウミノワタノソコオキツイクリニアハビタマサハニカヅキデ》(九三三)
とあるをさせるなり。
 今この栗程の小さなる石といふ義をもちて、上の歌どもを解せむとするに、萬葉集卷二なる深海松の之に生えてあること、又卷六の歌なるも栗程の小なる石なりといふこと考へられず、又記紀の「いくり」も今いふ栗石とは考へられざるなり。されば古事記傳にいへる如く、小きに限らぬことは著しといふべし。次に、古事記傳に批難せる如く海の底なる石をいふと解しうべきかといふに、これは海の底なるに限るといふ證もなく、又海の底ならずといふ反證もなければ、この點は不明なりといふべきなり。次に古事記傳には「うへに出でたるをもいひ」といへるが、さる事を考へうべき證ありやと見るに、これはかへりて證なきなり。先づ萬葉集卷二なるは、
  伊久里爾曾深海松生流(一三五)
といへるが、その深海松なるものはただの海松を詞の上にてのみかくいへるか、又一種の海松なりや明かならぬ如くなれど、延喜式によれば、一種の海松なりと見ゆ。かくて深海松といふ名より推せば海中稍深き所に生ずるものといふをうべし。若し然らずとしても、海松は海面に近き所に生ずるものにあらざるべければ、いづれにしてもこの「いくり」は海中水に没してある石なるべきなり。次にこの「いくり」に對して「ありそ」をいへり。「ありそ」は普通荒き磯なりといへれど、余は品田太吉氏の説くなる「現磯《アライソ》」といふ義をよしと信ずるものなるが、若し然らずして、荒磯の義なりとしても、その磯の水面上に見ゆるものをいふことは疑ふべからず。即ちこの對句にありては、水面下に没せる石《イクリ》と、水面上にあらはれ見ゆる石《イソ》とをいひ分けたりと見ゆ。されば、この歌にては「上に出で(248)たる」を「いくり」といふことの證とならざるのみならず、かへりて反對の事の證たりといふべし。次に萬葉集卷六の歌なる「海の底」は古事記傳の説の如く水平的に、遠くさかりたる極《ハテ》をいへるにて、もとより今の海底の義にあらず。從つて「奥」も亦今いふ「沖」にして海底にあらぬは勿論なり。されど、その下の語に「鰒珠さはに潜出」といへるに對していふ「いくり」は、水面に出でたる石なりといふことを證しうるものにあらざるは何人も首肯せらるべし。又記紀の歌なる「由良の門の門中のいくり」といふものが、海面上に出でたりといふ證にはならず。これによりて本居翁が、「うへに出でたるをいひ」といはれたるは確證なきことにして、從ふべからず。さりとて上の歌どもにては必ず水面下に没してありといふことも亦斷言しうべきにあらず。この故に、上述の歌によりてこれらの事を決せむことは覺つかなきことなりといふべし。されば上述の歌によりての考説は姑くおき、他の方面より觀察を下すべし。
 今この語の眞義を知らむと欲するに、これが解決に資すべきものの吾人の知る所にて最も古きは袖中抄の説なり。その卷十六「いはとかしは」の條に曰はく、
  船路には石をばくりともいへり。
とあり。こは如何なる事をいへるにか。上にあげたる諸説にてはこの意を釋すること能はざるなり。次には仙覺の萬葉集註釋卷第二上に
  伊久里爾曾とはいは發語の詞くりは石也。山陰道の風俗石をばくりと云也。
とあり。これは幽遠隨筆にも引けるなれど、入江はこの本意を知らざりしが如し。さて契沖はこの仙覺の説に反對して次の如くいへり。
(249)  伊は發語の詞ならず。クリは山陰道の風俗によらずして元來いくりと云なるべし。
 然れども、契沖以後の學者の説は所謂机上の空論にすぎず。「い」が發語にして「くり」の石なる由は釋紀も仙覺抄も一致する所なれば、確乎たる反證なき限り、漫りに之を否認するは不理なりといふべく、ことに袖中抄には「いくり」といふ語の解釋をなす爲にもあらず、又「くり」といふ語を釋する爲にもあらず、前二者とは直接に關係なく、ただ「いはとかしは」が石の義なることをいはむついでに自然に出でたる説明中の語なれば「くり」といふ語の鎌倉時代以前に普通に知られてありしものなるを見るべし。
 さて上にあげたる諸例を見るに、先づ萬葉集卷二の歌なるは「深海松生ふる」とあれば、その石は海水中に没入してある石なるを思はしむることは既に述べたる所なるが、それと共に、その石が時々ころがりまはるものならば、海松の生ふることあるまじければ動かずあるものなるを考へしむるなり。次に萬葉集卷六の歌なるは「奥ついくりに鰒珠さはに潜出で」とあるによらば、その海人が海中より出でて息ふべき大さある岩なるべきは想像せらる。次に記紀の歌なるは由良海峽の海水中に没して存せる岩礁なるべきにあらずば歌の意とほらずと思はる。かく考へ來る時は、その「いくり」はもとより「石」たるに相違なけれど、個々に離れて累々たる小石にはあらずして、根深く立ちて動かざる岩礁なりと考へざるべからず。
 かくの如く考へ來る時にかの袖中抄に
  船路には石をばくりともいへり。
といふことの眞意を了解しうべし。ここに船路といふ以上は航路にあたりて問題となる性質の石、即ち、海中に存する岩礁たらざるべからずと推定せざるべからず。然らずば、船路といふべきいはれなきなり。而して又仙覺抄に
(250)  山陰道の風俗石をばくりと云也
といへるを考ふるに、風俗は即ち方言の意なるべきが、山陰道にてはすべての石を「くり」といひしか如何。又この歌が石見の海にての歌なるが爲におしあてにいへるにあらずして、眞に山陰道の方言にてかくいへるものなるべく考ふるを穩當とすべきが、その「くり」といへるは一般の石をひろくいへるにあらずしてかの袖中抄にいへる如く船路にての語なるべしと考ふるを穩かなりとす。
 吾人が、上の如く考ふるを穩かなりと思ふに到れる事情は次に説くべき二點よりなり。一は萬葉集類林の「いくり」の條下に、
  或見牛西國にて今も俗はぐりといふ。
とある事なり。こは見牛即ち今井似閑が言を録せるものなるが、その當時西國にて石を「ぐり」といへる由なれば、古語のここになほ殘りて用ゐられしを見るべし。さてその西國とは何處あたりといふ事も明かならず、又その「ぐり」といふ語の眞意も明かならず。今これを知らむとするには別に方途をとるべき必要に逼られたり。かくして、種々研究せるうち、吾人ははしなく、上述の暗礁の義に「ぐり」といふ語の用ゐられてあること、しかもその用ゐられてある範圍の頗る廣きことを認むるに至れり。そは何かといふに、日本地誌提要を按ずるに、その出雲國の暗礁の項中に、
 入道繰《ニフダグリ》 十良《ジフラ》繰 美伊《ミイ》繰 松島《マツシマ》繰 地俎《ヂマナイタ》繰 ○沖《オキ》俎繰 ○清水《キヨミヅ》繰 垢繰《アカグリ》 横《ヨコ》繰 加賀繰《カガグリ》
 桁掛折《ケタカケノヲリ》繰 坂《サカ》繰 ○黒島《クロシマ》繰 ○艫島折《トモシマノヲリ》繰
と見ゆ。ここには暗礁を「グリ」といへりと見ゆること明かなりとす。吾人はここに出雲の地勢方言に「グリ」と(251)いふがありて暗礁を示す語なることを知り得たるものなるが、その他の地方には如何と見るに、石見の部には暗礁の項なきを以て知るによしなきが、山陽道にても長門國の暗礁の名に
 姫島繰《ヒメシマグリ》 一ニ大繰瀬ト云  野島《ノシマ》繰
とある見ゆ。この二礁共に阿武郡なれば、日本海の方面に屬するものなり。而して、長門の瀬戸内海方面のものにはこの「グリ」を以て名づけたるものなし。さて出雲より此方にては、伯耆國の暗礁の名に
  和田《ワダ》繰 ○重繰《シゲクリ》礁
 丹後國の暗礁の名にも
  三礁《ミクリ》
 又能登國の暗礁の名には
  淺栗《アサクリ》  ○目繰《メクリ》  大繰《オホクリ》
 佐渡國の暗礁の名には
  魚繰《ウヲクリ》
 羽前國の暗礁の名には
  邪魔繰 西路繰
 羽後國の暗礁の項には
  椿村 同(秋田)郡岸ヲ距ル貳給町許暗礁三所アリ。俗|三栗《ミツクリ》ト稱ス。大凡貳丈ヨリ三丈ニ至ル。退潮ニハ少トシク露ル。
(252)あり。以上の如くなれば、日本海治岸地方を通じて、長門より羽後にわたりて一帶に暗礁をかくいへることを見るべし。而して考ふるに、伯耆丹後能登羽後なるには「グリ」といはずして「クリ」といへるを見れば、「グリ」といへるは連聲上より起りし音變化にして、本語は「クリ」なりしものなりと考へらる。
 かく種々の場合を綜合して考ふるに、似閑が「西國にて今も俗『ぐり』といふ」といへる西國とは出雲長門などの國をさせるなるべく、その「ぐり」といふは、上の「クリ」にしてこの地方にて「グリ」といへるをさすものと見らるべし。然らば、その「ぐり」又は「くり」はただの海中の石をさすにあらずして漢字にて「礁」字をかくものに相當する語なるべきを思ふべし。かくして、仙覺抄に「山陰道云々」といへるが如きも浮きたる事にあらずして、暗礁を「くり」といふ現今の地方は山陰道を中心として西は長門、東北は北陸出羽まで及べるを見れば、仙覺抄の知識は寧ろ一局部を知りしに止まるといふを得べく、又袖中抄に「船路云々」といへる所以をもよく了得しうべきなり。
 かくの如く考へ來りてここに吾人は今もこの語が上來述べたる意にて用ゐられてありといふを得るに至れるものなるが、釋日本紀にいへる釋をば「い」は發語「くり」は海中の暗礁なりといひかへて以て「いくり」の説明を今人の知識中に攝取すべきものと考ふるものなり。
 しかも、かの「いくり」と今の「くり」との間の變遷轉化の關係は容易に決定的の言を弄するを得ず。即ち先づ釋日本紀の説の如く「い」は發語にして本語が「くり」なりしものか、或は又古語「いくり」にして後世それが略せられて「くり」となりしものか。果して然りとせば、釋日本紀仙覺抄等は當時の語を以て古の語に擬したりといふこととなるべし。即ちこれらの説は直ちす當を得たりとすべきものか否か、考慮をめぐらさるべからず。次にそ(253)の語の行はれし範圍なるが、その「いくり」若くは「くり」が古くは汎く行はれ中央帝都地方の語としても用ゐられしものならむが、仙覺の頃にはや地方にのみ局せる語となりしものの如く、その地方は仙覺は山陰道とのみ思ひしものならむ。しかも、その仙覺の知れることも當時の實際に照せば、一部分を知りしものに止まるべく、少くも、現在の如く、裏日本一帶の地方に行はれしものならむ。而して袖中抄仙覺秒の頃はそれらの地方にては一般の普通語として用ゐしものならむが、後世にはただ地勢上暗礁を固有名詞的にさすに用ゐらるるに止まるに至りしものならむか。 
          (昭和三年七月、民族第三卷第五號)
 
 
(254)         許知碁知の考
 
 古事記の雄略天皇の條の歌の詞に許知碁知といへる語あり、又萬葉集にもこの語三四あり。これにつき先輩の研究ありて、略その意は明らかなれど、なほ十分に心ゆかぬ點ありと考へらるるによりて、ここに愚見を述べて世の教を請はむと欲す。
 先づその語例をあげむ。古事記なるは雄略天皇の御製にしてその長歌のはじめに
  久佐加辨能《クサカミノ》、許知能夜麻登《コチノヤマト》、多多美許母《タタミコモ》、幣具理能夜麻能《ヘグリノヤマノ》、許知碁知能《コチゴチノ》、夜麻能賀比爾《ヤマノカヒニ》、多知邪加由流《タチザカユル》、波毘呂久麻加斯《ロクマカシ》(下略)
とあるなり。萬葉集にては卷二に柿本人麿の妻の死を慟みてよめる長歌(二一〇)に
  ※[走+多]出之《ワシリデノ》、堤爾立有《ツツミニタテル》、槻木之《ツキノキノ》、己知碁智乃枝之《コチゴチノエノ》、春葉之《ハルノハノ》、茂之如久《シゲキガゴトク》、念有之《オモヘリシ》、妹者雖有《イモニハアレド》(上下略)
と見え、なほ同じ歌の或本云としてあげたる異説(二一三)には
  出立之《イデタチノ》、百兄槻木《モモエツキノキ》、虚知期知爾《コチゴチニ》、枝刺有如《エダサセルゴト》、
と見え、又卷三なる高橋蟲麻呂之歌の中に出でたりといへる不盡山を詠める長歌(三一九)のうちにも
  奈麻余美乃《ナマヨミノ》、甲斐乃國《カヒノクニ》、打縁流《ウチヨスル》、駿河能國與《スルガノクニト》、己知其智乃《コチゴチノ》、國之三中從《クニノミナカユ》、出|之《・(立?)》有《イデタテル》、不盡能高嶺者《フジノタカネハ》、(下略)
と見え、又卷九の諸卿大夫等下難波時歌二首のうちの一なる長歌(一七四九)にも見ゆ。その長歌は
(255)  白雲乃《シラクモノ》、立田山乎《タツタノヤマヲ》、夕晩爾《ユフグレニ》、打越去者《ウチコエユケバ》、瀧上之《タキノウヘノ》、櫻花者《サクラノハナハ》、開有者《サキタルハ》、落過祁里《チリスギニケリ》、含有者《フフメルハ》、可開繼《サキツギヌベシ》。許智期智乃《コチゴチノ》、花之盛爾《ハナノサカリニ》、雖不見《ミズトイヘド》、左右《カニカクニ》、君之三行者《キミガミユキハ》、今西應有《イマニシアルベシ》(「雖不見左右」の訓み方には考ふべき點少からねど、今問題外なれば、舊訓のままにさしおく。)
といふ歌なり。以上五首の外にこの語の用例を未だ見ず。
 さて以上の例中に記載せる字面を見るに、
  許知碁知能   (古事記)
  己知碁智能   (萬、二一〇)
  虚知期知爾   (萬、二一三)
  己知其智乃   (萬、三一九)
  許智期智乃   (萬、一七四九)
とありて、第三の音は「碁」「期」「其」の字を用ゐたれば濁音にて「ゴ」とよむべきものたるを見るべし。次にこれらの多くが「ノ」といふ助詞を伴へるを見、又「ニ」といふ助詞を伴へるを見るなり。かくてこれらの語の意義と本質とは如何。これにつきて既にいへる如く、先哲の論ぜる所少からず。次にそれらをあげて批判せむ。
 契沖は代匠記の初稿に於いて、卷二の歌について
  こち/\の枝はをちこちにてかなたこなたの枝なり
といひ、又精撰本にては
  こち/\の枝とはあちこちの枝なり
(256)といひて委しき説を示さず。但し代匠記卷二にその「二一三」の歌にては
  虚知期知
に「カチコチ」といふ振假名をつけ、その説明に
  かちこちにとあるはかんなのあやまりなりさきの歌のごとくこち/\なり
(これは古活字本に「コ」字を位置を顛じて「※[コ左へ九〇度回転]」の如くせるを寛永坂に「カ」と誤り刻せること校本萬葉集の編者の説ける所によりて明かなれば、再び論ずるを要せず。)
 萬葉集類林にはこの語につきて次の如く説けり。
  己與遠同韻通じてをちこちとわたりみゆる也。されども後のこに碁其期等の濁字を書たれば、うたがはし。しかしこち/\といふには後のこもじを濁るにか、傳へのままの古語なるべし。
契沖の説明は不徹底なれど、意味はまさしく然るべしと考へらるるなるが、類林の「をちこち」と同語なる如く考へたるはその説進歩せる如くにして、しかも進歩せりといふべからず。「をちこち」を「こちこち」と通音にていふを得としても下を「ごち」と濁る理由は説明しうべからず。されば、類林自ら疑を存せるなり。されば、これは未だ定説とすべき力を有せざる説なりといふべし。
 かくの如き勢にて時を經たるが、荒木田久老の槻の落葉に到りて稍正しき解を得るに及べり、この書は萬葉集卷三の解なることいふをまたぬが、かの不盡山を詠める歌の語を解して、
  こちは此方也。ちはいつちの知に同じ。
  甲斐の國の此方《コチ》、駿河國の此方《コチ》とふたつに分(ク)る言葉なり。
(257)といへり。これにては「こち」を重ねて「こちごち」といへるものと見たりと考へらるるが、然する時に「こちごち」といふ連濁の現象の生ずる事は理解せられうべし。然れども、その解義の「ふたつに分くる言葉なり」といへる事は果して眞義を遺破し得たりとすべきか。さはれ「こち」といふ語の疊語なりと喝破せる點は從來の諸説にすぐれて、眞相をとらへたりといふべきなり。
 本居宣長はこの久老の説をよしとして、さて古事記傳に説いて曰く
  許知碁知能は此方此方之《コチゴチノ》なり(下なる碁《ゴ》を濁るは重なる故なり)。こは彼方此方《ヲチコチ》なるを此方此方《コチコチ》としも云は此方《コナタ》より彼方《ヲチ》と云處は彼方《ソナタ》にては又|此方《コチ》なれば、此方《コナタ》の此方《コチ》、彼方《アナタ》の此方《コチ》なり。(此説は荒木田久老が萬葉の歌なるにつきて云る説にて信《マコト》に然《サ》ることなり然るを昔より誰も許《コ》と袁《ヲ》と通ひて直《タヾ》に彼此《ヲチコチ》と云言とのみ心得るは精《クハ》しからず。さては彼《ヲチ》と此《コチ》と混《ヒト》つになりて差《ワキタメ》なし)。
といび、その歌につきては
  さて此《コヽ》は此《コチ》の日下部(ノ)山と彼方《ヲチ》の平群(ノ)山と各其《オノオノノ》此方《コチ》なり。
と釋せり。ここにこれを「コチ」の疊語とし、且つその歌の意を適切に説ける點は間然すべきにあらねど、この語の本義を説かむ爲に、
  此方より彼方と云處は彼方にては又此方なれば、此方彼方なり。
といへる果して何の義ぞや。古代のわれらの祖先がかかる似而非哲學めきたる事を考へて語を用ゐたりしか。吾人はこの説明には服しかぬるなり。然れども本居翁の名の爲にか、此に服したりしもの頗る多く、岸本由豆流の攷證、鹿持雅澄の古義の如き、異説を立つる事なくして之によれり。
(258) 然るに橘守部はひとり之を不十分なりとし、山彦冊子に於いて之を論ぜり。彼は先づ
  許知其知てふ言、圓珠庵、縣居の翁などは只|許《コ》と乎《ヲ》と同韵にて通ずればをちこちの意也といふ、又古事記傳に其《ソ》を辨ていへるやう(以下古事記傳上述の文をひく)といへる、共に皆ひがごとなり。
と駁し、さて曰はく、
  今考るに、許知其知は彼此《ヲチコチ》とは元より別にて其(ノ)言の貌《サマ》、上に物二ツを先ツいひて、其の一ツを此《コチ》と指し、今一ツを此《コチ》と指していふ詞なり。今の心にては兩《フタツ》ながら此《コチ》といはむは差別《ワキタメ》なく、いかがなるやうなれど、今(ノ)俗言にも兩方にある物を指《ユビサシ》して此方《コチラ》がよい、此方もよい、又此方《コチラ》がおもしろい、否《イナ》此等《コチラ》がおもしろいなど、常にいふと同じいひざまなり。(幼きほどの言には殊によくいふめり)さればかの彼方《ヲチコチ》と云(フ)語は(をちこちのたづきもしらぬ山中にとやうに)うちつけにもよみ出せるを此(ノ)許知其知は一首の初めに、うち出せる例に非ずして必ず先(ツ)上に物二ツを云て其(ノ)次にのみいへり。物二ツとは古事記雄略段大御歌に久佐加辨能、許知能夜麻登、多々美許母、幣具理能夜麻能、許知碁知能、夜麻能賀比爾 云々 (日下部《クサカヘ》の山と平群《ヘグリ》の山と二つに係《カケ》て日下部(ノ)山の此方、平群(ノ)山の此方《コチ》と云(フ)意なり)萬葉卷三【二十七丁】に奈麻余美乃甲斐乃國、打縁流、駿河能國與、己知其智乃、國之之三中從云々(甲斐と駿河との二つを指せる意上に同じ)卷九【二十一丁】に瀧上之櫻花者開有者落過祁里、含有者可開繼、許智期智乃花之盛爾云々(落過たると含有との二つを指たること此《コレ》も上と同し)卷二【三十九丁】に出立百兄槻木、虚知期知爾、枝刺有如云々(木は凡て左右へ枝の刺(ス)ものなれば其(ノ)兩方の枝を指て云へる、此(レ)も上と同じ。此(レ)等に合せて思ふに熱田社寛平縁起に載せたる日本武尊御歌に麻蘇義《マソゲ》、乎波理乃夜麻等《ヲハリノヤマト》、許知其知能《コチゴチノ》とあるも、乎波理乃夜麻《ヲハリノヤマ》の次に、母々志禰《モヽシネ》、美努能夜麻登《ミヌノヤマト》とありけるが、脱したるなるべし。凡て此(ノ)御歌は次々もいたく(259)亂て落字いと多かれば也)など有にて物二ツを此《コチ》、此《コチ》と指《ユビサシ》して云語なる事を知べし。(中略)さて下の其《ゴ》を濁るは言の重れる故ぞ。
といへり。これも、「コチ」の疊語としてその義を説かむとせるが、本居説の如く哲學めきたる説明をせざる所に長所は認めらる。されば、今の學者多くはこれを是認せるものの如し。然れども、よく考ふるに、この説はよく通るやうに見えて實は不通の説と考へらる。この説の生命とする所は「上に物二つを先づいひて其(ノ)一ツを此《コチ》と指し今一ツを此《コチ》と指(シ)ていふ詞なり」といふ點に存すべきなり。然るに、その説の如く上に物二つを先づいへる例は古事記の御製と萬葉卷三の歌とのみにして、他の三例は然らず。然るに、守部はその他をも説明を加へて物二を先づいへる由にいひなさむとせり。されど、萬葉卷二の二例の如きは全然さる事なきにあらずや。然らば「上に物二つを先づいひて」といへる事は徹底せぬにあらずや。かくいはば、「そは既に、木は凡て左右へ枝の刺(ス)ものなれば、その兩方の枝を指して云へる云々」といへる如く、物二つをさせる〔七字右○〕にあらずやといふ人あらむ。然れどもこれは「上に物二つを〔六字右○〕」いへるにあらずして、守部が物二つある由を説けるに止まるにあらずや。かくてなほ考ふれば、この説明法を以てする時は「をちこち」とても同じ樣に説明せらるべく、「かれこれ」「それぞれ」「おの/\」等いづれも同樣に説明せらるべし。何が故にかく同樣に説明せらるるに至るぞといふに、これらはすべてある物をさしていふ語を二つ重ねたるなればその上に二つ以上並べあげたる場合はもとよりなれど、さあらずして下にその物をあげても、又明かにその物二以上を示せる場合にも、又明かに示すことなき場合にも通じて用ゐらるる語格といふべきにあらずや。かくの如くなれば、かの守部の説明は不通の論といふべく、若しこれを守部の後説の如くに會通せば「こちごち」以外の類似の語にも同樣に適用せらるべし。かくて守部説は「こちごち」の特殊の意と用法とを説明(260)せむとして自繩自縛に陷るべき運命に逢着せりといふべし。
 然らばこの「こちごち」は如何に解すべきかといふに、余は極めて平凡に常識的に解しうべきものなりと信ず。
 第一にこれが「をちこち」といふ語の轉にあらぬ事は最初の音が「こち」にて「をち」にてあらぬにて明かなり。凡そ語音の轉ずる多くの場合は、そが複合する場合に下なる語の頭音が濁音化するか若くは上なる語の尾音が母音の變化を生ずるかの二者を起すこと往々あれども、最初の音の轉化するが如きことは極めて特異の場合にして、殆ど見ること稀なる現象なり。されば、「をちこち」といふ語と「こちごち」といふ語とは明かに別の語たるを見るべし。
 第二に同一の語を重ねたる場合に生ずる音の轉化は上の語の尾音に生ずること全くなくして、若し轉化する時ありとせば、下なる語の頭音の連濁吾をなすもののみなり。而して今「こちごち」はまさしくこの現象を呈せり。されば、これは「こち」の重ねられたる語たりといふ見解を下すに、何等の矛盾を呈することなし。
 第三に、「こちごち」が「こち」といふ語を重ねたるものとするときはその語の性質は如何、又如何なる取扱を受くべきかといふに、こは吾人の所謂疊語なれば、個々の意を以て重ねらるゝか、又は相合して状態を示す意をあらはすかの二者の一に居るべきものなるが、ここは槻の落葉、古事記傳、山彦冊子の説の如く、「こち」と「こち」との個別的の意にて重ねられしものなること明かなり。隨つてかゝる疊語は體言の取扱を受くべきものなれば、助詞「ノ」「ニ」にて助けらるるも亦當然の事なり。以上の如くその本質本義を明かにしたれば、殘る所は實際上の意義なり。その實際上の意は常識的にいひて、かの契沖の説の如く「あちこち」といふ程のことに止まるべきなり。果して然らば、何が故に「あちこち」などいはずして「こちごち」といへるか。これ次に説かむと欲する點な(261)り。
 さて何が故に我等が今「あちこち」といふべき所を「こちごろ」といひしか、本居翁の説の如き考へ方に基づくか、はた守部のいひしが如き理由によるかといふに、その實はさるむづかしき理由によるにあらずして、當時「あち」といふ語末だあらずして、かかる場合に用ゐらるる代名詞が「こち」一つのみなりしが故なるべく考へらる。一般的にいへば、「こち」は第三人稱の近稱の方向をさす代名詞なるが、かく近稱といふ説明を下すは、これに對して遠稱の「あち」中稱の「そち」といふ語の存するによればなり。然るに、この頃の文獻を見るに、「こち」といへる語の用例は少からず見ゆれど、「そち」といふ語は用ゐたる例を見ざる事は奈良朝文法史に既にいへる所なり。而して後世第三人稱の遠稱と目せらるる「あ」「あれ」といふ一群の語は全く未だ當時に發生してあらずと考へらる。なほ又同じく遠稱と目せらるる「か」「かれ」の一群は少しく見ゆれど、發達十分ならざるを見る。又たとひ、「か」「かれ」が、當時ありとても、それに基づくべき「かち」といふ語は古來なき所なれば、「か」の類を用ゐて方向を示す語は「かなた」以外には全く成立せざりしものと考へらる。以上の如く考ふれば、第三人稱の方向をさす語としては當時「こち」の一語に止まりしことは明かなり。されば、この語を以て、われらが、「あち」「そち」などいふ如き場合のものにも應用したりしことは想像に難からず。かくてわれらが「あちこち」といふ如き場合にも「こち」を重ねたる「こちごち」を用ゐることは行はれうべきものといはざるべからざるのみならず、「こち」「こち」といふより外に方法は無かりしものと考へらる。即ちこれは必然的のものにして、代名詞を用ゐてかくの如きさし方をせむには當時これ以外のいひ方の存せざりしものといふべし。
 以上の如き見地に立ちて見れば、「こちごち」ははじめより「こちごち」にして「をちこち」の變化にも代用に(262)もあらず、又「あちこち」の代用にもあらずして、寧ろ吾人の「あちこち」といふ語形の成立せざりし以前にそれと同じ意と用とをなしし古形なりしものといふべきなり。されば、本居翁の説の如きは全く架空の臆説にしてとるべきにあらざるを知るべく、又守部の「先づ物二つをいひて云々」といへるは強ひたる事柄にして、とるべきにあらねど、その以下にいへる、「今(ノ)俗言にも兩方にある物を指して此方がよい、此方もよい、又此方がおもしろい、否此等がおもしろいなど常にいふと同じいひざまなり」と説明せる點は、その眞義に觸れたる説明といふべし。されど、この語法の根本義に觸れたりとはいふべからず。「こちごち」と重ねいへる以上、それによりて指示せらるるものは二若くは二以上あるべきは理の見易き所なり。されば、この語は今の語にいへば「あちらやこちら」といふに異ならぬ日常語たりしものなりしならむと考へらるるなり。 (昭和四年十月、アララギ第二十二卷第十號)
 
