萬葉集講義第1卷 1932.8.5   (入力者注、歌の番号は原本の漢数字を洋数字に置き換えた。)
 
(17)雜歌
 
〇雜歌 「クサグサノウタ」とよむ。その義は上の通説にいへり。
 
泊瀬朝倉宮御宇天皇代 大泊瀬稚武天皇
 
○ かかる書き方は本卷及び第二卷に通ぜり。日本靈異記序「輕島豐明宮御宇譽田〔二字右○〕天皇代」とあるは之に似たる例にしてここには天皇の御名をいはざるを異なりとす。
○泊瀬朝倉宮 「ハツセノアサクラノミヤ」とよむ。雄略天皇の座しし宮城なり。泊瀬はその土地の總名、朝倉宮の舊址は大和國磯城郡(舊式上郡)朝倉村にありて、その大字黒崎の東北、天(ノ)森をその皇居の一局部の址なりと傳ふ。
○御宇 「アメノシタヲサメタマヒシ」とよむべし。「御宇」は文心彫龍に「皇帝御宇」とありて、宇内を御し治むる義をあらはす。「宇」は類聚名義抄に「アメノシタ」と訓じ、「御」は同書に「ヲサム」と訓ぜり。日本靈異記にも「御」に「乎佐女多比之」、「宇」に「阿米乃之多」と注す。續日本紀卷二十に「掛【久毛】畏【岐】新城之大宮【爾】天下治給【比之】中都天皇」とあり。これらによりて上の如くよむべく思はる。僻案抄には「アメノシタシロシメス」とよみ、古義には「アメノシタシロシメシシ」とよめり。
○天皇 「スメラミコト」とよむべし。儀制令の義解に「至2于風俗所1v稱別不v依2文字1假如2皇御孫命及|須明樂美御徳《スメラミコト》1之類也」と見え、大平廣記に載せたる唐の國書(天平五年丹比廣成の彼地に行きし(18)時に我國に致せるもの)にも「日本國王|主明樂美御徳《スメラミコト》」と記せり。この國書は張九齡の作にして曲江集にも載せたり。
○大泊瀬稚武天皇 「オホハツセワカタケノスメラミコト」とよむ。この七字流布本大字にせれど、古寫本多くは小字とせり。よりてこれに從ふ。「大」字流布本「太」に作りたれど、古寫本に「大」字とせるを正しとす。この天皇は後に雄略天皇と申し奉る天皇にして、日本紀には「大泊瀬幼武天皇」と記し、姓氏録秦忌寸の條には本書と同じ字面を用ゐたり。「大泊瀬」と申し奉るは後の武烈天皇も長谷《ハツセ》之|列木《ナミキ》宮に在ししによりて、小泊瀬稚鷦鷯天皇」と申し奉るに對し申し奉りしものなるべし。さてこの頃には未だ漢名の御謚號なき時代なれば、これを以て、上の「泊瀬朝倉宮御宇天皇」の御名を注し明らめたるなり。
 
天皇御製歌
 
○御製歌 天皇の製作を御製といふ。すべて天皇に屬する事物に「御」字を冠すらことは御物、御馬、御衣、御食、御書等の例の如し。「御」字は蔡※[災の火が邑]が獨斷に、「漢天子凡所v進曰v御、御者進也」とある如く漢代より始まりて流例となれるなり。「御製」の字面は支那より傳れるならむ。後世「御製」の二字にて正ちに「御歌」の意とすれど、委しくはここの如く「御製歌」とかくべきなること、唐國史補に(貞觀五年初置2中和節1御製詩朝臣奉和」とある「御製詩」といふ字面を見てさとるべし。さてこは古事記雄略卷に「大御歌」とかけるによりて「オホミウタ」とよむべきなり。この御製歌は雄略天(19)皇の大御歌なること勿論なり。
 
1 籠毛與《コモヨ》、美籠母乳《ミコモチ》、布久思毛與《フグシモヨ》、美夫君志持《ミフグシモチ》、此岳爾《コノヲカニ》、菜採須兒《ナツマスコ》、家吉閑《イヘキカナ》、名告沙根《ナノラサネ》。虚見津《ソラミツ》、山跡乃國者《ヤマトノクニハ》、押奈戸手《オシナベテ》、吾許曾居《ワレコソヲレ》、師(告〔左・〕)名倍手《シキナベテ》、吾己曾座《ワレコソマセ》、我許曾〔左○〕者《ワレコソハ》、背齒告目《セトハノラメ》、家乎毛名雄母《イヘヲモナヲモ》。
 
○籠毛與 「コモヨ」とよむ。「籠」は和名類聚鈔に「和名古」と注す。日本紀卷二の本文に「無間籠」と書けるを一書には「無間竪間《マナシカタマ》」と書けるによりて、「カタマ」とよむべしと代匠記にいひ、それに從へる説も往々見ゆれど、古來の訓多くは「コモヨ」とよみ來れり。本集にても「籠」を「コ」とよみたるは本卷「二三」の歌に「射等籠荷四間乃《イラコガシマノ》」とあるにても知るべし。この故に改むるに及ばずと思はる。而して、これを「カタマ」とよむと「コ」とよむとによりて歌格の上に大なる差あり。「カタマ」とよめば、「カタマモヨ、ミカタマモチ」と五六の句となり「コ」とよめば、
 コモヨ、ミコモチ、フグシモヨ、ミフグシモチ、
となりて、上は三四の句、下は五六の句となる。而してこれを朗讀するに「コモヨ云々」の方頗る調高き心地す。かくの如きは蓋し、古歌の一格なりしなるべし。三四の句よりはじまる歌は古事記神武卷の「宇陀能《ウダノ》、多加紀爾《タカキニ》」といふあり。三三の句よりはじまる歌は古事記崇神卷の「古波夜《コハヤ》、美麻紀《ミマキ》、伊里毘古波夜《イリビコハヤ》」あり。本集卷十六「三八八五」の歌の「伊刀古《イトコ》、名兄之君《ナセノキミ》」も亦三音の句よ(20)りはじまれり。斯の如き旁例より推してなほ「コ」とよみてありぬべきものと思ふなり。「毛」と「與」とは共に助詞にして、「毛」はかく終につくる場合には咏歎の意をあらはし、「與」は呼びかくるに用ゐるなり。かくて「モヨ」相合して、或る語につきて間投の用法をなし、又は呼格の語につく。古事記上卷、須勢理比賣の歌に「婀波母與《アハモヨ》、賣邇斯阿禮婆《メニシアレバ》」とあり、日本紀顯宗卷の御製に「於岐毎慕與《オキメモヨ》、阿布彌能《アフミノ》於岐毎」とあるなど、似たる用例なり。
○美籠母乳 「ミコモチ」とよむ。「美」は次の「美夫君志」の「美」と同じくたたふる意の接頭辭なり。「母」は音を以てし、「乳」は訓を以てし、「持ち」といふ語をあらはせり。
○夫君志毛與 「フグシモヨ」とよむ。「フグシ」は和名類聚鈔の「※[金+讒の旁]」字の注に「賀奈布久之」とあり、又「犂鐵又土具也」といふ注あり。※[金+讒の旁]字は上の如く犂の先をさす義と「土具也」とある義との二義あるが「カナフグシ」といへるはその土具たるをさすと思はる。その意の場合と思しきは玉篇に「刺也※[斬/金]也」と注せるものと見ゆ。さて「カナフグシ」といへるを以て見れば、少くとも主要部は金屬にてつくり、土を刺す具と見えたり。さてここに「カナフグシ」といふものある以上は、金屬製ならぬ、ただの「フグシ」もあるべき筈なり。類聚名義抄には「※[手偏+倉]字に「フクシ」と注せり。この「※[手偏+倉]」字は「槍」の訛なるべきことは之と共に「ホコ」の訓あるにて知られたり。「槍」を玉篇に「木兩頭鋭也」と注したるは、その形質を説けるものといふべし。又伊呂波字類抄雜物部に「※[木+立]」字に「フクシ」と訓せり。※[木+立]字は漢籍にては往々「拉」字に通用したれど、本來は別種の字なるをここには「フグシ」にあてたるものなるべし。後世のものなれど、阿娑※[糸+賻の旁]抄なる安鎭法日記を見るに、その鎭所の壇の(21)八方に廻して
 十六ノ二尺許(ノ)木〔四字右○〕
を打ち立つとかける(康平五年七月十六日於賀陽院)と同じ趣の事柄を
 十六(ノ)フグシ二尺許(ヲ)以打立(ツ)
とかける文もあり。これを以て見ればここには二尺許の木の杭を「フグシ」といへるなり。又同じ日記に穴を掘る具として、
 鋤 鍬 金不久齒 鎚
とかけるあり、
 鋤 鍬 ※[金+讒の旁]
とかけるあり。「※[金+讒の旁]」は即ち、「金フグシ」なり。さてその康平三年鎭日記には
 午時ハカリニ八方鎭所(ヲ)定(テ)幕(ヲ)曳廻(シテ)カナフクシ〔五字傍線〕クワ〔二字傍線〕シテ穴ホル
とかけり。ここに「カナフグシ」の用法を知るべし。松岡玄達の「※[瞻の旁]々言」に「或田舍人のふくしと云るを聞しに木にて作りさきを尖らし地へさしこみ物を掘る棒の如き物なり」とあり。これ即ち槍字にあたるものにして、古の「フグシ」もまさにその如きものなりしなるべし。これ即ち菜をつむ子の土にさしてその根をきりほりとるに用ゐたる具と見えたり。
○美夫君志持 「ミフグシモチ」とよむ。「美」は「ミコモチ」の「ミ」におなじく、「持」もそれに對《ツヰ》して、「モチ」とよむべし。
(22)〇以上の如く、先づその物の名を呼び掲げ、次に再びこれを操りかへす形のいひ方はこれ古歌の一種の格なりしなり。その例は日本紀顯宗卷に「於岐毎慕與《オキメモヨ》、阿甫彌能於岐毎《アフミノオキメ》」同推古卷に「蘇餓豫《ソガヨ》、蘇我能古羅烏《ソガノコラヲ》」などあり。
○此岳爾 「コノヲカニ」とよむ。「岳」を「ヲカ」とよむは「丘」の義にして「丘」を「ヲカ」とよむは和名鈔に「土高曰v丘、和名乎加」とあるを見て知るべし。同鈔に「嶽」字に注して、「字亦作v岳、訓與v丘同未v詳」と見ゆれば、本邦に於いては古くより「丘」「岳」通用していづれも、「ヲカ」とよめることを知るべし。さて「岳」といふ漢字は、支那にては嶽の古文にして、※[ふたこぶ/山]の形なるを今の形にせるものなるが、上の※[ふたこぶ] は象形にして丘陵の丘とは本源異なるものなり。されば、本來の「岳」字は、丘」と異にして、「タケ」とよむべきものなり。然るにここの「岳」は「タケ」とよみては當らず、なほ「ヲカ」とよむべきなるが、かく「岳」字を「ヲカ」の意に用ゐたるは日本紀神武卷にも例あり。即ちかの八十梟師を討ちたまひし處をば、一方にては「國見岳」と書き、一方には「國見丘」とも書けるなり。されば同じ「岳」字ながら「タケ」とよむ方は木來の漢字「嶽」の古字にして、「ヲカ」よむ方は「丘」字に「山」字を加へて新に作れる一種の字なるべしといふ木村正辭の説は從ふべきに似たり。さてここに宣へる丘は何處なりしかは今より知られず。
○菜採須兒 舊訓「ナツムスコ」とよみたれど、玉の小琴に「ナツマスコ」とよめるを正しとす。この「採」字を近頃の注釋本には多く「摘」字に改めたれど、しか書ける本は古來一もあることなし。然るに、漫に之を改めて、一言の辯もなきは古典を取扱ふ態度としては不謹慎の譏を免れずとい(23)ふべし。「採」字は玉篇に「採(ハ)摘(ナリ)」と注す。この「採」字は本字「采」にして後世手扁を加へしものなり。「「采」は爪木の會意の字にして説文に「※[埒の土が手偏](【音ラツ訓ツム】)取也」と注すれば「ツム」を本義とす。然るに、「采」字が風采などの義に轉ぜし爲に別に「採」字の體をつくりて「采」の原義をあらはせるなり。されば、「採」に「ツム」の訓あるは當然の事なりとす。卷十「一九九三」の歌に「紅乃末採花《クレナヰノスヱツムハナ》」と見ゆるものこれなり。「ツマス」は「つむ」の敬語にして「つむ」の未然形より古代の敬意の複語尾サ行四段に活用せしものにうつりたるものなり。本集卷十七「三九六九」の歌に「乎登賣良我春菜都麻須等《ヲトメラガワカナツマスト》といへるはまさしくここの詞の例なり。而してここにては敬語なるは勿論なれど、親しみをあらはす意に用ゐられたりと見ゆ。「兒」とは女にまれ、男にまれ、親しみ愛していふに用ゐる語なり。かくの如き詞遣の例は卷七「一二七五」の歌に「小田刈爲子《ヲダヲカラスコ》」卷十「二一五六」の歌に「山田守酢兒《ヤマダモラスコ》」などあり。
○家吉閑 舊訓はこの下の「名」の字までを一句として「イヘキカナ」とよみたり。代匠記精撰本には「イヘキケ」とよみ、僻案抄には「イヘキカン」とよみたれど、いづれも、確たる據を示さず。考には「吉閑」の二字を「告閇」の誤とし「ノラヘ」とよむべしといひ、古義は「告勢」の誤にして「ノラセ」とよむべしといひたれど、古來誤字なき所なれば、從ひ難し。古訓は下の「名」をこの句の中として「キカナ」とよみ來りしを木村正辭は「名」は下句につくべき語なりとしこの二字にて「キカナ」とよむべしといへり。その故は「閑」は山韻即ち韻鏡第二十一轉山攝の字にして音kanなれば、國音として取扱ふ時nがアの母韻をとりて「カナ」と轉ぜるなりといふにあり。そは「信濃」の「シナ〔右○〕ノ」「因幡〔右○〕」の「イナ〔右○〕ハ」「引〔右○〕佐」の「イナ〔右○〕サ」(遠江國、郡名)「男信〔右○〕」の「ナマシナ〔右○〕」(上野國利根郡郷名)などみなこの例なりとい(24)ふにあり。從ふべし。さて「キカナ」の「ナ」は動詞の未然形を受けて希望をあらはす助詞にして、これには自らの希望をあらはすあり、他に誂ふるあり。自らの希望をあらはすものには卷五「八九九」の歌の「出波之利《イデハシリ》、伊奈奈等思騰《イナナトオモヘド」の如き例あり。他に誂ふる意のものには卷十七「三九三〇」の歌「米具美多麻波奈《メグミタマハナ》」佛足石歌に「和多志多麻波奈《ワタシタマハナ》、須久比多麻波奈《スクヒタマハナ》」などの例あり。ここは自らの希望をのべたまへるなり。
○名告沙根 舊訓には「名」を上の句につけたれば「告沙根」を「ツケサネ」とよみて一句とせり。されど語をなさず。代匠記精撰本に「ナノラサネ」とよめるをよしとす。名をつぐるをば古來「のる」といひ來れり。卷五「八〇〇」の歌に「奈何名能良佐禰《ナガナノラサネ》」卷十四「三三七四」の歌に「乃良奴伎美我名《ノラヌキミガナ》」とあるが如きその例なり。「のらす」は「のる」の敬語にしてその未然形よりサ行四段の活用をなす複語尾につづけしこと「つむ」の「つます」におなじ。かくてその「のらす」の未然形より「ね」といふ助詞につづけたるなり。この「ね」は他に對して懇に誂ふる意の助詞にして、今の如き用例は本卷「一一」の歌に「草乎苅核《クサヲカラサネ」卷十四「三三八八」の歌に「爲禰※[氏/一]夜良佐禰《イネテヤラサネ》」古事記仁徳卷の歌に「佐邪岐登良佐泥《サザキトラサネ》」同允恭卷の歌に「和賀那斗波佐泥《ワガナトハハサネ》等あり。
○以上は菜を採める女に對してのたまへるものにして一段落をなせり。
○虚見津 舊訓「ソラミツ」とあり。古寫本中に往々「ソラニミツ」とよめるもあり。されど、古事記仁徳卷の御製に「蘇良美郡《ソラミツ》、夜麻登能久邇爾《ヤマトノクニニ》」同雄略卷の御製にも「蘇良美都《ソラミツ》、夜麻登能久爾袁《ヤマトノクニヲ》」とあり。「ヤマト」の枕詞とせり。かくいふ起源は日本紀神武卷に「及至d饒速日命乘2天磐船1、而翔2行太(25)虚1也睨2是郷1而降u之、故因目之曰2虚空見日本國1矣」とあるによるといへり。按ずるにこれは所謂通俗語源説にして必ずしも據とすべからず。この他に種々の説あるやうなれど、未だ首肯すべきものを見ず。
○山跡乃國者 「ヤマトノクニハ」とよむ。「跡」は「アト」なる訓を略して「ト」の假名とせるなり。「ソラミツヤマト」といへるは、本集にも例多けれど、上に古事記の例をあげたれば、略せり。この「ヤマトノクニ」は今の大和國をさせり。ひろく日本國をさすといふ説もあれど、ここは目の前に見ゆる土地につきていはれしものなるべく思はるればなほ大和國なるべし。
○押奈戸手 「オシナベテ」とよむ。「押し」は力の強くあらはるる意をあらはす動詞なり。「ナベ」は下二段活用の動詞にして「なびく」に對して「なびかす」意をあらはす。本卷「四五」の歌の「旗須爲寸《ハタススキ》、四能乎押靡《シノヲオシナベ》」卷六「九四〇」の歌の「淺茅押靡《アサヂオシナベ》」卷八「一五七七」の歌の「秋野之《アキノヌノ》、草花我末乎《ヲバナガウレヲ》、押靡《オシナベ》而」とある「押靡」いづれも「オシナベ」とよめるはこの意なり。この語の假名書の例はこの歌に「師吉名倍手《シキナベテ》」卷十七「四〇一六」の歌の「須須吉於之奈倍《ススキオシナベ》」とあるなどなり。
〇吾許曾居 舊訓下の「師」をもこの句につけて、「ワレコソヲラシ」とよみたり。されど「ヲラシ」といふ語あるべくもあらず。玉の小琴には、この四字を一句として「ワレコソヲレ」とよむべしといへり。「居」は「ヲリ」なるが、上の「許曾」に對する結として已然形の「ヲレ」を以てよむべきなり。
○師告名倍手 舊訓「師」を上の句につけたれば、「告名倍手」の四字一句とせり。而してこれを「ツゲナヘテ」とよみ考に「ノリナベテ」とよみたれど、いづれも意をなさず。玉の小琴にはこの五字を(26)一句とし、「告」は「吉」の誤なるべしといひて「シキナベテ」とよむべしといへり。されど諸本一もここに誤字ありといふ證を示さず。又「告」は「吉」なるを増畫せるなりといふ木村正辭の説あり。この誤字説増畫説共に容易に從ふべきものにあらねど、他に訓み方も見出でざれば、姑く誤字説に從ひおく。「シキ」は一面に及び至る意にして、廣く行はれ洽く行き亘る意をあらはす。「ナベテ」は上にいへり。
〇吾己曾座 舊訓「ワレコソヲラシ」とよみたれど語をなさざること上にいへるにおなじ。本居宣長が「ワレコソマセ」とよめるをよしとす。座は「ます」にして「こそ」に對しての結として已然形の「ませ」によむなり。「ます」は敬語なるを天皇御自らに用ゐられたる例は此天皇の御製を日本紀に載せたるに「飫〓枳瀰簸《オホキミハ》、賦《ソ》(賊)據鳴枳※[舟+可]斯題《コヲキカシテ》、※[手偏+施の旁]磨磨枳能《タママキノ》、阿娯羅※[人偏+爾]陀陀伺《アグラニタタシ》、施都魔枳能《シツマキノ》、阿娯羅※[人偏+爾]陀陀伺《アグラニタタシ》、斯斯魔都登《シシマツト》、倭我伊磨西婆《ワガイマセバ》、佐謂麻都登《サヰマツト》、倭我陀陀西婆《ワカタタセバ》」とあるにても見るべく、又古事記中卷なる應神天皇の御製に「志那陀由布《シナタユフ》、佐佐那美遲袁《シナタユフササナミチヲ》、須久須久登《スクスクト》、和賀伊麻勢婆夜《スクスクトワガイマセバヤ》」とあるが如きこれなり。これ親愛の意のこもれる御詞にして今人の親、兄、姉などが、子弟に對して自ら敬稱を用ゐると一脈の生氣相通ふものあり。
〇我許(曾)者 金澤文庫本には「許」の下に「曾」あり。これをよしとす。「ワレコソハ」とよむべし。
○背齒告目 舊訓「セナニハツケメ」とよみたれど義通らず。されば、種々の訓考へられたるが、考には「セトシノラメ」といふ荷田春滿の按を載せ、なほ又「背」の下に「登」の脱したるものとして、「セトハノラメ」といふ按をも示せり。玉の小琴はこのままにて「セトハノラメ」とよむべしといひ、古(27)義は「背」の下に「跡」脱せりとして「セトハノラメ」とよみ、美夫君志は「背」の下に「止」のありしが、下なる「齒」字の上畫と同じきが爲に誤り脱せりとして、同じく「セトハノラメ」とよめり。この句には「目」を類聚古集に「自」とせる外に誤字なし。されどこのままにては通じ難きにより、姑く美夫君志の説に從ふ。「背」は「セ」の假名に用ゐしにて女より男をさすに用ゐるなり。日本紀仁賢卷の注に「古者不v言2兄弟長幼1女以v男稱v兄、男以v女稱v妹」とあり。「ノラメ」とよむは上の句の「コソ」に對して已然形にて結べるなり。さてここは天皇がその少女に對して「告らむ」と宣ふ義にとるなり。
○家乎毛名雄母 「イヘヲモナヲモ」とよむ。これは上段に少女の家と名とを問はせたまへるに對して天皇の御親ら家をも名をものらめと宣へるなり。されば、その意は我こそは汝の夫として家をも名をものらめとなす。これ人の名を問ふには先づ自ら名のるを禮とすること古今に通じたることなればなり。
〇一首の大意 この御製前後二段落にして、第一段は先づ天皇の菜を採める少女に問ひたまへることをうたひ、第二段は之に應じて自ら告げたまへるをうたはれたり。歌調高くして英邁の君にましまししをしのび奉るに餘りあると共に、古皇室と人民との間に隔てなく、和氣にみてりしことをも伺ひ奉らるるなり。
 
高市崗本宮御宇天皇代 息長足日廣額天皇
 
○高市崗本宮 「タケチノヲカモトノミヤ」とよむ。舒明天皇の皇居なり。高市はその土地の總(28)〔名?、一字脱、入力者〕にして、崗本宮の舊址は傳へていふ大和國高市郡高市村大字岡にありて俗稱岡寺(龍蓋寺)所在の地これなりと。近來喜田貞吉氏の説には高市郡飛鳥村字雷の東なりといへり。その是非を知らず。「崗」字は、「ヲカ」と訓す「岡」の別體なり。「岡」は元來「网」「山」の二字にてなれる文字なるを更に「山」を加へて「崗」とせるものにして、この字は既に玉篇に見えたり。
○息長足日廣額天皇 「オキナガタラシヒヒロヌカノスメラミコト」とよむ。この御名日本紀に見ゆ。後に舒明天皇と申し奉る天皇なり。これも上の「高市崗本宮御宇天皇」の御名を注記したるなれば、小字にせる古寫本をよしとす。
 
天皇登2香具山1望國之時御製歌
 
○天皇 舒明天皇を申すこといふまでもなし。
○登香具山 「カグヤマニノボリマシテ」とよむべし。香具山は日本紀神武卷に「香山此云2介遇夜摩《カグヤマ》1」とあると同じ山なり。大和國磯城郡(元は十市郡)池尻村の附近にあり。
○望國之時 本歌によりて「クニミシタマフトキ」とよむべし。國見とは山などに登りて國状を見、民の貧富などを察したまふをいふなり。神武天皇の腋上の※[口+兼]間丘に國見し給ひしことをば日本紀には「廻2望國〔二字右○〕状1」と書き、又古事記雄略卷には「爾登2山上1望2國〔二字右○〕内1者」と書ける文あり。諸國に國見山、國見嶽と名づけてあるも國見に便なる山なれば、名づけたるなり。
 
(29)2 山常庭《ヤマトニハ》、村山有等《ムラヤマアレド》、取與呂布《トリヨロフ》、天乃香具山《アメノカグヤマ》、騰立《ノボリタチ》、國見乎爲者《クニミヲスレバ》、國原波《クニバラハ》、煙立龍〔左○〕《ケブリタチタツ》、海原波《ウナバラハ》、加萬目立多都《カマメタチタツ》。怜※[立心偏+可]〔二字左・〕國曾《ウマシクニゾ》、蜻蛉島《アキツシマ》、八間跡能國者《ヤマトノクニハ》。
 
○山常庭 「ヤマトニハ」とよむ。「常」は「トコ」の訓の上をとりて「ト」の假名に用ゐたるものにして、本卷天武天皇の御製「二七」にも「好常言師《ヨシトイヒシ》」とかけり。かくて「山常」は大和國の宛字なり。「庭」はその訓を假りて助詞「ニハ」に宛てたるなり。次の歌に「朝庭〔二字右○〕」「夕庭〔二字右○〕」と書き、卷二の「一六〇」の歌に「福路庭入澄不言八面《フクロニハイルトイハズヤモ》」とあるも同じ趣の用ゐざまなり。
〇村山有等 「ムラヤマアレド」とよむ。村山は群かれる山々をいふ。「村」は「ムラ」(群)の語をあらはすに借りたる字にして卷六「一〇四七」の長歌に「村鳥」とかけると同じ趣なり。さてこの「ムラ」は本來「ムレ」(群)、といふ語なるが、かく下に語ありてそれと熟合する時にその「レ」音がア韻に轉じて「ラ」となるものにして、「スゲ〔右○〕ハラ」の「スガ〔右○〕ハラ」、「タケ〔右○〕ムラ」の「タカ〔右○〕ムラ」「ァメ〔右○〕ヤドリ」の「アマ〔右○〕ヤドリ」「サケ〔右○〕ツキ」の「サカ〔右○〕ヅキ」となるが如く古今に亙りて行はるる一種の音現象なりとす。
○取與呂布 「トリヨロフ」とよむ。「トリ」は作用をいふ語に冠してその意を強むる用に供す。「ヨロフ」は具足する意にして物の足りそなはれるをいふ古語なり。甲冑を「よろひ」といふも完備せるものの具の意にしてそれを體言にいひなせるなり。これは香具山の状の、山としての條件の圓滿に足り備はれるをほめてのたまへるなり。
○天乃香具山 古事記中卷の倭建命の歌に「比佐迦多能《ヒサカタノ》、阿米能迦具夜麻《アメノカグヤマ》」とあるによりて「アメノ(30)カグヤマ」とよむべし。延喜式神名帳に大和國十市郡に「天香山坐櫛(ノ)眞(知)命神社」とあり。一般的にいへば、「天ノ」といふ語を冠するは神聖なるものとの義をあらはしたるものと認めらるるなり。されど釋日本紀卷七に引ける伊豫國風土記に「倭在天加具山自v天天降時、二分、而以2片端1天2降於倭國1以2片端1天2降於此土1因謂2天山《アマヤマ》1也」とあるによれば、天より降れるものと信ぜられし故に「天ノ」といへりしなるべし。さてこの下に「ニ」助詞を加へて解すべし。
○騰立 「ノボリタチ」とよむ。日本紀繼體卷の歌に「美母廬我紆倍※[人偏+爾]《ミモロガウヘニ》、能朋梨陀致倭我彌細磨《ノボリタチワガミセバ》」とあるその例なり。山にのぼりてその上に立ちてといふ義なり。
○國見乎爲者 「クニミヲスレバ」とよむ。國見の事は上にいへり。本卷の「三八」の歌に「高殿乎高知座而上立國見乎爲波《タカドノヲタカシリマシテノホリタチクニミヲスレバ》」卷三の「登2筑波山1丹比眞人國人歌」(三八二)に「國見爲筑羽乃山矣《クニミスルツクハノヤマヲ》」又卷十の歌「一九七一」に「國見毛將爲乎《クニミモセムヲ》」など例多し。
〇國原 「クニバラ」とよむ。國とは一定の地域をさす語なれど、ここは次の海原と對句に用ゐられたれば、ただ土地といふ意にすぎざるべし。原は平に廣き所をいふ。天(ノ)原|海原《ウナバラ》などいふが如し。ここの國原とは今|國中《クニナカ》といふ大和平原をさしたまへるならむ。本卷下の歌「一四」に「伊奈美國波良《イナミクニハラ》」とあるもこの語に似たる例なり。
○煙立龍 流布本に「龍」を「籠」に作れども、訓は「タツ」とあり。而して古寫本の大部分「龍」とかければ、誤なること著しく、訓は古來の如く「ケブリタチタツ」とよむべし。考には「籠」を正しと見て「タチコメ」とあれど、古本になき所なれば從ひがたし。これは蓋し、活字の誤植に基づくものならむ。(31)「煙」は和名抄に「介布利」と注し、新撰字鏡に「※[火+需]」に「介夫利」の注あるによりて「ケブリ」といふが古語なりと知るべし。さてここの「煙」は所謂炊煙なるべくして、古事記仁徳卷に「於是天皇登2高山1見2四方之國1詔之、於2國中1烟不v發國皆貧窮云々後見2國中1於v國滿v烟」とある烟に同じかるべし。さてここに「タチタツ」とあるは、下なる「カマメタチタツ」と同じ趣の語法を以て對句をなしたるものなるが、その「タチタツ」といふ語は彼處にも此處にも烟の立つ意をあらはさむが爲に、同じ語を重ねいはれたり。これ蓋し、國富み賑へる由を宣へるならむ。
○海原 「ウナバラ」とよむ。卷五「八七四」の歌に「宇奈波良能《ウナバラノ》、意吉由久布禰遠《オキユクフネヲ》」卷十五「三六四八」の歌に「宇奈波良能於伎敞爾《ウナバラノオキヘニ》」卷二十「四三三五」の歌に「宇奈波良乃宇倍爾《ウナバラノウヘニ》」の假名書の例あり。「ウナバラ」は海《ウミ》ナ原」の義にして「ナ」は「ノ」と同じ意と用とをなす古き助詞にして、「ウミ」の「ミ」は省かれたるものならむ。原の義は上の國原におなじ。さてこの海原とは何處ぞと考ふるに、香山にてよませたまへるなれば、大和國内にして、しかも目前に見てよませたまへるものなれば、蓋し、埴安池をさして宜へるならむ。埴安池は香山の北麓にありし池にして、古は大なる池なりし由なるが今はあせてなくなりたれど、なほ池尻村又池内などいふ地名殘れりといふ。卷二「二〇一」の歌に埴安乃《ハニヤスノ》、池之堤之《イケノツツミノ》、隱沼乃《コモリヌノ》」などよめるにて、古、池の存せしを知るべし。然らば、この池を海原といはれたるは如何にといふに、今は「ウミ」といへば、專ら鹽水の海をいへど、古は湖沼にても「ウミ」といへるなり。琵琶湖を「淡海《アハウミ》」(淡水の海の義)といひ、濱名湖を「遠つ淡海」といへりしなど、皆この例によれり。卷三に柿本人麿が獵路池をよめる歌「二四一」に「皇者神爾之座者眞木之立荒(32)山中爾海成可聞《オホキミハカミニシマセバマキノタツアラヤマナカニウミヲナスカモ》」とよみ、又同卷なる不盡山を詠める歌「三一九」に「石花海跡名付而有毛彼山之堤有海曾《セノウミトナヅケテアルモソノヤマノツツメルウミゾ》とあり。この「石花海」といふは富士山の北麓に有りし湖にて、後世噴火によりて埋められ、小くなれるが、今|西湖《セイコ》といへるものその名殘なるべしといへり。「ウミ」とは「大水」の義なるべく、古く「オホ」を「ウフ」といひしこと琉球語の如くなりしなるべく、「ミツ」を古くは、「ミ」とのみいへるは「ミ〔右○〕ナワ(水沫)「ミ〔右○〕ナモト」(源)「ミ〔右○〕カサ」(水量)などの例にて明かなるべし。
○加萬目立多都 字のままならば、「カマメタチタツ」とよむべし。さて「カマメ」とは何か、詳ならねど、鴎をいへりといふ説多し。されど確證はなきなり。卷三なる鴨君足人の香具山の歌「二五七」に「松風爾池浪立而櫻花木晩茂爾《マツカゼニイケナミタチテサクラバナコノクレシゲニ》、奧邊波鴨妻妻喚邊津方爾《オキヘニハカモメツマヨビヘツヘニ》、味村左和伎《アヂムラサワギ》」とあれば、古、埴安池に「かもめ」の來り遊びしことはありしならむ。よりて今姑く「かもめ」を古「カマメ」ともいひしならむと推定す。但し、なほ後賢の研究を俟つ。「タチタツ」はその鴎などの多く群れ居るさまをいはれしなり。
○ ここまでにて一段落をなせり。その末の部分に、「國原は」「海原は」と兩々對句をなして、その景色の賑はしく、愉快なる心地をあらはされたる所、快き感を與ふるを注意すべし。
○怜※[立心偏+可]國曾 「怜※[立心偏+可]」は古來「オモシロキ」とよめり。然るにこの「※[立心偏+可]」字は字書に所見なし。これにつきて萬葉考に、ウマシクニゾ」とよむべしといへり。その説の要をいはむに、神代紀に「可怜小汀」に注して「可怜此云2于麻師《ウマシ》1」とあるにより、その「可怜」の「可」を下の「怜」字に准へて扁を加へて「※[立心偏+可]」としたるを書寫の際顛倒せしものなるべしといふなり。「可怜」の文字は此外日本紀に「可怜御《ウマシミチ》」と(33)もあり。こは「可憐」と同音同義の文字にして享和本新撰字鏡の「※[言+慈]」の注に「※[立心偏+可]怜也」と見ゆ。さてこの「※[立心偏+可]怜」を書けるは本集の所々に見ゆるものなるが、卷三「四一五」にある「此旅人※[立心偏+可]怜《コノタビトアハレ》」卷四「七六一」にある「吾兒羽裳※[立心偏+可]怜《ワガコハモアハレ》」卷七「一四〇九」にある「秋山黄葉※[立心偏+可]怜浦觸而《アキヤマノモミヂアハレトウラブレテ》」及び「一四一七」の「※[立心偏+可]怜其水手《アハレソノカコ》」卷九「一七五六」にある「※[立心偏+可]怜其烏《アハレソノトリ》」などの「※[立心偏+可]怜」などは「アハレ」とよむを適切なりとす。又卷四「七四六」にある「如是※[立心偏+可]怜縫流嚢者《カクオモシロクヌヘルフクロハ》」の「※[立心偏+可]怜」は「オモシロク」とよみ來れるをよしとすべく、又卷七「一〇八一」にある「夜渡月乎※[立心偏+可]怜吾居袖爾《ヨワタルツキヲオモシロミワガヲルソデニ》」の「※[立心偏+可]怜」は古義の如く「オモシロミ」とよみて然るべく見ゆ。さて「可怜」をば「※[立心偏+可]怜」と書くが如きは所謂連字増畫にして漢文中に往々見る事なり。たとへば、鳳皇を鳳凰とかき、彌猴を※[獣偏+彌]猴とかき、納釆を納綵とかき、※[休+鳥]留を※[休+鳥]※[留+鳥]とかくが如きその例なり。この「※[立心偏+可]怜」の字面は本集のみかといふに然らず。日本紀仁賢卷に「弱草吾夫※[立心偏+可]怜《ワカクサノワガツマアハレ》」と書き漢籍にては遊仙窟に「※[立心偏+可]怜《ウツクシケナル》嬌《トコヒノ》裏(ノ)面」とあるなどを見て、支那にて既に用ゐ來りしものなるを知るべきなり。今これらの例を見れば、「怜※[立心偏+可]」は「※[立心偏+可]怜」の顛倒なりといふ説然るべく思はる。さてここは「オモシロキクニゾ」とよみても誤れりといふべからず。又語學上よりいへば、必ず「ウマシクニゾ」とよまずばあるべからずといふ程の事も見えず。要するに歌の調によりて決すべきことと考へらるるが、然るときは「ウマシクニゾ」とよむ方まされる心地す。「ウマシクニ」といふ例は日本紀垂仁卷に「神風伊勢國《カムカゼノイセノクニハ》則|常世之浪重浪歸《トコヨノナミノシキナミヨスル》國也。傍《カタ》國(ノ)可怜《ウマシ》國也」とある「可怜國」を「ウマシクニ」とよみ來れるあり。「ウマシ」は賞美する意の形容詞なれば、「可怜」の字義にあたることはいふをまたず。さてその終止形より直ちに名詞につづけて「うましをばま」「うましみち」「うましくに」など(34)いへるは古語の一格にして後世の語の「あとなしごと」「目なしどり」「よしなしごと」「友なし千鳥」又古語にて「いかし穗」「いかしほこ」「よしきらひもの」などいへるも同じ格にして、かの「堅磐」を「カタシハ」とよむも「堅し岩」の約まれる語にして同じ格にて成れる語なるべし。この「うまし」を「うましき」と活用する形容詞の語幹なりとする説もあれど、上の例に照して考ふるになほ一種の語格にして形容詞の終止形より名詞につづけて熟語をなせるものとすべし。「ゾ」はそれと指定する意の助詞にして、上に體言を受けてそれを述格に立たしむる力あるものなるが、ここにてはこれを述格として次なる語を主格として説明せるものが、反轉法によれるものなりとす。
○蜻島 「アキツシマ」とよむ。「蜻」は普通「蜻蛉」と書く。新撰字鏡に「※[虫+羽]」に「阿支豆」と注す。今「トンボウ」とよぶ蟲なり。これは秋に至りて盛に出づるものなれば、「秋つ蟲」の義なるべきが蟲の名と固定せる後に「ムシ」といふ語を省きてもその物と知らるるに至りしならむ。今はその「アキツ」といふ語をかりて「アキツシマ」といふ文字に用ゐたるものとも考へらるれどもなほ日本紀神武卷に「皇輿巡幸、因登2腋上※[口+兼]間丘1而廻2望國状1曰妍哉乎國之獲矣、雖2内木綿之眞※[しんにょう+乍]國1猶如2蜻蛉之臀※[口+占]1焉、由v是始有2秋津洲之號1」とある傳説によりてこの文字を用ゐたるものなるべし。「あきつしま」といふは本邦の古名なること論なけれど、これを蜻蛉のとなめせる形より起れりとするは蓋し、一種の通俗語源説に過ぎざるべし。惟ふにこは古く「大倭豐秋津島」(古事記)「大日本豐秋津洲」(日本紀)といへるが本名にして「豐秋つ」の意は農事の収穫の豐なるをいひたるにて瑞穗國といふと語異にして義同じきものなるべし。
(35)〇八間跡能國者 「ヤマトノクニハ」とよむべし。「アキツシマヤマ」とつづくる例は日本紀仁徳卷の御歌に「阿耆豆辭莽《アキツシマ》、椰莽等能區珥《ヤマトノクニ》」とみえ、雄略卷の御歌にも「婀妓豆斯麻耶麻登《アキツシマヤマト》」など見え、本集には卷十三、卷十九、卷二十などに例多し。さてこれより上の「うましくにぞ」にかへりて一文をなせり。
○ これにて一段落なり。この歌末を五七七といふ形にせずして五七にて終りとせり。これ亦古の一種の歌格にして脱落あるにあらず。かくの如きは本卷の次の歌の末の「梓能弓之《アヅサノユミノ》、奈加弭之《ナカハズノ》、音爲奈里《オトスナリ》」、中大兄の三山歌の末を「虚蝉毛《ウツセミモ》、嬬乎《ツマヲ》、相格良思吉《アラソフラシキ》」といへるなどと似て後世の歌に比べては頗る自由なりしを見るべし。
〇 一首の意明かにして、古帝王の民の疾苦を察し給はむとて國見したまひしさま、及び人民足り悦び、禽獣蕃足するさま、まのあたり見るが如し。歌の格は簡古にして遒勁、一の冗句なく、平々坦々の言を用ゐて敍して、しかも莊重なり。
 
天皇遊2獵内野1之時中皇命使2間人連老獻1歌
 
○天皇 舒明天皇をさし奉れることいふまでもなし。
○遊獵 「カリシタマフ」とよむべし。「遊獵」の字は史記呂后本紀などに見え、日本紀崇峻卷にも見えたり。
○内野 「ウチノヌ」とよむべし。「ウチ」は地名にして大和國宇智郡なり。その郡中にある野なれ(36)ば「ウチの野」といふべきなり。反歌に「内乃大野」とあるもこの地なり。その地は吉野川の南今坂合部村大字大野といへる地のあたりなるべしといふ。この地、古狩獵に適せし爲、御料地たりしものならむ。續日本紀慶雲三年二月丁酉「車駕幸2内野1」と見ゆるも蓋し同じ處なるべきか。但しこの天皇の此の野に行幸ありし事史に見えず。
○中皇命 舊訓「ナカノウシノミコト」とよみたれど、義をなさず。これによりて代匠記には「ナカノスヘラキミコト」かといひたれど、「スヘラキミコト」といふも語をなさず。考には「皇」の下に「女」字を脱せりとして、「ナカツヒメミコ」とよみ、古義は「命」は「女」の誤にして、舒明天皇の皇女にして後に孝徳天皇の皇后たる間人皇后ならむといひたれど「中皇命」とかけるは、この下にも見え、そこもここも目録本文共に一致し、しかも諸本皆同じければ、誤字説はうけられず。そのよみ方も亦何人をさし奉れるかも未だ詳かならず。近來喜田貞吉氏の「中天皇の考」もあれど、ここに適切なりとも思はれず。要するに諸説紛々として是と認むべき説を未だ見ざるなり。
〇使間人連老獻歌 「間人連老」は「ハシビトノムラジオユ」とよむ。間人連は天武天皇の御時に宿禰の姓を賜はれる氏族にして「神魂命五世孫玉櫛比古命之後也」と新撰姓氏録に見ゆ。然るに日本紀孝徳卷白雉九年の條に遣唐使判官として、「小乙下中臣(ノ)間人連老【老此云2於喩1】と見ゆれば、ここの間人連老と同人にして中臣を略してかかれたりといふ説あれど、果して然りや否や斷言しかねたり。さてここに「使獻歌」とあるは「タテマツラシメシウタ」とよむべきが、ここに御歌とかかれぬを以て中皇命の歌にあらずして間人連老のよめる歌といひ、又老の代作せるなりとい(37)ふ如く種々の説あり。按ずるに、これは間人連老をして獻らしめられし由の詞書なれば、老はただ使となりしならむ。されば、この歌の作者はなほ中皇命にして、中皇命の御歌ならば、御歌とかくを正しといふべきなるが、原本に既に「御」字を脱せりと見るべし。
○ 目録にはこの下に「并短歌」とあるによりて略解などにここにもこの三字を加へたれど、もとよりなかりしならむ。
 
3 八隅知之《ヤスミシシ》、我大王乃《ワガオホキミノ》、朝庭《アシタニハ》、取撫賜《トリナデタマヒ》、夕庭《ユフベニハ》、伊緑立之《イヨリタタシシ》、御執乃《ミトラシノ》、梓弓之《アヅサノユミノ》、奈加弭乃《ナカハズノ》、音爲奈利《オトスナリ》。朝獵爾《アサガリニ》、今立須良思《イマタタスラシ》、暮獵爾《ユフガリニ》、今他田渚良之《イマタタスラシ》、御執《ミトラシノ》、梓能弓之《アヅサノユミノ》、奈加弭乃《ナカハズノ》、音爲奈里《オトスナリ》。
 
〇八隅知之 古事記景行卷の歌に「夜須美斯志和賀意富岐美《ヤスミシシワガオホキミ》」とあるなどによりて「ヤスミシシ」とよむべし。これは古來難問とせられ冠爵考古事記傳等によりて「安み知らす」の義なる由に略定まれるやうなり。されど「しし」といふことの語格未だ完全なる説明を得たることなし。さればなほ未決の問題たるなり。
○我大王 「ワガオホキミ」とよむ。かく「オホキミ」につづくる時はすべて「ワゴオホキミ」とよむべしと荒木田久老いひ、木村正辭ままた之を主張したれど古事記景行卷の歌に「和賀意富岐美《ワガオホキミ》」とあり、同書仁徳卷の歌に「和賀意富岐美能《ワガオホキミノ》」とあり、同じく雄略卷の歌に「和賀淤富岐美能《ワガオホキミノ》」又「和賀意(38)冨岐美能《ワガオホキミノ》とあり。日本紀にある同樣の歌なるも亦然り。本集にても卷十八「四○五九」の歌に「和我於保伎美可母《ワガオホキミカモ》」卷二十、「四五〇八」の歌に「和我於保伎美加母《ワガオホキミカモ》」など、假名書に明かに「ワガオホキミ」とあるもあり。「ワゴ」といふは下の「オホ」の音に同化せる訛言なれば、「和期」「和己」と特に書けるものの外は「ワガオホキミ」と正しくよむべきものなるべし。さて「ワガ」といへるは天皇を親しみ奉りていへるなり。「オホキミ」は古くは專ら天皇をさし奉りしが、中世以後「王」字の訓の如くなれり。ここは本義なることいふまでもなし。
○朝庭 「アシタニハ」とよむ。「庭」は「ニハ」の助詞をあらはせること上の歌にいへり。卷十九「四二〇九」の歌に「安志太爾波《アシタニハ》、可度爾伊※[氏/一]多知《カドニイデタチ》、由布敞爾波《ユフヘニハ》、多爾乎美和多之《タニヲミワタシ》」とあるによりてよむべし。
○取撫賜 「トリナデタマヒ」とよむ。「トリ」は手に持つをいふ語。「ナヅ」は物を深く愛する時にするわざなれば、深く愛する意をあらはすにいふ語なり。日本紀卷一に「有2一老公與老婆1中間置2一少女1撫而〔二字右○〕哭之」とあり。卷六「九七三」の歌に「天皇朕宇頭乃御手以掻撫曾禰宜賜打撫曾禰宜賜《スメラアガウヅノミテモチカキナデゾネギタマフウチナデゾネギタマフ》又卷十九「四一五五」の歌に「可伎奈泥見都追《カキナデミツツ》」とあるなど皆之を愛する状をいへるなり。
○夕庭 上の「朝庭」の例によりて「ユフベニハ」とよむべし。
○伊縁立之 舊訓「イヨセタテヽシ」とよみたれど、「縁」字に動詞としての「ヨス」とよむべき意義なし。「縁」は「ヨル」とよむべき字なれば、攷證、古義の説によりて「イヨリタタシシ」とよむべし。「イ」は所謂發語と稱せらるゝものにして動詞に冠して、語調を添ふる接頭辭なり。古事記崇神卷の歌に「伊由岐多賀比《イユキタガヒ》」同書雄略卷の歌に「伊加久流袁加袁《イカクルヲカヲ》」といひ、日本紀神武卷の歌に「異波比茂等倍離《イハヒモトホリ》」(39)卷二「一九九」の歌に「伊波比伏管《イハヒフシツヽ》」又「伊波比廻《イハヒモトホリ》」卷十七「三九八五」の歌に「伊由伎米具禮流《イユキメグレル》」といふものなどの「イ」これなり。「立之」は「タテシ」とよむと「タタシ」とよむとにて意異なり。「タテシ」とよめば、之を立つることにして上の「ヨリ」との意義打ち合はず。「タタシ」は自ら立つ意の語の敬稱として、サ行四段活用にはたらかせたる語なれば、自らその側により立つ義をあらはす。蓋し天皇の事にとりて所謂弓杖つきて立たせたまふことをいふならむ。「いよりたゝす」といふ語の例は古事記雄略卷の歌に「夜須美斯志《ヤスミシシ》、和賀淤富岐美能《ワガオホキミノ》、阿佐斗爾波伊余理陀多志《アサトニハイヨリタタシ》、由布斗爾波伊余理陀多須和岐豆紀賀斯多能《ユフトニハイヨリタタスワキヅキカシタノ》、伊多爾母賀《イタニモガ》、阿世袁《アセヲ》」とあり、「ヨリタタス」といふ語の例は卷十七「三九七五」の歌に「安之可伎能《アシカキノ》、保加爾母伎美我余里多多志孤悲家禮許曾婆伊米爾見要家禮《ホカニモキミガヨリタタシコヒケレコソハイメニミエケレ》」とあり。
○ 以上四句の意、朝夕とりなで縁り立ちたまふといふことにして常に身を放ち賜はぬ由をいへるなり。「朝には」「夕には」と別ちたるは詞のあやとして對句につくりなしていへるのみ。
○御執乃 「ミトラシノ」とよむ。「トラシ」は「取る」の敬語としてサ行四段の複語尾に活用したる「とらす」といふ語の連用形よりして名詞に化せしめたるものなれば、「ミトラシ」とは「とりたまふもの」の義なりとす。かくて弓は手にとるものなれば、これを以て「御弓」に冠するに用ゐたり。後にはこれを直ちに御弓の義としたる如く思はるゝが、それが訛りて、「御タラシ」となれるは、延喜式祝詞卷の春日祭の祝詞の訓などにて見るべし。注釋家往々御太刀を「ミハカシ」御衣を「ミケシ」といふと同じとせり。後世の用ゐざまにては同じといふべけれど、ここは「ミトラシ」を以て直ちに「弓」の義にせるにあらねば同一の取扱はすべからず。
(40)〇梓弓之 「アヅサノユミノ」とよむ。梓弓とは梓といふ木にてつくれる弓なり。梓は新撰字鏡に「梓阿豆佐」とあり。本草和名には「梓和名阿都佐乃岐」とありて和名鈔これに同じ。古事記應神卷の歌に「阿豆佐由美麻由美《アヅサユミマユミ》ともいへり。續日本紀大寶二年三月に「信濃國獻2梓弓一千二十張1」と見え、聖武天皇朝の梓弓は奈良正倉院に現存す。梓は古、本邦にて日常の用に供せし弓の材に用ゐしものなれば、多く産したる物に相違なきに、中古以來弓の製法かはり、近世に至りて弓の用衰へしかば、今や其名を知る人なくなり諸説紛々たり。されど、さばかり多く生ぜし木の今の世に全く跡を絶てりとも思はれず。近年理學博士白井光太郎氏は「よぐそみねばり」又は「はんざ」とよぶ木ならむといふ事を考證せり。その説は然るべき説として學界の認むる所なり。されど、古梓といひしものはこの一種に限らず、弓材に用ゐしものに梓といふ名のありしものなほ他にもありしならむ。即ち現今方言にて「づさ」といふ木數種あり。それらのうちには「あづさ」の上略せられたるものあるべし。かくいふ證は山形縣置賜郡に「梓山」といふ文字に書きて「づさやま」と呼ぶ村の名、日本地誌提要羽前の原野牛森原の注にあり。而して山形縣庄内地方には現に「ぢしや」といふ木は彈力ありて杖などに用ゐるといひ、今「ステツキ」につくる料に汎くこれらの「ぢしや」の木を用ゐることはその道の人の知る所なり。今信濃に梓川あり、その他梓といふ語を名にもてる地名所々にあり。これらは梓の多き地なりしより起れる名なるべし。
○奈加弭乃 文字通り「ナカハズノ」とよむべし。その實體不分明となれるが爲に異説紛々たり。(41)これを「ナガハズ」とよむ説あれど、「カ」は清音の字なれば、濁音に用ゐるは異例に屬す。その長弭といふ説にては筈の長き弓にしてその長くせるは或は玉や鈴をかくる爲なりといひ、(田安宗武の玉函叢説)獣などを突き止むる爲ならむといひ(美夫君志)たれど、いづれも臆説に止まれり。而して、又正倉院の御物中にその長筈の梓弓ありといふ説あれど、著者二度正倉院を拜觀し梓弓も拜觀せしかど、特に長筈の梓弓といふべきものの存せざりしのみならず、現在の記録にもその存在を登録せず。これは傳ふる人の誤なること著し。かくこの語古來難解とせられたれば、或は「加」を「留」の誤として「ナルハズ」とよむべしといひ、(萬葉考)或は「利」の誤にして「ナリハズ」とよむべしとし、(玉の小琴及び古義)或は「弭」を「弦」の誤として「ナカツル」かといひ、(考一説)※[弓+付]の誤として「ナカツカ」といひ、(攷證)甚しきは二字を改めて「奈利弦」とする説(石原正明)さへあり。然れどもこの歌に二處もあるにいづれの本にも異なることなければ、誤字説はうけられず。漫りに古典の文字を改刪して臆説を逞くするは眞摯なる研究家のとるべき道にあらず。余はなほ古來のまま「ナカハズ」とよむべしと考ふ。その説は附録間題集中に載せたり。
○音爲奈利 「オトスナリ」とよむ。この音は弦の鞆にあたりて鳴る音なること勿論なり。本卷「七六」の歌に「大夫之鞆乃音爲奈利《マスラヲノトモノオトスナリ》」とあるを參照すべし。「なり」といふ語をば動詞存在詞などの終止形に添へてその陳述を力づよく示さむとすることは中古にも盛んに用ゐられしものなるが、卷十五「三六二四」の歌に「於伎敝能可多爾可治能於等須奈理《オキヘノカタニカチノオトスナリ》」卷十七「三九七三」の歌に「伎美麻都等字良呉悲須奈理《キミマツトウラゴヒスナリ》」卷二十「四三〇五」の歌に「保等登藝須奈伎弖故由奈理《ホトトギスナキテコユナリ》」又巻五「八二七」の歌に(42)「宇具比須曾奈伎弖伊奴奈流《ウグヒスゾナキテイヌナル》」など例多し。又古事記上卷には「伊多久佐夜藝弖有那理《イタクサヤギテアリナリ》」同神武卷に「伊多玖佐夜藝帝阿理那理《イタクサヤギテアリナリ》」(以上二の那理を本居宣長は祁理の誤なりといひしは證なきことにして、しかも古語の格を未だ知らざりしによる。)正倉院古文書中の消息には「伊知比爾惠比天美奈不之天阿利奈利《イチヒニヱヒテミナフシテアリナリ》」日本紀神武卷には「聞喧擾之響焉此云2左揶霓利奈理《サヤゲリナリ》1」とも見えたり。これ古語の一格にして語意の切なるをあらはすに用ゐるなり。さてこの歌はいづこより献られたるにか。内の野の弓の音の岡本宮まで聞ゆべくもなければ、行宮にての御詠と見るべし。
○ 以上一段落なり。
○朝獵爾 「アサガリニ」とよむ。次の句の「暮獵爾」と對句をなせるものにして、卷三「四七八」の歌に「朝獵爾鹿猪踐起《アサガリニシシフミオコシ》、暮獵爾鶉雉履立《ユフガリニトリフミタテ》」卷六「九二六」の歌に「朝獵爾十六履起之《アサガリニシシフミオコシ》、夕狩爾十里※[足+(日/羽)]立《ユフガリニトリフミタテ》」卷十七「四〇一一」の歌に「朝※[獣偏+葛]爾伊保都登里多底《アサガリニイホツトリタテ》、暮※[獣偏+葛]爾知登理布美多底《ユフガリニチドリフミタテ》」などあると趣似たり。そのよみ方の例は卷十五「三五六八」の歌に「安佐我里能伎美我由美爾母奈良麻思物能乎《アサガリノキミガユミニモナラマシモノヲ》」などあり。
○今立須良思 「イマタタスラシ」とよむ。「タタス」は「立ツ」の敬語にして、古事記上卷に「故二柱神立2【訓v立云2多多志1】天浮橋1」と見え、日本紀推古卷の歌に「異泥多多須《イデタタス》」などあり。「ラシ」は推量をあらはす複語尾なり。上の弓弦の音を聞きて天皇の獵場に立ち出で獵したまふを推量せることばなり。
○暮獵爾 「ユフガリニ」とよむ。その意は「アサガリニ」の下にいへり。
○今他田渚良之 「イマタタスラシ」とよむ。「渚」は釋名に「小洲曰v渚」とある義によりて「ス」の假名に用ゐたり。意は上にいへり。
(43)○御執梓能弓之 「ミトラシノアヅサノユミノ」とよむ。上に「御執乃梓弓之」とかき、こゝに「執」の下に「ノ」の假名なく「梓」と「弓」との間に「能」の假名あるは、同樣の句を二樣にかへて書き出したりと見ゆ。但し元暦本には「能梓」とありて文字顛倒せり。いづれにてもあるべし。
○奈加弭乃音爲奈里 この上四句第一段落の末と同じ句を繰り返せるなり。
〇 以上第二段落とす。この段には「朝獵云々」、「暮夜云々」と兩々相對せしめて、末に「御執云々」といひて之を統一し、更にそれを以て第一段落の末と對立せしめ、全體を以て相體應せしむ。句法章法并然として相對し、而して各段落の末句は音調簡潔にして力強く、莊重の趣を具ふ。大意はいふまでもなければ贅言せず。
 
反歌
 
○ これは長歌の末に加へたる短歌をさす名稱なり。これが名義につきては古來さま/”\の説ありて、そのよみ方も「カヘシウタ」とよむべしともいひ、又「ミジカウタ」とよむべしといふ説もあれど、木村正辭の説によりて音にて「ハンカ」とよむをよしとす。名義も美夫君志に荀子の賦篇の末の反辭といふものあるに擬したるものなりとする説をよしとすべし。荀子の反辭は又小歌ともいへるものにしてその「與《ワレ》愚以疑願聞2反辭1」とある文の楊※[人偏+京]の注に「反辭反覆叙説之辭、猶2楚詞(ノ)亂曰1」といひ又「其小歌曰」とある注に「此下一(ノ)章即其反辭、故謂2之小歌1ハ2論前意1也」とあるにてその意を知るべし。又離騷の「亂曰」の王逸の注に「亂理也。所d以發2理詞指1總c撮其要u也」といへ(44)り。即ち賦の末に前意をハ論する小歌を附せるものを亂とも反辭ともいへるなり。さては長歌を彼れの賦に比してその反辭又は亂に擬したる短歌をば反歌とはいへるなるべく、その名稱も或は反辭即ち小歌なる由を思ひて名づけたるものならむか。されば、代匠記に「長歌に副たる短歌を反歌と云は反覆の義なり。經の長行に偈頌の副ひ、賦等に亂の副たる類なり。長歌の意を約めて再び云意なり」といへるは其の意を得たりといふべきなれど、本集に反歌といへるものには、長歌の意を反覆約説せるにあらぬも往々見ゆれば、その説には十分吻合せず。按ずるに反歌といふことの本義はげに代匠記の如くにてありけむが、後に形式的になりて其の意の如何にかかはらず、長歌に添へたる短歌を名づくることとなりしならむ。
 
4 玉刻春《タマキハル》、内乃大野爾《ウチノオホヌニ》、馬數而《ウマナメテ》、朝布麻須等六《アサフマスラム》、其草深野《ソノクサフカヌ》。
 
○玉刻春 「タマキハル」とよみ「いのち」「代」「うち」などの枕詞とす。卷五「八〇四」の歌に、「多摩枳波流《タマキハル》、伊能知遠志家騰《イノチヲシケド》」卷十七「四〇〇三」の歌に「多末伎波流伊久代經爾家牟《タマキハルイクヨヘニケム》」日本紀神功卷に「多摩岐波屡于池能阿層餓《タマキハルウチノアソガ》」などその例なり。卷十「一九一二」の歌には「靈寸春吾山之於爾《タマキハルワガヤマノウヘニ》」ともあり。「刻」を「キ」の假名とせるはその訓の頭音をとるなり。卷十三「三二二三」の歌に「眞刻持《マキモテル》」とあり。この語の意につきては冠辭考、古事記傳等に説あれど、いづれもうけ難く、意未だ詳かならずといふべし。○内乃大野 上にいへる「内の野」なり。大は稱美して加へしもの、今も大野といへるを見れば古よりその名のありしにや。
(45)○馬數而 「ウマナメテ」とよむ。馬を並べての意なり。卷六「九四八」の歌に「友名目而遊物尾《トモナメテアソバムモノヲ》、馬名目而往益里乎《ウマナメテユカマシサトヲ》」卷十七「三九九一」の歌に「於毛布度知許己呂也良武等宇麻奈米底《オモフドチココロヤラムトウマナメテ》」などその例なり。「數」字は説文に「計也」とありてかぞふるなり。古事記景行卷の歌に「迦賀那倍弖用邇波許許能用《カガナベテヨニハココノヨ》、比邇波登哀加袁《ヒニハトヲカヲ》」とある「かがなべて」は「日日《カカ》並べて」なるべければ、「なべて」又「なめて」といふは「かぞへて」といふに同じき古語なるべし。然るによりて今の「數」といふ字を訓の同じきまま「並めて」の語に假り用ゐしならむ。卷十二「二九六二」の歌に「白細之袖不數而宿烏玉之今夜者早毛明者將開《シロタヘノソデナメズシテヌハタマノコヨヒハハヤモアケハアケナム》とある「不數」は流布本に「カヘス」とよみたれど、意義當らず。又「かずへず」とよめる古寫本あれどこれも意義通ぜず、考には「數」を「卷」の誤とせれど、それも從ふべからず、代匠記には「ナメズ」とよめり。ここを「ナメテ」とよむに准ぜば代匠記の説をよしとすべし。それによらば、この「ナメテ」とよむもいよ/\理ありといふべきなり。○朝布麻須等六 「アサフマスラム」とよむ。「六」を「ム」の假名に用ゐるは訓を借りたるなり。卷三「二八三」の歌に「六兒乃泊從《ムコノトマリユ》」卷十一【「二八二四」「二八二五」】の歌に「八重六倉《ヤヘムグラ》」などかけるこの例なり。「朝ふます」とは朝に踏みたまふなり。「フマス」は「ふむ」の敬語なること上の「たたす」と同じ語格なり。朝は上に「朝獵に」といへるにあはせたり。「ふむ」は鳥などの草叢にかくれたるを踏みたつるをいふ意もこもりたるべけれど、たゞ草深き野を踏み分くるをいふと見てありぬべし。「ラム」は推量の複語尾なり。
○其草深野 「ソノクサフカヌ」とよむべし。「深野」は古來「フケノ」とよみ來れるが。このよみ方をよ(46)しとする説(萬葉考)「夜のふけ行く」などいふ語あるにより「ふかき」の約「ふき」なるを通はして「ふけ」といふと主張するなれど、その約通の説はうけ難し。「ふけ」は下二段活用の動詞にして「ふかき」には直接の交渉なき語なり。「ふか」は「ふかし」といふ語の語幹にしてそれより直ちに名詞につづけて熟語をなすこと「高田」「淺茅」など旁例極めて多し。この故に美夫君志の説の如く「フカヌ」又は「フカノ」とよむべし。さて草に「深し」といふは草の丈高く生えたるをいふものなるが、それも人のたけ程にもなりたるをば「高し」といひて「深し」とはいふまじ。草を「深し」といふはこれを分け行く人の脛も股も没する程なるさま水を渉るに似たるよりいへる語なるべし。かくて又淺草淺茅などいふ「あさし」といふ意もこれに准じて知るべし。元來「深し」「淺し」といふ語はある視點より下に垂直に距離を考へたる語にして「高し」「低し」といふ語はある視點より上に垂直に距離を考へたる語なるを以てこの「深」といふも人の胸位より下なる程の草の高さなるをいへるならむ。さればここは深き淺きの語を用ゐるべき所なり。古來草に對して「ふけ」「ふく」などいへることなければ、「フケノ」といふ説は從ふべからず。さてこの句は、下に「ヲ」といふ助詞を添へて解すべく、その野を朝ふますといへるなるが、ここに「ソノ」と冠せるは頗る強き感を與へこの一句にて一首をひきしむる力あり。
〇 一首の意明らかなるが、歌の意は第四句にて形式上完きものなるを最後の一句を更に加へて力強くうたへるなり。かくて「ソノ」とさせるは上の「内の大野」なること勿論なるが、更に詳に説明して、その草深きをあらはし、その深き草を渉りて御狩たたすらむかといはれたるなり。(47)されば最後の一句は歌格の上には頗る有力なるものなりとす。
 
幸2讃岐國安益郡1之時、軍王見v山作歌
 
○幸 天子の御行をいふに用ゐる字なり。蔡※[災の火が邑]が獨斷に「車駕所v至人民被2其徳澤1以僥倖。故曰v幸也。先帝故事所v至見2長吏三老官屬1親臨v軒作v樂賜v食。※[白/十]帛越巾v刀佩帶民爵有2級數1或賜2田租之半1是故謂2之幸1」といひ、後漢書光武紀の注に「天子所v行必有2恩幸1故稱v幸」とあり。玉篇には「幸天子所v至也」と見えたり。かくて、これは名詞としては「ミユキ」とよむ。「御行」の義なり。動詞としては「イデマス」とよむなり。卷二「一九一」の歌に「幸之宇陀乃大野者《イデマシシウタノオヌハ》」とある「幸之」を「イデマシシ」とよめる如くここも「イテマシシ時」とよむべきなり。
○讃岐國安益郡 和名鈔に「讃岐國阿野【綾】」とある地にして、古く國府のありし郡なり。今綾歌郡といへるうちなり。舒明天皇の讃岐國安益郡に行幸ありしことは史に明記なし。日本紀には、この天皇即位十一年冬十二月に伊豫温湯宮に幸し、翌年四月京に還り給ひしことあり。而して歌に春といふことあれば、その還幸の途に讃岐國を通過あらせられ一時は安益郡に逗留ましまししものと見ゆ。
○軍王 攷證に「イクサノキミ」とよみ、古義に「イクサノオホキミ」とよめり。「軍」をその名とし、「王」を其の身分をあらはすものとせば、「イクサノオホキミ」とよむべし。但しこの人の傳等知る所なし。
(48)○見山作歌 「ヤマヲミテヨメルウタ」とよむべし。その山はいづれか詳なるを知らず。
〇 目録によれば、この下に「並短歌」とあり。而してこの長歌の後に反歌あれば、然るべきに似たり。然れども、諸本皆かくの如くなれば、古よりなかりしならむ。これを改むるは強事なり。
 
5 霞立《カスミタツ》、長春日乃《ナガキハルヒノ》、晩家流《クレニケル》、和豆肝之良受《ワヅキモシラズ》、村肝乃《ムラキモノ》、心乎痛見《コヽロヲイタミ》、奴要子鳥《ヌエコドリ》、卜歎居者《ウラナキヲレバ》、珠手次《タマタスキ》、懸乃宜久《カケノヨロシク》、遠神《トホツカミ》、吾大王乃行幸能《ワゴオホキミノイデマシノ》、山越風乃《ヤマコスカゼノ》、獨座《ヒトリヲル》、吾衣手爾《ワガコロモデニ》、朝夕爾《アサヨヒニ》、還比奴禮婆《カヘラヒヌレバ》、大夫登《マスラヲト》、念有我母《オモヘルワレモ》、草枕《クサマクラ》、客爾之有者《タビニシアレバ》、思遣《オモヒヤル》、鶴寸乎白土《タヅキヲシラニ》、網能浦之海處女等之《アミノウラノアマヲトメラガ》、燒鹽乃《ヤクシホノ》、念曾所燒《オモヒゾモユル》、吾下情《ワガシタゴヽロ》。
 
○霞立 「カスミタツ」とよみて春日の枕詞とす。その例は卷五「八四七」に「可須美多都那我岐波流卑乎《カスミタツナガキハルヒヲ》」などあり。「霞」は和名鈔に「和名加須美」とあり。
○長春日乃 よみ方は卷五の上の歌又卷十「一九二一」の歌に「菅根乃長春日乎《スガノネノナガキハルヒヲ》」卷十七「四〇二〇」の歌に「奈我伎波波流比毛和須禮底於毛倍也《ナガキハルヒモワスレテオモヘヤ》」とある例によりてさとるべし。春は心のどかにして冬の短き日を經たる心には甚だ長き心地するによりていふ。
○晩家流 「爾」宇なけれど、「クレニケル」とよむべし。かゝる時の「ニ」をかゝずしてしかもよみ加ふべき例は卷三「三三〇」の歌に「藤浪之花者盛爾成來《フヂナミノハナハサカリニナリニケリ》」又「四五二」の歌に「與妹爲而二作之吾山齋者木(49)高繁成家留鴨《イモトシテフタリツクリシワカヤドハコダカクシゲクナリニケルカモ》」など、多くして一々あぐべからず。
○和豆肝之良受 諸書に「ワヅキモシラズ」とよめり。而してその「モ」は助詞なること著し。されどその上なる「ワヅキ」といふ語詳かならず。種々の説あれど、未だ首肯すべきものを見ず。
○村肝乃 「ムラキモノ」とよむ。「心」の枕詞とす。その語の意これ亦種々の説あれど、未だ首肯すべきものを見ず。
〇心乎痛見 「ココロヲイタミ」とよむ。「イタミ」は「痛し」といふ語を動詞に化せしめたるものなり。心に痛しといふは、深く物を思ひて堪へ難きさまをいふなり。その用例は卷八「一五一三」の歌に「吾心痛之《ワガココロイタシ》」卷二十「四三〇七」の歌に「秋等伊弊婆許己呂曾伊多伎《アキトイヘバココロゾイタキ》」「四四八三」の歌に「許己呂伊多久牟可之能比等之於毛保由流加母《ココロイタクムカシノヒトシオモホユルカモ》などあり。明に「心ヲ痛ミ」といへる例は卷十八「四一二二」の歌に「曾乎見禮婆許己呂乎伊多美《ソヲミレバココロヲイタミ》」あり。これに似たる例は卷八「一四二四」の歌に「春野爾須美禮採爾等來師吾曾野乎奈都可之美一夜宿二來《ハルノヌニスミレツミニトコシワレソヌヲナツカシミヒトヨネニケル》」卷十四「三四三四」の歌に「可美都家野安蘇夜麻郡豆良野乎比呂美波比爾思物能乎《カミツケヌアソヤマツヅラヌヲヒロミハヒニシモノヲ》」などあり。これらの例を釋するにその「ミ」を「サニ」といふべしといふ説あり。大意はそれにてもわかるべし。されど、文法上よりいへば、これは連用形なれば、「痛み」は「痛きによりて」「なつかしみ」は「なつかしきによりて」などいふを可とす。さて又「心乎」「野乎」などの「を」は格助詞即處分する意ありやといふに、しかは見えず。これは古く行はれたる感動の助詞にて力強くいふに止まれり。さればただ理解するのみのときには「を」を釋せずして「心をいたみ」は「心がいたきによりて」「野をひろみ」は「野が廣きによりて」の如く解すべし。この「を」が處(50)分する意あるにあらぬことは「を」をあらはさずしていへる例の多きにても知るべし。たとへば卷十七の大伴家持の歌「四〇一一」に「山高美河登保之呂思《ヤマタカミカハトホシロシ》、野乎比呂美久佐許曾之既吉《ヌヲヒロミクサコソシゲキ》」の如きこれなり。この「ヲ……ミ」といへる形式は大抵はこの定に心うべし。
○奴要子鳥 「ヌエコトリ」といふ。「要」は「エウ」の音なれば、上音のみをとりて「エ」の假名に用ゐたり。「コ」は親しみの意を以て添へたるにて「ヌエ」といふ鳥をさせり。「ぬえ」は今俗「虎つぐみ」といふ鳥なり。和名鈔に「※[空+鳥]」に「和名奴江」と見え、新撰字鏡に鵺字又※[易+鳥]字をこれにあてたり。この鳥の啼音は卷五「八九二」の歌に「奴延鳥乃能杼與比居爾《ヌエドリノノドヨビヲルニ》」とありて、うらみなくが如しと萬葉考にいへり。
○卜歎居者 古來普通には「ウラナケヲレバ」とよみ、又「ウラナキヲレバ」とよめる本もあり、稀に「ウラナケキヲレハ」とよめる本もあり。按ずるに「卜」は「ウラナフ」の「ウラ」なるを心裏を「ウラ」といふに假り用ゐたるなり。心裏を「ウラ」といふは「ウラガナシ」「ウラサビシ」などの「ウラ」にして上代には名詞たりしたるべし。「歎」は「ナゲク」にして「ナゲ」といへばそれが語幹なるが、かく「ナゲ」といふ如き動詞の語幹より直ちに用言につづくる用例は古來一もなし。或は卷十七「三九七八」の歌に「奴要鳥乃字良奈氣之都追《ヌエドリノウラナケシツツ》」とあるによりて「ウラナケヲレバ」とよむべしといふ説あり。されどこれはその「ウラナゲ」を以て動詞「ス」と合せて一つの動詞としたるものにして、普通の用言の連用形の用法と等しなみに論ずべからず。さて又かく「嘆」字を用ゐたる例は卷十「一九九七」の歌に「奴要鳥之裏歎座津」又「二〇三一」の歌に「奴延鳥浦嘆居」ともみえたり。これらは意は略知らるれど、その「歎」「嘆」を如何によむべきかにて解決すべき問題なるが、動詞の語幹より直ちに用言(51)につづくることは語法上なきことなれば、この「歎」は連用形として用ゐられたるものなるべきなり。されば「ナキ」又は「ナゲキ」とよむべきものにして「ナゲ」といひては語をなさぬこと明かなり。
○珠手次 「タマダスキ」とよむ。「次」を「スキ」に用ゐるは大嘗祭の悠紀主基の「スキ」と同じ意にして主基は悠紀に次ぐ意なるは日本紀天武卷に新嘗の事をかけるに、「齋忌《ユキ》次《スキ》」の文字を用ゐ、「次此云2須岐1」とあるにて明かなり。本集にても卷三「二七九」の歌に「名次山」とかけるを「ナスキヤマ」とよめり。これも「次」を「スキ」にあてたるなり。さて「玉」は美稱にして「タスキ」は扁にかくるものなれば、「懸く」の枕詞とす。さる用ゐ方の例は卷二「一九九」の歌に「玉手次懸而將偲《タマタスキカケテシヌバム》」などあり。
○懸乃宜久 「カケノヨロシク」とよむ。卷十「一八一八」の歌に「子等名丹關之宜朝妻之片山木之爾霧多奈引《コラガナニカケノヨロシキアサヅマノカタヤマキシニカスミタナビク》」とあるが如き、これの傍例にしてここにいふ「懸け」とは心にかけて思ひをる事のいひなり。この「よろしく」は下の「風の衣手に還らふ」ことを幸先よしといへるにて、そこまでにかかれる語なり。
○遠神 「トホツカミ」とよむ。古言に高祖父を「トホツオヤ」高祖母を「トホツオバ」などよめる例なり。その意は契沖が「凡人の境界に遠ければいへり」といへる如く、天皇の神聖にして侵すべからぬ由をいへる語なるが、その用例は卷三「二九五」の歌に「遠神我王之幸行處《トホツカミワガオホキミノイデマシドコロ》」などあり。
○行幸乃 古來「イデマシノ」とよめり。日本紀天智卷に「伊堤麻志能倶伊播阿羅珥茹《イデマシノクイハアラニゾ》」と見え、類聚名義抄には「行」を「イデマシ」と訓せり。この歌の題辭の「幸」を「イデマシ」とよむべき事はこれに照して明かになりたるべし。
(52)○山越風乃 古米「ヤマコシノカゼノ」とよめり。かくよめるは反歌に「山越乃風」とかけるにひかれたるなり。されどここの「山越」は用としていへるなれば、燈及び攷證に「ヤマコスカゼノ」とよめるに從ふべし。卷七「一一〇八」の歌に「井提越浪之音之清久《ヰデコスナミノオトノサヤケク》」卷九「一七二九」の歌に「梶島之石越浪乃《カヂシマノイソコスナミノ》」とある例などによる。
○獨座 「ヒトリヲル」とよむ。考には「ヰル」と改めたれど、「ヒトリヲリ」といふ語は古事記仁徳卷の歌に「比登理袁理登母《ヒトリヲリトモ》」とも見え、本集にも亦「ヲリ」といふ語を多く用ゐたれば、もとのままにてよかるべし。こは一人居りといへる意はいふまでもなけれど旅にありて、家人と共に居らぬ淋しさを言外にあらはしたるなり。卷八「一四八四」の歌に霍公鳥痛莫鳴《ホトトギスイタクナナキソ》、獨居而寢乃不所宿爾聞者苦毛《ヒトリヰテイノネラエヌニキケハクルシモ》」などある同じ心なり。
○吾衣手爾 「ワガコロモテニ」とよむ。「衣手」は袖なり。「ソテ」の「衣《ソ》」もころもなり。卷十五「三五九一」の歌に「妹等安里之時者安禮杼毛和可禮弖波許呂母弖佐牟伎母能爾曾安里家流《イモトアリシトキハアレドモワカレテハコロモデサムキモノニゾアリケル》」などあるその假名書の例なり。
○朝夕爾 古來「アサユフニ」とよみたり。然るに木集中に假名書にせるに「アサユフ」とあるは一もなく「アサ」に對しつづけいふにはいつも「ヨヒ」とあり。卷十七「四〇〇〇」の歌に「安佐欲比其等爾《アサヨヒゴトニ》」「四〇〇六」の歌に「安佐欲比爾《アサヨヒニ》」卷十八「四一〇六」の歌に「安沙余比爾《アサヨヒニ》」卷二十「四四七九」の歌に「安佐欲比爾《アサヨヒニ》」「四四八〇」の歌に「安左欲比爾之弖《アサヨヒニシテ》」など見えたるなど此例なり。萬葉時代には「アシタユフベ」といふか、「アサヨヒ」といふかの何れかなりし趣なり。この説は萬葉考に云へる所なるが(53)事實に基づけりと思はるれば從ふべし。「アサユフ」といふに到れるは後世の事と見えたり。
○還比奴禮婆 「カヘラヒヌレバ」よむ。「カヘラフ」は「カヘル」事の繰り返し行はれ、又は引續き行はるるをいふ語なり。舊説に「かへる」を風の吹き通ふとのみ説けるは如何なり。若し然りとせば、「かへる」といふ語用をなさず。按ずるに是は風の袖を吹きかへすをば風自身がひるがへる體によみなしたる詞なり。風が衣を吹きかへすをよめるは卷三「二五一」の歌に「粟路之野鳥之前乃濱風爾妹之結紐吹返《アハヂノヌシマノサキノハマカゼニイモガムスビシヒモフキカヘス》」などあり。又風吹きて袖のひるがへるをよめるは卷九「一七一五」の歌に「樂波之平山風之海吹者釣爲海人之袂變所見《ササナミノヒラヤマカゼノウミフケバツリスルアマノソデカヘルミユ》」などあり。この風の衣袖を吹きかへすをば風が衣手にかへらふとよめるは即ち語のあやなり。このいひ方の例は卷十「二〇九二」の歌に「吾衣手爾秋風之吹反者立坐多土伎乎不知《ワカコロモデニアキカゼノフヤカヘラヘバタチテヰテタドキヲシラニ》云々」とあり。さてここに特に「かへらふ」といへるは上に「かけのよろしく」といへるに打ち合せていへる語にして、風の吹きかへらふはやがて故郷にかへるの前兆の如き心地すといふ下心ありと見えたり。
○大夫登 「マスラヲト」とよむこと古來異論なし。されど「大夫」といふ文字を「マスラヲ」とよみうべきか否か。「マスラヲ」は増荒男の義といへり。然らば、武く強き男の義にしてただ男といふだけの義にはあらざるなり。「大夫」は普通支那にては卿大夫の大夫又は位階の名目とせるものなれば、これを「マスラヲ」とよむべき由なし。この故に和名抄には「公羊傳云、丈夫【萬葉集云末須良乎日本紀私記男子讀同】」とあるによりて丈夫の訓とし、「大」は「丈」の訛なりといふ説起れり。されど、丈夫といふは本來成人せる男子をいへるのみにして武強の義なし。木村正辭曰はく、「日本紀または本集に(54)大夫をますらをと訓るは大丈夫の略文にて常に男子を丈夫といふとは自(ラ)別なり。思ひ混ふべからず。云々」と。さて按ずるに「マスラヲ」の意に「大夫」とかけるは日本紀神代卷上に「設2大夫武備1」皇極卷に「豈其戰勝後(ヲ)方(ニ)言2大夫1哉、夫損v身固v國不2亦大夫1者歟」とあり。而して「マスラヲ」の義に「大夫」の字面を用ゐたるは漢籍にては遊仙窟を見る。されば、支那にても「大夫」を「大丈夫」の意に用ゐしを見る。和名鈔に萬葉集に「丈夫云々」といへるは順が、「大夫」を誤りと思ひて改め引けるならむ。さてその「マスラヲ」の語例は多きが、一例をいはば、卷五「八〇四」の歌に「麻周羅遠乃遠刀古佐備周等《マスラヲノヲトコサビスト》」などあり。
○念有我母 「オモヘルワレモ」とよむ。自ら男子なりと常は念ひてある我なれども客愁に催されて心ならずも女々しきさまになれるを言外にあらはせり。
○草枕 「クサマクラ」とよむ。古の旅は多くは山野に寢ねて草を結びて假の枕としたれば「旅」の枕詞とせり。
○客爾之有者 「タビニシアレバ」とよむ。「客」字は玉篇に注して、「賓也客旅」とあれば、「タビビト」の義と、「タビ」の義と兩樣あるを見るべし。「シ」は強く思はせむの意を示す助詞なり。卷十五「三六七七」の歌に「多婢爾師安禮婆《タビニシアレバ》」とあるなどその例なり。
○思遣 「オモヒヤル」とよむ。「オモヒヤル」といふ語は後世は想像の義にのみとりたれど、ここには「オモヒヲヤル」義にして漢語の「遣悶」の意にのみ用ゐたり。わが胸をふさぐやうなる物思ひを消しはるけやる心なり。卷二「二〇七」の歌に「吾戀千重之一隔毛遣悶流情毛有八等《ワガコヒノチヘノヒトヘモオモヒヤルココロモアリヤト》」など「遣悶」(55)とかけるもの少からず。(同卷「一九六」の歌にもあり。)これを古來「ナグサモル」とよみたれど、文字はまさしくここの「思ひやる」の意に相當せり。假名書にてこの語にまさしく當る例は卷十七「四〇〇八」の歌に安遠爾與之奈良乎伎波奈禮阿麻射可流比奈爾波安禮登和賀勢故乎見郡追志乎禮婆於毛比夜流許等母安利之乎《アヲニヨシナラヲキハナレアマザカルヒナニハアレドワガセコヲミツツシヲレバオモヒヤルコトモアリシヲ》云々」とあるなどなり。
○鶴寸乎白土 「タヅキヲシラニ」とよむ。鶴は古言「タヅ」寸は古言「キ」にして一寸を「ヒトキ」二寸を「フタキ」といへり。よりてこの二字を借りて「タヅキ」の言に宛てたり。語の意は「手著《タツキ》」にてたよりといふに似たり。卷四「六一九」の歌に「雖念田付乎白土《オモヘドモタヅキヲシラニ》」卷二十「四三八四」の歌に「己枳爾之布禰乃他都枳之良受母《コギニシフネノタツキシラズモ》」とあるが如き其例なり。又「たどき」ともいへる例あり。「白土」の「土」を「ニ」といへるも亦古言にして、「丹」を「ニ」といふも意同じ。「白土」即ち「シラニ」なるを「不知」の意の「シラニ」の宛字に用ゐたるなり。「不知」の意の「シラニ」は「シラズ」といふに意同じけれど、この「ニ」はもと「ナ、ニ、ヌ、ネ」と活用したる打消の意ある複語尾ありしその連用形なりと見ゆ。ここにても「ニ」は連用形の用法を明かにあらはして、俗に「しらぬので」といふ意を以て下の「オモヒゾモユル」につづけたるなり。「しらに」と假名書にせる例は卷五「九〇四」の歌に「世武須使乃多杼伐乎之良爾志路多倍乃多須吉乎可氣《セムスベノタドキヲシラニシロタヘノタスキヲカケ》」卷十三「三二三九」の歌に「己之父乎取久乎思良爾伊蘇婆比座與《シガチチヲトラクヲシラニイソバヒヲルヨ》とあるなど例多し。
○網能浦之 文字のままならば「アミノウラノ」といふべし。この地名未だ詳かならず。これを考に「神祇式に讃岐國綱丁、和名鈔に同國鵜足郡に津野郷あり。そこの浦なるべし」といひて、網(56)を「綱」の誤として「ツヌノウラ」とよむべしとせり。その「ツヌ」といふことの可否はさておき、「綱丁」は美夫君志にいへる如く、綱領の丁の義にして、運送丁の長をさし、今の宰領といふものに當れば、これを以て「綱」といふ地名とせるは大なる誤なり。なほ津野郷といふ地名も「津」といふが地名にして今の宇多津即ちその邊にあたるべし。この邊に「津之山」「津之郷」といふ地名あり。然らばこれはその邊の浦の名とせば、「津の浦」といふべくして、「つぬのうら」とはよばざるべし。而して、これを「綱」とかける本は一もなし。されば、なほ本の如く、文字を改めず、「アミノウラ」とよみてあるべく、その實際の地は後賢の詳かにするをまつべきなり。
○海處女等之 「アマヲトメラガ」とよめり。「處女」は又「未通女」ともかく。未だ嫁がぬ女にして「ヲトメ」とよむ。「海處女」は海人中の處女の義にて用ゐたる文字にして、卷十二「三〇八四」の歌に「海處女潜取云忘貝《アマヲトメカヅキトルトフワスレガヒ》といふ例あり。又卷六其の他に「海未通女」とかけるも意同じ。海人は古漁撈を業とせし部族なり。
○燒鹽乃 「ヤクシホノ」とよむ。藻鹽を燒きて鹽をつくるによりていふ。讃岐には今鹽田多し。古も鹽燒多かりしなるべし。延喜式主計寮上に讃岐國條に「阿野郡輪2熬鹽1」とあり。この「の」は上體言を受けて、下の用言の意義を修飾する用をなすものにして、古事記上の「阿佐比能《アサヒノ》、惠美佐迦延岐弖《ヱミサカエキテ》」本集卷十四「三四五三」の歌に「可是乃等能《カゼノトノ》、登抱吉和伎母賀《トホキワギモガ》」など例多し。
○念曾所燒 古來「オモヒゾヤクル」とよめり。されど、このよみ方には疑問あり。「所」字は漢文法よりいへば元來受身をあらはす助動詞なれば、文字のままならば、「やかる」若くは「やかゆ」とよま(57)ずばあらぬ語なり。然るにここに「やくる」とのみいひては「燒」一字にて事足れるものにて「所」字を加へたるかひなし。さりとてこれは「やかゆ」「やかる」といひてもかなはず。ここに考ふるに、これは攷證の説の如く、「モユル」とよむべきなり。そは「ヤク」は人のするわざなるを「所燒」とかけば、燒かるるをいふ語なるが、その燒かるる物の側よりいへば、即ち「もゆる」ことなればなり。かくて心をこがすことを「もゆ」といへる例は卷五「八九七」の歌に「見乍阿禮婆心波母延奴《ミツツアレバココロハモエヌ》」卷十二「二九三二」の歌に「情庭燎而念杼《ココロニハモエテオモヘド》」卷十七「四〇一一」の歌に「心爾波火佐倍毛要都追《ココロニハヒサヘモエツツ》」などあり。なほ又「やくる」といふ語にてかかる場合をあらはすには、上の「おもひぞ」は「念ひにそ」の意とせずば聞えがたきをや。
○吾下情 古來「ワガシタゴロ」とよめるを考に「シヅココロ」とよみてより學者往々之に從へるやうなれど、これは「シヅ枝」などの例と一列にいふべき語にあらねば、古訓のままに「したごころ」とよむべし。「しづ枝」などの「しづ」は「上ツ枝」「中ツ枝」などに對していふ語にして、「しづの男」の「しづ」もそれより轉ぜし語なり。「したごころ」といふは「下問」「下戀」などに似たる語にして、心の裏なり。即ちわが心裏には念ひぞもゆるといへるなり。
○一首の意 旅の宿りに獨居れば山河風物悉く物思の種ならぬはなく、風の袖を吹きかへすにもいつか故郷にかへるを得むなど思へば、心をはるけむ料とてはなく、上には大丈夫豈に女々しき振舞せむやと操をつくりてあれど下の心は思悶ゆるをいへるなり。この歌一首一段落にして中間に切れたる所もなきに力少しもたゆまず。巧を求めずして巧を得たりと評すべ(58)きなり。
 
