萬葉集講義卷第二
 
(1)自序
 
萬葉集講義卷第一を出版してよりここに四年。この間には篤學の士濟々として出で見るべき研究少からず、萬葉集の學また頗る進展せり。この際にあたりて今この卷第二を世に公にせむとす。顧みれば余が如き門外漢のこの小著の今の世に出づるは或は贅疣を加ふるが如き觀あらむ。しかも他山の石、また玉を攻くべしとせば或は何等かの用に供せらるべき點あらむか。本書に關しての余が態度は既に卷第一の序に述たる所なれば、ここに再びいはず。
 本書の稿本は東北帝國大學に於ける講義の草案にして昭和四年冬に脱稿せるものなり。かくてこれに基づいて再考を加へ、昭和五年夏にこれを了へて印刷に附せり。印刷に附してより殆ど一箇年昭和六年九月に本文は終了せしかど、索引の調製に多くの時日を費し、この日辛うじてその稿を脱せるなり。ここに出版の顛末を記して序に代ふ。
 昭和七年三月二十一日     山田孝雄
 
(1)例言
 
一、本書の本文は寛永版本を基としたれども、その誤の著しくして他の諸本によりて正字の知らるゝものはこれを訂してその字には左旁に「○」圏を加へたり。
一、諸本に通じて用ゐられてある字なれど、誤と認めずしては通じ難きものは左旁に「●」圏を加へて漫りに改むることをせず、解説中に意見を述べたり。
一、各首の歌の上に施せる番號は國歌大觀にて加へしものによれり。この番號は近時諸本に用ゐらるれば、本書もこれに傚へるなり。隨つて解説中に引ける歌もこの番號によつて示し、從來の卷張數を示す方法をとらず。
 
(1)萬葉集講義卷第二
                山田孝雄述
    卷第二の通説
 
 この卷は、講義卷第一の卷首にいへる如く、卷第一と共に一團をなすものなり。この一團全部を通じて見るに、雜歌相聞挽歌の三部門に分てるものにして、卷第一はそのうちの雜歌をあげ、この卷はそのうちの相聞と挽歌との二部門を載せたるものなり。而してその相聞と挽歌との意義は講義卷第一の卷頭と、この卷の各部門のはじめとに説きたれば、ここにこれを説かず。
 この卷の相聞は仁徳天皇の朝の歌と傳ふるものをはじめとして、柿本人麿の妻の歌にて終り、挽歌は舒明天皇の朝の歌をはじめとして、寧(2)樂宮の靈龜元年秋九月の歌にて終れり。即ち卷第一卷第二を通じて見れば、この相聞部のはじめの歌が、最も古く、挽歌部の終の歌が是も新しきなり。かくてこの一團は寧樂朝の初期に編纂せられしものならむことを思はしむるものあり。
 編纂の方法は既にいへる如く、卷第一、卷第二を通じて一種の特色ありて、明日香清見原宮御宇天皇までは宮號を以て天皇を稱へ奉り、一代毎に標出せるが、藤原宮以後は藤原宮にて持統文武二朝を記し、寧樂宮にて元明元正二朝を記し、なほ年號の明かなるものは年號を掲げて次第せり。
 なほこの二卷を通じて見るに、これはその材料となれるものを甚しく主觀を加ふることなくして、本の姿のままにとる主義にて編纂せしものかと思はるるふしあり。その一端は、本講義の「二〇七」以下の柿本人麿の歌につきて論ぜる如くに、この卷第一、卷第二を通じての人麿の(3)歌には一種殊なる現象を呈せるに、卷第三以下の人麿の歌と傳ふるものにはさる現象のあらはれたるを見ざるなり。これは人麿の歌を研究する上には頗る重大なる事柄と思はるるが、かくの如き編纂上の方針はその他の部分にも行はれたるべく思はるるなり。
〔5〜11、目次、省略〕
 
(13)相聞
 
○これは既にいへる如く卷第−卷第二を通じて一とせるうちの三の部類の隨一にして、雜歌挽歌と相對する一部門なり。相聞は從來戀歌の義に近きやうに説き來れども、さにはあらずして往來存問の義なること既に卷一のはじめにも説き又相聞考に詳述せれば、それに讓りて今はいはず。さてよみ方も「シタシミウタ」などよめるもあれど、ただ古來よみ來りしままに「サウモン」とよみてよかるべし。この時代に字音の語行はれずといふ反證なきのみならず、かへりて字音の語にて行はれしものも存すればなり。
 
難波高津宮御宇天皇代、大鷦鷯天皇
 
○難波高津宮御宇天皇 「ナニハノタカツノミヤニアメノシタヲサメタマヒシスメラミコト」とよむ。難波は古難波國ともいひて、後の攝津國西生郡及び東生郡の西邊かけての大名にして大阪わたりより住吉にかけての地にあたり、今の大阪市の地域を主とする地方の舊名なりとす。高津宮は仁徳紀に「元年正月丁丑朔、己卯都2雖波1是謂2高津宮1」とあり。古の難波の舊趾は今の大坂城より南方をかけて東高津味原池の邊ならむといへり。而して皇居はその高地の海岸にありしならむといへり。
○大鷦鷯天皇 難波高津宮に御宇ましし天皇の御名大鷦鷯尊と申す。應神天皇の御子にして(14)後に仁徳天皇と申す。多くの古寫本に小字にせるをよしとす。
 
磐姫皇后、思天皇御作歌四首
 
○磐姫皇后 「イハノヒメノオホキサキ」とよむべし。この皇后は古事記下卷に「大雀命坐2難波之高津宮1治2天下1也、此天皇娶2葛城之曾都毘古之女石之日賣命1云々」とある如く、葛城襲津彦の御女にして武内宿禰の御孫なり。日本紀仁徳卷には「二年春三月辛未朔戊寅立2磐之媛命1爲2皇后1」とあり、又續紀卷十の宣命には「葛城曾豆比古女子伊波乃比賣命」とあり。これによりて「イハノヒメ」とよむべきを知る。この皇后は履仲、反正、允恭三帝の御母にましますなり。皇后の御名をここに書き奉れるは異例に屬するによりて古來議論なきにあらず。考には「今本にここに御名を書たるは令法に背き此集の例にも違へり」といひて「磐姫」の字を除きて單に「皇后」とのみせり。これ一往は道理ある如くなれば、略解古義などもこれに從ひて、この二字を加へたるは後人のしわざなるべしといへり。然れども古寫本に一もかゝるものなしし。攷證に元暦本にこの二字なき由いへれど、それも妄説なり。この故に古より、かく書けりと見るべし。これにつきては又或は磐媛命は臣下の女にして實は彼時には皇后に立ちまさず、妃夫人の列にてありしなるべく、後に尊み崇めて皇后と申しけるなるが、昔よりのいひ來りにて御名をも憚らぬならむなどいひ、橘守部などは「こは大に心得となる事なり」などこと/\しき論をなしたれど、いづれも、當時の事情を顧みざる僻説なり。先づ、磐之媛命を臣下の女といへるは當らず。抑も(15)磐之媛命は孝元天皇の御子|彦太忍信《ヒコフトオシノマコトノ》命(子)その子|屋主忍男武雄心《ヤヌシオシヲタケヲゴヽロ》命(孫)その子武内宿禰(曾孫)その子葛城襲津彦(玄孫)その子磐之媛なれば、孝元天皇六世の孫なり。後世は五世まで皇親の列にしてその以下は臣籍に入れどこの頃は六世にても皇族なりしなるべく、古事記日本紀共上にもいへる如く「命」とも書かれたり。凡そ、古は皇族以外より皇后を立てられることなかりしことにて、令の制後宮職員として皇后の下に妃、夫人、嬪の三職を置かれしにも臣下の女は夫人に至るを最上級とし、妃は皇族に限られたるなり。而してこの制度は聖武天皇の御世のはじめまでは嚴重に守られたりしなり。かくて臣族より皇后とならるることは聖武天皇の天平元年に夫人藤原光明子を皇后に立てられしをはじめとす。その立后の時にはこの磐媛皇后を以て先例とせらるる由の宣命ありしかど、そは一時權宜の言なること史家の定論たり。この故に當時皇后ならざりし由などいふ説はとるに足らず。抑もこの皇后は仁徳天皇の三十五年夏六月に崩ぜられ、後三十八年に八田皇女を立てて皇后とせられし事なれば、仁徳天皇には前後皇后二人ましませるなり。さればただ皇后とのみ書きおきてはいづれの御方の御歌にか明かならぬ道理なり、この故に、御名を記しおきしにこそあれ。さて皇后は天皇の嫡妻を申すこと公式令の義解に「皇后謂2天子嫡妻1也」と見ゆ。皇后の文字は古今に通ずれど、その訓は古と今と異なり。古は天皇の御妻妾をさして汎く「キサキ」といへるが、正しき嫡妻は唯一人に限り、これを特に「オホキサキ」と申ししなり。「大后」はその「オホキサキ」の語をあらはすに用ゐたるものにして後世の皇太后の義にはあらず。現に古事記の此天皇の卷に「此天皇之世爲2大后〔二字右○〕(16)石之日賣命之〔六字傍点〕御名代1定2葛城部1」とあるにて知るべし。古事記神武卷に「更求d爲2大后〔二字右○〕1之美人u時云々」と見え、その時に求め得たまひしは比賣多多良伊須須氣余理比賣の皇后なり。
○思天皇御作歌 「スメラミコトヲシヌビタマヒテヨミマセルウタ」とよむべし。
○四首 この二字を考には削れり。されど、目録にもあり又他の例に準じてもあるをよしとす。
 
85 君之行《キミガユキ》、氣長成奴《ケナガクナリヌ》、山多都禰《ヤマタヅネ》、迎加將行《ムカヘカユカム》、待爾可將待《マチニカマタム》。
 
○君之行 「キミガユキ」とよむ。「行」は「ユク」を體言化したるにて、「ユクコト」の義にして今旅行といふにも似たり。御幸の「ミユキ」はその「ユキ」に敬意の接頭辭「ミ」を加へるなり。ただ「ユキ」といへる假名書の例は本集卷二十に「和我由伎乃伊伎都久之可波《ワガユキノイキツクシカバ》」(四四二一)とあり。「君がゆき」といふ例は卷十九に「君之往若久爾有婆《キミカユキモシヒサナラバ》」(四三三八)ともあり。卷五に「枳美可由伎氣那我久奈理努《キミカユキケナガクナリヌ》」(八六七)とあるは今と同じ語の假名書なるなり。
○氣長成奴 「ケナガクナリヌ」とよむ。「ケ」は既にいへる如く「キヘ」の約まれる語にして時間の經過をいふなり。「ケナガシ」といふ語も卷一にいへる如く、月日の多く經たるをいふ語にして久しくといふに似たり。以上第一段。
○山多都禰 「ヤマタヅネ」とよむべし。西本願寺本に「ヤマタツノ」とよみ、下にいへる如く古事記の歌に「山多豆乃」とあるによりて「ヤマタツノ」とよむをよしとする説多く、美夫君志の如く「禰」字に「ノ」の音ありなどいふ説も生じたれど、從はれず。これは、古事記の歌と同じものを誤り傳へ(17)たるものとは思はるれど、もとより古事記の歌を直ちに受けたるにあらねば、異なる説のありしならむと考へらる。かくて、ここにては山を尋ぬる由にとれるなり。かく「尋ね」といひても歌としては格破れたるにあらぬなり。
○迎加將行 「ムカヘカユカム」とよむ。「カ」は疑問の助詞にして係辭とせしなり。この「迎へ」は「行く」の目的を示せる目的準體言なれば、この下に「ニ」助詞あるべき筈なれば、今の語ならば、迎へに行かむかといふに略同じ。古事記なるは「牟加閇袁由加牟《ムカヘヲユカム》」とあり。意は異ならず。
○待爾可將待 「マチニカマタム」とよむべし。古事記なる歌には「麻都爾波麻多士《マツニハマタジ》」とあるによりてか、本居宣長はまちにかまたんにては上に叶はずとて、「さとにかまたん」に直されし由なれど、然しては歌の意も淺く調もあらぬさまなり。もとの如くにて差支なし。何となればかく動詞の連用形を助詞「に」にて受けて、下の同じ動詞に重ぬるは、一種の修飾格にして、下の用言の意を強むる作用をなすものなり。その例は、卷四に「如此許三禮二見津禮片思男責《カクバカリミツレニミツレカタモヒヲセム》」(七一九)「幾許久毛久流比爾久流必所念鴨《ココダクモクルヒニクルヒオモホユルカモ》」(七五一)卷六に「春去者乎呼理爾乎呼里※[(貝+貝)/鳥]之鳴吾島曾《ハルサレバヲヲリニヲヲリウグヒスノナクワガシマゾ》」(一〇六一)などあり。「まちに」は下の「まつ」を修飾して、待つ意を強むるものにして、ただこのままにてはいつまでも待ちをらむかといふ意なり。卷六に「吾屋戸乃君松授爾零雪乃行者不去待西將待《ワガヤドノキミマツノキニフルユキノユキニハユカジマチニシマタム》」(三〇四一)といへると詞遣の似通へるを思へ。
○一首の意 この歌二段落にして、第一段はわが君の御幸ありてより後隨分月日を多く經過したり。何とて、かく久しき旅をしたまふならむといふなり。第二段はさてかく久しく君を見(18)ねば、戀しさに堪へねば、山べなとに尋ねて迎へに行かむか。或は又このまま家にていつまでも待ちをらむかと兩端に述べたまへるなるが、婦人の夫を思ひあせりたる情をよくあらはされたりといふべし。
 
右一首歌山上憶良臣類聚歌林載焉
 
○ この左注によりこの歌は後人の加へたるなりといふ説もあれど、すべて左注に「右云々」とかけるはいつも原本に載せたる歌を基としていへるなれば、これはもとより原本にありしなり。即ちこの左注の意はこの歌萬葉集の原本に、もとより磐之媛皇后の御歌としてあげたるが、類聚歌林にもしか載せたりといふ義なるべし。類聚歌林はこの卷一卷二の成れりとおぼしき和銅の頃よりは後のものなれば、この左注はもとより後人の參考の爲に記入せしものなり。而して類聚歌林にも皇后の御歌としてあげたりしならむ。然らずば、先例によればここに作者の異説あることをことわるべき筈なればなり。
 
86 如此許《カクバカリ》、戀乍不有者《コヒツツアラズハ》、高山之《タカヤマノ》、磐根四卷手《イハネシマキテ》、死奈麻死物乎《シナマシモノヲ》。
 
○如此許 「カクバカリ」とよむ。卷十九に「可久婆可里古非之久安良婆《カクバカリコヒシクアラバ》」(四二二一)とあるなどその假名書の例なり。
○戀乍不有者 「コヒツツアラズハ」とよむ。卷二十に「伊閉爾之弖古非都都安良受波《イヘニシテコヒツツアラズハ》、奈我波氣流(19)多知爾奈里弖母伊波非弖之加母《ナガハケルタチニナリテモイハヒテシカモ》」(四三四七)とあるその假名書の例なり。なほ卷四に「如是許戀乍不有《カクバカリコヒツツアラズハ》、石木二毛成益物乎物不思四手《イハキニモナラマシモノヲモノモハズシテ》」(七二二)又この卷に「遺居而戀管不有者《オクレヰテコヒツツアラズハ》、追及武《オヒシカム》、道之阿囘爾標桔吾勢《ミチノクマミミニシメユヘワガセ》」(一一五)とあり。これは連用形の「ず」に係助詞「は」のつけりとする橋本進吉氏の説をよしとすべく、意は詞の玉緒に「あらんよりは」の意なりと説けるによるべく「云々といふ事を現にせるがさる事をせずしてむしろそれよりは」といふ意のいひまはし方の語なりと見ゆ。
○高山之 「タカヤマノ」とよむ。童蒙抄には「カグヤマノ」とよみたれど、かへりてよからずと思はる。この「高山」は或は地名か。然らば、この皇后の天皇をうらみまして宮つくりしてましまししといふ山城國筒城岡の南の地よりつづきてその近き所に大和國平群郡高山といふ地あり。或はただ高き山と宣ひしにか。然らば、陵墓の地の意あるべし。卷三に「石田王卒之時丹生王作歌」に「高山之石穗乃上爾伊座都流香聞《タカヤマノイハホノウヘニイマセツルカモ》」(四二〇)といひ、その反歌に「高山之石穗乃上爾君之臥有《タカヤマノイハホノウヘニキミガコヤセル》」(四二一)といひたるなどにてこの意ありしを思ふべく、ことにこの頃の陵墓はいづれも見はるかしのよき地にあり。光仁天皇の御母紀橡姫の吉隱陵の如きは著者自ら參拜せしに、その地極めて、高く、西は櫻井町より大和の平原を眺むべく、東は宇陀郡の各地を一望に見わたしうる地なりき。
○磐根四卷手 「イハネシマキテ」とよむ。「四」は助詞の「シ」にあてたるにて、強めていふ意あり。「まき」は、上にもいへる如く枕する意なり。卷四に「余衣形見爾奉布細之枕不離卷而左宿座《ワガコロモカタミニマツルシキタヘノマクラヲサケズマキテサネマセ》」(六三六)などあり。磐根を枕としての意なり。古、貴人の葬は石槨をかまへ、石棺に納め、石枕をして安(20)置するが故にかくいへるなり。
○死奈麻之物乎 「シナマシモノヲ」とよむ。「マシ」は假定する意の複語尾なり。「ヲ」は嘆息の意をあらはせり。
○一首の意 かほどまでにわが君を戀ひつつあらむよりは一層のこと高山の磐根を枕として死にてしまへばよからうものをとなり。その戀ふる意の切なるをうたひたまへるなり。
 
87 在管裳《アリツツモ》、君乎者將待《キミヲハマタム》、打靡《ウチナビク》、吾黒髪爾《ワガクロカミニ》、霜乃置萬代日《シモノオクマデニ》。
 
○在管裳 「アリツツモ」とよむ。卷二十に「安里都都母伎美伎麻之都都《アリツツウモキミキマシツツ》云々」(四三〇二)とあり。「在管裳」とかけるは卷三(三二四)に、「在乍毛」とかけるは卷四(五二九)に、「有乍」とかけるは卷七(一二九一)など例多し。このまゝにありつつもの意なるが、ここにてはながらへありつつの意に説くべし。
○君乎者將待 「キミヲバマタム」なり。上の歌をうけて、一旦死なましとまで思はれしが、再びおもひかへしたまへるさまあらはれたり。
○打靡 舊板本「ウチナビキ」とよませたり。かくてはこの語霜の置くにかかる形容となるべきこととなる。されど、ここはさにはあらずして黒髪にかかれるなれば「ウチナビク」とよめる本をよしとす。卷五に「有知奈毘久波流能也奈宜等《ウチナビクハルノヤナギト》」(八二六)とあるは同じ趣なるが、それは柳のしたれたるなるをあらはせり。さて從來の諸家これを髪の枕詞なりといはれたれど、これは實(21)際の形容にして枕詞にあらず。女の髪の長きはいふまでもなく、當時は專ら垂髪なりしが故に、「ウチナビク」といへるはよくその實際をあらはせるなり。
○吾黒髪爾 「ワガクロカミニ」とよむ。
○霜乃置萬代日 「シモノオクマデニ」とよむべし。「代」は「ダイ」の呉音にて「デ」の假名とし、「日」は「ニチ」の「チ」を省きて「ニ」の假名とせるなり。古寫本に「シモオキマヨヒ」などあるは、これが音の假名なるに心つかざりしにてとるべからず。これと似たる語は卷十二に「待君常庭耳居者打靡吾黒髪爾霜曾置爾家類《キミマツトハニシヲレバウチナビクワガクロニシモゾオキニケル》」(三〇四四)とあるなどにて知るべし。これは黒髪の白髪となるをば、霜の置くと歌詞にいへるなり。髪の白くなるを霜のふるになぞらふることは卷五に「美奈乃和多迦具漏伎可美爾伊都乃麻可斯毛乃布利家武《ミナノワタカグロキカミニイツノマカシモノフリケム》」(八〇四)とも見えたるにても知るべし。しかるに萬葉考にはこれを古歌の樣をよく意得ぬ人の書きあやまれるものなりとして「黒髪乃白久爲萬代日《クロカミノシロクナルマデニ》」と改めたり。されど、かくの如き本一もなきのみならず、本文のままにて意よく通ずるなり。まして古歌の趣にたがふふしとてもなきものをや。
○一首の意 さて一旦死なましとまで思ひしかど思ひめぐらせば、それも短慮の至なるべし。まづはかくのままに在りながらへつつ君の來まさむを待たむ。たとひ、わが黒髪の白くなるまでなりとも待たむ。君にあひ奉るを得べくば、しか白髪になるまで待たむもいとはじとなり。黒髪の白髪となるまで持たむと君を思ふ情の深くして切なるを見るべし。古の人の人を戀ふる情のあつかりしはかの雄略天草の御世の赤猪子の物語を思ひてもしらるべし。
 
(22)88 秋之田《アキノタノ》、穗上爾霧相《ホノヘニキラフ》、朝霞《アサガスミ》、何時邊乃方二《イヅヘノカタニ》、我戀將息《ワガコヒヤマム》。
 
○秋之田 「アキノタノ」とよむ。右寫本多くは「秋田之」とかけり。それをよしとす。但このままにてもしかよむにあしからず。
○穗上爾霧相 舊本「ホノウヘニキリアフ」とあり。又「キリアヒ」とよめる本もあり。されど、「ホノヘニキラフ」とよむべし。「云々のうへ」の「のへ」といへる例は「卷五に「比等能比射乃倍和我摩久良可武《ヒトノヒザノヘワガマクラカム》」(八一〇)又卷五に「烏梅能波奈多禮可有可倍志佐加豆伎能倍爾《ウメノハナタレカウカベシサカヅキノヘニ》」(八四〇)などの例あり。又「穗上」といへる例は、卷十に「秋田之穗上爾置白露之《アキノタノホノヘニオケルシラツユノ》云々」(二二四六)などあり。秋の田の稻穗の上にの意なり。「霧相」はもと「キリアフ」とよみたれど、契沖の改めたるによりて「キラフ」とよむべし。「キラフ」は「キル」といふ動詞を波行四段の複語尾に再び活用せしめしにて、「キル」は既にいへる如く「くもる」「かすむ」などに似て、霧の立つさまをいへる動詞にして「キリ」はそれの連用形が名詞になれるなり。類聚名義抄には「霽」「雰」等に「キル」の訓あり。「雰」は玉篇に「霧氣也」とあり。この「キル」は水蒸氣の多く立つをいへるにて催馬樂紀伊國に「風しもふいたればなごりしもたてればみなそこきりてはれその玉みえず」とあり。「キラフ」はその霧ることの作用の引續き存するをいふなり。日本紀齊明紀に「阿須箇我播瀰儺蟻羅※[田+比]都都喩矩瀰都能《アスカガハミナギラヒツツユクミヅノ》」などの例あり。この事は卷一「二九」の「霧流」の下に既にいへり。
○朝霞 「アサガスミ」とよむ。後世にては「カスミ」は春にして秋には「キリ」といふ例となりたれど、(23)古はこの區別なきのみならず、承暦年中書寫の金光明最勝王經音義には霧字に「加須美」の訓をつけたり。又卷八に七夕の歌に「霞立天河原爾待君登《カスミタツアマノカハラニキミマツト》」(一五二八)といふあり。又卷十秋相聞の寄蝦に「朝霞鹿火屋之下爾《アサカスミカヒヤガシタニ》」(二二六五)ともあり。これは今の語にては朝霧といふべきところなり。朝霞といへるは霧は朝その立つこと、殊に深きによりてかくいへるにて、秋田の朝霧立こめて東西も分ち難きさまなるをいひて次の句の下がまへとせるなり。
○何時邊乃方二 「イヅヘノカタニ」とよむべし。「何」時は「イツ」にして時の不明なるを示す文字なれど、これを「イヅ」といふ假名に用ゐたり。「イツ」といふ語は今は時の不明なるにのみいへど古くはすべて不明なることを示す代名詞なりと見ゆ。これに「レ」を添へて「イヅレ」といへばよく、その意を示すこと、「ワ」「ナ」「コ」「ソ」「カ」「ア」がもとより代名詞なるに「レ」を添へて「ワ」「ナレ」「コレ」「ソレ」「カレ」「アレ」といへば一層その意明なるに同じと知るべし。されば「イヅ」にて不明を示す語なるに「方」の意なる「へ」を添へて「イヅヘ」といひて(「ヅ」を濁り「ヘ」を清むべし)今の語にていへば「イヅカタ」といふに同じ意をあらはせるなり。「イヅヘ」の語の例は卷十九に「霍公鳥伊頭敝能山乎鳴可將超《ホトトギスイヅヘノヤマヲナキカコユラム》」(四一九五)とあり。「イヅヘノカタ」といふは重言なるに似たれど、今も「どちらの方」ともいふにおなじ語遣なれば、古とても不審なく用ゐしならむ。朝霧はやがていづ方ともなく消え失するを以て先づかくいへり。
○我戀將息 「ワガコヒヤマム」とよむ。上に「イヅヘノカタニ」とあるをうけて、わが戀のやむべきかと疑の形式を用ゐて嘆息の意をあらはされしなり。
(24)○一首の意 秋の田の面にきりわたれる朝霧はやがて消えうするものなるがそれを比喩にしてわが戀ふる思ひは東西もわかず、思ひをはるけむよすがもなきはその朝霧のこめたてあやめもわかぬにも似たるが、その朝霧とてもいつしか何處ともなく消え失するに、わが戀の思ひの苦しさはいつ如何にして消え失すべきか。いかにしてもわが戀ふる意をはるけむ由もがなとなり。
 以上四首は本文としたる皇后の御歌にして四首連續して一の想をなせること甚だ巧なりといふべし。第一首は起首として先づ、君を待つこと久しきをいひ、迎へに行くべきか、かくて待つべきかの二途いづれによるべきかといひて、胸中悶悶の情をあらはされたるなり。第二首は第一首を承けて、かくばかり戀ひて煩悶せむよりは一層死してこの苦境を脱せむかといひて、その情の最高潮に達せるをあらはせり。第三首は第二首を承けて更に一轉して思ひかへして、いやいや短慮はせずいつまでも待ち奉らむといふ事をあらはせるが、表面の煩悶は沈靜せる如くに見えて戀々の情一層深刻となれるを示せり。第四首は以上三首の歸結とし、特に遙に第一首の二途その一を擇ばむかといへるに對してその悶々の情殆ど、處置すべき方途なきを嘆息せられたるなり。一讀再讀その胸中の苦悩を描くこと深刻にして、萬葉集中かくの如き至情の流露するもの決して多からず。われはこれを以て集中有數の絶唱として愛吟措かざるものなり。これを以て察するに磐之媛命は史に傳ふる如く嫉妬の爲に、天皇と絶たれし悍き婦人にはあらで、寧ろ、天皇より敬遠せられて悶々のうちに崩ぜられしにあらざるか(25)を疑はしむ。古事記日本紀にこの皇后の御歌數首を載せたれど、一首だに似たるものなし。これを以て種々の異説も生じたるなり。若しこの歌眞に皇后の御歌にあらずとせば皇后の御胸中を同情して人のつくれるにてもよし。或は又全く別の歌を誤り載せたりとしてもよし。四首一聯にして、その情の深切にしてその作の巧妙なることは作者のいづれになりたりとて左右せらるべきにあらざるなり。この四首を切りはなし、唯一首をとりて論ずる如きはこの御歌の眞の味を知れるものにあらざるなり。
 
或本歌曰
 
○ これはこの次に載せたる歌は萬葉集の原本にはなくして、後の注者の參考として載せるものなり。されば或本歌としたるなるが、その或本は左注にいへり。さればこの歌は一字下げてかくをよしとすべきなり。目録を見れば、上の四首とこれらとの區別明かなるなり。而してこの歌は上の第三首の「在管裳」の歌に對しての異説としてあげたるなり。
 
89 居明而《ヰアカシテ》、君乎者將待《キミヲハマタム》。奴婆珠乃《ヌバタマノ》、吾黒髪爾《ワガクロカミニ》、霜者零騰文《シモハフルトモ》。
 
○居明而 舊訓「ヰアカシテ」とよめり。契沖は卷十八に「乎里安加之許余比波能麻牟《ヲリアカシコヨヒハノマム》」(四〇六八)とあるを例にとりて「ヲリアカシテ」とよむべきかといひ、玉勝間には直ちに「ヲリアカシテ」とよみ、美夫君志またこれに從へり。されど、「ゐる」といふ動詞は古くよりありたるものにして「乎利」(26)のみ正しといはるべきにあらず。これは音の關係よりいひてもなほ「ゐあかして」とよみてあるをよしとすべし。「ゐあかして」といふ例は枕草紙六に「廿六七日ばかりのあかつきに物がたりしゐあかしてみれば」と見ゆ。夜寢ずに居て夜を明すをいふなり。
○君乎者將待 上の歌におなじ。
○奴婆珠乃 「ヌバタマノ」とよむ。「ヌバタマ」は「ヒアフギ」又は「カラスアフギ」(射干)といふ草の實をいふ。その色黒くして小き球状をなせり。よりて黒き意の枕詞とせり。
○吾黒髪爾 上の歌にをなじ。
○霜者零騰文 「シモハフルトモ」とよめり。「オクトモ」とよめる古寫本ありといへども、零字は「フル」とよむべき字なれば、從ふべからず。この句は實の霜のふるをいへり。即ち
○一首の意 たとひわが黒髪に霜ふるとも今夜は居明して君を待たむとなり。
 
右一首古歌集中出
 
○ これは上の「或本云」と呼應したる後人の注記なり。その古歌集といふものは今傳はらねど、この歌が上の「ありつつも」の歌に似たるによりて參考としてあげたりとなり。
 
古事記曰輕太子奸2輕太郎女1故其太子涜2於伊豫湯1也。此時衣通王不v堪2戀慕1而追〔左○〕往時歌曰
 
(27)○ これは古事記允恭卷の文を節略せるものなり。
○輕太子 允恭天皇の皇太子木梨之輕太子なり。
○奸 「タハク」とよむべし。不義奸通するをいふ。
○輕|太郎女《オホイラツメ》 これ太子同母妹なり。この同胞相姦の事によりて太子は廢せられて、流されたまひしなり。
○伊豫湯 は必ずしも道後の温泉と定めて考ふべからず。温泉郡の或地に流されしならむ。
○衣通王 「ソトホリノミコ」とよむべし。輕大郎女の亦の名なり。古事記に輕太郎女亦名衣通郎女「【御名所3以負2衣通王1者其身之光自v衣通出也】」と見えたり。然るに、日本紀允恭卷には皇后大中津比賣命の御妹弟姫の亦名に衣通姫といふあり。同名異人か、若くは傳の異なるなるべし。
○不v堪2戀慕《オモヒカネテ・オモヒニタヘカネテ》1而|追往時《オヒイマストキニ》歌|曰《タマハク》 これは古事記の文のままなるが「追」字流布本に「遣」字をかけれどそは「追」の誤にて古事記にも「追」とあり、又大抵の古寫本みな正しく「追」とかけり。
 
90 君之行《キミガユキ》、氣長久成奴《ケナガクナリヌ》。山多豆乃《ヤマタヅノ》、迎乎將往《ムカヘヲユカム》。待爾有不待《マツニハマタジ》。此云2山多豆1者是今造木者也。
 
○ この歌は上の第一首の歌に對しての異説としてあげたるなり。
○君之行 古事記には「岐美賀由岐《キミガユキ》」とかけり。意は上にいへるにおなじ。
○氣長久成奴 古事記には「氣那賀久那理奴《ケナガクナリス》」とかけり。意は上にいへるにおなじ。
○山多豆乃 「ヤマタヅノ」とよむ。古事記には「夜麻多豆能《ヤマタヅノ》」とかけり。
(28)○ この歌に注して「此云山多豆者是今造木者也」といへるは古事記の注文をそのままとれるものにして實に「山多豆」といへるものの説明なりとす。この「ヤマタヅ」につきては古來異説多く、その注の「造木」も亦何をさせるか明かならざりしによりて或は「山釿《ヤマタツ》」にて斧の類なり、まさかりの類なりなど、種々の説ありしが、加納諸平が「造木」を「ミヤツコギ」とよみ、その「ミヤツコギ」は和名抄に「接骨木和名美夜都古木」とあるによりて今の「ニハトコ」なりとし、それやがて「ヤマタヅ」なりとせり。「ミヤツコギ」といふ語は色葉字類抄にも「接骨木ミヤツコギ」易林本節用集にの「接骨木《ミヤツコキ》」とあれば、近世までも接骨木をかく唱へしことは知られたり。この「ミヤツコギ」が「ニハトコ」と訛りしは古「ミ」と「ユ」とは音互に通ひしことあり。壬生はもと「ミブ」なるが、「ニブ」ともいひ、又「苦《ニガ》シ」といふ語を古「ミガシ」といへりし例あり。されば、「ミヤツコ」がいつしか「ニハトコ」と訛りしなるべきなり。この「ニハトコ」が「山多豆」と唱へらるる由はその枝葉共に兩々相對するものにして、草にもよく似たるありて、これを「クサタヅ」(漢名※[草冠/朔]※[草冠/瞿])といへるが殆ど同じさまなればそれに對して「ヤマタヅ」とはいはれしならむ。この「ニハトコ」は上にもいへる如く、枝も葉も必ず兩々相對して生ずるものなれば、迎へといふ語の縁にて冠して枕詞とせるならむ。卷六にも「山多頭能迎參出六《ヤマタヅノムカヘマヰデム》」(九七一)といふ例あり。
○迎乎將往 「ムカヘヲユカム」とよむ。古事記には「牟加閉袁由加牟《ムカヘヲユカム》」とかけり。この「乎」は感動の意をあらはす助詞にてその意を強むるなり。これが他の語の上に用ゐらるる時は玉緒繰分にいへる如く、下は未然形をうくる「む」又は命令形にてうくるを常格とす。「迎へに往かむよ」と(29)いふなり。
○待爾者不待 舊訓「マチニハマタジ」とあれど、古事記には「麻郡爾波麻多士《マツニハマタジ》」とあるによりて「マツニハ」とよむべきなり、かくて其の意は待つには堪へじの意なりと考へらる。
○一首の意 第一首なると大差なし。ただ「山タヅノ」を「ムカヘ」の枕詞とせるを異なりとす。
 
右一首歌古事記與2類聚歌林1所v説不v同、歌主亦異焉。
 
○ この左注にいへる趣は、かの第一首なる歌の左注に「類聚歌林云々」といへると照して考ふべきものなるが、その類聚歌林に傳ふる歌とこの古事記なる歌とを比較するに歌の上にも作者の上にも所傳の相違ある由をいへるなり。かくてこれを日本紀によりてその疑を決せむとして次の記事あるなり。
 
因檢2日本紀1曰難波高津宮御宇大鷦鷯天皇廿二年春正月天皇語2皇后1納2八田皇女1將v爲v妃、時皇后不v聽。爰天皇歌以乞2之於皇后1。三十年秋九月乙卯朔乙丑皇后遊2行紀伊國1到2熊野岬1取2其處之御綱葉1而還。於是天皇伺2皇后不1v在而娶2八田皇女1納2於宮中1。時皇后到2難波濟1聞v合2八田皇女1大恨之云々
 
(30)○ これ仁徳天皇の皇后の御事としては如何といふ點を示さむとて日本紀の文を節略して集めてあげたるなり。
 
亦曰遠飛鳥宮御宇雄朝嬬稚子宿禰天皇二十三年春正月甲午朔庚子木梨輕皇子爲2太子1容姿佳麗、見者自感。同母妹輕大娘女亦艶妙也、云云。遂竊通乃悒懷少息、廿四年夏六月御羮〔右○〕汁凝〔右○〕以作v氷。天皇異v之卜2其所1v由。卜者曰有2内亂1、盖親親相姦乎云云。仍移2大娘皇女於伊與1者。
 
○ これは允恭天皇時代の事としては如何といふ點を日本紀を節略して集めてあげたるなり。このうち流布本は「羮」を「美」に誤り、「凝」を「疑」に誤れり。「者」は「トイヘリ」とよむ。
 
今案二代二時不v見2此歌1也。
 
○ これ注者の斷案なるが、攷證に説きて曰はく、「二代は仁徳天皇と允恭天皇との二御代をいふ。二時は仁徳天皇の八田皇女をめしたまへるを皇后のうらみ給ひし事と、輕皇子の輕大娘皇女に通じし事とをいふ。不v見2此歌1とはまへに檢2日本紀1云々とある文をうけてかけるにて、右二代の二時に此|君《キミカ》之|行《ユキ》云々の歌書紀に見えずといへる也」と。即ち、かくて最後の斷案を得べからぬ由をいへるなり。
○ 以上二首共に後人の書入なりと考へらるるが、それにつけても、此歌は卷頭の歌に對して(31)の異説にしてこれの上なるは第三の歌に對しての異説なり。かく異説の歌の位置が、本文の歌の位置と前後せるは奇怪に見ゆることなり。按ずるにこは蓋し、もと裏書にせしものなるべきを後に表に移して書き添へしものなるべきが、その卷のままに書きつづけしが故にかく前後するに至りしものなるべし。
 
近江大津宮御宇天皇代 天命開別天皇
 
○ この事第一卷にいへるにおなじ。
 
天皇賜2鏡王女1御歌一首
 
○天皇 いふまでもなく天智天皇なり。
○鏡王女 これは「鏡女王」とかくべきを誤れるなりと諸家いひ考には本文を改めたり、然るにこの女王の御名この下になほ五ケ所あるもみな「王女」とあり、なほ卷四と卷八とに各一處あるも亦「王女」とあり。而してそれらの卷卷の目録も亦みな「王女」とあり。かくて、いづれの古寫本にても一處も「女王」とかける本をみざるのみならず、古今六帖に引けるにも「鏡王女」とあり。さればこれを「女王」と改むるはなかなかにさかしらといふべし。思ふに原本もとより「王女」とありしにて後人の書き誤れるにあらじ。さてこの字面は他の例と異にして一種かはりて、見ゆれど、「皇女」とかけるに對すれば、「王女」とある方かへりて異樣にあらずと見ゆ。恐らくは當時由(32)ありてこの「女王」の名にのみかかる字面を用ゐられしが、そのまま所謂固有名詞の姿として後までも傳はりしならむ。然らば、これを如何によむべきかといふに、これは上述の如く特別の字面なれど、意は「女王」と同しかるべければ、なほ「ヒメミコ」又は「オホキミ」とよむべきなるべし。さてこの「王女」は如何なる方ぞといふに、下の歌に「内大臣藤原卿娉鏡王女」とあれば、その内室となられし方なること知られたり。興福寺縁起を見るに「至2於天命開別天皇即位二年歳次己已冬十月1内大臣枕席不v安嫡室鏡女王請曰云々」とあれば、ここの鏡王女即ち興福寺縁起の鏡女王なること知られたり。按ずるに天武天皇紀十二年「秋七月丙戌朔己丑天皇幸2鏡姫王之家1訊v病庚寅鏡姫王薨」となり。諸陵式に「押坂墓鏡女王在大和國城上押坂陵域内東南無守戸」とあり。その後々まで重んぜられしを見るべし。さてこの歌はもとより天智天皇の御代の事なりとす。
○御歌一首 これは卷一の例によらば、「御製歌」とあるべきなり。恐らくは「製」字を脱したるならむ。訓み方は「オホミウタ」といふこと論なし。
 
91 妹之家毛《イモガイヘモ》、繼而見麻思乎《ツギテミマシヲ》。山跡有《ヤマトナル》、大島嶺爾《オホシマノネニ》、家母有猿尾《イヘモアラマシヲ》。【一云妹當繼而毛見武爾。一云家居麻之乎。】
 
○妹之家毛 「イモガイヘモ」とよむ。妹が家は即ち鏡王女の家なり。上に引ける如く、この王女病篤き時天武天皇の臨幸ありし由なれば、大和にその家ありしこと疑ふべからず。但し、天智天皇の御宇には如何にといふ論もいづべきが、なほ大和なりしならむことは「大島嶺」といはれたるにて知らる。下の「モ」は「ヲモ」の意の場合の「も」なり。「イモガイヘ」といへる例は卷十七に「伊(33)毛我伊弊爾《イモガイヘニ》」(三九五二)とあり。
○繼而見麻思乎 「ツギテミマシヲ」とよむ。「繼而」を「タエズ」と訓める古寫本もあれど、從ふべからず。卷四に「吾妹子乎次相見六事計爲與《ワギモコヲツギテアヒミムコトハカリセヨ》」(七五六)卷五に「用流能伊昧仁越都伎提美延許曾《ヨルノイメニヲツギテミエコソ》」(八〇七)卷二十に「安吉佐禮婆《アキサレバ》、奇里多知和多流安麻能河波伊之奈彌於可婆都藝弖見牟可母《キリタチワタルアマノガハイシナミオカバツギテミムカモ》」(四三一〇)といへる如く「ツギテミル」とは斷えず見る意なり。「マシ」は假想する意をあらはし、「ヲ」は「ものを」の意にて強く感動の意をあらはすものにしてこゝは終止に用ゐ指定する意あり。妹が家をも絶えず常に見むものとなり。以上一段落。
○山跡有 「ヤマトナル」とよむ。「山跡」の事は卷一の首にいへり。「有」を「ナル」とよむは「ニアル」の意にとりて約めよめるなり。さてここに「ヤマトナル」とあるによりて大和以外にてよまれしことを思ふべし。
○大島嶺爾 舊訓「オホシマミネニ」とよめるを童蒙抄に「オホシマノネニ」とよみ略解これに從へり。按ずるに「ミネ」といふは「ネ」といふ語を單獨に用ゐる時に接頭辭「ミ」を加へたるものなるが、之を其の名稱を示す語の下に加へて「某ミネ」といふことは古なかりしものと思はる。されど「オホシマネニ」といふ時は音足らざるのみならず、「シマネ」といふ語に混ずべし。さればなほ「オホシマノネニ」とよむ方によるべし。この山の存する處詳に知り難し。然るに、日本後紀大同三年九月の條に、「戊戌幸2神泉苑1有v勅令3從五位下平群朝臣賀是麿作2和歌1曰|伊賀爾布久賀是爾阿禮婆可於保志萬乃乎波奈能須惠乎布岐牟須悲太留《イカニフクカゼニアレバカオホシマノヲバナノスヱヲフキムスビタル》云々」と見ゆ。この平群氏は大和國平群郡(34)平群郷を本居とせる氏族なれば、ここに「於保志萬」とあるもその本居の地にある地名なるべきこと想像するを得べし。されどその地は今の何處に當るかを詳にせず。
○家母有猿尾 「イヘモアラマシヲ」とよむ。「猿」字を「マシ」の假名に用ゐたるは蓋し古語に「猿」を「マシ」といへるが故ならむ。普通の説には梵語に猿を「マシラ」といへるによりたりとせり。翻譯名義集には猿を「麻斯※[口+託の旁]《マシタ》」とあれど、古くより本邦に傳はれる梵語雜名によれば猿は「麼迦羅」玄應の音義も「麻迦※[口+託の旁]」にして「ましら」にはあらず。色葉字類抄には猿を「マシ」とのみいへり。されば、「ましら」の「ら」は助辭にすぎざるものなりとす。
○一云妹之當繼而毛見武爾 これ一書の傳にはこの上句を「イモガアタリツギテモミムニ」とある由をいへるなり。妹が家のあたりを斷えず見むと思ふにといふ意なり。
○一云家居麻之乎 これも一書の傳に、結句を「イヘヲラマシヲ」とある由をいへるなり。「家居る」といふ語は卷十「山近家哉可居《ヤマチカケイヘヤヲルベキ》」(二一四六)卷十二に「里近家哉應居《サトチカクイヘヤヲルベキ》(二八七六)卷十九に「多爾知可久伊敝波乎禮騰母《タニチカクイヘハヲレドモ》」(四二〇九)などありて、家居してあるをいふ古風の語遣なり。さてこの「一云」の二あるは同じ上二句と下一句とをかへたる一首の歌なるを分ちていへるものなるべし。然らばその歌は
 イモガアタリツギテモミムニ、ヤマトナルオホシマノネニイヘヲラマシヲ
といへるものなるべし
○一首の意 天皇は近江に都してまします故に大和なる鏡王女が家を不斷に見たまふこと難(35)し。大和國なる大島の嶺にわが女王の家のあるならば、近江よりその家を常に見るを得むものをとなり。從來この歌を解する人いづれも「大島嶺に家もあれかし、さらば、其處にわれ自ら家居して妹が家を繼ぎて見むものを」の意として殆ど異説なきなり。されど、この歌の結構を見るに、二段落よりなりて上の「妹之家毛繼而見麻思乎」と下の「山跡有大島嶺爾家母有猿尾」とは意を少しくかへたれど、畢竟同意の繰返なることは明かなり。これを繰返と見ずしては上下の打合都合せず。然るに諸家これに心づかで上は妹が家をいひ、下は我家をいひてうちあひてあるものと釋せり。かくの如く釋する時は歌の意通らぬに心づかぬにや。從來の諸家ただ木村正辭翁を除く外之を疑へるものなきは何ぞや。若亦舊來の説の如き意とせば、わざわざ大島嶺に家居する如きことよりもその隣などに住まむ方よかるべきにあらずや。なほ木村翁が美夫君志に「一首の意は二の句と結句とのうち合よろしからぬやうに聞ゆれど、云云」といはれたるは、されど、なほ未だし。すべてかく二段落三段落なる歌にて各段落を同樣の語にて結べるは同じ意をば繰返したるものなること古今の例なるのみならず、集中にも例多し。現にこの卷の藤原内大臣の歌などいと手近き例なり。かく見ずば、この歌眞に解し得たりとすべからぬなり。この意を以て解すれば、大和なる大島の嶺の上にわが妹子が家もあらましを然らば其の家をわれはたえず見むものとなり。高嶺の上にある家ならば、遠くても望みうべきが故にかくのたまへるなり。さてその大島嶺といふはいづれにありとしても實際上近江の大津宮よりは見ゆべきにあらねど、感情の高まりたるあまりにかくのたまへるものなる(36)べきが、一には又その大島嶺といふは鏡王女の家のあたりにて名高く、その名よりいへば、いかにも高大に聞ゆるによりてかくうたひたまひしならむ。次に一云の方の歌は一段落にして繰返しはあらねど、意は大略異なることなし。
 さて玉勝間にこの天皇と王女と戀愛の關係ありてこの歌もよまれたりとやうにいひてより諸家皆これに從へり。然れどもその説全く誤なり。宣長はこの王女の内大臣の嫡室たることを知らざりしと見え、天武紀にその病をとひたまひし事又薨去を記せるは天智天皇の妃なりしが故なりとせり。然れども、これはしかにはあらずして大化改新の第一の元老鎌足公の嫡妻たりしが故なること著しきものなるをや。事實をよくもたゞさずして臆斷以て古人を誣ふるは罪深きわざなり。按ずるにこの御製は前後の例を以て推すに御即位後の歌なること明かなれは、諸家のいへる如き戀愛の關係にあらず。まして雙方とも若年にもましまさぬによりて思ふに、これはかの内大臣藤原卿の薨後鏡女王が大和の故郷に歸りたまひしに、大津宮より贈りたまひし歌なるべし。然見るときはその心いとよくわかるやうに思はれずや。即ち君は故郷に歸り給ひぬれば、また相見むことは容易ならじ。せめて君の家が高山の嶺にだにありせば、ここより朝夕それを望みて君の安否を知らむとなり。
 
鏡王女奉和御〔左○〕歌一首 鏡王女又曰額田姫王也
 
○和御歌 「御」字目録になきをよしとす。「コタヘマツレルウタ」とよむ。上の御製に答へ奉れる(37)歌なり。
○鏡王女又曰額田姫也 古寫本無きあり。(大矢本、金澤本)有るものも多くは小字にてかけり。これは蓋し後人の追記とおぼえたり。恐らくは天武紀に「天皇初娶2鏡王額田姫王1生2十市皇女1とあるによりてかく記せるものならむが、卷四に額田王の歌に鏡王女の和せられしことを載せたれば、まさしく別人にてましますなり。但この二女王は姉妹にてましますべきなり。さればこの注は誤と認むべきものなりとす。
 
92 秋山之《アキヤマノ》、樹下隱《コノシタカクリ》、逝〔左○〕水乃《ユクミヅノ》、吾許曾益目《ワレコソマサメ》、御念從者《ミオモヒヨリハ》。
 
○秋山之 「アキヤマノ」とよむ。元暦本に「アキノヤマノ」とよめれど、從ひがたし。
○樹下隱 舊訓「コノシタカクレ」よみたるを考に「コノシタカクリ」と改めたり。「カクレ」は古語四段に活用せしによりて考の説をよしとす。古事記下卷顯宗段に「美夜萬賀久理弖《ミヤマガクリテ》」日本紀推古卷に「和俄於朋耆彌能※[言+可]句理摩須《ワガオホキミノカクリマス》」この集卷五に「許奴禮我久利※[氏/一]《コヌレガクリテ》」(八二七)卷十五に「夜蘇之麻我久里《ヤソシマガクリ》」(三六一三)又同卷に「久毛爲可久里奴《クモヰカクリヌ》」(三六二七)などの例にて知るべし。「コノシタ」といふ語の假名書の例は本集又紀記にも見ねど、本集卷八に「足引乃許乃間立八十一霍公鳥《アシヒキノコノマタチククホトトギス》」(一四九五)などにて推すべし。古今集以後には甚だ多く見ゆ。
○逝水乃 「逝」字流布本に「遊」に作る。されど、誤なること著しく古寫本の多くは正しく「逝」字を用ゐたり。「ユクミヅ」といふ語は集中に例多し。假名書の例は、卷十七に「可多加比能可波能瀬伎(38)欲久由久美豆能《カタカヒノカハノセキヨクユクミヅノ》」(四〇〇二)「由久美豆乃於等母佐夜氣久《ヨクユクミヅノオトモサヤケク》」(四〇〇三)などあり。流るる水をいふなり。以上三句は「ます」といはむ料なり。而してこれは一方には秋の山川は木葉のちりつもりてうづもれてありて、そが下ゆく水もうへには見えぬさまなるを婦人の身の萬事つつましく心に思ふことをうちつけに外にはあらはさぬにたとへていひ、一方には夏の水涸れたる川々も秋は水溢るるものなれば、下の「まさる」といふことの序とせるなり。
○吾許曾益目 舊本「ワレコソマサメ」とよみたるを古義には「アコマサラメ」とよめり。されどなほ古のままにてよかるべし。何となれば、これはわが思ひは君の御思ひよりはまさらむといふ意にはあらずして御思よりはわが思の方が、多からむといふ意なればなり。從來の諸家「ます」といふ語と「まさる」といふ語との區別を立てざりしに似たり。「ます」は量の加はるをいふ語、「まさる」は比較していふ語なり。「ます」はその君の御思よりも一層多く我は思ふといひて、わが心の作用をいひあらはせるにて君が思よりはわが思はまさりてありと比較していふ語にはあらず。而してここに「マス」といふ語を用ゐずば上の「秋山之木下隱りゆく水の」といふ序には打あはぬにあらずや。水の「ます」といふことはありうべし。
○御念從者 舊訓「ミオモヒヨリハ」とよめり。古寫本には「オモホスヨリハ」「ミオモフヨリハ」などいひ、古義に「オモホサムヨハ」とよみたれど、舊訓の方まされり。
○一首の意 われは秋山の木葉ちりつもれる下を流るる水の如く、下に思ひ奉るなるが、その思ひは、上べからは見えざる樣なれども、その思ひこそは秋の川水の増すが如く、君が御念よりは(39)量多くあらめと思ひ奉るとなり。
 
内大臣藤原卿〔左○〕娉2鏡王女1時鏡王女贈2内大臣1歌
 
○内大臣藤原卿 「卿」字流布本「郷」とするは誤なること著し。古寫本の多くは正しく「卿」とかけり。「卿」は高位の人の尊稱にして中古以來は三位以上に用ゐたるが、當時は然嚴重なる規定はなかりしならむが「大夫」に對して、その上位の人をさすに用ゐたりと見ゆ。委しくは卷三に論ずべし。訓して「オホマヘツギミ」とよむべきか。日本紀欽明卷に「蘇我卿」とあるもその例なり。ここはいふまでもなく大織冠藤原鎌足をさす。
○娉鏡王女時 「娉」は説文に「娉問也」と見え、玉篇に「娉娶也」とあり。禮記に「娉則爲v妻、走則爲v妾」とあり。「聘」は禮を備へて迎ふるをいふ。而して「聘」と「娉」と義通じ、妻とせむとて訪問するをいふ。この故に考に「ツマドヒ」とよめるを當れりとす。その語例は古事記雄略段に「娉物」をば「都麻杼比之物《ツマドヒノモノ」》といひ、卷三に「妻問爲家武《ツマドヒシケム》」(四三一)などかき、又卷十八に「氣奈我伎古良何都麻度比能欲曾《ケナガキコラガツマドヒノヨゾ》(四一二七)と假名書にせるあり。鏡王女の事は上にいへり。
○鏡王女贈2内大臣1歌 これ即ち鏡王女の歌にて鎌足の娉問に對して贈れるなり。然るを考に「贈内大臣」の四字を削りて「鏡女王作歌」と改め、守部など之に從へるはさかしらなり。
 
93 玉匣《タマクシゲ》、覆乎安美《オホフヲヤスミ》、開而行者《アケテユカバ》、君名者雖有《キミガナハアレド》、吾名之惜毛《ワガナシヲシモ》。
 
○玉匣 「タマクシグ」とよむ。「匣」は説文に「※[櫃の旁]也」と見え、廣韻に「箱匣也」とあれば「はこ」の類をいふ。(40)これを「クシゲ」といふ語にあてたるは卷四「五〇九」に「匣爾乘有鏡成《クシゲニノレルカガミナス》云々」又卷九「一七七七」に「匣有黄楊之小梳毛《ケシゲナルツゲノヲグシモ》云々」などあるにて、見るべし。古「笥《ケ》」といひしはすべて物を容るゝ箱の如き器の總稱にして「クシゲ」は櫛笥の義なるが、これは櫛に限らず、婦人の嚴粧《ケシヤウ》の具を納るゝ一種の箱の名なり。日本紀崇神卷には「櫛笥」の字を用ゐたるが、和名鈔には「嚴器」といふ字に對して「俗用2唐櫛匣1」といひ、その和名を「賀良玖師介」と注せり。さて「タマクシゲ」は玉もて飾れる匣の義なるべきが、又單に玉を美稱といひてもよからむ。さてこの「玉くしげ」といふ語をば「ふた」といふ語にかけたるあり。卷十七「三九五五」に「多末久之氣《タマクシゲ》、敷多我美夜麻爾月加多夫伎奴《フタガミヤマニツキカタブキヌ》」「三九八五」に「多麻久之氣布多我美山者《タマクシゲフタガミヤマハ》」(「三九八七」、「三九九一」なるも略同じ。)「み」にかけたるあり。次の歌の「玉匣將見圓山乃《タマクシゲミモロノヤマノ》」(九四)又卷七「一二四〇」に「珠匣見諸戸山《タマクシゲミモロトヤマ》とある、その例なり。又「あく」といふ語にかけたるあり。卷九「一六九三」に「玉匣開卷惜吝夜矣《タマクシゲアケマクヲシキアタラヨヲ》」卷十二「二八八四」に「玉匣將開明日《タマクシゲアケナムアスヲ》」卷十五「三七二六」に「多麻久之氣安氣弖乎知欲利《タマクシゲアケテヲチヨリ》」卷十七「四〇三八」に「多麻久之氣伊都之可安気牟《タマクシゲイツシカアケム》卷四「五九一」に「玉匣開阿氣津跡夢西所見《タマクシゲヒラキアケツトイメニシミユル》」卷九「一七四〇」に「王篋小披爾《タマクシゲスコシヒラクニ》」卷十一「二六七八」に「玉匣開而左宿吾其悔寸《タマクシグヒラキテサネシワレゾクヤシキ》」などあるこれなり。これらによりて考ふれば、當時玉匣といふものには蓋と實とを備へ、その蓋を開きあけて物を出し入れしたるものなること推して知るべし。かくて考ふれば、その蓋は又常は覆ひてあるものなれば次の覆ふを安みと連りたるなり。諸家多くはこれを「おほふ」の枕詞とせれど、然にはあらじ。
○覆乎安美 舊來「オホフヲヤスミ」とよみ來れり。然るに、代匠記には「オホヒヲヤスミ」とよみ、宣(41)長は「覆」字は誤れるならむといひ、古義は「安」の上に「不」字ありしが脱せるものとし、「カヘルヲイナミ」とよむべしといへり。然れどもいづれの本にも誤寫と見ゆる證なければ、字はこのままにてよむべし。玉匣は上にいへる如く、蓋のある器なれば、その蓋を開け又覆ふことあるべきはいふまでもなし。既に「開きあく」といふ方の語を用ゐてあれば、その「覆ふ」といふ方の語を用ゐることあるも當然の事といふべし。「蓋をあく」といふ方のみはゆるさるれど「蓋を覆ふ」といふ語を用ゐるはゆるされずといふ理由は成立つまじ。然らば、その開闔の安きをいへるに覆ふこと安きはやがて明くることも安き由にて下の「アク」(「ヲ安ミ」は「ガ安キニヨリテ」の意なり。)といふ語につづけ、上二句を「アケテ」の序としたるなり。かくて「オホヒヲ」といふよりは「オホフヲ」といふ方活動的に聞ゆるによりて古來のよみ方をよしとす。攷證に「名のたたぬやうにおほふ」意なりといへるは入ほがなり。
○開而行者 舊訓「アケテユカバ」とよみ、元暦本には「アケテイナバ」とよめり。略解はこれに從へり。いづれにてもあるべしとはいひながら、「行」字は「イヌ」とはよまぬ例なれば、舊訓のままに「ユカバ」とよむを穩かなりとすべし。夜更くれども、かへらずして、夜明けて後行かば、といふなり。
○君名者雖有吾名之惜毛 「毛」は元暦本金澤本等「裳」とせり。これの訓み方は古來「キミガナハアレドワガナシヲシモ」とよめり。然るに、古今六帖にこの歌を載せ二所に重出せるが、その二首の詞に多少の差あれどいづれも下句は「我名はありとも君が名をしも」とあり。これによらば、「君」と「吾」とは互に入れかはれりとすべく、後世の語にていはば、六帖の如くなる方意よく通るや(42)うなり。この故に、ここのを誤なりとする説あり。代匠記はこの説の代表者と見るべく、略解など之をうけていづれも「ワガナハアレド、キミガナシヲシモ」とよむべしとせり。然れども、古義は之に反對して、「君は男にてませば、御名の立たむもさることにはあれど、女の身にしては人に云ひさわがれむは羞しくわびしきわざぞと云り」と釋せり。これ人の眞情を露骨にいひたるものとみて、意かへりてとほれり。
○一首の意 以上古義の説によりて按ずるに、鎌足の懸想していひよれるに對して先づ一旦之を拒絶せられしなり。かくて何卒君は今の内に御引取下されよ。夜明けてかへらるる樣の事もあらば、種々の世評も出づべし。それも君は男にてませば、それにてもよからむかはしらねど、私がこまりますといふ程の心もちなりと知るべし。但しこれは新考にいへる如く女王の未だ鎌足になびきたまはぬ時の御歌ぞと知られたり。
 
内大臣藤原卿報贈2鏡王女1歌一首
 
○内大臣藤原卿 「卿」は上にいへると同じく流布本「郷」に誤れり。
○報贈鏡王女歌 童蒙抄に「報贈」を「コタヘオクル」と訓ぜり。考にはこれを和歌の誤とせるは武斷なり。これは前の歌に答へて卿の意を述べたり。
 
94 玉匣《タマクシゲ》、將見圓山乃《ミモロノヤマノ》、狹名葛《サナカヅラ》、佐不寐者遂爾《サネズハツヒニ》、有勝麻之自〔左○〕《アリカツマシジ》。或本歌云玉匣三室戸山乃。
 
(43)○玉匣 上の歌に「玉匣」といへるに答へて、之を用ゐたるなるが、ここには「ミモロ」の枕詞とせり。上にいへる如く「玉くしげ」は實と蓋とより成ればなり。
○將見圓山乃 舊訓「ミムマトヤマノ」とよめり。童蒙抄にこれを「ミムロノヤマノ」とよみて後諸家之に從へり。冠辭考には「將見」は「ミム」にして「圓」は「マロ」とよむを「マ」を省きて「ロ」の假名にせるなりといへり。誠にかくよむべきことと考へらるれど、その「圓」を「ロ」といふにつきての説は未だし。玉の小琴は上の「ム」と「マ」と通ふ音なるが故におのづから「みむまろ」とひびくが故に圓字をかけりといへるが、これもいかがなり。按ずるにこの所謂「ミムロ」につきて本集及び古典を通覽するに、本集にては三諸とかけるもの多くして、卷二、三、六、七、九、十九の各卷にあるものいづれもかくかけり。又假名にて「三毛侶」とかけるあり。(卷七「一〇九三」)。この外「三室」とかけるもの卷七に一所、卷十一に一所あれど、卷十−なるは一本にありとて引ける方には「三諸」とあり。(これは本行に「三室山石穂〔右○〕菅」とあるに對して一本は「三諸山之石小〔右○〕菅」とある由をいへなるが、その差の主點は「穂〔右○〕菅」と「小〔右○〕菅」との差に存すと考へられ、三諸も三室も訓は同じきなるべし。)されば、これらもなほ「ミモロ」とよむものなるべし。さて又古事記雄略天皇の御製なるにも「美母呂」とかきてあり。されば、これらの例によりて「ミムロ」とよまずして「ミモロ」とよむべきものと考へらる。かくて考ふるに「將見圓」は字のままによめば、「ミムマロ」といふべきに、これをここに用ゐたるは「ミモロ」の「モ」は「ム」にもあらず「マ」にもあらずいづれにもつかぬ中間音の「モ」なりしが故にわざとかかる書きざまをなしたりしなるべし、「ア」韻と「ウ」韻との中間の韻はまさしく「オ」韻な(44)れば、この事動くまじきなり。さて「ミモロ」の名義は「御室」にて「室」をばかかる際に音を轉ぜしか、若くは本は「ミムロ」といひしが、この歌の頃には音の轉ぜしならむ。その「御室」とは神をいつく室の義にしてかの「ヒモロギ」といふものも實は「ミモロギ」にして音の轉ぜしものならむ。日本紀天武卷に「設2齋於宮中御窟院1」とあるは神佛の違はあれど、その「御窟」も「ミモロ」なるべし。この故に「ミモロノヤマ」といへるはいづこにても神を祭れる山をさすをうる汎き語にして、また實際は一の山に限らざりしやうに見ゆ。されど、單に三諸の山といへるは、即ち大三輪の神のまします三輪山をさせること本集及び古典に通ずる例なり。崇神紀に「御諸山」といへる即ちその一例なり。されば、ここも三輪山をさせりと見るべし。
○狹名葛 舊訓「サネカツラ」とよめり。その物は今も「サネカヅラ」といふものに相違なけれど、文字のまま「サナカツラ」とよむべきこと既に代匠記にいひたるに從ふべきなり。これ古言なり。古事記應神天皇條に「舂2佐那【此二字以音】葛之根1取2其汁滑1而塗2其船中之※[竹/青]椅1云々」とあるその一證なり。本集にはこゝの外、卷十「二二九七」に「足引之山佐奈葛《アシビキノヤマサナカツラ》」ともあり。又本卷「二〇七」に「狹根葛後毛將相等《サネカヅラノチモアハムト》」とあるが如く「サネカツラ」ともいへるあり。されど、こはもとより字のままによむべきなり。その「サネカヅラ」とは漢名南五味子といふ木質蔓性の植物にして莖より粘液をとるべく、その粘液をば、古、頭髪に塗る料とせしが故に通俗の名をば、美男葛《ビナンカツラ》といひたり。「五味」といふ植物の名に本草和名に和名「佐禰加都良」と注し和名抄に和名「佐禰加豆良」と注せるもの即ちこれなり。かくて以上三句は次の「サネズハ」といふべき料の序たるなり。
(45)○佐不寢者遂爾 「サネズハツヒニ」とよむ。「サ」は「眞」の意、「サヨナカ」が眞夜中の意なるが如し。されば「眞寢《サヌ》」とは眞に寢ぬといふ義にて「サネズハ」とは寢に共に寢ずはといへるなり。この語の例は古事記中卷倭建命の御歌に「佐泥牟登波阿禮波意母閉杼《サネムトハアレハオモヘド》」又允恭卷の歌に「佐泥斯佐泥弖波《サネシサネテバ》」とあり。本集には卷五「八〇四」に「佐禰斯欲能伊久陀母阿羅禰婆《サネシヨノイクダモアラネバ》」など例少からず。「遂に」は終りの意にして、下の「アリカツマシジ」を修飾せり。或はこれを「サネズハ」の上に廻して心得べしといふ説あれど、さにはあらじ。
○有勝麻之自 舊本「自」を目に作り、訓は「アリカテマシモ」とよめり。然るに元暦本、類聚古集には「目」を「自」につくりて、「アリカテマシヲ」とよめり。この「目」又は「自」を「ヲ」とよまむは由なきことなり。されど、「自」字をかけるは大に注意すべし。按ずるに、こは橋本進吉氏が既にいへる如くその「自」字を正しとして、「アリカツマシジ」とよむべきなり。「ましじ」といふ複語尾は後に「まじ」となる複語尾として、現實の打消の推量をあらはせる語なり。卷十四「三三五四」に「由吉可都麻思自《ユキカツマシジ》」とある、その傍例なり。又卷二十「四四八二」なる「和須良由麻之自《ワスラユマシジ》」の「自」も流布本は「目」に作れど、元暦本には「自」とあれば、これも「マシジ」といふべきなり。さて續紀の宣命には第二十六詔第五十八詔に「ましじ」といふ複語尾のありし確證あり。又日本紀齊明卷の歌なる「伊麻紀能禹知播倭須羅庚麻旨珥《イマキノウチハワスラユマシジ》」との「麻旨珥」も古來「マジニ」とよみ來れど、「マシジ」ともよまるべし。かくして古典にまさしく「まじき」とかけるものは續紀第四十五詔の「得麻之伎」日本紀仁徳紀の「豫屡麻志枳《ヨルマシキ》」との二なれど、續紀のは一本に、「麻之宇岐」とあり。日本紀の前田家本に「麻志士枳」とあれば、これも正し(46)くは「ましじき」なりしなるべし。されば、この歌の頃は或は「まじ」といふ形は未だ生ぜざりしなるべく、奈良朝時代を通じて殆どすべて「ましじ」を用ゐたりしが如し。さてその上の「かつ」は下二段活用の動詞「勝」にして字の訓をとれるものなるべけれど、又その意をもちて用ゐしならむ「勝」は堪ふる意の字なるが、ここも敢へてたふる意なるべし。その語例は日本紀崇神卷に「多誤辭珥固佐婆固辭介※[氏/一]務介茂《タゴシニコサバコシカテムカモ》」などこれなり。從來この「かつ」「かて」を難の義とせるはあやまれるなり。さて「アリカツマシジ」とよむべきものはなほ他に少からず、卷四「七二三」に「有勝益士《アリカツマシジ》」卷十一「二七〇二」に「有勝申目《アリカツマシジ》」(自の誤として)などあるみなかくよみかく解すべき語なり。
○或本歌云々 これは第二句を「三室戸山乃」とせる本ある由をいへるなり。三室戸山といふは山城國宇治にあり。その山をいへるか否か、詳ならず。諸家に説々あれど、從ふべきを見ず。
○一首の意 我は君とさねずはこの世に遂に生きて有りうることかたしといふ意なり。
 
内大臣藤原卿〔左○〕|娶《エタル》2采女安見兒1時作歌一首
 
○内大臣藤原卿 「卿」を流布本「郷」に誤れること上の例におなじ。古寫本の多くに「卿」につくれるをよしとす。
○娶采女安見兒時 采女《サイヂヨ》の號は後漢に興れり。後漢書皇后紀緒論に「六宮稱號唯皇后貴人」といひ、「又置2美人宮人釆女三等1並無2爵秩1歳時賞賜充給而已」と見え、又後漢書※[登+おおざと]皇后紀に「入2掖庭1爲2釆女1」とある注に「采(ハ)擇也、以因2采擇1而立v名」と見えたり。この釆女の熟字を本朝にて借用して「うね(47)め」にあてたるなり。その釆女は日本紀孝徳天皇卷に「凡采女者貢2郡少領以上姉妹及子女形容端正者1」とあり。令制略之に同じ。これは古諸國より召し上げられて宮中に奉仕せし女にして、その職は令制にては水司に六人、膳司に六十人屬して、天皇の御膳に奉仕するを職とし釆女司ありて、その身分を管理せり。後世には神今食、新甞にのみ奉仕する職となれり。この采女は神聖なる職として、之を犯すものは重き罪に處せられたることは日本紀古事記に例少からず。鎌足公が得たりといふ釆女は私に得たるものならば、前の采女なりしなるべく、或は公に得たるものならば、勅許ありて前采女として賜はりしなるべし。いづれにしても當時釆女を得ることは容易の事にはあらざりしなり。「安見兒」はその釆女の名なり。その人の傳知られず。「娶」は古來「めとる」とよめる字にして、考にはかくよめり。さるを古義には歌の詞によりて「エタル」とよむべしといへり。歌の條にもいふ如く、古はかかる場合に「ウ」といふ語を用ゐたれば、古義のよみ方をよしとす。
○作歌 檜嬬手はその上に「戯」字ありしを脱せりとせり。されどこれは強言なり。このまゝにてよきなり。
 
95 吾者毛也《アレハモヤ》、安見兒得有《ヤスミコエタリ》。皆人乃《ミナヒトノ》、得難爾爲云《エガテニストフ》、安見兒衣多利《ヤスミコエタリ》。
 
○吾者毛也 舊來「ワレハモヤ」とよめり。古義には「アハモヤ」とよむべしとあれど、當時「ワレ」とよまむこと不都合なるにあらず、されど「アレ」といふ方古きに似たり。されば音數の五音なるに(48)とりて、舊訓を少しく改めて「アレハモヤ」とよむべし。「毛也」は卷一の首歌「コモヨ」の「モヨ」に似たる語にし「ヤ」は嘆息の間投助詞なり。「モヤ」とつづける例は日本紀皇極卷に「伊弊母始羅孺母也《イヘモシラズモヤ》」とあり。
○安見兒得有 「得有」は下句の「衣多利」に準じて「エタリ」とよむべし。古、女を娶りうることをただ「得《ウ》」といへりしなり。その證は古事記應神段に「故八十神雖v欲v得2是伊豆志袁登賣1皆不v得v婚」といひ、又「汝得2此孃子1乎答曰易v得也」といひ、又「吾者得2伊豆志袁登賣1」といへる如きなり。なほこの語は平安朝の物語にも多し。竹取、伊勢、大和等の卷々を見るべし。さてこれにて一段落なり。
○皆人乃 古來「ミナヒトノ」とよめり。古義にては「人皆乃」の誤として「ヒトミナノ」と改めたり。されど、かくかける本は一もなきを以て誤とする説はうけられず。加之「ミナヒト」といへる語は萬葉頃の語にあらずとはいはれず。卷四「六〇七」に「皆人乎宿與殿金者打禮杼《ミナヒトヲネヨトノカネハウツナレド》」卷七「一一三一」に「皆人之戀三吉野《ミナヒトノコフルミヨシヌ》」卷八「一四八二」に「皆人之待師宇能花《ミナヒトノマチシウノハナ》」などの例あればなり。「ミナヒト」は人に主點をおき「人皆」は「皆」に主點をおけば語の意も、ややかはれり。されば、集中別に「ヒトミナ」といへる例存するものありとも、何の妨にもならぬことなり。この故に古來の訓のままにてよしとす。
○得難爾爲云 舊訓「エガテニストイフ」とよめるを童蒙抄に「スチフ」と改め、考に「ストフ」と改めたり。先「難」は難き意にて「ガテ」とよむなり。その「ガテ」は難の意の「カヌ」と意通へる語なるが、卷二十「四四〇八」に「和可禮加弖爾等比伎等騰米《ワカレガテニトヒキトドメ》」卷十四「三三八八」に「筑波禰乃禰呂爾可須美爲須宜可(49)提爾《ツクハネノネロニカスミヰスギガテニ》」など、假名書の例あり。「爲」は廣く動作作用をいふ動詞なれば、ここは「思ふ」といふ程の意とすべし。「トイフ」といふも「チフ」といふも「トフ」といふも意は一なり。「トイフ」を「トフ」といへる例は卷一「三五」の「木路爾有云《キヂニアリトフ》」の條にあげたり。これによりてここもしかよむべし。
○一首の意 この歌二段落なり。第一段はわれ安見兒を得たりとうたひ、第二段は世の人の容易に得難しとせる安見兒を得たりといひて、得意の状をうたへり。元來采女といふものは前にもいへる如く殊に嚴しき制ありて之に姦くるは重き罪となり之を得るが如きは常人の及びもなきことなりしなり。それを得たれば、得意になりてこの歌ありしものと見ゆ。
 
久米禅師|娉《ツマトヒセル・ヨハヘル》2石川郎女1時歌五首
 
○久米禅師 この人の事詳ならず。久米は氏なることは論なけれど、この頃に「彌陀」「釋迦」などいふ名つけたるものあれば、この禅師も名なりや、はた法師といふ義なりやをも知り難し。三方沙彌などは眞の沙彌なり。靈異記中卷第十一條に「字曰2依網禅師1俗姓依網連故以爲v字」とあるは俗姓をとりてつけたるものなるに照して考ふれば、なほ法師の義なるべし。然りとせば、この歌はその在俗の時の詠なるべし。
○娉石川郎女時 石川郎女も傳詳ならず。郎女は日本紀景行卷に「郎姫此云2異羅菟※[口+羊]1」と見えたるに準じて「イラツメ」とよむべし。「娉」は上の例によりて「ツマドヒセル」ともよむべく、又「ヨバヘル」とよみてもあるべし。
(50)○歌五首 これは久米禅師と石川郎女との贈答せし歌の總數にして禅師のよめるもの三首、郎女のよめるもの二首なり。
 
96 水薦苅《ミススカル》、信濃乃眞弓《シナヌノマユミ》、吾引者《ワガヒカバ》、宇眞人佐備而《ウマビトサビテ》、不欲〔左○〕常將言可聞《イナトトイハムカモ》。 禅師
 
○水薦苅 舊板本の訓「ミクサカル」とよめり。元暦本、金澤本、類聚古集、古葉略類聚抄、神田本。大矢本等に、「ミコモカル」とよめり。これは古本の訓なりしを仙覺がそれをあかずとして「ミクサカル」とよみしが、今傳はる板本の訓の基なり。しかもなほそれをもあかずとして童蒙抄に「ミスズカル」とよみ、冠辭考及び考はそれをうけて、「薦」を「篶」の誤とし、訓は「ミスズカル」とせり。その證として神代紀に「五百箇野篶八十玉籤《ユツヌスズノヤソタマクシ》」とありといへり。されど、本集のいづれの本にも「篶」をかけるものなく、又日本紀にも古來「薦」をかきて「篶」とかける本一もなし。しかして木村正辭翁の説によれば「篶」は古くはなき字にて金の韓道昭といふものの著したる五音篇海といふ書に見えたるをはじめとすといへり。然るときは之を「篶」の誤なりとするは時代をわきまへぬ説といふべきなり。かく「薦」字をを誤にあらずとせば、それを「コモ」とよむが普通なればしかよむべきかといふに、古義にはこれによりて、「ミコモカル」とよみ、その「ミ」は眞の義なりとし、これを信濃の枕詞とするは「シナヌ」は「隱沼《シナヌ》」にて「コモリヌ」の義なりといへり。されど、信濃が隱沼の義なりといふことは古今になきことにして、「コモリヌ」を「シナヌ」といへることも古今かつて人のいひもせず、ききもせぬ事にして、古義一家の私言と思はるれば、從ひ難し。さてこの「薦」字をば日本紀に(51)「五百箇野薦八十玉籤」とかきて「野薦」を「ヌスス」とよませたるにて本邦の古に「薦」を「すす」といふ詞にもあてたりしを知るべし。されば、ここは文字は本のままにして、訓は日本紀を據として「スス」とよむべし。但しこれを濁るは誤にして「スス」と清音によむを正しとす。この「スス」といへるは竹の一種にして所謂山竹といはれ、稈は高さ一丈許、周圍八九分に達す。色緑にして細く強靱にして節低し、枝は上部のみに生じ、一節一枝なり。葉は濶く、大にして、長さ五寸乃至一尺幅八分乃至二寸、一枝に四五枚つく。往々實を結ぶ、その筍は味甘美にして食用に供す。稈は之を割り編みて籠類、行李、箕、帽子、敷物等につくる。この竹は本邦中部より北にわたり、山野に自生し、深山には數里に亘りて生ずといへり。中にも信濃國を以て古今ともにこの竹の最も多き産地とし、遠江駿河甲斐等の山地にも多しといふ。宮域縣にては宮城黒川刈田の各郡を主たる産地とす 余が郷里越中のうち飛騨につづく山地にも多く、初夏の候その筍を膳に上すを常とす。古も之を食せし證は古今著聞集卷十八に鞍馬寺より「すす」を多く得たる由の記事あるにても知るべし。さて「水」を「ミ」と読むことは「ミツ」の語の上の音をとれるものにして「水」を「ミ」の音に用ゐたる例は、卷四「五二四」に「水空往雲爾毛欲成《ミソラユククモニモガモ》」卷三「二七六、一本」に「水河乃二見之自道《ミカハノフタミノミチユ》」などあり。この「ミ」はかの「ミクサカル」といへる場合と同じく、美稱なるべし。さてこの「ミススカル」は枕詞にはあれど、單純の枕詞にはあらずして、まことに信濃にこの「スス」を多く産したりしによりていへること著し。
○信濃乃眞弓 「シナヌノマユミ」とよむ。信濃はいふまでもなく國の名にして、古事記に「科野と(52)かけり。「マユミ」の「マ」は美稱にして「マユミ」はただ弓の事をさせるなり。或は檀《マユミ》の木を以てつくれる弓なりとも考ふべけれど、その木の名の「檀《マユミ》」は弓に作る良材なるによりて得たる名なるが、ここは木の名にあらずして弓をいへること明かなり。古、信濃國より弓を貢れる事は續紀に屡見えたり。文武紀大寶二年三月甲午の條に「信濃國獻2梓弓一千二十張1以充2太宰府1」と見え、又慶雲元年夏四月庚午の條に「以2信濃國獻弓−千四百張1宛2太宰府1」とあるなどを見よ。又延喜神祇式二には「凡甲斐信濃兩國所v進祈年祭料雜弓百八十張【甲斐國槻弓八十張信濃國梓弓百張】」と見ゆ。以上を以て推せば、奈良朝以前にも信濃より「弓」を産せしことを知りうべく、その弓は梓弓なりしなりとも知られたり。ここに至りてこの「マユミ」も檀の材の弓の義にあらざるを見るべし。以上は次の句の「引者」といはむ料の序の詞たるなり。
○吾引者 「ワガヒカバ」とよむ。「引く」は心を引くにて、吾に依り靡くか如何と試みにいひよるなり。ここに「引く」といへるにより、それを導き出さむとて上の二句を序とせるなり。
○宇眞人佐備而 「ウマビトサビテ」とよむ。「ウマビト」といふ語は日本紀神功卷に「宇摩比等破于摩避苔奴知《ウマヒトハウマヒトドチ》又仁徳卷に「宇摩臂苔能多菟屡虚等太※[氏/一]《ウマヒトノタツルコトタテ》」と見え、本集卷五にも「美流爾之良延奴有麻必等能古等《ミルニシラエヌウマヒトノコト》」(八五三)など例多し。これは日本紀に君子、※[手偏+晋]紳、良家などを「ウマビト」とみ、詩經の「君子」をも古訓に「ウマビト」とよみ來れるが、この「ウマヒト」といふ語の構成は、古ほむる詞として用ゐし「うまし」といふ語の語幹より「人」につづけて熟語としたるものにして、專ら貴人即ち身分よき人をさすに用ゐたり。「サビ」は屡々いへる「神サビ」「翁サビ」「乙女サビ」などの「サビ」にして、その(53)さまに振舞ふをいふ爲の接尾辭なり。かくて「ウマビト」といふ動詞をなせるが、その意は貴人のさまに振舞ふこと即ち今の俗語にせば「貴人ぶりて」といふに近し。
○不欲常將言可聞 舊本「不言」に作りて「イナトイハムカモ」とよめり。又古寫本には「イネト」又「イサト」といへる本あれど、「イナト」といへるをよしとす。但「不言」を「イナ」といふは理當らず。これは、古寫本の大多數は「不欲」につくり、又「不知」につくれる本もあり。注釋にては仙覺の注には「不欲」につくり、代匠記は「不許」の誤りとせり。按ずるにここは「不言」とあるは義通ぜず、しかれば、古寫本又仙覺の注に「不欲」とかけるをよしとすべく、「不欲」の文字は「我は欲せず」といひて否むをあらはせれば「イナ」とよむに相應せり。さらば如何にして「不言」と誤りしかといふに、これは恐らくは、その「欲」の字の草體に「〓」「〓」とかける體王羲之の書に見え、「言」の草體には「〓」「〓」の如き形あるによりて之を楷書の體にする時にふとあやまりしならむ。「可聞」は「疑」の「カ」に「モ」の添へるなり。
○ 一首の意 われ君に戀ふる由をいひて君が心を引かむとすれば、君は貴人ぶりて賤しき我の如きものは對《アヒ》手とするに足らじとて否といひ受けがはざらむか。しかも自分の心の有り丈は君に知らせ奉らではあられぬとなり。
○禅師 この歌の作者を注せるなり。小字にかける本をよしとす。これは、その五首の贈答作者を注せずば、分明に讀者に歌の意を知らせかねたるによりて注せること著し。然るを、この五首各端辭ありつらむが、落失せしものといひ、その落失せし後に後人の注せしなりといふはかへりて入ほがなり。ただ大らかに、古よりかくありしなりといふをよしとす。
 
(54)97 三薦苅《ミススカル》、信濃乃眞弓《シナヌノマユミ》、不引爲而《ヒカズシテ》、強〔左○〕作留行事乎《ヲハクルワザヲ》、知跡言莫君二《シルトイハナクニ》。
 
○三薦苅、上の「水薦苅」と一字異なれど、同じく「ミススカル」といふ語なり。
○不引爲而 「ヒカズシテ」とよむ。上の句をうけて、弓を引かずしてといへるなり。
○強作留行事乎 舊訓「シヒサルワサヲ」とよめり。然れども、かくては何の義とも解しかねたる詞なり。ここに於いて代匠記には「強は弦の誤にて作は日本紀に矢作部と書てやはきへとよみたればつるはくるとよむべきか」といひたるより、後「強」は「弦」の誤なるべしといふこと一般に認められたるなり。今これ以外によき説を知らねば、確なる證の出づるまでこの説に從ふべし。さてかく「弦」の誤りとする説は一致すれど、「弦作留」のよみ方はなほ一定せず。童蒙抄には「ヲツクル」とよみ、考には「ヲハグル」とよませたり。考の説明に曰はく、「矢作《ヤハグ》てふは造ることなれど、こは左に都良弦取波氣《ツラヲトリハケ》といふ即是にて弓弦を懸るをはぐると云也」といへり。いかにもこの「作」は矢に羽を取り付くるをあらはせる文字にして、この語は「ハグ」といふ濁音を有したる四段活用の語なり。さて下の「都良弦取波氣」の「ハケ」は濁音を有せざる下二段活用の語にして漢字にては「佩」又は「懸」をあつべき語なり。されば、この二語を混じて同語とするは誤なり。然れども、萬葉集には清濁相通はして文字を借用することあれば、これも「作」はもと「ハグ」といふ四段活用の語にあたる字なるを清音にて「ハク」とよむこととし、それを借用して、下二段活用の「ハクル」といへる語の「ハク」といふ部分にあてたるものなるべし。弦を弓にかくるを「ハク」といへる(55)例は既にいへるが、牛に鼻緒をかくるをも「ハクル」といへり。その例巻十六「三八八六」に「牛爾己曾鼻繩波久例《ウシニコソハナナハハクレ》などあり。「行事」は「ワザ」とよむべきなるが、集中に傍例を求むれば、巻四「四九八」に「今耳之行事庭不有《イマノミノワザニハアラズ》」などあり。さて「ヲハクルワザ」とは弓に弦をかくることをいふ。
○知跡言莫君二 「シルトイハナクニ」とよめり。「君」は「クニ」の上の音をとれる假名なり。「ナク」は打消の「ヌ」に「ク」のつきたる言にして、「知るといはぬ事なるに」といふ意なり。
○一首の意 考には「弓を引かぬ人にて弦かくるわざをば知つといふ事はなし。其如く、我をいざなふわざもせでそらにいなといはむをば、はかり知給ふべからずと云也」といへり。諸説これに大同少異なり。されど、上の禅師のうたは明に女を挑める歌なれば、「我をいざなふわざもせで」と考にいへるは從ひがたし。なほ又考の説にては「引かずして」は「弓を引くことを知らぬ人」をさせることとなれるなり。按ずるにこれは弓を引くといふ事を實地にせずしてといふ事なるは明かなり。かくて語のつづきを考ふるには「弓を引かずして弦をはくることを知るとはいはぬものなるに」といへることは明かなるが、實際につきて考ふれば、弦をはけてその後にこそ弓を引くことのあるなるに、ここには引くことを先にいひて弦をはくることを後にいへり。さればいひ廻し方によりてかく前後せしめたりやと考ふるに、かかるいひ廻しのあるべくも考へられず。ここに思ふに、上の「引かずして」は弓に弦をかくるには「弓を撓むるわざをせずして」といふ義をあらはせるならむ。すべて弓に弦をかくるには本弭を何かに充て強く押して、弓を撓め本と末とを近づけずば弦はかけられぬものなり。かくすることは即ちをは(56)くるわざなり。さてかく弓を撓めて弦をかくるわざをするは、そのさま弓に矢をはげて引くときと略似たるなり。即ち弓を引けば弓は本末相近づきて撓むこと弦をかくる時と趣一なり。されば、弓は引かずして弦をかくるわざはせられぬものなり。この故に「引かずして」の下に「は」を添へて釋するをよしとす。さて歌の意を按ずるに、眞に人の心を引かむとならば、その引くといふことに相當するわざのある筈なり。眞に人の心を引くといふには、その結果を導くに足るだけのわざなかるべからざるは弦をはくるには弓を撓めねばならぬとおなじ。眞に人を戀ふとならば、眞情を打ちあけてこそ人もその情に感じて、心を合することも起らめ。君の如く口先ばかりにて、人を試めしなぶるが如き態度にては誰か感じ從ふべき。君の態度は恰も弓を撓めずして弦をかけむとするに似たり。この弓を引き撓むるといふ作業をせぬ人は弦をはくるわざを知れりといふことを得ざるが如く、君の我を戀ふといふことは信ずるを得ず。さやうなる事は眞平御免なりとなり。
 但しこの釋は、「引く」といふことを「弓を撓む」といふ語に用ゐたりといふ事の確證なき限りは確定説とはなるべからず。
○郎女 これも石川郎女の答歌なるを示せるなり。小字にせる本をよしとす。
 
98 梓弓《アヅサユミ》、引者隨意《ヒカバマニマニ》、依目友《ヨラメドモ》、後心乎《ノチノコヽロヲ》、知勝奴鴨《シリカテヌカモ》。 郎女
 
○梓弓 「アヅサユミ」梓にて造れる弓なり。これは古信濃より梓弓を産したるによりてよめり(57)とも見らる。但し歌詞としては必ず梓の弓ならでも歌の調にてかくよめること多く、ただ弓と心得てよき所少からず。ここも然るべし。
○引者隨意 「隨意」の字古寫本「こころに」「こゝろ」とよみ、又「ねかひに」などよめるもの多けれど、舊板本に「ヒカバマニマニ」とよめるをよしとす。「隨意」を「マニマニ」とよめるは義訓にして、集中には「任意」(卷十一「二七四〇」)をもしかよませたり。この「まにまに」は後世の「まま」といへる語の本源にして、そがつづまりて「まま」となれるなり。さてこの「まにまに」は又「まに」を重ねたるにて、その「まに」の「ま」が即ちもとは隨意任意の意ある獨立の副詞たりしなり。即ちこの「まに」又は「まにまに」は後世にては專ら「の」「が」の助詞を上に伴ひ、又用言の連體形につきて附屬的のもののみの如くなりたれど、古代にては獨立的にも用ゐられしなり。たとへば、卷五「八〇〇」に「保志伎麻爾麻爾《ホシキマニマニ》」續紀二十八詔に「己可欲末仁《オノガホシキマニ》」又本集卷六「一〇四七」に「皇之引乃眞爾眞爾《オホキミノヒキノマニマニ》」卷十八「四〇九四」に「牟氣乃麻爾麻爾《ムケノマニマニ》」卷十九「四二二〇」に「麻須良乎乃比伎能麻爾麻爾《マスラヲノヒキノマニマニ》」とあるなどこれなり。即ちここは、「まにまに」が、全く獨立の副詞として用ゐられし著しき例なり。されど、今日の語にてはかかる獨立の用法なければ、之を解せむには「引かば引かむままに」と釋するをよしとす。さてその引くは既にもいへる如く、弓を引くといふ意をあらはし、かねて心を引き誘ふをもいふ。
○依目友 これは古寫本に「よらすとも」「かなはめと」などよめるあれど、板本に「ヨラメトモ」とよめるをよしとす。「ム」の已然形に「ども」をつけて用ゐること、古書の格なり。「よる」といへるは弓を引けば、兩方の※[弓+肖]の方が相近よるによりてその弓※[弓+肖]の近よるにたとへて、引かば君が方に靡き(58)依らむといへるなり。「君による」といへる語の例は卷四「今更浪乎可將念打靡情者君爾縁爾之物乎《イマサラニナニヲカオモハムウチナビキコヽロハキミニヨリニシモノヲ》」(五〇五)卷十二「梓弓末者師不知雖然眞坂者君爾縁西物乎《アヅサユミスヱハシシラズシカレドモマサカハキミニヨリニシモノヲ》」(二九八五)などあり。
○後心乎 「ノチノココロヲ」とよむ。童蒙抄に「スエノコヽロヲ」とよめれど、從ひがたし。「後」は「ノチ」とよむ字にして、「後」に行末の心あるは、卷五「伊比都々母能却許曾斯良米《イヒツヽモノチコソシラメ》」等例多し。行末までの心を指すなり。
○知勝奴鴨 「シリカテヌカモ」とよめり。「カテ」といふ語は上の「アリカツマシシ」の「カツ」の未然形にして「カツ」は下二段活用なる動詞なり。この「カテ」が其の未然形なることはここに「奴」といふ打消の複語尾を用ゐたるにて明かなるが右の未然形の「カテ」の傍例は日本紀崇神卷に「飫朋佐介珥菟藝廼煩例屡伊辭務邏塢多誤辭珥固佐縻《オホサカニツギノボレルイシムラノタゴシニコサバ》、固辭介※[氏/一]務介茂《コシカテムカモ》」とあるその證なり。從來この「カテ」に難の意ありとして、「ヌ」には何の心もなし、と説けるは語法を無視せる説なり。複語尾を無義に用ゐることは古、今例なきところなりとす。「カモ」は詠歎の意をあらはせり。
○一首の意 君が我を眞に引き誘ひ給はば、引かるるままに、君が方に靡き依りもせむ。されども、靡き從ひての後は如何あらむ。君が行末まで我を愛したまふか否か。その將來の心をば今より知ることの出來ぬが心もとなきことよとなり。
○郎女 これも郎女の歌にして上と共に二首を同時に答歌としたりと見ゆ。
 
99 梓弓《アヅサユミ》、都良絃取波氣《ツラヲトリハケ》、引人者《ヒクヒトハ》、後心乎《ノチノココロヲ》、知人曾引《シルヒトゾヒケ》。 禅師
 
(59)○ 考にはこの歌の上に「久米禅師重贈歌」の題詞脱せりといひ、攷證は「久米禅師更贈歌二首」の題詞脱せりといへり。されど、上にいへる如く、もとよりかかることなくして五首といへるにて意明かなり。
○梓弓 これは枕詞にあらず。この弓に、下なる詞の「つらをとりはけ」も「引く」も關係あるなり。
○都良絃取波氣 「都良絃」を「ツルヲ」とよめる古寫本あれど、多くの本に「ツラヲトリハケ」とよめり。加之「良」を「ル」とよむべくもあらねば、普通の訓に從ふべし。「絃」字元暦本「緒」に作る。いづれにて意義もよみ方もかはらじ。「ツラ」は蔓なり。轡を「クツハツラ」とよむが如きその例なり。卷十四に「美知乃久能安太多良末由美波自伎於伎弖西良思馬伎那婆都良波可馬可毛《ミチノクノアダタラマユミハジキオキテセラシメキナハツラハカメカモ》」(三四三七)とある弓絃を「ツラ」といへるなり。「絃」は「弦」なり。「ツラヲ」にて弓弦をいへり。「ハケ」は上に「ハクルワザ」の所にいへり。弓に弦を佩かしめてなり。
○引人者 「ヒクヒトハ」とよむ。梓弓は弓絃を取佩けてそれを引く人といふことなるが、禅師自をたとへていへるなり。
○後心乎 「ノチノコヽロヲ」これも童蒙抄に「スヱノコヽロヲ」とよみたれど、「ノチ」にてよきなり。
○知人曾引 「シルヒトゾヒク」とよむ。これは「梓弓都良絃取波氣引人」は後の心を知る人なり。かく後の心を知る人ぞ人を引くなるといへるなり。われはわが行末の心をよく知れり、されば、君を引くなりとなり。
○一首の意 梓弓に弓絃を取り佩けて引くといふ人即ち君を誘ひ引くといふ人は君が案ぜら(60)るる如く、心のかはる人にはあらず。その人間は行末までもかはらじと思ひ定めて、かたく思ひつめたる人こそは人を引くものよといひて、上の「後の心を知りがてぬ」といへるに答へたるなり。
○禅師 これは郎女の答歌に更に答へたるなり。
 
100 東人之《アヅマドノ》、荷向※[しんにょう+(竹/夾)]乃《ノザキノハコノ》、荷之緒爾毛《ニノヲニモ》、妹情爾《イモガココロニ》、乘爾家留香問《ノリニケルカモ》。 禅師
 
○ 考にはここに題詞ありしが脱せるかといへり。されど、それは入りほがの説なること既にいへるとほりなり。
○東人之 舊本「アヅマノ」とよめり。古寫本には「アツマウトノ」「アツマヒトノ」などよみ、考には「アヅマドノ」とよみ、古義は「アツビトノ」とよむべしといへり。按ずるに當時の人名「フビト」は「フミビト」、「タビト」は「タビビト」をいひたりし例に照して考ふれば、「アヅマビト」を「アヅマド」とよみたりしことなしとせず。さて東人の義は東國の人といふに似たれど古くより汎く田舍人をさせるが如し。大須本和名抄「邊鄙」の注に「阿豆末豆《アツマツ》」といふ和名を附し、なほ注して「今案俗用2東人二字1其義近矣」といへり。この「アツマヅ」といへるは「アツマド」の訛なること著しければ、古くは「アツマド」といへることを推して知るべし。これによれば東人《アヅマド》は即ち本義は東國人なることは勿論ながら、後には邊鄙の人の汎稱となれりと見えたり。この故に今考の訓による。
○荷向※[しんにょう+(竹/夾)]乃 「ノサキノハコノ」とよむ。古寫本に「ニサキノハコノ」とよめるもあれど、「ノサキ」とい(61)ふ語は古來より存すもものなり。「ノサキ」は「荷前」とかくを普通とす。「ノサキ」とは毎年地方より奉れる調物の「はつほ」をいふ。延喜式祈年祭祝詞に「荷前者皇大御神大前如2横山1打積置※[氏/一]」と見え、大神宮九月神甞祭事には「調荷前絹一百十三疋一丈二尺云々以上諸國封戸調荷前」など見え、後世までも荷前は重き儀として、毎年十二月に先づ神宮山陵等に荷前使を立てこれを奉らしめられたる重き儀式なりき。さて「荷」を古言に「ノ」といへる例は日本紀神功皇后卷に「肥前國荷持田村」に注して「荷持此云能登利」とあるにても明かなり。「向」は、「昔」の義ある字にして、莊子禺言に「若向〔右○〕也俯而今〔右○〕也仰」とあり。よりて「サキ」といふ訓あり。類聚名義抄字鏡集を見よ。「※[しんにょう+(竹/夾)]」は「篋」の別體なり。古「匠」を「※[しんにょう+(一/斤)]とかける如く「匠の斤なし」を「※[しんにょう+一]」の形につくれるもの多く、それより又「一」を省きてかくはかけるなり。新撰字鏡之部に「※[しんにょう+(竹/夾)]口頬反笥也、己呂毛波古」とあり。ここはただ「ハコ」とよむべし。玉篇に※[しんにょう+(竹/夾)]に注して「笥也箱也」とあるにしるし。「ノサキノハコ」とは荷前の調物たる絹布などを納めたる筥をいふなり。この筥は如何なるものなりしか。延喜式によれば、調物たる布帛筆墨等は多くは韓櫃に盛られたるが如し。
○荷之緒爾毛 「ニノヲニモ」とよむ。古寫本に「かのを」とよめるもあれど、由なきことなり。流布本に「結」に作れるは「緒」の誤にして、古寫本多くは正しく「緒」とかけり。但し「緒」を「結」に作れるものは本集卷七「一三二一」に「玉之結」卷十二「二九八二」に「紐之結」にこの「結」字を用ゐたれば、或は當時通用したる事あらむか。「荷之緒」とは調物の荷をば馬に負はする爲に、鞍に結びつくる緒なり。延喜式析年祭祝詞に「自陸往道者荷緒縛堅※[氏/一]」とあるこれなり。「ニ」は形容せる意を示す「に」にて(62)「にも」は「の如くしても」の意に解すべきなり。卷一「七九」に「栲之穗爾夜之霜落《タヘノホニヨルノシモフリ》」卷十「二三〇四」に「秋都葉爾爾寶敝流衣《アキツハニニホヘルコロモ》」などいへるに同じ。以上「下」の「乘る」といふ語の形容として用ゐたるなり。
○妹惰爾乘爾家留香問 「イモガココロニノリニケルカモ」とよむ。類聚古集には「コヽロノ」とよみたれど、「爾」に「の」のよみ方なければ從ひがたし。考には「イモハ」とよみたるを玉の小琴に之を否とせり。童蒙抄には「乘」を「寄」の誤とし「ヨリニケルカモ」とよみたれど、かくかける本一もなく、「ノリニケルカモ」にて意通ずれば從ひ難し。さてこの「妹」は主格なれば、「イモが心」といふ連體格に解すべからず。されば、歌の調を顧みずしていはば、「心ニ妹ガ」と轉置して見れば心得やすし。これを明かにせむ爲にや、考は「イモハ」といひたれど、なほ「ガ」とよむ方意も強く、調もよしと思はる。「コヽロニノル」といふ語遣は卷四「六九一」に百磯城之大宮人者雖多有情爾乘而所念妹《モモシキノオホミヤヒトハオホカレドココロニノリテオモホユルイモ》」又卷十四「三五一七」に「思良久毛能多要爾之伊毛乎阿是西呂等許己呂爾能里※[氏/一]許己婆可那之家《シラクモノタエニシイモヲアゼセロトココロニノリテココバカナシケ》」などある例にて見るべく、又「妹ガ心ニノル」といへる例は、卷十「一八九六」に「春去爲垂柳十緒妹心乘在鴨《ハルサレバシダリヤナキノトヲヲニモイモガココロニノリニケルカモ》」卷十一「二四二七」に「是川瀬瀬敷浪布布妹心乘在鴨《ウヂカハノセゼノシキナミシクシクニイモガココロニノリニケルカモ》」などあるが、意ははいづれもおなじ。これは妹の事が心に常にありて、即ち忘れかねたることを妹が、わが心を占領するといふやうにとりて妹が我が心に乘るとはいへるなり。
○一首の意 田舍人が、荷前の※[しんにょう+(竹/夾)]を大事にして鞍に載せ荷緒もて堅く結びつけたる如く、わが愛する妹の事が我が心に乘りて、堅くはなれずといひて、我が心はただ君を思ふのみにて他事なし、といひて切なる情を最後にうちあけいへるなり。
(63)○禅師 これも贈れる歌ならむ。郎女が二首を以て答へたるによりて禅師もここに二首よめるならむ。考にはこれは贈る意なく獨り思ふ歌なれば、別に端詞ありしが、落ちたるかといはれたれど、かくよみてかへりて切なる情を通ずるに足るべきものをや。
 
大伴宿禰娉2巨勢郎女1時歌一首
 
○大伴宿禰 金澤本、元暦本等に注して曰はく、「大仲宿禰諱曰2安麿1也、難波朝右大臣大紫大伴長徳卿之第六子平城朝任大納言兼大將軍薨也」あり。安麿卿は大寶元年に既に中納言たり。續紀に「和銅七年五月朔日薨」とあり。考にはここの人を安麿の兄なる御行卿かといへれど、古本の注に從ふべきなり。天智天皇の朝には安麿は未だ公卿ならぬなれば、ただ姓の宿禰をのみいへるなるべし。大伴氏はもと連なりしを、天武十三年に宿禰とせられたり。さればこれは、編者の語なり。
○娉巨勢郎女時 「娉」は上にいへり。巨勢郎女は金澤本、元暦本等に、次の歌の端書の所に注して、前近江朝大納言巨勢人(日本紀に「巨勢比等」)卿之女也」といへり。この人なるべし。
 
101 玉葛《タマカツラ》、實不成樹爾波《ミナラヌキニハ》、千盤破《チハヤブル》、神曾著常云《カミゾツクトフ》、不成樹別爾《ナラヌキゴトニ》。
 
○玉葛 「タマカツラ」とよむ。玉は美稱にして深き意なし。ただ「かつら」と心得べし。さてこれをば考には「葛は子《ミ》の成もの故に次の言をいはん爲に冠らせしのみ也。且|子《ミ》の成てふまでに(64)いひて不成の不《ヌ》まではかけぬ類ひ集に多し。」といひ、美夫君志には實《ミ》の一言にかけたりとせり。されど、次の答歌によれば、この二説ともに當らぬを知るべし。これは新考にいへる如く、「ミナラヌ」にかかれりとすべきなり。さて、其の實ならぬは實の成りがたきをいへるならむが、その玉葛とは何をさせるものか、恐らくは「くず」をさせるものならむ。これはその果實の成らぬにはあらざれど、その實は著しからぬものなれば、花の著しきに對して實のならぬもののやうに世俗には信ぜられてありしにてもあらむ。なほ返歌の方をも考ふべし。
○實不成樹爾波 「ミナラヌキニハ」とよむ。實のならぬ樹にはといふことなるが、古は果實の著しくあらぬものをもかくいへりと見ゆ。卷八「一四四五」に「實爾不成吾宅之梅乎《ミニナラヌワギヘノウメヲ》」といふあり。卷四「五六四」に「山管乃實不成事乎《ヤマスゲノミナラヌコトヲ》」などあり。實のなるといふことは戀の實に成るをたとへていへるなり。かかる例は集中に少からず。卷七「一三六五」に「吾妹子之屋前之秋芽子自花者實爾成而許曾戀益家禮《ワギモコノヤドノアキハギハナヨリハミニナリテコソコヒマサリケレ》」などあり。
○千磐破 「チハヤブル」とよむ。「いちはやぶる」にて神の枕詞とせりといふ。但し、その意義はなほ考ふべき餘地あり。
○神曾著常云 舊本「カミゾツクトイフ」とよめるを童蒙抄に「ツクチフ」と改め、考に「ツクトフ」とよめり。今上例により考による。實のなるべき樹に實のならぬものあれば神の領じたまふものなりといふなり。これは女の年たくるまで男をもたずやもめなるをばその實のならぬ樹にたとへて神のつきたまふぞといへるなり。
(65)○不成樹別爾 「ナラヌキゴトニ」とよむ。その實の成らぬ樹ごとにといふにて第二句の意を繰り返しいへるまでなり。
○一首の意 實の成らぬ樹には古よりその樹ごとに神の依りて著きたまふといふ事のあるを知りたまへりや。女のさるべき時に男をもたぬは神の依りましぬとて大方の人の恐れ近づかずして遂に男を得ることもなくならむぞとおどろかしいへるなり。かくて早く實の心を以てわれに靡きたまへとすすむる心をあらはせり。源氏總角卷に、總角の大い君の薫大將に心のうつらぬを見て、侍女のいふ所に「大かた、例の見奉るに、しわのぶるここちしてめでたくあはれに見まほしき御かたち有樣をなどていともてはなれては聞えたまふらむ。何かこれは世の人のいふめるおそろしき神ぞつきたてまつりたらむと齒は打すきて愛敬なげにいひなす女あり」などいひ、又宇治拾遺二に柿木の實ならぬに佛現ずといふ俗説ありて、そが天狗なりし物語あり。これらによりて歌の心を知るべし。
 
巨勢郎女|報贈《コタヘオクレル》歌一首
 
○ これ上の返歌なり。考に報贈を「和」の誤とせるは例の入ほがなり。
 
102 玉葛〔左○〕《タマカツラ》、花耳開而《ハナノミサキテ》、不成有者《ナラザルハ》、誰戀爾有目《タカコヒナラメ》、吾孤悲念乎《アハコヒモフヲ》。
 
○玉葛 「葛」字流布本「萬」とせり。こは活字附訓本の誤植に基づくものにして活字無訓本以前古(66)寫本すべて「葛」とせるを正とす。「タマカツラ」とよむこと論なし。
○花耳開而不成有者 板本「ハナノミサキテナラズアルハ」とよめり。「不成有者」をば古寫本には「みならずは」「ならずあらば」「ならぬあるは」などよみたるが、代匠記には「ならざるは」とよめり。これは「誰戀爾有目」の主格なれば、「ならずあるは」又は「ならざるは」とよむべきものなり。今音の數よりして「ならざるは」とよむ。玉葛に「花のみさく」といへる由は上の歌にいへると同じ。さてこれは上の歌を受けて、いへるにて、「不成有」の上に實を略したるなり。而して、花をうはべの言葉にたとへ、實を心の誠にたとへ、言葉にのみいひて、實の心のなきをたとへたるなり。
○誰戀爾有目 舊本「タガコヒニアラメ」とよめるを代匠記に「タガコヒニアラモ」とよみ、童蒙抄に「タガコヒナラメ」とし考、これによれり。略解は「タガコヒナラメ」「タガコヒナラモ」の二説を並べあげたり。されど、「アラモ」「ナラモ」などいふ語遣はあるべきにあらねば從ひがたし。次には「タガコヒニアラメ」「タガコヒナラメ」いづれにてもあるべし。今音數の調へるによる。さて凡そ「タガ」の如く誰何等と係りて「メ」と結べるは古言の一格なり。卷三「三九三」に「不所見十方孰不戀有米山之末爾射狹夜歴月乎外爾見而思香《ミエズトモタレコヒザラメヤマノマニイサヨフツキヲヨソニミテシガ》」又卷四「六五九」に「奧裳何如荒海藻《オクモイカニアラメ》」卷七「一四二一」に「吾背子乎河處行目跡《ワガセコヲイヅクユカメト》」などあるにて知るべし。かくてかかる場合は「め」にて後世の「めや」といふに同じく反語をなすこと多し。ここのも「誰が戀にかあらむ」といふに同じ。
○吾孤悲念乎 舊本「ワカコヒオモフヲ」とよめるを、童蒙抄に「ワハコヒシノフヲ」とし、考に「アハコヒモフヲ」とし、略解に「ワハコヒモフヲ」とせり。按ずるに、「吾」は主格に立てるものなるが、「ガ」を連(67)體格のとせずして主格の意とせば、「ワガ」「ワハ」「アハ」いづれにてもあるべけれど、ここは、吾はかく思ふに君の態度は如何と相對的の語遣なれば「ハ」を用ゐる方區別を示してよし。その他「アハ」にても「ワハ」にても「コヒオモフ」「コヒモユ」にてもよきことなれど、音の關係よりして姑く略解の説によるべし。
○一首の意 この歌二段落なり。第一段は「玉葛の花のみ咲きて、實の成ならぬといふ如き言のみ巧にして心の實なきは誰人の戀にかあらむ」といひて、恐らくはそれはかくのたまふ君の自身のことをのたまふものならむの意をあらはし、第二段はわれこそは眞實に君を戀ひ慕ひ奉るものをといひて、わが心は君の比にあらずといひて、上の歌にこたへたるなり。
 
明日香清御原宮御宇天皇代 天渟名原瀛眞人天皇
 
○明日香清御原宮 は既にいへる如く、天武天皇の營みたまひし宮城なり。
○天渟名原瀛眞人天皇 「渟」字流布本「停」に作るは誤にして、古寫本多く正しくかけり。美夫君志には「停」を「渟」の一體とし、このままにて可なりといはれたれど、それはあまりに辯護にすぎたり。本書卷一及び日本紀また正しく「渟」とかけり。「アメノヌナハラオキノマヒトノスメラミコト」とよむ。天武天皇の尊號なり。さて以下には、天武天皇御宇の歌をあげたり。
 
天皇賜2藤原夫人1御歌
 
(68)○藤原夫人 「夫人」はもと支那にての名稱にして、禮記曲禮に天子有v后、有2夫人1、」といひ、漢時には天子の妻を夫人と稱したり。「夫人」は又先秦には諸侯の妻の號とし、又漢以後常人の正妻の稱とし、又婦人の尊稱ともしたり。ここも支那の名稱を襲用したるものなれど、職名なりとす。令の制には、皇后の外、後宮に備ふる職員に「妃二員夫人三員殯四員」あり。而して妃は皇族に限られ、臣族にして出身するものは最上を夫人に止められしなり。「夫人」はよみ方に種々の説あれど、音にて「フニン」とよむべきなるべし。この藤原夫人即ちその後宮の職員たりし藤原氏の女なり。天武紀によれば、「又夫人藤原大臣女氷上娘生2但馬皇女1、次夫人氷上女娘弟五百重娘生2新田部皇子1、」とあれば、この時藤原夫人と稱する人は二人ありていづれも鎌足公の女なりしなり。ここの藤原夫人はいづれの方ならむかと考ふるに、卷八夏雜歌に藤原夫人歌あり。之に注して「明日香清御原宮御宇天皇之夫人也、字曰2大原大刀自1即新田部皇子之母也」とあり。この贈答の歌の趣にては、この夫人は大原に住まれし由に見ゆれば、ここに大原大刀自といはれたる新田部皇子の母とます五百重娘の方なるべしと思はる。
○御歌 「御製歌」とあるべき筈なり。本書前後の例みな然り。然るに、目録も亦かくの如くにして、古寫本またかくの如し。蓋し、古より誤れるまま傳はれるならむ。
 
103 吾里爾《ワガサトニ》、大雪落有《オホユキフレリ》。大原乃《オホハラノ》、古爾之郷爾《フリシニサトニ》、落卷者後《フラマクハノチ》。
 
○吾里爾 「ワガサトニ」とよむ。吾が里とは皇居のある清御原の地をさしてのたまへるなり。
(69)○大雪落有 「オホユキフレリ」とよむ。大雪とは多くふれる雪をいふこと今におなじ。本卷「一九九」に「大雪乃亂而來禮《オホユキノミダリテキタレ》」又卷十九「四二八五」に「米都良之久布禮留大雪《メツラシクフレルオホユキ》」などいへり。「落有」は「フレリ」とよむべし。「落」を雨雪のふるに用ゐたることは既にいへり。
○大原乃 「オホハラノ」とよむ。大原は地名なり。この地は續紀卷二十六、天平神護元年十月辛未に紀伊に行幸ありし時の條に「是日到2高市郡小治田宮1」と見え、その翌日の條に「壬申車駕巡2歴大原長岡1臨2明日香川1而還」と見えたる地なるが、今飛鳥村の東南大字小原といふ地ありてそのうち字大原といふ地まさに存す。この地に鎌足公の誕生せられし第宅の舊址あり。古くは藤原寺といふがありしかど、今は廢して、その趾に藤原神社といふ神社あり、他の一部は田畝に變ぜり。この地即ち、藤原夫人の生地なるべければ、ここに住まひしてあられしによりて大原大刀自といふ名もつきにしならむ。
○古爾之郷爾 「フリニシサトニ」とよむ。卷十一「二五八七」にも「大原古郷妹置《オホハラノフリニシサトニイモヲオキテ》」などもいへり。「フリニシ」とよむ理由は、古、「フル」といふ上二段活用の動詞存したりしによる。この動詞の例は卷十七「三九一九」に「青丹余之奈良能美夜古波布里奴禮登《アヲニヨシナラノミヤコハフリヌレド》」などあり。さて「フリニシサト」とは即ち古郷の文字をあつべきものにして、それには人住むこと稀になり、あれたる郷の意もあり、又その人の本郷をいふ意もあり。この集にて例をいへば、卷四「七七五」に「鶉鳴故郷從念友《ウヅラナクフリニシサトユオモヘドモ》」卷十「二二八九」に「藤原古郷之秋芽子者《フヂハラノフリニシサトノアキハギハ》卷十一「二五六〇」「人毛無古郷爾有人乎《ヒトモナクフリニシサトニアルヒトヲ》」などは荒れたる意の方なるべく、卷三に大伴旅人が、太宰府にてよめる「萱草吾紐二付《ワスレクサワカヒモニツク》、香具山乃故去之里乎不忘之爲《カクヤマノフリニシサトヲワスレヌガタメ》」(三三四)(70)は本郷の義なるべし。されど、この頃は字義の如く、古くして住むこと稀にあれたる郷を主としていへるならむ。ここもその義なるべくして、夫人の當時居られし大原里を戯れてかくはのたまひしならむ。古事記傳には(卷三十四、藤原の語の下)この歌をあげて、「天皇初(メ)此(ノ)夫人の家に通ひ住(ミ)賜へりし故に古にし郷とはよみ給へるなるべし」といはれたれど、本書には御在位の時の御製としたるのみならず、古にし郷の義は上の如き用例あれば、從ひがたし。
○落卷者後 「フラマクハノチ」とよむ。「フラマクハ」とは「降らむことは」の意にして、若し降らむならば、この後に降らむとなり。
○一首の意 二段落なり。わが大宮のあるこの地には今日大雪ふりて景色の面白さいはむ方なし。大原の如く古きさびれたる里に若し降らむことあらば、そはわれらが十分にめではやしての後にこそ降らめとなり。戯れて羨ましめたまはむとの歌と見ゆ。
 
藤原夫人奉和歌一首
 
○奉和歌 は「コタヘマツレルウタ」とよむべし。御製に奉答せるなり。
 
104 吾崗之《ワガヲカノ》、於可美爾言而《オカミニイヒテ》、令落《フラシメシ》、雪之摧之《ユキノクダケシ》、彼所爾塵家武《ソコニチリケム》。
 
○ この歌板本に訓をつけず。
○吾崗之 「ワガヲカノ」とよむべし。「崗」は既にいひし如く「岡」の異體字なり。わが岡とは大原里(71)をさせり。この地丘陵の地なれば、岡といふにふさはし。
○於可美爾言而 「オカミニイヒテ」とよむべし。「オカミ」は日本紀卷一に「※[雨/龍]此云2於箇美1」と注せり。「※[雨/龍]」は委しくは「※[靈の巫が龍]」とかくべき字にして、玉篇に「※[靈の巫が龍]力丁切、龍也又作v靈神也善也或作※[〓+鬼]」と見え「※[雨/龍]同上」と記せり。されば支那にては龍神をば「※[靈の巫が龍]」とも「※[雨/龍]」ともいへるなり。本邦には日本紀に「高※[雨/龍]神」あり、古事記に「闇於加美神」あり。豐後風土記には「蛇※[雨/龍]」とかきてそれに「於箇美」と注せり。いづれも水をつかさどる神なりと信じたりと見えたり。さて水をつかさどるといふよりして雨をも降らしむる神と信ぜらわたることは祈雨の神として古來祭られしにて知らるる所なるが、それよりして雪をも降らしむべきものと考へられたるものなるべし。「イヒテ」は言ひ付けてなり。古義は「言」を「乞」の訓として「コヒテ」とよませたれど、證なければ從ひがたし。
○令落 元暦本金澤本には「フラシムル」とよみ、類聚古集には「フラシメシ」とよみ、又他の本にも多くこの二の訓の間をばいでず。童蒙抄には一按として「フラセタル」とよむべきことを提議し考にはそれによれり。按ずるにここに「有」字なければ、「タル」とよむべき理なし。次に「シムル」とよむ説と「シメシ」とよむ説とを比するに、既に降りたる雪をいへるなれば、「シメシ」とよむをよしとす。代匠記古義などの説これなり。
○雪之摧之 古寫本には「ユキノクダケテ」とよめると、「ユキノクダケシ」とよめると二樣あり。代匠記には「クダケノ」とよみ、童蒙抄には「クダケカ」とするか若くは「之」は「天」の誤ならむとせり。按ずるに「之」を「テ」とよむべき由なければ、「ユキノクダケシ」とよむをまされりとす。この「クダケ」は(72)契沖のいへる如く、物の摧けたる片はしの意なれば、體言の取扱をなせるなり。而してその下の「シ」は助詞にして指していへるなり。從來「クダケシ」とよめる人は多く「クゲケシモノ」の意にて「シ」までにて體言の取扱をなせりと考へたる人多けれど、さにはあらじ。又契沖などは「クダケ」を體言として取扱ひたるはよけれど、「シ」を助詞と考ふることなかりし故に「ノ」とか「カ」とかよまむと按ぜしならむ。「シ」はここにては主格につけり。
○彼所爾塵家武 「ソコニチリケム」とよむべし。「彼所」を「ソコ」とよむは古語なり。古くは「彼」を「カ」「カレ」とよまずして「ソ」「ソレ」とよみしなることは肥前の郡名に「彼杵」とかきて「ソノキ」とよめるにて知るべし。「塵」は名詞たる「チリ」をあらはす文字なるを「散る」の動詞の連用形の「チリ」をあらはす爲に借りしなり。しかもその「塵《チリ》」といふ名詞ももとはこの「散る」の連用形より轉じたるものなるべければ、古人には異樣に見えざりしならむ。「けむ」は既に了れることを推量していふ複語尾なり。
○一首の意 私はこの程わが里の龍神に言ひ付けて雪を降らしめたることにて候ふが、その雪のかけらが、わが君のましますあたりにも少しは散りたらむと思ひ居候ひしに、君が大雪と仰山らしく仰せらるるは大方そのかけらの降つたる爲にて候ふらむ。さるを大雪などことごとしく宣ふことのをかしさよ。雪ならば、私の方が、御あたりよりは見事に候ふものをとなり。
 
藤原宮御宇天皇代 天皇謚曰2持統天皇1
 
(73)○藤原宮御宇天皇代 元暦本は「御宇」の下に「高天原廣野姫」の六字あり。されど例に違へば從ふべからず。藤原宮は持統天皇のはじめたまひし宮にして文武天皇を經て、元明天皇の初年までまししなり。されば、この宮にて御宇ましし天皇は三帝ましますといふべし。而して、卷一の例によれば、まさにしかあるべく、この卷の挽歌の條も亦然れば、ここも然るべし。
○天皇謚曰持統天皇 藤原宮御宇天皇は持統天皇に限らねど、そのはじめの天皇にましませばかく注せるなるべし。然れどもここにかくかけるは他の例に異なり。卷一及びこの卷の挽歌の條の例によらば、「高天原廣野姫天皇」とあるべき筈なり。而して金澤本にはこの上に「高天原廣野姫」の六字あり。これによりて按ずるに、もとは、高天原廣野姫天皇」とありしに「謚曰持統天皇の六字を後人の加へしものなるべく、さてその後にこの度は上の六字を削りて下の八字を存したりしならむ。
 
大津皇子竊下2於伊勢神宮1上來時、大伯皇女御作歌
 
○大津皇子 天武天皇の第三皇子なり。勇武にして文學あり。英邁なりけれど、才を恃みて終を全くせられざりき。天武天皇の十二年に大政に參與せしめられしが、天皇の崩御あらせらるるや不軌を謀りて、朱鳥元年十月二日誅せられき。時に年二十四。
○竊下2於伊勢神宮 大津皇子の神宮に參られしこと、日本妃に載せず。「竊に」參られしが故なるべし。考別記に曰はく、「天武天皇は十五年九月九日崩ましぬ。さて大津皇子此時皇太子にそ(74)むき給ふ事、其十月二日にあらはれて三日にうしなはれ給へりき。此九月九日より十月二日までわづかに廿日ばかりのほどに伊勢へ下り給ふ暇はあらじ。且大御喪の間といひかの事おぼすほどに、石川郎女をめし給ふべくもあらず。仍て思ふに天皇御病おはすによりてはやくよりおぼし立こと有て、其七八月の比に彼大事の御祈又は御姉の齋王に聞え給んとて、伊勢へは下給ひつらん。さらば清御原宮の條に載べきを其天皇崩ましてより後の事は本よりにて崩給はぬ暫前の事も崩後にあらはれし故に持統の御代に入しならん」といへるは大略さる事ならむ。歌の趣を以て見れば秋の頃の事なれば蓋し天武天皇大漸の時伊勢に下り、神宮に祈請したまひし事ありしならむが、その祈請の何事なりしかは知るべからず。或は不軌の望を達せむと祈請せられしならむといひ、或はその事の發覺して禍の及ばむとするを恐れて祈請せられしならむともいふ。いづれかはもとより知るべからねど、その竊に伊勢に赴きて歸京せられて間もなく發覺せし故にこの御代の事として掲げしならむ。
○上來時 京に歸り上られし時をさす。
○大伯皇女 大津皇子の同母姉にまします。天武紀に「先納2皇后姉大田皇女1爲v妃生3大來皇女與2大津皇子1」とある大來皇女これなり。大來皇女又大伯皇女とかけるは、齊明紀に「七年春正月丁酉朔……甲辰御船到2於大伯海1時大田姫皇女産v女焉。仍名2是女1曰2大伯皇女1」とあるにて知らる。この大伯の地は備前國邑久とある地なり。この皇女は天武天皇の二年に十四歳にて齊王に立ち、翌年十月に伊勢神宮に到りまし、持統天皇の朱鳥元年十一月十六日に任解けて京に還り(75)ませり。されば、この歌は齋王にて伊勢にましまして弟皇子の至りませる時に別を惜みたまへる御歌と知られたり。其の御歌次にある二首なり。
 
105 吾勢枯乎《ワガセコヲ》、倭邊遣登《ヤマトヘヤルト》、佐夜深而《サヨフケテ》、鷄鳴露爾《アカトキツユニ》、吾立所霑之《ワガタチヌレシ》。
 
○吾勢枯乎 「ワガセコヲ」とよむ。この語の例は卷一「九」「一一」「四三」などにあり。「セコ」は兄子の義にして「セ」は女より男の兄弟を親みていふ語、「子」も亦親しみをあらはす語なり。「セ」は「兄」の字をかけど兄に限らざるなり。ここは御弟の大津皇子をさしてのたまへり。仁賢紀の自注に「古者不v言2兄弟長幼1女以v男稱v兄《セ》、男以v女稱v妹」とあるにて知るべし。
○倭邊遣登 「ヤマトヘヤルト」とよむ。「へ」は助詞にて「邊」はその假名なり。「と」は今の語にては「とて」の意に釋すべし。大津皇子の倭へかへりますを送るといふべきを御自らが、かへし遣りたまふ由にいひなしたまひ、これにて分れ難き意をあらはしたまへるなり。
○佐夜深而 「サヨフケテ」とよむ。「サヨ」はただ「夜」といふに同じく、「サ」は音調を添ふる爲の接頭辭なり。日本紀仁徳卷の歌に「瑳用廼虚烏《サヨドコヲ》といへるもただ「夜床ヲ」といふに異ならず。
○鷄鳴露爾 板本「アカツキツユニ」とよめるを略解は「アカトキツユニ」と改めたり。「鷄鳴」はただ鷄の鳴くをいへる語にあらずして、丑時をさす熟字なり。新撰宇鏡に「鷄鳴五時、平旦寅時」と記し、左傳昭公※[人偏+專]五年の杜預が注に「日之數、十故着2十時1。日中〔二字傍点〕當v王食時〔二字傍点〕當v公、平旦〔二字傍点〕爲v卿、鷄鳴〔二字右○〕爲v士、夜半爲v早、人定〔二字傍点〕爲v奧黄昏〔二字傍点〕爲v隷〔傍点〕、日入〔二字傍点〕爲v僚、※[日+甫]時〔二字傍点〕爲v僕日※[日+失]〔二字傍点〕爲v臺、隅中、日出〔四字傍点〕、闕不v在v第」と見えたるにて知る(76)べし。日本紀推古卷十九年には「五月五日藥2獵於兎田野1取2鷄明時〔三字右○〕1集2于藤原池上1以2會明1乃往之」とあれば、本邦にても時の名目として用ゐしを見るべし。日本紀にはこれを「アカツキ」とよませたり。(仁徳卷三十八年及び推古卷十九年)されど、「アカツキ」といふは後世の訛にして「アカトキ」とよむを古語とす。「アカトキ」は「明時」の義にして新撰字鏡には「※[日+出]」字に注して「向2曙色1也阿加止支」とあり。集中の假名書は「アカトキ」とのみあり。その例多きが、一二をいはゞ、卷十七「三九四五」に「安吉能欲波阿加登吉左牟之《アキノヨハアカトキサムシ》」卷十八「四〇八四に「安可登吉爾《アカトキニ》」などあり。「鷄鳴露」は曉の露なるが、これを熟語としたるものなれば「アカトキヅユ」とよむべし、その熟語も集中に例少からず。卷八「一六〇五」に「高圓之野邊乃秋芳子比日之曉露爾開兼可聞《タカマトノヌベノアキハギコノゴロノアカトキツユニサキニケムカモ》」又卷十「二一八二」に「比日之曉露爾《コノゴロノアカトキツユニ》」又同卷「二二一三」に「比者之五更露爾《コノゴロノアカトキツユニ》」などその例なり。
○吾立所霑之 板本「ワガタチヌレシ」とよみたり、元暦本金澤本等には「ワレタチヌレヌ」とよみ、拾穗抄に「ワレタチヌレシ」とよみ、略解もしかよめり。惟ふにこは板本のよみ方をよしとす。古事記神武卷にも「和賀布多理泥斯《ワガフタリネシ》」とあり。かく迫りたる語調の時は上に主格に「が」を添へて下を連體形にて結ぶこと古歌の一格なり。「霑」は「ヌルヽ」なるが又「漬」の義あり。「所」は受身をあらはす字なれば、「所霑」にても「ヌルヽ」なり。
○一首の意 大和國へかへらむとせらるゝ吾が兄《セ》の君(大津皇子)を、さ夜ふけて出でたゝせまゐらすとて、見送りまゐらせしほどに我はいつしか曉の露にぬれそぼちたる事よとなり。さ夜ふけてから曉まで立ちつくされし趣あると共に露には涙をよせてよまれし點ありとおぼゆ。
 
(77)106 二人行杼《フタリユケド》、去過難寸《ユキスギガタキ》、秋山乎《アキヤマヲ》、如何君之《イカニカキミガ》、獨越武《ヒトリコユラム》
 
○二人行杼 「フタリユケドとよむ。二人つれ立ちて行けどもなり。言の道理よりいはば、二人行くともといふべきなるが、これを假想としては弱く感すべきによりてかつて經驗せし事をとり來り、既定の事として述べたる所に深き感情を籠めたるさまあらはれたり。詩人の學ぶべき所。
○去過難寸 「ユキスギガタキ」とよむ。「去」は玉篇に「行也」と注せるにて「ユク」とよむべき字なるを知るべし。「寸」の古言「キ」なるを假名にかりしなり。
○秋山乎 秋の山は落葉、風の音、鹿の音などにてあはれに物淋しくして、二人つれ立ちて行けどもなほ行き過ぎ難きものなり。その如き秋山をばといふなり。
○如何君之 板本「イカデカキミガ」とよみ、諸家大方かくよみたれど不可なり。童蒙抄に「イカニカ」とよめるをよしとす。その故は本集中に「イカニ」「イカト」と假名書にせる例は多かれど、「イカデ」と假名にかける例一もなし。「イカデ」といふ語は恐らくは平安朝に入りて生ぜしものならむ。この事は余が奈良朝文法史に論ぜしが、新考またしかよむべしとせり。
○獨越武 舊來「ヒトリコユラム」とよみ來れるを考には「コエナム」と改めてより諸家多く之に從ひ、攷證は「良武」なりしが、脱せりとし、美夫君志はそのまま舊訓によるべしとせり。さて「コエナム」と讀む説は「武」の上に「良」字なきが故に「ラム」とよむべからずといふ意見なるべけれど、しかい(78)はば、「奈」字なきに「ナム」とよまむも同じ理にて從ひかねる譯なり。されば、字の面よりはいづれとも定むべき事にあらずして、所詮は歌の意により決すべきなり。按ずるにこの二の御歌は送別の歌とはいひながら、非常の事の伏在する時の事にして、新考にもいへる如く、別れたまひし後に皇子の御身の上をおぼしての御歌と見えたれば、今頃は一人淋しく秋山を越え給ふらむかと現前の事を推量してよまれたりと見るべきなり。されば、「ナム」とよまむよりは「ラム」とよまむかたその感直接におこるなり。若し「コエナム」にては如何でか一人にて山を越えたまふべき。越え給ふことあたはじの意となる。さるによりてとるべからず。この故に今舊訓に從ふ。
○一首の意 二人打語ひつつ行きたることありし時にも淋しかりしあの秋の山路をば、我が親愛なる弟の君が、心をうちあけ語ふ人もなく越え行き給ふことよ。如何さまにも淋しからむ。今はいづこのあたりを行き給ふらむ。あはれなることよとなり。
○ 以上二首底に悲哀の情を含めり。これ或は事の破れむを豫想せられたるにや、或は又生きて再び逢ふを得じの御思ひよりや出でけむ。よみ來ればあはれ深し。
 
大津皇子贈2石川郎女1御歌一首
 
○大津皇子 上に見ゆ。
○石川郎女 この石川郎女といふ名、上の久米禅師と贈答せる人に名は同じけれど、別人なるべ(79)しといふ。而して、この次に石川女郎とあるはこの人と同じきか異なるか、そは不明なるが、その石川女郎はこの卷の末に大津皇子侍石川女郎とあるに同じかるべく見ゆるが、ここは郎女とあれば、必ずしもそれと同じといふべからず。この人の傳知られず。
 
107 足日木乃《アシビキノ》、山之四付二《ヤマノシヅクニ》、妹待跡《イモマツト》、吾立所沾《ワレタチヌレヌ》、山之四附二《ヤマノシヅクニ》。
 
○足日木乃 「アシヒキノ」とよむ。山の枕詞なり。語の意は種々の説あれど、從ひがたく、なほ研究を要する語なり。
○山之四付二 「ヤマノシヅクニ」とよむ。山の草木などより落つる雨露の滴をいふ。語意これより「所沾」につゞくなり。
○妹待跡 「イモマツト」とよむ。妹即ち君を待つとての意なり。
○吾立所沾 舊訓「ワレタチヌレヌ」とよめるを童蒙抄に「ワレタチヌレシ」とし、考には「ワガタチヌレヌ」と改めたり。されど、強ひて改むべき理由なければ、舊訓に從ふを穩なりとす。「沾」字は史記滑稽傳優※[旗の其が丹]傳に「秦始皇時置酒而天雨、陛楯者皆沾寒」などありてぬるるの義あり。
○山之四附二 最後の句、上の第二句をくりかへして意の切なるをあらはせるなり。
○一首の意 わが愛する郎女に逢ひもするかとて山の草木の露滴をもいとはず、立ち待ちて吾れは身もしとどにぬれたるよとなり。
 
(80)石川郎女奉和歌一首、
 
○奉和歌 は答へ奉る歌なり。
 
108 吾乎待跡《アヲマツト》、君之沾計武《キミガヌレケム》、足日木之《アシヒキノ》、山之四附二《ヤマノシヅクニ》、成益物乎《ナラマシモノヲ》、
 
○吾乎待跡 舊訓「ワレヲマツト」とよめり。契沖は「吾はわ〔右○〕とひと文字にも讀むべし」といひ、考には「アヲ」をよむべしといへり。「アヲ」と書ける例は卷十二「三〇一三」に「安乎忘爲莫《アヲワスヲスナ》」卷十四「三四五六」に「安乎許登奈須那《アヲコトナスナ》」「三四五七」に「安乎和須良須那《アヲワスラスナ》」などあり。「ワヲ」を書ける例は卷十一「二四八三」に「和乎待難爾《ワヲマチガテニ》」卷十四「三五六三」に「和乎可麻郡那毛《ワヲカマツナモ》」卷十六「三八八六」に「和乎召良米夜《ワヲメスラメヤ》」等あり。されば「ワヲ」とよまむもあしきにあらず。今姑く考に從ふ。
○君之沾計武 「キミガヌレケム」とよむ。上の御歌の詞に因みていへるなり。
○成益物乎 「ナラマシモノヲ」とよむ。「まし」は豫想假設したるをいふ複語尾なり。
○一首の意 吾を待つとて君が山の雫にぬれたまひけむことこそ忝けれ。あはれそのしづくに我はならましものを。さらば、その時君が御身にもそひ奉らまし。かく君が我を思ひたまへるを知らずしてすごししことの口惜さよとなり。
 
大津皇子竊2婚石川女郎1時津守連通占(ヒ)2露(シカハ)其事1皇子御作歌一首
 
(81)○竊婚時 「シヌヒアヒタマヘルトキ」とよむべきか。ここに竊婚とあれば、この石川女郎は正しくは大津皇子にめさるべき人にてはあらざりしなるべし。この事はなほ次の歌の條にいふべきことあり。
○津守連通 この人の事は和銅七年正月に正七位上津守連通に從五位下を授けられ、十月に美作守となれり。績日本紀に「養老五年正月甲戌詔文人武士國家所v重、醫卜方術古今斯崇、宜d擇於2百僚之内1優2遊學業1堪v爲2師範1者加2賞賜1勘c勵後生u、因賜2明經第一博士………陰陽從五位上大津連首、從五位下津守連通……各※[糸+施の旁]十疋、絲十※[糸+句]、布二十端、鍬二十口1……」と見ゆ。さればその頃の陰陽道の達人なりしを見るべし。この人同七年正月には從五位上を授けられたり。津守氏は新撰姓氏録によれば二流あり。一は津守宿禰にして火明命の後、一は津守連にして天香山命之後なりと見ゆ。ここはその連姓のなり。
○占露 「ウラヘアラハシシカバ」とよむべし。「ウラヘ」といふ語は「卜合へ」の略まれるにて、古事記に「卜相」日本紀に「卜合」などかけるこれなり。今「うらなふ」といふ詞におなじ。「露」は露顯の義なり。
 
109 大船之《オホフネノ》、津守之占爾《ツモリノウラニ》、將告登波《ツケムトハ》、益爲爾知而《マサシニシリテ》、我二人宿之《ワガフタリネシ》。
 
○大船之 「オホフネノ」とよむ。「津守」の枕詞とせり。大船の泊つる津にかけたるなり。契沖は「住吉につもりのうらあれば通が氏よりうらなひまでにかけたまへり、又津をもるものは船の(82)出入をかんがへてみだりなることあらしめねばかれこれ心かよへり」といへり。攷證にはこの説にもとづきて、「占を浦にとりなしてことばのあやを爲せる也。」といへり。或はさる事もあるべし。
○津守之占爾 舊訓「ツモリノウラニ」とよめるを考に「ツモリガウラニ」と改めてより諸家之に從へり。されど、いづれにてもありなむ。津守連通が占卜にといふことなり。「ウラ」は本義「心」にて神慮を伺ふわざをするをもいふ。卷十四「三三七四」に「麻左※[氏/一]爾毛乃良奴伎美我名字良爾低爾家里《マサテニモノラヌキミガナウラニデニケリケリ》」と見ゆ。何の爲にかゝる事を占ひしか、公の命によりてか、又私の爲にか、その點は明かならず。
○將告登波 舊訓「ツケムトハ」とよめるを童蒙抄に「ノラムトハ」とよみ、考以下これに從へり。按ずるにかく「のる」といへるは、卷十四(上掲の)歌に「武藏野爾宇良敝可多也伎麻左※[氏/一]爾毛乃良〔二字右○〕奴伎美我名字良爾低有家里」とあるなどより考へしならむが、この「のる」は君が名を宣る意にして卜がその名を宣るといへるにはあらず。その他卷十一「二五〇六」に「占正謂妹相依《ウラマサニイヘイモニアハムヨシ》」とある「謂」をも「のる」とよめる本あるがいづれもこの例より考へつきたるに止まれり。もと「告」字は「のる」とも、「つぐ」ともよまるべき字なるが「のる」と「つぐ」とは國語としては意ややかはれり。「のる」は特定の對者に對する性質の語にあらずして、神又は君などの御心の發表をいふに止まり、若し對者ありとせば、一般世人を對者とすといふべし。問ひに對しては「つぐ」といふべきものり。然るに、略解には「卜には「のる」といふが定なり」といひたれど、その證なし。卷十三「三三一八」の長歌に「夕(83)卜乎吾問之可婆夕卜之吾爾告良久《ユフウラヲワガトヒシカバユフウラノワレニツグラク》」とある「告良久」は、「ノラク」「ノルラク」にあらずして「ツグラク」とよむべきなり。又「ツグラク」といへる語の例は巻十三「三三〇三」に「里人之吾丹告樂久《サトビトノワレニツグラク》」などあり。ここは人より問ふに對して神意の卜の告ぐることにして今も「神の御つげ」といへるは古語ののこれるならむ。「つぐ」といふ語は卷十七「三九五七」に「白雲爾多知多奈妣久等安禮爾都氣都流《シラクモニタチタナビクトアレニツゲツル》」又「四〇〇〇」に「伊末太見奴比等爾母都氣牟《イマダミヌヒトニモツゲム》などあり。
○益爲爾知弖 舊訓「マサシニシリテ」なり。然るに童蒙抄には「爾」は「久」の訓かといひて「マサシクシリテ」とよみ、本居宣長は「爲」は「※[氏/一]」の誤にして「マサテニシリテ」とよむべしといひ(略解)古義には、「益」は「兼」の誤「爲」は「而」の誤「爾」は「乎」の誤りとして「カネテヲシリテ」とよむべしといへり。されど、「爾」字の古葉略類聚鈔になき外、諸本に文宇の異なるなし。而して「まさしにしりて」とよみて不當なるにあらねば、舊訓のままなるべし。「まさし」は「まさしき」といふ形容詞の語幹にて體言の如く用ゐられ、事状の正《マサ》しきをさす言をあらはす。從來の諸説にこの「まさし」を占にいふ術語の如く説けるはあたらず。これは契沖が既に代匠記に於いて「まさしには正しくなり。西行もまさしに見えてかなふ初夢と立春の歌によまれたり云々」といへる如く、必ずしも占に限らぬ語なり。古今集俳諧に深養父の歌「おもひけん人をぞともにおもはまし、まさしやむくいなかりけりやは」とあり。かく「まさし」はその事の爭ふべからざるをいふ語なるが「まさしに」はこれに「に」助詞を添へて修飾格に立たしめたるものなり。
○我二人宿之 「ワガフタリネシ」とよむ。語の例は古事記中神武天皇の御歌に「阿斯波良能志祁(84)去岐袁夜邇須賀多多美伊夜佐夜斯岐弖和我布多理泥斯《アシハラノシケコキオヤニスガタタミイヤサヤシキテワガフタリネシ》」とあり。
○一首の意 かの津守連通が占に我等が事を告げむといふことは即ちこの事のいつかは露顯すべき事はかねて正しくしかあるべしと心得てありながらもわれらは相ひ合ひつることよと、その占ひあらはしたる事に爭ひたまはぬ心をあらはせり。
 
日並皇子尊贈2賜石川女郎1御歌一首 女郎字曰2大名兒1也〔四字右○〕
 
○日並皇子尊 卷一柿本人麿の安騎野の長歌の反歌四首の末の歌に「日雙斯皇子尊」といへる御方これなり。即ち草壁皇太子にして文武天皇の御父にませり。日並皇子尊と書けるにつきて考には「知」字を加へて日並知皇子と改めたり。これは績日本紀にしか書けるによりていへるなるべし。されど、この卷の末なるにも日並皇子とありて知字なし。こは本來粟原寺鑪盤銘に「日並御宇東宮」とあり、又本朝月令に引ける右官史記に「日並所知皇子命」とある如く正しくは「御宇」「所知」の文字にて「シ」の語のあらはされたるものなれば、しかかくべきを「知」一字とせるは既に略せるなり。かくて又更に今の如くに略せる書きざまも古くありしなるべければ、これを、誤なりとはすべからず。この御名の義は既に述べたり。
○贈賜石川女郎御歌 目録には「賜」字のみありて「贈」字なし。古寫本中にも細井本神田本には然あり。活字無訓本も亦然り。そのなきをよしとす。この石川女郎は恐らくは上の大津皇子の竊に婚したまひしといふ人なるべく、この人正しくは皇太子にめさせたまひしなるを大津(85)皇子の邪にとりたまひしなるべし。大津皇子が皇太子に反抗せむの意ありて、わざとさるわざしたまひしか、或はこの女の事を基として遂に反意を起したまひしか、いづれにしてもこの女の事は大津皇子と皇太子との間に起りし違ひ目の主なるものなるべし。然らずば上の文に「竊」といふ文字を用ゐる所以なし。
○女郎字曰大名兒也 これは注文なるが、板本「女郎字曰」の四字に止まれるは文を爲さず。脱字あること明かなり。活字無訓本には全くこの注文なく、元暦本金澤本等の古寫本にはこの下に續けて「大名兒也」の四字あり。目録にもしかあり。この注文なくば全くなかるべく、あらば、これまであるべきなり。字は本名の外に世に稱する名をさせり。大名は大名持命の大名と同じ意なるか。「兒」を女の名の下に添へていふこと上の「安見兒」卷十六に「櫻兒」「鬘兒」などあり。今もこの風殘れり。
 
110 大名兒《オホナコヲ》、彼方野邊爾《ヲチカタヌベニ》、苅草乃《カルクサノ》、束間毛《ツカノアヒダモ》、吾忘目八《ワレワスレメヤ》。
 
○大名兒 もと「オホナコヤ」とよみたるを仙覺が「オホナコヲ」とよみ改めたるなり。拾穗抄には「オホナコガ」をよしとし、代匠記には「オホナコヤ」ともよめり。按ずるにこれは末句の「忘る」の對象となる語なれば、「ヲ」とよむべきものなり。
○彼方野邊爾 「ヲチカタヌベニ」とよむ。「彼方」を「ヲチカタ」といふは日本紀神功卷に「烏智箇多能阿羅々麼菟麼邏《ヲチカタノアララマツバラ》」などその例なり。「遠近」とかきて「をちこち」とよむによりて往々「ヲチ」に遠き意(86)ありとするは誤なり。ただこちらに對してあちらといふ程の意なり。又「ヲチカタ」を地名の如くに心得るもよからず。ただあなたの邊といふまでの意と知るべし。
○苅草乃 舊板本「カルカヤノ」とよみ來れるが、元暦本、金澤本などには「カルクサ」ともよめり。按ずるに「カヤ」といふは屋を葺く料としての名なるに、ここにてはその「カヤ」とよむべき特別の理由なければ、ただ「クサ」とよみて足れり。一概に「苅る」とつづくる場合はみな「カヤ」とよまむは極端なり。秣草として、野の草を苅ることは萱を苅るよりも普通の事なるを見よ。さて苅りたる草は束ねて運ぶものなるによりて、次の「束」といふ詞につづくるものにして、以上二句は下の「束」の序詞とす。
○束間毛 「ツカノアヒダモ」とよむ。卷十一「三七六三」に「紅之淺葉乃野良爾苅草乃束之間毛吾忘渚菜《クレナヰノアサハノヌラニカルクサノツカノアヒダモワヲワスラスナ》」とありて、この歌と詞の趣似たり。又卷四「五〇二」に夏野去小牡鹿之角乃束間毛妹之心乎忘而念哉《ナツヌユクヲシカノツヌノツカノマモイモガコヽロヲワスレテオモヘヤ》」とある如く「ツカノマ」といへるもあり。さてこの「束」は上よりの關係にて見れば、苅りたる草を束ぬる由の詞なれど、ここの實際の意は短きことをいへるなり。その短き意なる「ツカ」は手にて握む意のつかにして四の指を並べてつかみたる長さをいふ。これ古への長さを計る一種の單位にして八握鬚、十握劍などいふ握これなり。單に「ツカ」といへるは即ち一握にして甚だ短きことをいふ代表語たり。されば「ツカノマ」は今の暫の間又は一寸の間などいふに似たる心持をあらはしたる詞と知るべし。
○吾忘目八 「ワレワスレメヤ」とよむ。「ワガ」とよめる本もあれど、それにては語の調あはず。「ヤ」(87)は疑問の助詞にして、ここには「む」の已然形を受けて反語をなせり。かくの如きは古語の一格なり。その意は決して忘れはせじと治定するなり。
○一首の意 かの名高き大名兒をば、われは暫しの間も忘れむことあらむや決して忘れはせじとなり。
 
幸2于吉野宮1時弓削皇子贈2與額田王1歌一首
 
○幸于吉野宮時 持統天皇の行幸ありし時に弓削皇子の供奉ありしなり。持統天皇の吉野離宮に行幸ありしは卷一にもいへる如く屡なるが、こは何時の行幸なりしか詳ならず。されど、「ほととぎす」をよまれたれば、四年五月か、五年四月かのうちなるべし。
○弓削皇子 この皇子は天武天皇第六の皇子にますこと、續日本紀文武天皇三年七月その薨去の記事に見えたり、日本紀天武天皇二年條に、「次妃大江皇女生2長皇子與弓削皇子1」とありて、長皇子の同母弟にます。持統天皇七年に位「淨廣貳」を授けられたり。
○贈與額田王 「贈與」は「オクリアタフ」とよむべきか。目録には「與」字なし。或は二字にてただ「オクリタマヘル」とよみてもあるべし。額田王は卷一にいへる如く、詳ならず。されど歌の趣にては天武天皇にめされし事ある額田王なるべく思はる。
 
111 古爾《イニシヘニ》、戀流鳥鴨《コフルトリカモ》、弓絃葉乃《ユヅルハノ》、三井能上從《ミヰノウヘヨリ》、嶋渡遊久《ナキワタリユク》。
 
(88)○古爾戀流鳥鴨 「イニシヘニコフルトリカモ」とよむ。童蒙抄に「ムカシカクワフルトリカモ」とよみたれど從ふべからず。されど、かくよみかへたるは「古にこふる」といふ語法の今と違へるに心づきし爲ならむ。さて契沖は「古に戀るは古を戀るなり」といへり。攷證はこれに基づきて「いにしへにのにもじはをの意にて君にこひ、妹にこひなどいふにもじと同じ」といへり。されど、これらはいづれも今の語法を以て古の語法に對していへるまでにして眞にその意を説けりとはいふべからず。この「に」は「に對して」の意ありて、その對象をさすなり。「戀ふる」といふ語に對する對象を「に」にて示すは古語のさまなり。卷四、「六九六」に「家人爾戀過目八方《イヘビトニコヒスギメヤモ》」卷六「九六一」に「湯原爾鳴蘆多頭者如吾妹爾戀哉時不定鳴《ユノハラニナクアシタヅハワガゴトクイモニコフレヤトキワカズナク》」などあるにて知るべし。今の語にて「何を戀ふる」といふと結局は同じ事をさせるに相違なけれど、考へ方は違へり。「を」は動的の目標をさし、「に」は靜的の目標をさせばなり。さてこの鳥は何なりしか。歌の上にては明かならず。次の奉和歌を見れば、「ほととぎす」なりしなり。「ほととぎす」は支那にて蜀魂などいひ、蜀王の死してその魂のなれる鳥にして、常に古を思ひては鳴くといふ傳説あり。その傳説はやく本邦にも傳はりて古を戀ひてなくとは信ぜられしならむ。古今集の壬生忠岑の歌に「むかしへや今もこひしきほとときす古郷にしもなきて來つらむ」といひ、平家物語大原御幸に郭公花橘の香をとめてなくは昔の人やこひしきし」といふ朗詠集(よみ人しらず)の歌を引けるなど皆この思想なり。「鴨」は感動の「カモ」といふ助詞にあてたるなり。
○弓絃葉乃 「ユヅルハノ」とよむ。「絃」字京都大學本、大矢本に「弦」に作れり。普通には「弓ヅル」に「弦」(89)をあつるものなれど、「弦」「絃」もと同字なれば不可ならず。略解に「弦」に改めたれど、必ずしも改むるに及ばず。「ユヅルハ」は今「ユヅリハ」といふ植物にてその葉を新年の飾に用ゐるなり。古「ユヅルハ」といひしことは卷十四「三五七二」に「阿自久麻夜末乃由豆流波乃《アシクマヤマノユヅルハノ》」とあるなどにて知るべし。
○三井能上從 「ミヰノウヘヨリ」とよむ。三井は御井の義なり。この「ユヅルハ」を名に負へる御井は蓋しその附近にこの木ありしが故なるべし。古の井のほとりには然るべき樹を植ゑしことは既にいへり。さてこの御井は吉野離宮の御用にあてしものにしてその附近にありしものなるべけれど、今詳ならず。然るに、その地と稱するもの二所ありて一は六田村に一は大瀧村にありと大和志にいへり。されど、それらは古の吉野離宮の地より頗る隔りたる土地なれば、いづれもあらぬ所なるべくして信ずべからず。「從」は「ヨリ」の助詞にあてたるなり。この「ヨリ」はその地點を經過して行く由をあらはす。
○鳴渡遊久 「ナキワタリユク」とよむ。即ち他より鳴き來りその御井の上を通りて他にわたり行く由をいへるなり。「なきわたる」といふ語は集中に例多し。今一々あげず。
○一首の意 この鳥は古に戀ふる鳥なるか。弓絃葉の御井を通りて鳴き渡り行くとなり。こは父帝の古、皇太弟を辭してこの宮に入りましし事、又御即位の後も屡行幸ありし時の事などの、その鳥、又はその御井によりて思ひ出でらるるふしありて、額田王も亦天武天皇の御ゆかりの人なれば、古を思ひ出でたまふよすがともあらむとて贈られしならむ。
 
(90)額田王奉和歌一首
 
○奉和歌 「コタヘマツレルウタ」とよむべし。但し、「和」を「コタフ」とよむは唱和の和にして應答の答にあらず。
○ 元暦本金澤本西本願寺本その他に「一首」の下に、「從倭京進入」と注せり。從ふべきなり。之によれば、額田王は行幸に供奉せず、都に止まりまししなり。かくて倭京にて上の御歌を受け、それに和して、この歌を吉野宮なる皇子の許に奉られしなり。
 
112 古爾《イニシヘニ》、戀良武鳥者《コフラムトリハ》、霍公鳥《ホトトギス》、蓋哉鳴之《ケダシヤナキシ》、吾戀流其騰《ワガコフルゴト》。
 
○古爾戀良武鳥者 「イニシヘニコフラムトリハ」とよむ。童蒙抄はここをも「ムカシカクワフラムトリハ」とよみたれど從ひ離し。「ラム」は終止形を受けて現實の推量をあらはす複語尾。君が古に戀ふる鳥かもとのたまひしその鳥、即ちその古に戀ふるならむとわが君の言をききて、推量するその鳥はといふ義なり。
○霍公鳥 「ホトトギス」とよむ。霍公鳥の字面その出典を知らず。或は郭公鳥を書きかへたるものなるべく、その郭公鳥は本來その鳴聲をとりて名づけしものにして、形は「ほととぎす」には酷似すれど、別なる鳥なり、されど本邦にては古くよりこの字を「ほととぎす」にてあてたり。本集卷十七に「思霍公鳥歌」と題して三首ある歌いづれも、「保登等藝須」をよめり、以て證とすべし。(91)さてこの「ほととぎす」は上の語と下の語とに各別なる關係を以て兩屬せる語にして、上に對しては「ほととぎす」ならむの意をなして、賓格兼述格の位地に立ち、下に對してはその「ほととぎす」はの意をなして主格の地位に立てり。
○蓋哉鳴之 古來「ケダシヤナキシ」とよめり。童蒙抄には「アカスヤ」とよみたれど、その理由なし。從ふべからず。「けだし」は「若し」といふに似て疑ひ推測する意の副詞なり。新撰字鏡に「儻設也若也※[人偏+周]也太止比又介太志」とあり。本集卷十五「三七二五」に「和我世故之氣太之麻可良婆思朗多部乃蘇低乎布良左禰《ワガセコガケダシマカラバシロタヘノソデヲフラサネ》」又卷十八「四〇四三」に「安須能比能敷勢能宇良末能布治奈美爾氣太之伎奈可須知良之底牟可母《アスノヒノフセノウラマノフヂナミニケダシキナカスチラシテムカモ》」とあり。さて「ヤ」は疑の助詞にして、これが係となりてあるが故に下を「ナキシ」と結べるなり。
○吾戀流其騰 古來「ワガコフルゴト」とよみ來れり。「其」字又「基」(金澤本)「碁」(神田本)に作れるあり。いづれにしても「ゴ」とよむに差支なし。「戀」字元暦本、金澤本等には「念」字をかけり。これによらば「ワガオモフゴト」とよむべきなり。いづれも意通らずといふことなければいづれをよしと定め難し。今は流布本に從ふ。「ごと」は「如く」の語幹にして古くはかく用ゐしこと少からず。
○一首の意 この歌上にいひし如く、「ほととぎす」が上下に兩屬し、これを中心として二段落をなせる歌なり。即ち、「古に戀ふらむ鳥はほととぎす」にて一段落をなす。その意は君が古に戀ふる鳥と仰せられし鳥は定めてほととぎすにて候ふべしとなり。次に「ほととぎすけだしやなきしわがこふるごと」を第二段落とす。その意はその霍公鳥は恐らくは私が古昔を戀ふる如(92)くに鳴きしならむとなり。かくいひてわれもその鳥の如くに古を戀ひ奉りて都に泣き居るよといふ意をあらはせるなり。
 
從2吉野1折2取蘿生松柯1遣時額田王奉入歌一首
 
○蘿生松柯 「蘿」は和名抄に「松蘿一名女蘿【和名萬豆乃古介一名佐流乎加世】とある植物にして、今も「さるをがせ」又「さがりごけ」といひて深山の松杉などの樹技にかかりて長く垂れてあり。ここにては、松に對していへるなれば、ただ「こけ」とのみよむべし。「生」は「ムセル」とよむべし。本卷、下「二二八」に「子松之末爾蘿生滿代爾《コマツガウレニコケムスマデニ》」とあるその例なり、「柯」は玉篇に「音哥、枝也又斧柄」と見えたり。「松柯」は「まつがえ」とよむべし。
○遣時 「遣」字元暦本、金澤本等多くの古寫本に「遺」に作れり。さては「遣」字を正しとすべきに似たれど、いづれにてもあるべし。「遺」字ならば、贈遺の義なれば、「オクレル」とよむべく「遣」字ならは「ツカハセル」とよむべし。さてこの松枝を贈れる人は誰なるか、明記なしといへども上の歌のつづきによりて弓削皇子なるべく思はる。
○奉入歌 「タテマツレルウタ」とよむべし。考に「イレマツル」とよみたり。されど、この「入」字は尊敬の意をあらはす爲に添へてかけるなり。延喜式、祝詞に「齋内親王參入時」その他參入進入など古書にその用例多し。吉野より弓削皇子が蘿むせる松枝をめづらしとて贈られたるにつきて額田王の奉りし歌なり。
 
(93)113 三芳野乃《ミヨシヌノ》、玉松之枝者《タママツガエハ》、波思吉香聞《ハシキカモ》、君之御言乎《キミガミコトヲ》、持而加欲波久《モチテカヨハク》。
 
○三吉野乃 卷一にいへり。
○玉枝之技者 「タママツガエハ」とよむ。「玉」は美稱に止まりて深き意あるにあらず。本居宣長は玉勝間十三卷に於いて、萬葉集に「玉」とあるは「山」の誤なること多しといひて、この「玉松」も「山松」の誤なりとし、「玉松」とかけるはこの一のみにして、しかも、玉松といふことはあることなしといひたり。されどこれは岸本の攷證にも既にいへる如く、ただ一所のみなりといひて誤りとせば、古書の貴重なる例證などすべてとられぬ事ならむ。「玉」を美稱として物名に冠することは古の風にして植物の名に冠せる例は「玉葛」(卷三以下)「玉藻」(卷一以下)その他後のものには玉篠、玉椿、玉柳、玉柏、玉藤などいへること頗る多し。(本居翁自身の著述には玉の小櫛、玉の小琴、玉の緒、玉勝間、玉あられど、玉を好みて用ゐし人のかかる説あるは奇なりといふべし。)「玉松の〔右○〕枝」といはずして「玉松が〔右○〕枝」とよむは、この頃に「松が〔右○〕枝」といふが普通のいひ方なりしが故なり。その證假名書なるは卷二十「四四三九」に「麻都我延乃都知爾都久麻※[泥/土]《マツガエノツチニツクマデ》」とあるにて知るべし。
○波思吉香聞 「ハシキカモ」とよむ。「ハシ」は愛すべき意をいふ古き形容詞にして、その假名書の例は卷三「四七四」に「波之吉佐寶山《ハシキサホヤマ》」又「四七九」に「波之吉可聞皇子之命乃安里我欲比《ハシキカモミコノミコトノアリガヨヒ》云々」卷十八「四一三四」に「波之伎故毛我母《ハシキコモガモ》」卷十九「四一八九」に「波之伎和我勢故《ハシキワガセコ》」卷二十「四三三一」に「波之伎都麻良者《ハシキツマラハ》」「四三九七」に「波之伎多我都麻《ハシキタガツマ》」などあり。この卷「二二〇」に「愛伎妻等者《ハシキツマラハ》」とかけるも「ハシキツマ(94)ラハ」とよむべきなり。「香聞」は「カモ」にして感動の助詞なり。
○君之御言乎 「キキミガミコトヲ」とよむ。御言は御ことばといふ事なるが、ここは恐らくは御文をさせるならむ。古は文歌などを木の枝などに結びつけて贈答せしなり。
○持而加欲波久 「モチテカヨハク」とよむ。「モチテ」は上にいへる如く、松の枝に文歌などの結びつけられてあるをば松がみづから持ち來れる由にいひなせるなり。「カヨハク」の「ク」の「事」の意の古言なるべく、「通ハク」はここにては「通ふことよ」といふほどの意なるべし。「通ふ」は往き來することをいふなり。
○一首の意 この吉野の玉松の枝はさるをがせなど生ひて面白きものなるが、さても愛すべきものなるかな。さるは、そのさまの面白きのみにあらず君が御言を持ちてここに通ひ來れることの故に一層愛すべく思はるとなり。これは松枝がわが君の御言を持ちてはる/”\ここに通ひ來しことよといひて、贈り賜ひし君の好意を謝する意をわざと松にかこつけていへるなり。
 
但馬皇女在2高市皇子宮1時思2穗積皇子1御歌一首
 
○但馬皇女 天武天皇の皇女にして、御母は藤原鎌足の女氷上娘なること、日本紀天武天皇二年の紀に見ゆ。續紀に、「和銅元年六月丙戌三品但馬内親王薨天武天皇之皇女也」と見ゆる但馬内親王これなり。
(95)○在高市皇子宮時 高市皇子は天武天皇の皇子にして御母は※[匈/月]形君徳善が女尼子娘なること日本紀天武天皇二年の紀に見ゆ。されば、この皇女とこの皇子とは異母兄弟にてましますなり。さて高市皇子はこの持統天皇の朝四年に太政大臣となり、十年七月に薨じたまひぬ。日本紀天武二年紀には「高市皇子命」と記し、又同紀持統十年紀にこの皇子薨去の條には「後皇子尊薨」と記し、又懷風藻なる葛野王の傳中に、「高市皇子死後皇太后引2王公卿士於禁中1謀v立1日嗣1」とあるより推せば、草壁皇太子の薨後、皇太子としておはせしものと見えたるが、史にその立太子の事を佚せるものと見えたり。さて但馬皇女が高市皇子の宮におはせしはただにおはせしにあらで、妃としてましますべき爲なりしなるべし。古は異母兄妹の婚を認めたり。
○思穗積皇子御歌 穗積皇子は天武天皇の第五皇子にして御母は蘇我赤兄大臣の女大〓娘なり。この皇子は續日本紀によれば、靈龜元年正月に一品に叙せられ、同七月に薨ぜられしなり。「御歌」の字元暦本、金澤本等には「御作歌」に作り、目録にも「作」字を加へたり。さてこの御歌はただに思ひ慕へるにあらで、竊に心を通したまひし趣に思はる。
 
114 秋田之《アキノタノ》、穗向乃所縁《ホムキノヨレル》、異所縁《カタヨリニ》、君爾因奈名《キミニヨリナナ》、事痛有登母《コチタカリトモ》。
 
○秋田之 「アキノタノ」とよむ。秋の實れる田をさす。
○穗向乃 舊本「ホムケノ」とよみたり。契沖は「ホムキノ」とよむべきかといひ、童蒙抄は「ホナミノ」とよめり。これは既に契沖が傍證とせる卷十七「三九四三」に「秋田之穗牟伎見我底利《アキノタノホムキミガテリ》」の例によ(96)りて「ホムキ」とよむをよしとす。「ほむき」は稻穗の熱するにしたがひて一方に靡きより傾くことをいへるなり。
○所縁 舊本「ヨスル」とよめるを契沖は「ヨレル」と改むべきかといひ、上を「ヨレル」とよみ、下を「カタヨリニ」とよめば上下打合ふ由にいへり、「縁」は元來「ヨル」とよむべき字にして「所」は「ル」の假名にあてたるものにして、その穗向はおのづからに、穗の片方によるものなれば、「ヨスル」とよむべきことにあらねば「ヨレル」とよむ方に從ふべし。
○異所縁 舊訓「カタヨリニ」とよめり。童蒙抄は「異」を「コト」とよみて「如」の意とし「所縁」を「ヨリシ」とよみたり。按ずるに卷十「二二四七」に「秋田之穗向之所依片縁吾者物念都連無物乎《アキノタノホムキノヨレルカタヨリニワレハモノモフツレナキモノヲ》」といふありて、上三句全く同じと思はれたれば、それによりて、舊説に從ふをよしとす。但し「異所縁」を「カタヨリ」とよむことは攷證にいへる如く義訓たるに相違なけれど、その樣は未だ明かならず。「カタヨリ」とは片方に一向になびくことを「カタヨル」といふを體言にしていへるなり。上三句の意は秋田の實れる稻穗の穗向の片よりて靡くが如くの意にして、下の句を導く爲の料なり。
○君爾因奈名 「キミニヨリナナ」とよむ。古義には「ヨラナナ」といふ或人の説ありといへるが、それは古義も既にいへる如く、從ふべからず。「ヨラナ」といへば、「ナ」は既に終止すべき助詞にして、その下に再び「ナ」あるべきにあらず。「ヨリナナ」の末の「ナ」は卷二の最初の歌にある「キカナ」などの「ナ」と同じく用言の未然形を受けて冀ふ意をあらはす助詞にしてここにては自らの希望をいふに用ゐたるなり。而してその上の「ナ」は「な、に、ぬ、ぬる、ぬれ、ね」と活用する完了決定又は確め(97)の複語尾の未然形にして、その「な」の複語尾は、用言の連用形に屬するものなれば、「ヨリナナ」といふべきものたるなり。さてこの「なな」は中世以後の詞にては「よりなばや」といふに似たる語なり。さてこの上の「な」は確めの意あるものなれば、「よりなな」は「必ず依り從はむと思ふ」といふ程の意なり。君は穗積皇子をさす。
○事痛有登母 舊訓「コチタカリトモ」とよめり。童蒙抄に「コチタクアリトモ」とすべしといへり。いづれにてもよかることなれば、舊訓を改むるに及ばざらむ。「コチタク」は「コトイクク」の約なるが、「コトイタク」は「言|甚《イタ》ク」にして甚く言ひ騷ぐさまをいふ。これを約めて「コチタク」といへる例の假名書にせるものは本集には見えねど、下なる同じ人の歌(一一六)に「人事乎繁美許知痛美《ヒトゴトヲシケミコチタミ》」とあるに照してかくよまむことの無理ならぬを思ふべし。なほ「こちたく」は下にいふべし。この一句は反轉法によれるものにして、文理のままならば、最も上にあるべきなり。
○一首の意 秋の田の熟れる稻穗の一方に片より靡く如く、われも一向に君のみを頼み奉らむ。たとひ人言がいかにうるさくやかましく、世間の人が彼是といひ騷ぐとも。われはそれらを顧みることなくひたすらに君に心をよせ奉るとなり。
 
勅2穗積皇子1遣〔左○〕2近江志賀山寺1時但馬皇女御作歌一首
 
○遣2近江志賀山寺1時 「遣」字流布本「遺」に作れるが、そは誤寫にして、元暦本、金澤本、京都大學本其他多くの古寫本并に目録に「遣」につくれるをよしとす。志賀山寺は續日本紀卷二に大寶元年八(98)月「甲辰太政官處分近江國志我山寺封云々」と見え又卷十三、天平十二月「乙丑幸2志賀山寺1禮v佛」とも見えたり。この寺は天智天皇の建立にして、志我山に建てられしよりの名なるが、本名を崇福寺といひ大寺として古に名高かりしが、後に遷して園城寺に合せたり。その遺趾は見世村(今南滋賀村)の邊にありといふ。中世の歌に志我山越といへるも白川よりこの寺に詣づる道なりしなり。さてこの皇子をこの寺に遣されしこと史にのせず、その理由も知りがたきことなり。考に「左右の御歌どもを思ふに、かりそめに遣さるる事にはあらじ。右の事顯れたるに依て此寺へうつして法師に爲給はんとにやあらん。」といへり。されど必ずしもかく斷ずべからず。攷證には「造立の事か、またはさるべき法會などありて勅使に遣はされしなるべし。」といへり。これも亦證なきことなれど或はこの方ならむ。
 
115 遺居而《オクレヰテ》、戀管不有者《コヒツツアラズハ》、追及武《オヒシカム》。道之阿回爾《ミチノクマミニ》、標結吾勢《シメユヘワガセ》。
 
○遺居而 古來「オクレヰテ」とよめるを童蒙抄に「ノコリ」とよめり。されど、古來の訓に從ふべし。「遺」は通例「ノコル」と「オクル」ともよむなり。これを「オクル」の義にとることは古言に旅などに行く人に對してあとに遺りて居ることを「オクル」といへばなり。その例は卷第九「一七七二」に「於久禮居而吾波也將戀《オクレヰテワレハヤコヒム》」卷十七「四〇〇八」に「無良等理能安佐太知伊奈婆於久禮多流阿禮也可奈之伎《ムラトリノアサタチイナバオクレタルアレヤカナシキ》」とあるが如きこれなり。
○戀管不有者 「コヒツツアラズハ」とよむ。「戀ひつつ居らずしてそれよりは」の意なり。かかる(99)際の「ズハ」の意は既にこの卷「八六」の下にいへり。
○追及武 舊訓「オヒユカム」とあり。契沖が、「及」字をば、日本紀及び本集に「シク」とよめるによりて「オヒシカム」とよむべしといへるに從ふべし。その「シク」は及ぶ意なり。古事記上巻に「亦云2其追斯伎斯1【此三字以音」而號2道敷大神1」と見え、又同仁徳卷に「夜麻斯呂邇伊斯祁登里夜麻《ヤマシロニイシケトリヤマ》、伊斯祁伊斯祁阿賀波斯豆摩邇伊斯岐阿波牟迦母《イシケイシケアガハシヅマニイシキアハムカモ》」とあり。この「イシク」の「イ」は所謂發語にしてその「シク」はこの「及」字にあたれり。この「オヒシカム」は今の語にては「オヒツカム」にあたる。以上第三句までにて一段落なり。
○道之阿回爾 「回」を元暦本、金澤本、京都大學本等に「廻」の體につくれるも意はかはらず。さてこれを舊訓「ミチノクマワニjとよめるを攷證に「クマミニ」とよむべしといひ、卷五「八八六」の「道乃久麻尾爾《ミチノクマミニ》」とあるを證とせり。回を「ミ」とよむことは巻一「四二」の「荒島回乎《アラキシマミヲ》」の下に述べおきたれば往きて見るべし。「阿」は玉篇に「曲也」又「水岸也」と注せるによりて「クマ」の義あるを知るべし。「クマミ」にて結局隈々といふに同じかるべし。
○標結吾勢 「シメユヘワガセ」とよむ。「シメユフ」といふ語は本卷「一五一」に「大御船泊之登萬里人標結麻思乎《オホミフネハテシトマリニシメユハマシヲ》」「一五四」に「爲誰可山爾標結《タガタメカヤマニシメユフ》」卷三「四〇一」に「其山爾標結立而《ソノヤマニシメユヒタテテ》」などあり。「シメ」には後世いふ「シメナハ」の意もあれど、ここはしるしをいへるにて、「標」の字の義よくあたれり。その意の「しめ」の假名書の例は卷十八「四〇九六」に「大伴能等保追可牟於夜能於久都奇波之流久之米多底比等能之流倍久《オホトモノトホツカムオヤノオクツキハシルクシメタテヒトノシルベク》」とあり。さてこの「シメ」は路しるべのしるしをいへるにて「シメユフ」とはその(200)道しるべのしるしをば道の曲り所、又は分れ路などの木などに結びおきてその道の行く手を後に來る人に知らしむるにて、世にいふ「しをり」といふにおなじ。その「シメ」をゆひおきてわが追ひ行かむに道のまがはぬやうに示しおきたまへとなり。「わがせ」はよびかけて宣へるなり。「せ」は女より男をよびていふ語なり。
○−首の意 君におくれてゐて戀ひつつ苦みてあらむよりは一層のことわれは君のあとを追つかけて追ひつき奉らむ。さらむが爲には道の迷ひぬべき所々にしるしを結びおきてわれに知らしめたまへ、わがせの君よとなり。この歌は二段落にして三句切れの歌なり。然るに、萬葉集に三句切の歌あるべからずとして、強ひておひしかむ道とつづく意に説ける人あり。強ひ言といふべきのみならず、かくてはこひつつあらむよりは「標結へ」といふ意になりて、歌の意全く通らずなるべきなり。從ふべからず。
 
但馬皇女在2高市皇子宮1時竊接2穗積皇子1事既形而御作歌一首
 
○但馬皇女在2高市皇子宮1時 上にいへり。
○竊接2穗積皇子1事 「竊接」は「ヒソカニミアヒマシシコト」とよむべし。「接」は説文に「交也」廣韻に「合也」「會也」とあり。
○既形而 代匠記にこの下に「後」字脱すとせり。目録には「後」字あり。按ずるにこの字あるをよしとす。形」は「アラハルル」なり。大學に「此謂d誠2於中1形〔右○〕c於外u」とある、その例なり。
 
(101)116 人事乎《ヒトコトヲ》、繁美許知痛美《シゲミコチタミ》、己(母)世爾《オノガヨニ》、未渡《イマダワタラヌ》、朝川渡《アサカハワタル》。
 
○人事乎 「ヒトゴトヲ」とよむ。人言の義にて人のいひ騷ぐをいふ。卷十四「三四六四」に「比登其等乃之氣吉爾余里※[氏/一]《ヒトゴトノシゲキニヨリテ》」「三五五六」に「佐宿都禮婆比登其騰思氣志《サネツレバヒトゴトシゲシ》」とあり。
○繁美許知痛美 「シゲミコチタミ」とよむ。卷十二「二八九五」に「人言乎繁三言痛三我妹子二去月從未相可母《ヒトゴトヲシゲミコチタミワギモコニイニシツキヨリイマダアハヌカモ》」といふ歌あり。似たる趣の歌なり。これは「人言をしげみ」「人言をこちたみ」といふべきを重ね略したるなり。しげみは「繁く思ひ」にして「こちたみ」は「こちたく思ひ」なり。「しげく」は頻繁にいはるるをいふ。。「こちたく」は上にいへる如く「こといたく」の約まれるものにしてこの語の假名の例は未だ集中に見えず。卷七「一三四三」に「事痛者左右將爲乎《コチタクバカモカモセムヲ》」又卷七「二三二二」に「甚毛不零雪故言多毛天三空者隱相管《ハナハダモフラヌユキユヱコチタクモアマノミソラハクモリアヒツツ》」を「こちくは」「こちたくも」とよみたるなど同じ言の例とすべし。「こちたく」の「こと」は言にして、「いたく」は「甚く」の義なり。かくてもとはことにうるさくいはるる義なるべきが、言に限らずうるさき状をいふに用ゐたりと見ゆ。されば本集卷十二「二九三八」に「人言乎繁三毛人髪三我兄子乎目者雖見相因毛無《ヒトゴトヲシゲミコチタミワカセコヲメニハミレドモアフヨシモナシ》」に「毛人髪三」を「こちたみ」に用ゐたるもその義によれりと見ゆ。「毛人」は蝦夷人にしてその毛深きによりてかく古よりいへるが、その毛人の髪の多くて、みるからにこちたくありしより「毛人の髪」を「こちたし」と感じたるまま形容詞に借り用ゐしならむ。さて「人言をしげみ、こちたみ」は「人にしげくうるさくいひさわがるるによりて」の意なり。
(102)○己母世爾 舊本「オノカヨニ」とよめり。然れどもこのままにてしかはよみ難きなり。契沖は「イモセニ」とよみたれど意通ぜず。考には「オノモヨニ」とよみ長々と説を立てたれど、要するに解すべからず。ここに於いて誤字説起り、略解は「母」は「我」の誤にて「オノガヨニ」ならむといひ、宣長は「爾」は「川」「河」又は「水」の誤にして「イモセガハ」ならむといひ、守部は「母」は「介」の誤にしてその下に「流」を脱せるにて「己介流世《イケルヨ》二」ならむとし、古義には「己母」は「生有」の誤にして同じく「イケルヨニ」と訓めり。しかれども、かく二三字までも改めて己がよみに從はしめむとするは古書を取扱ふ態度としては最も忌むべきわざなり。或は字のまま「オノモヨニ」とよむこと攷證の如くすべきか、「オノモ」とはいはれざるべきにあらねど、未だ例を知らねば決し難し。按ずるに、元暦本、類聚古集、古葉略類聚鈔、神田本、西本願寺本、等には「母」字なきなり。この字なしとせば、舊訓のままにてよきなり。されば、今姑くこれに從ふ。さて「世」とは人の生ける間をいふ。「竹のよ」とは節間をいふ如く人の生れ出でてより死ぬるまでの間を「よ」とはいふなり。ここの「己が世」とは己がこの世に生れ出てより今までの間をいへるなり。
○未渡 「イマダワタラヌ」とよむ。「未だ渡りしことなかりし」の意なり。「渡る」は河を渡るをいへるものなるが、男女の逢ふ瀬を河を渡るにたとへていへること古に多し。本集卷四「六四三」に「世間之《ヨノナカノ》、女爾思有者《ヲミナニシアラバ》、吾渡痛背乃河乎渡金目八《ワガワタルアナセノカハヲワタリカネメヤ》」
○朝川渡 「アサカハワタル」とよむ。「朝川渡る」は川を朝渡るをいふ。語の例は卷一「三六」に「船並※[氏/一]旦川渡舟競夕河渡《フネナメテアサカハワタリフナギホヒユフカハワタル》」卷三「四六〇」に「佐保河乎朝川渡春日野乎背向爾見乍《サホガハヲアサカハワタリカスガヌヲソガヒニミツツ》」とあるを最も適切と(103)す。これにては「朝川渡る」といふ一の熟語の如くなれり。この意を考に「事あらはれしにつけて朝明に道行給ふよし有て皇女の慣れぬわびしき事にあひたまふをのたまふか」といへるをよしとす。守部は「今日迄知らぬ世のうき瀬を渡りて潔身《ミソギ》し給ふよしなるべし」といへるが、それは例の強言なり。
○一首の意 われは此度の事によりて人にうるさくかれこれといひさわがるるによりて、自分が生れてから經驗したる事もなかりし事をして川を朝疾く徒渡したることよとなり。蓋し、一時いづれにか身をかくしたまひし折の御歌なるべし。
 
舍人皇子御歌、一首
 
○舍人皇子 即ち舍人親王にして、天武天皇の第三皇子、御母は新田部皇女なり。日本紀の撰者にして、養老四年知太政官事となり、天平七年薨ず。此皇子の御子大炊王天平寶字二年に即位あり。淳仁天皇これなり。かくて天平寶字三年六月この皇子に追號ありて崇道盡敬皇帝と稱し奉られたり。
○御歌 他の例によれば「御作歌」とありて然るべき所なれど然あらず。これによりて補へる學者あれど、かくかける本一もなく、目録にもしか見えず。されば、古よりかくありしならむ。又考にはこの上に「贈與舍人娘子」の六字を加へたり。これもしかありてよき所なれど、それも諸本に見えねば、加ふるも強事なりとす。
 
(104)117 大夫哉《マスラヲヤ》、片戀將爲跡《カタコヒセムト》、嘆友《ナゲケドモ》、鬼乃益卜雄《シコノマスラヲ》、尚戀二家里《ナホコヒニケリ》。
 
○大夫哉 「マスラヲヤ」とよむ。「大夫」を「マスラヲ」とよむことは卷一にいへり。「ヤ」は疑の係助詞にして、ここは反語を起せり。
○片戀將爲跡 「カタコヒセムト」とよめり。片戀とは獨自ら思ふのみにて對手に通ぜぬ戀をいふ。片戀の文字は本卷「一九六」卷三「三七二」卷八「一四七三」等に屡見ゆ。又卷十一「二七九六」に「獨戀耳年者經管《カタコヒノミニトシハヘニツツ》」とある「獨戀」も「カタコヒ」にしてその文字よくその意をあらはせり。又卷十二「二九三三」に「肩戀丹吾者衣戀君之光儀《カタコヒニワレハゾコフルキミガスガタヲ》」とある「肩戀」はその讀み方を示すものといふべし。さて「せむ」は上の「や」に對しての結にして、「大夫や片戀せむ」といふなる一句をなすものなるが、その意は「大丈夫たるものは相も思はぬ人を片戀すべきことかは、すべきことにあらず」といふなり。「跡は假名にして助詞「ト」をあらはせり。
○嘆友 舊本「ナゲケドモ」とよめり。然るに「ナゲクトモ」と細井本にある由なれど、然る時は下に打合はず、舊本のままにてあるべし。
○鬼乃益下雄 舊板本「シコノマスラヲ」とよめり。然れども、元暦本金澤本等に「オニノマスラヲ」とよみ、契沖また「オニノマスラヲ」をよしとせり。これはもと「オニノマスラヲ」とよみたりしを仙覺が「シコノマスラヲ」とよむべく按出せし所にして、契沖は古點にかへしたるなり。童蒙抄は又「鬼」は「思」の誤かといひて、「モヒノマスラヲ」とよめり。されど、その證を知らず。契沖は「鬼と(105)はみつから罵訓なり」といひたれど、かかる事は證なし。契沖の證とせる遊仙窟の「窮鬼《イキスタマ》故|調《アサムク》v人(ヲ)」とある「窮鬼」はわが所謂「おに」の意にあらずして、俗にいふ貧乏神にして、他を罵る語なればこれを證とするは不當なり。次に「シコ」とよむべき事は如何と考ふるに、「シコ」といふ語の假名書の例は、卷八「一五〇七」に「志許霍公鳥《シコホトトギス》」卷十「一九五一」に「慨哉四去霍公鳥《ウレタキヤシコホトトギス》」卷十三「三二七〇」に「少屋之四忌屋爾《ヲヤノシコヤニ》事」卷十七「四〇一一」に「多夫禮多流之許都於吉奈乃《タブレタルシコツオキナノ》」卷二十「四三七三」に「意冨岐美乃之許乃美多弖等《オホキミノシコノミタテト》」等あれば、かかる語ありしを見るべし。その「しこ」といふ語の義は、古事記上卷に「豫母都志許賣《ヨモツシコメ》」とかけるを日本紀卷一には「泉津醜女」と書き、その自注に「醜女此云|志許賣《シコメ》」とあり。されば「志許」といふ語は「醜」字にあたるものと思はる。然るに、ここに「鬼」字をかけるは如何。集中「鬼」字を「シコ」とよむべき所はこの外にもあり。卷四「七二七」に「萱草吾下紐爾著有跡《ワスレグサワガシタヒモニツケタレド》、鬼乃志許草事二思安利家理《シコノシコクサコトニシアリケリ》」卷十二「三〇六二」に「萱草垣毛繁森雖殖鬼乃志許草猶戀爾家理《ワスレグサカキモシミミニウヱタレドシコノシコクサナホコヒニケリ》」又卷十三「三二七〇」に「少屋之四忌屋爾《ヲヤノシコヤニ》」又「鬼之四忌手乎指易而《シコノシコテヲサシカヘテ》」などこれなり。これらは「鬼」が「シコ」とよまるべくば「シコノシコ何」と重ねていへるものといふべきなり。この「鬼」字を「シコ」とよむべしとせば、そは、醜字と相通ずるものなるべしとは何人も思ひ及ぶべき所なるが、然らば何故に通用しうるか。普通の見地にては「鬼」は「醜」の略字なりといふなり。古事記傳卷六には(本書を引いて)「これらの鬼(ノ)字を於爾と訓るは非なり。こは醜(ノ)字の偏を略《ハブケ》るか又醜女の意を得て鬼とは書かいづれにまれ、志許なり。」といへり。按ずるに醜を略して鬼とせる例はいまだ知らねば、「醜女」の意にて鬼を用ゐしならむ。和名抄に「日本紀私記云醜女【志古女】或説黄泉之鬼也」とあり。日本紀通證(106)には神代記の醜女を注せるうちに「欽明紀魃鬼訓2志古女1則鬼之爲2醜女1可2以知1也」といへり。されば今いふ「オニ」といふことは古語「シコメ」なりしこと著し。今の「オニ」といふ語は元來漢語の「隱《オニ》」の音より出でしことは和名抄に「鬼」に注して「和名於邇或説云於邇者隱音之訛也」といへるにて明かなり。されば、「オニ」といふ語この頃既にありとしても、元來は漢語なるなれば「鬼」字即ち古語「シコメ」といひしなるべきが、それを「醜女」とかけるは醜に「シコ」の義ありて、その「メ」は「女」の義としてあてしならむが、「シコメ」といふ本語に女の義ありしか如何は疑はしけれど「醜女」とかけるによりて女性のものたるやうに思はれ易く、かくて「シコメ」即ち「女鬼」なるやうに思はる可ければ、女性ならぬ「シコメ」は「鬼」とかくやうにもなりしならむ。かくて「鬼」は「シコ」にあたるものといふやうになりしならむ。かくてその「シコ」の「鬼」字をばここにいふ「醜」字の義の「シコ」に假り用ゐしならむ。日本紀孝徳卷大化四年條に「高田醜【此云之渠】」とあるをも思ふべし。さてその「シコ」の本義をあらはす「醜」字に「ミニクシ」と普通に訓ずるは玉篇に「貌惡也」とあるに一致すれど、説文には單に「可v惡也」とあれば、必ずしも貌にかけてのみいふ語にあらざるなり。かくて國語の「シコ」はその「可v惡」の意にて、他に對しては物を罵りていふ語となり、自らに對しては或は自ら卑下し或は自ら嘲りていふ語となれりと思し。(諸注に自ら卑下する意と專らにいへるは不十分なり。)さてここは自ら嘲りていへることは明かなり。この「しこ」の用法を上の諸例にていへば、卷八卷十の「シコホトトギス」卷十七の「シコツオキナ」卷四卷十二の「シコノシコ草」は他を罵りていへる例にして、卷二十の「シコのミタテ」は自ら卑下していへるもの、この歌及び、卷十三の「ヲ(107)ヤノシコ屋」「シコノシコ手」は自ら嘲けれるものといふべし。[益卜雄」は「益卜」を「マスラ」(「正卜」の義)とよむによりて「雄」を加へて「ますらを」にあてたるなり。
○尚戀二家里 「ナホコヒニケリ」とよむ。「なほ」は「やはり」の意なり。
○一首の意 大丈夫たるものは、片戀などすべき事かはと自ら勵ませども、やはり片戀に戀にてあることよ。ああ、われは眞の丈夫にあらずしてしこのますらをなるよとなり。この御歌の片戀の相手たる戀人は歌には明かならねど、次の和歌によりて舍人娘子にありけりと知らる。しかも、これは片戀を嘆き給ふ由に宣ひ、又自ら嘲りて「しこ」のますらをとは宣へども、内實はその娘子の心を引き試みむ料によみたまへるなりけり。
 
舍人娘子奉和歌一首
 
○舍人娘子 この女の歌は卷一にもあり。事蹟はそこにいへり。舍人皇子の御名を以て按ずるに皇子の乳母即ち舍人氏にして、その女この娘子なるべければ、俗に所謂乳兄弟なりしが故に親しみもまししならむ。
○奉和歌一首 上にいへると同じ。
 
118 歎管《ナゲキツツ》、大夫之《マスラヲノコノ》、戀禮許曾《コフレコソ》、吾髪結乃《ワガモトユヒノ》、漬而奴禮計禮《ヒヂテヌレケレ》。
 
○歎管 「ナゲキツツ」とよむ。語勢は下の「戀禮」につづくなり。
(108)○大夫之 舊訓「マスラヲノコノ」とよめり。「ますらをのこ」とは異なる訓み方なる如くなれどかくよむべき例集中に少しくあり。卷九「一八〇一」に「古之益荒丁子各競《イニシヘノマスラヲノコノアヒキホヒ」とある「益荒」は「ますら」「丁子」は「をのこ」なるを以て「マスラヲノコノ」とよむべきなり。
○戀禮許曾 舊本「戀亂許曾」とあり。しかも「コフレコソ」とよめるは「亂」を「禮」の誤字なりと認めたるによる。古寫本につきていへば、金澤本、西本願寺本、大矢本京都大學本に「禮」をかけり。これによりて「亂」は「禮」の誤なりと認むべし。元暦本には上の句とこの句とにて「ますらをのかくわふれこそ」とよめり。されど「かく」といふ語をあらはせる文字なし。又古寫本中には「戀亂」にして「コヒミダレ」と旁訓せるもあれど、かくては「コソ」の處分に窮すべし。契沖はこの二句をば「マスラヲノコヒ、ミダレコソ」とよむべき由いへり。これ「マスラヲノコ」といふ語を無理なりとしての案なれば、傾聽すべき説なれど、既に「マスラヲノコ」といふ語の例證あり、又「亂」は「禮」の誤寫なるべき證あれば、普通の説に從ふを穩かなりとす。さてこの「コフレ」は已然形にしてここは下の句に對して條件を示すものなるが、かかる場合に今ならば、接續助詞「ば」を添ふべきにこれを添へざるは古語の一格なり。而してその條件と下の句との結合、はた思想上の強度を支配する爲にその已然形の下に係助詞「ぞ」「こそ」等を添ふることも亦古語の一格なり。この事は既に卷一藤原宮役民の歌の條にいへり。
○吾髪結乃 舊訓「ワガユフカミノ」とよめり。古寫本には或は「ワガモトユヒノ」とよめるもあり。この歌を古今六帖に引けるには「ワカモトユヒノ」とよめり。「髪結」は「ユフカミ」とよまるべき語(109)にあらず。童蒙抄は「結髪」の誤として「ユフカミ」とよませたり、されどこはなほ文字のままに「カミユヒ」とよむか、若くは契沖のいへる如く六帖の訓に從ひて「モトユヒ」とよむべきなり。「モトユヒ」とは髪の本即ち髻《モトドリ》を結ふといふ義より出でたる語にして和名抄に「※[髪の友が會]【音活和名毛度由比】以v組束v髪也」」とあり。「束髪」を日本流にかけば「髪結」ともなるべければ、之を「モトユヒ」とよまむも無理にはあらじ。「もとゆひ」は今「もとひ」といふ。髪を結ぶべき料の絲にして昔は紫色の組絲を用ゐしなり。古今集戀四に「君こずばねやへもいらじ、こむらさき〔五字右○〕わがもとゆひ〔四字傍点〕に霜はおくとも」とあり。「もとゆひ」は正しくは「髻結」とかくべきなり。延喜式の神宮式の大神宮装束のうちに「髻結紫絲八條【長五尺】とあり。さればここをも「髻結」とかくべきを誤れるなれば、「髪」を「髻」と改むべしといふ説もある由なれど、必ずしも改むるに及ばず。さて「モトユヒ」は又「本結」ともかけり。延暦の皇太神宮儀式帳には荒祭宮、月讀宮の装束中には「紫本結」と見え、瀧原宮の装束には「紫本結糸」と見え、瀧原並宮、伊雜宮の装束には「紫御本結糸」と見ゆ。これらによりて古「もとゆひ」が紫の組絲なりしを思ふべし。近き頃までも絲の元結は紫を用ゐたり。さてこの「もとゆひ」を延暦の皇太神宮儀式帳なる大神宮の御装束物中には「御加美結紫八條【長條別三尺】」とかけり。これによれば、「カミユヒ」ともいひしなり。されば、ここをも、文字のままに「カミユヒ」といひて、本結と同じ意を示したりしならむとも考へらる。然れどもその用例のなほ他に存するを發見するまでは通説に從ふを穩かなりとす。さてこの「もとゆひ」を釋して「髪を結ふべき料の絲なるが、やがて髻《モトドリ》の事ともなれる也」といひて、直ちに髪をさせりとやうにいふ説(契沖古義など)もあれど、し(110)か用ゐたる例を知らず。されば、ここはなほ字のままに、實際の「モトユヒ」をさせりとすべし。
○漬而奴禮計禮 「ヒヂテヌレケレ」とよめり。「ヒヂ」は上二段活用にして漬りぬるる意をあらはす動詞なるが集中假名書のものを見ず。古今集以下には例多し。この語は「ひづち」とは別の語なるを諸家混同して説けるは無用の事なり。「奴禮」は下二段活用の動詞にして普通には今いはゆる「濡るる」意の語なるが、ここには上に「ひぢて」といひたれば重言なるに似たり。按ずるにこの語は下の歌に「多氣婆奴禮多香根者長寸妹之髪《タケバヌレタカネバナガキイモガカミ》」(一二三)といふあり。又卷十四「三三七八」に「伊波爲都良比可婆奴流奴流《イハヰツラヒカバヌルヌル》」同卷「三四一六」に「伊波爲都良比可婆奴禮都追《イハヰツラヒカバヌレツツ》」などあると同じ趣の語なりと見ゆ。これにつきて考には「さてここにあぶらづきてぬる/\」としたる髪をいふ。ぬれとはたがねゆひたる髪のおのづからぬる/\ととけさがりたるをいふ。此下に多氣婆奴禮とよめる是也」といへり。新考には「膏づかば髪は却りてとけさがらざるべし。されば、古義にいへる如くヒチテヌレケレはただぬるる事にて云々」といへり。されど、ただ「ぬるる」事とせば、ここにてはあたらざるにあらねど、「たけばぬれ」にはあたらず、況んや「いはひづら」の引かは「ぬるぬる」といふには全く當らず。加之、全く今の「ぬるる」と同義とせば、「ひぢて」と同義たれば重言たるべし。重言はこの集に全くなしとはいはねど、歌としては拙なりといふべきに至らむ。按ずるにこの「ぬれ」も上述のその他の「ぬる」も同一の語にして本義は今「ぬるぬるすること」をいふ動詞なりしならむ。即ちその水分を多く含みたる意は本義にあらずして、ただ粘り滑るやうの義をあらはしたるにあらざるか。而して今「ぬるぬる」するといふもこの動詞の終止形を(111)重ねていへるにて、「ひぢてぬれけれ」は今の語にていひてば「ぬれて(ヒヂテ)ぬらぬらする(ぬれけれ)」といふ如き意なりしならむ。その他の語もしか説くべきならむ。かくて今の「ぬる」といふ語はその本義より一歩轉じ、水分を多く含みたるものは多くぬらぬらするより「ぬる」即ちその義となりしならむ。かくてここはその本義の方を用ゐたるならむ。さて又かく本結のひぢてぬるるにつきては、考に「且鼻ひ紐解などいへる類ひにて人に戀らるれば、吾髪の綰の解るてふ諺の有てよめるならん」といへり。今はこの綰の解くといふ説に從ひ難けれど、その趣は同じく本結のぬれてぬらぬらすることあるは人に戀ひられたるしるしなる由の諺のありしによりてかくよめるなるべし。末の「けれ」は上の「コソ」に對する結なり。
○一首の意 わが元結の濡れたるは何故ぞと思ひてあれば、大夫とます我が君が歎きつつ戀ひたまひつればにこそありけれとなり。
 
弓削皇子思2紀皇女1御歌四首
 
○弓削皇子 上にいへり。
○思2紀皇女1御軟 紀皇女は天武天皇の皇女にして御母は穗積皇子に同じくて妹にますこと日本紀に見えたり。されば、弓削皇子と異母の兄弟にましませり。考には「御歌」の「御」の下に「作」字あるべしとして補へり。されど目録もここの如くなれば、古よりなかりしならむ。
 
(112)119 芳野河《ヨシヌカハ》、逝瀕之早見《ユクセノハヤミ》、須臾毛《シマシクモ》、不通事無《ヨドムコトナク》、有巨勢濃香毛《アリコセヌカモ》。
 
○芳野河 「ヨシヌガハ」今の吉野川なり。
○逝瀬之早見 舊訓「ユクセノハヤミ」とよめり。然るに金澤本には「ユクセヲハヤミ」とよみ、守部も亦しかよみ、「之」は「乎」の誤なりとせり。然れども、諸本いづれも「之」にして異なる本なければ誤字説は從ふべからず。古義は「見」字なき本によらば「ハヤク」と訓すべしといへり、その「見」字なきは古葉略類聚鈔のみなれば必しも從ふべからず。さらばよみ方はいかにすべきかといふに「の……(形容詞の語幹)み」といふ形のいひ方なくば、このよみ方無理なりともいふべきが、卷十五「三六四六」「風波夜美於伎都美宇良爾夜杼里須流可毛《カセハヤミオキツミウラニヤドリスルカモ》」など、「を」を必ずしも要するものにあらねばこのまゝにてよかるべし。さて「逝」は説文に「往也」といひて「ゆく」の訓あり。「ゆく」は流れゆくなり。「はやみ」は體言にとりなしていへれば、流れ行く川瀬の水の早きさまをいへるなり。以上二句は次に對する譬喩なり。されば「…の如く」と釋すべし。
○須臾毛 舊訓「シハラクモ」とよめり 略解には「しましくも」とよみ、攷證は「シマラクモ」ともよめり。「シマシク」といふ例は本集卷十五「三六〇一」に「之麻思久母比等利安里宇流毛能爾安禮也《シマシクモヒトリアリウルモノニアレヤ》」同卷「三六三四」に「思末志久母見禰婆古非思吉《シマシクモミネバコヒシキ》」又「三七三一」に「之末思久毛伊母我目可禮弖《シマシクモイモガメカレテ》」とあり。「シマラク」といふ例は卷十四「三四七一」に「思麻良久波禰都追母安良牟乎《シマラクハネツツモアラムヲ》」といふ例あり。然れども「シバラク」と假名にてかける例なければ、これは後世の語なるべければ、かくはよむべからず。(113)されば、「シマシクモ」「シマラクモ」のいづれかによるべきが、今「シマシクモ」とよむ。意は文字の示す通り少時の間をさす。
○不通事無 舊訓「タユルコトナク」とよめり。契沖は「ヨドムコトナク」とよむべきかと案を出したりしが、略解以下之に從へり。「不通」を「ヨドム」とよめる例は卷十二「三〇一九」に「河余杼之不通牟心思兼都母《カハヨドノヨドマムココロオモヒカネツモ》」の「不通牟」は舊訓「タエザラム」とよみたれど歌調をなさず。上の語の關係より「ヨドマム」とよむべきは動くまじ。水の流れ通らずして滯りてあるを「よどむ」といふこと卷一「三一」にいへり。
○有巨勢濃香毛 「アリコセヌカモ」とよめり。かゝる語遣の例卷五「八一六」に「烏梅能波奈伊麻佐家留期等知利須義受和我覇能曾能爾阿利己奴加毛《ウメノハナイマサケルゴトチリスギズワガヘノソノニアリコセヌカモ》」又卷六「一〇二五」に「千年五百歳有巨勢奴香聞《チトセイホトセアリコセヌカモ》」などあり。この「コセ」は今も「おこす」といふ語の上略にして、その未然形なり。「ヌ」は打消の意をあらはし未然形に屬する複語尾なり。「ありこす」は「有りてくれる」といふ意にして「ぬ」にてそれを打消したるなり。「かも」は疑の助詞なるが、こゝは反語にて希望の意をあらはせり。即ち「ありてくれぬのか、何卒ありてくれよ」といふ意となる。
○一首の意 芳野河の流れ行く瀬の早くして滯らぬが如く我等の相見むことも暫くも滯る事なくありてほしきものなり。即ちはやく相見たしとなり。
 
120 吾妹兒爾《ワギモコニ》、戀乍不有者《コヒツツアラズハ》、秋芽之《アキハギノ》、咲而散去流《サキテチリヌル》、花爾有猿尾《ハナニアラマシヲ》。
 
(114)○吾妹兒爾 「ワギモコニ」とよむ。
○戀乍不有者 上にある「戀管不有者」と同じく「コヒツツアラズハ」とよむ。意もおなじ。
○秋芽之 「芽」字板本「茅」に作るは疑なく誤にして、多くの古寫本「芽」につくれり。契沖も亦これが誤字なる由をいへり。かくてよみ方は古より「アキハギノ」とよみ來れるは「芽」字としてよめること明かなり。「芽」を「ハギ」に用ゐることは集中例甚だ多く、攷證には百首ばかりある由にいへり。さてこの「芽」字につきては和名類聚鈔に「鹿鳴草爾雅注云萩【音秋一音蕉】一名蕭【音霄波岐今案牧用萩字萩倉是也辨色立成新撰萬葉集等用〓字唐韻〓音胡誤反草名也國史用芳宜草楊氏漢語抄又用鹿鳴草並本文未詳】と見えたり。これによれば、「芽」は正しくは「〓」なりとなる。この「〓」は廣韻に「〓胡護切草名」と見え玉篇に「※[草冠/互]胡故切草名」とある「※[草冠/互]」字と同じ字なる由は※[木+夜]齋の既にいへる所にして「互」と「〓」とは本來同宇たるものとす。さてこの「※[草冠/互]」字は本草によれば「常山」の一名「互草」とあるに相當するものなるべきが、その常山は本草和名に「久佐岐一名宇久比須乃以比禰」とあり。その「クサギ」はわが萩とは似もつかぬものなれば、「互草」の「※[草冠/互]」を「ハギ」にあてたるは怪むべしとす。さて又木集及び新撰萬葉集なるも近世の學者の意を以て改めたるものゝ外はいづれも「芽」とかきて「〓」とかけるものを見ず。これによりて木村正辭翁は「芽」は「〓と別の字にして、もとより「芽」字の形をなせるものなり。されど、支那の本來の萠芽の「芽」にあらずして本邦にて新につくれる文字なり」といへり。そは「ハギ」の花の形は「キバ」に似たる故につくれる本邦の造字にして會意の文字なる由なり。この説一わたりはいはれたるやうなれど、よく考ふれば當らざるを見る。何となれば辨色立成にこの字を載せたる由なるが(115)その辨色立成は本來漢籍なるに和訓を加へたるものと見ゆれば、本邦の造字といふ説は成立つべからず。さりとて「〓」字の通用なりといふことも亦成立つべからず。なほ箋注和名抄の注に新撰萬葉集を引けるには「芽字新撰萬葉集上卷三見」といへるは説き得て未だ詳ならずといふべし。この書に用ゐたるは「芽」の體のみにして「〓」の體のなきは既にいへる如くなるが、この書には和歌のみならず、漢詩にも屡用ゐたり。その例をいはゞ、上卷に
  白露之織足須芽〔右○〕之下黄葉、衣丹遷秋者來藝里。(これは歌)
  秋芽〔二字右○〕一種最須憐、半萼殷紅半萼遷、落葉風前碎錦播、垂枝雨後亂絲牽。(これは詩)
の如し。この外「※[草冠/聚]葉」「芽花」又下卷に「芽華」「秋芽」等見ゆ。されば、この頃「芽」字を「ハギ」に用ゐて漢詩にさへ詠ぜりしを見るべし。さて按ずるに本集には「芽」一字を「ハギ」にあててもあれど、多くは「穿子」の二字をあてたり。この「芽子」は蓋し、本草に「牙子」とあるに艸冠を加へしものならむ。この草は一名「狼牙」とも「犬牙」ともいはれたるものにして、本草和名に「うまつなぎ」といへるものなるが、この當否は今知るべからぬが、その植物の本草家の説明によれば、葉は三葉一※[草冠/帝]にして蛇苺に似たりといへり。その三葉一※[草冠/帝]なる點萩と似たれば、古「牙子」を誤りて本邦の「はぎ」にあてしならむか。かゝる例は古今に少からず。この説は山本章夫の「萬葉古今動植正名」にもあり。されば「芽子」と、もとかきしが後「芽」一字を用ゐるに至りしならむか。「ハギ」は秋花さくものなれば、「秋芽」といひて花さける芽を言外にあらはせるなり。
○咲而散去流 「サキテチリヌル」とよむ。萩の花の咲きてまもなく散りてしまひたるをいふ。
(116)○花爾有猿尾 舊訓「ハナニアラマシヲ」とよめり。考には「ハナナラマシヲ」とよめり。いづれにてもあるべし。「ましを」は上にいへり。
○一首の意 吾妹子に戀ひつゝかく苦みてあらむよりは秋の萩の花咲きてさてとく散るその花の如く一層の事一思ひに死に失せなば心安からむとなり。上の「高山のいはねしまきて云云」の御歌と趣似たり。
 
121 暮去者《ユフサラバ》、鹽滿來奈武《シホミチキナム》。住吉乃《スミノエノ》、淺香乃浦爾《アサカノウラニ》、玉藻苅手名《タマモカリテナ》。
 
○暮去者 舊訓「ユフサレバ」とよめるを契沖「ユフサラバ」とよむべしといへり。下の「來なむ」に對しての語なれば、契沖の説に從ふべきなり。
○鹽滿來奈武 「シホミチキナム」なり。鹽は宛字にして潮をさせり。夕潮の滿ち來るならむとなり。以上にて一段落。
○住吉乃 「スミノエノ」とよむ。古寫本往往「スミヨシノ」と訓せるものあれど、そは平安朝以後の語なれば、本集には用ゐるべからず。この事は巻一「六五」に既にいへり。
○淺香乃浦爾 「アサカノウラニ」とよむ。「アサカノウラ」は攝津志に「淺香丘在2住吉郡船堂村1林木緑茂迎v春霞香、西臨2滄溟1遊賞之地」とあるその淺香丘といふは住吉神社の南なる細江の南にありし由なるが、その西の方の浦を「あさかのうら」といひしならむ。
○玉藻苅手名 「タマモカリテナ」とよむ。玉藻はたゞ藻をいへるに止まる。「ナ」は未然形に附屬(117)して、希望をいふ助詞なり。「テ」は「ツ」の未然形なり。その意は藻をからばやといふに略おなじきが、その句に上に「早く」といふ意を含めて解すべし。
○一首の意 夕暮にならば夕潮みち來るならむ。かくては玉藻を苅ること能はざらむ。玉藻を苅らむには、引潮の間に手早くすべきわざなれば、早く住吉の淺香の浦の名の如く、水の淺きうちに玉藻を刈りてむとなり。これ比喩にして時おくれなば、妨もあらむ。故障の出で來ぬ間に早くわが戀を成し遂げばやといふなり。
 
122 大船之《オホフネノ》、泊流登麻里能《ハツルトマリノ》、絶多日二《タユタヒニ》、物念痩奴《モノオモヒヤセヌ》、人能兒故爾《ヒトノコユヱニ》。
 
○大船之 「オホフネノ」とよむ。下の「はつる」の主格たり。
○泊流登麻里能 「ハツルトマリノ」とよむ。古寫本に往々「トマルトマリ」とよめるもあれど、非なり。舟やどりするを「ハツ」といふは古語にして巻一に「フナハテスラム」とある條にもいへり。ここに一二の例をあげむ。巻十五「三六九七」に「毛母布禰乃波都流對馬能安佐治山《モモフネノハツルツシマノアサヂヤマ」又「三七二二」に「大伴乃美津能等麻里爾布禰波弖弖多郡多能山乎伊都可故延伊加武《オホトモノミツノトマリニフネハテテタツタノヤマヲイツカコエイカム》」とあるなどこれなり。「泊」をこの「ハツ」といふ下二段活用の動詞にあてたる例は少からぬが、地名の「ハツセ」を泊瀬とかけるが多きは最も見易く且動くまじき證なり。「とまり」はその船のやどる所をいふ。上の卷十五の歌にも見ゆ。上二句は次の「タユタヒ」を導く序なり。
○絶多日二 「タユタヒニ」とよむ。「タユタヒ」といふは「タユタフ」といふ動詞の連用形を名詞にし(118)たるなり。卷四「五四二」に「常不正通之君我使不來今昔不相跡絶多比奴良思《ツネヤマズカヨヒシキミガツカヒコズイマハアハジトタユタヒヌラシ》」又「七一三」に「垣穗成人辭聞而吾背子之情多由多比不合頃者《カキホナシヒトゴトキキテワガセコガココロタユタヒアハヌコノゴロ》」卷七「一〇八九」に「大海爾島毛不有爾海原絶塔浪爾立有白雲《オホウミニシマモアラナクニウナバラノタユタフナミニタテルシラクモ》卷十一「二七三八」に「大船乃絶多經海爾重石下何如爲鴨吾戀將止《オホフネノタユタフウミニイカリオロシイカニセバカモワガコヒヤマム》」「二八一六」に「浦觸而物魚念天雲之絶多不心吾念魚國《ウラブレテモノナオモヒソアマクモノタユタフココロワガモハナクニ》」卷十二「三〇三一」に「天雲乃絶多比安心有者吾乎莫憑待者苦毛《アマクモノタユタヒヤスキココロアラバワレヲナタノメマテバクルシモ》」卷十五「三七一六」に「安麻久毛能多由多比久禮婆九月能毛美知能山毛宇都呂比爾家里《アマクモノタユタヒクレハナガツキノモミヂノヤマモウツロヒニケリ》」卷十七「三八九六」に「家爾底母多由多敷命浪乃宇倍爾思之乎禮婆於久香之良受母《イヘニテモタユタフイノチナミノウヘニオモヒシヲレバオクカシラズモ》」などはその用言としての例なり。この動詞は動き搖れ靜まり定まらぬをいふ。こゝにては昔の大船は順風などなくば、沖へも出しがたく、さりとて邊にもよりがたく、波の上にゆら/\として、定まらず、しかも出づるにも入るにもとかく手間どるものなればいふ。この「たゆたひ」はそれを體言にして原因の補格に用ゐたり。かくてこれまで三句は大船の泊りにはてむとて彼是たゆたふ如くに我もさまさまと心をなやましさまよふによりての意なり。
○物念痩奴 「モノオモヒヤセヌ」とよむ。物を念ひて我が身は痩せぬとなり。卷四「七二三」に「念二思吾身者痩奴《オモフニシワガミハヤセヌ》」卷十五「三五八六」に「和我由惠爾於毛比奈夜勢曾《ワガユヱニオモヒナヤセソ》」などいへり。
○人能兒故爾 「ヒトノコユヱニ」とよむ。人の子といへるは多く人の妻なりといふ説あれど、必ずしも然らず。こゝに人の子とは皇女が未だ誰人の妻ともなりたまはぬによりていはれたりとおぼし。この「ゆゑ」を「なるものを」といふ意也とする説あれど、「ゆゑ」はいづこまでも原因理由をいふ語にして、古來の釋の不當なることは卷一「二一」にいへり。ここも然り。即ち「人の子(119)によりて」「人の子に戀する故に」といふ義なりとすべし。古の語遣の今と異なる點は其「故」をば今は抽象的に「理由原因」といふ形式的の語とするに對して、古は其理由原因たる具象的の事實をも含みたる意に用ゐたりと考へらる。されば古語の「ゆゑ」は戀ならば「戀の故」他の事ならば「その事の故」といふ意をあらはしたるものなるべし。さてこの句は反轉して置かれたるなり。
○一首の意 人の兒即ちわが知れる皇女を戀するにより彼や是やとたゆたひ物念ひする間にわれは身も痩せぬとなり。
 以上四首また一種の連作と見えたり。而して四首を連ねて一意をなすことは、卷一の安騎野の反歌、本卷の磐姫皇后御製とこれとここに三種あり。而してこれら連作がいづれも四首なることはかの絶句四句の起承轉結の法に傚へるものならむと思はる、しかも、この作はその法によく合せりとも思はれず、以前のものに比すれば劣れりとすべし、
 
三方沙彌娶2園臣生羽之女1未v經2幾時1臥v病作歌三首
 
○三方沙彌 この人傳詳かならず。諸家多くは之を日本妃持統天皇六年に「十月壬戌朔壬申授2山田史御形務廣肆1、前爲2沙門1學2問新羅1」とあるその三形の僧たりし時の名とせり。攷證には「三方は名、沙彌は僧なりしほどの官也、姓氏録、その外の書にも三方といふ氏の見えざるにても三方は氏ならざるをしるべし。又沙彌滿誓を四【四十一丁】に滿誓沙彌とかけるにても三方は名なる事明けし。」といへり。然れどもこの説は必ずしも首肯すべからず。先づ沙彌を官名の如(120)くいへるは不當なり。沙彌の義は下にいふべし。次に滿誓沙彌は滿誓は俗名にあらねば、これを沙彌の上に冠するは然るべき事にして後までも屡見る所なり。然れども三方の如き俗名をその上に冠せる例を知らず。又笠沙彌の如く氏を上にせるは例稀ならず。これらによらば「三方」は氏なるべく考へらる。考には「三方は氏、沙彌は常人の名なること上の久米禅師の下に云り」とあり。然れども、ここの沙彌はなほ本義の沙彌にして、名にはあらざるべし。攷證には「三方」といふ氏なしといひたれど、續日本紀桓武天皇延暦三年正月に從五位下を授けられたる人のうちに「三方宿禰廣名」といふあり。されば、三方といふ氏なきにあらざるなり。なほ續紀聖武天皇天平十九年十月に「春宮少屬御方大野」といふがありて、姓を賜はらむといふその情願に對しての勅を載す。そのうちに「然大野之父於2淨御原朝庭1在2皇子之列1而縁2微過1被2廢退1、朕甚哀憐。所以不v賜2其姓1也」と見ゆ。さればここにも三方といふ氏ありといふべし。但し、契沖は、上の御方大野の事を引きて「今、此に依に磯城皇子の事後に見えねば、此皇子廢せられ給へるか。沙彌と云者は若それなとにや」といへり。されど、其大野の父なる皇子が磯城皇子なりし由はこの勅にては明かならざるのみならず、磯城皇子は天武天皇崩御の前月に封二百戸を加へらるる由も見ゆればこの皇子にあらざるは明かなり。惟ふに、前代の皇子にして、この大野の父たりし人ありて、天武の御代に罪ありて皇族の籍を除かれし人ありしならむ。それも、微過とあれば、國家皇室に關する罪にあらざりしならむ、しかも皇親籍を除かるるほどなれば、また甚しく輕微の事にもあらざりしならむ。而してこの御方大野の父とあれば、その人の時(121)既に臣籍に入りて三方の氏を稱したりにてもあらむ。かくて自ら佛門に歸し、三方沙彌と稱へしことなしともいふべからず。以上はいづれも證なき事にして強く主張すべき事にあらねど三方といふ氏の存したりしこと、又三方沙彌といひうべき境遇の人のこの御世に在りと考へ得べき由をいへるなり。次に沙彌をば、攷證には僧の官名の如くいへるは甚しき誤なり。沙彌は十戒を受けて未だ修行熟せず、比丘となるまでの男をいふものにして、眞正の僧にあらず。況んや僧の官などにはあらざるなり。この故に沙彌は沙門とは意義異なり。史に山田史御方の前身を「沙門」とかければ、ここに沙彌とあるとは一致せず。されば、山田史の前身なりといふ説はうけ難しとす。
○娶園臣生羽之女 「園」は氏「臣」は姓、園臣は日本紀應神卷二十二年に「即以2苑縣1封2兄|浦凝《ウラコリ》別1、是苑臣之始祖也」とある氏にして、吉備稚武彦命の裔なり。「苑縣」は後の備中國下路郡曾能郷なり。本集卷六「一〇二七」の歌の左注に「但或本云三方沙彌戀妻苑臣作歌」と記せるあり。蓋し、これと同じ人の同じ時の歌たる由なり。この歌の事は次にいふべし。「生羽」は「イクハ」とよむ。古語「的」を「イクハ」といへり。この義をとれる名ならむ。この人の事他に所見なし。
○未經2幾時1臥v病作歌三首 「イクホドモヘズシテ云々」とよむべし。この三首は沙彌一人の歌にあらず、園臣女と贈答せるなり。而して、當時の婚姻のさまとして、男先女の家に行き通ひたるなるべし。この故に「臥病」といへるその意は病に臥して妻の家に行くを得ぬによりて、よみて贈りしならむ。
 
(122)123 多氣婆奴禮《タケバヌレ》、多香根者長寸《タカネバナガキ》、妹之髪《イモガカミ》、比來不見爾《コノゴロミヌニ》、掻入津良武香《ミタリツラムカ》。 三方沙彌
 
○多氣婆奴禮 「タケバヌレ」とよむ。「タク」といふ語は四段活用の動詞にて、髪絲繩などをたぐりあぐる意をあらはす「タグル」といふと意似たれど別の語なり。この語の例は次の歌に「多計登雖言《タケトイヘド》」卷九「一八〇九」の歌に「蘆屋之菟名負處女之八年兒之片生乃時從小放爾髪多久麻庭爾《アシノヤノウナヒヲトメノヤトセゴノカタオヒノトキユヲハナリニカミタクマテニ》」卷十一「二五四〇」の歌に「振別之髪乎短彌青草髪爾多久濫妹乎師曾於母布《フリワケノカミヲミジカワカクサヲカミニタクラムイモヲシゾオモフ》」とあり。これらはいづれも髪につきていへるなり。又卷七「一二三三」の歌に「未通女等之《ヲトメラガ》、織機上乎眞櫛用掻上栲島波間波間從所見《オルハタノウヘヲマクシモチカカゲタクシマナミノマユミユ》》とあり。これは「タク島」といふ名にかけたるが、機の上にある櫛形のものにて掻上ぐる事をいへり。又卷十四「三四五一」の歌に「左奈都良能乎可爾安波麻伎可奈之伎我古麻波多具等毛和波素登毛波自《サナツラノヲカニアハマキカナシキガコマハタグトワハソトモハジ》」卷十九「四一五四」の歌に「秋附婆芽子開爾保布石瀬野爾馬太伎由吉※[氏/一]《アキツケバハギサキニホフイハセノニウマタキユキテ》」とあり。これらは馬の手綱をかいくるをいへり。古今集雜下篁の歌に「思ひきやひなのわかれにおとろへてあまのなはたきいさりせんとは」とあり。これは網の繩などを手繰るなり。以上の例にてこの語の意は略知られつらむ。この語の解につきては契沖は「たけとはたくればなり」なりとも「あとたとは同韵にて通すればあくると云古語か」ともいへれど、あぐると同じ語にあるべからず。考には「多我《タガ》ぬれば我|奴《ヌ》の約|具《グ》にて、多|具禮婆《グレバ》とあるを、又その具禮を約れば、牙《ゲ》となる故に多氣波といへり」といへり。攷證は之を非として、「多氣波《タゲバ》とは髪をたぐり揚《アグ》る事にてたぐればの、ぐれの反げなれば、多氣波はたぐれば也」といへり。されどこれらの約音説はいづれ(123)も首肯せられず。按ずるに、「たぐる」といふ語は通常「手繰る」にて手にて「くる」由に解すれど、然にはあらずして「たぎくる」の約なるべし。然るときはこの「たぐ」は「たぐる」の約にあらずして、かへりてその基をなせる語なりと考へらる。されど、今はこの語亡びたれば、「たぐる」を以て代へて釋すべきなり。「奴禮」は上にもいへるが、ここは髪絲などの結べどもしまりなくほどけて垂るるをいふ。
○多香根者長寸 「タカネバナガキ」とよむ。「寸」を「キ」の假名に借ることは既にいへり。以上二句、少女の髪のさまをいへり。髪をたぐりあげねば、長きにすぎ、さりとて、たぐりあぐるにはなほ短くて、十分に結び上げられず、解け易きといふなり。
○妹之髪 「イモガカミ」なり。この髪の事につきて、考別記に曰はく、「凡そ古への女の髪のさま、末にも用あれば、くはしくいはん。そもそも幼《イトキナ》きほどには目ざしともいひて、ひたひ髪の目をさすばかり生下れり。それ過て肩あたりへ下るほどに末をきりてはなちてあるを放髪《ハナリガミ》とも童放《ウナヰハナリ》ともうなゐ兒ともいへり。八歳子《ヤトセゴ》と成てはきらで、長からしむ、それより十四五歳と成て、男するまでも垂れてのみあれば猶うなゐはなりともわらはともいへり。(中略)卷十六に橘寺之長屋爾吾率宿之童女波奈理波髪上都良武香などあり。かくてそのゐねて後に髪あげつらんかといへる、ここの沙彌が歌と似たり、且髪の事も年のほどをもしるべし。後のことながら伊勢物がたりに、ふり分髪も肩過ぬきみならずしてたれかあくべきかてふも是也、」といへり。この説參考に供すべし。
(124)○比來不見爾 「コノゴロミヌニ」とよむ。「比來」の義は、近來におなじ。「比來」の「來」は「元來」「爾來」「以來」「本來」「近來」などの「來」にして、多く時を示す助語辭に用ゐたり。「比」はもと近隣の義なるよりして近の義に轉じて用ゐたるか、若くは比歳を近年の意に用ゐるより轉用したるが、いづれかの一途によりて「比來」といふ語生じたるものなるべきがその意は「近來」におなじ。この語は、もとより支那にて用ゐしなるべきが、六朝頃の俗語とおなじく、經傳には見えぬ字面なり。本邦にては、この頃に用例少からず。正倉院文書寶龜三年桑名眞公不參解(南京遺文に載す)中に「仍請2藥作1比來之間治作」續紀天平十九年七月の勅「昔者五日之節d當用2菖蒲1爲v縵比來已停2此事1」天平寶字二年七月の勅に「比來皇太后寢膳不v安經2旬日1」神護景雲元年四月の勅に「比來諸國頻年不登」寶龜十年十一月の勅に「又調庸發期具著2令條1比來寛縱多不v依v限」などあり。「ミヌニ」は「ミヌ間ニ」といふ程の意なり。
○掻入津良武香 舊訓「ミタリツラムカ」とよみ、古今六帖には「みだれつらむか」とあり。されど「掻入」は普通には「ミダル」とよむべき字にあらず。元暦本には「かきいれつらむ」とよめり。契沖は「カキレ」とよむべきかといひ、本居宣長は「入」は「上」の誤にて「カキアゲツラムカ」なるべしといへり。かくのごとくにして、諸説紛々たり。さて「入」を「上」の誤とする説は卷十六「三八二二」に「橘寺之長屋爾吾率宿之童女波奈理波髪上都良武可《タチハナノテラノナガヤニワガヰネシウナヰハナリハカミアゲツラムカ》」とあるによれるものなるべけれど、「カミアゲ」と「カキアゲ」とは語別なれは之によりて、「カカゲ」とよまむこと如何なり。守部はこの字のままにて「タガネ」とよむべしといへり。されどこれも理なし。さてこの處文字の誤脱もやと見るに、「掻」を(125)温故堂本京都大學本に「※[手偏+密]」とかける由なれど、かかる文字なければ、これはなほ「掻」の訛なるべし。然りとすれば、ここに文字はこのままにして訓を考へざるべからず。さてこの文字のままにては「カキレ」とよむより外なき如く見ゆ。されど、髪をかき入るとは如何にすべきことにか、この訓み方を主張する人々の説をよみてもその意知るを得ざるなり。按ずるにこの「掻」字は美夫君志にいへる如く「騷」字の通用ならむか。三國呉志陸凱傳の凱の上疏中に「而更傾2動天掻2擾〔二字右○〕萬姓1使2民不1v安」又「加有2監官1、既不v愛v民、務行2威勢1所在掻擾〔二字右○〕更爲2煩苛1」晋書唐彬傳に「恐邊情掻動、使2彬蜜察1v之」とあり。かゝる例六朝の文中に少からず。さては騷の義によるべきが「騷」は説文に「擾」とあれば、「ミダル」といふ義あることは考へらるべし。而してこれの和歌に「亂有等母」とあれば「ミダル」といふ説の從ふべきを見るべし。「入」は「イル」といふ動詞をあらはせるが、「イリ」とも「イレ」ともよむべく從つて「掻入」をば「ミダリ」とも「ミダレ」ともよむべきやうに考へられ易し。されど、ここは「入」といふ字の意義にて用ゐられたりとは考へられねば假名に用ゐたるものと見らるるが、萬葉集中「入」を假名に用ゐたる場合には「リ」とのみ用ゐられて「レ」といふべきものを見ず。その例卷七「一一六七」に「朝入爲等磯爾吾見之莫告藻乎《アサリストイソニワガミシナノリソヲ》」卷九「一七二七」に「朝入爲流人跡乎見座《アサリスルヒトトヲミマセ》」卷十「一九一八」に「客爾也君之廬入西留艮武《タビニヤキミガイホリセルラム》」卷十二「三〇一二」に「登能雲入雨零河之左射禮浪《トノクモリアメフルカハノサザレナミ》」などなり。卷八「一六四四」に「梅花袖爾古寸入津《ウメノハナソデニコキイレツ》」とある「入」は「レ」の假名の如くなれど然らずして「イレ」の意明にしてその約なり。日本紀にも景行卷に「直入《ナホリノ》物部神」宣化卷に「檜隈廬入野《ヒノクマノイホリヌ》」古事記宣化段に「檜※[土+囘]之廬入野《ヒノクマノイホリヌ》」など。古より「入」を「リ」の假名に用ゐしを見る。さればここも「リ」にして「ミダ(126)リ」とよむべし。「ミダル」といふ語は今ならば下二段活用にすれど、古くは四段にも活用したるなり。今「みだりに」といふはその四段活用の語より出でたるものなり。「ツラム」は「ツ」といふ確述の複語尾に「ラム」といふ推量の複語尾を重ねたるものなり。「カ」は疑の助詞なり。
○三方沙彌 これは作者を注記せるなれば、多くの古寫本に小字にせるをよしとす。かく注せるは次の女の歌に對して先づ女に贈れる歌なる由を示せるなり。
○一首の意 わがはじめてあひし時掻き揚ぐれば、長さ足らずして垂れ下り、掻き揚げずにおけば、長きにすぎたる我妹子の髪は、われ近頃病に臥して往き見ねば、さぞ長くのびて亂れてあるべきならむかと。これは後世に女の鬢そぎといふ女子成年の式は許嫁たる男のするわざ(未だ許嫁せざる時は父兄等の代る。)なるを以て推し考ふるに、古夫もてる女の髪は夫とある男の理めし風俗などありしによれるなるべし。
 
124 人皆者《ヒトミナハ》、今波長跡《イマハナガシト》、多計登雖言《タケトイヘド》、君之見師髪《キミガミシカミ》、亂有等母《ミダリタリトモ》 娘子
 
○人皆者 「ヒトミナハ」とよむ。元暦本神田本には「人者皆」とありて、「ヒトハミナ」とよめり。いづれもあしきにあらねど今本のまゝにて意通れり。「人皆者」の例は卷十「二一一〇」の歌に「人皆者芽子乎秋云《ヒトミナハハギヲアキトイフ》」あり。「人皆の」といへる例は卷五「八六二」の歌に「比等未奈能美良武麻都良能《ヒトミナノミラムマツラノ》」等あり。
○今波長跡 古來「イマハナガシト」とよみしが、古義には「イマハナガミト」とよむべしといへり。されど「ナガシ」といふがわろしといふ理由もなく、必ず「ナガミ」といふべき道理もなければ、もと(127)のままにてあるべし。わが髪も今はのびて見る人毎に今は長くなりたりといひての意なり。この「と」は「といひて」の意を含めて解すべくこれより下の「雖言」につづく語脈なり。この「今は」といふ語には多少の意こもれり。これは今まで問題にせざりしことの、今問題となりしを語るものにして、年もやう/\長けて、今は男もつべきほどになりたればといふ如き心持の含まれあるならむ。
○多計登雖言 「タケトイヘド」とよむ。「タケ」は上の歌にいへる「タク」の命令形にして、髪上げをせよといへどの意あり。髪を上ぐるは女の男せることをあらはす古の風俗なりしならむこと上にもいへり。朝鮮の風俗は今も然り。この「イヘド」は上の句の「ナガシ」といふ語と、ここの「タケト」といふ語の二を並べ受けたる面白き語法にして歌に力を添ふるところ少からず。從來上の句の「と」を「トテ」と譯して、それを「タケ」につづくものとせるは當らずとす。
○君之見師髪 「キミガミシカミ」とよむ。「君がかの時見たまひし髪なれば」の意を含めたり。
○亂有等母 舊訓「ミタレタレトモ」とよめり。多くの古寫本また然り。神田本には「ミタリタレトモ」とよみ、童蒙抄に「ミタレタリトモ」とよみ、古義には「ミタリタリトモ」とよめり。この「等母」を「ドモ」とよむと「トモ」とよむとによりて歌の意頗る異なるに至るべし。「ドモ」とよむときは上の「イヘド」といふ語に勢同じくして文勢收捨すべからざるなり。これは「トモ」といふ假設條件としていふ語にすべし。この「トモ」は假設條件を否定して下に接する意なれば、たとひ亂れてありとも君がみし髪なれば、そのさまをかふるに忍びず。そのままにあらむとなり。さて「亂有」(128)は「ミダレタリ」にても「ミダリタリ」にても差支なきなれど、上の歌にむかへて「ミダリタリ」とよむべし。
○娘子 多くの古寫本歌の下に小字にてこの二字あり。よりて之を加ふ。流布本は誤りて脱せるなり。この文字脱せるが爲に、その歌主知られず。從つて種々の臆説生じ、代匠記の初按に「園臣生羽女」の五字脱せりとし、考及び攷證にはこの歌の前に「園臣生羽之女和歌」又は「……報贈歌−首」の如き題詞脱せりとし、從つてこの贈答三首各その題詞の落ちうせたるならむとまでいへり。されど上下の歌には「三方沙彌」の注あり、ここにも「娘子」とあれば、各々題詞ありしが脱せりなどいふ説は全く無用の事なりとす。ここの歌の記載方は、上の久米禅師(九六−一〇〇)の贈答歌と趣同じ。
○−首の意 如何にも君が宣ふ如く、髪も多少は延びたれば見る人毎に、今は長くなれりといひ、又さては髪掲げしたまへかしなど、いへども、こはわが君の見ましし髪なれば、君に見せずして髪のさまを變ふべきにあらねば、たとひ多少亂れてありとも、われは君に會ひ奉らむまではこのままにあらむと思ふとなり。卷十一「二五七八」に「朝宿髪吾者不梳《アサネガミワレハケヅラジ》、愛君之手枕觸義之鬼尾《ウツクシキキミガタマクラフレテシモノヲ》」とあるに感情相通じ、又伊勢物語に「くらべこしふりわけ髪もかたすぎぬ君ならずして誰かあぐべき」といへるに趣似たる點あり。
 
125 橘之《タチバナノ》、蔭履路乃《カゲフムミチノ》、八衢爾《ヤチマタニ》、物乎曾念《モノヲゾオモフ》、妹爾不相而《イモニアハズテ》。三方沙彌
 
(129)○橘之 「タチバナノ」なり。橘はいふまでもなく、かの田道間守が垂仁天皇の勅を奉じ、常世國に行きて傳へ來し菓樹なり。和名鈔菓類に「橘」に注して「和名太知波奈」とあり。
○蔭履路乃 「カゲフムミチノ」とよむ。古都の大路、市の衢驛路などに菓樹を植ゑしめられたるなり。この事は古く、日本紀雄略天皇の十三年紀に「餌香市邊橘本《ヱカノイチノヘノタチバナノモト》」と見え、類聚三代格卷七に載する天平寶字七年の乾政官符には
 右東大寺普照法師奉状※[人偏+稱の旁]、道路百姓來去不v絶。樹在2其傍1足v息2疲乏1。夏則就v蔭避v熱、飢則※[手偏+適]v子※[口+敢]之。 伏願城外道路兩邊栽2種菓子樹木1者、奉v勅依v奏。
とあり。これは京城、市等にはもとよりありしを京城以外に及ぼさむと願ひしが許されしなり。かくてこの事永き制となりしと見え、弘仁十二年の官符にはその路樹を斫損するを禁ぜられ、延喜式雜式には「凡請國驛邊植2菓樹1、令3往還人得2休息1」本集卷三には「門部王詠2束市之樹1作歌」(三〇九)あり。これは何の樹とも明記せられねど菓樹たるには疑なし。橘の植ゑられしことの例は古事紀應神卷の御歌に「和賀由久美知能迦具波斯波那多知婆那波《ワガユクミチノカグハシハナタチバナハ》」とあるにても知らる。ここに「橘の蔭履む」といへるは上の乾政官符に「夏則就v蔭避v熱」といへる如く事實に基づける語なりと見え、その橘の繁茂して日蔭のありしことを想像するに足れり。以上二句は八衢といふ語を導かむ料の序なりとす。
○八衢爾 「ヤチマタニ」とよむ。「チマタ」は道股《チマタ》の意にて道の岐るる所をいふ。「ヤ」は數の多きをいふ。古事記上卷に「居2天之八衢1」といふ例あり。即ち八衢は岐路の多くて迷ひやすきにたと(130)へたるものにして、この句は次の物思ふさまの比喩なり。
○物乎曾念 「モノヲゾオモフ」なり。心をなやますなり。
○妹爾不念而 「イモニアハズテ」よむ。「アハズシテ」とよめる本もあれど、「アハズテ」にてよしとす。本來は「ズシテ」なるべきがそれを約め、打消の「ズ」より「テ」につづく形とすることは古語の一格なり。その假名書の例は卷五「八七九」の「阿米能志多麻乎志多麻波禰美加度佐良受弖《アメノシタマヲシタマハネミカドサラズテ》」をはじめ例多し。さてこの句は反轉法によれるものなれば、首にめぐらして釋すべし。
○三方沙彌 これは沙彌の歌なる由を注せるなり。多くの古寫本に小字にせるをよしとす。沙彌が上の答歌を得て更に娘子に贈れるなり。
○一首の意 われは久しく吾妹子にあひ見ることなければ、戀しさに堪へず、種々に物思ひ亂れてありとなり。按ずるに、この歌上にいへる如く、卷六にもありて、それは「橘本爾道履《タチバナノモトニミチフミ》、八衢爾《ヤチマタニ》、物乎曾念《モノヲゾオモフ》、人爾不所知《ヒトニシラエズ》」(一〇二七)と見え、その第二句、第三句第五句かはれり。この歌は天平十年秋八月二十日右大臣橘諸兄公の家の宴によめる歌にしてその左注に「右−首右大辨高橋安麿卿語云故豐島采女之作也。但或本云三方沙彌戀2妻苑臣1作歌也。然則豐島釆女當v時當v所口吟2此歌1歟」といへり。即ち今のこの歌をば、この説の如く、時と所とに似付かはしく歌ひかへたるものなるべし。
 
石川女郎贈2大伴宿禰田主1歌一首
 
(131)○石川女郎 この名の人の事紛はしく分け難きこと既にいへる所なり。
○大伴宿禰田主 この人の事は元暦本などに題詞の下に注して「即佐保大納言大伴卿之第二子、母曰2巨勢朝臣1也」とあり。大納言大伴卿は上の「一〇一」の歌をよめる安麿にして、母巨勢朝臣は「一〇二」の歌の巨勢郎女なり。これによりて巨勢郎女が安麿の妻となりしこと著しくその間に生れしがこの田主たるなり。この人の事史に見えず。
 
126 遊士跡《ミヤビヲト》、吾者聞流乎《ワレハキケルヲ》、屋戸不借《ヤドカサズ》、吾乎還利《ワレヲカヘセリ》。於曾能風流士《オソノミヤビヲ》。
 
○遊士跡 舊訓「タハレヲト」とよめり。古寫本「アソヒヲト」とよめるもあり。童蒙抄には「ミヤビトト」とよみたれど、宮人と紛はしきによりて玉の小琴に「ミヤビヲト」とよむべしといへり。この「遊士」は下の「風流士」と同じ義なるべきものなるが、「遊士」とかける例は卷六「一〇一六」の歌に「海原之遠渡乎《ウナバラノトホキワタリヲ》遜士之|遊乎將見登《アソブヲミムト》、莫津左比曾來之《ナツサヒゾコシ》」とある左注に「右一首書2白紙1懸2著屋壁1也。題云蓬莱仙媛所v(賚〔左○〕)2※[草冠/縵]爲風流秀才之士1矣。斯凡客不v所2望見1哉」とあり。この左注なる「風流秀才之士は即ち歌の中の「遊士」に相當するものにして、この歌の下の「風流士」は「風流秀才之士」を略したるものなるべく、畢竟同義たるべし。されば、この遊士は風流の士といふ義なるべければ、「タハレヲ」とよむは當らざるべく「ミヤビヲ」とよむ方まされりとす、但し、その假名書の證を知らず。風流には「ミヤビ」とよむべき意あり。卷五「八五二」に「烏梅能波奈伊米爾加多良久美也備多流波奈等阿例母布左氣爾于可倍許曾《ウメノハナイメニカタラクミヤビタルハナトアレモフサケケニウカベコソ》」といふ歌あり。この「ミヤビ」の連用形を體言化して、「ヲ」につゞ(132)けたる語なり。
○吾者聞流乎 「ワレハキケルヲ」なり。君は風流の士なりとかねて噂にわれは聞きたるをといふなり。
○屋戸不借 「ヤドカサズ」とよむ。吾に宿を借さずなり。われを止むることをせずしてなり。この「ず」は終止にあらず連用にして、下のわれをかへせりにつゞくなり。
○吾乎還利 「ワレヲカヘセリ」なり。
○於曾能風流士 この「風流士」も舊訓「タハレヲ」とよみたれど、上の説明によりて「オソノミヤビヲ」とよむべし。「オソ」は「遲シ」の語幹にして、こゝは心の働きの鈍きをいひ、愚鈍の義にして今の俗の「マヌケ」といふが如き意をあらはせり。卷九「一七四一」の歌に「常世邊《トコヨヘニ》、可住物乎《スムベキモノヲ》、釼刀《ツルギタチ》、己之心柄《ナガココロカラ》、於曾也是君《オソヤコノキミ》」とある「オソ」も亦これにしてその本の長歌「一七四〇」には「世間之《ヨノナカノ》、愚人之《シレタルヒトノ》」と書けるにて意知らるべし。
○一首の意 この歌二段落にして第四句までを第一段落とし、第五句また一段落なり。その意は君は風流才士なりと吾はかねて聞きたる故にわれは慕はしさに堪へずして昨夜君の許に到れりしに、吾を止めむともせず、われをすげなく還したまへり。これ何事ぞや。風流才士といはれたるは果して信か。信ならば、わが君を訪ひし眞意ははやくもさとるべきに、之をもさとりえずしてありしは果して風流秀才の士といふをうべきか。さても愚なる風流秀才の士よとなり。なほこの歌の事は左注に委し。
 
(133)大伴田主字曰2仲郎1、容姿佳艶、風流秀絶、見人聞者靡v不2歎息1也。時有2石川女郎1、自成2雙栖之感1、恒悲2獨守之難1、意欲v寄v書、未v逢2良信1。爰作2方便1而似2賤嫗1、己提2鍋子1而到寢側1、哽v音跼v足叩v戸諮曰、東隣貧女將v取v火來矣。於是仲郎暗裏非v識2冒隱之形1、慮外不v堪2拘接之計1、任v念取v火就v跡歸去也。明後女郎既恥2自媒之可1v愧、復恨2心契之弗1v果。因作2斯歌1以贈謔〔左○〕戯焉。
 
○字曰2仲郎1 こゝの字は支那風の字なりとおほし。「仲郎」とは田主が第二子なりしによりていへるならむ。「仲」は伯仲叔の仲にして第二子をさすに用ゐたり。「郎」は男子の稱なり。
○容姿佳艶 艶は美色なること卷一にいへり。
○風流秀絶 風流は瀟洒にして世俗に超脱せをいふ。晋書王献之傳に「少有2盛名1、而高邁不羈風流爲2一時冠1」とあり。こゝも風流の時輩に拔んで秀でたるをいふ。「秀絶」の絶は「卓絶」「冠絶」などの「絶」の如く、群を拔き、類を絶つをあらはす語遣なり。
○自成2雙栖之感1 「雙栖」は思ふ人と共に栖《スマ》ふをいふなり。文選第二十三潘岳悼亡詩に「如2彼翰林鳥1、雙栖一朝隻」とあり。感は思ひなり。
○恒悲2獨守之難1 「獨守之難」は文選第二十九古詩第二首に「蕩子行不v歸、空牀難2獨守1」とあるによりてかけり。獨り空牀を守ることの難きをいふ。
○意欲v寄v書 「寄」はよせ傳ふることなり。
(134)○未v逢2良信1 「信」は使者なり。韻會小補「古者謂v使曰v信也》とあり。
○爰作2方便1 「方便」は佛經の語なり。飜譯名義集卷七引淨名疏云「方是智所v詣之※[行人偏+扁]法、便是菩薩權巧用之。能巧用2諸法1隨v機利v物故云2方便1」と見えたり。
○似2賤媼1 「嫗」は老年の女をさす。和名鈔に「嫗」に「和名於無奈」とあり、こゝは「オミナ」とよむべし。石川女郎が賤の嫗に扮ちたるなり。
○己提2鍋子1 「鍋」は古寫本多くは「堝]につくれり。金と土との差あれど、いづれも「ナベ」をさせり。和名鈔瓦器類に「辨色正成云堝【古禾反奈閉今案金謂2之鍋1瓦謂2之堝1字或相通》」とあり。「子」は支那にて名詞の下に添ふるに用ゐる字なり。「扇子」「倚子」「銚子」「拍子」等例多し。これ火を納れむ料としたるなり。
○到2寢側1 田主の寢ねたる側をいふ。
○哽v音。 「哽」は説文に「語爲v舌所v介也」と見ゆ。「ムセブ」「ムス」などの訓あれど、こゝは老女の聲色をつかふをいへり。
○跼v足 「跼」は古寫本多くは「※[足+滴の旁]」につくる。跼は廣韻に「曲也、俛也、促也」と注し集韻には「※[足+滴の旁]跼不v伸也」と注す。「※[足+滴の旁]」は玉篇に「※[足+滴の旁]躅」行不v進也」とあり。いづれにしても老女の足もとのたど/\しきさまをいへるなり。
○叩v戸諮曰 「諮」は玉篇に「謀也問也」とあり。こゝは「ハカリテ」とよむべし。
○東隣貧女將取火來矣 火種を近隣に乞ひしは往時の實状なり。それを得むが爲に山をも越え行きしことは御伽譚に殘り傳はれり。
(135)○暗裏 暗きうちなり。
○非v識2冐隱之形1 「冐」は玉篇に「覆也」とあり。物をかふりてその形を被ひかくせるを「冐隱之形」といへるなるべし。
○慮外 思慮の外の義。晋書毛※[王+據の旁]傳に「事乖2慮外1」とあるに意おなじ。今の俗語とは異なり。思ひもつかぬ事なればといふ程の事なり。
○不v堪2拘接之計1  「拘」は説文に「止也」とあり。接は説文に「交也」とあり。「拘接」とは止めて交るをいふ意なるべし。
○任v念取v火 「任念」は念のまゝなり。
○就v跡歸去也 「跡」は類篇に「歩處也」とあり、「就」は増韻に「從也」とある意なり。女郎の歩むあとに從ひて送り出すことなり。
○明後 夜明けて後なり。
○既恥2自媒之可1v愧 「自媒」は文選第三十七曹植が求2自試1表に「夫自衒自媒者士女之醜行也」とありて、媒を介せずして自ら嫁するをいふ。
○復恨2心契之弗1v果 心契は心に豫期せしことをいふならむ。
○以贈謔戯焉 「謔」字流布本「諺」に作れど、意をなさず。元暦本に「謔」とあるをよしとす。「謔」は諧謔の熟字にて見る如く、新撰字鏡には「太波夫留」と注せり。「謔戯」二字にて「たはぶれたり」とよむべし。
 
(136)大伴宿禰田主報贈歌一首
 
○報贈歌 「コタヘオクレルウタ」とよむべきか。考に「報贈」を「和」と改め、守部なども之に賛同せるは僻事なり。「和」といふ以上はそれに同意共鳴せざるべからざるものなるを忘れたるなり。これは止むを得ず、その詰問に答へたる歌なるべければ唱和とはいふを得ざるなり。
 
127 遊士爾《ミヤビヲニ》、吾者有家里《ワレハアリケリ》。屋戸不借《ヤドカサズ》、令還吾曾《カヘシシワレゾ》、風流士者有《ミヤビヲニハアル》。
 
○遊士爾吾者有家里 上の如く「ミヤビヲニワレハアリケリ」とよむべし。吾は風流士なりけりとなり。これにて一段落なり。
○令還吾曾 舊訓「令還」を「カヘセル」とよめり。古義は之を改めて「カヘセシ」とよめり。「令」は「ス」をあらはし、「令還」の二字にて「カヘス」なり。されど、「カヘス」は下二段活用にあらずして、四段活用なれば「カヘセシ」とはいふべきにあらずして「シ」をつくるならば、「カヘシシ」とよむべきなり。さて「カヘセル」とよむ時は、有か在かの文字を加へてあるべきに、これなきを以てしかよむべき理由なければ、「カヘシシワレゾ」とよむべし。
○風流土者有 舊訓「タハレヲニアル」とよみたるが、「風流士」は「ミヤビヲ」とよむべきこと既に述べし所なるが、「者」字ある以上たゞ「ニアル」とよむべきにあらねば、略解の如く「ミヤビヲニハアル」とよむべし。古義に「者」を「煮」の誤としたれど證なきことなれば從ふべからず。「者」一字を「ニハ」と(137)よめること前後に例多し。
○一首の意 君は我をおその風流士なりと嘲られたれど、然らず。我こそは眞の風流士なれ。何ぞといふに君の如き淺はかなるたばかりに惑はされず、そのまゝ還らしめたる我こそ眞の風流士なるよとなり。これもまた戯れを以てこたへたるなり。
 
同石川女郎更贈2大伴田主中郎1歌一首
 
○同 この字類聚古集、古葉略類聚鈔及び本書目録になし。考には之を衍なりとして省けり。されど多くの古寫本ここにこの字あれば、理由なくはあらず。按ずるに、これは上の三首の贈答に引つゞきてそれに關聯するものなれば、その事を知らせむ爲か、若くは石川女郎の名は前より屡出でて紛はしければ、上の贈答せし人なるを知らせむが爲なるべし。
○更贈 「更」字を衍なりとして考に省きたり。されど、これは上の「同」と關聯して更めて再び贈れる由を示せるなれば、省くは筆者の眞意をさとらぬわざなるべし。
○大伴田主中郎 「中郎」も「仲郎」も同じ義なり。代匠記に「仲郎」の誤なりとす。されど、畢竟同義なれば、改むるにも及ぶまじ、童蒙抄にこれを「ナカイツラコ」とよみたれど、これは支那風の字なれば、音によむべきなり。又ここは目録に「大伴宿禰田主」とあるによりて、こゝを誤として目録の如くにすべしと考、攷證等に主張し、檜嬬手に「聞2大伴宿禰田主足疾1贈歌」と改作せれど、いづれも強事なり。
 
(138)128 吾聞之《ワガキヽシ》、耳爾好似《ミミニヨクニル》、葦若末〔左○〕乃《アシノウレノ》、足痛吾勢《アシヒクワガセ》、勤多扶倍思《ツトメタブベシ》。
 
○吾聞之 「ワガキヽシ」なり。
○耳爾好似 流布本「ミミニヨクニバ」とあり。仙覺は「ミミニヨクニル」とよみ、古義は「ヨクニツ」とよめり。この一二卷の用字を見るに、「バ」といふ如き特別の意ある助詞を記さぬ例なければ「ニバ」とよむは穩ならず。古義の説は一往理ある如くなれど、かくては三段落となりて歌調くだくべし。仙覺の説をよしとす。「耳」とはきゝたる事をさす古語の一用法なり。卷十一「二五八一」に「言云者三三二田八酢之《コトニイヘバミミニタヤスシ》」とある、その例なり。さてこの「ニル」は終止の用法にあらずして連體として、下の「吾勢」に對しての限定をなす格たるなり。その意はわがかねて噂に聞きし所の如くにあるわが兄といふなり。
○葦若未乃 舊本「若未」とかき「アシカビノ」とよめり。これにつきては古來種々の説あり。先づ、この「若未」の文字につきて、古葉略類聚鈔に「若生」とあるによりて、本居宣長はそれによらば「アシカビノ」と訓ずべしといひ、攷證には「アシカビノ」とせり。訓は古點に「アシノハノ」とよみたるを否として仙覺は「アシカビノ」とよめり。拾穗抄は「アシノハノ」を可とし、代匠記は「アシワカノ」とせり。略解には宣長説によりて「アシノウレノ」とし、守部また同じ説なり。按ずるに、「アシカビ」は「葦牙」とかける如く、葦の芽ざしをいへるなれば「若未」「若生」といふ文字に必ずしも當らず。而して「若未」といふ文字はあるべくもあらねば「若末」なるを誤りしならむ。集中往々「未」「末」混同せ(139)ればなり。而してその「若末」は「ウレ」とよむべきなれば「アシノウレノ」とよむとせる説をよしとす。「若末」の字面は卷十の詠鳥の長歌に「神名備山爾明來者柘之左枝爾暮去者小松之若末爾里人之聞戀麻田山彦乃答響萬田霍公鳥都麻戀爲良思左夜中爾鳴《カムナビヤマニアケクレバツミノサエタニユフサレバコマツノウレニサトビトノキキコフルマデヤマヒコノコタフルマデニホトトギスツマゴヒスラシサヨナカニナク》」(三九三七)とありて古來「ウレ」とよみて異論なき所なり。この「ウレ」につきては別に委しく論ぜるが故に、今略すべきが、「ウレ」といふ語は普通に「末」と同じとのみ考へられたるやうなれど、新しく生長し行く末をいへるものにして生活しつゝある植物にのみいふ語なれば「若末」の文字よく意をあらはせり。又「若生」とありとても、なほ「ウレ」とよむに差支なきことなり。それらは上にいへる「うれ」の考にいひたれば、今略す。
○足痛吾勢 古點に「アシイタワガセ」とよみしを仙覺が改めて「アナヘクワカセ」とよみたるが、京都大學本の一の訓には「アシヒク」とありといふ。童蒙抄には「アシヒカハアセ」とよみ、考には「アシナヘワカセ」とよみ、その他古義には「アナヤム」とし、岡本保孝は「アシイタムワカセ」といひたり。按ずるに、「痛」字には「蹇」の義なければ「ナヘグ」の訓從ひがたし。考に「アシナヘ」と體言に改めたるは更に惡しくしたるものにていよ/\從ひ難し。古義の「アナヤム」といひ、用言とせるはよけれどなほ十分に首肯し難し。按ずるにこの「足痛」は左注に「足疾」と書けるに照して考ふるに、かれは「足疾」とかきて體言とし、ここは「足痛」とかきて用言としてあらはしたるならむ。かくてその「足疾」の文字は卷四「六七〇」の歌に「月讀之《ツキヨミノ》、光二來益《ヒカリニキマセ》、足疾乃《アシヒキノ》、山乎隔而《ヤマヲヘダテテ》、不遠國《トホカラナクニ》」とあり。又「足病」とかけるあり。卷七「一二六二」の歌に「足病之《アシヒキノ》、山海石榴開《ヤマツバキサク》、八岑越《ヤツヲコエ》」。これら「足疾」「足病」いづれも「アシ(140)ヒキ」とよむべきものなるに照して考ふれば、その用言たるものは「アシヒク」なるべきことは疑なかるべし。されば新考の説によりて「アシヒク」とよむべく、意義は足疾になやむ義とすべし。
○勤多扶倍的 「ツトメタブベシ」とよむ。。「ツトメ」は日本紀舒明卷に「慎以自愛矣」の「自愛」を「ツトメヨ」とよめり。この自愛の義を以て釋すべし。「タブ」は「たまふ」の古語たり
○一首の意 われはかねて君が足疾になやみたまふと聞きたり。昨夜御目にかゝりし時見れば果してわが聞く通りにて違なき事なるを知りたり。されば、隨分いたはり、自愛したまへやとなり。これ多少愚弄する意ありと見らる。
 
右依2中郎足疾1贈2此歌1問訊也。
 
○右依中郎足疾 「中郎」を諸家「仲郎」の誤とせり。されど、上の題詞に既に「中郎」とあれば、必ずしも誤にあらず。足疾は如何なる症なりしか、知るべからず。
○贈此歌問訊也 「訊」は玉篇に「問也」と注す。「問訊」二字にて「とぶらふ」なり。
 
大津皇子宮侍〔左○〕石川女郎贈2大伴宿禰宿奈麿1歌一首
 
○大津皇子宮侍〔左○〕石川女郎 「侍」字流布本「待」に作るは誤にして、多くの古寫本によりて「侍」なるを見るべし。「侍」は侍婢從女などの意にして古語「マカタチ」といへりと見え、日本紀の訓にこの語あり。欽明卷に「從女」の訓に、この語を用ゐたり。類聚名義抄には「※[女+賛]」に「マカタチ」の訓あり。この人上に屡あらはれたる石川女郎又は石川郎女と同じき人なりや否や。ここに「大津皇子宮侍」(141)と特にことわれるを見れば、或は別人なるべきにや。元暦本には注して「女郎字曰山田郎女也」とあり。然らば上にある「女郎大名兒也」とは全く別人たり。
○贈大伴宿禰宿奈麿歌 宿奈麿は元暦本に注して「宿奈麿宿禰者大納言兼大將軍卿之第三子也」といへり。この大納言兼大將軍卿とは大伴安麿にして、宿奈麿は實にその第三子たり。この人續日本紀によれば、和銅元年正月に從六位下より從五位下に叙せられ、靈龜元年五月には左衛土督に任ぜられ、養老元年正月に正五位下に叙せられ、養老三年七月に始めて按察使を置かれし時安藝周防二國の按察使に任ぜられ、同四年正月に正五位上神龜元年二月に從四位下を授けられき。その歿年を知らず。
 
129 古之《フリニシ》、嫗爾爲而也《オミナニシテヤ》、如此許《カクバカリ》、戀爾將沈《コヒニシヅマム》、如手童兒《タワラハノゴト》。一云戀乎太爾忍金手武多和郎〔左○〕波乃如。
 
○古之 舊訓「イニシヘノ」とよめり。されど「古の嫗」といふ語は穩かならねば、童蒙抄に「トシヘニシ」とよみたり。されど、「古」を「トシヘヌ」とよむも理無なきことなり。考には「フリニシ」とよむべしといへり。四音となれど、これをよしとす。
○嫗爾爲而也 舊訓「ヲウナニシテヤ」とよめり。されど「ヲウナ」といふ假名にては、女の義にして、嫗の義にあたらず。古寫本には「オムナ」又は「オウナ」とかけるあり。代匠記には「オムナ」といひ、考に「オヨナ」とし、攷證に「オミナ」とせり。この中、考にいへる「オヨナ」といふ語は古今にその例證(142)なき語なれば從ふべからず。「オムナ」といふ語は、和名鈔に嫗に注して「於無女」と訓し、靈異記中卷の訓釋に「嫗於于那」とあり。又新撰字鏡には「※[女+長]【於彌奈】」とあり。按ずるに、嫗は老女をいふ漢字なればその義に該當するやうに訓むべきなり。さて「ヲミナ」「ヲムナ」といふ時は普通の女をさせるものにして老女の時には「オミナナ」「オムナ」とよむべきものなるが、その「オ」は大の義をあらはせるなり。かくてこれは又「オウナ」ともいへるが、その源は「オミナ」にして一轉して「オムナ」となり、再轉して「オウナ」となれるなり。かくて、新撰字鏡にも「於彌奈」と見ゆれば、それより古き時代のこの集にてはもとより「オミナ」とよむべきなり。「ニシテ」は「ニアリテ」の意なり。今俗語「デアツテ」といふにおなじ。「ヤ」は疑の助詞にして、係となり、反語を起す力あり。
○如此許 「カクバカリ」とよむ。この語の假名書の例は卷十五「三七三九」に「可久婆可里古非牟等可禰硝弖之良末世婆《カクバカリコヒムトカネテシラマセバ》」とあり。「ばかり」は今「ほど」といふに似たり。
○戀爾將沈 「コヒニシヅマム」とよむ。「シヅム」は俗に泣き沈むといへるにて知らるべく、臥沈みて泣くをいふ。
○如手童兒 舊訓「タヽワラハコト」とよみたれど意をなさず。古寫本には「テワラハノコト」とよめるもあり、「タワラハノコト」とよめるあり。これは下一説にある「多和良波乃如」と同じ語なるべきによりて「タワラハノゴト」とよむべきなり。契沖ははじめ「タワラハ」とよみしが、後その清撰本に句々異なるものをあげたるものなれば、「テワラハ」とよむべしいへり。されど、これは第三、四句の異なるを示さむとてあげたれど、便宜下句全體をも示したるものと見るをうべきも(143)のなれば、契沖の説必ずしも當れとすべからず。「タワラハ」といふ語の意義につきては契沖はその代匠記の初稿に「ははめのなどの手をはなれぬをいふべし」といひ、考には「母の手さらずひたす程の乳兒をいふ」といへり。然るに、攷證にこの「た」は「發語にて、たもとほり、たばしる、たわすれ、たとほみ、などいふ類のた也」といへり。されど、この發語といへる「た」は用言の上には多くつきてこの他にも「たやすし」「たなびく」などの例あるものなるが、名詞の上に加へたる例はなし。されば、これはなほ「手」の義の著しきものにして考などの説によるべし。なほ手童兒といへる例は卷四「六一九」に「幼婦常言雲知久手小童之哭耳泣管《タワヤメトイハクモシルクタワラハノネノミナキツツ》」とあり。
○一云戀乎太〔左○〕爾忍金手武多和良〔左○〕波乃如 この十六字流布本別行大字にせること左注の如し。されど、元暦本類聚古集等に小字にして本文の下に注記せるをよしとするによりて、今それに從へり。これこの一説には第三、四句の異なる傳あることをいへるなり。而して「太」字「良」字多くは「大」「郎」に作れるが、大矢本京都大學本等に「太」「良」につくれるをよしとするによりて今正せり。その三四句は「コヒヲダニシヌビカネテム」とよむべし。意は明かなり。
○一首の意 年を多く經來し嫗にてある我が、戀によりてかく手童兒の泣きて物を乞ふ如く譯もなく思ひ沈むは如何なる事ぞ。まことにわが戀は小兒の如くすぢもたたぬ事よと切なる心をうたへるなり。
 
長皇子與2皇弟1御歌一首
 
(144)○長皇子 卷一「六〇」にいへり。
○與皇弟御歌 「與」は「アタフル」とよむべきか。皇弟は何人にましまさむか。皇子の同母弟ならば、弓削皇子なり。日本紀天武卷に「妃大江皇女生3皇子與2弓削皇子1」とあるにて知るべし。然れども、皇弟は元來天皇の御弟をさす語なれば皇子の弟の義とするは例に違へり。怪むべし。「弟」といふ語當時男女に通じて、用ゐたれば、或は當時の天皇の皇妹に呈せし歌か。いづれにしても不明なる事といふべし。
 
130 丹生乃河《ニフノカハ》、瀬者不渡而《セハワタラズテ》、由久遊〔左○〕久登《ユクユクト》、戀痛吾弟《コヒタムワガセ》、乞通來禰《コチカヨヒコネ》。
 
○丹生乃河 「ニフノカハ」とよむ。この名の川處々にあり。されど恐らくは、大和なる丹生河ならむか。さて大和にては芳野字智兩郡を流れて吉野川の支流なる丹生河最も著し。この川の上には名高き官幣大社丹生川上神社ありて古來知られたるなり。この川の事は大和志に「字智郡丹生河源出自2吉野郡加名生谷1經2丹原生子等1至2靈安寺村1入2吉野川1」と見えたり。この附近はかの内野のあるなるのみならず、後に、井上内親王、他戸廢太子などの幽閉せられてまし、その後御陵墓も亦この地附近にあり。靈安寺といふもその御靈を鎭め奉らるろ爲の社なれば、この邊古より皇室に縁故深かりしなり。よりて思ふに、長皇子とこの皇弟なる方と二皇子この川の彼方此方に住みたまひしならむ。
○瀬者不渡而 舊訓「セヲハワタラテ」とよみたり。されど、「ワタラデ」は後世の語遣なれば、契沖は(145)「セハワタラズテ」とよめり。これに從ふべし。「ズ」より「テ」につづくるは中間に「アリ」又はその代用なる「し」などを略せるものなるが、この期にこの用法既に存せり。例へば、卷五「八七九」に「阿米能志多麻乎志多麻波禰美加度佐良受弖《アメノシタマヲシタマハネミカドサラズテ》」「八八一」に「阿良多麻能吉倍由久等志乃可伎利斯良受提《アラタマノキヘユクトシノカギリシラズテ》」など例多し。河の瀬をば渡らずしてなり。
○由久遊久登 流布本「遊」を「※[しんにょう+(竹/夾)]」に誤れり。多くの古寫本みな「遊」とかけるを正しとす。よみ方は古來「ユクユクト」とありて、異説なし。その意は契沖は「大舟のゆくらなどよめるに同じ」といひ、「思ふ心のはかゆかでのびのびなる意なり」といへり。略解には又「物思ひにたゆたふ也」といひたり。然るを攷證にはこれらを「あまり思ひすぐしたる説也」と評し、さて拾遺集なる菅原道眞公の「君がすむ宿のこずゑのゆくゆくとかくるるまでにかへり見しはや」といふ歌を基として、「菅家はこの御歌の由久遊久等を行行とと心得給ひしと見えたり」といひ、なほ「これによりてここをば行行とと心得べし。まへに丹生の川瀬はわたらずてといひくだしたるにては、行行の意なるを知るべし」といへり。されど、ここは「戀痛」といふ語をあらはむ爲の前置なれば、「行行」といふ語にては何の意もなき事なれば、なほ「ゆくらゆくら」の意と見らる。「ゆくらゆくら」は猶豫ふ心にて卷十七「三九六二」に「大船乃由久良由久良爾思多呉非爾伊都可聞許武等麻多須良武情佐夫之苦《オホフネノユクラユクラニシタゴヒニイツカモコムトマタスラムココロサブシク》」卷十九「四二二〇」に「於保夫禰能由久良由久良耳於毛可宜爾毛得奈民延都都可久古非婆《オホブネノユクラユクラニオモカゲニモトナミエツツカクコヒバ》」など、戀ひ慕ふ心の状の形容に用ゐたるはここと同じきを見るべし。
○戀痛 舊訓「コヒイタム」とよめり。契沖は之によりて、「戀佗て心の痛むなり」といへり。童蒙抄(146)には「コヒワブ」といへるが、意義は通ずれど、「痛」を「ワブ」とよむは如何なり。考は「コヒタム」といひて説明なけれど、蓋し、「コヒイタム」を約していへりとせるならむ。略解には「コヒタキ」とよみて「いと戀しきを強くいふ詞也。愛るを愛痛《メデタキ》といふが如し」といへり。守部の説も略之に同じ。今按ずるに「メデタキ」などとこの「戀痛」とは詞の類、別なるべし。「愛痛」は「メデイタキ」といふ詞よりいでたる如くに見ゆる字面なれど、これは元來「めでたき」といふ形容詞なるを偶然「愛」と「痛」との二語を合せたるに似通ひたれば借りてかく表せるに止まるものならむ。然るに、「こひたき」といへる形容詞のあるべしとも思はれず、又古來の文獻にその證なければ、略解の説には從ふを得ず。攷證は又「コヒタム」とよみて、その「タム」は「集中回轉などの字をよみてものなづみゆく意にいへり。されば、こひたむのたむはまへのゆく/\とへかかりて戀になづみて行たむ意也」といへり。されど、回轉の意の「たむ」は行動又は道路などにいひて、しか戀など心の上に用ゐたりとは思はれず、攷證の説も僻せりといふべし。これはすなほに文字通りに、契沖説の如くに戀ひ痛むにてよかるべし。但し、字餘りとなればよみ方は考の方に從ふべきか。
○吾弟 舊訓「ワガセ」とよめり諸家多く之に從へり。古義には「アオト」とよむべしといへり。これは、皇弟の實體如何によりてよみ方に變動を生ずべきが、その實體明かならねば、いかによまむとも確定的のものにはあらざるべし。契沖は「此に弟の字をかける端作に皇弟とあれば意を得て義訓せり」といひて、「ワガセ」とよませたり。今姑く之に從ふ。
○乞通來禰 舊訓「コチカヨヒコネ」とよめり。代匠記には「イデカヨヒコネ」ともいひ略解それを(147)決定的にとり扱へり。「乞」を「コチ」といふ語に用ゐたる例は卷七「一〇九七」に「吾勢子乎乞許世山登《ワカセコヲコチコセセヤマト》」卷六「九二〇」に「越乞爾思自仁思有者《ヲチコチニシジニシアレバ》」卷七「一一三五」に「阿自呂人舟召音越古所聞《アジロヒトフネヨバフコヱヲチコチキコユ》」卷十二「二九七三」に「越乞兼而結鶴言下紐之所解日有米也《ヲチコチカネテムスビツルワガシタヒモノトクルヒアラメヤ》」等あり。又「乞」を「イデ」とよむべきは卷一(八)に既に例あり。意はいづれにても通ずべきさまなるが、「通來る」といふ語によくあはせむには「コチ」の方によるべきならむ。「來禰」を「コネ」といふは「コ」にて命令希求の語法をあらはせるに更に「ネ」といふ懇に念を推す意の終助詞を加へたるなり。その例は古事記中神武卷の歌に「志麻都登理宇加比賀登母伊麻須氣爾許泥《シマツトリウカヒガトモイマスケニコネ》」といふなどあり。
○一首の意 我は吾弟の君を見まほしく思へど、丹生の瀬を渡ることを得せずして君を戀ひさまさまに心を痛めつつあるなり。吾弟の君よ。願はくは御身より此方へ通ひ來たまへかしとなり。
 
柿本朝臣人麿從2石見國1別v妻上來時歌二首并短歌
 
○柿本朝臣人麿 卷一(二九)にいへり。
○從石見國別妻上來時 人麿は大方京に在りし人なりしことは前後の歌によりて知られたり。然るにここに石見國より上り來るとあるによれば國司としてその國に在任せしことありしならむ。その官職の程を考ふるに、史籍に記載する所なければ、守介などの顯職にあらず、掾目などのうちにありしならむか。かくてこの歌妻を國に止めおきて上京せるなれば、任滿ちて(148)歸京せし時にはあらずして、朝集使などとなりて、上京せし時の歌ならむ。朝集使は諸國より介掾目等を使として朝集帳を持ちて京に上せて辨官その他式部省兵部省等に就いて、雜政并に考選を申すなり。畿内は十月一日に上り、諸國は十一月一日に奉る。延喜式によるに調を貢する石見國の行程は上廿九日下十五日なり。されば人麿が朝集使としての石見國發程は十月の朔日頃より遲くとも十日頃までにありしことを想像しうべし。この妻何人なるか、明記なけれど次に依羅娘子と記せる、その人なるべし。然るに考の別記に人麿に妻四人あるかなどの説ありて、ここの妻と次の依羅娘子とは別人なりとせり。されど、「妻」は字義によれば「齊也」とありて、嫡妻にのみ用ゐるべき字にして、妾をも妻とかくことは、この時代既にあるべきにあらず。考及びその説に賛せる諸家の説強言なりとす。攷證にはこの下に「四首」の二字脱せりといひて補へり。然れども本集の體例しか定まれるにあらず。ここは長歌を主としていひたるなればこのままにてあるべきなり。
 