 
(263)        「母等奈」考
 
 萬葉集には屡「もとな」といふ語の用ゐられたるを見る。この語の同集中最初に見ゆるは卷二の靈龜元年九月志貴親王薨時の長歌に
  何鴨本名〔二字右○〕言《・ナニカモモトナイフ》、聞者泣耳師所哭《・キケバネノミシナカユ》、語者心曾痛《・カタレバコヽロゾイタキ》、(二三〇)
といへるものなるが、この語の解につきては袖中抄十六に
  顯昭云もとなとはよしなといふ心とみえたり、萬葉歌ども其心なり。
といひて多くの例歌をあげ、さて又
  或人云もとなとは心もとなしと云ことかと申せど歌どもの心にかなはず。
といへり。代匠記に、
  もとなは此集におほき詞なり。よしなきといふ詞なり。こゝに本名とかきたれども本無といふ事なり。由といふも本なればおなじ詞なれど、後はよしなきとのみいへり。
といひ、略解はこれによりて
  もとなはよしなに同じ。
といひ、なほ卷四「五八六」の歌の下には
(264)  もとなは故由もなく也。
といへり。
 萬業考は
  本名は空し也。
といひ、倭訓栞は代匠記と考との説を湊合して
  よしなの義なりといへり。されば由縁なき意にや。由來をもとよりとよめり。又むなしの義也といへり。
といひ、玉の小琴には
  本名と言は何れも皆今世の俗言にめつたにと云と同じ。めつたには現にと云と同意にてみだり、めつた、もとな皆通音にて元同言也。さて集中にもとなと云は實にみだりなるには非れども其ことをいとふ心より猥なるやうに思ひて云こと也。爰の歌にていはば、聞《キカ》ばねのみなかれ、心痛き物を何ぞ猥に云ると云也。
といへり。
 岸本由豆流はこの本居説に從へるが、「五八六」の下には
  この言は上にあげたる宣長の説の如くみだりにといふ意にて一首の意ははじめよりあひ見ずばかくの如く戀ざらましものを君を見そめてよりみだりにかくばかり戀ば行末いかにかせましといふ也。
といひたるが、又別に
  契沖はよしなしといふ意地といへり。本づく所なき意なればこれも叶へり。
といひて契沖説をも賛成せり。されど、契沖のいふ所と宣長のいふ所とは同一ならねば、いづれをもよしといふは(265)曖昧なる態度といふべし。
 鹿持雅澄は又本居説を賛して、次の如く、一歩を進めいへり曰はく、
  黒白の分別《ワキタメ》もなく物するやうの意なり。
 又守部の檜嬬手に曰はく、
  本名、此語は漢文に寧《ムシロ》また無乃《ムシロ》など訓めるむしろの通音にて世にいはゆる結句にわろきなり。されば此《ココ》も問はねばよきに、問はれて却てわるきを云ふ。
又楢の嬬手には、
  本無也。おほつかなきをいふ。今俗こころもとなといへるはこころのもとなきにて、このことの遺なるべし。
といひたるが、俚言集覽には倭訓栞の説を引きて後
  愚案、俗に心モトナイといふも此語に同じかるべし。
といへり。かくてこれよりこの「もとな」をば、「心もとなし」と同じ詞なりといふこと往々萬葉の注釋家に蹈襲せられたり。
 以上述べたる如くにして、この語の解釋には大體
  よしなし
  空し
  めつたに又みだりに
  むしろ
(266)  おぼつかなき
  心もとなし
の如く六樣の説明の行はれてありと見らるるが、それらの諸説いづれも共に成立すべきか、或はいづれかの説が正當にして他の説が不當なりやを檢せむとす。
 先づこのうちに、「むしろ」の通音なりとする説は一見、不當なるを認む。「むしろ」と「もとな」と通音なりといふが如きは根據なきことにして、通音の理論よりいひてもあまりに無理といふべく、「むしろ」の意によりてこの語を解して萬葉集中の諸例にあて試むるに、殆ど一も通ぜざること明かなり。
 次に「みだりに」と「もとな」と音通なりといふことも、通音の理論より見て無理なることは誰人も見て知る所なればことごとしく論ぜず。「めつた」と「もとな」とは「め」と「も」、「つ」と「と」とを同音相通とし、「た」と「な」とを同韻相通とせば、或は音通の説は通用せむも知らず。然れども、その意を以て萬葉集の諸例を釋せむに、當れりとすべからぬもの多く存す。この故にこの説も容易に從ひ難きものとす。
 今以上の諸説の當否を檢せむとする前に、集中の用例の如何なる現象を呈するかを知らむと欲す。
 先づ、見ゆるものは、「もとな〔三字右○〕こふる〔三字傍点〕」といへるものなり。その例は卷四に、大伴宿禰稻公贈2田村大孃1歌に、
  不相見者不戀有益乎妹乎見而《アヒミズバコヒザラマシヲイモヲミテ》本名〔二字右○〕如此耳戀者奈何將爲《カクノミコヒハイカニセム》(五八六)
同じ卷の大伴坂上郎女從2跡見庄1贈2賜留宅女子大孃1歌の終に
  如是許《カクバカリ》本名〔二字右○〕四戀者古郷爾此月期呂毛有勝益士《シコヒバフルサトニコノツキゴロモアリカツマンジ》(七二三)
卷八の秋雜歌中に、
(267)  玉蜻※[虫+廷]髣髴所見而別去者《タマカギルホノカニミエテワカレナバ》毛等奈〔三字右○〕也戀牟相時麻而波《ヤコヒムアフトキマデハ》(一五二六)
卷十二卷の寄物陳思の歌に、
  紫帶之結毛解毛不見《ムラサキノオビノムスビモトキモミズ》本名也〔三字右○〕妹爾戀度南《ヤイモニコヒワタリナム》(二九七四)
同じ卷の悲別歌に、
  浦毛無去之君故朝旦《ウラモナクイニシキミユヱアサナアサナ》本名〔二字右○〕烏戀相跡者無杼《ゾコフルアフトハナケド》(三一八〇)
卷十三相聞中の長歌の末に、
  借薦之心文小竹荷人不知《カリコモノコヽロモシヌニヒトシレズ》本名〔二字右○〕曾戀氣之緒丹四天《ゾコフルイキノヲニシテ》(三二五五)
同じ卷の長歌の末に、
  吾戀流千重乃一重母人不知《ワガコフルチヘノヒトヘモヒトシレズ》本名〔二字右○〕也戀牟氣之緒爾爲而《ヤコヒムイキノヲニシテ》(三二七二)
 次には「もとな〔三字右○〕おもふ〔三字傍点〕」といへるものあり。卷十七の平群氏女郎贈2越中守大伴宿禰家持1歌十二首の中、
  佐刀知加久伎美我奈里那波古非米也等《サトチカクキミガナリナバコヒメヤト》母登奈〔三字右○〕於毛比此安連曾久夜思伎《オモヒシアレゾクヤシキ》(三九三九)
同じ卷、林王宅餞2之但馬按察使橘奈良麿朝臣1宴歌三首の中、少納言大伴宿禰家持の歌に、
  白雪能布里之久山乎越由可牟君乎曾《シラユキノフリシクヤマヲコエユカムキミヲゾ》母等奈〔三字右○〕伊吉能乎爾念《イキノヲニオモフ》(四二八一)
次に「もとな〔三字右○〕おもほゆ〔四字傍点〕」といへるものなり。卷四の笠女郎贈大伴宿禰家持歌廿四首の中、
  吾屋戸之暮陰草乃白露之消蟹《ワガヤドノユフカゲグサノシラツユノケヌガニ》本名〔二字右○〕所念鴨《オモホユルカモ》(五九四)
 次には「もとな〔二字右○〕あひみる〔四字傍点〕」といへるものあり。卷十七の述戀緒歌一首並短歌の反歌の中、
  奴婆多麻乃伊米爾波《ヌバタマノイメニハ》母等奈〔三字右○〕安比見禮騰多太爾安良禰婆孤悲夜麻受家里《アヒミレドタダニアラネバコヒヤマズケリ》(三九八〇)
(268) 次には「もとな〔三字右○〕みえつつ〔四字傍点〕」といへるものあり。卷十四の相聞の中に
  思麻艮久波禰都追母安良牟乎伊米能未爾《シマラクハネツツモアラムヲイメノミニ》母登奈〔三字右○〕見要都追安乎禰思奈久流《ミエツツアヲネシナクル》(三四七一)
卷十九の從京都來贈歌の中に、
  於毛可宜爾《オモカゲニ》毛得奈〔三字右○〕民延都都可久古非婆意伊豆久安我未氣太志安倍牟可母《ミエツツカクコヒバオイツクアガミケダシアヘムカモ》(四二二〇)
 次には「みせつつ〔四字傍点〕もとな〔三字右○〕」といへるあり。これは「もとなみせつつ」の意なるを歌詞の爲に顛倒しておけるものと思はる。その例、卷三の高市連黒人近江舊都歌、
  如是故爾不見跡云物乎《カクユヱニミジトイフモノヲ》、樂浪乃舊都乎令見乍《ササナミノフルキミヤコヲミセツツ》本名〔二字右○〕(三〇五)
卷十の寄花の中に、
  咲友不知師有者黙然將有此秋芽子乎令視管《サケリトモシラズシアラバモダモアラムコノアキハギヲミセツツ》本名〔二字右○〕(二二九三)
卷十七の大伴宿禰家持臥病作の二首の中、
  佐家理等母之良受之安良婆母太毛安良牟己能夜萬夫吉乎美勢追都《サケリトモシラズシアラバモダモアラムコノヤマブキヲミセツツ》母等奈〔三字右○〕(三九七六)
 次には「もとな〔三字右○〕なく〔二字傍点〕」といへるものあり。卷十五の中臣朝臣宅守寄2花鳥1陳v思作歌の中に
  多婢爾之弖毛能毛布等吉爾保等登藝須《タビニシテモノモフトキニホトトギス》毛等奈〔三字右○〕那難吉曾安我古非麻左流《ナナキソアガコヒマサル》(三七八一)
又「なきつつ〔四字傍点〕もとな〔三字右○〕」といへるは、「もとななきつつ」といふべきを歌詞の爲に顛倒しておけるものなれば、同じくこの類に屬す。その例卷四、大神女郎贈2大伴宿禰家持1歌に、
  狹夜中爾友喚千鳥物念跡和備居時二鳴乍《サヨナカニトモヨブチドリモノモフトワビヲルトキニナキツツ》本名〔二字右○〕(六一八)
卷十春雜歌の詠鳥中に、
(269)  春之去者妻乎求等鶯之木末乎傳鳴乍《ハルサレバツマヲモトムトウグヒスノコヌレヲツタヒナキツツ》本名〔二字右○〕(一八二六)
同卷雜歌の詠蝉中に、
  黙然毛將有時母鳴奈武日晩之物念時爾鳴管《モダモアラムトキモナカナムヒクラシノモノモフトキニナキツツ》本名〔二字右○〕(一九六四)
同卷相聞の旋頭歌に、
  蟋蟀之吾床隔爾鳴乍《コホロギノワガトコノヘニナキツツ》本名〔二字右○〕起居管君爾戀爾宿不勝爾《オキヰツツキミニコフルニイネガテナクニ》(二三一〇)
 次には「もとな〔二字右○〕さきつつ〔四字傍点〕」といへるあり。卷十七平群氏女郎贈2越中守大伴宿禰家持1歌十二首の中に、
  麻都能波奈花可受爾之毛和我勢故我於母敝良奈久爾《マツノハナハナカズニシモワガセコガオモヘラナクニ》母登奈〔三字右○〕佐吉都追《サキツツ》(三九四二)
 又「てりつつ〔四字傍点〕もとな〔三字右○〕」といへるあり。これも「もとなてりつつ」といふべきを顛倒しておけるなり。卷十の詠月の中に、
  無心秋月夜之物念跡寢不所宿照乍《ココロナクアキノツクヨノモノモフトイノネラエヌニテリツツ》本名〔二字右○〕(二二二六)
 又「とけつつ〔四字傍点〕もとな〔三二字右○〕」といへるあり、これも顛倒しておけるものなり。卷十一の正述2心緒1のうちに、
  今更君之手枕卷宿米也吾紐緒乃解都追《イマサラニキミガタマクラマキネメヤワガヒモノヲノトケツツ》本名〔二字右○〕(二六一一)
 又「もとな〔二字右○〕かかりて〔四字傍点〕」といへるものあり。そは卷玉の思子等歌に、
  麻奈迦比爾《マナカヒニ》母等奈〔三字右○〕可可利提夜周伊斯奈佐農《カカリテヤスイシナサヌ》(八〇二)
 又「もとな〔三字右○〕ゆきあしかるらむ〔八字傍点〕」といへるものあり。卷十五の中臣朝臣宅守上道作歌の中の、
  宇流波之等安我毛布伊毛乎於毛比都追由氣婆可《ウルハシトアガモフイモヲオモヒツツユケバカ》母等奈〔三字右○〕由伎安思可流良武《ユキアシカルラム》(三七二九)
 以上は或る語を對象とする如くに解くを得る例なれど、その實はそれらはすべてある一語を對象とせるにあらず(270)して、この用言を中心として成立せる一團の語に關係せるものなりとす。かくてさる例の著しきものは次の如し。
卷四の山口女王贈2大伴宿禰家持1五首のうちの、
  不相念人乎也《アヒオモハヌヒトヲヤ》本名〔二字右○〕白細之袖漬左右二哭耳四泣裳《シロタヘノソデヒヅマデニネノミシナクモ》(六一四)
卷十一の旋頭歌のうちに、
  何爲命《ナニセムニイノチヲ》本名〔二字右○〕永欲爲雖生吾念殊安不相《ナガクホリセムイケリトモアガモフイモニヤスクアハネバ》(二三五八)
卷三の、
  今日可聞明日香河乃夕不離川津鳴瀬之清有良武《ケフモカモアスカノカハノユフサラズカハヅナクセノサヤケカルラム》(三五六)
の左注に、
  或本歌發句云|明日香川今毛可《アスカガハイマモカ》毛等奈〔三字右○〕
 さて以上の諸例に照して考ふるに、「もとな」を「むしろ」と譯して通ずべきもの殆ど一も存せざるなり。この故に、これは最初に排斥すべきものとす。次に「心もとなし」といふ解をなしうべきかを見るに、二三〇、三九三九、三七二九の各歌には全く通ずることなきを見る。その他の歌にても強ひていへば通ずる如く思はるるのみにして、必ず「心もとなし」といはざるべからざるものは一もなく、又「心もとなし」といふが適切なるにてもあらざるなり。
 次に「おぼつかなき」意とせむは如何にといふに、二三〇、三九三九、三〇五、二二九三、三九七六、六一八、一九六四、八〇二、三七二九等の歌にはこの意にて通ずることなし。その他にても、前と同じく必ず「おぼつかなき」とせざるべからざるものは一もなく、又「おぼつかなき」が適切なるにてもあらざるなり。
(271) 次に「空し」といふ意とせむは如何にといふに、二三〇、三〇五、二二九三、三九七六、三七八一、六一八、一八二六、一九六四、二三一〇、二二二六、八〇二、三七二九等の歌にはこの意は通ずることなし、その他にても前と同じく、必ず「空し」とせざるべからざるものは一もなく、又「空し」が適切なるにてもあらざるなり。
 次に「めつたに」又「みだりに」といふ意とせむは如何にといふに、「みだりに」といふ方にすれば大體通ずるやうなれど、八〇二、三七二九にては「みだりに」といふべくもあらず。今の「めつた」といふ語は古と異なる意になりてあれば、この語にあつることは適せず。
 次に「よしなし」といへるは如何といふに、これは殆ど全體に通じて用ゐらるるやうなれど、三七二九の歌の如きは、「よしなし」といふ語にてはあてはめ難きものなり。
 以上論ずる所によりて、「よしなし」といふ語にて譯するを最もよく適せりとし、「みだりに」といふ語にて譯するも亦略通ずるものといふべく、その他にては、無理多くして適當の譯といふことを得ざるなり。然れども、「よしなし」にても、「みだりに」にてもなほ通ぜぬ點あるは上にいふ所なり。かくあるは如何なる理由なるか。思ふに、從來の諸説は、この語の本質を研究せずしてただ某の語にて譯すべしといふか、若くは某の語にいひかへたるまでにして、その性質、本義を研究せざりしによるものならむ。この故に、ここにこの語の本質と眞意とを探らむと欲す。
 今この性質を考ふるに、すべての例に通じてこれは修飾格に用ゐられたるもののみなるを見る。而して、その修飾格は何を對象として修飾せるかといふに、その文の意義を對象とせるものなれば、情態の修飾格たることは明かなり。かくてその「もとな」といふ語の性質如何と考ふるに、かく修飾格に立ちうるものは單語としては主として(272)副詞たるを普通とするものなるが、この「もとな」が副詞なりやと顧みるに、吾人の見る所は先づ之を單語と認むること能はざるなり。然らばこれは如何なるものぞといふに、「もと」といふ名詞と形容詞「なし」の語幹「な」との合成語なるべく考へらるるなり。さては「もとなし」といふ語の若しありとせば、その連用形の「もとなく」といふ形の用法と略同じかるべき用をなすものと考へられざるべからず。
 かく「もとなし」の意とせば前にあげたる「心もとなし」の意かといふに、「こころもとなく」の意にしては不通なること既に明かなる如くなれば、然にはあらぬはいふまでもなし。然らばこの「もと」とは何の義をなせる語かといふに、余はここの「もと」は漢字にていはば、根元又は根據の義にあたるものなりと思ふ。而して、その「もとな」は「理由なく」「根據なく」などの精神によりて「わけもなく」「よしなく」「みだりに」などその場合によりて適する語をあてて解すべきものなりと思ふ。從來この根原の意義に溯らざるが故に、一方には通ずれども他方には通ずることを得ざりしなり。以上の如くして、はじめて「もとな」の本義をうかがふべしと思ふ。而して、かかる形式にて成れる合成語を以て修飾格に立たしむる例は「おぼつかな」「あぢきな」「さがな」或は「あやにく」など似たる場合は古來少からざるなり。
           (昭和二年十月、奈良文化第十二號)
 
(273)       吉備酒と糟湯酒
 
 巻四に丹生女王贈太宰帥大伴卿歌二首のうちの一首に
  古人乃令食看吉備能酒病者爲便無貫簀賜牟(五五四)
といふあり。この吉備能酒につきて契沖は
  吉備の酒は黍を以て作れる酒歟と云説あれども、それは唐の事なる上に吉備と書たれば、今の世も備後の柞原《ミハラ》酒など名あれば、昔も彼國によき酒造けむを筑紫より近ければ大伴卿それを求めて便に女王へ贈られけるにや。
といへり。古義には両説あるべしといひて先づ契沖説の吉備國酒をあげて
  庭訓往來にも備後酒見えたり。
と附加へて説き、次に
  ニ(ツ)には黍《キビノ》酒なるべし(黍を酒につくれること袖中抄にも見えたり。今も土左(ノ)國山里にてはもはら黍にて酒をかめり。其性|最《イト》醇厚《アツ》し古へも黍にて酒を造しならむ。もろこしにて鬱鬯といふ者は醸v※[禾+巨]爲v酒和以2鬱金草1芬香條2達於上下1故謂2之鬱鬯1と云り、又陶淵明(カ)傳に爲2彭澤令(ト)1在v顯(ニ)公田悉令v種2※[禾+求]穀1曰令3吾常醉2於酒1足矣云々とありて漢国にても古へは※[禾+求]《キビ》にて酒造りしこと知(ラ)れたり。但し※[禾+求]は和名抄には木美乃毛知《キミノモチ》とあれど本朝食鑑には黍稷にあらずとも云り猶考(フ)べし)。古今著聞集に、伊豆國(ノ)奥島にて鬼に粟《アハノ》酒を飲せしことも見えた(274)り。古へより粟黍の類にて酒を造りしなるべし。
といへり。この黍にて作れる酒といふ説は仙覺抄「きびの酒とはきびをもつてつくる酒なりきはめて性のつよき酒なり」といへるに基づきしならむ。さてかく兩説いづれも由ありて聞ゆれど、吉備といふ文字を用ゐたるによりて主として吉備國につくれる酒をいへるものとすべきに似たり。
 備後國三原酒の事は既に契沖もいへり。なほ同國鞆津は保命酒、忍冬酒、菊酒、梅酒、不老酒、養氣酒等の藥酒を出し、なほ味醂、本直をも出し、同國福山は甘露酒を出し、燒酎は同國所々に産す。凡そかく酒に名ある所は古よりその水土の釀酒に適するによるものにして何處にてもつくりうるものにあらざるなり。奈良が、古代に酒に名ありしは人も知るところなるが、春日の地名も糟垣より出でたるにてその由來古きを知るべく、今や酒糟に漬けたるものを汎く奈良漬といふに至れるにても知らるべし。又池田、伊丹、灘、西宮など、皆その由りて來る所の古きを見るべし。備後酒の名庭訓往來に見ゆることは古義既にいへり。然もその吉備の酒の名ありしことの頗る古き事なる證は賦役令の
 凡諸國貢獻物者皆盡2當土所1v出、其金、銀、珠、玉、皮、革、羽、毛、錦、※[横目/がんだれ/(炎+立刀)]、羅、穀、紬、綾、香、藥、彩色、服食、器用及諸珍異之類皆准v布爲v價以2官物1市宛(テヨ)
とある服食の注に
  謂服食者服讀如2服餌之服1郎2吉備|※[酉+倍の旁]《サケ》、※[身+沈の旁]羅脯《タムラノホシシ》1之類是也。
と記せり(後に見ればこの令義解の條は岸本由豆流の考證に既に引けり)。之につきて集解には
  穴云問吉備酒是藥料、然官令例進又醫疾令諸國輸之藥處置2彩藥師1隨時採取者、未v知、此條年料買藥及酒等其(275)理如何答或云彼令取築等之外毎年交易令v進耳、但司納2典藥1爲當納別司著不見耳
と注せり。これにて吉備酒は古に極めて名高くその質醇良にして藥用に供せしものなるを知るべし。かく法令の注釋に引かれし程の吉備酒なれば、之を萬葉集によみたること極めて自然なり。然るときは黍酒の意なりといふ説は斷じて捨つべきなり。そは古書どもいづこにも黍にて酒を釀ししことを記さず。但吉備國はもと黍に適はしき地なりし由の名を負ひたる國なれば、吉備酒やがて黍酒なりしならむも知らず。かく考ふるにはまた由あり。そは令集解に藥料なりといへるにあはせてその吉備酒はいつしか藥酒となりけむ。かくて保命酒、忍冬酒などの藥酒ぞ古の吉備酒の名殘なるべきと考へらるるに、その藥酒はいづれも味醂を主として之に香藥を配合したるものなり。然るにこの味醂といふものはわが古製にあらぬものと見えたれば、吉備酒の古製は味醂にはあらざりしならむ。然れども、その味醇厚なること今の味醂に似たるものなりしが故に代用せしならむか。然るときは吉備酒は性つよく醇厚なるものなれば、味醂に似たり、(味醂は燒酎に糯米を加へてつくれるものなれば、性つよく醇厚なるなり)今の世に屠蘇を味醂に※[酉+焦]して用ゐるも亦この備後の藥酒とその方同じ。されば吉備酒は、味醂に似て、味甘く醇にして酒精分強かりしものなるべし。かくてその吉備酒を丹生女王に贈りしも亦味醂を今も婦人小兒の料とする如く味の廿につきて贈りしならむ。
 次に「病者爲便無」をば、契沖は「ヤモハヽスヘナシ」とよみたれど、「やもふ」といふ詞如何と思はる。古義は「ヤメバスベナシ」とよめり。これは四段活用の動詞なれば「ヤマバ」と將然にいふべきを誤れり、まさに「ヤマバスベナシ」とよまざるべからず。これを「ヤマバ」といはゞ「スベナカラム」とよむべきなりと考ふるは杓子定規の文法家なり。「ヤマバスベナカラム」とよまれざるが故に「ヤメバスベナシ」といふべきなりといふはこれ(276)全く文法を知らざるものなり。
 貫簀は「ヌキス」なり。代匠記に
  貫簀は簀を編て縁を刺て盥の上に懸て手洗ふ時など其水のとばしりかゝらぬ用意にする物なり、延喜式主殿寮式に「三年一(タビ)請2貫簀一枚1」伊勢物語に「女の手洗ふ所に貫簀を打やりて云々」うつぼ物語に「銀の御盥沈を丸に削りたる貫簀銀の※[木+和泉]銀のすきはこ」などかけり。
といへり。これにてその用明かなるが、その貫簀の奈良朝に存してしかも竹にてつくりしことの證あり。天平十年の筑後國正税帳(大日本古文書卷二所載)に
  爲貢上御貫簀竹工※[さんずい+(七/木)]人云々
の項見えたり。これにて當時筑後國よりその工人を貢したりしを知るべし。
             ○
 卷五の貧窮問答歌の中に
  風離〔右○〕雨布流欲乃雨雜雪布流欲波爲部母奈久寒之安禮婆堅鹽乎取都豆之呂比糟湯酒字知須須呂比弖云々(八九二)
とある、その糟湯酒につきて契沖は
  酒こそ寒氣を防ぐ物なれど誠の酒もなければ酒の糟を湯に煮て打〓るなり、貧きことの有樣なり。越後の國に冬の夜の中にも寒き夜鮭を取漁夫等酒を飲ては還てこゞゆる由にて寒くなれば幾度となく此糟湯酒を啜りて業をなすとぞ承る。
といへり。この説さる事と聞えたり。殊に近世にもこの事行はるる由を示せるは甚悦ばしきことなり。きりながら(277)奈良の朝の古にこの事は行はれし傍例を示さざるはなほ飽かぬ心地す。いでやこの事の傍例をあげむ。
 大日本古文書卷六に載する寶龜二年十二月廿九日の奉寫一切經所解の中に
  酒二斗一升 七月六日請
   用盡
    經師已下仕丁已上七十人科 人別三合
  糟二斗三升
   用盡
    一斗漬生薑料 一斗三升仕丁自進四十三人科 人別三合
と見えたり。この仕丁已上に酒人別に三合を給し、仕丁自進に糟人別に三合を給せしことは即ち下層のものが、眞の酒を飲む代りに糟を用ゐしことの事實を語るものと見るべし。又大日本古文書卷二に載する天平十年四月五日の和泉監正税帳中に
  合酒糟捌斗※[さんずい+(七/木)]升伍合 修理池人夫貳伯玖拾貳人々別三合
   給盡
とありて、これも亦同じく人別に三合なり。又同卷に載する天平九年の但馬國正税帳に
  糟捌斛【賑給疫病者一千六百人々別五合】
とあり。ここには病者に給せしものにして人別に五合なれどこは一日分にあらねば、上の三合とあるとはその給與の心組別なりと知るべし。今これらを通じて考ふるに、この糟はただに食ひしにあらで本文の歌にいへる糟湯酒と(278)いふものにして飲みしならむ。かく考へらるるはかの仕丁已上には酒を給し已下には糟を給せしを以て察せらるるなり。即ちこれ下賤の者の眞の酒を得ぬものが、せめてのあまりに之を用ゐしものなるを想像するを得るなり。
         (大正十二年三月、自然第三卷第二號)
 
 
(279)         堅鹽考
 
 萬葉集卷五の名高き貧窮問答歌の中に
  堅鹽〔二字右○〕乎取都豆之呂比糟湯酒宇知須須呂比云々 (八九二)
といふあり。この糟湯酒につきてはかつて「自然」(本書二七六頁)に説きたれば今いはず。堅鹽といふものにつきては古來粗一定の説あれど未だ確とせぬところあり。
 これにつきて契沖は次の如くいへり。
  堅鹽は和名集云崔禹錫食經云石鹽一名白鹽又有2黒鹽1今按俗呼2黒鹽1爲2竪鹽1日本紀私記云堅鹽木多師是也。延喜式大膳上云釋奠祭料石鹽十顆〔右○〕徳紀云皇太子妃蘇我造媛聞2父大臣爲v鹽所1v斬傷心痛※[立心偏+宛]惡v聞2鹽名1所以近2侍於造媛1者名2稱鹽名1改曰2竪鹽1大和物語に貧しき家に人をもてなす事を云に堅い鹽肴にして酒を飲せてとかけり。
然れどもその「かたしほ」といふものの本質詳かならざるなり。萬葉考は之を基とせりと見ゆれど、石鹽を「かたしほ」とせるは明かに誤なり。曰はく
  和名石鹽一名白鹽又延喜式大膳式釋典祭料石鹽十顆、これをかたしほとよみこせり。今燒塩といふ物これなれば、何顆とは書り。又日本紀私記に堅鹽木多師是也とも見えたり。かれこれ通し見てしれ。
(280)と。これには黒鹽白鹽同一物となり、今の「やきしほ」を「かたしほ」とせり。然れども、この貧窮問答なるは貧者の食ふ物なるに、燒鹽は今にても多少贅澤品の部類に屬するものなれば、奈良朝の昔に貧者の食はむこと思ひもよらざることなり。
 略解に至りては和名鈔をひき、さて
  かたまりたる鹽をくひかき/\して酒のむ也。
といへるのみ。かくては「かたしほ」はただ鹽のうちに出來たるかたまりをいふに止まることとなる。これ果して實を得たりといふべきか。古義に至りては別に説なし。今の新考には同じく和名鈔を引さてさて曰はく
  海鹽の純良なるものをアワシホといひ、不純なるものをカタシホ又キタシといふなり(崔禹錫食經なる白鹽は即岩鹽和名阿和之保とあると名は同じくて物は別なり)
といへり。この説あるが中にすぐれたり。されどなほ詳かならざる點あり。
 「かたしは」を論ずるもの必ず先づ和名鈔をひく。然るにこの書には堅鹽の文字あれど「かたしほ」の語なし。されば完全に證となるものにあらず。かくてその廣本の黒鹽の注には
  今案俗呼2黒鹽1爲2竪鹽1
とあり。この「堅鹽」は當時の俗語として注したるを以てみれば、これは「きたし」とよむにあらずして「かたしほ」の訓をつくべきものなるべく、日本紀の「きたし」とは同じきか否かは容易に斷ずべからざるなり。
 延喜式大膳上釋奠の料に石鹽十顆とあり(これは雑式諸國釋奠の料に石鹽とあるに一致す)。その石鹽「かたしほ」の訓を附く。今石鹽の文字を支那の例にていはば白鹽なり。きれどこゝにいふ所は恐らくはその状石の如くな(281)るより出でし本邦の造語にてあるべく、黒鹽の「かたしほ」なるべきか。延喜式主計上尾張園の調に「生道 鹽一斛六斗」あり。同式大膳下の東寺中台五佛左方五菩薩右方五忿怒料に又「生道(ノ)鹽日別五合七勺」とあり。その頭注に曰く、
  生道鹽讀云2生道1堅鹽〔二字右○〕也。大如2瓮《豆イ》大1、元一顆搗得2鹽一斗許1、生道尾張國郡里名也。
ここにその堅鹽といふものの正體稍見えそめたり。又同式大膳下年料の條
  菜料鹽【秋亦准之】親王五十斛(中略)命婦已下百籠【三百籠各納22三斗1・三百籠各納22二斗1】堅鹽千五百顆
と見えたれば、ここに堅鹽といふは普通の鹽より下等のものにして、同じく一顆二顆とかぞへたるものなるを知るべし。かくて考ふれば同式四時祭四面御門祭の料の中に「鹽十六顆」御川水祭の料の中に「鹽五顆」御贖祭の料の中に「鹽八顆」とあるが如きはいづれもここにいふ堅鹽なるべく思はる。又月次祭奠2幣案上1神三百四座の幣物の條に座別に「堅鹽一升」と見ゆるは、蓋運搬の爲に堅鹽を用ゐし爲なるべし。
 更に溯りて見るに、續日本紀巻十、神龜四年二月丙寅に詔して京邑六位已下庶人戸頭に至るまで「鹽一顆穀二斗」を賜へることあり、これ亦堅鹽なりしこと推知せらる。
 又、西宮記巻十の十月旬の儀中に
  内豎四人渡2馳道1就2西階1自2采女1所v受、糅、堅魚、堅鹽、干鯛、若蚫、蔓菁等
とあり、江家次第巻六二孟旬儀の條に
  幼主時二孟旬(云々)次臣下給v飯、次給2菜汁物1【二返】御箸下、臣下應v之、次一獻、次下物下器渡
とありてその注に
(282)  四盤、交飯、固鹽〔二字右○〕、茹物、堅魚、干鯛
とも見えたり。こゝに朝儀の饗饌にも堅鹽(固鹽とも書く)を用ゐしこと知られたり。
 以上を以て推すに古書に鹽をかぞへて一顆二顆といふものは即ち「かたしほ」にしてその「かたしほ」を石鹽とかけるは石の状したるを示すものにして支那の石鹽即ち白鹽といへるとは異なること明かなるべし。
 以上の如く考定して「かたしほ」といふものは粉末状にあらず、固結したるものなるは明かなるが、實物の如何なるものなるかは未だ知られず。
 今伊勢神宮の神苑會附屬の農業館列品目録(明治三十三年三月發行)の食鹽の項を見るにまさに堅鹽といふもの二項を載す。一は伊勢國度會郡一色村製のものにして二壜、一は同國同郡下野村中林治助製のものにして一壜あり。それにつきて中林治助の解説書あり。その文に曰はく。
  海水ヲ煮詰メテ後抄ヒテ簀ノ上ニ移ストキハ食鹽ハ簀上ニ殘リ不結晶ノ液ハ滴リテ下ナル桶ノ内ニ入ル而シテ其桶底ニ固結シタルモノ即チ堅鹽ナリ是ハ土竈ノ漏ルヽトキ或ハ土竈ヲ新築シテ未ダ堅實ナラザルトキニモ投入スル爲メニ貯ヘ置ク又濃海水ヘ雨水ノ入りテ鹽分ノ淡クナリタルトキ投入シテ其鹽分ヲ濃クナサシメ食鹽ヲ製スルナリ但シ當村ハ皆鍋ニテ煮製スルヲ以テ必用ナキニヨリ隣村一色村等ノ土竈ノ用ニ供ス又此堅塩ヲ固結セシメタル後ノ液ヲ他ノ桶ニ移シ置クトキハ其底大ナル結晶ヲ生ズ是レ葡萄塩ニシテ即チ苦塩ナリ
   明治二十五年二月           中 林 治 助 記
 今この記事を以て考ふるにこの堅塩は純なる食塩にあらず、又|苦鹽《ニガリ》の純なるものにもあらずして不純なる食鹽の固結せるものたること明なり。これ即ち色を以て黒鹽とせられ硬き體をなすを以て「かたしほ」と稱せらるゝ所に(283)して鹽としては劣等のものたりしことは考へ得べしとす。但し、古堅鹽といひて食料とせしはこゝにいへる堅鹽と全く同じものなるか否かは十分に明かならず。然れども、その精粗程度の差は今日よりして明かに知るべからずといへども、少くとも、こゝにいへる堅鹽に似て、不純にしてしかも固形をなせる海鹽なりしことは、かの生道鹽が堅鹽なる事實によりても想像し得べしとす。
 かくてこの「かたしほ」の下輩の食にしたることは大和物語下に
  此女のおや少將にあるじすべきかたのなかりければ、ことねりわらはばかりとどめたるにかたいしほさなかにしてさけをのませて少將には廣き庭におひたる菜をつみて蒸物と云ふものにして云々
とあるなどにて知らるべし。而してかの貧窮問答に「堅鹽をとりつゞしろひ云々」といへるもまた貧家のさまをいへるものたることは著しといふべし。
           (昭和四年十一月、奈良文化第十七號)
 
 
(284)         天橋考
 
 萬葉集卷十三なる歌の中に
  天橋文長雲鴨、高山文高雲鴨、月夜見乃持有越水、伊取來而公奉而、越得之早物(三二四五)
といふ歌あり。この歌は月宮殿にありといふ不老不死の藥を取り來りて君に奉らむと欲する意をあらはしたるものにして、その思想は外來のものならむが、このはじめにいへる「天橋」とあるは如何なるものか、古來之を的確に説けるものを未だ見ざるなり。
 代匠記はこれを釋して曰はく、
  天橋とは天浮橋歟。唐逸史云、羅公遠※[愕の旁+おおざと]州人、開元中、中秋夜侍2玄宗(ニ)於宮中1翫v月。公遠奏(シテ)曰(ク)陛下莫v要d至2月中1看u否。乃取2※[手偏+主]1向v空擲之化爲2大橋1。其色如v銀。請2玄宗1同登、約行數十里、精光奪v目寒氣侵v人、遂至2大城闕1。公遠曰、此月宮也云々。論語云、天子之不v可v及也猶d天之不uv可2階而升1也。かくはあれども羅公遠が如きの術もあればかくは願ふなり。又日(ノ)神月(ノ)神を天柱を以て天上に送擧まつりたる事も此なり。
といへり。この注は月宮殿に至るといふ事を例證せる點を多とすべきが、「天橋とは天浮橋歟」といふ一句のみが、天橋の説明たるに止まれり。しかも天浮橋果してここにいふ天橋なるか、又天浮橋が長くなる時は月宮殿に達すといふことはこの大地と月宮とを平面的に考へたりといふべくして、月の高きにありといふ思想とは疏通せざるもの(285)あり。
 萬葉考には代匠記の説を批判して「或説に唐逸史に開元中公遠てふ幻術者、枚をなげて昇v天橋とし、玄宗帝依て入2月中(ニ)1霓裳の曲を得といふを引けれど、開元は皇朝和銅の末なり。此歌は飛鳥宮の初の比の體にて九代先の歌なり、みだりにからぶみを引ては人惑はしぞ」と述べてこれを否認し、自説としては「神代紀に天孫天降ます條に自2※[木+患]日(ノ)二上(ノ)天浮橋1立2於浮渚在平處1ともいへり。かゝれば天に上り下る橋も有よしにて、即ちその橋の長かれとねがへり」といへり。この天浮橋といへるは契沖と同じ説ともいふべきが、「別に天に上り下る橋も有よしにて云々」といへれば、天浮橋といふもの即ち天に上り下る橋なりともいへるやうにも見ゆ。然るにここに既に天に上り下るをうる橋あらば、それはそれ以上長くならむことを、要求する必要なき筈なれば、ここに「長くもがも」と冀へることは無用の言となるべきに似たり。さればこの説明も亦當を得たりと認めかねたり。
 以上の外の注は、古義に「天橋は天(ノ)浮橋、天(ノ)梯立など云ものゝ類にて天上へ昇る料の橋なり」といひ、新考に「天にかよふ橋なり」といへる如く、大同小異にして、天に上る橋といふ義として何等の疑なしとすることを見るのみなり。
 然れども、ここに吾人の疑問とする所少からず。第一に諸家殆どすべて、この橋の文字をそのままにとりて何等の疑をさしはさまざるが如しといへども、その漢字は説文に「水梁也」とある如く、川の此方より水に入ることをせずして彼方の岸に達せむが爲に構へたるものをさすことは明かなり。この故に「はし」ならぬ横にわたせるものをも轉じて橋といふこと、鞍橋(國語「クラホネ」)の如く、又横梁ありて物をかけおく具を橋ともいへり。而してこれ實に今も普通にいふ「ハシ」といふ語の義なり。然れども、この「橋」の字義を以てしての天に昇るものを(286)考ふるに、それはその橋自體が人を乘らしめて上下するものと考へうべからず。然るにこの歌は天橋の長からむことを冀へり。上にいふ如く今いふ昇降磯の如き考へ方をせば、それが長きことが、如何にして天に達する方便となるべきか。これは全然無用の言といふべきに似たり。
 さてここに「長くもがも」といひて、その長からむことを冀へり。然らば、それは長からば月に達すべきものと考へたるが故と思はざるべからず。かくてそれが長くば月に達すべく思はるるその物は横にしたるものにあらずして、縱にしたるものならざるべからず。縱にしたるものならば、これを延長せば極端なる空想の上に於いて日にも月にも達しうべき可能性ありと考へらるべき性質を有す。而して、ここに吾人が、考ふべきものは俗にいふ「はしご」なり。この「はしご」なるものはこれを縦に立てて高きに至らむ媒とするものなれば、これが無限に長くしうるものとせば、日月に達すべく考へらるべき可能性を有す。然らば、この天橋なるものは今の「はしご」の性質を有するものならむと考へらるべき筈なり。而してかく考ふることが最も道理に合すのみならず、まさしく今の「はしご」を「アマハシ」といへることの證あり。宮武外骨氏の明治四十五年五月に發行せる雜誌「此花」第十五枝に「歌川國清の謫居畫記」と題して記載せる文中に、右は「八丈島畫記」と題したる國清自筆の書なる由をいひ、八丈島の地圖をはじめ、風俗産物等を一々淡彩色人の畫にして其説明を加へたるものなりと説きたるが、その一節を示すべく抄出したるは大なる茄子の木に梯をかけて、婦人がその果實を採らむとして上れる略畫を描きて、さて曰はく
  右の略畫は八丈島畫記中の一面を縮寫したのである。同地の婦人が梯子《はしご》をかけて茄子《なす》をちぎる寫生畫か。
  茄子 暖き島なる故に木枯るといふことなし。年々葉を生じ花を持つ。汁の實にとてとるは梯子をかけてとる(287)なり。
  梯子《はしご》はあまばしと言《いふ》。(これ畫記の文なり)
  と附記してある。
といへり。これによれば、八丈島にては梯子を「アマバシ」といへること明かなり。この歌川國清が八丈島に至れるはいつの頃の事か、外骨氏は初代國清ならむといへり。然らば、文化年中の人なり。この頃に八丈島にてかかる語を用ゐしこと著し。かくて又常盤雄五郎氏の示せる所によれば、「八たけの寐さめ草」(「やたけ」は八丈島の義なり)と題する書東北大學の狩野文庫にあり。これは弘化五年に鶴窓山人(號歸山、本名詳かならず)といふ者が八丈島に在りて、その風土を記せるものと見ゆるが、それに方言を載せたるうちに、
  天井を「あま」はしごを「あまばし」
と記せり。然る時は梯子を「あまばし」といふことはこの地方の方言に存せること確かなりと認むべきなり。今これを古語のこの地に殘り傳はれるものとして考ふれば、この「あまばし」を以てこの歌の「天橋」の文字をよむにまさしく訓み方もその義も疏通するを見るなり。
 右の事實を一往肯定して、きてその「あまばし」といふ語が、古語の名殘として認めうべきものか如何を考へ見む。先づ、今の「はしご」といふ語は、その本來の意は梯子の横の踏木の一つ一つをさすものなりしなり。俚言集覽に「はしご」の説明として曰はく、
   柳亭高屋氏の云、梯《カケハシ》の事をノボリハシといふが、中昔の俗語也。今ハシゴと云るはノボリハシの上略にてコは踏てのぼる横木の事他。長者教に云、たとへばハシノコを一ツづつあがるにいそがんとて二ツあがる故にお(288)つるが如しとあり。ノの字あるにて考ふべし。
といへり。即ち「ハシゴ」は後世の俗語にて本名は「ハシ」なることを思ふべし。この「ノボリハシ」といふ語は俳諧の書「寶藏」の「階子」の末に「腰ぬけも花に心やのぼり階《ハン》」といへる句あり。倭訓栞には「のぼりばし、梯をいふ。はしごともいへり」といへり。この「のぼりばし」といふ語は易林本節用集饅頭屋節用集にいづれも「梯」の字にあてたる語として用ゐてあり。しかもその語の古きは未だ明かならず。姑く柳亭の説に隨ひおくべきが、いづれにしても、萬葉集の頃の語とは見えざるなり。かくて又倭漢三才圖會を見れば梯に注して「和名加介波之今云波之古」とありて「のぼりばし」の語を載せず。或はこの「のぼりばし」といふ事の起る以前は「かけはし」といひしならむか。色葉芋類抄には「梯カケハシ木階也」と記せり。類聚名義抄にも亦梯字に「カケハシ」の訓あり。この「梯」の字は説文に「木階也」と注し、兵書の孫子に「加3登v樓而去2梯階1」とあるが如く、まさしく高きに登る足代とする具の名たるなり。これを以て見れば、院政時代頃には今の「はしご」をば「かけはし」と唱へたりと考へても不可ならざるが如し。然るに倭名類聚紗を見れば、「郭知玄曰梯音低、加介波之木※[土+皆]所2以登1v高也、唐韻云棧、音※[竹/卞]一音賤訓同上板木構v險爲v道也」とありて、梯をも棧をも「かけはし」とせり。然るに「棧」は※[木+夜]齋が既に論ぜる如くに、支那にては名高き蜀の棧道、わが國にては名高き木曾のかけはしの如きものにして、今いふ「はしご」とは制も用途も異なるものなり。而して古を考ふるに、平安朝の歌文に「かけはし」といへるものはいづれもこの「棧」の事にして梯の事にあらざるなり。かくて梯の字の正しき訓は何ぞといふに實に「ハシ」といふ語なりとす。
 さて梯を「ハシ」といへることは新撰字鏡に「波志」と注せるにて著しく、日本紀にも梯を「ハシ」と訓じ來れ(289)り。たとへば、垂仁天皇卷に「神庫雖v高我能爲神庫造v梯豈煩v登v庫乎」とある「造v梯」をば「ハシヲタテム」とよむが如し。然るに、これを又「ハシタテ」といふ語にあたるとの説あり。それは、垂仁天皇卷、上文の次にある、「諺曰神之神庫隨樹梯之」とあるをば、「カミノホクラモハシタテノマニマニ」とよみ、又釋日本紀に引く所の丹後國風土記に所謂天梯立の由來を説けるうちに、「先名2天梯立1後名2久志濱1、然云者國生大神伊射奈藝命天爲2通行1而梯作立。故云2天梯立1。神御寢生仆臥。仍怪2久志備坐1故云2久志備濱1。此中間云2久志1」とあり、又萬葉集卷七に「橋立倉椅山」「橋立倉椅川」など枕詞に用ゐたる語を以て證とせるなり。然るに、この「ハシタテ」といふ語をあてたるものは日本紀にては「樹梯」とありて明かに「梯ヲ樹《タ》ツ」と動詞を加へてあり、又風土記のも「梯作立」と動詞を加へてあり。然るときは「はしたて」の「たて」はその名詞の部分にあらずして動詞としての「たて」たること疑ふべからずして、「梯」にあたる語は「ハシ」のみなりと斷ずべきものなり。又萬葉集なる枕詞はその「ハシ」を立てて倉に上るによりて「ハシタテノ」「クラ」とつづけしものなり。古の倉は梯を立てて上るべくつくりたりしことは校倉の制、ことに奈良正倉院の制などを見て思ひ半にすぐべし。されば、今の「はしご」を古は「はし」とのみいひて「はしだて」とはいはざりしなり。
 以上述ぶる所を以て天橋の「ハシ」は即ち「梯」今の「はしご」をさすこと大方信ずべきに似たり。惟ふに、古語にては、横に渡す爲のものも縱に上下する爲のものも、一樣に「ハシ」といひしが、後世、語の用法の上に分化作用行はれ、横に渡す爲のものをば專ら「はし」といひ、縱に上下する爲のものをば、別にし、「カケハシ」「ノボリバシ」「ハシゴ」といふやうに漸く變遷し來れりと思はれたり。かくて「ハシ」即「はしご」なることは肯定すべしとして、「天ハシ」といふその「天」は如何なる義かを考ふべし。
(290) 從來の諸家「天」の字あるを以て、これを天に往來する料とせり。されど、さやうなるものは人力にてつくりうべきものにあらざるなり。然るに八丈島にて「あまばし」といへるは如何。惟ふにこの「あまばし」は天空に達すべき爲の梯といふ如き廣大なる意をあらはすものにあらずして、その地の方言にいへる「あま」即ち天井に上る爲のものといふ意ならむ。一般に「あま」といふ語を以て高き所を汎くさせるは古語の姿にして、今一々これを論證するまでもなく、今の方言にても往々この意の「あま」といふ語殘れり。靜岡縣方言辭典には「あま」に注して「高所」といひ、その用例として「あの子はあまから落ちた」といふ語をあげたり。かくて、その高所の意より天井、二階など、家屋内の高く構へたる部分をさすことは方言にてもその行はるる區域頗る廣きなり。靜岡縣方言辭典には又「あま」に注して「二階、天井の上」と記し、秋田方言には「あま」に注して「天井(梁)又は土間の上の二階」と記したるが、わが郷里越中にてもこの語あり。かかれば、天橋は「天」の字を書けれども、天に通ふといふ意にあらで、ただ高きに上る爲に用ゐるが故にこれを冠せしめたるものなるべく、「天橋《アマハシ》」は結局今の「はしご」の古名たるに止まれるものといふべきに似たり。
 以上述ぶる所を以て是なりとせば、その「天橋」は今の梯子の事にして、さほど長大なるものにあらざることは想像しうべし。さる故に「長くもがも」といへること當れりとす。若し、はじめより天に通じたる梯子ならば、それの長きを冀ふべき原因なき事なり。かくてその長くもあらぬ梯子をば無限に長かれ、然らば、月宮殿にも達せむといひたる所に、この歌の興味も存すべき筈なりとす。
(昭和七年六月、佐佐木信綱博士還暦記念論文集「日本文學論纂」)
 