反歌
 
6 山越乃《ヤマゴシノ》、風乎時自見《カゼヲトキジミ》、寢夜不落《ヌルヨオチズ》、家在妹乎《イヘナルイモヲ》、懸而小竹櫃《カケテシヌビツ》。
 
○山越乃 古來「ヤマコシノ」とよめり。山を越し來るを體言にいへるなり。卷四「四九五」の歌に「朝日影爾保敝流山爾照月乃不厭君乎山越爾置手《アサヒカゲニホヘルヤマニテルツキノアカザルキミヲヤマゴシニオキテ》」とあるは意は異なれど、「山ごし」といふ體言の例なり。
○風乎時自見 「カゼヲトキジミ」とよむ。「トキジミ」は「時じ」といふ形容詞より出でたる動詞にて上の「心をいたみ」と同じ格なり。「時じ」は日本紀垂仁卷に「非時香菓」を「トキジクノカグノコノミ」とよみ、本集にも「非時」「不時」の字を「トキジク」とよめるにて略その意を見るべし。さてこの非時不時の文字によりて同じく解釋せるうちにも代匠記には「不斷の心也」といひ、考には時を定めず風の吹くなどをいふとし、古事記傳にはその時ならぬをいふといへり。この「時じ」といふ形容詞の眞意未だ詳かならず、姑く記傳の説に從ふ。
○寢夜不落 「ヌルヨオチズ」とよむ。「ヌル」は今「いぬる」といふ語に同じきが、「イ」は寢の意の體言なるをその用言なる「ヌル」に冠せしめたるは「ねなく」といふに似たり。「オチズ」は多くの夜引きつづきて一夜も洩るることなくの意にてここにては連夜の意とす。卷十三「三二八三」の歌に「眠夜乎不落夢所見欲《ヌルヨヲオチズユメニミエコソ》」卷十七「三九七八」の歌に「宿夜於知受《ヌルヨオチズ》」などいへるこの例なり。「オチズ」にて洩(59)るることなしの意をあらはせるは古事記上卷に「伊蘇能佐岐淤知受《イソノサキオチズ》」延喜式祝詞に「島之八十島|墜《オツル》事|無《ナク》」本集には卷十五「三六四七」の歌に「和伎毛故我伊可爾於毛倍可奴婆多末能比登欲毛於知受伊米爾之美由流《ワキモコガイカニオモヘカヌバタマノヒトヨモオチズイメニシミユル》」その他例多し。
○家在妹乎 流布本「イヘアルイモヲ」とよめど意をなさず。古寫本の多くに「イヘニアルイモヲ」とよめるは正し。考には之を約めて「イヘナルイモヲ」とよめり。いづれにてもよかるべきが、音の數よりして今考に從ふ。妹は「イモ」にてここは妻をさせり。
○懸而小竹櫃 舊訓「カケテシノビツ」とよめるを僻案抄に「カケテシヌヒツ」とよめり。小竹は國語に「シノ」といひ、古くは「シヌ」ともいひしなり。和名鈔に篠字の注に「和名|之乃《シノ》一云|佐々《ササ》俗用2小竹二字1謂2之佐々1」とみゆ。さて卷十「一八三一」の歌に「朝霧爾之怒怒爾所沾而《アサギリニシヌヌニヌレテ》」トいふと同じ趣なる語を「一九七七」の歌に「小竹野爾所沾而《シヌヌニヌレテ》」ともかけるにて小竹を「シヌ」といへりしを知るべし。「櫃」は和名鈔に「和名比都」と注せり。「小竹櫃」ノ三字を借りて「シヌビツ」の語にあてたるなり。似たる例は卷三「三六六」の歌に「珠手次懸而之努櫃《タマタスキカケテシヌビツ》」卷九「一七八六」の歌に「留有吾乎懸而小竹葉背《トマレルワレヲカケテシヌバセ》」などあり。「カケテ」は心にかけてなり。卷二「一九九」の歌に「玉手次懸而將偲《タマタスキカケテシヌバム》」とあるも似たる例なり。「シヌブ」といふ語は類聚名義紗に「慕」字を「シノブ」とよめるが、「シノフ」「シヌブ」同じ語にして、思ひ慕ふ意なれど、卷二「一三一」の長歌に「念之奈要而志努布良武妹之門將見《オモヒシナエテシヌブラムイモガカドミム》」とあり、又卷三に「之努櫃」卷九に「小竹葉背」など見ゆれば「シヌビツ」とよむべきなり。
○一首の意 時ならずこの山を越して吹き來る風のわびしきによりて、いつの夜も家にある妻(60)を心にかけて思ひ慕ふことよとなり。
 
右※[手偏+僉]2日本書紀1無v幸2於讃岐國1、亦軍王未v詳也。
 
○ 舒明天皇の讃岐國に行幸ありし由史に明記なく又軍王の事も詳かならざること上にいひし所なり。
 
但山上憶良大夫類聚歌林曰「記曰天皇十一年己亥冬十二月己己朔壬午幸2于伊豫温湯宮1云々」。
 
○山上憶良 本集の歌の作者なり。憶良の名は續紀に見え、大寶元年には遣唐使の少録となり、和銅七年に從五位下に叙し、靈龜二年には伯耆守たり。天平二年の頃は筑前守たりき。天平五年には年七十四なりし由本集卷五の「沈痾自哀文」のうちにいへり。
○大夫 公式令に「於2太政官1三位以上稱2大夫1……其於2寮以上1四位稱2大夫1……司及中國以下五位稱2大夫1」とあり。これによりて一般に五位以上の稱なりしことを知るべし。當時のよみ方は如何なりしか詳ならねど、訓にては「マヘツギミ」とよむべきが、或は音にて「タイフ」といひしならむ。後世無官大夫などいふ「タイフ」これなり。さてここに憶良に大夫といひたれば、この文は和銅七年以後にかける文なること著し。
○類聚歌林 憶良の撰として古來名高きものなるが今傳はらず。蓋し、憶良が古今の歌を分類(61)彙集したりしものなるべし。平安朝時代の末に存せしことは袋草子卷一に法成寺寶藏に在りといへるなどにて明かなり。八雲御抄卷一にも「類聚歌林、山上憶良撰在2平等院寶藏1通憲説也」と見えたるが、順徳天皇の御覽じたまひし由には見えず。永承五年正子内親王家の繪合の詞書に「さておくらが歌林とかいふなるより古萬葉集まではところもおよばず」とあるにて、本集と並びもてはやされしものなるを見るべし。さてかく本書の左注に歌林をひけるは原撰者のわざたるべくして、本集撰集の際に參照して、それとの異同を注したるならべし。この名はなほ卷二、卷九にも見ゆ。
○記曰云々 この「記」とは日本紀をさせるなり。「紀」と書くを普通とすれば、この「記」は誤字かとも思はるれど、必らずしも然らず。さて、この文は舒明卷の本文をそのまゝ憶良が撰にひけるなり。
○伊豫温湯宮 伊豫の温湯とは今の道後温泉なり。伊余湯の名は既に古事記下、輕太子の流されし記事に見えたり。
 
「一書云是時宮前在2二樹木1此之二樹班鳩此米二鳥大集、時勅多掛2稻穗1而養v之乃作歌云々」
 
○ これも、類聚歌林に引ける文なり。さてここにいふ一書とは伊豫風土記なるべしと代匠記にいへり。伊豫風土記は今傳はらねどこの邊の文は本集の仙覺抄卷三、又釋日本紀卷十四に(62)ひける文を見てその趣をさとるべし。その文仙覺抄によれば次の如し。
 湯郡(【釋日本紀にこの間に文あり、略す。】)天皇等於v湯幸行降坐五度也(中畧)以2岡本天皇並皇后二躯1爲2一度1、于時於2大殿戸1有2椹與2臣木1、於2其木1集2止鵤與比米鳥1、天皇爲2此鳥1枝繋2稻穗等1。
とあり。かくてその文は、ここの左注と必ずしも一致せず。されば伊豫風土記にはあらずして別の本なるべく、憶良がこの風土記を見たりきや如何も疑はしきことなり。
○班鳩 正しくは斑鳩とかくべし。斑鳩も鵤も共に「イカルガ」といふ鳥なり.和名鈔に「鵤」の注に「和名伊加流加」とし、「斑鳩」も「和名同上」とせり。今「イカル」とも「マメマハシ」ともいふ鳥なり。
○此米 今も「シメ」といふ鳥なり。和名鈔に「※[旨+鳥]字に注して「之女」といへり。風土記に「比米」とある「比」は「此」の訛なり。この鳥を飼ふには今も稻穗を掛け置きて喙ましむることなり。卷十三「三二三九」の歌「中枝爾伊加流我懸下枝爾此米乎懸《ナカツエニイカルガカケシヅエニシメヲカケ》」とあるにてかかるわざの當時も行はれしさまを見るべし。
 
若疑從v此|便《スナハチ》幸之歟《イデマセルカ》。
 
○ 從來の説はこれをこの左注をかきたる人の案なりとせり。若し果して然りとせば、類聚歌林の文はいづこに在りとすべきか。ただ、引用文をあげたるのみにて按を加へずといふこととなるべし。されば、ここまで歌林の文なるをそのまゝあげて參考に供したりと見るべし。
 
明日香川原宮御宇天皇代 天豐財重日足姫天皇
 
(63)○明日香川原宮 明日香は普通に飛鳥とかく。大和國高市郡内のある區域の名稱にして、飛鳥川の上流地方なり。川原宮は飛鳥川の川原に近く營まれしを以てかく名づけられしなるべし。日本紀齊明天皇の元年の條に「是冬災2飛鳥板盖宮1故遷2居飛鳥川原宮2」とあり。川原といへる地は「岡」の地とは飛鳥川を隔てて對せる左岸の地にして北によれる所なり。ここに川原寺といふもあり。凡そこれらの地にありしなるべし。然るに、裏書にこれを「大和國高市郡丘本宮同地、皇極天皇也」と注せるは後岡本宮ととりたがへてかけるなり。
○天豐財重日足姫天皇 「アメトヨタカライカシヒタラシヒメノスメラミコト」とよむ。これ上の「明日香河原宮御宇天皇」の御名を注せるなれば例の如く小字にせるよしとす。この天皇は後の御名皇極天皇、重祚ありて齊明天皇と申す。川原宮にまししは重祚の後なることは上文の如くなれど、後間もなく岡本宮にうつりましたるなり。今この條を次條の「後岡本宮御宇天皇代」とあるに對して考ふればこれは重祚の前即ち皇極天皇の御宇とすべきに似たり。然りとせば史實と一致せず。然れどもこの文にては筆者が皇極天皇御宇を川原宮時代と見たりと考へざるべからず。
 
額田王歌 未詳
 
○額田王 「ヌカダノオホキミ」とよむ。この人の事既にここに未詳と注せる如く、古より明かならぬものにして諸説あれど、今容易に定め難し。日本紀天武卷に「天皇初娶2鏡王額田姫王1生2十(64)市皇女1」とある額田姫王これなるべしといふ。女王にもただ王とかけることは古事記下に「衣通王」など例多し。
 
7 金野乃《アキノヌノ》、美草苅葺《ミクサカリフキ》、屋杼禮里之《ヤドレリシ》、兎道之宮子能《ウヂノミヤコノ》、借五百|磯〔左○〕所念《カリイホシオモホユ》。
 
○金野乃 「アキノヌノ」とよむ。「金」を「アキ」とよむは五行を時節にあつれば、金は秋にあたるによるものにして、文選卷二十九張景陽が雜詩に「金風」とあるに李善注して曰はく、「西方爲v秋而主v金、故秋風曰2金風1」とあり。卷十「二〇〇五」の歌に「金待吾《アキマツワレハ》」とあり「二〇一三」の歌に「金風」を「アキカゼ」とよみ「二二三九」の歌に「金山」を「アキヤマ」とよめるも皆この例なり。
○美草苅葺 普通に「ミクサカリフキ」とよむ。元暦本には美草を「をばな」と點ぜり。美草の字面は儀式の大嘗祭の條に「黒酒十缶……居2黒木輿1以2布綱1維v之以2美草〔二字右○〕1飾之」又「倉代十輿……飾以2美草1」又「酒一百缶……居2黒木筥形1餝以2美草1」と見えたり。又延喜式にも同じ樣に見えて、「以2黒木1爲v輿飾以2美草1」とあり。この「美草」は儀式を見るに、賢木、弓※[糸+弦]葉、日蔭※[草冠/縵]、檜葉などと共に用ゐたるにて、一種の草なること著し。大嘗祭のことは元暦頃にはなほ古式を存せしなるべければ、「美草」を「をばな」とよめるも由ある事ならむ。されど、美草といふ文字を「ヲバナ」とよむべき典據をしらねば今姑く古訓のまゝによむ。但しその實物はなほ尾花なるべし。さて「苅茸」はその尾花を苅りて屋の上に葺きて屋作りするなり。上の大嘗祭の黒木の輿の美草も屋上に葺き、又周圍をもかこひて飾りとせしなるべく、しかも何となく、趣通ひたれば、ここの宮も亦假初の黒木(65)にて屋形をつくり、尾花を葺きしならむ。
○屋杼禮里之 「ヤドレリシ」とよむ。「ヤドル」を「アリ」に合して「ヤドレリ」といふ語をなせるそれより複語尾「し」につゞけたるにて意は「ヤドリテアリシ」に似たり。かくの如き語例の假名書なるは卷十五「三六七五」の歌に「於吉都奈美多可久多都日爾安敝利伎等《オキツナミタカクタツヒニアヘリキト》」卷十九「四二二〇」の款に「多麻爾末佐里弖於毛敝里之安我故爾波安禮騰《タマニマサリテオモヘリシアガコニハアレド》」など例少からず。
○兎道乃宮子能 「ウヂノミヤコノ」とよむ。「兎道」は山城宇治にして日本紀に「菟道」と書きたるに同じ。(「菟」は兎の異體なり。)この地は當時大和國と近江國との往來の路次なりしにて行幸のありし時ここに行宮のありしを以てかく「ミヤコ」とよめるならむ。「宮子」は宛字にして、漢字の「京」と意同じ。卷六に「幸2于難波宮1時」笠朝臣金村の作れる歌「九二九」に「荒野等丹里者雖有大王之敷坐時者京師跡成宿《アラヌラニサトハアレドモオホキミノシキマストキハミヤコトナリヌ》」などあるは行宮のある所を「みやこ」といへる例なるが、又たゞ人烟の繁き所をみやこともいへるは卷十八「四〇八二」の歌に「安麻射可流比奈能都夜古爾《アマザカルヒナノミヤコニ》」といふもあり。いづれにてもさす所はおなじかるべし。
○借五百磯所念 流布本「※[火+幾]」を用ゐたれど、誤にして古寫本多くは「磯」を用ゐたり。これにより正すべし。訓み方は舊本「カリイホシゾオモフ」といへれど、考にいへる如く、「カリイホシオモホユ」とよむべし。「借五百」は假廬の宛字なり。「カリイホ」は旅宿の爲の假初の廬にして、行宮に供奉せし人々の料として營みしものなるべく、上にいへる如く黒木にて作り尾花を葺きしものならむ。「磯」を「シ」の假名に用ゐたるは「イシ」の上略なるべきが、玉篇に「磯(ハ)水中磧也」と見え、日本紀な(66)どに、「磯城」などいふ文字を多く使用せしみな同じ例なるが、ここの「シ」は上にもいへる助詞なり。「所」をば舊訓に「ゾ」の假名とせり。されど、ここは「所念」二字にて「オモホユ」とよむべきこと「所謂」二字を「イハユル」とよむに同じ。「所」字は本來受身をあらはすに用ゐる漢字にして國語の「ル」「ラル」に該當するものなるが、古語にては「ユ」「ラユ」ともいへり。「オモホユ」は「オモハル」の義にして忘れ難く自然に思ひ出さるるよといふ意なり。卷五「八〇二」の歌に「宇利波米婆胡藤母意母保由《ウリハメバコドモオモホユ》」といへる如きこの例なり。
○一首の意 かつて行幸に供奉して宇治に旅宿せし時のかの黒木作にて尾花を葺きたりし假廬の風情の時經ても忘れかね、今もなほ心にとまりて思ひ出さるるよとなり。
 
右※[手偏+僉]2山上憶良(ノ)大夫(ノ)類聚歌林1曰、「一書曰、戊申年幸2比良宮1大御歌。」
 
○ 以上は上の歌につきての類聚歌林の傳が本集と異なる點あるによりて注記せるなり。
○一書曰云々 歌林の注記によれば、一書にこの歌をば戊申年に比良宮に行幸ありし時の御製なりとせる由なり。ここにいふ戊申年は大化四年なるべし。若し然らずとせば、甲子一周上れば.崇唆天皇の元年、一周下れば、和銅元年となりていづれも年代あまりにかけはなれてあればなり。若し大化四年なりとせば、孝徳天皇の御製なりといふこととなるなり。これ即ちこの一書の傳なりとす。然るに多くの注釋家は本集と違へるを以て歌林の誤なりとせり。されどかゝる異説のありしが故に特に歌林をあげしにて誤の有無など論ずるは無用の言を弄(67)するに止まるのみ。但しこの大化四年に孝徳天皇の比良宮に行幸ありて、この御製ありし由の事は他に所見なしとす。
 
但紀曰、五年春正月己卯朔辛已天皇至2自紀温湯1。三月戊寅朔天皇幸2吉野営1而|肆宴《トヨノアカリキコシメス》焉。庚辰日天皇幸2近江之平浦1。
 
○ 以上紀曰云々は日本紀今本齋明卷五年の條に合して、ただ「庚辰|日〔右○〕」の「日」字なきを異なりとす。さてここにある五年は己未なれば歌林とは時代の別なること明かなるが、ただ「ひら」に行幸ありしことの例を日本紀より求め出でしならむ。されど、この行幸の時は春三月なれば歌に「秋の野」といへるには合はず。按ずるにこは上の文を引きたるに因みて平浦行幸の史實を參考としてあげたるに止まるものなるべし。
 
後崗本宮御宇天皇代 天豐財重日足姫天皇位後即位後崗本宮
 
○後岡本宮 前の岡本宮の舊地に造營ありしよりの名にして、齊明天皇の皇居なり。同天皇二年冬に飛鳥崗本に宮作ありし由日本紀に見えたり。岡本宮は舒明天皇八年に火災にて燒けたるまま、他に遷りまして造營なかりしが、この時古を慕ひて造營ありしならむ。
○天豐財重日足姫天皇位後即位後崗本宮 これも亦上の後崗本宮御宇天皇の御名を注したるなれば、古寫本の小字にせるによるをよしとす。「天豐財重日足姫天皇」は上にいへるが、ここは(68)重祚の後の齊明天皇をさせるなり。さてこの文中「位後即位」といふ字、意をなさず。之につきて美夫君志には卷二の挽歌の所に、古寫本に、
  天豐財重日足姫天皇「讓位〔二字右△〕後|即〔右△〕」後岡本宮
とあるによりて二者各一字づつを脱せるものとしていづれも
  譲位〔二字右○〕後即位〔二字右○〕後岡本宮
とありしなるべしといへり。この説を可とす。
 
額田王歌
 
○額田王 上にいへり。
 
8 ※[就/火]田津爾《ニギタツニ》、船乘世武登《フナノリセムト》、月待者《ツキマテバ》、潮毛可奈比沼《シホモカナヒヌ》。今者許藝乞菜《イマハコギイデナ》。
 
○※[就/火]田津爾 「ニギタツニ」とよむ。「※[就/火]」は「熟」の俗體なり。日本紀齊明天皇七年正月の條に「庚戌(【十四日】)御船泊2于伊豫熟田津石湯行宮1【熟田津此云2※[人偏+爾]枳陀豆1】」とあるによりて、そのよみ方と行幸のありし事實とを知るべし。この「熟田津」は今の三津濱ならむといふが通説なれど、日本紀に「熟田津石湯」とあれば、温泉附近の地なりしこと知られたれば、地理に古今の變あるべく、必ずしも三津濱と斷ずべからず。さてこの熟田津に行幸ありしは新羅の反けるを討たむとして西征せしめたまひし途次にして、これより九州に到りまさむとて暫ここに行宮のありしなり。さてここに(69)「ニ」といへるにつきては、いふまでもなく、「ニ於テ」の義にして「熟田津に於いて船に乘らむとて月待てば」なるなり。然るに橘守部は「此歌は備前の大伯《オホク》より伊與の熟田津へ渡らせ給ふをりによめるにこそ」といへるは從ひがたし。そは下の「舟のり」といふ語につづけたる場合の例を見るに、いづれもその出發の場所をあげたるもののみなればなり。その著しき例をいはば、本卷「四〇」の歌に「嗚呼見乃浦爾船乘爲良武《アミノウラニフナノリスラム》」卷七「一一七二」の歌に「何處可舟乘爲家牟高島之香取乃浦從己藝出來船《イツクニカフナノリシケムタカシマノカトリノウラユコギテコシフネ》」等なり。この故に、ここは「熟田津へ」または「熟田津をさして」と解するは不當なりとす。
○船乘世武登 「フナノリセムト」とよむ。熟田津に船乘りせむといへるは本集中に屡見ゆ。卷三.山部赤人至伊豫温泉作歌」の反歌「三二三」に「百式紀乃大宮人之飽田津爾船乘將爲年之不知久《モモシキノオホミヤビトノニギタツニフナノリシケムトシノシラナク》」卷十二「三二〇二」の歌に「柔田津爾舟乘將爲跡《ニギタツニフナノリセムト》」などあり。「ふなのりす」とは舟に乘ることなるが、これは、そこより船出する場合にいふ語なること上にいへる如くにして、その假名書の例は卷十五「三六一〇」の歌に「安胡乃宇良爾布奈能里須良牟乎等女良我《アゴノウラニフナノリスラムヲトメラガ》」あり。又「フナノル」といへる例もあり。卷二十「四三八一」の歌に「具爾具爾乃佐伎毛利都度比布奈能里弖和可流乎美禮婆伊刀母須弊奈之《クニグニノサキモリツドヒフナノリテワカルヲミレバイトモスベナシ》」とあるこれなり。
○月待者 「ツキマテバ」とよむ。船に乘らむとて月を待てばといふなり。月を待つとは月の滿つるを待つことなり。月と潮とは關係深きものにして滿月と新月との時に滿潮となり、上弦下弦に干潮となるものなれば、滿月を持つは即ち滿潮を待つことなるなり。これをば海路暗(70)くして便なき故なりといふ説(古義)あるは古の船路につきてよく考へぬ失なり。
○潮毛可奈比沼 「シホモカナヒヌ」とよむ。潮は通常「うしほ」とよめど、日本紀字鏡集等に「シホ」ともよめり。潮の滿ちたるを月の出でたるに對して「モ」とはよめるなり。「カナフ」とは相應の字の義なるべし。續紀天平神護二年十月の宣命に「行相應救賜云言《オコナヒニアヒカナヘテイツクシビスクヒタマフトイフコトニ》」とある「相應」を「アヒカナヘテ」とよめるは自他の違ひはあれど、意義は共通の點あるべし。潮の滿ちて船を乘出すに適へる由なり。以上一段落なり。
○今者許鯢乞菜 舊訓「イマハコギコナ」とよみたれど意通らず。田中遣麿は「乞」は「弖」の誤にて「コギテナ」ならむといひたれど、誤字説は容易に從ひがたし。萬葉集燈の説に「乞」を「イデ」とよみて、「コギイデナ」とよむべしといへるをよしとす。「乞」を「イデ」とよむべき例は卷四「六六〇」の歌に「乞吾君《イデアギミ》」卷十二「二八八九」の歌に「乞如何《イデイカニ》」「三二五四」の歌に「乞吾駒《イデワガコマ》」などなり。その「イデ」は意志を表明する爲の感動詞にして、卷十一「二四〇〇」の歌に、「伊田何極太甚利心及失念戀故《イデイカニネモコロコロニトココロノウスルマデオモフコヒトフカラニ》」又卷十四「三四九六」の歌に「伊※[氏/一]安禮波伊可奈《イデアレハイカナ》」などその用例なるが、「乞」字を用ゐたる他の例は日本紀允恭卷に「厭乞戸母其蘭一莖《イヂトジソノアララキヒトモト》焉」とある文の自注に「厭乞此云2異提《イデ》」とあるにて意明かなり。さてここに同じ音の關係よりして「出で」の語に借用せるなり。「ナ」は「一」の歌の「キカナ」の「ナ」におなじ。即ち漕ぎ出でむと希ふ意なり。
○一首の意 二段落の歌にして第一段落は船に乘りて出でむとて熟田津にありて月をまてば、月も滿月となり、潮もよくなりぬとなり。第二段落はかく時よく進發にたよりよき状となり(71)たれば、今は漕き出でむとなり。これ伊豫の行宮より九州へ御進發あらむとする時に供奉中にありて額田王のよめるなるべし。
 
右檢2山上憶良大夫類聚歌林1曰、飛鳥岡本宮御宇天皇元年己丑九年丁酉十二月己已朔、壬午天皇大后幸2于伊豫湯宮1。後岡本宮馭宇天皇七年辛酉春正月丁酉朔壬寅御船|西〔左○〕征始就2于海路1。庚戌御船泊2于伊豫※[就/火]田津石湯行宮1。天皇御2覽昔日猶存之物1當時忽起2感愛之情1。所以因製2歌詠1爲2之哀傷1也。
 
○ 右は類聚歌林の文を引きて上の歌に對する異説をあげたるなり。
○飛鳥(ノ)岡本宮御宇天皇元年己丑 右は歌林の文中に舒明天皇の元年の干支を明にせる條なるべし。
○九年丁酉十二月己已朔壬午天皇大后幸2于伊豫湯宮1 こは舒明天皇の行幸をいへるにて直接に上の歌には關係なし。大后は即ち後世皇后といふに同じき語にして「オホキサキ」とよむ。後の皇極天皇をさせり。これは前の軍王の歌の左注にいへる行幸と同じ時の事をさせること明かなり。日本妃を案ずるにこの九年にこの行幸の事なくして、十二年にこの行幸の事を載す。而して月朔と日とは一致す。これによりて見れば、この事一事二傳となれるなるべし。(72)暦を以て推すに、九年の十二月朔は辛亥にして十−年の十二月朔は己已なれば、日本紀の傳を正しとすべし。而してこの時の行幸の事は本文の歌との關係なきが如くなれど、歌林の下文には關係深きなり。
○後岡本宮馭宇天皇七年辛酉春正月丁酉朔壬寅御船西征始就2于海路1 「馭于」は「御宇」におなじ。「西」は流布本「而」に誤れり。古本「西」に作れるを正しとす。この文日本紀に一致す。
○庚戌御船泊2于伊豫熟田津石湯行宮1 以上も日本紀の文に一致す。
○天皇御2覽昔日猶存之物1當時忽起2感愛之情1所以(ニ)因(テ)製(テ)2歌詠1爲v之哀傷也 昔舒明天皇の御時皇后として先天皇と共に行幸ありし時の物の猶存するをみそなはして當時の事を想起して御製の歌をよみて哀しみませりとなり。以上歌林の文なるなり。
 
即此歌者天皇御製焉。但額田王歌者別有2四首1。
 
○ これ左注者の案なり。注者曰はく、右の歌林によれば、この歌は齊明天皇の御製なりとなり。然るにこの歌には何等感傷の意なきなり。いぶかしといふべし。惟ふに恐らくは上の歌の外になほ少くとも一首別に感傷の意ある歌のありしならむが佚脱せしにや。次に額田王の歌は別に四首ありといへるにつきては諸の注釋家異論多し。額田王の歌の本集中にあるは四首に限らず。之を以て按ずるに、これも亦歌林につきていへるにて歌林にはこの時の額田王の歌といふもの別に四首あり。この歌を以つて額田王の歌とすべからずといふ意なるべ(73)し。
 
幸2于紀温泉1之時額田王作歌
 
○ 日本紀齊明天皇四年の條に「冬十月庚戌朔甲子幸2紀温湯1」とあり。「紀」は今の紀伊國なり。目録には紀伊とあり。温湯は今いふ温泉にして、牟婁郡の温湯即ち走湯なりしことは同紀三年の條に證見えたり。その温泉は今の湯崎村にある鉛山《カナヤマ》温泉これなりといふ。この四年の行幸に供奉して額田王のよめりしなり。
 
9 莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣|吾瀬子之《ワガセコガ》、射立爲兼《イタタシケム》、五可新何本《イツカシガモト》。
 
○莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣 この文、五七五の三句に相當するものなるが、古來難解の句たり。異説多けれど一として首肯すべきを見ず。かくて古くより訓を下せるものなかりしを仙覺はじめて訓を施せりといふこと彼が抄に見えたり。この訓即ち「ユフヅキノアフキテトヒシ」といふ今本の訓なり。されど、その訓の故由は悉しく注せりといふ書の傳はらねば知るに由なし。さてこの訓もうけ難きを以て爾來なほ種々の説あり。加之この本文も諸本異同甚しくして殆ど可否を決し難し。即ち疑を存して後考を俟つべきなり。
○吾瀬子之射立爲兼五可新何本 この下句は仙覺は「ワカセコガイタタセルカネイツカアハナム」とよめり。されど、それよりも、「射立爲兼」は古書によりて「イタタシケム」とよみ、「五可新何本」は(74)代匠記によりて「イツカシガモト」とよむをよしとすべきに似たり。但し、上句の意明かならねば、嚴密にはいづれをよしといふべきにあらず。
 
中皇命往2于紀伊温泉1之時御歌
 
○中皇命 この人また詳かならず。上の舒明天皇の時代の中皇命と異同如何。考ふべきことなり。
○往2于紀伊温泉1之時 古寫本多く「伊」字なし。紀伊の二字を用ゐたるは和銅以後の事なれば、なきが古の状なり。恐らくは後の人加へたるか。「往」は「いにます」とよむべきか。
○御歌 この時の御歌は以下三首なり。
 
10 君之齒母《キミガヨモ》、吾代毛所知哉《ワガヨモシラム》、磐代乃《イハシロノ》、岡之草根乎《ヲカノクサネヲ》、去來結手名《イザムスビテナ》。
 
○君之齒母 「キミガヨモ」とよむべし。「齒」は國語の晋語の注に「齒(ハ)年壽也」とある如く齡をいふによりて「ヨ」とよめり。「ヨ」は竹の節間をいふが如く人にとりては生と死との間即ち「イノチ」の義なり。次の「吾代」と相對していづれも「も」といふ助詞をつけたるなり。
○吾代毛所知哉 古來「ワガモヨシレヤ」とよみたれど、義をなさざるによりて本居宣長の説として「哉」を「武」の誤字として「シラム」とよむべしとせり。實に「ム」とよむはよかるべけれど、かくかける本一もなきによりて誤字説は從ひ難し。美夫君志には「哉」は疑の助辭なれば、「ム」とよむべし(75)といへり。この説をよしとす。禮記曾子問の正義に「哉者疑而量度之辭」といひ、古今韻會に「哉疑辭也」とあれば今の如く用ゐたるはいづれも、漢字の義訓なるにて誤字にはあらざるを知るべし。されば卷四「四九九」の歌に「雖見不能飽有哉《ミレドアカザラム》」卷十「一九四八」の歌に「鳴渡良哉《ナキワタルラム》」「二一三八」の歌に「雲隱良哉《クモガクルラム》」などあるみな疑辭の意の「哉」を「ム」に惜り用ゐたるなり。さて「吾代」の「よ」も上にいへる如く命の義なり。「知る」は下にいふ磐が君の壽をも吾が壽をも知りてありとなり。而してこの「シラム」は連體格にして下の磐につづくる語法なり。
○磐代之 「イハシロノ」とよむ。磐代は紀伊國日高郡にあり。後世岩代王子として熊野神社の末社のある地なり。
○岡之草根乎 「ヲカノクサネヲ」とよめり。「カヤネ」とよむべしといふ説も見ゆれど、古く「クサネ」とよみ來れるままにてよかるべし。その由はここはただの草をいへるにて萱《カヤ》といはすばあらざる所にあらざれはなり。さてこれはただ草の事をいへるにて根には深き意あることなく、ただ根ある草即ち地に生ひてある草の義と心得べし。
○去來 「イザ」とよむ事は日本紀神代卷上の自注に「去來此云2伊弉《イザ》1」と見え、又履仲卷に天皇の御諱に注しても上の如くいへり。「いざ」は「誘」の意にして人を催し、又自ら事を思ひ立つ意をいふ感動副詞にして紀記及び本集に例少なからず。
○結手名 「ムスビテナ」とよむ。「テ」は「ツ」といふ複語尾の未然形にして「ナ」は「一」の歌にいへる「家キカナ」「八」の歌の「コギイデナ」の「な」におなじ。草を結びて壽を祝する意をあらはすことは古の習(76)俗と見えたり。これは橘守部がいへる如く、鎭魂祭に緒を結びて壽を祝すると同じ意なりと覺ゆ。
 鎭魂祭とは天皇、皇后、皇太子等の爲に離れたる魂を招きて身體中に鎭め、御身の恙なきを祈る祭にしてこの御祭には御玉緒をとりて絲結を奉仕する儀あり。その儀は神武天皇宇麻志麻治命に勅して、その父饒速日命の天より受け來りし十種の瑞寶を以て天皇皇后の御魂を鎭め奉らしめられし事より起れり。この祭儀に奏する安知女の曲といふ謠ひ物ありて、その曲の末に「ヒト、フタ、ミ、ヨ、イツ、ムユ、ナナ、ヤ、コノ、タリヤ」と唱ふることあり。これを十度くりかへし唱へ、その度毎に舞人桙を突き祭官絲を結ぶなりといふ。
○一首の意 明かなり。これは磐代の名の「いは」といふ語に因みて君が壽も吾が壽もかの磐といふ名の如く常磐に竪磐に長く久しかれと祝ひてこの磐代の岡の草を結びて、祝はむとなり。この君とは誰をさしていはれたるかといふに、恐らくはその夫の君たるべきか、中皇命の正體明かならねば、その夫君も亦明かならず。
 
右は第一首なり。
 
11 吾勢子波《ワガセコハ》、借廬作良須《カリイホツクラス》、草無者《カヤナクバ》、小松下乃《コマツガシタノ》、草乎苅核《クサヲカラサネ》。
 
○吾勢子波 「ワガセコハ」とよむ。己が夫をさして親しみ敬ひていふ語なり。「セ」の義は、「一」にいへり。「コ」は親愛の意をあらはす爲に添へたるなり。假名書の例は集中に甚だ多きが故にこ(77)とさらにあけず。この「ハ」は下の「草をからさね」にかかる。
○借廬作良須 「カリイホツクラス」とよめり。「借廬」は上の「七」の歌に「借五百」とかけるにおなじ。「カリホ」ともいふべし。卷十五「三六九一」の歌に「波郡乎花可里保爾布伎弖《ハツヲハナカリホニフキテ》などその例なり。「ツクラス」は「作ル」をサ行四段に再び活用せしめたること上の「なのらさね」「たたすらし」の「のらす」「たたす」と同じ語遣にして作りたまふの義なり。これは假廬を作りたまふ料の草といふことなれば連體格たるなり。
○草無者 古來「カヤナクバ」とよめり。或は「クサナクバ」とよめる本もなきにあらねど、なほ「カヤ」といふによるべし。草を「カヤ」といふことは日本紀神代卷に「生2草祖草野姫〔三字右○〕1」とあるを古事記には「生2野神名鹿屋野比賣〔五字右○〕神1」とあるにて知るべし。但し、「カヤ」といふは屋に葺く料を主としていへるにてすべての草をば「カヤ」といへるにはあらず。かくてここには「カヤ」とよむこと本義に當れりといふべし。
○小松下之 「コマツガシタノ」とよむべし。「小松」の「コ」は小の意にあらずして美稱なりと間宮永好いへり。從ふべし。
○草乎苅核 舊訓「カヤヲカリサネ」とよみたれど、語をなさず。宜しく「クサヲカラサネ」とよむべし。上の草字は「かや」とよむ方まされど、ここの草字は「くさ」とよむべきこと本居宣長の説の如し。「下」を「もと」とよむ説も(元暦本に見え、攷證之に賛す)あれど、卷十六「三八〇二」の歌に「春之野乃下草靡我藻依《ハルノヌノシタクサナビキワレモヨリ》」など後までも森の下《シタ》草などいふ成語あるよりして「した」とよみ「くさ」とよむべき(78)なり。松の下の草をいふなり」「苅核」の「核」は果實の「サネ」といふ語を借りたるなり。「からさ」は「苅る」の敬語なる「からす」の未然形にして、これに希望の「ね」を添へたること「一」の歌の「名のらさね」と同じ語格なり。
 ○一首の意 わが君よ。旅宿の爲に假廬をつくりたまふに葺くべき萱無くば、かの松の下草を苅りたまへとなり。按ずるにこの御歌はただ萱の無きをよみたまへるにあらで、何か寓意あるに似たり。
 右第二首なり。
 
12 吾欲之《ワガホリシ》、野島波見世追《ヌシマハミセツ》。底深伎《ソコフカキ》、阿胡根能浦乃《アコネノウラノ》、珠曾不|拾〔左○〕《タマゾヒリハヌ》。
 
○吾欲之 「ワガホリシ」とよむ。日本紀武烈卷に「婀我褒屡※[手偏+施の旁]摩能《アガホルタマノ》」とあり。釋日本妃に引ける私記に「古歌謂v欲爲2保留〔二字右○〕1」とあり。「欲る」は良行四段活用の語にしてその連用形より「し」につづけたるなり。その欲する事柄は下句に明かなり。
○野島波 從來の諸説野島は淡路にのみありと思ひて紀伊に野島あるをいはず。本居宣長は玉勝間に日高郡鹽屋の浦の南に野島の里あり。その海邊をあこねの浦といひて貝の多く寄り集る所なりといへるより諸家多くこれに從へり。この野島は熊野街道にある村の名にして島にはあらず。
○見世追 「ミセツ」とよむべし。下にあげたる一説によりて「ミシヲ」とよむべしとし、(考)或は「世」字(79)に「シ」の音ありて「追」は「遠」の誤なりといふ説(美夫君志)あど、一もかくかける本なくいづれも強説なり。この故に本のまま「ミセツ」とよみてあるべし。さてここに「ミセツ」といへるによりて上の「波」は「ヲバ」の意なること知られたり。而してこれまでにて一段落をなせるなり。
○底深伎 「ソコフカキ」とよむ。海の水の深きをいへるなるが、ここは珠を拾はぬ理由としていへるなり。
○阿胡根能浦乃 「アコネノウラノ」といふ。この浦は玉勝間の説によりて野島村の邊の海濱の名なるを知るべし。これを「わかのうら」なりとするは例の強説なり。さてこの浦は貝のよくより集まる所なる由玉勝間にいへり。
○珠曾不拾 流布本「捨」に作れど、多くの古寫本「拾」につくれるを正しとす。讀方も「タマゾヒロハヌ」とよみたれど、代匠記に「タマゾヒリハヌ」とよめるをよしとす。本集假名書の例には「ヒリフ」といふ語多し。卷十五「三六一四」の歌に「於伎都白玉比利比弖由賀名《オキツシラタマヒリヒテユカナ》」「三六二七」の歌に「比里比等里《ヒリヒトリ》」「三七〇九」の歌に「可比乎比利布等《カヒヲヒリフト》」卷十八「四〇三八」の歌に「多麻母比利波牟《タマモヒリハム》」卷二十「四四一一」の歌に「可比曾比里弊流《カヒソヒリヘル》」などあり。(卷十四の「三四〇〇」に「多麻等比呂波牟《タマトヒロハム》」とあれど、これは東歌なれば、古義にいへる如く普通の例とすべからず)さてここに珠といはれたるは貝をさしたりとも眞珠をさしたりともいふべし。眞珠は「またま」といひて實に貝の穀に生ずるものなれば、汎く貝殻をば珠といはれたりとすともそはただの比喩にはあらぬなり。「曾」は「ヲゾ」の意にて用ゐたり。卷十三の長歌に「木國之濱爾因云鰒珠將拾跡云而《キノクニノハマニヨルトフアハビタマヒリハムトイヒテ》」とあるもの、この邊の事をよめる(80)なるべし。しかるに眞珠は拾はるるものにあらずと守部のいへるは極端の説なり。浦にて眞珠をもつ貝殻を拾ひて、これを直ちに珠を拾ひたりといふこと普通の語づかひにあらずや。
○一首の意 このままにては上に「野島はみせつ」といひて、しかも下に「珠ぞ拾はぬ」といふによりて、上下打合はねば、「みしを」とすべしといふ説の出でたるならむが、その「みせつ」とあるが、この歌の主眼なれば、このままにて解釋すべきものとす。今歌の意を考ふるに、野島を見たれど、貝を拾はずといへるによりて野島と阿古根浦とは同じ處か、然らずば程遠からず一目に見渡さるる處なるべき心地す。しかも野島は見せつとあるによりて考ふれば、これも亦見渡さるる處にして、そこを遠く見たるさまに思はる。然るに、この野島は里の名にして島にあらず。而して若し、野島の里を通りつつよまれたりとせば、歌の意にかなはず。按ずるに、これは海上より野島の里を眺めたまひしならむ。然すれば野島をば「見せつ」といふ語も由ありて聞ゆるなり。この頃海路紀伊に行きし例は卷七の歌などに多く見ゆ。一例をいはば、「一二二四」の歌に「大葉山霞蒙狹夜深而吾船將泊停不知文《オホバヤマカスミタナビキサヨフケテワガフネハテムトマリシラズモ》」。さてかく海上を通り、そこより見れば、船の進行の自然の順序として、吾が來て見むとかねて冀ひをりし野島をば見せてくれたり。然るにその野島に來らむ目的は、その海岸なる名高きあこねの浦の玉を拾はむ目的なりしに、今は海上よりここを經て上陸することなければあこねの浦にてかねて拾はむと欲したりし玉をば拾ふことぞなきと歎思せるなり。船の上よりの眺めなれば、海は底深くして玉を拾ひ得ぬも由ありて聞ゆるなり。この時の旅路は往か還かに海路によらせられしによりての歌なるべし。
 
(81)或頭云、吾欲子島羽見遠《ワガホリシコジマハミシヲ》、
 
○或頭云 「或」の下に「本」といふ字を脱せるならむ。「頭」は蓋し頭句の意にしてここには第一句第二句をさせるものなるべし。その或本によれば、この歌の第一二句は
  「ワガホリシコジマハミシヲ」
とありしとなり。その「子島」とは如何なる土地にありしものか詳かならず。
 以上第三首なり。
 
右※[手偏+僉]2山上憶良大夫類聚歌林1曰天皇御製歌云云
                                
○ 類聚歌林の傳ふる所によれば、この歌は齊明天皇の御製とせる傳のありしなり。さてここに疑はしきは右とあるは三首すべてか、野島の一首のみなりやといふ事なり。三首の歌の意を比ぶるに、前二首と後一首とは意一貫せぬやうなり。然らば、この後一首のみにいへるか。なほ考ふべし。
 
中大兄近江宮御宇天皇三山歌一首
 
○中大兄 天智天草の御名なり。今ここにては齊明天皇御宇の歌を集めたるものなれば、その時代の紀録のままに記せるなり。これを以て萬葉集はその原本のままに傳はり、改刪を經ざ(82)るものなるを思ふべし。
○近江宮御宇天皇 天智天皇は近江國滋賀の都にましき。故にかく申す。これは上の中大兄の御名に對しての注にして多くの古本に小字にかけるをよしとす。
○三山歌 三山は天香山【148米】畝傍山【199米】耳成山【139米】の三をいふ。香山の所在はすでにいへり。畝傍山は高市郡白橿村にあり。耳梨山は磯城郡(元は十市郡)木原村の南方にありて、四面田野なり。この三の山はいづれも高き山にはあらねど、大和の國中《クニナカ》の平原中に鼎立して著しく目につくを以て古來めではやされしによりてこの歌の如き傳説も古くより生じたるならむ。この歌はその傳説を基として述べたまへるなり。
 
13 高山波雲根火雄男志等《カグヤマハウネヒヲヲシト》、耳梨與《ミミナシト》、相諍競伎《アヒアラソヒキ》。神代從《カミヨヨリ》、如此爾有良之《カクナルラシ》、古昔母《イニシヘモ》、然爾有許曾《シカナレコソ》、虚蝉毛《ウツセミモ》、嬬乎《ツマヲ》、相格良思吉《アラソフラシキ》。
 
○高山波 「カグヤマハ」とよむ。「高」を「カグ」にあてたるは古き音によれりと見ゆ。「高」は假名に「カウ」とかくがその「ウ」は「ug」に相當するものにあらずしてワ行の「ウ」に近きものなりしことはこの字が六豪の韻にして、韻鏡にては效攝に屬し、今の支那音にては「kao」と書けば、「グ」の音に導かるべき由なく見ゆ。されば、代匠記には「カグ山」を高山とかくは神代より他山に異なれば、義を以てかけりといへれど、これは覺束なき説なり。又攷證には「香」「望」を「かぐ」「まぐ」の借字とせると同じさまに説きたれど、それらは「kan」「mang」にして「高」は「kao」なれば音尾の性質全く異なり。さ(83)れば、現今知られたる字音より推しては「かぐ」に「高」字を宛つべきいはれなきに似たり。されど、美夫君志にいへる如く、「カガ」の音に借用したる例、日本紀孝徳卷白雉元年條にある「猪名公高見〔二字右○〕」、天武卷上の末に「大紫韋那公高見〔二字右○〕」と見ゆる人をば、その子大村の墓志には「紫冠威奈|鏡〔右○〕公」とかけり。これにより古くはかく轉ぜし理由ありきと見ゆ。されど、これは「香」字の「カグ」とは異にして、太田全齋の按の如く入聲に轉じたるものなるべきかとも考へらる。(全齋は、「※[高+おおざと]」「※[言+高]」「※[口+高]」皆「高」に从ひて「カク」の音なるを證とせり。)
○雲根火雄男志等 「ウネビヲヲシト」とよむ。「雲根火」は畝傍山なり。この句のよみ方、仙覺は「畝傍男々し」の義として畝傍山は男神にて男々しきをいふとしたりしより後、諸家これに從へるを木下|幸文《タカフミ》と大神眞潮とは「畝傍を愛しと」の意にして、畝傍山を女神とし、耳成山と香山とを男神として二の男神が一の女神を爭ふ意に説かむことを主張せり。この二人の説暗合なるが、よく歌の意を得たりといふべし。「をし」は愛すべき意をいへる形容詞にして、その例は卷十七「三九〇四」の歌に「宇梅能花伊都波乎良自等伊登波禰登佐吉乃盛波乎思吉物奈利《ウメノハナイツハヲラジトイトハネドサキノサカリハヲシキモノナリ》」とあり。鴛鴦を「をし」といふも雌雄互に相愛すること著しき鳥なればなり。
○耳梨與 「ミミナシト」とよむ。「耳成山と」なり。「香山と耳成山とが」なり。「與」は意義をとりて「ト」の助詞をあらはせるなり。
○相諍競伎 「アヒアラソヒキ」とよむ。「諍」は「爭」と通用する文字にして、一字にて、あらそふとよむべき文字なるが、競諍とも諍競とも熟字にして用ゐたるなり。「諍競」の字面は他に未だ見ねど、(84)爭競の字面は後漢書卓茂傳の注に引ける東漢觀記の文に「與v人未3嘗有2爭競1」とあり。考に「相諍」の二字にて足るに、「競を添へしは奈良人のくせなり」といひたれど、よくも考へぬ説といふべし。これは「諍競」にて「あらそふ」の語をあらはせるに「相」字を冠せるにてその「相競」の字面が本邦人の作爲にあらぬことは明かなり。さて香山と耳成山とが畝傍山をば各得むとて諍ひし傳説ありしならむ。それに似たる傳説下に引く播磨風土記に見ゆ。以上一段落なり。
○神代從 「カミヨヨリ」とよむ。爾雅に「從自也」と見ゆ。「ヨリ」と訓するはこの義によれり。
○如此爾有良之 舊訓「カカルニアラシ」とし、又「カクニアルラシ」とよめる古寫本もあり。僻案抄には「カヽルナルラシ」とよみ、考に「シカナルラシ」とよめり。「如此」は「カク」とよむを普通とすれば、「カクニアルラシ」とよむべきなるが、之を約めて略解の如く「カクナルラシ」とよみて可なり「ラシ」は推量する複語尾なり。即ち上の傳説は神代の事を説けるによりていふ。
○古昔母 「イニシヘモ」とよむ。古昔二字にて「イニシヘ」なり。この熟字は文選に多く、長笛賦、思舊賦、左思詠史詩などに見ゆ。「モ」は下なる「虚蝉毛《ウツセミモ》」とあるに對す。
○然爾有許曾 「シカニアレコソ」とよみてよき所なるが約めて「シカナレコソ」とよめるに從ふべし。さてこの「アレ」の下には後世ならば、接續助詞「ば」を加ふべきなるを、「ば」を加ふることなくして下の句に對して條件たるを示すものにして古の語法の一格たり。而してかかる例は集中に少からず。かくてその條件と歸結との關係を緊密に示す爲にその「アレ」の下に「コソ」といふ係助詞を加へたるものなるが、その「コソ」の勢力は下の「アラソフラシキ」にかかれるものなり。
(85)○虚蝉毛 「ウツセミモ」とよむ。「虚」を「ウツ」とよむは中空なるを「ウツボ」といふに同じ語なるを借り用ゐたるなり。「虚蝉」の文字は蝉の脱穀をさせるものの如く見ゆれど、そはただ語のこゑをかりたるまでのものにして、本來は「現《ウツ》シ身」にして現の世に身をもてる人をいふなるべし。「ウツシ」といふ語は「シク、シキ」活用の形容詞の語幹なるが、これより直ちに體言につづきて熟語の體言を合成せるもの即ち「ウツシ身」なり。この形式によれる語の例は「ムナシ煙」「オナジ人」「カナシ妹」「ウレシ涙」などあり。さてその「ウツシ身」より轉じて「ウツソ身」となり「ウツセミ」ともなれるなり。この二者の例本集に頗る多し。今例をあげず。
○嬬乎相格良思吉 舊訓「ツマヲアヒウツラシキ」とよみたれど義をなさず。古寫本どもに種々の訓を試みたれど、可なるを見ず。管見に「あらそふらしきとよむべし」といひ、考に「アヒウツラシキ」とよみたるが、管見の説によりて「ツマヲアラソフラシキ」とよむをよしとす。「嬬」は博雅に「妻謂2之嬬1一曰妾」とあるによりて「ツマ」とよむべきを見る。さて「格」字はそのままにてあるべきを古寫本に「挌」と手扁に書けるものも往々あるによりて、必ず「挌」字なるべしといふ説(代匠記)あるも極端なり。先づ「格」「挌」通ずるのみならず、「格」字中に牴牾の意あり。漢書又文選にある司馬相如の子虚賦に「乃使2專諸之倫1手格2此獣1」とあるなど格挌相通の由來久しきを證するものなり。かくて「格」即ち「闘」なれば、今も「格闘」の熟字あり。相格は相格闘する義なればこれを「アラソフ」といふも當然なり。「ラシキ」は平安朝以後には「ラシ」とのみいひて語形に変化なくなりしが、この時代には」「ラシ」「ラシキ」といふ變化を有せりしなり。今ここにいふ「ラシキ」は現に存することの(86)理由を求めてかからむと推量せるなり。かくて「こそ」といふ係ある場合に連體形ノ「ラシキ」を以てそが結とするは古語の一格にして平安朝以後にはなき所なり。卷六「一〇六五」の歌に「諾石社見人毎爾語嗣偲家良思吉《ウベシコソミルヒトゴトニカタリツギシヌビケラシキ》」とあるその例なり。
〇一首の意 古へよりの傳説に曰はく、天香山といふ男神は畝傍山といふ女神を愛しと思ひて耳梨山といふ男神と相爭ひきといふ。今大和の平野に聳ゆる三山を思ふにまさに古の三神の諍ひを思ひ出づるなり。あはれ古もかかることありといへば一人の女を二人の男の相爭ふは神代よりのわざにこそありけれ。古へもかかるによりてこそ現し世の今の人々も妻をあらそふことの存するならめとなり。即ち妻あらそひといふ事は神代よりのならはしにこそあらめと推量せられたるなり。
 
反歌
 
14 高山與《カグヤマト》、耳梨山與《ミミナシヤマト》、相之時《アヒシトキ》、立見爾來之《タチテミニコシ》、伊奈美國波良《イナミクニバラ》。
 
○相之時 「アヒシトキ」とは上の説によりて立ちあらそひし時をいふと知るべし。舊説には高山を女山とし、相を男女の逢ふとせりしにより意味通ぜざりき。何となれば、高山を女山とせば、本歌によれば、畝傍山は男山にして、高山と相諍ふ耳梨山も女山ならざるべからず。しかるに反歌にては男女相逢ふとせば、高山か耳梨山かが各男女の別あるべきなり。かくては前後矛盾せりといふべし。されば上にいへる如く香山と耳梨山との二の男神が畝傍山なる女神(87)を各獨占せむとて立ちあらそひし時をいふと見るべし。「アヒ」といふ語は今「タチアヒ」といふにおなじく敵對の行動に出づるをいふ。「タタカヒ」といふも「タタキアヒ」なり。日本紀神功卷の歌に「宇摩比等波宇摩譬苫奴知野《ウマヒトハウマヒトトチヤ》、伊徒姑幡茂伊徒姑奴池《イトコハモイトコドチ》、伊弉阿波那和例波《イザアハナワレハ》」とあり。この「アハナ」は即ち相闘の意なること著しきを見よ。
○立見爾來之 「タチテミニコシ」とよむ。「來」を「シ」にてうくるに古は未然形の「コ」よりするを常とせり。古事記仲哀卷に「麻郡理許斯美岐叙《マツリコシキミゾ》」とあるをはじめ本集又平安朝の文にも例多し。「立つ」とは何かといふに旅に出でたつを單に「立つ」といふことは古くよりの語にして卷十七「四〇〇八」の歌に「無良等理能安佐太知伊奈婆《ムラトリノアサタチイナバ》」などいふこれその例なり。ここに「立ちて見に來し」といへるにはその主格なかるべからず。その立ちて見に來し人は誰なるかといふに、これはかの播磨風土記なる故事の阿菩大神の如きをさせるならむ。ここにその播磨風土記の傳説をあぐべし。これはその揖保郡越部里の條に載するものにして次の如し。
  出雲國阿菩大神聞2大倭國畝火香山耳梨三山相闘1、此欲2諫止1上來之時、到2於此處1乃聞2闘止1覆其所v乘之船1而坐之。故號2神阜1阜形似v覆。
 (播磨風土記ははじめ世に著はれず、これらの文も僅に仙覺抄に引けるによりしが、その寫本は惡本なりしによりて「神阜」の「阜」字を「集」字と誤りしによりて學者之を「神|集《ツメ》」とよみ、往々今「神詰」といへる地なるべしといひ、その神詰といへる地は今の印南郡神爪なるべしといふ説ありたれど、誤なり。これは三條西家本によりて揖保郡神阜なること明かなるを以て第一に(88)郡を異にせり。その神阜は井上通泰氏の説の如く今の揖保郡林田の南方なる神岡にあたるといふをよしとす。)
さてここに「立ちて見に來し」とよめるはその阿菩大神が出雲を立ちて來たまひしをいへるなり。さて又ここに「見に來し」とよめれば、その阿菩大神の出雲を旅立ちまして、來たまひしはその諍闘を見むが爲に來ましつるやうに聞ゆれど、その實はその諍を諫め止めむ爲にいでましつる由なるは播磨風土記に明かなり。しかるをただ「見に來し」といへるは詞足らぬやうに見ゆれど、これ古人の大やうなる所にして今人の如くこせこせせず、かへりて含蓄ありといふべし。
○伊奈美國波良 「イナミクニバラ」なり。「伊奈美」は今「印南」と書き播磨の郡名として存し、和名鈔には「播磨國印南郡伊奈美」と見え、古事記には「稻日」ともかける地なり。「國原」は「二」の歌にいへるが、後世國とも郡とも名づくべき一區劃をば古はすべて「くに」といひしなり。ここに印南國原とあるによらば、阿菩大神が來りて止まり給ひし所は印南郡なるべく考へらるるに播磨風土記にては揖保郡の神阜の條にいへれば、この御歌は播磨風土記の傳説と全然一なる傳説によられしにあらずして別に印南郡までおはして止まりたまひしといふ少しく異なる傳説の存したりしを思ふべし。然るにかの仙覺抄の風土記に神阜とあるべきを神集とかけるによりて印南郡の神爪とせるは印南といふことには都合よきやうなれど、風土記の郡とは全くあはず。しかも風土記を離れてはこの神爪も出典なきことになれば、この神爪が印南郡にあれば(89)とてここの御歌の證とはならぬなり。さてこの一句、この歌の眞意を明にすべき重大なる關鍵なり。その故は次にいふべし。
○一首の意 かの神代に香山と耳成山とが畝傍山を中心に、諍ひて闘ふ由をきこしめして出雲の阿菩大神がその状をも見、かつはそれを諫め止めむとてその住める出雲國を立ち出でて來り給ひしが、諍止みぬとききたまひてここに止まりましぬときく、その印南の國原はここぞとなり。
 今この反歌につきて考ふれば、この御歌は、印南の地にてよまれたるものと解せざるべからず。然るときは本歌たる長歌も亦同時によまれしものなるが故に、この歌の解につきてはその意を以て臨まるべからす。然るに、從來この長歌及び反歌につきてその歌意を深くも考へず、眞をあやまり、臆説を逞くせるもの少からず。先づ本書に「三山歌」と題せるによりて讀者先づこれにとらはれ、この御製はこの三山を目前に見ての御歌と思へるやうなり。されど反歌によれば播磨にての御詠といはざるべからず。吾人を以て見れば、この御詠は中大兄皇子まだ皇太子におはしまさぬ時播磨國にいでまし印南の地にてこの傳説をきこしめし、甚だ面白きことをききつるよと思し召し、はるかにかの日常目馴れたまひし三山を思ひやりたまひてこの御詠ありしならむ。かくて反歌において、その印南國原を主題としてよみたまひ、その阿菩大神の御名もなく、甚しき省略あるはこれその土地にありてその傳説の著しくこの皇子の主觀を領したりし時によまれしによることを證すべし。かくて右の傳説を主としたまひし(90)によりて本歌の末に「らしき」といふ語を用ゐて對比せしめられしは現今の世相のかくあるは古よりのならはしにやとのたまへるなり。然るに、從來の注釋家多くは、本歌と反歌とを無關係に説き、その本歌に基づきて天智天皇と天武天皇との御后あらそひありきとし、又は壬申の亂これに基づくなどいへるは言の輕重を辨へず、本歌と反歌との關係をも無視したるものにして歌を知れる人の言とはいふべからず。長等の山風、美夫君志等いづれも大家の言ながら余はすべてこの歌を曲解せりといふを憚らず。
 
15 渡津海乃《ワタツミノ》、豐旗雲爾《トヨハタクモニ》、伊理比沙之《イリヒサシ》、今夜乃月夜《コヨヒノツクヨ》、清明己曾《アキラケクコソ》。
 
○渡津海 「ワタツミ」とよむ。「ワタ」は渡の意にして海をさす。「ツ」は「天ツ神」「國ツ神」の「ツ」と同じく「ミ」は神をさすものにして海神を「ワタツミ」といふこと「山祇《ヤマツミ》」といふに似たり。然るに後世轉じて「海」をもいへり。ここはその轉じたる意にして海原をさされたるなり。
○豐旗雲 「トヨハタグモ」とよむ。「豐」は「豐葦原」「豐榮登」などの「トヨ」にて美稱、「旗雲」は旗又は布のなびける如くに棚引ける雲をいふ。旗雲の名は文徳實録卷十天安二年六月庚寅朔「庚子(十一日)早朝有2白雲1自v艮至v坤、時人謂2之旗雲1」又八月己丑朔「丁未(十九日)是夜有v雲竟v天自v艮至v坤時人謂2之旗雲1」とあるをその例とす。八雲御抄に「とよはた雲は大なる旗に似てあかき夕の雲なり」と見え、又諸の古本の朱書の傍注に「古語海雲也、當2夕日1雲赤色也似v幡也。入日能時者月光清也」と見えたり。今も秋の空高くすみてかく布を引ける如き雲見ゆるは快晴の徴と信ぜり。
(91)○伊理比沙之 「イリヒサシ」とよむ。日光の射るを「さす」といへるは「朝日さす」といへる語にても知らるべし。卷二「一三五」の歌に「天傳入日刺奴禮《アマヅタフイリヒサシヌレ》」卷十七「四〇〇三」の歌に「阿佐比左之曾我比爾見由流《アサヒサシソガヒニミユル》」など見ゆ。
○今夜乃月夜 舊訓「コヨヒノツキヨ」とよみたれど、「ツクヨ」とよむべし。「今夜」を「コヨヒ」とよむは「コノヨヒ」の義なり。この語の假名書の例は少からぬが、卷二十「四四八九」の歌に「奴婆玉乃己與比能郡久欲可須美多流良牟《ヌバタマノコヨヒノツクヨカスミタルラム》」などあり。「月夜」を「ツクヨ」とよむこと古語の姿にして、上の例にも見ゆるが、なほいはば、卷十八「四〇五四」の歌に「登毛之備乎都久欲爾奈蘇倍《トモシビヲツクヨニナゾヘ》」卷二十「四四五三」の歌に「伎欲伎都久欲爾《キヨキツクヨニ》」などあり。今夜の月夜といへる、重言に似たれど、「今日のよき日」などいふに似て面白き古のいひ方といふべし。
○清明己曾 舊訓「スミアカクコソ」とよめるを僻案抄に「サヤケシトコソ」とよみ、考には日本紀に「清明心」を「アキラケキ心」とよめるを證として、「アキラケクコソ」とよみ、古義は「明」を「照」の誤りとして「キヨクテリコソ」とよめり。されどこの「明」を「照」とかける本は一もなければ、古義の説は從ひがたし。考の説をよしとす。卷二十「四四六六」の歌に「安伎良氣伎名爾於布等毛乃乎《アキラケキナニオフトモノヲ》」とあるはこの詞の當時行はれし證なり。さてこの「こそ」を近頃の説に願の辭とせるもの往々見ゆれど、そは歌の意にふさはず。若し願の意とせば、上は動詞存在詞の連用形を以てせざるべからず。かくて「きよくてりこそ」などいふよみ方も出できたるなれど、さる時は「入日さし」をも願ふ目的にせずば、上下うち合はず。入日さしをも願ふ意にせば、この歌何を見てよめりやもわからぬ(92)こととなりて全く意をなさぬなり。こは實に入日の赤くさして、旗雲にうるはしく映ぜる所謂夕やけの現在の景色を見て、豫め今夜の月は明かならむかしと推測するものなれば、下に「アラメ」といふべきを略せるなり。かく係助詞にて止め、下を略するは一種の語格なり。
○一首の意 明かなれば、贅せず。但しこれ亦播磨印南地方の海邊にての御詠なるべきは語意にて考ふべし。
 
右一首歌今案不v似2反歌1也。但舊本以2此歌1載2於反歌1故今猶載2此次〔左○〕1。亦紀曰、天豐財重日足姫天皇先四年乙己立2(爲〔左・〕)天皇1爲2皇太子1。
 
○右一首歌今案不v似反歌1也 げにこの左注の如くこの歌は上の三山歌には關係なきなり。
○但舊本以2此歌1載2於反歌1故今猶載2此次1 この末の字流布本「歟」とすれど、古寫本多くは「次」とかき又下なる井戸王和歌の左注にも同じ趣の語遣もあれば、「次」をよしとすべし。按ずるにこれは「次」を「※[歟の草書]」と書き誤りしなるべし。かくて「コノナミ」又は「ココ」とよむべし。これはこの左注の記者の言にして、舊本にかく載せたるによりて、その故明かならねど、疑を存しつつもここに載すとなり。恐らくはこれ既にいへる如く播磨にての御詠なれば、上の御歌に引つづき載せたるなれど、別の歌にして新考の説の如く、題辭のありしが脱せしものなるべし。
○亦紀曰云々 これは日本紀をひけるものなり。「先四年」は重祚に對して初度の御位の時即ち皇極天皇の御宇をさせり。この四年に中大兄皇子を皇太子に立て給ひしは紀に合す。但し(93)「立爲〔右○〕」の「爲」字古寫本になきもの多し。それをよしとす。天皇といへるは天智天皇なり。左注の記者の文なるが故なり。
 
近江大津宮御宇天皇代 天命開別天皇
 
○近江大津宮 大津宮は天智天皇の都にして、その址は今の大津市附近にあり。日本紀に近江に遷都の事見ゆれど、大津宮の事見えず。續日本紀慶雲四年七月の詔に「近江大津宮御宇大倭根子天皇云々」とあり。
○天命開別天皇 天智天皇の御稱號にして古寫本に小字にせるをよしとす。「アメミコトヒラカスワケノスメラミコト」とよむ。冷泉本にこの下に「謚曰天智天皇」とあるは後の※[手偏+讒の旁]入なり。
 
天皇詔2内大臣藤原朝臣1競2憐春山萬花之艶、秋山千葉之彩1時、額田王以v歌判之歌
 
○内大臣藤原朝臣 名高き鎌足公なり。日本紀天智卷八年十月の條に鎌足薨去の前日に皇太弟をその邸に遣して大織冠と大臣の位とを授け藤原の氏を賜ひしこと見えたり。又朝臣の姓は天武天皇の御時に賜ひしものなるをすべて前にめぐらしてかけるなり。考に「朝臣」を「卿」に改めたるは強ひ事なり。
○競憐春山萬花之艶、秋山千葉之彩1時、 「競憐」は「あはれをきほふ」と直譯すべきものなれど、熟した(94)る字面とは見えず。春山と秋山と、萬花と千葉と艶と彩と完全に相對したり。これ當時の漢文の風として對偶をなせるものなり。「萬花」は種々の花をさす。杜甫詩に「紫萼扶2千蕊1黄鬚照2萬花1」と見ゆ。「艶」は美色なり。左傳桓公元年注に「美色曰v艶」とあり。國語にては「にほひ」といふべし。千葉は多くの黄葉なり。魏收が詩に「神山千葉照、仙草百枝香」とあり。さて上のよみ方如何にすべきかといふに、考には「ハルヤマノハナノニホヒトアキヤマノモミヂバノイロトヲアラソハセタマフトキ」とよめり。姑くこれに從ふ。これ春山の花の咲き艶へると秋の黄葉の美しさといづれか優り、いづれか劣れると大臣に詔して諸臣に意見を闘はしめたまひしをいふなり。この時の事に附會せしにや、世に「天智天皇花盡」といふ書あり。とるに足らぬものなれど、その據とする所はここにあるべし。
○以v歌判之歌 「判」は「ことわる」といふ。判事といふ官を古語に「コトワルツカサ」とよめるにてしるべし。「之」は助字なり、よまでもよし。事を判ち可否を明かにするをいふ。後世種々の場合の風流の催は蓋しこの時既にありしなり。なほ歌の判といふことは後世歌合にいふは左右の二首の優劣を判ずる事なるが、ここにいふものは歌の優劣を判ずるためにあらずして春の花と秋の黄葉との優劣を判ずるなり。その判定をば歌にていひあらはすなり。春と秋といづれかよきといへることは今も人々の云ふ所なるが、その問題の既に千數百年前より起りてありしことは面白きことといふべし。
 
(95)16 冬木成《フユゴモリ》、春去來者《ハルサリクレバ》、不喧有之《ナカザリシ》、鳥毛來鳴奴《トリモキナキヌ》、不開有之《サカザリシ》、花毛佐家禮杼《ハナモサケレド》、山乎茂《ヤマヲシゲミ》、入而毛不取《イリテモトラズ》、草深《クサフカミ》、執手母不見《トリテモミズ》。秋山乃《アキヤマノ》、木葉乎見而者《コノハヲミテハ》。黄葉乎婆《ミモミヂヲバ》、取而曾思奴布《トリテゾシヌフ》、青乎者《アヲキヲバ》、置而曾歎久《オキテゾナゲク》、曾許之恨之《ソコシウラメシ》。秋山吾者《アキヤマワレハ》。
 
○冬木成 古訓に「フユコナリ」とよみしを僻案抄に「成」を「戍」の誤とし、考には「盛」の誤とし、いづれも「フユゴモリ」とよむべしといへり。げに春の枕詞として「冬隱」とかけるもの集中に二三〈卷七「一三三六」卷十「一八二四」「一八九一」)既に例證あれば從ふべし。但し、「成」字を「戍」又は「盛」り誤字なりとするは當らず。集中「冬木成」とかけるものは例多くして(卷二「一九九」卷三「三八二」卷六「九七一」卷九「一七〇五」卷十三「三二二一」)それらを一々誤寫なりとはいひ難し。こは美夫君志に古、「成」「盛」相通ぜしことを論ずるに從ふべし。たとへば、周禮考工記の注に「盛之言成也」といひ、釋名の釋言語に、「成盛也」とあるが如きこれなり。「冬ごもり」を春の枕詞とするは、冬は萬物内にこもり、春になりて再び張り出づるをいへるなりといふ。
○春去來者 「ハルサリクレバ」とよむ。卷五「八三五」の歌に「波流佐良婆奈良能美夜故爾※[口+羊]佐宜多麻波禰《ハルサラバナラノミヤコニメサゲタマハネ》」卷十「一八六五」の歌に「春避來之《ハルサリクラシ》」卷十三「三三二四」の歌に「春避者《ハルサレバ》」卷十六「三七九一」の歌に「春避而野邊回者《ハルサリテヌベヲメグレバ》」なども同じ詞の例なり。又「秋サレバ」といふ語あり。「朝サレバ」といふ語あり。「夕サレバ」といふ語あり。「夜サリ」といふ語あるも「夜サル」の居體言なり。この語は卷十「一八二六」の歌に「春之在者婁乎求等《ハルサレバツマヲモトムト》」とあり、その外「一八九七」「一九七九」にも「春之在者」とかけり。これに(96)よりて從來「春」と「在」との間に「之」音の加はるものと考へられたるが如し。然るにかく書けるは卷十のみにして、其他の卷には「左禮婆」(卷十五【「三六二七」「三六九九」】卷十八「四一一一」)「佐禮波」(卷五「八一八」卷十五「三七一四」卷十八「四〇八九」)「佐禮婆」(卷五【「八二五」「八五九」】卷二十「四三一〇」「佐禮播」(卷十七「三九〇七」)「散禮婆」(卷十五「三六二七」)「左良波」(卷五「八三五」卷十五「三六二九」)「左良婆」卷十七【「三九九三」「三九九七」】)「左良受」(卷十七「四〇〇三」)「避」(卷十「一八六五」卷十三「三三二四」卷十六「三九七一」)等の如く書きたるあり。その最も多きは「去」(六十一例あり)字を用ゐたるものなるが、これにつきては古來種々の説ありたれど、首肯しかねたり。これはなほ「去」字の義にて説くを正當に近しとすべし。「さる」といふ語は進行移動の意ある動詞にしてこゝに「去」字をあてたるはその主要なる意にあてたるものといふべし。即ち「さる」は必ずしも常に漢字の「去」字の義にはあらねど「去」字は國語「さる」の意の主要なる部分を代表するものなるべし。「さる」には「去」字の意のみならぬは「しさる」は「後りにさる」の義にして「ゐざる」は「居たるままの姿にてさる」の義なれば、いづれも「去」の義よりも移動進行の義なるを見るべし。されば「さる」といふ語は動き移るを原義とし、その動き移るさまの差別によりて或は漢字の「去」にあたる場合もあり、或は「來」にあたる場合もありと見られたり。かく見れば、「春さりくれば」は春といふ時が移りてその時となりくれば、の義となり、その他「秋さらば」「夕されば」「朝さらば」等も皆この意なるを知るに足るべし。かくてこの語は通常の四段活用にして卷十の「之在」とかけるは一種の洒落書にして「之」と「在」との合成語にはあらぬものなるべし。以上の「さる」の説は國學院雜誌に徳田淨といふ人の「夕されば考」と題して論ぜる所の要旨をとりて(97)愚見をも加へてかけるなり。徳田氏の説古來の諸説にまさり、余も亦同じ意見なれば、こゝに之を紹介し、かたがた余の意見をも表明せるなり。
○不喧有之 「ナカザリシ」とよむ。「喧」は漢書外戚傳なる武帝悼李夫人賦に「悲愁於邑喧不v可v止兮」とあるに顔師古注して「朝鮮之間謂2小兒泣不1v止爲v喧、音許遠反」といへるを見て「なく」の訓をつくる由あるを見るべし。本集中これを「なく」に用ゐたる例少からず。卷二「二〇七」の歌に「畝火乃山爾喧烏之音母不所聞《ウネビノヤマニナクトリノコヱモキコエズ》」卷七「一一六一」の歌に「秋風寒暮丹鴈喧渡《アキカゼノサムキユフベニカリナキワタル》」卷八「一四九〇」の歌に「霍公鳥雖待不來喧蒲草玉爾貫日乎未遠美香《ホトトギスマテドキナカズアヤメグサタマニヌクヒヲイマダトホミカ》」卷十に四首、卷十九に十二首あり。冬の頃は來鳴かざりし鳥の春になれば、來り鳴くをいへるなり。
○佐家禮杼 「さきあり」を約めて「さけり」といふその已然形に「ど」をつけたるなり。冬には咲かずありし花も咲きてあれどといふなり。上の「きなきぬ」とこれと對句をなせるが、以て下につゞけたるなり。○山乎茂 「茂」は舊訓「シゲミ」とよみたるを考に「しみ」とよみたりしより諸家皆それによれり。かくいふ場合の「み」は「しみ」にても「しげみ」にても同じ性質なるべきものにして、上の「心を痛み」「風を時じみ」の「み」におなじく形容詞の語幹につき動詞の如くするものなれば、この場合の「しげ」若くは「し」は形容詞の語幹ならざるべからず。「しげ」は形容詞の語幹なれば論ずるまでもなき事なるが、「し」を形容詞の語幹とする時はこの「し」は活用してその全形が「しく」「しし」「しき」又は「しく」「し」「しき」とやうなる形を現ずるものならざるべからず。然るにかかる形の形容詞の存在しきとい(98)ふ例證一も存することなし。然るにこれを證するに、この卷の藤原宮御井歌「五二」なる「之美佐備立有《シミサビタテリ》」又卷十七「三九〇二」の歌「烏梅乃花美夜萬等之美爾安里登母也《ウメノハナミヤマトシミニアリトモヤ》」とあるを證とすれど、これらは「シミ」といふ副詞の存在を證するに止まり、「シシ」といふ形容詞の存在せりといふ證となるものにあらず。かくて若ししひて「シミ」を用ゐむとせば「山をしみみ」といはざるべからざるものなり。されば古來の訓に從ひて「ヤマヲシゲミ」とよむべし。その委しきは別に述べおきたり。五音の句を六音にせる例は集中に少からず。なほいはゞ卷二「二〇八」に「黄葉乎茂」とあるは同じ趣なるに、そこは古來「シゲミ」とよみて異論なく、ここにのみ異説あるはいぶかしき事なり。かくてその意山が茂きによりてなり。
○入而毛不取 「イリテモトラズ」とよむ。山に草木茂りて立入り難きによりて入りてとる事もせずといふなり。「も」は下の「とりてもみず」といへるに相對していへる語遣なり。「取」をば從來「見」「聽」「聞」などの誤ならむといふ説もありしなれど、據なきことなり。このまゝにてあるべし。その故は次の句と關係して考へ見れば知らるゝなり。
○草深 「クサフカミ」とよむ。草に「深し」といふ由は上にいへり。草深く生ひてある故にの意なり。卷十「二二七一」の歌に「草深三蟋多鳴屋前《クサフカミキリギリスサハニナクヤドノ》」などあり。
○執手母不見 古來「トリテモミズ」とよめるを僻案抄に「たをりてもみず」とよめるより、考略解等之に從へるはかへりてわろし。「手折」と「執」とは語異なるものなれば、本來「たをり」といふ語ならば、「執」字を書くことあるべからず。又「とり」といひて意を害することもなし。これは或は六音(99)の句をいとひての事なるべけれど、七音の所を六音にせる例は集中に少からざるをや。この故に古訓のまゝによむをよしとす。且つ又これは上の句に「入りてもとらず〔四字右○〕」この句に「とり〔二字右○〕ても〔右○〕みず」といふやうに進行せしめたるいひ方なりと認めらるれば、之に反する諸説は、この叙述の進行法を認めずして、かへりて之を破らむとするものなれば從ふことを得ざるなり。
○ 以上第一段落、春山に對する批評なり。春は草木繁茂の頃にして、山野共に昆蟲蝮蛇などの煩はしきを以て親しく入りて愛し難きをいふ。蓋しこれ女性の實情なり。而してこの段落中、先づ、「鳥も〔右○〕」「花も〔右○〕」といひて並列的の意を以て對句をなし、次に「入りても〔右○〕とらず」「とりても〔右○〕みず」といひて前後次第して對句をなしたるは同じく「も」を用ゐて對句をなしながら横と縱との二法を交互に用ゐたる、その造句の手腕凡ならざるを見る。而して、これを次の段落の「は」を以て對句をつくれるに比するにここは、「も」を用ゐて對句をなせる點をその特色とするものの如し。
○秋山乃木葉乎見而者 「アキヤマノコノハヲミテハ」とよむ。これより秋の山の木葉の批評にうつるなり。
○黄葉乎婆 古來「モミヂヲバ」とよめるを僻案抄に「ソメシヲバ」とよみたれど、意をなさず。よりて考に「モミヅヲバ」とよみたるより後人々多く之に從へり。黄葉又紅葉とも書く。この熟字いづれも支那より出でたるが、本集には多く黄葉の字面を用ゐたり。さて「もみづ」とは草木の葉の赤く又は黄色に變ずるをいふ動詞にして、上二段に活用する語にして「もみぢ」はこれを體言にしたるものなりとす。さて考の説によるべきか否かは、その本原の意義をたゞさざるべからず。考の説にては「もみぢたるものをば」の意とせむとてかくよめるならむが、若し然らば、(100)連禮形よりして、「もみづるをば」とよまざるべからず。勿論終止形を以て體言に轉ぜしむること「すし」「かげろふ」の如きものなきにあらねど、さる體言に化しはてたるものを眞淵翁は要求せるにあらずして用言としての活動せるものを用ゐたりとせむとするものなれど、この語にはかかる形を用ゐるべくもあらず。或は又「もみづ」が四段活用をなせる證として卷十四「三四九四」の歌に「兒毛知夜麻和可加敝流※[氏/一]能毛美都麻※[氏/一]弖《コモチヤマワカカヘルデノモミツマデ》」といふを引けど、これは東歌なれば訛なしといふを得ざるものなり。さて「もみぢたるもの」の意とせば、古來の如く「もみぢ」にて何の差支もなきものなりとす。「もみぢ」といふ語は俗なりなど思ふはかへりて、古語を知らざるものといはれても辯解しうべからざるなり。本集卷十五「三七一六」の歌にも「九月能毛美知能山毛宇都呂比爾家里《ナガツキノモミヂノヤマモウツロヒニケリ》」などあり。或は又下に「青き」といへると對句をなせりといはむとての論なるべけれど必ずかくせずとも對句は成立するものなり。
○取而曾思奴布 「トリテソシヌブ」とよむ。契沖曰はく「シヌブ」は過ぎにし方を慕ふのみに非ず、眼前の事もあかず思ふを云なり」といへり。蓋し心の底より出で愛で思ふをいふ語なるべし。
○青乎者 「アヲキヲバ」とよむ。黄葉せずして黄葉に交れる青葉をいふなり。
○置而曾歎 「オキテゾナゲク」とよむ。「オキテ」はそのまゝにさしおきてといふなり。これは上の「とりてしぬぶ」に對する語にして、青く黄葉せぬものをばとることをせずしてそれを恨みなげくとなり。
○曾許之恨之 古來「ソコシウラミシ」とよめりしを管見には「ウラメシ」とよみたり。かく上に「シ」(101)あり下に形容詞ありて叙述せる例は卷三「三二四」の歌に「春日者山四見容之《ハルノヒハヤマシミガホシ》」又「秋夜者河四清之《アキノヨハカハシサヤケシ》」など多し。さて宣長は「恨」は「怜」の誤なりとし「そこしおもしろしと訓也うらめしにては聞えず」といへり。されどかくかける本一もなきのみならず、その説の從ひ難きは攷證に既に論ぜり。さては管見の説に從ふべきが、その「うらめし」といへるは何をさせるか。これ亦諸説あり。契沖は「恨めしは春に心ゆかぬ所のある恨を殘すなり」といひて春山を恨めしといへるなりとし、攷證は「秋の方は山野などにも入よくて黄葉などをもとりて見など、よろづをかしけれど、そめもやらぬ木の葉をば、木におきてとくそめぬことをなけくが、そこのみぞうらめしきといふ意なり」といへり。されど、攷證の如くいひたるのみにては落ちつかぬ故に美夫君志はこれによりつつなほ辯じて曰はく、「其説(恨を怜とする説)のおこりは此歌もと秋山の方をあはれとさだめたりし事のしるきに、恨之は似つかはしからずとおもひての事なるべし。されど、此恨之は青乎者云々の句のみにかけていへるなれば、さまたげなき也。さるは春山のかたにては入而毛〔右○〕不取云々執手毛〔右○〕不見と此(レ)も彼(レ)もの毛の辭をもて句をなし、秋山のかたは黄葉乎婆〔右○〕云々青乎者〔右○〕云々と物を區別する辭の者《バ》をもて句をしらべたり。此意をよく味ひて恨しは青乎者云々の句にのみかけたる詞なるをさとるべし」といへり。今按ずるに諸家いづれも考へられたれど、未だ正鵠に當らざるが如し。先づ「そこ」「ここ」といふ語は普通は場所にのみいへれど、古くより今いふ「その點」「この點」など抽象的の意にて用ゐたり。今若し「おもしろし」とよむべしといふ説によらば、「そこ」とは何をさせるか。かくては上の「歎く」に對する結末もなく、又春山にも關係(102)なき空言となるべし。この故に從ふべからず。これは上の「青き」をばそのままにさしおきて歎かねばならぬ、その點が恨めしといふなる點は美夫君志の説をよしとすべし。さて「し」は取出して強く指す意あり。即ちその點が恨めし他の點は批難なしといひて、多くの可なるうちに少しく缺點あるを遺憾とせる意をあらはせるなり。
○ 以上第二段落、秋山に對する批評なり。秋は山野共に容易に立入りて賞翫するを得るをいへるにて、これ女性の性情にかなへると共に秋山に自由に入るを得る實情をも含めていへり。然れども、ただ秋の青葉をばさしおきて歎かねばならぬ缺點ありといひて多少の弱點あるをいへり。かく秋の青葉をさしおくをだに恨しく思へば、入りて見るを得ざる春の山は、いふまでもなき意を言外にあらはせるなれば、次の判決は當然下さるべきなり。さてこの段落には「木の葉を見ては」「黄葉をば」「青きをば」と「は」を以て對句をなせるは、多くの美點のうちに取除けあるを知らしむる爲の句法としては巧妙なるものなり。
○秋山吾者 古來「アキヤマゾワレハ」とよみたり。されど、「曾」字なければかくよまむは理なし。代匠記には「曾」字脱するかといひたれど、「曾」のある本を見ざるが故に從ひ難し。僻案抄には「アキヤマヲワレハ」とよみ、考は舊訓を基として「曾」を補へり。されど、それらは證なき事なれば、從ふべからず。玉の小琴には文字のままに「アキヤマワレハ」とよむべしといへり。語足らぬ樣なれど、反轉の語法を用ゐて、吾れは秋山の方によらむと思ふ意を力強く簡潔にいへるものとしてかへりて調高くきこゆるなり。
(103)○ この一句第三段落として判決を下したるなり。而してこの判決の下るべきは、前段落の末の「そこしうらめし」の一句にて豫言せられたること既にいへる所なり。
○一首の意 第一段に春山の草木の親しみかぬるを難じ、第二段に秋山には黄葉の親しく賞翫しうべきを賛し、なほ多少の批難は存するをいひたるが、その秋の批難は、春山全般の弱點なるを言外に知らしめ、第三段にわれは秋山によらむといへるにて、すべて婦人として實地の感想をうたへる點おもしろしとす。而して句法巧妙にして手腕ある歌人の詠と認めらる。さてこれにて春秋の可否決着せりといふことを得ざるは勿論なれど、婦人としての實際の感情眞にかくありしならむと思はれたり。
 
額田王下2近江國1時作歌。井戸王即和歌。
 
○ この端書につきては諸説ありて一定せず。次にある長歌とその反歌とを以て額田王の近江國に下ります時とせば、井戸王の和歌といふはその次なる「綜麻形」の歌をさせるに似たれども、さりとも斷言すべからず。とにかくにこの端書のさま異例なりといふべし。この故に契沖は疑を存して「古記のまま歟」といへり。
○井戸王即和歌 井戸王他に所見なし。詳かならず。和歌は「こたへうた」とよむべし。唱和の歌の義にして額田王の歌に和へたる歌なり。
 
17 味酒《ウマサケ》、三輪乃山《ミワノヤマ》、青丹吉《アヲニヨシ》、奈良能山乃《ナラノヤマノ》、山際《ヤマノマニ》、伊隱萬代《イカクルマデ》、道隈《ミチノクマ》、伊積流萬代爾《イツモルマデニ》、委曲(104)毛見管行武雄《ツバラニモミツツユカムヲ》、數數毛《シバシバモ》、見放武八萬雄《ミサケムヤマヲ》、情無《ココロナク》、雲乃隱障倍之也《クモノカクサフベシヤ》。
 