131 石見乃海《イハミノミ》、角乃浦回乎《ツヌノウラミヲ》、浦無等《ウラナシト》、人社見良目《ヒトコソミラメ》、滷無等《カタナシト》、【一云礒無登】 人社見良目《ヒトコソミラメ》、能咲〔左○〕八師《ヨシヱヤシ》、浦者無友《ウラハナクトモ》、縱畫屋師《ヨシヱヤシ》、滷者《カタハ》【一云礒者】無鞆《ナクトモ》。鯨魚取《イサナトリ》、海邊乎指而《ウミベヲサシテ》、和多豆乃《ワタツノ》、荒礒乃上爾《アリソノウヘニ》、香青生《カアヲナル》、玉藻息津藻《タマモオキツモ》、朝羽振《アサハフル》、風社依米《カゼコソヨラメ》、夕羽振流《ヨヒハフル》、浪社來縁《ナミコソキヨレ》、浪之共《ナミノムタ》、彼縁此依《カヨリカクヨリ》、玉藻成《タマモナス》、依宿之妹乎《ヨリネシイモヲ》、【一云波之伎余思妹之手本乎》】露霜乃《ツユシモノ》、置而之來者《オキテシクレバ》、此道乃《コノミチノ》、八十隈毎《ヤソクマゴトニ》、萬段《ヨロヅタヒ》、顧爲騰《カヘリミスレド》、彌遠爾《イヤトホニ》、里者放奴《サトハサカリヌ》、益高爾《イヤタカニ》、山毛越來奴《ヤマモコエキヌ》。夏草之《ナツクサノ》、念之奈要而《オモヒシナエテ》、志怒布良武《シヌブラム》、妹之門(149)將見《イモガカドミム》、靡此山《ナビケコノヤマ》。
 
○石見之海 古來「イハミノウミ」とよみしを。考には「イハミノミ」とよむべしといへり。これは、日本紀神功卷の歌に二所共に「阿布彌能彌《アフミノミ》」(淡海の海)とあるを據としての事なるが、從ふべきに似たり。
○角乃浦回乎 舊訓「ツノノウラワヲ」とよめり。略解には「ツヌノウラマヲ」とよみ、古義には「ツヌノウラミヲ」とよめり。「角」は元來地名にして、和名鈔郷名に「石見國那賀郡都農【都乃】」とある、これにして、後世專ら「ツノ」といひ、今「都農津」といへる地その主點たり。さて「ツヌ」「ツノ」同じ語にして、音に古今の差あるなるが、この地名當時「ツノ」といひしか「ツヌ」といひしかと考ふるに本集卷十七、「三八九九」にある「都努乃松原《ツヌノマツハラ》」とかける地は、卷三「二七九」に「角松原」とかき、又古事記仲哀卷に「高志前之角鹿」とかける地名を同應神卷の顔に「郡奴賀」とかけり。されば古は「ツヌ」といひしなるべく、「農」も古「ヌ」の假名に用ゐしことは、卷五「八八二」に「阿就農斯能美多麻多麻比弖《アガヌシノミタマタマヒテ》」など、集中いづれも「ヌ」にのみ用ゐたり。されば、古「ツヌ」とよびしならむ。「浦回」の「回」を「ミ」とよむべきことは卷一(四二)にいへり。浦は和名妙に「四聲字苑云浦【傍古反和名宇良】大川勞曲渚舩隱v風所也」とあり。「浦ミ」はその浦のあたりなり。されば、「ツヌノウラミ」とは今の都農津を主點としたるその邊一帶の海濱をさせり。さてその妻は國府におきたるなるべければ、ここはそこより東四五里にあり。
○浦無等 舊訓「ウラナミト」とよみたるが、又「ウラナシト」とよめる古寫本もあり。考には「ウラナ(150)シト」とよめり。「ナミ」といはゞその下に、その歸結の語存せざるべからざるものたるが、ここにはしかよむべき理由なければ、「ナシト」とよむをよしとす。「浦無し」の義は契沖が「能浦なし」といへるをよしとす。
○人社見良目 「ヒトコソミラメ」とよめり。「社」を「コソ」とよめるは古語と見えたり。日本紀孝徳卷大化二年二月の條に「神社福草《カミコソノサキクサ》」といふ人あり。又天武卷上に、「社戸臣大口」といふ人あり。この「社戸」は「コソヘ」とよみて、日本紀孝徳卷の注に「阿倍渠曾借臣」とかけるに同じき氏なり。これは、攝津國島上郡古曾部の地に因みある氏なるが、この外「社」が「コソ」といふ語にあたれる證少からず。その「コソ」をばこゝに助詞の「コソ」に借り用ゐしなり。「ラメ」は「ラム」の已然形にして、上の「コソ」の係に對する結なるが、この「ラム」は通例終止形所屬の複語尾なるが上代には上一段活用の動詞に限りて、その連用形より「ラム」「ラシ」につづけたるなり。今「ミラム」と假名書にせる例をあげむに、卷五「八六二」に「比等未奈能美良武麻都良能多麻志末乎《ヒトミナノミラムマツラノタマシマヲ》」又「八六三」に「伊毛良遠美良牟比等能等母斯佐《イモラヲミラムヒトノトモシサ》」とあるにて知るべし。これを「みるらむ」の略といへるは當らず。もとより古の語法の一格なり。「みらむ」の語遣は古今集にも見ゆ。
○滷無等 「カタナシト」とよむべし。「滷」は玉篇に「潟」と同字なりとし、廣韻亦然りとせり。されば新撰字鏡にもこの字に「加太」と注なり。「カタ」といふ語は和名鈔にも見えたり。それらの「カタ」は干潟の義にして普通にはいづれもみな然釋せり。而して日本海岸は概して干潟少き地なるが、これは古今を通じてかはらざるべし。然るにここに考ふべきことあり。そは他にあら(151)ず、日本海岸にて「かた」といへるは太平洋岸にての「カタ」といへるものとは異にして、一種の鹹湖をさす名稱として用ゐたるが、この事は古代よりと見ゆ。この「カタ」は海岸にありて、砂洲にて海と界せる湖水にして、古來名高き象潟、八郎潟の如きはもとより「若狹の三方郡の名は今もある、三の潟より出でし名なり。又但馬に二方郡といふがありしも(今は七美郡と二方郡と合せて美方郡といふ)古は二の潟ありしが故なるべし。その他、山陰、北陸、東山の沿海には潟の名ある地頗る多きが「陸奧に「十三潟」(青森縣)加賀に「柴山潟」「河北潟」能登に「邑知潟」越後に「鎧潟」等は今も存す。又地名に潟とありてその地に今潟なきは、其の地海中に陷没せしならむ。而して、かかる潟は通常風景よき地なれば、(出羽の象潟の如きことに名高し)この「カタナシト」も亦「よき潟なし」といふ義なるべし。
○一云礒無登 この「一云」は一本にかくあるをいへり。「イソナシト」よむべし。但し、これはよしとは思はれず。
○能咲八師 流布本に「能嘆八師」と「嘆」字をかきたれど、これを「ヱ」とよまむは無理なり。元暦本大矢本等多くの古寫本に「咲」とあるを正しとす。これは「卷十一「二六五九」に「縦咲八師《ヨシエヤシ》」卷十二「二八七三」に「縱咲也思《ヨシヱヤシ》」卷十三「三二二五」に「吉咲八師浦者無友《ヨシヱヤシウラハナクトモ》」とあるなどにて「咲」を「ヱ」にあて用ゐたるを見る。この「咲」は「笑」の俗體の字にして「ゑがほ」「ゑくぼ」「ゑつぼ」の「ゑ」にあたる語なり。さて又この「よしゑやし」といふ語の全く假名書なる例は卷十五「三六六二」に「與之惠也之《ヨシヱヤシ》》卷十七「三九七八」に「與思惠夜之《ヨシヱヤシ》」とあり。これにてそのよみ方を確むべし。さてこの語は先づ「ヨシエ」と「ヤシ」と(152)に分ちて見るべき語なり。「ヤシ」は古事記上卷に「阿那邇夜志《アナニヤシ》」又本集卷七「一三五八」の「波之吉也思《ハシキヤシ》」などの「ヤシ」におなじく、感嘆の意ある間投助詞「ヤ」と「シ」とを重ねたるなるが、意の主點は「ヤ」にありて、「ヨ」といふに似たり。さればこの「ヨシエヤシ」の主たる意は「ヨシヱ」といふにあり。「ヨシヱ」といふは本集にては別に、卷十一「二五三七」に「心者吉惠君之隨意《ココロハヨシヱキミガマニマニ》」といふあり。さてこの「ヨシヱ」も亦「ヨシ」と「ヱ」に分ち見るべきものにして、その「ヱ」は感嘆の終助詞にして、日本紀天智卷の童謠に「愛倶流之衛《エクルシヱ》」「阿例播倶流之衛《アレハクルシエ》」又本集卷四「四八八六」に「吾者左夫思惠《アレハサブシヱ》」卷十四「三四〇六」に「安禮波麻多牟惠《アレハマタムヱ》」とあるが如く、すべて終止するをうる形につくものなり。さればこれはただ「よし」といへるなり。この「よし」は次に「縱」字をかける如く「そのままに任す意をあらはすなり。かくてその意は後世の「ままよ」といふにも似たるが、ここにては「よしゑやし」にて後世の「よしや」といふ語に似たる意と用とをなせり。即ち「よしや云々なりとも」といふべき關係の語遣なりとす。
○浦者無友 古來「ウラハナクトモ」とよみ來れるを玉の小琴に「ナケドモ」と改むべしといひ、之を古言の一格なりと論じてより人多くは之に從へり。されど、これは上に「よしゑやし」と許容放任の語法をとれるに對する語法にして、必ず假設の戻續條件なるべきこと古今一貫せり。如何に古言なりとも、假設の條件をば已然形よりすることあるべからず。されば舊訓の如くにてよし。かくの如き語の實例は卷十五「三六六二」に「與之惠也之比等里奴流與波安氣婆安氣奴等母《ヨシエヤシヒトリヌルヨハアケバアケヌトモ》」などあり。形容詞の未然形又「ク」より「とも」につづけたる例は卷十五「三七六四」に「山川乎奈可爾敝奈里弖等保久登母《ヤマガハヲナカニヘナリテトホクトモ》」などあり。或は之をば、石見國には事實上、よき浦なく、よき潟なきに(153)よりて「なけども」といへりといふはこれまた人間の生きたる言語を知らぬ空論なり。かかる場合に「人が惡くいふなら〔二字右○〕さうにしておけ」などいふ「なら〔二字右○〕」も、人の惡くいふが事實なる場合にも「なら」といふ假設條件を用ゐて、それに拘泥せぬ場合の語遣とするを見よ、血ありて活ける人の言語は空論にて變更しうるものにあらず。
○縱畫屋師 「ヨシヱヤシ」とよむこと上に同じ。この「縦」を「ヨシ」とよむは「その語の本義を示せる正字なり。延喜式太政官式に「史仰云縱謂曰2與志1」とあるが如きその適例にしてこれはゆるす意をいへる語なり。「畫」はその「ヱ」なる音をとりて借りたる假名なり。
○滷者【一云礒者】無鞆 「カタハナクトモ」とよむこと上の「ウラハナクトモ」に同じく、その語の意も同じ。「一云」は上の場合に同じく「イソハ」とありとなり。但し、これはもとより本行の方によるべし。○ 以上一段落なるべし。上四句のさまは卷十三「三二二五」に「天雲之影塞所見隱來笶長谷之河者浦無蚊船之依不來《アマグモノカケサヘミエテコモリクノハツセノカハハウラナミカフネノヨリコヌ》、礒無蚊海部之釣不爲《イソナミカアマノツリセヌ》、吉咲八師浦者無友吉畫矢寺礒者無友《ヨシヱヤシウラハナクトモヨシヱヤシイソハナクトモ》、奧津浪諍榜入來白水郎之釣船《オキツナミイソヒコギリコアマノツリフネ》」に似たるが、それはその「よしゑやし……とも」の下にそれに對する歸結の語あるに、ここにはその歸結の語なし。されども、この下に契沖が「人は浦もなく潟もなしと見るとも吾ためには故郷にして妻とたぐひてすめば浦なし滷なしとも思はず、住よしとなり」といへる如き意ありとす。されば、この歸結の語を略したる格にしてそれを含めて解すべく、隨つてここにて一段をなすなり。
○鯨魚取 「イサナトリ」とよむ。海の枕詞なり。日本紀允恭卷の歌に「異舍儺等利宇瀰能波麻毛(154)能《イサナトリウミノハマモノ》」とあり。又本集卷十七「三八九三」に「伊佐魚取比治奇乃奈太乎今日見都流香母《イサナトリヒヂキノナダヲケフミツルカモ》」ともあり。「イサナ」は鯨の事にして、卷三「三六六」に「勇魚取《イサナトリ》」とかける勇魚の義なり。仙覺抄又詞林釆葉抄に引ける壹岐風土記に「鯨伏【在郡西】昔者※[魚+台]鰐追v鯨、鯨走來隱伏故云2鯨伏1云々俗云v鯨爲2伊佐1」とあり。
○海邊乎指而 舊訓「ウナビヲサシテ」とよみ、攷證などに之をよしとせれど、その證とせる卷十四「三三八一」の「奈都蘇妣久宇奈比乎左之※[氏/一]等夫登利乃《ナツソヒクウナヒヲサシテトブトリノ》」を證とすれども、これは地名なるべくして、ただ海邊といふにあらぬことは古義に既に論ぜり。さて卷十八「四〇四四」に「波萬部余里和我宇知由可波宇美邊欲利牟可倍母許奴可《ハマベヨリワガウチユカバウミベヨリムカヘモコヌカ》」とあるによりて「ウミベヲサシテ」とよむべし。さてこの下に「行ク」といふ語を置きて考ふべし。
○和多豆乃 舊訓「ニギタツノ」とよめり。これは仙覺の按出せしものにして、これは下の歌に「柔田津」とあるより考へつきしことなるべきが、この國にかかる地名の存せりといふ證なき限りは無理なることなり。ここはなほ文字のまま「ワタツノ」の四音によむべし。これは今渡津村とて角津の東にある地をさせるならむ。その名義は江川の渡の津の義なるべし。
○荒磯乃上爾 舊訓「アライソノウヘニ」とよみ、代匠記に「アリソ」ともよみ、考には、全く「アリソ」と改めたり。集中卷十七「三九九一」「之良奈美能安里蘇爾與須流《シラナミノアリソニヨスル》」「三九九三」に「之夫多爾能安里蘇乃佐伎爾《シブタニノアリソノサキニ》」など、例多し假名書なるに「アリソ」とあれば、しかよむべきなり。但し名義は荒き磯といふにあらずして現礒《アライソ》の義なるべし。さてこの下にも「生ふる」といふ語を略してありと心得べし。
○香青生 「カアヲナル」とよむ。この「生」字は生成の「ナル」の字なるを「ニアル」の約なる「ナル」に借用(155)せるなり。「カアヲ」の「カ」は所謂接頭辭にして深き意義なし。卷五「八〇四」に「美奈乃和多迦具漏伎可美邇《ミナノワタカグロキカミニ》」などあるその例なり。この一句青色なるの義なり。以上且は實景をよみ、且は玉藻奧津藻といふ語を導かむ科とせり。
○玉藻息津藻 「タマモオキツモ」とよむ。玉は美稱。「息」は「オキ」といふ語なるを奧の意の「オキ」に借り用ゐたるためなり。「オキツ藻」とは海の奧に生ふる藻なり。日本紀卷二に「憶企都茂播陛爾播譽戻耐母《オキツモハヘニハヨレドモ》」とあり。
○朝羽振 「アサハフル」とよむ。契沖曰はく「和名に鳥の羽振に※[者/羽]の字を出せり。はふくとも同じ詞なり。風の海水をうちて吹來る音は鳥の羽を打て振ふ樣なれば喩てかくいへり」と。攷證には「羽振は風波の發りたつを鳥の羽を振にたとへたる也」とも「それを朝ふく風に浪の起にそへてあさはふるとはいへる也」ともいへり。次の「夕羽振」に對して對句としたるにて、朝夕に風のふくを形容していへるなり。
○風社依米 「カゼコソヨラメ」とよむ。略解には「ヨセメ」とよみたれど、「依」は「ヨル」とよむべき文字なり。古義には「來依」の誤なりとせれど證なし。從來の訓によるべし。さて從來の説にては、風にこそ依るらめの意なりとせり。されどかかる場合の「に」を省くこと例を見ざれば、從ひがたし。按ずるに、これはただ風の吹き來るをいひたるにて、下の浪の生ずる事をいはむ序なり。
○夕羽振流 舊來「ユフハフル」とよみ來れり。考には「流」字衍とせり。されどかかるかきざま集中に多し。按ずるに、「あさ」に對してはいづれも「ヨヒ」といひたる事卷一「五」にいひし所の如くな(156)れば、ここも「ヨヒハフル」なるべきなり。意は上の「朝羽振」と對句をなして朝夕に羽振るといふなり。
○浪社來縁 舊訓「ナミコソキヨレ」とよみたるを萬葉集※[手偏+君]解に「ナミコソキヨセ」とよめり。されど「縁」は元來「ヨル」といふべき字なれば、舊のままにてよかるべし。浪こそより來れといふなり。これは契沖が「此浪も風に依て立てば、夕はふるといへり」といへり。この「夕はふる」は「朝はふる」に對する句としてあげたるまでにして朝に風ふけば、夕に浪立つといふ意にはあらず。(さる事實際にあるまじきは論をまたず。)これは朝夕に風のふきよれば、浪もそれに伴ひて立ちてきて岸による由をいへるに止まる。以上二句次の浪をいはむ料にして上の玉藻息津藻に直接の連絡なし。さてこの下に「然る時には」の意をこめて釋すべし。
○浪之共 「ナミノムタ」とよむ。「ムタ」は「共ニ」といふ意に似たる古語なるが、必ず「何ノムタ」「何ガムタ」といひて「ト共ニ」の意をなせり。卷十五「三六六一」に「可是能牟多與世久流奈美爾《カゼノムタヨセクルナミニ》」又「三七七三」に「君我牟多由可麻之毛能乎《キミガムタユカマシモノヲ》」などあるその例なり、上にいへる玉藻息津藻が浪のよるにつれてなびきよるをいはむとてなり。
○彼縁此依 「カヨリカクヨリ」とよむ。彼を「カ」といひ此を「カク」といふが二者相對して用ゐたる例古極めて多し。古事記應神卷に「迦母賀登和賀美斯古良《カモガトワガミシコラ》、迦久母賀登阿賀美斯古邇《カクモガトアガミシコニ》」又卷四「六二八」に「鹿※[者/火]藻闕二毛《カニモカクニモ》」卷五「八〇〇」に「可爾迦久爾保志伎麻爾麻爾《カニカクニホシキマニマニ》」卷十七「三九九一」に「可由吉加久遊岐見都禮騰母《カユキカクユキミツレドモ》」など例多し。彼方により此方によりさまざまの状態にしての義なり。さて(157)これは古義には「ヨル」とよみ切るべしといへり。若し古義の如くせぱ、「玉藻奧津藻の……かよりかくよる」といひて一段落となり、下の句とは縁なくなるべきなり。かくては歌の意通らぬ事とならむ。從ふべきにあらず。これは上の玉藻奧津藻の浪の共彼より此くよりする如くといひて下の「玉藻成すよりねし妹」を導かむ料なり。
○玉藻成 「タマモナス」とよむ。この「ナス」は「ノ如クニアル」の義あるなり。「依る」の形容に用ゐたり。
○依宿之妹乎 「ヨリネシイモヲ」とよむ。「ヨリヌ」とは傍にて添ひて宿ぬるをいふ。古事記允恭卷の歌に「余理泥弖登富禮《ヨリネテトホレ》」とあり。上述の如く依り添ひ寢し妹をばの義なり。最愛の妻をばの義なり。
○一云波之伎余思妹之手本乎 これは一本に上二句を「ハシキヨシイモガタモトヲ」とありとなり。「波」字流布本誤れり。多くの古寫本によりて改めたり、「はしき」は「愛すべき由をいふ形容詞なり。「ヨシ」は「アヲニヨシ」の「ヨシ」におなじ。さてこの語ここにてはよしとも思はれず。本行の方まされり。
○霜乃 「ツユシモノ」とよむ。玉勝間にはこれを露の事にして露と霜との二にあらずといへれど、ここにてはさる説は必要なし、露も霜も共に地におくものなれば「置く」の枕詞とせるまでなり。「露霜」といふ一種の露とすべき理由もなし。
○置而之來者 「オキテシクレバ」とよむ。「オキテ」とは殘し置くの義なるにて卷一に「倭乎置而」(二(158)九)以來屡例ありしものなり。妻を國に留め置きて別れ來ればなり。
○此道乃 「コノミチノ」とよむ。この道は人麿の今通る道即ち國府より都農の浦、渡津と經來る道なり。
○八十隈毎 「ヤソクマゴトニ」とよむ、これは卷一「七九」に「八十阿不落《ヤソクマオチズ》」とあると趣同じ。意もかれに準じて知るべし。
○萬段 「ヨロヅタビ」とよむ。これも卷一「七九」にあり。
○顧爲騰 「カヘリミスレド」とよむ。かへりみれどといふを意を強めたるいひ方なり。
○彌遠爾 「イヤトホニ」とよむ。卷二十「四三九八」に「伊也等保爾國乎波奈例伊夜多可爾山乎故要須疑《イヤトホニクニヲキハナレイヤタカニヤマヲコエスギ》」とあり。行程の進むにつれてますます遠くなるをいへり。
○里者放奴 舊本「放」にかななし。古寫本中に「サトハハナレヌ」とよめると「サトハサカリヌ」とよめるあり。契沖は「サトハワカレヌ」とよみ、童蒙抄には「サトハサカリヌ」とよめり。さて考が童蒙抄の説を奉じてより後皆之に從へり。「サカル」は卷五「七九四」に「伊弊社可利伊麻須《イヘザカリイマス》」とある如く、その間に隔りのあるをいふ語なり。後世の「遠ざかる」といふ語も之に基づけり。
○益高爾 舊本「マスタカニ」とよみたれど語をなさず。童蒙抄に「イヤタカニ」とよみ、考は「マシタカニ」によみたり。されど、これは本居宣長の説の如く「イヤタカニ」をよしとす。その語例は上の「彌遠爾」の下にあげたり。又卷十三「三二四〇」に「道前八十阿毎嗟乍吾過往者彌遠丹里離來奴《ミチノクマヤソクマゴトニナゲキツツワガスギユケバイヤトホニサトサカリキヌ》、彌高二山文越來奴《イヤタカニヤマモコエキヌ》」などあるにてその意をさとるべし。
(159)○山毛越來奴 「ヤマモコエキヌ」とよむ。進むにつれて、いよ/\高山を多く越え來ぬとなり。
 以上第二段落なり。
○夏草之 「ナツクサノ」とよむ。夏の草は烈しき日にあたりて萎ゆるものなれば、次の思萎ゆの枕詞とせり。
○念之奈要而 「オモヒシナエテ」とよむ。契沖は下なる長歌に「思志萎而」と書けるによりて「シ」を助詞とし萎を痿の義とせるによりて諸家之に從へり。然れども、卷十「二二九八」に「於君戀之奈要浦觸《キミニコヒシナエウラブレ》」卷十九「四一六六」に「宇知嘆之奈要宇良夫禮《ウチナゲキシナエウラブレ》」とある例を見れば、「シ」を助詞なりと釋すること能はず。これは「ナエ」と意は似たれど、別の詞にして「シナエ」はヤ行下二段活用なる一種の動詞たるなり。種々に思ひわづらひて力なきさまになるを草の日にあたりてしなしなとなれるにたとへたるなり。さて又「しなふ」(撓)といふ詞とも別なり。
○志怒布良武 「シヌブラム」なり。意は上に屡いへり。これは連體格にして下の妹につづけて「シヌブラム妹」といふなり。思ひしなえてわれを戀ひ思ふらむ妹といふなり。これはわが妹を思ふことの切なるを妹の上に投影していへるなり。
○妹之門將見 「イモガカドミム」なり。上にいへる如く思ひ戀ふる妻の家のあたりを見むと欲するなり。
○靡此山 「ナビケコノヤマ」とよむ。今見る前方の山に靡けと命令せるなり。山に靡けといふは高き山の低く平に横に長くなびき臥せよとなり。かくせば、先の方のよく見らるべきわけ(160)なり。されど山の靡くなどはあるべきことにあらぬは勿論なるを戀情の切なるあまりの詞にして、その意氣の壯なる、げにも人麿の歌といふべし。卷十二「三一五五」に「惡木山木末悉明日從者靡有社妹之當將兒《アシキヤマコヌレコトゴトアスヨリハナビキタレコソイモカアタリミム》」といへるも似たる思想なるが、この方は意切なりとす。
○一首の意 第一段は國府を立ち出でて今通る石見の海なる角の浦をば人々の見て或はよき浦なしといひ或はよき潟なしといふやうなるが、よしやよき浦はなくとも又よしやよき潟はなくとも、われはわが愛する妹の住める地なれば然るべき地と思ふとなり。第二段はその妹のあたりを離れて旅行するをいへるにてこの角の浦をわが行けば、渡津に至る、その渡津の荒磯の上に生ふる青き藻が、朝夕ふく風が海邊によれば、それにつれて浪の立つが、その浪のとほりに、彼方により、此方による如く、その玉藻の如く、我に依り添ひ寢し、妻をば國に留め置きて來れば、わがこの旅道には幾度も/\顧みすれば、行くに從ひて益遠く里を放れ、益高く山を幾重も越え來て今は妹があるあたりも見えずなりぬとなり。第三段はかく來りて思へば、國には種々に思ひ出して我を思ひ戀ふらむ妹のあるを、その妹が門を見むと思へば高角山にさはりて見えぬなり。この山がせめて低くもあらば見えむものを。この山よ汝は邪魔物なれば、かたすみに靡きよりてわが妹のあたりを見ゆるやうにせよとなり。「靡けこの山」といふあたりその戀情の切なるをあらはしえて古今に稀なるうたなりとす。
 
反歌
 
(161)○ 元暦本、大矢本、京都大學本等にこの下に二首の二字あり。實に二首あるなれば、ある方よかるべし。又目録には反歌となくして短歌とかけり。この故に檜嬬手には反歌を誤とせり。然れども、いづれにしてもよきことなり。
 
132 石見乃也《イハミノヤ》、高角山之《タカツヌヤマノ》、木際從《コノマヨリ》、我振袖乎《ワガフルソデヲ》、妹見都良武香《イモミツラムカ》。
 
○石見乃也 「イハミノヤ」とよむ。「ヤ」は間投助詞にして、調を添ふるのみにして、語の意義にも語の資格にも大なる影響を與ふることなし。その例は日本紀繼體卷に「阿符美能野※[立心偏+豈]那能倭倶吾伊《アフミノヤケナノワクゴイ》」又本集卷十四「三四四五」に「美奈刀能也安之我奈可那流《ミナトノヤアシガナカナル》」などみな「の」の下に「や」の添へるなり。意は「イハミノ高角山」とつゞくるものなり。
○高角山之 舊訓「タカツノヤマノ」とよめり。このよみ方惡しとにはあらねど、角を古く「ツヌ」とよめるに從ふ時は考の如く「タカツヌヤマノ」とよむべきなり。この山の所在詳かならず。或は「都野津の海岸に突出せる丘陵を指せるなるべし」といふ説もありて、この山の西に人麿神社あり。されどそは誤なることは石見國名跡考(石見藤井宗雄著)に指摘せり。而して今この名を以て知られたる山を知らず。然れども人麿が上京の順路にして石見國にあり、しかも、その妻の住せるあたりの詠めやらるる地點なりしことは歌の上より察せらる。
○木際從 「コノマヨリ」とよむ。考には一本に「從」の下に「文」とある本ありといひ、その本を可として、「コノマユモ」とよめり。然れども、今傳はれる諸の寫本に「文」の字ある本を見ざれば疑ふべき(162)のみならず、「モ」を加へずしては不可なりといふこともなく、このまゝにて意もよく通り、調も惡きにあらず。
○我振袖乎 「ワガフルソデヲ」とよむ。袖を振るは、別れを惜む心を遙に隔りたる先方に知らせむ爲に行ふわざなり。卷六「九六六」に「倭道者雲隱有《ヤマトヂハクモカクリタリ》、雖然余振袖乎無禮登母布奈《シカレドモワカフルソデヲナメシトモフナ》」卷七「一〇八五」に「妹之當吾袖將振木間從出來月爾雲莫棚引《イモガアタリワガゾデフラムコノマヨリイデクルツキニクモナタナヒキ》」卷十一「二四八九」に「袖振可見限吾雖有其松枝隱在《ソデフルヲミユベキカギリワレハアレドソノマツガエニカクリタリケリ》」とあるなど例多し。又袖ならずして領巾をも振りしは、卷五「八七一」に「得保都必等麻通良佐用比米都麻胡非爾比例布利之用利於返流夜麻《トホツヒトマツラサヨヒメツマゴヒニヒレフリシヨリオヘルヤマノナ》」など例多し。今も洋手巾をふりて分れを惜むを見れば古今の通情といふべし。
○妹見都良武香 「イモミツラムカ」とよむ。さてこの「見つらむ」といふ語をば、木際より直ちに受くるものとして、我が振る袖をば、高角山の木際より妹見つらむかと解すべしといふ説と、わが高角山の木際より袖を振るを家にありて妹が見つらむかと解すべしといふ説あり。この二説の可否は高角山の所在とその妻の所在との二者明確ならば、論議をなす餘地なき筈なるに、二者共に明かならねば、歌の上より判定せざるべからず。その高角山の木際より妹が見たりとする説は高角山を人麿の住める地とせるものとし、又はその高角山を上にいへる如く都野津の海岸の丘陵とし、都濃の地を妻の位地とせるものなるが、その都濃の地は妻の住地よりは隔たれることは、長歌にて知られたれば、たとひ高角山をその説の如くすとも、妻が、高角山の木際より見る由の證とはなるべからず。これはその旅路の景を料としていひ來れる末なれば、(163)その高角山も亦旅路のうちにあること著しく、又語のつゞきも「亦木際よりわがふる袖」と直ちにつゞくと見るが順當にして、他に之を否認すべき確證なき限りは穩かなる解し方とすべきものなりとす。
○一首の意 石見の高角山を越ゆとてその木間より妹が家の見ゆるによりて、別れを告げむとてわが袖を振るをば、我が妹はその門より見つらむか如何にとなり。此方が木際より眺めて振る袖の遠方よりは容易に認めかぬるは常識よりいひてもいはずもがなの事なるを之を知らざるにあらずして行ふが至情といふものなり。
 
133 小竹之葉者《ササノハハ》、三山毛清爾《ミヤマモサヤニ》、亂友《ミタレドモ》、吾者妹思《ワレハイモモフ》、別來禮婆《ワカレキヌレバ》。
 
○小竹之葉者 板本「ササノハハ」とよめり。代匠紀には「ササカハニ」とよみ、童蒙抄は「シヌノハハ」とよみ、略解は「ササガハハ」とも訓ず。按ずるに「小竹」は「シヌ」とよむこと卷一にいひたる如くなれど又古事記上に「訓小竹云2佐々1」とあり、又和名鈔に「篠【鳥反和名之乃一云佐々俗用小竹二字謂之佐々】細竹也」とあれば、「ササ」とよむも不可ならず。然らばいづれにてもあるべきが、「シヌ」とはその、撓ふ性の方につきにての名、「ササ」はその葉の音よりの名なるべきに、ここは下に「サヤニ」といひて音をあらはす爲に用ゐたりと見ゆれば、「ササ」とよむをよしとすべきなり。
○三山毛清爾 「ミヤマモサヤニ」とよむ。「ミ」は眞と略同じき意にして美稱として加へたるに止まること「みよしぬ」「みくまぬ」などの「み」におなじ。若し強ひて意を求めば「全山」といふに近かる(164)べし。俗に「深山」とかきて、「み山」にこの義ありとするは古語の義に當らず。この語の例は古事記顯宗卷の歌に「美夜麻賀久理弖《ミヤマガクリテ》」又本集卷十七「三九〇二」「烏梅乃花美夜萬等之美爾安里登母也《ウメノハナミヤマトシミニアリトモヤ》」などの例あり。「清」をば「さや」とよむは「さやか」と同義にして卷十四「三四〇二」に「比能具禮爾宇須比乃夜麻乎古由流日波勢奈能我素低母布良思都《ヒノクレニウスヒノヤマヲコユルヒハセナノガソデモサヤニニフラシツ》」卷二十「四四二三」に「伊波奈流伊毛波佐夜爾美毛可母《イハナルイモハサヤニミモガモ》」などにいへる「サヤ」の意にあたるものなるが、こゝはその「サヤ」といふ語をかりて上にいへる小竹の葉の風などによりて搖ぎて鳴りて立つる「サヤサヤ」といふ音をあらはす詞にかりたるなり。古語拾遺に「阿那佐夜憩《アナサヤケ》」とあるに注して「竹葉之聲也」とあるも、その「サヤ」は竹葉の動搖ぎ相觸るゝ音を「サヤ」といへりとおぼゆ。古事記仁徳卷に「斯賀阿麻理許等爾都久理《シガアマリコトニツクリ》…那豆能紀能佐夜佐夜《ナツノキノサヤサヤ》」とあるも、その琴の音をあらはしたるなり。かくてその「さや」を基として「さやぐ」といふ動詞生じたるなり。その例古事記神武卷の歌に「宇泥備夜麻許能波佐夜藝奴《ウネビヤマコノハサヤギヌ》」本集卷十「二一三四」に「葦邊在荻之葉左夜藝秋風之吹來苗丹《アシベナルヲギノハサヤギアキカゼノフキクルナヘニ》」卷二十「四四三一」に「佐左賀波乃佐也久志毛用爾《ササガハノサヤグシモヨニ》」などあり。「ミヤマモサヤニ」とは「ミチモセニ」などいふと同じ語格にして、「ミヤマ」又は「ミチ」は主格にして、「サヤ」「セ」はそれに對して説明をなすべき位地に立てるが、それには述格をあらはすべき用言なきが、「モ」といふ係助詞の力によりて、こゝに一句の資格を得、「ニ」といふ格助詞に導かれて修飾格に立てる一種の修飾句と考へらる。かゝる場合にはいつも、「モ……ニ」といふ形式にてあらはるゝものなり。その二三の例をいはゞ、古事記上卷は「奴那登《ヌナト》母〔右○〕母由良《モユラ》爾〔右○〕振滌天之眞名井而」本集卷十「二〇六五」に「足玉《アシダマ》母〔右○〕手珠《タダマ》毛〔右○〕由良《ユラ》爾〔右○〕織旗乎《オルハタヲ》》卷十四「三三九二」に「伊波毛(165)等杼呂《イハモトドロ》爾〔右○〕於都流美豆《オツルミヅ》」などなり。これにてその山路にある小竹の葉の吹く風にざわ/\と鳴りわたるをば「みや山もさやに」といへるなり。
○亂友 舊訓「ミタレトモ」とよめり,代匠記には「マガヘドモ」とよむべしといふ一説をあげ、考には「サワゲドモ」とよみ、攷證には「マガヘトモ」とよみ、檜嬬手は「サヤゲドモ」とよめり。然るに、この亂字には「サワグ」「サヤグ」とよむべしといふ證古今に一も存せず。略解に卷十二「三一七三」の「松浦舟亂堀江之」とあるを「さわぐ」とよみたりとて證にしたれど、これは「ミダル」とよむべきこと古義に既に論ぜり。「マガフ」とよむことは、攷證に卷八「一五五〇」に「秋芽之落之亂爾《アキハギノチリノマガヒニ》」卷十「一八六七」に「今日毛鴨散亂見人無二《ケフモカモチリマガフラムミムヒトナシニ》」卷十三「三三〇三」に「黄葉之散亂有《モミヂハノチリマガヒタル》」などかける亂を「マガフ」とよみて、その例によれるものなるが、その卷十、卷十三なるは「みだる」とよみて不都合なることなきものなり。ただ卷八なるは「ちりのまがひ」とよむをよしとすべく、しかよむべき假名書の例も(【卷十五「三七〇〇」卷十七「三九六三」】)あれば、そこは「マガヒ」とよむをよしとすべきが、その「まがふ」といふ訓は「紊亂」といふ熟字にて示されたる意にて考ふべきものなるが、これらの「ちりのまがひ」といへるは、いづれも「ちる」に關していひ、しかもそが、視覺に訴へたる場合にいへり。今ここは聽覺を主としていへるなるが、然るときはこゝはその竹葉のさやぐ聲を專らいひて、その聲を紛らす聲の雜然たるさまをいふとは考へられねば、ここを「まがへども」とよむべき理由は存せず。さればなほ古のまま「みだれども」とよむべし。この頃「みだる」は四段活用の語なりしが故に、「みだれ」は已然形にして「ども」に接するは不合理にあらず。その山の笹が、風に吹き亂されてさわ/”\と音を立つる(166)なり。
○吾者妹思 舊訓「ワレハイモオモフ」とよめり。童蒙抄には「イモシメフ」といひたれど、必ずしもしか訓までよしとす。但し、他の例によらば「イモモフ」とよむとすべし。
○別來禮婆 舊本この訓を「ワカレキレバ」とかけるは仙覺本に「ワカレキヌレバ」とあるを書きあやまりしこと著し。
○一首の意 石見の山は一體に古、笹繁りてありし由の證は新考にのせたるが、その全山が、笹にて被はれてありしものとせば、風の吹き渡るにつれてその笹の葉が、ざわ/\と音をたてゝ亂るるなり。されども、われは、それらの外物の騷亂に紛れて心を奪はるるやうの事はなくして、一向に別れ來たる妹を思ひつつありとなり。
 
或本反歌
 
これは上の「一三二」の「石見乃也云々」の反歌の別の傳として或本に載せたるものなるべきか。
 
134 石見爾有《イハミナル》、高角山乃《タカツヌヤマノ》、木間從文《コノマユモ》、吾袂振乎《ワガソデフルヲ》、味見監鴨《イモミケムカモ》。
 
○石見爾有 舊來「イハミナル」とよめり。「ニアル」を約めて「ナル」といへること上に屡いへり。
○高角山 上にいへり。
○木間從母 舊本「コノマニモ」とよめり。然れども「從」は「ニ」とよむべき字ならずして「ユ」とも「ヨ」と(167)もよむべし。この故に、代匠記には「コマノマユモ」とよみ、古義には「コノマヨモ」とよめり。いづれにてもよかるべきが、今代匠記に從へり。日本紀神武卷の歌に「伊那瑳能椰摩能虚能莽由毛《イナサノヤマノコノマユモ》」などあり。
○吾袂振乎 舊本「ワガソデフルヲ」とよめるに從ふべし。「袂」は今「タモト」とのみよめど、玉篇に「袖也」と注したれば「ソデ」といふに差支なし。上の歌は振れるその袖を主としていひ、ここは、袖をふるわざを主としていへるなるが、事實は一に歸すべし。
○妹見監鴨 「イモミケムカモ」とよむ。「かも」は疑の「か」に「も」を添へたるものなり。
○一首の意 上の歌に大略詞じ。
 
135 角※[章+おおざと]經《ツヌサハフ》、石見之海乃《イハミノミノ》、言佐敝久《コトサヘグ》、辛乃埼有《カラノサキナル》、伊久里爾曾《イクリニゾ》、深海松生流《フカミオルオフル》、荒礒爾曾《アリソニゾ》、玉藻者生流《タマモハオフル》、玉藻成《タマモナス》、靡寐之兒乎《ナビキネシコヲ》、深海松乃《フカミルノ》、深目手思騰《フカメテモヘド》、左宿夜者《サネシヨハ》、幾毛不有《イクラモアラズ》、延都多乃《ハフツタノ》、別之來者《ワカレシクレバ》、肝向《キモムカフ》、心乎痛《ココロヲイタミ》、念乍《オモヒツツ》、顧爲騰《カヘリミスレド》、大舟之《オホフネノ》、渡乃山之《ワタリノヤマノ》、黄葉乃《モミヂバノ》、散之亂爾《チリノマガヒニ》、妹袖《イモガソデ》、清爾毛不見《サヤニモミエズ》、嬬隱有《ツマゴモル》、屋上乃《ヤガミノ》【一云室上山】山乃《ヤマノ》、自雲間《クモマヨリ》、渡相月乃《ワタラフツキノ》、雖惜《ヲシケドモ》、隱比來者《カクロヒクレハ》、天傳《アマツタフ》、入日刺奴禮《イリヒサシヌレ》、大夫跡《マスラヲト》、念有吾毛《オモヘルワレモ》、敷妙乃《シキタヘノ》、衣袖者《コロモノソデハ》、通而沾奴《トホリテヌレヌ》。
 
○角※[章+おおざと]經 舊板本「ツノサハフ」とよみ、古寫本には「ツノサフル」とよみたるもあり。考には「ツヌサハフ」とよめり。「角」を「ツヌ」とよむべきは上にいへり。「※[章+おおざと]」は金澤本元暦本等に「障」に作る。この(168)※[章+おおざと]字は本來地名に用ゐたる字にして、(説文に「紀邑也」とあり春秋の注に「※[章+おおざと]紀附庸國云々」ともいへり)攷證には「障※[章+おおざと]通ずる事なし。誤なる事明かなれば…改む」といひたれど、「※[章+おおざと]」字を障字に通用せることは手近き康煕字典にもいへり。そが例證として禮祭法に「※[魚+系]※[章+おおざと]《フサイテ》2鴻水1而※[歹+亟]死」漢書張湯傳に「居2一※[章+おおざと]間1」とあるをひけり。されば、これは必ずしも誤にはあらざるなり。さてその字の訓の「サハル」の語幹の「サハ」といふをかり、之に「フ」の訓を有する「經」をかりて、加へて「サハフ」とよますべくせるものにして、「サフル」とよむべきにあらざるべし。かくいふは、「イハ」といふ語の枕詞として用ゐたるに「ツヌサハフ」といふ語の例他に存すればなり。例へば、日本紀卷十一の歌に「菟怒瑳破赴以破能臂謎餓《ツヌサハフイハノヒメガ》」同卷十七の歌に「都奴娑播苻以斯《ツヌサハフイハ》(簸)例能伊開能《レノイケノ》」などあり。さてその「ツヌ」は「ツナ」の轉にして「イハツナ」(卷六「一〇四六」)といふ語ある如く、石に纏ひ這ひ生ふる今「ツタ」といふものをさすといへり。冠辭考には「ツヌサ」は「ツナ」にして「ツタノハフ」なりといひ。荒木田久老は、「ツヌ」は「ツタ」にして「サハフ」は「サハハフ」の約なりといへり。先「ツヌサ」といふ名詞の存することなければ、冠辭考の説はうけられず。又久老の「サハハフ」といへるもうけ難し。按ずるに、「サハフ」の「サ」は接頭辭にして「這ふ」をいふ語なり。「つた」は漢名「絡石」とある如く岩に這ひ纏はりて生ずるものなれば、「いは」の枕詞とせるなり。
○石見之海乃 前の例によりて「イハミノミノ」とよむべし。
○言佐敝久 「コトサヘグ」とよむ。「コト」は言語なり。「サヘグ」は「サワグ」に同じき古語なり。「コトサヘグ」とは言語の意のききとれず、たださわがしく聞ゆるのみなるをいふ。本卷の歌「一九九」(169)に「言左敝久百濟之原從《コトサヘグクダラノハラユ》」とあり。これらいづれも外國人の言語の意義わかれずして、ただ音の騷がしくきこゆるのみなるをさしていへるものなるが、その意にて「から」の枕詞とせるなり。
○辛乃埼有 「カラノサキナル」とよむ。この地は萬葉集新講に石見風土記の逸文に「可良島秀2海中1、因v之可良埼云、度半里」とある地にして、渡津より東方十里許の邇摩郡宅野村の海上に辛島とある、その海濱の出鼻をいひたるものならむといへるは是なるに近からむ。「有」を「ナル」とよむは上に「ニ」ありと見ての事なり。
○伊久里爾曾 「イクリニゾ」とよむ。從來の説に海中の石をいふといへり。日本紀應神卷の歌に「由羅能斗那※[言+可]能異句離珥《ユラノトナカノイクリニ》」とあるを釋紀に注して「句離謂v石也異助語也」といへり。即ち「イ」は今いふ接頭辭なれば、「石」の義は「クリ」といふ語にあるべし。本集には卷六「九三三」に「淡路乃野島之海子乃海底奧津伊久里二鰒珠左盤爾潜出《アハチノヌシマノアマノワタノソコオキツイクリニアハビタマサハニカツキデ》」といふ例もあり。さて海中の石なることはもとよりなるが、如何なる場合の石もみな「いくり」又は「くり」といふかといふに必ずしも然らざるべし。袖中抄には「船路には石をくり」ともいへりといひ仙覺抄には「山陰道の風俗石をばくりと云也」といへり。これに就きて考ふるに、日本地誌提要には長門より羽後までひろく日本海沿岸の地方の地勢用言に暗礁を「何繰《ナニグリ》」といへるもの頗る多し。これ恐らくは古言の殘り傳はれるものなるべし。これによりて考ふるに、「山陰道の方言に石をくりといふ」といへるも、「船路には石をくり」といふといへるも、いづれもこの事をいへるにて、山陰道其他日本海治岸地方にてこの暗礁を「くり」といへるをさせるものたるべく考へらる。船路に云々とあるも、暗礁は船路(170)にてはことに注事を惹くものなればなるべし。なほ委しくは別にいへり。かくてここの「いくり」と次の「ありそ」とは相對し用ゐられたりと認めらる。
○深海松生流 「フカミルオフル」とよむ。海松は今もいふ「ミル」にして、和名鈔海菜類に「水松状如松而無葉和名美流揚氏漢語抄云海松【和名上同俗用之】とあり。一種の海藻にして、海中の岩につきて生ず、緑色にして枝多し。さて深海松といふ名より見れば、海中深き處に生ずる故の名なる如くなるが、延喜式宮内省諸國例貢御贄に志摩國よりの貢物に「深海松」とあり。されば特に「ふかみる」と名づけたるもの存すること明かなるが、いかなる種類の「みる」なるか、未だ詳かならず。深海松をよめる歌はなほ卷六「九四六」に「三犬女乃浦能奧部庭深海松採《ミヌメノウラノオキベニハフカミルトリ》」卷十三「三三〇一」には「神風之伊勢乃海之朝奈伎爾來依深海松暮奈藝爾來因俣海松《カムカゼノイセノウミノアサナギニキヨルフカミルユフナギニキヨルマタミル》」(「三三〇ニ」にもあり)あり。こは下の「深目手」を導く序としたるなり。
○荒礒爾曾 舊本「アライソニゾ」とよめり。代匠記には「アリソ」とよめり。いづれにてもよきが、音調の上より代匠記に從ふ。「アリソ」は「現《アラ》磯」にして、上の「いくり」に對していへるものと思しく一は暗礁一は現磯と相對せしめしものと見えたり。
○玉藻者生流 「タマモハオフル」とよむ。玉藻のことは屡いへり。
○ 以上はその見る所を叙し來りて、次の語を導く序としたるなり。
○玉藻成 上にいへるにおなじ。これは上の「玉藻は生ふる」をうけて、その玉藻の如くといひ、さて、「なびく」の枕詞としたるなり。
(171)○靡寐之兒乎 「ナビキネシコヲ」とよむ。「靡きねし」とは卷一「四七」に「打靡寐毛宿良目八方《ウチナビキイモヌラメヤモ》」の下にいへる如く安く臥したるさまにいふ語なるが、わが傍にそひふしたるをいふと見ゆれば、用ゐ方ややかはれり。卷三「四八一」に「白細之袖指可倍※[氏/一]靡寢吾黒髪乃《シロタヘノソデサシカヘテナビキネシワガクロカミノ》」とあるはここの意にかよへり。「兒」とは人を愛し親みていふ語にして、ここは己が妻をさせり。似たる用例は古事記下雄略卷に「本陀理斗良須古《ホタリトラスコ》」とのたまへるは袁杼比賣をさしたまひ、本集卷頭の歌に「菜採須兒《ナツマスコ》」卷五「八四五」に「宇米我波奈知良須阿利許曾意母布故我多米《ウメガハナチラズアリコソオモフコガタメ》」又卷七「一四一四」に「薦枕相卷之兒毛《コモマクラアヒマキシコモ》」などあるを見るべし。この「ヲ」は一句隔てたる「深めて思ふ」にかかるなり。
○深海松乃 上の深海松を受けて、之をくりかへし、下の「深め」の枕詞とせり。上にあげたる卷十三の例又かくの如くに用ゐたるものなり。卷十三「三三〇一」に「深梅松乃深目師吾乎《フカミルノフカメシワレヲ》」「三三〇二」に「深海松之深目思子等遠《フカミルノフカメシコラヲ》」とあり。
○深目手思騰 舊本「フカメテオモフ」とよめるを考には「フカメテモヘド」と改めたり。ここは前後の文勢を以て推すに、「ド」といふ助詞にて接續せしむべき意明かなれば、考の説にしたがふべし。心を深めて妹を思へどもといふ心なり。
○左宿夜者 「サヌルヨハ」とよみ來れり。古義には「サネシヨハ」とよむべしといへるが、この説に從ふべし。卷五「八〇四」に「佐禰斯欲能伊久陀母阿羅禰婆《サネヨノイクダモアラネバ》」と同じ趣の語遣なればなり。「さ」は接頭辭にして深き意なし。
○幾毛不有 舊訓「イクハクモアラス」とよみたるが、考に「イタダモアラズ」とよみ、古義之に從へり。(172)玉の小琴に「イクラモアラズ」とよみ、略解これに從へり。按ずるに「幾何」は上にいへる如く、卷五「八〇四」及び卷十、「二〇二三」「左尼始而何太毛不在者《サネソメテイクダモアラネバ》」の例によらば、「イクラ」とよむべく、卷十七「三九六二」に「年月毛伊久良母阿良奴爾《トシツキモイクラモアラヌニ》」とあるによらば、「イクラ」とよむべし。さて「イクダ」の「ダ」は「ラ」の轉じたるものにて、「ココラ」の「ココダ」となれるも同じ趣なれば、畢竟「イクダ」「イクラ」同じ語の音の変化によりて、二語と見ゆるなり。而して三者共に例あれば、いづれにてもよき筈ななるが、普通の語なる點によりて「イクラ」とよむを穩かなりとす。この「アラズ」は連用形にして、下の「別れ」につづく意なり。
○延都多乃 「ハフツタノ」とよむ。「つた」は上にもいへる草の名にして蔓の彼方此方に這ひ別るる如くといふ意にて「別る」の枕詞とせり。
○別之來者 「ワカレシクレバ」なり。「シ」は間投助詞にして、妻に別れくればなり。
○肝向 舊訓「キモムカヒ」とよめるを管見に「キモムカフ」とよみたり。童蒙抄には「肝」の上に「村」を脱し、「向」は「乃」の誤にして「ムラキモノ」かといへり。然れども、この誤字説は證なければ從ひがたし。契沖は「肝向ひと點せるは叶はず、向ふと改むべし。古事記下仁徳天皇の御歌末云、岐毛牟加布許々呂袁陀邇迦、阿比淤母波受阿良牟此を證とすべし」といへり。これに從ふべし。かくてこれを以て「ココロ」の枕詞とせり。「肝」とは今肝臓をさせるものなるが、古は必ずしも肝臓のみに限らず、内臓の類を汎くいへるものなるべく、「向ふ」はそれらは多く相對してあるものなるによりていひしものなるべく、これを「こころ」の枕詞とせる理由は宣長は「まづ腹の中にあるい(173)はゆる五臓六腑の類を上代にはすべて皆きもと云し也。さて腹の中に多くのきもの相對ひて集りありて、凝々《コリ/\》しと云意にてこころとはつづくる也」といへり。これにつきて考ふるにいかに古代なりとて、「はらわた」までも「きも」といふべからねば、「きも」はなほ五臓までに止まるべし。又「こりこりし」といふ意なりといふ説もあまりに常識に遠しといふべし。これは、萬葉集新講にいへる如く、古は心の働きは「きも」より起れるものと考へしものたることは疑ふべからず。かくて考ふれば卷一の「村肝の」を心の枕詞とせる點もこの常識説にて解決すべく思はる。
○心乎痛 「ココロヲイタミ」とよむ。この語のことは卷一「五」「村肝乃心乎痛見《ムラキモノココロヲイタミ》」の下にいへる如くここの「痛み」とは深く物を思ひて堪へ難きによりてといふ意なるなり。
○念乍 「オモヒツツ」なり。妹を念ひつつにして、直ちに下の「カヘリミスル」につづくなり。
○顧爲騰 「カヘリミスレド」とよむ。
○大舟之 「オホフネノ」なり。舟にて渡るといふ詞つづきにて「わたり」の枕詞とす。
○渡乃山之 「ワタリノヤマノ」とよむ。この山明かならず。島ノ星山をさすといふ説あれど、證なきことなり、
○黄葉乃 「モミヂハノ」とよむ。本集中「モミヂ」に黄葉の字を多く用ゐたること卷一「一六」にいへり。
○散之亂爾 舊板本「チリノマガヒニ」と訓じ元暦本等に「チリシミタレニ」とあり。古義は「チリノミタリニ」と訓せり。按ずるに卷十五「三七〇〇」に「毛美知葉能知里能麻河比波《ミミヂハノチリノマガヒハ》」卷十七「三九六三」(174)に「春花乃知里能麻可比爾《ハルハナノチリノマカヒニ》」とあるによりて「ちりのまがひ」とよむべし。古義の説は「亂」といふ文字は「ミダリ」とよみて「マガフ」とよむべきにあらずといふを根據とするものならむが、「紛亂」「錯亂」「混亂」等の熟字をなし、又呂覽論人に「此不肖主之所以|亂《マトフ》也」とありてこの亂は惑の義なりといへり。されば、「マガフ」とよみても無理にはあらぬなり。黄葉の散る事によりて、それにまぎらされて他のものの見えぬをいふなり。さてここに黄葉の散のまがひといへるは事實に基づけるものなるべければ、その時節の舊暦十月頃なりしことを證すといふべし。
○妹袖 「イモガソデ」なり。妻の姿をさすものなるが、特に袖といへるは、上にもいへる如く、妻が別れを惜みて袖を振りてあらむと想像して、さて、その袖が見えぬといへるなり。
○清爾毛不見 「サヤニモミエズ」なり。ここの清は正字にして之を「サヤ」とよむは、「サヤカ」の意なるなり。その語の例は上の「一三三」の下に引けり。明かにも見えずといふなり。この「ミエズ」も連用形にして重文をなせるなり。
○嬬隱有 舊板本「ツマゴモル」とよめり。元暦本は「ツマカクレナル」とよみたるなど占寫本に種種の説あれど、板本の訓をよしとす。その假名書の例は日本紀卷十六に「逗摩御暮屡嗚佐褒嗚須擬《ツマゴモルヲサホヲスギ》」とあり。さてこれは下の「ヤ」の枕詞とせるものにしてその例はなほ卷十「二一七八」に「妻隱矢野神山《ツマゴモルヤヌノカミヤマ》」とあり。古は妻を娶れば、新に屋を建てたることかの素戔嗚尊の御詠に「ツマコミニヤヘガキツクル」とよまれたる如くなれば、「ツマコモル」が家の枕詞となるなり。
○屋上乃山乃 「ヤカミノヤマノ」とよむ。「ヤカミ」といふ地名は所々にあれば或は因幡ならんといい(冠辭考)備前ならんといひ(代匠記)たれど石見の内なるべし。屋上山は日本地誌提要に「高仙《タカセン》山【又屋上山ト云那賀郡淺利村ヨリ十三町五間】とあり。淺利村は渡津より東、山陰道の要路に當れは、この邊に屋上山といふがある以上はそれなるべし。
○一云室上山 これは「屋上乃山」とある代りにかくかける本ある由を注せるものなるが、記し入るる方法不注意の爲に、「屋上乃【一云室上山】山乃」」なりたれば、契沖は「山字は衍かさらずは乃の字なるべし」といひたれど、これは「屋上乃山」の下にかくべきを誤りしものと見れば、論はなきなり。さてこれは文字のままならば「ムロカミヤマ」とよむべきものなるが、攷證は「訓は同じけれど、文字のかはれるによりてあげたるなるべし」といへり。かく見れば、論なきことなるが、新講は「屋上の山は渡津から江ノ川に沿うて一里許り上流に行つた所にある屋上山の事」といへり。この屋上山は上の屋上山とは別なるべく、或は今いへる室上山がこれに當るべし。但し、余は未だこの山の事の他に證ありやを知らず
○自雲間 「クモマヨリ」なり。かかる「ヨリ」はそこを經て進行する地點を示すに用ゐるなり。卷八「一四七八」に「霍公鳥從此間鳴渡《ホトトギスコユナキワタル》」卷十八「四〇五四」「保等登藝須許欲奈枳和多禮《ホトトギスコヨナキワタレ》」などこの例なり。
○渡相月乃 「ワタラフツキノ」とよむ。「ワタラフ」は「ワタル」といふ事の繼續して行ははるをいふ語なり。曇りたる夜に東より西に渡り行く月の偶雲間より見ゆるが、それも間もなくかくれ行くべきなれば、かくはいへるなり。卷十一「二四五〇」に「雲間從狹徑月乃《クモマヨリサワタルツキノ》」とあるも稍似たる趣あり。以上は次の句を導く爲の語の上の序にして實景にあらず。
(176)○雖惜 舊訓「ヲシメドモ」とよめるを代匠記に「ヲシケレドともよむべし」といひ考は之に從ひ、略解は「ヲシケドモ」とよめり。この訓み方の相違は先づ「惜」を動詞として「ヲシム」とよむか、形容詞として「ヲシ」とよむかの別にあるものなるが、その字は二樣によまるべく、又この頃にこの二樣の語共に用ゐられたれば、これらにて一方に決することは不可能なり。然れども、若し「惜む」といはば、上の月を惜む意なれば、「月を」といふ語法をとらざるべからず。「月の」といひて「惜む云々」といふ事必ず不可能なりといふにあらねど、上に「月乃」とあるに合せて、すなほに考ふれば、月の惜くあることをいふべきなれば、「惜し」といふ方によるべし。今の如き歌の例は卷十一「二六六八」に「二上爾隱經月之雖惜妹之田本乎加流類比來《フタガミニカクロフツキノヲシケドモイモガタモトヲカルルコノゴロ》」とあるも「月之」とあり。されば「をし」の方によむこととせむが、「をしけれど」とよむべきか「をしけども」とよむべきか。「をしけれど」は「をしくあれど」にして、「をしけども」はその「をしけれども」を約めたる語なれば、これも結局同一の語なるが、この頃の假名書の例には「をしけれど」とかけるを見ずして、卷五「八〇四」に「伊能知遠志家騰《イノチヲシケド》」卷十七「三九六二」に「伊乃知乎之家騰《イノチヲシケド》」「三九六九」に「伊能知乎之家登《イノチヲシケド》」とあり。「をしけども」といふ假名書の例は見えど音數の上よりしてかくよむべし。さるは卷四「五五三」に「遠鷄跡裳《トホケドモ》」卷十七「三九八一」に「等保家騰母《トホケドモ》》などの例に準じて見れば、これも不理にあらざるなり。
○隱比來者 古來「カクロヒクレバ」とよめるを古義に「者」を「乍」の誤として「カクロヒキツツ」とよめり。先づこの「者」を「乍」とかける本なければ、從ひがたきことなるが上に「は」とよみて意とほらぬ事なければ、古來のままにてよしとす。「カクロフ」は「カクル」の繼續作用をいふ語なり。「カク(177)ロフ」の語例は、上にいへる卷十一「二六六八」の歌又卷三「三一七」に「度日之陰毛隱比《ワタルヒノカゲモカクロヒ》」などあり。さてこれは上に對しては月の雲間に隱るるをいふやうの語つづきなるが、歌の本意よりは、「つまごもる」「をしけども」はただ「かくろふ」といはむ爲の序にして、その上なる、妹が袖さやにも見えず」かくろふをいふなり。かく「かくろひくれば」といへる由は妹がある家のあたりの漸々にかくれゆきて見えずなりぬるをいへるなり。かくてこの下の「ば」は下の「入日刺奴禮」につづきたるものなるが、かかる場合の「ば」は條件を示すにあらずして、同時に起る事を下にいひて、今の語に「と共に」又は「さうしてゐると」といふ如き用と意とをあらはせり。たとへば、卷十五「三六七四に「久佐麻久良多婢乎久流之美故非乎禮婆可也能山邊爾草乎思香奈久母《クサマクラタビヲクルシミコヒヲレバカヤノヤマベニサヲシカナクモ》」古事記上卷に「於須比遠母伊麻陀登加泥婆遠登賣能那須夜伊多斗遠《オスヒヲモイマダトカネバヲトメノナスヤイドヲ》」など例多し。
○天傳 古來「アマツタフ」とよめり。代匠記には「アマツタヒ」といへり。されど、これは古來いへる如く、「日」の枕詞なるべく、枕詞ならば、終止形を以てする例なれば、舊來のままにてよし。太陽は天をつたひ渡り行くものと見て「日」の枕詞とせるなり。
○入日刺奴禮 「イリヒサシヌレ」とよむ。「入日サシ」といふは卷一「一五」の歌に假名書の例あり。さてここの「奴禮」は已然形のままにて條件を示す古の語格の一にして、後世の語ならば、この下に「ば」を加へてさて下につづくるものなるが、ここはその「ば」なくして、しかも、下の語の條件となるなり。ここに似たる例は卷三「四六〇」に「晩闇跡隱益去禮《ユフヤミトカクリマシヌレ》、將言爲便《イハムスベ》、將爲須敝不知爾《セムスベシラニ》」「四七五」に「久堅乃天所知奴禮《ヒサカタノアメシラシヌレ》、展轉※[泥/土]打雖泣將爲須便毛奈思《コイマロビヒヅチナケドモセムスベモナシ》」など、少からず。
(178)○大夫跡念有吾毛 「マスラヲトオモヘルワレモ」とよむ。卷一「五」其他この語の例多し。「大夫」を「マスラヲ」とよむこともそこに既にいへり。
○敷妙乃 「シキタヘノ」とよむ。卷一「七二」に既にいづ。夜寢ぬる時の衣なる事もそこにいへり。
○衣袖者 「コロモノソデハ」とよむこと勿論なり。
○通而沾奴 「トホリテヌレヌ」とよむ。卷十三「三二五八」に「吾衣袖裳通手沾沼《ワカコロモテモトホリテヌレヌ》」卷十五「三七一一」に「和我袖波多毛登等保里弖奴禮奴等母《ワカソデハタモトトホリテヌレヌトモ》」卷十九「四一五六」に「服之襴毛等寶利※[氏/一]濃禮奴《コロモノスソモトホリテヌレヌ》」とあり。悲しみの涙の爲に夜の衣の袖の表より裏まで通りてぬれたりとなり。
○一首の意 われは公事によりて最愛の妻に別れて京に上る道すがら海邊の事なれば、深海松や藻やといふものを見るにつけてもいよ/\妹を思ふことなるが、あまりの慕はしさに妻の住むあたりを顧みしつれど、妻の吾を慕ひて袖を振るらむと思ふそれを見むと思へども、山の紅葉のちるにまぎれて、よくも見やられず。されば歎きつつ行けば、行くにつれて、妹があたりもかくれ行き、ゆく道の進むと共にはや入日さして日も暮るることとなりたれば、止むを得ず、旅宿もすべくなりたるが、思へば/\悲しきに堪へざるなり。常には自ら大丈夫ぞと思ひ居る我なれど今は前後も忘れ、めめしきことながら片敷く衣の袖も涙にぬれとほりぬとなり。
 
反歌二首
 
○ 檜嬬手「反歌」を「短歌」と改めたり。必ずしもしかせずともありなむ。
 
(179)136 青駒之《アヲコマノ》、足掻乎速《アガキヲハヤミ》、雲居曾《クモヰニゾ》、妹之當乎《イモガアタリヲ》、過而來計類《スギテキニケル》。【一云當者隱來計留】
 
○青駒之 「アヲゴマノ」とよむ。「あをうま」なり。「あをうま」とは所謂青毛の馬にして、被毛長毛共に黒色なるものをさす。然るに、中古の日記物語類より以下儀式の書に正月七日に白馬節會といふを載せ、之を「アヲウマノセチヱ」とよみならはせるによりて「アヲウマ」即ち白馬をさすならむの疑ひあり。然れどもそは既に古事記傳卷十八玉勝間卷十三に論ぜる如く、續日本後紀卷三承和元年の條(觀青馬)同六年の條(覽青馬)文徳實録仁壽二年の條(同上)三代實録貞觀七年の條(同上)貞觀十一年の條(同上)元慶元年の條(同上)及び内裏式(青岐馬)貞觀儀式(青馬)延喜式左右馬寮式等にはいづれも青馬とありて白馬とはかゝず。而して、白馬とかけるは歴史にては日本紀略天暦元年の條に「白馬宴」とあるより後白馬とのみありて青馬とかけるはなく、儀式の書にても、西宮記には「白馬」とあり。これより後は國史も儀式の書も、物語も日記もみな白馬節會とかけり。かくて音にて「ハクバノセチヱ」ともいひ、又舊の名をも呼びて「アヲウマノセチヱ」ともいへり。然れば青馬を白馬と改められしは延喜天暦の間にあるべきか。かくてこの正月七日に青馬を見るといふ事はもと支那より傳はりし行事にして、年中行事秘抄に引ける帝皇世記に曰はく「高辛氏之子以2正月七日1恒登v崗命2青衣人1令v列2青馬七疋1調2青陽之氣1馬者主v陽主v春、崗者萬物之始、人主之居、七者七耀之清徴、陽氣之温始也云々」とあるにて見るべく、本義は青馬を見るにてありしは明かなり。されば、本集卷二十、天平寶字二年正月七日侍宴の爲に大伴家持の(180)預めつくれる歌(四四九四)に「水鳥之可毛能羽我比能羽能伊呂乃青馬乎家布美流比等波可藝利奈之等伊布《ミヅトリノカモノハガヒノハノイロノアヲウマヲケフミルヒトハカギリナシトイフ》」とあり。これ即ち、當時の青馬節會の爲にして、その青馬は眞の青毛にてありしことは「かもの羽の色の」といへるにて明かなりとす。さればここは白馬にあらずして眞の青毛の馬なりしことは疑ふべからず。而してこの青駒はその人麿の旅行に騎りし馬をさしていへるものなりしなるべし。
○足掻乎速 「アガキヲハヤミ」とよむ。「アガキ」の「ア」は「足」なり。「足の音」「アノオト」といふ如く、(卷十四「三三八七」「安能於登世愛由可牟古馬母我《アノオトセズユカムコマモガ》」)足を古「ア」とのみもいへり。さて「あがき」は足を掻くにて足を動かし歩む状をいふ。新撰字鏡に「※[足+宛]※[足+牒の旁]也、踊也、馬奔走貌阿加久」とあり。本集卷七「一一四一」に「赤駒足何久激沾祁流鴨《アカゴマノアガクソヽキニヌレニケルカモ》」卷十一「二五一〇」に「赤駒之足我枳速者《アカゴマノアガキハヤケバ》」卷十四「三五四〇」に「安可故麻我安我伎乎波夜美《アカゴマガアガキヲハヤミ》」卷十七「四〇二二」に「許乃安我馬乃安我枳乃美豆爾《コノアガマノアガキノミヅニ》」とあり。「あがきをはやみ」は足掻が早きによりてなり。
○雲居曾 「クモヰニゾ」とよむ。「ニ」は無けれど、加へてよむなり。卷一「五二」の歌の下にいへる如く「クモヰ」即ち空なるが、空は遠く遙かにあれば、遙なることのたとひとせり。卷十二「三一九〇」に「雲居有海山越而伊往名者《クモヰナルウミヤマコエテイユキナバ》」などもこの例なり。文勢はこれより下の「すぎて」につづくなり。
○妹之當乎 「イモガアタリヲ」なり。「イモガアタリ」は卷一(八三)にいへる如く、妹がすむ家の邊なり。この語集中に例少からず。
○過而來計類 「スギテキニケル」とよむ。この「すぎて」は現前の現象にあらずなりたるをいへる(181)にて卷六「一〇六九」に「常者曾不念物乎此月之過匿卷惜夕香裳《ツネハカツテオモハヌモノヲコノツキノスギカクレマクヲシキヨヒカモ》」などいへる如くその家のわが視界より去りて見えずなりたるをいへるならむ。これは上の「クモヰニゾ」の「ゾ」の係を受けて「ケル」と結べるなり。
○一云當者隱來計留 こは一本に「妹ガアタリハカクレ來ニケル」とありとの意なり。その意は本文と大差なし。考にはこの「一云」の方をよしとせり。
○一首の意 妹がすむ故郷の邊を今暫し見てありたしと思へども、乘れる馬の足掻の早くして、今ははや遠く離れ過ぎ去りて見えずなりける事よとなり。これその馬の足掻が、特に早きをいへるにあらずして、己が、妹があたりを久しく見てありたしと思ふ心に、その馬の歩みの特に早く覺ゆるものなればかくいへるなり。
 
137 秋山爾《アキヤマニ》、落黄葉《オツルモミヂバ》、須臾者《シマラクハ》、勿散亂曾《ナチリミダリソ》、妹之當將見《イモカアタリミム》。【一云知里勿亂曾】
 
○秋山爾 「アキヤマニ」なり。この時秋なりしなり。
○落黄葉 舊訓「オツルモミヂバ」とよめるを古義には「落」の下に「相」又は「合」の字脱せりとして、「チラフモミヂハ」とよめり。然れども、この誤脱ある本一も見えねば脱字の説はうけ難し。さて「落」は「ちる」の義あること上にもいひたる所なれど、下に「ちり」といふ語あれば、ここはなほ「おつる」とよみてよかるべし。木葉の落ち散るを「おつ」ともいへる例は古事記下雄略卷の長歌に「本都延能延能字良婆波那加都延爾淤知布良婆閇《ホツエノエノウラバハナカツエニオチフラバヘ》、那加都延能延能宇良良婆波斯毛都延爾淤知布良婆閇《ナカツエノエノウラバハシモツエニオチフラバヘ》、(182)斯豆延能延能宇良婆波《シヅエノエノウラバハ》、阿理岐奴能美幣能古賀《アリギヌノミヘノコガ》、佐佐賀世流《ササガセル》、美豆多麻宇岐爾《ミツタマウキニ》、宇岐志阿夫良《ウキシアブラ》、淤知那豆佐比《オチナヅサヒ》」などあり。
○須臾者 舊本「シバラクハ」とあり、略解は「シマラクハ」とよみ、古義は「シマシクハ」とよめり。この語は上(一一九)に「シマシクモ」「シマラクモ」のいづれにかよむべき由いへるが、かく「ハ」につづけるは卷十四「三四七一」に「思麻良久波禰都追母安良牟乎《シマラクハネツツモアラムヲ》」とありて、「シマシクハ」といふ假名書の例見えねば、ここは「シマラクハ」とよむべきなり。
○勿散亂曾 舊訓「ナチリミダレソ」とよめり。代匠記には「ナチリマガヒソ」といひ、考には「ナチリミダリソ」といひたり。「マガヒ」といはゞ我が見ての詞にして「ミダル」といはば、その葉の方につきていへるなれば「ミダル」といはむ方歌の意に當れりと見ゆ。さてその「ミダル」を四段活用とせば「ナチリミダリソ」となり、下二段活用とせば「ナチリミダレソ」となる。ここは古き方につきて四段活用によむべし。よりて「ナチリミダリソ」とす。これは所謂「ナソ」の格にして、「ナ」と「ソ」との間に動詞の連用形を置くべきものなるが、ここは「チリミダル」といふ熟語の連用形を置きたるなり。卷十四「三五七五」に「可保我波奈《カホガハナ》、莫佐吉伊低曾禰《ナサキイデソネ》」とあるこの例なり。
○妹之當將見 「イモガアタリミム」とよむ、意は明かなり。
○一云知里勿亂曾 こは一本に上の「ナチリミダリソ」を「チリナミダリソ」とありとなり。かくの如くいふ事も古はありしなり。たとへば卷九「一七四七」に「須與者落莫亂曾《シマラクハチリナミダリソ》」とあるはここに似たり。意はかはることなし。
(183)○一首の意 秋山に落つる黄葉よ。心あらばしばらくは亂れ散ることを止めよ。その間だにもわれは妹が住む故郷のあたりを見むと思ふものをとなり。
 
或本歌一首并短歌
 
○ これは上の長歌二首のうちの初の歌(一三一)に對しての異本の歌をあげたるなり。されば、次にはただその異なる點のみを注す。攷證にはこの短歌の下に「一首」の二字あるべきが脱せりとて補へり。されど、かく書ける本一もなく、又目録にもなければ、このままにてよかるべし。
 
138 石見之海《イハミノミ》、津乃浦乎無美《ツノウラヲナミ》、浦無跡《ウラナシト》、人社見良目《ヒトコソミラメ》、滷無跡《カタナシト》、人社見良目《ヒトコソミラメ》、吉咲八師《ヨシヱヤシ》、浦者雖無《ウラハナクトモ》、縱惠夜思《ヨシヱヤシ》、滷者雖無《カタハナクトモ》。勇魚取《イサナトリ》、海邊乎指而《ウミベヲサシテ》、柔田津乃《ニギタツノ》、荒礒之上爾《アリソノウヘニ》、蚊青生《カアヲナル》、玉藻息都藻《タマモオキツモ》、明來者《アケクレバ》、浪巳曾來依《ナミコソキヨレ》、夕去者《ユフサレバ》、風已曾來依《カゼコソキヨレ》、浪之共《ナミノムタ》、彼依此依《カヨリカクヨリ》、玉藻成《タマモナス》、靡吾宿之《ナビキワガネシ》、敷妙之《シキタヘノ》、妹之手本乎《イモカタモトヲ》、露霜乃《ツユシモノ》、置而之來者《オキテシクレバ》、此道之《コノミチノ》、八十隈毎《ヤソクマゴトニ》、萬段《ヨロヅタビ》、顧雖爲《カヘリミスレド》、彌遠爾《イヤトホニ》、里放來奴《サトサカリキヌ》、益高爾《イヤタカニ》、山毛越來奴《ヤマモコエキヌ》。早敷屋師《ハシキヤシ》、吾嬬乃兒我《ワガツマノコガ》、夏草乃《ナツクサノ》、思志萎而《オモヒシナエテ》、將嘆《ナゲクラム》、角里將見《ツヌノサトミム》、靡此山《ナビケコノヤマ》。
 
○津乃浦乎無美 「ツノウラヲナミ」とよむ。考には「津」の下に「能」を脱し「浦」の下に「回」を脱せりとし「無美」は衍なりとして、本の歌の如く「ツノノウラワヲ」とよむべしとし、檜嬬手は「津奴乃浦回乎」を(184)正しとし、古義も亦大體考の説により「津」の下に「野」又は「努」脱せりとして「ツヌノウラミニ」とよめり。然れども、この所いづれの本にも誤脱なし。而して、かく異なる點あればこそ、あげたるなるべければ、その「つのうら」といふ地知られずとも、かく異本にありといふことなれば改むるは強事なるべく、ただ疑はしきを闕くに止まるべきなり。
○吉咲八師 縱惠夜思 共に「ヨシエヤシ」とよむ。その意は上にいへり。
○勇魚取 「イサナトリ」とよむ。意は上にいへり。
○柔田津乃 「ニキタツノ」とよむべし。石見にかかる地名あるを知らず。「ニギタツ」は卷一「八」に見えたるが、或はこれは上の「和多豆」の「和」を「ニギ」とよむによりて卷一の地名に附會して後人の書き改めしものなるべくして人麿の原本にはあらざるべし。
○蚊青生 上に「香青生」とかけるにおなじ。
○明來者 「アケクレバ」とよむ。上の歌の「朝羽振」のかはりにおきしものなるが、夜が明けて朝になることをさせり。この語集中に多きが假名書のもの卷十五「三六二五」に「由布佐禮婆安之敝爾佐和伎安氣久禮婆於伎爾奈都佐布可母須良母《ユフサレバアシベニサワキアケクレバオキニナツサフカモスラモ》」同「三六六四」に「之可能宇良爾伊射里須流安麻安氣久禮波宇良未許具良之可治能於等伎許由《シカノウラニイサリスルアマアケクレバウラミコグラシカヂノオトキコユ》」など多し。
○夕去者 「ユフサレバ」とよむ。上の歌の「夕《ヨヒ》羽振」のかはりにおきしものにして、夕になれば、の意なるが、「アササレバ」と、對していへる例は上の卷十五の「三六二五」の外この卷「一五九」に「八隅知之我大王之暮去者召賜良之《ヤスミシシワガオホキミノユフサレハメシタマフラシ》、明來者問脇良之《アケクレバトヒタマフラシ》」「暮去者綾哀明來者裏佐備晩《ユフサレバアヤニカナシミアケクレバウラサビクラシ》」卷六「九一三」に「開來者朝(185)霧立夕去者川津鳴奈辨《アケクレバアサキリタチユフサレバカハツナクナベ》」卷十「一九三七」に「明來者柘之左枝爾暮去者小松之若末爾《アケクレバツミノサエタニユフサレバコマツガウレニ》」など例多し。
○浪己曾來依 風己曾來依 これは上「風社依米浪社來縁」を置きかへたるものなるが、二句ともに「キヨレ」といひ、しかも、浪を前にし風を後にしたるは、それをおきかへたるものとして、拙きわざといふべし。
○彼依此依 「カヨリカクヨリ」にして上にいへると同じ。
○靡吾宿之 「ナビキワガネシ」とよむ。上の歌のは妹が吾に依り宿しをいひ、これは吾が妹に依り宿しをいへるなり。
○敷妙之 「シキタヘ」の事は既にいへるが、これは下の袂につづくにて「妹が敷妙の手本」なるなり。
○妹之手本乎 「イモガタモトヲ」なり。手本といふも袖なる由は既にいへり。
○里放來奴 「サトサカリキヌ」とよむ。上の「里者放奴」を少しくいひかへたるまでなり。
○早敷屋師 「ハシキヤシ」とよむ。これは「はしき」といふ語に「ヤシ」といふ助詞の添へるなり。その「ヤシ」は上の「ヨシヱヤシ」の「ヤシ」におなじ。「ハシキ」とは「ハシ」といふ形容詞の連體形にして「ハシ」といふ形容詞は漢宇にては愛字にあたること上の「三吉野乃玉松之枝者波思吉香聞」(一一三)に既にいへり。即ちここは「愛《ハ》しきわが嬬」といへるなり。この語の假名書の例は卷七「一三五八」に「波之吉也思吾家乃毛桃《ハシキヤシワギヘノケモヽ》」卷十二「三一四〇」に「波之寸八師志賀在戀爾毛有之鴨《ハシキヤシシカルコヒニモアリシカモ》」などあり。又ここに似たる書方のは卷十一「二三六九」に「早敷八四公目尚欲嘆《ハシキヤシキミカメスラヲホリテナゲクモ》」卷十二「三〇二五」に「早敷八抑君爾戀良久吾情柄《ハシキヤシキミニコフラクワガココロカラ》」などあり。
(186)○吾嬬乃兒我 「ワガツマノコガ」とよむ。「嬬」を「ツマ」とよむことは、卷一「一三」にいひ、その妻を「コ」といふことは上「一三五」にいへり。
○將嘆 「ナゲクラム」とよむべし。上の「シヌブラム」をいひかへたるまでなり。
○角里將見 「ツヌノサトミム」なり。角の里は上にいへるなるが、ここの趣にてはその角の里に人麿の妻の住めるにて上の歌と趣異なり。恐らくはこれは誤なること攷證の説の如くならむ。
 
○一首の意 大差なけれは、再び説かず。
 
反歌
 
○ これは上の「一三二」の歌に似て異なる故にあげたるならむ。
 
139 石見之海《イハミノミ》、打歌山乃《ウツタノヤマノ》、木際從《コノマヨリ》、吾振袖乎《ワカフルソデヲ》、妹將見香《イモミツラムカ》。
 
○石見之海 「イハミノミ」とよむべきこと「一三一」にいへり
○打歌山乃 古來文字のまゝ「ウツタノヤマノ」とよみ來れり。萬葉考には「打歌」を音にて「タカ」とよみてさて曰はく「此|打歌《タカ》は假字にて、次に角か津乃《ツノ》などの字落し事上の反歌もて知へし。今本にうつたの山と訓しは人わらへ也」といへり。古義には「打歌」は「竹綱」の誤として「タカツヌヤマノ」とせり。「ウツタノ山」といふ所ありや詳かならずして誤あるべく思はれざるにむあらね(187)ど、諸本みな然り。而して諸説皆得心しがたし。強ひて説を立てても今の分にては明かにあらぬ事なれば、そのままにて姑く舊訓に從ひおくべし。
○妹將見香 古來「イモミツラムカ」とよめり。これは「一三二」の歌によりて姑く古來のままにす。
○一首の意 いふまでもなし。
 
右歌體雖v同句句相替、因|此《コヽニ》重(テ)載(ス)。
 
○ 上の歌を載せたるにつきての注なり。
 
柿本朝臣人麿妻依羅娘子與2人麿1相別歌一首
 
○柿本朝臣人麿妻依羅娘子 「依羅」は氏の名にして「ヨサミ」とよむ。依羅氏は河内攝津などに住みてその地名ともなれるが、新撰姓氏録によるに宿禰姓なるあり、連姓なるあり。依羅宿禰は開化天皇の皇子「彦坐命之後也」といひ、依羅連は饒速日命之後なると、百濟國人素禰志夜麻美乃者之後なるとあり。この依羅娘子はいづれの氏人なるか詳かならず。さて考にはこの人を上の石見國に置きたる妻にあらずして京におきたる妻なりとして次の如くいへり。曰はく「かのかりに上る時石見の妹がよめる歌ならんと思ふ人あるべけれど、さいひては前後かなはぬ事あり」といへり。然れども何處にも之を證すべき點一も存せず。これは上の歌のつづきに置けるによりて、なほ石見國に留り殘れる妻の歌とせざるべからず。按ずるに人麿には前(188)に妻ありしがそれが身亡りしことはこの卷挽歌の中の長歌にて明かなるが、(二〇七)その下に人麿が石見國に在りて死に臨みし時に自ら傷《カナ》しみて作れる歌(二二三)の次に、人麿死時妻依羅娘子作歌とあれば、依羅娘子とあるはその後の妻なること明かなり。しかもこれの歌をば、京に在りてよめりとするによりて上の如き説も出でしなるべきが、そはその歌の解き方をさる意にとりなしたりしによることにて、その歌の趣にてはその墓地を明かに見知りての詠と思はるれば、この依羅娘子が石見に在りしことを思ふべきなり。なほその歌に行きていふべし。
○與人麿相別歌 上に人麿の妻に別れてよめる歌をあげたるに對してここにその妻の詠をもあげたるなり。
 
140 勿念跡《ナオモヒト》、君者雖言《キミハイヘドモ》、相時《アハムトキ》、何時跡知而加《イツトシリテカ》、吾不戀有乎《ワガコヒザラム》。
 
○勿念跡 舊來「オモフナト」とよめるを代匠記に「ナオモヒト」とも訓ずべしといひ、考には「ナモヒソト」とよめり。意義はいづれにも同じ事なれど、「勿」を上にせる書き方によらば「ナオモヒ」といへる代匠記の説によるべきか。「ナソ」の格は、古くは上の「ナ」のみにして下に「ソ」なくても用ゐしなり。その例古事記上卷に「阿夜爾那〔右○〕古悲岐許志〔五字傍線〕」、卷五「九〇四」に「父母毛|表者《ウヘハ》奈〔右○〕佐加利〔三字傍線〕」卷十一「二六六九」に「清月夜爾《キヨキツクヨニ》雪莫〔右○〕田名引〔三字傍線〕」などあり。もとより下に「ソ」を添へたる例もあれど、「ナモヒソト」の如く、「オモフ」とわざと「モフ」と約めてまで下に「ソ」を添ふる必要あるまじきなり。
○君者雖言 舊訓「キミハイフトモ」とよみ、代匠記は「キミハイヘドモ」とよめり。この字面はいづ(189)れともよまるべき字面なれど、「いふとも」といはば、「勿念」といふ事を假設していふこととなり、「いへども」といはば「勿念」と實際にいへる事となる。ここは人麿が慰めて「莫念」といひたるを受けたりとすべき所なれば「キミハイヘドモ」とよむをよしとす。
○相時 古來「アハムトキ」とよみ來りしを代匠記に「アフトキヲ」ともよむべしといひ、美夫君志又之に從へり。この「相」時は下の「知而加」の目標なれば、「ヲ」の格たることは明かなれど、必ず「ヲ」を加ふべしといふ説は入りほがなり。それよりも、これを「アハムトキ」とよむがよきか「アフトキ」とよむがよきかを考ふる必要あり。然るときは後に再會せむ時といふ義なれば「アハムトキ」とよむべくかくて「ヲ」助詞はなくともその格に立てること明かなり。かかる例は集中極めて多く、一々あぐべきにあらず。
○何時跡知而加 「イツトシリテカ」とよむ。君に相はむ時を何時とも知らぬによりていへるなり。
○吾不戀有乎 古來「ワガコヒザラム」とよめり。よみ方につきては異論を見ず。これには古寫本の多くに「乎」を「牟」とつくれるによりて「牟」を正しとして「乎」を誤なりといふ説もあれど、「乎」をかける古寫本も亦少からざるのみならず、「乎」は元來疑辭なれば、その本義よりして借りて疑問の歌辭とせるならむ。よみ方は卷十七「三八九一」に「伊頭禮乃時加吾弧悲射良牟《イヅレノトキカワガコヒザラム》」とあるによるべし。かくてこは上句の「加」によりて反語をなせるなり。
○一首の意 吾に對して君は思ひ歎くなと言ひて慰め給へども、再びこの地に還り來給はむ日(190)を、何時と知らねば、戀ひ奉らずてはあらじとなり。何時と明かに知りたらば、或は歎かずあらむが、何時と知らねば歎かずてはえあらじとなり。
 
挽歌
 
○ これは既にいへる如く、卷第一卷第二を通じて一とし、これを三に分類せるうちの一にして雜歌相聞に對する部類の一なり。挽歌といふことは崔豹の古今注に「薤露蒿里並喪歌也出2田横門人1。横自殺、門人傷v之爲2之悲歌1。言人命如2薤上之露1易2※[日+希]滅1也。亦謂人死魂魄歸2乎蒿里1故有2二章1……至2孝武時1李延年乃分爲2二曲1。薤露送2王公貴人1、蒿里送2士大夫庶人1。使2挽v柩者歌1v之、世呼爲2挽歌1」とあり。又晋書樂志に「挽歌出2于漢武帝役氏之勞1歌聲哀切遂以爲2送終之禮1」と見え、その歌聲の哀※[立心偏+宛]なるにより柩を挽く時の歌とせしより挽歌の名出で、その後そを目的としてつくりたる歌あるに至れりとおぼゆ。さるは文心雕龍の注に引ける文章志に「繆襲字※[にすい+煕]伯、作2魏鼓吹曲及挽歌1」とあり、文選には詩の類別中に「挽歌」の目を立て、それらの詩を「挽歌詩」といへり。而して又往々これを挽詩ともいへり。
 以上の如く挽歌といふ名目はもと柩を挽く時の歌の義なりしが、後には汎く喪儀に用ゐる歌の義となり、更に變じて死者を哭する詩の一體となりしものと見ゆるが、本集の用例を見ればまた喪歌の義にあらずして、支那の所謂挽歌詩の義に近く、なほそれよりも更に汎く後世の歌集に所謂哀傷の歌といふに似たる用をなせるものなり。
(191) 次にこれのよみ方なるが「これを「カナシミウタ」とよむべしとする説あれど、これも如何なれば音にてよむをよしとするが、それも呉音ならば「挽」は古來の慣例によりて「メン」とよむべきなるが、今は普通「バンカ」といへば、それにても可なるべし。
○ なほ本書目録の挽歌の下に「竹林樂」の文字を記載せることにつきての説は卷一のはじめにいひたれば、今贅せず。
 
後崗本宮御宇天皇代 天豐財重日足姫天皇
 
○ この事卷一にいへるにおなじ、齊明天皇の御宇の歌をあげたるなり。委しきは卷一の同じ天皇御宇の條を見るべし。
 
有馬皇子自傷結2松枝1歌二首
 
○有馬皇子 孝徳天皇の皇子にして御母は阿倍倉梯麻呂大臣の女小足媛なり。齊明天皇の御代に不軌を謀り陽りて紀伊の牟婁の温湯に病を療せむとして往き、歸り來りて國の體勢を讃めて天皇の志を勤し奉りてかの地に行幸をすすめ奉りしかば、同四年十月十五日に彼地に行幸ありしがその留守に乘じて不軌を企てしが、事露はれて十−月五日に捉へられ九日に紀の温湯の行宮に送られ、中大兄皇太子の訊問あり、同十一日護送せられ藤白坂にて死に處せられたまひぬ。御年十九。
(192)○自傷 自《ミヅカ》ら傷《カナ》しむことなり。史記蘇秦傳に「出游數歳大困而歸。兄弟嫂妹妻妾竊皆笑v之。蘇秦聞v之而自傷〔二字右○〕。閉v室不v出」とある自傷の義なり。
○結松枝歌 こはかの謀反の事あらはれ、牟婁の温湯の行宮に護送せらるる途中岩代の地を過ぎ、そこなる松を,結びてよまれたる歌なるべし。松枝を結ぶことは卷一「一〇」の歌に略その旨を述べたり。なほ歌の下にいふ事あるべし。
 
141 磐白乃《イハシロノ》、濱松之枝乎《ハママツガエヲ》、引結《ヒキムスビ》、眞幸有者《マサキクアラバ》、亦還見武《マタカヘリミム》。
 
○磐白乃 これは卷一「一〇」の歌に「磐代之岡之草根乎去來結手名《イハシロノヲカノクサネヲイザムスビテナ》」といへる磐代の地にして、紀伊國の日高郡にありて、牟婁温湯に赴く要路にあれば、かかる歌も生ぜしならむが、なほその卷一の歌に「君之齒母吾代毛知哉《キミガヨモワガヨモシラム》」といへる如くその地名に磐といふ語の存する爲に特にかかる場合にとりいでてよまれしならむ。さて卷一なるは草を結びしなるが、松の枝を結びし例は卷六「一〇四三」に「靈剋壽者不知《タマキハルイノチハシラズ》、松之枝結情者長等曾念《マツガエヲムスブココロハナカクトゾオモフ》」卷二十「四五〇一」に「夜知久佐能波奈波宇都呂布等伎波奈流麻郡能左要太乎和禮波牟須波奈《ヤチクサノハナハウツロフトキハナルマツノサエダヲワレハムスバナ》」などあるが、さる事をなす意はその長く恙なからむことをいはひちぎりてのわざなり。
○濱松之枝乎 古寫本の中には「ハママツノエヲ」とよめる本もあれど、多くの本に「ハママツガエヲ」とよめるをよしとす。「濱松之枝」といふ語の例は卷一「三四」の歌にあり。
○引結 「ヒキムスビ」なり。卷一「一〇」なるは草を結びたるなるが、ここは松が枝を結ぶなり。さ(193)れど、末を祝し、幸を祈ふ意にて行ふことは同じ。卷一「三四」なる「濱松之枝乃手向草」とあるは既にいへる如く幣にしてこことは意異なり。「濱松之枝」といふ語同じとても混同すべからず。
○眞幸有者 「マサキクアラバ」とよむ。舊本に「マサシクアラバ」又は「マコトサチアラバ」などとありしを仙覺が改め訓みしなり。「マサキク」といふ語の假名書の例は卷十七「三九五八」に「麻佐吉久登伊比底之物乎《マサキクトイヒテシモノヲ》」卷二十「四三三一」に「麻佐吉久母波夜久伊多里弖《マサキクモハヤクイタリテ》」などあり。その「マサキク」は「サキク」といふ語に眞の義ある頭辭「マ」を添へたるものにして、「サキク」は幸の字の義なること卷一「三〇」の下にいへり。
○亦還見武 「マタカヘリミム」なり。卷三「二八八」に「吾命之眞幸市者亦毛將見《ワガイノチシマサキクアラバ》、志賀乃大津二縁流白浪《マタモミムシガノカホツニヨスルシラナミ》」卷七「一一八三」に「好去而亦還見六《マサキクテマタカヘリミム》、大夫乃手二巻持在鞆之浦回乎《マスラヲノテニマキモタルトモノウラミヲ》」卷九「一六六八」に「白埼者幸在待《シラサキハサキクアリマテ》、大船尓真梶繁貫又將顧《オホフネニマカヂシジヌキマタカヘリミム》」卷十三「三二四〇」に「樂浪乃志我能韓崎幸有者又反見《ササナミノシガノカラサキサキクアラバマタカヘリミム》」などいへるは、「マサキクアラバ」に對して「マタカヘリミム」といへる語の參考として見るべき例なり。又卷十二「三〇五六」に「妹門去過不得而《イモガカドユキスギカネテ》、草結《クサムスブ》、風吹解勿又將顧《カゼフキトクナマタカヘリミム》」といへるはその結びたる松之枝を「又かへりみむ」といへるに對しての參考とすべし。
○一首の意 我はこの磐代の松枝を引結びて、祈り願ふ事あり。我れ今事によりて嫌疑を受けたれど、其の事申しひらき相立ちて恙なくあらば、この結びたる松枝をかへりて再び見むと希ふとなり。
 
(194)142 家有者《イヘニアレバ》、笥爾盛飯乎《ケニモルイヒヲ》、草枕《クサマクラ》、旅爾之有者《タビニシアレバ》、椎之葉爾盛《シヒノハニモル》。
 
○家有者 諸本「イヘニアレバ」とよめるを童蒙抄に「イヘナラバ」とよめり。されどこれは未然の事にあらずして、「家に在る時には」の意なれば、舊訓の方よしとす。さて音を約めて「ニアレバ」を「ナレバ」とよまむも不可にあらねど、必ずしかせずばあらざる理由なく、又このままにて意通ぜざるにあらねば舊訓のままなるべし。
○笥爾盛飯乎〔右○〕 「ケニモルイヒヲ」とよむ。「笥」は和名鈔に「禮記注云笥【思吏反和名介】盛v食器也」とあり、玉篇に「笥盛v飯方器也」と見ゆ。日本紀卷十六に「※[手偏+施の旁]摩該※[人偏+爾]播伊比佐倍母理《タマケニハイヒサヘモリ》」とある「タマケ」は漢字をあつれば玉笥の義なり。本邦にて笥といひしものは竹にてつくりしか木にてつくりしか確かなる證を知らねど、延喜式、四時祭式鎭魂祭の條には「供御飯笥一合」……と見え、その下に「炊以2韓竈訖即盛2藺笥1納v※[木+貴]居v案」と見えたれば、神に奉るに藺にてつくれる笥を用ゐたりと見えたれど、そは古風を傳へられしが爲にして高貴の實用には供せられしにはあらざるべし。齋宮式初齋院の條には「銀飯笥、一合、銀水鋺一合、」と見え、内匠寮式銀器に「御飯笥《ヲモノケ》一合【徑六寸深二寸七分】銀大二斤八兩云々」と見えたればこの頃高貴の方は銀器にて飯笥といふものを用ゐられてありしなる事明かなるが、大方の歴史上の事實より推して銀器は奈良朝にはもとより、その前代にも既に用ゐられてありしならむと思はるれば、この有間皇子の笥と仰せられしもなほさる貴き器なりしならむ。さてここに笥といへるは上にいへる飯笥なることは著し。
(195)○草枕旅爾之有者 卷一(五)軍王の歌にいへるにおなじ。
○椎之葉爾盛 古來「シヒノハニモル」とよみ來れり。然るを童蒙抄は「椎」は「松」の誤かといへり。按ずるに、椎の葉に飯を盛るとは如何にすべきか明かならず。さて又「椎」は普通に「シヒ」とよむ字にして和名鈔「椎子」の注に「和名之比」とあり、又日本紀神武卷には「椎根津彦」の名の椎に「椎此云辭※[田+比]」とあれば、椎とよむ事は不都合なるにあらず。されど椎は葉大ならぬものなれば、この上に飯を盛らむは如何にすべき事にか、考には「今も檜の葉を折敷て強飯を盛ことあるが如く旅の行方《ユクヘ》にてはそこに有あふ椎の小枝を折敷て盛つらん。椎は葉のこまかに繁くて平らかなれば、かりそめに物を盛べきもの也」といへり。然るに「椎」字は新撰宇鏡を見れば「奈良乃木也」と注し、又續日本紀卷八に元明天皇を葬れる山陵を「大和國添上郡椎山陵」とかけるが、この天皇の山陵は延喜式に「奈保山陵」とあるによりて「椎」は「楢」の誤なりといひたれど、この山陵の所在は古の奈良山なる事著しければ「椎」を「ナラ」の語にあてしは、明かなり。されば、ここも椎《ナラ》とよまれざるにあらず、又「ナラ」の葉ならば大にして今も山人の握飯を包み持つに用ゐる程なれば似合はしからぬにあらず。されど、今この歌は十月十一日の比によまれしなれば、楢の葉は直ちに得らるべくもあらねば、なほ常磐木の椎の方によるべくや。
○一首の意 事なくて家に在る時には然るべき飯笥に盛りて食すべき飯をば、今は旅にあれば、椎の葉に盛りて食するが悲しく物あはれなる事よとなり。この頃の旅は今の如く自由ならぬはいふをまたざれど、高貴の方の御旅行には然るべき調度どもをも具して行かれしならむ(196)なれば、椎の葉に盛るなどのはかなき事にもあらざりしならむと思はる。然れども、今有間皇子は謀反の嫌疑にて護送せられませば、その待遇は常の如くにあらざりしならむ。その旅中の實事を詠せられたれば、悲しく聞ゆるなり。從來この歌を古の旅の苦しさの例にひけるはこの歌の成れる由を顧みず又歌意を十分に味はぬ疎漏より出でたるなり。
 
長忌寸意吉麿見2結松1哀咽歌二首
 
○長忌寸意吉麿 この人は卷一「五七」の歌を詠ぜる長忌寸奧麿と同じ人なるべきが、それは大寶二年の歌なれば、上の有間皇子の時よりは五十年許の後の世によめる歌なり。されば、こは上の歌に因みある歌なればとて編者の便宜上加へしものなるべくして、もとこの御代の歌にあらず。或は後人の加へしものならむも知られず。
○見結松哀咽歌二首 「結松」と題にありて、歌にも結松とよめるを見れば、かの有間皇子の結びたまひしその松枝が、後世に名高くなりて結松の名を生ぜしならむ。哀咽は「かなしみむせぶ」と訓すべきが、その熟字は文選の陸雲與載季甫書(百三名家集)に「重惟痛恨、言増哀咽」などあり。二首の「二」の字木版本に脱せり。誤なること著しければ多くの古寫本によりて補へり。
 
143 磐代乃《イハシロノ》、岸之松枝《キシノマツガエ》、將結《ムスビケム》、人者反而《ヒトハカヘリテ》、復將見鴨《マタミケムカモ》。
 
○岸之松枝 「キシノマツガエ」とよむ。この松につきては上に濱松といひ、ここに岸といひ、次に(197)野中とよめるを見れば、磐代の松とは、海邊の野の岸にある松なりしこと想ひやらる。さてこの下に「ヲ」格助詞の存すべき場合なり。
○將結 板本「ムスビケム」とあり。古寫本には「ムスビタル」とあるもあれど、「將」字を「タル」とよまむ由なければ、從ひ難し。「將」字は「ム」の意の字なるを之を「ケム」とよめるは事實に基づきてよめるなり。さてこの「ケム」は連體格にして直ちに下の「人」につづくべきものなり。
○人者反而 「ヒトハカヘリテ」とよむ。「人」とはこの松を結びけむ人にして有馬皇子をさすなり。「カヘリテ」とは皇子の御歌に「マタカヘリミム」といはれたる如く、恙なくてかへり見けむかといふ意をあらはさむとていへるなり。
○復將見鴨 「マタミケムカモ」とよめり。「將」を「ケム」とよむは上におなじ。「カモ」は疑の「カ」に「モ」を添へたるにて、上の歌「一三四」に「吾袂振乎妹見監鴨《ワガゾデフルヲイモミケムカモ》」におなじ。但し、これは表に疑ひ、實はその事の無かりしことをいへるなれば、反語たるなり。
○一首の意 有間皇子が、この磐代の松枝を引結びて、まさきくあらば、またかへりみむと仰せられしが、その當人たる有間皇子は果して願ひの如く無事にて再び之をみたまひけむか如何に。否々さる事はなくして皇子は露ときえうせ給ひしが、松は昔のままに今に存して當時の悲惨事を語るに似たり。今まのあたりこの結松を見て之を思へば哀傷の念に堪へぬよとなり。
 
144 磐代乃《イハシロノ》、野中爾立有《ヌナカニタテル》、結松《ムスビマツ》、情毛不解《ココロモトケズ》、古所念《イニシヘオモホユ》。 未詳
 
(198)○野中爾立有 舊本「ノナカニタテル」とよめり。このよみ方誤れりといふにあらねど、「野」は古く「ヌ」なりしこと既にいへる如くなれば「ヌナカニ」とよむべきものなり。磐代の野とあるにて、その地は海岸にて稍廣き地なるを考ふべし。
○結松 この事上にいへり。
○情毛不解 「ココロモトケズ」とよむ。「結松」に射して「トケズ」といへるは一は詞の文《アヤ》なるが、一は結松の古結べるままに殘れる故にいへるなり。而して、情も解けずといふは心の結ぼれたるをいふなり。卷十七「三九四〇」に「餘呂豆代爾《ヨロヅヨニ》、許己呂波刀氣底和我世古我《ココロハトケテワガセコガ》、郡美之乎見都追《ツミシヲミツツツ》、志乃備加禰都母《シノビカネツモ》」とある如く、心解くるとは心情の快き状にあるをいふなり。卷九「一七五三」に「歡登紐之緒解而家如解而曾遊《ウレシミトヒモノヲトキテイヘノゴトトキテゾアソブ》」とある「ときて」も打ちとけたる心になるをいへるなり。
○古所念 舊本「ムカシオモヘバ」とよみたれど、「所念」をただ「おもふ」とよむも不可なるに「ば」にあたるべき文字も見えず。契沖は「イニシヘオモホユ」とよみ、童蒙抄に「ムカシオモハル」とよめり。「所念」は「オモハル」の意なること明かなれど、この頃には「オモホユ」といひしものなるべきを以て契沖説に從ふべし。その假名書の例は卷五「七九五」に「都麻夜佐夫斯久於母保由倍斯母《ツマサブシクオモホユベシモ》」「八〇二」に「宇利波米波胡藤母意母保由《ウリハメバコドモオモホユ》」などあり。さてここは自然に思はるる由にいへるなり。
○一首の意 今磐代の地に來りてその野中に立てるその名高き結松を見れば、その松の古、有間皇子が、結びたまひしままに大木となりてあるを見れば、その松の結ぼほれてある如く、見るわが心もむすぼほれてそのかみの事の悲しく思はるるよとなり。
(199)○未詳 この二字流布本は別行にし、活字素本には大字にしたれど、多くの古寫本小字にせるに從ふべし。この二字契沖は衍文にやといひ、又或は大寶元年の歌に作者なければ、もとそこに在りしがここに紛れ入りしにかといへり。按ずるにこの歌拾遺集に人麿の歌として載せたるによりて考ふるに、古くより人麿の歌なりといふ傳説も或はありしならむ。かくてこの集にいへる歌主と一致せぬを疑ひての注と見えたりといふ説あり。さもあるべし。さては恐らくはかの梨壺の人々又はその後の人の加へしものなるべし。
 
山上臣憶良追和歌
 
○山上臣憶良 卷一にいへり。
○追和歌 追和は後の人の追ひて和せる由をいへる字面なるが、卷五には「後追和梅歌」又「後人追和之詩」など集中に用例少からず。かゝる場合の和はあはする意にして答ふる意にあらず。即ちそれに同情を表して詠ずる由をいへるなり。この追和は何れの歌に追和せるにか。意吉麻呂は大寶二年に歌よみし事あるは既にいへる如くなるが、憶良は大寶元年に史に名見ゆれば、略同時代の人といふべし。而して年の少長は明かからねど、大寶元年に憶良は無位と見ゆれば、年なほ若かりしならむ。されば、或は意吉麻呂の方先輩なりしならむか。加之その歌意吉麻呂のはじめの歌と意の通ひたる點あれば、それに追和せるものならむと思はる。
 
(200)145 鳥翔成《カケルナス》、有我欲比管《アリガヨヒツツ》、見良目杼母《ミラメドモ》、人社不知《ヒトコソシラネ》、松者知良武《マツハシルラム》。
 
○鳥翔成 舊訓「トリハナス」とよみたり。童蒙抄には「アスカナシ」とよみ、考には「ツバサナス」とよみ、略解は「翔」は「翅」の誤なるべしといひて、考のよみ方により、攷證には「カケルナス」とよみたり。さてその「翔」字は古葉略類聚鈔のみは「羽」とせれど、これは誤といふべく、他のすべての本には「翔」とあれば、この字は動かすべからざるものといふべし。從つて略解の誤字説は考のよみ方に合せむ方に唱へたる説なるべくして從ふべからず。さて「鳥翔」の二字を「アスカ」とよむべき由なければ、童蒙抄の説は從ふべからず。又「翔」は羽翼をいふ字にあらざるのみならず、「トリハ」といふ如き語の例は未だ見ねば、これ亦從ふべからず。然らば「ツバサナス」とよむべきかといふに、この「翔」字は動詞をあらはす字にして名詞をあらはす字にあらねば、これも筋なきことなるのみならず、下の「アリガヨフ」に對する時に、「ツバサナス」にては打あはざるなり。守部は「ツバサナス」にて「鳥の如くにと云意也、鳥を翅と云ふは魚を鰭と云ふが如し」といひたれど、鳥を直ちに「ツバサ」といひたる例はもとより、魚をさして直ちに鰭といひたる例も亦古来一もあることなし。美夫君志には「ナスは作又は生などの意なるべし」として「ツバサナス」とよむ説を辯護したれど、翅を生じて飛ぶといふ如きは寧ろ滑稽の感を與ふるに止まればこれ亦從ふべからず。「翔」字は説文に「回飛也」と見え、又易の豐卦に「天際翔也」とある如く高き所を飛びかける意をあらはす文字にしてその訓は類聚名義抄に「カケル、フルマフ、アフク、アカル、トフ」と見ゆ。されば、從(201)來の説のうちにては攷證の説を最も是《ゼ》に近きものと見るべし。然れども、眞に「カケルナス」といふ語なりしならば「翔成」の二字にて足るべく、「鳥」字を加ふる必要なきなり。これはその訓み方は如何にもあれ、意は鳥の天を翔る如く皇子の御魂の天がけりてここに有通ふをいへるなり。されば、鳥の翔るといふことを三音若くは四音にていふこと當時ありしものならむが、それを用ゐしならむ。その語は未だ考へ得ずといへども「ツバサナス」とよむべきにあらぬは斷じて疑ふべからず。我れこの説を主張しはじめし時は未だ攷證を見ざりしが、後その説あるを知りてます/\この主張の理あるを信じたりしが、尾山篤二郎氏の山上憶良歌集また殆ど同じ説を主張せり。但し、未だそのよみ方を按出し得ざるを遺憾とす。かかる場合の「なす」は普通體言をうくるものと考へらるれど、必ずしも然らずして、用言の終止形をうくること、たとへば、卷十四「三五四八」に「奈流世呂爾木都能余須奈須《ナルセロニコツノヨスナス》、伊等能伎提可奈思家世呂爾比等佐敝余須母《イトノキテカナシケセロニヒトサヘヨスモ》」の如き例あれば、「鳥」の字なくば「カケルナス」とよむ方當然たるべきものとす。而して「カケル」といふ語は古事記下仁徳卷の歌に「比婆理波阿米邇迦氣流《ヒバリハアメニカケル》」日本紀卷十一の歌に「破夜歩佐波阿梅珥能朋利等弭箇慨梨伊菟岐餓宇倍能娑弉岐等羅佐泥《ハヤブサハアメニノボリトビカケリイツキガウヘノサザキトラサネ》」本集卷十七「四〇一一」に「久母我久理可氣理伊爾伎等《クモガクリカケリイニキト》」ともあり。さて又神靈の天がけり來るなどの信仰はこの頃に存せしものにして、その例は卷五「八九四」の歌に「天地能大御神等倭大國靈久堅能阿麻能見虚喩阿麻賀氣利見渡多麻比《アメツチノオホミカミタチヤマトノオホクニミタマヒサカタノアマノミソラユアマガケリミワタシタマヒ》」と見えたるにて知るべし。さればかくいへる事の由は心得らるべけれど、そをいかによむべきかは未だ知られず。しかも何とかよまではあるまじければ姑く攷證の説によりて、(202)後の賢者に俟つこととせり。
○有我欲比管 「アリガヨヒツツ」とよむ。元暦本などに「ワカオモヒツツ」とよみたれど、從ふを得ず。「アリガヨフ」といふ語の例は古事記上卷に「用婆比爾阿理加用波勢《ヨバヒニアリカヨハセ》」又本集卷三「三〇四」に「大王之遠乃朝庭跡蟻通島門乎見者神代之所念《オホキミノトホノミカドトアリカヨフシマトヲミレバカミヨシオモホユ》」又「四七九」に「皇子之命乃安里我欲比見之活道乃路波荒爾鷄里《ミコノミコトノアリガヨヒメシシイクヂノミチハアレニケリ》」又卷十七「三九〇七」に「安里我欲比都可倍麻都良武萬代麻底爾《アリガヨヒツカヘマツラムヨロヅヨマデニ》」など例少からす。而して本集中に「カヨフ」の「カ」に主として「我」を用ゐたるは「アリガヨフ」とよめるなるを見るべし。さてかく動詞の上に「アリ」を冠するはその事の引きつづきて行はるる由を示せるなり。引き續きかよひつつの意なり。
○見良目杵母 「ミラメドモ」なり。この頃の語法として上一段活用の語より「ラム」に行くときは連用形よりすること上(卷一「五五」)にいへり
○人社不知 「ヒトコソシラネ」とよむ。この一句は上の三句を受けて直ちにつづきてその結びをなし、かねて、下の句に對し條件の如くなるなり。その上をうけたるは即ち皇子の幽魂の鳥の翔る如く天翔りてここに通ひつつ見たまふらむと思はるれど、人の凡眼には見えざれば誰もしらぬとなり。さてこの句は下に對しては反撥的に條件をなすものなれば、その中間に「然れども」といふ如き語を加へて解せばよく了得せらるべし。
○松者知良武 「マツハシルラム」この松は磐代の結松をさす。
○一首の意 有間の皇子の御魂は鳥の翔る如く天かけり來ては、これを結び給ひし當時より今(203)に至るまでこの結松をば引き續き見給ふならむと思はるれど、我等凡人の目には知られぬなり。されど、松はその時より幾十年も無事に經たるものなればよく知りてあらむ。あはれこの松に昔の事をも問はばやと思はるるなり。
 
右件歌等、雖3不2挽v柩之時(ノ)所作1、准〔左○〕2擬《ナゾラヘテ》歌意1故以《コトサラニ》載2于挽歌類1焉。
 
○右件歌等 かくいひて指せるは上の有間皇子の歌二首と意吉麿の歌二首と憶良の歌とをすべていへるものなり。
○雖3不2挽v柩之時所作1 この挽柩之時所作を文字通りに柩を車にのせて挽くと解するは極端にして從ふべからず。ここに「挽柩之時所作」といへるはただ挽歌といふべきを文字をかへていへるに止まれり、漢文には避板の法とて文字の面に重複するを厭ひてかくの如くすること往々あり。諸家之を文字の通りに解釋して、左注の筆者を攻撃して、挽歌の文字に拘泥せる説明なりとするは、これ漢文の筆法をさとらず、又よく文意を斟みとらぬよりの過にして、その責はかへりて自己に存するを顧みよ。かくてこの五首が挽歌にあらぬは明かなり。
○准2擬歌意1故以載2于挽歌類1焉。 准字は流布本「唯」に作れり。金澤本其他に正しく「准」に作るに從ふべし。「准擬」二字にて「ナゾラフ」とよむべく、「故以」二字にて「コトサラニ」とよむべし。即ち上五首は挽歌にあらねど、歌意を考ふれば、哀傷の意明かなれば挽歌になぞらへてわざとここに載せたりとなり。
 
(204)大寶〔左○〕元年辛丑幸2于紀伊國1時見2結松1歌一首
 
○大寶元年辛丑幸于紀伊國時 「寶」の字寛永板本に「實」に作れるは誤にして、その前の板本古寫本みな正しく「寶」とせり。續日本紀大寶元年の條に「九月丁亥天皇幸2紀伊國1」又「冬十月丁未車駕至2武漏温泉1」又「戊午車駕自2紀伊1至」とあり。この時の事なるべし。
○見結松歌 結松は上にいへる磐代の結松なり、この歌作者なし。元暦本その他多くの古寫本には次行に小字にて「柿木朝臣人麿歌集中出也」と注せり。ここに作者の名なきは恐らくはもと「時」と「見」との間にありしが誤り脱せしなるべく、今にしてその作者を知るべからざるなり。考には「右の意寸萬呂の始めの哥を唱へ誤れるなるを後人みだりに書加へしものなり」といひてこれを全く削り去れり。されど、意寸麻呂の歌とこの歌とは趣異にして、別の歌なること著し。想ふに意寸麻呂以下三首の歌を結松の縁に何人かの追記したるをその後又何人か同じ結松の歌なるを以て更に加へしものならむ。初めより意寸麻呂等の歌と同時に書き加へしものならば、「右件歌等云々」の左注はこの歌の次に記すべきものなればなり。而して、この歌は上の元暦本等に記せる如く古き人麻呂集中にありしなるべければ、それより摘出せしものならむも知られず。いづれにしても意寸麻呂の歌とは異なるものなるは明かなり。
 
146 後將見跡《ノチミムト》、君之結有《キミガムスベル》、磐代乃《イハシロノ》、子松之宇禮乎《コマツガウレヲ》、又將見香聞《マタミケムカモ》。
 
(205)○後將見跡 「ノチミムト」とよむ。童蒙抄に「スヱミント」とよみたり。されど、將來を「スヱ」といへることこの頃にありしか否か疑はしきによりて從ひ難し。かかる時に「ノチ」といへる例は極めて多し。一二をいはば本卷「二〇七」に「懃欲見騰不止行者人目乎多見《ネモコロニミマクホシケドヤマズユカバヒトメヲオホミ》、眞根久往者人應知見狹根葛後毛將相等《マネクユカバヒトシリヌベミサネカツラノチモアハムト》」又卷三「三九四」に「印結而我定義之住吉乃濱乃小松者後毛吾松《シメユヒテワガサダメテシスミノエノハマノコマツハノチモワガマツ》」等なり。さてここは「のちに見むと思ひて」の意にして有間皇子の歌に「眞幸有者亦還見武《マサキクアラバマタカヘリミム》」とよまれたるを思ひていへるなり。
○君之結有 「君」の字板本に「若」に作れるは誤にして古寫本及び活字素本みな「君」につくれるを正しとす。「キミガムスベル」とよむ。君は有間皇子をさす。
○子松之字禮乎 「コマツカウレヲ」とよむ。この語の例本卷「二二八」に「姫島之子松之末爾《ヒメジマノコマツガウレニ》」又卷十「一九三七」に「暮去者小松之若末爾《ユフサレバコマツガウレニ》」などあり。この松が小き松にあらずして大なる松なりしことは犬鷄隨筆にいへる如く大寶元年より四十三年の前の結松をよめるにて大なる松たりしを考ふべく、犬鷄隨筆は「小松」の「コ」は「小」の意にあらずして、美稱なりといへること卷一に既にいへり。「ウレ」も上「一二八」にいへる如く若末の義にして草木の生長盛りの若き部分をいふ。
○又將見香聞 「マタミケムカモ」とよむ。古寫本には往々「マタモミムカモ」とよめるあり。されど、「モ」字なきに加へよむは如何なり。「將」を「ケム」によむ例は上に屡いへり。この句の意は意寸麻呂の歌の結句におなじ。
○一首の意 恙なくしてあらばまた見むと願ひて君が結びたたまひし松をば君は果して再びか(206)へり來て見給むけむか、如何。その松は今もあれど、その人は終に再び見給はざりしならむかと悲み嘆きたるなり。
 
近江大津宮御宇天皇代 天命開別天皇
 
○ この事すべて卷一、九三頁にいへるにおなじ。元暦本等にはこの下になほ續けて「謚曰天智天皇」の六字あり。されどそは後の書入なるべし。
 
天皇聖躬不豫之時太后奉御歌一首
 
○天皇聖躬不豫之時 「天皇」は天智天皇なり。「聖躬」とは天皇の大御身を申す。後漢書班彪傳下の注に「聖躬謂天子也」とあり。よみ方は「オホミミ」とよむべし。「不豫」は爾雅の釋詁に「豫樂也安也」とあるによりて不樂不安の意なるを見るべく「不豫」にて天皇の疾病にかかり給へるをいふなり。そのよみ方は古來「ヤクサミタマフ」とよめり。日本紀天智天皇十年九月に「天皇寢疾不豫」又「十月甲子朔庚辰天皇疾病彌留云々」とあり。されば、この御歌はその年九月十月頃によみたまひしなるべし。
○大后奉御歌 大后は天皇の皇后倭姫をさす。考に「いまた天皇崩まさぬ程の御歌なれば今本ここを書きしは誤」とて皇后と改めたり。されど、先にもいひし如く、こは當時嫡后即ち漢語にて皇后と申すをば「オホキサキ」と唱へて他の妃殯などと區別せし國語のままに書き出でたる(207)にて漢語の皇太后の意にあらねば誤にはあらず。倭姫皇后は古人大兄の女にして天皇が中大兄皇子と申しし頃より妃とましまし天皇即位と共に皇后の位に備りまししなり。攷證には皇太后の義としてこの所を辯護したれど、隨ひ難し。略解には「奉」の下に「獻」を脱せるかといへり。然れども古寫本等に一もその證なし。
 
147 天原《アマノハラ》、振放見者《フリサケミレバ》、大王乃《オホキミノ》、御壽者長久《ミイノチハナガク》、天足有《アマタラシタリ》。
 
○天原 「アマノハラ」とよむ、天の原にして、天の廣きをいふこと勿論なるが、この歌の解につきては二説ありて、一は實際の天を仰ぎ見たまひての意に説くものにしてこの説は從來多くの學者のとれる所なり。一は宮殿の屋を仰ぎ見て、祝福せられたるものとする説にして、橘守部の主唱せる説にして美夫君志之に賛せり。さて守部いいへる如くその家屋の構造をたたへて主人の祝福をなせることは、かの日本紀顯宗卷に載せたる天皇龍潜の時播磨國縮見屯倉の首の新室をほぎ給へる室壽の詞にても見るべく、又日本紀推古卷に「二十年春正月辛巳朔丁亥置酒宴2群卿1是日大臣上2壽歌1曰|夜須彌志斯《ヤスミシシ》、和餓於朋吉彌能《ワガオホキミノ》、※[言+可]勾理摩須《カクリマス》、阿摩能耶麻※[言+可]礙《アマノヤソカゲ》、異泥多多項《イデタタス》、彌蘇羅烏彌禮磨《ミソラヲミレバ》、豫呂豆余弭※[言+可]勾志茂餓茂《ヨロヅヨニカクシモガモ》云々」、又本集卷十九に天平勝寶四年十一月廿五日新甞會肆宴應詔歌中式部卿石川年足朝臣「天爾波母五百都綱波布《アメニハモイホツツナハフ》、萬代爾國所知牟等五百都都奈波布《ヨロヅヨニクニシラサムトイホツツナハフ》」(四二七四)とあるにても見るべきなり。而してただ天を仰ぎ天皇さらでも汎く人の壽を祝する如き事は本邦に於いて古今に類例を見ざる所なれば、われは、この守部の主唱せる(208)説に從ふべきものと考ふるなり。但し守部の説のうちにも從ふべからぬ點も存するはその所に行きていふべし。さて屋裏を「あめ」「そら」に準へいふことは古語にして、上の推古天皇卷の壽歌又本葉中卷十九の石川年足の壽歌にも見えたるが、今も越中の方言に「あま」といひてこの語殘れり。
○振放見者 「フリサケミレバ」とよむ。ふり仰ぎて遠く見やればの意なり。その見やる目的物は何ぞといふに、上に引ける壽歌にてもしるきが如く、又日本紀神代卷に「又汝應v往2天日隅宮1者今當2供造1即以2千尋栲繩1結爲2百八十綱1」といへるにても見らるる如く上代の建築に釘を用ゐず、繩綱を用ゐて、柱桁梁などを結び固めし、その固く結べる状を見て、主人の壽もかくの如く固くあれと祝せるなり。然るに、守部はこれをば、「其屋上に千尋繩を長く結ひ垂せるをいふ」といひ、「上代は屋上より結び垂らす繩綱を家の固めと重みして長く繁くたらししなり。」といへり。されどかく、繩綱を長く垂らしたりといふ證は古書に全く見る所なし。こは恐らくはこの御歌に「長く天足したり」とあるによりて思へる事なるべけれど、證なき事にして從ひ難し。古、この繩綱に關して祝福せし事を考ふるに、顯宗天皇の室壽の詞に「取結繩葛者此家|長《キミ》御壽之堅也」とある如く、その結べることの竪固なるを以て人の健康なるになぞらへたること著し。又年足の歌に「五百都綱波布」とあるは、その棟、梁、桁柱等を取結べる綱の長くして、彼方此方に引き延へたるをいへるにて長く垂したる謂にあらず。又續日本紀天平勝寶五年八月に載せたる聖武天皇の御母大皇太后宮子娘の崩御の後に奉られし尊號に「千尋|葛藤《カツラ》高知天宮姫尊」とあるも(209)同じ精神の尊號なるは著しきがその千尋葛藤は長く延ふべき爲の千尋にして垂らすべき爲の千尋にあらず。されば、長く垂れたりといふことは從ふべきにあらず。ここに振放け見ればとある對象は、その屋裏に見ゆる、所謂「繩葛」の千尋に延へ渡したる繩葛にて取結べる、その竪き結びを見たまひての事なり。古の宮殿に天井など無かりしが故に、振仰ぎ見れば、その繩葛の結び渡せるさまは直ちに見られしなり。今の建築法になりても紫宸殿のみは所謂|内室造《ウツムロヅクリ》にして天井なく、化粧屋根裏梁を見せたる建築とせられたるは古式を永く保有せられたるものなりとす。この事によりてこの歌の意を想ひ見るべし。
○大王乃 「オホキミノ」とよむ。天皇をさす。
○御壽者長久天足有 舊訓「オホミイノチハナガクテタレリ」とよめり。古寫本中金澤本には「イノチハナガクアマタラシアリ」とよみ、神田本には「オホミイノチハナカクテタレリ」といふ訓を加へ、京都大學本には「ミイノチハナガクアマタラシタリ」と訓せり。又代匠記には「オホミイノチハナカクアメタレリ」かといひ、考には「ミヨハトコシクアマタラシヌル」とよみたり。されど、これらの諸訓いづれも心ゆかず。略解には「ミノイチハナガクアマタラシタリ」とよみてより諸家多くは之に從へり。この訓も治定せりといはれねど、他によき案なきによりて姑く略解に從ふ。後のよき考をまつ。「天足らす」は天空の如く充足せる意にして、聖壽無疆ならむとなり。さてかく祝言によまれたるはかの石川年足の歌によめる如く、その家の屋を結び渡せる繩の長きが如く、家主とます天皇の御壽の長きをことほぎ、又顯宗天皇の室壽の御詞に「取結繩(210)葛者放家長御壽之堅也」とある如く、常磐に堅磐にましまさむとなり。
○一首の意 御寢殿の屋裏を振り仰ぎて見れば、千尋の綱葛を延へ渡して堅く取結びてあり。之を見て思ひ奉るに、古より壽詞にいふ如くかく長く延べ、ゆるびなく取結べる綱葛は大御壽の長く堅くましまさむと信ぜらるれば、わが大君の大御壽も亦天の如く無極に長く恙なくましさむと言ほぎ奉られしなり。
 
一書曰、近江天皇聖體不豫御病急時太后奉獻御歌一首
 
○一書曰云々 これは次の歌のはしがきの如く見ゆれど、その歌は崩御の後のものなれば、歌の意とこの文意と打ちあはず。この故に、攷證にはこれに對する歌の脱落ありとせり。按ずるにこれは略解の説の如く上の歌の左注にして一書にかく題せりといへるものと見るべし。
○近江天皇 即ち天智天皇なり。
○聖體不豫 上に「聖躬不豫」といへるにおなじ。
○御病急時 「オホミヤマヒオモクマシマシシトキニ」とよむべし。急は急迫の義にして、今いふ危篤に迫るをいふ。これを「アツシク」ともよむをうべきものなれど、その用例は平安朝のもののみに見ゆれば、ここはなほ上の如くによむべきなり。
○ さて上の如くなれば、次の歌のはし書はここになき事となるなり。而して次の歌は天皇崩御後の詠なるべく思はるれば、如何に考へても上の詞書を次の歌に關係して考ふるを得ず。(211)こは既に諸先輩のいへる如く、この間に既落あるものと考へらる。その脱落ありといふうちにも、種々の考案ありて、一々之をあげて評するを得ざれども、余は上の詞の後の歌の前に次の歌の端書ありしが脱せしものと考ふるなり。何が故に脱落の生じたるかはもとより知るべからずといへども或は古く卷子なりし時に一葉脱したりしか、然るときはなほ二三首の歌ありしならむも知られず。或は又、上の左注と、その脱落せしと考ふる端書と文句相似たるが爲に、見誤りて脱せるか。しか考ふる由は末に歌一首とあるが、普通の左注と異なればなり。されど今にして之を知るに由なし。考略解の如く、「人者縱」の歌の前なる詞書を次にめぐらし、二首の詞書なりといふも證なきことなり。而してかかるさまになりしも古き時よりの事なるは、今本の目録がすべてかくなれるによりても察すべし。
 
148 青旗乃《アヲハタノ》、木旗能上乎《コハタノウヘヲ》、賀欲布跡羽《カヨフトハ》、目爾者雖視《メニハミレドモ》、直爾不相香裳《タダニアハヌカモ》。
 
○青旗乃 「アヲハタノ」とよむ。この青旗をば諸説多くは仙覺抄の説に從ひ、日本紀孝徳卷の葬制と常陸風土記とを引きて葬具の由にいへれど從ふべからず。先づ仙覺抄に引ける常陸風土記を見るに、「葬具儀赤旗青幡交雜飄※[風+易]雲飛虹張螢野耀路、時人謂之幡垂國」(ハタシタリノクニ「信太郡」)とあるによれるものなるが、この青旗をその葬具とせるは下の「木旗の上」の解釋と連關する所あるによりてそこに説くべし。又考には青旗は白旗をいふとてこれは孝徳紀を引かれたれど、その葬制には「其葬時|帷《カタヒラ》帳《カイシロ》等用2白布1」とあるのみにして、旗に白布を用ゐよといふ事は(212)見えず、よし又旗に白きを用ゐたりとして、之をアヲ旗とはいふべきにあらず。余按ずるにこれは契沖が「此は木幡といはん爲の枕辭なり。木のしけりたるは青き旗を立たらんやうに見ゆればなり。第四【十六右】に青旗乃葛木山(五〇九)といひ、第十三【卅一右】に青幡之|忍坂《オサカノ》山(三三三一)と云へる皆同じ意なり」といへる如く集中「アヲハタノ」とあるは上の二とこことのみなれば、この説は動くまじきなり。
○木旗能上乎 「コハタノウヘヲ」とよむ。この「コハタ」を契沖は山城の木幡の地といひ、考には「木」を「小」の誤として「ヲハタ」とせり。檜嬬手は字のまま「コハタ」とよみて義は幢幡の類とせり。攷證はよみ方はかはらねど、「コ」は「小」の義なりとせり。かくて考、檜嬬手、攷證は多少の異同はあれど、歸する所は一にしてこれを青旗の小旗の上をかよふといへるなり。されば、これらの人の説にては葬具の旗を建ててある上を通ふといふ義にとれるなり。さてかくとるにつきて考ふべきは、その青旗なるものを何が故にここにとりいでたるか。常陸風土記なるには赤旗も見ゆるに、考の説の如くば白旗もありしならむに、特に青旗をいへる理由如何。又その旗は葬具にして、墓の具にあらねば、その説によらば、これは葬禮の鹵簿を見てよまれしものといふべきならむ。然れどもこれはさにあらずして、上の青旗が契沖の説の如く、木の茂りたる地をさせる枕詞なることは動かすべからねば、ここも契沖のいへる如く地名なるべし。さて「木幡」といふ地名は今も山城にありて、宇治木幡とつづき名高き處なるが、この木幡は中比木幡庄といはれ、その庄は北は深草を限り、南は岡の屋、五箇庄を限るといはれてあれど、古はしか劃然たる(213)ことなく、大樣にいへりしなるべく、この「コハタ」の地は、天智天皇の御陵のある山科と近き處に在りて、古は山科のこはたの里といはれしなり。拾遺集にいはく「山科のこはたの里に馬はあれどかちよりぞ來る君をおもへば」(一二四三)といふ歌あり。この歌は本集卷十一「二四二五」「山科強田山馬雖在歩吾來汝念不得《ヤマシナノコタノヤマヲウマハアレドカチヨリワガクナヲオモヒカネテ》」とある歌に基づけるものなり。これにて「こはた」は古へ山科の一部の名なりしを見るべく、而してここに「コハタノ上」とあるは、木幡山を主にさされしを考ふべく、又山科の山陵を思ひてコハタの山といはれしとも考ふべし。「上乎」の「ヲ」をそこを通る點をさし示すに用ゐる助詞なり。
○賀欲布跡羽 「カヨフトハ」とよむ。天智天皇崩御の事は日本紀に見えたれど、山陵の事は見えず。延喜式に載せたるには山科とあり。然るに、帝王編年記、水鏡等には御馬にめして天へ上らせ給ひければ、其御沓の落ちたる所に御陵は築かれたる由見えたり。されば古來天智天皇昇天の説ありしなり。その崩御の時よりはやくさる傳説の生じたるによりてかく山科又木幡の邊を天翔り通ひ給ふとはうたへるならむか、若くはこの歌の如きが、後にさる傳説を生ずる基となりしならむ。
○目爾者雖視 「メニハミレドモ」。かく木幡の邊をば天翔り通ひ給ふといひ、われもよそめには見奉れどもとなり。ここに見れどもとあれば、實に肉眼にて見たるさまに考へらるべき事なれど、もとよりさる事あるまじく、しか信じて見る目に生じたる幻覺か、若くは夢かなるべし。
○正爾不相香裳 「タダニアハヌカモ」。ここの「ただに」は今の語に「直接に」といふ意なり。「カモ」は(214)ここに嘆の意をあらはせり。
○一首の意 山科の木幡の邊を通はせ給ふやうによそには見奉れども、幽明境異なれば直接に逢ひ奉ることの叶はぬことよとなり。これは上にいへる如く詞書を逸したれど、なほ大后などの御歌なるべきなり。
 
天皇崩御之時倭太后作歌一首
 
○天皇崩御之呼 「スメラミコトカムアガリマシシトキ」とよむ。この天皇は天智天皇なることいふをまたず。
○倭大后 倭太后は即ち倭姫太后の意にてかけるなり。倭姫は古人皇子の御女にして天皇の七年二月に皇后にたちたまへり。太后の皇后の義なることは既にいへる如し。
 
149 人者縱《ヒトハヨシ》、念息登母《オモヒヤムトモ》、玉※[草冠/縵]《タマカツラ》、影爾所見乍《カゲニミエツツ》、不所忘鴨《ワスラエヌカモ》。
 
○人者縱 舊本「ヒトハイサ」とよめり。されど縱を「イサ」とよむべき由なし。契沖が上の人丸の長歌(一三一)に「よしゑやし」と云ふに「縱畫屋師」と書きたるなどを證として「よし」とよむべしといへるに從ふべし、なほそが證は既に「一三一」の條にいひたればそを見るべし。さてこの「よし」はゆるし又は假容放任をあらはすものにして、普通の場合には下に接續助詞「とも」のあるを要するなり。ここは放任の意なり。
(215)○念息登母 「オモヒヤムトモ」 「息」を「ヤム」とよむは「ヤスム」意の「ヤム」を「止ム」の意の假名につかへるなり。他人はよしや天皇を思ひ慕ひ奉ることを忘れ止む事ありともとなり。
○玉※[草冠/縵] 「タマカツラ」なり。玉の小琴に「玉」は「山」の誤にして「ヤマカツラ」とよむべしとあり。されど、これは上の「玉松」の條にもいへる如く、鑿ちすぎたる説にして從ふべからず。玉※[草冠/縵]といふ語は古くよりある語にして古事記下卷安康天皇の條に「押木之玉縵といふもあり。又江家次第齋王群行の條にも玉縵を着《ツケ》給ふこと見えたり。さて玉はほめていふ詞にして「かつら」は日蔭鬘の事にて、髪にかくるよりやがてこれを「かけ」の枕詞とせるなりといふ説普通なるやうなるが古義には「玉※[草冠/縵]は玉の光明《ヒカリ》のきら/\と照映《テリカヽヨ》ふものなるゆゑに玉カツラ映《カケ》とはいへるなり云々」といへり。かく種々の説を見るが、余はここは特別の意あるものなるべく思ふなり。その故は日本紀持統天皇元年十二月に「以2華縵1進2于殯宮1此曰2御蔭1」と見え、又翌二年三月の條にも「以2華縵1進2于殯宮1」といふことあり。その華縵といふものは如何なるものなるか。日本書紀通釋に曰はく「今按に此もの御蔭と稱するを思へば、佛家に云へる華鬘にはあらじ、ハナカツラと訓へし。内藏寮式に大神祭に忍冬花鬘萬葉に柳の鬘、櫻花の鬘、早稻穗《ワサホノ》鬘あり、又|百合《ユリノ》花鬘を客に贈る歌あり。後撰集に鬘料に菊花を人に乞ふ文あり。これらみな花鬘なる證なり。ここなるも麗しく作りなせる鬘を進めしなるべし。」といへり。按ずるにこの初度の記事は十二月の事なり。その頃に果して時の花ありしか疑ふべし。なほ次度の記事の下には通釋に曰はく「既に云ることこれも三月にて花の頃なれば時の櫻花にて作れる縵なり。佛器の作り(216)華※[草冠/縵]《ケマム》にあらざる事知べし」といひたれど、初度の十二月の時は自然の花とは思はれず。さて又曰はく「鬘を蔭と云ること大甞祭式に親王以下女嬬以上皆日蔭鬘萬葉十九新甞會時歌、足日木乃夜麻之多日影可豆良家流宇倍爾也左良爾梅乎之奴波牟とある日蔭は御鬘と同じ。皆鬘を蔭と謂ふ例なり。日も神も美稱なり」といへり。この鬘を蔭といふ事につきては如何にもいはれたる事と思はるるが、それを時の花を以てつくれりといふ説は信ぜられず。思ふにこれはなほ佛前の莊嚴に用ゐる華鬘と同じやうなるものをさせるならむか。それは通常華鬘とかき、ここは華※[草冠/縵]とかきて文字は少しく違へど、鬘※[草冠/縵]、いづれも「カツラ」と訓し、しかもその「カツラ」は頭髪に、縁あるものなれば、歸する所一に落つべし。さてかの持統紀の殯宮は天武天皇の殯宮なるが、この天皇御大葬に佛式の加へられしことは日本紀を見ても知らる、即ち「諸僧尼發哭於殯宮乃退之」といふ事屡見え、又持統天皇元年九月に國忌齋を京師の諸寺に設け、なほ齋を殯宮に設けられしことを見ても知らるるなり、かくてこの風天智天皇の殯宮にも行はれしことあらむと見るは不當にあらざるべし。大體皇室には葬儀に佛式の混ぜるは聖徳太子以後著しく、持統天皇の時火葬を行はれしにても著きことなり。さてその華※[草冠/縵]の形や質につきて奈良朝のものは略その制を考ふべし。然らば、これを以て推すにその制大差なからんか。されば、この玉鬘はその華※[草冠/縵]をばほめていへるにもあるべけれど、或は實際に玉をもて飾りしものにてもあらむ。而して華※[草冠/縵]をは當時「御蔭」ともいひし事は明かなれば、この語の縁によりてかくいはれしにて枕詞といはばいへ、ただの枕詞にはあらざるべきなり。
(217)○影爾所見乍 「カゲニミエツツ」なり。上の玉※[草冠/縵]をば「御かげ」ともいへるによりてそれを縁としてここに「かけ」といへるなるが、ここの「かげ」は面影の義なるべし。卷十一「二四六二」に「我妹吾矣念者眞鏡照出月影所見來《ワギモコシワレヲオモハヾマスカヾミテルミカヅキノカゲニミエコネ》」卷十八「四〇六〇」に「都奇麻知弖伊敝爾波由可牟和我佐世流安加良多知婆奈可氣爾見要都追《ツキマチテイヘニハユカムワガサセルアカラタチバナカゲニミエツツ》」などその例なり。「カゲニミユ」とは「影として」の義なるが、上にあげたるはいづれも面影の義の例なるが、實際の影なる場合もあり。卷七「一二九五」に「春日在三笠乃山二月船出遊士之飲酒杯爾陰爾所見管《カスガナルミカサノヤマニツキノフネイヅミヤヒヲノノムサカヅキニカケニミエツツ》」とあるが如きこれなり。
○不所忘鴨 舊訓「ワスラレヌカモ」とよめるを代匠記に「ワスラエヌカモ」とよむべきかといへり。舊訓にても不條理なるにあらねど、かかる「レ」を古「エ」といひしが故に代匠記の案をよしとす。卷五「八八〇」に「美夜故能堤夫利和周良延爾家利《ミヤコノテブリワスラエニケリ》」卷十三「三二五六」に「暫文吾者忘被沼鴨《シマシモワレハワスラエヌカモ》」卷二十「四四〇七」に「伊毛賀古比之久和須良延可母《イモガコヒシクワスラエカモ》」とある、其の例なり。「ワスル」はこの頃に四段活用なりしが、「エ、ユ、ユル、ユレ」といふ複語尾を分出せるなり。かくてこの「エ」は能力をあらはせるものにして忘れむとしても忘るること能はぬかなの意なり。
○一首の意 天皇の崩御ありし悲歎をば人はよしや思ひ止むことありとも、われは御面影が常に見え給へば忘れむとしても忘るること能はず。いつも新喪の如くに悲み歎くことよとなり。伊勢物語に「人はいさ思ひやすらむ、玉かつらおもかけにのみいとどみえつつ」とあるはこの歌を基としてよめるが如し。
 
(218)天皇崩時婦人作歌一首 姓氏未詳
 
○天皇崩時 上の天皇崩御之時におなじ
○婦人作歌 この婦人は宮人なるべし。後宮職員令の義解に「宮人謂2婦人任官者1之惣號」とあり。されどそは何人なるか詳かならぬこと既に本書に注せり。今にして知るべからず。
○姓氏未詳 流布本「姓氏」とあるは誤なること著しく、多くの古寫本正しく「姓氏」とかき小字にて注せり。今これに從へり。
 
150 空蝉師《ウツセミシ》、神爾不勝者《カミニタヘネバ》、離居而《ハナレヰテ》、朝嘆君《アサナゲクキミ》、放居而《サカリヰテ》、吾戀君《ワガコフルキミ》、玉有者《タマナラバ》、手爾卷持而《テニマキモチテ》、衣有者《キヌナラバ》、脱時毛無《ヌクトキモナク》、吾戀《ワガコフル》、君曾伎賊乃夜《キミゾキゾノヨ》、夢所見鶴《イメニミエツル》。
 
○空蝉師 「ウツセミシ」とよむ。「ウツセミ」は現し身の轉にして現の世にある人身をさすこと卷一に既にいへり。「し」は指す意の助詞なり。
○神爾不勝者 「カミニタヘネバ」なり。「勝」は※[舟+(ハ/夫)]と力との會意の字にして、名詞としては類聚名義抄に「フナニ」といふ如く船荷の義なり。動詞としては説文に「任也」と注し、正韻に「堪也」と注する如く、國語「タフ」にあたるものにして「カツ」とよめるは第二義によれるなり。攷證に「不勝の字をよめるはかたれざるよしの義訓にて云々」といへるは「勝」を「カツ」とのみよむと思へる誤にして從ふべからず。現の身は神に隨ひ奉るに堪へねばといふなり。
(219)○離居而 古来「ハナレヰテ」とよめり。これは下の「放居而」と同じ意なるが、それをも「ハナレヰテ」とよめり。「離」も「放」も共に「ハナル」とも「サカル」ともよみうる字なるが、契沖は「放居而」の方を「サカリヰテ」とよむべしといひ、雅澄は「離居而」の方を「サカリヰテ」とよむべしといへり。これはいづれにても道理なきにあらねど、「放」字は集中に多く「サカル」とよめば、ここは「ハナレヰテ」とよみ、次を「サカリヰテ」とよむをよしとすべし。意はいづれも同じく、君に對していへるなり。
○朝歎君 「アサナゲクキミ」とよむ、意は明かなりと思はるるが、契沖は下に「夕」といふ詞なければ、朝は朝夕の「アサ」にあらざるべしといひて、「マヰナゲクキミ」とよみ、本居翁は「夕」は「我」の誤とせり。されど、考には「下の昨夜《キソノヨ》夢に見えつるといふを思ふに其つとめてよめる故に朝といへるならん」といへり。これを強ひ言なりといふ説もあれど、よく考ふるになほこの説よしとす。ことにこの歌の眼目この「朝」といふ語にあり。そは下にいふべし。
○放居而 「サカリヰテ」とよむべきこと上にいへり。
○玉有者 「タマナラバ」とよむ。玉にてましまさばといふなり。人をかくたとへいへること古多し。次に例をあぐ。
○手爾卷持而 「テニマキモチテ」とよむ。手玉として手に纏ひ持ちてといふなり。巻三「四三六」に「人言之繁比日《ヒトゴトノシケキコノゴロ》、玉有者手爾巻以手《タマナラバテニマキモチテ》、不戀石益雄《コヒザラマシヲ》】巻四「七二九」に「玉有者手二母將卷乎欝瞻乃世人有者手二卷難石《タマナラバテニモマカムヲウツセミノヨノヒトナレバテニマキガタシ》」卷十七「三九九〇」に「我加勢故波多麻爾母我毛奈手爾麻伎底見郡追由可牟乎於吉底伊加婆乎思《ワガセコハタマニモガモナテニマキテミツツユカムヲオキテイカバヲシ》」などあり。古の風俗、手足に玉を纏きて飾とせることはよく人の知れる所に(220)して、日本紀卷二、一書に「手玉玲瑯瓏織※[糸+壬]之少女《タタマモユラニハタオルヲトメ》」と見え本集卷三「四二四」に「泊瀬越女我手二纏在玉者亂而有不言方《ハツセヲトメガテニマケルタマハミタリテアリトイハズヤモ》」卷七「一三〇一」に「海神手纏持在玉故石浦廻潜爲鴨《ワタツミノテニマキモタルタマユヱニイソノウラミニカツキスルカモ》」卷十(二〇六五)に「足玉母手珠毛由良爾織旗乎《アシダマモタダマモユラニオルハタヲ》」などあり。その手玉の制古墳の發掘物にて見るべく、延喜式大神宮式に「頸玉手玉足玉緒云々」とあれば、多くの玉を緒にぬき連ね、これを手に纏ひしなり。さてこの下の「テ」は同じ趣の句を下に連ぬる用をなせり。
○衣有者 「キヌナラバ」とよむ。衣にてましまさばなり。人をかくたとへ、いへること古に多し。次に例をあぐ。
○脱時毛無 舊訓「ヌクトキモナミ」とよめるが、古寫本には「ナク」とよめる本もあり。契沖は「ナク」とよみ、考には「ナケム」とよみたれど、「ナク」とよむ方に從ふべし。その故は下の「こふる」に對しての修飾格なればなり。卷十「二二六〇」に「吾妹子者衣丹有南秋風之寒比來下爾著益乎《ワギモコハキヌニアラナムアキカゼノサムキコノコロシタニキマシヲ》」卷十二「二八五二」に「人言繁時吾妹衣有裏服矣《ヒトゴトノシケキトキニハワギモコガキヌニアリセハシタニキマシヲ》」又「二九六四」に「如此耳在家流君乎衣爾有者下毛將著跡吾念有家留《カクノミニアリケルモノヲキヌナラバシタニモキムトワカモヘリケル》」などの例の如く衣にあらは脱く時も無くして常にきてあらむ如くと、ここに「如く」といふ形容の語を加ふべし。これ比喩にして、片時も君に離れ奉り難く思ふをたとへていへるなり。
○吾戀 古來「ワガコフル」とよめるを玉の小琴に「ワガコヒム」とよみしより略解なども之に從ひてよみ、かくてそを連體格とし諸家多く之に從へり。これは上に「衣ナラバ」とあるによりて「ム」といはでは打ちあはずとするなれど、これは實事と比喩とを混同したる説なり。上の「衣有者(221)脱時毛無」は比喩なれば、たとへば、云々の如くにわが戀ひ奉る君といふ義なり。かくて上の「衣ならば」に對しての歸結は「脱く時もなく」が修飾格に立てるために、それに、照應する語なくてすむものなり。而して「わがこひむ」といひては未だ戀ひ奉らずしてある者の將來に戀ひ奉らむといふ義になりて、歌の意もそこなはれ、この歌主は眞に戀ひ奉りて在りとは思はれざるなり。なまなかの文法に拘泥し歌の本旨を打ちこはすは如何。況んや文法上にもかくいひて破格には決してあらぬをや。
○君曾伎賊乃夜 「キミゾキゾノヨ」とよむ。「君ゾ」の「ゾ」は次の句にかかれり。「キゾノヨ」は咋夜なり。卷十四「三五〇五」に「孤悲天香眠良武伎曾母許余比毛《コヒテカヌラムキソモコヨヒモ》」同「三五二二」に「伎曾許曾波兒呂等佐宿之香《キソコソハコロトサネシカ》」同「三五六三」に「和乎可麻都那毛伎曾毛己余必母《ワヲカマツナモキソモコヨヒモ》」とあるなどその例なり。
○夢所見鶴 舊訓「ユメニミエツル」とよめり。考には「夢」を「イメ」と改めよめり。集中又古書皆「イメ」とあれば、考に從ふべし「イ」は寐の古言にして寐て見ゆるものなれば「イメ」とはいふなり。「ユメ」はその「イメ」の後世の轉訛なり。卷十五「三七三八」に「比登欲毛於知受伊米爾之美由流《ヒトヨモオチズイメニシミユル》」卷十七「三九八一」に「許己呂之遊氣婆伊米爾美要家里《ココロシユケバイメニミエケリ》」とあり。「鶴」は複語尾「ツ」の連體形「ツル」に借れるものにしてその「ツル」は上の句の「ゾ」に對する結なり。
○一首の意 現身なる我は神にあらねば、神として天に昇り給ひし天皇に隨ひ奉るに堪ふるものにあらねば、吾が大君をば離れ奉りて、歎き奉り、戀ひ奉るなり。若しわが大君が玉にてましまさば手に纏ひ持ち奉らむ、又衣にてましまさば着て脱ぐ時なきが如くに常に大御身に離れ(222)ず仕奉らむとわが戀ひ奉る君が毎夜夢に御見えになりしよとなり。かくてその夢に見たる朝によめるがこの歌なるべく「朝〔右○〕」といふ語ありて、この歌の印象を明確ならしむ。朝字なくしてはこの歌果して的確に味はるべきか如何。
 
天皇大殯之時歌二首
 
○大殯 考に「大殯宮」の三字につくり「オホミガリ」と訓ぜり。古義は古事記傳に「オホアラキ」とよめるに從へり。大殯の大は尊びて加へたる語にして殯は説文に「死在v棺、將v遷2葬柩1賓2遇之1」とある如く未だ葬り奉らず、新に構へたる別宮に置き奉る程をいふ。殯を「アラキ」といふは新城の義にして後世權殿といふに略おなじ。卷三に左大臣長屋(ノ)王賜死之後倉橋部女王歌「大皇之命恐大荒城乃時爾波不有跡雲隱座《オホキミノミコトカシコミオホアラキノトキニハアラネドクモカクリマス》」(四四一)とあるこの語の例なり。この大殯の時は日本紀天智十年十二月「癸亥朔乙丑天皇崩2于近江宮1癸酉殯2于新宮1」とあるこれなり。この歌作者を注せず。然れども、古寫本にはその各首の下に作者を注せり。そはその各首の下にいふべし。
 
151 如是有乃〔左●〕《カカラムト》、豫知勢婆《カネテシリセバ》、大御船《オホミフネ》、泊之登萬里人《ハテシトマリニ》、標結麻思乎《シメユハマシヲ》。 額田王
 
○如是有乃 「乃」は「刀」の誤なるべし、と代匠記にいひ、童蒙抄には「登」若くは「及」の誤なるべしといへり。而して現に傳はれる本には「乃」とのみありて他の文字を見ねど、「と」とあらずば、意通せざる所なれば、「ト」の誤なることは疑ふべからざるが、しかせば「乃」と「刀」とまぎれ易ければ、「刀」の誤とす(223)る代匠記の説よかるべし。「カカカラムト」は「かく崩御あらむと」の意なり。
○預知勢婆 「カネテシリセバ」とよむ、「カネテ」は將來をかけて思ふ意を示せり。卷十七「三九五九」に「可加良牟等可禰弖思理世婆《カカラムトカネテシリセバ》」といへる、その例なり。「セ」は「キ」「シ」の未然形にして「かねて知りてありたらば」の意なり。
○大御船 「オホミフネ」なり。天皇の乘りませる大御船なり。これは「泊之」の主格なり。
○泊之登萬里人 「ハテシトマリニ」とよむ。「人」を「ニ」の假名に用ゐたるはめづらしき例なるが、これは呉音「ニン」の首音をとれるなり。但し、古葉略類聚抄神田本には「尓」とせり。船の行き到りて止まるを「ハツ」といふこと卷一「五八」にいへり。「泊」はその船のはてたる港などをいふ。これは、古、近江の都の時滋賀の辛崎に船遊などあそばししことを思ひてよめるなり。卷一「三〇」の「樂浪之思賀乃辛崎雖幸有大宮人之船麻知兼津《ササナミノシガノカラサキサキクアレドオホミヤビトノフネマチカネツ》」といふ歌又次の歌をも參考すべし。
○標結麻思乎 「シメユハマシヲ」とよむ。ここに似たる語遣ひは卷七「一三四二」に「淺茅原後見多米爾標結申尾《アサチハラノチミムタメニシメユハマシヲ》」ともあり。「シメユフ」といふ事は上の「一一五」にもありて、卷七の歌のはその意の「シメ」なれど、ここのは少しく異なり。ここは古事記上卷天岩戸段に「布刀玉命以2尻久米繩1控2度其御後方1白言、後v此以内不v得2浸入1」とあると同じ心にて標繩を引き廻して出入を止めて、以て大御船を永く留め奉らましをとなり。考に曰はく「ここの汀に御舟のつきし時しめ繩ゆひはへて永くとどめ奉らんものをと、悲しみのあまりをさなく悔る也云々」といはれたるをよしとす。
○一首の意 かくゆくりなく崩御の事あらむとは思ひもかけざりし事なるが、かかる事あらむ(224)とかねて知りてありしならば、かの御船遊の時大御船のはてし辛崎の濱に標を結ひて永くとどめ奉るべかりしものをさても殘念なる事をしたりとなり。
○ 金澤本、類聚古集、神田本、温故堂本、西本願寺本等多くの古寫本歌の下に小字にて額田王と注せり。蓋しこの歌の作者たる由なり。
 
152 八隅知之《ヤスミシシ》、吾期大王乃《ワゴオホキミノ》、大御船《オホミフネ》、待可將戀《マチカコフラム》、四賀乃辛崎《シガノカラサキ》。 舎人吉年
 
○八隅知之 既にいへり。
○吾期大王乃 舊訓「ワガオホキミノ」とよみたり。されど、「吾期」とあるは「ワゴ」とよむべきこと卷一(五二)にいへり。
○大御船 上にいへり。この下に「ヲ」助詞を加へて解すべし。
○待可將戀 舊訓「マチカコヒナム」とよめり。代匠記にては初稿には「コフラム」とし、清撰には「コヒナム」を可とせり。略解は「コフラム」とよめり。而して諸家或は彼に從ひ是に從ひ區々たり。按ずるにこれは「待可」にて三音なれば、殘り四音にて「將戀」をよまざるべからざれば、「コフラム」「コヒナム」の外にはよみ方あるまじ。さて「ナム」といへば、將來を戀ふる意となり、「ラム」といへば、現實に戀ふる意となる。ここは崩御のありしをも知らず、現今も待ち奉る意とすべきなれば、「ラム」とよむをよしとす。「カ」は疑の助詞にて今の語にては下に回して解すべし。
○四賀乃辛崎 「シガノカラサキ」は滋賀の唐崎にして卷一「三〇」にいへり。この辛崎は主格なる(225)を反轉して下におけるなり。
○一首の意 滋賀の辛崎が、吾が天皇の崩御ましまししを知らず、大御幸はいつか/\と大御船にめさむ日を待ち戀ふるならむかとなり。この歌卷一の柿本人麿の歌の反歌の第一(三〇)に似たり。然れども、これは待つ由をいひ、かれは待ちて待ちえぬ由をいへれば、詞は似て趣は異なり。
○ 金澤本、神田本、西本願寺本、温故堂本、京都大學本等に歌の下に小字にて「舍人吉年」と書けり。蓋し、作者を注せるなり。「舍人」は氏にして「吉年」は名なるべきが、「キネ」とよむべきか。蓋し宮人ならむ。卷四田部忌寸櫟子任太宰時歌四首の第一首(四九二)の下に注して古寫本に「舍人吉年」とあるも同じ人なるべし。
 
大后御歌
 
○大后 は倭姫皇后なること上に述べたる所なり。この御歌は同じく大喪中の御詠なり。
 
153 鯨魚取《イサナトリ》、淡海乃海乎《アフミノウミヲ》、奧放而《オキサキテ》、榜來船《コギクルフネ》、邊附而《ヘツキテ》、榜來船《コギクルフネ》、奧津加伊《オキツカイ》、痛勿波禰曾《イタクナハネソ》、邊津加伊《ヘツカイ》、痛莫波禰曾《イタクナハネソ》、若草乃《ワカクサノ》、嬬之《ツマノ》、念鳥立《オモフトリタツ》。
 
○鮮魚取 「イサナトリ」とよむことは上に「勇魚取」(一三七)の下にいひし如し。さてこれはもと潮海につきていへる語なれど轉じて淡海の海にも用ゐて枕詞とせるなり。
(226)○淡海乃海乎 「アフミノウミヲ」とよむ。「淡海」はもと湖水の汎稱なるが、ここは地名とせしにて淡海の國の海即ち今の琵琶湖をさせり。
○奧放而 「オキサケテ」とよむ。奧は海の沖をいひ、「放けて」ははるかに遠くへだたててなり。契沖曰く「奧をさかりて此方にくると云にはあらず、奧の遠く放れたる方より來る舟なり」といへり。これ從ふべきが如くなれど、なほあかず。按ずるにこれは下に「邊附而」とあるに對する語なれば、放りたる奧を通りてここにくる舟といふ事なるべし。さけてはさかりてといふ語と所謂自他の差異あればさかりといふはあたらず。奧の方に、遠く間をおきてあるをば「オキサケテ」といふなり。
○榜來船 「コギクルフネ」とよむ。榜榜共にこぐとよむをうること卷一(四二)にいへり。
○邊附而 舊訓「ヘニツキテ」とよめるを考に「ヘヅキテ」とよみ、略解に「ヘツキテ」とよめり。「奧」と「邊」と對して用ゐる例は古事記上に「奧疎神邊疎神」この卷二「二二〇」「奧見者跡位浪立邊見者白浪散動《オキミレバシキナミタチヘミレバシラナミサワグ》」などあり。邊は海ばたをいふことは明かにして、その濱邊傳ひにくるをいふことは明かなるが、「ヘニツキテ」とよむべきか「ヘツキテ」とよむべきか。本集の例を見るに「ヘニツキテ」とよむべきものはなくして卷七「一四〇二」に「殊放者《コトサケハ》、奧從酒甞《オキユサケナム》、湊自邊著經時爾可放鬼香《ミナトヨリヘツカフトキニサクペキモノカ》」とありて「ヘツカフ」といへり。この「ツカフ」は「ツク」より變化せるものなれば、「ヘツキテ」とよむ方この時代の語なるべし。海邊に近き方につきてなり。
○奧津加伊 「オキツカイ」とよむ。下の「ヘツカイ」と併せ説くべし。
(227)○邊津加伊 「ヘツカイ」とよむ。「沖つ」「邊つ」と相對していふことは古書例多くして一一枚擧すべからず。「つ」は助詞にして「の」と似たり。「カイ」は今もいふ「カイ」にして船にありて水を掻きて船を進むる具なり。和名鈔舟具に「釋名云在v旁撥v水曰v櫂【直教反字亦作v棹楊氏漢語抄云加伊】擢2於水中1且進v櫂也」と見ゆ。「カイ」は「カキ」の音便にして水を掻く具なるよりの名なりとす。これまさしく釋名の「在v旁撥v水」の義に相當せり。その「カイ」といふ語の例は卷八「一五二〇」に「左丹塗之小船毛賀茂《サニヌリヲフネモカモ》、玉纏之眞可伊毛我母《タママキノマカイモガモ》」卷十九「四一八七」に「小船都良奈米《ヲブネツラナメ》、眞可伊可氣伊許藝米具禮婆《マカイカケイコギメグレバ》」卷二十「四三三一」に「大船爾末加伊之自奴伎《オホブネニマカイシジヌキ》」などあり。さて「オキツカイ」とは奧こぐ船の「カイ」にして「ヘツカイ」とは邊をこぐ船の「カイ」なり。古義に「オキツカイ」は左方にして「ヘツカイ」は右方といへるは證なきことにして推しあての強言なり。
○痛勿波禰曾 痛莫波禰曾 「勿」「莫」の字差あれど、いづれも「ナ」にして共に「イタクナハネソ」とよむ。「イタク」は「イト」と同源の語にしてそを形容詞としたるものなり。巻五「八四七」に「和我佐可理伊多久久多如奴《ワガサカリイタククダチヌ》」巻十五「三五九二」に「於伎都風伊多久奈布吉曾《オキツカゼイタクナフキソ》」など假名書の例多し。こは所謂「ナソ」の格にして上に「ナ」あり、下に「ソ」あり、其の間に動詞の連用形をおきて禁止をいひあらはせり。「はぬ」といふ語の例は古事記下雄略卷の歌に「加那須伎母伊本知母賀母須岐婆奴流母能《カナスキモイホチモガモスキハヌルモノ》」とあり。櫂は水を掻くものなるが、甚しく水を撥ぬることなかれとなり。
○若草乃 「ワカクサノ」とよむ。「ツマ」の枕詞とす。日本紀仁賢卷に「弱草吾夫※[立心偏+可]怜矣」とある自注に「古者以2弱草1喩2夫婦1故以2弱草1爲v夫」とあり。その意は冠辭考にいへる如く春のわか草はめづ(228)らしくうつくしまるる物なれば、それにたとへてわか草のつまとはつづけしなり。
○嬬之 「ツマノ」とよむ。これを一句とする時は三言の句となる。之を飽かすとにや童蒙抄には一句脱せしかとし、本居翁は「ツマノ命之」とありしが「命之」の二字脱せるかといへり。されど、三言と下の七言とに口調整はずとは思はれず。このままにてあるべきならむ。「嬬」を「ツマ」とよむことは卷一「一三」にいへるが、古は夫婦共に「ツマ」といひしが故に、ここはその字をかりて夫の義に用ゐたり。而してここの「ツマ」は天皇をさし奉られしこと明かなり。
○念鳥立 舊訓「オモフトリタツ」とよむ。古寫本中には「ヲモヘルトリコソタテ」(神田本)「ヲモフトリタテソ」(温故堂本)などよみ、又童蒙抄に「ツマノシノヘルトリモコソタテ」とよめるは皆上句を三音によむを飽かず思ひしよりの考案なるべけれど、從ふべくも思はれず。この句の意は契沖が「オモフ鳥とは帝の御在世中に叡覽有てめでさせ給ひしものなれば餘愛に不堪してかくはよませ給ふなり」といへるをよしとす。
○一首の意 今この宮より淡海の湖を見れば奧の方遠くより※[手偏+旁]ぎくる船あり。濱邊近くを※[手偏+旁]ぎくる船あり。その船どもの櫂をば、甚しくはぬることなかれ。天皇が御在世の砌愛し念ひたまひし水鳥のその水音に驚き立ち騷くがいとほしきにとなり。天皇を慕ひ奉らるる切なる情をその餘愛の鳥に遇してうたひ出されたるなり。
 
石川夫人歌一首
 
(229)○石川夫人 「夫人」は上にもいへる如く、妃に次ぐ後宮の職にして、嬪の上に位し、臣下にして後宮にめされたるものの最上級の職名にしてその次を嬪といふ。日本紀を按ずるに、天皇には皇后の外に四嬪あり。然れども「夫人」の職にありし人の名なし。然るに四嬪のうち蘇我山田石川麿大臣の女なる遠智娘、姪娘の二人あり。石川夫人といはれしはこの二人のうちに在るべし。
 
154 神樂浪乃《ササナミノ》、大山守者《オホヤマモリハ》、爲誰可《タガタメカ》、山爾標結《ヤマニシメユフ》、君毛不有國《キミモアラナクニ》。
 
○神樂浪乃 「ササナミノ」とよむ。その義は卷一「二九」の條にいへるが、その樂浪の文字はこの「神樂浪」を略せるものなり。「サナナミ」が古近江の滋賀郡邊一帶の地名なりしこと卷一「二九」以下にいへり。
○大山守者 「オホヤマモリハ」とよむ。「大」は美稱なるが、「ササナミ」の地は宮城の邊なれば、そこの山守をば重んじて特に大山守とはいへるなり。山守は日本紀應神卷に「五年秋八月庚寅朔壬寅令2諸國1定2海人及山守部1」と見え、又顯宗卷に前播磨國司來目部小楯を賞せらるる事を叙せる文に「小楯謝臼、山官宿所v願。乃拜2山官1改賜2姓山部連氏1、以2吉備臣1爲v副、以2山守部1爲v氏」とあり。即ち山守は山の官なるを知るべし。さて又續日本妃に「和銅三年二月庚戌初充2守山戸1令v禁v伐2諸山木1」と見えたるは攷證にいへる如く、この官中比たえしを又置かれしなるべきなり、即ちこの山守とは堺を守りて竹木を濫りに伐るを禁し、又御料の山にては衆庶の闌入するを監視せ(230)しめられしものならむ。卷三「四〇一」に「山守之有家留不知爾《ヤマモリノアリケルシラニ》、其山爾標結立而結之辱爲都《ソノヤマニシメユヒタテテユヒノハヂシツ》」又卷六「九五〇」に「大王之界賜跡《オホキミノサカヒタマフト》、山守居《ヤマモリスヱ》、守云山爾不入者不止《モルトフヤマニイラズハヤマジ》」などあるにてこの頃に山守といふ職ありて、山を守り、その山に所謂標を結ひ立てしを見るべし。
○爲誰可 「タガタメカ」とよむ。「タレストカ」とよめる古寫本もあれど從ふべからず。誰が爲にかの意なり。「ために」といふべきをただ「ため」といへる例は卷五「八〇六」に「奈良乃美夜古爾由吉帝己牟多米《ナラノミヤコニユキテコムタメ》」「八四五」に「宇米我波奈知良須阿利許曾意母布故我多米《ウメガハナチラズアリコソオモフコガタメ》」などあり。
○山爾標結 「ヤマニシメユフ」なり。「シメユフ」は上「一五一」の歌にも見ゆれど、ここの「シメユフ」とは目的違ひたり。ここは御料の山ぞとて標結ひて濫りに人を入らしめぬ爲に結へるなり。
○君毛不有國 舊訓「キミモマサナクニ」とよみ、諸家多く之に從へるが、略解は訓は之に從ひて、「有」は「在」の誤なりといひ、萬葉集※[手偏+君]解は「アラナクニ」とよめり。先づ略解は「マサナクニ」とよまむ爲に「在」字なりといへるならむがその説の如く、「在」字を書ける本一もなければ略解の誤字説はうけられず。さてこの歌を古今六帖袖中抄に引けるには、「アラナクニ」とよめり。ここに「マサナクニ」とよめるには、その主格が天皇なる故に敬語を用ゐるべしとせるか、若くは「アラナクニ」といふ語遣の例なしとせるかのうちなるべし。先づこの卷終の歌「三四」に「久爾有名國《ヒサニアラナクニ》」又卷四「六六六」に「不相見者幾久毛不有國《アヒミヌハイクバクヒサモアラナクニ》」などあるによりて「あらなくに」といふ語のなきにあらぬを見るべく、又この卷一「六四」に「欲見吾爲君毛不有爾《ミマクホリワガキミモアラナクニ》」は「君もあらなくに」とよむべく、歌にては必ずしも敬語を用ゐぬこと古今の例なればなり。されば「マサナクニ」とよまむも惡しとにはあらねど、(231)「有」の字によりて「アラナクニ」とよまむ方穩かなり。「アラナクニ」はあらぬものなるにといふいひ廻し方なり。
○一首の意 今は天皇も御座まさぬに、篠浪のこの御料の山の山守は誰が爲にせむとて、かく標を結ひて御山を守り居るならむ。わが君はゆきまして再びかてへりまさぬものをとなり。
 
從2山科御陵1退散之時額田王作歌一首
 
○從2山科御陵1 山科御陵は天智天皇の山陵なり。この山陵の事、日本紀に見えぬ由は上にいへり。略解に「天武天皇三年に至りて此陵は造らせ給へり」とあるは何によりしか詳かならず。ただ天武紀上に「朝廷宣2美濃尾張兩國司1曰爲v造2山陵1豫差2定人夫1」と見ゆる文あれど、これはそれを近江朝廷の陰謀ならむと天武天皇側の者の見し記事なり、續日本紀文武天皇三年の紀に「十月甲午詔赦2天下有v罪者1、但十惡強竊二盗不v在2赦限1。爲v欲2造越智(皇極)山科二山陵1」とあり。これは、修理を施されしをいへるならむ。延喜式諸陵式には、山科陵に注して、「近江大津宮御宇天智天皇在2山城國宇治郡1兆域東西十四町南北十四町陵戸六烟」とあり。さて御陵は即ち山陵の陵に御字を冠したるものなるが、陵字には新撰宇鏡に「彌佐々木」の訓あり、和名抄には「日本紀私記云山陵【美佐々岐】」とも見えたれば、「ミササキ」とよむべくも思はるれど、この歌なる「御陵」は「ミハカ」とよまではあらぬをみれば、「ミハカ」ともよむべきなり。かく二樣あるにつきて考ふるに、その物につきては「ミササキ」といひ、その主につきては「ミハカ」とよむべきものなるが如し。されば、こ(232)れは萬葉考の説の如く「ミハカ」とよむをよしとすべし。
○退散之時 「退」は「マカル」とよむべく、「散」は「アラク」とよむべきものなれど二字にて「マカル」とよむべきならむ。考には「アラケマカルトキ」とよめり。これは親しき皇族の方々大臣又側近に奉仕せし人々の殯宮に晝夜分番交代して仕奉りしものが御陵の事も一段落つきて退散する時をいへるなるべし、その奉仕せる期間は明かならず。
 
○額田王作歌 「ヌカダノオホキミノヨメルウタ」なり。額田王は卷一にいへり。
 
155 八隅知之《ヤスミシシ》、和期大王之《ワゴゴオホキミノ》、恐也《カシコキヤ》、御陵奉仕流《ミハカツカフル》、山科乃《ヤマシナノ》、鏡山爾《カガミノヤマニ》、夜者毛《ヨルハモ》、夜之盡《ヨノコトゴト》、晝者母《ヒルハモ》、日之盡《ヒノコトゴト》、哭耳呼《ネノミヲ》、泣乍在而哉《ナキツツアリテヤ》、百磯城乃《モモシキノ》、大宮人者《オホミヤビトハ》、去別南《ユキワカレナム》。
 
○八隅知之 既にいへり。
○和期大王之 卷一「五二」にいひ、又上の歌「一五二」にもいへり。
○恐也 舊訓「カシコミヤ」とよみ、古寫本中には「カシコシヤ」「カシコクヤ」とよみ、考には「カシコシヤ」をよしとせるが玉の小琴に「カシコキヤ」とし、略解之に從へり。玉の小琴の説に曰はく、「恐也をかしこみや、かしこしやなどと訓るはわろし。かしこきやと訓べし。やは添たる辭にて恐き御陵と云こと也。廿卷【五十四丁】に可之故伎也安米乃美加度乎(四四八〇)この例也 又八卷【三十丁】に宇禮多伎也、志許零公鳥(一五〇七)是等の例をも思ふべし」といへり。又卷二十(四三二一)「可之古伎夜美許等加我布理」といふ例もあり。まことにこの説の如く、かかる場合の「や」は間投助詞にし(233)て、「カシコキ」より御陵に續けて連體格にしたるものなり。申すも恐れ多き御陵といふ意なり。
○御陵奉仕流 舊訓「ミハカツカヘル」とよみたれど、これは後世の俗語の格(下一段)によみたるなれば從ふべからず。童蒙抄に「ミハカツカフル」とよめるをよしとす。陵は元來丘陵の意なれど天子の墓をいふに用ゐる語とせり。而してこれは漢代よりはじまれり。水經の渭水の注に「長陵亦謂2長山1也。秦名2天子冢1曰v山、漢曰v陵、故通曰2山陵1矣」とあり。喪葬令義解にも「帝王墳墓如v山如v陵故謂2之山陵1」とあり。而して令集解には「古記云、陵謂2墓一種1以2貴賤1爲2別名1耳」といへり。さてその訓は「ミササキ」とも「ミハカ」ともよむべきこと上にいへるが、ここは歌詞の上より、ミハカ」とよまざるべからざることは疑ひなし。「奉仕」の「奉」は敬語として冠したるにて重き義なし。山陵を作りつかへ奉るの義にていへるなり。
○山科之 上にいへる如く、山城國宇治郡の地にして天智天皇の御陵のある地なるが、和名抄の郷名に「山科」に注して「也末之奈」とあり。
○鏡山爾 「カガミノヤマニ」なり。鏡の山といふ名の山は近江にもあり、集中には豐前のも見ゆれど、ここはもとより宇治郡山科の御陵のある地の山なり。山城志に「在2御陵村西北1、圓峯高秀小山環列、行人以爲v望」といひ、雍州府志には「在2陵山東1斯麓有2鏡池1」といへり。府志の説實を得たり。今この邊を御陵村といへり。
○夜者毛云々畫者母 これ對句とせるものなるが、古來「ヨルハモ」「ヒルハモ」とよみ來れり。然るに、童蒙抄に「夜者毛」を「クルレハモ」とよみたれど「夜」を動詞によむは無理なれば、古來の訓をよし(234)とす。而してかかる詞遣の例はこの卷「二〇四」「二一〇」卷三「三七二」卷六「八九七」等にあり。この「ハモ」は係助詞「ハ」の下に更に係助詞「モ」の添へるものなるが、かかる場合の「も」は輕くして、ただ調子を添ふるに止まる。「夜は」「晝は」といふを重くいはむ爲の詞遣と見るべし。
○夜之盡 舊訓「ヨノツキ」とよめるは語をなさず。契沖は「ヨノコトゴト」とよみ、童蒙抄は「ヨノアクルマデ」とよみ考は「ヨノアクルキハミ」とよみたれど、「盡」一字を「アクルマデ」又は「アクルキハミ」とよむは道理にあはねば隨ひ難し。さりとて「ツキ」とよまむは文字の訓にはあへど、語をなさず。契沖の説をよしとす。その例をいはば古事記上卷に「伊毛波和須禮士《イモハワスレジ》、余能許登碁登爾《ヨノコトゴトニ》」とある「世之盡々」の義なり。卷五「八九二」に「布可多衣安里能許等其等伎曾倍當毛《ヌノカタキヌアリノコトゴトキソヘドモ》」とあるは「有之盡」なり。この「ことごと」は「ことごとく」といへる形容詞の語幹にして、卷五「七九七」に「久奴知許等其等美世摩斯母乃乎《クヌチコトゴトミセマシモノヲ》」卷二十「四〇〇〇」に「久奴知許登其等《クヌチコトゴト》」とあるごとく、副詞として用ゐる語なるをかく「何の」といひて體言を受けたることは「人のまに」「心のままに」、(「まに」「ままに」は副詞なり)などいふ如き語遣なり。その意は「夜のことごとく」といふ意にて、一夜中通してといふ心なり。
○日之盡 これも舊訓「ヒノツキ」とよみ、童蒙抄に「ヒノクルルマデ」とよみたれど、上と同じく契沖の「ヒノコトゴト」とよめるに從ふべし。これらの例は上にあげたる「二〇四」「二一〇」「三七二」卷五「八九七」等の例にて知らるべきが、なほその他にていはば、本卷「一九九」に「赤根刺日之盡《アカネサスヒノコトゴト》」卷三「四六〇」に「憑有之人之盡《タノメリシヒトノコトゴト》」などを見るべし。
○哭耳呼 舊訓「ネニノミヲ」とよめり。代匠記には「ネノミヲ」と四音によみ、童蒙抄に「ネノミオラ(235)ヒ」とよめり。童蒙抄の訓は「呼」を訓としてよめるものにして、他は「呼」を「ヲ」の假名としてよめり。按ずるに「呼」を「ヲ」の假名とせずば童蒙抄の説一理あるに似たれど、集中「呼」を多く「ヲ」の假名に用ゐたり。加之その「呼」字は西本願寺本に「乎」とあればます/\「ヲ」の假名なることを知るべし。又舊訓の如く「哭にのみを」と「に」助詞を加へては下の「ヲ」と打ちあはず、されば、代匠記の説に基づきて考に「ネノミヲ」とよめるに從ふべし。「哭」は説文に曰はく「哭哀聲也」とある如く元來音を立て泣く義をあらはせる文字なり。「ねをなく」といへることは平安朝の歌文に屡見ゆるものにして一々例をあぐるまでもなかるべし、「ねのみをなく」といへる例を本集中にていはば、卷十四「三三九〇」に「筑波禰爾可加奈久和之能禰乃未乎可奈伎和多里南牟安布登波奈思爾《ツクバネニカガナクワシノネノミヲカナキワタリナムアフトハナシニ》」といふあり。「ねをなく」は「ねにたてなくこと」をいひ、「ねのみをなく」とは「ねをなくことのみする」をいふ。
○泣乍在而哉 「ナキツツアリテヤ」とよむべし。童蒙抄には「イサチツツアリテヤ」とよみたれど、上にいへる如く、これは元來「ネヲナク」といふ語を基として二句とせるものなれは舊訓をよしとす。意は上にいへり。下の「ヤ」は疑の係詞にして、下の「なむ」をこれが結とせり。
○百磯城之大宮人者 「モモシキノ」「オホミヤビトハ」いづれも上にいへり。
○去別南 「ユキワカレナム」とよむ。考に曰はく「葬まして一周(滿一ケ年)の間は近習の臣より舍人まで諸、御陵に侍宿する事、下の日並知皇子尊の御墓づかへする舍人の歌にて知らる」と。
○一首の意 天皇の神上りませるによりて、側近に奉仕せし大宮人は御陵なる山科の殯宮に夜も晝も仕へ奉りて悲み慕ひ奉りつつ在りしが、今は其期も滿ちたれば、各退散する事となれる(236)が、かくいよ/\退散する事となれば今更思ひせまりて歎きは新になり、いよ/\悲しき事よとなり。
 
明日香清御原宮御宇天皇代 天渟中原瀛眞人天皇
 
○明日香清御原宮御宇天皇 この天皇及び宮城の事卷一(二二)にいへり。
○天渟中原瀛眞人天皇 天武天皇の御尊號なること卷一(二二)にいへり。
 
十市皇女薨時高市皇子尊御作歌三首
 
○十市皇女薨時 「薨時」は「カムサリタマヘルトキ」又は「スギタマヘルトキ」とよむべし。十市皇女の事は卷一「二二」の條に既にいへる如く、天武天皇の皇長女にして弘文天皇の妃となりて葛野王を生み給へるが、壬申の亂後、天武天皇の御許にかへりまししなるが、常に悲痛の念に堪へたまはざりしならむ。この皇女の薨去は不慮の外に出でしものと見ゆ。日本紀天武卷に「七年夏四月丁亥朔、欲v幸2齋宮1(この齋宮は倉梯河上に立てられしこと上文に見ゆ)卜之。癸己食v卜。仍取2平旦時1警蹕既動、百寮成v列、乘輿命v蓋。以未v及2出行1十市皇女卒然病發薨2於宮中1。由v此鹵簿既停不v得2幸行1。遂不v祭2神祇1矣」又「庚子葬2十市皇女於赤穗1、天皇臨之降v恩以發v哀」と見えたり。この御墓の所在地は今赤尾といひて忍坂の西にあり。
○高市皇子尊御作歌 高市皇子はこの卷上の歌(一一四)にいへるが、十市皇女の異母弟にましま(237)せり。ここに皇子尊と特別にかけるは皇太子にまししが故なり。日本紀の例を見るに、天武紀には草壁皇子尊と見え持統天皇三年紀には「皇太子草壁皇子尊薨」と記し、又高市皇子はその後に皇太子となり賜ひしものと見え同十年七月の條にその薨を記して「後皇子尊薨」といへり。されば、その皇太子となりまししは後の事なるが、この撰者が、この頃以後に之を撰せしものなるべくして、その位をさきにめぐらして記ししなるべし。從ひて御作歌の字面もその意にて修せるならむ。
 
156 三諸之《ミモロノ》、神之神須疑《カミノカムスギ》、己具耳央自得見監乍共、不寐夜叙多《イネヌヨゾオホキ》。
 
○三諸之 舊訓「ミモロノヤ」とよめり。然れども「ヤ」といふ語にあたるべき文字なければ、如何なり。契沖は「ミモロノ」とよむべしといへり。按ずるにかく四言にて一句とせるものは古歌に例少からざるものなり。「うまさけ」「そらみつ」「まきさく」「にひばり」「つぎねふ」「おしてる」の如き所謂枕詞はもとより、さならぬものにも例多く一々あぐるに堪へず。この卷の例をいはば、上の「一五五」の歌に「ひるはも」「よるはも」「ねのみを」など三句も存するにて見るべし。
○神之神須疑 「カミノカミスギ」と舊訓によめり。然れども「かむかぜ」(卷一、「八一」などの例によりて「カムスギ」とよむをよしとすべし。上の「神」は三諸の大神即ち大三輪の神をさす。「神須疑」は神杉なり。「かむすぎ」の語例は日本紀顯宗卷に「石上振之神椙【椙此云須擬】伐v本截v末《モトキリスヱオシハラヒ》云々」又本集卷十「一九二七」に石上振之神杉神備而《イソノカミフルノカムスギカムビニテ》」などいへるにてその意知らるべきが、ここは大三輪の社の(238)神杉なり。その三輪の神杉をうたへる例は卷四「七一二」に「味酒呼三輪之祝我忌杉手觸之罪歟君二遇難寸《ウマサケヲミワノハフリガイハフスギテフレシツミカキミニアヒガタキ》」又卷七「一四〇三」に「三幣帛取神之祝我鎭齋杉原《ミヌサトリミワノハフリガイハフスギハラ》云々」などあり。大三輪神社には古來名高き神木としての大なる杉あり。今はその木枯れたれど、なほ古の面影を殘せり。
○巳具耳矣自得見監乍共 この十字、二句に當るべきものなるが、讀み難し。古來種々の説あれど、從ふに足るべきものなし。研究を要するものなり。
○不寐夜叙多 舊訓「ネヌヨソオホキ」とよみたれど、「イヌ」といふ語を正しとすれば、考に「イネヌヨゾオホキ」とよめるに從ふべし。但し、上の二句のよみ方明かならねば、解を下すべき樣なし。
 
157 神山之《ミワヤマノ》、山邊眞蘇木綿《ヤマベマソユフ》、短木綿《ミジカユフ》、如此耳故爾《カクノミユヱニ》、 長等思伎《ナガクトオモヒキ》。
 
○神山之 舊訓「ミワヤマノ」とよみたるが、契沖は字のままに「カミヤマノ」とよむべしといひ、諸説とりどりなり。按ずるに「ミワヤマ」とよまむとするは古事記中卷崇神天皇の條の注に、「此意冨多多泥古命者神君、鴨君之祖」とある「神君」は「ミワノキミ」とよむべきものなるにつきて古事記傳に委しき説あるが、その要點をいへば「美和を神と書ゆゑは古大倭國に皇大宮敷坐りし御代には此美和大神を殊に崇《アガメ》奉らしてただに大神とのみ申せば、即此神の御事なりしから遂に其文字をやがて大美和と云に用ひることにぞなれりけむ。さるままに大を省きて云にも又神字を用ひしなりけり」といへり。かくてこの「神君」をば日本紀崇神卷には「所謂大田田根子今三輪君等之始祖也」と見え「神君」の「ミワノキミ」なることは著し。されば、「神山」を「ミワヤマ」とよまむに(239)はこの大和の大三輪神社の神山に限りてのみいへることなりと考へらる。而して、上の歌にも三輪の神杉をよまれたれば、十市皇女とこの三輪山と何か因縁あるべく思はるれば、古來の訓に從ふべきものならむ。
○山邊眞蘇木綿 「ヤマベマソユフ」とよむ。山邊とは上の「ミワヤマノ」のつづきにて三輪山の山邊にある木綿といふことなり、「マソ」は「眞麻苧」の義なるべくして「マ」は美稱にして「ソ」は「麻苧」の義なるべし。「麻苧《サヲ》」とは麻より取りたる苧《ヲ》の義にして「アサヲ」といふべきを上略して「サヲ」といひしものと見え、卷九「一八〇七」に「直佐麻乎裳者織服而《ヒタサヲヲモニハオリキテ》」といへる歌あり。その「さを」を更に約めていへるが「ソ」といふ語なるべく、卷子を「閉蘇」といへるも綜たる「麻苧」なるの義なり。大祓詞に「天津菅曾」といへる「菅曾」も「清麻苧《スカソ》」の義なるべし。「木綿」は豐後風土記に「速見郡柚富郡、此郷之中栲樹多生。常取栲皮以造2木綿1因曰2柚富郷1」と見えたる如くにて「ユフ」とよむべき由と、その材料とを見るべし。木綿は上にある如く、楮の甘皮の繊維をとりて製したるものにして、今奈良正倉院に存する木綿は緒又は紐にしたり。之を織物といふ説本居翁より始め多く行はるれどそれらは※[木+夜]齋が既にいへる如くすべて誤れるなり。さてその麻と木綿とは原料異なれど、それらのさまと用途とは略同じければ、古は共に「ソ」といひしならむ。さるによりて「マソユフ」といふならむ。
○短木綿 「ミジカユフ」とよむ。考に「こは長きも短きも有を短きを設出てこの御命の短きによそへ給へり。後にみじかきあしのふしの間もとよめるこの類也」といへり。諸家多く之に從(240)へり。さる事なるべし。
○如此耳故爾 古來「カクノミユヱニ」とよみ來れるを略解に「カクノミカラニ」と改め、檜嬬手には「短木綿を受けて如此耳と書けるなれは、みじかきからにとよむべきなり」といへり。檜嬬手のは「如此耳」三字を用ゐたるこの歌の意義をとけるものにしてよみ方を説けるものと認むべきにあらねば、從ふべからず。さてこの「故」は卷一「二一」の「人嬬故爾」の條下にいへる如く「ユヱ」とよむべく、必ずしも「カラ」とよむべき必要なきものなり。ここの「耳《ノミ》」は後世「ばかり」といふに似たる意の副助詞にして「かく」を助けてその意を限定せるものなり。さてこの「カクノミユヱニ」といへるは、守部のいへる如くかくばかり短き命なる故にといふなるが、その「故に」といふ語の用ゐ方は、今とややかはりあるが故に、「なるものを」と解すべしとするは從來諸家の通説なり。されど、既にいへる如く、「によりて」の如き意に釋すべきものにして、ここはかくばかり短命なる事に對してといふ程の意と見ゆ。
○長等思伎 流布板本「ナカクトオモヒキ」とよめり。古寫本中には「ナカシトオモヒキ」とよめる本少からず。仙覺はその古點を否として今の如く改めたるなり。これは「長ク」の下に「ましまさむ」などいふべき語を省きたりと見ゆれば、流布板本なるをよしとす。
○一首 神山の山邊に生ふる眞麻木綿の短木綿の如く短き命にてましましけり。かく、短き命にてましましけるものをば、長くましまさむと且つは頼み且つは油斷してありしことよ。かく短命にてましまさむとかねて知りせば、なほ盡し奉るべき途もありしものをとなり。この(241)「長く」といへる一語の下に無量の感慨を藏せられてありと見ゆ。
 
158 山振之《ヤマフキノ》、立儀足《タチヨソヒタル》、山清水《ヤマシミヅ》、酌爾雖行《クミニユカメド》、道之白鳴《ミチノシラナク》。
 
○山振之 古來「ヤマブキノ」とよめり。「振」字は今「フル」とよむ字なるが、その「フル」といふ語は古、「フク」といひしなり。日本妃卷一の一書に「故伊弉諾尊拔v劔背揮〔右○〕以逃矣」とある文の自注に「背揮此云2志理弊提爾布倶1」と見え、之に相當する古事記の文には「尓拔d所2御佩1之十拳劔u而於2後手1布伎〔二字右○〕都都逃來」とあるなどにてその關係を知るべし。されば、振を「フキ」の假名に用ゐるは古言に基づくものなり。これをただ音通によれりといふ説はあたらず。さてこの「山振」は今いふ黄色の花さく灌木にして、卷十七「三九七一」に「夜麻扶枳能之氣美登※[田+比]久久※[(貝+貝)/鳥]之《ヤマフキノシゲミトビククウクヒスノ》云々」「三九七四」に「夜麻夫枳波比爾比爾佐伎奴《ヤマフキハヒニヒニサキヌ》」卷二十、天平勝寶六年三月十九日の歌「四三〇二」に「夜麻夫伎波奈※[泥/土]都都於保佐牟《ヤマフキハナデツツオホサム》」又「四三〇三」に「和我勢枯我夜度乃也麻夫伎佐吉弖安良婆《ワカセコガヤドノヤマブキサキテアラバ》云々」同月二十五日の歌「四三〇四」に「夜麻夫伎能花能佐香利爾《ヤマブキノハナノサカリニ》云々」その他例多し。さてこれをその如く「山吹」とかけるは卷十九「四一八四」の歌なり。又ここの如く「山振」とかけるは卷八「一四三五」卷十「一九〇七」などなるが、今の山吹をいへりしことの特に明かなるは卷十春雜歌の詠花のうちに「花咲而實者不成登裳長氣所念鴨山振之花《ハナサキテミハナラネドモナガキケニオモホユルカモヤマブキノハナ》」(一八六〇)といへる歌なりとす。新撰宇鏡には「※[木+在]」字に「山不支」の訓を施せり。さてここに山吹をとり出でられしはその頃にこの花咲きてありしが故ならむ。
○立儀足山清水 この六字、二句に相當すもものなるが、舊板本は「サキタルヤマノシミヅヲバ」と(242)よめり。代匠記には「タチヨソヒタルヤマシミヅ」とよみ、童蒙抄には「立」は「光」の誤「足」は「色」の誤なりとして「ニホヘルイロノヤマシミヅ」とよみ、玉の小琴には「儀は誤字にて必しなひと云へき所也。字は靡か※[糸+麗]か猶考ふへし」といひ、※[手偏+君]解には熊谷直好の説として「サキタルヤマノキヨキミヅ」とよみ、古義は「儀」は「茂」の誤なりとして、「シゲミタル」とよむべしといへり。さて先その誤字説を見るに、この所一も異なる文字を用ゐたる本なければ、誤字ありとして立てたる説はすべて從ひがたし。その他の訓につきて見るに、「立儀」の二字を「サキ」とよむべき由のなきは明かなれば、かくよめる説は從ふべからず。かくして殘る所は契沖の説のみなり。按ずるに、「儀」字は儀容の意ある文字にして、類聚名義抄伊呂波字類抄共には「ヨソフ」の訓あり。されば、契沖説をよしとすべし。「足」を「タル」とよむは複語尾の「タル」に借りたるなり。「ヨソフ」といふ語は卷十四「三五二八」に「水都等利乃多々武與曾比爾《ミヅトリノタタムヨソヒニ》云々」卷二十「四三三〇」に「奈爾波都爾余曾比余曾比弖氣布能日夜伊田弖麻可良武美流波波奈之爾《ナニハヅニヨソヒヨソヒテケフノヒヤイデテマカラムミルハハナシニ》」など本集に例少からず。新撰宇鏡には「※[手偏+京]」字の注に「装※[手偏+京]也與曾比(加)佐留也」とあり。こは攷證にいへる如く「山ぶきの容をよそひたるごとく咲ととのひたるをのたまへり」と解すべし。「山清水」は山の清水にて異なる義なし。されどここに「山清水」をもち來せるは無意義なるにあらず。その「山」は、十市皇女を葬れるが山地なれば、思ひよせていはれたるものなれど、その山地に清水ありしが故によまれたりしか否かは詳かならず。按ずるに、この頃既に山吹を水邊に植ゑて賞したる事ありしが故にかかる詞もよまれしならむ。かく考ふる由はかの卷八の厚見王の歌に「河津鳴甘南備河爾陰所見而今哉開良武山振乃(243)花《カハツナクカムナビカハニカゲミエテイマヤサクラムヤマブキノハナ》」(一四三五)とあるなどによりてなり。されば、「山清水」とよまれたるも山吹の花のうるはしきさまを彷彿せしめむ下心ありしならむ。
○酌爾雖行 「クミニユカメド」とよめるをよしとす。上に「山清水」とよみしが故に「酌み」といひたるなり。酌みに行かむと欲すれどの意なるが、「む」の已然形「め」より接續助詞「ど」につづけてかかる語法をなせることこの頃に例多し。この卷「一六六」「磯之於爾生流馬醉木乎手折目杼令視倍吉君之在常不言爾《イソノウヘニオフルアシビヲタヲラメドミスベキキミガアリトイハナクニ》」などこれなり。
○道之白鳴 「ミチノシラナク」とよむ。「知ラナク」の「ク」は「コト」の意に近き語にして「道の知らなく」は道のわからぬことよといはむ程の意なり。「道ヲ」といはずして「道ノ」といへるは下に「なく」と體言の格にして止めたる故なり。卷三「三二三」に「船乘將爲年之不知久《フナノリスラムトシノシラナク》」卷十「二〇八四」に「君將來道乃不知久《キミガキマサムミチノシラナク》」卷十三「三三一九」に「杖衝毛不衝毛吾者行目友公之將來道之不知苦《ツエツキモツカズモワレハユカメドモキミガキマサムミチノシラナク》」など例多し。
○一首の意 この歌古來多く正しき解を得ざりしなり。先づ上三句の意をば、普通の説にては「赤穗は山なるべければ其比山吹有たるなるべし。山吹の匂へる妹などもよそへよめる花なれば、立よそひたると云べし。さらぬだにある山の井に山吹の影うつせらんは殊に清かりぬべし」(契冲説)といへり。まことに「山振の立よそひたる」といへるはその花の咲きそろひて、美しきをとりて皇女の御姿によそへていはれたるにてもあるべく思はるる點あり。されど、ただそれのみにては下の「酌みに行かめど道の知らなく」といはれたる意をば、如何にとるべきか。普通の説には「葬し山邊には皇女の今も山吹の如く姿とををに立よそひておはすらんと思へ(244)ど、とめゆかん道しられねば、かひなしとをさなく思ひたまふが悲き也」(考の説)といふなり。これにて一往は解し得たる如くなれど、上の如く解せむには、その葬所は山にして清水あり、その邊に山吹多く咲きてありしことなるべきが、それと共に、そこは至りうべき地にして道の知られぬところなるべき筈なり。その至らむ道だに知られぬ所には誰も行きうる所にあらねば、山吹の咲けりや清水のありやも見るに由なく、知るに由なき筈にあらずや。しかるに諸家これらの矛盾を説かむともせず、ただ「をさなく思ひたまふが悲しき也」といへる考の一語にて事を濟したりと思へるは如何。ここに橘守部は別に説を立てて曰はく「是迄の三句、(山清水までなり)は後世にいはゆる據字のよみかたにて、黄泉と書く字を黄なる泉として、其黄色を山吹花の寫《ウツ》るに持せ、山清水を泉になして、酌《クミ》とは只水の縁語のみ黄泉迄尋ね行かまほしかれど、幽冥の事なれば道のしられぬとのたまふなり」といへり。黄泉の字面は孟子滕文公下に「蚓上食2槁壤1下飲2黄泉1」とあるが、左傳隱公元年に「誓之曰、不v及2黄泉1無2相見1也」とある注に「地中之泉故曰2黄泉1」とあり。五行説によれば黄色は地に屬す。この故に地中の泉を黄泉といへるなるが、その黄泉とは地中に深く墓穴を掘りて泉に達する由なり。されば、黄泉ははじめ地中泉をいひ、轉じて墓穴をいへるが、再轉して死後の幽冥界をさす意に轉義せるなり。文選の古詩に「下有2陳死人1杳杳即2長暮1、潜寐2黄泉下1、千載不v寤」とあり。これなほ墓穴中の義なり。日本紀古事記に黄泉を「ヨミ」又「ヨモツクニ」にあてたるはこの再轉せる義にあてたるものにして、日本紀に「泉」を「ヨミ」にあて「泉津醜女」「泉津平坂」など書けるけ極端なる省略にして「黄泉」を以て「ヨミ」の義としたる(245)ことの由來久しかりしが爲といふべきなり。而して本集中他にも漢字漢語を使用せること自由なりしは、明かなれば、この守部の説を以て當れりとすべし。然らぬときは上にいへる如く、如何に歌なりとも、譯の分らぬ事となるべし。即ち、折から咲き滿てる山吹の花のうるはしきに皇女をたとへ、その色の黄なるに因みて黄泉といふ漢語をば文字のままに分解して「山吹の立ちよそひたる山清水」といひ、さて清水といひたる縁に「酌に行かめど」といひたるまでにして、黄泉《ヨモツクニ》に行きて、我妹子のうるはしき姿を見むとは思へども幽冥界にして、そのゆくべき道途を知らずと嘆かれたるなり。上三句は技巧を弄せられたる歌なれど、しかも眞情のこもりたる歌なり。
 
天皇崩之時太后御作歌一首
 
○天皇崩之時 「スメラミコトカムアガリマシシトキ」とよむをよしとす。こは天武天皇崩御の時なり。日本紀、朱鳥元年の條に「九月丙午天皇病遂不v差、崩2于正宮1。戊申始發v哭。則起2殯宮於南庭1」とあり。この時の作歌なる事を先づ心得では歌の意わからぬ所あるべし。
○太后御作歌 これも皇后の意にして、後に即位ありて持統天皇と申し奉る方なり。日本紀持統卷のはじめにこの天皇の事を申して「少名鵜野讃良皇女、天命開別天皇第二女也。云々天豐財重日足姫天皇三年適2天渟中原瀛眞人天皇1爲v妃。(中略)二年(天武)立爲2皇后1」とあり。ここに御作歌とありて御製といはぬは未だ皇位につきたまはぬ時の御詠なるが故なり。
 
(246)159 八隅知之《ヤスミシシ》、我大王之《ワガオホキミノ》、暮去者《ユフサレバ》、召賜良之《メシタマフラシ》、明來者《アケクレバ》、問賜良之《トヒタマフラシ》、神岳乃《カミヲカノ》、山之黄葉乎《ヤマノモミヂヲ》、今日毛鴨《ケフモカモ》、問給麻思《トヒタマハマシ》、明日毛鴨《アスモカモ》、召賜萬旨《メシタマハマシ》。其山乎《ソノヤマヲ》、振放見乍《フリサケミツツ》、暮去者《ユフサレバ》、綾哀《アヤニカナシミ》、明來者《アケクレバ》、裏佐備晩《ウラサビクラシ》、荒妙乃《アラタヘノ》、衣之袖者《コロモノソデハ》、乾時文無《ヒルトキモナシ》。
 
○八隅知之 既にいへる如し。
○我大王之 「ワガオホキミノ」なり。意は既にいへるが如し。
○暮去者 「ユフサレバ」とよむ。「暮」は「ユフ」の國語にあたる。「ユフサレバ」といふ語は上「三六」にもあるが,なほ他の例をいはゞ、卷十五「三六二五」に「由布佐禮婆安之敝爾佐和伎安氣久禮婆於伎爾奈都佐布可母須良母《ユフサレバアシベニサワギアケクレハオキニナヅサフカモスラモ》」又「三六六六」に「由布佐禮婆安伎可是左牟志《ユフサレバアキカゼサムシ》」などあり。その意は既にいへる如く「夕になれば」なり。
○召賜良之 これは古寫本に「メシタマフラシ」とありて、古くしかよみ來れるを仙覺が「メシタマヘラシ」とよみたるより流布板本にもしかよめるなり。契沖はこのよみ方に賛成して、これは「メシタマヘリシ」を轉じたるものとせり。然れども「タマヘリシ」を「タマヘラシ」と轉じ用ゐるが如き事古來なく、又これに似たる旁例もなきなり。この故にこの轉音説は從ふべからず。若し強ひて仙覺のよみ方を主張せむとせば、「タマヘルラシ」の約なりとすること「ナルラシ」が「ならし」「ケルラシ」が「けらし」となりたるが如きさまなりといふべきなれど、かく用ゐたる例また一もなければ、從ふべからざるのみならず、かくいひては仙覺契沖のいへる説にはあてはまらざる(247)點あるべし。(そは後に明かにすべし。)これは古訓の方宜しきにて玉の小琴にも之を可とせり。今之を可とする點は一なれど、玉の小琴の説も從ひかたし。さて「召」は「メシ」といふ語にあてたる借字にしてこの語は「召す」といふ義にあらずして「見《ミ》る」の敬語にして「見」よりサ行四段の複語尾を分出せる、その連用形なり。かくてその「メシ」より「賜ふ」に用ゐたるなり。「ラシ」は既にもいへる如く、ある現實の事を見て、そを基としての推量にいふ語なるを多くの注釋家、これを古は過去の事柄の推量にも用ゐたりといへり。これは玉の小琴の説に基づくものなり。曰はく、「云々召賜良之云々問賜良思、二つながらたまふらしと訓べし。十八卷【廿三丁】にみよしぬの、この大宮に、ありがよひ、賣之多麻布良之、もののふの云々(四〇九八)是と同じ格也。常のらしとは意かはりて何とかや心得にくき云ざま也。廿卷【六十丁】十に(四五一〇)「於保吉美乃都藝弖賣須良之多加麻刀能努敝美流其等爾禰能末之奈加由」(これは平假名にせるを今原字のままにして引けり。)此めすらしも常の格にあらず。過し方を云ること今と同じ。是等の例に依て、今もたまふらしと訓べきこと明けし」といへり。この「たまふらし」とよむべしとすることは異議なけれど、その理由につきては賛同するを得ず。按ずるに「良之」の意はいつも推量の意あるのみにして、用例によりその場合々々の事情を顧みて解すべきなれど、かく現在を離れて「けむ」の如き意をあらはすことは決してあるまじき事なり。先づ、その十八卷なるはもとより過去の事の推量にあらずして現前にあるべき事につきての推量なれば、論はあるまじ。二十卷のは「依v興各思2高圓離宮處1作歌五首」と題せるうちの一首にして、その他の歌に或は「多加麻刀能努乃宇倍(248)乃美也婆安禮爾家里《タカマトノヌノウヘノミヤハアレニケリ》」(四五〇五)といひ、「多加麻刀能乎能宇倍乃美也婆安禮努等母多多志之伎美能美奈和須禮米也《タカマトノヲノウヘノミヤハアレヌトモタタシシキミノミナワスレメヤ》」(四五〇八)といひ、「於保吉美能賣之思野邊爾波之米由布倍之母《オホキミノメシシノベニハシメユフベシモ》」(四五〇九)といへるに照していへる事なるべきが、ここに「ツギテメスラシ」とよめる意はこの高圓離宮を愛でましし天皇の崩御のありて後にその宮荒れて宮處のみとなりたれど、皇御靈は天翔りて、その古より引きつづき今も見賜ふらしといへるにて、上の「四一五」の「有我欲比管見良目抒母《アリガヨヒツツミラメドモ》」といひ、「一四八」の「青旗乃木旗能上乎賀欲布跡羽目爾者雖視《アヲハタノコハタノウヘヲカヨフトハメニハミレドモ》云々」といへる如き心にてよめるにて、決して過去の事をいへるにはあらずして、今も引きつづきて昔の如く天翔りて「めすらし」と推量せるものなり。(それらは靈魂不滅の精神の下に心得て見よ。)この故に、その例を以て過去の事を推量すといへるは當らざるなり。ここの場合は二十卷のよりも意明かなる「らし」の場合にて、九月崩御の折恰も黄葉の時なりしが故に、その目前にある黄葉を眺め給ひての御詠なれば、御在世にてあらば、天皇のこの黄葉を見て愛し賜ふらしといはれたるなり。若しかかる場合の「らし」を玉の小琴の如く過去の事を推量するものとせば、玉の小琴の自らあげたる卷十八の例を如何にせむとすべきか。それは決して過去の事にあらぬは明らかなるものなるをや。思ふに本居宣長はこの「らし」が體言につづくものたるを忘れて、かかる事をいはれしならむ。上の卷十八(四〇九五)の例卷二十(四五一〇)の例及びここの例すべて「らし」より直ちに體言につづくべき格なり。然るに「らし」は元來連體形にても終止に用ゐらるる例のみにして連體格に立てる例なき語なれば、本居翁の惑はれしも宜なりといふべし。上の諸例は奈良朝文法史に(249)いへる如くいづれも「らし」より熟語的に體言につづけたるものにして、その語遣は形容詞の終止形よりして「かなし妹」「空し煙」などいへる如きに似かよへるものにして、複語尾にては後世に「まけじ魂」「しらず顔」などいへるに似かよひ、又本集に多き「まし」より直ちに「物」につづく例も同じくこの格なりとす。さて又契沖の「めしたまへらし」をよしとし「タマヘリシ」の轉とせるも「タマフラシ」とせば、ここにて切るる語法となると考へ、切れては、語をなさねば、「し」を連體形と見る必要よりしての考なること著し。されど、吾人、のいふ如くに見れば、契沖説、又本居説の如き無理なることをいふ必要なき筈なり。但しここは、對句として重ねたる爲、形の上にては直ちにつづかぬ樣に見ゆれど、この語は下の「神岳の山の黄葉」につづけるなり。
○明來者 「アケクレバ」なり。この語は上(一三八)にいへる所に、おなじく夜の明けくればなり。「ユフサレハ」と「アケクレバ」とを對していへるも上におなじ。なほ一例をあぐれば上にあげたる卷十五「三六二五」の「由布佐禮婆《ユフサレバ》、安之敝爾佐和伎《アシヘニサワキ》、安氣久禮婆於伎爾奈都佐布可母須良母《アケクレバオキニナツサフカモスラモ》」などなり。
○問賜良之 これも、上の「召賜良之」におなじく「トヒタマフラシ」とよむべきなり。さてこの「トフ」は「問」字をかきたれど、「問」は借字にして、尋ね訪《トフラ》ふ意なり。卷三「四五五」に「如是耳有家類物乎芽子花咲而有哉跡問之君波母《カクノミニアリケルモノヲハキノハナサキテアリヤトトヒシキミハモ》」「四六〇」に「問放流親族兄弟《トヒサクルウカラハラカラ》」等の例あり。さてこの「ラシ」はこれより直ちに「神岳乃云々」につづくものなるが、上四句は對句をなして一の意をなし、「暮にも朝にも訪ひ見たまふらしと思はるる神岳の云々」とつづく筈の語遣なり。而してこの四句の意は「天皇が(250)神靈として見《メ》したまひ、訪ひたまふらし」の意に解すべきものなり。
○神岳乃 これも古訓「カミヲカノ」とありしを非として、仙覺が「ミワヤマノ」とよみ、舊板本それに從へるなり。然れども契沖又古にかへして「カミヲカノ」とよむべしとせり。先づ「神」を「ミワ」とよむことは無理にあらねど、「岳」を「ヤマ」とよめることは古今に例なし。この「岳」字は卷一の「一」にいへる如く「丘」の義にして「ヲカ」とよむべきものなり。而して「ミワヲカ」とはいふべくもあらねば古訓の如く「カミヲカ」とよむべく、八雲御抄にもしかよまれたり。さてこの神岳は何處ぞといふに、卷九「一六七六」に「勢能山爾黄葉常敷神岳之山黄葉者今日散濫《セノヤマニモミヂトコシクカミヲカノヤマノモミヂハケフカチルラム》」と見ゆる神岳と同じ地にして、いづれも黄葉の著しき地と見えたり。この卷九のは「大寶元年辛丑冬十月太上天皇大行天皇幸紀伊國時歌」なるが、これは紀伊の勢山の黄葉を見て、帝都の附近なる黄葉の名所たる神岳を思ひ出でたる歌なること著しく、ここの歌も、帝都附近の黄葉の名所たる故によまれしこと著し。さてこの神岳につきては契沖のいへる如く卷三に「登2神岳1山部宿禰赤人作歌一首並短歌」とあるこの「神岳」といふも同じ地なるべきを思ふべし。而してその長歌(三二四)のはじめに「三諸乃神名備山爾五百枝刺《ミモロノカムナビヤマニイホエサシ》云々」といへるにて、神岳即ち三室の神名備山なるを知るべし。而してその神岳が飛鳥の清御原宮に遠からず、そこより見渡されしは同じ歌に「明日香能舊京師者山高三河登保志呂之《アスカノフルキミヤコハヤマタカミカハトホシロシ》」といへるにても見るべく、さて又その神岳が飛鳥川近くにありしことはその反歌(三二五)に「明日香河川余藤不去立霧乃念應過孤悲不有國《アスカガハカハヨドサラズタツキリノオモヒスグベキコヒナラナクニ》」といへるにて著し。さてその三諸の神名備山をよめる歌は卷九「一七六一」に詠鳴鹿歌「三諸之神邊山爾《ミモロノカムナビヤマニ》、立向三垣山爾《タチムカフミカキノヤマニ》(251)云々」あり。又卷十三「三二六八」には「三諸之神名備山從登能陰雨者落來奴《ミモロノカムナビヤマユトノグモリアメハフリキヌ》」ともあり。さてこの山は又「かみなひのみもろやま」ともいひしものと見えて、卷十三「三二二七」の長歌に「甘南備乃三諸山者春去者《カムナビノミモロノヤマハハルサレバ》、春霞立《ハルガスミタチ》、秋往者《アキユケバ》、紅丹穗經甘甞備乃三諸乃神之帶爲明日香之河之《クレナヰニホフカムナビノミモロノカミノオバセルアスカノカハノ》云々」又その反歌(三二二八)に「神名備能三諸之山丹隱藏杉《カムナビノミモロノヤマニイハフスギ》」ともいへり。ここにも、黄葉をいへるのみならず、飛鳥河を帶にせる由をいへれば、上にいへる「みもろのかみなびや山」とおなじ地たるを知るべし。かくてこれをただ「神なび山」とのみもいひしなり。その證は卷十三「三二六六」の長歌に「春去者《ハルサレバ》、花咲乎呼里《ハナサキヲヲリ》、秋付者丹之穗爾黄色《アキツケバニノホニモミヅ》、味酒乎《ウマサケヲ》、神名火山之帶丹爲留《カムナビヤマノオビニセル》、明日香之河乃《アスカノカハノ》云々」といへるにてもしるく、又卷十「一九三七」に「故郷之神名備山爾《フルサトノカムナビヤマニ》」とよめるは「三二四」の歌に「飛鳥の舊き京は云々」といひしにおなじ趣にていへること著し。以上によりてこの地は飛鳥清見原京より遠からぬ地にありて、飛鳥川のめぐれる丘にして黄葉の名所なりしことを考ふべく、その名は「みもろのかむなびやま」とも「かむなびのみもろのやま」ともいひ、又ただ「かむなびやま」とも「かみをか」ともいひしならむが、そこは何處ぞといふに、契沖は三輪山の事なりといひたれど、三輪山と飛鳥川とはかけはなれてあれば、從ひがたし。契沖がかく考へし由は「みもろのかむなびやま」といひしが爲ならむか。「みもろ」とは元來御室の義にして神を齋ひ祭れる所をいふ語なるが、それが專ら大神神社にかかれるは、これが古朝廷崇敬の第一の社なればいはれしこと、後世「山」といひては專ら比叡山延暦寺をさし、寺といへば、專ら三井寺をさせると趣同じさまになれる爲なるが、同時に普く用ゐる「みもろ」といふ語も亦行はれしならむが、ここはその書き方の「みもろ」な(252)れば、略していふときは「神名火山」とはいへれども、「みもろ山」とはいひし例なきにて「みわ山」にあらぬを知るべし。さてこの神名火山又神岳とあるは、出雲國造神賀詞に「賀夜奈流美命乃御魂乎飛鳥乃神奈備爾坐天」とあるその飛鳥の神奈備なるべきが、この神奈備は神名帳の「高市郡飛鳥坐神社四坐」に相當するものなるが、この社の事は日本紀天武天皇朱鳥元年七月の條に「癸卯奉d幣於居2紀伊國1國懸神、飛鳥四社、住吉大神u」とある飛鳥四社これにして、日本紀略淳和天皇天長六年三月の條に「大和國高市郡賀美郷甘南備山飛鳥社遷2同郡同郷鳥形山1依2神託宣1也」とありて、それまでは飛鳥神社の鎭座ましましし地なり。この故に「かむなび」とも、「みもろ」ともいはれしならむ。この社の舊地は、今の高市郡飛鳥村大字雷にありて俗に「上の山」、 「城山」といふ由なるが、飛鳥川はその丘の南方より西方にかけて曲り流れたれば、「神南火山の帶にせる」といへるによくかなへりとす。さてこの丘は古雷丘ともいひし由なるが、かく名づくる由は雄略天皇の時小子部※[虫+果]羸をしてこの處にて雷を捕へしめられしより起れりと傳ふるなり。さてかく雷岳とかけるも集中にあり。卷三に天皇御2遊雷岳1之時柿本朝臣人麿作歌」と詞書せる歌(二三五)あるその雷岳なるべし。この雷岳はここにてはその歌に「雷之上於廬爲流鴨《イカツチノウヘニイホリスルカモ》」とありて「イカヅチノヲカ」とよむべきものなるが、この雷岳は「イカツチノヲカ」とも「カミヲカ」ともいひしならむ。その故は古、雷を「カミ」とのみもいひしを思へば知らるべし。日本紀應神卷の歌に「彌知能之利《ミチノシリ》、古破〓塢等綿塢《コハタヲトメヲ》、伽未能語等《カミノゴト》、枳虚曳之介廼《キコエシカド》、阿比摩區羅摩區《アヒマクラマク》」本集卷十二「三〇一五」に「如神所聞瀧之白浪之《カミノゴトキコユルタキノシラナミノ》」又卷十四「三四二一」に「伊香保禰爾可未奈那里曾禰《イカホネニカミナナリソネ》」などある「カミ」は雷にして「雷岳」即ち(253)「神岳」なる由も知らるべし。
○山之黄葉乎 「ヤマノモミヂヲ」とよむ。「モミヂ」に「黄葉」の字をあつること卷一「一六」にいへり。
○今日毛鴨 「ケフモカモ」とよむ。「カモ」は助詞なるに「鴨」をかりてあてたるなり。「今日も」といふ意の語に「か」といふ疑の助詞を添へ、更に「も」を添へたるが、下の「も」は餘精を深くあらせむとて添へたるなり。
○問給麻思 「トヒタマハマシ」とよむ。この「トヒ」は上の「トヒタマフラシ」の「トヒ」におなじ。「マシ」は條件附に假想する意の複語尾なれば、上に假設の條件なかるべからず。即ちこの句の上、又は「今日もかも」の上に、「天皇のおはしまさましかば」といふ如き意のあるべきを略して言にあらはされざるなり。卷八「一六五八」に「吾背兒與二有見麻世婆幾許香此零雪之懽有麻思《ワガセコトフタリミマセバイクバクカコノフルユキノウレシカラマシ》」卷五「八八六」に「國爾阿良波父刀利美麻之家爾阿良婆母刀利美麻志《クニニアラバチチトリミマシイヘニアラバハハトリミマシ》」などなり。さてここの「まし」は上の「かも」といふ係辭をうけたる結にて連體形としての終止なり。ここに似たる語遣の例は卷十五「三七七六」に「家布毛可母美也故奈里世婆見麻久保里《ケフモカモミヤコナリセバミマクホリ》、爾之能御馬屋乃刀爾多弖良麻之《ニシノミマヤノトニタテラマシ》」といふあり。さて、この邊の句の意義につきては學者によりて説を異にせるが、大體古義にいへる説即ち「世におはしまさば、今日も明日も問賜はましか、見賜はましか、しかばかりめでうつくしみ給はむ山なるを今は崩御せられしゆゑ問はせらるる事もなく、見賜ふ事もあらず」の如く解すると守部の説即ち「今年は御魂となりて今日か問はすらむ、明日か見ますらむ」の如く解するとあり。按ずるに。これは上に「か」といふ疑の語ある故に「まし」といふ意いよいよ明かになりて、若し(254)天皇の御在世ならば恐らくは今日はめで見たまふならむかと御在世の事を假想していふ語なれば、上の二説いづれもうけられず。古義の如くせば、「まし」の假想の意全くなくなるべし。守部の如くせば、「まし」と「らむ」との區別なくなるべきを以てなり。即ち「まし」にて假想し「か」にて疑惑をあらはし、「恐らくは……ならむか」といふ如き意をなせるなり。
○明日毛鴨 「アスモカモ」とよむ。意は上の「今日毛鴨」といへるに趣同じ。
○召賜萬旨 「メシタマハマシ」とよむ。意は上の「とひたまはし」といへるに趣同じ。この「めし」は上の「めしたまふらし」の「めし」におなじく、又この上に假設の條件あるべきことも同じ。この四句の意は我と共に問ひ賜はまし、見したまはしといふ意に解せらる。以上一段落なり。
○其山乎 「ソノヤマヲ」なり。神岳をいふ。
○振放見乍 「フリサケミツツ」なり。「乍」を「ツツ」とよむこと、卷一「二五」にいへり。「サク」は卷一「一七」の「見放武」にて云へる如く遠くより見やるをいひ、「フリサケミル」とは遠くより見やることなり。
○暮去者 上にある同じ語をここにくりかへして用ゐられしにて、その在世の折を思ひ出して、今の境遇をいはむ料とせられたり。
○綾哀 舊訓「アヤニカナシヒ」とよみたるを考に「カナシミ」と改めたり。本集の假名書の例を見るに、卷二十「四三八七」に「阿夜爾加奈之美於枳弖地加枳奴《アヤニカナシミオキテタガキヌ》」同卷「四四〇八」に「乎之美都都可奈之備伊麻世《ヲシミツツカナシビイマセ》」とあればいづれをよしとも定め難し。「アヤ」は驚き歎く聲に起りたる副詞にして、「アヤニ」云々といへる例古書に多し。今あげたる卷二十の「四三八七」の歌も、その例なるが、なほ一二(255)をいはば、卷五「八一三」に「可既麻久波阿夜爾可斯故斯《カケマクハアヤニカシコシ》」卷十四「三四六五」に「康杼世呂登可母安夜爾可奈之伎《アドセロトカモアヤニカナシキ》」卷十八「四一二五」に「許己宇之母安夜爾久須之彌《ココウシモアヤニユクスシミ》」などあり。これは漢語に言語道斷などいへるに似たる詞にして何とも言語にいひ出すこと能はざる程の事のさまにいへり。
○明來者 これも上にある同じ語をくりかへして用ゐられしにて、その意も同じ。
○裏佐備晩之 「ウラサビクラシ」なり。「ウラサビ」は「ウラサブ」といふ上二段活用の動詞の連用形にして、この語の意は卷一「三三」「八二」にいへる如く、ここは心樂まず、なぐさまず、日をくらす意なり。「くらし」も連用形なれば、下の「ひる時もなし」につづくなり。
○荒妙乃 「アラタヘノ」とよむ。荒妙の事は卷一「五〇」にいへる如く、荒々しき織物なるが、ここは枕詞にあらずして實際の荒妙をさす。即ち荒妙の衣とつづけて喪服をさすなり。儀制令義解に「謂2凶服1者|※[糸+衰]麻《サイマ》也」とあり。※[糸+衰]麻は支那の喪服なるが、その樣は和名抄葬送具に「唐韻云※[糸+衰]【倉回反與催同和名不知古路毛】喪服也」とありて、後世の歌に「ふぢごろも」といひて喪服をいへるも麁妙の藤衣たる義なり。藤衣といふも必しも藤にて織りたる布ならざるが、※[糸+衰]衣は古より荒々しき布にてつくればいひならはせるなり。
○衣之袖者 「コロモノソデハ」とよむ。
○乾時文無 「ヒルトキモナシ」とよむ。「乾」は「ヒル」とも「カワク」ともよむ。ここは二音にして「ヒル」とよむべきなり。「ヒル」は上一段の活用なるが、日本紀卷一の自注に「※[火+漢の旁]也此云v備」と見え、又本集卷五「七九八」に「和何那久那美多伊麻陀飛那久爾《ワガナクナミダイマダヒナクニ》」などあり。
(256)○一首の意 この歌二段落にして、第一段落はまづ、天皇を主として述べ、第二段は自己を主として述べられたり。さて第一段の意はわが天皇崩御の悲しき折に、眺むれば、かの飛鳥の神岳に黄葉の盛なるあり。この紅葉は天皇の朝に夕にいたくめでたまひ、その盛りの折には、わざわざいでまして見訪ひ給ひしものなるが、今もかく盛にあれば、大御靈は天翔りて今もなほ見給ふらしと思はるるなるが、かく思はるる神岳の山の黄葉を天皇の御在世ならば、自分と共に今日も明日もと見訪ひてめでたまはむかと思はるるに、幽明境を異にしたれば、さる事も今は望みうべからぬ世となりぬ。第二段の意はされば、今はただひとり、その天皇御在世の時、これを愛で給ひし折の事を、明けては思ひ出で、暮れては思ひ出でて、悲みさびしく思ひて、わが喪服の袖の乾く時もなしとなり。この御歌技巧もなきやうに見ゆれど、頗る巧みなる御歌にして、第一に天皇の神靈のその黄葉を照鑑せらるらしといひて、天皇の威靈を仰ぎ、次に、幽明境を異にして共に叡覽ありし時の如くならぬを嘆き、最後に、獨この世に止まれる悲嘆の情を抒べられたるがその間に幽界より明界にうつる。即ち第一、主として幽界につきていひ、第二、現幽交渉につきていひ(第一段)第三、現實界にかへる。(第二段)、而して、かくの如き意をあらはす爲に、對句を巧みに用ゐられ、しかもその技巧の存する所極めて自然にして人をして天衣無縫の歎あらしむ。今試みにその關係を圖表せむ。
  夕されば〔四字傍線〕−めし給ふらし〔六字二重傍線〕
  明けくれば〔五字傍線〕−問ひ賜ふらし〔六字二重傍線〕
(257)  今日もかも〔五字傍線〕 問ひ給はまし〔六字二重傍線〕
  明日もかも〔五字傍線〕 めし賜はまし〔六字二重傍線〕
  夕されば〔四字傍線〕 あやにかなしみ〔七字傍線〕
  明けくれば〔五字傍線〕 うらさびくらし〔七字傍線〕
 かくて、かく同じ語を繰り返されたる所には必ず、上の折の事を下に含蓄せる心ありてよまれしものと見ゆるなり。
 
一書曰天皇崩之時太上天皇御製歌二首
 
○太上天皇 天武天皇の御時太上天皇のおはしますことなし。この故に、代匠記には「大后」の誤かといへり。然れども、すべての本に一致してあれば誤りなりとはいひ難し。按ずるにこの太上天皇は持統天皇をさし奉るものと見ゆるが故に、代匠記に太后の誤かといへるなるべきが、天武天皇崩御の際の御歌なるべきが故に、如何にも代匠記の説の如くあるべきに太上天皇と書けるは故なかるべからず。既にいへる如く持統天皇を太上天皇と申し奉ることは文武天皇の御宇の事なれば、この記文も亦文武天皇の御宇に出でしこと推知せらる。而して、卷第一及び本卷の例を以て推すに、これは原本に存したるものにあらずして、文武天皇の御宇に何人か記し置けるその歌をばその端書と共にとりて後人がそのまま萬葉集に注記せしが、そのまま傳はりしなり。さればもとより萬葉集の原本の歌といふべからず。されども、文武天皇(258)御宇の撰なるある書にありしものなるべければ、その古きに於いては決して萬葉集に劣らざるものといふべし。而して、目録にも「一書歌二首」としてあげたれば、この記入も亦古きことなりといふべし。上の如くなれば、萬葉考にこれらを小字にせるは道理あることのやうなれど、古くよりの事なれば強ひてかくするにも及ぶまじきなり。
○御製歌二首 この當時の歌としては御製歌とかくべきにあらねど、太上天皇時代の記録なればかく記ししなり。これは次の二首の歌のはしがきなり。
 
160 燃火物《モユルヒモ》、取而裹而《トリテツヽミテ》、福路庭《フクロニハ》、入澄不言八《イルトイハズヤ》、面智男雲。
 
○燃火物 「燃」字金澤本「然」とせり。よみ方は舊板本「トモシヒモ」とし、金澤本には「トモシヒノ」とよみ、近くは童蒙抄に、トモシモノ」とよみたり。「燃」「然」同字にして、説文に「然燒也」と見え、廣韻に「燃俗然字」と見ゆ。而してその「然」「燃」は古來「モユ」といふ訓あるのみにして「ともす」といふことは例なきことなり。されば、管見にも「モユルヒモ」とよみ、諸家多く之に從へり。「燃」を「もゆ」と訓することは色葉字類抄等に見え、その「もゆ」といへる語の假名の例は古事記中卷橘媛の歌に「毛由流肥能本那迦爾多知弖《モユルヒノホナカニタチテ》」とあるなど例少からず。又新撰宇鏡の「※[火+毀]」字の訓に「佐加利爾毛由留火」などあり。「物」を「モ」の假名に用ゐることは集中に例多きことにして、卷三、四、五、七、九、十一、十三、十四、十六、十七、十八の各卷に見ゆ。
○取而裹而 「トリテツヽミテ」とよむこと古來異論なし。「※[果/衣]」字は普通に「裹」とかけど、元來同一字(259)なり。
○福路庭 「フクロニハ」とよむ。「福路」は嚢又は袋の漢字を用ゐていふ「フクロ」の借字なり。「庭」は助詞の「ニ」と「ハ」とを併せ用ゐたる語を示す借字にして卷一以來屡見る所なり。
○入澄不言八 この句のよみ方は古來まちまちなり。そのまちまちなる所以は二の事情あり。まづ「澄」を「ト」の假名に用ゐることは他に例なきことなるが、古葉略類聚抄にこの歌重出せるにはいづれも「登」とせり。考には「騰」の誤としたれどさる本は一もなし。この故に、もとのままにさしおきてよむべきが、「澄」は姑く「と」の假名と認めおくより外によき考案も世に出でこず。さて又この句より下のよみ方不審にして治定に至らず。さればこの句も亦上の如く「イハズヤ」までにて一句とする説、(管見、代匠記等)「面」までを一句として「イハズヤモ」とする説(考、略解、攷證等)とあり。童蒙抄は又「イルテフコトハ」若くは「イルトフコトハ」なりとせり。今考ふるに、下のよみ方治定せざるにこの句を強ひて奇矯によまむとするは由なきことなれば、普通のよみ方に從ひて七音を以て一句とする説に從ひおくべし。
○面智男雲 舊訓「モチヲノコクモ」とよみたれど何の義たるを詳にせず。管見には「オモシルナクモ」とよみ、代匠記は「智」を「知」の誤として「オモシルナクモ」とし、童蒙抄には「オモシロナクモ」とよみ、その他、考には「智」を「知」の誤とし、(「面」を上の句とせること既にいへり)「シルトイハナク」モとよみ、檜嬬手には「智」を「知日」の誤として、「アハンヒナクモ」とよめり。されどいづれも治定せる説とも見えず。なほ未決の問題として後の賢者の説を俟つべきものなり。
(260)○一首の意 上の如く、第五句のよみ方明かならねば、一首の意明かに知りかぬるはいふまでもなし。但し、第四句までは燃ゆる火をもとりて裹みて袋に入るといはずやとなり。これにつきて考は「後世も火をくひ、火を蹈わざを爲といへば、其御時在し役(ノ)小角がともがらの火を袋に包みなどする恠き術する事有けむ。云々といへり。これ一種の幻術をさせるものとするなるが、果して然らば、役小角までもなく、支那より傳はりし散樂にもこの幻術を行へば、これに似たることせしがありしならむ、されど、これらは臆説にて決し去るべきにあらず。或は又佛經などに出典のあるにや。いづれも未だ詳かならず。
 
161 向南山《キタヤマニ》、陣雲之《タナビククモノ》、青雲之《アヲクモノ》、星離去《ホシサカリユク》、月牟離而《ツキモサカリテ》。
 
○向南山 金澤本この上に「雲」字あり。されど、他の諸本になき所なれば、誤なりと認むべし。訓み方は舊板本「キタヤマノ」とよめり。古寫本にては類聚古集に「カムナミヤミ」とよみ、又「向南」の二字に「カミナヒ」と訓せる本(温故堂本、大矢本)あり。さて又童蒙抄には「キタヤマニ」とよみ、檜嬬手には「山」は「北」の誤にして「向南北」として「アマノガハ」と訓じ、玉の小琴は「向南」は誤字かといへり。按ずるに從來「向南」を「きた」とよみたるは所謂義訓にして南に對向する意にて「きた」をあらはせりと見たるなるべし。これにつきては攷證に顧瑛が詩を引きたれど、これは明代の人なれば、うけばりて證としがたし。支那になほ何等か出典あるべきか。余が按はよみ方に於いては「キタヤマ」とよむに異論はなけれど、かくよむ理由には少しく異なる點あり。按ずるにこれは(261)「向南」二字を以て一語として「キタ」にあてたるにあらず、「向南山」三字を以て一語として直ちに「キタヤマ」の義に用ゐたるなるべし。南に向へる山は即ち北山に外ならざればなり。さて「向南山」は「キタヤマ」とよみ、その下に別に助詞に該當する字なけれど、前後の關係によりて助詞を補ひよむべきなるが、舊訓は「ノ」を補ひてよみたれど、下にある「たなびく」といふ語につづくる關係より見れば「キタヤマニ」とよむをよしとすべし。さてここに北山とよまれしは何の爲ぞ。諸家之を説明せず。按ずるに、こは恐らくは南方よりその御陵所の方を眺めてよまれしならむ。山科御陵の地勢よくこの語にあてはまれり。
○陣雲之 舊板本「タナビククモノ」とよめり。古寫本には「ツラナルクモノ」とよめるもあり。(類聚古集神田本)陣字は多くの古寫本(金澤本、神田本、西本願寺本、温故堂本、大矢本、京都大學本、類聚古集)「陳」につくれり。玉篇を按ずるに、「陣」字に注して「本作陳」と見ゆれば、陳陣元來同字にしていづれも軍旅の義を本とせるが、後世「陣」字を專ら軍旅に用ゐたりと見ゆ。されば二字同義といふべきが、意義は玉篇に陳字に注して「列也、布也」といへるによるべきが、これは既に一轉しての意義と見ゆ。しかして今の用法はこの義によれるものならむが、字義の本來ならば、「ツラナル」とよむ説に從ふべきに似たり。されど雲のつらなるといへることは古來用例を見ずして雲には專ら「タナビク」といへり雲に「たなびく」といへる例は集中頗る多きが一二をいはば、卷三「三二一」に「天雲毛伊去羽計田菜引物緒《アマクモモイユキハバカリタナビクモノヲ》」卷四「六九三」に「秋津野爾多奈引雲能過跡者無二《アキツヌニタナビククモノスグトハナシニ》」卷九「一七四〇」に「白雲之自箱出而常世邊棚引去者《シラクモノハコヨリイデテトコヨヘニタナビキヌレバ》」卷十四「三五一一」に「安乎禰呂爾多奈妣久君母能伊佐欲比(262)爾《アヲネロニタナビククモノイサヨヒニ》」その他例少からず。さて山の巓などの邊に雲のかかりて長く引けるを「たなびく」といへること上の諸例にて見るべし。次に「之」をば童蒙抄には「シ」とよみ、又は「毛」の誤にて「クモモ」なるべきかといへり。されど、こはもとより「ノ」とよむべきものにして、この「ノ」は同じ趣の體言を重ねいふ場合に用ゐる「ノ」にして「タナビククモノアヲクモ」と重ねつづけていへるなり。
○青雲之 舊來「アヲグモノ」とよみ來れり。童蒙抄はこの「之」をも、「シ」又は「毛」とよむべくいへり。ここの「之」は上の「之」と全然同一にあらねば、「シ」とよみうる如くにもあれど、「アヲクモノホシ」とつづくべきものなれば、なほ「ノ」とよむをよしとすべし。青雲とは今青空とも青天ともいふ。大空の曇なく澄みわたりて、青く見ゆるをば、古は青雲と思ひしが故なり。青雲といへる例は、延喜式祈年祭祝詞に「青雲能靄極白雲能墜座向伏限《アヲクモノタナビクキハミシラクモノオリヰムカブスカキリ》」と見え、本集卷十三「三三二九」に「白雲之棚曳國之青雲之向伏國乃《シラクモノタナビククニノアヲクモノムカフスクニノ》」卷十四「三五一九」に「安乎久毛能伊※[氏/一]來和伎母兒《アヲクモノイテコワギモコ》」卷十六「三八八三」に「青雲乃田名引日須良霖曾保零《アヲクモノタナビクヒスラコサメソホフル》」などの例あり。この青天を青雲と考ふることは支那にもありて史記伯夷傳に「非v附2于青雲之士1惡能施2于後世1哉」といへる如きはその義理に轉じて高位高官の人をいへるものなりとす。
○星離去 舊板本「ホシワカレユキ」とよみ、類聚古集及び古葉略類聚鈔には「離去」を「サカリユク」とよめり。童蒙抄には「ハナレユキ」とよみ、考は「ハナレユク」とよみ、玉の小琴には「サカリ」とよむべしといひ古義は「サカリユキ」とよめり。玉の小琴に曰はく、「青雲之星とは青天にある星也。雲と星とははなるにはあらず。二つの離はさかりと訓て、月も星もうつりゆくをいふ。ほどふ(263)れば、星月も次第にうつりゆくを見たまひて、崩たまふ月日のほど遠くなりゆくをかなしみ給ふ也」といへり。さて離は「ワカレ」とよむは不理なれど、「サカリ」とも「ハナレ」ともよむべく、そのよみ方によりて意は多少異なるべし。又「去」を「ユク」とよむと「ユキ」とよむとは大差なき如くに見えて、實は文意に大なる關係あり。又「星」は「日毛」二字の誤なるべしといふ説あり。されど、その證なきことなれば如何なり。さて「青雲の星」は本居説の如くなるべきが、その他の意義はよみ方によりて種々にかはり行くべきなり。この歌の意未だ明かならねど、一首の歌たる以上、この一首にてをさまるべきものなれば、いづこにか切るる所なかるべからず。然るに結句は「而」にて止まれば、切るる句にあらず。中止述法によらざる限りは少くもこの句にて切らざるべからず。この見地よりすれば、「去」を「ユク」とよみてここにて句を切るべきなり。さて離は「ハナレ」とよまむは、ただ場所にのみ關するやうにとらるれば、ここは「サカリ」とよむべきならむ。その意は下に論ずべし。
○月牟灘而 舊板本「ツキモワカレテ」とよめり。「牟」字金澤本神田本「矣」につくりたるが、神田本は「ツキナハナレテ」とよみ、類聚古集は文字に異同なくして「ツキヲハナレテ」よめり。考には「牟」を「毛」の誤として、「ツキモハナレテ」とよめり。これ「牟」を「モ」とよむを不理としての事なるべきが、「牟」は通例「ム」とよめど、本來「モ」の音ある字なり。新撰萬葉集に「鶯者郁子牟鳴濫《ウグヒスハムベモナクラム》」又「山郭公老牟不死手《ヤマホトトギスオイモシナズテ》」などあれば、後までも「モ」に用ゐたるなり。さてこの「離」は上の離にならひて「サカリ」とよむをよしとすれば、この句は「ツキモサカリテ」とよむべきか。さて上に星離り去く月も離りてとあ(264)るは本居説の如くならば、支那の「物變星移移v幾度秋」(王勃滕王閣詩)「經2幾年月1、換2幾星霜1」(杜牧詩)などいへる思想に通へる所ありて、純なる日本思想にあらざるべく思はる。されど果して如何にや。
○一首の意 本居翁は上の如くいひ、橘守部は「向南北」を天河とし「星離去《ホシサカリユク》を星の「行道の轉じゆく」をいふとし、「月毛離而」を「月次の月の遠ざかりて星の行道の轉じゆくよし也」といひ、「彼の人死ねば、天の星となると云ふことを女心に信じ給ひて、御心あてに、御魂の星は此星ぞと銀河の中に見とめて其夕べより慕ひましけむを月比の經くまゝに其星の遠ざかりゆくを難き給ふなるべし。」といへり。されど、いづれも十分に首肯しうべき説にあらず。今之を決すべきだけのよき解釋を知らねば後の考へをまつ。
○ 以上二首考に「此二首は此大后の御歌のさまならず、から文學べる男のよみしにや。」といへり。如何にも然思はるる歌なり。若し、果して然りとせば、守部の説の如きもまた全然捨つべきにあらさらむ。
 
天皇崩之後八年九月九日奉爲御齊會之夜夢裏習賜御歌一首
 
○天皇崩之後八年 天武天皇の崩御は朱鳥元年なれば、その後八年は持統天皇御宇七年に當れり。この年に御齊曾ありしことは次にいふ如く日本紀に見えたり。
○九月九日 この日は天皇の御忌日なり。日本紀特統天皇巻に「七年九月丙申爲2清御原天皇1設2(265)無v遮大會於内裏1」となり。この丙申は日本紀にては十日に當れり。然るにここに九月九日なり。いづれを正しとせむか。但し御忌日は九日なれば.九日に行はるるが正當なりとす。
○奉爲御齊會之夜 「奉爲」は支那より傳はれる熟字にして「奉」は敬語たることを示す爲に加へたるものなれば古來「オホミタメ」訛りて「オホンタメ」とよめり。「ナシマツル」(考)又は「ナシタテマツル」とよむが如きは妄なり。(わが藝文に載せたる奉爲考を見よ)又「オホミタメニセシ」とよむ説あるが、これは「爲」字を一旦「タメ」とよみ、再び「セシ」とよむ事となりて、古來かつてなき所なり。「御齊會」の「齊」字普通ならは齋字を用ゐるべき所にして、古寫本中温故堂本、細井本はしか、かき、又代匠記にては「齋」の誤とせり。然れども大多数の古寫本かく書けるのみならず.既にいへる如く、齋齊元來通用する文字なれば、このままにてよきこと、巻一の「八一」の詞書にいへり。齋會とは齋を設けて三寶に供養する大會をいふなり。齋會の事は日本紀敏達卷に「大會設v齋」とあるを史上はじめて見る所とするが、これは蘇我馬子の家の齋會を叙せしなり.御齋會は天皇の御爲に設くる齋會なるが爲にいへるなるが、宮中御齋會の史に見ゆるは天武天皇四年四月「戊寅請2僧尼二千四百餘1而大設v會焉」とある時のをはじめとす。さて御齋會は「オホミヲガミ」とよみ來れるものなれば「奉爲御齋會」は「オホミタメノオホミヲガミ」とよむべきなり。即ちこは天武天皇の冥福を祈らむ爲の御齋會たる由なり。
○夢裏習賜御歌 夢裏は「ユメノウチ」なり。「習賜」は目録に加へたる旁訓には「ナレタマフ」とあり。されど「ナレタマフ」といふことは未だ遽に首肯すべからず。童蒙抄には「習」を「誦」の誤かといひ(266)て「ヨミタマフ」と訓じ、考には「習」を「唱」の義として「トナヘタマヘル」とよめり。されど諸本皆「習」とありて、他の字を用ゐず。美夫君志は文字のままに「ナラヒタマヘル」とよむべしといへり。按ずるに本集卷十六に「夢裡作歌」と題して「荒城田乃子師田乃稻乎倉爾擧藏而阿奈干稻干稻志吾戀良久者《アラキダノシシダノイネヲクラニアゲテアナヒネヒネシシワガコフラクハ》」(三八四八)といふ歌をあげ、その左注に「右歌一首、忌部黒麿夢裡〔二字右○〕作2此戀歌1贈v友、覺而令2(不ニ作ル本アリ非ナリ)誦習1如v前」とあるを見よ。それもこれも夢の裡によみたる歌にしていづれも「習」又は「誦習」といひたれば、同じ趣なるに似たり。されど上の「誦習」は覺而の後の事にして、ここのは夢裏に習ひ賜へるなれば、文字は一なりとも意は異なり。即ち十六卷のは論語の「學而時習之」といへる場合の「習」にして、夢裡によみし歌を覺而の後に重ねて之を誦したるなり。ここのは然らず。惟ふにこの「習」は「習慣」「積習」「習染」などの「習」にして自然に知るに至りしことをいへるなり。即ち何となしにかかる歌を得たまへるを「習」字にて記したるなるべきが、國語の「ならふ」といふもまたこの意をあらはすことあり。即ちこれは夢の裡に自ら作りたまひしともなく他人のうたひしともなく、自然にかかる歌をおぼえたまふに至りしをいふならむ。かかる事は古今に通じてある事にして、近世に御夢想の歌などいふものこれなり。
○御歌 この歌作者明記せねば、考に疑を存せり。されど、この文勢と前後の關係とより見れば持統天皇の御製として傳へしなること著し。而してこれをここに載するに至れることは上の二首と同じく後人の附載せしものなるべし。古寫本の多くは(金澤本、神田本、西本願寺本、大矢本、温故堂本京都大學本、類聚古集等)この題詞の下に「古歌集中出」と小字にて書けり。これ即(267)ちこの歌をここに記せし人の注なり。
 
162 明日香能《アスカノ》、清御原乃宮爾《キヨミハラノミヤニ》、天下《アメノシタ》、所知食之《シラシメシシ》、八隅知之《ヤスミシシ》、吾大王《ワカオホキミ》、高照《タカテラス》、日之皇子《ヒノミコ》、何方爾《イカサマニ》、所念食可《オモホシメセカ》、神風乃《カムカゼノ》、伊勢能國者《イセノクニハ》、奧津藻毛《オキツモモ》、靡足波爾《ナヒキシナミニ》、鹽氣能味《シホケノミ》、香乎禮流國爾《カヲレルクニニ》、味凝《ウマゴリ》、文爾乏寸《アヤニトモシキ》、高照《タカヒカル》、日之御子《ヒノミコ》
 
○明日香能 「アスカノ」なり。「明日香」を「アスカ」にあてたる事は卷一「七八」にいへり。さここは四言を一句とせるなり。
○清御原乃宮爾 「キヨミハラノミヤニ」とよむ。九言一句とせるなり。この宮の事は卷一にもこの卷にも既にいへり。
○天下 「アメノシタ」なり。この語の事は卷一「二九」「三六」等に既にいへり。
○所知食之 「シラシメシシ」とよむ。六言の一句なり。「シロシメシシ」とよむ説も多く行はるれど、必ずしも從ふべからぬことは卷一「二九」の下にいへり。「知る」は古語治むる意をもあらはせるものにして、「知らす」はその敬語なるが。「所念」はその敬語をあらはすに用ゐたり。又「めす」は屡いへる如く「見る」の敬語にして二者つづけて治めたまふといふ意をあらはす最敬の語とす。
○八隅知之、吾大王 「ヤスミシシワガオホキミ」とよむこと及びその意は既に屡いへり。ここは天武天皇をさし奉るなり。
○高照 「タカテラス」とよむ。考に「タカヒカル」とよみたれど、そは道理なきこと卷一「四五」にいへ(268)り。さてこの「高」は天と同じ意、「テラス」は照るの敬語にし天にてりたまふの意なることも既に屡いへり。
○日之皇子 「ヒノミコ」とよみて、四言の一句とす。舊板本に「ヒノワカミコ」とよめるは、ここを四言とせば音不足なりと認めたるが爲ならむ。されど、「ヒノミコ」とよみてよきことは卷一「四五」に述べたり。日の御子とは日神の御子孫といふ意にして、天皇は天照大神の御日嗣にましませばいへること、これも既にいへる如し。以上詞を重ね飾りたるが歸する所、天武天皇をさし奉るに止まる。而してこれまでが一體となりて、下に對して主格に立つなり。
○何方爾 舊板本「イカサマニ」とよめり。これを「イヅカタニ」とよめる本(神田本、温故堂本)なきにあらねど、卷一の「近江舊都時」柿本人麿がよめる歌(二九)にもこのままの文字ありて同じ訓を施せるが、その條にいひし如く、「イヅカタ」とよみては下の語に打ちあはず、且つ「さま」には元來「方」字の意あることなれば、その訓をよしとす。俗語に「ドノヤウニ」といふに似たり。
○所念食可 舊訓「オホシメシテカ」とよみたれど、「オボス」といふ語は「オモホス」の約まれるものにして平安朝の頃に見ゆれど、奈良朝の文獻に見えねば、この頃には元の形の「オモホス」を用ゐしなるべきこと、卷一「二九」の下にいへるが如し。さて「オモホス」は「オモフ」の敬語なるが「所念」はその語にあたるものにして、食は上の「所知食」の「食」におなじ。さて「イカサマニオモホシメセカ」といふ語は卷一「二九」にも見えたるが、「オモホシメセ」は「メス」の已然形にして、それを以て條件を示して下につづけたるものにして、これ古語の一格なること既に屡述べたり。これは後世なら(269)ば「バ」を加へて「オモホシメセバカ」といふべきを古語かくせるなり。これは「バ」を略したるにあらずして「バ」なくしてこの力十分にあらはれたる所に古語の格の存するなり。これを「ば」を省きたりといふ如き説明を下すは本末を轉倒したるものなり。末の「カ」は疑の助詞にしてその條件をうけて、下の「鹽氣能味香乎禮流國爾」といふあたりにかかれるものなり。
○神風乃 舊訓「カミカゼノ」とよめり。されど、卷一「八一」の下にいへる如く「カムカゼ」とよむべきことは日本紀古事記ともに假名書にて「カムカゼ」とせるにて著し。さてこれは「伊勢」の枕詞とせるが、その古語「息《イ》」といふにかかりての枕詞なること卷一「八一」にいへるが如し。
○伊勢能國者 舊訓「イセノクニニハ」とよめり。されどこれは下に對しての主格たれば「ニハ」といふべからず。「イセノクニハ」とよむべし。
○奧津藻毛 「オキツモモ」とよむ。「オキツモ」は上「一三一」の下にいへる如く、奧《オキ》の藻なり。下の助詞「も」の意は下の句に至りて明かになるべし。
○靡足波爾 舊訓「ナビキシナミニ」とよみたるを契沖は「ナビキタルナミニ」とも「ナミタルナミニ」ともよむべしといひ、考には「ナミタルナミニ」とよみ、檜嬬手は「足」は「留」の誤として「ナビケル」とよみ、古義は「足」は「合」の誤として「ナビカフ」とよみ、略解は「足」は「之」の誤として訓は舊本により。今古寫本を見るに、すべて一致してこの處誤字ありと認むべき點なければ、すべての誤字説は從ひ難し。この「足」は「アシ」の上略にして「シ」の假名に用ゐたりと見ゆ。その例は卷九「一七四二」に「級照片足羽河之左丹塗大橋之上從《シナテルカタシハカハノサニヌリノオホハシノウヘユ》」卷十「一九八二」に「日倉足者時常雖鳴《ヒクラシハトキトナケドモ》」といふあり。又日本紀に(270)仁賢天皇の御諱を仁賢紀には「諱大脚|更《マタノ》名大爲」とあり、顯宗紀には「更名大石尊」とあるが、いづれも「オホシ」とよむべきものなれば、こゝにも「脚」を「シ」とよむべき例を見るが、「足」「脚」文字は異なれど、いづれも「アシ」の上略たるなり。されば、このまゝにて「ナビキシナミニ」によむべきものなり。さてここの「なびく」は何につきていへるかといふに攷證に既にいへるが如く波にもかゝりたるものにして、藻も波もなびくなり。波の風にふきよせられなどするをばなびくといへることは攷證にもひける如く、卷二十「四五一四」に「阿乎宇奈波良加是奈美奈妣伎《アヲウナバラカゼナミナビキ》、由久佐久佐《ユクサクサ》、都都牟許等奈久《ツツムコトナク》、布禰波波布家無《フネハハヤケム》」とあるにても知るべし。
○鹽氣能味 「シホケノミ」とよむ。「シホケ」は潮の氣の義なり。この語の例は卷九「一七九七」に「鹽氣立荒磯丹者雖在往水之過去妹之方見等曾來《シホケタツアリソニハアレドユクミヅノスギニシイモガカタミトゾコシ》」あり。「のみ」は今「ばかり」といふに以たり。
○香乎禮流國爾 「カヲレルクニニ」とよむ。「かをる」は後世は香氣にのみいへど、古代は霧霞又火氣などにもいへり。火氣にいへるは神樂の弓立の歌に「いせじまや、あまのとねらが、たくほのけ、おけ/\、たくほのけ、いそらがさきにかをりあひにけり、おけ/\」といへる例あり。霧にいへるは日本紀卷第一の書に「伊弉諾尊我所生之國唯布2朝霧1而薫滿之哉乃吹撥之氣化爲神號曰2級長戸邊神1亦曰2級長津彦命1是風神也」とあり。こゝはその潮の水氣の烟りみてる國といふなるべし。さて上の「おきつも」の句よりのつゞきを見るに、「おきつもも共に靡きしその波に潮氣のみいちじるしくかをれる國に」といふ義なるが、それより一句上に溯れば「伊勢の國は」とあり。この場合の「は」は如何なる用方に立てるかといふに、卷一、「四五」の「隱口の泊瀬の山は眞木立荒山(271)道を」といへる場合に似たり。即ち「神風の伊勢の國はおきつ波と共に靡きしその波に潮氣のみかをれる國なるが、その國に」の意なり。然るに、それより更に溯れば、「何さまにおもほしめせか」とあれば、その條件に對しての歸結なかるべからず。然るに、この「かをれる國に」にてはそれが歸結とならず、而して、その次に降れば、又歸結となるべき語を發見せず。即ち、上の係に對する歸結はこゝに存せず。次の句に至れば、別の意となるが、故に、この下に何等かの脱落ありと認めざるべからずして、とにかくに段落は、こゝまでにして以下は別の段落に屬す。
○味凝 舊訓「アヂコリノ」とよみたれど、意義をさず。されば、童蒙抄に「ウマゴリノ」とよみ、考には「ウマゴリ」と四音一句とせり。この語は卷六「九一三」には「味凍綾丹乏敷鳴神乃音年聞師三芳野之眞木立山湯見降者《ウマコリアヤニトモシクナルカミノオトノミキキシミヨシヌノマキタツヤマユミクダセバ》」とあり。これを「うまこり」とよまむに、二者共によくあたれりといふべし。「「味」を「うま」の語にあてたるは「味酒」(卷一「一七」の例など、集中におほし。さてこれは「アヤ」の枕詞に用ゐたることは著しきが、之を釋して「ウマクオリ」として味く織りたる綾の義にとりて「アヤ」の枕詞とせりといふなり。余思ふに、この「オリ」は體言の取扱を受けたるものと考へらるれば、上も「ウマキ」なるべし。即ち「うまきおり」(結構なるおり物)の「あや」といふ意より枕詞とせしならむ。さてかく、之を體言の取扱と見る時は、「うまざけ」「にひばり」「みかしほ」の如く四音にて呼掛の形にせるが、古風にして強き感を與ふるを以て考の説に從ふをよしとす。
○文爾乏寸 「アヤニトモシキ」なり。「アヤ」は上の枕詞のかゝるは綾といふ織物なるが、こゝはただ「アヤ」といふ音の似たるのみにして、讃嘆の意をあらはす副詞の「アヤ」なり。上にあげたる卷(272)六の歌もまた同じ。かく「あやに」といふ語を以て形容詞に冠せしめて讃嘆の意をあらはせるは古語に屡見る所にして、その一二例をあぐれば、日本紀卷十四の歌に「據暮利矩能播都制能夜麻播阿野爾于羅虞波斯《コモリクノハツセノヤマハアヤニウラグハシ》」この卷「一九九」に「言久母綾爾畏伎《イハマクモアヤニカシコキ》」などなり。「トモシ」は卷一「五三」「五五」に既にいへる如く、うらやましき意あり、又めづらしく愛すべき意あり。ここは、愛すべき慕はしき意にてのたまへりと見ゆ。上にあげたる卷六の歌にも「あやにともしく」と見ゆ。なほ「ともしき」の例は卷十四「三五二三」に「等毛思吉伎美波安須佐倍母我毛《トモシキキミハアスサヘモガモ》」卷二十「四三六〇」に「夜麻美禮婆見能等母之久可波美禮婆見乃佐夜氣久《ヤマミレバミノトモシクカハミレハミノサヤケク》」など少からず。
○一首の意 この御歌既にいへる如く、第一段の末に脱落ありて意をなさず、その第一段の末に伊勢國とあるは天武天皇兵をあげたまひし時吉野よりいでて伊勢國桑名に滯在まししことあるを思ひ出でたまひしならむが、若し、しかりとせば、それより、壬申の亂を經て、天下一統になり、御治世の間をうたはれしものならむと思はるれば頗る長き歌となるべき勢なり。然るに、その中間の脱漏あるは、傳ふるものの逸したりしものか、はたはじめよりこれだけに止まりしか。惟ふに夢中の詠なれば、その前後のみ習ひたまひて中間は習ひたまはざりしものならむ。かくて今の如きさまのまゝにて傳はり來りしならむか。
 
藤原宮御宇天皇代 高天原廣野姫天皇
 
○ この御代の事及び天皇の御稱號の事は既にいへり。
 
(273)大津皇子薨之後大來皇女從2伊勢齊宮1上v京之時御作歌二首
 
○大津皇子薨之後 大津皇子の事は上にいへり。この皇子に死を賜へる事は朱鳥元年十月戊辰朔庚午(三日)なることは日本紀に見えたり。
○大來皇女從伊勢齊宮上京之時 大來皇女は大伯皇女ともかき大津皇子の同母の御姉にましまし、天武天皇の朝に伊勢の齋王としてまししことは既にいへり。伊勢齋宮は齋王のまします宮にして、伊勢多氣郡櫛田にありて歌などに多氣郡とうたはれし地なり。齋王は天皇の大御手代とまします方にして天皇の御代かはれば、その齋王も退きたまふべき制なり。されば、天武天皇の崩御と共に大來皇女の齋王の任は解かるべき筈なり。而してその京師にかへられしは、日本紀朱鳥元年十一月にして、日本紀に「十一月丁酉朔壬子(十六日)奉2伊勢神祠1皇女大來還至2京師1」とあり。即ち十一月十六日に上京せられしが、その四十日ばかり前十月三日大津皇子は譯語田舍に於いて死を賜はりて既に世を去りてまししなり。而してこの御歌はその上京後まもなくよまれしものならむ。上の「一〇五」、「一〇六」の歌と併せて味ふべし。
 
163 神風之《カムカゼノ》、伊勢能國爾母《イセノクニニモ》、有益乎《アラマシヲ》。奈何可來計武君毛不有爾《ナニシカキケムキミモアラナクニ》。
 
○神風之伊勢能國爾母 これのよみ方は上にいへるにて知るべし。
○有益乎 「アラマシヲ」とよむ。こゝの「アラ」は在の意なり。さてかく「マシ」にて結べるものは必(274)ず上に假定假設の條件あるべき語格なれば、「かくの如き事ならば京に歸らずして伊勢國にそのまま居らましものを」となり。以上一段落。
○奈何可來計武 舊訓「ナニニカキケム」とよみたるを考に「ナニシカキケム」とよめり。「ナニニカ」といふ事不都合なりといふにあらねど、集中の假名書その他にて必ずかくよむべしと主張するに足るべき例を見ず。而して一方に於いて卷七「一二五一」に「伺師鴨川原乎思努比益河上《ナニシカモカハラヲシヌビイヤカハノボル》」卷十一「三五〇〇」に「何然公見不飽《ナニシカキミガミルニアカザラム》」卷十五「三五八一」に「奈爾之可母奇里爾多都倍久奈氣伎之麻左牟《ナニシカモキリニタツベクナゲキシマサム》」卷十七「三九五七」に「奈爾之加母時之波安良牟乎《ナニシカモトキシハアラムヲ》」卷十八「四一二五」に「奈爾之可母安吉爾之安良禰波許等騰比能等毛之伎古等《ナニシカモアキニシアラネバコトトヒノトモシキコラ》」、又卷十二「二九八九」に「今更何牡鹿將念《イマサラニナニシカオモハム》」などを見るときは「ナニシカ」とよむことの根據あるをさとるべし。さてその「シ」は強めの助詞なり。
○君毛不有爾 古來「キミモアラナクニ」によみ來れり。然るに檜嬬手には「キミモマサナクニ」とよむべしといひ、古義は「有」を「在」の誤として訓は「マサナク」とせり。按ずるにこの「君」は大津皇子をさしたまへり。「アラナクニ」の「なくに」は上「九七」にいへるが、「キミモアラナクニ」といふ語の事は「一五四」にいへり。
○一首の意 わが愛し慕ひ奉る君も今は此世におはしまさぬに、何故に遙々とこの京にわれはかへりし事ぞ、かくあらむには伊勢國にそのままに止まり在るべかりしものをとなり。上京してはじめて皇子の事をききたまひしか、若くは前にきかれし事なれど、上京して後その感ひしひしと思ひ出でられてよまれしならむ。
 
(275)164 欲見《ミマクホリ》、吾爲君毛不有爾《ワガスルキミモアラナクニ》、奈何可來計武《ナニシカキケム》、馬疲爾《ウマツカラシニ》。
 
○欲見 舊板本「ミマクホリ」とあれど、古寫本に「ミマホシミ」とよむあり、(金澤本、類聚古集、古葉略類聚鈔等)「ミマホシク」とよむあり。(細井本)本集卷十七「三九五七」に「見麻久保里念間爾《ミマクホリオモフアヒダニ》」又卷十八「四一二〇」に「見麻久保里於毛比之奈倍爾《ミマクホリオモヒシナベニ》」とある假名書の例によりて「ミマクホリ」とよむべきなり。その意は見むと欲するなり。「ホリ」は「ホル」といふ古き動詞の連用形なるが、卷四「七六六」に「路遠不來常波知有物可良爾然曾將待君之目乎保利《ミチトホミコジトハシレルモノカラニシカゾマツラムキミガメヲホリ》」日本紀卷十六の歌「※[手偏+施の旁]摩儺羅磨婀我〓屡舒※[手偏+施の旁]摩能阿波寐之羅陀魔《タマナラバアカホルタマノハビシラタマ》」などにてその動詞の形と意義とを知るべし。
○吾爲君毛 舊板本「ワカセシキミモ」とよみ、金澤本等には「ワカオモフキミモ」とよめり。さて考は「ワカスルキミモ」とよみたるが、「爲」字は「オモフ」と訓すべき字にあらねば、「スル」又は「セシ」の方によるべきが、かく「ミマクホリ」より「ス」につゞくる今と同じ語遣の例は卷四「五六〇」に「生日之爲社妹乎欲見爲禮《イケルヒノタメコソイモヲミマクホリスレ》」卷七「一二〇五」に「欲見吾爲里乃《ミマクホリワガスルサトノ》」又「一二八二」に「見欲我爲苗立白雲《ミマクホリワガスルナベニタテルシラクモ》」などあり。さてここは見むと現に欲する由なる意にとるときはその意切實なれば、考の説によるべし。
○不有爾 舊板本「アラナクニ」とよめり。古寫本には「マサナクニ」とよめるあり。古義檜嬬手又かくよめり。されど、これは「一五四」にいへる如く「アラナクニ」にて何の差支もなきことなり。さてここは意切れずして、下の句につづけり。
○奈何可來計武 上の歌にいへる如く「ナニシカキケム」とよむべし。文字も一致せり。
(276)○馬疲爾 舊板本「ウマツカラシニ」とよみたり、古寫本中には、「ウマツカラカシニ」とよめるもあれど、(大矢本、京都大學本、温故堂本)「ツカラカス」といふ語遣は古きものと見えず、平安朝の中頃より後に流行せるものと見ゆれば隨ひ難し。玉の小琴には「本の儘に訓ても有べけれど、猶うまつかるるにとや訓ままし。さては愈古るかめり。」といひ、略解之に從へり、されどこれは攷證に「舊訓のままうまつからしにとよむべし。わが見んと思ふ者もいまはおはさぬものを、何しにか來にけん、ただ馬をつからすのみぞと也」といへる如く、舊訓をよしとす。「疲」を「つかる」とよめる例は靈異記中卷に「疲【都加禮弖】」とあり。されど假名書のものにて「ツカラス」とよめる例は未だ見ず。この「ツカル」は下二段活用にして之に對し四段活用の「ツカラス」といふ語のありうべきは「イユ」と「イヤス」「オクル」(後)と「オクラス」「カフ」(交)と「カハス」「カル」(枯)と「カラス」「キユ」と「キヤス」「クル」(暮)と「クラス」などの如く、一方下二段活用の語にして一方佐行四段として、その幹音をア韻にしたるものが、しかせしむる意をなす語としてあらはれたるを見るに、古も「ツカラス」といふ語ありしならむ。されば、その例證を知らねど、意によりて姑くかくよめり。さてこの馬を疲れしむといふ意にのたまへるは何の故ぞと考ふるに、齋王御出發又御歸京は群行といひて一部隊の旅行なるが齋王は(駕與丁左右兵衛府より各十六人出づ)御輿にて出でますものなれば、御乘馬にはあらず、この馬は供奉の人々の乘馬、又駄馬もありしならむ。供奉の人々の乘馬の事は朝野群載四に載する「伊勢齋王歸京國々所課」の中に、近江國の下に「馬百匹、夫百人」、又齋宮寮の下に「肥馬」とあり。(數を記さず)なほ延喜式齋宮式には「凡從行群官以下給v馬主神司中臣忌部宮主(277)各二疋、頭四匹、助三疋、命婦四匹、乳母并女嬬各三疋輿長及殿守各一正云々」とあり。後世だにかくの如くなれば、この當時の御群行のさま想ひ見るべく、かくて「馬疲らし」にの意明かに認めらるべし。
○一首の意 わが都にかへりて相見むと思ふ君も今は御座さぬに、われは何しに都には來りしならむ。ただ徒らに馬を疲らしむるのみなるにとなり。その馬といふ語にはその馬につれての多くの官人はた馬夫の如きものまでをも合めり。上の御歌の意をくりかへして語を少しくかへたるなり。
 
移2葬大津皇子屍於葛城二上山1之時大來皇女哀傷御作歌二首
 
○移葬 文字の如くは今いふ改葬(即ち一旦葬りたる墓を更に他に移し葬ること)の如くに見え、諸家亦多くその意として説けれど、必ずしも然らざること攷證にいへる如し。そは如何といふに、この移葬は假寧令にいへる改葬と同じ意と見ゆるが、その改葬といふ事は集解に「釋云改2埋舊屍1。古記曰改葬謂殯2埋舊屍柩1改移之類」とありて、殯宮より屍を墓所に移して葬ることをさすなり。この移葬が喪のありしより多少の時日を經過することありしことは河内國古市村より出でし船首王後墓志(古京遺文所載)に王後が辛丑の年十二月三日に歿せしを三年を經て戊辰年十二月に殯※[草冠/死/土]せし由を載せ、因幡國府中の山中より出でし伊福部徳足比賣墓志には和銅元年七月一日に歿せしを翌々年三年十月に火葬せしを載す。これらはその間二三年を經(278)たるものなるが、その近きものにては、石川年足墓志(攝津國島上郡荒神山出土)に天平寶字六年九月丙子朔乙已に歿し、同年十二月乙巳朔壬申に葬れるあり。これらにて移葬といふことの一斑を知るべし。さて「屍」をば考に「オキツキ」とよめれど「オキツキ」とは墓の事なればしかよむは非にして「カバネ」とよむべし。さてこの御葬事は史に明記せず。
○葛城二上山 葛城山の一部なる二上山といふ義なり。いまは葛城山と二上山とは別とせらるれど、もとは總稱して葛城山といひしなり。その二上山とは、葛城山脈の北部にあたる部分にして、専ら葛城山といふは葛上郡に屬し.二上山は葛下郡に屬せり。この山は大和志葛下郡に「在2當麻村西北1半跨2河州1兩峯相對一曰2男嶽1一曰2女嶽1北有2小峰1呼2銀峯1南有2瀑布1高丈餘有2古歌1」と見え、又「二上山墓」については「在2二上山二上神社東1」と見ゆ。これ大津皇子の御墓なりといふ。
○大來皇女哀傷御作歌二首 上の大來皇女なるが、この歌は上の歌と相連なれりと見るべし。
 
165 宇都曾見乃《ウツソミノ》、人爾有吾哉《ヒトナルワレヤ》、從明日者《アスヨリハ》、二上山乎《フタガミヤマヲ》、弟世登吾將見《イロセトワガミム》。
 
○宇都曾見乃 「ウツソミノ」とよむ。「ウツソミ」は「現シ身」の義なるが、音の轉訛によりてかくなれり。「ウツセミ」といふも同じ。
○人爾有吾哉 文字のままならば、「ヒトニアルワレヤ」とよむべく、古來しかよみ來れるが、考に「ヒトナルワレヤ」と改めたり。意は同じけれど今音調の上より考に從ふ。「ヤ」は疑の助詞にして下にかかれり。
(279)○從明日者 「アスヨリハ」とよむ。意明かなり。今日ここに弟の命の墓を設けたれば、の意を含めて考ふべし。
○弟世登吾將見 舊板本「イモセトワレミム」とよめるが、古寫本中には、「弟世」を多く「茅世」とかき從つて「チヨト」とよめり。又代匠記には「ヲトセ」かといひ、考には「イモセトワガミム」か又は「弟世」の誤にて「ナセトワガミム」かといひ、古義には「吾世」の誤にて訓は「ワカゼ」とよむべきかといへり。案ずるに「茅世」といふ文字意をなさぬのみならず之を「チヨ」とよみても意通らねば、なほ「弟世」の文字に誤なしと認むべきが、「オトセ」といふ語の存せし證なく、語も雅ならねば、他のよみ方あるべし。又「弟」を「イモ」とよまむことも無理なり。新訓萬葉集には「イロセ」と訓めり。この語は本集に例なけれど、古事記上卷に素戔嗚尊が「吾者《アハ》天照大御神之|伊呂勢《イロセ》者也」と仰せられし事見え、又中卷神武卷に「其|伊呂兄《イロセ》五瀬命」など見ゆ。こは古事記傳にいへる如く同母兄弟をいふ古語なれば、ここに適せるが故に、「弟世」を必ずかくよむべしといふ確證を見ざれど姑く之に從ふ。「吾將見」は考の如く「ワガミム」とよむをよしとす。その故は上に既に「ワレ」とよみたれば一は重複を避くべく、一は「ワガ」といへる方の緊く下につづけばなり。
○一首の意 吾は現の人身にてあるに如何なる、因縁ありてか明日よりはこの二上山をばわが兄弟と見むこととなれることよとなり。而してこの二上山は大和|國中《クニナカ》にて著しく誰の目にもつき易き山なれば、この終の「見む」といふことよく意とほれり。
 