 
(291)         姨捨山の成俊僧都の碑
 
 昭和四年七月長野縣埴科郡教育會の依頼を受けて三日許その地に講演に行つた事であつた。その際に、その地が姨捨山に近い事を聞いた。そこでかねてから氣がかりになつてゐた成俊僧都の事を土地の識者から教へてもらはうといふ心が動いた。
 成俊は萬葉集を讀んだ人には決して忘れられない重要な人物である。この人は南北朝頃の人で、三井寺に屬して權少僧都の官に在つた人だ。世の亂れを避けて信濃に下り、姨捨山の麓に草庵を結んでゐたが、ある貴人から萬葉集を授けられ、これを讀んで點を加へた學者である。その見識が時流に卓絶してゐたことはその跋文で知られるが、今日我々が手にし得る萬葉集は實にこの人の跋を加へた本が傳はつてゐるのである。
 以上のやうな譯で私は心頗る動いたから、小山保雄氏(埴科郡教育會長)に尋ねた所が、とにかくに、姨捨山に行つて見ろといふ事になり、案内せられて行く事になつた。さて觀月堂に行つて見て、いろ/\尋ねたが、成俊の事は一向にわからない。そこで見てまはるうちに、いろ/\の碑が建つてゐるので、更に又成俊の碑の事を息ひ出して、これも同行の諸氏に尋ねたけれども、それも要領を得ない。自分もそれかこれかと氣を配つて見たけれど、それらしいものも見出されなかつた。
 元來自分は姨捨山の近くに來るといふ事を豫期して居たならば、多少の準備もして來る筈であつたが、埴科郡と(292)は隔りがあるものと單純に考へて居たし、又前途に多くの用事も多いから、序に姨捨山を探らうといふ考へもはじめは持たなかつた。それ故に成俊の碑の事もその大きさなどを確にいふ事が出來なかつた。そこで、先づ、成俊の事も、又その碑の事も、その時はわからずじまひにして歸つたのであつた。しかし土地の識者にはくれぐれも調査を頼んでおいたのであつた。
 成俊の事はその後も明かに遺蹟といふべきものが見出されぬやうである。まことに殘念な事である。しかしながら、その碑は終に所在を明かにする事を得た。
 この碑は、その祐本によると、本文のある所が、横二尺二寸八分五厘、縦二尺一寸七分であるから、横廣いものである事が想像せられる。その本文は、はじめに「權少僧都成俊碑、藤原光枝記」としるし。末に「文化九年壬申秋八月、源知足書並題額」とある。書風から見ても小島成齋の書だといふ事は明かである。本文は萬葉假名を用ゐた國文で書いてある。さうして欄外に「里人飯島淳子建」としるしてある。自分はこの碑文の寫を更級小學校長越川齡太郎氏に送つてその存否を確める事を依頼した。
 越川氏は私の報告を基として、その同僚と共に捜索に盡力せられたが、終にその所在を發見せられた。その報告の大要は次の如くである。
 一、碑は八幡村境姨捨山長樂寺(世に名高い觀月の場所)境内にあつた。
 二、一面に苔が生えてゐて、額字の外はよくわからぬ。
 一、前面に他の碑があり、又櫻の木があつて正面からは寫眞はとれぬ。
 一、碑は下低幅四尺、中央高さ三尺餘、厚さ四寸より八寸四分に至る。臺石あり、高さ七寸、幅五尺三分。
(293) この報告に寫眞をも送られた。それによつて見れば、先日自分が尋ねた所に在つたのであつた。しかし、越川氏の報告の通り、他の碑や櫻の木の茂つたのやがあつて分らなかつたのであつた。これでとにかくその所在が明かになつたのである。自分は小山氏越川氏等に深く感謝の意を表する。
 さて碑の所在が分つて見ると、これを建てた人々の事、又それを建てた事情などをも知りたくなるのは人情である。書家の小島成齋は天下周知の人であるからいふをまたない。藤原光枝といふ人は蓋し加茂眞淵門の大村光枝であらう。この人の著した國辭解といふ書の奥書に「寛政六年とらの秋なか月しなのの國はに科のこほりちくまの河のほとりなる旅ねのやとりにてしるしぬ」とあれば、この地に來てゐた事は明かである。しかし、何故に來たか、又その飯島淳子といふ人とどういふ縁があつて、これを書いたかは明かでない。そこで自分は更に越川氏に依頼して調査してもらつた所が、その邊の事情も稍明かになつた。
 ここで、自分は又越川氏の報告の要點をとつて次に述べる。
 成俊僧都の碑の建立者飯島|淳子《あつさね》は、通稱を治作といつて、當時蠶種製造を本業とした人であつた。家は埴科郡五加村字中村に在つて、昔から名字帶刀を許された豪家で今も相當な資産家である。現今の主人公は、飯島正胤氏で、上田蠶業學校教諭である。
 飯島家には、松代藩士に親類が有つた。當時の松代藩主眞田幸弘侯は國學を好み、又藩士にもこれを習はせる爲に京都から大村光枝を聘してこの學を奨勵した。この時に淳子もその弟子となつて歌學を學んだ。後に大村氏が仕を辭して江戸に出て赤坂法安寺の傍に住んで居た。淳子は蠶種製造業である爲に、今の福島縣下においてこれを營み、その製造した蠶種を信濃へ持て來て配布してゐた。さうしてその往復には態々江戸へ廻つて大村先生をたづね(294)亦常に文通もして師事してゐた。
 大村光枝は京都の人で、本姓は藤原氏、初め有柴行藏といつたが、後に大村彦太郎と稱した。天明寛政の頃松代藩主の聘に應じて來り教授し、爲に藩の歌學勃興し、長野美波留の如き門人を出した。晩年仕を辭して江戸に出で、文化の十三年四月に死んだ。松代に居つた時、東條村天王山麓に柿本人丸の墓碑を立てた事もあつて、それも今に存してゐるといふ。光枝は權少僧都成俊を崇拜して居たからして、成俊が姨捨山の麓に草庵を結んでゐた事情によつて飯島淳子に依頼してこれを建てようと企てた。淳子は師の依頼といひ、自分も好きな道であるし、且つ金持であるからこれを承知して自分一人の力で建てたものであるといふ事である。
 以上で、この碑の由來はわかつた。しかし姨捨山の今の碑の在る所が、成俊の草庵の在つた所であるといふ事は證せられないといふ。けれども成俊は三井寺の僧であるし、姨捨山邊には天台宗の寺が少くないといふから、そこらから根氣よく尋ねたら分らぬものでもあるまい。いづれにしても姨捨の麓といふ以上、今の所在地からさう遠い所ではあるまいと思ふ。これが分れば、もとよりいふ事はないが、若しわからぬとしても、今の碑はそれ相應に由來のあるものであるから土地の識者はこれを保護せらるべきである。自分は今この機會を以てこれを天下の同好の士に告げるのである。
(昭和四年十二月三十日夜稿)  (文藝春秋、昭和五年三月號)
 
 
(295)       萬葉集と古今六帖
 
 萬葉集の歌が古今集には殆ど採られなくて、古今六帖に多く載せてある。この古今六帖に萬葉集の歌の多く載せてあることは契沖はやく之をいひ、山本明清の古今和歌六帖標注にそれを一層明かにしたことは誰も知つてゐることであるが、私はその古今六帖に傳へられた萬葉集の歌についての概觀をこゝに述べてみようと思ふ。それについては先づ萬葉集の古點といふことを顧みることを要する。
 萬葉集は大伴氏と關係が深く、特に卷十七以下四卷は家持の歌日記のやうな有樣であるが、それが天平寶字三年正月一首の家持の詠で終つてゐ、その後二十八年目、延暦五年に家持が歿するのであるが、その間の歌は一首も傳はらない。その二十七八年間に家持が一首も歌を詠まなかつたといふことは常識には考へにくい事であるから、いろ/\推測的の意見も生じてくる次第で、私も一種の推測を下したのであるが、今はその論に觸れない。
 古今集雜下に
   貞觀の御時萬葉集はいつばかりつくれるぞと問はせ給ひければよみて奉りける、
  神無月時雨ふりおける楢の葉の名におふ宮の古ことぞこれ        文屋ありすゑ
とある。こゝに奈良の宮の古ことゝ答へ奉つたのである。その奈良宮は所謂奈良朝をもさし、又平城天皇の朝をもさし得るので明確にはきめられぬ。しかし、その「古こと」が古歌の意味だとすれば奈良朝になるが、勅問はその(296)著作の時代をきかれたのだから、それでは眞の答にはなってゐない。その「古こと」を古の事がらとすれば、時代はいづれをさすか、こゝには曖昧である。
 次に新撰萬葉集上巻の序を見る。
  夫萬葉集者古歌之流也……凡厥取2草藁1不v知2幾千1漸尋2筆墨之跡1、文句錯亂非v詩非v賦、字對雑糅難v入難v悟、所謂仰彌高、鑽彌堅者乎。
とある。これは今の萬葉集に對する評である。「文句錯亂非v詩非v賦」とあるは、彼の萬葉集はすべて漢字で書いてあるから、漢文か漢詩かとして讀み下さうとすればまことに詩にも非ず賦にも非ざるもので、文句は錯亂したやうに見え、字對などは全く見られぬ有様で錯亂雑糅入り難く悟り難いものであったらう。さうしてそれに續くものとして撰せられた新撰萬葉集は萬葉仮名で和歌を記し、その各の和歌に絶句詩一首づゝを副へてあるが、これは萬葉集の體裁に傚ふつもりであったのかも知れないが、若しさうだとすれば萬葉集は難解のもので、とにかく和歌も漢詩賦のやうに書いたものだと考へてゐたからかも知れぬ。
 古今集の序文には
  昔平城天子詔2侍臣1令v撰2萬葉集1自v爾以來時歴2十代1數過2百年1。其後和歌棄不v被v採。雖d風流如2野宰相1、雅情如c在納言u而皆以2他才1聞、不d以2斯道1顯u。……各獻2家集並古來舊歌1曰2續萬葉集1、於是重有v詔部2類所v奉之歌1勒爲2二十卷1名曰2古今和歌集1。
とある。之によると、はじめ醍醐天皇は歌人の家々の集又古來の舊歌を獻ぜしめ、それを總括して一の大歌集を編せしめて續萬葉集と名づけられたものと思はれ、その後重ねて詔して、その續萬葉集として集められた歌を部類次(297)第して古今集とせられたものであると考へられる。隨つて古今集にはその假名序にいふ如く、古くても「萬葉集に入らぬ古き歌」をとったものであると思はれる。
 そこで、古今集は古歌でも萬葉集以外の古歌をとったもので、萬葉集は特例の取扱になってゐたやうであるが、村上天皇の御世に至って、その訓點を施すことを企てられた。この事は源順集に
  天暦五年宣旨ありて、はじめてやまとうたえらぷ所をなしつぼにおかせたまかて古萬葉集よみときえらはしめ給ふなり。めしをかふるは《(めしおかれたるはイ)》河内掾きよはらの元輔、近江掾紀時文、讃岐掾大中臣能宜、學生源順、御者所のあつかり坂上望城なり。藏人左近衛少將藤原朝臣伊尹をそのところの別當にさためさせ給ふに、(下略)
とあるので、あきらかであるが、又源順は、規子内観王家歌合の判詞に
  そも/\したがふなしつぼにはならのみやこのふる歌よみときえらぴたてまつりしときにはすこしくれ竹のよこもりてゆくすゑたのむ折もはへりき。
とあつて、それは壯年の時であったと回顧してゐる。この撰和歌所のことはその別當の任ぜられた宣旨奉行文と禁制闌入事の文とが源順の撰文として本朝文粹巻十二に載せてある。その撰者には箕裘を尋ねて寓直の徒となすとあつて、名家の子弟を集められる趣旨であったらしい。即ち清原元輔は深養父の孫、紀時文は貫之の子、大中臣能宜は頼基の子、坂上望城は是則の子でそれ/”\父祖は歌人としてすぐれてゐた。源順は定の曾孫、擧の子であるが、父祖が歌仙の列に入らなかった。しかしながらこの梨壺に於いては牛耳を握つてゐたやうであつた。これは主としてその學殖によつたものであらう。萬葉集をよみこなすには漢學の造詣の深いことが、主たる條件であつたのであらう。
(298) さて、この萬葉集の和解を企てられたのは十訓抄によれば廣幡の御息所が天皇に勸められたことに基づく由である。この御息所は中納言源庶明(醍醐天皇の弟齊世親王の子)の女で名は計子といひ拾遺集の作者であるが、その歌にすぐれてゐたことは榮花物語にも見ゆる。
 この天暦の時に讀み和げ得た歌はどの歌どもであるか、又幾ら程の數がよみ得られたのであるかは明らかに傳ふるものが無い。詞林采葉集には「萬葉集點和」と標した條に
  天暦御宇詔2大中臣能宣、清原元輔、坂上望城、源順、紀時文等1、於2昭陽舍1梨壺加2和點1號2古點1、文追加v點人々、法成寺入道關白太政大臣、大江佐國、藤原(惟宗の誤)孝言、權中納言匡房、源國信、大納言源師頼、藤原基俊等各加v點、此名2次點1、亦權律師仙覺加v點此稱2新點1矣。
と見ゆる。即ち天暦の時の訓を古點といひ、鎌倉時代の仙覺の訓を新點といひ、古點の後、新點の前に加へた多くの人々の訓をすべて次點といふのである。以上の三種の點和のうちでその事實の明確になつてゐるのは新點だけである。
 仙覺は萬葉集の研究には劃期的の偉業を成した人であることは古今を通じて異論の無い所である。しかもその人の新點の歌は合計百五十二首であり、仙覺抄に説く所の歌は八百十一首である。仙覺以後は契沖までさしたる萬葉學者は出でなかつた。その間にも玄覺とか成俊とか由阿とか宗祇とか、それ/”\有名な人が萬葉集に關してそれぞれ多少の貢獻をしたことは認めなければならぬが、訓點の上に大なる功績をのこしたといふことは出來ぬ。かくして江戸時代の初期に古活字本、寛永版本が出るに及んだのである。その寛永版本には多少の誤もあることは周知の事だけれども、とにかく萬葉集のすべての歌、四千五百餘首には、それぞれの訓が施してある。その訓は誤も少(299)くあるまいが、一體誰がかくまでに加へ得たものであらうか。仙覺秒にある八百餘首以外は仙覺が異議を唱へなかつたものと見てもよいであらうか。さうすれば、その他の三千七百首計は仙覺抄以前に既に訓が成り立つてゐたと認めねばなるまい。仙覺以前に萬葉集の歌を論説したものに俊頼口傳、綺語抄、和歌童蒙抄、萬葉集抄、奥義抄、袖中抄、古來風體抄、和歌色葉集、八雲御抄等がある。それらの書に説く所と仙覺抄に説く所を總合して佐々木信綱氏の示された表をみると總計九百九十六首とある。上の俊頼口傳以下は平安末期院政時代以後のものである。
 さうすると、この約千首を除いた三千五百首計は平安朝末期には既に訓を與へられてゐたであらう。これらの訓にはもとより多少の錯誤が無いとはいはれまいが、とにかくに一往は讀み得てあるのである。なほ又俊頼口傳以後の諸書にいふ所とて萬葉集の新點といふ譯ではないから、新點百五十二首以外の四千餘首といふものは平安朝時代に一往訓點が下されてゐたことを認めねばならぬ。而してその訓點は誰が下したかといふに、それは要するに古點から次點の間によみ下したものと推定せらるべきものであらう。
 次點の點者としては詞林采葉に道長、佐國、孝言、匡房、國信、師頼、基俊等が示されてあるが、誰がどの歌をよんだのか、その數は何程になるのか明かには知られてゐない。卷十三には「此一首入道殿讀出給」(三二二四)「此歌入道殿讀出給」(三二三一)「此歌入道殿下令讀出給」(三二三五)といふ記入がある。これは藤原道長が讀み出したといふを標記したのであらうが、それは卷十三にあるだけで他の卷には無い。次點がこれに止まるものではあるまいが、今日に於いて之を明確に知る道は無いやうである。加之、上の卷十三の三二三一番の歌は既に忠岑の和歌十體の例歌としてあげてあるのだから道長の加へた點といふことも不確かなものであるといふ事は私が既に論じておいた所である。
(300) 仙覺本萬葉集の跋には
  其後聞古老傳説云、天暦御宇源順奉2勅宣1令v付2假名於漢字之傍1畢。然又法成寺入道殿下爲v令v獻2上東門院1仰2藤原家經朝臣1被2書寫1萬葉集之時假名歌別令v書v之畢。爾來普天移v之。
とあるが、その道長の書寫せしめたといふ本も明かで無い。それ故に古點次點共に明確なことは分らぬ。たゞ我々は既に述べた通り、今日の萬葉集の讀み方の大部分が古點次點によつて成立してゐたであらうといふことを考へるに止まるのである。
 萬葉集の歌の歴代の勅撰集に入つてゐるものが少くない。古今集には十一首みゆる。されど、古今集は萬葉集以外の歌を採録する趣旨であつたから、知らずしてとり入れたものと見るべく、萬葉集をとり、それを読みかへたりしたものとは見られず、訛傳とすべきものであらう。後撰集には二十一首入つてゐるが、これはその撰者が萬葉集點和の擔任者であるから意識してとつたと見るべく、これらは古點その者を見る爲には確かな資料といふべきものだが、あまりに數が少いのである。拾遺集には百二十二首採つてあるが、その時代から見て、全部古點の結果を採用したと考へてもよからう。次點のうち最も早い道長の點は略時代を同じうするけれども、拾遺集にはその道長點のものが採用せられたとは考へられぬ。後拾遺、金葉、詞花、千載の四の勅撰集には萬葉集を採つてゐない。新古今集には六十一首あるが、これ以下は今論ぜぬ。
 さうすると、勅撰集によつて源順時代の萬葉集のよみ方を知らうとするには後撰拾遺二集にとつた百四十餘首を見るべきであらうが、それは四千五百餘首に比して四十分の一位のものでまことにたより無い話である。こゝに於いて我々は古今六帖を顧みることを要する。古今六帖については私は曩に古今六帖覺書(日本大學國文學會磯関誌「語(301)文」第一號)といふ小篇に於いて少しく説いた所であるから、委細はそれに讓り、こゝには必要な點をあぐるに止めよう。これは白氏六帖に傚つて和歌の模範とすべき古今の歌を集め類聚して六帖に編成したものである。編者は分らぬ。紀氏六帖といふ一名もあるから紀貫之の女の撰だらうといふ説もあるが、確證は無い。編述の時代は後撰以後、拾遺集頃のものらしい、それよりは下るものでは無い。それ故に、この書に採録してある萬葉集の歌は古點時代の面目を傳へたものと認めてよろしからうと思ふ。六帖に載する歌はすべて四千四百五十八首、その内に長歌九首旋頭歌十七首ある。その外に今本に見えぬ逸文四十七首ある。それを加へて總計約四千五首その數に於いて萬葉集に略匹敵するものである。
 古今六帖の内にあつて萬葉集の歌と目せらるゝものは(そのうち、多少問題あるものをも含めていへば)一千一百七十四首であるが、そのうち二回重出のもの五十五首、三回重出のもの三首があるから、その重出を除けば一千一百十三首となる。この六帖所載の萬葉集の歌は古今集に四首、後撰集に九首、拾遺集に七十八首出てゐる。なほ以上の外壬生忠岑の和歌體十種に四首、藤原公任の和歌九品に三首あるが、和歌體十種の一首以外は六帖や拾遺集にもある。それ故に六帖以外に古點時代の萬葉集の歌を知り得るものは
  古今集 七首、後撰集 十二首、 拾遺集 四十二首、和歌體十種 一首、
である。今更に別に計算を立てゝ見ると、
  古今集    十一首(六帖以外の分七首)
  後撰集   二十一首(六帖以外の分十二首)
  拾遺集  百二十二首(六帖以外の分四十二首)
(302)  和歌體十種     四首(六帖以外の分一首)
   計     百五十八首(六帖以外の分六十二首)
それと古今六帖の千百七十四首とにて古點時代の萬葉集のよみ方を卜しうるであらう。その總數千二百三十六首、萬葉集の總數の約四分の一に當る。かくして、六帖の約四分一が萬葉集の歌であるのを考へて見ると、何か偶然ともいはれぬやうな心地がする。
 萬葉集は天暦の古點によつてそのよみ方が長足の進歩をしたであらうことは十分に考へらるゝが、その以前には全く點和したものが無かつたかといふに必ずしもさうはいはれぬ。古今集にとられた十一首、それは十分によみこなされてゐないとか、多少の訛傳があるとかいはれても萬葉集の歌であつたことは否定できぬ。和歌體十種の四の例歌も同樣である。これらはすべて天暦以前のものであるから、この頃にも萬葉集の歌は多少よみこなされ、或は萬葉集の歌といふことは確かに知らぬながらもよみ傳へられたことは認められねばなるまい。しかしながら、全體を總括して見れば萬葉集は容易に讀みこなし得なかつたに相違無い。それ故に新撰萬葉集の序に
  文句錯亂、非v詩非v賦、字對雜糅、難v入雖v悟
と云つたのであらう。仁安元年に抄した和歌見在書目録に
  萬葉集抄、五卷
   右一説紀貫之、一説梨壺五人抄之
と見ゆる。この書は今傳はつてゐることを知らぬが、紀貫之の萬葉集の訓讀といふことは曾て聞かぬ所であるから、恐らくは梨壺五人の撰といふ所に目をつけねばなるまい。若し梨壺五人の撰だとすれば、古點の實際を知るべ(303)き重要な記録といふべきものであらうが、之を知り得ないのは遺憾といはざるを得ぬ。袖中抄卷五「あさもよひ」の條に
  顯昭考2萬葉五卷抄序1云
  謹案此集古語雖v質、比興幽微、字々感v人、句々變v體、今推2作者之本意1、令2知者知v之不v知者不1v知v之。爰師説不v傳、訓釋無v書、案牘之間甚難v得v心、
とある。これは顯昭がその五卷秒の序の文を抄出したものと思はるゝ(顯昭の文にさやうの例が多い。三寶繪の抄出にも類例がある)。その文の勢を見るに、これは奏上の文の體であるから、恐らくは梨壺の五人が、萬葉集點和の梗概を抄して奏上したものであつたらうか。而してこゝに「師説不v傳、訓釋無v書」とあつて、まことに破天荒の事業であつたらしい。しかし、從前萬葉集を全く、訓み得なかつたので無かつたことは既にあげた古今集、和歌體十種でも考へらるゝ所であるし、源順その人が倭名類聚鈔に萬葉集の語を載せてゐるのでも考へらるゝ。これは天暦五年よりは少くとも十四五年前に出來てゐた書である。それ故に、萬葉集の點和が古點によりはじめて起つたものとはいはれないであらうが、古點はその大成であつたらうことはもとより異論の無い所であらう。
 師説も傳はらず訓釋の書も無かつた時代に萬葉集の何千首といふものをよみこなした先人の苦勞は並々ならぬものであつたらう。その苦心の一端とも見るべきものが石山寺縁起にのせてある。之は誰もが知つてゐることであるけれども念の爲に次に抄する。その卷上に曰はく、
  康保の比(これは天暦五年より十五年も後であるから誤であるが)廣幡御息所の申させ給けるによりて源順勅をうけたまはりて萬葉集をやはらげて點し侍りけるに、よみとかれぬ所々おほくて、當寺にいのり申さむとてまゐり(304)にけり。左右〔二字傍点〕といふもじのよみをさとらずして下向の道すがら、あむじもてゆく程に大津の浦にて物おほせたる馬に行あひたりけるが、口付のおきな左右の手〔四字傍点〕にておほせたる物をしなをすとてをのがどちまてより〔四字傍点〕》といふことをいひけるに、はじめてこの心をさとり侍りけるとぞ。
とある。之は十訓抄にある話と少しく時代の喰違があるから眞實性が稍薄いやうだけれど、萬葉集にある「左右」「二手」の字面を「まで」と讀み得た事情を語る傳説である。源順が萬葉集の訓點に苦勞したことは拾遺集にとつた歌の端書にも見え、又源順集の端書などにも見ゆることは上にも述べておいた。何にしてもその苦勞は一方ならぬものであつたらうが、それを詳かにし得ないのはまことに遺憾なことである。そこでそれらの時代の萬葉集のよみざまを知らうとしてこゝに古今六帖所載の萬葉集の歌を顧みようといふのである。
 六帖所載の萬葉集の歌はその紙數の約四分一であるから、これを以てすべて古點そのものによつたものとしても、その全貌をつくしたものとはいはれぬ。況んやそのうちには古點以前に既によみこなしたものも存在するに疑はないから、これらを以てすべて古點そのものによつたものともいはれない。しかしながら古點時代の萬葉集のよみこなされたものが約四分一これによつて窺ひうることは今日に於いて極めて貴重な事實といはねばならぬ。私は萬葉學の源頭の最も大なるものとして六帖を顧みなければならないことをこゝに強く揚言する責任を感ずるものである。
 今六帖に載する萬葉集の歌を數の上から考察すると次の如くになる。
 卷一より十首      卷二より四十五首
 卷三より七十二首    卷四より百四十首
(305) 卷五より二首     卷六より十六首
 卷七より百三十四首   卷八より八十七首
 卷九より五十二首    卷十より二百十首
 卷十一より二百四十五首 卷十二より二十八首
 卷十三より十四首    卷十四より二十四首
 卷十五より七首     卷十六より十六首
 卷十七より六首     卷十八より一首
 卷十九より三十九首   卷二十より二十六首
かくの如くして最も多いのは卷十一で、これは古今相聞往來歌類之上(下は卷十二)で
  旋頭歌十七首 正述心緒歌百四十九首 寄物陳思歌三百二首 問答歌二十九首 譬喩歌十三首
計五百九十首のうち二百四十五首をとり、次は卷十でこれは
  春雜歌  春相聞  夏雜歌  夏相聞  秋雜歌  秋相聞  冬雜歌  冬相聞
といふ部立で總數五百三十九首のうち二百十首を採つてゐる。二者通じて約四割を採つてゐるのである。卷四は相聞歌の類で、總歌數三百九首のうち百四十首を採つてゐるから百分中四十五を採つてゐる。卷七は部類を
  雜歌  譬喩歌  挽歌
と立て總歌數二百五十首のうち百三十四首であるから、百分中五十四を採つてゐを。以上四卷通じて千六百八十八首のうち七百二十首を六帖に採つてゐるのである。今、それらを總じて考へて見るに、これらの卷々にある如き性(306)質の歌が六帖にとるべき種類のものであつたからであらう。即ち三代集時代の和歌の模範とすべきものを撰んで載せたものであらう。之はもとより萬葉集の歌を後世に傳ふるのが目的だつたのでは無かつたであらうが、偶々かやうな事情で約四分一が萬葉集の歌で滿たされ、それによりて萬葉集も亦約四分一が之によつて傳へられた次第なのであらう。
 次に六帖に載せた歌のよみ方を考察して見よう。六帖の萬葉歌の訓を見るに、未だ到らぬものゝ少からぬを見るのである。之を以て見ても次點薪點の施さるべき餘地と必要とがあつたといふことを想ふのである。今その到らなかつた點の例を二三あげて見ようと思ふが、その前に今本の六帖に誤寫や誤傳の少く無いといふことを思ふのである。その例は六帖卷四「別」に
  わきも子が我におそる〔三字右○〕と白栲の袖ひづまでに泣しおもほゆ
とあるは、萬葉卷十一「二五一八」の
  吾妹子之吾呼送〔右○〕跡白細布之袂潰左右二哭四所念
に基づくことは明かで、「おそる〔三字右○〕」は「おく〔右○〕る」の書そこなひであることは著しい。同じ卷十一、「二四九三」の
  高山岑行完(宍即ち肉の異體の訛)友衆袖不振來忘〔五字右○〕念勿
に基づくと思はるるのは六帖卷二「しか」の
  たか山の峯ゆく鹿の友をおほみそでふりこぬ〔六字右○〕をしる〔二字右○〕と思ふな
である。「袖不振來」は「袖振らず來ぬ」とよみて然るべきを「そでふりこぬを」とよめるは未だ到らぬよみ方であるが、その下を「し〔右○〕」として「志」の草書にしてゐるのは「忘る」といふ字を書きひがめた誤であらうから、原(307)本のよみ誤りとはいはれぬであらう。(續國歌大觀には「忘る」と正してある)同じ卷の「二七九六」の
  水泳〔二字右○〕玉爾接着磯貝〔二字右○〕》之獨戀耳年者經管
をば、六帖陷四の「かたこひ」に
  水のあわ〔四字右○〕の玉にまじれるいろかひ〔四字右○〕のなど片戀に年はへぬらん
としてとつてゐるが「水泳」を「水のあわ」とよむことは出來ないから、これは「水沫」と誤り認めたものであらうし、「いろかひ」は「磯貝」の「そ」を「ろ」と誤寫したものであらう。又卷四の「五七五」の
  草香江〔三字右○〕之入江二求食蘆鶴乃痛多豆多頭思友無二指天
は、六帖卷五の「夜ひとりをり」に
  くさかれ〔四字右○〕の入江にあさる蘆田鶴のあなたづ/\し友なしにして
としてあげてあるが、「くさかれ」は「くさかえ」の誤寫であることは著しい。又卷十の「一九四七」の
  難相君爾逢有夜〔右○〕霍公鳥他時從者今社鳴目
に基づくと思はるゝ六帖卷六「ほとゝきす」の
  あひがたき君にあへると〔右○〕ほとゝぎすことときよりも今こそなかめ
といふ歌の「と」は「夜」にあたるので「よ」の誤寫であることは論に及ばぬことであらう。
 以上のやうな次第だから、今傳はる六帖は寫誤が少くないので、萬葉集によつてその寫誤を訂正すべき所が少からず有ると考へねばならぬ。それ故に漫りに六帖のよみ誤りであると斷定することの出來ぬ所がある。
 六帖の萬葉集歌には萬葉集その物の文字の實の誤か、又は六帖によみとつた時の誤認かによつて訓を施したもの(308)がある。上にひいた、萬葉集卷十一の「二七九六」の
  水泳玉爾接有磯貝之
とある「水泳」を「水のあわの」と訓んだのは「泳」の字を「沫」の字として讀んだものに外ならぬ。これは古來難解のものであつて、「水流」と書いたのがあつたり、「みなそこの」とよんだりしてゐる。仙覺も「みなそこの」とよみ、寛永本もさうよんでゐるが、これを正しく「みなくくる」とよむのは契沖にはじまるのである。
 萬葉集卷十一「二七七九」の
  海原之奥津繩乘〔二字右○〕打靡心裳四怒二所念鴨
に基づくと思はるゝ六帖卷五の「あひおもふ」の
  うな原のおきつなはたれ〔四字右○〕打なびき心もしらぬ〔五字右○〕におもほゆるかは
といふ歌がある。「心裳四怒二」とあるを「心もしら〔右○〕ぬに」とあるは恐らくは「しぬに」を後人が誤り傳へたものと思はるゝが、「繩乘」は「なはのり」とよむべきものを、「なはたれ」とよむことは誤であるけれども、古寫本に多く「繩垂〔右○〕」と書いてあり、又それら諸本に多く「なはたれ」と訓じてゐるから、六帖のみの罪では無いであらう。
 以上はその訓の基づく文字の相違に因るものをあげたのであるが、さういふ事情によらずして、六帖の訓の如何はしいものも少くは無い。萬葉集卷十一の「二六四四」の
  小墾田〔三字右○〕之板田乃橋之壞者從桁將去莫戀吾妹
をば、六帖卷二の「はし」に
  をはたゝ〔四字右○〕のいたゝの橋のこぼれなぼけたより行んこふなわきも子
(309)としてあげてある。「小墾田」は「をはりだ」とよむべきもので「をはたゝ」とよむのは誤である。しかしこれを古來「をはたゞ」と讀んだことは著しく、和歌童蒙抄、續後拾遺集をはじめとし、季吟の拾穗抄もさう讀んでゐる。但し正しい訓は寛永本にもある。萬葉集卷四の「五四四」の
  後居而戀乍不有者〔三字右○〕木國乃妹背乃山爾有益物乎
に基づく歌を六帖卷四「別」に
  おくれゐてこひつゝあらば〔三字右○〕きの國のいもせの山にあらましものを
とよんである。「不有者」を「あらば」とよむとすれば意味が反對になつて歌にはならぬ。但しこれも古からよみかねたものと見えて童蒙抄には「しなば」としてあるが、これは「不有」を「しぬ」と義訓したつもりであつたらう。仙覺抄には正しくなつてゐる。萬葉集卷十三「三二三六」の長歌の末五句を短歌と見たてゝ
  須馬神爾奴左取向而吾者越往相坂山遠〔八字右○〕
をば、六帖卷四「ぬさ」に
  すへ神にぬさとりむけて我夜行あふ坂の山とほるかな〔我夜〜右○〕
としてあげてゐるが、これは頗る著しい相違である。これは先づ「遠」字を「ヲ」の假名と思はずして「遠し」の意にとり、しかも「とほる」と讀んだのは甚しい誤である。これは新點をまたずして正されたと見ゆるけれども夫木抄雜十四に「祓麻」の條下に
  すへかみにぬさとりむけて我こえゆき逢さかの山とわかるな
としてあげてあるのを見れば當時は難解の歌とせられたものと見ゆる。萬葉集卷十一の「二六四一」の歌
(310)  時守之打鳴鼓數見者辰〔右○〕爾波成不相毛恠
をば、六帖卷四の「さふのおもひ」に
  時守のうちならすつゞみ數みればたつ〔二字右○〕には成ぬる逢ぬあやしも
としてある。この「うちならす」「逢ぬ」なども適切な訓では無いが、それは問はぬとしても「辰」を「たつ」と訓んだのは未だ到らぬものである。しかし、このよみ方は古寫本にもある。萬葉集卷十一の「二七五〇」の
  吾妹子不相久馬下乃〔三字右○〕》阿倍橘乃蘿生左右
を六帖卷六の「あへたちばな」に
  わきも子にあはで久しくうましたの〔五字右○〕あへ橘の苔生るまで
としてある。「あはで」「生るまで」も適切では無いがそれは姑くとはぬ。「馬下乃」を「うましたの」とよむのは文字のまゝだとはいふものゝ何の事だかわかる筈が無い。しかし、これは古寫本の多くが略同樣で、袖中抄にもその樣に讀んであるので、六帖だけを咎めることは出來ない。仙覺の新點に到つてはじめて「うましもの」と正しくよみ得たのである。
 六帖には「異」「殊」を「ケ」とよむことを未だ知らなかつた樣である。「日異」を「ヒコトニ」とよんだのは萬葉集卷四の「五九八」の
  戀爾毛曾河者死爲水瀬川下從〔右○〕吾痩月日異〔右○〕
を、六帖卷五「思ひやる」に
  戀にもそ人はしにするみなせ河下に〔右○〕我やす月に日ことに〔三字右○〕
(311)としてある。即ち「日異」を「日ことに」と讀んでゐるが、之は元暦本などもさうである。なほこの歌では「從」を「に」とよんで「ゆ」「より」等とよむことをしてゐない。萬葉集卷八の「一六三二」の
  足日木乃山邊爾居而秋〔右○〕風之日異〔二字右○〕吹者妹乎之曾念
をば、六帖卷一の「秋の風」に
  足曳の山へにをりてふく〔二字右○〕風の日ことに〔四字右○〕ふけは妹をしそ思ふ
としてある。「ふく風」は「あき風」を誤り寫したものと見てもよいけれど、「日異」を前と同じく「日こと」にとしたのは上のと同じである。同じく「日異」を「ひごとに」としたのは、萬葉集卷十の「二一九三」の
  秋風之日異〔二字右○〕吹者水莖能岡之木葉毛色付爾家里
を、六帖卷一「をか」に
  秋風の日ことに〔四字右○〕ふけば水くきの岡の木の葉も色付にけり
としたのがある。以上は「日異」と書いたものだが、「日殊」を「ひこと」と讀んだ例もある。萬葉集卷十の「二二九五」の
  我屋戸之田葛葉日殊〔二字右○〕色付奴不|來《(イ有)》座君者何情曾毛
を、六帖卷六の「くず」に
  わかやとのくすは日ことに〔四字右○〕色付ぬきまさぬ君は何こころそも
とある。而してそれらを「日ごとに」とよむのは多くの古寫本に通じた現象である。又萬葉集卷十一の「一五九六」の
  名草漏心莫二如是耳〔三字右○〕戀也度月日殊〔二字右○〕
(312)をば、六帖卷四の「戀」に
  なくさむる心はなしにかくてのみ〔五字右○〕戀や渡らん月に日ことに〔四字右○〕
としてあげてある。「如此耳」を「かくてのみ」とよむのも不十分だが「日殊」を「ひごとに」とよむのは未だ到らぬ點といはねばならぬ。元來これは萬葉集卷十五の「三六五九」に
  安伎可是波比爾家爾〔四字右○〕布伎奴
に照して見れば
  秋風之日異〔二字右○〕吹者(卷九、「一六三二」)(卷十「二一九三)
のよみ方は考へらるゝものであり、新點以前にも正しくよんだ本はあつたが、それが確定したのは契沖によるのである。なほ以上の外にも古來よみかねた文字のある歌があり、それらを如何によんだかといふ問題もあるけれども、あまりくだくしくなるから略する。
 以上の外「合歡木」(萬葉卷八の「一四六一」「一四六三」)を「かふかの木」「かふか」(六帖卷六)とよむやうなことがあり、又「海石榴」(萬葉卷十九「四一五二」)を正しく「つばき」とよんでゐるかと思へば、同じ文字を用ゐた「山海石榴」(萬葉集卷七「一二六三」)の歌をば二回用ゐてゐて一方では「山椿」(六帖卷六「椿」)とよみ、一方では「山ざくろ」(六帖卷六「ざくろ」)とよんでゐるといふやうな誤と矛盾を示してゐる例もある。
 古點を施した人々の苦心は石山寺縁起の記述でも一往考へらるゝことであるが、今こゝにその訓の適切な例を少しくあげてみよう。先づかの「左右」を「まで」とよんだものは萬葉集卷一の「三四」の
  白浪乃濱松之枝乃手向草幾代左右二〔三字右○〕賀年乃經去良武
(313)は、六帖卷六「手向草」に
  白浪の濱松かえの手向草いくままてに〔三字右○〕か年のへぬらん
と正しくなつてゐる。この他卷四「五四九」(六帖卷四「たひ」に)「五五〇」(六帖卷三「ふね」に)「六一四」(六帖卷五「あひおもはぬ」に)卷七「一一一四」(六帖卷三「川」に)「一一八二」(六帖卷三「ふね」に)「一三二七」(六帖卷五の「たまに」)卷八「一四六五」(六帖卷六「ほとゝきす」に)「一六〇二」(六帖卷二「山ひこ」に)「一六四七」(六帖卷一「雪」に)卷九「一七八九」(六帖卷五「ひも」に)卷十一「二五一八」(六帖卷四「別」に)「二七五〇」(六帖卷六「あへたちばな」に)「二七五九」(六帖卷六「たて」に)等みな「左右」を「まで」とよんだ例である。「二手」を「まで」とよんだのは萬葉集卷三の「二三八」
  大宮之内二手〔二字右○〕所聞網引爲跡網子調流海人之呼聲
を、六帖卷三「あま」に
  大宮のうちまて〔二字右○〕聞ゆあひきすとあことゝのふるあまのよひ聲
と正しく讀んである。又金を五行説に基づいて「アキ」とよませてある。その例は卷九の「一七〇〇」の
  金風〔二字右○〕山吹瀬乃響苗天雲翔雁相鴨〔六字右○〕
をば、六帖卷三の「せ」に
  秋風に山吹のせのひゝくなへ空なる雲のさわきあへるかも〔空な〜右○〕
としてある。、下二句のよみ方は當つてゐないが「金風」を「秋風」としたのは當を得てゐる。同卷「二〇一三」の
  天漢水陰草金風〔二字右○〕靡見者時來之
(314)をば六帖卷一の「七日の夜」に
  天の河水かけ草の秋風〔二字右○〕になひくをみれは時はきぬらし
とよんでゐるし、卷十の「二三〇一」の
  忍咲八師不戀登爲跡金風〔二字右○〕之寒吹夜者君乎之曾念
をば、六帖卷五の「夜ひとりをり」に
  をしへゆくをしと思へど秋風〔二字右○〕の寒くふく夜は君をしぞ思ふ
としてある。第一、二の二句は變なよみ方で隨ひ難いが、「金風」を秋風としたのは當つてゐる。しかしながら卷十の「二二三九」の
  金山〔二字右○〕舌日下嶋鳥〔右○〕音聞何嘆
をば、六帖卷二の「山」に
  かね山〔三字右○〕のしたひか下に鳴かはつ〔三字右○〕聲たに聞は何かなけかん
としてある。こゝには「金山」を「あき山」とよみえないといふ弱點がある。それから「鳥」を「かはつ」としたのはよみ樣の違ひでなく意あつてかへたものであらう。
 「義之」を「てし」にあてたのは晋の王羲之が古今第一の書道の師であるために古昔から「手師」(手は手習の手に同じい)と稱讃せられたのに基づくといはるゝが、六帖に既にその例がある。萬葉集卷三の「三九四」の
  印結而我定義之〔二字右○〕住吉乃濱乃小松者後毛吾松〔右○〕
を、六帖卷五の「しめ」に
(315)  しめゆひて我さためてし〔二字右○〕住吉の濱の小松は後もわかつま〔二字右○〕
とあるのがその例である。こゝに「松」を「つま」とよませたのは正しくないが、後人のさかしらであらう。卷四の「六六四」の
  石上零十方雨二哉將關妹似相武登言〔五字右○〕義之鬼〔二字右○〕乎
をば、六帖卷一の「あめ」に
  いそのかみふるとも雨にさはらめや逢んと妹に〔五字右○〕いひてし〔二字右○〕ものを
とあり、こゝも同じく「てし」にあてゝある。但し第四の「妹に」「逢はんと」を前後にしてあるのは誤りでは無くてわざと位置をかへたのかも知れぬ。その他卷十一の「二五七八」(六帖卷五の「かみ」に)の一首も同じく「義之」を「てし」にあてゝゐる(義之は正しくは「羲之」であるが普通には俗用によつてゐる)。なほ「大王」を「てし」にあてゝゐるのは王羲之の子王獻之も亦書道の達人であつたので、その當時父を大王といひ子を小王と稱へたので大王即ち羲之をさすが故に「てし」にあてたのであつて、萬葉集卷十一の「ニ六〇二」の
  黒髪白髪左右跡結大王〔三字右○〕心一乎今解目八方
とある「結大王」」は「むすびてし」とよむべきものと今日は誰も知つてゐるが、六帖卷五の「おもひわつらふ」に
  黒髪のしらくるまてといふ君〔右○〕か心のうちを今しらめやも
とよみ、かくして「おもひわつらふ」の例歌としたのであらうが、よくよみこなしてゐるとはいはれぬ。しかしここの「大王」を「きみ」と讀むことは寛永版本に至るまでさうなのであり、契沖もさうよんでゐたのだから六帖を咎むべきではあるまい。
(316) 萬葉集卷十の「一八七四」の
  春霞田菜引今日之暮三伏一向〔四字右○〕夜不穢照良武高松之野爾
をば、六帖卷一の「夕月夜」に
  春霞たなびく山の夕月夜きよくてるらむたかまとの野に
と寸毫の隙もなく完全によみこなしてあるのに私は目を見張る。「暮三伏一向夜」を「ゆふつくよ」とよんであることは驚くべき事である。これは「三伏一向」を「ツク」とよませたものであるが、その基づく所は萬葉集に切木四と書いて「かり」にあてあるのに關係がある。之は今朝鮮で※[木+四]といふ遊戯があるのと同じもので、木片を二つに割つたもの四を投じ、その向と、伏との數によつて勝負をするものであつたらしい。かくてその三が伏し一が仰向いてゐるのを「つく」といひ、その反對を即ち一伏三向を「コロ」と云つたものであるらしく、卷十三「三二八四」の歌に「根毛一伏三向」とあるのを「ねもころ」とよませてゐる。この卷十の「ころ」の歌は六帖には採つてゐないが、これらが古點時代によみこなされてゐたことを想像しうるのである。萬葉集卷十二の「二九九一」の歌は
  垂乳根之母〔右○〕我養蠶乃眉隱馬聲蜂音石花蜘※[虫+厨]〔八字右○〕荒鹿異母二不相而
と書いてあるのであるが、この歌は六帖には二回とつてゐる。その一は卷二の「おや」の條に
  たらちねのおや〔二字右○〕のかふこのまゆこもりいふせく〔四字右○〕も有か妹にまかせて〔四字右○〕
とあり、一は卷五の「わきもこ」の條に
  たらちねの親〔右○〕のかふこのまゆこもりいふせくも〔五字右○〕あるか妹に逢すて
とある。石花は今も「せい」といふ「かめのて」のやうな貝のやうなもの、蜘※[虫+厨]は「くも」であり、この二つは當(317)時も常識で判斷出來たものであらうが、馬聲を「い」とよみ蜂音を「ぶ」とよみ、かくしてこの八字を以て「いぶせくも」の語を表記したものと判讀し得た當時の學者の滿足は如何許であつたらうか。その他その二首のうちのよみ違ひは今追求せぬ。又卷十一の「二六四五」の
  宮材引泉之追馬喚犬〔四字右○〕二立民乃息時無戀渡可聞〔四字右○〕
をば、六帖卷二「そま」に
  みや木ひくいつみの杣〔右○〕にたつたみのやむ時もなし我こふらくは〔六字右○〕
としてある。末句のよみ方はわざとかへたのかも知れない。「追馬」は馬を追ふ聲で古く「そ」と唱へたものか、又「喚犬」は犬を喚ぶのに「ま」と唱へたものか、それらの事は確かにいひ難いが、この四字を「ソマ」とよみ得たことも驚くべきことであらう。かくして六帖には無いけれど、
  喚大追馬鏡(卷十三「三三二四)を「まそかゞみ」
  犬馬鏡(卷十一「二八一〇」、卷十二「二九八〇」「二九八一」、卷十三「三二五〇」)をも「喚犬〔右○〕追馬〔右○〕」の略として「まそかゞみ」とよみうることは自然の勢である。それ故これらも古點時代の訓であらうと推測せらるゝ。
 萬葉集卷七の「一三六六」に
  明日香川七瀬之不行〔二字右○〕爾住鳥毛意有社波不立目
を、六帖卷五の「人しれぬ」に
  あすか河七瀬の淀〔右○〕にすむ馬も心あれはこそ波立さらめ
とよんである。これは「不行」を川水の流れ行かぬ意で「よど」と義訓したので今日までも異議無く行はれてゐる。
(318) 以上は著しく注意を惹く例をあげたのであるが、萬葉集には今以てその訓の落着せぬものがある。萬葉集卷四の「六三八」の
  直一夜隔之可良爾荒玉乃月歟經去跡心遮〔二字右○〕
とある「心遮」の二字がその一例である。六帖卷五「あかつきにおく」の條に
  たゞひと夜へたてしからにあら玉の月かへぬるとおもほゆるかも〔七字右○〕
と訓んでゐるが「心遮」をどうして「おもほゆるかも」とよみうるのであるか、理由は考へられぬ。しかし寛永版本に至るまでこの通であり、しかも未だ何人も落ちついた訓を與へてはゐない。萬葉集卷十の「二〇九四」の
  竿志鹿之心相念秋芽子之鐘禮零丹落僧〔右○〕惜毛
を、六帖卷一の「しぐれ」に
  さをしかの心あひ思ふ秋はぎの時雨のふるにちるは〔右○〕をしくも
と訓んでゐるが「僧」を「は」とよむことは無理である。これは諸説紛々一も首肯するものが今に到つても無い。萬葉集卷十一の「二五〇四」の
  解衣戀亂乍浮沙生〔三字右○〕吾戀度鴨
を、六帖卷六の「うき草」に
  とき衣の思ひみたれて浮草のうきても我は有わたるかな
としてあつて、甚しく亂れたよみ方になつてゐる。これも亦諸説紛々一も定説と認むべきものが無い。同じ卷の「二七九二」の
(319)  玉緒之島意哉〔三字右○〕年月乃行易及妹爾不逢將有
を、六帖卷五の「玉のを」に
  たまのをのしまこゝろに〔六字右○〕や年月の行かはるまで妹に逢さらん
としてある。「島意」を字を給讀みにすれば「しまこゝろ」となるには相違無いけれど、「しまこゝろ」といふ語は何の意味だかわからぬ。これも亦諸説紛々一も首肯すべき意見が出てゐない。それ故に以上の如きを以て六帖のよみ方の不備を責むることは出來ない。
 