○味酒 「ウマザケ」とよむ。うまき酒の義にして酒を賞めたるまでなり。これを三輪の枕詞とするは古語に神酒を「ミワ」といへるより起れり。和名鈔に「日本紀私記云神酒和語云2美和1」と見えたり。日本紀崇神卷に「宇摩佐開瀰和能等能能《ウマサケミワノトノノ》」とあり。
○三輪乃山 大和國磯城郡三輪町の東方に在り。官幣大社大神神社の神體として齋く山なり。國中《クニナカ》の東方連山のうちにありて最も高く著しき山にして國中の平原を前にしたれば、平城京の方よりも著しく見ゆるなり。この下に「を」助詞を補ひて釋すべし。
○青丹吉 「アヲニヨシ」とよむ。奈良の枕詞とす。「あをに」は青き土即ち緑青ともいひ、その他種種の説あれど定かならず。「よし」は助詞、委しくいへば、「よ」は呼掛けの語「し」は強く指す語なり。「玉藻よし」「眞菅よし」などいふこれなり。
○奈良能山乃 「ナラノヤマノ」なり。「奈良山」は古の平城京の北に横たはれる低き連山にて平城京より近江に行くにはこの山を越えて、山城相樂又は木津に出づるものなるが、このときもその道筋をとられしこと歌の意にて著し。さてその相樂に出づる道は歌姫村の地にかかりて行くを以て今歌姫越といふ。今の奈良坂といふ地は佐保山のうちにして古の大路にはあらず。
○山際 古訓「ヤマノハニ」とよめり。僻案抄に「ヤマノカヒ」とし、考には「際」の下に「從」字脱せりとし(105)て「ヤマノマユ」とよみ、攷證はそのままに「ヤマノマニ」とよめり。按ずるに「山ノハ」と「山のマ」とは意異なり。「際」は間の義にしてここは奈良山の連山の間をいふなれば「マ」なることいふまでもなし。されど「從」字なきを加ふるも如何なれば攷證に從ふべし。
○伊隱萬代 古來「イカクルルマデ」とよみたりしが、「隱」は古事記雄略卷の歌に「伊加久流袁加袁《イカクルヲカヲ》」とある如く古くは四段活用なりしを以て古義によめる如く「イカクルマデ」とよむをよしとす。「イ」は動詞の上に加へて語調を添ふるに用ゐる接頭辭にして下の「イツモル」の「イ」もおなじ。「萬代」は音をかりて「マデ」といふ助詞をあらはしたるなり。三輪山が奈良山の連山の間にかくるるまでといふ意なり。
○道隈 「ミチノクマ」とよむ。「隈」はもと水曲をいふ字にして、爾雅に※[こざと+奧]隈と對して、「※[涯の旁]内爲v※[こざと+奧]、外爲v隈」といへり。轉じては後漢書班彪傳の注に、「隈山曲也」といへる如くすべて地形に於いて入り曲れる所をいへり。日本紀卷二の自注に「隈此云2矩磨※[泥/土]《クマヂ》1」とあり。「チ」は「道」なれば「クマヂ」は「隈道」なりとす。卷二「一三一」の歌に「此道乃八十隈毎爾《コノミチノヤソクマゴトニ》」とあり。
○伊積流萬代爾 古來「イツモルマデニ」とよめり。僻案抄には「イサカルマデニ」とよみ、略解など之に從ひたれど、道の隈のさかるといふことは義をなさねば、古來の訓によるべし。道の隈の數多くかさなりつもること即ち道を遠く經るをいふ。上に「八十隈」といへるは即ち「隈」のつもれる結果といふべし。「マデニ」は上の「マデ」をもうけて下の「見つつ」につづくるものなり。
○委曲毛 舊訓「マクハシモ」とよめり。されど、古語の「クハシ」は今用ゐるとは意稍異にして、精細(106)微妙といふ如き意なれば、委曲を「クハシ」とよむは稍當らずといふべし。僻案抄には「イクタヒモ」とよみたれど、俗なり。考には「ツバラニモ」とよみ、又「ツブサニモ」ともよませたり。古義には「毛」は「爾」の誤として「ツバラカニ」とよませたり。「ツバラカニ」といへる語もあれど、卷三「三三三」の歌に「淺茅原曲曲二《アサヂハラツバラツバラニ》とある「曲曲二」を「ツバラツバラニ」とよめるは卷十八「四〇六五」の歌に「可治能於登乃都婆良都婆良爾《カヂノオトノツバラツバラニ》」とあると同じ語といふべく、「曲」に「ツバラ」といふ訓あるを見るべく、從つて「委曲」をも「ツバラニ」とよむべきなれば、「ツバラニモ」とよむを穩かなりとす。十分に飽き足るほど見むといふなり。
○見管行武雄 「ミツツユカムヲ」とよむ。「管」は複語尾の「つつ」の借字、「を」は感動の助詞にして「ものを」といふ意にとるべし。委曲に見つつ行かむと思ふものをといふなり。
○數數毛 「シバシバモ」とよむ。この「數」字は入聲「サク」の音にして頻數の義なり。一字にても「シバシバ」とよむ字なるが、集中には卷十「一九一九」の歌に「數君麻思比日《シバシバキミヲオモフコノゴロ》」の如く一字にてたるもあり、又今の例の如く二字を重ねたるもの少からず。卷十二「二三五九」の歌に「有數數應相物《アラバシバシバアフベキモノヲ》」といへるなどあり。されば考の如く一字を削るには及ばぬことなり。
○見放武八萬雄 古來「ミサケムヤマヲ」とよめり。僻案抄に「ミヤラムヤマ」とよみたれど、「放」を「ヤル」とよまむは無理なり。古義には「ミサカム」とよむべしとせり。これは卷三「四五〇」の歌の「一云」に「見毛左可愛伎濃《ミモサカズキヌ》」とあるによれるものにして確證とはならず。されば古義の訓の如く「サケム」とよむをよしとす。この「サク」は下二段活用をなし「避く」といふ語と本來同源の語にして、(107)その間に距離をおく義ありて、「ミサク」は遠くよりながむるをいふ。古事記上卷に「望」字を「みさけ」とよめるも同意にして、今の「みやる」といふに似たり。卷十九「四一五四」の歌に「語左氣見左久流人眼《カタリサケミサクルヒトメ》」續紀寶龜二年二月の詔に「誰爾加母我語比佐氣牟我問佐氣牟止《タレニカモワガカタラヒサケムワガトヒサケムト》」とあるも心を遣る義にして同源の語たりとす。ここにては遠く離れて見さけむと思ふ山なるものを、となり。三輪山は國中《クニナカ》の平原を隔て晴天には奈良山の間にてもよく見ゆるなり。されど、この山を越えての後は隔てられて見ゆることなし。
○ 以上「山際云々」「道隈云々」と對句をなし、「委曲毛云々」「數々毛云々」と對句をなせる雙對の句法なり。
○情無 古訓「ココロナキ」とよみて雲の限定語としたれどかくては趣なし。僻案抄に「ココロナク」とよめるをよしとす。下の「カクス」にかかる詞にして雲の無情にして山をかくすをいへるなり。
○雲乃 「クモノ」これにて一句とすべし。かく三音一句とするは異例なれば、僻案抄には「ココロナククモノ」とよみ「その上に一句脱せるかといひ、墨繩はこの上に「八重棚」の三字脱せりとす。されど、玉の小琴に「三言の句例多し。九音十音の例なし」といへるによるべし。
○隱障倍之也 「カクサフベシヤ」とよむ。「障」は「サフ」といふ動詞にあたるをここには語尾の音をあらはす假名に借りたるなり。「カクサフ」は「カクス」を更にハ行四段に轉じてその作用の繼續せることをあらはせる語法なり。ここと同じ書き方なるは卷十一「二四三七」の歌に「奧藻隱障(108)浪《オキツモヲカクサフナミノ》」といへるあり。「カクサフ」といふ語の例は卷二十「四四六五」の歌に「加久佐波奴安加吉許己呂乎《カクサハヌアカキココロヲ》とあり。「也」は反語にして、「かくさふべきことかは」と惜み嘆きていへるなり。
○一首の意 今大和の京を離れ近江國に下らむとするに、常に朝夕見なれたる三輪山をいま、奈良山を越えば、再び見ることもかなはじと思へば、心ゆくまで見さけむと思ふに生憎にも無情の雲のこれをかくして見えずならしめたることかといふなり。
 
 反歌
 
18 三輪山乎《ミワヤマヲ》、然毛隱賀《シカモカクスカ》。雲谷裳情有南畝《クモダニモココロアラナモ》。可苦佐布倍思哉《カクサフベシヤ》。
 
○然毛隱賀 「シカモカクスカ」とよむ。「シカカクスカ」といふに同じ意なるに、中間に「も」を加へて感動の意を強めたるなり。「カ」は嘆息の意をあらはす終助詞なり。
  以上一段落なり。
○雲谷裳 「クモダニモ」とよむ。「谷」は助詞の「ダニ」に借り「裳」も助詞の「モ」に借り用ゐたり。「ダニモ」は「せめて雲なりとも」といふ程の意なり。
○情有南畝 古來「ココロアラナム」とよめり。「畝」は呉音「モ」なれば僻案抄に「武」の誤とし、考には「武」に改めたり。古寫本を見るに、類聚古集には「武」と書き、官本の系統の本即ち西本願寺本大矢本京都大學本等には本文に「畝」とし、異本に「武」とある由注せり。されば「武」とあるが惡しとにはあらねど、それ必ずしも正しとはいふべからず。さてこの「畝」は上にいへる如く呉音「モ」なるをば、(109)古義に「ム」の音ありとし、美夫君志も亦しかいひて、廣韻上聲「母」音の下に「畝」字を掲げたるを引き「母にはム〔右○〕の音のある事もとよりなり」といひたれど、こは寧ろ「モ」の音の證とすべきものなり。燈の説などはもとより論の外なり。さて諸家がこれを「なむ」とすべしといへるは蓋し誂の「なむ」といふ助詞に引かれての説なるべきが、元來この誂の「なむ」は係の「なむ」の終止的用法に立てる場合にして平安朝時代にありてはすべて「なむ」といふ形をとれるものなるが、奈良朝時代にては「なも」なりしものなり。この係の場合の「なも」は何人も異論なきところなるべきが、終止の場合の「なも」は從來これを説く人なかりしが如し。余が研究によればすべての係助詞は古今を通じていへば、いづれも係となり、又終止としても用ゐらたるものなれば、ここに「なも」とあるかた、古き形を傳へたりと思はるるなり。これを以て、「畝」を「も」の音に用ゐたりと見る方すべて無理なくして説くをうべし。さてこの「なも」「なむ」は他に誂へ求むる意をあらはすものにしてここはせめて雲だに情ありてくれよといへるなり。
  以上第二段落なり。
〇可苦佐布倍思哉 本歌の末句と同じ語なるを字をかへてかけるなり。
  以上第三段落なり。
○一首の意 明かなるが、その構造は三段落にして、第一段落は三輪山を雲の隱せるを見て古郷の見えぬを嘆息せる意をあらはし、第二段は雲に情あれかしと希ひて遙かに本歌の「情無く云云」といへるに對せしめ、第三段には本歌の末句と同じ句を繰返してその意を切ならしめ以て(110)全體の終結とせり。
 
右二首歌山上憶良大夫類聚歌林曰、遷2都近江國1時御2覽三輪山1御歌焉。日本書紀〔左○〕曰六年丙寅春三月辛酉朔己卯遷2都于近江1。
 
○ これまた例の類聚歌林の傳へをあげたるなり。
○遷都近江國時御覽三輪山御歌焉 これ即ち歌林の説にして天智天皇近江に都を遷されし時三輪山を御覽じてよみたまへる御歌とせりといふなり。然りとせば、その歌主は誰ぞ。なほ額田王なりや。されど、御覽御歌〔四字右○〕とあるにあはず。されば、考には皇太子の御歌とせり。然れども皇太子ならば必ず皇太子とかくべきなれば、御歌は御製の義にとりてなほ天皇の御製といふ傳へありしものと見るべし。
○日本書紀曰云々 「紀」字流布本「記」につくれり。古寫本によりて正す。これ紀の文を抄出して上の歌林の徴とせし撰者の手記なり。但今本の紀は元年を壬戌とするが故に六年は丁卯にして丙寅は五年となれば、干支と年數と一年齟齬せり。これにつきて學者、これは古本の紀にかくありしを今本は後に改めたるなりといへり。如何にや。研究を要すべきことなり。
 
19 綜麻形乃《ヘソカタノ》、林始乃《ハヤシノサキノ》、狹野榛能《サヌハギノ》、衣爾著成《キヌニツクナス》、目爾都久和我勢《メニツクワガセ》。
 
○この歌古來難解の一なり。舊本には
(111)  ソマカタノハヤシハシメノサノハキノコロモニキナシメニツクワカセ
とよみたれど、何の意なるか知り難し。ここに於いて契沖先づ新しき訓を案出し、荷田春滿またこれを考へ、賀茂眞淵、加蔭千蔭、鹿持雅澄等各多少の説を立てて今日に及べり。そのうちにつきて賛成すべきと然らぬとあり。次にそれらの説をあげつゝ余が見解を述ぶべし。
○綜麻形 舊訓に「ソマカタ」とよみ來りしは蓋し杣方といふ心ならむも無理なるよみ方なれば、契沖は「ヘソカタ」とよむべきかといへり。但し「ヘソカタ」の義を釋せず。僻案抄には「ミワヤマ」とよむべしとせり。その理由は三輪山はもと綜麻の三※[螢の虫が糸]遺りたる形より名付けたるものといひて、仙覺が抄に引ける土佐風土記などによりて説をなせるものなり。この三輪山の傳説は古事記にも傳へあるものなるが、それらを綜合して考ふるに、この傳説の三輪といふ名の義は神酒といふにありて、其を同音によりて績麻の三勾遺れりといふことより起ると説くものにして、三輪山が綜麻の形をなせりといふことは古の傳説にもなく、又今見てもしか見えざるのみならず績麻の三勾のみなるものにてはなほ更三輪山をたとふべくもあらざるなり。上にもいふ如くこの傳説にては三輪の名の出來しは綜麻の苧の殘れるもの三勾のみなりきといふことなれば、綜麻そのものが直ちに三輪といふ名の由來となれりといふにあらざるなり。この故にこの説は一種の卓見の如くに見ゆれど、何等の從ふべき理由なきものなり。しかるにこれより後の諸家大抵これに從へるは如何なり。さて後橘守部は「ソマカタノ」とよむべしとして、一種の意見を立てたり。それは、この歌の位置は錯簡にりてかくなれるものなりと(112)して、これを次の天皇遊2獵蒲生野1時額田王作歌なる一首とせるが、かくて「綜麻形」を「ソマカタ」とよみ、それを地名とせり。その地は近江の志賀郡の信樂田上兩杣の入口なりとして大津よりこの地を經て蒲生野にいでまししなりといふにあり。されど、當時勢田橋すでにありしなるべければ、さる迂路をとらせたまふべくもあらず。なほ又「綜」を「ソ」の假名とせるも集中に例なきことなれば地名ならむといふ考は面白けれど、從ひ難き説なりとす。
 綜麻の文字は「ヘソ」とよむことを最も妥當なりとす。これは契沖のよみはじめたるものなるが、卷子を「ヘソ」とよむことは和名鈔にも見え、又古事記崇神卷なるかの三輪山傳説の記事に「閉蘇《ヘソ》」とかきたるあり、又日本紀崇神天皇卷なる「大綜麻杵《オホヘソキ》」といふ人名をば新撰姓氏録には「大閉蘇杵命《オホヘソキノミコト》」とかきたれば、「綜麻」の「ヘソ」といふよみ方は古に於いて普通に行はれし字面と言語となりしを想像し得べきなり。
 さてかくよみ方の明になりし上に問題となるはその解義なり。契沖ははじめ比喩として説かむとして穩ならずと思ひしにや、「所の名歟」とせり。地名とせば穩かなるべき故に、古義またこれに賛せり。地名とせば、「カタ」は縣の意なること、例多ければ、その名は「ヘソ」にあるべきこと論なし。さてその地は如何なる所かといふに契沖はこれを示すことなし。古義はこれを「三輪山の古の名か」といへり。而してその理由を聞けば.かの僻案抄に同じ。されど綜麻の形を以て三輪山に擬することは根本的に不可なれば、そのよみ方如何に拘らず不可なりとす。ここに一案あり。その「ヘソカタ」の地を今もある近江國栗太郡の綣《ヘソ》村にあてむとするなり。(113)この地は、草津より守山に至る中仙道の街道に當り古くよりありし地名と見ゆれば、守部の説の如くにせば、其の「ヘソ」に正しく當れりといふを得べし。されど、錯簡ありといふことは容易にいふべきことにあらねばなほ疑を後にのこすべきことなり。
○林始乃 古來「ハヤシハジメノ」とよみ來れるを契沖は「ハヤシノサキノ」とよむべきかといへり。始は「サキ」とよむに由あり。しかるに僻案抄には「シケキガモトノ」とよめり。こは大祓詞によれるものなるが、その意は叢生せる木の根元をさせるものなるによりてさる意にては下草をさせるものといふべきなり。「林」を「シケシ」とよむことは字鏡集などに見えたれど、そは淮南子に「木叢生曰v林」などによりたる訓にして小木の叢生せるものをさすなり。然りとせば榛のその下に生ぜむこと如何なりといふべし。「林」字を古來「ハヤシ」とよめるは日本紀顯宗天皇卷の室壽《ムロホギ》の御詞に「取擧棟梁者此(ノ)家長(ノ)御心之林〔右○〕也」とあると同じ趣の語をば出雲風土記の意宇郡拜志郷の條に「吾御心之波夜志〔三字右○〕詔故云v林〔三字右○〕」とあるにてもしるく、本集中に「波也之」「波夜之」など假名書にせるもの少からず。加之「冬乃林」(卷二)「星之林」(卷七)「橘之林」(卷十)などみな古來「ハヤシ」とよみ來れり。「始」は「サキ」なることいふまでもなかるべし。林のさきとはその前頭をさせるなり。この契沖の説には近時の諸家多く從へるなり。
○狹野榛能 古く「サノハキノ」とよめり。僻案抄に「サヌハリノ」とよみてより後、略解、攷證、燈、檜嬬手、古義等これに從へり。又考は「サヌハキノ」とよみ、美夫君志これに從へり。その榛といふ木は古へ「ハギ」とも「ハリ」ともよみたる由見ゆれば、その方よりいへばいづれのよみ方にても大差(114)なきこととなるなり。然るにここに「榛」といふ喬木をさす説と「萩」といふ灌木といふ説と「ヌハリ」といふ草なりといふ説とあれば、その方より見れば、容易に決しかぬる事とならむ。今これらにつきて説を述べむに先づ「サ」といふは美稱の接頭辭なること明かなるが、その「サ」が「野」といふ語につけるか、「野榛」といふ語につけるかといふことも一考を要すべし。若し「ヌ」といふ語につけりとせば、「サ野」の榛といふことにして「サ」の美稱は榛に及ぶことなし。然るに、ここにては榛をいへるなれば、語義としては適切ならず。然れば「サ」は野榛といふ語に冠せりといふべきなり。かくて野榛といふこととすれば、そは野の榛といふことか、野榛といふ一物の名か。これ亦一考を要することとなる。かくの如き問題ある上に、既にいへる如く榛は「ハギ」か「ハリ」かといふ問題もあり。案ずるに「榛」といふ文字は今「ハンノキ」といふ一種の木をさすに用ゐれど、古來「榛莽」といふ熟字ある程にして、新撰字鏡には「叢生木曰v榛」と見えたれば、すべて灌木の叢生せるをいふとみえたり。「リ」「ギ」昔は相通ずることありしは「山振」とかきて「ヤマブキ」とよませたるなど證多し。この義によらば、今の萩に通ぜりともいふべし。これを今の「ハンノ木」の名とせばそはもとより「ハリノ木」なれば、ここに「ヌハリ」なりといふ説を生ずる餘地を生じ、「ハギ」なりとせば、ここに今の萩なりとする説を生ずる餘地あり。要するにこの榛字一字のよみ方頗る重要なる分岐點なりとすべし。かくの如くなればこれを文字の正面よりは殆んど解決しかぬるさまなり。ここに於いて次の句の「衣ニツクナス」といふ語より考へて衣につくるものは實際何なりやを考ふべし。然るに、卷七「一三三八」に「吾屋前爾生土針從心毛不思人之衣爾須良(115)由奈《ワガヤトニオフルツチハリココロユモオモハヌヒトノキヌニスラユナ》」とありて、和名鈔に「本草云、王孫一名黄孫和名沼波利久佐此間豆知波利」と見えたれば、土針即ち「ぬはり」にて衣に揩ることのありしは疑ふべからず。この土針といふ草は本草に根の皮肉紫なる由なれば、衣に揩りてうるはしきものなるべきが、その實物は未だ知らず。衣を榛にて揩れる事は日本紀天武天皇の十四年紀に「蓁揩御衣三具」と見え、日本後紀延暦十八年の紀にも「蓁揩衣」といふこと見え、延喜式四時祭式下の鎭魂祭官人装束に「蓁揩袍」と見え、又踐祚大甞會式の齋服に「榛藍揩錦袍一領」と見え、縫殿式の鎭魂祭齋服に「榛揩帛袍十三領」とみえたるは榛蓁文字異なれど、要するに同じ揩衣なるべし。然るに今の「はんの木」をば昔「はりのき」といひしこと古事記下卷雄略卷に「天皇畏2其宇多岐1登2坐榛上1爾歌曰」とありてその時の御製の歌に「波理能紀能延陀《ハリノキノエタ》」とあるにて明かなり。さてこの木の果實を染料とすることは今も行はるるところなれど、これにて衣を揩れる由は所見なし。しかるに又一方には萩の花ずりなどいふこともあれば、かれこれ未だ治定せる説なしといふべし。
○衣爾著成 舊訓「コロモニキナシ」とよめるを契沖が「キヌニツクナス」とよめるに從ふべし。「ナス」は如の字の義にして名詞又は動詞の終止形を受けて用言を形容するに用ゐる接辭なり。たとへば、古事記上に「久羅下那州《クラゲナス》ただよへるくに」又卷十四「三五四八」に「奈流世呂爾木都能餘須奈須伊等能伎提可奈思家世呂爾比等佐敝餘須母《ナルセロニコツノヨスナスイトノキテカナシケセロヒトサヘヨスモ》」とある如きこれなり。ここにては榛を衣に染むれば色のよく著きて離れざる如くにといひて次の目につくといふ語を導きたるなり。 ○目爾都久和我勢 「メニツクワガセ」とよむ。目に著きて離れぬ我が思ふ男よとなり。
(116)○一首の意 「ヘソカタ」の林の前なる「さぬはぎ」の衣に著くが如くに、わが目にちらつきて忘るる能はざるわが夫《セ》よとなり。この歌は上の詞書と歌とに誤なしとせば、井戸王の和せる歌に相當すべき歌なるが、女の男を思ひ忘るること能はずと讀めるにて井戸王は女王にて額田王は男王たるべきこととならざるべからず。加之上の三輪山の歌とは縁なきに似たり。この故に左注には
 
右一首歌今案不v似2和歌1。但舊本載2于此次1故以猶載焉。
 
といへるなり。これを以て守部は錯簡ありとしてこの歌を次の歌と同時とする説を立てたるなり。その事は既にいへれば再びいはず。
 
天皇遊2獵蒲生野1時額田王作歌
 
○ 天智天皇の蒲生野に藥獵したまへる時の歌なり。蒲生野は近江國蒲生郡(和名鈔加萬不)にある野なり。今武佐村の東に内野、蒲生野、野口などの名の存するは古の蒲生野の名殘なりといふ。この時の藥獵の事は左注の下にいふべし。
 
20 茜草指《アカネサス》、武良前野逝《ムラサキヌユキ》、標野行《シメヌユキ》、野守者不見哉《ヌモリハミズヤ》、君之袖布流《キミガソデフル》。
 
○茜草指 「アカネサス」とよむ。「アカネ」は八重葎に似たる草にして根を赤色の染料とする故に(117)その名あり。和名鈔に染色具にこれをあげたり。今もこれを染料とせり。「あかねさす」は紫といふ語の枕詞とせるなり。紫色には赤色の加はりてあるによりてその枕詞とせるなり。
○武良前野逝 「ムラサキヌユキ」とよむ。紫野といふ地名もあれど、ここは紫草の生ふる野といふに止まりて野の名稱にはあらず。伊勢物語に「紫の一本ゆゑに武藏野の草はみながらあはれとぞみる」といへるも實に紫草の生ぜるものあるによりてよめるにて單に比喩に止まらぬなるべし。紫といふ草は山野に自生する多年生草にしてその根を乾して紫色の染料とするなり。「紫野行き」とは紫草の生ふる野を〔右○〕ありくをいふなり。次の「シメヌユキ」の「行き」も同じく「ありく」ことなり。「逝」は爾雅釋詁に「逝往也」ともいひて「ユク」の訓あり。「ユク」に「ありく」の意あることは古事記景行卷の歌に「蘇良波由賀受《ソラハユカズ》、阿斯用由久那《アシヨユクナ》」又「波麻用波由迦受伊蘇豆多布《ハマヨハユカズイソヅタフ》」など例多し。
○標野行 「シメヌユキ」とよむ。「シメヌ」は「占野《シメヌ》」の義にして後世禁野といふに似たり。ここは御料地としてしめられし蒲生野をさせるなり。上の句の「ユキ」とこの句の「ユキ」と相重ねて末の「袖フル」につづけるなり。
○野守者不見哉 「ヌモリハミズヤ」とよむ。「ヌモリ」とは野を守る守部にして上にいへる「シメヌ」を守る者をさすなり。野守といふ名稱は古今集卷上に「春日野のとぶ火の野守いでて見よ、いまいくかありてわかなつみてむ」など多し。この句は轉倒法によりて上におけるものなれば最終にまはして見るべし。實は汎く傍の人々に見ずやといひかくるさまなるをば、禁野なる(118)が故にわざと野守といひて語に綾をなせるなり。
○君之袖布流 「キミガソデフル」とよむ。「君」は次の答歌にてしるきが如く、皇太子をさせるなり。袖振るとはありく姿を形容していへるに止まり、他の意あるにあらじ。さてこの句は直ちに上の第二句第三句を受くるなり。
○一首の意 わが愛する皇太子がかの野をか行きかく行き袖ふりたまふ姿をば人々は見ずや。われは見るからにゑましきにとなり。さて紫色は昔より最も貴く美しきものとせられたれば、この草の生ふる野といひて敬愛の意を寓せるなり。從來の語注多くは穿ちすぎたる解をなせれど、過ぎたりといふべし。ここはただ大らかにいひ、かへりてその切なる意をあらはしたまへるなり。その心してよまば味言外にさとられむ。
 
皇太子答御歌 明日香宮御宇天皇
 
○皇太子 天子の嫡嗣をいふ。白虎通に「漢天子稱2皇帝1其嫡嗣稱2皇太子1」とあるが如く前漢よりはじまれる名稱にして本邦またこれによられたるなり。この時の皇太子は御弟大海人皇子即ち後の天武天皇なり。考にはこれを「大海人皇子命」の誤としたり。この頃は皇太子はひろく「日嗣の御子」の義にして「皇太弟」「皇太孫」といふべき場合をもかくいへるなり。持統天皇の時御孫珂瑠皇子を「皇太子」とせられしにても知るべし。
○答御歌 上の額田王の歌に答へたる御歌なり。
(119)○明日香宮御宇天皇 委しくは明日香淨御原宮御宇天皇といふべきを略せるなり。なほ次に云ふべし。この語、古寫本多くは小字にせり。上の皇太子即ち後の天武天皇にてまします由を注せるなれば小字なるをよしとす。
 
21 紫草能《ムラサキノ》、爾保敝類妹乎《ニホヘルイモヲ》、爾苦久有者《ニククアラバ》、人嬬故爾《ヒトヅマユエニ》、吾戀目八方《アレコヒメヤモ》。
 
○紫草能 古訓に「アキハキノ」とよめるは誤なり。契沖が「ムラサキノ」とよむべしといへるに從ふべし。「紫草」の字面は本草に於ける熟字にして、今も「ムラサキ」と呼ぶ草なり。花も紫、根も紫なるが根をとりて紫色の染料とす。ここにはその事をさせるにあらずして其の色をさせるものなり。當時紫を以て色の最も貴きものとせるは冠服の制度の上にもあらはれ、後世までも紫紅の二色を禁色とせられたるなり。この故に「紫」をあげたる當時の心情を察すべきなり。さてこの「の」をば「の如く」の意なりとしてこの五音の語を以て「にほふ」にかくる枕詞なりといふ説あれど當らず。「の如く」の意なるものは「露の命」「空蝉の世」「花の顔ばせ」「月の眉」などの如く直ちに名詞を修飾せるものには多くあれど、かゝる場合には必ずしも然らず。これは次の「にほへる」に對する主格にして「「紫のにほへる」といへる一の句を以て妹を形容せるにあるなり。なほ次にいふべし。
○爾保敝類妹乎 「ニホヘルイモヲ」とよめり。「ニホヘル」は「ニホヒアリ」の約まりたるものにして、「ニホフ」は古は香氣にいふのみならず、色の餘韵ありて心ゆかしきをいふ。今も刀劍に「にほひ」(120)といふことをいふはその名殘なり。こゝの「にほへる」は美はしく心ゆかしきを云へるなり。妹は男より女をさしていふ詞にしてこゝにては額田王をさしてのたまへるなれば、そは女王にてましゝを知る。さて上にいへる如く、この句と上の句とは一つゞきにして「紫草のにほへる」といふ一句を以て妹を形容せるものなれば、もし「如き」といふ語を加へて釋せむとせば、「にほへる」と妹との間に入れて紫のにほへる〔六字傍線〕如き美しき妹と解すべし。かゝる例集中に甚だ多し。卷十一「二七八六」の歌に「山振之爾保敝流妹《ヤマブキノニホヘルイモ》」とあるが如きその一例なり。卷二の吉備津采女死時柿本人麻呂作歌「二一七」に「秋山下部留妹《アキヤマノシタベルイモ》、奈用竹乃騰遠依子等着《ナヨタケノトヲヨルコラハ》」とあるが如きはその「如く」をば下なる動詞の次に入れて見るべき最も適切なる例なり。この時にもし、しかせずして、ただ「下部留妹、騰遠依子等」とのみありては殆んど意をなさぬにても知るべし。
○爾苦久有者 「ニククアラバ」とよむ。嫌はしく思ひてあらばの意なり。
○人嬬故爾 「ヒトヅマユヱニ」とよむ。「嬬」は「ツマ」なること「一三」の歌にいへり。「ヒト」は今もいふ如く他人をさし「人嬬」にて他人の妻をさす。「人妻故に」といへる例は卷十「一九九九」の歌に「人妻故吾可戀奴《ヒトヅマユヱニワレコヒヌベシ》」卷十一「二三六五」の歌に「人妻故玉緒之念亂而《ヒトヅマユヱニタマノヲノオモヒミダレテ》」などあり。かゝる場合の「故」をば從來「ナルモノヲ」の意に解すべしといへり。若し、その説の如くせば、この歌の如きは意義正反對となるべし。かゝることは容易に起るべきことにあらねばよく考ふべし。「故」といふ語は元來理由縁故をいふ語なるが、それが如何に変化しても上の如く正反對に用ゐらるべきにあらず。今この場合を見るになほ「理由」の意明かなるものなれば「によりて」の意に釋すべきなり。今人(121)はこの「故」を單に理由とのみとるが故に通じかぬるなり。然るにこゝを「なるものを」の意なりとするものは一は歌全體の意より推し、一は人妻に戀ふるは不條理なりといふ豫感よりしてかゝる解釋を下すべしといふ意識を起したるものなるべきが、その「なるものを」といふ如きは歌の意の結果より推したるまでのものにして正當に「ゆゑ」の意を釋せるものとは目するを得ず。即ちこの歌にありては下の「やも」に至りてはじめて反語となるものなりとす。なほ次にいふべし。
○吾戀目八方 古來「ワガコヒメヤモ」とよめり。しかるを略解に「ワレコヒメヤモ」と改めたり。これにつきては燈には衆人にむかへていふ時は「われ」といふべしといふ理由をあげたり。今本集を通じてこれと同じやうなる語遣の例を見るに、「わがこひめやも」とよめるにも「われこひめやも」とよめるにも假名書の例なく、假名書のにては「あれこひめやも」とある例を見るのみなり。卷十七「三九七〇」の歌に「安之比奇能夜麻佐久良婆奈比等目太爾伎美等之見底婆安濃古非米夜母《アシビキノヤマザクラバナヒトメダニキミシミテバアレコヒメヤモ》とあるこれなり。さればこれはその例によりて「あれこひめやも」とよむべきか。「あれ」は「われ」と同じ語ながら古しと見えたり。「八方」は卷十「二二五五」の歌に「吾戀目八面」とあるに同じく「ヤオモ」なるを「ヤモ」といへる假名とせしなり。「ヤモ」は今の如く「む」の已然形「め」を受けたる時に反語をあらはす。即ち、何にしにかく戀ひむやは。愛すべく思へば、人妻といふことを十分に認め、世間の道として戀ひてはあるまじき物と知りつゝかくも戀ひはするよとなり。さて「人妻故にあれこひやめやも」といふ語づかひの關係をいはゞ、「人妻に對してこひをするとい(122)ふこと」をばわれはせむやといふなり。されば「なるものを」といふ意は「ゆゑ」に存するにあらずして歌全體の意若しくはその示す事實よりして起るものにして「ゆゑ」といふ語そのものには何の異なる意を生じたるにあらざるを知るべし。
○ 一首の意明かなり。紫草の色のめでたき如きうるはしき妹をにくゝ思はば、人妻に對して戀する如き危險なることをわれはせむやは。君の色めでたきによりてこそ、人妻を思ふは道ならずとは思ひつゝも戀はするよとなり。
 
紀曰天皇七年丁卯夏五月五日縱2獵於蒲生野1。于v時大〔左○〕皇弟諸王内臣及群臣皆悉從焉。
 
○ これは日本紀をひけるなり。但し流布本に「天皇弟」とあるを紀には「大皇弟」とかけり。元暦本も「大皇弟」とかけり。されどいづれも「太皇弟」の誤なりとす。なほこの干支が、現存の日本紀(戊辰)と一年違へることは上の歌の左注とおなじ。
○縱獵 は「カリシタマフ」とよむ。この五月五日の獵は鳥獣の狩獵にあらずして所謂藥獵なり。藥獵の起源は支那にあり。淮南子に孟夏月、立夏日に「聚2畜百藥1」とあり。これは四月五月の交にすることなるが、主として五月五日にせさせ給ひしは荊楚歳事記に「五月五日有d闘2百草1之戯u」と見え、又天台訪隱録に「以2端午(ノ)日1入2天台山1採v藥」とも見えたり。かくて鹿茸を第一としてその他藥草をとりしなり。この事本邦にては推古天皇十九年五月五日に行はれしを史に見えた(123)るはじめとす。その記事に曰はく「夏五月五日藥2獵於兎田野1取2鷄鳴時1集2于藤原池上1以2會明1乃往之、粟田細目臣爲2前部領1、額田部比羅夫爲2後部領1」とあり。翌二十年の五月五日には羽田に獵し、廿二年にも藥獵ありき。又この天皇の時はこの時の外翌八年の五月五日にも山科野に縱領したまひしなり。さてその事の盛なりしさまは、かの推古天皇の十九年の藥獵の記事に「是日諸臣服色皆隨2冠色1各著2髻華1、則大徳小徳並用v金、大仁小仁用2豹尾1、大禮以下用2鳥尾1」とあるにて見るべく、かく盛装して行はれしものにして一種の行樂なりしを知るべく、又かく考へ來れば、上の歌の野守は見ずや君が袖ふるとよまれたる事の實況をも想像し得べし。
 
明日香清御原宮天皇代 天渟中原瀛眞人天皇
 
○ 右のうち「宮」と「天皇」との間に古くより「御宇」の二字を脱せり。目録によりて補ふべし。
○明日香 は「アスカ」なり。大和國高市郡内の一地方の總名にして今高市村及び飛鳥村といへる地及びその附近をいへり。
○清御原宮 は「キヨミハラノミヤ」といふ。天武天皇の宮城にしてこの天皇元年の紀に「是歳營2宮室於崗本宮南1即冬遷以居焉、是謂2飛鳥淨御原宮1」とあり。宮址は今高市郡高市村大字|上居《ジヤウゴ》の地にして上居は淨御の音轉ならんといへり。而して、その地は裏書に「今嶋宮正東地是也」といへるに合し宮城の地域同村阪田にわたり、その小字都にその名を存すといふ。
○天渟中原瀛眞人天皇 「渟中」は日本紀自注に「渟中此云|農難《ヌナ》とあり。「アメノヌナハラオキノマ(124)ヒトノスメラミコト」といふ。大海人皇子の即位せられし後、天皇としての尊號、後に謚して天武天皇と申す。これは例の如く「明日香清御原宮御宇天皇」に對しての注なれば小字なるをよしとす。
 
十市皇女參2赴於伊勢神宮1時見2波多横山巖1吹黄刀自作歌
 
○十市皇女 「トヲチノヒメミコ」とよむべし。「十市」は「トヲチ」とよみて大和國の郡名なるが、(今は高市郡に合す)郡中又十市村あり。これより郡名も出でしならむが、御名も、之によれるならむ。紀に曰く「天皇初娶2鏡王額田姫王1生2十市皇女1」と見ゆれば御母は額田女王なり。天武天皇の皇長女にして弘文天皇の妃となりて葛野王をうみ給へり。
○參2赴於伊勢神宮1時 これは齋宮としてにはあらで、私の事にて參宮ありしならむ。その事は天武天皇四年の紀に三月乙亥朔丁亥(十二日)十市皇女阿閉皇女參2赴於伊勢神宮1」とあり。こゝに十市皇女のみあげたるは作者が十市皇女に仕へ奉れる女なりしが故なるべし。
○見2波多横山巖1 この地未だ詳かならず。考に「こは伊勢の松阪里より初瀬越して大和へ行道の伊勢のうちに今も八太(ノ)里あり。其の一里ばかり彼方にかいとうといふ村に横山あり、そこに大なる巖ども川邊にも多し。是ならむとおぼゆ」とあり。この地は和名鈔に壹志郡八太郷とある地にして延喜式なる波多紳社のあるもこの地なりとおぼゆ。この道は日本地誌提要に、名張路として、松阪、八太村、大村、垣内村、伊賀伊勢地村と序いでたる順路にあたる地なり。さ(125)れど、八太村と垣内村とは三四里を隔てたり。この垣内も古の八太郷の地域なりしにやおぼつかなし。この他守部にも異説あれど、未だ明かにここなりと指定し得たるものなし。後の考證を俟つ。
○吹黄刀自 この人左注にいへる如く、古より詳ならぬ人なるが、そのよめる歌卷四に二首あり。「吹黄」は古來「フキ」とよめるに從ふべし。刀自は戸主《トヌシ》の義にてもと家の主婦をいふ語、允恭紀に「戸母此運2覩自1」と注せるにて知るべし。後には女の名にも用ゐたり。ここは名なるべし。
 
22 河上乃《カハカミノ》、湯都盤村二《ユツイハムラニ》、草武左受《クサムサズ》、常丹毛冀名《ツネニモガモナ》、常處女※[者/火]手《トコヲトメニテ》。
 
○河上 古來「カハカミ」とよめるを僻案抄には「カハツラ」とよみ、略解には「カハノヘ」とよめり。然れども、卷十四「三四九七」の歌に可波加美能禰自路多可我夜《カハカミノネジロタカガヤ》」といふありて、「カハツラ」「カハノヘ」といふ語古ありきといふ證なければ古來の訓によるべし。なほ卷四なる同じ人の歌「四九一」にも「河上乃」とあり。「カハカミ」といへばとて、今の地理學にいふ上流をさすのみと限るべからず。「カハノナカ」に對してその岸上をいふと心得べき場合少からず。
○湯郡盤村 舊訓「ユツハノムラ」とよめり。これ「湯津盤《ユツハ》」といふ名の村なりと心得たるが故なるべし。されどこれは古事記に「湯津石村」といひ延喜式の祝詞に「湯津磐村」といへると同じ語なれば、それらにより管見にいへる如く「ユツイハムラ」とよむべし。「ユツ」は「五百箇《イホツ》」の約まれるにて古語に「湯津杜樹《ユツカツラ》」「湯津爪櫛《ユツツマグシ》」などいへる如く、數の多きをいふ。盤村は盤石の群をいふ。「盤」は(126)磐と通用せしにて誤にあらぬことは靈異記攷證に既に論ぜり。文選の古時に「良無2盤石固1」とある句を李善注の本には「盤」字に作り、この注に聲類を引いて「盤大石也」といへり。本邦の古書にては日本紀に「盤余市磯池《イハレノイチシノイケ》」(履中紀)「市邊押盤皇子《イチベノオシハノミコ》」(雄略紀)靈異記上卷に「盤余宮」などあるこの例なり。さればこれは誤とはいふべからず。從つて盤字に改むるにも及ばざるものなり。
○草武受 「クサムサズ」とよめり。「コケムサズ」とよむべしと攷證にいへれど、「草」を「コケ」とよむべき由なし。卷十八「四〇九四」の歌及び續紀天平勝寶元年の宣命に「山行者草牟須屍《ヤヤユカハクサムスカバネ》」とあり。「ムス」は自然に生ずるをいふ。この巖の幾千歳を經たりとしれぬに草も生さぬが如くにとなり。
○常丹毛冀名 「ツネニモガモナ」とよむ。「冀」は希ふ意の助詞「ガモ」にあてたり。その字義によりてなり。この句は下の句を受けていふなり。
○常處女※[者/火]手 「トコヲトメニテ」とよむ。「トコ」は「常盤《トコイハ》」「常代《トコヨ》」「常盤木《トキハギ》」などの「トコ」にて常住不變の意、「處女」は未嫁せぬ女をいふ文字なり。これを「をとめ」といふ國語にあてたるなり。「をとめ」は神代紀上の自注に「少女此云2烏等※[口+羊]《ヲトメ》1」とある如く處女の義にあらずして少女の義なりとしるべし。この語は「小《ヲ》つ女《メ》」の轉なること疑なし。集中に「未通女」とかけるは處女の義なり、娘子とかけるは少女の義なり。而していづれも「をとめ」とよめり。古は蓋し青年期の女子をいへりしものなりとす。さて「常少女」とは幾年を經ても常に青年期の容色の衰へぬをいへるなるべし。「にて」は「にありて」の略なり。
○一首の意 今この某川のほとりなる波多の横山の巖を見れば、古より草|生《ム》すことなく、常に滑(127)にあり。あはれかくの如くわが君も亦常少女といはるべく容色かはらずしてありたまへかしと希ふとなり。
 
吹黄刀自未詳也。但紀曰天皇四年乙亥春二月乙亥朔丁亥十市皇女阿閉皇女參2赴於伊勢神宮1。
 
○吹黄刀自未詳 この事は既にいひたり。
○紀曰云々 は日本紀の文にして既に引けるところなり。但年の干支の「乙亥」は今本と一年違へることは上にいひしと同じ。阿閉皇女も文武の皇女にして後に即位ありて元明天皇と申し奉る。
 さて十市皇女の參宮は日本紀にあるこの時の事なりしなるべし。然るに守部は父の天皇と夫の弘文天皇と御中のよからぬを歎きてその中の睦しからむことを大神宮に祈誓せむが爲に竊に參宮したまひし事なるべしとしてこの時の事にあらずとし、この波多横山も近江より伊勢に赴きたまひし間道にありとして種々の説を述べたれど、あまりに穿ちすぎたる説にして從ひ難し。若し眞に天武天皇御即位前の事ならば、この處に記載せざりしものならむ。吾人はこの歌集の編者の意を重んじてこの四年の參宮の折にありし事といふに止めむ。
 
麻續王流2於伊勢國伊良虞島1之時人哀傷作歌
 
(128)○麻續王 「ヲミノオホキミ」とよむ。「麻續」は「麻績」にて「苧」をうむをいふなり。ここの「續」字正しくは「績」と書くべきに當時通用せしなり。必ずしも誤とすべからず。古績續通用せしことは隷辨、三餘偶筆卷三等を見て知るべし。佛經等亦この通用多し。「麻續」を「ヲミ」とよむは本來「ヲウミ」なるを約めたるなり。和名鈔の郷名には伊勢國多氣郡麻續には「乎宇美」と注し、信濃國伊那郡麻績には「乎美」と注せり。今この王の御名もさる地名に因みてつけられたるなるべし。さてこの王の系譜は詳かならず。
○流2於伊勢國伊良虞島1之時 伊良虞島は今三河國渥美郡に屬する伊良虞崎をいふなるべし。島とはいへど、これは半島の崎にして今日の所謂島にあらず。されど、今半島といふをも古は島といひしことは志摩國即ち島(ノ)國なるが、それ即ち半島なるにて知らるべし。この地三河國なれど、古來往々志摩或は伊勢の「いらご」と呼びなせり。古今著聞集卷十二に、「參河國より熊野へわたりけるに伊勢國いらこのわたりにて海賊にあひにけり」といへる如く、海路伊勢より直にわたる所なれば、この渡りを「いらごのわたり」といひて伊勢ともいひしならむか。本卷に「幸2于伊勢國1時留v京柿本朝臣人磨作歌」として載せたる歌の中にも、「五十等兒乃島邊」とよめり。この地、志摩國神島を去ること僅に一里なり。「流」は刑の一にして遠き所に遷すをいふ。なほこの事は左注の條にいふべし。
○人哀傷作歌 時の人のかなしみてよめる歌なり。
 
(129)23 打麻乎《ウチソヲ》、麻續王《ヲミノオホキミ》、白水郎有哉《アマナレヤ》、射等籠荷四間乃《イラゴガシマノ》、珠藻苅麻須《タマモカリマス》。
 
○打麻乎 古訓「ウツアサヲ」とよめるが、考に「ウチソヲ」とよむべしといひ古義に「ウツソヲ」とよむべしといへり。卷十六「三七九一」の歌に「打十八爲麻續兒等《ウチソヤシヲミノコラ》」とあると意義似通ひたるを見ても「麻」を「ソ」とよむに異議あるまじ。「打麻」とは績まむ料として打ち和げたる「麻」をいふなるべし。これを「ウツソ」とよみて「ウツ」を全の意なりとせる、古義の説は從ふべき理由を見ず。「ヲ」は感動をあらはす助詞にして「よ」といふに似たり。「麻續」につづくる理由は打ちたる麻をうみて苧とするによりてなり。
○白水郎有哉 「アマナレヤ」とよむ。白水郎は和名鈔に「辨色立成云白水郎和名阿万」とあれば「アマ」とよむべし。白水郎の字面は、唐の元※[禾+眞]の詩に「黄家賊用2※[金+獵の旁]刀利1、白水郎行2旱地1稀」とあるを見れば.支那に基づくを知るべし。されどその本集より古きを未だ知らず。「白水郎」又「泉郎」とも書き、本集中また二者夾れり。かくして支那にても白水郎といへる説あり。(大平廣記の説)泉郎といへる説あり。(太平寰宇記の説)「白水郎」を本とする説にてはこれを合せて「泉郎」とせりといふこととなる。「泉郎」を本とする説にてはこれを分ちて「白水郎」とせりといふこととなる。支那王莽の時の「貨泉」をば時人「白水眞人」といへりといふ事もあれば、この説あながちにすつべからず。「白水郎」を本なりといふ説は、白水は支那の地名にしてその土人よく海に没して物を捜るによりて、これを「白水郎」とよび、汎く漁夫の名とせりといふなり。按ずるに白水といふは川(130)の名にして、その川は蜀に發して羌胡の地に入るものにして所謂白水江これなり。これを本とする説に海に没すといへるは少くも言ひすぎなりとす。泉郎を本なりといふ説は泉州の住民常に船上にすむものをいふとなり。二説を按ずるに泉州の郎の義信ずべきに近し。然れども未だ可否を斷ずべきにあらず。さて「アマ」とは漁人の義にして氏族の「海部」をもいへり。神武紀に「海人」の字をかく讀み、古事記清寧卷に、「意布袁余志斯毘郁久阿麻余《オフヲヨシシビツクアマヨ》」とあり。蓋し、海人を「アマビト」といひたるものの下略なるべし。次に「有哉」を「ナレヤ」とよむは上に「ニ」助詞あるものとしてよめるなり。かかる例は集中に少からず。この「ヤ」は反語をなす場合の「ヤ」にしてかく已然形を受くるものは今の語にては「ナレバニヤ」といふべきに近し。かかる時に「バ」を加へずして直ちに「ヤ」を加へてその地位を充すは古語の一格なり。「バ」を省けりといふは今言を以て古語を論ずるものにして眞相に中らざるなり。又これを「海人に有りや」の意とし、それが反語にて「海人にはあらぬに」といふ意なりといふ説あれど、この頃にかかる語遣ありきといふ傍證なきによりて從ふを得ず。これらの説は歌全體によりてあらはさるる意義と語法の説明とを混同せるものにして、この「ヤ」を以て切るる語とせるは誤なり。この「ヤ」は下句に係りて反語をなすにあらずしては歌の意とほらぬをや。かかる際にはこの「ヤ」の力にて一首の意をすべて反語とするなり。
○射等籠荷四間乃 「イラコガシマノ」とよむ。訓の假名四と音の假名三とによりてかけり。
○珠藻 「タマモ」とよむ。これは藻をほめていへるに止まれり。この卷「四一」の歌に「大宮人之玉(131)藻苅良武《オホミヤビトノタマモカルラム》」といへるなどその例なり。藻の子の玉の如くなるによるなどいふ説あれど、あらぬことなり。玉藻玉松など、例多きことなり。
○苅麻須 「カリマス」とよむ。この「マス」を次の歌の「ヲス」とよむべきに合せて「ヲス」とよまむといふ説あれど非なり。ここは他よりいへるなれば「マス」の方をよしとす。藻を刈るは海人のわざなるを王のしたまふによりて「ます」といへるなり。「麻須」は「イマス」に同じく敬語なりとす。麻績王が伊良胡島に流されて賤しき人々の中にましますをば、漁人のする業なる海の藻を刈りますにたとへていへるにて必ずしも實際藻刈るわざをしたまへりといふにあらず。
○一首の意 麻績王が伊良胡島に流されて賤民に交りましますは如何にしたる事ぞ。あはれいたはしきよといへるなり。
 
麻續王聞v之感傷和歌
 
○ 麻積王が、上の歌をききてそれを感じかなしみてこれに和せられたる歌なり。
 
24 空蝉之《ウツセミノ》、命乎惜美〔二字左○〕《イノチヲヲシミ》、浪爾所濕《ナミニヌレ》、伊良虞能島之《イラゴノシマノ》、玉藻苅食《タマモカリヲス》。
 
○空蝉之 「ウツセミノ」とよむ.從來これを枕詞といへり。されど、ここにては、明かに「現し身」の命の義あり。枕詞といはばいへ現身の義著くして命と相待ちて意義極めて明かなり。
○命乎惜美 流布本「情※[草冠/夷]とあれど、誤にして古寫本すべて「惜美」とあるをよしとす。よみ方は「イ(132)ノチヲヲシミ」とよむべきなり。命に「惜し」といへる語の例は卷五「八〇四」の歌に「多摩枳波流伊能知遠志家騰《タマキハルイノチヲシケド》」又卷十七「三九六二」の歌に「多麻伎波流伊乃知乎之家騰《タマキハルイノチヲシケド》》などあり。
○浪爾所濕 舊訓「ナミニヒテ」とよめるを僻案抄に「ナミニヌレ」とよむべしといへるより諸家みな從へり。「ヒヅ」は「浸る」を本義として必ずしも濕るる義にあらず。若し「ヒヅ」といふ動詞を用ゐたるものならば「ヒデテ」とせざるべからざるのみならず、「所」の字を用ゐたる意にかなはず。「ぬれ」とよむは「所濕」の字面にかなへり。
○玉藻苅食 「苅食」を舊訓「カリマス」とよみたれど、「食」字に「マス」とよむべき意義なし。考に「ヲス」とよめるをよしとす。靈異記上の訓釋に「食國【久爾乎師ス】」といひ古事記上卷「夜之食國」の下に「訓v食云2袁須《ヲス》1」といひ、中卷仲哀卷歌に「阿佐受袁勢《アサズヲセ》」同應神卷の歌に「宇麻良爾岐許志母知袁勢《ウマラニキコシモチヲセ》」とあるなどを見て「食」を古言に「をす」とよみたりしをさとるべし。
○一首の意 我れ、彼の歌をきくにさすがにあはれに悲し。われはさすが命の惜さに、浪にぬれ涙にぬれつつこのいらこが島にわびしき住まひをしつつもながふるよとなり。眞に自ら藻を苅り食料としたまへりなどいふにはあらず。
 
右案2日本紀1曰、天皇四年乙亥夏四月戊戌朔乙卯三品麻續王有v罪流2于因幡1、一子流2伊豆島1、一子流2血鹿島1也是云v配2于伊勢國伊良虞島1者若疑後人縁2歌辭1而誤記乎。
 
(133)○右案2日本紀1云々  今本の日本紀を見るに、「四年夏四月甲戌朔乙卯三位〔右○〕麻讀王云々」とありて事實は一致すれど、日の干支と位の名目とはたがへり。但しいづれもその日が十八日に當ればこの點は一致するなり。これは日本妃に今本と異なるもの古、ありしを知るべき料とすべし。位の方は品は親王の位の名目なれば三位とあるを正しとす。
○是云配2于伊勢國伊良虞島1者若疑後人縁2歌辭1而誤記乎 これは日本紀の本文とこの集の詞書とが打ち合はぬによりて記者が按を記せるなり。「配」は配流の意にして、おなじくながすことなり。この按の意は日本紀に因幡國に流すとあるに、今伊勢國伊良虞島に配すとかけるは、その伊良虞島といふ語あるによりてこれを伊勢國と誤り認めてかくかけるならむかといふなり。かかる事は今も往々あることなれば、昔にもなかりしこととは斷言すべからず。然るにこの按の意を推して伊良虞島といふが、因幡にもありといふ説生ぜり。されど、さる處は因幡になし。これはただ、この歌あるによりて後人が伊勢國としたりといへるかといへるまでにして因幡國に伊良虞島といふがありし證とするには十分ならず。さてこの王の流所、かく異傳あるが上に常陸風土記によれば又別の傳あり。その行方郡板來村の條に「飛鳥淨見原天皇之世遣2流麻績王1居2處之1」と見えたり。かく處々に傳説あるは恐らくは訛傳によりて幾所もあるにあらずして屡々流所を改められしにてもあらむか。果して然らば因幡國に伊良虞島を求むるが如きは徒勞に終らむこと明かなりとす。
 
(134)天皇御製歌
 
○ 諸説この御製を天皇の東宮にましし時その位を辭して出家して吉野に入り賜ひし折の御製とせり。然れどもこの卷の書きざまの例を推すに、さる場合にはその當時の天皇の御宇の部におくことかの三山の歌の如くするなり。これを以てこの御製は明白に御在位中の御製なること疑ふべからず。この天皇在位の間吉野宮に行幸ありしこと史に明記せり。
 
25 三吉野之《ミヨシヌノ》、耳我嶺爾《ミミガノミネニ》、時無曾《トキナクゾ》、雪者落家留《ユキハフリケル》、間無曾《ヒマナクゾ》、雨者零計類《アメハフリケル》、其雪乃《ソノユキノ》、時無如《トキナキガゴト》、其雨乃《ソノアメノ》、間無如《ヒマナキガゴト》、隈毛不落《クマモオチズ》、思乍叙來《オモヒツツゾコシ》、其山道乎《ソノヤマミチヲ》。
 
○三吉野之 「ミヨシヌノ」とよむ。「ミ」は美稱なり。
○耳我嶺 舊訓「ミカノミネ」とよみたれど「耳」を「ミ」とのみよむは異例なり。僻案抄に「ミミガノミネ」とよみて後諸家多く從へり。これにつきては諸家種々に解釋を施せりといへどもいづれもうけ難し。卷十三「三二九三」にこの歌と殆ど同じくして結句のみ異なる歌あり。これには「御金高」とあり。これによりてここをも「ミカネノタケ」とよむべしとし、「耳我嶺嶽」とありし嶽の落ちたるなりといふ説(墨繩)もあれど、なほ落ちつかず。いづれにしても吉野中の著しき山なりしならむが、今は詳かならずといひて後の考を俟つ。
○時無曾 「トキナクゾ」とよむ。いつと定まりたるときなくといふなり。卷九「一七五三」の歌に(135)「時登無雲居雨零《トキトナククモヰアメフリ》」といひ、卷十四「三四二二」の歌に「安我古非能未思等伎奈可里家利《アガコヒノミシトキナカリケリ》」といへるが如きこの例なり。
○雪者落家留 「ユキハフリケル」とよむ。「落」は元來木葉の散るにいふ文字なるを雪の降るに借り用ゐたるなり。卷二「一〇三」の歌に「吾里爾大雪落有大原乃古爾之郷爾落卷者後《ワガサトニオホユキフレリオホハラノフリニシサトニフラマクハノチ》」とあるなど例多し。「ふる」といへるは卷十七「四〇〇〇」の歌に「等許奈都爾由伎布理之伎底《トコナツニユキフリシキテ》」などの例あり。
○間無曾 古來「ヒマナクゾ」とよめるを古義には「ヒマ」といふは古言にあらずとして「マナクゾ」とよめり。されど、古來かくよみ又、「ヒマ」が古言にあらずといふ確證もなし。
○雨者零計類 「アメハフリケル」とよむ。「零」は雨のふりたる後の滴りをいふ字なり。説文には「餘雨也」といひ、玉篇には「徐爾也」とあり、詩※[庸+おおざと]風に「靈雨既零」とあるを「スデニフリテ」と訓せり。卷六「九九九」の歌に「從千沼回雨曾零來《チヌミヨリアメゾフリクル》」卷八「一四八六」の歌に「久方乃雨打零者將移香《ヒサカタノアメウチフラバウツロヒナムカ》」卷十六「三八一九」の歌に「暮立之雨打零者《ユフダチノアメウチフレバ》」など皆この例なり。
○其雪乃時無如 は「ソノユキノトキナキガゴト」「其雨乃閏無如」は「ソノアメノヒマナキガゴト」とよむ。「如」は「ゴトシ」の語幹にして當時盛に用ゐられたるものなり。日本紀雄略卷に「加久能碁登那爾淤波牟登《カクノゴトナニオハムト》」又卷五「八一六」の歌に「烏梅能波奈伊麻佐家留期等《ウメノハナイマサケルゴト》」などの例あり。これに似たる句法の歌は卷十三「三二六〇」の歌に「小(沼)田之《ヲ(ハリ)タノ》、年魚道之水乎《アユチノミヅヲ》、間無曾《マナクゾ》、人者※[手偏+邑]云《ヒトハクムチフ》、時自久曾《トキジクゾ》、人者飲云《ヒトハノムチフ》、※[手偏+邑]人之無間之如《クムヒチノヒマナキガゴト》、飲人之不時之如《ノムヒトノトキジキガゴト》」とある、又同卷「三二九三」の歌はこの歌と殆ど同じき句法なること既にいへるが如し。さてこの二句は次の句にかかるものにして以上高山深谿のさま(136)を叙して次の比喩とせられしなり。
○隈毛不落 「クマモオチズ」とよむ。「隈」は上にいへる「道隈」の「隈」におなじ。「オチズ」は上にいへる「ヌルヨオチズ」の「オチズ」におなじく、漏さずといふ意なり。その山道の隈々を漏すことなくといふ意なり。
○思乍叙來 舊訓「オモヒツツゾクル」とよめるを僻案抄に「オモヒツツゾコシ」とよめり。乍は「ツツ」にあてたり。玄應音義、十又、廿五に蒼頡篇を引きて「乍兩辭也」とあるにて意明かなり。「クル」とよまば契沖のいへる如く「早至りてみばやと思召す路次」の意となる。然るに下に「其山道」とあるに照して考ふれは、今通りつつある語勢にあらねば「コシ」とよみてその山道を顧み想ひたまへりとすべし。若し「クル」とよまむには、「この〔二字右○〕山道」とあるべきものなるを思ふべし。なほかく「コシ」とよめば、上の六句に打ちあはずと思ふは考への足らぬなり。これは吉野に入りませる時の御製と見ゆれば、山道をわけ入りてこの歌をよみ賜ひ、さてなほ深く山中に來りしこととなれば、上六句には何のさはりもなきことなり。
○一首の意 この吉野の耳我嶺に時を定めず間もなく雪ふり雨ふることの如く、われは山道の隈々落つることなく漏るることなく深く、分け入りて物思ひつゝここに來しことよとなり。
 
或本歌
 
26 三芳野之耳我山爾《ミヨシヌノミミカノヤマニ》、時自久曾《トキジクゾ》、雪者落等言《ユキハフルトイフ》、無間曾《ヒマナクゾ》、雨者落等言《アメハフルトイフ》、其雪《ソノユキノ》、不時如《トキジキガゴト》、(137)其雨《ソノアメノ》、無間如《ヒマナキガゴト》、隈毛不墮《クマモオチズ》、思叙來《オモヒツツゾコシ》、其山道乎《ソノヤマミチヲ》。
 
○ これは、本書編纂の際に參考としたる別本にかく有りといひて參考としてあげたるならむ。今は本歌と異なる點のみをあぐべし。
○耳我山 これは舊訓「ミカネ」とよめり。本歌によりて意義もよみ方も定まるべし。
○時自久曾 上にいへり。
○雪者落等言、雨者落等言 この二句かはれるなり。意明かなり。
○不時如 舊訓「トキナラヌゴト」とよみたれど「トキジキガゴト」とよむべきなり。略解のよみ方はわろし。
 
右句々相換、因v此重載焉。
 
○ 左注の記者の語なり。
 
天皇幸2于吉野宮1時御製歌
 
○ この天皇の吉野宮に行幸ありしは左注に見ゆ。さてこの吉野宮は名高き櫻の名所たる今の吉野山にありしにあらずして、花の吉野よりは一里許吉野川を溯れる河邊にありしなり。この離宮の所在は大瀧附近などいふ諸説あれど、宮瀧村の邊なりといふ説最も眞に近し。この吉野離宮はいつに始まれるかといふに、昔神武天皇大和討入の時暫く吉野にましまししこ(138)とありしが、その時の行在も宮瀧附近なりしこと略々考へらるる所なれば、それの縁故により、皇室由緒の地として、往古よりありしものなるべくして單に景勝の地なる故に止まらずと考へらる。その名の古く見えたるは應神天皇十九年をはじめとし、雄略天皇の行幸ありしことは史に二回見え、齊明天皇の二年には「作2吉野宮1」とあり。これその宮をは改修せられしをいへるにて新に作られしにはあらず。
 
27 ※[さんずい+升]人乃《ヨキヒトノ》、良跡吉見而《ヨシトヨクミテ》、好常言師《ヨシトイヒシ》、芳野吉見與《ヨシヌヨクミヨ》。良人四來三《ヨキヒトヨクミツ》。
 
○※[さんずい+升]人乃 「ヨキヒトノ」とよむ。「※[さんずい+升]」は「淑」なり。叔字は隷に「※[叔の又が寸]」とかけるより「※[さんずい+升]」といふ體になれるなり。爾雅に「淑」は「善也」とあり。さて「淑人」の字面は詩經の「淑人君子其儀不v※[戎の十が心]」とあるによれるものにして、もと「善人」をさせる語なり、これを古來「ヨキヒト」とよめるは義によれるなり。佛足石歌に「與伎比止乃麻佐米爾美祁牟《ヨキヒトノマサメニミケム》」などあるは古人を尊びいへるなり。ここには古よりこの野に遊びてこの地をめではやされし人々をほめてのたまへるなるべし。
○良跡吉見而 「ヨシトヨクミテ」とよむ。「跡」は「アト」の訓に基づき上略して假名に用ゐたること上「二」にいへり。よき處なりとよくこの地を相し定めてといふ程の意なるべし。
○好常言師 「ヨシトイヒシ」とよむ。意明かなり。
○芳野吉見與 「ヨシヌヨクミヨ」とよむ。上にいへる如き芳野なればよく心をとめて見よ。これは從駕の人々に仰せられたる詞なりといふ説明を下されたるものあれど、しか定めずして(139)もよかるべく、我も見ん人も見よといふ程の意ありと見るべし。
○良人 「ヨキヒト」とよむ。上の「淑人」とかけると同じ心なるを文字をかへてかけるまでなり。
○四來三 舊訓「ヨキミ」とよめり。されどかくよみては語をなさぬによりて僻案抄には「よくみ」とよみその意は「今も猶此吉野をよく見よと諸人に示し給ふ也」といへり。かくいへば、意稍通れるやうなれど、「よき人よくみ」といへば、その「よき人」をばここに再び呼び出でて更に「よくみよ」といへる如き意となりて上の句とは打ちあはず。略解には荷田御風の説とて「ヨクミツ」とよむべしといへり。この説は上の二句を繰り返して意を強むる意となりてよくかなへりと覺ゆ。
○一首の意 古のよき人のよく見てよしと思ひやがて吉野とも名づけしこの地なれば今見る人々も心してよく見よ。されば、そのよし野と名づけてめでしよしも知られなむ。げにも古のよき人はこのよき地をよくも見あらはしつるよとなり。
 この御製毎句頭に「ヨ」といふ音を有せるのみならず、實に「よし」といふ語を八も重ね用ゐさせたまへり。かくの如き例は卷四「五二七」の歌に「將來云毛《コムチフモ》、不來時有乎《コヌトキアルヲ》、不來云乎《コジチフヲ》、將來常者不待《コムトハマタジ》、不來云物乎《コジチフモノヲ》」とあり。又古今六帖に、「心こそ心をはかる心なれ、心の仇は心なりけり、」又後撰集に「思ふ人おもはぬ人の思ふ人思はざらなむおもひしるべく」などある如く一種の技巧を用ゐたる歌の一體なり。而してかくの如きは一歩を誤らば輕薄に流れ易きものなれど、この御製にはさる弊も見えず。さはいへ、精神の發揚したる際の御製なるは疑ふべからず。
 
(140)紀曰八年己卯五月庚辰朔甲申幸2于吉野宮1。
 
○ これ日本紀を引きて吉野宮に行幸ありし時を注せるなり。今本の日本紀を按ずるに次の文あり。
五月庚辰朔|甲申《(五日)》幸2于吉野宮1。乙酉《(六日)》天皇詔2皇后及草壁皇子尊、大津皇子、高市皇子、河島皇子、忍壁皇子、芝基皇子1、曰、朕今日與2汝等1倶盟2于座1而千歳之後欲v無v事奈2之何1。皇子等共對曰、理實灼然。則草壁皇子尊先進盟曰、天神地祇及天皇證也、吾兄弟長幼并十餘王各出2于異腹1、然不v別2同異1倶隨2天皇勅1、而相扶無v忤、若自今以後不v如2此盟1身命亡之、子孫絶之、非v忘非v失矣。五皇子以v次相盟如v先。然後天皇曰、朕(カ)男等各異腹而生、然今如2一母同産1慈之。則披v襟抱2其六皇子1、因盟曰、若違2茲誓1忽亡2朕身1。皇后之盟且如2天皇1。丙戌《(七日)》車駕還v宮。
これによりて見れば、この時の行幸は單なる遊覽にあらずしてこの盟の爲にてありしなり。而してこの外にこの地に行幸ありし記事なきを見れば、この際にこの御製ありしならむか。或は又この時のことは頗る大事件なりしが故にこの事のみを史に傳へたるか。さてこの御盟の御主旨とその結果とを併せて考ふるに當時皇室の根基につきて頗る憂慮ましましし事件ありしを察すべく、而してそれもこの御盟によりてここに動きなくなりまししによりて喜悦しましまししあまりにかくも極めて發揚的の御製ありしならむか。
 さて又考ふるに、この卷と卷二とを通じて見るに御代々の歌すべて時代順になりをり。こ(141)の故に前の御製の長歌も吉野に關係あること著しきに、史に記す所の如く、御即位後吉野行幸の事眞に一度なりとせば、かの耳我嶺の御製も亦この途上の御詠と見ざるべからず。然るにその調頗る沈鬱にして寧ろ悽愴の感あらしむ。惟ふにこの行幸は國家皇室の前途の爲に一大決心を以て特に行幸ありしにて、その途上物思ひに沈みたまひし折の御製はかの耳我嶺の御製にして、その事解決して御心豁然となりたまひし折の御製はこの御製なるべく思はる。
 
藤原宮御宇天皇代 高天原廣野姫天皇
 
○藤原宮 は持統文武二代の皇居にして宮址は大和國高市郡鴨公村大字高殿のうち字宮所、字大宮、字京殿、字南京殿、字北京殿、字大君、字宮(ノ)口等皆その皇居の敷地の一局郡なりといふ。その宮の地は天皇の四年六月に高市皇子御視察あり、十二月に天皇御視察、六年五月より造営ありその完成して遷りまししは八年十二月なり。
○高天原廣野姫天皇 「タカマノハラヒロヌヒメノスメラミコ」とよむ。持統天皇の古の御號なり。この天皇はじめ、天武天皇の故都、飛鳥淨御原宮に御し、八年に藤原宮に遷都ありしなり。
 
天皇御製歌
 
○天皇 流布本「天良」とせるは古活字板の誤植に基づけるなり。古寫本皆「天皇」とあり。
 
28 春過而《ハルスギテ》、夏來良之《ナツキタルラシ》。白妙能《シロタヘノ》、衣乾有《コロモホシタリ》、天之香來山《アメノカグヤマ》。
 
(142)○春過而 「ハルスギテ」なり。
○夏來良之 舊訓「ナツキニケラシ」とよみ、新古今集にもしかよみて入れたり。元暦本、類聚古集等には「ナツゾキヌラシ」とよめり。契沖は「來」の下に「計」字を脱せるか、さらずば、「キタルラシ」ともやよむべからむ」といひ、僻案抄に至りて「計」とよむべき字なきによりて「けらし」とよむべからず、「曾」といふ助辭は重き詞なればそへやすからず、よりて字のままに「キタルラシ」とよむべし」といへるより諸家これに從へり。されど、諸家の意見は多く來字の「キタル」とよむ字なる由を明言せず。この「來」は「ク」とも「キタル」ともよむ文字なるが、「來《キ》」より「ラシ」につづくるものとせば、「タル」は別に加へねばならぬ事となりて「ナツゾ〔右○〕キヌラシ」「ナツキニケラシ」よりも一層多くの文字を補ふこととなるなり。按ずるに當時既に「キタル」といふ四段活用の語の存在せしことは卷十七「三九〇一」に「民布由都藝芳流波吉多禮登《ミフユツギハルハキタレド》」とあり。この語は續日本後紀の長歌に「きたりさもらふ」「きたれる」などいふ語あるを見れば、四段活用なるものにして古義などにいへる「き而有」の約なりといふ語にはあるべからず。これは榮田猛猪氏が國學院雜誌に發表せし如く「來至る」の約にして.參り至る」を「まゐたる」といへること佛足石歌に「佐伎波比乃阿都伎止毛加羅麻爲多利弖麻佐米雨彌祁牟阿止乃止毛志佐乎《サキハヒノアツキトモガラマヰタリテマサメニミケムアトノトモシサヲ》」に、その例あれば、其の説信ずべし。さてこの四段活用をなせる「きたる」といふ語に「ラシ」のつけるものとして「キタルラシ」とよむは極めて自然にして「來」を「キ」とよみ、良之」との間に「ニケ」の二音を加ふるにはまされるのみならず、「ラシ」と現實につきての推量をなす方「にけらし」といふ過去につきての推量にまされるが故に「キタルラシ」とよむべ(143)し。「春過ぎて夏來るらし」といふ如き詞遣は卷十「一八四四」に「寒過而暖來良思《フユスギテハルキタルラシ》」といひ、卷十九「四一八〇」に「春過而夏來向者《ハルスギテナツキムカヘバ》」などあり。
○白妙能衣 「シロタヘノコロモ」とよむ。「タヘ」はもと穀《カヂノ》木の名なりといふ。その皮の繊維をとりて布に織れるが故に後には布の名となれり。日本紀雄略卷に「飫瀰能古簸《オミノコハ》、多倍能婆伽摩嗚那那陛嗚※[糸+施の旁]《タヘノハカマヲナナヘヲシ》」といへるもこれなり。白妙は白き布なり。卷十五「三七七八」に「之路多倍乃阿我許呂毛弖乎登里母知弖《シロタヘノアガコロモテヲトリモチテ》」など假名書になるものあれば、そのよみ方を證すべし。從來之を衣の枕詞とせり。されど、古は今の朝鮮の如く上下共に白き衣を常用とせりしなり。ここは古義の説の如く斷じて枕詞にあらずして、事實をのたまへる語にして白き布にてつくれる衣なり。
○乾有 舊訓流布本に「サラセリ」とよみ古本には「ホシタル」とよめるあり、又「ホシタリ」とよめるもあり。これにつきて諸家區々の意見ありしが、本居宣長が、「ホシタリ」とよむをよしといひたるより後大方之に從へり。按ずるに「乾」字にては直接に「サラス」とよむべきいはれなくして字鏡集に「ホス」の訓あり。されど、新古今集に「ほすてふ」とよめるは不當なり。又「ホシタル」とよむべしといふ説あれど、それにては天香山につづく語遣となりて歌の調子ゆるみて聞ゆ。ここは切れたる方歌としてはよしと思はる。故に今「衣ほしたり」とよむ説に從ふ。
○天之香來山 舊訓「アマノカクヤマ」とよめり。「アメノカグヤマ」とよむべきこと既にいへり。「來」は「ク」の假名に用ゐたるなり。この「天香來山」と最後にある句につきて諸家、山のあたり〔三字右○〕の家に衣ほしかけたりといへり。掛け乾すと見る時はかく釋する外なかるべきが、この山に人の(144)家ありきといふことも書に見えねば、今吾人が朝鮮にて野山の草の上に直ちに白布を布きて乾せるを見たる目にて考ふるに、これは實際にその山の草木の上に廣げ乾せるを見たまひしならむ。かくてこそ衣ほしたり天の香來山といふ語の意とほりて聞ゆれ。
○一首の意 萬葉考にはこの御製は、持統天皇のいまだ清御原宮におはしまししほど、夏のはじめの頃、埴安の堤の上などに、幸し給ふにかぐ山のあたりの家どもに衣を掛ほして有るを見そなはしてよませ給へるなりといふ説を唱へて後諸家これに從へり。されど、埴安の堤の上などに幸したまひし時御覽ぜられしといふ説によらば藤原宮こそそこに近き處なれ。按ずるにこれは既にいひし如く、實際山の草原などの日當りよき地に白き衣を乾せるを見たまひての事なれば、寧ろ藤原宮より東の方天香山を望みたまひしものと見て可なるべきか。さてこの歌二段落にして第一段は春はいつしか過ぎて、はや夏に成りたるらしとのたまひ、第二段は上の感想の起る源としての天香山の眺めをうたひたまへるなり。ここに「らし」の本意即ち現前の事實を見て推量を下す事情よくあらはれたり。この歌によりて即ちこの頃既に初夏に更衣する習俗のありしを見るべし。
 
過2近江荒都1時柿本朝臣人麿作歌
 
○過近江荒郡時 近江の都は天智天皇の都なる近江大津宮なり。荒都といへば壬申亂後荒廢に歸したりしさまなりしをいへるなるべく、壬申の年より持統天皇の御宇の末まで僅に二十(145)五年なれど、大亂の後なれば、荒れたるままにうちすてありしなるべし。「過」は事ありてその地を通るをいふ。
○柿本朝臣人麿 本集第一の歌聖なり。然れども、その傳知られず。僅に本書によりてその事蹟を推すのみ。柿本氏は孝昭天皇の皇子天押帶日子命の後にして柿本臣といひしが、天武天皇の朝に朝臣の姓《カバネ》を賜はりしなり。
 
29 玉手次《タマダスキ》、畝火之山乃《ウネビノヤマノ》、橿原乃《カシハラノ》、日知之御世從《ヒジリノミヨユ》、【或云自宮】阿禮座師《アレマシシ》、神之盡〔左○〕《カミノコトゴト》、樛木乃《ツガノキノ》、彌繼嗣爾《イヤツギツギニ》、天下所知食之乎《アメノシタシラシメシシヲ》、【或云食來】天爾滿《ソラニミツ》、倭乎置而《ヤマトヲオキテ》、青丹吉《アヲニヨシ》、平山乎越《ナラヤマヲコエ》、【或云 虚見倭乎置膏丹吉平山越而】何方《イカサマニ》、御念食可《オモホシメセカ》、【或云所念計米可】天離《アマザカル》、夷者雖有《ヒナニハアレド》、石走《イハハシル》、淡海國乃《アフミノクニノ》、樂浪乃《ササナミノ》、大津宮爾《オホツノミヤニ》、天下《アメノシタ》、所知食兼《シラシメシケム》、天皇之《スメロギノ》、神之御言能《カミノミコトノ》、大宮者《オホミヤハ》、此間等雖聞《ココトキケドモ》、大殿者《オホトノハ》、此間等雖云《ココトイヘドモ》、春草之《ハルクサノ》、茂生有《シゲクオヒタル》、霞立《カスミタチ》、春日之霧流《ハルビノキレル》、【或云霞立春日香霧流夏草香繁成奴留】百磯城之《モモシキノ》、大宮處《オホミヤトコロ》、見者悲毛《ミレバカナシモ》。【或云見者左夫思母】
 
○玉手次 「タマダスキ」とよむこと「珠手次」と書けるに同じ。その意既にいへり。これは「ウネビ」の枕詞として用ゐたるなり。かく用ゐる由は「たすき」は采女のかくるものにして、「ウネビ」と「ウネメ」と音似たるが故にいふと契沖いへり。されど、これは荷田在滿がいへる如く、項《ウナジ》にかくる(146)ものにして、項にかくるをうなぐといふによりて「ウネ」といふ語にかけ、さて同音の關係によりてかけたるにて、「ウネメ」といふ語全部にかかりて生じたる枕詞にはあらざるべし。
○畝火山乃橿原 これは神武天皇の都をさす。畝傍山東南橿原の地に宮つくりましましし故なり。「橿」は和名鈔に「和名加之」と見えたり。今の橿原神宮の地その舊址の一部なりといふ。
○日知之御世從 「ヒジリノミヨユ」とよむ。「日知」は聖字の訓なり。萬葉考には「日之食國を知ますは大|日女《ヒルメ》の命也。これよりして天つ日嗣しろしをす御孫の命を日知と申奉れり。紀に神聖など有はから文體に字を添しにて二字にてそれはかみと訓也。聖の字に泥て日知てふ言を誤る説多かり。」といへり。されど、この「ひじり」といふ語を「日知」の字面によりて釋する説はうけられず。按ずるにこれは聖の義訓にして皇國の古言にあらざるべし。かくて神聖といふ熟字をば古言にていはば、考の如く「かみ」といふべきなれど、「聖」一字にて「かみ」といふは如何なり。「聖」字は「耳」「呈」の形聲字にしてこれを「ひじり」と訓するは風俗通に「聖者聲也、聞v聲知v情故曰v聖也」とあるが如く、「しり」は物を知るの義「ひ」は「ひこ」「ひめ」などの「ひ」と同じく靈妙なる意ならむかと木村正辭のいへるは是ならむ。さて「ひじりの御世」といふことは史にては仁徳天皇をはじめていへる語にて古事記の序に「於v今傳2聖帝1」といひ、本文には「故稱2其御世1謂2聖帝1也」とあるを記傳に注して曰はく、「聖帝二(ノ)字を比士理と訓へし。日知の意なり。但し此は皇國の元よりの稱《ナ》には非じ。聖字に就て設けたる訓なるべし。其は漢籍に聖人と云者の徳をほめて日月に譬へたることあるを取て日の如くして天下を知しめすと云ふ意なるべし。(中畧)されば天皇(147)を賛《ホメ》奉て日知と申すは此(ノ)天皇より始まれる事にて漢國の例に傚へる稱なり」といへり。さてこの後のものにしては續紀卷十天平元年八月の詔中に「聖者止坐而賢臣供奉」とあり、又卷十五、天平十五年五月の詔中に「飛鳥淨御原宮爾大八洲所知志聖乃天皇命」とあるにて、聖帝の世の義なるをしるべし。今若し、「日知り」といふ語を以てなほ聖字の義訓にあらずして本邦の古語なりとせば如何なる意を示せりとすべきか。これにつきては木村正辭の説あり。それは日並知皇子の御稱號より推測したる説にして「日知は日嗣知しめすよしなる事を曉るべし」といへり。されど、日並知皇子の御稱號は天皇を日にたとへて「日並に知らす」といへるにて「日知」に准じて「日並知」といへるにはあらず。若し「日知」に准じて「並」といふ語を用ゐなば、「日知並」といふべき筈にあらずや。この故に「日知」の「知る」を領治する意にいはば、天皇は「日を知り」たまふこととなり、日の如くといふ意には遠し。されば「日並知」の「知」と「ひじり」の「しり」とは意義一ならざること明かなり。されば、これはなほ「聖」字の義訓たりといふべきものにして聖帝の稱も、仁徳天皇頃より支那風の事多く行はれしより出で來しものなるべきなり。かくてその稱號を神武天皇の御世まで溯り及ぼしてうたへるものならむ。
○從 は「三」の歌にいへる如く、「ヨリ」の助詞にあて用ゐたるなり。これは當時「ヨリ」「ユリ」「ヨ」「ユ」と四樣に用ゐたるが、ここにては一音にしてしかも古きに從ひ「ユ」とよむべきなり。
○或云自宮 これは或本に「宮ユ」とありと注せるなり。「自」も「從」も共に「ヨリ」の意なり。さてこれは「世」とある本文の方よし。
(148)○阿禮座師 「アレマシシ」とよむ。「アレ」は下二段活用の動詞にして現はるる義にして人につきてはその生るるをいふ。その子を母よりは産むといひ、子自體につきては「ある」といふ。母の「うむ」と子の「ある」とが熟合して「うまる」といふ語を生じたりと見ゆ。卷六「一〇四七」の歌に「阿禮將座御子之嗣繼《アレマサムミコノツギツギ》」とあるはその假名書の例なり「アレマシシ」は生れたまひしなり。
○神之盡 流布本に「書」とかけるによりて舊訓に「カミノアラハス」とよみたれど、義をなさず。契沖は「カミノシルシニ」とよむべきかといひたれども未だし。元暦本類聚古集等に「盡」字とせるを正しとす。これによりて「カミノコトゴト」とよむべく、その意は神武天皇以後次々生れましし天皇皆悉くの意とすべし。かくの如き語遣は卷二に「日之盡」(一九九)卷三に「國之|盡《コトゴト》」(三二二)「人乃|盡《コトゴト》(四六〇)などある傍例あり。これによりて略解はかくよむべしと主張せり。從ふべきなり。考には「書」を「言」の誤とし、攷證には「書」字に言の義ありとして「カミノミコト」とよむべしといひたれど、なほ「盡」とあるによる方まされリとす。
○樛木乃 舊訓「トガノキノ」とよめるを僻案抄には「ツガノキノ」とよめり。「ツガ」といふも「トガ」といふも一の樹なれば、そのよみ方は、次として、この「樛」といふ字にさる訓ありや否やを先づ、檢すべし。この字は詩經の注に「木下曲曰v樛」とありて樹木の種類の名にあらず。説文以下諸の字書みな然り。按ずるに「樛」は「※[木+糾の旁]」と同字にして高き木の枝の下勾せるをいひ、その上勾せるを喬木といひしなり。さて「ツガ」の樹にあつべき漢名のなきを見れば、この樹は或は支那になきを以て之に相當する漢字なきにあらざるか。かくて「ツガ」は松柏類中にありても枝の下勾する(149)ものなれば、これに借り用ゐたるものとおぼし。「ツガ」は又「トガ」ともいひ、今「栂」の字を專ら用ゐるが、古くは「梅」字を用ゐたることあり。そノ「栂」字は支那に無き字なりとす。「ツガ」「トガ」相通じて用ゐらるるが、和漢三才圖會によれば、關東にては「ツガ」關西にては「トガ」といふ由なり。本書にては卷三「三二四」に「都賀乃樹《ツガノキ》」第十七「四〇〇六」に「都我能奇《ツガノキ》」卷十九「四二六六」ニ「都我乃木《ツガノキ》」とみえ、卷六「九〇七」には「刀我乃樹《トガノキ》」と見えたり。今多きに從ひ「ツガノキ」とよめり。この木樅に似て葉小く良材たり。ここにては「ツギツギ」といふ語の枕詞とせり。
○彌繼嗣爾 「イヤツギツギニ」とよむ。「イヤ」は「いよいよ」といふに意近き接頭辭なり。かかるつづけざまは卷三「三二四」に「五百枝刺繁生有都賀乃樹乃彌繼嗣爾《イホエサシシジニオヒタルツガノキノイヤツギツギニ》」といひたるなど例少からず。ここの「ツギツギ」は歴代といふに同じく天皇御歴代のいづれもをさし奉る。
○天下 「アメノシタ」とよむ.この語の源は蓋し「天下」といふ漢語を譯せしものなるべきか。卷五「八七九」に「余呂豆余爾伊麻志多麻比提阿米能志多麻乎志多麻波禰美加度佐良受弖《ヨロヅヨニイマシタマヒテアメノシタマヲシタマハネミカドサラズテ》」など、假名書にせるにてよみ方のたよりとすべし。
○所知食之乎 古來「シラシメシシヲ」とよみ來れるを僻案抄に「しろしめす」とよみて後これに從ふもの多し。但し、本集の例を見るに、その假名書なるはいづれも「シラシメス」とよむべきもののみなり。即ち卷十八の長歌「四〇九四」に「葦原能美豆保國乎安麻久太利之良志賣之家流須賣呂伎能神乃美許等能《アシハラノミヅホノクニヲアマクタリシラシメシケルスメロギノカミノミコトノ》」といひ(「四〇九八」になほ一處あり)卷二十の長歌「四三六〇」に「難波乃久爾爾阿米能之多之良之賣之伎等《ナニハノクニニアメノシタシラシメシキト》」といひ、この卷になほ「しらしめしける」(「四四六五」)とあり。而して(150)萬葉集中假名書のものはなほ「しらしめす」とある方にして「しろしめす」と假名書にせるものなし。「しろしめす」といふ語は延喜式の祝詞に「所知食」の注に「古語云2志呂志女須1」とあるを證とせるものにして、これによりてこの卷の「所知食」を「しろしめす」とよみたるが爲に「しろしめす」といふ語多く聞ゆれど、延喜時代に古語といへるは、必ず萬葉集より古しとも考へられねば、なほ「しらしめす」とよみたる方穩かなりといふべし。「しらし」は「しる」の敬語にして「めす」も亦「みる」の敬語なり。いづれもサ行四段に活用せしめたるものなるを重ね用ゐたるなり。ここに「しらしめす」は統治したまふ義なり。この大和國に都を奠めて天下を治め賜ひしをといふなり。「大和にて」といふべきを省けるは前後の文意にてしるければいはざるなり。「を」は力強く押へて下に接續する意あり。文勢はこれより下の「何方所念食可」につづく勢なり。
○或云食來 これは或は「所知食來」とかけりとなり。かくあらば「シラシメシケル」とよむべし。
○天爾滿 「ソラニミツ」とよむ。「滿」は「見ツ」の借字なり。大和の枕詞なり。「ソラニミツ」といへる例他に所見なし。疑ふべし。されど諸本皆「爾」字あれば、誤といふべからす。後の考を待つ。
○倭乎置而 「ヤマトヲオキテ」とよむ。歴代の帝都の地たりし大和をおきてなり。かかる場合の「おきて」は今の人の「後にして」といふ如き心持の語と見ゆ。この卷に「太敷爲京乎置而《フトシカスミヤコヲオキテ》」(四五)又「飛鳥明日香能里乎置而伊奈婆《トブトリノアスカノサトヲオキテイナバ》」(七八)などみな然り。
○青丹吉 上にいへり。(一七)
○平山乎越 「ナラヤマヲコエ」とよむべし。「ヒラヤマ」とよめる古寫本もあれど從ふべからず。(151)「平」は「ナラス」といふ訓の意にて「ナラ」の假名に用ゐたるなり。「ナラヤマ」は前(一七)にいへる「奈良乃山」の事なり。文勢はこれより直に「淡海國樂浪乃大津宮」につづくなり。
○或云虚見倭乎置青丹吉平山越而 これは或本に上の四句を「ソラミツ、ヤマトヲオキ、アヲニヨシ、ナラヤマコエテ」とせりとなり。語に少しの差あれど、意は同じ。
○何方 舊訓「イカサマニ」とよめり。但し、本によりては「イツカタニ」などよめるものあり。「サマ」といふ語は古は方向をさせる語としても用ゐたれば、「方」字を「サマ」とよむことは誤にあらず。さて「イツカタ」とよまば、次下の語遣と吻合せず。ここは「方」の一意「サマ」といふ訓をかりて有樣の意に用ゐたるものなるべければ「イカサマニ」とよむ方まされりとす。俗語に「ドノヤウニ」といふに似たり。
○御念食可 舊訓「オボシメシテカ」とよめり。されど「オボシメス」といふ語は平安朝以後の語と思はるれば、よるべからず。考に「オモホシメセカ」とよめるに從ふべし。「オモホシ」は「オモフ」の敬語にてサ行四段に活用せるもの、「メス」は上の「しらしめす」の「めす」と同じ。卷十五「三七三六」に「等保久安禮婆一日一夜毛於母婆受弖安流良牟母能等於毛保之賣須奈《トホクアレバヒトヒヒトヨモオモハズテアルラムモノトオモホシメスナ》とある例などにてそのよみざまをさとるべし。「メセカ」といふ語遣は古格にして例の已然形より直に係助詞「か」につけて句を接續するものにして近世の格にては「メセバカ」といふべき所なり。その例は卷十五「三六四七」に「和伎毛故》我伊可爾於毛倍可《ワキモコガイカニオモヘカ》、奴婆多末能比登欲毛於知受伊米爾之美由流《ヌバタマノヒトヨモオチズイメニシミユル》」などなり。さてこの句は次下の「天下所知食兼」までにかかれり。さてここに遷都につき天皇の御心をい(152)ぶかる口吻を漏せるは考ふべきことなり。按ずるに遷都の當時人々甘心せざりしさまは日本紀のこの遷都の條に「遷2都于近江1、是時天下百姓不v願v遷v都諷諫者多、童謠亦衆云々」とあるにて著しきが、柿本人麿も二十年程の後によみたるなるべければ、その事を傳へききて知れりしによりてよめるか。さて萬葉考にはここにて一段落とし次下を全然別行にせり。こはこの間に幾何かの脱落あるものと考へたりと思はる。されどそは全くいはれなき事にしてさばかり歌に巧みなりし眞淵翁にも似合はぬ事なり。ここにて切れたりとせば歌となるべしや。按ずるにこれは代匠記に「所知食兼、此處句絶なり、いかさまにおほしめしてかと云ふを受くる故なり」といへるによれるものなるべけれど「句絶」とは、今いふ句讀と同じ意にて「句絶え失せたり」といふ義にあらぬなり。
○或云所念計米可 これも或本に「オモホシケメカ」とある由をいへるなり。この方本文よりも意よく通ずるやうに思はる。これに似たる語遣は卷三「四六〇」に「何方爾念※[奚+隹]目鴨郡禮毛奈吉佐保乃山邊爾哭兒成慕來座而《イカサマニオモヒケメカモツレモナキサホノヤマベニナクコナスシタヒキマシテ》」などあり。
○天離 「アマサカル」とよむ。日本紀卷二の歌に「阿磨佐筒屡避奈菟謎廼《アマザカルヒナノメノ》」とあり。「サカル」は古事記上卷に「奧疎神《オキサカルカミ》」本集卷二に「里放來奴《サトサカリキヌ》」(一三八)「益年離《イヤトシサカル》」(二一四)卷三に「家離伊麻須吾妹乎《イヘサカリイマスワギモヲ》」(四七一)など「疎」「放」「離」の文字をあてたる如く、隔り離るる意なり。今「遠ざかる」といふ場合の「さかる」もこれにして離れてあるを「さかる」といひ、その遠くさかりたる地は遙に望めば、祝詞に「白雲能墜坐向伏限《シラクモノオリヰムカフスカギリ》」といへる如く、天と一つにつづけるやうに見ゆればかくいへるなり。かくてこの場合の(153)如きは必ずしもしか遠き地ならねどもひろく「ひな」の枕詞とせるなり。
○夷者雖有 舊訓「ヒナニハアレド」とよめり。諸家皆之によりて異論なきに、古義には「有」の上に「不」字ありしが脱せりとして「ヒナニハアラネド」とよむべしと大神景井がいへるをよしとして改めたり。その説の可否は次として、まづ「ヒナ」といふ語よりいふべし。「夷」といふ字は元來支那にて東なる外國をいへるなるが、今「ヒナ」といふ國語にあてたり。夷字を「ヒナ」とよむは、和名鈔安房國の郡名に「朝夷【阿佐比奈】」とあるなどその證なりとす。「ヒナ」といふ語は都に對して京都以外の地方をいへり。「ミヤビ」に對して「ヒナビ」といへるが如し。古事記雄略卷の長歌に「都紀賀延波本都延波阿米袁淤幣理《ツキガエハホツエハアメヲオホヘリ》、那迦都延波阿豆麻袁淤幣理志豆延波比那遠於幣理《ナカツエハアヅマヲオホヘリシツエハヒナヲオホヘリ》」とあり。又筑紫に「夷守」といふ地あるなどによりて東國に對して西北方の諸國をさすといへる説もあれど、これは詞のあやをなす爲にして、東《アヅマ》と夷《ヒナ》とを地理的に區別したるにはあらざるべし。かくて又「あづま」といふ語も時として汎く田舍の義に用ゐたることは和名鈔に「邊鄙」を訓じて「阿豆萬豆」とよめるにてしるし。これは東人の文字にあたる國語なるべきが、實はひろく田舍人をさせり。されば「夷」も或は古くは東國の「アヅマ」に對して西域をさししが本義なりしならむも後には汎く田舍といふ意に用ゐたるならむ。さてこの句をば古義に、「比那にはあらねど」といへるは近江をば「比那」といふほどの國にはあらねどといふ意なりとするなり。されど、かくいはば「比那」の語義は姑くさておき、この一句無用となるべし。何となれば、前に歴代の帝都の地たりし倭を置きてといへるはその地を殘り多く惜み思へるさまなること著しきものなれば、こ(154)こに至りて比那にはあらぬ近江に遷都ありといふこととせば前後の意味打ちあはずして結局この一句無意なるのみならず、贅疣たりといふべきものたるなり。加之古寫本等一もさる訓を下すべき由の文字もなし。これはまさしく古訓の如く、「夷にはあれど」といふべき所なり。ここの意は下にいふ近江をさして夷といひ、さる田舍にはあれども何方の思召によりてか都としたまひしといふ義なりとす。
○石走 舊訓「イハバシル」とよめり。冠辭考には「イハハシノ」とよむべしとせり。「イハハシル」とよむは石の上を走る意を以て「溢水《アフミ》」の枕詞とすといひ、「イハハシノ」とよむは石橋の意にて、その石橋とは石を川の所々に置並べて渡るものなれば「間《アヒ》」といふより「淡海《アフミ》」の枕詞とすといへり。淡海の枕詞たることは論なけれどこの二説なほ研究を要する點ありて可否今にはかに定めがたし。
○淡海國 「アフミノクニ」なり。淡海は「アハウミ」にして淡水の湖をいふ。ここは近淡海國即ち近江國にして今の滋賀縣の地をいふ。
○樂浪乃 「ササナミノ」とよむ。「樂浪」の字面は漢の朝鮮四郡の名にあれども、それには關係なし。これは卷七「一三九八」に「神樂聲浪《ササナミ》」とかけるが本原の字面にしてそれを略したるが、卷二「一五四」に「神樂浪《ササナミ》」とかけるを更に略したる形がこの字面たるなり。さてかくかける由は、古神樂の囃聲を「ササ」といひしより起れりと考へらる。古事記中卷の神功皇后の御歌に「阿佐受袁勢佐佐《アサズヲセササ》」とあり、又武内宿禰の歌にも「許能美岐能阿夜邇宇多陀怒斯佐佐《コノミキノアヤニウタタヌシササ》」とあり。日本紀神功卷にも文(155)字かはれど同じ歌をのせたり。又古本神樂歌の譜には殖春、總角、大宮、湊田などの歌の後に「阿以佐安以佐《アイサアイサ》」とかけるも見え、釋日本紀卷二十四には上の「佐々」に注して「謂2神樂1也」といひ、又神功紀の「爲審神者」の注に「師説沙者唱進之義也、言出2居神樂1稱2沙佐之庭1也云々」とも見え、又和名鈔但馬國郷名に「樂前【佐々乃久萬】」とあるなど、みな「神樂」又は「樂」を「ササ」とよみたりし證なりとす。さて「ササナミノ」は從來多くは枕詞といひたれど然にはあらずして實際の地名なり。その地は日本紀孝徳卷に「近江狹々浪合坂山」とあるによりて近江國内の一地方の名稱なるを知るべし。その地は志賀、大津、平山等に冠したるを以て滋賀郡をいふ如く見ゆるに、卷七「一一七〇」に「佐左浪乃連庫山爾《ササナミノナミクラヤマニ》」といへるを見れば、高島郡を含めりと見ゆれば、古は滋賀郡のみならず湖西一帶の地を汎く稱へしものと見えたり。又「ササナミ」とのみいひてその地をさしたることは古事記仲哀卷に「爾追迫敗出2沙々那美1悉斬2其軍1」とあるなど見ゆ。
○大津宮爾 「オホツノミヤニ」とよむ。こは上にすでにいへり。
○所知食兼 「シラシメシケム」とよむ。「シロシメシケム」とよむ説もあれど、從ひがたきは上にいへるが如し。「兼」は音を惜りたる假名にして「ケム」は過去を想像していふ複語尾なり。さて契沖は「此處句絶なり」といへり。その理由は「いかさまにおぼしめしてかと云ふを受くる故なり」といへり。御杖、守部、木村正辭の説またこれに同じ。されど、これは不可なり。これらの諸家は上の「何方御念食可」の「か」の係の打合を必ず終結の形に求むべしとするよりかかる誤解を生ぜるものなり。これは古義に「この兼《ケム》の詞にて上の「御念計米可」といふを結《トヂ》めたりとおもふは(156)くはしからず、兼の言にて上の可を結むるときは次の天皇之云々は新になりて上より屬かず、よく讀味て其意をさとるべし」といへる如くに「ケム」を以て連體格と見、上の「か」に對する結はこの連體句たる爲に消滅せりと見るべきものなり。若し然らずとせば、下の「天皇之云々」の語の受くる所明かならざるのみならず、文意も亦未了のままにて中止せらるるなり。
○天皇之神之御言能 「スメロギノカミノミコトノ」とよむ。天皇の字は「スメラミコト」ともいへどもここは四音なるを要するが故に、「スメロギ」といふをよしとす。卷十七「四〇〇六」に「須賣呂伎能乎須久爾奈禮婆《スメロギノヲスクニナレバ》」卷十八「四〇九四」に「須賣呂伎能神乃美許等能《スメロギノカミノミコトノ》」卷二十「四四六五」に「須賣呂伎能可未能御代欲利《スメロギノカミノミヨヨリ》」ともあり。「スメロギ」といふ語はもと皇祖皇神祖などをよむ如く、御祖の天皇を申し、それより轉じて皇祖より當今の天皇までをかねて申したりしなり。「御言」は「ミコト」の假名にして、通常は「命」又は「尊」の文字を用ゐる。その意は御事の義にして尊稱なり。天皇は現人神にまします故に「神之命」とはいへるなり。ここに「天皇の神の命」といへるは上の文のつづきによりて天智天皇をさし奉ること明かなり。
○大宮者 「オホミヤハ」とよむ。「ミヤ」は「御屋」にして、それに更に「大」の美稱を冠したるもの。大宮は宮城をさす。卷三「二三八」に「大宮之内二手所聞《オホミヤノウチマデキコユ》」など例少からず。この大宮は天智天皇の大津宮をさせり。
○此間等雖聞 「ココトキケドモ」とよむ。「此間」を「ココ」とよむは義訓なるが本集卷三「四三一」卷四「五七四」等その他古書に例多し。
(157)○大殿者此間等雖云 「オホトノハココトイヘドモ」とよむ。「殿」を「トノ」とよむはもと字音より出でたりと見ゆ。「殿」は霰韻にして尾韻 n なれば、これを日本化して「トノ」といへるなり。從つて「トノ」といへば、支那風の壯麗なる建築をさせり。この大殿は大宮と對して同じく宮殿をさせるものにしてこの二句は上の二句と相對し、「聞けども」と「いへども」と相對す。即ち「我はここをその大宮なりときけども、人はここをその大殿なりといへども」といふ意にして、二句兩々相對して直ちに下の句につづくるなり。
○春草之 舊訓「ワカクサノ」とよめり。されど「ハルクサノ」とよめる古寫本も少からず。本居宣長は「ハルクサシ」とよむべしといへり。この「之」を「シ」とよむべきか、「ノ」とよむべきかは次にいふごととし、先づ、「春草」を「ハルクサ」とよむべきか「ワカクサ」とよむべきかを考たるに、下に「茂生有」といへるにかけて見れば、「ワカクサ」とよむは當らざるなり。若草といふは初春の草を主としていふ詞なるに、ここに茂るとあれば孟春以後をいふこと著し。さればこの文字のままに「ハルクサ」といひてよかるべし。次に「之」を「ノ」とよむべきか、「シ」とよむべきかにつきて考ふるに、本居説にては「春草ししげくおひたり」といひて切るるものとせるなり。然るときは、「霞立春日云々」以下にて一段落をなして、歌の調くづるることとなる。これは、次の句と對をなせるものなれば、舊訓による方穩かなりとす。
○茂生有 舊訓「シゲクオヒタル」とよめるを本居宣長が「シゲクオヒタリ」とよむべしといへるは、上にいへる如く從ふべからず。本居説には「春草之云々」と「霞立」とを並び見るはわろしといふ(158)にあれど、これは木村正辭がいへる如く並べ見る方よきなり。何となれば、上に「大宮云々」「大殿云々」と對々になり來れば、ここにもそれに應じて今一度の對句ある方歌調ととのへればなり。
○霞立春日之霧流 「カスミタツハルビノキレル」とよみ來れるを攷證に「カスミタチ云々」とよむべしといへり。ここは實際霞の立てることをいひたるなれば、「霞立ち」といふをよしとす。(枕詞にはあらず。)「キレル」は「キル」と「アリ」との結合せる語にして「キル」といふ動詞は四段に活用し、「くもる」に似たる意をあらはし朧なるさまにいふ。「霧」といふ名詞もそれの體言となれるなり。日本紀齊明卷の御歌に「阿須箇我播瀰儺蟻羅※[田+比]都都《アスカガハミナギラヒツツ》」とあるもこれによれる詞なり。春の日の霞立ちてそれによりて霞みくもりて見えぬかといふなり。以上二句相對して疑をなし、連體形を以て終止せるなり。これ亦一種の語法なり。
○ 以上にて一段落をなせり。かくて以上の外何事もいはざれどもその大宮大殿のあとかたもなくなりて今來て見れども、目に遮るものとてはただ草の茂くあるのみなるを春霞の爲に見えぬにやとわざと疑ひてその驚と悲とをはげしくあらはしたるなり。
○或云霞立春日香霧流、夏草香繁成奴留 或本にかくありとて注したるなり。萬葉考にこれを本文ととりたるよりして、古義に至るまでこれに從へる本多けれど、本文にてわからぬにあらず、又いたく劣れりとも見えねばそのままにてよかるべし。
○百磯城之 「モモシキノ」とよむ。「モモシキ」を俗に百敷とかくは宛字にして多くの石もて堅固に築ける城《キ》なり。かくて宮城の枕詞とせり。古事記雄略卷に「毛々志紀能淤富美夜比登波《モモシキノオホミヤヒトハ》」と(159)いふ假名書あり。證とすべし。
○大宮處 「オホミヤドコロ」とよむ。大宮は上にいへる如く皇居にして、大宮處はその地域をさせり。集中に「大宮處」とかけるもの卷六「一〇五〇」「一〇五一」等あり。又「大宮所」(卷六「九二一」「一〇〇五」等)「大宮地」(卷六「一〇五四」)などかけり。ここにいへるは宮殿はあとかたもなくなりてその敷地のみ空しく殘れるをいへるなり。
○見者悲毛 「ミレバカナシモ」とよむ。「毛」はここにては歎息の情を寓せり。「かなし」といふ語は今は悲哀の意にのみとれど、古は慕ふ意にも愛する意にもいへるなり。今ここには悲哀の意を主とせるは勿論なり。
○或云見者左夫思母 上の句或本にかくありとなり。「ミレバサブシモ」とよむ。「さぶし」は今「さびし」といふも同じ語にして卷三「二六〇」に「竿梶母無而佐夫之毛《サヲカヂモナクテサブシモ》」といふ假名書の例あり。萬葉考にはこの説の方をとりたれど、本文のままにてよく意とほれり。
〇一首の意 畝火山の橿原の宮に天下治め給ひし神武天皇の御世より以來歴代の天皇、次々に大和國にのみ在りて天下をしろしめしたれば、いづれの天皇も皆その例にならひたまふべきものとおもひしに如何樣に思食たまひてかこの大和國を去りて、もと田舍なりし所なれど、この近江國の篠浪の大津宮に郡を遷したまひし天智天皇の大宮は此處なりといふ事なれど、今來て見れば春の日の霞みわたり、草の茂りて見ゆるのみにして昔の榮華の今いづくにありとも見えぬことのあはれに悲しとなり。壬申の亂後宮殿荒廢してあはれに物淋しく、徒らに春(160)日の照すに委せ、雜草生ひ茂れるままなるさまをよみ、かねてその遷都の人心天意にかなはざりしさまを諷せり。我この歌を誦するごとに、かの箕子が
  麥秀漸漸兮 禾黍油々兮
の歌を思ひ起すを禁ずる能はず。
 