(280)166 礒之於爾《イソノウヘニ》、 生流馬醉木乎《オフルアシビヲ》、手折目杼《タヲラメド》、令視倍吉君之《ミスベキキミガ》、在常不言爾《アリトイハナクニ》。
 
○礒之於爾 「イソノウヘニ」とよむ。「礒」は「イソ」とよむが、その「磯」はもと水中にある岩石をあらはす文字にして今「イソ」とは主として海邊の岩石をさす語の如くに考へらるれど、その「イソ」といふ國語はもと汎く「イシ」と同じ義の語として用ゐしことは、「石上」を「いそのかみ」とよめるにても知るべし。即ちここは「磯」の漢字の本義にあらずして「イソ」即ち汎く石をさせりと見るべし。卷十一「二四八八」「機上立回香瀧心哀《イソノウヘニタチマフタキノココロイタク》」卷十二「二八六一」に「礒上生小松名惜人不知戀渡鴨《イソノウヘニオフルコマツノナヲヲシミヒトニシラレズコヒワタルカモ》」などこの例なり。「於」を「ウヘ」とよむことはかつて萬葉集訓義考(アラヽギ所載)にいへるが、その一二例をいはば、續日本紀巻一、大寶元年遣唐使の任命の記中に「山於億良」とあるは本集に作者として名高き「山上憶良」にして和名抄河内國志紀郡の郷名の「井於」も「ヰノウヘ」にしてこれを「爲乃倍」とよめり。又續紀天平神護二年四月の記事に「井於連」とあるも「ヰノヘノムラジ」なるべし。又續日本後紀承和十年十二月の條に見ゆる「井於枚麿」も同じ氏なるべし。又延暦の皇太神宮儀式帳には「於葺御門」「於不葺御門」又「於覆帛御被」とある「於」はみな「ウヘ」なり。その他靈異記などにも例あり。本集にも例多きがうち一二をいはば巻三の「二六一」の長歌の中に「大殿於《オホトノノウヘニ》」卷七「一二六三」に「木末之於者未靜之《コヌレノウヘハイマダシヅケシ》」卷十「一九一二」に「吾山之於爾《ワガヤマノウヘニ》」などなり。而してこれは法相宗の經論などにも行はれたるものにして、支那より傳はれる字義に基づくものにして、漫りに本邦人のよめるものにあらざるなり。さてこの「うへ」は「邊」の義なり。
(281)○生流馬醉木乎 舊板本「オフルツツジヲ」とよめるが、古寫本中には「馬醉木」の旁に「アセミ」と注せるあり。考にはこれを「アシミ」とよみ、略解は「アシビ」とよみたり。この「馬醉木」といふものは集中に屡見ゆる所にして、又「馬醉花」とあるもその花をさせるなるべし。この馬醉木、馬醉花の字面漢土の書には見えねば本邦にて設けたる文字なるべし。さてこの馬醉木は如何なるものにして何とよむべきかといふに、上の如く「つつじ」とする説と、「あせみ」又は「あしみ」或は「あしび」とよむ説とあり。その「ツツジ」とよむ説は和名抄に「羊躑躅」に注して「和名以波豆々之一云毛知豆々之」とあり、而してその物は本草注に「羊誤食v之躑躅而死故以名之jとあるによりて馬も喰へば醉ふなるべしといふ推測に出でしものならむが、今本邦にある普通の「つつじ」は食ふとも醉ひも死にもせぬものなり。而して羊躑躅にあつべきは黄色の大輪の花さく今「きつつじ」といふものにしてこれこそ毒あれば、食ふべからざるものにして、しかもこれは恐らくは外來の植物たりと見ゆ。今本集にある馬醉木は山野に自生したる樣に見ゆれば、この羊躑躅にあらざるは明かなりとす。さて本集卷十に馬醉木とかける三首の歌は古今六帖に「あせみ」の條にのせいづれも「あせみ」とよめり。されば馬醉木は「あせみ」といふ物にあたると平安朝頃の人には、思はれしこと明かなり、然るに、萬葉集には假名書に「あせみ」とせるものなくして、假名書にせるには「あしび」とかけるもの屡見ゆ。即ち卷七「一一二八」に「安志妣成榮之君之《アシビナスサカエシキミガ》」卷二十「四五一一」に「乎之能須牟伎美我許乃之麻家布美禮婆安之婢乃波奈毛左伎爾家流可母《ヲシノスムキミガコノシマケフミレバアシビノハナモサキニケルカモ》」又「安之婢」とかけるもの、(四五一二)(四五一三)あり。この「アシヒ」即ち馬醉木にして六帖の「あせみ」と同じものなるべしとい(282)ふ。この「あせみ」といふ木は「あせぼ」ともいふ常緑の木にしてその葉は、毒ありて獣決して之を食ふことなし。而してこの木は大和山城の山野に汎く自生せるものなるが、その著しきは今奈良公園春日社頭などにある常緑の灌木と見ゆるもの即ちこれなり。これはその神鹿も決して之を食ふことなきが故にいつも緑の葉を保てり。萬葉古今動植正名に「あしび」今名「あせぼ」(漢名※[木+浸の旁]木)としてあげ、説いて曰はく、「あせぼの葉を煎じそそげば田の蟲を殺すべし。又馬に食はしむれば、足痺れてつまづく故に馬醉木といふ。(云々)されど漢名にはあらざるなり。近山(著者山本章夫は京都人)に自生多し。春月花市へ花をきり出す。奈良春日山近傍殊に老木多きを見る。鹿この葉を食へば不時に角落つ。鹿も之を知り近づきよらぬ故、人家庭園に多く栽うるは鹿を防く用なりといふ。あしみ、又あせび、あせぼといふ、皆一物なり。」とあり。
○手折目杼 「タヲラメド」なり。「手折らむ」といふ句を「ど」助詞にてうけて下につづけたるものなるが、この「ど」は已然形をうくるものなるが故に「む」の已然形「め」より「ど」につづけたるなり。この詞遣は上の「クミニユカメド」(一五八)にいへり。
○令視倍吉君之 「ミスベキキミガ」とよむ。「令視」は「ミス」なり。この「ミスベキ」と「君」との關係は「君ニ見スベキ」といふべき場合のものにして、その君に見すべきものは上にいへる馬醉木なり。これを君に見せむと思へど、その見せたしと思ふ君がといふなり。この君は下の「在り」に對して主格なるものなり。
○在常不言爾 「アリトイハナクニ」とよむ。檜嬬手には「マストイハナクニ」とよみたれど、既に屡い(283)へる如く「君に對して「在り」といふこと差支なき事なれば必ずしも改むるに及ばざるべし。さてこの「在り」といふ語に對しての主格は「君」なること既にいへる如くなるが、かくいふその主格誰ぞと考ふるに、これは一般世人をさすものと見るべし。而して「いはなくに」は「いはぬに」といふと意義は大差なきものなるが、世人が君のおはしますといはぬなりとなり。この「に」はかへりみて思ひ出せる心地を十分にあらはせり。これを他の語にていへば、君が此世にましますといふ人は一人もなしとなり。これ誰も君のこの世にましますといふ人なしといひて、間接に君の現世にあらぬ人なる由をいはれしなり。或は思ふ。この「君が在りといはなくに」は君が「われここに在といはなくに」の意ならずやと。かくする時は「在り」は君の語る語となり、「いふ」の主格は「君」となるべし。されど、かかる語づかひの他の例を參照するに、なほ、はじめの如く解すべきものと考へらる。先づ「君」といふ語を主格として、下に「ありといふ」といへる歌の用例を見るに本卷「且今日且今日吾待君者石水貝爾交而有不言八方《ケフケフトワガマツキミハイシカハノカヒニマジリテアリトイハズヤモ》」(二二四)といふも上に余がいへる意義にとるべく、又古事記下卷允恭卷の歌に、「麻多麻那須阿賀母布伊毛加賀美那須阿賀母布都麻阿理登伊波婆許曾伊幣爾母由加米久爾袁母斯怒波米《マタマナスアガモフイモカガミナスアガモフツマアリトイハバコソイヘニモユカメクニヲモシヌバメ》」又本卷十三に「眞珠奈須我念妹鏡成我念妹毛有跡謂者社國爾毛家爾毛由可米誰故可將行《マタナスワガモフイモカガミナスワガモフイモモアリトイハバコソクニニモイヘニモユカメタレユヱカユカム》。」(三二六三)とあるも皆同じ趣にして、「君」の主格に對して「いふ」を述格とせるものにあらねば、なほ上述の如く解するをよしとすべし。
○一首の意 今この岩の邊に生ひてある馬醉木を見れば、如何にも美しければ、手折りて家苞にせむと思ひしが、さて家にかへりて見せ奉りて共に悦ばむと思ふ君は、この世にましますとい(284)ふ人は一人もなきことなるに。さてもかく花を見るにつけても何を見るにつけても君の御事の思ひ出でられ忘れ難き事なるよとなり。
 
右一首、今案不v似2移葬之歌1。蓋疑從2伊勢神宮1還v京之時路上見v花感傷哀咽作2此歌1乎。
 
○感傷哀咽 「感」字流布本「盛」に作るものは誤なり。多くの古寫本「感」に作るを正しとす。
○ この左注誤れり。大伯皇女伊勢よりかへらせ給ひし折は十一月にして「アシビ」にしても「ツツジ」にしてもその花の時にあらぬをや。されば代匠記は之を誤とし、考は之を削れり。されど、古よりかくあるものなれば、ただ古人の思ひ誤りしものなりと認めて、そのままにさしおくを穩かなりとす。
 
日並皇子尊殯宮之時柿本人麿作歌一首并短歌
 
○日並皇子尊 こは「ヒナミシノミコノミコト」とよむべきなり。この尊の事は卷一「九」にいへり。「日並」以下流布本上の左注の「乎」の下より書きつづけたるは誤なり。古寫本別行にせり。
○殯宮之時 「オホアラキノトキ」とよむべし。この皇太子は持統紀に「三年四月乙未皇太子草壁皇子尊薨」とあり。即ち、その殯宮の事のありし時に人麿のよめりしなり。考には天皇の外は別に殯宮をせられぬ由にいへれど、攷證にも既に論ぜる如く、この歌にも「眞弓乃岡爾宮柱太布(285)座云々」とあり、又下の明日香皇女木※[瓦+缶]殯宮歌にもその趣にあれば殯宮の實際に存せしことは明かなり。
 
167 天地之《アメツチノ》、初時之《ハジメノトキノ》、久堅之《ヒサカタノ》、天河原爾《アマノカハラニ》、八百萬《ヤホヨロツ》、千萬神之《チヨロツカミノ》、神集《カムツドヒ》、集座而《ツドヒイマシテ》、神分《カムハカリ》、分之時爾《ハカリシトキニ》、天照《アマテラス》、日女之命《ヒルメノミコト》、【一云指上日女之命】天乎波《アメヲバ》、所知食登《シラシメスト》、葦原乃《アシハラノ》、水穗之國乎《ミヅホノクニヲ》、天地之依相之極《アメツチノヨリアヒノキハミ》、所知行《シラシメス》、神之命等《カミノミコトト》、天雲之《アマグモノ》、八重掻別而《ヤヘカキワケテ》、【一云天雲之八重雲別而】神下《カムクダシ》、座奉之《イマセマツリシ》、高照《タカテラス》、日之皇子波《ヒノミコハ》、飛鳥之《アスカノ》、淨之宮爾《キヨミノミヤニ》、神髄《カムナガラ》、太布座而《フトシキマシテ》、天皇之《スメロギノ》、敷座國等《シキマスクニト》、天原《アマノハラ》、石門乎開《イハトヲヒラキ》、神上《カムアガリ》、上座奴《アガリイマシヌ》。【一云神登座爾之可婆】吾王《ワガオホキミ》、皇子之命乃《ミコノミコトノ》、天下《アメノシタ》、所知食世者《シラシメシセバ》、春花之《ハルバナノ》、貴在等《タフトカラムト》、望月乃《モチツキノ》、滿波之計武跡《タタハシケムト》、天下《アメノシタ》、【一云食國】四方之人乃《ヨモノヒトノ》、大船之《オホフネノ》、思憑而《オモヒタノミテ》、天水《アマツミヅ》、仰而待爾《アフギテマツニ》、何方爾《イカサマニ》、御念食可《オモホシメセカ》、由縁母無《ツレモナキ》、眞弓乃崗爾《マユミノヲカニ》、宮柱《ミヤバシラ》、太布座《フトシキマシテ》、御在香乎《ミアラカヲ》、高知座而《タカシリマシテ》、明言爾《アサゴトニ》、御言不御問《ミコトトハサズ》、日月之《ヒツキノ》、數多成塗《マネクナリヌル》、其故《ソコユヱニ》、皇子之宮人《ミコノミヤビト》、行方不知毛《ユクヘシラズモ》。【一云刺竹之皇子宮人歸邊不知爾爲。】
 
○天地之 「アメツチノ」とよむ。天を「アメ」地を「ツチ」とよむは古言にして、之を相對していへる假名書の例は、卷五「八〇〇」に「阿米弊由迦婆奈何麻爾麻爾都智奈良婆大王伊麻須《アメヘユカバナガマニマニツチナラバオホキミイマス》」とあり。之を合せて「アメツチ」といひしなるべきが、その例は「天地」とかける甚だ多けれど、よみ方の確證としかぬれば、假名書の例をあげむに、卷十五「三七五〇」に「安米都知乃曾許比能宇良爾《アメツチノソコヒノウラニ》」卷二十「四四九九」に「安米都知乃可未乎許比能美奈我久等曾於毛布《アメツチノカミヲコヒノミナガクトゾオモフ》」などあり。
(286)○初時之 流布板本「ハジメノトキシ」とよみたるを萬葉考に「ハシメノトキノ」とよみ、玉の小琴はこれを否定して、「シ」をよしといへり。その「シ」か「ノ」かは後に説く事とし、先づ「初時」をよむことをいふべし。「天地の初の時」とは古事記の冒頭に「天地初發之時」とあると同じく「アメツチノハジメノトキ」とよむべし。天地開闢の時といふに似たり。卷十「二〇八九」に「乾坤之初時從《アメツチノハジメノトキユ》」卷十九「四二一四」に「天地之初時從《アメツチノハジメノトキユ》」などみなこの例なり。さて下の「之」を「シ」とよむべきか「ノ」とよむべきかといふに、之を「シ」とよむ時は、その「シ」は係り詞と殆ど勢力を等しくするものにして、多くは下を「ぱ」にて條件を示す形にするか然らずば、終止をなすを常とす。これは本集にても、又古今以後にても大差なき用法たり。然るにここには「シ」とよむ場合にそれに對應すべき語法は全くなきなり。さればこれは考の如く「ノ」とよむべし。この「の」は同じ趣の體言を重ぬるものにして、上の歌「一六一」にいへる「向南山陣《キタヤマニタナビク》雲〔二重傍線〕之〔右○〕青雲〔二重傍線〕之」卷三「三七二」の「春日乎春日山〔三字二重傍線〕乃〔右○〕高座《タカクラ》之御笠山〔三字二重傍線〕爾」同卷「四二〇」の「天地爾《アメツチニ》悔事〔二字二重傍線〕乃〔右○〕世間乃《ヨノナカノ》悔事〔二字二重傍線〕者」卷五「八九二」の「風離(雜)雨布流〔六字傍線〕欲〔二重傍線〕乃〔右○〕雨雜雪布流〔五字傍線〕欲〔二重傍線〕波」卷九「一七六六」の「左手〔二字二重傍線〕乃〔右○〕奧手〔二字二重傍線〕爾」卷十三「三三二九」の「白雪之棚曳〔五字傍線〕國〔二重傍線〕之〔右○〕青雲之向伏〔五字傍線〕國〔二重傍線〕乃天雲下有人者」同卷「三三三一」の「隱來之長谷之山《コモリクノハツセノヤマ》、青幡之忍坂山者《アヲハタノヲサカノヤマハ》走出之宜〔四字傍線〕山〔二重傍線〕之〔右○〕出立之妙〔四字傍線〕山〔二重傍線〕叙」などの例にしてこれは
 天地初發〔四字傍線〕時〔二重傍線〕之〔右○〕
 久堅之天河原爾八百萬千萬神之神集座而神分文之〔久堅〜傍線〕時〔二重傍線〕爾
と相重ねしこと著し。ただかく認むるに迷ひを生じ易きは、他の例は上下略、同じ語數にて對(287)をなせるに、これは上下の間に長短の差甚しきによるものならむ。されど、かく長短の二句を相對せしめし所に人麿の手腕の存するなり。この「之」をかかぬ古寫本(金澤本等)一二あるによりて「之」を除きてよまぬ説もあれど、多くの古寫本にあれば、古より有りしなるべく、又除きたるよりも有りたる方歌の調も、歌の意も調ふものなれば除くは不可なりとす。(なほこの事は雜誌「奈良文化」に詳論せり。)
○久堅之 「ヒサカタノ」天の枕詞とす。その意義は、卷一「八二」にいへり。
○天河原爾 古來「アマノカハラニ」とよみ來りて異論なし。然れど、「天」を「ノ」につづくる場合には特別の場合の外は「アメノ」とよむべしとする本居宣長の論法よりせば、ここも「アメノカハラ」たるべきこととならむ。されど、これは古より異論なきこと上述の如くなるが、卷十「二〇九二」には「天之河原」とかきたるあり。元來これは古事記上卷に「是以八百萬神於|天《アメノ》安之河原神集神集而」とあるに同じ事をいへるものなるが、この「あまのかはら」といふはそのさす所は今もいふ「あまのかは」のかはらなるべきが、その「あまのがは」は萬葉にも頻繁に出づる詞にして之を假名書にせる例としては卷十五「三六五八」に「安麻能我波」卷二十「四三一〇」に「安麻能河波」などあれば、「あまのかはら」とよみて古來のよみ方の不當ならぬを思ふべし。
○八百萬千萬神之 「ヤホヨロヅチヨロヅガミノ」とよむ。「八百萬」と「千萬」とは數の極めて多きをいひて對したるまでにして深き意なし。古事記に「八百萬神」といへるもおなじ。
○神集座而 舊板本「カミアツメアツメイマシテ」とよめり。然るに契沖は代匠記の初稿に「カン(288)ツトヒツトヒイマシテ」とし、清撰に「カムツトヘニツトヘイマシテ」とし、考には「カムツマリツマリイマシテ」とよめり。ここに「集」字の訓を考ふるに「アツメ」「ツトフ」の訓はあれど、「ツマル」といふ訓はあるべきにあらねば考の説は先づ從ひ難し。次に「アツメ」も「ツドヒ」も共によまるべきさまなれどここは古事記上卷の上に引ける文と同じ事をいへるにて用字も「神集集而」とありて殆ど同じければ、同樣の事をさすのみならず、同樣の詞遣を爲せるものにして、その基づく所は恐らくは同一の舊辭によれるものならむが、古事記にはそこに注して「訓v集云都度比」とあれば「アツメ」とよむは從ふべからざるを見る。次に「ツドヒ」と「ツドヘ」とにては所謂自他の違ひあるものにして、古事記に「都度比」と注せるはこれ神々の御心としてみづから集られしことを示すものにして、「ツドヘ」といふ時は、大祓詞に「皇親神漏伎神朗美命以八百萬神等神集集賜」とある如く主脳者ありて、神を召集したる事となる。かくては古事記の「都度比」と注せる趣意徹らずといふべし。されば、ここも古事記と同じ趣にて「ツドヒ」とよむべきなり。次には「ツドヘニツドヘ云々」と契沖のよめる如く「ニ」助詞をその連用形に加ふべきか否か、といふことなるがかく「に」助詞を加ふることはその上を修飾格にする爲の一の語法なるが、しか「ニ」を加へずとも語の資格には差なきものなりとす。ここに似たる例は下の「神分〔二字傍線〕、分之時」もあり、又この卷「一九九」に「神葬葬伊座而」卷十三「三三二四」に「神葬葬奉而」などあるが假名書にてかくあるべきを示せる確なる證は古事記中卷神功皇后の御歌に「加牟菩岐、本岐〔六字右○〕玖流本斯、登余本岐、本岐〔六字右○〕母登本斯」とあるなり。これは日本紀の同皇后の御歌として同樣に傳へたり。ここにては「ニ」を加ふる(289)方五音となりてよかるべきに、四音のまま一句とせり。即ちこの形の言葉が古語の一格として存せしを見るべし。又古事記上卷に「伊都能知和岐〔三字二重傍線〕知和岐弖」とあり。さて又上の「神」は上の「カムホギ」の例によりて「カム」とよむべきこと知らる。かく「神」といふ語をここに冠するは神のしわざなればなり。
○神分分之時爾 舊板本「カムハカリハカリシトキニ」とよめり。代匠記には「カムハカリニハカリシトキニ」とよみ、又「カムワカチニワカチシトキニ」といへり。童蒙抄には「カンクハリクハリシトキニ」といひ、古義に「カムアガチアガチシトキニ」とよめり。かく種々のよみ方あるはこの「分」字のよみ方に基づくものにして「分」を「ハカル」とよむか、「ワカツ」とよむか「クハル」とよむか「アガツ」とよむかといふ問題の存するなり。而してこれらのよみ方はいづれも分字の訓として成立ちうるものなるが、その意義よりいへば「ハカル」とよむと、「ワカツ」「クハル」「アガツ」とよむとの二大別を見る。即ち「ワカツ」も「クハル」も「アガツ」も畢竟同じ義に落つるものにして神を分ち配る意なるべし。然るに、古典を通じて神々が天の河原にて會議して、神々を分ち配るといふことを議したりといふことは未だ曾てきかざる所なり。この故にこれらのよみ方は信をおきがたし。さて「分」を「ハカル」とよむことは證ありやといふに、字鏡集には「ハカル」の訓を加へたれば、これは事物を判別する意に用ゐたりと思はる。而して、こは大祓詞に上にも引ける如く「神議議賜※[氏/一]」とあると同じ事をいへるものなるべきが、ここは上の例と同じく「カムハカリ」をいひて下に「ニ」を加へぬものなるべし。
(290)○天照 「アマテラス」とよむ、「テラス」は照の敬語なること上來屡いへる如し。天に照りたまふの義なり。
○日女之命 舊本「ヒナメノミコ」とよみたれど「ヒナメ」といふ語あるべくもあらず。代匠記に「ヒルメノミコト」とよめるに從ふべし。今「ヒル」といはば「晝」の字に限るやうに思はるれど、「日」をも「ヒル」とよむこと「夜」を「ヨ」とも「ヨル」ともいふにて知るべし。日本紀第一の「生2日神1號2大日〓貴1」とある自注に「大日〓貴云2於保比屡※[口+羊]能武智1」と見ゆ。この「オホヒルメノムチ」即ちこの神なるが、「日〓」を「ヒルメ」とよむにて「日」を「ヒル」とよむことも古語なりと知るべし。さてこの「ヒルメノミコト」は即ち天照大神を申せり。
○一云指上日女之命 こは一本に上の二句をかく書けりといふなり。「日女之命」は本行と同じきが「指上」とある點の異なるなり。これは古來「サシノボル」とよみ來れるが童蒙抄には「サシアグル」とよめり。されど、これはかの朝日の豐榮登などとおなじく、朝日の上るをいひたるなるべければ古來のよみ方をよしとすべし。而してこれは「日」の枕詞とせるものなるべきが、歌としては本行の方すぐれたり。
○天乎波 舊板本「アマツヲバ」とよみたれど、「アマツ」の「ツ」は「ノ」に似たる助詞にて下に名詞の來るべき語遣なるをここには名詞の取扱としたるものとなるべきが、かかる事は古來なきことなれば從ふべからず。童蒙抄には「ミソラヲバ」とよめるが、かくせば五言の一句となるべけれど、「天」を「ミソラ」とよまむは無理なり。考には「アメヲバ」とよみ、古義には「波」は「婆」の誤にして「アメヲ(291)バ」とよみたり。按ずるに、「婆」とかける古寫本は金澤本以下少からねば、それによりて「ヲバ」とよむことは異論なきことなれど、「波」を「バ」に用ゐる例本集に少からねば、必ずしも誤りといふべからず。而してここは考の如く「アメヲバ」と四言一句とすべし。
○所知食登 舊板本「シロシメサムト」とよみたり。されどここに「ム」に相當する文字なければ、かくよむは無理なり。考には「シロシメシヌト」とよみたり。これも亦「ヌ」にあたる文字なきのみならず、「ヌ」と決定的にいはむは不可なれば、從ふべからず。玉の小琴には「シロシメスト」とよみたり。これは六言なれどまづ難なし。六言一句の例は本集中に少からず、一一あぐるに、及ばざるべし。さてこの「所知食」を「シロシメス」とよむこと不可なるにあらねど、萬葉集中これに相當する語の假名書なるはいづれも「シラシメス」なること卷一「二九」にいへる如し。即ちここも「シラシメスト」とよむべきなり。天照大神の高天原を知食すべき由天神の事依さしたまひし事紀記に見ゆ。古事記上卷に「其御頸珠之玉緒毛由良邇取由良迦志而賜2天照大御神1而詔之。汝命者所2知高天原1矣事依而賜也」とあり。「ト」は後世「トテ」といふに當る語遣なり。
○葦原乃水穗之國乎 「アシハラノミヅホノクニヲ」なり。こはわが日本國をさせるなるが、その語の義は葦原とは本居宣長の「いと/\上つ代には四方の海べたはことごとく葦原にて其中に國所はありて上方より見下せば葦原のめぐれる中に見えける故に高天原よりかくは名づけたる也」といへる如く、水穗國の水は借字にしてみづ/\しき意、穗は稻穗にて稻のよく熟りてすぐれたる國なれば水穗國といへるなり。古事記上卷に「豐葦原之千秋長五百秋之水穗國」(292)とあるはこの語をうるはしくいひたるなり。
○天地之 「アメツチノ」にして上にいへり。これは、實際の天と地とをさせり。
○依相之極 舊訓「ヨリアヒノカギリ」とよめり。古寫本中には「ヨリアヒシカギリ」(神田本)又「ヨリアヒシキハミ」(京都大學本)とよめるあり。管見には「ヨリアヒノキハミ」とよめり。この語の例は卷六「一〇四七」に「天地乃依會限萬世丹榮將往迹《アメツチノヨリアヒノキハミヨロツヨニサカエユカムト》」卷十一「二七八七」に「天地之依相極玉緒之不絶常念妹之當見津《アメツチノヨリアヒノキハミタマノヲノタエジトオモフイモガアタリミツ》」などなるが、「限」は「かぎり」とも「きはみ」ともよまるるが、「極」は「きはみ」とはよまるれど「かぎり」とは古來よまねば、これは「キハミ」といふ語をあらはしたるものと見ゆ。さてその上を「シ」とするか、「ノ」とよむかといふに上を用言と見れば、「シ」とすべく、體言と見れば「ノ」とすべきが、若し、用言とせば、天地の既に依り相ひしこととなるべきが、この語の意は考に「すでに天地の開わかれしてふにむかへて又よりあはむかぎりまで久しきためしにとりぬ」といへる如く、天地のはじめを開闢といふに對して天地が相依り相ひ區別なく再び混沌の状に復らむ時をさせるものなれば、ここは體言の取扱を爲すべきなり、されば「ヨリアヒノキハミ」とよむ八言の一句なりと見ゆ。開闢の昔、永遠の過去に對してこれは天地の再び依相はむ時のきはまりまでもいひて、畢竟無終の永遠の未來までといふことをあらはし、以て寶祚の「當與天壤無窮者矣」といへる日本紀の一書の説と同じ思想をあらはせるなり。而してこの一語のみにてわが、國民思想の抽象的にあらずしてしかも永遠の未來をいかによく具象にいひあらはしうるかに着眼すべし。
(293)○所知行 舊來「シラシメス」とよみ來れり。考には「シロシメス」とよみ、玉の小琴に「シロシメセ」とよめり。この語は「シラシメス」とよむべきことは上にいへる如くなるが、その末を「メス」とよむと「メセ」とよむとによりて文意に大なる差を生ず。「メセ」といふ時は命令の語法にてここにて切るると共に次の神にはつづくことなくなり、その意支離滅裂となるべし。ここは連體形にしてこの日本國を統治したまふ「神の命」と直ちに下につづけて之を限定せるなれば、「メス」とよむ外の方法なき筈なり。
○神之命等 「カミノミコトト」とよむ。卷一「二九」に「神之御言」とかけるにおなじ。この神は事實上皇孫彦火瓊々杵尊をさし奉れるものなるが、言語の上にてはただ、天壤無窮の皇位にましますべき神としての義なり。「命」は尊稱語にして、「ト」は「トシテ」の義にして文勢は下の「神下」につづけるなり。
○天雲之八重掻別而 「アマクモノヤヘカキワケテ」なり。天雲は天の雲なり。「八重」の「八」は多數をいへるにて幾重も重れるなり。さてこれは先づ「天雲の八重とつづけて見、それをかきわけてと解すべきなり。「天雲の八重」とは「天の八重雲」といふに殆ど同じく八重にかさなれる天雲をさすものなるが、かく實體を先にし、その數量を後にしてその間を「の」にてつづくる語法は古今に通ずる語格の一なるが、そが意味はその下の數量に重點をおくによりてかかる語格をなせるものにして、ただ語を上下におきかふるに止まるものにあらず。さてこの事は古事記上卷に「押2分天之八重多那雲1而伊都能知和岐知和岐弖於2天浮橋1宇岐士麻理蘇理多多斯弖天降坐2(294)于筑紫日向高子穗之久士布流多氣1」日本紀卷二に「且排2分天八雲1」と見え、大祓詞に「天之八重雲伊頭千別千別」とあり。天の雲の幾重ともなく重なりたるをかきわけて天降ありしをいふ。
〇一云天雲之八重雲別而 こは一説には「アマクモノヤヘグモワケテ」とありとなり。意は異なる事なけれど、修辭はこの方拙なり。
○神下 舊訓「カミクダリ」とよみ、神田本などに「アマクタリ」とよみ、代匠記には「カムクダリ」とし、考に「カンクダリ」檜嬬手に「カンクタシ」とせり。先「アマクダリ」とよまむは理なきことなれば從ふべからず。而して、ここは神の御はからひとして皇孫を此の國に下し給ひしなれば、「カムクタシ」とよむべきなり。「クダシ」の上を「カム」とよむは、上の「神集」と同じ。
○座奉之 舊訓「イマシツカヘシ」とよみ、考には「イマシマツラシ」とよみ、玉の小琴に「イマセマツリシ」とよみ、※[手偏+君]解に「イマシマツリシ」とよめり。先づ、奉を「ツカヘシ」とよむは例なきことなれば、從ひ難く「奉之」を「マツラシ」とよむも字面の上にて無理なるのみならず、奉らせたまふの義なるべければ義をなさず。「奉之」は疑もなく「マツリシ」とよむべきなるが、「奉《マツ》ル」は他に對していふ敬語なれば、上を「イマシ」といひては自他の違ひあれば、玉の小琴の如く「イマセマツリシ」とよむべきなり。その語例は卷十五「三七四九」に「比等久爾爾伎美乎伊麻勢※[氏/一]《ヒトクニニキミヲイマセテ》」とあるにて見るべく、下二段活用の語にて令v座の意をあらはせるなり。
○高照 上に屡いへり。
(295)○日之皇子波 舊本「ヒノワカミコハ」とよみたれど、ただ「ヒノミコハ」とよむべきは卷一「四五」にいへるが如し。日の皇子と申すは主として御代々の天皇さては皇太子をも申すなり。ここは日並知皇子尊をさし奉るなり。文意はこの「は」より數句をへだてて「天原石門乎云々」につづくべきなり。
○飛鳥之淨之宮爾 舊訓「アスカノキヨメシミヤニ」とよめり。文字「キヨメシミヤ」とよまれざるにあらねど、これは「キヨミハラノミヤ」なること明かなれば、契沖が「キヨミノミヤ」とよめるに從ふべし。玉の小琴には「飛鳥」を「トブトリノ」とよみたれど、かくせば、それは枕詞として用ゐしものといふべきこととなる。然るにここは實地の地名をさせるものなれば、明日香とよむべきなり。「飛鳥」は元來「アスカ」の枕詞なるを後に地名の「アスカ」にあつる樣になりしことは「春日」は元來「カスガ」の枕詞なるを地名の「カスガ」にあつる樣になりたると同じ關係なり。而して「飛鳥」を「アスカ」の地名をあらはすに用ゐたることの古き證は古事記に「近飛鳥」また「遠飛鳥」などかけるにて明かなり。このアスカノキヨミノ宮は即ち天武天皇の定められし都にして、持統天皇も引つづき之に座し、この薨去當時、持統天皇はなほこの都におはしたりしなり。
○神隨 舊訓「カミノママ」とよみたれど、考に「カンナガラ」とよめり。正しく「カムナガラ」とよむべきなり。語の意は卷一「三八」「三九」等に既にいへり。「神隨」とかくことは卷一「五〇」にいへり。
○太布座而 「フトシキマシテ」とよむ。その意は卷一「三六」にいへり。
○天皇之 舊訓「スメロギノ」とよめり。古寫本中には「スベラキ」とよめるあり(神田本等)されど、「ス(296)メロギ」とよむをよしとす。この語の事は卷一「二九」にいへり。
○敷坐國等 「シキマスクニト」とよむ。「シク」は至り及ぶ意をあらはす語にあらずして上の「フトシキマシテ」の「シク」にして、「シリ」と同語たること、卷一「三六」にいへるが如し。「ト」は「トシテ」の意なり。この國土は今の天皇のしります國として日並知皇子尊はここをさりて天に昇り給ふといふ意なり。
○天原 「アマノハラ」とよむ。上「一四七」に見えたり。この語は下の「石門」に對してその所在の場所をあげたるなり。
○石門乎開 古來「イハトヲヒラキ」とよめり。然るに玉の小琴には「開」は「閉」の誤にして、「イハトヲタテ」とよむべしとせり。その説に曰はく、「三卷【四十五丁】に豐國の鏡山之石戸立隱にけらし」(四一八)とある類也。開と云べき所に非ず。石門を閉て上ると云ては前後違へるやうに思ふ人有べけれど、神上りは隱れ給ふと云に同じ。」といへり。されどこれは、攷證に「門は出るにも入るにも開くべきものなれば、本のままに開として何のうたがはしき事かあらん」といひ、又古義にもいへる如くこの國土より高天原にのぼり座といふによりて門を開きて入りたまふ義とせるなれば、誤にはあらざるのみならず、この所に誤字ある本一もなきなり。さてこゝの石門とは古事記上卷に「天石屋戸」と見え、日本紀卷二に「引2開天磐戸1」と見ゆるも同じ意にして、「イハ」は堅固なるをたとへて添へたるものにして石製の物といふ意の語にてはあらず。門を「ト」といふも「戸」と同じ語なり。(漢字にても門は※[戸+戸の左向]にて戸を左右より向ひ合せたるなり)天上にて神のおは(297)す所の戸を開きてその所に入りたまふといふ語を用ゐて、神上りたまふさまを想像していへるなり。
○神上上座奴 舊本「カムアガリアガリイマシヌ」とよめるを考には「カムノボリノボリイマンシヌ」とよめり。上は「ノボリ」とも「アガリ」ともよまるべき字なるが、古事記日本紀には崩字を「カムアガリ」とよめるに照して考ふるにここは皇太子の薨去なれど、同じく「カムアガリ」とよむべきを知る。かく高貴の人の死歿をば神となりて天に上り給ふが故なりと考へもし、又しかいふ事は古の姿なり。さて又この「イマス」をば、「常の居る事を座といふとは少しことかはりて行ます事をいへる也」と攷證に論じたるによりて往々この説に從ふ人も見ゆれど、それらの例としてあげたるものは古事記中卷の「佐々那美遲袁《ササナミヂヲ》、須久須久登和賀伊麻勢婆《スクスクトワガイマセバ》」卷十五「三五八七」の「多久夫須麻新羅邊伊麻須《タクブスマシラキヘイマス》」などすべて、その語一にて實質として用ゐらるゝ場合のものなり。然るにここは上に「アガル」といふ實質用言ありてその意を具體的に示し「座《イマ》ス」は敬語としてそはれるのみにして意輕きものなり。すべて敬語は形式用言として取扱はるべき特性あるものなり。以上にて第一段とす。
○一云神登座爾之可婆 これは異説にこの二句を「カムノボリイマシニシカバ」といへりといふなるが、「シカバ」とありては下につづくさまにて文勢ととのはず。本行をよしとす。
○吾王皇子之命乃 「ワガオホキミミコノミコトノ」とよむべし。「吾王」を舊訓「ワカキミ」とよめるは非なること及びその意は卷一「三五」「三六」等に既にいへり。「吾王」とは親しみて申し上ぐるな(298)り。さて卷三に穗積皇子の薨じたまへる時の歌にも「吾王御子乃命」(七五八)「吾王皇子乃命」(四七八)とあれば、ここの「皇子命」は皇太子をいふに用ゐる爲に一の語となれるものとは異にして、その「命」はただの敬語にして妹の命、父の命、母の命などいふにおなじきこと攷證の説の如し。さてこは主格にして下の「天下所知食世波」にかゝる。
○所知食世波 舊訓「シラシメシセバ」とよめり。神田本には「シラシメマセハ」とよみたれどそのよみ方は理なし。考には「シロシメシセバ」とよみ、今大方これに從へれど、萬葉集としては「シラシメス」とよむをよしとすること屡いへる所なり。「セバ」の「セ」は「キ、シ、シカ」の未然形にして假設條件を示す。さては若しも天下を知食し給ふとせば、の意なり。これこの尊皇太子として天下の政事にはあづからせ給ひつれど、即位なくして薨ぜさせ給ひつればかくいへるなり。
○春花之 「ハルバナノ」とよむ。枕詞なりといふ説もあれど、事柄を形容せる語にして枕詞にあらず。春の花のめでたくうるはしきが如く貴からむとつづけたり。
○貴在等 舊板本「カシコカラムト」とよみたれど「貴」字に「カシコシ」とよむ由なければ、諸家の説紛々たり。代匠記には初め「タノシカラン」とよみたれど、「貴」を「タノシ」とよむも無理なれば、別に「タフトカラント」かといふ一説を加へたり。考には貴は花にいふことばにあらずとして「賞」の字にあらためて、「メデタカラント」とよみたり。されど「貴」字いづれも一致して別に誤字なりといふべき證もなければ、これも從ひがたし。「貴」は本來「タフトシ」とよむ文字なること明かなるが、かくよむことは古寫本にも往々ありて、神田本に「タフトクアラント」京都大學本には「タフトク(299)アラント」「タフトカラムト」の二訓をあげたり。玉の小琴には之につきて「たふとからむと訓べし。たふときと云ことは古はめでたきことにも多く云り。貴の字に拘りて只此字の意のみと思べからず。此事古事記傳に委く云り。」といひてより一定の事になれり。元來「たふとき」といふ語は、「フトシ」といふ語に「タ」を冠したるものにしてその「太シ」は豐かに美はしき意などをあらはせる語なれば春花のた太しといふは不條理にあらぬなり。その例は古事記上卷に「斯良多麻能伎美何余曾比斯多布斗久阿理祁理《シラタマノキミガヨソヒシタフトクアリケリケリ》」などにて知るべし。次「貴在」を「タフトカラム」とよまむは文字足らぬさまなるが、これは次の「滿波之計武跡《タタハシケムト》」に對して「ム」といふ複語尾を含めてよむべきを考ふ。萬葉集又古事記などの古典中往々かく同樣の句を並べかける場合に一方にそれをあらはすとき他の句にて簡略に書けることあり。たとへば、
  美籠母乳〔二字右○〕  美夫君志持〔右○〕  (卷一「一」)
  隱障〔二字右○〕倍之也(卷一「一七」) 可苦佐倍〔四字右○〕思哉(卷一「一八」)
  檜乃嬬〔右○〕手  眞木乃都麻〔二字右○〕手     (卷一「五〇」)
の如し。されば、これも下の句に照して「タフトカラムト」とよむべきならむ。さてここは皇太子の治世の春花の榮ゆる如くにあらむと期待せしをいへるなり。
○望月乃 「モチツキノ」とよむ。和名抄「此間云望月毛知豆岐」とあり「滿《ミチ》月」の義なりといへり。十五夜の滿月をさせり。さてこれも枕詞なりといふ説あれど、上の春花とおなじく事柄を形容していへるにて枕詞にあらず。かくてこれは春の花に對して秋の滿月をさせるなり。
(300)○滿波之計武跡 舊訓「ミチハシケム」とよみたり。されど「ミチハシ」といふ語あるべくもあらねば從ひがたし。滿は「足」なれば「タラハシケム」ともよむべけれど、契沖が卷十三の挽歌に「十五月之多田波思家武登《モチツキノタタハシケムト》」(三三二四)とよめるにあはせて「タタハシケム」とよむべしとしてより動かぬ説となりぬ。「タタハシ」といふ語は靈異記の上の訓注に「偉タヽ波シ久」とあるが、その本文は「天皇兄之恐、偉進2幣帛1令v還2落處1」とあり。又同中卷にも「偉」に「タヽハシク」の訓注ありて、その本文は「聖武天皇代、衣女得v病時、偉備2百味1祭2門左右1賂2於疫神1而饗之也」とあり。又新撰宇鏡には「※[人偏+鬼]」に「太々波志」の訓あり。これはその注に「恠也、美也、盛也」と見ゆる、その盛字の注に相當するものなるべし。なほ新撰字鏡十二卷本には「僂」字にも「太々皮志」の注あれど、これは「偉」と「僂」とを混同したるものなるべし。さて「※[人偏+鬼]」は廣韻に「天鬼」増韻に「偉大也」とある義にて盛大の貌なるべし。かくて「タタハシ」はもと、堪ふといふ語を形容詞に化せしめたる語にて、その「堪ふ」は事物の滿ち足らひたることをいふ語なれば滿の字の義に合せり。次に「タタハシケム」は「タタハシカラム」を約めたる語にして「タタハシクアラム」の意なり。
 以上四句は二句づつ對をなせるが二の「と」にて相對して下の「思ヒ」につづくるなり。
○天下 「アメノシタ」にして異なる意なし。
○一云食國 天下を一説に「ヲスクニ」とありとなるが、考にはこれをよしとせり。されど、本行にて不可なることなきなり。
○四方之人乃 「ヨモノヒトノ」とよむ。國中いづれの人々もの意なり。
(301)○大船之 「オホフネノ」とよむ。「たのむ」の枕詞なり。船の大なるものは海上にてはただ一のたのみとするものなればなり。例は甚だ多く一一あぐべからぬが、一二をいはば、この卷「二〇七」に「大船之思憑而《オホフネノオモヒタノミテ》」卷四「五五〇」に「大船之念憑師君之去者《オホフネノオモヒタノミシキミガイナバ》」卷五「九〇四」に「大船乃於毛比多能無爾《オホフネノオモヒタノムニ》」などあり。
○思憑而 「オモヒタノミテ」とよむ。童蒙抄に「オモヒヲカケテ」又は「オモヒヲヨセテ」とよみたれど、舊訓のままにてよし。「憑」は「タノム」とよむ字なるのみならず、卷十三「三三〇二」の「大舟乃思恃而」の如きは「オモヒタノミテ」とよまむ外なきのみならず、上にもあげたる卷五「九〇四」の「大船乃於毛比多能無爾」の例などにて「オモヒタノム」といふ語のありしことを明かに證すといふべし。こは、此皇太子の即位ましなばいかに政のめでたからむと思ひ、如何に事物のよく滿ち足らひなむと思ひて信頼してといふ意なり。
○天水 「アマツミヅ」とよむ。天より降る水にて雨をさすなり。天水を乞ふが如くの意にて下の仰ぎて待つにつづくものなるが、從來これを枕詞としたれど、枕詞の性質を有するものにあらずして、明かにこの歌の意に關係を有せり。次にいふべし。
○仰而待爾 「アフギテマツニ」とよむ。卷十八に「天平感寶元年閏五月六日以來の旱」あり六月朔日に雨雲の氣を見て大伴家持のつくれる歌に「彌騰里兒能知許布我其登久安麻都美豆安布藝弖曾麻都《ミドリコノチコフガゴトクアマツミヅアフギテソマツ》」(四一二二)とあるは實際に雨を乞ひたる情をうたへるものなり。ここは大旱に天を仰ぎて雨を乞ひてその降るを待つが如くにその御即位の時を仰ぎ持つにといふなり。即ち(302)天水は枕詞にあらずして、「天ヲ仰ギテ天水ヲ待ツガ如ク」と一旦形容して、更にその御即位の時を仰ぎ待つにといへるなり。
○何方爾御念食可 「イカサマニオモホシメセカ」なり。この語は卷一「三九」この卷「一六二」に既にいへり。
○由縁母無 舊訓「ユエモナキ」とよみ、代匠記には「ヨシモナキ」とよみ、玉の小琴には「ツレモナキ」とよめり、これは下に「所由無佐太乃岡邊」(本卷「一八七」)とあるも同じ趣の語なるが、これらはいづれも、その殯宮葬所をさせる語遣なり。而してかかる揚合のものを假名書にせるを見るに、卷三「四六〇」に「都禮毛奈吉佐保乃山邊爾《ツレモナキサホノヤマベニ》」卷十三「三三二六」に「津禮毛無城上宮爾《ツレモナキキノヘノミヤニ》」とある皆同じ趣なれば、ここも玉の小琴の説によりて「ツレモナキ」とよむべきなり。意義は字面の如く、「由縁」「所由」を「つれ」といふ語にあてたるが、これ今いふ關係縁故といふ如き意を「つれ」といひしなるべき(「つれ」は「つるる」意にて關係縁故の意あり)が、その意義にて「つれなし」とはこゝにては「ゆかり」の人も無きの意にして御陵墓を營むところはいづれも物淋しく思はるる所なればいへるならむ。強顔をツレナシといへるはこれより出でしにて、もとは一語なるが意稍かはれるなり。
○眞弓乃崗爾 「マユミノヲカニ」とよむ。「崗」の字につきては卷一「二」にいへり、延喜式諸陵寮式に「眞弓丘陵、岡宮御宇天皇、在2大和國高市郡1、兆域東西二町、南北一町、陵戸六烟」とあり。「岡宮御宇天皇」とは日並知皇子尊の追尊の號なり。續日本紀天平寶字二年八月の條にあり。なほ續日本紀、天平神護元年十月の條に「發酉車駕過2檀山陵1詔2陪從百官1悉令v下v馬儀衛卷2其旗幟1」と見ゆ。(303)この山陵は今高市郡越智岡大字森にあり。
○宮柱 「ミヤバシラ」とよむ。宮殿の柱をいふこと卷一「三六」にいへり。
○太布座 古來「フトシキマシテ」とよめり。「テ」にあたる文字なけれど、上の例の如く、下の句のよみ方に准ずべきものなれば、古來のままによむが穩かなり。その意は卷一「三六」にいへる如く、宮殿を營みますことをいへるなり。
○御在香乎 舊訓「ミアリカヲ」とよめれど、「ミアラカヲ」とよむべきこと、卷一「五〇」にいへる如くなるが、その意義は通常皇居をさし奉るに用ゐたるが、ここは殯宮なるべきを皇太子を天皇に准じていへる趣なればかくいへるなるべし。
○高知座而 「タカシリマシテ」なり。この語の意は卷一「三八」にいへる如く、意は「フトシキマシテ」におなじ。以上四句は二句づつ相對せり。
○明言爾 古來「アサゴトニ」とよむ。童蒙抄には「言」を「暮」の誤かといひてて「アケクレ」とよみたれど、いづれの本にも誤字なければ、從ひ難し。「明」を「アサ」とよむは朝の義に惜りたるなり。「言」も「毎」の意に借り用ゐたるなり。朝毎といふも日毎の意なり。代匠記に曰はく、「物のたまふ事は朝にかぎらざれども、伺候する人はことに朝とくより御あたりちかくはべりて物仰らるる也」とあり。かくの如き事には相違なけれど、これはただ語の解釋としていへるにすぎず。古の公に仕へ奉るものの常の事としてこの事を見るなり。そは如何といふに延喜式の陰陽寮式「撃d開2閇諸門1鼓u」の條に
(304) 起春分三日至九日
  卯二刻四分開諸門鼓
 ○卯四刻五分開大門鼓
 ○巳三刻八分退朝鼓
  酉三刻六分閇門鼓
 夏至十五日の頃
  寅四刻開諸門鼓
 ○卯二刻開大門鼓
 ○巳一刻八分退朝鼓
  戊一刻九分閇門鼓
 冬至十五日
  卯四刻六分開諸門鼓
 ○辰二刻七分開大門鼓
 ○午一刻六分退朝鼓
  酉一刻二分閇門鼓
とあるを見れば、百官の伺候は大體卯の刻(午前六時)にして退朝は巳の刻(午前十時)なりしを見るべく、又太政官式に辨官の申政時尅を
 自三月至七月辰三尅(午前八時)
 自九月至正月巳三尅(午前十時)
 二八兩月巳一尅
とありて今日の如きさまにあらざるのみならず、日本紀舒明天皇八年の條に「大|派《マタ》王謂2豐浦大臣1曰群卿及百寮朝參已懈。自今以後、卯始之、已後退之。因以v鐘爲v節。然大臣不v從」とあり。宮(305)衛令義解に「假如2卯之二刻1可v撃2第二鼓1」(大門ヲ開クナリ會昌應天ノ二門)」とあるにても知るべく、この事支那にも聞えたりと見え、隋書の倭國傳に「天未v明時出聽v政、跏趺坐、日出便停2理務1云々」とあり。又今昔物語に「昔、官ノツカサニ朝廳トイフ事ヲ行フイマダ曉ニ火ヲトモシテゾ人ハマヰリケル」といひ、續古事談に「昔平城天皇ノ御時マデハ此國ニモ朝マツリコトシ給ケリ……嵯峨天皇ヨリコノカタコノ事スタレニケリ云々」とあり。かくの如くにして早朝に公に至り、遲くも午刻までには退朝せしなり。これ即「朝」といふ文字の正しき義にして、ここに「明」字を用ゐたるも實事につきていへるにて代匠記の説はなほ不十分なりといふべきなり。
○御言不御問 舊本「ミコトトハセズ」とよみたり。不御問を「トハセズ」とよめるは敬語を用ゐたるなるべけれど、「セ、ス」の下二段活用の敬語は平安朝時代よりものに見ゆれば、奈良朝以前の語とは見えず。考に「ミコトトハサズ」とよめるをよしとす。「御問」の字面は「トフ」の敬語をあらはせるものなるべければ、「トハス」と佐行四段に再活せしむべきものなるそれより「ズ」につづけたるなればなり。「こととふ」とは物をのたまふなり。卷三「四八一」に「辭不問物爾波在跡《コトトハヌモノニハアレド》」卷五「八一一」に「許等等波奴樹爾波安里等母《コトトハヌキニハアリトモ》」卷二十「四四四〇八」に「今日太仁母許等騰比勢武等《ケフタニモコトトヒセムト》」などあり。これより日月の數多くなりぬるにかかるなり。檜嬬手はこの下に「暮言爾御物|不告《ノラサズ》」といふ句の脱せるものとせるは上の「アサ」に特別の意あるを忘れたるものにしてとるにたらず。
○日月之 舊訓「ヒツキノ」とよめり。童蒙抄に「ヒルヨルノ」とよみたれど、無理なり。考には「ツキヒノ」とよめり。この方は一理あることなるが、「ツキヒ」とよむべきは卷十三「三二四六」に「天有哉(306)月日如吾思有公之《アメナルヤツキヒノゴトクワガオモヘルキミガ》」とかきてあり。而「ツキヒ」とあるは多く、時間の「ツキヒ」をいへるなれば、なほ「ヒツキ」なるべし。されど、明かには決しがたし。
○數多成塗 舊訓「アマタニナリヌ」とよめり。玉の小琴には「マネクナリヌル」とよみ、檜嬬手に「マネクナリヌレ」とよめり。さて「アマタ」といふ語の假名書の例は本集にももとより存すれど、(卷十七「四〇一一」「安麻多」卷十四「三三五〇」一説「安麻多」卷十二「三一八四」「安萬田」等)「塗」を「ヌ」とのみよむは他に例なければ、「ヌル」若くは「ヌレ」とよむべき事なるが、かくすれば、「アマタニ」とよまむ事無理となるべければ「マネク」と三音によむをよしとす。「マネク」は卷一「八二」の「ココロサマネシ」の條にいへる如く、物事の多くしげきをいへる形容詞にして、その釋はその所によりて具體的に見るべきが、その言問ひまさぬ日數の多くなりたるをいへるなり。さて「塗」を「ヌル」とよむべきか、「ヌレ」とよむべきかといふに、「ヌレ」とよむ説はこれを條件とせる如くなるが、かくしては上に「イカサマニオモホシメセカ」とある「カ」といふ係に對する關係不明にならむ。ここは上の「カ」の結びなれば、連體形の「ヌル」にて終止せるなり。これを新考に「イカサマニオモホシメセカ……月日ノマネクナリヌルといひては義理通ぜざれば「マネクナリヌル」にて結べるにはあらで、結びを省けるなり」といはれたれど、これはただ「月日のまねくなりぬる」といふだけにて結べるものにあらず。「おもほしめせか」より下、「まねくなりぬる」まで全體の歌の意を以てこれに對應せるものなれば、誤にはあらず。さてここにて第二段落をなせり。
○其故 舊訓「ソノユエニ」とよめり。考は「ソコユヱニ」とよむべしとせり。按ずるに「ソノユヱ」と(307)いへる例本集に見えず、又この頃の語遣とも見えず。本集「一九四」に「所虚故名具鮫魚(兼)天《ソコユヱニナクサメカネチ》」卷十九「四一五四」に「曾己由惠爾《ソコユヱニ》」などの例によりて考の訓みに從ふべし。「そこ」とはその點といふにおなじ。
○皇子之宮人 「ミコノミヤビト」とよむ。皇太子の宮即ち春宮の職員、即ち春宮傅よりはじめて舍人までに至るをおしなべていふ事なり。大宮人に對していふ詞とも考ふべし。而してここは主として多くの舍人をさせるものと思はる。
○行方不知毛 「ユクヘシラズモ」とよむ。この語の例は卷三の柿本人麿の歌に「物乃部能八十氏阿白木爾不知代經浪乃去邊白不母《モノノフノヤソウヂカハノアジロキニイサヨフナミノユクヘシラズモ》」(二六四)卷七「一一五一」に「大伴之三津之濱邊乎打曝因來浪之逝方不知毛《オホトモノミツノハマヘヲウチサラシヨリクルナミノユクヘシラズモ》」とあり。これを往々その宮人の殯宮に奉仕する日數へて散り/\になりて行く方をしらぬ由にいへれど、如何なり。これは考に「その舍人の輩この尊の過ましてはつく所なくて思ひまどへることまことにおしはかられてかなし」といへる如く、それらの人人が將來如何にせばよきか方途に迷ふをいへるなり。以上にて第三段なり。
○一云刺竹之、皇子宮人、歸邊不知爾爲  一説にこの第三段をば、「サスタケノミコノミヤビト、ユクヘシラニス」とありとなり。これらの句よりも本行のよかるべきが故に委しく論する必要なき所なるが、最後の一句は古寫本中、神田本には「ユクヘシラニシテ」西本願寺本京都大學本等は「ユクヘイサニシテ」とよみ、童蒙抄には「シラザリシ」とよめり。文字のままならば、上の余がいへる如くよむべきが、かくよむときは其の「シラニス」といふ語は語學上の研究問題となるべきも(308)のなり。されど今これを論ぜず。
○一首の意 この歌三段落なり。第一段は先づ、天地の初、天河原に八百萬神の集りて議行賜ひし時に、高天原をば天照大御神の知しめすことと定まり、天孫は此の豐葦原の瑞穂國をば天地のあらむ限り知しめす現つ神として、天降りましましてより代代の天皇のしろしめしが、わが日並知皇子尊は「此國は今飛鳥の清御原宮にます天皇の所知す國なり」として天の石門を開き給ひて天に登り給ひぬとなり。第二段はわがしたひ、尊び奉る此の皇子尊の天下所知しめす事あらば、春の花の如く世は榮えに滿たむと思ひ、秋の望月の如く、百事足り給して、人々鼓腹撃壤の興あらむと、四方の人民らも深く信頼し奉り、鶴首して仰ぎ奉りつつありしに、如何なる故にか、ゆかりもなきかのさびしき眞弓の岡に宮つくりてかくりまして、宮の舍人等の毎朝伺候するにも御言をものたまはせ問はせ給ふ事もなくて月日重なりぬることよとなり。第三段はかくの如き有樣となりはてたれば、皇子の宮人は如何にせばよからむと方針にまよひ途方にくれてあることよとなり。
 
反歌二首
 
168 久堅乃《ヒサカタノ》、天見如久《アメミルゴトク》、仰見之《アフギミシ》、皇子乃御門之《ミコノミカドノ》、荒卷惜毛《アレマクヲシモ》。
 
○久堅乃 「ヒサカタノ」天の枕詞なること、既にいへり。
(309)○天見如久 舊板本「アメミルゴトク」とよめり。古葉略類聚抄、神田本等には「ソラミルガゴト」とあれど、「天」を「ソラ」とよむも「如久」を「ごと」とのみよむも理由なければ從ひがたし。意は明かなり。天を仰ぎ見る如くになり。
○仰見之 「アフギミシ」なり。この仰ぎと本歌の「仰而待爾」といへると同じ「仰ぎ」といふ語なれど、意は少しくかはれり。「仰ぐ」といふ語は下にありて上を仰ぐをいふ語なるが、本歌のは天を仰ぎ見る實際をいへる語としてあらはし、ここのは尊び敬ふ態度を形容する語に用ゐたるなり。
○皇子乃御門之 「ミコノミカドノ」とよむ、考には「こは高市郡橘の島宮の御門也。さて次の舍人等が歌どもにも此御門の事のみを專らいひ、下の高市皇子尊の殯の時人万呂の御門の人とよみしをむかへみるに、人万呂即舍人にてその守る御門を申す也けり」といへり。その島宮の事は次下の「一七〇」の歌等に明かなるが、御門を字のまま御門といへるは從ふべからず。既に卷一「五〇」に「吾作日之御門爾」といひ、「五二」に「藤井我原爾大御門始賜而」といへる條にもいへる如く、一部を以て全體を代表せしめしものにして、島の宮をさせること疑ふべくもあらず。次にこれの歌を以て人麿をばこの宮の舍人なりしならむといふ事は或は然らむといふべきなれど、舍人の職を以て御門を守る職とすることは不當なり。舍人の事は「一七一」に至りていふべし。
○荒卷惜毛 「アレマクヲシモ」とよむ。荒れむことの惜しきことよとなり。「毛」はここにては感情をあらはすに用ゐたり。かくの如き例は卷一「五五」に「朝毛吉木人乏母《アサモヨシキヒトトモシモ》、亦打山行來跡見良武(310)樹人友師母《マツチヤマユキクトミラムキヒトトモシモ》」とあるが如し。
○一首の意 我等が天を見る如く、敬虔の念を以て仰ぎ見し日並知皇子尊の御宮殿は今は棲む人なくて漸くに荒れ行かむと思へば、まことに殘念なることよと歎きたるなり。これにつきては古は死を穢れとして忌みたる爲に死者を出しし住居は住み捨てて荒るに委せたるものなり。これ上代に天皇一代毎に遷都ありし所以なるが、この歌の趣もその精神のあらはれたるものなり。さればその御宮殿の荒れ行くはその主人たる皇子尊の薨去の結果たるなり。
 
169 茜刺《アカネサス》、日者雖照有《ヒハテラセレド》、烏玉之《ヌバタマノ》、夜渡月之《ヨワタルツキノ》、隱良久惜毛《カクラクヲシモ》。【或本云以件歌爲後皇子尊〔左○〕殯宮之時歌反也】
 
○「茜刺」 「アカネサス」とよむ。「アカネサス紫野」といふこと卷一「二〇」にあれどここは稍異にして「日」「晝」などの枕詞とせるものなり。その意義につきては諸説紛々たり。「茜」は元來「アカネ」といふ草をさす文字なるが本草和名には「茜根」に注して「和名阿加禰」といひ、和名抄には「茜」一字に「阿加禰」と注せり。そはこの草の根は赤色の染料とするものなればなり。さてこの「アカネ」の語を釋するに諸家の説まちまちなれど、要するに、「ね」は「に」(丹)なりとか(檜嬬手)「ね」は唯添へたる言なりとか(萬葉枕詞解)日は赤色の根なりとか、(石上枕詞例)、或は「アカネ」は「カネ」の反「か」にして「アケ」なり(考)とかいふ如き説なるがいづれも「赤色」と解してしかも「ネ」の解釋につまづけるものなり。按ずるにこの「茜」は和名抄に染色具としてあげたる如く、草としても見らるるが、染料としても見らるるものなり。而して染料を以て直ちにその色の名とすること古今に通じたる現象な(311)るが、古にありては、「蘇芳」「櫨」「梔子」「橡《ツルハミ》」「紫草」「紅藍」「藍」の如き(共に倭名抄染色具にあり)いづれもその色の名目として用ゐられたるものなるが、本集にて染料の名を以て直ちにそのあらはせる色の名目とせるものを傍證として求むれば紅には卷五「八〇四」に「久禮奈爲乃意母堤乃宇倍爾《クレナヰノオモテノウヘニ》」卷十「八六一」に「久禮奈爲乃母能須蘇奴例弖《クレナヰノモノスソヌレテ》」などあり。紫草には卷十二「二九九三」に「紫綵色之※[草冠/縵]花八香爾《ムラサキノイロノカツラノハヤヤカニ》」卷七「一三四〇」に「紫絲乎曾吾搓《ムラサキノイトヲソワガヨル》」等例多し。(この紫は當時紫色の名のみにあらざりしことは「紫之根延横野之春野庭《ムラサキノネハフヨコヌノハルノニハ》」卷十「二八二五」とあるにても知るべし。)されば、この「茜」も染料としての名目にしてやがてそれにて染めたる色の名目とせしものといふべし、誰か、紫紅は染料の名にして同時に色の名目なるを肯肯すれど、茜のみは染料たるのみにして色の名目たるものにあらずといひうるものぞ、さればこの「アカネ」はただ茜色なるなり。かく考ふれば「ネ」に何等特別の解釋を工夫する必要なきなり。さてここの「さす」は紫の枕詞たる場合の「さす」と同音なれど義異にして、今「日の光のさす」といふ如く光線の發することをいへるなり。即ち赤色の光の射すといふ意にて「日」の枕詞とせり。
○日者雖照有 舊板本「ヒハテラセレド」とよみたり。古寫本には「テラセドモ」とよめるもの(金澤本、類聚古集、古葉略類聚鈔、温故堂本等)あれど、「照有」をただ「テラス」とよむことは無理なれば、板本の訓をよしとす。この「日」は天皇をたとへていへり。考にこの説を否定して「さてはなめげなるに似たるもかしこし。猶もいはば、此時天皇おはしまさねば、さるかたにもよくかなはざるめり」といへり。これ一は「てらせれど」といふ詞遣をさして無禮なりと考へたるにてもあるべ(312)く、一は當時持統天皇御即位以前なれば、いへるならむが、天皇を日にたとへて申すは無禮なりとは如何なる意味なるか。又御即位以前に天皇といはずとしても日にたとへ申さむは何のなめげなる事あらむや。この故にその説には從ふこと能はず。
○烏玉之 「ヌバタマノ」とよむ。この語は本卷「八九」に「奴婆珠乃」とある條にいへり。ここにては「夜《ヨ》」の枕詞なり。
○夜渡月之 「ヨワタルツキノ」とよむ。「夜空を渡る月の」といふ義なり。「渡る」は一端より他端に行き至るをいふ。月は運行するものなればいへり。本卷、上の「一二四」の長歌に「屋上乃山乃自雲間渡相月乃《ヤカミノヤマノクモマヨリワタラフツキノ》」の「渡ラフ」も同じ趣の詞なり。この「月」は上の「日」に對して皇子尊をたとへたるなり。而してかく月にたとへ奉ることは「日並皇子尊」と申し奉る意にもよくかなへり。
○隱良久惜毛 「カクラクヲシモ」とよむ。「カクル」は古、四段活用なりしことは古事記下雄略卷の歌に「袁登賣能伊加久流袁加袁《ヲトメノイカクルヲカヲ》」日本紀卷二十二の歌に「夜須彌志斯和餓於朋耆彌能※[言+可]句理摩須阿摩能椰蘇※[言+可]礙《ヤスミシシワガオホキミノカクリマスアマノヤソカゲ》」古事記上の歌に「阿遠夜麻邇比賀迦久良婆奴婆多麻能用波伊傳那牟《アヲヤマニヒガカクラバヌバタマノヨハイデナム》」などあり。それより「く」につづけて「かくらく」とせるが、これはかくるることの惜しきことよとなり。
○一首の意 天皇は天日の照すが如く儼然とましませば、尊く頼もしく思ひまゐらすれど、さても日に對する月として相並びますべき皇子尊の隱れたまひしことの惜しきことよとなり。
 
或本云以2件歌1爲2後皇子〔左○〕尊殯宮之時歌反1也
 
(313)○或本云 金澤本等に「云」なし。なきをよしとす。これ以下は或本に載せたる説をあげたるなり。
○以件歌爲2後皇子尊殯宮之時歌反1也 「尊」字流布本「貴」とせり。されど、金澤本をはじめ多くの古寫本「尊」とせれば、、「貴」誤なること著しければ改めつ。後皇子尊とは高市皇子尊をさす。この皇子の薨去の時の歌は「一九九」に長歌その反歌二首(二〇〇、二〇一)下にあり。或本にはその反歌の一とせりとなり。「歌反」は代匠記に「反歌」の誤かといひしより後そが誤なること明かなりとして書き改めたる本少ならず。(考略解等)されど、諸本ここに一も然かける本なく、金澤本には「歌返」とかけり。かくの如く一も證なき事なれば、反歌の誤なりとして直ちに書き改むるは武斷といふべし。按ずるに天元書寫の琴歌譜に「茲都歌」の「歌返」といふあり。これによりて考ふるに、古この類の歌を反歌とも歌返とも二樣の語にてあらはす事ありしにあらざるか、而してこれを漢文のさまにしては反歌と書き國語にては歌返といへる事ありしにあらざるか。然りとせば、これかへりてたまたま古の國語を傳へたるものにして、その方にとりては貴重なる史料といふべきなり。これを誤なりとして書き改むるが如きは貴重なる史料を湮滅するものとならむ。されどこの事は十分の研究を經ずしてはいづれとも斷言しがたき事なりとす。
 
或本歌一首
 
○ この歌ここに別にあげたれば、もとより上の長歌の反歌にあらず。考の説には次の二十三(314)首の中の一首が紛れてここに入りたりといひ、檜の嬬手は考の説に基づきて、次の題詞をこの所にうつし、二十三首を二十四首とし、古義はこれを二十三首中の異説とせり。されどさる事はいづれも證なき事を斷ぜるにて從ふべからず。ここに「或本歌」と題せるは或はこの歌をも或本に柿本人麿の草壁皇太子の挽歌としてあけたりしにてもあらむか。
 
170 島宮《シマノミヤ》、勾乃池之《マガリノイケノ》、放鳥《ハナチトリ》、人目爾戀而《ヒトメニコヒテ》、池爾不潜《イケニカツカズ》。
 
○島宮 「シマノミヤ」とよむ。もと「シマミヤノ」とよみたりしを仙覺が改めたるなり。この宮は日並知皇子の御殿の稱なり。かく稱ふる名義は島即ち庭作りのある宮といふ義にして、この島を主として稱へたる名なり。島とは庭に池島などを作りたるをいふことにして、俗にいふ築山、山水《センスヰ》などにあたる語なり。卷六に「鶯之鳴吾島曾《ウクヒスノナクワカシマゾ》」(一〇一二)卷二十に「屬目山齋作歌三首」のうちに「乎之能須牟伎美我許乃之麻家布見禮婆《ヲシノスムキミガコノシマケフミレバ》」(四五一一)とあるなどにて知るべし。又伊勢物語に「島このみ給ふ君なり此石を奉らんとのたまひて云々」といふあり。これは山科の禅師のみこの事を申ししなるが、同じ物語に「その山科の宮に瀧おとし、水はしらせなどして面しろくつくらせたるにまうで給うて云々」とあるにて島即ち造り庭の事なるを明かに知るべし。日本紀推古天皇三十四年條蘇我馬子死去の條に「家2於飛鳥河之傍1庭中開2小池1仍興2小島於池中1故時人曰2島大臣1」とあるにてかくの如きを島といふことの由來久しきを知るべし。俗に祝賀の席などに、据うる作物に島臺といふ名あるもその名殘なり。さてこの島宮は日本紀卷二十八(315)のはじめに天武天皇が東宮を辭して吉野に入りたまふ途次に一夜宿し給ひし由にて「是夕御2島宮1」の記事あり。又壬申の亂平ぎて凱旋せられし時の記事にも「九月巳丑朔……庚子詣2于倭京1而御2島宮1癸卯自2島宮1移2崗本宮1」とあり。この島宮は蓋し蘇我馬子の邸の舊地なりしを離宮とせられしならむ。天武天皇五年には「正月乙卯−是日天皇御2島宮1宴之」とも見えたり。後この宮に草壁皇太子の居住ましまししならむ。この宮に池のありしは日本紀天武天皇十年九月の條に「辛丑周芳國貢2赤龜1乃放2島宮池1」と見え、又島の營みありしは本集この卷の下なる舍人等が歌に「御立爲之島乎見時《ミタタシノシマヲミルトキ》」(一七八)「御立爲之島乎母家跡住烏毛《ミタタシノシマヲモイヘトスムトリモ》」(一八〇)「御立爲之島之荒磯乎今見者《ミタタシノシマノアリソヲイマミレバ》」(一八一)「島御橋爾誰加住舞無《シマノミハシニタレカスマハム》」(一八七)「御立之島爾下座而《ミタタシノシマニオリヰテ》」(一八八)などあるにて知らるべし。この島宮の舊地は今高市村大字島莊の地なるべしといふ説信ずべく、その池の名殘はその一郭高等小學校の邊にある池田といふ地名に殘れりといふ辰巳利文氏の説信ずべし。
○勾乃池之 古寫本中に「マナノイケナル」などよみたるを仙覺が「マガリノイケノ」とよみたるによりて正しくなれり。この勾乃池とは蓋し御庭の中の池の名なるべし。攷證には「こは御庭の中の池ながら勾《マガリ》は地名也」といひて、安閑天皇の勾金箸宮をここなるべしといひたれど、その勾の地は畝傍山の西北にあたる地にして、ここには縁なきなり。ここは恐くはその池の形などより名づけられしものならむか。
○放鳥 「ハナチドリ」とよむ。次の二十三首の中の歌にも「島宮上池有放鳥《シマノミヤウヘノイケナルハナチドリ》」(一七二)とあるに照し、又下の句に「池爾不潜」とあるによりてその鳥は水鳥なりしことを思ふべし。さて「はなちとり」(316)といふにとりて、二樣の解を施しうべし。一は放ち飼にしたる鳥なり、一は籠に納れて飼ひし鳥を放ちたるなり。いづれにしても意義は通ぜるなり。今この所の放鳥につきては學者によりてその説二樣に分れたり。されば、先づそれらのうちいづれによらむかを考へざるべからず。放飼の鳥を「はなち鳥」といへる例は後のものにて古今六帖五伊勢の歌に「はなち鳥つばさのなきをとふからに雲路をいかで思ひかくらむ」夫木抄二十七常磐井入道の歌に「山さくらちりしく池のはなち鳥、おのかはかせも浪やよすらむ」などの例あれど、古きものには多く見えず。又飼鳥を放ちしを「はなちとり」といひし例は後撰集戀歌二に「かげろふにみしばかりにやはなちどり〔五字右○〕行くへもしらぬ戀に惑はむ」(六五五)といふ歌あり。これは流布本に「濱千鳥」とあれど、奧儀抄にはこれを「はなちどり」の例とし、「はなちどりとはこにいれてかふとりをはなちたるをいふ也」と説明せり。又古今六帖六に「はなちどり」の題の下に「はなちどりゆくへもしらずなりぬれば、放れしことぞくやしかりける」といふあり。これもいづれも同時代にあれば、いづれにも用ゐしを見るべく、萬葉集にはここと次なるとの外には例なければ、それをいづれと決せむことは容易の事にあらず。さて普通はその放ち飼ひにせる鳥の義にとれど、古義には「飼せ賜ひし鳥どもを薨まして後に放ちたるが、猶その池にをるなり。」といひて、大鏡に延喜の帝の崩御の時「その日左衛門陣の前にて御鷹どもはなたれしはあはれなりしものかな」とあるを引きて「むかしよりかゝる時はなちやる例と見えたり」といひ、又續後紀に「承和七年五月癸未、後太上天皇崩2于淳和院1云々是日於2建禮門南庭1放2奔鷹鷂籠中小鳥等1」又「九年七月丁末太上天皇崩云(317)云丁末放2棄主鷹司鷹犬及籠中鳥1」とあるをひけり。これに基づきて考ふれば、皇太子の薨後その飼はせ賜ひし鳥どもを放ち賜ひしことなしといふべからず。而してかくの如き事はこれ佛教の思想に基づくものにして所謂放生と唱ふるわざなり。この放生の事は金光明最勝王經卷第九長者子流水品第二十五に委しく説けるものにして、これに基づきかの八幡の放生會といふ事の起りしなり。この事のはじめは養老年中宇佐八幡宮にてはじまりし事なり。されば、この放生といふ思想と行事とは、この薨の時に無しとはいふべからざるなり。さてかく考へてここの歌なる鳥を考ふるに上にいへる如く水鳥なり。かく水鳥を籠中におきて飼ふことは遊覽の爲にはふさはしからず。或は今の動物園の如きさまにせしならむといふ説も出でむかなれど、なほしかにはあらずして、こゝははじめより放飼にせられしものならむ。されど、今は主なき鳥となりたれば、その意にて下の意の「はなちどり」といはむには異論あるまじけれど、元來はなち飼にせられしならむにはことさらにこの説をとらずともよからむ。
○人目爾戀而 「ヒトメニコヒテ」とよむ。「戀フ」といふ語の對象につきては後世は「ヲ」格にすれど、古くは「ニ」格にせしこと既に上に(一一一)述べたり。「人目」は人の目なり。その「人の目」といへる例は卷十「一九三二」に「春雨之不止零零吾戀人之目尚矣不令相見《ハルサメノヤマズフルフルワガコフルヒトノメスラヲアヒミセナクニ》」あり、その目といふ語の例は卷四「七六六」に「路遠不來常波知有物可良爾然曾將待君之目乎保利《ミチトホミコジトハシレルモノカラニシカゾマツラムキミガメヲホリ》」などありて、いづれも目のはたらきを主としていへるにて「ミルコト」「ミユルコト」「ミラルルコト」などをいへるがその場合によりて釋すべし。「人目」といへる例は「二〇七」に「人目乎多見」など集中例多し。さてここは人に見(318)られむことを戀ひてといふ語なるが、ただ人をこひてといふ意なるをかくいへるまでなり。
○池爾不潜 「イケニカツカズ」とよむ。古寫本は「くくらず」とよめり。「くくる」といふも古語にはあれど、それは日本紀景行卷に「泳宮此云|區玖利能彌椰《ククリノミヤ》」とある如く泳字の義たるなり。「かつく」も亦古語にして、古事記上卷に「初於中瀬|堕《オリ》迦豆伎而|滌《ソヽギタマフ》時成坐神」云々とあり。又同書中卷仲哀卷に「阿布美能宇美邇迦豆岐勢那和《アフミノウミニカヅキセナワ》」とあり。(日本紀の歌も略同文日本妃神功卷に「齊多能和多利珥介豆區苔利《セタノワタリニカヅクトリ》」とも見ゆ。又古事紀中卷應神卷歌に「美本杼理能迦豆伎伊岐豆岐《ミホドリノカヅキイキヅキ》」と見え、本集第十八に「珠州乃安麻能於伎都美可未爾伊和多利弖可都枝等流登伊布安波妣多麻《ススノアマノオキツミカミニイワタリテカツキトルトイフアハビタマ》」(四一〇一)などあり。この語の意は古事記傳に「潜は頭衝《カヅク》と云意の言にて頭を衝入れて逆に水中に沈むを云。故水鳥の水中に没《イル》をも海人《アマ》の魚|捕《トリ》に海に没を云りしといへるをよしとす。さてここはその水鳥の水中に頭をつき入れて没するをいふなれば「ククル」とよまむは由なく「カツク」とよむべきなり。
○一首の意 島の宮の勾池に放ち飼ひしてある水鳥は、よく人になつきてあれば人をなつかしく戀しがりて水上にのみうきゐて水中に潜き入ることもなしとなり。これ鳥の人を戀しがるをいひたるなるが、言外にその宮のさびしく人氣けなくなれるあはれさをあらはせるものなり。
 
皇子尊宮舍人等慟傷作歌二十三首
 
(319)○皇子尊宮舍人 皇子尊は、日並知皇子尊をさす。これは上にいへる日並知皇子尊薨去の時の歌なるを上につぎて書きたれば、端詞を略して簡にせるなり。皇子尊宮舍人は春宮の舍人をさせり。令の制春宮の舍人は定員六百人あり。その職務は令に明記なけれど、宮中の内舍人と大舍人との職務を兼ねたるものなるべし。内舍人は「掌2帶刀宿衛供奉雜使1若駕行分2衛前後1」と見え大舍人は「分v番宿直假使」せらるる由なり。
○慟傷 「慟」は説文に「大哭也」と注し、玉篇に「哀極地」と注す。國語にては類聚名義砂に「イタム」の訓あり。傷は説文に「創也」と注すれど、ここはその原義にあたらず。爾椎には「憂思也」と注したるが、ここはその事なるべく、訓は類聚名義抄にこれも「イタム」とあり。慟傷の熟字は未だ出所を知らねど、二字にて「イタミテ」とよむべきものなるべきが或は「ナゲキイタミテ」ともよむべし。この歌下にあぐるものすべて二十三首同時の作なる由なり。
 
171 高光《タカヒカル》、我日皇子乃《ワガヒノミコノ》、萬代爾《ヨロヅヨニ》、國所知麻之《クニシラサマシ》、島宮婆母《シマノミヤハモ》。
 
○高光 舊訓に「タカテラス」といひ、又古寫本中金澤本、神田本等には「タカクテル」といへるもあれど、文字のまま「タカヒカル」とよむべきなり。「たかひかる」といふ語の存せし證は古事記中卷景行卷の、美夜受比賣の歌に「多迦比迦流比能美古《タカヒカルヒノミコ》」又下卷仁徳卷の建内宿禰の歌にも同じ文字にてかける同じ語あり、同書雄略卷の伊勢國之三重采女が歌に「多加比加流比能美古《タカヒカルヒノミコ》」といふあり。若日下部の歌にも同じ文字にてかける同じ語あり、雄略天皇の御製には「多加比加流比能美夜(320)比登《タカヒカルヒノミヤビト》」といふあり。これにてその語の存せしを知るべし。この「高」は既に屡いひたる如く「天」をさす語にして、天に光るといふ義にて「日」の枕詞としたるなり。ここは下の「わが日のみこ」の「日」にかかりて枕詞となれるなり。
○我日皇子乃 「ワガヒノミコノ」とよむ。「日のみこ」は既に卷一、(四五、五〇、等)に屡いへる如く、日神の子孫におはす天皇、皇太子、皇子に汎く稱へ奉る稱なり。「わがひのみこ」と申し奉るは己が主人と仰ぐ皇太子といひ、尊敬と親しみとを表したる語なり。この下(一七三)の歌にもあり、又卷三「二三九」の柿本人麿の長歌にも「高光吾日乃皇子乃《タカヒカルワガヒノミコノ》云々」とあり。
○萬代爾 「ヨロヅヨニ」とよむ。萬代に亙りての義なり。「ヨロヅヨ」といふ假名書の例は(卷一に脱したればここにあぐ)卷五「八一三」に「余呂豆余爾伊比都具可禰等《ヨロヅヨニイヒツグガネト》」又「八七三」に「余呂豆余爾可多利都夏等之《ヨロヅヨニカタリツゲトシ》」又「八七九」に「余呂豆余爾伊麻志多麻比弖《ヨロヅヨニイマシタマヒテ》」卷十七「三九一四」に「餘呂豆代爾可多理都具倍久《ヨロヅヨニカタリツグベク》」「四〇〇三」に「與呂豆餘爾伊比都藝由加牟《ヨロヅヨニイヒツギユカム》」などあり。
○國所知麻之 舊板本「クニシラレマシ」とよみたれど義をなさず。古寫本には「シラシマシ」とせるもあり。(西本願寺本、温故堂本等)されどこれも意通せず。これは契冲が「クニシラサマシ》とよみたるをよしとす。即ち後の諸家皆之によれり。「シラサ」は「シル」の敬語「シラス」の未然形にして「マシ」は假想をあらはすものにしてその未然形所屬の複語尾なり。これは「シリタマハマシ」といふに略おなじ。而してこの「マシ」は連體形を用ゐたるにて下の島宮につづくるなり。即ちこれはこの皇子尊のここにましまして天下をしろしめさましと思ひしその島宮よとい(321)ひたるなり。「萬代に國知らす」といへる例は卷十九「四二六六」に「萬代爾國所知等《ヨロヅヨニクニシラサムト》」また「四二七四」に「萬代爾國所知牟等五百都々奈波布《ヨロヅヨニクニシラサムトイホツツナハフ》」などあり。又「まし」の連體格の例は、古事記下卷履仲段の歌に「多都碁母母母知弖許麻斯母能《タツゴモモモチテコマシモノ》」又本集にはこの卷のはじめの歌(八六)に「高山之磐根四卷手死麻思物乎《タカヤマノイハネシマキテシナマシモノヲ》」など例少からず。
○島宮婆母 「シマノミヤハモ」とよむ。「婆」字このままにて通ぜぬにはあらねど、金澤本、類聚古集等に「波」に作るをよしとす。「ハモ」をかく體言に添へて終止する例は古多かりしものなるが、その例をいはゞ、古事記中卷の景行段の歌に「佐泥佐斯《サネサシ》、佐賀牟能袁怒邇《サカムノヲヌニ》、毛由流肥能本那迦邇多知弖斗比斯岐美波母《モユルヒノホナカニタチテトヒシキミハモ》」又本集卷三「二八四」に「阿倍乃市道爾相之兒等羽裳《アベニイチヂニアヒシコラハモ》」卷十七「三八九七」に「伊時伎麻佐武等問之兒等波母《イツキマサムトトヒシコラハモ》」卷二十「四四三六」に「伊都伎麻左牟等登比之古良波母《イツキマサムトヒシコラハモ》」卷三「四五五」に「芽子花咲而有哉跡問之君波母《ハキカハナサキテアリヤトトヒシキミハモ》」卷十一「二七〇六」に「不飽八妹登問師公羽装《アカズヤイモトトヒシキミハモ》」又卷四「五七八」に「天地與共久住波牟等念而有之家之庭羽裳《アメツチトトモニヒサシクスマハムトオモヒテアリシイヘノニハハモ》」卷十「二二八五」に「吾戀度隱妻波母《ワカコヒワタルコモリツマハモ》」卷十一「二五六六」「情中之隱妻波母《ココロノウチノコモリツマハモ》」「二七〇八」「名耳所縁之内妻波母《ナニノミヨセシコモリツマハモ》」「二八〇三」「甚者不鳴隱妻羽毛《イタクハナカヌコモリツマハモ》」等あり。この「ハ」「モ」共に係助詞なるが、先づ「は」を體言に添へたるはその體言にてあらはされたるものをさして、「これは」の如き意を以て下略の語體をとり餘情を含めて終止したるものにして「モ」はその「何々は」(云々)の下に更に歎息の意をこむる爲に添へて終止とせるなり。即ち上の體言に「はも」を添へて終止せる諸例すべて同じ樣のいひ方になれるを見よ。いづれも、「何々は如何に」といふ如き意を下に含めて解しうべきを見て、この「は」は係助詞の「は」にしてその下に略語あるべき語遣なるを見る(322)べし。これを單に「はも」といふ一語にして嘆息の辭なりといふ如きは甚だ疎略なることなり。
○一首の意 我が仰ぎ尊び奉る皇子尊のここにおはしまして天下を萬代までも知しめさましとかねては思ひてありしこの島の宮は、君がかくれまししかば、今は人げもなくあれはててありし古の姿もなくなりしを見るに、行く末いかに成り行くらむと悲み思へる心をうたへるなり。
 
172 島宮《シマノミヤ》、上池有《ウヘノイケナル》、放鳥《ハナチドリ》、荒備勿行《アラビナユキソ》、君不座十方《キミマサズトモ》。
 
○島宮 「シマノミヤ」上にいへる所なり。
○上池有 「ウヘノイケナル」とよむべし。金澤本には「イケノオモナル」とよみたれど、「上」を「オモ」とよむは、無理なれば、從ひがたし。神田本には「池上有」とかきて、「イケノウヘナル」とよみたり。考はこれをよしとせり。童蒙抄は「上」は「勾」の誤なるべしといひて「マガリノイケノ」とよみ、古義これに從へり。されど、この誤字説は信ずべからず。「池上」と「上池」といづれにても意通ずべく、強ひて「池上」とせではあらぬ理由もなければ、普通の本のままによむべし。又美夫君志には上の池は勾池と別にして、山の上なる池なりと、いへれど、これも證なきことなり。下にある勾池と同じきか別なるか知るに由なきことなり。
○放鳥 上にいへり。
○荒備勿行 「アラビナユキソ」とよむ。この「アラビ」は粗暴の意の語とは別にして物の疎く遠ざ(323)かり行くをいふ。卷四「五五六」に「筑紫船未毛不來者《ツクシブネイマダモコネバ》、豫荒振公乎見之悲左《アラカジメアラブルキミヲミルガカナシサ》」卷十一「二八二二」に「栲領巾乃白濱浪乃不肯縁荒振妹爾戀乍曾居《タクヒレノシラハマナミノヨリモアヘズアラブルイモニコヒツツゾヲル》」などその例なり。
○君不座十方 「キミマサズトモ」とよむ。「キミイマサズトモ」とよみても不可ならず。その由は次にいふをみよ。「十方」は「トオモ」の義によりて假り用ゐたるなり。
○一首の意 島宮の池なる放鳥よ。たとひ君おはしまさずとも、荒び放れ行く事なかれ。君が御形見と見むほどにとなり。
 
173 高光《タカヒカル》、吾日皇子乃《ワガヒノミコノ》、伊座世者《イマシセバ》、島御門者《シマノミカドハ》、不荒有益〔左○〕乎《アレザラマシヲ》。
 
○高光 「タカヒカル」上にいへり。
○吾日皇子乃 「ワガヒノミコノ」とよむ。意は上にいへり。
○伊座世者 「イマシセバ」とよむ。「イマス」も「マス」と同じ語なるが、ここは「伊」を加へたれば、「イマス」といふべきは論なし。續日本紀の宣命を見るに、この語他の用言の下にあらず、獨立の用言として用ゐらるる時には必ず、「イマス」とかけり。これによりて思ふに、「イマス」が本語にして「マス」はその略せられたるなり。「イマス」とかける例は記紀萬葉共に多きが、一二をあげむに、古事記上卷に「那許曾波遠爾伊麻世婆《ナコソハヲニイマセバ》」日本紀卷九の歌に「區之能伽彌等虚豫珥伊麻須伊破多多須周玖那彌伽未能《クシノカミトコヨニイマスイハタタスクナミカミノ》」又本卷「二一〇」に「烏自物朝立伊麻之弖《トリジモノアサタチイマシテ》」などなり。「御座世者」は「イマセバ」ともよまれざるにあらねど、然するときは一音不足するのみならず、おはしますこととなりて事實に合せ(324)ず。加之下に「マシヲ」とあるに照して考ふるに、ここは必ず假設條件を示すものならざるべからず。これは上の長歌の「シラシメシセバ」と同意なるを言ひかへたるまでのものなり。されば「イマシセバ」とよむべきなり、卷三「四五四」に「愛八師榮之君乃伊座勢波昨日毛今日毛吾乎召麻之乎《ハシキヤシサカエシキミノイマシセバキノフモケフモワヲメサマシヲ》」とあるも同じ場合なり。さてかく「イマシセバ」とよむべしとする説のうちにもこれを「イマサバ」といふを延べたるなりといふ説は文法を無視したるものにして不當なり。
○島御門者 「シマノミカドハ」とよむ。御門は島官の入口なるを宮のかへことばに用ゐたるなれば、島の御門即ち島宮をさせるなり。
○不荒有益乎 「益」字流布本「蓋」とせり。されどかくてはよみ下し難し。古寫本の多數に「益」とせるが正しきこと明かなり。よみ方は「アレザラマシヲ」とよむことは古來異論なし。これは上の「イマシセバ」の假設條件に對しての假想的歸結たるなり。
○一首の意 わが親愛畏敬して仕へ奉りし皇子尊のこの世に古の如く坐しますとせば、この島の宮は荒れずにあらましものをとなり。これ「その宮に年來仕へ奉りし心には其宮の荒れゆく事の悲しきあまりに云へる也」と守部のいへるをよしとす。
 
174 外爾見之《ヨソニミシ》、檀乃岡毛《マユミノヲカモ》、君座者《キミマセバ》、常都御門跡《トコツミカドト》、侍宿爲鴨《トノヰスルカモ》。
 
○外爾見之 古來「ヨソニミシ」しとよみて異議なし。蓋し「ヨソ」といふ語は純なる國語にあらずして「餘處」といふ漢語の輸入せられしならむ。「餘處」といふ語は佛書に多くたとへば法華經壽量(325)品に「我常在2此娑婆世界1説法教化亦於2餘處百千萬億那由佗、阿僧祇國1導2利衆生1」などあり。されど、本集中に「よそ」と假名書にせる例少からねば、この頃に國語化せりしことは明かなり。その例卷三「三八三」に「筑羽根矣四十耳見乍有金手《ツクバネヲヨソノミミツツアリカネテ》」卷十四「三四一七」に「與曾爾見之欲波伊麻許曾麻左禮《ヨソニミシヨハイマコソマサレ》」卷十五「三五九六」に「之良奈美多加彌與曾爾可母美牟《シラナミタカミヨソニカモミム》」「三六二七」に「與曾能未爾見都追須疑由伎《ヨソノミニミツツスギユキ》」「三六三一」に「伊都之可母見牟等於毛比師安波之麻乎與曾爾也故非無由久與思乎奈美《イツシカモミムトオモヒシアハシマヲヨソニヤコヒムユクヨシヲナミ》」卷二十「四三五五」に「余曾爾能美美弖夜和多良毛《ヨソニノミミテヤワタラモ》」等なほ多し。この句の意は今まではよそに見しといふなるがその「よそ」に見しとは我に關はりなきものとみたりしといふ義なり。
○檀乃岡毛 「マユミノヲカモ」とよむ。檀は「マユミ」といふ名の木なり。それを上の長歌にいへる「マユミノヲカ」の文字に用ゐたり。
○君座者 「キミマセバ」なり。この眞弓岡を御墓所の地としてそこに君がおはしますによりてなり。
○常都御門跡 「トコツミカドト」とよむ。金澤本には「ツネツ」と訓をつけたれど、「つね云々」といふことは古語に例なきことなれば、從ひがたし。「トコ」は常住不變の意「ツ」は「ノ」に似たる古き助詞なり。「御門」は上の「島御門」と同じ用例なれば「トコツミカド」は永久に鎭ります宮の義なり。「ト」は今もいふ助詞なるが、ここは「トシテ」の義にとるべし。
○侍宿爲鴨 「トノヰスルカモ」とよむ。「侍宿」は漢文にも用ゐる熟字にして漢書地理志燕の風俗を記せるに、「賓客相過、以v婦侍宿」と見ゆ。今ここのと同じ意に用ゐたるは日本紀に見ゆ。先づ(326)雄略卷十一年條に「信濃國直丁與2武藏國直丁1侍宿相謂曰云々」とあり、又皇極三年條に「中臣鎌子連曾善2於輕皇子1故詣2彼宮1而將2侍宿1」とあるこれなり。この「侍宿」は古來「トノヰシテ」とよみ來れり。「トノヰ」は谷川土清が「殿居也謂2更番直宿1」といへる如し。古來「直」字に「トノヰ」の訓を加ふること類聚名義抄にて知るべし。直とは文選の注に「直謂d宿2禁中1以備c非常u也」と見ゆ。これは御墓所に奉事することをいへるなり。
○一首の意 今まで自分等に無關係のものと思ひたりし檀岡なれども、今は君が御陵所となりたれば、君がとこしなへに鎭ります宮所として今よりわれらは殿居する事かなといひてかはりはてたる世のさまを打ち嘆きたるなり。
 
175 夢爾谷《イメニダニ》、不見在之物乎《ミザリシモノヲ》、欝悒《オボホシク》、宮出毛爲鹿《ミヤデモスルカ》、作日之隅囘乎《サヒノクマミヲ》。
 
○夢爾谷 古來「ユメニダニ」とよみ來りしを考に「イメニダニ」とよめり。「ユメ」は「イメ」の轉じたるにて同じ語なれど、本集中假名書にして「ユメ」とあるもの一もなく、假名書なるはすべて「イメ」とのみあり。二三の例をあぐれば、卷四「四九〇」に「掾由毛思哉妹之伊目爾之所見《ココロユモオモヘヤイモガイメニシミユル》」卷五「八〇九」に「麻久良佐良受提伊米爾之実延牟《マクラサラズテイメニシミエム》》「八五二」に「烏梅能波奈伊米爾加多良久《ウメノハナイメニカタラク》」卷十五「三六四七」に「奴婆多末能比登欲毛於知受伊米爾之美由流《ヌバタマノヒトヨモオチズイメニシミユル》」など多し。一々あぐるにたへず。「谷」は「ダニ」といふ副助詞をあらはすに借りたるものにして「ダニ」は今「でも」といふに似たり。
○不見在之物乎 「ミザリシモノヲ」なり。今までは夢にも見ざりしものをとなり。これ下にい(327)へることの夢想もせざりし事なりといはむとてなり。
○欝悒 舊訓「オボツカナ」とよみたるを代匠記に「オボホシク」とよみ、童蒙抄に「コヽロウク」とよめり。按ずるに欝悒の熟字は支那にてすでに用ゐたるものなり。その例は文選の司馬遷が報2任安1書に「獨欝悒而誰與語」とありて、李善が注には「欝悒不v通也」とあり。さてこれをいかによむべきか、といふに、「オボツカナシ」といふ語は萬葉にも證あれど、その意はこの訓には十分にあたれりといふべからず。さてこの卷「二二〇」に「玉桙之道太爾不知欝悒久待加戀良武愛伎妻等者《タマホコノミチタニシラズオボホシクマチカコフラムハシキツマラハ》」とあるによりてこれが形容詞として用ゐられしを先づ知るべく、次に卷七「一二二五」に「狹夜深而夜中乃方爾欝之苦呼之舟人泊兼鴨《サヨフケテヨナカノカタニオボホシクヨビシフナヒトハテニケムカモ》」とあるによりて、これが、「シクシキ」活用の語なるを見るべし。然るときは「オボツカナシ」も「コヽロウク」も共に當らずして「おぼほしく」とよめるが當るべきを思ふ。さてその「オボホシク」の假名書の例は卷五「八八四」に「於保保斯久許布夜須疑南《オボホシクコフヤスギナム》」八八七」に「意保々斯久伊豆知武伎提可阿我和哥留良武《オボホシクイヅチムキテカアガワカルラム》」又卷十一「二四五〇」に「雲間從狹徑月乃於保々思久相見子等乎見因鴨《クモマヨリサワタルツキノオボホシクアヒミシコラヲミルヨシモガモ》」「二四四九」に「於保保思久相見子等乎後戀牟鴨《オボホシクアヒミシフコラヲノチコヒムカモ》」卷十五「三五七一」に「於保保思久見都都曾伎奴流《オボホシクミツツゾキヌル》」卷十六「三七九四」に「大欲寸九兒等哉《オホホシキココノノコラヤ》」卷十七「三八九九」に「於煩保之久都努乃松原於母保由流可聞《オボホシクツヌノマツバラオモホユルカモ》」などあり。その十七卷の例にて「オボホシ」といふべきを見る。語の意は「オボロ」の語根に基づくものと思はれ、「オボオボシキ」の意にして、前途の明からず不安にして夢地をたどる如き心地なるをいふ語と見えたり。
○宮出毛爲鹿 舊板本「ミヤイデモスルカ」とよみたれど、語をなさず。大多數の古寫本に「スルカ」と(328)よめるを正しとす。代匠記には「ミヤデモスルカ」とよめるがこれも不可ならず。今いづれをとるべきかといふに、契沖がいへるごとく卷十八「四一〇八」に「美夜泥之理夫利《ミヤデシリブリ》」といふ語あれば、これによりて「ミヤデ」とよむ方よかるべし。「ミヤデ」は宮に出づるにて宮門を出入ることをいへるなり。
○作日之隅回乎 「作」字大多數の古寫本に「佐」につくれり。萬葉集の例を見るに、「作」を「サ」の假名に用ゐたるはここの外七卷二十卷に見るのみにして佐は各卷に通じて頗る多ければ、「佐」の方よきならむ。されど、「作」を全く用ゐずとにもあらねば、姑くこのまゝにてあるべし。「隅」字金澤本、神田本に「隈」字につくれり。案ずるに隈隅相通じて用ゐ、類聚名義抄には共に「クマ」の訓を加へたれば、いづれにても「クマ」とよむに差支なきなり。さて「回」字宣長は「一本佐田とあるを用べし」といひ守部も其説につきて、佐田をよしとせり。されど、今かかる本を全く見ず。疑ふべきなり。思ふにこはもとのまま「サヒノクマ」といふをよしとす。何となれば、「サヒノクマ」といふ語は本集中他にも例あり。卷七「一一〇九」に「佐檜乃熊《サヒノクマ》、檜隈川之瀬乎早《ヒノクマガハノセヲハヤミ》」卷十二「三〇九七」に「佐檜隈檜隈河爾馬駐《サヒノクマヒノクマガハニウマトメテ》」とあるが如き明證なり。これらの「さ」は所謂發語にてただ「ヒノクマ」といふにおなじ。檜隈は今は眞弓村の南にある一地の名となりたれど、昔は和名抄、大和國高市郡の郷名に「檜前【比之久末】」とある地にしてその區域は今の野口、栗原、平田等に亙りての大名なりしことは多くの陵名にても知られたり。即ち「欽明天皇」檜隈阪合陵(下平田村にあり)「【天武天皇持統天皇】」檜隈大内陵(野口村)「文武天皇檜前安古岡上陵(栗原村)かくて、かの眞弓岡は或はその檜隈の地域内たり(329)しかもはかられず。若、眞弓岡が檜隈の地にあらずとすともかの御墓に通ふには必ず通らねばならぬ地なれば「サヒノクマミヲ」といへるなり。「回」を「ミ」といふこと及びその意は、卷一「四二」の「島回」の下にいへるが、「クマミ」といふ語の例は卷五「八八六」に「道乃久麻尾《ミチノクマミ》」とあるにて知るべし。「ヒノクマノアタリヲ」といふ義に近し。
○一首の意 かからむ事は夢にも知らざりしものを。今この檜隈の隈回を通ひつつ眞弓の山陵に宮出をするが、あまりにも思ひかけぬことにて夢に夢みる心地のすることよとなり。
 
176 天地與《アメツチト》、共將終登《トモニヲヘムト》、念乍《オモヒツツ》、奉仕之《ツカヘマツリシ》、情違奴《ココロタガヒヌ》。
 
○天地與 「アメツチト」とよむ。天地の永久に存在する如くそれと久しからむといふ意にてあげたるなり。かくいふことは古くより行はれしことにて日本紀神代卷二に、「寶祚之隆當2與天壤無窮1者矣」と見え、又卷四「五七八」に「天地與共久住波牟等念而有師家之庭羽裳《アメツチトトモニヒサシクスマハムトオモヒテアリシイヘノニハハモ》」卷十五「三六九一」に「天地等登毛爾母我毛等《アメツチトトモニモガモト》」の如く「天地と共に」といへる外、卷三「四七八」に「天地與彌遠長爾萬代爾如此毛欲得跡憑有之皇子乃御門乃《アメツチトイヤトホナガニヨロヅヨニカクシモガモトタノメリシミコノミカドノ》云々」卷十九「四二七五」に「天地與久萬※[氏/一]爾《アメツチトヒサシキマデニ》」などいへるあり。又出雲國造神賀詞に「大八島國天地日月知行」ともいへり。
○共將終登《トモニヲヘムト》 舊板本「トモニヲヘム」とよめり。「天地ト共ニ」は久しきことを強めていへる語なり。古寫本中には「將終」を「ハテム」とよめるあり、(類聚古集、古葉略類聚鈔)「オハラム」とよめるあり。(神田本)「終」字は「ハツ」ともよまれざるにあらねど「ヲフ」「ヲハル」とよむを普通とす。而して「ヲフ」(330)と「ヲハル」とにつきてその意を考ふるに、「ヲフ」は他を然する意にして「ヲハル」は自然の意を示す。今ここを「ヲハル」といひては天地と共に終るもの存せざるべからず。然るに、歌の意を考ふるに天地と共に終らむとする者ありてそれをうたへりとも考へられず。されば「ヲヘム」とよめる流布本のをよしとすべし。かく「をへむ」といふは豫想若くは預定をいへるものなるが、その詞遣の例は卷五「八一五」に「武都紀多知波流能吉多良婆可久斯許曾烏梅乎乎利都都多努之岐乎倍米《ムツキタチハルノキタラバカクシコソウメヲヲリツツタヌシキヲヘメ》」又卷十九「四一七四」に「春裏之樂終者梅花手折乎伎郡追遊爾可有《ハルノウチノタヌシキヲヘバウメノハナタヲリヲキツツアソブニアルベシ》」又琴歌譜の片降の詞に「阿良多之支止之乃波之女爾可久之己曾知止世乎可禰弖《アラタシキトシノハシメニカクシコソチトセヲカネテ》、多乃之支乎倍女《タノシキヲヘメ》」などあり。これらはその樂きことをなしをふる由にいへるなることも、「終ふ」といふ已上、そのなしをふべきわざなかるべからず。それにつきては新考に「ヲヘムは仕ヲ終ヘムなり(芳樹同説)」といへるをよしとす。さてその「樂しきを終へむ」「仕へを終へむ」といへる、その「ヲフ」といふ語の意は祝詞に屡「稱辭竟奉」といへるその「ヲヘ奉ル」といふと同じ意なるべきが、祝詞のは眞淵の祝詞考に「竟《ヲヘ》は盡《ツク》すをいふ古言なり。」といひ同人の延喜式祝詞解に「竟奉とは其賛稱の辭を不2遺落1して稱擧し奉るとの義なり」といへるにて今の語にていはば「ある事をしつくす」といふべきを「をふ」といへりしものと見ゆ。
○念乍 「オモヒツツ」なり。「乍」を「ツツ」とよむべきこと、卷一「二五」にいへり。
○奉仕之 「ツカヘマツリシ」とよむ。「仕奉る」の語は卷一「三八」にいへり。「仕フ」は實質用言なれど、「奉る」は敬語なり。
(331)○情違奴 「ココロタガヒヌ」とよむ。この語の例は卷十九「四二三六」に「光神鳴波多※[女+感]嬬携手共將有等念爾之情違奴《ヒカルカミナルハタヲトメタヅサハリトモニアラムトオモヒニシココロタカヒヌ》」とあり。心に豫期せしことの合期せず、意外の事の生ぜる時にいふことばなり。
○一首の意 上にいへる所にて略明かなるべし。然るに古來多くは「天地と共に」をば「皇子を天地とともに久しからむとおもひしと也」(略解)とやうに説くもの少からず。言ひ方は少しづつ異なれど、攷證、檜嬬手、美夫君志、みなこの説なり。然れどもかくては、「終へむ」といふに打ちあはぬこと新考に論ぜるが如く、又下の句の意味にも打ちあはぬなり。さて「天地と共にをへむ」といふは語の上にては上にいへる如くなるが、その結局は新考の説の如く、とこしへに仕へ奉らむといふ意なるなり。即ち天地のあらん限り御奉公申し上げむと兼ねては思ひてありしが、今や豫期もせざりし大變の生じて、その豫期も遂けられぬ事となりたりとなり。考に之を評して「ひたふるに思ひ入たる心をいふなり」といへるは當れり。
 
177 朝日弖流《アサヒテル》、佐太乃岡邊爾《サタノヲカベニ》、羣居乍《ムレヰツツ》、吾等哭涙《ワガナクナミダ》、息時毛無《ヤムトキモナシ》、
 
○朝日弖流 「アサヒテル」とよむ。朝日の照るなり。この下の歌にも「旦日照島之御門爾《アサヒテルシマノミカドニ》」(一八九)とあり。又「朝日照佐太乃岡邊爾《アサヒテルサタノヲカベニ》」(一九二)と全く同じ語なるもあり。考には「朝日夕日をもて、山、岡、宮殿などの景をいふは集中また古き祝詞などにも多し。是に及《シク》ものなければなり。」といひ、略解はこれをうけて、「ここも只其所の景色をいふのみ」と附言せり。なほこれにつきて檜嬬(332)手には「朝日夕日は只何となく續くる語なれど、下に三首までも此の同じつづけのあるを見れば、東宮の鎭《シヅモラ》すを以《モ》て殊更におけるなり」といへり。然れども、この説は契沖が既に「朝日てる佐太ノ岡とつづけたるは、古今に夕月夜さすや岡邊と云ひ、拾遺に朝彦がさすや岡邊といへる如く、岡といはむ爲なり。朝日の光いづくはあれど先岡にあたりたるがはなやかに見ゆる故なり。下に朝くもり日の入ゆけはとよめるに思ひ合すれば東宮を朝日によそへて、日の替らす照につけて東宮のかくれ給へるを嘆く意にやともおほしきを、又下に朝日てる佐太の岡邊に鳴鳥とよめるは其意なければ、唯初の義なるべし」といへるをよしとすべく、守部の説は從ひがたし。即ちここは日當のよき、その岡の實際の地勢をいひてたたへ辭とせるなるべきが、わざわざ「朝日てる」といへるには特に意義あるべきなり。諸家これをいぬは疎かなりといふべし。
○佐太乃岡邊爾 「サタノヲカベニ」とよむ。佐太乃岡といふは上の眞弓の丘と相對してある丘陵なるが、その間の區別は明瞭ならずして、一の丘陵の如く見ゆるなり。即ちこの佐太岡の麓には今、佐太村あり、眞弓岡の麓には今、眞弓村あり。而して佐田村は眞弓村の西南にあるなり。これを以て推すに、今の眞弓村の西なるを眞弓岡とする時は今の岡宮天皇陵は眞弓岡にあらずといふべく今の佐太岡の南の方にその山陵存せり。されば、山陵所在の地は寧ろ佐太岡といふべきなり。然るに諸陵式等に眞弓丘陵といへるを見れば、古へはこの邊一帶の丘陵を眞弓丘といひしなるべく、その一部をば佐田の岡と稱へしならむ。麻
(333)○羣居乍 「ムレヰツツ」とよむ。眞弓御陵の侍宿所に群れゐつつなり。春宮舍人は既にいへる如く數百人ありしが故に、それらが分番宿衛すとしても人數多かりしことを想像しうべし。
○吾等哭涙 流布本「ワガナクナミタ」とよめり。古義には「アガナクナミダ」とよめり。「ワガ」「アガ」いづれにても誤にあらず。さて「吾等」二字を「ワガ」とも「アガ」ともよまむことは如何にといふに、その「われ」と唱ふるものの數人なる由をあらはさむとて「等」字を加へたるものなるべきが、ここは上に群れ居つつといへる如く數多の舍人あるが故に。「吾等」といふ文字をかけるにて無意義に書けるにあらざるべし。然らばこれを「ワレ」とよむは如何といふに、これは國語の特性に基つく所なり。即ち國語にては一人にても多人數にても「われ」にてよき筈なれば「我等」と書きてよみ方は「われ」「わが」とよみて差支なかるべきなり。卷三「二五〇」「一本云」の歌に「珠藻苅處女乎過而夏草乃野島我埼爾伊保里爲吾等者《タマモカルヲトメヲスギテナツクサノヌシマガサキニイホリスワレハ》」とある「吾等」を古來「ワレ」とよみ來れるが、この歌は卷十五に重出して、そこには「奈郡久佐能野島我左吉爾伊保理須和禮波《ナツクサノヌジマガサキニイホリスワレハ》」(三六〇六)とかければ、「吾等」にて「ワレ」なること著し。さてかく「等」を加へたるは筆者に然るべき心ありてかけるものなるべきに「等」をただ加へたるなりと事もなげにいひ去るものは古人の折角の苦心を認めざるものといふべし。「哭」は玉篇に「哀之發聲」とありて、類聚名義抄には「ナク」の訓あれば上のよみ方正しとす。
○息時毛無 「ヤムトキモナシ」とよむ。「息」は詩經などに屡「止」の義に用ゐられ古來「ヤム」の訓ある字なり。
(334)○一首の意 朝日のてる佐太の岡の宿衛所にわれら舍人が多く群れ居ることなるが、見霽しもあり、日當りもよき所なれば氣もはれはれとすべき所と餘所目には見ゆらむが、われらはただ悲嘆にくれて涙のやむ時もなしとなり。これ上に「朝日てる」といひて四圍の晴れ晴れとせるに、われら悲泣に堪へずといひて、その悲哀の情を強調せむ」とせる反襯の法なるなり、若し然らずば、「朝日てる」といへる甲斐なきにあらずや。諸家之に注意せぬは疎なりといふべし。
 
178 御立爲之《ミタタシノ》、島乎見時《シマヲミルトキ》、庭多泉《ニハタツミ》、流涙《ナガルルナミダ》、止曾金鶴《トメゾカネツル》。
 
○御立爲之 舊板本「ミタチセシ」とよめり。古寫本中には温故堂本に「ミタテセシ」とよみたるが「ミタテセシ」は全く語をなさねば從ひ難し。契沖は「ミタタセシ」とよみ、眞淵は「ミタタシシ」とよみたり。この内契沖の「ミタタセシ」は語法にあはねば、その方のよみ方にては眞淵の説をよしとすべきに似たり。さて、「ミタチセシ」といふと「ミタタシシ」との二は如何といふに「ミタチセシ」は「タツ」といふ動詞の連用形を名詞に準じて之に「ミ」を冠して敬語としたるを「セシ」の賓格にしたるものにして、「ミタタシシ」は「立ツ」をばサ行四段に再び活用して敬語としたる「タタス」の連用形に「ミ」を冠して敬語としたるものを複語尾「シ」にてうけたるものにていづれも理論上成立ちうる如くなるが果して、これらが當時の語法として行はれたるものなるか否かは精査せざるべからず。先づ「ミタチセシ」といふは不合理にあらねど、かくの如き語法の例は當時の實例には未だ見ざる所なり。新考には、動詞にはミを冠らすること事なければ、卷五に「ミタタシセリ(335)シ」を例として舊訓の如く「ミタチセシとよむべし」と主張せり。されど、この「ミタチ」の方は「タチ」といふ語に「ミ」を冠したるものにして、「ミタタシセリシ」の方は「タタス」といふ敬語の連用形の上に「ミ」を冠せしものにして、「タツ」といふ根本の語は同一なれど、いひ方は異なり。「ミタタシ」が「セリ」の賓格に立てりといふことを以て直ちに「ミタチ」を「ス」の賓格とすると同じ語法なりといふことを得ざるなり。而して、他にかくただの動詞連用形に「ミ」を冠して「ス」の賓格に立てたる例を知らねば、このよみ方は正しと斷言すべきにあらざるなり。次に「ミタタシシ」は如何といふに「タタシシ」といふことは勿論ありしことなれど、「ミ」を冠したる「ミタタス」といふ如き用言の例は當時に存するを知らず。これは新考に既に論ぜる如くなり。その論に曰はく、「乙いはくミタチセシとよまむは固より可なり。されど、又「ミタタシシ」とよむべし。下なる御立之島ニオリヰテナゲキツルカモ又十九卷なるフナドモニ御立座而はミタチセシ、ミタチシマシテとは訓むべからず。ミタタシシ、ミタタシマシテと訓まむ外なからずやと。甲又いはく、下なる御立之は上に三處まで御立爲之とあるに依れば、爲の字をおとしたるなり、又十九卷なる御立座而はタタシイマシテとよむべし。御立をタタシとよむべきことは上にオモホシを御念と書きトハサズを不御問と書けるを證とすべしと。甲は今の余、乙は前の余なり」といへり。これによりて「ミタタシシ」といふことの無理なることは知らるべきが、「ミタチセシ」は不合理ならねど、若し、從ふを得ずとせばここに一案あり。「御立爲」を「ミタタシ」とよむは余も亦それに從ふ所なるが、次の「之」を「ノ」とすることなり。かくする時は、「ミタタシ」は一の體言の賓格となり、その(336)次の「の」はその體言を受けて、下の語を形容修飾する意にて連體格に立たしめたるものなり。かくの如く動詞の連用形を體言に准じて之を「の」にて連體格に立たしめて、その形容修飾をあらはすことはこの頃にも盛んに用ゐたることなり。その一二例をいはむに、日本紀天智卷の歌謠に「伊提麻志能倶伊播阿羅珥茹《イデマシノクイハアラニゾ》」又本集卷三「三一五」に「天地與長久萬代爾不改將有行幸之宮《アメツチトナガクヒサシクヨロヅヨニカハラズアラムイテマシノミヤ》」などあり。これらはただの動詞にあらで、敬意を含めるものなれば、稍趣似たり。されど、全く同じ性質の語にあらず。ここと全く同じ趣なるは卷一「三」の「御執乃梓弓《ミトラシノアヅサノユミ》」とあるものなり。かれもこれも、その詞がサ行四段再活の敬語にして連用形をとり、而して、「ミ」を冠したるものが、體言に准ぜられて「の」にて連體格に立てるものにして、しかも、その連體格は全く名詞に化したるにあらずして、下の體言を形容修飾する關係に立てる點は全く同じ。されば、余はここを、「ミタタシノ」とよむべきものなりと主張す。かくしてはじめて、語格上の無理を避くべし。その意はをりをり出立たせ給ひしことあるによりていへるなり。
○島乎見時 「シマヲミルトキ」とよむ。この島は契沖が「島は宮の名に非ず。やがて下に見ゆるも勾池の中島なり」といへるをよしとすべきに似たれど、その島はひろくその池島ある庭をいへるなり。
○庭多泉 「ニハタツミ」とよむ。「泉」を「ツミ」とよむは「イツミ」の「イ」を省きたるなり。「ニハタツミ」とは和名砂に「唐韻云潦音老和名爾波太豆美雨水也」とあるものにして、集中にも屡見ゆる語なり。卷七「一三七〇」に「甚毛不零雨故庭立水大莫逝人之應知《ハナハタモフラヌアメユヱニハタツミイタクナユキソヒトノシルベク》」卷十九「四一六〇」に「爾波多豆美流涕等騰(337)米可禰都母《ニハタツミナガルルナミダトトメカネツモ》」「四二一四」に「庭多豆水流涕留可禰都母《ニハタツミナガルルナミダトトメカネツモ》」などこれなり。この語の義は契沖が「タツミは泉なり。夕立村雨などによりて庭に流るる水の泉の涌やうなれば名づくると意得るるに、文選に馬融長笛賦云秋(ノ)潦《ニハタヅミ》漱(ヒ)2其下趾(ヲ)1兮云々是は竹のまだ笛にきらで※[山+解]谷にある時をいへり。王勃が滕王閣序云潦水盡而寒潭清(メリ)。かかればにはゝ俄タツミはさきの如くにて雨によりて俄にまさる水の心なるべし。」といひ、冠辭考にも「俄泉の流るるといひかけたる也」といへり。檜嬬手には「庭立水の意なるべし」といひたれど、雨水のたまり流るるは庭に限らねば、「ニハ」は「俄」の義をよしとすべし。されど、「タツミ」は直ちに泉の義にあらねば契沖説も全くはうけられず、かへりて檜嬬手の「立水」の義なる方によるべし。古義には「さきに大原惠敏も邊鄙の言に夕立などのふりて庭に水の流るるをたづみがはしると云り。しかれば、たづみと云る古言片山里に殘れり。云々」といへるが、その「たづみ」といふ古言の存せしはよけれど、之を釋して、「庭漾水《ニハタタヨフミツ》」といへるは如何。「漾ふ水」か「たづみ」ならば、その古言に「たづみがはしる」といふに矛盾せり。仙覺の萬葉集注釋卷十一に「水にたて水ふし水といふ事あり、ふし水とはしたにたまりたれども出流るる事なき水なり。たちみづとはわき出でながるゝ水なり」といへる「たちみづ」即ちかの古義にいへる「たづみ」なるべく同時にここの「たつみ」なるべくして「たつみ」即ち立ち流るる水の義なるべく思はる。而して、ここは「流る」の枕詞とせるにて、卷十九「四一六〇」「四二一四」なるも同じ趣に用ゐたり。
○流涕 「ナガルルナミダ」なり。この語例は上にいへる如く、卷十九に二あり。(四一六〇)、(四二(338)一四)
○止曾金鶴 舊板「トメゾカネツル」とよめるを童蒙抄に「ヤメゾカネツル」とよめり、されど、童蒙抄以外の諸家、みな「トメゾカネツル」とよめるなり。按ずるに涙に「トドム」とよむこと、上にいへる如く卷十九に二例(四一六〇、四二一四)あるが、「トム」とよめる例は見出でず。されど又涙に「ヤム」とよめる例は萬葉集はもとより古今になきことなれば、ここは「トドム」とよむか「トム」とよむかの外なかるべきが「トメゾカネツル」とよまむには字餘にすぎて調破るれば、「トム」といへる例は見えど古來の如く「トメゾカネツル」とよみてあるべきか。按ずるに「トドム」といふ語は、「トム」を重ねて約したること「ツヅク」か「ツキツク」の約なるが如く、「トメトム」の約なるべきかも如られず。然りとせば、「トム」といふ語を涙に用ゐしこと古にありしならむとも思はる。この故に今姑く、上の如くによめり。「カネ」は難の意の動詞にてナ行下二段の活用をするものにして、集中に例多し。本卷に「此吾心鎭目金津毛《コノワガココロシヅメカネツモ》」(一九〇)卷一に「敷妙之枕之邊忘可禰津藻《シキタヘノマクラノアタリワスレカネツモ》」(七二)など一一あぐるにたへず。
○一首の意 今この島即ち庭園を見るに、この島は皇太子の平生|出《イデ》立たせまひて見そなはしし島なれば、當時の事の思ひ出されてにはたづみの如く涙出できて止めむとしても止めかねつるよとなり。
 
179 橘之《タチバナノ》、島宮爾者《シマノミヤニハ》、不飽鴨《アカネカモ》、佐田乃岡邊爾《サタノヲカベニ》、侍宿爲《トノヰ》、爾往《シニユク》。
 
(339)○橘之 「タチバナノ」。諸家橘は地名なるべしといへり。從ふべきに似たり。然るに今橘村といふは、上にいひし島莊と隣れる地ながら、飛鳥川を隔ててその西にある地にして聖徳太子にて有名なる橘寺ここにあるなり。然れば、現在の地にていはば、橘と島の莊とは各別の地といふべし。されど、島莊の名はかの馬子の島の邸即ち後の島宮の在るが爲に起りし名なるべく思はるればその本來の地名は別に存したりしものと考へざるべからす。かく考ふるときは、この橘の島の宮といふ語によりて、橘がその本來の地名なりしことを想像すべく、かくて、古橘といひし地は今の島莊までも包含せしものなるべく思はる。而して飛鳥川は恐らくは今の地よりも東方を流れてありしならむと思はるるふしあり。その事は「一八四」の歌の條にいふべし。次田氏の新講には橘樹が島の地に繁殖したる爲の名なりといはれたるが、その意十分にわからず。若し橘といふ地名のこれに基づくといふ意ならば、吾人も或は然らむと賛すべきが、この宮の島の中に橘ありし爲の名といふ事あらば恐らくは然にはあらじといはざるべからず。さて橘の島といへる語は卷七「一三一五」に「橘之島爾之居者河遠不曝縫之吾下衣《タチバナノシマニシヲレバカハトホミサラサズヌヒシワカシタコロモ》」とありてその「橘之島」とここのと同じ所なりといふ説あれど、果して然るか。容易くはいふを得ざるなり。
○島宮爾者 「シマノミヤニハ」とよむ。意ことなることなし。
○不飽鴨 舊板本の訓「アカズカモ」とあり。類聚古集、古葉略類聚鈔などは「アカヌカモ」とよませたり。さて契沖は「アカズカモ」といひ、考及び攷證は「アカヌカモ」とよみ、略解古義と檜嬬手とは(340)「アカネカモ」とよめり。この句の意をば契沖は「意は何の飽き足らぬ所有てか、此宮を除《オキ》て佐田の岡邊にとのゐしに行と悲しみの餘に設て云なり。島の宮におはしましける時の宮仕にあかでと云にはあらざるべし」といひ、攷證にもまた「島の宮にはとのゐをしたらねばにやあらん、今はまた陵所の佐田の岡へもとのゐしにゆくことよと也」といへるが、もしさる意をあらはさむには「アカヌカモ」といひても「アカスカモ」といひても當らぬ事なるに、さる意なりと主張しながら、さるよみ方をせるは自家撞着といふべし。即ち契沖又由豆流の説ける所の意をあらはすには「アカネカモ」とよまずばあるべからず。これ、近世の學者の一致して「アカネカモ」とよめる所以なり。「アカネ」の「ネ」は打消の複語尾の」已然形なるが、一般にこの頃の語遣として、已然形を以て下に接續して條件を示すこと後に「ば」の接續助詞を以てつづくると同じ趣の語遣たること屡いひし所なるが、その已然形にて接續せる下に「カモ」といふ係助詞を加へて、下との意を一際委しく結びつけたるものなり。さて、その「飽く」といふ語は十分に滿ち足ることをいふ語なれば、ここの「アカズ」といふは、考に「とのいを爲不足歟なり《ナシ》」といへる如き意あるものなるべく思はる。
○佐田乃岡邊爾 「一七七」なるに同じ。島庄と佐田の岡とは約一里許へだたれり。
○侍宿爲爾往 「トノヰシニユク」 「侍宿」は上にいへり。意かくれたる所なし。
○一首の意 皇子の御在世中橘の島の宮の御仕へをせしがそれにては宮仕をしたらぬによりてか、佐田の岡邊へまでも、とのゐしにゆくことよとなり。これ皇太子のおはしまさずなりて、(341)島宮に奉仕することの行はれず、佐田の御陵所へ通ふ樣になれるを歎きのあまり、その情を幼くいひあらはしたるなり。
 
180 御立爲之《ミタタシノ》、島乎母家跡《シマヲモイヘト》、住鳥毛《スムトリモ》、荒備勿行《アラビナユキソ》、年替左右《トシカハルマデ》。
 
○御立爲之 「一七八」にいへると同じ。
○島乎母家跡住鳥毛 よみ方には異論なし。島の宮の御池の島をもわが家として住む鳥もといふなり。「島をも」といへるは如何なる意ぞといふに、契沖が「水鳥は水をすみかとする物なれど、能飼ならし置たまへば、なつきて中島にもあがりて心やすく遊ぶ意なりといへり。かくまでの意はあるまじけれど、凡そ鳥といふもののすみかはもとより人の作りたる島などにあるべきものならぬが、年久しく飼ひならさるれば、馴れてその島をも本來のすみかの如くにする由をいふと思はる。「鳥も」の「も」は「人も」に對していへるものにして言外に宮仕人をも下にいへる如くいへるなり。
○荒備勿行 「一七二」にいへると同じ。
○年替左右 「トシカハルマデ」とよむ。「左右」を「マデ」とよむ由は、卷一「三四」にいへり。年のかはるといふことは如何なる義か。今は暦の改まりて年の名のかはるをいふ事なるが、ここは、恐らくは然にはあらずして、考に「來らん年の四月までもかく在て御あとをしたへ」といへる如く、(皇太子の薨去は上にいへる如く、四月十三日なれば)一周年をすぐるまでの意なるべく思はる。(342)美夫君志にはこの上に「せめて」といふ語を補ひて釋せり。從ふべし。この一句「荒びな行きそ」の上にあるべきを倒置せるなり。
○一首の意 皇太子の常に御立しありし島をもわが家として住む鳥も、せめて御一周忌のすむまでは他に行かずして、こここに居れ。汝はさきさきよりここを己が家としてすめるにあらずや。われらも、その間はせめての御恩報じにこゝに行通ひて仕へ奉るが故に汝らもここにありて、我らと憂を同じくせよ。それにぞわれらは、汝を友としてはせめても少しは慰むべく思はるればとなり。
 
181 御立爲之《ミタタシノ》、島之荒磯乎《シマノアリソヲ》、今見者《イマミレバ》、不生有之草《オヒザリシクサ》、生爾來鴨《オヒニケルカモ》。
 
○御立之 上にいへり。
○島之荒磯乎 舊訓「シマノアライソヲ」とよみたるが代匠記には「アリソ」とも訓むべしといへり。而してより後の學者いづれも「アリソ」とのみよめり。いづれにてもよき筈なるが、音の上より「アリソ」とよむをよしとすべし。「アリソ」は「アライソ」を約めたるものなるが、萬葉集には「あらいそ」と假名書にせるは一も見えずして假名書にせるには「アリソ」のみ見ゆ。さてその「アリソ」は上にいへる如く、現《アラ》礒の義なるべきなり。これにつきて契沖は「礒は海に限らず、川にも池にもよめり。されば、歌の習なれば、必あら浪よする所ならずとも大形に礒をアライソといへるか。若くは海邊を學びて作らせ給へば云か」といひ考には「御池に岩をたて、瀧おとしてあらき礒の(343)形作られしをいふなるべし」といへり。大體以上の如くなるべきか。但「アリ礒」を「荒浪のよする礒」の義とするに及ばざること上にいへる如く、ただ、庭の立石飾石などをすべていふと心得て十分なり。
○今見者 舊訓「ケフミレバ」とあり。契沖は、「官本の又點に「イマミレバ」とあり」といひ同本に又「今日見者」に作る」といへり。考は「今」の字のままに「イマミレバ」とよみ、略解之に從ひ、古義は舊訓に從ひつつ、契沖の官本を基として、それによらば「ケフミレバ」とよむべしといへり。然るに今傳はる官本の系統の本にも「今日」とある本一も見えず。されば、「イマミレバ」とよむ方よきが如くに思はるるに、美夫君志に又説あり。曰はく「日字は略してかける例あり。卷六、十左に今耳爾秋足目八方《ケフノミニアキタラメヤモ》。これを舊訓にイマノミニとあるはわろし。必ケフノミニと訓べし。玉響昨夕見物今朝《タマユラニキノフノユフベミシモノヲケフノアシタニ》(二三九一)又卷十一五左に今朝可戀物《ケフノアシタニコフベキモノカ》ともあり。此は文字を省きてかける一の法にて重石《イカリ》を重《イカリ》と作《カキ》、背向《ソガヒ》爲當《ハタ》を、當《ハタ》と作《カケ》るが如し。」といへり。これにより集中に「今」を「ケフ」とよめる例ありやといふに、卷十に「年有而今香將卷烏玉之夜霧隱遠妻之手乎《トシニアリテケフカマクラムヌバタマノヨギリカクリテトホツマガテヲ》」(二〇三五)卷九に「今日爾何如將及《ケフノヒニイカニカシカム》」(一七五四)などあり。これらによらば、美夫君志の説に從ふべきが如くなれど「イマ」とよむ方意徹底せり。意はかくれたることなきが、その御大事の當座は何事もおもほえずして日數經しが、やゝ心落ちゐて、さて庭のあたりを思ひ出したる如くにながめやりたる心地、この一語によくあらはれたり。
○不生有之草 「オヒザリシクサ」とよむ。意明かなり。
(344)○生爾來鴨 「オヒニケルカモ」とよむ。「來」を「けり」にあて用ゐること集中に例甚多し。一一例をあぐるに堪へぬが各種の活用形にあてたる例を一二あぐべし。卷六「九一二」に「三吉野乃瀧水沫開來受屋《ミヨシヌノタキノミナワニサキニケラズヤ》」卷四「七五三」に「相見者須臾戀者奈木六香登雖念彌戀益來《アヒミテバシマシモコヒハナギムカトオモヘトイヨヨコヒマサリケリ》」卷三「二六七」に「牟佐佐婢波木末求跡足日木乃山能佐都雄爾相爾來鴨《ムササビハコヌレモトムトアシヒノヤマノサツヲニアヒニケルカモ》」卷七「一〇九八」に「二上山母妹許曾有來《フタガミヤマモイモコソアリケレ》」あり。「かも」は例の歎息の意をあらはせるものなり。
○一首の意 君のましましたりしほどは草などをも苅はらふ人ありしかば、草も生ひざりしかど、君うせ給ひての當座はもとより前後のあやめもわかずして、月日を過ししが、今や少し心落ちつきて、あたりを見れば、さてもさても以前は生ふる事などあらざりし雜草のいたく生ひて荒れたる事よとなり。考には卷三の「詠故太政大臣藤家之山池」の赤人が歌に比べて言ひたれど、この歌の方感じ溌刺として生氣遙に滿ち、かの歌よりは數等の上に位す。謌主の有名と無名とに關せずよしをよしとすべきなり。
 
182 鳥〓立《トグラタテ》、飼之鴈乃兒《カヒシカリノコ》、栖立去者《スタチナバ》、檀崗爾《マユミノヲカニ》、飛反來年《トビカヘリコネ》。
 
○鳥〓立 舊訓「トクラタチ」とよみ、管見には「トクラタテ」とよめり。代匠記には「〓」は「栖」の誤とし、訓は舊によれり。古寫本には類聚古集、神田本、大矢本、京都大學本に「鳥垣」とかけり。按ずるに、「〓」といふ字、支那本邦の字書に未だ發見せず。然らば「鳥垣」を正しとせむかといふに、かかる成語も亦未だ發見せず。然るに木村正辭は「〓」は栖の俗字にして「トクラ」とよむべしといへり。(345)その説の要をいはむに、「此〓の字は栖の俗字にして、類聚名義抄に栖棲【二正】音西スミカ○ヤドル○ス○鳥ノス〓俗、字鏡集に棲〓同と見え、これを手偏に作《カケル》は劉龕手鑑手部に※[手偏+妻]【俗音西、正作棲鳥棲】※[手偏+西]【同上】とある、是也。かかれば、〓は栖の俗體なること明らけし」といへり。げにこの説の如くなりと思はる。さてその〓の字を土扁にせる理由を案ずるに類聚名義抄にはトクラの訓ある「塒」をば「※[木+時]とも「※[手偏+時]ともしていづれにも、同じ訓を施せり。されば、「トクラ」は「〓」「〓」「〓」の三體ありしことなりといふべきなり。なほ木村氏はその棲に「トクラ」の訓ある事を洩せり、類聚名義抄には「樓」字に明かに「トクラ」の訓を加へたり。さればその別體たる「〓」に「トクラ」の訓あること、疑ふべからず。「トクラ」とは何かといふに、新撰宇鏡に「※[木+桀]【巨栖別反入鷄栖杙、止久良】」とあり、和名砂には「毛詩云雛。栖于塒注云鑿墻而栖曰塒【音時訓止久良】」とあり。烏座の義にして鳥のやどり座る處をさせるなるが「トリクラ」の約なれば、「トグラ」と濁るべきならむ。本集にてはなほ卷十八「四一五四」に「枕附都麻屋之内爾鳥座由比須惠※[氏/一]曾我飼眞白部乃多可《マクラツクツマヤノウチニトクラユヒスヱテソワカカフマシラフノタカ》」とあり。それは鷹なれば、家の内に鳥座を構へしものなるが、ここは屋の内なりや否や明かならねど、庭上に構へられしならむといふ説(考略解等)あり。次に「立」は板本「タチ」とよみたるが、古寫本中にも「タテ」とよめるもの少からず。而してここは鳥座を構へ立つるなれば、「タテ」とよむべきところなり。
○飼之鴈乃兒 「カヒシカリノコ」とよむ。契沖は「雁の兒はかもの子をいふ。かるのこともいふと源氏物語の抄に見えたり。されどもいかにしてかりのこといふよしは見えず。(中略)又鴨の中にゐなかに一種かるとなづくるあり。ひなよりかへば、よくなつきて道をゆけば、しりに(346)たちてくるといへり」といひ、なほ鷹の字を誤りたるにやともいへるが、冠辭考はこれによりて「かるがも」なりとせり。按ずるに鴈は今ガンといふを主とすといへども、古は必ずしもその一種に限らざりしならむ。類聚名義抄には鴈の外、鴻、※[Mの旁+鳥]、鵝の字にも「かり」の訓あり、新撰字鏡には「鴻」に「宇加利」(大鴈の義)「※[立+鳥]」「鴨」「※[Mの旁+鳥]」いづれも「加利」の訓あり。されど、「鷹」とかける本は一もなく、又「鷹」を「かり」と訓したる例も一もなければ、「カリ」は雁鴨の類なりといふべく、それ以上の委しきことは今よりして知るべからず。
○栖立去者 「スダチナバ」とよむ。「去」を「ナ」といふは「去《イヌ》」の字を複語尾「ヌ」の位置に用ゐたる、その未然形なり、これも、「ヌ」の各活用形に「去」一字を用ゐたるなり。その一例をいはば、卷三「二七五」に「何處吾將宿《イツクニカアレハヤドラム》、高島乃勝野原爾此日暮去者《タカシマノカチヌノハラニコノヒクレナバ》」同卷「二七四」に「奧部莫逆左夜深去來《オキヘナサカリサヨフケニケリ》」卷一「三四」に「年之經去良武《トシノヘヌラム》」とあり。「栖立」とは生育して獨立し飛ぶを得て栖より立ち出で去るをいふ。
○檀崗爾 上にいへるにおなじ。
○飛反來年 「トビカヘリコネ」とよむ。これには古來異論もなかりしが、近く木村正辭は反變と通用の文字なるからに「反はウツリと訓むべし移の意なり」といへり。いかにも變の字には「ウツル」の語をあてはめうべけれど、「反」を變の字の義とするは、強言といふべくや。これにつきて新考には「九卷なる詠霍歌にウノ花ノサキタル野邊ユ飛飜《トヒカヘリ》來ナキトヨモシ(一七五五)とあるを見れば、トビカヘリは翻り飛ぶ事ならむ。さらば、結句はただ飛ヒ來ヨと心得べし」といへり。この説をよしとす。「來年」の「ネ」は用言の未然形をうけて他に誂ふる意を示して終止する助詞(347)なることは卷一「一」にいへり。ここは「來《ク》」の未然形「コ」をうけたるなり。
○一首の意 皇太子の御命によりて、鳥座を構へて飼ひし鴈の子よ。生ひ立ちて栖立ちをする樣にならば、この眞弓の岡に飛び通ひ來てわれらと共に皇太子の御靈を慰め奉れとなり。
 
183 吾御門《ワガミカド》、千代常登婆爾《チヨトコトハニ》、將榮等《サカエムト》、念而有之《オモヒテアリシ》、吾志悲毛《アレシカナシモ》。
 
○吾御門 「ワガミカド」なり。わが仕へ奉る皇太子の御宮なり、御門は宮殿の義なること既に屡いへり。
○千代常登婆爾 「チヨトコトハニ」なり。「千代」と「常登婆」とを重ねていへるなり。「千代」はいふまでもなし。「トコトハ」は又更に「トコ」と「トハ」とを重ねたるなり。「トコ」は常住不変の意なるは「常世」「常葉」などいへるにて知るべし。「トハ」も亦略同じ意と見ゆ。古今集第十四、「よみ人しらず」の歌に「津の國のなにはおもはず、山城のとはにあひみむ事をのみこそ」といふあり。「トコトハ」といへるは佛足石歌に「己禮乃與波宇都利佐留止毛止己止婆爾佐乃己利伊麻世《コレノヨハウツリサルトモトコトハニサノコリイマセ》、乃知乃與乃多米《ノチノヨノタメ》云々」とあるなどその例なり。永久不變にの義なり。
○將榮等 「サカエムト」なり。意明かなり。
○念而有之 「オモヒテアリシ」なり。童蒙抄には「ネガヒツツアリシ」とよみたれど、理なし。
○吾志悲毛 「アレシカナシモ」なり。「し」は力強くさし、「も」を終止とするは嘆息の意をあらはすに用ゐたり、これ上四字を以て「吾」の連體格に立たしめ、語格より見れば、ただ「吾は悲し」といふの(348)みにて一首の歌の格をなせるなるが、そのいひ方奇拔にして悲しみの意を力強く適切にあらはせり。
○一首の意 吾が仕へ奉る皇太子は永久にましまし、その御宮はとこしなへに榮えむと思ひてありしに、今かかる世のさまとなりては實に/\悲しさに堪へずとなり。
 
184 東乃《ヒムガシノ》、多藝能御門爾《タギノミカドニ》、雖伺侍《サモラヘド》、昨日毛今日毛《キノフモケフモ》、召言毛無《メスコトモナシ》。
 
○東乃 板本「ヒムガノ」とよめり。古寫本にはすべて、「ヒムカシノ」とあり。板本誤りて「シ」を脱したること著し。童蒙抄には「ヒガシノ」とよみたれど、考以下古にかへしてよめり。「ヒムガシノ」といふ語のこと卷一「四八」にいへるが、その例はそこにあげたり。
○多藝能御門爾 「タギノミカドニ」とよむ。「タギ」の事は卷一「三六」にいへる如く、今「たき」といへるとは少しく異にして、「たぎる」意にして、その「タギル」といふ語の語幹の名詞となれるにて卷一「三八」に「多藝津河内」といへるに似たる意義と用法とに立てるものにして水のたきち流るゝことをいへるなり。「御門」は上にいへる多くの例は宮殿の替詞なるが、ここのも然りといふ説もあれど、(美夫君志、)多くの學者は眞の御門をいふとせり。この説をよしとす。さてこの東の瀧の御門といふ語につきては近藤芳樹の註疏に「多藝は今の瀑布《タキ》のたぐひにはあらず。ただ勾の池の水の瀬をなして流るゝを瀧といへるなり。禁中に瀧口とて清涼殿の御落水《ミカハミヅ》に流れいづる處のあるが如きたぐひなり。そこにある御門ゆゑに此名あるなり。」といへり。まこと(349)さる事とおぼえたり。これにつきて次田氏の新講にはその島宮につきて〈一二三頁)「この地は最初蘇我馬子が邸宅を營んだ所で、支那式の造園法によつて池を掘り、飛鳥川の水を通はせ、池中に中島即ち島を築いたので云々といひ、又この歌の條には「東の瀧の御門は飛鳥川から引いた水が島宮の池に落ちる處にある御殿即ち後の泉殿のやうなものである。前にも述べた通り、この庭は支那式の造園法によつて造られたもので、中古の寢殿造の庭と同じ形式のものであつたのである。而して引水の落口は池の東にあるのが法式となつてゐるのである「東の」と歌つたのはそれが爲である。」といへり。この飛鳥川の水を引きたることと、支那式の造園法によりたる事とは首肯すべきことなるが、「東の」といへると「御門」といへるとの解釋は余は十分に首肯すること能はず。先づ、平安朝の庭園は大體その説の如く東に瀧口を設くる方式によれるものにして、之は聖徳太子の筆に成ると傳ふる庭地形取圖といふを基とせり。されど、この圖の原則は南面してつくられ且四神相應の地勢即ち北には高山、南は廣き田畑東に川流西に大道ある地勢に基づきてのものと見ゆるに、この島の地は南高くして北低く地勢は大體に於いて反對せり。されば、必ずしも然りといふべからず。さていづれにしても東に瀧ありとせざるべからざるが、その東に瀧ありとせば、そは水の落口といはむよりは取入口なりといはむ方地勢にかなへり。何となれば、この邊の地勢東は多武峯又細川山の麓にあたりて傾斜著しければなり。或は思ふに、當時飛鳥川の本流又は、支流たる細川が、この宮の東を流れてあり、それより水を池にとり入れられしにあらざるか。若し然りとせば、今の島の地と今の橘の地(350)とは川を隔てずして相續きてありしにあらざるか。或は又然らずとも、細川の水を引きて東よりとり入れられしならむ。この東の瀧はいづれにしても落口にあらざるべきは地勢上考へらるべきことなり。次に、ここに御門とあるは泉殿にあらでなほ實の御門をさせるなるべし。かく考ふる由は、支那の制は天子は南面するの主義によりて、南を正面とし南の門をことに正式の本門としたるにて、本邦にても、朱雀門、承明門、建禮門など、いづれも、最も重んぜられしなるが、さる事の著しかりし平安朝時代に於いても大臣公卿の出仕する際の事實上の正門は東面の御門陽明門(「近衛の御門」といふ)に限られたるにて、之を日の御門といひ重んぜしなり。神樂歌に「このゑのみかとにこじおといつ」といへるもこの由なり。これを以て案ずるに支那は南北を經とし東西を緯としたるに反し、本邦の古は東西を經とし、南北を緯としたること卷一、「五二」に述べたる如くなるが、その日經のうちにては東を主とすべきは勿論なれば、古は東の門を最も重んぜしものなるべく、南を重んぜしは恐らくは支那式宮城のはじめられし後の事なるべく、それもなほ事實の上にては、古來の如く、東面の御門を重んぜしなるべし。果して然らば、ここに東の瀧の御門といへるは偶然の事にあらで、これ即ち當時の正門なりしなるべければ、特にこれをいひて、舍人の出入する處、又護衛する重要なる場所の代表としていへるなるべし。
○雖伺侍 舊板本「サモラヘド」とよみ、金澤本、類聚古集等には「サフラヘド」とよめり。この「伺」字は説文に「候望也」と注し、廣韻に「伺候」と注せれば、「候」字と通用する字なり。「侍」字は説文に「承也」廣韻(351)に「近也從也」とあり。而して類聚名義抄には、「伺」にも「候」にも「侍」にも「サフラフ」の訓ありて、「サモラフ」といふ訓の字は一字も見えず。然るに萬葉集の假名書なるには「サモラフ」といふ語の例あり。本卷「一九九」のうちに「鶉成《ウツラナス》、伊波比廻雖侍候佐母良比不得者《イハヒモトホリサモラヘトサモラヒエネバ》」卷二十「四三九八」に「安佐奈藝爾倍牟氣許我牟等佐毛良布等和我乎流等伎爾《アサナギニヘムケコガムトサモラフトワガヲルトキニ》」卷七「一一七一」に「大御舟竟耐佐守布高島乃《オホミフネハテテサモラフタカシマノ》云々」など然り。されど、「サフラフ」とかける例一もなし。さればこの頃は專ら「サモラフ」といひしならむ。「伺」も「侍」も共に「サモラフ」の訓あれば、「伺侍」の二字熟して、「サモラフ」といふ語をあらはすなるべく、その熟字は支那に既に用ゐてありしものならむと思はるれど、未だ例を見出でず。
○昨日毛今日毛 「キノフモケフモ」なり、昨日はひろく、過去數多の日を含めていへりとおぼゆ。
○召言毛無 「メスコトモナシ」とよむ。言は「コト」の音をかりて事の義に用ゐたりといふ説多し。されど「事」と抽象的にいふよりも「言」の義とする方具象的にして意適切なり。即ち御用ありとて召したまふ言もきかずとなり。卷三「四五四」に「ハシキヤシサカエシキミノイマシセバキノフモケフモアヲメサマシヲヲ》」といふあり。
○一首の意 島の宮の東門なる瀧の御門に伺候して、わが君の御用事もあらむかと思ひて來てど、咋日も今日も召したまふ御言もきかずとなり。
 
185 水傳《ミヅツタフ》、磯乃浦回乃《イソノウラミノ》、石乍自《イハツツジ》、木丘開道乎《モクサクミチヲ》、又將見鴨《マタミナムカモ》。
 
○水傳 舊板本「ミヅツテノ」とよめるが、管見には「ミツツタフ」とよめりしより、諸家皆これに從へ(352)り。他に例のなき詞ながら文字のままに「ミツツタフ」とよむをよしとすべし、これを冠辭考に枕詞といへれど、實際の事をいひたる詞なりとする新考などの説をよしとす。語の意は契沖は「いそへは水につきてつたひゆけばなり」といひ、古義には「御庭の池の島のめぐりに走らせたる水の礒間々々をつたひて流るるをいへり」といへり。これは水が主格たるものなるべければ、古義の説をよしとす。
○礒乃浦回乃 「イソノウラミノ」なり。礒は上に荒礒といへると同じものにして、島の石をいふ。浦回も亦上にいへるが、ここは島ある池の汀の浦回のさまになれるをさせるなり。
○石乍自 「イハツツジ」とよむ。古義には「イソツツジ」とよめり。「乍」は「ツツ」なるを借り用ゐ、「乍自」にて植物の「ツツジ」にあてたるなり。さて「石」は「イソ」とも「イハ」ともよみうる字なるが、「イソツツジ」といへる語は古今に未だきかぬものなり。「イハツツジ」は本草和名及び和名抄に、羊躑躅の訓として用ゐ、新撰字鏡に茵芋の訓として用ゐて昔よりある語なるが、實際に於いて今も庭園に植うるには岩石をあしらひにおくものなれば、古も、しかなりしならむ。而して、こはその天然のさま岩石多き地に生ずるによりてならむ。而して島宮の庭園には實にかかるさまにいはつつじを植ゑてありしならむ。
○木丘開道乎 舊板本「モクサクミチヲ」とよみたるが、金澤本には「キミサヘ」とし、類聚古集、神田本には「キクサク」とせり。又季吟の拾穗抄には、「コクサクミチヲ」といふ古訓を可とし、童蒙抄は「開」は「關」の誤として、「ココセキミチヲ」かといひ、考は「木丘」は「森」の誤にして「シジニサクミチヲ」なりと(353)いひたり。されど、ここの所に古本どもに誤字あるもの一も見えねば、誤字説は先づ、うけられず。又拾穂抄の古訓なりといふ事も今は證を知らねば、從ひかねたり。さて殘る所にては、金澤本類聚古集の「きみさへ」「きくさく」共に道理なければ、從ひかねたり。されば文字のままによむべきならむが、「木」「丘」の二字共に音の假名としたる例他に見ねど、音としては「モク」とよむに差支なかるべきなり。次に「開」を「さく」といふは古今に通じて異論あらざるべし。さて「モク」とは如何なる語かといふに、和訓栞に「茂をよめるは音にあらず、もし〔二字傍線〕とももく〔二字傍線〕ともよみて神代紀に扶疏をしきもし〔四字傍線〕とよみ、皇代紀に薈蔚をもくしげく〔五字傍線〕とよめる意なり。盛をもるとよむが如し。」といへり。これは「もる」の語幹と「もし」の語幹とが共通せりといふことなるべきが、げにさと思はれたり。さて、この「もし」といふ語を日本紀の訓に用ゐたる例は上の外になほあり。應神妃に「芳草薈蔚」を「もくしげし」とよみ、又顯宗紀に來目部小楯の事をいひて「厥功茂焉」をも「もし」とよみたり。その他の書にては古語拾遺の古訓に「蕃茂」を「シキモセリ」とよみ、將門記の古訓に「蘭花欲茂」を「モカラムト欲」とよみ、朗詠の古訓には「惠茂2筑波山之陰1」を「ボシ」とよめり。又毛詩、尚書、文選、遊仙窟などの古訓にもこの語屡用ゐられ、色葉字類抄にはその辭字の部に「茂モシ莫候反卉木盛也」と注せり。されば、これは「モシ、モク、モキ」といふ形容詞なるべきこと明かなるが、漢字の「茂」を用言化せしものにあらずして古言なるべしといへり。朗詠の「ボシ」は「モシ」の音通なり。意は漢字の「茂」又「薈」の義にて察すべし。「薈」は玉篇に「草盛貌」とあり。「開」を花の咲くに用ゐたるは支那に起る。一二例をいはば、梁元帝の樂府に「春花向v雪開」梁簡文帝詩に「柳葉帶v風轉、桃(354)花含雨開」等あり。即ち「いはつつじ」の茂く盛んに咲く道といふなり。而して、四五月の頃はつつじの花盛なれば實感を基としてよめるなり。
○又將見鴨 舊訓「マタモミムカモ」といひ、考には「マタミナムカモ」とよみ、後の學者多く之に從へり。按ずるに、文字のままにては二者いづれによみても不可にあらず。しかれども、將來再び之を見るを得べきか、恐らくは然らざらむといふ意なるべければ、「マタミナムカモ」の方によるべし。「見ナム」は將來をかけて推測し、さる事をしえむといふ意をあらはせり。「かも」は疑問をあらはすものなるが、ここは反語に用ゐられたり。
○一首の意 水の傳ひながるるこの磯の浦つづきに並べ植ゑおかれたるいはつつじは今花の盛りなるが、かく茂く盛りにつつじの咲くこの池の邊の道をば、我等は將來またも見得べきか如何。恐らくは、再びこの庭の花盛にあひ見むことをなしうべからじと、やがてはこの宮を退散すべき身の感慨の餘にうたへるなり。
 
186 一日者《ヒトヒニハ》、千遍參入之《チタビマヰリシ》、東乃《ヒムカシノ》、大寸御門乎《オホキミカドヲ》、入不勝鴨《イリカテヌカモ》。
 
○一日者 「ヒトヒニハ」とよむ。「者」一字を「ニハ」とよめる例は卷一「二九」に「夷者雖有」「一四七」に「荒野者雖有」などをはじめ、集中に多し。一々あぐべからず。この「ハ」は意味頗る輕し。されど、無意味のものにあらず。
○千遍參入之 「チタビマヰリシ」とよむ。「チ」は數の甚だ多きをいふなり。「遍」は今も度數をかぞ(355)ふるに用ゐる字なるが、その源は支那にあり。魏志の賈達傳の注に曰はく「始達爲2諸生1略覽2大義1取2其1v用、最好2春秋左傳1及v爲2牧守1常自課讀之月常一遍」などこの一例なり。
○大寸御門乎 舊訓「タキノミカドヲ」とよみたるを考に、「寸《キ》は假宇也。假字の下に辭を添るよしなし」といひて「オホキミカドヲ」とよみたり。古義は「大」は誤にして拾穗本によりて「太」と改むべしとし「寸」の下に「能」字脱せりとて補ひ、さて「たぎのみかど」とよめり。攷證は考の説に反對して曰はく「されど人名地名などにはまま假字の下に辭を添ふること見えたり」といひて「タキノミカド」とよむことを主張し、美夫君志も亦同じ趣旨に論ぜり。その考の論據はこれらの説にて破られたれど、さりとてそのよみ方未だ必ずしも否認すべからず。先づ「大」を「タ」の假名に用ゐたるは異例にして、他には「一二八」の「一云」に「戀乎大〔右○〕爾」「二三二」の「己伎大〔右○〕雲」卷十八「四〇九四」の「許等大〔右○〕弖」の三を見るが、それらは古寫本にいづれも「太」に作れば誤なること著しきに、ここは諸本すべて「大」にして一も「太」に作る本を見ず。さればこれはその義によりて「オホキミカド」とよむこと太上天皇、太政大臣、大將軍、大辨、大貳等のよみ方の如くにすべし。この「オホキ」は「多」の意にあらずして「オホキシ」の語幹なり。かく形容詞の語幹を直ちに名詞に冠して熟語の形にすることは古も今も行はるる所なるが、本集中にここに似たる假名書の例を求むれば卷二十「四四九一」の「於保吉宇美能美奈曾己布可久《オホキウミノミナソコフカク》」あり。「大キ御門」とは大門又は正門といふ程の事なるべし。
○入不勝鴨 「イリカテヌカモ」とよむ。「カツ」は上「九四」の「有勝麻之自」の條にいへる如く、たふる由の語なり。「カテヌ」の「ヌ」は打消の語にてその連體形より「カモ」につづけたるにて「カモ」は感動の(356)意をあらはして終止せるなり。
○一首の意 これまでは愉快に一日に千遍も參入りしこの東の瀧の御門をば、將來も、以前の如くに參入ることを得べきか、否や。今や皇太子尊の此世におはさず、主のまさぬ宿となりはてたれば、我等は、參入るに堪へぬ事となれるかな。かくて、いよ/\荒れはて行くらむことの悲しさよ。
 
187 所由無《ツレモナキ》、佐太乃岡邊爾《サタノヲカベニ》、反居者《カヘリヰバ》、島御橋爾《シマノミハシニ》、誰加住舞無《タレカスマハム》。
 
○所由無 舊訓「ヨシモナク」とし、類聚古集、西本願寺本は「ヨシモナキ」とよめり。童蒙抄は「ユヱモナキ」とよみ、本居宣長は上の「由縁母無」(一六七)と同じく「ツレモナキ」とよむべしといひ略解之によれり。この説をよしとす。
○反居者 古來「カヘリヰバ」とよめり。古義は之を非とし、「反」は「君」の寫誤なりとして、「キミマセバ」とよみ、美夫君志は「反」を「ウツル」とよむべしといへり。されど、ここに誤字ある古寫本一もなければ、古義の説は從ひ難し。又「反」を「ウツル」とよむことの不條理なること既に「一八二」にいへる如くなれば、美夫君志の説も從ひ難し。然らば「カヘリヰバ」といふ語の意如何といふに、考に「かへりゐるとは行かへりつつ分番交替してゐるをいふ。」といへるをよしとす。然るに、古義は之を批難して、「もしさらば、カヘリヲレバといはではかなはぬことなり」といひ、新考などにも考の説にては意通ぜずといはれたり。余按ずるに、從來の諸家、賛する人も、反對する人もこの「カ(357)ヘル」をば、島宮と眞弓の陵所との間に往復交替する意にとるが故に、意義通ぜぬなり。まことに、島宮と眞弓の陵所との間を交替に分番宿衛するものとせば、これより下の二句の意了解しうべからぬ事は勿論なり。さりとて、これが爲に、誤字説を出さずば、了解し得られざる程の難解の歌にもあらざるものを。諸の大家如何に思ひ惑へる事にか。この「かへり」はもとより分番交替し宿衛の爲に眞弓の陵所に往復することをいへるに相違なし。されど、その舍人等の本居は島宮にあらで、恐らくはその附近に賜はれる舍屋ならむ。さらずば、上の歌にいへる「一日には千遍まゐりし東のたぎの御門」といふ語も無意義とならむ。即ち、これは「己等が賜はれる官舍よりしてかく眞弓の陵所に交替分番してゐば」、といふことにして、すべての人がその陵所に奉仕するに日もこれ足らず、島の御門には出入する事の絶えたる故にかくいへるなり。かくの如く見來りて、そこに何の無理なる點、また解し難き點あらむや。學者三思するを要す。
○島御橋爾 「シマノミハシニ」とよむ。この「ミハシ」をば、契沖は「御橋トハ書タレト御階ナルベシ」といひ、考略解、以下多く之に從へり。されど、新考には「契沖并に其説に從へる人人はシマノミカドを例としたるならめど、そのミカドは宮の御門といふことにはあらで、御殿といふ事なる由既に云へり。案ずるにシマノミハシは勾の池の中島に渡せる橋にて云々」といへるをよしとす 島といふ語のみにて島宮をいふべくもあらねばなり、これは島の池上の景色を賞すべく御橋に立つことありしを思へるならむ。
○誰加佐舞無 「タレカスマハム」なり。「スマフ」は「スム」をハ行四段に再び活用せしめたるものに(358)して、その作用の繼續せることをあらはせる語なり。その例は卷四「五七八」に「天地與共久住波牟等《アメツチトトモニヒサシクスマハムト》」卷五「八八〇」に「比奈爾伊都等世周麻比都々《ヒナニイツトセスマヒツツ》」等あり。その意は新考に「トドマラムといふ意にこそ。住居の意とすれば、御階にてもかなはず」といへるをよしとす。
○一首の意 もとゆかりもなかりし佐太の岡邊に、今は山陵をおかれたれば、我等は分番して宿衛する爲に絶えず往復するなるが、かくしてゐたらば、島の宮のあの景色のよき御橋の上にとどまりて眺めにふけるもの誰一人としてあらむやとなり。
 
188 旦〔左○〕覆《タナグモリ》、日之入去者《ヒノイリユケバ》、御立之《ミタタシノ》、島爾下座而《シマニオリヰテ》、嘆鶴鴨《ナゲキツルカモ》。
 
○旦覆 舊板本「且覆」につくり「アサグモリ」とよめり。されど、「且」字は「アサ」とよむべき字にあらず。金澤本、類聚古集、古葉略類聚抄、神田本には「旦」とせり。然るときは「アサ」とよむをうべし。されど、「覆」を「くもり」とは直ちによみうべきにあらず。この故に考は「天靄」の誤として「アマグモリ」とよみ、檜嬬手は「旦覆」にて「アサカヘリ」とよみ、古義は「茜指」の誤として「アカネサス」とよみ、美夫君志には「旦覆」にて「タナグモリ」とよむべしといひ、攷證は舊訓のままにてよかるべきをいへり。先づ、考及び古義の誤字を基とする説は從ふべきものにあらず。次に「且」は古寫本に從ひて「旦とすべし。しかする時には「アサ」とよむことは普通なるが、「覆」を「クモリ」とよむことは如何といふに、攷證に次の如くいへり。「覆は釋名釋言語に覆蓋蔽也云々とあるごとくおほふ事にて空をおほふ意なればくもりとはよめるなり」といへり。この義によらば「アサグモリ」とよむことを(359)得ともいふべし。されど、「アサグモリ」といふ詞を以て、「日のいる」といふに對すること、古今に證なく、又いかにして、かくいひつづくるにか。理なきことといふべし。代匠記にくだ/\しき説あれど從ひがたし。美夫君志の説は「撥假宇のン〔右○〕は奈行の通にてナ〔右○〕と轉じ用ゐる例なり」といひ、別記に、委しき説あるが、要をいはば「此旦は悉曇家にて所謂舌内聲の字なれば、……ナニヌネノの音に轉ずる例也……猶云はば國名の丹波も和名抄の訓注には太邇波とあり。これを古事記の孝元天皇の段には旦波《タニハ》と作《カケ》り。これ旦をタナ〔二字右○〕と訓べき明證也」といへり。「タナグモリ」といふ語は卷十三「三三一〇」に「棚雲利雪者零來奴《タナグモリユキハフリキヌ》」とあり。空のかきくもり暗くなるをいふことばと見えたり。さらば、美夫君志の説にしたがふべし。
○日之入去者 舊訓「ヒノイリユケバ」とよみて、異論もなかりしが、古義には「ヒノイリヌレバ」とよめり。「去」は「ユク」(卷一「六二」」ともよみ又「ヌ」にあてて用ゐること既にいひたる所なるが、ここにはいづれにても、意義通ぜざるにあらず。「イリユケバ」とよむときは、次第に入りゆく義となり、「イリヌレバ」とよむときは、入はてたるをいふ意となるが、實際の日につきていふ時は「ユケバ」とよまむ方まされり。この「イル」をば諸家多く暮に及びて日の傾きて入るをいふとせるに、攷證には「暮ゆく事にはあらで、日の雲に入をいへり」といへり。されど、夕日の入るといへること古來いひ來りたることにして、萬葉集にも卷十九「四二四五」に「日入國爾所遣和我勢能君乎《ヒノイルクニニツカハサルワカセノキミヲ》」ともいひ又「入日」といへる語(一五、二一〇、四六六等)多し。日の入るは普通の説にて毫もさし支なきことなり。以上二句を新考に「皇子の薨ぜしを譬へたるなるべし。夜になるを待ちて池の中島に(360)おりゐて嘆かむことあるべきにあらねばなり」といへり。いかにもこの下心ある事なるべし。されど、語の上にはこの事明かに示されず。なべて夕暮はもの悲しきものなれば、その表面の意にてももとより差支なき事なり。
○御立之 これは上の、御立爲之」(一八〇)と同じ語なるを簡にしてかけりとおぼゆ。考には「立」の下に「爲」を補へり。されど、「ミタチセシ」とよまむには「爲」なくてはあしかるべきが、余が案の如くはこのままにて「ミタタシノ」とよむに差支なし。意は既にいへり。
○島爾下座而 「シマニオリヰテ」とよむ。皇子のめで給ひし島、即ち庭に、御殿より下りて立つなり。然るに、契沖は「日暮ゆけば、宮の外|方《ザマ》の池島のほとりの舍へ下ゐる故にしかよめり」とあるが、これは新考に「皇子豈舍人の舍のある處に立ち給はむや、否皇子の立ち眺したまはむ小島に舍人の舍を設けむや」といへる如く、從ふべき説にあらず。
○嘆鶴鴨 「ナゲキツルカモ」なり。鶴鴨共に借字なり。「カモ」は嘆息の意をあらはす。
○一首の意 日も暮方になりて夕日も山の端に入り行けば、世間もほのぐらくなるにつれて、すずろに物悲しく、わが皇太子の御生前にめでたまひて御立ありしこの池庭にわれは下り立ちてありし昔をしのび嘆きつることよとなり。
 
189 旦日照《アサヒテル》、島乃御門爾《シマノミカドニ》、欝悒《オボホシク》、人音毛不爲者《ヒトオトモセネバ》、眞浦悲毛《マウラガナシモ》。
 
○旦日照 「アサヒテル」とよむ。流布本「且」に作れど古寫本多く「旦」に作るを正しとす。語の意は(361)「一七七」の「朝日弖流」の下にいへるにをなじ。
○島乃御門爾 「シマノミカドニ」とよむ。「シマノミカド」は上(一七三)にいへり。
○欝悒 上の「一七五」に同じ字あり。ここもおなじく「オボホシク」とよむべし。意もおなじ。この句は一句へだてて「マウラガナシモ」に接する意なれば、倒置せるなり。
○人音毛不爲者 舊訓「ヒトオトモセスハ」とよみたり。代匠記には「ヒトオトモセネハ」とよみたるより諸家之に從へるが、古義は「ヒトトモセネバ」とよみたり。古義には説明なけれど、「ヒトオト」を約めて「ヒトト」とよめるならむ。かくいひても不可なかるべきが、「ヒトオト」とよみて惡しきにあらねば、そのままにてありぬべし。「不爲者」は「セズバ」とも「セネバ」ともよみうるものなるが、ここは人の出入も稀に、すむ人もみえぬさびしさをば人の音もせぬといひたるにて、事實によりていへるなれば、「セネバ」とよむをよしとす。
○眞浦悲毛 「マウラガナシモ」とよむ。之を釋して考は「眞はまこと、浦は心也」といへり。この語は「うらがなし」といふ一の語に「ま」といふ接頭辭のつけるものなり。「ウラガナシ」といふその「うら」は心裏の字の意にして、「ウラゴヒ」「ウラコヒシ」「ウラサビシ」などの語をなせり。「ウラガナシ」といふ語の例は卷十五「三七五二」に「波流乃日能宇良我奈之伎爾《ハルノヒノウラガナシキニ》」卷十九「四一七七」に「豁敝爾波海石榴花咲《タニヘニハツバキハナサキ》、宇良悲《ウラガナシ》、春之過者《ハルノスグレバ》」などあり。その「ウラガナシ」に「マ」を冠したる例は他になけれど、「マガナシ」といへる例は卷二十「四四一三」に「麻可奈之伎西呂我馬伎己無《マガナシキセロガマキコム》」あり。これらに准じて知るべし。まことに悲しといふ意を一語にていへるなり。「も」は例の歎息の意をあらはせり。
(362)○一首の意 旦日照る島の御宮は主人皇太子のましましし頃は眞に照日の如く盛にてありしが、今は出入る人も稀にて人音もせぬ程なれば、如何なる事かと夢地をたどる如く、たよりなき心地して、實に悲しきよとなり。
 
190 眞木柱《マキバシラ》、太心者《フトキココロハ》、有之香杼《アリシカド》、此吾心《コノワガココロ》、鎭目金津毛《シヅメカネツモ》。
 
○眞木柱 「マキバシラ」とよむ。眞木即ち檜にてつくれる柱をいふ。檜は上品の材なれば、眞木柱は宮殿の柱をさす。これを「フトシ」の枕詞とせり。その意は、日本紀神代卷下に「造宮之制者柱則高太板則廣厚」とあるにて知るべく、卷六「九二八」に「長柄宮爾眞木柱太高敷而《ナガラノミヤニマキキバシラフトタカシキテ》」又卷七「一三五五」に「眞木柱作蘇麻人《マキバシラツクルソマビト》、伊左佐目丹《イササメニ》、借廬之爲跡造計米八方《カリホノタメトツクリケメヤモ》」とあるにて、眞木柱に「太し」といふ由あるを見るべし。
○太心者 「フトキココロハ」なり。太き心とはををしくすぐれたる心の義にて大丈夫の偉大なる動かぬ心をいふ。
○有之香梓 「アリシカド」とよむ。「香杼」共に音をかりたる假名なり。「シカ」は「キ」の已然形にして、それを接續助詞「ド」にてうけたるなり。
○此吾心 「コノワガココロ」といふ。この語遣のさまは卷十七「三九八四」に「己能和我佐刀爾《コノワガサトニ》」とあるに似たり。わが心をま近くさして「この」とはいへるなり。新考に「ワガ此悲ナリ」といへる如くこの悲みの心をさす。
(363)○鎭目金津毛 「シヅメカネツモ」とよむ。「モ」は例の歎息の意をあらはす。「カネツ」の「カヌ」は「難し」の意の動詞にして、卷一にもこの卷の上にも出でたり。「鎭め」は心を鎭靜《シヅ》むる意にして、ここは激情をしづめ、心を平靜に保つをいふ。日本紀顯宗卷の室壽詞中に「築立柱者此家長御心之鎭也」と見え、本集卷五「八一三」に「彌許々呂速斯豆迷多麻布等《ミココロヲシヅメタマフト》」とも見たり。而してはじめに眞木柱といひて、ここに「しづめかねつも」といへるおのづから、上の室壽詞に由ありて聞ゆ。恐らくは眞木柱は家の鎭めなりといふ如き常套語の當時行はれしものあらむ。
○一首の意 眞木柱の太くたくましきが如く、われはををしくすぐれたる丈夫心をもちてありしものと自任し、かねては何事にも動ずまじく思ひてありしかど、今ゆくりなくこの皇太子の大故にあひ奉りては哀しみに堪へかねて、心をしづめむと欲すれども、鎭むることをえせぬ事よとなり。
 
191 毛許呂裳遠《ケゴロモヲ》、春冬片設而《ハルユフカタマケテ》、幸之《イデマシシ》、宇陀乃大野者《ウタノオホヌハ》、所念武鴨《オモホエムカモ》。
 
○毛許呂裳遠 舊訓「ケコロモヲ」とあり。金澤本などには「コケコロモ」とよめるあり。されど、「コケコロモ」とよむべき由なければ、舊訓をよしとす。さて「毛衣」とは何か。契沖は鳥獣の毛を以て織れる衣なりといひ、考には「皮衣」といへり。而して、攷證と美夫君志とは考に毛衣皮衣を一にせしを誤なりといへり。然るに本邦の古に毛を以て織りて衣服の料としたるものありしといふ證一も見出でず。されば、毛皮を以てつくれる衣服をば、毛衣とも皮衣ともいひしもの(364)にして、一物二名ありしなるべし。今この歌は御狩の事をいへること著しきが、古狩には皮衣をつけしことは、嵯峨野物語に鷹飼の装束はみなかは衣かは袴なりといへるにても知るべく、又上代に毛皮の衣を用ゐしことは日本紀應神卷十三年の條に、日向諸縣君牛がその女の髪長媛を朝廷に奉りしとき、天皇淡路島に幸せられしが、西を望みたまへば、數十の鹿の海に浮きて來て播磨の鹿子水門に入るを見て、使を遣して見しめたまひしに、著角鹿皮を衣服としたるにてありきといふ事見ゆ。なほ平安朝にも貂裘といふものの貴重せられしこと物語ものなどに見ゆ。されば、ここは毛皮の衣を「けころも」といひしものとおもふ。さてこの「ケコロモヲ」は春の枕詞なりとする説、加茂眞淵をはじめ、略解、攷證、古義、などしかいへり。代匠記は「ケコロモを調置て春冬の來るや遲きと狩に出給ひつる心なり」といひ、美夫君志またその趣にいへり。按するに衣類を張るといふより春にかけて枕詞とせるものなるは勿論なるが、又御獵の縁によりて之を用ゐたるものなること檜嬬手にいへるが如くなるべし。
○春冬片設而 舊板本「ハルカタマケテ」とよめり。大矢本京都大學本は「トシカタ」といふ一訓をつく。代匠記には「ハルフユカタマケテ」とし、童蒙抄には「ハルフユカケテ」とし、考は「片」は「取」の誤なりとして、「ハルフユトリマケテ」なりとせり。されど、「片」字には諸本いづれも他の字を用ゐねば、誤字としがたし。さてこの文字のままにてよまば、代匠記の如くよむが、それにては九音となりて甚しき異例となる。新考には「春冬の冬の字は衍字なるべし。即春の字一本に冬とあるより春の字の傍に書きたるがまぎれて本行に入れるなるべし」といへるが或は此の如き事(365)ありしならむと思はる。然れども諸本にすべてこの所誤字なければ姑く古訓のままにてあるべし。「ハルカタマケテ」といふ語の例は卷五「八三八」に「烏梅能波奈知利麻我比多流乎加肥爾波宇具比須奈久母波流加多麻氣弖《ウメノハナチリマガヒタルヲカビニハウグヒスナクモハルカタマケテ》」といふあり。又「冬カタマケテ」といへる例は卷十「二一三三」に「秋田吾苅婆可能過去者雁之喧所聞冬方設而《アキノタノワカカリバカノスギユケバカリガネキコユフユカタマケテ》」といふあり。「アキカタマケテ」といへる例は、卷十互「三六一九」に、麻多母安比見牟秋加多麻氣低《マタモアヒミムアキカタマケテ》」といへるあり。又「ユフカタマケテ」といへる例卷十「二一六三」に「草枕客爾物思吾聞者《クサマクラタビニモノオモヒワカキケバ》、夕片設而鳴川津可聞《ユフカタマケテナクカハヅカモ》」あり。又卷十「一八五四」に「鶯之木傳梅乃移有櫻花時片設奴《ウクヒスノコヅタフウメノウツロヘバサクラノハナノトキカタマケヌ》」といふあり。これらによりて「カタマケテ」といふ語が、秋冬春又夕など、すべて時をあらはす語につけて用ゐられしことを見るべし。その意は、古義に「片附《カタツキ》設るよしなり」といひ攷證に「方儲《カタマケ》にて皆その時を待まうけたる意也」といへり。然れども新考には卷十の「冬カタマケテ」の例をひきて他動詞にあらずして自動詞なりといひて「語意はチカヅキテといふ事ならん」とあり。如何にも然か思はる。されば、これが、春秋冬夕などを人が、待ち設くる意にはあらず、それらの時自身が用意する意にて近づかむとしてそのしるしの見え初めなどするを「かたまけ」といへるなるべし。されば「春片設而」は春が近づきてといふことにて、なほ冬の時なるをいへるか。
○幸之 舊訓「ミユキセシ」とよみたるが、皇太子に「ミユキ」とよみたる例なれば、從ひ難し。童蒙抄には「イデマセシ」とよみ、考に「イデマシシ」とよめり。「イデマセシ」にては語格にあはねば、考によるべし。「幸」を「イデマス」とよむは、卷一「五」の「行幸能」といふ語の下にいへるが如く、類聚名義抄に(366)「行」を「イデマス」とよめるに准へてよむべし。
○宇陀乃大野者「ウタノオホヌハ」とよむ。この地は、卷一にいへる安騎の野なるべし。その地は宇陀郡のうちなればなり。攷證には「書紀天武紀に菟田郡【中略】到大野云々とあるここ也」といへれど、その大野は安騎より一日程を隔て伊賀に近き地にありて別なり。攷證は安騎の野とこことを混同せることは「本集一に安騎乃大野とあるも宇陀郡なれば、ここなるべし」といへるにてしるし。さて、宇陀の安騎の大野なるをかくは略していへるならむ。この野の事は考に「上の卷に宇陀の安騎にて日並斯皇子の御狩たたしし時は來向と人萬呂のよみし同じ御狩の事をここにもいふ也」といへり。
○所念武鴨 「オモホエムカモ」とよむべし。童蒙抄に「シノバレンカモ」とよみたれど、從ひ難し。この句の意契沖は「其時に至らば有し事の忘られず、思ひ出されむとなり」といひ、考には「今よりは此有し御狩の事を常の言ぐさ思ひ種として慕奉らん哉と歎ていふ也」といひたり。考の説をよしとす。
○一首の意 今より後年々冬となり、春となり狩獵に適する時節の近づき來れば皇太子の獵にいでまししあの宇陀の安騎の大野の事の思ひ出されて、いつまでも忘るることあるまじと思ふとなり。かの卷一の歌によりて見てもその御狩の思出深き事なりしを想はしむ。
 
192 朝日照《アサヒテル》、佐太乃岡邊爾《サタノヲカヘニ》、鳴鳥之《ナクトリノ》、夜鳴變布《ヨナキカハラフ》、此年己呂乎《コノトシゴロヲ》。
 
(367)○朝日照 上にいへるにおなじ。
○佐太乃岡邊爾 「サタノヲカヘニ」とよむ。「サタノヲカ」は上にいへる如く、皇太子の御陵のある地なり。
○鳴鳥之 「ナクトリノ」とよむ。古義には「之」は「毛」の誤にして、「ナクトリモ」ならむといへり。されどさる字ある本一もなく、又「之」にて意通ぜざるにあらねば、もとのまゝにてよきなり。さて「の」は「の如く」の意にして、この上三句を序として舍人等がなくことをいはむ爲におけりといふ説(考、略解古義嬬手)と「ふくろふのやうの凶鳥の夜鳴」をするなりといふ説(代匠記、美夫君志)とあり。この意義は下の「夜啼變布」の意義に左右せらるるものなれば、次に至りていふべし。
○夜鳴變布 舊訓「ヨナキカヘラフ」とよめり。古寫本中には「ヨルノナキカナ」(金澤本)「ヨナキカヘサフ」(類聚古集、神田本)とよめるあり。又管見には「ヨナキカハラフ」とよみ、童蒙抄は「變」は「戀」の誤にして「ヨナキコヒシキ」とよみ、古義は「ヨナキカヘラフ」を可とすといへり。先づここに誤字ありといふ説は證なければ從ふべからず。次に、變字は「カヘル」にあらずして「カハル」といふ語にあたる字なれば、「カハラフ」とよむべき筈なり。かくして意通せすば、他のよみをも考へざるべからざれど、それにて意通ぜば、強ひてかはりたる訓を考ふる必要なし。さて「夜鳴變らふ」といふ語とせば、如何に解すべきかといふに、「カハラフ」といふ語は「カハル」といふ語をハ行四段に再び活用せしめしものにして、その語にて示す事の引續き行はるることを示すものなり。かくすれば、下にこの「年比乎」といへるにも吻合するなり。さて「夜鳴變らふ」とは、如何なる意ぞとい(368)ふに、代匠記に「念比此さたの岡邊に凶鳥の夜鳴にあしきね鳴つるはかからむとてのさとしなりけるよと思ひ合てなけく意なり」といひ、考には「舍人等のかはるかはる夜のとのいを嘆つつするをいふ」といへるは極端の説なり。美夫君志は考の説に基づきて「鳥の鳴聲に依て吉凶を知ることは佛説十二縁生祥瑞經にも見えたるが、漢籍にもまたあり」とて説文遊仙窟などを證とせり。如何にも本邦にては今も鳥の惡しき鳴聲を忌むなどかかる思想の存せざるにあらず、古にありては蓋し甚しきものありしならむ。しかれども、さる事ならば、この歌をよめる當時の事にあらぬ事になり、「此年ごろを」といへるには合致せず。こは蓋し萬葉集新釋に「鳥の夜の鳴聲が前とは變つて悲しく聞えることである」といへる如き意なるべし。かく考へ來れば、上の句の「鳴鳥之」は實際の鳥の鳴聲をさせる語なりといふべし。
○此年己呂乎 「コノトシゴロヲ」とよむ。「年ゴロ」の「コロ」は時間をいふ語なれば、「としごろ」といふことばにてたゞ「年」といひてかぞふる時間といふ程の義と見ゆ。さてこの「乎」は「よといふに似て助辭也」と攷證にいひ、檜嬬手、美夫君志等之に從へり。この年頃の間をかはらふといへるなれば、格助詞の「を」なること新考にいへるが如し。されど、これを格助詞「ヲ」とすれば、とて、「ヨナキワタ〔二字右○〕ラフ」と改むる新考の説には從ひかねたり。「カハラフ」にて時間の繼續をあらはしてあればなり。
○一首の意 皇太子薨去より引つづき此年ごろの間佐太の岡の邊になく鳥の夜の鳴聲をきけば常とは邊りて悲しく聞ゆることよとなり。これは自己の悲しき情によりて鳥の鳴聲もこ(369)の比はかはりてきこゆるやうに思はるるをうたへるなり。
 
193 八多籠良家《ハタゴラガ》、夜晝登不云《ヨルヒルトイハズ》、行路乎《ユクミチヲ》、吾者皆悉《ワレハコトゴト》、常道敍爲《ミヤヂニゾスル》。
 
○八多籠良家 舊訓「ヤタコラガ」とよめり。代匠記には「ハタゴラカ」とよみ、考には「多」を「豆」の誤かとし「ヤツコラガ」とよみ、玉の小琴には「良」は「馬」の誤とし、「ハタコウマ」とよみ檜嬬手には「多」は「箇」の誤「家」は「我」の誤として訓は「ヤツコラガ」とせり。然るに古寫本すべて誤字なければ、誤字説は從ふべからず。然れども、「ヤタコ」といふ語は他に例もなく、その意も知られず。「ハタゴ」とよむ説は和名抄に行旅具に「※[竹/兜]…漢語抄云波太古俗用旅籠二字飼馬籠也」とあるに基づくものにして今旅籠の字に見る如く、昔は行旅の具として馬に飼ふ籠をさせるものなるが、その「ハタゴ」をつけて行く馬又その馬子をもさすといふなり。今姑くそれに從ふ。されど、これにて治定せりといふべからず。後の學者の考究をまつものなり。
○夜晝登不云 「ヨルヒルトイハズ」とよむ。卷九「一八〇四」に「味澤相宵晝不云《アチサハフヨルヒルトイハズ》、蜻※[虫+延]火之心所燎管《カギロヒノココロモエツツ》」卷四「七二三」に「野干玉之夜晝跡不言念二思吾身者痩奴《ヌバタマノヨルヒルトイハズオモフニシワガミハヤセヌ》」卷十一「二三七六」に「夜晝不言戀度《ヨルヒルイハズコヒシワタレバ》」などの例あり。夜晝とそのわかちをもいはずとの意なり。
○行路乎 「ユクミチヲ」なり。
○吾者皆悉 舊訓「ワレハサナガラ」とよみ考には「コトゴト」とよみたり。新考には「サナガラ」といふ語をよしとし、「ソノマヽニ」といふ意といへり。然るに、皆悉を「サナガラ」とよむべき理由を知(370)らず。又「皆悉」は「ソノマヽニ」の意をあらはせる文字にもあらず。いづれにしても道理なしと見ゆ。「皆悉」は今「悉皆」ともいふ如く、各字に「ミナ」「コトゴトク」の意あるを重ねてその意を確めたるなり。「ことごと」といふ語は「ことごとく」の語幹にして意同じきことは卷一「二九」にいへり。卷五「八九二」に「布可多衣安里能許等其等伎曾倍騰毛《ヌノカタギヌアリノコトゴトキソヘドモ》」とあるその假名書の例なり。この「ことごと」は何をさしていへるか。これは宮道にする事柄に對して「ことごと」といひたりとせば、近世の講釋師の言めきたる事となる。さる語遣のかかる古代にありとは思はれず。これは「我等悉くが」の意なることは爭ふべからず。かく數量を示す語が、それに對する本體の語につける「は」といふ助詞の下にあることは國語に於ける一の現象なり。(日本文法講義三五七節を見よ。)この關係を明かにせずば「コトゴト」とよみたりとも意は徹底せぬ筈なり。
○宮道叙爲 舊訓「ミヤカトソスル」とよめり。然れども「ミヤカ」といふ語あるべくもあらず。多くの古寫本(神田本、西本願寺本、温故堂本、大矢本、京都大學本等)「ミヤヂトゾスル」とせり。さて考には「ミヤヂニゾスル」とよめりしより後諸家これに從へり。按ずるに集中「ニ」といふ助詞をば、下に、或る助詞を書けるときにはかかずして加へよますること「者」を「ニハ」とよむが如く例少からねど、「ト」にはかゝる例をさ/\見えず。されば、こゝも「叙」を「ニゾ」とよむべきならむ。さて「ゾ」の係助詞の故に下の「爲」を「スル」と連體形によむべきなり。宮つかへの通路とする由の意なり。
○一首の意 宮路には道を守る人ありてみだりに夜行などをゆるされぬものなるが、賤しき奴等の晝夜とその區別なく、心のままに往來する、この眞弓丘、佐大岡あたりの道をばおもひもか(371)けず我等は一人ものこらず、宮仕する爲に往反する道とせるよとなり。これも世のうつりかはりたるさまをよくいひあらはせるものなり。
 
右日本紀曰三年己丑夏四月癸未朔乙未薨。
 
○ この左注は日本紀卷三十の文を節取して示せるなり。攷證には三年の上に「高天原廣野姫天皇とあるべき也。さなくてはいつの御代の三年かわかりがたし」といへるはさる事のやうにも思はるれど、必ずしも然といふを得ず。何となれば、このはじめこの天皇の御宇といふことを掲げてあれば、その御世の三年なることいはずして知らるればなり。
○ 以上の總評として考に曰はく「右は六百人の舍人なれば、歌もいと多かりけむを撰みて載られしなるべし。皆いとすぐれて嘆を盡し、事をつくせり。後にも悲みの歌はかくこそあらまほしけれ。」と。
 
柿本朝臣人麿獻2泊瀬部皇女忍坂部皇子1歌一首并短歌
 
○柿本朝臣人麿 上に屡いへり。
○泊瀬部皇女 「ハツセベノヒメミコ」續紀に長谷部内親王とかける御方なり。天武天皇の御子にして忍坂部皇子の同母の御妹におはします。日本紀天武天皇紀下に曰はく「次(ニ)宍人臣大麻(372)呂女|※[木+疑]《カヂ》(類本、作※[木+穀]蓋穀之訛)媛娘生2二男二女1。其一曰2忍壁皇子1、其二曰2磯城皇子1、其三曰2泊瀬部皇女1、其四曰2託基《タキ》皇女1」とあり。この皇女の事は續日本紀靈龜元年正月の條に四品長谷部内親王に封一百戸を益さるる記事あり。同天平九年二月の條に三品を授けらるる記事あり。天平十三年三月の條に「己酉日、三品長谷部内親王薨天武天皇女也」と見えたり。
○忍坂部皇子 「オサカベノミコ」。紀に忍壁皇子とかき續紀に刑部親王とかける御方なり。天武天皇の御子にして、泊瀬部皇女の御同母の御兄にましますこと上にいへる如し。この皇子の事は日本紀天武天皇十年三月の條に詔して帝紀及び上古の諸事を記し定めしめらるる諸員の中に御名見え、同十四年正月の條に丁卯日忍壁皇子に淨大參の位を授けらるることあり。同朱鳥元年八月の條に辛巳日忍壁皇子に封百戸を加へらるる記事あり。又續日本紀には文武天皇四年六月の條に淨大參刑部親王を首として、藤原不比等以下すべて十七名に勅して律令を撰定せしめられ、大寶元年八月條には三品刑部親王以下の撰定せし律令の始めて成れる由の記事あり。大寶三年正月の條には「壬午詔三品刑部親王知2太攻官事1」と見え、慶雲元年正月には封二百戸を益さるる由見え、同二年四月には「賜2三品刑部親王越前國野一百町1」と見え、なほ「五月内戌三品忍壁親王薨、遣v使監2護喪事1。天武天皇之第九皇子也」と見えたり。
○ この詞書につきて諸家に種々の異説あり。代匠記には皇女の下に「兼并等の字脱たるか」といひ考には全く誤れりとし、改めて「葬2河島皇子於越智野1之時柿本人磨献2泊瀬部皇女1歌」とし、檜嬬手之に從へり。又略解には、「忍坂部皇子の五字は次の明日香皇女木※[瓦+缶]殯宮云々の端詞に有(373)しが、ここに入しもの也」といひ、古義には「忍坂部皇子の五字を他より混入したるものとし、題詞を「河島皇子殯宮之時柿本朝臣人麿猷2泊瀬部皇女1歌云々」と改めたり。新考はただ、「忍坂皇子」の五字を衍なりとして、「おそらくはもとは註文にて忍坂皇子同母妹などぞありけむ」といへり。按ずるにこの端書のみにては、如何なる場合の枕詞なるか明かならず。この故にかく種々の説も出でたるなるが、考、古義等の説は左注を是なりとして、これをここにうつしたるにすぎざるものなり。然れども、古來かくありて、その事情詳かならずして、或本に左注の記せる如き事ありたればこそ左注も記せるなれ。されば、今更左注を本に立つることはかへりてさかしらなるべし。されば、ここは美夫君志に考の説をあげて、さて、「此はさる事ながら各本皆此の如くなれば、しばらく本《モト》のまゝにておきつ」といへる如き態度をとるを穩かなりとす。次に「忍坂部皇子」を衍なりとすることも道理あるかの如く見ゆれど、元來如何なる故にかくかけるか明かならぬものなれば、この皇子の御名を除きてもなほ明かならぬ點は同じく殘れり。されば、これはいづれにしても明かならぬものなれば、姑くただそのままにさしおく外なかるべし。
 
194 飛鳥《トブトリノ》、明日香乃《アスカノ》、河之《カハノ》、上瀬爾《カミツセニ》、生玉藻者《オフルタマモハ》、下瀬爾《シモツセニ》、流觸經《ナガレフリフル》、玉藻成《タマモナス》、彼依此依《カヨリカクヨリ》、靡相之《ナビカヒシ》、嬬乃命乃《ツマノミコトノ》、多田名附《タタナツク》、柔膚尚乎《ニキハダスラヲ》、劍刀《ツルギタチ》、於身副不寐者《ミニソヘネネバ》、烏玉乃《ヌバタマノ》、夜床母荒良無《ヨトコモアルラム》、【一云何禮奈牟】所虚故《ソコユヱニ》、名具鮫《ナクサメ》(魚《カネ》)天《テ》、氣田〔左○〕敷藻《ケタシクモ》、相屋常念而《アフヤトトオモヒテ》、【一云公毛相哉登】、玉垂乃《タマダタレノ》、越乃大野之《ヲチノオホヌノ》、且(374)露爾《アサツユニ》、玉藻者※[泥/土]打《タマモハヒヅチ》、夕霧爾《ユフギリニ》、衣者沾而《コロモハヌレテ》、草枕《クサマクラ》、旅宿鴨爲留《タビネカモスル》、不相君故《アハヌキミユヱ》。
 
○飛鳥 「トブトリノ」とよむ。これを「アスカ」の枕詞とせり。その意義及び、枕詞とせる理由明かならぬ由は卷一「七八」にいへる如し。
○明日香乃河之 「アスカノカハノ」とよむ。この河は古來名高き川なるが、その河は、その源二あり。一は高市郡畑村に發し稻淵村(古の南淵村)を經るによりて稻淵川といひ、一は十市郡(今の高市郡)多武峯に發して細川といひ、やがてその通る村をも細川村といふ。この二流高市郡祝戸といふ邊にて相會し、北に流れ、廣瀬郡|川合《カハヒ》村に至りて大和川に入る。今は大川といふべからねど、古は、水量多かりしなるべく思はるるは、この川の水源地を朝廷より保護せられしにて想像せらる。日本紀天武天皇五年五月の條に「勅(シテ)禁2南淵山、細川山1並|莫《ナカラシム》2蒭薪《クサカリキコルコト》1」とあるその證なり。
○上瀬爾 舊本「ノボリセニ」とよみたれど「ノボリセ」といふ詞は古今に例なきものなり。代匠記に「カミツセニ」とよめるをよしとす。古事記下卷允恭段に「許母理久能波都勢能賀波能賀美都勢爾伊久比袁宇知《コモリクノハツセノカハノカミツセニイクヒヲウチ》、新毛郡勢爾麻久比袁宇知《シモツセニマクヒヲウチ》云々」とあり。この同じ歌を本集卷十三に載せたるには「己母理久乃泊瀬之河之上瀬爾伊杭乎打《コモリクノハツセノカハノカミツセニイクヒヲウチ》、下湍爾眞杭乎格《シモツセニマクヒヲウチ》」(三二六三)とかけり。これによりてよみ方を確定すべし。意義は卷一「三八」にいへるが、ここは「上流」といふ程の意にみるべし。
○生玉藻者 「オフルタマモハ」とよむ。この語の假名書の例は卷十四に「於布流多麻母能《オフルタマモノ》」(三五六二)とあり。玉藻はただ藻をたゝへていへること卷一(「二三」「二四」「四一」「五〇」、「七二」)にいへり。
○下瀬爾 舊本「クダリセニ」とよみたれど、代匠記に「シモツセニ」とよめるをよしとす。その故は(375)「上瀬爾」の條を見よ。下流といふ意にみるべし。
○流觸經 舊板本「ナカレフルフル」と訓し、古寫本中には「ナカラフルフル」(西本願寺本)「ナカラフレフル」(温故堂本)などよみたり。契沖は舊訓によりたれど、その後の諸家多くは、異説を唱へたり。考は「ナカレフラヘリ」とよみ、玉の小琴は先づ「ながれふれふるとよめるはひかごとなり」といひ、考の説を否定してさて「是はふらばへと訓べき也」といひ、古義は一面本居説に賛成を表しつつ、自己は「ナガレフラフ」とよむべしといひ、なほ本居説の如くよまむには流觸羽經といふ「羽」の字脱たるならむといへり。さて本居の説は古事記雄略卷の歌に「本都延能延能宇良婆波《ホツエノエノウラバハ》、那加都延爾淤知布良婆閉《ナカツエニオチフラバヘ》、那加都延能《ナカツエノ》、延能宇良婆波《エノウラバハ》、斯毛都延爾《シモツエニ》、淤知布良婆閉《オチフラバヘ》」とあるに基づきたるものなるが、「觸經」を「フラバヘ」とよみうべきか如何。本居の説には「經の字はへとかふとかは訓へし」といひたるが、その點はよしとして、「觸」を「フラバ」の語に宛つることをば如何にして説明しうべきか。本居説を繼承せる諸家の説を見るに、この點につきては多くは無責任なり。ただ新考には本居説をあげてさて曰はく「此説に基づきてナガレフラバフとよむべし。經はハフとはよまれねば、もしハフとよむべくば、經の上に羽を補ふべしと云へる人(古義)もあれど、日ヲフ絲ヲフなどのフは元來ハフの約なれば、經の字は安んじてハフとも訓べし」といはれたり。この説一往聞えたるやうなれど、よく考ふるに、「フ」が「ハフ」の約なりといふ事の證は一も存するを知らず。されば、吾人の立脚地としては從ひ難き事なり。かくの如きことなれば「フラバフ」といふ語をあらはす爲に「觸經」の二字を用ゐたりとは如何にしても考ふべからざるなり。さて(376)又一歩を讓りて、この二字を「フラバフ」とよみうるものと假定して、さて、その「フラバフ」といふ語が果してここに適するか如何を顧みむ。古事記傳(四十二)に「淤知布良婆閇は落觸《オチフラバヘ》なり。布禮を布良婆閇と云は延《ノベ》て活《ハタラ》かしたる言なり」とありて今のこの歌を例としたるなれど、果してこの説の如く、信じて可なりや。しかも古事記の歌なるは、とにかくに上枝の葉が、落ちて中枝に觸れ、中枝の葉が落ち下枝に觸るることと解するものとして、さてこの歌の玉藻は如何。木葉の落るが如く、切れて流れて、藻が下つ瀬に觸るといふ義なりとするか。然らば、下つ瀬に觸るといふ事は如何なる事をなすにか。木の上枝中枝下枝の如く明かに、空間的に個別的なる場合にこそ落ちて觸るともいふべけれ。水流の如きは一連續をなせるものなり。若しある瀬に觸るといふ事をいふべくば、そは、水面より上にあるものが、落ち、又は垂れて水面に觸るる場合の外には瀬に觸るるといふことあるべきにあらず。この故に「フラバフ」といふ語が「觸」字の意義あるものとしても、吾人は之に從ふべき所以を知らず。されば吾人は本居説は何等從ふべき理由を知らずといはむとす。(文字のよみ方よりいひても、文字の意義よりいひても)然らば之を如何によむべきかといふに、余は大體に於いて舊のよみ方をよしと思ふ。さてその意義について契沖曰はく「流フレフルとは、上瀬の玉藻のなびき下て、下瀬の玉もにふれふるるなり。經の字日本紀に觸と同じくふると訓す。又此集第十二にも、妹とふれなむと云に、二つのふれに此字を用たり。字書にいまだ見及ばすといへども定て子細あるべし。假令、此所は觸の訓ならで經歴のふるを借て用と云とも子細なし」とあり。契沖は、上つ瀬の玉藻のなびき下(377)て下瀬の玉藻にふれふるるなりといひたれど、下瀬の玉藻といふべきものは歌に全くあらはれてあらぬ事なり。惟ふに契沖も亦觸字にとらはれてその字義にて説かむとせるが故にここに窮せるなり。彼の契沖に反對する諸家も亦「觸」字の義にとらはれてその範裡を脱すること能はざるなり。余思ふにこの觸字は所謂宛字にして、「フリ」といふ語を示す爲に用ゐしならむ。抑も「觸」字のあらはす意の動詞「フル」は普通に下二段活用なれど、古くは、四段活用なりしなり。その證は、本集卷二十「四三二八」に「於保吉美能美許等可之古美伊蘇爾布理宇乃波良和多流《オホキミノミコトカシコミイソニフリウノハラワタル》、知知波波乎於伎弖《チチハハヲオキテ》」などにて知るべし。されば、こはその連用形とし「フリ」とよみうることは疑ふべからず。かくて下の經は「フ」とも「へ」ともよむべきが、又その連體形として「フル」とよむべきは更に疑ふべきにあらず。ここに余はこの「觸經」の二字は「フリフル」といふ語をあらはす爲の借字と思ふ。その事は、觸にも經にもあらずして「振」の字の義の動詞を重ねて「ふりふる」といへるなりと思ふ。その意は左に振られ、右に振られ、ゆら/\と水流のままに靡きふることを重ね言としていへるならむと考ふ。かくの如き詞遣の例は卷一「二」の歌に「けぶりたちたつ」「かまめたちたつ」といへるにても知るべし。この故に余は、「ナガレフリフル」とよみて、上の如き意に釋すべきものと主張す。さてこの句の下に脱せる句ありとて、宇部は「下瀬爾生玉藻者上瀬爾靡觸經」を補ひ、さて曰はく「此四句十三字今何れの本にもあらざるははやく同字の多かるを見混《ミマガ》へて脱せる也。此は上の四句と合せて八句二聯の對なれば調べにとりても必ずなくては有るべからず。又此四句なくては次の彼依此依靡相之《カヨリカクヨリナビカヒシ》と云る序辭の例に叶ひがたし。故今(378)補v之。もし是を私事と見ん人は古への歌を聞わくる耳も目もなき心也。人麿大人の御魂はよろこびましなんかし」とまで極言せり。されど、こはただ對句を調へたりといふまでにして、必ずかくせずしては歌にならずといふ程の大事件にもあらず。按ずるに、こは本居の説の如く「ながれふらばへ」とよみては、かの古事記の歌を誰人も思ひ出づれば、それにひかれて、今一二句の對あらまほしく思へるが爲なるべきが、下つ瀬に生ふる玉藻の上つ瀬に靡きふるとは何の義ともいふべからず。水の逆流するをいへるにか。殆ど常識にては考へられぬことなり。而して、次の「彼依此依靡相之」といへる序辭の例に叶ひがたき由いへるは、自ら「流ふらばへ」とよめばこそあれ。余がよむ如くにせば、更にかかる強言をなす必要あらず。
○玉藻成 「タマモナス」とよむ。その語は、卷一「五〇」にいへり。「靡相之」さまを形容するに用ゐたる語なり。
○彼依此依 「カヨリカクヨリ」とよむ。本卷「一三」の歌に「彼縁此依」とかき、「一三八」の歌にここと同じ文字にてかけるが、意はそこと同じ。この語を導く序として、上に「流れふりふる」といひたるなるが、川の藻が靡き流れて水流にゆられて彼方により、此方による如くといへるなり。
○靡相之 舊板本「ナヒキアヒシ」とよみしを考に「ナビカヒシ」とよめり。按ずるに、これ「ナビキアフ」といふにあらずして「ナビク」を波行四段に更に活用せしめて、その事の繼續する事をあらはせる語なれは「ナビカヒシ」とよむをよしとす。この「ナビク」は上(一三五)に、「玉藻成靡宿之兒乎」とある「靡き宿」ぬる由をいへるなり。即ち傍に添ひ臥したるをいふなり。「一三五」を見よ。
(379)○嬬乃命乃 舊板本「イモノミコトノ」とよめり。古寫本には神田本に「ツマノイノチノ」とよみ、温故堂本に「ツマノミコト」とよめるが、代匠記には「ツマノミコト」とよめり。「嬬」を「ツマ」の語に用ゐたる例は卷一「一三」にいへり。ここは「ツマノミコトノ」とよむをよしとす。さてこの「ツマノミコト」とは何方をさすかといふに、契沖は「此嬬は假てかけり。注に依るに河島皇子の御事なれば、正しく夫の字を書べし」といへり。古事記上卷の八千矛神の御歌に「和加久佐能都麻能美許登《ワカクサノツマノミコト》」とあるは女性をさし、又卷十七「三九六二」に「波之吉與志都麻能美許登母《ハシキヨシツマノミコトモ》」とあるも、卷十八「四一〇一」に「波之吉餘之都麻乃美許登能《ハシキヨシツマノミコトノ》」とあるも、おほくは女性の方にいへり。されど、かく決定的にいふべきにあらず。下の「玉も」といふ語に照せば、この歌の主題となれる人は女性なれば、それに對してここはなほ男性にして夫の義なるべし。
○多田名附 「タタナツク」とよむ。この語の例は、卷六「九二三」に「立名附青墻隱《タタナヅクアヲカキコモリ》」卷十二「三一八七」に「田立名付青垣山之《タタナツクアヲガキヤマノ》」といひ、古事記景行卷に「多多那亘久阿哀加岐夜麻碁母禮流夜麻登志宇流波斯《タタナツクアヲカキヤマゴモレルヤマトシウルハシ》」日本紀景行卷にも「多多儺豆久阿烏枷枳夜摩許莽例屡夜麻苫之于漏波試《タタナツクアヲカキヤマコモレルヤマトシウルハシ》」とあり。これを枕詞なりといへり。如何にも「青垣」に對しては枕詞の如くなれど、今のここには枕詞とはいふべくもあらず。この場合には、攷證に「和らかなる單衣などの身に親しく疊《タタナハ》り付を妹が膚の和らかになびきたたなれるにたとへていへる也」といへる如き意と見ゆ。
○柔膚尚乎 舊訓「ヤハハタスラヲ」とよめり。攷證には荒木田久老の説によりて「ニコハタ」とよむべしといひ、古義に「ニキバダ」とよむべしといへり。按ずるに「柔」字は柔和の義にて「ヤハシ」の(380)語幹として「ヤハ」ともよむべく、又「ニギブ」の語幹にて「ニギ」ともよむべく、又「ニゴヤカ」の訓あるによりて「ニゴ」ともよむべきなり。而して意も大抵異なることなければ、いづれと定むべきかといふに、なほ本集中の假名書のものを主として據とすべきなり。然るときは名詞に冠して「ヤハ何」といへるはなく「ニギ何」といへるに假名書のはなく、「ニコ何」とあるは卷十一「二七六二」に「蘆垣之中之似兒草爾故余漢《アシガキノナカノニコグサニコヨカニ》」など「にこくさ」「にこよか」といへる語多けれど、これは、草の名又は副詞なるべければ、必ずしも據とすべからず。されば「ニギテ」(古語拾遺に「和幣」に「古語爾伎弖」〉「ニギミタマ」(日本紀神功哀紀に「和魂此云珥伎瀰多摩」)などの例に准じて「ニギハダスラヲ」とよむをよしとすべし。かく膚の柔なるをたたふるは古來主として女性につきていへれば、上の「ツマ」は女性なる如くなれど、下の「玉も」に照せば必ずしも然らざるを見る。「尚乎」は「スラヲ」とよめり。「尚」は漢語にては、「猶」と通用する義あるものを國語の副詞「スラ」にあてたるなり。「スラヲ」といへる例は卷九「一六九八」に「春雨須良乎間便爾爲《ハルサメスラヲマツカヒニスル》」卷五「八九二」「寒夜須良乎《サムキヨスラヲ》」などあり。又卷三「三八二」に「雪消山道尚矣名積叙吾來並二《ユキゲスルヤマミチスラヲナツミゾワガコシ》」とかけるは今の例なり。これは後世までも用ゐたる助詞にして、一事をあげて他を類推せしむる意を以て下に來る用言の意義を装定するものなり。
○釼刀 「ツルギタチ」とよむ。本卷「二一七」に「釼太刀身二副寐價牟《ツルギタチミニソヘネケム》」とあり。又卷十一「二六三七」に「釼刀身副妹之思來下《ツルギタチミニソフイモガオモヒケラシモ》」又卷十四「三四八五」に「都流伎多知身爾素布伊母乎等里見我禰《ツルギタチミニソフイモヲトリミカネ》」などいへるいづれも同じ趣の語なり。之を枕詞といへるが、これは卷四「六〇四」に「釼大刀身爾取副常夢見津《ツルキタチミニトリソフトイメニミツ》」卷十一「二六三五」に「劍刀身爾佩副流大夫也《ツルキタチミニハキソフルマスラヲヤ》」などは事實をいへるものなるが、ここは「身に副ふ」(381)といふ語を導く爲におけるなり。即ち刀釼は人の身を放たず、取りおぶるものなればなり。
○於身副不寐者 「ミニソヘネネバ」とよむ。「於」は漢語の助辭にして國語の「ニ」に似たるものなるが、それを漢語の本來の意義と用法とによりて「身」の上に置きたるなり。その夫君の逝去せられて、ひとりねなるをいはれたるなり。
○烏玉乃 流布本「鳥玉」に作れど、義をなさず。大多數の古寫本「烏」に作るをよしとすれば、今改めたり。「ヌバタマノ」とよむ。この語は本卷「八九」に「奴婆珠乃」とある條又「一六九」の「烏玉之」の下にいへり。そこにていへる如く、これは射干といふ草の實なるが、小き黒色の球状をなせるによりて「烏玉」とかけるなり。その草は和名抄に「本草云射干一名烏扇」とあり。卷四「六三九」に「夜干玉能」卷十一「二五八九」に「黒玉夢不見」などみな然り。「夜」の枕詞とするはもと「黒き」の枕詞とするより夜は暗きによりて轉用したるなり。
○夜床母荒良無 「ヨトコモアルラム」とよむ。夜床は夜の臥す床なり。日本紀仁徳卷に「瑳用廼虚烏那羅倍務耆瀰破《サヨドコヲナラベムキミハ》」と見ゆるも「サ」は接辭にして同じく夜床なり。本集卷十八「四一〇一」に「奴婆玉乃夜床加多左里《ヌバタマノヨドコカタサリ》」などの例あり。「あるらむ」は攷證には上の「荒備勿行」(一七二)と同じ意の由にいへども、「荒ぶ」と「荒る」とを同一語とするは不當なり。これは上の「一六八」の「皇子乃御門之荒卷惜毛」の「荒る」と同じ意なり。考に曰はく、「古へは旅行しあとの床をあやまちせじと謹む也。死たる後も一周はしかすれば、塵など忌みてはらはねば、荒《アル》らんといふ也」といへり。以上第一段、この歌によめる主人公の境遇を想像したるなり。「らむ」といふ語はこの爲におけり。
(382)○一云何禮奈牟 一本の説をあげたるなるが、この文字のままならば「カレナム」とよむべし。然るに「何」字類聚古集神田本等には「阿」とせり。然らば「あれなむ」なり。然れども、本行の方まされり。
○所虚故 「ソコユヱニ」とよむ。この語の事上の「一六七」の條にいへり。これは第一段に述べたる點をうけてそれをさして「そこ」といへるなり。
○名具鮫魚天 舊訓なほこの下の「氣留」までを一句として、「ナクサメテケル」とよみ、なほ下の方を「敷相屋常念而」を「シキモアフヤトトオモヒテ」とよみたるが、かくて讀み下しうるやうなれど、意通ぜず。古來難解の一として諸説紛々たり。今一々之をあげず。略解に荒木田久老の説をあげて云はく「魚は兼の誤留は田の誤にて、なぐさめかねてけたしくもと訓べしといへり。しかあらたむれば、或本の公もあふやと有にもよくつづけり。」といへり。いかにもこの説の如くなるべし。然るに、今傳はる諸本一も「魚」を「兼」につくれるものを見ざれば、確にしかと定めがたけれど、かく考ふればその意よく通じ、然せずば、意通ぜざるが故に今姑くこれに從ふ 但し本文は漫りに改むべくもあらねばなほ後の研究を待つ。鮫は今も「サメ」とよみ、和名抄に「佐米」の注あり。かくて借字とせしなり。「ナクサメカネテ」は自ら心を慰めむと欲して、しかも慰むるに能はぬをいふ。
○氣田敷藻 「田」字流布本「留」字とせり。舊訓は上にいへるが如し。而して久老の説は「留」は田の誤にして、「ケタシクモ」とよむべしといへり。古寫本中金澤本、類聚古集に「田」字をかきたれば、田(383)の字を正しとして、久老の説を當れりとすべし。「ケダシクモ」といへる例は卷十一「三一〇五」に「蓋雲吾戀死者《ケタシクモワカコヒシナバ》」卷十七「四〇一一」に「氣太之久毛安布許等安里也等《ケタシクモアフコトアリヤト》」とあり。なほ卷四「六八〇」卷七「一一二九」卷十「二一五四」に「盖毛」とかけるも皆この語なり。その意は今の「けだし」と同じ意にして、萬一の場合を推量想像するものなるべきが、この頃はかく「く」の形をとれること「もし」に對して「もしくは」といふ形の語のあると趣稍似たり。
○相屋常念而 舊訓にいへり。久老の上の訓につれて、ここを攷證などには「アフヤトオモヒテ」とよめり。古義は「ここは皇女の御うへを申せる語なれば、かならず御念《オモホシ》とあるべき所なり」といひて「御」字を補へり。されど、さる本一もなければ、從ひがたきのみならす、歌には必ずしも敬語を用ゐぬものなれば從ひがたし。見え逢ふことありやと思ひてなり。
○一云公相哉登 一本の説に「キミモアフヤト」とありとなり。考にはこれを本文に立てたれど、必ずしも改むるに及ばず。
○玉垂乃 「タマタレノ」とよむ。下の「越」の「ヲ」の枕詞なり。さて玉垂とは如何なるものか。倭訓栞には「珠簾の略なるべし。」といひ、楢の嬬手には「玉に緒をつらぬきてたるるをいふ」といへり。この玉に緒をつらぬきてたるるものとは如何なるものにして何に用ゐるものかこれを明確に説明せるものを見ず。又「玉すたれ」といふ説は本集に「玉たれのをす」といへる語(卷六「一〇七三」卷十一「二三六四」同卷「二五五六」あるより後世あやまれるものなるべきが、そは「小簾」全體に關するものにあらずして、ただ「を」といふ語のみに關するものなることは、この歌と次の歌とによ(384)りて知るべく又、「眞玉付ヲチコチ云々」といへるにても知るべし、さてそは玉を緒につらぬくより「を」にかけて枕詞とせりといふ事は疑なけれど、玉垂といふ名を有する實物は未だ明かなりといふを得ず。筑後國に有名なる高良玉垂神社ありて高良玉垂命を祭れりといへども、その祭神實は詳かならず。「高良」は但し「カワラ」にして甲冑の古名なれば、ある著しき神の遺物を神寶とせしか。然るときはその「カワラ」と「玉垂」とを祭れりといふべきに似たり。その「玉垂」といふもの若服飾とせば、支那にいふ玉佩といふものをさすにあらざるか。これは當時唐風の服飾として、禮服には必ずあるべきものたりしなり。姑く記して後の參考に供し、且つ後賢の研究を待つ。
○越乃大野之 舊訓「コスノオホノノ」とよみたり。代匠記に「ヲチノオホノノ」とよめり。これは反歌の一説に「乎知野」とかき、又左注に「越智野」とあるに同じ地をさせるものたるべく、代匠記の説をよしとす。「越」を「ヲチ」にあてたるは字音を用ゐたるなり。卷五「六七四」に「眞玉就越乞兼而《マタマツクヲチコチカネテ》」卷十三「二九七三」に「眞玉付彼此兼手《マタマツクヲチコチカネテ》」などを見て知るべし。さてその「ヲチ」といふは、何處ぞといふに、今の大和國高市郡に今越智岡村ありてその大字に越智及び北越智といふ地ありてその邊の野原をさせるものと見ゆるが、今その大字「越」とかきて「こし」とよべるは即ち、古の「ヲチ」を「越」字にてかけるを後世に讀みあやまりしものと考へらる。この地には皇極天皇の山陵ありて、延喜式には、越智崗上陵と記せるが、これをば日本紀天智卷第六年に「小市岡上陵」と記せり。「小市」「越智」同じ語なるなり。この御陵は越智の南の丘陵の南の部にありて、よくその名にあへり。(385)「大野」といへるはたたへ語なり。ここは蓋し、その夫君の葬所たるべし。
○旦露爾 「アサツユニ」とよむ。「朝の露に」なるが、草原を分けて來れば朝露にぬるるものなる故にいひたるものにして、これは藤原都より越智野に來る途上をうたへるならむ。
○玉藻有※[泥/土]打 舊板本「タマモハヒツチ」とよめり。古寫本中に「ヒチヌ」と訓せるもままあり。されど、「打」を「ヌ」とよむべき道理なければ從ふべからず。まづ「玉藻」の「藻」は借字にて「玉裳」なるなり。「玉」は美しき由のたたへ詞なり。裳は女性の禮裳の一にして、袴の上につくるものなり。この語によりて、この歌の主人公と立てたるものは女性なることを知る。「※[泥/土]打」を「ヒヅチ」とよむは「ヒヂウチ」の約まれるものなるべし。「※[泥/土]」は「泥土」の二字の合したるものなるが「泥」の俗字なる由、廣韻に見えたり。類聚名義抄に「泥」に「ヒヂ」の訓あり。今いふ「ドロ」の古言なり。「※[泥/土]打」とかけるは卷三「四七五」にも「輾轉※[泥/土]打雖泣《コイマロビヒヅチナケドモ》」とあり。又卷十三「三三二六」には「展轉土打哭杼母《コイマロビヒヅチナケドモ》」とあり。この「土打」も又「ヒヅチ」とよめり。さて果して「ヒヅチ」といふ語ありて、ここをかくよみてよきかといふに、卷十五「三六九一」に「安佐都由爾毛能須蘇比都知《アサツユニモノスソヒヅチ》、由布疑里爾己呂毛弖奴禮弖《ユフギリニコロモテヌレテ》」卷十七「三九六九」に「赤裳乃須蘇能波流佐米爾爾保比比豆知底《アカモノスソノハルサメニニホヒヒヅチテ》」といふ假名書あるによりて、當時かくいへる語あるのみならず、この假名書の例はいづれも、裳の裾のひづちたるなるが、この歌のも、裳なれば、同じ趣の事をよめりと見えたれば、古の訓のあたれるを見るべし。さて、その語の意は如何といふに、契沖は「ヒヂ」なりといへり。「ヒヂ」は濡るる事なり。其れより後種々の説あれど、要するに、「ヒヂ」と同語なりとするにありて、その説明は「つちの反ちなれば、ひちを延ていへる言にて(386)ひたす意なり」(攷證)といふが如きものなり。されど、「ヒヂ」が延びて「ひづち」となれりとは語法上いひうべき説にあらずして、學問上理なきことなり。古義には「ヒヂ」を活したるものといひて「タギツ」「モミヅ」の例をあげたるがその説も無理なる故に全くは從ひかぬるが、假に「ヒヂ」即※[泥/土]土の活用せる語として見れば、※[泥/土]によごれたる由にこそいへ、水にぬれたる由にのみいふは不條理なりとす。われ思ふに、「ヒヅ」と「ヒヅチ」とは同じ源の語にあらずして意義もまた別なるべし。今この語の假名書なるものの外の例を見るに、上にあげたる「※[泥/土]打」「土打」の外には、この卷「二三〇」に「玉桙之道來人乃泣涙※[雨/沛]霖爾落者白妙之衣※[泥/土]漬而《タマホコノミチクルヒトノナクナミダコサメニフレバシロタヘノコロモヒヅチテ》」又卷七「一〇九〇」に「吾妹子之赤裳裾之《ワギモコノアカモノスソノ》將染※[泥/土]《ヒツチナム・ヒツツラム》、今日之※[雨/脉]※[雨/沐]爾吾共所沾名《ケフノコサメニワレサヘヌレナ》」とありて他の書きざまなるものはなし。されば、これはいづれにしても、泥土に關する義をもてる語なりと考へらる。さて、略解には、上の卷七の歌の條に、「染※[泥/土]は義を以書り。此字の書ざまをとて、ひづちひぢの語釋べし。」といへり。古義は之を駁して、「染※[泥/土]は物に濕《ヒヅ》つ中の一方に就る書さまなり。此字に依てすべてヒヅツは※[泥/土]に染《ツク》ことぞと思は偏なり。略解の説など大(ジキ)誤なり。」といひたり。されど、上にあげたる如く、義をもてかけるには、「泥」「土」の字必ずありて他の書きざまのもの一もなし。そのうち「※[泥/土]打」「土打」は「ヒヂウチ」の音をかりたりといふことをうべけむ。されど、「※[泥/土]漬」「染※[泥/土]」の二つは、疑ひもなく、その意義によりてかけりと見られ、又然見ずしてはこれを「ヒヅチ」とよまむ由もあらざるべし。されば、これは「※[泥/土]に染み漬る」意なるべきを思ふと同時に「※[泥/土]打」「土打」も本義によりてかけるものなりと思はる。かくて考ふれば、「ひづち」と「ひづ」とは別の語にして別の義なるべければ、略解の卷七の釋もすぎた(387)るものといふべし。余は「ひづ」と「ひづち」とは別の語なりと思ふ。然るに古義にはこの歌の條に曰はく「※[泥/土]字につきて※[泥/土]に漬《ツキ》てぬるゝことと思ふことなかれ。比豆都《ヒヅツ》は雨露涙などをはじめ何にもぬるることに云り」といへり。この義は果して從ひうべきか。今上の諸例につきてひづちたるものと、そのひづちたる因縁と事情とを對照して見れば、
 アサ露に   玉裳は  ひづち      (この歌)
 同      赤裳の裾 ひづち      (卷十五)
 春雨に    赤裳の裾 にほひひづち   (卷十七)
 涙(ニ)   白妙之衣 ひづち      (卷二、「二三〇」)
 こさめ(ニ) 赤裳裾  ひづち      (卷七、)
 ?      ?    こいまろびひづち (卷三、卷十三)
の如くなるが、その卷三卷十三なるは何事とも明かに示されねば、論は如何樣にも立てうべきが故に別として、その他の例を見るに、卷二は「衣」といひたるにて稍異なれど、他はすべて裳にいへるを注意せよ。しかもその裳も多數が裾なるに注意せよ。ここに吾人はその「ひづち」といふ事を起す原因が、雨にせよ露にせよ。(涙は雨露に准じたるものなれば、論の外なり。)そのひづちといふ事實を生ずるものは裳の裾なることを注意すべきを思ふ。裳といへるはその全體をさし、衣といへるは更に衣服の總態をいへるにてその實にひづちする物は衣服のうちにも下部の外面なる裳にあり、裳にてもその下部の裾にありと見るべきにあらずや。而して、屋内(388)のことにあらずして、野外の道路の上の事にいへるは諸例に通じたる現象なり。かくてその原因として雨露をいへり。さればそれらを綜合して考ふるに道路の上にてある事にして、雨露によりておこることにして、泥土の作用にして、裳の裾にあらはるることにして、しかも、「染」字「漬」字にて示さるる事實といはざるべからず。かく考ふるときは、これは吾人が雨天にぬかるみを行くときに、衣の裾が、泥土に汚れ、染みつかる事にあらずや。この事以外に上述の諸の條件にあてはまる事はあらざるべし。かくて之は衣にて泥を打つといふ事をさすとみる時にはその「※[泥/土]打」「土打」の文字はまさしく實事を適切にあらはしたる語にして、これこそ本義にして、他は義により書きたるものと考ふ。即ち泥の點々を裳の裾をばぬかるみの泥土に打ちつくるさまにして染み汚すことをば「ヒヂウチ」といひ、それをつづめて「ひづち」といひたるものと考ふるなり。ここに於いて、卷三卷十三なる「こいまろびひづちなげく」といへるも、道路にふしまろびて、今の所謂泥まみれになるをいへるものと考ふるなり。かくの如く解して、はじめて、「ひづ」と「ひづち」とは同義同語にあらざるを知るべし。而して、契沖が、禮記の曲禮にいへる「送v葬不v避2塗潦1」といふ語を引けるも由ありといふべし。塗潦は道路のぬかるみなり。この精神にて、人の葬を送るには道路のぬかるみにて裳の裾の泥まみれになるをも知らず、(悲しみの爲に)又少々は知りても、直路に行きて避けず(謹愼と禮儀との爲に)ぬかるみをばさ/\ふみてゆくさまを想像しうべきにあらずや。
○夕霧爾 「ユフギリニ」になり。「アサツユニ」「ユフギリ」と對していへる例は、卷十五「三六九一」の例(389)にて知るべし。これは下にいへる旅宿の夕のさまをいふなり。
○衣者沾而 「コロモハヌレテ」なり。衣の霑るるは霧のみにあらず涙もあるべし。以上四句對句をなせり。
○草枕 「クサマクラ」「旅」の枕詞なること、卷一にいへり。
○旅宿鴨爲留 舊訓「タビネカモスル」とよみて異論なかりしが、古義には「留」は元「須」とありしを誤れるならむといひて「タビネカモセス」とよみ、「こは皇女の御事を申し、ことに、その皇女に献れる歌なれば、爲留《スル》と云むはいと不敬《ナメゲ》ならずや」といひたれど、上にもいへる如く、歌には必ずしも敬語を用ゐぬものなり。古義が既に引ける如く、卷三に「皇者神二四座者天雲之雷之上爾廬爲流鴨」(二三五)とあるにも「セル」とよむべしといふ説あれど、必ずしも然らざるなり。この故に古來の訓のままにてよしとすべし。「カモ」は疑の助詞にして之に對して「スル」と結べり。藤原都より越智野まではさほど隔れる所にあらねば、ここは遠き旅に出でたまふ由にていふべきにあらず。さらばこの旅ねとは何をさすかといふに、考に「古へは新喪に墓屋を作りて一周の間人しても守らせ、あるじもをり/\行て或はそこに住人も有しなり」といへるが、その頭注に記せる如く、日本紀舒明卷に「蘇我氏諸族等悉集爲2島大臣1造v墓而次2于墓所1。爰摩理勢臣壞2墓所之廬1退2蘇我田家1而不v仕」などあるによりて、墓所に廬を作りて住みしことを察すべし。
○不相君故 「アハヌキミユエ」とよむ。童蒙抄に「アハヌキミカラ」とよみたれど、從ふべからず。幽明、境を異にして再びあはぬ故によりての意なり。これは上に「けだしくもあふや」と思ひて(390)云々せさせ給ひしかど、やはり逢ひ給はざりきといふ結果を呈せるをさせるが、この「故」は世にいふ如く「なるに」の意にはあらざるなり。
○一首の意 この歌二段落なり。第一段落はあすか川の瀬に生ふる藻が、水流に從ひ、上流より下流に向ひて靡きゆられて、左右にゆれ、搖《ユラ》ぐが如くに、彼方此方により靡ひ從ひし夫の命の神去りまして、共に寢ね給ふ事もなくなれば、夜床も次第に荒れ行くならむといひて、人麿が、その歌の主人公と立てたる人の御境遇を想像したるなり。これ最後を「らむ」としたる所以なり。第二段落は以上の如き境遇にあらせらるるが故に、自ら何とかして、その淋しさを慰めむと思ひたまへども、その悲しさ淋しさを慰むる方法もおはしまさねば、堪へかねて、若し、或は、その夫の命にあひたまふことありやと思ひ給ひて、かく藤原都より、この墓所たる越智野にわざ/\いでまして.旦露をふみて、衣の裾をぬらし、夕霧に衣をぬらしては泣きつつこの越智野の御墓所の側なる廬に旅宿したまふにかあらむ。かく旅宿したまふ所以は、その夫の君に若しやあひたまはむかと思ひたまふ故にこそありけれど、しかしながら、遂に相ひたまはぬ君なり。されど、その君故にかくは旅宿をばしたまひつるは御志の至りといふべしとなり。
 
反歌一首
 
○ 上の詞書には短歌とありて、ここに反歌とあり。これ短歌はその體よりいひ、反歌はその用よりいひたるが爲にしてここにてはさす所は同じものなり。
 
(391)195 敷妙乃《シキタヘノ》、袖易之君《ソデカヘシキミ》、玉垂之《タマダレノ》、越野過去亦毛將相八方《ヲチヌニスギヌマタモアハメヤモ》。【一云乎知野爾過奴。】
 
○敷妙乃 「シキタヘノ」とよむ。その意は巻一「七二」にいへり。
○袖易之君 「ソデカヘシキミ」とよむ。巻三「四一」に「白細之袖指可倍弖靡寝《シロタヘノソデサシカヘテナビキネシ》」巻四「五四六」に「敷細乃衣手易而自妻跡憑有今夜J《シキタヘノコロモデカヘテオノヅマトタノメルコヨヒ》」巻十一「二四一〇」に「敷白之袖易子忘而念哉《シキタヘノソデカヘシコヲワスレテオモヘヤ》」巻九「一六二九」に「白細乃袖指代而佐寢之夜也常有家類《シロタヘノソデサシカヘテサネシヨヤツネニアリケル》」などその例なるが、衣の袖をかはして寝ぬるを「ソデカヘシ」とはいへるなり。
○越野過去 舊本「コスノヲスキテ」とよみたれど「越野」は「ヲチヌ」なることは論なし。「過去」を「…ヲスギテ」とよまむは聊か無理なり。代匠記には「…ヲスギヌ」又「スギユキ」「スギユク」などよみて一定せず。童蒙抄には「スギニシ」とよみたれど、いづれも穩かならず。考には「ヲチノニスギヌ」とよみたり。これは「一本云」と同じ語となるものにして、かくては「一本云」と注せる詮なきに似たれど、こはその字面の異なるによりてあげしなるべし。越野をすぎてとよむ時はそこをすぎて何處にか行けることになりて意通せず。ここは「過ぎ」とよみ「去」を「ヌ」の複語尾にあてしものとすべし。「スギヌ」とは死去をいへることは巻一「四七」の「過去《スキニシ》君之」の下にいへり。即ちその夫の君の薨ぜられて、越野に葬られてましますをいへるなり。以上一段落なり。
○ 終の「一云」はこの第三句をば異なる字面にてかけるものありといふ事を示せるにてよみ方も意も同じ。
(392)○亦毛將相八方 舊訓「マタモアハヌヤモ」とある「ヌ」は誤なること著し。西本願寺本、大矢本京都大學本などは「マタモヤアハメヤモ」とあり。考には「マタモアハムヤモ」といひ、玉小琴に「マタモアハメヤモ」とよめり。將相は「アハム」なるが、これより「ヤモ」につづく時は、古語、已然形の「メ」よりするを常とす、この事は巻一「二一」「三一」等にいへり。而してこれは反語をなす。
○一首の意 この歌二段落なり。君の契りをかはし賜ひし夫の君は越野にかくりましぬ。また再びあひたまふ事あらむや。恐らくはあひ賜ふことあらじとなり。
 
右或本曰、葬2河島皇子越智野之時1獻2泊瀬部皇女1歌也。日本紀曰朱鳥五年辛卯秋九月己已朔丁丑淨大參皇子川島薨。
 
○ これ上の歌につきての或本の傳を注したるなり。
○河島皇子 この皇子は天智天皇の御子にして御母は忍海造小龍が女、色夫古娘なる由、日本紀に見えたり。この皇子の日本紀天武天皇十四年正月の條に淨大參位を授けられたる由見え、持統天皇五年正月の條に、封百戸を増し前に通じて封五百戸となれる由見え、同年九月に「丁丑淨大參皇子川島薨」と見ゆ。(攷證にこの次に「辛卯以2直大貳1贈2佐伯宿禰大目1並贈賜賻物云々と見えたり」といへるは佐伯宿禰大目に位と賻物とを贈られしにてこの皇子には關係なきを思ひ違ひせしなり。)
○越智野 上にいへる「ヲチヌ」なり。
(393)○泊瀬部皇女 通行本泊瀬皇女に作る。誤りて「部」字を脱せるなり。古寫本「部」を加へたるものあり。(古葉略類聚抄、神田本、西本願寺本)按ずるにこの左注の趣にてはこの皇女川島皇子の御妃たりしなるべし。從兄弟の間にまします。
○朱鳥五年云々 これは今の日本紀には持統天皇の五年にして朱鳥元年よりは六年にあたれば、一致せず。これは既にいへる如く、古本の日本紀と今本と一年の差ある爲なり。
 
明日香皇女木※[瓦+(丶/正)]殯宮之時柿本朝臣人麿作歌一首并短歌。
 
○明日香皇女 天智天皇の皇女なり。日本紀天智巻に曰はく「遂納2四嬪1……次有2阿倍倉梯麿大臣1女曰2橘娘1生2飛鳥皇女與新田部皇女1」とあり。續紀文武天皇四年の條に「夏四月癸未(四日)淨廣肆明日香皇女薨遣v使吊2賻之1。天智天皇女也」とあり。これによりて、この歌はその文武天皇四年四月の頃の詠なることを見るべし。
○木※[瓦+(丶/正)]殯宮之時 「※[瓦+(丶/正)]」字代匠記の初稿には「※[瓦+并]」に當るべしといひ、清撰本には、「※[瓦+缶]」字なるを「※[瓦+并]」に作れるを誤れるかといへり。按ずるに「※[瓦+(丶/正)]」字は普通の字書に見ゆる所なき字なるが、美夫君志に曰はく、「※[瓦+(丶/正)]」の字は字書に見えず。集韻に缶※[缶+瓦]或從瓦とあり。此※[缶+瓦]の扁傍を左右せるなり。文宇の扁傍を左右し、又は上下するを隷行といふ。漢議郎元賓碑に翻※[羽/者]色斯とありて隷釋云以v※[羽/者]爲v※[者/羽]、隷辨云碑盖移2羽於上1、所謂隷行也。又郭忠恕佩※[角+雋]に※[司/言]※[月+良]之作2詞朗1是謂2隷行1とあり。もと篆文を變じて隷書とするをいふなり」といへり。さてこの「木※[缶+瓦]」を如何によむべきかといふに、(394)この字面、本歌中にも存して之を古來「コカメ」とよみ來れり。それをば、考に「キノベ」とよみ改めてより諸家之に從へり。按ずるにこれは殯宮の所在の地名なること著しければ、「コカメ」とよまむも「キノベ」とよまむも、さる地名なくては空言に墮すべし。考にはこの「木※[瓦+并]殯宮」と次の歌の「城上殯宮」と同じといへるなるが二者を全く同じとすることは賛成しかねる所なれど、「木※[瓦+(丶/正)]」即ち「城上」にして同じ地名なりとする説は從ふべきに似たり。この「城上」は和名抄に大和國廣瀬郡の郷名に「城戸」とある、その地なるべし。然るときは、これは「キノヘ」とよむべく「ベ」と濁るは誤なるべし。今之を「キノヘ」とよむこととすべきが、木※[瓦+(丶/正)]にて「キノヘ」とよみうべきかといへに、これは「※[瓦+(丶/正)]」に「へ」の語を充つることを得るを證すれば、足りぬべきなり。さて「※[瓦+(丶/正)]」は「※[缶+瓦]」と同字にして結局は「缶」字の別體たるべきものたること明かなるが、その「缶」は「瓦器」即ち今いふ土器の總名なるが、古語にはこれを「へ」といひたるなり。新撰宇鏡を見るに、「※[契の大が瓦]に「可多倍」の訓あり、「※[岡+瓦]」に「加万戸」の訓あり、※[瓦+通」「※[通+瓦]に「加太倍」の訓あり、「※[月+ム]」「※[月+首]」「※[月+黄]」「※[月+〓]」に「ヨコヘ」の訓あり、「※[契の大が瓦]」に「奈戸」の訓あり、「※[月+大]」「※[月+寺]」にも「奈戸」の訓あり、これらの「へ」即ちその熟語中にあらはれたるなり。又古語に「いはひへ」あり「齋戸」とかき(卷三「三七九」、「四二〇」卷九「一七九〇」卷十三「三二八四」)「齋忌戸」(卷三、「四四三」)「伊波比倍」(卷十七「三九二七」卷二十「四三三一」)「以波比弊」(卷二十「四三九三」)又日本紀神武卷の自注に「嚴瓮此云2怡途背1」とあるも「瓮」を「へ」と訓せるものなり。かくて「木※[瓦+(丶/正)]」即ち「キノヘ」とよむべきことは明かなりといふべし。その「キノヘ」は上にいへる如く、大和國廣瀬郡城上郷の地なるべきこと亦明かなるが、その地は今の如何なる處にあたれるかといふに、広瀬郡は今は北葛城郡の一部に入りて(395)あるが、右の「キノヘ」の岡に當る處は同郡|馬見《ウマミ》村大字大塚にありといひ、(大和志料)又大塚村の南方につゞける六道山の地なりともいへり。(北葛城郡史)なほ弘福寺文書によれば、「廣湍郡廿一條九里卅二坪、卅二坪、卅三坪」に當りて木戸《キノヘノ》池あり。この地點は今の北葛城郡王寺驛の東南より舊の廣瀬郡と葛下郡との間を遠く南に延び高田驛の西北に達する一帶の丘陵(汽車にて行けば、この丘陵の西麓の地を通るなり)の東麓に當るものなるべきが、六道山はその南端に近き邊にあり。その山の附近に池あり。これ或は古の木戸池か。「殯宮之時」は「一六七」の條にいへる如く、なほ「アラキノトキ」とよむべし。即ち明日香皇女の薨ぜられて、城上の地に殯宮を設けて喪葬の御儀ありし時といふ事なるべし。さてこの皇女薨去の時は文武天皇の御宇なれば、同じく「藤原宮御宇天皇御代」といへるうちにも世は既にうつりて文武天皇の御代をさせりと知るべし。
○柿本朝臣人麿作歌 これは上にもいへれば、今略す。さてこの文句をば、考には「人麿献忍坂部皇子歌」の誤として改め、檜嬬手なども之に從へり。考がかくせる理由は如何といふに、先づ、「忍坂部皇子」をいひて、「上の泊瀬部皇女の御兄弟にて明日香皇女の御夫君におはしける」といひ、次に「此長歌に夫《セ》君のなげき慕ひつつ木のべの御墓へ往來し給ふさまをいへるも、上の泊瀬部皇女の乎知野へ詣給ふと同じ樣也。然れば、此端にそのかよはせる皇子の御名を學ぶべきに、今はここには落て、上の歌の端に入し也。他の端詞の例をも思ふに疑なければ、彼所を除てここに入れたり」といへるなり。然れども、いづれの古寫本にもかくの如きことなければ、從ふべき(396)にあらず。加之明日香皇女の御夫君が忍坂部皇子なりといふ事は如何なる根據ありていへる事にか。歌の詞によれば明日香皇女に夫のましませる如くは見ゆれど、その夫君の誰人にましますかの證を一も見ざるものなるが、こは恐らくは眞淵の臆測に止まるものなるべく、前の歌の端詞を漫然とり來りてここに加ふるが如きは妄斷といふべし。然るに、眞淵の改竄説に從ふを肯んぜざる攷證をはじめ、略解、以下一切の萬葉集研究家、かかる臆断を既定の史實として盲從せるは如何。かくの如き態度を以て萬葉集を説き、それを基として時勢を論じ、文化を談ぜむとするは大膽とやいはむ。妄斷とやいはむ。驚くべき事なりとす。
○并短歌 攷證にはこの下に「二首」の二字脱せりとせり。必ずしも然いふに及ばさること屡いへる所なり。又美夫君志は「短歌」を小字とせり。これ多くの古寫本に從へるなるが、從來の例によれば必ずしも從ふを要せず。
 
196 飛鳥《トブトリノ》、明日香乃河之《アスカノカハノ》、上瀬《カミツセニ》、石橋渡《イハハシワタシ》、【一云、石浪】下瀬《シモツセニ》、打橋渡《ウチハシワタス》、石橋《イハハシニ》、【一云、 石浪】 生靡留《オヒナビケル》、玉藻毛叙《タマモモゾ》、絶者生流《タユレバオフル》、打橋《ウチハシニ》、生乎爲禮流《オヒヲヲレル》、川藻毛叙《カハモモゾ》、干者波由流《カルレバハユル》、何然毛《ナニシカモ》、吾王乃《ワガオホキミノ》、立者《タテバ》、玉藻之如許呂《タマモノモコロ》、臥者《フセバ》、川藻之如久《カハモノゴトク》、靡相之《ナビカヒシ》、宣君之《ヨロシキキミガ》、朝宮乎《アサミヤヲ》、忘賜哉《ワスレタマフヤ》、夕宮乎《ユフミヤヲ》、背賜哉《ソムキタマフヤ》。宇都曾臣跡《ウツソミト》、念之時《オモヒシトキニ》、春部者《ハルベハ》、花折挿頭《ハナヲリカザシ》、秋立者《アキタテバ》、黄葉挿頭《モミチバカザシ》、敷妙之《シキタヘノ》、袖携《ソデタツサハリ》、鏡成《カガミナス》、雖見不※[厭の雁だれなし]《ミレドモアカズ》、三五月之《モチツキノ》、益目頬染《イヤメヅラシミ》、所念之《オモホシシ》、君與時々《キミトトキトキ》、 幸而《イテマシテ》、遊賜之《アソビタマヒシ》、御食向《ミケムカフ》、木※[瓦+缶]之宮乎《キノヘノミヤヲ》、(397)常宮跡《トコミヤト》、定賜《サダメタマヒテ》、味澤相《アヂサハフ》、目辭毛絶奴《メコトモタエヌ》。然有鴨《シカレカモ》、【一云、所己乎之毛】 綾爾憐《アヤニカナシミ》、宿兄鳥之《ヌエドリノ》、片戀嬬《カタコヒツマ》、【一云、爲乍】朝鳥《アサトリノ》、【一云、朝霧】往來爲君之《カヨハスキミガ》、夏草乃《ナツクサノ》、念之萎而《オモヒシナエテ》、夕星之《ユフヅツノ》、彼往此去《カユキカクユキ》、大船《オホブネノ》、猶預不定〔左○〕見者《タユタフミレバ》、遣悶流《オモヒヤル》、情毛不在《ココロモアラズ》、其故《ソコユヱニ》、爲便知之也《スベシラマシヤ》、音耳母《オトノミモ》、名耳毛不絶《ナノミモタエズ》、天地之《アメツチノ》、彌遠長久《イヤトホナガク》、思將往《シヌビユカム》、御名爾懸世流《ミナニカカセル》、明日香河《アスカガハ》、及萬代《ヨロヅヨマデニ》、早布屋師《ハシキヤシ》、吾王乃《ワガオホキミノ》、形見何此焉《カタミニココヲ》。
 
○飛鳥 「トブトリノ」とよむこと、及びその意上「一九四」におなじ。
○明日香乃河之 「アスカノカハノ」とよむこと及びその意上「一九四」におなじ。
○上瀬 舊訓「ノボリセニ」とよみたるが、上「一九四」におなじく、「カミツセニ」とよむべし。「ニ」といふ語は文字の上にあらはれねど、下の「渡」といふ動詞に打合せては必ずなかるべからず。かかる場合に「ニ」を加へてよむ例は卷一(「一七」「四八」「六〇」)以下に多し。意は上「一九四」におなじ。
○石橋渡 舊訓「イハハシワタシ」とよめり。古寫本中(神田本、細井本)には「イシハシ」ともよみたるもあり。石は「イハ」とも「イシ」とよむべきが、萬葉集中にはこれを假名書にせるものなければ、必ずいづれをよしと定めよむべき理由を知らず。和名抄には「石橋」に「以之波之」の訓あれば、之に從ふべきが如くなれど、それは石造の橋といふによりて別なりとの説あり。これは一概の説にして、ここにいへる橋をも石造の橋もいづれも「いははし」「いしはし」といひうる道理のものなり。然れど、古語は今人の考へたる道理のみにて解決すべきにもあらざるべく、萬葉集には古(398)來「いははし」とよみ、その後の歌にも「いしはし」とよめるもの稀なれば、古來の訓も故ある事なるべく、今之を否定すべき有力の根據も無ければ、姑く之に從ふべし。さてその「イハハシ」とは如何なるものかといふに、これは今の岩石にて造れる橋をさすにあらずして、多くの石を川の淺瀬に並べおきて人の歩渡する便に供したるものをいふ。この石橋は支那にも古代より行ひし事にして爾雅の釋宮に「石※[木+工]謂2之|※[行人偏+奇]《キ》1」に注して郭璞曰はく「聚2石水中1以爲2歩渡※[行人偏+勺]1也。孟子曰歳十一月徒※[木+工]成。或曰今之石橋」と。而石橋の文字がまさしく、上にいへるものを示せるを見るべし。さてかく水中に石を置けるものなる故に下に藻の生ふるといへる所以も知らるべし。今の如く、水面を離れ、中空に架したるものにては藻の生ふる事あるべからざるを思へ。
○一云石浪 これは一説に「石浪渡シ」とあるをあげたるなり。「石浪」は「イシナミ」とよむべく、浪は借字にて石並即ち、上にいへる石橋と同じものにして語を異にせるなり。「イシナミ」といふ語の例は卷二十「四三一〇」に「安麻能河波伊之奈彌於可婆都藝弖見牟可母《アマノガハイシナミオカバツギテミムカモ》」とあり。
○下瀬 これも舊訓「クタリセニ」とよみたれど、上瀬におなじく「シモツセニ」とよむべし。その意上「一九四」にいへるにおなじ。
○打橋渡 舊訓「ウチハシワタシ」とよみたるが、萬葉集※[手偏+君]解、古義、美夫君志は「ワタス」とよむべしといへり。「ワタシ」と連用形によめば、下につづくる勢となるが、ここは一旦きりたる方、意引きしまるが故に「ワタス」とよむをよしとす。「打橋」とは如何なるものかといふに、日本紀神代卷下一書に「又爲2汝往來遊海之具1高橋浮橋及天鳥船亦將2供造1於2天安河1亦|造《ツクラン》2打橋1」又天智卷の童謠に「于(399)知波志能都梅能阿素弭爾伊提麻栖古《ウチハシノツメノアソビニイデマセコ》」又本集卷四「五二八」に「千鳥鳴佐保乃河門乃瀬乎廣彌打橋渡須奈我來跡念者《チドリナクサホノカハトノセヲヒロミウチハシワタスナガクトオモヘハ》」卷七「一一九三」に「勢能山爾直向妹之山事聽屋毛打橋渡《セノヤマニタダニムカヘルイモノヤマコトユルセヤモウチハシワタス》」卷十「二〇六二」に「機※[足+搨の旁]木持往而《ハタモノノフミキモチユキテ》、天河打橋度公之來爲《アマノガハウチハシワタスキミガコムタメ》」「二〇五六」に「天河打橋渡妹之家道不止通時不待友《アマノガハウチハシワタシイモガイヘヂヤマズカヨハムトキマタズトモ》」卷十七「三九〇七」に「泉河乃可美郡瀬爾宇知橋和多之《イツミノカハノカミツセニウチハシワタシ》、余登瀬爾波宇枳橋和多之《ヨトセニハウキハシワタシ》云々」とあり。これらにて「ウチハシ」といふ語又打橋といふもののさまを考ふべし。これにつきて本居宣長は玉の小琴に「うちはしを打渡す橋と心得るはいかゞ。打渡さぬ橋やあるべき。故に思ふに、打は借字にてうつしの約りたる也、こゝへもかしこへもうつしもてゆきて時に臨て、かりそめにわたす橋なり」といへり。これは源氏物語、枕草子などにいへるうちはしを思ひての事ならむが、それらは宮中の馬道などの上に臨時に打ち渡すものなれば、かくいへるも一わたり聞えたるが如し。然れども「うつし橋」といふもの古今にその名も聞えず、又しかいへる事の如く、實際に橋をば彼所此所に持ちあるくといふことは古今に未だ聞かざる所なり。宮中の打橋は蓋し、用あるに臨みて打渡し、用すめばはづして旁に取置きたりと見ゆ。それとても彼方此方に持ち行くものにはあらざるなり。ことに、天智紀の童謠なるは常設の橋たることは明かなりとす。されば、本居説は從ふべからず。按ずるに、これはなほ打橋の義なるべく、その橋は、高橋、浮橋、石橋などに對していへる語にして、板なり、材なりをば、彼方の岸と此方の岸とに打渡してかけたる橋をいふなるべし。これに對して、水中に石を置くを石橋といひ、水面に材木又は船を浮かべてつくれるを浮橋といひしなるべく、その打橋の岸の極めて高きにかけたるが高橋なるべきな(400)り。この次の飛鳥川には上瀬に石橋、下瀬に打橋といひ、卷二十の泉河には上瀬に打橋、淀瀬に浮橋といへるにて、歩渡りすべくもあらねど、あまりに河幅の廣からぬ處にかくるものなるを見るべし。
○石橋 舊板本の訓「イシヽシノ」とあるは、「イシハシノ」の誤なること著しきが、代匠記には「イハハシニ」とよめり。下の「生《オヒ》」といふ語に對すれば、「ニ」とよむべきなり。
○一云石浪 上の場合と同じ。「イシナミニ」とよむべし。
○生靡留 舊訓「オヒナヒカセル」とよめり。代匠記には「オヒテナビケル」ともよむべしといひ、考には「オヒナヒケル」とよめり。按ずるに舊訓は七音によまむためにせるならむが、「靡留」にて「ナビカセル」とよむも少しく無理なるのみならず、「ナビカセル」といふ語にてはここに適せず。代匠紀の説も七音にせむ爲なるべきが「テ」を加ふることも少しく無理なり。さるはこの歌の音數には種々の變態あれば、恐らくはここも考の説の如くはじめより六音によむべく構へしものなるべし。その意は上にいへる如く、水中に石橋としておける石に藻の生じて、長く水に從ひ靡けるをいへるなり。
○玉藻毛叙 「タマモモゾ」とよむ。玉藻は藻をたたへていへること上の「一九四」の場合におなじ。「毛叙」は「も」と「ぞ」と二の係助詞を重ねていへるものなるが、かかる場合には平安時代にては「も」「ぞ」個々の意にあらずして相合して新に將來をかねて推測する意をあらはすものとなれり。本集にある「もぞ」にはさる特別の意をあらはさずして、ただ「も」と「ぞ」との本然の意を以て重ね用ゐ(401)られたるものなるが、その意は「も」に主點を置き「ぞ」は其れに強勢を加へたるものと見ゆ。本卷「二一〇」に「吉雲曾無寸《ヨケクモゾナキ》」卷十一「二五五〇」に「立念居毛曾念《タチテオモヒヰテモゾオモフ》」などあるこれなり。ここは「玉藻といふものも絶ゆれば生ふるといふ事のありとぞ」といふ如き語意なりとす。
○絶者生流 「タユレバオフル」とよむ。意は藻といふものも、切れ絶えて一時なくなりたりとも再び生ふるといふ事ありといふ程の意なり。「オフル」と連體形にせるは上の「ゾ」に對しての結なり。
○打橋 これは舊訓この下の「生」までを一句として「ウチハシオフル」とよみたれど義をなさず。代匠記はその下の「乎爲禮流」までをつゞけて「ウチハシオヒヲセレル」とよみたれど、これも義を爲さず。考にはこれを「ウチハシニ〔右○〕」とよみたるが、上の「石橋」をも「イハハシニ〔右○〕」とよみたれば、それに照してこの訓をよしとす。「ニ」は下の「生」に對して加へよむこと上の場合におなじ。
○生乎爲禮流 「乎爲禮流」は古來「ヲスレル」とよみ代匠記に「ヲセレル」とよみたれど、いづれも古今にさる語のなきが故に從ふべからず。童蒙抄には「生」は「靡」の誤「爲」は「烏」の誤として「ナビキヲヽレル」とよみ、考は「爲」のみ「烏」の誤して「オヒヲヽレル」とよみたり。この所いづれの古寫本にも誤字更になければ、誤字説には容易に從ひ難し。されば「生」の字を「靡」の誤とする説はもとより從ふべきにあらぬが、「爲」を「ス」又は「セ」とよみても「ヰ」とよみても語をなさねば、姑く考の説の如く「オヒヲヽレル」とよみおき、さて後その當否を決せむとす。先づかく「ヲヲレル」といふ語當時ありしか如何といふに、卷六「九二三」に「春部者花咲乎遠里《ハルベハハナサキヲヲリ》」「一〇一二」に「春去者乎呼理爾乎呼里※[(貝+貝)/鳥]之鳴(402)吾島曾《ハルサレバヲヲリニヲヲリウクヒスノナクワカシマゾ》」「一〇五〇」に「巖者花開乎呼理《イハホニハハナサキヲヲリ》」「一〇五三」に「巖者山下耀錦成花咲乎呼里《イハホニハヤマシタヒカリニシキナスハナサキヲヲリ》」卷十「二二二八」に(芽子之花開乃乎再入緒見代跡可聞月夜之清戀益良國《ハギノハナサキノヲヲリヲミヨトカモツクヨノキヨキコヒマサラクニ》」卷十三「三二六六」に「春去者花咲乎呼里《ハルサレバハナサキヲヲリ》」卷十七「三九〇七」に「春佐禮播《ハルサレバハ》花咲乎乎理《ハナサキヲヲリ》」とある如く、「ヲヲル」といふ良行四段活用の動詞ありしことを知る。かくてその「ヲヽル」といふ動詞は如何なる意義をあらはせるかといふに考の説の大要をいはゞ、「枝もとををなどある「ヲヲ」にて、「トヲヲ」は「タワワ」と同語にて等を省きて乎々を活かしてヲヲリといふ」といひ、本居宣長は「わわ/\としけくて生たるをいふ也」といひたり。その意よくはわからぬ詞なれど、大體は考の説の如きことなるべし。されば、ここに「ヲヲレル」といふ語を用ゐるはふさはしからずとはいふべからず。然らば、ここを「ヲヲレル」とよみて「爲」を「烏」の誤とすべきか。然れども、誤字説は容易に從ひ難し。美夫君志の著者は之を誤字にあらずとして「爲」に「ヲ」の音ありしなりと字音辨證に之を詳論せり。辨證は、先づ例證として、この歌の所をあげ、次に、
 山邊爾波花咲乎爲里        (卷三、「四七五」)
 春山之開乃乎爲黒(里(ノ)誤)爾 (卷八、「一四二一」)
 開乎爲流櫻花者          (卷九、「一七四七」)
 開乎爲流櫻花乎          (卷九、「一七五二」)
の例をあげて、曰はく「これらの乎爲流乎爲里を舊訓に「ヲセル」「ヲセリ」と訓るは誤なり。こは必「ヲヽル」「ヲヽリ」と訓べし。但し爲は烏の誤なりといふ説あれど、かくいくらもある爲を皆烏の(403)誤とはいひがたし。按にこは爲にヲの音ありて、やがてその音を用ゐたるなるべし」といひ、又曰はく「さて爲をヲ〔右○〕と呼は意字愛字にオ〔右○〕以字にヨ〔右○〕の音あるたぐひ也」といひ、又曰はく「さてこれらは喉音の文字の第二ノ音を五ノ音にうつしたる也。またすべての第二ノ音の文字を五ノ音に轉じ呼例いと多し。其は苔にト〔右○〕能にノ〔右○〕姫《キ》其《キ》にコ〔右○〕忌にゴ〔右○〕の音あるなどなり」といへり。この説に從はば、「爲」に「ヲ」の音ありて誤字といはずしてすむべきなり。されど、ここの「ヲヽリ」にのみ「爲」を用ゐたれば、未だこのままにて治定せりといふべからず。なほ後賢の研鑽に待つ所ありといふべし。さて「ヲヽレル」は「ヲヽル」が「アリ」に熟合して成れる語なり。「生ひををれる」はその打橋の橋杭などに生ひ付き、靡きたをたをとせる藻をさせるなるべし。
○川藻毛叙 「カハモモゾ」なり。川に生ふる藻なり。「モゾ」は上におなじ。
○干者波由流 「カルレバハユル」とよむ。語の意は枯るれば生ゆるなり。「干」を「かる」と訓ずるは河池の乾涸の「かる」といふ語を借りたる如くなれど、必ずしも然らず。元來河池などの涸るることと、草木の枯るることは國語にては同一語なるなり。その故如何と云ふに、河池などの涸るるといふは水の、缺乏せる事實をいふ語なり。草木の枯るるも亦それらの水分の缺乏によることは植物學者ならでも常識にて明かなる事なり。されば干字を用ゐて、ここに川藻の枯死することに用ゐたるは必ずしも借字にあらずと知るべし。生を「ハユ」といふことは今もいふ語なるが、當時もしかいひたりし證は卷六「九四〇」に「家之小篠生《イヘシシヌハユ》」の場合に「生」を「ハユ」の借字に用ゐたるなどあり。
(404)○ 以上十四句、その地の實景を借り來りて、一旦なくなりても、再び生じ來ることあるものをあげて以て、下にいはむとする事の照應たらしむ。而して、最初二句を除く外は次の如き
 