 以上數項にわたつて六帖に採つた萬葉集の歌の功過を論じて來たが、その是非はとにかく、
一、萬葉集の全量四分一を六帖に見うることは多とせねばならぬ。
二、萬葉集の卷四、卷七、卷十、卷十一の各卷はその約半分のよみ方を六帖が示してゐる。
三、六帖には萬葉集の難義を既に解いたものがある。
四、六帖にも誤つたよみ方が少からずある。しかも、六帖の誤つたものを今日に於いても未だ訂し得ないものも少く無い。
五、今の本の六帖には寫誤があり、萬葉集に照して訂正し得べきものがある。六帖の研究の上にも萬葉集は重き價値があらう。
六、萬葉集の研究には古點者の恩惠極めて大なるものと認めねばならぬ。この事は六帖を見れば思半ばに過ぐるものがあらう。萬葉集の研究に劃期的の功績をあげた仙覺と云つてもその新點は二百首に滿たない。一首や二首の(320)訓を施し得たとしてもそれは古人の研究に比すれば太陽の前の蝋燭位のものに過ぎぬであらう。要するに、六帖以來の難訓は一千年を經ても依然としてゐる。萬葉集の研究はます/\續くべきであらう。
          (昭和二十七年四月、「萬葉」第三號)
 
 
(321)       萬葉集の版本
 
 ここに版本といふのは江戸時代の木版本を主とし明治時代の初期に及ぶこととするが、所謂活版本は論じない。
 萬葉集は古來專ら書寫せられて傳はつたもので、版本になつたのは江戸時代の初期だと思はるゝ。徳川氏の偃武以來文運頻りに興り、内外の典籍の刊行が上下によつて行はるゝことになつた。そのうちにもこの新興時代を表示するものは活字版のはじめて行はれたことであつた。この時朝鮮より銅活字を得た事と切支丹伴天連が活版の術をもたらしたことが相俟つて活字版の勃興を促した。かやうな氣運につれて萬葉集も亦印行せらるゝこととなつたであらう。さうしてそのはじめて刊行せられたものは活字版であつたが、その活字版の本には二種ある。一は訓の無い本であり、一は訓の附いた本である。而して最初にあらはれたのが無訓本であると信ぜられてゐる。
 
  活字無訓本
 之は萬葉集二十卷完備した本であるが、二十冊とした本は稀で、多くは二冊づつ綴ぢ合せて十冊本としてある。
 この本は楮紙美濃紙版で袋綴である。四周雙邊で界は無い。半葉毎に八行、行毎に十八字である。各卷に目録があり、歌を高くし題詞を一字下げにし、卷第一、二の天皇御宇の記は本文と同じ高さにし、その前の歌の類別を示す雜歌相聞等の題目は二字下げに記してある。
(322) 本文の外卷第三の奥に大伴旅人、同家持、藤原不比等の略譜を加へてある。この外には各卷とも奥書が無い。それで印行の年月を知ることは出來ないが、慶長元和の交の刊行であり、萬葉集の版本としては最初のものだらうと考へられてゐる。
 本書に用ゐた活字は徳川家康が京都伏見で足利學校の主僧三要相國寺の承兌等に命じて新に雕つた木活字を襲用したのだらうと考へられてゐる。伏見で初めて開版せられたのは慶長四年で孔子家語、三略、六韜の三書であるといふ。翌五年に貞觀政要、十年に周易、十一年に七書を刊行せしめてゐる。その後東鑑、太平記等の國書も刊行せられた。かくて後それらに用ゐた木活字がこの本の印行に利用せられたであらうといふことは兩者の同じ字を相照して見る時に首肯せらるゝであらう。しかし、萬葉集の用字が上述の諸書と全く一致するものでは無いから不足のものは新に彫り足したであらう。さうしてその版式その他から見て慶長古活字版としては後期であり、若くは元和の初期に屬するかも知れぬと思はれてゐる。
 この本は萬葉集の古寫本中如何なる種類の本に據つたものであらうか。之に就いては夙く木村正辭博士がその内容の特殊な點がもと昌平坂學問所にあり、今は内閣文庫に藏せられてゐる林道春手校本と一致してゐるから、それによつて昌平坂學問所で刊行したものであらうと推論せられてあるが、恐らくは當つてゐるであらう。その特殊の點の一は卷第二の二一七番の長歌の中に「不怜彌可念而寐良武」といふ句の次に「悔彌可念戀良武」といふ句のある點である。この句は上にいふ林道春本とそれの類本たる細井貞雄舊藏本並に類聚古集、神田本、西本願寺本等にはあるが、それの無い本も少く無い。次に著しい點は卷第四の五二一番の歌以下の二百七十三首の歌が無くて、そのかはりに、卷第三の三七七番の歌以下百七首を加へてあるといふ大きな誤である。この誤は林道春本細井貞雄本に(323)は共通してゐるが他の本には見えない。而して卷第三の末に旅人家持不比等の略譜を加ふることは他にもあるが、上述の二本と共通してゐる。たゞそれらの本と異なる點はそれらの本は皆訓を加へてあるのにこの本は無訓であることである。之は活字で假名を附くる勞を厭うた爲であらう。
 なほこの無訓本は卷第七の※[羈の馬が奇]旅作のうちに歌の排列が流布本と違つてゐる所がある。即ち、それは寛永版本を基にしていふと、その※[羈の馬が奇]旅作の歌の排列が、一一六一番から一一九三番までは一致するが、その次には一二〇八番の歌が來る。即ち
  勢能山爾直向妹之山事聽屋毛打橋渡(一一九三)
  妹爾戀余越去者勢能山之妹爾不戀而有之乏左(一二〇八)
となり、それから引つゞいて一二二二番の歌まで十五首が順に續いてそれから一一九四番の歌となる。即ち
  玉津島雖見不飽何爲而※[果/衣]持將去不見入之爲(一二二二)
  木國之狹日鹿乃浦爾出見者海人之燈火浪間從所見(一一九四)
となり、それから合計十四首が順につゞいて一二〇七番に至り、その次に一二二三番の歌となる。即ち
  粟島爾許枳將渡等思鞆赤石門浪未佐和來(一二〇七)
  綿之底奥己具舟乎於邊將因風毛吹額波不立而(一二二三)
といふ順になつてゐる。かやうな拝列は版本ではこの活字無訓本だけであるけれども、古寫本は多くこの本と同樣であつて、流布本の如き排列のは古寫本としてはかへつて稀なのである。しかし、それはそれとして、この無訓本の基かと考へられてゐる林道春本、細井貞雄本もこの排列だから、それらの點が、上の推定をますます固める譯で(324)ある。
 以上の如くであるからこの無訓古活字本は萬葉集の版本として最初の刊本として珍重すべきことは固よりであるが、學術上から見れば不完全の點の少からぬものである。
 
  活字附訓本
 これは活字無訓本に次いで刊行せられたものであらうと考へられてゐる。之も二十卷完備した本であつて、袋綴の二十冊として装綴せられてある。
 この本は無訓活字本と體裁が似てゐて、半葉八行、一行十八字であることも一致してゐる。各卷に目録があり、本文題詞等の書式は無訓活字本に同じであり、又卷第三の奥に旅人、家持、不比等の傳があり、刊行の奥書が無いことも一致してゐる。しかしながら、卷第一の末に先づ奥書として、
   本云文永十年八月八日於鎌倉書寫畢
といふ一行があり、その次の行からは
   此本者正二位前大納言征夷大將軍藤原」卿始自寛元元年(下略)
といふよりはじめて、四十七行に亙る長文の奥書があり、終には
    文永三年八月十八日   權律師仙覺
と見ゆる。又卷第二十の末にも奥書として
   先度書本云
(325)   斯本者肥後大進忠兼之書也件表紙書云以」讃州本書寫畢(下略)
といふよりはじめて、すべて七十二行に亙る長文の奥書があり、終には
   文永三年歳次丙寅八月廿三日
                  權律師仙覺記之
と二行に書いてある。なほその次に五行に亙り桑門寂印の奥書があり、更にその次にすべて二十八行に亙つた奥書があり、その末に
   文和二年癸巳中秋八月二十五日
                  權少僧都成俊記之
と記してある。
 先づ、これらの奥書は無訓活字本には無いが、同時にそれは林道春本にも細井貞雄本にも無いのみならず、これを有せぬ古寫本は少く無いのである。これらの奥書をもつてゐる古寫本は現存の本では西本願寺本、温故堂本、大矢氏舊藏本、京都大學本等であるが、それら諸本のうちでも多少の出入がある。そのうち西本願寺本、温故堂本には卷第一の奥書の初にある「本云文永十年八月八日於鎌倉書寫畢」の一行の文が無い。それ故に結局大矢氏舊藏本、京都大學本の二種のみが奥書に於いてこの附訓本と一致することになる。然るにこれらの奥書をもつてゐる諸本には多く卷第三の奥の三人の略譜が無く、又卷第三の奥にこれらの略譜を有する本は多くは卷第一、二十の奥書が無いのである。これらを以て見るとこの附訓本はそれら系統の異なつた本を折衷した、どつちつかずの本となつてゐると考へらるゝのである。
(326) この附訓本の本文其の他の體裁は無訓本に據つたものと思はれて、目録、題詞、本文の書式は一致してゐる。而して、本文も亦無訓本を底本とし、又は原稿としてそれに傚つて植字したものであらう。その證は卷第八の第五十一張に二の例がある。その第一行の「又報脱著身夜〔右○〕家持一首」(一六三六の詞書)の「夜〔右○〕」は「衣〔右○〕」であるべく、第六行の「坂上大嫌〔右○〕」は「大孃〔右○〕」であるべきことは著しいことで古寫本皆正しいのを無訓本が誤植したのである。而して附訓本は亦それを踏襲したのであるが、二本その字體が別であるかち附訓本は別に植字したことは十分に推定せらるゝ。しかしながら彼の無訓本が卷第四の後半で大なる誤をした點をばこの附訓本で正しくしてある。上の大きな誤は林道春本細井貞雄本に限つて存するもので他の古寫本は皆正しいのである。而して、彼の卷第一、第二十に奥書ある諸本は皆正しいのであるから、それらの本に據つて正しもし、奥書も加へたといふことは推定しうる。
 この本はかくの如く無訓本をそのまゝ踏襲した所もあり。又その説を正してもゐる。彼の卷第二の二一七番の歌には「悔彌可念戀良武」の一句がその本には無い。又卷第七の※[羈の馬が奇]旅作の部の歌の排列は上に述べた流布本と同じ排列によつてゐるが、實はそれはこの附訓本にはじまり流布本の源となつたのである。これらの點も亦無訓本と著しく違ふ所である。その卷第七を流布本の如くにした古寫本は極めて少く、現存の本では大矢氏舊藏本だけの樣である。流布本の如きが正しいのか、無訓本の如きが正しいのかは頗る大きな問題であるが、今それを論ずる場合では無い。私は更に他の方面に目を轉じよう。
 無訓本にも附訓本にある事だが、卷第十の秋雜歌詠鴈の二一三〇番の歌をば先づ、
  吾屋戸爾鳴之鴈哭雲上爾今夜喧成國方可聞
と一行に書き、次の一行に「遊群」と書いてある。附訓本は前一行の訓として「ワカヤトニナキシカリカネクモノ(327)ウヘニコヨヒナクナリクニツカタカモ〔六二字右○〕」といふ假名をつけて完全な一首として讀み、次行の「遊群」には「ユウクン」として假名でよみ方を加へてある。この「遊群」といふことは一體何を意味するものであらうか。之を次の歌の題詞かと思ひ考へても一向に了解が出來ない。これは古來難解のものとしてもてあまされ來たものである。この事は活字無訓本にはじまつたことでは無く古寫本が皆さうしてゐるのである。しかしながら多くの古寫本は漢字だけを記してよみ方を注してゐない。たゞ大夫氏舊藏本と京都大學本とは「ユウクン」と假名を加へてある。さうするとこれもこの本の類に據つたものと思はるゝのである。
 序に云つておくが、この「遊群」の二字一行は契沖の如きももてあまして終に代匠記で
  遊群、此題不審あり。下十首の歌を見るに皆鴈の歌なれば、別題あるべきに非ず。若後人の注などの詞の本文となれるにや。
と云つてゐる。北村季吟の拾穗抄はこれを題目と見て「遊群歌十首」としてしまつてゐる。これは萬葉集略解に「遊群」をば前の歌の末の字として加へて「くにへかもゆく」とよんで
   今本、國方可聞をクニツカタカモとして遊群の二字を此歌の次に放ち書たり。遊群はユクの假字に用ひたるなればかく改めつ。こは荷田翁【東麻呂】の考なり。
と云つてゐる所で落着したのである。東麿の説はその著童蒙抄にある。
 以上、奥書、卷第二の長歌の一句の有無、卷第四の後半、卷第七の※[羈の馬が奇]旅作の歌の排列、卷第十の「遊群」の假名づけなどいろいろの點を總合して考へて來ると、この附訓本の著しい部分と大矢氏舊藏本とが頗る接近する所のあることを感ずる。
(328) この本、その本文の漢字はもとより活字であるが、その漢字の傍に加へた訓の片假名も亦活字である。この傍訓が活字であることは卷第二の第三十九張裏第七行の「虚知期知爾」の訓の假名「コチコチニ」とあるべきをその「虚」の字の傍の「コ」をば活字を植ゑ誤つて「※[コが左90度回転]」の如くにしてあるだけででも知らるゝであらう。さて、この本の訓は何に據つて加へたかといふのは容易にいひうることでは無いが、これ亦大矢氏舊藏本に縁の近いものであることを見るのである。
 以上を總合して考へて見ると活字附訓本は活字無訓本と活字版を以て印行した點は似てゐるし、大體は無訓本をその原稿として用ゐた迹もあるけれど、いろいろの本を以て寄せ合せた形迹が著しくて、よほど性質の違つたものであるから別種の本と見なすべきものであらう。かくしてこの本は次の寛永整版本、寶永整版本の原本であるから所謂流布本の祖本といふべきものであらう。
 
  寛永版本、寶永版本及び土佐活字本
 寛永の整版本は普通に寛永本と呼ばれてゐる本である。前の二種は活字版であつたが、時世が移つて整版が盛んになるにつれて、萬葉集も整版として行はるゝに至つたものであらう。整版は版木のまゝ保存することが出來るから幾度も幾度も重ねて印行することが出來るのである。
 この本は卷第二十の卷末に
   寛永貳拾年【癸未】蝋〔右○〕月吉日(蝋は臘の誤)
     洛陽三條寺町誓願寺前安田十兵衛新刊
(329)とある。美濃版楮紙袋綴で二十册となつてゐて、その版式、體裁、本文、附訓すべて、活字附訓本を版下にして整版として彫刻したものと見らるゝ。この本はそれ故に活字本の誤植をもそのまゝに彫つた點が殘つてゐる。彼の卷第八の第五十一張の「夜」「嫌」も其の誤の通りになつてゐる。又卷第二の第三十九張裏第七行の「虚知期智爾」の訓を「カ〔右○〕チコチニ」と彫つてある。これは既に説いた通り活字附訓本が「コ」の字を誤植して横になつたのであるのに氣づかずして彫者が「カ」の形にしたものであらう。しかしながら、この本は活字附訓本の字を改易した點もある。例へば卷第一の最初の雄略天皇の御製歌の中に活字附訓本が「布久思毛與美夫君忘〔右○〕持」として「志」の字を「忘」に誤植してあるのをこの本では正しくしてゐる。かやうに誤を訂した部分もあるが、反對に正しいのをわるくしたのもある。例へば卷第五の八九七番の歌に「月累憂今〔右○〕比」となつてあるが上述の二種の活字本皆「吟」とあるし、古寫本皆さうであるからこの本に至つて誤つたのである。それよりもひどいのは卷第九の一七八〇番の歌の末の方を「海上之其津於〔右○〕指而」としてあることである。これも古寫本も二種の活字本皆正しく「乎」となつてゐるを寛永版がさかしらにかへたものである。これが爲に若狹の學僧義門をしてその名著「於乎輕重義」に苦しい理窟を弄せしめてゐる。しかし、それが寛永本だけの誤とわかれば、議論は無用なのである。
 寛永本は整版であるからその版が役に立つ限り、幾回も印行せられたものであらう。隨つて後には磨滅した部分も生じ、それを補刻した所もあつたことは確かな證據がある。その著しい例はかの卷第二の第三十九張である。先づその裏の面の末行に
  妹庭〔右△〕雖〔右○〕1在恃有之妹庭〔右△〕雖〔右○〕有2世〔右○〕中背不得者香
とあるのが元版と見ゆる本に見る所であるが、その二つの「雖」といふ字をば、何とも分らぬ次の如き字「〓」(1)(330)「※[是+隹]」(2)とした本がある。而していづれも寛永の奥書のある本である。今その後刷の改惡した本のこの張を見ると、表裏兩面共に版面の、磨滅せる分が多くて著しく不鮮明である。恐らくは何かの事情でこの一枚の版がひどく痛んでその終の一行が特に甚しかつたので、かやうに改めて嵌め込んだのでないか。それは「雖」といふ字だけでなく「庭」といふ字二つ共、又「世」といふ字が元版の字體とはつきり違つてゐる。この三字も彫りかへたことは明かである。それから、その表の面の第六行に「吉雲曾無寸〔右○〕」とある「寸」は後刷のわるい本では甚しく磨滅して、たゞ點が二つある如くに見ゆるやうになつてゐるが、それを「無有〔右○〕」とした本がある。この「無有」といふことは何を據としたといふ見當もつかぬものである。恐らくその版の整理の際のさかしらであらう。なほこれらの外にも改易した點がそここゝに見ゆるが、それらは皆後刷の補刻の際に生じたものであらう。
 活字版の本二種は古いものであるが、あまり多く流布しなかつたものと思はるゝ。この寛永整版本が出でてからは、弘く世に行はれたものと見えて、爾來萬葉集といへば主として之を指すこととなつた。さうして多くの學者は先づこの本を研究の基底として今日に至つてゐる。
 寶永整版本は外形内容いづれも寛水整版本と異なるところなく、たゞ卷末の奥書が
  ※[山/なべぶた/日]寶永六丑季春吉辰
     御書物屋 出雲寺和泉掾
となつてゐる點がちがふだけである。今、寛永版本とこの本とを仔細に比較するに、その文字の位置のゆがんでゐるものまでも一致するのであつて、何としても寛永の版木をそのまゝ用ゐたものであらうといふことを考へさせらるゝのである。恐らくは書肆が舊い版木を譲り受けて新しく己が藏版として刷り出したものであらう。
(331) この本の版面は全體に不鮮明である。之は恐らくは上述の事情に基づく爲であらう。而してこの寶永版として刷り立つるときに版面の崩れた字を補刻したことがあつたやうだ。特に卷第十五の第十七張は全部補刻したものと認めらるゝが、寛永坂の後刷の本ではこの張は著しく不鮮明であつて、裏の最終の「等能」の二字は全く無く僅かに旁訓の「トノ」がよまるゝだけであるから補刻したことは疑ひない。
 さてこの寶永版本にも、彼の卷第二の第三十九張を見ると、版面の異なるものが二種ある。即ち表の「無寸」の正しい本と「無有」となつてゐる本、又この「雖」の字が正しい本と寛永坂の誤つた通りになつてゐる本とある。而して、その「世」の字等もちがふから、改刻したことは推測出來るが、これは恐らくは初はその誤の有つた寛永版のまゝ用ゐてゐたが、後に刷り直す時にその誤を改めたものであらう。
 この寶永坂は汎く流布したものと見えて、寛永版を知らずして萬葉集の版本として先づこれをさすと考へてゐた人が多かつたやうだ。群書一覽の萬葉集の項を見ると、寛永版の事は全くいはず「寶永六年三月上木す、外に活版一本あり」と云つてゐる。群書一覽の著者尾崎雅嘉は篤實の人で、書籍に精通した人として群書一覽は讀書子の重んずる所であり近世三十六名家集略傳にはその傳があつて「もと翁の家、書を鬻ぐを以て業とするが故に、和漢の群書は渉獵せずといふことなし」とあるのでもわかる。その群書一覽が、寛永坂には一言も觸れてゐないことは當時寛永版が稀で、寶永版が盛んに行はれてゐたことを示すものである。又實地の研究上からいへば寛永版の後刷の誤ある本よりも寶永版の後刷の誤を正した本の方が有意義のものと見られよう。
 ここに別に一種の活字本の萬葉集がある。これは土佐國の人今村樂の序を添へて享和三年八月に同國の人横田美水が木活字で印行した二十卷本である。それは卷ごとに「古萬葉集」と題してあるけれども古活字本に依つたもの(332)では無い。その序文の中に今の版本の訓には誤が多いから其の誤を正しあらたに訓を施さうとしてものしたのだとはあるが無點の本である。これには卷第三の家持以下の略譜及び仙覺や成俊の奥書も無いが、行數字數等は寶永版本に同じである。蓋し寶永版本を基にしてかやうな事を企てたものであらうが、脱落があり、又憶斷で改易増減した所もあり、且つ流布もしなかつたと思はれ、一般の萬葉集の研究家にはさしたる影響も無かつたと思はるゝ。外題は「古萬葉集」と題してあるけれど、版本以前の古寫本に據つたとは思はれない。恐らくは編者の憶斷した古來の面目といふことであらう。今便宜上ここに附説しておく。
 