反歌
 
○ この反歌は二首あり。
 
30 樂液之《ササナミノ》、思賀乃幸崎《シガノカラサキ》、雖幸有《サキクアレド》、大宮人之《オホミヤビトノ》、船麻知兼津《フネマチカネツ》。
 
○樂浪之 上にいへり。
○思賀乃辛碕 「シガノカラサキ」とよむ。「シガ」は所謂滋賀郡の地なり。「カラサキ」は今も名高き一本松ある地なり。
○雖幸有 古本に「サチアレド」とよみたるもの往々あり。されど、かくよみては意をなさず。通行の本に「サキクアレド」とよめるをよしとす。「サキク」は日本紀に「無恙」又は「平安」の文字をよみたるにて意を知るべく、この語は、卷十五「三六九一」に「左伎久之毛安流良牟其登久《サキクシモアルラムゴトク》」又卷十七「三九二七」に「久佐麻久良多妣由久吉美乎佐伎久安禮等《クサマクラタビユクキミヲサキクアレト》」などあり。又その意同じさまなるは卷九「一六六八」に「白崎者幸在待《シラサキハサキクアリマテ》、大船爾臣梶繁貫又將顧《オホフネニマカヂシジヌキマタカヘリミム》」とあり。「恙なく平安にあれど」の意なり。この(161)「サキク」は上の「カラサキ」を受け同音をくりかへして文《アヤ》とせるやうにも思はれて調なだらかなり。卷十三「三二四〇」にも「樂浪乃志我能韓崎幸有者《ササナミノシカノカラサキサキクアレバ》」とあり。
○大宮人之船 「大宮人」は大宮即ち皇宮に奉仕する貴人をさせり。集中に例甚だ多し。大宮人の船とは大宮人の乘りて遊ぶ船なり。辛崎はその地船を著くるに適す。卷二天智天皇の大殯の歌「一五二」に「八隅知之吾期大王乃大御船待可將戀四賀之辛崎《ヤスミシシワゴオホキミノオホミフネマチカコフラムシカノカラサキ》」とあり。この歌と相照して考ふるにこの詞はたゞ辛崎の地勢が遊船の發著に便なるによるに止まらず、必ずかくうたへるに由ある遊幸の事實の傳へられてありしならむ。
○麻知兼津 「マチカネツ」とよむ。「兼」は宛字にして「カヌ」は「難」字の意ある下二段活用の動詞にして古來多く用ゐられ今もいふ語なり。その用例の一二をいはゞ、古事記上の歌に「夜斯麻久爾《ヤシマクニ》 都麻麻岐加泥弖《ツママギカネテ》」この卷の歌「七二」に「敷妙之枕之邊忘可禰津藻《シキタヘノマクラノアタリワスレカネツモ》」などなり。集中に用例頗る多し。こゝの意はその大宮人の船を待てど、その目的を達し得ざる由をいへるなり。
○一首の意 樂浪の志賀の辛崎に來て見れば、こゝは古、天智天皇の大御船にのりて遊びましたりと傳ふる所なるが、その辛崎は古のままにかはらずあれど、古の大宮所は今あれはてゝ人もなき處となりはてたれば、大宮人の船遊の事は絶えてたゞ寂莫たるのみにして、すべては古の夢物語となりはてたるよとなり。
 
31 左散難耶彌乃《ササナミノ》、志我能《シガノ》【一云比良乃】大和太《オホワダ》、與杼六友《ヨドムトモ》、昔人二《ムカシノヒトニ》、亦母相目八毛《マタモアハメヤモ》。【一云將會跡母戸八】
 
(162)○左散難彌乃 「ササナミノ」とよむ。上に「樂浪乃」とかけると同じ語なり。
○志我能大和太 「シガノオホワダ」とよむ。「志我」は上に「思賀」とかけると同じ地なり。「大和太」は大海の義なり。「海」を「ワタ」といふことは上の「渡津海」の條(一五)にいへり。代匠記、考、略解等に「ワタ」を曲の義として入江の水の淀むをいふといへるは次に引く燈にいへる如く證なき事にして從ふべからず。拾穗抄に「志我(ノ)大海近江の湖也.此湖水の水は淀む事有とも昔の都人には又難逢となり」といへるをよしとす。この説に從へるもの僻案抄、燈、攷證、美夫君志等なり。
○一云比良乃 一本には「ヒラノオホワダ」とある由をいへるなり。これはさす所の物一なる上にいづれも道理なきことにあらねばいづれにてもあるべし。
○與杼六友 「ヨドムトモ」とよむ。「よどむ」は流れざるをいふ。これにつきては燈の説よし。曰はく、「志我能大和太とは神代紀に曲浦をわたのうらとよめるによりて和太は入江の水の淀をいふと古註にみえたり。此説非なり。もと淀まぬ水に向ひてこそよどむといふ詮もあれ、元より淀なるをよどむとはいふべき事にあらぬをや。云々いづれにもあれこの大和太の水はよどむ世なく勢多のかたへ流るゝが故にたとひ此水のよどむ世はありともと、もとよりあるまじき事を設ていふなり。古人この轍多し。「すゑのまつ山浪も越なむ」などよめる類也」とあり。美夫君志はこれに賛していはく「卷二十【四十九右】に「爾保杼里乃於吉奈我河波半多延奴等母伎美爾可多良武己等都奇米也母《ニホドリノオキナガカハハタエヌトモキミニカタラムコトツキメヤモ》」(四四五八)とあるも絶まじき河の水の絶る事ありとも君にかたらん事はつきぬといふにてここと全くおなじおもむきの歌なり。合考すべし」といへり。これ(163)らの説にて歌の意をさとるべし。
○昔人二 「ムカシノヒトニ」とよむ。語の表面には汎く昔の人といへるが、下には昔の大津の大宮人をさせるなり。
○亦母相目八毛 「マタモアハメヤモ」とよむ。「マタ」は再びの意なり。「メ」は「む」の已然形にして「ヤモ」は已然形をうけて反語をなす助詞なり。再び者の大宮人に逢はむやはえ逢はじとなり。
○一云將會跡母戸八 異本にある歌の結句かくの如しとなり。「アハムトモヘヤ」とよむ。「モフ」は「おもふ」の上略。「ヤ」は助詞にして反語をなせるなり。
○一首の意 篠浪のこの琵琶湖のたとひ淀みてながるゝことなくとも昔の大津宮の繁榮に再びあはむやは、決して再び逢ふことかなはじとなり。山河は舊に依りてかはりはなけれど、往事茫として夢の如く、再び、これを見むこと能はじとなげく心を山水の自然によせてうたへるなり。
 
高市古人感2傷近江舊堵1作歌 或書云高市連黒人
 
○高市古人 傳知られざる人なり。注は或書に「高市連黒人」とある由をいへるなり。これによりて諸本多くこれを正しとし、その古人とかけるは「黒人」の訛にして歌の首句に古人とあるより誤れるなりとせり。されど高市古人といふ人無かりきといふ反證たえてなきなり。なほ檜嬬手の如きは懷風藻にある隱士黒人と同じとしたれど、これは高市連にしてかれは民忌寸(164)なれば、姓氏異にして別人なること明かなり。
○感傷 は考に「かなしみて」とよめり。
○近江舊堵 「堵」は元來垣の義なり。然るに本集往々これを「都」に通用せり。その例は卷三「三一二」の詞書に「難波堵」卷十六「三八三五」の左注に「堵裡」などあり。「堵」「都」の二字、音の通ずることは古人もいへれど、これを通用するもの未だその據を知らず。
○ この歌につきて契沖が曰はく、「古人も注の黒人も考ふる所なし。懷風藻に隱士民黒人とて詩二首あれども民といひて姓をいはねば別人なるべし。(孝雄云、これは氏は「民」姓は、忌寸なるを誤解せり)按ずるに此は古人が歌なるべし。其故は第三に高市連黒人近江舊都歌一首あり。同じく黒人が歌ならば、何の卷にも一所に載すべきか。又考て云彼卷の歌も異説を注したれば共に黒人が歌なれど、別けて載るか。」
 
32 古《イニシヘノ》、人爾和禮有哉《ヒトニワレアレヤ》、樂浪乃《ササナミノ》、故京乎《フルキミヤコヲ》、見者悲寸《ミレバカナシキ》。
 
○古人爾和禮有哉 舊訓「フルヒトニワレアルラメヤ」とよみたれど、義をなさず。ことに「フルヒト」とよめるは作者の名にかゝはりてよめりとおぼゆ。古葉略類聚抄等に「イニシヘノヒトニワレアレヤ」とよめり。これをよしとす。「アレヤ」は例の「アレバニヤ」といふに同じき古の語格にして、その「ヤ」は終の「カナシキ」に係れり。こゝに古の人といへるは古の大津の宮の時の人の意なり。古今六帖にこの歌をば、「いにしへの人我なれやさゝ浪のふるき都を見ればかなしき」(165)とせるは、語を改めたるなり。
○故京乎 「フルキミヤコ」とよむ。大津の故京をさすなり。
○見者悲寸 「ミレバカナシキ」とよむ。「カナシキ」は上の「ヤ」に對しての結なり。
○一首の意 當今の人ならば何も故き京を見て感じ傷むべきにもあらぬに、われ、この故京を見ては感傷に堪へず。われはこれ身は今の人にして心は古の世の人ならむかと、われと我が心を怪めるやうにいひて感じを深くあらはさむとせるなり。
 
33 樂浪乃《ササナミノ》、國都美神乃《クニツミカミノ》、浦佐備而《ウラサビテ》、荒有京《アレタルミヤコ》、見者悲毛《ミレバカナシモ》。
 
○國都美神 「クニツミカミ」とよむ。普通に「クニツカミ」といふは所謂地祇をさすものなれど、ここは、「その國を知ります神」といふ義なり。卷十五「三九三〇」に「美知乃奈加久爾都美可未波《ミチノナカクニツミカミハ》」といへるを例とす。こゝは篠浪の國をうしはく御神といふ義なり。國の義は既にいへり。
○浦佐備而 「ウラサビテ」とよむ。「浦」は借字にて上にもいへる心の義なり。「さび」は上二段活用をなせる動詞にして形容詞の「さびし」と對する語なり。卷四「五七二」に「旦夕爾佐備乍將居《アシタユフべニサビツツヲラム》」とある如くさびしき状にて居るをいふなり。これを「荒《スサ》び」の義にて「勝佐備」などの例をひけるは當らず。さて「うらさぶ」といふ語はこの卷「八二」に「浦左夫流情左麻(禰)之《ウラサブルココロサマネシ》」卷二「一五九」に「暮去者綾哀明來者裏佐備晩《ユフサレバアヤニカナシミアケクレバウラサビクラシ》卷十九「四二一四」に「君者比來宇良佐備※[氏/一]嘆息伊麻須《キミハコノゴロウラサビテナゲカヒイマス》」などあり、又卷二「二一〇」に「晝羽裳浦不樂晩之《ヒルハモウラサビクラシ》」と「不樂」の文字をあてたる如く、いづれもさびしく思ふ意をあらはすのみに(166)して「スサビ」の意なるは一も見ず。ここは神の廣前のさびしく見ゆるといへる新考の説をよしとす。
○荒有京 「アレタルミヤコ」なり。
○一首の意 このさゝなみの滋賀の郡は今や荒れはてゝ住む人も稀になりて、この國をうしはきゐます神の廣前もさびれはてたるを見ればげにもかなしく思はるゝよとなり。舊注多くは國つ神の心のすさびによりて國亂をおこし、さて郡の荒れたる由にいへるは上の「さぶ」といふ語の誤解より起れるものにしてとるべからず。
 
幸2于紀伊國1時川島皇子御作歌 或云山上臣憶良作
 
○幸2于紀伊國1時 この事左注の條にいふべし。
○川島皇子御作歌 川島皇子は天智天皇第二の皇子にして天皇の御弟なり。
○或云山上巨憶良歌 この八字古寫本小字とするをよしとす。これはこの歌を憶良の歌ぞといふ傳あるをいへるなり。然るにこの歌と殆んど同じ古歌卷九に再び出で「山上歌」と有りて左注に、「或云河島皇子御作歌」としるし、作者表裏せり。
 
34 白浪乃《シラナミノ》、濱松之枝乃《ハママツガエノ》、手向草《タムケグサ》、幾代左右二賀《イクヨマデニカ》、年乃經去良武《トシノヘヌラム》。 一云年者經爾計武
 
○白浪乃 「白浪乃濱」とつゞけるにつきて、僻案抄には言足らぬ難あるべしといひて、「浪の濱」と云(137)ふ地名なるべし、といひ萬葉考には、「白神の濱とありしを誤れるか、若くは白良とありけむを後人の浪としたるか」といへり。然れども、攷證にいへる如く、この歌本集卷九「一七一六」にもありて「白那彌之濱松之木乃手酬草《シラナミノハママツノキノタムケグサ》云々」と見え、古今六帖六にも「しらなみのはま松がえのたむけ草云々」とあり、新古今集にもかく見えたれば、字の誤りとはいひがたきことなり。これは白浪の打ち寄する濱といふ意を以て下の濱につゞけたるにて中間にあるべき用言を略して「の」にてそを示せる古言の一格なり。その例は卷六「一〇四七」に「炎乃春《カギロヒノハル》」「露霜乃秋《ツユシモノアキ》」卷十「一八四五」に「※[(貝+貝)/鳥]之春《ウグヒスノハル》」などなり。
○濱松之枝 「ハママツガエ」とよむ。濱に生ふる松の枝なり。この濱はいづことも知られねど、下句の意より推して、これより以前に行幸などありしとき、枝に手向草をかけおきしが殘りてありしを見てよまれしなり。萬葉考に「松之枝」と有るはよしなしとし、卷九の歌に「松之木」とあるを古本に「松之本」と有れば、こゝなるも根を枝とあやまりしなりといへり。然るに今ある諸の古寫本に一もこゝを「松之本」とせるものなし。さればその説疑ふべくして強言と思はる。況むや「松之枝」といへる方意よく通れるをや。
○手向草 「タムケゲサ」とよむ。卷九には「手酬草《タムケグサ》」とかけり。「手向」は卷三「三〇〇」に「佐保過而寧樂乃手祭爾置幣者《サホスギテナラノタムケニオクヌサハ》」とある如く神を祭る爲に供ふるをいふ。「草」は「料」字の意にてこゝは何にても手向くる料をいふ。行旅の時人々道々に「ぬさ」をとりて神に手向け往來の恙なからむことを祈りたるは古の習俗なり。その「ぬさ」は布帛を主とせり。されば、こゝにも濱の松が枝に白き(168)布などの誰人かの手向けたるまゝに殘りてありしを見てよまれしならむ。或る説にこの歌は卷二の有間皇子の磐代の結び松の故事を思ひてよみたまひしかといへれど、行幸の折にさる忌はしき事を古とてもよむべくもあらず。又この手向草を松枝を結びたるなりといふ説あれど、これも松を結びて神に手向けたりといふ事例を知らず。又僻案抄にはこの手向草は古松の枝にかゝれる蘿なりといへれども、それもうけられず。手向草といふ語の例は卷十三「三二三七」に「未通女等爾相坂山丹手向草絲取置而《ヲトメラニアフサカヤマニタムケグサイトトリオキテ》」とあり。これは「絲」を手向草とせしものなるが、常陸風土記香島郡の條に「伊夜是留乃阿是乃古麻都爾由布悉弖々《イヤゼルノアゼノコマツニユフシテテ》」とあるは木綿《ユフ》を手向草とせしなり。又土佐日記に「わたつみのちふりの神にたむけするぬさのおひ風やまずふかなむ」とあるは「ぬさ」を手向草とせしなり。
○幾代先右二賀 「イクヨマデニカ」とよむ。「左右」は兩手なり。片手に對して兩手を「まて」といふ。眞手の義なり。屋の片流なるを片屋といひ、左右兩流なるを「まや」といひ、舟の帆一方なるを片帆といひ、帆兩方なるを「まほ」といふ。「ま」は全くそろへる由をいふ語なり。その「まて」といふ語を助詞の「まで」に借り用ゐたるなり。卷二「一八〇」に「年替左右《トシカハルマデ》」とも見え、又集中に「二手」、「諸手」、「左右手」などかきて「まで」とよめるあり。皆同じ趣なり。さてこゝは過去を溯りて考へられたるものなれば、この「まで」は今の俗語にては「ほど」と譯して最も近き意を得べし。「カ」は疑の助詞にして下の「へぬらむ」にかゝれり。
○經去良武 「ヘヌラム」とよむ。「去」は「イヌ」の上略にして複語尾「ヌ」に借用せるなり。かの手向草(169)はその手向けせし時より今わが見るまでに幾何の年をば經てをるにかとなり。
○一云年者經爾計武 これは一本にかくありとなり。多くの古寫本小字にかけるをよしとす。幾何の年を經たりしにかとなり。同じやうなれど本行の方は現在を主としていひ、この方は過去を主にしていへり。さて歌としては本行の方趣深し。
○一首の意 昔この松の枝に手向草をかけおき給ひし人は恐らくは此世にましまさじ。しかるに松は今に榮ゆるを見る。あはれこの手向せられし時より今までは幾何の年を經たりしにかと松に言よせて古をしのばせ給へるなり。
 
日本紀曰朱鳥四年庚寅秋九月天皇幸2紀伊國1也。
 
○ 朱鳥といふ年號は天武天皇の年號にして一年のみ今の日本紀に見えたるを、この文にては持統天皇稱制の間も用ゐられしと見えたり。然るにこの庚寅の年は今の日本紀にては持統天皇の四年にして現に同年の紀に「九月丁亥(十三日)發駕戊戌(二十四日)還幸」と見えたり。されば朱鳥の年號を用ゐるとせば、五年とあるべきに、四年とあるは既にいひし如く日本紀に今本と古本と一年の相違あるによるなり。
 
越2勢能山1時阿閉皇女御作歌
 
○勢能山 「セノヤマ」とよむ。この山は孝徳天皇紀二年の詔に「凡畿内東自2名墾横河1以來、南自2紀(170)伊兄山1以來【兄此云制】西自2赤石(ノ)櫛淵視1以來、北自2近江狹々浪合坂山1以來爲2畿内國1」とある地にして紀川北岸、紀伊國伊都郡加勢田庄背山村の北に在り。大和より紀伊國に越ゆるに必ず通るべき地にして集中の紀の關といふもこゝにありしならむ。
○阿閉皇女 「アベノヒメミコ」とよむ。天智天皇の第四皇女にして天皇の御妹なり。日雙斯皇子(草壁皇大子)の妃として文武天皇の御母にておはす。後に即位ありて元明天皇と申す。こはこの行幸の當時供奉したまひし時よませたまひしなり。
 
35 此也是能《コレヤコノ》、倭爾四手者《ヤマトニシテハ》、我戀流《ワガコフル》、木路爾有云《キヂニアリトフ》、名二負勢能山《ナニオフセノヤマ》。
 
○此也是弛 「コレヤコノ」とよむ。上の「コレヤ」は今現に見るものをさして下全體にかゝりて最後に云々ならむといひ、次の「コノ」も亦下にいひ出すべき句全體をさして「この云々」といふ一種の古き語格なり。これを圖式にて示さば「これや[この……名詞]※[この〜名詞は□で囲んである](ならむ)」の如き形式となる。かの蝉丸の歌などこの格にして、今の語にていへば、「これがその」又は「これがあの」などいふに似たり。卷十五「三六三八」に「巨禮也己能《コレヤコノ》、名爾於布奈流門能宇頭之保爾多麻毛河流登布安麻乎等女杼毛《ナニオフナルトノウヅシホニタマモカルトフアマヲトメドモ》」などこの例なり。
○倭爾四手者 「ヤマトニシテハ」とよむ。「シテ」は「ありて」の代用語なり。かゝる「シテ」の用法は集中に例多し。本卷「六七」の「旅爾之而《タビニシテ》」など一々例をあぐるに堪へず。こゝの「は」といふ助詞には強き意あれば注意を要す。「倭においていはゞ」といふ程の意なり。この句の意は今この紀伊(171)路にて背山を見るにつけて背《セ》の君を戀しく思ひ出でたまひしによりてかくはよまれしなり。
○我戀流 「ワガコフル」なり。倭においてはわが戀ひ奉る夫の君といふ義にしてこれは下の背の山の「せ」といふ語に直接につゞくべき語なり。即ち以上二句は勢の山の名の「せ」につゞけるのみなり。按ずるに草壁皇太子は三年に薨去あり。この行幸は四年なれば夫の君は當時既に世にましまさぬなり。されば倭にして「せ」といはゞ、我が日夜戀ふる夫君のみなる由をいはれたるにて、あはれふかきのみならず、その「せ」の名を負へる山なれば、一層感慨ふかくましまししならむ。
○木路爾有云 舊訓「キヂニアリトイフ」といへり。僻案抄には「アリチフ」とよみ、考には「アリトフ」とよみたり。三者いづれもこの頃の言遣と見ゆれば、いづれも否定すべからず。但し「てふ」といふは奈良朝頃の古語にあらず。今は卷十九の同じ趣なる歌(上に引けり。)によりて「トフ」とよむこととせり。「トフ」は「トイフ」を略したるなり。「木路」は紀國の往來筋をいふ。今の語に紀州街道といふに同じ趣の語なり。卷四「五四三」に「麻裳吉木道爾入立眞土山《アサモヨシキヂニイリタチマツチヤマ》」等例少からず。さてこれよりも下の「せの山」にかかれり。「これが、あの紀州路の名高きせの山か」となり。
○名爾負制能山 「ナニオフセノヤマ」なり。名に員ふとは名としてもてるといふ義なり。即ちわが戀ふる夫の君の「せ」といふ語を名に負へる山なるかとなり。「せの山」の「せ」に「夫」をかけていはれたること既にいひし通りなり。さてこの下に「ならむ」若くは「か」といふ如き語を含めて解すべし。
(172)○一首の意 この山が、あの倭にて我が戀ひまつる夫の君の「せ」といふを名に負へる「せ」の山なるか、又このせの山はかねて木路にありとて世に名高きせの山なるか。このせの山は世に名高きのみならず、我にとりてはこの世にまさぬせの君の御名を木路に來りてまのあたり見つることよとなり。こゝにては「倭にしてはわがこふる」といふ語に深き感慨こもれるなり。
 
幸2于吉野宮1之時柿本朝臣人麿作歌〔左○〕
 
○ 多くの古寫本この「作」字の下に「歌」字あり。これを正しとす。目録には「作歌二首并短歌二首」とあり。
○ 持統天皇の吉野離宮に行幸ありしこと史に見ること凡そ三十度にして頗る頻繁なり。この歌何時の行幸の折といふこと知られず。その事は左注に既にいへり。
 
36 八隅知之《ヤスミシシ》、吾大王之《ワガオホキミノ》、所聞食《キコシヲス》、天下爾《アメノシタニ》、國者思毛《クニハシモ》、澤二雖有《サハニアレドモ》、山川之《ヤマカハノ》、清河内跡《キヨキカフチト》、御心乎《ミココロヲ》、吉野乃國之《ヨシヌノクニノ》、花散相《ハナチラフ》、秋津乃野邊爾《アキツノヌベニ》、宮柱〔左○〕《ミヤバシラ》、太敷座波《フトシキマセバ》、百磯城乃《モモシキノ》、大宮人者《オホミヤビトハ》、船並※[氏/一]《フネナメテ》。旦川渡《アサカハワタリ》、舟競《フナギホヒ》、夕河渡《ユフカハワタル》。此川乃《コノカハノ》、絶事奈久《タユルコトナク》、此山乃《コノヤマノ》、彌高良之《イヤタカカラシ》、珠水激《「イハバシル」》、瀧之宮子波《タギノミヤコハ》、見禮跡不飽可聞《ミレドアカヌカモ》。
 
○八隅知之吾大王之 上に注せり。
(173)○所聞食 舊訓「キコシメス」とよめるを考に「キコシヲス」と訓み改めたり。爾來諸家皆これに從へり。卷五「八〇〇」に「企許斯遠周久爾能麻保良叙《キコシヲスクニノマホラゾ》」とも卷十八「四〇八九」に「可未能美許登能伎己之乎須《カミノミコノキコシヲス》」とも見え、又卷二十「四三六〇」に「伎己之米須四方乃久爾欲里《キコシメスヨモノクニヨリ》」又「四三六二」に「難波乃海於之弖流宮爾伎許之賣須奈倍《ナニハノウミオシテルミヤニキコシメスナヘ》」ともあれば、實はいづれにてもよきことなり。されど「食」字によらば、「をす」といふ方によるべし。「をす」は食すの古語にして、靈異記上卷第二の訓釋に「食國【久爾乎師ス】」第三の訓釋に「食國【二合久爾乎主】」とも見えたり。天下を治め知り賜ふをいふなり。
○天下 上「二九」にいへり。
○國者思毛 「クニハシモ」とよむ。「シモ」はその事物を特にとり出で強く指していふ助詞なり。卷三「四六七」に「時者霜何時毛將有乎《トキハシモイツモアラムヲ》」とある如きその例なり。
○澤二雖有 「サハニアレドモ」とよむ。「サハ」は物の多きをいふ。卷三「三二二」に「湯者霜左浪爾雖在《ユハシモサハニアレドモ》」とあり。日本紀神武卷の歌に「比苫瑳破而異離烏利苫毛《ヒトサハニイリヲリトモ》」とあるなどその例なり。以上日本に名勝多くあれどもといふ意なり。
○山川之清河内跡 「ヤマカハノキヨキカフチト」とよむ。山と川とを併せていへるなれば、「カハ」を清音にてよむべし。卷七「一一三一」に「皆人之戀三吉野《ミナヒトノコフルミヨシヌ》、今日見者諾母戀來山川清身《ケフミレバウベモコヒケリヤマカハキヨミ》」とあるなどこの例なり。吉野宮の在りたりし地は山緑に水澄みて今も山と川との清き地なり。「河内」は「カハウチ」の約にして「カフチ」とよみ、川の行きめぐれる地をいふ。國名の河内(和名鈔「河内加不知」と注す。)もその意にて名づけたるなり。卷十四「三三六八」に「阿之我利能刀比能可布知爾(174)伊豆流湯能《アシガリノトヒノカフチニイヅルユノ》」又卷十七「四〇〇三」に「於知多藝都吉欲伎可敷知爾《オチタギツキヨキカフチニ》」とあるその假名書の例なり。吉野宮のありし宮瀧の地は吉野川の屈曲して三面を包める地なれば地勢よくこの語にあへり。卷六「九〇八」に「三吉野乃清河内之多藝津白波立《ミヨシヌノキヨキカフチノタギツシラナミ》」又「九一〇」に「三吉野乃多藝郡河内之大宮所《ミヨシヌノタギツカフチノオホミヤドコロ》」などその「カフチ」といへる實例なり。「跡」は「アト」の上略にして「と」といふ格助詞をあらはすに借れり。この「と」助詞より下の「宮柱太敷座」にかかれり。
○御心乎 「ヨシヌ」の枕詞なり。「心をよす」といふ意にて「よし」といふ語にかけたるなり。
○吉野乃國之 國は古、一區域をいふ地理上の語なりしが、後行政上の区域をさすに至りて古語すたれたり。ここは古語のままなり。
○花散相 「ハナチラフ」とよむ。「チラフ」は「チル」の繼續作用をいふ爲にハ行四段に轉じ活用せしめしものにして、萬の花の次々に開きては散りする秋津の野といふなり。卷十四「三四四八」に「波奈知良布己能牟可都乎乃《ハナチラフコノムカツヲノ》」又卷十五「三七〇四」に「毛美知婆能地良布山邊由《モミチバノチラフヤマベユ》」とあるなどその假名書の例なり。
○秋津乃野邊 秋津は吉野離宮の在りし所の附近の名なり。今宮瀧村の對岸少し西によれる所に御園村といふありて、その村に屬する吉野川岸を秋戸岸といへり。これ古の秋津の地名の名殘なるべしといふ。この秋津野の古事は、古事記雄略卷に、記事あり。是は蜻蛉が天皇の御腕に咋ひつきたる虻を咋ひて飛び去りしより其の名起りきといふにあり。されどこれ一種の地名傳説にすぎざるべし。秋津野といふ語は卷七「一四〇六」に「秋津野爾朝居雲《アキツヌニアサヰルクモノ》」とい(175)ふ例あり。又卷六「九〇七」に「三芳野之蜻蛉乃宮者《ミヨシヌノアキツノミヤハ》」又「九一一」に「三吉野之秋津乃川之《ミヨシヌノアキツノカハノ》」といへるありて、秋津はある一區域の總名たりしものの如し。
○宮柱太敷座波 流布本「桂」とかけど多くの古本に「柱」とあるを正しとす。「ミヤバシラフトシキマセバ」とよむ。「宮柱」は宮殿の柱をいふ。柱は太きをよしとするによりて「太」といひて宮柱をたたへていへるなるが、「シク」は「知る」と同意の語にして、古「フル」を「フク」といへるに同じ關係なり。
 さればここは古事記上卷に「於2底津石根1宮柱布刀斯理於2高天原1冰椽多迦斯理《ソコツイハネニミヤハシラフトシリタカマノハラニヒギタカシリ》」といへるにおなじ。この集には卷二「一六七」に「眞弓乃崗爾宮柱太布座《マユミノヲカニミヤバシラフトシキイマシ》」卷六「一〇五〇」に「鹿背山際爾宮柱太敷奉《カセヤマノマニミヤバシラフトシキマツリ》」とある如く、「太シク」といふ語の方例多し。延喜式の祝詞には祈年祭のには「宮柱大知立」と見え、大祓詞には「下津磐根爾宮柱太數立《シタツイハネニミヤバシラフトシキタテ》」などあるによりて、二者相通ずるをさとるべし。さて「しきます」といふ語の例は卷二「一六七」に「天皇之敷座國等《スメロギノシキマスクニト》」卷三「二六一」に「高輝日之皇子茂座大殿於《タカヒカルヒノミコシキイマスオホトノノウヘニ》」などにしていづれもその宮を「しります」といふに同じ意なり。日本紀神代卷下に「其造宮之制者柱(ハ)則高(ク)太(ク)板(ハ)則廣(ク)厚(ク)」とある如く宮柱を太く高くするは高貴の徴と認められたり。かくてこの「太」はその「しきます」ことをたたへていへるにて專ら枕詞にのみかかれるにあらず。以上宮殿を營みて御座あるをいへるなり。
○船並※[氏/一] 「フネナメテ」とよむ。船を並べてなり。上の「四」に「馬なめて」といへると同じ例なり。卷六「九三三」に「鰒珠左盤爾潜出船並而仕奉之貴見禮者《アハビタカサハニカツキデフナナメテツカヘマツルガタフトキミレバ》」などあり。
○旦川渡 「アサカハワタリ」とよむ。「旦」は朝なり。「アサ川渡ル」とは朝に川わたりをするなり。(176)卷二「一一六」に「未渡朝川渡《イマダワタラヌアサカハワタル》」卷三「四六〇」に「佐保川乎朝川渡《サホカハヲアサカハワタリ》」などあり。
○舟競 「フナギホヒ」とよむ。これの訓につきては古寫本に或は「フナクラベ」とよみ、或は「フナヨソヒ」などよめるもあれど、「競」の字は類聚名義抄に「キホフ」と訓せるのみならず、卷二十「四四六二」に「布奈藝保布保利江乃可波乃《フナギホフホリエノカハノ》」などの例あれば、上の如くよむをよしとす。意は明かなり。
○夕河渡 舊訓に「ユフカハワタリ」とよみたるをば本居宣長は「ワタル」とよみきるべしといへり。以上にて一段落をなせるものなればこの説に從ふべし。
○ さて「船並※[氏/一]」以下の四句は二句宛相對して語をなせるものにして、即ち或は旦に或は夕に船を並べてこの吉野川を競ひ渡るといへるにて、古大宮人のここにて朝夕にこの川を渡りて奉仕せしさまをいへるなるが、又時々舟遊をもせしことをいへるならむ。この宮瀧の邊は兩岸に大なる岩石峙ちて、その岩石の間は狹き所僅に三間許、この狹き間を激流たぎち落つるなり。これ即ち瀧の都の稱ある所以なり。この瀧の下は直ちに深き淵を湛へて廣さ十數間に擴がり、兩岸は下流に行くに隨ひて高くなり、屏風の如く切り立ちて高きは六七間に及ぶ。この間は水深く、流れゆるく船遊するに適し、今も大阪邊の人、わざ/\船遊に行くことあり。卷七「一一〇三」に三芳野之大川余杼乎今日見鶴鴨《ミヨシヌノオホカハヨドヲケフミツルカモ》」といへる大川淀も蓋しこの地ならむ。
○此川乃絶事奈久 「コノカハノタユルコトナク」とよむ。此川は吉野川なり。「この吉野川の流の永久に絶ゆる事なきが如く」といひて吉野離宮の永久にあれと祝せるなり。かくの如くいへる例集中に多し。
(177)○此山乃彌高良之 「コノヤマノイヤタカカラシ」とよむ。此山とは上に「山川之清河内《ヤマカハノキヨキカフチ》」といへるに因みていへるにて離宮附近の山々をさす。「高カラシ」は「高クアルラシ」の約まれるなり。「彌」は「ますます」などいはむが如し。此の邊の山の高きが如くに、吉野の離宮も將來彌高く著しく御造營あれと祝せるなり。
○ 以上四句は二句宛相對して祝意を表し奉れるなり。
○珠水激 舊本には「珠水」を「タマミヅノ」とよみ「激」を下の「瀧」とつづけて「タキ」とよみたり。されどその意明かならねば、僻案抄には、「珠水激」を一句としてこれを「イハナミノ」とよむべしとし考は、それに基づきて「イハバシル」とよみたり。爾來諸家多くこれに從へるがうちに古義のみは「珠」を「隕」の誤として「オチタキツ」とよむべしといへり。されど、この誤字説は證なければ從ふべからず。「イハバシル」といふ訓は實に奇想天來といふべきものなれど、しかよむべき證を見ず。「珠水激」の三字を字面よりいへば、水の岩に激して珠の如く散り迸るさまをあらはせり。「激」字は説文に「水礙袤疾《サヘラレテヨコシマニ》波也」と見え、「珠水激」の三字は意義は粗通すれど、そのよみ方につきては確定せりとはいはれじ。恐らくはこの三字の熟せる形漢詩文にありしをとり用ゐしものならむ。然れども今その出典を知らねば、そのよみ方も確に可否をいひがたし。但し卷十五「三六一七」に「伊波婆之流多伎毛登杼呂爾鳴蝉乃《イハバシルタキモトドロニナクセミノ》」とあるなどによりて「いはばしる」を「たぎ」の枕詞とする例の存するを見る。この故に姑く眞淵の説に從ふべし。
○瀧之宮子波 「タギノミヤコハ」とよむ。「瀧」は「タギ」とよむ。今瀑布を「たき」といふとは少しく異(178)にして「たぎる」意にて「たぎち」「たぎつ」など活用する語ともなるなり。「宮子」は上にいへる如く京の義なり。吉野の離宮は今の宮瀧村にありきといへば、瀧の京の名よくかなへり。この次の歌に「多藝津河内」ともいひ、卷三「二四二」に「瀧上之三船乃山爾《タキノウヘノミフネノヤマニ》」ともいへるにて、この邊一帶につきて「タギ」といへるを知るべし。
○見禮杼不飽可聞 「ミレドアカヌカモ」とよむ。幾度も見れどもいつも飽くことなき勝景の地なりとなり。
○一首の意 この歌二段落なり。第一段落は吉野雖宮の繁昌を叙し、第二段落は奉祝の意を表せり。即ち、天皇のきこしをす天下に國多きが中にも吉野は山川の景勝れたりとてここに離宮をおき賜へば、百の官人も朝夕に競ひつつ仕へ奉らむと舟にて通ひまつろへり。あはれこの川水の絶えぬ如くこの吉野宮は永しなへに榮えこの山の高きが如く吉野宮も彌高くつくりなし賜はむかし。げにもこの邊の山川を見れば、まことに景勝の地にしていつ見ても飽かぬ處なれば離宮のとこしなへに榮えむことをこそ希ひ奉れとなり。
 
反歌
 
37 雖見飽奴《ミレドアカヌ》、吉野乃河之《ヨシヌノカハノ》、常滑乃《トコナメノ》、絶事無久《タユルコトナク》、復還見牟《マタカヘリミム》。
 
○雖見飽奴 「ミレドアカヌ」とよむ。長歌の末の「見禮杼不飽可聞」を受けくりかへしてこの首句とせるなり。
(179)○常滑乃 古來「トコナメノ」とよめり。然るを僻案抄にこれをいはれなしとして「イハナミノ」とよむべしとせり。されどその説には證なければ、從ひがたし。「トコナメ」といふ語は卷九「一六九五」に「妹門入出見河乃床奈馬爾《イモガカドイリイヅミカハノトコナメニ》」とかける例あり。又卷十一「二五一一」に「隱口乃豐泊瀬道者常滑乃恐道曾《コモリクノトヨハツセヂハトコナメノカシコキミチゾ》」といへる例あり。從來の説にては水底の石などに生著きたるものといひたり。これは水苔などの如く滑なる下等の藻苔類をいへるに似たり。然るに井上通泰氏の新考には「トコはトコイハの略にして頂平なる岩の事なるべく、ナメはナミの轉にて列といふ事なるべし(中畧)さればトコナメは河にまれ陸にまれ頂平なる岩の列を成せるをいふ。かく列をなせるものなるが故に今の歌にタユルコトナクの序に用ひたるにこそ」とあり。この二説いづれよかるべきか、猶考ふべし。なほこの外に河の常に流るるをいふといふ説あれど、それは全く從ひがたし。以上は「絶ゆることなく」の序詞たり。
○絶事無久復還見牟 「タユルコトナクマタカヘリミム」なり。絶ゆる事なきが如く、幾度も來り見むとなり。
○一首の意 いつ見ても飽くことなきこの吉野宮の勝景はこの河の常滑の絶ゆる事無きが如くに幾度もこゝに立ちかへり來てながめむといふなり。
 
38 安見知之《ヤスミシシ》、吾大王《ワガオホキミ》、神長柄《カムナガラ》、神佐備世須登《カミサビセスト》、芳野川《ヨシヌガハ》、多藝津河内爾《タギツカフチニ》、高殿乎《タカドノヲ》、高知座而《タカシリマシテ》、上立《ノボリタチ》、國見乎爲波《クニミヲスレバ》、疊有《タタナハル》、青垣山《アヲガキヤマ》、山神乃《ヤマツミノ》、奉御調等《マツルミツキト》、春部者《ハルベハ》、花挿頭持《ハナカザシモチ》、秋立(180)者《アキタテバ》、黄葉頭刺理《モミヂカザセリ》。【一云黄葉加射之、】 遊副川之神母《ユフカハノカミモ》、大御食爾《オホミケニ》、仕奉等《ツカヘマツルト》、上瀬爾《カミツセニ》、鵜川乎立《ウカハヲタテ》、下瀬爾《シモツセニ》、小網刺渡《サデサシワタシ》、山川母《ヤマカハモ》、依※[氏/一]奉流《ヨリテツカフル》、神乃御代鴨《カミノミヨカモ》。
 
○安見知之吾大王之 上にいへり。
○神長柄 舊訓「カミナガラ」とよみたれど、卷五「八一三」に「可武奈加良可武佐備伊麻須《カムナガラカムサビイマス》」卷十七「四〇〇三」に「可無奈我良《カムナガラ》」卷十八「四〇九四」「可牟奈我良《カムナガラ》」などある假名書によりて「カムナガラ」とよむべきを知るべし。「長柄」は「ナガカラ」を約めていへるものにして地名の「ナガラ」(日本紀孝徳卷)にこの文字を古くあてたりしを助詞「ナガラ」に借りたるなり。「カムナガラ」といふ語は日本紀孝徳卷に「惟神」とかけるその自注に「惟神者謂d隨2神道1亦自有c神道u也」とあり。續日本紀文武天皇元年の宣命には「隨神所思行【佐久止】《カムナガラオモホシメサクト》」とも見え、又孝徳紀に「隨在天神」とかけるをもよめり。ここに「神」といへるは天皇をさせり。「ながら」はそのままといふ意の助詞にして、「神ながら」は輕くいはば、神にましますままにといふべく、重くいはば、もとより神とましますが故にといふ意なり。ここはその輕き意にてあたれり。
○神佐備世須等 「カムサビセスト」とよむ。「佐備」は上二段活用をなせる接尾辭にして「翁さび」「男さび」「少女さび」「山さび」「しみさび」などいふ如く主として名詞を受けて動詞とするものなるが、その意は「すさび」の意の獨立の動詞とは異にしてその事物相應の状態に振舞ふことをあらはすなり。さて舊訓には「カミサビ」とよめるをば、略解に「かんさび」とよめり。これは卷五「八一三」に(181)「可武佐備伊麻須《カムサビイマス》」とあり、又「八六七」に「可牟佐飛仁家理《カムサビニケリ》」とあるなど、「カムサビ」といへる例頗る多し。されど、又卷二十「四三八〇」に「可美佐夫流伊古麻多可禰爾《カミサブルイコマタカネニ》」とある例もあれば、「カミサブ」とよみて惡しきにあらねど、多きに從ひて「カムサブ」とよむをよしとすべし。天皇は神とますが故に、御行動はすべて神さびといふべきなり。即ちここは神聖なる御行動をなしまさむとての意なり。「カムサビ」「カムサブ」の連用形にして下の「せす」につづくる時の形なり。「世須」は「す」を更にサ行四段に轉じ活用せしめて、敬語としたるなり。今「したまふ」といふに似たり。下に「タビヤドリセス古オモヒテ」とある、その例なり。「等」は助詞の「ト」にあてたるものなるが、この「ト」は今「トテ」といふに當る。かかる場合に「ト」とのみいへるは古言の格なり。
○多藝津河内爾 「タギツカフチニ」とよむ。「タギ」は上にいへる「瀧之宮子」の「瀧」におなじく名詞としての「タギ」なり。「ツ」は「ノ」に似たる古き助詞なり。「河内」も上にいへり。「タギツ河内」は「タギの河内」といふにおなじ。これに似たる例は卷六「九〇九」に「多藝之河内者雖見不飽香聞《タギツカフチハミレドアカヌカモ》」とあるあり。又卷六「九二一」に「三吉野乃多藝都河内之大宮所《ミヨシヌノタギツカフチノオホミヤドコロ》」とあるも同じ語なり。なほ「タギツ」といへるには卷六「九〇八」に「三吉野乃清河内之多藝津白波《ミヨシヌノキヨキカフチノタギツシラナミ》」などあり。
○高殿乎 「タカドノヲ」とよむ。「高殿」は續日本紀大寶元年條に「六月丁巳宴2於西高殿1」などあると同じ意義なり。日本紀には樓又は觀を「タカドノ」とよみ靈異記卷中第五の訓釋には「樓閣【多加度野】」と見え和名抄には樓を「太賀度能」とよめり。この歌によりて當時吉野離宮に樓閣ありしを想ふべし。
(182)○高知座而 古事記上卷に「於2高天原1冰椽多迦斯理而《タカマノハラニヒギタカシリテ》」とあるによりて「タカシリマシテ」とよむべし。本卷「五〇」に「都宮者高所知武等《ミアラカハタカシラサムト》」などあるみなこの語の例なり。「高」は宮殿の屋の高きをいふ。「シリ」は上の「ふとしき」といへる場合の「しき」と意同じ。
○上立國見乎爲者 「ノボリタチクニミヲスレバ》」とよむ。これは上の舒明天皇國見の御製「二」にあると同じ語なり。
○疊有 舊來「タタナハル」とよみ來れり。しかるに又「カサネタル」若くは「カサナレル」とよめる古寫本もあり。この訓につきては僻案抄に「有」は「著」の誤にて「タタナツク」かといひ、古義これに從へり。按ずるに、かくの如く「青垣」につづく語には他の所にはみな「たたなづく」とかけり。卷六「九二三」に「立名附青墻隱《タタナヅクアヲガキコモリ》」卷十二「三一八七」に「田立名付青垣山之《タタナヅクアヲガキヤマノ》」古事記景行卷に「多多那豆久阿袁加岐夜麻碁母禮流夜麻登志宇流波斯《タタナツクアヲカキヤマゴモレルヤマトシウルハシ》」日本紀景行卷にも「多多儺豆久阿烏伽枳夜摩許莽例屡夜摩苫之于漏波試《タタナツクアヲカキヤマゴモレルヤマトシウルハシ》」とあるなどこれなり。されど、「疊有」の文字につきては古來一本も異例なければ、これを誤なりとはいひ難し。さりとて「有」をつくとはいひ難ければ、「タタナハル」とよみてあるべきにや。「タタナハル」といふ語も古くありしものと見えて、類聚名義抄には「委」を「タタナハル」とよみ、その「委」字は字書に「積也」とある意にして疊まりかさなるをば「タタナハル」といへりしなり。この語は中古の物語草子類に多く用ゐて、長き髪のたたなはりたる由をいへること例多し。(宇都保藏開上、枕草子、濱松中納言物語等)されば姑く舊訓のままにてあるべし。
○青垣山 「アヲガキヤマ」とよむ。四面をかこめる山の青く垣の如くなるをいふ。その語例は(183)上にあげたり。又出雲風土記に「青垣山廻賜而」などあり。吉野離宮のありし地の四周げにも青垣山といひつべき地勢なり。さて舊訓はこの「山」の下に「の」を加へよめり。されどそれはわろしと本居宣長いへり。げにここは「山に」といふべき勢の處なれば六音にてきるべきなり。
○山神乃 「ヤマカミノ」とよめる本もあれど、舊本多く「ヤマツミノ」とよめるをよしとす。古事記上卷に「生2山神名大山津見神1」とある、又海神を「ワタツミ」とよめるなどに照して「ヤマツミ」とよむを正しとす。山を領り坐す神の義なり。
○奉御調等 「奉」は舊本に「タツル」とよみ又「タテマツル」とよみたる本もあれど、「マツル」とよめる本もあり。「マツルミツキト」とよむをよしとす。卷十八「四一二二」に「萬調麻都流都可佐等《ヨロヅツキマツルツカサト》」卷二十「四四〇二」に「賀美乃美佐賀爾奴佐麻都里《カミノミサカニヌサマツリ》」などその例なり。古、たてまつるといふには多く「立奉」とかき「奉」を「たてまつる」とよむは後の世のことなり。さて「マツル」は献ずる意の古言なり。「御調」は「ミツキ」とよむ。調は民賦をいふ字にして公の料としての品物を貢するにて土宜を献ずるをいふ。卷二十「四三六〇」に「美都奇」と假名書にせるもあり。「等」は助詞の「と」にして「として」の意を「と」とのみいへるは古語の一格なり。
○春部者 舊訓「ハルベニハ」とよめるを考に「ハルベハ」と四音によむべしといへり。「ハルベ」といふ語の例は卷八「一四三三」に「打上佐保能河原之青柳者今者春郡登成爾鳥鷄類鴨《ウチノボルサホノカハラノアヲヤギハイマハハルベトナリニケルカモ》」とあり。又「ハルベハ」といへる例は卷二「一九六」に「春部者花折插頭《ハルベハハナヲリカザシ》、秋立者黄葉插頭《アキタテバモミヂバカザシ》」卷六「九三二」に「春部者花咲乎遠里《ハルベハハナサキヲヲリ》、秋去者霧立渡《アキサレバキリタチワタル》」と見え、又古今集春上に「梅の花句ふ春べは倉部山暗にこゆれどしるくぞ有(184)りける」とも見えたり。さてその「ハルベ」の「へ」は考に「方《ヘ》」の義とせり。「方」は普通には場所方向にのみいふ如く思へども、又時間をさすにも用ゐたる例少からず。「古」を「往にしへ」「夕」を「ゆふべ」といへるにても推して知るべし。
○花插頭持 「ハナカザシモチ」とよむ。「插頭」を「カザシ」とよむは「カミサス」の約にして頭に插すことなり。卷十八「四一三六」に「安之比奇能夜麻能許奴禮能保與等里天可射之都良久波知等世保久等曾《アシビキノヤマノコヌレノホヨトリテカザシツラクハチトセホクトゾ》」とあり。古は時の花を手折りて頭に插して飾りとせしなり。後世大嘗祭などに金銀の作花を頭插にしたりしも古の風のなごりなり。ここは春の花の山々に咲くをば山神の頭に插頭しもちたる調物と見立てたるなり。
○秋立者 「アキタテバ」とよむ。「タツ」は國語にては時日の經過をいへること月日のたつといふにて知るべし。然るにここにては秋の來るをいへるなれば、「月日のたつ」といふ「たつ」とは意異にして國語の純粹の用法にあらぬを思ふ。恐らくは立春立秋などいふ場合の「立」を直譯せし語にあらざるか。
○黄葉頭刺理 「モミヂカザセリ」とよむ。これも上の「花挿頭持」に趣同じ。かく春と秋とを對句にして山神の春秋に御調として花黄葉を青垣山の頭にかざしとして奉るといへるなり。
○ 以上一段落なり。
○一云黄葉加射之 或本に上の一句をかく書せりとなり。これは「モミヂバカサシ」とよむべし。意はかはらず。されど、上の句は、下の「小網刺渡シ」と對句をなすべき所なれば、この一本の方ま(185)されり。
○遊副川之神母 「ユフカハノカミモ」とよむ。「ユフカハ」は川の名なりといへり。然れども、さる名の川ありとはきかず。或は宮瀧の末に「ゆかは」といふ川ありといひ、或は又西川の枝川ともいふ。いづれも推しあてにしてさる川ありといふ證を知らず。後の研究を俟つべきなり。元暦本は「遊」を「逝」に作れり。されど、かくても意とほらず。川神の事は古事記日本紀に見え、又和名鈔に河伯に注して「和名加波乃加美」といへり。さて僻案抄には此上に五言の句一脱せるかといへり。されど、これは「ユフカハノ」にて一句「カミモ」にて一句なるにて格調を力強くせむ爲にわざとかくせしものなるべく句の落ちたるにはあらじ。古の長歌にかかる例ままあり。
○大御食爾 「オホミケニ」とよむ。「オホミケ」は天皇の御食饌をいふ。卷二十「四三六〇」に「於保美氣爾都加倍麻都流等《オホミケニツカヘマツルト》」と見ゆ。古事記垂仁卷に「立2其河下1將v獻2大御食1之時」と見ゆ。
○仕奉等 「ツカヘマツルト」とよむ。その語例は上にあげたり。何事にても君の御爲にするを「ツカフル」といふ。日本紀推古卷に「※[言+可]之胡彌※[氏/一]菟伽倍摩都羅武《カシコミテツカヘマツラム》」と見えたるなど例多くして一一あぐべからず。大御食に仕へ奉るとは天皇の御饌の料にせむとての義なり。
○上瀬爾 「カミツセニ」とよむ。「上ツ瀬」の「ツ」は「ノ」の義の古き助詞なり。下の「下ツ瀬」と對句をなせるのみ。古事記允恭卷の歌に「賀美都勢《カミツセ》」「斯毛都勢《シモツセ》」と對せるによりてここをもよむべし。
○鵜川乎立 「ウカハヲタテ」なり。「鵜川」は普通に「ウカヒ」といふわざにして、鵜を川に放ちて鮎をとらするわざをいふ。卷十七「三九九一」に「伎欲伎勢其等爾宇加波多知《キヨキセゴトニウカハタチ》」又「四〇二三」に「夜蘇登毛(186)乃乎波宇加波多知家里《ヤソトモノヲハウカハタチケリ》」卷十九「四一九〇」に「和我勢故波宇河波多多佐禰《ワガセコハウカハタタサネ》」とあり。さて上の諸例いづれも「ウカハタツ」といふ語遣なることを示せるが故にここに「ウカハチタテ」とよむとは自他の相違あり。この故に僻案抄には「ウカハヲタタシ」とし、考には「ウカハヲタチ」とよめり。然れども「タタシ」にては、「ヲ」といふ格助詞を要すべき理由なし。考に「ヲタチ」といへるは「川の上下を多くの人もて斷《タチ》せきて中分にて鵜を飼ふものなれば斷《タチ》といふべし」といふ理由によれるものなれど、かかる鵜飼の方法ありとも覺えず。上の諸例は委しくいはばいづれも「鵜川に立つといふべきものにして「狩獵《カリ》に立つ」といへると同趣の語なり。かくてその「うかはに立つ」といふわざを人にせさするをば「ウカハヲタツ」といへるなり。これは語の上の趣にては川の神が鵜飼人に命じて鵜川のわざをせさする義なるが、その實は川神の命によりてさるわざをなすにあらぬはいふまでもなけれど、かくいへるが歌の趣といふものなり。さて吉野川は今に至るまで名高き鮎の産地なれば、この事は實地をよめるものといふべし。
○下瀬爾 「シモツセニ」とよむ。この事上にいへり。
○小網刺渡 古來「サデサシワタシ」とよめるを古義に「サテサシワタス」とよみて一段落とすべしといへり。小網を「サデ」とよむ。この語は今も用ゐられ小き手網をさせり。本集中に「サデ」とよめる例を見るに、卷四「六六一」に「網兒之山五百重隱有佐堤乃埼左手蠅師子之夢二四所見《アゴノヤマイホヘカクセルサテノサキサテハヘシコガイメニシミユル》」卷九「一七一七」に「淵瀬物不落左堤刺爾《フチセモオチズサテサシニ》」又卷十九「四一八九」に「平瀬爾左泥刺渡《ヒラセニサデサシワタス》」とあり。和名鈔漁釣具に「文選注云※[糸+麗]【所眞反師説佐天】網如2箕形1狹v後廣v前者也」とあり。この形状の注は文選西京賦(箋注倭名鈔(187)「西都賦」とするは誤なり。)の薛※[王+宗]注の注文をとれるものなるが、略今いふ「さで」の形に當れり。この今さでといふ網は手に持ち水底に入れて抄ひ上げ以て魚を捕ふるものなり。「さでをさす」とはこの動作をさすものと考へて然るべしと思ふ。神樂歌「薦枕」の曲に「さでさしのぼる」とあるは、かくの如き動作を繰返して川上に進み行くをいへりと見ゆ。しかるに、ここを「わたす」とよむときは、その動作を如何にせるをいふとすべきか明かならざる事となる。漁夫が自らこのわざをなしつつ川を渡るものとせば「ワタル」とよむを可とする如く思はる。而してここを「わたす」とよむは、「わたらす」といふ義にて川神が、漁人をして小網を刺し渡ることをなさしめたりといふ見方を以ていへりと思はる。かくて上の「鵜川を立て」といへると同じ趣の語遣に出でたりと見ゆ。さてこゝは上の「黄葉頭刺理」に對するものなれば、古義の如く一段落とするをよしとする如くなれど、上の「頭刺理」は、冒頭とこの對句とをあはせて一段としたるものなればここはこの對句と終結とを併せて一段とする方、歌の構造巧妙なりと見ゆれば、なほ古來の訓をよしとす。なほこの構造のことは下にいふべし。
○山川母 「ヤマカハモ」と「カ」を清音にしてよむ。山の神も川の神もの意なり。
○依※[氏/一]奉流 「ヨリテツカフル」とよむ。元暦校本に「ヨリテタテマツル」とよみ、古葉略類聚鈔に「ヨリタテマツル」とよみたるなどあれど、語をなさねば、本文のよみ方をよしとす。契沖は帝徳に歸して仕うまつるなりといへるより諸家多くはそれに從へり。かくいへるは佛教の歸依の意によりて解けるものなるべきが、その歸服する由は「奉流」の一語にてあらはされたれば、この(188)「より」はこの卷に、「五〇」に「天地毛縁而有許曾《アメツチモヨリテアレコソ》」卷二「一六七」に天地之依相之極《アメツチノヨアリアヒノキハミ》」とある如く「ありあふ」意にして相共に一になる意の「より」なるべし。若し然らずして、契沖の説の如くならば、「山川も」の「も」は國民の歸服するに對していへる語とすべきなり。さて「奉」を「ツカフル」とよむ。その「ツカフル」といふ語は例多きがうちに、ここの如き連體形の假名書のは卷十八「四一一六」に「於保伎見能末伎能未爾末爾等里毛知※[氏/一]郁可布流久爾能《オホキミノマキノマニマニトリモチテツカフルクニノ》」などなり。
○神乃御代鴨 「カミノミヨカモ」とよむ。「カモ」は助詞なるを「鴨」の字をかりてあらはせり。山川の神も天皇に奉事するを見れば、げにも今は神の御代なるかなとなり。
○一首の意 この歌二段落に分れたり。而して第一段の後半と第二段の前半とが、對句をなし、第一段の前半に冒頭第二段の後半に結尾を置きたるなり。その形式次の如し。
安見知之………………………………………國見乎爲者(以上冒頭)
 疊有青垣山山神乃奉御調等………………黄葉頭刺理。(以上對句前半)(第一段)
 遊副川之神母………………………………小網刺渡  (以上對句後半)
  山川依※[氏/一]奉流神乃御代鴨。      (以上結尾)(第二段)
その大意は「わが天皇の神聖のわざとして吉野川のたぎつ河内に高殿をつくりてこれに上りまして國見をしたまへば、四周に重なりたたなはれる青垣山には山神の奉る調として春の頃には草花を挿頭し持ち、秋になれば黄葉を頭挿として天皇の御眺めよからむと希へり。されば、ゆふ川の神も山神に劣らじわれは大御饌に仕奉らむといひて上瀬には鵜川を立てしめ、下(189)瀬には「サデ」をさし渡ることをなさしむるなり。かく山の神も川の神も一つ心になりて相共に仕へ奉るを見れば、げにも今は神の御代といひつべきなりといふなり。
 
反歌
 
39 山川毛《ヤマカハモ》、因而奉流《ヨリテツカフル》、神長柄《カムナガラ》、多藝津河内爾《タギツカフチニ》、船出爲加母《フナデセスカモ》。
 
○山川毛 上の長歌と同じく「ヤマカハモ」と「カ」を清音によむべきなり。
○因而奉流 長歌の「依※[氏/一]奉流」におなじきを文字をかへてかけるなり。
○神長柄 「カムナガラ」なること上の長歌にいへり。これは直ちに下の「船出」につづくべきを歌調の爲にここにおけるなり。
○多藝津河内爾 これも上の長歌にあり。これは上の「山川毛因而奉流」を直ちにうくる文勢なるを歌調の爲におきかへたるなり。
○船出爲加母 舊訓「フナデスルカモ」とよめるを考に「フナデセスカモ」とよみ改めたり。これは上の「神長柄」を受けていひ、天皇の御大業としていへるなれば「せす」といふ敬語を用ゐたるをよしとす。この「せす」は上の「神さびせす」の「せす」に同じく、「する」の敬語なり。「船出」は船に乘りて出づるをいふ。「かも」は感動をあらはす助詞なり。この句の上に「神さびせすとて」の意を含めて解すべし。
○一首の意 山の神川の神も心を一にして相共に事へ奉るこの吉野川のたきの河内に、わが天(190)皇は神ながら神さびしたまふとて船出したまふことなるかなとなり。
 
右日本紀曰三年己丑正月天皇幸2吉野宮1、八月幸2吉野宮1、四年庚寅二月幸2吉野宮1、五月幸2吉野宮1、五年辛卯正月幸2吉野営1、四月幸2吉野宮1者《トイヘレバ》未v詳2知何月|從駕《オホミトモニシテ》作歌1。
 
○ これはこの天皇の吉野離宮に行幸の屡ありしことを注し、この歌の何年何月の車駕に扈從したる時の歌なるか詳ならぬ由をいへるなり。ここには行幸の事六度のみをあげたれど、日本紀にはこの外六年より十一年まで毎年吉野宮に行幸ありしにてすべて二十九度を記せり。
 
幸2于伊勢國1時留v京柿本朝臣人麿作歌
 
○幸2于伊勢國1時 持統天皇の伊勢に行幸ありしは御宇六年にして左注にいへるが如し。
○留京 この時の京はなほ飛鳥淨御原宮なりしなり。即ち柿本人麿がその京より行幸のさまを思ひやりてよめるなり。
 
40 嗚〔左○〕呼見乃浦爾《アミノウラニ》、船乘爲良武《フナノリスラム》、※[女+感]嬬等之《ヲトメラガ》、珠裳乃須十二《タマモノスソニ》、四寶三都良武香《シホミツラムカ》。
 
○嗚呼見乃浦 舊本「アミノウラ」とよめり。或は又「ヲミノウラ」「オヲミノウラ」などとよめる本あり。さてこの、「嗚」字を流布本「鳴」とかけるが誤なること著しくして、古寫本多く正しくかけり。(191)かくてその「嗚呼」の二字は所謂感動をあらはす語にして「ア」と訓するによりて「アミノウラ」とよめるは由あることなり。然るに卷十五にのせたる歌「三六一〇」には「安胡乃字良爾《アゴノウラニ》、布奈能里須良牟《フナノリスラム》、乎等女良我《ヲトメラガ》、安可毛能須素爾《アカモノスソニ》、之保美都良武賀《シホミツラムカ》」とあり。その歌の左注に、「柿本朝臣人麿歌曰「安美能宇良《アミノウララ》云々」と見えたり。されば、ここは人麿の歌としては古來「アミノウラ」とありしものと見ざるべからず。しかるに、「アミノウラ」といふ地名はこの度の行幸ありし地方には由なきを以て卷十五の「アゴ」の方を正しとする説あり。「あご」は志摩國英虞郡にしてこの伊勢行幸のついでに、この地に行幸ありしことはこの年の五月の紀に「御2阿胡行宮1時云々」とあり。この行宮は志摩國府のありし今の國府の地にありしならむ。さて「あごの浦」といへば、志摩の國府あたりの海濱をさすなり。右の如くなれば「あごの浦」の方地理上當る所あるに似たるを以て、「見」字は「兒」字の誤なりとして「嗚呼兒」即ち「あこ」なりといふ説あり。これは僻案抄の創見なるが、この説は上にいふ如く、地理にもあひ、又史實にもあひ、卷十五の本歌にもあひたれば、正確を得たるに近し。されど、古寫本一も「兒」字をかけるものなく卷十五の歌の左注には柿本人麿集には「安美能宇良」とありしこと明かなれば、古くより「アミノウラ」といふことに傳へられたるを知るべし。さればここには正しくは「アゴノウラ」なるべしといふ説を述ぶるはよけれど、直ちに本文を改むるは穩ならぬわざなり。
○船乘爲良武 「フナノリスラム」とよむ。「フナノリ」といふ語の意と語例とは「八」の條にいへり。今はただ船に乘るといふだけの事なり。「ラム」は現實の事を推量する複語尾なり。即ち今頃(192)は行幸に供奉して阿胡の浦にて舟に乘りて遊ぶらむと想像していへるなり。
○※[女+感]嬬等之 舊訓「ヲトメラガ」とよめり。古寫本中には※[女+感]嬬を「ツマ」と訓じ、「ツマトモカ」とよめるものあり。されど、※[女+感]嬬の字、集中に多く、いづれも「ヲトメ」とよめり。「嬬」に「ツマ」の義あること「一三」の條に述べたるが、この字の原義は説文に「弱也」と注するによりて弱《ワカ》き女の義なるを知るべく、これ一字にて「ヲトメ」の國語に當るものなり。「※[女+感]」といふ字は未だ他に所見なし。萬葉用字格に「※[女+威」の誤ならむといへれど、それも確證なし。攷證には「※[女+感]嬬」とありしが、連字扁旁を増すの習によりて「女」扁を加へしならむといひ、岡本保孝も同じ説を唱へて縷々の説をなせり。この説は最も傾聽すべきものと思はるれど、「※[女+感]嬬」といふ熟字の證左なき限りはこの説未だ定説となし難し。「ヲトメ」は若き女官をさせるならむ。
○珠裳乃須十二 「タマモノスソニ」とよむ。考には、「珠裳」を「アカモ」とよみたり。それは卷十五の本行に「安可毛《アカモ》」とあるに據れるものとおぼし。されど、その歌の左注の柿本人磨集なるには別に「多麻妣能須蘇爾《タマモノスソニ》」と注してあれば、ここは「タマモ」たること明かなり。「珠裳」は「アカモ」とよむべき字面にあらず。裳をほめて「玉裳」といへる例は卷二「一九四」に「玉垂乃越乃大野之旦露爾玉藻者※[泥/土]打《タマダレノヲチノオホヌノアサツユニタマモハヒヅチ》、夕霧爾衣者沾而《ユフギリニコロモハヌレテ》」とあり。「須十」は借字にして裾なり。卷二十「四四五二」に「多麻毛須蘇婢久《タマモスソヒク》などの例あり。
○四寶三都良武香 「シホミツラムカ」とよむ。「四寶」は借字にして「潮」なり。「ラム」は上にいへり。潮滿ちて若き女官が裳裾をぬらすむかとなり。
(193)○一首の意 行幸に供奉せる人を今京にありて思ひやるに、今頃は志摩國英虞の地に行幸せさせたまふならむ。年若き女官等は今頃船に乘りてその浦にて遊ぶらむか。さては潮水の滿ち來てそれらの女官等の美しき裳の裾を濡すらむか。女官等が乘りなれぬ船にのらむとて且つは打興じ且つは手間取る程にいつしか潮滿ちよせ來て裳裾を濡すらむさまを想像してよめるなり。眞率にしてよく想像のあらはれたる歌なり。
 
41 釼著《クシロツク》、手節乃崎二《タフシノサキニ》、今毛可母《イマモカモ》、大宮人之《オホミヤビトノ》、玉藻苅良武《タマモカルラム》。
 
○釼著 舊本「劔著」とかきて、「タチハキノ」とよめり。これは「劔著」の文字によれること明かなり。僻案抄には「劔」を「釧」の誤として「クシロ」とよめるは卓見といふべし。されど、これの文字には込み入りたる變遷ありと見ゆ。先づこの字は多くの古寫本に「釼」とあり。釼字は新撰字鏡に「環也※[王+立刀]也」とあり。その「※[王+立刀]」字は「※[王+川]」の訛にして「※[王+川]」は同書に「臂※[金+貫]也女人挂2於臂上1也釧同比知玉」とあり。その「釧」は通例「クシロ」とよむ字にして同書に「金契也久自利又太万支」と見え、和名紗には農耕具の「※[金+爪]」の注に「賀奈賀岐一云久之路」と見え、服玩具の、釧」の注には「比知萬伎」といへり。この和名鈔の「賀奈賀岐」の訓ある「※[金+爪]」の字は金扁に爪をかける正しき字にしてそれを「久之路」とよむ方は本來「釧」なるを増畫して「※[金+爪]」の如くせるを同字と誤れるにて元來別なるものなり。然れども和名鈔を撰せしころは釧の實物に對しては「ヒヂマキ」といふ語をのみ用ゐ、「クシロ」といふ語は文字と訓とのみ知りて實物の如何は忘れられてありしが故に、かゝる事も生ぜしならむ。さ(194)てこの「クシロ」は「釧」を正しきき字とし、「釼」はその別体とせるものにして、ここにも必ずしも「劔」の意にて用ゐたるものにあらずして「釧」の異体字として用ゐたりと認めらる。かくて「劔」とある本は「釼」の「クシロ」なることを知らずして「釼」「劔」同字なりと認めたるものなること疑ふべからず。然るを諸家その「劔」を誤なりとせるはよけれど、その誤れる所以を究めずして直ちに、「釵」又は「釧」に改めたるは僻事にして古典に忠なる所以にあらざるなり。さてこの「クシロ」といふ語の當時用ゐられし證は卷九「一七六六」に「吾妹子者、久志呂爾有奈武、左手乃、吾奧手爾纏而去麻師乎」といい、古事記上卷に「佐久久斯呂伊須受能宮」といへるなどあり。さてそのクシロの制如何にありしか。支那の「釧」の制を考ふるに、慧琳の一切経音義卷十九に環※[王+川]の注に「上環臂釧也、或以象牙作環而以七宝鈿之或用金銀佐久如環之象、下川戀反釧亦環也皆臂腕之寶飾也」と見え、又卷九十九には「以玉金爲環以て貫臂也」とあり。本邦古墳時代の遣物を見るに、銅釧鈴釧右釧等の名を以てよぶべきものあり。いづれも臂腕に纏ひたりと思はる。次に「着」僻案抄には「ツク」とよめるにより諸本之に從へるを古義には「マク」とよめり。かくよめる由は卷中に釧をよめるは卷九「一七六六」に「纏而」といひ、卷十二「二八六五」に「玉釼卷宿妹」といひ、古事記仁徳卷に「女鳥王所纏御手之玉釧」とあるを證とせるなり。この説拠るべきに拠りたり。然れども、ここに「着」字を用ゐ而して「卷」又は「纏」を用ゐざるは時に「つく」とよませむが爲ならむも知られず。この故に、姑く「つく」とよめり。さて釧は臂腕に纏ふものなれば「手」の枕詞とせるなり。從來の説には「手節」の枕詞とし、手節即ち腕臂なりと、いふ説行はれたりといへども、古語に身体の一部の名目とし(195)て「タフシ」といへるを見ず。されば「タ」一語にかかるものとすべしといふ品田太吉氏の説をよしとす。「タ」にのみかかれる枕詞の例は下「五四」の「衣手乃」の例もあり。○手節乃崎 「タフシノサキ」なり。「フ」を濁るべからす。「手節」は宛字にして地名なり。志摩國答志郡の答志島あり、その島即ち答志村なるがその地をさせるなり。「タフシノサキ」はその答志村の海邊のある点をさすものなるべし。
○今毛可母 舊訓「ケフモカモ」とよめるを代匠記に「イマモカモ」とよむべしといへり。この語集中に例少からぬが、假名書にせるは、卷十五「三七五八」に「伊麻毛可母」とあり。されば文字通りに「イマモカモ」とよむべきなり。さて二の「モ」は相對して叙述を力強くせむ爲に添へたるものにしてこの句は抽象すれば「今か」といふに止まる。その「か」は疑ひの意をあらはせり。
○大宮人之 「三〇」にいへるにおなじ。
○玉藻刈良武、「タマモカルラム」なり。玉藻刈るといふことは既に「二三」にいへり。ここは大宮人の物珍らしく、海邊にて遊び戯るるを玉藻刈るとなぞらへていへるに止まる。真に玉藻を刈るか刈らぬかは問ふ所にあらず。從來の説多くは鑿説なり。
〇一首の意 今頃は志摩の答志の崎に大宮人等が物珍しく海邊の遊びしてゐるらむかとなり。
 
42 潮左爲二《シホサヰニ》、五十等兒乃島邊《イラゴノシマヘ》、※[手偏+旁]船荷《コグフネニ》、妹乘良六鹿《イモノルラムカ》、荒島回乎《アラキシマミヲ》。
 
○潮左爲 「シホサヰ」とよむ。その意義につきては契沖は鹽の荒きをいふといへりしに、春滿は(196)「潮さわぎ」にて潮のさし來る時海の鳴を云」といへり。「左爲」は「騒ぐ」の語幹の「さわ」の轉たじる語にして「シホサヰ」の語の意は潮の騒ぎの意なることは疑ふべからず。肥前肥後のあたりには潮の滿つるを「シホサヰ」といふといへり。卷三の長歌「三八八」に「鹽左爲能《シホサヰノ》、浪乎恐美《ナミヲカシコミ》」といひ、卷十一「二七三一」に「牛窓之《ウシマドノ》、浪乃鹽左猪《ナミノシホサヰ」》、島響《シマトヨミ》、所依之君爾《ヨリテシキミニ》、不相鴨將有《アハズカモアラム》」又卷十五「三七一〇」に「之保非奈波《シホヒナバ》、麻多和礼許牟《マタモワレコム》、伊射遊賀武於伎都志保佐爲多可久多知伎奴《イザユカムオキツシホサヰタカクタチキヌ》」とあり。又魚に「しほさゐふぐ」といへるあり。これは河豚の類なるが、水族志に「此フグ河水ノ海ニ流出スル海口ニ群ヲナス」とあり。即ちこれ潮左爲の處に住む故の名なるべし。
〇五十等兒乃島邊 「イラゴノシマヘ」とよむ。「五十」を古言「イ」といへるによりて「イ」の假名に借りたること古事記垂仁卷に「五十日帯日子王《イカタラシヒコノミコ》」又本卷「五〇」に「五十日太《イカダ》」卷四「六七四」に「言齒五十戸常《コトハイヘド》」などその例なり。「イラゴノシマ」は上「二三」にいへり、答志島と伊良虞押との間は所謂「いらごの渡り」にして距離三里、その間に大筑海、小筑海、神島の諸島あり。
○※[手偏+旁]船荷 「コグフネニ」なり。「※[手偏+旁]」字は「榜」字ををかける古寫本もあり。いづれにしても造船の義あり。廣韻を見るに、「榜」に「棹艇」と注し、字典所引李舟切韻には「榜」に「進舶也」と注せり。
○妹乘良六鹿 「イモノルラムカ」なり。この妹は必ずしも人麿の思ふ人をいへるにあらす。ただ車駕に供奉せる女官をさせるのみにて誰と定まれる人なきなるべし。「カ」は疑問の助詞なり。
〇荒島回乎 舊訓「アラキシマワヲ」とよめり。しかるに、「島回」の二字を熊谷直好が説には。「シマベ」といひ、(萬葉集※[手扁+君]解)本居宣長は「シママ」といひたり。かくて荒木田久老は「シマミ」といひたる(信濃漫録)より橘守部鹿持雅澄等これに從へり。按ずるに「シママ」又は「シマミ」とよめるは卷十七「三九九一」の長歌に「之麻未爾波《シマミニハ》、許奴礼波奈左吉《コヌレハナサキ》」卷二十「四三九八」の長歌には「春霞《ハルガスミ》、之麻未爾多知弖《シマミニタチテ》」などあるによれるものなるべきが,この「未」字を「未」と認むべきか「末」と認むべきかによりて「シマミ」とも「シママ」ともよまるることとなるべきが、そは字体紛れ易ければ、ここのみにては水掛論に終るべきものなり。よりて他の似たる例を案ずるに、かかる場合の回字を用ゐたるに「浦回」「浦廻」とかけるあり。卷二「一三一」卷三「四三四」卷四「五五一」卷六「九四六」卷七「一一四四」これなり。又卷三「三九〇」に「輕池之《カルノイケノ》、納回|往轉留《ユキスグル》、鴨尚爾《カモスラニ》、玉藻乃於丹《タマモノウヘニ》、獨宿名久二《ヒトリネナクニ》」とある「納」は「※[さんずい+内]」の誤にして「※[さんずい+内]回」即ち浦回に同じとする説あり。これらは從來「ウラワ」とよみ來れるものなるが、「島回」が「シマミ」ならばこれも「浦ミ」なるべきなり。又「阿回」(卷二「一一五」)「隈回」(卷二「一七五」)あり。これらも從來「クマワ」といへるが上の例によらば「クマミ」とよみてよき筈なり。又「礒回」(卷七「一二三四、」卷十二「三一九九」)とかけるあり。これらも從來「イソワ」とよみたれど、「イソミ」といひてよき筈なり。さてこれらに對してそのよみ方を決定するに足るべき假名の例を見るに、「浦回」「浦廻」に對しては「浦箕」とかけるもの、卷四「五〇九」卷九「一六七一」卷十一「二七三一」あり。「阿回」「浦回」に對しては卷五「八八六」に「道乃久麻尾」とかけるあり。これらを以て見ればこれらの「回」「廻」は「ミ」といふ語に相當すと考へらる。これによりて按ずれば卷三「二七三」の歌に「榜手回行者《コギタミユケバ》」とある「手回」とかけるも或は「回」に「ミ」の訓あるが爲ならむも知られず。(されどこれは「回」に「タミ」の訓あるその訓の上(198)の音の「タ」の爲に「手」を加へしものとも考へらる。)かかれば、かの卷十七卷二十なるも「シマミ」なるべく、ここも亦「シマミ」とよむべきならむ。その意は文字の示す如く、そのめぐりの意にてあるべきなり。終の「乎」は今の語にあつる時は「デアルモノヲ」の意を含めたるものなり。
○一首の意 潮さゐの時に伊良虞島の邊をこぎ渡る船にかよわき女人たちの乘るらむか。そのあたりは浪の荒きを以て世に知られたる島のあたりなるをとなり。
○ 以上三首人麿の歌なるが、三首個々の歌とは見えず。第一首は英虞、第二首は答志、第三首は伊良虞と近きより遠きに及ぼし、女官と官人とを交互によみ、自然に行幸の進みを想像せると共に供奉の人々の心持を思ひやりたるさまなど、三首相待ちて一團となれること著し。
 