  1 2 上瀬  石橋  石橋  玉藻
      下瀬  打橋  打橋  川藻 〔空間に複雑な線あり、略〕
 
形式にて對句をなし、以て、次下の句を導き出さむとせり。
○何然毛 「ナニシカモ」とよむ。「然《シカ》」と「毛《モ》」とは借字にして、語は「何」と「シ」といふ強意の助詞と、「カモ」といふ疑の助詞とによりなれる語なり。この語の例は卷七「一二五一」に「佐保河爾鳴成智鳥何師鴨川原乎思努比益河上《サホガハニナクナルチドリナニシカモカハラヲシヌビイヤカハノボル》」卷十五「三五八一」に「奈爾之可母奇里爾多都倍久奈氣伎之麻左牟《ナニシカモキリニタツベクナゲキシマサム》」など多し。何故にかと疑ひいひて、下の「忘賜哉」「背賜哉」にかゝれるなり。
○吾王乃 「ワガオホキミノ」とよむ。意は、明日香皇女をさし奉れり。
○立者 舊訓「タチタレバ」とよみ、代匠記には「タタセレバ」とよみ、考に「タタスレバ」とよみ、略解に「タタセバ」とよめり。これは攷證にいへる如く、舊訓の「タチタレバ」といふはしかよみうべき字面にあらねば從ひがたし。又考の「たたすれば」とよみたるも、「たたする」「たたすれ」といふ語なきが故に從ひがたし。又「タタセレバ」は破格にあらねど、「立者」の二字をよむべき語にあらず。これはその字のままによむべきが、略解の如くに「タタセバ」とよむも不可なるべきが、直ちに「タテバ」とよみてもよかるべし。歌には必ずしも敬語を用ゐざればなり。
○玉藻之如許呂 舊訓は「玉藻之如」にて「タマモノゴトク」とよみ、「許呂」を下句につけて「コロブセバ」(405)とよみたり。されど「コロブス」といふ語は古來なき語なれば從ふこと能はず、下「二二〇」に「自伏」を「コロブス」といへるはここの語に本づけるものにて從ふべからず。この「如」字金澤本に「母」に作れり。これによれば「モコロ」とよむべし。さてかく「モコロ」といふことと考ふれば、「如」一字にてはその義を示し「許呂」はその下部の音を示したりと見て、「モコロ」とよまれざるにあらず。この故に「タマモノモコロ」といふべし。この「モコロ」といふ語は既にいひたる如く、卷十四「三五二七」に「於吉爾須毛乎加母乃母己呂也左可杼利伊伎弖久伊毛乎於伎※[氏/一]伎努可母《オキニスモヲカモノモコロヤサカドリイキツクイモヲオキテキヌカモ》」又卷二十「四三七五」に「麻都能氣乃奈美多流美禮婆伊波比等乃和例乎美於久流等多多理之母己呂《マツノキノナミタルミレバイハヒトノワレヲミオクルトタタリシモコロ》」などにその例ありて、意は「ごとし」に近きものなり。
○臥者 舊訓「許呂臥者」とよみたる事既にいひしが如し。されど、そは從ふべからず。この「臥者」にて一字として、「立者」に對したるとして、「フセバ」とよむべし。若し「立者」を「タタセバ」といふこととせば、それに對してここを新考の如く「コヤセバ」と四音によむべし。されど、敬語を必ず要すべしとにあらねば、「フセバ」と三音にてありぬべし。
○川藻之如久 「カハモノゴトク」なり。
 以上四句は上の句を受けて、いへるにて立ちても居ても夫君に影の如く從ひたまひし事をいはむ形容とせるなり。
○靡相之 舊訓「ナヒキアヒシ」とよめり。童蒙抄には「ナミアヒシ」又は「ナキアヒシ」とし考「ナビカヒシ」とよめり。「靡」は普通「ナビク」とよむ文字なるが、ここは「一九四」の場合とおなじく「ナビカヒ(406)シ」とよむべし。その意は契沖は「たちゐおきふし、みなしなやかなる御ありさまをほめ奉るなり」といひ、攷證には「皇子皇女御夫婦のなからひ、御むつまじく、立たまふにも、ふし給ににも藻などの水になびくがごとくはなれたまはず、なびき居給ひしと也」といへり。攷證の説をよしとす。
○宜君之 「ヨロシキキミガ」とよむ。「ヨロシキ」といふ語の例は日本紀雄略卷の歌に「擧暮利矩能播都制能野磨播伊底※[手偏+施の旁]智能與盧斯企夜磨《コモリクノハツセノヤマハイテタチノヨロシキヤマ》」古事記上卷に「波多多藝母許斯與呂志《ハタタギモコシヨロシ》」又日本紀應神卷の歌「豫呂辭枳辭摩之魔《ヨロシキシマシマ》」本集卷二十「四三一五」に「宮人乃蘇泥都氣其呂母安伎波疑爾仁保比與呂之伎多加麻刀能美夜《ミヤヒトノソデツケゴロモアキハギニニホヒヨロシキタカマトノミヤ》」などあり。この語は今殆ど「ヨシ」と同じ意に用ゐるが、本意は少しく異にして、「よろ」は「よろふ」「よろづ」の「よろ」にして、物の足りそなはれるをいふ語なりといへり。この「君」は蓋し、明日香皇女の背の君をさし奉れるならむ。
○朝宮乎 「アサミヤヲ」なり。卷十三「三二三〇」に「朝宮仕奉而」とありて、それは朝に宮仕するをいへるなるが、これは夕宮に對して對句となり、さて夫君に朝夕に仕へたまふことをいへるなるべし。攷證にただ「朝夕常にまします宮なり」といへるは非なり。
○忘賜哉 舊訓「ワスレタマフヤ」とよめり。攷證は「ワスレタマヘヤ」とよめり。その説に、「たまへやのやは、ばやの意にてばを略ける也」といへり。今かくする時は、その「や」が係となりて條件として下につづき行くべき事となるが、この下に果してそれの結びとなる語の存するか如何も問題なれど、それよりも以前に問ふべきは、かくよむ時に、上の「ナニシカモ」の「カモ」に對しての結(407)は如何になれるか。若し、上の「カモ」に對しての結全くなしとせば、語法は第二としても、その意如何になるべきか。全然語をなさぬ事となるべし。されば、ここは、上の「カモ」に對しての結として見るべきものなれば、攷證の説は從ふべからずして舊訓をよしとす。さてこの「ヤ」につきて古義に曰はく「さて上に何然毛《ナニシカモ》とあるに、又ここに至りて賜哉《タマフヤ》とあるはたちまち(何《ナニ》し可《カ》もの可《カ》と賜哉《タマフヤ》の哉と)疑(ヒ)の詞重りたるはいかにぞといふにこは一ツの哉の言は輕く見る例にて云々」といへり。そのあげたる例には一々當れりといひ難きもあれど、略さる事なり。なほこの事は新考の説をよしとす。曰はく、「案ずるにこのヤは常のヤよりも輕くて、一種の助辭なり。雅澄の擧げたる例の中、今昔物語なる何ノ益カアラムヤといふのみ今と同じき格なり。後世常用ふる辭の中にも何トカヤといふことあり。此ヤ今の歌のヤに近し。玉の緒七卷八十に
 これはナニシカモにて切れたり。さる故に下に何の結びなし。タマフヤのヤへかけて見べからず
といへるは非なり」といへり。この言の如し。この「ヤ」は余が所謂間投助詞の「ヤ」なるべし。即ち「カモ」の結は「タマフ」にてあらはれたる下に「ヤ」を加へて力を添へたるなり。
○夕宮乎 舊訓「ユフミヤヲ」とよめり。諸家皆之に從へり。「朝宮乎」の對語にして朝夕に夫君に宮仕へたまふことをいへるなり。
○背賜哉 「ソムキタマフヤ」とよむ。攷證にこれも「ソムキタマヘヤ」とよみたれど、非なること既にいへる如し。以上四句にて語の表面は何故に朝夕の夫君への宮仕を忘れ背き賜ふぞやと(408)いひたるにて、實は薨去ありて世にましまさずなりたるを婉曲にいひ且つはその御名殘をしたひ奉る意をあらはせり。
 以上第一段落にて皇女のおはしまさぬをいぶかりたるさまにいへるなり。
○字都曾臣跡 「ウツソミト」とよむ。「臣」は「オミ」なるを「ミ」の假名に用ゐたり。この語の意は現し身にて、現の世に生れてある身をいふこと「一六五」に既にいへり。本卷「二一三」に「宇都曾臣等念之時携手吾二見之」云々とあり。
○念之時 舊訓「オモヒシトキノ」とよみ、考には、「オモヒシトキニ」とよみ萬葉※[手偏+君]解には熊谷直好の説として「オモヒシトキ」とよめり。そのうち「時ノ」とよむは道理なけれど、「トキニ」とよまむは無理にあらず。熊谷の説もすて難し。今は考に從ふ。考に曰はく、「顯の身にておはせし時といふのみ。念の言は添ていふ例上に見ゆ」といへり。これは卷一「三一」の一云の「將會跡母戸八」が、「亦母相目八毛」といへるに對せるをさせるものなるが、意は大體さる事なるべきが、語釋としてはなほ思ふの意あるべし。即ち皇女が現身としておはししをば、傍人よりは事實上現身なりと思ふ事當然にして「うつそみにおはしし」といへば客觀的の事實をいひ、「うつそみと念ひし」といへば、傍人の主觀的の語となる。
○春部者 舊訓「ハルベニハ」とよめり。考には「ハルベハ」とよめり。その例卷一「三八」にあり。そこと同じく「ハルベハ」とよむべし。春の頃はの義なり。
○花折挿頭 「ハナヲリカザシ」とよむ。卷一「三八」に「春部者花挿頭持」といへる例によりよむべし。(409)春になれば、花を折りて頭にさすをいふなり。
○秋立者 「アキタテバ」とよむ。秋になることを「秋立つ」といふ。「立秋」といふ漢語の譯語なるべし。これも卷一「三八」に「秋立者黄葉頭刺理《アキタテバモミヂカザセリ》」とあり。
○黄葉挿頭 「モミヂバカザシ」とよむ。意明かなり。以上四句、皇女の春秋の御遊のさまをいへるなり。
○敷妙之 「シキタヘノ」とよむ。意は卷一「七二」にいへり。
○袖携 「ソデタツサハリ」なり。「タツサハリ」といふ語の例は卷十七「三九九三」に「於毛布度知宇麻宇知牟禮底多豆佐波理伊泥多知美禮婆《オモフドチウマウチムレテタヅサハリイデタチミレバ》」卷二十「四四〇八」に「之路多倍之蘇※[泥/土]奈岐奴良之多豆佐波里和可禮加弖爾等《シロタヘノソデナキヌラシタツサハリワカレガテニト》」卷十八「四一二五」に「多豆佐波利宇奈我既利爲底《タヅサハリウナガケリヰテ》》とあり。「たづさはり」は「携へ」に對する語にして、一般に下二段活用の語に對してそれの語幹より起りて、「アハル」といふ形の良行四段活用の語をなすことたとへば、「たたぬ」に「たたなはる」「きよむ」に「きよまはる」などの如し。ここもそれなるが、意は、その語に對してその状態にある意を示すなれば携ふといふ状にある、即ち袖を連ね睦ましきさまにある意を示せり。
○鏡成 「カガミナス」とよむ。ここは「みる」の枕詞なり。
○雖見不※[厭のがんだれなし] 「ミレドモアカズ」なり。古義には「ミレドモアカニ」といへり。このよみ方惡しとにはあらねど、「ニ」と必ずよむべき所は「ニ」の音をあらはす字を用ゐるを例とすれば、舊訓にてよき筈なり。「※[厭のがんだれなし]」は説文に「飽也」玉篇に「是也」とあり。「厭」字の原の體なり。
(410)○三五月之 「モチツキノ」とよむ。「三五月」は十五夜の月の義なることはいふまでもなきが、「三五月」といふ字面は本邦人の工夫に出でしにあらずして支那の熟字を用ゐしならむ。梁の劉孝綽の詩に、「明々三五月、垂影當高樹」又玉臺新詠の古詠に「三五明月滿、四五蟾兎缺」とも見ゆ。これらによれるならむ。「モチツキ」の事は上「一六七」にいへり。「ノ」は「の如く」の意なり。
○益目頬染 舊訓「マシメツラシミ」とよめるを玉乃小琴に「イヤメツラシミ」とよみ改めたるより後諸家之に從へり。「益」を「イヤ」とよむこと本卷「一三一」にいへり。「頬」は新撰宇鏡にも、和名抄にも「豆良」の訓あり。これを借りたるなり。「染」も「シム」の訓あるを借りたるにて三字にして「メヅラシミ」の語にあてたるなり。「めづらし」といふ語の例は卷十九「四二八五」に「大宮能内爾毛外《オホミヤノウチニモトニ》爾母米郡良之久布《モメヅラシクフ》禮留大雪《レルオホユキ》」又日本紀の自注には「希見謂|梅豆邏志《メツラシ》と見え、靈異記上卷には「奇【女ツラシク又阿也之支】」と見えたり。「めづらし」とは「めづる」といふ動詞より轉じたる形容詞にしてめづべきさまなるをいふ。その「めづらし」をば更に動詞の如くにせるが「めづらしみ」なり。その意はめづらしく思ふことなり。
○所念之 舊訓「オモホヘシ」とよみたるを考に「オモホシシ」とよみたり。考の説をよしとす。思ひたまひしなり。
○君與時時 舊訓「キミトトキトキ」とよめるをば考は「キミトヲリヲリ」とよみたり。されど「ヲリヲリ」といふ語、萬葉時代の語なりや否や例なきを以て從ひがたし。「トキドキ」といへる例は、卷二十「四三二三」に「等伎騰吉乃波奈波佐家等母《トキドキノハナハサケドモ》」とあり。これによるべし。この「君」も上の「宜君」の(411)君をさせり。
○幸而 舊訓「ミユキシテ」とよめり。考には「イデマシテ」とよみたり。按ずるに、ここは天皇の御事ならねば、「ミユキシテ」とよむは穩かならず。「いでまし」の事は卷一「五」にいへり。
○遊賜之 「アソビタマヒシ」なり。共に遊び賜ひしなり。
○御食向 「ミケムカフ」とよむ。「キ」に對する枕詞なり。その意は舊説に御饌に供る物の名にいひかけたるものにして、ここは御食《ミケ》の料に備へ設る酒《キ》とつづけしなりといへり。(酒の古語「キ」にして今「オミキ」といふ「大御酒」の轉せるなり。)されど、これにては「むかふ」といふ義とほらず。按ずるに、「むかふ」といふは、「みけ」は一種ならず、御飯を主として種々の肴あれば、「みけ」として相向ふものの意によりて、御食の料とする「粟」「葱」「蜷」などにかけ、又廣く味にかけたるあり、されば、この「キ」も亦古義の一説の如く「葱《キ》」にかけしにて「酒」にかけしにあらざるべし。何となれば、古は御|酒《キ》御|饌《ケ》といひて、酒は「ケ」とはいはざればなり。
○木※[瓦+缶]之宮乎 舊訓「コカメノミヤヲ」(「ヲ」を「ノ」とせるはもとより誤なり)とよみたれど、「キノヘノミヤヲ」とよむべきこと既にいへるが如し。この歌の趣にては、この木※[瓦+缶]の地は明日香皇女の生前來り遊び愛し給ひし地と見ゆ。さる土地に御墓を營むは古今に通じたる人の常情なり。
○常宮跡定賜 「トコミヤトサダメタマヒテ」とよむ。「賜」の下に「テ」の字をかかねど、加へてよむべし。この次の歌(一九九)にも「朝毛吉木上宮乎常宮等高之奉而」とあるも意同じと見ゆ。この常宮とかけるものなほ本集にありて、卷六「九一七」に「安見知之和期大王之常宮等仕奉流左日鹿野(412)由《ヤスミシシワゴオホキミノトコミヤトツカヘマツルサヒカヌユ》」又卷二十「四三〇一」の詞書に「天皇太上天皇皇大后於2東常宮南大殿1肆宴」と見ゆ。按ずるに常宮といふ語の文字面の意は常《トコ》しへにかはる事なき宮といふ事にして、それにはいづれもかはりなかるべけれど、事實よりいへば、本卷のは御陵墓として鎭《トコシヘ》にしづまりますことをいひたるものなるべく、六卷二十卷は、常の宮殿を祝して名づけしなるべし。本居宣長はこれを「トツ宮《ミヤ》とよみ、離宮の意とせれど、「トコミヤ」と「トツミヤ」とはもとより別なれば從ひがたし。即ちここは永久に鎭ります宮處即ち御陵墓と定めたまひてなり。
○味澤相 舊訓「アチサハフ」とよみたるが、冠辭考には之を釋して、味はアチ鴨にして、サハは「多」にしてアチは群れゆくものなれば、そのむれの約言「メ」にかけて枕詞とすといひ、古義は「ウマサハフ」にして、「味之粟生」なるべきかといへり。されど、その説詳かならず。「メ」の枕詞に用ゐたることは著しけれど、そのよみ方もその意も明かならず。本集中にも「味澤相」とかけるのみにして、他の文字を用ゐたるを見ず。姑く舊訓によりて後人の研究をまつ。
○目辭毛絶奴 舊訓「マコトモタエヌ」とよみたり。考には「メゴトモタエヌ」とし、古義には「メコト」と清音によめり。按ずるに目言といふ語は卷四「六八九」に「海山毛隔莫國奈何鴨目言乎谷裳幾許乏寸《ウミヤマモヘダタラナクニナニシカモメゴトヲダニモココダトモシキ》」卷十一「二六四七」に「束細布從空延越達見社目言踈良米絶跡間也《ヨコクモノソラユヒキコシトホミコソメゴトカルラメタユトヘタツヤ》」などあるが、ここを「マコト」とよまば、これらも「マコト」とよむべき筈なり。然るに一方「味澤相」の下にある語は卷六「九四二」に「味澤相|妹目不數見而《イモガメカレテ》」卷十一「二五五五」に「味澤相目之乏流君今夜來座有」卷十二「二九三四」に「味澤相|目非不飽《メニハアケドモ》」などいづれも「目」にかけたれば、「メコト」とよむべきこと明かなり。「めこと」とは(413)何の意かといふに、「め」は目に見ることなり。「こと」は口にいふ事なり。されば「メコト」とよむべし。「めこともたえぬ」とは皇女の薨じ給ひしが故に、目に見奉る事もたえ、もの申し上ぐる事も出來ずなりぬといふなり。
 以上第二段落にて、第一段落を受けこれに應へ、かねて、一歩を進めて皇女の今や現身にましまさず、木上の御墓に永久にしづまります由をいへるなり。
○然有鴨 舊板本の訓「シカアルカモ」とよみ、神田本に「シカルカモ」とよめり。略解は「シカレカモ」とよみたるが、しかも、その詞落居ずとして一本の「ソコヲシモ」をよしとせり。今この文字のままならば略解の如くよむべきなり。これは「シカアレバカモ」といふと同じ格にして後世には「アレ」の下に必ず「バ」のある所なり。攷證には「卷十七に之比爾底安禮可母《シヒニテアレカモ》(四〇一四)とあると同格也」といへり。さてこの句意十分に通らずとして、略解には「此かもの詞ここにゐず。一本のそこをしもの方かなへり。」といひ、攷證、美夫君志等多くの學者これと同じ態度をとりたるが、萬葉考は「所己乎之毛」を本文とたて、檜嬬手古義も亦しかせり。さてこの所、いかにも「所己乎之毛」とせば、意一見明瞭になれば、その如くあらば、もとよりよかりなむかとも思はるれど、「シカレカモ」とありても意不通なるにあらざるのみならず、古來かくあるものなれば、これを更むるは武斷といふべし。今は舊のままによみ、舊本のままに解釋して進むべし。即ち、前段に述べたる如き次第にてあれば、云々と下數句を導き出せるものなるが、その「カモ」の係に對する結辭は如何にもあらはれてあらず。然らばそは如何になれるかといふに、かかる場合には、その結に(414)相當すべき句が、接續助詞「ば」「ど」「ども」などによりて下に接續する場合又はその句が獨立性を失ふ場合に、その結がその接續助詞に吸収せられ又はその獨立性を失ふと同時に失はれて、それより下の句にはあらはれざること古今に通じたる現象なりとす。この事を顧みずして、「カモ」の落居する所なしとするは未だしき論といふべし。この「カモ」の吸収せらるる所は下に至りていふべし。
○一云所己乎之毛 一本に「ソコヲシモ」とあること既にいひし所なり。
○綾爾憐 舊本「アヤニカシコミ」とよみたれど、「憐」を「カシコミ」とよむべき理由なければ從ひかねたり。神田本細井本には「アハレフ」の訓をつけ、西本願寺本には「カナシミ」と訓ぜり。又代匠記には、「アヤニカナシミ」と訓し、美夫君志は「アヤニカナシモ」とよみたり。さて考ふるに「憐」の字は説文に「哀也」廣韻に「哀衿也」と注し、類聚名義抄「カナシブ」と注せり。而して古來の訓はこれを動詞にあてて形容詞にあてたることなし。これによれば、美夫君志に「カナシ」といふ形容詞にあてたるは當らずして、代匠記の訓を當れりとすべし。而してその活用は、「マ行四段」にても濁音のハ行四段にても通用せられしものなるが、萬葉集時代には二樣に用ゐられしが、いづれにてもあるべし。今は代匠記によれり。
○宿兄鳥之 「ヌエトリノ」とよむ。「宿」は「ヌ」といふ動詞の終止形にあてて「ヌ」といふを借り、「兄」は「エ」なるを借りて「ヌエドリ」といふ語をあらはせり。さてこれは「片戀嬬」の枕詞とせるものなるがこれは、卷三「三七二」に「容鳥能間無數鳴雲居奈須心射左欲比其烏乃片戀耳爾《カホドリノマナクシバナククモヰナスココロイサヨヒソノトリノカタコヒノミニ》」卷八「一四七三」に「霍(415)公鳥片戀爲乍《ホトトキスカタコヒシツツ》」といへる如く、必ずしも「ヌエ鳥」に限らずしていへるなるが、これらの鳥をば、妻戀しつつなくものならむと考へて片戀の枕詞とせるものならむこと大體冠辭考の説の如し。
○片戀嬬 舊訓「カタコヒツマ」とよめり。然るに、攷證は「カタコフツマ」と訓すべしとせり。なほ、又考はこの「嬬」を否とし、「一云」の「爲乍」を本文として「カタコヒシツヽ」と改めたり。かくて檜嬬手、古義もかく改めたり。なほかく改めぬ本も大かた「爲乍」を正しとしてそれによれり。先づ、この文字は如何によむべきかといふに「嬬」の「ツマ」とよむべきは上に屡いへるが、「カタコフツマ」とよむときは「コフ」は用言として活動し、「カタコヒツマ」とよむ時は、一の體言となる。而して、本集の例を見るに、「カタコヒニ」(卷十二「二九三三」)「カタコヒノミニ」(卷三「三七二」)「カタコヒヲスト」(卷十二「三一一一」)とある如くいづれも「カタコヒ」といふ體言のみありて「カタコフ」といふ用言の存することを知らず。この故にこゝを「カタコフ」とよむべき根據は無しと知られたり。されば古來の訓にてよき筈なりとす。さてこの語の意は契沖が「ヌエ鳥の片戀つまは夫君の咽びて歎給を喩る意」といへる、その「咽びて」は入ほがなれど、夫君の歎給を喩ふる意なることは明かなり。然るに「爲乍」を正しとする説はここを「次へのつゞきよろしからねば」といふにあれど、つゞきよろしからずといふ程のこともあらざれば、改むるには及ばざるべし。而してこれは「ヌエトリノカタコヒツマ」と「アサトリノカヨハスキミ」と相對して一の意をなせるなれば、かへりてこの方よき筈なりとす。
○一云爲乍 一本に「カタコヒシツヽ」とあるを注せるなり。
(416)○朝鳥 「アサトリノ」とよむ。「ノ」を加ふること「飛鳥」の場合におなじ。これは次の「カヨハス」の枕詞なるが、その意は鳥は早朝にねぐらを出て彼方に往くものなるべし。卷二の「四五」に「坂鳥乃《サカトリノ》 朝越座而《アサコエマシテ》」の下にいへるも參考に供すべく又卷九「一七八五」に「朝鳥之朝立爲管《アサトリノアサタチシツツ》とあるもその趣同じ。
○一云朝露 これは一本に「アサツユノ」とありと注せるなり。されど、「朝露の」にて「往來爲《カヨハス》」の枕詞とするは如何なり。
○往來爲君之 舊訓「カヨヒシキミガ」とあり。神田本には「ユキカヒシ」と訓し、考には「カヨハスキミガ」とよめり。これより後諸家主として考によれるが、檜嬬手は舊訓によれり。按ずるに、「往來」二字を「カヨフ」といふは所謂義訓にして、これには異説あるべくもあらぬが、「爲」は「シ」とも「ス」ともよみうべきが故に、上の二説いづれにても不可なりといふ理窟は立ち難し。然れども「シ」とせば、回想の複語尾にあてたる例となりて、その往來したまふ事は過去となるべきが、ここは目的のさまをいへりと思はるれば「カヨハス」とよむ方よからむか。然らばその「カヨハス」の敬語の連體形と見るべきものなり。この「君」はその夫君をさし奉ることいふまでもなし。これは上の「ヌエトリノカタコヒツマ」と相對して夫君の片戀に妹の君をしたひてここにかよひますことをいへるなり。
○夏草乃 「ナツクサノ」なり。その意は、本卷上の「一三一」の「夏草之念之奈要而志努布良武妹之門將見」とあるにおなじ。
(417)○念之萎而 「オモヒシナエテ」なり。上にいへる「一三一」の「念之萎而」又「一三八」に「夏草乃思志萎而」とかけると同じ語にして「シナエテ」は夏草の炎天にしをるる如く、思ひ「シヲレテ」といふなり。
○夕星之 舊訓「ユフツツノ」とよめり。然るに神田本温故堂本には「ユフホシノ」とよみたり。按ずるに「夕星」は「ユフホシ」とよみうべくして、その「ユフホシ」といふ語は古に無かりきとはいふを得ざらむかなれども、ここは下の「カユキカクユキ」の枕詞なるものなれば、それに適したるよみ方をせざるべからず。和名抄に、「兼名宛云大白星一名長庚【此間云由布都々】暮見2於西方1爲2長庚1耳」とあり。この星は今いふ金星なるが、毛詩に「東有2啓明1西有2長庚1」とある啓明は俗にいふ曙《アケ》の明星にして、長庚は俗にいふ宵《ヨヒ》の明星なるが、その時刻によりて、東に見え、西に見ゆるによりて下の「カユキカクユキ」といふ語を導き出すものなれば、この夕星といふ文字は長庚即ち宵の明星をばかけること著し。ここに於いて、夕星即ち「ユフヅツ」といふ特種の名詞にして一般に夕空に出づる星の義にあらざるを考ふべし。
○彼往此去 舊訓「カユキカクユキ」とよめり。然れど、神田本には「アチキコチクル」とよみ、童蒙抄に「カナタコナタニ」とよめり。按ずるにこれは「彼」と「此」との對、「往」と「去」との對を以てかくかけるものにして、彼方此方に往き去く義なるは明かなるが、よみ方は、その意の古語の例によるべきなり。今童蒙抄の訓によれば「往」「去」の文字を用ゐたる詮なし、神田本の「アチ」「コチ」は訓としては不可なるにあらざるべけれども、萬葉集の頃に「アチ」といふ語の存せし證を知らず。さて「カユキカクユキ」の語の例は卷十七「三九九一」に「可由吉加久遊岐見都禮騰母《カユキカクユキミツレドモ》」といふあり。今「彼」は(418)「カ」「此」は「カク」とよむこと萬葉集にては例多く、「往」も「去」も「ユキ」とよむことまた集中に例少からず。この故にこのよみ方をよしとすべし。「夕星の曉に東に、夕に西に見ゆる如く、彼方に往き、此方に往き」といひて、下の「猶預不定」を導く料とせり。
○大船之 これは「一二二」の「大船之舶流澄麻里能絶多日二」とある如く「たゆたふ」の枕詞とせり。
○猶預不定見者 流布本「不※[山/疋のような字]」の如き文字に作れどかくの如き字は、正しき字とも見えず、古寫本及び、寛永本以前の版本みな「定」と書きたれば、之に從ふべきなり。さてこの「猶預不定」の四字は蓋し「タユタフ」といふ語にあつべく義を以てかけるものなるが、「猶預」は「猶豫」とも「猶與」ともかける雙聲の熟字にして、史記高帝紀に「諸呂老人猪預未v有v所v決」とある、その用例なり。本集の用例を見るに、「猶預」二字にて「タユタヒ」とよませたるあり。卷十一、「二六九〇」に「妹者不用猶預四手《イモニハアハズタユタヒニシテ》」これなり。然るにこれは「猶預」の外に「不定」の二字を加へてその意を明確にしたるならむ。「タユタフ」といふ語の例は卷四「五四二」に「今者不相跡絶多比奴良思《イマハアハジトタユタヒヌラシ》」卷十一「二七三八」に「大船乃絶多經海爾《オホフネノタユタフウミニ》」同卷「二八一六」に「天雲之絶多不心《アマグモノタユタフココロ》」卷十二「三〇三一」に「天雲之絶多比安心有者《アマグモノタユタヒヤスキココロアレバ》」卷十五「三七一六」に「安麻久毛能多由多比久禮婆《アマクモノタユタヒクレバ》」卷十七「三八九六」に「家爾底母多由多敷命《イヘニテモタユタフイノチ》」これらによりて、その意を知るべし。即ちその夫君の中空なる心にてましますことをいへるなるが、その「たゆたひたまふ」を見ればといへるなり。さて上の「しかれかも」の結は元來はこの「たゆたふ」といふ語の處に存すべき筈なるなり。然るに、この「たゆたふ」は準體句となりて、下の「みれば」の補格となりてあれば、ここに上の「かも」の結としての終止は形の上にあらはるべき事にはあらぬなり。こ(419)の事よく心をつけて見るべきなり。
○遣悶流 舊訓「オモヒヤル」とよめり。略解には本居の説によりて、「なぐさもる」とよみ、古義はそれに基づきて「なぐさむる」とよみたり。「遣悶」は支那に用ゐたる字面なるが、その義をとれば「ナグサムル」といふ語に當らずとはいふを得ずといへども、「オモヒヤル」といふ語がこの「遣悶」の字義に當る事の由は卷一「五」の歌に「思遣」の條にて既に説ける處にして、卷十七「四〇〇八」には明かに「於毛比夜流許等母安利之乎《オモヒヤルコトモアリシヲ》」とあり。蓋し本居の説は上に「オモヒ」とありて直下に「コヽロ」とあるが面白からずとてのよみ方なるべけれど、かゝる事は古歌には屡々あるなり。現に卷一の「五」にも「思ヒヤル」の下に「念ヒゾモユル吾が下情」とあるにあらずや。さればなほ古來の訓をよしとす。意は悶々の情を遣りて心をはるくる義なることいふまでもなし。
○情毛不在 「コヽロモアラズ」とよむ。意明かなり。
○其故 舊訓「ソノユヱヲ」とよみ、童蒙抄には「ソノユヱノ」とよみ、考に「ソコユヱニ》とよめり。この語は上の「一六七」に出で、そこにて説けるにおなじ。
○爲便知之也 舊訓「スヘモシラシヤ」とよみ、神田本に「スヘシルヤ」とよみたり。代匠記には「シラジ」と濁音にせり。考には「スヘシラマシヤ」といひ、玉の小琴には此一句誤ありとして「セムスベヲナミ」又は「セムスベシラニ」ならむとし、檜嬬手は「之也」は「良爾」の誤にして訓を「セムスベシラニ」とせり。如何にも誤字あるにあらずやと思はるる處なれど、古寫本を按ずるにここに誤字ある本は一もなし。されば文字はここのままにして、その訓を考ふべきが、舊訓の「スベモシラシ(420)ヤ」といふは語をなさず。代匠記の説も一往聞えたる如くなれど、「シラジヤ」の「ヤ」を如何に説くべきか。語法にあはねば從ひかねたり。然るときはただ考の「スベシラマシヤ」といふ訓のみ殘る事となるが、これにても十分に落居せりとは見えねど、意味は通ぜざるにあらず。たゞ「しらまし」を「知之」とかくか如何といふ點に疑あるなり。されど、今他によき説を知らねば、姑く之に從ふ。さてかくよみての意義は美夫君志に「ヤはうらへ意のかへるヤ〔右○〕にて、すべしらんや、すべしらずとなり」といへる如くなるべし。
○音耳母名耳毛不絶 「オトノミモ、ナノミモタエズ」とよむ。ここに似たる語遣の例は卷十七「四〇〇〇」に「於登能未毛名能未母伎吉底《オトノミモナノミモキキテ》」あり。又卷十八「四〇三九」に「於等能未爾伎吉底目爾見奴布能宇良乎《オトノミニキキテメニミヌフセノウラヲ》」といへる例あり。この「音」とは如何といふに、軍記物などに「日頃はおとにも聞きつらん、今は目にも見よ」などいへる場合の「おと」と同じ語にして、その名の世に聞ゆることをいふ。この「おと」は結局は「名」といふにおなじことに落つべきが、おのづから區別あり。「おと」はその名によりて傳へらるるもの即ち今いふ噂とか評判とかいふ方面をいふ。「おと」も「名」も、漢語の「名聲」といふに相當することある場合もあるが、その「聲」の方面は即ち「おと」なり。さればこの「おと」は「音響」「音聲」の「おと」といふ義より一轉したるものにして「聲名」「聲望」「聲譽」などの漢語の場合の「聲」字に該當するものなり。聲字のこの義なるは本卷「二〇七」に「梓弓聲〔右○〕爾聞而……聲〔右○〕耳乎聞而有不得者」などこれなり。これは御事蹟のいひ傳へなどを主とすと思はる。さてこの「おとのみも」「なのみも」とは如何なる意かと考ふるに、これは下の「思將往」にかゝれるものなれば、「お(421)とをしぬび、名をしぬぶ」といふ意なることは明かなり。然らば、「のみも」は如何なる意にて加へられしかといふに、「のみ」は余の所謂副助詞にして、すべてある意義を以て上下の關係を修飾するのみにして、上下の語の資格に變動を與ふる力なく「も」も亦その陳述の上に力を及ぼすのみにして、上下の語の關係に變動を與ふるものにあらず。されば、「おと」「な」は下の「思ふ」といふ語に對して有する一定の關係の上には特別の變化を與ふることなきなり。さて君の御噂君の御名のみをも「絶えず」といへるなるが、その「絶えず」は又下の「思ひゆかむ」と相合して一意をなすものにして、かくて上の「おと」と「名」とをうくるなり。
○天地之彌遠長久 「アメツチノイヤトホナガク」とよむ。普通にはこの「天地之」をば「天地のごとく」と解すべしといへり。されど、ここは然にはあらじ。ここの「之」は蓋し主格にして、「天地の彌遠く長く」なるべく、その「天地の彌遠長く」といふ全體を以て、修飾格に立てたるものなるべく思はる。これは卷一、「紫草のにほへる妹」の歌にいへると略同じきが、かれは體言を修飾せるもの、これは用言を修飾せるものにて稍趣異なれど、句の用ゐらるる心ざまは一なり。何故にかく説くべしとならば、「天地の如く」といひてもなほ實地の解釋には必ず、「天地《(主)》のあらん限り永遠に」とか又は「天地《(主)》の遠く長きが如くに遠く長く」といはでは解釋にならぬにあらずや。さてこの句は皇女の御事蹟上の噂又御名をば天地の永遠無窮なる如く、いや遠く長く年久しくわすれ奉る事なく思ひ奉りゆかむとなり。
○思將往 舊本「オモヒユカム」とよめり。代匠記には「思は偲にてしのびゆかむなるべし」といへ(422)り。「思」は、通常「オモフ」と訓するものなれど、これには「思慕」と熟して用ゐらるる意義あり。而して「慕」の字は「シノブ」といふ訓を類聚名義抄に加へたり。その「シノブ」は萬葉集にては「シヌブ」なること卷一より屡見えたり。されば「思慕」の意にて「シヌブ」とよみて不可なかるべきが、ここはその意義よりして「シヌブ」とよむ方あたれり。「思」を「シヌブ」とよませたる例は卷三「四六四」に「去者見乍思跡妹之殖之屋前之石竹開家流香聞《アキサラバミツツシヌベトイモガウヱシヤドノナデシコサキニケルカモ》」などあり。されば「シヌビユカム」とよむべし。その意義は將來永く、御噂をも御名をも、天地の長久なるごとく、慕ひつつ行かむと思ふその御名といふ事なり。さればここは連體格にして「御名」につづくるものなり。
○御名爾懸世流 舊訓「ミナニカケセル」とよみたり。されど「カケセル」といふ語はあるべくもあらず。考には「カカセル」とよめり。之に從ふべし。これは「カク」を敬語として「カカス」といひたる、それより「アリ」に熟せしめて、「カカセル」といへるなり。「名に懸く」とは「名に負ふ」といふに略同じく、その名としてもちてあることなり。卷三「二八五」に「妹名乎此勢能山爾懸者奈何將有《イモガナヲコノセノヤマニカケバイカニアラム》」卷十「一八一八」に「子等名丹關之宜朝妻之《コラガナニカケノヨロシキアサヅマノ》」などその例なり。「カカス」の例は卷十七「四〇〇〇」に「安麻射可流比奈爾奈可加須古思能奈可久奴知許登其等《アマザカルヒナニナカカスコシノナカクヌチコトゴト》……須賣加未能宇之波伐伊麻須《スメカミノウシハキイマス》云々」といへるあり。「カカセル」といふ假名書の例はなけれど、卷十六「三七八七」に「妹之名《イモガナニ》繋有〔二字右○〕櫻花開者《サクラハナサカバ》」の「繋有」は舊訓「カケタル」とよみたれど、或は「カカセル」とよむべきものにてもあらむ。
○明日香河 「アスカガハ」なり。飛鳥皇女の御名と同じ名なる河なればいへるなるが、この皇女の御名は川より生じたるにあらずとしても少くとも飛鳥といふ地名に基づくものなるべし。
(423)○及萬代 「ヨロヅヨマデニ」とよむ。「及」を「マデニ」とよむはその字義より起れるなるべし。卷九「一七四七」に「草枕客去君之及還來《クサマクラタビユクキミガカヘリクマデニ》」とあるもここにおなじ。この「までに」は下にいへる「カタミ」として永久にかたみにせむとなり。
○早布屋師 「ハシキヤシ」なり。「早」は「ハヤ」なるを「ハ」の音に惜り用ゐたり。その例は卷十一「二四二九」に「早敷哉相不子故《ハシキヤシアハヌコユヱニ》」卷十二「二三六九」「早敷八四《ハシキヤシ》」卷十三「三二四五」に「公奉而越得之早母《キミニマツリテコエムトシハモ》」にあり。「ハシキヤシ」といふ語の例は卷十二「三一四〇」に「波之寸八師志賀在戀爾毛有之鴨《ハシキヤシシカルコヒニモアリシカモ》」卷十六「三七九〇」に「端寸八爲今日八方子等丹《ハシキヤシケフヤモコラニ》」又「三七九四」に「端寸八爲老夫之歌丹《ハシキヤシオキナノウタニ》」などいと多し。この語の構造は「はしき」に「ヤシ」の添へるにてその「ヤシ」は「よしゑやし」の「ヤシ」に同じく、深き意なく、調を添ふるに止まれり。さては「はしき」といふを本體とするが、これは「はし」といふ語即ち「愛すべき」由の意の形容詞のその連體形にして連體格に立てるものなり。即ち愛しきわが王といふなり。
○吾王乃 「ワガオホキミノ」とよむ。意は上のに同じ。
○形見何此焉 舊訓「カタミカココモ」とよめり。代匠記には「カタミカコヽヲ」とよみ、略解には本居宣長の説として「何」は「荷」の訓として、「カタミニコヽヲ」とよめり。美夫君志には「荷」「何」の二字漢土にて古通用の文字なりとし、「何」をそのまゝ「ニ」の假名に借りたるなりとやうにいへり。「カタミ」といふ語は、卷十六「三八〇九」の歌の左注の文中に「寵薄之後還2賜寄物1」とある「寄物」をその自注に「俗云可多美」とかけり。遊仙窟に「記念」「信」を「カタミ」とよませたり。この語の事は卷一「四七」に既にあげたり。「焉」を「ヲ」とよむ事は如何なる意ぞといふに代匠記に曰はく「焉の字助語ながら、(424)をとよめる傍例はあり。」といへり。その傍例といふは、卷九「一八〇四」に「蜻※[虫+廷]火之心所燎管悲悽別焉《カキロヒノココロモエツツナゲクワカレヲ》」といへるなどをさせるなるべし。「焉」を「モ」とよむべき理由なければ姑く契沖説に從ふべし。さて此句の問題は一に「何」といふ字のよみ方にかゝりて存するが、「何」を音にてよまば「か」といひてよかるべく思はるべけれど、この字は元來「ガ」といふ濁音の字にして集中にその他の異例見えざるやうなれば「カ」とよまむことは容易に首肯せられず。加之「カタミカコヽヲ」とよまば、上の「萬代までに」とあるに打合ふべき語なければ、これは本居説の如く、「カタミニコヽヲ」とよみて、その意は「こゝをわが王のかたみにせむ」の「せむ〔二字右○〕」といふ語の略せられてあるものとするときは上の「萬代までに」といふに打合ふべし。されど、ここを「荷」とかける本は一もなし。若し「何」「荷」相通すといふといふ説によらば、正しき事となるべきが、「何」を「ニ」に用ゐたりとすべきは、この一にして他の「何」にはこの用法なければ、果して美夫君志の説の如くなりやも疑はし。されど、他によき考も出でねば、姑く上の如くによみおく。なほ後の考をまつ。
○一首の意 第一段は先づ皇女の御名に負へる飛鳥川を出してその上瀬に渡せる石橋、下つ瀬に渡せる打橋に生ふる玉藻川藻をあげて、それらは一旦絶えても生ひ、一旦枯れて生ゆるものなることをいひて、之に對して、その玉藻川藻の如くに夫君に靡きそひたまひし皇女の今はその結構申し分なき夫君の朝夕の御宮仕を忘れ背き賜ふにかといひて、藻の如きものは一旦絶え枯れても再び生ずることあるに人の身にはかかる事はあらぬ事を言外にいひて皇女の薨去を嘆く意をあらはし、なほ皇女の薨去をあらはにいはずして昨今見受け奉らぬは如何なる(425)由ぞといぶかりたる體にいへり。第二段は先づその皇女の御在世の時のことを思ひ出でて、その御在世の時には春秋の花や紅葉をば、互に御手を携へて、いつ見ても飽くことなしと思ひたまひ、又望月の如く見ればみるほど、愛すべく思ひ賜ひし夫君と共に時時いでまして遊覽し賜ひし城上の宮をば、今は常しへに鎭ります宮所と定めてここに鎭りたまひしかば幽冥境を異にして今は見奉る事も、言をかはし奉る事も絶えぬとなり。第三段は以上の如くなればにや夫者はその御事を言語道斷と申し上ぐべきほどに哀しみ給ひ、まことにぬえ鳥の片戀嬬と申し上ぐべき態にて、その木上の殯宮にかよひたまふその夫君が、夏の炎天にしをれたる草の如く思ひしをれて、彼方此方に往きつつ中空にたゆたふ思ひをばしたまふなり。その御有樣を見れば、如何にも御いたはしく見えて、我々までもその悶々の情にたへず又その思をはるくるすべもありとは思はれずとなり。さればせめての事に皇女の御評判なり、御名だけなりとも天地の遠く長きが如くに絶えずしのび行かむと思ふが、その名に懸けたまへる飛鳥川をば、萬代までもかはらぬ吾皇女の形見にしてしたひ奉らむとなり。
 
短歌二首
 
○考には「短歌」を「反歌」の誤とし、攷證之に賛成せり。されど改むるに及ばぬこと上に屡いへり。
 
197 明日香川《アスカガハ》、四我良美渡之《シガラミワタシ》、塞益者《セカマセバ》、進留水母《ナガルルミヅモ》、能杼爾賀有萬思《ノドニカアラマシ》。 【一云水乃與杼爾加有益。】
 
(426)○明日香川 いふまでもなし。
○四我良美渡之 「シガラミワタシ」とよむ。「シガラミ」とは木竹の枝などを杭などにからみわたして流水をせく料とする設けをいふこと世人の知る所にして普通には名詞と思へるが、本來動詞たりと思はる。卷六「一〇四七」に「芽子枝乎石辛見散之狹男鹿者妻呼令動《ハギガエヲシガラミチラシサヲシカハツマヨビトヨメ》」とあるは水流に毫も關係なくしてしかも「しがらむ」といふ動詞の連用形たるなり。古今集秋上に「秋萩をしがらみらみふせてなく鹿のめには見えずておとのさやけさ」又拾遺集雜下に「さをしかのしがらみふする秋萩は下葉や上になりかへるらん」貫之集「さをしかのつまにしがらむ秋はぎにおけるしら露われもけぬべし」これらにて必ずしも水に關係なきをしるべし。語義はことさらにからむ意なるべし。さてここは動詞の連用形としても意通らぬにはあらねど、なほ體言なるべし。卷七「一三八〇」に「明日香川湍瀬爾玉藻者雖生有四賀良美有者靡不相《アスカガハセセニタマモハオヒタレドシカラミアレバナビキアハナクニ》」と見ゆ。これにて、古、明日香川に實際しがらみを處々に構へしことありしを見るべし。ここはそのしがらみをつくりわたしてといへるなり。
○塞益者 「セカマセバ」とよむ。塞を「セク」といふ動詞にあてたるなるが、「セク」とはもと「狹《セ》」といふ(427)未然條件を示せるものなるが、この場合には、假設的の事を更に條件としていふにてその結は常に「まし」にて終るものとす。この句の意は明日香川の水を「せかませば」といふなり。
○進留水母 舊訓「ナガルルミヅモ」とよめり。代匠記には「スヽムルミヅモ」とし、童蒙抄は「ミナギルミヅモ」とよめり。そのうち「スヽムルミヅ」といふは語をなさず。又「進」は「ミナギル」とよむべき字にあらず。しかも「進」字に「ナガル」といふ訓を施したる例を未だ知らず。然れども、類聚名義抄には「行」に「ナガル」の訓あり。之を「進行」の熟字あるに照して考ふれば「水の前進する」は「ナガルル」なれば「進」を「ナガル」といふも全然あらぬ義なりといふべからず。されれば舊訓をよしとす。
○能杼爾賀有萬思 「ノドニカアラマシ」とよむ。「ノド」といふは「のどか」「のどやか」「のどけし」などの語根たる「のど」にて意はおなじ。この語の例は卷十三「三三三九」に「立浪裳篦跡丹者不起《タツナミモノドニハタタズ》」又續日本紀天平勝寶元年四月の宣命に「王幣【爾去曾】死能杼爾波不死《オホキミノヘニコソシナメノドニハシナジト》」とあるその「のど」なるが之を「和」とかける例あり。卷十三「三三三五」に「吹風母和者不吹《フクカセモノドニハフカス》」とあるこれなり。水流のしがらみにせかれて、のどかに流れもせぬさまにならましとなり。「まし」は假想する意ありて、上の「ませば」に應ぜり。
○一云水乃與杼爾加有益 「ミヅノヨドニカアラマシ」とよむ。一本に結句をかくせるがありとの事なり。「水の」は主格なるべし。「よど」は「よどむ」の語幹にして、又體言としても用ゐらる。卷三「三二五」に「明日香川川余藤不去立霧之《アスカガハカハヨドサラズタツキリノ》」「三七五」に「吉野爾有夏實之河乃川余杼爾鴨曾鳴成《ヨシヌナルナツミノカハノカハヨドニカモゾナクナル》」卷四「七七六」に「小山田之苗代水乃中與杼爾四手《ヲヤマダノナハシロミヅノナカヨドニシテ》」などこの語の例なり。意は本行のと大差なし。
(428)○一首の意 皇女の御名に懸けられたる明日香川にしがらみを構へわたして塞かば、流る水もここにとまりのどかにあるならむ。その如くその川と同じ名をもたせたまへる皇女の御命をせきとどめ奉る方法もあらばそれを構へてとどめ奉らましものを。さる手段も由もなかりしものかとなり。攷證に曰はく「古今集哀傷に壬生忠峯、瀬をせけば、淵となりてもよどみけり。わかれをとむるしがらみぞなき云々とよめるも似たり」と。如何にも然り。されど、守部はこれを「今とくらぶれば、よわくちひさきわざにこそ」といへり。
 
198 明日香川《アスカガハ》、明日谷《アスダニ》【一云左倍】將見等《ミムト》、念八方《オモヘヤモ》、【一云念香毛】吾王《ワガオホキミノ》、御名忘世奴《ミナワスレセヌ》。【一云御名不所忘。】
 
○明日香川 これは一面語を重ねて次の「アス」といふ語を導く料とせるなれど、一面はなほ明日香皇女の御名を懸けたる川の名なるを以ていへるなり。
○明日谷【一云左倍】將見等 本行のよみ方は「アスダニミムト」なり。この「あす」は明日一日に限りていへるにあらずして今より後の意なること美夫君志の説の如し。「だに」といふ助詞はそのあげたる點を主として他を顧みざる意をあらはせるものなるが、俗言には「せめて……なりとも」といふ如くに釋するを常とせり。
○一云左倍 これは一本に「アスサヘミムト」とある由を注せるなり。これにつきて考は「サヘ」を否とせるに、古義は「サヘ」を可として、之を本文とたてたり。されど「サヘ」はあるが上に物の加はることをいふ助詞にして俗語の「マデ」に相當するものなれば、ここにかなはず。ここは必ず「ダ(429)ニ」ならざるべからず。
○念八方 「オモヘヤモ」とよむ。拾穗抄には「オモフヤモ」とよみたれど、語格違へり。考には「八方」を否として一云の「香毛」をとりて本文とせり。按ずるにこの「オモヘ」は已然形の條件を示す形にして、「ヤモ」は之をうけたる係詞なるが、「モ」は意輕くして「ヤ」の疑の意が主となれるなり。されば、これは後世の語ならば、「オモヘバヤ。」といふに同じ關係にあるものなり。古義に「ヤは後世の也波《ヤハ》に同じ」といひ守部も同じ趣にいへるは共に非にして、かく反語とする時は意反對になるべし。而して「ヤモ」「カモ」畢竟同意なれば、考の如く「カモ」を否定するも不條理なり。さてこの「ヤモ」の係に對して下に「セヌ」と結べるなり。
○一云念香毛 上の句を「オモヘカモ」とせる一本ありとの注なり。いづれにても意はかはらざること上に述べし所なり。
○吾王 「ワガオホキミノ」とよむ。「ノ」の字なけれど加へてよむこと上に例を多くいへり。明日香皇女をさすこと勿論なり。
○御名忘世奴 「ミナワスレセヌ」とよむ。御名を忘るることをせずとなり。「せぬ」と連體形にいへるは「ヤモ」の結なればなり。
○一云御名不所忘 これは「ミナワスラエヌ」とよむべきが、意は同じ。
○一首の意 わが明日香皇女は今は此世にましまさずといふ事なるが、せめて明日なりとも又も見奉ることもあらむとわが心の奧に思へばにやわれはわが明日香皇女の御名を忘れ參ら(430)することのなきよとなり。即ち今日は見え奉らずとしてもこの御名の如く或は明日になりたらば、見え奉ることもあらむと思はれてその御名を忘れられぬとなり。
○ 以上の長歌及短歌二首をば古義は「弓削皇子薨時置始東人作歌一首并短歌」と「柿本朝臣人麿妻死之後泣血哀慟作歌二首并短歌」との間に移せり。この理由は「此皇女は弓削皇子より後に薨賜ひたれば必ずここに收べきことなり」といふにあり。年次のみだれたることはさる事ながらこれにつきては攷證にみだりに古書を改むるを非なりとせる論あり。古のままにおくを穩かなりとす。
 
高市皇子尊城上殯宮之時柿本朝臣人麿作歌一首并短歌
 
○高市皇子尊 この皇子の事は既にいへり。ここに「皇子尊」とあるは皇太子にましまししが故なり。この皇子の皇太子に立ちたまひし年月は既にいへる如く日本紀に明記なけれど、持統天皇三年四月草壁皇太子薨去の後なることは明かなり。この皇子は同四年七月に太政大臣に任ぜられたり。同月の詔勅中に「皇太子」といふ語あり。これ即ちこの皇子をさし奉れるならむ。持統天皇十年七月の紀に「庚戌(十日)後皇子尊薨」とあるはこの皇太子の薨ぜられし事の記事なり。されば、この歌はその折の事なることと知られたり。
○城上殯宮之時 これも「キノヘノオホアラキノトキ」とよむべきが、その「キノヘ」は上の飛鳥皇女の殯宮と全く同じ地とは考へられず、ただ「木ノヘ」の地域中にありし點のみ同じなるべし。而(431)してこの皇子の御墓は延喜式に「三立岡墓【高市皇子在大和國廣瀬郡兆域東西六町南四町無守戸】」とあり。この三立岡は上の城上岡の北方約十八町許の地にありて、今の馬見村|三吉《みつよし》字大垣内の一部に三立山とてあり。弘福寺文書に「廣瀬郡瓦山一處東從2御立路〔三字右○〕坂1至2坂合部岡1」とあり。この「御立路坂」は三立岡の坂なるべし。大和町村誌集廣瀬郡馬見村の下に三吉(これは齊音寺、赤部、大垣内の合併せるもの)の内に「三立岡墓」と見ゆるものこれなり。
○柿本朝臣人麿作歌一首并短歌 攷證はこの下に「二首」の二字あるべきなりとて之を補ひ、美夫君志は「短歌」の二字を古寫本に小字にかけるによりて小字にすべしといひて、然せり。
 
199 挂文《カケマクモ》、忌之伎鴨《ユユシキカモ》、【一云由遊志計禮杼母】 言久母《イハマクモ》、綾爾畏伎《アヤニカシコキ》、明日香乃《アスカノ》、眞神之原爾《マカミノハラニ》、久堅能《ヒサカタノ》、天津御門乎《アマツミカドヲ》、懼母《カシコクモ》、定賜而《サダメタマヒテ》、神佐扶跡《カムサブト》、磐隱座《イハガクリマス》、八隅知之《ヤスミシシ》、吾大王乃《ワガオホキミノ》、所聞見爲《キコシメス》、背友乃國之《ソトモノクニノ》、眞木立《マキタツ》、不破山越而《フハヤマコエテ》、狛釼《コマツルギ》、和射見我原乃《ワザミガハラノ》、行宮爾《カリミヤニ》、安母理座而《アモリイマシテ》、天下《アメノシタ》、治賜《ヲサメタマヒ》、【一云拂賜而】食國乎《ヲスクニヲ》、定賜等《サダメタマフト》、鳥之鳴《トリガナク》、吾妻乃國之《アヅマノクニノ》、御軍士乎《ミイクサヲ》、喚賜而《メシタマヒテ》、千磐破《チハヤブル》、人乎和爲跡《ヒトヲヤハセト》、不奉仕《マツロハヌ》、國乎治跡《クニヲオサメト》、【一云掃部等】皇子隨《ミコナガラ》、任賜者《ヨサシタマヘバ》、大御身爾《オホミミニ》、大刀取帶之《タチトリハカシ》、大御手爾《オホミテニ》、弓取持之《ユミトリモタシ》、御軍士乎《ミイクサヲ》、安騰毛比賜《アトモヒタマヒ》、齊流《トトノフル》、皷之音者《ツヅミノオトハ》、雷之《イカヅチノ》、聲登聞麻低《コヱトキクマデ》、吹響流《フキナセル》、小(432)角乃音母《クダノオトモ》、【一云笛之音波】敵見有《アタミタル》、虎可※[口+立刀]吼登《トラカホユルト》、諸人之《モロビトノ》、恊流麻低爾《オビユルマデニ》、【一云聞惑麻低】指擧有《ササゲタル》、幡之靡者《ハタノナビキハ》、冬木成《フユゴモリ》、春去來者《ハルサリクレバ》、野毎《ヌゴトニ》、著而有火之《ツキテアルヒノ》、【一云冬木成春野燒火乃】風之共《カゼノムタ》、靡如久《ナビクガゴトク》、取持流《トリモタル》、弓波受乃驟《ユハズノサワギ》、三雪落《ミユキフル》、冬乃林爾《フユノハヤシニ》、【一云由布之林】飄可母《ツムジカモ》、伊卷渡等《イマキワタルト》、念麻低《オモフマデ》、聞之恐久《キキノカシコク》、【一云諸人見惑麻低尓】引放《ヒキハナツ》、箭繁計久《ヤノシゲケク》、大雪乃《オホユキノ》、亂而來禮《ミダリテキタレ》、【一云霰成曾知余里久禮婆】不奉仕《マツロハズ》、立向之毛《タチムカヒシモ》、露霜之《ツユシモノ》、消者消倍久《ケナバケヌベク》、去鳥乃《ユクトトリノ》、相競端爾《アラソフハシニ》、【一云朝霜之消者消言爾打蝉等安良蘇布波之爾】渡會乃《ワタラヒノ》、齋宮從《イツキノミヤユ》、神風爾《カムカゼニ》、伊吹惑之《イフキマドハシ》、天雲乎《アマグモヲ》、日之目毛不令見《ヒノメモミセズ》、常闇爾《トコヤミニ》、覆賜而《オホヒタマヒテ》、定之《サダメテシ》、水穗之國乎《ミヅホノクニヲ》、神隨《カムナガラ》、太敷座而《フトシキマシテ》、八隅知之《ヤスミシシ》、吾大王之《ワガオホキミノ》、天下《アメノシタ》、申賜者《マヲシタマヘバ》、萬代《ヨロヅヨニ》、然之毛將有登《シカシモアラムト》、【一云如是毛安良無等】木綿花乃《ユフバナノ》、榮時爾《サカユルトキニ》、吾大王《ワガオホキミ》、皇子之御門乎《ミコノミカドヲ》、【一云刺竹皇子御門乎】神宮爾《カムミヤニ》、装束奉而《ヨソヒマツリテ》、遣使《ツカハシシ》、御門之人毛《ミカドノヒトモ》、白妙乃《シロタヘノ》、麻衣著《アサゴロモキテ》、埴安乃《ハニヤスノ》、御門之原爾《ミカドノハラニ》、赤根刺《アカネサス》、日之盡《ヒノコトゴト》、鹿自物《シシジモノ》、伊波比伏管《イハヒフシツツ》、烏玉能《ヌバタマノ》、暮爾至者《ユフベニナレバ》、大殿乎《オホトノヲ》、振放見乍《フリサケミツツ》、鶉成《ウヅラナス》、伊波比廻《イハヒモトホリ》、雖侍候《サモラヘド》、佐母良比不得者《サモラヒエネバ》、春鳥之《ハルトリノ》、佐麻(433)欲比奴禮者《サマヨヒヌレバ》、嘆毛《ナゲキモ》、未過爾《イマダスギヌニ》、憶毛《オモヒモ》、未盡者《イマダツキネバ》、言左敝久《コトサヘグ》、百濟之原從《クダラノハラユ》、神葬《カムハフリ》、葬伊座而《ハフリイマシテ》、朝毛吉《アサモヨシ》、木上宮乎《キノヘノミヤヲ》、常宮等《トコミヤト》、高之奉而《タカクシマツリテ》、神隨《カムナガラ》、安定座奴《シヅマリマシヌ》。雖然《シカレドモ》、吾大王之《ワガオホキミノ》、萬代跡《ヨロヅヨト》、所念食而《オモホシメシテ》、作良志之《ツクラシシ》、香來山之宮《カグヤマノミヤ》、萬代爾《ヨロヅヨニ》、過牟登念哉《スギムトオモヘヤ》。天之如《アメノゴト》、振放見乍《フリサケミツツ》、玉手次《タマダスキ》、懸而將偲《カケテシヌバム》、恐有騰文《カシコカレドモ》。
 
○挂文 「カケマクモ」とよむ。「挂」は説文に「畫也」とあれど玉篇に「懸也」とありて、「掛」と通用せり。さてここに卷三「四七五」に「掛卷母綾爾恐之《カケマクモアヤニカシコシ》、言卷毛齋忌志伎可物《イハマクモユユシキカモ》」卷六「一〇二一」に「繋卷裳湯々石恐石《カケマクモユユシカシコシ》」卷十八「四一一一」に「可氣麻久母安夜爾加之古思《カケマクモアヤニカシコシ》」等の例にてよむべきが、古語に例多きなり。語の意は言にかけて白さむもといふ義にて下の「言はくも」と相對して同じ意なるを語をかへていへるなり。「心にかけて思奉らんも」の意なりといふは不可なり。語の成立をいはば「カケマク」の「ク」は「こと」の義にて、「かけむこと」の意なり。
○忌之伎鴨 古來「ユユシキカモ」とよめり。代匠記に「イミシキカモ」とも訓じたれど、萬葉集時代に「イミジ」といふ語のありし例を知らず。古訓のまゝにてあるべし。「ユユシ」といふ語の例は上にひける卷六の「湯々石恐石」卷十九「四二四五」の「懸麻久乃由由志恐伎墨吉乃吾大御神《カケマクノユユシカシコキスミノエノワガオホミカミ》」又古事記下卷雄略天皇の歌にも「由々斯伎加母加志波良袁登賣《ユユシキカモカシハラヲトメ」などにてしるべし。さて上の「忌之伎」をその「ユユシキ」にあつるは、上にいへる卷三「四七五」の「齋忌志伎可物」の場合におなじきがかく(434)「忌之」「齋忌之」を「ゆゆし」といふ形容詞にあてゝよむ故は「忌」も「齋忌」も共に忌み清まはる意にして、古語の動詞にては「ユム」といひしならむ。その由はその命令形として考へらるる語に「ユメ」といふあり、又「ユマハル」といふ語ありて、それに對して「ユム」といふの動詞ありしことを考へ得べきが、その語幹の「ユ」を重ね用ゐて形容詞とせしなること、「アダアダシキ」「ヲサヲサシキ」「クネクネシキ」「ノロノロシキ」「ヤツヤツシキ」などの例にて推しうべく又一音の語を重ねて形容詞の語幹としたるは「ヲヲシキ」「メメシキ」「美々シキ」「兒々シキ」などあり。これらに準じて知るべし。即ち忌み憚るべき状なるをいへるにて、今の語にては恐れ多しといふに似たり。「鴨」は「カモ」の助詞の假名にかりたるにて歎息の意を寓せり。この二句は先づ全篇の冒頭なるが、語の上にても下の二句と不完對をなせり。
○一云由遊志計禮杼母 上の句を一本に「ゆゆしけれども」とありとなり。されど、これは語のつづきよからず。
○言久母 「イハマクモ」とよむ。この語の例は上にいへる卷三「四七五」に「言卷毛齋忌志伎可物《イハマクモユユシキカモ》」又卷六「九四八」に「決卷毛綾爾恐《カケマクモアヤニカシコシ》、言卷毛湯湯敷石跡《イハマクモユユシケレド》」などあり。その意は「かけまくも」といふに同じきを語をかへたるまでなり。即ち語にかけていはむこともといふ義なり。
○綾爾畏伎 「アヤニカシコキ」なり。この語の例は卷十三「三二三四」に「挂卷毛文爾恐山邊乃五十師乃原爾内日刺大宮都可倍《カケマクモアヤニカシコキヤマヘノイシノハラニウチヒサスオホミヤツカヘ》」又卷三「四七五」に「掛卷母稜爾恐之《カケマクモアヤニカシコシ》」「四七八」に「掛卷毛文爾恐之《カケマクモアヤニカシコシ》」など例多し。その「アヤニ」は上の「一五九」「一九六」の「あやにかなしみ」の例と同じく歎聲の「アヤ」より起り(435)て情態副詞となれるにて、今言語道斷といふほどの事なること既にいへり。何とも申し上げやうもなく恐れ多きといふ意なり。かくて、この二句は上の二句と形の上にては對をなせるが、しかもその下部は對を破りて下につづくる連體格とせり。さてこの連體格はいづこにつづく義なるかといふに、古義に「綾爾畏伎は云々凡て天皇の御うへを申さむとしては必上の件の言を先づ初に冠らしめたるは古語の常なり。」といひ、これにて異論もなかりしやうなれど、ことばのつづきは、下の「明日香乃眞神原」につづくこと明かにして、古義にいへるが如き條理にはあらず。されば新考には「アヤニ畏伎といふ辭語格の上にてはアスカノ眞神ノ原にかゝれり」といはれたるが、こはさすがに慧眼なりといはざるべからず。然れども新考に「されば地名をいふにイハマクモアヤニカシコキとはいふべからず。案ずるに伎は之の誤にてアヤニカシコシと切りたるにこそ。さらでは第二句をユユシキカモと切りたるも不審なり。現に三卷安積皇子薨之時家持作歌にも
 かけまくもあやに恐之いはまくもゆゆしきかも、わがおほきみ御子の命の云々
とあり」といへるは如何なり。この説一わたりさる事と聞ゆる如くなれど、よく考ふるに從ふべからず。先づ第一に、いづれの本にもここに異なるかきざまなるものなければ、誤字説は首肯せられず。又卷三の歌を例にひかれたれど、それは二句づつの一對を以てその歌の冒頭とせるものにして、これは上の「かけまくもゆゝしきかも」二句だけにてこの歌の冒頭とせるものにして、この下の二句は形は上の二句と對をなせるが如くに見ゆれど、語の意にては、上の二句(436)とは別にて、下の「眞神」にかゝりてそれを修飾せるものなれば、一列に説くべからず。又これをば「地名をいふにイハマクモアヤニカシコシとはいふべからず」といはれたれど、余按ずるにこれは「眞神の原」の「眞神」といふ語にかけて「イハマクモアヤニカシコキ」といへるなるべくして、地名全體につきていへるものにあらざるべし。即ちこれは、語の上にてはいつも天皇皇太子などの御上を申しあぐる語を用ゐ來りて、その氣分をあらはしつゝ語格の上にては「眞神」の連體格として用ゐたるものなれば、神韻縹渺として捕捉しがたく見ゆるさまなるが、この歌の巧妙なる點なりとす。
○明日香乃眞神之原爾 「アスカノマカミノハラニ」とよむ。「アスカ」はその地の大名にして「マカミノハラ」は「アスカ」の地域内の一の地名なり。この眞神原は日本紀崇峻卷に「元年……壞2飛鳥衣縫造祖樹葉之家1始作2法興寺1此地名2飛鳥眞神原1亦名2飛鳥苫田1」とある邊なることは著しきが、その法興寺は又飛鳥寺ともいひ、かの中大兄皇子がその庭にて蹴鞠を催したまひしを以て史上に名高きが、その舊地は今飛鳥大佛といふ佛像のある安居院これなり。この寺は今高市郡高市村飛鳥にあり。この地名はなほ卷八「一六三六」に「大口能眞神之原爾零雪者甚莫零家母不有國《オホクチノマカミノハラニフルユキハイタクナフリソイヘモアラナクニ》」又卷十三「三二六八」に「三諸之神奈備山從登能陰雨者落來奴《ミモロノカムナビヤマユトノグモリアメハフリキヌ》、雨霧相《アマキラヒ》、風左倍吹奴《カゼサヘフキヌ》、大口乃眞神之原從思管還爾之人家《オホクチノマカミノハラユオモヒツツカヘリニシヒトイヘ》爾到伎也《イタリキヤ》」とあり。これによれば三諸山附近の原野たりしことは明かなるが、ここをば、何の爲にあげ來れるかは次の句に至りて説くべし。
○久堅能 「ヒサカタノ」とよむ。意は卷一「八二」にいへり。
(437)○天津御門乎 「アマツミカドヲ」とよむむ。「御門」は御宮の門をいふなれど、うつして御宮殿をいふこと、卷一より屡いへり。この「御門」といふ語を以て御陵墓の義とすることも、この卷「一六七」「一七四」にもあり、又下の「二〇四」の弓削皇子薨時置始東人歌のうちにも「久堅乃天宮爾神隨神等座者《ヒサカタノアマツミヤニカムナガラカミトイマセバ》」とあるにて知られたり。而して、從來の説は、これを御陵墓とする説なれど、喜田貞吉氏は之を實際の宮城なりといへり。なほ下の句に至りて説くべし。
○懼母定賜而 「カシコクモサダメタマヒテ」なり。「カシコシ」はいふまでもなし。この句の意は、上の飛鳥の眞神原に恐多くも大宮を定賜ひてといふなるが、下の「カムサブトイハガクリマス」につづけて、これを天武天皇の御陵をいふといふが普通の説なり。日本紀によれば天武天皇崩御の時朱鳥元年九月飛鳥淨御原宮の南庭にして殯宮を起され、翌持統天皇元年十月に大内陵を築きはじめられ、二年十一月に大内陵に葬られしなり。その大内陵は延喜式に檜隈大内陵と稱し、後持統天皇を合葬し奉れる所にして、今の高市村野口にあるなり。而してその邊一帶の地は所謂檜隈の地にして、飛鳥の地にあらず、又この陵地を上の歌にいへる眞神原にあたるかと考ふるに、三諸丘とはかけはなれてあれば、「飛鳥の眞神原に御大御門を定め賜ふ」といふことはこの御陵をさしたりとする説は事實に一致せざるなり。されば、これはなほ實際の宮城をさしたるものと考へざるべからず。然るときは淨御原の宮の所在はこの眞神原となるべくして、從來唱へられし、上居の地はその南の地に當る。これは喜田貞吉氏の説なるが、或は眞神原といふは、喜田氏が考へられてあるよりは廣き區域にして、今の上居の邊をも包含せし(438)か。いづれにしても大内陵をさせりといふは當らざるべし。
○神佐扶跡 舊訓「カミサブト」とよめるを美夫君志は「カムサブト」とよむべしといへり。この語は卷一にもありて、そこには「神佐備世須《カムサビセス》」(三八、四五)「神佐備立有《カムサビタテリ》」(五二)などあるが、「三八」の下にいへる如く、本集の假名書なるには「カムサビ云々」といふも「カミサブル」といへる例もあれば、いづれも證あることなるが、多きに從ひて「カムサブト」とよむべし。その意は神としての御行動をせらるることをいへるなるが、ここは事實上崩御せられしことをいひたり。崩御あらせられては神としてあがめ奉るが普通なる故に「神さぶ」といふ語は當らざるにあらず。然るときはこの句と上の句との間に「さて後」といふ程の意を含めてありと考ふべし。「跡」は「ト」の助詞にあてたるものなるが、この場合の「ト」は今の「トテ」といへるに近き意に用ゐられたり。
○磐隱座 舊訓「イハカクレマス」とよみたるが、攷證は「イハカクリマス」とよめり。この「カクル」といふ語は古四段活用なりしこと上の「一六九」の歌の「隱良久惜毛」の下にいへる如し。されば、攷證のよみ方をよしとすべし。「イハガクリマス」とは陵墓のうちにかくりますといふ義にして、陵墓は土を掘り岩棺石廓を築きて構ふるものなればかくいへるなり。卷九「一八〇一」に「磐構作冢矣《イハカマヘツクレルハカヲ》」などあるその例なり。この「マス」は下の「八隅知之吾大王」につゞく連體格なり。
○八隅知之 上にいへり。
○吾大王乃 「ワガオホキミノ」なり。ここは天武天皇をさし奉れること下の語にて明かなり。
○所聞見爲 舊訓「キカシミシ」とあれど語をなさず。代匠記に「キコシメス」とよみたるより諸家(439)それに從へり。「キコシ」は「キク」の敬語にして、「キカス」ともいふべきが、音の轉ぜるによりて「キコス」となりたるものにして、その事は卷一「三六」の「所聞食」を「キコシメス」とよむべき由いへる下にいへり。「メス」も亦「ミル」の敬語にしてその例は卷一「五〇」の「食國乎賣之賜牟登」又「五二」の「見之賜者」の下にいへり。さて「キコシメス」とつづくる例は卷二十「四三六〇」に「伎己之米須四方乃久爾欲里《キコシメヨモノクニヨリ》」又「四三六一」に「難波乃海於之弖流宮爾伎許之賣須奈倍《ナニハノミオシテルミヤニキコシメスナベ》」といふあり。語の意は「キキミ」賜ふといふことにして、知り賜ふといふと同義に落ち、結局天下を治め賜ふこととなるなり。
○背友乃國之 「ソトモノクニノ」とよむ。「背友」といふ字面は卷一「五二」の歌に「背友乃大御門」とあるにおなじ。これはその條にいへる如く、日本紀成務卷に「山陰曰2背面1」とあるその字義によるべきものにして「ソトモ」といふ音をあらはす爲に「友」の字をかれるなり。これは北方をさす語なるが、こは下にいふ美濃國をさせり。この國は大和國よりは北方に當るが故にかくいへるなり。
○眞木立 舊訓「マキタテル」とよみたるを考に「マキタツ」とよみたり。この語は卷一「四五」に「眞木立荒山道」とある所に意同じく大木の生ひ茂り立つといふ意なるべし。
○不破山越而 「フハヤマコエテ」とよむ。不破山とは美濃國不破郡の山をさせるならむが、今さる名の山のあることを知らず。よりて考ふるに不破郡中にて人の目につくものは所謂美濃の中山なれば、或は之をしか名づけしか或は又鈴鹿關不破關愛發關の三關の名を以て推すときは、鈴鹿關のあるは鈴鹿山愛發闘のあるは愛發山なるによりて不破關のある山即ち不破山(440)なるべく思はる。さて不破山こえてしとあれば、下のわざみの原は、その不破山をこえて彼方にあるべく思はるるが、わざみの原の地位とこの不破山との相關する點は十分に考へられざるべからず。なほ下にいふべし。
○狛劔 舊訓「コマツルギ」とよめり。下の「わざみの原」につづく枕詞なるが、その意は「ワ」にのみかかれるなり。卷十二「二九八三」に「高麗劔己之景迹故《コマツルギワガコヽロユヱ》」とあるもこの例なり。さて狛劔に「ワ」といふは、契沖曰はく「狛劔は高麗の劔なり。もろこしの劔には※[木+覇]のかしらに環をつくれば、高麗にもつくるなるべし。鐶のたぐひをもわといへばわさみとつゝけんためにいへり。戰國策云、「軍之所出矛戟折鐶鉉絶【鐶刀鐶補曰鉉姚本作弦】古樂府云藁砧今何在【藁砧※[石+夫]也※[石+夫]借爲夫】山上更有山【山上山言出也】何日大刀頭【太刀頭有鐶鐶借爲還】破鏡飛上天【破鏡微月也】云々」といへるが如し。而して今古墳等より出土せる古劔の柄にこの環頭なるもの頗る多く見ゆ。これ即ち「こまつるぎ」にして當時珍重せしものにしてやがて「ワ」の枕詞となることも、著しといふべし。
○和射見我原 「ワザミガハラ」なり。これは美濃國の地名にして、日本紀天武卷上に「和※[斬/足]とかける地なり。(※[斬/足]は暫と同じく覃韻にして、咸攝に屬し、「m」の尾韻なれば「ザミ」となるなり)さて、「ワザミガ原」といへる地を何處ぞといふに、今の關ケ原なりといふ説(上田秋成の膽大心小録)又野上なりといふ説(略解、古義、など)青野ケ原なりといふ説(長等の山風)あれど、いづれもその據り所を知らず。(檜嬬手には式に美濃國各務郡に和〔右○〕佐美神社あるに據りて各務郡なりといへり。これは加〔右○〕佐美神社を誤りていへるなれば、證にはならず。)日本紀を案ずるに「旦於2朝明郡迹太川(441)邊1望2拜天照大神1、是時……將及郡家……於是天皇美2雄依之務1既到2郡家1先遣2高市皇子於不破1令v監2軍事1」又「天皇……到2于野上1高市皇子自2和※[斬/足]1參迎……皇子則還2和※[斬/足]1」とありて、高市皇子の陣營の在りし所なること明かなり。而して野上は關ケ原の末にある地にして、ここに天武天皇は行宮を定めたまひて、和※[斬/足]の地へは屡往來したまひしこと日本紀に見えたり。たとへば上文の次に「天皇於v茲行宮興2野上1而居焉。……戊子天皇往2於和※[斬/足]1檢2※[手偏+交]軍事1而還」とあるが如きこれなり。この故に關ケ原、又野上とワサミの原とは別の地なること明かなり。されば、上の諸説中青野ケ原なりといふ説のみ取りうべきを思ふ。この説は長等の山風に美濃國人の説なりといふ。青野ケ原は野上よりは東方にありて、まことに兵を練るに適する地なり。恐らくはこの地なるべきか。卷十「二七二二」に「吾妹子之笠乃借手乃和射見野爾吾者入跡妹爾告乞《ワギモコガカサノカリテノワザミヌニワレハイリヌトイモニハツゲコソ》」とあるなども或は同じ地ならむか。
○行宮 「カリミヤ」なり。「行宮」は文選呉都賦に見えて、その注に「光武紀云濟陽有2武帝行過宮1」とも又「天子行所v名曰2行宮1」とも「行宮天子行幸所v止處也」と見え、和名鈔に「日本妃私記云行宮賀利美也同案俗云頓宮」とあり。さてこの行宮は天武天皇の行宮なりと諸注にいへり。されど、天武天皇の行宮は野上にありて、これは日本紀に不破行宮とあれば、關ケ原の野上の行宮なることは疑なくして和※[斬/足]とは別なり。實際和※[斬/足]原に屯したまひしは高市皇子にして天武天皇は時時出でまして閲兵せさせたまひしなり。されば、ここはその和※[斬/足]の原に屡天皇の出でまししが故に、特に行宮を營まれず(行宮は野上にありしことは明かなればなり)ありしかど、なほそこ(442)を行宮と見てかくいへるならむ。考に「和※[斬/足]に高市皇子のおはして近江の敵をおさへ天皇は野上の行宮におはしませしを、其野上よりわざみへ度々幸して御軍の政を聞しめせしこと紀に見ゆ。こゝには略きてかくよめり」といへり。壬申の亂には天武天皇は美濃國をその本營とせられしことこの歌の如くなるが、これは日本紀によればこの國安八磨郡にその湯沐邑ありしが故なりと考へらる
○安母理座而 舊訓「ヤスモリマシテ」とよみ、契沖などは「やすまりまして」なるべしといへれど、この時はしか安まりましし時にあらず。考に「アモリイマシテ」とよみたり。この語の例は卷十九「四二五四」に「蜻島《アキツシマ》、山跡國乎天雲爾磐船浮《ヤマトノクニヲアマグモニイハフネウカベ》、等母爾倍爾《トモニヘニ》、眞可伊繁貫《マカイシジヌキ》、伊詐藝都追國看之勢志※[氏/一]《イコギツツクニミシセシテ》、安母里麻之《アモリマシ》、……」卷二十「四四六五」に「比左加多能安麻能刀比良佼多可知保乃多氣爾阿毛利之須賣呂伎能可未能御代欲利《ヒサカタノアマノトヒラキタカチホノタケニアモリシスメロキノカミノミヨヨリリ》」などあり。これによりてしかよむべし。その意義は、考に「天降《アマクタリ》を約めていふ」といへり。されど、「アマクタリ」を約めても「アモリ」となる理由なし。「アマオリ」の約めなること既に攷證等にいひて定説となれり。さてこれは、不被山を越えてわざみの原にいでまししをいへるなるが、この時の實際の御道順は、天武天皇が伊勢桑名の行宮にましまししを高市皇子が(この時既に和※[斬/足]におはしまししなり)その遠方にありて不便なる由申されしかば、即日不破に入りたまひしにて、さて野上に到りまししなり。この順路は明かならねど、桑名より多度山の麓なる戸津(これ日本武尊の遺蹟小津崎なり)それより美濃の高須今尾等を經て垂井に到られしならむ。然るときには、不破山をこえられたることはあらず。又實際當時の事情(443)として、さきに一旦近江の多羅尾までいでまして、再び引かへして、伊勢へ出でたまひし如き事情なれば、近江に入り、近江の方より不破關をこえて、美濃に入りたまふが如きことは不可能なるのみならず、若しそれ程に容易ならば、美濃に行宮をつくりて屯します必要はなかりし筈なり。されば不破山が實際に不破關ならば、不破山こえとは實地に通過せさせ給へりといふ事にあらずして、その關のあなたに出でましてといふ程の事なるべし。若し又美濃中山を不破山といふ事ならば、これは實際にこえて彼方に出でまししならむ。いづれによるべきかといふに、なほ不破關としてはじめの説によるべきならむ。
○天下 「アメノシタ」卷一にいへり。
○治賜 舊訓「ヲサメタマヒシ」とよみたるが、代匠記には「ヲサメタマフ」と訓むべしとし、略解は「ヲサメタマヒ」と訓ぜり。又考には「一云」の方を本文に立てたり。されどこれは本文にて意通れば改むるに及ばず。訓は舊訓により「シ」とよみたりとてもその意通らず、又「タマフ」と切りてはこれまた意十分ならず。略解の如く下につづくるをよしとす。意は明かなるが下の「食國乎定賜」に對してつづくるものなり。
○一云拂賜而 一本に上の句を「ハラヒタマヒテ」とありとなり。これは天下を一掃したまひてといふことなるが、かくては戰亂收まりたるものとして下の戰亂をいへることとうちあはず。とるべからず。
○食國乎 舊訓「ヲシクニヲ」とよみたり。されど、その不可にして「ヲスクニ」とよむべきこと卷一(444)「五〇」の下にいへり。
○定賜等 舊訓「シヅメタマフト」とよめり。童蒙抄に「サダメタマフト」と訓じ、考略解等多く之に從へり。然るに、攷證には「是を考にさだめ給ふとよみ直されしはなかなかに誤り也。舊訓のまゝしづめ給ふとゝよむべし。こは天皇のしろしめす國中の亂を靜め給はんとて東國の兵士を召給ふといへるにて必らずしづといはでは叶はざる所也。増韻に定靜也云々周書謚法に大慮靜v民曰v定云々などあるにても定は靜の意なるをしるべし。また本集四【卅六丁】に戀水定云々とよめるにても定をしづめとよめるをしるべし」といへり。美夫君志はこれを自説の如くにせり。定は定靜の熟字ある事は誰人も知る所なれど、靜は「シヅカ」「シヅマル」にして「シヅムル」の義に用ゐるは普通の場合にあらず、定も亦人のねしづまる時(戌時)を「人定」といふ如く古來「シヅム」「四段」「シヅマル」とは訓じ來れど、「云々をシヅムル」(下二段)とよめる例は未だ知らず。又卷六「六二七」の例にも「戀水定白髪生二有《ナミダニシヅミシラガオヒニタリ》」とあるにて、これも「云々をシヅムル」といふ下二段活用の語に用ゐたるにはあらず。次に「サダム」といへる語の例は卷十八「四〇九八」に「可之古母波自米多麻比弖多不刀久母左太米多麻敝流美與之努能許乃於保美夜爾《カシコクモハシメタマヒテタフトクモサタメタマヘルミヨシヌノコノオホミヤニ》」あり。さればこれは「サダメタマフト」とよむより外に無き筈なり。而して、これは天下の動搖を安定にせむと云ふ義なり。「と」は例の「トテ」の意を有する語なり。
○鳥之鳴 この字すべての古寫本いづれも「鷄」又は「※[奚+隹]」につくれり。文字はこのままにてもあるべきが意はそれによるべし。訓は「トリガナク」なり。その他の例にても「※[奚+隹]之鳴」とかけるは卷(445)三「三八二」、「鳥鳴」とかけるは卷九「一八〇〇」、「鷄鳴」とかけるは卷九「一八〇七》、卷十二「三一九四」、卷十八「四〇九四」、假名書のものは卷十八「四一三一」に「等里我奈久安豆麻乎佐之天《トリガナクアヅマヲサシテ》」卷二十「四三三一」に「登利我奈久安豆麻乎能故波《トリガナクアツマヲノコハ》」この他「四三三三」にもあるが、いづれも「アヅマ」の枕詞とせる例のみなり。その意は曉に鷄の鳴くといふことは明かなれど、その「アヅマ」の枕詞とせる理由は確には知られず。冠辭考の説にては「鷄は夜の明《アカ》時に鳴く故に明《アカ》といひかけたる也」といひ、又「あづまの阿は阿賀《アガ》を略きていふ也。然れば、鶏が鳴あと一語にかかれる如くなれど、實は吾《アガ》てふもとの語によりて明《アカ》にいひかけたるなりけり」とやうにいひたれど、十分に首肯せられざるなり。古義には「こはさは鷄が鳴ぞやよ起(キ)よ吾夫《アツマ》と云意につゞくなるべし」といへり。されど、これも十分なりと認められず。なほ研究の餘地ありと思はる。
○吾妻乃國之 「アヅマノクニノ」とよむこと論なし。「吾妻乃國」は東國なることも論なきが、何によりてかくいふか。普通には日本紀、古事記にいへる如く、日本武尊の故事によりて坂東諸國を「アヅマ」と名づくといひ、(日本紀には山東諸國とあり)それに異論もなき事なるが、若し然りとせば、ここに美濃國を東之國といへるを如何に解釋すべきか。なほこの時美濃に召されし兵は日本紀に東海の軍東山の軍とあるが、その東海の軍は尾張の軍を主とし、東山の軍は釋紀に引ける私記に曰はく「案斗智徳日記云命發2信濃兵1」とあり。これによりて考ふるに、この時「アツマ」といふ語は坂東といふ固有の義にあらずして、汎く東方をすべて「アツマ」といひしなることを考ふべし。なほ思ふに或は「アヅマ」といふ語はただ東方といふ意の古語にして、日本武尊の(446)故事といふものもその説明の爲の傳説ならむも知られず。
○御軍士 「ミイクサ」とよむ。「イクサ」といふ語は戰をいふ事になりてあれど、そのもとは軍士をいへるなり。古事記上卷に「黄泉軍《ヨモツイクサ》」日本紀神武卷に「女軍」「男軍」又雄略卷に「兵士」を「イクサ」とよませたり。又類聚名義抄には「卒」」「兵」「將」「帥」「軍」「魁」「衆」「旅」「師」の字に「イクサ」の訓あり。軍將士卒即ち戰闘に從事する人を古すべて「イクサ」といひしを見るべし。さてここに見ゆる東國の兵士を召されし事は天武紀に先づ村國連男依、和珥臣君手、身毛君廣に詔して急に美濃關に往いて兵を起さしめられ、次いで「先遣2高市皇子於不破1令v監2軍事1」とあり。又「遣2山背部小田、安斗連阿加布1發2東海軍1又遣2稚櫻部臣五百瀬、土師連馬手1發2東山軍1」とあるにて知るべし。さて何が故にかく美濃國を以て軍事行動の中心とせられしかといふに、一は近江國への東國よりの通路を扼する軍事上の必要もありしなるべきが、その基は美濃國安八磨郡に天武天皇の皇子たりし時よりの湯沐邑ありてその經濟上の根據地にして、且つ地の理もよかりしが爲なるべし。
○喚賜而 舊訓「メシタマヒツツ」とよみたり。代匠紀には「ヨバヒタマヒテ」とも訓じ、考には「メシタマハシテ」とよみ、略解は「メシタマヒテ」とせるが美夫君志は舊訓をよしとせり。かくて「而」に「ツツ」の訓ある由訓義辨證に論ぜるが、その確證はなく、その説も未だ十分ならず。「而」はなほ「テ」とよみてあるべく、ここは略解の如く六音によむべきなり。東海、東山の軍兵を召集したまひてなり。
○千磐破人 舊訓「チハヤブルカミ」とよめり。されど人を「カミ」とはよむべからず、代匠記に「ヒト」(447)とよめるによるべし。「チハヤブル」といふ語は「いちはやぶる」の意にて古「いちはやし」といふ形容詞のありしその語幹を「ぶる」といふ接尾辭にて上二段活用の動詞とせるなり。「いちはやし」といふ語はこの頃の文獻には未だ例を見ねど、平安朝の語には例あり。この「いちはやし」は一轉して「うちはやし」といへるが、その例は續紀二十六卷天平神護元年正月の宣命(三十二詔)に「如此宇治方夜伎時仁身命不惜之天」とあり。これは今いふ人心恟々たる時といふ程の事なれば、それにて「ウヂハヤシ」といふ語の意をさとるべし。この「うちはやし」といふ語は、古事記の應神卷の歌に「知波夜比登宇遲能和多理爾《チハヤビトウヂノワタリニ》」又卷七「一三九」に「千早人氏川浪乎清可毛《チハヤビトウチカハナミヲキヨミカモ》」などあるにて知らるゝ如く「ウヂ」にかけて枕詞とせるものにて「ちはや」といふ語と「ウヂ」との關係を知る料とすべし。さてこれは「チハヤブル」といふ語形のみかといふに「イチハヤブル」ともいひしことは延喜式鎭火祭祝詞に「御心|一速《イチハヤ》波志止※[氏/一]云々」とあるにてしるべし。なほこの「ちはやぶる」といふ語の意は日本紀卷二の一書に「有2殘賊強暴横惡《チハヤブルアラブル》之神1」とある「殘賊強暴」の訓に「チハヤブル」とよませたり。古事記には之を「道速振荒振國神《チハヤブルアラブルクニツカミ》」とかけり。「チハヤブル」はその稜威の速き即ちその勢の烈しく恐るべきをいふが元にて、善惡いづれにもかよはし用ゐたるなるが、今のこの所はその惡しき方即ち日本紀の殘賊強暴の義に該當せり。即ちここは、天武天皇の方よりいへば、古事記の序にいへる如く兇徒にしてそれを「ちはやぶる」人とはいへるなれば、ここは、決して枕詞にあらずとする新考の説をよしとす。
○和爲跡 舊訓「ナコシト」とよめり。代匠紀には「ナコセト」とよみ、考に「ヤハセト」とよめり。舊訓(448)は「ナゴシ」といふ形容詞にせるなるが、かくする時は上の「ヲ」に對する語とならねば從ふべからず。又「ナゴセ」は命令形なるべきが、かかる命令形ある語は四段活用ならざるべからず。然るに、「ナゴス」といふ四段活用の語古ありきといふことを知らず。「ヤハス」といふ語は延喜式大殿祭祝詞に「言直【古語云夜波志】」とあり。又卷二十「四四六五」に「知波夜夫流神乎許等牟氣麻都呂倍奴比等乎母夜波之《チハヤブルカミヲコトムケマツロヘヌヒトヲモヤハシ》云々」とあるによりてその四段活用の語なるを知るべし。かくて、その命令形の「ヤハセ」をここに用ゐたりとするをよしとす。これは、天武天皇が、高市皇子にその任を授け給へることをいへるなり。
○不奉仕 「マツロハヌ」とよむ。古寫本に「ツカマツラヌ」といふ訓もあれど、「ツカマツル」は後世の訓なれば、隨ふべからず。古事記景行卷に「爾天藍亦頻詔2倭建命1言2向和平東方十二道之荒夫琉神摩都樓波奴人等1(トノリタマヒテ)而」又本集卷十八「四〇九四」に「大王爾麻都呂布物能等《オホキミニマツロフモノト》」卷十九「四二一四」に「大王爾麻都呂布物跡《オホキミニマツロフモノト》」とあるを見れば、「マツロフ」といふ波行四段活用の語あるを見る。又卷二十「四三六五」には「麻郁呂倍奴比等乎母夜波之《マツロヘヌヒトヲモヤハシ》とあるによらば、これはハ行下二段活用なるものもありしが如し。されど、そは恐らくは誤にあらずば、訛れるものなるべくして、正しくは波行四段活用の語なるべし。さてこれは「マツル」を波行四段に再び活用せしめしものにして服從し奉ることをいふ意なり。
○國乎治跡 舊訓「クニオサムト」とあり。代匠記には「シラセト」とよみ、略解には「ヲサメト」とよめり。考は「治跡」をわろしとして一云の「掃部等」を本文とせり。先「治」は「シラス」とよむ事をうれど(449)ここは服從せぬ國を從へしめよとの意にして、それらの國の統治を任せ賜ひしにあらねば、「シラセ」とよむは穩かならず。「ヲサム」とよむときは、命令の語法にあらねば、これ亦事實に一致せず。されば「ヲサメ」とよむをよしとす。下二段活用の命令形に「ヨ」を添へず、そのまゝ命令の語法に用ゐたるは古語に例あり。古事記允恭卷の歌に「加理許母能美陀禮婆美陀禮《カリコモノミダレバミダレ》」本集卷十八「四〇九六」に「大伴能等保追可牟於夜能於久都奇波之流久之米多底比等能之流倍久《オホトモノトホツカムオヤノオクツキハシルクシメタテヒトノシルベク》」卷十九「四一九一」に「※[盧+鳥]河立取左牟安由能之我婆多婆吾等爾可伎無氣念之念婆《ウカハタチトラサムアユノシガハタハワレニカキムケオモヒシモハバ》」又佛足石歌に「都止米毛呂毛呂須須賣毛呂毛呂《ツトメモロモロススメモロモロロ》」などあり。さて「治め」といへば、その亂れたるを整理する意となり、「掃へ」といへば、服從せぬものを掃ひ除く意となるが、いづれにても意は大差なく、「ハラヘ」を本文とすべき程の事なければもとのままにてあるべし。
○一云掃部等 これは一本に「治めと」を「ハラヘト」とありといふなり。その事は上にいへり。
○皇子隨任賜者 舊訓は「皇子」を「ワカミコノ」よみ「隨任賜者」を「マヽニタマヘバ」とよめり。神田本は「ミコノマヽヲサメタマヘバ」とよめり。詞林采葉には「スメミコニマカセタマヘバ」とよめり。(校本萬葉これを拾穗抄にもしかよむとせるは誤なり。)代匠記初稿には「ワカミコニマカセタマヘバ」とよみ清撰には「ミコノマニヨサシ給ヘバ」とよみ、考は「ミコナガラ、マケタマヘレバ」とよみ、略解は「ミコナガラ、マケタマヘバ」とよみ、古義は「ミコナガラ、マキタマヘバ」とよみたり。このよみ方につきては先づ「隨字」を上の句の部分とするか下の句の部分とするかによりてよみ方にも大なる差を生ずるなり。「隨」を下の句の部分とするものは「皇子」二字のみにて五音によま(450)ざるべからざる事となる。これによりて、「ワカミコノ」「ワカミコニ」「スメミコニ」といふ訓も生じたるなるが、「皇子」は弱年の方にのみいふ文字にあらねば、「ワカミコ」とよむべき理由なし。又「皇子」の字面は「スメミコ」とよまばよまるべきさまなれど、「スメミコ」といへる語は他に例證あるを知らず。されば、「皇子隨」を一句とする見解に從ふべきが、これには「ミコノマヽ」「ミコノマニ」」「ミコナガラ」の三樣の訓行はるるが、「隨」字は「マヽ」「マニ」「ナガラ」いづれによみても誤といふべからず。されど、これは考に「神隨とあるとひとしくて云々」といへるごとく、よみ方もそれに准じて「ミコナガラ」とよむべきなり。次に「任賜者」は「ヲサメタマベハ」「マカセタマヘバ」「ヨサシタマヘバ」「マケタマヘレバ」「マケタマヘバ」「マキタマヘバ」と六樣のよみ方行はるるが、「任」を「ヲサメ」とよまむ理由なければ、從ふべからず。「任」を「マケ」とよむことは多くの學者の隨ふ所なれど、いかがあらむ。先づ「任」字に古來「マケ」といふ訓を附けたるものなく、若しありとせば萬葉集のみなれば、それを以て確證とはすべからず。「マケ」は古事記傳九に既にいへる如く「麻氣は京より他國《ヨソノクニ》の官に令罷《マカラスル》意にて即(チ)まからせを約めて麻氣《マケ》とは云なり。万葉に此言多し。みな鄙《ヰナカ》の官になりてゆくことのみ云り。心を付て見べし」といひたるが類聚名義抄に「退給」を「マケタマヘ」とよみたるもまたこの意なり。即ち「マケ」は漢字にては「罷遣」の義を本とするなり。而して萬葉集中「まけ」といふ用言を用ゐたる假名書の例を見るに、卷十七「三九五七」に「安麻射加流比奈乎佐米爾等大王能麻氣乃麻爾末爾《アマザカルヒナヲサメニトオホキミノマケノマニマニ》」「三九六一」に「大王能麻氣能麻爾麻爾大夫之情布里於許之《オホキミノマケノマニマニマスラヲノココロフリオコシ》、安思比奇能山坂古延底安麻射加流比奈爾久太理伎《アシヒキノヤマサカコエテアマザカルヒナニクダリキ》」「三九六九」に「於保吉民能麻氣乃麻爾麻爾之奈射加流故之乎遠(451)佐米爾《オホキミノマケノマニマニシナザカルコシヲヲサメニ》」卷二十「四三三一」に「天皇能等保能朝廷等《スメロギノトホノミカドト》……麻氣乃麻爾麻爾多良知禰乃波波我目可禮弖《マケノマニマニタラチネノハハガメカレテ》」「四四〇八」に「大王乃麻氣乃麻爾麻爾島守爾我多知久禮婆《マビナニサキモリニワガタチクレバ》」などはいづれも古事記傳にいへると全く同じ意のものなり。ただ、卷十八「四〇九八」に「大王乃麻氣能麻久麻久〔四字右○〕此河能多由流許等奈久此山能伊夜都藝都藝爾可久之許曾都可倍麻都良米《コノカハノタユルコトナクコノヤマノイヤツギツギニカクシコソツカヘマツラメ》」とあるは稍異なるやうなれど、これは「爲幸2行芳野離宮1之時儲作歌」とあれば、なほ「罷らせ」の意なるものなり。さて又この他に「まけ」とよみたるものは卷十三「三二九一」の「天皇之|遣之萬萬《マケノマニマニ》」とあるものあり。これも「遣」なれば、上にいへると同じ意なり。今一つ卷三「三六九」に「物部乃臣之壯土者大王《モノノフノオミノヲノコハオホキミノ》任乃隨意|聞跡云物曾《キクトフモノゾ》」とある「任乃隨意」は舊訓「ヨサシノママニ」とよみたるを近來多くは「マケノマニマニ」とよみて殆ど定説の如くなりたるさまなり。されど、かく改めむには「ヨサシ」の訓が「任」字に適せずして必ず「マケ」とよまではあるべからざる證據と理由とを十分に示してはじめて決定せらるべき筈のものなり。然るに、攷證には「任《マケ》は其事をその人にゆだね委意《マカス》にてまかせのかせをつゞむれば、けとなれり。これにてもまけはまかせの意なるを知るべし」といひ、美夫君志等近頃の學者殆ど皆これに從へれど、何等の證なきことにして、みだりに約言説を以て古語を説くが如きはつつしむべきことなり。今ここの「任」を「まけ」とよまむとせば、上述の如く、卷三「三六九」の例を以て之を支へ、その意はなほ罷遣の意なりとすべき筈なり。然らばこゝに罷遣の意ありとして、「マケ」とよむべきかといふに、未だ遽に從ふべからず。何となれば、ここは下に「賜」といふ語あれば、その「まけ」は用言として活動せるものならざるべからず。然るに、萬葉中に「まけ」とよむべき語はす(452)べて「まけのまにまに」といふ語のみにして、その「まけ」は體言の取扱をうけてあり。かく體言の取扱をうけなどする時にその場合に限りて約音の現象の起ることはたとへは「雪ぎえ」の「雪げ」となるが如し。「消え」が「け」となれりとて、「消ゆ」といふ本來の用言の上には變化はなきなり。かかる場合と同じものとせば、「まかせ」が體言扱せられてあるために「まけ」となることありとしても、「まかせ」「まかす」が「まけ」「まく」となりてありきとはいひ得べきにあらず。されば、萬葉時代に「まけ」「まく」といふ用言ありしか如何といふにそのありきといふ證を見ず。また類聚名義抄の「退給」を「マケタマヘ」といへる「マケ」が用言たる證のごとく見ゆれど、「退」の字にはこの語の訓なくして「退給」の熟字の訓と見ゆれば、これもその熟字に限りて音の轉化ありしものと見らる。この故にこの「マケ」といふ用言ありきといふ證としては薄弱なり。なほこれをも百歩讓りてしかよむべしとせむに、それには派遣の義を離るるを得ざる筈なり。されど、天武紀には「既(ニシテ)天皇謂2高市皇子1曰、其近江朝(ニハ)左右(ノ)大臣及智謀群臣定v議、今朕無2與計v事者1有2幼小(ノ)少孺子1耳、奈之何。皇子攘v臂按v釼奏言。近江羣臣雖v多、何敢逆2天皇之靈1哉、天皇雖v獨、則臣高市頼2神祇之靈1請2天皇之命1引2率諸將1而征討。豈有v距乎。爰天皇譽之携v手撫v背曰、慎不v可v怠。因賜2鞍馬1悉授2軍事〔四字右○〕1」とあり。されば、ここに軍事の全權を委任せられしにて、部分的に派遣せられたる部將にあらず、後世の語にていはば、征近江總督ともいふべき任なり。これによりて、「まけ」といふ語にはあてはまらずと考へらる。なほ又これを「マケ」とよむときはこの句を七音にせむには「賜者」をば、考の如く「タマヘレバ」とよむべきに到らむ。されど、「タマヘレバ」とよまむには「賜有〔右○〕者」とかくべき例にし(453)て「腸者」を「タマヘレバ」とよむは無理なり。然らば、略解の如く「マケタマヘバ」とよむべきかといふに、「賜者」のよみ方は、穩當なれど、ここをわざ/\六音の句とする必要ありやといふ問題生ず。ここをわざ/\六音によまむにはこの「任」が「マケ」にして決して動くまじき事なりといふ根據の上に立たざるべからず。然るにこの「任」を「マケ」とよむべき理由は極めて薄弱なれば、それによりて六音によむべしと主張することは不合理なりといはざるべからず。上の種々の理由によりて「マケタマヘバ」とよまむことは賛成すべからず。古義の「マキタマヘバ」といふ説は、「マケ」を「マキ」といふ事の卷二十などにあるに基づきたるものにしてこれは卷十八「四一一三」に「末伎太末不官乃末爾末《マキタマフツカサノマニマ》」「四一一六」に「於保伎見能末伎能末爾末爾《オホキミノマキノマニマニ》」とあるによれるものなるが、この「マキ」即ち「マケ」の變轉にしてこれ亦特種の場合に限られたりと見ゆ。ならば「任」の本義は古語に如何によみたるかといふに、續紀の第五十一詔に「信爾之有者仕奉太政官之政乎波誰任〔二字右○〕加母罷伊麻須」の「任之」を「ヨサシ」とよみたり。而してこの「よさす」といふ語は古事記、日本紀、宣命、祝詞に極めて多き語にして一一あぐる繁に堪へず。さてその「よさす」は「よす」といふサ行四段(後世は下二段なれど、古語には四段なりしことは日本紀神代卷の歌に「妹廬豫嗣〔二字右○〕爾豫嗣〔二字右○〕預利據禰」本集卷十四「三四五四」に「都麻余之〔二字右○〕許西禰」などにて知るべし。)の語の更にサ行四段に活用したる敬語なるが、それを「賜」につづけたりと見らる。然らば「ヨサシ賜フ」とつづくる例ありやといふに、古事記には例少からず。一例をいはば「於是天神諸命以詔2伊邪那岐命、伊邪那美命二柱神(ニ)1修理固成《ツクリカタメナセ》是多陀用幣流之國賜矛而言依賜〔三字右○〕也」などこれなり。この故に今は代匠記清撰本の説(454)に從ひて「ヨサシタマヘバ」とよむべく、その意は委任したまへばといふことと考ふべし。かくてこの二句の意は如何といふに、考に「そのまゝ御子におはしまして、軍のつかさに任給ふと也」といへり。大體此の如きことなれど、やゝ不十分なり。古義は「皇子とまします其まゝに任賜へる軍事を負持(チ)賜ふよしなり」といひ、攷證は考の説をあげてさて「國史を考ふるに將軍はみな臣下の職なるを皇子ながらも其將軍にまけたまふよしなり」といへり。この攷證の説はかへりてひが事なり。古は軍國の大權は天皇自ら之を掌にしたまひ、時に、皇后、皇子に委ねたまふことはありしかど、臣下に委ねたまふことは稀なりしなり。專ら臣下に委ねられしさまになれるは、支那風の制度を採用せられし結果にして、攷證の説は、中世以來の頽廢せる軍制によりて立てたる論なり。否中世以降にても武士が源平の兩家に屬するに至りしものは、これ古の、兵權は臣下に委ねずといふ制度の精神のなごりにして、天下の武士が、皇族の血統たる源平二家に從ひて、他に屬するを欲せざりし結果なり。かくの如くなれば、「皇子《ミコ》ながら」といふ語の解釋は從前の説にては不十分なることいふまでもなし。即ち諸家の説はこの「ナガラ」をば「神隨」の「ナガラ」と同じといひながら、その説明に至りては後世の「ナガラ」の意にて説き「カムナガラ」とは別の解釋をなせるは不合理なりといふべし。この故に吾人はすべての諸家の説に隨ふことをせず。こは「神隨」の「ナガラ」と同じく、輕くいはゞ「皇子にましますままに」といふべく、重くいはゞ、「もとより皇子とましますが故に」といふべき程の意にして、即ち「皇子とましますが故に當然の事として軍の任をよさし賜へり」といへる事になるべきにて、攷證の説とは正反對となる(455)べきものと思ふなり。即ち將軍の大任は臣下に委ぬべきにあらねば、皇子の當然の任としてこの皇子に任じ賜へるなりといふなり。この皇子の當時大任を負ひ賜ひてしかも威海内を壓せられしことは、大伴吹負が大和にて軍を起ししとき、詐りて高市皇子不破より至るといひて、大に勝を制せし事などを見て知られたり。かくの如くなれば、壬申の亂に天武天皇の勝を制せられしは專らこの皇子の力なりと認めらる。これこの歌にその戰亂の際の事を力強く説けるなり。爾下にいふ所これなり。
○大御身爾 「オホミミニ」なり。「オホ」も「ミ」も敬意の接頭辭なり。「大御」を冠するは至尊至貴の意をあらはすものにして、卷一「三八」の「大御食」この卷「一五一」「一五二」の「大御舟」又次の「大御手」なども然り。ここは高市皇子の御身にといふなり。
○大刀取帶之 「タチトリハカシ」とよめる古寫本多し。(西本願寺本、細井本、温故堂本、大矢本、京都大學本)考には「タチトリオバシ」とよめり。「帶」は「オブ」とも「ハク」とも古來訓する字なれど、大刀には古來「ハク」とのみいへり。日本紀景行卷の歌に「多智波開摩之塢《タチハケマシヲ》」とあるは「ハカセマシ」なるべしといへり。本集卷五「八〇四」に「郡流岐多智許志爾刀利波枳《ツルキタチコシニトリハキ》」とあるなどその例なり。又「帶刀」を「タチハキ」といひ、大刀の異名を「ミハカシ」といへるにても大刀を「ハク」といふを證すといふべし。大刀を「オブ」といへること古語に例なし。「ハカシ」は「ハク」をサ行四投に活用せしめて敬語としたるその連用形なりは。
○大御手爾 「オホミテニ」とよむ。高市皇子の御手になり。
(456)○弓取持之 「ユミトリモタシ」とよむ。弓をとりもちたまひといふ意なり。
○安騰毛比賜 「アトモヒタマヒ」とよむ。檜嬬手には「古本亦一本等に賜の下に奴の字あり。加へてたまひぬとよむべし。此句にて一段也」といへり。然れども、今ある諸古寫本に一もさるものなし。疑ふべし。加之、ここに一段として切るはかへりて不可なれば從ひがたし。「アトモフ」といふ語の例は集中に多し。卷九「一七八〇」に「三船子呼阿騰母比立而喚立而三船出者《ミフナコヲアトモヒタテテヨビタテヽミフネイデナバ》」卷十七「三九九三」に「阿麻夫禰爾麻可治加伊奴吉《アマブネニマカヂカイヌキ》、之路多倍能蘇泥布理可邊之《シロタヘノソデフリカヘシ》、阿登毛比底和賀己藝由氣婆《アトモヒテワガコギユケバ》」、卷二十「四三三一」に「安佐奈藝爾可故等登能倍《アサナギニカコトトノヘ》、由布思保爾可知比岐乎里《ユフシホニカチヒキヲリ》、安謄母比弖許藝由久岐美波《アトモヒテコキユクキミハ》」などその假名書の例なり。又卷九「一七一八」に「足利思代榜行船薄《アトモヒテコキユクフネハ》」又卷十「二一四〇」に「阿跡念登夜渡吾乎問人哉誰《アトモフトヨワタルワレヲトフヒトヤタレ》」もこの語なるべし。その語の意は如何といふに、代匠記は「日本紀に誘の字をあとふとよめるこれなり」といひ、古義には「誂字をアドフと訓るも同じ」といひたれど、これらは、意同じきか否かと云ふよりもまづ、「あとふ」と「あともふ」とは異なる語なれば、これを以て證とはすべからず。しかも本集以外に未だその確なる例を見ねば、結局上の數例に基づきてその意を考へざるべからず。萬葉考は「率《ヒキヰ》るをいふ、集中に雁にも船にも此言をいひ、紀に誘の字を訓つ」といへり。然れど、紀云々の説は、契沖説を受けたるにて證とはならず。かくて、率ゐる意を以て釋すべしとして、卷三「四七八」の「物乃負能八十伴男乎召集聚率比賜比《モノノフノヤソトモノヲヲメシツトヘアトモヒタマヒ》」とある「率比」を「アトモヒ」とよめり。而して、多くの學者この説をよしとせり。今上の諸例を通覽するに、先づ舟をこぎゆく場合に用ゐたるものあり。
(457)  阿登毛比底和賀己藝由氣婆《アトモヒテワカコギユケバ》 十七「三九九三」
  安騰母比弖許藝由久岐美波《アトモヒテコヒユクキミハ》   二十「四三三一」
  足利思代榜行舶薄《アトモヒテコギユクフネハ》        九「一七一八」
同じ舟につきていへれど、その「あともふ」所の相手をあげたるあり。
  三船子呼阿騰母比立而喚立而三船出者《ミフナコヲアトモヒタテテヨビタテテミフネイデナバ》 九「一七八〇」
これに基づきて考ふれば、上の舟に關する三首も、そのあともふ相手は船子、水手のたぐひにしてそれらを船頭があともふなるべし。されば卷二十の歌の「安佐奈藝爾可故等登能倍《アサナキニカコトトノヘ》、由布思保爾可知比伎乎里《ユフシホニカヂヒキヲリ》、安騰母比弖許藝由久岐美波《アトモヒテコギユクキミハ》」とあるは、その安騰母ふ主は岐美にして、その「あともふ」相手は水手《カコ》なること明かなりとす。かくして、考ふれば、卷十七の歌の「阿登毛比〔四字右○〕底和賀〔二字右○〕己藝由氣婆」とあるも「あともふ」主は「われ」にして、そのわれが、船子水手を「あともふ」こととなるべし。而してかく考ふるときは、主長たるものが、その屬從を率ゐる意の如くに説かるべし。これ即ち率ゐるといふ説の起りし所以なるべけれど、しかする時は卷十「二一四〇」の「璞、年之經往者阿跡念登夜渡吾乎問人哉誰」といふ歌を如何にせむ。この歌は秋雜歌中の詠鴈と題せるものにして、その前の歌なる「野干玉之夜度鴈者|欝《オホホシク》、幾夜乎歴而鹿己名乎告」といふ歌に對しての答に擬したるものにしてこの歌の意は古義に「年の經ゆけば、親しかりしも疎くなりなど、ありしにかはるならひなれば、それがうれたさに心かはりのせざらむため、己が友を誘ひ率《イサナ》ふとて夜中に己が名を告りつゝ飛びわたる吾なるものを不審げに問給其人は誰なるぞとなり」といへ(458)るにて明かなるが、ここには主たるものが部下を率ゐるといふ意はなきなり。されば、この語はたゞ「誘《さそ》ひいざなふ意を本義とすべきものなるべし。さて今この場合を見るに「ミイクサヲアトモヒタマヒ」といへるは、卷九の「ミフナコヲアトモヒタテヽ」といへると共通せる點にして、下に「トヽノフル」とある點は卷二十の「アサナギニカコトヽノヘ〔六字右○〕、ユフシホニカヂヒキヲリ、アトモヒ〔四字傍点〕テコギユクキミハ」とあるに共通せり。ここは高市皇子が、部下の軍將士卒を誘ひ率ゐ給ふことをいへるなるべし。
○齊流 古寫本には「イモヒスル」とよみしを仙覺が「トヽノフル」と改めよみてより一定せるなり。然るに考には「トヽノヘル」とよめり。これは後世の俗語の格なれば、從ふべからず。この語の意如何といふに、契沖はただ「軍衆をとゝのふる鼓なり」といへるのみなれば、參考の價値なし。考には釋なし。玉の小琴には「とゝのふるは三卷【十二丁】に網子調流海人之呼聲とも有て軍士を呼起し調ふるを云り」といひ、歴朝詔詞解の第一詔「天下調賜」の下に、「第三詔に此(ノ)天(ノ)下治賜|諧《トヽノヘ》賜(ヒ)岐、第九詔に上下|齊《トヽノ》和氣、四十五詔に汝等等々能、萬葉二に…………三に…………十に左男牡鹿之妻整登鳴音之、十九に物乃布能八十友之雄乎撫賜等々能倍賜、廿に安佐奈藝爾可故等登能倍などに見ゆ。これらを合せて思ふに、此言はよそにあらけ居る者を呼(ヒ)集めて、みたれなく治むる意也。其中に呼(ヒ)來す方を主《ムネ》といへると亂れなく治むる方をむねとしていへるとの異《カハリ》ある也」といひ、又古事記傳三十の「整v軍」の注にも「登々能布は呼立る意なり」といひて、本集の例を多くひけり。かくの如くにして召し集むるなりといふ釋、定説の如くな(459)りてあれど、果して如何にや。今新撰宇鏡にて「トヽノフ」と訓める字を見るに、「※[口+律]【呂□反調人※[口/ハ]率下人也止々乃不伊佐奈不又女志止奈布】」「亂【力段及散亂也理也擾也收也治也亦作亂止々乃不】」「※[和/心]【活才反諧也調也止々乃不】」「※[手偏+燎の旁]【力條反※[手偏+樂]也理也取也構也止々乃不】」の四字あるが、いづれも「調、理、治」の意にして、又「率2下人1」の意あるもあれど、召し集むる意なりといふもの一もなし。又類聚名義抄なるには「トヽノフ」といふ語を以て訓したる文字凡六十三字色葉字類抄には凡四十四字を算すれど、召又は集の義なる文字一も見えず。然らば、古語は如何といふに、本集にては、既にあげられたる卷三「二三八」の「網引爲跡網子調流海人之呼聲」卷十「二一四二」の「左男牡鹿之妻整登鳴響之」卷十九「四二五四」の「物乃布能八十友之雄乎撫賜、等登能倍賜」卷二十「四三三一」の「安佐奈藝爾可故等登能倍、由布思保爾可遲比伎乎里、安騰母比弖許藝由久伎美波」又「四四〇八」の「奈爾波都爾船乎宇氣須惠、夜蘇加奴伎、可古登々能倍弖、安佐婢良伎、和波己藝※[泥/土]奴等」あり。宣命には第一詔に「此食國天十調賜率賜」第三詔に「此天下治賜諧賜〔二字右○〕」第九詔に「上下和氣」第廿九詔に「又竊(ニ)六|千《チヾ》等等乃又七人乃味之天牟止毛家利」第四十五詔に「汝等等々能」とあり。又古事記中卷仲哀天皇條に「整v軍雙船度幸之時」とあり。日本紀神武卷には「練」を景行卷には「經綸」を「トトノフ」とよみ、又舒明卷に「振旅」を「イクサトヽノフ」とよませ、又、卯(ノ)始(ニ)朝之已(ノ)後(ニ)退之因以v鐘爲v節」とある「節」を「トヽノヘ」とよめり。以上を通じて見るに、「呼ぶ」意ととらでは叶はぬ如く見ゆるものは十卷の「サヲシカノツマトヽノフトナクコヱノ」とあるのみにして他は然らず。ことに、入朝する時の合圖をも退朝する時の合圖をも「トヽノヘ」とよぶを見れば、呼ぶとか召すとかいふ事は決してあたらぬなり。されど、なほ念(460)の爲に上例を分類して見むに、宣命の調、諧齊とあるはいづれもその字義にあたるもの又宣命四十五詔の「心乎トヽノヘナホシ」も普通の「トヽノヘ」なれば特にいふを要せず。ここの如く軍兵にいへるは宣命第廿九詔の「六千兵ヲ發シトヽノヘ」なるが、こは上に「發し」とある以上は「トヽノヘ」は召集にあらざること明かなり。その他には軍隊ならねど、多人數の集合にいへるは卷三「二三八」の「アゴトヽノフル」卷二十「四三三一」の「カコトヽノヘ」「四四〇八」の「カコトヽノヘテ」なるが、これらも召集の義なりといふことをうけばりていひうる人はあるまじ。又卷十九「四二五四」の「モノノフノ八十友ノヲヲナデタマヒトヽノヘタマフ」とあるは召集したまふ意にはとるべき所にあらず。かくて召ぶの意にとるを得とせむものは、なほ「サヲシカノ妻トヽノフト」の一のみなり。されど、この一が、必ず召ぶの意ならば、これまた動かすべからぬものとなるべきが、これをば本居以前の學者は如何に説きしかと見るに、代匠記には初稿には「世俗に事の成就するをとゝのふといへり。今は此心にや」清撰本には「妻を呼そろふるなり。妻と副《タクヒ》て居れはとゝのほり、副はざればとゝのはぬなり」といへり。ここに「呼ぶ」といふ語を加へて釋したれど、主點は「そろふる」といふ語にありといふべし。この妻を整ふるといふ語は後世にもあり。たとへば、宇津保物語藤原君卷に「この右大將源のあさよりのぬしの女子ども十よ人にかゝりてあなり。ひとりにあたるをば御門に奉り。そのつぎ/\ことごとくにとゝのへたなり」とあるが如く妻を整ふるとは妻定めをするをいふなり。若、妻を呼ぶといふ義とせば宇都保などの義にあはず。而して後世にいふ妻を整ふといふ意に合せざるをも強ひて「呼ぶ」とせむには(461)萬葉集時代に「呼ぶ」といふ意がありきといふことを確定的に示さざるべからず。然るにさること一もなくして、ただこの「妻整ふ」といふ一語のみなり。されば、、「召《ヨ》ぶ」といふ義ありといふ從來の定説は從ふべき理由なきなり。惟ふに「ととのふ」はなほ今もいふ「ととのふ」の意に外ならずして、ただ、その用ゐらるる場合によりて多少意のかはれるのみなり。今色葉字類抄にあげたる「トノフ」の文字をあぐるに、
 調 律 整 齊 勅 格 正 歴 〓 御 餝 等 竝 階 虞 振 適 〓 〓 ※[手偏+総の旁] 肅 諧 〓 〓 謁 申仕  誠 展−馬車也 剪 方 〓 (歴) 膩 理 〓 〓 服 嚴 〓 選 藏 (振)
などなるが、これらのいづれかの字にて大方は義知らるべし。卷九の「網引すと網子調ふる海人の呼聲」といふは「呼聲」といふを必ず人を召しよぶ聲とせば、從來の如き解釋をとるべきか知らねど、呼聲とは叫び聲といふにおなじきこと多きは世人誰も疑ふまじ。即ちこれは、網を引くとて、網子を整ふる爲に海人の叫ぶ聲にして、その調ふるは、人數を完備せしむる如き場合にもいふべく又その人々をばそれぞれの部署につかしむる場合にもいふべく、呼ぶといふが語の主意にあらずしていづこまでも整ふるが主意になるなり。卷二十の「かこととのへ」「かこととのへて」も亦同じこといふまでもなし。次に、卷十九「物のふの八十伴のをを撫で賜ひ、ととのへ賜ふ」とあるは十分に供給あらせらるる義にして完備の意なるべし。而して宣命第廿九詔なると、今の歌とは軍兵を整ふることなるが、その整字は既に支那にてもいふことにして、詩の(462)大雅、皇矣に「爰整其旅」ともあり。されど、これを以て遽にその義なりといふべからず。惟ふにここの「ととのふる」には軍兵を「ととのふる」には相違なきが、それが爲に用ゐるものは下にいへる鼓なり。されば、この「ととのふる」は軍陣に於ける鼓の用をいへる場合のものと釋せざるべからず。然るにここにこの鼓の用を解するに參考とすべきはかの舒明紀八年の「卯始朝之已(ノ)後(ニ)退之。因以v鐘爲v節《トヽノヘ》」とあるその義なり。恐らくはこの節、又律などの意にて用ゐしならむか。而して實際軍旅に鼓を用ゐて節度としたる事は支那本邦に通じて古より行はれしところなり。然ればここの「ととのふる」は軍隊進退の節度を示すことをいふと考ふべきなり。これを外にしてここの場合を釋せむとするは誤なり。考に「調練」といへるは有事の日の實戰と、平素の調練とを混同して明確にせざりし弊はあれど、「ととのふる」といへる語の意にはそむかず。本居説は甚しきひがごとにして永く後世を迷はせるなり。
○鼓之音者 舊訓「ツヽミノコヱハ」とよみ、神田本に「コヱ」「ヲト」とよみ、考に「ツヽミノオトハ」とよみたり。(校本萬葉に「代匠記」とせるは誤なり。)「音」は普通に「オト」とせり。又「コヱ」とよむべき場合もなきにあらねど、「コヱ」は普通に人又は生物の聲音にいひ、「オト」は汎く音響にいふ語なれば、「オト」とよむをよしとす。皷は鼓の俗字にして和名鈔に「都々美」の訓あり。倭訓栞には「つゞみ、日本紀にもと※[革+皮]を訓せしは大皷也萬葉集に皷のおとはなるかみのといへり。今小皷をいふ、都曇の音也といへり。曇をつみとよむは阿曇をあづみとよめるがごとし。唐音に天竺技有2都曇皷1と見え、白孔六帖に都曇答臘は本外夷樂、都曇似2腰鼓1而小、答臘即※[虫+昔]鼓也」といへり。本居宣(463)長は、古事記仲哀卷の歌「許能美岐袁迦美祁牟比登波曾能都豆美宇須邇多弖弖宇多比都郡迦美祁禮加母云々」といふ「郡豆美」の説明の下に「或人云」としてこの文を引きてさて曰はく、「都|曇《ドミ》と云も答臘《タフラフ》と云も本其(ノ)音《オト》によりて着《ツケ》たる名と聞ゆ。さて皇國にて郡豆美《ツヅミ》と云は阿豆美《アツミ》を阿曇と書事例などを思ふにも、まことに都曇の字音なるべく思はる。然らば、皇國に本より有(リ)し物には非ず。外(ツ)國より來つる物なるべければ、此(ノ)大后(ノ)の御世には未(タ)有(ル)まじき物なるに此《コヽ》の歌によめるはいかに。故(レ)つら/\按《オモ》ふに、此時皇國に皷《ツヽミ》ありしには非ず云々」といひて之に賛成せり。然れどもこは未だ必ずしも從ふべからず、狩谷※[木+夜]齋は箋注倭名類聚抄にその説をあげ、さて曰はく「愚謂都都美以2其音1得v名、都曇鼓亦以v音得v名其名適合耳。非d依2都曇鼓1名c都都美u猶d※[奚+隹]雅以2鳴聲1得v名加介加良須亦以2鳴聲1得v名。然皆自皇國之名非依d※[奚+隹]雅字音1得c是名u也」といへり。この説是とすべし。さてこの鼓は、今の所謂「ツヾミ」にあらず、軍陳に用ゐる大鼓たること明かなり。軍防令に「凡軍團(ニハ)各置2鼓二面、大角二口、小角四口1通(ハシ)2用兵士(ヲ)1分番(シテ)教習(セヨ)」とあり、又「凡私家(ニハ)不v得v有2鼓鉦弩、牟、※[矛+肖]《シヤク》具装、大角小角及軍幡1」の義解に「謂皷者皮鼓也、鉦者金鼓也所2以靜v喧也」と見ゆ。さて令制兵部省の下に鼓吹司ありて鼓吹を調へ習はしむる事を掌れり。令集解に引ける延暦十九年十月七日管符中にのする鼓吹司解に曰はく「軍旅之役吹角爲v本、征戰之備鉦鼓爲v先」とあり。その鼓とは鼓鉦を鼓するをいふなり。吹とは大小の角を吹くをいふなり。いづれも軍旅征戰に進退を節度する合圖に用ゐるなり。而して貞觀儀式には三月一日於2鼓吹司1試2生等1儀式見ゆるが、その用ゐる鼓は一種のみならざるが、延喜式兵庫寮式によるに「凡鼓吹雜生(ノ)習技(ニ)所v須鉦(464)一口、大鼓一面、楯領鼓二回、多良羅鼓四面、答鼓一面、大角廿口、小角卅口、大笛四口緋幡二管、鉦鼓鎧※[竹/巽]※[竹/虚]九脚並待2官符充v之」とあり。而してこれらの鉦鼓の數は貞觀の儀式の諸生の數と合す。恐らくはこの制は支那の軍陣の法にして令前より既に行はれしならむ。かくいふ由は天智天皇の御世に三韓の事にて唐と爭ひて敗られしかば、大に兵を練られしことありて、兵法に閑へる谷那晋首、木素貴子、憶禮福留、答※[火+本]春初に位階を授けられしことあるは、その兵法を用ゐられし爲なることいふをまたず。
○雷之聲登聞麻低 「イカツチノコヱトキクマデ」とよめり。西本願寺本には「雷」に「ナルカミ」ともよめりといふ。「雷」は在來「ナルカミ」とも「イカツチ」ともよみ來り、本集にも「ナルカミ」といふ語(「鳴神」卷六「九一三」、その他十一、等にも多し)「イカツチ」といふ語(卷三「二三五」の歌の「雷之上」を左注に引ける歌に「伊加土山」とかけり。)あり。又倭名鈔には「雷公」に注して「和名奈流加美一云以加豆知」と見え、佛足石の歌には「伊加豆知乃比加利乃期止岐己禮乃微波云々」とあり。「イカツチ」といふは、その威の「イカメシキ」よりいひたる名目にして鳴神といふはその音響の方よりいひし名なるべし。而して、佛足石歌によれば、「イカツチの光」にて電光をいへれば、雷の本體と思ひしものを「イカツチ」といひしならむ。ここは雷神《イカツチ》の聲といふまでにて雷鳴をいへるなれば、「ナルカミノコヱ」といふ如き、重複すべきよみ方をせぬ方原作者の心にかなふべし。さてここの形容は日本紀天武卷に壬申の亂の最後の瀬田の戰の烈しきさまを記して「旗幟蔽v野埃塵連v天、鉦鼓之聲聞2數十里1列弩亂(レ)發(テ)失(ノ)下(ルコト)如v雨」とあるに合せり。
(465)○吠響流 「フキナセル」とよむ。「ナス」は「ナラス」の略なりといふこと普通の説なれど、さにはあらずして、「ナス」といふが「ナラス」と同じ意の古言なるべし。この事は古事記上卷に「鹽許袁呂許袁呂邇畫鳴而」と書ける自注に「訓v鳴云2那志《ナシ》1」とあるにても明かなり。又古事記上卷の歌に「遠登賣能那須夜伊多斗遠《ヲトメノナスヤイタドヲ》」又日本紀繼體卷の歌「須衛陛鳴磨府曳※[人偏+爾]都倶利府企儺須美母盧我紆陪※[人偏+爾]《スヱヘヲバフエニツクリフキナスミモロガウヘニ》」もこの例なり。萬葉集中にも「鳴」を「ナス」とよむべき所はあれど、「ナラス」とよむべき所果して存せりや疑はし。古今集にも「秋風にかきなすこと」といへり。されば、「ナス」は古語にして「ナラス」は後の語なるべく、「ナラス」の「ラ」を略して「ナス」といへりといふことは何等學問上の證なきことなりとす。されば「響」は「ナス」なるを「流」をつけたるは「ナセル」とよまむが爲に加へたるなり。この「吹鳴せる」は上又下に見ゆる大角小角笛などを吹奏するをいへるなり。
○小角乃音母 舊訓「ヲツノノコヱモ」とよめり。代匠記初稿本には「小角これををつのとよめるはあやまりなり。こふえとよむべし」といひ、「又くたのこゑもともじたらずにもよむべし。天武紀云|大角《波良》小角《久太》」といへり。又清撰本には「小角は今按くたと讀へきか。天武紀に大角を波良、小角を久太とよめり。和名云兼名苑(ノ)注(ニ)云、角(ハ)本出2胡中(ニ)1或云出2呉越(ニ)1以象(レリ)2龍吟(ニ)1》楊氏漢語抄云大角【波良乃布江】小角【久太能布江】令第五云々軍防令云々延喜式民部上云々」といへり。かくの如く「小角」といふものは古「クダ」といひしものなれば代匠記の訓に從ふべし。その小角といふものは上にひける軍防令に「大角二口小角四口」又延喜式兵庫寮式に「大角廿口、小角四十口」とある小角をさせることは明かなるが、このものは和名抄のみならず、新撰字鏡にも「※[竹/秋]」に「波良又久太」の訓あり。(466)この※[竹/萩]〔右○〕は字鏡に「吹※[竹/甬]爲起居節〓也」とあるが、「〓」は「序」の誤なるべく、その※[竹/甬]は字書に竹筒なりといへり。されば當時の制はとにあれ、竹筒を吹きて合圖をせるによりて「くだ」といへるならむ。その「角」字を用ゐたるはその源、獣角を用ゐしより出でしならむこと、喇叭の洋語の如くならむ。而してこれ亦軍旅征戰の具にして、進退の節度をなすものたること、かの令集解に引ける鼓吹司の解にて知るべし。「音を攷證に「コヱ」といへり。されど物の音なれば「オト」の方よしとす。考には「母の辭前後の辭の例に違」とて、「一云笛乃音波」とあるを本文に立てたり。萬葉※[手偏+君]解は「母」を「波」の誤としたり。然れども、ここに誤字ある本一もなきのみならず、攷證に「本書のまゝにしても母の字はまへの鼓之音者といふに對して鼓の音は雷の如く、また小角《クタ》の音も虎のほゆるがことし。その對にいへる所なれば、母とありてよく聞ゆるをや」といへるが如く、改むるに及ばざるなり。
○一云笛乃音波 「フエノオトハ」とよむ。一本の傳なり。考にはこれをよしとしたれど、いづれても大差なきことなり。但笛といへば、すべて吹奏するものをいふに似てよきやうに似たれど、「小角」を「クダ」といふ時は國語の上にてはこれ亦吹奏樂器の總名ととらるれば、要するに五十歩百歩の論のみ。
○敵見有 「アタミタル」とよむ。この語の意契沖は「あたみたるなり。あたはあひてなり」といひ、考に「敵に向ひたる」といひ、世俗或はこれらの説をよしとすれど、これは誤なり、こは攷證にいへる如く、新撰宇鏡に「怏【於高反去懃也強也心不服也宇良也牟又阿太牟又伊太牟」とあるその「あたむ」といへる用言なるべし。(467)この「懃」は「※[對/心]」の誤にして、「怏」は「惰止不滿足也」とみえ、類聚名義抄には「※[言+惡]」「〓」「讎」にいづれも「アタム」の訓あり。さて又「※[對/心]」は説文に「怨也」と注し、「※[言+惡]」は類篇に「憎也」と注したれば、これは「アタ」(仇)といふ體言に縁ある語ながら「アタヲミタル」にあらずして、「アタ」に對して發する憎惡怨恨の心情のはたらきをいひあらはせる語なるべきは疑ふべからず。
○虎可叫吼登 「トラカホユルト」とよむ。「虎」は和名抄に「止良」と注す。「※[口+立刀]」は「叫」の別體なり。「叫吼」にて「ホユル」とよむ。「ホユ」といふ語は和名鈔に「※[口+皐] 玉篇云※[口+皐]……虎狼聲也唐韵云吼………牛鳴也吠【……已上三字保由】犬之鳴聲也」とあり。これは小角の吹聲を虎のほゆるにたとへたるなり。「カ」は清音にして疑問の助詞にて係となれるが故に、「ほゆる」と連體形にて結とすべきなり。
○諸人之 「モロヒトノ」とよむ。もろもろの人といふ義なり。「モロヒト」といふ語の當時ありし事は假名書にせる例卷五「八三二」に「母呂比得波《モロヒトハ》」又「八四三」に「毛呂比登能阿蘇夫遠美禮婆《モロヒトノアソブヲミレバ》」とあるにて知るべし。
○※[立心偏+刀三つ]麻低爾 「オビユルマデニ」とよむ。「※[立心偏+刀三つ]」は正字通に「同恊]」といひ「恊」は玉篇に「恊許劫切以2威力1相恐恊也」と見え、新撰字鏡には「恊【今作脅虚業反怯也於比也須】」と見ゆ。この「オヒヤス」は「オビユ」と同源の語の他動となれるものなること明かなり。さて「オビユ」といふ語の例は新撰宇鏡に「〓」に「於比由」の訓あり、又「愕然【覺各戌驚愕也於豆又於比由又於止呂久】」「惶急【驚失意也於比由又阿和豆】」又靈異記上卷の訓注に「脅オヒユ」とあり。蓋し駕いて失神する如きさまになるを「オビユ」といへるなり。
○一云聞惑麻低 一本に「キキマドフマデ」とありとなり。意は本文の方よく聞ゆ。
(468)○指擧有 舊訓「サシアグル」とよみたれど、「擧有」の二字を「アグル」とよみては不十分なり。考に「ササゲタル」とよめるをよしとす。「サシアゲタル」を約めていへるなり。「サシアグ」を「ササグ」といへる例は佛足石歌に「乃知乃保止氣爾由豆利麻郡良牟佐々義麻宇佐牟《ノチノホトケニユヅリマツラムササゲマウサム》」とあり。これは次にいへる幡をささげたるをいふなり。
○幡之靡者 「ハタノナビキハ」とよむ。幡は軍防令の義解に「幡者旌旗惣名也。將軍所v載曰2〓幡1。隊長所v載曰2隊幡1。兵士所v載曰2軍幡1也」とあり。されば幡字は旌旗の總名に用ゐたる字なりと見るべし。「靡き」は風に吹き靡きたるさまをいへるなり。さてこの時天武天皇の方に赤き幡を用ゐられしことは古事記の序に「皇輿忽駕※[ニスイ+綾ノ旁]2渡山川1。六師雷(ノ)如ク震(ヒ)三軍電(ノ)如ク逝(ク)。杖矛擧威猛士烟(ノ如ク)起。鋒旗〔二字右○〕耀v兵、凶徒瓦解」とあるが其事をいへるなり。なほ日本紀天武卷上を見るに、「恐d其衆與2近江師(ト)難uv別以2赤色(ヲ)1著《ツク》2衣(ノ)上(ニ)1」と見えたれば、赤旗赤印にて、その大衆の殺到するさまは如何にも野火のひろごれるにたとへつべきものなりしならむ。これ次の句のある所以なり。
○冬木成 「フユゴモリ」とよむ。この事は卷一「一六」にいへり。
○春去來者 「ハルサリクレバ」とよむ。この事も卷一「一六」にいへり。
○野毎 舊訓「ノヘコトニ」とよめり。童蒙抄には「ノラコトニ」とよみ、略解には「ヌゴトニ」にとよめり。按ずるに「野」一字を「ノベ」とよまむは理なし。又「ノラ」とよむことも如何なり。略解の説の如く四音の一句とするをよしとす。
○著而有火之 舊訓「ツキテアルヒノ」とよめり。童蒙抄に「ツキタリシヒノ」とよめり。「著而有」は(469)「ツキタリ」ともよむべけれど、、「タリシ」とはよむべきにあらず。古來の訓をよしとす。この上四句の意は古、春になれば、野を燒くこと(これは所謂燒畑をつくる料にして、漫にするにあらず。)不破の軍の赤旗をささげ赤幟をつけたる大軍の殺到せるさまを野火の盛んにもえひろがるさまに見立てたるなり。野火の事はこの卷「二三〇」に「春野燒野火登見左右燎火乎《ハルヌヤクヌビトミルマテモユルヒヲ》」卷七「一三三六」に「冬隱春之大野乎燒人者燒不足香文《フユゴモリハルノオホヌヲヤクヒトハヤキアカネカモ》、吾情熾《ワカココロヤク》」とあるが如きここの例證にあぐべし。
○一云冬木成春野燒火乃 一本の傳に「フユゴモリ、ハルヌヤクヒノ」とありとなり。考にはこれをよしとして本文に立てたり。されど、大差なき事なれば改むるに及ばぬことなり。
○風之共 「カゼノムタ」とよむ。「ムタ」の事は上「一三一」の「浪之共」の條にいへり。「カゼノムタ」といへる例は卷十五「三六六一」に「可是能牟多與世久流奈美爾《カゼノムタヨセクルナミニ》」といふあり。
○靡如久 古來「ナビクガゴトク」とよめり。考は「ナビケルゴトク」とよみたり。されど、これは靡一字にて有字なければ、「ナビケル」とよむは當らず。野火の風に靡ける如きさまに赤旗赤幟の大軍のさまを見立てたるなり。
○取持流 舊訓「トリモタル」とよみたるを考に「トリモテル」とよめり。こは同じ語にしていづれにしてもよきなるが、今は普通の説によりて考とおなじくよむ。將士の手に取り持てる弓と下につづけていふなり。弓は「ミトラシ」といふ如く手に執りもちて取扱ふ武器なればなり。
○弓波受乃驟 舊訓「ユハズノウゴキ」とよめり。されど「驟」は「うごき」とよむべき字にあらねば、代匠記に「驟は「サワギ」とよむべきかといひしより諸家之に從ひて定説となれり。「弓波受」は新撰(470)字鏡に「弭弓波受」とあり和名鈔、「弓」の條に「釋名云弓末同v※[馬+肅]【音蕭由美波受】」とよみ、類聚名義抄に「弭」字に「ユムハズ」の訓あれど、「ユハズ」の語なし。されば「ユハズ」といふ語果して古にもありしか疑しき事なれど、日本紀の崇神卷の「弭調」を古來「ユハズノミツキ」とよみ來ればこれも古語なるべきか。今姑く古の訓のまゝに從ふ。「驟」は説文に「馬疾歩也」と注し、玉篇に「奔也」と注し、この二義を本義とし、その他「數也」「シバシバ」ともいへり。今類聚名義抄に就いて「聚」字の訓をみるに、「ウクツク」「ウヅク」「シバシバ」「イハユ」「シハル」「イヨ/\」「ワシル」の訓あれど、「ウゴク」「サワグ」といふ訓なし。然れども、本集卷三「三二四」に「旦雲二多頭羽亂《アサグモニタヅハミタレ》、夕霧丹河津者聚《ユフギリニカハヅハサワグ》」の「聚」を古來「サワグ」とよみ、又卷九「一七〇四」に「※[手偏+求]手折《ウチタヲリ》、多武山霧茂鴨細川瀬波聚祁留《タムノヤマギリシケミカモホソカハノセニナミノサワケル》」とよめるは「聚」を「サワグ」にあてたるものと見ゆ。又卷三「四七八」に「五月蠅成聚騷舍人者《サバヘナスサワグトネリハ》」とある「聚騷」二字を「サワグ」とよめり。この「聚騷」の二字を「サワグ」とよめるは、蓋し支那にこの熟宇を用ゐたるものありてこれによりしならむ。然りとせば、これを「サワグ」とよむ由もありといふべし。然れども未だ、その根據を知らず。この故に、姑く、契沖の説に從ひおくといへども現今の程度にては確定説とするには未だしきなり。「サワギ」とはもと「サワサワ」といふ音に出でたりと見ゆれば、弓を放つ時弦の鳴る音をいへるならむ。これを「弓」といはずして「弓波受」としもいへるはただ詞のあやなりと思はる。
○三雪落 「ミユキフル」とよむ。「ミユキ」の「ミ」は「み山」「み谷」などの「み」にてただ「雪」をいふなり。「落」を「フル」とよむことは卷一「二六」の下にいへるが、なほ「四五」には「三雪落」とあるなり。ここは「冬」の枕詞の如くに用ゐたり。
(471)○冬乃林爾 「フユノハヤシニ」とよむ。意明かなり。
○一云由布乃林 これは一本に、この句を「ユフノハヤシ」とありとなり。「ユフ」は「フユ」の誤なるべきが、一本にかくありとなれば、彼是の論は不要なり。但これは、從ふべからず。
○飄可毛 舊訓「アラシカモ」とよみたるが、考には「ツムシカモ」とよめり。先づこの「飄」字古寫本の多くは「※[風+票]につくれり。いづれにても通用する字なり。この字義は如何といふに爾雅に「廻風爲飄」とありて、郭璞の注に「旋風也」といひ、説文には「飄回風也」といひ、玉篇には「飄旋風也」といふ。この「旋風」は色葉字類抄に「※[風+火三つ]ヘウツムシカセ旋風同」ト見え、類聚名義抄には「飄」「※[風+火三つ]」「※[風+炎]」「夙」「※[風+重]」字に「ツムシカセ」の訓あり。又新撰字鏡には「※[風+火三つ]」「※[風+重]」「夙」に「豆牟也加世」「※[風+重]」」に「豆牟志風」の訓あり。これは回風旋風の文字にて明かなるが如く、今いふ辻風なり。(ツジ風はつむじ風の略なり。)今ここのもその「ツムジカゼ」なるが、これを「ツムジ」とのみいへるは略せるにて、一句の音數よりかくよまるるなるが、單に「ツムジ」とのみよみて「ツムジカゼ」の義となるは集中他に例を見ず。されど、文徳實録卷三仁壽元年九月に特に出雲國の諸神に位階を授けられたるうちに「速飄別命云々」とあるは神名式は意宇郡の條「波夜都武自和氣神社」トある神なるべければ、しかよむべきものならむ。されば、今は考の説による。さてここに「つむじ」とよむことは次の句の「い卷きわたる」にあふと知らる。
○伊卷渡等 「イマキワタルト」とよむ。「イ」は所謂發語にして、音調を添ふる爲に、動詞の上に冠するものにしてその例は集注に多きが、卷一にも「伊縁立之」(三)「伊隱萬代」(一七)「伊積萬代爾」(一七)「伊去《イユキ》(472)到而」(七九)などあり。これは上にいへる旋風の冬の枯木の林を吹き卷き渡るといへるなり。
○念麻低 「オモフマデ」とよむ。「三雪ふる冬の林に旋風の吹き渡ると思ふまで」といへるが、この「まで」の力にてこの上五句を以て一の修飾格として下の「聞きのかしこく」の修飾をなせるなり。「まで」は副助詞にしてかかる用法を有するは副助詞の特性の著しき點なり。この事は日本文法講義にいへり。
○聞之恐久 「キキノカシコク」とよむ。考には「聞」を「見」の誤として「ミノカシコク」とせり。然れども、ここに誤字ある本一も存することなく、加之考には「ここは聞ことならず、」といはれたれど、上に「弓波受のさわぎ」といへるが弓の弦音のかしがましきことにて、その音は木枯が冬の林に吹きまくが如く烈しき音のするをいへるなれば、かへりて「聞」といふべきこと明かなるをや。この故に舊訓のよみ方をよしとす。「きき」は連用形を體言にしたるにて「きくこと」をいへる語なり。かかる語法卷十八「四〇九八」に「伎吉能可奈之母」卷二十「四三六〇」に「夜麻美禮婆見能等母之久」とあるなどにてこの用例の存するを見るべし。「かしこく」は畏るべきをいふなり。
○一云諸人見惑麻低爾 一本に上の二句を「モロヒトノミマドフマデニ」とありとなり。略解はこれを「ここを見る事なれば一本の見まどふまでと有かた然るべし」といひたれど、上に考の説を批評せしが如くなれば不可なりとす。
○引放 「ヒキハナツ」なり。義明かなり。弓を引いて矢を放つをいふ。
○箭繁計久 舊訓「ヤノシケラケク」とよめるを代匠記は「ヤノシケヽク」とよめり。この「シケラケ(473)ク」とよめるは「アキラケク」などに准じてよめる由なるが、「アキラケク」は「アキラカ」といふ語に基づくが故にかくなれるなるに、「シゲラカ」といふ語なければ、かくよむべき根據なし。こは、契沖の如く「シゲケク」とよむべし。「シゲケク」は從來「シゲク」の緩言(美夫君志)なりなどの説明にてすましたれど、緩急の區別は何により、如何にして生ずるかの説明は未だ存せざりしが如し。これは單に「シゲク」といふとは別の詞にして、下の「ク」は「イハク」「玉ヒリヒシク」「ノリタマヒシク」などの「ク」にして活用にはあらず。而してこの「ク」は動詞には「イハク」「ミラク」などの如き形を呈してつくが、形容詞につけるは「シゲケク」はもとより、「アシケク」(萬五、「九〇四」)「ヨケク」(「同上)」「イタケク」(萬十七」「三九六九」)「カナシケク」(同上)など例多きが、いづれも、その連體形の「キ」よりうけたるものと見ゆるが、その「キ」が變形して「ケ」となれるものなり。而してそれらの「ク」は或は體言化せしめて「コト」の意となり、或は修飾格として、「その一點に於いて」などの如き意をなすものと見ゆ。)而してここも「シゲキ」に「ク」のそはりて「シゲケク」となれるにてここは修飾格として「シゲキ」その状態をいふに似たりと見ゆ。
○大雪乃 「オホユキノ」とよむ。大雪は上「一〇三」にいへり。この「乃」をば諸家多く「如く」の意なりとせり。されど、これはなほ普通の「の」にして次の亂れに對しての主格なり。「如く」の意になるはこれらの句の全體の用法より生じたるにて「の」にその意あるにあらず。「の如く」の意の「の」は「花の顔」「月の眉」などの如く體言と體言との上にこそ見ゆれ。用言に對してはなきことなり。
○亂而來禮 舊板本「ミタレテキタレ」とよめり。古寫本中には「來禮」を「クレバ」とよめるものあり。(474)されば、「來禮」のみなるを下に「バ」助詞を添へてよむは穩當ならず。童蒙抄は「禮」の下に「婆」脱せりとし、考は「者」脱せりとせり。されどかくかける本一もなきのみならず、かく已然形のままにて條件を示すは古語の一格なること上に屡いへる如くなれば、「ば」なくして「ば」のつけると同じ用をなすなり。されば、舊訓のままにてよしとす。この二句は大雪の亂れて來る如くに亂れて來ればといふにて「大雪の亂れて來る」はその一方には上の譬喩とし、一方にはその實事をさせるなり。かくの如くにして「の如く」の意生ずるものとす。この二句の意は上の引き放つ箭の繁きさまは、つむじ風に吹きまくられて大雪の亂れふるが如くに飛び來ればといふなり。上「大御身云々」よりここまで三十六句は高市皇子の御軍の勢の盛なりしさまをいひて、この下數句の條件となししなり。
○一云霰成曾知余里久禮婆 一本に上二句を「アラレナスソチヨリクレバ」とありとなり。「アラレナス」の一句は惡しきにあらねど、下の句はよしと思はれず。本文の方をよしとす。
○不奉仕 舊訓「マツロハヌ」とよみ、代匠記には「マツロハデ」とよみ、考に「マツロハズ」とよみたり。「不奉仕」は上に「マツロハヌ」とよみたれど、そこは連體格たる故なり。ここは連用言ならずば意通らねば、「ヌ」とよむはあたらず。「デ」は意通れども、この頃に「デ」といふ打消の語ありきや否や疑ふべし。されば考のよみ方をよしとす。意は上にいへり。
○立向之毛 「タチムカヒシモ」とよめり。立ち向ふはあらそひ敵対することをいふ。卷九「一八〇九」に「入v水火爾毛將入跡立向競時爾《ミヅニイリヒニモイラムトタチムカヒアラソフトキニ》」とあるその例なり。この「たちむかひし」は準體言にして(475)敵對せしものもの意なり。
○露霜之 「ツユシモノ」なり。この詞の事は上(一三一)にいへるが、ここもおなじく露や霜やといへるにて、露霜といふ一のものとは思はれず。さて、これを枕詞なりといへれど、なほただの比喩にして枕詞にはあらざるべく、上の「の」は「の如く」といへる如きに似たる用法なり。ただし、なほ「の如く」といふは當らずして「の」は主格を示すものと考へらる。
○消者消倍久 古來「ケナバケヌベク」とよめり。卷十一「二四九八」に「朝露(ノ)消々|念乍」《オモヒツツ》」の一「消々」を「古來「ケナバケヌベク」とよみ來り、又卷十三「三二六六」に「朝露之消者可消戀久毛知久毛相有《アサツユノケナバケヌペクコホラクモシルクモアヘル》……」の「消者可消」をもしかよみ來れり。又古今集卷十九の長歌に「ふるゆきのけなばけぬべく思へども」ともあり。按ずるに「これ古代の慣用語句の一にして、その意は露や霜の日にあひて、忽に消え失する如きに命を失ふをたとへていへるにて檜嬬手に、「盡きばつきよと身をすてゝ戰ふ也」といひ、古義に「身命を捨て向へるよしなり」といひ、新考に「終ニハ死ナハシヌベクなり」といへるが如く、死にはつるならば、死にはつべくといひて、身命をすつるを厭はずといふ心をいひたるものなりと見ゆ。
○去鳥之 「ユクトリノ」なり。「去」を「ユク」とよむこと、卷一「六九」にいへり。「群りてとび行く鳥の」といふ意にて、「あらそふ」の枕詞とせり。その意は群鳥はわれおくれじとあらそひ飛び行くにたとへていへるなり。
○相競端爾 「アラソフハシニ」とよむ。「相競」は二字熟して「アラソフ」の義をなせりと見ゆ。卷一(476)「一三」に「相格」を「アラソフ」とよみ、卷十九「四二一一」に「相爭」を「アラソフ」とよめるも同じ趣なり。「ハシ」は攷證に「間」の意の「ハシ」なりといひたれど、なほ「端」の字の意あること明かにして新考に「俗語のトタンニなり」といへるをよしとす。かかる語遣の例は卷十九「四一六六」に「宇知歎之奈要宇良夫禮之努比都追有爭波之爾《ウチナケキシナエウラブレシヌビツツアラソフハシニ》」とあるなどこれなり。漢語にていへば「あらそふその際に」といふにおなじ。
○一云朝霜之消者消言爾打蝉等安良蘇布波之爾 こは上四句を一本にかくありといふ説をあげたるなるが「言」といふ字の爲に十分によみ下しうべからず。代匠記は「言」は「阿」の誤とし古義は「香」の誤りとしたり。然らば「アサシモノ、ケナバケヌガニ、ウツセミトアラソフハシニ」とよむべきなるが、「言」は諸本皆かくありて誤ともいひがたし。然らば、西本願寺本、大矢本、京都大學本等に「ケナバケヌテフニ」とよめるを基として「ケナバケヌトフニ」とよむべきか。されどその説よしとは思はれず、本文の方をよしとす。
○渡會乃 「ワタラヒノ」とよむ。「ワタラヒ」は和名抄伊勢國の郡名に「度會和多良比」とあり「ワタリアヒ」を約めていへるなり。この度會郡は今も皇太神宮の鎭り座す地なり。皇太神宮儀式帳に「御坐地度會郡宇治里云々」とあり。
○齊宮從 舊訓「イツキノミヤニ」とよみたれど、「從」を「ニ」とよむべきにあらねば、代匠記に從ひて「ユ」とよむべし。「齊」は代匠記に「齋」の誤なりといひたれど、既に卷一、「八一」の詞書にもかくありて、古(ヘ)齊齋通用せしこと、そこにていへる如くなれば、必ずしも誤といふべからず。さてこれの訓を(477)考には「イハヒノミヤ」とよみたり。先づ、この齋宮の文宇につきてはまぎれ易きことあり。そはかの天皇の大御手代としてこの皇太神に齋き奉るを任としたまふ齋内親王の宮所をも齋宮と申し、又その内親王をも齋宮とも申し奉るによりてなり。されど、ここは皇太神を齋き奉る宮即ち今の語にていはば、神宮を申せる語なり。この事は皇太神宮儀式帳に「纏向珠城宮御宇活目天皇御世爾倭姫内親王遠爲2御杖代1齋奉支美和乃御諸原爾造2齋宮1天齋始奉支」と見え、又日本紀垂仁卷二十五年にも「故隨2大神教1其祠立2於伊勢國1因興2齋宮于五十鈴川上1」とあるにても知るべし。さてこれを「イツキノミヤ」とよむべきか、「イハヒノミヤ」とよむべきかといふに、多くの學者は「イツキノミヤ」とよめるに考は「イハヒノミヤ」とよみたり。されど、その説なし。古義はこれに賛成して曰はく「大御神(ノ)宮をも齋(ノ)王の坐(ス)宮をも倶に字には齋宮と書れども大御神(ノ)宮なるを申すにはイハヒ〔三字右○〕といひ、齊(ノ)王の坐(ス)宮をば後までも唱へ來れるごとくもとよりイツキ〔三字右○〕といひて別てりとおぼえて、雄略天皇(ノ)紀にも稚姫(ノ)皇女侍2勢(ノ)大神(ノ)祠《イハヒ》1とあるこの祠をイハヒと申來れるをも思ふべし」といへり。而してかの垂仁紀二十五年の「齊宮」をも日本紀には「イハヒ」とよみ來れり。然れば、古義の説も信ずべからぬ事にて、この二者の是非は容易にいふべからず。「いつく」といふ語は古事記上卷に「此三柱綿津見神者阿曇連等之祖神(ト)以都久神也」又「此之鏡者專爲我御魂而如v拜2吾前1伊都岐奉」(「いつく」といふ語、古事記になほ五あり)本集にては卷三「四二〇」こ「名湯竹乃十縁皇子《ナユタケノトヲヨルミコ》、狹丹頬相吾大王《サニツラフワガオホキミ》、隱久乃始瀬乃山爾神左備爾伊都伎坐等《コモリクノハツセノヤマニカムサビニイツキイマスト》」卷十九「四二四三」に「住吉爾伊都久祝之神言等行得毛來等毛舶波速家無《スミノエニイツクハフリガカムゴトトユクトモクトモフネハハヤケム》」といへるなど例多し。又「イハヒ」といへ(478)る例は日本紀卷二の自注に「齋主此云2伊幡比1」神武卷の自注に「顯齋此(ニハ)云2于圖詩怡破※[田+比]1」とあり。さればここのよみ方は未だいづれをよしともいふべからず。姑く古來の訓によれり。なほ後の考をまつ。さてここは皇太神宮をさせる事は「渡會乃齊宮」とあるにて著し。齋王の宮は多氣の郡にありしものなればなり。
○神風爾 舊訓「カミカゼニ」とよめり。されど、「カムカゼ」とよむべきこと卷一「八一」の下にいへるが如し。神風とは神の吹かしめたまふ風をいふ。この神風は神宮の攝社の風宮(風日祈宮)の神の吹かしめられしものと信ぜられしならむ。この風宮は皇太神宮にも豐受太神宮にもあるが、ここはもとより内宮の風宮をいへるならむ。有名なるかの弘安の役の神風もこの宮より吹かしめられしものと太平記にいへり。
○伊吹惑之 「イブキマドハシ」とよむ。古寫本「イフキマドヒシ」とよめるもあれど從ひがたし。「伊吹」の「伊」は「息《イキ》」の古語なり。古事記上卷に「於2吹棄氣吹《フキウツルイフキ》之狹霧所v成神名多紀理毘賣命」とあり。なほかく同じ状にいへる所、この下に五あり。日本紀卷二にも略同文なるが、その字面は「棄氣噴之狹霧」とありて、その下の自注に「此云2浮枳于都屡伊浮岐能佐擬理《ウキウツルイフキノサギリ》」とあり。、又大祓詞に「如此可可呑※[氏/一]波氣吹戸坐氣吹戸主云神、根國底之國氣吹放※[氏/一]牟」とある「氣吹」を「イブキ」とよめり。又日本紀雄略卷には「呼吸氣息似2於朝霧1」とある文の「呼吸」を「イブクイキ」とよみ來れり。即ち「いぶく」といふ動詞の古、ありしものと考へらる。而そのいぶくといふ動詞は「呼吸する」ことをいへるならむが、ここに「いぶきまどはし」といふ「いぶく」は風をば神の呼吸によりて起るもの(479)と考へたりと思はる。風の發生を神の呼吸によると考へたりしことは日本紀卷一の一書に「我所生之國唯有2朝霧1而薫滿之哉、乃吹|撥《ハラ》之|氣《イキ》化爲v神號曰2級長戸邊命1亦曰2級長津彦命1是風神〔二字右○〕也」とあるにて考へらるべし。「惑」は今もよむ如く「マドフ」とよむなるが、その例證は古事記上卷の「大戸惑神」の注に「訓v惑云2麻刀比1下傚v此」と見えたるが、ここはその「まどふ」を更にサ行四段に活用せしめて所謂他動詞としたるものなり。こはその戰闘の最中に伊勢の神宮より神風を吹かしめて天武天皇を助けまし、上にいへる「不2奉仕1立向之」ものどもをばその神風の勢の烈しさに心も昏迷せしむるほどに吹きまどはしたりとなり。これより下は天武天皇の軍に神助ありしことをいへるなるが、この神風吹きで助けられし事の由は日本紀にも見えず、古事記の序にも見えず。事實ありし事か、又文飾か詳ならず。但し天武天皇の兵を起されし際に伊勢大神宮の神助を祈られし事は日本紀に見えたり。即ちその擧兵の時夏六月丙戌(二十六日)の條に「丙戌旦於2朝明郡迹太川邊1望2拜天照大神1」と見え又その翌丁亥の條に「此夜雷電雨甚則天皇祈之曰、天神地祇扶v朕者雷雨息(マム)矣。言訖即雷雨止之」と見ゆ。恐らくはこれらの事を基として文を飾りしならむ。
○天雲乎 流布本「大雲」につくれど、多くの古寫本「天雲」につくれり。流布本の基たる活字附訓本にはじめて「大」とあり。蓋活字の誤植なり。「アマグモ」とよむ。「アマグモ」といへる假名書の例は卷五「八〇〇」に「阿麻久毛能牟迦夫周伎波美《アマグモノムカブスキハミ》」卷十四「三四〇九」に「伊香保侶爾安麻久妣伊都藝《イカホロニアマクモイツギ》云々」などあり。天雲といふは天にたなびく雲と云ふ義なるが、この天雲をば下の「覆ひて」につづ(480)くる文勢なりと知らる。
○ 日之目毛不令見 「ヒノメモミセズ」とよむ。日の目の目は「ミエ」の約りたるにて、見ゆべき筈の日をもみせずといふなり。卷四「七六六」に「君之目乎保利《キミガメヲホリ》」卷十二「三〇一一」に「妹之目乎將見《イモガメヲミム》」などの「目」におなじ。「令見」は「ミス」といふ下二段活用の語を示せるなり。今の語にていはば、太陽のかほもみせずなり。
○常闇爾 「トコヤミニ」とよむ。神田本は「トコクラニ」とよみたる由なれど、「トコクラ」といふ語の例を知らず。「常闇」の字面は日本紀卷一に「故六合之内常闇而不v知2晝夜之相代1」とありてこれを「トコヤミ」とよみ來れり。而してその意義もこれにて知るべし。「トコヤミ」といふ語の假名書の例は卷十五「三七四二」に「安波牟日乎矣其日等之良受等許也未爾伊豆禮能日麻弖安禮古非乎良牟《アハムヒヲソノヒトシラズトコヤミニイヅレノヒマデアレコヒヲラム》」あり。即ち「トコヤミ」とは常に闇夜なりといふ語にていつも闇夜の如くなるをいふ。これにつきて攷證は「常闇の常《トコ》は常しへに久しき意にはあらで、ただ晝夜のうちにのみいへるにて、夜の闇なるはもとよりの事なれど、晝さへも闇になりたりといふを夜より引つづくれば、晝までは久しき故に常闇とはいへる也」といへり。されど、これは入ほがの説といふべく月夜といふもありて夜はいつも闇なりと限らぬにあらずや。されば、これはなほ久しく闇夜の如きさまなるをいへるに止まるものなるべし。さてこの下の「ニ」は修飾格を示す「ニ」にして「常闇の状に」の意にして、天雲を覆ひて常闇のさまにせりといふことなり。
○覆賜而 「オホヒタマヒテ」なり。この「覆ふ」に對する補格の語は上の「天雲乎」にして、その天雲を(481)太陽の光をも見せず、覆ひ給ひて、常闇ともいふべき状態になしたまひてといふなり。これもかの瀬田の戰に天日暗くなるまで雲を以て天を覆ひて天武天皇の軍をば助けたまひしといふことなるが、この事も日本紀には見えず。或は日本紀に「旗幟蔽v野埃塵連v天」といへる如きさまを潤色していへるか。但し、たしかに然りとはいふを得ず。
 以上「渡會乃」よりここまで八句は壬申の戰に神助のありし由をいへるなるが、恐らくは天武天皇の皇位につかれしは神慮によるといふ事をにほはせたるならむ。
○定之 舊訓「シヅメテシ」とよみたるを考に「サダメテシ」とよめり。「サダメ」とよむをよしとすることは上の「定賜等」の下にいへり。叙上の如く神助ありて戰亂に克ち「天下を安定に歸せしめたまひし」といふなり。この「定めてし」の主格は高市皇子なるべし。即ちここまで壬申の戰に大功ありしを叙せるなり。
○水穗之國乎 「ミヅホノクニヲ」なり。上「一六七」にいへり。
○神隨 舊訓「カミノマニ」とよめり。「カムナガラ」とよむべきことは卷一「五〇」にいひ、その意は卷一「三八」にいへり。
○太敷座而 「太」字板本「大」につくる。されど多くの古寫本により「太」を正しとすべし。「フトシキマシテ」とよむ。「フトシク」といふ語の意は卷一「三六」にいへり。古義は「而」を衍なりとして「フトシキイマシ」とよむべしとし、「座而といひては下の申賜者といふこと天皇の申給ふことときこゆればなり」といひたるが、この疑は、若しありとせば、「而」とありても無くても同じことなれば、強(482)ひて「而」を衍なりといふに及ばじ。
○八隅知之 上に屡いへり。
○吾大王 「ワガオホキミ」とよむべきこと、卷一「三」又「五」などの下にいへり。さてこの「吾大王」は何方をさせりとすべきか。代匠記には當帝といへり。そは蓋し持統天皇をさし奉れりとする意なるべし。かくて略解、古義、攷證、美夫君志などこれに從ひて、持統天皇をさし奉れりとせり。若し然りとせば、この歌の主題たる高市皇子の御事をいづこにていへる事とすべきか。加之、これを持統天皇とせば下の「天の下申賜へば」も持統天皇とすべき事となりて語あはざるなり。ここの「吾大王」は如何にしても高市皇子ならざるべからず。然りとせば、又上の語に通じかぬる所ある如く見ゆるによりて、考は「神隨」の下に「是より下五句は又天皇の御事也」と注しながら、その五句の終の「申賜者」の下に注して、「天皇の敷座天下の大政を高市皇子の執《トリ》申し給へばといふ也。此あたりはことば多く略きつ」といへるは自家撞着の説を略語ありといふ事にて糊塗せむとしたりと考へらる。ここを高市皇子なりといへる説は古事記傳をはじめとし、近くは新考、新講、新釋等なるが、新考の説最も委し。されど、なほ、上の方は天皇を申したるにて、いたく辭を略きたりとやうにいへり。按ずるに、これら略語ありといふ事は全く首肯せられざる説なり。この前の諸句のつづきにつきてはここに少しくいはむ。先づ皇太子の御事を申すに「神隨太布座而」といへる例は上の日並皇子殯宮之時柿本人麿作歌(一六七)にあり。ここも同じ人の歌なれば、「太敷座而」とあるが、必ず天皇に限りて、皇太子にはいはずといふ論は成立たぬ道(483)理なり。次に皇太子に「八隅知之吾大王」といひし例は卷一、輕皇子宿2于安騎野1時柿本人麿作歌(四四)に「八隅知之吾大王高照日之皇子神長柄神佐備世須登太敷爲京乎置而」ともあるにあらずや。而してこれ皆人麿の作なり。されば、これより上の五句すべて高市皇子の事をいへるにて天皇にはかゝはらぬ事なりと見て差支なき筈なり。然るを同じ人の作歌の用語例を檢せずして、その時々の思ひなしによりて或は皇太子にかゝるとし、或は皇太子にかゝらぬとせるが故に、かく簡單なる事に惑をも起せるなり。
○天下申賜者 「アメノシタマヲシタマヘバ」とよむべし。ここと似たる語遣は卷五「八七九」に「余呂豆余爾伊麻志多麻比堤阿米能志多麻乎志多麻波禰美加度佐良受弖《ヨロヅヨニイマシタマヒテアメノシタマヲシタマヒネミカドサラズテ》又「八九四」に「神奈我良愛能盛爾天下奏多麻比志家子等撰多麻比天《カムナガラメデノサカリニアメノシタマヲシタマヒシイヘノコトエラビタマヒテ》」とあり。天下の大政を執り申す義にして事實は太政大臣に任ぜられし事をいへるならむ。高市皇子の太政大臣に任ぜられしは持統天皇四年七月なる事日本紀に見ゆ。これより後薨去の時まで大政を預り申されしなり。
○萬代 古來「ヨロツヨニ」とよめり。童蒙抄には「ヨロツヨモ」とよめり。その意は明かなるが「モ」といふ如き特別の助詞を此の如き書きざまの歌にて省きてあらはさぬは如何なり。かく時、場所をいふ語の場合に「ニ」を書きあらはさぬ例は集中に多し。卷一にていへば、「暮相而」(六○)「東野炎立」(四八)「山際」(一七)などあり。又この語の假名書の例は卷五「八一三」に「余呂豆余爾伊比都具可禰等《ヨロヅヨニイヒツグガネトネ》」又上の「八七九」の例など多し。されば舊訓によるべし。萬代に亙りて引き續きといふ意なり。
(484)○然之毛將有登 「シカシモアラムト」とよむ。「シカ」はさきに一旦示されたる事をさしていふ語なり。即ちここは上に天下の大政を申し賜へる事をさし、萬世も然あらむと豫定したる由なり。似たる例は卷十三「三三〇二」に「紀伊國之室之江邊爾千年爾障事無萬世爾如是將有登大舟乃思恃而出立之清瀲爾《キノクニノムロノエノヘニチトセニサハルコトナクヨロツヨニカクシモアラムトオホフネノオモヒタノミテイテタチノキヨキナギサニ》」とあり。「シモ」は強く念を押す爲の助詞なり。
○一云如是毛安良無等 これは上の「シカシモアラム」といふに對して「カクモアラムト」といふ一本ありといふなり。「カク」も「シカ」も意は大體異ならねど、「シカ」は彼方にあるをさす意にして「カク」は此方にあるをさす意なり。さてここはいづれにても意は一なり。
○木綿花乃 「エフハナノ」とよむ。この「ゆふ花」とは如何なるものか。冠辭考には「こは木綿もて造れる花を實に咲榮ゆる花の如くにいひなして皇子尊の御齡の盛なりしをいふ冠辭とせり。さて集中に春花の榮る時とよめる如く、實の花をいふべけれど、その比ユフもて作れる花をいとめづる事ありてよめるなるべし。」といひ、又考には「木綿もて造し花を髪に懸るは若く榮る女の體也。是をここも榮といふ冠辭とせしならん」といへるより諸家皆これに隨ひて異説なきが如し。但し木綿につきては織物なりと云ふ説古來あれど、そは誤にて、「ゆふ」は麻などの如く、その繊維の名にして、その「ゆふを織りたるものが「たへ」なるなり。このことは狩谷※[木+夜]齋が箋注倭名抄にいへる所なり。さてその「ゆふ」とは何かといふに卷一「七九」の「栲の穗」の下にいへる如く、今いふ楮の繊維をとりてつくれるものにして、苧のごとくにして白きものなり。さてこの木綿花を造花とせばその木綿即ち楮の繊維もてつくれるものとすべきに似たり。されど(485)果して然るか否か。若し又眞に造花とせば、如何なるさまなりしか、いづれも未だ確證を知らず。この故にこれも亦不明の一たりとす。されば、今姑く「榮ゆる」の枕詞とする説に從ひおくべし。
○榮時爾 「サカユルトキニ」とよむ。似たるいひざまの例は卷六「九九六」に「御民吾生有驗在天地榮時爾相樂念者《ミタミワレイケルシルシアリアメツチノサカユルトキニアフラクオモヘバ》」あり、卷二十「四三六〇」に「母能其等爾佐可由流等伎登賣之多麻比安伎良米多麻比《モノゴトニサカユルトキトメシタマヒアキラメタマヒ》」あり。古義これを釋して曰はく「さて佐迦由流とは繁榮の義のみならず、物のめでたく、うるはしくはえばえしきをいふ詞にて酒見附榮流とも咲榮流《エミサカユル》と云事にて其(ノ)意をさとるべし。さてここは木綿花のうるはしくはえばえしきをやがて皇子尊の御世の榮にかけていへるなり」といへり。これにて意は明かなれど、かゝるいひざまにては誤解をひき起し易し。即ち美夫君志などは「皇子のさかえ給を木綿花にたとへて……といへる也」といへり。これは誤解なり。こは新考に「ヨロヅニシカシモアラムトユフバナノサカユルトキニとはカヤウニアラウと思ひてといふことにて世の人の思ふ心なればサカユルトキニも世の人の事とせざるべからず」といはれたるが如し。古義の意も然る事なるべし。即ち吾等が將來を期待して樂み榮えてあるその時にといふ意なり。
 かくて以下急轉直下して皇子の薨去をいへり。
○吾大王 舊訓「ワカオホキミノ」とよみたるが、考は「ワガオホキミ」とよめり。こは卷一以來屡見ゆる所にして、同格として、下の「皇子」につづけたるものなれば考によるべし。「一六七」にも「吾王(486)皇子之命乃天下所知食世波」とあり。この「吾大王」も高市皇子をさし奉れり。
○皇子之御門乎 「ミコノミカドヲ」なり。「ミカド」は上「一六八」に「皇子乃御門」といへる如く御宮殿を代表していへるなり。即ち高市皇子の御住居なりし宮殿をばといふ意なり。
○一云刺竹皇子御門乎 上の二句を一本に「サスタケノミコノミカドヲ」とありとなり。この「刺竹」は枕詞なるべきが、その意は未だ詳ならず。古來種々の説あれど從ふべきものを見ず。これも意は本行のにことならず。
○神宮爾 古來「カムミヤニ」とよめり。げに「カムカゼ」の例に倣ひてしかよむべきなり。「ニ」は變化生成せるものを示す助詞にして皇子の御住居を神宮にしたることをいへるなり。ここに神宮といへるは皇子の薨去によりて殯宮にしつらひ奉りしことをいへるならむ。天皇皇子等のみまかりたまふを神去りますといふ如く、神になりたまふと云ふ事は古の信仰なり。
○装束奉而 舊訓「カザリマツリテ」とよみたるを略解に「ヨソヒマツリテ」とよみたり。先づ「装束」の字面は捜神記に「時已日暮、出告2使者1曰速装來吾當2夜去1」と見ゆるが、束はその装ふ動作の一端をあげて添へたる字なるべくして、此「束」には「カザル」の意なし。本邦の古書には古事記日本紀いづれも「装束」の字を「ヨソヒ」とよみ來りて「カザル」とよめる例を知らず。(新撰字鏡には「※[手偏+束]」字の註に「装※[手偏+束]也與曾比加佐留也」とあり。この「※[手偏+束]」字は音色句反にして「装」の義ありて「束」の別體にあらず)されば「ヨソヒマツリテ」とよむをよしとすべし。本集にても卷十二「二一一二」に「夢見雨去乎取服装束間爾妹之使先爾來《イメニミテコロモヲトリキヨソフマニイモガツカヒゾサキタチニケル》」とあるも「ヨソフ」とはよむべきが、「カザル」とはいふべからず。さ(487)て「ヨソフ」といふ語の例は卷二十「四三三〇」に「奈爾波都爾余曾比余曾比弖氣布能日夜伊田弖麻可良武美流波波奈之爾《ナニハツニヨソヒヨソテケフノヒヤイデテマカラムミルハハナシニ》」「四三九八」に「大夫情布里於許之等里與曾比門出乎須禮婆《マスラヲノココロフリオコシトリヨソヒカドデヲスレバ》」あり。古事記上卷の歌に「奴婆多麻能久路岐美祁斯遠麻都夫佐爾登理與曾比《ヌバタマノクロキミケシヲマツブサニトリヨソヒ》云々」(「トリヨソヒ」の語すべて三あり)あり。「ヨソフ」と「カザル」とは意似たる樣なれど異なり。「ヨソフ」は俗語の支度又は設備などいふ意にて必要の事をとりしたたむるをいふ語にて「カザル」といふ意はそれ以上に美を添ふる意を有するものなれば一にあらず。ここは皇子の薨去によりてその宮殿をば神の宮に装束《ヨソ》ひかへ奉るをいへるなり。
○遣使 「使」字流布本「便」に作れど意をなさず。多くの古寫本に「使」とあるによるべし。さてよみ方は舊本に「タテマタス」とよみたるが、童蒙抄に「ツカヘリシ」又は「ツカハセシ」と訓じ、考は「ツカハセル」とよみ、宣長は古事記傳卷十六中にここを「ツカハシシ」とよむべしといひ、略解はかくせり。按ずるに類聚名義抄には「遣使」の二字に「タテマタス」の訓あり。而して「タテマタス」といふ語は宇都保物語藤原の君、高光集などに見えたり。この「たてまたす」といふ語は「たつ」と「またす」とを重ねたる語なるが、その「またす」といふ語は下より上に奉ずる義にして「まつらす」の約なりといへり。されど、この語萬葉集時代に行はれしか否か證を見ざるのみならず、ここは「奉らす」の意にては義をなさざるなれば、この舊訓は從ふべからず。思ふに、ここは「遣」も「使」も共に「ツカフ」といふ語に當る字なるを二宇合せてその意を確めしものにして「ツカフ」といふ語にあたるものなるべし。然らば、「ツカヘリシ」か「ツカハセル」か「ツカハシシ」かのいづれかの一なるべきが、「ツカ(488)ヘリシ」といふは皇子の使ひたまひし事にならぬが故に不可なり。これは「ツカハス」といふ敬語を基とするものたるべきが、そのうち、「ツカハセシ」は語格の誤にして、「ツカハシシ」とあるを正しとせざるべからず。次に「ツカハセル」か「ツカハシシ」かの一なるべきが、、「ツカハセル」とよむには「有」の字などあるべきなり。「ツカハシシ」とよまむにも文字足らぬさまなれど、先づはこのよみ方によるべきなり。
○御門之人毛 「ミカドノヒトモ」なり。御在世の時召使ひたまひし御宮の舍人どもをさす。考、古義、美夫君志に御門を守る人といへるはあまりに限りすぎたり。この「も」にてその他にも同樣の人あるを知るべし。
○白妙乃 「シロタヘノ」とよむ。白妙の事は卷一の「二八」にいへり。
○麻衣著 舊訓「アサノコロモキ」とよめるを考に「アサゴロモキテ」とよめり。「著」一字を「キテ」とよむには文字足らぬ樣なれど「テ」を加へてよまむも例なきにあらず。さては「アサゴロモキテ」とよまむも「アサノコロモキ」とよまむもいづれをよしともあしともいひうべき證なけれども喪服を「フヂコロモ」といへるに準じて姑く「アサゴロモキテ」とよむに從ふ。さてこの白妙の麻衣は何かといふに喪服なりといへり。されど、ただ喪服といへるは委しからず。喪服は令制に天子に「錫紵」とあるが、この錫紵は臣下の喪服にもいひしこと同令の集解の文にて明かなり。この錫紵とは何かといふに、曰はく、「錫紵者細布即用2淺墨染1也」とあり。錫は鑞黒色の義にして後の墨染なり。紵は麻布の義なり。されば喪服は一般に墨染の麻布なりしを見るべし。然(489)るにこれは白妙の麻衣といへれば喪服にあらぬは明かなり。この白き麻布の衣は所謂素服にして元來神事の服なるが、葬送の時に喪服の上にも著たるものなり。又喪にあらぬ者にても葬儀の事にあづかる人はこの素服をきたり。これを後世に當色といへり。この素服は即ちここに白妙の麻衣といへるものなるべし。
○埴安乃御門之原爾 「埴」字流布本「垣」につくれるは誤なること著し。古寫本に正しく「埴」と書けるによりて正せり。埴安は天香山の麓の地にして、藤原宮の東に當る地なり。埴安の御門の原とは蓋し藤原宮の東門の外に原ありて、そこをさせるものならむ。藤原宮は持統天皇八年に成りて遷りまし、この皇太子の薨去は十年なれば、この詞よくあへり。さてこの原をここにとりたてていへるは下にいへるこの皇太子の御宮なる香來山之宮の所在地なりしによりていへるなるべし。これを藤原宮なりといへる説は從ひがたし。
○赤根刺 「アカネサス」なり。これは日の色の赤きによりてその枕詞とせるなり。「アカネ」の事は卷一「二〇」の歌にいへり。
○日之盡 古來「ヒノツクルマデ」とよみ來りしを代匠記に「ヒノコトゴト」とよめり。「盡」は「コトゴト」とよむべきこと卷一「二九」にいへり。なほこの語の例は上「一五五」にいへり。さてここは一日の間すべてといふことなり。
○鹿自物 「シシジモノ」とよむ。「鹿」を「シシ」といふはその「肉《シヽ》」を賞美するよりの名、「猪」を「シシ」といふも同じ。古はすべてその肉を賞美する獣をば「シシ」といひしなり。さて、それらのうちを區別(490)せむとては「カノシシ」「ヰノシシ」といふ。「ヰノシシ」は今もいへど、「カノシシ」は今いはず。能登の人は今熊を「クマノシシ」といへり。「シシジモノ」といへる例は日本紀武烈卷の歌に「斯斯貳暮能瀰逗矩陛御暮黎《シシジモノミヅクヘゴモリ》」とあり。本集にては卷三「二三九」に「四時自物伊波比拜鶉成伊波比毛等保理《シシジモノイハヒヲロガミウヅラナスイハヒモトホリ》」「二七九」に「十六自物膝折伏《シシジモノヒザヲリフセ》」など例少からず。「シシジモノ」の「ジモノ」の意は卷一「五〇」の「鴨自物」の下にいへるが如く、「ジ」は體言等につきて形容詞を構成する接尾辭にして「シシジ」にて「シク、シキ」活用の語の語幹をなせるが、その語幹より直ちに「物」につづけて熟語とせるなり。その意は鹿の如き物といふほどの事なり。委しくは奈良朝文法史又は本講義卷一を見よ。かくてこの「シシジモノ」にて次の「いはひ」又は「膝折伏」などの枕詞とせるなり。
○伊波比伏管 「イハヒフシツツ」なり。「イハヒ」の「イ」は所謂發語といはるる接頭辭にして深き意なく、「いはひ」にて「ハヒ」といふにおなじ。さてこの語は用言なるが、かく「イ」といふ接頭辭の冠せられたる例にはその連用形のみを見る。上にあげたる卷三「二三九」の歌の例をはじめ、集中にある諸例又日本紀神武卷の歌なる「伽牟伽筮能伊齊能于瀰能淤費異之珥夜《カムカゼノイセノウミノオヒイシニヤ》、異波臂茂等倍婁之多※[人偏+嚢]瀰能阿誤豫《イハヒモトヘルシタダミノアゴヨ》、之多太瀰能異波比茂等倍離于智弖之夜莽務《シタダミノイハヒモトヘリウチテシヤマム》云々」古事記中卷神武條の歌に「加牟加是能伊勢能宇美能意斐志爾波比母登富呂布志多陀美能伊波比母登冨理宇治弖志夜麻牟《カムカゼノイセノウミノオヒシニハヒモトホロフシタダミノイハヒモトホリウチテシヤマム》」など皆然り。即ち「這ひ伏しつつ」といふ事なるが、これは貴人に對する拜禮の容をいへるなり。日本紀天武卷十一年九月壬辰の條に曰はく「勅、自今以後跪禮匍匐禮並止之、更用2難波朝廷之立禮1」とあれば、跪坐禮匍の禮は公には停止せられたれど、實際には行はれしものなるべし。かく(491)いふ故は續紀慶雲元年正月の條に「斯停2百官跪伏禮1」と見え、同四年十二月にも再び勅ありしを見、今もなほこの禮あるに見ても古禮の容易に廢せられぬ事なるを見るべし。
○烏玉能 「ヌバタマノ」とよむ。「ヌバタマ」といふ語は上「八九」の歌にいへるが、その實は烏黒色なれば烏玉とはかけるなり。もと「黒き」の枕詞とせるが轉じて「夜」又「夕」の枕詞となれるなり。
○暮爾至者 古來「ユフベニナレバ」とよめり。契沖は「クレニイタレバ」とも訓ぜり。考は「ヨウベニナレバ」とよみたり。されど、「ヨウベ」といふ語この頃にあるべくもなければ、從ひかねたり。「クレニイタレバ」とよむは文字のままによめるものなるが、詞なだらかならず。卷五「九〇四」に「夕星乃由布弊爾奈禮婆《ユフツツノユフベニナレバ》」とある例によりて古來のまゝによむをよしとす。
○大殿乎 「オホトノヲ」とよむ。この語の例は卷一(二九)にあり。ここは高市皇子の宮殿をさせり。
○振放見乍 「フリサケミツツ」なり。「フリサケミル」といふ語は上の歌(一四七)に「天原振放見者」の下にいひつ。ここはその宮殿をふり仰ぎ見やるをいふが、宮際さほど遠くあらぬ宮をもかくいへるは己れらとの間の遠く尊きよしにいへるなり。
○鶉成 「ウヅラナス」なり。鶉の如くにあるの意にして、この鳥の草原に這ひ廻はる如きさまを以て、下の「いはひもとほり」の枕詞とせるなり。
○伊波比廻 「イハヒモトホリ」とよめり。これと同じ語を用ゐたるは上にひける古事記神武卷の歌あり、又卷三「二三九」の歌は「鶉成伊波比毛等保理恐等比奉而《ウヅラナスイハヒモトホリカシコミトツカヘマツリテ》」とありて全く同じ語なり。又(492)續日本紀卷十天平元年八月の改元の詔には「我皇太上天皇大前爾恐古士物進退|匍匐廻保理《イハヒモトホリ》白賜比受被賜久者」とあるにて、「廻」を「モトホル」とよむをうるを知るべし。「モトホル」といふ語は新撰宇鏡には「※[走+壇の旁]」字に「轉也、信也、移也、毛止保留」と注し、亦「※[走+〓]」字に注して「輸轉也、信也、※[しんにょう+壇の旁]」字同、毛止保留」といひ又「縁」字に「毛止保利」の訓を注せり。この「※[走+〓]」は文選謝靈運の詩に「※[走+〓]廻」とも見ゆるにて「廻」即ち「もとほる」なるを知るべし。同じ所をぐる/\まはる事と見えたり。されば、「縁」を「もとほり」とよむも、その意より出でたりと見ゆ。
 以上十句はその宮の舍人などの日夜御門に伺候して這ひ伏し、御宮を振りさけ見て、這ひ廻るといふ事を言をかざりていへるにて、晝は這ひ伏し、夜は這ひ回るといふ事にはあらず。かくて次の句に直ちにつづくなり。
○雖侍候佐母良比不得者 「サモラヘド、サモラヒエネバ」とよむ。童蒙抄は「者」は「煮」の誤として「サモラヒエヌニ」とよみ、玉の小琴は「者」は「天」の誤とし古義は「弖」の誤として共に「サモラヒカネテ」とよめり。されど、さる誤字ある本一もなければ從ふべからず。「侍候」を「サモラフ」とよむは下の「佐母良比」の語に照してよむを得るなるが、なほ上の歌(一八四)に「雖伺侍」を「サモラヘド」とよむべしといへる條にいへり。皇太子の御宮に伺候してあれど、伺候する詮もなき事なればといふなり。「カネテ」とする諸家の説、解釋としても無理なり。この句のつづき方は次に至りていふべし。
○春鳥之 舊訓「ウクヒスノ」とよめり。考は字のまま「ハルトリノ」とよみ、攷鐙は「モヽトリノ」とよ(493)めり。按ずるに、春鳥を「ウグヒス」と限りてよむも無理にして、「モモトリ」とよむも無理なり。考の説を穩なりとす。曰はく「集中には、はる花、はるくさ、はるやなぎなど、のを略きていへる多し」と。さて「春鳥」を「さまよふ」の枕詞とせるは如何といふに、春の鳥のあちこち囀りわたるをかりて、下のさまよふといふ語にかけていへるなり。卷九「一八〇四」に「葦垣之思亂而春鳥能鳴耳鳴乍《アシガキノオモヒミダレテハルトリノネノミナキツツ》」又卷二十「四四〇八」に「春鳥乃己惠乃佐麻欲比《ハルトリノコヱノサマヨヒ》」とあり。
○佐麻欲此奴禮者 「サマヨヒヌレバ」とよむ。「サマヨフ」といふ語は「マヨフ」に接頭辭「サ」の加はりてなれる語の如くなれど、その意は單なる「マヨフ」の意にあらずして嘆くに似たる意あり、又嘆聲を發するにまでもいへりと見ゆ。新撰宇鏡を見るに「サマヨフ」の訓をあてたる字あり。一は「※[口+屎]」にしてこれに注して「出氣息也、呻吟也、惠奈久、又佐萬與不、又奈介久」といひ、一は「呻」にしてこれに注して「吟也、歎也、佐萬與不又奈介久」とあり。この二字を通じて見れば、「サマヨフ」は「呻吟」の熟字に相當するものと考へらる。類聚名義抄には「往還」の熟字又「吟」「呻」「※[口+屎]」「懊」の各字に「サマヨフ」の訓あり。本集の例を見れば、卷二十「四四〇八」に「若草之都麻母古騰母毛乎知己知爾左波爾可久美爲春鳥乃己惠乃佐麻欲比之路多倍乃蘇※[泥/土]奈伎奴良之多豆佐波里《ワカクサノツマモコドモモヲチコチニサハニカクミヰハルトリノコヱノサマヨヒシロタヘノソデナキヌラシタヅサハリ》云々とあり。これも「春鳥」にかけたるが、しかも聲にかけたり。されば、ここのも春鳥の鳴く聲にかけていへるにて、呻吟の意即ち懊悩して思はず聲を發するをば、さまよふといへるなるべし。ここは上にいへる舍人等の在るにかひなくなげくことをいへるなり。さて上に「サモラヒエネバ」といひて、ここに又「サマヨヒヌレバ」とあれば、詞のつづき如何といふ論あり。されど、こは別に不審のある(494)べきにあらず。「サモラヒエネバ」は下の「サマヨフ」といふ事を導く事情にして、その前提となれるものにして、その「サモラヒエネバサマヨフ」といふ事を一括して更に下の前提として「サマヨヒヌレバ」といへるなり。即ち
     前提           歸結
  サモラヒエネバ〔七字傍線〕……サマヨヒ〔四字傍線〕ヌレバ〔・サモ〜傍線〕…
      前提           歸結
 の如き關係となるなり。かくの如き語遣は今も多きことなり。されば何の不審もなく、從ひて本居宣長の「サモラヒエネバ」を誤といへる説も不必要なりと知らる。
○嘆毛 古來「ナゲキモ」と四音によみ來りて異論なし。此の嘆は皇太子薨去の嘆なり。
○未過爾 「イマダスギヌニ」とよむ。「未だすぎぬ」とはその事の過去とならぬにといふ語なるが、その意はその事實がなほ生《ナマ》々しく眼前の事實なりと思はれてあるをいふ。卷八「一四三四」に「霜雪毛未過者不思爾春日里爾梅花見都《シモユキモイマダスギネバオモハズニカスガノサトニウメノハナミツ》」とあるなどその例なり。
○憶毛 「オモヒモ」とよむ。上の「ナゲキモ」に對して對句となれり。この思ひは所謂物思ひにして同じく皇太子薨去の悲をさせり。
○未盡者 「イマダヅキネバ」とよむ。童蒙抄には「者」は「煮」の誤にして「ツキヌニ」なりといへり。されど、さる本一もなく、「ツキネバ」にて不可なければ、從ふべからず。かゝる場合の「ねば」は「ぬに」と略同じきさまに用ゐて、殆ど同時に引つづき起る事を、次に合せいふ際に用ゐる、古の一の語格なり。その例は古事記卷上の歌に「於須比遠母伊麻陀登加泥婆《オスヒヲモイマダトカネバ》、遠登賣能那須夜伊多斗遠《ヲトメノナスヤイタトヲ》」日本(495)紀天智卷の童謠に、「比騰陛多爾伊麻陀藤柯禰波美古能比母騰矩《ヒトヘダニイマダトカネバミコノヒモトク》」又本集卷四「五七九」に「奉見而未時太爾不更者如年月所念君《ミマツリテイマダトキダニカハラネバトシツキノゴトオモホユルキミ》」卷八「一四三四」の例(上に見ゆ)「一四七七」に「宇能花毛未開者霍公鳥佐保乃山邊來鳴令響《ウノハナモイマダサカネバホトトギスササホノヤマベヲキナキトヨモス》」など、例少からず。
○言左敝久 流布本「左」を「右」につくり,多くの古寫本また然れど、誤なること著し。金澤本に「左」とあるが、正しきによりて改めつ。「コトサヘグ」とよむ。この語は上の歌「一三五」にも、「言佐敝久辛乃埼有」とあり。その意はそこにいへるが、ここはその「から」の一種なる百濟の枕詞とせるなり。
○百濟之原從 舊本「クタラノハラニ」とよみたれど、「從」は「ニ」とよむべき字にあらず。考に「ユ」とよめるに從ふべし。この「ユ」は「より」の古言にしてその「ユ」はその經過し、行く地點を示すに用ゐたり。百濟といふ地は大和國廣瀬郡(今は北葛城郡)の地にして今百濟村大字百濟といふ。飛鳥地方より城上の殯宮に至るに經過する地にして平野なれば、原とはいへるなり。卷八「一四三一」に「百濟野乃芽古枝爾待春跡居之瞿鳴爾鷄鵡鴨《クダラヌノハギノフルエニハルマツトスミシウグヒスナキニケムカモ》」とある百濟野も同じかるべし。この地には舒明天皇の御世に百濟宮を置かれ、又百濟大寺など設けられて、古來史上に著しき地なり。
○神葬 舊訓「タマハフリ」とよめり。代匠記は「カムハフリ」とよめり。「神」を「タマ」とよまむは精神の言ならば、或はよまれざるにあらざるべけれど、ここは「カミ」としての事なれば、代匠記の説によるべし。卷十三の挽歌「三三三四」にも「神葬葬奉者《カムハフリハフリマツレバ》」と見ゆ。この詞遣は上の「一六七」に「神〔右○〕集集〔二字右◎〕座而」「神〔右○〕分分〔二字右◎〕之時爾」「神〔右○〕上上〔二字右◎〕座奴」など集中に例多く、又古事記仲哀卷歌に「加牟《カム》菩岐本岐〔四字右◎〕玖流本斯《クルホシ》」などにも見る如く、その事が神業なる事をいふ爲に「神何」といひてその語の修飾とせるもの(496)なり。「葬」を「ハフル」といふは「放」の語に本づくこと本居宣長の説の如くなるべし。古事記傳卷廿九に曰はく、「さて此《コヽ》の葬は波夫理と訓べし。次なる大御葬も同じ。此《コ》は御屍《ミカハネ》を送遣奉る儀《ワザ》を云へればなり。凡て波夫理とは其(ノ)儀《ワザ》を云り。さて然云(フ)意は遠飛鳥(ノ)宮(ノ)段歌に意富岐美袁斯麻爾波夫良|婆《バ》續紀卅一の詔に彌麻之大臣之家内子等乎母波布理不賜失不賜慈賜波牟云々などある波夫流と本(ト)同言にて放《ハブ》るなり。葬は住《スミ》なれたる家より出して野山へ送りやるは放《ハブラ》かし遣《ヤ》る意より云るなり」とあり。誠にその言の如し。「葬」字に「ハフル」の訓を注したるは未だ發見せねど、新撰宇鏡に「※[巾+紵の旁]字に注して「充覆棺也※[巾+者]〔右○〕同|皮不利帷《ハフリカタビラ》也」といひ、又「※[巾+者]」字に注して「皮不利加太比良」といへり。宇鏡の「※[巾+紵の旁]」の宇注は誤ありと見ゆるが、この字は玉篇に「棺衣也亦※[衣+者]」と見え、禮記檀弓に「※[衣+者]幕《ハナリ》」とあり、注に「※[衣+者]覆棺之物、似2幕形1以v布爲v之」と見ゆれば、「ハフリカタビラ」の義にあへり。即ちこれ葬儀に棺を覆ふに用ゐる帷《カタビラ》の義なること明かなり。ここに「ハブリ」を葬儀の意に用ゐたり。これは體言たるが、かゝる體言はもと用言の連用形よりするものなれば、「ハフル」といふ用言に基づくこと明かなりとす。
○葬伊座而 古來「ハフリイマシテ」とよめるが、近時「イマセテ」とよむべしといふ説起れり。その「イマシテ」といふ語の意につきては考に「いにましての略也。此下に朝立伊麻之【一云伊行而】卷五、山越往坐君乎者とも有」といひ、略解これに從ひ、攷證、美夫君志又これに從へり。古義はよみ方に異論なけれど、これを釋して、「伊はそへ言にて葬座而《ハフリマシテ》と云に同じ。さて座《マシ》は行《ユク》ことにも來《クル》ことにも居《ヲル》ことにもいへり。伊《イ》の辭はあるもなきも一ツ意なり」といひ、なほ「しかるを岡部氏考に(497)伊座は去《イニ》ましのにを略けるなりと云るは例のいみじきひがごとなり。」と注せり。新考は間宮永好の犬※[奚+隹]隨筆に「伊座而を諸本イマシテと訓り。此訓惡し。イマセテと訓べし。令v座テの意なればなり」とあるをひきて「イマセテ」とよむべきかといひ、又「伊座而」は「奉而」の誤にて「ハフリマツリテ」なるかといひ、又新講は「イマセテ」の説に賛して委しく説明せり。按ずるに、この所古來、異字なければ、誤字といふ説は從ひがたく、本のままにてよみ方を考ふべきが、先づ考の説の如く、卷十三「三一八六」の「陰夜之田時毛不知山越而往座君者乎者何時將待《クモリヨノタドキモシラヌヤマコエテイマスキミヲバイツトカマタム》」の例によりて「伊座而」を「往座而」の義とすとしても、又「イ」を發語にして、「マス」と同じ語なりとして、その意は古義の如くなりとしても、その差は五十歩百歩に止まりて、上の「葬り」といふ語とうちあはざるは一なるにあらずや。「イニマス」としても、ただの「イマス」としてもいづれも敬稱の語にして、尊敬すべき第二者を主格にせる語法なるべきなり。然るときはこの場合の主格は高市皇子たりとすべきに似たるが、上の「葬り」は高市皇子に對し奉りて申す語なれば、高市の皇子が自己を葬りたまふ事とならざるべからず。若し然らずとして「イマス」といふ語をいかさむとせば、「はふられまして」などいふべき事なり。若し又「葬り」と「イマス」とを生かさむとせば、高市皇子が他の人を葬りいます事とすべきが、さる事はここの事實にあはず。「葬り」はいづこまでも他より高市皇子を葬り奉ることなるは、動かすべからず。然らば、「イマシ」は他に尊敬すべき方のありて高市皇子を葬り奉らるる意にとらざるべからず。次に別の「イマセテ」とよむ説は如何といふに、かくいふはもとより道理一貫すべきが故に、理論上よく聞えたるのみならず、卷十二「三〇〇五」に「十五(498)日出之月乃高高爾君于座而何物乎加將念《モチノヒニイデニシツキノタカタカニキミヲイマセテナニヲカオモハム》」又卷十四「三七四九」に「比等久爾爾伎美乎伊麻勢弖《ヒトクニニキミヲイマセテ》」とあるが如き例あれば、不可なるにはあらず。されど、なほよく考ふるに、かく「いませて」といふ場合にはその敬語は屬性的實質をも含みて、形式的の敬語にあらず。而して形式的の敬語に「イマセテ」といへる例あるを知らず。然るに、ここは上に「葬る」といふ用言あれば形式的の敬語となりたるものなり。然らば、「ハフリイマセテ」とよむべしといふ説も確定してよしといふべからず。按ずるに、ここはなほ舊來の説の如く「ハフリイマシテ」とよむべく、その「イマス」といふ語は「イニマス」にあらずして、ただの敬稱語なるべきなり。かくいふ理由は、こは「葬る」といふ語が根本なれば、その「葬る」の主格即ち葬儀を營む者は何人かを考へざるべからず。而してこは皇太子としての公の御葬儀なるべければ、朝廷のとり行はせたまふものなる事を考ふべし。柿本人麿又は春宮舍人が主となりてこの皇太子を葬り奉る事にてあらば、「奉りて」にても「イマセテ」にてもよかるべけれど、かかる身分の卑き人々が主となりて皇太子を葬り奉るべき事、古今に通じてあるべくもあらぬ事なり。皇太子の葬儀の如きはもとより朝廷より、それ/”\の所役を仰せてとり行はるべきものなれば、下々のものよりいへば、「葬奉りて」とはいひうべきものにあらずして必ず「葬座而」といふべきなり。即ちその「葬り」は高市皇太子を葬ることにして、「座而」は朝廷にしてその葬儀を行はせたまふによりていへる敬語なりと知られたり。この道理を思へば、この語遣は決して無理ならずといふべし。即ち皇太子薨せられしが、朝廷よりこの皇太子を葬りましましてといふ事なり。而してかく解するが最もよく事實にあへるにあら(499)ずや。
○朝毛吉 舊訓「アサモヨヒ」とよみたれど、「アサモヨシ」とよむべきこと卷一「五五」の「朝毛吉」の下にいへり。その「キ」の枕詞なることも同じ條にいへり。
○木上宮乎 舊訓「キノウヘノミヤヲ」とよめり。代匠記に「キノヘか」といへり。これは詞書に「城上殯宮」とかける所をさせること著しきが、「キノヘノミヤ」とよむべきこと既にいへり。
○常宮等 「トコミヤト」とよむ。上「一九六」にいへるにおなじ。
○高之奉而 舊板本「タカタシタテヽ」とよみたるが、神田本には「タカクマツリテ」とよめり。又童蒙抄は「之」を「久」の誤なりといへり。考には「高知座而」の誤にして「タカシリマシテ」とよみ、玉の小琴は「高之」の二字は「定」一字の誤なりといひ、略解は童蒙抄の説によりて「タカクマツリテ」とよみ或は又玉の小琴の説によりて「サダメマツリテ」かといへり。攷證は「之」を「シリ」とよみ、「奉」を「タテ」とよみて「タカシリタテテ」とよめり。美夫君志は又「タカクシタテヽ」とよみたり。按ずるに、この所いかにもよみかねたるやうなれど、古來異字あるをきかず。されば、誤字ありといふ證の出づるまでは誤字なきものとしてその訓を考へざるべからず。さてはそのよみ方につきては先づ「タカクシタテ〔三字傍点〕ヽ」「タカクマツリテ」「タカシリタテ〔三字傍点〕ヽ」「タカクシタテ〔三字傍点〕ヽ」の四樣の訓案出せられたるが、そのうちにとるべきものありや如何と考ふべし。「奉而」を「タテテ」とよむことは攷證に説あれど、強言なれば從ひ難し。然する時はただ「タカクマツリテ」といふ神田本の訓のみ殘ることとなる。然るに、この訓にては「之」を如何によむべきか「之」を全く衍なりとすべきか。然(500)れどもかかる事は無理なり。又「之」は支那にては助辭なれば、よまずとすべきか。然れども、かかる場合は文句の終にある時にあるが普通なることにて、しかも純漢文ならぬには無理なりと考へらる。さては「之」は必ず讀まざるべからず。よむとして、この場合には「シ」とよむ外あらず。次に「奉而」は「マツリテ」とよむが通例にして、集中に例多し。かくて文字のままによまば、「タカクシマツリテ」といふより外なき筈なり。かくいはば、八音となりて調は雅ならぬやうに聞ゆれど、意味はととのほれり。即ちこの場合の「シ」はサ行三段の「シ」にて汎く動詞の代用をなすものなれば「高く作り奉りて」といふことに同じ。されば誤字ありといふ確證出づるまでは吾人は「タカクシマツリテ」とよむべきものと認む。意は城上の地に殯宮を高く作り奉りてといふなること著し。
○神隨 「カムナガラ」なること卷一以來屡いへり。その意も既にいへり。
○安定座奴 舊板本「シヅマリマシヌ」とよみたるが、神田本には「サダマリマシヌ」とよめり。又考には「シヅモリマシヌ」とせり。按ずるに、「安定」は「サダマル」とよまばよまれざるにあらざるべけれど、その意よく通らず。「シヅモリ」は玉の小琴に「古言めきては聞ゆれど證例なきこと也」といへる如く從ふべからず。「安定」の字を按ずるに、説文には「安靜也」と見え、「定安也」と見ゆ。又増韻に「定」に「靜也」と注したれば、いづれも「シヅマル」の意あるを二字を合してその意を確に示したるなり。「シツマリマス」とは、「鎭座」の文字にて慣用せらるる如く、神の他にうつる事なく、其所に永く留り給ふことをいふなるが、ここは、この所に殯宮を營み奉れることを、容をかへて、いへるな(501)り。
 以上語の上にては第一段にして高市皇子の御功績をたたへ、その薨去ありしことなどをいひたるが、一括していへば、高市皇子の御事につきて客觀的にいへる段なり。而して以下は主觀的の記述なり。
○雖然 「シカレドモ」とよむ。この語の假名書の例は卷十五「三五八八」に「波呂波呂爾於毛保由流可母之可禮杼毛異惰乎安我毛波奈久爾《ハロハロニオモホユルカモシカレドモケシキコヽロヲアガモハナクニ》」卷十八「四〇九四」に「多弖麻豆流御調寶波可蘇倍衣受都久之毛可禰都之加禮騰母吾大王能毛呂比登乎伊射奈比多麻比善事乎波自米多麻比弖《タテマツルミツキタカラハカゾヘエズツクシモカネツシカレドモワガオホキミノモロヒトブヲイザナヒタマヒヨキコトヲハジメタマヒテ》云々」などあり。上の、薨去《カムサ》りまして御墓所に葬り奉りし事をうけて、それにも拘らずといひて、自己の感想を述べむ爲の起語とせるなり。
○吾大王之 「ワガオホキミノ」とよむ。この事は卷一「三」「五」等の下にいへり。ここは高市皇子をさし奉れるなり。
○萬代跡 「ヨロヅヨト」とよむ。萬代までも動きなくかはらじといふ意なり。かかる時はむしろ「永久」といふ程の意に解すべし。
○所念食而 「オモホシメシテ」とよむ。「所念」の二字は「念フ」の敬語「オモホス」をあらはすに用ゐたるものにして「所念食」の三字はそれに更に「メス」を加へたる「オモホシメス」といふ敬語をあらはすに用ゐたり。「所念」を「オモホス」とよめるは卷一「五〇」に「所念奈戸二」あり。又卷一「二九」に「御念食可」とあるを「或云所念計米可」とあるにても知るべく、「食」を加へたるはその卷一「二九」の例にて(502)も知るべし。かくの如きかきざま集中に例多し。「オモホシメス」といふ語の例及び意義は卷一「二九」の條にいへるを見よ。後世の「おぼしめす」といふ語の源なり。
○作良志之 「ツクラシシ」とよむ。「作ラス」は卷一「一一」にいへる如く「作りたまふ」の義なり。高市皇子の萬代に動きなくかはらじと思ほしめして作りたまひしといひて次の「かぐ山の宮」に對しての連體格とせるなり。
○香來山之宮 「カグヤマノミヤ」とよむ。この宮の事他の書に見えねど、實際高市皇子の宮として營まれしものなるべし。これは上にいへる埴安の御門の原と引きつづきたる所にして香來山の中腹か麓か若くはその麓に近くありしよりいでし名なるべし。而して下の反歌を見れば埴安の池その附近にありしなるべし。
○萬代爾過牟登念哉 古來「ヨロヅヨニスギムトオモヘヤ」とよめるを考に「モヘヤ」とよめり。いづれにてもあるべし。(「ヨロヅヨ」は上にいへる如く、永久といふ程の意にとるべし。)「念哉」を「オモヘヤ」とよむこと卷一「六八」の「忘而念哉」の下にいへり。この「過ぐ」といふは如何なる意かといふに、考には「過去めやてふ也。萬代とほぎ作りし宮なれば、失る代あらじ。是をだに御形見とあふぎ見つつあらんと也」といひ、略解以下大抵これによれり。然るに攷證には「過《スグ》はたゞ過《スギ》ゆくの意にはあらで、いたづらにすぎんと思へや、いたづらに過んとは思はざりしをと也」といへり。されど、攷證のいふ所何の意なるか明かならず。しかも考のいふ所も不十分なり。その「すぐ」は卷一「四七」の「過去君《スギニシキミ》」の下にいへる如く人の死去するを「イノチスグ」といへる「スグ」と源は(503)同じ意なるものにして攷證にひける例、卷三「三二五」に「明日香河川余杼不去立霧乃念應過孤悲爾不有國《アスカガハカハヨドサラズタツキリノオモヒスグベキコヒニアラナクニ》」卷四「六九三」の「如此耳戀裁將度秋津野爾多奈引雲能過跡者無二《カクノミニコヒヤワタラムアキツヌニタナビククモノスグトハナシニ》」又「六九六」の「家人爾戀過目八万川津鳴泉之里爾年之經去者《イヘビトニスギメヤモカハヅナクイヅミノサトニトシノヘヌレバ》」なども徒にすぐるの意にはあらで、その事の空しくなりて、今は過去の事と思はるるをいふ。されば、ここも考の如く、失《ウ》する意にして、その宮のありし事が昔話となりはつる如きことあらむとは思はむや決して思はじとなり。而してその宮の永く存せむことはただ物質的にいへるにあらで、契沖の代匠記の初稿に「萬代ふとも此宮昔がたりにならんとおもはねば、皇子の御かたみと天を仰ごとくあふぎみてつねにしのびたてまつらん云々」といひ、又清撰本に「後代まで御名の朽失ずして慕ひ參らせむことを云て云々御子孫相續して香久山の宮の萬代に殘べければ、仰見むとなり」といへる如き意ありと知るべし。さて「すぐ」を上の如く解してもなほこの二句につきて考ふべきあり。終の「ヤ」はもとより諸家のいふ如く反語をなせるものなるが、これを「ヨロヅヨニ」よりつづけて、ここに至りて反語となれりとするときは何の意かわからぬ事となるべし。されば、これは「萬代に」はそれにて、句をきりて、萬代に、存續しての意にとりて、そのままにおき、次に「や」の關する所は「過ぎむ」より下にして、過ぎむと思はむや決して過ぎじ、即ちこの香久山宮は、永久に存續すべく思ふと釋せざるべからず。前後のつづき、言たらずしてかた言のやうに見え、無理なるやうなれど、古はかかるいひざまもせしならむ。而してこの句はこれにて切れたれど、意下につづきて、その中間に「この故に」といふ如き意味を含みてありと考へらる。
(504)○天之如 「アメノゴト」とよむ。「如」は「ノゴトシ」と活用してもよみ、又語幹として「ゴト」とのみもよむべきが、ここは音の數より見て、「ゴト」とよむべきものと知らる。「ゴト」の用例は集中に多きが、一二をあげむに、卷五「八九二」に「綿毛奈伎布可多衣乃美留乃其等和和氣佐我禮流可可布能尾肩爾打懸《ワタモナキヌノカタギヌノミルノゴトワワケサガレルカカフノミカタニウチカケ》」卷十五「三六九四」に「伊米能其等美知能蘇良治爾和可禮須流伎美《イメノゴトミチノソラヂニワカレスルキミ》」などなり。これは大殿を振り仰ぎて見るを天を仰ぐにたとへていへるなり。卷十三「二三二四」に「君之御門乎如天仰而見乍雖畏思憑而《キミガミカドヲアメノゴトアフギテミツツカシコケドオモヒタノミテ》云々」とあるは、この語遣の例なり。
○振放見乍 「フリサケミツツ」とよむ。「フリサケミル」といふ語の事上にいへると同じ意なり。
○玉手次 「タマダスキ」とよむ。この字面は卷一「二九」にありて、そこにいへり。又「タマダスキ」の事は卷一「五」の「珠手次」の下にいへり。而してこれを「カケ」といふ語の枕詞とする由もその下にいへり。
○懸而將偲 舊訓「カケテシノバム」とあり。考には「カケテシヌバナ」とよめり。意は甚しくかはらねど、「ナ」は希望をいふ助詞なれば、「將」の字の意に十分にかなはず。「將」は「ム」にあつるが普通なり。又「偲」字の事は卷一「六六」の「家之所偲」の下にいへるが、「シヌブ」にても「シノブ」にても語は元來同じものなり。されど、この頃は「シヌブ」といひたること卷一「六六」にていへる如くなれば、ここは「カケテシヌバム」とよむべきなり。さて「カケテ」とは如何なる意ぞといふに、古義に「心に懸て偲慕むと云るなり」といひ、攷證美夫君志以下近頃の諸家皆かくいへり。「カケテ」の語例は卷一「六」の歌にあり。
(505)○恐有騰文 舊板本「カシコケレドモ」とよめるが、考には「カシコカレドモ」とよみたり。いづれにてもあしとにあらねど「カレドモ」の方、語の本形なるべければ、然よめり。この一句は顛倒しておかれたるにて、本來「カケテシヌバム」の上にあるべきものなり。ここの意は恐れあれどもといふなるが、何が恐れあるにかといはゞ賤しきわが身の心に懸けて偲び奉らむことの恐きなり。
○一首の意 此の歌長篇にして且つ組織頗る巧みなれば、單に語を逐ひて通解せむには脈絡不明瞭になるべければ、次に文脈をただして解説すべし。
 先づこの篇は前後の二大段落に分つべし。第一大段は「神隨安定座奴」までにして、それより下を第二大段とす。この段落はその長さに於いて大なる懸隔あり。全篇百四十九句中第一大段は百三十六句、第二大段は十三句なり。
 この第一大段はかくの如く長きが、いづこにも句の終りとすべき所なく、文法學上の見地よりすれば、ただ一箇の複文たるなり。かくの如き長き文法學上の一箇の文はかの冗長なる源氏物語にも稀なるべし。而して、その間に一の心を休むべき所もなく、所謂一氣呵成の文なるに於いて見れば、實に驚くべき大手腕といふべきなり。然るにこの歌をは三段落とすべしといふ説あるは如何なる故ぞ。この第一大段は既にいひしが如く、高市皇子の御功績より薨去ありしことに及びたるものにして主として高市皇子の御事に關する客觀的の記述にして所謂叙事たり。第二大段は人麿の皇子に對し奉る感想をのべたる主觀の所謂抒情なり。かく(506)の如き明かなる内容上の差あるをば、顧みずして漫然長さの如何によりて三段に分つといふことは如何なる理由によるか、全然考ふべからず。かゝる説は余はこの歌を解せざるものなりといふに躊躇せざるなり。
 さて第一大段は頗る長けれどその間に句切りといふものなく、嚴密の意にて段落と名づくべきものなきが故に、その叙事の内容の方向轉換如何に注目してそのうちの分け方を考ふべし。かかる注意を以て考ふる時は「定めてし瑞穗の國を神ながら太敷きまして、八隅知之わが大君の天の下申したまへば」までが高市皇子御在世の時の事にして、「わが大君、皇子の御門を神宮に装ひ奉りて」以下が薨去したまひし事にかゝる。さればこの間にて叙事の方面轉回せり。今かりにこれを段落と見なして、以上を第一中段といひ、以下を第二中段といふ。而してこれはもとより眞の段落にあらねば、その間のつなぎあり。そのつなぎは「萬代に然しもあらむと木綿花の榮ゆる時に〔二字右○〕」なり。これは上の第一中段につづきては御在世を謳歌する語なるが、最後の「時に」より急轉直下して形勢を一變せしめたるなり。
 次にその第一中段を見るに、これは御在世中の功績をいへるなるが、その中更に如何に方面の轉回が行はれてあるかを考ふるに「天雲を日の目もみせず、常闇に覆ひ賜ひて定めてし瑞穗國」までが、壬申の亂※[甚+戈]定の大功をいひたるものにして、「瑞穗國を神隨太しきまして」以下は太平の世の太政參與の事をいへるなれば、ここにも又その方面の一轉回せるを見る。これらを亦かりに段落と見なして、その上なるを第一小段と名づけ、下なるを第二小段と名づく。これら(507)も亦もとより段落にあらねば、その間のつなぎあり。そのつなぎは、瑞穗國なり。この「瑞穗國は上の小段の部分にして同時に下の小段の部分たるなり。
 次にその第一小段は壬申の亂を叙せるものなるが、その中に又區分を立つべき點ありやと見るに、「行く鳥のあらそふはしに」までは人々の相闘ひて未だ勝負の決せぬ間のことを叙したるものにして、「渡會のいつきの宮ゆ」以下は神の力の加はりて、最後の決定を與へたるにて、叙事の方面異なれば、ここにて二に分つべし。上を假に第一分段と名づけ、下を第二分段と名づく。ここにもつなぎあり。「爭ふはしに」といふ句が二者のつなぎとなれるなり。
 なほ次に、その第一分段は人々の相闘ふ事を叙せるが、そのうちにて又方向の差違ありやと見るに、「大雪のみだりてきたれ」までは主として高市皇子の軍の事にして、その以下は主として近江軍の事なれば、ここにて二に分つを得べく、ここには「みだりて來れ」といふ條件形あればみわけ易し。今この上なるを第一節といひ、下なるを第二節といふ。
 その第一節は專ら高市皇子の軍の事を叙せるが、その始の部分「皇子ながら任け賜へば」までは主として天武天皇の御上よりいひて、その終に高市皇子の大任を受けたまへるをいひ、「大御身に太刀取りはかし」以下は專ら高市皇子の軍事上の行動をいへり。而してその關節は「まけたまへば」といふ接續にあり。今、上を第一小節とし、次を第二小節とす。
 これより大意を上の分け方によりていふべし。第一小節は壬申の亂の起りて天武天皇の兵を起して高市皇子に軍事行動の全權を委任せられしことをいひ、第二小節は高市皇子が大(508)任を受けて軍務に鞅掌せられたる結果、その軍威の盛大にして、敵を壓倒せしことをいひたるが、以上合して第一節として、天武天皇の軍をいへるなり。第二節に於いてこれに對して近江朝の軍士も決死の覺悟にて奮闘せしことをいへるなり。以上二の節を合せて第一分段とす。この分段中、天武天皇の軍の事は七十二句にわたりて力説し、近江軍の事は殊死して奮闘すといひたれど、僅に六句にてこれに對立せしめたり。これは主客の別を失はぬ巧みなる叙事法といふべし。
 さて第一分段に天武の軍近江の軍相互に爭ひたる事をいひたれど、その決著をいはずして最後に「爭ふはしに」といひ、第二分段に入りて伊勢の皇大神の神助によりて天武軍の勝利となりて天下平定せしことをいへるが、これは暗に、天武天皇の皇位につかれしは神助あるによることを匂はせたるなること既にいへる如し。以上を合せて第一小段とするが、この小段は壬申の亂とその※[甚+戈]定とを主としていへるものにして、ここにも又人力を以ての爭ひは七十八句にわたりて説き、神助をいへるは十句に止まる。これは人事をつくせる事を主としていへるに似たるが、その主たる功勞の高市皇子にある事を明かにせむ爲の筆法と見らる。
 さて第一小段に壬申亂を叙し、その※[甚+戈]定せるは高市皇子の大功績たるの由を明かにせるが、第二小段は亂後太平の世に高市皇子の太政に參與せられしことをいひ、これを一括して第一中段とす。この中段は主として高市皇子御在世の間の事、主としてその功績の偉大なるを述べたるが、そのうちにも壬申の亂に關するものは八十八句にして、亂後の事は六句に止まる。(509)これこの皇子の大功績は何としても壬申の亂の※[甚+戈]定に存するを物語れるものなり。
 第二中段は二に分つべし。即ち「思ひも未だつきねば」までは皇子の薨去ありて、悲めるさまを叙し、「言さへぐ百濟の原ゆ」以下は御葬儀を叙したり。而して第一中段は全然叙事といふべく、第二中段は叙事に參ふるに抒情を以てせることも注意すべし。これ第二大段が全然、抒情となるべき下地を豫めつくれるものにしてまた巧みなりといふべし。しかしてその第一中段と第二中段とはかく内容の性質に於いて著しく相違せるに、その間に文句のきれめといふもの全くなくして、段落の名をつくべきにあらざるさまなるに、他の小段、分段、節、小節と余が名づけたる部分の間はかへりて、辨へ易きなり。これを考ふるに、その内容に於いて密接なるはかへりて外形に於いて方向の轉換せることを示し、内容に於いて甚しく異なる方面に轉換せるものはかへりて、外形に於いて、きれめをあらはさず。そのさま實に人の目を驚かしむるものあり。これこの人麿の文才の偉大にして常人の及ぶべからざる點の存する所にして、古來この歌の段落如何を明かにいふを得ざりし點實にここに存す。
 さて既にいひたる如く、第一大段に於いて百三十六句を以て主として皇子の御事を叙し、第二大段に於いて僅に十三句を以て、自己の敬慕の情を抒べ、しかも兩者相待ち、相持して、力の上に於いては相對して讓らざる概あり。されば代匠記に「人麿の獨歩の英才を以て皇子の大功を述べて薨去を慟奉らるれば、誠に不朽を日月に懸たる歌なり」と評せるも宜なりといふべし。
 
(510)短歌二首
 
○ この短歌の文字を考は改めて反歌とし、攷證またこれに傚へり。然れども短歌はその歌の體につきていへる名目にして、反歌はその歌の性質によりていへる名目なれば、必ずしも改むるに及ばず。かくの如き例は上にも多きことなれば改むるはかへりて強事となるべし。
 
200 久竪之《ヒサカタノ》、天所知流《アメシラシヌル》、君故爾《キミユヱニ》、日月毛不知《ヒツキモシラズ》、戀渡鴨《コヒワタルカモ》。
 
○久堅之 「ヒサカタノ」なり。「天《アメ》」の枕詞に用ゐたり。その意は卷一「八二」にいへり。
○天所知流 舊訓「アメニシラルヽ」とよめり。童蒙抄に「アメヲシラスル」とよみ、考に「アメシラシヌル」とよみたり。契沖は「天に知らるるとは神と成て天へ歸り給ふ意なり」といひたれど、さる意味は無き筈なれば、從ひがたし。ここは天を知らすとい云意にとるべきは疑なきが、童蒙抄のよみ方は語格にあはず。かかる意の「シラス」は四段活用なるべきに、下二段活用とせるは俗に知らせるといふ告知の意にして領知の意にあらず。さればここは考の如くによむべきか。されど、「流」一字を「ヌル」とよむも如何なれば或は「天ヲ知ラセル」とよむにあらざるか。しかも考の如くよみても誤にはあらじと思ふが故に姑くこれに從ふ。卷三「四七五」安積皇子薨時歌に「和豆香山御輿立之而《ワツカヤマミコシタタシテ》、久堅乃天所治奴禮《ヒサカタノアメシラシヌレ》」ともあり。さて天を知らすといふは字義のままにいへば、天を領したまへると云ふ事なるが、事實は薨去即ち神去りまして、天に止まり給ふといふ(511)事なるべし。
○君故爾 舊訓「キミユヱニ」とよみしが童蒙抄には「キミカラニ」とよめり。これは舊訓のままなるをよしとす。例は卷一「二一」以來屡あり。さてこの「故爾」は本居宣長は「君なるものをといふ意なり」といひ、略解以下これに從へり。即ち卷一の「人嬬故」の場合もかくいへるが、既にいへる如くこの解釋は從ふべからぬものにして、いづこまでも「ユヱ」といふ語の本義に基づきて解すべし。即ちここは「によりて」の意に解すべきこと「人ツマユヱニ」の場合に異ならず。
○日月毛不知 舊訓「ヒツキモシラズ」とよみ、代匠記の初稿には「ヒツキシモシラニ」とよみ、考は「ツキヒモシラズ」とよみ、略解は「ツキヒモシラニ」とよめり。按ずるに「日月」といふ熟字は支那の字面なるが、國語にては古來「ツキヒ」といひ來ればなほ「ツキヒ」とよむをよしとすべし。「不知」は「シラズ」「シラニ」いづれにてもよき筈なり。今姑く舊來の訓に從ふ。月日の幾日經たるかといふことをも知らずしての意なり。
○戀渡鴨 「コヒワタルカモ」なり。戀ひて多くの月日を渡り經るかなといふ意なり。「カモ」は歎息の意をあらはせり。卷四「五九九」に「朝霧之鬱相見人故爾命可死戀渡鴨《アサギリノオホニアヒミシヒトユヱニイノチシヌベクコヒワタルカモ》」卷十「一九一一」に「左丹頬經妹乎念登霞立春日毛晩爾戀渡可母《サニツラフイモヲオモフトカスミタツハルヒモクレニコヒワタルカモ》」卷十一「二六四五」に「宮材引泉之追馬喚犬二立民之息時無戀渡可聞《ミヤキヒクイヅミノソマニタツタミノヤムトキモナクコヒワタルカモ》」など似たる詞遣なり。されどこの「戀フ」といふは所謂男女間の戀愛にあらずして、こひしたふなり。「渡る」は上の諸歌にもある如く、多くの時間を經過してその事をつづくるをいふ。
(512)○一首の意 神去りて天に上りましましぬる君によりてわれらは月日の經過することをも知らず、ひたすら慕ひ戀ひ奉ることよとなり。これ「天しらしぬる君」といふことと、「月日も知らず」といふこととをとりあはせ、詞のあやをなせるものと見ゆるが、これのみにては意足らずして長歌の意切なるには應ぜざる如き感あり。或は思ふ。こは次の歌と相待ち、二首にて意を完くせるものならむ。然らば、これ一首をとりて論ずるは不可なりとすべし。
 
201 埴安乃《ハニヤスノ》、池之堤之《イケノツヽミノ》、隱沼乃《コモリヌノ》、去方乎不知《ユクヘヲシラニ》、舍人者迷惑《トネリハマドフ》。
 
○埴安乃池之堤之 「ハニヤスノイケノツツミノ」なり。この池の堤の事は卷一「五二」の藤原御井歌に見えたり。
○隱沼乃 舊訓「カクレヌノ」とよみ、代匠記には「コモリヌノ」とよむべき按を出せり。かくて考以下それによれり。「隱」は「カクレ」とよむこと、もとよりなるが、本集には又「コモル」とよみたる例あり。この卷「一三五:に「嬬隱有屋上乃山《ツマコモルヤカミノヤマ》」又卷十一「二五一一」に「隱口乃豐泊瀬道者《コモリイクノトヨハツセヂハ》」卷十三「三三三〇」に「隱來之長谷之川之上潮爾《コモリクノハツセノカハノカミツセニ》」など例多し。さて「コモリヌ」といへる例は卷十四「三五四七」に「阿知之須牟須抄能伊利江乃許母理沼乃安奈伊伎豆加思《アヂノスムスサノイリエノコモリヌノアナイキヅカシ》」卷十七「三九三五」に「許母利奴能之多由狐悲安麻利《コモリヌノシタユコヒアマリ》」など假名書のものあるによりて立證せらるれど、「カクレヌ」といへる語の證なし。されば「コモリヌノ」とよみてよきなり。「沼」は今「ヌマ」といふものなれど、古語はたゞ「ヌ」なりしたり。和名抄に「唐韻云沼 之少反和名奴 池沼也」とあり。さてこの「コモリヌ」とは如何なるものぞとい(513)ふに、考に「こは堤にこもりて水の流れ行ぬを人の行方をしらぬ譬にいへればこもりぬとよむ也」といひ、又「後世あし蒋などの生しげりて水を見えぬをかくれぬといふと心得てここを訓つるはひがごと也」といへり。略解、攷證、美夫君志などこれに從へり。古義には又「隱沼とは草などの多く生茂りて隱れて、水の流るる沼なり。九、十一、十四、十七の卷卷などにも見えたり。古事記仁徳天皇條に許母理豆能志多用波閉都々《コモリヅノシタヨハヘツツ》(隱水《コモリヅ》の下從延《シタヨハヘ》つゝなり)とある許母理豆の類なり。さてその隱沼は流れ行すゑの表《アラハ》にしられねば、去方《ユクヘ》乎不知といはむ料の序とせるなり」といひたり。註疏新考などこれに從へり。檜嬬手は二説を共に存して、ここは考の如く解せり。今二者のいづれに從ふべきかを知らむが爲に、この語の用例を按ずるに、
  隱沼乃下〔右○〕延置而(卷九、一八〇九)
  隱沼從|裏《・シタ》〔右○〕戀者(卷十一、二四四一)
  隱沼乃下〔右○〕爾戀者(卷十一、二七一九)、
  韻沼乃下〔右○〕從者將戀(卷十二、三〇二一)
  隱沼乃下〔右○〕從戀餘(卷十二、三〇二三)
  許母利奴能之多〔二字右○〕由弧悲安麻利(卷十七、三九三五)
の如く主として「シタ」といふ語を導く料に用ゐられてあれば、いかにも古義の説の如く、茂れる草にうづもりて、隱れてある沼をさすに似たり。然るにここに又
  許母理沼乃安奈伊伎豆加思(卷十四、三五四七)
(514)といふあり。これも亦上の如くに説かば説かれざるにあらねど、必ずしも然りとすべからず。ここに卷十二「三〇二三」の歌に
  去方無三隱有《・ユクヘナミコモレル》小沼〔八字右○〕乃卜〔右○〕思爾吾曾物念頃者之間《モヒニワレゾモノオモフコノゴロノマハ》
といふがあるが、この歌は「隱沼の下」といへるにも、又、ここの「去方不知」にも關係ある語を用ゐたれば、この歌を以て二者の關係的意義を解くをうべく思はる。又卷十一「二七〇八」の歌に
  青山之石垣沼間乃水隱爾戀哉度相縁乎無《アヲヤマノイハカキヌマノミコモリニコヒヤワタラムアフヨシヲナミ》
といふがあり。この歌にては「コモリヌ」とはなけれど、「水隱」とあれば、結局は同じことなり。今上の諸例を通覽するに、沼には
  「コモル」「コモリヌ」「ミコモリ」
といふこと普通の現象にして、沼の或る特殊の場合をいふとは考へられず。次に「コモリヌ」につきていはゞ
  「下」といふ語を導くもの
  「息づかし」といふ語を導くものの
二樣あるが、その下といふ語を導くものは「コモレルヌマノ下思ニ」とあるに照して考ふれば、「コモリヌ」「コモレルヌマ」畢竟同じものと見るべきなり。されば、われらは「コモリヌ」といふ語の意を詳にせむには單に「コモリヌ」といふ語を論ぜむよりもこの卷十一の歌と卷十二の歌とを精査する方捷徑なりと考ふるなり。さて
(515)  ユクヘナミ、コモレルヌマ(卷十二」
  青山ノ石垣ヌマノミコモリニ(卷十一)
の二首を通じて考ふるに、その「コモル」は、その沼の石垣又は堤などに圍み包まれて、水の行く方のなきをいへることなるは明かなり。かくて更に「コモル」といふ語の普通の意味を考ふるに、ある場所の中に在りて外と連絡を絶てることをいふ語なるは、家に籠る、城に立てこもるなど、いふ場合にても知るべし。かくて「こもる」と「かくる」とは意異なりといふべし。されば古義などの説は「コモリヌ」とはよみたれど、意は「カクル」の義にとれるものなるべし。この故に、吾人は「コモリヌ」「コモレルヌマ」「ミコモリ」いづれも同樣の意をあらはせるものにして考の如き意にて説くべきものと思ふ。かく説かば、必ず然る時は、下《シタ》といふ語を導く理由なきにあらずやといふ反問或は出でむ。されど、この反問は容易く解くを得べし。古義などにては「下」をば、或は視覺的に、或は上下《ウヘシタ》の場合に説かむとするによりてかくいへるならむが、元來「シタユ戀フ」といふ「シタ」はさる上下《ウヘシタ》又は視覺的の義にあらずして卷十(二四四一)の歌に「裏」字をかける如く心裡の義なり。「あないきづかし」をよめるもこの意による。即ち沼の水のこもりて流れ出づる所なきが如く心の裏に包みてある下の思ひをいへるなることいふをまたざるべし。この故にこの語の意は考などの説に從ふべきものにして、一はそのあたりの實地の景なるをとりて、かねて下の語の序とせるなり。
○去方乎不知 舊訓「ユクヘヲシラズ」とよみたるが、代匠記に「ユクヘヲシラニ」とよみたり。「シラ(516)ズ」「シラニ」いづれも意にかはりなく、いづれにても差支なき如くなるが、ここは「シラズシテ」と多少ためらふ意あれば、「シラニ」とよむかた、よかるべし。「去」を「ユク」とよむべきことは本卷「一〇六」「二人行跡去過難寸秋山乎」の下にいへる如く、玉篇に「去(ハ)行也」とあるにて知るべし。卷十五「三六七二」に「左欲布氣弖由久敝乎之良爾《サヨフケテユクヘヲシラニ》」卷十三「三三四四」に「立而居而去方毛不知朝霧乃思惑而《タチテヰテユクヘモシラニアサギリノオモヒマドヒテ》」などあるこの語の例なり。「コモリヌノ」よりこの語を導く理由は上の句の下にいへる如くなるが、卷十二の「去方無隱有小沼《ユクヘナミコモレルヲヌ》」といへる語最もよくその意を明かに示せり。さてこの語は上の「一六七」の長歌の末に「皇子之宮人行方不知毛」とよめるに同じき意なるが、これはただ行く方もなしといふにあらで、前途を失へるさまをいへるにて今の語にていへば途方にくれてゐるといふ程のことなるべし。
○舍人者迷惑 「トネリハマドフ」とよむ。「迷」「惑」共に「マドフ」といふ語にあてたるなるが、例の二字にてその意を確にせるなり。
〇一首の意 先にもいへる如く、この歌は上の歌と相待ちて、意を完うせるものと思しくて、この一首のみにては意足らず。先づこれを釋せむに、「われらの仰ぎ奉りし君は神去りましぬれば、われらは月日の經過するをも知らずに戀ひ渡り奉るが、(前の歌の意)さてもさても、これより後は如何にしてよき事なるか。恰もこの御門のほとりの埴安の池にこもれる水の如く去方を知らぬによりてわれら一同に途方にくれてあるよとなり。從來の諸家、この二首にして一の意を完くするものなることをいはざるは如何。かく説か(517)ずば、前の歌も後の歌も意不十分にして人麿ともある人の歌とも思はれざるさまに見ゆるにあらずや。
 
或書反歌一首
 
○ この題詞につきては、考は之を改めて、
  檜隈女王(ノ)作歌
となし、さて曰はく「今本右の反歌の次に、或書反歌一首とて此歌あれど、こは必人萬呂の歌の體ならず。されど捨べからぬ歌也。左に類聚歌林曰檜隈女王怨2泣澤神社1之哥也と註したるぞ實なるべくおぼゆ。仍てかくしるしつ」といへり。檜嬬手もかく改めたり。略解は改めざれど、それをよしとせり。されどこれは攷證に「例の古書を改るの僻なればとらず」といへるが如く從ふべからず。若し、はじめより考の如きことならば、この題詞も左注も不要なる筈なり。或書にかくあり、又類聚歌林には左注の如くなりてありたればこそかくは記せるなりしなれ。今にして漫りに古書を改むるは心なきわざなり。さてここは或書に上の長歌の「反歌一首」として次の歌ありとて參考として編者の載せたるなり。
 
202 哭澤之《ナキザハノ》、神社爾三輪須惠《モリニミワスヱ》、雖祷祈《イノレドモ》、我王者《ワカオホキミハ》、高日所知奴《タカヒシラシヌ》。
 
○哭澤之神社爾 「ナキサハノモリニ」とよむ。哭澤の神とは古事記上卷に「故爾《カレコヽニ》伊邪那岐命詔之、(518)愛我那邇妹命|乎《ヤ》、謂d易《カヘツル》2子之一(ツ)木《ケ》1乎《カモトノリタマヒテ》u乃|匍2匐《ハラバヒ》枕方1、匍2匐御足方1、而|哭時《ナキタマフトキ》、於《ニ》2御涙1所成神(ハ)坐2香山之畝尾(ノ)木本《コノモトニ》1名《ミナハ》泣澤女神。」と見え、又日本紀卷一に「于時伊弉諾尊恨之曰、惟以2一兒1替2我愛之妹1者乎則匍2匐頭邊1匍2匐脚邊1而哭泣流涕焉。其涙墮而爲v神、是即畝丘樹下(ニ)|所居《マス》之紳、號2啼澤女命1矣」と見えたる神なるべし。次に神社を「モリ」とよむことは、本集に稀ならぬことにして、卷七「一三四四」に「眞鳥住卯名手之神社之菅根乎衣爾書付令服兒欲得《マトリスムウナテノモリノスガノネヲキヌニカキツケキセムコモカモ》」とあると卷十二「三一〇〇」に「不想乎想常云者眞鳥住卯名手之杜之神思將所知《オモハヌヲオモフトイハバマトリスムウナデノモリノカミシシラサム》」とあるとを比較しても知るべし。この「ウナデノモリ」は高市郡雲梯村に坐せし高市御縣坐鴨事代主神社にして、延喜式の祝詞に御子事代主命の御魂を宇奈堤の神奈備に坐せて皇御孫命の近き守神とせられし由見えたる神なり。「杜」字は新撰字鏡に「毛利又佐加木」と注せり。又卷九「一七三一」に「山科乃石田社爾布靡越者《ヤマシナノイハタノモリニフミコエバ》云々」卷十一「二八五六」に「山代石田杜心鈍手向爲在妹相難《ヤマシロノイハタノモリニココロオゾクタムケシタレヤイモニアヒガタキ》」卷十三「三二三六」に「山科之石田之森之須馬神爾奴佐取向而吾者越往相坂山遠《ヤマシナノイハタノモリノスメガミニヌサトリムケテワレハコエユクアフサカヤマヲ》」とある「石田社」「石田杜」「右田之森」なるにて「社」「神社」みな「もり」とよむべきを見るべし。神社を「もり」といふことは代匠紀に「木の繁き所には多く神のいはゝれたまへばなるべし。又森をば神のまし/\て守たまへば、もとより云にやあらむ」といへり。大體かゝる意なるべく、又美夫君志には「社には樹木あるものなれば、或は木に从ひてかけるにて皇國古人の造字也」といへり。されど、新撰字鏡にも「毛利」と注せるにより、その源の遠きを知るべく、果して本邦人の造字なりや否やなほ考ふべきことなり。さてこの「哭澤之神社」とある神社は何處なるか。古事記には「香山之畝尾木本」にますといひ、日本紀には「畝丘樹下所居」といへるが、畢竟同(519)一の所なるべし。かくて延喜式には十市郡の條に「畝尾坐健土安神社」「畝尾都多本神社」といふあり。これらの「畝尾」はいづれも一の所にして、蓋し、香山の畝尾なるべし。古事記傳に曰はく「師(ノ)云(ク)此山の畝尾は西へも引ことに東へは長く曳渡《ヒキワタリ》りけむ。今はその畝尾の形いさゝか殘れり。」といへり。大和志によればその健土安(ノ)神社は今下八釣村にありといひ、都多本(ノ)神社は木本ミラ啼澤森にありといへり。而して下八釣(北)木本(南)相つゞきたる地にして共に香山の西麓の畝尾にあたれりとす。而してその都多本神社といふが在る所は世俗に啼澤森といへば、本歌にいへるはここなるべし。
○三輪須惠 「ミワスエ」とよむ。「ミワ」を「すゑて」といふ義なるが。「ミワ」とは何かといふに、卷一「一七」の歌の下にいへる如く、古語に御酒を「ミワ」といへるなり。本集卷十三「三二二九」に「五十串立《イグシタテ》、神酒座奉神主部之雲聚玉蔭見者乏文《ミワスヱマツリハフリベノウズノヤマカゲミレバトモシモ》」とある「神酒」即ち「みわ」なり。「みわをすう」とは神酒を滿てたる甕《ミカ》をば神にそなへ供するなるが、ことに「すゑ」といへるは如何といふに、攷證には「甕は長高く、大きなるものと見ゆれば、ことさらに居とはいへるにて、たゞ供する事のみにはあらず」といへり。この「ことさらに居といへる」にて「たゞ供する事のみにはあらず」といへるはさる事なれど、その理由が高く大きなるのみにてはあるべからず。普通に「すゑ」といふことはそをして安定の位置をえしむることをいふなるが、何故にかくいふかといふに、古の甕の類の今土中より發掘せらるるものを見るに、多くは底部丸くしてすわりのわるきものなれば、これを特に安定におくに心を用ゐたること想像せらる。これ特に「すゑ」といへる所以ならむ。卷三「四二〇」に「吾(520)屋戸爾御諸乎立而枕邊爾齊戸乎居《ワガヤドニミモロヲタテテマクラベニイハヒベヲスヱ》云々」と」いひ、同卷「三七九」に「奧山乃賢木之枝爾白香付木綿取付而《オクヤマノサカキノエダニシラカツケユフトリツケテ》、齊戸乎忌穿居《イハヒベヲイハヒホリスヱ》」卷十三「三二八四」「齊戸乎石相穿居竹殊乎無間貫垂天地之神祇乎曾吾祈《イハヒベヲイハヒホリスヱタカダマヲシシニヌキタリアメツチノカミヲゾワガノム》」「三二八八」に「忌戸乎齊穿居玄黄之神祇二衣吾祈《イハヒベヲイハイホリスヱアメツチノカミニゾワハコフ》」などいへる齊戸は即ちその神酒を盛れる甕なるべし。これに「ほりすゑ」といへるにてその地上を穿ちて底の安定なる位置をつくりしことを知るべし。「すゑ」と特にいへるは蓋しこれが爲なり。
○雖祷祈 舊訓「イノレドモ」とよみたるを代匠記に「クミノメド」と讀むべきかといひ、玉ノ小琴に「コヒノメド」とし、古義に「ノマメドモ」といへり。今按ずるに「クミノム」といふ語は日本紀の訓によれりといへども「クム」といふ語はその證もなく、又古今にわたりてありたりとも考へられねば從ひがたし。「ノマメドモ」とよむことはよまれざるにあらねど、かくよみては、未た祈らざる前の事と聞ゆれば、歌の意にかなはず。「コヒノメド」は惡しきにあらねど、祷も祈も「イノル」といふ語に當る文字にして「コフ」といふ義にはあたらず。恐らくは本居翁は二字なれば。、二語にてよむべしと考へられたるなるべきが、同義の字を二字重ね用ゐる場合の精神は卷一「六四」の「暮夕」の下にいへる如くなれば、この祷祈二字にて「イノル」とよまむこそこの文字を用ゐたるものの本旨にかなふといふべきなれ。「イノル」といふ語の例は卷二十「四三九二」に「阿米都之乃以都例乃可美乎以乃良波加有都久之波波爾麻多己等刀波牟《アメツスノイツレノカミヲイノラバカウツクシハハニマタコトトハム》」「四三七〇」に「阿良例布理可志麻能可美乎伊能利都都須米良美久佐爾和例波伎爾之乎《アラレフリカシマノカミヲイノリツツスメラミクサニワハレキニシヲ》」卷十三「三三〇八」に「天地之神尾母吾者祷而寸《アメツチノカミヲモワレハイノリテキ》、戀云物者都不止來《コヒチフモノハカツテヤマズケリ》」卷二十「四四〇八」に「須美乃延能安我須賣可未爾奴佐麻都利伊能里麻宇之弖《スミノエノアガスメカミニヌサマツリイノリマウシテ》」な(521)どあり。
○我王者 「ワガオホキミハ」とよむ。「王」を「オホキミ」とよむことは卷一「二三」の詞書なる麻績王にてもしるきが、本集の歌の中なるには、ここの外この卷「二〇五」に「王者神西座者《オホキミハカミニミシマセバ》云々」卷三「二四五」「王者千歳爾麻佐武《オホキミハチトセニマサム》」卷十六乞食者詠(三八八五)のうちに「王爾吾仕牟《オホキミニワレツカヘム》」卷十六「三八六〇」に「王之不遣爾情進爾行之荒雄良奧爾袖振《オホキミノツカハサナクニサカシラニユキノアラヲラオキニソデフル》」等あリ。「わがおほきみ」といふ語は上に屡見ゆ。
○高日所知奴 舊訓「タカヒシラレヌ」とよみたるが、童蒙抄には「タカヒシラシヌ」とよみ、考以下多く之に從へり。檜嬬手はもと「不知奴」とありしが「不」字を脱せりといひ、※[木+夜]齋本に「不」字ありといひて、「タタカヒシラサヌ」とよみたり。然れどもここに誤字ある本一も見ざるが故に、誤字説は容易に從ふべからざるのみならず、かくて守部の説く所は「常に高光日之御子と稱す高日なれば、此世に在高照しませと祈れども天(ツ)御座しらさぬよと歎き給ふなり」といへるなれど、「高光日の御子」といふ語は守部が自ら「天照す日の神の御子と云ふ意の古語也」といへる如くなれば、守部の説既に自家撞着せり。されば守部のこの説は斷じて取るべからず。かくて殘る所は「シラレヌ」と「シラシヌ」との二なるが、いづれにても、知りたまひぬといふ義なるべきが、その意にて「シラレヌ」といふ如き語法をとれることこの時代になき所なれば、「しらしぬ」とよむべきなり。「所知」を「シラス」とよむは卷一「二九」に「所知食之乎」「所知食兼」などあるそれらの例なり。「シラス」は「シル」を敬語として、サ行四段活用に再び活用せしめしものなり。「高日」の「高」は卷一の「高照日之御子」(四五、五〇、五二、)又「高知也」(五二)の「高」の下にいへる如く、「天」といふに同じ意の體言にして「高日」(522)は天日といふにおなじ語なり。即ち「高日しらしぬ」は天の日を知りたまひぬといふ語にしてその意は皇子の神となりて高天原に上りまして天を領しませりといひてその薨去の事をいひかへたるなり。
○一首の意 この歌を解するに先づ、人の命を泣澤の神に祈る習慣ありし事を考へおくべき必要あり。古事記傳に曰はく「昔かく人(ノ)命を此(ノ)神に祈(リ)けむ由は伊邪那美(ノ)神の崩(リ)坐るを哀《カナシ》みたまへる御涙より成り坐せる神なればか」と。ここにこの神の名を出せるは、一はその心もあるべく、一はその香山の宮に近きが故にありしならむ。歌の心は皇子の御命長かれと哭澤の神社に神酒を奉りなどさま/”\して祈り奉りしかど、その甲斐もなく神去りましぬることよとなり。
 
右一首類聚歌林曰、檜隈女王怨2泣澤神社1之歌也。 案日本紀曰「持統天皇」十年丙申秋七月辛丑朔、庚戌後皇子尊薨。
 
○ この左注は二段よりなれり。第一段は上の一首に對しての類聚歌林の所傳をあげたるなり。この檜隈女王とは如何なる人なるか。契沖は皇太子の妃なるべしといへり。その女王の事史に見えずして父祖も詳かならず。ただ續紀天平九年二月の叙位に從四位下檜前王を從四位上に叙せらるる記事あり。この時の叙位には男女共に在りしが、この檜前王は女子の叙位の列中にあれば女王なること著し。而して檜前即ち檜隈なれば、この檜前王即ちこの歌(523)の女王ならむも知れず。若し然る時は高市皇子薨ずる時より天平九年まで四十二年なれば當時二十歳として天平九年には六十二歳となればありうべからざる事にあらず。されど確證なければ、斷言しうべからず。「怨泣澤神社之歌也」とは高市皇子の事を祈申されしかどその效あらざりしかば怨み奉られし折の歌といふ事なるが、これは山上憶良の類聚歌林に出でたる由なり。以上左注の第一段なり。左注の第二段は上の長歌よりここまでの注にして、高市皇子薨去の時を日本紀によりて注したるなり。然るに、ここに「持統天皇」とあるは、この卷の例と違ひ、又編述當時の記事と考へられず。金澤本、神田本、大矢本、西本願寺本、京都大學本等にはこの四字なし。恐らくはこれ後人の記入にして原本にはなかりしなるべし、古義に衍とせるはさることなり。美夫君志には元朱鳥とありしを後人の改めたるなりといへり。されど朱鳥ならば、十一年とあるべきなればこの説も從ふべからず。
 
但馬皇女薨後穗積皇子冬日雪落遙望2御墓1悲傷流涕御作歌一首
 
○但馬皇女 この「皇女」を類聚古集に「皇子」とせり。されど、「但馬皇子」といふ方この頃に所見なく、他の諸本みな皇女とあるのみならず上にもこの皇女と穗積皇子との事見えたれば、「皇女」とあるを正しとすべし。この皇女は上相聞の部に「但馬皇女在2高市皇子宮1時思2穗積皇子1御歌」(一一四)一首又「穗積皇子遣2近江志賀山寺1時但馬皇女御作歌」(一一五)一首ありて、そこにいへる如く、天武天皇の皇女にして御母は藤原氷上娘なり。
(524)○薨後 「スギタマヘルノチ」とよめり。但馬皇女の薨は續日本紀卷四和銅元年の條に「六月丙戌(十三日)三品但馬内親王薨(シヌ)。天武天皇之皇女也。」とあれば、この六月十三日以後御葬儀もすみ御墓をも營まれての後の事なるべきが、こは契沖のいへる如く、その元年の冬によませたまへるものなるべし。
○穗積皇子 この皇子も天武天皇の皇子にして、但馬皇女と異母の兄妹にましまし事は既にいへる如くなるが、又、上に「但馬皇女在2高市皇子宮1時竊接2穗積皇子1、事既形而後御作歌」(一一六)とある如く、妹背のかたらひましまししなり。而して穗積皇子は靈龜元年に薨去ありしにて、この時には知太政官事の任にまししなり。
○冬日雪落 考に「フユノユキフルヒ」とよめり。このよみ方はさまで問題にあらざるべきが、「冬日」はたゞ「フユ」とのみよみてよかるべく、雪落は雪のふれる時をいへるなり。
○遙望御墓 考に「ミハカノカタヲミサケテ」とよめり。されど、「ミハカ」と「ミハカノ方」とは必ずしも一ならざるのみならず、「御墓の方」ならば、「御墓」とのみは書くべからず。されば、ここは註疏によめる如く、「ミハカヲミサケテ」とよむ方まされりとす。而してこの御墓は今知られねど、この詞書と歌の趣とによれば、「ヨナバリ」の岡の上に在りしこと疑ふべからず。なほ又穗積皇子の宮は何所にありしか、これも詳かならねど、當時知太政官事として劇務に鞅掌せられしものなれば、宮城の所在地即ち藤原都にまししことならむ。その地より、吉隱の地を望みたまひての御歌なりと考へらる。
(525)○悲傷流涕作歌 考は「ナゲキカナシミテ云々」とよめり。「悲傷」は「カナシム」なり流涕は「ナク」なり。されば「カナシミナキテヨミマセルウタ」とよむべきに似たり。
○ さて萬葉考はこの題詞の前に後なる「和銅四年」の歌の上にある「寧樂宮」も三字を移せり。されど、攷證美夫君志は流布本のままなるをよしとせり。げにも、ここの歌は寧樂宮遷都以前の歌なれば、考の如くせばかへりて不合理とならむ。
 
203 零雪者《フルユキハ》、安幡爾勿落《アハニナフリソ》。吉隱之《ヨナバリノ》、猪養乃岡之《ヰカヒノヲカノ》、塞爲卷爾《セキニナラマクニ》。
 
○零雪者 「フルユキハ」とよむ。「零」を「フル」とよむことは卷一、「二五」の「雨者零計類」の下にいへり。意明かなり。
○安幡爾勿落 「アハニナフリソ」とよめり。考には「安」を「佐」と改めて「サハニナフリソ」とよめり。然るに如何なる本にもさる字を用ゐたるものなければ、この誤字説は從ふべからず。さて「アハ」として研究すべきが、契沖は沫雪の義として「ワ」「ハ」通ぜりといへれど、これは從べからず。拾穗抄には「淡に也。消安き淡雪にはなふりそ。降つもれ」といふ意なりといへり。然るに略解に本居宣長の説をあげてはく「又宣長云近江の淺井郡の人の云く、其あたりにては淺き雪をゆきといひ、深く一丈もつもる雪をばあはといふと也。こゝによくかなへり。古今集の雲のあはだつも雲の深く立意なるべしといへり。古言はゐ中に殘れる事もあればさる事にやあらむ。猶考べし」といへり。この宣長の説は古義、注疏、美夫君志等之に賛せり。而してこの「アハ」(526)といふものにつきては、萬葉集の注ならぬ他の隨筆にもあり。たとへば伴蒿蹊の閑田耕筆に近江彦根の陪臣大菅中養父、其主の領地を檢する時、或山家にて不納を責るにつきて其家の後山に林繁茂せるを見付、是を伐剪て、代《シロ》なさば、かく未納にも及ぶまじきをと咎む。農夫いな、これなくてはあわのふせぎいかにともすべからずといふ。それは何の事ぞと問しに、雪はつもる物なり。あわはつみて崩るゝものなれば、林をもて防がざれば、家をうちたふすなりと答へけるに、中養父は古義を好む人なれば、はじめてさとりぬ。萬葉集に「ふる雪はあわになふりそ吉隱《ヨナハリ》のゐかひの岡の塞《セキ》ならまくに」とあるも、正しく是にてあわはふりて崩るる故に塞となりがたければ、あわにはふることなかれといふなりけりとなり。
又村田春海の織錦舍隨筆に曰はく
  又あふみよりあたりには、雲のあはにふるといふ事ありと、さきに村田泰足がいひ侍りしが、まことにさることありやと問しかば、海量いへらく、近江にてはさはいはねどちかき國にていふ事に侍り。われは美濃國廣瀬の山中にてさいふ事を聞きはべりぬ。雪のふりてこほりたる上に、又あらたに降たる雪のいまだもとの雪ととぢあはぬ程に北風にさそはれてしづれ落つることあり。そはあたゝかなるけにさそはるるにはあらず。こをあはとぞいふなる。又そよともいふとぞ。
  さきに泰足がかたりけるは越前と近江の境に椿居村中の河内村などいふ所あり。山多き所なり。ひとゝせ其あたりに宿りしに、山あひの家の上に大木ともあまたおひしげりた(527)るを、こはなどきらざると問つれば、所の人の曰く、冬にいたりて雪あはにふる時、この木どもなければ、家をうづめそこのふ事あればきらであるなりといへり。あはにふるとはいかなる事ぞといへば、雪のおほくふる事をこゝにてはしかいふといへり。萬葉にふる雪はあはになふりそと有は、またくこれと同じ詞とみゆ。こは古言のおのづからに傳はりしなるべし。安幡を淡字の意とするも左幡の誤とするもみなひがごとなるべしといへり。泰足も近江の國の人なり。
といへり。而して、橘南谿の東遊記鈴木牧之の北越雪譜には越後にもかくいへることありと見え、田中大秀の荏野册子によれば、飛騨にてもかくいへる由なるが、今もしかいふなり。さて又、攷證には、「この安幡は必らず地名なるべし」といひて曰はく「安幡《アハ》は穂積皇子のおはします藤原の京より但馬皇女の御墓のある猪養の岡のほとりを望給ふ間にてこの御墓へ往來する道のほどの地名なるべし」といひ、書紀皇極紀の謠歌に「阿波努」とある所、又は「大和志十市郡に粟原てふ地」などをこれに擬せり。又新考には「アハはサハの誤にあらで、アハ即サハなるべし」といひて、「古今集墨滅歌の中なるクモノアハダツ山ノフモトニのアハダツもサハニタツなるべし」といへり。かく四説あるが、拾穂抄にいへる淡雪の説によれば深くふりつもれといふ義となるべし。されど、「あは雪」を單に「あは」といふ事ありや否やここに一の疑問ありといふべし。次に、本居説以下の「あは」といふ方言と同じとする説は頗る興味ある説なるがかく解してこの歌の意とほるべきか如何。その事はなほ下に論ずべし。攷證の地名説も、根據ある事ならば、こ(528)の歌の意を解するに便なる如く思はるれど、この説は全く根據なき事にして從ふべからず。粟原といふ地名は今も確に存するが、これを假にここにいふアハに宛てたりとすとも、藤原京よりいへば、吉隱(【長谷より東】)と粟原(【忍坂より入る南東】)とは頗る方向異なれば、かく歌はるべき理由なきなり。加之粟原即「アハ」なりといふこともとより證なきことなればなり。次に「アハ」即ち「サハ」といふ説も根據もなきことなるが、故に(「アハタツ」はおのづから別なり)從ひがたし。結局は淡雪をアハといへるか、若くは本居説の如きかの二者を出でざるべし。而してこの二説は趣略相反すれば、解釋の結果は或は反對となるべし。しかも、この歌は下句にも難解の點あれば、今はこのままにして進み、そこに至りてここに照して、眞意を知りうべきか否かを回顧せむとす。
○吉隱之 舊訓「ヨコモリノ」とよみたり。されどかくては意明かならねば、契沖は「ヨナバリノ」とよむべしといへるが、それより後この説に一定せり。契沖曰はく「是はよなはりといひて地の名なり。持統紀云、九年十月乙亥朔、乙酉幸2菟田吉隱1。丙戌至v自《ヨリ》2吉隱1。和州の者に尋侍しかば、宇陀郡によなはりと云村あり。今も吉隱と書侍り。長谷のけはひ阪を越て十町餘もや過侍らむと申きといへりこの村は、大體古の東海道の要點にあたれる地にして藤原京より長谷を經て、伊賀の名張に出づる街道にあたれり。而その地名は今も吉隱とかき、日本紀には宇※[おおざと+施の旁]とあれど、古く城上郡に屬せるが今は初瀬町のうちにあり。契沖が宇※[おおざと+施の旁]郡とかきしは傳ふる人の誤にして古より郡域は變更なかりしならむ。たゞ吉隱は今も宇※[おおざと+施の旁]郡と接したる地なれば、古はひろく宇※[おおざと+施の旁]吉隱といひしが郡を定められし時に磯城郡に入りしならむ。「隱」を「ナバリ」の(529)語にあつることは卷一「四三」の「隱乃山」「六〇」の「隱爾加」の下に既にいへり。
○猪養乃岡之 「ヰカヒノヲカノ」とよむ。これは吉隱のうちの一の地名なりしなるべし。さてこの地の事は卷八、大伴坂上郎女跡見田庄作歌二首の一(一五六一)「吉名張乃猪養山爾伏鹿之妻呼音乎聞之登聞思佐《ヨナバリノヰカヒノヤマニフスシカノツマヨブコヱヲキクガトモシサ》」とあると同じ所なるべきが、その「ゐかひ」の岡又山といふ所吉隱村のうちの山地なるべきことはいふをまたずして大和志に「猪飼山有2吉隱村上方1山多2楓樹1」と見えたれど、今その名をもてる地ありや否や詳かならず。この「猪養」の名を有せるを以て考ふるに、或は實際家猪(即ちぶた)を飼ひてありし地か、若くは猪養部の住める地若くはその部に屬する地なりしならむ。しかも今にしては詳にしるべからず。さてこの猪養の岡と但馬皇女の御墓とは如何なる關係になるかと考ふるに、その間に御墓の有りしならむと考へらる。
○塞爲卷爾 この句舊來訓を加へず。金澤本には「塞」を「寒」とせり。されど他本はすべて「塞」にして「寒」字としてもよむ方法明かならねば、なほ本のままにてよみ方を考ふべし。さて代匠記及拾穗抄には之を「セキニセヤクニ」とよみ、童蒙抄は「セキニナラマクニ」とよみ、考は「セキナラマクニ」とよみ、諸家之に從へり。古義は「セキナサマクニ」とよみ新考は「セキトナラマクニ」とよみたり。檜嬬手は又「寒有卷爾」の誤として「サムカラマクニ」とよみたり。されど、此の誤字説は從ひがたし。「塞」は金澤本に「寒」とあれど、その訓は「セキ」とあれば、誤寫なること明かなり。又「爲」は一も誤字たることを證すべきものなし。されば、これは「セキニセマクニ」か「セキニナラマクニ」か「セキナラマクニ」か「セキナサマクニ」か「セキトセマクニ」かの五樣のうちいづれかよきと見るに、(530)大體この難點は「爲卷爾」のよみ方にあるが如し。即ち「塞」は「セク」といふ國語にあたる漢字にして、古事記上卷に「逆|塞《セキ》2上(テ)天安河之水1而」とあるなどこれなるが、これを名詞にしたるが「セキ」にして關を「セキ」といふも同じ意たるなり。支那にても廣雅釋詁三に「關塞也」ともいへり。本集にては卷三「四六八」「妹乎將留塞毛置末思乎」とあり。さて次は「爲卷爾」のよみ方なるが、これは上の諸説を綜合すれば、「セマクニ」「ナラマクニ」「ナサマクニ」の三樣に攝すべきが如くなれど、「ナラマクニ」とよめるうちには、「考」の如く「セキナラマクニ」とよむときはその「ナラマクニ」は「アラマクニ」の約まれるものといふべきが、元來「爲」を「ナラ」とよむはラ行四段の「ナル」(化成)の意の語としての事なれば、かくよむことは無理なりといふべし。次に「セマクニ」「ナサマクニ」の二はよみ方異なれど、意は一なれば、これは畢竟一意とすべし。されば、この訓は「關にせむ」といふことか「關になる」といふことかの二意を先決問題とせざるべからず。而して若し關にせむとの意にとらば、その雪を以て皇女の御墓への通路を塞かむと欲する意となるべきを以て題詞と正反對の意となる。されば、この訓は結局「ナラマクニ」の訓即ち童蒙抄及び新考の説の二者以外のものは成立すべき餘地なき筈なり。而して童蒙抄と新考との説の差は「セキニナラマクニ」「セキトナラマクニ」の差即ち、「ニ」を添へてよむか「ト」を添へてよむかの別に止まれる。而して後世ならば、かかるところは「ニ」「ト」いづれにてもよき事と見ゆれど、古語にては「成る」の補格は「ニ」を伴ふを常とせり。その例卷一「五〇」に「常世爾成牟《トコヨニナラム》」卷十「一八五〇」に「朝旦吾見柳※[(貝+貝)/鳥]之來居而應鳴森爾早奈禮《アサナアサナワガミルヤナギウグヒスノキヰテナクベキモリニハヤナレ》」の如きこれなり。而して又「ト」にしても「ニ」にしても之を加へてよむべきなるが、かく加へてよ(531)まむにも從來卷一以來「ニ」を加へてよむべき例は「暮相而」(六〇)「東野炎立所見而」(四八)「夷者雖有」(二九)「荒野者雖有」(四七)など多くあれども、「ト」を加へてよむべきものは殆どなし。(「一」の歌の「背齒告目」は時別の場合なり)この故に、「セキニナラマクニ」とよむべし。さてこの「セキ」が、上の猪養の岡に對して如何なる關係に立てるかといふに、猪養の岡の關といふことは恐らくは猪養の岡の墓所への通路を遮る關といふことなるべし。かく考へ來るときにはその關となるものは、雪なるべきことは疑ふべからず。而して通路を妨ぐる程の雪は相當の量あるべき筈なれば、上の「あは」は本居説の如くに考ふるを穩なりとすべし。されど、當時の古語として果して之を信ずべきか否か、未だ旁證を得ざれば、それまでは從ふべき一説としておき定説とすることは躊躇すべきなり。
○一首の意 今ここより吉隱の猪飼の岡の御墓を望むに、今は恰も雪ふれるが、この雪が、あはにふり積りたらば、猪養岡の御墓地にかよふ道の塞ともなりなむと氣づかはしく思はる。雪よもし心あらば、あはにふることなかれとなり。われ大正九年の十一月暴雨を冒して、吉隱の陵(光仁天皇の御生母、皇太后紀橡姫の御陵)を拜せしが、この陵は吉隱村角柄にありて、急峻なる山の頂にありて晴れたる時は國中《クニナカ》地方を詠め又宇※[おおざと+施の旁]郡内を見るべしといへりしが、御陵を拜したる後少しく雲はれしそのたえまより櫻井今井の方面を見得たり。猪養の岡とはこの邊の事なるべきか、さらば藤原京のあたりより遙に望みうることは少しも疑なくして、この詞書のうきたることにあらざるを知れり。
 
(532)弓削皇子薨時置始東人歌一首并短歌
 
○弓削皇子薨時 弓削皇子は上に既に(一一一)見えたるが、そこにいへる如く、天武天皇第六の皇子にして、文武天皇三年七月(癸丑朔)癸酉(二十一日)薨ぜし由續日本紀に見えたり。この時の歌なり。
○置始東人歌 この人の名は卷一に見え、太上天皇幸于難波宮時歌の作者の一人なるが、その傳詳かならぬこと既にいへり。代匠記には「連」の字脱せるかといへれど、卷一にもかくあれば、姓なき人なりしならむ。さて金澤本、神田本には「歌」の上に「作」字あり。目録も亦然り。
○短歌 多くの古寫本小字とせり。
 
204 安見知之《ヤスミシシ》、吾王《ワガオホキミ》、高光《タカヒカル》、日之皇子《ヒノミコ》、久竪乃《ヒサカタノ》、天宮爾《アマツミヤニ》、神隨《カムナガラ》、神等座者《カミトイマセバ》、其乎霜《ソコヲシモ》、文爾恐美《アヤニカシコミ》、晝波毛《ヒルハモ》、日之盡《ヒノコトゴト》、夜羽毛《ヨルハモ》、夜之盡《ヨノコトゴト》、臥居雖嘆《フシヰナゲケド》、飽不足香裳《アキタラヌカモ》。
 
○安見知之 「ヤスミシシ」とよむ。卷一以來「八隅知之」とかけるにおなじ。卷一「三八」にはここと同じ文字にてかけり。この語の事は屡いへり。
○吾王 上「二〇二」に「我王」とかけるにおなじく「ワガオホキミ」なり。舊訓「ワガオホキミノ」とよみたれど、「ノ」を加へず。下と同格として重ぬべきこと、卷一「四五」の「八隅知之、吾大王、高照日之皇子」以(533)下に例多し。
○高光 舊訓「タカテラス」とよみたれど、文字のままに「タカヒカル」とよむべきこと本卷「一七一」の「高光我日皇子乃萬代爾國所知麻之島宮婆母」の條に既にいへるが、その語例は古事記に少からざることもいへり。意は天に光るの義にして「日」の枕詞なり。
○日之皇子 舊訓「ヒノワカミコハ」とよみたるが、卷「四五」以後屡いへる如く、「ヒノミコ」とよむべきなり。その意は日の神の御子の義にして、天皇をも皇子をもさし奉れるが、ここは弓削皇子をさせり。
○久堅乃 「ヒサカタノ」既にいへる如く「天」の枕詞なり。
○天宮爾 舊訓「アメノミヤニ」とよめり。神田本には「アマツノミヤニ」とよみたるが、童蒙抄は「ミソラノミヤニ」とよみ、考に「アマツミヤニ」とよめり。これは「安麻都美豆《アマツミヅ》」(卷十八、四一二二)「阿麻豆可未《アマツカミ》」(續紀、十五、聖武御製)等の例によりて考の説の如くよむをよしとす。
○神髓 「カムナガラ」とよむ。かくよむことは卷一「五〇」の「神髓爾有之」の下にいへり。この語の意は卷一「三八」の神長柄の下にいへる如く「神そのまゝ」の意にして、神にましますまゝに、又はもとより神とましますが故にといふ意なり。皇子は神孫にましますが故にかくいへり。
○神等座者 「カミトイマセバ」とよむ。この「ト」といふ助詞は資格を示すものとして神として座せばといふことなり。これ弓削皇子の薨去まししを神さりたまひしといへるなり。
○其乎霜 舊訓「ソレヲシモ」とよめるを考に「ソコヲシモ」と改めよめり。按ずるに萬葉集中には(534)「ソヲ」「ソコヲ」の例は見ゆれど「ソレヲ」といへる假名書の例は見えねばこの頃にかゝる詞遣ありしか否か疑ふべし。されば五音なるにたよりて「ソコヲシモ」とよむべきか。この詞遣の例は本卷「一九六」の歌のうちに「一云所己乎之毛」といふあり、又卷十七「三九九三」に「曾己乎之母宇良胡非之美等《ソコヲシモウラゴヒシミト》」「四〇〇六」に「曾己乎之毛安夜爾登母志美《ソコヲシモアヤニトモシミ》」などあるが、いづれも趣似たれば、このよみ方をよしとすべし。さてその「そこ」といふ語はソノ點といふ程の事なりとす。「シモ」は強く指定していふ助詞なり。その神上りまししことをさしていへるなり。
○文爾恐美 「アヤニカシコミ」とよむ。考には「恐」は「悲」の誤かといひ、檜嬬手には之を可として「アヤニカナシミ」とよめり。然れども、かくかける本一もなきのみならず、「恐み」にて意よく通れば改むるに及ばざるなり。「アヤに云々」の語は上「一五九」に「綾哀」「一六二」に「味凝文爾乏寸」又「一九九」に「言久《イハマク》母綾爾畏伎」などの例にある如く、讃嘆の意をあらはす副詞にして、今いふ言語道斷といふほどの意なること既に屡いへり。「カシコミ」は恐れ多く思ふことなり。
○晝波毛 「ヒルハモ」とよむ。童蒙抄に「アクレバモ」とよめるは五音にせむとての案なるべけれども「晝」を用言によむべき例も理由もなく、又かく四音を一句とせるは例多きのみならず、既に上「一五五」に「晝者母日之盡」といへるあり、又下「二一〇」にも「畫羽裳|浦不樂晩之《ウラサビクラシ》」卷三「三七二」卷五「八九七」などにおなじ趣の語あるが、いづれも古來四音によみ來れり。この「ハモ」は係助詞「は」の下に更に係助詞「も」の添へるにて、その場合には下の「も」は上の「は」を重くあらはさむ料として輕く添へたるなり。
(535)○日之盡 舊訓「ヒノツキ」とよみたるが、代匠紀には「ヒノコトゴト」とよみ、童蒙抄には「ヒノクルヽマデ」とよみたり。童蒙抄の説の起る所は諒解しうれど、「盡」を「クルヽマデ」といふ語にあてたりとは考へられず。又「ヒノツキ」とよみては語をなさず。契沖の説をよしとす。卷三に「國之盡」(三二二)「人乃盡」(四六〇)などかけるみなこの例によむべきなり。「コトゴト」の意は、いふまでもなく「ことごとく」の意なるが、ここにては日數の限り、又ことごとくの日といふ程の意に解すべし。
○夜羽毛 「ヨルハモ」とよむ。童蒙抄又「クルレバモ」とよみたれど、隨ふべからぬことは「晝波毛」の場合におなじ。その意も亦「ヒルハモ」に准じて知るべし。
○夜之盡 舊訓「ヨノツキ」とよみ、代匠記に「ヨノコトゴト」とよみ、童蒙抄「ヨノアクルマデ」とよみ、萬葉考に「ヨノアクルキハミ」とよみたれど、代匠記の説をよしとすること上におなじ。
○臥居雖嘆 「フシヰナゲケド」とよむ。臥居は或は臥し或は居て、さまざまに心をなやますさまをいへるなり。卷十「一九二四」に「大夫之伏居嘆而造有四垂柳之※[草冠/縵]爲吾妹《マスラヲノフシヰナゲキテツクリタルシダリヤナギノマヅラセワギモ》」とあるも同じ趣なり、さまざまにして嘆けどもなり。
○飽不足香裳 「アキタラヌカモ」とよむ。「アキタル」といふ語は新撰宇鏡に「※[女+爲]」字の訓に「阿支太留」と注せり。これは今もいふ語にして心に滿足せることをいふなるが、萬葉にての他の例を少しくあげむか、卷五「八三六」に「烏梅能波奈多乎利加射志弖阿蘇倍等母阿岐太良奴比波家布爾志阿利家利《ウメノハナタヲリカザシテアソベドモアキタラヌヒハケフニシアリケリ》」卷六「九三一」に「今耳二秋足目八方《イマノミニアキタラメヤモ》」卷十九「四二九九」に「年月波安多良安多良爾安比美禮騰安我毛布伎美波安伎太良奴可母《トシツキハアタラアタラニアヒミレドアガモフキミハアキタラヌカモ》」などあり。即ちここはその心を十分に滿足しえぬとなり。(536)「カモ」は嘆息の意を寓せる助詞なり。
○一首の意 すなほに明かなり。わが親しみ仰ぎ奉りし弓削皇子が、神上りまして天つ宮に神として鎭まりませば、その事をば、深く恐しと思ひ奉りて、晝は終日、夜はよもすがら毎日毎夜臥しつ居つ立居も安からぬほどに心をなやまし嘆き奉れど、この悲しみの心を十分にはらすことなきよとなり。考に「これは古語をもていひつゞけしのみにして、我歌なるべきことも見えず。そのつゞけに略きたるところは皆ことたらはずして拙し」と評せるが、かく惡評を受くべき歌のさまにも見えざるなり。眞淵翁の如何に思ひてかくいはれけむ、いぶかし。われはこの歌詞あさはかなる如くにして意はこまやかなりと見たるはひがめか。識者の教を俟つ。
 但この歌の在り所は古來多くの學者の論ずる如く正しからずといふべし。そは如何といふに、弓削皇子の薨去は、上の但馬皇女の薨去より九年前の事なればなり。これによりて、古義の如く置き所を改むる如き學者もいでたるが、考の惡評も大かたかゝる事に根ざせるが如くに思はる。されど、歌の位置の不合理が、歌の實質の批評にまでも影響すべきものにあらざるべし。さてこの藤原宮のあたりは年次の亂れ多くしてこゝにのみ限るべからず。この事は、卷一にても見たることなればなり。按ずるに萬葉集中この二卷は最も整へる如くなれど、なほ嚴撰せるものにあらねばこそかゝる錯亂もあるなれ。これによりて歌の意の上にまでとかくの批評を下し、又は歌をおきかふるが如きことは角を矯めて牛を殺すの諺にも似たらむ。ただ、その事實を明かにして讀者の注意を喚起しおくに止むべきのみ。
 
(537)反歌一首
 
205 王者《オホキミハ》、神西座者《カミニシマセバ》、天雲之《アマグモノ》、五百重之下爾《イホヘノシタニ》、隱賜奴《カクリタマヒヌ》。
 
○王者 「オホキミハ」とよむ。「王」を「オホキミ」とよむこと上にいへり。而して「オホキミ」は天皇をさすを本體とする語にして、轉じて皇族をもさし奉れるなるが、ここは弓削皇子をさし奉れり。卷三卷頭の歌(二三五)「皇者神二四座者天雲之雷之上爾廬爲流鴨《オホキミハカミニシマセバアマグモノイカツチノウヘニイホリスルカモ》」とあるを參考とすべし。
○神西座者 「カミニシマセバ」とよむ。「西」は「ニ」「シ」といふ助詞をあらはすにかれり。「シ」は強めの爲に加へし助詞にして「神ニマセバ」といふ事なり。「神ニマセバ」の「マス」は「アリ」に代ふる敬稱語なれば「神ニアレバ」の義なり。而してその「ニ」助詞は賓格を示すものなれば、「神ナレバ」といふにおなじ。これは皇子は今や神にましませばといふなり。
○天雲之 「アマグモノ」とよむ。この語は上にもありて例多きが、假名書のものにては卷十四「三四〇九」に「伊香保呂爾安麻久母伊都藝《イカホロニアマゲモイツギ》」卷十九「四二九六」に「安麻久母爾可里曾奈久奈流《アマグモニカリゾナクナル》」等なり。
○五百重之下爾 舊訓「イホヘノシタニ」とよめり。萬葉考は「下」は「上」の誤とせるが、本居宣長はもとのままなるをよしとせり。その説に曰はく「考に下を上と改められたるは僻事也。下は裏にてうちと云に同じ。うへは表なれば違へり。表に隱るゝと云ことやはあるべき。上下の字にのみなづみて表裏の意をわすれられし也。」と言へり。(王の小琴)この説もやゝ極端なるが、上といふも下といふも心のおき處の差にていづれを誤ともいひがたし。これにつきては(538)攷證に例をあげて曰はく「本集十一【七丁】に吾|裏紐《シタヒモヲ》云々(二四一三)また【八丁】從裏戀者《シタユコフレバ》云々(二四四一)十二【二丁】に裏服矣《シタニキマシヲ》云々(二八五二)など裏をもしたとよめるにてもこゝの下《シタ》は裏《ウラ》の意なるをしるべし」といへり。五百重は八重といへるよりも甚しく無數に重なりたるをいへるなり。
○隱賜奴 舊訓「カクレタマヒヌ」とよみたるが、略解の如く「カクリタマヒヌ」とよむをよしとす。「カクル」は今專ら下二段活用にのみ用ゐれど、古は四段活用にも用ゐしにて四段活用の方古語たるべきことは上の「一六九」の「隱良久惜毛」「一九九」の「磐隱座」の下にいへるが如し。
○一首の意 皇子は神にてましませば、天雲の五百重重なれるうちにかくれ給へりとなり。このうちに現身をもてるわれらの隨ひ奉ることを得ぬ嘆を含めたり。
 
又短歌一首
 
○ これにつきて考には別の書の歌なるべしといひ、古義にはこの五字削るべしとせり。その理由とする所は「右の反歌の一本ならば或本歌と載べし、又と書たることいかゞ」といふにあり。然れどもこれは攷證に「又とはまへの端辭の弓削皇子薨時置始連東人作歌とあるをうけて又そのをりのといへる意、短歌はまへの長歌にむかへいへるによりて短歌とはしるせるにて、たゞの歌といふ意なればこゝを前の長歌の反歌といふにあらで、かの弓削皇子の薨給へる時別によめるたゞの歌といふ也」といへるが本意を得たるものといふべし。さてこの歌作者誰人か明記せず。されど、その「又」とあるを上の如く釋するときは同人の作なる由なることは殆ど(539)疑ふべからざるが如し。
 