  萬葉捨穗抄
 萬葉拾穗抄は拾穗軒北村季吟の著である。之は萬葉集二十卷の全注であつて、その本文と共に歌のすべてにわたつて注を加へてあるもので、本文としても注意すべく、全注としては最初の刊本である。
 この本は半紙判袋綴の本で、三十冊ある。即ち五、六、九、十三、十四、十五、十六、十七、十八、十九は一冊づゝで他の十卷は上下二冊づゝになつてゐる。この本には刊記が無いから出版の年月がわからぬ。先づその著作の時日を見ると、卷第一の末に
  天和二年壬戍陽月朔日註解而同十八日終此一卷 季吟(一行)
  貞享元年甲子五月十一日重而染筆六月朔日終此卷【墨付五十二枚】(一行)
とあるやうに毎卷に同樣の識語があり、かくして卷第二十の末には
  貞享三丙寅年八月廿日巳上刻雨天書新玉津島菴下【墨付五十四枚】季吟(一行)
(333)  同年十二月廿九日辰剋終再考之功者也 新玉津嶋寓居士【六十三歳】(一行)
とある。而して卷第二十の末には冷泉亭人の貞享五年孟夏日と記した跋があり、卷第一の卷首に貞享丁卯(四年)季夏日の長春院法印の序と元禄三年獵月上旬の林直民即ち鳳岡の序とがあるが、本によりてはこの鳳岡の序が無い。その鳳岡の序文によると、季吟が幕府に出仕してその版本を將軍に獻呈してから序文を請うたとある。それ故に鳳岡の序の無い本の方が元刷の本だと考へらるゝ。季吟が幕府に召されたのは元禄二年十二月である。又冷泉亭人の跋には貞享五年孟夏日とあるが、この年九月に改元があつて元緑元年となる、即ち刻版に着手したのは元禄改元以前であるが、その刊行は略元禄二年頃であり、三年には將軍に獻じてゐる。
 本書著作の因縁は卷首の總説のうちに書いてある。それによると先師松永貞徳が、夙くから萬葉集の注解に心ざして諸本をあつめ、諸抄を求めて吟味し、季吟を助手として著述に從事したが、第一、第二の卷が出來ただけで、その事を終へずして歿せられたと云つて、その先師の企てを實現するを目的としての著作だと云つてゐる。
 この書は元來注解を主としたものである。卷首に總説とでもいふべき部分があり、十八枚に亙りて、歌數の事、時代の事、撰者の事、題號の事、古點新點の事、諸本の事、書樣の事、此集古人用捨の事等を説いてゐる。本文は平假名の讀み下しを本體として傍に漢字の原文を加へてある。注解は上層に記し、又餘り長いのは、本文と本文との間にも加へてある。書目提要には「その頭書またはかたはらに古訓の異同をあげたると古人の裏書の文をもらさず載たるはさすがにめでたし」と云つてゐるが、その注については「別に發明したることはなし」と批評してゐる。
 この書の他と異なる點は本文にある。既にいふ如く、この本文は平假名が主體で、古來の本文たる漢字の部を旁(334)書してあるのであるが、これは先師貞徳の志をついだもので、「童蒙初學の者にたよりあり」と考へてしたわざである。その本文は内容の上から見ても異色あるものである。それは冷泉亭人(蓋し惺窩先生の子冷泉爲景の孫爲經であらう)の跋によると、惺窩先生が數本を以て校正しておいた本を門人の吉田玄之(角倉素庵)が寫して置いた本を素庵の曾孫玄恒から季吟が借りて底本としたといふのであるが、季吟の言にも
   今予が所用之本は此仙覺が本をもて妙壽院冷泉殿の校正し給へる本とかや。歌の前書作者の書やう、訓點等まことに藤※[斂の旁が欠]夫の所爲しるく學者の益おほく見やすかるへけれはしはらく用ひ侍し。
とある。季吟の學風として、古典の文句を恣に改易することなく、私案は注で述ぶる方式をとってゐるから、この本文は、藤※[斂の旁が欠]夫惺窩先生校本の面目を如實に傳へてゐると考へなければならぬ。この惺窩の校本といふものは古活字本以前の校合本として注目すべきもので、本文の語句の出入も少くないものである。これによつて多少は古來の萬葉集の眞面目を窺ひうる點が無いとはいはれまい。況んや惺窩の校本といふものは別に未だ世に存するとは知られてゐないから、一層注目せねばならぬものである。
 本書には創見は無いと云ってよからう。しかし、季吟は他の諸著でも創見を示す爲に著してはゐない。季吟のなす所はいつも舊説を集大成して後來の研究者に資する點にある。本書は既にいふ如く全部の注解の刊行せられたはじめで、それらの爲に世に流布してゐた。後の校異本や略解が之を主要な參考としたことは著しい。本書は又夙く海外にも渡り和蘭のライデン大學にも蔵せられてゐるといふ。
 
  萬葉考及び槻落葉等
(335) 萬葉集の新しい研究は下河邊長流、僧契沖等によりて勃興し、契沖はその大著代匠記を完成して一大時期を劃した。その次に著しいのは荷田春満の研究で、これも萬葉集に関する著述少くは無いが、いづれも寫本で傳はつたのである。賀茂眞淵はその後を承けて偉大な業續を残した。
 萬葉集に關して眞淵は深い考察を下して今の萬葉集の中、巻第一、二、十三、十一、十二、十四の六卷が原本であつて他は悉く人々の家集であるとして卷の次第を改め、上の六卷だけを取つて考注を加へた。これが萬葉考である。
 萬葉考は美濃版の紙を用ゐ袋綴にしたもので、本文は漢字の原文を主とし、訓を片假名で旁に小く加へたことは寛永版の如くで、注はその本文の區切に加へてあり、なほ別に上欄に加へた點もある。その卷第一、第二の二卷の考注とその別記との三卷は寶暦十年に稿が成り、明和五年仲春に刊行せられた。その巻第一の首に萬葉集大考と題して古道を説き、古歌を論じ、古歌仙の批評をなし、次いで集の總説を下してそれから本文に入る。別記は本文以外に特に説くべき長文に亙る説明を記したものであるが、その巻一の卷頭には卷の次でを論じて上に述べた六卷が古き撰であること他の十四巻が後に加はつたものであると論じてゐる。
 萬葉考は先づ上の三卷が出て、その後の卷々は刊行せられず、傳寫したのみであつたが、眞淵の歿後文政七年に至つて六卷すべてとその別記とが刊行せられた。その卷三は流布本の巻十三、その巻四、五は古今相聞歌上下の卷で流布本の巻十一、十二であり、巻六は東歌で流布本の巻十四である。他の十四卷は眞淵の説の殘つてゐたのを基にして門人狛諸成が主となり多くの人の傳ふる所を集めて編輯したもので寫本として傳はつた。
 萬葉考は巻の順序をかへたり、正文をかへたり、歌の位地をかへたり、或は刪つたり、所謂武斷に走つた弊が少(336)く無い。しかしながら舊訓の誤を正したり、又發明する所が頗る多い。特にその歌人としての洞察から生じた發明の如きは學者をして駭かしめ、研究者をして深く反省せしむるものがある。その武斷には心服せぬ者もその所説には耳を傾けずにはゐられないのである。
 萬葉考に伴つてその外編若くは附録ともいふべきものが數篇ある。
 人麿集一冊。美濃紙版の小冊である。内題には「柿本朝臣人麿歌集之歌」とあつて、考の卷四(流布本の卷十一)の卷首から左注に「以前一百四十九首柿本朝臣人麿之歌出」と記して掲げた歌ども、又考の卷五(流布本卷十二)の卷首正述心緒の歌から寄物陳思の左注に「右二十三首柿本朝臣人麿之歌集出」として掲げた歌ども、又二九四四番の歌及び左注に、「右四首柿本朝臣人麿歌集出」とある歌どもを集めて注したものである。而して本書にある歌は考の卷四、五には除かれてあるから考の本書とは離るべからぬものである。この書は文政七年に長瀬眞幸が跋を書いて刊行した。
 萬葉集竹取翁歌解一冊 これは卷十六の竹取翁歌を解いたもので、文政七年に自筆本によつて刊行した。
 遠江歌考は委しくは萬葉集遠江歌考といふ。美濃紙版一冊袋綴の本で、その注解のしかたは考と體裁が異なるもので、本文を掲げてその次に説明を加へてある。ここにとつた歌は卷第一、第八、第十四、第二十の遠江國の歌と、卷第一、第八、第十一等の遠江國に關係ある歌ども計二十五首をとつたものである。而してその卷次の名目は流布本のまゝであるが、寛保二年冬の眞淵の識語があるから、考よりも約二十年前の著である。これは文政二年の内山眞龍の序があり、文政三年に夏目甕麻呂が跋を加へて刊行した。
 槻落葉は正しくは「萬菓考槻落葉【三之卷解】」であつて上下二冊あり、外に別記あり「萬葉考槻落葉【三之卷別記】」と題して(337)ある。これは天明八年に荒木田久老の著したもので、寛政十年三月に出版したものである。久者は眞淵の門人であるが師の萬美考が卷二で止まり、卷三、四はいつ出るかわからぬので、それを補はうといふ目的で起稿したことは本居宣長の序文に見ゆる。その體裁は專ら考に則つてゐる。この書は見るべき説も少く無い。考と合せて參考とすべきであらう。卷第四の解も豫告はあつたが、世に出てゐない。
 久老には又「【萬葉集十六卷】竹取歌解」といふ一冊の著がある。美濃版袋綴の本である。これは師の説に自説を加へたもので、寛政十一年に長谷川菅緒が刊行せしめたものである。
 
  萬葉集旁注及び校異
 萬葉集旁注は常陸國雨引山の僧惠岳の著す所である。本文は寶永版本を基として新に版を興したもので、本文の旁に契沖眞淵其の他の説又自説を注し、誤字脱字の或は改め或は補つたものは圏を加へて示してある。而して著者が別に著した選要抄に説いたものは「既に云ふ」として略記する。又上欄にも先輩又自家の考説を載せてある。卷首に林信徴、關修齡の序及び自序がある。皆漢文である。二十卷の本で、寛政元年中夏に刊行したが、僻説が多いので學者の顧みる所とはならなかつた。
 萬葉選要抄は九卷で同じく惠岳の著である。本文の初の一句を出して張數を記しその下に注をした。大概は契沖と眞淵との説の可否を論じたもので、まゝ今案を加へたが、大かた臆斷僻説でとる所無しとして學者は顧みない。安永六年の自序があり同八年春に刊行した。
 萬葉集校異は美濃版袋綴二十冊の本である。その本文は旁注本を用ゐたもので、その旁注を削り去り、上欄に校(338)異を加へたものと認めらるゝ。その卷第二十の末に
     右以元暦校本并諸本校訂異同標上層訖
        梅宮禰宜正五位下橘經亮
   右橘《(マヽ)》亮嘗校正此書未卒業而卒今繼其志再校
    文化二年八月 吉田社公文所 藤原以文
とある。即ち橘經亮が起稿して未だ卒業せずして歿したから山田以文が、その殘を補つて文化二年に完成せしめたものであらう。きてその次に
   寶永六年丑季春吉辰
     御書物師  出雲寺和泉掾
   文化二年乙丑之冬  出雲寺文治郎
とある。之は文化二年の出版であるを示すと共に、寶永版が底本であることを示してゐる。
 橘經亮の奥書によると元暦校本を以て校訂したとあるが、この卷第二十の卷の第七十張の餘白にその元暦本の卷末の識語を模刻してある。それは今見る實物と大差無いものである。元暦校本を學問的に利用したのはこの本のはじめて試みた所であるが、それの用ゐられてあるのは卷第十四までで、卷第十七以下は元暦校本は存在してゐるのだけれども校異には用ゐてゐない。この校異に最も頻繁に用ゐられたのは拾穗抄である。その他には官本、古本、異本、活本、大須本などの名が見ゆるが、第十六、十七の二卷は拾穗抄のみである。
 本書は校異と名づくるものの、十分の成績をあげたるものと認むること能はざるものといふべきものである。そ(339)れでも橘守部の如く利用する學者もあつたやうだ。下にいふ略解目録には本書に關することがある。
 上に元暦校本の事があるに因りて、それの版本を一言しておく。この本が世に知らるゝに至つた時に橘經亮は之を親ら校合した由その著橘窓自語に見ゆる。この元暦校本を、文化の初年に和學講談所で人を派して影寫せしめた。之は全部模刻する計畫であつたが、卷一、二、七の三冊が出來ただけである。それは忠實に模して朱と墨とで刷つてある。
 
  萬葉集略解及び玉の小琴
 萬葉集略解は賀茂眞淵の門人橘千蔭の撰である。萬葉集全部を通じての注である。美濃版袋綴の冊子で三十冊になつてゐる。卷三、卷四、卷十、卷十一、卷十二、卷十三、卷十四、卷十七、卷十九、卷二十の十卷は上下に分け、他の十卷は一冊づつである。寛政三年三月の自序があり、卷二十の末に
   此萬葉集略解すへて三十卷寛政三年三月十日より筆を起して同八年八月十七日に稿成れり。さてあまたゝひ考へ正して同十二年正月十日までにみつから書畢ぬ。
とある。この本は一度に全部を刊行したもので無い。群書一覽には七卷とあつて、「此書第一卷より第五卷までを刊行す」とあり、又「寛政三年三月千蔭の自序あり、同五年刻」とある。群書一覽の出來た享和元年にはこれだけだつたのである。爾後漸次に刊行し千蔭歿(文化五年)後文化九年三月に至つて全部の刊行を終へた。しかし、文化二年に三十卷を幕府に獻じたことが、その家集うけらが花に見ゆる。さてその刊行しつゝある間に訂正を加へつつ進んだものと見えて版によつて、多少異同があり、「安政三丙年辰九月補刻」と記した本もある。
(340) 本書は本文を右に訓を左に平假名で本文と同じ大きさに並べ書いてある點は拾穗抄にも多少似てゐるが、それよりも元暦校本などに傚つたものであらう。注解はその左に二字下げて記してある。卷二十の終つた後に寛永版本の卷第一、卷第三、卷二十の仙覺、寂印、成俊の奥書等すべて一まとめにして加へてある。
 その注は主として師眞淵の説を世に傳へようとするにあつたが、その師説を中心にして契沖、春滿等先輩の説を參照し、それに自説及び同學の説をも加へたものである。その凡例の末に「此解千蔭とともにあげつらひたるは平春海、源道別、源躬弦なり」と云つてゐる。春海の琴後集に享和三年八月に記した萬葉後讀記序といふ文がある。それには「寛政のはしめつかた信夫道別、安田躬弦なとともに芳宜圍につとひて萬葉集かうかへよむ事ありき」「さて三とせはかりを經てよみをはりたる後に千蔭筆とり略解をはしるしたりき」とあつて事情はよくわかる。なほこの三人の外に本居宣長の説も少からず加はつてゐる。注は簡易を主とし、枕詞はすべて冠辭考に讓つて説かない。千蔭自身の卓見といふやうなことは稀だが、先哲及び當代の諸説を網羅して穩健な説を主としたもので、簡要をつくして集大成した觀があり、萬葉集の注釋として最も廣く世に行はれた。安政三年の版本には略解目録上下二冊を加へて刊行した。之は富永南陵といふ人の編で、萬葉集の歌の題目に一々よみ方を加へ、そのよみ方を五十音に類聚排列したもので、その各題目の下に略解の張數(右)と校異本の張數(左)とを加へて研究者に便したものである。
 萬葉集玉の小琴四卷は本居宣長の著である。これは卷第一より四に至るまでの語句を拔き出して注解を加へたもので、言は簡單だが師眞淵の説を補正する外卓見が多い。略解は頗る多く之を採つてゐる。安永八年の自序があり寫本として傳はつて來たが、天保九年に堀直孫子が片假名文の活字印刷本二冊として刊行した。
 
(341)  萬葉集古義
 萬菓集古義は萬葉集注釋の中にも類の無い大部の書である。これは幕末の頃の土佐の學者鹿持雅澄の著したものである。
 この本はその量の大なるが爲に容易に刊行せらるゝ見込も無かつたが、明治の御代に至り天皇の思召により宮内省の藏版として刊行せられた。その版本に就いていふと、美濃版袋綴の本で、その萬葉集古義と題するものが百二十五冊で、總論四冊、本文の部九十五冊、名所考八冊、品物解五冊、人物傳三冊、枕詞解五冊、玉蜻考一冊が添ひ、この外に門人松本弘蔭の物した註釋目録四冊が加はつてゐる。なほこの外に同著者の研究上の副産物といふべき古言譯通五冊、永言格三冊、結辭例一冊、鍼嚢一名歌詞三格例二冊、用言變格例一冊、舒言三轉例一冊、雅言成法二冊計十六冊も同じく刊行せられ本篇と併せ百四十一冊の大部である。今、この刻本の責任者であつた元老院議官福羽美靜の序にいふ所によると本篇は福岡孝廉の藏本により、附録は雅澄の嗣子飛鳥井雅慶の本により門人數名が校正淨書して奉つた本に隨つたもので、加除添削をしなかつたといふ。明治十二年の夏に第一卷六冊が刻成せられ、つぎつぎ出版せられて、本編は明治二十三年に完成し、附卷十六冊は明治二十六年の末に到つて刊行を終へた。
 本書の著述は何時頃からはじまつたか、詳かなことは分らぬが、現存の稿本によつて考ふるに、文政五、六年頃に既に或る部分は出來てゐたと見られ、文政十三年(天保元年)頃に重案又は再校の卷があり、天保十一、二年に改寫再校などが見ゆるからこの頃には成稿してゐたらうと思はるゝ。
 本書は先づ量に於いて空前の大著といふべく、著者の努力は尋常一樣のもので無いことを見るべきである。著者(342)は近世の萬葉集研究者が行つたあらゆる方面を綜合集成し、自己の研究を加へて一歩前進せしめてゐる。本書が發賣せられた際、發行者の言として云つてゐる言は次の通りである。「其説悉く證を擧げ傍ら私説を加ふるも亦多く基く所あり、此註釋啻に歌意の講義に止まず、古言の活用、古文の法則に至るまで懇に之を講説し以て古典の貴きを知らしむ。一たび之を繙かば往昔の人情風義を知り、事物の沿革を見ること眞に當時の人に接して親しく之を見聞するが如し」とある。その注釋の精緻考據の明確又あらゆる方面から研究を加へた點など驚くべきものがある。が、又往々武斷にすぐるといふ譏も免かれ難い點を見る。しかしながら本書が世に公にせられてからは本書を見ずしては萬葉集は論ずべからざることとなつた。斯學に貢獻する所多大であるとはいねばならぬ。その附卷十六卷は古言古歌について國語學修辞學方面の研究として又後人を益する所少からぬものがある。
 
  以上の外の版本
 以上は主として本文を具へての版本を述べたのであるが、なほその外に語句を抄出しての注釋や一部分の歌の注釋又たゞの抄出類聚したもの、又啓蒙的のものなどの版本は少く無い。今ここには歌の注釋に關した主なものだけについて少しく述べて參考に供する。
 萬葉集註釋二十卷 又萬葉抄とも仙覺抄ともいひ、十卷本の寫本も多いが版本は二十卷である。之は鎌倉時代の學僧仙覺の著である。この人は萬葉集研究については空前の功續をあげた學者で、その研究の成果は本書によつて窺はるべきもので、萬葉學上重要な書である。之は萬葉集二十卷にわたつて問題とする部分を抄出して詳論したものである。古來傳寫して來た。寶永年間に刊行した本があるけれど、誤字が多くて學者の用には不十分である。
(343) 萬葉集燈五卷 富士谷御杖の著で、卷第一の注である。文政五年正月の自序があり、同年十一月京都で出版した。著者の歿する前年である。本書は著者の獨特の神道説から説いたもので注釋は言と靈との二項に分け、言の意と道よりの説と二面より説く、異色のある著である。
 上野歌解二卷 上野の人橋本直香の著。内題は「萬葉集中上野國歌」(上下)とあり、上は「十四卷東歌之内」上野國に屬する相聞二十二首譬喩歌三首計二十五首に就いて、下は「十四卷未勘國歌之内」から上野國の歌と思はるゝもの六首、卷七の寄獣の一首、卷十の春雜歌から一首、いづれも上野國の歌と認めて之をとり、卷二十の防人歌の上野國人の歌四首、又追加として十四卷の未勘國歌の内から十二首をとり、すべて四十九首をとつて注してゐる。歌は校異本によつたらしく、注は略解の趣に似てゐる。上野國の地理等はその生國であるから研究者に參考にはなるであらうが、注には創見は見當らぬ。安政六年に刊行した。
 萬葉私抄二卷 橋本直香の著。萬葉集卷第一、二の注である。本文は校異本を底本としたが、それは師、楠守部の影響であらう。注は片假名交りで頭書してあるが、その書きさまは拾穂抄に似てゐる。しかしながらその注は詞の解釋は少くて事實の考證や傳説の參照等で頗る異色のあるものである。明治十九年四月に出版した。卷末の豫告には二十卷ある由に見ゆるが出版したのは、この二卷だけである。
 なほこれらの外、
 萬葉集目安二卷 著者未詳 萬治四年刊
 萬葉集目安補正十卷 池永泰良著上田秋成訂正 寛政八年刊
 萬葉梯二卷 橋本稻彦著 享和元年刊
(344) 萬葉集楢落葉五卷 正木千幹著 文化十二年刊 (以上は辭書の性質を有するもの)
 萬葉集類句五卷 長野美波留撰 寛政十一年刊、
 萬葉集類句五卷 賀茂季鷹撰 文化三年刊  (以上は第四句からの索引)
 萬葉用字格一卷 釋春登著 文化十四年刊
等いろいろ末書はあるが略することとする。
               (昭和二十八年八月 萬葉集大成)
 