當麻眞人麿妻作歌
 
○當麻眞人麿妻 「タギマノマヒトマロガメ」とよむ。當麻氏は用明天皇の御子麿子王の後なり。もとは公の姓なりしが天武十三年冬十月當麻等十三氏に眞人の姓を賜へる由、日本紀に見ゆ。當時當麻眞人智徳、同國見など知られたる人ありしを見れど、麿といふ人考ふる據なし。この歌は卷四に重出し、作者も同じ。但、かの卷には當麻麿大夫妻とあれば、後世にていはば、五位以上の人なりしなり。
○作歌 この歌いづこにてよめりとも明記せられざるが如くなるが、上の「柿本人麿作歌」の上なる「幸于伊勢國時留京」といへるをもここにめぐらして見るべきを同じ文なれば、略したりしな(199)らむ。即ちその當麻眞人麿といふ人當時車駕に扈從せるを京に留守せる妻のしたひてよめる歌これなり。
 
43 吾勢枯波《ワガセコハ》、何所行良武《イヅクユクラム》。己津物《オキツモノ》、隱乃山乎《ナバリノヤマヲ》、今日香越等六《ケフカコユラム》。
 
○吾勢枯波 「ワガセコハ」とよむ。意は「一一」にいへり。
○何所行良武 舊訓「イツチユクラム」とよみたり。されど、「イヅチ」は方向をさす語なればこの文字とここの意とに當らず。この故に考は「イツコ」とし、略解に「イツク」とせり。然るに、古事記應神卷の歌に「伊豆久《イヅク》」とあるをはじめ本集中にある假名書の例いづれも「イツク」にして「イツコ」とかける例を見ねば、略解の説によるべし。
○己津物 これは古本に「オノツモノ」など讀みたるもあれど、仙覺が「オキツモノ」とよみしより、諸家皆之を是認せり。卷四なる歌にもかくかけり。さて「己」を「オキ」とよむは起の略字なりといふ説(本居宣長)もあれど、禮記月令の十干の「己」の注に「已之爲v言起也」と見え、又古本玉篇に同じく十干の「己」の注に「嗣也起也」と見え、白虎通五行篇に「己首物必起」とも見えたれば、恐らくは「起」字の原字たるべくしてそが略字にはあらず。さてこの三字は元來借字にて「奧ツ藻の」といふ義なり。奧津藻とは海の深き處にある藻にして外よりは見え難きものなれば名張の地名の「ナバリ」を隱の義にとりて、その枕詞とせるなり。
○隱乃山 舊訓「カクレノヤマ」とよめり、しかるを契沖は「ナバリノヤマ」とよむべきかと勘へ出(200)せり。玉の小琴には「隱はなばりと訓べし。伊賀國名張郡の山也」といへり。爾來諸家これに從へり。「隱」の字を「なばり」といふは古語にして、その義によりてかけるものにしてこの「なばる」といふ語は又通音にて「なまる」といへるものなり。卷十六「三八八六」に「忍照八《オシテルヤ》、難波乃小江爾《ナニハノヲエニ》、廬作《イホツクリ》、難麻理弖居《ナマリテヲル》、葦河爾乎《アシガニヲ》」とある「なまりて」は即ち「かくる」といふに同じきを知るべし。今言語の「よこなまる」といふも本來の意義のかくるる由をいへるならむ。本集中大和の地名の「ヨナバリ」にも「吉隱」とかけり。さてこの「なばり」の地は古事記安寧卷に「那波理之《ナバリノ》稻置」とあるもこの邊の地なるにて、日本紀天武卷には明かに「到2隱《ナバリノ》郡1焚2隱《ナバリノ》驛家1」とあり。この隱の驛家は今の名張町なるべく、その邊の山をば「隱の山」といへるなるべし。この地古、飛鳥藤原の京より伊勢へ行くには必ず通過すべき要地たりしなり。
○今日香越等六 「ケフカコユラム」とよむ。「香」は疑の「か」に借りたる宛字なり。意は明かなり。
○一首の意 この歌二段落にして、「何所行良武」までを一段落とし、下また一段落たり。第一段落は我が夫は今頃は何處をか行きつつあるらむと自ら問ひ、さて、第二段にその旅程をはかるに、今日頃は丁度、隱《ナバリ》のあたりの山を越ゆるならむかとなり。藤原の京より名張の邊まで早くて二日目若くは三日目なるべく、その頃によみたりと思はる。
 
石上大臣從駕作歌
 
○石上大臣 「イソノカミノオホマヘツキミ」とよむべし。これは石上朝臣麻呂にして石上氏は(201)物部氏の支族なり。この人持統天皇の朝にての官名明記なく明かに知り難きが、その位はこの御世に「直廣壹」に至りしこと紀に見ゆ。かくて大寶元年三月に中納言正三位石上朝臣麿を大納言に任ぜられしことを思ふに持統天皇の御時に中納言までなりしものと考へらる。而してこの人の右大臣に任ぜられしは慶雲元年の事にして和銅元年には左大臣たり。されば、ここは後の官を前にめぐらして書けるかといふ説あり、然るときはこれは慶雲以後に書けりといはざるべからず。
○從駕作歌 「從駕」は「扈2從車駕1」の意なり。儀制令に「車駕(ハ)行幸(ニ)所v稱」とあり。韻會小補に「唐制天子居曰v衙行曰v駕」とも見ゆ。これを「オホミトモニシテヨメルウタ」とよむべし。上の歌どもは留守者より旅行せる人を思ひてよめる歌なるが、これは旅中より遙に京を思ひてよめる歌なれば、上の柿本人磨の詞書のうち、「幸2于伊勢國1時」の六字あるべきを上文によりて略せるなり。
 
44 吾妹子乎《ワギモコヲ》、去來見乃山乎《イザミノヤマヲ》、高三香裳《タカミカモ》、日本能不所見《ヤマトノミエヌ》。國遠見可聞《クニトホミカモ》。
 
○吾妹子乎 「ワギモコヲ」とよむ。「ワガイモ」といふを約めて「ワギモ」といひ、「ワガイモコ」を約めて「ワギモコ」といへること古語の例なり。古事記仁徳卷に「和藝毛《ワギモ》」といひ、本集卷十五「三五九六」に「和伎母故我《ワギモコガ》」とあり。されど、卷二十「四四〇五」に「和我伊母古我《ワガイモコガ》」といふもあれば、「ワガイモコ」といひても不都合なるにあらねど、なほ五音によむをよしとすべし。「イモ」は妹のみならず、姉をも妻をもさす語なることは上の「わがせこ」の條(一一)に引ける日本紀仁賢卷の注にて明かなり。(202)さてここは恐らくは妻をさせるならむ。日本紀雄略卷に「謂2皇后1曰2吾妹1」とも見えたり。「子」は親みていふ語にして「わがせこ」といふ場合におなじ。これは「吾妹子をいざ見む」といふ意にとりて下の「イザミノヤマ」の枕詞とせるなり。
○去來見乃山 「イザミノヤマ」とよむ。去來を「いざ」とよむこと上にいへり。この「イザミノヤマ」は何處にあるか。二見浦に近き佐見山といふ山なりといふ説あれど、「イザミノヤマ」とあれば、正しく合はず。倭訓栞には「イサミノ山」を飯高郡にありと記せり。これ伊勢人のしかも信頼すべき學者の云ふ所なれば、みだりに排すべからず。同じ伊勢人宮内黙藏の伊勢名勝志には飯高郡の西端、大和吉野郡との境なる高見山の一名を「去來見山」とせり。これによらば去來見山は今いふ高見山なり。この山はこの附近にて最も高きと共に、古より今に至るまで吉野と伊勢神宮との交通の要路たり。著者また明治二十九年に鳳鳴義塾の生徒と共にここを越えたることあり。按ずるに、この山かく大和と伊勢との堺として名高く且つ實際に高き山なるによりてかくよめりしならむ。
○高三香裳 「タカミカモ」とよむ。「高ミ」は「高し」といふ語の語幹を動詞に化せしめたるもの、今の語にていへば山が高きによりてといふに近し。「カモ」は疑の助詞にして係たり。之に對して次の句を「ミエヌ」と結べるなり。
○日本能 「ヤマトノ」のよむ。「日本」の字面はわが國の惣名たるなり。然るに、これを「やまと」といひ、さて一國たる大和をも「やまと」といふが故にここに日本の字面を用ゐて、一國たる大和の語(203)に宛てたる借字なり。日本紀神代卷上に「日本國之三諸山」とあるもこの例なり。
〇不所見 「ミエヌ」とよむ。「所見」は「ミラル」の義なるによりて用ゐる字面なるが、當時受身の「ル」「ラル」を「ユ」「ラユ」とヤ行下二段にも活用せしが故に「ミラユ」ともいひうべきものなるを更に「ミユ」と約めたるものと考へらる。かくてその「ミユ」は「ミラル」と同義の語にしてその「ミラル」は受身より轉じたる可能の意たるものなり。されば、「ミユ」は「ミルを得る」に同じく「ミエヌ」は「ミルコト能はず」といふにおなじ。かくて上の「カモ」の係に對するものなれば、ここに「ミエヌ」と連體形にて結ばざるべからざるなり。
○國遠見可聞 これは古寫本には「國をみるかも」とよめるもあれど、義をなさず、「クニトホミカモ」とよめるをよしとす。「カモ」は上にあると同じけれど、ここは終止なり。國の遠きによりてかあらむとなり。
○一首の意 二段落の歌なり。「日本のみえぬ」までにて一段落、末の一句にて一段落なり。大和に在る吾妹子をいざ見むと顧みれば、そのいざみむといふ語を名に負へる去來見の山の高きによりてか、その大和國の見えぬことよ。かく大和國の見えぬはその國堺にある去來見山の高きによりてかとも思へども或はさにはあらで、國の遠く隔たりたればにかあらむとなり。
 
右日本紀曰、朱鳥六年壬辰春三月丙寅朔戊辰以2淨廣肆〔左○〕廣瀬王等1爲2留守官1、於v是、中納言三輪朝臣高市麿脱2其官位1※[敬/手]2上於朝1重諫曰、農作之前(204)車駕未v可2以動1。辛未天皇不v從v諫遂幸2伊勢1。
 
○この左注また日本紀を引けるものなるが、朱鳥六年は現今の紀にては壬辰にあらず。現今の紀に壬辰の年は持統六年にして朱鳥元年よりすれば七年なり。これ亦例の一年の差あるなり。
○淨廣肆 流布本「津」を「津」に作れるは誤なること著し。多くの古寫本正しくかけり。天武天皇の十四年に位階を改定せられ諸王已上の位に、「明位二階淨位四階毎階有2大廣1併十二階」とありて「淨廣四」はその最下級なり。日本紀には天武十三年の所に既に「淨廣肆廣瀬王」とあれば、十四年以前より行はれしものの如し。
○廣瀬王 父祖未詳。養老六年正月卒すと續日本紀に見えたり。
○留守官 天皇地方に巡狩する時京に留りて諸司の鑰を管し、宮城を守る官なり。日本紀齊明卷に「留守官蘇我赤兄臣」ともあり。
○中納言 太政官の次官にして大納言の次に任す。令外の官なるが、持統天皇の時既に置かれしなり。
〇三輪朝臣高市麿 これ續紀大寶二年同三年慶雲三年又靈異記上卷等に見ゆる大神《オホミワ》朝臣高市麿なり。然るに日本紀には三輪と記して大神と記さず。この氏は姓氏録に「素佐能雄命六世孫大國主之後也」と見ゆ。この人天武元年紀にはじめて三輪君高市麿と見え十三年に朝臣の(205)姓を賜はれるなり。持統朝の忠臣として古今に聞えたる賢者なり。
○脱其冠位 當時の位階は冠によりて次第せられたり。されば冠位とはいへるなり。冠を脱するはその冠に相當する位階の待遇をも辭し又は退けらるるなり。
○※[敬/手]2上於朝1 冠を朝にかへしささぐるなり。「※[敬/手]」は玉篇に「持高也」と見えたれば正しく「ささぐ」といふ語にあたれり。
○農事之前 紀に「農事之節」とあり。本書の「前」字蓋し誤ならむ。
 
五月乙丑朔庚午御2阿胡行宮1。
 
○御 蔡※[災の火が邑]獨斷に「天子所v進曰v御」とあり。ここは「おはします」とよむべき所なり。さてこの文は左注の記者の誤なり。この行幸は戊辰(三日)に發駕辛未(六日)に伊勢に行幸乙酉(二十日)に還幸ありしにて、天皇は五月の庚午(六日)には藤原京にましましなり。これは日本紀に
 五月乙丑朔庚午御2阿胡行宮1時進v贄者紀伊國牟婁郡人阿古志海部河瀬麿等兄弟三戸復2十年調役雜徭1、復免2挾※[木+少]八人今年調役1。
とあるを誤り讀みたるなり。
 
輕皇子宿2于安騎野1時柿本朝臣人麿作歌
 
○輕皇子 かく申し奉れる方、國史に二柱ませり。一柱は孝徳天皇にして、一柱は文武天皇なり。(206)この故に扶桑略記には文武天皇をば「後輕天皇」と記せり。ここはその後の方の文武天皇なること著し。諱は續紀には「珂瑠」と書けり。ここに「輕」とかけるも音は同じ。御父はこの歌に出づる日並知皇子即ち草壁皇太子、御母は元明天皇なり。持統天皇十一年二月に皇太子となり、八月に讓を受けて御即位あり。こゝに輕皇子とかけるは未だ皇太子に立ちたまはぬ前の事なればなるべし。
○宿于安騎野時 安騎野は大和國宇陀郡にして延喜式に宇陀郡阿紀神社あり。その阿紀神社は今松山町附近の迫間村にあり。その邊の野を安騎野といひしなるべし。日本紀天武天皇元年紀に「即日到2菟田吾城1」と見ゆ。「宿」は旅宿の義なり。
○柿本朝臣人麿作歌 これは人麿が御供の人數中にありてよめりしなるべし。攷證には目録によりてこの下に「一首並短歌四首」の七字を補へり。然れどもかくかける本一も存することなし。本のまゝにてあるべきなり。
 
45 八隅知之《ヤスミシシ》、吾大王《ワガオホキミ》、高照《タカテラス》、日之皇子《ヒノミコ》、神長柄《カムナガラ》、神佐備世須登《カムサビセスト》、太敷爲《フトシカス》、京乎置而《ミヤコヲオキテ》、隱口乃《コモリクノ》、泊瀬山者《ハツセノヤマハ》、眞木立《マキタツ》、荒山道乎《アラヤマミチヲ》、石根《イハガネノ》、禁樹押靡《シモトオシナベ》、坂鳥乃《サカトリノ》、朝越座而《アサコエマシテ》、玉限《タマカギル》、夕去來者《ユフサリクレバ》、三雲落《ミユキフル》、阿騎乃大野爾《アキノオホヌニ》、旗須爲寸《ハタススキ》、四能乎押靡《シノヲオシナベ》、草枕《クサマクラ》、多日夜取世須《タビヤドリセス》、古昔念而《イニシヘオモヒテ》。
 
(207)○八隅知之吾大王 この語「三」の歌にいへり、これは輕皇子をさして申せり。皇子にもかく申す例は卷二「一九九」に高市皇子をいひ、「二〇四」に弓削皇子をいひ、卷三「二六一」に新田部皇子等にもかくいへり。
○高照 舊本「タカテラス」とよめるを僻案抄に「タカヒカル」とよみたるより諸家多く之に從へり。然れども美夫君志に「此|照《テラス》は天照大御神の照《テラス》と同じく※[氏/一]流《テル》を敬語に※[氏/一]良須《テラス》といふなり。【取をとらす立をたたすと云が如し】さて日といふ言に冠らせたるなり。卷二【二十七右】に天照日女之命日本書紀一書にも天照大日〓尊とあり、同じ意のつゞけなり。【集中の歌に月にはあまてるつきといひて日にはてらすといへり古言の正しきを見るべし】しかるを冠辭考には古事記に多加比加琉比能美古とあると本集に高光ともかけるとによりて高照とあるも「タカヒカル」とよむべしといへるは一向なり」といひ、新考にも「タカヒカルならば高光とかくべし、ことさらに高照とは書くべからず、其上タカテラスといひて通ぜざるにあらず」といへる如くなれば、古のまゝに「タカテラス」とよむをよしとす。さてその「タカ」は單に「高し」といふ義にあらず。古く名詞にて大虚をもいへるなり。高天原高津鳥などの高これなり。古事記垂仁卷に「聞2高往鵠之音《タカユクタヅガネ》1」とあり、又仁徳卷の歌に「多迦由玖夜《タカユクヤ》、波夜夫佐和氣《ハヤブサワケ》」とあり、本集卷四「五三四」に「高飛鳥爾毛欲成《タカトブトリニモガモ》」ともあり。伊勢(古事記傳にいへり)又わが郷里越中などにて天を「タカ」といふは古語ののこれるなり。されば「高照す」も畢竟「天照す」と同じ趣の語にして、「高」即ち「天」に照りたまふの義にして日の枕詞とせるなり。
○日之皇子 舊本「ヒノワカミコ」とよめり。されど「皇子」の文字を「ワカミコ」とよむべき由なし。(208)ただ「ミコ」とよみてあるべし。日の御子といふは日の神の御末と申すことなり。これは古事記景行卷に日本武尊を申す歌に「比能美古《ヒノミコ》」ともありて古くよりいへる詞なり。
○神長柄神佐備世須登 前(三八)に説けり。
○太敷爲 「フトシカス」は「フトシク」の敬語なり。「フトシク」は上(三六)いへり。
○京乎置而 「ミヤコヲオキテ」とよむ。京郡をさし置きての義。上の人麿の歌「二九」に「倭乎置而《ヤマトヲオキテ》」とあるにおなじ例なり。京都を立ちて來るをいへり。
○隱口乃 「コモリクノ」とよむ。「ハツセ」の枕詞とす。古事記允恭卷の歌に「許母理久能《コモリクノ》、波都世能夜麻能《ハツセノヤマノ》」とあり。本卷下「七九」に「隱國《コモリク》」ともかけり。又延暦の大神宮儀式帳に「許母理國志多備乃國《コモリクニシタビノクニ》」とあり。されば「ハツセ」にかぎらぬ詞なるが、その「ハツセ」にいへることは大和國風土記殘篇に「長谷郷云々古老傳云此地兩山澗水相夾而谷間甚長故云2隱國長谷1也」とあり。その地勢現にこの文に同じ。「コモリクノ」の「ク」は「クニノ」とつづける爲に生じたる略なるべきか。
○泊瀬山者 「ハツセノヤマハ」とよむ。「ハツセ」は後世「ハセ」といふ。今初瀬町といふ所、その本據といふべけれど「ハツセ」といひし地はなほ広かりしは泊瀬朝倉宮、泊瀬列城宮などの遺址は今の初瀬町よりは西なる黒崎出雲などに存し、その邊一帶を今は朝倉村といふ。この朝倉村はなほ古の初瀬の内なること著し。さてこゝに「者」といへるは他に別なる意を示したるにて下の「荒山道乎」の「ヲ」までにかゝれり。
○眞木立 舊本「マキタテル」とよめるを僻案抄に「マキノタツ」とよみ、考に「マキタツ」と四言によめ(209)り。今多く考の説によれり。さて卷三「二四一」には「眞木之立《マキノタツ》、荒山中爾《アラヤマナカニ》」と見え、卷十三「三二九一」に「三芳野之眞木立山爾《ミヨシヌノマキタツヤマニ》」とも見えたり。「マキノタツ」にても「マキタツ」にてもよき事なるべけれども、聲調のよきによりて「マキタツ」とよむ方によるべし。「まき」は契沖は今もいふ槇の木なりといひ、眞淵は檜をほめていへる歌詞なりといへり。「ま」はもとたゝへていへる詞なるが故に「まき」とはよき材といふ程の語なるべし。かくて古にはこれを一種の樹の名とせるもあり。そは日本紀神代卷上の一書に「※[木+皮]此云2磨紀1」とあるこれなり。又ひろくよき材となるべき樹木をもさせり。こゝのはその太きよき樹といふ方なるべし。
○荒山道乎 「アラヤマミチヲ」とよむ。荒は和《ニキ》の反對にして人け稀なるをいふ。荒野荒山中などいふみなその意なり。「を」は「なるものを」の意にして上の「泊瀬の山は」といふをうけたり。この山道は蓋し、今の出雲村より女寄《ミヨリ》に越ゆる岩坂越なるべし。岩坂の名、實に次の詞に由あり。
○石根 古來「イハガネノ」とよめり。「イハガネ」は岩の根といふにおなじ。卷三「三〇一」に「磐金之凝敷山乎《イハガネノコゴシキヤマヲ》」卷七「一三三二」に「石金之《イハガネノ》、凝木敷山爾《コゴシキヤマニ》」とあるはまさしく「イハガネ」とよむ例なり。根は岩根木根垣根の根にて(屋根はヤノヘの約にして別なり。)地に固定せるものをいふ。
○禁樹 舊本「フセギ」とよめるは字面によれるなり。されど、意通ぜざるを以て、僻案抄に、「禁」と「樹」とを上下の句に分ち、「石根禁」を「いはねせく」とし、「樹押靡」を「こだちおしふせ」とよめり。されど、これも心ゆかずとして、考には「禁」を「楚」の誤として、「楚樹」を「シモト」とよむべしとせり。「楚」は説文に「楚叢木也一曰荊」とあり。「楚樹」といふ熟字ありといふ説を攷證にいへれど、そは盧綸が送2楊※[白+皐]1(210)詩に「楚樹荊雲發遠思」などいへる如く、楚といふ土地の樹なれば、こゝの證にはならず。又「シモト」といふ語は和名鈔に「※[草冠/〓]【和名之毛止】木細枝也」と見え、日本紀景行卷に「是野也麋鹿甚多、氣如2朝霧1是如2茂林1」とある「茂林」同雄略卷に「其聚脚如2弱木林1」とある「弱木林」をいづれも「シモトハラ」とよめり。されど、この禁樹を楚樹の誤とすること並に楚樹を「シモト」とよむこと、及び、「シモト」といひてここに通ずるか否かはいづれも首肯せられず。されど、よき考説の出づるまで姑く之に從ふ。
○押靡 舊本「オシナミ」とよめるはわろし。本卷首の歌の例によりて「オシナベ」とよむべし。
○坂鳥乃 「サカトリノ」とよむ。これを朝越の枕詞といへり。これは渡り鳥は未明に山を飛び越えて、渡るものなればそれをとりて御一行の早朝山坂を越えらるゝにたとへいへるなり。されば、たゞ枕詞とのみいふべからず。
○朝越座而 「アサコエマシテ」とよむ。推古天皇十九年五月五日の菟田野に藥狩せさせ給ひしとき、鷄鳴時《アカトキ》を以て藤原池(ノ)上に集り、會明《アケボノ》に往くと日本紀に見ゆるを以て推すに、當時のいでましは未明に都を立ちて往きませる例なりしを見る。されば朝越座すといふことは言の形容にあらずして事實たるなり。平安朝頃にも夜半に京を立ち、即日奈良に赴ける記事あり。
○玉限 舊本「タマキハル」とよみたれど、その意通らねば、管見に「カケロフノ」とよみ、考に之を「玉蜻」と改めて「カギロヒノ」とよみ略解など之に從へり。されど、「カゲロフ」「カギロヒ」結局同じ語なれば、改むるにも及ばざることなれば、攷證には「玉限」のまま「カギロヒノ」とせり。然るに、「玉限」の字にて「カゲロフ」若くは「カギロヒ」とよむべき理由を發見すべからず。又「玉蜻」の場合も、「蜻」字には(211)しかよむべき縁はあれど、「玉」字を加ふるには、他に理由あるべきことと考へらるれば、これも由なきことなり。されば、以上の諸説いづれも從ふべきものにあらず。鹿持雅澄は玉蜻考をあらはして、これらを「タマカギル」とよむべしといひ、美夫君志また之に和したり。その説をよしとす。かくよめるは卷十一「二三九四」に「朝影《アサカゲニ》、吾身成《ワガミハナリヌ》、玉垣入《タマカギル》、風所見《ホノカニミテ》、去子故《イニシコユヱニ》」とあるによりて定めたるなり。さるはこの同じ歌をば卷十二「三〇八五」には「朝影爾《アサカゲニ》、吾身者成奴ワガミハナリヌ》、王蜻《タマカギル》、髣髴所見而《ホノカニミエテ》、往之兒故爾《イニシコユヱニ》」とかけり。而して、その假名書の例は靈異記上に「多萬可妓留《タマカギル》、波呂可邇美縁而《ハロカニミエテ》」とあり。かくて「玉垣入」「玉蜻」が「タマカギル」なる以上は「玉限」はそのまま何人がよみたりとも「タマカギル」なること明かなりといふべし。委しくは玉蜻考及その補正(共に美夫君志卷一別記に載す。)を見るべし。この「玉カギル」といふ語の玉は麗しきをたたふる詞、「カギル」はかがやくをいふ。さてここは夕日のさす意にて夕の枕詞とせり。
○夕去來者 「ユフサリクレバ」なり。上「一六」の「春去來者《ハルサリクレバ》」に准じて知るべし。朝に坂を越え、夕に阿紀の野に到りませるなり。
○三雪落 「ミユキフル」とよむ。「み」は美稱なり。「三芳野」(二五)などの例なり。「落」を「フル」とよむも「二五」にいへり。さてかくいふ由は當時雪降る頃なりしが故なるべし。之をただ廣き野の殊に寒きさまを思はせたるなりといへる説(美夫君志)あるは如何なり。橘守部もいへる如く、鷹狩は古より冬するものなるを思ふべきなり。
○阿騎乃大野 上にいへる阿騎野をさせり。大野とはたたへていへるなり。上に内の野を内(212)の大野といへると同じ趣なり。然るに、日本紀天武卷なる「大野」を以てこれに當つる説(攷證など)あれど誤なり。この「大野」は紀に先づ「即日到2菟田吾城1」とありて、それより多くの記事ありて、「到2大野1以日落也」とあれば「アキ」の地より一日程を隔つる地なること明けし。この大野は今の内牧村にありて秋とは全く別なる地なり。
○旗須爲寸 「ハタススキ」とよむ。集中には卷三「三三〇七」卷十「二二八三」などに「皮爲酢寸《ハタススキ》」とかき日本紀神功卷に「幡荻穗出吾也《ハタススキホニイヅルワレヤ》」ともかけり。薄は長高くして著しく顯れ、其の穗の風に靡けるさま旗の風に靡くに似たればかくいへるなり。さてここの「ハタススキ」を次の句に對する枕詞なりといへれど、そは當らずしてここはさすものある詞なりとす。
○四能乎押靡 「シノヲオシナベ」とよむ。「四能」は「シノ」なり。後世は小竹をのみ「シノ」といへれど古くは一種の植物の名にあらずして薄、葦、荻などの類、今の語にていはば禾本科の植物の幹直に丈高きものの一類をいふ總稱とおぼえたり。その高き篠どもを押し靡け踏み分けてといふなり。
○多日夜取世須 「旅宿りせす」なり。「せす」は「す」の敬語たること既にいへり。ここに旅宿りといひて狩といはぬはこの行狩はしたまへど、その本旨は父尊の御跡を偲びたまふにあればなるべし。
○古昔念而 舊本「ムカシオモヒテ」とよめるを僻案抄に「ムカシシヌビテ」とよみ考には「イニシヘオボシテ」とよみ、略解に「イニシヘオモヒテ」とよみ、古義に「イニシヘオモホシテ」とよめり。いづれにても意は同じかるべきが、「オボシテ」といふは當時の詞遣にあらず。又「念」一字にては敬語とならねば、「オモホス」とはよむべからず。されば略解の説をよしとす。「古昔」を「イニシヘ」とよむことは上(一三)にいへり。
○一首の意 輕皇子が、京を立ちて、泊瀬山の人氣遠き荒き山道の險しき道をば早朝に越えまして夕には雪のふる寒き秋の荒野に繁き高草を押靡かせ、かりほつくりて旅宿したまふ。かくしたまふ故はその父尊の薨後、昔阿騎野に御狩せさせたまひしを思ひ、その昔をしぬび、そのしぬびにせむとての御志の至りなりとなり。
 
短歌
 
○ 上には皆反歌とあるに、ここに短歌とかけり。拾穗抄及び考にはこれを反歌と改めたり。これは長歌に副へる短歌なれは反歌といふもよろしかるべく、又ひろく長歌に對しては短歌といふに妨なし。いづれにてもよしとせば、改むるにも及ばざるべし。
 
46 阿騎乃〔左○〕爾《アキノヌニ》、宿旅人《ヤドルタビビト》、打靡《ウチナビキ》、寢毛宿良目八方《イモヌラメヤモ》、古部念爾《イニシヘオモフニ》。
 
○阿騎乃爾 古來「アキノノニ」とよめり。四字のままならば「アキノニ」とよむべき筈なり。これは「乃」の下に「野」を脱したりと見ゆ。かくかける古寫本(神田本)もあり。されば「アキノノニ」とよめるによるべし。
(214)○宿旅人 「ヤドルタビビト」とよむ。輕皇子を始め奉り、御供の人々すべてをさしていへるなり。
○打靡 「ウチナビキ」とよむ、安く臥したるさまにいふ。卷五「七九四」に「字知那比枳《ウチナビキ》、許夜斯努禮《コヤシヌレ》」卷十四「三五六二」に「宇知奈婢伎比登里夜宿良牟《ウチナビキヒトリヤヌラム》」ともあり。これやがて下の寢ぬるにつづくなり。
○寐毛宿良目八方 舊本には「目」を「自」とかき「イモネラシヤモ」とよめり。契沖は定家卿點の本に「ネラメヤモ」とあるによりて「自」は「目」の誤ならむかといひたるが、類聚古集神田本等には「目」とあるによりて「自」は誤なるを知る。さてかく「ラメ」といふ場合は上は終止形なるべきによりて考の如く「イモヌラメヤモ」とよむをよしとす。「イ」は寢ぬる事の名詞にして「ヌ」はその事の動詞なり。卷九「一七八七」に「五十母不宿二《イモネズニ》、吾齒曾戀流《ワレハゾコフル》」卷十五「三六七八」に「伊能禰良延奴爾《イノネラエヌニ》」などみな兩者を重ね用ゐたる例なり。「イヌ」といふ語は、これを直接に重ねたるなり。「ヤモ」は已然形を受けて終止し反語をなすものなり。打靡きて寢ねむとすれど容易に寢られむやとなり。
○古部念爾 「イニシヘオモフニ」とよむ。
○一首の意 この野に來りて日並知皇子尊のありし古の事を思ふには安寢もせられぬとなり。
 
47 眞草苅《ミクサカル》、荒野者雖有《アラヌニハアレド》、葉《モミチバノ》、過去君之《スギニシキミガ》、形見跡曾來師《カタミトゾコシ》。
 
○眞草苅 舊訓「ミクサカル」とよめるを考に「マクサカル」と改めよめり。いづれにてもよきことなり。こはただ草といふを詞のあやとして「みくさ」といへるまでなり。
(215)○荒野者雖有 「アラヌニハアレド」とよむ。荒野は荒山といふに同じく人氣遠き野をいふ。「者」を「ニハ」とよめる例は卷二「二一〇」に「念有之妹者雖有《オモヘリシイモニハアレド》」など少なからず。
○葉 舊本この下に「過去」をも加へ三字一句として「ハスギユク」とよめり。或は又「ハスギサル」とよめる本もあり。いづれも意をなさず。されば代匠記には「葉の字の上に黄の落たるを強てかく讀たるなり。其故は第二卷に黄葉の過ていゆく第九に黄葉の過ゆくころ、十三に黄葉の散て過ぬ又黄葉の過てゆきぬと云々皆一同に挽歌の詞也其外挽歌ならぬにかくつづけたる歌おほし(中略)然ればモミヂ葉ノ過ニシ君ガカタミトゾコシと讀べし。(中略)必黄の字の落たるなり。紅葉も盛なる時あるに過としもつづくるは紅葉散むとて色付又惜めとも脆く散物なれば、よそへ云なり」といへり。今皆これに從へるなり。この「葉」字の上に「黄」字ある本未だ一もみねど、契沖の説の如くなるべし。
○過去君之 舊本のよみ方は上にいへり。これは契沖が「スギニシキミガ」とよみたりしより諸家すべてこれに從へるなり。「スギニシ」とは「イノチスギニシ」の意なり。卷五の長歌「八八六」に「伊奴時母能《イヌジモノ》、道爾布斯弖夜《ミチニフシテヤ》、伊能知周疑南《イノチスギナム》」と見え、又觀心寺阿彌陀佛造像記に「命過《イノチスギニシ》」といふ文字見え、最勝王經長者子流水品にその出典あり。又正倉院聖語戒御物維摩詰經卷下の奧書に「于時|過往《スギニシ》亡者穗積朝臣老」ともみえたるにて「すぎにし」といふは死去せしといふ意なるをさとるべし。從來の諸家この意を明確にしたるを見ず。さて「すぎにし君」とは日並知皇子尊をさせること明かなり。
(216)○形見跡曾來師 舊訓は上よりの關係にて「カタミノアトヨリソコシ」とよみたれど、語をなさず。これも契沖の説によりて「カタミトゾコシ」とよむことに一定せり。「カタミ」は今もいふ語なるが、巻十六「三八〇九」の左注に「寵薄之還2賜寄物1【俗云可多美】と見え、遊仙窟には記念、信などの訓とせり。ここはかかる荒野なれど、君が御狩たたしし所なりと思へば、この野をば、君が形見のごとく思はるれば、しか思ひてぞきたりしとなり。巻九「一七九七」に「鹽氣立《シホケタツ》、荒磯丹者雖有《アリソニハアレド》、往水之《ユクミヅノ》、過去妹之《スギニシイモガ》、方見等曾來《カタミトゾコシ》、」とあるも同じ心なり。
○一首の意 ここは草茂く生ふる如き荒野にて尋常には到るべき地にはあらねど、われらが、親愛せし亡君の思出多き地なれば、その形見とてわざわざかかる僻地に來りしことよとなり。
 
48 東《ヒムガシノ》、野炎《ヌニカギロヒノ》、立所見而《タツミエテ》、反見爲者《カヘリミスレバ》、月西渡《ツキカタブキヌ》。
 
○ この上句は、舊本「アツマノノケフリノタテルトコロミテ」とよみたれど、意通ぜず。代匠記以下種々の按ありしかど心ゆかざりしが、考に「ヒムカシノ、ノニカキロヒノ、タツミエテ」とよみ出でたるによりてはじめて意通ずることとなれり。このよみ方は眞淵翁の卓見の一と稱しつべし。
○東 「ヒムガシノ」とよみて一句とす。卷二「一八四」に「東乃《ヒムガシノ》、多藝能御門爾《タギノミカドニ》」巻三「三一〇」に「東《ヒムガシノ》、市之植木乃《イチノウヱキノ》」巻十六「三八八六」に「東《ヒムガシノ》、中門由《ナカノミカドユ》」などによりてかくよむべき由あるを見るべし。東を「ひむがし」といふは古語にして和名抄官名に「東市司【比牟加之乃以知乃官】」又攝津郡名に「東生【比牟我志奈里】」とあり。「ひむ(217)か」(日向)より轉じて「ひむかし」となり、更に「ひがし」となれる語なり。
○野炎 「ヌニカギロヒノ」とよむ。「ニ」と「ノ」とは加へてよむなり。「カギロヒ」とはひろく光のさすさまにいふ語なるが、多くは日光にもあれ、火氣にもあれ、その氣の立つが大氣にうつりてゆらゆらとするさまに見ゆるをいへり。歌に「糸ゆう」又「遊ぶ糸」などいふは漢語の遊絲を譯せるなり。漢語には又野馬とも陽※[陷の旁+炎]ともいへり。「カギロヒ」と假名にて書けるは古事記履仲卷に「迦藝漏肥能《カギロヒノ》、毛由流伊幣牟良《モユルイヘムラ》」と見え、又卷二「二一〇」に「蜻火之《カギロヒノ》、燎流荒野爾《モユルアラヌニ》」と見ゆるが、卷六「一〇四七」に「炎乃《カギロヒノ》、春爾之成者《ハルニシナレバ》」とあるにて「炎」一字をもよみたるを見るべし。
○立所見而 「タツミエテ」とよむ。立つが見えての意なり。「所見」の二字を「ミユ」とよむことは上の「日本能不所見《ヤマトノミエヌ》」(四四)の條にいへり。
○反見爲者 「カヘリミスレバ」とよむ。東方に曙光を望みやがて西に顧みれば、なり。「カヘリミス」といふ語の例は卷二十「四三九八」に「等騰己保里《トドコホリ》、可弊里美之都郡《カヘリミシツツ》」などあり。
○月西渡 「ツキカタブキヌ」とよむ。「西渡」を「カタフキヌ」とよめるは、月の西の空に將に入らむとせるをいへるにて、所謂義訓なり。卷十七「三九五五」に「敷多我美夜麻爾《フタガミヤマニ》、月加多夫伎奴《ツキカタブキヌ》」とあり。卷十「二二九八」に「秋風吹而《アキカゼフキテ》、月斜焉《ツキカタブキヌ》」などもかくよむべき例なり。月は入り方に西の方に渡り低く見ゆるものなればなり。
○一首の意 安騎野に旅宿せし翌朝の光景にして、東の方を見れば、野のはて旭の曙光のみえ初めてさては夜はあけなむかとて顧みれば月は西山に近づき白けたるさまを見するなり。さ(218)てはいよ/\御狩のはじまらむ時とはなりぬといふ意をあらはし、やがて次の歌を導びけり。
 
49 日雙斯《ヒナミシノ》、皇子命乃《ミコノミコトノ》、馬副而《ウマナメテ》、御獵立師斯《ミカリタタシシ》、時者來向《トキハキムカフ》、
 
○日雙斯皇子命乃 舊訓「ヒナシミコノミコトノ」とよみ、古寫本にはなほ「ヒナラヘシ」等種々によみたれど、いづれも意通せず。契沖は「ヒナメシノミコノ」とよむべしといひたるがなほ足らずとして、僻案抄に「ヒナメシノミコノミコトノ」とよめり。それより後この訓に殆ど一定せるままなり。されど、古義には「ヒナメシ」といふ語當らずとして、「斯」を「能」の誤となし「ヒナミノミコノミコト」とよむべしといへり。抑もこの語の意は天つ日即ち天皇の並《ナミ》に天下知らす意にして、恐らくは今攝政といふ程の特別の意ある語とおもはれたり。されば「ヒナミ」といふべくして「ヒナメ」とはいふべきにあらず。されど、古義の如く「ヒナミノミコト」とよむことも如何なり。何となれば、古寫本其他一も誤なければ、其の説も信ずべからず。さてこの語はその意よりいへば、皇太子若くは攝政の別稱の如く思はるれど、草壁皇太子にのみ限られて用ゐられたればこの皇太子の特別の稱號にして、他の皇太子にはわたらぬことと思はる。續日本紀卷一に「天之眞宗豐祖父天皇(ハ)天渟津中原瀛眞人天皇(ノ)孫日並知皇子之第二子也」又同紀元明天皇紀にも「適2日並知皇子尊1生2天之眞宗豐祖父天皇尊1」と見え、粟原寺鑪盤銘に「日並御宇東宮」と見えたり。※[木+夜]齋が古京遺文に曰はく、「日並御宇當讀爲2比奈美志1續日本紀作2日並知1萬葉集作2日雙斯1皆可證、讀2御宇1爲v志者與3萬葉集八隅知訓爲2也須美志之1同、或讀爲2比奈免志1者非v是」と。「皇子尊」は皇太子の尊(219)稱なるべし。令集解に「東宮云謂2美子宮1」とあるに准じて知るべし。
○馬副而 「ウマナメテ」とよむ。この語は上「四」の「馬數而」におなじ。但副字をかけるは主なるものに副ひたる意をあらはしたるにて皇子を主とし、從者と馬を並べさせ賜ひといふ義をあらはせるなり。
○御獵立師斯 舊本「ミカリタチシシ」とよめるは誤にして契沖に從ひて「タタシシ」とよむべきなり。上にある歌の如く御獵にたたすといふべきを「ニ」を略せるなり。御獵に立たすは御獵をせらるるなり。この御猟は冬の鷹狩なるべし。
○時者來向 舊訓「トキハコムカフ」とよみたるは誤にしてこれも契沖に從ひて「キムカフ」とよむべきなり。然るに考には「キマケリ」とよめれど、さる語あるべくもなければ、契沖説をよしとす。日並知皇子尊のここに狩したまひし時と同じき趣の御狩の時のめぐり來れりとなり。卷十九「四一八〇」に「春過而《ハルスギテ》、夏來向者《ナツキムカヘバ》」とある例によりて「來向ふ」といふ語が、その時となれるをいふを知るべし。
○一首の意 さていよいよ御狩をすべき當日とはなりぬ。今われらがかく、狩に立つは、我等が親しみ敬ひ奉りし日雙斯皇子尊の從者を多く率ゐてこの野に御狩に立たししことの記念とてわざ/\來りしが、今やその記念の同じ時とはなりぬとなり。
○ 以上の四首順を逐ひて一の意を完成せり。そのさま恰も支那の律體の詩に似たり。故人那珂通高は之を絶句の起承轉結になぞらへて説けり。まことにいはれたる説なりとす。即(220)ち第一首は起句に當り、阿紀の野に旅宿する由をうたひて、先づその古を偲ぶ爲なるを提唱す。第二首は承句に當り、この野に來れる所以を明かにし、第三首は一轉して、その翌日の曙のさまを叙し、第四首に至りて、はじめてこの行の目的が狩にあり、その狩と、懷舊の情をはらさむが爲に行はるる由をいひて本旨を明にす。この故に四首相聯關照應して一篇の詠をなす。所謂連作の模楷實にこゝに存す。かくて又長歌の本旨もこの第四首に至りてはじめて明にせられたり。これは人麿の歌にても傑作と評すべきものなるべし。
 
藤原宮之役民作歌
 
○藤原宮 持統天皇の皇居にしてその造營ありしことは上にいへり。なほ下の歌にていふことあるべきが、この宮のさまのより/\史に見ゆるものは南門、海犬養門、大殿垣、大極殿(大安殿)東樓、西樓(西閣、西高殿)などあり。又京中に林坊などの町名もありしさまなり。
○役民作歌 この役民を古來「エタスタミ」とよめれど、語をなさず。考には「藤原宮」の上に「造」字あるべきものとして「フヂハラノ大ミヤツクリニタテルタミ」とよませたり。拾穗抄には又「營」字を脱せりとせり。されど、古寫本には一も「造」又は「營」を加へたるものなし。されば文字のままにしてよむべきが、「役民」を何によむべきか。これを「タテルタミ」とよまむには上に「オホミヤツクリニ」といへる如き語ある場合の外は語をなさず。「役」は令義解に「役者使也、歳役雜徭等爲v役也」といひ、集解に「役v身曰v役也」とあり。當時の制、國民は租調の外、歳に十日の勞力を献ずべき制(221)にしてこれを役といひたるなり。役として出づるを役に立つといふ。今俗語に「役《ヤク》に立つ」といへるはその名殘なり。古語これを「エニタツ」といへり。「役」を「エ」とよむは字音なるべしといふ説もあれど、恐らくは古言なるべし。かくて「役民」を「エニタテルタミ」とよむをよしとす。さてここに役民の作れる歌とあれば、これは大宮造營中の歌とすべし。この歌詞書のままにてはその役に立てる民のうちの或人がよめる歌なるなり。或は實際の役民がよめるにあらで役民の心になりて當時の歌人のよめるにてもあるべし。實際につきて見るに、この歌甚だ巧みにして尋常人の口つきにあらず。されど、その作者の誰なるかは素より今に於いて知るべからず。然るを本居宣長は人麿の作なるべしといひ、橘守部は標題にさへ人麿の名を掲げたり。武斷甚しといふべく、かくの如きは古典を論ずるものの最も戒慎すべきことにして毫も隨ふべきものにあらず。
 
50 八隅知之《ヤスミシシ》、吾大王《ワガオホキミ》、高照《タカテラス》、日之皇子《ヒノミコ》、荒妙乃《アラタヘノ》、藤原我宇倍爾《フヂハラガウヘニ》、食國乎《ヲスクニヲ》、賣之賜牟登《メシタマハムト》、都営者《ミアラカハ》、高所知武等《タカシラサムト》、神長柄《カムナガラ》、所念奈戸二《オモホスナヘニ》、天地毛《アメツチモ》、縁而有許曾《ヨリテアレコソ》、磐走《イハハシル》、淡海乃國之《アフミノクニノ》、衣手能《コロモデノ》、田上山之《タナカミヤマノ》、眞木佐苦《マキサク》、檜乃嬬手乎《ヒノツマデヲ》、物乃布能《モノノフノ》、八十氏河爾《ヤソウヂカハニ》、玉藻成《タマモナス》、浮流禮《ウカベナガセレ》。其乎取登《ソヲトルト》、散和久御民毛《サワグミタミモ》、家忘《イヘワスレ》、身毛多奈不知《ミモタナシラズ》、鴨自物《カモジモノ》、水爾浮居而《ミヅニウキヰテ》、吾作《ワガツクル》、日之御門爾《ヒノミカドニ》、不知國《シラヌクニ》、依巨勢道從《ヨリコセヂヨリ》、我國者《ワガクニハ》、常世爾成牟《トコヨニナラム》、圖負留《フミオヘル》、神龜毛《アヤシキカメモ》、新代登《アラタヨト》、(222)泉乃河爾《イヅミノカハニ》、持越流《モチコセル》、眞木乃都麻手乎《マキノツマデヲ》、百不足《モモタラズ》、五十日太爾作《イカダニツクリ》、泝須良武《ノボスラム》、伊蘇波久見者《イソハクミレバ》、神隨爾有之《カムナガラナラシ》。
 
○八隅知之 上にいへり。
○吾大王 上にいへるが、ここは天皇をさし奉れり。
○高照 上にいへり。
○日之皇子 上にいへるが、ここは天皇をさし奉れり。
○荒妙乃 「アラタヘノ」とよむ。延喜式踐祚大嘗祭式に「麁妙服【神語所謂阿良多倍是也】」と見え、古語拾遺に織布に注して、「古語阿良多倍」といへり。「あらたへ」は「にぎたへ」に對する名目にして麁き布の總名なり。藤葛の繊維にて織れる布即ち荒妙なれば「ふぢ」にかけて枕詞とせり。
○藤原我宇倍爾 「フヂハラガウヘニ」とよむ。藤原はこの宮のある土地の名なるが下の歌(五二)によりて藤井が原といふがもとの名なりし趣なるを知るべし。この地は既にいひたる如く、藤原鎌足の舊地なる藤原とは別なり。この宮經營のはじめは日本紀持統天皇卷「四年十二月癸卯朔辛酉天皇幸2藤原1觀2宮地1」とある頃よりなりとす。「我」は「が」の假名に用ゐたるものなるがこれは「の」に似たる助詞なれど、上なる語を主とする點を異なりとす。「宇倍」は上の假名なり。これをその地の高臺なるが故に、いひたるなりといふ説あれど、然らず。この宮址その附近と地盤略同じくして特に高臺と認むべき地にあらず。この「うへ」といふ語はある地域に存する(223)ものにつきてその地域をさす語にしてかかる場合には邊といふに似たり。古事記上に「傍之井(ノ)上《ウヘニ》有2湯津香木《ユツカツラ》1」と見え、本集卷二「二二一」に「野上乃字波疑《ヌノヘノウハギ》」卷二十「四三一九」に「多可麻刀能《タカマトノ》、秋野宇倍能《アキヌノウヘノ》と見えたるなどみなその地の上に存するをさせるなり。
○食國乎 古來「ヲシクニヲ」とよみ來れるを、考に「ヲスクニヲ」と改めよめるより諸家之に從へり。靈異記上の訓釋に「食國 久爾乎師ス」と見え、本集卷十七「四〇〇六」に「須賣呂伎能《スメロギノ》、乎須久爾奈禮婆《ヲスクニナレバ》」とあり。ここの「をす」は動詞として、はたらきてあるなれば、「をすくに」とよむべし。「をす」は食すといふを原義とし、轉じて、すべて身外の物を身に受け入るることをいふに用ゐる。ここは國を治めもちたまふ意なり。かくて「をすくに」は天皇のきこしをす國の義にして天下といふに意異ならず。
○賣之賜牟登 「メシタマハムト」とよむ。「メシ」は「見」を佐行四段活用に轉じて敬語とせるものにして「キク」を「キコス」「テル」を「テラス」「シル」を「シラス」といふに同じ格なり。本集卷十八「四〇九九」に「余思努乃美夜乎《ヨシヌノミヤヲ》、安里我欲比賣須《アリガヨヒメス》」卷二十「四三六〇」に「賣之多麻比《メシタマヒ》、安伎良米多麻比《アキラメタマヒ》」同卷「四五四九」に「於保吉美能《オホキミノ》、賣之思野邊爾波《メシシヌベニハ》」などみなこの「見る」の敬語の格なり。以上二句は次の二句と相對して四句二對の對句をなせり。
○都宮者 舊訓「ミヤコヲハ」又は「ミヤコニハ」とよめるを僻案抄に「オホミヤハ」とよみ、考に「ミアラカハ」とよめり。これは宮を主とする語なれば、「ミヤコ」とよむはあたらざるのみならず、下の「高知らさむと」の高は宮殿の屋の高きをいへるなれば宮殿につきてよむべきなり。さてその宮(224)殿をば古言に「ミアラカ」とよめり。古語拾遺に「瑞殿」の字に注して「古語|美豆能美阿良可《ミヅノミアラカ》」といひ、又「麁香」に注して「古語正殿謂2之|麁香《アラカ》1」と記せり。本集卷二「一六七」に「御在香乎《ミアラカヲ》、高知座而《タカシリマシテ》」とあり。又大殿祭祝詞に「御殿古語云2阿良可《アラカ》1」ともあり。されば、これは、考の説によるべし。「ミ」は尊稱、「アラカ」は「在處」の義なりといふ説あれど、「在處」ならば、「アリカ」といふべし。恐らくは「アラ」は「あらは」の「あら」にして神とます天皇の現れます處の義なるべし。古來これを皇居にのみいひ來れるもこの故ならむ。下の「ハ」助詞は「ヲバ」の意なり。
○高所知武等 舊訓「タカシルラム」とよみたり。されど、これは敬語にすべき所なれば、考の説に從ひて「タカシラサムト」とよむべし。「高知る」は上にいへり。
○神長柄 上にいへり。
○所念奈戸二 「オモホスナベニ」とよむ。所念の二字「オモハル」の義なるものなれど、ここは敬語に用ゐたるなれば、「オモホス」とよめるなり。「戸」は「イヘ」の義よりとりて「ヘ」の假名に用ゐたり。「ナヘニ」は「並《ナメ》ニ」にして事の同時に行はるるを示す語なれば、「と共に」「と同時に」「につれて」などと譯するをよしとす。卷二「二〇九」に「黄葉之落去奈倍爾《モミヂバノチリヌルナベニ》」卷五「八四一」に「于遇比須能《ウグヒスノ》、於登企久奈倍爾《オトキクナベニ》」卷七「一〇八八」に「山河之瀬之《ヤマカハノセノ》、響苗爾《ナルナベニ》」など其の例なり。天皇の御念しますと同時に直ちにその事の實現せらるといふ意にして、これより、天地の神のわざ、國民のわざを導き出せるなり。
○天地毛 「アメツチモ」とよむ。天は天(ツ)神、地は地祇にして「毛」は下に國民の子の如くにして來るをいへるに對していへるなり。天地といひて天神地祇をさせるは卷十三「三二四一」に「天地乎《アメツチヲ》、(225)歎乞祷《ナゲキコヒノミ》」又卷二十「四四八七」に「天地能《アメツチノ》、加多米之久爾叙《カタメシクニゾ》」などあるを例とす。
○縁而有許曾 「ヨリテアレコソ」とよむ。「ヨリテ」は上の「山川モ依テ奉ル」といへると同じく、一つになり寄り合ふをいへり。「アレコソ」は後世ならば「アレバ〔右○〕コソ」といふべき所なるを「ば」なく、已然形のままにて句を接續する古文の一格にして、上の三山の歌の「古昔母然爾有許曾」といへると同じさまなり。かくてこの「コソ」よりして下の「浮倍流禮」までにかかりて一文をなせるなり。
○磐走 古來「イハバシル」とよみ來れるを考に「イハバシノ」とよむべしとせり。その可否未だ決すべからぬこと上「二九」の「石走」の條にいへり。
○淡海乃國之 「アフミノクニ」も上「二九」にいへり。
○衣手能 「コロモデノ」とよむ。衣手は袖なること上「五」にいへり。田上山の枕詞としたるは衣手の「手《タ》」と重ねたるなるべく、深き意あるまじ。
○田上山 「タナカミヤマ」は近江國栗太郡にあり。日本地誌堤要に「太神《タナガミ》山【栗太郡田上山ニ作ル山麓ヨリ壹里八町餘】」とあり。太戸川下流の南岸にあり。卷十五【二十五丁】に「木綿疊田上山之」などもあり。さてここに田上山をいへるは當時この所に今いふ製材所ありしが故ならむ。その事はなほ下にいふべし。
○眞木佐苦 「マキサク」とよむ。「マキ」は既にいへるが如く、檜に限らず、實用上完全なる木材をいへるなり。この語を「ヒ」の枕詞とすることは日本紀繼體卷に「莽紀佐倶《マキサク》、避能伊陀圖塢《ヒノイダドヲ》」又古事記雄略卷に「麻紀佐久《マキサク》、比能美加度《ヒノミカド》」ともあり。この語は眞木を拆くなることは著しきが、何の故に「ヒ」の枕詞となせるかといふ説明に到りては舊來の諸説いづれもよく解せりとは見えず。こ(226)れにつきては契沖以下多くの學者「サク」を拆き割るの意とせるが、「眞木」を「檜」としこれを更に下なる「檜」の枕詞とせば、殆ど義をなさぬによりて冠辭考には用を冠辭として體にかけたるなりといひてこれを説明せむと企てたり。されどかく、枕詞中に、下なる實語を含める例はなきを以てこの説は不當なりとす。この故に鹿持雅澄は、この「サク」は拆き割るにあらずして「幸」の意なりとせり。然るに、これも亦不通なり。何となれば、「幸」といふ漢字に相當する語は體言にては「サキ」又は「サチ」といひ、用言にては「サキク」又は「サキハフ」といふのみにして「サク」といふ用言は未だ曾てなき所なればなり。この故にこの「サク」はなほ古來の説の如く「拆ク」なること疑ふべからず。かくしてその上の「眞木」は檜又は樟かいづれにても通ぜぬにはあらねど、古より檜物細工に用ゐるは檜材にしてこれはよく割きうるものなれば、なほこれを檜とすべきなり。ここに於いて「眞木サク」は明らかに檜を拆くことにて動かすべからぬに至れり。然らば、下の檜の枕詞となる所以如何。これは契沖説の如くにては既に古義に於いて「斧とか何ぞその眞木を割り拆く器へ云ひかくべき語例にこそあれ」と難じたる如く、不理なれば、別の見解を要するなり。この故に僻案抄にはこの「ヒ」を刃の意とせり。この説は今刀の身といふ語は古「ヒ」なりしなりといふ。されど、吾人は未だこれを以て首肯すべき説とするに足る證を見ず。按ずるに「比」といふ語は、かの古事記上卷に八十神が、大穴牟遲神を虐げたる事を叙せる條に大木の割れ目に矢といふものを茹《ハ》めたるを氷目矢ともかけり。この「氷目」は即ち「われ目」なれば「ヒ」とは古語間の拆けて二つに倒れたる部分をいふ語と見えたり。今の「ヒビ」といふ語もこの「ヒ」を重(227)ねいへるものなるべし。然る時は「眞木さく」は檜木を割くには、先「ヒ」即ち割れ目をつくるによりて、これを同音よりして「ヒ」の枕詞とせるまでにして「檜」といふ材木の實義にとりて枕詞とせるにはあらざるべし。
○檜乃嬬手乎 「ヒノツマテヲ」とよむ。古寫本に「嬬手」の二字を「タヲヤメカテ」又は「ワキモコカテ」などよみたるあれど從ふべからず。下に「都麻手」とかけるをみれば「ツマデ」とよむべきは疑なかるべし。「ツマデ」とは何かといふに、契沖は「細やかにうるはしき小材木を女の手に喩へたる名なるべし。」といひたれど、心ゆかず。僻案抄には「檜木を稱美していふ古語也」といひたれど、これは要領を得ぬ解釋といふべし。冠辭考には
 まづ麁《アラ》木造りしたる材は角※[木+爪]のあればいふ也。神代紀に木(ノ)國に齋へる三(ノ)神の中に五十猛神は木種《キダネ》を蒔生し、大屋津姫は家造る幸をなし、※[木+爪]津《ツマツ》姫はその材を守給ふなるべし。されば是に※[木+爪]の字を用ゐたるはかのあら木造りし稜※[木+爪]《カドツマ》ある材の意なり。故に都万と訓《ヨミ》來れるを思へ。手は物に添いふ辭のみ。
といへり。「抓津姫」を「ツマツヒメ」とよむ由はこの神の社を延喜式神名帳には「郁麻郁比賣神社」とかけるにてしるし。※[木+爪]の字は古今韻會に引ける通俗文に「木四方爲v※[木+稜の旁]八※[木+稜の旁]爲v※[木+瓜]」とある※[木+瓜]字の別體にして削りたる材をいふなる「ツマ」といふ語にあてたること著し。「手」は考にただ添ふる辭なりといへれどさにはあらずして「料」といふ字に相當する語なりとす。
○物乃布能 「モノノフノ」とよむ。八十氏河の枕詞とせり。卷三「二六四」に「物乃部能《モノノフノ》、八十氏河乃《ヤソウヂガハノ》、(228)阿白木爾《アシロギニ》」卷十一「二七一四」に「物部乃《モノノフノ》、八十氏川之《ヤソウヂカハノ》、急瀬《ハヤキセニ》」などその例なり。「モノノフ」とは物部ともいひて後世武士といふに當る。されど、その語源を考ふるに「物ノフ」といひて武職の意をあらはすといふことは直ちに首肯すべからず。そのはじめを考ふるに、これは朝廷に仕へ奉る人等すべてを物の部といへるなるべし。さてその「物」とは荒木田久老がいへる如く彼《アノ》物|此《コノ》物などいふ「もの」にて數々のつかさどる所ある者をいへるなるべし。されば「物のふ」とははじめは後世の百官といへる如く文武すべての臣僚をいへるものなるべきが、上代は文武の區別も定められず、百官臣僚すべて武事をかねて仕へ奉りしこと徳川幕府時代の武士の如くにてもありしならむ。されば、日本紀天武天皇十三年閏四月の詔にも「凡欧要者軍事也、是以文武官諸人務(テ)習2用v兵及乘1v馬云々」とあるにても知るべし。支那の制に傚ひて文武官の區別を立てられし後にてもかくの如し。そのかみの百僚武事をつとめしことを知るべし。かくの如くなれば、物部といふはもと百官みな武勇を主とせしによりて後世武勇を專らとするものにこの物部の名をとどめしものとすべし。されば、ここに八十氏河といふ語の枕詞とせるもその武職といふ方よりの關係にあらずして、八十件緒といふ如く、百官の氏々の數多きよりいへるものなるべく、それも八十の下の氏といふにまでかかるにあらずして主として八十にかかれるものなることは、卷十三「三二七六」に「物部乃《モノノフノ》、八十乃心呼《ヤソノココロヲ》」卷十九「四一四三」に「物部能《モノノフノ》、八十乃※[女+感]嬬等之《ヤソノヲトメラガ》」などの例いづれも「八十」の枕詞といふべし。「八十氏」といふも「川」にのみいふにあらで、卷三「四七八」に「物乃、八十伴男乎《ヤソトモノヲヲ》」卷六「一〇四七」に「物負之八十件緒乃《モノノフノヤソトモノヲノ》」卷十七「三九九一」に「物能乃敷能《モノノフノ》、夜蘇(229)等母乃乎能《ヤソトモノヲノ》」卷十八「四〇九四」に「毛能乃布能《モノノフノ》、八十件雄乎《ヤソトモノヲヲ》」又卷十八「四一〇〇」に「物能乃布能《モノノフノ》、夜蘇氏人毛《ヤソウチビトモ》」などあり。八十氏河にかぎらぬことを知るべし。
○八十氏河爾 「ヤソウヂカハニ」とよむ。八十は八十氏といひて枕詞を導くたよりに加へたるまでにして深き意なし。「氏河」は山城の宇治河をいふ。この河は琵琶湖より流れ出づる勢田河の下流にして淀川に入るまでの間の流れの名にして宇治郡を流るるによりて名づけられたるなり。田上山の木材をば田上川よりやがて瀬田川に流し(下流は宇治河)入るるをいへるなり。
○玉藻成 「タマモナス」とよむ。玉藻も「なす」も上にいへり。玉藻の如くにの意にして材木の川に流るるさまを藻の水になびけるさまにたとへいへるなり。
○浮流禮 「ウカベナガセレ」とよむ、古寫本に「ウカベナガルレ」とよめるもあれど、これは天地の神のわざとしていへるなれば、「ナガセレ」とよめるをよしとす。さて「流せれ」は「流せり」の已然形にして上の「ヨリテアレコソ」に對する結なり。即ち田上山にてつくりし木材をば田上川より宇治川に流し今の八幡の邊の木津河との川合まで自然力のままに流したりしをば、神の力と見立てたるなり。今も自然のままに山より材木をながす方法用ゐらる。これ最も費用のかからぬ自然的の方法とせらる。この「ながせれ」をば、「ながせれば、」の意とせる説はうけられず。
 何となれば上に「あれこそ」とありてここをもまた「ながせれば、」の意とせば文の勢の至り止まる所なきに至ればなり。以上を第一段落とす。
(230)○其乎取登 「ソヲトルト」とよむ。古寫本中には「ソレヲトラム」又は「ソレヲトルト」とよめるもあれど、從ふからず。「ソヲ」は「それを」の義たるがかくいへる例は卷十四「三四七二」に「比登豆麻等《ヒトヅマト》、安是可曾乎伊波牟《アゼカソヲイハム》」卷十八「四一二二」に「之保美可禮由久《シボミカレユク》、曾乎美禮婆《ソヲミレバ》」などあり。「そ」とは宇治川の川尻まで流れ來れる木材をさすなり。「とる」はその木材をば今いふ木場に止めむ爲にとりつむなり。「と」は「として」又は「とて」の意なり。
○散和久御民毛 「サワグミタミモ」とよむ。卷五「八九七」に「佐和久兒等遠《サワグコドモヲ》」といふもあり。「サワグ」は騷ぐにて「ザワザワ」と立ち働くをいへるなり。「御民」といふは民は至尊の大御寶なる故にいふなり。卷六「九九六」に「御民吾《ミタミワレ》、生有驗有《イケルシルシアリ》」といへり。それは自ら稱へたるものなるが、ここのは役民を第三者としていへるなり。さてここの「も」は、上の「天地も」の「も」に對應せるなり。
○家忘 「イヘワスレ」とよむ。わが家の事を忘れて公事につとむるをいへるなり。
○身毛多奈不知 「ミモタナシラズ」とよむ。「タナシラズ」といふ語の意は詳ならず。この「タ」といふ語は卷九「一七三九」に「身者田菜不知《ミハタナシラズ》」又「一八〇七」に「身乎田名知而《ミヲタナシリテ》」卷十三「三二七九」に「事者棚知《コトハタナシレ》」卷十七「三九七三」に「許等波多奈由比《コトハタナユヒ》」などある「タナ」に同じ語なりと思はるれど、意明確に知られず。或は「タダ」の意なりといひ、(僻案抄)「たねらひ」の意なりといふ(萬葉考)如く諸説あれど、いづれも首肯しがたし。後賢の考をまつものなり。
○鴨自物 「カモジモノ」とよむ。「カモジ」と「モノ」との合成語にして鴨の如きさましたるものといふ意なり。「ウジモノ」「シシジモノ」などいふと同じ構造の語なり。その「カモジ」「ウジ」「シシジ」とい(231)ふは「鴨「鵜」「鹿」などに接尾辭「じ」を添へて形容詞とする古語の一格にして「男じもの」「われじく」「家じく」「時じく」などみなおなじ構造によれるものなり。かくしてその「かもじ」「うじ」「ししじ」「をのこじ」などいふ語幹より「物」といふ名詞につづけて熟語をなせるものなり。この外「鳥ジモノ」「馬ジモノ」「鹿兒ジモノ」「狗ジモノ」「雪ジモノ」など皆この格なり。こは古來難解の語とせられ「じもの」は「ざまの」なりといふ説あり(本居説)又ただ「の」といふにおなじといふ説あり。(古義)いづれも通じかねる説なりき。往年余之が研究を國學院雜誌にて發表したるが、なほその大要は日本文法論、奈良朝文法史にも説けり。さて「かもじもの」は鴨のさましたる物の意にて水に浮きゐての形容をあらはしたるなり。從來これを枕詞といへれど枕詞にあらで、鴨といふものの如くの意にて實際の形容に用ゐたるなり。卷十五「三六四九」に「可母自毛能宇伎禰乎須禮婆《カモジモノウキネヲスレバ》」とあるは枕詞といふを得べけれどここのは譬喩といふべくして枕詞にはあらず。
○水爾浮居而 「ミヅニウキヰテ」とよむ。これ宇治川を流れ來る木材を役民が河中に下り立ちてとりとむるさまを説けるなり。さて文章の勢はこれより直ちに「泉乃河爾持越流」につづくなり。從來の諸家の解釋これより下不可解の點少からず。後に一括して批評すべし。
○吾作 「ワガツクル」とよむ。「わが」は役民自らをさす。役民ともが、工事に從ふによりてかくはいへるなり。これより以下「新代登」までは泉乃河の序たるなり。
○日之御門爾 「ヒノミカドニ」とよむ。卷五「八九四」に「高光《タカヒカル》、日御朝庭《ヒノミカドニハ》」とあり。古事記雄略卷に「麻紀佐久《マキサク》、比能美加度《ヒノミカト》」とあるも同じ。「日」は日の神の意なり。「御門」は宮殿の御門なるを、一部を以(232)て全體の代表とせるなり。日の御門とは日神の御子なる天皇の御座す宮殿の御門の意にて皇居をいふ。後世ただ「みかど」といふ語も畢竟日の御門の略稱にして宮城をさし、やがて天皇の敬語の意に轉用せられたるなるべし。
○不知國 古寫本に「シラヌクニ」とあり。仙覺はこれを「イソノクニ」とよみたれど、義をなさず。契沖が古にかへして「しらぬくに」とよむべしといへるより諸家之に從へり。契沖曰はく、
  大唐三韓の外名もしらぬ國々まで徳化をしたひてたよりくるといふ事を葛上郡のこせといふ所の名にいひつつけたり。
といへり。この語は下に「我國者」とよめるに對照する語にはあれど、語のつづきはただ下に「こせぢ」といへるにつづくまでの序詞にすぎずして、「しらぬ國」の「よりこす」と語のつづきに加へたるに過ぎざるものなるべし。しかもこの「しらぬ國」といへるにもおのづから意ありて契沖のいへる如く、未だ知らぬ國の義にもあるべけれど、又言語の通ぜぬをも言へることもありと見ゆ。宇津保物語俊陰卷に「あたの風おほいなる浪にただよはされて、しらぬ國に打ちよせらる」とあり。外國の義なるを見るべし。さて舊來の諸説多くは「シラヌクニヨリ」と七言によみ、下を「コセヂヨリ」と五言によみたれど、それは歌の調にあはず、攷證にいへる如く、「シラヌクニ」「ヨリコセヂヨリ」とよむべきなり。かくてこの「シラヌクニ」は下の「ヨリコス」といふ語に對しての主格たるなり。
○依巨勢道從 「ヨリコセヂヨリ」とよむ。「ヨリコセヂ」は八十氏河といへる如く「コセヂ」といふ語(233)を導く爲に「ヨリコス」といふ語をつづきにとれるなり。若しこれを「ヨリコス」といふ語にあらずとせば、上の「日の御門〔右○〕に」といへる「に」助詞に對する語全くなきに至るべし。學者この點を熟思せよ。「ヨリコス」といふ語は漢文に「八戎來服」などいふ來服の意なり。「こせぢ」といふ語にかくの如きいひかけざまをなせる例は卷三「三一四」に「小浪磯越道有《ササレナミイソコセヂナル》」といひ、卷十「三二五七」に「直不來《タダニコズ》、自此巨勢道柄《コユコセヂカラ》」といひたるなどあり。又卷七「一〇九七」に「吾勢子乎《ワガセコヲ》、乞許世山登《コチコセヤマト》」とあるも趣は同じ。さてかく「こせぢ」の序に用ゐたれど、本意は「しらぬ國の歸服す」といひて祝意をあらはさむとしてかくはつづけたるなり。「コセ」は和名鈔には高市郡とし、延喜式神名帳には巨勢山口神社を葛上郡に載せ、藻鹽草には「こせ」を葛上郡とせり。今の南葛城郡にある古瀬村の地これなり。和名鈔と其の他と異なるは蓋し郡の地域の變遷ありしならむ。この地今の高市郡に隣接すればなり。さてこの地は巨勢山の東にありて、國中特に高市郡地方より宇智郡を經て紀伊に至る要路にあたる。されば「こせぢより」といへば、即ち紀路の延長と見らるるなり。從來の説はこの句によりて田上山の材を巨勢道よりも運ぶとせり。これは地理をも考へず、常識をも離れたる説明にして如何に古代なりとて行はるべき理なきことなり。若しそれらの説の如しとせば、一旦木津川までのぼせて次に再び淀川を下して難波の海より紀伊國に持ちこし、紀川をのぼせて大和國宇智郡邊より陸にあげて陸路藤原宮に運ぶなり。その宇智郡より藤原までの距離は木津より藤原までの距離に比すれば、稍近しといへども、道の險しきはまされり。然らば、この木津より紀川に廻すだけ、わざとむだの手數をかくることとなるなり。(234)されば、これは木材を巨勢道より運ぶにあらぬは明かなり。新考には巨勢道より持統天皇の御世に神龜の出でたる由に説けり。この説諸説のうちにて最もすぐれてあれど、下の神龜も眞に出でたりといふ證なきものにしてただ祝言としていひたるなれば、この説もなほ如何なり。ただ外國の歸服すといふ縁によりて巨勢道より神龜出づと祝言をいひたりと見れば足るべし。文脈はこれより神龜出づといひて下の「泉河」の序となるなり。
○常世爾成牟 「トコヨニナラム」とよむ。常世は古事記雄略卷の歌に「麻比須流袁美那《マヒスルヲミナ》、登許余爾母加母《トコヨニモガモ》とあるに同じく常住不變の國の義にして即ち不老不死の仙境をいふ。卷四「六五〇」に「吾妹兒者《ワギモコハ》、常世國爾《トコヨノクニニ》、住家良志《スミケラシ》、昔見從《ムカシミシヨリ》、變若益爾家利《ワカエマシニケリ》」とある。その證なり。わが國は不老不死の仙境とならむと祝したるなり。
○圖負留神龜毛 「フミオヘルアヤシキカメモ」とよむ。「神龜」を「カミナルカメ」とよめる古寫本もあれど「あやしき」とよむをよしとす。これは支那の洛書の故事をいへるなり。尚書の洪範九疇の孔安國の注に「洛書者禹治v水時神龜負v文而出列2於背1有v數至v九禹遂因而第v之以成2九類1」とあり。神龜は史記に「神龜者天下之寶也」と見え、延喜式の祥瑞のうちに神龜を大瑞とし、それに注して「黒神之精也、五色鮮明知2存亡1明2吉凶1也」とあり。これ唐の制を踏襲せるものなり。神龜を「アヤシキカメ」とよむは和玉篇に「神」を「アヤシ」とよめるなどその證なるが、易繋辭上傳の注に「神也者變化之極」ともいひ、管子内業篇の注に「神不測者也」ともあれば「あやしき」といふに由あり。「圖負へる」とは龜の甲に吉凶の圖のあらはれたる由なり。この圖は所謂河圖の類にして、圖讖(235)なり。後漢書光武紀に「宛人李通等以2圖讖1説2光武1云、劉氏復起李氏爲v輔」とある注に「圖河圖也、讖者符命之書讖驗出、言爲2王者受命之徴驗1也」とあり。日本紀を按ずるに、天智天皇の九年六月に「邑中獲v龜、背書2申字1上黄下玄長六寸許」とあり。所謂圖負へる龜とはかくの如きものをさせるなり。續紀を見れば靈龜神龜の年號もかかる龜の祥瑞によれるものにして、天平の改元も「天王貴平如百年」といふ背文ある龜の出でたるによれるなり。その改元の時の宣命に「負圖龜一頭献 止 奏賜 不爾」とあり。これを以てこの頃の思想に眞にかくの如き神龜の圖讖を爲すものありと信じたるを見るべし。今ここのは我が國は常世とならむと思はれて、吉祥の文字又は圖を背甲にあらはせる神龜のいでむと祝するなり。必しも實際に出でたりといふにあらざるなり。
○新代登 「アラタヨト」とよむ。舊訓「アタラヨ」とよみたれど、荒木田久老のかく改めしに從ふべし。今記紀及本集中にて假名書にせるを檢するに、「あたらし」とあるは古事記上卷に「又離2田之阿1埋v溝者|地矣阿多良斯登許曾我那勢之命爲v如v此登《トコロヲアタラシトコソワガナセノミコトカクシツラメト》」日本紀雄略卷に「婀※[手偏+施の旁]羅斯枳《アタラシキ》、偉儺謎能陀倶彌《ヰナベノタクミ》」本集卷十「二一二〇」に「思惠也安多良思《シヱヤアタラシ」卷十三「三二四七」に「安多良思吉君之《アタラシキキミガ》、老落惜毛《オユラクヲシモ》」卷二十「四四六五」に「安多良之伎《アタラシキ》、吉用伎曾乃名曾《キヨキソノナゾ》」などあり。これは惜むべき由をいへるものなるが、その語幹となれる「あたら」といふ語はもと獨立して副詞として用ゐられたるものなり。その例古事記仁徳卷歌に「阿多良須賀波良《アタラスカハラ》」「阿多須賀志賣《アタスカシメ》」日本紀雄略卷歌に「婀※[手偏+施の旁]羅陀倶瀰※[白+番]夜《アタラタクミハヤ》」又「婀※[手偏+施の旁]羅須彌儺※[白+番]《アタラスミナハ》」本集卷三「三九一」に「安多良船材乎《アタラフナキヲ》」卷二十「四三一八」に「安多良佐可里乎《アタラサカリヲ》、須具之弖牟登香《スグシテムトカ》」(236)なり。これら「あたら」といふ語は今もいふに意異ならず。又卷二十「四二九九」に「年月波《トシツキハ》、安多良安多良爾《アタラアタラニ》、安比美禮騰《アヒミレド》、安我毛布伎美波《アガモフキミハ》、安伎太良奴可母《アキタラヌカモ》」といふもののみは上の語例と異にして「あたら」に新又は改の義ある如くに見ゆれど、古寫本多くは「安良多々々々」につくれば、今本は誤なること著し。されば、古へ、「あたら」「あたらし」といひしは惜む意のみなりきといふべし。次に「あらた」と書ける例を見るに、卷十八「四一〇六」に「春花能《ハルバナノ》、佐可里裳安良多之家牟《サカリモアラタシケム》、等吉能沙加利曾《トキノサカリゾ》」とあり。これを意通せずとして、代匠記はじめ古義までいづれも誤ありとし、「安良牟等末多之家牟《アラムトマタシケム》」など改めたれど、かくかきし本一本もなし。古義に官本或校本にありといへるは信じ難し。かくしてこれは「新《アラタ》しからむ」にて意明かに通ずるものなるをや。さればこれが形容詞として用ゐられたろ場合には古は「あらたし」といひたるものにして今の如く「あたらし」といひたるものにあらじ。天元書寫の琴歌譜に、「阿良多之支《アラタシキ》、止之乃波之女爾《トシノハジメニ》、可久之己曾《カクシコソ》、知止世乎《チトセヲ》、可禰弖《カネテ》、多乃之支乎倍女《タノシキヲヘメ》」又鍋嶋侯爵家藏の古寫本催馬樂にも新年の歌の詞に「安良多之支止之乃波之女爾《アラタシキトシノハジメニ》」とあり。これは平安朝時代のものなれど古くよりかくいひしを傳へしものなるべし。これらは明かに「あらたし」といふ形容詞あるを證せり。さてその「あらたし」が「あたらし」となるに至りしは平安朝の時代よりなりと見えたり。かくてその「あたらし」の語幹は「あらた」なるが、それが獨立しては副詞として用ゐられしことなるべきが、今も「あらたに」といふ語の盛んに用ゐらるるはこの時の形をうけつげることは明かなり。この語はその「あらた」より直ちに「よ」につづけて熟語をなせりと見るべきが、その「あらたよ」とは新しき御代といふことにして、舊弊を(237)革めて面目を一新せる治世の義なり。明治維新の如きも亦「アラタヨ」にして時世の一新せるをいへるなるが、ここは上の神龜などに聯關して考ふれば恐らくは支那の「天(ノ)命維(レ)新(ナリ)」などいふ思想によれるならむか。
○ 以上「不知國」以下ここまで「天命維新の御代として我國は常世にならむとてか外國の歸服すといふ巨勢道よりさる圖讖を負へる神龜も出でむ」とて實際神龜の出でしか否かは今より明かならねど、一は「いづみの河」の序とし、かねては外國の歸服とわが國は常世にならむといふ圖讖ありて天命維新なるべしと御代を祝へる意をあらはせるなり。
○泉乃河爾 「イヅミノカハニ」とよむ。この河は日本紀崇神卷に「更避2那羅山1而進到2輪韓河1埴安彦挾v河屯之、各相挑焉故時人改號2其河挑河1今謂2泉河1訛也」と見ゆる河にして今木津川といふ。これ山城國相樂郡にある河にして伊賀の方より來り、笠置山の麓を流れ、末は男山の麓にて淀河と落合ふ大河なり。今木津川といふ名は、この川はじめは西流し、木津に至りて北流するものなれば木津の地名をとりて名づけたるものなるが、その木津といふ名も、古材木をここに陸揚せし地點よりの名と見えたり。これよりは後の事なれど、正倉院文書によれば、天平十一年に「泉木屋所」とあれば、そが古くよりありしを想ふべく、この歌も亦この木津まで筏にて材木を運び泝せしを見るなり。
○持越流 「モチコセル」とよむ。これが宇治河より淀まで流れたる木材を淀より泝りて泉河の河尻に持來せるにて陸上を持ち越せるにあらぬは文脈が上の「水に浮きゐて」より直ちにこの(238)「泉の河に持越せる」とつづけるにてもさとるべく、又次に筏につくりて「泝す」とあるにて泉河を流し下すにあらぬを知るべし。
○眞木乃都麻手 上に「檜乃嬬手」といへるにおなじ。ただ同じ語の重なるをさけていひかへたるまでなり。
○百不足 「モモタラズ」とよむ。百に足らぬといふ意にて「五十《イ》」「八十」などの枕詞とせり。
○五十日太爾作 「イカダニツクリ」とよむ。「五十」を「イ」といひ「五十日」を「イカ」といふは古語なり、平安朝の頃兒産れて「五十日」に饗するを「イカ」といへるもこれなり。その「五十日」の「イカ」を借りて「太」を添へて「筏」の假名とせるなり。筏は和名鈔に「論語注云桴編2竹木1、大曰v筏、小曰v桴【云々和名以賀多】」と見ゆ。
○泝須良牟 古來「ノボスラム」とよめり。「泝」字は國語呉語の注に「逆v流而上曰v泝」と見えたるにて意明かなるが普通には「サカノボル」とよむ。ここは下に「須」字あれば「サカノボラス」なるが、かくよみては歌にならねば、「ノボス」とよみてあるべきなり。「ノボス」といふ語は古書に證なけれど、他によみ方なければ、今姑くかくよむ。木津川の河尻より木津邊まで筏を泝らするなり。「良牟」は推量をあらはす複語尾なり。考には「田上の宮材に仕奉るもののおしはかりていへる也」といひ、本居翁は藤原の宮地よりおもひやれるさまなりとせり。その他諸家の説あれど、あたらず。これは泉川の川尻に筏をつくれるさまをみて、これより泉川を泝すらむといへるなり。さて又この「らむ」を終止形と見る説多けれど、これは連體格にて次の「いそはく」につづけたるな(239)り。
○伊蘇波久見者 舊訓「イソハクミルハ」とせれど、考によりて「ミレバ」とよむをよしとす。「イソハク」は契沖は
  爭の字をいそふとよめり。我先にと爭ふ心なり
といへり。考には「事をよく勤るを紀にいそしといへり」といひ、略解には「敏達紀に勤乎をいそしきと訓ると同じ詞也」といひたれど、「いそし」と「いそはく」とは語異なり。契沖の「いそふ」といへるはよけれど、説きて未だ詳かならず。攷證に「いそばく」と濁るべしといひて、數の多きをいふといへれど、さる語古來見ざるところなれば、信ずべからず。美夫君志に「伊蘇波久は爭《イソハク》也、競ひ勤《ツトム》るをいふ、皇極紀に爭陳をイソヒテマウスと訓(ミ)此集卷十三【三右】に諍榜とあるを舊訓に「イソヒコギ」とあり。(中略)後のものなれど、伊呂波字類抄にも爭競角の三字いづれもイソフ〔三字傍線〕とよめり。これ爭競等の字に當る詞のイソ〔二字傍線〕を波行四段に活かしたる證なり。さて思ふを思はく、曰ふをいはく、などいふ格にていそふをいそはくとはいへるなり。これを勤の字に當る詞のいそしとひとつに解ける説は精しからず、いそしはいかでいそはく〔二字右○〕といはるべき。よく思ふべし」といへり。この説をよしとす。さてこの「く」は或は副詞の如く或は體言の如くにするに用ゐらるるものなるが、ここは體言として取扱はれたるものなれば、競ひ勵む事をいへるなり。かくて上の「らむ」よりのつづきをよく了解しうべし。
○神隨爾有之 舊訓「カミノマヽナラシ」とよみたれど、僻案抄等の説によりて「カムナガラナラシ」(240)とよむべきなり。「かむながら」の意は上にいへり。「良之」は現實の事情を見て、その理由を推量する意の複語尾なり。この句の意は上の如く天地もよりてつかへ、御民も競ひ勵むを見ればげにも天皇は神にてましますによる事ならむとなり。
○一首の意 既にいへる如くこの歌は二段落よりなれり。第一段は「八十氏河に玉藻なすうかべ流せれ」までにして、そのうち、天皇の藤原宮御造營の御志を述べたる部分が一首の全體にわたれる冒頭なるが、この冒頭はこれより下の天地の神のわざと、第二段のはじめの人民のいそしむ事を導き出す力とを有するものなり。かくて第一段はその冒頭を受けて、天地の神の力を合せて天皇に奉仕するをいひ、その以下は第二段にして國民の献身的に奉仕せるをいひて、第一段の神の奉仕に對せしめ、終りに全局を結びて第一の冒頭に應じて「神隨ならし」と結びたり。この構成法は上の「三九」と殆ど同じ。
 なほこの歌の解につきては舊來地理の上に大なる誤解ありしなり。その最も甚しきは本居宣長の玉勝間の説なるが、これは上にも少しくいへるが、その大要をいはば、
  田上山より伐り出せる宮材を宇治川へくだし、そを又泉川に持越して筏に作り其川より難波(ノ)海に出し、海より又紀の川を泝《ノボ》せて巨勢《コセ》の道より藤原の宮の地へ運び來たるをその宮邊りに使はれて居る民の見てよめるさま也
といひ、又
  其乎取登云々は川より陸に取上るとて水に浮居てとり上て其(レ)を泉の河爾持越流とつづ(241)く詞也
といひ、又
  泉乃河爾持越流は宇治川より上《アゲ》て陸路を泉川まで持越て又流す也。こは今の世の心を以て思へば宇治川より直に下《クダ》すべき事なるに、泉川へ持越(シ)て下せるはいかなるよしにか、古は然《シカ》爲《ス》べき故有けむかし。泝須良牟《ノボスラム》とは海より紀の川へ入れて紀の川を泝《ノボ》すをいひてさて巨勢路より宮處に運ぶまでを兼たり。
といへり。この説の如くならば、非常識も甚しきことにて難波海に出すべきならば、宇治川を下したるまま淀川に流しやらば、さほどの勞力もなくてすむべきに、わざ/\陸に揚げ泉河に持ち越して再び淀川に下し、これを難波海より紀伊國の海に持ち越し、紀川を溯らせ、更に陸揚して山路をこえて藤原宮處に運ふなど、殆ど狂人のしわざに似たりといふべし。かくの如きはこれ「巨勢道依」とあるを木材運搬の通路と考へたるよりの強言なり。然るに玉勝間には明かに、
  我國者より新代登まで五句はこれ壽詞をもて泉の序とせるにて出とつづく意也
といひたれば、巨勢道は材木運搬の通路と解すべき筈なきに前後撞着せること如何。これらの説は全然不用の空論といふべし。
 今當時宮材處理の實状を察するに近江の田上山は材木を切り出す杣山にあらずして、今の語にていはば、製材所のありしなり。そのことは正倉院の古文書に「田上山作所」とあるものこ(242)れを證せり。この「田上山作所」といふ事は當時の古文書に屡見ゆる所にして近江の高島山、又甲賀山にも「作所」ありし由見えたれど、これは寧ろ稀なる例なり。かくて「高島甲可等の杣山より切り出したる材を一旦田上山の邊に持來して蓋し大略の加工をなしたるものなるべく、その粗製材をば、田上川、宇治川の水利を利用して放流せむが爲に田上山の麓邊にこの製材所を設けられしならむ。かくて今もする如く、その粗製材を田上川を經て、宇治川に放流するときは天然の水力はこれを淀河まで運ぶなり。この天然の水力をば天地の神のわざと見たてたるが第一段の後半の意たりとす。
 さてその放流せる材を淀の邊にて止め集め、これを木津川の河尻にて筏に組みてのぼすは何の目的ぞといふに、これより水津川を泝らしむるにあれば、自然力にたよること能はず、必ず人力によらざるべからず、しかもそれは筏につくりてまとめて泝らする方便利なれば、筏につくりのぼすらむとはいへるなり。かくてその陸揚せし地は何處ぞといふに、これも正倉院文書に「泉木屋解」といふありて、こゝよりは車にて材木を運びし由見えたり。以上別に詳しく説ける文あれば略してあげたるが、かく解すれば地理上には何等の矛盾もなくこの歌はよく當時の實際をうたへるものなるを見るべし。
 要するにこの歌の第二段は、中間の「吾作日御門爾」に對して「不知國」の「依りこす」といひて「こせぢ」にかけ詞としたるまでにてこゝにそれは本系の文脈よりは別にして傍系となりて、除外せらるべきものを生じ、その「巨勢道從」は「神龜毛」「出づ」といひて、これ亦「泉の河」にかけ詞としたるま(243)でにてこゝに又本系の文脈より除外せざるべき傍系を生じたるが、その間の「我國者常世爾成牟」は神龜の出づる事の説明の爲に加へたる注解のさまなれば、構造としては複雜を極めたるものなり。今これを圖表にして示すときは次の如し。
 
 其を取ると、騷ぐ御民も、家忘れ、身も多奈知らず、鴨じ物、水に浮居て、
   (わが作る、日の御門に、知らぬ國依り(こす〔二字左二重傍線〕))
                       巨勢〔二字右二重傍線〕道より
   (我國は、常世に成らむ圖負へる)神龜も、新代と(いづ〔左二重傍線〕)
                          泉〔右二重傍線〕の河に持ち越せる眞木の都麻手を百不足筏に作り泝すらむいそはく見れば、神隨ならし。
 〔入力者注、(わが……と(我國……の2行の上にかっこをつけて旁系とあり、こすから巨勢へ→、いづから泉へ→あり。浮居てから泉へ二重線でつないで、そのしたに文脈の正系とあり。〕
 