206 神樂波之《ササナミノ》、志賀左射禮浪《シガサザレナミ》、敷布爾《シクシクニ》、常丹跡君之《ツネニトキミガ》、所念有計類《オモホセリケル》。
 
○神樂波之 「ササナミノ」とよむ「神樂」を「ササ」の語にあつる事は卷一「二九」の「樂浪」の下にいへる如く神樂を古「佐々」といひしによる。(釋日本紀卷二十四)なほ委しくいはば、「佐々」は神樂の囃詞なれば卷七「一三九八」に「神樂聲《ササ》浪山とかけるを最も委しとす。而して卷二「一五四」に「神樂浪」とかけるが、ここはその「浪」と「波」とのかはれるのみなり。さて「ササナミ」は枕詞にはあらで地名にして近江の滋賀郡より高島郡にかけての一帶の地を含めりと見ゆること卷一「二九」の下にいへるが如し。
○志賀左射禮浪 「シガサザレナミ」とよむ。「ササレナミ」とよむ人あれど、「射」は元來濁音なれば「ザ」とよみて不當なるにあらず。「さざれ石」などの例に同じくよむべきものなり。この「志賀」は卷一「三一」の「左散難彌乃志我能大和太」といへる、かの湖をさせるものにして、さざれ浪とは卷十二「三〇一二」に「登能雲入雨零河之左射禮浪《トノクモリアメフルカハノサザレナミ》」、卷十三「三二二六」に「沙邪禮浪浮而流長谷河《サザレナミウキテナガルルハツセガハ》」卷十七「三九九三」に「佐射禮奈美多知底毛爲底母《サザレナミタチテモヰテモ》」とあるものにおなじく、細かなる浪なり。こまかきものに「さざれ何」といふは卷十四「三五四二」に「佐射禮伊思爾古馬乎波左世※[氏/一]《サザレイシニコマヲハサセテ》」とある「サザレイシ」は類聚名義抄に「礫」の訓としたるにても知るべし。「志賀さざれ浪」とは志賀の湖に立つさざれ浪といふ義なるが、面白きいひざまにして、古語の妙かくの如き所にも存すといふべく、卷三人麿の歌(540)(二六六)に「淡海乃海夕浪千鳥」といへるにも趣通へり。さてこの「サザレ浪」は「シクシクニ」を導く序とせるなり。
○敷布爾 舊訓「シクシクニ」とよむ。古寫本「シキシクニ」とよめるものあり、童蒙抄には「シキシキニ」又「ウツタヘニ」とよみたり。さてこの文字を「ウツタヘニ」とよまむは根據なき所なれば從ひ難し。「敷」も「布」も「シク」といふ動詞にあたるものなれば、文宇のままならば「シキシキ」とも「シキシク」とも「シクシク」ともよまれざるにあらず。されど、そのいづれにしても當時行はれし語をあらはせるものなるべければ、他に確證あるものによりてそのいづれによるべきかを決すべきなり。かくて考ふれば、卷十七「三九八六」に「之夫多爾能佐伎能安里蘇爾與須流奈美伊夜思久思久爾伊爾之弊於毛保由《シブタニノサキノアリソニヨスルナミイヤシクシクニイニシヘオモホユ》」又「三九八九」に「奈呉能宇美能意吉都之良奈美志苦思苦爾於毛保要武可母大知和可禮奈波《ナゴノウミノオキツシラナミシクシクニオモホエムカモタチワカレナバ》」とあるはこれ浪の縁によりて、下に「シクシクニ」といへるにて趣似たり。而して「ニ」なくして「シクシク」といへる語は例甚だ多くして、その假名書の例は卷十七「三九七四」に「宇流派之等安我毛布伎美波思久思久於毛保由《ウルハシトワガモフキミハシクシクオモホユ》」卷二十「四四七六」に「之久之久伎美爾故非和多利奈無《シクシクキミニコヒワタリナム》」などあり。しかるに「シキシクニ」又は「シキシキニ」と假名書にせるもの一も見えねば、「シクシクニ」とよむをよしとすべし。さて、この語は如何なる構造にして如何なる意を示すかといふに、これは「シク」といふ動詞の終止形を重ねて、情態の副詞の如き用をなすに用ゐたるものなり。かかる例は古語に多く「比可婆奴流奴流和爾奈多要曾禰《ヒカバヌルヌルワニナタエソネ》」(卷十四、三三七八)「可久須酒曾宿奈莫那里爾思於久乎可奴加奴《カクススゾネナナナリニシオクヲカヌカヌ》」(卷十四、三四八七)などみな「「ぬる」「す」「かぬ」といふ動詞の終止形を重ね(541)用ゐたるものにして、この形式によれるものは、「かへすかへす」「ますます」「なくなく」「はふはふ」「みすみす」「みるみる」「ゆくゆく」など今日の語にも多きなり。かくしてその語に更に往々「に」助詞を添へて用ゐることあるは、「ますますに」などいふ語にても知るべし。さてこの「シクシク」は如何なる義なるかといふに、この語はここの例の如く多く浪の縁にいへることは上にあげたる他の場合にても見るべくなほ集中に例多し。而して卷十一「二七三五」に「住吉之城師乃浦箕爾布浪之《スミノエノキシノウラミニシクナミノ》」「二四二七」に「是川瀬瀬敷浪布布《ウヂカハノセゼノシキナミシクシクニ》」など見えたるが「布」「敷」はよみをかりたるまでの字にして又日本紀垂仁卷に「重浪」とかけるをも古來「シキナミ」とよみ來れるが、この語は新撰字鏡に「※[さんずい+施の旁]※[さんずい+沓]」(文選海賦に「※[さんずい+沓]※[さんずい+※[しんにょう+施の旁]」とあるものの顛倒か。)に注して「波浪相重之※[白/ハ]|之支奈美《シキナミ》」と見ゆるにて明かなる如く、波の相重り至るを「シク」とはいへるなり。されば「シクシク」は引きつづき重なり至ることにして、上に「さざれ浪」をおきてその縁にかくいへるも道理あることといふべし。さてかく引きつづき波の重なり至る意よりして、「常」といふ語を導く形容の語の如くに誤解せられ易けれど、これは下の「思ふ」といふにかかりてそれの修飾格とせるものなり。
○常爾跡君之 「ツネニトキミガ」とよむ。考には「トコニト」とよみたれど、「トコニ」といふ語は古今に例なきものなれば、從ひ難し。「ツネニ」の例は集中に少からず。卷五「八〇四」に「余乃奈迦野都禰爾阿利家留《ヨノナカヤツネニアリケル》」卷二十「四四九八」に「伊蘇麻都能都禰爾伊麻佐禰《イソマツノツネニイマサネ》」などそれなり。その語の意は「不斷に」といふに近し。「常ニト」とある「ニ」と「ト」との間には然るべき語を略せる筈なり。その略せるは歌全體の意によりて推すべきなり。「君が」はここにては主格なること疑なければ「君が常(542)に……と所念有計類」といふ意なるべきが、下句に異説あれば、それを決するまでは「に」「と」の間の略語の意は計りがたし。
○所念有計類 舊訓「オボシタリケル」とよみたり。意義はそれにてもよからむが、「オボス」といふ語は「オモホス」を約めたるものにして、平安朝の形と認めらるるものなれば、ここのよみ方に用ゐるはよからず。代匠記は「オモホエタリケル」とよみたるが、玉の小琴は「オモホセリケル」とよみたり。代匠紀のかくよめりしは「東人がみづからの心を述たるなり」といふ解釋より出でたるものなるが、かくする時は上の「君が」はこの句に對しての主格にあらずして「常に」の主格となるべくして「常にと」の解釋にも差を生ずべし。然るにかく「常にと君が」といふ形を以て「『君が常に』と」といふ形の置きかへとするが如き語法は未だかつて例なきことなれば、從ふべからず。かくして「君が」はこの句の主格とする時は「オモホエタリケル」とよまむ時に、その「オモホエ」は敬意と見るより外に解釋の方法なかるべし。而してこの頃に「オモホユ」といふ形を敬語としたる例を見ず。これを敬語とする時は「オモホス」の外あるべからず。而して本集中「所思」「所念」を「オモホス」にあてたること例多ければ、ここは「オモホセリケル」といふ玉の小琴のよみ方に從ふべきなり。かく考ふるときに、君が「常におほしまさむ」と思ひ給ひしことよといふ如き意になりてはじめて略語の意を推すを得し。さて又ここに、この句は明かに「ケル」といふ連體形を以て終止せるに、上にそれを導くべき特別の係助詞なし。されば、これ尋常の終止の法にあらず。これは所謂餘情の終止にして、詠嘆の意を、これによりて寓しあらはしたるなり。
(543)○一首の意 初二句は第三句「シクシクニ」の序にして、わが君は常《ツネ》に斷えずこの世に御座しまさむとしくしくに、屡おもほしましけむものを。今はその御志も違ひて薨じ給へるくちをしさよとなり。
 
柿本朝臣人麿妻死之後泣血哀慟作歌二首并短歌
 
○柿本朝臣人麿 この人の事卷一「二九」の歌以下に屡見えたり。
○妻死之後 古義に「メノミマカリシノチ」とよめり。これも惡しきにあらねど、「メノスギニシノチ」ともよむべし。意は明かなり。然るに考はこの「妻死之後」以下を削り、その傍に加へて「所竊通娘子死之時悲傷《シヌビニカヨヘルヲトメガミマカレルトキカナシミテ》作歌」とし、さて曰はく、
  ここに今本には柿本朝臣人麻呂(ガ)妻死之後泣血哀慟作歌二首并短歌とのみ有は端詞どもの亂れ失たるを後人のこころもて書しものぞ。仍て今此一二卷の例に依て、傍の言をなしつ。其のゆゑはここの二首の長歌の意、前一首は忍びて通ふ女の死たるをいたみ、次なるは兒さへありしむかひ妻の死せるをなげける也。然れば、前なるをも妻とかきて同じ端詞の下に載べきにあらず。又益なく泣v血云々の言をいへること、此卷どもの例にたがへり。なまなまなる人のさかしら也。
といへり。かくて檜嬬手は全くこれに從ひて端詞を改めて次の如き論を爲せり。
  此端書本に……(原本の端書とて並べ出したれども、此二首の長歌によみたるにはあらず。(544)此一首は人麻呂主年弱き時、京に在ししほど、忍びて通ひし女の死けるを悼めるうた也。次なるは石見より歸京の後、嫡妻の死けるを悲める歌也。故にこたび端書を正し改めて別にせり。
といへり。これは、まさしく考の説に基づきてしかも更にその説を進めてそのよみたる時に前後ありとまでにいへるなり。略解は、さすがに端詞を改むることなけれども、なほその意につきては、
  此二首の長歌の意前一首は忍びて通ふ女の死たるをいたみ、次なるは子さへなしたる嫡妻の死たるをなけくと見ゆ。
といひて、考の説に從へるなり。攷證も亦
  人麿の妻の上【攷證二中一丁】にあげたる考別記の説のごとく、前後四人の中に二人は嫡褄、二人は妾とおぼしき也。ここなる二首の歌の前一首は妾、のちの一首は妻の失たるをかなしまれし歌と見えたり。さて考に、この端詞を柿本人麿所竊通娘子死之時悲傷作歌と改られしは誤り也。いにしへは、おほどかにして、妻をも妾をもおしなべてつまとはいひしなれば、ここに妻をも妾ともに、妻と書て二首の端詞を一つにてもたしめしなり。
といへり。その趣旨は略解と一なるが、委しく論ぜるを異なりとす。古義の説もながけれど、大體攷證と趣同じきものといふべし。註疏、美夫君志また簡單なるが、攷證、古義の説と歸を一にせり。按ずるに、考の端詞を改めたるは武斷にすぎて後の諸家一も賛成するものなきが如(545)く從ふべからぬは當然の事なり。然れども、ここに長歌一首短歌二首の各二重になりをるによりて、二人の妻妾ありしが爲なりとする事は以上の諸家のすべて一致する所なるは頗るいぶかしき事といふべし。この詞書のままならば、二人の妻又は妾を吊へりといふ事は考ふべからず。又前の歌には忍びて通ふ女のさまにいひ、後の歌には子をもてる女のさまにいひたりといふことは二人の妻妾を別々にうたへりといふ事の證になるべきことなりや。かかる事は全然無稽の論にして、決して從ふべきものにあらず。今先づ卷一卷二を通じて人麿の作歌の傾向を見るに、その短歌又長歌に於いて、一首のものよりも、二首以上の連作のもの多きを見る。即ちその短歌一首のものは、この卷の「柿本朝臣人麿在2石見國1臨死之時自傷作歌」(二二三)一首のみにして、他は反歌を伴へる長歌、若くは短歌の連作なり。而してその短歌の連作も卷一の「幸伊勢國之時留京柿本朝臣人麿作歌三首」(「四〇」「四一」「四二」)の一團のみにして他は長歌なり。而してその長歌も一首なるものと二首の集團なるものとあり。さて又その長歌一首なるものも反歌を伴はざるはなく、しかも、その伴はれたる反歌の一首に止まれるは卷二の「柿本朝臣人麿献泊瀬部皇女忍坂部皇子歌一首并短歌」(「一九四」「一九五」)の一團のみにして他は二首若くは四首の反歌を伴へるものなり。その反歌二首を伴へるは卷一の「過近江荒都時柿本朝臣人麿歌」(「二九」「三〇」「三一」の一團)卷二の「日並皇子尊殯宮之時柿本朝臣人麿作歌井短歌」(「一六七」「一六八」「一六九」の一團)「明日香皇女木※[瓦+正]殯宮之時柿本朝臣人麿作歌一首并短歌」(「一九六」「一九七」「一九八」の一團)、「高市皇子尊城上殯宮之時柿本朝臣人麿作歌一首并短歌」(「一九九」「二〇〇」(546)「二〇一」の一團)、「吉備津采女死後柿本朝臣人麿作歌一首并短歌」(「二一七」「二一八」「二一九」)の一團)、「讃岐狹岑島視石中死人柿木朝臣人磨作歌一首並短歌」(「二二〇」「二二一」「二二二」の一團)にして、卷一の「輕皇子宿于安騎野時柿本朝臣人麿作歌一首並短歌四首」(「四」「四六」「四七」「四八」「四九」)は長歌一首に反歌四首あるものなり。次に長歌二首の集團なるものにも二の種類あり。一は各の長歌が各一首づつの反歌を伴へるものにして、卷一「幸于吉野宮之時柿本朝臣人磨作歌」にして)「三六」「三七」「三八」「三九」)これはその詞書に明かにかかる形式なるを示せり。而して目録はこの下に「二首并短歌二首」と記してそが一團たることを明かに示せり。而して左注も亦これを一團として取扱へるなり。次に、他のー類は各の長歌が各二首づつの反歌を伴へるものにして。これはこの卷相聞中なる「柿本朝臣人磨從石見別妻上來時歌二首并短歌」と端詞を置けるものこれなり。即ち「一三一」「一三二」「一三三」「一三五」「一三六」「一三七」の一團これなり。而してその間なる「一三四」は「一三二」に對する或本の説にして「一三八」「一三九」は「一三一」「一三二」「一三三」の一團に對する或本の説たるなり。これによりて考ふるときは、今のこの歌は端書に二首并短歌と記せる如くまさしく「二〇七」(長)「二〇八」(反)「二〇九」(反)「二一〇」(長)「二一一」(反)「二一二」(反)」の形式にしてかの卷二の「一三一」乃至「一三七」の集團と同一形式のものにして決してここにはじめて特別の例を見るものにあらずして人麿の長歌に存する著しき傾向たること明かなるにあらずや。今なほ念の爲に、その統計表を次に示すべし。
卷一二所載柿本人磨作歌一覽表
 
(547)〔文章と同じ内容なので省略〕
 
(548)以上の如くなれば一の事項に對して二個の長歌(各反歌を伴へる)の集團を以て詠ぜしことは人麿の歌の著しき傾向なることは疑ふべからざるものなり。然るに從來の學者何が故にかかる視易き事實を見ずして、二個の長歌あるが故に二人の死をうたへりとせしにか。若しこの論法を以てせば、かの石見國より上りし時も二回ありしものとせざるべからず、吉野離宮にてよみしも二回ありしものとせざるべからざる道理なるにあらずや。然るに、上の如き説をとれる學者は、それの所には何事もなく經過し來りてここにてかく論ずるものは、條理一貫せざるものといふべし。而してかくの如き誤れる觀察を基として、或は同時に妻と妾とありといひ、或は妻四人ありと論じ、はては古來正しくつたはれる端詞を「なま/\なる人のさかしらなり」と罵るが如きは古人を誣ふるものといふべし。ただここに多少問題となることは前には「輕の道」といひ、後に「羽買の山」といへる地名の相違なるが、これはその妾の生地と葬地との別なればこれ亦問題なかるべし。この故に余は、これは一人の妻の死を傷める一回の詠なりと信ず。その二首の長歌を以てせるものは、かの短歌の連作、又反歌の連作と同一の傾向にして、その二首にて一の意を完くするものなりといふを憚らざるなり。而してこの後に依羅娘子の歌あればこの死せしは前妻なりしことはいふまでもなし。
○泣血哀慟作歌 これをも考に此卷どもの例にたがへりと批難せれど、この前の歌の詞書に「悲傷流涕〔四字右○〕御作歌」といひ、この卷の最後の歌の詞書に「悲嘆〔二字右○〕作歌」といひ、この卷(一七一以下)の「皇子尊舍人等慟作〔右○〕歌」その前(一六五)に「哀傷御作歌」又「見結松哀咽〔二字右○〕歌」(一四三)など大同小異といふべきも(549)のにして、これを批難せば、それらも又議せらるべき筈のものなり。而していづれの古寫本もかくあれば、之を改むるには及ばざるべきなり。さて之は契沖は「いさちいたみて」とよめるが、古義はただ「かなしみよめるうた」とよめり。さて「泣血」の熟字は詩小雅、雨無正章に「鼠|思泣(ク)血《・ウレヘオモヒテ》》」と見え、易の屯卦に「上六乘馬班如、泣血漣如」と見えたるが、その義は韓非子、卞和篇に「和乃抱2其|璞《ハク》1而哭2於楚山之下1三日三夜、泣盡而繼之以v血」とあるによりて知るべし。古今集などに血の涙といへるはこの事をいへるなるが、ここは如何によむべきか、なくことの甚しきをいへるなれど、これにあたる國語なければ、たゞ「なく」にてよかるべしと思ふ。若し契沖の如くいはむとならば「なきいさち」といふべし。この語は古事記にのみ見ゆる語なるが、たゞ「いさちる」とはなくて必ず「なき」とつづけ用ゐたればなり。「哀」は「アハレム」「カナシム」「慟」は「ナゲク」「イタム」「カナシム」などの訓あるその二字を以て「カナシム」の訓にあてたるものなるべし。卷十六卷初の歌の詞書にも「其兩壯士不v堪2敢哀慟1血泣漣襟各陳心緒」とあり。
○短歌 古寫本多く小字にせり。
 
207 天飛也《アマトブヤ》、輕路者《カルノミチハ》、吾妹兒之《ワギモコガ》、里爾思有者《サトニシアレバ》、懃《ネモゴロニ》、欲見騰《ミマクホシケド》、不止行者《ヤマズユカバ》、人目乎多見《ヒトメヲオホミ》、眞禰久往者《マネクユカバ》、人應知見《ヒトシリヌベミ》、狹根葛《サネカヅラ》、後毛將相等《ノチモアハムト》、大船之《オホブネノ》、思憑而《オモヒタノミテ》、玉蜻《タマカギル》、磐垣淵之《イハガキフチノ》、隱耳《コモリノミ》、戀管在爾《コヒツツアルニ》、度日〔左○〕乃《ワタルヒノ》、晩去之如《クレユクガゴト》、照月之《テルツキノ》、雲隱如《クモカクルゴト》、奧津藻之《オキツモノ》、名引之妹者《ナビキシイモハ》、黄葉乃《モミヂバノ》、過伊(550)去等《スギテイユクト》、玉梓之《タマヅサノ》、使乃言者《ツカヒノイヘバ》、梓弓《アヅサユミ》、聲爾聞而《ヲトニキキテ》、【一云聲耳聞而】將言爲便《イハムスベ》、世武爲便不知爾《セムスベシラニ》、聲耳乎《オトノミヲ》、聞而有不得者《キキテアリエネバ》、吾戀千重之一隔毛《ワガコフルチヘノヒトヘモ》、遣悶流《オモヒヤル》、情毛有八等《ココロモアリヤト》、吾妹子之《ワギモコガ》、不止出見之《ヤマズイデミシ》、輕市爾《カルノイチニ》、吾立聞者《ワガタチキケバ》、玉手次《タマダスキ》、畝火乃山爾《ウネビノヤマニ》、喧鳥之《ナクトリノ》、音母不所聞《オトモキコエズ》、玉桙《タマホコノ》、道行人毛《ミチユクヒトモ》、獨谷《ヒトリダニ》、似之不去者《ニテシユカネバ》、爲便乎無見《スベヲナミ》、妹之名喚而《イモガナヨビテ》、袖曾振鶴《ソデゾフリツル》。 【或本有d謂2之名耳聞而有不得1句u】
 
○天飛也 「アマトブヤ」とよむ。この語は卷四「五四二」に「天翔哉輕路從《アマトブヤカルノミチヨリ》」卷十一「二六五六」に「天飛也輕乃社之齋槻《アマトブヤカルノヤシロノイハヒツキ》」の如く「かる」の枕詞とせるものなるが、そは元來「かり」の枕詞なるものにして卷十「二二三八」に「天飛也鴈之翅乃覆羽之《アマトブヤカリノツバサノオホヒバノ》」とあるを正しとすべきなるが、その「カリ」を轉じて「かる」といふ地名にかけてその枕詞としたるものなり。「也」は「たかゆくや〔右○〕はやふさわけ」「たかしるや〔右○〕ひのみかげ」「いはみのや〔右○〕」「あふみのや〔右○〕」どの「や」におなじき間投助詞なり。
○輕路者 舊本「カルノミチヲハ」とよめり。玉の小琴に「カルノミチハ」と六言によむべしといへり。「者」一字を「ヲバ」とよむことは無理なる上、「ハ」のみにても「ヲバ」の意に用ゐること古今例多きことなるが故に本居の説に從ふべし。この「輕の路」は上にひける卷四の歌に「天翔哉輕路從《アマトブヤカルノミチヨリ》、玉手次畝火乎見管《タマダスキウネビヲミツツ》」とあり、又古事記に懿徳天皇の宮城を「輕之境岡宮」應神天皇の宮城を「輕島之明宮」應神天皇卷に「輕之酒折池」又垂仁天皇卷に「倭之市師池、輕池」といふあり。日本紀にも又屡見(551)ゆる地名にして、推古天皇の卷には皇大夫人堅鹽孃を檜隈大陵に改め葬りし時「輕街」に誄しまつりしことをいひ、又天武天皇の卷には輕寺の名見ゆ。本集にては上にあげたる「輕路」「輕乃社」の外に卷三「三九〇」に「輕池」あるのみならず、この歌に「輕市」とも見ゆ。これらによりてこの地は社あり、寺あり、市あり、大路あり、又池ありし地にして、畝傍山に遠からず、又檜隈に接せし地なりしことは疑ふべからず。さてその輕寺といふはもと大輕付にありしが今は廢寺となれりといへり。その大輕村は今の白橿村の地内にあるが、ここを大輕といふに照して考ふれば、輕といふ總名をもてよばれし地はなほ廣くしてこの附近をも含みしならむ。辰巳利文氏は今の大字五條野、石川、見瀬ありにまで延びてありしならむといはれたるが、恐らくは然らむ。「カルノミチ」とは、輕の地内の道路をも、又輕に行く道路をもいふべし。諸家必ず一方にかたよせむとするはいかゞなり。ここは理窟上よりいへば「輕」は「吾妹兒之里」にしてその道を「不止行者云々」とあるべきを約めていへるなること新考の説の如し。
○吾妹兒之 「ワギモコガ」とよむ。この語、卷一「四四」「七三」などにいへり。ここはその死せる妻をさせり。
○里爾思有者 「サトニシアレバ」なり。「シ」は強めて指したる助詞なり。この里はその妻の本つ家のある里をいふなり。今も嫁又聟のその生家を里といふは古の名殘なり。この卷「一〇三」に「吾里爾大雪落有《ワガサトニオホユキフレリ》、大原乃古爾之郷爾落卷者後《オホハラノフリニシサトニフラマクハノチ》」又卷三「二六八」に「吾背子我古家乃里之明日香庭《ワガセコガフルヘノサトノアスカニハ》」などあり。
(552)○懃 「ネモコロニ」とよめり。この字は廣韻に「慇懃」と熟してのみあげたるが、その「慇懃」は字典に「委曲也」と注せり。文選にては又「報任少卿書」(司馬遷)に「意氣慇懃懇懇」とあるに注して李善曰はく「慇懃懇懇忠款之※[白/ハ]也」といへり。而してこの「慇懃懇懇」は楊雄の劇秦美新には「勤勤懇懇」といふ文字に作れり。これによりて考ふるに、「懃」字はもと「勤」字に同じものなるべし。今わが訓を見るに、普通に「懃」にも「勤」にも「慇懃」にも「ネムゴロ」の訓を加ふ。而して類聚名義抄を見れば、「慇」「懇」「勤」共に「ネムコロ」の訓を加へ「慇懃」には「ネムコロナリ」と訓せり。色葉宇類抄には「懃」に「ネムコロ」「慇懃」に「ネムコロナリ」の訓あり。さればこれら略同一義なるべしとするが、その「懃」の基たりと思はるる「勤」字を詩〓風七月に「恩v斯勤v斯《ウツクシミヲアツクス》」とある「勤」の義なるべくしてこれは「篤厚也」と注せるものなり。かくて、靈異記を見るに、その中卷第十九の朱の方に「慇懃誦持(シ)晝夜不息」とある、その訓注には「慇【禰母呂爾】懃【都止米弖】」とあるが、〓齋の證注には「呂〔右○〕」の字の上に「古」字を脱せるものにして「ネモコロニ」なるべしといへり。これまことに然るべきことにして、、後世「ねむごろに」といへる語の基は「ネモコロ」なるべく思はる。而して、本集を見るに、「ネムコロ」とかけるものは一もなくして、いづれも「ネモコロ」とかけり。その例は「ねもころ」といへるが卷九「一七二三」に「河蝦鳴六田乃河之川楊乃根毛居侶雖見不飽君鴨《カハヅナクムツタノカハノカハヤギノネモコロミレドアカヌキミカモ》」といふあり。又「ねもころに」といへるは卷四「六一九」に「押照難波乃菅之根毛許呂爾君之開四乎《オシテルナニハノスゲノネモコロニキミガキキシヲ》」卷十一「二四八六」の或本歌に「血沼之海之鹽干能小松根母己呂爾戀屋度人兒故爾《チヌノウミノシホヒノコマツネモコロニコヒヤワタラムヒトノコユヱニ》」卷十四「三四一〇」に「伊香保呂能蘇比乃波里波良禰毛己呂爾於久乎奈加禰曾麻左可思余加婆《イカホロノヒノハリハラネモコロニオクヲナカネソママサカシヨカバ》」卷十七「四〇一一」に「伎奈牟和我勢故禰毛許呂爾奈孤悲曾余等曾伊麻爾都氣都流《キナムワガセコネモコロニナコヒソヨトソイマニツケツル》」(553)卷十八「四一六」に「奈呉江能須氣能根毛呂爾於母比牟須保禮《ナゴエノスケノネモコロニオモヒムスホレ》」あり。されば、ここの「懃」も「ねもころに」とよむべきものならむ。集中なほ「懃」字を用ゐたる例は卷四「五八〇」に「足引乃山爾生有菅根乃懃見卷欲君可聞《アシビキノヤマニオヒタルスガノネモコロミマクホシキキミカモ》」卷四「六八二」に「將念人爾有莫國懃情盡而戀流吾毳《オモフラムヒトニアラナクニネモコロニココロツクシテコフルワレカモ》「七四四」に「事耳乎後毛相跡懃吾乎令憑而不相可聞《コトノミヲノチモアハムトネモコロニワレヲタノメテアハザラメカモ》」「七九一」に「奧山之磐影爾生流菅根乃懃吾毛不相念有哉《オクヤマノイハカゲニオフルスガノネノネモコロワレモアヒオモハスアラム》」卷七「一三二四」に「葦根之懃念而結義之玉緒云者人將解八方《アシノネノネモコロオモヒテムスビテシタマノヲトイハバヒトトカメヤモ》」卷十一「二五二五」に「懃片念爲歟比者之吾情利乃生戸裳名寸《ネモゴロニカタモヒスレカコノゴロノワガココロドノイクルトモナキ》」「二七五八」の「菅根之懃妹爾戀西《スガノネノネモコロイモニコフルニシ》、益卜思而〔二字左○〕心不所念鴨《マスラヲゴコロオモホエヌカモ》」卷十二「三〇五一」に「足檜之山菅根乃懃吾波曾戀君之光儀乎《アシヒキノヤマスガノネノネモコロニワレハゾコフルキミガスガタヲ》」又「三〇五三」に「足檜木之山菅根乃懃不止念者於妹將相可聞《アシヒキノヤマスガノネノネモコロニヤマスオモハバイモニアハムカモ》」又「慇懃」の二字をよめるあり。卷十二「三一〇九」に「慇懃憶吾妹乎人言之繁爾因而不通比日可聞《ネモコロニオモフワキモヲヒトゴトノシゲキニヨリテヨドムコロカモ》」卷十三「三二九一」に「三芳野之眞木立山爾青生山菅之根乃慇懃吾念君者《ミヨシヌノマキタツヤマニカアヲナルヤマスガノネノネモコロニワカモフキミハ》」又「懃懇」の二字をよめるあり。卷十二「三〇五四」に「相不念有物乎鴨菅根之懃懇吾念有良武《アヒオモハズアルモノヲカモスガノネノネモコロニワガモヘルラム》」。又かくよむべき所に「惻隱」の二字をあてたるあり。前後の關係よりしてこれも「ネモコロニ」とよむべきものと考へらる。卷十一「二四七二」に「見渡三室山石穂菅惻隱吾片念爲《ミハタセハミモロノヤマノイハホスゲネモコロニワガカタモヒゾスル》」「二三九三」に「玉桙道不行爲有者惻隱此有戀不相《タマホコノミチユカズシテアラマセバネモコロカカルコヒニハアハジ》」「二四七三」に「菅根惻隱君結爲我紐緒解人不有《スガノネノネモコロキミガムスヒテシワガヒモノヲヲトクヒトアラジ》」また「ネモコロコロニ」とかけるあり。これは「ネモコロ」を重ねいふべきを約めたるなり。卷二十「四四五四」に「高山乃伊波保爾於布流須我乃根能根母許呂其呂爾布里於久白雪《タカヤマノイハホニオフルスガノネノネモコロゴロニフリオクシラユキ》」卷十三「三二八四」に「菅根之根毛一伏三向凝呂爾吾念有妹爾縁而者《スガノネノネモコロコロニワガオモヘルイモニヨリテバ》」の如きこれなり。かくて卷十二「二八五七」の「菅根之惻韻惻隱照日乾哉吾袖於妹不相爲《スカノネノネモコロコロニテレルヒニヒメヤワガソデイモニアハズシテ》」の場合の「惻隱惻隱」は「ネモコロコロニ」とよむべきことこれ亦首肯せらる。さて上の如く多くの例を(554)あげたるはこれによりて「ネモコロ」といふ語の意義を知らむと欲するが故なり。按ずるにこれが語源には多少の説なきにあらねど、首肯すべきものを見ず、又今の「ねんごろ」といふ語の基たるは明かなれど、今の義と必ずしも一ならねば、結局は實例によりて考ふる外あるまじきなり。今上の諸例を通じてその用ゐる場合を概括して見るに、
 ――ニオモヒ〔三字右○〕ムスボレ      (十八、四一一六)
 ――ワレモアヒオモハ〔三字右○〕ズアレヤ  (四、七九一)
 ――オモヒ〔三字右○〕テムスビテシ     (七、一三二四)
 ――ニカタモヒ〔四字右○〕スレカ      (十一、二五二五)
 ――ニヤマズオモハ〔三字右○〕バ      (十二、三〇五三)
 ――ニオモフ〔三字右○〕ワギモヲ      (十二、三一〇九)
 ――ニワガモフ〔二字右○〕キミハ      (十三、三二九一)
 ――ワレハオモヒ〔三字右○〕タルラム    (十二、三〇五四)
 ―― ワレハカタモヒ〔四字右○〕ニシテ   (十一、二四七二)
 ――ゴロニワガモヘル〔三字右○〕妹ニヨリテハ(十三、三二八四)
の如く「オモフ」といふ語に關するもの最も多く、次は
 ――ニコヒ〔二字右○〕ヤワタラム      (十一、二四八六或本歌)
 ――ニナコヒ〔二字右○〕ソヨトゾ      (十七、四〇一一)
(555) ――ココロツクシテコフル〔三字右○〕ワレカモ(四、六八二)
 ――イモニコヒ〔二字右○〕ニシ?      (十一、二七五八)
 ――ニワレハゾコフル〔三字右○〕      (十二、三〇五一)
の如く「コフ」といふ語に關するものあり。又
 ――ミレ〔二字右○〕ドアカヌキミカモ    (九、一七二三)
 ――ミ〔右○〕マクホシキキミカモ      (四、五八〇)
の如く「ミル」といふ語に關するものあり。又
 ――ニキミガキキシ〔三字右○〕ヲ      (四、六一九)
の如く「キク」といふ語に關するものあり。又
 ――ニワレヲタノメ〔三字右○〕テアハザラメカモ (四、七四〇)
 ――ニオクヲナカネソ〔七字右○〕      (十四、三四一〇)
の如く「約束スル」意の語に關するものあり。又
 ――カカル戀ニハアハジ           (十一、二三九三)
の如く、特別にかゝる語なく、下の句全體に關するものあり。以上は心情に關せる意をあらはせるものなるが、必ずしも然らざるなり。即ち
 ――君ガ結ビ〔二字右○〕テシ我ガ紐ノ緒   (十一、二四七三)
 ――ゴロニフリ〔二字右○〕オク白雪     (二十、四四五四)
(556) ――ニテレル〔三字右○〕日ニモ     (十一、二八五七)
の如く「紐を結ぶこと」「雪のふること」「日の照ること」にもいふを見れば、吾人の今日いふ「ねんごろ」といふ語とは異なる意味を有してありしものならむ。然れども、又その「思ふ」「戀ふ」又約束する意のものにては今の「ねんごろ」に似たる點もありしことは想像に堪へたり。されば、この頃の「ねもころ」は以上すべてに通じうる意のものなりしならむか。然れども、その意を捕ふるは容易ならざるを以て、更に古、「ねもころ」とよまれたりしならむと考へらるゝ「ねんころ」といふ語を以てあてられたる漢字を見るに、上來あげしものの外に、色葉字類抄には
  苦〔右○〕 寧〔右○〕 切 恩〔右○〕 丁寧〔二字右○〕 鄭重 懇切 一心
を見、類聚名義抄には
  僧 丁寧〔二字右○〕 渇 鄭 恩〔右○〕 思 恰 寧〔右○〕 困〔右○〕 苦〔右○〕 蓐 剋 欽 酸〔右○〕 投 闊 ※[草がんむり/濶] 力〔右○〕 甘 孔
等あり。されば、古の「ネモコロ」といひしには今いふ「鄭重」「丁寧」などの意もありしならむ。又されば、「ネモコロ」は「慇懃」「丁寧」「鄭重」「懇切」のすべてに通ずる言あるものなるべく、又「困」「苦」「酸」「力」などの字をよめるを見れば、「力を盡し」「身心を苦むる」意もありと見らるべく思はる。而してそは、主觀的のみならず、客觀的にも通じていへるものなれば、主觀的には「力を盡し、身を苦め、心を盡し、至らざる所なく十分なる」意にして又かの字典に注せる「委曲」文選の注の「忠款」詩經の注の「篤厚」の意を共通してもてるものなれば、客觀的には「徹底的」「普遍的」といふ程の意ありと見るべき(557)ものなり。ひきくるめていへば「十分に……」といふ語を基として主觀客觀兩界に之をあてて前のいづれかの意に照して釋すべきなり。
○欲見騰 舊訓「ミマクホリス」とよみたるが、童蒙抄には「ミマホシケレド」とよみ、考に「ミマクホシケド」とよめり。さて「ミマクホリスト」とよむときは、「懃に見たしとて」の意となれば、意味通らぬにはあらねど、不十分なり。されば、「ミマホシケレド」「ミマクホシケド」の二者のうちなるべし。この二者意は同じけれど、語に新古あり。「ミマホシ」といふ語は「ミマクホシ」と同じ意なれど、その約まれるものなるべくして平安朝以後に例多く、萬葉集時代の文献に例を見ざれば、從ひがたし。されば考の説に從ふべきが、この語の倒は卷六「九四六」に「深見流乃見卷欲跡」など書けるが、「ホシケド」といふ語の例は、古事記下、仁徳卷に「波斯多弖能久良波斯夜麻波《ハシタテノクラハシヤマハ》佐賀斯祁杼〔五字右○〕」本集卷五「八〇四」に「多摩枳波流伊能知遠志家騰世武周弊母奈斯《タマキハルイノチヲシケドセムスベモナシ》」卷十七「三九六二」に「多麻伎波流伊乃知乎之家騰《タマキハルイノチヲシケド》」「三九六九」に「多麻伎波流伊能知乎之家登《タマキハルイノチヲシケド》」などにて推すべし。即ち、これは「ミマクホシクアレド」の約まれるなり。「ミマクホシ」とはみむことのほしきなり。
○不止行者 舊來「ヤマズユカバ」とよみたるを、考に「ツネニユカバ」と改めたるが、玉小琴は舊訓をよしとせり。按ずるに「不止行」を三字一團として「ツネニユク」と義訓し得ることあらむも「不止」を「ツネニ」とよまむは無理なり、其の上に卷十四「三二八七」に「可都思加乃麻末乃都藝波思夜麻受可欲波牟《カツシカノママノツギハシヤマズカヨハム》」「三七六六」に「之多婢毛爾由比都氣毛《シタヒモニユヒツケモチ》知弖夜麻受之努波世《テヤマズシヌバセ》」といふ假名書の例あり、又卷十二「三〇五五」に「山菅之不正而公乎念可母《ヤマスゲノヤマズテキミヲオモヘカモ》」「三〇六六」に「山菅之不出八將戀命不死者《ヤマスゲノヤマズヤコヒムイノチシナズバ》」とあるはそ(558)の枕詞の關係よりして「ヤマズ」とよむべきものなるを確定的に示せるものなり。(やむ時なく」の意にして不斷の字あつべく、今の俗語に「たえずゆく」などいふ「たえず」におなじ。
○人目乎多見 「ヒトメヲオホミ」とよむ。卷十二「二九一〇」に「心者千重百重思有杼《ココロニハチヘニモモヘニオモヘレド》、人目乎多見《ヒトメヲオホミ》、妹爾不相可母《イモニアハヌカモ》」とあるを以てその心を知るべし。人目は上「一七〇」にいへり。人目を多しと思ふによりてなり。多くの人の目にかかるが厭はしきによりてといふ意なり。
○眞根久住者 「マネクユカバ」なり。「マネク」といふ語の例は卷一「八二」の「うらさぶる心さまねし」の下にもいへるが、なほ卷四「七八七」に「如夢所念鴨愛八師君之使乃麻禰久通者《イメノゴトオモホユルカモハシキヤシキミガツカヒノマネクカヨヘバ》」卷十七「四〇一二」に「矢形尾能多加乎手爾須惠美之麻野爾可良奴日麻禰久都奇曾倍爾家流《ヤカタヲノタカヲテニスヱミシマヌニカラヌヒマネクツキゾヘニケル》」などの例あり。この語は卷一に既にいへる如く「くしき」の活用をなす形容詞にして、物事のしげく多きをいふ意のものなるが、具體的にはその所々にあてて釋すべく、ここはその事の度々あるをいふ意のものにしてしげく度々その里に行かばの意なり。
○人應知見 「ヒトシリヌベミ」とよむ。「應」は「べし」なるが、「ベミ」とよむ爲に下に「見」を加へたるなり。この語を全く、假名書にせる例はなけれど、卷十九「四一九三」の「霍公鳥鳴羽觸爾毛落爾家利盛過良志藤奈美能花《ホトトキスナクハフリニモチリニケリサカリスグフヂナミノハナ》」に對して「一云、落奴倍美袖爾古伎禮都藤浪乃花《チリヌベミソデニコキレツフヂナミノハナ》」といひ、又卷十「二二九〇」に「秋芽子乎落過沼蛇手折持雖見不怜君西不有者《アキハギヲチリスギヌベミタヲリモチミレドモサブシキミニシアラネバ》」卷十四「三四六八」に「夜麻杼里乃乎呂能波都乎爾可賀美句氣刀奈布倍美許曾奈爾與曾利鷄米《ヤマドリノヲロノハツヲニカガミカケトナフベミコソナニヨソリケメ》」などあるによりて推して知るべし。「べみ」は「ベシ」の幹より麻行四段活用連用形の「み」の如きにうつり行きしものにして「べきによりて」といふ程の意(559)をあらはせり。「知りぬべし」は俗語にては「知りてしまふべし」の意なり。
○狹根葛 「サネカツラ」とよむ。これは木状蔓草の名にして、本草和名に「五味」に「和名佐禰加都良」とあり。これは上(九四)に「狹名葛」とあると同じものなれど、ここには明かに「根」字をかきたれば「サネカツラ」とよむべきなり。卷十三「二四七九」に「核葛後相夢耳受日度年經乍《サネカツラノチモアハムトイノメノミヲウケヒワタリテトシハヘニツヽ》」とあるはここと同じ用例なり。さて葛は長く延ひわたりて、末またはひあひからまるものなれば、後にあはむといふ事の枕詞にせるなり。
○復毛將相等 「ノチモアハムト」なり。「後にもあはむと」といふなり。この詞の例は卷四「七三九」に「後湍山後毛將相常念社可死物乎至今日毛生有《ノチセヤマノチモアハムトオモヘコソシヌベキモノヲケフマデモイケレ》」卷十七「三九三三」に「阿里佐利底能知毛相牟等於母倍許曾都由能伊乃知毛都藝都追和多禮《アリサリテノチモアハムトオモヘコソツユノイノチモツギツツワタレ》」など少からず。
○大船之思憑而 「オホブネノオモヒタノミテ」なり。この語の例は上の「一六七」の歌にありて、そこにいへり。
○玉蜻 舊訓「カケロフノ」とよみ、童蒙抄は「蜻」字は「限」又は「晴」の誤か(この時には「たまきはる」とよまむとするなり)といひ、萬葉考にはこのまゝにて、「カギロヒノ」とよみ、美夫君志にはこのままにて「タマガキル」とよめり。さてこの「蜻」は類聚古集に「情」とかけるが、そは誤なること著しくして、他の諸本すべて「蜻」なれば、それを基として論ずべし。さてこれは伴信友が玉蜻考をかきて「タマカギロ」とよむべしといひ、鹿持雅澄も別に玉蜻考を著して「タマカギル」とよむべしとせるが、鹿持の説によりて「タマカギル」とよむべきことは疑ふべからず。古義は未だ玉蜻考の出來ぬ前(560)の著なれば、舊説に從へるなり。而してその鹿持の玉蜻考は木村正辭によりて補正せられたるなり。委しくは各本書を見るべし。さてその「タマカギル」の意は卷一「四五」の歌の中の「玉限」の下に説けるが、その意は玉は麗しきをたたふる詞、「カギル」はかがやくをいふなるが、さてこれを以て「イハガキフチ」の枕詞とせりと見ゆれど、その枕詞とせる理由は未だ、明かならず。鹿持の玉蜻考には「おほよそ深き淵は青く透徹るやうなれば、玉※[火+玄]《タマカキル》といへりとすべきか」といひたれど、王蜻考補正には「玉はもと石また磐などの中に交りてあるものなれば、玉※[火+玄]磐とつゝけたるか、または……玉はすべて水中にあるよしなれば淵とはつゞけたるにもあるべし」といひ、さて又允恭紀の男狹磯が赤石の海底に眞珠を得し話を引きて「これ珠の淵にありて耀けるよし也、かかれば、玉※[火+玄]淵とつづけたるなるべし」といへり。このうち後説最も近かるべきが、然るときは、この場合には「玉」は實際の珠をさせる詞なりとすべきに似たり。さて「玉カギル」を「イハガキフチ」の枕詞に用ゐたる例は卷十一「二五〇九」に「眞祖鏡雖見言哉玉限石垣淵乃隱而在※[女+麗]《マソカガミミトモイハメヤタマカキルイハガキフチノコモリタルイモ》」(二七〇〇」に「玉蜻石垣淵之隱庭伏以死汝名羽不謂《タマカキルイハカキフチノコモリニハコイテシヌトモナガナハイハジ》」などあり。
○磐垣淵之 「イハガキフチノ」とよむ。この語につきて契沖は「いはほの立めくりて垣の如くなる中の山川の淵なり。」といへり。大體さることなるべし。この語の例は上にあげたり。これを以て、次の語の形容に用るたるによりて「ノ」といふ助詞を加へたり。
○隱耳 舊訓「カクレノミ」とよめるが、代匠記は「コモリノミ」とよみ、後諸家之に從へり。この「隱」字は「カクレ」とも「コモル」ともよみうることは上の「二〇一」の「隱沼」の下にいへるが、ここは「カクレ」に(561)あらずしてそこにいへると同じく、ここも「コモリノミ」とよむべきものなり。これは上の「不止行者、人目乎多見、眞根久往者人應知見」をうけて下の「戀管在」につづくものにして、之を「家に隱り居る」義とすること普通なるが、果して然るか。今集中にここと同樣の詞遣をせるを見るに、卷八「一四七九」に「隱耳居者欝悒奈具左武登出立聞者來鳴日晩《コモリノミヲレバイブセミナグサムトイデタチキケハキナクヒグラシ》」とあるは家に隱りてある事なるべきが、その他の卷六「九九七」に「住吉乃粉濱之四時美開藻不見隱耳哉戀度南《スミノエノコハマノジジミアケモミズコモリニノミヤコヒワタリナム》」卷十「一九九二」に「隱耳戀者苦瞿麥野之花爾開出與朝旦將見《コモリノミコフレバクルシナデシコノハナニサキデヨアサナサナミム》」卷十五「三八〇三」に「隱耳戀者辛苦《コモリノミコフレハクルシ》、山葉從出來月之顯者如何《ヤマノハユイデクルツキノアラハレバイカニ》」の諸例は心の中にこの事のこめられてあることをいへること明かなり。而してそれらはいづれも下に直に「戀フル」といふ語あるが、ここもそれと趣同じければ、これは心にこめてある事をいへるものにして家に隱りてある事にはあらざるべし。
○戀管在爾 「コヒツヽアルニ」とよむ。下に思ひこめて戀つつ時日を經たりしにといふ意なり。「コヒツヽアリ」といふ詞の事はこの卷のはじめ「八六」の下にあり。
○度日〔左○〕乃 「日」の字流布本に「目」とあり。されど、他のすべての本に「日」とあれば、流布本の誤なること著し。「ワタルヒノ」とよむこと論なし。卷三「三一七」にも「度日之陰毛《ワタルヒノカゲモ》、隱比《カクロヒ》、照月之光毛不見《テルツキノヒカリモミエズ》」又卷二十「四四六九」に「和多流日能加氣爾伎保比弖多豆禰弖奈《ワタルヒノカゲニキホヒテタヅネテナ》」などあり。日月に對してわたるといふはそれの空を行くことをいへることなりといふことは、この卷「一三五」の「渡相月」の下にいへり。
○晩去之如 舊訓「クレユクガコト」とよみたるが、考に「クレヌルガコト」とよめり。「去」字は「行ク」と(562)よむこと上に屡例あり。又「ヌル」に用ゐることも本集に例あることなれば、その點のみにてはいづれとも決しかぬるなり。されど、「クレヌル」といへば、通常既にくれはてて後の事の如くに用ゐ、さなくとも、「くるる」ことを明かに示せる詞となるが、「くれゆく」といふ時は、徐に晩れつつ時の進行するをいふ事となる。これを以て考ふるに、「くれゆく」といふ方歌の意に適せりといふべし。さて「之如」は「ガコト」とよめるが、かくの如く用言の連體形をうけてよむことは卷五「八九七」に「伊等能伎弖痛伎瘡爾波鹹鹽遠灌知布何其等久《イトノキテイタキキズニハカラシホヲソソグチフガゴトク》」卷十年三六二声に「吹風能美延奴我其等久《フクカゼノミエヌガゴトク》」卷九「一八〇七」に「昨日霜將見我其登毛《キノフシモミケムガゴトモ》」などあり。
○照月乃 「テルツキノ」とよむ。意明かなり。
○雪隱如 「クモガクルゴト」とよむ。神田本には「クモコモルゴト」とよみたれど、ここは「カクル」とよむべきなり。「クモコモル」といへることは古來例なければなり。「クモガクル」は古今に通じて用ゐらるるが、假名書の例もあぐれば、卷十七「四〇一一」に「久母我久理可氣理伊爾伎等《クモガクリカケリイニキト》」などあり。さてこの「かくる」は當時四段活用なりしものなれば、その連體形より「ゴト」につづけて「クモガクルゴト」といへるなり。後世の如く下二段活用ならば、「クモガクルルゴト」とあるべき所なりとす。
○奧津藻之 「オキツモノ」とよむ。「海川の底奧に生ずる藻の」といひて「ナビク」の枕詞とせり。藻は水の流又浪のまにまになびくものなればなり。卷十一「二七八二」に「左寐蟹齒孰共宿常奧藻之名延之君之言待吾乎《サヌガニハタレトモネメドオキツモノナヒキシキミガコトマツワレヲ》」とあるその例なり。
(563)○名延之妹者 「ナビキシイモハ」とよむ。この語の例は上の條に引けり。「ナビク」といふ語は卷一「四七」の「打靡」の下にいへる如く臥したるさまをいふものなること、卷五「七九四」の「宇知那比枳許夜斯努禮《ウチナビキコヤシヌレ》」卷十四「三五六二」「宇知奈婢伎比登里夜宿良牟《ウチナビキヒトリヤヌラム》」卷十一「二四八三」「敷栲之衣手離而玉藻成靡可宿濫和平待難爾《シキタヘノコロモテカレテタマモナスナビキカヌラムワヲマチガテニ》」卷十二「三〇七九」の「海若之奧津玉藻之靡將寢早來座君待者苦毛《ワタツミノオキツタマモノナビキネムハヤキマセキミマタバクルシモ》」などの例を見て知るべきが、それも、ただの寢ぬるにはあらずして、上の卷十二の例又この卷の「一三八」の「玉藻成靡吾宿之敷妙之妹之手本乎《タマモナスナビキワガネシシキタヘノイモカタモトヲ》」の場合の如く、我と共に宿しといふなり。さて又その「宿ぬる」をただに「なびく」といへることは上の「一九四」「一九六」の「ナビカヒシ」の例によりて推すを得べし。「かく我に從ひ寐し妻は」といふなり。
○黄葉乃 「モミチハノ」とよむ。「黄葉」の文宇の事は卷一の「一六」「三八」等の下にいへり。ここは「モミチバノ」にて「スグ」の枕詞とせるものなるが、その事は卷一「四七」の「葉過去君之形見跡曾來師」の「葉」字の下にいへるが、その例は卷四「六二三」に「松之葉爾月者由移去黄葉乃過哉君之不相夜多焉《マツノハニツキハユツリヌモミチバノスギヌヤキミガアハヌヨオホミ》」卷十「二二九七」に「黄葉之過不勝兒乎人妻跡見乍哉將有戀敷物乎《モミヂハノスギガテヌコヲヒトヅマトミツツヤヲラムコホシキモノヲ》」卷十三「三三四四」に「黄葉之過行跡玉梓之使之云者《モミヂハノスギテユキヌトタマヅサノツカヒノイヘバ》」などあり。
○過伊去等 舊訓「スギテイユクト」とよみたるが、童蒙抄に「チリテイユクト」とよみ、考に「スギテイニシ」とよみ、攷證に「スギテイニキト」とよめり。童蒙抄は上の黄葉の縁によりて義訓に「チリ」とよみたるなれど、「過」字は「チル」とよむべき文字にあらねば從ひがたし。「伊去」は「イユク」「イニシ」「イニキ」の三訓あるが、これは「イユク」か「イニキ」か、いづれにも讀まるる字なれど、恐らくは「去」の一(564)字にて「イヌ」といふ語にあてたるをば、なほその「イヌ」といふ訓み方を確に知らせむとて上に「イ」を加へたるにて「イ」そのものは發語の「イ」にあらずして、ただ、「去」を「イヌ」とよまむことを指導する爲の假名なるべし。かかることをせし、理由は「過去」は普通には「スギニシ」といふやうによまれ易ければ、その「去」が、用言の「イヌ」にして複語尾の「ヌ」にあらぬことを示す必要ありしが爲なるべし。又之を受くるに「と」といふ助詞を以てせるによりて上は終止形にて「キ」といふべきものなりとす。「すぐ」はここにては黄葉のちるをいふにあらで人の死去するをいふことなるが、その事は卷一「四七」の「過去君之」の下にいへるが如し。
○玉梓之 「タマヅサノ」とよむ。「玉アヅサ」をつづめて「タマヅサ」とよむなり。この詞は後世「玉章」とかけども、その本語は恐らくはこの文字にて示されたる通のものなるべし。而してここには、「使」の枕詞とせりと見ゆ。代匠記には「使は文をもてくるものなればかくつづく」といへるが、之はは「玉章」の文字によりて「タマヅサ」を「消息の文」と見たるものならむ。考には玉津佐てふ事は意得ず。強ておもふに、玉はほむることば、つは助の辭、佐は章の字音にや。」といへるが、これも「玉章」の二字を「タマヅサ」の本字と考へたる故なるべし。玉の小琴には之を否定してさて曰はく「今按上代には梓の木に玉を着たるを使の印に持てあるきしなるべし。そは思ひかけたる人の門に錦木を多くたてしと心ばへの似たることにて、凡て使を遣る音信の志を顯す印に玉付たる梓を持て行くなるべし。さて後に文字渡り來て書を通はす世になりて消息文は使のもて來るものなる故にかの玉梓に準へてそれを同じ玉づさと云るなるべし。」といへり。攷證は(565)枕詞なり、玉はほむる詞ときこゆれど、梓の字解しがたし。代匠記、考、などに説あれどよしとも思はれず。後人よく考へてよ。」といへり。註疏は大體本居説に賛すれど、なほ疑を存して「この説さもやと思はるれど、木も多かるをことに梓と定めたるはいかなるよしならん。なほよく考ふべし」といへり。この外なほ多少の説なきにあらねどいづれも首肯せられず。按ずるに集中のこの語の例を見るに、卷二「二〇九」に「玉梓之使乎見者」卷四「六一九」に「玉梓之使母|不所見成奴禮婆《ミエズナリヌレバ》」卷十一「二五八六」の「玉梓之使|不遣《モヤラス》」卷十二「三一〇三」に「玉梓之使|乎谷宅待八金手六《ヲダニモマチヤカネテム》」卷十三「三二五八」に「玉梓之使|之不來者《ノコネバ》」「三三四四」に「玉梓之使之|云者《イヘバ》」卷十六「三八一一」に「玉梓乃使毛|不來者《ノコネバ》」卷十七「三九五七」に「多麻豆佐能使乃家禮婆《タマヅサノツカヒノケレバ》」「三九七三」に「多麻豆佐能都可比多要米也《タマヅサノツカヒタエメヤ》」の例は「玉梓」とかく外は假名書なるがいづれも「使」の枕詞なり。又卷十「二二一一」に「玉梓公之使乃手折來有此秋芽子者雖見不飽鹿裳《タマヅサノキミガツカヒノタヲリケルコノアキハギハミレドアカヌカモ》」卷十一「二五四八」に「玉梓之|君之使乎待也金手武《キミガツカヒヲマチヤカネテム》」卷十二「二九四五」に「玉梓之|君之使乎待之夜之《キミガツカヒヲマチシヨノ》」とあるも「玉梓」とのみかき下は「君が使」といへるが、なほ「使」の枕詞と見えたり。次に卷三「四二〇」の「玉梓乃|人曾言鶴《ヒトゾイヒツル》」とあるは「玉梓の使の人即ち使なりと見え、「四四五」の「玉梓|乃事太爾不告往公鴨《ノコトダニツゲズイニシキミカモ》」とあるは「玉梓」を以て直ちに使の義にせりと見えたり。されば、これらは「使」の枕詞たりしものより轉化せしこと明かなり。次に卷七の「一四一五」に「玉梓|能妹者珠氈《ノイモハタマカモ》」又「一四一六」の「玉梓之|妹者花可毛《イモハハナカモ》」とあるはその意如何にか知り難けれど、「玉梓」とかけること上に一致せり。而してこれらの外に「タマヅサ」とかける例萬葉集になし。されば、「玉章」の字を以て「タマヅサ」を解かむとするは萬葉集に於いてはあるべからざるものなるを知る。かく(566)て假名書以外のものは一の例外なく「玉梓」とかければ、その詞は「梓」をさすに相違なく、玉はただ美稱にすぎざるべし。さてかく「梓」を以て使の枕詞とする所以は蓋し、その使たるものは古、梓の杖を携へしならむ。かくいふ由は古「ハセツカベ」といふものありしが、それは馳使部の意なるべきに文字に「丈部」とかけり。而して「丈」は即「杖」なることは些の疑なければ、馳使部は必杖を用ゐしなるべく、この杖は通常梓にてつくりしなるべし。今もステツキにつくるに多く「ヅサ」と名づくる木を用ゐるはその道の人のいふ所なり。(卷一「一」の梓弓の條參照)その「づさ」をほめて「玉づさ」といへるなるべし。然らば、これ何のむづかしき事もなかるべきなり。
○使乃言者 「ツカヒノイヘバ」なり。その妻の死せし事を使の知らせたるなり。以上の語あるによりて隱し嬬なりといふ説あれど、この頃の妻といふは必ず己が家に迎へたりといふ事もあるまじく、又何かの事によりてその里に歸り居りて病氣などにて死せしを報道せしにてもあるべし。
○梓弓 「アヅサユミ」なり。「オト」の枕詞とせり、下(二一七)にも「梓弓音聞吾母《アヅサユミオトキクワレモ》」とあり。蓋しこれは卷一、「三」に「御執乃梓弓之奈加弭乃音爲奈利」とあるが如く弓を引きて放つ弦音より音にかけて枕詞とせしならむ。
○聲爾聞而 舊訓「オトニキヽツヽ」とよめるが、略解は「オトニキキテ」とよみ攷證も亦「集中に而をつつと訓る例なければしばらくてと六言によめる」といひ、考は下の一説の「聲耳聞而」をとりて本文とし、「オトノミキキテ」とよみ、攷證もこの方いたくまされりといへり。さてこゑを「オト」と(567)いへることは、卷五「八四一」に「于遇比須能於登企久奈倍爾《ウグヒスノオトキクナベニ》」などの例あり。また「聲」の字を「オト」とよむ事は類聚名義抄に聲字に「オト」の訓を加へたるのみならず、普通の字書之を示し、又卷四「七九〇」「春風之聲爾四出名者《ハルカゼノオトニシデナバ》」卷十二「三〇九〇」に「葦邊往鴨之羽音之聲耳聞管本名戀渡鴨《アシベユクカモノハオトノオトノミニキキツツモトナコヒワタルカモ》」などの用例もあり。次に「而」を「ツツ」とよむ事は攷證にいへる如く本集に例なきことなるに、訓義辨證には「而」を「ツツ」とよむべき由を力説せり。然れども、一も證をあぐることなし。從ふべからず。加之、これを「オトニキキツツ」とよむときは、これが下の「言はむすべせむすべ知らに」の修飾格又は交互作用の如くなりて意味不明瞭となるべし。されば、ここは略解の如く六言によむべし。その意は、その死を使の來りていへば、その言をききて、さて次の句にいへる感想を生じたるなり。
○一云聲耳聞而 これは一本の傳を注したるなるが、考は之を「オトノミキヽテ」とよみて、之をよしとせれど、しかある時は下の「オトノミ」といへるに重複するのみならず、ここに先づ單純に「音をきゝ」といひてさて悲嘆の後に聲のみにては覺束なく思ふ心を起したりとする方まされば、寧ろ本文の方まされるにあらずや。
○將言爲便 「イハムスベ」とよむ。かくかける例は卷三「三四二」「四六〇」卷十九「四二三六」あり。又卷九「一六二九」に「將言爲便將爲爲便毛奈之」と云ふもあり。この語の假名書の例は卷五「七九四」に「伊波牟須弊世武須弊斯良爾《イハムスベセムスベシラニ》」などあり。
○世武爲便不知爾 「セムスベシラニ」とよむ。「不知爾」は上の「不」は打消の意を示し、下の「爾」はその(568)發音を示したるものなるが、この頃「に」といふ打消の複語尾の連用形ありしなり。この語の例は上にあげし卷五「七九四」に假名書のものあり。上二句の意は妻の身まかりし由を使の來りて告げしをききて、驚き嘆きていはむかたもなく、何とせむとも判斷つかず、ひたすらあきれはてたるさまをいへるなり。
○聲耳乎聞而不得者 この二句、「オトノミヲキキテアリエネバ」とよむ。似たる例は卷十一「二八一〇」に「音耳乎聞而哉戀犬馬鏡目相而《オトノミヲキキテヤコヒムマソカガミメニタヾニミテ》、戀卷裳太口《コヒマクモオホク》」などあるが、「のみを」といへる例は上「一五五」に「哭耳呼泣乍在而哉《ネノミヲナキツツアリテヤ》」あり、又卷十四「三三九〇」に「筑波禰爾可加奈久和之能禰乃未乎加奈岐和多里南牟安布登波奈思爾《ツクハネニカガナクワシノネノミヲカナキワタリナムアフトハナシニ》」あり。さてこの句の上に「されど」といふ如き意を含めて解すべし。されど、その通知だけをききて、それにて事實いかにも最もなりと信じてある譯にはゆかねばとなり。即ち、この通信を受けてより立ちても坐りても居られねばとなり。
○吾戀 舊飜「ワカコヒノ」とよみ、考に「ワカコフル」とよみたり。ここには戀の下に文字なきが故に、このままならば、づれにても不可といふを得ず。さて本集中の例を見るに、卷六「九〇三」に「吾戀之千重之一重裳《ワカコヒノチヘノヒトヘモ》云々」とあるは明かに「ワガコヒノチヘモヒトヘモ」とよむべきものなるが、かく明かなる證は少し。又卷四「五〇九」の「吾戀流千重之一隔母《ワガコヒノチヘノヒトヘモ》」卷十三「三二七二」「吾戀流千重乃一重母《ワカコフルチヘノヒトヘモ》」はいづれも「ワガコフルチヘノヒトヘモ」とよむべきものなるが、かく明かにかけるも例多からず。元來、「戀」といふ字は用言を本體とするが故にここにも動詞としてよむを主とすべし。されば「ワガコフル」とよむべく、その意はここにては準體言にして「わが戀ふることの」の意(569)にとるべきなり。
○千重之一隔毛 「チヘノヒトヘモ」とよむ。この語の例は上にいくつもあげたり。「隔」は「へだて」なればその意を以て「へ」にあてたるなり。語の意は千重ある中の一重といふ事なるが、これは今の語にていへば「千分の一」といふことなり。「三が一」とか「十の一」とかいふと同じいひざまなり。
○遣悶流 舊訓「オモヒヤル」とよみ異論も無かりしが、玉の小琴に「ナグサモル」とよみてより諸家往々之に從へり。本居のこの説は、蓋し、卷四「五〇九」の「吾戀流千重乃一隔裳名草漏情毛有哉跡《ワカコフルチヘノヒトヘモナクサモルココロモアレヤト》」卷六「一九六三」の「吾戀之千重之一重裳奈具佐末七國《ワカコヒノチヘノヒトヘモナクサマナクニ》」卷七「一二一三」の「吾戀千重一重名草目名國《ワカコフルチヘノヒトヘモナクサメナクニ》」とあるよりいでて、これらによりたるものなるべし。しかるにこの字面は上の「明日香皇女木※[瓦+缶]殯宮之時柿本朝臣人麿作歌」にも「遣悶流情毛不在」とありて、そこには玉の小琴に説なきなり。而して、それらは古來「オモヒヤル」とよみ來りて異論もなかりしなり。然るに、本居はここに到りて遽に「思ひやる」を否定して「ナグサモル」といふ語を主張せるなり。「思ひやる」といふ語は卷一「五」に「思遣鶴寸乎白土」とあり、又卷十七「四〇〇八」に「和賀勢故乎見都追志乎禮婆於毛比夜流許等母安利之乎《ワカセコヲミツツシヲレバオモヒヤルコトモアリシヲ》」とありて物思ひを消しやりはるくる意にて、「遣悶」の字に該當すること既に屡いひたる所なり。されば、ここを思ひやるとよみて何等の差支なき筈なり。然るに、他の所をば、「オモヒヤル」とよみて、異論も唱へざる人々が、(本居のみにあらず)ここにのみ異なるよみ方をするは如何なる理由ありての事か。「遣悶」の熟字は「ナグサム」といふより「オモヒヤル」といふ意に(570)適し、又上にいふ如く「思ひやる」といふ語當時に屡例あるにあらずや。
○情毛有八等 舊板本「コヽロモアレヤト」とよみたり。古寫本には「アリヤ」とよみたるもあり。考は「アルヤ」とよみ、玉小琴は「アレヤ」をよしとし、古義は「アリヤ」とよめり。先づこの「ヤ」は疑問をあらはすか感動をあらはすかが問題なれど、いづれにしても、「アルヤ」とはつづくべきものにあらず。疑問の意なるときには、「アレ」が條件を示す場合に「アレヤ」となり、ただの疑問のときに「アリヤ」となる。感動をあらはすときにもまた「アレヤ」となる。さて「アレヤ」となるには二の意あるが、疑問のときには「アレ」が條件たる場合なるに、しかせばこの歌の意明かならず、從ふべからず。今一つの「アレヤ」は如何といふに、本居はその意を釋せず。これに賛成せる攷證は「吾戀わたるところの千が一つもなぐさむる方もやあるとて輕の市にて立きくぞとなり」なり。されど、かくては疑問の意にて本居の説にはあはず。又美夫君志も攷證によれるが、これは「吾戀わたるこころの千重が一つだになぐさむる方もやあれ〔四字右○〕とて」といへり。「もやあれ」など語は古今になき所なれば、「ある〔二字右○〕」の誤植にてもあるべきが、誤植とせばこれ亦同じ。いづれにしても本居説は成立せずしてここは疑間なること著しければ、古義の如く「ありや」とよむべきなり。
○吾妹子之 舊板本「ワキモコシ」とよみたるが、古寫本中には「ワキモコガ」とよめるもの少からず、代匠記にもしかよめり。「之」は「シ」とも「ガ」ともよみうけれど、ここは「ガ」とよむべき所なり。意は明かなり。
○不止出見之 給本「ヤマズイデミシ」とよみたるが、考に「ツネニデテミシ」とよめり。「不止」は上に(571)いへる如く、「ヤマズ」とよむべきなり。次に「デテミシ」とよむべきか、「イデミシ」とよむべきかといふに、集中に「デテ」といへる例卷十四「三五六〇」に「伊呂爾低※[氏/一]伊波奈久能未曾《イロニデテイハナクノミゾ》」「三五〇三」に「宇家良我波奈乃伊呂爾※[氏/一]米也母《ウケラガハナノイロニデメヤモ》などあれば、本集の語として不當なるにはあらねど、この卷のかき方として、かゝる際に必ず「デテ」とよますべきものならば、「出」の下に「テ」にあたる文字を加へてありしならむ。さてはここは、普通の如く「いで見し」とよむべきなり。これにつきては攷證に「でては出而《イデテ》の略にていかにも古言にはあれど、ここには而もじもなく、またいで、いづなどいふ言、古言になくばしらず、いでも、いづも皆古言なれば、同じ古言の中にも略語をばおきて本語をとるべき也。こはいでゆくいでたつなどいふ出なれば、必らず、いでと本語によむべき所なるをや」といへるが正しき見といふべし。「いでみる」とつづける例は卷十五「三六九一」に「伊低見都追痲都良牟母能乎《イデミツツマツラムモノヲ》」又卷十八「四一一三」に「開花乎移低見波其等爾《サクハナヲイデミルゴトニ》」などあり。ここはその妻が、たえず出でて見し輕市といへるなるが、その市には人々の多く出で見るものなるが、人麿の妻もまた屡出でて見しなるをいへるなり。
○輕市爾 「カルノイチニ」なり。この市は當時宮城附近の大なる市にてありしものと見え、日本紀、天武十年十月の條に「是月天皇將v蒐2於廣瀬野1而行宮構訖、装束既備。然車駕遂不v幸矣。唯親王以下及群卿、皆居2于輕市1而檢2校装束鞍馬1小録以上大夫皆列2坐於樹下1、大山位以下者皆親乘之。共隨2大路1自2此南1行v北」とあり。この市を通して南北に通りたる大路ありしを見るべし。これ上に輕路といへるものなるべし。市は物品を交易賣買する爲に設けたる一定の地域をいふ。(572)關市令に「凡(ソ)市恒以2午時1集日入前撃鼓三度|散《アカレ》」とあり。義解「謂日中爲v市、致2天下之民1是也」とあり。かく多くの人の集まる所たることを先づ注意すべし。
○吾立聞者 「ワガタチキケバ」とよむ。上にいへる輕の市にわが出で立ちてきけばといふなり。こは戀しさにたへかねて妹がつねに出でて見たりし輕の市に行きてもしもここにて行きあふこともありやと聞けばとなり。これよりして下の「音毛不所聞」以下にかかれるなり。
○玉手次 「タマタスキ」なり。「畝火」の枕詞とすること、かくよむこと卷一「五」によるべく、「二九」にも例あり。
○畝火乃山爾 「ウネビノヤマニ」とよむ。この山の事は卷一「一三」の「雲根火」の下にいへり。又「畝火」とかけるは卷一、「二九」「五二」にいへり。これは輕の地より遠からずして、北西にありて高からねど著しく見ゆるによりてかくいへるなるべし。
○喧鳥之 「ナクトリノ」とよむ。「喧」字を「ナク」とよむことは卷一「一六」の「不喧有之烏毛來鳴奴」の下にいへり。さて「玉手次」よりここまで三句は下の「音」といふ詞を導き出さむ料の序にいへるにて、「ナクトリノ」「オト」とつづけたるなり。
○音母不所聞 流布本「オトモキコエズ」とよめるを、古義に「コヱモキコエズ」とよめり。鳥に對して「こゑ」とよめる例は卷十七「三九一五」に「安之比奇能山谷古延底野豆可佐爾今者鳴良武宇具比須乃許惠《アシビキノヤマタニコエテヌツカサニイマハナクラムウグヒスノコヱ》」「三九八七」に「多麻久之氣敷多我美也麻爾鳴鳥能許惠乃弧悲思吉登岐波伎爾家里《タマクシゲフタガミヤマニナクトリノコヱノコヒシキトキハキニケリ》」などあり。又「鳥」に「おと」といへる例は卷五「八四一」に「于遇比須能於登企久奈倍爾《ウグヒスノオトキクナベニ》」卷十七「三九八八」に(573)「保登等藝須奈久於登波流氣之《ホトトギスナクオトハルケシ》」などあり。これによれば、「コヱ」とも「オト」ともいひうべきなり。かくして、「音」字は類聚名義抄などに「コヱ」とも「オト」とも訓ずれば、その點よりいふとも、いづれとも定めがたし。されど、卷十「一九五二」に「霍公鳥喧奈流聲之音乃遙左《ホトトキスナクナルコヱノオトノハルケサ》」とあるが如く、「音」は「オト」とよむ方その文字の本性に近きを以て普通には「オト」とよみならはせり。而してここはその妻の聲といふよりも、その妻の聲らしく思はるる音響といふ意にとる方よかるべければ、「オト」とよむをよしとす。
○玉桙 「タマホコノ」とよむ。「道」の枕詞なるがその意は卷一「七九」の下にいへり。
○道行人毛 舊板本、「ミチユキヒト」とよみたるが、考に「ミチユクヒトモ」とよめり。按ずるにここは「みちゆきびと」といふ熟語をなすべき所にあらずして、「ゆく人」と連體格にすべき所なり。而して集中の例を見るに「道行人」とかけるは少からずしていづれともよまるべきが、假名書のものにては「ミチユキビト」とあるもの一もみえず、而して日本紀仁徳卷に「瀰致喩區茂能茂多愚譬※[氏/一]序豫耆《ミチユクモノモタグヒテゾヨキ》」又本集卷十七「四〇〇六」に「多麻保許乃美知由久和禮播《タマホコノミチユクワレハ》」とあるに照せば、「ミチユクヒト」とよむをよしとす。その輕の街を往來する群集の人をいふなり。
○獨谷 「ヒトリダニ」とよむ。「谷」は「ダニ」の助詞をあらはすに借り用ゐたるなり。一人なりともいふなり。
○似之不去者 古來「ニテシユカネバ」とよみて異論もなかりしが、檜嬬手に「ニシガユカネバ」とよめり。打見る所には檜嬬手の説の方わかり易きやうなれど、かくては甚だ拙し。この古來の(574)よみ方は、それを今のいひ方にせば「似た樣な姿して通る者がないから」といふ如きものにして、しかも、遙に巧妙、簡潔なるいひ方なりとす。かかる詞遣の例は卷一「六八」の「忘而念哉《ワスレテオオモヘヤ》」(そこに多くの假名書の例をあげたり)などありて、いづれも今の人のかけても思はぬ詞の遣ひざまなり。
○爲便乎無見 「スベヲナミ」なり。せむすべを無く思ひてなり。卷四「五四八」に「今夜之早開者爲便乎無三秋百夜乎願鶴鴨《コノヨラノハヤクアケナバスベヲナミアキノモモヨヲネガヒツルカモ》」などこの語例少からず。
○妹之名喚而袖曾振鶴 「イモガナヨビテソデゾフリツル」なり。妻の名を呼びて、袖をふりつとなり。袖を振ることは、上「一五二」の人麿石見より京上する時の反歌にもあるが、かれは別れを惜む情をあらはしたるものなり。その所の攷證に曰はく「袖を振は人と別るゝ時又はかなしき時戀しきにたへずしてする古しへのしわざなるべし。集中人にわかるる所に多くよめり」といへり。今その用例を見るに卷六の「九六五」「九六六」卷七「一〇八五」卷十「二〇〇九」卷十一「二四九三」卷十二「三一八四」卷十三「三二四三」卷十四「三三八九」等すべて人に別るる場合のみなり。されば、これも單に悲しさにたへずしてするわざにあらずして、生死の差こそあれ、わかれを惜む情をあらはすわざなるべし。
○或本有謂之名耳聞而有不得者句 これは金澤本、類聚古集、神田本、温故堂本、大矢本、京都大學本等に小字二行にせり。それをよしとすべし。これは「或本ニ之ヲ名耳聞而有不得者トイヘル句アリ」とよむべきものにして、その「之」にて、指さるる句ここになかるべからざるなり。然るにこの文にはその句なし。これは上の「聲耳乎聞而有不得者」とある句に對していへるものなる(575)べきこと疑ふべからず。然るにここに之を記せるは不十分なりといふべし。拾穗抄には「一云名耳聞而有不得者」として彼の下にいれたり。これは季吟の私案にや、又さる本ありしにや。この注につきで彼是の論あれど、かくある以上今更之を如何ともすべからず。唯上述の如き事なりと心得てあるべし。さてこの句のよみ方なるが、代匠記には「ナノミヲキヽテアリエネバ」とよめり。これによるべし。さらば本文の「聲」を「名」とせるが相違の主點とすべきが、ここは「名」といふべき所ならねば、本文の方よきはいふまでもなし。
○一首の意 輕といふ地は吾が妻の里なれば十分に見たく思ひしかど、人目多ければ、頻繁に行かば、人も知るらむと思ひ、後にもゆつくり逢はむと思ひ憑みて心にしぬびてある時にその妻は此世を去りたりと使の來りて告ぐるに、その音づれを聞きて、われはあきれまどひ、悲しさに堪へずして言ふべき語をも知らず、すべきわざも判斷がつかずあり。されど、また思ふに、これは使の言のみにては覺束なき事なれば、自ら行きて實否を知らむ、且は又わが戀ふる心の千分一もはるくる手段もあらむも知られずと思ひて、妻が常に立ち出でて見し、かの輕の市に行き立ちて、ここにて妻にあふこともあらむかと目をすまし、耳を欹てて、樣子をうかがへど、妻の聲に似たるおともせず、又妻の姿に似たる人も通らねば、さては如何にと考ふれども、如何にも致し方なく、何處とあてもなきに妻の名を呼びて、袖をふりつつ別れを惜みたりとなり。按ずるにこの歌の趣は妻の死去の報を受けて、直ちにその逢ひ初めし昔を回想し、なほ昔はその使が戀しきたよりなどをもたらしたりしことを思ひ、かくてそのたのしき夢より、直ちに現實の悲(576)哀に移れるさまに歌へるなるべし。これが爲にこれを隱し妻なりといふ説も出でしなるべけれど、古代の婚姻は、始は皆隱妻の形式にてありしことは平安朝の婚姻の式にも三日目に「露顯」又は「ところあらはし」といへるがありしなどにて、それよりも古き時代の事を思ふべし。
 
短歌二首
 
○ 考に反歌に作れり。されど、必ずかくせではかなはずといふ道理にはあらぬこと屡いへり。本のままにて差支なし。
 
208 秋山之《アキヤマノ》、黄葉乎茂《モミヂヲシゲミ》、迷流《マドハセル》、妹乎將求《イモヲモトメム》、山道不知母《ヤマヂシラズモ》。【一云路不知而。】
 
○秋山之 「アキヤマノ」なり。下の黄葉せる木のある山なり。
○黄葉乎茂 「モミヂヲシゲミ」なり。この「シゲミ」といふ詞の意義は卷一「一七」の「山乎茂」の下にもいへるが、卷六「一〇五七」に「鹿脊之山《カセノヤマ》、樹立矣繁三《コダチヲシゲミ》、朝不去寸鳴響爲※[(貝+貝)/鳥]之音《アササラズキナキトヨモスウグヒスノコヱ》」など例多し。黄葉を繁く思ひて、即ち黄葉が多くあるによりてなり。
○迷流 舊板本「マトヒヌル」とよみたるが、考には「マトハセル」とよみ、檜嬬手に「サドハセル」とよめり。されど「迷」字を「サドフ」といふ語にあて得べきか否か疑ふべし。又この字今は「マヨフ」とよめども、古は「マヨフ」といふ語は「※[糸+比]」字にあたるものにして「迷」は專ら「マドフ」といふ語にあてたり。その證は類聚名義妙に「マドフ」の訓はありて「マヨフ」の訓なし。されば、ここはなほ「マドフ」の方(577)るべし。次に「マドヒヌル」とよむべきか「マドハセル」とよむべきかといふに、「ヌル」といふ時は「迷フ」といふ事が、客觀的には、その事が、完く行はれてある由にいひ、主觀的にはその事を確にいふ事となるべきが、ここはただ假説なれば、「ヌル」を用ゐるは強きにすぐ。されば、考の説によりて「マドハセル」とよむべし。「マドハセル」は「マドハス」といふ敬語に「有り」の結合したるものなり。これは、その妻の死して山に葬られて在らぬを山に入りて、さまよひありくならむと譬喩的にいへるなり。
○妹乎將求 「イモヲモトメム」なり。その妻を捜し求めむといへるなるが、ここは連體格にて下の「山道」につづけるなり。
○山道不知母 「ヤマヂシラズモ」なり。その山道をば知らずとなり。「も」をかく終止につくる時は感動の意を強むる用をなすなり。
○一云路不知而 これは、結句に對する一説なるが、契沖は「ミチシラズシテ」とよみたれば、「山道不知母」の代りに之を用ゐるといふ説と考へたること著し。而して諸家大抵かく考へたるに、攷證は「路の上に山の字あるなれども山の字は本書にあれば略けるにて山路不知而《ヤマチシラズテ》なり」といへり。されど之は一句をかへたるものと見るべきなり。意を以て推すに、本文の方よかるべし。
○一首の意 契沖曰はく「此は次の長歌によるに羽易山に葬たるを黄葉をめでて見に入たるが、道まどひして歸らぬさまに云なせり。第七に秋山|に《(ノ)》黄葉あはれ|と《(ミ)》うらふれて入にし妹はまてどきまさ|ぬ《(ズ)》(一四〇九)これ能似たる歌なり。之に依に妻の死去、九月下旬なりけるにや」と。(578)この言の如し。
 
209 黄葉之《モミヂハノ》、落去奈倍爾《チリユクナベニ》、玉梓之《タマヅサノ》、使乎見者《ツカヒヲミレバ》、相日所念《アヒシヒオモホユ》。
 
○落去奈倍爾 「チリユクナベニ」なり。「落去」を「チリユク」とよむこと、上の、長歌の「晩去」の場合に同じ。「奈倍爾」は卷一「五〇」の「神長柄所念奈戸二《カムナガラオモホスナヘニ》」の下にいへるが如く、「と共に」「と同時に」「につれて」などと譯すべき語なり。
○使乎見者 「ツカヒヲミレバ」なり。この使は今訃報をもたらしたる使なるが、その使を見れば、昔を想起すとなり。
○相日所念 舊板本「アヒシヒオモホユ」とよめるが、童蒙抄に「ミシヒシノバル」とよみ、考に「アヘルヒオモホユ」とよみたり。「相」は「ミル」とよむを得べき字にして、本集中にまましか用ゐてあれど、ここはなほ「アフ」の方なるべし。「相」字は今專「アヒ」といひて接辭の如きさまにのみ用ゐれど、元來は用言をあらはせる字なればその方によるべし。かくて「アヘルヒ」といふよりは回想の意を明かにせむ爲に「アヒシヒ」とよむをよしとす。「所念」は「オモホユ」なることいふまでもなし。さてこの「アヒシ日」とはいつなるかといふに、恐らくは、長歌にいへる如く、逢ひ初めし頃をさせりと思はる。
○一首の意 今黄葉の散り去く時なるが、この時にかの里よりの使を見れば、昔彼の人と初めて逢ひし時の事の思ひ出さるるよとなり。以上はすべて、過去の追想に耽らむとする情をうた(579)へりと考へらる。而して、その妻の死が、黄葉の頃にてありしことは愈著しとす。
 
210 打蝉等《ウツセミト》、念之時爾《オモヒシトキニ》、【一云宇都曾臣與念之】取持而《トリモチテ》、吾二人見之《ワガフタリミシ》、※[走+多]出之《ワシリデノ》、堤爾立有《ツツミニタテル》、槻木之《ツキノキノ》、己知碁智乃枝之《コチゴチノエノ》、春葉之《ハルノハノ》、茂之如久《シゲキガゴトク》、念有之《オモヘリシ》、妹者雖有《イモニハアレド》、憑有之《タノメリシ》、兒等爾者雖有《コラニハアレド》、世間乎《ヨノナカヲ》、背之不得者《ソムキシエネバ》蜻火之《カギロヒノ》、燎流荒野爾《モユルアラヌニ》、白妙之《シロタヘノ》、天領巾隱《アマヒレガクリ》、鳥自物《トリジモノ》、朝立伊麻之弖《アサタチイマシテ》、入日成《イリヒナス》、隱去之鹿齒《カクリニシカバ》、吾妹子之《ワギモコガ》、形見爾置有《カタミニオケル》、若兒乃《ミドリコノ》、乞泣毎《コヒナクゴトニ》、取與《トリアタフ》、物之無者《モノシナケレバ》、鳥穗自物《トボシモノ》、腋挾〔左○〕持《ワキハサミモチ》、吾妹子與《ワギモコト》、二人吾宿之《フタリワガネシ》、枕付《マクラヅク》、嬬屋之内爾《ツマヤノウチニ》、晝羽裳《ヒルハモ》、浦不樂晩之《ウラサビクラシ》、夜者裳《ヨルハモ》、氣衝明之《イキヅキアカシ》、嘆友《ナゲケドモ》、世武爲便不知爾《セムスベシラニ》、戀友《コフレドモ》、相因乎無見《アフヨシヲナミ》、大鳥《オホトリノ》、羽易乃山爾《ハカヒノヤマニ》、吾戀流《ワガコフル》、妹者伊座等《イモハイマスト》、人之云者《ヒトノイヘバ》、石根左久見手〔左○〕《イハネサクミテ》、名積來之《ナヅミコシ》、吉雲曾無寸《ヨケクモゾナキ》、打蝉跡《ウツセミト》、念之妹之《オモヒシイモガ》、珠蜻《タマカギル》、髣髴谷裳《ホノカニダニモ》、不見思者《ミエヌオモヘバ》、
 
○ この歌の前に考は新に端詞をつくり加へたれど、かかる本古來一もなく從ふべからぬこと既にいへり。
○空蝉等念之時爾 「ウツセミトオモヒシトキニ」とよむ、「ウツセミ」といふ語の事は卷一「一三」の(580)「虚蝉」又「二四」の「空蝉」の下にいへり。ここは上の「一九六」の長歌の中間に「宇都曾臣跡念之時云々」といへると同じくその亡妻を現身なりと思ひし時といふ意なり。ここに妻の死をいはずして端的にかくいひ起したるを見、これを上の「一九六」の長歌に照して考ふるときは、これは前の「二〇七」と相持ちてはじめて一の意を完うするものにして、「二〇七」は「一九七」にていへば、前半に相當し、この歌はその「宇都曾臣跡念之時」以下の後半に相當せること明かなり。諸家多くはこれを閑却して、これらの二首を別時に別人の爲に詠ずとするは果して根據ありや。
○一云宇郡曾臣等念之 これは上の二句を一の傳に「ウツソミトオモヒシトキニ」とある由を注せるなるが、下の「時爾」は異ならねば、書かざりしなり。かくて結局は「ウツセミ」と「ウツソミ」との相違なるが、「宇都曾臣跡念之時」といふ語は上「一九六」にありて、同語の形のやゝ異なるのみなり。
○取持而 舊本「トリモチテ」とよめるを童蒙抄には「タツサヘテ」とよむべしといひ、攷證には「タツサヒテ」とよめり。攷證の説に曰はく、「集中|取持《トリモツ》といふこともいと多かれど、皆物を手に持事か、政を取持所にのみいひて、かゝる所にとりもつといひしことなく、こゝをとりもちてと訓ては詞後へかけて意聞えがたければ、考に下の或本に携手《タツサハリ》とあるをとりて、ここをもたづさへてとよまれしにしたがへり。されど、たづさへてとよまれしはいかゞ。たづさへといふ時は自《ミヅ》から妾をたづさへゆく事になれば、ここに當らず。ここはたづさはりてといふ意なればたづさひてと訓べし。はりの反ひなればたづさはりといふ言になる也」といへり。この説一往道理ある如くなれど、「タヅサハリ」の「ハリ」の反「ヒ」なれは、「タヅサヒテ」とよむべしとする説は用言の活(581)用の内部に反切を利用して説かむとするものにして國語の條理を無視したる説なれば從ふべからず。さらば、單に「タヅサヒテ」といふ用言にあてたりとする方まされりとせむか、「タヅサフ」といふ語は下二段活用にして當時四段活用の語たりし證なし。諸家多く直ちに「タヅサヒテ」として疑はざれど、われはその證を知らぬが故に隨ひ難し。さらば「タヅサヘテ」とよまむか、攷證にいへる如くこれ亦不可なり。されば、その意の如くによまむには「タヅサハリテ」と六音によまむ外あるべからず。然れども、「取持」二字を「タヅサハル」とよむべき理由を知らず。されば、これ亦從ひがたし。然れば結局舊本の如く「とりもちて」とよまむ外あるべからず。然るときは又考、攷經などにいへる如く「何をとりもつにか」といふ難いでむ。然れども、これは契沖が「とりもちては下にある槻の枝なり」といへることにて明かなるにあらずや。
○吾二人見之 「ワガフタリミシ」とよむ。われら二人にて見しといふなり。他の説にては堤を見る事の如くなれど、わが如くよまむときはこれより下の「槻木」につゞく文勢なり。
○※[走+多]出之 舊板本「ワシリイデノ」とよみ、考は「ハシリデノ」とよみ、攷證は「ワシリデノ」とよみたり。「※[走+多]」は廣韻に「俗趨字」と注して、類聚名義抄には「ワシル」とも「ハシル」とも注せり。さて「ハ」と「ワ」とは語によりては古くより相通せりと見え、その點よりいへば、いづれにてもよかるべきが、ここは日本紀雄略卷の御製歌に「和斯里底能與廬斯企野磨能《ワシリデノヨロシキヤマノ》……」とあるによりてよむべきなり。本集卷十三の「三三三一」に「隱來之《コモリクノ》、長谷之山《ハツセノヤマ》、青幡之忍坂山者《アヲハタノオサカノヤマハ》、走出之宜山之《ワシリデノヨロシキヤマノ》、出立之妙山叙《イデタチノクハシキヤマゾ》」とあるも同じ趣なる語なり。さてこの語の意は攷證に「走り出るばかり近きをいへる也」といひたれど、(582)これにては何の事かわからぬなり。寧ろ略解に「門近きを云」といへる方簡にして要を得たりといふべし。これは雄略の御製についての守部の説に「此方《コナタ》より出立(ツ)向ひを云なり。……されば、此山は朝倉宮に眞向ひて常に立(チ)馳にも出て見たまふ地なれば、出立とも走出とも詔ふなり」といへる如く門前近き所にして、一寸走り出づれはすぐに見ゆる地點にあるものをいふ爲の語と見えたり。
○堤爾立有 「ツツミニタテル」なり。堤は倭名妙に「陂堤」に注して「和名都々美」とあり。これは「池のつゝみ」にて土を築きて水をつつむより來りし語なるべし。「立有」は「タテル」なり。「タテル」は植ゑ立ちてあるをいふ。日本紀卷二に「植此云2多底婁1」とあり。人麿の住所か妻の住所かの附近に池ありて※[こざと+是]ありしことこれにて知るべし。
○槻木之 「ツキノキノ」とよむ。槻は倭名妙に「唐韵云槻【音規都岐乃岐】木名、堪v作v弓者地」と見ゆ。この木は欅に似て少しく異なるものにして、古來本邦に多かりしことは、古事記下卷雄略卷に「天皇坐2長谷之百枝槻下1爲2豐樂1」とあるなどにて知るべし。その槻木が、この堤の上に植ゑ立てられてありしならむ。堤に木を植うることは營繕令に「凡堤内外並堤上多殖2楡柳雜樹1充2堤|堰《ヰセキ》用1」とあるにて著しきが、槻木の植ゑられし例は卷十三「三二二三」に「神南備乃清三田屋乃垣津田乃池之堤之百不足五十槻技丹水枝指《カムナビノキヨキミタヤノカキツタノイケノツツミノモモタラズイツキガエタニミヅエサシ》云々」などを見て知るべし。
○己知碁智乃枝之 舊本「コチゴチノエノ」とよめりしを考に「コチゴチノエダノ」とよめり。「枝」は「エダ」なる事勿論なるが、古語に「エ」ともいへり。されば、この卷「一一三」に「玉松之枝」を「タママツガ(583)エ」とよみて、「エダ」とはよまざりしなり。ここに至りて遽に「エダ」とよみて字餘りの句とすべき道理何處にあるか。或は彼は上を「ガ」といひたれば「エ」といひ、ここは上を「ノ」いひたれば「エダ」といへるなりといふ如き説もいでむ。されど、それも亦據なきなり。日本紀雄略卷の歌に「阿理鳴能宇倍能婆利我曳陀阿西嗚《アリヲノウヘノハリガエダアセヲ》」とあり。これによれば、「エ」とも「エダ」ともその宜しきに從ひてよむべきなり。この故にここは舊訓によるをよしとす。「コチゴチ」といふ語は古事記雄略卷の歌に「久佐加辨能《クサカベノ》、許知能夜麻登《コチノヤマト》、多多美許母《タタミコモ》、幣具理能夜麻能《ヘグリノヤマノ》、許知碁知能《コチゴチノヤマノ》、夜麻能賀比爾多知邪加由流《カヒニタチサカユル》、波毘呂久麻加斯《ハビロクマカシ》」といへるをはじめ、本集にはここの外卷二「二一三」に「百兄槻木虚知期知爾枝刺有如《モモエツキノキコチゴチニエダサセルゴト》」卷三「三一九」に「奈麻余美乃《ナマヨミノ》、甲斐乃國《カヒノクニ》、打縁流《ウチヨスル》、駿河能國與己知其智乃國乃三中從出立有不盡能高嶺者《スルガノクニトコチゴチノクニノミナカユイデタテルフヂノタカネハ》」卷九「一七四九」に「瀧上之櫻花者開有者落過祁里《タギノウヘノサクラノハナハサキタルハチリスギニケリ》、含有者可開繼許智期智乃花之盛爾《フフメルハサキツギヌベシコチゴチノハナノサカリニ》」などあり。これにつきて從來は「をちこちにてかなたこなたなり」といふ如き説なりしを槻の落葉に三卷の歌につきて「こちは此方也。ちはいづちの知に同じ。甲斐の國の此方《コチ》、駿河の國の此方《コチ》とふたつに分る言なり」といひ、古事記傳はこの説をよしとして、「こは彼方|此方《ヲチ》なるを此方《コチ》此方《コチ》分りとしも云は此方《コナタ》より彼方《ソチ》と云處は彼方《ソナタ》にては又|此方《コチ》なれば、此方《コナタ》の此方《コチ》、彼方《アナタ》の此方《コチ》なり。各と云言の如し」といひ、又曰はく「此説は荒木田久老が萬葉の哥なるにつきて云る説にて、信に然ることなり。然るを昔より誰も許と袁を通ひて直《タゞ》に彼此と云言とのみ心得居るは精しからず。さては彼《ヲチ》と此《コチ》と混《ヒト》つになりて差なし」ともいへり。(四十一)守部の山彦册子に本居の説をもひがこととして説を立てて曰はく「詐知其知は彼此《ヲチコチ》とは元より別にて其(ノ)言(584)の貌《サマ》上に物二ツを先いひて、其(ノ)一ツを此《コチ》と指し、今一ツを此《コチ》と指ていふ詞なり。今の心にては兩(タツ)ながら此《コチ》といはん差別《ワキタメ》なく、いかゞなるやうなれど、今(ノ)俗言にも兩方にある物を指《ユビザ》して此方《コチラ》もよい、此方もよい又|此等《コチラ》が、おもしろい、否《イナ》此等《コチラ》がおもしろい、など、常にいふと同じいひざまなり」といひ、又「されば、かの彼此《ヲチコチ》と云(フ)語はうちつけにもよみ出せるを此(ノ)許知其知《コチゴチ》は一首の初めに、うち出せる例は非ずして必ず先上に物二ツを云て其次にのみいへり。」ともいへり。この語の事實上の説明は守部の説の如くにてあるべく、本居の説の如きは、わかりたるやうにて何の事か實は不明瞭に陷るべく思はる。先づこれが、「ヲチコチ」といふ語の轉にあらぬ事は、最初の音が「コチ」とあるにて明かなり。凡そ語言の轉ずる多くの場合はそが複合する際に、下に來る部分に轉音あるものにして最初に轉音あるが如きは極めて特異の場合なりとす。されば、「ヲチコチ」と「コチゴチ」とは明かに別の語なるべし。又下の語頭を濁れるは、これ「コチ」といふ語を疊ねたるものたるを示してあまりあり。さればこれは「コチ」といふ語が、基にてそを二つ疊ねたるものたるは明かなりといふべし。さて何が故に、我等が、今「アチコチ」といふべき所を「コチゴチ」といひしか。本居翁の説の如き理由によるが爲か、守部のいひしが如き考へ方に基づくかといふに、その實はさるむづかしき理由によるにあらずして、當時「あち」といふ語未だなかりしが故なるべく思はる。即ちこの頃の文獻をみるに「コチ」といふはあれど、「ソチ」といふは見えざること奈良朝文法史に既にいへる所なり。而して、第三人稱の所謂遠稱の「あ」「あれ」といふ語は全く當時に發生してあらず、同じく遠稱に「か」「かれ」はあれど、發達十分ならざるなり。又たと(585)ひ「か」「かれ」ありとても、「かち」といふ語は古來なき所なれば、これを用ゐて方向を示す語は全く成立せざりしなり。されば第三人稱の方向を指す語としては當時「コチ」の一語のみなれば、これを種々の場合に用ゐるより外に方法なき筈なり。この故に、本居翁の説の如きは架空の説明にしてとるに足らざるななり。又守部の「先(ツ)物二(ツ)をいひて云々」といへるも、ただ、ある場合の説明として役《ヤク》立つのみに止まり、この語法の根本義には更に觸れぬ論なり。「コチゴチ」と疊ねいへる以上、それによりて指示せらるるものは、二以上あるべきは理の見易きところなり。畢竟事實を精査せずしての空論は世をあやまるに止まるといふべきのみ。されば、その意は今の語の「あちらやこちらの」といふに異ならずと知るべし。「こちごちのえ」とは多くある枝を總じていへるなり。
○春葉之茂之如久 「ハルノハノシゲキガゴトク」とよむ。春の若葉の茂きが如くなり。春には若葉の盛りに出で茂るを以て、これによりて葉の數限りなく多きが如くとその思ひのしげきをたとへたるなり。卷十九「四一八七」に「念度知《オモフドチ》、大夫能《マスラヲノコノ》、許能久禮繁思乎《コノクレノシゲキオモヒヲ》」卷十「一九二〇」に「春草之《ハルクサノ》 繁吾戀《シゲキワガコヒ》」など似たるいひざまなり。
○念有之妹者雖有 「オモヘリシイモニハアレド」とよむ。「者」を「ニハ」とよむ例は卷一「二九」の「夷者雖有」「四七」の「荒野者雖有」など多きのみならず、本集の例として、上には略し、下には委しくかけること少からず。契沖之を釋して曰はく「されば下に「爾者」とあるに準じてここも知るべし。青者の日を逐て盛なる如く、いよ/\思ひまさる譬なり」と、まさに然るべし。
(586)○憑有之兒等爾者雖有 「タノメリシコラニハアレド」とよむ。心に思ひたのみたりし妹にはあれどといふなり。上(一三五)の「靡寢之兒乎」の下にいへる如く、「兒」は人を親しみ愛していふに用ゐる語なり。「等」はたゞ音調の爲にそへたるのみなり。以上二句にして、下の「隱去之鹿齒」にかかるなり。
○世間乎 「ヨノナカヲ」とよむ。「世間」を「ヨノナカ」とよむは、「人間」を「ヨノナカ」とよむと同義にしてその語例は卷五「八〇〇」に「余能奈迦波加久叙許等和理《ヨノナカハカクゾコトワリ》」「八〇四」に「余乃奈迦野都禰爾阿利家留《ヨノナカヤツネニアリケル》」「八一九」に「余能奈可波古飛斯宜志惠夜《ヨノナカハコヒシゲシヱヤ》」など、甚だ多し。かく「よのなか」といへる例は多きが、その用ゐ所によりて多少意義異なるものあれば、その心して釋すべし。ここは世の中のならはし即ち生者必滅の世間の掟の意なり。この思想は必ずしも佛教をまつものにあらじ。
○背之不得者 「ソムキシエネバ」とよむ。この「シ」は間投助詞にして、「ソムキ得ネバ」といふにおなじ。かかる語遣の假名書の例は卷十八「四〇九〇」に「保等登藝須奈枳之和多良婆可久夜思努波牟《ホトトキスナキシワタラバカクヤシヌバム》」卷九「一七六九」に「如是耳志戀思渡者《カクノミシコヒシワタレバ》」などこれなり。世の中の生死の掟を背き得ざればといふなり。
○蜻火之 舊訓「カゲロフノ」とよめるを考に「カギロヒノ」とよめり。「カギロヒ」といふ語は後に「かげろふ」といふこと勿論なるが古くは「カギロヒ」といひたること古事記履仲卷に「迦藝漏肥能毛由流伊幣牟良《カギロヒノモユルイヘムラ》」とかける如く著し。ここに「蜻」を下に「火」をかけることは卷九「一八〇四」に「蜻※[虫+廷]火之心所燎管悲悽別焉《カギロヒノココロモエツツナゲクワカレヲ》」とあると趣同じく、「カギロヒ」とよまむ爲に「火」を加へたるなるべし。蜻蛉(587)を本草和名に「和名加岐呂布」とあるその訓をかりたるなり。「カギロヒ」は卷一「四八」の下にいへる如く、ひろく光のさすさまにいふ語なるが、多くは日光にもあれ、火氣にもあれ、その氣の立つが大氣にうつりてゆら/\として見ゆるにいへり。
○燎流荒野爾 「モユルアラヌニ」なり。「燎」は説文及び玉篇に「放火也」と注し、類聚名義鈔に「モユ」と訓す。書經盤庚上に「若3火之燎2于原1」とあるその用例によりてここにかけりと見ゆ。荒野とは卷一「四七」に「眞草苅荒野者雖有《ミクサカルアラヌニハアレド》」とある荒野におなじく、人|氣《ケ》稀なる里はなれたる野をいふ。陽炎のもゆる荒野とはその野の廣漠として、遠く空しきさまをいへるなり。木立など深くては陽炎は見がたきなり。ここはその葬地のさまをいへるものなりと見ゆ。
○白妙之 「シロタヘノ」とよむ。「妙」を考に「栲」の誤なりといひたれど、諸本みなかくあるのみならず、祝詞などに、荒妙和妙など、「妙」字をあてたれば、誤とはいひ難し。さらば「妙」を何故に「タヘ」にあてたるか。「妙」字には織物などの意なし。或は「妙布」の略字ならむといふ説も見ゆれど、「妙布」といふ以上は精妙なるものに限るべきなるに「荒妙」(五〇)「麁妙」(五二)の文字既に卷一にあれば、「妙布」といふ説は成立しかねたり。こは恐らくは「妙」といふ字の意に當る「たへ」といふ古語ありてそれにあてたる「たへ」を同音によりて借りたるものなるべし。さてここは卷一に「白栲」(二八)とあるに同じく白き布なり。
○天領巾隱 舊本「アマヒレコモリ」とよみたるを管見に「アマヒレカクレ」とよみ、考に「アマヒレガクリ」とよみたり。玉の小琴には「あまひれかくりといひては理り聞え難ければ、只にあまぐも(588)と訓かたまさりぬべし」と一旦いひたれど、追考に「ひれ」と讀むべきかと改めたり。「領巾」は和名抄衣服類に「領巾【日本紀私記云比禮】婦人項上飾也」と見え又日本紀天武天皇十一年の詔中に「膳夫釆女等之手襁肩巾」といふ語ありて、その自注に「肩巾此云比例」とあり。これによりて考ふるに「比禮」は領項肩にかけたる巾なること著し。「巾」は説文に「佩巾也」と注し、玉篇に「佩巾本以拭v物後人著2之於頸1」とも見え、急就篇の注には「巾者一幅之巾所2以裹v頭也」とも見えたり。今朝鮮人は六尺計の長さある一幅の布片を常に携帶して、手拭などの如く、亦頭をつゝみなどするに用ゐるが、わが古のひれもかかるものなりしならむ。皇太神宮儀式帳に「生絹御比禮八端【須蘇長各五尺弘二幅】」豐受太神宮儀式帳には「生※[糸+施の旁]比禮四具【長各二尺五寸廣隨幅】」とも見え、北山抄内宴の條に「陪膳女藏人比禮料羅事舊年仰織部司人別一丈三尺云」と見ゆ。次に隱は「コモリ」とも「カクレ」とも「カクリ」ともよまるべけれど、ここは「コモリ」の意にては不合理と思はるれば、「カクリ」か「カクレ」かのうちなるべきが、古は四段活用なりし故に「カクリ」の方をよしとす。さてこの「アマヒレカクリ」といふ語の意如何。代匠記には「第十に秋風の吹たたよはす白雲はたなはたつめの天つひれかも(二〇四一)とよめるによれば、白雲かくれといへるかとおぼしければ、あまひれかくれと點すべきか。」といへりしが考は之によりて「是も天雲隱れて遠きをいふ」といひたり。宣長はかの再考の説として、「前にはあまぐもと訓つれども、雲を領巾とせむこといかゞ也。故思ふに葬送の時の旗を領巾と云るにて、字の儘にひれと訓べきか。領巾と旗と其さま似たれば、かくも云べし。其上此言朝立いましてと云詞の上にあれば、葬送のさまとおぼしき也」といひ、略解之によれり。守部は「領(589)巾とは書きたれども、是は天蓋の類にて柩を覆ふ蓋なるべし。凡てひら/\とするをひれと云べし」といひ、雅澄はまづ本居説をあげてさて曰はく「今按に旗を云といへることおぼつかなし。此は歩障を領巾に見なして云るなるべし。柩の前後右左に少障を立圍て行さま神祇伯葬式の古圖に見えたり。古より然せしなるべし。和名鈔にも葬送具に喪禮圖(ニ)云布帷以障2婦人1今按(ニ)俗用2歩障1是(ナリ)とあり。さて天領巾とは天人の天路を往來《カヨ》ふ領巾のよしなればここは葬を天に上ると見なして白布《シロタヘ》之天領巾とはいへるなるべし」といひ、攷證は考又宣長の説を否定して自説を述べて曰はく「まへに引ける本集八の歌(天河原爾、天飛也)領巾可多思吉と見えたれば、幅も廣く丈も長きものと見ゆ。されば、ここに天領巾隱といふはすべて失し人は天に上るよしにいへる事、集中の常にて、こゝはいまだ葬りのさまなれどもはや失しかば、天女にとりなして天つ領巾にかくるよしいへるにて、まへにもいへるが如く領巾は長も幅もゆたかなるものなれば、これを振おほはゞ容もなかばばかくれぬべければ、天ひれがくりとはいへるなるべし。」といへり。今これらの諸説を見わたすに、代匠記の説は多少の根據なきにあらねば、姑くこれをおきて後に論ずることとし、宣長の旗を領巾に見立つといふ説は、根據なきこといふまでもなく、守部の天蓋の類なりといふと雅澄の行障をさすといふ説とに至りては、領巾とは似もつかぬものを持ち來したるにて強言も甚しといふべし。かくて殘るは代匠記の説と攷證の説とのみなるが、代匠記の説は攷證に「考に引かれたるたなばたつめの天つ領巾かもといふ歌は雲を假に領巾と見なしたるにて雲の事を領巾といふにはあらざれば、證となしがたし。」(590)といひたる如く、從ひがたき事なり。されば、殘る所は攷證の説のみにしてこの説略當を得たりと考へらる。然れどもなほ、少しく補ひ正すべき點ありと思はるれば、余が考をいふべし。先づここにてはその死をいひたるのみにて明かに葬儀の事をいふべき所にあらねば、葬具と見るべきにあらず。この、領巾は旗にても、天蓋にても、歩障にてもあらずしてなほ明かに領巾そのものをさせるならむ。そを天領巾といへるは天女の空を飛ぶにまとへる天衣をさしていへる爲に天領巾といひしなるべし。天女の天衣をひれと見たてたることは、續日本後紀卷十九嘉祥二年三月に興福寺の僧が、天皇四十の賀の爲に上れる長歌の中に吉野仙女の事をいひては「三吉野爾有志熊志禰天女來通弖其後波蒙譴天毘禮衣着弖飛爾支度《ミヨシノニアリシクマシネアマツメニキタリカヨヒテソノノチハセメカカブリテヒレゴロモキテトビニキト》」といひ、又「天女拂石」をよみては「如八百里磐根爾毘禮衣裾垂飛派志拂人不拂成无《ヤホサトナスイハネニヒレコロモスソタレトハシハラフヒトハラハズナラム》云々」といへり。これらは天人の飛行白衣の天衣をば比禮衣といへること著し。而して本集中にもこれに似たることあり。卷八「一五二〇」に「久方之天河原爾天飛也領巾可多思吉眞王手乃玉手指更《ヒサカタノアマノカハラニアマトブヤヒレカタシキマタマデノタマデサシカヘ》云々」とあるが、この「かたしき」は「衣」にいへること、卷十一「二六〇八」に「白細乃衣片敷戀管曾寢留《シロタヘノコロモカタシキコヒツツゾヌル》」の如くなれば、ここの領巾といへるは、ただの領巾にあらずして領巾つける衣をまでさせりとおぼし。而してそれに「天飛ぶ」といふ修飾語を加へたるにて飛行自在の天衣といふ意にていへることは疑ふべからず。かく考ふれば、天女ならばただ領巾といひて天衣の事になるべけれど、天女ならぬものに特にいふなれば、その由を語にてあらはさざるべからず。それが爲にわざと天領巾といひて、普通の領巾と區別して示したるものなるべし。かくして天領巾は天つ比禮即ち天女の羽衣(591)の如きものをいひあらはすに用ゐしならむ。かくてそれにまとはれ身をかくして昇天せしものと見立てたるが爲に、「天領巾がくり」といひしものなるべし。さて又これを「白妙」といへるは如何といふに天女の比禮衣は五彩あるものなるべけれど、ここは葬式にてあればすべて白布を用ゐるが故にかくわざといひて暗にその實を示したるものなるべし。
○鳥自物 「トリジモノ」とよむ。かかる語法は卷一「五〇」の「鴨自物」の條にいへる如く、「鳥じ」は「鳥」を基としてつくりし形容詞の語幹なるが、その語斡より「物」につづけて熟語をなすこと「空し煙」「かなし妹」の如き構成にして、それを以て「朝立つ」といふ語の形容としたるなり。「とりじもの」といふは今の語に譯せば鳥といふ物の如くの意なり。これを「朝立つ」の形容にせるは、卷一の「四五」に「坂鳥乃朝越座而」といふに略同じく、渡鳥をはじめ、すべての鳥は未明に宿所を立ち出づるものなればなり。
○朝立伊麻之弖 「アサタチイマシテ」とよむ。「います」は上(一九九)の「高市皇子尊城上殯宮之時」の歌に「百濟之原從神葬葬伊座而」とある、そこと語は同じけれど、意は稍異なり。「一九九」のは形式的の敬稱語なれど、ここのは實質のある敬語たり。即ち古事記中卷應神天皇の御製に「佐々那美遲袁須久須久登和賀伊麻勢婆夜《ササナミヂヲスクスクトワガイマセバヤ》」とあり、又本集卷三「三八一」に「風候好爲而伊麻世《カゼマモリヨクシテイマセ》、荒其路《アラキソノミチ》」卷四「六一〇」に「彌遠君之伊座者有不勝自《イヤトホニキミガイマサバアリカツマシジ》」とあるが如きこれにしてこれは「行く」といふことの敬語として用ゐたるなり。即ち「朝立行く」といふを敬語にいへるなり。卷六「一〇四七」に「村鳥之旦立往者《ムラトリノアサタチユケバ》」卷十三「二三九一」に「群鳥之朝立行者後有我可將戀奈好《ムラトリノアサタチユカバオクレタルワレカコヒムナ》」などここの例に似たり。この句の意(592)は妻を葬りに立ちいづるを妻の自ら出立つ由にいひなせるなり。
○入日成 「イリヒナス」とよむ。「イリヒ」は卷一「一五」に「渡津海乃豐旗雲爾伊理比沙之」とあり。「なす」は卷一「一九」の「衣爾著成目爾都久和我勢」の下にいへる如く、名詞又は動詞の終止形をうけて、用言を形容するに用ゐる接辭なり。意は「入日の如くに」といふに似て、「隱る」の枕詞とせるなり。
○隱去之鹿齒 舊訓「カクレニシカハ」とよめるを攷證に「カクリニシカバ」とよめり。「隱」は古、四段活用として用ゐしなれば攷證の説をよしとす。卷三「四六六」にも「入日成隱可婆《イリヒナスカクリニシカバ》」と見えたり。妻のみまかりしことここにはじめて明かにいへり。
○吾妹子之形見爾置有 流布本「有」字なし。古來「ワギモコガカタミニオケル」とよみて、異論なし。但し「置」一字にて「オケル」とよむは無理なれば、金澤本、類聚古集、神田本、西本願寺本に「置有」とあるを正しとすべし。「形見」は「一九六」に見えたり。吾が妻が、その形見として若兒を此世に殘しおけるなり。
○若兒乃 舊訓「ミトリコノ」とよめり。代匠記には「ワカコノ」とよみ、古義には「ワカキコノ」とよめり。この若兒を如何によむべきか。「ミトリコ」とよむは攷證にいへる如く義訓なるべきが、「ミトリコ」といふ語の例は萬葉には「緑兒」とかける例卷三(四八一)卷十二(二九二五)「緑子」とかける例卷十六(三七九一)「彌騰里兒能」とかける例卷十八(四一二二)にあり。又「わかきこ」といふ語の例は日本紀齊明卷の歌に「宇都倶之枳阿俄倭柯枳古弘《ウツクシキアガワカキコヲ》」とあり、又本集卷十七に「伊母毛勢母和可伎兒等毛波《イモモセモワカキコドモハ》」(三九六二)とあり。されば、この二語いづれも例あることなるが、「若兒」は文字のままなら(593)ば、古義の如くよむべきに似たり。「みどりこ」といふは今いふ、「あかご」といふが如き語なることは和名抄に「孩」に注して、「辨色立成云嬰兒美都利古始生小兒也」といへるにてしるし。新撰字鏡にも亦「阿核兒」に「彌止利子」と注せり。而して「若兒」とあるは、必ずしも該兒ならずともいひうる語なり。されば、「ワカキコ」とよむべきかと考ふるに、卷十六「三七九一」には「緑子之若子蚊見庭《ミトリコノワクゴカミニハ》云々」とかける「若子」はそのよみ方はとにかくに、即ち緑子なることは著し。又卷三「四五八」に「若子|乃匍匐多毛登保里朝夕哭耳曾吾泣君無二四天《ノハヒタモトホリアサヨヒニネノミゾワカナクキミナシニシテ》」とある「若子」は古來「ミトリコ」とよみ來れるが、意義はまさしく然り。又卷十二「二九四二」に「小兒之|夜哭乎爲乍《ヨナキヲシツツ》」とある「小兒」をも「ミトリコ」とよみ來れるが、意義はいかにも然り。而してこの「小兒」はここにては「ミトリコ」とよむ外によみ方を知らず。されば、これらに準じて「若兒」を「みどりこ」とよまむことは必ずしも不可なからむ。されば、なほ舊來のままによれり。ここにては人麿の妻がさる若き兒を殘して死せしをいへり。
○乞泣毎 「コヒナクゴトニ」とよむ。その兒の物を乞ひて泣く毎になり。
○取與物之無者 「トリアタフモノシナケレバ」とよむ。「與」は後世專ら下二段活用になりてあれど、古代は、四段にも活用せしものと見ゆ。日本紀卷二の歌に「阿黨播奴介茂《アタハヌカモ》」といへるが如きその例なり。これによりて「取與物」は「トリアタフモノ」とよむべきなり。これにつきて考は「物は人也」といひたれど、ここは玉の小琴に「考に物は人也とあれどいかゞ。兒を取與とは云べからず。物は玩物にて泣をなぐさめむ料の物也」といへるをよしとす。泣く兒を慰めむ爲に取り與へむものもなければといふなり。
(594)○鳥穗自物 舊訓「トリホシモノ」とよみたるが、代匠記には「此句心得がたし。下のわきはさみ持とつゝくるは若《ワカ》兒をわきはさむを若|彈丸《サイトリ》を腋挾に譬て云か。彈丸は鳥の欲さに操《トレ》は愚推なり。又下の或本歌には男《ヲノコ》自物脅挿持と云ひ、第三に高橋氏が歌にもヲノコシモノ負見抱見とよめり。かゝれば若鳥は烏の字を誤れるにてヲホシモノにや。ヲとホとは同韻にて通ずればをほしは第一卷のうねひをゝしのヲヽシにてヲノコシモノと云意なり」といへり。されど「ヲヲシ」を「ヲホシ」とかゝむことあるべきにあらねば、この説後人の信をうけざりき。童蒙抄には字のまゝに「とぼしもの」とよみたるが、考には「鳥は烏穗は徳を誤りし也けり」といひて「ヲトコシモノ」とよみたり。かくて諸家この説に一定してすべて誤とせり。然れども、古寫本又多くの本にいづれもさる誤字ありといふ證は一もなきなり。又他の傍例によるに、「鳥」を「烏」と誤るが如きは生じ易きことなれど、「徳」を「穗」に誤ることは果して如何にぞや。されば、誤字にあらずとはいひがたれど、又誤字ありとも斷言しうべきにあらず。さらば、文字を改めずしてよみうべき方法なきかと見るに、「トリホシモノ」といふ語ありとも見えねば、その訓はとるべからねど、童蒙抄に「トボシモノ」とよめるは一往考ふべき點あり。「鳥」を「ト」と用ゐたる例は卷七「一二三四」に「海人鳥屋見濫《アマトヤミラム》」又卷三「三九一」に「鳥總立足柄山爾船木伐《トブサタテアシガラヤマニフナキキリ》」卷十七「四〇二六」に「登夫佐多底船木伎流等伊布《トブサタテフナキキルトイフ》」などに見るところなれば、「とぼしもの」とよまれざるにあらず。さてかくよみての意如何といふに、童蒙抄に「乏しもの也。今珍敷ものゝやうに大切にしてわきばさみもつごとくに、みどりこをいだきと也」といへり。この意にとるときは意義はまさしくいはれたり。され(595)ど、この頃に「ともし」を「とぼし」といひしことの證なければ、この説も亦確實なりといひがたし。今姑くかくよみたれど、これも後の學者の考定をまつべきなり。
○腋挾持 「挾」字は流布本「狹」に作れど西本願寺本に「挾」に作れるによるべし。訓は舊來「ワキハサミモチ」とよみたるを攷證に「ワキハサミモテ」とよむべしとせり。「腋挾」といふ語の意は攷證に「腋挾を字のまゝに見れば、兒を脇の下に挾《ハサ》むごとく聞ゆれど、さにあらず。腋挾は懷く意なり。そは古語拾遺に天照大神育2吾勝尊1特甚鍾愛常懷2脇下1稱曰2腋子1云々とあるにてこゝもただいだく事なるをしるべし。玉篇に挾懷也とも見えたり」といへり。卷三「四八一」に「腋挾兒乃泣毎」とあるもこの謂なるが、かの古語拾遺の説明によれば、特に愛し護る意をいふと見ゆ。さて「持」を「モテ」といふことは攷證に「もてはもちての略なり」といへど、當時「もて」といひしことの證なければ、從ひがたし。さてこの句の意は下の「浦不樂晩之云々」につづくなり。
○吾妹子與二人吾宿之 「ワギモコトフタリワガネシ」なり。この語のいひ方上の「吾二人見之」と語を前後したるいひざまなるが、妻と吾とが二人宿しといふなり。
○枕付 「マクラツク」なり。「ツマヤ」といふ語の枕詞なり。冠辭考に「夫婦《メヲ》は房《ネヤ》に枕を並《ナラベ》付てぬるが故にいへり。」といへり。卷五「七九五」に「摩久良豆久都摩夜佐夫斯久於母保由倍斯母《マクラツクツマヤサブシクオモホユベシモ》」とあるによりてよみ方の證とすべし。
○嬬屋之内爾 「ツマヤノウチニ」なり。この語の例は上の卷五の、例又卷十九「四一五四」に「枕附都麻屋之内爾鳥座由比須惠《マクラツクツマヤノウチニトグラユヒスヱ》云々」ともあり。「つまや」は通例「ねや」と同じ意に思ひ、古義にも「嬬屋は(596)夫妻|率《ヰ》て隱る所の屋なり。」などいへるが、代匠記には「妻屋は第十九に家持の鷹の歌にも枕付妻屋の内にとくらゆひとあれば、妻を置屋を云のみにはあらで、心安く馴て住處をも云なるべし」といへり。攷證にも異説ありて美夫君志之をうけて約説せり。曰はく「嬬は借字にて端《ツマ》の意也。衣のつまといふも衣の端、つま木といふも木の端也。かゝれば、つまやも端屋《ツマヤ》にて家の端《ハシ》の方にある屋なるべし。閨などは中央に作るべきものならねば、家の端《ハシ》のかたに造れるをも端《ツマ》屋といふなるべし」といへり。されど、かかる事古へありきとは考へられず。閨の如きは端につくるものなりといふことはかへりて如何にて、閨は奧深くつくるものなるべきは古今一轍ならむ。「ツマ」は端なりといふはなほ不可ならずとせむ。閨が端にありし故といふは從ふべからず。按ずるにこの説はかの契沖が指示せし如く、卷十九に家持がその愛する白大鷹をつま屋に居ゑ飼ひし由なるによりて疑を發せしならむが、鷹を飼ふには後世には鷹部屋といふがありてそこにかふものなるが、古も略、然りしならむをば、これは甚しく愛してその常に住む處に飼ひしものなるべければ、妻屋は即ち「ねや」なりといふに差支なき筈なり。この外に「つまや」といふ解は考ふる所なし。
○晝羽裳 「ヒルハモ」とよむ。この語の事上「一五五」「二〇四」等に屡いでたり。
○浦不樂晩之 給訓「ウラフレクラシ」とよみたり。代匠記は「ウラサビクラシ」とよみ考之に從ひたるが、玉の小琴に「卷々に浦觸裏觸と云ることいと多し。又五卷【廿五丁】十七卷【三十二丁】などに假字にも字良夫禮とかければわろからず」といへり。さて契沖が何故にかくよみたるかを見るに(597)「第三に鴨君足人が歌に不樂をさびしとよみたれば、今もうらさびくらしと讀べし」といへるなり。これは、「二五七」に「梶棹毛無而不樂毛己具人奈四二《カヂサヲモナクテサブシモコグヒトナシニ》」「二六〇」の或本歌には「竿梶母無而佐夫之毛|榜與《コカムト》雖思」とあり。又卷四「五七六」に「從今者城山道不樂牟吾將通常念之物乎《イマヨリハキノヤマミチハサフシケムワガカヨハムトオモヒシモノヲ》」とある如き例をさせるが、この場合の「不樂」は「ブル」とも「ブレ」ともよむを得ずして、「サブ」「サビシ」などよまむ外あるべからず。さて「ウラサブ」といふ語は卷一「三三」に「浦佐備而」「八二」に「浦左夫流情」とあり。この卷にも、「一五九」に「暮去者綾哀明來裏佐備晩《ユフサレハアヤニカナシミアケクレバウラサビクラシ》」と見ゆ。「うらさぶ」といふ語の意は卷一にいへる如く「ウラ」は心なり。「サブ」は「サビシキ」状なるをいふ動詞なり。心さびしくありて日を晩すといふなり。
○夜者裳 「ヨルハモ」とよむ。その意と例と上の「ヒルハモ」に照して知るべし。
○氣衝明之 「イキヅキアカシ」とよむ。卷五「八九七」に「夜波母《ヨルハモ》、息豆伎阿可志年長久夜美志渡禮婆《イキツキアカシトシナガクヤミシワタレバ》」とあるはここと同じ語遣なり。「いきづく」といふは吐氣をつくことにして、卷五「八八一」に「加久能未夜伊吉豆伎遠良牟《カクノミヤイキヅキヲラム》」とある如く、なげくことをいふなり。ここはその母なき子をもてなやみて息をつきつゝ夜をあかすとなり。
○嘆友 「ナゲケドモ」なり。これは事實をいへるなれば、「ドモ」の方なり。
○世武爲便不知爾 「セムスベシラニ」とよむ。上の長歌にこの語あり。意もおなじ。
○戀友 「コフレドモ」とよむ。これも「嘆友」と同じ意に基づくものなれば「ドモ」の方によむなり。
○相因乎無見 「アフヨシヲナミ」とよめり。「相」は「アフ」といふ動詞をあらはせるもの、「因」は原因理由などの意にて「ヨシ」とよめるなり。類聚名義抄には「理」「因」「由」等に「ヨシ」の訓を加へたり。卷(598)四(五〇八)に「妹毛吾母甚戀名相因乎奈美《イモモワレモイタクコヒムナアフヨシヲナミ》」とあるもここと同じくよめり。あふ方法のなきによりてなり。
○大鳥 「オホトリノ」とよむ。「ノ」文字なけれど、加へよむべし。「おほとり」とは和名抄に「鸛【古亂反和名於保止利】水鳥有二種似v鵠巣v樹者爲2白鸛1、曲頭爲2烏鸛1」と見ゆるものにして今「こうのとり」といふものなり。冠辭考には大鳥をば鸛又鷺などを指ていへるかといひ、さて「若鷲をいはゞ羽を易るを得て矢に用るなれば、羽易《ハガヘ》の意とすべし」といはれたれど、さるむづかしき意なく、ただ鳥の羽といふつゞきにて羽の枕詞とせしならむ。
○羽易乃山爾 舊訓「ハカヘノヤマニ」とよみ、代匠記に、ハカヒノヤマ」かといへり。この山は卷十「一八二七」に「春日有羽買之山從《カスガナルハカヒノヤマユ》」とも見えたれば、大和國添上郡春日に在りし地名と見ゆ。さてここに羽易とかけるによりて「ハカヘ」とよみ、卷十のをも「ハカヘ」とよむべしと萬葉考にいへり。略解はここを「はかひ」とよみて説なし。按ずるに、「易」は普通の訓によれば「かへ」なり。「買」は普通の訓によれば「カヒ」なり。一所の名に二の發音あるも不都合なるが「買」を「カヘ」とよまむことは無理にして必ず「カヒ」なるべし。然らば「易」はただには「カヘ」なれど、交易の意になれば、賣買の意として「カヒ」とよみて差支なき筈なり。かくてここも「ハカヒノヤマ」とよむべきなり。その羽買の山といふ所今の何といふ所にか明ならぬ事なるが、春日附近の山なりしものと見ゆ。もとよりこの地の春日といふは、或は今の春日といふよりも廣き地域なりしならむ。ここにこの山の名を出せるは恐らくはその妻を葬りし地なるべし。當時の葬地は必ずしもその住宅(599)附近に限らざりしことは春日宮におはしし志貴皇子即ち春日宮御宇天皇の田原山陵が、添上郡田原村矢田原の山中に營まれ、その妃妃橡姫の吉隱陵が、山邊郡初瀬町吉隱角柄の地に營まれしにても知るべし。
○吾戀流 「ワガコフル」とよむ。考には「吾」は「汝」の誤にして「ナガコフル」とせり。これは、下の一本の歌に基づきての説明なるべきが「ナガコフル妹ハイマス」といふは、他人の語を引用せる形式にしていへるにて、「ワガコフル妹ハ云々」といふは自らの語としていへるなり。いづれにしても意明かなるが故に、わざと改むるには及ぶべからず。況んや誤字ある本は一もなきをや。
○妹者伊座等 舊板本の訓「イモハイマセ」とあれど、古寫本多くは「イマスト」とあり。「イマセ」にては意をなさず。「イマス」とよむべきなり。
○人之云者 「ヒトノイヘバ」なり。人が上の如くいへばなり。六音にて一句とす。
○石根差久見手。舊本「手」を「乎」につくり「イハネサクミヲ」とよめり。代匠記には「乎」は手の誤にして「イハネサクミテ」とよむべしといへり。類聚古集には「手」とせり。これを正しとす。この語の例は卷二十「四四六五」に「山河乎伊波禰左久美弖布美等保利久爾麻藝之都都《ヤマカハヲイハネサクミテフミトホリクニマギシツツ》云々」とあり。「いはね」は卷一「四五」の「石根」を「イハガネ」とよみたる如く、根は地に固定せるものをいふなり。なほ「サクム」といふ語の例は卷六「九七一」に「五百隔山伊去割見賊筑紫爾至《イホヘヤマイユキサクミアタマモルツクシニイタリ》」又延喜式祝詞祈年祭の祝詞に「磐根木根履佐久彌弖《イハネキネフミサクミテ》」とあり。さて又これと同じ語ならむかと見ゆる「サククミ」といふ語あり。卷四「五〇九」の「浪上乎五十行左具久美磐間乎射往廻《ナミノウヘヲイユキサククミイハノマヲイユキモトホリ》」又卷二十「四三三一」に「奈美乃間乎伊(600)由伎佐具久美《ナミノマヲイユキサグクミ》云々」といふあり。この「さくむ」といふ語の意義につきて契沖曰はく「さくみては常の詞に物のくほみて斜なるをさくむと云へは石根を踏くほむるを云か。また心くく思ほゆるかもとも、茅生に足ふみ心くみともよめるは心苦しみなり。さればさは添たる字にて石根に苦みてといへるか。按ずるに後の義なるべきは第四第廿に浪の間をいゆきさくゝみとよめるも同じ詞と聞ゆれば、波は踏くほむと云べきことわりなければなり」といへり。考には「岩が根を踏|裂《サキ》てふ言なるを、其きを延て佐久美とはいへり。祈年祭祝詞に磐根木(ノ)根|履《フミ》佐久彌弖といひ、此集卷二十に奈美乃間乎伊由伎佐具久美《ナミノマヲイユキサグクミ》てふも浪間を船の行々裂々《ユキサキユキサキ》と重ねいふと皆同じことば也」といひ、略解これに從へり。玉の小琴には考の説を評して「さくみを考に裂のきを延てくみと云とあるはいかゞさを延てくみと云むもいかゞなる上に石根を踏裂と云こと有べくも非ず。今按は古事記傳の石拆神根拆神の下に云り」とあり。その古事記傳の説は「或説に人|面《オモ》のたくぼくあるをしやくみづらと云に同しくて岩の凸凹《タカビク》ある上を通行《トホリユク》を云なり。馬《ウマ》ざくりと云も能《ノウ》の面にさくみと云あるも同(シ)詞なりと云り。此言なるべし」といへり。これによりてか檜嬬手には「高低ある道をたどる/\ゆくを云ふ」といへり。攷證には「こはさくみ、さくむ、さくめなどはたらく言にてさくむのくむを約むれば、くとなりて、さくは放にて見放《ミサケ》、問放《トヒサケ》、語故《カタリサク》などいふ放と同じく石根木の根のきらひなくふみはなちゆく意也」といひ、美夫君志これに從へり。かく諸説紛々たるが、未だ得たりと思はるる説を見ず。先づ、攷證の「さくむ」の「くむ」を約むれば「く」となる故に「放《サケ》」といふ語におなじといふ説は條理なき事にして從ふべからず。(601)古事記傳の説は何の意なりといふこと明かならず、一種の謎といふべし。考の説は玉の小琴に評せる如くあるべきことにあらず。代匠記の前説は岩根を履くぼむる意なれば、鬼神のわざといふべくして人のわざにはふさはしからず。後説の「苦み」といふ語と同じといふ説は何等の根據なきなり。さてこの語の由來は未だ詳かならねど、檜嬬手の説明をとりて釋すれば略當れる如く見ゆ。然れども確かにしかりとも定めがたし。さて又これと同じ語ならむと諸家の推せる「さぐくみ」といへる語は如何といふに、これは「浪の上」「浪の間」とよみ「さくみ」は「山」「磐根」にのみよみたれば、似たりといへども別の語なるべく思はる。されば、この語は、今日に於いては未だ明かならぬ語なり。後の學者の考定を俟つ。
○名積來之 「ナヅミコシ」とよむ。「名積」は「ナヅミ」といふ動詞にあてたるなり。この語は古事記上卷に「堅庭者於2向股1蹈那豆瀰」中卷景行天皇卷歌に「阿佐志怒波良許斯那豆瀰《アサシヌハラコシナヅミ》云々」又日本紀仁徳卷の御製に「那珥波譬苔須儒赴泥苔羅齊許斯那豆瀰《ナニハヒトスズフネトラセコシナヅミ》云々」と見え、本集には卷三「三八二」に「雪消爲山道尚矣名積叙吾來並二《ユキケスルヤマミチスラヲナツミゾワカコシ》」卷八「一一一六」に「烏玉之吾黒髪爾落名積天之露霜取者消乍《ヌハタマノワガクロカミニフリナツムアメノツユシモトレバキエツツ》」卷十三「三一五七」に「直不來自此巨勢道柄石椅跡〔左○〕名積序吾來戀天窮見《タダニコズコユコセヂカライハハシフミナツミソワガコシコヒヲスベナミ》」「三二九五」に「夏草乎腰爾莫積如何有哉人子故曾通簀文《ナツクサヲコシニナツミイカナルヤヒトノコヱゾカヨハスモ》」卷十九「四二三〇」○「落雪乎腰爾奈都美※[氏/一]參來之印毛有香年之初爾《フルユキヲコシニナツミテマヰリコシシルシモアルカトシノハジメニ》」など例多きが、それらのうち最も多きは「腰になづむ」「腰なづむ」といへるものにして、これは腰に至るまで物に没して行くになやむことと見ゆ。次は「なづみくる」といふ語なるが、これは歩行になやみたることをいへるなり。又「向股にふみなづみ」といふ語は上にいへる「腰になづむ」「なづみく(602)る」の二方の意にまたがる趣あるが、これらの場合はすべてその脚なり、股なり、腰なりがある物に拘へ支へられて動しかね進みかぬるをいへりと見ゆ。さて黒髪に露霜のふりなづむといへるは露霜の髪に支へられて止まれるをいへるなれは結局は一なり。次に類聚名義抄をみれば「泥」「阻」等に「ナヅム」の訓あり。さればここは歩行に難儀することをいへるものと見ゆ。古義に「艱難《ワヅラヒ》苦勞《イタツキ》て」といひ、攷證に「勞する意也」といひ、美夫君志に「煩(ノ)字悩(ノ)字などの意也」などいへるはいづれも未だ盡さざるものにして、進動を阻止せらるといふ意にして抽象的の勞悩などの意のみにあらざるなり。「來之」は「コシ」とよむ。「シ」は連用形に屬する複語尾なれど、「來《ク》」には未然形よりするが古語の姿なり。その例は卷十七「三九五七」に「出而許之和禮乎於久流登《イデテコシワレヲオクルト》……可多良比※[氏/一]許之比乃伎波美《カタラヒテコシヒノキハミ》」「三九六九」に「之奈射加流故之乎遠佐米爾伊泥底許之麻須良和禮須良《シナザカルコシヲヲサメニイデテコシマスラワレスラ》」などの如し。さてここは契沖は「此下、句絶なり。或はなづみこしと意得べきか」といへり。その他の諸家この句の斷續をいひしものなし。されど、ここは契沖のいへる如く、一段落り。而してここに連體形を以て終止せるは普通の法にあらずして喚體に擬して餘情を含ましめたるなり。なほこれと次の句とのつづきはその間に「されど」といふ如き意を含めて釋すべし。
○吉雲曾無寸 「ヨケクモゾナキ」とよむ。略解に「今寸を十に誤」といへるは寶永版本に「寸」の字の缺けたるを見ていへるなり。寛永版本及びその以前の版本寫本共に正しく「寸」とかけり。「吉雲」は「ヨケクモ」といふ語にあてたる借字なり。「よけく」といふ説は卷五「九〇四」に「安志家口毛與家久母見牟登《アシケクモヨケクモミムト》……須臾毛余家久波奈之爾《シマラクモヨケクハナシニ》」卷九「一七五七」に「筑波嶺乃吉久乎見者《ツクバネノヨケクヲミレハ》」とあるが如し。(603)「ク」はこと又は點をさす語にして「ヨケク」はよきこと又はよき點といふ如き意なり。「けくはくを延たるなり」などいふ説の不當なること屡いへり。上の如く難儀しつつその山まで來しが、しかれども何のよき事もなきとなり。「もぞ」は二の係詞を重ねて、強くその意を指示せるなり。かくて「曾」に對して連體形の「き」にて結べるなるが、第二段落にありてこの一句が、終結となり、下の語句は、これが、上にあるべき條件なるを反轉法によりて顛倒して下におけるなり。
○打釋跡念之妹之 「ウツセミトオモヒシイモガ」とよむ。こは冐頭の「ウツセミトオモヒシトキ」に遙に應じて一篇の終結をなさむとするなり。今まで現し身と念ひたりし妻がといへる也。
○珠蜻 舊訓「カケロフノ」とよみ、考に「カギロヒノ」とよみたれど、上の「二〇七」の「玉蜻」とおなじく「タマカギル」とよむべきこといふまでもなし。ここは「ホノカ」の枕詞とせり。卷八「一五二六」に「玉蜻※[虫+廷]髣髴所見而別去者《タマカキルホノカニミエテワカレナバ》」卷十二「三〇八五」に「玉蜻髣髴所見而往之兒故爾《タマカキルホノカニミエテイニシコユヱニ》」などこの例なり。玉の光りかがやくことをいへるなるが、その光のさまにとりて枕詞とせるなり。
○髣髴谷裳 「ホノカニダニモ」とよむ。「髣髴」といふ熟語は支那にて慣用せるものにして文選の班固の幽通賦に「夢登v山而※[しんにょう+向](ニ)眺《ミル》兮、※[賣+見]《ミル》2幽人之|髣髴《ハウヒタル》1」とありてその注に「髣髴不2分明1※[白/ハ]」とあり。かくて類聚名義抄には「髣」にも「髴」にも「ホノカ」と注し色葉字類抄には髣髴を「ホノカナリ」と訓せり。さて本集の例を見るに上にあげたる外、卷七「一一五二」に「梶之音曾髣髴爲鳴《カヂノトゾホノカニスナル》」卷十二「三〇三七」に「朝霞髣髴谷八妹爾不相牟《アサガスミホノカニダニヤイモニアハザラム》」などみなかく「ほのかに」といふ語にあてたる例なり。又卷十一「二三九四」に「朝影吾身成玉垣入風所見去子故《アサカゲニワカミハナリヌタマカキルホノカニミエテイニシコユヱニ》」とある「風」は色葉字類抄に「ホノカ」といふ語の例にあげ(604)たるにてしるし。「ほのか」といふ語は「さだかならぬ」意をあらはせり。「だにも」は上にいへり。
○不見思者 舊訓「ミエヌオモヒハ」とよみたり。されど、かくては語をなさず。代匠記に「ミエヌオモヘバ」とよめるをよしとす。「ホノカニダニモ」妹の姿の見えぬ、といふことを以て準體言としてその見えぬことを思へば、かく難儀して來りしことも何の甲斐も何のよき事もなき事ぞとなり。
○一首の意 わが妻が現身にてありと思ひし時即ち妻が世にありし時に、われと妻と二人して取り持ち見などせし、門前遠からぬ堤に植ゑ立ちてある槻の木の彼方此方の枝に繁茂せる葉の益茂り行くが如くに且はしばしば思ひ且は思ひ憑みたりし妻なりしかど、世の中の習には背き得ずして空漠たる荒野に入り隱れたりしかば、(即ち死去して葬り去りしかば)そのあとに妻の形見として殘しおきし赤兒の物を乞ひて泣く毎に何物を與へて心を慰めやらむか與ふる物もなければ、ただ大切にしてそのもりをして、妻の世にありし時二人にて宿し閨の内にこもりて心さびしく大息つきつゝ日をくらし夜をあかし、嘆けども、戀ふれ共、再び妻にあふ手段もなく、ゐるに或人の話す所によれば、わが戀ふる妻は今羽買の山にをりといふ事なれば、さらば、往きてあはむとて、その山の石根のさかしきをふみさくみてやう/\にしてたどり來て見たりしよ。されど、そこには豫期にたがひて現身と思ひしその妻の姿はその影だにほのかにも見えぬなり。かかる事を思へば、ここに來りしも、何の甲斐もなき事なりしよとなり。この長歌に至りてはじめてその葬地をあらはし、且つとこしなへの恨を述べたるなり。かくて、上(605)の長歌と昔尾相應じて、意はじめて全くなるさまを見るべし。
 
短歌二首
 
○ 考にはこの、短歌」をも「反歌」と改めたり。必ずしもし改むるに及ばぬことは屡いへり。
 
211 去年見而之《コゾミテシ》、秋乃月夜者《アキノツクヨハ》、雖照《テラセドモ》、相見之妹者《アヒミシイモハ》、彌年放《イヤトシサカル》。
 
○去年見而之 「コゾミテシ」なり。「去年」を「コゾ」といふは明かなるが、集中に假名書の例は卷十八「四一一七」「許序能秋安比見之末末爾《コゾノアキアヒミシママニ》」あり。
○秋乃月夜者 舊訓「アキノツキヨハ」とよめり。攷證は「月夜」を「ツクヨ」とよむべしといへりり。この事は卷一「一五」の「今夜乃月夜」「一七九」の「朝月夜」の條にいへる如くなれば、攷證の説をよしとす。
○雖照 舊訓「テラセドモ」とよみ、童蒙抄に「テラスレド」とよみ、考に「テラセレド」とよめり。「テラスレド」とよまむにはその語下二段活用ならざるべからざるが、さる活用の語あるべくもあらねば、童蒙抄の説は從ふべからず。又「照」一字を「テラセリ」とよまむは卷一、二、におきては例に違へり。この卷にて「テラセリ」といはむには「照有」とかきてあるべきなり。ここは舊訓のまゝをよしとす。新考もしかいへり。
○相見之妹者 「アヒミシイモハ」とよむ。去年相共に月を見し妻はの義なり。
○彌年放 「イヤトシサカル」とよむ。「彌」は「いや」とよみて、卷一「三六」に「此山乃、彌高良之」「二九」に「彌繼(606)嗣爾」などに既に例あることなるが、それらには直下にそのかゝる語のあれば、「イヤ」といふ語の本質十分に明かにしがたかりしが、ここには「イヤ」が「年」を隔てて「サカル」にかゝりてあるが故に明かにその本質を認めうべし。この「イヤ」は上の「イヤツギ」「イヤ遠爾」(卷二、「一三一」)「イヤ高ニ」(同上)などの如く、副詞形容詞の上に冠する接頭辭の如くに認められ、後世は專らかく用ゐたれど、もとは一個獨立の程度副詞にして今の「いよいよ」に似たる語たりしことはこの例にて明かなり。而してその「いよいよ」といふ語もその源はこの「イヤ」とい語の疊語の少しく形をかへたるものなりとす。ここの如き現象を呈したる用例は卷七「一二五一」に「佐保河爾鳴成智鳥何師鴨《サホガハニナクナルチドリナニシカモ》、川原乎思努比益河上《カハラヲシヌビイヤカハカハノホル》」を見て知るべし。「さかる」は屡いへり。この句の意はいよいよます/\年をへだてゆくとなり。
○一首の意 秋の月は去年の見し通りに今も照してあり。されど、去年相共に見し妹は今や在らずして漸くに年月遠くへたゝりぬとなり。此歌につきて古義は「この歌にてみれば、此長歌短歌は妻の死て一周忌によまれしなり。此歌拾遺集の詞書に妻にまかりおくれて又の年の秋月を見侍りてとあるはさる事なり」といへり。これは代匠記の初稿に「此反歌によりてみれば、後の歌ならひに、此短歌二首は一周忌によまれたるを類聚して一所にをけるなるべし」といへる同じ考に出でたるものなり。註疏には古義の語をあげて「芳樹按るに長歌のかたは世間乎背之不得者云々の十句の如き葬式の事をいへるに隱|去之《ニシ》鹿齒のニシ過去の辭なるゆゑに年月の過去し事にもいはれぬにはあらねど、よみさま一周もへての後のうたの如くはきこえ(607)ず。されば長歌は妻の无くなりてとほからぬほどによみたるに一周忌によみし短歌をそへたる物なるべし。」といへり。按ずるにこれはその詞書に、「妻死之後」とあれば、死後幾何かの時を經たる後の詠たるはもとよりなるが、長歌は註疏にもいへる如く、葬式をいへれば、一周忌の時の詠といふべきにあらず。さて又この短歌のいづこに一周忌の折の詠といふ證ありや。又拾遺集の詞書も一周忌なりと認めたりといふことにはならぬなり。これは、昨年妻と共に相賞せし月を本年見て、その妻の在世の時の事を思ひ出してよめるにて、さる意にこそ感慨も深きなれ。若し一周忌の時の歌とせば、その「相見し」は誰と共に見しといふ意か。而してさる意にては何等の感も起らぬただの理窟となりはつべきなり。即ち去年の秋月をめでし頃には妻が健全なりしが、その後に亡くなりしをそのあくる年の月の頃にこの歌をよみしならむ。
 
212 衾道乎《フスマヂヲ》、引手之山爾《ヒキテノヤマニ》、妹乎置而《イモヲオキテ》、山徑往者《ヤマヂヲユケバ》、生跡毛無《イクルトモナシ》、
 
○衾道乎 「フスマヂヲ」とよむ。「衾」は和名抄に「和名布須萬」とあり。これを「引手山」の枕詞とする説あり。(冠辭考)又「衾」は諸陵式に「衾田墓【手白香皇女在大和國山邊郡云々】」とあるによりてその衾田を「フスマ」とのみいひて、そこにかよふ道をいふなるべしといふ説あり。(註疏)されど、「衾田墓」のある邊を「フスマ」といへる事の證は一もなく地名説は信すべからす。されば枕詞の方ならむが、如何にして「引手」の枕詞となるべきか、冠辭考の説あれど、おぼつかなし。古の衾に「乳」といふものつきてありし故かといふ説も確とはいひがたし。又襖の戸の「ひきて」を「チ」といひしかといふ説(608)るが、襖障子がこの頃に在りといふ證明かならねば、これ亦推あての説なり。かた/\未だ明かならぬものとして後の研究をまつべし。
○引手乃山爾 「ヒキテノヤマニ」とよむ。引手山は大和志に山邊郡に在りとして曰はく「在2中村東1呼曰2龍王1高聳人以爲v望」とあり。この龍王山といふは朝和村大字萱生中山と藤井との間にあるなり。されど、これ果して古、引手山といひしか否か明かならず。長歌によれば「羽易山」といへり。然らば「引手山」「羽易山」一所兩名か、若くは相接近せる地なるべき筈なり。ここはその妻の葬地なること著し。
○妹乎置而 「イモヲオキテ」妻をその葬地に置きて、さてその地を離れざるをいへり。
○山徑往者 「ヤマヂヲユケバ」とよむ。「徑」は「コミチ」なるが、この山には大路なければ、義を以て「徑」をかけるなり。「山徑」は支那にて古來用ゐし熟字なり。孟子以下諸書に見ゆ。「ユク」は通行することにして、われ獨り行けばの意なり。
○生跡毛無 舊訓「イケリトモナシ」とよみたり。代匠記には「落句は集中に多き詞なり。いける心ちもせぬなり。今按、第十九に伊家流等毛奈之と書たれば彼に准じて皆いけるともなしと點すべきか」といへるが、本居宣長はこれを敷衍して王の小琴に追考として曰はく、
  生跡毛無、いけるとゝ訓べし。此跡はてにをはに非ず。燒太刀のと心、又心利もなしなど云る利にて生るともなしは心のはたらきもなく、はれて生る如くにもなきを云也。此言集中に多し。皆同じこと也。十九卷【十六丁】に伊家流等毛奈之とある流の字は前に若は理の誤(609)かと云るは僻事也けり。てにをはのとなれば、必上を伊家理と云ざれば叶はず。去ど能思へば、てにをはには非ざる也。
又玉勝間卷十三に更に詳説して曰はく、
  同集歌に生《イケ》るともなしとよめる多し。二の卷に衾道乎《フスマヂヲ》云々|生跡毛無《イケルトモナシ》(二一二)また衾路《フスマヂヲ》云々|生刀毛無《イケルトモナシ》(二一五)また天離《アマサカル》云々|生刀毛無《イケルトモナシ》(二二七)十一の卷に懃《ネモコロニ》云々|吾情利乃生戸裳名寸《ワガコヽロトノイケルトモナキ》(二五二五)十二の卷に萱草《ワスレクサ》云々|生跡文奈思《イケルトモナシ》(三〇六〇)また空蝉之《ウツセミノ》云々|生跡毛奈思《イケルトモナシ》(三一〇七)また白銅鏡(マソカヽミ》云々|生跡文無《イケルトモナシ》(三一八五)十九の卷に白玉之見我保之君乎不見久爾夷爾之乎禮婆|伊家流等毛奈思《イケルトモナシ》(四一七〇)これら也。いづれもみな、十九の卷なる假名書にならひて、イケ〔右○〕ルトモナシと訓べし。本にイケリ〔右○〕トモナシと訓るは誤なり。生《イケ》る刀《ト》とは刀《ト》は利心《トヾコロ》心利《コヽロト》などの利《ト》にて生《イケ》る利心《トゴヽロ》もなく、心の空《ウツ》けたるよしなり。されば刀《ト》は辭《テニヲハ》の登にはあらず。これによりて伊家流等《イケルト》といへる也。もし辭《テニヲハ》なれば、いけり〔右○〕ともなしといふぞ詞のさだまりなる。又|刀《トノ》字などはてにをはのとには用ひざる假字也。これらを以て古假宇づかひの嚴《オゴソカ》なりしこと、又詞つゞけのみだりならざりしほどをも知るべし。然るを本にいけり〔右○〕ともなしと訓るは、これらのわきためなく、たゞ辭《テニヲハ》と心得たるひがこと也。
といへり。これより後往々本居説に從へる學者あり。然れども亦之に反對する説もあり。攷證は玉勝間の説を引きて、さて曰はく、
  すべてを考ふるに、とはてにをはにて生りよしなき意とこそ聞ゆれ。宣長は生りともの、と(610)文字へ心をつけて、十九なるは、まへにぞの疑の詞なくて、るより、ととうけたれば生利《イケルト》もならんと思はれしかど、かゝる事猶ありて、これ一をもて例とはなしがたし。この事は十九の卷にいふべし。
といひたるが、その十九の攷證は今傳はらねば委しきを知らず。美夫君志は本文の注に、上の攷證と殆ど同じ文をのせてなほ別記に委しといへるがその別記に曰はく、
  正辭按るに、此に出したる歌舊訓には皆イケ〔右○〕リトモナシとあり。然るに、卷十九十六左なるは伊家流等毛奈之と假字書(キ)なるによりて等《ト》をてにをはのト〔右○〕とするときは、此歌上にゾノヤカ〔四字右○〕の辭なくて續く詞の流を等とうくるは不合格なりと思ひて等〔右○〕は辭《テニヲハ》にあらず、利〔右○〕の意なりといひたるものなり。されど此流〔右○〕は常にル〔右○〕の假字とせるとは其音異にて、リ〔右○〕の音を用ゐたるなり。【其由は次にいふべし。】されば、生跡毛無《イケリトモナシ》などあると同じく生《イキ》て居《ヲル》心ちもせぬと云意にて此|刀《ト》はかの利心などの利《ト》にはあらで、全くてにをはのト〔右○〕なるべし。しかいふは利心《トゴコロ》のト〔右○〕には利(ノ)字又は鋒(ノ)字神(ノ)字などを用ゐたるを生刀毛《イケリトモ》の刀《ト》には刀、跡などの字を用ゐず、これ古人の注意せしなるべし。かくて右に引ける歌の中卷十一【十五左】なる吾情利乃生戸裳名寸といふ歌は情利乃生戸裳名寸とト〔右○〕を重ねたるに、生戸のかたは戸を用ゐて、利を用ゐざるも、故ある事ならむ。かゝれば此は生跡のト〔右○〕と利心のト〔右○〕とは別意とせむかた穩かなるべし。かくて考ふるに、卷十九【十六左】なる伊家流等毛奈之の流〔右○〕はり〔右○〕の音にて用ゐたるものとおぼゆ。しかいふ故は、卷二十【四十右】に許連乃波流母志《コレノハルモシ》、同【二十七右】に佐由流波奈同【三十左】に(611)志流敝爾波【後方には也】などある流はり〔右○〕の音のかたにてなるべし。此は東歌なればともいふべけれど、同東歌にて、卷二十【十六左】には等能々志利弊乃《トノノシリヘノ》とあれば、猶上の志流敝もしり〔右○〕へとよむべくもおぼえたり。猶いはゞ催馬樂|階香取《シナガドリ》に天治本の假字之奈加止留〔右○〕夜爲奈乃見奈止仁とあり、次なる本末歌も二首共に、之奈加止留〔右○〕とありて、これを梁塵愚案|抄《(マヽ)》には皆しながとり〔右○〕やとかけり。元龜三年六月四日式部少輔藤長の寫したる梁塵愚|抄《?》の古本を余藏せり、此本には三首共にしながとる〔右○〕やとあり。これによれば、古本には之奈加止留〔右○〕夜とありし事明か也。留流〔二字右○〕は韻鏡第三十七開轉來母三等の劉字と同音にて漢音リユウ〔三字傍線〕呉音リユ〔二字傍線〕なり。又三音正譌に劉《ル》【リウ〔二字傍線〕は漢音】とあり。此點は開轉なれば、ウクスツヌフムユルウの音あるまじき事なるに、常に此第三等の音とするものは第十二合〔右○〕轉の虞模の韻と通ずる故に、その合〔右○〕にあやかりたるなり。今は本音の申リユ〔二字傍線〕の省呼なるべし。又鈴屋は刀の字などはてにをはのと〔右○〕には用ゐざる假字なりといへど、此はたま/\てにをはに用ゐざりしのみにて、別に意あるにはあらざるべし。さて卷二【二十三右】に如是有乃豫知勢婆《カヽラムトカネテシリセバ》云々とある乃〔右○〕は刀〔右○〕の誤なりとの説に從ひて、記傳二十四【四十九右】に刀〔右○〕と改て引用したり。其説齟齬せり云々
といへり。今之を按ずるに先づ、本居翁が、「刀(ノ)字なとはてにをはのトには用ひざる假字也」といへる論は首肯すべからず。こは既に上の「一五一」の「如是有乃〔右○〕豫知勢波」とある「乃」は「刀」の誤なるべくして、古事記傳にはそを「刀」の字に改めて引用せること美夫君志に摘示せる如くにして、これ既に自家撞着といふべきものなり。されば「刀」を必ず助詞にあらずとはいふべからざる(612)なり。然らば、美夫君志の如く「流」に「り」音ありとしてすべて「イケリ〔二字右○〕トモナシ」とすべきかといふに、これ亦無理なりと思ふ。美夫君志のあげし卷二十の「コレノハ流〔右○〕モシ」「サユ流〔右○〕ノハナ」「シ流〔右○〕敝ニハ」などは「ハリ」「サユリ」「シリヘ」などいふ語に相對すれど、これは防人の鄙語なれば、訛りたることはいふをまたず。(「モチ〔右○〕」を「モシ〔右○〕」とその直下にあるにても思ふべし。)又催馬樂階香取に天治本の假字を之奈加此留〔右○〕夜々々」といへるによりて天治本を檢するに、この階香取の曲は全然なきなり。これは蓋し、樂章類語鈔にあげたるを天治本にあるものと誤認せしものなるべきが、この樂章類語鈔の階香取は何によれりしかは今詳にせず。加之「階香取」は古來和樂の曲名にして催馬樂の曲名にあらず。されば、樂章類語鈔も亦この點に於いては信ずべからず。これらによりて「流」に「り」の音ありとする説は信ずべからず。されば、卷十九のはもとより「イケルトモナシ」なるべきこと疑ふべからず。然らば、本居説に從ひてこれらをすべて「イケルトモナシ」とよむべきかと考ふるに、必ずしも然りといふべからず、これには種々の疑難あり。先づ、本居説の如く、この「ト」を「利《ト》」の意とするときは新考に「生ける利心といふ事あるべきにあらず」といへる如く意をなさぬこととなるべく、若しなほ「利心」のとする時は卷十一の「吾情利乃生戸裳名寸」とあるは一層の不明なる語となるべし。然らば、「と」を助詞とすべきかといふに、然るときは、卷十九の「イケルト〔右○〕」といふ言遣にあはず。他の例はよみ方は種々に考へうべきなれど、卷十九の假名書の例はみだりにうごかすべからず。然りとて、卷十九の歌に誤字ありといふことは容易にいふべきことにあらず。かくして考ふるにその「止」は果して本居説の如く、「利心」の義なり(613)や、又舊説の如く助詞なりやの疑問を一往考ふべきなり。若し、助詞の「と」にあらずとせば、體言といふより外なかるべきが、體言の「と」は「心利」の「と」といふが如き外なきか如何。按ずるに「心利」などいふ「と」は寧ろ稀なる例にして、「ト」は普通には時、所をあらはす語なるなり。而して「と」をさる時所に通じたるものとして考ふるに、今日の「點」といふべき意もありと考へらる。さる考をなして見るときは、卷十九の「イケルトモナシ」もさる方に解して意に差支なきやうに考へらる。果して然りとせば、他の場合も「イケルトモナシ」といふやうによみて、さるやうに解して一も通らぬ點なく、又「わが心利の生〔右○〕るともなき」も亦通るべく思はる。然らばこれにて治定せりやといふに、なほ疑あり。今本居説も舊説も「生」字につきては「イケリ」とよむ(「イケル」も「イケリ」もただ活用形の少差に止まる)ことを前定せるものなるが、これ果して當を得たるか。今これらの語の例を見るに、卷十九の假名書の例は別として他はすべて「生」一字を書きて例外なきなり。「生」一字にては四段の「イク」下二段の「イクル」とよむが本體にして、「イケリ」とよむは特別の場合に屬すべき筈のものにして、これを直ちに「イケル」「イケリ」とよまむは、一往、かくよまざるを得ざる理由を説明しての事ならざるべからず。今他の卷はさておき、この卷につきて動作存在詞(「イケリ」の如きこの例なり)の記載例を見るに、假名書のものは今論ずる範圍にあらぬが、その他の場合には、
 大雪|落有《フレリ》(一〇三)
 念有《オモヘル》吾毛(一三五) 念有之《オモヘリシ》妹(二一〇)(二一三)
(614) 野中爾|立有《タテル》(一四四) 堤爾|立有《タテル》(二一〇)
 憑有之《タノメリシ》(二一〇)  恃有之《タノメリシ》(二一三)
 形見爾|置有《オケル》(二一三) 
 盤根之|卷有《マケル》(二二三) 
の如く、下に「有」を加へたるものと、
 取|持流《モテル》(一九九)
 吹|響流《ナセル》(一九九)
 御名爾|懸世流《カカセル》(一九六)
 迷流《マドハセル》(二〇八}
の如く下に「ル」の假名を加ふるものとの二樣の方式を見るなり。ただ(二一〇)の
 吾妹子之形見爾置〔右○〕(有)兒乃……
の場合に「置」一字を流布本に「オケル」とよめる一異例あるのみなるが、それも金澤本、類聚古集、神田本、西本願寺本には「置有」とあるなれば、これ亦上の例に洩れずといふべし。更に又卷一につきて見るに、
 念有〔二字右○〕我毛(五)
 之美佐備立有〔二字右○〕(五二) 神佐備立有《タテル》(五二)
の一類、
(615) 春日之霧流〔二字右○〕(二九) 春日霧流〔二字右○〕(二九)
 頭刺理〔二字右○〕(三八)
 圖負留〔二字右○〕(五〇)
 浮流禮〔二字右○〕(五〇) 持越流〔二字右○〕(五〇)
 廬利爲里〔二字右○〕計武(六〇)
 嗣而賜流〔二字右○〕(七七)
の一類とに分つべく、ただ(七九)なる
 作家爾
を「ツクレルイヘニ」とよみたれど、これも確證なきことにして、卷一、二を通じての諸例によらば、「ツクレル」とよむときは、「作有」又は「作流」の如くかくべきなれば、僻案抄の如く「ツクリシ家」とよむべきにあらざるか。若しからずとせば、この「生」と、かの「作」との二字のみ、「イケル」「ツクレル」とよむべきこととならむ。恐らくはさることなくして、「作家」は「ツクリシ家」又は「ツクル家」ならむ。かくして、ここの「生」を「イケリ」とよむも「イケル」とよむも、卷一卷二を通じての記載例としては變例とすべきものなれば、しかよむべきものとは斷言すべからず。余はこれは一字のままの時に普通の動詞として取扱ふものとし、「ト」は名詞として取扱ふものとして、「イクルトモナシ」とよむものならざるかと考ふるものなり。但し、これを以て斷言すべしとは信ぜず。試みに一案を立てたるまでなり。後の學者の考定を俟つ。かくてよみ方を、新に立つるもいかがなれどこ(616)の案にによりおけり。
○一首の意 明かなり。この引手の山に、わが最愛の妻を置きて、山路を通れば、生命ある我とは思はれずとなり。
 
或本歌曰
 
○ これは、上の歌に對しての或本の傳をあげたるものなるが、上の長歌は二首なるに、ここには長歌一首なり。さらば、その二首に對して一首といふ傳の有りしが爲にあげたるか、或は二首のうち一首に對しての異傳かと考ふるに、この歌の趣前なる「二一〇」の歌と頗る似たれば、それに對しての異傳なるべく思はる。而してそれには短歌二首附屬し、これには短歌三首附屬せるが三首中のはじめ二首は又それ/”\「二一一」「二一二」と略同じさまなれば、かた/\その後なる歌の異傳なりと考へらる。
 
213 宇都曾臣等《ウツソミト》、念之時《オモヒシトキニ》、携手《タヅサハリ》、吾二見之《ワガフタリミシ》、出立《イデタチノ》、百兄槻木、《モモエツキノキ》、虚知期知爾《コチゴチニ》、枝刺有如《エダサセルゴト》、春葉《ハルノハノ》、茂如《シゲキガゴトク》、念有之《オモヘリシ》、妹庭雖在《イモニハアレド》、恃有之《タノメリシ》、妹庭雖有《イモニハアレド》、世中《ヨノナカヲ》、背不得者《ソムキシエネバ》、香切火之《カギロヒノ》、燎流荒野爾《モユルアラヌニ》、白栲《シロタヘノ》、天領巾隱《アマヒレガクリ》、鳥自物《トリジモノ》、朝立伊行而《アサタチイユキテ》、入日成《イリヒナス》、隱西加婆《カクリニシカバ》、吾妹子之《ワギモコガ》、形見爾置有《カタミニオケル》、緑兒之《ミドリコノ》、乞哭別《コヒナクゴトニ》、取委《トリマカスル》、物之無者《モノシナケレバ》、男自物《ヲノコジモノ》、脅挿持《ワキバサミモチ》、吾妹子與《ワギモコト》、二吾宿之《フタリワガネシ》、枕附《マクラヅク》、(617)嬬屋内爾《ツマヤノウチニ》、旦者《ヒルハ》、浦不怜晩之《ウラサビクラシ》、夜者《ヨルハ》、息衝明之《イキヅキアカシ》、雖嘆《ナゲケトモ》、爲便不知《セムスベシラニ》、雖戀《コフレドモ》、相縁無《アフヨシモナミ》、大鳥《オホトリノ》、羽易山爾《ハカヒノヤマニ》、汝戀《ナガコフル》、妹座等《イモハイマスト》、人云者《ヒトノイヘバ》、石根割見而《イハネサクミテ》、奈積來之《ナヅミコシ》、好雲叙無《ヨケクモゾナキ》、宇都曾臣《ウツソミト》、念之妹我《オモヒシイモガ》、灰而座者《ハヒニテマセバ》。
 
○宇都曾臣等 「ウツソミト」とよむ。この字面上(一九六)にあり。又「二一〇」には「打蝉」とあり。「臣」を「ミ」とよむは「オミ」の上略なるが、上に「ソ」といふありて「オ」韻なるが故にそれに没入せるものとも考へらる。「宇都曾見」とかける例上(一六五)にあり。○念之時 「オモヒシトキニ」とよむ。「二一〇」と語同じ。
○携手 舊訓「タヅサヘテ」とよめり。攷證には「タツサハリ」とよむべしとせり。按ずるに「手」を複語尾の「テ」と見るか、又實際の手と見るべきかといふ事を先決の間題とす。然るに、「携手」とかけるはここの外卷十「二〇二四」に「萬世携手居而相見鞆《ヨロヅヨニタツサハリヰテアヒミトモ》」卷十九「四二三六」に「鳴波多※[女+感]嬬携手共將有等《ナルハタヲトメタツサハリトモニアラムト》」とありこれも同樣と思はる。かく集中同樣に携字を用あたる例を見るに、卷四「七二八」には「吾妹兒與携行而《ワキモコトタツサハリユキテ》」とあるは或は「携」を四音によむべく、卷九「一七四〇」の長歌なる「海若神之宮乃内隔之細有殿爾携二人入居而《ワタツミノカミノミヤノウチノヘノタヘナルトノニタツサハリフタリイリヰテ》」、同卷「一七九六」の「黄葉之過去子等携遊磯麻見者悲裳《モミヂハノスギニシコラトタツサハリアソビシイソマミレバカナシモ》」卷十「一九八三」に「妹與吾携宿者《イモトワレタツサハリネバ》」卷十二「二九三四」に「携不問事毛苦勞有來《タツサハリコトトハナクモクルシカリケリ》」とありて、これらはいづれも五音によむべきものにして舊來「タヅサハリ」とよみ來れるものなり。さて又假名書の例を見るに、卷十(618)七「三九九三」に「於毛布度知宇麻宇知牟禮底多豆佐波理伊泥多知美禮婆《オモフドチウマウチムレテタヅサハリイデタチミレバ》」卷十八「「四一二五」に「多豆佐波利宇奈我既刊爲※[氏/一]《タヅサハリウナガケリヰテ》」卷二十「四四〇八」に「多豆佐波里和可禮加弖爾等《タヅサハリワカレガテニト》」などいづれも「タヅサハリ」とよみて「タヅサヒ」「タヅサヘ」の例を見ず。又卷五「八〇四」に「餘知古良等手多豆佐波利提阿蘇比家武等伎能佐迦利乎《ヨチコラトテタヅサハリテアソヒケムトキノサカリヲ》」「九〇四」に「伊射禰余止手乎多豆佐波里父母毛表者奈佐我利《イザネヨトテヲタヅサハリチチハハモウヘハナサカリ》」といへる例あり。これらの例によれは「携」は「タヅサハリ」とよまむ外なく、下の「手」は義を以て加へたるにて、「テヲタヅサハリ」又は「携手」にて「タヅサハリ」とよむべきものならむと考へらる。然るにここは五音によむべき所なれば、「タヅサハリ」とよむべきならむ。意は共に手に手をとる意なり。
○吾二見之 「ワガフタリミシ」とよむこと上の歌におなじ。
○出立 舊訓「イテタテル」とよみたれど、「出立てる槻木」といふべくもあらねば、從ひがたし。代匠記に「イデタチノ」とよめるをよしとす。日本紀雄略卷の御歌に「擧暮利矩能播都制能野磨漕伊底※[手偏+施の旁]智能與廬斯企夜磨《コモリクノハツセノヤマハイデタチノヨロシキヤマ》」又卷九「一六七四」に「出立之此松原乎今日香過南《イデタチノコノマツバラヲケフカスギナム》」卷十三「三三三一」に「忍坂山者走出之宜山之《オサカノヤマハワシリデノヨロシキヤマノイデタチノ》、妙山叙《クハシキヤマゾ》」又「三三〇二」に「出立之清瀲爾《イデタチノキヨキナキサニ》云々」とあるによりて「イデタチノ」とよむべし。意は上の歌の「ワシリデノ」に同じくして出立の堤にある義なり。
○百兄槻木 「モモエツキノキ」とよむ。「兄」は借字にて「枝《エ》」なり。古事記雄略卷に、「天皇坐長谷之百枝槻下爲豐樂之時」とありてその時の釆女歌に「毛毛陀流都紀賀延波」とあり「モモエ」百枝にて多くの枝をもてる由をいへり。卷八「一五〇七」に「吾屋前爾百枝刺於布流橘《ワガヤトニモモエサシオフルタチバナ》」などあり。
○虚知期知爾 流布本「カチコチニ」と訓せり。その「カ」は活字附訓本に「コ」の活字を誤り植ゑて「※[コの左向き]」(619)の如くせるを寛永本に「カ」と誤り刻せしものにして、活字素本以前の諸本にはいづれも「コ」とせり。「こちごち」の意は上にいへり。
○枝刺有如 「エダサセルゴト」とよむ。百枝の槻木が彼方此方に枝させる如くの意なり。
○春葉茂加 舊訓「ハルノハノシケルガゴト」とよみたれど、上の歌に「春葉之茂之如久」とかけると同じ語なること著しければ同じく「ハルノハノシゲキガゴトク」とよむべし。
○念有之妹庭雖在 「オモヘリシ、イモニハアレド」とよむ。上の歌にあると同じなり。
○恃有之妹庭雖有 「タノメリシ、イモニハアレド」とよむ。意は上の歌の「憑有之兒等爾者雖有」と同じ。
○世中背不得者 「ヨノナカヲ、ソムキシエネバ」とよむ。上の歌の「世間乎背之不得者」におなじ。
○香切火之燎流荒野爾 「カギロヒノ、モユルアラヌニ」とよむ。上の歌に「蜻火之燎流荒野爾」とかけるにおなじ。
○白栲天領巾隱 「シロタヘノアマヒレガクリ」とよむこと上の歌に異ならず。
○鳥自物 上におなじ。
○朝立伊行而 「アサタチイユキテ」とよむ。「イ」は所謂發語にて深き意なし。上の歌に「朝立伊麻之弖」とあるに大差なし。
○入日成 上におなじ。
○隱西加婆 「カクリニシカバ」とよむこと上の歌におなじ。
(620)○吾妹子之形兒爾置有 上の歌におなじ。
○緑兒之 「ミドリコノ」とよむ。意上にいへり。
○乞哭別 「コヒナクゴトニ」とよむ。上の歌にいへると同じ。「別」を「ゴト」とよむは、上の「一〇一」の「不成樹別爾」の例あり。
○取委 この句、上の歌には「取與」とあり。さてこれを舊訓に「トリマカス」とよみたるが、代匠記には「トリユダヌルともよむべし」といへり。童蒙抄又「トリユタネ」とよむべしとせり。按ずるに、これはよみ方と意義との二重の見方あり。まづ、その意につきては契沖は「まかすは緑兒に持せて彼が心に任するなり」といへり。この意ならば、「マカス」とよむをよしとすべし。略解、古義、註疏この趣にとけり。童蒙抄は「此處には委の字をかきたれば、ゆだねとよむで、みどりこをとりあつかふものしなきとの事也」といへり。攷詔は「まかす」とよみて意は「とりまかすはその子をとりゆだぬるをいふ。任をまけとよむも、その事をその人にまかするをいひてまかせをつづめてまけとはいへるにて意はここのまかすと同じ」といひ又本歌に取與物之無者とある物は取あたふ品をいへれど、ここの物無者の物は取まかせてゆだぬる人しなければといふ意にて人をさしてものとはいへり」ともいへり。さて上の歌の意にして語のみかはれるものとせば契沖などの説によるべし。されど、「與ふ」といふが如き意に「委す」といふことをいへりや如何。按ふに「まかす」とよみても「ゆだぬ」とよみてもその意は童蒙抄、攷證などの意なるべきが自然なるべし。よりて今それによるべし。さてよみ方は如何といふに、「委」は普通に「ユダヌ」とよみ、又(621)「マカス」とよむ字なるが、その二語共に萬葉集その他古典中に假名書の例を見ず。而してこの二語共に下二段活用の語なれば、下の「物」につづくる爲には「マカスル」又は「ユダヌル」とよむべきものにして「マカス」「ユダヌ」とよむは破格となるなり。若それが破格ならずとせば、これらは當時下二段活用ならずして四段活用なりしものとせざるべからず。然るにこれも亦證なきことなり。以上の如くなれば、この訓につきは決定的の言は下しがたきものなりとす。今姑く、字餘りなれど「トリマカスル」とよむ。
○物之無者 「モノシナケレバ」なり。この「物」は攷證に「人をさしてものといふは古事記中卷に問2其機者1曰など見えたり」といへる如し。
○男自物脅插持 「ヲノコジモノ、ワキバサミモチ」にして上の歌にあるにおなじ。
○吾妹子與二人吾宿之枕附嬬屋内爾 上の歌のにをなじ。
○旦〔左○〕者 「旦」字金澤本類聚古集に「日」とし、神田本大矢本京郡大學本「且」とせり。「旦」の誤たるべし。訓は古來「ヒルハ」とよめり。上の歌は「晝羽裳」とありて稍異なれど、意おなじ。三音の一句なり。
○浦不怜晩之 舊訓「ウラブレクラシ」とよみたるが、契沖の「ウラサビクラシ」とよめるをよしとす。上の歌に「浦不樂晩之」とあるにおなじ。
○夜者 「ヨルハ」とよむ。「ヒルハ」に對する三音の一句たり。上の歌に「夜者裳」とあるに意同じ。
○息衝明之 「イキヅキアカシ」とよむ。上の歌と語おなじ。
○雖嘆 上の歌におなじ。
(622)○爲使不知 これは上の歌の、「世武爲使不知爾」に相當るものなるが、舊訓には「セムスベシラニ」とよめり。童蒙抄には「本集には世武のこ字かな書にて下をすべとよみたり。此は本集の通にはよみがたし。ここには同じ義なれども、すべのしらなくとか、すべもしられずとかよむべき也」といへり。考には「爲便不知と有も字の略のみにて訓は今とひとし」といへり。按ずるに本集中「爲便」とかけるもの少からねど、「世武爲便」とかけるもの卷二、「二〇七」「二一〇」卷四「五一五」卷五「九〇〇」等にあり。又「將作爲便」とかけるは卷十九「四二三六」にあり。「將爲爲便」とかけるもの卷九「一六二九」にあり。又「爲便」とかきて「スベ」にあてたるもの卷三「三四三」「四六六」「四八〇」卷十一「二七八一」卷十三「三二九一」「三三二九」卷十九、四三三六」等に見えたり。然れば、「爲便」は元來「スベ」とよむべき文字なるが如し。然るに、卷三「三四三」と「四八一」とには「將爲便」とかきて「セムスベ」とよましむべき所あり。これらは「將爲爲〔二字右○〕便」とあるべきを「爲」を一字にて略せるかとも見ゆるなり。然るに、卷十二「二九五三」には「戀君吾哭涕《キミコフトワガナクナミダ》。白妙袖兼所漬而爲便母奈之《シロタヘノソデサヘヒヂテセムスベモナシ》」とかけるあり。この「爲便」は「セムスベ」とよまずばあるべからず。これに照して考ふるに或は「將爲便」は「將爲」にて「セム」とよみ「便」一字を「スベ」とよませたるにて、卷十二のは「爲」を一字にて「セム」とよみ「便」一字にて「スベ」とよむべきものなるべきか。然れども、又或は然らずして考にいへる如く古く略せるものか。未だ斷言すべからずといへどもこの一句は「セムスベシラニ」とよめる考の説に從ふべきなり。
○雖戀相縁無 「コフレドモ、アフヨシヲナミ」とよむ。舊訓に「アフヨシモナミ」とよみたれど、上の歌によりてよむべきなり。「縁」を「ヨシ」とよむは「由縁」の義によるなり。
(623)○大鳥羽易山爾 上の歌のにおなじ。
○汝戀 「ナガコフル」なり。上の歌には「吾戀流」とありて主客の違ひあれど、そのさす所は一にして、これは他人の語をそのまゝとりたるさまによめるなり。
○妹座等 上の歌のにおなじ。
○人云者 「ヒトノイヘバ」なり。語は上の歌のにおなじ。
○石根割見而 上の歌に「石根佐久見手」とあるにおなじ。
○奈積來之 「ナヅミコシ」、上の歌のにおなじ。
○好雲叙無 上の歌のにおなじ。
○宇都曾臣 「ト」字なけれど下の「念」につづくると、上の歌の例とを參照して「ウツソミト」とよむべし。
○念之妹我 「オモヒシイモガ」なり。
○灰而座者 舊訓「ハヒシテマセバ(「ン」とあるは「シ」の誤)とよみたれど、攷證に「ハヒニテマセバ」とよませたるをよしとす。古義は「灰而座者は解難し、誤字脱字などあるべし」といひ、又「強て甞にいはゞ玉蜻仄谷母不見座者など、もとはありしを後に火葬のことを思ひ仄を灰に誤れるより亂れたるものか」といへり。然れども、この所諸本いづれも異なることなければ、もとよりかくありしならむ。契沖は「火葬して灰となりていませばなり」といへり。考には「或本に灰而座者とあるは亂れ本のまゝなるを、或人そをはひれてませばと訓て文武天皇の四年三月に始て道昭(624)を火葬せし後にてこれも火葬して灰まじりに座てふ事かといへるは誤りを助けて人まどはせるわざ也。火葬しては古へも今もやがて骨を拾ひてさるべき所にをさめて墓とすめるを、此反歌は葬の明る年の秋まゐでゝよめるなるを、ひとめぐりの秋までも骨を納めず、捨おけりとせんかは。又この妻の死は人まろのまだ若きほどの事とおもはるゝよしあれば、かの道昭の火葬より前なるべくぞおぼえらる。さてその灰の字を誤りとする時はこれも本文のごとき心詞にて珠蜻仄谷毛見而不座者とぞありつらんを字おちしなるべし」といひたるを攷證はそれに反對して、「例のしひて古書を改めんとするの癖にて、甚しき誤なり」といひ、さて曰はく「右にいはれつるごとく、火葬は道昭より始れる事は日本紀に、文武天皇四年三月己未道昭和尚物化火2葬於栗原1天下火葬從v此而始也云々とありて、其後俄に天下あまねく火葬を用ひし事、持統天皇の崩たまへるをさへ、大寶三年十二月飛鳥岡にて火葬し奉れるにて、しられたり。この文武天皇四年より大寶三年までははづか四年が間に、かくあまねくなりし也。さればこの人麿の妻の失しも火葬始りてより後にて人麿の世にあられし時既に火葬の專らなりし事、本集三【四十七丁】に土形娘子火2葬泊瀬山1時柿本朝臣人麿作歌云々、また【四十八丁】溺死出雲娘子火2葬吉野1時柿本朝臣人磨作歌云々などあるにてしらるれば、この妻をも火葬せしにて、今は灰となりませばといふを灰而座者とはいへるなり。考に一周の秋まで骨を納めず捨おけりとせんかはといはれしは、ここの文をいかに見られたるにか。ここの文は火葬して埋めしをたゞ大どかに灰になるとはいへるにて火葬せしまゝ捨おかずして埋めたりとも一度火葬せしは灰ならずや。(625)續日本紀神護景雲三年十月詔に體方《ミハ》灰埋《ウヅモ》利奴禮止云々などあるにても埋みても猶灰とともにて灰にあるをしるべし。又考に、この妻の死は人まろのまだ若きほどの事とおもはるゝよしあれば、かの道昭の火葬より前なるべくぞおぼえらるといはれしもいかゞ。何をもて若きほどの事とせらるゝにか。そはこの妻失し時若兒ありて後にまた依羅娘子を妻とせられし故なるべけれど、男はたとへ五六十に及たりとも子をも生せ妻をもめとる事何のめづらしき事かあらん。これらにても考の説の誤りなるをしるべし」といへり。この説にて殆どいふべきことなきなり。たゞ少しく補はむに當時死去後必ずしも直に火葬せしにあらぬは伊福吉部徳足比賣墓誌(古京遺文に載す)に和銅元年秋七月一日に卒せしを三年冬十月に火葬せし由を記せり。されば、考の説いよ/\從ひがたしといふべし。
○一首の意 粗異なることなし。ただ火葬せし故をいへる點を異なりとす。
 
短歌三首
 
○ 上の歌には二首なるにここに三首なるは最後の一首が、全く別のものの加はれるなり。
 
214 去年見而之《コゾミテシ》、秋之月夜《アキノツキヨハ》、雖度《ワタレドモ》、相見之妹者《アヒミシイモハ》、益年離《イヤトシサカル》。
 
○去年見而之 上の「二一一」のにおなじ。
○秋之月夜 「者」字なけれど、「二一一」のに照して「アキノツクヨハ」とよむべし。意は明かなり。
(626)○雖度 「ワタレドモ」とよむ。上の歌は「テラセドモ」とあり。月の空を行くをいへること、上(二〇七)の「度日」といへるにおなじ。この一句のみ異なり。
○相見之妹者益年離 上「二一一」のに同じくよむべ。
○一首の意 第三句の稍異なるのみにて、意は同じ。
 
215 衾路《フスマジヲ》、引出山《ヒキテノヤマニ》、妹置《イモヲオキテ》、山路念邇《ヤマヂオモフニ》、生刀毛無《イケルトモナシ》。
 
○衾道引出山妹置 上「二一二」と文字異なれど、これはテニヲハを略けるにてよみ方は同じかるべし。或は「引出山」とあれば「ヒキデノヤマ」といふが正しきか。
○山路念邇 「ヤマヂオモフニ」とよむ。この一句上「二一二」と異なるなり。その意は引出の山に妹を置きて來たれば、その妹が居る山路を思へば、いきてある心地もせずとなり。
○生跡毛撫 上「二一二」と同じく姑く「イクルトモナシ」とよむべし。
○一首の意 大體「二一二」におなじ。ただかれとこれと第四句の異なるにて、山路を思へばといへるを異なりとす。
 
216 家來而《イヘニキテ》、吾屋乎見者《ワガヤヲミレバ》、玉床之《タマドコノ》、外向來《ホカニムキケリ》、妹木枕《イモガコマクラ》。
 
○家來而 「イヘニキテ」とよむ。「妻の墓にまうでてさて家にかへりて也」と攷證にいへり。
○吾家乎見者 「ワガヤヲミレバ」とよむ。考には「吾」を「妻」の誤かといひ、古義はそれをよしとして(627)「ツマヤヲミレバ」とよめり。されど、かくかける本一も存せねば誤字説は從ふべからず。意は明かなり。
○玉床之 舊訓「タマユカノ」とよめり。考には「七夕の哥に玉床乎打拂と有はさる事にて人まろの妻には似つかず。思ふにこは死て臥たりし床なれば靈《タマ》床の意ならん」といひて「タマトコノ」とよめり。略解は之に賛して「玉床は按るに續後紀弟十四、甲斐國言、山梨郡人伴直富成女年十五にて郷人三枝直平麿に嫁、平麿死て後靈床を敬事存日の如しと見えたる靈床にて卷十、七夕の歌に玉床とよめるとは異也」といへり。さてこの「床」は「ユカ」にあらずして「トコ」なるべきは事實より推しうべきが、その玉床といへるは「玉床」の義か。しかれども上の「靈床」は漢字にて意をあらはせるに止まりてこれによりて「タマドコ」とよむべしとすることは立證せられたりとすべからず。されば、これは意義は靈床の義にても、よみ方はただ尋常の床と同樣なるべし。然らば、何故に「玉」といへるかといふに、これは攷證に「玉床とは愛する妹と宿し床なれば玉とほむる也。本集十【廿九丁】に明日從者吾玉床乎打拂公常不宿孤可母寐《アスヨリハワガタマドコヲウチハラヒキミトイネズテヒトリカモネン》云々(二〇五〇)など見えたり」といへる意なりとす。
○外向來 奮訓「ホカニムキケル」とよみ、童蒙抄は「ヨソムキニケリ」とよみ、考には「ホカニムキケリ」とよみ、古義には「トニムカヒケリ」とよめり。先づ「來」を「ケリ」とよめる例は卷十一(二四六五)に「浦乾來《ウラガレニケリ》」卷十三「三三〇八」に「戀云物者都不止來《コヒチフモノハカツテヤマズケリ》」卷四「七五三」に「戀益來《コヒマサリケリ》」などあり。又「ケル」とよめる例は卷三「二六七」に「相爾來鴨《アヒニケルカモ》」などあり。次に「外」は「ホカ」とも「ト」ともよむべきが、「ホカ」といへばもと(628)のさまと異なる由に汎く考へらるるが、「ト」とよむときは内方にありしが外方に向ひしこととなるべく、然るときは外方に向ふ事につきての何等かの忌むべき事情ありしものと考へらるべきなり。然れども、さる事は考へらるべくもあらねば、ただ、外ざまに向きたるをいへるのみならむ。されば「ホカ」とよむをよしとすべし。「ヨソ」とよまむも「ホカ」と心は同じかるべけれど、「ヨソ」は「餘所」といふ字音より出でし漢語なるべければ從ひがたし。されば、「ホカニムキケリ」か「ムキケル」かの一によむべきが、「ケル」とよむときはこの歌の切れ目なし。されば「ホカニムキケリ」とよむべきなり。
○妹木枕 「イモガコマクラ」なり。木枕は木にてつくれる枕なり。本集卷十一「二六三〇」に「吾木枕蘿生來《ワガコマクラニコケオヒニケリ》」と見え、「二五〇三」に「黄楊枕《ツゲマクラ》」とも見えたり。
○一首の意 考に「去年死て葬やりしかば、又の秋まで其床の枕さへ其まゝにてあらんこと、おぼつかなしと思ふ人有べし。此こと上にもいへる如く、古へは人死て一周の間、むかしの夜床に手をだにふれず、いみつゝしめる例なれば、此靈床は又の秋までかくてある也けり。譬ば旅行人の故郷の床の疊にあやまちすれば、旅にてもこと有とて其疊を大事とすること、古事記にも集にも見ゆ。これに依て此哥と上の河島皇子を乎知野に葬てふにぬば玉の夜床母|荒《アル》良無とよめるなどをむかへ見に、よみ路にても事なからん事を思ふは人の情なれば、しか有べきこと也。こぬ人を待とても床のちりつもるともあるゝともいふ。是もその床に手ふるるを齋《イム》故なれば、此三つ同じ意にわたる也」といへり。一週年説と「靈床」のよみ方とには從ふべからねど(629)大意はこの通の事なるべし。なほ考はこの歌をよしとして次の如くいへり。曰はく「人まろの歌は長哥より反歌をかけて心をいひはつること上にいへるが如し。然れば、此家に歸りて遂に無人を思ひ知しかなしみの極みを此哥にてつくせれば、こは必これに添べし」といへり。契沖は「潘安仁悼亡詩云展轉〓2枕席1長箪|竟《ワタテ》v牀空。ハして右の歌ども悼亡詩三首を引合てかなしびを思ひやるべし」といへり。
 
吉備(ノ)津(ノ)采女死時柿本朝臣人麿作歌一首并短歌。
 
○吉備津釆女 このよみ方につきて、代匠記は「下の二首短歌に依て、津は釆女が名なれば、吉備は氏なり。吉備の津の釆女と讀べし。拾遺に初の短歌を載らるゝに、吉備津の釆女なくなりて後よみ侍けるとあるは三字を合て氏とせられたるか、名とせられたるか、知がたし」といへり。次に童蒙抄は「今云備前備中備後の内より貢献したる采女と見えたり。吉備津といふところ未v考。津は、なには津、大津などの津にて、ひろくさしたる所の義か。但し三備の國の内に吉備津といふところあるか、未詳」といへり。考に、「此釆女の氏は吉備津なり」といひたるが、玉の小琴には「吉備津を考に此釆女の姓のよしあれど、凡て釆女は出たる地を以てよぶ例にて姓氏を云例なし。此上反歌に志我津子とも凡津子ともよめるを思ふに近江の志我の津より出たる釆女にて爰に吉備と書るは志我の誤にて志我津の釆女なるべし。」といへり。略解古義攷證以下大抵これに從へり。檜嬬手の如きは標題をまでも「志我津釆女」と書き改めたり。今按ずる(630)にこの釆女は下の短歌によりて如何にも近江の志賀の大津に縁ある人なるべく思はるるを以て、本居説は一往道理ある如くなれど、よく考ふるに必ずしも從ふべからず。その故如何といふに、釆女は元來各地方よりそれぞれ貢したるものなれば、その出身地を以てその同職の他の人々と區別することを要したるが爲に地名を冠したるものなるべきが、古事記には雄略卷に「伊勢國之三重※[女+采]」あり、日本紀には允恭卷に「小墾田采女」あり、雄略卷に「伊勢采女」あり、「吉備上道釆女大海」あり、舒明卷に「吉備國蚊屋采女」あり、天智卷に「伊賀采女宅子」あり。これらいづれも主として後世いふ國名或は郡名又は國名郡名を重ねたるなり。ただ、「小墾田采女」のみは大和國高市郡内の地名にして國郡名をいへるとは一致せず。されど、この小墾田は「小墾田屯倉」(安閑卷)の在りし所なれば當時その屯倉の首の子女などを貢せしにてかくは名づけしならむ。さて令の制度を見れば、各國より郡司の女の然るべきものを貢せられしなれば、それらの采女はいづれも委しくはその國と郡とを以てこれを示されしこと、上の「伊勢國之三重※[女+采]」「吉備上遺釆女」「吉備國蚊屋采女」の如くなりしなるべく、又國名のみを示されたること「伊勢采女」「伊賀采女」などの如くなりしならむ。今本集の他の例を見るに、卷四「五三四」「五三五」左注「因幡八上采女」又「駿河采女」(卷四)「八上采女」(卷六)「豐島采女」(卷六)あり。その「駿河采女」は上の「伊勢采女」「伊賀采女」の如く、その出身の國名を負ひしものにして、「八上采女」「豐島采女」(八上は因幡國の郡名、豐島は攝津國の郡名)は國を略して郡名のみを以て示されたるものと見ゆ。されば、これらはもとより采女その人の名にはあらずして、任命と貢進との差はあれど「駿河守」「伊勢守」又「八上郡大領」「豐島郡大(631)領」などいふ場合と同じ精神にて地名を冠せるものと見ゆ。されば、續日本紀卷十四天平十四年四月の條に「伊勢國飯高郡采女正八位下飯高君笠目」といふあり、同卷三十一、寶龜二年二月の條に「因幡國高草采女從五位下國造淨成女」(高草は因幡の郡名にして、日本後紀卷五、延麿十五年十月の條にこの人の事を記して「淨成女元因幡國高草郡之采女也」とあり)卷三十九、延暦六年四月の條に「武藏國足立郡采女掌侍兼典掃從四位下武藏宿禰家刀自」の名あり。又朝野群載には「伊豫采女」「播磨采女」あり。これらみなその貢献せる同郡の名を負へるものにして、漫りにいへるにあらざるなり。これを以て思ふに大化の改新以後は采女の貢献は諸國の郡に限られたれば、その國郡の名を以てその采女に負すること例となりしならむ。然るときは「吉備津」の名は地名とせば、國と郡とに在らざるべからざる筈なり。かくて備前備中備後の三國中に津の名を負へる郡名ありやと見るに、備中國に都宇郡あり。これは都宇の二字をあてたれど、もとは津一字の郡名なりし事は疑ふべからず。和銅の頃勅して國郡等の名は好字二字を以てつけしめられしが爲に、從來一字を用ゐし木國が「紀伊」と書く事となれる如く、この「津」もまた「都宇」となりしなり。かくもと一音の郡名をは上の字の韻に當る字を加へて二字とせし例は、
 紀伊(山城)
 寶飫(穗)(參河)
 都宇(備中)
 基肄(肥前)
(632) 頴娃(衣)(薩摩)
  贈於(襲)(大隅)
 等なり。これによれば、津は吉備國の郡名なること著しく、同時にこれが和銅以前の事たるを見るべし。而して他方に、かの「志賀津采女」とする説を考ふるに、「志賀」と「大津」とはいづれも地名なれど、「志賀津」といへることの例を知らず。加之假令「志賀津を地名なりとすともにそれが、采女を貢献すべき一行攻區劃の名なりといふことは一も證なし。近江國志賀郡の貢献ならば近江志賀采女とか、單に近江采女若くは志賀采女といふべきものにして志賀津采女といふべくもあらず。況んや短歌には「志我津子」「凡津子」といへるのみにして「某采女」といへるにあらぬをや。この故に、この吉備津采女は代匠記の説によりて「キビノツノウネメ」とよむべし。今かくよむ時は短歌の「志賀都子」等の語は如何にせむといふにそれは別に短歌に行きて説くべきことなるが、本歌中にこの采女の夫ありしさまに見ゆるも不審なり。これらは各その條下に説くべし。
○死時 「ミマカレルトキ」と考によめるに從ふべし。
○短歌 多くの古寫本これを小字にせるをよしとす。ここに數を記さねど、二首あり。
 
217 秋山《アキヤマノ》、下部留妹《シタブルイモ》、奈用竹乃《ナユタケノ》、騰遠依子等者《トヲヨルコラハ》、何方爾《イカサマニ》、念居可《オモヒテヲレカ》、栲紲之《タクナハノ》、長命乎《ナガキイノチヲ》、露己曾婆《ツユコソハ》、朝爾置而《アシタニオキテ》、夕者《ユフベニハ》、消等言《キユトイヘ》、霧已曾婆《キリコソハ》、夕立而《ユフベニタチテ》、明者失等言《アシタニハウストイヘ》、梓弓《アヅサユミ》、音聞吾母《オトキクワレモ》、髣(613)髴見之事悔敷乎《オホニミシコトクヤシキヲ》、布栲乃《シキタヘノ》、手枕纏而《タマクラマキテ》、劔刀《ツルギタチ》、身二副寐價牟《ミニソヘネケム》、若草《ワカクサノ》、其嬬子者《ソノツマノコハ》、不怜彌可《サブシミカ》、念而寐良武《オモヒテヌラム》、時不在《トキナラズ》、過去子等我《スギニシコラガ》、朝露乃如也《アサツユノゴト》、夕霧乃如也《ユフギリノゴト》。
 
○秋山 舊訓「アキヤマノ」とよめるが、神田本には「アキヤマニ」とあり。これは古事記記中卷應神卷に「秋山之下氷壯夫」とあるによりて舊訓をよしとすべし。これをば冠辭考に枕詞なりとせしより諸家皆これに從へり。されどこれは枕詞にあらずして、下の「下部流」に對しての主客たり。而してこれは秋の紅葉せる山をさせりと見ゆ。
○下部留妹 舊訓「シタヘルイモ」とあり。古事記傳三十四には之を「シタブルイモ」とよみて「部留をベルと訓は非なり」といひ、略解はこれをとりて、「シタブルともよむべし」といへり。而して檜嬬手、註疏は「シタブル」とよむ方によれり。さてこの「部」を「ヘ」とよむべきか「フ」とよむべきかといふに元來この「部」を「ベ」とよむは字音にあらずして訓たるなり。この字の音は、漢音「ホウ」にして呉音「ブ」たるものなり。されば音假名として當然「ブ」とよむべきものなりとす。而して本集中明かに「フ」とよむべきものは、卷三「二六四」の「物乃部能八十氏河乃《モノフノヤソウヂカハノ》」卷十九「四一五四」に「枕附都麻屋之内爾鳥座由比須惠※[氏/一]曾我飼眞白部乃多可《マクラツクツマヤノウチニトグラユヒスヱテテアガカフマシラフノタカ》」とあるなり。又日本紀卷十九に「膳臣傾子」の名を注して「※[舟+可]※[手偏+施の旁]部古《カタフコ》」とあり。これらによりてここも「シタブル」とよみうることをさとるべし。かくて「シタブル」とよむべきか、「シタベル」とよむべきかといふに、「シタベル」といふ時はそは連體形(634)なるべきを以て、そはラ行四段の活用か、動作存在詞かならざるべからず。而してそれらはいづれにしても「シタベラ」「シタベリ」など活用する語なるべきに、未だかかる動詞の存する例を知らず。而してそれが又動作存在詞ならば、「シタバ」、「シタビ」など活用する波行四段活用の語ならざるべからず。然れども、さる語も未だかつてきかざる所なり。されば、「シタベル」とよむことは語の上より存在を認むること不可能なりといふべし。然らば、「シタブル」は如何といふに、これは蓋し、下二段活用か上二段活用かなるべきなり。かくてこの語の同類なりと考へらるるものに、古事記中卷應神卷なる「秋山之下氷壯夫《アキヤマノシタビヲトコ》」又この集卷十「二二三九」に「金山舌日下鳴烏音谷聞何嘆《アキヤマノシタビガシタニナクトリノコヱダニキカバナニカナゲカム》」とある「シタビ」はいづれも名詞の取扱を受けたれど、もと用言の連用形なること著しきなり。而して之を「シタブル」と照し考ふるに意共通せり。さればこれは上二段活用の語たること明かなりといふべし。さてこの語の意如何といふに、契沖は「シタヘル」とよみて「したへるはしなへるなるべし」といひ、又「もみちの色うるはしくして枝しなやかなるに譬るなり」といへり。童蒙抄には「たとなと同音故しなへると云義との説もあれど、山のしなへるといふ義いかにとも心得がたし」といひ、なほ他の案あれど、從ひがたき説なり。考には「下部留は萎《シナベル》也、秋の葉はしなび枯る比に色づけばしなべるとはもみぢするをいへり」といへり。本居宣長は、古事記應神卷の秋山之下氷壯夫の説明を下せる條に「下氷は【字は借字にて】諸木《キギ》の變紅《モミヂ》したる秋山の色を云。そは萬葉二【四十丁】に秋山(ノ)下郡流妹【五十丁】に金山舌日(カ)下(ニ)などあるを秋山か紅葉の色なりと師の云れたる是なり。かくて此(ノ)言の本の意は朝備《アシタビ》と云ふことにて【備は夫流と活く言なり故志多夫流とも云り】秋山の(635)色の赤葉《モミチ》に丹穗へるが赤根さす朝の天の如くなる由なり。【萬葉に朱引朝《アカラヒクアサ》ともありて朝の天《ソラ》は赤き物なり】(中略)かくて右の下部留妹又山下影日賣など皆|紅顔《ニホヘルカホ》を稱美《ホメ》て云るなれば此《コレ》下氷壯夫も秋山の色の美麗《ウルハシ》きを以て稱へたる名なり」といへり。その語源説は必ずしも從ふべからねど、必ず秋山に對せる例なるを見れば、秋の紅葉につきていへることは疑ふべからず。而して下氷壯夫又ここの下部流妹といへるを考ふるに、壯年の肉體美をたとへたることは疑ふべからず。以上の他には未だ類例を見ねど、意は本居の説の如くなるべし。童蒙抄に「山のしなへるといふ義いかにとも心得がたし」とあれど、委しくは秋山の紅葉の下部流といふべきを秋山の下部流とやうにいふ例は本集に少からす。かつてもいへる如く、「白浪乃(よする)濱松(ガ)之枝」(卷一「三四」)「炎乃(もゆる)春」「露霜乃(おく)秋」卷六「一〇四七」)「※[(貝+貝)/鳥]之(なく)春」(卷十「一八四五」)の如く中間の用言をいはぬ例あり、卷十一(一八六一)に「能登河之水底并爾光及爾三笠之山者咲來鴨《ノトカハノミナソコサヘニテルマテニミカサノヤマハサキニケルカモ》」又卷十三「三二三四」に「春山之四名比盛而秋山之色名付思吉百磯城之大宮人者《ハルヤマノシナヒサカエテアキヤマノイロナツカシキモモシキノオホミヤビトハ》」とあるも「春山之(草木の)云々秋山之(紅葉の)云々」といふべきを略言せるものなり。されば、これはそれらに例のある事なりとす。さて從來は上の「秋山の」を枕詞とし「下部流」にて妹を形容せりといふやうに説きたり。されど、こは卷一「二一」の「紫草能爾保敝類妹」といへると同格にして、秋山の紅葉の下部流といふ句にて妹を形容したるものにして、單に「下部流如き妹」といふ意にはあらざるなり。その事はなほ下の句につきて説くべし。「妹」はかの釆女をさせり。
○奈用竹乃 舊訓「ナユタケノト」とよめるが、拾穂抄は「ナヨタケノ」とせり。「用」は呉音「ユウ」漢音「ヨウ」(636)なり。されど、萬葉集にては、この卷以外には卷五卷二十に用ゐたるがいづれも「ヨ」の假名にせり。その例を以て推さば、「ナヨタケ」とよむべきが如し。而して一方、この語の用例を見るに、卷三「四二〇」には「名湯竹乃十縁皇子《ナユタケノトヲヨルミコ》」とありて、「ナユタケ」の語あるを見てその他の例は見ず。さればここはいづれにてもあるべきが、今は傍例と舊訓とによれり。「なゆたけ」とはなよなよとしなやかなる竹の義なり。類聚名義抄には「※[菫の草が竹]竹」に「ナヨタケ」の訓あり。これは今いふ女竹なり。これも從來は枕詞としたれど、然らずして、下の「とをよる」に對しての主格たり。その事は次にいふべし。
○騰遠依子等者 「トヲヨルコラハ」とよむ。この語の例は上にいへる卷三の「名湯竹乃十縁皇子《ナユタケノトヲヨルミコ》」の外に卷七「一二九九」に「安治村十依海船浮白玉採人所知勿《アヂムラノトヲヨルウミニフネウケテシラタマトラムヒトニシラユナ》」といへるあり。この語の意は契沖は「舊事紀に柝竹之登遠々邇と云如くなよ竹の攀ればたわみよるやうにたをやかなる意なり」といへり。童蒙抄には「奈用竹乃騰遠依子等。これは釆女の全體をほめて云たる義也。女はすべてすがたたをやかにしなへたるものなればたをやかにしなへたるすがたの女と云義をなよたけのとをよるとはいひたる也。とをはたわゝなど云と同じ」といへり。考には「とをゝにしなゆる竹もて妹が姿をたとふ」といひ、略解また「とをよるはたをやかなる姿をいふ」といへり。本居宣長はこの語につきて古事記傳に「萬葉などに枝のたわむを刀袁余流とも云」(卷五)といへり。又攷證には「(上略)ここの騰遠依のとをも女のすがたのなよゝかにたわみたるをいへる也。すべて女はなよゝかにしなやかなるをよしとする事腰細のすがるをとめなどつゞく(637)るにても思ふべし。依はより靡意」といへり。古義はまた「騰遠は(中略)多用多和と撓む貌を云言にて撓み依なびく子をいふことにて容貌のしなやかになよゝかなるよしなり」といへり。以上の諸説略一致する所ありていづれも女の姿のしなやかなる由を形容する語とせり。然るに、この「とをよる」といふ語は上にあげたる「十縁皇子」又「安治村十依海」などの例あれば、その語の本意は女の姿の形容を主とせるにあらぬは明かなり。按ずるに、この語は「とを」と「よる」との合成せしものなるべきが、「とを」は卷八「一五九五」に「秋芽子乃枝毛十尾二降露乃《アキハギノエダモトヲヲニオクツユノ》」又卷十「一八九六」に「爲垂柳十緒《ダリヤナギノトヲヲニモ》」「二三一五」に「白杜※[木+戈]枝母等乎乎爾雪落者《シシラカシノエダモトヲヲニユキフレバ》」とある「とをを」といふ語は「とをとを」を約略して「とをゝ」といへるものにして、もと「とをを」を疊ねたりと考へらるるなり。而してその「とをを」は「たわたわ」と同意なるべきは上の卷十「二三一五」の歌の左注「或云枝毛多和多和」と注せるにても知らるべし。即ちこれは「たわ」も「とを」も母韻の轉じたるにて撓むさまをいへる語とおぼゆ。されば、これは「撓みよる」といふ程の意なる語なるべし。然るときに、かの「あぢむらのとをよる海」とは如何なる義ぞと、いふに、古義に誤字説を唱へたるを排して新考に「海上に浮べるあぢの村鳥の浪風にすまはずして一方に靡き寄る事とすればトヲヨルにて通ぜざるにあらず」といへる如き意なるべし。かくて上の三例を通覽して今の「とをよる」といふ語を考ふるに、ここにてはまさにたわみよるといふ如き意にしてこの一語のみにては美人の形容といはむよりは腰のまがれる老婆の形容に近しといふべきさまなり。然るに從來の説明は「なよ竹の」を「とをよる」の枕詞として、意を解し得たりとせるは如何なる意ぞ。惟ふに、これはその形容の主(638)眼點が「なよ竹」に存することは明かならずや。即ちなよ竹の如きしなやかなる姿したる女といふ義なれば、「なよ竹の」は主格にして、如きの意は「なよ竹のとをよる」より「子等」に接するその連體格として立つ爲に成立するものたるや明かなり。而してそれと同じく王の「秋山のしたぶる妹」も「秋山の紅葉のしたぶる」如き妹といふことにして「秋山の、紅葉」がその形容の本體たるべきなり。「子等」の「子」は男にもあれ女にもあれその人をさして親みいへる語なること卷一「一」の下にいへるが、ここはかの釆女をさす。「等」は「ら」といふ音の借字にしてその「ら」はただ音調をそふるに止まりて、多數をいふにあらず。その用例は卷十「二〇七〇」に「君待夜等者不明毛有寐鹿《キミマツヨラハアケズモアラヌカ》」卷十二「三二二〇」に「君待夜等者左夜深來《キミマツヨラハサヨフケニケリ》」又卷十四「三四八四」に「安左乎良乎遠家爾布須左爾宇麻受登毛《アサヲラヲヲケニフスサニウマズトトモ》」などいへるにて知るべし。以上四句、二句づつ相對して、かの釆女をほめていへるなり。
○何方爾 舊訓「イカサマニ」とよみたるが、※[手偏+君]解に「イツカタニ」とよめり。「何方」を−「イカサマ」とよむことは卷一「二九」の下、卷二「一六七」の下にいへり。
○念居可 舊訓「オモヒヲリテカ」とよみたるが、略解に「オモヒヲレカ」とよみ攷證は「オモヒテヲレカ」とよみたり。古義には「オモヒマセカ」とよむべしといひたり。さて「居」の字は「マセ」とよむべき字にあらず、又ここは「マセ」といふ敬語を必ず用ゐるべしといふべき所にあらねば古義の説は從ふべからず。「オモヒヲリテカ」とよむときは、下につづく所なければこの訓は從ふべからず。されば、「オモヒヲレカ」「オモヒテヲレカ」の二者の中いづれかに從ふべきが、その義は同じけれど、六音と七音との差あるなり。さてここは六音に必ずよむべしといふ事なければ攷證の(639)如く「オモヒテヲレカ」に從ふを穩かなりとす。その意をば「いかさまに思ひをればか、かく失つらん夫のなげくらんといふ意をふくめたり」と攷證にいへり。されど、これは下の「栲なはの長き命をすぎにし」といふことにかゝれるものにして直下に略語あるにあらず。
○栲紲之 舊訓「タクナハノ」とよめるが、考に「タクヅヌノ」とよめり。「栲」の字は卷一「七九」の「栲の穗」の下にいへるが、その「栲」といふ字、本は「タク」といふ木にあつべきものなるが、日本紀仲哀卷に「栲衾新羅國」といふと同じ語をば萬葉卷十五「三五八七」には「多久夫須麻新羅」とかけり。その栲といふは楮の類なるべきこと既にいへり。「紲」字は説文に「系也」と注せるが、玉篇には「馬※[革+橿の旁]也、凡繋※[糸+累]牛馬皆曰紲」と見えたり。國語には類聚名義抄に「ナハ」の訓あり、又「ツナク」の訓あり。されば「ツヌ」といふも無理なる訓にあらずといふべし。然るに「タクヅヌノ」といへる枕詞の例を見るに、古事記上卷なるには「多久豆怒能斯路岐陀牟岐《タクツヌノシロキタムキ》」(二あり)本集には卷三「四六〇」に「栲角乃新羅國《タクツヌノシラキノク》」卷二十「四四〇八」に「多久頭怒能之良比氣乃宇倍由《タクツヌノシラヒケノウヘユ》」いづれも「白き」由にいへるのみにて「長き」由の語は一も見えず。さて「タクナハノ」の方は如何といふに、日本紀卷二に「千尋栲繩」といふ語あり、本集卷四「七〇四」に「栲繩之永命乎欲苦波《タクナハノナガキイノチヲホシケクハ》」卷五「九〇二」に「栲繩能千尋爾母何等慕久良志都《タクナハノチヒロニモガトネガヒクラシツ》」などいづれも長き由をいへれば、ここは「タクナハ」なるべきなり。その「タクナハ」とは「タク」の繊維にて綯へる繩なるべくして、色白きが故に「シロシ」の枕詞とし、又これを以て永き事のたとへにしたりと見ゆ。
○長命乎 「ナガキイノチヲ」とよむ。行末長き命をといふ義なるべし。さればこの釆女はうら(640)若くして死にしなり。さてこれより下の句につづきゆく状態異樣なれば、香川景樹は「なかき命をの次に一二句おちたる也」といひ、新考には「イノチヲといひさして之を受くる辭なし」といへり。されど、こはさることにあらずして、「露己曾婆」以下二十句を隔てて「時不在過去子等」といふにつづくる格なり。即ち「その行末長き命をいかさまにおもひたればか時ならず死せしぞ」といふ意なることは明かなるをや。ただし以下の句法も頗る錯綜したれば心を鎭めて熟視せずば、正しき理解は得がたからむ。
○露己曾婆 「ツユコソハ」とよむ。「婆」はここに清音によめり。以下八句はこの采女の短命なるを嘆く意を露と霧とをあげて説けるなり。
○朝爾置而 「アシタニオキテ」とよむ。意明かなり。
○夕者 舊訓「ユフベニハ」とあるを古義に「ユフベハ」とよめり。されど卷一「三」には「朝庭」「夕庭」とかき、卷三「四八一」には「朝庭」「夕爾波」とかき、卷十三「三二二一」には「朝爾波白露置夕爾波霞多奈妣久《アシタニハシラツユオキユフベニハカスミタナビク》」「三二七四」及「三三二九」には「朝庭」「夕庭」卷十九「四二〇九」に「安志太爾波」「由布敝爾波」とあり。而して「アシタハ」「ユフベハ」とよめるは七音の句中なるにはあれど、かくよみて四音一句とすべきものは例證なし。ただ卷九「一六二九」に「旦者《アシタニハ》、庭爾出立《ニハニイデタチ》、夕者《ユフベニハ》、床打拂《トコウチハラヒ》」卷十三「三三二六」に「朝者《アシタニハ》、召而使《メシテツカハシ》、夕者召而使《ユフベニハメシテツカハシ》」とあるものぞここと同じ書きざまなれど、それも古來「アシタニハ」「ユフベニハ」とよみ來て、「アシタハ」「ユフベハ」とよむべしといふ證にはならず。加之「者」字を「ニハ」とよむことは卷一「二九」の「夷者雖有」「四七」の「荒野者雖有」以下その例甚だ多くして一々枚擧すべからず。これにより(641)て古義の説の根據なく從ふべからぬを見るべし。
○消等言 舊訓「キエヌトイヘ」とよみたるを考には「ケヌルトイヘ」と同じく六音によみ、略解には「キユトイヘ」と五音によめり。按ずるにここは「消ユル」ことをいふに止まれば、略解によめるが如くにすべきなり。これは元來五言二句の形式をとれるものにしてかかる例は他にもあり。卷六「九七三」に「天皇朕宇頭乃御手以《スメラアガウヅノミテモチ》、掻撫曾《カキナデゾ》、禰宜賜《ネキタマフ》、打撫曾《ウチナデソ》、禰宜賜《ネギタマフ》」の如し。さてこの「言」を「イヘ」とよむは上に「露己曾」といひて己曾の係辭あるに對せるなるが、これは、普通にいふ係結と趣異なる如くに見ゆ。そは普通には露が主體にしてそれに對して「消ゆ」といへるなれば、その「こそ」に對しては「消ゆれ」といひて結ぶべきが如くなれど、係詞はただ陳述に關係を有するのみにしてその主格と述格との關係を必ず結合すべしとは限らねばかかる異例も起れるなり。これらはもとより普通の例にあらねど、さりとて誤とはいふべからず、例外の一格と見るべきものなり。後世の歌などにもかゝる例あり。而してかゝることは專ら「と」助詞にてつづくる場合に限られたり。
○霧己曾婆 「キリコソハ」とよむ。これも意明かなり。
○夕立而 「ユフベニタチテ」とよむ。露に「オク」といひ、霧に「タツ」といへるは古より今に至るまで同じ。
○明者 舊訓「アシタニハ」とよみたるを上の「ユフベニハ」と同じく古義に「アタシハ」とよめり。されど、上の「ユフベニハ」の條にいへる如く、古義の説は從ふべからず。「明」字を「アシタ」とよむこと(642)は「明旦」の義なり。
○失等言 舊訓に「ウセヌトイヘ」とよみたるを略解に「ウストイヘ」とよめり。今略解に從ふこと上にいへるに同じ。以上八句は攷證に「露こそは朝おきても夕べはきえぬといへ、霧こそは夕へに立ちても明ぬれば、うせぬといへ、されども人はさはあらざるものをといふ意也」といへり。誠にこの言の如くにして、この八句はかの采女のはかなくなれるが、露霜の忽ち消失せぬるが如きを下に嘆く心ありてその死を惜む情を言外にあらはせりと見ゆ。而してこの八句はこの前の句とは直接の脈絡なくして註釋的に挿入せるさまなれば、括弧を以て先づとりわけおくべき性質を有す。かくてこれより次の句にうつるにも一の飛躍あり。その間に「然るに」又は「然れども」といふ如き意を介してはじめて意通ずる所あるなり。
○梓弓 「アヅサユミ」とよむ。「梓」にてつくれる弓なることいふまでもなし。「オト」の枕詞とせることは上(二〇七)の歌におなじ。
○音聞吾母 「オトキクワレモ」とよむ。音にききたる吾もといふことにして、その音とは、采女の死にたりといふうはさをよそに聞きたる吾もといへるなり。この「も」は下にいへる「其嬬子」に對して吾さへ悔しきにてその夫は如何ならむといふ情をこめてあらかじめいへるなり。
○髣髴見之、舊訓「ホノニミシ」とよみたるを、考に「オホニミシ」とよみたるが、その理由として「反歌に於保爾云々と有、即この訓也」といへり。略解は「ホノミシ」と四音によみたれど、注に於いて考にしたがへり。さて、ここは考の説によるべきなり。「オホニミル」といふ語の例はこの外卷三(643)「四七六」に「吾王天所知牟登不思者於保爾曾見溪流《ワガオホキミアメシラサムトオモハネバオホニゾミケル》云々」卷七「一二五二」に「人社者意保爾毛言目《ヒトコソハオホニモイハメ》」卷七「一三三三」に「佐保山乎於凡爾見之鹿跡今見者山夏香思母風吹莫動《サホヤマヲオホニミシカドイマミレバヤマナツカシモカゼフクナユメ》」卷十四「三五三九」に「於能我乎遠於保爾奈於毛比曾《オノガヲエオオホニナオモヒソ》」などあり。さてその「オホニ」といふ語は「オボツカナシ」「オボロ」「オボロゲ」「オホロカ」「オボメク」の「オホ」なれば、髣髴の字義にあたれりとすべし。「ホノニミシ」は不十分に見しにて見は見たれど十分に見ざりしことをいへるなり。
○事悔敷乎 「コトクヤシキヲ」とよむ。この「ヲ」は「ものを」の意にして吾が采女の生きてありしほど、おほよそに見すぐしたる事の今となりては悔しく思はるるをましてその夫たる人は如何ならむかと下の句を導き出せるなり。
○布栲乃 「シキタヘノ」とよむ。「布」は「シク」なり。「栲」を「タヘ」とよむことは卷一「七九」の「栲乃穗」の下にいへり。又「シキタヘ」といふ語は枕詞にあらずして夜の衣の事なる由は卷一「七二」の「敷妙」の下にいへるが、かくてこれは下の手枕を導けるなり。
○手枕纏而 「タマクラマキテ」とよむ。「タマクラ」は手を枕とするものにして、卷十七「三九七八」に「加弊利爾太仁母宇知由吉底妹我多麻久良佐之加倍底禰天蒙許萬思乎《カヘリニダニモウチユキテイモガタマクラサシカヘテネテモコマシヲ》」とあり。「マキテ」は枕とすることなり。この語の例は古事記下卷の歌に「多麻傳佐斯麻岐《タマデサシマキ》」又この卷「二二二」に「奧波來依荒磯乎色妙乃枕等卷而奈世流君香聞《オキツナミキヨルキヨルアリソヲシキタヘノマクラトマキテナセルキミカモ》」卷四「六三六」に「余衣形見爾奉布細之枕不離卷而左宿座《ワガコロモカタミニマタスシキタヘノマクラカラサズマキテサネマセ》」ともあり。即ち釆女が手を枕としての意なり。
○劍刀 「ツルギタチ」とよむ。刀劍の最も重んずべきは身なれば「み」の枕詞とせること上(一九四)(644)にいへるにおなじ。
○身二副寢價牟 「ミニソヘネケム」とよむ。「價」はその呉音「ケ」をとりて假名に用ゐたるなり。共に率寢けむ夫とつづくるなり。
○若草 「ワカクサノ」とよむ。「ノ」字なけれど加へてよむは例多し。この語上の「一五三」に例あり。
○其嬬子者 「ソノツマノコハ」とよむ。「嬬」は妻の義なるを夫の義の「ツマ」に用ゐたるなり。「コ」は親みてその夫をさせるなり。卷十「二〇八九」に「稚草乃妻手枕迹大船乃思憑而榜來等六其夫乃子我《ワカクサノツマラテマカムトオホブネノオモヒタノミテコギクラムソノツマノコガ》」卷十八「四一〇六」に「波之吉余之曾能都末能古等《ハシキヨシソノツマノコト》」など同じ語の例なり。「その」は夫それ自身をさせるなり。さてここに采女に夫のある事をいへるを見れば、この吉備(ノ)津(ノ)采女は現職の釆女にあらずして前の采女たりしものなるべし。現職の采女にして夫ある筈はあるべからぬ事なり。なほこの事に關聯して短歌にいふべき事あり。
○不怜彌可 舊訓「サビシミカ」とよみたるを考に「サブシミカ」と改めたり。「サブシ」も「サビシ」も同じ語なるが、古は「サブシ」とのみいひ「サビシ」とはいはざりけりと見えて「サビシ」と假名にてかける例一も存せず。「サブシ」の語は卷一「二九」に「或云見有左夫思母」とある條にもいへるが、その他の例を少しくあげむに、卷四「四八六」に「吾者左夫思母《アレハサブシモ》」卷五「七九五」に「都麻夜佐夫斯久於母保由倍斯母《ツマヤサプシクオモホユベシモ》」卷十七「三九六二」に「思多呉非爾伊都可聞許武等麻多須良武情左夫之苦《シタゴヒニイツカモコムトマタスラムココロサブシク》」などあり。その「さぶし」の語幹を「み」にてうけたるにて「さびしく思ふ」意をあらはす語とせるなり。
○念而寐良武 「オモヒテヌラム」とよむ。「寐」は「良武」につづくる爲に終止形の「ヌ」にてよむべきな(645)り。意は明かなり。
○ この句の次に、御所本、西本願寺本、細井本、活字無訓本、及び類聚古集に「悔彌可念戀良武」の七字あり。これ「クヤシミカ、オモヒコフラム」の二句によむべきものなり。代匠記に曰はく「念而寐良武の下に、別の校本に悔みか念こふらむと云二句あり。上の語勢を以て案ずるにさひしみか念てぬらむとのみにては夫君が心を想像たるほと略にて情すくなきやうなれば、諸本に此二句脱たるか」といへり。この二句在らば、在るにて意強くなるべし。されどなくても事缺かず。本文のまゝにても在りぬべし。以上十二句は采女の死去につきて惜む情をうたへるものなるが、その前八句と共にすべて二十句は「長命乎」より「時不在過去子等」につづくべきその中間に投げ置かれたる形になれるものにして、文意を次第を推していはば、その二十句はこれらより下に在りても可なるものなるさまなるが、なほそを委しくいはば、その二十句中前八句はなほその「時不在過去子等我朝露乃如也、夕霧乃如也」の上にありて、そのはかなき死去を形容しつつ惜む情をあらはす用をなすを得るものなるが、以下の十二句は意義上全くこの「時不在過去子等」を惜む精神をうたへるものなれば、その後にあらはるるが、順序上當然たるものなり。然るにここにこの十二句あり。これ特異の句法にしてこの歌の巧妙なる構成を有する由以て見るべきなり。
○時不在 舊訓「トキナラヌ」とよみたるを代匠記に「トキナラズ」と改め、考には「トキナラデ」とせり。さて「デ」といふ打消の形は當時未だ存せざりしものと見ゆれば、考の説は從ふべからず。次に(646)「時ならぬ」とよむ時は「子等」につづくべくして意をなさず。契沖の説に從ふべし。若くして死ぬべき時とも思はれぬ時に死にたるによりていへるなり。結局は天壽を全うせずして死にたるをさせるが如く聞ゆ。この故に諸家多くは自殺ならむと疑へり。卷三に攝津國班田史生丈部龍麿自經死之時判官大伴宿禰三中作歌(四四三)に「欝蝉乃惜此世乎露霜置而往監時爾不在之天《ウツセミノヲシキコノヨヲツユシモノオキテユキケムトキナラズシテ》」とあるも似たればなり。されどここにては不慮の死といふ事は考へらるれど、自殺なりと考ふべき事情は言の上にあらはれぬなり。
○過去子等我 「スギニシコラガ」とよめり。代匠記には「スギユク」とも心に任せてよむべしといへり。されど、「スギユク」は現に死ぬるところをいひ、「スギニシ」は死にし後にいへる語なり。而してこれは他より死を傳聞せしものなるべければ、「スギニシ」とよむべきものなり。さて又古義は「我」を「香(ノ)字などの誤にや」といひ、「死(ニ)去し子等哉といふにて香は歎息(ノ)辭なり」といへり。この説いはれたる如くにて一往は從ふべく見ゆ。何となれば、「時ならず過ぎにし子等が朝露の如、夕霧の如」といひては何となく文の終末もなく見ゆるによりて過にし子等かなにて終止とし、その下二句を嘆息の餘情に發する語とする方穩なるが如くに見ゆるを以てなり。然れどもかく誤字ありといふべき證は一もなくして、熟考するに、かへりて「我」とありてこそ文意も句法も巧妙なりと思はるるものにして、決して誤にあらぬなり。そは如何といふに、これを「我」とするときは、この、時ならず過ぎにし子等は主格となりてその果敢なく失せしことを下に朝露の如、夕霧の如と比喩にていへるにかかりて文勢せまり、感情をよくあらはせるをや。この故に(647)こはこのままにて巧妙なる構成によれるものといふべし。
○朝露乃如也 舊訓「アサツユノゴトヤ」とよみたるが玉の小琴には次の如くいへり。「如也はごとと訓べし。也の字は焉の字などの如く只添て書るのみ也。ごとやと訓てはや文字調はず。さて此終りの四句は子等が露のごと夕霧のごと時ならず過ぬると次第する意、如此見ざれは語調はざる也。さて朝露夕霧は上に云置たる露と霧とを結べる物也」と。攷證はこれに反對して「也もじはごとくやなどいふにて嘆息の意のや也」といへり。さてこの卷一、二にはかかる漢字の助字を歌中にそのまま用ゐたる例を他に見ねど、他の卷には往々例あること玉の小琴にいへるが如し。たとへば、卷三「四一四」の「菅根乎引者難三等標耳曾結《スガノネヲヒカバカタミトシメノミゾユフ》焉〔右◎〕」の「焉」卷四「六二三」の「黄葉乃過哉君之不相夜多鳥《モミチハノスキヌヤキミガアハヌヨオホケム》」の「烏」は「焉」の誤なるべく、卷四「七三六」の「夕占問足卜乎曾爲之行乎欲《ユフケトヒアシウラッヲゾセシユカマクヲホリ》焉〔右◎〕」の「焉」卷七「一〇九〇」の「今日之※[雨/脉]沐爾吾共所沾《ケフノコサメニワレサヘヌレナ》者〔右◎〕」の「者」」「一一〇二」の「細谷川之音乃清《ホソタガハノオトノサヤケサ》也〔右◎〕」の「也」卷八「一四四二」の「後居而春菜採兒乎見之悲《ヲクレヰテワカナツムコヲミルガカナシサ》也〔右◎〕」の「也」「一五三六」の「隱野乃芽子者散去寸紅葉早續《ナバリヌノハキハチリニキモミヂハヤツゲ》也〔右◎〕」の「也」などこれなり。今これらに准じて本居説をよしとす。
○夕霧乃如也 上の説によりて「ユフギリノゴト」とよむべし。
○一首の意 この歌句法綜錯交雜して目もあやなれば、之を解するに深く注意せずば妙味を味ふことを得ずしてかへりて不可解に陷らむ。試に次にいふ如く屡順序をかへ、又もとにもどりて見るべし。紅顔の美人、嫋々たる佳人たるわが吉備の津の采女は如何に思ひたる事にか、行末長かるべき命をば不慮に過ぎ去りにしことぞや。露こそは朝に置きて夕に消ゆるもの(648)なりと信ぜられてあれ、霧こそは夕に立ちて朝に失するものなりと世に信ぜられてをれ、人生は如何にはかなしとてもさるものにあらぬをば如何にして、わが采女は朝露の夕に消ゆるが如く、夕霧の朝に失ゆるが如くはかなく失せたる事ぞや。あはれわれは采女の生前ほのかに見たる事ありしが、今その訃音を聞いて誠にあはれに惜しき事したり、何故に十分に見ずしてありしかと後悔すれども甲斐なきに歎きもあへず。かく、その死を傳聞するに止まるわれさへかく歎かしく思ふものを親しく共に手を携はり睦びあひしその夫の君は如何なる思に住すらむ。思ひやるだに心苦しきことなるぞや。あはれ朝露の如く夕霧の如くにして不慮に身まかりし采女の子はや。上の如く大小の環を連ねたる如く屡循環して説かずしてはその意を理解すべくもあらぬなり。その巧妙なる結構に於いてはかの卷一の藤原宮役民作歌に似て更に一段の巧を加へたり。技巧の極ここに達せるか、はた天來の妙音おのづからこれを爲せるか、われ未だこれを判するを得す。人麿作歌中巧妙なるものの一なりといふべし。
 
短歌二首
 
○「短歌」の字拾穗抄に「反歌」に作る。又「二首」の字細井本、活字無訓本になし。
 
218 樂浪之《ササナミノ》、忘我津子等何《シガツノコラガ》、【一云志我津之子我】罷道之《マカリヂノ》、川瀬道《カハセノミチヲ》、見者不怜毛《ミレバサブシモ》。
 
○樂浪之 「ササナミノ」とよむ。この字面の事は卷一「二九」の下にいへり。枕詞にあらずして「サ(649)サナミ」は既にいへる如く近江國内の一地方の名稱にして、今の滋賀郡より高島郡に亘り、湖西一帶の地をさせるが如し。
○志我津子等何 舊板本訓をつけず。類聚古集、西本願寺本、細井本、温故堂本等に「シカツノコラカ」の訓をつけたり。又神田本には「シカツノコラカ」京都大學本に「シカツコラカ」といふ假名をつけたり。按ずるに、これは「シカツ」を一語にして「シガツノコラガ」とよむべきなり。「シガツ」の事は卷七「一二五三」に「神樂浪之思我津乃白水郎者《ササナミノシガツノアマハ》」又「一三九八」に「神樂聲浪乃四賀津乃浦能《ササナミノシガツノウラノ》」とあり。これは近江國滋賀郡の津の事なるが、その津といふは、大津をさせるならむ。「子等」は前にいへる「騰遠依子等」「過去子等」の「子等」におなじくかの采女をさせり。「何」は「ガ」の假名に用ゐたり。さてここにかの采女をば「志我津の子」といへるは何故ぞ。契沖は代匠記の初稿に「津の子といはんためにさゝ浪のしがとはいへり。これにつきて不審あり。以下の歌にもおほしつのことよめり。長歌に、わか草のそのつまのこといへるは凡直氏などにて名を津の子といひけるか。又吉備津采女が氏凡直にて名を吉備津といひければ上の吉備を略して津子といへるか」といひたるが、その清撰には單に「采女が名の津の子をいはむとてさゝ浪のしかとは云出せり。」といへり。童蒙抄には「此しか津子とよみ出したるは貢る采女の近江のしがつに居て朝勤をしたりと見えたり」といへり。その他の諸家は、吉備津を「志我津」の誤とする假説によれるものなれば論の外なり。さて代匠記の説はその主眼とするところは吉備の津の采女の「津」といふことを導かむが爲に、この歌に「ささ浪のしが」といへりとする説なるが、かゝるいひ方は本集に(650)例なきにあらず。たとへば、卷三「二六四」に「物乃部能八十氏河乃云々」卷十一「二七一四」に「物部乃八十氏河之云々」といひて「ウヂガハ」を導き、などする倒によりてかゝる事なしとは斷言すべからず。されば、その點はありうべき事とせむに、ここに「志賀津」といひ、次に「凡津」といへるは語こそちがへ、いづれもさす所は一なれば、この采女に何等かの縁故ありし所ならずや。若し縁故ある所とせば、必ずしも「津」を導く料としていひしにあらざるにはあらぬか。童蒙抄は先にもいへる如く、この采女の近江のしがつに居たる由に見たるが、拾穗抄にもしかいへり。しかれども、この歌は藤原朝時代のものと見ゆれば、近江の志賀津に住みて、藤原宮に通ひて奉仕せむことあるべくもあらず。されば、上の二家の説は從ひがたし。按ずるに、この女には長歌に見ゆる如く夫あれば、現在の采女にあらずして前采女なるべきは既に論ぜしところなり。されば、その夫たる人の家が、近江の滋賀津に在りしなるべく思はる。而してその前采女を妻にもてるは世人の耳目を聳動せしものにして名の世に聞えたりしものなるべきなり。何となれば、采女に夫あること既に前采女たることを語り、又吉備出身の采女は直ちに志賀津凡津といふべきいはれなき事なれば、これはその夫たる人の住所か、又は夫をもちての後の住所なるべきなり。若し果して余が按の如くならば、その「津の采女」といはむ爲といふ説は必要なきに至らむ。
○一云志我津之子我 これは上の一句につきての異説あるをあげたるなり。これは「シガツノコガ」とよむべくして本文に「子ら」とあるを「コガ」とせる點が異説たりと兒ゆ。然るに類聚古集、(651)古葉略類聚抄、西本願寺本、神田本には「志我乃津之子我」とありといふ。攷證などはこれをよしとせり。されど、いづれにしても大差なければ本文のまゝにて在りなむ。
○罷道之 舊板本「ユクミチノ」とよめり。古葉略類聚鈔、京都大學本には「マカリチノ」といふ旁訓を施せり。拾遺集にこの歌を收めたるが、それには「さゝ浪や志賀のてこらがまかりにしかはせの道を見ればかなしも」と改作せり。童蒙抄には「まかりぢの」とよみて「采女朝勤の年限はてゝ吉備津に歸へる道の事を云ひたる義と見えたり」といへり。考も亦「マカリヂ」とよみたるが、玉の小琴には「道は邇の誤なるべし。爰はまかりぢにてはわろし」といひたれど、理由を示さず。檜嬬手、古義、新考等これに從へり。按ずるに、罷字は國語呉語に「遠者罷而未至」といふ下に注して「罷歸也」とありて、通常「マカル」とよむ字にて(色葉字類抄にもある如く)「ユク」とよむは古來例なきことなれば從ふべからず。「マカル」といふ語は辭し去る意をあらはすものにして、本集中に、卷三「三三七」に「億良等者今者將罷子將哭《オクララハイマハマカラムコナクラム》云々」卷五「八九四」に「唐能遠境爾都加播佐禮麻加利伊麻勢《モロコシノトホキサカヒニツカハサレマカリイマセ》」又卷十五「三七二五」に「和我世故之氣太之麻可良婆思漏多倍乃蘇低乎布良左禰《ワガセコガケダシマカラバシロタヘノソデヲフラサネ》」などあり。その「まかる」は「身まかる」などの例にてしるき如く死去する意にも用ゐたり。これらの意は「マカリヂ」とよみたりとも「マカリニシ」とよみたりとも變ぜざるべきなり。さて本居説の誤字如何といふに古來ここに誤字ありといふ證は一も存せず。加之本居説はその理由を示さざるが、攷證にもいへる如く「マカリヂ」にてもよく聞ゆるにあらずや。さて又「マカリヂ」といへる語は續日本紀卷卅一に左大臣藤原永手の薨去を悼ませたまへる宣命(五一)に「美麻之大臣罷道(652)宇之呂輕意太比罷止富良須倍之止詔大命宣」とあり。かく、「マカリヂ」といふ語の例存する上に、「マカリチノカハセノミチ」といふ語法は必ず「マカリヂ」とよますべきことを吾人に告ぐるなり。何となれば、「ノ」といふ助詞は同じ趣の語を重ね示す用をなすものにして「罷道〔右○〕」と「川瀬道〔右○〕」とが、大略に於いて同じ意を示す語なるが故に「ノ」にて重ね示すことは既に上の「一六七」の條中にいへる所なれば、今再び例をあげず。されば、これは必ず「マカリヂノ」とよむべき所なること明かなりとす。さてこの「マカリヂ」といふ語の意如何といふに、童蒙抄は上に引ける如く、任はてて吉備津に歸る義とせり。又考は葬送の事とし、略解、古義等これに從へり。さてここの罷道も、かの宣命の罷道も元來同じ語なるべきによりて考ふるに、宣命の罷道は俗にいふ死出の旅の道の義なることは下に「平久幸久罷止富良須倍之」とあるにても明かなり。されば、ここも采女の死出の旅の道なるべきが、その道は下に、川瀬道とあれば、この現世に存する道路なり。この道路を通りて死の旅をする由に聞ゆれば、ここはその葬送の道をばたとへていへるものなるべきなり。この事なほ下にいふべし。
○川瀬道 「カハセノミチヲ」とよめり。「ヲ」の助詞なけれど、下の「見る」の補格なること著しければ、これを補ひよむべきなり。この道は如何なることを示すかと考ふるに契沖は「川瀬の道は身を投むとて行しを云なるべし」といへり。然る時は上の「罷道」に対しての用法としては吻合せず、本居流の「罷爾之」とせば、その川瀬に身を投げしことともいひうべけむ。されど、然いふべからねば、「罷道」即ち「川瀬道」なるべければ、契沖説は從ふべからず。然らば「川瀬道」とはいかなる道(653)かといふに、諸家これを説けるもの殆ど見えぬが、新考に「川瀬を渡りてゆく道なり」といへるをよしとす。その川を渡り行く道はいづこなりけむ、今より知るべからねど、その葬地に行くに川瀬を歩渡りして行けることは想像せらる。
○見者不怜毛 舊訓「ミレバサビシモ」とよみたり。類聚古集神田本には「ミレバカナシモ」の訓あり。童蒙抄には「カナシモ」とよむべきをいひ、考には「サブシモ」とよませたるが、爾來諸家みな考の説に從へり。この「不怜」のよみ方につきては上の長歌の「不怜彌可」の下にいへる如く、古は「サビシ」といふ語なく、それらは專ら「サブシ」といひたるなれば、考の説をよしとす。
○一首の意 さゝ浪の滋賀津に住めるわが、采女が身まかりて葬られ行く所は、川瀬を渡り行くべきさひしき所なれば、その事を見、その事を思ふに、いかにも心すさまじくなぐさめがたしとなり。
 
219 天數《アマカゾフ》、凡津子之《オホシツノコガ》、相日《アヒシヒニ》、於保爾見數者《オホニミシカバ》、今叙悔《イマゾクヤシキ》。
 
○天敷 舊板本「アマカソフ」とよみたるが、代匠記に「アメノカズ」とよみ、童蒙抄は「アマツカズ」とよみ、考には「ソラカゾフ」とよみたり。古義には「天」字を「左々」か「樂」かの誤として「數」を「ナミ」とよみて「ササナミノ」とよませたり。又檜嬬手は「佛説の天數にて兜率の三十三天を思へるなるべし。さらば三三並ぶ意にて三三並《ササナミ》とよまする義訓とすべし」といへり。然るに、ここに古來誤字なければ、古義の説は從ふべからず。檜嬬手の説は極端なる附曾説と評するの外なし。されば(654)「天數」の文字のままよむべきが、それには上の三説共に行はるべき道理あれば、いづれも、無理とはいふべからず。されば、それらの諸説につきて、その意を考へて訓を考ふべし。先づ「ソラカゾフ」といふ訓は考の説なるが、そは「物をさだかにせで、凡にそら量りをするをそら數へといふを、以て大津の大を凡の意にとりなして冠らせたり」といふにあり。この説は古義に大《イミシキ》誤なりとて「そもそも、蘇良と云言は古(ヘ)は蒼天《オホソラ》をのみ云ことにて暗推に物することを蘇良某と云しことは一(ツ)もあることなし。そら誦そら言など云類の蘇良《ソラ》は古(ヘ)は牟那《ムナ》とのみ云しをや。云々」といへる如く、古語にはなきことなり。されば、「ソラ」とよまむにもその意は疎空虚儀の意にあらずして實際の天の義なるべし。然らば「アメ」又「アマ」とよみてあらむ方穩なるべし。さては舊訓の「アマカゾフ」か、代匠記の「アメノカズ」か、「アマツカズ」かのいづれによるべきか。しかもこれはここに一所あるのみにして他に旁例なきものなれば、最後の決定は下し難きに似たるが、三者の訓は「天」の意は異なることなりと見ゆるが、「數」をば、體言とするか、用言とするかの違あるのみなり。さて契沖は代匠記の初稿に於いて「これはおほしといはむためなり。おほしとはおほよそなり。日月の行度、星の舍次などをかぞふることはおほよそなることなればかくつゞくるなり。」といひ、清撰本に於いては「(上略)一つは一の處、二つは二の處なり。かくの如く千萬に至るまで皆天然の數にていくつといへば、津と云名にそへむとてあまかそふとは云出せるか」といへるが、いづれも理窟に走りすぎて、古代人の考へたりしこととも思はれず。童蒙抄には契沖説その他を駁してさて曰はく「天數は大なるものといふ意にて數大とうけたる詞と(655)見る也。」といへり。これも儒者の考の如くにして、本邦の古代人の考へとは思はれず。攷證は「何にまれ天なる物をかぞふるは凡なるものなれば、そらかぞふ凡とはつゞけしなり」といへり。されど、「凡」は「オホ」の語をあらはす借字なれば凡の字につきての釋はうけられず。按ずるにこれは恐らくは天の星の數の事などをいへるにあらざるか。「天」はもとより天にして星にはあらねど、上にもいへる如く、「山」といひて、それに存する草木の花紅葉までをいへる例にて推さば、天といひて天なる星をもさすことなしとすべからず。若し果して「天を以て天の星の意をも含めたりとせば、星の數は多きものなれば、これにて「オホ」の枕詞とせしものならむ。然るときにはこれは「アメノカズ」にても「アマカゾフ」にても通ぜずといふべからず。然りとせば、そのよみ方は舊來のによりて改めざるを穩なりとすべし。
○凡津子之 舊訓「オフシツノコガ」とよみ攷證之をよしとせり。代匠記には凡を「オホ」とよみ、童蒙抄は「オホツノコガ」とよみ、考これに賛せり。按ずるに「凡」は人名地名などに「凡河内」「凡人」などの如く「凡」を「オホシ」とよめるがなきにあらねど、本集に「凡」字を用ゐたるは「凡可爾」(卷六(九七四」)の如く「オホロ」とよましむるあり、又「凡爾」(卷七、「一三一二」十二「二九〇九」)「凡者」(卷十二、「二九一三」)の如く「オホヨソ」とよましむるあり、又「オホ」とのみよましむるものあれど、「オホシ」と必ず讀ましむべしと見ゆるものなし。而して「オホ」とよむべきは卷六「九六五」に「凡有者左毛右毛將爲乎《オホナラバカモカクモセムヲ》」卷十一「二五三二」に「凡者碓將見鴨黒玉乃我玄髪乎靡而將居《オホナラバラガミムトカモヌバタマノワガクロカミヲナビケテヲラム》」とあり。これによりて「オホツノコガ」とよむべし。その「凡都」即ち大津にて上の志賀津と同じ地なるべきなり。
(656)○相日 舊訓「アヒシヒヲ」とよめり。童蒙抄には「存日」の誤かといひて「アリシヒヲ」とよみ、考には「アヒシヒニ」とよめり。これは諸本に誤字なけれ童蒙抄の説は從ひ難く、下の「見る」といふ語につづけて考ふるに「相ヒシ日」を見るといふべくもあらねば、考の説によるべし。而して、その意は何か事の序ありて彼の采女に相ひし事ありしを思ひ出し、「その時に」といふ意なり。
○於保爾見敷者 「オホニミシカバ」とよむ。「敷」は「シク」の未然形の「シカ」をかりて複語尾の「シカ」にあてたるなり。「オホ」は長歌に「髣髴」とかける意にして、上の「オホツノコ」はこの「オホ」を導かむ爲に意識して「シガツノコ」といふと同義の語を用ゐしならむ。十分に見ざりしかばといふ意なり。
○今叙悔 「イマゾクヤシキ」とよむ。「叙」は係助詞「ゾ」にして、その結として「悔」を連體形によめり。
○一首の意 われかつて事の次にかの采女に面會せしことありしが、その時はただおほよそに見過したりしことを思へば、悔しき事よ。その時は末長き人と思ひたればいづれまた、心のどかに相語らはむなど思ひつゝありて油斷して、かく遂に死なむとは思はざりしものを。さても殘多きことよとなり。
 
讃岐狹岑島視2石中死人1柿本朝臣人麿作歌一首并短歌。
 
○讃岐狹岑島 「岑」字西本願寺本、京都大學本に「峯」とす。これは「ミネ」とよむとせば、いづれにても通ずべし。考には「讃岐の下に「國」字脱せりとす。されど諸本皆この字を存せねば、もとよりな(657)きものにして、又なくとも意通ずるなり。かくて讃岐はいふまでもなく、今の讃岐國なり。狹岑は「サミネ」とよまるべきによりて多くかくよみ來れるに、代匠記には「狹岑島は那珂郡にあり。所の者サミシマと云。反歌にも佐美乃山とよまれたれば、サネとはよむまじきなり」といひてより諸家多くこれに從へり。然れども「岑」にしても「峯」にしても「ミネ」といはむは論なれけど、「ミ」とはよまるべからず。何となれば、「ミネ」といふ語の本體は「嶺《ネ》」にありて「ミ」はその「嶺《ネ》」に對する美稱なるものなればこの二字を強ひて二音にせば「サネ」とこそよまるべきものなれ、決して「サミ」とよまるべき文字にあらず。若し「サミ」と必ずよむべきならば、此の字面を用ゐざりしならむ。されば「サミネ」とよむをよしとすべし。然らば、そのサミネの島といふは何處ぞといふに反歌に「佐美乃山」とあるその地と同じきものなるべきなり。果して然りとせば、一方に「サミネ」の島といひ、一方に「サミ」の山といへるは如何。これにつきて新考に説あり。曰はく、「サミネのネは峯にてツクバをツクバネといふに齊し」と。まさにこの説の如くなるべし。「サミ」即ち島の名なるが、それを「サミネ」といひしことは、かの「ツクバネ」の例にてもしるべきが、なほこの「ネ」は「シマネ」といへる如く古く島にいへることは、卷一「六二」の「在根良し」の下にもいへるが、瀬戸内海のこの邊の島又は岩礁にていはば、平根《ヒラネ》(讃岐)赤穗根島《アカホネシマ》(伊豫)高根《カウネ》島(安藝)宿根《スクネ》島(安藝)平根《ヒラネ》(周防)などあり。これらによりて「サミ」の島も「サミネ」にしてやがて「サミネ」の島ともいひしなるべきをさとるべし。さてこの島は古くは耶珂郡にして今仲多度郡に屬し、鹽飽諸島の一なる與島《ヨシマ》に屬する砂彌《シヤミ》島なりといふ。即ち宇多津町の北方海中にある小島にして、當時の航路にあたれる地なり(658)しならむ。
○視石中死人 「イシノウチニミマカレルヒトヲミテ」とよむべきか。代匠記には「石中とは石をかまへて葬るには非ず。石の中に交るなり」といひ、攷證には「磯邊の小石などある中にありしなるべし。石窟などをいふにはあらじ」といへり。さる事なるべし。さてはこれは溺死者の流れ着きたるか、又は行旅の病者などの行き倒れ死にたるなるべし。
○柿本朝臣人麿作歌 これによれば、人麿この邊を旅行せしこと著し。
○短歌 神田本、西本願寺本、細井本、大矢本、京都大學本小字にせり。
 
220 玉藻吉《タマモヨシ》、讃岐國者《サヌキノクニハ》、國柄加《クニカラカ》、雖見不飽《ミレドモアカヌ》、神柄加《カムガラカ》、幾許貴寸《ココダタフトキ》。天地《アメツチ》、日月與共《ヒツキトトモニ》、滿將行《タリユカム》、神乃御面跡《カミノミオモト》、次來《ツギテクル》、中乃水門從《ナカノミナトユ》、船浮而《フネウケテ》、吾榜來者《ワガコギクレバ》、時風《トキツカゼ》、雲居爾吹爾《クモヰニフクニ》、奧見者《オキミレバ》、跡位浪立《シキナミタチ》、邊見者《ヘミレバ》、白浪散動《シラナミサワク》。鯨魚取《イサナトリ》、海乎恐《ウミヲカシコミ》、行船乃《ユクフネノ》、梶引折而《カヂヒキヲリテ》、彼此之《ヲチコチノ》、島者雖多《シマハオホケド》、名細之《ナグハシ》、狹岑之島乃《サミネノシマノ》、荒磯面爾《アリソモニ》、廬作而見者《イホリシテミレバ》、浪音乃《ナミノトノ》、茂濱邊乎《シゲキハマベヲ》、敷妙乃《シキタヘノ》、枕爾爲而《マクラニナシテ》、荒床《アラドコト》、自伏君之《ヨリフスキミガ》、家知者《イヘシラバ》、往而毛將告《ユキテモツゲム》、妻知者《ツマシラバ》、來毛問益乎《キテモトハマシヲ》、玉桙之《タマホコノ》、道太爾不知《ミチダニシラズ》、欝悒久《オホホシク》、待加戀良武《マチカコフラム》、愛伎妻等者《ハシキツマラハ》。
 
(659)○玉藻吉吉 舊本「タマモヨキ」とよめるを代匠記に「タマモヨシ」とよめり。これは讃岐の枕詞なりと古來認められ、それにつきては誰人も異論なけれど、これがよみ方につきては上の如く二説あり、又その意義につきては種々の説あり。然るにこの枕詞は古典にはこの所に一あるのみなれば他より證をとりて論ずる便宜なし。さて、これを枕詞として先よみ方を考ふるにこの「吉」を用言として見る時に於いても終止形をとりて「よし」とよむべきなり。さて他の「在根良」「朝毛吉「青丹吉」「大魚よし」「眞菅吉」などの例によらば、「よし」は「よ」といふに意異ならずして「玉藻よ」といふにおなじとすべし。而して、恐らくはその「玉藻よ」の意なるべし。これは先然りとして、その「玉藻」の語は如何といふに、「玉」は古に多き美稱にして、「藻」が本體なるべきが、その文によれば植物の藻をさせりとすべきが如し。或は「裳」の借字とも考へられざるにあらず。今藻として考ふるに、「玉藻よ讃岐」とつゞくべき由を知らず。この故に「よし」といふ用言の義として讃岐の國は海藻のいとよき國なればなりといふ説あり。されど延喜式主計式に讃岐の中男作物として「海藻」の目あり、阿波伊豫には中男作物中に海藻三種あれど民部省式を見るに、阿波伊豫などにはそれぞれ海藻の産あれど、讃岐には一もその名を載せず。これによらば特に「藻」のよき故といふ説は必ずしもよるべからぬものなり。又弘法大師の三教指歸には讃岐をさして「玉藻所歸之島」と見ゆるによれば、「よし」は「依す」の義かと考ふるに、こは後のものにして萬葉集の根據とするに足らず。又「玉裳」といふ説もあれど、これも又「サヌキ」といふにつゞく理由をしらず。今はただ「吉」を他の例に倣ひて「よし」とよみて、さてその意はすべて未詳として後の考をまつべ(660)きなり。
○讃岐國者 「サヌキノクニハ」なり。この國の名は古事記に「次生2伊豫之二名島1、此島者身一而有2面四1、毎v面有v名、……讃岐國謂2飯依比古1」と見えたるにて古くよりの名なるを知る。
○國柄加 「クニカラカ」とよむ。かくのごとき「から」といふ語の例は卷三「三一五」に「芳野乃宮者山可良志貴有師《ヨシヌノミヤハヤマカラシタフトカルラシ》、水可良思清有師《カハカラシサヤケカルラシ》云々」卷六「九〇七」に「蜻蛉乃宮者神柄香貴將有《アキツノミヤハカムガラカタフトカルラム》、國柄鹿見欲將有《クニカラカミガホシカラム》云々」などあり。考には「國がらのからは隨のなを略きたる言にて上に出たる神隨《カンナガラ》のながらにおなじくて國のよろしきまゝか國つ神の御心よりかく宜きかと云々」といへり。古義には之を否定して柄は故の意なりとし「國柄加はすぐれたる國ゆへにかといふ意なり」といへり。攷證も略同意にて「この言は上に詞を添て、のよき故に、のわろき故にと云意の語なり」といへり。而して近頃の學者多くこれに賛同せり。然るに、卷十三「三二〇五」に「蜻島倭之國者神柄跡言擧不爲國《アキツシマヤマトノクニハカムガラトコトアゲセヌクニ》」とあるに同じ趣なる語を同卷「三二五三」に「葦原水穗國者神在隨事擧不爲國《アシハラノミヅホノクニハカムナガラコトアゲセヌクニ》」といへり。これによれば、「カムカラト」といへると「カムナガラ」といへるとは語は異なりとしてもその意は同じに歸するを見るべし。而して「カムカラト」は「カムカラ」に基づきその、「カムカラ」は「神」と「カラ」とに基づくものにして、「カムナガラ」は「神」と「ナガラ」とに分つべく「ナガラ」は「ナ」(「ノ」の意の古き助詞)と「カラ」とに分つべきものにして、結局二語とも「神」と「カラ」との結合せるものにしてその結合の方式が異なるに止まる。この故に、考に「國がらのからは隨《ナカラ》のなを略きたる言にて」といへるは賛成しうべからぬ説なれど、「神隨のなからにおなじくて」と説けることは決して否定すべからず。(661)されば、考の説を否定せる諸説はかへりて非なりといふべし。さてその意は如何といふに「カラ」はもとより「故《カラ》」といふ意なれば、諸家の説く所、結局は一に歸すべく、彼を是しこれを非するはいづれも「カラ」の眞意に觸れざるものといふべし。さて下の「カ」はいふまでもなく疑問の意の係詞なり。この「國柄か」といふ語は「讃岐國は見れども飽かぬ」といふ事の理由をいへる修飾格に立てるものにして、この讃岐國はいくら見ても飽かぬはさすが名高き國故ならむといふ程の意なりと見ゆ。
○雖見不飽 「ミレドモアカヌ」とよむ。考に「ミレドモアカズ」とよみたれど、上にある「カ」の結としては連體形の「ヌ」にて終止すべき筈なり。いくら見てもみあかぬといふ意なり。
○神柄加 舊訓「カミカラカ」とよみたるを、攷證に「カムカラカ」と改めたり。そは卷十七「三九八五」に「可牟加良夜曾許婆多敷刀伎《カムカラヤソコバタフトキ》」「四〇〇一」に「多知夜麻爾布里於家流由伎子常己奈都爾見禮等母安可受加武賀良奈良之《タチヤマヌフリオケルユキヲトコナツニミレドモアカズカムガラナラシ》」とあるにて知べく、又「カムカゼ」「カムナガラ」の例に準じて「カムガラ」とよむべし。(「カ」も上の「む」の勢にて濁りよむべきならむ。)さてここに讃岐國につきて「神から」といへるが、卷六「九〇七」「九一〇」には芳野につきて「神から」といひ、卷十三「三二五〇」には「倭之國」につきて「神からと」といひ、「三二五三」には「葦原水穗國」につきて「神ながら」といへる例にても見るべきものにして、卷十七「三九八五」は二上山につきて「かむからや」といひ「四〇〇一」には立山につきて「かむがら」といへり。これらは土地その者を直ちに神といへるものにして、かくの如きことは、上代人には普通の思想なりしなり。されば既にいへる如く、古事記上卷に「次生2伊豫之二名(662)島1此島者身一而有2面四1毎v面有v名、故伊豫國謂2愛比賣1讃岐國謂2飯依比古1云々」とありて神の生みましし國にしてその國は同時に子たる神たること著し。されば、ここの神といへるも讃岐國それ自體をさせるなり。攷證に「この讃岐の國は神の生しし故にかたふとかるらん」といへるはここの意に似たるが如くにして不十分なるものなり。即ちここの「神」は直に國の事なりとせざるべからず。而して「國からか」「神がらか」は結局同じ事を語をかへていへるに止まれり。
○幾許貴寸 舊板本「コヽハカシコキ」とよみたるが管見には幾許を「コヽタ」とよみ代匠記には「貴寸」を「タフトキ」とよみたり。按ずるに「貴寸」は「タフトキ」とよむべくして「カシコキ」とよまむは無理なるが、「幾許」を「ココバ」とよむべきか、「ココダ」とよむべきかといふに、この二語共に本集に假名書の例あり。卷五「八四四」に「伊母我陛邇由岐可母不流登彌流麻提爾許許陀母麻我不烏梅能波奈可毛《イモガヘニユキカモフルトミルマデニココダモマガフウメノハナナカモ》」卷十四「三三七三」に「左良左良爾奈仁曾許能兄乃己許太可奈之伎《サラサラニナニゾコノコノココダカナシキ》」とあるによりて「ココダ」といふ語ありしを知るべく、卷十四「三九一七」に「阿是西呂等許己呂爾能里※[氏/一]許己婆可那之家《アゼセロトココロニノリテココバカナシケ》」とあるによりて「ココバ」といふ語もありしを知るべし。さて「ココバ」は恐らくは「ココバク」といふ語の略にしてその「バク」は「バカリ」の意なるべし。又「ココダ」は後「ダ」を「ラ」として「ココラ」といへる語にして多き意をあらはせりと見ゆ。さて「幾許」の文字は今の「いくらばかり」の意の文字なるが故に「ココバ」とよむべきが如くなれど又それを以て數多の意に用ゐたるものとも見ゆれば、「ココダ」とよまむも無理ならず。ここはその疑ふ方によらずして多き方を主としていへるものと見らるれば、「ココダタフトキ」とよむ説によれり。さてこれは上の「讃岐國」を受けて、「讃岐國(663)はここだたふとき」といへるなり。「讃岐國といふ神はいみじき神なる故にか、非常に貴きことよ」となり。「貴寸」は「か」の結なることは上の「アカヌ」におなじ。以上第一段落。讃岐國を讃美せるなり。
○天地 舊板本「アメツチノ」とよみたるが、童蒙抄に「アメツチト」とよみ考に「アメツチ」と四音によめり。ここに「天地ノ」とよむときは「日月」の限定語となるべくして歌の意にあはずと考へらる。又「天地ト」とよまむは如何といふに、卷十三「三二三四」に「天地與日月共萬代爾母我」とあるは古來「アメツチトツキヒト共ニ」とよみ來れるが、それに照せば童蒙抄の説をよしとすべきに似たれど、「ト」にあたる文字なければ考の説によるべし。これは下の「月日」にただ重ねつづけたるものにして、「たり行く」といふ語を導く料とせるが、その例は卷十三「三二五八」に「霞立長春日乎天地丹思足椅《カスミタツナガキハルヒヲアメツチニオモヒタラハシ》」「三二七六」に「物部乃八十乃心呼天地二念足橋《モノノフノヤソノココロヲアメツチニオモヒタラハシ》」「三三二九」に「天地滿言《アメツチニイヒタラハシテ》」卷十九「四二七二」に「天地爾足照而吾大皇之伎座婆可母樂伎小里《アメツチタラハシテリテワカオホキミシキマセバカモタヌシキヲサト》」などあるが、これらは天地を以て物の足ることのたとへにしたりと思はる。 
○日月與共 舊訓「ヒツキトトモニ」とよみたるを考に「ツキヒトトモニ」とよみ改めたり。これは上「一六七」にもいへるが如く「ヒツキ」にてもあるべきなり。この「日月」も亦足り行くことのたとへに用ゐたりと思はる。上の「一六七」の長歌に「望月乃滿波之計武跡《モチヅキノタヽハシケムト》」とあり、又卷九「一八〇七」に「望月之滿有面輪二《モチヅキノタレルオモワニ》」とあるなどにて想ひやるべし。
○滿將行 舊訓「ミチユカム」とよめるを考には「タリユカム」と改めたり。「滿」は「ミチ」とよむが、又滿(664)足の意にて「タル」ともよむをうべきなるが、ここは如何といふに、上の「天地」の下にあげたる例に照して「タリユカム」とよむをよしとすべきこと知られたり。この「足り行かむ」といふその目標如何といふに下の「御面」なり。神代の神名に面足尊とあるもその意あればいへるならむ。神の御面の漸次に足り行かむといへるなり。
○神乃御面跡 「カミノミオモト」とよむ。ここの意は攷證に「四國は神の生ませりといふ傳へにてその國の年經つゝひらけゆきで、足《タリ》とゝのひそなはれるを神の御面のそなはれるによせていへるなり」といへるが如き意なるべきが、なほ委しくいはば、この讃岐國即ち伊豫二名島といふ神の面なればなり。「ト」は「と思ひて」といふ程の意を含めたり。
○次來 舊訓「ツキテクル」とよみ、攷證は「ツキテコシ」とよみ、古義は「次」の上に「云」字を脱せりとして「イヒツゲル」とよめり。然れども「云」字ある本はかつてなきことなれば、古義の説は從ふべからず。その意につきては契沖は「上中下とも始中終ともいふ時、上より中につぎ、始より中に次ゆへに中といはんとてつぎてくるといふ歟」といひたるが、童蒙抄はこれを入ほがなりとして、「人麿西國にくだる行路の次第を來るつぎ/”\といふ義、また神のおも跡の次/\を來るにさぬきは中にあたる國故中のみとうけんための義ともきこゆる也」との二説を按出し、考には「神代よりいひ繼來る也」といひ、攷證は「道を次て來るといふ意にて云々」といひ、福井久藏氏の「枕詞の研究と釋義」には「百船の續き來るといふ意なれば枕詞にあらず」といへり。按ずるにこはこの「次ぎて來る」所の主格如何といふことによりて決定すべきものなり。百船の續き來るといふ(665)説は頗る面白きやうなれど、果してさる場合に主格を省くことありや。こは殆ど信ぜられず。次に、神の御面わのつぎて來るといふことは意義をなさず、又いひつぎ來るを單に「つぐ」といふは不條理なり。されば、最も普通に考へらるべきことはその説者自身が主格たる場合に省けることなり。今かく考へ來れば、童蒙抄の前の説を以て得たりとすべし。而して「つぐ」といふ語は今「つづく」といふ語にあたれる場合あるものなるが、こはその揚合と考へらる。(「つづく」は「つぎつぐ」を約せる語なるべし。)即ち人麿が西方より上りて讃岐の那珂の湊に來りたるか、若くは東方より下りて那珂の湊に來れるかのいづれかにしてその引つづき來れる航路の中途に那珂の湊に泊りしなりしならむ。「つぎて」を「引續きて」の意に用ゐたるは、卷五「八〇七」に「宇豆都仁波安布余志勿奈子奴波多痲能用流能伊昧仁越都伎堤美延許曾《ウツツニハアフヨシモナシヌバタマノヨルノイメニヲツギテミエコソ》」卷十八「四〇五七」に「多萬之可受伎美我久伊弖伊布保理江爾波多麻之伎美弖々都藝弖可欲波牟《タマシカズキミガクイテイフホリエエニハタマシキミテテツギテカヨハム》」など例多きことなり。かくて考ふれはば「來」は「クル」とよむべきなり。
○中乃水門從 「ナカノミナトユ」とよむ。これにつきて考に「讃岐に那珂郡あり。そこの湊をいふならむ」といはれしが、實にさる事と見ゆ。那珂郡は今多度郡と合して仲多度郡となれるが、その那珂の湊は蓋し、丸龜の附近なる中津といへる地ならむ。これより砂彌島へは北東にあたれば、西より東へ航したるならむ。
○船浮而 「フネウケテ」なり。この語の例は卷一「七九」にあり。
○吾榜來者 「ワガコギクレバ」とよむ。人磨自身に船を榜ぐにあらずともかくいふに差支なし。(666)船に乘りて榜がしめ來るをもかくいへるならむ。
○時風 「トキツカゼ」とよむ。卷六「九五八に「時風應吹成奴香椎滷潮干※[さんずい+内]玉藻而名《トキツカゼフクベクナリヌカシヒガタシホヒノウラニタマモカリテナ》」その他卷七「一一五七」卷十二「三二〇一」などに「時風」とかけり。「ツ」は連體格の助詞なるが、この字なけれど、加へてよむべし。その意は契沖は「時に隨て吹風なり。下に時つ風とよめる歌どもいかさまにも春にまれ秋にまれ、微風《コカゼ》を云事とは見えず。意を著べし」といへり。童蒙抄は「あらき風の事を云。旋風といふ意なるべし。今時のときつかぜと異意也」といひ、考には「うなしほ滿來る時には必風の吹おくるをときつ風とはいへり。」といひ、攷證には「思ひよらぬ時に吹來る風をいへる也」といへり。されど、攷證の如き意ならば、時ならぬといふ語と同義といふべきにて「時つ云々」といふべき理なし。されば、これは略契沖のいへる如くなるべきが、意稍異にしてその時に當りて吹く風の義ならざるべからず。而してそは相當に著しき風なるべきなり。卷六に「時つ風吹くべくなりぬ」といへるはその吹くべき時の豫め知らるるによりていへることと考へられ、又卷七の「時風吹麻久不知」といへるも同義なりと見ゆ。その風の強かりしことは下の詞に見ゆるが、人麿のその航海せる時に當りて吹ける風なるべし。
○雲居爾吹爾 「クモヰニフクニ」とよむ。雲居は卷一「五二」にいへる如く空をさせるが、天の雲脚の異樣になりて風暴く吹き初めしことをいへるなるべく、ただ遠き意とせるは當らずといふべし。
○奧見者 「オキミレバ」とよむ。「奥」は「海」の「オキ」にして既にしばしばいへり。
(667)○跡位浪立 舊訓「アトヰナミタチ」とよみ、代匠紀には「アトクラナミ」と云べきか」といへり。童蒙抄は古來の訓を心得がたしといひて種々の意味をあて試みたれど、斷案を示さず。考は「跡位は敷坐《シキヰル》てふ意の字なるを重浪《シキナミ》の重《シキ》に借て書り。卷三(流布本の卷十三)「立浪母踈不立、跡座浪之立|宰《サフ》道|麻《ヲ》」(三三三五)その次の歌(三三三九)に上には「敷浪乃寄濱邊丹」と有て、其末に「腫浪能恐海矣直渉|異將《ケム》」と有も共に重《シキ》浪てふ意なるに敷とも腫とも書てよみをしらせたるを思ふべし」といひてより諸家多くこれに從へり。さて考ふるに、「アトヰナミ」とは如何なるものか、ありとも考へられざる語なれば、從ふべからざることは著し。さて考にいへる「三三三九」の歌の「敷浪」は「シキナミ」とよむこと著しく、その下の「腫」は「鐘禮」を「シグレ」とよむが如く、古音「シク」「シキ」として表示したるものなること著しきが故に「腫浪」も亦「シキナミ」なること明かなり。かくてその「三三三五」の歌も、それと同じ趣なるにそのシキ浪に相當する語を「跡座浪」とかけり。而して今の「跡位浪」とその字面頗る似て「跡伎」「跡座」いづれも「シキ」とよまるべき筈と見えたり。然れども考の説の如くにては「跡位」又「跡座」を「シキ」とよむべしといふ理由とするに足らず、萬葉用字格には「殿舍の席は事有時人々の位次によりて座を敷設れば敷座《シキヰル》てふ意なるを重浪《シキナミ》に借て書り。跡は敷の意也。位も座も均しき也」といへり。されど、「跡」を「敷《シキ》」の意とする時に「位」及び「座」はこの字面の上に如何なる意と用とをなすものか。通ぜる如くに見えて一向通ぜぬ論にあらずや。然はいへど、「跡位」「跡座」はいづれも「シキ」といふ語をあらはすに用ゐたる事は殆ど否定すべからず。然りとせば、ここに何等かの根據なくばあるべからず。然れどもこの二熟字漢語なりとは見(668)えず。按ずるにこは「跡」字の意と「位」「座」二字に共通する語の意との合同によりて生ぜる語をあらはすものならざるべからず。「位」は國語に「くらゐ」とよむを常とし、又天の石位などのときは「くら」とのみよむことあり。「座」は古語「くら」とよむを通例とせり。されば、「位」「座」二字に共通する國語は「くら」なり。さてその「くら」とは如何なる語ぞといふに、人ならば「居る所」又物ならば、載せおく所をいふを本義とせり。されば「位」「座」共にその「くら」の意と見るべし。一方に「跡」字は「アト」と訓するを常とするが、その「アト」の本義は「足處《アト》」にして足を下したる所の義なり。然りとせば、「跡位」「跡座」の二字にて示さるるところは足を下す所に於ける、ある物を載せおく所をいふ義なるべし。而してこれは結局足を下してそを載する所の義と見るべし。かくてこれらの意を以て國語の「シキ」にあてしものならむか。今かく考へてこれにあたるべき「シキ」といふ語なきかと考ふるに、倭名鈔履襪具中に「野王曰〓【思協反久都和良一云久都乃之岐】履中薦也」と見ゆるものをさせりと考へらる。「クツノシキ」は古代の履の内部にありて足の下にあたる部位に置く敷物なるによりて「しき」とはいへるなり。而して類聚名義鈔には「居」字に訓して「クツノシキ」といへり。これは上の「座」「位」の字に趣似たり。これを單に「シキ」といへるは色葉宇類抄に「履シキ」とあるにても明かなり。されは「跡位浪」即ち「シキナミ」とよむも理由ある事と考へらる。重浪とは頻繁によせくる浪の義なるが、ここは沖に高浪の頻に引つづき立ちよするをいふなるべし。
○邊見者 舊訓「ヘヲミレバ」とよみたるが童蒙抄は「ヘタミレバ」とよみ、檜抓手は「ヘミレバ」とよみたり。「ヘタ」といふ語は卷十二「三〇二七」に「淡海之海邊多波人知」とあるが如く集中に例あれど、(669)奧に對してはいつも「へ」とのみいふこと古語の例なれば、「へ」にてよかるべし。さて「見る」に對しては「ヲ」を補へよむべきが如くなれど、上の「一五三」「奧放而榜來船邊附而榜來船」の例にならひて「ヘミレバ」とよむべきが如し。
○白浪散動 舊訓「シラナミトヨミ」とよみたるが、童蒙抄は「シラナミサワギ」とよみ、考は「シラナミサワグ」とよめり。これにつきて攷證曰はく「とよむとさわぐとはいとちかくいづれも古言にて、いづれにても聞ゆるやうなれど、よく/\考ふれば、とよむは音につきていひ、さわぐは形につきていふとのわかち也けり。ここはまへに邊見者《ヘヲミレバ》とありて形につきていふ所なればさわぐとよむべし。」といへり。まことにこの言の如くなるべし。「散動」の字面は卷六「九二七」に「御※[獣偏+葛]人得物失手狹散動而有所見《ミカリビトサツヤタバサミサワギタルミユ》」又「九三八」に「鮪釣等海人船散動鹽燒等人曾左波爾有《シビツルトアマブネサワギシホヤクトヒトノサハナル》」などあり。さてここは「サワグ」と終止すべき所なり。即ちその沖より打ちよする浪の岸に打よせて碎けて散り浪となりてさわぐをいふ。以上第二段讃岐の海上のあらきをいふ。
○鯨魚取 「イサナトリ」上の「一三一」に出づ。海の枕詞なり。
○海乎恐 「ウミヲカシコミ」とよむ。海を恐み畏れつゝといふ程の意にて下につづく。
○行船乃 「ユクフネノ」なり。「海を恐みて行くその船の」なり。
○梶引折而 「カヂヒキヲリテ」とよむ。「梶」を「カヂ」とよむは普通なれど、この字は支那にても集韻類篇等宋時代の字書に見ゆるものにして彼地に古より存したりしか疑はし。而して集韻には「木※[木+少]也」とあれば「こずゑ」の義なり。されば萬葉集に用ゐるこの字は本邦若くは三韓などに(670)てつくれる會意の文字なるべし。而してこれにあつる「カヂ」といふ語は倭名鈔に舟具に「釋名云※[楫+戈]音接一音集賀遲使2舟捷疾1也」とあるものにして、これやがて今の※[舟+虜]《ロ》といふものに同じと見えたり。さてここと同じさまの語は卷二十「四三三一」に「大船爾末加伊之自奴伎《オホフネニマカイシジヌキ》、安佐奈藝爾可故等電能倍《アサナキニカコトトノヘ》、由布思保爾可知比伎乎里《ユフシホニカヂヒキヲリ》、安騰母比弖《アトモヒテ》、許藝由久伎美波《コギユクキミハ》」とあり。この引をりは引しをる意にして撓むることをいへり。
○彼此之 「ヲチコチノ」とよむ。「をち」は「をちかた」の「をち」なり。その例は卷七「九二〇」に「百磯城乃大宮人毛越乞爾思自仁思有者《モモシキノオホミヤビトモヲチコチニシジニシアレバ》」「一一三五」に「阿自呂人舟召音越乞所聞《アシロヒトフネヨバフコヱヲチコチキコユ》」卷十七、三九六二−に「伊母毛勢母和可伎兒等毛波乎知許知爾佐和吉奈久良牟《イモモセモワカキコドモハヲチコチニサワキナクラム》」などあり。意は明かなり。その見渡しの附近に島の多きよしにていへり。
○島者雖多 舊訓「シマハオホカレド」とよめるを考に「オホケド」と改めたり。形容存在詞の已然形に「ど」のつける形「ケレド」を「ケド」と約め轉じていへるは例古に多し。一二の例をいはば、古事記下卷仁徳段に「波斯多弖能久良波野夜麻波佐賀新祁杼伊毛登能煩禮婆佐賀斯玖母阿良受《ハシタテノクラハシヤマハサカシケトイモトノボレバサガシクモアラズ》」日本紀舒明卷に「于泥備椰摩虚多智于須家苔多能彌介茂氣菟能和區呉能虚茂邏勢利祁牟《ウネビヤマコタチウスケドタノミカモケツノワクゴノコモラセリケム》」本集卷五「八〇四」に「伊能知遠志家騰貴世武周弊母奈斯《イノチヲシケドセムスベモナシ》」卷十七「三九六三」に「多麻伎波流伊乃知乎之家騰《タマキハルイノチヲシケド》」などなほ多し。
○名細之 「ナクハシ」とよむこと卷一「五二」の下にいへるが如し。その意もその下にいへるにおなじ。よろしき名の世に聞えし狹岑の島といふ意にて枕詞とせりと見ゆ。
(671)○狹岑之島乃 「サミネノシマノ」とよむべきこと詞書の下にいへるにおなじ。
○荒磯而爾 舊板本「アライソモニ」とよめり。代匠記には「面」は「回」の誤として、「アライソワニ」又は「アリソワニ」と訓じ、考は「回」を正しとして「アリソワニ」とよみ、檜嬬手も「回」字を正しとして「アリソミニ」と訓せり。されど、いづれの本にも「面」とありて「回」をかけるものなし。この故に誤字説は從ふべからず。攷證は文字のまゝに「アリソモニ」とよみて、「荒磯面はありそのおもといふおを略けるにて、面の磯のおもてにて川づら海づらなどいふつらと同じ。本集十四【五丁】に「安思我良能乎弖毛許乃母爾佐須和奈乃《アシカラノヲテモコノモニサスワナノ》」云々(三三六一)とあるも彼而此面《ヲテモコノモ》にて面をもといへり。」といへり。「アリソ」は上にいへるが、この攷證の説をよしとすべし。
○廬作而見者 舊訓「イホリツクリテミレバ」とよめるが十音一句は例なき事なれば、この訓疑はし。代匠記はこの句と上の句との間に脱せる句あるかといひて、この句を「イホリヲツクリテミレバ」とよむかといひ、童蒙抄は「イホリシテ」又は「ヤドリテ」とよむべしといひ、考に「イホリシテミレバ」とよみてより諸家多く之に從へり。按ずるに「イホリ」を直に動詞とせる例を知らねば、「イホリテ」とよむは無理なるべし。次に「ス」といふ動詞は汎く諸の動作作用をあらはすに用ゐる語にして殊に「ツクル」を「ス」といふこと多し。古よりものを作る工人を「弓師」「塗師」などいふ語ありて、「師」字をあつれど、本來は「ス」の連用形より出でたる「シ」といふ名詞なるべし。されば、「廬作」は即ち「イホリス」なれは「イホリシテミレバ」とよむをよしとす。その語の例は卷三「二五〇」に「野島我崎爾伊保里爲吾等者《ヌマガサキニイホリスワレハ》」卷十五「三六〇六」に「野島我左吉爾伊保里須和禮波」卷一「六〇」に「隱爾加(672)氣長妹之廬利爲里計武《ナハリニカケナガキイガイホセリケム》」などこれなり。これは既にもいへる如く、古は旅人宿といふものなかりしかば、旅人は至る所の山野海岸などに假廬を作りてやどりしなり。かくの如く假廬をその狹岑の島の荒磯のある邊につくりて見ればといふなり。
○浪音乃 「ナミノトノ」とよみて異論なし。「ナミノオトノ」の約なり。卷十四「三四五三」に「可是乃等能登抱吉和伎母賀《カゼノトノトホキワキモガ》」などあるその例なり。
○茂濱蓮乎 「シゲキハマベヲ」とよむ。浪の音のしげく聞ゆる濱邊をいふなり。卷九「一八〇七」に「浪音乃驟湊之奧津城爾《ナミノトノサワグミナトノオクツキニ》」とあるも同じ樣なる所をいへるなり。
○敷妙乃 「シキタヘノ」とよむ。「シキタヘ」は上に屡いへり。
○枕爾爲而 「マクラニナシテ」とよむ。童蒙抄に「マクラニシツツ」とよみたれど、「而」を「ツツ」とよむは無理なり。浪の音の茂き濱邊を枕にしてそこに伏すといへるなり。
○荒床 舊訓「アラトコト」とよめるを考に「アラトコニ」とよめり。ここには假名なければ、「ニ」も「ト」も加へてよむべきこととなるが、「ニ」とよむときはその床が荒床といふ床たることを示し、「ト」とよむ時はその床を荒床と形容せることを示すと考へらる。かくて諸家の解釋を見るに、契沖は「荒床は和名云野王曰槨【古傳反與郭、同和名於保土古】周v棺槨者也。此おほとこの意にて濱邊の石間をやがて棺槨とする意か。又常の床にてそれがあらゝかなるを云か。」といへり。考はただ「床として伏をるなり」といひて釋なし。略解は「荒山荒野の荒の如し」とのみいひ。古義は「荒き海邊を寢床になしたるなり」といひ、檜嬬手は「死者の床を荒床と云ふを以てなり」といひ、攷證には「あれはて(673)て人げなきをいへるにて、濱べにかの死人が伏たるを床と見なしてよめる也」といひたり。按ずるに死人の床を「あらとこ」といふ事證なきことなれば、契沖の前説と守部の説とはうけられず。かくて殘る所は大體「荒らかなる床」(契沖の後説)の義のみなるが、それが、實際の床をさすか、又形容の語かと見るに、これは事實上さる床をさせるにあらねば、形容の語たること明かなりとす。然るときは「ト」といふ助詞にて導くを當れりとすべし。その意は攷證の説にて略可なり。即ち濱邊にてかの死人が横はり臥せるそこをば床と見なして、荒らゝかなる床としてそこに臥せりといへるなり。
○自君伏之 舊訓「コロフスキミガ」とよみて異論なかりしものなり。然れども、「コロブス」といふ語は古今を通じて證なきものにして、從來は上の「一九六」の長歌に、「立者玉藻之|如許呂《モコロ》、臥者川藻之如久」の「如許呂」をはよみ誤りて、「如」を上の句につけて「ゴトク」とよみ、「許呂」を下につけて、「許呂臥者《コロフセバ》」とよみたるに基づき、そを以て「コロブス」とよみ、「コロビフス」といふ語の約まれるものと稱してここをもしか讀み來れるものなり。然るに、既にいへる如く、「一九六」は「タテバタマモノモコロ、フセバカハモノゴトク」とよむべきものにして「コロブス」といふ語は事實なきことを證せり。されば、それによりてここを「コロブス」とよまむは不條理なりといふべし。さらば如何によむべきかといふに「ヨリフスキミガ」とよむを穩かなりとす。新考にはこのわが説によりて「コロブス」といふ語を否定したれど、「自」を「臥」の誤として「コイフス」とよむべしといへり。然れども、ここは古來誤字なき所なるのみならず、「自」を「より」とよまば不理なりといふべきにあらねば、新考(674)の説には從ひがたし。「自」は「出自の意にて「より」の語として用ゐることは集中に例少からぬことなれば、あげず。この「君」はその死人をさしていへるなり。
○家知者 「イヘシラバ」とよむ。我れ若その人の家を知らばといふなり。
○往而毛將告 「ユキテモツゲム」とよむ。その家に行きてその家人にしかじかの由を告げ知らせむとなり。
○妻知者 「ツマシラバ」とよむ。ここは「家知者」と詞遣似たれど主客たがへり。即ち、この死人の妻が、その夫のかかる所に横はり死ぬる事を知らばといふなり。
○來毛問益乎 舊訓「キテモトハマシヲ」とよみたるを略解に「キモトハマシヲ」とよみたり。この二樣のよみ方はいづれにてもあるべきさまなるが、この語の意は訪ひに來らむといふ意なれば「キトフ」といふ語を基にして、それに「モ」といふ助詞を加へたる「キモトハマシヲ」の方まされりとすべし。かくの如き語はこの歌の「待加戀良武」もそれなるが、なほ卷十七「三九九三」に「可久之許曾美母安吉良米々《カクシコソミモアキラメメ》」卷八「一五六六」に「鳴曾去奈流早田鴈之哭《ナキゾユクナルワサダカリガネ》」など例甚だ多し。「乎」はここにて嘆息の意を含めて終止せるなり。以上第三段とす。
○玉桙之 「タマホコノ」道の枕詞なること上に屡いへり。
○道太爾不知 「ミチダニシラズ」とよむ。ここもなほその妻につきていへるなるが、その妻といふ語は下にある、はしき妻等者といへるものにつきていへるにてその妻が、ここに死にてある事を知らざるべければ、いづこに尋ね行くべきか、その道をだにも知らずしてといふなり。
(675)○欝悒久 「オボホシク」とよむべきことは上「一八九」の「欝悒」の字につきていへる如し。意もそこにいへり。
○待加戀良武 「マチカコフラム」とよむ。待ち戀ふらむといふに「カ」といふ係助詞の加はれるなり。意は明かなり。
○愛伎妻等者 舊訓「ヲシキツマラハ」とよみたるが、代匠記に「ハシキ」とよむべしといひてより諸家これに從へり。「ハシキ」といふ語はこの卷の上「一一三」の歌に「三吉野乃玉松之枝者波思吉香聞」「一九六」の歌に「早布屋師吾王乃《ハシキヤシワガオホキミノ》」とある所に既にいへるが、なほいはば、卷二十「四三三一」に「奈我伎氣遠麻知可母戀牟波之伎都麻良波《ナガキケヲマチカモコヒムハシキツマラハ》」とあるはまさしくここと同じ語遣なり。さてこれは主格を顛倒してここにおけるなり。
○一首の意 第一段には讃岐國のうるはしきをほめ、第二段はそれを受けて天地日月と共に足り行かむ神の御面といひ、さてかく見て旅行しつゝ次ぎ次ぎに泊り來れるうち讃岐の中の湊より船出して進みくれば、時恰も風烈しく遠くより吹き來り、沖にはたえず浪が頻りつゞき、邊にはその浪打ちよせて白浪が立ちさわぐを見るといひて海上の風波荒きをいふ。第三段はかゝるさまなれば海上の路を恐れて行く船の梶を引きたわめて、彼方此方多き島の中にも名高き狹岑の島の磯邊に泊ててそこに下り立ち廬をつくりてさて見れば、かく浪の音のたえず聞ゆる濱邊に打ち臥せる人を見る。あはれこの君はいづこの人ならむ。君が家を我若し知らば、往きてその家人に告げむと思へども、われはそを知らざれは如何ともしがたし。又この(676)人の妻が、かくと知らば訪ひ來ましと思はるるに、それも知らねば、訪ひ來むとも思はれずと云ひて同情をよせ、第四段はあはれこの君の最愛と思へる妻らは、この君のいづこに行きたりしかその道だにも知らねば、如何に覺束なく思ひつゝ待ち戀ひてをるらむ。あなあはれ。といひて、結とせり。
 