 
(345)         萬葉集防人歌
 
              一
 
 萬葉集の防人の歌に就いてお話を申上げるお約束をして置きましたが、私のお話は一つ一つの歌に就いての講義ではありません。防人の歌といふものを一括してお話申上げるつもりであります。
 お話の順序は最初に一般的の話を致します。それから各論と申しますか、防人の歌のいろいろな點に就いて幾つかの方面からこれを考へて見るといふ事に致します。さうして最後に簡單なる締括りを致します。仰々しい言葉で言へば、一般論・各論・結論――かういふやうな事になるのでありますが、さういふ難しい言葉で言ふと窮屈になりますし、別に論文でもありませんから、たださういふやうな心持でお話を申上げるといふ事を前以て御承知置きを願ひたいのであります。
 先づ其一般論として、今われわれが防人の歌と言つてをる其範圍から申します。此防人歌とわれわれが考へてをりますのは、主として萬葉集の二十の卷にあるのであります。それは歌の番號から申しますと、四三二一番の歌から始まつて、――其前の詞書に「天平勝寶七歳乙未二月相替遣2筑紫1諸國防人等歌」とかうあります。――何處迄續くかと申しますと、四四二四番、此處迄今申した「天平勝寶七歳乙未二月云々」の詞書が續く譯であります。普通申しますれば、これだけが先づ防人歌の範圍であると言つて宜しいのであります。此四三二一番から四四二四番迄の歌はこれで見ますと百四首あるのであります。百四首の歌の中に大伴家持の歌が彼方此方に入つてをります。そ(346)れは四三三一番から四三三三番迄、それから其次に四三三四番から四三三六番迄、此處に家持の歌が合計六首續いて入つてをる。それから又少し先へ行くと四三六〇番から四三六二番迄、此處に又家持の歌が三首入つてをります。これ等は何れも防人に多少關係がある歌であります。次に四三九五番から四三九七番迄三首の歌が入つてをります。これは題で御覽の通り、防人の心持にも防人の事實にも餘り關係がない歌であります。次に四三九八番から四四〇〇番迄三首の歌がありますが、これは防人の爲に詠んでをるのであります。次に四四〇八番から四四一二番迄の五首、これも防人の爲に詠んでそるのであります。これだけの歌が此中に、今申しました百四首の中に混入してをる、つまり家持の歌が二十首、此間に交つてをるのであります。其家持の二十首を除いた八十四首、これが普通に言はれるところの防人歌の内容であります。これは後で詳しく申上げますが、其國々の防人の歌をばそれぞれの部領使《ことりつかひ》が進達しました、其歌を此處に採録したものであります。われわれが防人歌と普通申します歌は此處に中心があるのであります。
 此歌は一體何時頃作られた歌であるかと申しますれば、詞書にあります通りに「天平勝寶七歳乙未二月相替遣2筑紫1諸國防人等歌」――相替つてといふのは、防人の制度に就いては後で申しますが、筑紫へ參つた防人が交代して歸る、諸國から何年目に交代して行くかといふことは後で申しますが、交代して後の防人が行きますと、前に居た防人が代るのであります。つまり新たに前の人と交代せんが爲に筑紫の國へ遣さるる諸國の防人の歌である、と、かういふのであります。此歌は一體何時頃詠んだ歌であるかと言へば「天平勝寶七歳乙未二月」とはつきり書いてあります。それから、最後の處をお讀みになりますと、二月二十九日、最初の歌の日附は二月の六日、つまり二月の六日から二月二十九日迄の間に奉つてをるのであります。それで其時代を考へて戴かなければならぬ。で此處(347)に天平勝寶七年二月の防人歌だけが載つてそる譯であります。どうして、此歌が此處に載つてをるのであるか、其以前には防人歌といふものはなかつたか、此以後に防人歌といふものがないのであるか、といふ事を疑問の一つとして考へて置いて戴いて、後でだんだん申しますが、唯防人歌が萬葉集にあるからいきなり讀むといふのぢや餘り子供じみて、後先考へないで「よし來た、火事だ火事だ。」と飛び出して「一體何處が火事ですか。」と人に聞くのと同じであります。防人歌といふものが天平勝寶七年二月の防人歌だけが此處にあつて、其以前の防人歌が無い、其以後の防人歌が無い、どうして無いのか。又これを逆に言へば何故天平勝賓七年二月の防人歌だけが此處に明瞭に出てをるのか。といふやうなさういふ事情を深く考へて見なければならぬのであります。萬葉集の講義などをする人は唯歌だけ見て濟ましてをるやうですが、併し歌といふものは詠んだ人が必ず居る筈であります。何處で何の爲に誰が詠んだのかといふ事を考へて見なければならぬのであります。さうしなければものを考へたとは言へない。いきなり唯字が書いてあるから字の通り解釋して分つたといふだけでは活版屋の小僧より惡い。活版屋の小僧も活版を組合せるには相當骨が折れる。眼光紙背に徹すると迄は行かずとも、活字の字面だけは撫でて行かねばならぬ。萬葉の講義も唯事の上をすらすらと撫でて行くだけぢや困る。何故天平勝寶七歳二月の防人歌が集まつてをるかといふ事は後で申します。
 又一體此處に諸國とあるのは何處か。日本中皆諸國でありますが、此防人歌として載つてをる國々は何處であるか。御覽の通りこれは四三二七番の處で一旦切れ、次の詞書に「二月六日防人|部領使《ことりつかひ》遠江國史生坂本朝臣人上進歌數十八首。但有2拙劣歌十一首1。不v取2載之1。」――つまり十八首の歌の中から拙いのを十一首除いて七首載せてある譯であります。此處に遠江國とあります。日附は二月六日です。其次が二月七日でありまして、相模國の防人(348)の歌であります。詞書に「二月七日相模國防人部領使守從五位下藤原朝臣宿奈麿進歌數八首。但拙劣歌五首者不v取2載之1。」とあります。つまり此處には三首載つてをる譯です。それから先刻申しました家持の歌がありまして、次に四三四六番の左の方に「二月七月駿河國防人部領使守從五位下布勢朝臣人主實進九日歌數二十首。但拙劣歌者不v取2載之1。」とあります。歌の數は二十首奉つたのでありますが、此處に載つてをる數は十首であります。それ等の歌は二月七日にこれを取纏めたものか、或は又奉つたところの日附が二月七日か。併し實際に奉つたのは九日であります。此事は何でもないやうでありますけれども、注意して御覽になればかう書かなければならぬ理由がある。即ち前に擧げた家持の詠んだ歌、四三三一番の歌の詞書を氣をつけて御覽になりますと、「追痛2防人悲v別之心1作歌一首并短哥」とあつて四三三三番の歌で終となつてをります。其次の詞書は「右二月八日兵部少輔大伴宿禰家持」とあります。其次に又三首家持の歌があつて此處には「右九日大伴宿禰家持作之」となつてをります。これは日附の順序から申しますと、二月六日・七日・八日・九日となつてをるのでありますが、其次に駿河國防人部領使の奉つた歌が二月七日とあります。これは變だと思つて見ると、奉つたのは九日であります。實際おかみへ差出したのは九日です。家持の歌の次に載つてをるのは事實其儘なんであります。
 かういふ事を考へますと、防人歌の採録といふものは後で手を入れたものぢやない、其採録した儘の生々しい姿を此處に遺してをる譯であります。左樣に千何百年前に家持が此歌を採録した事實其儘歌が載つてをると考へて御覽になると防人歌の生々しさが分るのであります。途中でくだらない手を入れたりなんかした歌ぢやないといふことが分る。防人歌を批評するのにもかういふ記録の姿、日記帳のやうな姿其儘であるといふことをお考へになりますと、防人歌を見る眼が變つて來ます。防人の歌を日附も場所も人も考へないで、防人の歌だけ集めて活字の本に(349)して論ずるといふやうな人がありますが、それぢや駄目なんであります。つまりそれを例へて言ひますと、此處にお菓子があるとして、其お菓子がどういふお盆、或は菓子鉢に入つてをつたか、それにどういふ箸が添へられてあつたか、或はどういふ座敷で、どういふ机の上に載つてゐたかといふことで其お菓子に對するわれわれの感じがそれぞれ違ひます。それを唯お菓子といふものを宙にぶら下げて、これがお菓子だといつて論ずるやうな、さういふ論じ方はそれもお菓子には相違ないけれども、本當にお菓子を味はふことを知らない人のすることであります。日附も取り、場所も取り、人の名前も取つてしまつて論ずるやうな論じ方は本當の防人歌の論じ方ではありません。萬葉集の歌といふものは全體の上から手を着けて御覽にならぬと分らないのであります。今申したやうに同じお菓子にしてもお三寶に載せて神樣の前に供へてあるお菓子と、そこいらの店先に抛り出してあるお菓子とは、お菓子は同じお菓子に違ひないとしてもわれわれの氣特が違ふ。それを一つに考へるといふことはそれこそをかし〔三字傍点〕な話であります。それでは抽象的な譯の分らぬ結果を生じて來ます。これはまあ一般論でありますけれども、何でも全體の上からものを見て行くといふことをしなければならぬと考へますので、先づこんなお話をした譯であります。
 それから次は四三五九番の歌で一區切りになります。これは「二月九日上總國防人部領使少目從七位下安田連沙彌麿進歌數十九首。但拙劣歌者不v取2載之1。」とあつて十九首の中で十三首採つてあります。其次に又家持の歌があつて二月九日から二月十三日になります。で先刻申したやうに日附がだんだん先へ先へと進んで參ります。其次の切目が四三七二番の次の詞書で「二月十四日常陸國部領防人使――(此處では書き方が違つて防人が下に書いてある)――大目正七位上息長眞人國島進歌數十七首。但拙劣歌者不v取2載之1。」とありまして、十七首採つてあります。これが二月十四日に採録されたものです。其次が四三八三番まで、これも二月十四日で、「下野國防人部領使(350)正六位上田口朝臣大戸進歌數十八首。但拙劣歌者不v取2載之1。」とあつて十一首採つてあります。其次が、四三九四番の次に「二月十六日下總國防人部領使少目從七位下縣犬養宿禰淨人進歌數二十二首。但拙劣歌者不v取2載之1。」とあつて、十一首採つてあります。あとの十一首は載つてゐません。それから、二月十七日の家持の歌が三首、二月十九日の家持の歌が三首間にあつて、其次に四四〇三番の次の注を見ますと、「二月二十二日信濃國防人部領使(名を欠く)上v道得v病不v來。進歌數十二首。但拙劣歌者不v取2載之1。」――信濃の國の防人の部領使が途中で病氣の爲に來なかつた。併し歌だけは他の者に託して奉つたとありまして、十二首の内三首しか載つてゐない。それから次が四四〇七番の次に「二月二十三日上野國防人部領使大目正六位下上毛野君駿河進歌數十二首。但拙劣歌者不v取2載之1。」とあつて、十二首の中で四首採つてあります。其次に二月二十三日の、家持の詠んだ歌が五首ありまして、次の四四二四番の後のところに「二月二十九日(流布本は二十日とあるが古葉略類聚鈔に二十九日とあるのがよい)武藏國部領防人使掾正六位上安曇宿禰三國進歌數二十首。但拙劣歌者不v取2載之1。」とありまして、十二首載つてをります。で、これを考へて見ますと丁度日記のやうになつてをります。二月六日、七日、八日、九日、それから十三日、十四日、十六日、十七日、十九日、二十二日、二十三日、二十九日――かういふ風になつてをります。家持の歌で此中へ入つてをるのは防人に關する歌が大部分でありますけれども、防人に無關係の歌も三首ばかりあります。つまり此處には二月六日から二月二十九日迄に採録した歌があるのでありまして、進つたのは總計百六十六首でありますが、其中から八十四首といふものが選拔せられて載つてをる譯であります。
 そこで一體此諸國といふのは何處の國かと申しますと、遠江・相模・駿河・上總・常陸・下野・下總・信濃・上野・武藏――かういふ順序になつてをります。此順序は國の遠い近いの順序でなしに、日附で御覽の通り進つた日(351)附の傾序であります。
 さてかういふ風に天平勝寶七歳二月の防人歌が、此處に詳しく採録されてをるのでありますが、防人歌はそれでは天平勝寶七歳にだけあつたものかと言ひますと、これはさうぢやない。即ち今申した四四二四番の次の四四二五番から四四三二番迄八首の歌は昔の防人歌であると此處に書いてあります。「右八首昔年防人歌矣。主典刑部少録正七位上磐余伊美吉諸君抄寫(シテ)贈2兵部少輔大伴宿禰家持1。」といふ事が書いてあります。即ち此八首の歌は何時の時代かはつきり分らないが、天平勝寶七歳二月の防人歌を採録した序に昔の防人歌として傳はつてをるのを採録したのであります。採録するに至つた理由は防人を檢べる役人の一人である刑部少録|磐余伊美吉諸君《イハレノイミキモロキミ》といふ人が大伴家持に贈つたもので、それを家持が此處に採録したものであるといふのであります。それから其次の歌の詞書を氣をつけてお讀みになりますと「三月三日檢2校(スル)防人1勅使并兵部使人等同集飲宴作哥三首」――かういふ事が書いてあります。二月二十九日で恐らく月は終つたのでせう。昔は小の月は二十九日、大の月は三十日であります。それから三日目の三月三日に防人を檢閲する勅使や兵部省の役人共が一緒に酒盛りをした。これは勅使が立つて諸國から集まつたところの防人を、今日の言葉で言へば檢閲使が立つて檢閲せられる。其檢閲が濟んでから諸國の防人は攝津の今の大阪の邊から船に乘せて筑紫へ送るのでありますが、檢閲が濟んだといふので慰勞會のやうな事を三月三日に役人共がやつたのでありませう。昔だから千年も前だからといつて何もさう大して變つた事はない。やはり今日のわれわれの先祖でありますからやる事は同じことであります。唯、洋服を着てゐるか着てゐないかといふ位の違ひで、慰勞會位開くのは當り前であります。「やれやれ濟んだ。」といふので其時詠んだ歌が三首。勅使紫微大弼(中宮大亮といふやうな官)安倍沙美麿(一首)と兵部省の役人の頭であつた少輔大伴家持(二首)が詠んでを(352)ります。其後にある四四三六番の歌がやはり昔の防人の詠んだ歌で「昔年相替防人歌一首」とあります。
 われわれは防人歌と申しますると、先刻申したところの八十四首を中心に致しますが、防人の歌といふ事を廣くいふ以上はやはり今申した八首及び今此虚にある一首、其等も防人歌として數へてよいと思ふのであります。結局かうなりますと、二十の卷にあるところの防人歌は九十三首であります。其の八首及び一首を採録した日附ははつきり分りませんが、三月三日の歌の次に記録してありますからやはり三月三日を隔たること餘り遠からぬものと考へます。此二十の卷の性質から考へますと、四四三六番の歌は大伴家特が誰に聞いたとも書いてないやうですが、併しこれもやはり大伴家特が誰かに聞いて採録したものであると思ひます。其上に今申したやうに大伴家持の歌が幾つか入つてをるのでありますが、其最初の歌は明らかに防人の悲しみの心を想像して詠んだ歌であります。其次の二月九日の歌も略同じであります。二月十三日の歌は、「陳2私拙懷1一首并短歌」とあつて、これも防人の心持を詠んでをるのであります。二月十七日の歌は「獨惜2龍田山櫻花1歌一首」、「獨見2江水浮漂|糞《コヅミ》1怨2恨貝玉不1v依作歌一首」、それから「在2舘門1見2江南美女1作歌一首」であります。第一の龍田山は、大和の都から難波へ下る時には必ず通らなければならぬ、それで其龍田の櫻を見て詠んだ歌であります。櫻は此時分は舊暦ですから二月の半頃には咲いたのであります。其次の歌は大阪の海岸ではごみが澤山集つて來てをるので、貝の玉が中々拾はれないといふのであります。此節は私の居る三重縣などでは眞珠貝を養殖してをりますが、昔は養殖といふことは知らなかつた、眞珠の玉がひとりでに出て轉つてをるのを見つけて給つたのであります。此處に「糞」といふ字が書いてありますが、これは大小便のことではない、ごみのことであります。其次の歌は難波の役所の前に立つてをると、川の南の方に綺麗な女がゐるのを見たといふのであります。役所の近くにさういふ女の居る場所があつたのでせ(353)う。これは防人には關係はありませんが、家持が攝津に出張の途中又その滯在中詠んだものでありませう。其次の二月十九日の歌、それから二月二十三日の歌は何れも防人の心持を述べた歌であります。
 併しわれわれは防人歌といふ時は猶十四の卷にある防人歌を考へて見る必要があります。三五六七番から三五七一番迄五首、これは防人歌として載せてあります。而も此前の二首は問答でありまして、一方間の方は防人が詠み、一方答の方は防人の妻が詠んだ歌であると思ひます。猶此外には防人に關係した歌は萬葉集の中にはさう澤山はありませんが、多少はあるのであります。例へて申しますと、卷の七の一二六五番の歌など多少防人に關した歌であるやうに思ひます。猶卷の十三の末の方に三三四四番の長歌がありまして、其長歌の反歌三三四五番のところに「右二首。但或云。此短歌者防人妻所v作也。然則應v知2長歌亦此同作1焉。」とあります。此反歌は、
  葦邊ゆく鴈の翅《つばさ》を見るごとに公《きみ》が佩《お》ばしし投箭《なぐや》し思ほゆ
といふのでありますが、これは防人の妻の作つた歌であると言つてをります。さうして若しさうなら此長歌も亦同古人の作りし事を知るべしと言つて、元の長歌も防人の妻の作つた歌だらうと言つてをります。併しかういふのは今此處に申上げる範圍の内には入れないことにしたいと思ひます。大體防人歌の範圍はこんなやうな事であります。
 次に一體防人といふものは如何なるものであるかといふ事を一往説明して置く必要があります。これは防人とはどういふものであるかといふ事を知つてをらないでは防人歌の味は分らないかちであります。「防人」は「さきもり」とよみます。では此防人が日本の古典では何時頃から出てをるかといひますと、日本書紀の孝徳天皇の卷に始めて見えてをるのであります。御存じの通り、大化二年正月一日賀正の禮が終り、即ち朝廷に於ける拜賀の式が濟(354)みましてから、所謂大化改新の詔が出ました。此大化改新の詔は其内容が非常に豐富でありまして、一大改新が此詔に依つて實現したのであります。其詔に、
  其二(ニ)曰(ク)、初(テ)脩2京師《ミサトヲ》1、置(ク)2畿内國司郡《ウチツクニノミコトモチノ》司、關塞斥候防人《セキソコウカミサキモリ》、驛馬傳馬《ハユマツタハリウマヲ》1、……
かういふ風になつてをりますが、「さきもり」といふ言葉に「防人」といふ文字を書いたのは、日本の古典で現在遺つてをる本ではこれが一番古いのであります。それで防人といふものが其時初めて出來たものか、其前からあつたものかといふ事は別に考へる必要がありますが、史實は此通りであります。とにかく大化の改新に依つて文字で防人と書くものの制度が初めて出來、間もなくそれが實現したものであります。
 それから日本書紀の、天智天皇の御代の記事の中には、天智天皇の三年の記事でありますが、
  是(ノ)歳、於2對馬島、壹岐島、筑紫國等(ニ)1置(ク)2防《サキモリト》與(ヲ)1v烽《トブヒ》1
といふことが載つてをります。「防」は防人でありますが、「烽」といふのは烽火臺であります。これは當時は今のやうに一朝有事の場合、電報を打つとか、ラヂオで知らせるとかいふやうな事がなかつたので、耳で以て知らせる譯には行かない。耳で早く報ずる方法がなかつたところから眼で早く傳へる方法を講じたのであります。それが「烽」であります。烽火臺はこれを「とぶひ」と言ひまして、高い山の頂に拵へて異變のあつた時に狼火《のろし》を揚げる、丁度サイレンが幾つ鳴るとどうといふやうな風に狼火の揚げ方で樣子が分る譯で、今と同じであります。今日急に監視哨が出來たとお考へになつたらいけない。日本では昔からあるのであります。此「のろし」は狼火とも狼煙とも書いてをりますが、これは狼が火をつけだのぢやない。狼の糞を乾燥して置いてそれを交ぜて焚きますと煙が横に行かないで眞直に揚がるさうです。それで狼火或は狼煙と言ふのであります。さういふ通信機關に依つて早く京(355)都へ通知が出來る、それが「烽」であります。今日萬葉集の歌、殊に防人歌をお讀みになる場合、此天智天皇の三年に、「對馬島、壹岐島、筑紫國等に防と烽とを置く」といふ事を頭脳に置くと防人歌はよく分るのであります。それから、天智天皇の十年の記事を見ますど、防人が對島國に居たといふ事がはつきり分ります。それにはかういふことが書いてあります。
 十一月甲午朔癸卯、對馬(ノ)國(ノ)司遣(テ)2使(ヲ)於筑紫大宰府(ニ)1言、月生《ツキタチテ》二日、沙門道久、筑紫(ノ)君|薩野馬《サツヤマ》、韓島(ノ)勝娑婆、布師(ノ)首磐、四人從v磨來(テ)曰、唐國使人郭務※[立心偏+宗]等六百人、送使沙宅孫登等一千四百人、※[手偏+總の旁]合《スベテ》二千人、乘(テ)2船四十七隻(ニ)1、倶(ニ)泊《トドマリテ》2於比智島(ニ)1、相|謂《カタリテ》之曰、今|吾輩人《ワレラガ》船數衆(シ)、忽然《タチマチニ》到(ラバ)v彼《カシコニ》、恐(クハ)彼(ノ)防人《サキモリ》驚駭《オドロキ》射戰(ハム)、乃遣(テ)2道久等(ヲ)1豫稍(ニ)披2陳《ヒラキマウサシム》來朝《マヰクル》之意(ヲ)1。
即ちこれは今、船四十七隻、人數二千人といふ大勢で以て彼處へ行くと、恐らくあの防人が驚いて弓を射て戰ふだらう。それでは困るから使の中の沙門道久等四人を前以て遣はして豫め來朝の旨を告げるといふのであります。さういふ記事があります。ですからこれに依つても當時防人が對馬の邊に頑張つてをつたといふことがよく分るのであります。それから天武天皇の十四年の十二月の記事に、
  十二月壬申朔乙亥、遣(セル)2筑紫(ニ)1防人《サキモリ》等|飄2蕩《タタヨヒテ》海中(ニ)1、皆失(フ)2衣裳《キモノヲ》1、則爲(シテ)2防人(ノ)衣服《キモノト》1、以(テ)2布四百五十端(ヲ)1給《オクリ》2下(ス)於筑紫(ニ)1。
といふ事が載つてをるのであります。防人が、船が難破して海中に漂つて皆着物を失つたから布を四百五十端やるといふのであります。若し一人に一端宛くれるとすれば四百五十人分であります。防人が一度にどの位彼方へ下つたかといふことは此布の數で大體想像がつきます。猶天智天皇の御代の記事に依りますと、筑紫の防人の年限の滿(356)ちたものは代らしめる、滿期になつたものは交代させるといふ記事があるのであります。
 これ等は萬葉集に載つてをるところの防人歌の時代よりもずつと古いのであります。さうしてかういふ風な記事に依つて防人といふものはどういふものか、どうしてゐたかといふことを略想像することが出來る譯であります。以上申しました所によると防人は大化改新の詔に依つて我國に始めて出來たものらしい。其防人は朝鮮に一番近い所――主として壹岐・對馬、それから筑紫の國に居たものであります。でここには太宰府とか、筑紫とかいふやうな言葉ばかりでありますから、大體太宰府關係のものだといふことが分るのであります。
 御存じの逸り、文武天皇が御即位になりましてから日本の律令といふものが始めて明確にせられたのであります。其が大寶令でありますが、現在は大寶令の原文は養老の頃幾らか改正せられて養老令となつてをります。併し養老令にしても、萬葉集から見れば稍古いのであります。其養老令の中に軍防令といふのがあります。これは令義解《りやうのぎげ》に依れば「軍」は軍士の意味であり、「防」は防人の意味であります。つまり軍士と防人の規定を一緒にしたのが軍防令である譯です。即ちこれは兵役に關するところの規定であります。我國の兵制は大化改新以前は文武一途であつて文官であると同時に武官であつたのでありますが、大化改新から制度が變つて國々から兵士を徴發せられることになり、兵士に徴發せられた者だけが兵士になるといふ形になつたのであります。で軍防令に依りますと、「一戸の内三丁毎に一丁をとる。」といふのでありますから、同じ家の内に丁年者(二十歳以上)が三人居ると其内一人をとつて兵士にするのであります。若し其家に丁年の男が三人居らない場合はどうするかといふと、直ぐ隣の家から、つまり隣に二丁があるとすると此方の一丁と隣の二丁と合せて三丁になりますから、其内より一丁をとるのであります。
(357)  一戸 三丁――一丁
  一戸一丁
        一丁
  一戸二丁
若し一丁ある家が三戸あつたとすれば、其三戸を合せて其内のどれか一人をとる譯です。
  一戸一丁
  一戸一丁  一丁
  一戸一丁
かういふ風に三丁の内一丁をとるといふのが當時の徴兵の規則であつたのであります。其兵士を大きく見れば一つの兵士でありますが、これを分けますと三通りになるのであります。即ち其兵士が自分の居る國に於いて地方だけを守つてをるのは軍團といふのに入る。これは唯團といひまして其地方の衛戍地に居る譯です。其團を置いた所を地名を上につけて何々團といふ名前で呼んでをつたのでありますが、屋島の「壇の浦」などは確か、昔軍團が置かれてあつた其附近の海岸でありませう。これは地方に居る兵士でありますが、其地方に居る兵士の内から特別に京都へ出るものと、それから防人にせられるものと二通りあります。それは軍防令を見ますと「凡そ兵士の京に向ふものを衛士《ゑじ》といひ、邊を守るものを防人といふ。」――さういふ風に規定せられてをるのであります。つまり軍團の兵士である外に京都へ行つて京都を守るのが衛士、それから邊境を守るのが防人といふことになる譯であります。其次の、規定を讀みますと、「凡そ兵士の上番するものは――番といふのはかはるがはる職務をとるといふことです。――京に向ふものは一年、防に向ふものは三年。」とあります。即ち京都に行くものは一年交代、防人は三年交代(358)であります。で此三年交代といふことに氣をつけて考へて戴かなければならぬのであります。かういふ風によく分つて來ますと、防人といふ役も大變な話であります。けれども必ずしもさう虐待せられてをつた譯ぢやない。其次の規定を見ると其衛士、防人が郷に歸つた後に待遇が違ふのであります。つまり此衛士、防人が郷へ歸ると國内の上番が免ぜられるのです。郷里に歸つて來たら兵役に就かないでもいい、其年限は衛士として奉公して歸つたものは一年、防人として奉公して歸つたものは三年、國内の上番を免ぜられる、かういふ規定があるのであります。それから此場合の衛士にしても、防人にしても猥りにこれは任命せられない、かういふ規定なども、唯防人歌の感傷的なことばかり見てゐたのでは其内容は本當によく分らないのであります。「凡そ兵士をして衛士、防人に當らしむる時は父子、兄弟竝遣はすことを得ず。」と規定せられてをります。親が衛士なら子も衛士とか、或は兄が防人なら弟も防人といふやうなことは許されないのであります。それから父母が年とつたり、病氣をしたりして、家に外に丁年者がない場合はさういふものは衛士や防人にしない。兵士は兵士だが郷里の團の兵にして置くといふのであります。
 又かういふ規定があります。戰爭があつて其處に出征する人が三千人以上の場合は、兵馬の出發の日に 天皇の勅旨を受けて侍從が勅使となつて其處に行き勅命を述べて慰勞せられ、さうして先方へ遣はされる。それから防人が千人以上の場合は、出發する日に内舍人《うとねり》が遣はされる。内舍人といふのはやはり侍從と同じやうに陛下のお傍に仕へてをるものであつて、それの奏任官が侍從、奏任官以下のものは内舍人であります。さうして内舍人は或意味に於いて武官の性質を持つたものであります。
 其次にかういふ規定があります。凡そ衛士の京に向ひ、防人の津に到る間は皆國司をして親しく自ら部領せしめ(359)るといふのであります。即ち此處に先程の部領使が出て來るのであります。津といふのは津の國の津で今の大阪附近であります。つまり國々から衛士が京に向ひ、防人が津に來るのは皆自分勝手に來るのぢやない、國の司が親しく部領して來る譯であります。それから此國司には四つの官があります。
  守(かみ)  介(すけ)  掾(じょう)  目(さくわん)
先刻讀みました萬葉の防人歌の左注に相模國防人部領使|守《かみ》とか、武藏國部領防人使|掾《じよう》とかいふのは即ち此國司であります。國司といふと長官だけだと考へてはいけないので、此守、介、掾、目と四等あるのであります。これで防人の制度がはつきり分ります。即ち防人が國を出る時は其地方の地方官がこれを引率して來る譯です。守《かみ》といふのは今で言へば知事、介《すけ》は部長、掾《じよう》は課長位に當りませう。目《さくわん》といふのは今の屬官と思へば宜しい。さういふ風に役人が輸送指揮官となつて引率して來るのであります。かういふ事が本當によく分らないと防人歌も分りません。で防人歌は此地方から出て來る間に其旅行中に詠んだ歌、或は自分の國を出る時詠んだ歌、それから攝津の港に集つた時に詠んだ歌でありまして、今の大阪邊から船出した先の歌はありません。船が出た後でも幾らも詠んだだらうと思ひますが、生憎それは此處に載つてゐない。其理由は大伴家持が兵部少輔として採録したものだけが此處に載つた譯で其後は家持は知らないからであります。それから防人が津から出發する日には兵部省の主任官、ここでは兵部少輔が專ら使として防人の身體を一人一人檢べ、それから兵士として持つてゐなければならぬ戎器其他を檢査する。謂はば今日の特命檢閲使のやうにすつかりそれを檢べる。其他に先刻申したやうに、勅使が下つて御慰勞になる。それで船に乘つて出て行く譯であります。で大伴家持が此處に來てゐるのは防人の檢閲の爲であります(時間がないので餘り詳しい事は述べられませんが)。大體さういふ風でありまして船に乘つた防人は、太宰府に防人司(360)といふ役人があつて、これを全部受取つていろいろ世話をするのであります。か樣な順序で防人が筑紫へ行くのであります。
 さて此處に「さきもり」を「防人」と書いてありますが、何故かういふ字を書いたかと申しますと、これは支那にある語であります。支那に於いては邊境を守るものを防人といふ字を使つてあるので其例に倣つて其儘防人といふ字を使つた譯であります。元來此大寶令といふのは唐の律令を眞似た點が多いのでありまして、唐律疏義といふ本を見ますと、唐律の注釋をした中に「軍防令に依るに防人番代皆十月一日交代」とあります。支那では十月一日に皆交代したらしいが、日本ではさうでなく二月に皆攝津に集つてゐます。とにかくそれはそれとして、こんな風に支那に防人といふ文字があるので、日本では其儘それを使用した譯であります。で防人と書いて「さきもり」と讀ませる、「さきもり」といふ文字は萬葉假名で書いたのが今申した萬葉の二十の卷の中に澤山あります。さうしていろいろな字を書いてをる。
  佐吉母利  佐伎母利  佐伎母里  佐伎母理  佐伎毛利
中には「さきもり」といふ音が訛つて
  佐伎牟理
となつてゐるのもあります。それから又卷十六の三八六六番には、
  埼守
といふ字が書いてあります。猶日本靈異記といふ本の中の卷に吉志火麿といふ人が筑紫の「さきもり」になつたといふ話がありますが、其「さきもり」といふ字は「前守」と書いてあります。「ききもり」といふものの意味から(361)すれば、「埼守」でもいいし又「前守」でもいいと思ひます。先刻防と烽との事を申しましたが、この二つは同じく邊地を守るに極めて大切な軍備でありまして、この二者がまた相似た性質のものである。その關係を一寸圖で書いて見ると、かうなります。その尖端のところが「さき」で、ぐるりの≡≡が水です。
 即ちこれを水平的・平面的に見れば此頭(∩)が防人の守る崎であります。又これを垂直的に見て≡≡を水と見ないで空氣だと見ればこの頭は烽であります。昔の人は中中頭脳がいい、垂直的と水平的とを一緒にかういふ風に考へた。だから防人は敵の攻めて來さうな所の「さき」に居らなければならぬ。其處を守つてをるから崎守《さきもり》であります。
 此防人の起原は我國では明白に分つてをりませんが、これは恐らく太宰府の出來た時と同時であらうと考へられます。欽明天皇の二十三年に任那《みまな》の日本府が新羅に亡ぼされました。それから日本は防禦線を九州の北に後退させてをります。つまり防禦の尖端を對馬、壹岐及び北九州に置かなければならなくなつたのであります。恐らく其時に此防人が實質的に出來たのだと私は考へてをります。どうしても當時の國情から察して、欽明天皇の二十三年、日本府の亡びた後間もなく出來たと考へられるのであります。
 次に此防人になつた人間を氣をつけて御覽になると、遠江から東の方の人ばかりであるといふ事が分ります。此事實はどういふ譯か、これを考へて見る必要があります。續日本紀を見ますと、天平九年の九月の記事に、筑紫の防人を罷めて本郷へ還らせて、筑紫の人をして壹岐、對馬を守らしめるといふ事が書いてあるのであります。つまり九州の人をして壹岐、對馬を守らせたといふのでありますが、どうしてさういふことになつたかはつきり致しま(362)せん。ところが孝謙天皇の天平寶字元年閏八月の詔に依りますと、はつきり其時には東國の人を防人としてをられたといふことが分るのであります。つまり其詔は、天平寶字元年の頃は坂東諸國の兵士が防人として筑紫へ遣はされたが、其途中の國々の人が費用が多くかかるので困る、防人自身も亦難波の津に到る迄は其旅費を支辨しなければならぬ、津から先は國家の費用で行くのであるがそれ迄の途中の費用に困る、それでこれから後は西海道七箇國の兵士を遣はして壹岐、對馬を守らしめようといふのであります。ところがそれが永く續かなかつた。それは當時太宰府では「邊戍日に以て荒散せり」と言つて、どうか防人を元の通り東國のものにして戴きたいといふ事を上奏してをります。併し當時の中央政府はこれを許さなかつたらしい。それで後になつて稱徳天皇の天平神護二年四月に又太宰府から申上げたことに依つて又東國の兵士を防人にせられたのであります。つまり元へ戻された譯です。かういふ風に防人にはいろいろ變遷がありますが、それはどうも東國の人でなければ弱いのであります。それでやはり坂東人が防人として行つたといふ事が分るのであります。
 其防人の記事は何時頃迄續くかと言ひますと、、續日本後紀の承和十年の記事を見ても略分るのでありますが、其頃迄まだ防人はあつたのであります。仁明天皇の頃迄防人はゐたことは確かであります。併しそれから後、防人はだんだんなくなつてしまひまして、延喜の御代邊りになると防人がゐたか、ゐなかつたか殆ど分らない。幾らか殘つてゐただらうといふことは考へられますが、まあ殆どゐないといつても宜しいと思ふのであります。
 さて防人といふものは何人位ゐたのであらうかといふと、先刻申しました天平神護二年四月に太宰府から申上げた上奏に依りますと、即ちそれは東園の防人を元へ復するといふ記事でありますが、其中に三千の數をみたさうとあるのであります。それから又先刻申しましたところの、孝謙天皇の天平寶字元年の記事を見ますと、
 (363)差(テ)2西海道七國(ノ)兵士合一千人(ヲ)1充(テ)2防人(ノ)司(ニ)1、依(テ)v式(ニ)鎭戍(セシム)、
といふ事が書いてあります。つまり坂東の防人を罷めて西海道の兵士一千人を遣はして守らしめるといふ事でありますが、これはどういふ意味であるか。一方では三千人とある、一方では一一千人とある。これをよく考へて見ますと、三年目に交代するので一年に千人宛出てくればいい譯です。前の年に來た三千人の防人の中千人が、任期が滿つると交代する。さうして新たな者が來る。つまり四年目に皆新たになる。だから此三千人と千人といふ二つの事は防人の任期三年といふ事から考へると同じ事なのであります。
 それはまあそれだけにして置きまして、これ等の歌は部領使が奉つた歌であります。で此處に部領使といふものを一往考へて置く必要があると思ひます。これは國司に自ら防人を部領せしめてゐるのであつて、これを「ことり」といふのは事を執るといふ意味であります。「ことり」は即ち事執《こととり》であります。「こととり」が約まつて「ことり」となつたのです。中には「ことり」といふので木鳥使と書いたのもありますが、木の鳥を持つて歩く使ぢやない。事を執る使であります。此部領といふのは何も防人に限つたものではありません。日本書紀の廿二の卷を見ますと、推古天皇の十九年五月の五日に、天皇が兎田野《うだの》に藥獵《くすりかり》をせられた時に其陛下の行列の前の儀仗は粟田細目臣を前部領《さきのことり》とし、後の儀仗は額田部比羅夫連を後部領《しりへのことり》とせられたといふ事が書いてあります。これは今で言へば前衛の指揮官、後衛の指揮官であります。又萬葉集の卷の五の八六四番の歌に附いてをる手紙があります。(「吉田連宜」は普通「よしたのむらじよろし」と訓んでをりますが、「きのたのむらじよろし」と訓む方がいいと思ひます。)其手紙のおしまひの方に「今因2相撲部領使1謹付2片紙1。」といふ事があります。これは相撲《すまひ》の部領使《ことりつかひ》であります。部領使といふのは防人に限つたものではないといふことが分ります。それから防人の部領使を氣をつけて見ますと、遠江國(364)では史生《しじやう》とあります。これは目《さくわん》よりも下の役人で今でいへば書記生です。相模と駿河は守《かみ》でありまして今でいへば地方の長官であります。上總と下總では少目、常陸と上野とは大目が部領使になつてをります。それから武藏の國は掾《じよう》が部領使になつてをります。信濃國の部領使は分らない。下野國の部領使も官名が載つてゐないので分りませんが、正六位上といふ位から考へて見ますと掾であらうと思ひます。さうしてこれ等の部領使の進歌何首と書いてあるところを見ますと、これは恐らく「此防人がか樣な歌を詠みました。」と兵部省に進達したものであらうと思ひます。結局大伴家持個人が此歌を徴發したものでなくして、其當時部領使から政府へ報告したものであらうと思ひます。そこで此兵部省でありますが、當時は陸軍、海軍の區別といふものはありませんでしたから兵部省は謂はば軍部省であります。さうして大伴家持は其兵部省の次官(少輔)であつた。大輔も次官で少輔も次官だからまづ今なら次官補とでもいふところでせう。其大伴家持がこれ等の報告を見て、自分で此歌はいいなと思つたものだけ自分の日記帳に附けて置いた。さういふ性質のものであらうと思ひます。其選擇の標準は此處に書いてある通り拙劣な歌は採らなかつた譯であります。
 それから其採つた範圍はといひますと、遠江國から東の國々ばかりであります。今これを萬葉集の十四の卷の東歌と比べて見ますと分る。東歌もやはり遠江國から東の國々に限られてをります。唯東歌には甲斐國の歌が無い。防人歌にも甲斐の歌が無い。東歌には伊豆國の歌、陸奥國の歌がありますが、防人歌にはそれが無いのであります。さういふ國から防人が出なかつたのか、或は又さういふ國の防人には歌を詠む者が居らなかつたのか、どつちかでありませう。陸奥國からは防人は出ぬ、これはその國を守る必要があるからであります。(實は此邊で一旦休めばいいのですが、まだ一般論が濟まないのでもう暫く續けて申します。併し大分時間をとりましたので、先の方を詳しく申上げる(365)譯に行かなくなりましたから少し略します。)
 さてこれを採録したのは大伴家持であらうといふ事を申しましたが、此處に其大伴家持といふ人を一往考へて見る必要があります。家持といふ人を考へる前に先づ其家柄といふものを考ふる必要があるのであります。家持の家柄は、これを申上ぐる迄もなく神武天皇の御代に大功を建てたあの大伴氏の家柄であります。御承知の通り大伴氏と物部氏とが朝廷の武官として相竝んで御國を守り、天皇樣をお守りしてをつたのであります。此大伴の「とも」といふ言葉は今日で言へば部隊の意味であります。大伴とは「偉大なる部隊」でありまして、これは陛下の直接の軍隊といふ意味であります。今でいへば大伴氏は衛戍司令官のやうなものでありませう。物部氏の方は御存じの通り饒速日命の子孫であつて今の近衛師團のやうなものであります。さういふ風で大伴、物部兩氏が朝廷の武力の本となつてをつたのですが、後に蘇我氏と物部氏との爭の結果、物部氏が亡びてしまつた。そこで朝廷の武官は大伴氏のみになつたので、大伴の分家の佐伯氏といふものが出て來た譯であります。奈良朝の大將軍と言へば大伴氏か佐伯氏かであります。さういふやうに大伴氏は日本の武力の中心の家柄であり、其大伴氏の本家が家持の家であります。家持の父は大伴旅人で、旅人の父は大伴安麻呂であります。これ等は皆當時朝廷の枢要な位置に就いてをつたのでありまして、安麻呂は大納言、旅人も大納言でありました。大納言と言へば今日の大臣であります。今日では大臣といふものは大變値打が下つてしまつた。それはどういふ譯かといふと昔の大臣といふのは左大臣、又は右大臣で、その職務は今日の内閣總理大臣に該當するのであります。普通の大臣――閣僚は昔は大納言・中納言であります。家持は後に中納言になりましたがこの時は兵部少輔になつてゐた。それで家持は兵部少輔たる職務上、此防人歌を見て、其中のいいのを採録した譯でありませう。殊に前に申す通り大伴氏といふ家柄は神武天皇の御代以(366)來先祖代々武官として朝廷に仕へた立破な家柄でありますから、恐らく家持としても此防人歌といふものに就いては特別の関心を持ってゐただらうと思ひます。つまり家持は天平勝寶七歳二月に防人を自分の職務上檢閲する爲に難波の津迄來た。さうして防人歌を自分の職務上見ることが出來たのだ、自分としては平素防人に特別の關心を持つてをつた爲に、其中のいい歌を此處に採録したものである。――か樣に考へる事が出來るのであります。家持の一生涯の經歴を今此處で詳しく申上げる必要はないと思ひますが、家持は少納言からして兵部少輔に何時頃なつたかはつきり分りませんが、天平勝寶六年三月から同年七月迄の間に兵部少輔になつたものであらうと思ひます。で家持は職務上此防人歌を見て、さうしていいのを採録したものでありますが、家持として元來自分の家は武官の家柄である、從つて防人に對しては先祖代々の感情がある。又自分の家としては武官の家としての教もある。防人に就いて感ずることは外の人よりも鋭いところのあるのは當然であります。それで防人歌を採録し乍ら所々に自分の感想を加へてをるのであります。此二十の卷の此處に家持の歌が二十首ありますが、其中で十七首迄は防人に關した歌であります。これは決して偶然ではないと考へられるのであります。
 それから防人歌を詠んだ人々は一體どういふ身分の人であるか、今八十四首の此歌を見て其中で知れてをるのを見ますと、其人々の身分はさう大してよくはありませんが、遠江のところを見ると、國造丁、それから主帳丁、防人と三種類書いてあります。これはいろいろに解釋せられてをりまして、此防人と書いてあるのが本富の防人であつて、あとのは防人でないといふ風な説もあるのであります。併し私は此「丁」といふのは先刻申した丁であつて、やはり防人であると思ひます。唯防人であるけれども稍身分のある者である、それで國造丁、或は主帳丁と言つたのだらうと思ふ。主帳といふのは郡の役人で書記のやうなものであります。つまり、たゞの土民で無く國造の(367)一族たるもの主帳といふ役人の一族たるものが徴發せられた。さういふものが防人になつたのぢやないかと考へます。それから相模の國のところを御覽になると、助丁、上丁といふのがあります。これが又分らない、これが果して防人であるかどうか疑問であります。これに就いて私の考を申上げると、實はかういふ事が正倉院の文書にある。大寶二年十二月美濃國山方郡の戸籍を見ますと、其戸籍の中に正丁、少丁といふ文字があります。それには「正丁百五十三の内兵士三十二、少丁四十一の内兵士三」といふ事が書いてありますが、此正丁といふのが上丁で、少丁といふのが助丁であらうと思ひます。少丁といふのは年齢が少し足りないものを兵士にしたのぢやないかと考へます。さうしてそれを助丁と言つたのだらうと思ふのであります。猶其外に火長といふのがあります。これは軍防令に「兵士十人を以て火とす」とありまして、小隊長のやうなものを火長と言つたのであります。猶それから此歌の中には防人の歌だけでなく、防人の妻の詠んだものや、防人の親の詠んだものがあります。又それを全體に就いて申しますと、歌は全體で九十三首ありますが、其中に長歌が一首ありまして、短歌が九十二首あります。即ち大體は短歌でありますが、長歌もあるといふ事は、さういふ長歌を詠むやうな防人もあつたといふ事が分る譯であります。即ち相富の知識階級の人間が其中にをつたのでありまして、國造丁、主帳丁といつたやうな人も相當の人物であつたのであらうと思ひます。
 それから歌の言葉から申しますと、方言が相當入つてをります。此方言は大體東歌の方言と同じであります。此方言の事は時間の關係上、今日は略して置きます。さういふ風で音聲の訛が相當あり、方言も相當あつて、歌としては多少鄙びた點があるのであります。從つて歌の技巧といふものは餘り弄してはゐない。併し乍ら此防人歌は歌としては非常に優れたのが多いのであります。つまり歌といふものには二つの要素がある。これは藤原公任も言つ(368)てをりますが、歌といふものには、言葉と心との二つの要素があります。で言葉があつても心がないのは歌には上らぬ。といつて心があつても言葉が舌足らずではこれ又歌とは言へない。で歌の道としては、よく申しますが、言葉はなるべく古い言葉を使ふが宜しい、心はなるべく新しいが宜しい。つまり言葉は誰にでも分る古い言葉を使つて、而も其心は斬新な思想を盛らなければならぬ。でなければ本當に人間の心を打つよい歌とは言へない。か樣に言はれてをりますが、此防人歌、及び東歌の言葉は田舍丸出しであります。併し其心が純眞でありますから、われわれの心を打つものがあります。歌の本質といふものは却つてかういふところに現れて來る譯です。(一寸此處で休みまして、後で各論として、さういふ歌の見本を少しばかりお話しようと思ひます。)
 