以上旁系の語をば從來序の詞といひたれどこゝには明かにかけ詞としての技巧を見るなり。しかして、この第二段はその技巧によりて巧みに、御代の頌詞をなせるはげにも凡庸の歌よみのよくする所にあらざるなり。かく技巧を十分に用ゐたれども、その圓熟せる手腕によりて天衣無縫の巧妙さをあらはせり。これ古來難解とせられたる所以の主たる點なるべきが、上述の構成は新考によりてはじめて明かになれるを愚見をも交へて上の如くいへるなり。
 
右日本紀朱鳥七年癸已秋八月幸2藤原宮地1、八年甲午春正月幸2藤原宮1、
 
(244)冬十二月庚戌朔乙卯遷2居藤原宮1。
 
○ この左注は日本紀を引きて藤原宮造營の事を示せるものなるが、この朱鳥の年號は前なる左注と異にして持統天皇の元年を以てその元年とせるなり。如何なる理由によりてかくせるか詳かならず。
 
從2明日香宮1遷2居藤原宮1之後志貴皇子御作歌
 
○ 飛鳥淨御原宮より藤原宮に遷都ありし後の作なる由を示せり。
○志貴皇子 は史に施基ともかけり。天智天皇の第七皇子にして持統天皇の御弟なり。この皇子の第六の御子は後に即位ありて光仁天皇と申すなり。その光仁天皇の御世に追尊ありて春日宮御宇天皇と申せり世に田原天皇ともいふ。さてこの歌の趣にてはこの皇子遷都の後も明日香の舊郡にましまししなり。
 
51 ※[女+采]女乃《ウネメノ》、袖吹反《ソデフキカヘス》、明日香風《アスカカゼ》、京都乎遠見《ミヤコヲトホミ》、無用爾布久《イタヅラニフク》。
 
○※[女+采]女 舊本「タヲヤメ」とよめるを僻案抄には「ミヤヒメ」とよめり、然れどむいづれも根據なきよみ方なり。考には「※[女+委]女」と改めて、「タワヤメ」とよみ、古義は「媛女」の誤として「ヲトメ」とよみ、季吟は「婬女」と改めて「タハレメ」とよめり。されど、古本「※[女+采]女」とのみ書ければ、誤字説は從ふべからず。按ずるに「※[女+采]女」は「釆女」にして下字にひかれて「采」にも女扁を加へしによりて生じたるものにし(245)て六朝時代に專ら行はれし文字なり。玉篇に「※[女+采]【七宰切※[女+采]女也】」とあるは、「※[女+采]女」の「※[女+采]」なりといふ義なり。古事記などに「※[女+采]」一字をかきて「ウネメ」にあてたるは「采女」を一字にかけるにてこゝとは例異なり、一にすべきにあらず。又可洪の隨函録(大集【第六】)に「※[女+采]女【上倉海反事也事君之女也正作2采採二形1也擇也採2擇衆女1以填v宮因以名v之書無2此字1】」とあり。佛經にてはこの字面多く用ゐられたり。たとへば、金光明最勝王經卷六四天王護國品の如き「内宮諸※[女+采]女」又「宮内后妃王子※[女+采]女眷屬」の字面あり。これらいづれも釆女の義なり。本集中又屡「※[女+采]女」の文字を用ゐる。卷四「五〇七」に「駿河※[女+采]女」とあるなどこれなり。釆女の字はもと支那漢の世の女官の稱にして、後漢書皇后紀の論に光武帝の時に皇后貴人の下に「置2美人宮人采女三等1」とあるをはじめとす。さればこれは下級の女官の職名たることを知るべし。その釆女の地位はわが「ウネメ」に似たる點ありしが爲に、古「ウネメ」にこの字をあてられしならむ。采女の字面にとらはれて採擇の義なりといひて、それにて意義明かになれりと思ふは未だし。凡そ官職に任ずるに採擇せぬものやあるべき。世上の俗説大かたかくの如し。又日本紀孝徳卷に「凡釆女者貢2郡少領以上姉妹及子女形容端正者1」とあるによりて地方より美人を徴せられし由を力強く説ける學者もあれど、こゝにも又俗説の行はるゝを見る。わざと形容の醜惡なるを貢する者もあるまじきが、こゝはその身分を主として制限せられたるものにして美貌を主として他を顧みずといふにはあらざるなり。さて文字はこゝの儘にて改むべき必要なきが、如何によむべきかといふに、文字のまゝ「ウネメ」とよむをよしとす。この「ウネメ」とよめるは元暦本にしかよめるにて古もかくよみたる人あるなり。これを「タワヤメ」「タヲヤメ」とよむ(246)は強言といふべし。これは藤原宮に宮仕する采女をさしてのたまへるなるべし。
○袖吹反 舊訓「ソデフキカヘス」とよめるを考に「ソテフキカヘセ」とよめり。されど、これは下の明日香風につゞくべきものなれば、舊訓の方よし。都のありしとき※[女+采]女の袖吹きかへししものなるを以てかくいはれたるにて、今も都ならば、※[女+采]女の袖を吹き飜すべきこの風もといふ意なり。この風實際に※[女+采]女の袖をふきけるにあらぬは下に「無用爾布久」とあるにて明かなれば、こゝは「ふくべき」又は「古吹きし」のいづれかの意なること明かなり。
○明日香風 「明日香」の地に吹く風の義なり。卷六「九七九」に「佐保風《サホカゼ》」卷十「二二六一」に「泊瀬風《ハツセカゼ》」卷十四「三四二二」に「伊香保可是《イカホカゼ》」などいへる皆同じ趣なり。
○京都乎遠見 「ミヤコヲトホミ」なり。京都の遠きによりてなり。
○無用爾布久 「イタヅラニフク」とよむ。「無用」を「イタヅラ」といふは所謂義訓なり。「イタヅラ」といふ語は卷五「八五ニ」に「伊多豆良爾《イタヅラニ》、阿例乎知良須奈《アレヲチラスナ》」卷十五「三七九九」に「伊多都良爾《イタヅラニ》、知利可須具良牟《チリカスグラム》」卷十七「三九六九」に「時盛乎《トキノサカリヲ》、伊多豆良爾《イタヅラニ》、須具之夜里都禮《スグシヤリツレ》」など見えたり。「イタヅラ」は今無效といふにおなじ。吹けど吹くかひもなきをいへるなり。
○一首の意 この明日香の里が昔の如く京都ならば今この吹く風も官女の美しき袖など吹き返すべきに、都は遠くうつりたれば、※[女+采]女も居らねば、空しく吹くのみなりと舊郡のものさびしきさまをいたみよまれたるなり。それを舊都を思ひやりてよみ給へりといふは當らじ。まさしくこの飛鳥の地の淋しきさまを味ひたまへる歌と見て感深き歌なり。
 
(247)藤原宮御井歌
 
○ この歌の趣によれば藤原宮の地に名高き井ありて藤井といひたりと思はる。その井に基づきて宮造りもあり、又藤原の宮號も起りしものと見ゆ。なほ人が居を占むるには飲料水を基とすることは古今同じきを深く考ふべし。
 
52 八隅知之《ヤスミシシ》、和期大王《ワゴオホキミ》、高照《タカテラス》、日之皇子《ヒノミコ》、麁妙乃《アラタヘノ》、藤井我原爾《フヂヰガハラニ》、大御門《オホミカド》、始賜而《ハジメタマヒテ》、埴安乃《ハニヤスノ》、堤上爾《ツツミノウヘニ》、在立之《アリタタシ》、見之賜者《メシタマヘバ》、日本乃《ヤマトノ》、青香具山者《アヲカグヤマハ》、日經乃《ヒノタテノ》、大御門爾《オホミカドニ》、春山路〔左・〕《ハルヤマト》、之美佐備立有《シミサビタテリ》、畝火乃《ウネビノ》、此美豆山者《コノミヅヤマハ》、日緯能《ヒノヨコノ》、大御門爾《オホミカドニ》、彌豆山跡《ミヅヤマト》、山佐備伊座《ヤマサビイマス》、耳高〔左・〕之《ミミナシノ》、青菅山者《アヲスガヤマハ》、背友乃《ソトモノ》、大御門爾《オホミカドニ》、宜名倍《ヨロシナベ》、神佐備立有《カムサビタテリ》、名細《ナクハシ》、吉野乃山者《ヨシヌノヤマハ》、影友乃《カゲトモノ》、大御門從《オホミカドユ》、雲居爾曾《クモヰニゾ》、遠久有家留《トホクアリケル》。高知也《タカシルヤ》、天之御蔭《アマノミカゲ》、天知也《アメシルヤ》、日御影乃《ヒノミカゲノ》、水許曾波《ミヅコソハ》、常爾有米《トコシヘナラメ》、御井之清水《ミヰノマシミヅ》。
 
○八隅知之 上にいへり。
○和期大王 舊訓「ワガオホキミノ」とよめり。考には文字のまゝに「ワゴオホキミ」とよむべしとせり。されど、その説明は當らず。略解の説をよしとす。即ち「が」の音が下の「オホ」の「オ」に同化して「ゴ」となれるなり。これ歌詞のために自然にかくいへる場合に特にかくよむべき處なれ(248)ば、かくはかけるなり。集中の「吾大王」とかけるはすべて「ワゴオホキミ」とよめといふ説あれどそは強ひ言なり。又舊訓の末の「の」は不用なり。
○高照日之皇子 上「四五」にいへり。
○麁妙乃 これも上「五〇」にいへり。
○藤井我原 「フヂヰガハラ」とよむ。これ恐らくは藤原宮の地の本名なるべく、藤原といへるはこれを略して呼べるならむ。而して、かく藤井が原と名づけられしは往古よりこの地に名高き清水ありて藤井と名づけられしがありしならむと先哲いへり。しかるべし。その藤井即ちここにいへる御井なるなり。
〇大御門 「オホミカド」とよむ。上に「日之御門」といへるに同じく、皇居をいふなり。
○始賜而 「はじむ」とは基を起すをいふ。都城をつくりはじめたひてなり。
○埴安乃堤上爾 「ハニヤスノツツミノウヘニ」とよむ。埴安の池の堤の上なり。卷二「二〇一」に「埴安乃《ハニヤスノ》、池之堤之《イケノツツミノ》、隱沼之《コモリヌノ》」とよめり。香具山の麓に埴安池のありしことは既に「二」にいへり。埴安といふ池は香具山の一部なりしことは、日本紀神武卷に天香山の土をとりて平瓮《ヒラカ》嚴瓮《イヅヘ》等をつくりて神を祭られしことありし、その土をとられし處を埴安といふ由見えたり。「はにやす」は「埴|※[黍+占]《ネヤ》す」にて土器をつくることをいふと思はれたり。
○在立之 「アリタタシ」とよむ。古寫本」「アリタチシ」又は「アリタテシ」など種々によみたれど從ひがたし。「あり」を動詞に冠していふことは當時盛に行はれしにて「あり通ふ」「あり待つ」「ありふる」(249)「ありわたる」など例多し。かかる時の「あり」は、「ありつつも」などよめるに意同じくその事の引つづきてあるをいふ語にしてをり/\毎に出立ちて望みたまふをいへり。「たたし」は「たたす」の連用形にして「たたす」は「立つ」の敬語なり。「ありたたす」といへる例は古事記上卷に「佐用婆比爾《サヨバヒニ》、阿理多多斯《アリタタシ》、用婆比爾阿理加用婆勢《ヨバヒニアリカヨハセ》」といふあり。「ありたつ」といへる例は卷十三「三二三九」に「島之埼邪伎《シマノサキザキ》、安利立有花橘乎《アリタテルハナタチバナヲ》」などなり。
○見之賜者 舊訓に「ミシタマヘレバ」とよめり。考に「メシタマヘバ」とよめるをよしとす。されど、その「之」を崇め辭なりといへるは説きて十分ならず。これは「しろしめす」「きこしめす」の語に含まれたる「めす」の語にして「見る」を敬語とする爲に、左行四段に活用せしめしなり。上の藤原宮役民作歌の「賣之賜牟」といへると同じ語なり。
○日本乃 「ヤマトノ」なり。「日本」の字を今の大和國にあてたることは「四四」にも例あり。
○青香具山者 「アヲカグヤマ」とよむ。山に青を冠するは木草茂り榮えて蒼々としたるを形容していへるなり。稱美する意のこもれるはいふまでもなし。
○日經乃 「ヒノタテノ」とよむ。經を「タテ」とよむは織物の經緯より來れるものなり。さて日本紀成務卷に「因以2東西1爲2日縱1南北爲2日横1山陽曰2影面1山陰曰2背面1」とあり。これによれば、日縱日横といへるは支那にて經緯といへると反對なり。支那にては周禮天官の疏に「南北之道謂2之經1東西之道謂2之緯1」とあり。本邦にては朝日に向ひて縱横を定め支那は日中を基として經緯を定めたるにて國情の相違といふべし。されど、日本紀の影面背面といふは日縱日横と相侵(250)す意ある語なれば、立脚地を異にせる命名といふべし。又本朝月令に引ける高橋氏文には「日竪日横陰面背面乃諸國人乎割移天」とあり。この文は日本紀と語同じけれど、さす所は異なり。これにては、日竪日横陰面背面を以て四方を概括したりと思はるれば、この四を東西南北にあてたりと見るべし。さてその陰面背面を南北とすることは理由明かなれど、日縱日横を東西とするは道理なきことなり。然れどもこの歌にいへるさまは高橋氏文と一致すれば、當時の世俗かくの如くにいひ用ゐしなるべし。即ち成務紀の趣にては日縱は東西を通ずる線の義なれど、ここは高橋氏文の趣にて東をさせりとすべし。されば「日の經の大御門」とは東の御門の方をさせるなり。
○春山路 舊訓は文字のままに「ハルノヤマヂ」とよめり。それを考には「路」を「跡」の誤として「ハルヤマト」と改めたり。古寫本多くは「路」とあれど、古葉略類聚鈔には跡の草體とせり。されば、考の説を宜しとすべし。春山とは春は樹木の繁茂する時なればいふ。春山といふ成語は古事記應神卷に「春山之|霞壯夫《カスミヲトコ》」といへるあり。「跡」は「アト」の上の「ア」を略して「ト」の假名に用ゐること多し。この「ト」は「雨とふり」「花と散る」などいふ場合の「と」にして其の物にたとへていふに用ゐるなり。玉の小琴にこの「春」を「青」の誤なるべしといひたれど、さまでいふべきにあらざるべし。
○之美佐備立有 「シミサビタテリ」とよむ。この「佐備」はこの歌の「山佐備」「神佐備」の語又「翁さび」「男さび」「女さび」「をとめさび」などいへる「さび」にして上二段活用を具する接尾辭にして他の語をうけて動詞とする性を有し、その意はそれ相應の状態に振舞ふことをあらはせり。「しみ」は繁の(251)意の副詞たる古語にして、卷十七「三九〇二」に「烏梅乃花《ウメノハナ》、美夜萬等之美爾《ミヤマトシミニ》」など用ゐ、又それに接尾辭「み」を添へて「しみみ」といふことあり。その例卷三「四六〇」に「京里美彌爾《ミヤコシミミニ》、里家者《サトイヘハ》、左波爾雖在《サハニアレドモ》」卷十三「三三二四」に「大殿之《オホトノノ》、砌志美彌爾《ミギリシミミニ》、霧負而《ツユオヒテ》、靡芽子乎《ナビケルハギヲ》」などなり。その「しみ」を「さび」にてうけて「しみさぶ」といふ用言とせるなり。春山と青く茂り茂りて香具山のたてるをいへるなり。
○此美豆山者 「コノミヅヤマハ」なり。畝傍山をたたへていへるなり。美豆山とはうるはしく若木の茂れる山といふ義なり。瑞垣瑞枝などの例なり。
〇日緯能 舊訓「ヒノヌキノ」とよめるを考に「ヒノヨコノ」とよむべしといへり。「緯」は機の横絲にして和名鈔に「緯【音韋和名沼岐】」とあれば「ヌキ」とよみてもよきことなれど上に引ける日本紀、高橋氏文の文によりて「ヨコ」とよむをよしとす。さて日本紀の義によれば、「ヒノヨコ」は南北の線をさすものなること明かなり。然るに畝火山はこの宮地よりは西に當り、前後の文を照し考ふるに別に南北なる「背友影友」といふ語も存すれば、これは西をさすに用ゐたること疑なし。かくて高橋氏文には「日竪、日横、影面、背面」と相對したれば、これも日横を西とせりと思はるること上にいへる如くなれば、當時さる用ゐ方となれりしものと思はれたり。
○山佐備伊座 「ヤマサビイマス」とよむ。「山佐備」の「さび」は上にいへる「しみさび」の「さび」におなじ。山の年ふりたる木などありて神々しく見ゆるをば「山さび」とはいへるなり。「イマス」は敬語なり。ここは山を神としてあがめいへるなり。
○耳高之 舊訓文字のままに「ミミタカノ」とよめり。古寫本いづれも「高」字をかけり。然れども(252)これは耳成山をさせること著しければ誤寫なること疑ひなし。考に「爲」の字を誤れりといへり。恐らくは然らむ。耳梨山の外に北方に青菅山といふべき山なければなり。
○青菅山 これは耳梨山の山菅の茂りて青み渡れる故にいへるにて山の名にはあらず。この山今も青々として如何にも瑞々しく見ゆるなり。舊訓「アヲスゲヤマ」とよみたれど、考に從ひて「アヲスガヤマ」とよむべし。「スゲ」の原を「スガハラ」といふが如き例なり。
○背友 「ソトモ」とよむ。「背《ソ》ツ面《オモ》」の義にして、日本紀高橋氏文に「背面」とかけるが正字なり。日本紀によれば、山陰をいへる語なれども、日の南中せる時に背後にあたる方なれば、汎く北方の義ともせりと見ゆ。耳梨山はこの宮地よりは北にあたること正しく地理に合へり。卷二「一九九」に「背友乃國之《ソトモノクニノ》、眞木立《マキタツ》、不破山越而《フハヤマコエテ》」などあり。これは美濃をいへるものなるがそは大和より北方に當れば義かなへり。
○宜名倍 「ヨロシナベ」とよむ。「ヨロシ」といふ語は考別記に「物の足そなはれるをいふ。よろづよろこび、よろひなどいふ皆同じ言より別れたる也」といへり。恐らくは是ならむ。「ナベ」は並《ナベ》なるが、上の役民の歌の「オモホスナベニ」といへる「ナベ」と語は本來一なれど、ここには一の物に多くの事を兼ね備へたる如き意にいへり。譯して「チヤウドヨク」などすべし。この語の例は卷三「二八六」に「宜奈倍《ヨロシナベ》、吾背乃君之《ワガセノキミノ》、負來爾之《オヒキニシ》、此勢能山乎《コノセノヤマヲ》、妹者不喚《イモトハヨバジ》」卷六「一〇〇五」に「神佐備而《カムサビテ》、見者貴久《ミレバタフトク》、宜名倍《ヨロシナベ》、見者清之《ミレバサヤケシ》」卷十八「四一一一」に「之可禮許曾《シカレコソ》、神乃御代欲理《カミノミヨヨリ》、與呂之奈倍《ヨロシナベ》、此橘乎《コノタチバナヲ》、等伎自久能可久能木實等《トキジクノカクノコノミト》、名附家良之母《ナヅケケラシモ》」などあり。
(253)○神佐備立有 「カムサビタテリ」とよむ。「神佐備」の意は上にいへり。これは「之美佐備」「山佐備」と相對し、その最後として「神佐備」といへるものにしていづれの山をも「しげり」「みづ山」と神佐備たる由を明言せるなれば、これを上にめぐらして、上の三山いづれも神としていつける由を見るべし。
○名細 「ナクハシ」とよむ。細は精細の義によりて「クハシ」とよむなり。良馬を「細馬」とかくが如きその例なり。「くはし」とは今は專ら委曲の義にのみ用ゐたれど古は精妙などすべてほむる意に用ゐたり。「かぐはし」(これは後世「かうばし」となれり)「まぐはし」「うらぐはし」などの「くはし」これなり。又古事記上の歌に「久波志賣《クハシメ》」といふ詞あり。麗しき女の義なり。さて「名細し」とは名の麗しくよしとほめたるにて、今の世の語にていはば、「名高し」などいふに略あたる。これは枕詞にあらずといふ説もあれど、かく終止形を用ゐて、下につづくる如き意に用ゐたれば、明かに枕詞の格なりとす。
○影友 「カゲトモ」とよむ。これは日本紀に「影面」高橋氏文に「陰面」とかけるに同じ語なるが、「カゲツオモ」の約なり。その「カゲ」とは「ヒカゲ」即ち光線のあたる方面にして(今「ひなた」といふ語に似たり)日本紀によれば山陽をいへる語なれど、日の南中せる時にその向へる方なれば、汎く南方の義ともせること「ソトモ」に趣同じ。
○大御門從 舊訓「オホミカドニ」とよみたれど、「從」字は「ニ」とよむべき由なし。「ヨリ」とよみたるもあしきにあらねど、考に「オホミカドユ」とよめるに從ふべし。「ヨリ」「ユ」同じ意なれど、ここは音調(254)の上より「ユ」をよしとすべし。
○雲居爾曾遠久有家留 「クモヰニゾトホクアリケル」とよむ。「クモヰ」とは雲の居所《ゐどころ》即ち虚空《ソラ》をいふなり。その語例は集中に多く一々あぐるにたへず。今上の三山の場合にはいづれも「大御門爾」といひて、その山の状を叙せるはいづれもその宮門の守護神の如く近くあればいへるなるが、南の方近くには名山なければ、稍遠けれど、名高き芳野山を呼び來れるところに歌主の手腕あらはれたり。
○高知也 「タカシルヤ」とよむ。「高」は既にいへる如く天空にして、之を領する天といひて天の枕詞とせるなり。この天はある實體と考へたりと見るべし。古事記傳卷十六に「高知(ル)はただ高き意なるを次の天知(ル)と對へて調べをなさむために知を添へたりとこそ聞ゆれ」といはれたり。事實はさる事なるべからむ。されど、「知る」といふ詞に何の意もなしといふは強言なり。なほ「領りたまふ」意あるは明かなり。さる詞を添へて實體なきものをある如くいひたる處に歌の味ひはあるなり。「也」は間投の助詞にして調子を添ふるのみなり。「おしてる|や〔右○〕なには」「いはみの|や〔右○〕たかつの山」「近江の|や〔右○〕鏡の山」などいふ「や」と用ゐ方似たり。これを從來口合の「や」といへり。さて以下四句は天の御蔭日の御蔭といひても足りぬべきを枕詞を加へて二句づつ相對していへるなり。
○天之御蔭 古來「アメノミカゲ」とよみ來れるが、古寫本に「アマノミカゲ」ともあり。村田春海は天字讀法考をあらはしてかくの如きを「アマノ」とよむべしと主張せり。それは古事記傳に「ア(255)メノ」とよむべしといへるに對して反對せるなり。されど、これらの諸説いづれも一概に從ひがたし。古書を見るに、「あまのがは」「あまのしらくも」「あまのと」「あまのはら」などはみな「あまの」といひならへり。さればとて「あめのかぐやま」「あめのした」などは「あまの」とはいはず。されば、これは慣例によりてよみわくる外なし。按ずるに元來「天」といふ語は「アメ」といふが本體なれば天そのものをさす場合にはいつも「あめ」といへり。たとへば「あめ〔二字右○〕にます神」といへど「あまにます神」とはいはざるが如し。然れど、連語熟語をなす際に「あま何」とかはるものと見えたり。この故に「あま何」といふ實例なきものは先づ「アメ何」といひてある方よろしき道理なるが、古來「あま何」とよめるを誤れりといふも強言なりとすべし。さてはここは何とよむべきか。「あまのみかげ」とかける例古書になくば、もとより「あめのみかげ」とよみてありぬべき所なり。しかるに日本紀推古卷なる歌に「夜頃彌志斯《ヤスミシシ》、和餓於朋耆彌能※[言+可]句理摩須《ワガオホキミノカクリマス》、阿摩能椰蘇※[言+可]礙《アマノヤソカゲ》、異泥多多須《イデタタス》、彌蘇羅嗚彌禮磨《ミソラヲミレバ》」といふ語あり。この「あまのやそかけ」はここの「あまのみかげ」と本來同じ語といひてよきものなり。さればこれを旁證として「あまのみかげ」とよむべきならむ。さてこの「天之御蔭」は下の「日之御蔭」と相對せるにて、「天の御蔭」「日の御蔭」とは本來屋をいへるにて殿舍の上を覆ひて天日を避けて蔭をつくるによりいへる語なるが、後には汎く殿舍をさす語となれるなり。之をば、天の影日の影の水にうつる由にいへるは古書に證もなき事なれば非なり。さてかく「天の御蔭日の蔭」といへるは古くよりいひ來りし語と見えて延喜式の祝詞にも多く用ゐたるが、中にも祈年祭の祝詞中座摩の御巫の祝詞と相通へる點あり。その語に曰はく
(256)   座摩御巫乃稱辭竟奉皇神等能前爾白久《ヰガスリノミカムコノタタヘゴトヲヘマツルスメガミタチノマヘニマヲサク》、生井榮井津長井阿須波婆比支登御名者白※[氏/一]辭竟奉者皇神能敷座下絡都磐根爾宮柱太知立高天腹爾千木高知※[氏/一]皇御孫命乃瑞能御舍乎仕奉※[氏/一]天御蔭日御蔭登隱坐※[氏/一]四方國乎安國登平久知食故爾皇御孫命能宇豆乃幣帛乎稱辭竟奉久登宣《イクヰサクヰツナガヰアスハハヒギトミナハマヲシテコトヲヘマツラクハスミカミノシキマスシタツイハネニミヤバシラフトシリタテタカマノハラニチギタカシリテスメミマノミコトノミヅノミアラカヲツカヘマツリマツラクトノル》〔入力者注、所謂宣命書きは普通の大きさにした〕
この御巫は井の神を祭るものなるがこの祝詞の如き思想は上代より存したるに相違なければそれらによりて特にこの詞をかり用ゐたりと思はるるなり。
○天知也 「アメシルヤ」とよむ。これを「アマシルヤ」とよめる本あれど「あめ」といふ實體をいへるなれば、「あま」とはいふべからず。「シル」と「ヤ」とは、タカシルヤ」の場合と同じ。天を領する日といふ意にとりて「日」の枕詞とせるなり。
〇日御影乃 「ヒノミカゲノ」とよむ。ここにこの藤原の宮の御井をば、下の水といふ詞にてあらはせるなり。
○水許曾波 「ミヅコソハ」とよむ。この水は即藤原宮地の井、藤井の水にして、やがて、この歌の主題たるなり。さてここに忘るべからざることは人の住居は水を以て中心とすることなり。この事この歌の主眼たるなり。
○常爾有米 舊訓「トキハニアラメ」とよめれど、しかよむべきにあらねば、古寫本には「ツネニアルラメ」とよめるあり。考には「トコシヘナラメ」「ツネニアラナメ」といふ二按をあげたり。古義には仙覺注本に「常磐」とありといひたれど、それはよみ方のみの事にして、本文を「常磐」とかけるに(257)はあらず。守部は「トハニアリナメ」とよみ、御杖は「ツネニアラメ」とよみ、美夫君志には「トコシヘナラメ」とよむ方をとれり。按ずるに、「米」一字を「ラメ」「ナメ」などにあててよむこと無理なるが、それも他に讀み方なくばこそあらめ。「有米」は「アラメ」とよみうるものなれば.そのなだらかなるに從ふべし。さて「つねにあり」といふことを常住不變の意にとれること集中にもあれど、なほ「トコシヘナラメ」とよむ方に從ふべきか。「トコシヘニアラメ」を約めて「トコシヘナラメ」とよむが普通なるが「トコシヘニ」といふ語は集中に例少からず。又日本紀允恭卷に「等虚辭陪邇《トコシヘニ》、枳彌母阿閇椰毛《キミモアヘヤモ》」といふあり。
○御井之清水。舊訓「ミヰノキヨミツ」とよみたるを僻案抄に「ミヰノシミツハ」とよみ、考に「眞」字を加へて「ミヰノマシミヅ」とよみたり。按ずるに僻案抄の、下に「ハ」を添へたるは不要の事なり。かく反轉法によれるものには、そのまま投げ出したる語法によれるもの少からず。考の「マ」を加へたるは自らいへる如く調の爲なれば、その點はまことによけれど、古果して「マシミヅ」といふ語に「清水」といふ文字をあてたりや如何。「しみづ」といふ語は和名鈔に「日本紀私記云妙実井【之美豆】」又「石清水【以波之三豆】」などの訓あり。古事記には清水寒泉といふ字面を「シミヅ」とよみ來れり。「しみづ」とは「すみみづ」の約なりといへり。されど、これは恐らくは「しみいづる水」の義にして自然に湧出する清水をいへるなるべし。「岩シミヅ」とは岩の間よりしみ出づる水なり。古今これを飲料水として賞美せり。さて「清水」を「シミヅ」とよむは論なけれど「マシミヅ」とよむことは未だ證を見ず。されど、他によしと思ふ訓み方もなければ姑く之に從ふべし。
(258)〇一首の意 この歌につきて契沖は「此歌は御井を題にてよめども井はさして物めかしうよむべき風情なければ先宮殿より始めて四面に名山のありて都のしづめとなる事をいひ盡して本意とする井の事をいひて一篇を收むるなり」といへり。されどこれはなほ深く考へざる説なり。先にもいへる如く、古の人の居を占むるには先づ飲料水を基とし、その存否良否に重きを置きしものなるを思ふ時には、井はさして物めかしうよむべき風情なしといふは不當なるのみならず、かの祈年祭に座摩の御巫のいつく神は即ち井の神なるを見てこれを重んぜしこと知るべく、又古の井は大かた周圍に樹木のしげりしことは、櫻井、藤井などいふ語にて想像せられ、さなきも、かの海神の宮なる井の上の湯津杜梢の上に彦火火出見尊のおはしきなどいふ記事にて古の井のさまを想像しうべし。さて又、この歌、宮城の四面に靈山ある由をうたひたるはこれも事もなげに見ゆれど、これやがて、下に清水の常ならめといふべき因たるなり。弘仁十二年四月廿一日の官符にて水邊の山林を斫り損するを禁制せられし文中に「浸潤之本、水木相生、然則水邊山林必須2欝茂1何者大河之源其山鬱然、小川之流其岳童焉」とあるなど古代より清泉と鬱林と相關することを認められしにて、ここにもそれらの思想を下に思ひて見るべし。
 この歌二段落にして第一段は、「雲居にぞ遠くありける」までなり。この段にては、頭一にして尾四に分れて四面の門とその方の山とを頌してその地形のすぐれたるをいひ、第二段の下地をつくる。第二段はその宮地に造營ありし宮城を頌し、次にその基たる藤井の水を頌し、その水の常に清きが如くに聖壽萬歳ならむと頌せるなり。即ち井を基として、この宮城を頌せる(259)歌なり。宮城を造營あらむには先づ水を卜し、次に四方景勝の地を相して定めらるべきなれば、ここに御井の歌として四方の山をたたへてその勝地なるをいひ、かねてその水の常に滿ちて清かるべきをいふ伏線とし、次に殿舍をたたへ、最後にその本源とすべき井に及べるにて極めて當を得たる作りざまなれば、從來の多くの説は古を考へぬ顛倒の觀なり。
 この歌そのいふ所簡素にして、しかも聲調堂々たり。王者の居にふさはしき歌といふべく、集中稀に見る傑作なりとす。
 
短歌
 
○ これは上の長歌の反歌なるなり。然るに、拾穗抄は「短歌」を誤として「反歌」と改め、考は「短歌」を衍とし別に題詞ありしが脱せりといへり。然れども目録には「藤原宮御井歌一首并短歌」とあるのみならず、前に屡反歌を短歌とかける例あれば、このままにてよしとす。なほ又歌の趣藤原宮につきていへるものにして、反歌なること疑なければ、考の説は從ひがたし。
 
53 藤原之《フヂハラノ》、大宮都加倍《オホミヤヅカヘ》、安禮衝哉《アレツガム》、處女之友者《ヲトメガトモハ》、之〔左●〕吉呂〔左○〕賀聞《トモシキロカモ》。
 
○藤原之大宮都加倍 「フヂハラノオホミヤツカヘ」とよむ。「大宮」は上にいへり。ここは藤原の大宮に宮仕へすることをいへるなるが、「大宮ツカヘ」といへる例は卷十三「三二三四」に「内日刺《ウチヒサス》、大宮都加倍《オホミヤヅカヘ》、朝日奈須《アサヒナス》、目細毛《マグハシモ》」とあり。さてここはその「大宮つかへ」を一の名詞の如くにいへるな(260)れば、下なる「アレツガム」に對しては「ニ」といふ助詞あるべき格と思はる。
○安禮衝哉 舊訓「アレセムヤ」とよみたれど、意通せず。又「アレツケヤ」とよめる古寫本あり。僻案抄には「アレセメヤ」とよみ、又「哉」を「武」の誤ならむといふ一案を出してさらば「アレツカム」とよむべしとせり。本居宣長はこれによりたるなり。爾來「アレツケヤ」「アレツカム」の二説あり。「アレツケヤ」の説にては「アレツケバニヤ」の意と説くなるがこれにては下の句に至りて一首の意通ぜずなるなり。されば「アレツカム」とよむ方によるべきが、この「哉」は既に「吾代毛所知哉《ワガヨモシラム》」(一〇)の所にいへる如く「ム」の假借に用ゐたるものにして「ム」とよむべき由ある字なれば誤にはあらぬなり。さてこれを「アレツガム」と濁りて「衝」ヲ「ツグ」にかりたりとすべし。玉勝間には「アレ」も「ツク」も共に奉仕《ツカヘマツ》る意にして「ツク」を濁音とするは非なりといひてさて論ずらく「繼《ツグ》と衝《ツク》とは久の清濁も異なるをいかでか借(リ)用ひむ」といはれたれど、美夫君志には「本集の借字には清濁を通はし借れる事は常なるをや。今一二の例を示さむに、卷七【三十九右】に雉《キシ》爾絶多倍とある雉は岸の借字、卷十【二十八右】に磨待無《トキマタナクニ》とある磨は時の借字、卷四【三十九右】卷十一【二十三左】等に言《イフ》借とあるは鬱《イブカシ》なり」といへり。されば「衝」を濁音にて「ツグ」とよみても誤にあらざるを考ふべし。さて「生衝」の字面を用ゐたる例は他にもあり。卷六「一〇五〇」に「布當乃宮者《フタギノミヤハ》……八千年爾安禮衝之乍《ヤチトセニアレツガシツツ》、天下所食跡《アメノシタシロメサムト》」とあるこれも「アレツガシツヽ」とよむべきなり。さて「あれつぐ」といふ語は、卷四「四八五」に「神代從生繼來者《カミヨヨリアレツギクレバ》、人多《ヒトサハニ》、國爾波滿而《クニニハミチテ》、」とある「生繼」の字面を正しく當れるものと考ふるなり。この「あれ」は既にいへる如く現はるるをいふ語にして之を人にあつれば生れ出づるをいふ。さてこ(261)れは下の「處女」を限定せるにて子々孫々生れ繼ぎつつ宮仕せむとする處女といへるなり。玉勝間の説非なり。
○處女之友者 「ヲトメガトモハ」とよむ。これを「ヲトメノトモハ」とよめる本もあり。「ノ」「ガ」共にかかるつかひざまあればいづれにても不可なし。「友」は友人の義に用ゐたるにあらずして「ともがら」の意の借字なり。日本紀神武卷に「宇介譬餓等茂《ウカヒガトモ》」又本集卷六「九七四」に「大夫之伴《マスラヲノトモ》」卷十六「三八三六」に「佞人之友《ネヂケヒトノトモ》」などある、みなこの意なり。即ちここは多くの女官をいふ。
○之吉呂賀聞 板本「呂」を「召」とし、「シキリメスカモ」とよみ又「シヨクメスカモ」とよめる本もあれど、いづれも意通ぜず。その他代匠記には「シキメサンカモ」とよみ、僻案抄には「シキメサルカモ」とよみたれど、いづれも意通ぜず。玉勝間には「田中道麿が乏吉呂賀聞《トモシキロカモ》を誤れるなりと云へるよろし」といへり。げにもこの説を最もよしとす。「之」を「乏」とつくれる古寫本は未だ出でねど、元暦校本類聚古集古葉略類聚鈔には「召」を「呂」とせれば、これは證ありとす。この「乏」といふ語は下の歌(五五)に「朝毛吉《アサモヨシ》、木人乏母《キビトトモシモ》、(亦)打山《マツチヤマ》、行來跡見良武《ユキクトミラム》、樹人友師母《キビトトモシモ》」卷七「一二一〇」に「吾妹子爾《ワギモコニ》、吾戀行者《ワガコヒユケバ》、乏雲《トモシクモ》、並居鴨《ナラビヲルカモ》、妹與勢能山《イモトセノヤマ》」卷十七「三九七一」に「夜麻扶枳能《ヤマフキノ》、之氣美登※[田+比]久久《シゲミトビクク》、鶯能《ウグヒスノ》、許惠乎聞良牟《コヱヲキクラム》、伎美波登母之毛《キミハトモシモ》」などある「トモシ」にて古言にては羨しき意に用ゐらるるなり。「呂」は音調を添ふるのみにして、かくの如く用ゐたる例は古事記雄略卷の歌に「微能佐加理毘登《ミノサカリビト》、登母志岐呂加母《トモシキロカモ》」日本紀仁徳卷の歌に「箇辭古耆呂箇茂《カシコキロカモ》」本集卷五「八一三」に「多布刀伎呂可※[人偏+舞]《タフトキロカモ》などあり。「カモ」は咏歎の意をあらはすものなれば「トモシキロカモ」は羨しき事なるかなといふに近し。
(262)○一首の意 この藤原の宮に大宮仕へをしつつ處女のともは在るらむが、かくて次々に生れいづる處女は相次いでこの大宮仕をするならむが、まことにうらやましきことよとなり。この歌上の長歌の反歌とは見えずとて、古來多く疑を挾めるも見ゆれど、かかるめでたき大宮に宮仕へしてここを立ちならすらむ女官たちはうらやましといへるにておのづから上の歌をうけづきたる意あり。しかのみならず、ここに處女といへるは多くは釆女をさせるなるべければ、おのづから水に縁故深きなり。令集解を見るに、「水司膳司二司必以2采女1」と見え、水司の釆女六人膳司の采女六十人とあり。又曰はく「采女者必令v仕水司主膳司1耳」とあり。されば御井につかへ奉る釆女を見て主としてそれをさしてうたへるがこの反歌なるべければ、御井歌の反歌としては決して唐突にあらざるなり。
 
右歌作者不詳
 
○ 左注に既にかくかけるによりてこの長歌と短歌と一體なることを明かに知るべし。これを人麿の歌とする人あれど、もとより確かなる證なきことなり。
 
大寶元年辛丑秋九月太上天皇幸2于紀伊國1時歌
 
○大寶元年辛丑云々 この卷及び第二卷の體裁大寶以前は宮號を以てし、以下は宮號を大別としてその細目を年號にてわけたりと見えたり。これ蓋し、古の記録によれりしものなるべし。(263)「大寶」は文武天皇の即位第五年に改元ありし年號なり。さてこの時の事續紀によれば、「九月(庚午朔)丁亥(十八日)天皇幸2紀伊國1」「冬十月丁未車駕至2牟漏温泉1」「戊午車駕自2紀伊1至」と見えたれど、太上天皇の事なし。されどこの時天皇太上天皇御同列なりしことは本集卷九にも「大寶元年辛丑冬十月太上天皇大行天皇幸2紀伊國1時歌」(一六七七)と題せるにて明かなり。
○太上天具 この稱はもと支那にて天子の父を太上皇といひしより始まれり。支那にて太上皇といへるは秦始皇が莊襄王を追尊して太上皇といひしを古しとす。漢の高祖はその父をはじめ太公と尊稱せしを更に改めて太上皇といひ、その母をば太上皇后といひき。本邦にてはこれに准じて天皇讓位の後の尊號を太上天皇といふこととなれり。令義解にいはく「太上天皇 讓位帝所稱」とあり。よみ方は音のままによむべし。而してその尊號はこの持統天皇にはじまれり。
○作歌 これはこの行幸に扈從したる人をあげたるにて、下にある歌二首を示さむ爲の題目とせり。
 
54 巨勢山乃《コセヤマノ》、列列椿《ツラツラツバキ》、都良都良爾《ツラツラニ》、見乍思奈《ミツツオモフナ》、許湍乃春野乎《コセノハルヌヲ》。
 
○巨勢山 上に巨勢道「五〇」につきていへる古瀬村の西なる山なり。この山の麓の邊を紀州路として當時往來したりしによりて此の歌ありと見ゆ。今もこの道によれり。
○列列椿 「ツラツラツバキ」とよむ。これは巨勢山に天然に椿樹生ひたるが多くありて名高か(264)りしものなるべく考へらるるものなるが、その椿樹をよめりしは疑ふべき餘地なし。さて「ツラツラ」といへる語なるが、これは古來「列」といふ文字に重きを置きて巨勢山に椿樹を列ね植ゑてありしが故と見て説けり。然るを間宮永好は犬鷄隨筆に於いてこれは椿の葉のすべらかにつやめきたるを「つらつら」といひたるなるべしといへり。即「つばき」といふも「つらばのき」の意なるべく、「つばぶき」といふも「つらつら」したる「は」の「ふき」の義なるべければ「つらつら」としたるはのつばきといふ義なるべし。「つばき」の名は、新撰字鏡、本草和名、和名鈔などに見えたり。さてこの「つらつら椿」といふ語はその椿の葉のうるはしきをたたへいへるなるが、かねて下なる「つらつらに」といへる語を導かむ序とせるなり。かく考へてみてこの歌のおもしろみ出づ。下まで通して考へなばわかるべし。
○郡良都良爾 「ツラツラニ」とよむ。「ツラツラ」は心をこめてよくものする由をいふ副詞なるが、漢字にては熟の字をかく。新撰字鏡「※[目+鳥]」字の注に「熟視也豆良々々彌留」とあるにて知るべし。卷二十「四四八一」に「夜都乎乃都婆吉都良都良爾《ヤツヲノツバキツラツラニ》、美等母安加米也《ミトモアカメヤ》」ともあり。「つらつらつばき」といはずただ「つばき」といふのみにても「つらつら」といふ語を導くに用ゐるを見ても「つばき」に「つらつら」といふべき由あるを見るべし。
○見乍思奈 古來「ミツツオモフナ」とよみ來れり。然るを僻案抄には「コヒシナ」とよむべしといひいでてより異説生ずる端をひらき、攷證には「オモハナ」とよみ、古義には「シヌバナ」とよむべしと論ぜり。かかる異論の生ずる原因はこの行幸は九月なるに歌に「春野を」とよみたれば、時節(265)あはずといふにあり。僻案抄にては椿をばツマ木といふ語の借字なりとみて家なる妻をこひしと思ふ義なりとせり。然れども、この説無理なること多くしたがふべからず。攷證及び古義の説にては「奈」は未然形所屬なれば冀望する意の助詞にして「めで愛せむ」意となるべきが、かくてはこの歌を春とせずば矛盾する事とならむ。この故に古義の如きは「秋九月」を春に改めむとし、更に又錯簡なりとしてこれらの歌の位置を甚しく改めたり。されど、この行幸は續日本紀に太上天皇といふ事こそなけれ明かに秋九月と書し、又本集卷九なるも同じ時の事と見ゆれば、誤とするは強言なり。この故にこれらの説いづれも從ふべからず。さては古來のままに「オモフナ」といひては不可なりやといふに、然らず。この「ナ」は終止形所屬の終助詞にして嘆息の意をあらはし「よ」といふに略同じきものなり。即ち今この巨勢山の、葉のつらつらとうるはしき椿の樹をつらつら見てうるはしとはおもふが、春の時の野山ならば、今よりは更に幾段かまさりてうるはしからむとその春野を想像するよとなり。
○許湍乃春野乎 「コセノハルヌヲ」とよむ。「許」は音をかりて「コ」にあて「湍」は訓をかりて「セ」にあてたるなり。「湍」字は新撰字鏡に「疾瀬也」とあり。即ち「せ」の國語に該當する字なり。さてこの一句は反轉法によりて置けるにて上の「思ふな」の補格たるなり。
○一首の意 唯今秋の時に行幸に供御して紀伊に赴かむとして、巨勢山の邊を通りて見れば、この巨勢山には葉のつらつらと光りてれるうるはしき椿の樹を見たり。われは今この椿樹をよく見てつらつらにうるはしと思ふが、さてもこれが春ならましかば、今のうるはしさよりも(266)一層まさりてうるはしからましとその春の巨勢山あたりのながめを想像することよとなり。かく解すれば秋を春と改むることも、又古義の如く歌のあり所を改むる如き武斷を施すことも必要なきことといふべきなり。
 
右一首坂門人足
 
○ これは坂門人足の作なる由をことわれるものなり。この人供奉のうちに在りしならむが、その傳詳かならず。新撰姓氏録に、「坂戸物部」とありて「神饒速日命天隆之時從者坂戸天物部之後者不見」と注せり。この坂門と同じかるべしといへり。これにもそれにも姓なければ卑しき氏なりしならむ、
 
55 朝毛吉《アサモヨシ》、木人乏母《キビトトモシモ》。亦〔左○〕打山《マツチヤマ》、行來跡見良武《ユキクトミラム》、樹人友師母《キビトトモシモ》。
 
○朝毛吉 舊訓「アサモヨイ」とよみ、平安朝以後專らかくよめり。されど「吉」を「ヨイ」といふは後世の音便なれば、從ふべからず。又「吉」字を元暦本などに「告」とかき、さて「アサケツグ」とよみたれど、これ亦意をなさず。卷四「五四三」に「麻裳吉《アサモヨシ》、木道爾入立眞土山《キヂニイリタツマツチヤマ》」卷七「一二〇九」に「麻毛吉《アサモヨシ》、木川邊之《キノカハノベノ》、妹與背之山《イモトセノヤマ》」卷九「一六八〇」に「朝裳吉《アサモヨシ》、木方往君我《キベユクキミガ》、信土山《マツチヤマ》、越濫今日曾《コユラムケフゾ》」卷十三「三三二四」に「朝裳吉《アサモヨシ》、城於道從《キノヘノミチユ》」とある等を見わたすに「アサモ」は卷四に「麻裳」とかけるが正字にして、「吉」は「ヨシ」とよむべく、その「ヨシ」は「アヲニヨシ」等の「ヨシ」と同じ語なりと知らる。さればこれは僻案抄に「アサモヨ(267)シ」とよめるによるべきなり。その意を釋するにも古くより種々の説あれど、從ふべからず。これは、「き」といふ語の枕詞たること上の諸例に通じて知らるるものなるが、「麻裳よ」といひて「着る」の意にとりて「き」の語の枕詞としたりといふ説あり。これは久老の説なるが、これによるべきなり。
○木人乏母 古來「キビトトモシモ」とよめり。木人は紀人なり。卷十一「二六五」に「難波人《ナニハビト》」古事記仁徳卷に「岐備比登《キビビト》」とあるなど同じ趣の語なり。「トモシ」は上にいへる「羨し」の意なり。「モ」は嘆息の意をあらはせり。
 以上一段落なり。
○亦打山 流布本「赤」に作れど古來「マツチヤマ」とよめるは「亦」の字としてよめるものにして「赤」は誤なること、元暦本、類聚古集等によりて知るべし。「マタウチ」の「タウ」をつづめて「マツチ」といふなり。上にあげたる卷四「五四三」の歌に「眞土山」卷九「一六八〇」の歌に「信土山」とある山これなり。これは又待乳山ともかきて、大和國宇智郡坂合部村上野より紀伊國伊都郡隅田村待乳に至る峠にして、紀州街道の要路にあり。高からぬ所なれど、名所として古來世に知られたり。さてこの下に「を」助詞を入れて考ふべし。
○行來跡見良武 「ユキクトミラム」とよむ。「行き來と」の「と」は今の語にては「とて」と解すべし。此方より彼方に行くとては見、彼方より此方に來るとては見るの意なり。卷九「一八一〇」に「葦屋之《アシノヤノ》、宇奈比處女之《ウナヒヲトメノ》、奧槨乎《オクツキヲ》、往來跡見者《ユキクトミレバ》、哭耳之所泣《ネノミシナカユ》」とある「往來跡見者」も同じ趣なり。「みらむ」は現(268)今にては「みるらむ」といふべきを連用形より「らむ」につづけていふこと古語の一格なり。卷五「八六二」に「比等未奈能美良武麻都良能《ヒトミナノミラムマツラノ》、多麻志末乎《タマシマヲ》」と假名書にせるにて見るべし。「らむ」に現實を推量する複語尾なるが、ここは連體格にして下の「樹人」につづけたるなり。
○樹人友師母 上の「木人乏母」と同じ語をくりかへせるなり。
○一首の意 この歌二段落にして、第一段は先づ木の國人のうらやましきことをいひて、冒頭とし、第二段に至りてそのうらやましといふ理由を明かにせるなり。其の意はわれ今この眞土山を打越えて、かねて名に負へる勝地に感ずる所なるが、かくも名高き眞土山をば行來の度毎に飽くばかり見るらむ紀の國人はうらやましきことよとなり。
 
右一首調首淡海
 
○ これは右の一首の作者を注せるなり。この人の名、日本紀天武天皇元年六月の條に見え、續日本紀を見れば、和銅二年正月に正六位上調連淡海に從五位下を授けられ、同六年四月には從五位上慶雲七年五月には正五位上たり。もと首姓なりしが、後に連姓を賜はりしなるべし。新撰姓氏録によれば「調連水海連同v祖、百濟國努理使主之後也、譽田天皇謚應神御世掃化、孫阿久太、男彌和次賀夜次麻利彌和、億計天皇謚顯宗御世蠶織献2※[糸+施の旁]絹之樣1仍賜2調音姓1云々」と見えたり。
 
或本歌
 
(269)○ 題の地位にかくかけるは普通の例と違へり。木村正辭は後人の注せしものなるべくして、一字下げてかける注なるべしといへり。この説然るべし。この歌上の「巨勢山」に連關する説なるべく、なほ他に異説あれど、穩かなるはこの説なり。
 
56 河上乃《カハカミノ》、列列椿《ツラツラツバキ》、都良都良爾《ツラツラニ》、雖見安可受《ミレドモアカズ》、巨勢能春野者《コセノハルヌハ》。
 
○河上乃 「カハカミノ」とよむ。これは下に「巨勢能春野者」とあるによりて思ふに、その附近の河上なるべくして、この河は蓋し曾我川の上流にして古瀬山の邊なるをいへるなるべし。この「カハカミ」も上流の意にあらずして、岸上をいへるならむ。
○列列椿郡良郡良爾 上にあるに同じ。
○雖見安可受 「ミレドモアカズ」とよむ。いくらみてもあくことなしとなり。
○巨勢能春野者。 これは反轉法によりおけり。
○一首の意 巨勢の春野の椿のながめはいくら見ても飽くことなきながめなりとなり。按ずるにこの一首は春の巨勢野をよめるなれば、この行幸の折の歌にあらず。然れども上の「巨勢山」の歌の意の本づく所はこの歌によめる如きものにして、上の歌はこの歌の如きを本としてよめるものなるべし。もとよりこの歌は同時の人の歌なれば本歌とするは如何なれど、この歌の如き意を下に心得てかの歌を考へ來ればまことによく上の「巨勢山」の歌の意を解しうべきなり。或は思ふに、この歌もとは、上の巨勢山の歌に對しての裏書にして初めはその參考の(270)爲に注しおけるを後人がここに記入せしにあらざるか。
 
右一首 春日藏首老
 
○ これは上の一首の作者を注せるなり。
○春日藏首老 この人もと僧にて弁紀といひしが、大寶元年三月勅によりて還俗せしめられしこと續日本紀に見えたり。その時には賜2姓春日倉首名老1授2追大壹1と見えたれば、學才などありて朝廷に有用の人物なりしなるべし。かくて春日は氏、倉首は姓、老は名なること明かなり。和銅七年には正六位上春日椋首老に從五位下を授くと見ゆ。懷風藻には從五位下常陸介春日藏首老年五十二と見えたり。春日藏首は續日本紀に天平神護二年三月丁亥左京人從七位下春日藏毘登常麿等二十七人賜2姓春日朝臣1」とある「春日藏毘登」と同じものなるべければ「藏首」は「クラビト」とよむべし。その他の氏にも次田倉人、(天武紀)河内藏人(續紀十一)白首椋人(同上、廿九)池上掠人(姓氏録)河原藏人(同上)などあり。同じ姓なりと見えたり。さてこの人の歌なほ下にも見えたり。
 
二年壬寅太上天皇幸2于參河國1時歌
 
○ 續日本妃に大寶二年十月の條に「(乙未朔)甲辰(十日)太上天皇幸2參河國1」とあり。本書月を脱せり。かくて尾張美濃伊勢伊賀を經て京に還幸ありしは十二月(甲子朔)戊子(廿五日)なり。さて(271)ここにはその行幸に從へる人のよめる歌をあげたるなり。
 
57 引馬野爾《ヒクマヌニ》仁保布榛原《ニホフハギハラ》、入亂《イリミダリ》、衣爾保波勢《コロモニホハセ》、多鼻能知師爾《タビノシルシニ》。
 
○引馬野 「ヒクマヌ」とよむ。遠江國今の濱松市附近にある野なり。十六夜日記に「こよひはひくまのしゆくといふ所にとどまる、ここのおほかたの名をば濱松とぞいひし」と見ゆ。今濱松の北に曳馬といふ地あり。これ古の名殘にして、盖し、引馬野といひしはこの地の附近一帶の原野なりし時代の稱ならむ。古義には「此(ノ)野は今三方が原といふとぞ」といへれど、この地の人にきくに三方原と引馬野とは異なり。三方原は高原にして、その南の低原が古の引馬野なりしなり。さてこの野は遠江國なれば、參河國に御幸ありしといへると違へるやうなれど、事の次いでなどにこの地に至りしことなどありてよめりしならむと考の別記にいへり。
○仁保布榛原 舊訓「ニホフハギハラ」とよみしを略解には枝直の説によりて「ハリハラ」とよみたり。「にほふ」は色の艶なるをいふ。榛は今の「ハンノキ」といひ、萩といひて決しかねたること上に既にいへり。
○入亂 舊本「イリミタル」とよみ、又「イリミタレ」とよめる本もあり。契沖も「イリミダレ」とよむべしといへり。按ずるに「ミダル」と切るは歌の意にあはず。「ミダレ」といふは破格にあらねど、古語にてはこの語四段活用たるなれば、その連用形にて「ミダリ」とよむべし。考に「ミダリ」とよみたるはよけれど、これを古の活用の格なりと考へずして「イリミダラシ」の約言とせるは不當な(272)り。これには「入りて亂らす」意なる場合と「入りて自ら亂るる」意なる場合とあり。ここは今の語の入り亂れにして左往右往行きまはることなるべし。
○衣爾保波勢 「コロモニホハセ」とよむ。「にほはす」とは色つけしむるをいひ「にほはせ」はそれの命令形にしてこれは所謂摺衣とするよしをいへるなり。日本紀天武天皇卷朱鳥元年に「蓁摺御衣三領」の文あり。これ榛もて摺れる摺衣なり。摺衣とは種々の木草の汁もて木模に彫れる模樣を布帛にすりあらはしたる衣なり。山藍にてすれる衣、しのぶすりの衣、紫の根ずりの衣萩が花ずりなどいへる皆同じ趣の語なり。なほ榛摺の衣のことは、卷十「一九六五」に「思子之衣將摺爾《オモフコガコロモスラムニ》、爾保比乞《ニホヒコセ》、島之榛原《シマノハギハラ》、秋不立友《アキタタズトモ》」とも見ゆ。おもふにこは十月なれば、萩の花もありぬべく見ゆ。又卷八「一五三二」に「草枕《クサマクラ》、客行人毛《タビユクヒトモ》、往觸者《ユキフレバ》、爾保比奴倍久毛《ニホヒヌベクモ》、開流芽子香聞《サケルハギカモ》」ともあれは萩にもいふ事と見ゆ。されば二者いづれか又決しかねたりとす。
○多鼻能知師爾 「タビノシルシニ」とよむ。「シルシ」を古義に得分の義とせるは一概なり。ここまで旅したる記念にといふ程の意なり。考に「旅人は摺衣きる古へのならひ也」といひしより、學者これに拘泥すれどこはいひすぎにしてさる證なし。されど摺衣が古、晴の衣たりしことは首肯せらる。この句反轉法によりて上にあるべきをここにおけるなり。
○一首の意 この引馬野まで旅したる記念にこの萩の花さきにほふ原に入りて左往右往して衣をばその色にすりつけにほはせよとなり。實際の摺衣はかかる簡易のことにて出來るものにあらざるべけれど、歌なれば、かく事もなげにいひたるならむ。
 
(273)右一首長忌寸奧麿
 
○長忌寸奧麿 「ナガノイミキオキマロ」とよむ、この人傳詳かならず。卷三【十八張】にも歌あり。又卷二【廿二張】卷九【八張】卷十六【十七張】に長忌寸意吉麿とかけるも同人ならむ。
 
58 何所爾可《イヅクニカ》、船泊爲良武《フナハテスラム》、安禮乃崎《アレノサキ》、榜多味行之《コギタミユキシ》、棚無小舟《タナナシヲブネ》。
 
○何所爾可 舊訓「イツコニカ」とよめるを僻案抄に「イツクニカ」と改めたり。この詞の事既に「四一」にいへる如く集中の假名書なるに、「イツコ」とあるもの一もなければ、「イヅク」とよむをよしとす。
○船泊爲良武 「フナハテスラム」とよむ、船を「フナ」といふは「タケ」を「タカ」「サケ」を「サカ」といふ如く他の語に冠して熟語をなす時に生ずる音の変化の一法格なり。卷十四「三四二〇」に「布奈波之《フナハシ》」卷二十「四三二九」に「布奈可射里《フナカザリ》」卷二十「四三六九」に「布奈與曾比《フナヨソヒ》」などの例あり。古事記允恭卷の歌に「布那阿麻理《フナアマリ》」といふあり。日本紀允恭卷にも同じ語あり。さて船の行きて止まるを「ハツ」といふは古語なり。この語の假名書の例は卷十七「三八九二」に「伊蘇其登爾《イソゴトニ》、海夫乃釣船《アマノツリフネ》、波底爾家利《ハテニケリ》、我船波底牟《ワガフネハテム》、伊蘇乃之良奈久《イソノシラナク》」などあり。「ラム」は現實の状態を推量するものなること屡いへり。
○安禮乃崎 「アレノサキ」とよむ。この地所在詳かならず。行幸の供奉によみしものなれば、參(274)河國にあるべし。或は新居崎なるべしといひ、美濃國不破郡の郷名に「荒崎」とあるこれならむといへるなど諸説あれど、いづれも治定せりとはうけられず。
○榜多味行之 「コギタミユキシ」と流布本によめるに從ふべし。「榜」字は既にいへり。「タミ」といふ語は類聚名義抄に「迂」字、に「タミタリ」の訓あり、「迂廻」の二字に「タミメクレル」「タミサカレル」の訓あり。されば「迂曲」の意にて横に折れ入ること、又は曲り入り廻れるをいふ意と見えたり。又卷十一「二三六三」に「崗前《ヲカザキノ》、多未足道乎《タミタルミチヲ》」といへるを見れば、曲りめぐれる道と解せるを當れりとするなり。「こぎたむ」といふ語は卷三「二七三」に「磯前《イソノサキ》、榜手回行者《コギタミユケバ》」とある「榜手回」の字面は「た」に「手」をあて「手回」にて「タミ」とよみたるものにして同卷「三五七」に「奧島榜回舟者《オキツシマコギタムフネハ》」又「三八九」に「敏馬乃崎乎《ミヌメノサキヲ》、許藝廻者《コギタメバ》」などの「榜回」「許藝廻」などは「タミ」に「回」をあて又卷十二「三一九九」に「磯回從《イソミヨリ》、水手運往爲《コギタミイマセ》」などは「タミ」に運字をあてたるものなるが、意はいづれも同じと知るべし。
○棚無小舟 「タナナシヲフネ」とよむ。「タナ」は所謂「フナタナ」なるが、それの從來の説明は違へり。「フナタナ」は新撰字鏡、類聚名義抄に舷を「フナタナ」とよみ、和名鈔に※[木+世]を「フナタナ」とよめるこれなり。※[木+世]は大船の旁板とあればこれのなき小舟即ち棚無小舟たるなり。くはしくいへば、敷即ち「かはら」と最下の側板即ち「かしき」とのみよりなれる小舟なり。このことはわが訓義考に委しくいへり。
○一首の意 先きほどあれの崎を漕ぎ廻りて行きしあの棚無小舟は今頃は何處に船をはててあらむかとなり。
 
(275)右一首高市連黒人
 
○ この人の傳詳かならず、よめる歌はこの外にも見ゆ。卷三にはこの人のよめる覊旅歌八首あるうちにも亦棚無小舟をよめり。
 
與謝女王作歌
 
○與謝女王 「女王」はただ「オホキミ」とよむべし。この女王の父祖未だ詳かならず。續日本紀慶雲三年の條に「六月癸酉朔丙申從四位下與謝女王卒」と見ゆ。さてここの歌の趣にては夫君ましまししやうなれど、何人なりしか明かならず。文字の面のみにてはその夫君の行幸に供奉せしを京に在りて、しのべるか、又は自ら供奉して京に留れる夫君を思へるか二樣に見らるべし。代匠記考等にはいづれも旅なる夫を思ふ歌とせり。かく解する方よろしきならむ。
 
59 流經《ナガラフル》、妻吹風之《ツマフクカゼノ》、寒夜爾《サムキヨニ》、吾勢能君者《ワガセノキミハ》、獨香宿良武《ヒトリカヌラム》。
 
○流經 古より「ナガラフル」とよめり。然るを僻案抄には義通せずとして「流」を水行の義にとりて「ミユキフル」とよみたれど不理にして義をなさず。考にはよみ方は舊に依りたれど「流」は借字にて「長ら經《フ》ル也|寢衣《ヨルノモノ》のすその長きをいふ」といへり。されど「長し」といふ語の語幹に「ら」を添へたる「ながら」は副詞の性を有するものなれば、これを「ふる」につづくる事如何にしても從ひが(276)たし。抑もこの「流ラフ」といふ語は「流る」を波行下二段に轉じ活用せしめしものにしてその作用の繼續せるをいふ語なり。此卷「八二」に「天之四具禮能《アメノシグレノ》、流相見者《ナガラフミレバ》」卷八「四二〇」に「沫雪香《アフユキカ》、薄太禮爾零登《ハダレニフルト》、見左右二《ミルマデニ》、流倍散波何物花其毛《ナガラヘチルハナニノハナゾモ》」卷十「一八六六」に「桜花《サクラバナ》、散流歴《チリナガラフル》」などあり。「ナガル」といふは通常液體につきてのみいへれど氣體につきてもいへる詞たることこの歌にて知られたり。その「ナガ」は長の意の「ナガ」と同源なるべけれど、「ナガル」は動詞としてその物體の流動のあとの長く引き續きて見ゆるをいふなれば雨のふるにも花の散るにもいへるなり。ここは引き讀きて吹く風の作用をいへること疑ひなし。「流ラフル」を諸注「妻」にかけてときたれど。さにはあらずして「風」につきての連體格と見るべきなり。
○妻吹風之 「ツマフクカゼノ」とよむ。「つま」は衣のつまなり、代匠記に「夜の物のつまなりといひ、夜のものは長き物なればつまも、すそになびきてあるをながらふるつまといへり」といひ、諸家この説の範圍を出でざりしが、荒木田久老は「衣」といはずして妻とのみいふべきにあらず、「妻」は「雪」の誤ならむといへり。かく見れば雪のふるを「ながる」といへる古語の例(たとへば、卷十「二三一四」に「卷向之《マキムクノ》、檜原毛《ヒハラモ》、未雲居者《イマダクモヰネバ》、子松之末由《コマツガウレユ》、沫雪流《アワユキナガル》」など卷五「八二二」に「阿米欲里由吉能《アメヨリユキノ》、那何列久流加母《ナガレクルカモ》」など)にも合ひて意よくとほるが如し。かくて校異本に「妻異本作v雪」とし、守部は直ちに「雪」と改めて本文とし、古義は「妻」の字に「ユキ」の訓をつけたれど、現存の古今の萬葉集一も「雪」に作れる本なし。然るときはこの久老の説一往面白しといへども從ひかぬることといふべし。按ずるに「衣のつま」といふべきを直ちに「つま」とよむが如きは理窟をいはば、不都合の如くに見(277)ゆれど、今人も往々かくの如き詞遣をなすことあり。萬葉時代にかかる詞遣なしといふべからず。今この集を繰返して按ずるにかかる詞遣をなせるものは少からざるなり。たとへば卷四「六三九」に「吾背子我《ワガセコガ》、如是戀禮許曾《カクコフレコソ》、夜干玉能《ヌバタマノ》、夢所見管《ユメニミエツツ》、寢不所宿家禮《イネラエズケレ》」卷八「一四九五」に「足引乃《アシビキノ》、許乃間立八十一《コノマタチクク》、霍公鳥《ホトトギス》、如此聞始而《カクキキソメテ》、後將戀可聞《ノチコヒムカモ》」とあるが如きは「ぬはたまの〔五字傍線〕よるの〔三字二重傍線〕ゆめ〔二字右○〕」「あしびきの〔五字傍線〕やまの〔三字二重傍線〕このま〔三字右○〕」なるべきに、その中問の「よるの」「やまの」を略したるなり。かくするを得るは、その前後の關係によりてその語を省きても意明かなるが故なり。かの卷五「七九七」に「久夜斯可母《クヤシカモ》、可久斯良摩世婆《カクシラマセバ》、阿乎爾與斯《アヲニヨシ》、久奴知許等其等美世摩斯母乃乎《クヌチコトゴトミセマシモノヲ》」とあるも「あをによし」は「なら」の枕詞なるによりて「なら」といふ語が明かに認めらるべければ、省きたるなり。なほ上にいへる「白浪乃濱松之枝」(三四)卷六の「炎乃《カギロヒノ》春」「露霜乃秋」(一〇四七)卷十の「※[(貝+貝)/鳥]之春」(一八四五)の如きも然り。されば、ここも「つまふく風」といへば、衣のつまなる事明かなるによりて省きたるにてなほ衣の褄なるべきなり。されど契沖が夜の物の褄なりといへるはいひ過ぎなりと考へらる。即ち上に「衣手にかへらふ」といひ、又「袖吹きかへす」などいへると趣甚しくかはらずして、なほ著たる普通の衣服を吹くをいへるにてこゝにては歌としてこのつまといふ詞を用ゐるより外に方法なきはよくうたひ試みば知らるべし。さてこれは衣の妻を吹く風の流らふる風といふやうに解すべし。「流らふる」をかく風にかかれりとせぬが故に「妻」を「雪」と改めむなどいふ説の生ずるなり。
○寒夜爾 「サムキヨニ」とよむ。吹く風の寒き夜をいふなり。この時舊暦十月十一月の交なれ(278)ば夜風身に沁むべきなり。
○吾勢能君者 「ワガセノキミハ」とよむ。夫を「セ」といふことは既にいへり。
○獨香宿良武 古來「ヒトリカヌラム」とよみたり。元暦本などに「ヒトリカモヌラム」とよみたれど「香」一字を「カモ」とよむべきにあらねば從ひ難し。さてこの「カ」は疑の助詞なれば獨りねしたまふらむかと想像してあはれを催せるなり。
○一首の意 家に在りて寢ぬるだにかく寒き夜なるをば、わが夫の君の旅のひとり寢はさぞ物うくつらからむとなり。
 さてこの歌もとよりその御幸に關する歌なれど從駕者の歌にあらねば、その作者の名を左注とせず、かくせしにか、又皇族なるが故にかくせしかと考ふるに、なほ止まれる人の歌なれば、從駕の人と區別せしなるべきか。
 
長皇子御歌
 
○長皇子 「ナガノミコ」とよむべし。この皇子の事は續日本紀に靈龜元年六月「甲寅一品長親王薨天武天皇第四之皇子也」とあり。又天平神護元年十月己未朔「庚寅是日從三位廣瀬女王薨、二品那我〔二字右○》親王之女也」とある那我〔二字右○〕親王これなりといへれど品位異なれば、異同を知らず。さて攷證には「目録と次の歌の例によりて補ふ」といひてこの御歌の字の下に「從駕作歌」といふ四字を加へたり。然るにこの歌の趣にてはその思ひ妻などの車駕に從ひて旅せるを思ひてよまれ(279)たる趣なること著しければ從駕作歌とは認められず、されど、目録には明にこの四字あり。按ずるにこの四字は次の「舍人娘子從駕作歌」とあるに目うつりして誤りし竄入なるべし。その故は一旦御歌とかきて更に「從駕作歌」とかくべき由もなく又さる例もなきのみならず、上に「御歌」といひ、下に「作歌」とあるも矛盾せり。この故にこの四字は代匠記の説に從ひ衍とすべし。
 
60 暮相而《ヨヒニアヒテ》、朝面無美《アシタオモナミ》、隱爾加《ナバリニカ》、氣長妹之《ケナガキイモガ》、廬利爲里計武《イホリセリケム》。
 
○暮相而 古來「ヨヒニアヒテ」とよみ來れり。「暮」は廣雅の釋詁に「暮夜也」とあり。「ヨヒ」はもと初夜をいふ語なり。暮の字義も亦同じかるべけれど、眞意はただ夜の義なり。「相而」の「アフ」はここにては男女相會するをいへり。
○朝面無美 仙覺以前の舊本、元暦本類聚古集等には「アシタオモナミ」とよめり。仙覺は之を否として「アサカホナシミ」とよみ、爾來流布本みな之に從ひたれど、意をなさず。契沖に至りて舊本の訓をよしとすといへるより諸家之に從へるなり。「無ミ」は無き故に、又は無きによりてといふ義なり。「面ナシ」とは今面目なしといふに似たる語にして、恥づる心にて面をかくすをいふ。「夜べ新枕などせし少女はその翌朝は恥ぢて面がくしするものなるを序として隱てふ言にいひかけたるなり」と考にいへり。上二句はただ下の「ナバリ」といふ語の序にしたるなり。
○隱爾加 舊訓「カクレニカ」とよみたれど義をなさず。元暦本類聚古集等には「シノヒニカ」とよみたれど、なほ義明かならず。これを「ナバリ」とよみて伊賀郡名張とすることは既にいひたる(280)如く本居宣長の説なり。卷八「一五三六」にも「暮相而《ヨヒニアヒテ》 朝面羞《アシタオモナミ》、隱野乃《ナバリヌノ》、芽子者散去寸《ハギハチリニキ》、黄葉早續也《モミヂハヤツゲ》」とあり。名張が藤原京より三河國にいでます順路に當ることは既にいへる所なり。さてその地名の隱《ナバリ》とおのが思ふ人の久しく見えざるを「ナバリタルカ」とかけていへる意あり。「爾加」は地名につけりとすれば「ニ」は場所を示すものとなり、隱るゝ意にとれば、目的を示すものとなる。さて「カ」はいづれにしても疑問をあらはす助詞たり。
○氣長妹之 古來「ケナカキイモガ」とよみ來れり。「ケ」といふ語は「來經《キヘ》」といふ語の約言にして、「きへ」は古事記中卷日本武尊の御歌に「阿良多麻納登斯賀岐布禮婆《アラタマノトシガキフレバ》、阿良多麻能《アラタマノ》、都紀波岐閉由久《ツキハキヘユク》」といふ例にて知るべく、時間の經過するをいふ動詞なり。その連用形「キヘ」を以て名詞と變ぜしめしものの約が「ケ」なるなり。卷十三「三三四六」に「草枕此※[覊の馬が奇]之氣爾妻應離哉《クサマクラコノタビノケニツマサクベシヤ》」とよみたるその例なり。「ケナガシ」といふ語は古事記下卷衣通王の歌に「岐美加由岐《キミガユキ》、氣那賀久那理奴《ケナガクナリヌ》」(この歌本集卷二のはじめにもあり)本集卷四「六四八」に「不相見而《アヒミズテ》、氣長久成奴《ケナガクナリヌ》」など例少からす。「妹」はここには妻をいへるなり。別れて月日久しくなれる妹といふ義なり。
○廬利爲里計武 「イホリセリケム」とよむ。「イホリ」は「イヘヲリ」の約にして假初の家をつくりて居るをいふ。之を略して「イホ」ともいふ。かくして用より體に轉ずるなり。諸家往々「イホ」といふ語より「イホリ」の出でたりといへるは逆なり。さて又この「イホリ」を行宮とする説あれどそれは必ずしも從ひがたし。卷十五「三五九三」に「伊都禮乃思麻爾伊保里世武和禮《イヅレノシマニイホリセムワレ》」「三六〇六」に「多麻藻可流《タマモカル》、乎等女乎須凝弖《ヲトメヲスギテ》、奈都久佐能《ナツクサノ》、野島我左吉爾《ヌジマガサキニ》、伊保里須和禮波《イホリスワレハ》「三六二〇」に「比具良之能《ヒグラシノ》(281)奈久之麻可氣爾《ナクシマカゲニ》、伊保利須流可母《イホリスルカモ》」とあり。旅のやどりに假廬をつくるをば「いほりす」とはいへるなり。「せり」は「シテアル」ことをいふなり。「けむ」は過去を想像するなり。かくて上の句の「か」をうけたれば、疑問の體を爲せり。
○一首の意 行幸の御供にて行きし女の日數へてかへりこぬを待かねたるよしなり。こは此皇子の思ひ人の許へおくらせ給ひしなるべしといふが普通の説なり、それらの説少しく物足らず。これはわが妹の旅立ちせしより月日數多經ぬ。かく氣長きは妹が名張の邑にいほりしてありけむ故かとなり。かくよめるはこの行幸の往還共に名張の邑を經過しませば永く名張の邑にあるが如く思はるると共に、隱《ナバリ》といふ語の意の如く永く隱れて見えぬ如く思はるるとをかけて語のあやをなせるなり。
 
舍人娘子從駕作歌
 
○舍人娘子 「トネリノイラツメ」とよむ。舍人は氏なるべし。舍人氏は新撰姓氏録に「百濟國人利加志貴王之後也」と見え、天武紀に「舍人造糠蟲」に連の姓を賜ひし記事あり。さてこの娘子は名にはあらずして、ただむすめといふ程の義なるべきが、氏の下にかけるはいづれも「イラツメ」とよむべしと考にいへり。その例は古事記に多し。この人は舍人親王と歌よみかはしたること卷二に見えたれば、或は舍人親王の傅たりし舍人氏の娘にはあらざるか。卷八にはこの人の雪を詠ぜる歌あり。この歌はこの度の行幸に從ひてよめる歌なり。
 
(282)61 大夫之《マスラヲノ》、得物矢手插《サツヤタバサミ》、立向《タチムカヒ》、射流圓方波《イルマトカタハ》、見爾清潔之《ミルニサヤケシ》。
 
○大夫 「マスラヲ」とよむこと及び、意義は上「五」にいへり。
○得物矢 舊訓「トモヤ」とあり。而してその義は兩矢をさすといへり。されど、かかる事は古典に證なし。僻案抄には「サツヤ」とよむべしといひたるが、その據を示さず。されど、その據は恐らく仙覺抄に引ける伊勢風土記の歌なるべし。その後、考には明かに伊勢風土記の歌によりて「サツヤ」とよむべしと明言し、爾來諸家皆これに從へり。その伊勢風土記の文は
  的形浦者此浦地形似v的故爲v名今已跡絶成2江湖1也。天皇行2幸浦邊1歌曰、麻須良遠能《マスラヲノ》、佐都夜多波佐美《サツヤタバサミ》、牟加比多知《ムカヒタチ》、伊流夜麻度加多《イルヤマトカタ》、波麻乃佐夜氣佐《ハマノサヤケサ》
とあり。この文この歌に深き關係ありと思はる。「サツヤ」とは「サチヤ」の轉なるべし。「サチ」は山幸海幸などの「幸」の義の語にして日本紀自注に「幸此云2佐知1」とあり。漁獵の獲物をいふ。この故に「得物」の二字を「サチ」にあてたるなり。「サチヤ」といふべきを「サツヤ」といへるは「サチヲ」といふべきを「サツヲ」といへる例にて考ふべし。卷三「二六七」に「山能佐都雄《ヤマノサツヲ》」とあり。卷十「一八一六」に「左豆人《サツビト》」卷五「八〇四」には「佐都由美乎《サツユミヲ》」とあり、卷二十「四三七四」には明かに「佐都夜奴伎《サツヤヌキ》」とあるなり。
○手插 古來「タバサミ」とよめり。然るに、古義には「ダハサミ」とよむべしといへり。その理由とする所はくだ/\しけれど、要するに上の語と連ねて一にする爲に起る連濁の現象を呈すと(283)いふにあるが如し。されどこは採るべからぬ事なり。何となれば、この場合に「サツ矢」と「タバサミ」とが熟語となる如き現象は少しも起きずして「サツ矢」は「タバサム」といふ動詞に對して「ヲ」補格たること極めて明かなればなり。されば、他の諸家一人もこれをとらざるは理由明かなることなり。「タバサム」といふ語は手指に挾みもつことなり。卷十六「三八八五」に「梓弓八多婆佐彌比米加夫良《アヅサユミヤツタバサミヒメカブラ》、八多婆佐彌《ヤツタバサミ》」などの例あり。
○立向 「タチムカヒ」とよむ。これは弓矢をとりて射むとして的に立ちむかふといふ義にていへるなり。卷二「二三〇」に「立向《タチムカフ》、高圓山《タカマトヤマ》」とあるも同じ趣なり。
○射流圓方波 「イルマトカタハ」とよむ。上より三句及び「射流」までは「マト」といふ語をいはむ料の序の詞にすぎず。伊勢風土記の歌も同じ趣なり。圓は「マロ」なり。「マロ」を「マト」といふは音の通へるなり。即ち射術に用ゐる的なり。これは實際圓形のものを用ゐるによりて「マト」といへるなり。その「マト」といふ語の縁によりて上の詞を「マトカタ」といふ地名の序とせるなり。さて「マトカタ」といへるは浦の名なること、上の伊勢風土記にて見るところなるが、その地は今詳かならず。延喜式神名帳に伊勢國多氣郡に「服部麻刀方神社」あり。その神社は和訓栞に「今下機殿といひ、下館といふ大垣外村にあり」といへり。この地は今海岸にあらねど、古は或は入江なりしか。されど、委しきことは知られず。
○見爾清清之 「ミルニサヤケシ」とよむ。肥前風土記に「分明謂2佐夜氣志《サヤケシ》1」とあり。續紀卷三十の歌に「布智毛世毛《フチモセモ》、伎與久佐夜氣志《キヨクサヤケシ》、波可多我波《ハカタガハ》」とあり。本集卷十三「三二三四」には「河見者《カハミレバ》、左夜氣(284)久清之《サヤケクキヨシ》」とあり。この外山河の景に「さやけし」といへる例本集に少からず。「さやけし」は漢文にて山水明媚などいふ明媚にあたるべし。今この的形の景を見るに如何にも明媚の地たりとなり。
○一首の意 この的形の浦の地は來て見るにいかにも心地よくすがすかしきよき風景の地なりとなり。さてかく的形といはむが爲に序の詞を長々とおきたるは序の詞ながらおのづからその風景のさまを言外にいへるにて、大丈夫のさつ矢を手挾みて的に立向ひて矢を射るさまにも似通ひて雄大なる風景なることをおのづから思はしむる效はあるなり。なほこの歌とかの伊勢國風土記なる記事とは必ず連絡あるべく思はる。恐らくは風土記の記事はこの時の行幸の事にてもあるべく、この歌と風土記の歌とは或はもと同じ歌なりしが、二の傳説を生じたるにあらざらか。そはともあれ。この度の行幸に的形の浦にいでまししことありしは疑ふべからざる所なるべし。
 
三野連名闕入唐時春日藏首老作歌
 
○三野連 この下の「名闕」は蓋し原本に既に名を署せざりし由を記せるものなるべきか、或は後人の筆に出でしものなるべし。「三野」は美濃國をもかく書けど、これは新撰姓氏録河内國神別に美努連とある氏にして、記して曰はく、
  同神(角凝魂紳)三世孫、天湯川田奈命之後也。
(285)とあり。これは古事記崇神卷に河内之美努村とある地によりて起れる氏とおぼえたり。かくてこれは日本紀清寧卷に「河内三野縣主小根」といふとありて日本紀天武十三年に「三野縣主賜v姓曰v連」ともあれば、これは三野とも美努ともかきしこと知られたり。さてここに三野連「とありて「名闕」とあれど、この人は元正天皇靈龜二年正月に「授2正六位上美努連岡麿從五位下1」とある人なり。續紀大寶元年の條に粟田眞人以下遣唐使の事を載せたれど、この人の事は見えず。されど、その墓誌によりて入唐せし事は明かに知らる。この墓誌は明治五年に大和國平群郡萩原村の地より掘り出せる銅版に刻せるものなるが、その文に臼はく
  我祖美努岡萬連(中畧)大寶元年歳次辛丑五月使2乎唐國1(中略)靈龜二年歳次丙辰正月五日授2從五位下1任2主殿寮頭1。神龜五年歳次戊辰十月廿日卒、春秋六十有七。
とあり。而して本集の勘物には
  國史云大寶元年正月遣唐使民郡卿粟田眞人朝臣已下百六十人乘2船五雙1、小商監從七成下中宮小進美努連岡麿
と見えたり。この國史とは何をさすか、今詳かにし難しといへども浮きたる事にはあらざるべし。なほこの人の事はわが續古京遺文に注せり。
○入唐時 「入唐」とは唐に行くことをいひしなるが、入とは外より内に入る義なれば、唐を本國としたる詞づかひにして内外の名分をみだりし書きざまなり。この時遣唐使の出發は大寶元年五月なり。されど、風波の爲に出發おくれて翌二年六月渡海したるなり。續紀二年六月の(286)條に「(丁酉朔)乙丑遣唐使等去年從2筑紫1而入v海風浪暴際不v得v渡v海、至v是及發」とあり。
○春日藏首老 この人の事上「五六」にいへり。この人大寶元年三月に還俗せしなれば、その三月以後出發前によみて贈りしならむ。
 
62 在根良《アリネヨシ》、對馬乃渡《ツシマノワタリ》、渡中爾《ワタナカニ》、幣取向而《ヌサトリムケテ》、早還許年《ハヤカヘリコネ》。
 
○在根良 舊訓「アリネヨシ」とよめり。然るを僻案抄には「アマシネヨク》とよみ、在《マシ》とは汝の義にして「ネ」は尊長を稱する辭にして「ヨク」は「ヨクカヘリコ」といふ義なりといへり。又考にはこの三字悉く誤れりとして、「百船乃」又は「百都舟」なりと改めたり。玉の小琴には太平の説をとりて「布根竟」の誤として「フネハツル」とよむべしといひ、略解には又「布根盡」の誤にして「フネハツル」なるべしといひ、古義には「大夫根之」の誤として「オホブネノ」とよむべしといへり。然れども、かく文字を改むる説はいづれも臆斷の甚しきものにして信ずべからず。荒木田久老は「在嶺《アリネ》よといふ言也」といひて誤字説を否定せり。攷證には「在は借字にて荒る意にて荒磯《アリソ》といふと同じく荒根《アリネ》にて根は島根岩根などの根にて云々」といひて昔のまま「アリネヨシ」とよむことを主張せり。美夫君志また誤字説を非とし「アラネヨシ」又は昔のままによむべしといへり。この外誤字説を非とするものには契沖あり、秋成あり、守部あり。契沖は「古老の説對島に對島の嶺とて高き山あり、唐に往還する舟この國にて風間をも待つに此對馬の根をみつけてよる故に此根のあるがよしと云ふ義なり、今按ずるにあり〔二字右○〕といふに在の字は書きたれどもさかしきあら(287)き峰と云ふ事なるべし」といへり。秋成は「對島の在明山をさしてあらねとよみたり」といへり。かく誤字を非とする態度は吾人も同意する所なれど、その説明には服し難し。品田太吉氏は「あり」は「ありはら」「ありを」などの「あり」にして高くあらはれたるをいふといへり。この説よろしかるべし。「ね)は蓋し島根の「ね」にして古言なるべし。伊豆諸島の附屬の小島又は岩礁に何根と名つきたるところ少からず。ここもその「ね」の意にして「ありね」即ち高くあらはれたる島根よといへるならむ。「よし」は「あをによし」「あさもよし」「たまもよし」などの「よし」におなじ。かくて「つしま」の枕詞とせるなるべし。
○對島乃渡 「ツシマノワタリ」とよむ、對馬は本義、津島にして古、朝鮮と本朝との渡りの津とせし地なれば名を得たるなり。この地は古事記上卷に「津島」とかき、日本紀天智卷に對馬島と見えたり。この對馬の字面は古より用ゐしものと見え、魏志倭人傳に既に「對島國」とかけり。されば、この字面は或は支那にてかきしを本邦にて襲用せしならむか。渡は「ワタリ」とよむ。海にても川にても往來の道筋としわたりて行くべき所をいふなり。古事記應神卷の歌に「知波夜夫流《チハヤブル》、宇遲能和多理爾《ウヂノワタリニ》」とかき、同書神武卷に「經2浪速之渡1」とも見ゆ。ここに「ツシマのワタリ」といへるは蓋し壹岐と對馬との間の渡りをいへるなるべし。
○渡中爾 普通に「ワタナカニ」とよむ。されどまま「ワタリナカニ」又は「ワタルナカニ」とよめる本あり。「ワタ」は「ワタル」意にて海をいへること上にいへるが如し。卷七の末の歌にも「名兒乃海乎《ナゴノウミヲ》、朝榜來者《アサコギクレバ》、渡中爾《ワタナカニ》、鹿子曾鳴成《カゴゾナクナル》、※[立心偏+可]怜其水手《アハレソノカコ》」とあり。
(288)○幣取向而 「ヌサトリムケテ」とよむ。巻十三「三二三六」に「山科之《ヤマシナノ》、石田之森之《イハタノモリノ》、須馬神爾《スメガミニ》、奴左取向而《ヌサトリムケテ》」とあるも語は同じ。「ヌサ」は古事記仲哀卷に「取2國之大奴左1而」などもありて、神に手向け、又は祓に出すものをいふ。ここは神に手向くるものをいふなれば上の「濱松之枝乃《ハママツガエノ》、手向草《タムケグサ》」(三四)といへるに同じ。「ヌサトリムケテ」とは「ヌサ」をとりて神に手向けての義なり。その渡海の中途にて神に幣を手向くることありしならむ。これ陸路にて山の峠又は道の隈などにて道祖神を祭ると同じ趣なる事なり。土佐日記に「夜なかばかりより舟をいだしてこぎくる道にたむけする所あり。かぢとりしてぬさ奉らするに」とあり。されば、その渡り毎にその中途に「ぬさ」奉るべき所定まりてありしならむ。さてかくよめるは、神をよく祭りて道中安全にて旅行せよと祝する意を含めたるなり。
○早還許年 「ハヤカヘリコネ」とよめり。この「年」を金澤文庫本に「牟」とある由なれど誤なること著し。この「ね」は複語尾「ぬ」の命令形にて懇に乞ひ望む意をあらはせるなれば、早くかへりきたまへといふやうの語なり。
〇一首の意 君が唐にいでますその長き旅行も安全なれかしと我は希ふ。然るに海路風波危險にして容易に渡り難しときく。實にも海路はことに恐《カシコ》き事なれば、かの對馬の渡に至りまさば、よく心して海神に幣を手向けて恙なからむことを祈りたまへ。さてその功によりてはやく恙なく歸り來ませ。われは君が歸朝の日を指折りかぞへて待たむとなり。
 
(289)山上臣憶良在2大唐1時憶2本郷1歌
 
○山上臣憶良 本集中屈指の歌人なり。上の美努岡萬と同じく大寶元年の遣唐使の一行にして續紀にこの遣唐使任命の記事には「无位山於憶良爲2少録1、」とあり。かく大使粟田眞人等に從ひて唐に赴きしなり。この人和銅七年正月には從五位下、靈龜二年四月には伯耆守に任ぜられ、養老五年正月には退朝之後東宮に侍せしめられたり。蓋し、學識の當時に秀でたりしによるものなるべし。本集中にある歌は卷五に最も多く、前後五十首に餘れり。
○在大唐時 大唐とかけるは彼を尊びたること入唐といへるに同じ。さてこの遣唐使一行は大寶元年に任命を受けて出發せしが、筑紫にて風浪の難にて海を渡ることを得ず、翌二年六月に出發し、翌々慶雲元年秋七月に歸朝せしなり。その唐にありし時によみしなり。
○憶本郷歌 本郷は故郷の義なり。後漢書章帝紀元和元年の詔に「其令2郡國1募v人無v田欲d徙2它界1就uv饒者恣聽v之……其後欲v還2本郷1者勿v禁」とあるなどその例なり。これは唐にありて汎く本國たる日本をさしていへるなり。この字のよみ方、考には「ヤマトヲ」とよみ、攷證には「モトツクニヲ」とよみ、温故堂本には「フルサトヲ」と訓せり。本集卷十九「四一四四」に「燕來《ツバメクル》、時成奴等《トキニナリヌト》、雁之鳴者《カリガネハ》、本郷思都追《フルサトモヒツツ》、雲隱喧《クモガクリナク》」といふ歌あり。この「本郷」を古來「フルサト」とよみたるが或は單に「サト」とよむべきか。されど「フルサト」とよむより外に適切なる訓なし。されば本郷は「フルサト」といふ訓を正しとすべきなり。
 