反歌二首
 
221 妻毛有者《ツマモアラバ》。採而多宜麻之《ツミテタゲマシ》。佐美乃山《サミノヤマ》、野上乃宇波疑《ヌノヘノウハギ》、過去計良受也《スキニケラズヤ》。
 
○妻毛有者 「ツマモアラバ」とよむ。その死たる人の妻の共に居るならばといへるなり。
○採而多宜麻之 舊訓「トリテタキマシ」とよみたるが、代匠記には初稿に「採而」を「ツミテ」ともよむべしといひ、清撰本には「トリテタケマシ」とよませたり。考には「ツミテタゲマシ」としよみ、略解は「トリテタゲマシ」とよめり。按ずるに「採」は「トル」とも「ツム」とよむべく、卷一第一の歌には「ツム」とよませたり。ここは下の「宇波疑」に關していへるなれば「ツム」とよむかよしとすべし。「宜」は集中に「ギ」の假名にも「ゲ」の假名にも用ゐたり。然るに「タギマシ」とよまむにはさる上二段活用の語ありしことを證せざるべからず。然るにさる語は古今を通じて聞くことなし。されば「タゲマシ」とよむべし。かくて「タゲマシ」とよめる人々の説明を見るに、考は日本紀皇極卷の童謡を證として「紀に【皇極】童謠に伊波能杯※[人偏+尓]古佐屡渠梅野倶【小猿米燒也】渠梅多※[人偏+尓]母多礙底騰褒※[口+羅]栖歌麻(677)之々能烏膩といふは燒たる米の飯を給《タベ》て行《トホラ》せ也。然ればここも採て給《タベ》させまし物をといふ古言なるを知めり」といへり。古義註疏など略同じ。然るに、略解は本居宣長の説に基づき「とりてたげましは死屍をとりあぐる事也。たげは髪たぐなどのたぐと同音なり」といひ、檜嬬手、攷證等これによれり。然るに、髪たぐといふ語は四段活用なることは上の「一二三」の歌の例(「タケバ〔三字傍線〕ヌレタカネ〔三字傍線〕ネバ」)にても著しきに、これは未然形所屬の「まし」にて受けたる形が「タゲ」なれば下二段活用にして全然別なる語なること明かなるをや。されば、これは考の説に基づきて考ふべきなり。これにつきて古義は考の説によりながら「岡部氏考に多宜《タゲ》は給《タベ》なりといへるは大誤《イミシキヒカゴト》なり」といへり。されど、これはたゞ大まかにその時の語を以ていへる爲の誤にしてさして咎むべき程の大過誤にあらざるなり。さて上の皇極紀の童謠なるは聖徳太子傳暦には第四句を「喫而今核《タゲテイマサネ》」とかけるのみならず、下文に「四五日淹留於山不v得2喫飲1」とあるに打ちあはせて考ふれば「タゲテ」は喫字の義と認めたりと考へらる。なほこの語は上宮法王帝説に太子の御歌として「伊我留我乃止美能井乃美豆伊加奈久爾《イカルガノトミノヰノミヅイカナクニ》、多義※[氏/一]麻之母乃止美乃井能美豆《タゲテマシモノトミノヰノミヅ》」とあり、常陸風土記に「安良佐賀乃賀味能彌佐氣乎多義止伊比祁婆賀母與《アラサカノカミノミサケヲタゲトイヒケバカモヨ》云々」とあるも水酒を喫することをいへりと考へらる。又日本紀雄略卷十四年夏四月の條に「天皇欲v設2呉人1歴2問群臣1曰其共食者誰好(カ)乎」とある「共食者」を古來「アヒタケヒト」とよみ來れり。この語は推古卷十八年冬十月の條にも「以2河内(ノ)漢(ノ)直贄1爲2新羅(ノ)共食者1錦織(ノ)首久僧爲2任那共食者1」と見え、延喜式治郡省式蕃客入朝條に「共食二人、掌d饗日各對2使者1飲宴u」とある「共食」もみなこれなり。これは相ひ喫ぐる者にして今(678)いふ相伴人のことなるべし。これによりて「タグ」といふ語は飲食すること即喫字に該當する語なりと知られたり。而してここはまさにそれなりと見ゆ。以上にて一段落なり。
○佐美乃山 「サミノヤマ」とよむ。童蒙抄に「サミナヤマ」とよみ、古義に「乃」は「尼」又は「年」などの誤として訓は「サミネヤマ」とよみたれど、いづれも根據なきことなれば從ふべからず。これは狹岑の島即ち後の砂彌島をさせることいふまでもなし。
○野上乃宇波疑 舊訓「ノカミノウハギ」とよみたるが考に「ノノヘノウハギ」とよみ、略解に「ヌノヘノウハギ」とよみ攷證に「ヌノベノウハギ」とよめり。略解に從ひてよむべし。「野上」を「ノガミ」とよむはここの意にあはず、又「上」を邊の意にして「べ」とよむは無理なればなり。かくよむべきは卷六「一〇三五」に「田跡河之瀧乎清美香從古宮仕兼多藝乃野之上爾《タトカハノタキヲキヨミカイニシヘユミヤツカヘケムタキノヌノヘニ》」とある「野之上《ヌノヘ》」又この卷、上なる「八八」の「穗上」などこれなり。「ウハギ」は卷十「一八七九」に「春野之菟芳子採而※良思文《ハルヌノウハキツミテニラシモ》」ありて、本草和名に「薺蒿菜」に「和名於波岐」といひ、和名鈔に「七卷食經云薺菜……和名於八木」とあるものと見ゆる「オハギ」と同じものたるべしといへるは「オウ」の音轉によるべし。而してこの物今「よめな」とも野菊ともいふものなりといへり。延喜式には内膳式に漬年料雜菜のうちに「薺蒿一石五斗料鹽六升右漬春菜料」とあり。
○過去計良受也 「スギニケラズヤ」とよむ。「ケラズ」は「ケリ」の未然形「ケラ」に打消の「ズ」のつけるものなるが、この未然形のケラなる活用形は後世なくなりたれど、當時は用ゐたり。その例は卷五「八一七」に「烏梅能波奈佐吉多流僧能能阿遠也疑波可豆良爾須倍久奈里爾家良受也《ウメノハナサキタルソノノアヲヤギハカヅラニスベクナリニケラズヤ》」卷八「一四(679)五七」に「此花乃一與乃裏波百種乃言持不勝而所折家良受也《コノハナノヒトヨノウチハモモクサノコトモチカネテヲラエケラズヤ》」あり。ここに「過ぐ」とはかのうはぎの摘みて喫ぐべき時の過ぐるをいふなり。この「ヤ」は詞の玉緒卷七に「ヤハの意にてケラズヤは、ケリといふ意におつるなり」といへり。即ち反語をなせるなり。
○一首の意 第一段はここにこの人の妻もあらば、この山の野のよめなを採みて、食用に供せましものをとなり。第二段は今この野を見れば、はやくも採むべき時節が過ぎ去りて食ふべくもあらずなりたるにあらずやとなり。これは新考に「その死人を假に餓死したるものと斷定し、その傍によめ菜の多く生ひて盛過ぎたるを見て若し、妻を具したらば、此よめ菜をつみて食はすべく、さらば餓死にも及ばじをといへるなり、」といへるをよしとす。而してそのうはぎの食ふべき時のすぎたるを見てよめるものとせば、まさに夏も闌なる頃なりしならむか。
 
222 奧波《オキツナミ》、來依荒磯乎《キヨルアリソヲ》、色妙乃《シキタヘノ》、枕等卷而《マクラトマキテ》、奈世流君香聞《ナセルキミカモ》。
 
○奧波 「オキツナミ」とよむ。この語の例甚だ多きが故に一二をあげむ。卷三「三〇三」に「稻見乃海之奧津浪《イナミノウミノオキツナミ》」卷七「一一八四」に「奧津浪驂乎聞者《オキツナミサワグヲキケバ》」などなり。
○來依荒磯乎 舊訓「キヨルアライソヲ」とよめるを代匠記に「アリソヲ」とよめり。代匠記によるべし。長歌にいへる如く奧より浪の依りくる荒磯を枕としてといふなり。
○色妙乃 「シキタヘノ」とよむ。「色」の字音をかりたるなり。「色」を「シキ」に借りたるは本集には稀なれど、古事記の人名には多し。
(680)○枕等卷而 「マクラトマキテ」とよむ。「マク」は上の「二一七」に「布栲乃手枕纏而」の下にいへるが如し。
○奈世流君香聞 「ナセルキミカモ」とよむ。「ナセル」は「ナス」の動作存在詞にして「ナス」は「ヌ」の敬語として佐行四段活用に再び活用せしめしなり。その例は古事記上卷の歌に「多麻傳佐斯麻岐《タマデサシマキ》、毛毛那賀爾伊波那佐牟遠《モモナガニイハナサムヲ》」又、卷十七「三九七八」に「吾乎麻都等奈須良牟妹乎《ワヲマツトナスラムイモヲ》」などあるなり。その「ナス」より「アリ」に複合して「ナセリ」といへるがその語なり。されば寐たまひてある君かもといへるなり。
○一首の意 奧より荒浪のよりくる荒磯をば枕として寢たまへる君かなとなり。これ表面は寢ぬといひて下に死をいへるなり。
 
柿本朝臣人麿在2石見國1臨v死時自傷作歌一首
 
○在2石見國1臨v死時 これは柿本人麿が石見國に在りて客死せる事を示せる文字なり。人麿の生國は石見國なりといふ説あれど、ここに「在石見國云々」とかけるによりて、本來石見國の人にあらざることを言外にさとるをうべし。「臨死時」は考に「ミマカラムトスルトキ」とよめり。さてここ及び次の詞書に「死」の字を用ゐたるを見れば、人麿は五位には達せざりし人なるを考ふべし。喪葬令に曰はく「凡百官身亡、親王及三位以上稱v薨、五位以上及皇親稱v卒、六位以下達2於庶人1稱v死」とあるによりて明かなり。かくて人麿がこの國の國司たりしものとせば、この國は中(681)國なれば、守とても正六位下なれば、ましてその下僚ならば、死とかくは當然の事なりとす。なほその死が和銅三年三月以前にてありしなるべきことは下に寧樂宮とあるによりて想定せらる。その事はなほ下にいふべし。
○自傷作歌 考に「カナシミテヨメルウタ」とよめり。
 
223 鴨山之《カモヤマノ》、磐根之卷有《イハネシマケル》、吾乎鴨《ワレヲカモ》、不知等妹之《シラニトイモガ》、待乍將有《マチツツアラム》。
 
○鴨山之 「カモヤマノ」とよみて異論なし。鴨山は地名なり。この山につきては古來異説少からず。童蒙抄には「鴨山 石見國の地名也。此山に葬りたる歟」といひ、考には「こは常に葬する山ならん」といひたり。古義に「鴨山は石見國美濃郡高津浦の沖にありて今は鴨島と呼《イヒ》てそこに人丸大明神の社鎭座ありて木像を安置《イマセ》たり、古代のものたりと、國人云り」といひたるは蓋し、石見國人岡熊臣の柿本人麿事蹟考辨にいへるに基づきていへるならむ。この熊臣の説は守部などもそのまゝ受け入れたり。事蹟考辨の著者は然るべき學者なるが故に之を信用する人少からず。余は岡熊臣を信用せずといふにあらねど、その人丸神社のありといふ地は高角山といひて、かの相聞部にある人麿の長歌に見ゆる地名に基づきたるものと見えたり。然るにその長歌なる高角山は國府附近にありて、しかも、それより上京の路上にあたるべき地點なるべくして、かく石見にても西端といふべき長門の堺に近き地にあるべき筈なし。されば、その地名は或は古より類似せりといふとも、人麿の歌なる高角山にあらぬはいふまでもなし。(682)而してその高角山の人丸神社がその基づく所鴨島の人丸社にありて、そての鴨島が、古海嘯によりて海中に没入せし故にここにうつせりといふはあまりに附倉に似たりといふべし。況んやその鴨島といふが、古ありしといふに止まり、現になきなれば、この説は容易く信すべきにあらぬなり。この他には石見國名跡考の著者石見人藤井宗雄の説に那賀郡濱田町の舊城山を今龜山といふが、それ即ち古の鴨山の訛なりといへり。されどこれも亦根據ありとも見えず。又吉田東伍の説には那賀郡|神村《カムラ》の山とせり。これも亦根據あるべしと思はれず。以上諸説あれど、結局は今にして明かならずといふに止まるべきなり。然れどもいづれの人もその國府以外の地ならむと暗黙の間に認めたる點に於いて一致せり。これ自然の事ながら注意すべきことなり。
○磐根之卷有 「イハネシマケル」とよむ。「卷有」は「マキアリ」の熟合せる語なるが、「マク」は上の「八六」に「磐根四卷手死奈麻死物乎」の下にいへる如く、枕とすることなり。さて「シ」は強意の助詞なり。この句は磐根を枕にしてある吾といふ意にていへるなり。然るに、これを釋する學者多くはこれをその鴨山にて死し、葬りたる意にとれり。そは上にあげたる童蒙抄及び考の説を始として、略解、攷證、檜嬬手等皆然り。然れども、この詞は然解しうべきものにあらず。されば新考に「眞淵は「常に葬する山ならむ」といへれど、もしカモ山ノイハネシマケルが鴨山に葬《カク》さるゝ意ならば、今はまだ死にだにせざるなればイハネシマカムとこそいふべけれ。おそらくは旅にて病に罹りて鴨山の山べに假庵を作りて臥したりけむをカモ山ノイハネシマケルトいへる(683)なるべし。」といへり。實にこの言のごとくなるべし。かくて上の鴨山が、國府以外の土地なることもよく考へらるるなり。鴨山の地今明かならずといへども、旅中に人麿が死せしことは略想像しうべし。
○吾乎鴨 「ワレヲカモ」とよむ。「鴨」は借字にして「カモ」は係助詞「カ」「モ」を重ねたり。この「を」よりして「待ち」につゞくなり。
○不知等妹之 舊訓「シラズトイモガ」とよめるを玉の小琴に「シラニト」とよむべしといへり。「シラズト」とよむときは語法あらはにして含蓄なし。「シラニト」とよむときは含蓄あり。その故はこの「ニ」は古代の連用形なりと認めらるゝものにして、中止の述法をなせりと見ゆれば、その下になほ幾何かいふべき事あるを言にあらはさずして止みたる形なればなり。而して、この語遣の例は古事記崇神卷の歌に「伊由岐多賀比宇迦々波久斯良邇等美麻紀伊理毘古波夜《イユキタガヒウカガハクシラニトミマキイリヒコハヤ》」あり。この下の「ト」につきては古義に「凡そ不知《シラニ》といふ言の下にある等《ト》はみな助辭にて語(ノ)勢を助けたるのみにて意には關からねば捨て聞べし」といひたり。されど、かくいふは甚だ疎略なる事なり。元來ここは「知らずして云々」といふ意を含めてさて「ト」にてそれ全體を一種の状態と取扱ひ修飾格とせるにて、「ト」は決して無意義無用のものにあらざるなり。さりとて攷證に「とて」の意といへるも違へり。妹はその妻をさせり。
○待乍將有 「マチツツアラム」なり。意明かなり。上の「カモ」の係詞に對して「アラム」と連禮形にて結べるなり。
(684)○一首の意 この鴨山にて病の床に臥して今や死なむとしてゐる我をばかかる事とは知るべくもなければ、わが妻は今や無事にてかへらむ、今幾日せば夫がかへるらむとて待ちつつ居るならむかとなり。
 
柿本朝臣人麿死時妻依羅娘子作歌二首
 
○柿本朝臣人磨死時 上に人麿の臨死時の歌あれば、その後まもなく死に、その妻の悼み詠める歌をここにあげたりと見ゆ。
○妻依羅娘子作歌 この妻は上の「柿本朝臣人磨從石見國別妻上來時歌」の次に「柿本朝臣人麿妻依羅娘子與人麿相別歌」とあるその人と同じ人なること明らかなるが、この人をば京におきたりし妻なりといふ説(考など)もあるやうなれど、既にいひし如く、上の歌の次第にて上京の際石見國に置きたる妻が即ち依羅娘子なるべきことは否定すべからねば、ここもその石見國にこの依羅娘子は在りしならむ。
 
224 且〔左○〕今日且今日《ケフケフト》、吾待君者《ワガマツキミハ》、石水《イシカハノ》、貝爾《カヒニ》【一云谷爾】交而《マジリテ》、有登不言八方《アリトイハズヤモ》。
 
○且今日且今日 上の「且」を流布本に「旦」に誤れるが、下の「且」と同じ文字なるべきこと明かなり。これを占來多く「ケフケフト」とよみ來れるが、金澤本に「ケサコトニ」とよみ、類聚古集古葉略類聚鈔に「ケサケサ」とよみたり。これは「旦」を「アサ」の義にとりしが爲にかくよみしならむが從ふ(685)べからず。童蒙抄に「アケクレト」とよみたれど、かくよむべき理なし。ここと同じき字面は卷九「一七六五」に「且今日且今日吾待君之船出爲等霜《ケフケフトワガマツキミガフナデスラシモ》」卷十「二二六六」に「出去者天飛鴈之可泣美且今日且今日云二年曾經去家類《イデテイナバアマトブカリノナキヌベミケフケフトイフニトシソヘニケル》」にもありて、そこも「ケフケフト」とよみ慣はせり。この場合の「且」は何の爲に書き加へたるか。契沖は「けふ/\とはけふも/\の意なり。凡集中に此心に用たる時は皆且の字を加へたり。苟且はかりそめにてたしかならねばなり」といひ、童蒙抄には種々の説をあげたれど治定せず、古義は「且は不定辭也と注せり。たしかに其(ノ)日と定めず今日か今日かとおもふよしにて書る字なるべし」といへり。ここに卷八「一五三五」の歌に「吾背兒乎何時曾且今登待苗爾於毛也者將見秋風吹《ワガセコヲイツゾイマカトマツナベニオモヤハミエムアキノカゼフク》」(且〔右○〕温故堂本)とかき、卷十「二三二三」に「吾背子乎且今且今出見者沫雪零有庭毛保杼呂爾《ワガセコヲイマキマカトイデミレバアハユキフレリニハモホドロニ》」卷十二「二八六四」に「吾背子乎且今且今跡住居爾夜深去者嘆鶴鴨《ワガセコヲイマカマカトマチヲルニヨノフケユケバナゲキツルカモ》」とかけるあり。これらはいづれも「且今」を「イマカ」とよみ來れり。而してこれを「イマカ」とよみて意よく通じ、しかもそれより外のよみ方もなしと考へらるれば、まさしく「且今」は「イマカ」といふ語にあてたりと見えたり。然りとせば、「且」は「今か」の「カ」の意をあらはすに用ゐたりと見らるるなり。然らば、何の故を以て「且」を「カ」にあつるを得るかといふに、これは「且」字の漢語としての本來の用法に基づけるものなるが如し。「且」字は漢文の助宇として種々の用法ある字なるが、そのうちに戰國策に「且天下之半」といへるに注して「猶幾也」といへるが如く、類聚名義抄には「ナム/\トス」といふ訓あるその意にて、「且今」の二字を「イマカ」と訓すべく用ゐたるなるべし。然りとして考ふれば「且今日」は「ケフカ」にて、「且今日且今日」は「ケフカケフカ」といふ意をあらはせる(686)字面といはざるべからず。然らば「ケフカケフカト」とよむべきかといふにかくては七音になりて五音の句をかくせる例を見ねば、なほ古來の如く「ケフケフト」とよむべきが如し。若しかくよむべきものとせば、他に同じ用例あるべく思はるるによりて之を檢するに、卷五「八九〇」に「出弖由伎斯日乎可俗閉都都家布家布等阿袁麻多周良武知知波波良波母《イデテユキシヒヲカゾヘツツケフケフトアヲマタスラムチチハハラハモ》」卷十三「三三四二」に「今日今日跡將來跡將待妻之可奈思母《ケフケフトコムトマツラムツマシカナシモ》」卷十五「三七七一」に「宮人能夜須伊毛禰受弖家布家布等麻都良武毛能乎美要奴君可聞《ミヤビトノヤスイイモネズテケフケフトラムモノヲミエヌキミカモ》」といへるがいづれもその語の證となるべきなり。されば、「ケフケフト」とよみて、「ケフカケフカト」の意に解すべきなり。
○吾待君者 「ワガマツキミハ」なり。意明かなり。
○石水 仙覺が「イシカハノ」とよみしより之に從ふ事となれり。金澤本、類聚古集、神田本、西本願寺本、温故堂本、大矢本、京都大學本には「水」の下に「之」字あり。檜嬬手は「水」の下に「山」字脱せりとして「イハミヤミ」とよめり。されど、いづれの本にもさる字なければ從ひがたし。「水」字を「カハ」とよめるは所謂義訓なるが、これは例少からず。本集にては卷七「一一一〇」に「湯種蒔荒木之小田矣求跡足結出(者)所沾此水之湍爾《ユダネマキアラキノヲタヲモトムトアユヒハヌレヌコノカハノセニ》」。又日本紀には「水」を「川」の義に用ゐたるもの少からず、雄略卷には「於是日晩田罷神侍2送天皇1至2來目水1」とあり。又三代實錬卷五貞觀三年四月十二日に「賀茂齋内親王臨2鴨|水《カハ》1修v禊」とあるを見よ。されば「石水」は「イシカハ」とよむべく、次の歌には「石川」と明かにかけり。さてその石川といふは何處かといふに、岡熊臣は今の高津川の古名なりとせり。されど、その高津が古の鴨山なりといふ事既に疑はしきに高津川即ち石川なりといふ事も證(687)なき事にして從ふべくもあらず。今はただ不明なりとしおかむのみ。
○貝爾【一云谷爾】交而 「カヒニマジリテ」とよむ。「貝」字金澤本、類聚古集、古葉類集鈔、神田本「見」に作れるが、、「見」にてはよみ下すを得ざれば、「貝」を正しとすべし。守部は「交而」を「コヤシテ」とよみたれど「交」は「コヤス」とよむべき由なし。この語の意如何といふに契沖は「貝にまじりては鴨山の麓かけて川邊に葬れるにこそ」といひ、なほいはく「仙覺抄に源氏蜻蛉を引て云、水の音の聞ゆる限は心のみさはぎ給てからをたに尋ず。淺ましくてもやみぬるかな。いかなるさまにていづれの底のうつせに交りけむなどやるかたなくおぼす」と、これによれば、その石川に溺死せしかの如くにも考へられしと見ゆ。かくて、多くはこれらの説により、略解の如きは「一首の意心得がたし。猶考ふべし」といひたるが、荒木田久老は槻之落葉卷下にて「卷二にけふ/\とわが待君は石水の玉〔左○〕にまじてありといはずやもとあるは火葬せしその骨をいへる言と聞ゆれば云々」といへり。(「石水の「玉〔右○〕」といへるは上記の覺え違なり。)然れども石川の貝に交りてありといふ事がその火葬せし遺骨をいふとするときはその遺骨をそこに散亂せしめしことをいふべきなり。然れども、當時かく散骨せしといふ事は果して信ずべきか、疑はしき事といふべし。ここに近藤芳樹が註疏にいへる一説あり。「貝は借字にて峽《カヒ》なり。和名抄に考聲切韻云峽山間|陜《セハキ》處也俗云【山乃加比】とあるカヒにて石水は國府近邊の山間《ヤマノカヒ》の谷川なるゆゑに、その谷川のある山と山との峽にまじりての意なり。交而《マジリテ》とは野山に入て遊ぶことを古今集などにマジリテといへり云々。」といへり。恐らくはこの説よろしかるべし。「カヒ」は山と山との間の峽谷をいふ(688)なれば、そこに石川といふ、川の流れてあらむには石川の峽といはむに差支あるまじ。次に「まじり」はそこにたち入ることをいへるは、註疏の説の如くなるがなほいはば、古今集物名に「ほととぎすみねの雲にやまじりにし、ありとはきけどみるよしもなき」又古今集春下に「いざけふは春の山べに、まじりなん、くれなばなげの花のかげかは」竹取物語のはじめに「野山にまじりて竹をとりつゝよろづの事につかひけり」といへるなど、いづれもその間に入り込むことをいへるなり。さればその一云に「谷爾」とあるも同じ意なるが、ただ「峽」と「谷」との語の異なるのみなりとす。
○有登不言八方 「アリトイハズヤモ」とよむ。「ヤモ」は反語をなせり。卷三「四二四」に「隱口乃泊瀬越女我手二纏在玉者亂而有不言八耳《コモリクノハツセヲトメガテニマケルタマハミタレテアリトイハズヤモ》」とあるも似たる語遣なり。ここの「言ふ」はその死を告ぐる人のいふなり。
○一首の意 今日かへり給ふか明日かへり給ふかとわが待ちわたる夫君は石川の峽に入り込みてそこに有と人が來りて告ぐるにあらずや。誠に然らば思ひもかけぬ事なるよとなり。ここに何等の悲みの語をあげざるはその悲みの大にして言語道斷あきれはてたるさまをよくあらはせるものと見ゆ。
 
225 直相者《タダニアハバ》、相不勝《アヒモカネテム》。石川爾《イシカハニ》、雲立渡禮《クモタチワタレ》。見乍將偲《ミツツシヌバム》。
 
○直相者 舊訓「タダニアハバ」とよみ來るを玉の小琴に「ただのあひはとよむべし。直にあふを(689)かく云は逢を體言に云る物也。其例四卷【五十二丁】に夢之相者苦かりけり(七四一)と有。是も夢に逢ことをいめのあひと云り」といへり。攷證にはこれを否定せり。されど、その理由を示さず。按ずするに「タヾノアヒハ」とよまば、下は多くは形容詞となること王の小琴のあげし例にてもしるべく、なほかかるいひざまの例をいはば、卷八「一五〇〇」に「夏野乃繁見開有姫由理乃不所知知戀者苦物乎《ナツノヌノシゲミニサケルヒメユリノシラレヌコヒハクルシキモノヲ》」卷十二「二八六五」に「夜之長毛歡有倍吉《ヨノナガケクモウレシカルベキ》」などあり。而して「タダノアヒ」といふ語は「アヒモカネテム」の主格とはなるべき語にあらねばことばつゞき連續せざるなり。されば「タダニアハバ」といふ舊訓の方まされりとす。「ただにあふ」といふ詞の例は古事記中卷神武卷に「袁登賣爾多※[こざと+施の旁]爾阿波牟登《ヲトメニタダニアハムト》」又この卷、上の歌(一四八)に「目爾者雖視直爾不相香裳《メニハミレドモタダニアハヌカモ》」卷五「八〇九」に「多※[こざと+施の旁]爾阿波須阿良久毛於保久《タダニアハズアラクモオホク》」とあるによりて見るべし。「ただにあふ」とは現實に直接にあひ見る事をいふ。されど、ここは「相はむとせば」といふ程の義にていへりと考へらる。この如き語法は日本紀崇神卷の歌に「飫朋佐介珥兎藝能煩例屡伊辭務羅塢多誤辭珥固佐麼固辭介※[氏/一]務介茂《オホサカニツギノボレルイシムラヲタゴシニコサハコシカテムカモ》」などあり。
○相不勝 舊訓「アヒモカネテム」とよみたるを、童蒙抄に「アヒガテマシヲ」とよみ、考これに從へり。然るに玉の小琴には「本の儘に、あひもかねてむと訓かた穩にて能當れり。不勝をかねと訓例も多き也。考にあひかてましをと訓れたるはましをの辭爰に叶はず」といひ、新考には橋本進吉氏の説によりて「アヒカツマシジ」とよめり。この新考の訓は道理あるさまなれど、本集中「不勝」を「カヌ」といふ語にあてたること少からず。その例は卷三「三〇一」に「凝敷山乎超不勝而《コゴシキヤマヲコエカネテ》」卷八(690)「一四五七」に「百種乃言持不勝而所折家良受也《モモクサノコトモチカネテヲラエケラズヤ》」「一六一七」「落涙者留不勝都毛《オツルナミダハトドメカネツモ》」などあるが、これらは「カツマシジ」とはよまるべきさまならずして古來の訓の如く「カヌ」にあてたりとすべし。ことに「タダノアヒハアヒカツマシジ」といふは前後打あはぬなり。これは上の「たごしにこさばこしがてむかも」の例に准じてよむべきものにして舊訓によるをよしとす。みまかれりといへば、あふ事を得がたからむといふ意なり。以上第一段落なり。
○石川爾 「イシカハニ」とよむ。上の「石水」とかけると同じ地なることいふまでもなし。
○雲立渡禮 「クモタチワタレ」とよむ。義明かなり。たゞこの「雲」につきて契沖はただの雲とし、童蒙抄は「人死ては雲となり、雨となるなどいふ事もあればそれによりてよめる也」といひ、考には「川に雲はよしなかれど、遠きさかひの事なれば雲をもていふは古へよりのならひ也」といひたり。この雲はただ單にその葬所といふ石川にせめて雲なりとも立渡れといへるに止まりて雲の立つといふことに深き寓意あるにあらざるべし。以上第二段落とす。この段落の上に「せめて」といふ如き意を含めて見るべし。
○見乍將偲 舊訓「ミツツシノバム」とよみたるを考に「ミツツシヌバム」とよめり。「シヌブ」といふ語の事は卷一「六」の「小竹櫃」の下にいひ、又「偲」を「シヌブ」とよむ事は卷一「六六」の下にいへり。さてこの句の上に「それをだに」などいふ如き意を含めて解すべし。
○一首の意 夫、人麿は既にみまかれりと人のいへば直接にあひ見むとせば、相見む事も難からむ。せめてはその葬地なりといふ石川に雲なりとも立ち渡れかし。然らば、それをだにかた(691)みとみつつ夫を偲ぶよすがとせむとなり。以上この依羅娘子につきては既にいひたる如く多くの學者、大和國にありし人にして、人麿の死をきゝて石見に下りてよめるものなりとせり。然れどもこの詞書は上の「在石見國臨死時」とあるをうけてそのまゝ直ちに人麿死時とあれば、その妻が特に石見に下れりといふ事は全く見えず、しかも歌の趣はその石見國にての詠と聞ゆることは明かなり。而して、上の相聞歌の趣も亦依羅娘子は石見に在りし事を示せり。これらによりて京に在りてよめりとする説も京より遽に下れりとする説も信ずるに足らずと知られたり。
 
丹比眞人名闕擬2柿本朝臣人麿之意1報歌
 
○丹比眞人名闕 「タヂヒノマヒト」なり。「闕」の二字流布本大字にせれど、金澤本、類聚古集、神田本、西本願寺本、細井本、温故堂本、大矢本、京都大學本に小字横行にせるによりてここに旁書せり。さて「丹比」は氏「眞人」は姓なるが、この人如何なる人なるか、名闕とあればもとより詳かならぬが、卷八秋相聞にも丹比眞人歌一首(一六〇九)とありてその下に「名闕」と注せり。又卷九にも丹比眞人歌一首(一七二六)あり。この外に丹比氏の人にして名を記せるもの笠麿(二)國人(二)縣守(二)屋主(三)乙麿(三)土作《ハニシ》(七)鷹主(七)あり。されど、ここに名闕とあれば、上の七人のうちの一人なりや、はた七人の外なりや今にしてもとより知るべからず。種々の説をなせるものはいづれも推當の論なり。
(692)○擬2柿本朝臣人磨之意1 「擬」は考に「ナゾラヘテ」とよみたるが、攷證に「はかりてとよむべし。玉篇に擬魚理切度也と見えたり。」とあり。されどここは柿本人麿の意を推しはかりそれになぞらへつくれるなれば、意味の重點は「なぞらふ」ことにあるべければ、よみ方は考によるべし。
○報歌 考には「報と云へき所にあらず、後人さかしらに加へし言と見ゆ」といひて、「作歌」と改めたり。道理はさることなれど、ここは柿本人麿が、返歌としてかくあらむかと、はかり擬してよめるなれば、報歌とある方よかるべきなり。ただ今のかき方にては實際に報じたる如くに聞ゆる點が面白からぬなり。さりとてこれにて不都合なりといふべきにもあらず。
 さてこの歌は上の依羅娘子の歌の報としてよめりとするが、普通の人の見解にして契沖以下大抵かく認めたり。然るに、檜嬬手はこれをさきの狹岑島の石中の死人に擬してよめりとして歌の付置を改めて、かの反歌の次におき、その詞書も
  丹比眞人名擬石中死人報〔五字左○〕柿本朝臣人麿作歌一首
と改めたり。その説明に曰はく「歌の意石中死人の人麿に報へたるなれば、右の如く端書を補ひて原《モト》に復《カヘ》しつ」と。げに歌のさま一往この説の如くに聞ゆる點もあれど、かく位置を改め詞書をまで改め造るはいみじきさかしらといふべし。この事につきてはなほ下にいふべし。
 
226 荒浪爾《アラナミニ》、縁來玉乎《ヨリクルタマヲ》、枕爾置《マクラニオキ》、吾此間有跡《ワレココニアリト》、誰將告《タレカツゲケム》。
 
○荒浪爾 「アラナミニ」とよむ。意明かなり。
(693)○縁來玉乎 舊板本「ヨリクルタマヲ」とよみたるを金澤本類聚古集に「ヨセクルタマヲ」とよみ考またかくよめるより人多くはこれに從へり。然るに、「縁」字は動詞としては「ヨル」とよむが普通のことにして「ヨス」とよむは無理なること卷一、「三」の歌の下にもいへる如し。なほ又「ヨセクル」といふ時は、その玉の自らよせくる事と解すべきに至らむが、さる事は決してあるまじき事にして、荒浪の打よするによりて玉がよりくる事なれば、舊訓をよしとす。若し又必ず「ヨセクル」とよまむは、上の句は、荒浪乃〔右○〕」といひて「荒浪爾」とはあるべからず。さてここに玉といへるは、卷一「一二」の歌に「底深伎阿胡根能浦乃珠曾不拾」の下にいへる如く、貝をもその貝の中に生ずる珠をもいへるならむが、又石をもよめるならむ。卷七「一二〇六」に「奧津波部都藻纏持依來十方《オキツナミヘツモマキモチヨリクトモ》、君爾益有玉將縁八方《キミニマサレルタマヨラメヤモ》」などもここの語例とすべし。
○枕爾置 舊板本「マクラニテ」とよみたるが、古葉略類聚妙に「マクラニヲキ」とよみたり。代匠記には「マクラニオキ」とよみ、童蒙抄は「置」は、「四直」二字の誤として、「マクラニシテ」かといひ、考は「置と有は理りなし「卷」の草より誤しものなり」として「マクラニマキ」とよみたり。されど、諸本すべて誤なければ、誤字説はうけられず。次に「置」を「テ」とよむべき理由なければ、舊板本の訓も從ひがたし。されば代匠記の説によりて「マクラニオキ」とよむべきなり。枕は枕邊即ち枕の方の義にして、伏したる枕の方に玉を置きといふ語なるが、その意は玉即ち荒浪にて海より打ち寄せられたる貝や玉やのある所に伏〔二字右○〕しての意なるを、歌詞としてかくいへるなり。理なきが如くなれど、かくの如きは歌詞の常なり。理なしなどいふべき事にあらず。
(694)○吾此間有跡 「ワレコヽナリト」とよむ。古義には「コヽニアリ」とよみたれど、いづれにてもよきなり。われここに有りといふ義なり。即ち「われここに海邊の貝や石やを枕にして伏して有りと」といふ意なるべし。
○誰將告 舊板本「タレカツケナム」とよみたるが、金澤本、古葉略類聚鈔、類聚古集等には「ツケヽム」とよみ、考は「ツケマシ」とよめり。按ずるに「マシ」とよまむには古語の例によりて上に同じく「マシ」の語のあるべき筈なれば考の説は從ふべからず。又「將」字は普通「ム」にあつる字なれど、場合によりては「ラム」とも「ケム」とも「ナム」ともよまるべく用ゐたり。この卷にても「一四二」に「磐代乃岸之松枝將結人者反而復將見鴨」とある「將」は二字とも「ケム」にあてたり。さてここは「ツゲナム」とも「ツグラム」「ツゲケム」ともよまるべきが、「ツゲケム」とよまむ方歌の意に叶へりと見ゆ。なほこの事は下にいふべきがその意は誰がわが事を家人に告げけむかとなり。
○一首の意 これにつきては大體二説あり。その二説をば、註疏に併せ説きたれば先づそれをあぐべし。曰はく「古義には板本にツゲヽムとあるに從て誰有てか吾此處にて死《ミマガ》りたる事を告行て妻を歎き下らしめけむと云よしに解けり。されど思ふに上句も人麿の國衙にてみまがれるを作《ヨメ》るさまならず。さるは「石川の峽《カヒ》にまじりて」などはいひもすべけれど、、「荒波によせ來る玉を枕に置といひては海邊にて溺死などしたらん人の如し。いかにもかくはよむまじくおぼゆ。守部がいへるは此歌は上なる人麿の石中死人をよめる歌の意に擬てそれに報《コタ》へし歌なりといへり。もし然れば、荒浪の玉をよせ來るはげしき海邊を枕としてここにありと(695)いふことを誰か家の人にも告なむ。告る人もなしといふ意にて人麿のよみたる厚意に謝《コタヘ》たるなるべし。これ一説に備ふべし。」といへり。按ずるに、この歌の意はまさに古義の説けるに近きものなるべし。されど、「妻を歎き下らしめけむ」といふ意に説けるは首肯すべからず。これは荒浪のよせくるはげしき濱邊を枕としてわれここに有りと誰か家の人に告げけむといひてその妻にいかにして我がここにあることを知りたまへりしかといへるなり。ここに人麿が海邊にて死せるを見るべし。これによりて考ふるに、この歌、妻がその死地又は葬地に臨まずしてその訃報を受け取りしことをのみいへるものとすべきなり。かくて守部の詞書を改修したるはさかしらなりといふべきこと著し。
 
或本歌曰
 
○ 左注によるに、ここにこの歌を載せたるは古本にかく載せたるまゝに從へる事著し。然るに、考には
  擬2柿本朝臣人麿妻之意1作歌
といふ詞書を製し加へ、檜嬬手は又
  丹比眞人名擬2石中死人妻1報2柿本朝臣人麿1作歌
といふ詞書を製し加へて、位置をも上の歌の次にうつせり。然れども、かくの如きことはいづれもさかしらなれば從ふべからず。ただ古よりのまゝにあるべし。
 
(696)227 天離《アマサカル》、夷之荒野爾《ヒナノアラヌニ》、君乎置而《キミヲオキテ》、念乍有者《オモヒツツアレバ》、生刀毛無《イケルトモナシ》。
 
○天離 「アマサカル」とよむ。その意及び夷の枕詞とすることは卷一(二九)にいへり。
○夷之荒野爾 「ヒナノアラヌニ」なり。「荒野」は卷一(四七)にいへり。田舍の人氣稀なる野になり。
○君乎置而 「キミヲオキテ」なり。上の(二一二)「衾道乎引手乃山爾妹乎置而」といへるに同じ趣にして、君をさる荒野に葬り置きての意なり。
○念乍有者 「オモヒツヽアレバ」なり。童蒙抄に「シノヒツツ」とよみたれど、「念」は「オモフ」とよむべく、又「オモヒツヽアレバ」にて意よく通るなり。君の事を思ひつゝ在ればといふなり。
○生刀毛無 舊訓「イケリトモナシ」とよめり。これは上の「二一二」に「引手乃山爾妹乎置而山徑往者生跡毛無」とあると同じ詞なれば、そこにいへるに同じく「イクルトモナシ」とよみてあるべし。意もそこにいへり。
○一首の意 これにつきては攷證に「この歌を人麿の妻の意にかはりてよめる歌也」といひたるが、古今の諸家多くかく見たり。果して然りといふ證もなき事なれど、歌の意然るべく思はる。即ちかゝる田舍のしかもすさまじき所に君を葬置きて、さてその事を念ひつつかくてあれば、生きてある心地もせずとなり。
 
右一首歌作者末v詳。但古本以2此歌1載2於此次1也。
 
(697)○ この左注につきて註疏に曰はく「かくあれば人麿の死にも石中死人の事にもあづからぬ異歌なるをここに載せたるならむ歟」と。まことにこの説の如くなるべし。されど、かく注せる人が、この歌をここに載せたることは、全然無意味にてせしにもあらざるべし。
 
寧樂宮
 
○ この三字につきて考は「今本ここに寧樂宮とせるは和銅三年の遷都なれば也。然れども、此標上の例によりて同元年の所へ出しつ」とて、これを「但馬皇女薨後穗積皇子冬日雪落遙2望御墓1悲傷流涕御作歌」の前にうつし、さてその頭注に曰はく、「下の和銅四年と有所に此標あれ(て)上卷の例に依てここに出す」と。これに傚ひて略解、以下多くかくせるが、檜嬬手の如きは、更にそれを「寧樂宮御宇天皇御代」とさへ改め修せり。されど、攷證、註疏などはもとのまゝなるをよしとせり。そがうちにも註疏は「例によれば宮字の下御宇天皇代の五字あるべし。寧樂は元明より光仁まで凡七御代ましませり」といへり。按ずるに、この宮の名をあぐる事は卷一にもあれど、それにも寧樂宮とのみありて、御宇天皇代の文字なし。されば、この宮の條は上の他の御宇天皇を以て標したると少しく異なる心にて記したるなるべく、思はる。これにつきては攷證卷一の頭書に「藤原宮までは過さりし宮都なれば、その所に都を遷給はぬまへをもその天皇の御宇の歌をば、その宮の御宇天皇の下に載へき事、尤さる事なれど、寧樂宮は當代までの都なれば、當都よりは年月をこまかにわけしなり」といへるはその眞意に近きが如くなれど、わが思ふ(698)所は少しくそれとも異なり。これは恐らくはこの卷を記しし人がこの御世の人なりしなるべくして、その當代の御事をは「御宇天皇代」といふ如く、過去の天皇をさし奉る如き口吻を以て申し奉るは憚るべきことなれば、ただ宮號をのみ標目したるなるべし。即ち過去の御宇はいづれも「某宮御宇天皇代」とし、當代なるが故に宮號のみあげしならむと思はる。次に、ここにこの三字あることは恐らくは元本のままにして動かすを要せざるものなるべし。その故は寧樂宮に遷都ありしは和銅三年三月なるが故なり。既に御宇天皇代といふことを標目とせぬ以上は實際の遷都ありし時以後を以てその宮の御時とすべきは當然といふべし。されば和銅三年の三月以前の部分に寧樂宮の文字をうつすはかへりて不當なるべくして、和銅四年の上にあるが當然なりといふべし。かくして同時にかの人麿の死は和銅三年三月以前なりしことをも想像しうべき筈なり。
 
和銅四年歳次辛亥河邊宮人姫島松原見2孃子屍1悲歎作歌二首
 
○和銅四年歳次辛亥 「辛亥」の二字古葉略類聚鈔に小字二行とせり。考は歳次二字を衍と認め「時と月とは落しならん」といへり。或はさる事ならむが、今にして知るべからぬ事にしていづれの本もかくあれば、それに基づきて考ふるより外の方法なきなり。「歳次」は諸書これを讀まねど、元來は歳星の次るところをさす語なれば、無意義のものにあらず。そのよみ方は本義は「ほしのやどり」とよむべきものなるが「トシノツイデ」ともよむべし。
(699)○河邊宮人 これは氏は河邊名は宮人といふ人をさせるならむが、その人は史書に傳ふる所なし。この人の名は卷三にも見えて、そこはここの歌に對しての異傳をあげたるなり。即ちその詞書もここと大差なくして歌四首(四三四−四三七)を載せたるが歌は一首も同じきものあらず。かくてこの人のことは明かならず。この河邊氏につきては、攷證に「河邊氏は新撰姓氏録卷四に川邊朝臣武内宿禰四世孫宗我宿禰之後也云々。書紀天武紀に十三年十一月戊申朔川邊臣賜v姓曰2朝臣1云々とありて姓朝臣なるをいかにしてかここに姓を脱しけん本集六【廿七丁】八【十七丁】十九【卅一丁】などに河邊東人てふ人のあるはかたのことく朝臣の姓を加へたり」といへり。古義もかゝる意見と見えて、その人物傳には朝臣の部にこの人を收めたり。然れどもこの卷一、二の例を見るに、あるべき姓を省けるが如きはあらず。これによりて案ずるに、こはもとより姓のなき人にして朝臣の姓ある河邊氏にはあらざる人なるべし。河邊氏は新撰姓氏録には載せねど他の一族あり。そは勝の一族にして、大寶二年豐前國上三宅郡加自久也里の戸籍に河邊勝鳥賣その他の一族九人の名その他河邊勝の姓なるものの名を載すること少からず。もとよりこの豐前國の河邊氏がここの河邊宮人の一族なりといふにあらねど、川邊氏には朝臣ならぬ他のものもありしことの證には確かになりぬべし。この故に、これを朝臣の姓を脱せりといふは受けとり難き説なり。これは恐らく姓なき人にして或は「勝」なりしかも知られず。而してその氏の川邊はこの歌の趣によるに蓋攝津國川邊郡の地名に因みしならむ。新撰姓氏録考證には萬葉二に河邊宮人などみえしは部曲の氏人なるべしといへり。(勝《カチ》は歸化(700)人の一種の稱號たりしなり)
○姫島松原 この松原の事は仙覺秒に引ける攝津風土記に曰はく「比賣島松原、古輕島阿岐羅宮御宇天皇御宇、新羅國有2女神1、遁2去其夫1暫住2筑紫國伊波比乃比賣島1。乃曰此島者猶不2是遠1、若居2此島1男神尋來、乃遷來2停此島1故取2本所v住之地名1以爲2島名1。」と見えたるが、その島は又日本紀安閑卷二年條に「別勅2大連1云、宜vd放23牛於難波大隅島與媛島松原1冀垂c名於後u」と見えたる處にしてここに御牧ありしこと上の紀の文にて知られたるが、續日本紀によれは靈龜二年二月に「令3攝津國罷2大隅媛島二牧1聽3佰姓佃2島食之1」とあれば、この歌よみし頃はなほその地帶、牧たりしならむ。この地は古來より名高かりし所と見えて、、古事記下卷仁徳天皇卷に「亦一時天皇爲v將2豐樂1南幸2行日女島1之時云々」と見えたり。この島は攝津國西成郡にして古事記記傳に「難波の古き圖を見るに、姫島は九條島の南に並びたる島にて今(ノ)世に勘助島と云處のあたりにあたれり。大阪の西の邊りにて南によれる處なり。然るを或説には姫島は今|稗《ヒエ》島と云處是なりと云り。稗島村は下中島と云處の内にて大阪の西北方なり。彼古圖の地とは合はず。なほよく尋ねて定むべし」といへり。而して日本書紀通釋には別に一説あり。東生郡猪飼銅野村より西北方に方る所姫島なりとも云り」とあげたり。かく諸説ありて未だ遽に定むべからず。
○見孃子屍 孃子は「ヲトメ」とよむべし。孃は娘におなじ。娘子を「ヲトメ」とよむことは卷一「六九」の歌主に例あり。卷三なるには「見姫島松原美人屍」とかけり。これはそこに横はれる屍體を見たるなるべし。
(701)○悲歎作歌 卷三なるは「哀慟作歌」とかけり。いづれも、「カナシミテヨメルウタ」とよみてあるべく思はる。さてこの歌は藤原濱成撰の歌經標式にも見ゆるがそれには角沙彌美人名譽歌と題せり。この方、この歌の意にふさはしくきこゆ。これにつきては下にいふべし。角沙彌といふ人も亦詳ならず。
 
228 妹之名者《イモガナハ》、千代爾將流《チヨニナガレム》、姫島之《ヒメシマノ》、子松之末爾《コマツガウレニ》、蘿生萬代爾《コケムスマデニ》。
 
○妹之名者 「イモガナハ」とよむ。歌經標式には「伊母我那婆」とかけり。ここにいふ「妹」は、その屍の當人をさせるなり。さてここに名は流れむといひたれど、その名を何といひしかはこの歌にては知られず、又その何人とも知らぬ人の屍をよみたるなるべければ、その人の實際の名につきていへりとは考へられず。されば、ここにいふ名は實際の名をさせるにあらずして、その人の事といふ程の意に止まるものならむ。
○千代爾將流 古來冬く「チヨニナガレム」とよみ來れるが、金澤本には「ナカサム」とあり。歌經標式「知與爾那我禮牟」とかけり。ここはおのづから流れむといふ意に解するを穩なりとすれば、「ナガレム」の方をよしとすべし。これは上の明日香皇女を奉悼せし人麿の歌(一九六)に「御名爾戀世流明日香河及萬内代云々」といへると同じ心ちにていへるなり。「ながる」は元來「長」といふ語が源にて活用せしものなれば、永くつづく事をいへるなり。以上にて終止せるが、下三句は修飾格なるを顛倒しておけるなり。
(702)○姫島之 舊訓「ヒメシマガ」とよめり。されど、大多數の古寫本「ヒメシマノ」とよみ、代匠記またしかよみ、それより後の學者もそれをよしとせり。實にもここを「が」とよみては「ヒメシマガコマツ」といふ一語成立してありしこととなるべきが、さることあるべくもあらず。「ノ」とよむべきなり。歌經標式にはこれと次句とを「比賣旨麻爾古麻都我延陀能」とあり。されど、本歌の方をよしとす。
○子松之末爾 舊訓「コマツノウレニ」とよめり。古葉略類聚妙には「コマツカスエニ」とよみ、神田本「コマツカエタニ」とよみ、類聚古集、細井本、温故堂本、京都大學本には「コマガウレニ」とよめり。代匠記また「コマツガウレニ」とよみて諸家それに從へり。按ずるに「末」は「エタ」とよむべき字にあらず「スヱ」とも「ウレ」ともよむべきが、「ウレ」とよむをよしとす。「ウレ」の事はこの卷、「一二八」の「葦若末」の下にいへり。ただ問題は「之」を「ガ」とよむがよきか、「ノ」とよむがよきかといふ事なるが、これは、いづれにもよるべくして、假名書にて證明すること能はざれど本集に「コ松」と「ウレ」とをつづけたる歌ここの外に「一四六」「一九三七」「二三一四」「二四二三」「二四八七」の五首あれどいづれも古來「コマツガウレ」とよみ來れり。然らば、ここのみを「ノ」とよむは特別の理由なき限り、從ふべからざる事なり。
○蘿生萬代爾 「コケムスマデニ」なり。「蘿」は上「一一三」の詞書に「蘿生松柯」とある下にていへる如く、「マツノコケ」即ち「サルヲガセ」なり。これを考に「日影かづら」といへるは、當らず。日影葛は地上に這ひ生ずるものにして木梢に着生するものにあらず。又古義に「蘿字は書たれども、たゞ(403)よのつねの苔なり」といへり。然れども、註疏にはそれを否として曰はく「古義に蘿字は書たれども、たゞよのつねの苔なりといへど、こは蘿ともよのつねの苔とも定むべきほどならぬ小松の事ながら松にはかならず羅《サルヲカセ》のおひかゝるものなれば千とせへて小松のすゑに蘿のおふるまでもといへるなり」といへり。この説よしとすべし。然る時は同じく「コケ」とはよめど、蘿はその字義によりてかけりと見るべきなり。卷七「一二二四」に「安大部去小爲手乃山之眞木葉毛久不見者蘿生爾家里《アタヘユクヲステノヤマノマキノハモヒサシクミネバコケオヒニケリ》」などもこれの例なり。「萬代爾」三字は音をかりてかけり。その例は卷一「一七」に見ゆ。
 以上三句は千代に流れむといふ事の修飾格におきたるなり。
○一首の意 わが見る娘子よ。君の身體はこの姫島の松原に空しく朽ちぬとも、この島にある小松が老木となりて、その末に蘿の生ずる遠き千萬年の後までもわが娘子の名は流れ傳はらむとなり。さてかく解してこの詞書に照すに、この歌には死者を悲めるさまみえず。而して卷三なる四首中にも直接に死者をよめるにあらざるものあり。これは恐らくはその死者をうたへたる數首連作の中の一たりしものを抽出せし爲にかかるさまを呈せるならむ。
 
229 難波方《ナニハガタ》、鹽干勿有曾禰《シホヒナアリソネ》。沈之《シヅミニシ》、妹之光儀乎《イモガスガタヲ》、見卷苦流思母《ミマククルシモ》。
 
○難波方 「ナニハガタ」とよむ。「方」は借字にして、その「カタ」は新撰字鏡に「灘」字「滷」字「洲」字に注して「加太」といへるその「カタ」にして、和名砂に「潟」を注して「文選海賦云海廣潟【思積反與昔同師説加太】といへる語(704)なり。「カタ」の語は上相聞の柿本人麿石見の長歌(一三一等)に見えたれど、それは裏日本の海岸の地にていふ一種の湖にして、ここは表日本の海岸の地にいふ「ひかた」の「かた」なり。而して、潟滷洲の文字はいづれもこの意の「カタ」をさせるなり。「ナニハ」に「ヒカタ」のありしことは本集に多くの證を存す。その事は次の句の下にいふ。
○鹽干勿有曾禰 「シホヒナアリソネ」とよむ。「鹽干」は潮のひるなり。「ナニハカタ」に「ヒカタ」のありし由は、卷四「五三三」に「難波方鹽干之名凝鞄左右二人之見兄乎吾四芝毛《ナニハガタシホヒノナゴリアクマデニヒトノミルコヲワレシトモシモ》」卷六「九七六」に「難波方潮干乃奈凝委曲見在家妹之待將問多米《ナニハガタシホヒノナゴリヨクミテナイヘナルイモガマチトハムタメ》」卷七「一一六〇」に「難波方鹽干爾立而見渡者淡路島爾多豆渡所見《ナニハガタシホヒニタチテミワタセハアハヂノシマニタヅワタルミユ》」卷九「一七二六」に「難波方鹽干爾出而玉藻苅海未通(女)等汝名告左禰《ナニハガタシホヒニイデテタマモカルアマヲトメドモナガナノラサネ》」などにて見るべし。「勿ありそ」は所謂「ナソ」の格にしてその下に他に誂ふる意を示す終助詞「ね」を添へたるなり。その例は卷七「一二七四」に「住吉出見濱柴莫苅曾尼《スミノエノイツミノハマノシバナカリソネ》」卷十九「四二二八」に「大殿乃此母等保里能雪奈布美曾禰《オホトノコノモトホリノユキナフミソネ》」卷二十「四三三五」に「宇奈波良乃宇倍爾奈美那佐伎曾禰《ウナハラノウヘニナミナサキソネ》」「四四五七」に「和我見流乎努能久佐奈加利曾禰《ワガミルヲヌノクサナカリソネ》」なり。以上一段落なり。
○沈之 「ンヅミニシ」とよむ。「シヅミシ」ともよむべき文字なれど音數足らねば、「シヅミニシ」とよむをよしとす。これによれば、その屍體は潮干れば見え、潮滿つれば見えざりしものと考へらる。
○妹之光儀乎 「イモガスガタヲ」とよむ。「イモ」はその死せる婦人をさせり。「光儀」は支那に存する熟字にして文選の禰衡が鸚鵡賦に、「背(テ)2蠻夷之下國1侍(ヘリ)2君子之光儀1」と見え范雲が詩にも「誰云相(705)去遠、脉脉阻2光儀1」とあり。その注に「光景容儀(ナリ)」とあり。光儀二字を一語としてよみたる例は本邦の字書には末だ見えぬが、類聚名義抄には「光」に「ウルハシ」「儀」に「スガタ」の訓あり。されば字面どほりにては「ウルハシキスガタ」といふべき如し。然れどこは文選の注の如く「容儀」の意にして、古よりよめるまゝにただ「スガタ」とよむべし。「光儀」を「スガタ」にあてたる例は卷十「二二九」に「秋芽子之上爾白露毎置見管曾思努布君之光儀乎《アキハギノウヘニシラツユオクゴトニミツツゾシヌブキミガスガタヲ》」卷十二「二八八三」に「外目毛君之光儀乎見而者社吾戀山目命不死者《ヨソメニモキミガスガタヲミテハコソワカコヒヤマメイノチシナズバ》」「二九三三」に「不相念公者雖座肩戀爾吾者衣戀君之光儀《アヒオモハズキミハマセトモカタコヒニワレハゾコフルキミガスガタニ》」「三〇〇七」に「野干玉夜渡月之清者吉見而申尾君之光儀乎《ヌバタマノヨワタルツキノサヤケクハヨクミテマシヲキミガスガタヲ》」「三〇五一」に「吾波曾戀流君之光儀乎《ワレハゾコフルキミガスガタヲ》」卷八「一六二二」に「吾屋戸乃秋之芳子開夕影爾今毛見師香妹之光儀乎《ワガヤトノアキノハギサキユフカゲニイマモミテシガイモガスガタヲ》」卷十「二二八四」に「秋芽子之四搓二將有妹之光儀乎《アキハギノシナヒニアラマウイモカスガタヲ》」卷十二「三〇八四」に「代二毛不忘妹之光儀者《ヨニモワスレズイモガスガタハ》」などあり。いづれも「スガタ」とよみ來り、又それより外のよみ方なく見ゆるが、その用ゐたる場合を通じて見るに「君が光儀」「妹が光儀」などすべて賞美する意を下に含めてかけりと見えたり。
○見卷苦流思母 「ミマククルシモ」とよむ。「卷」は上の「一〇三」に「大原乃古爾之郷爾落卷者後」などに見ゆる借字にして「見マク」の「ク」は「コト」の意なり。「クルシ」は苦しき意にて「クルシモ」の「モ」は歎息の意を含めたるなり。
○一首の意 この難波潟には鹽の干るといふ事なかれ。鹽乾なば海中に沈み溺れ死にてある妹が容儀の見えむが、それを見む事のいたはしく心苦しければ、乾る事なかれとなり。
 
(706)靈龜元年歳次乙卯秋九月志貴親〔左○〕王薨時作歌一首并短歌。
 
○靈龜元年歳次乙卯秋九月 考には「靈龜二年丙辰秋八月」と改めたり。これは蓋し續日本紀同年八月の條に「甲辰朔甲寅(十一日)二品志貴親主薨云々とあるによりたるものなるべし。若し果して、かくの如しとせば、何故に本書に靈龜元年九月とせしか。頗る奇怪の事といふべし。これにつきてはなほ次に論ずべし。
○志貴親〔左○〕王薨時 「親」字流布本「視」につくれり。古寫本すべて「親」字につくれるを是とすべし。蓋し、古活字本に生ぜし誤植に基づくものなるべし。さてこの親王は卷一の「五一」及びその後二三の歌の詞書にある「志貴皇子」と同じ方なるべし。この方は既にいへる如、天智天皇第七の皇子にして光仁天皇の御父にましませるが、卷一に「志貴皇子とかき、こゝに「志貴親王」とかけるは一致せぬに似たり。されど、大寶令繼嗣令の制に「凡皇兄弟皇子皆爲2親王1」とあれば、そのとき以後「親王」と書くが、當時の制度に從へるにて「皇子」とかくはその法令制定以前の書き方と見えたり。さてこの親王の薨ぜられしは續紀には前記のごとく「二年八月」と見ゆれば、本書の記載と一致せざるなり。この故に考はその詞書の年月を續日本紀の如くに改めむとせり。されど、誤も一二字なるは考へらるべけれど、かく年月干支までも同時に誤れりとするは無理なりといふべし。この故にこれを釋せむ爲に二樣の説起れり。一は攷證の説なり。曰はく「續日本紀に、靈龜二年八月(甲辰)庚寅(十一日)二品志貴親王薨云々とあるを、こ二には靈龜元年とあり(707)て、しかも干支をさへたしかに紀したるはいとあやしきに似たれど「よく/\考れば、ここに靈龜元年九月とあるぞ正しかりける。いかにとなれば、この元年九月は元正天皇御即位の事ありて、さわがしく、しかもいまはしき事を忌はゞかるをりなれば、實はこの元年九月、薨給ひしなるべけれど、翌年八月まで薨奏延長して、翌八月薨奏せしかば、その日を以て紀にはしるされたるものにて、ここに元年九月とあるは實に薨給ひし時也。これらにてもこの集は貴くかたじけなき古書なるをしるべし。」といへり。他の一は契沖の説にして古義これを敷衍せり。古義に曰はく、「志貴(ノ)親王は天武天皇の皇子磯城皇子なるべし。天武天皇紀に朱鳥元年八月癸未芝基(ノ)皇子磯城(ノ)皇子各封加2二百戸1と見えたり。此磯城(ノ)皇子の薨賜へる年月紀文に見えず、記し漏せるか、又後に脱したるにもあるべきなれば、此集をもて證とすべきか。」といひ、又天智の皇子なる志貴親王につきて一往の説を述べてさて曰はく「さて、集中にも其皇子を志貴と書し續紀にも志貴(ノ)親王とも志紀親王とも書るを思へば、此《コヽ》なるも其同じ皇子ならむとも思はるれども後(ノ)皇子は靈龜二年八月甲寅に薨賜へるよし、續紀にも見えて、今とは年も月もたがへるを、然ばかりやごとなき皇子の薨をおぼえたがひて選者のしるすべくもあらざめれば、なほ磯城《シキ》の皇子なるべし。」といへり。ここに天智天皇の皇子なる芝基皇子、天武天皇の皇子なる磯城皇子殆ど同じ名の皇子同時に二人おはせは甚だ紛はしき事となれりといふべし。さて、日本紀を見るに、天智天皇の御子なるは「施基皇子」(天智紀)天武天皇の御子なるは日本紀に磯城皇子(天武二年條)「芝基皇子」(同八年條)と見えたるが持統天皇の三年なるに見ゆる「皇子施基」は天智の皇子(708)なるべし。然るに朱鳥元年なるには芝基皇子磯城皇子と見ゆれば、はやく二皇子の名混同して一となれわと見ゆ。さて又續紀に見ゆる志貴親王はその下に明かに「寶龜元年追尊稱2御春日宮天皇1」とあれば、天智の御子なる方をさせり。然るに又本集卷十三「三二五四」に「志貴島倭國」とあるは「磯城島」と同じ語を記せるなれば、この「磯城親王も磯城皇子にあらずと斷言するを得ざる筈なり。以上の如くなれば、この磯城皇子なりと定むる事は不可能なりとす。然らば、天智の皇子とせむか續紀に牴觸す。天武の皇子とせむか、古書に證なし。さて本集なる志貴皇子の御歌六首のうち五首後世の勅撰集(新古今(一)新勅撰(二)續古今(二))に入れるがいづれも田原天皇御製と見えたれば古來天智の皇子の方と信ぜられしことなるは明かなり。然らば、靈龜元年の薨とすることは如何。これは攷證の如くに解せずば、天智天皇の皇子の方なりとはいふを得ざらむ。然れども、果してさる事を信じうべきか如何。古昔親王大臣等の薨去には薨奏の儀ありしが、新年などには直に上奏せぬ例なりしことは北山抄の薨奏の條に「前例新年始奏時不奏凶事」と見えたるにて知られたるのみならず、實例を見るに、寛和二年五月十五日視子内親王の薨せしを五月二十二日に奏上したる如く、二三週の後に薨奏のありし例はあれど、それも、事實のまゝに記してあるなり。今ここを薨奏の事に基づくとせば、靈龜元年九月は元正天皇受禅即位の大禮をあげさせられたるなれば、その時にこの薨去ありしならば、薨奏は後れたりしならむといふ事は當然考へらる。されども殆ど一年の後に薨奏し、しかも、その薨奏の時を薨去の日とせりとすべき事となるが、かかる事の當時行はれしか否か、頗る疑ふべし。さ(709)ればこの事はいずれにしても決定的の事はいひうべきにあらねば、疑を存しおくべし。但し、續紀光仁天皇寶龜二年五月に「甲寅(ノ)始設2田原天皇(ノ)八月九日(ノ)忌齋(ヲ)於川原寺(ニ)1」とあれば、その薨去の月は八月なりしなるべければ、ここに九月といふは當らず。さりとて續紀の二年八月甲寅の日に薨去ありとせるが、甲寅日が九日ならば、朔日は、丙午なるべきに流布本には甲辰朔と注せり。甲辰朔ならば甲寅は十一日なり。かた/\續日本紀にも誤あるを見るなり。
○作歌一首井短歌 「短歌」の二字多くの古寫本小字にせり。この歌作者を記さず。されど左注には笠朝臣金村の集に出づといへり。この事につきては左注の下に説くべし。
 
230 梓弓《アツサユミ》、手取持而《テニトリモチテ》、丈夫之《マスラヲノ》、得物矢手挿《サツヤダハサミ》、立向《タチムカフ》、高圓山爾《タカマトヤマニ》、春野燒《ハルヌヤク》、野火登見左右《ヌビトミルマデ》、燎火乎《モユルヒヲ》、何如問者《イカニトトヘバ》、玉桙之《タマホコノ》、道來人乃《ミチクルヒトノ》、泣涙《ナクナミダ》、※[雨/沛]霖〔二字左○〕爾落者《コサメニフレバ》、白妙之《シロタヘノ》、衣※[泥/土]漬而《コロモヒヅチテ》、立留《タチトマリ》、吾爾語久《ワレニカタラク》、何鴨《ナニシカモ》、本名言《モトナイヘル》、聞者《キケバ》、泣耳師所哭《ネノミシナカユ》、語者《カタレバ》、心曾痛《ココロゾイタキ》、天皇之《スメロキノ》、神之御子之《カミノミコノ》、御駕之《イデマシノ》、手火之光曾《タビノヒカリゾ》、幾許照而有《ココダテリタル》。
 
○梓弓 「アヅサユミ」よみ方解義に議論なし。
○手取持而 「テニトリモチテ」なり。意明かなり。
○大夫之 金澤本「丈夫之」とかけれど、他の諸本皆「大夫」と書けり。「大夫之」とかけるは卷一の「五」「六(710)一」「七六」等皆然り。これを「マスラヲ」とよみて可なる事は卷一「五」の下にいへり。
○得物矢手插 舊訓「トモヤタバサミ」とよみたり。この字面は卷一「六一」の歌にあり。よみ方はそこと同じく、「サツヤタバサミ」とよむべきなり。意もそこに同じ。
○立向 「タチムカフ」なり。以上三句は卷一「六一」におなじきが、ここにはこの上二句をあはせ五句が「高圓山」といふ語を導く爲の序の詞にして、その序となる縁は高圓山の圓《マト》に存するなり。即ち大丈夫の梓弓を手に執り持ちて射むとて立ち向ふ的《マト》といふ縁にて序とせるなり。その關係、卷一「六一」の「大夫之得物矢手插立向射流圓方〔二字右○〕」といへるに著しく似たり。
○高圓山爾 「圓」字類聚古集に「國」とすれど他本管「圓」とありて誤なること著し。よみ方は「タカマトヤマニ」とよみて異論なし。この山の名は集中に屡出で「多可麻刀」(卷二十、「四二九五」「四三一六」「四三一九」「四五〇八」)「多加麻刀」(卷二十「四五〇六」「四五〇七」「四五一〇」「四二九六」「四二九七」)などかけるこれなり。この高圓山は今の奈良市の東、白毫寺の後の山にして春日山の南に谷をへだてて立てり。この山は西方の見渡しは舊平城宮址のあたりを一眸の下に收め、眺望よき地にして、聖武天皇の御宇にここに離宮を營まれ、その宮の事は本集卷二十などにも見えたり。而してこの高圓山をば、志貴親王の宮の在りし處なりといふ説ありて、己もはじめは然らむかと思ひしが、よく考ふれば、然らざるものと見ゆ。かく考ふる由は寶龜元年十一月にこの親王を追尊して天皇と稱し奉らるる時の宣命に「御春日宮皇子(ヲ)奉v稱2天皇1」とあれば、春日の地に住ませ給ひしことは明かなり。而して春日の地と高圓の地とは近き地なれども、高圓をもすべて春日(711)と稱へし由はその證を見ず。されば、春日の宮と高圓の宮とは自ら別なりしなるべし。而してこの頃また春日離宮といふが在りしことは和銅元年に平城京の經營をはじめられ、九月に天皇巡幸してその地形を見給ふついでに、春日離宮に到りましゝ事を續日本紀に載せたり。この春日離宮が、志貴親王の住ませ給ひし所か、或は又志貴親王の宮が別にありしかは明かならず。されど、春日宮は高圓にあらざることは考へざるべからず。果して然りとせば、何故にここに高圓山をいひたるかと考ふるに、この親王の御陵は所謂田原西陵にして、延喜式にはこれに注して「春日宮御宇天皇在大和國添上郡」とせるが、又その陵地によりて「田原天皇」とも申ししことは續紀に寶龜二年五月に「始設2田原天皇八月九日忌齋於川原寺1」とあるにても知られたり。その田原西陵は今田原村字東金坊の東失田原といふ地に儼然として存す。而して、春日の地よりこの田原西陵に至るべき順路は春日より南に向ひ高圓山の中腹をめぐり漸次に東方に轉じて東に鉢伏峠といふを超えて行くべき所なり。攷證にこの句を釋して「春日にをさめ奉らんとして御葬送のこの高圓山をすぎしなるべし」といへるは地理をとり違へたる失はもとよりいふまでもなけれど、御葬送が高圓山をすぎたりし由に考へたるは正しといふべし。
○春野燒 舊訓「ハルノヤク」とよみたれど「ハルヌヤク」とよむべし。「野を「ヌ」とよむこと卷一以來に屡いへり。「春野燒」は上の高市皇子宮殯宮の歌(一九九)に「冬木成春去來者毎野著而有火之云々」とあり、又その注に「一云冬木成春野燒之」とあるが如く、古燒畑をつくる爲に、春は野の枯草を燒きたるなり。
(712)○野火登見左右 舊訓「ノビトミルマデ」とよみたれど野火は「ヌビ」とよむをよしとすること上に同じ。「左右」を「マデ」とよむことは、卷一「三四」の「幾代左右」の下にいへり。
○燎火乎 舊訓「モユルヒヲ」とよみたるを考に「タケルヒヲ」とよめり。「燎」字は類聚名義抄に「モユ」とも「タク」とも注せる如く、いづれともよまるるものなれど、「モユル火」といふ時はその火の起りたる原因を考に入れずしてただその火のもえてある現象をあらはすに止まり、「タケル火」といふ時はその火を人がたける事を意識せる語となる。然るに、ここは遙にその火を眺めて何ぞと怪み問ふ由に見ゆるを以て考ふれば、「タケル火」といふべき所にあらざるなり。されば、舊訓をよしとす。さてその火は下の語によりて、御葬送の手火なりしことを知るべし。されどここにては未だその事の知られざるさまなり。
○何如問者 「イカニトトヘバ」とよむ。「何如」を「イカニ」といふは其の義によれるものなるが、「イカニ」といふ語の例は卷五「八一〇」に「伊可爾安良武日能《イカニアラムヒノ》」卷十五「三六四七」に「和伎毛故我伊可爾於毛倍可《ワキモコガイカニオモヘカ》」など多し。「あの火は如何に」と問へばといふなるが、誰に問ひしかと見るに、下に「道來人」といへるが、その問を受けし人なるを見る。
○玉桙之 「タマホコノ」にして「道」の枕詞なること、卷一「七九」の下にいへるなり。
○道來人乃 「ミチクルヒトノ」とよむ。道を往來する人なり。その語例卷十三「三二七六」に「玉桙乃乃道來人之立留阿常問者答遣田付乎不知《タマボコノミチクルヒトノタチドマリイカニトトヘバコタヘヤルタヅキヲシラニ》」又卷十九「四二一四」に「玉桙之道來人之傳言爾吾爾語良久《タマホコノミチクルヒトノツテゴトニワレニカタラク》」などあり。この往來する人に上の事を問ひしさまにうたへるなり。さてこの「道來人」は(713)主格にして、その人の「立ちとまり吾爾語らく」とつづくべき語勢にして下四句はこの道來人の悲めるさまを畫き出せる修飾格の句なり。
○泣涙 「ナクナミダ」とよむ。意明かなり。
○※[雨/沛]霖爾落者 舊訓「コサメニフレバ」とよみたるを、契沖は、代匠記の初稿にては「「ヒサメ」とよむべし」といひ、清撰本には訓はもとのまにして「※[雨/脉]※[雨/沐]の誤なるべし」ともいへり。童蒙抄には「ヲサメ」とよみ、考は「ヒサメ」とよめり。按ずるに「※[雨/沛]霖」の二字金澤本、温故堂本、大家本、京都大學本「※[雨/泳]※[雨/沐]」とかき、類聚古集「※[雨/冰]※[雨/沐]」西本願寺本「※[雨/流]※[雨/沐]」とかき、神田本「※[雨/衆]」とかけり。これはいづれにしても二字なるべきに、神田本一字にせるは誤なるべし。次に、上の古寫本ども下字は「※[雨/沐]※[雨/〓]」の二體あれど、本の字「※[雨/沐]」なるべし。この字は爾椎に「小雨謂之※[雨/沐]」と見ゆるものなり。又上の古寫本の上字は「※[雨/泳]」「※[雨/沛]」「※[雨/冰]」の三體あるが、いづれも他に見ざる文字なり。これは恐らくは「※[雨/脉]」字の訛なるべし。然るときは「※[雨/脉]※[雨/沐]」の字の系統のものは細井本以外のすべての古寫本にして、細井本のみ「※[雨/沛]霖」とかき、それの系統に屬するものが、古活字本及びその流布本なりといふことになるべし。さてこの二者いづれによるべきかといふに、「※[雨/脉]」「※[雨/沐]」はもとより支那より傳はれる熟字なれど、「※[雨/沛]霖」といへる熟字は未だきかざる所なり。而してその字義を檢すれば、「霖」は和名抄に「文字集略云※[雨/沛]音沛大雨也」と見え「ヒサメ」の訓を注し、「霖」は和名抄に「兼名苑注云霖【音林和名奈加阿女今案一名連雨一名苦雨】三日以上雨也」とありて、一方は大雨、一方は連雨にて二者の熟字をなすは殆ど有りうべからざるが如く考へらる。この故に若し、これらが二者相合するものは上字によれば、「ヒサメ」とよむべく、下字に(714)よれば「ナガアメ」とよむべきものにして二者相合して如何なる義とよみ方とをなすべきかは今想像するに苦しむものなり。而して、大多數の古寫本の文字は正しく「※[雨/脉]」「※[雨/沐]」とはあらざれども、古來「コサメ」とのみよみ來りて他の訓なきを見れば、もと「※[雨/脉]」「※[雨/沐]」とかきたるをあやまりしならむ。この熟字は詩經、文選等に見えて、よく知られたるものにして本集にも他に用ゐたるなり。卷十一「二六八三」に「彼方之赤土少屋爾※[雨/脉]霖零床共所沾於身副我妹《ヲチカタノハニフノコヤニコサメフリトコサヘヌレヌミニソヘワキモ》」とあるはこれも古來「コサメ」とよみ來り「霖」は「※[雨/沐]」の誤なること著しきが、類聚古集細井本活字無訓本には「※[雨/脉]※[雨/沐]」とかけり。而して神田本には又「※[雨/泳]※[雨/沐]」と書けり。又卷十六「三八八三」に「伊夜彦於能禮神佐備青雲乃田名引《イヤヒコノオノレカムサビアヲクモノタナビクヒ》日(須)良《スラ》※[雨/沐]曾保零《コサメソホフル》」とあるが、この「※[雨/沐]」をも神田本、活字無訓本には「霖」字とせり。これにより「※[雨/沐]」を往々「霖」に誤ることありしを見るべく、ここもまさしく「※[雨/脉]※[雨/沐]」にして「コサメ」とよむべきものといふべきなり。さて又ここは涙の流るる形容なるがただ涙の雨の如く降ることをいへばよき筈なれば、「コサメ」といひて十分なる筈なり。この事は代匠記に「土佐日記に行さきに立白浪の聲よりもおくれてなかむ我やまさらむと云別の歌をいと大聲なるべしとかけるをおもへば火雨もあまりにて今の本は此※[雨/脉]※[雨/沐]の誤なるべし」といへるにて明かに考へらるべし。泣くことを雨にたとへしは古事記上卷、八千矛神の歌に宇那加夫斯《ウナカブシ》、那加佐麻久《ナカサマク》、阿佐阿米能佐疑理爾多多牟叙《アサアメノサギリニタタムゾ》」とあるは、その泣く涙が朝雨の降り霧らふが如くならむといへるにて、更科日記などに「さめさめと泣く」といへるもそれなり。さて「コサメニ」といふは修飾格に立てるものなれば、「コサメの降る如くに」の意なりとす。「落」を「フル」とよむは卷一「二五」にいへり。
(715)○白妙之 「シロタヘノ」とよむ。これは枕詞といふ説あれど、さにあらずして、實際の白き布帛をさせるものにして葬儀に用ゐる素服を思はする心あるべし。
○衣※[泥/土]漬而 「コロモヒヅチテ」とよむ。「ヒヅチ」上(一九四)の歌に「旦露爾玉藻者※[泥/土]打」の下にいへる如く、本義は雨露などによりて道ゆくに衣の下部の※[泥/土]土にぬるゝ由なるが、こ二は涙の落つるを雨と見立てたれば、その涙にぬるるをわざと「ひづち」といへるにて、ただ濡るといふ事のかへ詞にはあらざるべし。以上四句は、その問を受けし人の悲める姿を描き出したるものにしてそれを以て修飾格としたるなり。
○立留 「タチトマリ」なり。よみ方に異論なし。道を行ける人が、その問を受けしが爲に立ち留りしにて意義も明かなり。
○吾爾語久 「ワレニカタラク」とよむ。その人の我に答へ語ることはといふなり。
○何鴨 舊訓「イツシカモ」とよみたれど、義をなさず。代匠記に「ナニトカモ」とよみ童蒙抄に「イツシカモ」とよみたるを考に「ナニシカモ」とよみてより略解以下これに從へるが、今もそれに從ふべし。かくよむ例は上(一九六)に「何然毛」とかけるあるが、又卷七「一二五一」に「佐保河爾鳴成智鳥何師鴨川原乎思努比益河上《サホガハニナクナルチドリナニシカモカハラヲシヌビイヤカハノボル》」など例多し。何故にといふにおなじ。以下六句はその道來人の答へたる詞としてあげたるなり。
○本名言 舊訓「モトノナトヒテ」とよみたれど、義をなさず。代匠記には初稿に「モトナイヘルヲ」とよみ清撰本には「モトナイヒシヲ」とよみ、童蒙抄に「モトナトイヒテ」とよみたり。かくて「本名」(716)を「モトナ」とよむことは確定的となりたるが、「言」を「イヒシヲ」とよみても「イヒテ」とよみても治定せず。考に「モトナイヒツル」とよめるは上の「カモ」の係に對してをさまりはあれど、「言」一字を「イヒツル」とよまむことはこの卷一、二の例としては無理なる嫌あり。玉の小琴に「言はいへると訓べし」といへり。これも正しくは「言有」と書きてあるべき筈なり。されど今他によきよみ方を知らねば姑くこれに從ふ。「モトナ」といふ語はかつて奈良文化に掲げたる「母等奈考」にて説きし如く語の源は「根據なく」といふ事なるべく、「わけもなく」「よしなく」「みだりに」などの意にてその所に適すべく解すべきものと思はるるが、今も亦然り。ここは玉の小琴に「今世の俗言にめつたにと云に同じ」といへる如き意ありとすべし。何故にさやうなめつたな事を答へたまふぞといへるなり。これはその心の悲をこの問によりて新にするを恐れたる言なり。ここによく似たる用ゐざまの例は卷十五「三七八一」に「多婢爾之弖毛能毛布等吉爾《タビニシテモノモフトキニ》、保等登藝須毛等奈那難吉曾安我古非麻左流《ホトトキスモトナナナキソアガコヒマサル》」などなり。
○聞者 舊訓「キキツレバ」とよみ、諸家これに從ひきつるを玉の小琴に「キケバと三言の句に訓むべし」といへり。これも上の「言」字の如く「ツル」を加へてよむは卷一、二の例にあらねば、本居説に從ふべし。三音の句は卷一の「一」の「コモヨ」をはじめ、この卷にても「一九六」に「立者」「臥者」を「タテバ」「フセバ」とよむべきことをいへり。汝の問《トヒ》をきけばとなり。
○泣耳師所哭 舊訓「ネノミシゾナク」とよみたるが、代匠記には「所哭」を「ナカル」とよむべしといへり。この「所」は假名にあらずして「所聞」「所見」「所偲」「所思」などの如く「ル」「ラル」といふ形をあらはす(717)に用ゐたるものなるべければ代匠記の説によるべし。但し、考に「ナカユ」とよみたるによるべし。「ユ」「ル」同じ語ながら「ユ」の方古ければなり。この語の例は多きがその一をあげむ。卷五「八九七」に「可爾可久爾思和豆良比禰能尾志奈可由《カニカクニオモヒワヅラヒネノミシナカユ》」とあり。「シ」は強勢を與ふるに止まるが、「ナカユ」は自然に泣かるるなり。
○語者 舊訓「カタラヘバ」とよみたるが、玉の小琴に「カタレバ」とよむべしといへり。上の「キケバ」の三音の句に對していへるなれば、四音によむを調ととのへりとす。その次第を語ればの意なり。
○心曾痛 「ココロゾイタキ」なり。卷二十、七夕歌(四三〇七)に「秋等伊弊波許己呂曾伊多伎《アキトイヘバココロゾイタキ》」とあり。この「いたし」は上の人麿の石見國より上り來れる時の長歌(一三五)に「肝向心乎痛念乍顧爲騰《キモムカフココロヲイタミオモヒツツカヘリミスレド》」とあるにも似て、その悲しさの苦痛に堪へられぬ意を示せり。
○天皇之 「スメロギノ」とよむ。意明かなり。
○神之御子之 舊訓「カミノオホミコノ」とよみたれど、「御子」を「オホミコ」とよむは例なきことなり。考に「カミノミコノ」と六音によみたるに從ふべし。天皇の神とは天皇即ち神にてましますが故にいへり。天皇の御子即ちここに志貴親王をさし奉るなり。
○御駕之 舊訓「オホムタノ」とよみたるが、「オホムタ」といふ語は日本紀には仲哀卷に「車駕」に「オホムタスル」といふ訓をつくるなど、所々にこの訓をつけ、これを釋するに倭訓栞に「大共」の義なりとす。然れど、これらの訓の外に、古典にかつて見ぬ語なれば頗る怪むべし。考には「イデマシ(718)ノ」とよめり。この方穩なりと思はるれば、他日「オホムタ」といふ語の正しき證の出づるまでこれに從ふ。「いでまし」といふ語の事は卷一「五」の歌の「行幸」の下にいへるが、天皇に限らず、皇族貴人にはいへりしものならむ。ここの「いでまし」は御葬送をいへること著し。
○手火之光曾 「タビノヒカリゾ」とよむ。「タビ」は手に執る火の義なり。日本紀神代卷上に「伊弉諾尊不v聽陰取2湯津爪櫛1牽2折其雄柱1以爲2秉炬1而見之者云々」とありてその訓注に「秉炬此云2多妣1」とあり、釋紀卷六に「秉炬」の條に「私記曰、問此云2タビ1其意如何、答師説猶如v云2手火1云々」と見ゆ。又新撰宇鏡に「炬」字に注して「太比又止毛志比」とあり。この手火は恐らくは今いふ「たいまつ」なるべきが、ここは御葬を送り奉る人の手火なるべし。葬に手火をともして送る事は古き繪卷などに見えたり。
○幾許照而有 「ココダテリタル」とよむ。「幾許」を「コヽダ」とすること及びその意は上「二二〇」にいへり。上の「ゾ」の係詞に對しての結としてここに連體形にて「タル」と結ぶなり。上「何鴨」よりここまではその人の答ふる語としてあげたるものにして、「天皇之神之御子」以下はかの火は志貴親王の御葬送の火なりといへるなるが、火を主としていひ、しかもその人の語としてあげたるのみにて間接引用の方法をとらぬ所に歌としての趣あり。
○一首の意 高圓山に春の野を燒く野火と見るまで、火の燎ゆるを見て(これはその御葬送の儀が高圓山の中腹を西より南に取り卷きて行き亘れるを見ての詠なるべし。)あの火は如何にしたる火ぞと、道を來る人に問へば、その人の立ち留りて涙を雨の如くふらして、衣をぬらして(719)さていひけるは、ああよしなき事を問ひたまふものかな。君がかく問ひたまふを聞けば、ただ泣きに泣かるるのみなり。語らむとすれば心苦しくて堪へがたし。あれは志貴親王と申す皇子の御葬を送り奉る人々の手にせる松明がかく澤山に光れるなりと。かく終の邊をば答者の直接の語としていひ放てるによりて力強く感ぜしむるなり。
 
短歌二首
 
○ 目録には「云々志貴親王薨時歌一首」のみありて、「并短歌」の字なし。これによりて考は「今本ここに短歌二首と書て左の反歌の如く書たるはいと後に歌をも心得ぬ人のわざ也。目録に右の反歌はなくて或本哥二首としるしたるは即ち左の歌をいふ也。然れば、右の反歌は落失、ここには別に端詞有て左哥を載しを其詞も失し也けり」といひて、「志貴皇子薨後姓名(カ)作歌」といふ題詞を製して加へたり。古義には又同樣の論をなして、同じく「志貴親王薨後悲傷作短歌二首」とせり。然れども、上の詞書にある「並短歌」の三字及び、ここの「短歌二首」は諸本に存する所にして、必ずしも後人の記入と斷ずべからず。加之「目録」と本文と一致せぬこと、卷一の「和銅五年壬子夏五月遣2長田王于伊勢齊宮1時山邊御井歌」は本文には歌の數を記さずして三首あり、目録には明かに三首と記せるあり、又その前の「或本從2藤原京1遷2于寧樂宮1時歌」には長歌あれど詞書に「并反歌」の文字なく、目録は極めて略して、「一書歌」とのみ記せり。されば、ただ目録と一致せぬ點のみを以て之をとかくに論ぜむとするは早計なりといふべし。かかれば、その歌の意が上の(720)歌の反歌として相應せずと論ずるは穩かならず。而して以上の諸家の論も、この歌を以て志貴親王の薨を悼みたるものとせる以上は五十歩百歩の論にすぎず。然るときはただ目録になしといふをのみ理由として改むるは武斷なりといふべし。
 
231 高圓之《タカマトノ》、野邊秋芽〔左○〕子《ヌベノアキハギ》、徒〔左○〕《イタツラニ》、開香將散《サキカチルラム》、見人無爾《ミルヒトナシニ》。
 
○高圓之 「タカマトノ」なり。
○野邊秋芽子 「芽」字流布本「茅」につくれり。されど、多くの古寫本に「芽」とあるによるべし。「二三三」には正しくかけり。「芽」を「ハギ」とよむことは上の「一二〇」の「秋芽之吹而散去花爾有猿尾」の下にいへる所なるが、「芽子」もまた「ハギ」なり。漢語にて「子」を名詞を示す語の下につくることは「鍋子」「刀子」「銚子」「調子」「拍子」「倚子」「扇子」など例多し。さてここは「ヌベノアキハギ」とよむべし。高圓の野といふは、かの高圓山の西麓なる緩なる斜面地をさせるなるべし。ここが秋芽子の名所たりしことは卷八「一六〇五」に「高圓之野邊秋芽子」卷十「二一〇一」に「吾衣摺有者不在高松之野邊行之者芽子之摺類曾《ワカコロモスレルニハアラズタカマトノヌベユキシカバハキノスレルゾ》」「二一二一」に「高圓之野邊之秋芽子散卷惜裳《タカマトノヌベノアキハキチラマクヲシモ》」卷二十「四二九七」に「乎美奈弊之安伎葉疑之努藝左乎之可能都由和氣奈加牟多加麻刀龍野曾《オミナヘシアキハキシヌキサヲシカノツユワケナカムタカマトノノゾ》」などの歌にて知らる。而してこの萩は下の「二三二》の歌によれば、親王の愛したまひしものならむと思はる。
○徒 舊板本「從」に作り、「イタヅラニ」と訓せり。然れども「從」字は「イタヅラニ」とよまるべき文字にあらず。すべての古寫本及び活字素本に「徒」とあるを正しとす。「イタヅラニ」といふ語は卷一(721)「五一」の「無用爾布久」の下に例をあげて説明せるが、ここもそこにいへる無效の意にして、「開けど開くかひもなき」をいへるなり。
○開香將散 舊訓「サキカチルラム」とよめり。考に「サキカチリナム」とよみ、玉の小琴に「チルラム」をよしとせり。按ずるに「將」字は既に屡いへる如く、「ラム」とも「ナム」ともよまむに差支なき文字にしてここはいづれにても意通るやうなれど、「チリナム」とせば、現在の事にあらで、將來さる事あらむといへるものとなるなり。然する時は、この歌は直感的にあらずして推理的となりて興味索然たり。「らむ」といふ時は現實の事につきて推量する事となりて感興に生氣あり。「らむ」の方まされりとす。「サキカチルラム」とは「開き散る」といふ語より「らむ」を分出せしめたるに「カ」といふ係助詞が、介在せるものなり。されば、「さき」と「ちる」とを離れたるものと解するは當らず。開き落ることをするならむかといふ意なり。
○見人無爾 「ミルヒトナシニ」とよむ。卷十「一八六三」に「去年咲之久木今開徒土哉將墮見人名四二《コゾサキシヒサキイマサクイタヅラニツチニヤオチムミルヒトナシニ》」卷十五「三七七九」に「和我夜度乃波奈多対婆奈波伊多都良爾知利可須具良牟見流比等奈思爾《ワガヤドノハナタチバナハイタヅラニチリカスグラムミルヒトナシニ》」とあるなどここと同じ語遣なり。この句は「見る人無し」といふ一の句を以て修飾格としたるものにして、それが轉倒してここに置かれたるなり。その見る人といふはそれを見て愛ではやす人といふ義なるが、裏に親王をさし奉れることいふまでもなし。
○一首の意 今はここの花をめでたまへる親王もおはしまさねば、この高圓の麓の野邊の秋芽子は徒らに咲き散るらむかとなり。即ち親王おはしまさば、今かく咲けるを如何にめでたま(722)ふらむと思はるるが、おはしまさねば折角さきても詮なからむといふなり。これにつきて考は「此皇子の宮ここにありし故にかくよめり」といひたれど、ここに皇子の宮ありきといふ證なし。こは折節その葬儀の行列の通る高圓の野に秋萩の咲きたる時なればよめるものといふに止まるべし。
 
232 御笠山《ミカサヤマ》、野邊往道者《ヌベユクミチハ》、己伎太雲《コキダクモ》、繁荒有可《シゲクアレタルカ》、久爾有勿國《ヒサニアラナクニ》。
 
○御笠山 「ミカサヤマ」は高圓山の北、春日の内にある山にして春日神社の背にあり。これ即ち安倍仲麿が唐にてよめりといふ「みかさやま」なり。今俗に若草山と、いふをば三笠山といふは誤れるなり。ここに御笠山とよめるは、かの親王の宮、春日に在りしこと著しきが、その宮恐らくは御笠山の附近にありしならむ。然らずば、この歌の意とほらざるなり。
○野邊往道者 舊訓「ノヘユクミチハ」とあるが、「ヌベユクミチハ」とよむべし。「往ク」は「往來する意にして野邊を往き來するその道をさせり。この野邊は御笠山の所在地たる野邊なれば、春日野をさせるならむ。
○己伎太雲 「コキダクモ」とよむ。「已」は「コ」とよむべからず「己」の字を正しとすべし。「太」流布本「大」とせり。されど「大」を「タ」の假名に用ゐるは異例なり。金澤本京都大學本に「太」に作れるによりて正すべし。「コキタク」といふ語は古事記中卷神武卷の歌に「許紀陀斐惠泥《コキダヒヱネ》」とある「コキタ」と同じ語にして數の多きをいへる語なるが、ここは甚しくの意をあらはしたるものの如し。
(723)○繁荒有可 舊訓「シゲクアレタルカ」とよみたるが童蒙抄は「シジニアルヽカ」とよみたり。略解は「シジニアレタルカ」とよみ、後の學者多くはこれに從へり。近頃また「シケリアレタルカ」とよむ説あり。「繁」字は古來「シゲシ」とはよみ來りたれど、「シゲル」といふ訓を有するものにあらず、この故にこの説は從ふべからず。繁は又「シジニ」ともよむをうるなり。卷三「三七九」に「竹玉乎繁爾貫垂《タカダマヲシジニヌキタリ》」「四七八」に「活道山木立之繁爾咲花毛《イクヂヤマコダチノシジニサクハナモ》」などは、卷十三「三二八六」の「竹珠呼之自二貫垂《タカタマヲシジニヌキタレ》」卷四「五〇九」の「家乃島荒磯之宇倍爾打靡四時二生有寞告我《イヘノシマアリソノウヘニウチナヒキシジニオヒタルナノリソガ》」卷六「九〇七」の「瀧上之御舟乃山爾水枝指四時爾生有刀我乃樹能《タキノウヘノミフネノヤマニミヅエサシシジニオヒタルトガノキノ》」などによりて「繁」が「シジ」といふ語にあたるを見るべし。然れども卷十七「四〇一九」に「許己太久母之氣伎孤悲可毛《ココタクモシゲキコヒカモ》」又「四〇一一」に「野乎比呂美久佐許曾之既吉《ノヲヒロミクサコソシゲキ》」卷二十「四三〇五」に「許乃久禮能之氣伎乎乃倍乎《コノクレノシゲキヲノヘヲ》」卷十六「三八八一」に「大野路者繁道森徑之氣久登毛君志通者徑者廣計武《オホノチハシゲチハシゲチシゲクトモキミシカヨハハミチハヒロケム》」卷十七「四〇二六」に「許太知之氣思物《コタチシゲシモ》」等によりて、なほ舊訓のまま「シケクアレタルカ」とよむをよしとすべし。その「しげく」は草の繁茂せる状態をいひたるものにして上にあげたる「シゲシ」の例皆これなり。「荒有」を「アレタル」とよむ例は卷一「三三」に「荒有京」の例あり。「可」は歎息の「カ」なり。
○久爾有勿國 「ヒサニアラナクニ」とよむ。「ヒサニ」は「ヒサシ」といふ形容詞の語幹を名詞としたるものにして長時間をいふ。その「ヒサ」といふ語の例卷三「三三五」に「吾行者久者不有《ワガユキハヒサニハアラジ》」卷十二「三二〇八」に「久將在君念爾《ヒサニアラムキミヲオモフニ》」卷十三「三二三一」に「久經流三諸之山礪津宮地《ヒサニフルミモロノヤマノトツミヤドコロ》」卷十五「三六〇四に「妹我素弖和可禮弖比左爾《イモガソデワカレテヒサニ》、奈里奴禮杼《ナリヌレド》」卷十七「三九三四」に「伎美我目乎美受比左奈良婆須弊奈可流倍思《キミカメヲミズヒサナラバスベナカルベシ》」(724)卷十八「四一二一」に「伎美我須我多乎美受比左爾比奈爾之須米婆《キミガスカタヲミズヒサニヒナニシスメバ》」卷十五「三五四七」に「安奈伊伎豆加思美受比佐爾指天《アナイキツカシミズヒサニシテ》」なり。「アラナクニ」は上「一五四」に「君毛不有國」「一六三」に「君毛不有爾」などに似たるが、ここの「アリ」は存在の意にあらずして陳述のみの意なるを異なりとす。かくてこの一句は反轉法によりてここにおかれたるなり。
○一首の意 この春日宮に往來する道即ち三笠山のあたりの野邊を往來する道は、わが君が神去りまししより後長時間を經しにはあらぬに、はやくも甚しく雜草繁く生ひてあれたる事かなとなり。これにより春日宮にましゝこといよ/\明かに考へらるべし。
 
右歌笠朝臣金村歌集出
 
○ 左注によればこの長歌及び反歌は笠朝臣金村集に出でたるをここに轉載せるなり。これにつきては種々の事を考ふべくあり。第一はこの卷一、二の例を見るに、某の書に出でたり、又或本一本にかくありといふは常にその本と立つる歌ありて、それに對しての一説又は類似の歌といふを以て參照の爲にあげたりと見ゆるが常なり。然るに、ここには本説と立てたるもの無くして、この左注あるは例にたがへり。かくて一按として考ふるに、この左注は本來はなかりしが、笠金村の集にもありしを以て後人がその由を注し加へしものならむかといふことなり。若し然らずとせば、笠朝臣金村歌集にありしをはじめよりここに引き記ししものと見ざるべからず。然るに笠朝臣金村歌集といふものより出でたりとする歌はここの外神龜五(725)年の歌(卷六)(卷九)天平元年の歌を載せたり。さればその集は天平元年以後の結集なりとすべきものなり。若し最初よりしてこの歌ここにあり、而してそれが金村の集より必ず出でしものとせば、この卷一、二は天平元年以後の撰なりといふべきなり。然れども、世に多く信ぜらるる如く元正の御宇の撰とせばこれの歌全體は後人の注記とせざるべからず。かくの如く三樣の考案を呈しおく。後の學者の考定せられむことを希ふ。
 一、この歌は原より存して、左注のみ後人の加へしものとする考
 二、歌も左注も原本にはなくしてすべて後人の加へしものとする考
 三、歌も左注も原より存したるものとする考
この第三の考の成立する時はその金村歌集が、天平元年以後の撰なるを以て當然この卷一、二の撰はこれ以後なるべきこととなるべし。而して、集中にある笠朝臣金村の歌は天平五年春閏三月入唐便に贈れる歌〔卷八)あれば、その歌が同じくその歌集より出でたりとする時は、一層下りて天平五年以後の結集なりといふべきに至るべし。
 
或本歌曰
 
○ これは上の二首の反歌に對して或本に次の歌を載せたりとして參考にあげたるなり。
 
233 高圓之《タカマトノ》、野邊乃秋芽子《ヌベノアキハギ》、勿散禰《ナチリソネ》、君之形見爾《キミガカタミニ》、見管思奴幡武《ミツツシヌバム》。
 
(726)○高圓之野邊の秋芽子 上の「二三一」のに略同じ。
○勿散禰 「ナチリソネ」とよむべし。意明かなり。以上一段落なり。
○君之形見爾 「キミガカタミニ」とよむ。意明かなり。
○見管思奴幡武 「ミツツシヌバム」これも意明かなり。
○一首の意 高圓の野邊の秋萩の花よ、そのまゝにありて散ることなかれ。われらは高圓の野の萩の花を見るときにはいつも志貴親王の御事を思ひ出づるを以て、せめては、この萩を親王の形見と見つつ親王を偲び奉る形見とせむとなり。この歌は第三句以下異なるなり。
 
234 三笠山《ミカサヤマ》、野邊從遊久道《ヌベユユクミチ》、己伎太久母《コキダクモ》、荒爾計類鴨《アレニケルカモ》、久爾有勿國《ヒサニアラナクニ》。
 
○野邊從遊久道 舊訓「ノヘニユクミチ」とよみたれど、「從」は「ヨリ」の意をあらはす文字なれば、「ヌベユユクミチ」とよむべきなり。この場合の「ユ」「ヨリ」はその通過する地を標示する用をなすなり。
○己伎太久母 「コキダクモ」文字異なれど、語は上の歌におなじ。
○荒爾計類鴨 「アレニケルカモ」にして意明かなり。
○一首の意 そこを通りて三笠山の邊の春日野の道は甚だしく荒れたるかな。わが親王の薨去より多くの時間を經過もせざるにはやく甚しくあれたるよとなり。第二句第四句の異なるなり。
    (昭和四年十一月十四日夜脱稿、同五年八月十八日再考了)
 
 
(1)萬葉問題集 卷二
 
 この問題集の本旨は卷一の部に述べたる所なれば今くりかへさず。なほこの問題集も主としてその問題として存する部分を指摘するに止めたり。なほ、本書に於いて著者が意見を述べたるものにつきてもなほ問題殘れりと信ずるものはここに問題として採録せり。
 問題の下にその歌の番號と本書にはじめてあらはれたる頁とを注記すること卷一におなじ。而して、同一の語の屡出づるものは最初のものをあぐるに止む。なほ卷一に既に問題として掲げたるものも本卷に於いてこれを略することなし。
 
(2)卷第二中の問題
大島嶺        「九一」(三三頁)
不欲〔右○〕(言)   「九六」(五三頁)
強〔左○〕作留行事  「九七」(五四頁)
弓絃葉乃三井     「一一一」(八八頁)
霍公鳥        「一一二」(九〇頁)
異所縁        「一一四」(九六頁)
己母世爾       「一一六」(一〇二頁)
鬼          「一一七」(一〇四頁)
  「鬼」を「シコ」とよむ事につきての私見は本書に説きたるが、そは必ずしも確定せりといふべからず。確證の出づるまではなほ問題たるべきものならむ。
髪結         「一一八」(一〇八頁)
芽          「一二〇」(一一四頁)
(3)  芽を「はぎ」とよむ事につきての私見は本書に説きたるが、なほ確證の出でむことを望むが故にそれまでは問題の、存するものと思ふ。
三方沙禰       「一二三」(一二九頁)
比來         「一二三」(一二四頁)
  これの支那の用例を出す必要あり。
若末〔左○〕     「一二八」(一三八頁)
  本書「若未」は「若末」の誤なること著しきが、なほ明かにかく書ける本の出現までは確定せりといふべからず。
皇弟         「一三〇」(一四四頁)
戀痛吾弟       「一三〇」(一四五、一四六頁)
高角山        「一三二」(一六一頁)
辛乃崎        「一三五」(一六九頁)
渡乃山        「一三五」(一七三頁)
(4)屋上山       「一三五」(一七四頁)
室上山        「一三五」(一七五頁)
津乃浦        「一三八」(一八三頁)
打歌山        「一三九」(一八六頁)
鳥翅成        「一四五」(二〇〇頁)
如是有乃〔左○〕   「一五一」(二二二頁)
八隅知之       「一五二」(二二四頁)
己具耳矣自得見監乍共 「一五六」(二三八頁)
「澄」の假名     「一六〇」(二五九頁)
面智男雲       「一六〇」(二五八頁)
「一六〇」の歌    (二七一頁、二七二頁)
馬疲爾        「一六四」(二七六頁)
弟世         「一六五」(二七九頁)
(5)歌反        (「一六九」の左注三一三頁)
春冬片設而      「一九一」(三六四頁)
八多籠良家      「一九三」(三六九頁)         
柿本朝臣献泊瀬部皇女忍坂部皇子歌 「一九四」の端書(三七一、三七二頁)
名具絞魚天      「一九四」(三八二頁)
玉垂乃        「一九四」(三八三頁)
生乎爲〔左○〕禮流  「一九六」(四〇一頁)
味澤相        「一九六」(四一二頁)
形見何此焉      「一九六」(四二三頁)
進留         「一九七」(四二七頁)
和射見我原      「一九九」(四四〇頁)
弓波受乃聚      「一九九」「四六九頁)
木綿花        「一九九」(四八四頁)
(6)高之奉而     「一九九」(四九九頁)
安幡         「二〇三」(五二五頁)
若兒         「二一〇」(五九二頁)
鳥穗自物       「二一〇」(五九四頁)
羽易乃山       「二一〇」(五九八頁)
左久見手       「二一〇」(五九六頁)
衾道乎引手山     「二一二」(六〇七、六〇八頁)
生跡毛無       「二一二」(六〇八頁)
取委         「二一三」(六二〇頁)
天敷         「二一九」(六五三頁)
玉藻吉        「二二〇」(六五九頁)
跡位浪        「二二〇」(六六七頁)
  本書に「シキナミ」とよむべき理由を考へたれど未だ確定せりといふべからず。
(7)鴨山       「二二三(六八一頁)」
石水         「二二四」(六八六頁)
姫島松原       「二二八」の端書(七〇〇頁)
靈龜元年歳次乙卯秋九月志貴親王薨時「二三〇」の端書(七〇六頁)
霈霖         「二三〇」(七一三頁)
御駕         「二三〇」(七一七頁)
右歌笠朝臣金村歌集出 「二三二」の左注(七二四頁)
 
(1)萬葉集講義卷第二  索引
 
例言
 
一、本索引は二部に分る。一部は國語索引にして二部は漢字索引なり。これらはいづれもこの卷の國語及び漢字をすべて網羅してあげむことを目的としたるものなれど、匆卒の際の成稿なれば、不十分の點存すべきを思ふ。
二、國語索引には本集に用ゐたる漢字は括弧を加へてこれを示せり。又下の數字は本文の歌の番號なり。これらの事卷第一の索引におなじ。
  用言は大體終止形を以て見出しとし、その用例が終止形のみなる時は、その見出しの下に直にあぐ。かかる場合は他の語の例におなじく平假名を以て見出しとす。その他の場合においては終止形を片假名にて見出しとして掲げ、その下に實例の存する限りを各活用に分ちて列擧す。
三、漢字索引はその漢字の下に先づ用ゐられたる「よみ」を括弧にて示し、その下にその用例を列擧せり。而して文字の排列は大體康煕字典の順序によれり。各の用例の下の數字は本文の歌の番號なり。
〔2〜93頁の索引、省略〕
 
不許複製 萬葉集講義 (卷第二)
 
昭和七年六月廿七日 印刷
昭和七年七月一日  發行
定價 金五圓五拾錢
著作者 山田孝雄
    東京市日本橋區本銀町三丁目十四番地
發行者 大葉久吉
    東京市小石川區久堅町百八番地
印刷者 東勇治
發行所 東京市日本橋區本銀町三丁目
    振替口座東京二八〇番 【株式會社】寶文館
関西専賣 大阪市西區阿波堀通四丁目
     振替口座大阪四三番 【株式會社】大阪寶文館
〔2010年7月27日(火)午前9時10分、巻二入力終了、2016年6月3日(金)午前11時50分、校正終了〕
 
萬葉集講義卷三
 
(1)序
 
 本書は前二卷に引きつゞき、東北帝國大學に於いて講義を行ひたる際の草案に基づきたるものなり。但し、上述の講義は昭和八年二月第四五〇番の歌を了へて後中止したるを以て、その以下の部分は新に稿を起して加へたるものなり。かくて、これを出版せむとするに及びて、すべてにわたり更に修治を加へたり。本書に關しての著者の態度等は既に卷第一、卷第二の卷頭に述ぶる所あれば、今更に言を弄せず。ただ本書をかく厖大なるものとならしめたるは著者不敏の致す所として深く愧づる所なり。
   昭和十二年四月一日             山田孝雄
 
(1)例言
 
一、本書の本文は寛永版本を基としたれども、その誤の著しくして、他の諸本によりて正字の知らるゝものは之を訂して、その字には左旁に「○」圏を加へたり。
一、諸本に通じて用ゐられてある字なれど、誤と認めずしては通じ難きものは左旁に「・」圏を加へて之を注意し、漫りに改むることをせず、解説の中に之が意見を述べたり。
一、各首の歌の上に施せる番號は國歌大觀にて加へしものによれり。この番號は近時諸本に用ゐらるれば、本書もそれに傚へるなり。隨つて解説の中に引ける歌もこの番號によりて示し、從來の卷敷張數を示す方法をとらず。
 
(1)萬葉集講義卷三
                 山田孝雄述
 
卷第三卷第四の通説
 
 この卷第三は卷第四と相待ちて一團をなすものたること卷一の初めに述べし所なるが、ここにこの點を少しく説くべし。
 卷第三は雜歌譬喩歌挽歌の三部門に分ち、卷第四は相聞の一種のみをのせたるが、この二卷が、相合して一團をなせるものと見るときは、ここにすべての歌を雜歌譬喩歌挽歌相聞の四種に分ちたることを示せるものにして、これを第一部に比するに、かれが雜歌相聞挽歌の三類に分ちたるに、これは四類に分ちたれば、先づ分類法に一の變更を試みたることを見る。而して新に加はれる譬喩歌といふものは第一部にて(2)のいづれに當れるかといふに、名目上よりいへばその雜歌の中より分ち出せる一類なるが如しといへども、必ずしも然らずして、相聞に屬すべき點あるものを含める如し。ただ、それらの一類の歌に通じて見ゆる特徴は
  鴨  (三九〇)     玉 (四〇三)(四〇九)(四一二)
  船材 (三九一)     粟蒔く (四〇四)(四〇五)
  梅 (三九二)(三九八)(三九九)(四〇〇)
  月 (三九三)      神(四〇六)
  小松 (三九四)     水葱(四〇七)
  紫 (三九五)      石竹(四〇八)
  草原 (三九六)     橘(四一〇)(四一一)
  菅 (三九七)(四一四) 藤衣(四一三)
  山に標ゆふ(四〇一)(四〇二)
(3)の如く、物又は事に託して想を發表せるものにして、この點に於いて譬喩歌といふ名目をも與へしなるべし。而してこれは一の試みといふべきものなるが如く、他の相聞挽歌と分釋の原理の基礎を異にしてあるものなれば、徹底せる分類なりとは見えず。されども、とにかくに、この譬喩歌挽歌相聞以外のものを以て雜歌とせしものなるべく、いづれにしても、これは第一部とは先づ組織を異にせりといはざるべからず。次にこの部の叙述法は第一部と異なり。第一部は天皇の御代を基して分類次第せるが、この部に在りてはさる事なくして、ただ各種の部門内に略時代の順に各歌を列擧するに止まれり。而してこの點は卷第三第四一樣なり。即ちこの點に於いてこの第二部が、第一部と撰を異にすること及び、卷第三第四が通じて一なることも明かなりとす。
 次に各の歌の記述法はその義字と假名とを混じ用ゐる方法は第一部と略同樣にして、卷第五の假名を主とせることは甚しく異なり。こ(4)れ第三第四を第五と區別すべき最も著しき點なり。以上の如き理由によりて余はこの卷第三、第四を以て一團として取扱ふべきものなるを信ずるなり。
 さて又この二卷を通じて、その歌のしるしぶりを見るに、古人の既にいへる如く、その體整はず順序もまた往々乱れたり。たとへば、大伴旅人の事を上に大納言大伴卿とありて、下に中納言なる時の歌を載せ、或は春日藏首老の歌を載せ、下にその人のなほ僧なりし時の歌を辨基の名にて載せ、藤原朝の人を奈良朝の人の次にあぐるなど、頗る錯雑せる所あり。されば、この部は、第一部より一層蕪雜にして、ある種の著述の準備として集めたるものを十分に整理せずしてそのまゝの姿にて在りしものが後に傳はりしものの如し。
 かくてこの各部門の歌を時代の考へらるるものより見れば、卷第三の雜歌は
(5)  持統天皇の頃よめる柿本朝臣人麿の歌
などを古きものとし、
  天平五年大伴氏神を祭る時の大伴坂上郎女祭神歌
などを新しきものとす。譬喩歌は
  天武天皇の皇女紀皇女の御歌
などを古きものとし、
  大伴宿家持歌
を新しきものとす。挽歌にては
  上宮太子御作歌
を古きものとし、
  天平十六年二月安積皇子薨せし時大伴宿神家持作歌
又同年七月なるべき
  高橋朝臣作歌
(6)を新しとす。又卷四なる相聞にては
  難波天皇妹、山跡なる皇兄に奉られし御歌
を古しとし、
  大伴宿禰等の歌
を新しとす。而して、これには大伴家ことに旅人家持一家のもの及び、それに關連せる歌多數を占め、そのかきぶりも、一家の内にてのものにして未だ公にすべき程に整理したるものにあらざるべきを思ふ。然れども、既に上述の如く四の部門に分類を施してあれば全然材料の蒐集のままのものにはあらざることは考へらる。要するに、整理不十分なる稿本のまま傳はりしものといふべきなり
 
(7)萬葉集卷第三
雜歌                             (一九)
天皇御遊雷岳之時柿本朝臣人麿作歌一首             (一九)
天皇賜志斐嫗御歌一首                     (二四)
志斐嫗奉和歌一首                       (二九)
長忌寸意吉麿應詔歌一首                    (三一)
長皇子遊獵路池之時柿本朝臣人麿作歌一首并短歌         (三六)
或本反歌一首                         (四七)
弓削皇子遊吉野之時御歌一首                  (四九)
春日王奉和歌一首                       (五三)
或本歌一首                          (五五)
〔8〜17、省略〕
(18)又家持見樹上瞿麥花作歌一首                (九七〇)
朔移而後悲嘆秋風家持作歌一首                 (九七三)
又家持作歌一首并短歌                     (九七五)
悲緒未息更作歌五首                      (九八八)
天平十六年甲申春二月安積皇子薨之時内舍人大伴宿禰家持作歌六首 (九九七)
悲傷死妻高橋朝臣作歌一首并短歌                (一〇三一)
         (以上○ヲ加へタルハ古寫本ニヨリテ寛永本ノ誤ヲ正セルモノヲ示ス)
 
(19)雜歌
 
○ これは、既にいひたる如く、すべての歌を雜歌、譬喩歌、挽歌、相聞の四部に分ちたるうちの一にして、他の三類に屬せぬものの總稱なり。而して、卷一にいへる雜歌とは多少範圍の狹き道理なるが、その譬喩歌が上に述べたる如くなれば、その内容に於いては卷一の雜歌と大差なしといひて差支なきなり。
 
天皇御2遊雷岳1之時柿本朝臣人麿作歌一首
 
○天皇 「スメラミコト」とよむべし。ここにただ天皇とのみありて、御稱號を記さず、この故に、そのいづれの天皇にましますかを知り難し。童蒙抄には「第一、第二卷の例によれば、何宮に御宇天皇代と云標題を落脱したると見えたり」といへり。然れども、この卷の記載例は卷一、二と異なれば、この論も首肯しがたし。されど、いづれの宮御宇天皇とか、ありて然るべき所なり。然るにかくあるは、これを抄出せし史又は記録に記載せしまゝを、文字を加除せず抄録したるままにしをきしが爲にかかる状態を呈したるものなるべし。これによりて今よりして、何れの天皇にましますかを知らむとするに傍證なければ、確かには知り難きわざなり。拾穗抄には元正天皇とせり。然れども作者柿本朝臣人麿の歌は、卷一、二によれば、近江の舊都を詠じ、又藤原宮御宇天皇の頃に盛んによめるなれば、大體持統文武二代の天皇のうちをさし奉るなるべ(20)く、次の歌が、女帝にましますべく思はるる理由を以てここも持統天皇を申すなるべしといふ説は粗當を得たるものなるべく思はる。
○御2遊雷岳1之時 雷岳は拾穗抄は「イカツチノヲカ」賀茂眞淵は「カミヲカ」とよみ、本居宣長は「イカヅチヤマ」と訓べきよしいひ、槻落葉は「岳」を「丘」に改めて「イカヅチノヲカ」とよみたり。按ずるに諸本一も「岳」を「丘」とせるものなく、又、岳即ち「丘」なること卷一「一」の歌にのべたる如くなれば、改むる要なし。又「岳」を「ヤマ」とよむことは異例なり。この地は卷二「一五九」の「神岳」と同じ地なるべくして、その土地のことは卷二にて既にいへる所なるが、この歌なる「雷」の字は必ず「イカヅチ」とよまざるべからざる故に舊來の如くによみてよかるべし。日本書紀雄略天皇七年七月の條に「天皇詔2少子部連※[虫+果]羸1曰、朕欲v見2三諸岳神之形1、……汝……使v放2於岳1。仍改賜v名、爲v雷」とあり。この地は今の大和國高市郡飛鳥村字雷にある一の丘陵なり。「御遊」は拾穗抄に「ミアソビスル」とよみ、槻落葉には「ミアソビマス」とよみたれど、いづれも語熟せず。又童蒙抄に「ミアソビノトキ」とよみたれど、これも同じ。古義には「イデマセルトキニ」とよみたり。これは所謂義訓なるがこれをよしとすべし。
○柿本朝臣人麿 この人の事は卷一以來屡いへり。
 
235 皇者《オホキミハ》、神二四座者《カミニシマセバ》、天雲之《アマグモノ》、雷之上爾《イカヅチノウヘニ》、廬爲流鴨《イホリセルカモ》。
 
○皇者 舊校本「スメロギハ」とよみたるが、類聚古集、神田本には「スメラギハ」とよみ、古葉略類聚鈔、(21)細井本には「スヘラキハ」とよみ、考には「オホキミハ」とよめり。この事は槻落葉別記に論ありて、「オホキミ」とよむをよしとせり。而してその説は卷一「七九」の「天皇乃命畏美」の下に説けるが、ここにも姑くそれに從ふ。
○神二四座者 「カミニシマセバ」とよむ。「シ」は強意の助詞なり。天皇を神と仰ぐことは古來の思想なるが人麻呂の歌には卷一「二九」の歌より以來屡あらはれたり。以上二句と同じ句、卷二、「二〇五」に「王者神西座者天雲之五百重下爾隱賜奴《オホキミハカミニシマセハアマクモノイホヘガシタニカクリタマヒヌ》」とあり。
○天雲之 「アマグモノ」とよむ。この語の例は卷五「八〇〇」に「阿麻久毛能牟迦夫周伎波美《アマグモノムカブスキハミ》」など少からず。雷は雲の中より起るものなれば、かくいひて、一方にては枕詞の如く用ゐたるなり。
○雷之上爾 「イカヅチノウヘニ」とよむ。この雷は事實は雷岳をさすものなれど、詞の上にては實の雷にとりなしてよめるなり。久老は「もしは上は山の誤にあらぬにや」といひたれど、しか書ける本一もなく、又このまゝにて意明かにとほるなり。
○廬爲流鴨 舊訓「イホリスルカモ」とよみたるが、久老は「イホリセルカモ」とよむべしとし、略解には或人の説として「流は須の誤にていほりせすかもと有しならん」といへり。されど誤字ある本一も見えねば、この説うけ難し。「イホリ」は卷一「六〇」に「廬利爲里計武《イホリセリケム》」とある下に既にいへる如く、假初の家をつくりて居るをいふ。「スル」と「セル」との區別につきて槻落葉別記に「須流は現世より末をかけていふ言、世流は志多流を約めたる言にて過去より現在までをいふ言なり」といひて例をあげたり。(その例の中には如何はしきものもあれど)按ずるに、卷一の「廬利爲里計(22)武《イホリセリケム》」又卷九「一六七七」に「山跡庭聞往歟大我野之小竹葉苅敷廬爲有跡者《ヤマトニハキコエモユクカオホガヌノササバカリシキイホリセリトハ》」などの「爲」は「セ」にあてたるものなれば「セル」とよまむも不當にあらず。されば「イホリスルカモ」とも「イホリセルカモ」ともよみうべきことにして文字の上よりいひても言語の上よりいひても不可ならずとせば、そのうちのいづれによるべきかといふ事は歌の意によく合ふと思ふ方によらざるべからず。かくてこの歌はその雷丘の上に假に設けたる御座所に入り立たして國見などを、せさせたまひし事をよめるなるべければ、その作用の多少繼續せることを示す爲に「セル」とよむ方に從ふをよしとすべし。「カモ」はいふまでもなく感嘆の意をあらはす助詞なり。
○一首の意 攷證に次の如くいへり。「天皇は神にてましませば、奇《クス》しくあやしき御しわざありて人力のおよぶまじき雷の上にいほりを作り給へるかなと申すにて雷山を實の雷にとりなしてよめるは歌の興なり」といへり。これをよしとす。
 
右或本云獻2忍壁皇子1也。其歌曰。王神座者《オホキミハカミニシマセバ》、雲隱《クモカクル》、伊加土山爾《イカヅチヤマニ》、宮敷座《ミヤシキイマス》。
 
○右或本云、これは上の歌が或る本に別の傳へと別の形とになりてあるによりて、そを注せるなり。
○獻忍壁皇子也 これは人麿がかくよみて忍壁皇子に獻じたりといふ傳なるを示せり。忍壁皇子は舊訓「オシカベ」とよみたれど、「オサカベノミコ」とよむべし。この皇子は卷二「一九四」の詞書に見ゆる忍坂部皇子にして、天武天皇の皇子にまし、日本紀にはこゝと同じく忍壁皇子とか(23)き、續日本紀には刑部親王と記せり。
○王神座者 これは上のと同じく「オホキミハカミニシマセバ」とよむべし。「王」を「オホキミ」とよむことにつきて久老は「王とは皇子諸王を申事なれど、ここも天皇には皇と書、皇子には王と書て別(カ)てりと思ふ人有べけれどさにあらず。皇も王もおほきみとよみて、ひとつ事なるよしは卷(ノ)十九に壬申(ノ)年之亂平定以後歌と標して皇者神爾之《オホキミハカミニシ》ませば、赤駒《アカゴマ》之はらばふ田爲を京師《ミヤコ》となしつ(四二六〇)。大王者神爾之《オホキミハカミニシ》ませば、水とりのすだくみぬまを皇都となしつ(四二六一)とあり。この大王は王とのみもありて同じ事なれば、天皇と皇子とを別(カ)てるにはあらず」といへり。さる事なり。ここも本歌の如く天皇をさし奉れるなり。
○雲隱 舊訓「クモカクレ」とよみたるが、「隱」は古四段活用なりしが故に、槻落葉の説によりて「クモガクル」とよむべし。この「カクル」は連體形にして「イカヅチヤマ」につづくなり。卷十一「二六五八」に「天雲之八重雲隱鳴神之《アマグモノヤヘクモガクリナルカミノ》」とある如く、雷は雲の中にて鳴り、しかも形の見えぬものなれば、古はかくいへるなり。
○伊加土山爾 「イカヅチヤマニ」なり。雷丘をさすこといふまでもなし。
○宮敷座 「ミヤシキイマス」とよむ。宮をしきていますといふ語なるべし。「シク」と「シル」と同義なることは卷一「三六」の下にいへり。一句にかくつづけたる例は他に見えねど、卷一「三六」の「宮柱太敷座波《ミヤバシラフトシキマセバ》」この卷「三二九」に「安見知之吾大王乃敷座在國中者京都所念《ヤスミシシワガオホキミノシキマセルクニノミナカハミヤコオモホユ》」卷六「九二九」に「荒野等丹里者雖有大王之敷坐時者《アラヌラニサトハアレドモオホキキミノシキマストキハ》、京師跡成宿《ミヤコトナリヌ》」卷十九「四一五九」に「大王之敷座國者京師乎母此間毛於夜自(24)等《オホキミノシキマスクニハミヤコヲモココモオヤジト》」などにて、かくいふ事の有りぬべきをさとるべし。
○一首の意 明かにして上の歌と大差なし。槻落葉には「こは忍坂部皇子の宮のここに有けるにや」といひたれど、さにはあらざるべく、攷證に「皇子に獻れる趣にあらず。思ふに皇子につけて天皇に奉りしにもあるべし」といひたれど、これも必ずしも從ふべからず。恐らくは、この詠をば、ただかかる事をよみ奉りぬとて忍壁皇子に奉りし由に單純に解すべきものならむ。
 
天皇賜2志斐嫗1御歌
 
○天皇 この天皇も上の「天皇」と同じく、御名を記さねば明かならず。又志斐嫗といふ人の年代も明かならねば一層明かならず。されど、上の引きつゞきとして同じ天皇と見奉る時はそこにもいへる如く持統天皇文武天皇二代の御中なるべく考へらる。かくてこの歌を賜はりしものは老女なれば、恐らくは女帝なるべしといふ想像に基づきて持統天皇ならむといふ説の起りたりと思はる。拾穗抄に元正天皇とせるも女帝と考へたるが爲なるべし。されど、上の柿本人麿は卷二の末にいへる如く、寧樂遷都以前に死せし人と見ゆれば、その點より見て元正天皇とは考へられざるなり。尤も、排列の上に時代を顧みずとならば、元正天皇と見奉る説も否認し難きさまなれど、次の歌が文武天皇の御世の歌と見らるゝ以上、又大體治世の順に排列してありと考ふる以上、元正天皇と見奉るは穩かにあらず。
○志斐嫗 「シヒノオミナ」とよむべし。「嫗」は老女にして、「オミナ」とよむべきこと、卷二、「一二九」の「古(25)之嫗云々」の下にいへり。代匠記に「志斐は氏なるべし」といへり。次の歌の詞書には「嫗名未詳」とあり。この「志斐」は當時實際にその氏の名を記す文字として用ゐたるをそのまゝに用ゐしものと見ゆ。志斐氏は中臣氏の支族なるあり、阿部氏の支族なるあり。中臣氏の支族なるは新撰姓氏録左京神別に中臣志斐連とある、それなるが、これはその名の起り、明かならず。この志斐氏は元明天皇の御世和銅二年に中臣都加比が、この氏姓を賜はり、又聖武天皇の御世、神龜二年に漢人法麿にもこの氏姓を賜はりし由續紀にのす。若し、この氏なる時は、こゝの天皇は元明天皇若くは元正天皇と申すべき事となる。されど、この場合は恐らくは然らざらむ。阿部志斐連は大彦命の後にして阿部氏の支族たるが、これは阿部名代といふものの天武天皇の御世に賜はりし氏姓なり。その事の由は新撰姓氏録に之を記して曰はく「自v臣(稚子臣)八世孫名代、謚天武(ノ)御世獻2之楊花1。勅曰2何花哉1。名代奏2曰辛夷花也1。群臣奏2曰是楊花也1。名代猶強奏2辛夷花1。因賜2阿倍志斐連1也。」とあり。強言の義によりての氏ならば、或はこの氏人ならむか。若ししかりとせば、持統天皇のこれに戯れたまふも由ありて聞ゆ。然れども、これもとより證あるにあらず。ここに攷證に一説あり。曰く、「又考ふるに右の御製にものたまへるごとく、この嫗強言を強ひて申すによりて字して志斐の嫗とはのたまへるにて志斐は氏にはあらざるべし」と。これ亦一の説なり。さればいづれとも今、定め難し。
○御歌 天皇の御製歌を「御歌」とのみ書くは、例に違へり。この故に考には「御製歌の製字脱り」といへり。然れども、卷四には「岳本天皇御製」とあり。それに照せば、これも恐らくは「御製」とある(26)べきものならむ。
 
236 不聽跡雖云《イナトイヘト》、強流志斐能我《シフルシヒノガ》、強語《シヒガタリ》、比〔左○〕者不聞而《コノゴロキカズテ》、朕戀爾家里《アレコヒニケリ》。
 
○不聽跡雖云 古來「イナトイヘド」とよみて異議なし。「不聽」を「イナ」とよむは所謂義訓なるが、直ちに「キカズ」といふ義なりとする説はいかゞ。これは代匠記に「聽聞の聽にあらず、聽許の聽なり」といひ、古義に「不許と書るに同じ。」といへるを正しとすべし。即ち「聽」は「キク」の義にあらずして「ユルス」といふ義なるべし。「不許」と書ける例は卷八「一六一二」に「神佐夫等不許者不有《カミサブトイナニハアラズ》」とあり。「イナ」と假名書にせる例は卷十四「三四七〇」に「安比見※[氏/一]波千等世夜伊奴流《アヒミテハチトセヤイヌル》、伊奈乎加母《イナヲカモ》」卷二十「四四九七」に「美牟等伊波婆伊奈等伊波米也《ミムトイハヾイナトイハヤ》」などあり。「イナキカジ」といへどもといふ義なり。
○強流 「シフル」なり。卷四「六七九」に「不欲常云者將強哉吾背《イナトイハヾシヒムヤワガセ」といへる例あり。強ひて聞かしめ奉らむとするをいふ。
○志斐能我 「シヒノガ」とよむに異論なし。この「志斐」は志斐嫗の事なるが、その下の「能」は卷十四「三四〇二」に「勢奈能我素低母佐夜爾布良思都《セナノガソデモサヤニフラシツ》」又「三五二八」に「伊毛能良爾毛乃伊波受伎爾氏於毛比可禰都毛《イモノラニモノイハズキニテオモヒカネツモ》卷十八「四〇七一」に「之奈射可流故之能吉美能等可久之許曾楊奈疑可豆良枳多努之久安蘇婆米《シナザカルコシノキミノトカクシコソヤナギカヅラキタヌシクアソバメ》」などの「セナノ」「イモノ」「キミノ」の「ノ」と同じ用ゐざまなる助詞にして、元來は「ノ」にて上の體言を以て連體格に立たしむる性質を有するが、下にあるべき體言を領有して「ノ」そのものにて體言の資格を示すに至れるものなるが、その意を通俗的に具體的にすれば、シヒノ〔右◎〕オミナ(27)ガ〔四字右○〕」といふべきを「シヒノガ〔二字右○〕」といひたるなるべきが、その「ノ」なくても意通ずるによりて「ノ」は寧ろ語調を添ふる爲に加へたるさまに見ゆ。かくて「シヒノ」にて一の體言の取扱を受くるものにしてそれを「ガ」にて受けてこれを連體格として下の「強語」につづけたるなり。
○強言 舊訓「シヒゴトヲ」とよめり。槻落葉にはこの下に「登」を加へて「シヒコトト」とよみて、「今本には脱たるを古本によりて補へり」といひ、攷證も亦、しかして「元暦本によりて補ふ。」といへり。然るに、今傳はる元暦本には卷三なく、又その斷簡も見ることなし。岸本が見たる元暦本とは如何なる本なるか、明かならず。萬葉集校異を見るに、その頭注に、「暦 語下有登一字」とあれば、恐らくはそれによれるならむ。校本萬葉集によるに、神田本にはここに「登」字を加へて朱にて抹消せりといふ。玉の小琴には「しひがたりと訓べし」といひ、略解以下多くこれに從へり。按ずるに「登」を加ふるときはかへりて語の筋とほらず。されば「シヒガタリ」とよむをよしとす。さて「シヒガタリ」とは蓋し、己がよしと思ふ物語りを人に強ひて聞かしめむとて物語するを古、かくはいひしならむか。註疏に「人の否《イヤ》におもふことをしひて語るゆゑにシヒガタリといふ。古のみならず、今も老女などによくある事なり」といへり。童蒙抄は「氏にまれ、名にまれ、しひと云義によそひ給ひて強言とよませ給へる也」といひ、古義はこの句を評して「志斐氏に連ね縁《チナ》みて強流といひ、強語とのたまへる、甚めでたし」といへり。果してめでたしといふべきか、否かは知らねど、同音の語を重ねて調をとられしことは卷一の天武天皇の吉野の御製と稍々似たり。
○比者 「比」字流布本「此」に作りて「コノゴロ」とよめり。されど「此者」にては「コノゴロ」とよむべくも(28)あらず。温故堂本、大矢本、京都大學本に「比者」とあるを正し、とす。「比者」を「このごろ」とよむは元來「比」一字にて「近來」の意を有するに基づく。後漢書光武紀建武七年四月の紀に「比陰陽錯謬日月薄蝕」と見えたり。「比者」の「者」は「近者」「頃著」「今者」「昔者」の「者」と同じく時の副詞を構成する助辭たり。さて「比者」を「コノゴロ」の義に用ゐたるは六朝時代の俗語と見えて、當時の尺牘に見えたり。たとへば、王羲之の「積雪凝寒帖」に「比者悠々、如何可v言」とあるが如きこれなり。本集にての例は卷四「六八六」に「比者千歳八往裳過與吾哉然念欲見鴨《コノゴロハチトセヤユキモスギヌルトアレヤシカモフミマクホリカモ》」卷十「二二一三」に「比者之五更露爾《コノゴロアカトキヅユニ》」卷十一「二五五二」に「比者之吾情利乃生戸裳名寸《コノゴロノワガココロドノイクルトモナキ》」「二七七八」に「縱比者如是而將通《ヨシコノゴロハカクテカヨハム》」などあり。
○不聞而 舊訓「キカデ」とよみたるが、代匠記に「キカズテと和すべし、今の點にては而の字に叶はず」といひてより皆それに從へり。げに「キカズテ」とよむべきなるがその説明は不十分なり。「デ」は「不」と「而」との合意の語なれば、よまばよまれざるにあらず。されどここに「ズテ」とよむべしといふは當時「ズテ」を約めて「デ」といひし證なく、かかる「デ」は恐らくは、平安朝時代よりの事なるべく思はるるを以てなり。さて意は明かなり。
○朕戀爾家里 「アレコヒニケリ」とよむ。「朕」の字は天皇の御自稱として用ゐる、支那にての正しき用法によれるなり。意明かなり。志斐嫗の不參の爲にかくよませたまへるならむ。
○一首の意 朕がいやといひても聞食し給へ/\とてひたと強ひて物語をする志斐嫗のその強物語をば、嫗不參の爲にこの頃は聞かぬが、さてかく暫くその強語りを聞かぬもまた物足らぬ心地して、それはそれとして、やはり、戀しく思食しなりたりと戯れて宜へるなり。
 
(29)志斐嫗奉v和歌一首 嫗名未詳
 
○奉和歌 「コタマツルウタ」とよむべきか。「和」は元來「唱和」の義なるべきものなれど、ここは奉答の義にとれり。されど、和の義もあらはれたり。
○嫗名未詳 この四字、古寫本すべて小字にせり。それをよしとすべし。これ、古よりその名明かならざる人なることを注せるなり。今にしてその名を知らむに由なし。
 
237 不聽雖謂《イナトイヘド》、話禮話禮常《カタレカタレト》、詔許曾《ノラセコソ》、志斐伊波奏《シヒイハマヲセ》。強話登言《シヒカタリトノル》。
 
○不聽雖謂 上の「不聽雖云」と同じくたゞ「謂」と「云」と一字かきかへたるのみにて「イナトイヘド」とよむに論なく、意義また同じ。
○話禮話禮常 古來「カタレカタレト」とよみて異論なし。神田本等には「話」の字を「語」とせり。されど「話字」を「カタル」とよむことは下にいふが如くなれば誤といふべからず。爾雅釋詁に「話(ハ)言也」とあり、説文に「話字」に注して「合會善言也」といひ、詩經(ノ)大雅抑章には「話言」の字あり、文選秋興賦には「談話」の字あり。類聚名義抄には「話」に「カタラフ」の訓あり、色葉字類抄には「話」に「カタル」の訓あり。されば、「カタル」とよむは當然なり。「常」を「ト」とするは卷一以來例多し。
○詔許曾 舊訓「ノレバコソ」とよみたるが、神田本細井本には「イハバコソ」とありといふ。玉の小琴には「ノラセコソ」とよむべしといへり。ここは詔字の意に因みて敬語とするをよしとして(30)本居説に從ふべきか。されど、これを説明するに玉の小琴に「のらせばこそと云ふべきを、ばを略くは古言の格也」といへるは、不可なり。これ「のらせ」といふ已然形のまゝにて下に接續する語格となるが、古言の格たるにて「ば」を略けるにあらぬことは卷一以來屡々いへる所なり。「のらせ」といふ語につきては攷證に「のらせはのりませばといふにて、のるとは紀記集中、告の字を多くよめるごとく、人にものを告る意にて、名告といふも詔《ミコトノリ》といふもこの告《ノル》也。こゝは天皇なれば、詔の字をば書る也。そは廣韻云詔上命也、秦漢以下天子獨稱v之と見えたり。」といへるにて明かなり。
○志斐伊波奏 舊訓「シヒテハマヲセ」とよみたれど、「伊」を「テ」とよむべき理由なし。代匠記には「シヒヤハ」とよみたれど、「伊」を「ヤ」といふべき理由もなし。代匠記の他の説には「シヒイハマウセ」とよむべきかといへり。考は「伊」は「那」の誤にして「シヒナハマウセ」とよみたり。されど、ここは一も誤字なきのみならず、「シヒナハ」といふ時の「ナ」は如何なる爲に加へたるか怪むべし。玉の小琴は「シヒイハマヲセ」とし、槻落葉も亦しかよめり。されど、その説明は古來一も正鵠を得たるものなし。この「イ」は主格を示す古代の助詞にして、平安朝以後の歌文には用ゐねど、法相宗の經論、因明、唯識などの書をよむには今も用ゐること、奈良朝文法史に説ける所なり。さてかく、「イ」と「ハ」との助詞を重ね用ゐたる例は、續紀宣命第四十五詔に「此乎|持《タモツ》伊波〔二字右○〕稱乎致之|捨《スツル》伊波〔二字右○〕謗乎招都」とあるあり。「奏」は天皇に申す事なる故にこの字を用ゐたるなるが、これを「マヲセ」と已然形にしてよめるは上に「コソ」とあるに對する結なり。かくてここにて一段落たり。
(31)○強話登言 舊板本の訓「シヒコトトノル」とよみたるが、神田本、西本願寺本、細井本等「シヒコトトイフ」とよめり。考は「話」は「語」の誤「言」は「告」の誤かといひ、槻落葉には「話」を「語」に改めて、「シヒコトトチフ」といへり。古義は又「言」を「詔」又は「告」の誤として「シヒカタリトノル」とよみたり。先づ、ここに誤字ありやと見るに、「話」を神田本に「語」とし、温故堂本に「詔」とする外に字の疑ふべきものを見ず。さて「詔」はもとより誤なること明かなるが」、「話」は必ず「語」とせずとも「カタリ」とよまむに差支なきこと上にいへる如し。されば、このままにてよむを穩なりとすべきが、槻落葉の「シヒコトトチフ」といふは語をなさず。「チフ」は元來「トイフ」の約言なるに、更にその上に「ト」を加へて「トチフ」といふ如き語遣は古今を通じて決してあるべからざるものなればなり。かくて「強話」と「言」とを如何によむかといふ問題殘れり。「話」は「コト」とよまむより「カタリ」とよむかた字義に近ければ、「シヒガタリ」とよむ説をよしとすべく、かくて上の御製の「強語」をうけいへること明かに知らる。「言」は「イフ」とよむを普通とすれど、「ノル」とよまむに差支なし。されば、ここは上の「ノラセ」に對して「ノル」とよむをよしとす。これを一段落とするが、この句と上の段落との間に「然るに」といふ如き意を含めて解すべし。
○一首の意 陛下は「イナトイヘド、シフルシヒノガシヒガタリ」など、如何にも私が、強ひて申し上ぐるかの如く仰せらるれど、實際は反對にて候ふぞ。私は御免を蒙りたしと再三固辭し奉るに、語れ/\と陛下が強ひて仰せらるればこそ志斐は物語をし奉りしにてこそあれ。然るに、それを陛下は反對に私の強ひて語りきかせ奉ることと仰せらるゝことよとなり。即ち陛下(32)が、戯れに仰せられしに對し奉りて又戯れにて答へ奉りしことが唱和の精神にかなへるなり。されば「奉和歌」といふ題詞もあたれりとすべし。
 
長忌寸意吉麿應v詔歌一首
 
○長忌寸意吉麻呂 この人の詠は卷二に二首(「一四三」「一四四」)あり、卷十六に八首(三八二四−三八三一)あり。この人は蓋し卷一に(大寶)「二年壬寅太上天皇幸2于參河國1時歌」の作者の一人としてあげられたる「長忌寸奧麿」と同じ人なるべし。その傳は知られぬ事既にいへる如し。而して、「長忌寸奧麿」の名にてはこの卷、十八張(二六五)卷九、八張(一六七三)に各一首あるが、卷九なるは「大寶元年辛丑冬十月太上天皇大行天皇幸2紀伊國1時歌十三首」の中の一首たるものなり。されば、この人は大寶の頃の人にして文武天皇の朝に仕へし事は明かなり。さてここの歌はいつの事か明かならねど、大體文武天皇の御世と見るを穩かなりとす。
○應詔歌 「オホミコトニコタヘマツル歌」とよむべきか。この歌をば上にあげたる所の供奉の歌として考ふるにこの「詔」は持統天皇の詔か、文武天皇の詔か明かならず。なほ又その詔の如何なりしかも知られず。契沖は「此歌のやうを案ずるに難波宮にみゆきしたまひける時の歌なるべし」といひ、考は「右と同天皇の幸の度なるべし」といひ、又「こは本孝徳天皇のおはしましゝ難波豐崎の宮にて海邊の興有事をいひたり」といひ槻落葉もこれらの説をよしとして「文武天皇三年正月幸2難波宮1とあるもこの宮なるべし」といひ、略解、檜嬬手、古義、攷證、註疏、等みなこれに(33)從へり。按ずるにこの歌は海邊の漁業のさまを見てよめる歌にして、しかもそこに大宮のありし由なればさる事なるべし。但し、確かに難波宮なりとすべき證を見ず。いづれにしても或る時、ある處の離宮に、行幸に供奉して詔を奉じてよめりといふ事なり。
 
238 大宮之《オホミヤノ》、内二手所聞《ウチマデキコユ》、網引爲跡《アビキスト》、網子調流《アゴトトノフル》、海人之呼聲《アマノヨビコヱ》。
 
○大宮之 「オホミヤノ」なり。「大宮」は卷一「二九」「五三」以下に見えて、皇宮をさすが、ここは海邊に近き所なるべきはいふをまたねば難波宮ならむといふ説をよしとす。
○内二手所聞 「ウチマデキコユ」とよむ。「二手」を「マデ」とよむことは卷一「七九」の「千代二手《チヨマデニ》」に見えたるが、「左右」(「三四」)「左右手」(卷十「二三二七」)を「マデ」とよむにおなじ語なるを「マデ」といふ助詞に借用したるなり。「所聞」を「キコユ」とよむことも、卷一「六七」の「不所聞有世者《キコエザリセバ》」をはじめ、例多し。このきこゆるものは次下にいへる海人の呼聲なり。
○網引爲跡 「アビキスト」とよむ。「網引」は漁の業として営む網をひくことなるが、この語は卷四「五七七」に「吾衣人莫著曾網引爲難波壯士乃手爾者雖觸《ワガコロモヒトニナキセソアビキスルナニハヲトコノテニハフルトモ》」卷七「一一八七」に「網引爲海子哉見《アビキスルアマトヤミラム》」などあり。その假名書の例は集中になけれど、「網何」とかさぬる時に「ア」とのみいふは下の「網子」も同じ。古今集戀三に「君が名もわが名も立てじ難波なるみつ〔二字右○〕共いふなあひき〔三字右○〕ともいはじ」とある歌は難波の縁語として「御津」といふ地名と、網引といふ事とをかくしたるものなり。「跡」は「と」といふ格助詞を示したるものなるが、この「ト」は終止せる形をうくるものなれば、上の「爲」は「ス」とよむべ(34)し。さてこの「ト」は後世ならば「トテ」の義を以て釋すべき語なり。この句をば槻落葉に「御饌津ものに奉る魚をとるとて網引也」といひたれど、さまでの意にとるべきにあらじ。都人の到れるに興をそへむとて漁網をひきて見することは今の世にも多きことなり。
○網子調流 「アゴトヽノフル」とよむ。童蒙抄には「トヽノフル」は「歌詞とも不v覺」といひて、「アミコシラフル」とよみたれど、この説は從ひがたし。先づ、「トヽノフル」は雅言ならずといふ事は證なきことにして卷二「一九九」に「奔流皷之音《トヽノフルツヅミノオト》」とあるあり、又卷十九「四二五四」に「物乃布能八十友之雄乎撫賜等登能倍賜《モノノフノヤソトモノヲヲナデタマヒトトノヘタマヒ》」卷二十「四三三一」に「難波能美津爾大船爾末加伊之自奴伎安佐奈藝爾可故等登能倍《ナニハノミツニオホフネニマカイシジヌキアサナギニカコトトノヘ》」「四四〇八」に「可古登登能倍弖《カコトヽノヘヘテ》」ともあれば、よみて差支あらざるのみならず、「網子しらぶる」はかへりて語をなさずと考へらる。而して「網子」を「アミコ」とよむ説は下を「シラブル」と四音にせるによるものなれば、舊の如くよむべきなり。攷證に曰はく「網子は網ひく人夫をいふ事、水手をかこ、舟人を舟子といふにて知るべし」と、註疏に曰はく「網子は田を作る者を田子《タゴ》、馬を遣ふ者を馬子《マゴ》などいふ類なり」と。「トトノフル」は卷二「一九九」の「齊流」の下にいへる如く呼び集め人數をそろふることなり。網を曳くには多くの網子を要するが故なり。なほこの「トヽノフ」に就きて雜誌「美知思波」(第一卷第六號)に伊藤生更氏の有益なる説あり。參考とすべし。
○海人之呼聲 「アマノヨビコヱ」とよむ。海人は漁人にして、語は「アマビト」の下略なるべきを卷一「白水郎」をかくよむことの下に於いて説けるが、神武紀に「海人」を「アマ」とよむことの例あり。又「アマ」の語の假名書の例は古事記清寧卷に「意布袁余志《オフヲヨシ》、斯毘都久阿麻余《シビツクアマヨ》」とあり。「アマノ呼聲」(35)とはその網子を齊ふる爲に呼ぶその聲なり。かくて、この三句はその上、二句に對しての主格たるものを示せるものにして、それが「大宮の内まできこゆ」といへるにて反轉法によれるなり。
○一首の意 海人が、網を曳かむとすとて、網子を呼びとゝのふる聲が、この大宮の内まで聞ゆとなり。この歌「應詔」とあれば、恐らくは、その海人の呼聲を聞召して物めづらしければ、歌によめなど、仰せられしに奉答せしものなるべし。
 
右一首
 
○ 契沖曰く「右一首と云下に、註有けむが落たるなるべし」と。諸家多く、これに從ひて説をなせり。この説一往、尤もなりときこゆれど、必しも然りといふべからす。何となれば、この詞書に既にいつ、いづこ、いかなる事といふ事なきを以て考ふれば、その原とある記録に記したるまゝを切り出したるものならむと見ゆるによりて、それに照して考ふれば、この左注も原本のまゝならむ。かくいふ由は卷一に
 二年壬寅太上天皇幸參河國時歌
といふ詞書ありて、その折の歌二首をあげ、各左注に「右一首長忌寸奧麿」「右一首高市連黒人」とあげたると稍々似たる點あればなり。恐らくは「某年某天皇行幸某所應詔歌」といふ如き題詞ありて數首の歌を載せたるその一首に「右一首長忌寸意吉麿」といふ如き形なりしを少しく變形せしにてもあらむ。この事必ず然りといふにあらねど、かくも考へらるゝ點あるを告ぐ。
 
(36)長皇子遊2獵路池1之時、柿本朝臣人麿作歌一首并短歌
 
○長皇子 「ナガノミコ」この皇子の事は卷一より出でたるが、その「六〇」の歌の條にいへる如く、天武天皇第四の皇子なり。詳しくはそこを見よ。
○遊猟路池之時 「獵路池」は「カリヂノイケ」とよむべし。この池の事は卷十二「三〇八九」に「遠津人獵道之池爾住鳥之立毛居毛君乎之曾念《トホツヒトカリヂノイケニスムトリノタチテモヰテモキミヲシゾオモフ》」とも見えたり。この池の所在は八雲御抄には石見とし、藻鹽草には加賀としたれど、契沖のいへる如く、大和のうちなるべし。さて、歌には「獵路乃小野爾《カリヂノヲヌニ》云々」とあれば、「カリヂ」といふは或地の名にて、そこの野にも池にもいへりと見ゆ。大和志には「十市郡獵路小野、鹿路村、舊屬2高市郡1」とあり。この鹿路《ロクロ》といふ地は多武峯より吉野山に行く道にあたりて山中なり。今のよみ方は「ロクロ」といふなれど、恐らくは、そは「鹿路」の二字を音讀せし爲にして、古くは正しく「カヂ」といひしなるべく、その「カヂ」は「カリヂ」の約なるを「鹿路」と宛字にせしなるべし。但し、この地に、今、池ありと聞えず。恐らくはあせはてたりしならむ。槻落葉は「今本ひとつの獵の字を脱し、野を池に誤れり。猟は活本古本によりて補《クハ》へ、野は私に改めつ。」といひて、「遊獵々路野之時」と改め、「カリチヌニミカリタヽストキ」とよみたり。然るに、しか誤字ありと證すべき本は一もなく、古活字本にもこの本のまゝなれば、改むるは強言なり。又久老は池に獵する事なしといへれど、池の邊に獵することなしといふべからず。このまゝにて可なり。さて「遊」字は「イデマシシトキ」とよむべきか。
 
(37)239 八隅知之《ヤスミシシ》、吾大王《ワガオホキミ》、高光《タカヒカル》、吾日乃皇子乃《ワガヒノミココノ》、馬並而《ウマナメテ》、三獵立流《ミカリタタセル》、弱薦乎《ワカコモヲ》、獵路乃小野爾《カリヂノヲヌニ》、十六社者《シシコソハ》、伊波比拜目《イハヒヲロガメ》、鶉己曾《ウヅラコソ》、伊波比回禮《イハヒモトホレ》。四時自物《シシジモノ》、伊波比拜《イハヒヲロガミ》、鶉成《ウヅラナス》、伊波比毛等保理《イハヒモトホリ》、恐等《カシコミト》、仕奉而《ツカヘマツリテ》、久堅乃《ヒサカタノ》、天見如久《アメミルゴトク》、眞十鏡《マソカヾミ》、仰而雖見《アフギテミレド》、春草之《ハルクサノ》、益目頻四寸《イヤメヅラシキ》、吾於富吉美可聞《ワガオホキミカモ》。
 
○八隅知之吾大王 「ヤスミシシ、ワガオホキミ」この語卷一以來屡々出でたり。舊訓、下に「ノ」を加へたれど、かくする時はかへりて語をなさず。こゝは長皇子をさし奉れり。
○高光 舊訓「タカテラス」とよみたれど、「タカヒカル」とよむべきこと及びその意、卷二「一七一」にいへる如し。次の句も然り。
○吾日乃皇子乃 「ワガヒノミコノ」とよむ。槻落葉は古本に下の「乃」なしとして、「ワガヒノミコ」とよめり。然れども、今傳はれる諸本中、「乃」なきは神田本のみなり。「ノ」在りても妨なきことなれば削るを要せず。檜嬬手は上下の二字を除き「日乃皇子」とせり。これは臆測に止まり、既にいへる如く、卷二にこの語の例あればもとのまゝにてよしとす。ここに「わが」とあるは親みて申し奉れるものなり。これは長皇子をさし奉れるは勿論なり。
○馬並而 「ウマナメテ」なり。この語のことは卷一「四」に「馬數而」「四九」に「馬副而」とかける下にいへり。馬を乘り並べての意なり。
(38)○三獵立流 舊訓「ミカリニタタル」とよめり。されどよしとは思はれず。代匠記に「ミカリタヽセル」とよめり。これは卷一「四九」の「御獵立師斯時者來向《ミカリタタシシトキハキムカフ》」に照してよめるものなれば從ふべし。卷六「九二六」に「馬並而御※[獣偏+葛]曾立爲《ウマナメテミカリゾタタス》」ともあり。これは「御獵に立たす」といふ語に基づけるものなることいふまでもなし。而して、この「タヽセル」は「タヽス」より「アリ」に熟合せるものなるが、それの連體形にして「獵路乃小野」に對する連體格たり。
○弱薦乎 舊訓「ワカクサヲ」とよめり。管見には「ワカゴモヲ」とよみ、古寫本また、かくよめるもの少からず。而して契沖以下、多くこれに從へるが、童蒙抄は「ワカカヤヲ」とよむべしといへり。按ずるに「薦」を「クサ」とよまむは汎きにすぎて當らず、又「カヤ」と讀まむは無理なり。元來「薦」字は和名鈔坐臥具に「唐韻云薦作甸反和名古毛席也」とあれば、「ムシロ」の或種類たる「コモ」をさす字たるを草の「コモ」に借用せるなり。草の「コモ」は和名鈔草類に「本草云菰一名蒋云々和名古毛」と見えたるものなり。即ちここはその「コモ」といふ草の若きを「ワカコモ」といへるなり。「弱」字は左傳、文公十二年に「趨有2側室1曰v穿、晋君之壻也、有v寵而弱」とある注に「弱(ハ)年少也」とあり。「若」には本來「ワカシ」の義無きものにして、今之を「ワカシ」とよむは元來「弱」字の義にして、「弱」「若」同韻なるより通用せしめしものなり。さて、ここは「ワカコモヲ刈る」といふ意にて「カリヂ」の枕詞とせるものと見えたり。
○獵路乃小野爾 「カリヂノヲヌニ」とよむ。この地の事は上にいへるが如し。「小野」の「小」はやさしくいへる、美稱にして小なる義にはあらじ。題に池といひ、ここに小野といへるは、其の地に(39)池あり、その邊が野なりし故なるべし。
○十六社者 「シシコソハ」とよむ。「十六」を「シシ」といふは、卷六「九二六」に「朝獵爾十六履起之《アサガリニシシフミオコシ》」とも見え、なほ例あり。これは「四四十六」といふ算術の九々をかりてあらはしたるものにして、この事は余かつて、これを新公論といふ雜誌の紙上にて説けることあり。古來かくの如きを戯書といひ來つれど、かくの如きは唯の戯書にあらずして、當時この九々の呼聲の存せしに基づくものなり。なほこの九々の事は三上義夫氏が東洋學報の上にて詳かに述べられたり。「社」を「コソ」とよむことは卷二、「一三一」の「人社見良目」の下にいへり。さてこの「シシ」は槻落葉に曰はく「ししとは猪鹿の惣名、わけてはゐといひ、かといへり」と、この語の如くなるが「シシ」は元來肉の義なり。その肉の食料に供するよりの名にしてその類の獣をいふ惣名なり。能登人は今も「熊」を「クマノシシ」といへるなり。「シシ」とは獵の目的物たる獣をさせり。
○伊波比拜目 舊訓「イハヒフセラメ」とよめり。されど「拜」を「フス」とよむは例にたがへり。童蒙抄には「拜目」を「ヲガマメ」とよめり。本居宣長は玉の小琴に「ヲロガメ」とよむべしといひ、槻落葉もかくよめり。かくて後諸家これに從ひて異論なし。「ヲガム」といふ語は「ヲロガム」の約なるべきが、この頃は本の形を用ゐしならむが故に、「ヲロガメ」の方をよしとす。日本紀推古卷に曰はく「鳥呂餓彌弖菟伽陪摩都羅武《ヲロガミテツカヘマツラム》」とありて、それにつきては釋日本紀卷五に「公望私記云謂v拜爲2乎加無《ヲガム》1言是|乎禮加々无《ヲレカガム》也」と見ゆ。「イハヒ」の「イ」は所謂發語にして「イハヒ」は匍匐をいふ。これは卷二「一九九」に「鹿自物伊波比伏管《シシジモノイハヒフシヅヅ》」又「鶉成伊波比廻《ウヅラナスイハヒモトホリ》」とある「イハヒ」におなじ。この「匍匐《イハヒ》」は今の(40)坐禮のさまに似たるものなるべし。それは日本紀天武天皇十一年九月の詔に「勅自v今以後脆禮、匍匐禮並止v之、更用2難波朝廷之立禮1」と見えて、公式にはこれを停止せられたれど、實地には依然行はれしならむ。されば「イハヒヲロガム」とは今の人のする如く坐して手をつき拜むことなり。この意は猪鹿などの膝を折り伏してつゝしみかしこまるといへるなり。
○鶉己曾 「ウヅラコソ」とよむ。鶉は和名鈔鳥名に出でて、「宇豆良」と訓じ、今も人のよく知る鳥なるが、ここにこれを出せるは、これも獵の目的物たるが故なり。
○伊波比回禮 「イハヒモトホレ」とよむ。この語のことは卷二「一九九」の「伊波比廻雖侍候《イハヒモトホリサモラヘド》」の下に既にいへる如く、「回《モトホ》る」は「めぐりまつはる」ことなり。ここは上の「コソ」の結として「モトホレ」といへり。以上一段落にして、皇子の御獵に立ちたまへば、獣も鳥も敬ひ奉りてこれ命これ奉ずといふさまなりといへるなり。
○四時自物 「シシジモノ」とよむ。この語も卷二「一九九」に「鹿自物伊波比伏管《シシジモノイハヒフシツツ》」の下にいへる如く、鹿猪などのさまにといふ樣の意にいへるなり。
○伊波比拜 舊訓「イハヒフセリテ」とよみたれど從ふべからず。上の「伊波比拜目」をうけていへるにて「イハヒヲロガミ」と槻落葉によめるに從ふべし。これより以下は人麿等御供の臣下の匍匐拜禮をなす樣をいへり。
○鶉成伊波比毛等保理 「ウヅラナス、イハヒモトホリ」なり。この語卷二「一九九」に既に出でたり。これも人麿等が、親王の御前にて命を承はるさまをいへるなり。以上四句は上段の末の四句(41)をうけて詞のあやをなせるなり。
○恐等 舊訓「カシコシト」とよみたるが、玉の小琴には「カシコミト」とよみ、槻落葉、古義、略解等これに從へるが、攷證はこれに反對して舊訓によれり。今この「恐」字を見るに、「カシコシ」とよまむも「カシコミ」とよまむも不理にあらず、又その意義よりいはむにこれも「カシコシ」にても「カシコミ」にても意通ずべきなり。されば、實例より推して決するより外あらじ。按ずるに卷十一「二五〇八」に「皇祖乃神御門乎懼見等侍從時爾相流公鴨《スメロギノカミノミカドヲカシコミトサブラフトキニアヘルキミカモ》」卷十五「三七三〇」に「加思故美等能良受安里思乎美故之治能多武氣爾多知弖伊毛我名能里都《カシコミトノラズアリシヲミコシヂノタムケニタチテイモガナノリツ》」「三六七三」に「可是布氣婆於吉都思艮奈美可之故美等能許能等麻里爾安麻多欲曾奴流《カゼフケバオキツシラナミカシコミトノコノトマリニアマタヨゾヌル》」などの例あり。されど、かかる場合を「カシコシト」とよむべき假名書の證は一も見ず。されば、「カシコミト」とよむをよしとすべし。さて「カシコミ」は連用形なれば、それを「ト」にてうくるは「カシコミ」の下に何かの語を省きたる格にして、新考に「シラニト(卷二の「鴨山之磐根之卷有吾乎鴨《カモヤマノイハネシマケルワレヲカモ》不知〔二字右○〕等妹之待乍將有《トイモガマチツヽアラム》」の「シラニ」の例)の類なり」といへり。
○仕奉而 「ツカヘマツリテ」なり。「仕奉」といふ語は卷一「三八」にその例あり。意明かなり。
○久堅乃 天の枕詞なること上に屡々いへり。
○天見如久 「アメミルゴトク」とよむ。この語は卷二「一六八」に「久竪乃天見如久仰見之皇子乃御門之荒卷惜毛《ヒサカタノアメミルゴトクアフギミシミコノミカドノアレマクヲシモ》」といへる例あり。それに准じて考ふべし。ここは下の枕詞をへだて、仰ぎ見るにかかれるなり。
○眞十鏡 「マソカガミ」とよむ。この詞は集中に例甚だ多し。そのうちここと同じ文字を用ゐ(42)たるものを一二あぐれば卷四「六一九」「六七三」等あり。他の文字のもの一二をあぐれば、卷五「九〇四」に「麻蘇鏡」卷十一「二六三二」に「眞素鏡」などあり。名の義は眞澄鏡の義なりといへり。この説によらば「マスカガミ」の音轉とすべし。然るに古語に「マスカガミ」とかける例を見ず。然るときはこの説正しといふべきか如何、多少の疑なき能はず。なほ後の學者の考究をまつべきものなり。さてここは下の「ミル」の枕詞とせるなり。
○仰而雖見 「アフギテミレド」とよむ。意は上にいへる卷二の歌の例にて明かなり。下の句に照して考ふるに、ここは常に〔二字右○〕仰ぎ見奉るよしの心ありと見ゆ。
○春草之 舊訓「ワカクサノ」とよめり。代匠記には「ハルクサともよむべし」といひ、槻落葉はこれに從へり。按ずるに「春草」の字面は卷一「二九」にもありて、そこも舊訓には「ワカクサ」とよみたるが、下の「茂生有」に對して「ワカクサ」とよまむよりは「ハルクサ」とよむをよしといへり。然るに、ここは攷證に「春草をよめるは義訓にて春草はめづらしきものなれば若草のいやめづらしきとはつづけし也」といひ、又「わかくさのつま、若草のにひ手枕、若草の思ひつきにしなどつゞくるもみなめづらしき意もていへるなれば、ここもみなわかくさとよむべし」といへり。この論一理あるやうなれど、「春草」の字面を「ワカクサ」といふは少しく無理なり。「ハルクサ」といひても、めづらしく思ふ心は十分にあらはるべく、こゝは妻の枕詞にはあらねば、舊訓のまゝにてあるべきなり。
○益目頬四寸 舊訓「マシメツラシキ」とよみたるが、童蒙抄に「イヤメツラシキ」とよめるをよしと(43)す。「益」を「イヤ」とよむ例は卷二、「一三一」に「益高爾山毛越來奴《イヤタカニヤマモコエキヌ》」ありてその下にいへり。「頬」字は和名鈔に「都良一云保々」とあるにて「ツラ」の訓あるを知るべし。「目頬四寸」はすべて借字にて「メヅラシキ」といふ語をかきあらはせるなり。この語の例は卷五「八二八」に「伊夜米豆良之岐烏梅能波奈加母《イヤメヅラシキウメノハナカモ》」卷十八「四〇八四」に「伊夜米豆良之久於毛保由流香母《イヤメヅラシクオモホユルカモ》」などあり。いつ見奉りても飽かず、みればみるほど、敬愛し奉るべきといふなり。
○吾於富吉美可聞 「ワガオホキミカモ」とよむ。この「オホキミ」はもとより長皇子をさし奉るなり。「カモ」は感動を寓したる助詞なり。
○一首の意 わが敬ひ愛し奉る長皇子が從者と共に、數多の馬を乘りならべて、獵路の野に御獵に出で立ちたまへば、その野に住める鳥獣はいづれも稜威を畏みて仕へ奉り、匍匐羅列して拜し奉るといへるが第一段にしてこれは鳥獣の多く獵獲せられて皇子の御前に供へられしをいへるなるべし。第二段はさてその猪鹿鶉などの如く、我等奉仕の人々も、匍匐羅列して仕へ奉りつつ、天を仰ぎ見る如く、その御有樣を尊み恐み仕へ奉りて見奉れば、見る毎にいよ/\有難く尊く、又愛し奉るべき皇子にましますかなといふなり。
 
反歌一首
 
240 久堅乃《ヒサカタノ》、天歸月乎《アメユクツキヲ》、網爾刺《アミニサシ》、我大王者《ワガオホキミハ》、蓋爾爲有《キヌガサニセリ》。
 
○久堅乃 上にいへり。
(44)○天歸月乎 「アメユクツキヲ」とよむ。古寫本には「ソラ」とよめるあれど、「アメ」をよしとす。「歸」を「ユク」とよむは廣雅釋詁に「歸往也」とある漢字の義によれるなり。本集中かくよむべく用ゐたる例は卷四「五七一」に「行毛不去毛遊而將歸《ユクモユカヌモアソビテユカム》」卷九「一八〇九」に「親族共射歸集《ウカラドモイユキツドヒ》」などなほ多し。「アメユクツキ」とは「天を行《ア》りく月」といふ意なり。
○網爾刺 「アミニサシ」とよめり。萬葉考は網は綱の誤といひて「ツナニサシ」とよめり。その説に曰く、「綱にて月を刺取て蓋となし給へりと云なり。此綱を今本には網と有によりて説くといへどかなはず。綱つけてひかへるものなれば、かく譬しなり。伊勢大神宮式の蓋の下に緋綱四條とある是なり。後撰歌集に照月にまさきのつなをよりかけて、ともよみつ。」といへり。玉の小琴、槻落葉、略解、檜嬬手、古義、註疏、新考みなこれに從へり。然るに古今の諸本一も「綱」の字に作る本なし。「網」「綱」互に誤り易き字なれば、この事必ずしもなしとはいふべからず。然れども攷證ひとりこれに反對して文字も古のまゝ、訓も古のままなるをよしとせり。その説長けれど、次に引くべし。曰く、
  眞淵宜長久老などみな網《アミ》は綱《ツナ》の誤りとしてつなにさしと訓れたれども、皆非也。まづこれらの説をあげて後に予が説をいはむ。考云(中略)宣長の説はこれと同じ。久老云、今本|網《アミ》とあるは綱《ツナ》の誤りにて蓋には綱《ツナ》ありて、之をとるものを綱取《ツナトリ》といふと契沖いへり。まことにさる事にて、江次第などにも、その事見えたり。さるをおのれ疑《ウタガヒ》けるは綱《ツナ》にはさすといふ言の集中にも何にも見えぬに網《アミ》にはさすといふ言のありて、卷十七にほととぎす夜|音《コヱ》なつ(45)かし、安美指者《アミサヽバ》。おなじ卷に二上乃乎底母許能母爾安美佐之底安我麻都多可乎《フタガミノヲテモコノモニアミサシテアガマツタカヲ》とも見え、端書に張2設羅網1とあれば刺とはあみをはる事にてこゝも今本の字のまゝに、蓋に網《アミ》をはるにやと思へりしかど、蓋に網《アミ》はさらによしなければ、猶|鋼《ツナ》の誤りとすべき也云々。これらの説、みな非也。予案るに、本集十七【十二丁】に保登等藝須夜音奈都可思《ホトトギスヨゴヱナツカシ》、安美指者花者須具等毛《アミササバハナハスグトモ》、可禮受加奈可牟《カレズカナカム》(三九一七)とあるはほとゝぎすの夜る鳴聲のなつかしき故に、網《アミ》を張《ハリ》て外へ飛びゆかざるやうに留《トヾ》めおかば、花は散て過ぎぬともいつもなかましといへる意にて、安美指者《アミサヽハ》は網《アミ》を張《ハリ》てほととぎすの外へ飛行を留《トヾ》むる意なれば、こゝも網《アミ》を張《ハリ》て天往月《ソラユクツキ》を留《トゞ》めて君が蓋にしたまへりといふ意にて網爾刺《アミニサシ》は天歸《アメユク》月を留めん料にのみいへるにて、蓋《キヌガサ》へかけていへるにはあらざる事、天歸《アメユク》月のゆくといふ言に心をつけて、往《ユク》を留《トヾ》めんがために網《アミ》を張る意なるを十七卷のほとゝぎすを留めんとて網《アミ》をさせるに思ひ合せてしるべし。かくの如く見る時は本のまゝにてやすらかに聞ゆるを、先達やゝもすれば、文字を改めんとのみして古書をたすくるわざをはからざるはいかなる事ぞや。こはよくも思ひたどらざるよりいでくるわざなるべし。
と慨嘆せり。まことにこの説の如くにしてよく意通り、文字もなほさずして濟むなり。されど、なほ攷證の説を補正すべき點なきにあらねば愚按を述べむ。
 この句につきて先づ考ふべき上の「天歸月乎」といふ語の「ヲ」格はいづこに關係すべきものなるかといふことなり。こはもとより「アミニサシ」にも關すべけれど、その主眼點は「蓋にせり」即(46)ち「我大王は天歸月乎蓋にせり」といふを本體とするものにして「網にさし」はその月をば蓋にせる事の手續を述べたるものなることは明かなり。さてこの「刺す」といふ語が綱に縁なき語にして網に縁ある語なることは久老の既にいひし所なれば、今更いふをまたず。次に、「網に刺しは月にかかれるか、蓋にかかれるかといふに、この歌にては「月」にのみかかれるものにして、蓋はその結果としてあらはれたるに止まれり。かくて考ふれば、岸本の説の如く網を刺し(即ち張り設け)て月を留めたりといふ事なるべきか、ここはそれよりも意強く月を網にてとりたりといふことなり。そは如何にして考へらるるかといふに、先づ月は空を行くものとし鳥も亦空中を行くものと見るときは大小の差は甚しけれど、趣はかよへり。かくて凡そ鳥を獲むとて網を張るは、その鳥の必ず通るべき要路に設けおくにてそこを行く鳥が、知らずしてかゝりて止められて網のたもとにおちて取らるるなり。この事は余少年の時屡々後園に網を張りて小鳥をとりて經驗せるなり。かく考ふるときは「天ゆく月」とわざと「ゆく」といへることの意明確となるべし。なほいふべきことは、これは遊獵の際の歌なれば、その猟の意なくはあらず。然るに、攷證以外の諸家の説一もこの點に觸れたるものなし。攷證も亦この點に觸れたる説明をなさず。されど、これは皇子の御獵の幸多かりし由を祝し、さては月までを網してとりて蓋にしたまへりといへるものなること明かなり。かく考へずしてはこの歌の意、端書とも、又長歌とも何の關係もなきものとなるべきなり。よく/\思ひみるべきことなりとす。
○我大王者 「ワガオホキミハ」なり。長皇子をさし奉ること勿論なり。
(47)○蓋爾爲有 「キヌガサニセリ」とよむ。槻落葉は「有」を「利」に改めたり。よみ方はおなじ。然れども、さる本一もなし。「爲有」を「セリ」とよむことは卷二「一〇三」の「吾里爾大雪落有《ワガサトニオホユキフレリ》」などの例にて怪むべきことにあらず。「蓋」は「キヌガサ」とよむ。この物は和名鈔伽藍具に「蓋」に注して「岐沼加散《キヌカサ》」といひ、又服玩具に「兼名苑注云蓋岐沼加散黄帝征2〓尤1時、當2帝頭上1有2五色雲1因2其形1所v造也」とあり。而してこれをば天皇皇子などのいでます時に御上にかざすものとせしなり。されば儀制令には「蓋」につきて皇太子親王などの料の制作を規定せり。而して令の制をみれば、方形のものの如く見ゆるが、支那の古は圓かりしこと周禮考工記に「輸人爲v蓋以象v天」ともいひ、又上の和名鈔の兼名苑の注にてもしるべし。惟ふに、この御獵の時夜に入りて月暈《ツキノカサ》などありしを蓋に見立てて興じてよめるなるべし。
○一首の意 この度の御獵はいたく獲物も多かりしが、はては天を行く月をば、網を刺しはりてそれにてとどめとりて、わが皇子はそれを蓋にまでしたまひしよとなり。これ皇子は神の御子にてましませば月をとりて蓋にしたまふなど不思議偉大の御わざもましますよとなり。
 
或本反歌一首
 
○ これは或本に、上の「久堅乃」の反歌のかはりに此の歌を反歌としてあげたりといふことなるべし。
 
241 皇者《オホキミハ》、神爾之坐者《カミニシマセバ》、眞木之立《マキノタツ》、荒山中爾《アラヤマナカニ》、海成可聞《ウミヲナスカモ》。
 
(48)○皇者 舊訓「スメロギハ」とよめり。「スメロギ」は天皇に限りて申す詞なり。然るにここは長皇子につきて申すなればこの訓かなはず。考に「オホキミハ」とよめるをよしとす。
○神爾之坐者 「二三五」の「神二四座者」におなじ。
○眞木之立 「マキノタツ」なり。この語は卷一「四五」の「眞木立荒山道乎《マキタツアラヤマミチヲ》」におなじ。そこにもいへる如く、ここの「まき」はよき材となるべき樹木といふ程の意に止まるべし。
○荒山中爾 「アラヤマナカニ」とよむ。「荒山」は上にいへる卷一の「荒山道」の「荒山」におなじく人げ稀なる山をいふ。さる人げ稀なる山の中にといふ意なり。ここに荒山中といへるを見ても獵路の池は輕《カル》の地と別なるを見るべし。「輕《カル》」は藤原都の南にある田野の地にして山中にはあらざればなり。
○海成可聞 舊訓「ウミヲナスカモ」とよみたるが、攷證は「ウミナセルカモ」とよみ、註疏は「ウミナサスカモ」とよみたり。今そのいづれによるべきかを考ふるに、先づその主張をきく必妻あり。攷證は曰はく「考にも久老の考にも舊訓のまゝ、うみをなすかもと訓て、この獵路池を作らしし事とするは非なり。成といふは紀記にも集中にもみな如《ゴト》くといふ意にのみ用ひてここもかの獵路池の廣らかなるを海の如くにて云々」といへり。されど、攷證の説の「の如く」の意の「なす」を用ゐる場合には下にその語にて形容せらるる對象存せざるべからす。「鏡なすわがもふ妹」「鶉なすいはひもとほり」などの如し。然るにここにはさる對象あるべくもあらず。次にはさる意の「なす」を「なせる」といふことも穩かならず。されば、この説は從ふべからず。次に註疏の(49)説は「ナス」の敬語として「ナサス」とよまむとするものにして「成ス」の意は舊訓と同じ。さればこの説は一概に排斥すべからず。然れども「ナス」の敬語として「ナサス」の形にせる例は未だ見出でず。この説と舊訓との差は敬語とするかせぬかの差なり。然るに歌には必ず敬語を用ゐるべしといふ事もなければ、今、舊訓に從ふべし。「ウミ」は卷一「二」の「海原」の下にいへる如く、本來「大水」の義にして、湖沼池海に通じていへるものなり。ここは獵路野に池のあるを見て「ウミを成す」といへるなり。「カモ」は感嘆の意を寓せり。
○一首の意 吾大王は神にておはしませば、かかる荒山の中にも海をつくりたまふよとなり。これ蓋し、深山中に池の在るをめでて、よみたるにてそれを以て、皇子の威徳に歸し奉るさまにうたひしならむ。荒木田久老は「是は獵路の池造らしゝをりの歌なるべし。ここの反歌ならず。或本のみだれなることいちじろし。此歌によりておもへば、彼池造らししは天武の御代の頃をひにや有けん。又ここの題を獵路池云々と誤りしもよし有げに覺ゆ。」といひたれど、それはこの歌の本意をとり違へたるものにしてわが上に説く如くにてあるべきがかへりて歌らしく聞ゆるにあらずや。
 
弓削皇子遊吉野時御歌一首
 
○弓削皇子 この皇子は天武天皇の皇子にましますが卷二に既に出でたり。この皇子は文武天皇の三年秋七月に薨じたまひしこと續紀に見えたり。さればこの歌はその前なること明(50)かなり。
○遊吉野時御歌 攷證は目録に「之時」とあるによりて「之」を補ふべしといへり。されど、本書の書きざまこの點はまちまちなれば、このままにてよしとす。卷二には「幸于吉野宮時弓削皇子賜額田王歌」といふあり。「遊吉野」とはそれと同じ所の事か、又別の時か明かならず。「遊」は「イデマシシ」とよむべし。
 
242 瀧上之《タギノウヘノ》、三船乃山爾《ミフネノヤマニ》、居雲乃《ヰルクモノ》、常將有等《ツネニアラムト》、和我不念久爾《ワガオモハナクニ》。
 
○瀧上之 舊訓「タキノヘノ」とよめるが、考は「タキノヘノ」とよみ、攷證は「タキノベノ」とよみて「ヘ」は「邊」の意なりといへり。按ずるにかゝる時の「上《ウヘ》」は事實上「邊」といふ語の意に似たりといへども、語はもとより「上《ウヘ》」の意なれば「ベ」といふべきものにあらず。されば「タギノウヘノ」とよまむも「タギノヘノ」とよまむも意同じくしてよみ方はいづれにてもよき筈なり。さてこの「瀧」はいづこなるかといふに題詞に吉野とあれば、吉野川の瀧なることは明かなり。この瀧の事は卷一の「幸于吉野宮之時柿本朝臣人麿作歌」(三六)のうちに「山川之清河内跡」又「瀧之宮子」又「三七」の歌に「芳野川多藝津河内」とある下にていへる如く、今の宮瀧村邊の吉野川の岩石に水の激してたぎるをいへるなり。その吉野川の瀧の邊にある三船の山とつづくるなり。
○三船乃山爾 「ミフネノヤマニ」とよむ。「三船乃山」は大和志に「吉野郡御船山在2菜摘山東南1望v之如v船坂路甚險」と見ゆる山にして、卷六卷頭(九〇七)の歌にも「瀧上之御舟乃山爾《タギノウヘノミフネノヤマニ》」又「九一四」に「瀧上(51)乃三船之山者《タギノウヘノミフネノヤマハ》」卷九「一七一三」に「瀧上乃三船山從《タギノウヘノミフネノヤマユ》」などいへる、皆同じ山なり。
○居雲乃 「ヰルクモノ」とよむ。「居ル」は「立ツ」に對する語にして、雲のその所に止まりてあるをいふ。古事記神武卷の歌に「宇泥備夜麻比流波久毛登韋《ウネビヤマヒルハクモトヰ》云々」といへる、又卷七「一一七〇」に「佐左浪乃連庫山爾雲居者《ササナミノナミクラヤマニクモヰレバ》」などある例にて雲に「居ル」といふ語を用ゐる意をさとるべし。三舟の山に雲の居ることは懷風藻の吉田連宜の從駕吉野宮詩に「雲卷三舟谷」とあるに照して考ふべし。「乃」はここにては下の形容に用ゐたるものにして、上の三句はもと目前の眺めなるを、それを以て下の句を導くに用ゐたるなり。これの意は、今はそこに雲はゐれど、實は出没去來常なきを以ていへるなり。
○常將有等 「ツネニアラムト」とよむ。この語の例は卷五「八〇四」に「余乃奈迦野都禰爾阿利家留《ヨノナカヤツネニアリケル》」この卷「三三二」に「吾命毛常爾有奴可《ワガイノチモツネニアラヌカ》」卷六「九四八」に「此續常丹有脊者《カクツギテツネニアリセバ》」など集中に多きが、その「常」は卷二十「四四九八」に「都禰爾伊麻佐禰《ツネニイマサネ》」といへる場合と同じく「常住不變」の義なり。この一句の意は「とこしなへにかくてあらむと」といふ義なり。
○和我不念久爾 舊訓「ワガオモハナクニ」とよみたるが、考に「ワガモハナクニ」とせり。いづれにてもあるべし。「オモハナクニ」は既に屡々見えたる如く「思はぬに」といふに略々同じ。
○一首の意 これにつきて、契沖は「雲の起滅さだめなきが如くなる世なれば、我も常にあらむ物とは思はずと讀たまへり」といひ、童蒙抄、考等これに從へるが、久老は曰く「吉野にあそびますに、御心にいとおもしろくおもほしめして、つねみまほしくおもほすにつきてうつしみのつね(52)なきを更になげきますなり。」といひてより略解攷證古義等これに從へり。この二説、いづれをとるべきかを按ずるに下句につきては二説略々同じきものにして上句の見方に差あるによるなり。然るに上句の「三船の山に居る雲」といふものをば下句のいづれに關係せしむるを穩かとするかによりてこれは解決すべし。上句に「ゐる雲」といへるは一見下の「常に有り」といふことの形容の如くなれど、雲が山にゐるは常住不變にあるべきものにあらねば、これは「常住不變にあらぬこと」の形容とせざるべからず。然るときはこれは下二句全體を導き出すものとせざるべからず。然するときは契沖説を當れりとすべし。されば、これは童蒙抄に
  雲に御身を比してよみ給へる意也。みふねのやまにゐる雲も晴るゝときもあり、又きゆる折もありて、さだめがたき景色を御覽ぜられて、人の身の上もまことに浮べる雲の如くなるものなれば、かの雲の山にかゝりまた消えさる如くに、常しなへにはあらぬものと思ひなすとの事也。(中略)景色の面白きに付ておのづから御感慨もおこらせられて、世の中のさだめなき事を當然御覽なされし雲になぞらへてよませ給へる御歌と聞ゆる也。
といへるをよしとす。なほ又契沖曰く
  山を面白く御覺ずるより此感生ずるなり、漢武秋風辭云。歡樂極兮哀情多、少壯幾時兮奈老何。
と。まことにこの感ある歌なるが、余はこれに止まらずして、註疏に
  おもふにかくはかなきさまの御歌よませ給へるは此皇子此ほどいたはり玉ふことなど(53)ありて歟。
といへる如き事情ありしものと思はるるが、しかも病に臥したまへる時の歌とは思はれず、恐らくは何か失意の際にあらざるか。懷風藻を見るに、持統天皇の御世に高市皇子薨ぜられし後、日嗣を議せられたる時に、葛野王の正議(この結果文武天皇たち給へるなり」に對して弓削皇子異議を唱へむとしたる事を載す。恐らくは、文武天皇御即位の後おのづから失意の境遇におはしたるにあらざるか。
 
春日王奉和歌一首
 
○春日王 この名の王、日本紀持統天皇三年四月に薨じたまひし由見ゆれど、この歌主にあらじ。さるはこの頃弓削皇子未だ失意の境遇にましまさねばなり。次に續日本紀文武天皇三年六月に「淨大肆春日王卒遣使弔賻」と見ゆる春日王あり。この王の卒してより一月、秋七月に弓削皇子の薨ぜしなれば、恐らくはこの春日王なるべし。この王は如何なる御系統なるか明かならず。卷四にも「春日王歌」あるが、元暦本にはこれに注して「志貴皇子之子母曰多紀皇女也」とあるによりて童蒙抄以下多くこの志貴親王の王子なる春日王なりとせり。然るに續日本紀には天平十七年四月にも「散位正四位下春日王卒」と見えたり。皇胤紹運録には施基親王の御子としての春日王に注して「正四位下」と記せり。而して施基親王の第六子とます光仁天皇の御降誕が和銅二年なるを見れば、その御兄弟として、文武天皇の御宇にかく歌をよみます程に成(54)人したまはざりしものと考へらる。されば、天平十七年に卒せし春日王を以て施基親王の御子とすべく、文武天皇三年に卒せられし春日王は別の御方とすべきなり。かくてこの方はその春日王なりと思はる。
○奉和歌 上の歌にこたへて慰め奉られたる意見ゆ。
 
243 王者《オホキミハ》、千歳爾麻佐武《チトセニマサム》。白雲毛《シラクモモ》、三船乃山爾《ミフネノヤマニ》、絶日安良米也《タユルヒアラメヤ》。
 
○王者 「オホキミハ」とよむ。ここは弓削皇子の事を申し奉れること著し。
○千歳爾麻佐武 「チトセニマサム」なり。「チトセ」といふ語の例は卷二十「四三〇四」に「伎美乎見麻久波知登世爾母我母《キミヲミマクハチトセニモガモ》」卷十八「四一三六」に「知等世保久等曾《チトセホグトゾ》云々」とあるなり。古事記傳に「トセ」は年經《トシヘ》の約れるなりといへり。果して然りや、なほ考ふべし。「マサム」とあるは普通に「イマサム」とあるべきなり。他の用言につづかずして「マス」とあるは稀なる例なり。さればこれは音調の上よりかくいへるならむ。以上一段落にしてこれは、弓削皇子を慰め祝し奉りたるなり。
○白雲毛 「シラクモモ」なり。上の歌に雲の事にかけて仰ありし故に、ここにも雲につきて述べてその和とせられしなり。「モ」といふ助詞は「王」に對して「白雲」を出して祝せる故に用ゐたるなり。
○絶日安艮米也 「タユルヒアラメヤ」とよむ。然るに古葉類聚抄に「日」字なし。かくて槻落葉は「古本にも類聚抄にも日の字なし。たえてあらめやとよむにや、いつれよけむ」といへり。され(55)ど「絶えてあらめや」といふ時はこの歌、意通らずなるべければ、舊のままにてよしとす。「あらめや」は反語をなせるものにして絶ゆる日なしといふ意に強く落ち着くる用をなすなり。
○一首の意 第一段落は上の御歌全體をうけて、それをうちかへして、君は「常にあらむと思はなくになど仰せらるれどさることは努《ユメ》あるまじくて千歳にさきくましまさむ。」となり。第二段は上の御歌のうち雲の事を受けて、「三船の山に居る雲の如くはかなきは人世なり」など仰せるれど、その白雲も三船の山に常にかゝりゐて絶ゆる日は決してあるまじく思はるるなり。されば、それにつけても千歳にましまさむといひ、慰め奉る意をくり返してあらはしたるなり。
 
或本歌一首
 
○ この歌は上の弓削皇子の御歌につきての或本の歌なりと思はる。
 
244 三吉野之《ミヨシヌノ》、御船乃山爾《ミフネノヤマニ》、立雲之《タツクモノ》、常將在跡《ツネニアラムト》、我思莫苦二《ワガオモハナクニ》。
 
○三吉野之 「ミヨシヌノ」なり。「ミヨシヌ」は既にいへり。上の歌の「瀧上之」とあると、この句のかはれるなり。
○立雲之 「タツクモノ」なり。上の歌に「居雲乃」とあるとかはれるなり。雲の「タツ」とはかの古事記の「ヤクモタツ」の神詠にもある如く、雲の山より涌き出づる如くなるをいふにて、雲の生ずるをいふなるが、ここにいふ「ゐる」と「たつ」と事はかはれど、雲の山にかゝる點は一なり。
(56)○常將在 上の句と「在」字「有」字の文字の違あるのみ。
○我思莫苦二 これも上の「和我不念久爾」と書きざまの異なるに止まりて語は一なり。
○一首の意 上の歌略々に異なることなし。
 
右一首、柿本朝臣人麿之歌集出。
 
○ この左注につきて攷證は
 この左註は非也。右の御歌のやうを考ふるに、吉野宮にあそび給ひしにて、春日王と贈答のさまなど思ふ(に《補》)皇子の御歌ならで、人麿なるべきいはれなし。
といへり。まことに弓削皇子の御歌が柿本人麿の歌たるべき道理はなきことなれど、ここはその柿本人麿の歌集といふものに、上の弓削皇子の和歌と傳ふるものと殆ど同じきこの歌を載せたれば參考にあげたりとして見れば、不合理にもあらぬなり。
 
長田王被v遣2筑紫1渡2水島1之時歌二首。
 
○長田王 「ナガタノオホキミ」とよむべきこと及びこの王の事は卷一「八一」の歌の詞書「和銅五年壬子夏四月遣2長田王于伊勢齊宮1時山邊御井歌」の下にいへるが、そこにいへる如く、和銅四年に正五位下に叙せられ、後に近江守、衛門督、攝津大夫等に歴任せられし人なるべし。
○被遣筑紫 長田王の筑紫に遣はされし事も亦史に載せず。筑紫は太宰府の所在地なれば、そ(57)の太宰府へ遣はされしをいふか、或は筑前守筑後守などに任ぜられて赴任せしをいふか。然れども赴任ならば、任にて下る旨を注すべきなり。而して次に見ゆる水島は肥後國にして更に薩摩のせとをもよめるを思へば、これは太宰府の廳に遣されしにあらずして太宰府の管内の巡察に遣はされしなることを見るべし。
○渡2水島1之時 「水島」は地名なるが、和名鈔には肥後國菊池郡の郷名に「水島」とあれど、菊池郡は海岸にあらず。ここに「渡る」とあれば、明かに島の名なりと考ふべし。この「水島」といふ島の事は日本紀、景行天皇十八年に天皇筑紫國巡狩の事を記せるうちに夏四月に熊(ノ)縣に到りましし後の紀事に「壬申自2海路1泊2於葦北小島1而進v食時召2山部阿弭古之祖小左1令v進2冷水1。適是時島中無v水不v知2所爲1、則仰之祈2于天神地祇1忽寒泉從2崖(ノ)傍1涌出乃酌以獻焉。故號2其島1曰2水島1也。其泉猶今在2水島(ノ)崖1也」とあり。この島の事はなほ仙覺抄卷三に引ける風土記に「球磨乾七里海中有v島、稍可2七十里1名曰2水島1島出2寒水1逐v潮高下」と見えたり。この水島は古、葦北郡たりしならむが、葦北、八代兩郡の境の海上に在りて、今は八代郡の部に入れり。而して、その所在は今の八代町より南方稍々西に在りて、今球磨川の分流たる南川の河口近くに存する小島にして極めて陸地に接近せり。この邊一帶は新田の著しく發達せる地なれば、古は陸より相當に距離ありし地ならむ。この島は廻り五六間許にして大方は岩石にして高き所は五丈許もあるべく、水の涌く所は島のめぐりの岩の外方なる浪打涯の砂地にして、その邊一帶に水の涌き出でざる所なく、その水潔くして更に鹽氣など無しといふ。水島の名、まことにふさはしといふべし。中島廣足の相(58)良日記(新考所引)に「今もいとよき水わき出めり。ふるくは葦北郡とあるを今は北八代の郡境にありて八代の方につけり。年をへて海もあせぬるにやあらむ。今はしほひにはかちよりもものすめり。」とあり。攷證にはこの島に到りまししを太宰府に到りましゝ序に名高き所なれば、遊覽せられしなるべしとやうにいへり。されど、太宰府より、この水島の邊までは四十里近くもの距離ある所なれば、この頃に、ただここに遊覽のために赴かれしこと常識にて考へてもあるべきにあらず。こはなほ公務にてこの邊を巡視せられし折の序に遊覽ありしものと考ふべきなり。
 
245 如聞《キキシゴト》、眞貴久《マコトタフトク》、奇母《クスシクモ》、神佐備居賀《カミサビヲルカ》、許禮能水島《コレノミヅシマ》。
 
○如聞 舊訓「キキシゴト」とよめるを代匠記に「キクガゴト」ともよむべきかといへり。されど、諸家舊訓に從へり。ここは上の日本紀にいへるかの景行天皇の御世の事をかねて聞きてその故事を知り居られしが、今まのあたりその水島を見たまひてかねて聞きたりし故事を思ひ出でられしなれば、舊訓をよしとす。「如」を「ゴト」とよむは「ごとし」の語幹なるが、かく用ゐる例は、卷一の末(八四)の「今毛見如」の下にも例を出せり。
○眞 「マコト」とよむ。この語は今もいふ語なるが、その傳説の如く實際に然るにつきてのたまへるなり。この語の假名書の例は卷十五「三七三五」に「於毛波受母麻許等安里衣牟也《オモハズモマコトアリエムヤ》」卷二十「四三四八」に「多良知禰乃波々乎和知例弖麻許等和例多非乃加里保爾夜須久禰牟加母《タラチネノハハヲワカレテマコトワレタビノカリホニヤスクネムカモ》」などあり。
(59)○貴久 「タフトク」なり。「タフトシ」といふ語は卷二「一六七」の「春花之貴在等《ハルバナノタフトカラムト》」といへる下にて既にいへるが如く、「フトシ」といふ語に「タ」といふ接頭辭を加へたるものにして、その「フトシ」は既にいへる如く豐かにうるはしき意なるが、それよりいでたるここの「たふとし」といふ語は今もいふ如き意に用ゐたりとして差支なし。古事記上の歌に「岐美何余曾斯多布斗久阿理祁理《キミガヨソヒシタフトクアリケリ》」とあるもこの意なり。
○奇母 舊訓「アヤシクモ」とよみたるが、略解に「クスシクモ」とよみたり。「奇」を「クスシ」といふは大殿祭祝詞に「奇護言」に注して「古語云|久須志伊波比許登《クスシイハヒゴト》」といふにて知るべし。「アヤシ」といふはただの怪奇なる意なるが、「クスシ」といふは靈妙不可思議の意なれば、ここは「クスシクモ」とよむをよしとす。「クスシ」といふ語の例は本集卷十八「四一二五」に「許己宇之母安夜爾久須之彌《ココ|?《ウ》シモアヤニクスシミ》」續紀第四十一詔に「特久須之奇事思議許止極難《コトニクスシクアヤシキコトヲオモヒハカルコトキハメテカタシ》」などあり。
○神左備居賀 舊訓「カミサヒヲルカ」とよめり。槻落葉は「集中加美佐夫流とも加牟佐備ともあればいづれにもよむべし」といひて自らは「カムサヒヲルカ」と訓せり。古義は「カムサヒマスカ」とよむべしとせり。この「神佐備」は卷一の「三八」の「神佐備世須等《カムサビセスト》」の下に既にいへる如く、又槻落葉にもいへる如く、二樣の例あれど、多きに從ひて「カムサビ」とよむべし。「居」は「ヲル」とよむを普通とす。ここは「ヲル」とよむが不都合にして「マス」と必ずよむべしといふ理由なし。舊訓によるべし。ここの「神さび居る」とは神靈の働きてなせる如く見ゆる有樣をあらはしてあるをいへるならむ。「カ」は感動を寓せる助詞なり。
(60)○許禮能水島 「コレノミヅシマ」とよむ。童蒙抄は「能」は「野」又は「也」の誤ならんといはれたれど、さる誤ありといふ證なし。こは恐らくは「コレノ」といふ語遣が普通に異なれば怪しとての事ならむ。されど「これ」より「の」につづきて連體格に立つことは古語のさまなり。卷二十「四四二〇」に「久佐麻久良多比乃麻流禰乃比毛多要婆安我弖等都氣呂許禮乃波流母志《クサマクラタビノマルネノヒモタエバアガテトツケロコレノハルモシ》」佛足石歌に「己禮乃與波宇都利佐留止毛《コレノヨハウツリサルトモ》」又「已禮乃微波《コレノミハ》」などあり。即ち今「コノ」といふに似たる意有るなり。さてこの一句は主格たるを反轉してこゝにおきたるなり。
○一首の意 この水島は誠に、かねて傳へ聞きたる如くに貴く奇しくも神さび居るものかなとなり。蓋しその海中の一小島に清冷の水の到る處の岩石より沸き出づる奇蹟をめでたるものたること著し。この水島の奇とその傳説とをよく知らではこの歌の味は了得すべからざるべし。
 
246 葦北乃《アシキタノ》、野坂乃浦從《ヌサカノウラユ》、船出爲而《フナデシテ》、水島爾將去《ミヅシマニユカム》。浪立莫勤《ナミタツナユメ》。
 
○葦北乃 「アシキタノ」とよむ。「葦北」は肥後國の郡名にして今もいふ。和名砂に肥後國の郡名に「葦北|阿之木多《アシキタ》」と見えたり。而して水島は今八代郡なれど、古葦北の内なりしことは上に引ける日本紀にても知られたり。
○野坂乃浦從 舊訓「ノサカノウラニ」とよみたり。されど、「從」は「ニ」とよむべき字ならず。既に屡いへる如く「ユ」とよむべし。野坂は「ノサカ」とよむは誤にあらねど、古くは「ヌサカ」といひしなら(61)む。この野坂の浦は葦北郡内の地名なることは著しけれど、この地何處ならむ、明かならず。和名鈔、肥後國葦北郡の郷名に「野行」とあり。これを「野坂」の誤ならむといふ説あり。又今、田浦といふ地古の野坂ならむといふ説もあり。中島廣足の相良日記(新考所引)に「野坂の浦はさたかならねど、今佐敷の津のあたりならんと或人云ふ、げに水島までの海路、五里ばかりもあれば、かの舟出してとよみ給へるにも叶ふべし」といへり。然るときは、これは薩摩の方面より太宰府に向へる路にあたるべければ、上の歌に先づ水島をいへると矛盾する如き感あり。これを如何にすべきか。この事はなほ下に考へをのぶべし。
○水島爾將去 「ミヅシマニユカム」なり。「去」を「ユク」とよむことは卷一「六九」の「客去君跡《タヒユクキミト》」の下にいへり。以上一段落なり。
○浪立莫勤 「ナミタツナユメ」とよむ。「莫」は禁制の意にてその意の助詞「ナ」にあてたるなり。「勤」の字は卷一「七三」の「不吹有勿勤《フカザルナユメ》」の下にいへり。「ユメ」の意もそこにいへるが、これは「忌ム」といふ動詞を古く「ユム」といひたりし時の命令形にして「努力せよ」といふ意にも用ゐたるなり。この一句、一段落なり。
○一首の意 われはこの葦北の野坂の浦より船に乘り出し海上を經て、直ちに水島に去かむと欲するなり。されば浪よ。汝は注意して立つことなきやうにせよとなり。按ずるにこの歌の趣にてはこれより水島を見むとするなり。然るに上の歌にては既に水島を見たるなり。されば、歌のおき方反對になれるに似たり。然れども、なほ翻りて考ふるに、上の歌は水島にて(62)よみたるもの、この歌は野坂の浦にてよみたるものなれば、太宰府の方面より下れるものとせば、順序正しとすべし。おもふにこれはこのまゝにてよきにて、上なるは未だ野坂の浦に來らざる以前に水島を見てよみたるもの、この歌は一旦水島をみて後更に下りて野坂若くはそれより下薩摩までも下り、歸途野坂の浦より船路にて水島に到らむとせしならむ。ここに再び水島をいへるは、その奇蹟をめづるあまり、再びそこを訪はむといへるならむ。かく解すれば、この順序かへりて興味あるさまなりとす。
 
石川大夫和歌一首 名闕
 
○石川大夫 この人は下に「名闕」と注せるなれば、名はじめより傳はらざりしならむ。大夫とは公式令によるときは「於2太政官三位以上稱2大夫1。四位稱v姓、五位先v名後v姓。其於2寮以上1四位稱2大夫1、五位稱v姓、六位以下稱2姓名1。司及中國以下、五位稱2大夫1」とあり。義解には注して「謂一位以下通用2此稱1」とあり。集解には「一位以下五位以上通稱事。古記云問、五位以上惣稱2大夫1、未v知2誰所v稱、並以上限1。答、一位以下五位以上總稱2大夫1、假令聚集之日、五位以上召勅之時、皆各稱2大夫等1」と見ゆ。かくの如く元來一位より五位までの人を通じていふ稱なるを和名鈔位階條には「四位五位【已上爲2大夫位階1】」とあるは、後世變遷ありしが爲なるべし。さて、本集の例を見るに、卷四、十八張に「藤原宇合大夫遷任上京時云々」(五二一)とあるは正五位上常陸國守たりしが、遷任せしなり。又次に「京職大夫藤原大夫」とあるは左右京大夫從四位上藤原麿をさせり。又この卷、三十五張に「石上大夫(63)歌」(三六八)とあるは石上乙麿なるべきが、この人中納言從三位まで至りし人なり。されば、三位以上をも大夫といひたりともいふべけれど、此の歌は越前守たりし時の詠ならむと思はるれば、なほ四五位のほどの事といふべし。さて令制は上の如くなれど、この卷と卷四との例を見るに、大夫とかけるは
 石川大夫(二四七)
 田口益人大夫任上野國司時(二九六)
 石上大夫(三六八)(以上卷三)
 藤原宇合大夫(五二一)
卿とかけるは
 石上卿(二八七)
 大納言大伴卿(二九九)(四五四)
 中納言安倍廣庭卿(三〇二)
 式部卿藤原宇合卿(三一二)
 中納言大伴卿(三一五)
 卿大伴卿(三三一)
 太宰帥大伴卿(三三八)(四三八)(四四六)
 安倍廣庭卿(三七〇)
(64) 大納言大將軍大伴卿(四六一)(以上卷三)
 大納言兼大將軍大伴卿(五一七)
 佐保大納言卿(五二八)
 太宰帥大伴卿(五五五)(五六八)(五七二)
 帥大伴卿(五六七)(五七六)
 大納言大伴卿(五七四)(五七七)
とあるを見れば、なほ大體、後世の如く三位以上を卿といひ、四位五位を大夫としてかき分けしものと思はる。かく考へて見れば、この石川大夫も亦四位五位の人なりしならむと思はる。而して、上の歌に對しての和歌なれば太宰府の官人なりしものならざるべからず。その人につきては左注に説あれば、そこに讓るべし。
○和歌 これは上の長田王の歌に和したること著し。而してこれはその水島に赴かむとての詠に對しての和歌なれば、その巡視に伴ひ行きて、詠じたりしならむ。
○名闕 この二字流布本大字にせるが、古寫本すべて小字にせり。されば今改めたり。
 
247 奥浪《オキツナミ》、邊波雖立《ヘナミタツトモ》、和我世故我《ワガセコガ》、三船乃登麻里《ミフネノトマリ》、瀾立目八方《ナミタタメヤモ》。
 
○奧浪 「オキツナミ」なり。卷二「二二二」に「奧波」とかけるにおなじ。
○邊波雖立 舊訓「ヘナミタツトモ」とよめり。類聚古集、神田本「雖立」を「タテトモ」とよみ、童蒙抄は(65)「ヘツナミタテド」とよめり。「タツトモ」は未然の事を假設條件としていふ語、「タテド」は已然の事を條件としていふ語なり。ここは如何といふに、假設條件ならざれば、意よく通らねば、舊訓をよしとす。卷十五に「於伎都奈美知敝爾多都等母佐波里安良米也母《オキツナミチヘニタツトモサハリアラメヤモ》」(三五八三)とあるものこの例なり。さて「邊波」といへる例は卷六「九三九」に「奧浪邊波安美射去爲登《オキツナミヘナミシヅケミイサリスト》」など少からず。奧と邊と相對していへること卷二以下例少からぬが、ここは以上二句にて「奧浪たつとも」「邊波たつとも」の意をあらはせるなり。
○和我世故我 「ワガセコガ」なり。これは石川大夫より長田王をさしていへるなり。男子相互に「わがせこ」といひし例は、卷五に藤原房前が、山上憶良より琴を贈られたるに和へたる歌に「和何世古我多那禮乃美古騰《ワガセコガタナレノミコト》」(八一二)とよみたるをはじめ、卷八に山部宿禰赤人の歌に「吾勢子爾令見常念之梅花《ワガセコニミセムトオモヒシウメノハナ》」(一四二六)といふあり、卷十七に大伴宿禰家持を餞せし時に、内藏忌寸繩麿のよめる歌(三九九六)に「和我勢古我久爾弊麻之奈婆《ワガセコガクニヘマシナバ》」又それに對して家持がよめる歌(三九九七)に「安禮奈之等奈和備和我勢故《アレナシトナワビワガセコ》」又大伴家持が大伴池主に贈れる歌(四〇〇六)に「波之伎與之和我世乃伎美乎《ハシキヨシワガセノキミヲ》」又「和我勢故婆多麻爾母我毛奈《ワガセコハタマニモガモナ》」(四〇〇七)といひて、池主をさし、池主がこれに和して贈れる歌には「和賀勢故乎見都追志乎禮婆《ワガセコヲミツツシヲレバ》」(四〇〇八)「宇良故非之和賀勢能伎美波《ウラコヒシワガセノキミハ》」(四〇一〇)といへるにて知るべし。
○三船乃登麻里 「ミフネノトマリ」とよむ。「三」は音をかりたるにて「御」の意なり。「トマリ」は卷二「一二二」に「大船之泊流登麻里能《オホフネノハツルトマリノ》」とあるにおなじく船の泊てて宿る所をいふなり。
(66)○瀾立目八方 「ナミタタメヤモ」とよむ。「瀾」も上の「浪」も「波」も皆「ナミ」なるが、ここにかく三字書きかへたるは、文字に注意せしことを證す。「ヤモ」は助詞なるが、「ム」の已然形「メ」をうけて反語をなせり。この例は卷一「二一」の「吾戀目八方」「三一」の「亦母相目八方」「四六」の「寢毛宿良目八方」以下多し。
○一首の意 奥の浪又海邊の浪のたとひ、立ちさわぐことありとも、君が御船のはてますべきとまりには波は立つことあらじと祝せるなり。
 
右今案從四位下石川宮麻呂朝臣慶雲年中任2大貳1。又正五位下石川朝臣吉美侯神龜年中任2少貳1。不v知3兩人誰作2此歌1焉。
 
○ この左注にはこの頃太宰府の官人にて石川大夫といはるべき人は大貳宮麿と少貳吉美侯との二人なる由をあげて、その兩人のいづれとも定め難しといへるなり。
○從四位下石川朝臣宮麻呂、續紀を案ずるに、慶雲二年十一月甲辰「以2大納言從三位大伴宿禰安麿1爲2兼太宰帥1。從四位下石川朝臣宮麿爲2大貳1」と見え、和銅元年三月丙午に「從四位下石川朝臣宮麿爲2右大辨1」と見ゆれば、この石川大夫を宮麿とせば、太宰府には慶雲二年十一月以後、和銅元年二月以前に在りしこととせざるべからず。この人は和銅四年四月に正四位下に敍せられ、六年正月に從三位を授けられ、同十二月に薨ぜり。續紀に曰く「乙未右大辨石川朝臣宮麿薨。近江朝大臣大紫連子之第五男也」と見えたり。
○正五位下石川朝臣吉美侯 この人は集中になほ他にも歌ありて君子とかけり。續紀を案ず(67)るに、正七位上石川朝臣君子に從五位下を授けられ、靈龜元年五月に播磨守に任ぜられ、養老五年六月に侍從に任ぜられ、神龜元年二月に正五位下を授けられ、同三年正月に從四位下に敍せられたる事は見ゆれど、太宰少貳に任ぜられたる由は見えず。されど、續紀には往々脱漏あれば、必ずそれを正しともいひかねたり。
○不知兩人誰作此歌焉 こはこの注者の案を決しかぬる由をいへるなり。然るに略解には「此集大夫と有は五位の人をいへり。續紀を考るに、宮麻呂は此註にいへるごとく、四位なれば、大夫と書べからず。吉美侯は養老五年侍從とみえて、少貳に任たる事見えず。されば、此石川大夫は宮麿にも吉美侯にもあらず。卷四に神龜五年戊辰太宰少貳石川足人朝臣遷任餞2于筑前國蘆城驛家1歌三首と有、此足人也。左註は誤れり。」といへり。されど、この「四位なれば、大夫と書べからず」といふ論は古義に既に駁せる如く、又余が本書の例を上にあげたる如く、四位五位に通じてかけるものなれば、不當なりといふべし。されど、石川足人をその人に擬せる説は一往考へらるべきものなり。かく種々に考へらるべき餘地はあれど、長田王の筑紫に下られし年代明かならねば、いづれと明かに定めむこと難し。されど、卷一には和銅五年長田王の伊勢齋宮に遣されしこと見ゆれば、この王の年代は略推すべし。かくて今に至りては、いづれとも斷定しかぬることはいふをまたず。
 
又長田王作歌
 
(68)○又 これは上の歌と同じ折によまれしなれば「又」と記したることいふまでもなし。然らば、上の詞書に三首と記して、集め記したらばよからむにかく分ち書きしは如何といふに、第二歌に對して上にあげたる如く、石川大夫の和歌存すれば、それを序にあげむが爲にかかる記し方をせしならむ。
 
248 隼人乃《ハヤビトノ》、薩摩乃迫門乎《サツマノセトヲ》、雲居奈須《クモヰナス》、遠毛吾者《トホクモワレハ》、今日見鶴鴨《ケフミツルカモ》。
 
○隼人乃 「ハヤビトノ」とよむ。和名鈔隼人司の訓に「波也比止乃豆加佐《ハヤヒトノツカサ》」とあれば、よみ方はこれによるべし。然るに之を冠辭考には「サツマ」の枕詞とせり。されど、本居宣長はこの隼人を國名なるべしといへり。その説に曰く、(古事記傳十六)「隼人と云者は今の大隅薩摩二國の人にて、其(ノ)國人は絶れて敏捷《ハヤ》く猛勇《タケ》きが故に此(ノ)名あるなり。(中略)又|其《ソ》を隼人(ノ)國と云るは續紀二に、大寶二年先v是征2薩摩隼人1時云々唱更(ノ)國司等(今薩摩國也)言云々とある唱更これ隼人なり。」といひ、又そこに注して、「拾芥抄、改名所々(ノ)部に薩摩(ノ)國元(ハ)唱更とあり。職員令(ノ)義解に隼人(ハ)者分番上下(ノ)一年爲v限(ト)云々とある意を以て其(ノ)ころ唱更と書たりしなり。今(ノ)薩摩(ノ)國也と云は續紀撰ばれし時の注なり」といへり。又曰はく、「さて國(ノ)名の薩摩と改まりしは大寶より靈龜までの間なるべし。其故は右に引る大寶二年の紀には唱更國とありて、養老元年の紀に始めて大隅薩摩二國(ノ)隼人とある、此(ノ)薩摩は既に國名なればなり。」といへり。然るに、上述の大寶二年の記事よりも以前に、文武天皇四年六月の條に「薩末比賣、久賣、波豆、衣評督衣(ノ)君縣、助督衣(ノ)君弖自美又肝衝(ノ)難波從2肥人(69)持v兵剽2劫覓國使刑部眞木等1於v是勅2竺志惣領1准v犯決罰」とあるは「薩末」を比賣、久賣、波豆、衣等の郡の統名とせるものなれば、國名といふべきなり。又大寶二年八月の條に「薩摩(ノ)多※[衣偏+陸の旁+丸]隔v化逆v命於v是發兵征討、云々」とあり、その次にも「討2薩摩隼人1」とあれば、薩摩はもとより國名なりしならむ。然るに、續紀にただ一所「唱更國司」とあるはかへりて、これ一時の名稱にして、まもなく薩摩の國名に復せられしならむ。(唱更の語につきては日本紀考證に説あり。「按史記呉王※[さんずい+鼻]傳、卒踐更輙與平賈。正義曰踐更若2今唱更行更1者也。故謂2隼人唱更1義(ニ)取2諸此1」といふものこれなり)新考に曰はく「六卷にハヤビトノセトノイハホモとあれば、枕辭ならざる事は明なり」と。
○薩摩乃迫門乎 「サツマノセトヲ」とよむ。薩摩はもとより地名にして「迫門」は今もいふ地形の名詞にして普通に「瀬戸」といふ文字をあつる地勢をさせり。さてここは何處をさせるか。考には「和名抄薩摩國出水郡に勢度郷あり。ここの海門ならむ。」といひて、卷六「九六〇」の歌「隼人乃湍門乃磐母年魚走芳野之瀧爾尚不及家里《ハヤヒトノセトノイハホモアユハシルヨシヌノタギニナホシカズケリ》」を例にひけり。然るに、攷證はこれを非なりとして曰く、「迫《セ》門はせはき門《ト》といふにて、門は水門《ミナト》、島門《シマト》なども、又たゞ門とのみもいひて、みな船の出入する所を門とはいへるにて(云々)水門は廣きをいへるにてそれにむかへて迫《セマキ》を迫門《セト》とはいへる也」といひたるが、その駁論はかへりて意を得ざるさまなり。考にいふ海門は即ち卷十二「三一六四の「室之浦之湍門之崎有鳴島之《ムロノウラノセトノサキナルナルシマノ》」卷十六「三八七一」の「角島之迫門乃稚海藻者《カドシマノセトノワカメハ》」の「セト」の意なれば、誤とはいふべからず。さてこの「セト」は今何といふ處かといふに、日本地誌提要に薩摩の海峽の條に「黒瀬戸」とあるをそれなりといへり。曰く、「古名|隼人《ハヤトノ》迫門又薩摩迫門ト云。出水郡(70)知識村ト長島トノ間、南北凡三拾町、濶貳町三拾間ヨリ五六町ニ至ル。」と見えたり。和名妙なる出水郡勢度郷の名もこの、黒瀬戸といふ迫門より起りし地名なるべし。今長島のこの瀬戸の中央に沿へる所に瀬戸といふ地名あり。これら古の遺なるべし。
○雲居奈須 「クモヰナス」とよむ。雲居の如くの意にて、遠く遙かに見やるさまを形容する爲における枕詞なり。
○遠毛吾者 「トホクモワレハ」とよみて異論なし。
○今日見鶴鴨 「ケフミツルカモ」なり。「ツル」は複語尾、「カモ」は助詞なり。
○一首の意 隼人の薩摩の迫門とて名に聞えたる所をば、吾は今日遙かに遠く見たるかなとなり。これは恐らくはその野坂の浦より船出して水島に到らむとして海上より遙かに薩摩の迫門を望みて遠くも來にけるかなといふ嘆を漏されしならむ。黒(ノ)瀬戸は佐敷よりしても田浦よりしても、水島に行かむ海路よりすれば、反對の直線上にありてさはるものなく遙かに見やらるる位地にあるなり。されば、この歌實景をよまれしこと明かなるが、長田王の任は肥後まで到るに在りて、薩摩までは到られざりしことこれにて知られたり。
 
柿本朝臣人麻呂※[羈の馬が奇]旅歌八首
 
○※[羈の馬が奇]旅 この字面は周禮、地官、遺人の條下に出づ。その鄭氏注に曰く、「※[羈の馬が奇]旅過行寄止者」とあり。即ち「タビ」の義とせり。
 
(71)249 三津埼《ミツノサキ》、浪矣恐《ナミヲカシコミ》、隱江乃《コモリエノ》、舟公宣|奴島爾《ヌシマニ》。
 
○三津埼 「ミツノサキ」なり。「ミツ」は難波の御津にして、ここは卷一「六三」の「美津乃濱松」同「六八」の「美津能濱」の下にいへると同じ所なり。
○浪矣恐 「ナミヲカシコミ」とよむ。こは卷二「二二〇」に「鯨魚取海乎恐行船乃梶引折而《イサナトリウミヲカシコミユクフネノカヂヲヒキヲリテ》云々」の「恐ミ」に同じく、荒浪を恐れかしこむ意なり。
○隱江乃 「コモリエノ」とよむ。「隱」を「こもり」とよむことは卷二「二〇一」の「隱沼」の例にて知るべし。この語の意につきては攷證に「隱江は隱沼、隱津などと同じく四方皆陸にてつゝまれこもりたる江をいへり、この三津の崎の海は國圖もて考ふるに、和泉、攝津、淡路にてつつめる江なれば、こもり江とはいふ也」といへり。されど難波の御津は古は大阪灣頭なりしなるべければ、そこが如何にも和泉攝津淡路にてつつまれたりといふとも「こもり隱江」といはむにふさはしからず。これは決してさる意ならずして、御津の埼はその名の如く、大阪灣頭の一岬角なりしなるべくして、その岬より内の淀川の河口内が、即ちこもり江と名づくべきところなりしならむ。而してここに「隱江」といへるにつきては槻落葉は「波の荒きをかしこみて船出せず隱り居るを、やがてこもり江にいひつゞけたり。」といひ、古義もこれに從へり。これにつきて新考に「此時代にさるいひかけあるべしとはおぼえず。」といひたり。されど「浪を恐みこもりゐる」といふ意にて「こもり江」といふ如きいひかたは、この時代に少からぬことにして、漫にこれを否定すべきにあら(72)ず。然れども、余は別の意にてこのいひかけを必要なしと思ふなり。即ちこの歌にていふ所の舟の今泊れる所が事實上の隱江なるときには、これが地名ならずとも、かけ詞と見ずして意明らかなればなり。
○舟公宜奴島爾 舊來これを「フネコクキミカユクカノシマニ」とよめり。されど「舟」一字を「フネコグ」とよまむは無理なるべく、「宜」を「ユクカ」とよむも不當なれば、從ふべき理由なし。この故に、この間に誤脱あるべしといひて、代匠記、童蒙抄、考、玉の小琴、槻落葉、攷證、檜嬬手、古義、新考等各種種の説あれど、いづれも決定的のものとは見えず。されど、別に今斷案とすべき説も無ければ、疑しきを闕く意として後賢の研究を俟つ。但し、「奴島」は「ノシマ」にあらずして「ヌシマ」とよむべく、その地は淡路島の西海岸北部に近き地にある地名なり。
○一首の意 下句明かならざれば、説くこと難し。
 
250 珠藻苅《タマモカル》、敏馬乎過《ミヌメヲスギテ》、夏草之《ナツクサノ》、野島之埼爾《ヌシマガサキニ》、舟著近奴《フネチカヅキヌ》。
 
○珠藻苅 「タマモカル」とよむ。この語は屡々いへる所なり。元來海邊などの實景をいへる語なるが、それを以て枕詞とせるなり。
○敏馬乎過 「ミヌメヲスギテ」とよむ。これは攝津の地名なり。「敏」を「ミヌ」とよむは、その字音にして、この字は上聲軫韻にして音尾はnなり。これは今「ビン」といふが、古く「ミニ」ともよみたり。これはその「ン」が「n」なる故に「ミヌ」にあてしなり。卷六に「御食向淡路乃島二直向三犬女乃浦能(73)奧部庭深海松採《ミケムカフアハヂノシマニタタムカフミヌメノウラノオキベニハフカミルトリ》、浦回庭名告藻苅《ウラミニハナノリソヲカル》」(九四六)又「三犬女乃浦《ミヌメノウラ》」(一〇六五)とも「眞十鏡見宿女乃浦者《マソカガミミヌメノウラハ》」(一〇六六)ともあり。卷十五「三六二七」に「可我美奈須美津能波麻備爾於保夫禰爾眞可治之自奴伎可良久爾爾和多理由可武等多太牟可布美奴面乎左指天之保麻知弖美乎妣伎由氣婆《カガミナスミツノハマビニオホブネニマカヂシジヌキカラクニニワタリユカムトタダムカフミヌメヲサシテシホマチテミヲビキユケバ》」などある地なり。されば、難波の御津より西の方に航海せむものの必ず經過すべき著しき地點なりしことは明かなり。それは仙覺抄卷五にひける攝津國風土記に「美奴賣松原《ミヌメノマツバラ》」とある地なり。この地には又延喜式の※[さんずい+文]賣《ミヌメノ》神社あり。この神社は攝津志に「今在菟原郡岩屋村」といへり。而して兵庫名所記には敏馬浦は「脇濱村、岩屋村との間(ノ)濱邊を云」と見えたり。されば、今の神戸市西灘の邊の海濱にして、敏馬崎といへるは蓋し、神戸港の東の岬の邊をさせるならむ。延喜式玄蕃寮式をみるに、新羅客の入朝する時に酒を給ふに、攝津國廣田、生田、長田三社等の稻を生田社に送りて釀しし酒を敏賣崎において給ふといふことあり。而してこれより次には難波館にて酒を給ふとあり。さればここは難波より西航するものの第一の泊なりしことは著し。かく考へてはじめてこの歌の意を考ふべし。
○夏草之 「ナツクサノ」とよむ。これを野島の枕詞とするは如何なる意によるか。管見には「夏草は野といはむ爲なり」といひたれど、冠辭考には「夏草は茂く長くてなよゝかなれば、ともどもに萎伏すを以て相寢の濱にいひかけたり。ね〔右○〕はなえ〔二字右○〕の反なり。又夏草の萎ゆるてふ意にてぬ〔右○〕とは續けたり」といへり。按ずるに夏草の野とつづくる由はいはれなきことにして、草はすべて野に生ゆるものなれば、特に夏草に限りていふべからず。又夏草は茂く長くてなよゝか(74)なりといふこともうけられず。蓋しこれは夏の炎天に草の萎えしをるゝによりていへるものなるべし。されば、その草の萎えて臥すを寢《ヌ》とは見立てたるものならむ。されば、これは「野島」の「ぬ」といふ音にかゝれる枕詞といふべし。
○野島の埼爾 「夏草之」といふ枕詞に導かれて「ヌシマガサキニ」とよむべし。これは次の歌に「粟路之野島」とあれば、淡路國なること著し。地理を按ずるに、ここは淡路の北部西部にある野島村の地の或る地角をさせるならむ。蓋しこの野島は難波より西して、敏馬を經、明石海峽を過ぎてやどる地點なりしならむ。
○舟近著奴 「フネチカヅキヌ」とよむ。意明かなり。
○一首の意 珠藻を苅る敏馬の浦を通り過ぎて、わが舟はいよ/\淡路の野島が崎に近づきぬ。かくてやうく航路も進みたりといふ感じをあらはせり。
 
一本云。處女乎過而《ヲトメヲスギテ》、夏草乃《ナツクサノ》、野島我埼爾《ヌシマガサキニ》、伊保里爲吾等者《イホリスワレハ》。
 
○ これは一本に、その第二句と第五句とを異にするものを載せたることを注せるなり。されば、次にその第二句と第五句とのみにつきていふべし。
○處女乎過而 「ヲトメヲスギテ」なり。童蒙抄には「處女」とかきても「ミヌメ」と心得べきなりといひたれど、「處女」の字が如何にして「ミヌメ」とよまるべきか、さる事あるべきにあらねば、從ふべからず。槻落葉、玉の小琴、略解等は「處女」は「敏馬」を誤れるものとし、檜嬬手は「處女」は「三犬女」の誤か(75)といへり。然るに卷十五「三九〇六」には「多麻藻可流乎等女乎須疑※[氏/一]《タマモカルヲトメヲスギテ》、奈都久佐能野島我左吉爾伊保里須和禮波《ナツクサノヌシマガサキニイホリスワレハ》」とありてこの左注の歌と全く同じき歌をあげて、さてその左注に、「柿本朝臣人麿歌、敏馬乎須疑※[氏/一]又曰布禰知可豆伎奴」とあれば、この左注はここの本文の歌をさせるなり。かく互に相注したるを見て、かかる類似の歌の古より並び存せしを見るべし。されば、これをそのまゝに「ヲトメヲスギテ」とよむべきものにして決して誤にはあらざるべきなり。これにつきて契沖は「處女を過てとは第九に、葦屋處女墓をよめる歌あり。彼由緒によりて兎原郡葦屋浦を處女とのみもいへるなり」といへるが、宣長は之を誤なりといへり。されど、明かに卷十五に「乎等女」とかけるを見れば、さる地名ありしことは否定すべからず。然るときは契沖の説必ずしも誤と斷ずべきにあらざるなり。
○伊保里爲吾等者 「イホリスワレハ」とよむ。「イホリス」といふ語は卷一「六〇」の「廬利爲里計武《イホリセリケム》」の下にいへる如く旅のやどりに假廬をつくるをいふなり。「吾等」を「ワレ」とよむは、卷二「一七七」に「吾等哭涙息時毛無《ワガナクナミダヤムトキモナシ》」を「ワガナクナミダ」とよむにおなじ。この一句も意明かなれば、特にのべず。
 
251 粟路之《アハヂノ》、野島之前乃《ヌシマガサキノ》、濱風爾《ハマカゼニ》、妹之結《イモガムスビシ》、※[糸+刃]吹返《ヒモフキカヘス》。
 
○粟路之 舊板本「アハミチノ」とよめり。代匠記は「アハチノ」と四字によむべしといひ、童蒙抄は「あはぢなる」とよめり。されど、「之」を「なる」とよまむことは無理なり。「粟路」は「アハミチ」とよまるべき文字なれど、これは國名の淡路をさせること著し。然るに、ここを「アハミチ」とよめるによ(76)りて古來近江路の義にとりて釋せるもの多きが、そは契沖のいへる如く誤なり。契沖曰く「古點あやまれとも、あふみちとはかゝず。此をばあはちのと四文字に讀むべし。第六に赤人歌に、淡路之野島之海子《アハヂノヌシマノアマノ》云々此をもあはみちと點せり。若今の歌を堅く執せば、彼赤人の歌に、鰒珠左盤爾潜出《アハビタマサハニカヅキデ》といひ、神龜二年冬難波宮へ行幸し給ふ時の御供にてよまれし歌の初にも其趣をよまれたるをば如何せむ。」といへり。誠にさることなり。而してこの國は阿波國へわたる路に當る故に名づけたるものなれば、これを粟路とかけるも理由なきにあらず。元來、阿波國は粟のよく産するよりの名なれば、粟とかくは不當にあらず。
○野島之前乃 前の例にならひて「ヌシマガサキノ」とよむ。上の歌の「野鳥我崎」なり。
○濱風爾 「ハマカゼニ」とよむ。「濱風」は卷一「七三」に見え初めたるが既にいへる如く、海上より吹く風なり。
○妹之結 舊訓「イモガムスビシ」とよみたるを玉の小琴に「イモガムスベル」とよむべしといへり。さて「結」字は「むすびし」とよむべきか、「むすべる」とよむべきかといふに、攷證は卷八「一六一二」の「神佐夫等不許者不有秋草乃結之紐乎解者悲哭《カムサブトイナニハアラズアキクサノムスビシヒモヲトケバカナシモ》」卷九「一七八九」の「吾妹兒之結手師紐乎將解八方《ワガモコガユヒテシヒモヲトカメヤモ》、絶者絶十方直二相左右二《タエバ》タユトモタヾニアフマデニ》」卷十一「二四七三」の「菅根惻隱君結爲我紐緒解人不有《スガノネノネコロキミガムスビテシワガヒモノヲヲトクヒトアラジ》」卷十二「二九一九」の「二爲而結之紐乎一爲而吾者解不見直及者《フタリシテムスビシヒモヲヒトリシテワレハトキミジタヾニアフマテニ》」の歌をあげてさて曰く「結を宣長はむすべると訓れしかど、ここは過去し事をいへるうへに、まへに引る歌にも結爲《ムスビシ》結之《ムスビシ》、など書れば、舊訓のままむすびしと訓べし」といへり。この説是なるが如し。然るに、卷二十「四三三四」に「兒良我牟須敝流(77)比毛等久奈由米《コラガムスベルヒモトクナユメ》」とあれば「ムスベル」とよまむも不條理にあらざるべし。然らば、如何によむべきかといふに、その心情よりしてよみ方を定めむ外にすべなかるべし。然るときは「ムスベル」とよむときは、その紐を主としていひ、「ムスビシ」とよむときは、その結びし人を主としていふ如き心持ありとする外あらじ。これは契沖が「濱風の紐を吹返すに付て其紐を結し妹を思ひ出るなるべし」といへるが如く、その紐を風の吹き翻すにつけて妹をしのぶものなるべければ、なほ「ムスビシ」とよむ方やよからむ。
○※[糸+刃]吹返 「ヒモフキカヘス」とよむ。略解は「※[糸+刃]」は「紐」の誤なりとせり。されど、この字は集中極めて多く又本朝の古書、又支那の古書に、「※[糸+刃]」と作れること多くして、そが「紐」の俗體たることは既に文字辨證に論證せる所なり。されば「※[糸+刃]」は六朝頃に出でし一體の字にして一々誤なりとはいふべからず。さて妹が結びし籾※[糸+刃]は何かといふに、攷證は「古のならはし夫婦しばしもわかるるには、互に下紐をむすびかはして、又逢ふまで外の人に解かせじと契りかたむる事常の事也」といひたれど、下紐を風の吹返すが如きこと有るべきにあらじ。考は「此紐は旅衣の肩につけたる赤紐なりと見ゆ」といひ、略解には「集中にいもが結びしといふ事多くて、下紐またはいづれの紐ともなくて、旅行時いはひて結ぶ事とみゆ。こゝは風吹返すとよみたれば下紐にはあらで、旅の衣の肩に付たる紐也」といひたり。然るに略解は更に進んで「古事記【仁徳】口子臣紅紐つきたる青摺衣をきる故、水潦紅紐を拂て皆紅色變るよし有。其外にも天武紀に長紐結紐など着る事見え、大嘗祭式、縫殿式にも見ゆ。雅亮装束抄に見ゆるはたゝみて付たりとみゆれば、こと(78)に吹返すといふべきもの也」といへり。されど、この赤紐といふものなりとする事また如何なり。新考に曰く「赤紐は肩に縫ひ着けて前後に垂るるものにて(雅亮装束抄)晴着の飾とおぼゆれば旅衣にはつくべからず。今の歌の紐はおそらくは襟の紐ならむ」といへり。げに赤紐は縫ひつけおきて垂るるものなれば結ぶとはいふべからず。按ずるに古代の衣服には、今のボタン掛けの代りに紐を用ゐしものなるべければ、上にて結ぶべき紐は少からざりしならむ。その旅衣の紐をさしていへるものと見るべきなり。これをば、妹が結びしまゝかへるまで解かずといへるは、旅装のまゝ晝夜あるべき事となりて常識より見てあるべきことにあらず。これは、その紐をば濱風の吹き返すをみてこの紐は旅立せし時に、妻が結びし紐なりと思ひ出でたりとすべきなり。かく解する時は「むすびしまま」とすることと、下紐とする事との二事は明かに誤とすべきなり。「吹きかへす」は吹きてひるがへすことなり。
○一首の意 淡路の野島が崎にやどれば、そこの濱風に、古郷を立ちし時妹が結びし紐をば、吹きひるがへすことよ。この紐は家を出でむとせし時に妻が結びしなるが、今この濱風に吹かれてかへるを見れば、これを結びし妻を思ひ出づるよとなり。さてこゝに、上句に「濱風に」とありて下句に「ふきかへす」とあるによりて打ちあはずといふ論あり。又そを辯護する論あり。(古義)されど、これはこれにてよき筈なり。何となれば、これは濱風の吹くにますかする意をいへるなればなり。かく吹きかへさするをわがする事にしてただ「ふきかへす」といへるは語足らぬやうなれど、この頃の語遣としてはさまであやしむべきにあらず。
 
(79)252 荒栲《アラタヘノ》、藤江之浦爾《フヂエノウラニ》、鈴寸釣《スズキツル》、白水郎跡香將見《アマトカミラム》、旅去吾乎《タヒユクワレヲ》。
 
○荒栲 「アラタヘノ」とよむ。「栲」の字の事は卷一、「七九」の「栲乃穗爾」の下にいへり。さて「アラタヘノ」を以て「フヂ」の枕詞とすることは卷一「五〇」の「荒妙乃藤原我字倍爾《アラタヘノフヂハラガウヘニ》」又「五二」の「麁妙乃藤井我原爾《アラタヘノフヂヰガハラニ》」の下にいへる如し。ここも「藤江」の「フヂ」を導く料とせり。
○藤江之浦爾 「フヂエノウラニ」とよむ。藤江の浦は播磨國の地名なり。和名鈔郷名に播磨國明石郡に「葛江布知衣」と見えたるが、今も明石町の西の濱に藤江といふ地あり。その邊の海をいふなるべし。卷六「九三九」に「藤江乃浦爾船曾動流《フヂエノウラニフネゾサワゲル》」とあり。この地は淡路國に向へる地なるが、野島より出でてここの浦をこぎ進みしならむ。
○鈴寸釣 「スヾキツル」とよむべし。「鈴寸」は借字にして鱸といふ魚の名なり。古事記上卷に「訓v鱸云2須受岐1」と見えたり。「釣」は流布本に「鉤」とあれど神田本、西本願寺本、温故堂本等に「釣」とせるをよしとすべし。「鉤」字をかけるは蓋し、意も形も似たるより通用せしならむ。按ずるにここにかくいへるは當時そこに漁船多く浮べる間にこぎ入りたりしが故ならむ。
○白水郎跡香將見 「アマトカミラム」とよむ。「白水郎」の事は卷一「二三」の下にいへり。「將見」をよめる「ミラム」といふ語は、卷一「五五」の「行來跡見良武《ユキクトミラム》」の下にいへり。「將」を「ラム」とよむことは卷二「一三八」の「吾嬬乃兒我夏草乃思志萎而將嘆角里將見《ナワガツマノコガナツクサノオモヒシナエテゲクラムツヌノサトミム》」又「一五二」の「吾期大王乃大御船待可將戀四賀乃辛崎《ワゴオホキミノオホミフネマチカコフラムシガノカラサキ》」などなり。
(80)○旅去吾乎 「タビユクワレヲ」とよむ。「タビユク」といふ語のことは卷一、「六九」の「客去君跡知麻世婆《タビユクキミトシラマセバ》」の下にいへり。ここは旅してありくの意なり。卷七「一四二三」に「鹽早三《シホハヤミ》、磯回荷居者《イソミニヲレハ》、入潮爲《カヅキスル》、海人鳥屋見濫《アマトヤミラム》、多比由久和禮乎《タビユクワレヲ》」とあるに似たり。
○一首の意 われ船路の旅して明石潟の藤江の浦に來れるが、ここには鱸つるとて多くの漁船出でてあるが、わが船もそれらの間に立ち交りてあれば、或は我をその鱸つる海人のなかまとも人見るらむとなり。これ蓋し、その釣船のさまの面白さに、われを忘れてありけるをふと我にかへりてみれば我は旅人なりけりといふことをかくいへるが面白きなり。從來の説多くは「我なるものを」の意とせり。されど、ここはしか理窟をいへるにあらず。釣りをするを傍親するものは往々にしてその己を忘れてそれにみとれてあるものなり。この歌、その忘我の境より忽然として我にかへりたる刹那の情をうたへるものとして興味甚だゆたかなり。
 
一本云、白栲乃《シロタヘノ》、藤江能浦爾《フヂエノウラニ》、伊射利爲流《イザリスル》。
 
○ こは一本に第一句と第三句との異なるがありしによりて注せるなり。
○白栲乃 「シロタヘノ」とよむ。槻落葉はこれを誤なりとせり。されど、この歌は卷十五「三六〇七」に古歌としてあげたる「之路多倍能藤江能宇良爾伊射里須流安麻等也見良武多妣由久和禮乎《シロタヘノフヂエノウラニイザリスルアマトヤミラムタビユクワレヲ》」とかける歌にして、ここに明かに假名書にせれば、誤れりとはいふべからず。誤にあらずとせば、その白妙の原料やがて藤《フヂ》なれば、いひつゞけしならむ。
(81)○伊射利爲流 「イザリスル」よよむべし。これは「イザル」といふ語の連用形「イザリ」を以て名詞としたるものに「スル」を加へたるものにして漁撈をする事なるが、「イザル」の例は卷十五「三六四八」に「字奈波良能於伎敝爾等毛之伊射流火波安可之弖登母世夜麻登思麻見無《ウナバラノオキベニトモシイザルヒハアカシテトモセヤマトシマミム》」等あり。
 
253 稻日野毛《イナビヌモ》、去過勝爾《ユキスギガテニ》、思有者《オモヘレバ》、心戀敷《ココロコホシキ》、可古能島所見《カコノシマミユ》。
一云、潮見《ミナトミユ》。
 
○稻日野毛 舊訓「イナヒノモ」とよめり。されど槻落葉に「イナビヌモ」とよめるをよしとす。これは和名鈔、郷名に「播磨國印南【伊奈美】」とあるところにして、播磨國印南郡の野をさす。即ち、卷一の「伊奈美國原」(一四)といへるも同じ所なり。これを「イナビ」といふは「ビ」「ミ」の音通によるものなるが、古事記中景行天皇條に天皇娶2針間之|伊那毘能大郎女《イナビノオホイラツメ》1」とある「イナビ」も「イナミ」におなじきなり。この「も」は相對するものある時にいふ語なるが、ここは下の「可古能島」に對するなり。
○去過勝爾 古來「ユキスギガテニ」とよむ。然るに、槻落葉は「カテ」と清音によむべしといへり。この清音によむべき「カツ」は「タフル」意の動詞なるが、上の動詞と連續する際に往々所謂連濁音となるものなれば、古來「ガツ」とよみ來れるも誤にあらず。それらの例は卷十四「三三八八」に「筑波禰乃禰呂爾可須美爲須宜可提爾伊伎豆久伎美乎爲禰※[氏/一]夜良佐禰《ツクバネノネロニカスミヰスギガテニイキヅクキミヲヰネテヤラサネ》」又卷二十「四三九八」に「群鳥乃伊※[泥/土]多知加弖爾等騰己保里可弊里美之都々《ムラトリノイデタチガテニトドコホリカヘリミシツヽ》」等あり。又卷五「八八五」に「朝露乃既夜須伎我身比等國爾須疑加弖奴可母意夜能目遠保利《アサツユノケヤスキワガミヒトクニニスギカテヌカモオヤノメヲホリ》」等の「カテ」は「カツ」の未然形にして「ニ」「ヌ」は古代の打消(82)の意の複語尾の連用形の「ニ」終止形の「ヌ」なるべく思はる。又難の意ある「ガテ」といふ語の場合あり。卷二の「皆人乃得難爾爲云安見兒衣多利《ミナヒトノエガテニストフヤスミコエタリ》」(九五)の如きさて又、卷五「八四五」の「宇具比須能麻知迦※[氏/一]爾勢斯宇米我波奈《ウグヒスノマチガテニセシウメガハナ》」等これなり。その場合の「ガテニ」は「ガテ」に「難し」の意ありて、「に」は格助詞たるなり。今の「ユキスギガテニ」もその難の意と見られざるべからざるものなり。されば清音によむことは不可なりとす。「去」を「ユク」とよむことは卷一「六九」の「客去君跡」以下例少からず。「去く」はもとより舟にてその邊をすぐるなり。この邊をめでてはやく行きすぐることの惜しき心地をあらはせるなり。
○思有者 「オモヘレバ」とよむ。これは此と彼とを思ひつつ有ればの意なり。
○心戀敷 舊來「ココロコヒシキ」とよみたるが、古義は「ココロコホシキ」と訓むべしといひて、「卷五に「毛々等利能己惠能古保志枳《モモトリノコヱノコホシキ》」(八三四)又「故保斯苦阿利家武《コホシクアリケム》」(八七五)書紀齊明天皇(ノ)大御歌に「枳瀰我梅能姑褒之枳※[舟+可]羅※[人偏+爾]《キミガメノコホシキカラニ》」などあり」とて例をあげたり。さて本集をかへりみれば同じく「コヒシク」と假名書にせるものまた少からず。一二の例をあげむか。卷十五「三六四一」に「安可等伎能伊弊胡悲之伎爾《アカトキノイヘコヒシキニ》」卷十五「三六三四」に「思末志久母見禰婆古非思吉伊毛乎於伎弖伎奴《シマシクモミネバコヒシキイモヲオキテキヌ》」卷十七「三九二八」に「古非之久伎美我於毛保要婆《コヒシクキミガオモホエバ》」卷十八「四一一八」に「須久奈久母年月經禮婆古悲之氣禮夜母《スクナクモトシツキフレバコヒシケレヤモ》」卷十九「四二二一」に「可久婆可里古非之久志安良婆《カクバカリコヒシクシアラバ》」卷二十「四四四三」に「奈弖之故我伊夜波都波奈爾故非之伎和我勢《ナデシコガイヤハツハナニコヒシキワガセ》」などあり。かくては二樣のいづれにもよむべきが如くなるが、今ここは如何によむべきか。按ずるに「こひし」といふ方は卷十四以下の諸卷に出でてその以前には假名(83)書のもも見えず。これによりて思ふに、古くは「コホシ」といひ、「コヒシ」はやゝ後れての語と見ゆるなり。今ここはその早き方に從ひて「コホシ」とよむべきならむ。「心に戀しく思ふ」の意にて即ちかねて名をききて一度は見たく思ひ居たりし「カコの島」といふなり。
○可古能島所見 「カコノシマミユ」とよむ。可古は播磨國の郡名なるが、そこに「カコの島」と名づくる島ありやと尋ぬるに、今に於てさる島の名見えざるのみならず、播磨風土記にも亦記載せず。槻落葉は「心に戀しむかこといふことのあるべくもあらねば可古は必何古の誤なるべくおもひて私に改つ」といへり。されど、これは全くの臆説にて少しも從ふべき理由なし。可古の島をかねて戀しく思ひしといふこと何の不可かあらむ。さてカコノ島といふ島は何處か明かならぬが、新考は「今高砂といふは加古川の河口のデルタなり。是いにしへのカコノシマの變形したるものならむ」といへり。今、他に考ふべき道を知らねば姑くこれに從ふ。さて印南野を先にして加古を後にせるによりて見れば、この歌は西より東に進める時の歌にして、前の歌の時と方向違へり。
○一云潮見 これは「可古能島所見」といへるを一本に「可古能潮見」とある由を注せるならむが「潮見」を如何によむべきか。古寫本には(細井本を除く)いづれも「潮」を「湖」につくれり。而して京都大學本には「ウミミユ」と訓を施せるが、他の古寫本には訓なし。契沖は潮字を「ミナト」とも「ハマ」とも「シホ」ともよむべき由をいひて斷案を下さず。童蒙抄は「ウミミユ」とよみ、考には「湖見」の誤として「ミナトミユ」とよみ槻落葉は「湖見」の誤として「ミトミユ」と訓したるが、略解、攷證以下は考(84)の説によれり。さてこの字は本によりて「潮」とも「湖」とも書けるが、先づ「潮」字につきて考ふるに、これを文字通りに「しほ」とよみては全く意通ぜねば、その意にはあらざるべきこと明らかなり。然るに本集又他の古書中往々「潮」字を「ミナト」とよむべき場所に用ゐたるあり。例をいへば、卷七「一二二九」に「吾舟者明石之潮爾榜泊牟《ワガフネハアカシノミナトニコギハテム》」卷十一「二四六八」に「潮葦交在草知草人皆知《ミナトアシニマジレルクサノシリクサノヒトミナシリヌ》」「二四七〇」に「潮核延子菅不竊隱公戀乍有不勝鴨《ミナトニネハフコスゲノシノビステキミニコヒツヽアリガテヌカモ》」とあるは古來「ミナト」とよみ、又「ミナト」とよむより外に途あるまじく思はるるなり。又播磨風土記には(賀古郡?)鴨波里の條中に「通2出於赤石郡林潮1」と書き、又餝磨郡の下、美濃里の條のはじめに「繼潮」とかけるあり。この「繼潮」は明ならねど「林潮」は今も明石川の河口にある林村の地なり。又、日本靈異記(卷下、第廿五)にも「居2住於同國(紀伊)日高郡之潮1」と見え、これも「ミナト」に用ゐたり。さて又字鏡集には「潮」字に「ミナツ」の訓を加へたり。これは「ミナト」の訛れること著し。然れども、「潮」字は今のままにては如何にしても「ミナト」とよむべき理由を發見せず。されば、古寫本に「湖」とあるが正しくて「潮」はその誤字なりといふ説、槻落葉はじめ諸家の唱ふる所なり。さらば「湖」字とせば如何といふに、「湖」の字も亦集中に「ミナト」の義に用ゐたる所少からず。その二三の例をあぐべし。この卷「二七四」に「吾船者枚乃湖爾※[手偏+旁]將泊《ワガフネハヒラノミナトニコギハテム》」「三五二」に「葦邊波鶴之哭鳴而湖風寒吹良武津乎能埼羽毛《アシベニハタヅガネナキテミナトカゼサムクフクラムツヲノサキハモ》」卷七「一一六九」に「近江之海《アフミノウミ》、湖者八十《ミナトハヤソヂ》云々」「一一八九」「に「四長鳥居名之湖爾舟泊左右手《シナガトリヰナノミナトニフネハツルマデ》」又卷九「一七三四」に「高島之足利湖乎※[手偏+旁]過而《タカシマノアトノミナトヲコギスギテ》」などあり。又仙覺の萬葉抄卷三に「湖ノ字訓ウシホ不審ナリ、ミナトニツカヘルコトハ阿波國風土記中に中潮呉潮ナトニモ用之タリ」(片假名本一)とありて、別本卷二は「中湖といふは牟夜戸與咲(85)湖の中にあるが故に中湖爲v名見2阿波國風土記1」とあり。ここにも「湖」と「潮」と相通じて「ミナト」に用ゐたるを見る。さて「湖」には果して「ミナト」とよむべき理由ありや。「湖」は通常「ミヅウミ」と訓ずるものにして「ミナト」とよまむは不審なるが如し。然れども、説文を見れば、「湖大陂也」とありて、本義は「ミヅウミ」の義にあらず。或はその大陂の義より「ミナト」の訓を加へしならむ。然らば、義訓といふべきに似たり。然れども或は支那にこの六朝時代の俗用を傳襲せしものならむか。なほ考ふべし。かくて「湖」には「ミナト」の訓あるものとせむに、「潮」は如何といふに、これには如何にしても「ミナト」の訓の出づべき點を見ず。然らば、これを誤寫なりとすべきかといふに、萬葉集のみにあらず、風土記靈異記までも一齊にかくあれば誤寫なりといふにはあまりに普遍的なりといはざるべからず。これによりて多年疑問とせしが、徳富蘇峯氏藏の長暦五年正月書寫の大唐西域記卷十を閲覽せしに、その理由をさとり得たり。この書には「潮波交帶城《コハハリメクレリ》邑(ヲ)」といふ文字を記して、その「潮波」といふ文字に「コハ」といふフリガナを施せり。而して、こは正しくは「湖波」とあるべき所なり。これによりて考ふるに、萬葉集風土記靈異記よりこの長暦の頃に至るまでの人は「湖」とかくも「潮」とかくも同字なりと心得たるものならむ。否この時代には類似の文字をば、その字畫の繁簡によりて同義に用ゐて、しかも多少氣分の上に使ひ分けたるものなるが如し。たとへば、「行列」を「行烈」とかくが如きは時に應じてかきかへたるにてその嚴重なる「行列」には字畫を莊重にする意にて「行烈」とかきたること、平安朝の記録類に往々見る所なるが、かくの如きことに似たることの古くより行はれしものの如く、さてこそ「潮」は「湖」の(86)別體にして、しかもその莊重なる體なりといふ意識を有したりしものと考へらる。かく考ふるときは「潮」を「ミナト」に用ゐるは、當初よりしか書きたりしものにして、傳寫の際に訛りしものともいふを得ざるならむ。
 さて、これは「カコノミナトミユ」と八音によむべきこと動かすべからざるが、このミナトは日本紀應神卷に十三年の下の「一曰云々」とある條に「於是天皇西望之、數十麋鹿浮v海來之、便入2于播磨(ノ)鹿子(ノ)水門1」とある地にして、蓋し、加古川の河口をさせるならむ。
○一首の意 契沖が「印南野の面白くて過うきに又かこの島もみれば、彼人も早く行て見まくほしければ、彼方此方に引るゝ心をよめり」とあるが如くこの播磨國の印南地方を船中よりながむる景色も早く行き過ぎ難く思はるるに、はや行く手にはかねてより心に見まほしく思ひたるかこの島の見ゆるよとなり。
 
254 留火之《トモシビノ》、明大門爾《アカシオホトニ》、入日哉《イラムヒヤ》、榜將別《コギワカレナム》、家當不見《イヘノアタリミズ》。
 
○留火之 古來「トモシビノ」とよみ來れり。槻落葉には「トモリヒ」とよむべしといへるが、「トモリヒ」といふ語は古今になし。攷證、古義共にこれを駁して古來の訓をよしとせり。さて古義には「島崎(ノ)直好、留は獨(ノ)字の偏を脱し、蜀を留に寫し誤るにやと云り」といひ、なほ「蜀を留に誤れることは眞に然るべし。蜀留草書似たればなり。さて偏を脱せしにはあらで、倭文《シツ》を委文、村主《スクリ》を寸主、他田を也田と作る類に、本より書きて蜀火と作るにもあるべし」といへり。今按ずるに攷(87)證には「留をともしとよむべき事論なく」といひたれども、「留」を「トモシ」とよむべき理由は如何にしても見出されず。而して、燭の草體の旁と留の草體とは相似たれば、古義の説頗る有力なりといふべし。然れども「燭」を省きて「蜀」とせりといふ事は如何。さる例を見ねば、この事必ずしも然りとすべからず。こは諸本皆かくありて少しも異同なし。されど恐らくは「燭」の一字を「蜀火」の二字に誤り書きて、その「蜀」を留と誤り認めしにあらざるか。和名鈔には「燈燭」の二字に注して、「並度毛師比」と注せり。「トモシビ」といふ語は、卷十五「三六二三」に「安麻能等毛之備《アマノトモシビ》」卷十八「四〇五四」に「登毛之備乎都久欲爾奈蘇倍《トモシビヲツクヨニナゾヘ》」又「四〇八七」に「等毛之火能比可里爾見由流作由理婆奈《トモシビノヒカリニミユルサユリバナ》」などあり。さてこれは「トモシ火」の「明し」といふ意にて「明石」の枕詞にせるなり。
○明大門爾 舊訓「アカシノナタニ」とよめり。これはもと「アカシノセトニ」とよみたるを仙覺が改めたるなり。「大門」を「せと」とよまむことはもとより不條理なれど、又「ナダ」とよまむも根據なきことなり。童蒙抄は「大」を「水」の誤と認めて「ミト」と訓じたり。されど、諸本すべて「大門」とあれば、これも從ひ難し。槻落葉に「師は橘小門にむかへて、大門はおととよむべくいはれしかどおほとゝよむかた勝れり」とて「アカシオホトニ」とよめり。略解、攷證などは「おと」とよむ方によれるが、「オホト」を「オト」とよむことは例なきことなれば、槻落葉の訓によるをよしとす。「明」を「アカシ」といふはその形容詞の終止形を借用したるにて名高き播磨國の明石をさせるなり。和名鈔に播磨國明石郡の郷名に「明石安加志」とあり。本集中は「明石之浦《アカシノウラ》」(卷三「三二六」)「赤石門浪《アカシノトナミ》》」(卷七、一二〇七」)「開乃門《アカシノト》」(卷三「三八八」)「安可思能門《アカシノト》」(卷十五「三六〇八」)などかけり。又卷六「九四一」(88)には「明方《アカシガタ》」ともかけり。さてこれより直ちに「オホト」につづくる事は古義に「アカシノ〔四字右○〕とノ〔右○〕の言をいはず、直につゞけいへるは、十四に伊奈佐保曾江、廿卷に伊古麻多可禰などよめる類なり」といへるにて知るべし。こゝは所謂明石海峽をいへること明かなるが、これを大門といへるは、世に名高きによりてたたへていへるならむ。
〇入日哉 舊訓「イルヒニヤ」とよめるを槻落葉に本居の説なりとて「イラムヒヤ」とよめり。こはいづれにても意通すべきが、「イラムヒヤ」とよむ方適切ならむ。
○※[手偏+旁]將別 「コギワカレナム」とよむ。略解に引ける宣長説には曰く、「明石の門に入らぬ前は大和の方も見えしを、此|門《ト》に入ては見えず成なむといふ也。」といひ、「こぎわかるとは今まで見えたる方の見えずなるを別るるといふ也」ともいへり。「こぎわかる」とは海上の航路なる故にいへるなり。
○家當不見 舊板本「イヘノアタリミユ」とよみたり。されど、「不見」を「ミユ」とよむはもとより不可なり。仙覺抄には「ミデ」とよみたるが、意はあたれど、この頃に「デ」といふ打消の語ありたりとは信ぜられざればこれも從ひがたし。拾穗抄は「イヘノアタリミズ」とよみ、略解、攷證等これに隨へるが、略解にのする宣長の訓は「イヘアタリミズ」とあり。されど、「イヘアタリ」といふ熟語、當時行はれてありしものとも考へられざれば、ただ、すなほに「イヘノアタリ」とよむをよしとす。「家のあたり」は故郷の空をさせり。蓋し大和をかくいへるならむ。さてこの句は略解にある本居の説の如く四句の上へうつして見るべし。
(89)○一首の意 今(ノ)難波より須磨邊までの海上にては故郷なる大和の山脈も遠しとはいひながら、顧みやらるゝを、この明石海峽に入らば、その故郷の空を見ずなりなむ。かくていよいよ故郷の空とは別れむ事とならむとなり。略解に曰く、「此歌までは西へ行度の歌にして、次の二首は歸る時の歌也。又下に人麿筑紫へ下る時の歌とて載せたるは此時も同じたびなるを、後に聞て別に書入たるにや、またこと時にやしられず」といへるが、ここの歌の配列はさる順序によれりとは考へられず。そは如何といふに、「二四九」の歌は難波の御津にての詠、「二五〇」はそれより進みて敏馬をすぎ淡路の野島崎に近づきての詠なれば、これは少くとも明石海峽に入らむとする時の詠ならむ。さて「二五一」は野島にての詠なれば、明石海峽をすでに通過し終れること著し。次に「二五二」の詠は野島より出でて、明石の西なる藤江の浦にての詠、「二五三」はこれは反對に印南の海邊より東に向ひての詠なれば、その順序によれば、この「二三四」はかへりて、西より東の方明石海峽に入りて、それより西の方に故郷ありとすることなるべし。而して「二五五」は明石海峽より大和の空をながめ、「二五六」は「飼飯の海」といひて全くここと地理の飛びはなれたるところとなれり。されば、人麿の家のあたりを大和と解する説によるとしてもよらずとしてもこの歌の順序は決して旅程の進みにつれたる順序とは見られず。略解の説は隨ひ難しといふべし。
 