            二
 
 ではこれから各論的に歌をあつちこつち覗いてお話を致します。先づ四三八九番の歌であります。
  潮《しほ》船の舳越《へこ》そ白浪|俄《には》しくも科《おふ》せ賜《たま》ほか思はへなくに
これは突然召集を受けた時の歌であります。其突然召集を受けた時の感じがそのまま歌になつてゐるのでありまして、率直に自分の受けた感じを丸出しにしてをります。もつとそれよりも露骨に自分の感じを丸出しにしてをるのは四三八二番の歌であります。
  ふたほがみ惡《あ》しけ人なりあたゆまひ我がする時に防人《さきもり》にさす
此「あたゆまひ」といふのは今の痛氣のやうな病氣で歩くのに非常に困るので、これはとんでもない事になつたといふのであります。此僞らざる心持がやはり日本人の本當の姿であると思ひます。それから四三二一番の歌、
(369)  畏《かしこ》きや命《みこと》被《かが》ふり明日ゆりや草《かえ》が共《むた》寢む妹《いむ》無しにして
此歌はまだはつきり解釋のつかぬ歌でありますけれども、一通り説明しますと、これは召集令を受けた時の感じぢやなくして、受けてから、さてこれからどうしようか、明日からは草と共に寢るかといふ事を歌つてをるのであります。」
 さて召集令を受けて初めはどきつとしたが、どうも仕樣がない、出かけなければならぬ。出かける覺悟はした。さて其次にもう少し心が落着いて來ると、今度は又無事に還つて來るといふやうな事を考へる。さういふ心持の歌が幾つかあります。四三三九番の歌、
  國|巡《めぐ》る獵子鳥《あとり》かまけり行き廻《めぐ》り歸《かひ》り來《く》までに齋《いは》ひて待たね
鳥が諸國を廻つて來る、つまり渡り鳥が來ると同じやうに自分も亦歸れるかも知れぬから歸て來る迄待つてゐてくれといふのであります。猶四三五〇番の歌、
  庭中《にはなか》の阿須波《あすは》の神に木柴《こしば》さし吾《あれ》は齋《いは》はむ歸り來《く》までに
かうして神樣を出して來てをります。神樣に自分が無事に歸れるやうにお願ひしてをる心持があるのであります。さうして歸りを祝するといふ譯です。
 さて旅立をしなければならぬので、ここに離別の情を歌つた一群の歌があります。四三五二番の歌、
  道の邊《べ》の荊《うまら》の末《うれ》に這《は》ほ豆のからまる君を離《はか》れか行かむ
荊《うまら》といふのはいばら〔三字傍点〕です。道のほとりの茨荊《いばら》に野生の荳が絡つてをる。それを見てさういふ風に自分に頼つて生活してをる自分の妻と離れて行くといふ事は容易な話ぢやない。さういふ氣特を、実景を持つて來て自分の離別の情(370)を叙してをる。これは歌としても相當の出來であります。次は四四二一番の歌、
  我が行《ゆき》の息衝《いきづ》くしかば足柄《あしがら》の峯|延《は》ほ雲を見とと偲《しぬ》ばね
これは足柄の雲に託して離別の心を叙してをる。何處迄自分は行くか分からぬが、あの足柄の峯に横たはつてをる雲を見て、大抵あの邊だらうと考へてくれといふのでありませう。次は四四三〇番、これは武藏の國の防人が詠んだ歌であります。
  荒男《あらしを》のい小箭《をさ》手挾《たばさ》み向ひ立ちかなる間《ま》鎭《しづ》み出でてと我《あ》が來《く》る
これは同じ離別でありますけれども、此處では愈出發する自分の此旅装を見よといふので、愈武装して出かける時の思ひ切つた有樣が此處に現れてをります。
 さてかうやつて出かけてしまつたが、顧みると自分の郷里に居る人々とは離れ難い、其離れ難いに就いて詠んだ歌は非常に數が多いのであります。妻を詠み、或は子を詠み、父母を一緒に詠み、或は又母を詠み、父を詠んだ歌が澤山あります。別れて來たものの心の中には父も母も妻子もちやんと居る。別れ切つてしまふことは出來ない。これが防人の旅の間に始終往來してをる。それでさういふ歌は數多くあるのでありますが、中でも特に多いのは妻を思うて詠んだ歌であります。これは「つま」といふ言葉で詠んだのもあり、「いも」といふ言葉で詠んだのもあります。又「わぎもこ」と言つたり、單に「こ」といつて詠んでをるのもある。十四の卷の三五六七番の歌でありますが、これは問答の問の方であります。
  置きて行《い》かば妹はま愛《がな》し持ちて行く梓の弓の弓束《ゆづか》にもがも
これは歌としても中々いい歌であります。其儘置いて行くにどうも忍びない、自分が持つて行くところの梓の弓の(371)弓束に卷いて持つて行く事が出來ればいいが、さうは行かないといふのであります。細君を弓に卷きつけて持つて行く譯に行かぬとすればどうしたらいいか、そこでかういふ風に考へてをる歌があります。四三二七番、
  我が妻も畫にかきとらむ暇《いつま》もが旅行く我《あれ》は見つつしぬばむ
自分の細君を畫に描きとる時間があればいい、若しそれが出來れば旅に行く時に自分は其畫をば持つて行つて細君の事を思ひ出したい。これは當時は悲しいかな寫眞術といふものがなかつたから、畫に描かうとしても其暇もない、全く困つたといふのであります。これもいい歌であります。それから四四二九番の昔の防人の歌、
  厩《うまや》なる縄|絶《た》つ駒の後《おく》るがへ妹が言ひしを置きて悲しも
共に行かうと言つたが、それも出來なかつたから其儘にして置いて來たといふのであります。かうやつて並べて見ると中々面白い歌があるのであります。猶今日の時勢から考へて見ても非常に忠實な歌があります。四三六四番、
  防人《さきむり》に發《た》たむさわざに家の妹《いむ》が業《な》るべき事を言はず來《き》ぬかも
防人を命ぜられて出發する時の取込みで以て、一日も遲れてはいかぬといふので一所懸命用意して旅に出た。さて旅立つて少しばかり旅行をしてつくづく考へて見ると、しまつた――といふ心持が起つた。自分の妻はこれからどうして生活して行くであらうか。此「なり」――「なる」といふのは生業《なりはひ》の「なり」であります。妻の生活の途を言はずに來てしまつた。どうもしまつた事をした、といふのであります。これは恐らく眞情であります。單に離別の情だけでなく、かういふ實生活に觸れた奥深い歌もあるのであります。かういふのは唯感傷的に興味本位で歌を見る人は餘り深く感じないでせうが、實生活といふ點からいへば此歌などは眞實を語つてをると思ひます。それから次は四三五四番、
(372)  立鴨《たちこも》の發《た》ちの騷ぎに相見てし妹が心は忘れ爲《せ》ぬかも
旅に發つ時には大騷ぎであつた爲に、お互に言葉を交す事が出來なかつたが、眞心籠めて相見つゝ別れて來た其心は何時迄經つても忘れられないといふ歌であります。これに似て而も一寸趣の變つた歌は四四三六番の歌です。
  闇《やみ》の夜の行く先《さき》知らず行く吾を何時《いつ》來《き》まさむと問ひし兒らはも
何時歸つて來るかと妻が聞いたが、自分でさへそれは分らない。俗に言ふ一寸先は闇である。將來の事は神樣まかせである。それを何時歸つて來るかと言つて問ひし子らはもと言つたのであります。これは先の相見てし妹、つまり眼でもの〔二字傍点〕をいつた細君より、何時來まさむと聞いたんですから、此方の方は多少理性の勝つた細君であります。次に四三五七番の歌を御覽になると、これは洵にかはいさうな歌であります。
  蘆垣の隈所《くまど》に立ちて吾妹子《わぎもこ》が袖もしほほに泣きしぞ思《も》はゆ
これは別れる時に何にも言はないで垣の隅つこで――人に見られては恥しいから――人知れず泣いてをる。夫である防人はそれを見て見ぬふりをして出て來た。それが旅へ出るとしみじみと思ひ出される。實は此歌は細君が泣いてをるんぢやない、其歌を詠んでをる夫が泣いてをるのであります。これなど客觀的に氣をつけて御覽になるとよく分ります。唯これは細君の泣いてをるのを思ひ出した歌だと見るのは、文字に囚はれた考へ方であつて、實は細君の泣いてをるのを思ひ出して自分が肚の中で泣いてをるのであります。これは中々いい歌で、私は名歌であると思ひます。
 それから或地點へ來るとひょつと郷里を思ひ出す、さういふ歌が又あります。四四二三番、
  足柄《あしがら》の御《み》坂に立《た》して袖振らば家《いは》なる妹は清《さや》に見もかも
(373)此足柄の御坂と言ふのは其時分の考へ方として、さういふ坂の所には神樣が居て守つて下さるといふので御坂と言ふのであります。防人の夫は其山の上で袖を振ると家に居る妻ははつきりこれを見るであらうといふのであります。此歌を詠んだ防人は武藏國の防人でありますから、足柄山の上で自分が袖を振つたつて家にゐる妻に見える筈がない。併し歌は理窟ぢやないんです。自分が此處で袖を振つてをれば家に居る細君は必ずそれを見てをるだらうといふんです。山などはあつたつて邪魔にならない、かうなるとレントゲン以上です。次に四四〇七番の歌、
  ひなぐもり碓日《うすひ》の坂を越えしだに妹が戀しく忘らえぬかも
これは上野の國の防人が信濃の碓氷の坂を越えてしまふと上野の國が見えなくなる、愈自分の細君の居る所が見えなくなるが、併し何處迄も忘れる事が出來ないといふのであります。かういふ風に郷里の山、郷里の川に就いて其感じを歌つたのが相當あります。四三四五番、
  吾妹子《わぎめこ》と二人我が見しうち寄《え》する駿河の嶺《ね》らは戀《くふ》しくめあるか
自分の妻と一緒に見たあの駿河の山――これは駿河の山といふと富士山であるといふ風に解釋する人がありますが、必ずしも富士山に限る必要はないと思ふ。とにかく駿河の嶺は戀しいと、山を見て一緒に樂しんだ細君を思ひ出した歌であります。或はこれはやはり富士山かも知れません。さうなれば何處迄行つても富士山の見える限り自分の郷里を思ひ出し、妻を思ひ出す譯であります。猶似た樣な歌がありますが、趣は多少違ふのであります。四三六七番の歌、
  我《あ》が面《もて》の忘れも時《しだ》は筑波嶺《つくばね》をふり放《さ》け見つつ妹はしぬばね
これは自分の事を忘れさうになつたら筑波山を見て自分を思ひ出してくれといふのであります。前のと一寸かは(374)つて、その逆です。
 それから今度はかういふのがあります。四三五三番の歌、
  家風《いへかぜ》は日に日に吹けど吾妹子が家言《いへごと》持ちて來る人もなし
家風といふのは家の方から吹いて來る風であります。それは毎日毎日吹いて來るけれども、自分の細君の便りを持つて來る人がないといふのです。ところがそれと逆な考へ方のもあります。四三六六番、
  常陸《ひたち》さし行かむ雁もが我《あ》が戀を記《しる》して附けて妹に知らせむ
これは單純にお考へになつたら一寸分らない歌であります。併し此歌は何月に詠んだかといふ事をお考へになるとお分りになる。これは此處にある通り二月の歌であります。昔の二月は今の三月で春の陽氣です。だんだん暖くなつて來ると、雁が北の方へ歸ります。其雁が北に歸るのを見て詠んだ歌であると思ふ。さう考へると此歌はよく分る。あの北の方へ向つて飛んで行く雁の中に常陸の國を目指して行く雁が居つてほしい、さうすれば自分は雁に託して、細君を戀ひ慕つてをることを書いて自分の心を細君に知らせてやりたい。これは相當の學者の詠んだ歌でせう。といふのは支那の故事に蘇武が雁に手紙を託したといふ事があります。蘇武は漢の武帝の頃の名臣でありますが、長い間匈奴に囚はれの身となつて北の方へ行つてをつたのであります。さうして自分の故郷へ自分の事を知らせてやる爲に雁の脚に手紙を附けて放してやつた。其雁が支那の都へ飛んで來たのを或人が射落して見ると手紙が附いてをる。それを開いて見て蘇武がまだ生きてをるといふ事を知つたといふ話があるのであります。其話を此歌は土臺に持つて來てをる。これは餘程の學者であらうと思ひます。かう考へて參りますと、防人歌といふものは唯無學文盲の田舍者が詠んだ歌だと一概に言ふことは出來ない。これは歌をお讀みになつても分りますが、言葉の訛(375)もなく非常に洗練せられてをります。防人歌の通有の野臭が無い。田舍じみた臭みは無いのであります。かういふ歌を見れば防人を一概に知識の無いものだとは言へないのであります。併しかういふ歌に限つて感情は迫つてををりません。歌が理窟つぽくなるからであります。
 防人歌はさういふ理窟つぽい歌は少くして、中々面白い歌があります。四三二二番の歌がそれであります。
  我が妻はいたく戀ひらし飲む水に影《かご》さへ見えて世に忘られず
水を飲むと其水の中に妻の面影が映つて見えるといふのでありますが、理窟を言へば其防人の目には妻の面影が忘れられないので、水を飲まぬでも始終細君の姿が目に見えてをるのでありますが、さういふ理窟を言はないで、自分の思つてをる細君の姿が水を飲む度に映つて見えるのは、妻が自分を戀しく思つてをるのであらうと詠んだ歌であつて、名歌であります。それから四三五一番の歌、
  旅衣《たびごろも》八重《やつ》著重《きかさ》ねて寢《い》ぬれどもなほ膚《はだ》寒し妹にしあらねば
旅の宿で澤山着物を重ねて着て寐るけれどもやはり寒い。これは細君とは違ふといふのですが、中々面白い歌であります。これに似た歌は四四三一番の歌であります。
  小竹《ささ》が葉のさやぐ霜夜に七重《ななへ》著《か》る衣《ころも》に益《ま》せる子ろが膚《はだ》はも
これは讀むだけにして置きます。昔の防人の歌の一首であります。
 それから四三八八番の歌、
  旅と云《へ》ど眞旅《またび》になりぬ家の妹《も》が著せし衣《ころも》に垢《あか》つきにかり
これなどは旅の眞情を歌つてをるやうに思ひます。私は大正十二年に名古屋に參りまして、眞福寺の古事記其他國(376)寶十餘種を寫眞に撮つたことがありますが、其間旅館に十七日も泊つたのであります。其寫眞十餘種が古典保存會の基本をなした譯であります。其時に私は――旅と云ど眞旅になりぬ、家の妹《も》が著せし衣《ころも》に垢《あか》つきにかり――しみじみさう感じたのてありまして、着更への著物をわざわざ家から取寄せた事があります。かういふ歌は本當の長旅をしてをる人でなければ出て來ぬのであります。さういふ風に着物で細君を思ひ出した歌が幾つもあります。四四〇四番、
  難波道《なにはぢ》を往《ゆ》きて來《く》までと吾妹子《わぎもこ》が著《つ》けし紐が緒絶えにけるかも
難波道を往きて歸つて來る迄大丈夫だと言つて細君が著けてくれた紐も切れてしまつた。隨分長い旅であるといふのであります。さうかと思ふと又かういふ歌があります。次の四四〇五番、
  我が妹子《いもこ》がしぬぴにせよと著《つ》けし紐糸になるとも我《わ》は解かじとよ
中々これは堅固に約束を守つてをる譯です。細君を忘れない歌はこれ位にして置きます。
 それから次は子供を思ひ出した歌。四三八五番、
  行先《ゆこさき》に浪な普《と》ゑらひ後方《しるへ》には子をら妻をら置きてらも來《き》ぬ
これは面白い歌です。自分の行先は浪が激しい、どうなるかと思ふ。顧みれば細君も子供も皆置いて來た。前に進むのも大變だし、といつて今更歸る譯にも行かない。どうも後《うしろ》から引つぱられるやうな氣持がしてならぬといふのであります。次は四四二四番、
  大君の命《みこと》かしこみ愛《うつく》しけ眞子《まこ》が手|離《はな》り島|傳《づた》ひ行く
自分の子供は可愛いいけれども、子供と別れて大君の勅命《みこと》を畏みかうやつて島々を傳つて行くといふのでありま(377)す。それから十四の卷の三五六九番の歌、これは子供であるか細君であるか一寸分らないが、どうも子供のやうに思ひます。
  防人《さきもり》に立ちし朝けの金門出《かなとで》に手放《たばな》れ惜しみ泣きし兒らはも
併しこれよりも哀れな歌があります。四四〇一番の歌であります。
  韓衣《からごろも》裾に取りつき泣く子らを置きてぞ來《き》ぬや母《おも》なしにして
細君は死んでしまつて母の無い子供である。それを其儘にして大君の勅命《みこと》を畏みて出て來た譯であります。洵に氣の毒な、本人にとつて腸のちぎれるやうな歌であります。言葉の上には「大君の命畏み」とは言はないけれども、言ふ以上に、猶畏んでをる心持が現れてをります。これ等の歌は優れた歌だと私は思ひます。
 次は父母に就いての歌を申します。四三三七番、
  水鳥の發《た》ちの急《いそ》ぎに父母に物言《ものは》ず來《け》にて今ぞ悔《くや》しき
これもよくある事であります。大騷ぎをして出て來た爲にお父さんやお母さんにものを十分言はずに來てしまつたといふのであります。それと同じやうなのが四三七六番の歌であります。
  旅行《たびゆき》に行くと知らずて母父《あもしし》に言《こと》申《まを》さずて今ぞ悔《くや》しけ
これははつきり分りませんが、何處へか出張中にいきなり命ぜられて來てしまつたのぢやないかと思ひます。これも父母に離別の情を申上げる事が出來なかつた爲に後で悲しんでをるのであります。併し別れて來てしまつてからどういふ風に感じたかといひますと、四三四四番の歌であります。
  忘らむと野《ぬ》行き山行き我《われ》來《く》れど我が父母は忘れせぬかも
(378)これは昔からいふ通り洵に立破な歌であります。忘れようと思つて野を通り、山を越えて自分は來たけれども何時迄經つても父母は忘れられない。こんな弱い事ではならぬ。父母を忘れてしまひたいと思つてもどうしても忘れられぬ。忘れようと思ふとますます忘れる事が出來ない。これは人情であります。此歌は萬葉の中でも非常に立破な歌であると思ひます。人の心持をよく現はしてをります。それから又かういふのがあります。これも立破な歌であります。四三四六番、
  父母が頭《かしら》かき撫で幸《さ》く在《あ》れていひし言葉《ことば》ぞ忘れかねつる
父母が「幸あれ」とさう言つた言葉も忘れない。これは父母を忘れられない心持を言つたのであります。猶似たやうな歌があります。四三七八番、
  月日《つくひ》やは過《す》ぐは往《ゆ》けども母父《あもしし》が玉の姿は忘れ爲《せ》なふも
これは實に情の籠つた歌であります。月日は過ぎ行くけれども兩親の玉の姿は忘れられない。此處で玉の姿と言つてをりますが、これは相當に頭脳が働いてをると思ひます。これは一面から言へば自分の父母をば褒めて言うてをる言葉であります。これを詠んだのは下野の國の防人でありますから、實はそんなに玉の姿の父母でもないだらうと思ひますが、子供の目から見れば玉の姿と見える。一體親から言へば子供以上の寶はない。例の憶良の「銀《しろかね》も金《くがね》も玉も何せむにまされる寶子に如《し》かめやも(卷五、八〇三)」の歌にある通り、親から子供を玉以上に見、此處では子供が親を玉以上に見てをる。此事は餘り道徳の教に引用せられてをりません。併し乍ら私は此「母父《あもしし》が玉の姿」と詠んだ中臣部足國といふ人の親に對する心持は洵によく現はれてをると思ひます。猶此人はさういふ歌を詠む位であつて相當心が洗練せられてをります。當時かういふやうな人も田舍に居たのであります。猶又自分の父母に就いて(379)か樣に考へてをるのもあります。これも有名な歌であります。四三二五番、
  父母も花にもがもや草枕旅は行くともフ《ささ》ごて行かむ
昔は男でも女でも頭へ時の花を簪の樣に挿したものであります。でお父さんやお母さんは花ならいい。さうしたら自分の頭に挿して行かうといふのであります。それと同じ樣な心持を現した歌が四三二三番の歌であります。これはお母さんだけでありますが、かういふ歌です。
  時時の花は咲けども何すれぞ母とふ花の吹き出來《でこ》ずけむ
時々いろいろな花が咲くがどういふ譯かお母さんといふ花は今迄咲いた事が無い。若しお母さんといふ花が咲けばこれを持つて行く事が出來るだらうといふ心持であります。其外父母の事を詠んでをるのは四三二八番の歌、
  大君の命《みこと》かしこみ磯に觸り海原《うのはら》渡る父母を置きて
それから四三九三番の歌、
  大君の命《みこと》にされば父母を齋瓮《いはひべ》と置きて參出來《まゐでき》にしを
かういふ風に父母を詠んでをる歌が澤山ありますが、後は省略します。
 それから次は母を詠んだ歌であります。子としては母親が一番懷しい。變な話ですが、間違つた考を起した人間でも、幾ら理窟を言ふ男でも、お母さんが悲しんで泣くと大抵の人間は良心を取戻します。母程偉大な力を持つものはありません。お母さんの歌を少しばかり申して見ます。四三三八番、
  疊薦《たたみけめ》牟良自《むらじ》が磯の離磯《はなりそ》の母を離れて行くが悲しさ
本當にお母さんに離れ難い氣持が現はれてをります。離れ磯―――ばらばらに離れてをる磯を見て母に離れて行く悲(380)しさを歌つたものであります。次に四三四八番、
  たらちねの母を別れてまこと我《われ》旅の假廬《かりほ》に安く寢《ね》むかも
これは洵によく分つてをります。少し説明に過ぎてをります。それから四三五六番の歌、
  我が母の袖持ち撫でて我が故《から》に泣きし心を忘らえぬかも
お母さんが自分の袖を持つて撫でて、自分の爲に泣いて下さつた心は忘れられないといふのでありまして、此方が涙が餘計ある樣に感じます。さうかと思ふと少しも涙が無いやうに見えて、趣の深い歌があります。四三八六番、
  吾が門《かづ》の五株柳《いつもとやなぎ》いつもいつも母《おも》が戀ひすす業《なり》ましつしも
これは表に涙は一つも出てをりませんが、それは家にはお母さんだけあるのでせう。他に働き手の無い家らしい。でお母さんは家の仕事をせつせとやり乍らいつもいつも自分を思ひ出しておいでになるだらうといふ歌であります。次に四三七七番、
  母刀自《あもとじ》も玉にもがもや戴《いただ》きて角髪《みづら》の中《なか》にあへ纏《ま》かまくも
これは先刻の父母が花なら頭挿《かざし》にして一緒に旅をしたいといふのと同じやうな考であります。さてもう難波から船出をして筑紫に行くといふ時にお母さんを思ひ出す、其時の感じを歌つた歌があります。四三八三番、
  津の園の海のなぎさに船装《ふなよそ》ひ發《た》し出《で》も時に母《あも》が目もがも
愈自分が船に乘つて出て行く時に、お母さんに一目お目にかかりたいといふのであります。其次も同じやうな歌でありますが、少し違ふところがあります。四三三〇番、
  難波津に装《よそ》ひ装《よそ》ひて今日の日や出でて罷《まか》らむ見る母なしに
(381)愈自分が出て行く此姿をお母さんに見て戴きたいが、見て下さる譯に行かぬ。これはめそめそしてをりませんが、肚の底にはお母さんに見て戴きたいといふ心があります。これも眞情を歌つてをります。お母さんの歌は澤山ありますが此邊で略して置きます。
 次はお父さんを詠んだ歌でありますが、これは洵に少い。たつた一つしか無い。四三四一番の歌、
  橘の美衣利《みえり》の里に父を置きて道の長道《ながぢ》は行きがてぬかも
これはお父さんが、年をとつてどうにもならぬやうな人であつたかも知れません。さういふやうな父を遺して置いた淋しい氣持が現れてをります。これは特別なお父さんだつたらうと思ひます。
 かういふ風に防人自身が詠んだ歌が出て來る外に今度は逆に細君が夫の防人になつて行く人に就いて詠んだ歌があります。それを一寸抽き出して見ましたが、長くなりますから番號だけ申します。三五六八番、四四一三番、四四二五番、四四一七番、四四二四番、四四二〇番、四四二二番、四四二八番、四四一六番、四四二六番――此中にも實に感じの深い、いい歌がありますけれども時間の關係で略します。猶又父から防人になつて行く子を詠んだ歌があります。これは四三四七番、此お父さんは餘程子煩悩のお父さんと見えて、お前の太刀になつてでもついて行きたいといつてをるのであります。
  家にして戀ひつつあらずは汝《な》が佩《は》ける刀《たち》になりても齋《いは》ひてしがも
かういふお父さんもある。
 猶故郷を思ひ、家の人を思つた歌も相當あります。四三七五番、
  松の木《け》の竝《な》みたる見れば家人《いはびと》の吾《われ》を見送ると立たりし如《もころ》
(382)道を歩いて松の竝木の立つてをるのを見ると、自分が旅立つ時に自分を見送る爲に大勢出んで送つてくれたことを思ひ出すといふのであります。次に四三六八番の歌であります。
  久慈河《くじがは》は幸《さけ》く在り待てしほ船に眞楫《まかぢ》繁貫《しじぬ》き吾《わ》は歸り來《こ》む
これは河に向つて話してそるのです。久慈河よ、無事に俺が歸るのを待つてをつてくれ、といふのであります。かういふのは自分の郷里の山や川に對する愛着心を述べてをるのであります。これをいろいろ擬人法だとか何だとか言ふ人がありますが、昔の日本人の考へ方としては擬人法などといふものは無い。山も川も人間と同じく生きてをるものであります。自然を生きてをるものと考へるのが本當の日本式の考へ方であつて、それを生きてゐないと思ふから擬人法だとか何だとかいふやうなことを言ふんです。それはとにかくなかなか勇しい歌もあります。さうかと思ふと必ずしも勇しい歌ばかりではない。こんなのがあります。四四一九番、
  家《いは》ろには葦火《あしぶ》焚《た》けども住み好《よ》けを筑紫《つくし》に到りて戀《こふ》しけ思《も》はも
自分の家は焚物もないから葦を焚いてをる。それでも自分の家だと思へば住みよい。これから筑紫に行けばますます家が戀しくなるだらうといふのであります。ここにいふ家は建築としての家ぢやない、家庭であります。四四〇六番の歌にいいのがあります。
  我が家《いは》ろに行かも人もが草枕旅は苦しと告げ遣《や》らまくも
これも眞情を述べてをります。
 さて諸國の防人が難波へ集つた時はどれ位集つたかといひますと、前にあげた記事を見て考へると、まあ千人位は集つたらうと思はれます。それでさういふ有樣が見える歌があります。四三二九番、
(383)  八十國《やそぐに》は難波に集《つど》ひ舟飾《ふなかざり》我《あ》がせむ日ろを見も人もがも
これは諸國から集つた自分等防人は綺麗に船飾して愈今難波から出發するが、此自分の凛々しい姿を私の愛する人に一遍見て箕ひたいものだといふ歌であります。さうしてそれから愈出かけるといふところでありますが、かういふ歌があります。四三四九番、
  百隈《ももくま》の道は來にしをまた更に八十島《やそしま》過ぎて別れか行かむ
今迄國から攝津まで澤山の道の隈(道の曲り角の多く)を通つて來たが、これからは更に又多くの島々を過ぎて難波から別れて行くであらうといふのであります。此外にも難波から別れて行く歌は澤山あります。四三五五番、
  外《よそ》にのみ見てや渡らも難波潟雲居に見ゆる島ならなくに
次に四三八〇番の歌もさうであります。
  難波門《なにはと》を漕《こ》ぎ出《で》て見れば神《かみ》さぶる生駒高嶺《いこまたかね》に雲ぞたなびく
これなどを読んで見ると防人歌は田舍者の歌だとは言はれない。古今集の中にもこんなに調子が高くて洗練せられた歌は餘り無い。防人歌には中々名歌が入つてをります。かうして難波から船出をしておしまひであります。
 そこで防人全體がどういふ心持で防人として發つて行つたかといふ事を考へて見ますと、これは第一に神樣を祭る、神祇に一切お任せするといふ氣特が非常に著しいのであります。それを歌つた歌を二三申上げます。四三七四番、
  天地の神を祈りて幸矢《さつや》貫《ぬ》き筑紫の島をさして行《い》く吾《われ》は
これは故郷を振返るやうな氣特は更に無い。唯前途ばかり目指して行きます。併しかういふのもあります。四三七(384)〇番の歌、
  霰降り鹿島《かしま》の神を祈りつつ皇御軍《すめらみくさ》に吾《われ》は來《き》にしを
これは何處迄も自分が無事に歸れるやうに故郷の神樣にお願ひしてをるのであります。又かういふのもある。四三五〇番、
  庭中《にはなか》の阿須波《あすは》の神に木柴《こしば》さし吾《あれ》は齋《いは》はむ歸り來《く》までに
かういふ風に神樣を祭つて運命を神に託するといふやうな考へも相當現はれてをります。
 併し乍ら防人としての大任を考へて見ると、さういふ事はもう問題でない。何事も唯大君のみことを畏む、かういふ心が主となつて防人として出かけて行く譯でありますから、「大君のみこと畏み」といふ言葉で以て歌ひ出した歌が相當あります。四三二一番、(命かゝふり)、四三二八番(命かしこみ)、四三五八番(命かしこみ)、四三九三番(命にされば)、四三九四番(命かしこみ)、四四〇三番(同上) 四四一四番(同上) など皆さうであります。大君のみこと、即ち、天皇の大命を拜した以上は何處迄も勇往邁進しなければならぬといふ事は當然であります。從つて「顧みはせじ」といふ心持を現はした歌も相當あります。有名な今奉部與曾布《いままつりべのよそふ》の歌もさうであります。四三七三番、
  今日よりは顧《かへり》みなくて大君の醜《しこ》の御楯《みたて》と出で立つ吾《われ》は
これは四三三一番の家持の長歌の中に「鶏《とり》が鳴く 東男《あづまをのこ》は 出で向ひ 願みせずて………」とあるのと同じ心持でありまして、此「顧みはせじ」といふ事が日本軍人の本當の心持を現はした言葉であります。而もこれは昔から言傳へて來た言葉であるといふ事が分るのであります。どうして分るかと言へば、十八の卷の(これは防人歌ではあ(385)りません)。四〇九四番の歌ですが、由ち此「賀2陸奥國出v金 詔書1哥一首并短歌」――これは天平感寶元年五月十二日、越中國守館に於いて大伴家持が詠んだ歌であります。此歌は大變良い歌でありますから其中途を略して簡單に申上げます。「葦原の 瑞穗の國を……大伴の 遠つ神祖《かむおや》の 其の名をば 大來目主《おほくめぬし》と 負ひ持ちて 仕へし官《つかさ》 海行かば 水漬く屍 山行かば 草|生《む》す屍 大皇《おほきみ》の 邊《へ》にこそ死なめ 顧みは 爲《せ》じと言立《ことだ》て 大夫《ますらを》の 清さ彼《そ》の名を 古《いにしへ》よ 今の現《をつつ》に 流さへる 祖《おや》の子等《こども》ぞ 大伴と 佐伯《さへき》の氏は 人《ひと》の祖《おや》の 立つる言立《ことだて》 人の子は 祖《おや》の名絶たず 大君に 奉仕《まつろ》ふものと 言ひ繼げる 言《こと》の職《つかさ》ぞ 梓弓 手に取り持ちて 劍大刀 腰に取り佩《は》き 朝守り 夕《ゆふ》の守りに 大王《おほきみ》の 御門《みかど》の守護《まもり》 我をおきて また人はあらじと 彌立《いやた》て 思ひし増《まさ》る 大皇《おほきみ》の 御言の幸《さき》の 聞けば貴《たふと》み」――これは陸奥の國から黄金《くがね》が出たといふ詔勅を拜して詠んだ歌であります。其詔勅を讀んで見なければ分らないのですが、續日本紀の十七の卷の天平勝寶元年四月の宣命と比べて見ますと、其中に大伴、佐伯に就いて「海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 邊にこそ死なめ のどには死なじ」といふ言葉があるのであります。で此詔勅を拜して大伴家持が非常に感激して作つたのが、此四〇九四番の長歌であります。即ち此「海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大皇《おほきみ》の 邊《へ》にこそ死なめ 顧みはせじ」――これは詔勅の方では最後の一句が「のどには死なじ」とあつて一寸違ひますが、とにかく「顧みはせじ」といふ意氣込みで出で立つといふのが日本の軍人の精神であります。
 で結局今迄竝べて來ました歌は防人に任命せられた時の感じ、個人的な何の某といふ人間の感じから、國家的な何の某に遷り變る其轉換であります。だから其間際に個人的な感情が出て來るのは當り前でありますが、愈難波から船に乘つて出た以上は、軍人として顧みはせじといふ心持で行く。さうして皇軍《すめらみくさ》に出て行く彼等はどう考へて(386)をるかといふと、先刻申した四三七〇番の歌、「霰降り鹿島《かしま》の神を祈りつつ皇御軍《すめらみくさ》に吾《われ》は來《き》にしを」――彼等は一箇の人間として無事に戻る場合を祈つて來たのであります。ところが更に彼等は軍人としてどう考へてをるかといふと、これも先刻申しましたが四三七三番の歌、「今日よりは顧《かへり》みなくて大君の醜《しこ》の御楯《みたて》と出で立つ吾《われ》は」――此處では一個の軍人としての責任を感じてをるのであります。此「醜《しこ》の御楯《みたて》」といふ言葉でありますが、軍人が天皇の御楯となるといふ事は何も此處に始まつたことぢやない。日本書紀の卷の二十一の崇峻天皇のところに、捕鳥部萬《ととりべのよろづ》といふのが物部守屋に與して蘇我氏のために殺されようとする時に、萬は「自分は天皇の楯《みたて》となつて其勇を表はさうとしたが推問し給はず………」と言つた。軍人は大君の御楯であるといふ事は何も萬葉集に始まつたのではなく、傳統的に日本人の心の奥にずつと古くからあるのであります。それから此「醜《しこ》の御楯《みたて》」といふ言葉に就いて私は普通の人の考へ方と同じやうには考へてをりません。よく萬葉の注釋をする人の中には此「醜」といふのは「つまらぬ」といふ意味で、自分を卑下した言葉であるといふ風に説く人があります。併し有名なあの大國主神は葦原醜男神と申したのであります。此場合「醜」といふのは決して下等な賤しい神樣といふ意味ぢやない。これは平田篤胤先生の古史傳をお讀みになつても分りますが、「醜」といふのはつまり強い爲に其反對者から見ると憎くて堪らぬ。それで「醜」といつたのであります。實際敵から見て「醜」と見られるやうな御楯でなければ本富の御楯ぢやない。さういふ點からいひますと、戰爭で立破な手柄を立ててをる第一線の將士は敵から見れば「醜の御楯」であります。つまり敵から見てほんとに憎まれ役をやつてをるのが眞の軍人であります。大國主神のあの威力には勝てないので、反對の連中が憎い奴だ、憎い奴だ、と言つた。さういふ考へ方から葦原醜男神といふ名が出たのである。多くの敵人から恐れられるのが「醜」の男であります。さういふ意味に解釋しないで、これを取違へてつまら(387)ぬものだと自分を卑下した、賤しんだ言葉のやうに説くのはいけない。そんなつまらぬ蒟蒻のやうな楯では何の役にも立ちません。敵人が「醜」と云ふ程の楯で無ければ御楯の役はつとまらぬ。此「醜の御楯」の本義が防人歌の中心點であると思ひます。大體そんな卑下をしたり、くだらぬ謙遜をしたbするのは眞の日本人では無い。眞の日本人はつまらぬ卑下などはしません。堂々と天皇の御楯だと自任してゐる。で「醜の御楯」の本義は何處迄もさうでなければならぬと思ひます。私が防人歌で特に申上げたいのは此點であります。
 猶此防人歌が大伴家持の手に依つて採録せられ傳へられたといふ事は非常に深い理由があると思ふのであります。家持が萬葉集の編纂に携はらなかつたら、或は此防人歌は傳はらなかつたかも知れません。家持のやうな人があつて始めて此處にこれを採録してくれたのだと思ひます。今日は此防人歌の精神が復興して、國民の常識になつてをりまして、此大伴氏の軍人精神といふものは現実の世界に復活して來てをるのであります。言葉の復活は同時に思想の復活であります。言葉と思想とは別のものではありません。私はよく神道の歴史を考へます時に、神道は惟神《かむながら》の道である、其言葉は萬葉の時代迄あつた、それから後に到つて惟神の道といふ言葉を誰も言はない、徳川時代の中頃から神道の研究が盛になつて惟神といふ言葉が復活して來た、これが一つの歴史であると考へます。神道自體の歴史であります。それで、今日「醜の御循」といふ一つの言葉の復活に依つて日本の眞精神、武士道の根本精神がここに復活するであらうと考へます。かやうに考へますと、言葉は言葉だと單純に考へてをる人間は言葉を知らない入間であります。言葉は思想其ものであります。言葉が古いといつて馬鹿にするが、古い言葉程國民の精神が其處に宿つてをるのであります。「海行かば 水漬く屍 山行かば 草|生《む》す屍 天皇《おほきみ》の 邊《へ》にこそ死なめ 顧みはせじ」といふ言葉は恐らく室町時代や鎌倉時代の人は知らなかつたでせう。言葉の復活といふ事は同時に思想(388)の復活を意味するものであります。
 さういふ風に考へて來ると、今日眞の正しい日本語を普及しなければならぬ、それには支那人や南洋の土人にもよく分るやうに日本語をうんと簡單にしてしまへ、といふやうな事を言ふ人がありますが、そんな考では駄目であります。日本語を正しく外國に傳へるといふことは日本の威嚴といふ點からいつても絶待に必要であります。出鱈目な言葉に直して唯簡單であればいいといふやうな考へ方はやがては國を亡ぼす本であります。われわれは飽迄日本語の正しさといふものを擁護して行かなければならぬと思ひます。正しい日本語の普及といふ事は結局國力の普及であります。英語が今日世界を風靡してをるのは英國人の勢力が世界を抑へてをるからであります。英語が世界に普及したのは簡單だからだとか、難しくないからだとか、そんな事からぢやない、その國力からであります。どうか其意味で多少でも國語に關心を持つておいでになるお方は、日本の國語を正しく傳へるといふ事に御努力願ひたいと思ひます。
(大分長くなりましたが、私の話はこれで終ることに致します)
             (昭和十七年八月、美夫君志會主催、夏季萬葉講座の講演筆記、萬葉集叢説所載を訂正す)
 