(290)63 去來子等《イザコドモ》、早日本邊《ハヤクヤマトヘ》。大伴乃《オホトモノ》、御津乃濱松《ミツノハママツ》、待戀奴良武《マチコヒヌラム》。
 
○去來子等 元暦本に「ユキキネト」とよめど、當らず。流布本に「イザコドモ」とあるに從ふべし。「イザ」は人を誘ひ喚ぶ感動副詞、「コドモ」は汎く人々をさす語なるが、こゝは或は從者をさして呼べるならむ。かゝる語遣の例は古事記應神卷に「伊邪古杼母《イザコドモ》、怒毘流都美邇《ヌビルツミニ》」又卷三「二八〇」に「去來兒等《イザコドモ》、倭部早《ヤマトヘハヤク》」などあり。
○早日本邊 舊訓「ハヤヒノモトヘ」とよめり、又「ハヤクヤマトヘ」とよめる古寫本もありて僻案抄及び考もかくよむべしといへり。日本の文字につきては日本紀神代卷上に「日本此云2邪麻騰1」とあり、又本集卷二に高市連黒人(憶良よりは遙に先輩)の歌とて上にいへる「去來兒倭部早《イサコドモヤマトヘハヤク》、白菅乃《シラスゲノ》、眞野乃榛原手折而將歸《マヌノハギハラタヲリテユカム》」とある歌などによりたりと見ゆ。されば、日本は「ヤマト」とよむべきに似たり。されど、日本を早く文字のまゝ「ヒノモト」ともよみたりと見え卷三「三一九」に「日本之《ヒノモトノ》、山跡國乃《ヤマトノクニノ》」などあり。されど、かくいふ時はいつも、「ヤマト」の枕詞の如くに用ゐたれば、國を實にさすにはなほ「ヤマト」といひしなるべし。略解には「ハヤモヤマトヘ」と「母」を加へてよめるは非なり。古義には「ハヤヤマトヘニ」とよめり。これは「邊」を名詞ととりしなれど、さては下に「ニ」字を加へおくべき筈なれば、なほ「ハヤクヤマトヘ」とよむをよしとす。さてこゝにて一段落をなして「ヘ」の下に「歸らむ」などいふ語を略せるなり。
○大伴乃 「オホトモノ」とよむ。これをば古來枕詞とし、大伴の稜威とかけしなりといへり。こ(291)れもいはれなきにあらねど。こゝはしかにはあらずして、難波の邊一帶の地は昔時大伴氏の領地とおぼしくてやがてその邊の總名となりしならむか。この説は上田秋成の冠辭考續貂の説なるが、それは日本紀欽明卷に「大伴金村大連居2住吉宅1稱v疾而不v朝」といひ、日本靈異記にも大伴野栖古と云ふ人「居2雖波宅1而卒」と見え、又本集卷七「一〇八六」の歌に「靱懸流《ユキカクル》、伴雄廣伎《トモノヲヒロキ》、大伴爾《オホトモニ》、國將榮等《クニサカエムト》、月波照良思《ツキハテルラシ》」ともありて大伴はある地域の名なりと見ゆ。なほこの下の歌(六六)に「大伴乃《オホトモノ》、高師能濱《タカシノハマ》」ともいへり。
○御津乃濱松 「ミツノハママツ」とよむ。「御津」は難波の津をさす。この津は御津とも大津ともいへる地なるが「御津」といふ由はもと大御船の泊つる津の義なりしが、固定せしならむ。この名につきては古事記仁徳卷「載2其御船1之御綱柏悉投2棄於海1故號2其地1謂2御津前1也」とあるは所謂地名傳説にすぎざるべし。さてこの地は日本紀仁賢卷六年に「難波御津」とあり。同書齊明卷五年に注せる伊吉連博徳書に「以2己未年七月三日1發3自2難波三津之浦1」とありなどするを見れば、遣唐使發着の要津たりしこと明かなり。この地をば今大阪市中の三津寺町といふ地に名殘を止めたりといふ説あり。又今の武庫郡今津の邊なりといふ説あり。之を按ずるに、日本紀應神卷に「武庫水門」あり、神功卷には「皇后之船直指2難波1于時皇后之船廻2於海中1更還2務古水門1而卜v之」とあれば難波と武庫とは隔りあること見えたり。されば難波の御津は武庫にあらぬこと明かなれば、今の大阪の邊にありきといふ説信ずべし。さて大阪の三津寺といふ地は古、御津寺のありしが故の名と知られたり。御津寺は古今集雜下の詞書に「難波のみつの寺」とあり、(292)又江家次第に伊勢齋王歸京の事を述べたる條には、伊勢伊賀大和を經て山城の木津川を下り難波三津濱に於いて禊あるべき由を載せ、その禊終りて三津寺にて諷誦ある由を載せたり。その三津の海邊を三津濱といひ、その濱に近くありし寺を三津寺といひしならむ。されば、大阪の方にありといふ説信すべきなり。さてこゝに濱松とよめるは下の歌にも同じ趣によみたれば、實際にその地に松のありて名高かりしによりてよめるものなるべきが、これを同時に待つといふ語の縁におきたるなり。
○待戀奴良武 舊訓「マチコヒヌラム」とよみたるを僻案抄に「マチワビヌラム」とよめり。されど、「戀」を「ワブ」とよむことはいはれなし。「まちこふ」といふ成語は當時存せしものなり。この一二の例をいはむか、卷十五「三六五三」に「伊敝妣等能《オヘビトノ》、麻知故布良武爾《マチコフラムニ》」又、同卷の長歌「三六八八」に「伊敝妣等波《イヘビトハ》、麻知故布良牟爾《マチコフラムニ》」又卷四「六五一」に「宅有人毛《イヘナルヒトモ》、待戀奴濫《マチコヒヌラム》」又卷十五「三七二一」に「美都能波麻末都《ミツノハママツ》、麻知故非奴良武《マチコヒヌラム》」ともあり。「ヌラム」はその事を確かに然らむと推量していふ意なり。さてこの待ち戀ふる人は家人なるべきなれど、松が戀ふる如くによめるが歌のあやなり。
〇一首の意 この歌は二段落の歌なり。第一段は早く本郷へ還らむかなといふ意をあらはし、第二段はわれも人もその家人がわれらをまち戀ふらむと思へば早くかへりたきことなりといひたるなるが、みづからの本郷を念ふ心をば、うつして家人も待ち戀ひぬらむと想像やれるさまによめるは感情の至れるなり。
 
(293)慶雲三年丙午幸2于難波宮1時
 
○ この時の事は續日本紀同年九月の條に「丙寅(壬寅朔なれば、廿五日なり)行2幸難波1」「冬十月壬午(辛未なれば、十二日なり)還宮」とあり。考には丙午の下に「秋九月」の三字脱せりといへり。事實は「秋九月」とあらばよきことなるべけれど、これはいづれの本にもなきことなれば、はじめよりなかりしなるべし。さてこの難波宮は何處にありしか。長柄豐崎宮ならむといふ説あり。されど、これも證なきことなれば、明かには知り離し。さてこの標題のかき方異例なり。他の例によるときは、この下に「歌二首」の三字あるべき所にして目録にはまさしくかくあり。恐らくは誤り脱せるものならむ。
 
志貴皇子御作歌
 
○ この皇子の事上(五一)にいへり。この行幸に供奉せられて難波にてよまれしなり。
 
64 葦邊行《アシベユク》、鴨之羽我比爾《カモノハガヒニ》、霜零而《シモフリテ》、寒暮夕《サムキユフベハ》、和之所念《ヤマトシオモホユ》。
 
○葦邊行 「アシベユク」とよむ。「アシベ」とは葦の生ひたる所のあたりをいふ。古、難波に葦多く茂りてありしことは「葦が散る」を難波の枕詞にせるにてもしるく、又葦刈の傳説などにも知るべし。「行く」は「ありく」といふにおなじ。泳ぎありくことなり。卷十二「三〇九〇」に「葦邊往《アシベユク》、鴨之(294)羽音之《カモノハオトノ》」又卷十三「三三四五」に「葦邊往《アシベユク》、鴈之翅乎《カリノツバサヲ》」など見えたり。これを鴨といはむ序のみなりといふ説(攷證)もあれど、こゝは難波の宮より見やらるゝ實景をよまれしものと考へらる。
○鴨之羽我比爾 「カモノハガヒニ」とよむ。「羽我比」は羽|交《カヒ》にて背にて翼の左右打ち交へたる所をいふ。されど、歌詞としては多くはたゞ翼のこと、若くは鳥の背にいへり。
○霜零而 「シモフリテ」とよむ。「零」を「フル」とよむことは既にいへり。(二五)鴨の翼に霜ふるとは寒さの烈しきを形容していへるなり。かくの如き例は卷九「一七四四」に「前玉之《サキタマノ》、小埼乃沼爾《ヲサキノイケニ》、鴨曾翼霧《カモゾハネキル》、巳尾爾《オノガヲニ》、零置霜乎《フリオケルシモヲ》、掃等爾有斯《ハラフトナラシ》」などあり。
○寒暮夕 古來「サムキユフベハ」とよめり。僻案抄には「サエタルヨヒハ」とよみ、考には「寒暮」の二字にて「サムキユフベハ」とよみ、下の「夕和」の二字は「家」の誤なりとせり。略解は又「夕」を「家」の誤にして「サムキユフベハ」とよむべしといひ、燈は「暮夕」を「ヨヒヨヒ」とよむか、若くは「夕和」の二字が「倭」の誤なるべしとして、こゝを「サムキユフベハ」とよむべしとせり。かく種々の説の出づるは「暮夕」の二字重なれるが爲なるべきが、かゝる場合のものは決して誤にあらず。同義の文字を二、重ねて、一意をあらはせるは漢字の用法上の一格にして、本集に限れる文字遣ひにあらず。たとへば、「古昔」「振古」「根柢」「誤謬」「錯誤」「零落」「墜落」」「墮落」「光輝」「暮夜」等極めて例多きことなり。これは漢字には意義多きが故に、一字にては往々その用ゐむとする意義以外に解せらるべき嫌あり。かゝる場合に二字用ゐる時は二者の契合點は一なれば、その示さむと欲する意確立す。これ同義の字を合せて一義を表するに至る根本の原理なれば、漫然とかゝることをなせるにあら(295)ずと知るべし。なほ本集につきて似たる例をいはゞ卷一「四五」に「多日夜取世須《タビヤドリセス》、古昔念而《イニシヘオモヒテ》」卷三「四七八」に「召集聚《メシツドヘ》、率比賜比《アトモヒタマヒ》」卷九「一七五一」に「櫻花者《サクラノハナハ》、瀧之瀬從《タギノセユ》、落墮而流《オチテナガラフ》」卷十二「三〇九九」に「野者殊異爲而《ヌハコトニシテ》、心者同《ココロハオナジ》、」とあるなどこれなり。さればこの二字にて「ユフベ」とよむに差支なきことなれば、諸の鑿説は一も採るべき所なきを以て古來のよみ方をよしとす。「サムシ」といふ語は今もいふ所なれば論なきが、その語の例は卷十七「四〇一八」に「美奈刀可世《ミナトカゼ》、佐牟久布久良之《サムクフクラシ》」卷十五「三六九一」に「都由之毛能《ツユシモノ》、佐武伎山邊爾《サムキヤマベニ》、夜杼里世流良牟《ヤドリセルラム》」等少からず。さてかゝる場合のよみ方は「ハ」助詞を加へよむことは集中例極めて多きことなり。
○和之所念 この「和」字元暦本神田本冷泉本等には「倭」とあり。これによりて「和」を誤とする説あり。これも亦一概の説なり。「ヤマト」に「和」字をあてたるは古事記崇神卷に「千々郡久和比賣《チヂツクヤマトヒメノ》命」あり、日本紀崇神天皇六年には「和大國魂」の神あり、田令に「大和」の文字も見えたれば、古よりある事なり。さてこの訓は舊來「ヤマトシソオモフ」又は「コトヲシソオモフ」などよめり。されどいづれも正しからず。代匠記に「ヤマトシオモホユ」とよみ、僻案抄には「ヤマトシシノバル」とよめり。按ずるに「所念」の二字は「オモホユ」とよむべきものなれば、代匠記の説によるべし。さてこの「おもほゆ」はおのづから思ひ出でらるといふ意なり。
○一首の意 難波に旅してあれば、この邊に多き葦邊に在る鴨の翼に霜の置くほどにも寒さの烈しき夜には大和國なる家人は如何にしてあらむかと思ひ出でらるゝことよとなり。
 
(296)長皇子御歌
 
○長皇子 上(六〇)にいへり。この皇子も行幸に供奉せられ、難波にてこの歌をよまれたるなり。
 
65 霰打《アラレウツ》、安良禮松原《アラレマツバラ》、住吉之《スミノエノ》、弟日娘與《オトヒヲトメト》、見禮常不飽香聞《ミレドアカヌカモ》。
 
○霰打 舊訓「アラレフル」とよみ、又「ミソレフリ」などよめる寫本あるを契沖は字のまゝに、「アラレウツ」とよむべしといひてより諸家これに從ふ。その説に曰はく「霰打をあられふると點したるはいかゞ。只あられうつと字のまゝによむべし。古事記に輕の太子の歌に佐佐婆爾宇都夜阿良禮能云々ともいへり。霰は物に打つくるやうにふれは也」契沖又曰はく「按ずるに霰打といへるも必しも此時降たるにはあらで枕詞にや。古歌にはかやうにいへる例あることなり」といへり。燈には「霰打はあられ松原とかさねたまはむ爲ながら此時九十月の頃なれば御まのあたり霰のふりければにもあるべし」といへり。按ずるにこの度の行幸は太陽暦の十一月にあたれば、その頃に霰ふるべき季節なり。されば下の「アラレ松原」と同音なるより枕詞に用ゐられたるものなれど、同時に實景なるべし。即ち實景を活用して枕詞とせられしものならむ。
○安良禮松原 古來「アラレマツバラ」とよみ來れり。考には「禮」を「羅」の誤として「アララマツバラ」と改めたり。これは、日本紀神功卷に「烏智箇多能《ヲチカタノ》、阿羅々摩菟麼邏《アララマツバラ》」とあるによりて立てたる説(297)なり。この「あらら」といふは「あらあら」の義にして疎に松の並木の立てるをいふなり。こゝは古本どもいづれも「禮」字をかけるが故に誤字なりとはいはれず。木村正辭は「禮」には「ライ」の音あれば、なほ「ラ」とよむべきかといはれたれど、なほ首肯せられず。こは下にいふ如くなほ「あらら」といひしが本なるべけれど、この時既に訛れるなるべし。さてこれが解釋につきては神功紀の「あらら松原」と同じくたゞ「あらあら」立てる松原といふに止まるといふ説と、地名なりと云ふ説とあり。この「あられ松原」といふ地は今住吉神社より堺に越ゆる道の大和川の岸なる松原をいふといへり。逍遥院實隆公の高野參詣日記に「和泉の堺にまかり越とて道すがらの名ある所どもいひ盡すべくもあらぬ見ものなり。霰松原〔三字右○〕といふ所をすぐとてみれば、世の常の松のはにも似ず、吹枯したるやうに見え侍れば云々」と見え、又文禄五年の玄與日記にも「住吉の行あひの間、細江、あられ〔三字右○〕松原、遠里小野など見侍り」とみえ、攝津志には「霰松原在2住吉安立町1林中有2豐浦神社1」と見ゆ。これにつきて木村正辭は「此歌につきて後に設けたる名なるべし」といへり。今按ずるに、神功紀なるは松原の松のあらあらと立てるさまをいへるものなること疑ふべからず。然れども、ここのはなほ地名なるべし。かくいふ由は、新撰姓氏録攝津國諸蕃に「荒荒公」あり。日本記略には「延喜三年癸丑五月十九日授2攝津國荒荒神從五位下1」と見えたり。又和名鈔攝津國西成郡に安良郷ありて、これは河内國讃良郡を「サラヽ」とよむ例によりてまさしく「あらら」といふ地名をあらはせりと見ゆ。かくて「あらら」「あられ」同じ地にして正しくは「あらら」といひしを訛りて「あられ」といひしなるべければ、今も傳ふる「あられ松原」の地必ずしも虚構(298)にあらざるべし。
○住吉之 板本の如く「スミノエノ」とよむを正しとす、古寫本に「スミヨシノ」とあるは平安朝以後の俗風によれるなり。「吉」を「エ」とよむは「ヒエ」に「日吉」とかくと同じ。「日吉」も後世「ヒヨシ」とよめるは同じく訛れるなり。釋日本紀第六及び仙覺抄に引ける攝津風土記には「直稱2須美乃叡1」と見え、卷十六「二一九一」に「墨江之《スミノエノ》、遠里小野之《トホサトヲヌノ》、」卷二十「四四〇八」に「須美乃延能《スミノエノ》、安我須賣可未爾《アガスメカミニ》」「四四五七」に「須美乃江能《スミノエノ》、波麻末都我根乃《ハママツガネノ》」などあるにてそのよみ方を知るべし。さてこの地は名高き住吉神社のある地なり。
○弟日娘與 これは「オトヒムスメト」とよめる本も稀にあれど、舊板本に「オトヒヲトメト」とよめるをよしとす。「オトヒ」といふ語は顯宗紀に「倭者彼々茅原、淺茅原、弟日僕是也」といへる例あり。この「オトヒ」をば、契沖は「兄弟にて日は助語なるべし」といひ、考には後世兄弟の事をおとゝひといふにおなじといひたり、されど、果して然りや疑ふべし。燈にはこの「ヒ」をば接尾辭の「ヒ」とし、「神ビ」「ミヤビ」「ヰナナカビ」などの「ビ」なりといへり。今、ここなるは恐らくはただその人の實際の名ならむと見えたり。そは持統天皇紀八年十月の條に「飛驛國荒城郡弟國(部)弟日」といふ人も見え又肥前風土記に「大伴狹手彦連即娉2篠原村弟日姫子1成婚【日下部君等祖也】」とも見えたればなり。即ち「弟日」といふ名にして女人なりしが故に「ヲトメ」といはれしならむ。さてこの「住吉之弟日娘」とは如何なる人ぞといふに、史に傳なく、本集にも亦詳かに傳へざれば、明かに知り難けれど、考にいへる如く、遊行女婦なるべく、次に見ゆる清江娘子とあるも同じ人ならむとの説あり。抑(299)もこの住吉の地は古大和の京と三韓西國との交通の要衝にあたりたれば、船舶の出入しげくして、旅客又船人の足を留むるもの多かりしなるべく、從ひてそれらの人々の旅情を慰むる爲に、所謂遊行女婦の類はやくより集まりてありしなるべし。さてその港の變遷につれて遊行女婦の集る地も變遷するものにして、平安朝の時代には江口、神崎等に遊君のありしこと大江匡房の遊女記などを見てその趣を知るべし。さて本集中に遊行女婦をいへるは、卷六【二十四右】に「府中之中有2遊行女婦1其字曰2兒嶋1」又卷十八に「遊行女婦土師」などあり。又その遊行女婦の名を歌によみこめるは、卷十八「四一〇六」の長歌に、「左夫流其兒爾《サブルソノコニ》、比毛能緒能《ヒモノヲノ》、移都我利安比弖《イツガリアヒテ》」とある左注に「言2左夫流《サブル》1者遊行女婦之字也」と見えたるなどにて見るべし。さて又この下の「與」を「と」とよむは漢字の義によりて用ゐたるものなるが、その「と」は「と共に」の意にて並べあぐる意をもあらはすものなるが、ここの釋には特に注意すべき點あり。契沖はこの娘と共に松原を見る意なりと説き、眞淵は「愛しと思ふ娘どもと共に見れど、この松原の氣しきは氣壓《けお》されず面白しとなり、娘をも松原をも並べてめでませり」といひ、略解は考より一歩を進めて、「松原とをとめと二つ並べて見給へどもあかぬと也。卷七「さほ川の清きかはらに鳴千鳥かはづと二つわすれかねつも」これも佐保の川津と千鳥と二つをめづるにて心同じ」といへり。先づ、この二つ並べていふ時、下の語のみに「と」を加へてその意をあらはすことは略解のあげたる卷七の例にては下に二つといふ語あるによりて十分の例とすべからず。卷五「八二一」に「阿乎夜奈義《アヲヤナギ》、烏梅等能波奈乎《ウメトノハナヲ》」とあるなどその的例なり。さてこの「と」はここのみにては十分に説くべからず、次の句に(300)至りてこと明かになるべし。
○見禮常不飽香聞 「ミレドアカヌカモ」とよむ。「カモ」は咏嘆の意をあらはす助詞なり。さてここに「見れど」とあるにて上の「と」は松原と娘とを並べていへるものなるをさとるべし。若し、弟日娘と共に〔三字右○〕「あられ」松原を見る意とせばここは「見れば」とあらずば歌の意通らぬこととなる。よく思ひみるべし。
○一首の意 住吉のあられ松原はおもしろき景色なるが、さて又住吉の弟日娘もうるはしきをとめにて、この景色とこの人といづれも我が心を慰むるものにして、日に夜に見れどもいづれも飽くことなしとなり。それは先づ、松原の美景をいひてそれの飽くべからぬを弟日娘にたぐへていはれたるにて主意は弟日娘の好ましきをいはれたるならむ。
 
太上天皇幸2于難波宮1時歌
 
○太上天皇 は上にいへる如く持統天皇なり。
○幸于難波宮時歌 按ずるに持統天皇の太上天皇として難波宮に御幸ありしこと史に見えず。しかも持統天皇は大寶二年十二月に崩御ありしが故に、慶雲三年以後なるこの部分にこれを載せたること不審なりといふべし。續紀を檢するに、文武天皇の三年正月に難波宮に幸し、二月還御ありしことを載す。蓋し、この時に太上天皇も御幸ありしならむか。然るに本書ここに載せたるは、これが源をなせる記録に年月の記載なかりしが故に、年代の明かなるものを先(301)にして、その後に載せたるならむか。以下和銅年間までの分みな然る趣に見ゆ。されば、文武天皇の御宇なることの明かにしてしかも、その年月の記載なき分四項をこれより以下に集め推定して載せたりと見るべし。古義にこれを強ひて大寶元年と標を加へて順序をかへたるはさかしらなりといふべし。なほ他の例によれば、この「歌」の下に「四首」とあるべきなり。目録にはしか見ゆ。
 
66 大伴乃《オホトモノ》、高師能濱乃《タカシノハマノ》、松之根乎《マツガネヲ》、枕宿杼《マクラキヌレド》、家之所偲由《イヘシシヌバユ》、
 
○大伴乃 「オホトモノ」とよむこと上にいへり、而してこれ上にもいへる如く、難波わたり一帶の地の總名にして高師濱に及べりと見えたり。
○高師能濱乃 「タカシノハマノ」とよむ。高師の濱は和泉國大鳥郡にありて、式内の高石神社のある地にして今高石とかく。これをば、大伴の高師といへるによりて別に攝津にありとする説あれど、とるべからず。日本紀持統卷に「高脚海《タカシノウミ》」とあるもその海なり。日本靈異記には和泉國の海中にて香木を得たる記事中に「泊2乎高脚濱《タカシノハマ》1」とあり。これ同じ地なり。これは難波に御幸ありし序に、公にか又は私にか、この地まで遊覽せし事ありてよめるものなるべし。
○松之根乎 舊板本「マツガネヲ」とよめり。元暦本などに「マツノネヲ」とよめるも惡しきにあらねど「マツガ〔右○〕ネ」とよむによるべし。
○枕宿杼 舊板本「マクラネヌトカ」とよみたれど意通ぜず。元暦本、古葉略類聚鈔等に「まくらに(302)ぬれど」とよみ、この歌を新勅撰集にとりたるも亦しかよめり。考には「マキテシヌレド」とよみ、略解これに從へり。本居宣長は「杼」は「夜」の誤にて「まきてぬるよは」とよむべしといひ、古義、守部之に從へり。されど、この「抒」を誤字とする證は古來の本に見えねば、從ふべからず。又「シ」の字なきに之を加へてよむも穩かならず。さりとて新勅撰集のよみ方も極めてよしといふべからず。上句との關係を考ふるに、「松か根を〔右○〕」といへるによりてこれを受くる動詞なかるべからず。その動詞は「宿る」にあらぬは明かなれば、「枕」といふ字にその動詞が寓せられてあるべきは明かなり。枕するを「まく」といふこともあれど、ここにては音の數足らねば適せぬことは明かなり。その他にはこの枕を動詞とせるは「まくらく」といへる語あり。その用例は卷五「八一〇」に「伊可爾安良武《イカニアラム》、日能等伎爾可母《ヒノトキニカモ》、許惠之良武《コヱシラム》、比等能比射乃倍和我摩久良可武《ヒトノヒザノへワカマクラカム》」卷十九「四一六三」に「妹之袖《イモガソデ》、和禮枕可牟《ワレマクラカム》、河湍爾《カハノセニ》、霧多知和多禮《キリタチワタレ》、左欲布氣奴刀爾《サヨフケヌトニ》」あり。さて上の例によりて卷三「四三九」の「應還時者成來《カヘルベキトキニハナリケリ》、京師爾而《ミヤコニテ》、誰手本乎可《タカタモトヲカ》、吾將枕《ワガマクラカム》」の「將枕」をも「まくらかむ」とよめり。此の如く「まくらかむ」といふ語あれば、これは「マクラク」といふ四段活用の語なりといふべし。かく考ふれば、ここは「マクラキヌレド」とよむべきものと考へらる。「宿」は「ヌル」とよむべし。今いふ「イヌル」といふ語は「イ」といふ名詞と「ヌル」といふ動詞とをあはせて一語とせるものにて「ネナク」といふに似たる語なり。「ヌレド」といふ語は卷十四「三四〇三」に「可美都氣努《カミツケヌ》、安蘇能麻素武良《アソノマソムラ》、可伎武太伎奴禮杼安加奴乎《カキムダキヌレドアカヌヲ》、安杼加安我世牟《アドカアガセム》」など例少からず。この一句の意は高師の濱の松が根を枕にして寢ぬれどもといふなり。さてここに「ド」とあるによりて諸家の説區々たり。思ふに(303)こは古、松が根を枕にして寢ぬるときは、故郷に歸りたる夢を見るとかいふ如き、然るべき傳説ありしなるべく、その傳説の如くして試みたれど、その詮《カヒ》なかりきといふ意なるべく、若し然らずとせば勝景にかまけて旅宿する程の意にて「ド」といへりしならむ。
○家之所偲由 舊板本「イヘシシノバユ」とよみ、元暦本には「イヘモオモホユ」又類聚古集等には「イヘトオモホユ」などあり、略解には「イヘシシヌバユ」とよめり。「偲」は字書に「彊力也」又「相切責也」「詳勉也」などありて、ここにいふ如き意なき文字なり。然るに、三寶類字集には「偲」に「シタフ」の訓あり。按ずるにこれは「人を思ふ」といふ意にて別に造れる文字なるにあらざるか。那須國造碑にも「意斯麿等並立v碑銘偲云爾」とあり。狩谷※[木+夜]齋云「偲訓2志奴布《シヌブ》1慕其人1之義、萬葉集多用v之、蓋|是間《ココノ》會意字非2詩所謂美且偲之偲1」といへり。この説いはれたる如くなれど、本邦の造字なりや六朝の頃の造字の本邦に傳はりしにあらずや。二者容易く斷ずべからず。いづれにしても、「シタフ」「シヌブ」といふ語にあたる文字なるべし。「所」は受身をあらはす字なれば「所偲」にて「シヌバユ」とよまるるをなほ下に「由」を添へてよみ方を動くまじく示せるものなるべく、その關係は「シラニ」を「不知爾」とかけるなどと同じかるべし。さて「シヌブ」といふ語の例は上に「カケテシヌビツ」(六)とあるにて知るべく、「シヌバユ」といふ語の例は卷五「八〇二」に「麻斯提斯農波由《マシテシヌバユ》」とあるにて見るべし。其の「シヌバユ」の「ユ」は「ル」と同じく「シヌブ」の未然形につく複語尾にして受身をも自然の勢をもあらはすものなるが、ここは自然の勢をあらはせるものにしてここに旅宿をすれど、なほ家のこひしく思ひ出さるるよといふ意なり。
(304)○一首の意 この高師の濱の景色よき所なるは人も知る所なるが、われ今この地に來り、めでのあまりここに一夜の宿をかりてその景色を專らに賞《ハヤ》さむとするに、やはり、旅の事なれば物わびしくておのづからいつとなしに故郷のことの思ひ出でらるるよとなり。
 
右一首置始東人
 
○置始東人 「オキソメノアヅマビト」とよむべし。この人の傳詳かならず。置始連なる人は日本紀孝徳卷天武卷などに見えたり。されど、これは姓《カバネ》をかかねばそれよりは卑き人なるべし。
 
67 旅爾之而《タビニシテ》、物戀之伎乃《モノコヒシギノ》、鳴事毛《ナクコトモ》、不所聞有世者《キコエザリセバ》、孤悲而死萬思《コヒテシナマシ》。
 
○旅爾之而 「タビニシテ」とよむ。「シテ」は「ありて」又は「於いて」などの代りに用ゐたるものにして旅に在りて又は旅に於いての意なり。卷三「三七五」に「鴨曾鳴成《カモゾナクナル》、山影爾之弖《ヤマカゲニシテ》」など例少からず。
○物戀之伎乃 舊板本「モノコヒシキノ」とよめり。契沖はこれに從ひて、「鴫をこひしきといひかけたり。清濁かはれども通ずるなり」といへり。考には「モノコヒシギノ」とよみ、「※[鷸の鳥が隹]《シギ》に云かけたり」といひ、本居宣長は「かかるいひかけざま集中に例なければ、ひがこと」なりといひ、略解は之に從ひて「ものこふしぎの」とよめり。されど、「こふ」は上二段活用なれば、「シギ」といふ名詞につづくるには「モノコフル」といはざるべからざるが故に、略解の説は最もわろし。守部は又「鴫は只鳴くといはむよせに裁ち入れたるのみにして、うたの意に預らず」といへり。されど然せば、歌主(305)の鳴くこととなるべきが、それが誰に聞えぬをいへるにか。趣意とほらずといふべし。古義には「乃」を「爾《ニ》」の誤として「モノコホシキニ」とよみ、さて次の句の「鳴」字を「家」字の誤とせり。美夫君志は「乃」に「ニ」の音ありとし、「鳴」字を「家」の誤とせれば歸する所は略古義に同じ。余按ずるに諸家皆惑へるに似たり。これは舊訓の如く、文字のまま「モノコヒシギノナクコトモ」とよみてありぬべし。「ものこひし」とは何と定まりたることもなく、すゞろにもののこひしく思はるるをいふなり。卷三「二七〇」に「客爲而《タビニシテ》、物戀敷爾《モノコヒシキニ》、山下《ヤマシタノ》、赤乃曾保船《アケノソホフネ》、奧榜所見《オキニコグミユ》」とあるその例なり。これは鴫の鳴く聲は古よりあはれを催す由にいひ來れる如くなれば、ここに「モノコヒシキ」といひたるはその語尾の「シキ」と「シギ」といふ鳥の名とをかけ、かくて正しくは「ものこひしき〔二字右△〕しぎ〔二字右○〕」といふべきを約めてかけ詞にあらはしたるなり。この卷の末(七三)に「吾妹子乎《ワギモコヲ》、早見濱風倭有《ハヤミハマカゼヤマトナル》、吾松椿《ワヲマツヅバキ》、不吹有勿勤《フカザルナユメ》」とあるも似たるかけ詞なり。さて「シギ」といふ鳥をここの如く「之伎」と書くことは日本紀卷一の自注に「※[鷸の鳥が隹]此云2之伎《シギ》1」とあるにて明かなり。この二句は旅に於いて物戀しき時にその物戀しく思はしむるしぎの云々と聞ゆるやうにつづけたる所に作者の一種の技巧はあるべきなり。感ずべき事にもあらねど、かく見れば、一通は筋の通りたる事なり。
○鳴事毛不所聞有世者 「ナクコトモキコエザリセバ」とよめる舊訓のままにてよし。この「鳴」を「家」の字とする説あれど、古寫本どもに一も證なし。從ふべからず。「所聞」二字にて「キコユ」なり、上下に「不v有」を加ふれば、「キコエザリ」となる。「世」は「キ、シ、シカ」の複語尾の未然形として假設していへるなれば「キコエザリセバ」は聞こえずありせばと條件を假設していへるなり。
(306)○孤悲而死萬思 「コヒテシナマシ」とよむ。「マシ」は假想する意の複語尾なり。
○一首の意 かく旅に在りては何となく物こひしきものなるに、さる時に鴫の聲をきけば、そのあはれに悲しき聲はわが思ひに沈めるに同情を表せる如くに思はれて心も多少は慰めらる。然るに若しこの鴫の鳴く事も聞えずありとせば、われはこの物戀しき情を遣るにたよりもなく、悲しきに堪へずして遂には悶え死にもせましとなり。これその家郷の思ひに悶えてある状を家人に通ずる歌として、切々の情言外に溢る。その物悲しき聲をなす鴫の聲によりて思を多少はらせる由をいへるはその戀情の烈しきを想像せよとなり。
 
右一首高安大島
 
○ この歌目録には「作主未詳歌」と記し、その下に又「高安大島」と記せり。この目録なるは元暦本なるは朱にて小く書けり。恐らくは二傳ありて、目録の傳にては「作主未詳」の方をとり、本文の方には著者の名をあらはせるを後人目録に記せしならむ。或はここのをも、後人の加へしものとする説あれど、ここにはいづれの本にも「作主未詳歌」といふ文字なくして(古義はさかしらをせるなり)「高安大島」といふ文字あれば、これは後人のさかしらにはあらざるべし。さて「高安」といふ氏は河内國の地名に基づくものなるべきが、新撰姓氏録によれば、「高安造」「高安漢人」「高安忌寸」などあれど、「大島」といふ人の名他に所見なし。加之これには姓なければ卑しき人なりしならむ。
 
(307)68 大伴乃《オホトモノ》、美津能濱爾有《ミツノハマナル》、忘貝〔左○〕《ワスレガヒ》、家爾有妹乎《イヘナルイモヲ》、忘而念哉《ワスレテオモヘヤ》。
 
○大伴乃美津能濱 既に「六三」にいへり。
○爾有 舊訓「ニアル」といへるを考に「ナル」とよめるより諸家之に從へり。
○忘貝 流布本に「具」とあれど「貝」の誤なること著しく、古寫本みな正しく「貝」とかけり。「ワスレガヒ」とよめり。「忘貝」の名を假名書にせる例は卷十五屬物發思歌の反歌二首の内に「安伎左良婆《アキサラバ》、和我布禰波弖牟《ワガフネハテム》、和須禮我比《ワスレガヒ》、與世伎弖於家禮《ヨセキテオケレ》、於伎郡之良奈美《オキツシラナミ》」(三六二九)又同卷「三七一一」にもその例あり。さてこの貝の名義につきては一種の貝なりといふ説と、然らずとする説と二あり。その一種の名にあらずとする説は、攷證、守部、美夫君志などなり。美夫君志に曰はく、「忘貝は何貝にまれ内の失て殻のみになりたるを、浪のよせきて磯にのこしおきわすれてかへる意にていふ也(中略)但し卷十二【二十七右】に海《アマ》處女潜取云忘貝代二毛不忘妹之光儀者とあるは海中に在る如くきこゆれど、此はただ貝といふにつれていへるまでのことばなれば、拘はるべからず」といへり。さて今も世に忘れ貝といふ一種の貝あり。それは蛤又はあさりに似たる貝にして、大なるも二寸に過ぎず、殻白色にして紋脉蛤に似て縱に紫褐色の條斑及び細かき横の斑あり。内面つやありて紫の暈あり。内の四邊に刻みあり、相合せて摩ればささらの如き音を發す。この故に紀伊にては「ささらがひ」といふとぞ。今この貝をいふか、はた、ただの身無し貝をいふかと考ふるに、先づ集中の實例を檢せざるべからず。本集中「忘貝」をよめる歌十首あり。その(308)うち、ここの如く「大伴の美津の濱」といへるもの一首。「住吉の岸による」といへるもの一首。(卷七「一一四七」)「住吉に往くといふ道に」といへるもの−首。(卷七「一一四九」)「木國の飽等の濱」といへるもの一首。(卷十一「二七九五」)「若の浦」といへるもの一首。(卷十二「三一七五」)太宰府附近の海路にて濱の貝をよめるもの一首。(卷六「九六四」)「對馬の竹敷浦にてよめるもの一首。(卷十五「三七一一」)その他三首は場所の明かならぬものなるが、卷十二「三〇八四」なるは(海處女《アマヲトメ》、潜取云《カツキトルトフ》、忘貝代二毛不忘妹之光儀者《ワスレガヒヨニモワスレジイモガスガタハ》」とありて海中にて採取する由をいへり。而してその忘貝といふ名の貝は紀伊國吹上浦の砂海又關東の海中及び阿波の海に多く産すと水族志にいへり。さて集中住吉邊に多くよめりしことは上の如くなるが、土佐日記には和泉の黒崎といふあたりの海濱にてよめる歌に忘貝ありてその邊に種々の貝ある由をいへり。これらを以て考ふるに、紀伊より和泉、さては住吉のあたりまでの海にこの貝多きによりてよまれしにて、ただのみなし貝をいへるにはあらざるべし。されば、かの卷十二の「海處女潜取云忘貝」といふも、ただ「貝」といふべきをことばのあやにいへるやうに説ける美夫君志の説はうけられずとす。さてこの句まではただ下に「忘る」といはむ序なるがかねて、目前の實景を述べたるにて序としては巧みなるものなり。かかる趣は上にいへる卷十二の歌も同じさまなるを見るべし。
○家爾有妹乎 舊訓「イヘニアルイモヲ」とよめり。これも考に「イヘナル」とよめりしより諸家これに從へり。妹は既にいへり。家に在る妻をといふ義なり。
○忘而念哉 「ワスレテオモヘヤ」とよむ。類聚古集又拾穂抄に「オモフヤ」とあれど、從ふべからず。(309)の「ヤ」は已然形につきて反語をなすものにして、この場合にては「おもふかは」といふに似たる意をあらはすなり。反語の「や」がかく已然形につくことは「む」の「めや」となると同じ趣なり。されど之は「む」の附屬せるものにあらねば、「おもはめや」といひ、(僻案抄)「わすれんやといふ事也」といへる、(考)説は十分に當れりといふべからず。なほ「忘れて念ふ」といふ如き詞遣も後世になきものにして後世にては「思ひわする」といふなり。さればここは思ひ忘るることかは、決して忘れはせじといふ意をあらはせるなり。この語例は集中に少からぬが、假名書の例をあぐれば、卷十五「三六〇四」に「妹我素弖《イモガソデ》、和可禮弖比左爾《フカレテヒサニ》、奈里奴禮杼《ナリヌレド》、比登比母伊毛乎《ヒトヒモイモヲ》、和須禮弖於毛倍也《ワスレテオモヘヤ》」(卷十七にも十八にも假名書の例あり。)又「わすれておもふ」といふ語の他の用例は、卷六「九四七」に「爲間乃海人之《スマノアマノ》、鹽燒衣乃《シホヤキギヌノ》、奈禮名者香《ナレナバカ》、一日母《ヒトヒモ》、君乎忘而將念《キミヲワスレテオモハム》」などあり。
○一首の意 上にいへるにて明かなり。再びいはず。
 
右一首身入部王
 
○ この王の名「ムトベノオホキミ」とよむべし。「身」を「ム」とよむ例は地名の「ムサ」を日本紀雄略卷に「身狹」同齊明卷に「田身(ハ)山名此云2大務1」とかけるなど、例多し。この王は父祖詳かならず。蓋し續紀に六人部王とあると同じ人なるべきが、この王は和銅三年正月に從四位下、養老五年正月に從四位上、同七年正月に正四位下、神龜元年二月に正四位上、天平元年正月に卒せられたり。享年詳かならず。この王この時行幸に供奉ありてよまれしなり。
 
(310)69 草枕《クサマクラ》、客去君跡《タビユクキミト》、知麻世婆《シラマセバ》、岸之埴布爾《キシノハニフニ》、仁寶播散麻思乎《ニホハサマシヲ》。
 
○草枕 上(五)にいへリ。
○客去君跡 「タビユクキミト」とよむ。「客」を「タビ」とよむことは上「五」にいへり。「タビユク」とは旅に行くの義にして、これは京へかへりたまふことを旅行くとはいひたり。「客去」を「タビユク」とよむべき例は卷九「一七四七」に「草枕《クサマクラ》、客去君之《タビユクキミガ》、及還來《カヘリクマデニ》」卷十二「三一八四」に「草枕《クサマクラ》、客去君乎《タビユクキミヲ》」などあり。その他「旅去」とかけるもの卷三「二五二」卷七「一一三九」にあり。「覊行」とかけるもの卷四「五四九」「五六六」等にあり。「覊往」とかける例は卷十三「三二五二」に見え、「客行」とかける例は卷六「九七一」卷八「一五三二」などあり。いづれも「タビユク」とよむべし。その假名書の例は卷七「一二三四」に「多比由久和禮乎《タビユクワレヲ》」卷十七「三九二七」に「久佐麻久良多妣由久吉美乎《クサマクラタビユクキミヲ》」卷十九「四二六三」に「久左麻久良《クサマクラ》、多婢由久伎美乎《タビユクキミヲ》」など多し。
○知麻世波 「シラマセバ」とよむ。「マセ」は未然形所屬、の複語尾「まし」の未然形にして假想したる條件をいふなり。若しもさうと前方《マヘカタ》に知りて居たりしならば、といふ意にして、下に多くは「まし」といふ複語尾のあらはるるなり。卷十五「三七三九」に「可久婆可里《カクバカリ》、古非牟等可禰弖《コヒムトカネテ》、之良末世婆《シラマセバ》、伊毛乎婆美受曾《イモヲバミズゾ》、安流倍久安里家留《アルベクアリケル》」。上三句の意は永くこの地にましますと思ひしものをといふ意を含めていへるなり。
○岸之埴布爾 「キシノハニフニ」とよむ。岸は住吉の岸の姫松など歌によくよめる住吉の岸な(311)り「埴布」の「布」は借字にてまさしくは「生」字をあつべく、「生」字をかけるはそれの産地なる義にて「はにふ」は埴のある地なり。埴は和名鈔に「埴釋名云土黄而細密曰v埴常職反和名波爾」とあり。「映士《ハエニ》」の意、即ちうるはしき土の義にして今いふ黏土なり。東京方言にて「ヘナ」といふも「ハニ」の轉訛なり。「ハニ」の黏土なることは新撰字鏡に「埴【市力反黏土也波爾】とあるにて知るべし。「住吉の岸の埴生」といへるは卷六「九三二」に「白浪之《シラナミノ》、千重來縁住吉能《チヘニキヨレルスミノエノ》、岸乃黄土粉《キシノハニフニ》、二寶比天由香名《ニホヒテユカナ》」又「一〇〇二」に一首、卷七には「一一四六」「一一四八」の二首あり。ここに「埴生」といへるば委しくは埴生の埴といふべきを煩はしきを避けていへるなり。而してその埴は如何なる色せるものかといふに、卷六、卷七なるいづれも黄土とかけるを以てその實を察すべし。
○二寶播散麻思乎 「ニホハサマシヲ」とよむ。「にほふ」は色のうるはしくあるをいひ、之を他動にして麗しく色をつくるをば「にほはす」とはいへるなり。これは古事記雄略卷に、赤猪子が丹揩袖をきたる由見えたるは丹土にて揩れる揩衣なるが、ここは住吉の埴を用ゐて揩れるをいふものにして、上の歌に「引馬野爾《ヒクマヌニ》、仁保布榛原《ニホフハギハラ》、入亂《イリミダリ》、衣爾保波勢《コロモニホハセ》、多鼻能知師爾《タビノシルシニ》」(五七)とあるなどの例なり。さればこれは君が衣をにほはさましといふべきを略せるなり。「を」は「ものを」の意にして感動の意ある助詞なるが、殘念なりとの意を含めたり。
○一首の意 君は永くこの地にましますものと今まで思ひこみてありしに、今や京へかへりまさむとはいとも殘り惜しきことなり。かく君が旅に行きますものとかねて知りてありたらば、旅衣もうるはしくこの住吉の岸の埴にてすりてつくりおきたらむものをさる事もしあへ(312)ず、別れ奉らむが、殊更に殘り惜しとなり。
 
右一首清江浪子進2長皇子1 姓氏未詳
 
○清江娘子 「スミノエノヲトメ」とよむべし。「清江」を「スミノエ」にあてたる例は卷三「二九五」に「清江乃木笶松原《スミノエノキシノマツバラ》」などあり。下の「姓氏未詳」はこの人の事を注せるものなるが、既にここに姓氏未詳とあれば、今に於いて知り得べくもあらず。かくてこの娘子は上の長皇子の御歌に住吉の弟日娘といはれたるその人なるべしといふ説あり。その説一往然るべく思はるるやうにもあれど、未だ信ずべからず。その長皇子は同じ人にましませど、その歌よめる時は同時にあらねば必ずしも同人なりとは考へられず。時既に異なれば人必ずしも同じからねばなり。況むや前にいへる如く、住吉には遊行女婦のありしものと考へらるればなり。
 
太上天皇幸2于吉野宮1時高市連黒人作歌
 
○太上天皇 上にいへる如く持統天皇なり。
○幸于吉野宮時 この太上天皇として吉野宮に御幸ありしことは史に見えず。續紀には大寶元年二月に吉野離宮行幸の事を載す。この度太上天皇も同じく御幸ありしにや。然れど今に於いてまさしく何時と知りがたきなり。
○高市連黒人 上(三二)にいへり。
 
(313)70 倭爾者《ヤマトニハ》、鳴而歟來良武《ナキテカクラム》、呼兒鳥《ヨブコトリ》、象乃中山《キサノナカヤマ》、呼曾越奈流《ヨビゾコユナル》。
 
○倭爾者 「ヤマトニハ」とよむ。「倭」は大和國なり。然るに、この歌をよめる吉野も大和國なり。これにつきて契沖は「吉野の山も大和なるを今大和と云は藤原の都を指て云ハ即別名の心なり」といへり。然れども、なほ、少しく別の意あるべく思はる。攷證には、「こゝに倭爾者とさせるは大和國山邊郡大和郷をいへるなるべし」といひて縷々の説あり。されど、これも鑿説に近し。吉野は後元正の朝に大和國とは別に吉野監といふを置かれて、行政上異なる地域とせられしことあり。監とはその離宮を中心として定められたる地方の行政區劃にして吉野藍は後に廢せられて、大和國に併せられたれど、和泉監(茅渟離宮を中心とす)は後に和泉國となれり。かくの如くなれば、吉野は行政地域としては、當時大和國のうちにありたれど、自然の地勢上吉野はおのづから一區域をなしたれば、大和の平原地方とは別天地の觀あり。かくて自然の地勢よりして藤原京を中心とせる大和の平原地方を大和とはいひしならむ。今その平原地方を國中といへるも古の心の殘れるなり。
○鳴而歟來良武 「ナキテカクラム」とよむ。ここに「クラム」といへるは普通にては「ユクラム」といふべき所なり。契沖は「今や都へ鳴て行くらむと云ふべきを鳴てかくらむと云ふことは本來の住所なれば、我方にしてかくは云也」といへり。されど己が本來の住所ならぬにかくの如く「くる」といふ事あれば、この説にては不十分なり。元來「ユク」と「クル」とは同じ進行移動をいふこ(314)とばなるが、その差別のある點は、出發點と進動の方向との關係に於いて、彼方此方の別ある點にあり。されど、古來心の主點のおき所によりて「行ク」とも「クル」ともいひしなり。わが郷里越中にては今も普通に「行ク」といふべき所を大方「クル」といへり。さらば、專ら「クル」のみを用ゐて「行ク」といはぬかといふに、これも亦僻せり。さて、その「行ク」といふべき所のうち、特にまさしく彼方に行くべきを確に示す場合に「クル」といへり。これ即ち、彼方を主とし我を客としていへる語なれば、おのづから謙る意こもれり。同じ事實にても「行く」といへば己を主としていひ、「くる」といへば、彼方を主としていへる差別あるなり。古人の用ゐざまも亦然るべし。
○呼兒鳥 「ヨブコドリ」とよむ。今この名を以てよばるる鳥なければ、いづれをそれとさだかならず。古在りし鳥の今なくなりしも稀にはある由なれど、「よぶこどり」は集中の歌の趣にては稀なる鳥とは見えざれば、恐らくは名は失はれたれど、その實は今も存する鳥なるべし。されば、今「かつこうどり」といふ鳥なりといへる萬葉考の説は容易に否定すべからず。この「かつこうどり」は漢名布穀なり。形色「ほととぎす」に似て稍大に、啼聲「かつこう」ときこゆる故にこの名あり。按ずるに字鏡集には「鵑」字に「ヨフコトリ」の訓あり。この字鏡集の「鵑」字によりて伴信友は「ほととぎす即ちよぶことり」なりといへれど、集中を通じて見るに「ほととぎす」「よぶこどり」いづれもよみてあれど、一物なることの證は一もなし。さて本邦にて古來「ほととぎす」にあてたる「郭公」は上の「かつこうどり」のことにして、支那にてすべてその鳴音によりて名づけたるものにして、杜鵑と郭公とは形は似たれど、鳴聲は甚だことなるものなり。然るにわれには「郭公」の(315)文字を「ほととぎす」にあて、郭公即ち「ほととぎす」と思ひしこと久しきを以て見れば、漢字の上にては二者混同せられて久しきものなり。これを例として推せば、反對に「よぶこどり」に「鵑」字をあつることなしとすべからず。又倭玉篇には「※[古+鳥]」字に「ヨブコドリ」の訓あり。「※[古+鳥]」字は※[庶+鳥]※[古+鳥]をさす字なれど、※[土+卑]雅にその鳴聲を「鈎※[車+舟]格磔《コウチウカクタク》行不得也哥哥」といへり。この哥哥は鳴聲の一なるべきを本邦にてその字の發音がこの鳥の鳴聲に似たるよりこの字を「よぶこどり」にあてたりしならむか。さらば「よぶこどり」は今の「かつこうどり」なりといふ説は然るべきものなるべし。さてこの鳥につきては考の別記に「この鳥は集に專ら春夏よめり。そが中に卷十二に坂上郎女の「世の常に聞はくるしき喚子鳥音奈都炊時庭成ぬ」とよめるは三月一日佐保宅にてよめりとしるしつ。げに山の木ずゑやう/\青みたち、霞のけはひもただならぬに、これが物ふかく鳴たるはなつかしくもあはれにもものに似ずおぼゆ。それより五月雨ふる頃までもことにあはれに聞ゆめり。さてなく聲のものをよぶに似たれば、よぶ子鳥といひ、又そのこゑかほうかほうと聞ゆれば、集には容鳥とよみたり。ゐ中人の「かつぽうどり」といふ即これなり」といへり。これにて大方しらるべし。
○象乃中山 「キサノナカヤマ」とよむ。この山は大和志に「吉野郡象山喜佐谷村上方」と見ゆる山にして吉野離宮のありし宮瀧村の南に、吉野川を隔てて聳ゆる山にて今「きさ山」といふ。本集には又「象山」ともかき、卷六「九二四」に「三吉野乃《ミヨシヌノ》、象山際乃《キサヤマノマノ》」とあり。象を「きさ」とよむことは和名鈔に「象」に注して「和名岐佐」とあるにて明かなり。さてここに中山といへるを以て考ふるに、「キサ」(316)といふはその地域の名にして、その「キサ」の地にある中山といふことなるべし。本集卷三「三一六」に「象乃小河《キサノヲガハ》」(三一六)「象小河《キサノヲガハ》」(三三二)とよめる歌あり。而して今喜佐谷といふ地名あり。いづれも「キサ」といふは地域の名なりしを證す。
○呼曾越奈流 流布本に「ヨビゾコユナル」とよめり。然るに元暦本等に「コスナル」とよめるなり。按ずるに「山」につきて「コス」といへる例は古く日本紀崇神卷の歌にあり、「コユ」といへる例は同書仁徳卷等の歌にあり。本集にも亦兩樣にかかれてあれば、いづれにてもよき事となるべし。然れども本集の假名書の用例を見るに、「コユ」とある方多ければ、なほ「コユ」とよむをよしとす。「越奈流」を「コユナル」とよむはこの頃の語遣として「ナリ」を終止形に添へて陳述を強むる法あり。「コユルナリ」とやうに連體格をうくる「なり」も當時行はれたれど、終止形を受くることも行はれたり。ここは「コユルナル」とよみては字餘なるのみならず、調あしくなるべし。されば、「コユナル」とよむべきこと明かなり。「ヨビゾコユナル」とは喚子鳥の聲は恰も物を呼ぶが如くなれば、その鳴くをば、「よぶ」とはいへるなり。
○一首の意 この歌二段落にして第一段は、「倭爾者鳴而歟來良武」にして次を弟二段とす。而して意は第二段を先にして今この象の中山を喚びつつ喚子鳥は越え行くなり。この喚子鳥はやがてわれらの故郷の倭の國中に鳴きて喚び行くならむかとなり。これ喚子鳥の鳴くをききて古郷を思ひ出せるなり。
 
(317)大行天皇幸2于難波宮1時歌
 
○大行天皇 「大行」とは天子の崩御ありて未だ謚を奉らぬ間の稱號なり。史記の注に服虔曰はく「天子死未v有v謚稱2大行1」とあるこれなり。大行の名義につきては禮記の陳氏注に「以2其往而不1v反故曰2大行1也」といひ、文選の李善注には「周書曰謚行之迹是以大行受2大名1細行受2細名1」とあり。恐らくは禮記の注の義を元とすべきなり。かく大行天皇といはば汎く用ゐらるべき語なるが故に、日本紀持統卷三年五月、天武天皇の大喪を奉弔せむ爲に入朝せる新羅の弔使に下されし詔の中に「遣2田中朝臣法麿等1相2告大行天皇(ノ)喪1」とありて、その大行天皇をば「サキノスメラミコト」とよみ來れり。さてここは文武天皇をさして申せり。これにつきて契沖は「御諱もあり謚號もおはしませど、藤原宮と標したれば文武の御世に至ては持統を太上天皇と申、文武帝をそれに簡《ワカチ》て大行天皇といへり。此事を先達も思紛けるを、仙覺この第九卷大寶元年冬十月太上天皇大行天皇幸紀伊國時歌といへる詞書を以て證として分別せらる。尤當れり云々此等は文武の崩御の後程なく記せるまゝにて載たるなるべし」といへり。さて大行天皇とある以上は崩御の後謚を奉られぬ間に申し奉る稱號なるを以て、史を按するに、文武天皇は慶雲四年六月辛巳(十五日)に崩御あり、同年十一月丙午(乙未朔)に謚して倭根子豐祖父天皇《ヤマトネコトヨオヂノスメラミコト》と申し奉りしなればその六月乃至十一月にこの記録をなししものといふべきに似たり。この故に萬葉考はこの別記に「此六月より十一月までの間は前年の幸の時の歌を傳聞たる人、私の歌集に大行云(318)々としるし載しならん。さて其歌集を此萬葉の裏書にしつるを同本には表へ出して大字にしも書加へし故にかくことわりなくは成し也けり。こは左《ト》まれ右《カク》まれ、本文ならぬ事明らかなれば、今度の考には小字にしるせり」とまでいへり。この説一往は最ものやうに聞ゆれど、これ亦例の鑿説なるべし。そは因幡國より出土せる「伊福吉部臣徳足比賣墓志」には「藤原大宮御宇大行天皇御世慶雲四年歳次丁未春二月二十五日從七位下被賜仕奉矣」とあり。この人は和銅元年七月に卒し、この墓誌は和銅三年十一月に録したるものなり。又天平勝寶八歳六月廿一日の東大寺獻物帳には「藤原宮御宇太上天皇」につぎて「藤原宮御宇大行天皇とあり、又「大行天皇即位之時便獻、大行天皇崩時亦賜2大臣1」とあり。これらの大行天皇は事實文武天皇をさし奉れり。而してこれらは謚を奉られしより後の事なり。次に又天平二年十一月に記せる美努連岡萬の墓志には「藤原宮御宇大行天皇御世大寶元年歳次辛丑五月使2乎唐國1、平城宮治天下大行天皇御世靈龜二年云々」とあり。ここにては文武天皇をも元正天皇をも大行天皇と申し奉れり。これを以て考ふるにこの頃には攷證にいへる如く、又日本紀の訓の如く大行天皇といふ語を先帝といふ意として、一般に心得てありしならむと考へらる。この故にこの集のこの書きざまは後人の記事の※[手偏+讒の旁]入にあらずして當時の記録の有のままを傳へたりしものなるべし。而して文武天皇を先帝と申し奉れるを以て考ふれば、その記載は元明天皇の御時にありしものたることを想像しうべきなり。
○幸乎難波宮時歌 この天皇の難波に行幸ありしことは續紀に見えたること即位二年正月の(319)行幸と慶雲三年九月の行幸と兩度なり。その慶雲三年の時の歌は上に載せたれば、これはその前の折の歌かと考へられざるにあらねど、そは上の諸例の如く、年月の傳の明かならぬを集めて後に附載せるものと見ゆれば、今に於いて何時の行幸なりしかを定めむことかなふべからず。「歌」の下に目録には「三首」とあり。ここに略せるは異例なり。
 
71 倭戀寢之不所宿爾《ヤマトコヒイノネラエヌニ》、情無《ココロナク》、此渚崎爾《コノスノサキニ・コレノスサキニ》、多津鳴倍思哉《タヅナクベシヤ》。
 
○倭戀 「ヤマトコヒ」とよむ。難波の旅先にて故郷なる倭を戀しく思ふなり。
○寐之不所宿爾 舊訓「イノネラレヌニ」とよみたれど、卷十五「三六七八」に「伊母乎於毛比《イモヲオモヒ》、伊能禰良延奴爾《イノネラエヌニ》」とあるなど(例多し)によりて「イノネラエ〔右○〕ヌニ」とよむ契沖の説によるをよしとす。「ラレ」を「ラエ」といふは古語の格なり。而してこの「ラエ」は能力をいふ語なり。「い」は名詞にていぬる事をいふ。「いをぬ」といふいひ方は「ねをなく」といふ語遣におなじ。今の語にて「ねようとしても寢られぬ」といふにおなじ。
○情無 「ココロナク」とよむこと上の「額田王下近江國時作歌」におなじ。思ひやりもなくといふ程の意なることもおなじ。
○此渚崎爾 舊訓「ココノスサキニ」とよめるを考に「コノスノサキニ」とよみてより諸家皆從へるなり。「渚」は通常「ナギサ」とよむ文字なれど、爾雅に小洲の義といへれば、「ス」ともよむべきこと、既に、本卷の「二」の注に言へり。卷六「一〇〇〇」に「奧渚爾《オキツスニ》、鳴成鶴乃《ナクナルタヅノ》」といひ、卷十九「四二八八」に「河渚爾(320)毛《カハスニモ》」とあるなど、例少からす。さて考の訓み方よくして舊訓あしきかといふに一概にいふべからず。今、考が何故に訓を改めたるかを考へみむ。これには「此」を「ココノ」とよむがあしきによりて「コノ」とよみ、「コノ」とよみたる爲に下に一字の増加を要するによりて「渚崎」を「スノサキ」とよみたりしか、又「スサキ」といふよみ方よろしからぬによりて「スノサキ」とし、かくしたる爲に上を二音にする必要ありてかく改めしか。この二樣のうちのいづれかに理由あるべし。按ずるに「スサキ」といふ語の假名書の例は萬葉集にはなしといへども古くより地名に用ゐたる語なれば、これを雅馴ならずといふべからず。しかも「スノサキ」といへる例も萬葉集には例なきが故にいはば「スサキ」にても「スノサキ」にてもよき道理なり。この故に、問題は「ココノ」とよみたることの不可なるにありといふべし。げに萬葉集中に「ココノ」といへる如き例はなし。されば「ココノ」とよむことは萬葉集としては避くべきことなるが、今の場合は下に來れる語を指示せるものなれば「コノ」といはむ方まされるが如し。されど、萬葉集には卷三「二四五」に「許禮乃水島《コレノミヅシマ》」卷二十「四四二〇」に「許禮乃波流母志《コレノハルモシ》」といふ假名書にせるもあれば、今の場合も「コレノスサキニ」とよむべきものならむも知られず。要するに「スサキ」といふ語を否定せざる限り、今堤出せるよみ方を排斥すべきにあらざるべし。この故に一案を呈して世に問ふこと出せり。さて「コレノ」又「コノ」といひてさせるを見ればその宿近くに渚崎は有りしなり。
○多津鳴倍思哉 「タヅナクベシヤ」とよむ。「タヅ」は「ツル」の一名なり。この頃の「タヅ」又は「ツル」といへるは意廣くして、今の「まなづる」を主とし、丹頂その他鶴類一群の總名なりしならむ。和名(321)鈔に「鶴」字に注して「和名豆流」といひ、又「※[零+鳥]字に注して「唐韻※[零+鳥]【音零楊氏漢語抄云多豆今按倭俗謂v鶴爲2葦鶴1是也】鶴別名也」とあり。他鶴と書くこともあるによりて田に居る鶴とするは俗説なり。「ナクベシヤ」の「ヤ」は疑問をあらはす係助詞にして、用言の終止形に屬するものなるが、ここは反語をなすものなり。上の三輪山の歌の「かくさふべしや」と同じ趣の語なり。
○一首の意 難波の旅宿にあれば近き洲崎に鶴の遊ぶあり。われはこの旅宿にありて夜間寢に就けど、故郷なる倭の戀しく思ひ出でられて、寐なむとすれど、ねられぬに、折しも、この洲崎に居る鶴のなく聲きこゆ。この聲をきけば、ます/\故郷の戀しく思ひ出でらるるものなれば、なかずもあれかしと思ふものを思遣りもなく鶴の鳴くことよとなり。
 
右一首忍坂部乙麿
 
○忍坂部乙磨 「オサカベノオトマロ」とよめり。「忍坂」は大和の地名にて又「押坂」ともかき、和名鈔にては「於佐加」と注せり。「忍坂部」も亦日本紀に「忍壁連」「押坂部史」ともかけり。いづれも「オサカベ」とよみ來れり。元は「オシサカ」「オシサカベ」なりしが、音約りて「オサカ」となりしならむが、この頃には「オサカベ」とよみしならむ。「オサカベ」は、又古事記日本紀共に「刑部」ともかき、姓氏録には刑部の字面のみなり。さてこの人の傳詳かならず。これも姓なければ、貴人にはあらぬなり。
 
72 玉藻苅《タマモカル》、奧敝波不榜《オキヘハコガジ》、敷妙之《シキタヘノ》、枕之邊《マクラノアタリ》、忘可禰津藻《ワスレカネツモ》。
 
(322)○玉藻苅 「タマモカル」とよむ。玉藻はただ藻といふべきを「玉」といふ美稱を添へたるまでなること上にいへり。「タマモカル」とは藻は海中に生ふるものなる故に、沖といはむとての枕詞なりといへるが通説なれど、これは枕詞にあらずして、藻の生ひなびける海中といはむための實語なること明かなり。即ち御杖が「玉藻のなびけるさまにて妹のねたりしかたちの思はるればなり」といへる如く、苅れる藻を見る時は、妹が長き髪の思ひ出さるといふ意を下に含めてよめりと思はる。
○奧敞波不榜 「オキヘハコガジ」とよむ。「敞」は敝の俗體にして正しくかける古寫本もあり。この「へ」を助詞と見る説(考、略解等)と「方」の意の名詞と見る説(檜嬬手古義)とあり。今そのいづれがよきかを決せむに、先づこの歌主が、何處に在りてよめるかを考ふべきなり。これは藻の靡けるさまを見るを忌む由の歌なれば、海上に浮びてよめるものとは考ふべからず。しかるに沖といふ語は邊といふ語に對する語なれば、なほ海上にてよめりともいふべきが如くなれど、然らずして濱邊に立ちて、船に乘りたまはじかといふ人などのありしによめるものと見るべきなり。即ち海濱に立ちて沖を見やりつつよめりとすべし。然るときは「へ」は助詞にして「こぐ」に「こぎゆく」の意を含めたりといふべし。「ジ」は豫め打消す意の複語尾なり。ここに船の語なけれどもこの句の意は船遊などはせじといふ程のことなり。
○敷妙之 「シキタヘノ」とよむ。舊來多くは之を枕詞としたりしを石原正明の年々隨筆に説ありてこれを冠辭にあらず、夜の衣は下に引きしく物なれば、敷たへといひて、敷妙の衣と衣の字(323)までつづけて義をなす詞なりといへり。「タヘ」は絹布類の總名に用ゐしこと上にいへり。ここはその敷たへの上なる枕といふ詞つづきなり。
○枕之邊 舊訓「マクラノアタリ」とよめるを、僻案抄に「マクラノホトリ」とよみ、古義これに從へり。「邊」といふ字は「ホトリ」とも「アタリ」ともよまるる字なるが、「アタリ」といふ語の例は古事記仁徳卷に「可豆良紀多迦美夜《カヅラキタカミヤ》、和藝幣能阿多理《ワギヘノアタリ》」履仲卷にも「波邇布邪迦《ハニフザカ》、和賀多知美禮婆迦藝漏肥能毛由流伊幣牟良《ワガタチミレバカギロヒノモユルイヘムラ》、都麻賀伊幣能阿多理《ツマガイヘノアタリ》」本集卷八「一四四六」に「春野爾《ハルノヌニ》、安佐留※[矢+鳥]乃《アサルキギシノ》、嬬戀爾《ツマゴヒニ》、己我當乎《オノガアタリヲ》、人爾令知管《ヒトニシレツツ》」と見えたるなど古書に例多し。されど「ほとり」と假名書にせるは古書に見えねば、これは舊訓のままなるをよしとす。さてこの枕は妻の寢ねたる枕をいへるにて枕のあたりとはその黒髪のなびけるさまを玉藻のなびけるさまに見なしたるなり。
○忘可禰津藻 「ワスレカネツモ」とよむ。玉藻の靡くを見れば、妹が髪を思ひ出で、その寢たりし枕の邊を忘れかぬるとなり。終止の「モ」は歎息の意をあらはせり。
○一首の意 藻を苅る沖の方へ榜ぎ行かば、その藻を見て妹が事を思ひ出で堪へかぬるによりてその邊には行かじとなり。
 
右一首式部卿藤原宇合
 
○ この歌、目録には「作主未詳歌」とありて、その下に式部卿藤原宇合と注せり。そのさま上の高安大島のにおなじければ、同じ事情によれるなるべし。「宇合」の名を古人往々「ノキアヒ」とよめ(324)るものあり。されど、「ウマカヒ」とよむを正しとす。この人は藤原不比等の第三男なり。名は馬養ともかけり。續妃を見るに靈龜二年八月、養老三年正月、同年七月、同五年正月等には「馬養」とかき、その後には「宇合」とかけり。これは改名せるにあらずして字面を修めしなり。「宇合」とかけるは合の音「カフ」を轉じて「カヒ」にあて「ウマ〔右○〕カヒ」の「マ」にあたる字を省きたること郡名の「丹治比」を「丹比」とかき藤原「葛野《カドノ》」の名を「賀能」とかけるに趣同じ。この人は所謂式家の祖にして式部卿たりしことは明かなるが、その任命の時を詳かにせず。神龜元年四月に「以2式部卿正四位上藤原朝臣宇合1爲2持節大將軍1」と見えたれば、その前なることは著し。されど、和銅の頃にはなほ弱年なるべければ天平九年に薨じ、その年は懷風藻公卿補任などに四十四とあれば、持統天皇七年の出生にして、この頃は十四五歳と見ゆ)かかる歌の作者たるべきいはれなしといふべし。されば、これは目録にもと「作者未詳」とありしのみなりしを、誰人か宇合卿の名を加へしを、それによりて、又誰人か、ここに書き加へしものなるべし。
 
長皇子御歌
 
○長皇子 上(六〇)にいへり。この親王もこの時供奉せられて旅先にてよまれしなり。
 
73 吾妹子乎《ワギモコヲ》、早見濱風《ハヤミハマカゼ》、倭有《ヤマトナル》、吾松椿《ワヲマツツバキ》、不吹有勿勤《フカザルナユメ》。
 
○吾妹子乎 「ワギモコヲ」とよむ。吾妹を早く見むの意にて下の「ハヤミ」にかけて枕詞の如く用(325)ゐたるなるが、その意は明かに存するが故に枕詞といふべからず。又下の「ハヤミ」が、地名ならば枕詞といふべけれど、然らぬときは枕詞と見らるる場合もあるべく、然らぬ場合もあるべし。ここは我妹子を早く見むの意あらはなれば、枕詞の例にはあらじ。
○早見濱風 「ハヤミハマカゼ」とよむ。この「ハヤミ」を濱の名として考には「豐後に速見郡あるが如く難波わたりにも早見てふ濱ありて、しかつづけたまへるならん」といへり。されど、ここにかかる地名のありし證なし。契沖の釋せるうちに卷十一「二七〇六」に「泊瀬川《ハツセカハ》、速見早湍乎《ハヤミハヤセヲ》、結上而《ムスビアゲテ》」とあるを證として早き濱風の意とせるあり。この點は從ふべきなり。この「はやみ」といふ語は、古、かく四段に活用せしめたる動詞のありし、その連用形にして居體言として下なる名詞につづけて熟語をなす一格ありしならむ。濱風は海上より吹く風にして、いち早きものなればその「はやみ」といふ語を早く見むといふ意にもとりなしてかけ詞にしたるなり。
○倭有 「ヤマトナル」とよむ。倭にあるの意なり。
○吾松椿 舊板本「カカマツツハキ」とあるは誤にして、古寫本多くは「ワカマツツハキ」とあり、又「ワレマツツバキ」とある本もあり。長流の管見には「ワレマツツバキ」といひ、僻案抄には「アレマツツバキ」といひ、考には「ワヲマツツバキ」と改めたり。古義には「椿」を「樹」の誤として、「アヲマツノキニ」といへり。今これらの是非を考ふるに、古寫本ども一もここに誤字なければ、古義の誤字説は先づ認むべからず。さてこの松の名に「待ツ」といふ意をかけたりと見ゆれば、「ワレヲマツ」意か、「ワガマツ」意かの二のうちに止まるべきなり。「ワガ待ツ」といへば吾妹子を故郷より、ここに(326)來らむとわが待つ意となり、「ワヲ待ツ」といへば、吾妹子が故郷にて吾がかへるを待つ意となるべし。しかるにここには「倭有」とあれば、故郷にある松椿をいへるなれば、故郷にありて我がかへるをまつ意なること著し。われを待つ意とせば、「ワレマツ」といふべきか、「ワヲマツ」といふべきか二者の一に在るべし。卷十一「二四八三」に「和乎難待爾《ワヲマチガテニ》」とあるによりて「ワヲマツ」といふ語遣は旁例あるによりてこれに從ふべし。さてこれは故郷の家にある松樹と椿樹とをあげ、かねて吾妹子がわれをまてる由をいへるものなれば、故郷にありて我を待つ吾妹子を早く見むといふことと、倭の故郷なる松と椿とをかけ語にしたるなり。
○不吹有勿勤 古來「フカザルナユメ」とよめるを僻案抄に「スサマスナユメ」とよめり。されど、僻案抄の説は根據なければ古來の説をよしとす。「吹かざるな」は「吹かずあるな」といふことにして風といふ以上は吹くことを本來とすれば、その本性の通にせよ。必ず吹けかしといふ意なり。「勤」は「ユメ」とよめり。「ユメ」といふ語はもと「忌む」といふ動詞に「ユム」といふ形ありしものと見ゆるが、それの命令形の「ユメ」なり。「イム」を「ユム」ともいひしならむ證は「湯庭」(齋場)「悠紀」(齋)又高橋氏文に「ユマヘテ」といへるなどあり。その命令形が、慣用語となりて、恰も副詞の如くなりて「努力せよ」の意をあらはすやうになりしものの如し。卷十九「四一七九」に「由米情在《ユメココロアレ》」「四二二七」「由米縁勿《ユメヨルナ》」など假名書にせる例あるがいづれも副詞の如くなれる例なり。それが動詞として用ゐられたるものは古事記允恭卷に「美夜比登登余牟《ミヤビトトヨム》、佐斗毘登母由米《サトビトモユメ》」といふ例あり。さてかく「努力せよ」の意となりしより漢字の「勤」字にてあらはすこととなりしなり。卷三「二四六」に「浪(327)立莫勤《ナミタツナユメ》」卷七「一三三三」に「風吹莫動《カゼフクナユメ》」などあり。卷十一「二六〇四」に「嘆爲勿謹《ナゲキスナユメ》」とある「謹」も同じ意にて「ユメ」とよむなり。
○一首の意 この濱に吹く早み濱風よ。汝は勿論わが故郷までも早く吹き行きてわが消息をもわが家人に傳へむものと思ふが、必ず/\吹けよ。汝は本來その名の如く早くわが故郷にも吹き行くべきものなればその本性をよく發揮してわれを待てる故郷の松や椿を吹きてわれをまつ人々を慰めよ。然らば、わが早くかへりて吾妹子をみむと思へる心も少しは慰むべきかとなり。即ち今みる風の、故郷に通ふをばせめての慰めとしたまふ志明かにみえたり。
 
大行天皇幸2于吉野宮1時歌
 
○大行天皇 は既にいへる如く文武天皇なり。この天皇、大寶二年七月に吉野離宮に行幸ありしこと續日本紀に見ゆれど、その折の歌なりと定まれるにあらざるによりて、ここに載せたるものなるべきこと上の例におなじ。
 
74 見吉野乃《ミヨシヌノ》、山下風之《ヤマノアラシノ》、寒久爾《サムケクニ》、爲當也今夜毛《ハタヤコヨヒモ》、我獨宿牟《ワガヒトリネム》。
 
○見吉野之 「ミヨシヌノ」とよむ。意は上にいへり。
○山下風之 舊訓「ヤマシタカゼノ」とよめり。然れども、「ヤマシタカゼ」とは如何なる風をいふにか、本集中この外には見えぬ語なり。されば、僻案抄には「ヤマノアラシノ」とよむべしといへり。(328)按ずるに、卷十一「二六七七」に「佐保乃内從《サホノウチユ》、下風之吹禮波《アラシフケレバ》」又「二六七九」に「足檜木乃下風吹夜者《アシビキノアラシフクヨハ》」とある「下風之」「下風」は古來「アラシ」とよみ來り、ここに「下風之」の「之」は「アラシ」の「シ」の音を示せりと見ゆれば、「下風」をあらしとよむことになりてありきと考へらる。和名鈔に「嵐」の字に注して、「孫※[立心偏+面]云嵐山下出風也、靈合反【和名阿良之】」とあるによりて、「山下風」即ち「あらし」をさせることは明かなるが、ただ「あらしの」といひては句をなさず。ここに「山のあらしの」とよむ。然るときは「下風」を「あらし」とよみたるものにして卷十一なると同じ用字法なりといふべし。
○寒久爾 古來「サムケクニ」によめり。これは「サムケシ」といふ形容詞の活用にあらずして、「サムキ」に「ク」の加へられたるものにして、簡單にいへば「サムキニ」といふに似たる意なり。かくの如き「ク」は卷五「八九七」に「世間能《ヨノナカノ》、宇計久都良計久《ウケクツラケク》」卷八「一六五五」に「戀乃繁鷄鳩《コヒノシゲケク》」などある「ク」にして、形容詞のある活用(恐らくは連體形の「キ」)をうけて「コト」の意をあらはせる語なり。即ち「うけく」は「うきこと」「つらけく」は「つらきこと」「しげけく」は「しげきこと」といふに似たる意を爲す。而して、この「く」は動詞につけて「いはく」「みらく」などいふ場合もありて、いづれも「く」といふこと一なれど上なる活用の形の上に音の轉化行はるるなり。されば、ここも「寒きこと」といふ程の意なりと考へらる。かくて「寒き」を名詞化せるものなるからに、簡單にいへば「さむきに」といふと大差なきこととなるなり。
○爲當也今夜毛 「ハタヤコヨヒモ」とよむ。「爲當」は支那の熟字にて國語の「ハタ」にあたる意をあらはせりと見ゆ。この字面は國典にては日本紀舒明天皇卷十六年の條に「於是許勢臣問2王子(329)惠1曰|爲當《モシ》欲v留2其間1爲當《ハタ》欲v向2本郷1」と見え日本後紀卷十三延暦廿四年十一月丙寅朔の制に「頃年之間、諸司諸國所v進解文、官人等名下或多不v署若情懷不v穩忍而黙爾|爲當《ハタ》執見各殊、上下不※[立心偏+送]歟」と見え、令集解には職員令圖書寮の文の解に「問此司寫書以下造墨以上|爲當《ハタ》司設歟|爲當《ハタ》分2給諸司1歟」又東宮職員令の文の解に「問元一氏後別成2三姓1未v知尚號爲2一氏1、爲當《ハタ》成2三氏1乎」神祇令の文の解に、「未v知神祇官者待2國司言上1申歟、爲當《ハタ》依v例神祇官自然知而申歟」同僧尼令の文の解に「未v知國司直申v官哉、爲當《ハタ》先經2玄番1哉1又文鏡秘府論に「竊疑正聲之已失|爲當《ハタ》時運之使然」等その他用例頗る多し。思ふにこの字面は本邦の造字にあらずして支那の六朝頃よりの俗語なるべきか。顔氏家訓書證篇中に「未v知即是通俗文|爲當《ハタ》有v異近代或更有2服虔1乎不v能v明也」とあり。又首楞嚴經卷二に「此夜燈明(ノ)所現圓光、爲《ハタ》是燈色、爲當《ハタ》見(ノ)色(カ)」と見え、左傳の孔頴達の疏に「以v今觀v之不v可2一日而無1v律|爲當《ハタ》吏不v及v古、民僞2於古1、爲《ハタ》是聖人作v法不v能v經v遠古古今之政何以異乎」など見えたり。これらにて漢文なるは上に「ハタ」又は「モシ」といふ語あり、それと相照應して用ゐ、それと共に下を疑問の語法にすべきものたるべし。國語にある「はた」は上の「爲當」の字によりてあらはされたる意義よりも更に廣きものと見えたり。今集中にて假名書なる例を見るに卷十五「三七四五」に「和我由惠爾《ワガユヱニ》、波多奈於毛比曾《ハタナオモヒソ》」卷十六「三八五四」に「痩痩母《ヤスヤスモ》、生有者將在乎《イケラバアラムヲ》、波多也波多《ハタヤハタ》、武奈伎乎取跡《ムナギヲトルト》、河爾流勿《カハニナガルナ》」卷十八「四〇五一」に「多胡乃佐伎《タコノサキ》、許能久禮之氣爾《コノクレシゲニ》、保登等藝須《ホトトギス》、伎奈伎等余米波《キナキトヨメバ》、婆太古非米夜母《ハタコヒメヤモ》」とあり。又「半手」とかけるあり。卷十一「二三八三」に「世中《トノナカハ》、常如《ツネカクノミト》、雖念《オモヘトモ》、半手不忘《ハタワスラレズ》、猶戀在《ナホコヒニケリ》」これなり。なほ集中には「當」字を「はた」とよみ來れるあり。卷六「九五三」に「竿牡鹿之《サヲシカノ》、鳴奈流山乎《ナクナルヤマヲ》、越將(330)去《コエイナム》、日谷八君《ヒダニヤキミニ》、當不相將有《ハタアハザラム》」これなり。元來「はた」といふ國語は「また」に似てしかも咏歎の意を含ませたるなり、されば、富士谷成章は「かざし」の「はた」を「もまた」の意とし、別に「あゆひ」にも「はた」ありとし脚結抄にこれを釋して「ぜひもないことなどいふ心あり」といへり。この「あゆひ」といへる「はた」も元來同じ副詞なるが、それが轉置せられて句の末におかれたるを見てかくいへるものなるが、この場合にはその用法と位置との爲に特別の意をあらはせるによりてかくいへるなり、さてこの「はた」には通常「將」字をあてたるが、これは多く「寧」字と相對して用ゐられ、擇一の義をあらはすものにして、「爲當」はその「將」などとは稍異なりと考へらるるものなるが、いづれも國語の「はた」の意義と用法との或る部分に當るものと認めらる。而してここのは冨土谷氏の「ぜひもないこと」といふ如き意にていへるものをあらはせるものにして漢字の「爲當」の本義を以て書けるものとは見えざれば、ただ「はた」といふ國語に用ゐることあるより、その本義を離れて汎き方の語をあらはすに用ゐたりと思はるるなり。
○我獨宿牟 舊訓「ワレヒトリネム」とよみたるが、考に「ワガヒトリネム」とよめり。古寫本中冷泉本にもかくありといふ。燈には、「わが」といふは非なりとし、「が」といふ時は必上の物、主となり、「の」といへば、下の物主となるといひ、ここも我といふよりはひとり寢の事この歌の主なれば、必「わが」とよむべき旨いへり。されど、これは「われ」とのみいふか、「わが」といふかの區別にして、ただの名詞の下につく場合の「の」「が」を以て律すべからず。加之「わが」より「ひとり」につづくに非ずして「宿む」につづくものなれば、この「わが」より「ひとり」につづくといへるも僻論なり。本集を通覽す(331)るにかかる揚合に「われ」といへるもあり「わが」といへるもあり。その區別は文法の上にあらずして意義と歌調の緩急の差とに基づくものと見えたり。さて、ここは歌調の上よりいへば、「わが」の方ひきしまりて聞ゆるなり。
○一首の意 われは行幸の御供してこの芳野に旅宿すること數日なるが、今日はことに嵐の寒く吹くに、物淋しくて故郷のそぞろに思ひ出でらるるに、今夜も亦ここに獨り旅宿せむか。是非もなきことなりと歎けるなり。
 
右一首或云天皇御製歌
 
○ この歌元來作者詳かならぬものなるが、歌の意を按ずるに從駕の人の心情をあらはせるものにして至尊の歌のさまにはあらず。「或云」は一説に文武天皇の御製とせる由をいへるなり。新勅撰集に此歌を持統天皇御製としてあげたるはこの一説によりたるものなるべきが、しかも誤り讀みたるなり。
 
75 宇治間山《ウヂマヤマ》、朝風寒之《アサカゼサムシ》。旅爾師手《タビニシテ》、衣應借《コロモカスベキ》、妹毛有勿久爾《イモモアラナクニ》。
 
○宇治間山 「ウヂマヤマ」とよむ。この山は大和志によれば、池田莊千俣付にありといふ。これは上市の北にある山にして千俣付は飛鳥邊より上市に越ゆる山路の沿道にあたる地なれば、吉野離宮に往還の際この山の邊を過ぎたまひし時の歌なるべし。
(332)○朝風寒之 「アサカゼサムシ」とよむ。この語にてこの宇治間山の邊をすぎたまひし時の御歌なりと知らる。若し吉野宮にての歌ならば、かくはいはるまじ。吉野宮にましては近き山々多く、この宇治間山の朝風を特によまるべき筈なければなり。
○旅爾師事 「タビニシテ」とよむ。旅なるによりてといふ程の意なり。
○衣應借 古來「コロモカスベキ」とよみて異論もなかりしを攷證に「カルベキ」とよめり。「借」字は本來「カル」といふ意なれば「カルベキ」とよめるは理あるに似たり。本集中その本義に用ゐたる例もとより少からず。上の「兎道乃宮子能《ウヂノミヤコノ》、借五百百《カリイホ》」(七)又卷六「一〇七〇」に「借高之《カリタカノ》、野邊副清《ヌベサヘキヨク》、照月夜可聞《テルツクヨカモ》」等の例にて見るべし。されど、又「カス」とよめる例も少からず。卷四「六四八」に「比日者《コノコロハ》、奈何好去哉《イカニサキクヤ》、言借吾妹《イブカシワギモ》」卷十二「三〇一一」に「吾妹兒爾《ワギモコニ》、衣借香之《コロモカスガノ》、宜寸河《ヨシキガハ》」とある如きこれなり。かくの如くなれば、「カス」とよむか、「カル」とよむかは歌の意より決すべきなり。「カス」とよまば我に衣を貸すべき妹といふ意とせざるべからず。「カル」とよまば、衣を我が惜るべき妹といふ意とせざるべからず。然るにこの歌主よりいへば、衣を借るべき人なれば、「カル」の方よきに似たり。されどかくては歌の意淺くなりて面白みなし。ここは我に同情をよせて朝風の寒きにさぞなやみたまはむなどいひて衣を貸してくるる妹もなき由にいへるものと思はるれば、我を客としたるいひざまと見るを趣深しとす。さればなほ舊來のよみ方のまされるを覺ゆ。
○妹毛有勿久爾 「イモモアラナクニ」とよむ。「勿」は本來禁止の「ナ」の意の字なるを假名に用ゐたるなり。「アラナク」は「アラヌ」に「ク」の添はれるにて「アラヌコト」といふに近し。かくて「アラナク(333)ニ」は「アラヌニ」と大差なき意をあらはす。
○一首の意。この歌二段落にして「朝風寒し」にて一段落なり。今宇治間山を通れば折柄朝風寒く覺ゆ。かく寒きには如何に冷えたまはむなどいひて衣を出してこれ召し給へなど、家にあらば妹が心づけくるるものなるに、今は旅なれば、心づかひしてくるる人もなしとなり。
 
右一首長屋王
 
○長屋王 「ナガヤノオホキミ」は高市皇子の子にして天武天皇の御孫なり。慶雲元年に正四位上を授けられ、後宮内卿、式部卿、大納言、右大臣等を歴て神龜元年に正二位左大臣に至る。天平元年讒にあひて自盡せられたり。時に年四十六。
 
和銅元年戊申天皇御製歌
 
○和銅元年戊申 和銅は元明天皇御宇第一年に改められたる年號なり。
○天皇御製歌 天皇は元明天皇をさし奉ること著し。この天皇は御諱阿閉皇女と申し奉る。その御製上(三五)に出でたり。文武天皇の御母にましますが、文武天皇崩御の後位に即きたまひしなり。この和銅元年の頃はなほ藤原宮にましまししなり。
○ 萬葉考にはこの和銅元年の前に「寧樂宮」の三字を補ひ、戊申の下に「冬十一月」脱すとせり。されど、寧樂宮には和銅三年に遷りたまひしものなれば、もとここにこの三字ありしか否か、たや(334)すくいふべからず。又「冬十一月」は契沖がこれを大嘗會の時の御製といひたる説に基づきて加へたるものなるべきが、もとより確證なきことなれば、ここにこの文字を加ふるは強ひ事なり。按ずるに大寶元年以下は年號にて標し、宮號にて標するをせざりしものなるべし。
 