255 天離《アマザカル》、夷之長道從《ヒナノナガチユ》、戀來者《コヒクレバ》、自明門《アカシノトヨリ》、倭島所見《ヤマトシマミユ》。
 
(90)○天離 「アマサカル」なり。この語は卷一「二九」の歌に見えはじめて、そこにも「夷」の枕詞とせり。こゝもをなじ。
○夷之長道從 舊訓「ヒナノナガチヲ」とよめり。契沖は「從はゆともよむべし」といへり。槻落葉は「長道」を「ナガテ」とよむべしといひ、その理由として、曰く「神代紀に長道磐神《ナガチイハノカミ》とあるを古事記には道之長乳齒《ミチノナガチハ》とあれば、ここもながちとよむべけれど、集中、假字《カナ》書には長手《ナガテ》、奈我底《ナガテ》など書て一(ト)所もながちと書たる事の見えねば、ここも卷(ノ)十五に奈我道とあるも奈加底《ナガテ》とよむべきにこそ。かしこけど、藤原の永手と申御名をもおもへ。」といへり。攷證はこの説をあげてさて曰く「いかにもさる事ながら、道は集中ちとのみよめるうへにながちとしてもよく聞ゆれば、猶舊訓のまゝながちとよむべき也。この歌を十五【八丁】に重出して比奈乃奈我道乎云々(三六〇八)二十【廿丁】にも道乃長道波云々(四三四一)など見えたり」といへり。大體この言の如くなるべきが、「ナガテ」といふ語は「長道」といふ語とはさす所同じとしてもその成立異なるべきか。「チ」は即ち道にして「テ」はすべて長く引けるものの意か。若くは「ナガチ」が本にて「ナガテ」はその訛なるべし。然れば、「長道」は古事記にても證せらるる如くなほ「ナガチ」とよむを穩かなりとす。又「從」を「ヲ」とよむことは正しからず、「ユ」とよむべきなり。卷十五の歌に「乎」とあるは傳の異なるなり。しかもこれを「ヲ」の意なりとする説はなほ不當なり。「ユ」は「より」の同語にて、かかる際にはその用言の示す動作の經由する地を目標とすることをあらはすなり。「夷」は既にいへる如く、田舍のこと、長道は字の示す如く、長き道にて、田舍の長き旅をしたることをいへり。攷證に「都よりはるばる長(91)き道をへて夷に來りしを夷の長道といへり」といへるは片よりたる説にして反對に田舍よりはるばる長き道をへて都に行かむとするをも夷の長道といひ得べき筈なり。而してここはその後の場合なること明かなり。
○戀來者 「コヒクレバ」とよむ。故郷を戀ひて、夷の長道をとほり來ればといふ意なり。卷十五の歌には「安麻射可流比奈乃奈我道乎孤悲久禮婆安可思能門欲里伊敝乃安多里見由《アマザカルヒナノナガチヲコヒクレバアカシノトヨリイヘノアタリミユ》」(三六〇八)とあり。
○自明門 「アカシノトヨリ」とよむ。卷十五にある假名書もこれとおなじ。意明かなるべし。
○倭島所見 「ヤマトシマミユ」とよむ。契沖曰く「倭島は唯大和の國なり。大和は伊駒山のつづき南北に亙て見ゆべきにあらねど、そなたを見やるほどになれる心を歌の有なればかくよめり」といひ又曰く「倭島名所ならぬ證は此卷下に至て笠金村|敦《ツル》賀にてよまれたる歌の反歌にも懸てしのひつ大和島根をとあり。第十五には豐前にしてよみ、第二十には奈良の京にしてよまる。それは總じて此國をいへり。」といへり。然るにここに契沖が既にいへる如く、釋日本紀卷八にひける播磨風土記の逸文に「明石驛家駒手御井者難波高津宮天皇之御世楠生2於井口1、朝日蔭2淡路島夕日蔭2大倭島根1云々」とありて、契沖曰く「此れによれば大和島あるか。されども此風土記信じ難し。其故は明石より南に當れる淡路島にいかでか影の至るべき。又淡路島に陰の至る木ならば明石の東北五六里にもや倭島はあるべき。東北に當らば島といふべからず」と。まことにこの言の如く地理にあはねば、さる島ありきとは見えず。さればこの風土記(92)の説は信ずべからず。よりて契沖の説によるべきなり。
○一首の意 京を戀ひしく思ひつゝ田舍の長き道中をしつづけ來れば、やう/\にして明石海峽に入りぬ。さてここより見ればかねて戀ひつつ來し大和國のあたりの見ゆることよとなり。夷の長道〔四字右○〕といふ語と倭島所見〔四字右○〕と相反映して、その胸中のよろこびをよくあらはせり。古義にこれを西國へ下る時の詠とせるは強言なり。
 
一本云|家門當見由《ヤドノアタリミユ》。
 
○ 他の本にこの歌の結句を上の如くせる由を注せるなり。
○家門當見由 舊板本「ヤトアタリミユ」とよみたるが、西本願寺本、京都大學本等には「ヤトノアタリミユ」とよみ、拾穗抄また然せり。代匠記には「門」は「能」又は「乃」を誤れるかといひ、玉の小琴また「乃」の誤かといへり。攷證は「家門」二字を一の熟語として「イヘ」とよみ「イヘノアタリミユ」と訓せり。さて現存の諸本にはいづれも誤字なければ、誤字説は從ふべからす。「家門」は字のまゝによまば、「ヤド」なるべきが、さりとて「ヤドアタリ」といふ語あるべきにあらねば、「ヤド」とよまむには「ヤドノアタリミユ」と八音によむべきなり。「家門」を「ヤド」と本集にてよむべき確證を未だ見ねば、攷證の説の方まされるに似たり。されど、なほ拾穗抄等の訓によるを穩かなりとすべし。
 
256 飼飯海乃《ケヒノウミノ》、庭好有之《ニハヨクアラシ》。苅薦乃《カリコモノ》、亂出所見《ミダリイヅミユ》、海人釣船《アマノツリフネ》。
 
(93)○飼飯海乃 古來「ケヒノウミノ」とよめり。「飼飯」は所謂假名なるが「ケヒ」といふ地名は越前敦賀郡なるもの最も名高くしてそこは日本紀などには「笥飯」とかけるによりて「飼」は「笥」の誤ならむといふ説も往々見ゆ。されど本集には卷十二「三二〇〇」にも「飼飯乃浦《ケヒノウラ》」と書き又卷四「七六七」に「得飼飯而雖宿夢爾不所見來《ウケヒテヌレドイメニミエコヌ》」とかけるにも「飼飯」を「ケヒ」にあてたり。然らば、これを何故に「ケヒ」にあてたるか。「飯」は「イヒ」にしてその上略「ヒ」なれば、論なし。「飼」は玉篇に「※[食+人]」と同じとせるが、「※[食+人]」は説文に「糧也」といひ、玉篇に「※[食+人]食也」と見ゆ。されは、食を「ケ」といふと同じ意にて「ケ」と訓せること疑なし。但し「飼飯《ケヒ》」と二字つゞけて用ゐることのみ見ゆれば或は古義にいへる如く、古へ「飼飯《ケヒ》」といふ語の成熟してありしをそのまゝ用ゐしものなるべく、越前但馬の氣比の神の名も亦これに因みあるものと考へらるゝやうなり。但し、古義に畜類を飼(フ)料の飯米をさすとせる説は必ずしも從ふべからず。さてここにいへる「ケヒ」の海は何所なるか。契沖は越前なりとせるが、童蒙抄はここに越前の歌ある事心得がたしとして「攝津國泉川の浦に飼飯といふ處あれば、若し其處を略してけひとよめる歟」といひたり。されど、攝津にさる所ありとは聞えず。槻落葉には「淡路に飼飯野《ケヒノ》といふ地ありと吾友度會正柯いへり。さては此飼飯は越前のにはあらぬにや」といへり。げに淡路國の西海岸の松帆浦の附近に今「笥飯野」とかける地あり。槻落葉にいへるはこの地なること著し。なほ氣比といへる地は但馬國城崎郡の圓山川の河口なる港にもありて、そこには延喜式内の氣比神社あり。かく「ケヒ」といふ地名は所々にあれば、一概に越前と限るべからず。さてここは他の歌との關係を以て推すに、恐らくは淡路國の「ケヒ」(94)なるべし。さらば、この「ケヒの海」は後の歌に名高き松帆の浦をさせるに似たり。
○庭好有之 「ニハヨクアラシ」とよむ。「アラシ」といふ語は卷十五「三六六七」に「和我多妣波比左思久安良之《ワガタビハヒサシクアラシ》」卷五「四七八」に「世間者如此耳奈良之《ヨノナカハカクノミナラシ》」などいへる例にてよむべきが、正しくは「アルラシ」といへる例も集中に多きが、又かくつづめてもいへるなり。今のここは音の數よりしてかくつづめいふ方によるべし。「ニハ」は「庭」と同じ義の語にして海面をさすなるべきが「ニハヨシ」といふ場合につきては契沖の曰はく「にはよしとは風波なく、なぎたる日を舟人の詞にいへり」といひ、拾穗抄には宗祇の説をひきて「にはよくはなぎたる時をいふなり」といひ、攷證には「今も海邊などの人はいふ言にて海上浪たたずおだやかに平らかなるをいへり」といへり。かかることなるべし。この卷「三八八」の長歌の末に「率兒等安倍而※[手偏+旁]出牟爾波母之頭氣師《イザコドモアヘテコギイデムニハモシヅケシ》」といへる「ニハ」もここの意なり。以上一段落なり。
○苅薦乃 「カリコモノ」とよむこと明かなるが、假名書の例をあぐれば、卷十五「三六四〇」に「可里許母能美太禮弖於毛布許登都礙夜良牟《カリコモノミダレテオモフコトツゲヤラム》」とあり、又古事記下卷允恭卷の歌に「加理許母能美陀禮婆美陀禮《カリコモノミダレバミダレ》」などあり。かくていづれも「ミダル」の枕詞とせり。そは苅りたるままの薦は亂れやすきものなればかくつづくるなり。
○亂出所見 舊訓「ミダレテイデミユ」とよめり。考は「ミダレヅルミユ」とよみ、槻落葉は「ミダレイデミユ」とよみ、攷證は「ミダレイヅミユ」とよむべしといひ、古義も同じ説を唱へたり。卷十五「三六〇九」の左注なる同じ趣の歌には「美太禮※[氏/一]出見由《ミタレテイヅミユ》」とあるによりて「ミダレテイヅミユ」とよま(95)むかた、よきが如くなれど、その本歌なるが、ここの一本歌に當るべきに、それも亦多少の差あれば、一概に卷十五の歌によるべしとにもあらざるなり。按ずるに、「ミユ」につづくるには古は終止形よりづづくる一の格ありしなり。たとへば古事記清寧卷の歌に「阿蘇比久流志毘賀波多傳爾都麻多弖理美由《アソビクルシビガハタデニツマタテリミユ》(日本書紀なるもおなじ)とあるが如し。されば、ここは音の數と古の語格との關係よりして「ミダリイヅミユ」とよむべし。この句の意は多くの舟がこぎ出づるさまの亂れて出づる如く見ゆるによりていへるなり。
○海人釣船 「釣」を流布本「鉤」とせり。多くの古寫本に「釣」とあるを正しとす。これを「アマノツリフネ」とよむ。卷十五の歌の左注なるは「安麻能都里船《アマノツリフネ》」とあり。さてこの句は上の亂れ出づることの主格にあたるものなるを反轉してここに置けるなり。
○一首の意 この歌二段落なり。第一段はその推量の結果をいひ、第二段は推量の理由をいふ。これを普通の語にて釋せむには、第二段をさきにする方わかりやすし。即ち明石潟などの邊より遙かに飼飯の海のあたりを見やれば、海人の釣船が多く先を爭ひて入り亂れて※[手偏+旁]ぎ出づるが如く見ゆ。これを以て察するに、あの飼飯の海の海上は穩かにして、今や漁場として適するさまにあるらしく思はるとなり。
 
一本云、武庫乃海《ムコノウミ》、舶爾波有之《フナニハナラシ》。伊射里爲流《イザリスル》、海部之釣船《アマノツリフネ》、海上從所見《ナミノヘユミユ》。
 
○ こは一本に上の歌をかく作れるがありと注したるなり。而して、これは卷十五の「三六〇九」(96)の歌に酷だ似たれど、少しく異なり。次にその點をも説くべし。
○武庫乃海舶爾波有之 舊訓「ムコノウミノフネニハナラシ」とよめり。されど、かくよむときは語をなさず。略解には「ムコノ海フナニハナラシ」とよめるが、これは本居宣長の説によれるならむ。玉の小琴に曰はく、「舟爾波有之ふなにはならしと訓べし。舟庭とは舟を海上へ※[手偏+旁]出すによき日和をいへり」とあり。古義はこれを非なりとし、「ムコノウミノフネニハアラシ」なりとして、「波上に浮びて見ゆるは武庫の海人の釣船にて有らしの意なり。爾波と云るは地方の海人の船にはあらじとの意なり」といへり。されど、いづれもよく吾人をして首肯せしむるに足るものなし。かくて又誤字説も起れり。契沖は「此歌玉葉二に武庫の浦の泊なるらしと載られたるに付て思ふに、今此の舶の字用なきに似たれば、古本泊にてとまりにはならしなりけるを誤て舶に作たるにや」といひたり。この「舶」字は西本願寺本、温故堂本に「舳」に作れど「泊」の字にせるものなし。されど、「舳」にては一層分らぬやうになれば、これは「舶」を誤れるならむ。その他檜嬬手にも「有」を「吉」の誤とせれど、これも證なきことなり。さてこれは卷十五「三六〇九」なるには「武庫能宇美能爾波余久安良之《ムコノウミノニハヨクアラシ》」とせり。されど、「舶爾波有之」はかくよまるべからず。本居説はその「フナニハ」といふ説の證明せられば、成立すべき可能性最も多きものなれば、今姑くこれに從ふ。武庫乃海はいふまでもなく攝津國の武庫郡の海面なり。
○伊射里爲流 「イザリスル」なり。上に例あり、卷十五なるもかく書けり。
○海部乃釣船 「アマノツリフネ」なり。「海部」を「アマ」とよむは當時海人部の部族を示すにこの字(97)を用ゐしを、用ゐたるによるなり、紀伊國海部郡、阿波國海部郡又尾張、隱岐、安藝、筑前の郷名の「海部」など古みな皆「あま」とよめり。
○浪上從所見 「ナミノヘユミユ」とよむべし。卷十五の歌に「安麻能都里船《アマノツリフネ》、奈美能宇倍由見由《ナミノウヘユミユ》とかけり。かくよみてももとより差支なし。
○一首の意 今姑く本居説に基づきていはむに、武庫の海を見やれば、漁撈する海人の釣船が多く浪の上より見ゆるが、これによりて考ふれば、かの處の海面は穩かにしてよき漁場たるなるべしとなり。
 
鴨君足人香具山歌一首并短歌
 
○鴨君足人 「カモノキミ、タリヒト」とよむ。この人の事他に所見なし。父祖も亦詳ならず。鴨君は新撰姓氏録によれば、大和國皇別にありて、「鴨君日下部宿禰同祖、彦坐命之後也。續日本紀合」とあり。この「君」の姓は天平寶字三年十月に「公」の字に改められたる由續紀に見ゆ。されど姓氏録にはなほ「君」の字を用ゐたること上の如し。
○香具山 大和國の香具山なり。
○短歌 すべての古寫本に小字とせり。
 
257 天降付《アモリツク》、天之芳來山《アメノカグヤマ》、霞立《カスミタツ》、春爾至婆《ハルニイタレバ》、松風爾《マツカゼニ》、池浪立而《イケナミタチテ》、櫻花《サクラバナ》、木晩茂爾《コノクレシゲニ》、奥邊波《オキヘハ》、(98)鴨妻喚《カモツマヨバヒ》、邊津方爾《ヘツヘニ》、味村左和伎《アヂムラサワギ》、百磯城之《モモシキノ》、大宮人乃《オホミヤビトノ》、退出而《マカリデテ》、遊船爾波《アソブフネニハ》、梶棹毛《カヂサヲモ》、無而不樂毛《ナクテサブシモ》、己具人奈四二《コグヒヒトナシニ》。
 
○天降付 「アモリツク」とよむ。天降を「アモリ」とよむは冠辭考に「アマクダリ」の「マク」をつゞむれば「ム」となるを「モ」に通はし「タ」を略けるものの由説けるが、この説明は首肯すべからず。これは「アマオ〔二字右○〕リ」の「マオ」の約「モ」なるによりて「アモリ」となれるに相違なきなり。この語の例は既に卷二「一九九」のうちに「狛釼和射見我原乃行宮爾安母理座而天下治賜《コマツルギワザミガハラノカリミヤニアモリイマシテアメノシタヲサメタマヒ》」とあり、又卷十九「四二五四」に「蜻島山跡國乎天雲爾磐船浮《アキヅシマヤマトノクニヲアマグモニイハブネウケ》……國看之勢志※[氏/一]安母里麻之《クニミシセシテアモリマシ》云三とあり。これを、卷十三「三二二七」の「葦原笶水穗之國丹手向爲跡天降座蒹五百萬千萬神之神代從《アシハラノミヅホノクニニタムケストアモリマシケムイホヨロヅチヨロヅガミノカミヨユリ》云々」に照せば「天降」を「アモリ」とよむこと明かなるべし。さてこの「アモリツク」は香具山の枕詞なりといはれてあるが、これはただの枕詞にあらずして事實、香具山は天より降りてこの下界に付きたりといふ傳説あるによれり。この傳説は卷一の第二歌の下に既にいへるが、再びいはゞ、釋日本紀卷七に引ける伊豫國風土記に「倭在天加具山自v天天降時、二分而以2片端1天2降於倭國1以2片端1天2降於此土1因謂2天山《アマヤマ》1也」とあり。かく信ぜられたりしが故に「天降付」といへるはただの枕詞にあらざるを考ふべし。
○天之芳來山 舊訓「アマノカクヤマ」とよめり。されど、卷一「二」に既にいへる如く「アメノカグヤマ」とよむべきなり。「天ノ」といへるは既にいへる如く、一般的には神聖なるものといふ義をあ(99)らはしたるものとすべきが、ここは上の傳説によりて、天より降れるものと信じたれば、「天ノ」とはいひしならむ。「芳來山」は「香具山」(卷一「二」「五二」)とも「香來山」(卷一、「二八」卷二「一九九」)ともかけるが、「芳」は芳香の義より「香《カ》」にあてたるならむ。玉篇に「芳(ハ)香氣也」とも見ゆ。この山の事は上に屡出でたり。
○霞立 舊訓「カスミタチ」と訓せるを代匠記に「カスミタツ」ともよむべしといひ、爾來大抵の學者これに從へり。考は「今本霞立春爾至者と有はいさゝか後の言めきたり」といひ「打靡春去來者」とし、これは「或本によりぬ」といへり。その或本といへるは次の歌をさせるならむが、それは異なる傳なれば、それによりてこの所のみ改むるは不理なり。さて「カスミタチ」と連用形によめば、次の春に至ればと重なる語法になりて後世の言つきとなる。考の嫌ひしはこれが爲なるべし。「カスミタツ」と終止形によめば、枕詞になりて後世の言つきにあらず。この枕詞の例は卷一「五」にもあり。卷五「八四六」に「可須美多都那我岐波流卑乎《カスミタツナガキハルビヲ》」卷二十「四三〇〇」に「可須美多都春初乎《カスミタツハルノハジメヲ》」などあり。
○春爾至婆 「ハルニイタレバ」とよむ。考は「春去來者」と改めたれど、そは別の事なる事上にいへるが如し。又攷證は「いたるといふ言は本集四【二十四丁】に※[覊の馬が奇]行君之至家左右(ニ)云々(中略)などありて行《ユク》意にのみいへれば、こゝをはるにいたればと訓、聞えがたし。されば春にしなればと訓」といひて、「至」をなるとよめるは義訓にて本集二【廿五丁】に暮爾至者云々とありて、又十二【十丁】に夜爾至者云々とあるもこゝ同じ書さまにて云々」といひて、「ハルニシナレバ」とよむべしと主張せり。げ(100)にもこの言の如く卷二、「一九九」の「暮爾至者」は古來「ユフベニナレバ」とよみて異論なく、又卷十二「二九三一」の「夜干玉之夜爾至者《ヌバタマノヨルニシナラバ》」は古來「ヨルニシナラバ」とよみ來りて「至」を「ナル」とよむに異議なし。されば、それらに照して「至」を「ナル」とよまむは理由なきにあらず。然るに、一方には又卷十七「四〇一一」に「露霜乃安伎爾伊多禮婆《ツユシモノアキニイタレハ」とあり卷十八「四一一一」に「美由伎布流冬爾伊多禮婆《ミユキフルフユニイタレバ》」ともあり。されば、「春に至る」といふ語遣もなかりしにあらざるなり。かくて更に顧みるに、本卷の初の部には「イタレハ」の假名書は絶えてなく、いづれも「ナレハ」といふ語遣なり。されば、これには或は時代の變遷あらむか。なほ精査すべきなるが今姑く舊訓のまゝによみおくべし。
○松風爾 「マツカゼニ」なり。「松風」は松に吹く風なり。これによりて香具山に古も松樹生ひてありしを思ふべし。
○池波立而 「イケナミタチテ」とよむ。「イケナミ」は池の浪なるを熟語としていへるなり。松風に對すれば、池浪も異なりとせず。この池は香具山の池にてこの池は卷一の「二」の歌なる「海原波加萬目立多都《ウナバラハカマメタチタツ》」と御製ありしその池にて考にいへる如く埴安池なりと考へらる。
○櫻花 「サクラバナ」なり。これによりて香具山に古櫻樹多かりしことを見るべし。
○木晩茂爾 舊訓「コノクレシゲニ」とよめり。多くの古寫本「木乃晩茂爾」と書きたれど、よみ方には影響せず。古義には「爾」は「彌」の誤かといひたれども、ここに似たる語遣は卷十八「四〇五一」に「多胡乃佐伎許能久禮之氣爾保登等藝須伎奈伎等余米波婆太古非米也母《タゴノサキコノクレシゲニホトトギスキナキトヨメバハタコヒメヤモ》」とあるによりて上のよみ方の正しきを知るべし。「コノクレ」といふ語は他にも例あり。たとへば卷十八「四〇五三」(101)に「許能久禮爾奈里奴流母能乎保等登藝須奈爾加伎奈可奴伎美爾安敝流等吉《コノクレニナリヌルモノヲホトトギスナニカキナカヌキミニアヘルトキ》」卷十九「四一六六」に「許能久禮罷四月之立者コノクレヤミウヅキノタテハ》」「四一九二」に「眞鏡盖上山爾許能久禮乃繁溪邊乎《マソカガミフタガミヤマニコノクレノシゲキタニベヲ》」卷二十「四三〇五」に「許乃久禮能之氣夜乎乃倍乎《コノクレノシゲキヲノヘヲ》云々」の如き、又「木晩」とかけるものは、卷六「一〇四七」に「春日山御笠之野邊爾櫻花木晩罕《カスガヤマミカサノヌベニサクラバナコノクレガクリ》」卷八「一四八七」に「霍公鳥不念有寸本晩乃如此成左右爾奈何不來喧《ホトトギスオモハズアリキコノクレノカクナルマデニナニカキナカヌ》」卷十「一九四八」に「木晩之暮闇有爾《コノクレノユフヤミナルニ》」などあり。「このくれ」の意は「木晩」の文字にて見るが如く、木の茂りて下蔭のを暗くなれるをいふものなり。ここはいふまでもなく櫻花の咲き滿ちて、所謂萬朶の雲といふべきさまになれるをいへるならむ。「木晩茂爾」といふは木晩は體言として主格となり、「シゲニ」は、所謂賓格にしてそれを説明する語なるが、「ニ」はその賓格を示して、本來は下に述格たるべき用言のあるべきを略し、「ニ」にて述格を領し重文の上句をなせるものなり。略解には「このくれしげには、しげくしてといふ意か、又は此句の下二句ばかり脱たるか」といひたれど、句の脱けたるにあらずしてこれにて重文の上句をなせるものなれば、「しげくして」といへる方やゝ當れりとす。古義に「爾」を「彌」の誤とせるは、この「ニ」格助詞にて重文をなすことをさとらざるよりの誤解なり。今の如く用ゐたる「に」の例は、卷十「二一七七」に「春者毛要夏者緑爾紅之綵色爾所見秋山可聞《ハルハモエナツハミドリニクレナヰノニシキニミユルアキノヤマカモ》」續紀第三十三詔に「志|愚《オロカニ》心|不善之天《ヨカラズシテ》」などあり。
○奧邊波 舊訓「オキヘニハ」とよみ多くこれに從へるが、考はこれを「オキベハ」とよみ攷證、これに從へり。槻落葉は「邊」を「ヘニ」の假字に用ゐたりといひたれど、本集にも他の古典にも例なきことなれば、この説從ひがたし。攷證は「邊津方爾といふに對へたれば、四音によむべし」といへり。(102)かく四音の句によむ例は卷一「三八」に「春部者花挿頭持《ハルベハハナカザシモチ》」といふあり。彼と此と時間をいふと場所をいふとの差あれど、趣は異ならず。ここの「ハ」は「ニハ」の意なること勿論なり。ここの「オキ」は埴安池の沖をさせることいふまでもなし。
○鴨妻喚 舊板本の訓「カモメヨハヒテ」とよめり。古寫本には神田本に「カモノツマヨフ」西本願寺本にはイ本として「カモノツマヨヒ」とありといふ。代匠記は「カモツマヨハヒ」ともよむべきかといひ、古義これにより、童蒙抄は「カモノツマヨヒ」とよみ、考はこれを、カモメヨバヒ」とし、略解、攷證、これにより、槻落葉は「カモメツマヨビ」とよみ檜嬬手これに從へり。按ずるに「鴨妻」を「カモメ」とよみて一語とすべきか、「カモ」と「ツマ」或は「メ」との二語とすべきか問題なるが、「鴨」一字を「カモメ」とよむことは無理なれば、槻落葉の説は先づ排斥すべきなり。次には「鴨妻」を一語として「カモメ」とすべきか。然るときは「カモメヨバヒ」若くは「カモメヨバヒテ」といふ訓の方によるべし。然れども同じく「カモメヨバヒ」とよみても「鴨」を一語とし、その「カモ」がその妻《メ》を喚ぶ意とも取るをうべし。さてこの次の見地よりして「妻《メ》」を「ツマ」とよまば、「カモツマヨバヒ」「カモノツマヨビ」ともよまるべくかく多樣の訓を施しうべき餘地あり。さて攷證などは「鴨妻は鴎也。本集一【七丁】に加萬目とあるもまとめと音通ひてかもめ也」といひ略解は「かもめのめは群《ムレ》の約也。味村のむらとむかへて知べし」といへり。ここは如何にとるべきかと考ふるに、池の心にては鳥の心安かるべきなれば鴨のつまと睦しく馴れあはむことあるべければ、「妻喚」といふ事を文字の通にとるを穩かなりとすべし。卷十七「三九九三」に「伊美豆河美奈刀能須登利《イミヅカハミナトノスドリ》…思保美底婆都麻(103)欲比可波須《シホミテバツマヨビカハス》」「四〇〇六」に「都麻欲夫等須騰理波佐和久《ツマヨブトスドリハサワグ》」「四〇一八」に「奈呉乃江爾都麻欲比可波之多豆左波爾奈久《ナゴノエニツマヨビカハシタヅサハニナク》」とあるなどみなその例なり。然らば「カモツマヨバヒ」とよむべきか。「ヨバヒ」は「ヨブ」を波行四段に再び活用せしめたるものなり。その例は卷五「八九二」に「寢屋度麻弖來立呼比》奴《ネヤドマデキタチヨバヒヌ》」あり。
○邊津方爾 舊訓「ヘツカタニ」とよみたるが、考は「ヘツヘニ」と四音によむべしとせり。略解これに從へるが、今これに從ふ。「方」は古言「へ」なること「目方《マヘ》」(前)「尻方《シリヘ》」(後)の語にても知るべし。埴安池の岸に近き方をいふこと明かなり。
○味村左和伎 「アヂムラサワギ」とよむ。「アヂ」とは今「あぢがも」とも「ともゑがも」ともいふ一種の水鳥なり。卷十一「二七五一」に「味乃住渚沙乃入江之荒磯松《アヂノスムスサノイリエノアリソマツ》」卷十四「三五四七」に「阿知乃須牟須沙乃伊利江乃許母理沼乃《アヂノスムスサノイリエノコモリヌノ》」とある「アヂ」即ちこれなり。この鳥群がりて渡る鳥なれば、味村といひ、その群り飛ぶ時は騷しきが故に「サワギ」といへるなり。その例は卷四「四八六」に「山羽味村騷去奈禮騰《ヤマノハニアヂムラサワギユクナレド》」卷十七「三九九一」に「奈藝左爾波安遲牟良佐和伎《ナギサニハアヂムラサワギ》」卷二十「四三六〇」に「安治牟良能佐和伎々保比弖《アヂムラノサワギキホヒテ》」などにて知るべし。
○百磯城之大宮人乃 「モモシキノオホミヤヒトノ」とよむ。「百磯城之」は「大宮」の枕詞にして卷一「二九」の下にいへり。「大宮人」は卷一「三〇」の下に既にいへる如く大宮即ち皇宮に奉仕する貴人をさせり。これによりて考ふるに、かの高市皇子の挽歌(一九九)にいへる香來山の宮の、住む人もなく荒れたりしをよめるならむといへる、考及び略解の説當を得たるならむ。
(104)○退出而 舊訓「タチイデテ」とよみたるを考に「マカリデテ」とよめり。「マカル」といふ語は卷二「二一八」の「罷道之川瀬道見者不怜毛《マカリヂノカハセノミチヲミレバサブシモ》」の下にいへる如く、貴所より賤所に退く意なれば、退字をよめるなり。卷七「一〇七六」に「百師木之大宮人之退出而遊今夜之月清左《モモシキノオホミヤビトノマカリイデテアソブコヨヒノツキノサヤケサ》」とあり。大宮人が宮中の勤務を終へて退出してこの池などに遊ぶことをいへるなり。
○遊船爾波 「アソブフネニハ」とよむ。その意遊びに用ある船なること明かなり。
○梶棹毛 「カヂサヲモ」とよむ。「カヂ」は卷二「二二〇」の「梶引折而」の下にいへる如く、今の櫓の事と見ゆ。棹は今も用ゐる舟の具にして和名鈔に「〓」に注して「佐乎」と訓し、なほ曰はく「方言云刺v船竹血」と見ゆ。古典には「サヲカヂ」といへるあり。古事記仲哀卷(神功皇后の段)に「不v乾2船腹1不vy乾2〓※[楫+戈]《サヲカヂ》1」といひ、祈年祭祝詞に「青海原者棹柁不干」といふ、これなり。又本集にはこの外にもこゝの如くいへるあり。卷十「二〇八八」に「吾隱有※[楫+戈]棹無而〔左○〕渡守舟將借八方須臾者有待《ワガカクセルカヂサヲナクテワタリモリフネカサメヤモシマシハアリマテ》」とあり。
○無而不樂毛 舊訓「ナクテサビシモ」とよみたるを考に「ナクテサブシモ」とよめり。「不樂」は下の「二六〇」の「佐夫之毛」にあたるものにして、この語の事は卷二「二一七」の「不怜彌可念而寢良武《サブシミカオモヒテヌラム》」又「二一八」の「罷道之川瀬道見者不怜毛《マカリヂノカハセノミチヲミレバサブシモ》」の下にいへる如く、後の「サビシ」といふに似たる古言なり。
○己具人奈四二 「コグヒトナシニ」とよむ。「己」はいづれの本も「已《イ》」の形にせれど「己《コ》」なること疑ふべからず。この一句は上の句に對する修飾格なるをここに反轉しておけるなり。舟遊びも催されねば、それに用ゐし舟のみありて梶も棹も又こぐ人も有らずとなり。
○一首の意 名高き天香具山は春になれば、あたりの松吹く風に埴安池のさゝ波立ち、櫻は木蔭(105)の闇くなるまでに盛りに開きて景色の面白きに、かゝる時に昔は大宮人の公務の餘暇にここに船遊びしなど、面白かりしが、今は漕ぐ人もなければ、梶も棹もなくその折の舟のみ空しく岸に横はりて、その他には鴨の妻喚びかはすものや、味鳧のさわきどよめくもののみにして、まことに物さびしきさまになれるよとなり。
 
反歌二首
 
258 人不※[手偏+旁]《ヒトガズ》、有雲知之《アラクモシルシ》。潜爲《カヅキスル》、鴦與高部共《ヲシトタカベト》、船上住《フネノウヘニスム》。
 
○人不※[手偏+旁]有雲知之 「ヒトコガズ、アラクモシルシ」とよむ。「有雲」は「アラクモ」の語にあてたる文字にして「アラク」は「有ル」を「ク」にて受けたるものにして「アルコト」の意あり。「知之」は「著し」といふ語にあてたり。「シルシ」は日本紀允恭卷に「和餓勢故餓勾倍枳豫臂奈利佐瑳餓泥能區茂能於虚奈比虚像比辭流辭毛《ワガセコガクベキヨヒナリササガネノクモノオコナヒコヨヒシルシモ》」本集卷十七「四〇一九」に「安麻射可流比奈等毛之流久許己太久母之氣伎孤悲可毛奈具流日毛奈久《アマザカルヒナトモシルクココダクモシゲキコヒカモナグルヒモナク》」等例少からず。これは上の「己具人奈四二」を受けたるにて、その舟を人の※[手偏+旁]かずして有る事も著しとなり。これにて一段落なり。
○潜爲 舊訓「イサリスル」とよみ、古寫本には「アサリスル」ともよめり。されど、「潜」字はかくよまるべき意義なければ從ひがたし。代匠記「カヅキスル」ともよむべしといひたるが、この外に訓あるべしとも思はれず。この字と意義とは卷二「一七〇」の「人目爾戀而池爾不潜《ヒトメニコヒテイケニカヅカズ》」の下にいへり。即ちこれらの水鳥が水中に没入することをわざとするによりていへるなり。
(106)○鴦與高部共 「ヲシトタカベト」とよむ。鴦は本草和名に「鴛鴦和名乎之」とあるその鴛鴦の一字を用ゐて、「ヲシ」にあてたるなり。「高部」は和名鈔鳥名に「爾雅集注云※[爾+鳥]【音彌一音施漢語抄云多加倍】一名沈鳧貌似v鴨而小、背上有v文」と見えたる水鳥にして、今「こがも」と名づくるものなり。「與」も「共」も意を以て「ト」の助詞にあてたるなり。
○船上住 舊訓「フネノウヘニスム」とよみたるを考には「フナノヘニスム」とよみたり。然るに、本集にて「フナノヘ」といへるは卷五「三九四の「船舳爾」に注して「反云2布奈能閇爾《フナノヘニ》1」とある如く「舳」をさせるものゝみ(卷十八「四二一二」卷十九「四二四五」「四二六四」)なればこゝは「フナノヘ」とよむべきにはあらじ。而して古來の訓不理にあらねば改むるを要せず。
○一首の意 大宮人の遊びに用ゐたる舟の乘る人もなくこぐ事もなくして打すてられたるままに有ることも明かに知らる。何となれば、人を見れば、恐れて水に没入するを性とする鴛鴦や小鳧が、舷の上を住所とせるにて著しく知らるとなり。これその實際の景をいへるものなるべく、語淺くしてよく思へば、真と情と目前に迫る心地するなり。
 
259 何時間毛《イツノマモ》、神左備祁留鹿《カムサビケルカ》、香山之《カグヤマノ》、鉾椙之本《ホコスギノモトニ》、薛生左右二《コケムスマデニ》。
 
○何時間毛 舊訓「イツシカモ」とよみたるが、代匠記に「イツノマモ」とよみたり。かくて諸家多くこれに從へり。槻落葉に曰はく「何時の二字卷(ノ)八に何時可登《イツシカト》と書て、いつしとよむ例もあれば、こゝもいつしかもとよむもよかめれど、間を加の假字に用ひし事集中にみえねば、いつのまも(107)とよめり。」といひたり。その卷八の例といふは「一五二三」の歌なるが、又卷七「一三七四」に「何時跡《イツシカト》」とよめるもあれば、「シカ」といふ語を添ふることは差支なしとして「何時」を「いつしか」にあてたる時に「間」を如何にすべきといふ問題あれば、「イツノマモ」とよまむ方よからむといへるなり。さて攷證は「考にいつのまもに訓れしより久老千蔭などもそれに從ていつのまにかもといふ意也と解りしかど毛の字一字にてしか聞べきよしなければ、舊訓のまゝいつしかもとよむべし。」といひ又「さて何時間毛《イツシカモ》の間をかの假字なり(と)思ふ人もあるべけれど、間の字をかの假字に用ひし事集中に例なく、間は義を以て添てかける字なり。この添て書る文字の事は上に家門をいへとよめる所にいへるがごとし」といへり。如何にも「時間」即ち「トキ」の意にして今も用ゐるを見ればこの説一往は道理ありと聞ゆれど、「いつ」といふをば、「何時間」とかけることは古今未だ例なきことなれば、よく考ふれば、從ふべからず。されば、これはなほ「何時」にて「いつ」にあて、「間」は「マ」の語にあてたるものとせざるべからず。然すれば、「イツノマモ」とよまむ外はあるべからず。「イツノマモ」にて「いつのまにかも」といふ意にならずといはれたれど、卷五「八〇四」に「美奈乃和多迦具漏伎可美爾伊都乃麻可斯毛乃布利家武《ミナノワタカグロキカミニイツノマカシモノフリケム》」の如きは「イツノマカ」とあり。これは意よりいへば「イツノマニ」といふ意なるに「カ」助詞の添はれるにて、その格助詞の「ニ」のあらはれざるなり。ここもそれと同じく「イツノマニ」といふ意に係助詞「モ」の添はれるにて關係は同一なり。ただ異なるは彼は係助詞「カ」を用ゐ、これは「モ」を用ゐたるの差のみなり。而してここは下に「カ」あれば、再び「カ」助詞を加へて、「イツシカモ」とよまむかたかへりて蛇足となるべき恐ありとす。
(108)○神左備祁留鹿 舊訓「カミサビケルカ」とよめり。されど、「カムサビケルカ」とよむをよしとす。「カムサブ」といふ語の例は卷一「三八」「四五」の「神左備世須《カムサビセス》」「五二」の「神佐備立有《カムサビタテり》」この卷「二四五」の「神佐備居賀許禮乃水島《カムサビヲルカコレノミヅシマ》」など、從前多くありしが、ここは、その物|古《フ》りて神々しく見ゆるをいふなれば、意稍轉ぜるなり。「祁留」の二字は音を以ての假名、「鹿」は訓を以ての假名なり。
○香山之 「カグヤマノ」とよむ。香山を「カグヤマ」にあてたる事は日本紀神武卷の自注に「香山此云2介遇夜縻《カグヤマ》1」とあり。「香」は普通に「カウ」とかく、その「ウ」は木來「ng」なればなり。卷十一「二四四九」にも「香山爾雲位桁曳《カグヤマニクモヰタナビキ》」と見ゆ。
○鉾椙之本爾 舊訓「ムスキカモトニ」とよめり。代匠記には「ホコスギ」とよみ而して、椙は「※[木+媼の旁]」の誤ならむといへり。如何にも、日本紀顯宗卷の自注に「※[木+媼の旁]此云2須擬《スギ》1」ともある如く、※[木+媼の旁]字にスギの訓ありて、「椙」はそれを誤れりといふべきに似たり。然れども和名鈔の序に「椙讀v杉」ともあれば、それを誤り用ゐたる事は頗る古くして、決して、後人の寫誤にあらざるべく、又古事記にもこの字を用ゐたれば、萬葉集の原本よりかく用ゐたりしものと推定することを得べし。而して集中「椙」の字を用ゐること少からず。「鉾」は「ホコ」とよむべきものにしてここは「ホコスギ」とよむべきこと疑なきが、この語は集中にはこの一語の外見えず。名の義は杉の若木の鉾の長さばかりなるをいふとあれど、さにはあらで、その杉の立樹の姿鉾を立てたるに似たるよりの名なること著し。杉の幹、直にして枝葉、上に集りたるさま、げに鉾を立てたるに似たるなり。考は又「本」を「末」の誤として「ホコスギガウレニ」とよみたり。されど、いづれの本にも誤字なければ從ひが(109)たし。本と末とは甚しき違ひなるのみならず、卷二の「子松之末爾蘿生萬代爾《コマツカウレニコケムスマデニ》」(二二八)といへるは想像の上の構想に止まりてかくあれかしといへる希望なるが、ここは上來の歌に照して見れば、實際の景をいへるなれば、若しその言の如くせば若木の末に薛|生《ム》すまでの長き壽(少くも二三百年)を保てる人のいへる言とならざるべからず。されば、これはその杉の幹に薛|生《ム》せるを見ての言とするを當れりとす。
○薛生左右に 「コケムスマテニ」とよむ。この語の例上にいへり。「薛」は類聚名義抄に「コケ」の訓あり。「左右」を「マデ」に用ゐたる例卷一以來少からず。以上三句轉倒しておけるなり。
○一首の意 今見れば香山の杉の本には薛生して如何にも古く神々しくなれるが、香久山の宮の榮えし時はかくはあらざりしに、何時の間にかくこけむすまでになれるにか。
 
或本歌云
 
○ これは上の長歌に對して或本に次の如き形の歌として傳へたりといふことを示さむが爲に加へたるものなるべし。而して、その違へる所々少からねば、一首をすべて示せるならむ。
 
260 天降就《アモリツク》、神乃香山《カミノカグヤマ》、打靡《ウチナビク》、春去來者《ハルサリクレハ》、櫻花《サクラバナ》、木晩茂《コノクレシゲミ》、松風丹《マツカゼニ》、池浪※[風+火みっつ]《イケナミタチテ》、邊都返者《ヘツヘニハ》、阿遲村動《アヂムラサワギ》、奥邊者《オキヘニハ》、鴫妻喚《カモツマヨバヒ》、百式乃《モモシキノ》、大宮人乃《オホミヤビトノ》、去出《マカリデテ》、※[手偏+旁]來舟者《コギケルフネハ》、竿梶母《サヲカヂモ》、無而佐夫之毛《ナクテサブシモ》、榜與雖思《コガムトオモヘド》。
 
(110)○天降就 「アモリツク」なり。上の「天降付」と「付」「就」の字の違あるのみなり。
○神乃香山 「カミノカグヤマ」とよむべし。これは他に例なきことなれど、神の天降りてここに居付ましますといふ意にていへるか。延喜式神名帳大和國十市郡に「天香山坐櫛眞(知)《クシノマチノ》命(ノ)神社」あり。
○打靡 舊訓「ウチナビキ」とよみたれど、ここは枕詞なれば、「ウチナビク」とよむべし。卷五「八二六」に「有知奈※[田+比]久波流能也奈宜等《ウチナビクハルノヤナギト》」卷二十「四三六〇」に「宇知奈※[田+比]久春初波《ウチナビクハルノハジメハ》」「四四八九」に「宇知奈婢久波流乎知可美加《ウチナビクハ》《ルヲチカミカ》」「四四九五」に「打奈婢久波流等毛之流久《ウチナビクハルトモシルク》」などの例にて見る如く「春」の枕詞とせり。春は草木の生ひ出でしなやかになびくによりていふといへり。
○春去來者 「ハルサリクレバ」意は卷一以來屡いへり。
○木晩茂 「コノクレシゲミ」とよむ。上の「木晩茂爾」と似たれど、ここは「茂」一字なれば、「シゲミ」とよむべきなり。「茂クアリテ」の意なり。
○松風丹 「マツカゼニ」なり。「丹」は訓をかりて假名にせり。
○池浪※[風+火三つ] 舊訓「イケナミタチテ」とよみたるが、略解は「※[風+火三つ]」を「サワギ」と訓せり。されど、攷證は舊訓の如く「タチテ」とよむべしといへり。按ずるに「※[風+火三つ]」は「※[火三つ+風]」と同字にして「※[火三つ+風]」は玉篇に「暴風也」と見え、説文には「扶搖(スル)風也」といへり。(扶搖とは暴風の下より上るものをいふ。)かくて「※[火三つ+風]」は「ハヤテ」といふに當る字にして、これには「サワグ」の訓も「タツ」の訓も無き筈なり。按ずるにこれはハヤテ吹けば、波立つによりて、義によりて書けるなるが、下に「味村さわぐ」とあれば、ここは「タチテ」とよ(111)むをよしとすべし。なほ※[火三つ+風]の義の「下より上る」は即ち「タツ」の意にもなるを思ふべし。
○邊都返者 舊訓「ヘツヘニハ」とよめるが、古義は「ヘツヘハ」とよめり。「者」は「ニハ」とよむ例もあれば、いづれにてもあるべし。
○阿遲村動 舊訓「アチムラサワギ」とよめり。略解には「勤」を「トヨミ」とよみたれど、ここは「サワギ」の方よかるべし。この「トヨム」と「サワグ」との別は卷二「二二〇」の「邊見者白浪散動《ヘミレバシラナミサワグ》」の下にいへり。ここも音のみならねば「サワギ」をよしとす。
○奧邊者 舊訓「オキヘニハ」とよめり。古義は「オキヘハ」とよめり。これもいづれにてもよかるべし。
○百式乃 「モモシキノ」なり。
○去出而 舊訓「ユキイデテ」とよめり。されど語をなさず。略解攷證等は義をとりて「マカリデテ」とよめり。まさに然るべし。
○※[手偏+旁]來舟者 舊訓「コギコシフネハ」とよめり。童蒙抄は「コギケルフネハ」とよみ、攷證これに從へり。槻落葉は「來」は去の誤にして「コギニシフネハ」とよみ、古義これに從へり。されど、ここはいづれの本にも誤なければ、誤字説は從ひがたし。按ずるに「來」は集中「ケリ」に用ゐたること既にいへる如く甚だ多ければ、ここは童蒙抄に從ひて「コギケルフネハ」とよむをよしとすべし。昔大宮人の舟遊してこぎけるその舟はここに昔のまゝすててあれどといふことならむ。
○竿梶母 「サヲカヂモ」なり。本の歌と語上下せるなり。
(112)○榜與雖思 舊訓「コガムトオモヘド」とよめり。「榜」一字なれど、「コガム」とよまむ外あるべからず。我試みにのりて榜がむかと考へつれど、竿も※[楫+戈]もなしとなり。
○一首の意 本の歌と大差なければ、再びいはず。
 
右今案遷2都寧樂1之後怜v舊作2此歌1歟
 
○ この左注は上の歌の作られし次第を考へたる人の注せしならむ。
○ 寧樂遷都は和銅三年三月なるが、その遷都の後舊都のあれたるを怜《カナシ》みてこの歌を作れる歟といへるなるが、上の歌「香久山」の宮につきていへるなれば、藤原の舊都を悲みての作にあらじ。されば、これはこの卷を編したる時の左注にあらずしてその後何人かの加へしものなりといふ説よきならむ。
 
柿本朝臣人麿獻2新田部皇子1歌一首并短歌
 
○柿本朝臣人麿 既に屡々いへり。
○新田部皇子 天武天皇の第七皇子なり。天武紀に曰はく「夫人氷上娘弟五百重娘生2新田部皇子1」と。この皇子は文武天皇四年正月に淨廣貳を授けられ、慶雲元年正月には「三品新田部親王封2一百戸1」といふ事見え、和銅七年正月には「二品新田部親王益2封二百戸1」と見え、養老三年十月には「詔曰舍人新田部二親王、百世松桂本枝、合2於昭穆1、萬雉城石維磐重(セラ)2乎國家(ニ)1(中略)其賜2…二品新田(113)部親王内舍人二人、大舍人四人、衛士二十人1益2封五百戸1通v前一千五百戸云々」とあり。又養老四年八月には「詔知2五衛及授刀舍人事1云々」とあり。神龜元年二月には一品を授けられ、天平三年十一月に始めて畿内惣管諸道鎭撫使を置かれしとき一品新田部親王を大惣管とせられしこと見ゆ。天平七年九月に薨ず。曰はく「九月壬午一品新田部親王薨。親王天渟中原瀛眞人天皇之第七皇子也」と見ゆ。その歌を獻りしは何時の頃か明らかならねど、人麿は寧樂遷都以前の人なるべければ、略その時代を考ふべし。
○短歌 この二字すべての古寫本小字にせり。よりてこれに從へり。
 
 
261 八隅知之《ヤスミシシ》、吾大王《ワガオホキミ》、高輝《タカヒカル》、日之皇子《ヒノミコ》、茂座《サカエマス》、大殿於《オホトノノウヘニ》、久方《ヒサカタノ》、天傳來《アマツタヒクル》、白〔左○〕雪仕物《ユキジモノ》、往來乍《ユキカヨヒツツ》、益及常世《イヤトコヨマデ》。
 
○八隅知之 上に屡いへり。
○吾大王 「ワガオホキミ」なり。これも上に屡いへるが、ここは新田部皇子をさせり。
○高輝 舊訓「タカテラス」とよみたるが、考は「タカヒカル」とよみたり。これは上に「高照」「高光」とかけると同じ意なる語にして、「タカテラス」とよまむも「タカヒカル」とよまむも結局は同じに落ちつくなり。されど、「輝」字は「光輝」と熟字をなす字にして類聚名義抄には「ヒカル」の訓ありて、「テラス」の訓なければ、「タカヒカル」の方よしとすべし。
○日之皇子 「ヒノミコ」とよむこと既に屡いへり。ここは上の「吾大王」と同じく新田部皇子をさ(114)し奉ることいふまでもなし。
○茂座 舊訓「シケクマス」とすみたるが、代匠記の初稿本には「シキマセル」とよむべしといひ、考はこれに從へり。又童蒙抄は「サカエマス」とよみ、略解は「シキマス」とよめり。攷證は「茂はしげき意なれば、借宇して茂座とはかけるにて敷座は知《シ》り領します意にて大殿を知り領しますと申す也」といへり。さて代匠記に曰はく「茂座は今按座は今反歌に依に此上に二句許落たるか。今私に補て云、八釣山嶺之木立登などの意なるべし」といへり。按ずるに、これは「茂」を「シゲク」とよみたるによりて起れる疑なり。されど、ここは古來かく「茂」字にして一も疑はしき點なし。されば誤脱ありとの説はうけられず。さりとて「シゲク」とよみては意をなさず。さらば、これを「シク」とよみては如何といふに「茂」字の義にてはしかよみても當らねば、借字説を顧みる要あり。しからば如何にして「シキ」に茂字を借りうるか。諸家は單に借字なりといへれど「茂」字は「シク」といふ訓ある字にもあらず、又「茂く」「茂る」「榮ゆ」などいふ意の「シク」といふ國語あるにもあらず。されば、直ちに借字なりとは如何にしていひうるものなるか。諸家一もこれを論證せるものなく、いづれも自明の事の如くにせり。されど、これは決してしか輕々に説き去り得べき道理なき筈なり。按ずるに「シキ」が繁き意なりといふ事は古事記傳に論ぜる所なるを以て世人多くこれを信ぜり。記傳卷六に「穢繁國は伎多那伎斯伎具邇と訓べし。(中略)繁は斯伎の借字にて(【しげきを古言に斯伎と云り】)醜の意なり。然《サル》由《ヨシ》は萬葉十三【十四丁】に小屋之四忌屋爾掻|所棄《ステム》破《ヤレ》薦乎敷而、掻將折|鬼《シコ》之四忌手乎指易而云々(第十六(ノ)卷にも爲支屋とあり)とある鬼之四忌手は鬼《シコ》乃志許(115)草と同じ重《カサネ》言なれば四忌《シキ》も醜《シコ》なり。さて此哥に醜《シキ》屋ともあるを以て醜國とも云つべきをさとるべし」といへり。されど、この「四忌屋」「四忌手」を「シキヤ」「シキテ」とよめるは誤にて「忌」は「コ」の音にして「シコヤ」「シコテ」とよみ「鬼乃志許草」の「シコ」と同じ語なり。さればこれを「シキ」とよみ「醜」を「シキ」とよむ證とせるは、根據を失へるものなり。さて卷十六に爲支屋《シキヤ》とありといへるは竹取翁の長歌にあるものにして、古來、文字にもよみ方にも議論まち/\なる所なれば證となすに足らず。又「繁」を「シキ」とよむことは不可能にあらざれど、これは頻繁の意の「シキ」即ち「シク」といふ動詞の連用形にして「繁茂」の意によりて「シキ」とよみ得るものにあらず。諸家の惑の源實にここにあり。されば、從來の訓、いづれもうけられず。「茂」字は類聚名義抄には「サカユ、モシ、ツトム、モツ、サカリ」の訓あり。説文に「艸豐成」と注し、廣韻には「卉木盛也」とあり。されば、これは「サカユ」とか「シゲル」とかよむを當れりとする文字なり。されば、ここは童蒙抄に「サカエマス」とよめるを以て當れりとすべし。「さかえます」といふ語は俗なりなどいはむ人あらむには次の例どもを見よ。卷二「一八三」に「吾御門千代常登婆爾將榮等念而有之吾志悲毛《ワガミカドチヨトコトハニサカエムトオモヒテアリシワレシカナシモ》」卷三「四五四」に「愛八師榮之君乃伊座勢波昨日毛今日毛吾乎召麻之乎《ハシキヤシサカエシキミノイマシセハキノフモケフモアヲメサマシヲ》」卷六「一〇四七」に天地乃依會限萬世丹榮將往迹思煎石大宮尚矣《アメツチノヨリアヒノキハミヨロヅヨニサカエユカムトオモヒニシオホミヤスラヲ》、恃有之名良乃京矣《タノメリシナラノミヤコヲ」卷七「一一二八」に「安志妣成榮之君之穿之井之石井之水者雖飲不飽鴨飲不飽鴨《アシビナスサカエシキミカホリシヰノイハヰノミヅハノメドアカヌカモ》」卷十八「四〇九四」に「御食國波左可延牟物能等《ヲスクニハサカエムモノト》」卷十九「四一六九」に「眞珠乃見我保之御面多太向將見時麻泥波松栢乃佐賀延伊麻佐禰尊安我吉美《シラタマノミガホシミオモワタダムカヒミムトキマデハカツカヘノサカエイマサネタフトキアガキミ》」これらのうち、卷二、卷六は明らかにその居所につきていへるものなれば、ここにいへると趣同じ。
(116)○大殿於 舊訓「オホトノノウヘニ」とよみたるを代匠記に「オホトノノウヘハ」とよみ、童蒙抄「オホミアラカノウヘニ」とよみ考は「オホトノベニ」とよめり。然るに童蒙抄の訓は語數多くして從ひがたし。大殿を「オホトノ」とよむことは卷一より屡いでたり。次に「於」は古典に「上」の義に用ゐたること既に論ぜし所なるが、これを「ベ」と濁音によむは邊の義にとれるが故に從ひがたし。されば「オホトノノウヘ」とよむことは論なきが、その下に助詞「ニ」を加へてよむべきか、「ハ」を加へてよむべきかといふに、「ハ」とよみては下につづく事いかがなれば、ここは卷一「五〇」の「荒妙乃藤原我宇倍爾《アラタヘノフヂハラガウヘニ》」といへるにならひて「ニ」とよむをよしとす。この大殿は反歌によるに八釣山に營まれたりし皇子の宮殿なるべし。
○久方 「ヒサカタノ」とよむ。「アマ」の枕詞なること上に屡いへるにおなじ。
○天傳來 舊訓「天傳來自」を一句として「アマツタヒコシ」とよみたるを考に「天傳來」を一句として「アマツタヒクル」とよみたり。これは下の「自」を「白」として下につけりとせるものなるが、下にいふ如く、この説をよしとす。「アマツタフ」といふ語は卷二「一三五」に「天傳入日刺奴禮《アマツタフイリヒサシヌレ》」卷七「一一七八」に「天傳日笠浦《アマツタフヒカサノウラ》」又卷十七「三八九五」に「天傳日能久禮由氣婆《アマツタフヒノクレユケバ》」などの如く「日」の枕詞としても用ゐらるゝものにしてそれらは太陽が天の路を傳ひ行くをいふなるが、ここは雪をば空を傳ひて降り來るものと思ひなして、かくはいへるならむ。
○白雪仕物 舊板本は上にいへる「白」を「自」として上の句につけて「雪仕物」にて「ユキジモノ」とよみたるが考は上の四字として同じよみ方をなせり。按ずるに類聚古集、神田本、細川本、活字無訓(117)本「白」につくれるをよしとす。かくて考に「ユキジモノ」とよみたるによりて自後異議なし。「白雪」はその義によりてただ「ユキ」とよむべし。「ユキジモノ」は下の「ユキ」といふ語の同音の因に枕詞とせるものなるべきが、折節白雪降りしが故に用ゐしなるべし。「ユキジモノ」を枕詞とせる例は他には見えねど、同音の因によりて枕詞とせるものは、卷四「五七五」に「蘆鶴乃痛多豆多豆思《アシタヅノアナタヅタヅシ》」卷十一「二四九〇」に「飛鶴乃多頭多頭思鴨《トブタヅノタヅタヅシカモ》」卷十二「三一六七」の「粟島之不相物故《アハシマノアハジモノユヱ》」卷十一「二七五四」の「小竹之限笶思而宿者夢所見來《シヌノメノシヌビテヌレバイメニミエケリ》」卷十一「二七六八」に「白菅乃知爲等乞痛鴨《シラスゲノシラレムタメトコチタカルカモ》」卷十「一九〇五」に「白管自不知事以所言之吾背《シラツツジシラヌコトモチイハレシワガセ》」卷十一「二四六八」に「知草人皆知《シリクサノヒトミナシリヌ》」卷十二「二九二四」に「龍田山立而毛居而毛《タツタヤマタチテモヰテモ》」卷一「二九」の「穆木乃彌繼嗣爾《ツガノキノイヤツギツギニ》」卷十三「三〇八〇」に「繩乘乃名者曾不告《ナハノリノナハカツテノラジ》」卷二十「四三〇九」に「爾故具左能爾古餘可爾之母《ニコグサノニコヨカニシモ》」卷四「七三九」に「後瀬山後毛將相常念社《ノチセヤマノチモアハムトオモヘコソ》」卷十九「四二七九」に「能登河乃後者相牟《ノトカハノノチニハアハム》」卷十一「二七五三」に「濱久木久成奴《ハマヒサギヒサシクナリヌ》」卷十「一九七九」に「霍公鳥保等穗跡妹爾不相來爾家里《ホトトギスホトホトイモニアハズキニケリ》」など例甚だ多し。
○往來乍益及常世 舊訓「ユキキツツマセ、トコヨナルマデ」とよみたり。童蒙抄はこれを「ユキキツツマストキハナルヨト」とよめり。考は「常」を「萬」の誤として、「ユキキツツマセ、ヨロヅヨマデニ」とよみ、略解これに從へり。槻落葉は「常」を「座」の誤として、「ユキカヨヒツツ、イヤシキイマセ」とよみ、古義、新考等これに從へり。檜嬬手は「往來乍」を「ユキカヨヒツツ」とよみ、次に「萬代奉仕」の四字脱せりとして「ヨロヅヨニツカヘマツラム」とよみ、次に「常」を「萬」の誤として「イヤシキイマセ」とよみたり。攷證は「ユキキツツマセ、トコヨナルマデ」とよみたり。按ずるに、古今の諸本ここに一(118)も文字の異同なければ、誤字説はまづ否認すべし。さてその他の説によるに「往來乍」を一句とするか「往來乍益」を一句とするかの差あり。「往來」を「ユキキ」とよむときは後の態度をとりやすく、前の態度をとらば「ユキカヨフ」とよむべきこととなる。「來」一字ならば、「カヨフ」とよまむこと稍無理なれど、「往來」と熟すれば、「ユキカヨフ」とよまむこと無理にはあらず。さても、それのみにては未だ斷定すべからず。下の句につきて、一は「及常世」を一句とし、一は「益及常世」を一句とするものなるが、その「及常世」を一句とするは「トコヨナルマテ」とよみ又「トキハナルヨト」よみたるが、これも一方には「及」を「マデ」とよむと「ト」とよむとの差あるが、又「常世」を「トキハナルヨ」とよむと、「トコヨナル」とよむとの差あり。「及」は「マデ」とも「ト」ともよみて差支なきが、「トコヨナル」は甚しく不當にあらねど「トキハナルヨ」は頗無理なり。次に「益」以下を一句とする説はいづれも「常」を「座」の誤とせるが故にそれらには從ふべからねど、しかもそのまま誤字なしと見てよまれざるにあらず。即ちこのままによまば「イヤトコヨマデ」とよむべきなり。この訓は新訓萬葉集にも見ゆるが、かくよむより外に、これを一句としてのよみ方はあるまじ。先づ「益」を「イヤ」とよめる例は卷二「一三一」に「益高爾山毛越來奴《イヤタカニヤマモコエキヌ》」又卷十二「三一三五」の「今夜從戀乃益益南《コヨヒユコヒノイヤマサリナム》」などにて見るべく、「及」を「マデ」に用ゐたる例は卷二「一九六」に「明日香河及萬代《アスカガハヨロツヨマデニ》」卷九「一七四六」に「草枕客去君之及還來《クサマケラタビユクキミガカヘリコムマデ》」などあり。されば「イヤトコヨマデ」とよまむこと無理ならず。さて、これを一句とせば上は「往來乍」一句として「ユキカヨヒツツ」とよむをよしとすべし。かくてその「イヤトコヨマデ」といふ同じ語は集中に例なけれど、卷六「一〇〇九」に「橘花者實左倍花左倍其葉左倍枝霜雖降益常葉之(119)樹《タチバナハミサヘハナサヘソノハサヘエダニシモフレドイヤトコハノキ》」といふありて「トコ」より名詞につづくものを見、卷七「一二五一」に「佐保河爾鳴成智鳥何師鴨川原乎思努比益河上《サホガハニナクナルチドリナニシカモハラヲシヌビイヤカハノボル》」といふありて、「河」といふ名詞と「上ル」といふ用言との合同せるものの上にたち、又卷十七「三九九一」の「伊夜登之能波爾《イヤトシノハニ》」といふ如く、修飾格の語の上に加へ、又卷二十「四四四三」に「奈弖之故我伊夜波都波奈爾《ナデシコガイヤハツハナニ》」といふあり。この「イヤハツハナ」は今の「イヤトコヨ」といふに趣おなじ。かくして「まで」は下略の語格にして、「マシマセ」などいふべきを略せるなり。
○一首の意 わが畏み親み仕へ奉る新田部皇子の大御座として榮え座す八釣の大殿の上に折節天より白雪ふりて眺望も一しほなるが、この雪の名の如く、この大宮に往き通ひつつ常世の常世の益常世まで、榮えませとなり。即ち上の茂えますが、ここにはたらき來りて略せる語の意をあらはせり。上に榮え座すといふ語なくてはあまりに甚しき略語となりて意とほらず。
 
反歌一首
 
262 矢釣山《ヤツリヤマ》、木立不見《コダチモミエズ》、落亂《フリマガフ》、雪驟〔左○〕《ユキニウクヅキ》、朝樂毛《マヰリクラクモ》。
 
矢釣山 「矢」の字細井本、活字無訓本「矣」とし、「釣」字類聚古集、神田本、細井木、活字無訓本「駒」とし、かくて「イコマヤマ」とよめり。されど「矣」字を地名に用ゐたる例なければ、矢釣山をよしとすべし。之を「ヤツリヤマ」とよむ。八釣山は大和國高市郡飛鳥村字八釣の上方にある山なり。この八釣の地は顯宗天皇の近飛鳥八釣宮のありし地なり。蓋しここに新田部皇子の別莊などありしならむ。
(120)○木立不見 「コダチモミエズ」とよむ。「コダチ」といふ語は日本紀舒明卷に「于泥備椰摩虚多智于須家苫《ウネビヤマコダチウスケド》」と見ゆ。この「ミエズ」は修飾連用にして下の落りまがふにつづくるなり。
○落亂 舊訓「チリマガフ」とよむ。代匠記に「フリマガフ」又は「チリミダル」とも訓み、槻落葉は「フリマガフ」とよみ、檜嬬手「フリミタル」とよめり。「落」を「フル」とよむことは卷一、以來屡いへり。ここは雪の「ふる」をいへること論なければ、「チリ」とはよむべからず。「亂」は「ミダル」ともよむべきが、又「マガフ」ともよむべし。これは卷二「一三五」に「大舟之渡乃山之黄葉乃散之亂爾妹袖清爾毛不見《オホフネノワタリノヤマノモミチバノチリノマガヒニイモガソデサヤニモミエズ》」とある處にもいへる如く又卷十五「三七〇〇」に「安之比奇能山下比可流毛美知葉能知里能麻河比波計布仁聞安流香母《アシヒキノヤマシタヒカルモミチバノチリノマガヒハケフニモアルカモ》」とある如く、雪の落れるにまぎれて物のみえぬをいふなれば「フリマガフ」とよむべきなり。この「マガフ」は連體形にして、下の雪につゞくるなり。
○雪驟 流布本「雪驪」として訓は「ユキモハタラニ」とよみ代匠記に「ユキニクロコマ」とよむべきかといへり。童蒙抄は「ハタレノコマノ」とよみ、考は「驪」は「駁」の誤として「ユキハダラナル」とし、槻落葉は「ユキニキホヒテ」とよみ、攷證は字はそのままにして「ユキモハダレニ」とよみ、古義は「驪」は「驟」の誤として「ユキニサハキテ」とよめり。さてここに誤字なきかといふに、「驪」字を類聚古集に「驟」とし、神田本に「驢」とし、活字無訓本に「※[麗+鳥]」とせり。されど、活字本のは誤なること著しく、神田本の「驢」も亦誤なること明かなり。さて「驪」は黒駒の事なるが攷證にいへる如く字鏡集に「カラスマタラノウマ」とあれば、「マダラ」の字に用ゐ、「ハダレ」「ハダラ」とよまれざるにあらず。されど、それを下文につゞけて見れば「ユキ」の「マヰデクル」といふこととなるが、その意如何。なほ又「ユキノ(121)ハダラニマヰデクル」とは如何。攷證は「大雪をまだらなるまでふみちらして宮にまうできつる也」といへれど、ふみちらすならば、「ユキモハララニ」などいふべきなれど、驪字にてはその義を示す能はず。恐らくはこれは類聚古集の「驟」の字をよしとすべきに似たり。この字は、説文に「馬疾歩也」と見え玉篇に「奔也」と注せるが、普通には「ハシル」の訓あり。又「サワグ」の訓あることは卷二にいへり。類聚名義抄には「ウクツク、ウツク、ワシル」などの訓あり。而して日本書紀又文選の古訓には「馳驟」を「ウクヅク」とよめり。この「ウクヅク」といふ語は、新撰字鏡に「※[足+摘の旁]」字に注して「驟也宇久豆久」ともあり。又「驅」字に注して「驟也」とも「宇久豆支馬也」ともいひ、「※[馬+高]」字に注して「荒馬宇久豆支馬」といへり。これらによりて「ウクヅク」といふ語の意をさとるべし。さては馬をはしらすることをいふべし。古は初雪の見參といふ事ありて、初雪に限らず大雪には早朝におくれず祗候すべき儀ありしなり。その事は日本後紀に「延暦十一年十一月壬子朔乙亥廿四日雨雪近衛官人已下賜v物有差、丙子廿五日大雪駕輿丁已上賜v禄有v差」(以上國史百六十五補之)と見ゆ。後世これの時を以、初雪見參の儀はじまるといへど、この時にはじまる由には更に見えず。こは中古來より絶えたれど、古は諸陣に皆出仕したりしなり。されば、こは大雪ふりたれば、皇子の宮の舍人等の馬を馳せて先を爭ひ、出仕せるさまをいへること疑なし。この故に「ユキニウクヅキ」とよむをよしとす。
○朝樂毛 舊訓「マヰテクラクモ」とよめり。考は「マヰリクラクモ」とよみ、槻落葉には「マヰリタヌシモ」とよみ、檜嬬手は「朝」の下に「來」の字脱せりとして同じく「マヰリクラクモ」とよみ、古義は「樂」の(122)下に「吉」などの脱せるならんとして「マヰラクヨシモ」とよめり。然るに諸本一もここに誤字なければこのままにてよむべきなり。さて按ずるにこの「朝」は動詞としてよまずば、語をなさざるべし。然るときは、今の言に「朝す」といふ如き語なるべきが、攷證はこれを「マヰデ」とよむべしといひ、この語の例として、卷十八「四一一一」に「麻爲泥許之《マヰデコシ》」卷二十「四三九三」に「麻爲弖枳麻《マヰデキマ》(爾)之乎《シヲ》とあるによれり。「マヰデ」とは「マヰ」(參)「イデ」(出)の約なるが、これは「マヰリ」にあらざるか。卷十六「三八八六」の「東中門由參納來弖《ヒガシノナカノミカドユマヰリキテ》」又卷十九「四二二〇」に「落雪乎腰爾奈都美※[氏/一]參來之印毛有香年之初爾《フルユキヲコシニナヅミテマヰリコシシルシモアルカトシノハジメニ》」などの例は「マヰリク」といへる例なり。今、「マヰリ」の方によれり。
○一首の意 新田部皇子の宮のある八釣山の木立も見えぬほど盛んに降る雪に多くの祗候人は先を爭ひて馬を馳せて君の御機嫌を伺はむとさわぎのゝしりて參り來ることよとなり。
 
從2近江國1上來時刑部垂麿作歌一首
 
○從近江國上來時 この七字目録には「刑部垂麿」の名の下におけり。漢文の書きざまとしては普通には然るべき事なれど、これにて必ずしも不可ならず。然るを考、攷證に、此卷の例に違へりとてこれを改めたるは穩かならず。既にこの卷「三八二」の詞書にも「登筑波岳丹比眞人國人作歌」とありて例なきにあらざるなり。又童蒙抄にはこの上に「柿本朝臣人麿」の五字脱せるかといへれど、もとより根據なき事なり。「上來」の「上」とは京に至ることをいふなり。
○刑部垂麿 細井本に「ヲサカヘノタルマロ」とよみたれど「垂」は古、四段活用なりしが故に「オサカ(123)ベノタリマロ」とよむべし。刑部は又忍坂部とも書く。その氏の人は卷一「七一」の作者に忍坂部乙麿あり。同じ氏なれど、一族なりや否や詳かならず。この人の父祖并に經歴詳かならず。この人の歌は下(挽歌「四二七」)にも一首あり。
 
263 馬莫疾《ウマナイタク》、打莫行《ウチテナユキソ》。氣並而《ケナラベテ》、見※[氏/一]毛和我歸《ミテモワカユク》、志賀爾安良七國《シガニアラナクニ》。
 
○馬莫疾 舊訓「ウマナイタク」とよめり。童蒙抄には疾を「トク」ともよむべしといへり。※[手偏+君]解は「馬」の下の「莫」を衍とし、「ウマハヤク」とよみ、註疏も同じく「莫」を衍として、「ウマイタク」とよみ、古義は「吾馬疾」とありしが誤れるものとして、「アガマイタク」とよむべしといへり。按ずるに、ここに「莫」ありて次句にも又「莫」ありて、いづれも「ナ」とよめり。而してかくよむ時の「ナ」は禁止の助詞なるべきが、一の句の中に二の禁止の助詞あるべき道理なし。されば、その二のうちの一は誤か、或は他のよみ方あるか。若くは他の意の「ナ」なるべきか。これにつきて、松岡靜雄氏は日本古語大辭典には「此ナは後世ならば馬ナモ〔二字右○〕トクといふナモ〔二字右○〕に該當するものである」といへり。この説若し證あらば、從ふべき可能性多きものなり。されど「ナモ」の意の「ナ」といふもの他に證なく又この頃に恐らくは「ナモ」といふ係助詞既に存したりしならむ。それが萬葉集に見えぬは、これが歌詞にあらざりし爲ならむ。宣命には存す。されば、證を見出でざる限り、この説なほ確實なりといふべからず。次に「莫」を他のよみ方をせしか如何といふに、集中に「ナ」と訓せる外には「莫々」と用ゐたるのみなれば、他のよみ方は未だ考へられず。されば誤字かといふに、諸本い(124)づれもかくありて誤字ありとも考へられず。されば、こは、文字はそのままにし、よみ方も姑く古のままにして、後の研究をまつべきなり。「疾」につきては「イタク」「ハヤク」「トク」の三種のよみ方あるが、いづれをよしとすべきか。「イタク」とよめる例は、卷六、「九七九」に「吾背子我著衣薄佐保風者疾莫吹及家左右《ワガセコガキルキヌウスシサホカゼハイタクナフキソイヘニイタルマデ》」などあるが、これは「痛」と通じたる意にてよめるにて理由なきにあらず。「トク」はこの字の訓として通用するものなれど、萬葉集その他に「トシ」といふ語の實例を見ざれば、果してしかよむべきか疑はしきなり。「ハヤク」といふ語はこの頃にして疾速の義あれば適するものなり。然れども、集中に「ハヤク」とよむべき所はかな書の外にも存し、この字の訓と「早」「速」「急」の字を多く用ゐ、必ず「ハヤク」とよまざるべからざる所に「疾」字を用ゐたるものを見ず。ただ、卷八、「一四五八」に「屋戸在櫻花者今毛香聞松風疾地爾落良武《ヤトニアルサクラノハナハイマモカモマツカゼハヤミツチニオツラム》」とある「疾」を古來「ハヤミ」とよみ、又、しかよむべきなれば、「ハヤシ」とよまむも不當にあらず。然らば、ここを「ハヤク」とよむべきか、「イタク」とよむべきかを決せむには、前後の詞の關係を見ざるべからず。「ハヤク」とよむときは、直接に「行く」にかゝり、「イタク」とよむときは甚しくの意にて直接に「行く」にはかゝらずして「打つ」にかゝる事となるべし。然るに、詞のつづきより見れば、これは「打つ」にかゝるべき物なれば、「イタク」の方よかるべし。「イタク」の假名書の例は、卷五「八四七」に「伊多久久多知奴《イタククダチヌ》」など、例甚だ多し。
○打莫行 舊訓「ウチテナユキソ」とよみたるが、略解補正に横山由清の説として「ヤリソ」とよむべしとせり。されど「行」を「ヤル」とよむは無理なり。舊訓のまゝにてあるべし。「ウチテ」は馬を鞭打つなり。卷十四「三五三六」に「安加胡麻乎宇知※[氏/一]左乎妣吉《アカゴマウチテサヲビキ》」とあるその例なり。馬を甚しく打(125)ちて行くことなかれといふなり。馬は打てば早く歩むものなれば、以上二句の意はあつかふ人にはやく行くことなかれとあつらふるなり。かくて、ここは誰が誰にかくいひあつらふるかと考ふるに、この歌は垂麿自らが、志賀の地をよく見て行かむと思ふなるは下の語にて著しきなり。而してここにいふ馬は恐らくは乘馬にしてその馬にのれるはなほ垂麿なるべきにかくいへるは如何なる意ぞといふに、これ恐らくは從者などにいひかけたるものにして、その從者も亦馬にのれるが爲なるべし。以上一段落なり。
○氣並而 舊訓「イキナメテ」とよみたるを代匠記に「ケナラベテ」とよめり。按ずるに「イキナベテ」といふは語をなさねば契沖説によるべし。「け」は又卷一の「六〇」の「氣長妹之《ケナガキイモガ》云々」卷二のはじめの磐媛皇后の御歌の「君之行氣長成奴《キミガユキケナガクナリヌ》」の下にいへる如く、「來輕《キヘ》」といふ語の約言にして、時間の經過をいふ語なり。時間多く經過するを「日ならべて」といへる例は、卷二十「四四四二」に「比奈良倍弖安米波布禮杼母《ヒナラベテアメハフレドモ》」卷八「一四二四」に「足比奇乃山櫻花日並而如是開有者甚戀目夜裳《アシビキノヤマサクラバナヒナラベテカクサキタラバイトコヒメヤモ》」の如きあり。「夜ならべて」といへる例は卷十一「二六六〇」に「夜並而君乎來座跡《ヨナラベテキミヲキマセト》云々」といふあり。これらに准ずれば、「けならべて」とよまむこと然るべし。時間を多く並べ重ねての意なり。
○見※[氏/一]毛和我歸 舊訓「ミテモワガコム」とよめり。代匠記には「歸」を「カヘル」ともよむべしといひ、童蒙抄には「ユク」とよみ、槻落葉、玉の小琴、攷證等これに從へり。「歸」を「コム」とよむは道理にかなはず、「カヘル」といへばここにては音調ととのはず、「ユク」とよむをよしとす。「歸」を「ユク」とよむことは上の「久堅乃天歸月」(二四〇)の下にいへり。
(126)○志賀爾安良七國 「シガニアラナクニ」とよむ。槻落葉は一本「七」を「亡」に作れりとしてそれをよしとせり。然るに、今見る諸本にかゝる本なく、又「七國」にて「ナクニ」とよむに差支なきのみならず、卷四「五〇六」に「火爾毛水爾毛吾莫七國《ヒニモミヅニモワレナケナクニ》」とかける例もあれば誤にあらず。「アラナクニ」は「アラヌニ」といふにおなじ。「志賀」は近江國の地名にて滋賀郡の地なれば、湖水の西岸の地を見ていへるならむ。
○一首の意 刑部垂麿が、近江國琵琶湖の西岸志賀の地を行くとて、從者などに對ひて、馬をしか早く打はやめてゆく事なかれ。この志賀の浦は面白く見るに飽かぬ所なるが、多くの日數を費して心ゆくばかり眺めて行く事をうべき所にもあらぬに。せめて、今ここを通る時だに、馬を止めて見てゆかんものをといふなり。これによりて見れば、この垂麿は近江國の人にあらずして、京の人にして所要ありて近江國に赴し時によみしか、若くは北の國の人にして、京に上るとて、志賀浦を過ぎてよめるかのうちなるべきが「歸」字を若し意義にもとづきて用ゐしものとせば、京より近江國若くはそれより北の國(西岸を通る故)に下りし後京に歸り上るとてよみしものと見らるるなり。
 
柿本朝臣人麿從2近江國1上來時至2宇治河(ノ)邊(ニ)1作歌一首
 
○柿本朝臣人麿 上に屡いへり。
○從2近江國1上來時 人麿が近江舊都を過ぎてよめる歌卷一「二九」にあり。されば、この人近江國(127)に下りし事ありしは知られたり。但し、この歌とかの歌とは時を同じくせりや否やは明かならず。
○至2宇治河邊1作歌、宇治川はいふままでもなく名高き山城宇治郡の川にして、近江國より大和國に行くに必ず通るべき地なり。その事は日本紀にも屡見え、又、大化年中に僧道登宇治橋をつくれる事その碑に見えたり。
 
264 物乃部能《モノノフノ》、八十氏河乃《ヤソウヂガハノ》、阿白木爾《アジロギニ》、不知代經浪乃《イサヨフナミノ》、去邊白不母《ユクヘシラズモ》。
 
○物乃部能八十氏河乃 「モノノフノヤソウヂカハノ」とよむ。「部」は呉音「ブ」なるをかれり。この語は卷一「五〇」に「物乃布能八十氏河爾《モノノフノヤソウヂカハニ》」と見ゆる所にいひたる如く、「モノノフノ」を以て「八十氏河」の枕詞とせるものなるが、その「物のふ」は古は文武のわかちなかりしかば、百官臣僚をすべてさせるものなれば、多くの氏々ありて奉仕せしが故に八十といへるなり。その八十を以て八十氏といふ語にかけ、又その八十氏を以て氏河にかけたり。「物のふ」を「八十」にかけていふ例は卷一にあげたれば今いはず。結局この二句は宇治河のことをいふに止まれり。
○阿白木爾 「アジロギニ」とよむ。よみ方に異論なし。「アジロギ」は網代木なり。網代は、河中に構ふる漁撈の法の一にしてこの河の鮎、氷魚などをとる爲に設けたるものなり。その法、水上に、上を廣く、下を漸く狹く網を引きたる形に左右に杙をうちて、それに竹木などをしがらみかまへて、魚の通路を妨げ、その網の底に相當する邊に、簀にて床を水に漬るほどに作り、その水と(128)共に魚のせかれて簀の上に流れ入れば、水は下に漏れて魚のみ殘るやうに構へたるものなり。この網代の宇治川に設けられたるは古來名高きものにして、宇治川といへば、直ちに網代を連想する程になれりしが、弘安七年正月に院宣ありて永く停止せられたり。この宇治の網代は侍中群要にも延喜式にも見えたるが、そのはじめを知らず。今の歌に既に見ゆれば、奈良朝の前より存したりしものならむ。卷七「一一三五」に「氏河齒與杼湍無之阿自呂人舟召音越乞所聞《ウヂガハハヨドセナカラシアジロビトフネヨバフコヱヲチコチキコユ》」ともあり。さて「アジロギ」とはその網代の料として河の中に打ち立てたる杙をいふ。
○不知代經浪乃 「イサヨフナミノ」とよむ。「不知」は「イサ」知らずといふ如く否定の意ある副詞をあらはすに用ゐたるをかりたるなり。卷四「四八七」に「淡海路乃鳥籠之山有不知哉川《アフミヂノトコノヤマナルイサヤカハ》」又卷十一「二七一〇」に「狗上之鳥籠山爾有不知也河《イヌカミノトコノヤマナルイサヤガハ》」又卷六「一〇六二」に「不知魚取海片就而《イサナトリウミカタツキテ》」などこの例なり。これは「イザ」(去來)にあらず、清音にて「イサ」とよむなり。「代」は「ヨ」「經」は「フ」にていづれも一字づつの訓をかり合せて「イサヨフ」といふ語をあらはせり。「イサヨフ」といふ語は古事記中卷景行條に「宇美賀波伊佐用布《ウミガハイサヨフ》」又本集卷二に「雲居奈須心射左欲比《クモヰナスココロイサヨヒ》」(三七二)本卷に「山之末爾射狹夜歴月乎《ヤマノマニイサヨフツキヲ》」(三九三)「隱口能泊瀬山之山際爾伊佐夜歴雲者妹鴨有牟《コモリクノハツセノヤマノヤマノマニイサヨフクモハイモニカモアラム》」(四二八)卷六に「山之葉爾不知世經月乃將出香跡《ヤマノハニイサヨフツキノイデムカト》」(一〇〇八)等例多し。この語の意は攷證に「ゆかんとしてゆかず、進みかねてためらひをるをいふにて猶豫《タメラフ》といふに似たり」といへるにて知るべし。ここは川の浪の網代木にかゝりて進みかねたるさまをいへるなり。
○去邊白不母 「ユクヘシラズモ」とよむ。「去」を「ユク」とよむことは、卷一「六九」の「客去君跡」以下例多(129)し。「不」は「ズ」といふ打消の複語尾にあてたるをそのまま用ゐたるなり。ここに似たる例は卷十三「一一五一」に「大伴之三津之濱邊乎打曝因來浪之逝方不知毛《オホトモノミツノハマベヲウチサラシヨリクルナミノユクヘシラズモ》」とあり。浪のいつしかあとなくなることを「ゆくへしらず」といへるなり。
○一首の意 契沖は「人の世の生住異滅の四相の中に暫く住するよと思ふに、程なく異相に遷され行を、水の網代木にふれて暫やすらふと見ゆるが流過るに感じてよまれたり」といひてより諸家大抵これに從ひたるが、古義はこれを「作者の意にそむけり」といひて「歌意かくれたるところなし、此は打聽えたるまゝにて、他によそへたる意も何もなきを今打誦に其(ノ)處の景の目の前にうかびて見ゆるやうに思はるるは上手の作なればなるべし」といへり。註疏には「宇治川は急流にて流れくる波のいとはやきが網代(ノ)木に塞《セ》きとめられて、暫しやすらふとみえたれど、いつの間にか杭の間より流れいでて行へもしらずなれるかなとよめるなり。それを契沖は世中の无常をたとへたりといへれど、人麿の當時《ソノトキ》无常をたとへてよまれたるにはあらで、ただ、實景の歌なることは論なけれど、いさよふとみえし波の行へしらずなれるかなとおもはれたる意中にはおのづから常无き世のありさまこもれるよしに解けりとて強説にあらじ。古義に卷七に「大伴のみつの濱へをうちさらしよせくる波の逝方不知毛《ユクヘシラズモ》」を引てこれに同じといへれど、ユクヘシラズモの詞はおなじからめど、「あじろ木にいさよふ波の」といひて暫しただよひしさまを上にいひ、さてユクヘシラズモとよめる感情かぎりなきものにて、かれと同じといふべきにあらぬものなるをや」といへるはよく意をつくせり。
 
(130)長忌寸奧麿歌一首
 
○長忌寸奧麿 この人の歌卷一(五七)にあり。又卷二、卷九、卷十六に見ゆる長忌寸意吉麿も同じ人なるべきこと既にいへり。この人は卷二には岩代の結松を見てよめる歌あり。この歌も紀伊國にての詠なれば同じ時に詠ぜしにや。
 
265 苦毛《クルシクモ》、零來雨可《フリクルアメカ》。神之埼《ミワノサキ》、狹野乃渡爾《サヌノワタリニ》、家裳不有國《イヘモアラナクニ》。
 
○苦毛 「クルシクモ」なり。この語の例は卷九「一七二一」に「辛苦晩去日鴨吉野川清河原乎雖見不飽君《クルシクモクレユクヒカモヨシヌガハキヨキカハラヲミレドアカヌキミ》」又卷五「八九九」に「周弊母奈久苦志久阿禮婆《スベモナククルシクアレバ》」又卷十五「三七六三」に「須敝毛奈久久流思伎多婢毛許等爾麻左米也母《スベモナククルシキタビモコトニマサメヤモ》」等多し。心に困しく思ふことなり。
○零來雨可 「フリクルアメカ」とよむ。「零」を「フル」とよむことは卷一「二五」の「雨者零計類《アメハフリケル》」の下にいへり。「雨可」の「カ」は「カモ」の意におなじき感動の意を有する終助詞なり。以上一段落。
○神之埼 舊訓「ミワノサキ」とよみたるを童蒙抄に「カミノサキ」とよみ、槻落葉もこれに從へり。「神」を「ミワ」とよむことは、卷二の「一五七」に「神山之山邊眞蘇木綿《ミワヤマノヤマベマソユフ》」の下にいへるが、もとは、大和の大神神社より出でしものなるべきが、ここはその字を轉用せしなるべし。この「ミワ」をば大和國なりといふ説あれど、大和の三輪附近には「サノノワタリ」といふ地名なければ、從ひがたし。代匠記初稿本に曰はく「今案、是はふたつながら紀州の名所なり。ある僧の紀州に縁ありてたひ(131)たひまかりけるが、かたれるは、熊野にちかき海へにみわさきといふ所ありて、やかてとなりてさのといふ所あり。ともに家々あまたある所なりと申き。云々」といひてより紀伊國といふ事明かになりぬ。本居宣長の玉勝間にも「三輪が崎は新宮より那智へゆく道の海べなり。新宮より一里半ばかりありてけしきよき所なり。佐野は佐野村といふ有て三輪が崎のつづきなり」といへり。今東牟婁郡新宮町の南に三輪崎村ありて、その字に佐野といふあり。されば、奧麿この地に過ぎてよみしならむ。
○狹野乃渡爾 「サノノワタリニ」とよめり。按ずるに古くは一般に「野」を「ヌ」とよみたれば、「サヌノワタリニ」とよむべし。この「サヌ」は日本紀神武卷に天皇の熊野にいでましゝ時の記事に「遂越2狹野1到2熊野神邑1」とある狹野にして、上にいへる三輪崎の隣に在る地なり。「渡」は「ワタリ」とよむ。久老は、ワタリ」は「あたり」の意なりといひたれど、古義にいへる如く、この頃にそれは未だ無かりし詞と思はる。これは後世「ワタシ」といふにおなじく、川を横ぎり渡る所をいふ。この佐野の地の南に河あれば、そこの渡をいへるなるべし。
○家裳不有國 「イヘモアラナクニ」とよむ。「ナクニ」は上にもあり。卷八「一六三六」に「大口能眞神之原爾零雪者甚莫零家母不有國《オホクチノマカミノハラニフルユキハイタクナフリソイヘモアラナクニ》」とある、似たる詞遣なり。雨の降るに、雨やどりすべき家もなきよとなり。
○一首の意 今通る神の崎や狹野の渡に雨やどりすべき家も無きに、わびしくくるしくも降りくる雨かなといふなり。
 
(132)柿本朝臣人麿歌一首
 
○ この歌も近江にての詠なり。人麿この地に在りしこと著し。されど、そのこの地に在りし理由を詳かにせず。
 
266 淡海乃海《アフミノミ》、夕浪千鳥《ユフナミチドリ》、汝鳴者《ナガナケバ》、情毛思努爾《ココロモシヌニ》、古所念《イニシヘオモホユ》。
 
○淡侮乃海 舊訓「アフミノウミ」とよめるを考に「アフミノミ」とよめり。卷二「一三一」の「石見乃海」の例にならひて「アフミノミ」とよむべし。日本紀神功卷にも「阿布瀰能瀰《アフミノミ》」とあり。
○夕浪千鳥 「ユフナミチドリ」なり。攷證にこれを説きて「夕べの浪に立さわぐ千鳥をやがて一つの語として夕浪千鳥とはいへる也」といへり。「夕浪」といへる語は、卷六「一〇六五」に「夕浪爾玉藻者來依《ユフナミニタマモハキヨリ》」といふあり。千鳥は例少からぬが、少しくいはゞ古事記上卷の歌に「和何許々呂宇良須能登理叙《ワガココロウラスノトリゾ》、伊麻許曾婆知杼理爾阿良米《イマコソハチドリニアラメ》」又日本紀神代卷の歌に「播磨都智耐理譽《ハマツチドリヨ》」又本集この卷「三七一」に「飫海乃河原之乳鳥汝鳴者《オウノウミノカハラノチトリナガナケバ》云々」卷七「一二五一」に「佐保河爾鳴成智鳥《サホガハニナクナルナドリ》」などあり。攷證には「こは千鳥とて一つの鳥の名にはあらで小き鳥のいくつともなく群とぶをいへるにて春來なく、いろいろの鳥をさして百千鳥といへるが如し。」といへるは一往はさる事の如くきこゆれど、なほ川原、又海岸など水邊にのみよめれば、後世もいふ千鳥なるべし。さてこの夕浪と千鳥とを一にしてかくいへるは例を見ず。恐らくはこれは後世の「月夜鳥」などいふ類にて、「夕浪(ノ)千(133)鳥」をかく一語として呼び掛けたるものにして、人麿の興に乘じて新に造れる語なるべし。しかも、その感情新にして千年以前の語とは思はれざる程なり。
○汝鳴者 「ナガナカバ」とよむ。意明かなり。古事記上卷の歌に「那賀那加佐麻久《ナガナカサク》」本集卷十五「三七八五」に「保登等藝須安比太之麻思於家奈我奈家婆《ホトトギスアヒダシマシオケナガナケバ》云々」とあるその例なり。
○情毛思努爾 舊訓「コヽロモシノニ」とよめるを童蒙抄に「コヽロモシヌニ」とよめり。「努」は「ヌ」にして「ノ」にあらざれば、童蒙抄の訓によるべし。この語の例は卷八「一五五二」に「暮月《ユフヅクヨ》夜心毛思努爾《ココロモシヌニ》、白露乃置此庭爾蟋蟀鳴毛《シラツユノオクコノニハニコホロギナクモ》」卷十一「二七七九」に「打靡心裳四怒爾所念鴨《ウチナビクココロモシヌニオモホユルカモ》」卷十三「三二五五」に「借薦之心文小竹荷人不知本名曾戀流《カリゴモノココロモシヌニヒトシレズモトナゾコフル》」卷十七「三九七九」に「安良多麻乃登之可弊流麻泥安比見彌婆許己呂母之努爾於毛保由流香聞《アラタマノトシカヘルマデアヒミネバコココロモシヌニオモホユルカモ》」又「三九九三」に「宇知奈妣久詐己呂毛之努爾曾己乎之母宇良胡非之美等《ウチナビクココロモシヌニソコヲシモウラゴヒシミト》」又「四〇〇三」に「久毛爲奈須己許呂毛之努爾多都奇理能於毛比須具佐受《クモヰナスココロモシヌニタツキリノオモヒスグサズ》」卷十九「四一四六」に「情毛之奴爾鳴知等理賀毛《ココロモシヌニナクチドリカモ》」卷二十「四五〇〇」に「己許呂母之努爾伎美乎之曾於毛布《ココロモシヌニキミヲシゾオモフ》」など例多し。さてその「シヌ」とは如何なる意ぞといふに、卷十「二二五六」に「秋穗乎之努爾押靡置露《アキノホヲシヌニオシナペオクツユノ》」とある「シヌ」の義にてさとるべし。それは古義に「發《オコ》り起たる稻穗を裏《シタ》に押ふせ靡かせて露の甚く置たる形容を云たるなり。されば、思努《シヌ》は靡ふ意にて發起《オコリタツ》の對《ウラ》なり、心にいふも心の發起《オキタタ》ず、裏に思ふよしなり」といへる意なり。この語は又重ねて「シヌヌ」といふことあり。そは國語にては重ぬる語は、次の語の上なるを略すること少からず。たとへば「いといと」が「いとゞ」となり、「しとしと」が「しとど」となり、「はらはら」が「はらら」となり、「あらあら」が「あらら」となる如きこれなり。その他「た(134)わわ」「とをを」「しみみ」みなこの例なり。さてこの「心もしぬに」といふ語の組立を考ふるに、これは「道もせにちる山櫻かな」「野もせにすだく蟲の音」などの「道もせに」「野もせに」などと同じ格にして、「心」が主格にして「しぬ」がその賓格たり。かくてその「心」と「しぬ」とを「も」にて結合して一の句の如くにし、それを「に」の格助詞にて修飾格とせるものなり。かかる組立の語は本集にも屡見ゆ。たとへば、卷二「一三三」に「小竹之葉者三山毛清爾〔五字傍線〕亂友《ササノハハミヤマモサヤ○ミダレドモ》」卷八「一五九五」に「秋芽子乃枝毛十尾二〔五字傍線〕降露乃《アキハギノエダモトヲヲ○フルユキノ》卷十「二〇六五」に「足玉母手珠母由良〔八字傍線〕爾織旗乎《アシタマモテダマモユラ○オルハタヲ》」又「二三一八」に「庭毛薄太良〔五字傍線〕爾三雪落有《ニハモハダラ○ミユキフリタリ》」卷十四「三九九二」に「伊波毛等杼呂〔六字傍線〕爾於都流美豆《イハモトドロ○オツルミヅ》」卷十一「二五二九」に「家人者路毛四美三〔五字傍線〕荷雖來《イヘビトハミチモシミミ○キタレドモ》」卷十八「四一一一」に「國毛勢〔三字傍線〕爾於非多知左加延《クニモセ○オホタチサカエ》」の如きみなこの例なり。ここも、「心もシヌといふ状態に」といふ意にて下にかゝるなり。その「シヌ」は心の「シナエ」うらぶるる由をいへること上にいへる通りなり。
○古所念 「イニシヘオモホユ」とよむ。「所念」を「オモホユ」とよむことは卷一の「七」をはじめ、「六四」その他に多し。今いはず。
○一首の意 近江の海のなぎさに夕暮に千鳥の鳴くをききて、その千鳥に呼びかけていふさまにつくれるなるが、ここの夕浪千鳥よ、汝が、鳴けば、その聲をきく我はそぞろにあはれを催されて、古の事の思ひ出されてやる方なきよとなり。これ恐らくは卷一の近江舊都をすぎてよめると同じ精神にて、その古とは大津宮の盛なりし時の事なるべく、言約かなれど懷古の情、言外にあふれたり。よき歌といふべし。
 
(135)志貴皇子御歌一首
 
○志貴皇子 この皇子の御歌卷一に二首あり。この皇子は天智天皇の御子にして、後に御子光仁天皇御即位の後春日宮御宇天皇と申し奉りしこと既にいひし所なり。この御歌如何なる時によまれしか、詳かならず。
 
267 牟佐佐婢波《ムササビハ》、木未求跡《コヌレモトムト》、足日木乃《アシヒキノ》、山能佐都雄爾《ヤマノサツヲニ》、相爾來鴨《アヒニケルカモ》。
 
○牟佐佐婢波 「ムササビハ」なり。「ムササビ」は小き獣の名にして、俗に「モモンガ」「ノブスマ」などいふ。これは和名鈔獣名に「本草云〓鼠上音力水反又音力追反一云〓鼠上音吾和名毛美俗云无佐々比兼名苑注云、状如v※[獣偏+爰]而肉翼似2蝙蝠1能從v高而下、不v能2從v下而上1恒食2火煙1聲如2小兒1者也」又享和本新撰字鏡には「猶豫」に「牟佐々比」の訓を附す。萬葉集にては、ここの外、卷六に天平十一年に天皇遊2※[獣偏+葛]高圓野1之時小獣泄2走堵里之中1於是適値2勇士1、生而見v獲聊以2此獣1獻2上御在所1副歌一首【獣名俗曰牟佐射妣】といふ詞書ありて、その歌に曰はく「大夫之高圓山爾迫有者里爾下來流牟射佐妣曾此《マスラヲノタカマドヤマニセメタレバサトニオリクルムササビゾコレ》」(一〇二八)とありて、その左注に「右一首大作坂上郎女作之也云々」とあり。ここにいふ俗とは、本朝の風俗としての義なるべし。又卷七の寄獣歌「一三六七」に「三國山木末爾住歴武佐左比乃《ミクニヤマコヌレニスマフムササビノ》此〔□で囲む〕待鳥如吾俟將痩《トリヲマツゴトワレマチヤセム》」とも見ゆれば、古くは人目によく觸れしものなるべし。
○木末求跡 舊本「コズヱモトムト」とよみたるが、代匠記は木末を「コヌレ」とよむべきかといひ、考(136)には「末」は「未」の誤にして、「コノミ」ならむかといひ、槻落葉は、考の説を否として「コヌレ」とよめり。按ずるに「コヌレ」は「コノウレ」の約にして、この語の例は卷五「八二七」に「波流佐禮婆詐奴禮我久利弖宇具比須曾奈岐弖伊奴奈流烏梅我志豆延爾《ハルサレバコヌレガクリテウグヒスゾナキテイヌナルウメガシヅエニ》」又卷十三のはじめの歌「三二二一」に「樹奴禮我之多爾※[(貝+貝)/鳥]鳴母《コヌレガシタニウグヒスナクモ》」卷十七「三九五七」の歌に「安之比紀乃山能許奴禮爾白雲爾多知多奈妣久等安禮爾都氣都流《アシヒキノヤマノコヌレニシラクモニタチタナビクトアレニツゲツル》」といふ例あれば、この語ありしことは知られたり。この末《ウレ》は既に卷二「二二八」などにもいへる如く、こずゑとは全く同じものにあらず。植物の生長點を主としてそれらのあたりをいふ語なれば、木にてはその末の若く榮え立てる部分をいふことなり。さらばその「こぬれ」を求むとはいかなる事かといふに、こは上の卷七の歌に「木末爾住歴武左左妣《コヌニスマフムササビ》」といへる如く、むささびの住所を求むるなり。この「求む」はたづねさがす意なることは卷十「一八二六」に「春之去者妻乎求等※[(貝+貝)/鳥]之木末乎傳鳴乍本名《ハルサレバツマヲモトムトウグヒスノコヌレヲツタヒナキツツモトナ》」とあるなどにて知るべし。「と」はここにては後世の「とて」の意を示すものなり。
○足日木乃 「アシヒキノ」とよむ。「山」の枕詞とすること世のあまねく知る所なり。されど何故にこれを以て「山」の枕詞とするかの説明に至りては未だ首肯すべき説を知らず。この事は卷二「一六七」の下に既にいへり。
○山能佐都雄爾 「ヤマノサツヲニ」とよむ。「サツヲ」といふ語は本集他にも例ありて、卷十「二一四七」に「山邊爾射去薩雄者雖大有山爾文野爾文沙小牡鹿鳴母《ヤマノヘニイユクサツヲハオホカレドヤマニモヌニモサヲシカナクモ》」「二一四九」に「山邊庭薩雄乃禰良比恐跡小牡鹿鳴成妻之眼乎欲焉《ヤマヘニハサツヲノネラヒカシコシトサヲシカナクナルツマノメヲホリ》」などいへり。この「さつ」は「さつ弓」「さつ矢」などの「さつ」と同じ語にし(137)て、もと山幸海幸の「さち」なりしものと思はる。「さつ矢」の事は既に、卷一「六一」の「得物矢手挿《サツヤタバサミ》」の下に説けるが「さつ弓」の語は卷五「八〇四」に「佐都由美乎《サツユミヲ》」といふあり。いづれも、鳥獣を獵るをいへり。ここは所謂山幸の「さち」にしてその「さち」を得む爲に用ゐろ弓を「さつ弓」矢を「さつや」といへるならむ。さて「さつを」の「さつ」は上にいへる義、「を」も亦「男」の義にして結局今の獵師《カリウド》をさすことは明かなり。なほ、卷十「一八一六」に「佐豆人之弓月我高荷《サツヒトノユツキガタケニ》」とあるも同じく幸人にして獵師の義なり。
○相爾來鴨 「アヒニケルカモ」とよむ。「來」を「ケリ」「ケル」の變化にあてたる例は卷二に多くあり。今一々あげず。「云々にけるかも」といふいひ方の例は集中多し。例をあぐるまでもなし。
○一首の意 むささびが己れの住むべき木末を求むとて、あちらこちらありきて、思ひもよらずその最も恐るべき山のかり人に出であひたることよとなり。攷證に「何ぞをむささびにたとへまして、故ありげなる御歌なれど、端詞なければ、しりがたし」といひたり。略解には「此御歌は人の強ひたる物ほしみして身を亡すに譬たまへるにや。此皇子の御歌にはさる心なるも又見ゆ。大友大津の皇子たちの御事などを御まのあたり見たまひてしかおほすべきなり」といへり。然れども、この皇子の歌本集にあるものすべて六首なるが、この歌以外にかくの如き解を加へらるべきもの一も存せず。多少の寓意ありとするも、略解の説の如きは強ひごとといふべし。若し多少その疑ひありとしても攷證の程度以上にいふこと能はざるはいふまでもなし。余はむしろ、さる寓意などなく、「むささび」が人の目にふれたる不意の出來事をよませた(138)まへる實況の御歌と思ふなり。
 
長屋王故郷歌一首、
 
○長屋王 この王は卷一にその歌見ゆ。高市皇子の子にして天武天皇の御孫なり。宮内卿、式部卿、大納言、右大臣等を經て、左大臣に任ぜられ、天平元年四十六歳の時讒にあひて自盡せられたること既にいへり。但し懷風藻に年五十四とせり。
○故郷歌 「フルキサトノ歌」とよむべきか。こは故郷を思ひてよまれしことはいふをまたぬが、その故郷とはいづこよりいづこをさせるか。左注によれば藤原宮より明日香の故郷を思ひてよませたまへりとすべく、諸家これに從へり。然るに長屋王の生れられしは天武の十二年にして藤原宮遷都の時は十一歳にして、藤原宮より奈良宮に遷都ありし時は二十七歳なり。されば藤原宮遷都當時の詠にあらざるべきはその年齡よりして考ふべきが、相當の年齡に達したまひての後とせば、その遷都後六七年以上すぎての詠とすべきか如何。或は藤原宮より寧樂宮に移りまして後の歌とすべきか。これらは今より如何と定むべきよすがなしとす。
 
268 吾背子我《ワガセコガ》、古家乃里之《フルヘノサトノ》、明日香庭《アスカニハ》、乳鳥鳴成《チドリナクナリ》、島待不得而《シママチカネテ》。
 
○吾背子我 「ワガセコガ」とよむ。契沖はこれは長屋王の妻に對していはれしなりといひたれど、女に對して「セコ」といへる例はかつてなし。ある男子より他の男子をさして「ワガセコ」とい(139)へる例のあることは現にこの卷「二四七」の「和我世故我三船乃登麻里《ワガセコガミフネノトマリ》云々」の下にいへり。さてここに「わがせこ」とさしていはれたるは誰なるべきか。長屋王の親しくせられし人なることは勿論なるが、その人は槻落葉には「志貴皇子をさしたまふならん」といへり。これは「春日宮御宇天皇」の追號をば「明日香宮」の誤ならんと考へたるにて理由とすべき根柢も無きことなればしたがひがたし。この歌にてはその人の明日香に住ひたまひしことの想像せらるるのみなり。
○古家乃里之 これは、古くは「フルヘノサトノ」とよみたりしを仙覺が「イニシヘノサトノ」とよみてより人々多くこれに從ひたりしが、玉の小琴に「ふるへのと訓べし」といひて、再び古に復し、古義はこれにより、略解などは「ふるへのさとの」とよめり。又槻落葉は「フルヤノサトノ」とよみたり。先づ、「古家」を「イニシヘ」とよまむは全く不可なりとはいふべからざれど、穩當ならずと考へらる。されば、その義は文字の示す古き家の義とすべきに似たり。これにつきて攷證は、はじめ地名なるべしといふ説をあげて、さて結局にいへることに、「本集卷十二【十二丁】(十一、四十二丁の誤)に人事乎繁跡君乎鶉鳴人之古家爾相語而遣都《ヒトゴトヲシゲミトキミヲウヅラナクヒトノフルヘニカタラヒニヤリツ》云々(二七九九)ともあれば、古家は地名にはあらで、古き家をいふにもあるべし。さらばふるへと訓て、君が古き家のある飛鳥の里にはといふ意なるべし」といへり。げにも、この歌に「古家」とかけるはここと文面も意義も同じと見えたれば、さることなるべし。たゞそのよみ方は「フルヤ」か「フルヘ」「フルイヘ」のいづれをよしとすべきか。卷九「一七九八」の「古家丹妹等吾見黒玉之久漏牛方乎見佐府下《イニシヘニイモトワガミシヌバタマノクロウシカタヲミレバサブシモ》」の「古家」は古來「イニシヘ」と(140)よみ來たるが義をなさず。それもここと同じやうによむべきならむが、上の説々のうち、いづれをよしとすべきか。玉の小琴、槻落葉いづれも理由を示さず。新考には「五卷、十四卷に我家、妹家をワガヘ、イモガヘと假字書にせるを例として、フルヘとよむべし」といひ、古義は理由をあげねど、「和名抄に駿河國(ノ)郡駿河(ノ)郡古家、布留以倍とも見ゆ」と例をあげたり。さて考ふるに、以上の二説いづれも多少のより所とすべしといへども動かすべからざる證にはあらざるなり。ここに、又卷十六に境部王詠數種物歌に「虎爾乘《トラニノリ》、古屋乎越而《フルヤヲコエテ》、青淵爾鮫龍取將來劔刀毛我《アヲフチニミツチトリコムツルギタチモガ》」(三八三三)とよめるがあり。これは「虎、古屋、青淵、鮫龍、劔刀」等のものをよみこめたるものなるが、その古屋は古家とかけると同義なるべきが、屋字をかけるは「フルヤ」とよむべきことを示すものにしてこれは「フルヘ」とよむこと能はず。さりとて今の「古家」を必ず「フルヤ」とよむべしといふ證にはならず。ここに至りてはいづれも臆測に止まるといふべきに似たり。されば、今姑く最も古き訓によりて「フルヘノサト」とよみおくを穩なりとす。さてこの一句の意は如何といふに、これは上の句と相共に一の意をなすものなれば、二句を連ねて考ふるを要す。即ち「わがせこがふるへのさと」といふ語の示す意なり。これにつきては諸家多くは説なく、槻落葉は「古家乃里之」の句につきて單に「こは都うつりの後人住ずなりぬる古屋《フルヤ》の里なり」といひたるのみなるが、略解は「古家とは其親しきみこのもと住給し家どころをいふべし」といひ、檜の嬬手は「其皇子は既に藤原へうつり給ひし故にわが背子が古家の里とは宣ふ也」といひ、攷證は「君が古き家のある飛鳥の里にはといふ意なるべし。」といひ、古義には「遷都の後|吾兄《ワカセ》が住すて賜ひし飛鳥の(141)里の古家のほとりには云々」といひ註疏には「その住すて玉へる家の明日香はあるゆゑに「古家乃里之とよまれしなり」といへり。以上を通覽するに、大體「その人もと住みたまひて住まずなりぬる古家のある里」とすべきものと考へらる。然らば、ここにかくいへるは歌の上に如何なる關係あるか。なほ下に至りて説くべし。
○明日香庭 「アスカニハ」とよむ。「明日香」は地名にて通常飛鳥とかく。これをば古郷といへるは、飛鳥は天武天皇の淨御原の宮のありしところにして、持統天皇御即位の後もここにおはしまし、後に藤原に都をうつされし後の事なるべし。「庭」は「ニハ」といふ助詞に借用したるなり。
○乳鳥鳴成 「チドリナクナリ」とよむ「乳」は「チ」なり。「千鳥」は上の人麿の歌の「夕浪千鳥」の下にいへるが、「チドリ」は水邊にて鳴く鳥なれば、ここは飛鳥川にて鳴くことを主として考ふべし。「なくなり」は終止形の下に「なり」を加へて、その叙述を強調せるものにして例多く一々あぐべからず。
○島待不得而 舊訓「シママチカネテ」とよめり。然るに考は「島」は「君」の誤として「キミマチカネテ」としてより諸家殆すべてこれに從へるが、攷證は「師」の誤としてよみ方は考におなじくせり。今假りにこの誤字説によるとして、千鳥は何が故に君を待ちて鳴くにか、その理由は一も存せず。千鳥とその君との關係必然的ならずは、折角、字を改めても效なかるべし。さて、又如何なる本にも、この「島」といふ文字を明かに書きて、他の文字なるものは一もなし。されば、これらの誤字説はうけられざるなり。按ずるに諸家「シママチカネテ」といふことを解すべからずとしてこの誤字説を按出せるものなるべきが、吾人は漫りに古書を改作すべきにあらねば、この文(142)字のままにてよみ且つ解釋しうべき方法なきかを考へざるべからず。按ずるに、これは文字のままならば古來の訓以外のよみ方あるべくもあらず。然らば、これを如何に解釋すべきか。おもににここにては契沖の釋參考とすべき點あり。曰はく「島は河の洲なり。千鳥は河洲に遊ぶ物なるに、水などまさりて河洲の隱れたる時は居處なきままに其島の出來るを待かぬるなり。明日香川近き家のふるさとゝ成て人影もなければ、島待千鳥の所得がほに庭などに來て鳴なり」といへり。この説、直ちに賛成しうる所にあらずといへども、誤字説よりはよしといふべし。われおもふに、この島は自然の河洲にあらずして、人工の島なるべし。この人工の島のことは卷二の「一七〇」「一七一」「一七二」「一七九」の歌の「島宮」又「一七八」「一八〇」「一八一」の「御立爲之島」の下にて屡説ける所にして、既にもいへる如く蘇我馬子が、飛島河の傍に家をつくり、その庭中に小池を開き小島を池中に築きしより島の大臣と稱へられしにても知るべきなり。その意の島をここにいへるなり。即ち島とは今の語にては山水《センスイ》なり。人工に池を堀り水を流し或は湛へ、池には中島を築くを例とせれば、島といふ一語にてこれらの造園すべてをさせりといふべし。その島を待つとは千鳥が、その島の完成を待ちて、己が住みかとせんと待つなり。かく考ふれば、千鳥の爲には島といふ語の必然的に要求せられて「君」などいふ字の誤にあらずと知るべし。然らば、千鳥が島を持ちかぬるとは如何なるかといふに、これにはよき參考となる歌あり。卷一の人麿の近江舊堵の歌の反歌に「樂浪之思賀乃辛崎雖幸有大宮人之船麻知兼津《ササナミノシガノカラサキサキクアレドオホミヤビトノフネマチカネツ》」(三〇)といふ歌あり。この歌の思賀の辛崎が、大宮人の船をまつといふことはここの千鳥の島(143)を待つといふに頗る近し。而してその期待を實現し得ざるを「まちかねつ」といひ「まちかねて」といふは、ただ、終止形を用ゐたると、連用形を用ゐたるとの差のみにして、大意は異ならず。かれにありてはその大宮人の船を待てど、その目的を達し得ざる由をいへるなるが、これにありては千鳥がその島の修補の成るを待ちて、おのが、樂しく遊ぶ所とせむと待てど、その目的を達し得ずしてなくといふなり。かく解すれば、何の誤字もなく又解しかねることもあらざるべきなり。
○一首の意 君が、住みすてたまひし古家の里なる飛鳥の地には千鳥が頻りになくをきく。如何にして鳴くかと尋ぬれば、君がすてたまひし古家の島は今荒れはてたるが、千鳥は、その島をば、いづれ見事に修理せらるるならむと樂みにして待ちてあるなれど、何時までも荒れたるままにてあれば、待ちあぐみてなくなりといふ。まことに故き都のあれたるさまのよくあらはされたる歌なりといふべし。
 
右今案從2明日香1遷2藤原宮1之後作2此歌1歟。
 
○ この左注は原本の後に加へしものか、はた原本に既にありしものか。攷證は「提要にいへる如く左注は後人のかけるなれば、ひたすらに用ひがたし」といひたれど、この説直ちに從ひがたし。卷九などには左注が原本に既に存せしことを確實に徴すべき證左存す。されど、多くの左注の中には後人の注も全く混ぜずといひ難し。今の注は如何といふに、これも後人の注た(144)るべしとすべき點を見出でざれば、原撰者の注と見るを穩かなりとす。注の意は既にいへる所なれば今再びいはず。
 
阿部女郎屋部坂歌一首
 
○ 舊板本これを上の左注と書きつづけにせり。蓋し誤なるべし。
○阿部女郎 阿部氏はもと臣姓にして孝元天皇々子大彦命の子建沼河別の後なること古事記に見え、新撰姓氏録には、「阿部朝臣孝元天皇々子大彦命之後也」と記せり。この一族の人ならむと思はるれど、その父祖、又傳記知るべからず。卷四にはこの同じ名の人の歌一首(五一四)ありて、その次に「中臣朝臣東人贈2阿倍女郎1歌」(五一五)あり。その次に阿部女郎の答へたる歌(五一六)あり。中臣朝臣東人は和銅四年四月に正七位上よりして從五位下を授けられ、養老二年は式部少輔、同四年に右中辨、天平四年十月に兵部大輔に任ぜられし人なれば、藤原宮の時代に既に壯年に近づきてありしならむと思はるれば、それと贈答せし阿部女郎はこの歌の作者と同じ人なるべし。なほその前に安部女郎作歌と題せる歌二首(五〇五、五〇六)あり。これは安倍とかきて文字たがへど、本集卷二に安倍廣庭卿とかける人を續紀和銅二年十一月の條に阿部朝臣廣庭とかき、同四年四月の條には安倍朝臣廣庭とかき、などしたれば古は甚しく文字に拘泥せしにあらずと見ゆれば恐らくは同人なるべし。但し卷八に「大伴宿禰家持贈安倍女郎歌一首」(一六三一)とある安倍女郎は或は同名異人なるべし。何を以てしかいふとならば、その歌の中(145)に「今造久邇能京爾」とある久邇の都は天平十二年に作りはじめられしものにして、寧樂遷都後三十年を經、上の安倍女郎生存したりとて、五十歳許若くはその以上の老年なりしなるべく、家持は當時内舍人にして若年なりしなるべければなり。されど、これも證なきことなれば、同人ならむも知られず。
○屋部坂歌 屋部坂は「ヤベサカ」とよみ來れり。契沖は「屋部坂は大和に有べし。三代實録第三十七云高市郡夜部村云々此處歟」といへり。諸家多くこの説をよしとせしが、守部は「屋祁歌」と改めて「ヤケサカノ」とよみて、曰はく「本の部は祁を誤れるならん。紀伊人云(フ)本國牟婁(ノ)郡に今八鬼山と云ふあり。硫黄の氣ありと見えて、昔よりをり/\燒けぬ。その燒けたる間《ホド》は草木絶えて赤裸山となりぬ。熊野路なれば、是ならんと云へり。さらば、其山を見て戯れたる也。」といへり。この説は槻落葉の説をとりて少しくかへたるなり。若しこの説によらば「ヤキサカ」といふべきものにして、「ヤケサカ」といふをゆるすとせば、その地を「ヤケサカ」といひたる事を證せざるべからず。然れどもさることはもとより證明しうべからず。加之、如何なる本もここに誤字なければ誤字説もうけられず。按ずるにこれは歌に「ヤケツツ」とあるより考へつきたることなるべしといへども、從ふべからず。古のまゝによむべし。又大日本地名辭書には多村の字にある矢部ならんといひたれど、こゝには地勢上特に坂と名づくべき地ありとも見えず。この三代實録にある夜部村といふは、如何なる處かといふに、その地名今存するか否か、を知らず。三代實録を案ずるに元慶四年十月廿日の條に「大和國十市郡百濟川邊田一町七段百(146)六十歩、高市郡夜部村田十町七段二百五十歩返2入大安寺1。先v是彼寺三綱申牒※[人偏+稱の旁]、昔日聖徳太子創建2平群郡熊凝道場1、飛鳥岡本天皇遷2建十市郡百濟川邊1施2入封三百戸1號曰2百濟大寺1、子部大神在2寺側1含v怨屡燒2堂塔1、天武天皇遷2立高市郡夜部村1號曰2高市大官寺1施2入封七百戸1和銅元年遷2都平城1聖武天皇降v詔預2律師道慈1令v遷2平城1號2大安寺1云々」とあり。されば、大安寺の大官大寺といふ名にてありし時存在せし地なり。その大官大寺の趾といふは、その寺平城京に遷されて後伽藍の造營なく、「古寺」と字して大安寺の所領として傳はりしものなることは大安寺流記資財帳にても明かなり。今大官大寺の趾と傳ふる所は高市郡飛鳥村字小山の東にありて、今尚講堂、金堂、阿彌陀堂「ダフノヰ」「大安寺」「大門」等の字を存せりといふ。その礎石明治時代まで存せしが、橿原神宮造營の際持ち去られきといふ。その地一面の芝生となり古瓦の散布するを見るといふ。されば、小山の邊が古の夜部村の地なりしならむ。この地にて坂といはるべき地はその小山の西より北に亘りて丘陵の上か、若くは小山の南にある丘陵の上かなるべし。さてこの坂は恐らくは日本後紀卷十三、大同元年三月桓武天皇崩御の條の記事に天皇龍潜の時行はれたる童謠なりとてあげたる「於保美野邇多太仁武賀倍流野倍能佐賀伊太久那布美蘇都知仁波阿利登毛《オホミヤニタダニムカヘルヤベノサカイタクナフミソツチニハアリトモ》」といふ歌謠のうちの「野倍能佐賀」と同じ地なるべし。この童謠を釋する人「ヤベ」は「山部」にして桓武天皇の御諱をさせりとし、山部は天皇の御諱なれば後に憚りて脱したるなるべしといひ、靈異記にこの歌をのせたるには「山陪之坂」とかけり。されど、これは靈異記の傳ふる所によれば、阿部天皇(元明)の御世の童謠にして、擧國歌咏せしなり。天武の御血統の隆盛(147)時代たるこの時に於いて、天智天皇の御末なる桓武天皇御即位の事など誰人も豫想すべきものにあらず。況んや、桓武天皇の御降誕は聖武天皇の天平九年にしてその頃には御降誕もなきものなるをや。されば、これは御即位の後何人か古の童謠を思ひ出して附會せるものなるべし。かくて靈異記の山陪とかけるはかへりてその附會の跡の歴然たるを示せるものといふべし。さてこの歌は靈異記の如く元明天皇の御世の詠なりとせば、藤原宮のありし頃の詠とすべし。即ち「ヤベノ坂」より藤原の大宮が直ちに見ゆる由なるを詠せるものとすべし。地勢を按ずるに、この小山の西北の丘陵より西北方に向へば、目を遮るものなく直ちに藤原宮を望みうべき筈なればなり。而して、藤原宮及び大官大寺は、平城遷都の翌、和銅四年に燒亡せし由扶桑略記に見えたり。さてこの坂かの童謠の「ヤベノサカ」と同じとせば、ここも「ヤベノサカ」とよむべきかといふに必ずしも然らず。かれは歌の調の爲にヤベノサカとよみたるにてもあるべければなり。さればなほ「ヤベサカ」とよみてよかるべし。この歌は「ヤベサカ」をよめるか、若くは「ヤベサカ」にてよめるかと考ふるにそのサカをよめるものと聞えねば、其の坂に於いてよめるものと思はる。然らば何の縁由ありてよめるか、それもこの詞書には全く見るところなし。なほ歌の下にていふことあるべし。
 
269 人不見者《ヒトミズバ》、我袖用手《ワガソデモチテ》、將隱乎《カクサムヲ》、所燒乍可將有《モエツツカアラム》、不服而來來《キズテキニケリ》。
 
○人不見者 古寫本多くは「ヒトミスハ」とよみたるを仙覺が「シノヒニハ」とよみてより諸本專ら(148)これによれり。考はこの訓をかなはずとして「シヌビナバ」とよみたるが、古義、檜嬬手、これに從へり。考は又「一説に「人爾有者」の誤かと云り」とも注せり。又槻落葉には「ヒトミズバ」とよみ、略解、攷證等これに從へり。さて仙覺がこれをかく訓せるは如何なる理由によるか。仙覺は傍訓ありといひたれど、その例を示さず。契沖は仙覺の訓に從へるが、その説に曰はく「發句の讀やうは義訓なり。第十二にもあり。」といへり。契沖はその例をあげねど、蓋し、卷十二の「人所見表結人不見裏紐開戀日太」(二八五一)の「人不見」を舊訓に「シノヒニハ」とよみたるをさせるならむ。されど、これは、諸家の大體一致する如く「ヒトミレバウヘヲムスビテヒトミネバシタヒモ|ヒラ《(トキ)》キ、コフルヒゾオホキ」とよむべきものにして、これを以て「シノヒニハ」とよむべき證とするには足らず。又「人不見」を「シノヒ」とよまむも無理なり。新考には考の一説によりたれど、これは證もなきことなり。この句はその文字のままにては「ヒトミネバ」ともよまるべきなれど、しかする時は、次の「將隱乎」といへるに打ち合はねば「ヒトミズバ」とよまむより外に途なし。
○我袖用手將隱乎 「ワガソデモチテカクサムヲ」とよむ。意は明かなり。袖をもちて物を覆ひかくすことは古も今もあることにして特に語の例をあぐるに及はざるべし。下の「ヲ」は「モノヲ」の意なり。さて、その袖もてかくさむとするものは何ぞといふに、ここの歌の詞の上にてはあらはれてあらず。されど、契沖又由豆流などは胸の火をつつむ由に説きなせり。恐らくはさる事ならむ。然るに、考に屋部坂を赤裸山なりとしてそれを袖にておほひかくさむ意のやうに説きしより略解、古義などさる由に説きなせり。されど、然るときは下の「所燒」を如何に説(149)くべきか。又この説を主張せむには末句の「來來」をそのまゝにさしおきては條理立たぬ故に「坐來」の誤なりといふべきに至れるなり。さる無理をせざらむとせば、胸のおもひの火をつゝまむとする由にとる外あるまじ。
○所燒乍可將有 舊訓「ヤケツツカアラム」とよみたるが、童蒙抄に「コガレツヽカアラン」とよみ、槻落葉に「モエツツカアラム」とよみたり。「所燒」は文字のままにては「ヤカレ」なれば、それの古語「ヤカエ」をつづめて「ヤケ」とよむこと、「消エ」を「ケ」といふと同じ理なれば、舊訓道理なきにあらず。次に「所燒」を「コガレ」とよむは道理不十分なれば從ひがたし。「所燒」を「モユ」とよむことをうることは、卷一の五の歌「念曾所燒」の下にていへるが、又「ヤケツツ」ともよみうること上の如し。さらばここを「ヤケツツ」とよむべきか、「モエツツ」とよむべきかは、歌の意味と傍例とによりて決せざるべからず。ここの「所燒」の主になるものが、前に説ける如く、胸のおもひなりとせば、そのおもひを當時「ヤク」といひしか「モユ」といひしかを考ふるを要す。卷十二「三〇三四」に「吾妹兒爾戀爲便名鴈胸乎熱且戸開者所見霧可聞《ワギモコニコヒスベナカリムネヲヤキアサトアクレバミユルキリカモ》」又卷十三「三二七一」に「我情燒毛吾有《ワガココロヤクモワレナリ》」などあるは「ヤク」といふ例なれど、これらは胸又は惰をやくといへるなれば、これを袖もてかくすとならば、胸又は情をかくすといふことになるべきなり。又「モユル」の例を見るに、卷五「八九七」の歌に「見乍阿禮婆心波母延農《ミツツアレココロハモエヌ》」卷十七「三九六二」に「孤布流爾思情波母要奴《コフルニシココロハモエヌ》」又「四〇一一」の歌に「心爾波火佐倍毛要都追《ココロニハヒサヘモエツツ》」などありて「火」にかけていへるなり。然るときはかくすは主として視覺上の語にして見えぬやうにすることなれば「火」にかけて「もゆ」といへるかたをよしとすべし。「ヤク」は熱の方を主とし、(150)「モユ」は光の方を主とする語なればなり。
○不服而來來 舊訓「キズテキニケリ」とよみたり。童蒙抄は「キテヰザリケリ」又「キモセセザケリ」とよみたるが、考は「坐來」の誤として「ヲリケリ」とよみ、略解これに從ひ、槻落葉には「魚彦が本に座の誤かといへり。來と座とを誤れる事集中に例あり。」といひて「キズテマシケリ」とよみたるより、古義、これに從へり。又守部は「有來」と改めて「アリケリ」とよめり。されど、古來の本一も、誤字なく魚彦の本なるも誰人かの案たるべく思はれて從ひ難し。文字のままにては「キニケリ」とよまむ外なし。さて「キズテ」は打消の「ズ」より「テ」につづくるものなるが、この頃にこの用例多し。一二をあげむ。卷五「八八一」に「阿良多麻能吉倍由久等志乃可伎利斯良受提《アラタマノキヘユクトシノカギリシラズテ》」「八七九」に「麻乎志多麻波禰美加度佐良受弖《マヲシタマハネミカドサラズテ》」などなり。「來來」を「キニケリ」とよむことは「來」を字義によりて用ゐ、「來」を複語尾「ケリ」にあてたるものなるが、「來」を「ケリ」にあてたる例は卷二「二一六」の「外向來」卷四「七五三」に「戀益來」など多くして、一々あぐるに堪へず。かゝる場合に複語尾「ニ」の如きを別に書き加へぬ例も亦頗る多し。「キズテキニケリ」は「衣服をきずして來てしまつた」といふやうなる意義なるが、文字のままならば裸にて來たりといふ事となるべきが、實はさる意にはあらずして、その袖もてかくすに足るべき程の衣服をきずして來たりといふことならむ。
○一首の意 この歌契沖は「意得がたき歌なり」といひつつも釋して曰はく「推量するに屋部坂歌とあれども、旅に出とて屋部坂にてよめるなるべし。此坂を越て彼方に下らば故郷さへ見えじと思て顧る時さらぬだに墓なき女の心に此所を限とながめやれば、思ひに戀に胸もやくる(151)ばかり戀ければ、さすがにそれも、人目を恥らひて、衣だにあまたもてこましかば、厚く取著て、胸の火をもつゝみ、隱て行へきに、衣もあまたは着てこねば、燒ともやけながら得隱さてや行むと、別のやるかたなさをよめるにや」といへり。これはそのよみ方の上よりしての異議は唱へうべきなれど、大體に於いて當を得たりといふべきなり。然るに、考に上の如くよみて「こは草木なくて赤はだか山なるを見て、衣はやかれてかあらん、著ずしてをりけり。そをしのびかくさんとおもはば、我袖をだにおほひなんものを、はぢかくさまともなきと戯よみしならん」と釋せしより後大かたの學者の考、この説の如きものに傾けるさまなり。攷證はそれらを否なりとして曰はく「一首の意は心に物をふかく思ひて、やる方なきを思ひにもゆといふより、火も見え、けぶりも立るものゝ如く、いひなして、見る人のなかりせば、わが袖を以てもゆる思ひのけぶりをかくしてんものを。今は、人もしりたれば、もゆるままにてかあらん。しかもその袖もてかくすべき服をさへ多くきずしてきにければ、いかにともせんかたなしと也。この歌はさるべきよしありて、ものへゆくとて屋部坂を越しに故郷に思ふ事ありてそれを思ふ思ひにむねもこがるるなり」といへり。この説も亦完全にいひ果せたりや斷言は出來ぬ事なれど、略かくの如きことなるべし。
 
高市連黒人※[羈の馬が奇]旅歌八首
 
○高市連黒人 この人の名は卷一「三二」の「高市古人感2傷近江舊堵1歌」の下に注して既に出で、その(152)人の父祖明からぬことを既にいへり。又同じ卷「五八」に大寶二年太上天皇幸2于參河國1時の歌ありて名を掲げたり。又同卷に太上天皇幸2于吉野宮1時高市連黒人作歌一首あり。又この八首の外に本卷に歌四首あり。又卷九に一首、卷十七に一首あり。いづれも旅の歌とおぼしきもののみなり。この人の事明かならぬこと既に述べたる所なれど、これらの歌を通して、その生活、又性格の一端にふれうべき心地す。
 
270 客爲而《タビニシテ》、物戀敷爾《モノコホシキニ》、山下《ヤマシタノ》、赤乃曾保船《アケノソホフネ》、奥榜所見《オキニコグミユ》。
 
○客爲而 舊訓「タビニシテ」とよみたるを槻落葉に「タヒニヰテ」とよみて、その別記には「シテ」「ヰテ」のいづれとも定めかねたる由に委しく論ぜり。按ずるに「爲」は呉音「ヰ」にして、本集にも「ヰ」と必ずよむべく用ゐたる例少からぬことは槻落葉にあげたるにて著しきが、又その訓の「シ」をとりて假名に用ゐ、必ず「シ」とよむべく用ゐたるものの例も亦多ければ、この點よりはいづれとも定めがたきなり。されば、この字のよみ方以外にこれを決定すべき點ありやといふに、久老は「ヰテ」は「アリテ」と同義なれば、「ヰテ」とよむべしといへり。この論も亦不可ならず。今先づ「タビニアリテ」といへる例を見るに卷十二「三一三六」に「客在而戀者辛苦《タビニアリテコフレバクルシ》」又「三一五八」に「客爾有而物乎曾念《タビニアリテモノヲゾオモフ》」といふ例あり。されど、「タビニヰテ」と必ずよむべき假名書その他の例は一も見ざるなり。而して、「タビニシテ」と必ずよむべきものは如何といふに、卷一「六七」の「旅爾之而」「七五」の「旅爾師手」卷十五「三七八一」の「多婢爾之弖」又「三七八三」の「多婢爾之弖」の如く多きなり。されば、「タビニシテ」(153)といふ語は當時專ら行はれて、「タビニヰテ」といふ語は用ゐられざりしものと判ずべし。然らば、「タビニアリテ」と「タビニシテ」との關係如何といふに、「シテ」は一般に「アリテ」の代用をなすこと既に屡いひたる所なれば、「タビニアリテ」といふ意にして、音調のために、「タビニシテ」といへるものなるべし。客を「タビ」とよむことは、卷一「五」の下にいへる如く、玉篇に注して、「賓也客旅」とあるによりて「タビヒト」と「タビ」との二の義あるを知るなり。これによりて古來の訓をよしとすべし。
○物戀敷爾 舊訓「モノコヒシキニ」とよめるを古義に「モノコホシキ」とよみてその理由は明かに示さず。蓋しこれは「コヒシ」といふは古語にあらずとして改めしならむ。今この語の假名書の例を見るに、日本紀卷二十六の歌には「姑〓之枳」とあり、又本集卷五には「古保之枳」(八三四)「故保之斯苦阿利家武」(八七五)とあれば「コホシク」とよまむに惡しからずといふべし。然るに本集には卷十五に「胡悲之伎」(三六四一)とあるをはじめとして「コヒシ」とよむべき假名書の例二十に近く存し、なほ又卷十四の東歌に「故布思可流奈母《コフシカルナモ》」(三四七六)卷二十の防人の歌に「古布志氣毛波母《コフシケモハモ》」(四四一九)とあるなどに照すに「コホシ」「コヒシ」「コフシ」はもと一語の音轉にして、そのうち「コフシ」は訛れるもの、「コホシ」は古語にして本集卷五の頃までは「コホシ」にして「コヒシ」なく、卷十五以下は專ら「コヒシ」と變ぜしものと見ゆ。さればこの卷にてはなほ「コホシ」の方によらむをよしとすべし。
○山下 舊訓「ヤマモトノ」とよめり。玉の小琴は「ヤマシタノ」とよみてより諸家多くこれに從へ(154)り。「ヤマモトノ」とよむ事は仙覺の抄に「山もとはところの名也、筑後の國にあるにや。但是はあけといはんための諷詞に山下のとをけるにや。夜のあくるには山のはよりしらみはしめてあけわたるによそへて山下のあけのそほふねとよそへよめる也。」といへるにて先は地名と見、又枕詞とも見たるなり。契沖は「今按、下の七首のつゝきを見るに、東海道の内尾張より次第に都の方へ歸る歌なれば、尾張守の屬官などにて任はてゝ上る時よめる歟。此歌も筑後の山本郡にはあるべからず。只常の山本なるべし」といひ、童蒙抄には「地名なり。近江國より東の方の地名なるべし。所は不分明也」といひたり。本居の説は「こは赤の枕詞也。さる故は古事記に、春山乃霞をとこ、秋山のしたひ壯子と見え十卷四十に秋山の舌日が下とも有て、冠辭考にしたひは紅葉の由いはれしが如し。然ば、山下ひ赤と續く意也。猶又十五卷【廿七丁】にあし引の山下ひかるもみぢばのとよめるも同じ。又十八卷【十一丁】にたちばなのしたてる庭に、六卷【四十四丁】に巖には山下ひかり、錦成花咲をゝり、是等も下は借字にて赤きこと也。此二首を見れば、只紅葉のみに限らず、赤く照ること也。爰の歌も字の如く、山のもとゝしては此言船に由なし、奥に榜とさへあれば、山の下にては愈由なし。十九卷【四十五丁】にあし引の山した日影是は蘿ひかげなれば赤きことに依ずげに聞えたり」とへり。槻落葉、古義等これによれるが、略解は訓は舊によりて、本居説を注にて示せり。按ずるにこの本居の説は、論理徹底せざるなり。先づ本居の示せる例を見るに、
  秋山のしたひ〔五字右○〕壯子  (古事記)
(155)  秋山のしたひ〔五字右○〕が下  (卷十)
  山下ひかる〔五字右○〕もみぢば (卷十五)
  橘の下てる〔三字右○〕庭    (卷十八)
  山下ひかり〔五字右○〕     (卷六)
の如く、いづれも「山下ひかり〔五字右○〕」「秋山のしたひ〔三字右○〕」「下てる〔三字右○〕」とあるものにして、單に「シタとのみいひてそれにて赤き意に用ゐたるにはあらず。而してこれらはその下の「ひかる」「てる」「したび」といふ語によりてはじめて、花紅葉の色に關係を生じたるにて、「シタ」一語にてかゝる意をなせるものにあらず。又かの卷十九の「足日木乃夜麻之多日影可豆良家流字倍爾也左良爾梅乎之奴波牟《アシヒキノヤマシタヒカゲカヅラケルウヘニヤサラニウメヲシヌバム》」(四七二八)は「山下」の意なるがこれには更に「赤き」意なし。なほ「山下」といへる語の他の例を見るに、
  山下露爾沾來鴨   (卷七、一二四一)
  足日木乃山下|響《トヨミ》鳴鹿之(卷八、一六一一)
  神名火之山下|動《トヨミ》去《ユク》水丹(卷十、二一六二)
  惡氷木之山下動逝水之(卷十一、二七〇四)
  神山之山下響逝水之 (卷十二、三〇一四)
  安之比奇能山下響墮多藝知流辟田乃河瀬爾(卷十九、四一五六)
の諸例あるが、一も色などに關係を有せず。されば本居説は根據なきものにして從ふべから(156)ず。されば、前にあげしすべての例みな「山下」の文字のままに山の下といふに止まりて本居の説の如くに説くべからず、ここももとより文字のまま「山の下」をさせること著し。但し「山下」といふ文字を「ヤマモト」とよまむか「ヤマシタ」とよまむか、その意は一なりとしても、よみ方は二樣に考へうべし。按ずるに、古事記上卷に「宇迦能山之山本」といふ語あれば「ヤマモト」といふ語も古きことゝ知られたり。然るに本集には假名にて「ヤマシタ」と書ける例は一ありて「ヤマモト」とせる假名書の例なし。而して「山下」とかけるものは、此の歌の外に八例あるが、ここの外はいづれも古來「ヤマシタ」とよみて異論なし。さればここもそれらに倣ひて「ヤマシタ」とよむべし。而して意は上に説ける如くなれば、ここは作者黒人がある山を通れる時、その山の下に海ありて、その渚より奥に向ひて船を榜ぎ出せるを見てよめるものと解すべきなり。
○赤乃曾保船 「アケノソホフネ」とよみて異議なし。「赤」を「アケ」といふは古語に「赤色」を「アケ」といへるによる。類聚名義抄を見るに、「※[糸+是]」「緋」「絳」「茜」等の訓にいづれも「アケ」とあり。靈異記中卷の第廿五語の訓注に「緋アケ」とあり。「アケノソホフネ」といふ語はなほ卷十三「三三〇〇」に「忍照難波波乃埼爾引登赤曾朋舟曾朋舟爾綱取繋引豆良比《オシテルナニハノサキニヒキノボルアケノソホフネソホフネツナトリカケヒコヅラヒ》」とあり。なほただ「ソホフネ」とのみいへる例あり。卷十「二〇八九」に「具穂船乃」とある「具」は略解に「其」の誤なるべしといへり。それによらば、これも「ソホフネ」とよむべきなり。「ソホ」とは、卷十四「三五六〇」に「麻可禰布久爾布能麻曾保乃伊呂爾低※[氏/一]《マカネフクニフノマソホノイロニデテ》云々」とある「マソホ」の「ソホ」にして「ソホ」とは赭土なり。その「ソホ」のよきをば「マソホ」といへるならむ。卷十六「三八四一」に「佛造眞朱不足者《ホトケツクルマソホタラズハ》」又「三八四三」に「何所曾眞朱穿岳疊薦平羣乃(157)阿曾我鼻上乎穿禮《イヅクソマソホホルヲカタタミゴモヘグリノアソガハナノヘヲホレ》」とある「眞朱」も「マソホ」にして後の歌は平羣朝臣の鼻の赤きを嗤ひしなり。ここに眞朱とかけども、眞正の朱にはあらずして、酸化鐵などの赭土なるべし。これにて船を塗れるを「ソホフネ」といひ、その色赤きが故に「アケノソホフネ」といひしならむ。その色は卷八「一五二〇」に「佐丹塗之小船毛賀茂《サニヌリノヲブネモガモ》」卷十六「三八六八」に「奧去哉赤羅小船爾《オキコクヤカラヲブネニ》云々」卷九「一七八〇」に「狹丹塗乃小船儲《サニヌリノヲブネヲマケテ》」などあるにて知るべし。さてかく赤色に塗れる船につきては槻落葉別記に説あり。曰はく「營繕令に、凡官私(ノ)船毎年異顯2色目、勝受斛斗、破除見在任不1、附2朝集使1申(セ)v省。義解云謂(ハ)椙樟之類是(ヲ)爲v色也。舶艇之類是(ヲ)爲v目也云々とあるを集解に或人古記を引て公船者以v朱漆v之といへり。是は義解の説にもとりて却《カヘリ》て色目の解を誤れるものなるべけれど、官私の船|彩色《イロトリ》によりて分別ある事、且官船は朱漆《アケヌり》なる事この古記にて知られたり。則卷十六に奧去哉赤羅小船爾裹遣者若人見而解披見鴨《オキユクヤアカラヲフネニツトヤラハワカキヒトミテトキアケミムカモ》とある赤羅《アカラ》小船は公船なるよしはその左注に見えたり。又同卷に奧國領君之《オキノクニシラスルキミガ》、染屋形《ソメヤカタ》、黄染乃屋形《キソメノヤカタ》、神乃門渡《カミノトワタル》とあるは配流の人などは黄染乃船に乘《ノレ》るにや。この哥|怕物歌《オソロシキモノ》と題せるは、隱岐《オキ》の國にはふりやらるゝ人の黄染の船に乘て、かしこき神《カミ》の海門《ウナト》を渡り行をおそろしむ意によめるなるべし。是等の歌にて船に彩色《イロトリ》の品ありて、公私の分別ある事いよ/\明らか也」といへり。かくて後諸家またこれに從ひ何等の考をめぐらさざるなり。然るに、令集解を見るに、「公船者以v朱漆v之」といふべき文はもとより、似たる文をも見ず。然れば、これは令集解の文にはあらずして何人かの私案に止まるものといふべし。これを以て官船が朱漆にてぬりしものなりいふは全然根據なきことなり。加之かの黄染屋形を(158)船の屋形としても、それは屋形にして船體を黄に染めたりといふ證にはあらず。かくの如きことを證として赤色黄色の色によりて公私をわけたりといふが如きは全然臆説たるに止まり、何等の從ふべき理由なし。されば、それらの理由はここに用あるべきにあらず。されど、この歌又上に引ける多くの歌によりて船體を赤土にて塗りたることは考ふべく、又その入念のものには赤土ならずして朱にて塗れるも或は在りしならむ。さてしか船體を赤土にて塗るは何の爲かといふに、これは古今東西いづこにも行はるることなり。抑も木造の船は水中にありてはその材朽ち易きが故に、これをすくはむが爲に赤土を塗ることは現今のわが漁船みな然るなり。樫谷政鶴著の初等水産學に曰はく、
  漁船ヲ保存スルニハ本邦ニテハ其底ニ赤土ヲ塗リテ之ヲ燒キ、西洋ニテハ全然「ぺんき」又ハ「こるたー」ヲ塗ル。而シテ本邦漁船ハ鐵釘ヲ用ユルカ故ニ其釘頭ニ「せめんと」ヲ塗リテ水ノ爲メニ腐蝕セサラシムルコト頗フル必要ナリ
といへり。又森林太郎小池正直兩氏著の衛生新篇に曰はく
  船中ノ木材ハ濕潤シテ朽チ易シ。此弊ヲ拯フニハ裏面ニ Cement ヲ塗ルヘシ
とあり。これは西洋の説を主としていへるものなれど、その木材の腐朽を防ぐ手段は東西揆を一にすといふべし。然るに、わが古代には「セメント」も「コルター」も知られざりしかば、赤土を用ゐて船の木材に塗りしなるべく、その赤土を塗ることは本來装飾にはあらずして船材保護の唯一の方法なりしならむ。かくて、その吃水の部分は或は後世の如く、赤土の塗りたる上を(159)燒きて黒色にしたるなるべきが、その他の部分は赤土にて塗りしままなりしもの多かりしならむ。かくの如きものをば、「アケノソホブネ」といはむはまことによくかなへりといふべし。かくてその入念のものには或は朱塗にて塗りしものもありしならむが、如何に官船なりとはいへ、實用品に朱塗のものありしとは考へられず。この歌の「赤の曾保」はただの美言にはあらずして、事實をそのままに告げたる語なりと考へらる。しかも、かく赤く曾保をぬるは永く保たむ爲めのものなれば、これは當時に於いて大なる船なりしならむ。
○奥榜所見 舊訓「オキニコグミユ」とよみたるを攷證は「本集六【廿九丁】に小船爾而奧部榜所見《ヲフネニテオキヘコグミユ》云々とあれば、ここもおきべこぐ見ゆとよむべし」といへり。然れど、「奥」一字を「オキベ」とよむことは無理にして集中に例なし。「奥」の如き場所をあらはせる語とその場所に關する動詞をあらはせる語とをかける文字の間にあるべき「ニ」といふ助詞を略してかかぬ例は卷一の「山際伊隱萬代《ヤマノマニイカクルマデ》(一七)「東野炎立所見而《ヒムガシノヌニカキロヒノタツミエテ》」(四八)以下に多し。されば舊訓をよしとす。「榜」は「こぐ」にして「所見」を「ミユ」とよむことは卷一「四四」「四八」「七八」以下多し。ここの意は奥にその船のこぎ行くが見ゆるをいへるなり。
○一首の意 旅といふものは何につけても故郷の事の思ひ出でられて戀しく思はるるものなるに、今この山を通るとて見れば、この見下す下の海(又は川)に赤色のそほ船の沖にこぎ行くが見ゆとなり。この船をば見ゆとのみいひて多くをいはねど、その下にはかの船に乘れるは都にかへる人にやあらむと、それにつけても故郷の戀しく思ひ出でらるるを下にいへるなり。
 
(160)271 櫻田部《サクラダヘ》、鶴鳴渡《タヅナキワタル》。年魚市方《アユチガタ》、鹽干二家良進《シホヒニケラシ》。鶴鳴渡《タヅナキワタル》。
 
○櫻田部 「サクラダヘ」とよむ。「サクラタ」は契沖曰はく「紀國と云説あれど、年魚方尾張なればつれて尾張なるべし」といひ、考に「尾張國年魚市郡作良の郷の田なり。何ぞなれば、卷八に年魚市方鹽干にけらし、知多乃浦爾(卷七、一一六三)とよみ、和名抄に同國|愛《アユ》市郡に厚田、作良、成海の郷あり。且其年魚市と知多はつゞきたる海邊なれば此さくら田の所も明らけし。さいばらに「さくら人その船ちゞめ島つ田を千町つくれるみてかへりこん」とあるも地のさまなど同じ所なる事しるし」といへり。かくて以後大方これらの説によれり。この説如何にも然らむと思はる。即ちこれは尾張國愛智郡作良の郷の田をさせりと見ゆ。そのさくら郷は今の何處か十分に明かならねど、今の熱田と鳴海町との間の笠寺の東に櫻といふ字の殘りてあれば、大體今の笠寺の邊なるべしといふ説あり。恐らくは然らむ。「部」は方向をさす格助詞「へ」に借り用ゐたるにて「べ」とよむべからず。今の語にていへば、作良といふ土地の田の方へといふことにして、鶴がその田の方へ鳴きつつうつりゆくをいへるなり。
○鶴鳴渡 「タヅナキワタル」とよむ。「タヅ」の事は卷一、「七一」に「多津鳴倍思哉《タヅナクベシヤ》」といふ語の下にいへる如く、和名抄に※[零+鳥]に多豆の訓ありて、その※[零+鳥]は「鶴別名也」とあり。蓋し鶴類一群の總名たりしものならむ。從ひて鶴も「たづ」とよみてよき事なるべしと思ふ。しかも「鶴」は普通に「ツル」とよめばここも「ツル」とよみては如何といふ問題なほ存する筈なり。これによりて本集中の例を(161)みるに、「鶴」といふ文字を用ゐたるは二樣によまるべければ、これはさしおき、假名書の例を見るに「ツル」と假名書にせるものは一も發見せずして、すべて「多津」(卷一、既説)「多頭」(卷三、「三二四」等)「多豆」(卷七「一一六〇」)「多都」(卷十五、「三六二六」)とかきたれば、ここも「たづ」とよむをよしとすべし。されど、當時「鶴」を「ツル」とよまざるにあらず。それは卷二「一七八」に「流涙止曾金鶴《ナガルヽナミダトメゾカネツル》」卷四「五八一」に「夢爾所見鶴《イメニミエツル》」など、「鶴」を「ツル」の假名に借用したること少からぬによりて考へらるる所なり。されど、又「鶴寸《タヅキ》」(卷一、五)とかける例もあれば、ここにも「タヅ」とよむことを證せりといふべし。結局本集にては鶴の字は「タヅ」とよむを木體とすべきものの如し。その鶴が、下にいへる年魚市潟より作良の郷の田の方へ鳴きつゝ移りゆくなり。以上一段落なり。
○年魚市方 「アユチカタ」とよむ。「年魚」は「アユ」なり。和名砂に「本草云※[魚+夷]魚上音夷蘇敬注云一名鮎魚【上奴兼反阿由漢語抄云銀口魚又云細鱗魚】崔禹食經云貌似v鱒而小有2白皮1無v鱗、春生、夏長、秋衰、冬死、改名2年魚1也」とあるにて年魚即ち「アユ」なることを見るべし。本集卷六「九六〇」卷十二「三三三〇」等に「年魚」の字を「アユ」にあて用ゐたり。その「アユ」を假名に用ゐたるなり。「市」は「イチ」の上略にて「チ」の假名に用ゐたり。その例は卷十「一九七三」に「相市花波」とかきて「アフチノハナハ」とよませたるを見るべし。かくて「年魚市」三字を「アユチ」といふ地名に充て用ゐしなり。この地は尾張國愛知郡の地にしてこの地名は和名鈔に「阿伊智」と書きたれど、それは後世の訛にして、古くは「アユチ」なりしなり。日本紀卷一、一書に草薙劍の事を記して「此今在2尾張國吾湯市村1即熱田祝部所v掌之神也」と見え、卷七にはこの劍の事を記して、「初日本武尊所v佩草薙横刀、是今在2尾張國年魚市郡熱田社1(162)也」と見ゆ。又卷十三「三二六〇」に「小治田之年魚道之水乎《ヲハリダノアユチノミヅヲ》」とあるもここなり。「方」は「カタ」といふ語にあてたるまでにして干潟の義なり。上に引ける卷七「一一六三」に「年魚市方鹽干家良思《アユチガタシホヒニケラシ》、知多乃浦爾朝榜舟毛奧爾依所見《チタノウラニアサコグフネモオキニヨルミユ》」とあるも同じ所をよめるなり。ここは今熱田神宮の西南の地にある熱田新田と呼ぶ地の邊、古海中なりし、その邊の地ならむといふ。
○鹽干二家良進 「シホヒニケラシ」とよむ「鹽」は「潮」なり。「干」は義を以てかき、「二」以下の四字は字音を借りて假名にせり。そのうち「進」は「シン」の頭音をとりて「シ」の假名に用ゐたり。潮の乾てしまひたるらしと推量せるなるが、「ラシ」は、その現に見知るものよりして、未だ見知らざる事を推量するに用ゐるものなれば、ここは櫻の田の方へ鶴のなき渡るを見て、年魚市方の潮の干にけむと推量するなり。以上二段落なり。
○鶴鳴渡 上の第一段の末句をここにくりかへしたるなり。
○一首の意 見れば作良の田の方へ鶴の鳴きつつ移るなり。かくあるは蓋し、鶴の今まで居たるあゆち潟は潮干になりて、魚を求食るに便なくなりしが爲ならむとなり。蓋しこれは作者が作良の地より以外にありて、そこよりながめてよみしならむ。この歌三段落として、第二段落の末に第一段落の語をくりかへしたるは、調のうへよりはもとより、その意よりいへば、かくて第一段をここに思想的にくり入るるによりて意渾然として一となる效あり。この歌、意かくれたる所なくして、一たび誦すればその風景見る如く、しかも、感興深きものあり。これ即ち風調の高く、その姿の佳なるが爲なり。
 
(163)272 四極山《シハツヤマ》、打越見者《ウチコエミレバ》、笠縫之《カサヌヒノ》、島榜隱《シマコギカクル》、棚無小舟《タナナシヲブネ》。
 
○四極山 「シハツヤマ」とよむ。「極」は「ハツ」といふ動詞にあてたるなり。この地名につきて契沖は「四極山を八雲には豐前と載せたまひ、近比の類字名所抄には豐後|大分《オホイタ》【於保伊多】郡に載す(中略)今按、此歌前後を引合て案ずるに東海道の内參河尾張より此方をよめる中に、此歌のみ西海道をよむこと不審なり。和名集云、參河國|幡豆《ハツノ》郡磯泊之波止是今の四極と同じき歟。然らば、笠縫島も知べし。孝徳紀に河邊(ノ)臣|磯泊《シハツ》と云人あり。又住吉にも磯齒津あり。第六卷に見ゆべし」といひ萬葉考には「四極山は卷十五(卷六、九九九)に難波へ幸の時|從千沼田《チヌタヨリ》(回の誤)雨曾零來、四八津之泉郎|網手綱乾有沾《アタツナホセリヌレテ》將堪香聞とよめり。千沼は和泉國也(紀にも集にも多出)四極は攝津國なり。紀(雄略)呉(ノ)機織等之住吉(ノ)津(ニ)着(テ)在(ル)ときに此月爲2呉客(ノ)道1通2磯齒津路1名2呉坂1とあれば、此國の西成郡に在山なる事知るし」といひ、それにつきて玉勝間卷六に「さてしはつ山笠ぬひのしまは或人のいはくともに津(ノ)國也、しはつ山は今(ノ)世住吉より東の方|喜連《キレ》といふところへゆく道の間に岡山のひきゝ坂あり。是也。雄略紀に、十四年正月呉(ノ)國人の參れるところに、云々|泊《ハツ》2於|住吉津《スミノエノツニ》1是(ノ)月爲(テ)2呉(ノ)客(ノ)道(ト)1通2磯齒津《シハツ》路1名(ク)2呉坂《クレサカト》1とあり。今いふ喜連《キレ》は久禮《クレ》を訛れる也。此ところ住吉(ノ)郡の東のはて、河内の堺にて古へは河内國澁河(ノ)郡につきて伎人《クレビトノ》郷といひし所なり。今も此道西は住吉の東の門より、東は河内の柏原までとほりて、古へに呉(ノ)國(ノ)人のとほりし道也とかたり傳へたり。難波の古の圖を見るに、住吉(ノ)社の南の方に、細江とて沼江ありて、そこにしはつと記(164)したり。萬葉六の卷に從千沼廻雨曾零來《チヌワヨリアメゾフリクル》、四八津之泉郎網手綱乾有沾將堪香聞《シハツノアマアタツナホセリヌレアヘムカモ》。右一首(ハ)遊2覽住吉(ノ)濱(ニ)1還v宮(ニ)之時(ニ)道(ノ)上(ニシテ)守部(ノ)王應v詔(ニ)作(ル)歌とあるにかなへり」といへり。又檜嬬手には「或人云(フ)和名抄參河國幡豆(ノ)郡に磯泊【之波止】とある地の山なり。小山なれども、其山越えて見れば、南東の海上に今さく島かたはら島など云ふ小島あり。是昔のかさぬひ島也。景色すぐれて宜しと云へり。思ふに、攝津にも四八《シハ》津ありて六卷に歌あれど、其地には山もなく今こゝの次を考ふるに、參河尾張美濃近江山城を經て都へ歸られける歌なれば、攝津國などにては地理かなはず、參河にさる地あらばそれなるべし」といへり。かくて學者或は參河とし、(槻落葉、攷證等)或は攝津として、(略解、古義等)一定せず。今按ずるに參河なる「磯伯」は「之波止」とあれは「伯」は「泊」の誤にして「止」は「ツ」の訛なるべければ、この點に於いて多少の根據なしとすべからず。然れど、その邊の「さく島、かたはら島」が古の「かさぬひ島」なりといふは何の根據もなきことと思はるれば、遽かに從ひがたし。攝津の方は「シハツ」は明かに日本紀と本集とにその地あれば、地名としては根據有力なり。ただ「山」といふべき程の高地はなしと思へども、丘陵なきにあらねば山といはむに妨なし。笠縫島といふは攝津にありといふ明證なけれど、笠縫氏の攝津にありしことは確かなれば、全く根據なしといふべからず。次には、地理の順序よりしてここを三河なりといへる説は如何といふに、守部は「參河、尾根、美濃、近江、山城を經て都へ歸られける歌なれば」といひたれど、この事は必然的に然りとは思はれず、この八首の順序はさる道路の順に列ねたりとは思はれず。第一の歌は地名なければさておき、第二の歌は尾張の國にての歌、次にこの歌を參河とせ(165)ば、尾張より三河へと東に向へるなるが、それより、第四、第五、第六は近江の琵琶湖及びその附近の歌、第七は再び三河にして、第八は山城なれば、いづれにしても順路のよき樣に配列したりとは考ふべき餘地なし。さればこれを根據として參河なりとはいふを得ざること明かなり。されば、この「シハツ」は笠縫の島といふものの所在と連關してはじめて安定すべきものなるべし。この故になほ下の句に至りていふべし。
○打越見者 「ウチコエミレバ」とよむ。シハツ山の峠を打ち越えてその坂路より彼方を見わたせばなり。さればこれは次の笠縫島がそこより一望に見ゆる地勢にてよみしものならむ。若しこれを攝津にてよみしものとせば、雄略紀に「此月爲2呉客道1通2磯齒津路1名2呉坂1」とあるその呉坂にてよみしものといふべく、そこは新採百首解に「此しはつ坂路を越て海をよむべくば、笠縫てふ島もその海にあるならん」といへる如き地勢なりしなるべく、笠縫島もそれによりて略察するをうべし。
○笠縫之島榜隱 「カサヌヒノシマコギカクル」とよむ。「カサヌヒ」といふ地名は、大和にも攝津にもその他美濃などにも見ゆ。こは元來菅を縫ひて菅笠をつくるよりの名なるが、その笠縫を職とする者の住むを以て地名となりしならむ。さて「カサヌヒノシマ」は上にもいへる如くなるが、玉勝間には重ねて曰はく「さて笠縫(ノ)島は今東生(ノ)郡の深江村といふところ是なるべし。此所菅田多く有て、其菅他所より勝《スグ》れたり。里人むかしより笠をぬふことを業《ワザ》として名高く、童謠にもうたへり。今も里(ノ)長《ヲサ》幸田《カウダ》喜右衛門といふ者の家より御即位のをりは内裏へ菅を獻る。(166)又讃岐の殿へも圓座の料の菅をまゐらすとぞ。延喜内匠寮式に伊勢齋王(ノ)野宮(ノ)装束の中に御輿中子(ノ)管(ノ)葢一具菅并骨(ノ)料(ノ)材(ハ)從2攝津國1笠縫氏參(リ)來(テ)作(ル)とあり。笠縫氏は此所の人にぞありけむ。さて此深江村は大阪(ノ)城より東にあたりて河内の堺に近し。此地いにしへは島たりしよし、里人いひ傳へたり。」といへり。これも明かに笠縫(ノ)島なりといふ事の證にはならねど、大體はさる事ならむと思はる。この故に今は一先づこの説によることとしたり。しかすれば、その呉坂といひし邊は明かならねど、大體住吉の附近の丘陵なりとせば、その深江は東北にあたり、その前面一帶の低地が次第に低くて、はては昔の入江たりしものとせば、見渡しにこの深江の高地は一小島として見えしならむ。こぎゆく舟のこの島かげにかくれて見えずなりたるをば、「シマコギカクル」とはよみしならむ。
○棚無小舟 「タナナシヲブネ」なり。この舟の事は卷一「五八」にいへり。
○一首の意 明かなり。即ち四極山の峠を打ち越えて、その坂路より見れば、見渡の笠縫の島の邊をこぎゆく棚無小舟のありたるが、それがいつしか、榜ぎ進みつつ笠縫の島のかげにかくれて見えずなり行けりとなり。
 
273 礒前《イソノサキ》、榜手回行者《コギタミユケバ》、近江海《アフミノミ》、八十之湊爾《ヤソノミナトニ》、鵠佐波二鳴《タヅサハニナク》。未詳
 
○礒前 舊訓「イソサキヲ」とよみたるを考に「イソノサキ」とよめり。この二のよみ方いづれも不可にあらず。されど、聲調の上より考の説に從ふ。「イソノサキ」といへる例は、古事記上卷の例(167)に「宇知微流斯麻能佐岐邪岐《ウチミルシマノサキザキ》、加岐微流伊蘇能佐岐淤知受《カキミルイソノサキオチズ》」といふあり。集中には「イソノサキザキといへる例あり。卷六「一〇二一」に「付賜將島之埼前依賜將磯乃埼前《ツキタマハムシマノサキザキヨリタマハムイソノサキザキ》云々」又卷十九「四二四五」に「佐之與良牟磯乃埼《サシヨラムイソノ》々」とある、これなり。「いそ」はいふまでもなく水邊に臨める地にて多少石などある所をさすなるが、その「さき」とは出はりたる所をいふ。山の崎(卷十四、「三三九四」)岡のさき(卷二十「四四〇八」)島のさきなど上の外に(卷十三「三二三九」)など、集中に例おほし。ここは琵琶湖の畔の或る磯の崎をさせりと見ゆ。略解には「近江國坂田郡に磯崎《イソサキ》村といふ、今もありて湊也」といへり。されど、ここは特別の地名にはあらざるべし。又延喜式神名帳に因幡國八上郡に「伊蘇乃佐只神社」あり。これも同じやうなる地勢によれる名なるべし。而して、之を下の八十の湊に照して考ふれば、一の「さき」に止まらず、多くのさきの意なるべし。
○榜手回行者 舊訓「コギタミユケバ」とよめるが、玉葉集にこれを載せたるには「いそざきをこぎてめぐれば、あふみぢや、やその湊にたづさはになく」とよみ、拾穗抄もまた「こぎてめぐれば」を本文とたてたり。又古く袖中抄には「こぎまひゆけば」とよめり。契沖も「回の字はたむとよみたれど、上に手あれば、玉葉集の訓然るべきか」といへり。かく多樣の訓あるは「手回」の二字を如何によむかといふことに基づくものなり。まづ「手」を「タ」とよむことは説明するまでもなきが「回」を「ミ」にあてたる事は卷一「四五」に「島回」を「シマミ」とよむことにつきて述べたる如くなるが、その如く「回」を「ミ」とよむとせば、「タミ」の二音に「手回」の二字をあてしものと考へらる。或は又「回」一字にて「タミ」とよまるるものなるが、なほ念の爲にその頭音の「タ」を加へ示さむ爲に「タ回」とかける(168)ことたとへば、「アラソフ」を「荒爭」(卷九「一八〇六」卷十「二一〇二」「二一一六」)「荒競」(卷九「一八〇四」)の如きかきざまにてもあらむ。いづれにして「タミ」とよまんは無理ならず。さて「こぎたみゆく」といふ語の例は卷一「五八」に「榜多味行之棚無小舟《コギタミユキシタナナシヲブネ》」あり。又「こぎたむ」といへる例は卷六「九四二」に「許伎多武流浦乃盡《コギタムルウラノコトゴト》」といふ假名書の例あり。「タム」といふ語は既にいへる如く、類聚名義抄に、「迂」字に「タミタリ」の訓あり、「迂廻」の二字に「タミメクレル」「タミサカレル」の訓ある如く、曲り入り廻ることをいへるなり。されば、ここは磯の崎を舟にのりて榜き廻り行けばといふなり。
○近江海 舊訓「アフミノウミ」とよみ、考には「アフミノミ」とよめり。これらはいづれも不可なるにあらずといへども「二六六」の「淡海乃海」の下にいへる如く「アフミノミ」とよむをよしとす。
○八十之湊爾 「ヤソノミナトニ」とよむ。契沖は「八十の湊は唯湊の多かるなり。第七に近江の海みなとはやそちとも、亦十三に近江の海泊やそありともよめり。ひとつの名所とするは非なり」といひ、童蒙抄も略同じ意にとれり。略解には「やそはすべて數多きをいふことにて、此湖湊の多きをいへり。又近江國坂田郡に磯前《イソサキ》村といふ今もありて、湊也。彦根に近し。八十の湊は今|八坂《ハツサカ》村といふ所也と云り。いかさまに此歌の八十の湊は一所の名ときこゆるよし宣長いへり」といひ、上田秋成は楢の杣に「近江の海|泊《トマリ》八十ありともよめば、八十の湊は一所の名にあらぬやう也。されど此歌にては一浦のけしき也」といひ、守部も略同じ意にて「南北二三十里もある湖中の湊毎に鳴く鵠を一度に聞きあつむべきにあらず、必ず一つの地名也」といひて、略解にいへる八坂村を指示せり。按ずるに「八十の湊」といふ語につきていへば、數多の湊をさせ(169)るものといふべきなるが、又一方より見れば、宣長、秋成、守部の言へる如く、ある一所をさせるに似たり。かくてかの八坂村をそれにあつる考へも自然生じたりしならむ。然れども八《ハツ》坂村が「八十《ヤソ》」といふ地名の訛とは考へられず、又その地が古、八十の湊といひし地なりといふ證もなく、その地は上に略解がいへる磯村よりは遙に隔たれる所なればそれなりとは諾ひがたし。假に八十の湊が一の地名なりとすとも八坂村なりといふ事は賛すべくもあらず。されば、ここはなほ古來の如く、多くの湊といふ意義に解する外あるまじ。されど、實景としてはある湊に鵠のなくをきゝたるにて、その八十の湊のすべてになくを一時にきゝしにあらざるべし。即ち八十の湊ありといはるるうちわが眼界に入る二三の地の風景を以て他の全體を想像する心地ありてよみしならむ。
○鵠佐波二鳴 古來「タヅサハニナク」とよめり。童蒙抄には「鵠」は「鶴」を誤れるかといひ、槻落葉は「鵠」を誤として古本によるといひて「鶴」に改めたり。されど、さる古本今存するを知らねば漫に從ひがたし。神田本には「鶴」とかけり。「鵠」の字は和名鈔に「鵠」に注して「漢語抄云、古布日本紀私記云久々比大鳥也」とありて、普通「ツル」にあつる字にあらず。さてこれを「タヅ」とよまむは如何といふに、古事記垂仁天皇の段に「高往鵠之音」とあるを本居は「タカユクタヅガネ」とよみ、さて説明して曰はく「遠飛鳥(ノ)宮(ノ)段、輕(ノ)太子の和歌に多豆賀泥能とあり。なほ萬葉にもあり、上代には鶴《ツル》をも鵠《クグヒ》をも鸛《オホトリ》をも共に總て多豆と云るなり。久具比意富登理など分れたる名あるはやゝ後のことなるべし」といひ、なほ注して「鵠と鶴とは別なれども、漢國にても鶴の事を鵠と云る例も(170)多く、又字音も其鳥も似たるから、混れつることもあり。五雜爼と云書には鵠即是鶴とも云り。」といへり。鵠を鶴に通用することは訓義辨證によりて證せられたれば、委しくは往きて見るべきが、その要點をいへば、老子莊子等に用ゐたる鵠字には釋文に鶴鵠通用の事を注し、又文選の西京賦、北山移文等にも通用せる證あり。又玄應の一切經音義卷二、慧琳の音義卷十四にも可洪の隨函録卷二十にも同樣の例あり。又類聚名義抄には鵠の訓に「コフ、マト、ツル、クヾヒ」の語を注せり。「サハ」は物の多きをいふこと、卷一「三六」の「國者思毛澤二雖有《クニハシモサハニアレドモ》」の下にいへり。この句と同じきは本卷「三八九」に「日本戀久鶴左波爾鳴《ヤマトコホシクタヅサハニナク》」又卷十七「四〇一八」に「都麻欲比可波之多豆佐波爾奈久《ツマヨビカハシタヅサハニナク》」あり。
○未詳 この二字ここに注するは板本の訛なりといふ説あれど、古寫本の多くにも存す。但し、それらには小字にせり。よりてここも小字にすべきなり。この字は衍なれば削るべしといふ説あれど、その意十分に明かならぬにみだりに削るは穩かならず。さてこの「未詳」とせる對象は何なるべきかは知るべからず。童蒙抄には「鵠の字義不v詳といふ義歟、又黒人の歌といふ事未決との義歟、若しくは衍文歟。いづれにまれ本集の文にはあらず、後人の加筆也」といへり。大體かゝる事なるべきが、或は「八十の湊」が地名か否か詳ならずといへるかの疑もあり。
○一首の意 近江の海の磯の崎崎をば舟をこぎめぐらしてゆけば、さきに見し彼處の湊にも今見るここの湊にも鶴の多くむれ居て鳴くことよとなり。風景眼前に見ゆる如し。
 
(171)274 吾船者《ワガフネハ》、枚〔左○〕乃湖乃《ヒラノミナトニ》、榜將泊《コギハテム》。奧部莫避《オキヘナサカリ》。左夜深爾來《サヨフケニケリ》。
 
○吾船者 「ワガフネハ」とよむ。意明かなり。
○枚乃湖爾 古來「ヒラノミナトニ」とよめるが、流布本は「牧」字をかけり。然れども、「牧」字は「マキ」にして「ヒラ」とよむべき文字にあらず。類聚古集、神田本、西本願寺本、大矢本には「枚」とかけり。契沖も亦「枚」の誤かといへり。その説に曰はく「牧は枚に改べし。枚は箇也と注して數なれば、何にても一つ二つと云をば一枚二枚とこそ云なるを此國には紙板などのひらき物を一枚など云習へり。古より然るにや。日本紀にも此字をひらとよみ、延喜式に河内の平岡をも枚岡とかけり」といへり。まことにこの言の如く枚岡の地名は和名砂に「比良乎加」と注せり。なほいはば、河内の枚方といふ地名にも「枚」をヒラとよみ、類聚名義抄にも「枚」に「ヒラ」の訓あり。次に「湖」を「ミナト」にあつることは本集「三五二」に「葦邊波鶴之哭鳴而湖風寒吹良武津乎能埼羽毛《アシベニハタヅガネナキテミナトカゼサムクフクラムツヲノサキハモ》」又卷七「一一六九」に「近江之海湖者八十《アフミノウミミナトハヤソチ》」なども見ゆるが、その理由は上の「二三三」の「一云潮見」とある下にいへるが如く、この字の本義は説文に「湖大陂也」とありて本は「ミツウミ」にあらずして大なる「ツツミ」なれば、その水を包める堤あるところより「ミナト」の義に用ゐしにてもあらむ。なほ考ふべきこと上にいへるが如し。さてこの「ヒラ」といふ地は琵琶湖の西岸にて卷一「七」の歌の左注にも既にいでたる所なるが、ヒラの湖とある所は何處をさせるか。日本紀第二十六卷齊明天皇五年三月の條に「天皇幸2近江之平浦1【平此云2※[田+比]羅1】」とあるも恐らくは同じ地なるべし。近江輿地志(172)略には「比良村南比良北比良の二村あり。比良山の東のふもとなり。比良浦比良湊などいふも此地の事也」といへり。この地滋賀郡の北部なれば、げにここなるべし。余も昔この地を經過せしが、この邊一帶に景勝の地たり。さて古は、行幸さへありし地なれば名高き所なりしことは明かなり。
○榜將泊 舊訓「コギハテム」とよむ。古寫本中には「コキトメム」とよめるもあれど、「泊」を「ハツ」とよむことは「泊瀬」を「ハツセ」とよむにてもしるべく、その「ハツ」といふ語は既にいへる如く(卷二「一二二」の「大船之泊流登麻里能《オホフネノハツルトマリノ》」又卷十七「三八九二」の「伊蘇其登爾海夫乃釣船波底爾家利我船波底牟伊蘇乃之良奈久《イソゴトニアマノツリブネハテニケリワガフネハテムイソノシラナク》」)船の行きて止まるをいふなり。ここにて一段落にして、比良の湊にてわが船を止めむといふなり。
○奥部莫避 舊訓「オキヘナユキソ」とよみたるが、古寫本中神田本は「オキヘナサキソ」とよみたり。契沖は「莫避はなさかりともさかるなともよむべし。さかるなといふことを第五になさかりといへり」といひてより諸家大抵これに從ひて「なさかり」とよめるが、童蒙抄は「なさけそ」とよみたり。「避」字は「ユク」とはよまるべきものにあらねば舊訓は從ひがたし。次に「サキ」とよみたるは「避」を「サク」とよむより按出したるものなるべけれど、「サク」は元來下二段活用なればかゝる際には「サケソ」といふべきものにして「サキソ」とはいはるべからず。されば神田本の訓もとりがたし。童蒙抄の「ナサケソ」は文字の上よりいへば、不條理にあらず。されど、舟を沖へさくるといふことは如何なれば、代匠記の訓をよしとす。これは、「避」の字の訓に自らへだたる意の「さか(173)る」といふ語をあてしものならむ。「サカル」といふ語は類聚名義抄には「避」「〓」「〓」「〓」「遠」「迂」「遐」などの訓に用ゐたればその意を見るべし。卷五「九〇四」に「父母毛表者奈佐我利《チチハハモウヘハナサカリ》云々」とあるものその例なり。「オキ」と「サカル」といふ語の關係ある事は古事記上に「奥疎神」といふ神ありて、そこの注に「訓奥云淤伎」といひ、「疎云奢加留」といへり。すべてこのさかるといふ語は、一定の目標をさかるか、若くは、それより他の方へさかるかの二樣ある云ひざまをなす語にして、卷五「七九四」の「爾保鳥能布多利那良妣爲加多良比斯許許呂曾牟企弖伊弊社可利伊麻須《ニホドリノフタリナラビヰカタラヒシココロソムキテイヘサカリイマス》」などは「家をさかり行くなるが、ここは「奥へさかりゆく」なり。さて「莫避」の字は契沖のいへる如く「さかるな」ともよまれざるにあらねど、なほ「莫」を先にして「なさかり」とよむべし。これは後世專「ナソの格」といはるるものの古き語遣にして、「ナソの格」にては上に「ナ」あれば、下は必ず「ソ」あるべきものなるが、古くは下の「ソ」を添へずしても用ゐられしなり。その例は上の卷五「九〇四」の例をはじめ、卷十七「三九九七」に「安禮奈之等奈和備和我勢故《アレナシトナワビワガセコ》」あり、又古事記上卷の歌に「阿夜爾那古悲岐許志《アヤニナコヒキコシ》」といふあり。さてかかる際にはその用言は連用形を用ゐるものなり。これを以てここも「オキヘナサカリ」とよむべし。奥の方へ離れて行くなといふなり。以上第二段とす。
○左夜深去來 「サヨフケニケリ」とよむ。よみ方に異論なし。「深」の「フケ」は夜の「フクル」をいへるなるが「夜」に深といふ字を用ゐるは支那より傳來の用法にして「深更」「夜深」などいふ熟字にて知るべし。杜甫の大雲寺賛公房詩に「夜深毀突兀、風動金琅※[王+當]」又陛彦章月夜話に「明月偏憐汝、幽人獨夜深」など、その例なり。「去」は複語尾の「ヌ」に借用したるものにしてその例卷一「三四」の「年乃經(174)去良武」以下多し。「來」も複語尾「ケリ」にあてしものにして上にもいへり。「さ夜」の「さ」は深き意なし。卷七「一二二九」に「吾舟者明石之潮爾榜泊牟《ワガフネハアカシノウラニコギハテム》、奥方莫放狹夜深去來《オキヘンサカリサヨフケニケリ》」といふあり。又卷十「二〇一八」に「夜深去來《ヨハフケニケリ》」などあり。
○一首の意 この歌三段落なり。第一段はわが舟をば、比良の湊にこぎつけて、そこに今夜は泊らむといふなり。第二段は他の人々の船はこぎ出づることありとも、わが船は奥の方へ榜ぎさかり行くことをすることなかれとなり。第三段は、今夜はもはやふけたれば、この比良の湊に泊らむとなり。蓋し、比良の湊に泊りて、夜も明けばそこの氣色を心ゆくばかり賞せむの下心ありてよめるか。
 
275 何處《イヅクニカ》、吾將宿《アレハヤドラム》、高島乃《タカシマノ》、勝野原爾《カチヌノハラニ》、此日暮去者《コノヒクレナバ》。
 
○何處 舊訓「イヅコニカ」とよめるが、槻落葉は「イヅクニ」とよみ、古義これをよしとせり。又略解は「イヅクニカ」とよみ諸家多くこれによれり。「何處」を「イヅコ」とよむことは不可ならねど、この頃の語としては假名書なるはすべて、「イヅク」なれば、「イヅコ」といふは後世の訛ならむ。古事記中應神の御製「伊豆久能迦邇《イヅクノカニ》」又「伊豆久邇伊多流《イヅクニイタル》」又本集にては卷五「八〇二」に「伊豆久欲利枳多利斯物能曾《イヅクヨリキタリシモノゾ》」「八〇四」に「伊豆久由可斯和何時多利斯《イヅクユカシワガキタリシ》」など「いづく」の例なり。されば卷一以來「イヅク」とよみ來れり。さてこれを單に「イヅクニ」とよまむか、「イヅクニカ」とよまむかといふに、「何處」の二字は本釆「イヅク」とよまるるのみの文字にして、その他は全體の歌の意より加へてよまるべ(175)きものなるが、然りとせば、ここは「イヅクニカ」と五音によむをよしとす。卷一「五八」に「何所爾可船泊爲良武《イヅクニカフナハテスラム》」(黒人の歌)卷七「一一六九」に「近江之海湖者八十何爾加公之舟泊草結兼《アフミノミミナトハヤソヂイヅクニカキミガフネハテクサムスビケム》」「一一七二」に「何處可舟乘爲家牟《イヅクニカフナノリシケム》、高島之香取乃浦從己藝出來船《タカシマノカトリノウラユコギデコシフネ》」卷十「二〇八二」「天漢河門八十有何爾可君之三船乎吾待將居《アマノガハカハトヤソアリイヅクニカキミガミフネヲワガマチヲラム》」卷十三「三三四二」に「何所鹿君之將座跡《イヅクニカキミガマサムト》」の如く、「イヅク」といふ疑問の語には「カ」といふ係助詞の附屬すること普通の現象なれば略解のよみ方をよしとすべし。
○吾將宿 舊訓「ワガヤドリセム」とよみたるが、古今六帖には「われはやどらむ」とせり。古義は「アハヤドラナム」とあり。されど、かゝる、「ナム」は主として他に誂ふるに用ゐる語なれば、ここにはかなはず。文字のまますなほによまば、「ワレハヤドラム」とよまるべし。「ヤドル」といふ語は卷一「七」の「屋杼禮里之《ヤドレリシ》」又卷十五「三六九三」に「毛美知葉能知里奈牟山爾夜杼里奴流《モミチバノチリナムヤドニヤドリヌル》」などにて當時用ゐしことは明かなりと知るべし。さてここは「アレハヤドラム」とすべし。
○高島乃 「タカシマノ」なり。これは今近江國の高島郡といふ郡名にてしるきが如く、琵琶湖の西岸のうちにも北部一帶の土地の總名なりしなり。卷七「一一七一」に「大御舟竟而佐守布高島之三尾勝野之奈伎左思所念《オホミフネハテテサモラフタカシマノミヲノカチヌノナギサシオモホユ》」とあるなど集中に屡その名見ゆ。和名鈔國郡部に近江國の郡名に「高島【太加之萬】」とあり。
○勝野原爾 舊訓「カチノノハラニ」とよめり。これは惡しとにはあらねど、古く「野」を「ヌ」といひしによりて「カチヌノハラニ」とよむべきなり。この「カチヌノハラ」は上に引ける歌に「高島之三尾勝野」といへると同じ所なるべく、その「三尾」といへるは和名鈔郷名部に高島郡の下に「三尾【美乎】」と(176)あれば、勝野はその三尾郷のうちに在る所なることは著し。この勝野といふ地は高島郡にても最南の郡境に近き湖濱の地にして今も「カチノ」といひてある町の名に名殘をとゞめたり。この勝野は今は大溝町のうちの字となりたれど、大溝は元來勝野の町よりも西にある地にてもと城の名なりしが、後に城下町の發達して勝野と一になり、今や大溝を以て總名とするに至りしものにして、今の勝野の地より中江藤樹の住せし小川村などの邊を含める所也。この附近は廣からねど多少の廣さある平地なり。されば、勝野原とはいへるならむ。
○此日暮去者 「コノヒクレナバ」とよむ。この「去」は複語尾「ヌ」に借用したるその未然形なり。かく「ナ」にあてし例は卷二「一八二」に「飼之鴈乃兒栖立去者《カヒシカリノコスダチナバ》」などあり。
○一首の意 この歌第二句までが第三句以下より後にあるべきを反轉法によりて倒置せるなり。歌の意はもしこの高島の勝野の原にて行き暮れなば、この邊には宿るべき家とてもなければ、何處にて今夜は明さむかとなり。この歌は湖上を舟にて行ける時の歌にあらずして、その地を陸行せし折の歌なり。而してここを陸行せしならむが、この地は、古大和の京より、北陸道に通ずる所謂北陸道の本街道なりしなれば、高市連黒人も北陸道に往還せしことありしものなりといふべし。
 
276 妹母我母《イモモアレモ》、一有加母《ヒトツナレカモ》、三河有《ミカハナル》、二見自道《フタミノミチユ》、別不勝鶴《ワカレカネツル》。
 
○妹母我母 舊訓「イモモワレモ」とあり。これ惡しからねど、「ワレ」をば古きに從ひて「アレ」とよむ(177)べし。意明かなり。
○一有加母 舊訓「ヒトツナルカモ」とよみたるが、槻落葉に「ヒトツナレカモ」とよみ、攷證は「ヒトリナレカモ」とよみたり。これを「ナルカモ」とよめば、ここにて一段落となり、下の「ツル」の語と無關係になり、「ツル」の終止を説明すること能はざるに至るべく、「ナレカモ」とよめば、下に對しての條件となるものなるが、ここの意を考ふるに條件たるものと考へらるれば、「ナレカモ」の方よしとす。さて一を「ヒトツ」とよむべきか、「ヒトリ」とよむべきかといふことは解釋に關係するものなれば、それらの説をとれる學者の意見を見るに「一つ」とする説には槻落葉には「相おもふ心のひとつなればかも也」といひ、略解には「妹と吾身の二つならぬ心ちするを一つなればかもといふ也」といへり。これに反對して攷證は「一はひとりとよむべし。わかれなば、妹も吾も互に一人となればかも別れかぬるならんといふ意也。次の一本に獨可毛將去《ヒトリカモユカム》とあるをも思ふべし。さて一をひとりとよめるは字を略きて書るにて本集此卷【五十丁】に荒有家一宿者《アレタルイヘニヒトリネバ》云々(四三九)九【十丁】に衣片敷一鴨將寢《コロモカタシキヒトリカモネム》云々(一六九二)卷十【四十九丁】に一之宿者《ヒトリシヌレバ》(二二三七)などあるにても思ふべし。」といへり。さてこの攷證の説の一を「ヒトリ」とよまむことはこの傍證によりて必ずしも否定すべからず。然れども、次の一本の歌の「獨可毛將去」を證にとりてそれと同じき意なれば、「ヒトリ」とよまむとせるは首肯せらるべき説にあらず。何となれば、次なる歌のは、「別れなば妹も我も離れ/\になりて各單獨にて行かむ」といふにありて、「ヒトリ」と必ずいはではかなはぬものなり。ここのは如何といふに、一本にいへる如き意ならば各單獨になることにて、その意にて(178)は「ヒトリナレカモ」といふは語不調にして「ヒトリニナレカモ」ともいひて「ヒトリナレカモ」とよむべきにあらず。加之、「わかれなば妹も吾も互に一人となれば云々」といふことの如きは當然の事にして、下の「別れかねつる」といふ語に對しては何程の效果をも呈せざることとなり、極めて、低調なる理窟をいへるに止まれり。かくの如くにして豈よき歌といひうべけむや。これは妹も我も外形的には二人と見ゆれど、實は一人ならむか。さればにや別れかぬるといへるにて、かく考ふるときは攷證の説よりも寧ろ舊訓の方まされりとす。さて、かく外形は二人なれど、實は一つならむと思はるといふ意にとる時は、「ナレカモ」といへる方よからむ。「ナレカモ」は、後世ならば「ナレバカモ」といふべき所をこの頃の一の語格として、「ナレ」といふ已然形そのままにて下につゞけて條件を示せるものにして、卷一以來しば/\例のありしものなり。かくて「一」は又「ヒトリ」にても「ヒトツ」にても大差なき事とならむが、よく考ふれば攷證の説よりも久老千蔭等の説の方歌の意に近しと見るべく、新考の説をよしとす。然るときは「一ツ」といひて不可にあらねば、槻落葉のままにてよしとすべし。
○三河有 「ミカハナル」とよむ。「三河」は國名にして、その「三河ニアル」といふを約めて「ナル」といへるなり。この語法の例も卷一以來屡出でたる所なり。
○二見自道 舊訓「フタミノミチニ」とよみたるが、古寫本の多くは「フタミミチヨリ」とよめり。又代匠記には「フタミノミチユ」とよみしが學者多くこれに從へり。この文字のつづけ方正しくこれらの訓の如しとは斷言しうべからぬさまなるが、今確かなる訓を加ふる手段を知らず。(179)さて「自」は「ニ」とよまるべき文字にあらずして助詞としては今の「ヨリ」に當るものなり。さて「ヨリ」の古語は「ユリ」「ユ」「ヨ」の三體あるが、ここはその古きと、音の數とによりて「ユ」とよむをよしとすべく、從つて今姑く代匠記の説に從ひおく。かくて「二見」は三河國内の地名と考へらるるが今、詳かならず。見原益軒の吾妻路之記に「御油より吉田まで二里半四町云々古は三河のふたみ道とてわかれずあれど、末はひとつになるとかや。長明は是よりほん野にかゝり、豐川に行とみえたり。阿佛は是よりわたり津にかゝり志加須香《シカスカ》の渡りをこゆると見ゆる。今はごゆにかかりて吉田へ出づるなり。」と見ゆるは、或はこれならんといふ。東海道名所圖會「御油」の次に「本坂越」をあげ、その次に「二見道」をあげ、それに注して曰はく「御油より左(京都より江戸に下る順序なり)へ別れて八幡野口を歴て本野が原にかゝり豐川に至る、これいにしへの街道なり。」といへり。この二見の道といへるにつきて考は「三河の任などはてて大和へのぼる時よしありて尾張近江山背攝津をめぐりて歸るべければ、妻は直に大和へ歸る時の別ををしめるならん」といひたるが、新考にはこれを否定してさて曰はく「案ずるにこは、三河より更に東なる國に赴かむとせし時によめるなり。抑三河より遠江に到るには御油《ゴユ》より吉田(豐橋)二川、白須賀、新居《アラヰ》、舞坂、濱松を經て、天龍川に出づる道と、御油より本《ホン》野原、嵩山《スセ》、本《ホン》坂越、氣賀《ケガ》、三方(カ)原を經て天龍川に出づる道とあり。甲は東海道の大路にて、乙は所謂姫海道なり。甲には途に今切の險あれば、女子は好みてこの道に由りけむ故に姫海道といふにこそ。今も黒人は本道を行き、妻は姫海道をゆかんとする故に、フタミノミチユワカレカネツルとよめるなり。」といへり。この説頗(180)るくはしく從ふべきに似たりといへども、三の疑ふべき點あり。第一の點は黒人が東國に赴かんとしたりといふことなり。これは全く有るまじとはいふを得ざれど、黒人を京畿地方の人とせば、三河より京畿の方にかへらむ路といふは考へうべきことなれど、反對に東國に行かんとせしといふ假説は、何かかくいふべき證なき限りはただ想像といふに止まれり。第二の點は黒人をば、諸家の説の如く國司として三河に有りしものとせば、その國府に在りしものとせざるべからず。若し國府に在りしものとせば、その國府は今の國府村に在りものにしてその地は御油につづきて東にあるものにして、所謂二見の分岐點は、その國府村の西、御油との中間にあるものなれば、東國に下らんとて、國府より一旦西に到り、さて分れしものといふべきに似たり。これ不合理なり。されど、これも亦些少の里程なれば、その妻の姫海道を行くを送らんとしてその追分まで到りしものともいはばいはるべし。第三の點は本海道には今切の險ありて婦女子のこれを厭ふといふことなり。これは後世の事情を以て古を推すものといふべし。何となれば、この今切の渡は明應八年六月十日の地震にて切れて湖と海とが一になりしものにしてその以前には所謂濱名の橋こそありたれ、さして險難の地とはいはれざりしなり。若今切を以てその理由とするものならば、この歌はその今切の出來し時より八百年前の歌なればこれは問題とすべきものにあらず。されば、この新考の説はうけられず。なほ「フタミノミチユワカレカネツル」とよめるより考ふれば、この追分にてその女と分れしことは明かなるが、これは、國府より出でて京にかへらむとて、そこにてその女に分れしものならむか。か(181)く人を送りてある追分けまで到り、そこにて別るるは古今の通情なり。さて又その妹とあるも本妻なりしか、或は他の女なりしか明かならざるものなりとす。
○別不勝鶴 「ワカレカネツル」とよむ。「不勝」は堪へざる義より不能の「カヌ」にあてたり。この「カヌ」といふ語は卷一「三〇」の「船麻知兼津《フネマチカネツ》」又「七二」の「忘可禰津藻《ワスレカネツモ》」以下例少からず。かくて「鶴」は複語尾「ツ」の連體形「ツル」をあらはすに借りたるものにして、ここに連體形を用ゐるは上の「カモ」の係に對する結なりとす。
 この歌につきて、契沖は「二見を二身になしたるか、さらずともふたみと云名よりひとつなるかとはいへり」といひ、千蔭は二つなれかもといひ、又三河二見など求て數を重ねよめる也」といひ、攷證に「この歌|一《ヒトリ》といひ、三河といひ、二見といひて文をなせりとおぼし、古歌にはめづらしき體なり」といひ、古義に「三河二見といへる因に一《ヒトツ》と云るなり」といひ、大方の學者皆かくの如き説をいだけるが、新考はこれらを否定して「共に鑿説なり」といへり。余も新考に左袒すべし。されど、作者の意識せるか否は第二の問題としても、かく見らるべきさまになりてあるは明かなり。而して古歌に決してかかる技巧なしとも斷言すべからざるなり。
○一首の意 妹も吾も、一體なるものにあるものなればにや、この三河の二見の道より分れむとすれど、別れかねたる事よとなり。
 
一本云、水河乃《ミカハノ》、二見之自道《フタミノミチユ》、別者《ワカレナバ》、吾勢毛吾毛《アガセモアレモ》、獨可毛將去《ヒトリカモユカム》。
 
(182)○一本云 或る本、上の歌をかかる歌として傳へたりといふ事なるべし。されど、上の歌は男のよめる歌にして、これは女のよめる歌なれば、作者は一にあらざるべし。ただ詞の同じさまなるによりてかかる傳の生じたるに止まるものなるべし。考は「是は妻の和たる歌なり。然れば端に黒人歌八首としるせし中に載べきにあらず。思ふに此八首の次に高市黒人妻和歌とて此歌有つらんを今本に脱、一本には亂てここに入つらん」といへり。或はさる事ならんも知らねど、今にして確かには知るべからず。
○水河乃 古來「ミカハノ」とよめり。古義には「乃」は「有」の誤として「ミカハナル」とよめり。されど、さる字の本なければ、從ひ難し。なほ古來のまゝ四音一句とすべし。
○二見之自道 舊訓「フタミノミチニ」とよみたるが、本文にていへる如く、「フタミノミチユ」とよむべきなり。
○別者 舊訓「ワカルレバ」とよめり。槻落葉に「ワカレナバ」とよめるが、諸家大方これに從へり。これは下の「ユカム」に對して考ふれば、「ワカレナバ」とよむをよしとす。
○吾勢毛吾毛 古來「ワガセモワレモ」とよめるが、古風に「アガセモアレモ」とよむべきならむ。即ち「吾が夫も吾も」といへるにて女の詞なり。
○獨可毛將去 「ヒトリカモユカム」とよむ。各獨になりて行くことならむとなり。
○一首の意 この三河の二見の道より別れなむには、吾夫の君も獨旅にてさびしからむ。吾も亦孤獨にてさびしき事とならむとなり。
 
(183)277 速來而母《トクキテモ》、見手益物乎《ミテマシモノヲ》。山背《ヤマシロノ》、高槻村《タカノツキムラ》、散去奚留鴨《チリニケルカモ》。
 
○速來而母 舊訓「トクキテモ」とよみたるを槻落葉に「ハヤキテモ」とよみ、古義もまたしかよめり。而して槻落葉は「速」は「ハヤ」とよみて「とく」とよむべからずといひたるが、鴻巣盛廣氏が奈良文化にいへる如く「速」は「速河」(六八七)「血速舊」(三二六六)などの如く「ハヤ」とよむべき例は多けれど、又卷九(一七一八)に「足速水門爾《アトノミナトニ》」などの「ト」の假名に用ゐたる例もあれば、「トク」とよまむに不都合はなきなればもとのままにあるべし。○見手益物乎 「ミテマシモノヲ」とよむ。意明かなり。「マシ」は「マセ、マシ、マシカ」と活用する複語尾の連體形にして、未然形に屬して、不確實に豫想寧ろ假想するものなり。以上、一段落とす。
○山背 「ヤマシロノ」とよむ。「ノ」字なけれど、次の語との關係よりして加へよむべし。山背は今の山城國なるが古事記には「山代」とかき、日本紀には「山背」とかき、宇治橋碑(歴代編年集成所載)には「山尻」とかけり。一般には奈良朝以前には「山背」とかけることは、靈異記等にも見ゆるが、延暦十三年七月平安奠都の時に、詔ありて「山城」の文字に改められしなり。名義は「山ウシロ」の義にして大和の京の時代の命名なりといふ。
○高槻村 舊訓「タカツキムラノ」とよみたり。槻落葉に「タカツキノムラ」とよみてより學者多くこれに從へり。然るにその意義に到りては從來の説にては治定せりと考へられず。先づ、契沖はその代匠記初稿本に「高槻村いづれの郡といふ事をしらず。今高槻といふは津國なり」と(184)いひ、清撰本には「高槻村、今は世に聞えぬにや。高き槻の木あるに依て名を得たるか」といひて決定せず。槻落葉には「高槻といふ地名、攝津の國にもあれば、ここも地名にて、村は村邑なるべくおもへど、さにはあらじ。下伊豫(ノ)温泉の歌に御湯《ミユ》のうへの樹村《コムラ》を見れば、とある村におなじく、高く槻の木の生たる木群をいふ成べし。」といへり。かくて學者の説まち/\にして一定せず。古義の如きは「兩説あるべし。一(ツ)にはタカツキノムラとよみて、高槻は村(ノ)名にて(攝津(ノ)國に高槻と云地あり。山城にもあるなるべし。)さてその村の黄葉の散れるをよめるなるべし。(集中に春日の山は咲にけるかもなどよめる如く、花黄葉といはずて咲散と云ること古風なり。)二(ツ)にはタカツキムラノと訓て高槻は木高くたてる槻をいふべし。村は木|群《ムラ》なり。(攝津(ノ)國の高槻も木高き槻のありし故に負る地(ノ)名なるべし。)さらば、その槻の黄葉の散れるをよめるなるべし。」といひて、決定せず。近頃に至り、佐々木氏の新訓萬葉集に「タカキツキムラ」とよみて從來の説と異なる訓を立てたれど、その説明はなし。鴻巣盛廣氏は奈良文化誌上にこれらの訓を批評して、地名とする説は從ふべからずとし、次に「高い槻の木の群の義」とする外なしとせるが、「山城の國の高い槻木の群ではあまりに區域が廣きにすぎてふさはしくないことになる」といひて、山背をば狹義にとり、那羅山背後の小區域をさせるとし、大體相樂地方なりとし、「タカツキノムラ」とよむをよしとせり。この説は從來の諸説よりはとるべき點多しと考へらるれど、なほ「タカツキノムラ」といふ語にては不徹底の感あり。最近に至り、生田耕一氏が「藝文」(第二十一年第一號)誌上に「萬葉の高槻村の出土訓と試掘訓」といふ題にてこの訓の研究出でたるが(後に萬(185)葉難語難訓攷に收む)その委しきことはその本文に讓り、先づその結論をあげむに、氏はこれを
 ヤマシロノ タカノツキムラ
とよむべしとするにありて、その「タカ」は山城國内の地名とするなり。ここにこの説を批評する前に「高槻村」といふ地名とする説を顧みるに、「タカツキ」といふ地名は攝津近江などにあれど山城には古今かつてなし。されどこの歌あるによりて、なほ山城に求めむとする學者少からず。山城名勝志の如きは乙訓郡の附録の中に高槻村をあげてこれに注して曰はく、「上古は山城國の内にても、ありける歟。其實をしらず」といひたるが、かくせるは實はこの歌によれるものなるべければ、他に確かなる證とてはあらぬなり。しかれば、高槻といふ地が山背國に存せしことは信ぜられず。次にこれを地名とせずは山城國の高き槻の木群の義とすべきが、然るときは、山城國外より一見してあれが山城國の槻木の群なりと知らるる程のものならざるべからず。かくの如きは山城一國が平野なる時などにいふべきことにして實際の地勢よりいふならば、少くも比叡山ほどの高さなくてはいはれぬことにして、あるべきことにあらず。この故に生田氏の説にして信ずべき證あらば、最も當を得たるものといはるべきなり。氏は「タカ」は山城國綴喜郡多賀郷なりといひ、古の多賀郷の地は今の多賀井手一圓の地の古き稱なりとしてこれは清音にて「タカ」とよむべく此の地方の人は皆「タカ」といひ、又式内の「高神社」といふ社も存すといへり。これは太平記に後醍醐天皇の笠置より出でさせ給ひ到りましし土地の名に多賀の郡有王山といふもこの地なりといふ。即ちこれを
(186)  山背 の タカ の 槻群
とし、
  山代  泉  小菅
  山代  石田  杜
  開木代 來背  社
などと同じ語格なりといふなり。この説最も當を得たりと思はるるによりてこれに從ふ。即ち山城國内の多賀の地にある槻の木群なり。槻木の事は集には卷二以來屡見ゆるなり。
○散去奚留鴨 「チリニケルカモ」と古來訓みたるが童蒙抄には「アラケセルカモ」又は「アセニケルカモ」とよみたり。されど、これは「村」の散るといふことあるべからずとしていへるなれば、上のよみ方をとれる以上、この説は不用になれりといふべし。この「散る」は槻の木群の木の葉の散るをいへるなり。その下四字のよみ方は説明するまでもなし。
○一首の意 早く來てこの山背の高の地の槻の木|群《ムラ》の黄葉を見てはやすべかりしものを。彼是として來ることのおくれたれば、この多賀の地の槻の木群の木葉ははや散りてしまひけりとなり。
 
石川少郎歌
 
○石川少郎 この「少郎」古葉類聚抄には「女郎」とし、温故堂本には「小郎」とせり。さて又萬葉考には(187)「郎女」の誤とし槻落葉には「女郎」とせり。按ずるに「女」とかける本は古葉類聚抄のみなれば、證として力足らず。又考には「こは必女の歌なるを男女の歌の分ちをだに見しらずや」といきまき、槻落葉もこの歌は「女歌なる事いちじろし」といへり。されど、女の歌たりといふ證は一もなし。かへりて女の歌なりといふ人々の説こそ疑はしきなれ。なほこの作者の事は左注の下にいふべし。「少郎」は字音のままよむべきものならむ。
 
278 然之海人者《シカノアマハ》、軍布苅鹽燒《メカリシホヤキ》、無暇《イトマナミ》、髪梳乃少櫛《ケヅリノヲクシ》、取毛不見久爾《トリモミナクニ》。
 
○然之海人者 「シカノアマハ」とよむ。「然」は「シカ」といふ語の假名にあてたるにてここは地名なり。その地は筑前國糟屋郡の地にして、今志賀島とてある地もそのうちなり。和名鈔郷名部に糟屋郡の下に「志阿」とある「阿」は恐らくは「珂」又は「※[言+可]」の誤なるべし。日本紀、神功皇后卷に新羅征伐の嚮導とせられし人の名に「磯鹿《シカ》海人名草」といふあり。この地は延喜式内の志加海神社のある地にして、今は糟屋郡志賀島村といふ。博多灣の東北一帶を抱きて東より西に亙れる長き半島の端にして、海の中道といふ一道の淺洲によりて僅かに陸地につづけり。「シカ」といふ地は他にもあれどこの歌は作者より推して、この地なるべく思はる。「海人」は「アマ」にして、漁撈を業とする人なるが、卷一には「白水郎」とかけり。海人の義はそこにいへるが故に委しくいはず。志賀のあまの著しかりしことは、卷七、「一二四五」に「四可能白水郎乃釣船之網《シカノアマノツリフネノツナ》云々」又「一二四六」に「之加乃白水郎之燒鹽煙《シカノアマノシホヤクケブリ》云々」又卷十一「二六二二」に「志賀乃白水郎之鹽燒衣《シカノアマノシホヤキゴロモ》」「二七四二」の「牡(188)鹿海部乃火氣燒立而《シカノアマノケブリタキタテテ》」又卷十五に「至筑紫館望2本郷1悽愴作歌四首」中に「之賀能安麻能一日毛於知受《シカノアマノヒトヒモオチズ》」(三六五三)「思可能宇良爾伊射里須流安麻《シカノウラニイサリスルアマ》」(三六五三)あり。又卷十六には「筑前國志賀白水郎歌十首」(三八六〇−三八六九)あるにても知るべし。
○軍布苅鹽燒 「メカリシホヤキ」とよむ。「軍」字は古葉略類聚抄に「草」とあれど「草布」といふものありとも見えねば從ひ難し。又「軍布」といふものも亦見る所なし。代匠記には「軍布をめとよむやう未詳。今按混渾通用するを思ふに昆と軍と音近ければ昆布にや。昆布は和名比呂米一名衣比須女なり。又軍中兵粮の羮の料にめをも藏めおくと申せば、その心にや」といへり。童蒙抄は「軍は渾の字のシ(三水扁)を脱したる也云々」といひ昆布とせり。槻落葉には「葷布」と改めたるが、別に證もなきことなり。攷證には「軍は葷の略體にて葷は葷菜などつづくる字にて説文徐鉉注に葷臭菜也云々。文選養生論註、董與同云々ともありて菜類の匂ひあるものをいひ、布は昆布《ヒロメ》、和布《ニギメ》、荒布などすべて云々海藻はすべて匂ひあるものなれば、葷布とはかけるなるべし。」といへり。されど、昆布は北海に産してここに産せず、又海藻は葱薤などの葷菜とは一ならねば以上の説どもいづれも信服しかねたり。今後の研究にまつべきものなり。「布」は昆布、和布、荒布などに用ゐるにて知る如く、「メ」といふ語にあてしなり。畔田伴存の古名録には軍布を「ニキメ」即ち今の「ワカメ」の一名としてあげたり。しかも如何なる理由によれるかをいはず。即ち「メ」といふは一般の食用海藻の總名をも「メ」といへども主として「メ」といふは今のワカメの事なり。ここも「メ」とよむ外はあるまじくさす所も「ワカメ」なるべし。而して、「シカ」の海人のメ(189)を刈りしことは、卷十二「三一七七」に「然海部之磯爾苅干名告藻之者告手師乎如何相難寸《シカノアマノイソニカリホスナノリソノナハノリテシヲイカニアヒガタキ》」といふあり。鹽を燒きたる事は上卷の歌「一二四七」卷十「二六二二」などあり。
○無暇 「イトマナミ」とよむ。暇は「イトマ」なるが、この語の假名書の例は卷十五「三六七二」に「伊刀麻奈久安麻能伊射里波等毛之安敝里見由《イトマナクアマノイサリハトモシアヘリミユ》」卷二十「四四五五」に「奴婆多麻乃欲流乃伊刀末仁都賣流芹子許禮《ヌバタマノヨルノイトマニツメルセリコレ》」などあり。この「無」を「ナミ」とよむは卷十四「三五四二」に「己許呂伊多美《ココロイタミ》、安我毛布伊毛我《アガモフイモガ》」卷二十「四〇八八」に「宇流波之美安我毛布伎美波《ウルハシミアガモフキミハ》」の如きあり。又「無み」の例は古事記下卷清寧段の歌に「意富多久美袁遲那美許曾須美加多夫祁禮《オホタクミヲヂナミコソスミカタブケレ》」本集卷十五「三五九〇」に「伊毛爾安波受安良波須敝奈美伊波禰布牟《イモニアハズアラバスベナミイハネフム》、伊故麻乃山乎故延弖曾安我久流《イコマノヤマヲコエテゾアガクル》」卷十七「三九〇五」に「遊内乃多努之吉庭爾梅柳乎理加謝思底婆意毛比奈美可毛《アソブウチノタヌシキニハニウメヤナギヲリカザシテハオモヒナミカモ》」卷二十「四三七九」に「之良奈美乃與曾流波麻倍爾和可例奈波伊刀毛須倍奈美夜多比蘇弖布流《シラナミノヨソルハマベニワカレナバイトモスベナミヤタビゾデフル》」などあり。これは形容詞の語幹をばマ行四段の如く活用せしめし、その連用形なるものにしてここはその連用形が修飾格として立てるものにして、暇無きによりてといふに似たる意をあらはせり。
○髪梳乃少櫛 舊訓「ツケノヲクシヲ」とよみたり。これは仙覺以前の古本には「カミケツリノヲクシ」とよみたるを仙覺がこれを語長しとて「クシラノヲクシ」とよみたるが、新勅撰集には「くしげのをぐし」とよみて入れ、拾穗抄はこれをよしとせり。代匠記には「クシノヲクシ」とよむべきかといひ、本居宣長は玉の小琴に於いて「髪梳は道麿がゆすると訓るぞ能當れる」といひ、諸説紛紛たり。先これを文字のままによまば、古點の如くならむが、九音となりて極めて調をなさず。(190)仙覺の説は大隅國風土記を證とせるものなるが、その文に曰はく「大隅郡串卜郷昔者造國神勤v使者遣2此村1令2消息1、使者報道有2髪梳神(トイフ)1可v謂2髪梳村1曰2久四良郷1梳疏者隼人俗語久四良今改曰串卜里」とあるによれるものにして、串卜郷と文字を改めたれど、「クシラ」といふ語にはかはりなきなり。されば、この髭梳即ち「クシラ」なりといふことは動くまじけれど、しかもこれは隼人の語にして中央の語にならぬことは明かなれば、ここの髪梳とかける文字とその意とは同じかるべけれど、語も全く同じかりしといふことは證なきことなり。次に「ツゲ」とよむことはこれ黄楊にて櫛をつくることは古今同一なれど、髪梳は黄楊といふ植物又は木材の名を示す文字とは考へられず、この故にこれも從ふべき理由なし。又本居は「ゆするは髪梳と書つべきもの也」といひたれど、攷證に既に論ぜる如く、古くは見えざる事なるのみならず、その「ゆする」といふ語は新撰宇鏡に「※[米+定]」の字又「粕」字の訓に「由須留」とあり、又「潘」字の注に「浙米汁也、以可v頭沐」とありて訓に「由須留」とあり、又「※[さんずい+甘]坏」をば、「ユスルツキ」といふも「ユスル」を盛る器なれば、「ユスル」は結局髪を洗ふ汁にして、米のとぎ汁をさせりと見ゆれば、この髪梳の文字に正しくあたれりとは考へられず。又「くしげ」といふ語は櫛笥又匣の文字の示す如く、櫛を主として理髪の具を納るる匣なれば髪梳の文字には當らず。又新訓萬葉集には「カミスキノヲグシ」とよみたれど、當時髪を「スク」といひしことの證ありや否やおぼつかなければ、從ひかねたり。結局文字のままならば、古點のよみ方が相當れりとすべく、その他は無理なりといふべし。されど、その九音のよみ方もよしとはいふべからず。結局は今日の程度にては治定すべき訓なしといふべし。さりなが(191)ら意は明かにして髪を梳る用に供する小櫛の義にして、髪を掻くものを「カミカキ」(轉して「カウガイ」)髪にさすものを「カミサシ」(轉して「カムザシ」「カザシ」)といへる如く、髪を梳ることを當時何とかいひしならむ。按ずるに、和名鈔に、梳に訓して「介都留」といへり。而して新撰宇鏡には「梳」に「介豆留」の訓あり。説文には「梳に「理髪也」と注する故に「梳」字にても「髪梳」二字にても結局理髪の義にてやがて「ケヅル」といふ語にあたるものならむ。かくて下の「ノ」に對しては體言の形をとるべきなれば「ケヅリノヲグシ」とよむべきものならむ。この訓正しく當れりとは今いひかねたれど、從來の訓よりは稍まされるならむと思へばしばらくかくよむ。「少櫛」の「少」を古寫本「小」とせれど、これにてもよし。「ヲ」にあてたる例は卷十一「二六八三」に「赤土少屋爾《ニフノヲヤニ》」卷十三「三二五八」に「吾戀心中少人丹言物西不有者《ワガコフルココロノウチヲヒトニイフモノニシアラネハ》」などあり。
○取毛不見久爾 「トリモミナクニ」とよむ。この下に略語あり。たとへば、とりも見なくにありといふべきか如きさまなり。
○一首の意は 志賀の海人は或は和布を苅り、或は鹽を燒きなどして暇の無きが故に、髪を梳る櫛を手にとりて見るひまもなくてあることよとなり。攷證は「この歌何ぞ思ふ下心あるべし。」といへれど、このままにてよく通ず。海人の生活を客觀的に措寫せるものとしてよき歌といふべきなり。
 
右今案石川朝臣君子號曰2少郎子1也。
 
(192)○ 攷證などにはこの左注を誤なりといひたれど、かへりてそれらの説こそ誤りなれ。先づ第一にこの歌主を女と定めたることなり。これは海人を詠じたるなれば、この歌のみにては、歌主を男女いづれとも定めがたき筈なり。若しこれを女の歌と決定せむにはこの歌の詞若しくは調に女ならざるべからぬ根據を指摘せざるべからず。されどかゝる事はもとより不可能なり。若し海女をよめるが故といふことならば、論ずるに足らず。女をよめる歌の作主は必ず女なるべしなどいふ事の愚なることいふに及ばざればなり。次に攷證は左注をば「君子と子の字付たる故に女ぞと思ひ誤れるより、しるしたる也」といひたれど、この人を左注に女なりといへる事は少もなし。これかへりて攷證の自家の誤解を表明せるに止まる。この故にこれらの説すべてとらず。ただすなほに左注をよめば足れり。
○石川朝臣君子 この人の事は上の「長田王被v遣2筑紫1渡2水島1之時歌」(二四五、二四六)に對しての「石川大夫和歌」(二四七)の左注に見ゆる「正五位下石川朝臣吉美侯神龜年中任2少貳1」とあると同じ人なるべし。この人は續紀に「和銅六年正月丁亥正七位上石川朝臣君子授2從五位下1」と見え、次第に昇進し播磨守、兵部大輔、侍從等に歴任して神龜三年正月に「授2從四位下1」と見ゆる人なり。但し續紀には少貳に任ぜられたる事見えねど、そは偶、漏れしならむ。この人太宰少貳に任ぜられてありしものとせば、この管内にしてしかも府に近き志賀の海人をよまむは自然の事なりといふべし。
○號曰2少郎子1也 これは、君子の號が少郎子といひしが故に、題詞の石川少郎即ち君子ならむと(193)いふなり。この事他に見えねど、古き傳なれば信ずべきなり。これは卷二の左注に「大伴田主字曰2仲郎1」といへるに似たる號にして、蓋し、この君子といふ人その兄弟三人以上ありてその末にあたれる人なりしが故の號ならむ。當時既に輩行によりて支那風の號を加へしことはかの仲郎又卷十九に大伴家持の聟たる人を「南右大臣家藤原二郎」といひしは、その本人は明かならねど、藤原豐成の二男をさせるなり。
 
高市〔左○〕連黒人歌二首
 
○高市連黒人 流布本には「高高〔右○〕連」とするは活字附訓本の誤植をうけたるなり。すべての古寫本及活字素本に「高市連」とあるによりて正せり。この人の事卷一及びこの卷の「二七〇」にいでたり。
 
279 吾妹兒二《ワギモコニ》、猪名野者令見都《ヰナヌハミセツ》。名次山《ナスキヤマ》、角松原《ツヌノマツバラ》、何時可將示《イツカシメサム》。
 
○吾妹兒二 「ワギモコニ」なり。この語は上に屡いでたり。攷證にこれは「まへに載る※[覊の馬が奇]旅八首の中に一本云とて女の答へたる歌を載たる同人なり」といへり。然れども、かゝる事は何の證もなき事なれば、從ひがたし。
○猪名野者令見都 「ヰナヌハミセツ」とよむ。「ヰナヌ」は古來歌枕として名高き所にして、攝津國にありしなり。この「ヰナ」といふ地は和名鈔郷名には攝津國河邊郡に「爲奈」とあり。又續日本(194)後紀卷十四、承和十一年十二月の條には「攝津國言依2去天長二年正月廿一日承和二年十一月廿五日兩度勅旨1定2河邊郡爲奈野1可v遷2國府1。而今國弊民疲不v堪v發v役、望請停v遷2彼曠野1便以2鴻臚館1爲2國府1且加2修理1者勅聽之」と見えたれば、相當に廣き野たりしならむ。三代實録卷四十七、仁和元年正月十三日勅に「以2攝津國爲奈野1爲2太政大臣狩鳥野1樵蘇放牧依v舊勿v制」と見ゆ。而してこの地後に牧場となりしならむ。延喜式を見るに攝津國に爲奈野牧あり。日本紀仁徳卷三十八年の條(八田皇后の御名代八田部郡にましましし時と思はる)に猪名縣佐伯部が牡鹿を苞苴として獻れる記事あり。この猪名縣もその「ヰナ」の地域内にありしならむ。而して姓氏録に攝津國皇別に爲奈眞人とあるはこの爲奈縣と深き關係あるべし。その河邊郡なるは今、伊丹町に猪名野神社といふあり。伊丹町より神崎に到る途中に猪名寺といふ村あり、又伊丹町より西南の地一帶を今、稻野村といふは昔の猪名野に因みて名づけしならむ。又延喜式神名帳には攝津國豐島郡に爲那都比古神社あるが、此の神社は今豐島郡白鳥村にあり。これらによれば、この野豐島郡にも亘りしならむ。しかして、その地を貫通する川が、即ち猪名川なりしならむ。猪名川の西方は河邊郡にして、東は豐島郡なればなり。卷十六に「猪名川」あり、卷七に「居名之湖《ヰナノミナト》」あり。この「猪名川」は今も其の名を傳へたるが、猪名の湊は蓋し、猪名川の下流今神崎川といふ、その河口ならむが、その河口に發達したるは今の尼崎港なるが、昔はそれより上流に存する神崎が、その港なりしならむ。この地は所謂江口神崎と並稱せられし碇泊場なりしならむ。而して神崎の西に今、潮江といふ地名あり、その南に長崎といふ地名あり。即ち、それらの地よ(195)り深く北に灣入したる入江がありてそれが爲奈の湊なりしならむ。然らばその神崎の邊まで爲名《ヰナ》の地なりしならむか。又卷七「一一四〇」に「志長鳥居名野乎來者有間山夕霧立宿者無爲《シナガドリヰナヌヲクレバアリマヤマユフギリタチヌヤドハナクシテ》」とあるは、その猪名野を通りて有間山に向ふをいへるが、上にいへる地の形勢に合せり。さてここに猪名野は見せつといへるは、己が妻を件ひて、この猪名野に到りしが爲にかくいへりしならむ。而してここにわざ/\「見せつ」といへるは、その猪名野が、當時名高かりし地なりしが故なるべし。
○名次山 舊訓「ナツキヤマ」とよませたるが、槻落葉に「ナスキヤマ」と改めたり。その説に曰はく「次は集中おほくはすきとよむべく和名抄の郷名にもすきとよめる處多ければ、ここもなすき山とよむべし。神名式攝津(ノ)國武庫郡に名次《ナスキノ》神社あり。また有馬郡神尾村に名次山ありといひ、また廣田の社の西にも名次《ナスキ》の岡ありと云へり」と。この説をよしとすべきが、なほいはば、卷一に「タマタスキ」といふ語に「珠手次」(五)「玉手次」(二九)とかき、日本紀天武卷五年の條の自注に「次此云2須岐1」といふにて「次」を「スキ」とよむべきを見るべく、又地名にては和名鈔郷名に阿波國美馬郡に「三次【美須木】」とあるにてその同じ例あるを見るべし。さてこの「ナスキ山」とは何所ぞといふに、槻落葉に於ける名次神社は武庫郡の内に在るものなるが、今廣田神社の攝社として廣田神社の西、名次丘にありといふ。神名帳考證にはこの社の條下に「信友云有馬郡神尾村名次山マタ當郡廣田社ノ西ニ名次岡アリト云フ」といへるは槻落葉の説をうけしならむが、こは名次神社を本として考ふるを穩當なりとす。されば、その神社所在の名次岡をば、かくいひしならむ。(196)さてこは、猪名野を經て西の方廣田村をすぎゆくは古の大路なりしなり。
○角松原 舊訓「ツノノマツハラ」とよめるが、考には「ツヌノマツハラ」とよめり。卷二、「一三一」の「角乃浦回《ツヌノウラミ》」の下にいへる例によりて角を「ツヌ」とよむをよしとすべし。この地につきては契沖は「角松原は第十七にもよめり、何れの郡に有と云事をしらず、和名を考るに武庫郡に津門【津止】あり。乃と止とは同韻の字なれば、若、これなどにや。名次と同郡なるにも思ひよられ侍り」といひたるが、考にはこれをうけて「和名抄に右同郡に津門郷有是歟。杼《ト》と能と奴は清濁も言も相通例なり」といひ、なほ頭注に「今武庫郡の西宮ちふ里の北東の方に名次山有、角の松原の路も其北方に在、古は其邊迄入海にてありしを今は埋れたりと彼西宮に千足眞事とて古事好む人の指さして教たり」とあり。これは狛諸成の注ならむか。かくて、この説殆ど定説となれる觀あり。守部は「行嚢抄(ニ)云(フ)鳴尾云々松原山昌林寺云々、角(ノ)松原ハ津門ノ西自2海道1北ニ松原アル所ヲ云フ名次《ナスキ》山モ同所ニ在リと云へり。今其村を津戸村と云ふも角を訛れる也。さて近來は其松少しになりぬる状なれど、此歌に如此《カク》よめるを見れば、絶景なりきと見ゆ。其寺を松原山昌林寺と云ふを以てもしるべし」といひ、註疏には「角松原は和名抄に武庫郡津門【都止】とある處か。西宮の東につゝ川といふ流あり。このあたりに眺望よき松原今もあり」といへるが、津門と云ふ所は今東海道線西宮驛の南にある地なるが故に、この邊にさる松原ありしならば、まさしく、猪名野をすぎ、名次山を眺めつつ進み來れる順路にあたれり。されど、津門が如何にして古の「ツヌ」に當れるか、ただ音通とのみにてはすまされぬ問題なり。即ち古の「ツヌ」が「ツノ」になり、それよ(197)り「ノ」より「ド」に變じたりとすべし。然るときには「ト」は明かに濁音ならざるべからず。然るに、こゝは今も「ツト」といひて濁音にあらず。されば、以上の説殆ど從ふべきに似たりといへどもなほ不十分の點ありとす。されど、今前説を破して、別に説を立つべき程の反證を知らねば、姑く上の説に從ふ。
○何時可將示 古來「イツカシメサム」とよみ來れるを槻落葉には「イツシカミセム」とよむべしとせり。その説に曰はく「示は卷(ノ)すゑに、何矣示《ナニ巾ヲシメサム》(三六〇)卷(ノ)四に示佐禰《シメサネ》(七二五)卷(ノ)九に示賜者《シメシタマヘバ》(一七五三)などにおほくみえたれば、爰もしめさんとよみてこともなく聞ゆれど、卷(ノ)十三に何時可將待《イツシカマタム》(二九四六)とあるは、ここの示と待の字のかはれるのみなれば、みせむとはよみつるぞ」とあり。この説一往は聞えたる樣なれど、必ずしも從ふべからず。そはいかにといふに、卷十三なるは、下が「マタム」といふ三音なれば、上は「イツシカ」と四音なるが、穩かなる事にはあれど、ここは必ずしも然らず。即ちこの「將示」が必ず「ミセム」とよむべきことを決定せずは、上を「イツシカ」とよむべしとはいふを得ざる筈なり。然るに、「示」は今「シメス」と訓ずるが通例なる通り、古もしかりしものならむ。既に上にあげたる卷四「七二五」に「君爾吾戀示左禰《キミニワガコヒシメサネ》」は「ミサネ」とはよむべくもあらずして「示《シメ》サネ」といふ外にはよみ方あるまじ。而してこの頃に「シメス」といふ語の存せしことは卷五「八一五」に「世人爾斯※[口+羊]斯多麻比弖《ヨノヒトニシメシタマヒテ》卷十五「三七六五」に「可多美乃母能乎比等爾之賣須奈《カタミノモノヲヒトニシメスナ》」などあり。その意は攷證に「人に物をゆびさしてこれぞそれなると、をしへさとす意なる事、玉篇に示、以v事告v人曰v示とあるにてしるべし」といへり。
(198)○一首の意 二段落なり。吾が妻に名高き猪名野をば見せたりといふが第一段にして、第二段にはこれよりは名次山や、角の松原などいふ名勝をばいつかしめさむとなり。
 
280 去未兒等《イザコドモ》、倭部早《ヤマトヘハヤク》。白菅乃《シラスゲノ》、眞野乃榛原《マヌノハギハラ》、手折而將歸《タヲリテユカム》。
 
○去來兒等 舊訓「イサヤコラ」とよめるが、代匠記に「イサコトモ」よむべしといひたり。その説に曰はく「古事記中、應神天皇御製云伊邪古杼母怒※[田+比]流都美邇云々又此集卷第一に憶良の歌にもイサコトモハヤ日ノモトヘ(六三)とありき。第二十に内相藤原卿の歌にも伊射子等毛(四四八七)とかける、是を證とすべし」といへり。この説によるべし。その意も卷一の憶良の歌に准じて知るべし。
○倭部早 「ヤマトヘハヤク」とよむ。これは卷一「六三」の山上憶良の歌「去來子等早日本邊」とあると殆ど同じくしてただ「ヤマトヘ」と「ハヤク」との語が上下せるを異なりとす。これより下の「ユカム」につづくやうに見ゆれど、然りとせば、中間の多くの語の爲に語勢たるみて、感淺くなる。ここは憶良の歌と同じく、ここにて「行かむ」といふ下略の語ありて、一段落をなせりと見るべきものなり。
○白菅乃 古來「シラスゲノ」とよめり。略解には地名かといひて「シラスガ」とよみたれどこの證なし。白菅は今もこの名を有する一種の草あり。水邊濕地に自生し、莖葉のさま、かやつり草に似たれど、質軟弱にして淡緑色にして稍白色を帶ぶ。この語次の歌にも見ゆる外、なほ卷七(199)「一三五四」に「白菅之眞野乃榛原心從毛不念君之衣爾摺《シラスゲノマヌノハギハラココロユモオモハヌキミガコロモニスリツ》」卷十二「二七六八」に「葦多頭乃颯入江乃白菅乃知爲等乞痛鴨《アシタヅノサワグイリエノシラスゲノシリヌルタメトコチタカルカモ》」とあり。これをば下の眞野に對しての枕詞なりといふ説普通なるやうにして、その白菅が「眞野」の枕詞となるとの説明は種々あるやうなれど、從ひがたし。先づ、卷十一の歌によりて見れば、白菅が水邊に生ふるものなること、今いふ白菅と同じ性質なるを考ふべし。而して「眞野」は下にいふ如く、浦又池とつづけたれば、そこに白菅の生ひたるならむことは略推察しうべし。されば白菅の生ふる眞野といふ義なるべし。然るときはこれは實地の景にして枕詞とはいひうべき性質のものにあらず。
○眞野乃榛原 舊訓「マノノハキハラ」とよみたるが、槻落葉に「マヌノハリハラ」とよめり。「眞野」は「マヌ」とよむをよしとすべきこと屡いへり。「榛原」は卷一「五七」の下にいひし如くなれば姑く「ハギハラ」とよみて進むべし。さてこの「眞野」と云ふ地は卷十一「二七七一」に「眞野浦之小菅乃笠乎《マヌノウラノコスゲノカサヲ》」又「二七七二」に「眞野池之小菅乎笠爾不縫爲而《マヌノイケノコスゲヲカサニヌハズシテ》」と見ゆるは上の白菅に縁あり、又榛原をよめるは卷七「一一六六」に「衣丹摺牟眞野之榛原《キヌニスリケムマヌノハギハラ》」「一三五四」に「白菅之眞野乃榛原《シラスゲノマヌノハギハラ》」と見ゆるが、その地は攝津志矢田部郡に「眞野浦在2西尻池村1眞野池在2池尻村1」とあるその邊の地なるべしと攷證にいへるが、恐らくは是なるべし。この地は今神戸市中に入りて眞野町といふ町の名にその名殘をとどめたり。かくてこの眞野には池ありて菅の生じ、又その野には萩の多かりしことは上の歌どもにて知られたり。
○手折而將歸 舊訓「タヲリテユカム」とよみたるが、代匠記には「タヲリニユカム」かといひ、槻落葉(200)には「タヲリテユカナ」とよみ、※[手偏+君]解は「タヲリテイナン」とよみたり。先「歸」を「ユク」とよむことは、この卷「二四〇」の「天歸月」の下にいへるが如くなるが、「イヌ」とはよむべからず。次に「將」は「ム」にあつるが普通なり。「ナ」は希望の意あれば、「將」字をあつるは不十分なり。さればなほ古來のままなるをよしとす。さてここに手折らむとする目的物は語の上にては榛原なるが、原は手折りうるものにあらずして、その榛原の榛をいふことはいふをまたざるべし。かかる詞遣は今日にてはかた言として排斥せられむ傾あれど、この頃には珍らしからざりしことは上來屡例あることなり。たとへば卷十「一八六一」の「三笠之山者咲來鴨《ミカサノヤマハサキニケルカモ》」などこれなり。
○一首の意 いざ人々よ。早く故郷なる倭へ歸かむ。今ここの道の眞野の榛原はまことにうるはしきがこゝの榛を手折りて家づとにせむとなり。
 
黒人妻答歌一首
 
○黒人妻 この人の姓名傳はらず。又父祖も考ふるに由なし。
○答歌 この歌は上の眞野の榛原の歌に對するものなること知られたり。而してその上のは「吾妹子に」云々とあれば、上の二首は同時の詠にあらざることこの答歌によりて考へらるるなり。
 
281 白菅乃《シラスゲノ》、眞野之榛原《マヌノハギハラ》、往左來左《ユクサクサ》、君社見良目《キミコソミラメ》、眞野之榛原《マヌノハギハラ》。
 
(201)○白菅乃眞野之榛原 上の歌の語をそのまま用ゐたり。
○往左來左 「ユクサクサ」とよみ來れり。神田本に「ユクトクト」とあれど、「左」を「ト」よむは無理なれば從ひがたし。「ユクサクサ」といふ語の例は卷二十「四五一四」に「由久左久左都都牟許等奈久布禰波波夜家無《ユクサクサツツムコトナクフネハハヤケム》」あり。その卷「四五〇」には「去左爾波二吾見之此埼乎獨過者情悲哀《ユクサニハフタリワガミシコノサキヲヒトリスグレバココロカナシモ》」とあるは「ユクサ」の例なり。又卷九「一七八四」に「海若之何神乎齊祈者歟往方毛來方毛船之早兼《ワタツミノイヅレノカミヲイハハバカユクサモクサモフネノハヤケム》」とあるもこれらの例なり。この「サ」は如何なる語かといふに、契沖は「ゆきさまかへりさまなり」といひたるが、槻落葉に「このさは、あふさきるさかへるさなどいひてその時をもはらといふにそふる言《コトバ》也。行とき來るとき歸るときなどいはんが如し。さてこのさはもと世《セ》より移れる言と見えて、古事記に落《オチ》2苦瀬《ウキセニ》1而《テ》云々と見え、後に歌にあふせ、ここをせにせんなどいへるせとひとしかりけり」といひたるが、その「とき」の意といはれたるは然るべき事と思はるれど、「せ」と同じ語なりといふ説明には從ひかねたり。されど、これより後この語の解釋はわかりよくなれり。檜の嬬手には「此の左は十四(ノ)歌に安布志駄毛阿波能敝之太毛(三四七八)といへる古語は逢《アフ》時も不逢時《アハヌトキ》もと云ふ意也。此|志駄《シダ》を約《ツヾ》めて左《サ》と云ふなれば、往左來左と云ひて行く時歸る時と云ふ意になる也」といひ、古義も略同樣にいへり。ここにいふ「シダ」は今も「シナ」といふ語にて傳はれり。されど、この「シダ」即「サ」なりといふ説も亦從ふべき理由を知らず。上にあげたる卷九の例には「往方」「來方」と「方」の字をあてたるを見れば、「サ」はなほ「サマ」の義なるべし。なほこの外に、卷十八「四一三二」に「多多佐爾毛可爾母與己佐母《タタサニモカニモヨコサモ》」とあるも「縱樣」「横樣」の義なるべければ「サマ」といふ語を古「サ」と(202)のみいひしならむ。而してその「さま」は普通に空間的に方向をさすものとのみ考へられてあれど、古くは意味ひろくして、時間空間に通じてその方向をさしたるならむ。かくて卷九の「往方」「來方」の文字も解釋しうべきなり。
○君社見良目 「キミコソミラメ」なり。「社」を「コソ」にあつる事は卷二「一三一」の「人社見良目」の下にいへり。「ミラメ」も亦その下にいへり。
○眞野之榛原 この一句は、上の第一、二句をうけてくり繰し力強き感を與ふるに效果あらしめたるなり。
○一首の意 君の御歌にて、白管の眞野の榛原の景色のうるはしき事も想像せらるるなるが、そのうるはしき景色の眞野の榛原をば、君は遠く西の方に行くとてはそこを通りて眺めたまひ、又都にかへるとてはそこを通りて眺めたまひ見めで給ふならむ。あはれそのうるはしき景色の眞野の榛原をば。この「君こそ」といひたるにてわれは女なれば、自由の行動も出來ず、又公の任務にて往來する事などもなければたゞ御歌によりて思ふのみなり。さても/\うらやましきことよといふ如き心もちあらはる。
 
春日藏首老歌一首
 
○春日藏首老 この人の事は卷一「五六」の歌にはじめて見え、そこに注せり。既にいひたる如くこの人はもと僧なりしが、大寶元年三月に勅ありて還俗せしめられしなれば、この歌はその還(203)俗後の詠と見らる。
 
282 角障經《ツヌサハフ》、石村毛不過《イハレモスギズ》、泊瀬山《ハツセヤマ》、何時毛將超《イツカモコエム》、夜者深去通都《ヨハフケニツツ》。
 
○角障經 舊訓「ツノサハフ」とよみたるが、考に「ツヌサハフ」とよめり。この語は卷二、「一三五」に「角※[章+おおざと]經」とかけるありて同じ語なり。ただ「※[章+おおざと]」と「障」との別あるのみ。而してこれを「イハ」の枕詞とすることも同じ。
○石村毛不過 舊訓「イハムラモスキス」とよみたるが、代匠記に「石村を集中皆いはむらと點ぜり。これは磐余におなじくいはれなり。其證は續日本紀云、從五位下狛朝臣歌麿言(ス)本姓(ハ)是阿倍也。但當(テ)2石村(ノ)池邊(ノ)宮(ニ)御宇聖朝(ニ)1秋麻呂二世祖比等古(ノ)臣使2高麗國1因即號v狛、實非2眞姓1請復2本姓(ニ)1許之といへり。是は用明天皇の磐余(ノ)池邊(ノ)雙槻《ナミツキノ》宮の事なり。又仙覺抄に引る常陸國風土記云、石村玉穗大八洲馭宇天皇之世云々。是は繼體天皇の磐余(ノ)玉穗(ノ)宮の事なり。共に日本紀に見えたり。村の字日本紀にあれともふれとも點せる所あり。今はアレを上略せるなり。磐余の余字を用ひたるに同じ」といひてより、「イハレ」を正しと見る事になれり。この「イハレ」は神武天皇を神倭磐余彦天皇と申し奉るその「磐余」の地にして、古典に屡見ゆるなり。古事記には履中天皇の宮を「伊波禮之若櫻宮」とかけるが、日本紀には「磐余若櫻宮」と記せり。この地は前に神功皇后の時の宮城あり、後に清寧、繼體、用明の諸天皇の都したまひし地なり。古の十市郡は今高市郡に併せられたるが、延喜式神名帳に、十市郡の石村(ノ)山口神社とあるが、今は安倍の長門邑にあり。(204)又磐余若櫻宮の趾は磯城郡櫻井町附近なりといはる。されば、櫻井町より西、香久山附近に亘れる一體の地が古の磐余の地なりしならむ。ここに磐余池といふがあり(卷三、「四一六」)從ひて磐余池邊宮もその池の邊なりしことを思はしむ。
○泊瀬山 「ハツセヤマ」なり。今陸地測量部の地圖に初瀬山と記せる山は古來いへる初瀬山にはあらざらむ。古來の初瀬山は上にいへる磐余の邊より東の方長き谷間を初瀬川に沿ひて溯りつつ進み行くとき、その初瀬川の流の左方即ち北方に折れたる正面に見ゆる山にして、初瀬の町北野より眞直に進めば、その山の入口(今俗天神山といふ)に縁起式内の長谷山口坐神社あり。卷一「四五」に照せば恐らくは泊瀬よりその山に登り吉隱などを含める一帶の高地をさせりと思はる。この山は東、吉隱、北、萱森等に亘り、與喜山、消灰坂、堝倉山等の支別あり。
○何時毛將超 古來「イツカモコエム」といへり。槻落葉には「イツシモコエム」とよみたれど、これは從ひがたし。「イツ」といふ語に「シカ」を添へ「イツシカ」といふは稀ならねど、「シモ」をそふる如きは、歌には未だかつて見たることなし。しかも「イツ」といふ如き疑問をあらはす語には助詞「か」のつくは普通なれば、それを特に文字にあらはざさしても「か」を加へよむ勢なるなり。而して若し、それに「しも」の意を加へむとする時は「シカモ」といふ形にするなり。この「イツシカモ」の例は萬葉集に於いて用例少からねど、「イツシモ」といへるものは一も存せず。「イツカモ」の例は卷七「一三四六」に「姫押生澤邊之眞田葛原何時鴨絡而我衣將服《ヲミナヘシオフルサハベノマクズハライツカモクリテワカキヌニキム》」卷十七「三九六二」に「思多呉非爾伊都可聞許武等麻多須良牟情左夫之苦《シタゴヒニイツカモコムトマタスラムココロサブシク》」あり。今ここは「何時毛」を四音によむべき所なれは、「イツカ(205)モコエム」とよむべきことは疑ふべからず。何時超ゆるを得むかといふなり。
○夜者深去通都 「ヨハフケニツツ」とよみて古來異議なし。考に曰はく、「ふけにはふけいにつつの略なり」と。攷證はこれを非として曰はく「まへにもいへるごとく集中去の字は度々ぬの假字に用ひて、ここは更けぬといふをつつとうくる故にふけにつゝとはいへる也」と。まことにこの説の如し。「去」を複語尾「ヌ」にあて、それの各活用をこの字にて示せる例は卷一以來多くして一々あぐべからず。さて「つつ」は連用形所屬なれば、「ヌ」の連用形「に」より「つつ」につゞくは當然の事なるが、一二の用例をあぐれば、卷十五「三六六三」に「伊毛我麻都良牟月者倍爾都追《イモガマツラムツキハヘニツツ》」「三六八五」「伊毛我麻都敝伎月者倍爾都々《イモガマツベキツキハヘニツツ》」卷十七「四〇三〇」に「可須美多奈妣吉都奇波倍爾都追《カスミタナビキツキハヘニツツ》」卷十「二〇七六」に「烏珠之夜者闌爾乍不合牽牛《ヌバタマノヨハフケニツツアハヌヒコボシ》」などいづれも「ニツツ」とよむべきことは疑ふべからず。又卷七「一〇八四」の「夜者深去乍《ヨハフケニツツ》」は今と同じき語の例とすべし。
○一首の意 未だ磐余をもすぎず、かくては泊瀬山をいつ超えうべきか、はや夜はふけてしまひつつありといふなるが、「つぬさはふ」といふ枕詞はおのづから、この旅路のはかどらぬことをかたどれるさまにひびき、「夜はふけつつ」といふ語とその句の中止的語勢とによりて不安の感をよくあらはして、歌としては感深きものなり。元來藤原の都より磐余までは近きあたりなれば、今この歌の趣を以て察するに、何事かありて、泊瀬山のあなた、しかもそこよりよほど遠き地に急ぎ越ゆべき事のありて夜ふけに出でたちたるものなるべく、かくて心のあわただしさと、前途の遙けさと、夜ふけての心もとなさとが混一してこの歌を生ぜしものならむ。
 
(206)高市連黒人歌一首
 
283 墨吉乃《スミノエノ》、得名津爾立而《エナツニタチテ》、見渡者《ミワタセバ》、六兒乃泊從《ムコノトマリユ》、出流船人《イヅルフナビト》。
 
○墨吉乃 「スミノエノ」とよむ。これは卷一「六五」に「住吉」とかけると同じく、攝津國住吉郡にして名高き住吉神社のある所なり。そのよみ方等の事は卷一「六五」の下にいへり。
○得名津爾立而 「エナツニタチテ」なり。「エナツ」は和名鈔郡郷名に攝津國住吉郡に「榎津【以奈豆】」とあるは「エナツ」を後世訛れるなり。同じ和名鈔木類には「榎和名衣」とあり。この地は堺鑑に「朴津郷《エナツノサト》」と標して、「此處は北(ノ)橋東(ノ)野邊也と云傳り、又天神記録ニハ北莊住吉郡朴津郷トアリ」と見え、攝陽群談には「朴《エナ》津、住吉郡住吉ニ屬ス」と記せり。この地今明かならずといへども、堺鑑の説によらば、今の堺市の北住吉に近き所ならむ。しかも、そこに立ちて見渡せばとあれば、そこは海岸たりし地ならむ。
○見渡者 「ミワタセバ」異議なし。
○六兒乃泊從 舊訓「ムコノトマリヲ」とよみたるが、童蒙抄には「ウラヨリ」とせり。「泊」は「ウラ」とよむべき字ならねば、童蒙抄には從ふべからず。又「從」は「ヲ」とはよむべきにあらねば、舊訓も從ふべからず。略解に「ムコノトマリユ」とよめるに從ふべし。「ムコノトマリ」は攝津國なり。和名鈔、郡郷名攝津國武庫郡の下に「武庫 無古」とあり。この武庫郡と河邊郡との堺をなして流るる武庫河あり。その河口を「ムコノミナト」とよびしならむ。この「ムコノミナト」は古史に屡見え(207)たるが、日本紀神功卷に「務古水門」とあるに注して、通證は曰はく「和名鈔、武庫郡、風土記曰埋2其兵器1號曰2武庫1今所謂兵庫是也」とあり。これらよりして今の神戸市内の兵庫をこの「武庫」にあつる説專ら行はるるやうなれど、今の兵庫はもと八田部郡にして武庫郡よりは西に古の菟原郡を隔てたる地なり。こゝを古の武庫とする説は何等の根據なきものにして、ただ兵庫、武庫の文字の似たるよりせる推測にすぎず。兵庫は太平記梅松論等に兵庫島とあるなり。日本紀孝徳卷には天皇が有間温湯に行幸ありし時に還りて武庫行宮に停りたまふことあり。その行宮は武庫郡藏入村にありと攝津志にいへり。即ち有馬温泉の入口、寶塚より南して廣田社を經て西宮に至らむとする途上に當る。今武庫川は鐵道東海道線路の下の邊より二に分れ東は本流として、鳴尾の東を流れて海に入り、これを武庫川といひ、西は今津と鳴尾との間を流れて海に入る、これを枝川といふ。この間の三角洲に發達せるが鳴尾の地なるが、その分岐せる上流の東岸に東武庫、西武庫といふ地あり。されば古はその河口は、この分岐點の邊にてありしならむ。やがてこの邊が、古の武庫郷の地として同時に武庫の水門としての河口たりしならむ。而して今上の得名津を假に大和川の河口とし、この武庫の泊を今の武庫村の下の三角洲の頂點として、その距離をはかるに、直徑三里に滿たず、しかもその間には大阪灣上目に遮るものなくしてよく見渡さるる筈なり。(兵庫ならば直徑六里許なり)
○出流舶人 「イヅルフナビト」なり。出航する船を見て、その船に乘れる船人を思ふなり。
○一首の意 頗る明なり。即ち住吉の得名津に立ちて彼方をながめやれば、見渡しの武庫の湊(208)より船をこぎ出したるが、あはれその船にのれる船人よとなり。
 
春日藏首老歌一首
 
○春日藏首老 この人の事は既に屡いへるが、今のこの歌にてはこの人東國に下りしことありしなり。よりて按ずるに懷風藻にこの人の詩を載せ題して、從五位下常陸介春日藏老とあれば、東海道を下りて常陸に往復せしことは明かなり。されどこの歌の趣にては駿河にある一定の地より燒津の邊に行きその時に阿部の市を通過せしさまに見ゆれば、或は駿河の國司にてありしこともありしならむ。かくてこの歌も實地に就いてよみたりしものと知らる。
 
284 燒津邊《ヤキツベニ》、吾去鹿齒《ワガユキシカバ》、駿河奈流《スルガナル》、阿倍乃市道爾《アベノイチヂニ》、相之兒等羽裳《アヒシコラハモ》。
 
○燒津邊 舊板本「ヤイツヘニ」とよみたるが、古寫本中、類聚古集、古葉略類聚鈔、神田本には「ヤキツヘヲ」とよみたり。又考には「ヤキツヘニ」とよみ檜嬬手には「ヤキツヘ」と四言によみ、註疏これに從へり。この地は駿河國益頭郡の地にして、その地名日本紀景行卷に「是歳日本武尊初至2駿河1其處賊陽從v之曰、是野也麋鹿甚多、氣如2朝霧1足如2茂林1臨而應v狩、日本武尊信2其言1兩覓v獣、賊有2殺v王之情1放v火燒2其野1王知v被v欺、則以v燧出v火向燒而得v免。王曰殆被v欺則悉焚2其賊衆1而滅v之、故號2其處1曰2燒津1」とあるより起るといはれたり。延喜式神名帳に、駿河國益頭郡燒津神社とあるもその地にある神社なり。郡名今は「マシツ」とよみ、和名鈔にもしかよませたれど、これは二字とも音に(209)て「ヤキヅ」とよむべき筈なるを後世誤れるなり。上の燒津神社は舊入江庄燒津村にあり。その地は昔の府中今の靜岡より南三里の海岸にある村なり。この地は今東海道鐵道燒津驛の附近の地にして漁港として有名なるが、古の驛路にはあらねど、靜岡より宇都山を超えず、平地をつたひて南下し、又大井川方面より靜岡へ到らむには必ず通るべき地なり。この地名は今「ヤイツ」といへども、それは音便によれるものにして古くはもとより「ヤキツ」といひしことは疑ふべからず。即ちこの作者もこの地を通過したれば、この歌も出來しならむ。さてこれを「ヤキツヘニ」とよむべきか、「ヤキツヘヲ」とよむべきか、又はただ「ヤキツヘ」とよむべきかといふに先づここには「ニ」又は「ヲ」といふを示したる文字なし。この故に守部の説も考へらるべきが「ニ」といふ助詞は卷一以來前後の關係によつて加へよむべく、略して書ける例少からねば「ニ」といはむは必ずしも不都合なりといふべからず。「ヲ」の助詞も亦加へよむべくかかぬ例あり。「邊」も亦助詞「ヘ」にあてたる例あり。されば、ここの文字のみにてはいづれとも決しかねたり。これは下の「ユク」といふに對する關係と歌の意とによりて判定せざるべからず。「ユク」に對しては「何々ニユク」「何々ヲユク」「何々ヘユク」といづれもいひうべし。然れども、この三者各意同じからず。先づ、「燒津邊ヲ行ク」といへば、その燒津の邊を通ることなるが、この歌にてはその阿部の市道がその經過する道にあるべきなれば、燒津の地に阿部の市が立ちてあるならば、不可なきことなれど、燒津は阿部の郡にあらねば、「ヲ」といふことは不合理となるなり。次に「燒津邊に行く」といはむは如何といふに、これはその行く所の目的地が燒津にありて、その道中にて阿部の市(210)を通過せばよきこととなりて不合理はなし。又「燒津へ行く」といふ時はこれはその目的地は燒津と確定せりと限らず、「ヘ」は方向をさすに止まるものなるが、これにても不可はなし。而してその意よりすれば、「ヤキツヘニ」といふと「ヤキツヘヘ」といふと事實上はかはりなきなり。ここに於いて問題はこの二者のうちいづれをとるべきかといふ點にうつるべきが、これを決せむには、實例の有無と、歌調の如何とによる外あるまじ。然るに實例によれば、「行く」の目標には「ヘ」にて示すものと「ニ」にて示すとの二樣共に萬葉集に少からねば(一々例をあげず)これによりては決しうべくもあらず。守部は「必ず燒津方(ヘ)と云ふ處にて邊爾と云ふべき處にはあらず」といひたれど、決してかかる斷言は下し得ざる筈なり。加之「ヘニユク」といへる例は古事記下卷仁徳段に「夜麻登幣邇由玖波多賀都麻《ヤマトヘニユクハタガツマ》」本集卷十五「三六四〇」に「美夜故邊爾由可牟船毛我《ミヤコベニユカムフネモガ》」などあれば、これは破格にもあらず。されば、「ヤキツヘニ」とよむこと無理にあらず。然らば、今は殘る所音調の問題のみなるが、音調よりいへば、「ヤキツヘ」と強ひて四音にして調を破格にせざるべからざるほどの理由なきことなれば、結局「ヤキツヘニ」とよむをよしとす。
○吾去鹿齒 「ワガユキシカバ」とよむ。「去」を「ユク」とよむことは第一以下屡あり。「鹿」は複語尾「シカ」にあてたる借字ならむ。槻落葉には「去をゆきしとよみて、鹿は加の假字に用ひしのみなり。鹿をしかとよむにはあらじ。卷四に何時鹿《イツシカ》とあるも同例也」又「集中しか〔二字二重傍線〕には牡鹿と書、鹿の一字はおほくは加とのみよみたり」といひたるが、攷證はこれをよしとせり。然れども、必ずしもこれをよしとすべからず。何となれば「何時鹿」の「何時」は活用のなき語なれば、ここの「去鹿」とは(211)同一に論ずべからざるなり。次に、「何時」が「イツ」にして「鹿」が「カ」なることはそれにて不可なしとして、その中間に加ふる「し」は間投助詞なれば、意輕くこれをかかぬ事は集中例甚だ多し。「去鹿」の場合の「シ」は複語尾にして甚だ意重く、これをかかぬはかへりて異例に屬す。この故に久老は「去」一字を「ユキシ」とよむべしとせるならんが、第一卷よりこの卷に至るまで、この複語尾「シ」を全くかかずしてよませたる例は見えず。この故に久老の説はかへりて理に合はず。「鹿」は普通「カ」といふに用ゐたれど、當時「シカ」といふ語の無きにあらざりしことはいふまでもなく集中「鹿」を「シカ」とよまざるべからざる例は決して少からず。その例は一々あぐるまでもなく、古義の品物解にあげたるものを見ても思半にすくべし。
○駿河奈流 「スルガナル」とよむ。「スルガ」の地名に「駿河」の文字をあつる事は頗る古きものと見え日本紀等に用ゐたるも古來の用字を襲用せしものなり。これが「スルガ」といふ地名なる事は卷二十に「宇知江須流須流河乃禰良波《ウチエスルスルガノネラハ》」(四三四五)とあるにても見るべし。「駿」を「スル」とよむは、如何といふに、この「駿」は上聲の※[禾+享]韻にある字にして音尾は「n」なるが、この類の字の音尾の「n」は往々ラ行音に轉じ用ゐらるること地名の文字にあり。平|群《クリ》、群馬《クルマ》、八信井《ハシリヰ》、播《ハリ》磨、敦賀、訓覇《クルヘ》(伊勢)訓覓《クルヘキ》(安藝郷名)などその例なり。
○阿倍乃市道爾 「アベノイチヂニ」とよむ。阿倍は駿河國の郡名なるが、和名鈔には「國府在安倍郡」とあり。舊の駿河國府の所在は今の靜岡にして、この地は明治維新の頃まで府中といへり。駿河なる阿倍の市といふは、古、この府中の地に行はれたる市なるべし。凡そ市は古代に生活(212)必需品をば人々が一定の場所に集りて、賣買するをいふなるが、多くは月に何回と日を定めて開くを常とせり。この際にはその附近の人々或は賣る爲に、或は買ふ爲に多數の集るを常とせり。恐らくはこの地方が、その邊の物資の集散の中心地にしてこれが爲に國府を置かれ、國府の在りし爲に、更に一層發達して著しき市場となりしならむ。さてここに阿部の市道とあるは、阿倍の市に行く道といふ意にも、又阿部市の内の道路の意にも解せらるべきが、ここは恐らくは國府の地より燒津の方に行かんとしてその途上阿倍の市の立てる地を通過せしことなるべし。さらば市道とは市の行はれてありしその道のうちにての意なるべし。
○相之兒等羽裳 「アヒシコラハモ」とよむ。この「兒」は人をさして親しみいへる語なるが、ここに兒といへるは、若き女をさせるならむ。而して「等」は助字なりとはいへるが、或は二三の若き女をさしていへるか。もとより何處の人とは知らず、道行ぶりに見し若き女をめでていへるならむ。「ハモ」は上に屡いへり。
○一首の意 明かなり。燒津の方に何か所用ありて行きしかば、その時に安倍の市の立てる地を通りしが、その邊にて年若きうるはしき女に行きあひたり。あはれ、その女よといふなり。しかもここにわざ/\「駿河なる」とよめるには意あるべし。都にこそ、かかる雅なる女はあるべきに、田舍と思ふ駿河にもかく風流なる女の居るよといふ程の下心あるべし。
 
丹比眞人笠麿往2紀伊國1超2勢能山1時作歌一首
 
(213)○丹比眞人笠麿 この人傳も父祖も知られず。卷四に、この人の下筑紫國時作歌長歌及び反歌あり。この外に何等の所見なし。これを槻落葉に「沙彌滿誓が俗名也」と注したれど、それは「笠朝臣麻呂」にして「笠」は氏「麿」は名なるにこれは「笠麿」といふが名にして氏は「丹比」なれば、同じ人なりといふは明かなる誤なり。丹比眞人といふ姓の事は、卷二の末の方にいへり。
○超2勢能山時1作歌 「勢能山」は卷一「三五」に出でて、そこにて既に説明せる如く、紀伊國伊都郡加勢田庄背山村の北に在りて、古、大和國より紀伊國に超ゆるに必ず通るべき地にして、古、紀の關といふもここにありしならむこと上にいへり。その勢能山をこゆるときによめる歌なり。
 
285 梓領巾乃《タクヒレノ》、懸卷欲寸《カケマクホシキ》、妹名乎《イモノナヲ》、此勢能山爾《コノセノヤマニ》、懸者奈何將有《カケバイカニアラム》。【一云|可倍波伊香爾安良牟《カヘハイイカニアラム》。】
 
○梓領巾乃 「タクヒレノ」とよむ。「栲」は木の名にして、卷二の「栲※[糸+世]之長命乎」(二一七)の下にいへる如く、今の楮の類にして、これの繊維を以て布を織りて領巾とせるを「タクヒレ」とはいへるなり。「領巾」は卷二の「白妙乃天領巾隱《シロタヘノアマヒレガクリ》」(二一〇)にいへる如く、女人の領より肩にかくる布巾なり。ここにてはそのかくることよりして下の「カケ」といふ語の枕詞とせるものなり。
○懸卷欲寸 「カケマクホシキ」とよむ。「カケマク」は「カケムコト」の義なるが、「カク」とは卷一に「家在妹乎懸而小竹櫃《イヘナルイモヲカケテシヌビツ》」(六)にいへる如く「心にかくる」をいふあり。又卷二の「御名爾懸世流明日香河《ミナニカカセルアスカガハ》」(一九六)の如く名にかくる意なるあり。又卷二「一九九」の「挂文忌之伎鴨《カケマクモユユシキカモ》」の如く、言にかくる意あり。今、ここはそのいづれなるか。童蒙抄は「妹を慕うたる義也」といひ、略解には「故郷の妹を心にか(214)けて戀しきに云々」といひ、檜の嬬手には「言にかけていはまほしき妹が名を」といひ、古義、攷證等大略それに同じきが、こゝはいづれをよしとすべきか。若しここを妹を心に縣くる意とせば、「カケマク」は未だかけざる前にいふ語なるべければ、意をなさず。この故に、その説はとるべからず。さてなほその、縣くるは「名にかくる」と「詞にかくる」との二樣あり。然るに、若しここを名にかくる意とせば、下にも同じ意の語あるが爲に興味索然たらむ。ここは檜の嬬手以下の説の如く、その名を言にかけていふこととせざるべからず。而してかくの如き例は卷七「一四〇五」に「蜻野叫人之懸者《アキツヌヲヒトノカクレバ》」卷十二「二九一五」に「妹登曰者無禮恐然爲蟹懸卷欲言爾有鴨《イモトイヘバナメシカシコシシカスガニカケマクホシキコトニアルカモ》」卷十四「三三六二」の或本歌に「和須禮遊久伎美我名可氣※[氏/一]安乎禰思奈久流《ワスレユクキミガナカケテアヲネシナクル》」などみなその名を言にかけていふ場合なり。
○妹名乎 「イモノナヲ」なり。槻落葉には「今按に、この山のうるはしきに、妹といふ名をかけたらば、せめて旅路のなぐさにみつつしぬばむといふ意なり。さては妹の名とよむべし」といひ、古義これに賛成せり。註疏は更に一歩を進めて「妹がとは訓《ヨム》べからず。妹がといへばさす女ありて、其女のこととなるなり。イモノといへば、妹トイフ名のといふことになりて意いさゝかたがへり。この背山《セノヤマ》の美《ウルハ》しきに妹といふ名をかけたらばといふなり」といへり。この説は極端に走りたる嫌あれど、妹の名をかくといふことの説明は然るべし。「妹が名」といふ時はそは或る女の名をさす意強くきこゆ。妹の名といひても同じに聞ゆることは否定すべからねど、妹といふ語といふ方の意に聞ゆるやうにいはむには「ノ」の方まされり。
(215)○懸者奈何將有 舊訓「カケバイカガアラム」とよみたるが、童蒙抄に「カケバイカニアラム」とよめり。「イカガ」といふ語は「イカニカ」の音便の「イカンガ」の更に約まりたるものにして、平安朝の語遣なれば、とるべからず。「イカニアラム」とよむべきなり。「イカニ」の例は卷五「八一〇」に「伊可爾安良武日能等伎爾可母《イカニアラムヒノトキニカモ》云々」「八二六」に「我家夜度能烏梅《ワガヤドノウメノ》能波奈等遠伊可爾可和可武《ハナトヲイカニカワカム》」など多くして一々あぐるにたへず。ここの「カク」は山の名としてかけていふ意なり。「イカニアラム」は問ひかけたるなり。
○一云可倍波伊香爾安良牟 これは本文の末句「カケバイカニアラム」といへるを或本に「カヘバイカニアラム」とありと注せるなり。即ち背の山といふ名を「イモノヤマ」といふ名にかへば如何にあらむかといへりとなり。いひあらはし方少しく異なるやうになれど、結局同じ意に落ちつくものなれば、いづれにてもあるべし。槻落葉にはこれを「一本の句のたがへるにあらずしてうたひかへしたる也。かく終《ハテ》の一句をうたひかへたる例集中の歌にも處々みえたり。佛足石の歌は歌ごとにみなしかり」といひ、略解これに從へり。されど、古義には源嚴水の説とて「集中にさる例なきうへにかの佛足石の御歌は音樂のしらべに合するが爲に、一句を剰してよませたまひしと見ゆ。神樂催馬樂の歌などの如く、もとは三十あまり一もじの歌なるを句を多く添て長くうたふ類なるべければ、ここには例としがたしといふべし」といへり。按ずるに槻落葉にいへる如き「五七、五七、七七」の六句の體なる歌は卷十六に「伊夜彦乃神乃布本今日良毛加鹿乃伏良武皮服著而角附奈我良《イヤヒコノカミノフモトニケフラモカシカノフスラムカハゴロモキテツノツキナガラ》」(三八八四)あれば、古義の言は實際にあはず。さりとてか(216)くの如きは稀有の例なれば、槻落葉のいひ方も不十分なり。しかも、かゝる例ありとしても、「一云」とあるは字の如く「一云」にして、決して下の句を繰り返す由を示す語にあらねば、隨ふべからず。
○一首の意 考に「これは紀伊へ幸の度ならん。さて笠麿も老も從駕にて此山こゆる時、故郷の妹がことはさらでも戀しきに、若、此|背《セ》ちふ名をかへて妹ちふ名を此上にかけて呼ばはいかなる心ちせんずらんとはかなくゆくりかにおもへる事をかく問なり」とあり。これにて意明かなり。即ち妹の事の忘られず、その妹といふ語を口に出して云ひたく堪へられねば、その妹といふ名をば、この背の山の名に負はせて、即ちこれは背の山といふ名のある事は萬々承知なれどこれを「いもの山」といふ名にしては如何」と老に相談したるさまにして、如何にて候ふか、さやうなることになり申すまじきかといひて、一面は多少の戯心もありていへるなり。このかけとある、を「イモセノ山」といはば云々といひたるがあれど、さらば、興趣は無くなるなり。背の山といふ名をかへて「イモノ山」といふに改めむといふにあらで、「せの山」といふ語はその山の實體をいふものとしてそれに「イモノヤマ」といふ名を與へむといふ心地にてよめりと見ゆ。この心次の老の答歌にて明かに考へらる。
 
春日藏首老即〔左○〕和歌
 
○春日藏首老 この人上に屡見ゆ。
(217)○即〔左○〕和歌 「即」字流布本「朗」に作れるが、意通せず。大多數の古寫本「即」に作れるを正しとす。「即」は即時なり。國語にて「スナハチ」とよむ、その「スナハチ」も即時の義なり。されば上の歌を丹比笠麿がよめる時、それをきゝて直ちに和したるものなるが、然るときは春日老もつれ立ちて勢の山を越えたるものなるべし。
 
286 宜奈倍《ヨロシナベ》、吾背乃君之《ワガセノキミガ》、負來爾之《オヒキニシ》、此勢能山乎《コノセノヤマヲ》、妹者不喚《イモトハヨバシ》。
 
○宜奈侶 古來「ヨロシナベ」とよみ來りて異議なし。この語は卷一「五二」に「耳高〔左○〕之青菅山者背友乃大御門爾宜名倍神佐備立有《ミミナシノアヲスガヤマハソトモノオホミカトニヨロシナベカムサビタテリ》」と在りて、そこに卷六、卷十八の同じ語の例をもあげおき、なほその語の意をも釋しおけり。しかもそこには譯して「チヤウドヨク」などすべしといへるが、ここにはしか譯して端的に意をとりうべしと限らず。それ故に童蒙抄には「此句六ケ敷詞也。語釋未v決故先づよろしといふ事と計り見おく也」といへり。この語義は既にいへる如く、その後考の別記に説かれたるにて明かになれる如くなれど、ここに用ゐたるその本旨十分に明かにあらず。然るに契沖と新考との以外の諸家多く之を説かざるは如何。契沖は曰はく「よろしくにつかはしき名を云々」と。これ「よろしなべ」を背の山の名にかけていへりと説けるなり。されどこれは新考に「オヒキニシにかゝれり。ワガセノ君にかゝれるにあらず」といへるをまされりとす。しかも、余はなほこれを以下全體に對して「よろしなべ」といへりと思ふ。その意は下にいふべし。
(218)○吾背乃君之 古來「ワガセノキミノ」とよめるが、拾穗抄は「ワガセノキミガ」とよみ、槻落葉これに從へり。「ノ」にても「ガ」にても大なる違はなけれど、「ガ」といへば、「背」の君に力點をおくこととなるが故に「ガ」の方よからむ。新考には「從來ワガセノ君ガとよみたれど、さては通ぜず」といひ、「之の下に名といふ字のおちたるなるべし」としたれど、このまゝにて意通ずるなり。その理由は下にいふべし。
○負來爾之 「オヒキニシ」なり。これまでは貴君がその名として負ひて來りしその「勢」といふ名のつきたる山といふなり。
○此勢山乎 「コノセノヤマヲ」なり。上の歌の詞をとりたるなるが、なほ、今そこを越ゆとてよめるなれば、「コノ」とさせるはよく當れり。
○妹者不喚 舊板本「イモトハヨハム」とあれど、「不」を「ム」とするは誤なり。多くの古寫本に「ヨハシ」とあるをよしとす。拾穗抄もしかよみ、契沖以下の諸家もしかよめり。
○一首の意 前の歌もて笠麿が此の勢の山を妹山といはば如何にといへるに對へたるにて、否否、わが勢の君即ち貴君(即ち笠麿)がこれまでその名として負ひ來りしその勢といふ名のつきてあるこの勢の山の名は、まことに結構にてあるによりて、(よろしなべ)此の勢の山をば妹とは喚ぶことをすまじ。やはりセの山といふ名がよろしきによりてといふなり。さてかく見來れば「吾背乃君之」の下に「名」といふ字なくて意明かなるのみならず、「名」の字無き方かへりて、趣深く聞ゆるなり。
 