 
(389)         萬葉集に佛教ありや
 
 皆樣に何か御話を申し上げるといふことになつたのでありますが、近頃少し考へてみたことに關しまして、萬葉集の中に佛教のことがどんな風になつてゐるかといふことを考へてみなくてはならないといふことを考へたのであります。今日御話するのは、さう考へたことを御語するので、結論がどうなるかといふことを御話申上げるのでないのであります。
 どうかさういふことを申し上げるのだといふことをおふくみの上で御聞きを願ひます。
 申し上げるまでもなく萬葉集にのせてある歌をば、年代の上からみますと、仁徳天皇樣の御代から天平寶字三年正月の大伴家持の歌を最後に、相當の長い年數を萬葉集がもつてをるわけであります。その間の年數は相當長いのでありますが、しかしその三百五六十年乃至四百年位のうち歌の數をもつて考へてみますと、仁徳天皇樣の御代には僅か四首か五首位なんです。さてここではくはしく申しまする時間がございませんから、どんどんとばして御話申し上げます。私は二時間位しやべるつもりで用意してきたのでありますが、半分位はやめなければならないのですから、話をどんどんとばさなければならない。
 だいたいまづ天武天皇樣の御代に至るまでの歌は百二十首位にしかならん。それで萬葉集の歌は御承知の通り四千五百首程あり、大多數はそのうちの藤原の朝、奈良朝といつていいわけであります。持統天皇樣の御代にあらはれてくる柿本人麿の歌、その頃から俄かに歌數が多くなる。この時代、萬葉集の中心となつてゐる時代といふもの(390)は、まづ奈良朝の盛時であります。最後の日附となつてゐる天平寶字三年といふものは惠美押勝の全盛時代であります。先刻天平寶字三年の歌が最後だと申しましたが、押勝が大師即ち太政大臣になつたのがその翌年であります。而してその頃は既に道鏡が孝謙上皇の寵を得て押勝と寵を爭ふ時期となつてゐた。さういふ時代の歌を萬葉が採録してゐるのであります。
 而してこの萬葉の重點をなしてゐる時代は、日本の佛教史から申しますと、佛教史上のまづ最盛期、佛數のもつとも盛な時代といつてよろしいことだと思ふのです。それは私がさう申しますと勝手の説だといふことになるかも知れないから、外の方にこの時代が佛教の最盛時だといふことを皆さんに話してもらひます。一つは明治、大分古い本でありますが、明治時代の村上專精といふ、これは坊さんで大學の講師もした博士ですが、その村上專精さんの「日本佛教史綱」といふのを讀んでみますと、いろいろの佛教の話が出てをりますが、「當期の佛教は政治佛教たるものなり。その隆盛の頂點は聖武天皇の朝にして、東大寺國分寺の建立をその間の二大事業とす。これより後は盛極まりて弊益生ず。」村上專精氏の「日本佛教史綱」ではその隆盛の頂點をば聖武天皇の御代においてある。つまり萬葉集の時代であります。なほ今活動してゐる人の説で申しますと、大屋徳城氏の「奈良佛教史論」です。「青丹よし奈良の都は咲く花のと萬葉集にあるやうに、奈良朝の佛教はにほふが如く極めて明かるい、限りなく晴れわたつた青空のやうな氣分にみちみちてゐる。後世の佛教につきまとふ厭世的な來世的な幽暗な影がほとんどない。これ、奈良佛教の傳銃的精神である。かゝる空氣は飛鳥朝から續いてゐること勿論であるが、奈良朝に至つて特に強調された。」といつてをります。なほ又、石田茂作氏の「寫經よりみた奈良朝佛教の研究」といふ大作があります。それをみますと、簡單なところだけひきますが、「奈良朝時代に當つて佛數が我が歴史上前後比無き程盛(391)大を極めたことは今更新しくいふまでもない。」かう斷言してをる。奈良朝といふものは日本の佛教史の上からみると最盛時であるといはれて居るのであります。
 この時代に於いて、萬葉集の歌がどういふ状態を我々に告げてをるか、佛教に對してどういふことを告げてをるかといふことをみます。それをみることが或意味に於いては、我々日本人の精神生活の歴史の上に於いて相當必要なことだと思ふのであります。
 何故ならば、この歌謡、歌とかうたひものといふものは人情の自然の發露であります。おのづから人間の心の機微にふれるものがあるのであります。それ故にこの歌謠といふものをよほど注意してみますと、時勢の好み、時代の風尚といふものが自ら反映するものであります。これは決して歌謠のために私が強ひていふのではない。私の平素の考へがさうなのであります。妙なことを申しますが、私は今は仙臺にをります。以前も仙臺にをりました。以前に仙臺にをりました頃よく散歩いたします。さうするとレコード屋の前を通ります。新しく出來たレコードをかけて、まあ賣るためにかけてをります。その前をほとんど一日おき位に通る。當時如何なる歌が流行するかといふことを、レコード屋の前を通るためにおのづから耳にします。そこで、私のしたしくしてゐた無一文館といふ古本屋のおやぢが、それは私が朝日新聞に書いたことのある男ですが、何でもうちわつて話す人は、私は仙臺では同僚二三人とその次には無一文館の主人なんです。それは古本屋の主人ですから商人なのですが、一種の風格があり、或意味では私の友人です。その男にいつでもいふのです。「ちょつと何か世の中が變つたなあ。」「どうしてでございます。」といふ。「レコード屋のレコードの、この頃かけてるやつは大分變つて來た。もう半年ほどたつと世の中がかうなるよ。」といふ。さうするといつでも「本當にさうなりますか。」といふ。私は「なります。」と答へ(392)る。レコードの流行といふものは約六箇月程世間より早いのです。これは永い間の私の經驗で、その事は本當です。それによつて人心が如何に動いてゐるかがわかるのです。或は人心がそれにつれて動く。若くは人心が動いたためにさういふものがはやる。東京の大震災の前に、「何とか枯薄」といふやつがはやつた。それから約一年たたないうちに東京市内は枯薄になつてしまつた。これは笑ひごとではない。人心の機微といふものは歌謡の上におのづからあらはれる。私共は萬葉集を讀んで奈良朝時代の人心の機微を知り得ると確信してをります。これは人間の心といふものはさういふものです。又よけいなことを申しますが、人のいふ言葉といふものはその人の心のあらはれです。たとへば「私は金はいらない。」といふやうなことを言つていばつてゐる人が時々ありますが、そんなことをいふ人は實はその内心は金のほしい人なのです。もし本當に金がいらない人なら恐らく金がいるとも思はないし、又いらないとも思はない。頭に金といふ考がないからです。金がいらないと口に出していふ人は即ち金に拘泥してゐる人なんです。私は名譽はいらないといふ人は名譽が欲しい人であるのです。
 これは歌をつくる人の根本的に心得てゐることなのです。私は連歌をやつてゐますが、連歌といふものの言葉の使ひかたはそこまで徹底してゐる。それでさういふ頭で萬葉集を讀みますと、萬葉集には何が根柢をなしてゐるかといふことを考へざるを得ないのです。さういふ頭で萬葉集を讀んでみますと、實に不思議な現象を呈してをる、佛教家が佛教の歴史を論じて、日本の佛教の最盛の時代といふにも拘らず、萬葉集には佛教の歌がどれ位あるかと調べてみますと、まことに不思議な現象がここに規はれてゐるのであります。そのことについて御話を申し上げてみようと思ふのでありますが、しかし、ただ佛教の最盛時だと申しましても、これは空論のやうでありますがそれは歴史をごらん下さればわかるのであります。
(393) まづ佛教のごく盛なといふことを我々がみるのは、寺を澤山國家がつくつたこと、又臣下に命じて造らしめたことです。そのうちで一番著しいのは東大寺であります。東大寺は建築からだけ申しましても、東大寺の大佛殿といふあの木造建築は、現在の世界に於いて世界最大の木造建築であるといふ、あの東大寺の佛像は、しかしそれは源平時代に一回燒け、戰國時代にも燒け、元禄頃のあれは再建です。奈良朝當時の規模からみれば、まことに小さくなつてゐるのです。それにも拘らず木造建築としては現在世界第一の建築です。それも今より千二百年も前に日本の國に於いてこれを實現してゐるのであります。如何に佛教が盛であつたかといふことがこれだけでもわかる。なほそれのみならず我々が今南都七大寺等といつてゐるのがほとんどその頃に出來て居る。天武天皇の九年の記事をみますと、都の内に寺が二十四ある。養老四年の續日本紀の記事をみますと、當時の都の内には寺が四十八もある。さういふやうな時代、又國々には御存知の通り國分寺といふものが出來た。國分寺は國々にある金光明四天王護國之寺といふ名の寺で總じて男の僧侶の寺、又法華滅罪寺といふ尼の寺があつたのであります。それが國分尼寺、この國分の僧寺と尼寺とが、一國に二つづつ日本國中に設けられたわけであります。さういふやうな時代、又日本中に佛像をつくられたことも極めて夥しいのでありますが、數も夥しいが、その佛像の内に於いて一番大きなものが今申しました東大寺の大佛、奈良の大佛、これが恐らくは世界に類のない大きなものでありましたらう。大佛像の大きさは今ここで皆さんに申し上げるまでもないが、耳の長さが八尺五寸、眼の長さが三尺九寸、口の長さが三尺七寸、掌の長さが五尺六寸、その上へ人間が坐ることが出來ます。その時に使つた銅が今日の目方でいへば十三萬三千百十貫。佛像はからかねですから錫がいる。錫が二千五百七十一貫、その上に金が百十七貫、水銀が六百六十貫、かういふ恐しい大佛を造つた。あとの佛樣は略しませう。大きいのさへ言へばあとはいはなくてもいい(394)でせう。さうしてそれはたゞ佛像だけでなく所謂三寶でありまして、佛、法、僧の三がそろはねばならぬ。佛は佛像で、法は經で傳へられます。このお經といふものがいつたいどれ位あるものか、かう考へますと、これ又ほとんど空前絶後でありませう。石田茂作氏の先刻申しました「寫經よりみたる奈良朝佛教の研究」といふものの最後のことだけを申しますと、奈良朝佛教の寫經、奈良朝で寫したお經の種類は、今記録に殘つてゐるものだけでのことで申しますと、九千百二巻、これは唐の開元釋教録といふものがありますが、これは唐玄宗の開元十年にその時の經律論を登録したもの、それに五千四十八巻、これが當時の總計です。それとくらべると約二倍、今日傳つてをるいろいろな寫經などもやつぱり大部分は奈良朝のものです。それから僧侶に至つてはほとんど一々御話が出來ない程のものです。元禄元年の再建の供養に千人の僧が讀經したといふが、天平勝寶四年の大佛開眼供養の時は召請せられた僧侶が一萬と續日本紀にあります。一萬の僧侶が集つて一緒にお經そよんだりしたのでせう。恐しいものだつたと思ひます。
 それ程であつた佛教が、萬葉集にどれだけ影響してゐるかといふことを私は實地で調べてみたのであります。なるほど萬葉集には流石に奈良時代でありますから、坊さんの名前が大分出てをる。又歌を詠んだ僧尼も大分あります。けれども本當に佛教の教義や教理若くは信仰といふものを詠んだものは數が少い。
 どれほどもありませんが、ここで普通に僧侶や尼さんが詠んだ歌としてあげるべきものは、私がここで書きぬいてみましたものは、あとで申しますのは別として五首か六首。
 萬葉の卷六の一〇一八番の歌でありますが、「元興寺之僧自嘆歌」といふ題で
  白珠は人に知らえず知らずともよし知らずとも吾し知れらば知らずともよし
(395)旋頭歌です。知らずとも吾し知れらば知らずともよし。これは坊さんが詠んだ歌だが一向佛教ではない。それから萬葉卷八の一五五七番の歌は題はかうなつてゐます。故郷の豐浦寺の私房、私の部屋で宴する歌、つまり豐浦の寺の尼さんの部屋で集つて酒を飲んでさうしてうたつた歌といふ歌が三首ある。その歌は、
  あすか河ゆき廻《た》む岳の秋はぎは今日ふる雨にちりかすぎなむ
これは丹比の國人といた人が詠んだ。そしてそれにこたへたか何か知らんが尼さんが詠んだ歌が、
  鶉鳴く古りにし郷の秋はぎを思ふ人どち相見つるかも
  秋はぎは盛過ぐるをいたづらにかざしに挿さず還りなむとや
いづれも尼さんが詠んだ歌ですが、一向佛教のことは何も出てゐない。もつとひどいのになると、十六の卷の戯れに法師を嗤ふ歌(三八四六)
  法師らがひげのそりくひ馬繋ぎ痛くな引きそ僧半らかむ
坊さんに冗談いふ。坊主のひげが生えてゐる。その鬚を剃りとつた跡が木の切株の樣になつてゐる。そこに馬をつないだら坊主が半分にひきさかれるだらうから、あまり強く馬をひくなと云つてからかつた。さう言つたら法師がこたへて
  檀越や然もな言ひそ五十弖戸《さとをさ(と假によんでおく)》がえだちはたらば汝もなからかむ(三八四七)
かういふ。檀越は梵語タナバチの譯で施主をいふ。つまり今言ふだんなさんといふ語の源です。だんなさんよ、さうおつしやるな、今に税務所の役人が來るとあなたも、半分位になるのだらう。かういふことです。これが坊さんの歌です。坊さんがこんな歌を詠んで、だんなと戯れてゐる。ここにも佛教は少しも出てゐない。萬事がかういふ(396)調子です。次にお寺に關してどんなことをいつてゐるかといふと、佛樣を詠まないで寺にある餓鬼を詠んでゐる。餓鬼といふのは、體のやせたやつで何か地獄へ落ちたらお目にかゝるものです。餓鬼のやうなものをよんだこんな歌があるのは或はさういふやうな坊主もあつたのでせうか。それは何ともいへないが、卷の四に御存知の通り笠女郎が大伴家持に贈つた歌が二十四首あります。その中に、
  相念はぬ人を思ふは大寺の餓鬼のしりへに額づくがごと(六〇八)
寺の餓鬼といふものは、四天王や何かに蹈みにじられてゐる、佛に祈れば何か御利益があるかも知れぬ、餓鬼に御祈を申したとて何の利益も無いといふ所からいふのだらうが、何も佛教の教義には關係ない。この餓鬼が又もう一つ十六の卷に出て來ます。池田朝臣が大神《みわの》朝臣|奥守《おきもり》といふのを嗤つた歌です。その奥守といふ人が痩せた男だつたとみえて
  寺々の女餓鬼申さく大神の男餓鬼たばりてその子うまはむ(三八四〇)
寺々の女餓鬼共が申し上げるのは、あの大神の男の餓鬼を私の亭主に貰ひたい。さうしたらその餓鬼の子を私は産むことが出來るだらう。まづこんな調子で坊さんに對しても一向尊敬といふことがない。まづお互に冗談半分、萬事がかういふ調子なのです。寺を詠んだ歌はその卷十六にまだ
  楠の寺の長屋に吾がゐねし童女《うなゐ》はなりは髪あげつらむか(三八二二)
といふ歌があります。これも何も佛教に關係がない。それから同じく卷十六に、長(の)忌寸朝意吉《いみきおき》麿の歌八首の中の第五に、香塔、厠、屎鮒、奴を詠み込んだ歌がある。それは
  香塗れる塔にな依りそ川|隅《くま》の屎鮒|喫《は》めるいたき女奴《めやつこ》(三八二八)
(397)といふのである。佛塔には土で塗つた上を栴檀香を粉末にしてその上に塗ることがあるといふ所から、この香塗れる塔といつたのはよいが、その相手に厠だの屎鮒だのを持ちだしたのである。香塔も何もおもちやのやうになつてゐる。
 かういふ調子で佛像等に對しても何も深い佛教の教義にふれたものがない。當時寺々には講會といふものがあり、その講會は佛前で經論を講じて佛教を一般に説きさとらしめる。そのうち一番著しいのは興福寺の維摩講です。これは又維摩會とも申しまして後世まで非常に重きをおかれたもので、すべての講會の模範として重んぜられたものでありますが、その維摩講の時の歌が一首卷八にあります。一五九四番の歌であります。
  しぐれの雨間なくなふりそ紅ににほへる山のちらまく惜しも
佛樣の前に唱へた歌とありますから、何か佛樣を讃嘆し褒めてゐるかと思ふとさうではない。しぐれの雨よ、さう絶間なくふるなよ、紅ににほへる山の紅葉の散ることが惜しいよと景色を詠んでゐる。この左注を見ますと、冬十月皇后宮之維摩講、終日大唐高麗等の種々の音樂を供養す。ここに乃ち此の謌の詞を唱へて琴を彈ずる云々とあつて、琴を彈ずる人が二人歌を歌うた人が十數人とある。けれども佛樣の前に歌つたのは、たゞこの時の景色を詠んだ歌だけです。もつともこの當時はこの佛樣の前で供養をする時に舞をも舞ひます。その舞に關した歌だとこれははつきりとは言はれぬが、舞に關した歌だらうと私の思ふ歌があります。それは同じく卷十六に「白鷺が木を啄ひて飛ぶを詠める歌」、かういふ標題の歌であります。それは三八三一番の歌です。その歌は
  池神の力士※[人偏+舞]かも白鷺の桙啄ひ持ちてとびわたるらむ
これは普通の人は今まではたゞさういふ舞があつたといつてゐますが、これは私は佛教關係の伎樂だと思ふ。伎樂(398)は「くれがく」とよんでゐますが、日本書紀にはこの「呉樂」といふ字を書いてある。推古天皇の時分に百濟の味摩之《みまし》といふ者が來てくれがくを傳へた。これが後世いふ奈良朝時代の伎樂であります。この伎樂の内の力士の舞かと思ふのです。伎樂の中に力士といふ曲がありますが、それだらうと思ふ。伎樂は曲は十あります。教訓抄といふ鎌倉時代の音樂の本がありますが、その教訓抄の上卷にこの伎樂が書いてありますが、その伎樂は一番初めは師子、その次は呉といふ字を書いた呉公、呉のきみ又は呉の翁(公には翁の意もある)です。その次に迦樓羅、梵語で所謂|金翅鳥《コンジテウ》であります。それから金剛、次が婆羅門、それから崑崙、次が力士、力士の次に大孤、醉胡の曲がありますが、この歌はその力士の曲をさすのだらうと思ふのです。即ちこれは伎樂の一つとしての力士、その力士の舞なのでせうと思ひます。池神といふのは寺か社かで、そこの力士舞が名高かつたのでせう。この力士は桙を持つて舞うたといふことの證據は、正倉院文書を見ますといふと、あちこちに出て來るのです。金剛力士の桙持といふものが桙を持つてゐる。その桙を執つて金剛や力士が舞うたのだらうと思ひますが、その力士が桙を持つて舞ふ姿が、鷺が巣を作るために木の枝なんかくはへて來ます、それに非常に似て居つたのだらうと思ひます。(岩波寫眞文庫「水邊の鳥」を示す)これは皆さんにお目にかけてもこんな小さなもので、しようがありませんけれども方々の本屋に澤山ありますから、もし見たいと思はれる方は、岩波の提灯もちみたいなものですけれども、岩波の寫眞文庫の「水邊の鳥」といふ冊子、ここのところ(二〇頁)に鷺が木をくはへて巣を作るために飛んで來て翼を左右にひろげてゐる寫眞があります、これがいかにも桙をくはへて舞うてゐる姿に見える。私はこれを見ました時に、池神の力士舞といふのはこれだなと思つたのです。力士といつても、金剛力士、かう同じで寺の門番をしてゐるあの仁王樣、俗にはあれを一方が金剛、一方が力士といふ。あゝいふやうに、さういふものがいろ/\所作をしたのでせ(399)う。それが力士舞。その力士が桙を持つて舞うたに相違ない證據は正倉院文書に金剛力士の桙特といふ者のことが書いてあります。それの有るところをお話しておきますから、學校へお歸りになつて志の有るお方はお調べを願ひます。大日本古文書の、東京大學が出した第五卷目に、天平寶字八年四月十一日の日附の古文書を御覽になりますと、金剛力士の桙持の着物が盗まれたといふ報告が出てゐる。だから桙を持つてた者が居つたに相違ないから金剛の舞又力士がとび出して來ると桙持がくつついて來る。そのうちその桙をとつて力士が舞ふ。その姿は或時或者はこんな鷺が木の枝をくはへてとび廻るやうな姿をしてゐたに相違ない。さうでなければ池上の力士舞かもといふことは意味をなさない。
 さういふ風にして考へてみますと、もう一つ問題がある。やはり十六の卷で三八五六番の歌ですが、
  婆羅門の作れる小田をはむ烏まなぶたはれてはたほこに居り
婆羅門といふものは御存知の通り印度の貴族です。この婆羅門の身分の僧侶が大佛の開眼の時に來まして導師を勤めたことは御存知の通り。たいていの學者はその婆羅門僧正にかこつけて、それについてこの歌を解釋してゐますが、どうしてもその歌はよくみるといふと、婆羅門を滑稽じみたものに取扱つてゐる。東大寺の開眼の大導師の婆羅門僧正であるやらないやらちよつとわからぬ。ところが今申しました伎樂のうちに、先刻申しましたが金剛が出て來て門を開く、さうすると婆羅門が出て來て、この婆羅門といふものの舞ひ方がかういふやうな大勢の皆さんの前では大聲で御話出來ない程猥褻なものです。それを喋つたら風俗紊亂でつかまらねばならぬからそれは教訓抄の記事を御覽願ふことにして今日は御免蒙る。とにかくさういふ風な婆羅門の舞があつたのです。で婆羅門といふのはどういふ風なものであつたかといひますと、これは正倉院に伎樂の面が二百ばかりあります。これは森鴎外さん(400)が博物館總長の時分に調べてくれとたのまれて、私が公開せられぬ前に正倉院のお倉に入つて隨分調べた。その時に婆羅門と書いてある面では一つしか無いが、似たものを同じと見れば婆羅門と思はれるものが三つになる。かういふものが舞臺に出て來て非常に猥褻な滑稽な否應なしに苦い顔しても笑はずには居られない舞をしたものなのです。それは現に面の裏に婆羅門と書いてありますから、これは婆羅門に相違ない。さういふ舞をする婆羅門といふものが居つたものだから、萬葉集の十六の卷のわらひ話の後の歌のところへこの婆羅門が出て來たのではないかと思ふ。ないかですよ。今日御話するのはみんな問題ばかり、結論は一つもありません。むしろこんなことをいひ出したのは私だけだから、結論を今やれとおつしやつてもちよつと一時間ぢや出さうにもありません。
 まづそんな風でありまして、萬葉集の中に佛教に關することがらはまじめなものはあまりない。それより力士だの婆羅門だのといふやうに滑稽化してある。
 なほ後世になりますと、これはあまり問題でもないのでありますが、蓮の花といふものは佛教では非常に珍重する。萬葉でも蓮の花がありますが、一つもそんな佛教じみた歌はない。もつとも著しいのは御存知の十六の卷の三八二六番の歌です。長忌寸意吉麻呂の歌で荷葉《はちすば》を詠める歌、これなんか面白い。
  蓮葉はかくこそあるもの意吉《おき》麻呂が家なるものはうもの葉にあらし
蓮の葉をみて詠んだ歌ですが、蓮の葉はなるほどかういふものですな、意吉麻呂の家の畑にあるのはあれはいもの葉でしたな、とかういふのです。なか/\面白い。蓮の葉を面白くいふのはこんな程度で、極樂へ行くの、蓮の葉の上に坐るの、そんなのは一つも出て來ない。
 どうも佛教が日本人の心にしみこんでゐたかどうかといふことになりますと、なか/\容易にその結論がいへな(401)いと思ふ。しかしながら佛教といふものが、全く日本の人心に入つてをらぬとは申すことが出來ませぬ。一番佛教の影響を受けてをりますのは、聖徳太子のいはれたといふ、聖徳太子が言つたかどうかわからぬが「世間|虚假《こけ》」といふことがある。世間はむなしいものであつて假のものである。といふこと、これは聖徳太子の天壽國曼陀羅にある言葉ですが、世間虚假、この世は假のものである、むなしいものであるといふことは、日本人には徹底してをつたやうであります。これを詠んだ歌は割に多い。萬葉の三の卷の一番有名な歌は三五一番の汐彌滿誓の歌、
  世のなかを何にたとへむあさびらき榜ぎ去にし船の跡なきが如
即ち世間虚假であります これは一一申し上げることは出來ませんから番號で申し上げておきます。卷三の三〇七、三〇八、三〇九と續いてゐるうちの三〇八が世間虚假を歌つて居ります。同じく卷三の四四二番の歌も世間虚假を歌つて居ります。卷六の一〇四五番の歌もさうであります。それから卷七の一二六九、同じく一二七〇、卷八の一四五〇、卷十一の二五八五、番十六の三七八八の前の詞書の中にある、娘子嘆息して曰はく云々「一女の身滅び易きこと露の如し」とある。これもやつぱり世間虚假。それから十六の卷に「世間の無常を厭ふ歌」といふのが二首あります。三八四九、三八五〇番。なほ十六の卷の三八五二番の旋頭歌、それから卷十三の挽歌の三三三二番、それから卷十二の、少し變りますが寄物陳思の二九九六の「花物」といふことば。卷十三の三二六五番にもこの思想が働いてゐる。それから卷九の一七八五の長歌の中に世間虚假の意味があります。卷四の五四一番、ここにもそれは虚假ではないが、のちの世に生れかはるといふやうな意味で、これも佛教思想がないとは申せません。以上の如くで佛教思想は全然ないといふことは申すことは出來ませんが、どうも著しいものがないのです。
 さて萬葉歌人のうち個人的に佛教關係の人を探し出して來ますと、山上憶良と大伴家持の二人が、佛教に對して(402)相當關心もあり理解もしてをつたやうであります。山上憶良の歌をよんでみますと、憶良自身が相當熱心な佛教信者であつたやうに思はれます。思はれますけれどもその人はそれと同時に佛教思想に溺れてしまつたやうなのは一つもない。結局佛教を知つてゐたといふ程度であつて、それだから後世の佛教信者のやうにどうしようといふ頭はまづない。大伴氏はどうか。大伴氏は相當に佛教と縁故がある。といふのは東大寺要録を讀んでみますと、東大寺の末寺に永隆寺といふ寺があつたのです。これが伴《とも》寺といふことになつてゐますが、伴寺といふのは大伴氏の寺で後に大伴氏が伴氏とあらためられたから伴寺といふのです。東大寺要録を見ますと、大伴安麿が建てた寺である。安麿の子が旅人、旅人の子が家持、だから大伴氏とこの永隆寺とは深い關係がある、それだから大伴氏にはとにかく邸の中にか何か寺があつたらしい。さういふことから考へてみますと、萬葉の卷三に新羅の國の尼の理願といふものが日本に歸化してゐる。さうして大伴氏の家に長いことゐて死んでゐる。その理願といふ尼の死んだ時をとむらつた歌が卷の三の大伴坂上郎女の歌として傳はつてゐます。これは四六〇番、四六一番の歌です。かういふわけで尼と關係がある。卷の八をみますとこれが連歌の源だといふ歌があります。尼が上の句をつくつて、大伴家持がその尼にあつらへられて末の句を續けて詠んだ歌、一六三五番、即ち
  佐保河の水をせきあげてうゑし田を
と尼が詠んで
  苅る早飯はひとりなるべし
と家持が續けた。かういふことなのです。大伴氏と尼とは旅人の時代にも家持の時代にも關係がある。どうもそれは尋常一樣の關係ではなくて、おそらく永隆寺といふ大伴氏のお寺にをつた尼ではないかと思ふのです。さうする(403)とおそらく永隆寺といふのは尼寺ではなかつたかと思ふのです。考へて見ると興福寺のもとは、あれは山科寺であります。この山科寺のもとは藤原鎌足が病氣をした時に、百濟の尼の法明といふ者が來て維摩經をよんで病氣をなほしてやつた。それが元になつて山科寺が出來、それが興福寺の源をなしてゐるのです。だからその時分の國家でお建てになつた寺には相當りつぱなお坊さんもゐたでせうが、めいめいの家の中につくつてゐる寺にはそんな偉いものはをらなくて尼さん位であつたかも知れない。鎌足の時は尼であり、それから興福寺が發展した。大伴氏の寺もはじめから尼寺だつたかも知れぬ。少くも大伴家と尼とは深い關係があつたのであらう。さうだとすればこの歌はさういふ尼の作らしいと思はれる。寺といふと坊さんが住むとは限らない。奈良朝にも尼寺として興つた法華寺はやつぱり今でも尼寺でせう。法隆寺のそばの中宮寺の住職は古來尼さんです。さういふ寺は澤山あります。さういふ風で大伴氏と佛教とは深い關係がありさうであります。さういふ風でありますが、さて、どれ位大伴氏が佛教を信じてゐたらうかとなると、これ又極めて微弱なものであります。卷五に大伴旅人に關した歌が澤山ありますが、そのうち凶問に報《こた》ふる歌が著しい。七九三番の歌であります。
  世の中はむなしきものと知る時しいよよますますかなしかりけり
世間虚假といふことは知つてゐます。この歌でいふと、又家持が病氣になつた時に悲しんで詠んだ歌の中にその心持がある。四四六八番、次の六九番。これは卷の二十。家持のこの世間無常或は世間虚假を詠んだ歌は卷の三にも相當あります(四六五、四六六、四七二)。卷十七にもある(三九六三)。卷の十九には有名な「世間の無常をかなしむ歌」(四一六〇「長歌」四一六一、四一六二「反歌二首」)、きういふやうに澤山ありますが、さてそれ程深く思ひ入つてゐるとも思へないのであります。どうも萬葉集關係の佛教といふもの、即ち佛教に關する萬葉の歌とい(404)ふものは、誠に低調なものである。佛教の方から萬葉集をみればさういふことになるのではないかと思ふのです。即ち當時の人は佛教に關してどれだけの知識をもつてゐたか。世の中は常なきが如しといふことは知つてゐた。世の中は所謂虚假である、假の世の中だといふことは知つてゐたが、さて後世の淨土宗、浮土眞宗のやうに、世の中はきたないところだ、これを早く離れてしまひたいといふやうなひたむきな思想は一つもないのです。又道を修めたいといふやうなことは家持の歌ではみられますが、(卷二十、病に臥して無常を悲み道を修めむと欲して作る歌二首「四四六八、四四六九」)本當に入道はしない。さうしてその頃に
  水《み》つぼなすかれる身ぞとは知れれどもなほしねがひつちとせの命を(四四七〇)
と云つて壽を願つてゐる。しからば佛教に關しての歌が奈良時代に全然ないのかといふと、萬葉集にはありませんが、御存知の通り藥師寺に佛足石があります。あの佛足石の讃歌(總計二十首)といふのは石に刻まれて今日に傳つてをる。さういふ歌がある。又東大寺の落成した後にそれを祝つた歌が三首ばかり東大寺要録に傳つてそります。だから當時の歌よみが佛教に關して歌を詠まなかつたといふことはこれは言へないと思ふ。けれども萬葉にそれらが傳つてゐない。それはいつたいどういふわけであるかといふことをいろいろ考慮してみる必要がある。とにかく萬葉の時代ははじめに申しましたやうに、咲く花の匂ふが如く榮えた御世の時代でありますが、それはそれとして、思想的に佛教が萬葉の歌にどれ程働きかけてゐるか、どれ程しみこんでゐるかといふことになると、どうも極めて微弱なのであります。これはどう考へたらよろしいか、一方からみれば佛教に關する一般の信仰が大體未熟でまだ熟してゐなかつただらうといふ想像がつきます。なほ佛教に關するところの信仰は、上層の人々にはひろくゆきわたつてゐたかも知れませんが、下の方には徹底してをらない。上層の人も佛教の信仰といふものと政治といふ(405)ものとが結びついてしまつてゐたらしいのであります。これは聖武天皇樣の勅でもわかるのでありますが、その時分の佛教は國家の隆盛、それを眼目にしたものであります。その證據には男の寺の方は金光明最勝王經を源に致しまして四天王護國之寺といふ。これは金光明最勝王經の中に四天王護國品といふのがあります。これは國を護るといふ爲のお經であるといふことになる。それから尼寺の方は法華滅罪之寺といふ。法華經によつて人間の罪をなくしてしまはうといふ。ところが人間の罪をなくすといふことは今日では甚だ深刻のやうに思へますが、その時分の考へは神道が大祓をするやうな考へをもつてゐたのぢやないかと思はれる。それでどうも人民に佛教といふものが日本人の精神をゆさぶるやうな力はまだもつてゐなかつたと考へます。御存知の通りその頃の佛教は南都六宗といふやうに六つの宗派がある。ところがその六つの宗派といふものは、今日いふ淨土宗とか淨土眞宗とか日蓮宗とか禅宗とかいふやうな性質の種類ぢやない。その區分はいはば學問上の種類でいはば學科なのです。哲學の種類別のやうなもの、今でいへば唯心論とか唯物論とかいふやうな理くつでいふ學問上の科別なのです。だから上層の人には學問が非常に行きわたつたのかも知れませんが、宗教的生命をまだ與へるだけの力がなかつたのかも知れない。さうだといふことはまだ私共にははつきりはいへませんが、或點からいふとこの頃の佛教は一面は學問であり一面は社交の機關のやうな點もあつたらう。ことに講會などいふものはまじめな學問的な問答もあつたらうが、その片面音樂や舞が伴つて面白く娯まれたものであつたやうだ。殊に先に申しました伎樂などは婆羅門が出て道化芝居のやうなことをやつてみたり、力士が出て來て桙を振り舞はして飛びまはつたりするやうなことを思つてみますと面白かつたんだらうと思ふ。それらが面白かつたらしいのは、今の我々の目にも想像せられぬこともない。もうぢきに十二月が近づいて來ますが今はどこのデパートでもクリスマスをやる。あんな風な點もあつたらう。クリスマス、(406)名古屋あたりでどんどん作りませうが、それではクリスマスの飾をする人がどれ位ヤソ教を信じてゐるかといふと、何も信じてゐない人がまづ九割九分でせうね。それなのにやつぱりクリスマスだと大騷ぎです。そんな風に奈良朝の佛教があつたんぢやないかとも思はれます。とにかく佛教がまだ/\一般人心に徹底してゐたとは思はれない。のみならず考ふべき點がもう一つある。
 これも疑問ですが、奈良朝の人は佛教をどういふ風に考へてゐたかといふことである。私の一つの想像を申し上げると、恐らくは佛教をば外國から來た神樣の教へだ位に考へてゐたのぢやないか。だから或意味からいふと神道の一派位に考へてゐたのぢやないかといふことです。その證據は今も傳はつて行はれて居ります奈良東大寺の二月堂の御水取、あれは佛教の行事でありますが、ここにちやうど私本をもつて來てゐますが、これを見るとまるで半分位神道です。鉢卷はしめ縄をはつてしめ縄で頭をゆはへたりして、さうして中臣の祓即ち大祓の詞をとなへてさうしてこの潔齋をする所は全く今の神道の神首の潔齋よりもはるかに嚴肅だといふことです。ちよつとでもけがれるともう除外せられます。さういふ所をみますと、まるで神道の行事をやつてゐるやうな風に思はれます。これが千二百年續いてゐる御水取なのです。さういふやうなことから想像してみますと、どうも奈良朝の佛教といふものはもう少し考へなほす必要があるのでありますが、それを萬葉をもとにしてみましたならば佛教の精神的方面は極めて微弱なものだといふことになります。御存知の通りあの大佛の像が出來上つてそして金めつきせられようといふのに金がない。ところが陸奥國今の宮城縣小田郡(今遠田郡といふ)から金が出たといふので大變お喜びになつて、所謂黄金の詔書といふ、續日本紀に勅が出てゐます。その中に大伴氏一族の者をお褒めになつたお言葉があるので、家持が非常に喜んでその詔書に應へて詠んだ歌(長歌及び反歌、四〇九四、四〇九五、四〇九六、四〇九七)(407)があるのは御存知の通りだ。あの詔書の中に大伴氏のことをおつしやつた中に「海ゆかば水漬くかばね山ゆかば草むすかばね」の言葉がある。それに對して家持がそのお言葉を中心にしてうたひましたのです。そこであの詔書の眼目といふものは毘盧舍那の佛像を造るのに金がないので困つてゐたが、天地の神々の考へによつて日本の國から金が出たのだといふので、ありがたい勅を下され、いろいろな人々に思惠を與へる勅を下されましたのですが、それに對して家持があの長い歌の中に何といつてゐるかといひますと、「よきことをはじめたまひて」といふ一言葉だけです。これが大佛樣をお造りになつたといふことです。本當に佛像に對して莫大な信仰をもつてをり、本當にありがたくて涙の出るやうだつたらば、「よきこと」位の簡易なことばですごすことは無かつたであらう。即ち世間虚假諸行無常といふことは思想として殆ど熟してゐたと見てもよいとは思はれるけれども、人生は苦なりといふ觀念は不徹底であり、輪廻轉生といふことは教へられて知つてゐたらしいが、それを徹底して信じてゐたとは思はれぬ。隨つて解脱の願も捨身の行も知られない。さればこの世を穢士なりとして淨土を欣《ねが》ひ求めるといふことも不徹底である。而して僧侶は俗人以上の俗權を執つてゐた。どうもこの頃の佛教は精神上からいふと大きな感化を一般の人心に徹底せしめてゐたもので無かつたのでは無いかなどと思ふ。さういふ風に精神的に大きな感化も一般には行きわたらぬ上に、僧侶が俗權を握つて一般の民衆に君臨したやうな姿であつたが爲に、一般人心は内心之をあきたらず思つてゐた。その爲に佛教謳歌の歌が無いのみならず、佛教に對して信頼の歌も無い。これには一般の民心が何か考へる所があつたのぢやないかと思ひます。大體佛教は佛法僧の三寶を國家以上のものとする。それを正直に言葉通りに守れば國家といふものは低級なものだといふことになる。さういふことのために國家意識が逆に盛になつたといふ、逆流といふやうなものもなきにしもあらずだらうと思ひます。つまり共産黨が盛な時分には逆に(408)國家意識が盛になつて來るといふやうなもので、いろいろ考へさせられる點が非常に多いのです。佛教の最盛期に佛教を殆ど問題にしない萬葉集が生じたといふことは深く考へさせられることである。
 今後萬葉集を本當に切り下げて考へてゆくときは、この方面の問題がどんなことが生ずるか知れませんが、大きな關心を學者にもたせるのではないだらうかといふことを、申しあげてみたかつたのでありますが、私は二時間位喋るつもりで參りまして、參つてから時間がないと聞きまして甚だとりとめもないことを申しまして申しわけありませんが、ただあの佛教史上最も隆盛だつたといふ時代に、お話し申しましたやうに佛教の影響の甚だ少いといふことを不思議に思つてゐるといふことだけ申し上げて失禮します。
     (昭和二十八年十月九日、於愛知縣商工館ホール講演、伊藤知惠子筆記)
 
萬葉集考叢 終
 
昭和三十年五月十五日 印刷
昭和三十年五月二十日 發行
不許複製  萬葉集考叢
             定價 金八百圓
      著作者 山田孝雄《やまだよしを》
         東京都千代田區神田錦町三ノ二〇
      發行者 【株式會社】寶文館
           代表者 高橋長夫
         東京都千代田區神田司町一ノ一六
      印刷者  下谷修久   
 
 
         2009年5月27日(水)午後2時55分、入力終了