76 大夫之《マスラヲノ》、鞆乃音爲奈利物部乃《トモノオトスナリモノノフノ》、大臣《オホマヘツギミ》、楯立良思母《タテタツラシモ》。
 
○大夫之 「マスラヲノ」とよむこと上(五)にいへり。ここに「ますらを」とあるは頼もしき武人たちといふ程の意にてのたまへりと思はる。
○鞆乃音爲奈利 古來「トモノオトスナリ」とよみたるが、冷泉本には「トモノネスナリ」とよめりといふ。又攷證には「トモノトスナリ」とよむべしといへり。かくてそが例證として、卷十四「三四五三」に「可是乃等能《カゼノトノ》、覩抱吉和伎母賀《トホキワギモガ》」又「三四七三」に「左努夜麻爾《サヌヤマニ》、宇都也乎能登乃《ウツヤヲノトノ》」とあるをあげたり。この説によるべきなり。鞆は皮にてつくり、左手の肘につけて、弓弦の反動を受くる具なり。その形は世に巴(鞆繪)といへる紋あるを見て想像するを得べし。奈良の正倉院に奈良朝時代のもの存す。而してその手に付けたる状は古き繪卷にて見るべし。このもの支那にはなきものと思はるれば、鞆の字も亦我國の造字なるべく思はる。その制延喜式兵庫寮に鞆一枚の料として、「熊革一條鞆料長九寸廣五寸、牛皮一條鞆手料長五寸廣二寸」と見ゆるにて大方を推すべし。矢を射る時弓弦が反動によりてこれに強くあたりて音を出したりしものと考へらる。古事記上卷に「伊都之竹鞆」とかけるを日本紀には「稜陵之高鞆」と書けり。これはその手(335)肘につけたる状の高く見ゆるよりいひしなるべし。その音せしことは大神宮儀式帳に「弓矢鞆音不聞國」と見えたり。「爲奈利」は「す」を力強くあらしめむ詞遣なり。さてここには鞆の音のみならねど、鞆を主としていはれたりと見ゆ。
○物部乃 舊來「モノノフノ」とよみ來れり。然るに攷證には當時左大臣たりし石上朝臣麿をいはれたるなれば、「モノノベノ」とよむべしといへり。石上(ノ)麿は物部氏の一族にして、天武天皇の御世には物部連麿と見えたれば、この説一往は理ありて聞ゆ。されど、さきに物部の名を避けて石上氏と改めし人をことさらにまたもとの名にてよびたまふことはその當時にあるまじき事なれば、なほ汎き稱の「モノノフ」と見るべし。かくしてここは武官をさされしなり。「モノノフ」といふ語のことは上に藤原宮役民作歌(五〇)にいへり。
○大臣 舊訓に「オホマウチギミ」とよめるは、後世の音便によれるものなれば從ふべからず。考に「オホマヘツギミ」とよめるをよしとす。「マヘツギミ」は、「ツ君」にして、天皇の御前に近く侍る身分の貴き人をいふ。日本紀景行卷に「阿佐志毛能《アサシモノ》、瀰開能佐烏麼志《ミケノサヲバシ》、魔幣菟耆瀰《マヘツキミ》、伊和多羅秀暮《イワタラスモ》、瀰開能佐烏麼志《ミケノサヲバシ》」とあり。さてその「マヘツギミ」のうちにも特に重立ちたる人を「オホマヘツギミ」といひ、「大臣」の文字をあてたり。かくて「モノノフノオホマヘツキミ」は武官の大官をさすものにして漢語にていはば、將軍といふが如きことなり。されば、ここは文官たる左右大臣には關係なきことと思はる。
○楯立良思母 「タテタツラシモ」とよむ。楯は防禦に用ゐる武器なり。その名は矢又は鉾など(336)の攻撃を防ぐ爲に身の前方に立つるより起れりと思はる。延喜式に大甞祭に用ゐる神楯を載するを見るに、長さ一丈二尺四寸、濶さ本は四尺四寸五分、中は四尺七寸、末は三尺九寸、厚さ二寸、丹波國楯縫氏造る由なり。その楯には黒牛皮(長さ八尺廣さ六尺を用ゐる)を張り、裏には商布(二丈六尺)を糯米の糊にて貼り、面には長さ四尺、廣さ五寸、厚さ一分の鐵を大小の平釘にて打ちたる趣に見ゆ。楯の種類には別に手に持つ料としての手楯といふもあれど、單に「たて」といへば、上にいへる立て置きて防ぐ具をさすなり。楯を立つとは陣容を整ふるさまをいふなり。「ラシ」は或る事實を基として推定する意をあらはす。即ち第一段の鞆の音を耳にしたまひし事を基として、ここに「楯立つらし」と推定せられたるなり。この楯を立つといふ事につきて從來の注釋家或は大甞祭の事といひ、或は、ただ弓射る時の鞆の音聞ゆといひ、或は御軍起れるにやなどいへるはいづれも心ゆかず。按ずるに軍防令義解に「假令軍陣之法一隊十楯五楯列v前、五楯列v、楯別配2兵五人1」とみえ、貞觀儀式に、その「三月一日於2鼓吹司1試2生等1儀」のうちにその鉦鼓によりて軍隊を進退せしむる状を叙せり。そがうちに楯領隊といふものあり。この楯領とは「タテノウナガシ」ともよむべきか、未だその確かなるよみ方を知らねど、儀式の文によれば、楯一面毎に一人の兵士の附きあるがそれを統領する武官を楯領といへりと思はる。その循領の隊といふものは、靜動共に本營たる將軍の隊の前面に常に陣することを明かにせり」これらは鼓吹正の試練なれば鼓吹の用を主とせる記述なれど、おのづから古代の軍隊の隊伍の組織進退の節度を徴するに足る重要の記事にして、これによりてはじめて、この歌の意を明かに(337)認めうべし。今儀式考に附載せる隊伍の圖中よりその位置を明かにすべき點を摘出せむ。
  ○楯【一面】鼓【一面】 ○鼓【一面】      ○答鼓
   幡【一流】    ●楯領隊標 幡【一流】  ●將軍隊標
  ○楯【一面】鼓【一面】 ○鉦【一面】      ○多良羅鼓
 これを以てこの歌を推すに即ちその鞆の音などを聞きてその陣容を推したまひしものと見らる。
○一首の意 この歌二段落なり。第一段には勇ましき武士どもの鞆の音きこゆとなり。(これ事實なり。)第二段には、この音をきけば、今や軍陣の調練の最盛にして軍將等は楯を立てしめて陣容を調へてあるらしとなり。(これ推定なり。)さてこの御製何を讀ませたまへるにか。契沖はこの年の大甞祭の時によませたまへるならむといへること上にいへる如し。かくいへる由は古即位の禮又大甞祭に大なる楯を立つる儀ありて、持統天皇の即位禮には物部麿朝臣(即ち石上麿)大楯を樹てしことあり、文武天皇の大甞祭には榎井朝臣倭麿大楯をたてしことあり。かかればこの説一往聞えたれども、大甞祭に弓を射て鞆に音立つる如き武術の試みはあるべき事にあらず。考には御軍の調練にして翌二年三月に蝦夷征討の軍を起して陸奧越後兩道より出で討たしめられたることあれば、その爲に前年より調練ありしにやといへり。この説よきやうに思はる。
 
(338)御名部皇女奉v和御歌
 
○御名部皇女 「ミナベノヒメミコ」とよむ。この皇女は天智天皇の御女にして元明天皇の同母の御姉にます。
○奉和御歌 「奉和」は「コタヘマツレル」とよむべし。「和」の事は「一七」の條にいへり。
 
77 吾大王《ワガオホキミ》、物莫御念《モノナオモホシ》。須賣神乃《スメガミノ》、嗣而賜流《ツギテタマヘル》、吾莫勿久爾《ワレナケナクニ》。
 
○吾大王 舊板本「ワカミカト」とよみたり。古寫本或は「ワカキミハ」とよめるあり、又西本願寺本には「ワカオホキミ」とありといふ。代匠記には「ワカオホキミ」とよむべきかといへり。按ずるにこの頃「御門」を以て天皇を唱へ奉ること未だ行はれざりしなるべければ、「ワガオホキミ」とよむをよしとす。考以下みなかくよめり。ここは天皇をさし奉られしなり。
○物莫御念 舊板本「モノナオモホシソ」とよみ、又古寫本には往々「オホシソ」とよめり。考も亦しかよみたるを玉小琴に「モノナオモホシ」とよむべしといひ、略解これに隨へり。さて「御念」は「オモフ」の敬稱語としてあらはしたるものなるが、「オモホス」とも「オボス」ともよまるるなり。かくてその「オボス」は「オモホス」の約まれるにて、平安朝以後の語なれば、ここには「オモホス」とよむをよしとす。さて玉の小琴は舊訓の如く「モノナオモホシソ」といふ時は字餘になるを以て「モノナオモホシ」とよみたるなるが、かく上に禁止の「ナ」ありて、下に「ソ」なく動詞の連用形にてそれの(339)結とする語遣は上代の語法にして古書に例少からず。古事記上卷沼河比賣の歌に「阿夜爾那古斐岐許志《アヤニナコヒキコシ》」と見え、本集には卷五「九〇四」に「父母毛《チチハハモ》、表者奈佐加利《ウヘハナサカリ》」卷十七「三九九七」に「安禮奈之等《アレナシト》、奈和備和我勢故《ナワビワガセコ》」などあり。物を念ひたまふなといはれたるなり。
○須賣神乃 「スメガミノ」とよむ。「スメガミ」は皇神とも皇祖神ともかけり。「スメ」は「スベ」にして、統治の義ありて、天皇の御大業をさすを本義とするが、その用は接頭辭の如くになれるなり。かくて「スメガミ」にて皇祖たちをさし奉り、更に轉じて神の尊稱の如くにもなれり。今ここには、皇祖の神の意にて本來の意をあらはせり。
○嗣而賜流 「ツギテタマヘル」とよむ。文字のままによむべくして、よみ方には異論なけれど、解説には諸説紛々として一ならず終にいふべし。
○吾莫勿久爾 舊訓「ワレナラナクニ」とよめり。然れども、「莫勿久爾」は「ナラナクニ」とよまるべき文字にあらずして「莫」は否定の語なれば「ナリ」の意によむは不當なり。この故に契沖は「今の書やうわれならなくにとはよまれず、われなけなくにと讀べきか」といへり。この語の假名書にせる例は卷十五「三七四三」に「多婢等伊婆《タビトイヘバ》、許等爾曾夜須伎須久奈久毛伊母爾戀都都須敝奈家奈久爾《コトニゾヤスキスクナクモイモニコヒツツスベナケナクニ》、」とあり。又この歌と趣似たる歌は卷四「五〇六」に「吾背子波《ワガセコハ》、物莫念《モノナオモヒソ》、事之有者火爾毛水爾毛《コトシアラバヒニモミヅニモ》、吾莫七國《ワレナケナクニ》」といふあり。さて「ナケナクニ」は「ナカラナクニ」の約められたるものにしてかかる場合の「カラ」の約められて「ケ」となるは「ヨカラム」を「ヨケム」といひ、「ベカラム」を「ベケム」といふみなこの格なりとす。この句の語遣「吾なからぬにてはあらぬに」といふやうの意なり。さて上に(340)いへる如くこの歌の意解き難きが故に、古來諸説紛々たるによりて、本居宣長は「吾」は「君」の誤とし橘守部は「告」の誤として「ノリナケナクニ」とよむべしとせり。されど、かくの如くにかける本、古來一もなきのみならず、守部の説の如きは古語を辨へぬ言なり。加之既に示せる如く、卷四に同じ趣の歌ありて同じく「吾なけなくに」とよめるを見よ。何の誤かそこにあるべき。
○一首の意 この歌の意を釋するに難解となりたるは「嗣而賜流」といふ一句なり。代匠記はその初稿本には「すめ神のつきてたまへるとは天位をつぐことは凡慮のはかるところにあらずすめ神のはからせたまひてかくついてにあたりて天位にのほらせたまへば、何事もおほしめすままにてさはることおはしまさじとなり。つきてたまへる我とのたまふは御名部皇女は元明天皇の御あねにてともに天照大神の御子孫なれば、その御姓のかたにてのたまへるなり。われとはのたまへとも天皇の御うへなり」といへり。この解釋にては「我」といふ語は或は御名部皇女ともなり、天皇ともなり、不定なるのみならず、上に「吾大王云々」ともあれば、「われ」といはれたるは天皇ならぬは明かなるが、「われ」を御名部皇女とせば、この釋何事をいへるか全然不可解となるなり。この故に契沖はその清撰本には改めて次の如くに釋せり。「我とは物部氏の人に成ての給ふなり。歌の心は女帝にて大事のおほなめを行はせ給ひて萬つに叡心をつけて慎み給ふなれば、天位をつく事は凡慮の計る所に非ず。すめ神の計はせ給ひてかく次にあたり給へは、思召ままにてさはることはましまさじ。物部氏をばかかる時供奉して楯を立て守護し奉れと祖神の定めて後々の帝に賜たれば、其職に仕ふまつること敢て怠らねば思召あつ(341)かふことましますなとなり」といへり。この解にては「ツギテ賜ヘル」を二樣にとりなしたり。懸詞にもあらぬものを二樣にとりて釋するだに異樣なるに、物部氏の身としての心にてよみ賜へるものとしては皇祖神のつぎて賜へるといふこと僭上の沙汰とやならむ。されば、これらいづれも從ふべからざるなり。僻案抄には「今上の天津日つぎをうけつぎ給ふことは人力のおよぶことにあらず、天照大神よりこのかた、代々の皇神のさづけたまへる一統の道ありてつぎもし、さづけもし給ひて、すこしも私のことにあらざる意を下句に述給へり。されば須賣神の嗣而賜流とは皇祖の天位をさづけ給へる義也。吾とは御名部皇女一人の吾にあらず。吾々の略也」といへり。この説にては「嗣而賜流」は「大王」にかかる意にして「吾」にかかるべきことにあらざらむ。然るに語としては明かに「吾」につづけるなり。されば、この解はこの歌の言つづきよりして否定せざるべからず。考には「皇神の嗣々に寄立《ヨサシタタ》しめ給へる吾大王の御位にしおはしませば、物なおぼしそ。御代に何ばかりの事か有べき。もしはたやむ事なき事ありとも吾あるからは、いかなる事にも代りつかへまつらんと申しなくさめ奉りたまふなり」といひ、略解もこれによれり。この解稍穩かながら、なほ須賣神のつぎて賜へるを一系の皇統にかけたるものとせるは「吾」につづけるものと見ざる説なれば、語の實際とはあはず。かくの如き解をとる時は宣長説の如く「吾」を「君」の誤とせずは落著せぬものなり。爾來諸家の説大方上の範圍を出でずして歌の意明かになれりとも見えず。新考に至りてはじめて「君につぎて蒼生にたまへる」意とせり。今わが見を述べむとするに、先づこの歌の構造を顧みよ。「吾大王物莫御(342)念」にて一段をなし、その以下にて一段をなせる二段落の歌なり。さて第一段落は異なる事もなきが、諸家の説第二段落中の「賣須神乃嗣而賜流」といふ語をとり去りて第一段落のうちにもち來して釋せるはこれ果して歌を解する道なるべきか。一わたり見れば「吾大王」は「須賣神乃嗣而賜流」といふ語につづくべき意ありともいふべし。されど、かくいはむとならば、歌主ははじめよりかかるよみ方をせらるまじきなり。第二段落の「須賣神乃嗣而賜流」はもとより第二段落中のものにして明かに「吾」を限定せるものなるが、その「吾」は第一段の「吾大王」に對せるにて第一人稱たること明かなれば、御名部皇女御自らの事をさされたるはいふまでもなし。かくてその構造は上にあげたる卷四の歌と同じきこと著しといふべし。さてその「吾」は御名部皇女御自身なれば、「須賣神乃嗣而賜流」といへる限定語は「吾」に關係深きこと明かなるが、「嗣ぐ」は「吾が嗣ぐ」意なること勿論なり。さてその吾が嗣ぐは誰に嗣ぐかといふに天皇につぐ意なることいふまでもなし。されど「嗣」字は借字として「つぐ」といふ國語をあらはせるまでにして天日嗣の意あるにあらず、天皇に次ぎての意にして副次の義と見るべきなり。從來これを天日嗣の意としたるが故に穩かならぬ意にとりなしたり。この點は新考の説いはれたりといふべし。さて「たまへる」は如何といふに須賣神が誰にか賜へることは論なきが、誰人が何を賜はれるか考ふべし。新考は「蒼生にたまへる」意とせり。然るときは蒼生が御名部皇女を賜はれりといふ事に解せらるべし。されど、この當時にかかる思想ありしか如何。大なる疑問なりとす。惟ふにこれは御名部皇女が生命を賜はれる意なるべし。皇産靈神の神靈の妙用により(343)て人の生命も賜はれりといふ思想當時一般に行はれたり。須賣神は汎く皇産靈神をもさせば、かくいひたりとて不思議にあらず。さて「つぎて」とあるはこの皇女は天皇の御姉にましませば年齡よりいへばつぎてといふは穩かならねど、天皇に副次としてこの世に生命を賜はれる吾とのたまへることとせば、何の不思議もなきなり。かくて一首の意は次の如くならむか。
 わが天皇よ。今軍旅の事ありて國家多事の秋なり。されど、深く叡慮をなやましたまふな。もし事急なる事もあらば君の御名代にも御|身代《ミガハリ》にも吾は立ちて眞心もてつかへ奉らむ。さる料として皇祖の神の生命をたまへる我のかく仕奉りてあらぬにはあらねばとなり。これ古昔、軍旅の際に婦人として男々しき決心もて事に從へること、下ざまに多きが、高貴の方々も亦然り。古くは神功皇后、又齊明天皇近くは持統天皇の御事などを以て見るべきなり。
 
和銅三年庚戌春二月從2藤原宮1遷2于寧樂宮1時御輿停2長屋原1※[しんにょう+向]望2古郷1御作歌
 
○和銅三年云々遷2于寧樂宮1時時 寧樂宮即ち平城宮にしてその遺址は今の奈良市の西より郡山町の北にわたれる一帶の平地これなり。この宮城を營むべきことは和銅元年に勅ありて造平城宮司を設けられ、三年三月辛酉(十日)に遷都ありし由なり。然るにここに二月とあるは史と一月の差あるに似たり。これにつきては正史に誤ありとの説あれど、苟も帝王の皇居の移轉の如きは皇族百官悉く移るものにしてその事甚だ重大なれば、その初より終るまで、一月餘(344)若くはそれ以上もかかりしならむ。三月辛酉は蓋しその移轉の事終了せし日なりしならむ。然らば、その藤原宮を離れて移轉のはじまりし頃、先づ移られし方の詠なりとする攷證の説をよしとす。拾穗抄に「三月」と改めたるは不可なり。
○御輿停長屋原 輿は和名鈔に「和名古之」とあり。「御輿」は「ミコシ」とよむべく、かく書きたれば皇族の方なるを察し得べし。古來「ミコシヲ長屋原ニトトメテ」とよめり。されど、かくよまむにはその文は「停御輿於長屋原」とあるべきなり。されば拾穗抄、古義にはかく改むべしといへり。然れどかくかける本一も存せず。按ずるに、これは「御輿停」の三字一連續として「ミコシヲトドメテ」とよむべきものにして、この文は「ナガヤノハラニミコシヲトドメテ」とよむべきものなるべし。同じやうなれどかくよまば、無難なるべし。長屋原は和名鈔大和國山邊郡の郷名に「長屋【奈加也】」とある地のうちなるべし。然れどもこの地名今見えず。大和志には「山邊郡長屋原長原村」とあり。蓋しこの著者は「ながはら」は「ながやはら」の約なりと認めしならむ。長原は今の朝和村永原なり。
○※[しんにょう+向]望古郷 「※[しんにょう+向]」字は類聚古集古葉略類聚鈔冷泉爲頼本には「※[しんにょう+回]」につくり、金澤文庫本には「廻」につくり、活字素本には「回」につくれり。かくて學者間にも二説ありて、考には「回」とし、攷證には「廻」をよしとせり。先づ「※[しんにょう+向]」字は「※[しんにょう+囘]の俗體にして、「※[しんにょう+囘]」は説文に「遠也」と見え、「※[しんにょう+向]」は新撰字鏡に「遐也、遠也、遙也」と見えたれば、「ハルカニ」とよむべき字なり。「廻」は「※[しんにょう+回]」の俗體にして「※[しんにょう+回]」は「回」と同じ字なり。さて攷證は「邊讓章華賦云肚瑤臺以廻望云々李商隱板橋曉別詩云廻望高城落曉珂云々などある(345)も同じ。(これはいづれも佩文韻府より引けりと見ゆ。同書には例なほ多し。)これは古郷を見かへりたまふなり」といへり。「※[しんにょう+向]望」は陸雲※[草冠/合]2兄平原1書(陸機爲2平原内史1)に「悠思※[しんにょう+向]望寢言通靈」とあり。かくの如く二者共に支那に先例あり、所傳の本二樣ありて妄りに甲乙すべからず。今姑く普通の本に從ひて「※[しんにょう+向]」と認め「ハルカニ」と訓しおくべし。「古郷」はもとの京即ち藤原の京をさす。この長屋原を今の永原とすれば藤原の京よりは三里許なり。
○御作歌 かくかけるは天皇御製の歌にあらず。しかもただの皇族に「御歌」とかけるよりも重んじたるかきぶりなり。これによりて推すに皇子皇女の身分重き方の御歌なること著し。しかもここに作主の名見えざるは、蓋し脱したるならむが、これは御名部皇女の御作なるを前の歌を受けて略せるなりといふ説あり。僻案抄に「作」は「製」の誤なりといへるは天皇の御製なりと認めての説なるべし。されどかく、かける本なし。守部はここにあるべき歌の脱せるなりといへり。これは次の歌に「明日香里」とあるよりの説なるべきが、これも亦いりほがの説といふべし。所詮正しくは「御作歌」の上に作主の御名あるべきが脱せりと認むべし。脱せるものとせば上の御名部皇女の御作なるべしといふ説最も近しといふべきが、しかも上の歌には御作歌とかきてあらねば、これも必ずしもよるべからず。いづれにしても斷言すべき旁證は存せざるなり。
 
一書云太上天皇御製
 
(346)○ これはこの歌の作主の異傳を注せるものなるが、この和銅三年に太上天皇と申し奉るべき方ましまさず。玉の小琴はこれによりて説を立てて曰はく、「是は飛鳥云々の歌を一書には持統天皇の御時に飛鳥より藤原へ遷り玉へる時の御製とするなるべし。然るを太上天皇と云るは文武天皇の御代の人の書る言葉也。又和銅云々の詞につきて云は和銅の頃は持統天皇既に崩玉へども、文武の御時に申ならへる儘に太上天皇と書る也」といへり。この説一わたり聞えたれど、なほ未だしき點ありと思ふ。先づこの「一書云」の注は目録には見えぬものなれば、まさしく後人の記入と見ざるべからず。さて上の説は次の歌をば飛鳥淨御原宮より藤原宮に宮うつりありし時の御歌なりと先定しての説なるべきが、かく先定しての論斷には必ずしも從ふべからず。次にこの注を記しし人太上天皇をまさしく持統天皇と意識せるものならば、かく時代のたがへる所に於いて何が故にかくまぎらはしき書きざまのままに記入すべきか。思ふにこれをここに記入せる人は持統天皇の御製としてにあらざりしことはここに太上天皇とのみ書けるにて明かなり。さてこの歌は新古今集卷十覊旅部に載せて「和銅三年三月藤原の宮より奈良の宮にうつり給ける時元明天皇御歌」とあり。これにつきて思ふべきことあり。元明天皇は和銅八年九月二日に御讓位ありて、靈龜五年まで太上天皇としておはしませり。而して萬葉集中卷一二は一單位をなすものにして、卷二の末に「靈龜元年歳次乙卯秋九月志貴親王薨時作歌」といふ詞書あるを見、かつ、それより後の作を載せざるを見れば、元正天皇の御代に撰集せしものと推定するをうべし。靈龜の年號は元正天皇受禅の際に改元あり(347)しものにして志貴親王の薨去は續紀によれば靈龜二年秋八月とあり。今この二傳いづれか正しきを知らずといへども、元正の朝までの歌を集録せることは著し。而して二朝共に奈良宮御宇天皇にましませば、この太上天皇も亦新勅撰集に認めたる如く元明天皇を申し奉りしものなるべく、或は奈良宮御宇の太上天皇の御製歌なりと記し傳へたる本などありしを加へしならむか。かくてこの記入はいかに早くとも、元正天皇の御宇までにしてその前にはあらざるべきなり。
 
78 飛鳥《トブトリノ》、明日香能里乎《アスカノサトヲ》、置而伊奈婆《オキテイナバ》、君之當者《キミガアタリハ》、不所見香聞安良武《ミエズカモアラム》。 一云君之當乎、不見而香毛安良牟
 
○飛鳥 「トブトリノ」とよみて「アスカ」の枕詞とせり。かく枕詞とせるにつきては種々の説あれど、確かに然りと肯かるる説は未だあらはれず。さてこの飛鳥の二字は「トブトリノ」とよみて「アスカ」の枕詞として慣用せること久しきうちに、いつしかそのまま「アスカ」とよむこととなれること「春日」を「カスガ」とよむに至れると同じさまなり。
○明日香能里乎 「アスカノサトヲ」とよむ。「アスカ」は大和の飛鳥地方一帶の總名なり。然るに注釋家多くはかの飛鳥淨御原宮のみを思ひて當時「アスカ」といへる一帶の地方ありしことを忘れたるに似たり。この故にや、契沖は「君の當とは持統文武の陵をさしたまふにや」といひ、考には「藤原の都ならで、飛鳥の里をしも、のたまふは御陵墓につけたる御名ごりか、又何ぞのみこ(348)などの留り居たまふをおぼすか」といひたるが、持統天皇の御陵は天武天皇の御陵と同じく檜前大内陵にして、文武天皇の御陵は檜前安古岡上陵にしていづれも古の檜前の地にして飛鳥の地にあらず。而して飛鳥地方に御陵墓のありしことは吾人末だ聞きしことなし。次には略解に「飛鳥より藤原宮へうつり給ふ時の御歌とせざれば、きこえず」といひ、玉の小琴には「此歌のさまを思ふにまことに飛鳥より藤原宮へうつり給ふ時の御歌なるべし」といひ、守郡に至りては上にいへる如く前の詞書とこの歌とは關係なきものとして前の詞書に應ずる歌は脱せるものにしてこの歌は類似の歌として引きしものとさへいへり。美夫君志は上の諸説の非をさとりて「明日香は藤原京よりはいと近き所【今道凡千町許もあるべし】此里に住給へる皇族の御人などの坐せるがもとによみておくり給ひしなるべし」といへり。飛鳥の古の地は今の新村名に飛鳥村及び高市村といへるところに略相當るべきものなるべく、藤原宮の舊地はまさに隣接せり。されば美夫君志の説をよしとすべし。
○置而伊奈婆 「オキテイナバ」とよむ。「オキテ」は上に「倭乎置而」(二九)「京乎置而」(四五)といへるにおなじ。「イナバ」は「往ヌ」といふ語の未然形に未然の事を條件として示す接續助詞「バ」を添へたるなり。明日香の里を離れて奈良へ往かばといふなり。
○君之當者 舊校本「キミノアタリハ」とよみたれど、古寫本多く「キミガアタリ」とよめり。契沖も亦「キミガアタリ」とよむべきかといひ、爾來諸家之に從へり。これは君を主としていへるなれば、「ガ」といふをよしとす。「當」は「アタリ」とよみうる文字にして「邊」を「アタリ」といふ意の語の宛字(349)に用ゐたるなり。上に「枕之邊」を「枕のあたり」(七二)とよめると同じ意なり。この君はその飛鳥の邊に止まり居給へる親しき人をさしてのたまへるなり。君の居給ふ邊はといふ義なり。
○不所見香聞安良武 「ミエズカモアラム」とよむ。「所見」の二字は「ミユ」といふ語にあたること既にいへり。「香」以下は音の假名なり。「カモ」は疑問の助詞「カ」に「モ」の添はれるにてその「も」は感動の意をも寓せり。
○一云君之當云々 これ一本の傳を注記せるなるが、本文の方は自然に見えぬやうにいひ、この一本の傳は自己が見ずしてある由にいへるなり。歌としてなほ本行の方まされり。見たくても見えぬ趣に聞ゆればなり。
○一首の意 今寧樂宮にうつらむとてここに來りてはるかに故郷を望めば、わが慕はしく思ふ君の住みたまふ飛鳥の里のあたりはなほ見ゆるなり。されど、かくて進み/\て遠く寧樂に到りなば、境遙に隔りてこの飛鳥の里のあたりも或は見えずなりなむかと思へばいとも淋しく心細き思ひのするよとなり。
 
或本從2藤原京1遷2于寧樂宮1時歌
 
○或本 ここに或本とあるは此の歌今傳はれる萬葉集の元本にはもとなかりしなるべく、他の一本にありしを何時の頃にか何人かが之を注し加へしものなるべく、即ちその由を記してここに加へしが、この詞書なるべし。然るに目録にも既に一書歌としてあげ、又諸の古寫本にも(350)かく載せたれば、これを加へしは甚だ古き時代のことなるべきなり。美夫君志にはかの梨壺にて點を加へられし時異本を校合して加へしものかといへり。或は然らむ。この二字を拾穗抄及び考などに削りたるはさかしらなり。
○從2藤原京1云々 これは上の歌遷都の際の詠なれば、或本にありたりしを因みに載せたるなり。作者末詳なりと左注にいへり。
 
79 天皇乃《オホキミノ》、御命畏美《ミコトカシコミ》、柔備爾之《ニギヒニシ》、家乎擇《イヘヲオキテ》、隱國乃《コモリクノ》、泊瀬乃川爾《ハツセノカハニ》、※[船+共]浮而《フネウケテ》、吾行河乃《ワガユクカハノ》、川隈之《カハクマノ》、八十阿不落《ヤソクマオチズ》、萬段《ヨロヅタビ》、顧爲乍《カヘリミシツツ》、玉桙乃《タマホコノ》、道行晩《ミチユキクラシ》、青丹吉《アヲニヨシ》、楢乃京師乃《ナラノミヤコノ》、佐保川爾《サホガハニ》、伊去至而《イユキイタリテ》、我宿有《ワガネタル》、衣乃上從《コロモノウヘユ》、朝月夜《アサヅクヨ》、清爾見者《サヤカニミレバ》、栲乃穗爾《タヘノホニ》、夜之霜落《ヨルノシモフリ》、磐床等《イハトコト》、川之氷|凝〔左○〕《カハノヒコリテ》、冷夜乎《サムキヨヲ》、息言無久《イコフコトナク》、通乍《カヨヒツツ》、作家爾《ツクレルイヘニ》、千代二手《チヨマデニ》、來座多公與《キマセオホキミト》、吾毛通武《ワレモカヨハム》。
 
○天皇乃 舊訓「スメロギノ」とよみ來り、又「スメラギノ」などよめる古本もあり。然るをかかる所は「おほきみ」とよむべしと本居宣長いひ、荒木田久老は槻乃落葉別記に「おほきみとは當代天皇より皇子諸王までを申稱なり。(中略)須米呂岐とは遠祖の天皇を申奉る稱なるを皇祖より受繼ませる大御位につきては當代をも申事のあるを天皇と書きて須賣呂岐ともよむ例のあるによりて後人ゆくりなく、須米呂伎と申も於保伎美と申もひとつ言と心得て大皇と書るをも皇と書るをも須米呂伎とよみ誤れるぞおほかりける」といへり。かくて後、近世の學者多く之(351)に從へり。この説なほ研究の餘地あるべく思はるれど、今姑く從へり。
○御命畏美 「ミコトカシコミ」とよむ。「オホキミノミコトカシコミ」といふ語の例は集中に三十所以上あり。今假名書の一をあぐ。卷十七の長歌「三九七三」に「憶保枳美能《オホキミノ》、彌許等可之古美《ミコトカシコミ》。天皇のみことのりを畏み承りてといふ義なり。「かしこみ」は畏るといふ意よりも今の俗語に「かしこまりました」といへる語に古の心もち幾分か殘れり。ここの語の意は遷都の詔を奉戴してといふことなり。この詔は和銅元年に出でしことは既にいへり。
○柔備爾之 「ヤハラヒニシ」などよめる古寫本もあれど、板本に「ニキヒニシ」とよみ來れるをよしとす。「柔」字は玉篇に「軟弱而不v剛也」といひ、柔和と熟する文字なれば古語の「ニゴ」「ニギ」に「和」字をあつると同じ意にて宛てあたりしならむ。靈異記卷中に「柔【邇古也加】」とあるもこれなり。「ニギ」は「アラ」と相對する語にして「ニギビ」に對して「アラビ」といふ語あり。この語の例は卷三「四八一」に「白妙之《シロタヘノ》、手本矣別《タモトヲワカレ》、丹杵火爾之《ニギビニシ》、家從裳出而《イヘユモイデテ》」とあり。「ニギブ」といふ語は上二段活用の語なるが、これと同源なる語に「ニギハフ」「ニギヤカ」なといふ語ありてその「ニギハヘル」状態の引きつづきてあるをいふ。その意は「荒ぶ」に反對の意なるを以て見るべし。されば、「ニギブ」といふ語は相和して睦しく樂しくくらすさまをいふ義なるを見るべし。
○家乎擇 舊本字のまま「イヘヲエラビテ」とよみ來れり。これによりて契沖は「擇びては捨つる義。元より住し家をすておく心なり」といひ、僻案抄には「擇の字にては句義かなはず」といひ、釋の字の誤ならむとして、「倭乎置而」「京乎置而」の例にならひて「オキテ」とよむべしといへり。考は(352)「釋」字は此集の字ともなしといひて之をとらず、別に「家毛放」の誤寫なりとして、「イヘヲモサカリ」とよむべしといへり。略解は考に基づきて「イヘヲサカリテ」とよむべしといひ、古義は僻案抄の「釋」字の説に從ひて「イヘヲオキ」とよみ、美夫君志も亦同じく「釋」字の誤として「イヘヲサカリ」とよむべしといへり。又攷證は「別は呂覽簡選篇に擇(ハ)別云々とありて別の意なれば、家をわかれてとよむべし」といへり。以上の諸説のうち有力なるは攷證の説のみにして、他はすべてとるに足らず。されど、人の「別る」といふは專ら人又は人情を解するものに對していふ語にして、家に對して「別る」といふはそれを擬人せぬ限りはいふべきことにあらずと思はる。この故に攷證の説も遽に首肯すべからず。按ずるに類聚名義抄に「擇」に「ハナツ」の訓あるを見れば、古は擇釋相通じて用ゐしならむ。然らばこの「擇」字即ち「釋」字の異體なりといふべし。尚書大禹謨「釋v茲在v茲」の注に「釋廢也」と見え、國語魯語「君今來討2弊邑之罪1其亦聽從而釋v之」の注には「釋置也」と見え、廣韻には「釋」字に注して「捨也廢也」とあれば、「釋」字に「オク」の訓ある所以を見るべし。かく「擇」「釋」同體の字と見れば、「擇」を「オク」といふも由ありといふべし。されば、これは「オク」とよむべきにて、「而」字なけれど、「倭乎置而《ヤマトヲオキテ》」(二九)「京乎置而《ミヤコヲオキテ》」(四五)「明日香能里乎置而《アスカノサトヲオキテ》」(七八)の例によりて「イヘヲオキテ」とよみて然るべく、その意は上の諸例に准じて知るべし。
○隱國乃 これは古寫本或は「カクレクノ」「カクラクノ」などよみたるもあれど、板本に「コモリクノ」とよみたるに從ふべし。上の「隱口乃《コモリクノ》」(四五)とかけるにおなじ。「隱國」とかけるは延暦の大神宮儀式帳にも見ゆ。ここは「ハツセ」の枕詞なり。
(353)○泊瀬乃川爾 「ハツセノカハニ」とよむ。これ所謂長谷川なり。この川は大和川の上流にして、その支流の一たる佐保川と合するまでの間の名なり、源は山邊郡並松村に發し、南に流れて初瀬の邊より西に向ひて流れ、三輪山の麓をめぐりて北に、さて西北に向ひて國中《クニナカ》の平原を流れ、北吐田村の邊にて佐保川に合す。この川の名はその川合まで泊瀬川といふなり。略解にいへるは地理を知らぬ不當の説なり。
○※[舟+共]浮而 古來「フネウケテ」とよみ來れり。僻案抄には「舟船等の字をかかずして、※[舟+共]の字をかけるは小舟としらさん爲の字格と見えたり。※[舟+共]は釋名に「艇小而深者曰v※[舟+共]」と有。さればをぶねうけてとよむべき歌」といへり。※[舟+共]は僻案抄にひける如く小舟にして倭名鈔には「和名大加世世俗用2高瀬舟1」とあるなり。これはこの川には大船を浮ぶること能はぬによりて下心ありて用ゐたる文字なるべけれど、しかも「をぶね」と必ずしもよまであるべし。單に「ふね」といへば、大小の區別をせぬ例なればなり。「うけて」は「うく」といふ下二段活用の語の活用にしてその義「うかばせ」といふに似たり。卷十七の長歌「三九九一」に「布勢能宇彌爾《フセノウミニ》、布禰字氣須惠底《フネウケスヱテ》」卷二十の長歌「四三九八」に「由布之保爾《ユフシホニ》、船乎宇氣須惠《フネヲウケスヱ》」などの例あり。
○吾行河乃 「ワガユクカハノ」とよむ。藤原の都より寧樂の都に行く人のこの初瀬川に小舟を浮けて、水路を利用して下り行くをいへるを見れば、荷物をも共に運べりと考ふべし。さてその舟に乘る地點は三輪のあたりよりなるべし。
○川隈之 「カハクマノ」とよむ。「隈」は「道隈」(一七)の條にいへるが、この字の本義は「カハクマ」をさせ(354)る字なり。「カハクマ」の語例は日本紀仁徳卷の歌に「箇波區莽珥《カハクマニ》」とあり。川の彼方此方に曲れる所をいふ。
○八十阿不落 「ヤソクマオチズ」とよむ。「八十」は實數にあらずして多くの數の義にいへり。「阿」は玉篇に「曲也、水岸也」とあれば「クマ」の義に當れり。「八十阿」といふ語は卷二「一三一」に「此道乃《コノミチノ》、八十隈毎《ヤソクマゴトニ》、萬段《ヨロヅタビ》、顧爲騰《カヘリミスレド》」卷十三「三二四〇」に「道前《ミチノクマ》、八十阿毎《ヤソクマゴトニ》、嗟乍《ナゲキツツ》、吾過往者《ワガスギユケバ》」などの例あり。「八十阿」は多くの隈をいふ。「不落」は上の天武天皇御製の「隈毛不落《クマモオチズ》」(二五)と同じ意なり。
○萬段 板本「ヨロヅタビ」とよめり。古寫本には「モモツタヒ」又「モモハシニ」とよめるあり。されど、この「萬段」の文字は上に引ける卷二の長歌にもありて、同じきよみ方をなせるのみならず、卷二十「四四〇八」に「與呂頭多比可弊里見之都追《ヨロヅタビカヘリミシツ》」とあるによりて「ヨロヅタビ」とよむをよしとするなり。「萬」に「ヨロヅ」の訓あるは論なし。靈異記上第三十話に「銕杖夙(ニ)三百段、日(ニ)三百段、夕(ニ)三百段合(テ)九百段毎日打迫」とあるは「段」を「タビ」の意に用ゐし例なり。されど、「段」を「タビ」とよむ理由は治定せりといふべからず。後の研究にまつべきなり。さてこの「ヨロヅ」も亦實際の數にあらずして、「ヨロヅタビ」は今の數百遍などいふに同じく多くの度の義なり。
○顧爲乍 「カヘリミシツツ」とよむ。「乍」を「ツツ」にあつるは上の天武天皇の御製歌(二五)にいへり。この語の例は上の「萬段」の下に引けり。川筋の曲り處毎に故郷を顧みつつ行くなり。上にもあげたる卷二「一三一」の「此道乃八十隈毎萬段顧爲騰」に同じ趣なり。
○玉桙乃 「タマホコノ」とよむ。卷四の長歌「五四六」に「珠桙乃《タマホコノ》、道能去相爾《ミチノユキアヒニ》」卷十一の長歌「二六四三」(355)の枕詞とする事人のよく知る所なるが、その理由に至りては古來種々の説あれど首肯しかねたり。これは古の鉾には乳《チ》(小き幡をつくる爲の孔を有す)の必ずつきてあるが故にその「チ」といふ語に基づきて「ミチ」の枕詞とせるなりといふ説をよしとす。
○道行晩 古來「ミチユキクラシ」とよめり。契沖は「佐保川まで舟にて行程を道往くらしとは云なるべし」といひ、諸家之に從へるを略解に末は廣瀬の河合にて落合なれば、そこまで舟にて下りて河合より廣瀬川をさかのぼりに佐保川まで引のぼる。末にては人は陸にのぼりて行けば陸の事もいへり」といひて、ここを釋して「人は陸にのぼりても行けばなり」といへり。略解のこの地理の説明は實際とあはねば從ふべきにあらぬが、攷證も亦「ここは舟より陸にのぼりて行く也」といへり。燈には略解を駁して「道は川路なり。略解に人は陸にのぼりてもゆけば也といへり。これは道行などいふもじにめをうばはれたるにて、例の古言を直言と心えたる説也。おほかた詞をかくなづみては古言の妙處もしる事あたはず、みづからの詞づくりもいつまでも同處に依然たるべき也。舟行なるをかくいふ事古人の詞づかひの常なり。すべて舟行のうへなるにこの一句のみ陸の事をいはむやうなし」といへり。この説の如くここの「道行く」は船路を行くなり。舟にのりて初瀬川を下りて日をくらし、其の舟にて佐保川を溯りしこと著しく一も陸行せしこと見えざるなり。されど燈の論も極端なり。燈は「道行く」といふ語は表にては陸行なるを古言には例の倒語ありといふ説にて解かむとしたるなり。されど、これは通常の語にして何の倒語にかあるべき。凡そ人の通行する處と定めたる線にあたる(356)所は古今ともに「みち」といへり。日本紀神代卷には海路をさして「うましみち」といへる語あり。その他山路野路に對しては川路《カハヂ》海路《ウナヂ》あり。車路《クルマヂ》歩路《カチヂ》に對しては舟路《フナヂ》あり。何の倒語にかあらむ。これ明かに直語《タダゴト》なり。されば御杖また古言を知らずといはれても辯なかるべし。
○青丹吉 上(一七)にいへり。
○楢乃京師乃 「ナラノミヤコノ」とよむ。「楢」は和名鈔に「唐韻云楢【音秋漢語抄云奈良】樫木也」とありて今もいふ木の名なるを地名の「ナラ」に借りたるなり。「京師」はもと大衆の義なるを天子の居をさすに用ゐたるにて詩經(曹風下泉篇)左傳(成公十三年)等に見ゆ。公羊傳桓公九年の注に「京師天子之居也」と見えたり。ここに「ミヤコ」とよめるはその義によれるなり。
○佐保川爾 「サホガハニ」とよむ。佐保川は大和川の一の支流にして、城上郡金ケ平山に源を發し、北に流れ、次に西南に向ひて今の奈良市の北を西に流れ、さて、南に向ひ、古の平城京の間を流れ、當時の朱雀大路に沿ひて南に流れ、北吐田村の邊にて初瀬川と合して大和川となるなり。されば、初瀬川を下り、その合流點より佐保川を溯れば、當時の寧樂の京の正面に至ることを得るなり。寧樂の都の佐保川といへるはこの事によりていへるなり。
○伊去至而 板本に「イユキイタリテ」とよめるに從ふべし。古寫本には「イサリイタリテ」又「イヨクイタリテ」などよめるもあれど從ひ離し。「イ」は所謂發語にて「ユキ」に音調を添ふるに止まれり。「去」を「ユク」とよむ由は玉篇に「行也」とあるにて知るべし。
(357)○我宿有 「ワガネタル」とよむ。佐保川を溯りて寧樂の都の地に到りて舟を泊てて、その舟の中にて旅宿せるなり。これを陸上に假廬つくりてねたる由に考などいへれど、さる趣はこの歌にはあらはれざるのみならず下に「川之氷凝」とあるを見れば、なほ舟の中なりと見るべきなり。
○衣乃上從 舊訓「コロモノウヘニ」とよめり。されど、「從」字を「ニ」とよむは當らざれば、「ヨリ」若くは「ユ」などいふべきが、音の上より「ユ」とよむべきなり。考には「衣」を床の誤として、「トコノウヘヨリ」とよませたり。その理由とする所は上にいへる如く、陸行せるものと見たるよりの事なるべきが、そは既にいへる如く、とるべからぬなり。攷證には「從《ユ》はよりの意なれば衣と見る時は衣の上より朝月夜のさやかに見ゆればとは何の事とも聞えず」といひて誤字説を主張せり。されど、これは美夫君志に「夜の衣を引被りながらに見るさまなり」といへるにて明かなるが如く、舟の中にて夜の被を身に覆ひて臥しながら朝月夜にて物のよく見ゆれば、※[竹冠/占]屋の軒の邊より陸の邊を見やるさま實地に見る心地する程の詞なるをや。
○朝月夜 板本「アサツクヨ」とよめり。「アシタヨリツキヨ」とよめる古寫本あれど、これは語をなさず。又「アサツキヨ」とよめる本もある由なれど、「夕月夜」の例にならひて「アサヅクヨ」とよむべし。「月夜」を「ツクヨ」とよむ例は卷十八「四一三四」に「天禮流都久欲爾《テレルツクヨニ》」又卷二十「四四五三」に「伎欲伎都久欲爾《キヨキツクヨニ》」などあり。夕月夜の例は卷十五「三六五八」に「由布豆久欲《ユフヅクヨ》」などあり。「朝月夜」の例は卷九「一七六一」に「朝月夜明卷鴦視《アサヅクヨアケママクヲシミ》」とあり。「朝月夜」とは朝まで月のある夜なり。さてこの詞は月をさせるにあらで、「夜」とある以上はその時をさせること明かなり。事實に於いてその月を見(358)たることはいふまでもなけれど、朝月夜といふ詞は直接に陸の月をさすにらず。文の趣として月をさせるに至ることもあらばそはおのづからしかなれるにて、詞の上の直接のいひあらはしによれるものにあらず。
○清爾見者 板本「サヤカニミレバ」とよめり。古寫本には「サヤカニミヘツレバ」「キヨキニミレバ」などよめるがあれど、從ふべくもあらず。考には「サヤニミユレバ」とよみ略解には「サヤニミレバ」とよみたり。考の説にては「見者」を「ミユレバ」とよまむが爲に、「清」を三音にして「サヤニ」とよめるにて理由はあり。略解は「見者」を「ミレバ」とよみたれば、「清」を「サヤニ」とよみてわざと字不足によむべき理由ありやと考ふるに更に理由なし。「清」は「サヤ」とよみても「サヤカ」とよみても不都合なる文字にあらず。さらば、「サヤ」といふが萬葉集にふさはしくて「サヤカ」は然らすとせむか。卷二十「四四七四」に「左夜加爾伎吉都《サヤカニキキツ》」といふあり。さればこゝは「サヤカニミレバ」とよむべきか、「サヤニミユレバ」とよむべきかの二途につきて論ずべきなり。さて考の説にては月の見ゆるに止まれり。然るに下には霜のふれると、氷のあることとをいへり。されば、これらを見たる趣なりといはざるべからずして舊訓をまされりとす。美夫君志はこれを釋して「月の光りにてさやかに見ゆるなり。月かげのさし入りたるなど舟中のさまおもふべし」といへり。さてこの句と上の句とをつづけて見るに、これは朝月夜を清かに見るといふ義にあらぬは明かにして「朝月夜」といふ語は主として「清《サヤカ》」にかかれる語と見ゆ。即ち朝月夜なれば、あたりも明かに見ゆるなり。その朝月夜にてよく見ゆるによりてあたりを見れば、といふ義なること著し。(359)諸家「朝月夜」を「月」の事としたれば、この意うづもれて分明ならず。即ちこの「清かに見れば」は下の夜の霜ふり、川の氷凝れるさまをみやりたるをいふなり。
○栲乃穗爾 古來「タヘノホニ」とよみ來れり。冠辭考に「栲」は「楮」の誤ならむといふ説あれど、「楮」字を用ゐたる例本集中に一もなければ、從ひ難し、この字古來「※[栲の異体字]とかけるを近時の本に「栲」とかけるものは古字を知らぬ人のさかしらなり。「栲」は爾雅に「山樗也」とありて別の字なり。狩谷※[木+夜]齋の箋注和名鈔にはこの「※[栲の異体字]」字につきて説あり。その要をいはば、古語拾遺に穀木にて木綿を作るとあり。豐後風土記には※[栲の異体字]樹にて木綿を作るとあれば、穀※[栲の異体字]同一物なることを知る。さて説文には「穀(ハ)楮也」「楮(ハ)穀也」と見え、又「※[栲の異体字]」字をあげて「楮或从(フ)v※[紵の旁](ニ)」と見え本草に「※[栲の異体字]實一名穀實」と見ゆるによりて穀(ハ)楮※[木+佇の旁]同一物なりと斷じ、別に説文には紵字を又緒の省形に从ひて「※[糸+※[栲の異体字]の旁]につくれるより推せば※[木+佇の旁]も亦「※[栲の異体字]」なりしならむ。それをば筆畫の繁を厭ひて「※[栲の異体字]」とせるならむといへり。この説從ふべし。さて「※[栲の異体字]字は「※[木+佇の旁]」即ち「楮」にて、今いふ「かうぞ」、「穀」も「かぢのき」といひ同類の植物をさせり。この木を古、「タヘ」とも「タク」ともいひしが、その皮の繊維をとりて木綿《ユフ》といひ、それにて織りたる布を「タヘ」といへり。かくて「※[栲の異体字]」はもとより木綿をも「タヘ」ともいへり。その證は卷十三「三二五八」に「白木綿之《シロタヘノ》、吾衣袖裳ワガコロモデモ》、通手沾沼《トホリテヌレメ》」とある「白木綿」を舊訓に「シロユフ」とよめるは當らず、略解に「木綿」を「幣」の誤といへるもわろくそのまま「シロタヘ」とよむべしといへる訓義辨證の説をよしとす。これは本來色白きものなれば、白妙といふ詞もいで來れるのみならず、本集には「白」又「雪」といふ字をも「タヘ」とよむべく用ゐたり。卷十一「二四一〇」に「敷白之《シキタヘノ》、袖易子少《ソデカヘシコヲ》」卷十三「三(360)三二四」に「内日刺宮舍人方雪穗麻衣福者《ウチヒサスミヤノトネリハタヘノホニアサキヌキレバ》」などあるこれなる。穗といふ語につきては契沖は「ほとは物のそれとあらはれ出るをいふ。霜のをくが白くて霜よと見ゆるをいへり。あかき色のそれとあらはれて見ゆるを此集にも丹の穗といふが如し。舟の帆、稻の穗みなあらはれて見ゆれば同じ心なり」といへり、まさにこの意なるべし。かく「たへのほ」「にのほ」「あかにのほ」などいふ場合の「ほ」はその色澤の著しく目につくをいふ。末の「ニ」は状態を示し、形容となす助詞にて今の語にて釋すれば、「のさまに」といふ一語にてかふべし。
○夜之霜落 板本に「ヨルノシモフリ」とあるに從ふべし。「落」を「フル」とよむことは上(二五)にいへり。「夜之」といへるにつきて美夫君志に「夜のほどにふれる霜を朝に見ていへるなり。よく味ふべし」といへり。さることなり。
○磐床等 「イハトコト」とよむ。「イハトコ」といへる語は卷十三「三二七四」に「石根乃《イハガネノ》、興凝敷道乎《コゴシキミチヲ》、石床笶《イハドコノ》、根延門呼《ネハヘルカドヲ》」「三三二九」に「石根之《イハガネノ》、許凝敷道之《コゴシキミチノ》、石床之根延門爾《イハトコノネハヘルカドニ》」などあり。この語の意は契沖の「磐石の平にて床の如くなるを譬へて名付けるにや」といへるをよしとす。床磐といふ語も語の主客はかはれども、そのさす所は同じ。その磐を主としていへば、床磐といふべく、その状態を主としていへば、磐床といふべし。ここはその状態を主としていへるなり。下の「と」は上の「タヘノホニ」の「ニ」と同じ用ゐ方にて状態を示して形容となす助詞なれば、「ノサマニ」の意に釋すべし。
○川之氷凝 流布板本「凝」を「疑」につくれり。されど、多くの古寫本「凝」とかければ、これは流布板本(361)の誤なること著し。よみ方は舊板本「カハノヒコリテ」とよめり。近世の學者の説にては僻案抄には「氷」を「水」の誤として「水凝」二字にて「こほりて」とよむべしといひ、燈も同じく「水」の誤として「カハノミツコリ」とよむべしといひ、考には「カハノヒコゴリ」とよみ改め、古義と檜嬬手とは「カハノヒコホリ」とよませたり。それらの諸説の可否につきて考ふるに、先づ「氷」を「水」とする説につきていはむに、「氷《ヒ》こりて」は重言なりとの説なれど、かくの如くいふこと「ねをなく」「いをぬ」など、古來傍例多きことなり。況んや「氷りの氷る」といへるにあらずして「ヒ」といふ名詞と「コル」といふ動詞とを重ぬるに何等の妨なきことなり。次に「コゴリ」といへる考の説を考ふるに、「コゴル」といふ語は古典に所見なく、古語とは見えず。この語は「ツキツク」を「ツヅク」といへる如く「コリコル」を約めてつくれる語なるべければ、「コル」といふを本語とすべきなり。次に「凝」を「コホル」とよまする説につきて考ふるに、かく訓むことは不審なり。「凝」といふ文字は國語にては古來「コル」とのみ訓じて「コホル」とよめる例を見ず。類聚名義鈔には「コリ・コル、コラス」などの訓あり。「コル」と「コホル」とは共に液體の固體化するをいへるものにして共通點あれど、又意義異なる點ありて、「コホル」といふ時は必ず、寒氣の烈しきを條件とすれど、「コル」はかかる條件を必要とせず。日本紀卷一に「即對馬島壹伎島及處々小島皆是潮沫凝成者矣。亦曰水沫凝而成」とある、又「凝海菜」を「コルモハ」といへる皆ただ自然に固體となれる意をあらはせり。さてかく見れば、氷がこほるは重言なりといふ説も效なきことなり。氷《コホリ》がこほるといはばこそ重言ならめ、「こる」は單に液體が固體化することなれば、「ヒコリテ」といふに何の不都合もなきことなり。されば舊訓(362)のままにてあるべし。
○冷夜乎 舊訓「サユルヨヲ」とよめり。契沖は「ヒユルヨヲ」とよむべきかといひ、考には「サムキヨヲ」とよめり。「サユル」は極めて寒くあるをいふ語なれど、「冷」に「サユル」の訓あることを知らず。さりとて「ヒユル」といひては語意足らず、歌調整はず。されば、ここは考に從ひて訓むべし。
○息言無久 舊訓「ヤムコトモナク」とよめり。僻案抄にはこれを否とし、「イコフコトナク」とし、古義には「ヤスムコトナク」ともいへり。「息」字は動詞の時は「憩」字とも通用すること休息休憩の例にて知るべく又玉篇に「※[憩の自が甘](ハ)息也」とあるにて知るべし。この「憩」を靈異記上卷の訓釋に「伊古不去止」と注せり。新撰宇鏡にも憩字の注に「息也、又伊己不」とあり。これらによりて僻案抄の説に從ふべし。「言」は「コト」の語を事の義に借り用ゐたるなり。
○通乍 「カヨヒツツ」とよむ。舊都藤原宮より新京平城に通ひつつなり。
○作家爾 舊訓「ツクレルイヘニ」とよめり。僻案抄は「ツクルミヤコニ」又は「ツクリシイヘニ」とよむべしといへり。されど、「家」字を「ミヤコ」とはよむべからず。又「ツクリシ」とよまざるべからざる理由もなし。この故に舊訓のままにてよしとす。以上の如くにしていたつき作れる家にといふなり。
○千代二手 舊訓「チヨニテニ」とよみ、古寫本には又「チトセニテ」などよめるもあり。されど多くの古寫本に「チヨマテニ」とよめるによるべし。契沖は「二手」を「マテ」とよみて「マデと云ふに二手とかけるは二手を眞手といへばなり」といへりしは發明の説なり。一手をかた手といふに對(363)して兩手を眞手といふこと、片袖と眞柚、片帆と眞帆、片屋と眞屋(兩下)又本集に「二梶」を「マカヂ」とよめるなどの例にて知るべし。上の「三四」の歌に「幾代左右二賀《イクヨマデニカ》」の「左右」を「マデ」とよめるもこれに同じ。卷三「二三八」に「大宮之内二手所聞《オホミヤノウチマデキコユ》」とあるもこの例なり。
○來座多公與 舊訓「キマセオホキミト」とよめり。「與」字なき古寫本二種あれど、ある方まされり。この訓代匠記は「キマス云々」とし、考は「來」は「爾」の誤として、上の句の末の「ニ」とし、「多」は「牟」の誤として「イマサムキミト」とし、燈も「多」を「牟」の誤として「キマサムキミト」とよめり。略解には「多」は古本「牟」に作れるによるといひて改めたれど、今さる古本一も存せざるを見れば、その説遽に信じ難し。かくてこの訓明かならぬと共にその義も知り難し。試みにこの訓のままに説かば、「この家つくりせる人がかく落成したれば、通ひ來ませ」といへるが、上の「キマセ」なるべし。さて次句に「吾毛」とあるに對して「多公」といふ語を用ゐたるが、「多」は「オホ」なれば「多公」即ち「オホキミ」にしてこれは皇族の方をさしたること著しきが、上の「きませ」のつづきを以て考ふれば、呼格にして、「オホキミヨ」といふべき語遣なりとすべし。さらば、このわが辛苦してつくれる家に千代までも通ひ來ませわがおほきみよ」といへるにて卷七、「一一三四」の歌に「能野川《ヨシヌガハ》、石迹柏等《イハトカシハト》、時齒成《トキハナス》、吾者通《ワレハカヨハム》、萬世左右二《ヨロヅヨマデニ》」といへる如く、その君の壽を祝ひその家のめでたきを祝せる詞なるべし。然るに末の「と」は「と共に」の意の助詞たること明かなれば、「多公與」は「オホキミト共ニ」の意にして、下の「吾毛通武」に連關せり。然りとせば、この「多公」は上に對しては呼格となり、下に對しては「ト」の補格たるべきものなり。かくすれば、「千代までに通來ませ、わが大君よ。希くは御命と此家と萬壽(364)限りなからむことを。されば、またわれもわがおほきみと共にここに通はむ」となり。
○吾毛通武 舊來「ワレモカヨハム」とよめり。上にあげたる卷七「一一三四」の例によりてその意をさとるべし。吾も「おほきみ」と共にこの家に通はむとなり。
○一首の意 上の如く不明の點あれば、詳かに知り難し。遷都の詔勅を受け、畏み仕へ奉りて今までそこに一家團欒したりし故郷藤原京なる家をばあとに殘し置きて泊瀬川に舟を浮べて來り、流のままに奈良をさして行くことなるが、この泊瀬川の川曲ごとに、幾度となく、顧みては故郷の空をながめつつ行きくらし、泊瀬川を下りはててはその川合より佐保川を溯りて奈良京の邊に至りて舟を泊てて、その中に宿ぬれば、折節寒さ烈しくて朝まだきとく目さめて床のままにて眺むれば、在明頃とて、船屋形の外もさやかに見ゆるが眞白に霜はふり、川には氷が磐石のやうに張りつめてあるが、かやうなる夜をもたえず通ひかく辛苦してわが天皇の命のままに作れる家なれば、わがおほきみよ、千代萬代に命長くこの家に來ませ。われもわがおほきみと共にこの家に通はむとなり。これ新しき家の出來しことを言ほげるものならむ。かの顯宗天皇の室壽の詞などの趣もかくの如く、家の祝詞はやがてそこに住む人の祝詞となるべきものなればなり。
 
反歌
 
80 青丹吉《アヲニヨシ》、寧樂乃家爾者《ナラノイヘニハ》、萬代爾《ヨロヅヨニ》、吾母將通《ワレモカヨハム》。忘跡念勿《ワスルトオモフナ》。
 
(365)○青丹吉 上にいへり。
○寧樂乃家爾者 「ナラノイヘニハ」とよむ。「家」を、「ミヤコ」とよめる本もあれど、とるべからず。上に「通乍作家爾」にといへる寧樂の京の家をさす。その家にといへるなり。
○萬代爾 「ヨロヅヨニ」とよむ、長歌に「千代二手」といへるに對して「ヨロヅヨ」といひかへたるなり。
○吾母將通 「ワレモカヨハム」とよむ。上の長歌の語を受けて用ゐたるが、この語のみをくりかへしたるはその他の事項は本歌にゆづりて言外にその意をあらはせるなり。
○忘跡念勿 「ワスルトオモフナ」とよむ。契沖は「しばし本宅へ歸る時君の御事を忘るらんと思召すなとなり」といひ、考は「今よりは長くしたしく通はむにうとぶる時あらんとなおぼしそとなり」といへり。
○一首の意 この寧樂の新につくれる家には行く末遠く長く吾も通ひつつ奉仕せむ。時には參らぬ場合ありとも君の御事を忘れたりとは思召し給ふなとなり。
 
右歌作主未詳
 
○右歌作主 「作」字なき古寫本二三あり。それによらば、「歌主」といへるなり。いづれにしても意かはらず。この注によりてこの歌の作者古より明かならぬものたるを見る。
 
和銅五年王子夏四月遣2長田王于伊勢齋宮1時山邊御井作歌
 
(366)○和銅五年壬子夏四月云々 この時この事ありし由續紀に見えず。○長田王 古寫本「ヲサタノオホキミ」とよめる本おほし。「ナガタ」とよむべきものと思はるれどいづれも確證なし。續日本紀を見るに、和銅四年夏四月の叙位に正五位下となれるうちに長田王の名あり。この王は後に近江守、衛門督、攝津大夫等に歴任し、天平九年六月には「散位正四位下長田王卒」と見えたる人なるべし。この王の父祖未だ詳かならず長親王の子なりといふ説もあり。その證とする所は三代實録貞觀元年十月二十三日の廣井女王薨去の條に「廣井者二品長親王之後也。曾祖二世從四位上長田王云々」とあるによれるものなるが、その位違へるが故に、證としては薄弱なるが上に、續日本紀天平十二年冬十月の條に「從四位下長田王授2從四位上1」とありて長田王の名ある人二人見ゆるのみならず位はこの方に似たれば、長親王の御子はいづれの方にましまさむか、知り難し。これは攷證にいへる所なるがよき説なり。
○伊勢齋宮 「齊宮」正しくは「齊宮」と書くべし。但し、廣韻には齋字に注して「經典通用齋齊也」とあれば、必ずしも誤とはいひ難し。齋宮とは伊勢の齋王のまします宮なり。齋王とは天皇の御|手代《テシロ》として、皇太神宮に奉仕せらるる皇族にして、かの豐鍬入姫命以來未婚の内親王を以て任ぜられしなり。延喜式齋宮の條に「凡天皇即位者定2伊勢太神宮齋王1仍簡2内親王(ノ)未嫁者1卜之」あり。そのよみ方は和名鈔に齋宮寮を「伊豆岐乃美夜乃豆加佐《イツキノミヤノツカサ》」と注せるによりて、「イツキノミヤ」とよむべし。齋宮は伊勢國多氣郡にありて、今「サイク」といふ地名に名殘を止めたり。この地に字御館といふ所ありてその遺址今に存す。この齋宮に關する事務を掌る官廳に齋宮寮と(367)いふありて頭以下の職員ありしが、その規定は令に見えねど續妃に大寶二年正月從五位下當麻眞人橘を齋宮頭に任ぜられしこと始めて見えたり。
○山邊御井作歌 「ヤマノヘノミヰニシテヨメルウタ」とよむべし。山邊御井は或は大和國山邊郡毛原村にありとし、或は伊勢國河曲郡山邊村にありとし或は同國壹志郡なる忘井を之にあつるなど異説紛々たり。然るに玉勝間にて上の伊勢國河曲郡(鈴鹿郡といへるは誤か、若くは郡域の變更ありしが故か、とにかくに同じ所なり)の山邊なる由を論じてより人々皆之を信ぜるさまなり。されど、この説はうけられず。何となれば、この頃の伊勢神宮への通路は續紀によるに、聖武天皇の天平十三年十月壬午(二十九日)神宮への行幸の順路は次の如し。
壬牛 山邊郡|竹谿《ツケ》村堀越頓宮
癸未 伊賀國名張郡(郡家所在地)
十一月朔甲申 伊賀郡安保頓宮
乙酉 伊勢國壹志郡河口頓宮(關宮、所謂河口關所在地)
   (停2御關宮1十箇日)
乙未 發2河口1到2壹志郡宿1(以下美濃近江に到りまししなり。故に略す。)
かくて、伊勢の齋王の任解けて歸京せらるる場合には先づ難波に趣きて解除《ハラヒ》せらるる規定なるが、その順路は江家次第によれば次の如し。
一日 著2壹志頓宮1
(368)二日 著2川口頓宮1
三日 到2伊賀堺屋1奉2仕堺祭1著2阿保頓宮1
四日 就2大和都介頓宮1
五日 過2大安寺並奈良坂1至2山城相樂頓宮1(以下略す)
即ち古、奈良より伊勢神宮への順路はかく一定せるを見るべし。即ちこの通路は奈良より山邊郡都介を經て伊賀國名張に出でそれより阿保を經、伊勢地村を過ぎて伊勢に入り垣内村大村を經て壹志郡八太村に入りしものなり。さてその河口頓宮のありし地は河口關を以て古來名高き地にしてこの關は和銅三年に設けられしものと傳ふ。今の川口村に古の關の址ありといふ。今この順路によりしものとせば、その邊より上にいへる河曲郡山邊までの距離は約十里を隔てたり。遊覽ならば、ともかくも、公事を以て到れるものが、往復二十里の迂路を(その當時に於いて)とることありうべき事にはあらざるなり。この故にその河曲郡山邊村なりといふことは信じ難しとす。然れども、この歌の趣にては伊勢の地にありて、しかも御井といはるる以上は神宮又は齋宮若くは離宮附屬の御井たりしことは考へらる。加之卷十三「三二三五」に「山邊乃《ヤマノベノ》、五十師乃御井《イシノミヰ》」とあるも同じ處なりといふ説に從ふ時はそこに行宮又は離宮ありしこと明かなれば、(その歌には「山邊乃五十師乃原爾内日刺大宮都可倍云々」とあり。)先づその山邊の行宮又は離宮といふものの存在をさぐるを順序とす。按ずるに御鎭座本紀に豐受大神の伊勢にうつりませる時の順路をいへるうちに「次山邊行宮御一宿【今號壹志郡新家村是也】」とあり。この(369)書等は神宮の神官の僞造せる書なりとは定評あるものなれど、地名までも僞造すべきにあらねば、この「山邊行宮」といふものその僞造せし頃まで知られてありしものと認むべきなり。今この「山邊行宮」を以て壹志郡新家村とする時は前にあげたる順路と地理一致するのみならず、卷十三に「山邊」に行宮又は離宮ありしさまによめるに合せり。さればその新家村に山邊行宮のありて、その行宮附屬の御井といふものありしものと考へらる。その遺址今考へられずとも、他の地に之を求むるは當らざる事なりとす。さて攷證にはこの上に「過」とか「覽」とかの文字なくば、本集の例にもたがひ、又語をなさずといへり。然れどもこれは場所を示せるものなれば、このまゝにても意通ずるなり。
 
81 山邊乃《ヤマノヘノ》、御井乎見我※[氏/一]利《ミヰヲミガテリ》、神風乃《カムカゼノ》、伊勢處女等《イセヲトメドモ》、相見鶴鴨《アヒミツルカモ》。
 
○山邊乃 「ヤマノヘノ」とよむ。「山邊」の事は上にいへり。
○御井乎見我※[氏/一]利 舊板本「ミヰヲミガテリ」とよめるに從ふべし。古寫本には「ミカヘリ」とせるもの少からねどもしかよむべき理由なし。「御井」とあるによりて上にもいへる如く、この「井」はただの「井」にあらで、離宮齋宮又は神宮附屬の御井なることを思ふべし。「ガテリ」は又「ガテラ」といふに同じく或る事を主としてあれど、なほ他の事をもかぬる由をいふ語なり。集中には「ガテリ」とも「ガテラ」とも見ゆれど、「ガテリ」の方古しと思はる。その例卷十七「三九四三」に「秋田乃《アキノタノ》、穗牟伎見我底利《ホムキミガテリ》」とあり。
(370)○神風乃 舊來多く「カミカゼノ」とよみたれど、「カムカゼノ」とよむをよしとす。古事記神武卷の歌に「加牟加是乃伊勢能宇美能《カムカゼノイセノウミノ》」と見え、日本紀神武卷に同じ歌を載せたるにも「伽牟伽筮能《カムカゼノ》」と書けるにても證すべし。これを伊勢の枕詞とすることは世人の洽く知れる所なるが、そは神風の「息」の意による。息を「イ」とのみいふは古語なり。「息吹《イブキ》」などといふ例にて知るべし。
○伊勢處女等 舊板本「イセノヲトメラ」とよみたるを略解に「イセヲトメドモ」とよみたり。今古代に地名の下に「をとめ」といふ語を添へていへる場合をみるに、「泊瀬越女《ハツセヲトメ》」(卷三「四二四」)」菟名日處女《ウナビヲトメ》」(卷九「一八〇一)「菟會處女《ウナビヲトメ》」(卷九「一八〇二」)「可刀利乎登女《カトリヲトメ》」(卷十四「三四二七」)「古波陀袁登賣《コハダヲトメ》」(古事記應神卷)などの如く直ちに接するを例とす。さればこゝも「イセヲトメ」なるべし。次に「イセヲトメ」とよみたる以上は音の關係よりして「等」を「ドモ」とよむべきなり。この伊勢處女は御井に關係せる點より見れば、ただの處女にあらで、その宮に奉仕する宮女ことに水部の女嬬なりしならむか。攷證にもこの伊勢處女は齋宮の宮女なるべしといへるはよけれど、そこより十三四里も隔たれる河曲郡の山邊村の井なりといふ本居説に賛成せるは自家撞着なり。さてここに「等《トモ》といへる以上は其の水汲まむとて數人出で立ちしを見られしなり。
○相見鶴鴨 「アヒミツルカモ」とよむ。「ツル」は「ツ」といふ複語尾の連體形、「カモ」は後世「カナ」といへるに相當する助詞なり。
○一首の意 この使奉仕のためにこの山邊の離宮に來りしが、名高き御井を一見せばやと立ちよりたれば、その御井を見たると同時に美しき伊勢處女をさへに見たるかなとなり。
 
(371)81 浦佐夫流《ウラサブル》、情佐麻彌〔左○〕之《ココロサマネシ》、久堅乃《ヒサカタノ》、天之四具禮能《アメノシグレノ》、流相見者《ナガラフミレバ》。
 
○浦佐夫流 「ウラサブル」とよむ。これは上の歌(三三)に「樂浪乃《ササナミノ》、國都美神乃《クニツミカミノ》、浦佐備而《ウラサビテ》」とある「ウラサビ」と同じ動詞にして、これはその連體形なるなり。何となく心にさびしく思ふ義なり。
○情佐麻彌之 舊訓「ココロサマミシ」とよめり。されど、意義通ぜざれば、契沖は「彌」は「禰」の誤にして「サマネシ」なるべしといひ、諸家これに從へり。今傳はれる本一もかくかける本はなし。されど、ここは契沖の説の如く誤なるべし。卷十六(【「三八六九」の次の左注】)に「美禰良久埼」とあるは「旻樂《ミミラク》」ともかける地名にして、この「禰」は今と反對に、「彌」を誤れるなり。「彌」「禰」字形似たれば、古書に往々混同せりと見ゆ。「さ」は所謂發語にてただ音調を添ふるのみ。似たる例は卷十七「三九九五」に「見奴日佐麻禰美《ミヌヒサマネミ》、孤悲之家牟可母《コヒシケムカモ》」卷十八「四一一六」に「月可佐禰《ツキカサネ》、美奴日佐末禰美《ミヌヒサマネミ》》とあり。「まねし」は古くは專ら物事の多くしげきをいへる形容詞にして、その釋はその所の文勢によりて種々にあてらるべし。卷二「二〇七」に「眞根久住者《マネクユカバ》、人應知見《ヒトシリヌベミ》」卷四「七八七」に「君之使乃《キミガヅカヒノ》、麻禰久通者《マネクカヨヘバ》」とあるが如きはその事の度々あるをいへるなり。又卷十七「四〇一二」に「可良奴日麻禰久《カラヌヒマネク》、都奇曾倍爾家流《ツキゾヘニケル》」卷十九「四一六九」に「朝暮爾《アサヨヒニ》、不聞日麻禰久《キカヌヒマネク》、安麻射可流《アマザカル》、夷爾之居者《ヒナニシヲレバ》」とあるはその日のみなるをいへるなり。又續紀卷三十六の天應元年四月の宣命に「天下乎毛亂己氏門乎毛滅人等麻禰在《アメガシタヲモミダリオノガウヂカドヲモホロボスヒトトモマネクアリ》とあるは至りて多きなり。今いふ「あまねし」といふ語はこの「まねし」に發語の「あ」を添へたるものなるが、これは物事の十分にゆきわたれる由をいふに用ゐたり。その意に古今の差あり(372)と見ゆ。
○久堅乃 「ヒサカタノ」とよむ。これは「天」「日」「月」などの枕詞たるは人の知る所なり、もとは「天《アメ》」の枕詞とせしが、天象一般の枕詞として用ゐるやうになりしなり。名義は古來種々の説あれども※[誇の旁+瓜]形《ヒサカタ》の意なりとする説穩かなり。委しくは別に記せり。
○天之四具禮納 舊本「アマノシグレノ」とよめり。僻案抄に「天」をばかかるところは「アメ」とよむべしといひてより諸家之に從へり。さて「天のしぐれ」といへるは「シグレ」は天より降りくるものなればいへるなり。「シグレ」は和名鈔に「〓雨」に「之久禮」と注せり。この「〓」字は小雨をいふ漢字なれど、國語の「しぐれ」は暮秋の頃の空曇りがちにて降りみ降らずみ降りつづく雨をいふなれば「〓」の字義とは一致せず。ただ似たるはそのふりかたの五月雨夕立などのやうに烈しからぬ點が小雨の義にあたるといはばいふべし。本集中にいへる「しぐれ」は今説けるが如き雨をいへることは卷六「一〇五三」に「左牡鹿乃《サヲシカノ》、妻呼秋者《ツマヨブアキハ》、天霧合《アマキラヒ》、之具禮乎疾《シグレヲイタミ》」卷十「二一八〇」に「長月乃《ナガツキノ》、鍾禮乃雨丹《シグレノアメニ》」又「二〇九四」に「秋萩子《アキハギノ》、鐘禮禮丹《シグレノフルニ》」卷十二「三二一三」に「十月《カミナヅキ》、鍾禮乃雨丹《シグレノアメニ》」又卷十秋雜歌の末に「詠雨」と題せるうちに「秋田苅《アキタカル》、客乃廬入爾《タビノイホリニ》、四具禮零《シグレフリ》」(三二三五」)又「黄葉乎《モミヂバヲ》、令落四具禮乃《チラスシグレノ》、零苗爾《フルナベニ》」(三二三七)とあるなどにて知るべし。
○流相見者 舊訓「ナガレアフミハ」とよめるを代匠記に「流相」を「ナガラフ」とよみ、僻案抄に全句を「フラマクミレバ」とよみたるを考に「ナガラフミレバ」とよめり。考の説をよしとす。從來「ナガラフ」の如きを延言といひたれど、「ナガラフ」は「流ル」を「ハ」行下二段活用に轉せしめてその事の繼(373)續せるをあらはす語にしてただに延言といふべきものにあらず。さて雨雪の降るをも花の落るをも「ながる」といひしことは既に述べしところ(五九)なり。
○一首の意 この歌反轉法によれり。天より時雨のふりつづくを見れば、何となくたえずものさびしく思ふ心のすることよとなり。
 
83 海底《ワタノソコ》、奧津白浪《オキツシラナミ》 立田山《タツタヤマ》、何時鹿越奈武《イツカコエナム》。妹之當見武《イモガアタリミム》。
 
○海底 舊板本「ワタツミノ」とよみ、古寫本多くは「ミナソコノ」とよめり。契沖はこれを「ワタノソコ」とよむべしといへり。「海」をただ「水」の意にするは不當なれば、諸家皆契沖の説に從へり。卷五「八一三」に「和多能曾許意枳都布可延能《ワタノソコオキツフカエノ》」卷七「一一二三」歌「綿之底《ワタノソコ》、奧己具舟乎《オTキコグフネヲ》」又「一三二二」に「海之底《ワタノソコ》、奧津白玉《オキツシラタマ》」などあるにてその説の確かなるを見る。さて「ワタ」は「海」「ソコ」は至り極る處をいふ意にして深さにいふのみならず、水平的にも遠く至り極る處をいふなり。かくて「ワタノソコ」にて沖の枕詞とはするなり。考には之を枕詞ならずといはれたり。
○奧津白浪 「オキツシラナミ」とよむ、「奧」を「オキ」とよむことは古事記上卷「奧疎神」の條に注して、訓v奧云2淤伎《オキ》1下效v此」」といへるにて明かなり。「オキ」は「邊」と對して用ゐらるること多し。「オキツナミ」は沖の方よりよせくる浪なり。さて浪のたつといふ事よりして以上二句を次の立田山の「たつ」といふ語の序詞とせり。
○立田山 「タツタヤマ」なり。この山は大和國平群郡にありて河内國との堺をなし、平城京より(374)河内攝津以西の國々に通ずる要路にあたれり。されば、古は關をおかれしなり。日本紀天武天皇八年十一月の條に「是月初置2關於龍田山大江山1「(大江山は山城國と丹波國との堺にあたる要路なり。)とも見えたるこれなり。
○何時鹿越奈牟 「イツカコエナム」とよむ。「何時」を「いつ」とよむは正しく字義によれるものなり。こゝに「越奈武」とあるによりて上の「立田山」の下に「ヲ」を加へて見るべきを知る。「カ」は疑をあらはし、「越エナム」の「ナ」は「ヌ」の未然形にして「ム」は豫想をあらはす。この句いつ、この龍田山を越え了ることを得るならむかといふ意にして待遠しく思ふ意をあらはせり。
○妹之當見武 「イモガアタリミム」とよむ。妹があたりは妹がすむ家の邊なり。歌の趣にては立田山を越ゆれば、妹が住む土地の見ゆるなり。早く往きて見たしと冀ふ意をあらはせり。
○一首の意 この歌二段落なり。先づ第一段はわれははやく立ちかへりたく思ふが、あの立田山をいつ越ゆるを得るならむとなり。第二段はせめて立田山を越えなば、妹が家の邊も見ゆべきが、はやく行きて見たしとなり。待遠なる意をあらはせり。
 
右二首今案不v似2御井所1v作。若疑當時誦2之古歌1歟。
 
○ この左注は上の二首が山邊の御井にての詠と見えざれば、これをことわれるならむ。げに上の二首は御井を見てよめる歌とは見えず。しかも目録に明かに三首とあれば、古くよりかくありしならむ。ことにその中の「シグレ」の歌は時節さへ當らざるなり。されどかく載せた(375)るを見れば古くより長田王の歌と信ぜられしことは著し。或はこれは上の御井の歌のついでに同じ人の歌をつらねあげたるものならむか。
 
寧樂宮長皇子與2志貴皇子1於2佐紀宮1倶宴歌
 
○寧樂宮 この三字目録にもここにも下の題と一つづきにかけるは疑ふべし。この三字は下なる文とは直接の關係なきものにして、これはまさに別行にすべきものなるが、卷二の例にて推すにこの三字は上の和銅五年の前に一行を立てて標記すべかりしを誤れるに似たり。さるはかの卷二には「寧樂宮」の三字を和銅四年の前行におきたればなり。而して、實際遷都のありしは和銅三年三月なれば、それよれ以後は寧樂宮の御代といふべきものなればなり。
○長皇子與志貴皇子 この二皇子は既にいへる如く從兄弟の間柄にましませり。
○於佐紀宮倶宴歌 佐紀宮は大和國添下郡佐紀村の地に營まれし宮ならむ。佐紀は當時の平城宮の北にある地にして延喜式内の佐紀神社などここにあり。ことにこの歌の詞に因みあるは孝謙天皇の山陵のある地なり。これは續紀卷三十寶龜元年八月に「葬2高野天皇於大和國添下郡佐貴郷高野山陵1」とある地にして、此歌に高野原といへるは後にこの御陵となりしあたりなり。この地にはなほ成務天皇神功皇后の御陵ありていづれも「狹城盾列陵」といひたるなどにてその地域を知るべし。この「サキ」は、高臺と低地とにわたりしものと見え、かの陵等ある邊は高臺にして佐妃神社の邊は稍低し。而して本集に「娘子部四咲澤《ヲミナヘシサキサハ》」(卷四「六七五」)「垣津旗開(376)澤《カキツバタサキサハ》」(卷十二「三〇五二」)などいへる同じ地名に基づける低濕の地たること著し。さてこの宮は恐らくは長皇子の御宮なるべきことは考に既にいへり。さるは志貴皇子の宮は高|圓《マト》にありしことは卷二の挽歌に見ゆればなり。なほ志貴皇子は靈龜二年に薨じ、長皇子は靈龜元年に薨じたまへれば、この御歌は靈龜元年以前の詠なること明かなり。
 
84 秋去者《アキサラバ》、今毛見如《イマモミルゴト》、妻戀爾《ツマゴヒニ》、鹿將鳴山曾《シカナカムヤマゾ》、高野原之字倍《タカヌハラノウヘ》。
 
○ この歌舊板本訓を施さず。古來意義通ぜざる歌とせしものなり。類聚古集には
 あきくれはいまもみることつまこひにしかなくやまそたかのはらのうへ
とよみ古葉略類聚鈔には
 アキサレハイマモミルコトツマコヒニシカナク山ソタカノハラノウヘ
とよみ、神田本細井本には
 アキサレハイマモミルコトツマコヒニシカナクヤマソタカノハラノウヘ
とよみ、西本願寺本、大矢本、京都大學本、温故堂本には
 アキサレハイマモミルコトツマコヒニシカナカムヤマソタカノハラノウヘ
とよめり。さて代匠記以下の説も亦まち/\にして一も會心の説を見ず。甚しきに至りては誤字ありとして文字を改むるものさへあり。次にはそれらの説を批評しつつ、余が意見をのべむ。
(377)○秋去者 契沖は「アキサラバ」とよみたり。文字のままならば、「サレバ」とよみても「サラバ」とよみても誤れりとはいふべからず。かくて「秋サラバ」といふ語氣を以てせば、この歌よまれし時は秋にあらぬこととならむ。然るにかくせば、下に「今も見る如鹿なかむ」とある「今」といふ語にあはず。何となれば、鹿のなくは秋にして、その鹿のなくをば「今も見る如」といひてあればなり。この故にこれを「秋サラバ」とよみて「來年の秋にもならば」の意とする説も出で來れり。されど、今年の秋に於いて、來年の秋にもならばといふ意にて「秋サラバ」といふ如きは甚しく無理なるいひざまにして、あるべきことにあらず。又「秋サレバ」とせば、下の「今も見るごと」にはよくあへる心地すれど、「鹿鳴かむ山ぞ」といへる「將鳴」と矛盾す。この故に井上通泰氏は「將」字を衍なりとして「鹿ナク山ゾ」といへり。かくせば、理窟にはあふべきが、歌としては何の面白みもなく、又すべての本に存する文字を除くも不可なりといふべし。余が案にては「秋サラバ」とよみてよしとするなり。即ちここにては未だ秋ならぬ季節によまれたるにて秋を將來と見てのたまひしなり。その説次々に明かなるべし。「秋サラバ」の語例は卷十五「三五八一」に「秋佐良婆安比見牟毛能乎《アキサラバアヒミムモノヲ》」など例少からず。
○今毛見如 「イマモミルゴト」とよむことは諸家一致して異論なし。その語例は卷十七「三九九一」に「於母布度知《オモフドチ》、可久思安蘇婆牟《カクシアソバム》、異麻母見流其等《イマモミルゴト》」卷十八「四〇六三」に「和期大王波《ワゴオホキミハ》、伊麻毛見流其等《イマモミルゴト》卷二十「四四九八」に「都禰爾伊麻佐禰《ツネニイマサネ》、伊麻母美流其等《イマモミルゴト》」とあり。さて此句を以て下の句にかけて見れば、現在鹿の鳴けるにてあらずばあらず。而して鹿の鳴くは秋なれば、今を秋とすべき(378)に似たり。然れども此今を秋とせば、此度は上の「アキサラバ」とよむことに矛盾す。さればとてそれを「アキサレバ」とよむ時は既にいへる如く又下の「鹿將鳴」に矛盾するなり。斯の如く矛盾が循環して止まるところなく、之を解決せむとする説幾たびか出でていつも失敗せる所以も亦この矛盾の循環するが故なり。この故にこの矛盾の循環を語の表面より解かむには井上通泰氏の説の如く、何處か一所文字に改刪を加ふべきこととならむ。然れどもかくの如きことは古書研究の非常手段にして萬策つきて手の下すべきものなき場合の最後の方法なりとす。されば吾人はなるべくかかる武斷を避け、なほ内面的に他の見地よりしてこれを矛盾なく解釋しうべき方法存するにあらずやと顧みるべきなり。かく考へて後この語を見るに、「今も見るごと」といへる語に心をしづめて熟考すれば、鹿の鳴くさまは現に見てあることは著しきなり。然れども下に「鹿將鳴」とあれば、今は秋にあらざることも著し。その時秋にあらねばこそ、秋さらば……鹿鳴かむ」とはいひうるなれ。さてなほこの「今も見るごと」といふ語に心をつけて見よ。「鹿の鳴く」はきくべきものにして見らるべきものにあらず。然るにここに「見る」といへるは如何。これ「鹿の鳴く聲」を現に聞けるにあらずして「鹿の鳴くさま」を目に見てありといふべきにあらずや。秋にあらずして鹿の鳴くを目に見るといふ以上、これはその實景をいへるにあらずして、その状をかたどれる物を見たるなりといふべきにあらずや。彼是を合せて考ふるに、これは此の御宴の席に鹿の山に在りて妻を戀ひ鳴ける状を象れる洲濱をかざりてありしか、又はその状をかける繪などの障子屏風などをたててありしならむ。その作(379)物又は繪などを見そなはして、今この席上にて見る如く、秋にならば、實際に鹿の鳴かむ山なりといはれしならむ。酒宴の席に興を添へむ爲に洲濱を据うることは古は盛んに行はれしことにして著者幼時越後國彌彦神社の新年の儀式に用ゐたるを熟知せり。又今も婚姻の正しき儀宴にはこれを用ゐる。俗に島臺といふものこれなり。(島は古語に築山、山水《センスヰ》を島といへることのなごりなり)又宮中の御宴會にも用ゐらるるやうに漏れ承る。此の事徳川時代以前にはことに盛んにして平安朝時代にはこれらの作物に工夫をこらしたることその當時の記録又物語日記等に多々記載せられたり。奈良朝時代にもこの事行はれしこと疑ふべからず。本集中にて酒宴の席に興を添へむ爲に作物をして時ならぬものを見せたる例は卷十九天平勝寶三年正月三日に越中介内藏忌寸繩麻呂の館にて守大伴家持以下を請じて宴樂せし時に積雪を彫りて重なれる巖の状をつくり、これに瞿麥等の草樹の花をつくりつけしことあるによめる掾久米朝臣廣繩、遊行女郎蒲生娘子の歌をのせたるあり。その久米廣繩の歌
 奈泥之故波《ナテシコハ》、秋咲物乎《アキサクモノヲ》、君宅之《キミガイヘノ》、雪巖爾《ユキノイハホニ》、左家理家流可母《サケリケルカモ》、(四二三一)
とあるはこの歌を解するによき參考となるべし。
○妻戀爾 「ツマゴヒニ」とよむべし。この語の例は卷五「八七一」に「都麻胡非爾《ツマゴヒニ》、比例布利之用利《ヒレフリシヨリ》」と見ゆ。妻を戀ふるを目的としての意なり。
○鹿將鳴山曾 古寫本に「シカナクヤマゾ」とよめるもあれど、又「シカナカムヤマゾ」とよめるもあること上にいへるが如し。然るにここに「將」字あれば、「ナカム」とよむ方に從ふべきなり。本居(380)宣長は「鹿」を「カ」として「カナカムヤマゾ」とよむべしといひて長き論あれど、その論はうけられず。集中「鹿」を「シカ」とよむべきこと甚だ多くして一々例をあぐるにたへず。これは本居翁の思ひたがへなり。「シカナカムヤマゾ」とよみては字餘りなりといふ論あらむなれども、かくよむ方かへりて調高し。そのままにてあるべし。下の「ゾ」は上の「うましくにぞ」(二)といへるに同じく、強く指し示して上の語を述格に立たしむる力を有するなり。
○高野原之宇倍 「タカノハラノウヘ」とよむをよしとす。「タカヌハラ」は上にいへる如く孝謙天皇の御陵を高野御陵といひ、やがてこの天皇を高野天皇と申し奉れる如く、そのあたり一帶の高地をさせりと見ゆ。「うへ」は上なり。これは佐紀宮は何處にありしか明かならねど、この陵地などよりは南のやや低き地にありて、そのうしろに高野を見得る地勢にありしが故に宴席にてその高野原の邊を見やりつつよまれしならむと思はる。
○一首の意 余が按によらば、今この宴席にて見る作物若くは繪の如くに秋至らば、この見ゆる高野原の邊は實際に鹿が妻を戀ひて鳴かむ山にてあるぞ。その季節にも至らば、この作物又は繪の如く興趣更に湧くが如くにてあらむ。その時には又もとぶらひ來たまへとなり。
 
右一首長皇子
 
○ かく右云々とかけるさまを以て按ずるに美夫君志にいへる如く、次には客たる志貴皇子の御歌などもありしならむが、後世脱したりしならむ。元暦校本、冷泉本、神田本の目録にはこの次に「志貴皇子御歌」と記せるあり。
 
萬葉集講義卷第一 終
           2009年6月9日(火)午後3時33分、巻一、入力終了。2015年12月21日(月)御前11時50分校正終了。