(219)幸2志賀1時石上卿作歌一首 名闕
 
○幸志賀時 「志賀」は滋賀にして近江の郡名なるが、これは何時何帝の行幸ありし時の事か明かならず。その出典とせし本には前後に委しく記ししならむを、ここの部分のみ摘出せし爲に不明になりしならむ。考に曰はく「紀【元正】養老元年九月美濃當耆郡へ幸の御かへさに近江の海を見ませしことあり。其度にやと思ふを石上麿公は既に今年三月に薨せし事同紀に見ゆれば、その度ならで文武天皇の御時などにもここの幸有しにや、おぼつかなき事なり」といひ、槻落葉には「さてこの幸《イテマシ》の事は後人の左註にも不審のよしいへり。今按に續紀養老元年九月戊申|行2至《イテマシテ》近江國1觀2望淡海1とあれば、この時のにやとおもふに、さては石上卿は豐庭を申べけれど、豐庭ならば、卿とのみいひて、名いはぬは集中の例に違ひ、理もなし。故此石上卿を麻呂とすべけれど、公は此|行幸《イテマシ》よりは以前《マヘ》に薨し給へり。【麿公は養老元年三月に薨し給へり。】かた/\いぶかしくて尚考るに、同紀大寶二年大上天皇【持統】三河より美濃に幸の事あれば、そのをりや近江にもいでましけむ。さては麿公として叶へり。後に官位の高くおはしまししかば、あがまへて名いはぬなるべし」といひ略解これに從へり。又古義には續紀に見ゆる養老元年九月戊申の行幸の折の事とし、石上卿は乙麿なりとせるが註疏はこれを非として、略解の説をよしとせり。先づ按ずるにこの「幸志賀時」はこの「石上卿作歌」と次の「穗積朝臣老歌」とに冠するものなれば、二者の同時に行幸に供奉したる時の事ならざるべからず。而してその二人のうち石上卿は問題となるべきもの(220)にして穗積朝臣老のみ明かなれば、先この人の事蹟につきて大體の時代を按ずるを以て基とせむ。續紀に「大寶三年正月甲子遣2正八位穗積朝臣老于山陽道1」とあり、又和銅三年正月朔に「天皇御2大極殿1受v朝、隼人蝦夷等亦在v列、左將軍正五位上大伴(ノ)宿禰旅人、副將軍從五位下穗積朝臣老(中略)等於2皇城門外朱雀路東西1、分頭陳2列騎兵1引2隼人蝦夷等1而進」とあり、同六年四月に從五位上に叙せられ、養老元年正月に正五位下に叙せられ、三月石上麻呂薨じたる時には「式部少輔穗積朝臣老爲2五位已上之|誄《ルイ》1」とあり、二年正月に正五位上、九月に式部大輔に進み、六年正月に「坐3指斥2乘與1所2斬刑1而依2皇太子奏1降2死一等1配2流佐渡島1」せられ、天平十二年六月に大赦在りて召して京に入るを免さる。さて天平十六年二月には大藏大輔の官に在りて恭仁宮の留守とせられたり。さてこの集の頃に石上氏にて卿と呼ばるべき人は石上朝臣麿と乙麿と豐庭と三人なり。石上麻呂は壬申の亂に弘文天皇の敗走せられたる時にも從ひ、天武の御世に大乙上を授けられ、五年に遣新羅大使となり、翌年正月歸朝す。持統天皇の朝に筑紫に赴いて新城を監し、位は直大壹に進み文武天皇の朝に筑紫總領に任ぜられ、尋いで中納言に任ぜられ、大寶元年に正三位を授けられ、大納言兼太宰帥となる、慶雲元年右大臣に任じ、和銅元年に左大臣に轉じ、養老元年三月に薨しぬ。されば、この麻呂を以て卿といひうべき時は文武天皇の御代以後とすべし。次に乙麿は神龜元年二月以前に正六位下にてありしが、この時に從五位下に叙せられ、天平年中に丹波守となり、左大辨に陞りしが、天平十一年に久米若女を姦せし罪によりて土佐に流され、十三年九月に大赦により、召還されて十五年には從四位上を授けられ、常陸守右大辨中務卿(221)等に歴任し、天平二十三年に、從三位を授けられ、天平勝寶元年に中納言兼中務卿に拜し、二年に薨じぬ。この人に卿といふべき時は嚴密にいへば天平二十二年以後なるべきが、その頃まで穗積老が世に在りしか否か詳かならず。然れど、その極官を以てその前の時の事を稱することは古今に通じて行はるるものなれば、その以前として考ふれば、養老六年正月より十二年六月までは穗積老が流刑に在り、石上乙麿は十三年九月まで土佐に流刑につきてありしが故に、結局養老五年以前か、天平十三年九月以後とせざるべからず。かくて又一方この邊の歌の時代を見るに大體藤原朝か若くは寧樂朝の初の頃のものと見ゆるものなるが故に、養老五年以前にその行幸を求めざるべからず。然るときはその頃に淡海に行幸のありしは上にもいへる元正天皇の養老元年九月に美濃國當耆郡多度山の醴泉に行幸ありし途次に行幸ありし一事をみるのみなり。それは「戊申(八日)行(テ)至2近江國1觀2望淡海1、山陰道伯耆以來、山陽道備後以來南海道讃岐以來、諸國司等詣2行在所1奏2土風(ノ)歌舞1」とあるを見れば、大規模の行幸なりしを見る。從つて高官の供奉せし盛儀なりしならむ。而しこれ實に養老の年號を定められし程の大事件なりしなり。而して既に槻落葉にもいへる如く、左大臣石上朝臣麿は三月に薨じてこの行幸の折には石上氏にて卿といふべき人を見ず。然れども古義が、これを乙麿の事として、「この行幸の時は未だわかゝりければ六位の官人にて從駕《ミトモツカ》へしなるべし。卿とある後に三位になられければ前にめぐらしてたふとみ書るなり」といへるが、これは一往は聞えたり。然れども註疏に「これいみじき非《ヒガゴト》なり。そは父の左大臣麿養老元年三月に薨ぜられたれば、一年喪を行はる(222)る身を以ていかでか九月に行幸の供奉せらるべき。【三月より九月まで二百日になれるかならぬかほどなり。】今も要官に居る人にて暫しも御側を放たれがたくば奪情從職にて從駕もすまじきにあらねど、乙麿はその時いまだ六位の官人などにてありしなるべければ、要職なるべきにあらず。決《カナ》らず喪にゐて家にありしこと疑なし」といへる如くにして、乙麿の從駕も信ずべからず。然ればその以前に別に近江に行幸の事ありて、石上麻呂、穗積老二人共に供奉の中にありしことありしならむか。されど、今にしていつの時と定めてさすことを得べからぬ事なり。しかもなほ試みに、本集中に「某卿」とかける例を通じて見るに卷六の「一〇二七」の歌の左注に「右一首右大辨高橋安麿卿語云、故豐島采女之作也云々」とあるが、この左注は後人の加へしものにあらず。而して、この人續紀にては從四位下太宰大貳より高き官位に至れりと見えざるに、ここに卿とかけるは如何。若し、かく三位ならぬ人にても特に卿と書くことありとせば、石上卿も石上麿及び乙麿以外の人たりしかも知られず。よりて本集を調査するに、卷五「八一五」の作者には大貳紀卿とありてその名を記さねど、太宰大貳は五位又は四位の官なれば、後世にては卿とはいはぬものなり。然るに、大貳紀卿といへり。これに照せば高橋安麿も太宰大貳にてありし故かと見るに、明かに「右大辨高橋安麿卿」とあれば、右大辨の官を以て卿と稱ふるに足ると認めしならむ。且つ右大辨は太宰大貳よりは上階の官なれば、大貳を卿と稱する以上、大辨官を卿といふも無理にはあらず。かくて考ふれば卷四「五五五」の詞書に大貳丹比縣守卿とあるも、この人が、後に中納言に至りしが爲にあらずして大貳が卿と稱するに足ると考へられたりしが故なるべし。なほ(223)又卷六「一〇一九」の作者に石上乙麿卿とあることも一考を要す。この人は後に中納言まで至りし人なれど、この卷にいへる土佐に流されし時は左大辨たりしなり。今上の高橋安麿の例を以てせば、これも、その左大辨の官に在りしが故に卿といひしものといふべきなり。更に又卷五「八九五」の左注に、山上憶良が遣唐大使丹比廣成に歌を呈したる宛名に「大唐大使卿」とあり。廣成は後に中納言まで至りたれど、これは全く當時のものにして後人の追記とは同一に論ずべからず。即ち遣唐大使も當時亦卿と稱すべき地位たりしなり。以上の事を列記すれば、
 右大辨高橋安麻呂卿   (從四位下)
(左大辨)石上乙麻呂卿  (從四位下)
 大貳紀卿
 大貳丹比縣守卿     (從四位下)
 遣唐大使(丹比廣成)卿 (從四位上)
となりて、當時卿と稱せらるべき地位は略想像しうべし。後世までも參議は四位にても卿と稱する慣例なるはいふまでもなし。さて茲に續紀を案ずるに、和銅七年十月に從四位下大伴宿禰旅人を左將軍に任ぜられ、從四位下石上朝臣豐庭を右將軍に任ぜられたることあり。(その下に各副將軍あり)この豐庭は續紀養老二年五月の條に「從四位上石上朝臣豐庭卒」とあれど、その傳は知られず。今上の大辨官、太宰大貳、遣唐大使を卿と稱するに照せばこの將軍を稱するに卿を以てするは肯て不條理と云ふべからず。この時の左右將軍は武官の最上級にして(224)後世の大將といふに匹敵するものなれば、これを卿と稱するは大辨官、大貳を卿と稱するよりも適切なりといふべし。
 なほこの頃、卿といふ文字にてあらはしたる國語を考ふれば、この事のます/\當るを見るべし。この事に於いて高官の人を呼ぶ特種の敬稱は卿と大夫との二種のみを見る。而して後世は大夫は四五位以上の人をさし、卿は參議以上大納言まで、又三位以上のをさし、大臣は公と稱したれど、この頃は公を用ゐず、後世の公卿といふべきをすべて卿といひてその間に區別を立てざりしことは本書のみならず、續日本紀を見ても明かなり。この故に續紀には屡「卿大夫」といふ語を用ゐ、又「王卿」といふ語を用ゐ、王と卿との間に公といふ語を置かざりしなり。さてそれらを國語にて何といひしかと考ふるに、卿大夫を一括すれば、「マヘツギミ」といふべきものなるが、別ちていふときは「大夫」を「マヘツギミ」とよむことは既に屡いへるところなるが、卿をはそれに對して區別してはまさに「オホマヘツギミ」とよむべきならむ。かくよむときは將軍はまさしく「オホマヘツギミ」たること明かなり。卷一「七六」の和銅元年天皇御製歌にある「物部乃大臣」は「モノノフノオホマヘツギミ」とよむべきが、それをここにいへる文字にあつるときは「公」字を用ゐぬが故に「物部乃卿」と書かむ外はあるべからず。然らば將軍即ち「物部乃卿」といふべく、石上氏はもとより物部氏の正統なれば、まさしく「物部のおほまへつぎみ」たり。これを以て石上卿とかけるが、この右將軍廣庭をさせりとすること決して不條理にあらずと考ふ。廣庭はかの行幸のありし年の翌年に卒したる人なれば、この點に於いて何等の矛盾も不條理も(225)存せざるなり。
○石上卿作歌 「イソノカミノオホマヘツキミ」のよめる歌といふべし。その人の事は上にいへり。
○名闕 流布本大字にせるが、古寫本すべて小字にせるを正しとしてこれによる。出典とせし本にもとより名の記してあらざりしことを注せるが、これは次の左注と共に後人の加へしならむ。
 
287 此間爲而《ココニシテ》、家八方何處《イヘヤモイヅク》。白雲乃《シラクモノ》、棚引山乎《タナビクヤマヲ》、超而來二家里《コエテキニケリ》。
此間爲而 流布本に「コヽノニシテ」とよみたるが、西本願寺本、細井本、温故堂本、大矢本、京都大學本は「コヽニシテ」とよめり。契沖本は幽齋本に「コヽニシテ」とよめるによるべしといひ、拾穗抄にもしかよめり。槻落葉には「コヽニヰテ」とよむべしとして、別記にその論あり。それは「卷三【三十四丁】獨爲而見知師無美《ヒトリシテミルシルシナミ》(三六六)とあるは卷七【三丁】獨居而見驗無《ヒトリヰテミルシルシナミ》(三六六)卷(ノ)八【二十四丁】獨居而物念夕爾《ヒトリヰテモノモフヨヒニ》(一四七六)同【二十六丁】獨居而寢不所宿《ヒトリヰテイノネラエヌニ》(一四八四)卷十二【七丁】獨居戀者辛苦《ヒトリヰテコフレバクルシ》(二八九八)卷十三【四十三丁】獨居而君爾戀爾《ヒトリヰテキミニコフルニ》と見え、爲〔二重傍線矧をゐ〔二重傍線〕とよめるは卷四【四十丁】向居而《ムカヒヰテ》(六六五)とあるを卷十五【三十五丁】牟可比爲而《ムカヒヰテ》(三七五六)と書、また卷廿【三十四丁】難波爾伎爲而《ナニハニキヰテ》(四三九八)など書る例あり。又卷三【二十二丁】此間爲而《コヽニシテ》(今の歌)とあるは卷四【二十八丁】此間在而《コヽニアリテ》(五七四)卷(ノ)八【四十一丁】此間在而《コヽニアリテ》(一五七〇)と見えて在《アリ》と居《ヰ》とはひとつ意なれば是もゐ〔二重傍線〕てとよむべし」といへり。この説一往理ある如くなれど、必ずしも從ふべから(226)ず。先づ、第一に、槻落葉にあげたる例は「ヒトリシテ」といひても「ヒトリヰテ」といひてもよしといふことと、「此間爲而」と「コヽニアリテ」との關係をあげたれど、「コヽ」を受けたる場合には「シテ」といふべからずして、必す「ヰテ」ならざるべからずといふ證を一もあげざるなり。「ヒトリシテ」とも「ヒトリヰテ」ともいひうるといふ事の成立は直ちに「コヽニヰテ」といふ語の證とならざるべからざる必然性なき筈なり。この故に、「コヽニシテ」がよきか、「コヽニヰテ」がよきかは、別に觀察すべき必要あり。而してこれらを決定すべき證としては「爲而」の字面を用ゐること能はざれば、他の例によらざるべからず。かくて必ず「ココニヰテ」とよむべき例を本集に求むるに一もこれを發見せず。然らば、「ココニシテ」は如何といふに、卷十九「四二〇七」に「此間爾之弖《ココニシテ》」あり、卷十四「三五三八」に「和波己許爾志弖《ワハココニシテ》」等あり。されば、なほ「コヽニシテ」とよむをよしとす。この「シテ」は「アリテ」の代用なることは上來屡述べたる所なり。この近江の地に於いて、大和國の方をかへりみるなり。
○家八方何處 舊本「イヘヤモイツコ」とよみたるが、槻落葉に「イヘヤモイヅク」とよめり。「何處」は「イヅク」なるべきこと「二七五」にいへり。大和國なるわが家が何處にあるかと顧みるなり。「ヤモ」の係に對して「イヅク」の下に述語あるべきを省きたるなり。以上一段落。
○白雲乃 「シラクモ」はこの卷「二四三」にあり。
○棚引山乎 「タナビクヤマヲ」なり。「タナビク」といふ語は卷二「一六一」に「向南山陣雲之《キタヤマニタナビククモノ》」の下にいへるが、「ナビク」といふ語に「タ」といふ接頭辭の添ひて、意を強めたる語なり。白雲の山に靡(227)きかかるをいふ。
○超而來二家里 「コエテキニケリ」なり。白雲のたなびける山を見て、あの山を超えて來にけりと回想して詠歎せるなり。
○一首の意 二段落なり。近江の志賀に在て曰はく、今ここに在りて思ふ。わが故郷の家の在る所は何處にかあるらむ。(第一段)顧みれば、彼方遙かに白雲のたなびける山の見ゆるが、われはあの山をこえてきたるなるか、さても遙かに遠くも故郷をさかり來れるよとなり。卷四「五七四」に「此間在而筑紫也何處《ココニアリテツクシヤイヅク》、白雲之棚引山之方西有良思《シラクモノタナビクヤマノカタニシアルラシ》」と詞は似たるが、この方感興深し。
 
穗積朝臣老歌
 
○穗積朝臣 この人の事上にいへり。同じく行幸に供奉してよめるなり。
 
288 吾命之《ワガイノチシ》、眞幸有者《マサキクアラバ》、亦毛將見《マタモミム》、志賀乃大津爾《シガノオホツニ》、縁流白浪《ヨスルシラナミ》。
 
○吾命之 古來「ワガイノチシ」とよみ來れるを考に「ワキノチノ」とよみ、槻落葉に「ワガイノチノ」とよめり。考の説は「ワガイノチノ」を約めたりと見え、槻落葉にそを約音にせずしていへるなるが、この二書共に、古來の訓の不可なる由を説明せず。今考ふるに古來の訓に何等の不都合なきのみならず「し」といふ方、意強く聞えて可なりとす。抑も、接續助詞「ば」にて導かれて條件をなす句にありては、その條件中の力點を示すに「し」助詞を加ふることあるは古今に通じたる一定(228)の現象なり。たとへば、卷四「五三九」に「吾背子師遂常云者人事者繁有登毛出而相麻志呼《ワガセコシトゲムトイハバヒトゴトハシゲクアリトモイデテアハマシヲ》」又「五五三」に「天雲乃遠隔乃極遠鷄跡裳《アマグモノソキヘノキハミトホケドモ》。情志行者戀流物可聞《ココロシユカバコフルモノカモ》」卷十八「四一一三」に「左由理花《サユリバナ》、由利母安波無等奈具佐無流許己呂之奈久波安末射可流比奈爾一日毛安流部久母安禮也《ユリモアハムトトナグサムルココロシナクバアマザカルヒナニヒトヒモアルベクモアレヤ》」卷六「一〇一八」に「白珠者人爾不所知《シラタマハヒトニシラエズ》、不知友縦《シラズトモヨシ》、不知友吾之知有者不知友任意《シラズトモワレシシレラバシラズトモヨシ》」卷十八「四二五五」に「伊都波多野佐加爾蘇泥布禮和禮乎事於毛波婆《イツハタノサカニソテフレワレヲシオモハバ》」卷四「四八六」に「山羽爾味村騷去奈禮騰吾者左夫思惠君二四不在者《ヤマノハニアヂムラサワギユクナレドワレハサブシヱキミニシアラネバ》」など例多く一々あぐべからず。
○眞幸有者 「マサキクアラバ」この句卷二「一四一」の有間皇子の結松の御歌にあり。意もそこにいへるが、恙なくあらばといふに近し。
○亦毛將見 「マタモミム」この次に來て再び見むを希ふ意なり。卷二「一四一」の有間皇子の歌の「眞幸有者亦遠見武《マサキクアラバマタカヘリミム》」「一四二」の長忌寸意吉麿の歌の「復將見鴨《マタミケムカモ》」の意と同じ。
○志賀乃大津爾 「シガノオホツニ」なり。志賀は上にあり。大津は卷一「二九」にいへる大津宮のありし地なり。
○縁流白浪 古來「ヨスルシラナミ」とよめり。かくよまむより外に途なかるべきが「縁」は通常「ヨル」とよむ字にして「ヨス」とよむは異例なり。或は「借」を「カス」とよめる如く自他をかよはしていへるか、未だその據をしらず。さてここは白浪のみをいへるにあらずして、その風景をいへるなり。
○一首の意 先づ考に「よきけしきに向て命を思へる歌ども集中に多し。上の垂麻呂の歌(二六(229)三)の類なり」といへるを思ふべく、又西行が「命なりけりさやの中山」とよめるをも思ふべし。この淡海の景色はまことに美しくて命ありたらばこそかかるめでたき行幸に御供してかかるよき景色をも見しなれ。あはれ、行幸の御供なれば、このまゝ立ち去るべきが、今一度來て見たきものなるよ。命あらば、今一度來むと思ふとなり。
 攷證には卷十三なる長歌の反歌「三二四一」に「天地乎歎乞祷幸有者又反見思我能韓埼《アメツチナケキコヒノミサキクアラバマタカヘリミムシガノカラサキ》」といふ歌ありてその左注に「但此短歌者或書云穗積朝臣老配2於佐渡1之時作歌者也」とあるをとりて「同じをりによめるなる事明らけし。さるをまへの幸志賀時の同じ歌とするは誤れり」といひたり。されどその歌とこれとは詞は似たれど、同じ歌にあらざるのみならず、かしこには、或書云といひたるのみにて、明かに主張せるにもあらず。且つ又ここの左注にあらねば混一すべきにあらねば尚ほ從ふべからず。加之かの歌とこの歌とを合せて見れば、かへりて穗積老がこの景色に深く心を傾けしことを見るに足るといふべきをや。
 
右今案不v審2幸行年月1
 
○ これは既にいへる如く石上卿を麿大臣と考へたりしが爲に不審と思ひしをそのまま注したるものなり。「幸行」は今「行幸」と書くと顛倒せれば、誤と思ふ人あらむが、略解にもいへる如く、幸行とも古書にかく事なれば、誤にはあらず。考にはこれを「いふにもたらず」と罵れるが、何故なるかをいはず。これによりて攷證の如き論もいでたるならんが、古人の篤實なるを認めざ(230)るは穩かならず。
 
間人宿禰大浦初月歌二首 大浦紀氏見六帖
 
○間人宿禰大浦 間人は「ハシヒト」とよむ。間人宿禰は新撰姓氏録に「間人宿禰、仲哀天皇皇子譽屋別命之後也」と見ゆ。但しこの人は官位も父祖も史に記載なければ、知り難し。
○初月歌 「初月」は目録に「ミカツキ」と傍訓を施せるが、卷六「九九三」の歌は詞書に「初月歌」とありて歌には「月立而直三日月之眉根掻《ツキタチテタダミカヅキノマユネカキ》云々」とあるにて「初月」を「ミカツキ」とよめるをみる。「初月」といふ熟字は支那にあるをかりたるなり。盧思道の詩に「初月正如v鉤、懸光入2綺樓1」趙冬※[日+羲]の詩に「艤舟得2初月1」などその例なり。元來「初月」は月初の月の義にして必ずしも三日の月に限らざるものなれど、「ミカヅキ」とよみて可なるべし。
○大浦紀氏見六帖 この七字は細井本にあるのみにして他の古寫本になし。それは古今六帖の著ありし後の人の加へたるものにして、原本にはもとより無きものなれば削るべきなり。これは「大浦は紀氏の六帖に見ゆ」といふを無學の人のかき誤れるなり。紀氏六帖は古今和歌六帖の事にして、袋草子に「貫之女子所爲故爲2紀家六帖1」とあるにて紀氏六帖といふ由を知るべし。さて六帖の月の歌の部に「間人大浦の歌」(卷九「一七六三」に似たるもの)を載せたれど、この二首は載せず。
 
289 天原振離見者《アマノハラフリサケミレバ》、白眞弓《シラマユミ》、張而懸有《ハリテカケタリ》。夜路者將吉《ヨミチハヨケム》。
 
(231)○天原振離見者 これは卷二「一四七」の「天原振放見者」と殆ど同じくて、ただ「放」と「離」との文字の異なるのみなり。「放」も「離」も共に今も「ハナル」とよむべきことは共通せるが、その或る點よりはなるること、距離をおきてあることを「サク」といふなれば「放」を「サク」とよむと同じ意にて離を「サク」とよむべし。卷四「六六〇」に「汝乎與吾乎人曾離奈流《ナヲトワヲヒトゾサクナル》、乞吾君《イデアギミ》、人之中言《ヒトノナカゴト》、聞起名湯目《キキコスナユメ》」とある「離」又卷十三「三三四六」の「琴酒者國丹放嘗別避者宅仁離南《コトサケハクニニサケナムコトサケハイヘニサケナム》」の「離」みな「サク」の語にあてたるなり。意は既にいへる所なるが、ここにては天をふり仰ぎて見ればの意なり。
○白眞弓 「シラマユミ」なり。白木の眞弓といふこと。「シラマユミ」の語は卷九「一八〇九」卷十「一九二三」に「白檀弓」卷十「二〇五一」卷十一「二四四四」卷十二「三〇九二」に「白檀」とかけるあり。檀といふ字にて示さるる一種の木ありて黏りててづよき故に上代にはこれを以てそのま弓につくれり。かくて「マユミ」といふ木の名ともなれるなるが、ここにてはその「マユミ」といふ木にて作れる弓をいふ。而して檀にてつくれる弓は白木のままにて用ゐる故に「シラマユミ」の名あり。さてこの語は多くの場合は枕詞なれど、これは枕詞にはあらずして、實際の弓をさす。かくて下の句と一になりて弦月の形を形容せるなり。
○張而懸有 舊訓「ハリテカケタル」とよみたるが、代匠記に「カケタリ」とよみて句ともすべきかといひたるが、後の學者これに從へり。いかにも、ここを「タル」といひて下につづけては意をなさず、ここにて切りて一段落とすべし。これは上の句とつづいて、白眞弓を張りてかけてありといふなり。これは弦月をゆみはりつきといふに同じく、初月のさまを弦を張りたる弓のさま(232)になぞらへてその空に見ゆるは張りたる弓を空に懸けたるさまに見ゆとなり。和名鈔に「弦月、劉煕釋名云弦【此間云由美波利有上弦下弦】月半之名也。言其形一旁曲、一旁直若v張2弓弦1也」とあり。
○夜路者將吉 古來「ヨミチハヨケム」とよめり。槻落葉には「吉」の字を古本に「去」とありといひ、その古本の方よしとして、「ヨミチハユカナ」とよみ、略解は「吉一本去に作る、さらば、ゆかむともゆかなともよむべし。一本の方まされり」といへり。而して、古義、註疏はこの一本の方によれり。然るに、今傳ふる古寫本すべて「吉」字にして「去」をかけるはあらず、僅に京都大學本に、「去イ」と傍書せるのみなれば、この一本なるものは如何なるものか、容易く信じ難きのみならず、このままにて意通ずれば改むるに及ばざるべし。加之「ヨミチハヨケム」といふ語はもとより「夜道ヲユクニヨカラム」の意なれば「ユカム」の意を内に含みて、更に、その上に行きよからむといへるなれば、「ヨケム」の方よし。「ヨケム」は「ヨカラム」の約り轉ぜし語なるが、本集にはその假名書の例を見ず。卷十二「三〇六九」に「赤駒之射去羽詐眞田葛原何傳言直將吉《アカゴマノイユキハバカルマクズハラナニノツテゴトタヾニシヨケム》」とあるは日本紀卷二十七にある「阿筒悟馬能以喩企波々筒屡麻矩儒播羅奈爾能都底擧騰多※[手偏+施の旁]尼之曳鷄武《アカゴマノイユキハバカルマクズハラナニノツテゴトタダニシエケム》」と同じ歌にして用字の差のみなれば、「將吉」は「エケム」とよむべきものと思はる。然らばここも「エケム」とよみて可なるが如し。按ずるに、かゝる「ケム」は卷十六「三八五一」の「貌孤※[身+矢]能山乎見末久知加谿務《ハコヤノヤマヲミマクチカケム》」の「チカケム」古事記中卷の倭建命の御歌の「伊能知能麻多祁牟比登波《イノチノマケムヒトハ》」の「マタケム」の如く、「近くあらむ」「全くあらむ」といふと同じ語格によれるものなり。而してその語幹は古は「エシ」なりしかど、この頃は「ヨシ」なりしが故に「ヨケム」とよむを穩かなりとすべし。
(233)○一首の意 これを釋するに、契沖は「白眞弓を張て天に懸つれば、山賊などの恐なくして、今行夜道はあしからじとなるべし」といひ、古義これに從ひ、註疏に至りてはそれを敷衍して軍防令などを引きてことごとしき解をなしたれど、この歌にはいらぬ事なり。ここには「しらまゆみ」の「しら」といふが所謂字眼として力強くはたらけるを見るべし。この歌の前後は旅の歌なれば、ここも旅の氣分ありと見らるるが、今旅に出で立ちて、天を仰ぎ見れば、上弦の月が、白眞弓をかけてある如く、著しく見ゆ。かく白くあかるくあれば、夜路をゆくにはゆきよからむとなり。ここに白眞弓の「白」といふ語が、そのあたりをあかるく感ぜしむる力を有する故に、ここに歌の主力をおくはよけれど、契沖のやうにいひては歌としての興味をそぐこと甚し。
 
290 椋橋乃《クラハシノ》、山乎高可《ヤマヲタカミカ》、夜隱爾《ヨナバリニ》、出來月乃《イデクルツキノ》、光乏寸《ヒカリトモシキ》。
 
○椋橋乃 古來「クラハシノ」とよみ來て異論なし。然るに「椋」字は本來支那にても一種の木の名にして本邦にて今「ムク」とよみ來れる字にして、類聚名義抄にも和名砂にも本草和名にもかくよめり。然るに、これを「クラ」とよむは如何。本集中この字を「クラ」とよむべき例は卷八「一六三八」の左注に「椋橋部女王」あり。これはこの卷「四四一」の作者の「倉橋部女王」と同じ人なるべし。又卷九「一六六四」の歌は、卷八「一五一一」の歌と全く同じ歌なるが、「一六六四」には「小椋山」とかき「一五一一」には「小倉乃山」とかけり。又ここの山をば、古事記下卷には「倉椅山」とかけり。又卷九「一六九九」の「巨椋乃入江《オホクラノイリエ》」は、今もある山城の「オグラノイケ」のことなり。延喜式神名帳に「山城國紀(234)伊郡大椋神社、同久世郡巨椋神社」はこの池の名に因みあり。新撰姓氏録に「池上椋人」あり。いづれも「椋」を「クラ」とよめる證なり。又靈異記上に「直椋家長公」といふ人あり。これについて、※[木+夜]齋の攷證に曰はく「谷川氏曰椋與倉同訓。字書未v得2其義1。説文(ニ)廩之圓謂2之※[因の大が禾]1方謂2之京1蓋據v之也。按以v京爲v倉與2京都字1混、故加2木傍1分v之也」とあり。大體かくの如くにして「椋」を「クラ」の義にあつることは確定せりといへどもなほ多少の疑問あり。その一は、この「椋」を「京」即ちくらの義に用ゐるは支那よりの傳來か、本邦にて木を加へしかといふことなり。支那にても「衰」が本來「ミノ」の義なりしものを「オトロフ」といふ方に專ら用ゐるやうになりては草冠を加へて「蓑」といふ文字をつくり、「然」は本來「モユ」の義なるが、「シカリ」の義に專ら用ゐられてより火扁を加へて「燃」字をつくり、又「采」は本來「トル」の義なりしものが「風采」などの義に專ら用ゐられてより手偏を加へて「採」をつくりて「トル」の義に用ゐ、「至」は本來「トビ」の義なりしを「イタル」の義に專ら用ゐらるるに至りて「鳥」を加へて「鵄」字をつくりしなど、かゝること極めて多きを以て考ふれば、「京」はもと「クラ」なりしが、「京都」の義に專ら用ゐられたるが爲に、「木」を加へて「クラ」の義にせしことなしといふべからざればなり。されば本邦の製字か否かは遽かに斷言すべからず。次に「木」扁を加ふることは單に「京師」の「京」と區別する爲なりとのみいひすてて可なるか如何といふ問題なり。若「京」字と區別するためのみならば必ずしも「木」を加へべからざる理由あらじ。されば、木扁を加へたるはなほ木造のものたりしことを物語るものといふべし。かくて考ふるに、木造の方形のクラ即ち椋といふ文字にて示されたりといふべく、然らばその構造の材料と形とがこの一字にて(235)暗示せられたりとすべく、かくて本邦古代の「クラ」を考ふれば、かの「アゼクラ」なるものが、まことによくこの「椋」一字にて示されたりと見ゆ。さてこの「クラハシノヤマ」は三代實録、貞觀十一年七月八日の條に「大和國十市郡椋橋山河岸崩裂高二丈、深一丈二尺、其中有2鏡一1廣一尺七寸採而獻v之」とあり。又上にもいへる如く古事記下卷仁徳卷に「爾速總別王、女鳥王共逃退而騰2于倉椅山1於是速總別王歌曰|波斯多弖能久良波斯夜麻袁《ハシタテノクラハシヤマヲ》云々」とある山なり。十市郡今は高市郡に合せられたるが、この山は多武峯村字南音羽の上方にある音羽山なりといへり。この説略從ふべきさまなれど、確實に然りや否やは遽かにいふべからず。如何となれば、大和志には多武山、音羽山、粟原山、倉梯山各別とせり。大和國町村誌集にも倉梯山、音羽山を別とし、倉橋山は大字倉梯に在りとし、音羽山大字南音羽にありとせり。延喜式神名帳に「十市郡下居神社」又文徳實録九に「椋橋下居神」とあり。下居は倉橋村の南下居村にしてその東に音羽山あり。而して大和志には音羽山には「音羽村上方山勢崇高望之如v蓋」とあり、「倉梯山」には「倉梯村上方峯名」とあり。然るに、上の倉橋村の上方にはここにいへる如く著しく他より高き山を見ず。而して音羽山の名は本集には見えねば、萬葉集時代には音羽山の名なくしてこれを倉橋山といひしか。果して然らば、この音羽山の地は今音羽村といへど、古は倉橋村といひしか。或は又今の音羽山の標高は八五一米なるが、それより南峯つづきに經(ケ)塚山といふありてそれより南の峯には名を注さぬが、標高九一二米あり。恐らくはこれらをこめて古は倉橋山といひしにあらざるか。いづれにしてもこは月の出づる所にあたりて見ゆる著しく高き峯をさせるものなるべし。
(236)○山乎高可 「ヤマヲタカミカ」とよむ。「山ヲ高ミ」は山が高き故にの意なり。「か」は疑問の助詞にして「倉橋の山を高み」を條件として下の句を導くに疑問の意を加ふる用をなせり。
○夜隱爾 舊來「ヨコモリニ」とよみ來りしが、童蒙抄に「ヨナバリニ」とよみて地名とせり。今この二訓のいづれをとるべきか。「ヨゴモリ」とよむ説を見るに、先づ、契沖の説を代表として見む。曰はく「夜隱は此歌卷九に重て出たるには(一七六三)夜※[穴/牛]とあれば、よかくれにや。されど、共によこもりとよまむ事又かたからず。殊に第四に月しあれは夜は隱《コモル》良武(六六七)とよみ、第十九には欲其母理爾鳴霍公鳥とよみたれば(四一六六)今の點を正義とすべし。それにとりてよこもりとはさきにひけるは何れも曉のまだ夜をこむる意にいへり。是は三日月の歌なれば夜を懸る意なり。山なき所には夕にとく見ゆるを椋橋山の高きに障らるるにや、遲く見えて光もすくなきはとなり。三日月は西に見えて漸々に下る物なれば、出來ると云を東の山に向て見る如くは意得べからず。只倉橋山の東より峯のひゝき所にあらはるるを云へるにこそ」といへり。この説には種々の問題伏在するが、ここに「ヨコモリ」といふ語のみにつきていはむに、契沖は「さきにひけるは何れも曉のまだ夜をこむる意にいへり、是は三日月の歌なれば、夜を懸る意なり」といへることは是認せらるべきか。ここに考ふべきことはその「ヨゴモリ」といふ語は、「曉のまだ夜をこむる」意なるか、或は「夜を懸くる意」なるか、或は又二者に通ずるものなるかを決定せずば、その意は決定せざるべし。考は、二者に通ずとせるが、契沖の説も、この歌のみにつきて論ぜるものなれば、證とするに足らず。本居宣長は玉の小琴に於いて曰はく「此歌九の卷(237)【廿四丁】にも出てあれば只月の歌にて、未だ出ぬをよめれば論なし。爰には初月の歌とあれば、心得難し。實は卯月の歌には有ざるか。然ども暫初月にして強ていはゞ、四の句の來の字をこしと訓て晝より早く出し月の夜に入れば早く隱て光の乏き也、かく見るときは椋橋山を西方にして此山の高き故に早く隱るるかの意也。さて夜隱とは夜の末の長く殘りて多き也。後の物語文に年若き人を世ごもれると云も末の長くこもりて多き意なれば、夫と同意也。未夜の末長く殘て多きに早く山へ入て、纔の程ならでは見えぬ由也」といひたるが、古義に本居説とて引けるはこれと異なり。曰はく「本居氏云、夜隱とは宵のかたよりもいひ、曉のかたよりもいふことばなり。いづかたよりも深きかたをこもるとは云なり。たとへば、山にこもると云に東の麓の方よりこもるは西へこもるなり。西の麓のかたよりこもるは東へこもるなり。その如く曉の方よりいふはまだ夜の深きことをいふ。宵のかたよりいふは夜ふかくなることをいふなり。さればこの歌は廿日以後夜ふけて出る月をよめり」とありて、前後矛盾せり。略解は「よこもりは夜となりて遲く出るにて夜深くといふがごとし」といひ槻落葉は「夜のすゑのこもりをる事にて夜ふかくといふにおなじ」といひ、「此歌全く初月の哥ならず、別に端詞のありつるが、落たるにや」といへり。略解同意。又檜嬬手は「此は源氏物語に若き人を世ごもると云ふ如く三日月の始めて見えて末の長きよしに夜隱りに出てし月とは云る也」といひ、攷證は「いまだ夜にこもりて明やらぬをいふ也」として「この歌、初月の歌にあらぬ事明らけし」といひたり。明治以後の學者も大同小異にして、端詞の「二首」を誤としてこれを初月の歌ならずとせり。然(238)れども、諸本みなかくあるを漫然誤なりとするは穩當ならず。加之題に「初月」とわざ/”\ことわれるにこれを解釋の據とせずして、解釋しえざるが故に誤とするは古典を取扱ふ態度としては不謹慎の非難を免れず。この故にここには、これをあるがままに認めて、さてよみ方及び解釋を考へざるべからず。さて上の如く「夜隱」を「ヨゴモリ」とよむ場合の意なるが、その意が上述の如く區々にしてしかも矛盾の存する以上、吾人この語の實例に照して、いづれが正しきかを檢せざるべからず。「ヨゴモリ」とよみうべき語、本集にはこの歌と卷九の、この歌と殆同じき歌「倉橋之山乎高歟《クラハシノヤマヲタカミカ》、夜※[穴/牛]|爾出來月之片待難《ニイテクルツキノカタマチガタキ》」(一七六三)と卷十九「四一六六」に「許能久禮罷《コノクレヤミ》、四月之立者欲其母埋爾鳴霍公鳥《ウツキシタテバヨゴモリニナクホトトギス》」との三あり、その外には卷四「六六七」の「戀戀而相有物乎月四有者夜波隱良武須臾羽蟻待《コヒコヒテアヒタルモノヲツキシアレハヨハコモルラムシマシハアリマテ》」あるのみ。このうち九の歌は今のと殆ど同じければ別として、他には卷四のと卷十九のと二者あるのみ。この二者に通じての意は攷證に「いまだ夜にこもりしののめにて明やらぬほどをいふ也といへる如き意にしてその外の意はなし。後の例にては重之集にあしたの原をこえくれば、まだよこもれる心ちこそすれ」とあるも同じ意なり。さればかく「ヨゴモリ」とよむときは、夜半以後の歌にして夜半以前の歌といふことを得ざるべし。これ、これらの解をとれる人が「初月」といふ題詞を否定せざるべからざる地位に立つ所以なり。この故に、「初月」といふ題詞を認むる以上は「ヨゴモリ」といふ語を曲解するか、若くは「ヨゴモリ」といふよみ方をすてざるべからず。即ち「ヨゴモリ」といふ語を曲解せざる以上は、「夜隱」の二字を「ヨゴモリといふ語以外の語にて適當によまざるべからず。こゝに於いて童蒙抄の「ヨナバリニ」とい(239)ふ説を檢する必要あり。曰はく、「大和の地名にて日本紀に夜よなばりと詠ませたれば、上にくらはしと地名を詠み出たれば、これも地名と見ゆる也」といへり。この説は、考にも否認し、攷證にも「とるにたらず」といひたれど、最も道理に叶へる説にして、余かつて童蒙抄にこの説あるを知らざる前に雜誌「アララギ」に(萬葉集訓義考に)これを論じたることあり。先づ「隱」字が「ナバリ」とよむべきことは卷一「四三」の「隱乃山」《ナバリノヤマ》の下に委しくのべたり。而して「ヨナバリ」の地は卷二「二〇三」の歌に「吉隱之猪養乃岡《ヨナバリノヰカヒノヲカ》」とありて、そこにていへる如く、この地は今の初瀬町の大字になりてあるが、初瀬より伊賀の名張に赴く道にあたりて、古の東海道の要路たり。この歌の作者旅して東海道に赴きしことありとせば、この地を通過することは必ず有りうべきことなりとす。かくて余はその地に至りて實際に地勢を按じてたることあり。今その要をいはむに吉隱は大和國磯城那初瀬町と宇陀郡榛原との街道の中間にあり。これ古の東海道の要路たりし地なり。されば、日本紀をはじめ本集中にも屡あらはるる地名なり。かくてこの歌はその「吉隱」の地にてよめるを月の歌なれば一種の戯書にて「夜隱」とかけるならむ。さてかく考へて、上の倉橋山とこの吉隱の地と、初月の出づる時間と方角とを考ふれば、その關係一點の疑なきに至るべし。先づ、吉隱の地にて見れば倉橋山は西南にあたりて峙てるなり。而して、初月の出入の時間如何を檢せむに、今かりにこれを明かに三日の月と假定して、昭和五年九月二十六日の月齡三、六の日を以ていはむに日の出づるは午前九時三十一分、月の南中は午後二時四十分、月の入りは午後七時四十三分なり。而して、日中は月を見るべからずして日没の午後五時三十(240)四分はじめてその月を認むとせむに、その時はいづれの方角に見ゆるかといふに、南中の午後二時四十分の後約三時間にして月の運行を一時間十五度とせば、まさしく西南即ち倉橋山の方に四十五度の高さに見ゆべき筈なり。而して、倉橋山と初月とを動かすべからぬものとせば、この歌は吉隱若くは倉橋山より吉隱に向ひて引ける線の上にある土地にてよめるものとせざるべからず。然るに吉隱の地は北は山にして今も人の住せるもの少く、南は谷川流れて、その谷の彼方は倉橋山を背面にすべき地勢なり。かくてここはこの詞書を信ずる限りに於いて、「ヨナバリ」とよむ外あるべからずして、ここに童蒙抄の卓見なるを見るべし。而して、又玉の小琴が「椋橋山を西方にして此山の高き故に早く隱るるかの意也」といへる點のみは、正當なる見解なりといふべし。地名の「ヨナバリ」を、古く「ヨゴモリ」とよみあやまれる例は、卷二の「零雪者安幡爾勿落《フルユキハアハニナフリソ》吉隱之|猪養乃岡之塞爲卷爾《ヰカヒノヲカノセキトナラマクニ》」の「吉隱」をば、古來すべての人が「ヨコモリ」とよみ、甚しきは「みこもり」などともよみ來れるを代匠記に至りてはじめて、「ヨナバリ」とよみ得たるものなり。ここは如何にしても「ヨナバリ」といふ地名にあらずば、義をなさざるものなりとす。
○出來月の 「イデクルツキノ」とよむ。玉の小琴に來を「コシ」とよむべしといふ説あれど、上の句の解釋より見てその説の必要なきこと明かなればとらず。意は明かなり。
○光乏寸 「ヒカリトモシキ」とよむ。「トモシ」といふ語は卷一「五五」の歌に「朝毛吉木人乏母亦打山行來跡見良武樹人友師母《アサモヨシキヒトトモシモマツチヤマユキクトミラムキヒトトモシモ》」卷十七「三九七一」に「夜麻扶枳能《ヤマブキノ》、之氣美登※[田+比]久久鶯能許惠乎聞良牟伎美波登母之毛《シケミトビククウグヒスノコヱヲキクラムキミハトモシモ》」の如きにてその例を見るべきが、これらの意は今いふ「ウラヤマシ」の意を示すも(241)のなるが、ここにはその意にては通ぜざるべし。又卷二「一六二」に「味凝文爾乏寸《ウマゴリアヤニトモシキ》」卷六「九一三」に「味凍綾丹乏敷《ウマゴリアヤニトモシク》」卷九「一七二四」に「吉野川音清左見二友敷《ヨシヌガハオトノサヤケサミルニトモシク》」などはめづらしと思ふ事なるが、それもここの意にあらず。ここの意は今もいふ意にてそのまれに少きをいふ意なり。これも亦本集に用例あり。卷四「五三三」に「飽左右二人之見兒乎吾四乏毛《アクマデニヒトノミルコヲワレシトモシモ》」即ちここはその稀にして少きをいふなり。「乏き」は上の「か」に對する結なり。
○一首の意 よなばりにては三日月は椋橋山の方に見ゆべき筈なるが、その方向に峙てる椋橋山の高き爲にか吉隱の地に月の出でくることのおそくして光のさしくることの少きよとなり。
 
小田事勢能山歌一首
 
○小田事 古今六帖第二にこの歌を載せて作者「をたのことぬし」とあり。それを正しとすれば、ここに「主」字ありしが脱せるならむも知らず。然れども、諸本すべてかくの如くなれば、脱せりとも斷すべからず。而してこの人の事諸書に傳ふるところなし。又「小田」といふ氏も新撰姓氏録に見えねば、その出自も知るべからず。されど續日本紀には天平勝寶元年四月朔に小田臣根成、同五年二月には小田臣枚床など見えたれば、小田といふ氏の存したりしを見るべし。さて又「事」を一字として人名としては何とよむべきか。古來「ツカフ」と訓じて來れるが、しかよむ外なかるべし。
(242)○勢能山歌 この勢能山は前に屡いでたる紀伊國の勢能山なり。この山にてよめる歌なり。
 
291 眞木葉乃《マキノハノ》、之奈布勢能山《シナフセノヤマ》、之奴波受而《シヌバズテ》、吾超去者《ワカコエユカハ》、木葉知家武《コノハシリケム》。
 
○眞木葉乃 「マキノハノ」とよみて異論なし。本集中「マキ」といふ語にて示すものは、ただ木をほめていふと、一種の木なりとする説と二樣あるが契沖はここをば「惣名別名いづれにても有べし」といひたれど、それはあまりに漠然たり。童蒙抄には「一名の木にあらず、すべての木をさして也」といへり。されど、「眞木」は檜なりと考にいひてより諸家それに從ひ、ここをも多くの學者は檜なりとせり。されど、これには、拾穗抄攷證の如く、今も「マキ」といふ一種の木なりとせるもあり。今この歌を案ずるに、歌の詞の上にてはいづれとも決定しがたきことなり。ただ、この歌にあらはる情景は木の葉に相應の關心をもつものなることは著しきが故にいかなる木にてもよしといふよりは葉のうるはしき木とする方よからむ。然するときは、これは今もいふ「マキ」の木の方をよしとすべし。紀伊國には高野槇といふ特種の木あり、今の勢能山にその木ありや如何は知らねど、それと山つづきなる和泉の地に槇尾山あるを見れば、この邊一帶にマキの木の茂りてありしならむと思ふ。この故に今姑くマキの木の意として解すべし。
○之奈布勢能山 「シナフセノヤマ」とよむ。「シナフ」は卷十二「二八六三」の或本歌に「誰葉野爾立志奈比垂《タカバヌニタチシナヒタル》」又卷十三「三二三四」に「春山之四名比盛而《ハルヤマノシナヒサカエテ》」又卷二十「四四四一」に「多知之奈布伎美我須我多乎《タチシナフキミダスガタヲ》」卷十「二二八四」に「秋芽子之四槎二將有妹之光儀乎《アキハギノシナヒニアラムイモガスガタヲ》」などの語にてその意をさとるべし。今そ(243)の實例を見るに、卷十なるは女の姿卷二十なるは男の姿の若々しく華やかにすらりとしたるさまをよめるならむ。而して、卷十なるは秋芽子のさま、卷十二なるは菅のさまなり。これを枝の垂るるさまなりといへるは、この秋芽子、菅などよりはいひうべき如くなれど、男女の容儀の美なるには垂るるさまとはいひかたし。即ちこれはわかくみづみづしくて、弾力性ありて柔かにたわむ如き感じを主としていへる語なるを見るべし。この意にとれば檜の葉よりも槇の葉の方、この語の感じに近し。さてこの「勢能山」は下の「超えゆく」に對しての「を」格に立てるなり。然るにここにて句を切りて二段落とする説あれど、さては語格も歌格も成立せず。
○之奴波受而 舊板本「シルハステ」とあり。されど「奴」を「ル」とよめる例本集に一も存せぬが上に、古寫本すべて「シノハステ」若くは「シヌハステ」と訓せり。ここは勿論「シヌバズテ」とよむべきなり。これは「ズ」といふ打消の複語尾より「テ」といふ複語尾につづきたる形なるが、この例は本集にこれをはじめとして、少からず。二三の例をあげむに、卷五「八〇九」に「志岐多閇乃麻久良佐良受弖《シキタヘノマクラサラズテ》」又「八六二」に「比等未奈能美良武麻都良能多麻志未乎美受弖夜和禮波故飛都々遠良武《ヒトミナノミラムマツラノタマシマヲミズテヤワレハコヒツツヲラム》」等あり。又古事記上卷の歌に「多知賀遠母伊麻陀登加受弖淤須比遠母伊麻陀登加泥婆《タチガラモイマダトカズテオスヒヲモイマダトカネバ》」日本紀卷十七の歌に「波※[糸+施の旁]稽矩謨伊麻娜以幡孺底阿開※[人偏+爾]啓梨倭蟻慕《ハシケクモイマダイハズテアケニケリワギモ》」などあり。その意は「ズシテ」といふに似たり。「シヌブ」といふ語は卷一「六」に「懸而小竹櫃《カケテシヌビツ》」「一六」に「取而曾思奴布《トリテゾシヌブ》」「六六」に「家之所偲《イヘシシヌバユ》」又卷二にも屡見えたるがその意は「思ひ慕ふ」意なることは既にいへり。然るにここの句は思ひ慕ふことを否定する意としては歌の意何事ともわからぬ事となるべし。然らばここの意はその(244)思慕の意にあらざらんか。考には「こは故郷の事を思ふに得しのぶに堪ずと云なり。卷四(流布本卷七)に吾妹兒乎聞都賀野邊能靡合歡本吾者隱不得間無念者《ワギモコヲキキツガノベノシナヒネムワレハシヌバズマナクオモヘバ》(二七五二)これ上にしなひといひて下にしのばずといひ、且隱不得と書しなどもてもここと同じ意なるをしるべし」といひ、攷證全然これに同意したるが、略解は「慕ふに堪ずして也」といひて頗る曖昧なり。大體この説はその「シヌブ」は「得しのぶに堪へず」といふ意にて「シノブ」にあてたるものか「堪へず」の語にあてたるものか甚だ曖昧なり。若し「得しのぶに堪へず」といふこと全體が「シノブ」なりといふ説ならば、さやうなることは古今に未だかつて例なきことなり。されば、今はこのいづれかを明瞭にすべき必要あり。さて代匠記を見れば「故郷を戀る心にえたへしのばで越行ば云々」とあり。童蒙抄はただ「不忍して」といひ、槻落葉は「妹を戀るに堪しぬばずてなり」といひ、(守部同説)古義は「家をこひしく思ふ心にえたへしのばずしてといふなり」といひ、(註疏同説)これらいふ所少異あれど大體に於いて一致して「シヌブ」を堪へしのぶ意にとれり。さて又楢の杣は委しき語釋はあらねど、「我はますら男なれば、思堪て遠き使にこゝを越るを」といへり。これは前後に類なき説なり。さて、本居宣長は玉の小琴に於いてこの歌の意を總括して「勢の山をめで偲びて暫くは立も止るべきにさもあらで、只々越行けば、めでられぬことを眞木の葉も知ぬらむ、夫をうきことに思ひてしなぶれてあるよとよめる也」とあり。而してこの「シヌブ」は思ひ慕ふ意なる由は古事記傳卷二十八にも論ぜり。さてかく諸説あるうち、秋成の説は「シヌバズテ」を「思堪ヘテ」と譯せるが、さる用例は恐らくはあるまじく秋成一己の臆説ならんが、結局は「シヌブ」は思慕の(245)意におつべし。本居は本より思慕の義とせるなり。然れども思慕の義とせば、普通の考と正反對になりてここにては思慕せぬにならざるべからず、この故に本居の如き解釋になるべき勢にあれど、然するときは歌の意通らぬなり。現に本居説には、ある一點に於いて重大なる誤解若くは曲解をなせり。そは何かといふに、「シナフ」といふ語をば本居は「木の葉がしなぶれてあるよ」といへり。本居の用ゐたる「しなぶれ」といふ下二段活用の語は如何なる根據ある語か知らず。(恐らくは本居一己の新造語なるべし。)今これを「しなび」といふ語として考ふるときは、本居は「シナフ」を「シナビ」といふ語にとりなしたるならむと思はる。しかるにこれは上にいへる如く、若くみづみづしく彈力性に富む意なれば、本居のいふ意とは正反對なり。(本居流にいはば、上の卷十の歌の若き女も卷二十の壯年の男子も共に萎びたる老人とならむ)されば、本居説は全體として成立たぬものなることいふをまたず。從つて、「シヌブ」を思慕の意にするときは歌意徹らざれば、これは他の意とせざるべからず。略解も亦これを受けて、その「シナフ」といふ語をヤ行下二段の「シナエ」と混同して説ける大錯誤あり。然らば、契沖以下の人々のいひし如く堪へ忍ぶ意とすべきか。又隱るゝことをも「シヌブ」といふこともあれど、こゝは自らかくれざる意にとるべきものなれば、その意にはあらで、忍耐の意なるべし。その例、卷十一「二六三五」に「劍刀身爾佩副流大夫也戀云物乎忍金手武《ツルギタチミニハキソフルマスラヲヤコヒチフモノシヌビカネテム》」卷十二「二九八七」に「梓弓引而不縱大夫哉戀云物乎忍不得牟《アヅサユミヒキテユルサヌマスラヲヤコヒチフモノヲシヌビカネテム》」卷十六「三八一八」に「朝霞香火屋之下乃鳴川津之努比管有常將告兒毛欲得《アサガスミカヒヤガシタノナクカハヅシヌビツツアリトツゲムコモガモ》」あり。即ちここは思ひに堪へずしての意なるべきが、しかするときはかの卷七「二七五二」の「吾妹兒乎聞(246)都賀野邊能靡合歡木吾者隱不得間無念者《ワギモコヲキキツカノベノシナヒネムワレハシヌバズマナクオモヘバ》」の「隱不得」を「シヌバズ」とよむと同じ意におつべし。その思ひに堪へずとする目標は如何といふに、契沖は「故郷を」とし、槻落葉、檜嬬手は「妹を」とし、古義、註疏は「家を」とせり。然らば、これらの故郷、妹家等が目標なりと認めらるる根據如何と顧みるに、諸家いづれも、その説の根據を一言もせず。然らば、「眞木葉乃之奈布勢能山」といふ語の上に何者か存すべきといふに、それにては故郷とも妹とも家とも明かに示したるものなきなり。然るときはこれは恐らくはこれら諸家の臆測に止まるものの如し。然れども、卷七「二七五二」の歌を見れば、この「シヌバズテ」といふ語は二者に共通する現象あり。そは何ぞといふに、「シナフ」といふ語なり。一は「シナフネムノキ」一は「シナフセノヤマ」なり。ここに於いて、この「シヌバズ」といふ語と「シナフ」といふ語と何等かの關係を結びありと考へらる。さてその關係は往々一種の論者のいふ如き「シナ〔二字傍点〕フ」と「シヌ〔二字傍点〕バズ」といふ同音反覆の爲のみか如何。この同音反覆説も一往は道理あるごとくなれど、余はそれよりも深き意あるを思ふ。即ち上の「シナフ」といふ語に於いて、己が思ふ人の「シナフ」姿を聯想したるものならむ。それは上の「シナフ」といふ語の例二は明かに男女の容儀のうるはしきにいへるを以ても見るべし。若し然らずば、この歌所謂無心所著といふべきさまなればなり。
○吾超去者 舊本「ワガコエケハ」とよめるを童蒙抄は「ワレコエユクハ」とせり。童蒙抄の如くにしても意通ぜざるにあらねど、その事が體言化して、活動的にあらねば舊訓まされり。
○木葉知家武 「コノハシリケム」とよむ。これと似たる語は卷七「一三〇四」に「天雲棚引山隱有吾(247)忘(下心)木葉知《アマグモノタナビクヤマノコモリタルワガシタココロコノハシルラム》」とあり。木(殊に柏木)に葉守の神の座すといふことは枕草子などにもいひて、木葉に神の存すといふ信仰は古より存せしならむ。然らずば、この歌は無意味に語を弄びたるに止まる。
○一首の意 從來の學者多くは、「シナフ」はハ行四段にしてヤ行下二段の「シナユ」とは別の語にして、意は正反對なるを忘れて一にせる爲に、この歌の解釋正鵠を失せる憾あり。ヤ行下二段の「シナエ」は萎縮衰弱の意にして生氣を失ひて悲惨の姿をあらはす語なるが、ハ行四段の「シナフ」は日本紀神代卷上に「其秋垂頴八握莫々然甚快也」の莫々然を「シナフ」とよませたる如く、生氣に満ちて甚だ快きをあらはす語なり。されば、この歌にさる生氣を失ひたる暗澹たる意ありとは考へられざるなり。かくて余はこれを次の如く釋す。この勢能山をわが今超えむとて通れば、この山には眞木の葉が勢盛んに、若々しくしなやかなる姿にて茂りあへるを見る。われはこの若々しくしなやかなる姿を見て、わが思ふ人の姿を聯想し忍びかねて、ここを通るが、この槇の木の葉は吾が心をば知りたるならむ。さやうに思ひて見れば、ますます故郷に殘れる人のしなやかなる姿が、この木の葉によりて思ひ出さるゝよとなり。
 
角麿歌四首
 
○角麿 代匠記には『續日本紀に見えたる角兄麿を兄字をおとせるなるべし」といひ、童蒙抄これに従へり。槻落葉は兄の字は契沖が考によりて加へ、又「角」は「〓」の誤として「〓兄麿」とせり。略(248)解はこれに從へるなり。さてこの人の歌は本集にてもここのみにて他に記事なければ考ふべからず。次に「角」といふ氏ありやと見るに、新撰姓氏録には「角朝臣、紀朝臣同祖、紀角宿禰之後也、日本紀合」と見え、古事記には都奴臣とかき、日本紀雄略卷には「角臣等初居2角國1而名2角臣1自v此始也」とあり。(角國は今の周防國都濃郡なり)この氏は天武天皇の時には朝臣の姓を賜ひたるが、その氏人は「都努臣牛女」「都努朝臣牛女」(日本紀天武卷)をはじめ、都努朝臣道守、角家足、角朝臣廣足など、續紀に見えたれど、麿といふ人所見なし。さて代匠記には續日本紀に見えたる角兄麿を兄の字をおとせるなるべしといひたるがその角兄麿といふ人は如何といふに、それは元正天皇の養老五年正月に「文人武士國家所v重、醫卜方術古今斯崇、宜(丙)擢d於百僚之内優2遊學業1堪v爲2師範1者u勸(乙)後生(甲)」といひて拔擢賞賜せられたる人々の中に從五位下角兄麿と云ふ人あるをさせるなり。さて又神龜元年正月の紀從五位下能兄麿に林連を賜ふとあるは都能連兄麿に羽林連を賜ふとあるべきが「都」と「羽」とが脱せるものとし、次に神龜四年十二月國司の政績を巡檢せめて賞罰を行はれしときにその「犯法尤甚者丹後守從五位羽林連兄麿處v流」とあるも同一の人なりといふにあり。又槻落葉を見れば、「契沖が追考に云、同紀に惠耀といふ僧勅によりて還俗せり。姓は録名は兄麿を賜へり。録と〓と同音なれば、そのころ相通して〓兄麿とも書たるを其文字の目なれねば、後人角に誤れるなるべしといへり」とあり。この還俗の事は大寶元年八月の條に見えて、「慧耀姓録名兄麿」とあり。さて今契沖説に從はむには「角」は〓の誤にして麿は兄麿の「兄」の字の脱せりとせざるべからず。然るに、古來一の本もそれらの一件をも證する(249)に足るべき證を見ず。況んや二件共においてをや。又「角兄麿」の「兄」を脱せりといふも臆測に止まる。されば、これはこのままにて傳不詳の人として差しおくを穩かなりとす。當時「麿」といふのみにて名とせし人に左大臣石上麿あり、又藤原不比等の子に麻呂あり。角の氏にして麿の名なりし人ありきとせんに何等の不都合あることなし。
 
292 久方乃《ヒサカタノ》、天之探女之《アマノサグメガ》、石船乃《イハフネノ》、泊師高津者《ハテシタカツハ》、淺爾家留香裳《アセニケルカモ》。
 
○久方乃 「ヒサカタノ」とよむ。その意は卷一「八二」の「久堅」の下にいへり。「アメ」の枕詞たり。
○天之探女之 古來「アマノサグメカ」とよめり。天探女は古事記にも日本紀にも見ゆ。古事記には上卷に「故爾鳴女自v天降到居2天若日子之門湯津楓上1而言、委曲如2天神之詔命1爾天佐具賣聞2此鳥言1而語2天若日子言1此鳥者其鳴音甚惡故|可射殺《イコロシタマヘト》云(ヒ)進(ムレハ)」と見ゆる天佐具賣あり。日本紀卷二には「其雉飛降止2於天稚彦門前|所v植《タテル》湯津杜木之|※[木+少]《スヱニ》1時天探女見而謂2天稚彦1曰奇鳥來而居2杜※[木+少]1」と見え、その自注に天探女此云2阿摩能左愚謎1」とあり。又和名鈔神靈類に「日本紀私記云天探女【阿萬乃佐久女俗云安萬佐久女】」とも見ゆ。これらによりてその訓を知るべし。さてこの「天之探女」とは如何なる神なるか。神代紀口決には「天探女者從神讒女也」といひ、纂疏には「稚彦之侍婢也」と見え、考證は「探女探2他心1多2邪思1也」といへり。その名義は今第二の問題としてここにはさしおくが、先づここの意は如何といふに、天之探女が石船といふものに乘りし由に解せざるべからず。果して然らば、さやうなる古傳説ありや如何。代匠記には「或物に津國風土記を引て云、難波高津は天(250)稚彦天降りし時天稚彦に屬《ツキ》て下れる神天探女磐船に乘て此に到る。天磐船の泊る故に高津と號《ナヅ》く云々」とあり。この或物とは如何なる書か今明かならねど、これより外にその傳説を傳へたるものなければ、暫くこれによるに、この傳説はこの歌と全く同じき傳説にして、一歩も外に出でねばこれはただかゝる傳説ありきと認むるより外あるまじ。これによりてのただ一縷の望はその天稚彦の天降の件のみなり。天稚彦は天神が葦原中國を掃清めん爲に天穗日命を遣して平げしめられしに、大己貴神に媚びて三年まで復命せず、日本紀には更にその子大|背飯《セヒノ》三熊(ノ)大人を遣されしかど、これも其の父に順ひて復命せざりしかば、更に諸神の中より然るべき使者を擇ばれし時選に中りしが天稚彦なるが、これも葦原中國に下りて下照姫に娶ぎて復命せざりしなり。されば、その天稚彦の天降りし時に大探女も從ひて天降りしならむ。「天探女|之《ガ》」とある「ガ」は天探女が乘りしといふ意を示す勢あり。
○石船乃 「イハフネノ」とよむ。「イハフネ」は日本紀神武卷に「天磐※[木+豫]樟船」といへる如く、その堅固なることをたたへていへるにて必ずしも石造の船の意にはあらざるべし。日本紀神武卷に「甞有2天神之子1乘2天磐船1自v天降止號曰2櫛玉饒速日命1」とあり。又本集には卷十九「四二五四」に「蜻島山跡國乎天雲爾磐船浮等母爾倍爾眞可伊繁貫《アキツシマヤマトノクニヲアマグモニイハフネウカベトモニヘニマカイシヾヌキ》、伊許藝都追國看之勢志※[氏/一]安母里麻之《イコギツツクニミシセシテアモリマシ》云々」とあり。即ち天降りの時に石船に乘るといふ傳説ありしを見るべし。
○泊師高津者 「ハテシタカツハ」なり。「泊」を「ハテ」とよむ事は泊瀬山など例多く舟の行きて止まるを「ハツ」といふ事は卷一「五七」の「何所爾可船泊爲良武《イヅクニカフナハテスラム》」の下にいへり。高津は仁徳天皇の難波(251)高津宮のありし地として名高きがその地今正確には知られず。されど、今の大阪城の邊と思はるといふ。さてここにいふ高津はなほその同じ地の邊なりしならむ。この名義は攝津風土記によればその地の高く著しき意にあらずしてその天降の船の泊てし津といふ意にして、「高」は例の天の義なるべし。
○淺爾家留香裳 古來「アセニケルカモ」とよめり。然るに「アセ、アス」といふ下二段活用の語例この外には萬葉集にも記紀にも見えねば、證をあぐること能はず。然れどもかくいふ外によむべき語を知らねば古來の訓に從ふべし。平安朝以後には用例甚だ多し。意は淺くなるをいふ。攷證に新撰宇鏡に「※[土+冉]土甘土※[さんずい+甘]二反崩岸也久豆禮又阿須」とある「阿須」をここのアスとせるは誤なり。これは萬葉にもある語にて崩岸をさす名詞なれば混同すべきにあらず。さてここに「アセニケルカモ」とよめるを見れば、右の高津は當時、土砂堆積してミナトの淺くなりてその古の如くにあらざりしことをうたへるものと見らる。
○一首の意 明かなり。天の探女が天降りし時の石船の泊てたりと傳へられたるこの高津の港は、神代以來の名津なりしが、今や變りはてて淺くなり昔の姿もなくなりしことよとなり。難波あたりの港の變遷を物語るものとして、歴史的に興味あるべし。
 
293 鹽干乃《シホヒノ》、三津之海女乃《ミツノアマノ》、久具都持《クグツモチ》、玉藻將苅《タマモカルラム》、率行見《イザユキテミム》。
 
○鹽干乃 舊本「シホカレノ」とよみたるが、考に「四言、今本しほかれのと訓しは古ならず」といひ、槻(252)落葉にはなほ委しくこれをいへり。曰はく「しほがれといふ言、集にも何にもなし。かならずしほひのと四言によむべし。卷九難波がた鹽干に出て玉藻かる海未通女等汝《アマヲトメドモナ》が名のらさね(一七二六)卷十七|之保悲思保美知《シホヒシホミチ》など(三八九一)見えたり」とこの言の如し。四言一句の例本集には稀にあらず。
○三津之海女乃 舊本「ミツノアマメノ」とよめり。略解には「海女あまと訓て六言の句とすべくおもへど、女と書るからはあまめとよむべし」といひたるが古義は「アマメと云る例なし」として「ミツノアマノと訓て六言一句とすべし。海女と書るは海夫、海子など書ると同樣のこころなり」といへり。古義の説當れりとす。先づ、「アマメ」といふ語はいまだかつてなき語にして、今は專ら海女を「アマ」といふ程の事なり。略解と攷證とは「海」一字を「アマ」とよむと心得「女」字ある故に「アマメ」といふとあれど、海一字を「アマ」とよむは元來「海人」を「アマ」とよむよりの略稱なれば、その説はとるべからず。「海人」も「海女」も「海夫」も共に「アマ」なるが「海人」はそれを男女に通じて用ゐる文字とし「海女」は女性なる場合、「海夫」は男性なる場合にていつも「アマ」とよむべきなり。さてここにいへる「三津」は前後の歌に照して考ふれば難波の御津なるべし。これは卷一「六三」の「大伴乃御津乃濱松《オホトモノミツノハママツ》」「六八」の「大伴乃美津能濱爾有忘貝《オホトモノミツノハマナルワスレガヒ》」などいへる御津にして、卷一に既にいへる如く、その舊地今は陸となりて、大阪市中の三津寺町といふ地に名を殘せるなり。
○久具都持 「クグツモチ」とよむに異論なし。「クグツ」とは如何なるものかといふに、和歌童蒙抄卷四にこの歌をあげて「くぐつとはかたみ(籠)を云也」といひ、袖中抄卷十六にもこの歌をひきて(253)「顯昭云くくつとはわらにてふくろのやうにあみたるものなり。それに藻などをもいるるなり。童蒙抄云くくつとはかたみをいふなり。今云かたみは籠なり。くゝつにはあらず。」といひ、仙覺抄には「くぐつとはほそきなはをもち物いるゝ物にしてゐなかのものゝもつなり。それをくぐつといふ」とありて、略その物を想像しうべし。さて又宇都保物語嵯峨院中には「きぬあやをいとのくぐつに入れて」とあり。これによりてほぼそのさまを想像しうべし。こは恐らくは「くぐ」といふ草(海濱に生ずる莎草科の植物にして今もくぐといひ、それにて繩をつくりてクグナハといふ。この草の名は新撰字鏡にも和名鈔にも見ゆ)の繩にて編みつくれる籠の如きものにして、童蒙秒に「かたみ」といへるはそをつくる材料は違へど、形と用とを同じくせるよりの名にて顯昭が「わら」にてつくるといへるはその材料を精しく知らざりしか、若くは當時藁にてつくれるものもありしならむ。而して顯昭が、「かたみは籠なり、くぐつにあらず」といへは、竹製のものにあらぬ由をいへるなり。又仙覺抄に「ほそきなは」といへるは「くぐなは」をさしたるならむ。宇都保物語なるはその「くぐ繩」の製のものに模してそれを上品なるものとして絹絲にて編めるならむ。かくてこれを「くぐつ」といふは「くぐつ籠」の下略なるべきこと「秋つ蟲」の「あきつ」「島つ鳥」の「島つ」となれるが如きものならむ。
○玉藻將苅 「タマモカルラム」とよむ。「玉藻」はただ藻なるをたたへていへるに止まる。「將」は「ム」とも「ラム」ともよみうべきが、ここは現實を推量するなれば、「ラム」とよむべし。その例は卷二より屡見ゆれば證をあげず。以上は準體言の格にして下の句に對して「ヲ」の格に立つ。
(254)○率行見 古來「イザユキテミム」とよみて異議なし。「率」はこの卷「三八八」に「率兒等安倍而榜出牟《イザコトモアヘテコギデム》」卷四「五七一」に「率此間行毛不去毛遊而將歸《イザココニユクモユカヌモアソビテユカム》」「六五二」に「枕與吾者率二將宿《マクラトワレハイザフタリネム》」など、集中に「イザ」といふ語にあてたる例少からず。又日本紀に崇神天皇の宮を「率川宮」とかけるがその自注に「率川此云2伊社箇波1」とあり、而して古事記にはこの宮を春日之伊邪河宮とかけり。又靈異記中第三の訓注に「率イサ」とあり。これらにて「率」を「イザ」とよむことを見るべし。さて何によりて率を「イザ」とよむにか。この事は支那には未だ所見なし。攷證には「義訓にて玉篇に率將領也云々ともあればなり」といひたれど、「將領」は主領となりて部下を率ゐる義にして「イザ」の義訓の源とはならざるべし。思ふに、これは「イザナフ」といふ訓ある、その語根をここに「イザ」といふ形の一語に轉じて借用したるにて支那にて率一字を誘起の副詞にあてたりとは考へられざるなり。
○一首の意 明かなり。かしこに見ゆる難波の御津をながむれば鹽干潟となりぬ。さらば海女がくぐつをもちつつ玉藻をかりてあるらむ。いざゆきてそれを見むとなり。
 
294 風乎疾《カゼヲハヤミ》、奥津白浪《オキツシラナミ》、高良之《タカカラシ》。海人釣船《アマノツリフネ》、濱眷奴《ハマニカヘリヌ》。
 
○風乎疾 舊本「カゼヲイタミ」とよみて諸家異説なし。燃れど、「疾」の字は「イタシ」「イタミ」とよむべき文字なるか、如何。「痛」字ならば「イタミ」とよむべきなれど、諸本みな「疾」にして「痛」字ならず、ここに余は從來の諸家のすべてを疑ふものなり。「疾」は説文に「病也」とありて、「疾病」とつづく字にて「ヤマヒ」といふ訓あれど、「痛」の字義に同じからず、從つて「イタム」とよみたること古より未だ曾て(255)あらざる所なり。而して「疾」字には玉篇に「速也」廣韻に「急也」とあり、これ「トシ」といふ訓類聚名義抄にあり、「ハヤム」といふ訓、色葉字類抄にある所以なり。なほいはば、詩大雅召旻に「昊天疾威」の箋に「疾謂急疾也」とあり。又張衡の南都賦に「總括《スベククリテ》趣〓(ニ)箭(ノ)馳(スル)風(ノコトク)疾《トシ》」とあり。又孫子に「其疾如v風」ともありて一體に、風力の早速なるを疾字にて示すが慣用なり。この故に「疾風」といふ熟字あり。禮記玉藻に「寢恒東首、若有2疾風迅雷甚雨1則必變」とあり、荊楚歳時記に「去2冬節一百五日1即有2疾風甚雨1謂2之寒食1」とあり、晋の顧凱之の詩に「疾風知2勁草1、嚴霜識2貞木1」ともあり。而してこれらの疾風は説文に「〓(ハ)疾風也」とあり。本邦の古書には日本紀卷二に「乃遣2疾風1擧v尸致v天」とあり、その疾風を「ハヤチ」とよみ來れるが、これは日本紀私記に「疾風、波也知」とありて、そのよみ方の正しきを知るが、その「ハヤチ」といふ語は和名鈔に「漢語抄云暴風波夜知」とあるにて、暴風なるを知るべし。以上によりて按ずるに、ここに「疾」字をかけるは「疾風」などと風力の急速なる意をあらはす爲に用ゐしものにしてよみ方も「ハヤシ」といふ方に基づくべきものなること疑ふべからず。かくて本邦に於いて風に「はやし」といへる例を考ふるに、上の「ハヤチ」は後世「ハヤテ」とかはりて今もいふ語なるが、その「チ」は風の事にして、その風力の急速なるを「ハヤシ」とはいへるなり。蜻蛉日記下上に「日ころいと風はやしとて南おもてのかうしはあけぬを」又竹取物語に「はやき風ふき世界くらがりて」などあり。本集にては卷十五「三六四六」に「宇良末欲里許藝許之布禰乎風波夜美於伎都美宇良爾夜杼里須流可毛《ウラマヨリコギコシフネヲカゼハヤミオキツミウラニヤドリスルカモ》」又卷八「一四五八」に「屋戸在櫻花者今毛香聞松風疾地爾落良武《ヤドニアルサクラノハナハイマモカモマツカゼハヤミツチニオツラム》」し卷十「一一〇八」に「秋風者急之吹來芽子花落卷惜三競竟《アキカゼハハヤクシフキキヌハギノハナチラマクヲシミキホヒワタラム》」卷七「一一四一」に「武庫河水尾急嘉赤駒(256)足何久激沾祁流鴨《ムコガハノミツヲハヤミカアカゴマノアガクソヽギニヌレニケルカモ》」卷十一「二四五九」に「吾背兒我濱行風彌急急事益不相有《ワガセコガハマユクカゼノイヤハヤニハヤコトナサバイヤアハザラム》」等に「ハヤシ」といへるをみるべく、又風ならでも「急」字を「ハヤシ」とよめるを見るべし。この故にここは「カゼヲハヤミ」とよむべきこと一點の疑もなき筈なり。その意は風が烈しく吹くによりてなり。
○奥津白浪 卷一「八三」に出でたる語なり。海の沖の方に立つ白浪なり。
○高有之 「タカカラシ」とよむ。高くあるらしの約まれるなり。この語は卷一「三六」に「此山乃彌高良之」に既に例あるが、ここの「らし」は現前の事のある姿を見て、その眞相を推量するなり。
○海人釣船 「アマノツリフネ」なり。「海人」は上「二三八」にあり。海人の海上に出で釣する船なり。
○濱眷奴 古來「ハマニカヘリヌ」とよみ來れり。「眷」は説文に「眷(ハ)顧也」と注せる如く「眷顧」と熟する字にて「カヘリミル」とよむ訓あり。その「カヘリミル」といふ語をば、かりて「カヘル」の語をあらはすに用ゐたるなり。卷十「一八九〇」に「春日野友(犬)※[(貝+貝)/鳥]鳴別《カスガヌニナクウクヒスノナキワカレ》、眷益間思御吾《カヘリマスマモオモホセワレヲ》」とあるも同じ例なり。
○一首の意 二段落なり。風の烈しく吹くによりて、奥の白浪の高くあるらし。奥に出で居たりし海人の釣船の濱にこぎかへりぬるよとなり。見たるさまを叙したる歌なり。
 
295 清江乃《スミノエノ》、木笶松原《キシノマツバラ》、遠神《トホツカミ》、我王之《ワガオホキミノ》、幸行處《イデマシドコロ》。
 
○清江乃 「スミノエノ」とよむ。「清」は「スム」といふ語にあたるを體言として、「スミ」とよめるなり。「スミノエ」は卷一「六五」に「住吉」とかける地にして、そこの下に示せる如く、「須美乃叡」(風土記)「墨江」「須美乃延」「須美乃江」(萬葉)などかけるなり。その地はいふまでもなく、今の官幣大社住吉神社(257)の鎭り座す地なり。
○木笶松原 古來「キシノマツバラ」とよみ來れるを槻落葉は古本に「木」の上に「野」ありとしてこれを加へて「野木笶松原」と改め「ヌキノマツハラ」と改めたり。略解は「木の下志の字を脱せしか」といへり。さてその荒木田の有せし古本は如何なるものか、今知るに由なきが、今知らるゝ限りに於いては類聚古集には「乃」の字無くして「野」につくり、神田本には「乃」の下に「野」ありといへり。而してその他の本にはさる事なし。按ずるに、これはその「乃」を類聚古集の如く「野」をかける本ありし爲に、何人か校合の際に「野」を傍書しておきしものが後に神田本の如きさまになりしにあらざるか。然れどもこれにつきては一往「野木」といふ語の當否を考へざるべからず。槻落葉には「卷十に吉名張乃《ヨナハリノ》野木爾|零《フリ》おほふ白雪の(二三三九)とあれば野木といふ言のいにしへあるをしり、今も野の字あるのよろしきをしれり」といへり。「野木」といふは如何にも、この卷十にては存在し、しかも、それには異説もなき所なるが、ここを「野木」として果して通當と思はるべきか、「野木」の「松原」といはば如何なる意をなすべきか。第一に「野木」と「松」と如何なる關係に立つべきか、殆ど語をなさずといふべし。されば、攷證はこれを評して「例の奇説なれば、用ひがたし」といへるなり。されば、これは文字はこのままにしてよみ方も「キシノマツバラ」とよむべきなり。さて「木笶」を「キシノ」とよめるにつきて、略解には上に引ける如く木の下に志を脱せしかといへり。如何にも、卷十「二三一三」に「卷向之木志乃子松二三雪落來」とあるが如きは「木志」とかきて岸をあらはせるなり。然れども、ここに「笶」をかけることは別途の考察を加ふべき餘地あり。「笶(258)は玉篇に「笶俗矢字也」といひ本集には卷六「一〇一九」に「弓矢」ともありて。如何にも矢の俗字なるべけれど、假名としては「ヤ」に用ゐずして專ら「ノ」の假名に用ゐたり。たとへば、卷六「九二六」に「見芳野乃飽津之小野笶野上者《ミヨシヌノアキツノヲヌノヌノヘニハ》」「九三八」に「稻見野能大海乃原笶荒妙藤井乃浦爾《イナミヌノオホワタノハラノアラタヘノフヂヰノウラニ》」なほその外卷九、卷十、卷十一、卷十三にも「ノ」の假名に用ゐたり。されば、當時は矢の意味よりも「ノ」は「シノ」にして矢の材料なる矢幹をさすが、主としてその意に多く用ゐたりと見えたるが、これは恐らくは「竹」を冠せるより引かれたる觀念なるべし。かくして考ふれば、笶を「シノ」といふ語にあてたる事なしとすべからず。この考は攷證にも既に出でたり。曰はく「又考ふるに笶は和名抄に夜《ヤ》と訓て矢の俗字にて矢は皆篠を以て製する事本集七【三十四丁】に八橋乃小竹乎不造矢而《ヤハシノシヌヲヤニハカデ(ヤハカズテ)》云々(一三五〇)などあるが如くなれば、その意もて笶をしのゝ假名に用ひしにもあるべし」と。この説をよしとして、ここに「笶」を「シノ」にあてたりと認む。さて「キシノマツバラ」とは住吉の岸の松原なり。住吉の岸といふことは卷一「六九」の「岸之埴布爾仁寶播散麻思乎《キシノハニフニホハサマシヲ》」といふ歌の下にいへる如く、卷六「九三二」「一〇〇二」卷七「一一四六」「一一四八」などに見え、住吉に松原のありしことは卷一「六五」に「霰打安良禮松原住吉之弟日娘與見禮常不飽香聞《アラレウツアラレマツバラスミノエノオトヒヲトメトミレドアカヌカモ》」卷七「一一五九」に「墨吉之岸之松根打曝縁來浪之音之清羅《スミノエノキシノマツガネウチサラシヨリクルナミノオトノサヤケサ》」卷三「三九四に「印結而我定義之住吉乃濱乃小松者後吾松《シメユヒテワガサダメテシスミノエノハマノコマツハノチモワガマツ》」卷二十「四四五七」に「須美乃江能波麻末都我根乃之多婆倍弖《スミノエノハママツガネノシタバヘテ》」などあり。この地は今も松原をなせり。
○遠神 「トホツカミ」とよむ。この語は卷一「五」の歌に出でたり。天皇の神聖にして凡人の境界と遠く隔りあるによりていふことその條にいへる如し。
(259)○我王之 「ワカオホキミノ」とよむ。ここは天皇をさしたるなるべし。
○幸行處 舊本「ミユキシトコロ」とよみたるが、考はこれをわろしとして「イデマシドコロ」とよめり。まづ「幸行」の熟字は上にもいへる如く古典に見ゆる字面にして、たとへば、卷上に「此八千矛神將v婚2高志國之沼河比賣1幸行之《イデマシシ》時」又日本紀崇神卷に「即開2神(ノ)宮(ノ)門1而幸行之」とあれば、これは行幸の文字の顛置せられしにあらず。さてこれを「ミユキシトコロ」とよむをうべきかといふに、「ミユキ」は體言化せしものなれば、それより「シ」といふ複語尾につづくことあるべからざる筈なり。又この複語尾「シ」につづくものとせば上は動詞の連用形ならざるべからず。然る時に「ユキシ」とはつづくべきが、「ミユカ」「ミユキ」「ミユク」といふ動詞はなきものなれば、從ふべからず。「ミユキ」といふ語は「ユキ」といふ動詞より出でし名詞に「ミ」といふ敬意の接辭を添へたるものなり。されば「ミユキ」といふ語を用ゐむとせば、「ミユキセシ」といはざるべからず。この故に「イデマシドコロ」とよむをよしとす。「イデマシ」の事は卷一「五」の「遠神吾大王乃|行幸能山越風乃《イデマシノヤマコスカゼノ》」の下にいへるがここはその連用形より「トコロ」につづけて熟語とせるなり。この卷「三二二」に「遐代爾《トホキヨニ》神左備將往行幸處」とある「行幸處」も同じ語にあてたるなり。ここは難波宮に近く、屡天皇の行幸もありて、その御遺蹟として仰ぎ奉る處なりといへるなり。
○一首の意 清江の岸のこの松原はまことに、あたりの景色もよく、又心のすむ清き地なるが、ここは神聖なるわが世々の天皇の屡行幸あらせられし聖蹟にてあれば、うるはしきも清きも道理あることよとなり。何等の巧みもなくして、なだらかに、しかも詞たかくて、うちよむに、心地(260)のすが/\しくなる歌なり。
 
田口益人大夫任2上野國司1時至2駿河國淨見埼1作歌二首
 
○田口益人大夫 この人の上野守に任ぜられたる事續日本紀和銅元年三月の條に見ゆ。曰はく「從五位上田口朝臣益人爲2上野守1」とあり。この人の事はじめて史に見えたるは、慶雲元年正月に「從六位下田口朝臣益人授2從五位下1」とあり。さて和銅二年十一月には「從五位上田口朝臣益人爲2右兵衛率1」とありて、同時に「平群朝臣安麿爲2上野守1」とあり。次に靈龜元年四月に「授2正五位下田口朝臣益人正五位上1」とも見ゆ。田口朝臣は新撰姓氏録に「田口朝臣、石川朝臣同祖武内宿禰大臣之後也。蝙蝠《カハホリノ》臣豊御食炊屋姫天皇御世家2於大和國高市郡田口村1、仍號2田口臣1日本紀漏」と見ゆ。この一族たることは疑なけれど、父祖詳かならず。この名のよみ方は「マスヒト」なるべし。即ち祝詞にある「天益人」の義にて名づけしならむ。同じ名の人、「路直益人」といふが、天武紀上、壬申の亂の記事に天武天皇の御方にあり。「大夫」は五位以上の人の敬稱なること上にいへり。
○任上野國司時 國司は守、介、椽、目に通じたる名目なれど、上にいへる如くこの人國守たりしなり。その上野國守に任ぜられしは和銅元年三月にして、翌二年十一月に右兵衛率(後世の督)に轉任し、上野國守の後任を命ぜられたれば、この歌は和銅元年三月より同二年の間に於けるものといふべし。而してこれは恐らくは任に赴く時なるべく、和銅元年四五月の頃といふべき(261)か。
○至駿河國淨見埼作歌 上野國は東山道に屬する國なれば東山道を下るが道理の如くなれど、信濃國を通過すること頗る困難なれば、東海道を主に海路によりて下りしならむ。かく上野國に赴任する國司も駿河國を經しならむ。奈良正倉院に存する天平十年の駿河國正税帳を見るに、「依v病下2下野國那須湯1從四位下小野朝臣」「下野國造藥師寺司宗藏」等に供給せし食料の計算あり。これらを以てその交通状態の一班を見るべし。淨見埼は廬原郡にして海岸に迫りたる地として今の興津の清見寺のある邊をさせるならむ。清見關の地といふは、その興津清見寺の門前を今、關屋里といふによりて推定しうべきが、ここに淨見埼とあるは當時未だ關を置かれざりしが故か詳にはいひがたけれど、恐くはこの頃未だなかりしならむ。而してこの地は延喜式によりて息津といふ驛の在りし地なれば、この地を通過するが古の驛路なりしなり、
 
296 廬原乃《イホハラノ》、清見之埼乃《キヨミノサキノ》、見穗乃浦乃《ミホノウラノ》、寛見乍《ユタケキミツツ》、物念毛奈信《モノモヒモナシ》。
 
○廬原乃 「イホハラノ」とよむ。和名鈔郡名に「駿河國廬原【伊保波良】」とあり。即ち駿河國の郡名なり。古くは國の名とせしことは國造本紀に「廬原國造」ありて、「志賀高穴穂朝代以2池田坂井君祖吉備彦命兒|思《意(流)》加都彦(ノ)命1定2賜國造1」とあり。又新撰姓氏録に「廬原公、笠朝臣同祖、稚武彦命之後也。孫吉備建命、景行天皇御世被v遣2東方1伐2毛人及鬼神1到2于阿倍廬原國1復命之日以2廬原國1給v之」とあり。
(262)○清見之埼乃 「キヨミノサキノ」とよむ。古寫本のすべて「淨」を書して「清」をかかず。されど、よみ方に差異なければ、このまゝにても差支なし。「之」は古寫本中「乃」とかけるもの少からず。童蒙抄に「キヨミガサキノ」とよみたれど、「乃」とかける本少からぬに照してなほ昔よりのよみ方に從ふべし。
○見穗乃浦乃 「ミホノウラノ」とよむ。「ミホ」といふ地は延喜式神名帳に駿河國廬原郡のうちに御穗神社あり。その神社はかの名高き御穗松原の中に今鎭座しますなり。さてここにいふ「ミホノウラ」とは何處をさすか。この三穗松原は、西より東へ指し出でたる洲崎にして、その埼と清見の崎とは南北に一線上に位し、その西は深く灣入して今いふ清水港をその内に藏せり。これらのあたり即ち三保入江と稱せらるる所なるが、それ即ちここにいふ「ミホノウラ」なるべし。而してこの三保の地今は有度郡なれど、延喜式にある如く、古くは廬原郡なりしこと知られたり。「清見之埼乃見穗乃浦乃」とつづけいへるは如何なる意あるか。諸家多くはこれに言及せず、ただ新考に「埼乃の乃は由又は從の誤にてサキユにあらざるか」といへるを見るのみ。これは、このつづきの尋常にあらざる故にこれを明かにせむとの案なるべし。されどさる本は一もなし。按ずるに卷十二「三一九二」に「草陰之荒藺之崎乃笠島乎見乍可君之山道越良無《クサカゲノアラヰノサキノカサシマヲミツヽカキミガヤマヂコユラム》」とあるが、これは荒藺之崎のうちに笠島が在るにあらずして、荒藺之崎より見れば、近く見ゆる笠島といふ義なるべし。即ちここも淨見崎より見渡せば、すぐその眼下に展開せるミホの浦といふ意にて「キヨミノサキノミホノウラ」といへるなるべし。然らばこのままにて意よくとほ(263)り、その景を眼下にせる人の言と受けとらるべきなり。
○寛見乍 舊本「ユタニミエツツ」とよみたるを槻落葉に「ユタケキミツツ」とせり。「寛」は「ユタニ」とも「ユタケキ」ともよみうべきが、「ユタニミエツツ」といふときはそのミホの浦が寛かに見ゆることにて、わが心は受身の姿なり。「ユタケキミツツ」といふときはそのミホノウラの寛かなるさまをみつつといふことにてわが心は活動せるなり。されば、ここは「ユタケキミツツ」とよむかたまされり。海に「ユタケキミツツ」といへる例は卷二十「四三六二」に「海原乃由多氣伎見都々安之我知流奈爾波爾等之波倍努倍久於毛保由《ウナバラノユタケキミツツアシガチルナニハニトシハヘヌベクオモホユ》」あり。又卷八「一六一五」に「大乃浦之其長濱爾縁流浪寛公乎念比日《オホノウラノソノナガハマニヨスルナミユタケクキミヲオモフコノゴロ》」などもあり。その海の大きく廣くおだやかに心ものび/\するさまに見ゆるを形容せるなり。
○物念毛奈信 舊來「モノオモヒモナシ」とよめり。又契沖がいへる如く「モノモヒモナシ」とよみても可なるべし。「信」は「シン」の「シ」の音のみをとりて假名にせるなり。意明かなり。
○一首の意 この駿河國の廬原の地の淨見崎より眼下に見ゆる見穗の浦を見れば、まことに心ゆたかに、ひろ/”\とおだやかにまたとなきよき景色なるが、かかる絶景を見つつをれば、心ははれやかにして何の物思もなしとなり。
 
297 晝見騰《ヒルミレド》、不飽田兒浦《アカヌタゴノウラ》、大王之《オホキミノ》、命恐《ミコトカシコミ》、夜見鶴鴨《ヨルミツルカモ》。
 
○晝見騰 「ヒルミレド」なり。
(264)○不飽田兒浦 「アカヌタゴノウラ」なり。人々の晝見れども見あかぬといふ田兒浦といふ程の意なり。田兒浦といふ名の地は所々にあるが、ここは駿河國の内なることいふをまたず。然るに今田兒浦といへる地は富士郡の田子浦、本吉原村二村の海濱なりといへり。然るに、續日本紀天平勝寶二年三月に「駿河國守從五位下楢原造東人等於2部内廬原郡多胡浦(ノ)濱1獲2黄金1獻之、練金一分砂金一分」とあり。然るときはタコの浦は廬原郡内にありしことを見るべし。然らば、今いふ富士郡の田兒浦は古しか唱へざりしを、後人がかく唱へ出ししか、或は古より稱へしかも知られねど、ここにいふは淨見崎にての歌なれば、廬原郡の多胡浦なるべくして富士郡のにはあらざるべし。かくて東海道名所圖繪を見れば、田子浦に注して曰はく「都て清見興津よりひがし浮島原迄の海邊の惣號なるべし」といへり。かくすれば、この廬原郡のうちにもあり、又今いふ富士郡の田子浦をも含むこととなる。恐らくはかくの如き廣き意のものなるべし。ここは淨見崎にての詠なれば、そこより直ちに見ゆる地ならずばあらず。而して、上の「ミホの浦」は主として正面より西、一帶の海面をさせるなれば、ここはそこより東の方とせざるべからず。さればここのは淨見崎より東の浦をさせりとすべし。
○大王之命恐 「オホキミノミコトカシコミ」なり。天皇の大命の恐きによりてなり。即ちこの旅行はなほざりの私の旅にあらずして、地方長官としての赴任の途上なれば、心のどかに遊山がてらの旅行にあらぬ由をいへるなり。
○夜見鶴鴨 「ヨルミツルカモ」なり。「ツル」は複語尾「ツ」の連體形に「鶴」字をかり、「カモ」は助詞なるに(265)「鴨」字をかりたるなり。これは旅行の行程を油斷なくせむとして、夜田兒浦を見たりといふなるが、この頃の驛路延喜式と大差なしとせば、息津の次の驛は蒲原にして、この蒲原まで來る間にはその田兒浦の邊をつたひ來るなるが、當時の上野國府は群馬郡にありて、今の總社村の邊と覺ゆるものにして、(高崎市北二里)その行程は「上廿九日下十四日」とあり。この上は調物等を選ぶ爲にして、下はから身なるが故なり。されば、田口益人も、この十四日(但し、これは山城の京よりの日程、今は藤原京よりなれば一二日の伸縮はあるべし)に至りつくべき規程とす。而して東海道を武藏まで下りて上野に入りしものなるべければ、その日程も略想像せらる。即ち駿河國府(今の靜岡)までは下九日、伊豆國府(三島)までは下十一日、(但し、相模にこゆるものは伊豆國府にすぎずして足柄にかゝるなり。)相模國府までは十三日次に武藏國府(今の府中)までは下十五日にして、東山道を下る時の規程の十四日は武藏國府につかぬ前にすぎたり。さればこれらの矛盾の爲に、特に急がずばあらざる事もありしならむ。さあらずとも、駿河國府(靜岡)より伊豆國府(三島)まで二日の規程なるが、この間二十里許なり。これは驛馬を賜はるは勿論ながら、道路の不完全なる時代には相當の強行といふべし。この故にその日の朝に駿河國府を立ちしものは息津の驛まで、凡そ九里來て宿するか、更に一驛進めて、四里許行きて蒲原の驛に行かざるべからず。恐らくはその目的の驛につかぬうちに夜に入りしならむ。而してこの歌二首共に「至淨見崎時」とあるが、前の一首は眞に淨見崎にての詠、次のは淨見崎をすぎての詠と見えたり。
(266)○一首の意 田兒の浦の景色は晝間に見ても飽くといふ事なき美はしき景色と聞きたるが、われは君命を奉じての旅行なれば、さる勝手なる事も出來ず、行先をいそぐが爲に、夜行くことよとなり。
 
弁基歌一首
 
○弁基 神田本には「辨基」とあり。類聚古集には下に小字にて「春日藏首丸之法師名也」とあり、これ本書の左注にせると同じ文なるをここに注せるなり。古葉略類聚鈔には行間に小字にて「辨基者春日藏首老之法師名也 還俗給姓從五下入哥六首」とあり。按ずるに「春日藏首老」は卷一の「五六」「六二」の歌の作者にして本卷にも「二八四」の歌を詠ぜり。この人の事は、その「五六」の下に述べたり。然るに、その「春日藏首老」の僧としての名は續日本紀には「弁紀」とあるに、ここに「弁基」とあり、神田本に「辨基」とあれば、文字また一致せず。然らば、果して同人なりや否や疑を容るべき餘地なきにあらず。然れども「基」「紀」恐らくは通用せしならむと思はるれば、なほ同人なるべし。元來「辨」「弁」異字異義なれど、續日本紀に既に「右大辨」を「右大弁」とかけるもあれば、この「弁」「辨」また通用とすべし。しかもその僧名としては「弁基」を正しとすべきか「辨基」を正しとすべきか、「弁紀」を正しとすべきか「辨紀」を正しとすべきかに至りては今決定するを得ず。次に類聚古集に「春日藏首丸〔右○〕とある「丸」は「老」の誤なること著し。さてこの歌「弁基」といふ僧の名の時代とせば、これは大寶元年三月以前の詠と認めざるべからず。然れども春日藏老の僧時代の詠と決定(267)すべき根據なきを以て、これも亦決定していふべからず。
 
298 亦打山《マツチヤマ》、暮越行而《ユフコエユキテ》、廬前乃《イホサキノ》、角太河原爾《スミダガハラニ》、獨可毛將宿《ヒトリカモネム》。
 
○亦打山 「マツチヤマ」とよみて、異議なし。「マタウチ」の約を以て「マツチ」とよめるなり。この山は卷一「五五」に「朝毛吉《アサモヨシ》、木人乏母《キヒトトモシモ》、亦〔左○〕打山《マツチヤマ》」とあると同じ山なるべしといひて大方の學者一致せり。さらばこの山は、大和と紀伊とに跨りて大和より紀伊國に越ゆる峠の今「待乳峠」といふ小高き峠たり。即ち大和國宇智郡坂合部村畑田にある峠にしてこれを越えて少しく下れば、落合川といふ紀の川の支流をわたる。これ紀伊と大和との境にしてその紀伊國に入れば、伊都郡|隅田《スダ》村字眞土となる。但し、今の待乳峠は古の亦打山に非ずとして、今の眞土峠の西の山が昔のまつち山なるべしともいへり。八雲御抄に「駿河」と注せさせ給へるがそれは御誤ならむといはる。
○暮越行而 「ユフコエユキテ」とよむ。意明かなり。夕暮にマツチ山を越え行きてなり。
○廬前乃 「乃」字類聚古集神田本になし。されど、「イホサキノ」とよみて諸家異説なし。この語は何を意味するか。仙覺抄には「いほさきのすみだがはらは紀伊國也」といへるが、「イホサキ」をも地名と見たるならむ。契沖は「亦打山は大和慥なれど、廬崎の角太川おぼつかなし。角太河は下總に名高けれど武藏の方に亦打山廬崎共に慥ならず。駿河は三つながら慥ならねど、今の歌益人が清見崎田兒浦をよめるつゞきなれば、廬前は廬原崎と云略にて駿河にや。今廬原河(268)とて海道に渡る川なとを角太川と云けるにや。後の人定むべし」といひて未決とせり。童蒙抄は「亦打山」につきて「此歌の列をもて見れば此一首の地名先駿河と見ゆれども、後々の諸抄物或は物がたり物等に武藏下總などありて一決し難し。八雲御抄には此三處駿河と注せさせ給へり。惣て八雲御抄の説被v爲v訛られたること多けれど、この御説は此集の次第をもて注せられたる歟。しかるべき御説也。今武州江戸の内に角田川亦打山といふ處をこしらへたるは甚難信用處也。尚證明の所見を得て可決也。先駿河と見ること歌の次第を證として難あるまじき歟」といひ、又「廬前」の下に注して、「前の廬原と同處にて海によりたる處か、仙覺抄には廬前角田川、紀州と注せり。證明なければ、いづれの國とも難v決也」とあり。考には「仙覺は是をも紀伊國とせり。思ふに角田川ちふ所はかたがたに在ば、紀伊にも在しならむ。眞土山はそこにこそ名高ければ、專らよるべき事なり。それが上に此下に有三保の石室は紀伊なるをおもふに此庵前を三保崎とよみて夕みほと同じ所ともすべきか。或人此|角《スミ》田川を駿河に在といへるは清見が埼の歌に並び載て庵原庵前の名の近きに泥みて辨基の僧俗の時代を思はで誤りしなり」といひ、而して東海道名所圖繪には江尻附近を「廬崎」なりとして、庵原崎の略なるべしといへり。槻落葉の頭注には「近江國の僧海量(カ)云、紀伊(ノ)國に廬前《イホサキノ》庄、角田庄といふ處ありて相隣れりといへり。」とあり。略解には「廬前も角田河も紀のくに也」といひ、かくて、廬前は紀伊の地名なりと一般に認めらるるに至れり。然れども「イホサキ」の庄といふ地名、海量以前のものに見えず、マツチ山の邊に「イホサキ」といふ地名ありといふことも確實にあらず。紀伊續風土記に(269)イホサキは隅田村大字|芋生《イモフ》なる出崎をいひしものならん」といひたれど、「イモフ」と「イホサキ」とは必ずしも一致すべからざること「イホハラのサキ」を「イホサキ」とすると五十歩百歩なり。さりとて駿河國にはもとより「イホサキ」といふ地名なし。これを求むる人の説に「イホハラ」の崎を「イホサキ」といひたりとする説ももとよりうけられず。結局明かに「イホサキ」とよむべき證あるものを發見するまでは未定の問題とすべし。
○角太河原爾 「太」字神田本、温故堂本に「田」に作り、又類聚古集には「河」字なし。よみ方は古來「スミタカハラニ」とよみ來れるをば、玉の小琴に「此角太河を古よりすみだ川と心得たるも僻事也、角を古すみと訓る例なし。すみには隅の字をのみ用ひたり。然は爰はつぬだか、つぬほかなるべし」といへり。かくて槻落葉は「ツヌダカハラ」とよみその頭注に「角田を今すみだの庄といふといへれど、そは後世の誤なるべし」といへり。かくて又古義は「河(ノ)字无(キ)本に依ば、原は眞神之原などいふ原にてスミダノハラニとも訓べく、又|河原《ガハラ》ともあるも河は借字にて角田之原《スミタガハラ》なるべし」といへり。先づ本居のいへる古、角を「スミ」とよめる例なしといへることは攷證、檜嬬手、古義等にすでにこれを駁せるものなるが、檜嬬手は「祝詞にも四方四角與理と書き(御門祭)紀にも巽|角《スミ》とあり」といひ、攷證は「角の字は易晋卦に晋2其角1疏に西南隅也云々、後漢書朗凱傳注に角隅也云々ともありて隅の字と通れば、外に例なくともすみと訓まじきにあらず」といひ、古義は「續紀廿八詔に東南之角《タツミノスミ》云々|西北角《イヌヰノスミ》などあればなほ角田はスミタなるべき證とすべし」といへり。日本紀皇極卷元年十一月の條にも「西北角」十二月の條に「東北角」とあり。されば「スミタガハラ」(270)とよまむに無理なることはなしといふべし。次に、「スミタ」が原といふ説は如何といふに、これは角田河といふ河を認めず、「スミタ」といふ地名のみを認めてそこの原といふ意にとらむとするならむが、本集の用字例として「河原」をば云々が原といふにあてたりといふ事はなき事なれば、從ふべからず。さて「スミダガハ」といふは、今さる川を知らず、説くものは眞土山のさきなる紀の川が隅田村の地を通過するそれをさしていへりとす。こゝは姑くその説に從ひて、紀の河の隅田村地先の河原といふ事とすべし。この邊は河原の廣きは今も然り。さて、かく、眞土山と角田河とを紀伊とせば、廬前はその邊の大名と假定すべきものなり。されば、今この假定の下に説を立つべし。「當時旅行者は多く河邊濱邊にやどりしならむによりて、かゝる事をいへるなり。「カ」は疑問「モ」は嘆息の意を寓せり。
○獨可毛將宿 「ヒトリカモネム」とよむ。ここにやどりて獨寢ねむかといふなり。
○一首の意 明かなり。夕暮に亦打山をこえ行きて(されば大和國より紀路に入るなり)廬前の角太の村の地先の紀の河の河原にひとり宿り寢むかなとなり。
 
右或云弁基者春日藏首老之法師名也。
 
○ この左注の意は既にいへるにて明かなればこゝには略す。
 
大納言大伴卿歌一首 未詳
 
(271)○大納言大伴卿 「卿」は上の「石上卿」の下にいへる如く「オホマヘツギミ」とよむべし。「大伴卿」はここに大納言たる人をさしたれば名をば記さざるなり。さてはこの「大伴卿」といはれたる人は誰なるか。天武天皇の朝には大納言大伴望陀(ノ)連あり、文武天皇の朝には大納言大伴宿禰御行あり、大納言大伴安麿あり、元明天皇の朝には大納言大伴安麿あり、聖武天皇の朝には大納言大伴旅人あり。以上五人の外には大作氏にて大納言たりし人なし。而して從來の諸書にはこの大伴卿を旅人なりとせり。旅人の大納言に任ぜられしことは續紀に所見なけれど、公卿補任に天平二年十月一日に大納言に任ぜられたる由見ゆ。然らば、この歌は天平二年十月以後とすべきか。然れども、その年月明かならねば、必ず旅人卿の歌なりと斷じ去るべき根據なきなり。或は云はむ、この三の卷には旅人の歌多きが故に、と。されど、その人の歌多きが故に、他をもそれならむと推定するはかかる場合には無理なり。余はかへりて、ここに單に大納言大伴卿とあるは下に、帥大伴卿、太宰帥大伴卿とあるよりも以前にあれば、旅人より前に大納言になりし安麿ならむと思ふなり。この説は、既に國語國文の研究の第四十五號に澤瀉久孝氏の發表せるあり、又鴻巣盛廣氏の萬葉集全釋にもあり。これら皆安麿とする説なるが、この方穩當なりと思ふ。さてそのうちにも澤瀉氏の説最も委しければ、就いて見るべく、今又蛇足を加ふる必要を見ざれど、姑く、讀者の爲にその要をあげむ。「今の場合大納言大伴卿と云はれる人は旅人ばかりでなく、その父安麿がある。しかもその安麿は續紀慶雲二年八月の條に「爲2大納言1」とあり、同十一月に「爲2兼太宰帥1」とあり、和銅元年三月の條に再「爲2大納言1」と見え、和銅七年五月(272)の條に「大納言兼大將軍正三位大伴宿禰安麿薨」とある。」「さうすれば、和銅七年以前と思はれる作に大納言大伴卿とあれば旅人と斷ずるよりもむしろ安麿と見る方が穩なわけである。安麿ならば、卷四の例の如く兼大將軍の文字があるべきだと云はれるかも知れないが、さういへば、旅人も卷六(九六六)の左註に「太宰帥大伴卿兼任大納言」とあり、卷十七(三八九〇)の題詞にも「太宰帥大伴卿被v任2大納言1【兼帥如舊】」とあり、兼任であるにかゝはらず、單に大納言大伴卿と記されてゐるのであるから、安麿の場合も兼官の名稱を略して單に大納言とのみ呼ばれたに不審はないわけである。」「即今の歌の作者を決定するには「兼大將軍」の文字の有無よりは歌の時代が間題である。さて今の歌の排列順序を見るに、この歌の二つ前の歌には「田口益人大夫任2上野國司1時至駿河淨見埼作歌」と題詞がある。そしてその田口益人の上野國司に任ぜられたのは和銅元年三月である事續紀に明記するところである。そしてまたこの歌の四首目には柿本人麿の作が載せられてゐる。その人麿は和銅二三年に死んだかと思はれる事既に(第十號七十一頁)述べた」 「大體年代順に排列するつもりで編纂せられてゐる事前にも述べた。すると和銅元年の作の二首次に大納言大伴卿と題詞のある作があり、しかもその頃大納言であつた人は大伴安麿であり、その歿年は和銅七年であるとするならば、その大伴卿を安麿と認定すべきは極めて自然な事ではなからうか。」といふにあり。さてかくこの大伴卿を安麿と推定すべきなるが、この人は卷二の「一〇一」の歌をよみたる大伴宿禰その人なり。而してその下に略傳をあげたれば、今略す。
(273)○未詳 この二字流布本大字にせるが、今多くの古寫本に從ひて小字にせり。これは、この大納言大伴卿といふは誰人をさせるか詳ならずとして、中古の後人が加へたるものなるべし。
 
299 奥山之《オクヤマノ》、菅葉凌《スガノハシヌギ》、零雪乃《フルユキノ》、消者將惜《ケナバヲシケム》。雨莫零行年《アメナフリソネ》。
 
○奧山之 「オクヤマノ」とよむ。この語の例は多きが、そのうちここに近きはこの卷「三九七」に「奧山之磐本管乎《オクヤマノイハモトスゲヲ》」卷四「七九一」に「奥山之磐影爾生流菅根乃《オクヤマノイハカゲニオフルスガノネノ》」卷六「一〇一〇」に「奥山之眞木葉凌零雪乃《オクヤマノマキノハシヌギフルユキノ》」卷十一「三七六一」に「奥山之石本菅乃根深毛《オクヤマノイハモトスゲノネフカクモ》」などあり。
○菅葉凌 舊訓「スガノハシノギ」とよめるを考に「スガノハシヌギ」とよめり。「凌」は今「シノグ」とよむが、古くは「シヌグ」といひしものと見え、本集には「シノグ」といふ語の假名書のものなくして、假名書なるはいづれも「シヌグ」とのみあり。卷八「一六六五」に「高山之管葉之努藝零雪之消跡可曰毛戀乃繁鷄鳩《タカヤマノスガノハシヌギフルユキノケヌトカイハモコヒノシゲケク》」「一六〇九」に「宇陀乃野之秋芽子師努藝鳴鹿毛《ウダノヌノアキハギシヌギナクシカモ》」卷十九「四二四九」に「伊波世野爾秋芽子之努藝馬並而《イハセヌニアキハキシヌギウマナメテ》」などなり。さてここにいふ菅葉とは何かといふに、奧山の菅葉といへるを以て見るに、所謂山菅の葉をさせりと見ゆ。山すげは本草和名に「麥門冬和名|也末須介《ヤマスゲ》」とあり、和名鈔にも麥門冬【和名夜末須介】」とあり。この麥門冬は俗にいふ「龍がひげ」又は「尉がひげ」といひて、深山に自生し、又庭園の石のほとりなどにも植うる草なり。これが深山に生ずる故に「奧山」云々といへるなるが、その例は既にいへる「奧山之磐本菅《オクヤマノイハモトスケ》」(三九七)「奥山之石本菅《オクヤマノイハモトスケ》」(二七六一)「奥山之磐影爾生流菅根乃《オクヤマノイハカゲニオフルスガノネノ》」(七九一)「高山之《タカヤマノ》菅葉《スガノハ》」(一六五五)等にて知るべし。「スゲノ葉」を「スガノハ」といふは卷(274)二十「四四五四」に「高山乃伊波保爾於布流須我乃根乃《タカヤマノイハホニオフルスガノネノ》」の例などによりてよむべし。「シヌグ」といふ語は上にあげたる「菅葉之努藝《スガノハシヌギ》」(一六五五)には菅の葉をしぬぎて雪のふるにいひ「一六〇九」「四二四九」なるは秋萩をしぬぎて鹿の鳴くにいひたり。なほ又卷六「一〇一〇」には「奥山之眞木葉凌零雪乃《オクヤマノマキノハシヌギフルユキノ》」といへるは同じく木葉をしぬぎて雪のふるにいひ、卷十「一八一五」には「木葉凌而霞霏※[雨/微]《コノハシヌギテカスミタナビク》」とあり。これらその語は一なるべし。代匠記に曰はく「しのぐは侵すと云に通ふ詞なり」といひたり。童蒙抄には「侵といふ意也といへる説もあれど歌の意不v通也。しのぎはしのにと云義也。しのには前にも注せる如くしどろといふ義也。雪ふれば、菅の葉しどろにみだるるをしのぎとは詠める也。菅のはもみだれてふりつもれる雪のおもしろき景色なるを惜みて雨のふることなかれとよめる也」とあり。大意はさる事と思はるれど、「しのぎ」と「しのに」とは同語なりといふことは根據なきことなり。考には「山菅の繁き中を凌をかして雪の降入をいふ」とあり。鹿の萩を「しぬぐ」も、雪の山菅を「しぬぐ」もその中に侵し入ることをいふとは聞えたるが、なほ十分に落居せず。槻落葉には「しぬぐといふ言の意を考るに自|堪忍《タヘシヌ》ぶをしのびしのぶといひ、他《ヒト》のたへがたきを是をおしてするをしのぎしのぐといふ。神代紀に凌《シヌギ》2奪吾(カ)高天原《タカマノハラヲ》1とあるしぬぎ即是にて凌礫の字意也。さればここも菅の葉をおしなびけて降雪といふ意となれり」とあり。これも大意はさる事なれど、なほ「しぬぐ」といふ意をかく精神的の意を本として説くはここにあたらず。略解には「しぬぎは繁き葉のあはひまで降入たるをいへり」とあり。これは語の本意は姑くいはずとしてその意はよくあたれりと思はる。今考ふるに「シヌグ」と(275)いふ語は鹿が萩の間を胸わけ行く如く物の間をわけ入ることをいふ場合の意にて明かなるべし。かくて、刀の「シノギ」といふもその「シノグ」用を爲すによりてならむ。然らば、菅の葉しぬぐは略解の説の如く解するをあたれりとすべし。
○零雪乃 「フルユキノ」なり。異説なし。
○消者將惜 古來「ケナバヲシケム」とよめるを槻落葉は「なとよむ字のなければ」といひて、「キエバヲシケム」とよめり。按ずるに「キエ」を約めて「ケ」といふことあるはいふまでもなく、本集に「ケナバ」とよめる例は卷十「二三三七」に「小竹葉爾薄太禮零覆消名羽鴨將忘云者益所念《ササノハニハダレフリオホヒケナバカモワスレムトイヘバマシテオモホユ》」をはじめ「な」といふに當る字なくても、卷二「一九九」の「消者消倍久《ケナハケヌベク》」卷四「六二四」の「消音消香二《ケナバケヌガニ》」卷八「一五九五」に「消者雖消《ケナバケヌトモ》」卷十二「三〇四一」に「消者共跡云師君者毛《ケナバトモニトイヒシキミハモ》」卷十三「三二六六」に「消者可消《ケナバケヌベク》」等あり。「將惜」は「ヲシケム」とよむべし。「ヲシケム」は「ヲシカラム」の約なり。その例は卷八「一六四六」に「消者借氣牟《ケナバヲシケム》」あり。されば古來のよみ方をよしとす。以上一段落なり。
○雨莫零行年 舊訓「アメナフリコソ」とよみたるを槻落葉に「所年」と改めて「アメナフリソネ」とよみて、曰はく「今本行年とありてこそとよめるは例なく誤なるよし本居氏いへり。雨なふりそといふに禰の言をそへたるなり。ねは願のこと葉なり」といへり。これよりして古義、檜嬬手、註疏多くこれに從へり。されど攷證は異見を立てて曰はく「まことにさる事ながら外にそねといふ所に行年を書る例もなく年をねと訓事はさる事なれど、行をその假字に用ひん事あるべからず。こゝともに四所まで行年と書れば、文字の誤りとも思はれず。本集二【卅九丁】八【十六丁】(276)十【九丁】などに去年をこぞと訓れば、其意もてこそといふに行年とは書るならん。さればしひて思ふにこそは願ふ意のこそにはあらで、こそのこは來《コ》、そは莫をうけたる詞にて雨のふり來ること事なかれといふ意ならんか猶よく可v考」といへり。今ここに「行年」の字を用ゐたる例を見るに卷七「一三一九」に「風莫吹行年」「一三六三」に「言勿絶行年」卷十「一九七〇」に「雨莫零行年」卷十三「三二七八」に「犬莫吠行年」とあり。今これを攷證の説の如く「コ」を來の義とせむに、この歌と卷七の風、卷十の雨とにはあつることを得べけれど、卷七の「言」「犬」の場合にはあてはまるべくもあらず。又「フリソネ」といふ語格は假名書の例本集に少からず。即ち「雨ナフリソネ」の例は卷十「二〇九七」に「此芽子原爾雨勿零根《コノハギハラニアメナフリソネ》」「二一一六」に「白露爾荒爭金手咲芽子散惜兼雨莫零根《シラツユニアラソヒカネテサケルハギチラバヲシケムアメナフリソネ》」あり。「コトナタエソネ」の例は卷十四「三三八〇」に「佐吉多萬能津爾乎流布禰乃可是乎伊多美都奈波多由登毛許登奈多延曾禰《サキタマノツニヲルフネノカゼヲイタミツナハタユトモコトナタエソネ》」「三三九八」に「比等未奈乃許等波多由登毛波爾思奈能伊思井乃手兒我許登奈多延曾禰《ヒトミナノコトハタユトモハニシナノイシヰノテコガコトナタエソネ》」あり。これらによれば、本居説是なるに似たり。然るにこの歌及び、他の四の場合(卷十の「年」を類聚古集に「序」とするあれど)いづれも、「所年」とあるもの一もなし。この故にこの誤字説は容易に從ふべからず。鴻巣氏は「行」に「ソ」の音あるかといはれたれど、さる事あるべくもあらず。されば、これはなほ「行年」として考を立つべきなり。これを「コソ」とよむ説は代匠記に「行年は去年なり。清濁をいはず借て用たり。こそは願ふ詞なり」とあるを以て代表しうべし。さてなほ嚴密に論ずれば、行年は大抵、その人の從來經來りし年數をいふ語にして去年の意にあらず。されど、國語の行ける年といふ意にとりて去年と同意にして「コゾ」とよみ、それを清濁相通ずる(277)こと「雉」を「岸」にあてたる如く用ゐたることなしとはいふべからず。然れどもこれも萬葉集には例なきことなり。今、例はなけれど、姑くこれをも認めむに、「コソ」をその「ナ云々」の下に加ふることをうべきかといふに、この「コソ」はただ單に動詞の連用形に加へて終止して、希望の意をあらはすに用ゐたるはあれど、「ナ云々」の下に用ゐたる例は未だ他に見ざる所なり。されど、これをも許すとして、さてその「こそ」が「ナ云々」の下につきうべきかを考ふるに、かゝる際の「ナ」の下には動詞の連用形がつきて、その禁止の意を明かにするが通規たり。又「こそ」が終止として用ゐらるる場合には用言の連用形に附くことが通規なれば、二者を相照して考ふれば、「アメナフリコソ」とよみ得ずとはいはれず。然る時に「コソ」は如何なる意を示すかと云ふに、「ナ」にて示されたる禁止の意を強めて指定すること「ナソ」の場合に大抵同じくて、それよりも意強きものなるべし。然れども、これもとより假説なり。若し、「行年」が「ソネ」といふ語なりといふ確證出でば、直ちに改めらるべきものなりとす。文字を改めずしてしかも、舊來の訓を顧みるときにその訓は、必ずしも排斥するを得ざれば、ここに姑くこれを保有して上の如く説く。
○一首の意 奥山の山菅の葉の間までも入り込みてふる雪を見れば、興深きものなるが、これが消えなば惜しく思はれむ。雨よ降ることなかれとなり。これも恐らくは旅中に見たる事につきての所感なるべし。かくてこれも旅の歌の部類に入るべし。
 
長屋王駐2馬寧樂山1作歌二首
 
(278)○長屋王 この王の事卷一「七五」の下にいへる如く、天武天皇の御孫にして、朝に仕へて累進して神龜元年に左大臣に任ぜられ、天平元年讒にあひて自盡せられたり。
○駐馬寧樂山作歌 寧樂山は卷一「一七」にある「奈良能山」におなじ。これは既にいへる如く古の平城京の北に横はれる低き連山にして平城京より山背に行くにはこの山を超ゆるを順路とするものにしてこれはその路は今は歌姫村といふ地を通るによりて歌姫越といふ。馬をその寧樂山に駐めてよまれたる歌なりとなり。これ亦旅行中の歌なり。
 
300 佐保過而《サホスギテ》、寧樂乃手祭爾《ナラノタムケニ》、置幣者《オクヌサハ》、妹乎目不|離〔左○〕《イモヲメカレズ》、相見染跡衣《アヒミシメトゾ》。
 
○佐保過而 「サホスギテ」とよむ。「佐保」は佐保山の存し、佐保川の流るゝ土地の大名《オホナ》にして、今の奈良市の北方より西に亙る地なり。即ち今の法蓮、法華寺の二村の地を佐保村と稱するは大體古の地にあてたるならむ。さて長屋王は佐保の地に邸宅ありしことは本集及び、懷風藻に著しく、佐保大臣の稱號さへありしなり。而して其の佐保殿の祉といふが今の奈良市宿院町の西にありて、長屋王第と傳へたり。これによりて、この句はその佐保の第宅を立ち出でられたるをいふならんといふ説あれど、若し然る時には、「過ぎて」とはいふべからず。按ずるに、この歌はその排列の順序を大體時代順とせるものと認むるときは寧樂宮以前の詠とせざるべからず。而して當時藤原宮を遠く離れたる佐保の地にこの王の邸第ありきとは思はれず。この王の佐保の邸宅は、寧樂遷都以後新に営まれしものと推定すべきものなれば、この歌に「さほ(279)すぎて」とあるは、なほ藤原の地より來りその佐保の地を過ぎて、寧樂山に越えられしものと見るべきものなりとす。
○寧樂乃手祭爾 「ナラノタムケニ」とよむ。寧樂は即ち「奈良山」なり。この奈良山をば從來多く今の奈良坂にあつれど、それは既にいへる如く、ここの奈良山よりは東にありて、般若寺坂といふ所にして、古代にはここは本通りにはあらず、平城京廢せられ、古の平城京の東郊外が今の奈良町として發展して後に山城の京よりの直通路として發達したるものなれば、今の奈良坂にあらざるなり。「手祭」を「タムケ」といふは所謂義訓にして普通には手向とかく。本集中にあるその例は卷四「五六七」に「周防在磐國山乎將超日者手向好爲與荒其道《スハウナルイハクニヤマヲコエムヒハタムケヨクセヨアラキソノミチ》」又卷十二「三一二八」に「吾妹子夢見來倭路度瀬別手向吾爲《ワギモコガイメニミエコムヤマトヂノワタルセコトニタムケゾワガスル》」卷十三「三二四〇」に「近江道乃相坂山丹手向爲吾越往者《アフミヂノアフサカヤマニタムケシテワガコエユケバ》」とあるなどなり。又「タムケ」といふ語を假名書にせるは卷十五「三七三〇」に「加思故美等能良受安里思乎美故之治能多武氣爾多知而伊毛我名能里都《カシコミトノラズアリシヲミコシヂノタムケニタチテイモガナノリツ》卷十七「四〇〇八」に「刀奈美夜麻多牟氣能可味爾奴佐麻都里安我許比能麻久《トナミヤマタムケノカミニヌサマツリアガコヒノマク》」あり。又卷九「一七一六」の「白那彌之濱松之木乃手酬草幾世左右二箇年薄經濫《シラナミノハママツノキノタムケグサイクヨマデニカトシハヘヌラム》」ともあり。「タムケ」は卷一「三四」の手向草の下にもあるが、もと「タムクル」といふ動詞にして神に物を「タムクル」ことなるが「手向」とも「手酬」とも「手祭」とも書けるは「向」は「ムク」にして「酬」は「ムクユ」の語幹なるその音をかりたるものにして「祭」はその義によりてかけるならむ。さてそれは元來動詞なるが、ここは「タムケ」といふ名詞にして行旅の際に神を祭る一定の場所をいへり。倭名鈔神靈類に曰はく「道神 唐韻云※[場の土が示]【音揚一言傷漢語抄云太无介乃賀美】道上祭一曰道神也」と。これはその(280)タムケに於いて祭る神をいふなり。後世「タウゲ」といふは「タムケ」の音訛たること著し。さてかく旅路に於て神を祭るべき場所を「タムケ」といへるは上に引ける卷十五、卷十七の例に見ゆるものこれなるが、その手向と名づくる所は陸路にも水路にもあるべきが、陸路にては平地にては路の分れぢ、山坂にてはその坂を登りつめて、下らむとする所にありしならむ。さて今の歌にては奈良山の手向なること著し。然るに從來の説にては菅公のよまれたる歌の手向山をこれにあてたり。されど、然すれば、不合理なること契沖が既に「手向は東大寺に近き法華堂の邊に有て俗に八幡山と云由なれど不審なり」といへる如きなるに、古事記傳卷二十五に「那良の手向は手向山と云これなり」といひてより人々多くこれに從へり。然れども、その手向山といふは手向山八幡宮の所在地にして(今奈良公園内にあり)ここにいふ奈良の手向とは全く別なり。この事は既に契沖も考へたりしにて「第六に相坂を手向山と云ひ、又餘所にても手向に立て、手向の神にぬさ祭るなどよめるも、多く兩國さかふ所と聞ゆれば、此も山城に入らむとする所に有ぬべくや」といへる如きは穩かなる考なりといふべし。ここの奈良山即ち歌姫越は大和より山城にうつる要路にして一方には又山坂なれば、その山中の國境が即ちここにいふ手祭なること著しといふべし。
○置幣者 「オクヌサハ」とよむ。「ヌサ」は卷一「六二」に「渡中爾幣取向而」といふ條に既にいへる如く、神に手向くるもの、又は祓に出すものをいふなるが、こゝはもとより神に手向くるものなり。その「ヌサ」を神の前に置くによりて「オクヌサ」といへるなり。神に供ふるものをおく臺を「置座」(281)といふ語あるも「オク」といふことより生じたるなり。「ヌサ」を置くといへる例は卷十三「三二三七」に「相坂山丹手向草絲取置而《アフサカヤマニタムケグサイトトリオキテ》」卷二一十「四四二六」に「阿米都之乃可未爾奴佐於伎伊波比都々《アメツシノカミニヌサオキイハヒツツ》」とあり。かくの如く手向に幣を置きて、神に祈るは主として旅行の安全を得むが爲なるにこの歌の作者はなほその上に希ふ所ありて下に見ゆ。
○妹乎目不|離〔左○〕 「離」字流布本には「雖」につくる。然れども、古寫本すべて、及び活字無訓本には「離」とせり。これは流布本の源とせる活字附訓本の誤植に基づくものなること著しく、よみ方は古來「イモヲメカレズ」とよみて異説なきを見ても「雖」の誤なるを知るべし。「メカル」といふ語の例は卷十四「三三六七」に「母毛豆思麻安之我良乎夫禰受流吉於保美目許曾可流良米己許呂波毛倍杼《モモツシマアシガラヲブネアルキオホミメコソカルラメココロハモヘド》」又卷十五「三七三一」に「於毛布惠爾安布毛能奈良婆之末思久毛伊母我目可禮而安禮乎良米也母《オモフヱニアフモノナラバシマシクモイモガメカレテアレヲラメヤモ》」卷二十「四三三一」に「多良知禰乃波波我目可禮而《タラチネノハハガメカレテ》」などあり。「かる」といふ語は水の涸るる、草木の枯るゝといふも同じ語にして、水にてはその無くなること、草木にては生命を失ふをいふ。これに准じて人事にては、その事の絶ゆるをいふ語にて、後世「夜がれ」ともいひ、古今集の業平の歌に「今ぞしる、くるしきものと人またむ、里をばかれすとふべかりけり」などいふ「かる」にて卷九「一六九三」に「玉匣開卷惜〓夜矣袖可禮而一鴨將寐《タマクシゲアケマクヲシミアタラヨヲコロモデカレテヒトリカモネム》」卷十一「二六六八」に「二上爾隱經月之雖惜妹之田本乎加流類比來《フタガミニカクロフツキノヲシケドモイモガタモトヲカルルコノゴロ》」卷十九「四一七五」に「霍公鳥今來喧曾無菖蒲可都良久麻泥爾加流流日安良米也《ホトトギスイマキナキソムアヤメクサカツラクマデニカルルヒアラメヤ》」卷十九「四一八四」に「山吹乃花執持而都禮毛奈久可禮爾之妹乎之努比都流可毛《ヤマブキノハナトリモチテツレモナクカレニシイモヲシヌビツルカモ》」などあり。さてこの一句の「妹を」は直接に下の「相見シメ」につゞくものにして、「目かれず」はその「相見ル」ことの(282)修飾格におけるものなり。「目かれず」の「目」は「見る事」にして、「目かれず」は相見る事の絶ゆる事なきをいふ。
○相見染跡衣 古來「アヒミシメトゾ」とよみて異論なし。「染」は「ソム」とも「シム」ともよむ字なるが、本集には多くは「シム」とよめり。而してこれはその「シム」といふ語の一活用「シメ」をかりて「令」の字の意の語をあらはしたるなるが、かく「染」字を「シメ」「シム」といふ語の借字として用ゐたる例は卷二「一九六」の「三五月之益目頬染《モチヅキノイヤメヅラシミ》」卷四「六四一」に「絶常云者和備染責跡《タユトイハバワビシミセムト》」又卷十三「三二二四」に「獨耳見者戀染神名火乃山黄葉手折來君《ヒトリノミミレバコホシミカムナビノヤマノモミヂヲタヲリコムキミ》」などの例あり。さてこの「シム」といふ複語尾はこの時代に盛に用ゐられたるものなるが、ここの「シメ」はそれの命令形なり。而してこの「シメ」のみならず一般に下二段活用の命令形に「ヨ」といふ助詞を添へずしてそのまま用ゐられたることはこの集の時代の語法なり。今「シメ」についてその例をあぐれば、卷五「九〇六」に「多太爾率去而阿麻治思良之米《タダニヰユキテアマヂラシメ》」卷十七「四〇〇八」に「奈泥之故我波奈乃佐可里爾阿比見之米等曾《ナデシコガハナノサカリニアヒミシメトゾ》」とあり。さてこの「トゾ」の下には略語ありて、それは一方にては上の「オクヌサハ」の「ハ」の係に對して一定の陳述を要するものなるが、一方に於いては「ト」に對しての用言を要求すること明かなり。即ち置く幣は妹を目かれず相見しめ給へと希ひておく幣なり」といふ意なるべし。而してこの「アヒ」は「逢」の意にして後世の「相成」などの「相」にはあらず。
○一首の意 藤原都の方より進み來て、佐保の地を過ぐれば、やがて、奈良山にかかりたれば、ここをこゆれば暫く、故郷を見ることもなくなるが、我今この奈良山の手向に幣を置きて神に祈請(283)するが、この幣は、わが愛する妹をば、相見る事の絶えずして再び故郷にたちかへりて逢ひ見ることを得しめ給へと請ひ願ひておく幣ぞなり。
 
301 磐金之《イハガネノ》、凝敷山乎《コゴシキヤマヲ》、超不勝而《コエカネテ》、哭者泣友《ネニハナクトモ》、色爾將出八方《イロニイデメヤモ》。
 
○磐金之 「イハガネノ」とよむ。「イハガネ」といふ語は卷一「四五」に「石根」とかける語にして、そこにいへる如く、岩の根といふにおなじ。「根」は地上に固定せるものをいふ語にして、木根、垣根などの根これにおなじ。
○凝敷山乎 舊坂本「コヽシキヤマヲ」とよめるが、これは古寫本多くは「コリシクヤマヲ」とよめるを仙覺がよみ改めたるによれるなり。仙覺曰はく「こりしく山は和の詞なだらかなるにゝたれども古語の傍例見えず、又その心あまねからず、こゝしき山といへるは傍例みゆるうへに其心かなへり」と。契沖は仙覺の説をあげ、さて曰はく「誠に皆こゝしくとのみよめり。されども意はこりしくなるべし。今按、凝の字をかける所第七には己凝敷(一一三〇)又凝木敷(一三三二)とかき、第十三には興凝敷(三二七四)又許凝敷(三三二九)と書たれば、唯音を借て書て今は落字あるにや」といひたるが、諸家多くこれに從へるが、古義は「コゴシク」とよませたり。さて考ふるにここは文字のままによまば「コリシク」とよまれざるにあらねど、「コリシク」といへる傍例を知らず、中世以後のはここの當時のよみ方に基づくものなれは據とならず。されば、なほ仙覺の訓めるに從ふべきが、ここにこれを如何なる根據によりて、「コゴシ」とよみうべきか、又「コゴシキ」か(284)「コゴシク」かといふ問題あり。ここにまづ、その「コゴシキ」又は「コゴシク」といふ語の當時存せしか如何を見むとす。先づ假名書の例は卷十七「四〇〇三」に「許其志可毛伊波能可牟佐備《コゴシカモイハノカムサビ》」あり、又この卷「四一四」に「足日木能石根許其思美《アシヒキノイハネコゴシミ》」といふ語もあれば、「コゴシ」といふ語の存せしことは疑ふべからず。さてその語をば動詞か形容詞かと見るに、「コゴシカモ」「ココシミ」とよめるにて「コゴシ」といふが形容詞なることは明かなり。然りとせば、古義に「コゴシク」山とよめるは動詞とせるものなれば、從ふべからず。さてかく「コゴシ」といふ形容詞ありと見て、その語例を本集中に見るに、卷七「一一三〇」に「神左振磐根己凝敷三芳野之水分山乎見者悲毛《カムサブルイハネコゴシキミヨシヌノミクマリヤマヲミレハカナシモ》」「一三三二」の「石金之凝木敷山爾入始而《イハガネノコゴシキヤマニイリソメテ》」卷十三「三二七四の「石根乃興凝敷道乎《イハガネノコゴシキミチヲ》三三二九」の「石根之許凝敷道之《イハガネノコゴシキミチノ》」などの「己凝敷」「凝木敷」「興凝敷」「許凝敷」をいづれも「こごしき」とよみたるが、これらはいづれも「凝」の字を中に有せるは一奇といふべきが、そのあてたる部分を見るに、
  己凝敷    興凝敷    許凝敷
の三は下の「ゴ」に凝字をあて、
  凝木敷
は上の「コ」に「凝」字をあてたり。これを「コ」又「ゴ」にあてたるは凝字は「ギヨウ」とすれど、呉音は「ゴウ」なれば、その語尾を略きて「ゴ」とせるものなるべし。然るに今は「凝」一字にて「コゴ」とよませたれば、契沖のいひし如く、一字の略字あるさまの如くなれど、よく考ふれば、こは蒸韻の字にして、羅馬字にてかけば kong なればこれを國音に「コゴ」とよむべき勢にあり。同じくこの蒸韻の字に(285)て韻の「ng」を「ゴ」にあて用ゐたる傍例として、日本紀にある「興台産靈《コゴトムスビ》」といふ神名あり。さればこれに「コゴ」といふ音のありうべきことを見るべし。かくてこれは「コゴシキヤマヲ」とよむをよしとすべし。さて「コゴシ」とは如何なる音かといふに諸家多く「磐の凝りしく」とせし、又は「コリコリしき」といひ、「石根の凝りたる如く」などいへるが、これらはいづれも「凝」字の義にとらはれたるものにして必ずしも從ふべからず。「凝」はただ音を假りたるまでのものなるをや。或は又「險し」なりといふ説あるが、普通に險はしといふ語と同じとは覺えず。この語は後世には見えぬ語なれば、上の諸の用例より歸納して意を推すより外あらじ。さて用例を見れば、岩、岩根につきてのみいひたれば、「けはし」といふ意にはあらざるべし。「けはし」といふ語は主として山などの峙ち坂などの急にて昇降に困むべきさまをいふなれば、ここには十分に適せず。これは、新考に凹凸不平といへるが寧ろ近からむが、それもただ凹凸不平なるにあらで、俗にいふゴツゴツしたるさまにて、歩むに困難なるをいふべし。
○超不勝而 「コエカネテ」なり。よみ方に異議なし。「不勝」は「タヘヌ」義にて「難《カヌ》」の語にあてたるなり。この意の「カヌ」は卷一、卷二にも屡いでたり。こゆるに難儀してなり。
○哭者泣友 流布本「ネニハナクトモ」とよめるが、これも古訓「ナキハナクトモ」とよみたるを仙覺が改めたるなり。槻落葉は「なきはなくともよむべけれど、下に朝鳥之鳴耳(シ)鳴六とあるは卷(ノ)五に禰能尾志奈可由と假字書のあればねのみしなかむとよむべきをもてここもねにはなくともとはよみつ」といひたるが、新考は「四五は腹ニテハ泣クトモ男子ナレハ顔ニハ出サジといふ(286)意なれば、哭者をネニハとよみてネニハナクトモといひてはかなはず久老の初思ひしやうにナキハナクトモとよむべし」といへり。この新考の説一往は道理の如く聞ゆれども、「ネニナク」といふも「ナキハナク」といふも五十歩百歩にて「ナク」ことを強くいふ點にては大差なきなり。然らば強ひてあらたむべき理由なかるべし。又「ネニナク」といふ語正しからずして「ナキハナク」といふ語の方正しといはば別の論となるべし。さてこの見地よりすれば、「ネニナク」といふ語の例は卷九「一八〇一」に「哭爾毛哭乍《ネニモナキツヽ》」卷十九「四一四八」に「啼爾之毛將哭《ネニシモナカム》」などあり。而して「なきはなくとも」といへる如き語例を見ず。「哭」は泣聲なれば「ネ」にあつるは本義なり。されば「ネニハナクトモ」といふを可とす。「哭にはなくとも」とは哭聲を立ててなくともいふことなり。
○色爾將出八方 「イロニイデメヤモ」とよむ。これも仙覺抄が改めたるにて古くは「イロニイデムヤモ」とありしなり。されど、「イデムヤモ」といへるは例なきことなれば從ふべからず。「將」は複語尾「ム」にあてたるものなるが「ヤモ」の上にその已然形「メ」をうけて反語とするは古語の一格にして、卷一「二一」の「吾戀目八方」「三一」の「亦母相目八方」以後屡出でたる所なり。
○一首の意 明かなるが如くなれど、從來の説明には徹底せぬ點あり。攷證には「戀の歌にてこの奈良山をこゆるに石根のこごしさによそへてさて音にはなきつとも色にはあらはさじとなり」といへり。略解は「こえかねてはかくれたる妹を戀つつ行がてにする意也」といひ、古義には「しのひ/\に哭には泣ともそれと人の知まで色には出さじとなり」といひ、註疏は「妹ゆゑにしのびにはなくとも色にいでめやとの意なり」といひたるが、若し、さやうなる意ならば、かかる(287)いひ方をすべき筈なし。何となれば、「哭になく」ことは「色にいづること」以上なる筈なり。色にいづとも哭にはなかじといふことならば詞の順序は立つべきが、もとより、さやうなる淺薄なる意にはあらず。まして、「家に遺しておいた妻が戀しくて聲を出して泣くとも顔色に出して人に覺られるやうなことをしようか」といふ如き解釋は常識の健全なる人にては了解し得ざる説なり。これその反動として新考の説の起れるなり。曰はく「此歌はただ山路のさがしき事をいへるのみなるを、契沖は『の戀しければしのひしのびにねにはなくとも』といひ、久老は『おくれたる妹をこひつゝ山路を行がてなるに』といひ雅澄は『家なる妹に心は引れかた/\超むと思へども得超あへずして』といへるは皆前の歌に引かれたるなり」といへり。この説は、前の諸説の不條理なるを破れるものなれど、かくても亦不條理となるべし。そは如何といふに、「哭にはなくとも」までは新考の説の如くにてよけれど、「色に將出八方」は新考の説の如くにして如何に解すべきか、山路のさかしき事を色に出さずといふことならばここに又「泣にはなくとも」と一致せざるなり。これを思ふに諸家いづれも惑へるなり。按ずるに、「泣にはなくとも」は岩根のこごしき道を行きかねそれによりて泣になくをいふなり。その下の「色にいでめやも」はもとより、家なる妹を戀ふる心を色には出さじとなり。諸家「泣にはなくとも」と「色には出でじ」との對象を一とせるが故にかゝることとなるなり。この點は新考もその他の諸家も同樣なり。ここはしかにはあらずして、岩が根のこごしき道を行きかねて哭に泣くことはありとしても、(この事で泣いても)われはわが下に妹を思ふ心をば色にも出すまじとなり。(288)かく解すれば事もなきことなり。凡そ「ば」「ど」「ども」「と」「ども」といふ接續助詞にて接續せしむるものは切り離しては獨立の文としうべき勢力を有する句なれば、その助詞の上下が、同一の主格補格ならざるべからざる筈は決してなきなり。この故に余は必然上の如く解すべしとす。
 
中納言安倍廣庭卿歌一首
 
○中納言安倍廣庭卿 この人は慶雲の頃の右大臣阿倍朝臣御主人の子にして、和銅二年十一月に伊豫守に任ぜられ、靈龜元年五月には宮内卿となり、養老五年六月には左大辨に轉じ、同六年二月には參議となり、三月には「知2河内和泉事1」を命ぜられ神龜四年に中納言に任ぜられたり。續紀天平四年二月の條には「中納言從三位兼催造宮長官知河内和泉等國事阿倍朝臣廣庭薨」とあり。されば、神龜四年以後の詠とすべきか。或はそれより前の歌なるを極官をさきにめぐらしてかけるか。未だ詳ならず。
 
302 兒等之家道《コラガイヘヂ》、差間遠烏《ヤヤマトホキヲ》、野干玉乃《ヌバタマノ》、夜渡月爾《ヨワタルツキニ》、競敢六鴨《キホヒアヘムカモ》。
 
○兒等之家道 「コラガイヘヂ」なり。童蒙抄は「兒等之家」にて句をきりたり。次にいふべし。兒等の「ラ」は所謂助字にて深き意なきこと、卷二「二一七」の「奈用竹乃騰遠依子等《ナユタケノトヲヨルコラ》」の「等」におなじ。「兒」は男女にかぎらず人を親しみていへるものなるが、ここは女をさせるならむ。似たる例は卷二「一三五」の「玉藻成靡寢之兒乎《タマモナスナビキネシコヲ》」などなり。家道はその家に行く道なり。卷四「五四」に「君家爾吾(289)住坂乃家道乎毛《キミガイヘニワガスミサカノイヘヂヲモ》」卷五「八五六」に「多多世流古良何伊弊遲斯良受毛《タタセルコラガイヘヂシラズモ》」この外「妹之家道」といへるもの卷九「一八七七」卷十「二〇五六」等にあり。
○差間遠烏 舊來「ヤヤマトホキヲ」とよめるを童蒙抄は「兒等之家」と「道差間遠烏」とにて句をきり、「こらが家、ほどへだたるを」とよめり。槻落葉は「間」の字古本「母」に作り、「烏」の字古本「焉」に作るによるべしとして「ヤヤモトホキヲ」とよみ、古義は「マトホキ」と「ト」を濁音によむべからずといへり。さてこの誤字説を考ふるに、「間」の字を「母」に作るは今ある本にては神田本のみなり。「烏」を「焉」に作るは一本もなく、ただ神田本、京都大學本に「焉」の如くに作るが、これは「烏」の異體なるのみならず、「烏」の字の方「ヲ」の方に適切なれば誤にはあらず。さて「ヤヽモトホキヲ」か「ヤヽマトホキ」かといふに「間トホキ」といふ語なきときはもとよりそれによるべからぬことなれば、その語例を按ずるに、卷十四「三四四一」に「麻等保久能久毛爲爾見由流《マトホクノクモヰニミユル》」「三四六三」に「麻等保久能野爾毛安波奈牟《マトホクノヌニモアハナム》」「三五二二」に「奈伎由久多豆乃麻登保久於毛保由《ナキユクタヅノマトホクオモホユ》」等あれば、この語のなきにあらざるを見る。然らばただ一の異字を以てこれをすつること能はざるなり。童蒙抄は「家ぢやゝま遠きといふ句難2心得1故五字は義訓にかける字と見えたればほとへだゝるをとよむ也」といへり。さればこれは「まとほき」につきては異議なく、ただ「やゝ間遠く」といふ語遣を面白からずとせるなり。ここに於いて先づ「差」を「ヤヤ」とよむことの可否より探らむ。攷證は「韻會に差較也とあればややとよまん事明らけし」といへり。而して色葉字類抄に「差」に「ヤヽ」の訓あり。本集にては卷七「一二七八」に「裏儲吾爲裁者差大裁《ウラマケテワガタメタタバヤヽオホニタテ》」とあり。されば「ヤヤ」とよむことの不當ならぬを見るべし。(290)さて「ヤヤ」といふ語は程度を示す副詞にして、形容詞又情態の副詞に冠してその程度を指示するを本性とするものなれば、ここに「ヤヤマトホキ」といふ語の存するは少しも不合理にあらず。されば、古來の訓を以て當れりとすべきなり。妹が家道には大分近づきたれど、なほやゝ間のありといふことなるが、「を」は後世もいふ接續助詞なり。
○野干玉乃 「ヌバタマノ」とよむ。「ヌバタマノ」の「夜」の枕詞なることは既に述べたるが、ここに「野干玉」とかきて如何にして「ヌバタマ」とよめるかを一往説明せざるべからず。「野干」といふ語は元來獣の名なり。和名鈔獣名「狐」の下に「考聲切韻云狐音胡岐豆禰獣名射干也關中呼爲2野干1語訛地」とあり。野干の文字は佛教に多きが、上の文によれば、正しくは射干にして野干は音通を以て記されしものと見えたり。然るに一方の「ヌバタマ」は「射干」といふ草の實にして珠玉の形したれは「射干玉」とかきて「ヌバタマ」とよませたりと見ゆ。その射干玉とかける字面は本集には見えずして、本集には「野干玉」「夜干玉」とかけるが屡見ゆ。これら、すべて射干玉の音通によるものと見えたり。されば、「ヌバタマ」とよむことは不當にあらず。その意は既に屡いへり。
○夜渡月爾 「ヨワタルツキニ」とよむ。この語の例は卷二「一六九」に「烏玉之夜渡月之隱良久惜毛《ヌハタマノヨワタルツキノカクラクヲシモ》」とあり。夜天空を渡り行く月なり。
○競敢六鴨 舊訓「キホヒアヘムカモ」とよみたるを略解に「キソヒアヘンカモ」とよめり。「競」の字は「キソフ」とも「キホフ」ともよまるる文字なるが、本集の比には主として「キホフ」といふ語を用ゐたれば「キホヒアヘムカモ」とよむべきならむ。卷二十「四三六〇」に「安治牟良乃佐和伎々保比而(291)波麻爾伊泥弖《アヂムラノサワギキホヒテハマニイデテ》」又「四四六九」に「和多流日能加氣爾伎保比弖多豆彌弖奈《ワタルヒノカゲニキホヒテタヅネテナ》」などの例あり。「きほふ」はまけじとする意なり。「アヘ」は「堪」の字の義による語にして下二段活用をなせり。卷十五「三六九九」に「於久都由之毛爾安倍受之弖京師乃山波伊呂豆伎奴良牟《オクツユシモニアヘズシテミヤコノヤマハイロヅキヌラム》」とある「アヘズ」は「堪へず」の意なり。又これが動詞の連用形をうけたる例は卷十八「四〇八三」に「爾奈比安倍牟可母《ニナヒアヘムカモ》」などあり。「かも」は疑問の助詞なり。
○一首の意 舊説大抵「そらを渡りゆく月の山端に入らぬさきに妹が家に至らむといそげども道やゝ間遠にあれば、月のはやきはあらそひえざらむか」といふやうにいへり。(註疏の説を代表としてあぐ)されどかくては上句の末の「やゝ間遠きを」と下の「きほひあへむ」とにあはぬのみならず、「きほひあへむ」といふ語とは反對の意となる。これはさにあらずして吾妹兒の家道には大分近づきたれど、まだやや間遠きが、さてこの夜渡る月の山端に入るとわが妹が家に入るといづれか早きと競爭する心組にてわれ行けば、或はわが方がその競争に堪へうることあらむかとなり。「あへむ」は堪へむなれば、最後まで負けじとふみこたへうることをいふ。「かも」は將來の事をかねて思ひ期していふ意をあらはせり。
 
柿本朝臣人麿下2筑紫國1時海路作歌二皆
 
○柿本朝臣人麿下2筑紫國1時 人麿の筑紫國に下りしこと他書に所見なし。從ひて何の爲に下りしかをも知らず。
 
(292)○海路作歌 「ウミツヂニテヨメルウタ」とよむ。これは歌によれば瀬戸内海を航行しての詠たるべし。上の「二四八」以下の同じ人の※[羈の馬が奇]旅歌八首中にも瀬戸内海にての詠あり。それらと恐らく關係あるものなるべし。
 
303 名細寸《ナクハシキ》、稻見乃海之《イナミノウミノ》、奥津浪《オキツナミ》、千重爾隱奴《チヘニカクリヌ》、山跡島根者《ヤマトシマネハ》。
 
○名細寸 「ナクハシキ」とよむ。古寫本中には「ナニタカキ」とよめるもあれど、「細」を「タカシ」とよむべき理由なし。この語は卷一「五二」の歌に「名細吉野乃山《ナグハシヨシヌノヤマ》」の下にいへるが、ここにはその連體形の「キ」を「寸」の字にて示せり。既にいひたる如く「細」は「精細」の義によりて「クハシ」とよみたるにて名の麗しくよしといふ語なるが、今の語にては「名高し」といふに近き意ありと知られたり。
○稻見乃海之 「イナミノウミノ」とよむ。「イナミ」は播磨國の地名にして、卷一「一四」の「伊奈美國原《イナミクニバラ》」の同じ地にして、本卷「二五三」の「稻日野毛去過勝爾思有者《イナビヌモユキスギガテニオモヘレバ》」といへる「イナビヌ」も同じ地の野なり。即ち今の播磨國印南郡の地なるが、ここはその地に沿へる海上をいふ。難波より舟乘して筑紫に下るに、この播磨海をすぎしなり。
○奧津浪 「オキツナミ」なり。これはその眼前に見ゆる、海上の浪をうたへるなるが、同時に次の「千重」といふ語を導く料ともせるなり。
○千重爾隱奴 舊訓「チヘニカクレヌ」とよみたるが槻落葉は「チヘニカクリヌ」とよめり。「隱」は古く四段活用なりしこと上に屡いひし通りなれば、「カクリヌ」の方をよしとす。ここの「干重」は浪(293)の幾重にも立つによりていひたるなるが、「千重にかくりぬ」とは大和國の遠くへだたれることをいへるなり。その千重とは山々をへだて、八重の雲路をへだて、千重の浪路をへだて甚しくへだての多くなれるをいへる詞なるが、事實は、明石海峽までは顧みて生駒山をも見得るものなるが、一旦明石海峽を通過して印南の海になれば、淡路島また攝播國境の山などに遮られて、大和國は全く見えず眼界急に一變する故に「千重に隱りぬ」といふ感迫り來るなり。
○山跡島根者 「ヤマトシマネハ」とよむ。「島根」は「シマ」といふに異ならず。この卷「三六六」の長歌の末に「珠手次縣而之努櫃日本島根乎《タマダスキカケテシヌビツヤマトシマネヲ》」とあるも同じ語なり。さてこれは大和國なるが、これを「ヤマトシマネ」といふは、本卷「二五五」に「天離夷之長道從戀來者自明門倭島所見《アマザカルヒナノナガチユコヒクレバアカシノトヨリヤマトシマミユ》」の「倭島」といふにおなじ。さてこの一句は上の句に對しての主格なるが、反轉法によりてここにおかれたるなり。
○一首の意 筑紫國へ下らんとて、船路にて明石海峽もすぎ播磨國に入り名高き印南の海に來りて、沖を見れば波は千重に立つが、さてわが來つる方を顧みれば、大和國は島山のあなた、八重の雲のあなたに隱れて見えずなりぬとなり。これは上にあげたる同じ人の「二五五」に對するに、これは明石海峽をへだてて大和國に離るる情をうたへるもの、彼は明石海峽をすぎて大和國の山々をながめてうたへるもの、往還の差あれど、ともに情ふかき歌なり。
 
304 大王之《オホキミノ》、遠乃朝庭跡《トホノミカドト》、蟻通《アリガヨフ》、島門乎見者《シマトヲミレバ》、神代之所念《カミヨシオモホユ》。
 
(294)○大王之 舊板本「スメロオ〔右○〕ノ」とある「オ」は「キ」の誤なること著し。代匠記には「オホキミノ」とよめり。この大王の文字は從來「オホキミ」とよみ來り、その意は天皇にも皇子に通じて申し來れるなれば、「オホキミノ」とよむをよしとす。意はもとより天皇をさし奉れり。
○遠乃朝庭跡 「トホノミカドト」とよむ。この語の例は本集に少からず。卷五「七九四」に「大王能等保乃朝庭等《オホキミノトホノミカドト》」卷十五「三六六八」に「於保伎美能等保能美可度登於毛敝禮抒《オホキミノトホノミカドトオモヘレド》」「三六八八」に「須賣呂伎能等保能朝廷等《スメロギノトホノミカドト》」など、なほ卷十七、十八、二十の諸卷にも見ゆ。遠の御門とは太宰府または各地方の國府をさしていへるものにして「遠」は都より遠く離れてある意を示す。「ミカド」とはもとは御門の意にて宮城の御門をさす語なれど、轉じて、天皇をさし奉り又ここに用ゐたる朝庭即ち太政を行はるる役所をもさしたり。さてここは、太宰府又國府等すべてその地方々々の政を取行ふ所にてこれが、都より遠く離れてある所に設けられたる天皇の命のままに政務を行ふ所なるが故に「トホノミカド」といへるなり。而してここは太宰府をさせること著し。「朝庭」の「庭」は正しくは「廷」とかくべきなれど、古は庭廷通用したるにて、采女氏塋域碑に「飛鳥淨原大朝庭」とかき、古京遺文にはこれが通用の證を支那の古典によりて證せり。就きて見るべし。「と」は例の如く「トシテ」の意をあらはせり。
○蟻通 「アリガヨフ」なり。「蟻」は借字にて「在り」の意なり。かく「アリ」を動詞の上に冠して用ゐるは卷一「五二」の「在立之《アリタタシ》」の條にいへる如く當時盛に行はれし語遣にして、「アリ待ツ」「アリフル」「アリワタル」など例多きが、その「アリ」はその事の引きつづきてある意を示すなり。「アリカヨフ」の例(295)は古事記上卷に「佐用婆比爾阿理多多斯《サヨバヒニアリタタシ》、用婆比爾阿理加用姿勢《ヨバヒニアリカヨハセハセ》」本集卷二「一四五」に「有我欲比管見良目杼母《アリガヨヒツツミラメドモ》」その他例多く一一あぐべからず。ここは昔より人々の引つづき行かよふ所のといふ程の意なり。
○島門乎見者 「シマトヲミレバ」とよむ。門は水門《ミナト》、迫門《セト》、大門《オホト》などいふ門にて、島門とは島と陸地との間又は島と島との間の迫門《セト》をさせるなるべし。かくてここによめる島門とはいづこをさすかといふに、その地明かならず。しかも、瀬戸内海には多くの島々ありてその迫門《セト》即島門は數多かるべし。かるが故に迫門内海といふ語も生じたるならむ。されば、ここも一ケ所の島門を特にさせるにあらずして、多くの島門を汎くさせるならむ。攷證に「島にて舟のかゝり居るべき所をいふ也」といへるは違へり。
○神代之所念 舊訓「カミヨシオモホユ」とよみたるが、代匠記に「所念」をば「オモホユ」とよむべしといへり。この「所念」を「オモホユ」とよむべきことは上來屡いへる如くなれば、これに從ふべし。神代の事の思ひしのばるといふなり。こゝに神代といへるにつきては、槻落葉に「神代とは遠き神の御代をさして申は勿論なれど、卷(ノ)十八家持卿の吉野(ノ)行宮の歌に可美《カミ》乃みことのかしこくもはじめ給ひて云々とよめるは雄略の御代を申せるなるべく(今云この説は不十分なり。卷一の吉野離宮の歌の下を見よ)橘の歌に神《カミ》乃|大御世爾田道間守《オホミヨニタヂマモリ》云々とあるは垂仁の御代をさせり。されば、ここの神代もはじめて太宰府を置れたる御代をいふなり。さて太宰の號は推古紀十七年にはじめて見えたれば、その頃府はおかれけるにや。また續紀天平十五年十二(296)月始(テ)置2筑紫鎭西府1とみえたるは人麿の時よりは後也けり」といへり。但し太宰府の起源は推古天皇の朝より古かるべし。日本紀推古天皇十七年には筑紫太宰の奏上の言をのせたるにて史にその名の見ゆるはじめにはあれど、この時に創めて置かれたるにあらざるはいふまでもなし。恐らくはこれは任那日本府の滅亡後そのかはりに置き、かねて邊防の事を司らしめられしめしものとせば、雄略天皇以後間もなく置かれしならむ。然れども恐らくはそれより以前任那日本府と相呼應すべく、神功皇后の三韓征服の時より設けられてありしならむか。これらの事はもとより確證なけれど、推古の御世にはじまりしことにあらぬは明かなり。
○一首の意 筑紫の太宰府は天皇の遠の御門なりとして、ここに仕へ奉る爲に、古來多くの人々の行かよひ、今も行きかよふとて通過するこの多くの島門を見れば、この府をはじめて置かれし神の御代の事の思はるることよとなり。
 
高市連黒人近江舊都歌一首
 
○高市連黒人 この人の歌この卷、上に覊旅歌八首又二首あり。又卷一に大寶元年太上天皇の吉野宮に幸ませる時の歌一首、大寶元年太上天皇參河國に幸ませる時の歌一首あり。又卷一の高市古人感傷2近江舊堵1作歌(三二)には「或書云高市連黒人」とあり。これこの歌と多少意かよふ故にかかる傳も有りしならむ。この人の事は上に屡いへり。
○近江舊都歌 天智天皇の近江の大津宮の舊址をすぎてよめる歌なり。當時この宮址のあれ(297)てありしことは卷一の柿本朝臣人麿作歌及び高市連古人作歌(二九−三三)を見て知るべし。略解はこの「近江」の上に「見」字を脱し「歌」字の上に「作」字を脱したるかといへり。されど、この卷の上の「長屋王故郷歌」(二六八)「阿倍女郎屋部坂歌」(二六九)といふもありしなれば、この卷の記載例もとよりかくてありしならむ。略解はそこらにては何事も論ぜずしてここにのみかくいふは何の意か、理會しかぬることなり。
 
305 如是故爾《カクユヱニ》、不見跡云物乎《ミジトイフモノヲ》、樂浪乃《ササナミノ》、舊都乎《フルキミヤコヲ》、令見乍本名《ミセツツモトナ》。
 
○如是故爾 「カクユヱニ」とよむ。「如是」を「かく」とよむことは「如此」を「かく」とよむにおなじ。「カク」より直ちに「ユヱ」につづくることは、この歌以外に例を見ねど、「ユヱ」は專ら、名詞に直接結合して用ゐらるる例となりてあること「ものゆゑ」「人嬬故」(卷一「二一」)「往之兒故爾《イニシコユヱニ》」(【卷十二「三〇八五」】)などの如し。ここの「カク」はもとより副詞にして體言ならねど「於能禮故《オノレユヱ》」(【卷十二「三〇九八」】)にも例ある如く、それらに准じて「かくゆゑ」とつづけしものならむ。意はかくの如くなる故にといふ程のことなり。
○不見跡云物乎 舊訓「ミジトイフモノヲ」とよめるを槻落葉には、「ミジトイヒシモノ」とせり。その説に曰はく「見ばかならず、いにしへをおもひ出てよしなからむとて、みじと云しものをといふ意なり」と。大體の意はかくの如くにはあれど、過去の語法にして必ず「イヒシ」とよまずばあるべからずとするは淺き考なり。「云」を「イフ」といひたりとてそれが所謂「現在」の語法とするに及ばず、加之ここは過去もしか言ひ、今もしか思ふことをいひたるにて、かへりて「いふ」とよむ方(298)意識の活動を現在に示す方によりて可なりとす。「不見」は「ミズ」とも「ミジ」ともよみうべき文字なるが、「見ることを欲せず」の意なれば、「ミジ」の方よきなり。
○樂浪乃 「ササナミノ」なり。樂浪の二字を「ササナミ」とよむことは卷一「二九」のこの字の下に既にいひたるが、その「ササナミ」は近江の滋賀郡内の地名なることもそこにいへり。
○舊都乎 「フルキミヤコヲ」なり。天智天皇の都せられし近江の大津の宮の舊址をさす。
○令見乍本名 「ミセツツモトナ」なり。「令見」は「ミセ」なり。「乍」を「ツツ」にあつることは卷一「二五」の「思乍叙來」の下にいへり。「本名」は余がかつて「母等奈考」に發表せる如く、本來は「理由なく」「根據なく」の意にして、ここは「よしなく」といへるに近き意に用ゐられたりと見ゆ。この語の假名書の例は卷五「八〇二」に「麻奈迦比爾母等奈可可利提夜周伊斯奈佐濃《マナカヒニモトナカカリテヤスイシナサヌ》」卷十七「三九三九」に「佐刀知可久伎美我奈里奈婆古非米也等母登奈於毛比此安連曾久夜思佐吉《サトチカクキミガナリナバコヒメヤトモトナオモヒシアレゾクヤシキ》」などなり。この語の本意は「モトナミセツツ」なるを語調の爲に轉置せるなり。而して、「ツツ」の下に略語あるなり。即ち「ミセツツ」われを悲しましむるよといふやうなる意あるべし。
○一首の意 近江舊都の荒廢したる址をみてその悲惨なるを見るに堪へずしての詠と見ゆ。我はかねて、かやうな有樣にてもあらむと想像し、その悲惨のさまを見るに忍びずとかねて思ひし故に「見るまじ」といふものをば人がしひて誘ひ來りて、よしなく見つるが故にかねて思ひし如く悲しきに堪へられぬ事よとなり。
 
(299)右謌或本曰小辨作也。未v審2此小弁者1也。
 
○右謌 「謌」字音故堂本、大矢本、京都大學本は「歌」に作れり。「歌」「謌」通用せる文字なればいづれにてもあるべし。
○或本曰 これはこの歌の作者に異説あるを注せるなるが、その或本とは如何なる本なるか、今日よりは知るべからず。
○小辨也 これはその異説の作者をあげたるなり。細井本に又拾穗抄に「小辨」に「コヘン」の假名をつけたれど、「コベン」などいふは平安朝以後の女房の名にこそあれ、奈良朝頃に在りとはきこえず。小辨とある以上は太政官の辨官たる左少辨右少辨のうちなるべし。「少」「小」文字少しく異なれど、古は通用せしならむ。威奈眞人大村墓志には「小納言」「左小辨」などすべて「少」字にせずして「小」を用ゐたり。さればここもその「小辨」なること疑ふべからず。この「小辨」といふ名にての歌は卷九「一七三四」の作者に「小辨〔右○〕歌」とあるもあり。但しこれはもとより官名なれば、明かに何人とは知るべからず。
○未審此小弁者地 「弁」「辨」二字本義異なれど、古通用せしことは古京遺文に論ぜり。即ち河内形浦山なりし采女氏塋城碑に「大弁官」上野國なる建多胡郡碑に「左中弁」等かけるにて著し。さてこの左注の記者既にその小辨が何人なるを知らざる由を注せるなり。
 
幸2伊勢國1之時安貴王作歌一首
 
(300)○幸2伊勢國1之時 奈良朝に入りて伊勢國に行幸ありし事は續紀には天平十二年冬十月壬午行2幸伊勢國1」とあること一回のみ見ゆ。この行幸は太宰少貳藤原廣嗣が兵を起したる時の事にして卷六の「一〇二九」の歌もこの行幸の時の作にしてそれは大伴家持の作なるが、そこには「十二年庚辰冬十月依2太宰少貳藤原朝臣廣嗣1謀v反發v軍幸2于伊勢國1之時云々」とあり。さてこの歌契沖がこの時の詠なるべしといひてより、諸家これに從へるが、この卷の排列よりいへば、ここに天平十二年の詠あるは穩かならず。(この卷の年代の最も新しきは終に近き坂上郎女の天平五年の詠なればなり。)されば、これは澤瀉久孝氏が養老二年の紀に見ゆる美濃行幸の時の事にあらずやといふ説をよしとす。即ちこの時は美濃、尾張、伊賀、伊勢等の國司郡司に授位賜禄の事ありし故なり。
○安貴王作歌 拾穗抄にはこれに「春日皇子之子」と注せり。「春日皇子」といふは日本紀によれば、敏達天皇の皇子なり。されど、その春日皇子の御子が、この天平の頃におはしますとしては(敏達天皇の崩年「一二四四」年の御誕生としても、それより假に天平十二年「一四〇〇」年まで百五十六年なれば、春日皇子五十年の時の御子として百六年なり。)常識に反する故に別の人なるべし。續日本紀には天平元年三月甲辰年の敍位に無位阿紀王に從五位下を授けらるる記事あり、又天平十七年正月には從五位下阿貴王に從五位上を授けらるる記事あり。本集卷六卷には「市原王宴祷2父安貴王1歌」(九八八)を載せたるが、それは天平五年の詠なることその記事によりて明かなり。さればこの「安貴」「阿紀」「阿貴」文字は異なれど、同一人をさせること著し。而して、公卿(301)補任を見るに非參議從三位春原五百枝の下に注して「從五位上安貴王孫正五位市原王子」とあり。かくて新撰姓氏録を見れば、「春原朝臣、天智天皇皇子淨廣參河島王之後也」とあり。この河島王は卷二に見ゆる河島皇子なること著し。然るに皇胤紹運録には
 天智天皇−施基皇子−春日王−安貴王−市原王−春原五百枝
とせり。されば拾穗抄に「春日皇子」とあるはこの「春日王」を誤れること著し。されど、その源が「施基皇子」なるは、姓氏録と一致せず。而して、春日王の名、上の「二四三」の作者として出でたるが、そこにもいへるが如く、春日王といふ方一人にあらざりしなれば、かた/\決しかねたり。されど、いづれにしても天智天皇の御孫にして市原王の父なる王たることは動かざるべし。この王の歌卷四に長歌并反歌あり又卷八に一首あり。
 
306 伊勢海之《イセノウミノ》、奥津白浪《オキツシラナミ》、花爾欲得《ハナニモガ》。※[果/衣のなべぶたなし]而妹之《ツツミテイモガ》、家※[果/衣のなべぶたなし]爲《イヘヅトニセム》。
 
○伊勢海之 「イセノウミノ」なり。この時の行幸は伊勢國のいづこに止まりまししか、明かならねど、海邊に近く行宮もありしなるべく、供奉の人々は海濱に下り立ちしことももとよりあるべきなり。
○奥津白浪 「オキツシラナミ」なり。この語は卷一「八三」の歌にあるが、そこは枕詞に用ゐたれど、ここは實際のその白浪をさせり。これは下の「ハナニモガ」に對しての目標なり。
○花爾欲得 舊訓「ハナニモガ」とよみたるを代匠記には初稿に「ハナニガナ」とし、清撰に「ハナニガ(302)モ」とよむべしとせり。按ずるに「欲得」は意を以てあてたるにて「ガ」「ガモ」「ガナ」といふ希望の意の終助詞にあてたることは疑ふべからず。而して、その希望の意は「ガ」に存し、下の「モ」「ナ」は或る力を添ふるに止まるなるが、「ガナ」といふ形は平安朝以後のものなれば從ふべからず。次に、かかる時に助詞「ニ」より直ちに「ガ」「ガモ」につづくる例は本集にはかつて例なきことなれば、契沖の説は從ひがたし。而してかかる際には「ガ」「ガモ」の上には必ず、「モ」助詞を加へたり。その例古事記中卷應神天皇御製に「迦母賀登和賀美斯古良《カモガトワガミシコラ》、迦久母賀登阿賀美斯古邇《カクモガトアガミシコニ》」又この卷「四〇八」に「石竹之其花爾毛我朝旦手取持而不戀日將無《ナデシコノソノハナニモガアサナサナテニトリモチテコヒヌヒナケム》」卷五「九〇一」に「栲縄能千尋爾母何等慕久良志都《タクナハノチヒロニモガトシタヒクラシツ》」「九〇三」に「千年爾母何等意母保由留加母《チトセニモガトオモホユルカモ》」卷八「一四五五」に「公之三舶之梶柄母我《キミガミフネノカヂカラニモガ》」などあるにより、なほ下の「モ」はなくてもよきなれば、古來の訓をよしとすべし。「欲得」をここと同じく用ゐたる例は卷十「二〇六六」に「別乃惜有君者明日副裳欲得《ワカレノヲシカルキミハアスサヘモガモ》」あり。さてこれは白浪を花にたとふることあれば、それが、實際の花にてもあれかしといへるなり。以上一段落なり。
○※[果/衣のなべぶたなし]而妹之家※[果/衣のなべぶたなし]爲 「ツツミテイモガイヘツトニセム」なり。「※[果/衣のなべぶたなし]」は「裹」と同字にして、「裹」は説文に「纏也」とあり、玉篇に「包」とあり。この故に「ツツミテ」とよむをうべきなり。卷七「一二二二」に「玉津島雖見不飽何爲而※[果/衣のなべぶたなし]持將去不見人之爲《タマツシマミレドモアカズイカニシテツツミモチユカムミヌヒトノタメ》」卷十「一八三三」に「梅花零覆雪乎※[果/衣のなべぶたなし]持君爾令見跡取者消管《ウメノハナフリオホフユキヲツツミモチキミニミセムトトレバケニツツ》」とあり。又韻會に「指2所包之物1也」とあり。これ「家※[果/衣のなべぶたなし]」をイヘツトとよみうべき理由なり。「イヘツト」といふ語は卷十五「三六二七」の歌に「和多都美能多麻伎能多麻乎伊敝都刀爾伊毛爾也良牟等《ワタツミノタマキノタマヲイヘツトニイモニヤラムト》」又「三七〇九」に「伊敝豆刀爾可比乎比里布等《イヘツトニカヒヲヒリフト》」とあり。「ツト」といふ獨立の語は卷十八「四一一一」(303)に「波都婆奈乎延太爾多乎理弖乎登女良爾都刀爾母夜里美《ハツハナヲエダニタヲリテヲトメラニツトニモヤリミ》」卷二十「四三九六」に「保理江欲利安佐之保美知爾與流許都美可比爾安里世婆都刀爾勢麻之乎《ホリエヨリアサシホミチニヨルコツミカヒニアリセバツトニセマシヲ》」とあり。而して類聚名義抄を見るに、「〓」「〓」「〓」「贄「包」に訓して「ツト」と注せり。その〓、〓、〓、贄はその物を人にもたらすよりの意にていひ、包はその物を包装するよりの意にていひたるものにして「ツト」は「ツツム」の語幹の名詞となりものなるべく、もと人に物を遺るに、物に包みたりしより起り、後には包む包まぬに論なく、人に贈る物をいふ事となれりと見ゆ。かくて「イヘヅト」とは家に持ちかへりて妻子に贈るべきものをいへるなり。
○一首の意 この伊勢の海の沖の白浪は如何にもうるはしくして花の如しとは人も我も思ふが、この浪が花にてありてくれよかしと思ふ。若しこれが花ならば、これを※[果/衣のなべぶたなし]みて都にもちかへり、妻にみやげにせむものをとなり。
 
博通法師往2紀伊國1見2三穗石室1作歌三首
 
○博通法師 この人如何なる人か傳知られず。從ひて何の爲に紀伊國に往きしかも知られず。
○三穗石室作歌 この三穗石室は紀伊國に在ること著し。玉勝間の「紀の國の名どころども」の條中に曰はく「三穗《ミホ》の岩屋は同郡(日高郡)三尾村の廿五町ばかり東南の海べに在り、岩屋の中に石の觀音の像あり。熊野道のうち日高川鹽屋浦のあたりより、西の海べに一里ばかりの長き松原有て和田(ノ)松原といふ。此岩屋はその西の際也」とあり。帝國地名大辭典に曰はく「三穗の(304)石室《イハヤ》和歌山縣紀伊國日高郡三尾村に在り。地は磯と稱する處にして一大岩窟なり。窟中深さ十六間、幅五六間、高さ七八間より十二三間もあるべし。位置は海上に南面して大小の巖相重なり、窟海に臨むと雖も風濤の患なし。相傳ふ、久米若子籠り給ひし處と。事は萬葉集に見えたり」とあり。これは本居のいへる如く、熊野街道に沿へる地にあらずして、御坊町より西にあたりて日の御崎(比井岬)に至る途中にあるなり。今「三尾」とかくは蓋し古、三穗といひしが訛れるならむ。「石室」は次にいふべし。
 
307 皮爲酢寸《ハタススキ》、久米能若子我《クメノワクゴガ》、伊座家留《イマシケル》、【一云|家牟《ケム》】三穗乃石室者《ミホノイハヤハ》、雖見不飽鴨《ミレドアカヌカモ》。【一云|安禮爾家留可毛《アレニケルカモ》】
 
○皮爲酢寸 舊板本「シノススキ」と訓す。古寫本中には「カハススキ」と訓せるもあり。契沖はこれを「ハタススキ」とよむべしとせるより諸家この訓に從へり。按ずるに「皮」は「シノ」と訓すべきいはれなく、又「カハススキ」といふ語は例なきのみならず、意明かならねば從ふべからず。契沖が「ハタスヽキ」とよめる理由の事は、檜皮を「ヒハタ」とよむ如く、又和名抄に「玉篇樸【音璞字亦作朴和名古波太】木皮也」とあるなどによりて皮即ち膚の意にて「ハタ」とよむべく、又萬葉集には清濁相通はしてよむ例あれば、「ハタ」とよむべしとして、なほ袖中抄にこの歌をひきて「ハタススキ」とよみなせるを例とせるなり。さて「ハタススキ」といふ語は卷一「四五」に「旗須爲寸」とかきてあり。そこにていへる如く、薄の長高くして著しく顯れ、その穗の風に靡けるさま旗の風に靡くに似たればかくいへるなり。なほここと同じ文字を用ゐたるは卷十「二二八三」にもあり。さてこの一句は下(305)に對して如何なる關係あるか。契沖は「これを久米の若子とつゞくるやう又心得がたし。推量するに角くむと云ふ心か。くむはきさす心にや」といひたり。されど、「旗薄」は穗に出でたるものをいふなれば、その最初の芽出しをいふとは心得がたし。冠辭考には「久米の若子と續けたるはいとも意得ず。猶強ひていはば、薄は穗の籠れるが見えてやうやくに開き出るものなれば、こめといひかけしにや、こめと久米と語通へり。又末に三穗といへるへ隔てかヽるともいふべしや」といへり。而して多くの人はこの「こめ」といふにかゝれりといふ説によれるが、「旗ススキ」は穗に出でたるをいへれば、未だ穗に出でぬさきをいふとは心得られず。本居は古事記傳卷四十に「はたすゝきは三穗といふへかゝれり」といへり。今「ハタススキ」といふ語を枕詞としたる例を見るに、「ホ」にかかれるもの最も多しとす。卷十「二二八三」に「吾妹兒爾相坂山之皮爲酢寸穗庭開不出戀渡鴨《ワギモコニアフサカヤマノハタススキホニハサキデスコヒヲワガスル》」同卷「二三一一」に「皮爲酢寸穗庭開不出戀乎吾爲《ハタススキホニハサキデヌコヒヲワガスル》」卷十四「三五〇六」に「婆太須酒伎穗爾※[氏/一]之伎美我見延奴己能許呂《ハタススキホニデシキミガミエヌコノゴロ》」卷十六「三八〇〇」は「者田爲々寸穗庭莫出思而有情者所知我藻將依《ハタススキホニハイヅナトオモヒタルココロハシレヌワレモヨリナム》」又出雲風土記に「波多須須支穗振別而《ハタススキホフリワケテ》」とあり、日本紀神功卷にも「幡荻穗出吾也《ハタススキホニイヅルアレヤ》云云」とあり。この外には卷十四「三五六五」「波太須酒支宇良野乃夜麻爾《ハタススキウラヌノヤマニ》云々」とあるが、これは薄の末《ウレ》にかけたるなり。これによれば本居のいへる如く「三穗」にかゝれろ枕詞とすべきなり。枕詞が語をへだててかかれる例は既に古義にあげたり。曰はく「かく二句を隔て、第一(ノ)句を第四(ノ)句にいひかけたるは十二に波之寸八師志賀在戀爾毛有之鴨君所遺而戀敷念者《ハシキヤシシカルコヒニモアリシカモキミニオクレテコホシクモヘバ》(「三一四〇」是第一(ノ)句は第四(ノ)句の君といふに係れり)十五に多都我奈伎安之敝乎左之弖等妣和多類安奈多頭多(306)頭志比等里佐奴禮婆《タヅガナキアシベヲサシテトビワタルアナタヅタヅシヒトリサヌレバ》(三六二六)(この第一句は第四句の多頭多頭志といふへ係れるがこの例は不可なり)などある、是その例なり」といへり。されば、これは枕詞の特殊なる用法の一として、句を隔てて「三穗」を修飾すといふべきなり。
○久米能若子我 舊訓「クメノワカコガ」とよめるを、萬葉考は「クメノワクゴ」とよめり。「若子」は文字のままに「ワカコ」とよみうべきものなるが「古來「ワクゴ」といふ語あり。その例は日本紀武烈卷の歌に「思寐能和倶吾嗚《シビノワクゴヲ》」又繼體卷の歌に「阿符美能野※[立心偏+豈]那能倭倶吾伊《アフミノヤケナノワクゴイ》」又本集にては卷十四「三四五九」に「等能乃和久胡我《トノノワクゴガ》」とあり。古書に「ワカ」を「ワク」といへることは古事記に「和久産巣日神」とあるを日本紀に「稚産靈」とかけるにて知るべし。かくてこゝも「クメノワクゴガ」とよむべきなり。さてこの久米の若子とは誰なるか。日本紀顯宗卷にこの天皇の「更名來目稚子」とあるによりて顯宗天皇が、その古、この石室にかくりましけむといふ説あり。そは古事記傳卷四十にある説なり。曰はく「此歌端書に依(ル)に紀伊(ノ)國なり。然る袁祁王は紀(ノ)國に坐けること見えざれば此(ノ)久米(ノ)若子は別人にやとも思はるれどもなほ此(ノ)御子なるべきか、若(シ)播磨より前に紀(ノ)國にもしばし坐(シ)ししことありしが、二記に其事實は漏たるにやなほ詳ならず」といひたり。されど、これらすべて證なきことにして從ふべからず。この卷「四三五」に「見津見津四久米能若子我伊觸家武礒之草根乃干卷惜裳《ミツミツシクメノワクコガイフリケムイソノクサネノカレマクヲシモ》」といふあり。さてここは語の上よりして、久米氏の若き人といふ程の意に解せらるるものなるが、久米氏にかゝる傳説を生すべき人ありや如何。久米の氏は古事記上卷に「天津久米命【此者久米直等之祖也】」とあり、姓氏録には「久米直」の外に「久米臣、柿本同祖天足彦國(307)押人命五世孫大難波命之後也」とあり。又久米といふ地名少からずして久米部の住みし地ならむが、紀伊國には見えず。契沖は「若是は久米仙人の仙術を修練せし程此窟に有けるにや」といひ、考も「久米仙人ここに住けんよし物には見えねど、土人のいひ傳ふるまゝよみしにやとおもひなしぬ」といへり。もとよりこの説確證なけれど、或はかゝることもありしならむか。
○伊座家留 「イマシケル」とよむ。意明かなり。
○一云家牟 これは或傳に「イマシケム」とありといふことを注せるなるが、考及び古義はこの方をよしとせり。されど、大差あるまじ。
○三穗乃石室者 「ミホノイハヤハ」なり。この石室は上にいへり。「石室」を「イハヤ」とよむことは和名鈔居宅類に「説文云窟【和名伊波夜】土屋也一云堀地爲之」とあり、古土窟も岩窟も「いはや」といひしなり。
○雖見不飽鴨 「ミレドアカヌカモ」なり。この語の例は卷一「三六」に「見禮跡不飽可聞《ミレドアカヌカモ》」「六五」に「見禮常不飽香聞《ミレドアカヌカモ》」など、少からず。幾度も見れど、いつも飽くことなきよとなり。
○一云安禮爾家留可毛 これは末句を「アレニケルカモ」とせる傳ありといふなり。意は明かなり。これにては本行のと意ややかはれり。古義はこの方をよしとしてこれを本文とせれど、さることは無用の事なり。本文の詞にても意は通り歌は成就せるものをや。
○一首の意 古久米の若子がここに住みてゐたりといふ三穗の石室は幾度見ても飽かぬことよとなり。一云の意によらば、その石室の荒れて昔の姿がなくなりたるをよめるなり。
 
(308)308 常磐成《トキハナス》、石室者今毛《イハヤハイマモ》、安里家禮騰《アリケレド》、住家類人曾《スミケルヒトゾ》、常無里家留《ツネナカリケル》。
 
○常磐成 この歌舊板本訓をつけず。古寫本にては西本願寺本、細井本に「トキハナス」の訓あり。又類聚古集と拾穗抄とは「トキハナル」とよめり。契沖は「トキハナス」なるべしといへり。「成」は「ナス」とも「ナル」ともよみうる文字なるが、ここは枕詞になれる語なれば、「ナス」とよむべし。卷五「八〇五」に「等伎婆奈周迦久斯母《トキハナスカクシモ》(何母《ガモ》)等意母閇騰母《トオモヘドモ》」卷十八「四一一一」に「常磐奈須伊夜佐加波延爾《トキハナスイヤサカハエニ》」とある、この語の例なり。又卷七「一一三四」に「時齒成吾着通萬世左右二《トキハナスアレハカヨハムヨロヅヨマデニ》」とあるは「トキハ」といふ語の例なり。「ナス」は「鏡ナス」「ウツラナス」「タマモナス」などの例にて見るが如く、その如くにあるをいふなり。
○石室者今毛安里家禮陶 「イハヤハイマモアリケレド」なり。意明かなり。
○住家類人曾 「スミケルヒトゾ」なり。これは上の歌にいへる久米の若子をさせり。
○常無里家留 「ツネナカリケル」なり。「常なし」は佛教にていふ無常なり。
○一首の意 昔久米の若子が住みたりといふ三穗の石窟は常磐にして今に存すれど、その住みける人はただ名のみ傳はりて世間無常の相を示せりとなり。僧侶の歌としてふさはしきものなり。
 
309 石室戸爾《イハヤドニ》、立在松樹《タテルマツノキ》、汝乎見者《ナヲミレバ》、昔人乎《ムカシノヒトヲ》、相見如之《アヒミルゴトシ》。
 
(309)○石室戸爾 「イハヤトニ」とよむ。本居は古事記傳の「天石屋戸」をたゞの殿戸をいふと説ける下にこの語をあげて例とせり。されば「戸」は字の如く、「戸」の義とせりと見ゆ。久老は「戸は假字にて外《ト》也。集中、屋戸《ヤト》、屋前《ヤト》など書るは皆|屋《ヤ》の外《ト》をいふ言にて宿の意にあらず」といへり。これは岩の宿の義にあらざるは勿論ながら、「イハヤ」の外《ト》か戸《ト》か門《ト》かといふことはなほ一考を要する間題なり。按ずるに戸と門とはもと大差なき語にして門《ト》に立つるものが戸《ト》にして、戸《ト》を立つる所を門《ト》といふなれば、もと同一の語たるべし。その事は漢字の門が戸の字を左右相對向せしめたる象形よりなることを、傍證として考へうべきが、その基は門《ト》にあるべし。久老は屋前屋戸の字を例として外《卜》の義なりといひたれど、これもいづれも門の義を示すものと見るべし。攷證には「古事記上卷に天照大御神見畏閉2天岩屋戸1而刺許母理坐也云々とあるも石屋門なる證は同卷の下に稍自v戸出而臨坐之時云々とある、戸の門の意なるにても石室戸は石室門なりとしるべし。戸をとゝいふも門に立るものなればいふにぞありける。本集十二【八丁】に屋戸|閉勿勤《サスナユメ》とあるも屋門なり。」といへり。さればその石室の出入口の邊に松樹の存したりしをいへるなるべし。
○立在松樹 「タテルマツノキ」とよむ。意明かなり。
○汝乎見者 舊板本「ナヲミレバ」とよめるが、古寫本中には古葉略類聚鈔、細井本には「ナレヲミレハ」とよみ、神田本には「ナレヲミハ」とよみ、類聚古集に「ナレヲミテ」とよめり。然るに「者」は「ハ」にあてらるる字にして「テ」とよむべきにあらねば、「ナヲミレバ」「ナレヲミレバ」「ナレヲミバ」の三者のう(310)ちいづれかをとらざるべからず。さて「ミバ」とよみては、未だ見ざる場合に、若し「ミバ」といふことなれば歌の意にあはず。されば「ミレバ」よむべきなり。然るときは音數の關係よりして「ナヲミレバ」とよむべきは明かなり。「汝を」を「ナヲ」といへる例は卷四「六六〇」に「汝乎與吾乎人曾離奈流《ナヲトアヲヒトゾサクナル》」卷十四「三四九〇」に「奈乎波思爾於家禮《ナヲハシニオケレ》」「三五四六」に「奈乎麻都等《ナヲマツト》」「三五七〇」に「奈乎波思奴波牟《ナヲバシヌバム》」などあり。ここの「汝」は松に對していへるなり。
○昔人乎 「ムカシノヒトヲ」とよむ。「昔人」の例は卷一「三一」にあり。こは昔の久米若子をさせり。
○相見如之 舊板本「アヒミルゴトシ」とよみたるが、類聚古集、古葉略類聚鈔には「アヒミシガゴト」とよみ、神田本に「アヒミルガコト」とよみたり。攷證の頭書には「如之をごとしと訓るは誤也。ごとしといふことなし。されば之もしは添て書る字」なりといへり。「之」は如何にも助字たることありといへども「ゴトシ」といふことなしとはいふべからず。卷五「八〇四」に「年月波奈何流流其等斯《トシツキハナガルルゴトシ》」は明かに「ゴトシ」とよむべく、又卷十六「三八三五」に「然言君之鬢無如之《シカイフキミガヒゲナキゴトシ》」もここと同じく「ゴトシ」とよむべきなり。即ち古來の訓を改むる要なしとす。相見るは「逢ひ見る」なり。
○一首の意 「この石室の前に立てる松樹よ」とよびかけ、さて今汝を見れば、昔の久米の若子に逢ふ如き心ちすとなり。
 
門部王詠2東市之樹1作歌一首
 
○門部王 神田本、西本願寺本、温故堂本、大矢本。京都大學本にこの行の下に小字にて「後賜姓大原(311)眞人也」と注せるが、これは門部王に對しての注なること著し。さて門部王は續紀を按ずるに、和銅三年正月の叙位に无位門部王に從五位下を授けらるることあり、又同六年正月の叙位にも无位門部王に從四位下を授けらるることあり。かくて又養老元年正月の叙位には從五位下門部王に從五位上を授くとあり。この前後三の記事の門部王同じ人ならば、和銅六年の記事は誤ならざるべからず。養老三年七月に始めて按察使を置かれたる時、伊勢國守門部王に伊賀志摩二國を管せしめらる。同五年正月には正五位下、神龜元年二月に正五位上に叙せられ、同五年五月に從四位下、天平三年正月に從四位上、十二月の詔書中に治部卿從四位上門部王等の奏言を載せたれば、この頃治部卿たりしなり。同六年二月朔に天皇朱雀門に御して歌垣を覽給ふ時にその三人の頭のうちに、從四位下門部王の名あり。これによれば、位階一級降れり。同九年十二月には從四位下門部王を右京大夫に任ぜられたり。さて本卷に「在2難波1見2漁父燭光1作歌一首」(三二六)あり、「出雲守門部王思2京師1歌一首」(三七一)あり、卷四に出雲守の任にある時の戀歌一首(五三六)あり、又卷六には天平九年正月「橘少卿并諸大夫等集2弾正尹門部王家1宴歌二首」ありてその一首(一〇一三)の作者は主人門部王にしてその下に注して「後賜2姓大原眞人氏1也」とあり。この門部王が、上の注の如く後に大原眞人の姓を賜はれるものとせば、次にいふ大原眞人門部は即同じ人なるべし。その人は續紀に天平十四年四月に從四位下大原眞人門部に從四位上を授けられ、同十七年四月には「大藏卿從四位上大原眞人門部卒」と見ゆ。さてこの人の父祖如何といふに、新撰姓氏録には「大原眞人出2自謚敏達孫百濟王1也、續日本紀合」とあり。(312)よりて續紀を檢するに、天平十一年夏四月に詔して從四位上高安王等の上表により大原眞人の姓を賜ふことあり。この高安王は本集卷四にもその歌あるが、この大原眞人といふ事眞ならばこの高安王と同族なるべき筈なり。然れども、敏達天皇の御孫に百濟王ありといふこと皇胤紹運録にも見えず、從ひて又、その百濟王と、この門部、高安二王との關係も知られず。然るに、紹連録には別に
天武天皇−長親王−川内王 −高安王(賜大原眞人)
              門部王(右京大夫從四位上)
とありて、出自異なり。されど、大原眞人門人と門部王と同人なるべきことはこれにても知られたり。さてその出自はもとより姓氏録を正しとすべきなり。
○詠東市之樹作歌 古、平安京に東市、西市ありしが、そのもとの平城京にもそれのありしは、大寶令の制に、左右京職の下に東西市司ありしことにても知らるるが、卷七には「一二六四」に「西市云云」の歌あり。市の事は上の「阿倍乃市道」の歌(二八四)にもいへるがこの東市は即ち平城京の左京にありしにて、今の辰市村がその遺趾なるべしといふ。市の制度の事は大寶令の市司の職制又關市令に見えたり。さてここに「東市之樹」とあるは、卷二の三方沙彌の歌に「橘之蔭履路乃八衢爾《タチバナノカゲフムミチノヤチマタニ》」(一二五)といへる下にもいへる如く、古は市又道路の邊に菓樹を植うる例なりしなり。その市の植樹を詠じたる歌なり。ここに上に「詠」とあり、下に「作」とあるによりて、楫取魚彦は「詠」を「託」の誤として「ヨセテ」とよむべしといひ、槻落葉は「詠」はこのままにてよく、「作」を衍とせり。略(313)解、これによれるなり。然れどもかゝるかきさまなるは本卷目録にも「山部宿禰赤人詠〔右○〕2故大政大臣藤原家之山池1作〔右○〕歌」(本文には「作」字なし)又卷六「一〇三一」の左注に「何有d詠〔右○〕2思泥崎1作〔右○〕歌u哉」とあり。これらをば後人の注記なればとるべからずといふ説あれど、たとひ後人の記といふとも、かかるかきざまが意味あるが故にかきしならむ。後人の記したりといふことを以てこの時代の記文の法にあらずとするものならば、これをこの時代の記法ならずとする證左をあげざるべからず。若し又、かかる記法が全然誤ならば、單にその後人の記法なりといひて退くるに止まるべからず。
 按ずるにここに「詠」字を用ゐたるは偶然にかくなれるにあらざるべければ、漫然とこれを觀過すべからず。今本集中に「詠」字を用ゐたる例を案ずるに、
卷三 門部王詠〔右○〕2東市之樹〔四字傍点〕1作〔右○〕歌(目録「之樹」ヲ「中木」ニ作ル)(三一〇)
   詠〔右○〕2不盡山〔三字傍点〕1歌(三一九)
   沙彌滿誓詠〔右○〕v綿〔傍点〕歌(三三六)
   山部宿禰赤人詠〔右○〕2故太政大臣藤原家之山池〔故太〜傍点〕1作〔右○〕歌(目録「作」字なし)(三七八)(以上雜歌)
卷五 山上臣憶良詠〔右○〕2鎭懷石〔三字傍点〕1歌(【目録ノミ本文ニコノ題ナシ】)(八一三)
   詠〔右○〕2領巾麾嶺〔四字傍点〕1歌(【目録ノミ本文ニナシ】)(八七一)(以上雜歌)
   (僕報詩詠曰)(八一一)
   (宜賦2園梅1卿成短詠)(八一五以下)
(314) (因贈詠歌)(八五三)
卷六 大伴坂上郎女詠〔右○〕2元興寺之里〔五字傍点〕1歌(九九二)
   (何有d詠〔右○〕2思泥崎1作〔四字傍点〕歌u哉「一〇三一」ノ左注)(雜歌)
卷七 詠〔右○〕天〔傍点〕  詠〔右○〕月〔傍点〕  詠〔右○〕雲〔傍点〕  詠〔右○〕雨〔傍点〕  詠〔右○〕山〔傍点〕  詠〔右○〕岳〔傍点〕  詠〔右○〕河〔傍点〕  詠〔右○〕露〔傍点〕  詠〔右○〕花〔傍点〕  詠〔右○〕葉〔傍点〕  詠〔右○〕蘿〔傍点〕  詠〔右○〕草〔傍点〕  詠〔右○〕鳥〔傍点〕  詠〔右○〕井〔傍点〕  詠〔右○〕倭琴〔二字傍点〕(雜歌)
卷八 山上臣憶良詠〔右○〕2秋野花〔三字傍点〕1歌(一五三七、一五三八)(秋雜歌)
卷九 獻2忍壁皇子1歌一首 詠〔右○〕2仙人形〔三字傍点〕1(一六八一)
   登2筑波山1詠〔右○〕v月〔傍点〕一首(一七一二)
   詠〔右○〕2永江浦島子〔五字傍点〕1一首(一七四〇)
   詠〔右○〕2霍公鳥〔三字傍点〕1謌(一七五五)
   詠〔右○〕2鳴鹿〔二字傍点〕1歌(一七六一)(雜歌)
卷十 詠〔右○〕馬〔二字傍点〕  詠〔右○〕霞〔傍点〕  詠〔右○〕柳〔傍点〕  詠〔右○〕花〔傍点〕  詠〔右○〕月〔傍点〕  詠〔右○〕雨〔傍点〕  詠〔右○〕川〔傍点〕  詠〔右○〕煙〔傍点〕(春雜歌)
   詠〔右○〕鳥〔傍点〕  詠〔右○〕蝉〔傍点〕  詠〔右○〕榛〔傍点〕  詠〔右○〕花〔傍点〕(夏雜歌)
   詠〔右○〕花〔傍点〕  詠〔右○〕鴈〔傍点〕  詠〔右○〕鹿鳴〔二字傍点〕  詠〔右○〕蝉〔傍点〕  詠〔右○〕蟋蟀〔二字傍点〕  詠〔右○〕蝦〔傍点〕  詠〔右○〕鳥〔傍点〕  詠〔右○〕露〔傍点〕  詠〔右○〕山〔傍点〕  詠〔右○〕黄葉〔二字傍点〕  詠〔右○〕水田〔二字傍点〕 詠〔右○〕河〔傍点〕  詠〔右○〕月〔傍点〕  詠〔右○〕風〔傍点〕  詠〔右○〕芳〔傍点〕  詠〔右○〕雨〔傍点〕  詠〔右○〕霜〔傍点〕(秋雜歌)
  詠〔右○〕雪〔傍点〕  詠〔右○〕花〔傍点〕  詠〔右○〕露〔傍点〕  詠〔右○〕黄葉〔二字傍点〕  詠〔右○〕月〔傍点〕(多雜歌)
卷十五(誦詠ノ語アレド意別ナリ)
(315)卷十六(長忌寸意吉麿歌八首(三八二四−三八三一)(コノウチ第一首即チ三八二四ニハ詠トイフ語ヲ用ヰズ餘ノ七首ハ次ノ如クイヘリ)
  詠〔右○〕2行騰蔓菁食薦屋※[木+梁]〔八字傍点〕1歌
  詠〔右○〕2荷葉〔二字傍点〕1歌
  詠〔右○〕2雙六頭〔三字傍点〕1歌
  詠〔右○〕2呑塔厠屎鮒奴〔六字傍点〕1歌
  詠〔右○〕2酢醤蒜鯛水葱〔六字傍点〕1歌
  詠〔右○〕2玉掃天木香棗〔六字傍点〕1歌
  詠〔右○〕2白鷺啄木飛〔五字傍点〕1歌
  忌部首詠〔右○〕2數種物〔三字傍点〕1歌(三八三二)
  境部王詠〔右○〕2數種物〔三字傍点〕1歌(三八三三)
  高宮王詠〔右○〕2數種物〔三字傍点〕1歌(三八五五、三八五六)
  (乞食者詠)
卷十七詠〔右○〕2霍公鳥〔三字傍点〕1歌(三九〇九)
   山邊宿禰明人詠〔右○〕2春※[(貝+貝)/鳥]〔二字傍点〕1歌一首(三九一五)
卷十八大伴家持詠〔右○〕2庭中花〔三字傍点〕1作〔右○〕歌(コレハ目録ノ文、本文ニハ詠〔右○〕ナシ)(四一一三)
   詠〔右○〕2雪月梅花〔四字傍点〕1歌(四一三四)
(316)   (古詠)
   (一、答2屬目發1v思兼詠〔右○〕2云遷任舊宅西北隅櫻樹1)(四〇七七)詞書(大伴家持)
卷十九天平勝寶二年三月一日之暮眺2矚春苑桃李花1作歌(目録「詠〔右○〕2桃李花〔三字傍点〕1歌」)(四一三九)
   八月詠〔右○〕2白大鷹〔三字傍点〕1歌(四一五四)
   詠〔右○〕2霍公鳥并時花〔六字傍点〕1歌(四一六六)
   詠〔右○〕2霍公鳥〔三字傍点〕1歌(四一七五)
   詠〔右○〕2山振花〔三字傍点〕1歌(四一八五)
   詠〔右○〕2霍公鳥并藤花〔五字傍点〕1一首(四一九二)
   詠〔右○〕2霍公鳥〔三字傍点〕1歌(四二〇九)
   詠〔右○〕2霍公鳥〔三字傍点〕1歌(四二三九)
   矚2芽子花〔三字傍点〕1作〔右○〕歌(目録「矚ヲ詠〔右○〕トス)(四二五二)
   詠〔右○〕2※[倉+鳥]※[庚+鳥]〔二字傍点〕1歌(目録ニヨル【本文ニ作歌トノミ】)(四二九二)
卷二十詠〔右○〕霍公鳥〔三字傍点〕1歌(四三〇五)
以上見る如く、詠歌、誦詠、詩詠又は單に詠として體言として用ゐられたるものは別として用言として用ゐられたるものはその類は必ず雜歌の類に存し、しかもいづれもその詠ずる目的物を示せり。これを類聚すれば、
 詠東市之樹(卷三、コノ歌)
(317) 詠柳(卷十、春雜歌)
 詠花(卷七、雜歌、卷十春雑歌、夏雜歌、秋雜歌、冬雜歌)詠秋野花(卷八、秋雜歌一五三七、一五三八)
 詠葉(卷七、雜歌)
 詠蘿(卷七、雜歌)
 詠草(卷七、雜歌)
 詠榛(卷十、夏雜歌)
 詠黄葉(卷十秋雜歌、冬雜歌)
 詠芳(卷十、秋雜歌)
 詠雪月梅花(卷十八、四一三四)
 詠云遷任舊宅西北隅櫻樹(卷十八、四〇七七)
 詠霍公鳥并時花(卷十九、四一六六)
 詠山振花(卷十九、四一八五)
 詠霍公鳥并藤花(卷十九、四一九二)
 詠鳥(卷七雜歌、卷十春雜歌、夏雜歌、秋雜歌)
 詠霍公鳥(卷九雜歌、一七五五卷十七、三九〇九、卷十九、四一七五、四二〇九、四二三九卷二十、四三〇五)
 詠鳴鹿(卷九雜歌、一七六一)詠鹿鳴(卷十秋雜歌)
(318) 詠春※[(貝+貝)/鳥](卷十七、三九一五)
 詠白大鷹(卷十九、四一五四)
 詠不盡山(卷三、三一九)
 詠故大政大臣藤原家之山池(卷三、三七八)
 詠鴈(卷十秋雜歌)
 詠蝉(卷十、夏雜歌、秋雜歌)
 詠蟋蟀(卷十秋雜歌)
 詠蝦(卷十秋雜歌)
 詠領巾麾嶺(卷五、八七一)
 詠元興寺之里(卷六、九九二)
 詠山(卷七雜歌、卷十秋雜歌)
 詠岳(卷七雜歌、卷十秋雜歌)
 詠河(卷七雜歌、卷十春雜歌、秋雜歌)
 詠井(卷七雜歌)
 詠水田(卷十、秋雜歌)
 詠天(卷七雜歌)
 詠月(卷七雜歌、卷十春雜歌、秋雜歌、冬雜歌)登筑波山詠月(卷九、一七一二)
(319) 詠雲(卷七雜歌)
 詠雨(卷七雜歌、卷十春雜歌、秋雜歌)
 詠露(卷七雜歌、卷十秋雜歌、多雜歌)
 詠霞(卷十春雜歌)
 詠煙(卷十春雜歌)
 詠風(卷十秋雜歌)
 詠霜(卷十秋雜歌)
 詠雪(卷十冬雜歌)
 詠綿(卷三、三三六)
 詠鎭懷石(卷五、八一三)
 詠倭琴(卷七、雜歌)
 詠仙人形(卷九、一六八一)
 詠數種物(卷十六、三八二四−三八三一、三八九二、三八三三、三八五五)
 詠水江浦島子(卷九、一七四〇)
次に目録に「詠云々」とありて本文の題詞に「詠」字なきもの、
 詠領巾麾嶺(卷五、八七一)
 詠庭中花(卷十八、四一一三)
(320) 詠桃李花(本文(ノ)題詞「眺矚春花桃李花」(卷十九、四一三九)
 詠芽子花(本文「矚」トス)(卷十九、四二五二)
 詠※[倉+鳥]※[庚+鳥]歌(本文單ニ作歌トス)(卷十九、四二九二)
左注にあるもの
 詠思泥崎作歌(卷六、一〇三一ノ左注)
以上の如く、本文に於いても、目録のみの場合にても、又左注にても、一も例外なく、作者以外に存する或る目標を詠する由になりてあることはこれ偶然にあらずして、この場合の「詠」といふ文字を用ゐたるには一定の意味ありしことは疑ふべからず。この故にこの詠字をただ歌をつくる意にのみとることは恐らくは誤たるべし。按ずるに、これはその水江浦島子を詠ずるものの外はいづれも、支那に所謂詠物の體にして、いづれもある外物をとりて、それを客觀としてうたへるものなることは、上の諸歌に通じて一なり。而して浦島子を詠ずるものも詠ずといふ精神は大凡異なるところあらずと考へらる。かくて詩には詠物詠史といふことある、その場合に用ゐる「詠」、これここに用ゐたる詠といふ語なるべし。されば、ここに、「詠〔右○〕2東市之樹1作歌」といふ場合に、「詠」はその歌體の目的とするところを示すものにして單純に歌詠の意の名詞なると一にすべからず。然らばこれを如何によむべきかといふに、類聚名義抄には詠字に「ウタフ」「シノハシム」「サヘツル」の訓あり、字鏡集にはなほ「ナカム」の訓あり。色葉字類抄には「詠」は「ウタフ」「ナカム」の條にあれど、「ヨム」の條にはなし。されば、この「詠」を「託」の誤とすることの採るべからぬ(321)は勿論ながら「詠」字ある故に下の「作」字は衍なりといふことも通論にあらざるなり。而してこの字は上の訓によりて「ウタフ」か「ナガム」かのうちにてよむべきなり。然れどもこの「詠」はかの卷十九の「眺矚」又「矚」字を目録に「詠」字にかけるに照して考ふれば、この目録の筆者は「詠」を「ナガム」とよみたりしことは疑ふべからず。而して拾穗抄には「ナガメテ」とよむべくせり。されば、ここには「ナカメテヨメルウタ」とよむべきならむ。考に「眺」に改めたるは否なり。このままにて「ナガメ」とよむべし。かくよむ時は「作」字のある方かへりてよき事となる。
 
310 東《ヒムガシノ》、市之殖木乃《イチノウヱキノ》、木足左右《コダルマデ》、不相久美《アハズヒサシミ》、宇倍吾戀爾家利《ウベワレコヒニケリ》。
 
○東 この一字にて「ヒムガシノ」とよむ。かくよめる例は卷一の「四八」にあり。意もそこにいひたれば往きて見るべし。
○市之殖木之 「イチノウヱキノ」なり。市に木をううることは既にいへり。その市に殖ゑたる木なり。「ウヱキ」といふ語の例は卷二十「四四九五」に「宇具比須波宇惠木之樹間乎奈伎和多良奈牟《ウクヒスハウヱキノコマヲナキワタラナム》」とあり。
○木足左右 古來「コタルマデ」とよめるが異論なし。契沖曰はく「木たるは木垂なり。木の老ぬれは枝のさかるなり」といひたり。この語の例は卷十四、「三四三三」に「多伎木許流可麻久良夜麻能許太流木乎麻都等奈我伊波婆古非都追夜安良牟《タキキコルカマクラヤマノコダルキヲマツトナガイハバコヒツツヤアラム》」あり。「足」は借字にて「垂」の義にして「垂」は、古語四段活用にして「タル」なりしに「足」字をかりたるなり。「左右」が「まで」なることは卷一「三四の「幾(322)代左右二賀」の例あり。
○不相久美 舊坂本は「不相久美宇倍」を一句として「アハヌキミウヘ」とよみたるが、かくては「久」字を「キ」とよむべきこととなるのみならず、「ウヘ」といふ語の用例も不合理となりて甚だ不都合なれば從ひがたし。童蒙抄は「不相久美」を一句として「アハデヒサシミ」とよみ、考も槻落葉も攷證もこれによれり。されど、「デ」といふ複語尾はこの頃に行はれてありし證なく後のものなるべければ、「アハズヒサシミ」と略解によめるに從ふべし。「ヒサシミ」は「ヒサシキニヨリテ」の意なるが、上の「アハズ」は同格連用として重ねヒサシクアハザリシよしをいへるなり。即ち久しくアハズシテ多くの年月を經たるによりてといふ程の意なり。
○宇倍吾戀爾家利 舊訓は上述の如くせるによりてここは「吾戀爾家利」にて七言のなたらかなる一句としたれど、今上句を上の如くよむによりて、ここは文字のままにては「ウベワレコヒニケリ」といふ九言一句となるべき勢にあり。されば、童蒙抄は「われわびと云をれとわとを略してわびとよむ也」といひて「うべわびにけり」とよませたり。されど、「吾戀」を「ワビ」とよむことは道理なきことなれば從ひがたし。考には「ウヘワレコヒニケリ」とよみて、「九言、卷三などに九言の句多し。古人は物に泥ぬ故三言より十言までの句あまた有也」といひ、槻落葉には「今本|宇倍《ウベ》の下に吾の字あるは衍なり。古本にはいづれも吾の字なし」といひて「ウベコヒニケリ」とよみ略解、古義これに從へり。然るに「吾」字のなき本は類聚古集と、神田本とにして、校本萬葉集における他の六種の古寫本には皆「吾」字あり。されは槻落葉の説も信ずべからず。宣長は上の「久美」(323)は「茱萸」にして「宇倍」は「郁子」なりといひたれども、さる「クミ」と「ウベ」とは木垂るまでといふをうる木にはあらねば從ひがたし。攷證は「吾戀」二字をただ「コヒ」とよむべしといひて、「白雪」を「ユキ」「昔者」を「ムカシ」とよみ、「吾等」を「ワレ」「秋時」を「アキ」「坂上」を「サカ」とよめる例をひきたれど、それとこれとは趣一ならねば從ひがたし。かくて誤字もなく脱字もなしとせば、結局考のよみ方によるべきものなり。然るときは九言一句となることなれど、後世にてもア行音の字餘は差支なきものとしたるが、これは「ウベアレコヒニケリ」とよむときはア行音二つあれば、九音なりといふともさほど耳にさはらざるなり。この卷「四八〇」に「大伴之名負靱帶而《オホトモノナニオフユキオヒテ》、萬代爾《ヨロヅヨニ》、憑之心何所可將寄《タノミシココロイヅクカヨセム》」の第二句は「ナニオフユキオヒテ」と九言によまむより外によみ方なかるべく、この上(二八五)の「妹名乎此勢能山爾《イモガナヲコノセノヤマニ》、懸者奈何將有《カケバイカニアラム》」の末句も「カケバイカニアラム」にして九言一句なり。又卷四「六五九」に「如是有者四惠也吾背子《カクシアラバシヱヤワガセコ》、奧裳何如荒海藻《オクモイカニアラメ》」の末句「オクモイカニアラメ」も九言一句なり。而して他の卷にはこの例なし。即ちかく九言一句にするものはこれ卷三、四における一種の傾向なりと知られたり。
○一首の意 攷證に「殖たる木は繁茂する事のおそきを、その木の年をへてしげりて枝葉たるるまでといふを久しきたとへとして、その如く久しくあはざる故に、うべ戀にけり。戀しく思ふもうべなりと也」といへるが、語の意はこれにてよき筈なるに、しかも攷證は「この歌、下は戀の歌なるをかの市之樹によそへていへるにて」といひ、「不相久美」を「妹にあはで久しさに」といふ意なりとせり。然して多くの註釋家みなかゝる意にとれり。然れども、この歌は相聞にあらずし(324)て雜歌の部にあるのみならず、題詞にわざと「詠」とかきたれば、これは如何にしても相聞のうたにはあるべからず。「戀ひにけり」とあるによりて相聞なりといふ人あらば、その人は次の歌を見よ。そは明かに鏡山を戀しく思はむといへるなり。それと同じく、これも市之樹を戀ひつつありしが、今見れば云々といひてうたへるものなり。按ずるにこの門部王は伊勢國守たりしことあり、出雲國守たりしことありたれば、都を離れて地方官の任にありしことも前後少くも八年(地方官の一任は四年)はありしならむ。その地方官在任中いつも都を戀しく思ひ居たりしか、さて、その四五年若くは八九年にして都にたちかへりて見れば、己がもと都に在りし時若木と思ひし市の殖樹は老木となりて枝が下垂れたる程になれるを見ては、かくの如く、若木が老木となれるなれば、隨分久しき間なるに、この間一度も見ずして今見れば、げにも久しき間都を見ざりしことよと思はれて、わが、地方にて都を戀ひしく思ひてありしことも尤もなる次第にてありけり」といひ、市之樹の老いたるにつけて、わが都に住まざりし日數の多くなりしことを示し、わが都を戀しく思ひたりし心を市之樹に託していへるものなり。さてこれは旅の歌ならねど、旅より歸りての情をうたへるものなれば、ここの順におけるものなり。久し振にて故郷なる、しかも京に歸りたる心情よくあらはれたり。
 
※[木+安]作村主益人從2豐前國1上v京時作歌一首
 
○※[木+安]作村主益人 「クラツクリノスクリマスヒト」とよむ。「益人」の名は上に「田口益人」といへるに(325)同じ。「村主」は「スクリ」とよむ。和名鈔の郷名には伊勢國安濃郡に、又紀伊國伊都郡にもありて「須久利」と注せり。「村主」は元來歸化人に賜はるカバネの一なるが、地名にもなれるなり。「※[木+安]」は略解に「鞍」の省文なりといへど非なり。これはもと「鞍」と同じ字なるが、それを木製の「クラ」の意にして「革」扁を木扁にかへて「※[木+安]」の形につくれりしならむ。これは「鍋」と「※[土+咼]」「杯」と「坏」「椀」と「※[金+宛]」と「※[土+完]」「鉾」と「桙」との關係に同じかるべし。この卷「三七三」に「高※[木+安]之三笠山爾鳴鳥之」にある「高※[木+安]」もこれなり。これは本邦にての製作なりや否や疑問なり。文字辨證にいふ如く可洪の新集藏經隨凾録卷十三、七十四左に「金案書安正作〓」同卷廿二、【六十八】に「案勒上音安正作鞍〓」とみえたり。「案」「※[木+安]」共に「木」と「安」との合せるなり。但しこの可洪はわが、平安朝に當れば、この本の字それより出でしにあらざるなり。さて※[木+安]作村主の姓は今本の新撰姓氏録(今本は元來抄録なり)には見えねど、坂上系圖に引ける姓氏録にありて、鞍作村主とあり。これもと坂上氏と同じく後漢の靈帝の後也とす。この※[木+安]作といふ氏は實際鞍をつくる手人部にしてその首長たるものを※[木+安]部村主といひしならむ。さてこの人史に傳ふる所なければ、傳しられず。卷六にこの人の歌一首(一〇〇四)ありて、その左注には「内匠寮大屬※[木+安]作村主益人聊設2飲饌1以饗2長官佐爲王1云々」とあり。内匠寮は令外の官にして、神龜五年六月におかれたるものなり。而してこれは天平六年の詠たりとす。これによりてこの人の官途と年代とを察すべし。
○從豐前國上京時作歌 豐前國は和名鈔によりて「トヨクニノミチノクチ」とよむべきなり。さてこの人如何なる理由にて豐前國より京都に來りしか、豐前國の人にして京に上りしか、又京(326)人にして地方官として任にありしが、朝集使などになりて上京せしか、知ることを得ず。若し地方官ならば、豐前國の目などたりしならむ。中央にても寮の屬たりし人なればなり。
 
311 梓弓《アヅサユミ》、引豐國之《ヒキトヨクニノ》、鏡山《カガミヤマ》、不見久有者《ミズヒサナラバ》、戀敷牟鴨《コホシケムカモ》。
 
○梓弓 「アヅサユミ」梓にてつくれる弓なることいふまでもなし。ここは次の語の枕詞に用ゐたり。何につゞく枕詞なるかは次にいふべし。
○引豐國之 舊訓「ヒクトヨクニノ」とよみたるが、童蒙抄は「引」を音にかりたるにて「イムトヨクニノ」とよむべしとせり。然るに「引」ならばその音、in なるべきにより「引佐《イナサ》」といふやうになるべく、「イム」とはなるべからず。この故にこの説は從ふべからず。考は「ヒキトヨクニノ」とよみて曰はく「ひきとよむかといひつゞけたるなり」といへり。かくて、契沖と久老とは舊訓により、その後の學者は多く考の説によれり。契沖は音の字の上略にて「ひくと」とよむなりといひ、久老も同じ趣にいへり。この説一往理ある如くなれど、「オト」を上略して「ト」とのみいへるは、熟語の場合(「ヨト」夜音「トホト」遠音など)又助詞「ノ」などの下なる場合(「アノト」足音「ナミノト」浪音など)にて用言を受くる場合に「ト」とのみいへる例はなきが如し。されば、「梓弓」は引くといふ語の枕詞といふことは不可にはあらねど、ここを「ひく」とよむときはその「ヒク」と「トヨクニ」との關係を説明すること能はざるなり。されば、大體は考の説の如くにてよかるべけれど、なほ説明に心ゆかぬ點あり。そは何ぞといふに、即ち「梓弓を引く」といふは人のわざにして「とよむ」は弓のわざなり。(327)されば「ヒキトヨム」といふ一語のあるにはあらずして、なほ「梓弓ひき」而してその結果が「トヨム」なり。この故に「梓弓」のみを見れば、「ヒキ」に關する枕詞なり。されど、それだけにては「ヒキ」と「トヨクニ」との關係を明かにせず。ここに「梓弓ひき」が「トヨクニ」に對しての序詞になれるものにして「トヨクニ」の「トヨ」を導く爲の序詞として「梓弓ヒキ」があるなり。かく解せずば語の關係正しく理解せられざるなり。さて「梓弓ひく」が「トヨム」に縁あることは卷二「二一七」に「梓弓音聞吾母《アヅサユミオトキクワレモ》」卷四「五三一」に「梓弓爪引夜音之遠音爾毛《アヅサユミツマヒクヨトノトホトニモ》」など、弓に音のすることをいへるが、音の高く「どよむ」より「トヨ」にかけたりと見るべし。豐國は今の豐前豐後兩國が一なりし時の名なるが、後に前後にわけられても歌などにはかくよべるなり。
○鏡山 「カガミヤマ」この卷(四一七以下三首)詞書に「河内王葬2豐前國鏡山1之時手持女王作歌」とありて「豐國乃鏡山」をよめり。(「四一七」、「四一九」)この山は今豐前國小倉に遠からぬ地、田川郡勾金村大字鏡山といふにありといふ。此處に鏡神社といふあり、又鏡の池あり。
○不見久有者 舊訓「ミデヒサナラバ」とよみたるを槻落葉に「ミズヒサナラバ」と改めたり。「デ」といふ複語尾この頃に未だあらざりしならむが故に槻落葉に從ふべしとす。この語の假名書の例は卷十六「三九三四」に「伎美我目乎美受比佐奈良婆須敝奈可流倍思《キミガメヲミズヒサナラバスベナカルベシ》」あり。これは「みず」と「ひさに」とをつけたる語が「あり」につづけるがつづまれるなり。「みずひさに」といへる例は卷十四「三五四七」に「阿知乃須牟須沙能伊利江乃許母理沼乃安奈伊伎豆加思美受比佐爾指天《アヂノスムスサノイリエノコモリヌノアナイキヅカシミズヒサニシテ》」卷十八「四一二一」に「朝參乃伎美我須我多乎美受比左爾比奈爾之須米婆安禮故非爾家里《アサマヰノキミガスガタヲミズヒサニヒナニシスメバアレコヒニケリ》」などあり。「ヒサ」(328)はここは副詞に用ゐたるものにして時間の多く經過することをいへり。さることが多くの時間つづくことをいへるなり。
○戀數牟鴨 舊訓「コヒシケムカモ」とよみて殆ど異論なき如くなれど、古義は「コホシケムカモ」とよめり。この頃の語には「コヒシ」といはずして「コホシ」といひたるものと見ゆれば古義の説によるべし。その説は上にいへり。「コホシケム」は「コホシクアラム」の約にして、それが「コホシカラム」となり更に約まれること上に屡例あり。
○一首の意 今この國を立ちて京に上るべきが、今の別れだに心細くおもはるるに、この地の鏡山を見ずして久しくあらば、頗る戀しく思はるるならむとなり。
 
式部卿藤原宇合卿被4使3改2造難波堵1之時作歌一首
 
○式部卿藤原宇合卿 この人は卷一「七二」の歌の作者としてそこに出でたれば、今委しく説かず。神龜元年に式部卿になれり。「卿」の字の事も上(二八五)にいへり。名は「ウマカヒ」とよむべきこともいへり。
○被使改造難波堵之時 從來の諸注多くは「被使」を先づ「ツカハサレテ」とよめるが、かかるよみ方はあるべきにあらず。これは「ナニハノミヤコヲアラタメツクラシメラレシトキ」とよむべきものなり。これは續日本紀を見るに、神龜三年「十月庚午以2式部卿從三位藤原宇合1爲2知造難波宮事1」と見えたる、その時の事なること著し。さてここに「難波堵」とある「堵」は卷一に「高市連古人(329)感傷近江舊堵作歌」(三二)にも「都」の義に通用せるが、ここも都の義にて難波都城を改造せしめられしならむ。ここに改造とあるは、難波宮城は仁徳天皇の御世よりあり、孝徳天皇及びその後も屡ここに天皇のいでまししことなれば、難波宮は存續せしこと明かなり。ことに當時は攝津職を置かれて、その職制は左右京と同樣にありしが、これはその難波の都城の政治と津即ち要港の管理とを兼攝せしが爲に攝津〔二字右○〕といひ、左右京職と同樣に職〔右○〕と名づけられたるにて、今も大阪府を府と名づけて縣と名づけず、他の地方と同一にせざることの因縁頗る遠きを見る。かくて桓武天皇の延暦十二年に攝津職を廢せられ、ただの地方官の管理にうつされし時にも舊名を存して攝津國と名づけられしなり。さてここの難波堵は何處なるかといふに、これは孝徳天皇の都せられし長柄豐前宮たるべし。この地はもとの豐崎村大字南長柄北長柄及その本庄(今は大阪市東淀川區豐崎の本庄なりし由なるが、この都は孝徳天皇の後、飛鳥藤原奈良と度々かはりたれど、なほ廢止せられずして別都として存したりしものの如し。天武天皇八年十一月に「難波築2羅城1」とあるも、この別都に設けられしものならむ。されば、この頃はその宮城は依然として存せしならむ。天武天皇十二年十二月には難波に都せむと欲すといふ詔あり。然るに、朱鳥元年五月に「難波大藏省(ニ)失v火宮室悉焚(ク)、或曰阿斗連藥(カ)家(ノ)失火之引、及2宮室1唯兵庫職不v焚焉」とあり。この時にその宮城殆ど全く燒け失せしなり。されど、持統天皇の六年四月に有位の親王以下進廣肆に至るまでに難波(ノ)大藏の鍬《スキ》を賜ふといふ記事あれば、大藏も燒失せずして殘りしか、若くは、前の燒失後に再興せられしならむ。而して文武天皇三年正月癸未(二(330)十七日)には難波宮に幸することありて、翌二月丁未(二十二日)に還御あり。その間二十五日なり。又慶雲三年九月丙寅(二十五日)に難波に、行幸あり、十月壬午(十二日)に還幸あり。その間十七日なり。この時に供奉せし人々の詠歌卷一にあり。元正天皇も養老元年二月壬午に難波宮に幸し、丙戌に和泉宮に至りたまひて、後京にかへりたまふことあり。又聖武天皇も神龜二年十月に難波宮に幸せられたることあり。同三年十月辛酉(十七日)に播磨國印南野に行幸あり、癸亥(十九日)還つて難波宮に至りたまひ、庚午(二十六日)に藤原宇合を以て、知造難波宮事とせられ、癸酉(二十九日)に還幸ありしなり。即ちこの時は天武天皇の世に大火ありて後、應急の造營はありしかど、十分ならざりしが故に、大體に於いて大化以後荒廢せし點もありしが故にこれを改造せしめられしならむが、この後この改造工事は着々進行して營まれしものと見え、天平四年三月には「知造難波宮事從三位藤原朝臣宇合等已下仕丁已上賜v物各有v差」とあるはその功程の或程度まで進捗せしが爲に行はれし賞賜なりしならむ。かくて同年九月に正五位下石川朝臣枚夫を造難波宮長官に任ぜられたるは、同時に職制を少しく改められしならむ。而して宇合はこれより先天平元年五月式部卿從三位たり、天平三年八月に參議六人の員に入れりしを以て見れば、宇合この時參議式部卿として中央に專任せしならむ。かくて天平六年九月には難波京内の宅地を群臣に頒ち與へられ、天平十六年正月には群臣を會して、京を恭仁京に定むべきかを諮せられしが、難波宮を否とするもの少しく多かりし由の記事あり。これによれば、この改造は將來の帝都とせられむ爲のものたりしなり。而して、天平六年九月の宅地(331)を群臣に賜はりし時の標準は三位以上には一町以下、五位以上には半町以下、六位以下には四分の一町以下と見えたるが、天平十六年正月の京の可否をとはれし時の官員數を計算するに五位以上四十六人、六位下二百八十七人なり。喜田貞吉氏が、これによりて「公卿七人が(これは當時の可否の數に入らぬものとして見たる由)假りに一町宛の土地を得るとして七町、五位以上四十六人が假りに半町宛の地を得るとして二十三町、六位以上の者二百八十七人が四分の一町宛として七十一町合計百二町の場所は當時の有位者のみに割り當てられたものと見なければならぬ。市内に於て彼等が占める宅地のみにても既に斯くの如きものであるのを見ても難波京の規模がかなり大なるものであつた事が察せられる」とあり。これらによりてこの造宮の事業の大要を知ると共にこの歌を味ふ素地とすべきなり。
 
312 昔者社《ムカシコソ》、難波居中跡《ナニハヰナカト》、所言奚米《イハレケメ》。今者京引《イマミヤコヒキ》、都備仁鷄里《ミヤコビニケリ》。
 
○昔者社 「ムカシコソ」とよむ。「昔者」二字にて「ムカシ」なり。これは支那にて「今者」「昔者」など用ゐたるを襲用したるにて本邦にての製造にあらず、玉篇に「者助語也」とあるをも思ひ、又易説卦傳に「昔者聖人之作易也云々」亦詩經、谷風に「不念昔者伊余來※[既/土]」などの例を見よ。「社」を「コソ」とよむことは卷二「一三一」の柿本人麿從石見國別妻上來時歌の「人社見良目《ヒトコソミラメ》」の例ありて、そこにいへり。
○難波居中跡所言奚米 「ナニハヰナカトイハレケメ」なり。難波は田舍なりといはれけむといふなり。「居中」は「ヰナカ」の語をあらはすに借りたるまでにて文字の意にあらず。「ヰナカ」とい(332)ふ語は和名鈔に「揚氏漢語抄云田舍兒偉那迦比斗」とあれば今も見る如く「田舍」の文字をよむべきなり。田舍兒の語は世説の文學篇に「殷中軍嘗至2劉尹所1、清言良久、殷理小屈、遊辭不v已、劉亦不2復答1、殷去後乃云、田舍兒強學v人作2爾馨語1」などあり。又「田舍」翁あり。宋書に「武帝大修2宮室1、袁※[豈+頁]盛稱2高祖儉素1、帝曰田舍翁得v此已過矣」とあり。日本紀には田舍の字を用ゐたるが、古來「ヰナカ」とよませたり。この田舍の字は蓋し農家の郷居をさせるものならむか。「ゐなか」といふ語は平安朝以來盛んに見る所なるが、萬葉考にこれを釋して曰はく「居中は田居之所《タヰノカ》てふ言なり。田を略く。奈は之に通ひ、加はところをいふ在所《アリカ》の加に同じ。さて田居とは里人常に住る里、作る田所は遠ければ、秋は其田所に假庵を作居て稻を苅干とりをさめ給ひ、後本の里へは歸りぬ。此居る所を田居といふなり。是そ國人の業の專らなる故に惣て都の外の國々を田居之所とはいふなり」とあり。略かやうの事ならむが、田居をその居所とするは如何なり。今昔物語卷二十九「母牛突2〓狼1語第卅八」に「今昔奈良ノ西、京邊ニ住ケル下衆ノ農業ノ爲に家ニ特牛ヲ飼ケルカ子ヲ一ツ持タリケルヲ秋比田居〔二字傍線〕ニ放タリケルニ定マリテ夕サリハ小童部行テ追入レケル事ヲ家主モ小童部モ皆忘レテ不2追入1サリケレハ其ノ牛子ヲ具シテ田居〔二字傍線〕ニ食行ケル程ニ云々」とあるは明かに田の地にして考のいふ如き意にあらず。又本集にも「田井」といふ語少からず、一二をいはゞ、卷九「一六九九」に「巨椋乃入江響奈理射目人乃伏見何田井爾鴈渡良之《オホクラノイリエトヨムナリイメビトノフシミガタヰニカリワタルラシ》」「一七五七」に「筑筑波嶺爾登而見者尾花落師付之田井爾鴈泣毛寒來喧奴《ツクバネニノボリテミレバヲバナチルシツクノタヰニカリガネモサムクキナキヌ》」「一七五八」に「筑波嶺乃須蘇廻乃田井爾秋田苅妹許將遣黄葉手折奈《ツクバネノスソミノタヰニアキタカルイモガリヤラムモミヂタヲラナ》」その外卷十、卷十九卷二十にもあり。これらの例はいづれ(333)も田そのものをさして田舍をさすことなし。又卷十「二二四九」に「鶴鳴之所聞田井爾五百入爲而吾客有跡於妹告社《タヅガネノキコユルタヰニイホリシテワレタビナリトイモニツゲコソ》」「二二五〇」には「春霞多奈引田居爾廬付而秋田苅左右令思良久《ハルガスミタナビクタヰニイホツキテアキタカルマデオモハシムラク》」等は田居の上に庵をつくる由あきらかなれば、田居は、ただ田といふにおなじ。それを「タヰ」といふは如何といふに、石原正明は「ゐといふは田にまかす料の水なり」といひ、田居のゐを「居」の字の義とする説を批しては「さらば、山里を山ゐとも浦ざとをうらゐともいふべきをさるたぐひ一(ツ)もきこえざなるはいかゞ」といひ「さて又此田ゐといふ詞後々にはたゞ田の事と心えてよめるが撰集にもいれり」といへり。(委しくは年々隨筆を見よ)この説略正しといふべきが、萬葉集の頃に既に「田居」を「タ」の意に用ゐたるは上にあげしにて知るべし。又催馬樂の淺緑にも「またい田井となる新京朱雀のしたり柳云々」とあり。かくてその田居につれて「田居中」といふ語の古ありしならむ。その證は今昔物語卷二十七於2播磨國印南野1〓2野猪1語第三十六に「播磨ノ國ノ印南野ヲ通ケルニ日暮ニケレハ可2立寄1キ所ヤ有ルト見廻シケレトモ人氣遠キ野中ナレハ可v宿キ所モ无シ只山田守ル賤ノ小キ庵ノ有ケルヲ見付テ今夜許ハ此ノ庵ニテ夜ヲ明サムト思テ這入テ居ニケリ(云々)此ク人離レタル田居中ナレハ夜ナレトモ服物ナドモ不v脱ス不v寢スシテ音モ不v爲デ居タリケル程ニ」とあり。今昔物語の著は後の者にして、俗語を多くとり入れたるものなるが、その俗語の中には古語も存すべき筈なれば、この「タヰナカ」といふは古語のなごりならむ。かくて「田居中」の上略せられたるもの即ち「ゐなか」といふ語ならむと思はる。これは、この改造以前には難波都は荒廢して田舍といはれたりしならむが云々といへるなり。「ケメ」は「ケム」の(334)已然形にして上の「コソ」に對しての結なり。
 以上第一段落なるが、次の段落に對しては一種の前提をなせり。而して、この二者の中間には「然レドモ」といふ語の意義にて媒介すべきものなり。
○今者京引都備仁鷄里 舊板本「イマハミヤヒトソナハリニケリ」とよめり。代匠記はこの訓を覺束なしとして「イマミヤコヒキミヤコヒニケリとよむべきか」といひ、槻落葉、攷證これに從へり。童蒙抄は舊訓を非とせるが、今案なしとて、後人の説を待ち、考は「今者京師跡柔備仁鷄里」の誤として「イマハミヤコトニキハヒニケリ」とよみ、略解には春海の説として、「引は斗か刀の誤にて、いまはみやことみやこびにけりとよむべし」といへるが、自家のよみは都の下に一字ありしが闕たりと見ゆといひて、「ミヤコトソナハリニケリ」とよみたり。檜嬬手は「引」を「門」の誤として古義は「引」を「利」の誤とし、いづれも、春海の訓と同じくよめり。さてこのうちに主として問題となるは「引」字なるが、これは類聚古集に「列」とあるのみにて他の諸本すべて、「引」とあり、その他の部分には誤字なし。されば、考の二三字を改むる説は從ふべからず。而して「引」を「列」の字にかへても義通らざること同じければ、今ここに誤字説を立つるも詮なきことなり。かくて、「都備仁鷄里」は契沖のよみ方にて穩當なりと認めらるればそれに治定せりといふべし。さて殘る所は「今者京引」の四字これを誤字なしとしてよまむには大體契沖の説による外なきが、余は「今者」は「イマハ」とよむにあらずして「イマ」とのみよむべしと思ふ。それは上の「昔者」が既に「ムカシ」なるにここの「者」を必ず「ハ」とよまざるべからざる理由なきのみならず、「昔者」に對して「今者」と用ゐ(335)たりと見れば、「イマ」とよむが當然なり。「今者」が「イマ」なることも支那傳來の熟字にて本邦の創意にあらず。史記趙世家に「今者聞君召2先王1而卜v相」とある「今者」は「今也」と注せり。類聚名義抄にも「今者」を「イマ」と訓せり。かくこれは「イマミヤコヒキ」とよむべきならむ。「ミヤコヒキ」といふ語は他に類例なけれど、「京引」の二字をそのまゝによむものとしてはこの外によみ方あるべく思はれず。而してその意は京をここに引き遷きうつす意なるべし。實際この都城改造の御本意が遷都の準備にてありしことは、上にあげたる續紀の記事にても知らるるが故に、京を引き遷すといふことはうきたることにあらず。ただ問題となるは「ミヤコヒキ」といふ語遣なり。されど出雲風土記には名高き國引坐(セル)八束水臣津野命の譚ありて、「國々來々引來縫國者」とありて、「持引綱者云々」とある如く、「國をも引く」といふことを古へはいひたれば、宮處をうつすことを「ひく」といふことも古は行はれしならむ。卷六、悲寧樂故郷作歌(一〇四七)のうちに「天地乃依會限萬世丹榮將往迹思煎石大宮尚矣恃有之名良乃京矣新世乃事爾之有皇之引乃眞爾眞荷春花乃遷日易《アメツチノヨリアヒノキハミヨロヅヨニサカエユカムトオモヒニシオホミヤスラヲタノメリシナラノミヤコヲアラタヨノコトニシアレバスメロギノヒキノマニマニハルバナノウツロヒカハリ》云々」とあり。これ都を久邇にうつされたることをいへるなり。而して當時の歴史を見るに、實際に遷都の際には建物なども引き行きわたされし事も少からず見ゆれば、「引く」といふことは比喩のみに止まざるなり。たとへば藤原宮の藥師寺の塔を寧樂京にうつされしこと、又奈良京の大極殿を久邇京に遷されしことなどはその著しき例なり。「ミヤコ」を引くといふことは上述の如くなれば、このよみ方は不當といふべからず。「ミヤコビニケリ」の意につきては槻落葉の説明當を得たり。曰はく「百官の人等もここに來寄つどひて、はやみや(336)こめきたりといへり。鄙《ヒナ》び、みやこびなどのびは皆そのさまをいふ言にて後に何めくといふめくに同じ。卷六におきつ鳥|味經《アヂフ》の原にものゝふの八十件のをはいほりして都なしたり(九二八)とよめるもこの難波の宮造らしし時の歌なり」といへり。上の「九二八」の歌は神龜二年冬十月幸于難波宮時笠朝臣金村作歌なるが、それは、宇合が知造宮事に任ぜられし前年の事なり。而して、天平四年に造宮の官が賞賜を受けしは、金村の詠より後八年なり。この時難波都の舊觀を改めしならむ。「ミヤコビ」といふ語他に例を知らねど、この「ビ、ブ」といふは接尾辭にして「ヒナビ、ブ」「カミビ、ブ」などいふ如く、名詞につきて動詞化するものなり。
○一首の意 難波は昔こそ田舍なりといはれたることにてあるらめ。然れども、今は京を引きうつされて、即ち宮城の改造も行はれて、いかにも都めきたることなり。これは作者宇合が、自己の奉仕せし事の結果を見て、感想をのべたるものなるべし。
 
土理宣令歌
 
○土理宣令 この人の事、出自、父祖知られず。續日本紀には「養老五年正月庚午詔2從七位下刀利宣令等1退朝之令v侍2春宮1焉」とあり。懷風藻には「正六位上.伊豫掾刀利宣令」とありて二首の詩あり。而して「年五十九」と注せり。經國集卷第二十には刀利宣令對策文二首あり。又本集卷八「一四七〇」の作者には「刀理宣令」とあり。「土理」「刀利」「刀理」文字はまち/\なれど同じ人をさせるならむ。「刀利」氏は姓氏録に見えねど、懷風藻に「大學博士從五位下刀利康繼」といふ人あり。(この(337)人に續紀和銅三年正月從五位下を授けらるる記事あり。)これら姓《カバネ》なくして、文學ある人々なれば、恐らくは歸化人の子孫ならんか。而して「宣令」は音にて「センリヤウ」とよみしならむ。
 
313 見吉野之《ミヨシヌノ》、瀧乃白浪《タギノシラナミ》、雖不知《シラネドモ》、語之告者《カタリシツゲバ》、古所念《イニシヘオモホユ》。
 
○見吉野之 「ミヨシヌノ」なり。卷一以来屡見ゆる吉野の地なり。
○瀧乃白浪 「タギノシラナミ」とよむ。この瀧は今いふ瀧にあらずして、卷一「三六」に「瀧之宮子」といへる下にいへる如く、岩石に水の激してたぎちかへりて生ずる白浪なり。以上二句は次の「シラネドモ」を導く料とせるものなるが、一方にはなほ吉野の實地の勝景をうたへるなり。
○雖不知 「シラネドモ」なり。これは下の「古所念」にむかへたるにて、昔の事は實驗し知る所にあらねどもといふなり。
○語之告者 「カタリシツゲバ」なり。代匠記には「告は繼に假てかける歟。今按にツクレハと讀べきにや」といひたり。されど、これは、なほ「告」は借字にて繼の義なるべし。本卷「三一七」の山部赤人の歌にも「語告言繼將往《カタリツギイヒツギユカム》」とあり、又卷九「一〇六五」に「諾石社見人毎爾語嗣偲家良思吉《ウベシコソミルヒトゴトニカタリツギシヌビケラシキ》」あり。「告」字を繼の義に借り用ゐたる他の例は卷十「二〇〇二」に「人知爾來《ヒトシリニケリ》、告思者《ツギテシモヘハ》」あり。古の事を語りつぎて來ればといふなり。
○古所念 舊訓「ムカシオモホユ」とよみたれど、古は「イニシヘ」とよむ例にして「ムカシ」とはよまぬ字なり。又童蒙抄には「ムカシシノハル」とよみたれど、「所念」を「シノバル」とよむは無理なり。槻(338)落葉に「イニシヘオモホユ」とよめるに從ふべし。さてこの「古とは何事をさせるか。考には「吉野は上つ代より古事多き中に常に幸ありし蜻蛉津の宮の事か、又卷一卷八(流布本卷七)などに見ゆる古への賢人の住し事にもやあらん」といへり。卷九「一七二五」に「古之賢人之遊兼吉野川原雖見不飽鴨《イニシヘノサカシキヒトノアソビケムヨシヌノカハラミレドアカヌカモ》」とあるなど、吉野につきて古を偲べるなり。
○一首の意 この吉野の古の事はわが親しく見るを得ざる所なれども、語りつぎてければ、それによりて古の事の思《シヌ》ばるるよとなり。
 
波多朝臣少足歌一首
 
○波多朝臣少足 「少」字古葉略類聚砂、温故堂本には「小」とせり。波多朝臣は日本紀天武天皇十三年十一月の條に「戊申朔、波多臣賜v姓曰2朝臣1」とあり。新撰姓氏録には、「八多朝臣、石川朝臣同祖、武内宿禰命之後也」とあり。この人の事は父祖官位共に考ふべからず。續日本紀を閲するに、大寶慶雲年間に波多朝臣廣足といふ人あり、天平寶字年間に波多朝臣足人あり、寶龜年間に波多朝臣百足あり。これらの人いづれも「足」の字を名につけたり。一族なるべし。「少足」は「ヲタリ」とよむべし。「ワカタリ」とよむ説もあれど、「少」「小」共に「ヲ」なるべし。
 
314 小浪《サザレナミ》、礒越道有《イソコセヂナル》、能登湍河《ノトセガハ》、音之清左《オトノサヤケサ》、多藝通瀬毎爾《タギツセゴトニ》。
 
○小浪 古來「サヾレナミ」とよみて異説なし。この語は卷二「二〇六」に「神樂波之志賀左射禮浪《ササナミノシガサザレナミ》」と(339)いふありて、そこにいへり。
○礒越道有 「イソコセヂナル」とよむ。小浪の礒を越すといふを處の名の「コセ」にいひかけて「コセヂナル」とつづけたるなり。これは卷一「五〇」の不知國《シラヌクニ》、依巨勢道從《ヨリコセヂヨリ》」といへるに同じ趣の語遣なるが、かくいひかくることは「コセ」の地名に少からず見ゆ。卷七、「一〇九七」に「吾勢子乎乞許世山登人者雖云《ワガセコヲコチコセヤマトヒトハイヘド》」卷十「三二五七」に「直不來自此巨勢道柄《タダニコズコユコセヂカラ》」などその例なり。「コセヂ」の事は卷一「五〇」の下に既にいへる如く、大和國南葛城郡古瀬村の地にして、國中《クニナカ》地方より宇智郡を經て、紀伊に至る要路にあたるなり。
○能登湍河 「ノトセガハ」とよむ。「ノトセガハ」と今名づくる川はこの巨勢の地に今は聞えず。然れども、巨勢の地には蘇我川の上流がありて、古の紀州街道(今の街道は明治以後のものといふ)の東にそひて流れて存す。これ即ち古の「ノトセガハ」なるべし。卷十二「三〇一八」に「高湍爾有能登瀬乃河之《タカセナルノトセノカハノ》云々」とあるもこの川なり。
○音之清左 「オトノサヤケサ」とよむ。卷七「一一一二」に「去來率去河之音之清左《イザイサカハノオトノサヤケサ》」卷九「一七二四」に「欲見來之久毛知久吉野川音清左見二友敷《ミマクホリコシクモシルクヨシヌガハオトノサヤケサミルニトモシク》」とあるも同じよみ方なり。「サヤケサ」は「サヤケシ」といふ語の語幹に「サ」を加へて體言化せしめたるものにして、上の「音の」はそれに對しての連體格にして、相待ちて喚體の句を構成するなり。その例卷五「七九六」に「伊毛我己許呂乃須別毛須別那左《イモガココロノスベモスベナサ》」「八六三」に「伊毛良遠美良牟比等能等母斯佐《イモラヲミラムヒトノトモシサ》」卷十五「三七二七」に「於毛比和夫良牟伊母我可奈思佐《オモヒワブラムイモガカナシサ》」など少からず。かくて「サヤケシ」といふ語の例は、肥前風土記に「分明謂2佐夜氣志1」と注し、續(340)紀卷三十には「布智毛世毛伎與久佐夜氣志波可多賀波《フチモセモキヨクサヤケシハカタガハ》」本集卷十三「三二三四」に「河見者佐夜氣久清之《カハミレバサヤケクキヨシ》」卷十七「四〇〇三」に「由久美豆乃於等母佐夜氣久與呂豆余爾伊比都藝由可牟《ユクミヅノオトモサヤケクヨロヅヨニイヒツギユカム》」などあり。
○多藝通瀬毎爾 「タギツセゴトニ」とよむ。「タギツセ」といふ語は卷十「一八七八」に「今往而※[米/耳]物爾毛我明日香川春雨零而瀧津湍音乎《イマユキテキクモノニモガアスカガハハルサメフリテタギツセノトヲ》」又卷十三「三二四〇」に「千速振氏渡乃多企都瀬乎《チハヤブルウヂノワタリノタギツセヲ》」などあり。水の岩に激してたぎる瀬をいふ。この句は反轉法にておかれたるにて「音のさやけさ」の上にめぐらして心うべし。
○一首の意 巨勢道にある能登瀬川をすぐれば、小浪が磯を越して、所々に瀬をなして小くたち流るるなるが、その瀬の音のさやけきことよとなり。
 
暮春之月幸2芳野離宮1時中納言大伴卿奉v勅作歌一首并短歌 未※[しんにょう+至]奏上歌
 
○暮春之月 は春の第三月なり。童蒙抄に「ヤヨヒノツキ」とよめり。意をいへばまさしく然なるべしといへども、「ヤヨヒノツキ」といふ語遣ありしか如何、疑はし。「ヤヨヒ」といはゞ「暮春之月」四字をあつべきに似たり。さてここにはその年紀を記さざれば、いづれの年の三月なるか確かならず。續紀を按ずるに聖武天皇即位のはじめ神龜元年「三月庚申朔天皇幸2芳野宮1」又「申子車駕還v宮」とあり。恐らくはこの時の事なるべし。
○芳野離宮 これは卷一以來屡見ゆる芳野宮なり。ここに離宮とかけるは意義によりてかけるならむ。「離宮」の字面は漢書賈山傳に「起2咸陽1而西至v雍離宮三百」とあり、又晋書天文志に「離宮(341)六星天子之別宮」と見ゆるが如く、天子の別宮をいふ稱なり。
○中納言大伴卿 これは大伴旅人なるべし。旅人は養老二年三月三日に中納言に任じ、天平二年十月に大納言にうつりたる人なるなり。ここに名をかかぬに就いてこの卷より下は家持の筆記にて旅人は父なれば諱を略けるなりなどいふ説あれど、必ずしも然りといふべからず。ただ原本のままに抄出せるものと見るべし。何となれば、上に「暮春之月」とのみありて年を記さぬも抄出のままの姿なること著しければなり。
○未※[しんにょう+至]奏上歌 この五字通行本大字にせるが、古寫本はすべて小字にせり。今これに從ふ。「※[しんにょう+至]」字について代匠記は「逕」に作るべしといひ、槻落葉は「經」に改めたり。嚴密に論ずれば、「※[しんにょう+至]」は音處脂反にして「走※[貌の旁]」と廣韻にいひ、「逕」は音古定反にして「近也」と廣韻にいひて、いづれにしても「經」の字とは別なるものなり。然れども、これは文字辨證に既に論ぜるが如く、本集にては「※[しんにょう+至]」字を「經」の代として用ゐたるもの少からず。卷三「四六一」の次なる左注に「既※[しんにょう+至]2數紀1焉」卷六「一〇二八」の次なる左注に「但未v※[しんにょう+至]v奏而小獣死斃」卷十七「三九六八」の次なる左注に「幼年未v※[しんにょう+至]2山柿之門1」とあるあり、又卷十六「三八一三」の次なる左注に「其夫兄※[しんにょう+至]2年序1不v作2往來1」ともあり。さてこの「※[しんにょう+至]」は上にいへる「走※[貌の旁]」の意の字にあらずして「經」を「※[糸+至]」とかくと同じく、「逕」字の異體字と見えたり。その「逕」「※[しんにょう+至]」の字は又靈異記中卷【四左】に「※[しんにょう+至]之二日」又【九右】に「逕2七年間1」又【十二左】に「※[しんにょう+至]之三日」又【十三右】に「※[しんにょう+至]2九日1」又【十六右】に「逕之一日」などありて本集のみにあらず。さて可洪の新集藏經音義隨凾録卷廿二には「※[しんにょう+至]音經歴也、過也、諸經多作v逕以爲2經字1用也又音鵄非也」とあり。即ち「經」字の別體にして「※[しんにょう+至]」の「走※[貌の旁]」(342)又「近也」とある字とは異なるなり。さればこれは「未だ奏上を經ざる歌なり」とよむべし。而してこれは攷證に「この五字は後人ゆくりなく、かくしるさんやうもなければ、もとよりこの歌にかくしるしありしをそのまゝにこの集に載つるにもあるべし」といへり。この説よしとす。
 
315 見吉野之《ミヨシヌノ》、芳野乃宮者《ヨシヌノミヤハ》、山可良志《ヤマカラシ》、貴有師《タフトクアラシ》、水〔左○〕可良思《カハカラシ》、清有師《サヤケクアラシ》。天地與《アメツチト》、長久《ナガクヒサシク》、萬代爾《ヨロヅヨニ》、不改將有《カハラズアラム》、行幸之宮《イデマシノミヤ》。
 
○見吉野之 「ミヨシヌノ」とよむ。卷一以來屡出でたり。
○芳野乃宮者 「ヨシヌノミヤハ」とよむ。この宮の事は卷一「二七」の歌の詞書に「天皇幸2于吉野宮1時御製歌」にいひしをはじめ、卷一、二にも屡いでたれば、今委しくはいはず。
○山可良志 「ヤマカラシ」とよむ。この「カラ」は卷二「二二〇」の「玉藻吉讃岐國者國柄加雖見不飽神柄加幾貴寸《タマモヨシサヌキノクニハクニガラカミレドモアカヌカムガラカココダタフトキ》」の「柄」と意同じく用も略同じく、「シ」は助詞にして意を強むる用をなす。この「カラ」は元來「故」の意なるが、上の「國カラ」「神カラ」よりは意切にして「山カラ」は「山の故」にといふ程の意なるべし。なほくはしくいはば、「山」のよき故ともいはるべけれど、ここはよき意味は下の語にてあらはれば、ただ「山の故」(俗語に「山が山だから」といふ如き意)といひて足りぬべし。
○貴有師 舊訓「タフトカルラシ」とよめり。「カシコカルラシ」といふ訓、古寫本にもあり、又代匠記には「カシコクアラシ」とも訓ずべしといへれど、「貴」は「カシコシ」とよむべき文字にあらねば、從ひがたし。「有師」は「アルラシ」とも「アラシ」ともよまるべきが、當時の語例としては二樣とも存す。(343)即ち續紀卷十五の聖武天皇の御製に「蘇良美都夜麻止乃久爾波可未可良斯多布度久安流羅之許能末比美例波《ソラミツヤマトノクニハカミカラシタフトクアルラシコノマヒミレバ》」又本集卷十七「三九八四」に「多麻爾奴久波奈多知婆奈乎等毛之美思《タマニヌクハナタチバナヲトモシミシ》、己能和我佐刀爾伎奈可受安流良之《コノワガサトニキナカズアルラシ》」卷二十「四四八八」に「※[(貝+貝)/鳥]之奈加牟春敝波安須爾之安流良之《ウグヒスノナカムハルペハアスニシアルラシ》」とあるは「アルラシ」とある例にして、卷十五「三六〇九」に「武庫能宇美能爾波餘久安良之《ムコノウミノニハヨクアラシ》」「三三六七」に「和我多妣波比左思久安良思《ワガタビハヒサシクアラシ》」は「アラシ」とある例なり。この他「有良信」とかけるもの卷六「九三四」にあり、「有良思」とかけるもの卷八「一四七六」にあり「在良思」とかけるもの卷十一「二五八九」にあり。これらは「アルラシ」とよむべきものを示せり。又この卷、上の「二五六」の「庭好有之《ニハヨクアラシ》」は「アラシ」とよむべく、卷十二「二九四二」の「有四」卷十六の「有之」も「アラシ」とよむべきなり。かくてここは如何にといふに、音を約し略しする必要なき限り、あるがまゝによむべきものなるが「有師」は「アラシ」とよまむかたなるべければ「タフトクアラシ」とよむべきものなるべし。芳野宮の四圍に古來名高き三船の山、象の中山など、山々ありて景色よければいへるなり。
○水可良思 「水」は板本「永」に作り、古寫本亦多く「永」につくりて「ナカカラシ」とよみたれども、それにては意通せず。類聚古集及び古葉略類聚鈔には「水」につくれり。さて類聚古集には「ミツカヽラシキ」とよみたれど、それにても意通ぜざることいふまでもなし。古葉略類聚鈔には「ミツカラシ」とよみたり。代匠記には「ミツカラシ」又は「カハカラシ」とよむべしとせり。攷證には「カハカラシ」とよむをよしとせり。これはもと「山水」といふ熟語より生ぜる觀念ならむが、「水」を「カハ」とよむことは卷二「二二四の「石水」を「イシカハ」とよめることありて、そこにいへり。その意は上(344)の「山カラシ」に對して意うべし。
○清有師 舊訓「イサキヨカラシ」とよみたるが、類聚古集に、「キヨカリシ」とよみ、古葉略類聚鈔には「サヤケクアリシ」とよみたり。槻落葉には「サヤケクアラシ」とよみ、攷證は「サヤケカルラシ」とよめり。今按ずるに、これは上の「貴有師」に對して同じ樣なるよみ方を爲すべく「サヤケクアラシ」とよむをよしとす。清を「イサキヨシ」とよむことは全然不可なりといふにはあらねど、古來の證に乏し。「清」を「サヤカ」とよむことは卷一「七九」の「朝月夜清爾見者《アサヅクヨサヤニミユレバ》」の下にも説けるが、それを形容詞にすれば「サヤケシ」となる。而してかくよむ例は上の「三一四」の「音之清左」の下にもいひたり。又「川」に「サヤケシ」といへる例は上の「三一四」の下にもいひたるが、音に「さやけし」といふと、川のさやけしといふとは一ならざる場合あるべし。そは川の水音について「さやけし」といへば、その音のすがすがしく聞ゆるをいふなれど、汎く川をさやけしといふは目に見る風景をさすことを主としたりと考ふべきなり。さてこの所は如何といふに、これは上の「山カラシ」以下ここまで四句對して一の意をなすものにして「山や川の故に、この芳野の宮は貴くもあり、又風景がよくあるらし」といひたるなり。「らし」は上來屡いふ通り、客觀の或る點を基として、推量するものなり。即ちここは芳野離宮の貴くして風景のよきはこの山水のある爲ならむといふなり。
○天地與 「アメツチト」とよむ。この語は卷一「五〇」の歌に出でたるが、そは天地の神祇をさしたり、ここは卷二「一六七」なると同じく「天地」それ自體をさせるが「ト」は「ト共ニ」の意なり。
(345)○長久 舊板本「ナガクヒサシキ」とよみたるが、代匠記には「ナガクヒサシク」とよむべきかといへり。「ヒサシキ」といへば、「萬代」にかゝり、「ヒサシク」とよめば「カハラズアラム」にかゝるなるが、歌の意を考ふるに「ヒサシク」とよむをよしとすべし。即ち天地と共に長く久しく萬代にかはらず存續せむといふなり。卷十九「四二七五」に「天地與久萬※[氏/一]爾萬代爾都可倍麻都良牟黒酒白酒乎《アメツチトヒサシキマデニヨロヅヨニツカヘマツラムクロキシロキヲ》」とあるも似たる意あり。
○萬代爾不改將有 板本「ヨロツヨニカハラスアラム」とよめるが、槻落葉には「カハラザルラム」とよめり。されど、「將有」は「アラム」とよむを穩かなりとすれば、舊訓によるべし。「改」は普通には「アラタマル」とよむ字なれど、説文に「更也」と注し。「更改」とも「改易」とも熟して「カハル」とよむに不都合なき字なり。
○行幸之宮 舊板本「ミユキシミヤ」とよみたれど語をなさず。拾穗抄には「ミユキセシミヤ」とよみ、代匠記は「日本紀に行幸をイテマスと點したれば、いてましのみやとよむべきにや」といひ、又「宮を處に作れる本に從はゞみゆきのところとよむべくや」といへり。さてその「處」とかける本は西本願寺本、温故堂本なれど、他の多くの本「宮」とあるに從ふべし。「行幸」を「いでまし」とよむことは卷一「五」の歌に「行幸能云々」の下にいへり。「行幸之宮」は即ち行宮の義なり。
○一首の意 この芳野の離宮の貴くして風景のよきは山神水神の靜り守りますによりて、かく貴くして、又清けくもあるならむ。いかにも貴く清潔にして天地と共に長く久しくかはらず萬代までも存しゆくらむと思はるる行宮なりとなり。
 
(346)反歌
 
316 昔見之《ムカシミシ》、象乃小河乎《キサノヲガハヲ》、今見者《イマミレバ》、彌清《イヨヽサヤケク》、成爾來鴨《ナリニケルカモ》。
 
○昔見之 「ムカシミシ」なり。ここに「昔」といへるは大伴旅人が以前に見しことありしによりていへることなるべきはもとよりなるが、これは寧樂宮となりては飛鳥の都の時代よりは吉野に行幸あること稀になりたれば、御幸に供奉してこの吉野に至ることも少くなりしによりて「昔見之」といはれたりしならむが、それもこの地の風景が深き印象をとゞめてありしが故にこの語を起ししものと考へらる。
○象乃小河乎 「キサノヲガハヲ」とよむ。この地は卷一「七〇」に見ゆる「象乃中山《キサノナカヤマ」と關係ある地にして、その象の中山即ち今いふ「きさ山」の谷間を「キサ谷」といひ、その谷間を流れて吉野川に入る小川あり。これ即ちここにいふ「キサノヲガハ」なるべし。
○今見者 「イマミレバ」とよむ。意明かなり。
○彌清成爾來鴨 舊板本「イヨ/\キヨクナリニケルカモ」とよめるが、童蒙抄に「イヤイサキヨクナリニケルカモ」とよみ、考に「イヨヨサヤケクナリニケルカモ」とよめり。「彌」は「イヨイヨ」とも、「イヤ」とも「イヨヨ」ともよむに差支なきことなるが、「清」を「イサキヨク」とよむは甚しき不都合ありといふべきにあらねど、例なきことなり。されば「キヨク」か「サヤケク」かのいづれかによるべきなり。さて考ふるに、「彌」を「イヤ」とよまば、清を「キヨク」とよみても「サヤケク」とよみても音調とゝの(347)はねば、これは「イヤ」にはあらざるべし。然らば「イヨイヨ」とよむべきかといふに、これはもとより理論上不都合にあらねど、本集中には一もこの語の用ゐられたるを見ず。本集中に「イヨイヨ」といふ意をあらはす語は「イヨヨ」といふ形にて用ゐらるるを常とせり。その假名書の例卷五「七九三」に「伊與余麻須萬須加奈之可利家理《イヨヨマスマスカナシカリケリ》」卷十八「四〇九四」に「許己乎之母安夜爾多敷刀美宇禮之家久伊余與於母比弖《ココヲシモアヤニタフトミウレシケクイヨヨオモヒテ》」卷二十「四四六七」に「都流藝多知伊與餘刀具倍之《ツルギタチイヨヨトグベシ》」とあり。これにより「彌」は「イヨヽ」とよむべく、意はその事の次第に加はりゆくを示せり。かくて「清」は前二首の例によりて「サヤケク」とよむべきなり。意は明かなり。
○一首の意 かつて昔見たる事ありし吉野離宮の近くにある象《キサ》の小川をば、今見れば、昔見たりし時よりは 一層たちまさりて風景のよくなりたることよとなり。
 
山部宿禰赤人望2不盡山1歌一首并短歌
 
○山部宿禰赤人 この人古より名高き歌人なるが、ここにはじめて名出でたり。さてこの人かく名高けれども、その官位並に父祖の事史に見えず。本集にはこれより下に歌の數少からず見ゆれども、官位を記せるを見ず、しかも、行幸に供奉せること屡なり。今この人の時代を本集の詞書によりて推すに、年代の考へらるるものは卷六に「神龜元年冬十月幸2于紀伊國1時」の歌、同「二年夏五月幸2于芳野離宮1時」の歌あり、同年「冬十月幸2于難波宮1時」の歌あり、同「三年秋九月十五日幸2于播磨國印南野1時」の歌あり、なほその途次の詠二首あり、「天平六年春三月幸2于難波宮1時」の歌(348)あり、同「八年夏六月幸2于芳野離宮1時」の歌あり。これらによれば神龜より天平にわたり、聖武天皇の御代のはじめの頃の人と見ゆるが、或は年紀を記さぬ歌にはその前若くは後なる作もあるならむか。しかも今これを明かにすること能はず。その身分も明かならぬが、行幸に供奉する身分にてありながら官位を記されねば當時舎人などにて任官せざりし故にてもあらむか。さて山部氏は新撰姓氏録には見えず。これ桓武天皇の御諱を「山部」と申し奉るによりて、「山」と改めしめられたるによる。(この事は延暦四年に詔あり。)しかも姓氏録に見ゆる山氏は公姓、直姓、首姓なるありて宿禰姓なるものを見ず。然れば、この氏はここに洩れたるならむ。姓氏録には別に山(ノ)邊氏あり、これには別姓、公姓、なるがあれど、これは山部氏とは全く別なるものなり。さてはこの山部宿禰の氏は如何といふに、日本紀を見れば、天武天皇の十三年十二月に大伴連以下五十氏に宿禰姓を賜はれるうちに山部連あり。されば、これはもと山部連なりしこと明かなり。かくて、この山部連の先祖は播磨國司として顯宗宗仁賢二天皇を見あらはし奉りし伊與來目部小楯にして、この功を賞して山部連を賜ひしこと日本紀顯宗卷に見ゆ。されば赤人はこの小楯の子孫なることは疑なし。而してその源は久米氏なりしならむ。これを後世往々「山邊赤人」とかくは山部氏と山(ノ)邊氏との區別をわきまへぬものの誤れるなり。
○望不盡山歌 「不盡山」は今の富士山なり。「不盡」の文字は音をかりたるに止まるなるが、この次の歌には「不盡河」ともかけり。さてこの歌は質際に富士山をみてよめるか否かを考ふるに、この卷に「過2勝鹿間娘子墓1時山部宿禰赤人作歌」(四三一、四三二)あり。勝鹿は下總國葛飾郡なり。(349)その地に至りしことありとすれば、その途次富士山を見たる事明かなるべし。即ちこれは實地に見ての詠と考ふべきなり。考には「山」の下、「歌」の上に「作」字脱せりとせり。然れども諸本皆この通りにて「作」字なし。
 
317 天地之《アメツチノ》、分時從《ワカレシトキユ》、神左備手《カムサビテ》、高貴寸《タカクタフトキ》、駿河有《スルガナル》、布土能高嶺乎《フジノタカネヲ》、天原《アマノハラ》、振放見者《フリサケミレバ》、度日之《ワタルヒノ》、陰毛隱比《カゲモカクロヒ》、照月乃《テルツキノ》、光毛不見《ヒカリモミエズ》、白雲母《シラクモモ》、伊去波伐〔左○〕加利《イユキハバカリ》、時自久層《トキジクゾ》、雪者落家留《ユキハフリケル》。語告《カタリツギ》、言繼將往《イヒツギユカム》、不盡能高嶺者《フジノタカネハ》。
 
○天地之分時從 「アメツチノワカレシトキユ」とよむ。この語は卷八「一五二〇」に「天地之別時由《アメツチノワカレシトキユ》」とかけるにおなじ。これは日本紀の一書に「天地初判(ルヽトキ)」とかき、同欽明卷に、「天地剖判之代」とかき、古語拾遺に「天地剖判之初」とあるにおなじく、天地の分れしはじめの時よりといふなり。「從」は「ユ」とよみて後の「ヨリ」の意の助詞にあてたる例前の卷々に屡見ゆ。
○神佐備手 舊訓「カミサビテ」とよみたれど、「カムサビテ」とよむべきこと、卷一「三八」の「神佐備世須《カムサビセス》」「五二」の「神佐備立有《カムサビタテリ》」の例によるべし。この語卷二以下にも多し。その意も既にいへる如く、神としての行動をとりての意なり。これは富士山その者を神と思ひていへるなり。
○高貴寸 「タカクタフトキ」とよむ。「高く」は實地に高きにて、「貴き」はその神々しき姿をあがめていへるなり。
(350)○駿河有 「スルガナル」とよむ。「有」は「アリ」にして「ニ」にあたる文字なきが、駿河といふ地名と「有」との關係よりして「ニ」助詞當然存すべき筈なるによりて「ナル」とよみたるなり。「駿河」は今も用ゐる文宇なるが、これはその用ゐ初めし時頗る古かるべし。「駿」は元來「子峻反」にして去聲※[禾+淳の旁]韻に屬し韵尾はnなるが、かゝる「ン」を「ル」に轉ずることは古代に少からず、「敦賀」が「ツル〔右○〕ガ」「散樂」が「サル〔右○〕ガク」となり、「群馬」を「クルマ」「訓覓」を「クル〔右○〕ベキ」とよみ來れる如き、これ、その例なり。
○布士能高嶺乎 「フジノタカネヲ」なり。意明かなり。「嶺」は通例「ミネ」とよめど、語の本體は「ネ」なること、卷二、「九二」の「大島之嶺」の下にいへり。
○天原振放見者 「アマノハラフリサケミレバ」なり。この語は卷二、「一四七」にここと同じ文字を用ゐてかけるあり、この卷「二八九」に「天原振離見者《アマノハラフリサケミレバ》」とかけるあり、又下の卷々にもこの語の例見ゆ。その意は今改めて説くまでもなきが、新考に「このアマノハラフリサケミレバは外の例とは異なり。即外の例なるはアマノハラヲのヲを略したるなれど、今はアマノハラニのニを略したるなり」といへり。この説の如く心得べきなり。
○度日之 「ワタルヒノ」とよむ。卷二「二〇七」に同じ語あり。そこにいへる如く天を東より西に日のわたり行くによりていふなり。ただし、ここには「ワタル」に深き意なし。
○陰毛隱比 「カゲモカクロヒ」なり。「陰」は「カゲ」といふ語に借りて宛てたるのみにして陰の字義にかゝはらず、光即影の義をあらはせるなり。「カクロヒ」は前屡々いでたる語にして「カクル」の繼續作用をあらはせる語遣なり。天を行く日の光も富士山の高きにさゝへられて、見えずと(351)なり。これはその山の東又は西なる土地は、他の地よりも或は日早く歿し、或は日晩く出づるやうに感ぜられ、その北面の地にては陰ことに多かるべきによりていへるなり。
○照月乃光毛不見 「テルツキノヒカリモミエズ」なり。意明かにして、上の二句と相對して、日月の影も往々この山にかくれて、光も見えざることある由をいへるなり。
○白雲母 異説なし。
○伊去波伐加利 「伐」字流布本「代」に作れるが、誤にして、多くの古寫本に「伐」に作れるを正しとす。「伐《バツ》」の音尾をすてゝ「バ」の假名とせるなり。よみ方は「イユキハバカリ」なり。「去」を「ユク」とよむこと卷一以來例多し。「イユキ」の「イ」は所謂發語にして意義殆どなく、ただ「ユキ」といふ語に威力を添ふるに止まる。この語の例は日本紀天智卷の童謠に「阿箇悟馬能以喩企婆婆箇屡麻矩儒播邏《アカゴマノイユキハバカルマクズハラ》」又この卷次の歌の反歌「三二一」に「天雲毛伊去羽計田菜引物緒《アマクモモイユキハバカリタナビクモノヲ》」などあり。「はばかる」は今は精神的のことにのみいへども、古くは實際の運動の阻められ、とどこほるをいへること上の例どもにても知るべし。山の高きによりて天なる雲も行動の自由を阻めらるる由にいへるなり。語の意は白雲も山にさへられて行きとゞこほるとなり。
○ 檜嬬手にはこの句の下に「飛鳥毛登備母能頗良受」の二句脱せりとせり。これは恐らくはこのままにては調あしと思ひての事ならむが、さる本一も存せざるのみならず、この加へたる二句よしとも思はれず。かへりてもとのままにてある方この二句を加へたるよりも穩なれば隨ふべからず。
(352)○時自久曾 「トキジクゾ」なり。これは卷一「二六」の歌に見ゆる語なるが、古來「不時」とも「非時」ともかきていづれも「トキジク」とよませたる如く、時ならず、又時を定めず、更にすゝみては「常に」などの意をあらはせり。
○雪者落家留 「ユキハフリケル」なり。「落」を「フル」とよむことはこれも卷一「二六」にいへり。「ケル」は上の「ゾ」の係に對する結なり。以上一段落なり。
○語告言繼將往 「カタリツギイヒツギユカム」とよむ。槻落葉は「將往」を「ユカナ」とよみたれど、「將」を「ナ」とよむは無理にして從ふべからず。「告」は「ツグ」にして、「ツギ」とよまむは今の語法にては不合理なり。上の「三一三」の歌に「語之告者」とかきて、「語繼」の意をあらはせる所あり、そこにては、「ツゲ」にて「告」の下二段活用なる未然連用二形の「ツゲ」をば「繼」の四段活用の已然形なる「ツゲ」に借用したるにてそこには無理はなけれど、ここは無理なり。若し、「告グ」といふ語が古、四段活用なりしならば、「ツギ」といふ語形を有するをうべく思はるれど、さる事は證せられず。これは借用字として著しき異例に屬す。恐くは「語告」を「カタリツグ」とよみて「語繼」の意に借用し來りし慣用よりして、ふとかく誤り用ゐる事となりしならむか。或は又實際に「カタリツゲ」とよむべきものかも知れず。今姑く、古本のまゝにす。さてその「語りつぎ」も「いひつぎ」も意同じくこの語は、上の「三一三」の歌にもいへるなるが、ここの意は如何。契沖は「將來も此山の事は言つゝけむとなり」といひ、童蒙抄は「萬國萬世までも言つぎ語り傳へん、此ふじの名山高嶺は至てほめたる歌也」といひ、考には「集中に古よりいひつづくをも今より末にかたり告むをもかくいひたれど、こ(353)こは吾行道のさき/\にかたりつぎいひつぎなんと云なり」といひ、槻落葉は「後の世までもまだみぬ人にかたりつぎ、しらぬ人にもいひ繼ゆかむ山ぞといへる也」といひ、新考には、「其世にありて後世まで殘らぬものならば、後ノ世マデ語リ繼ガムと云ふべし。山の如き永久不滅のものは人の語り繼ぎ言ひ繼ぐを待たじ。されば、カタリツグといへるには二種ありて、一は後の世にかたりつぐ方、一は同時の人の未見ぬ人にかたりつぐ方にて今は後の方なり」といへり。かくの如く種々の説あるが、その差の生ずるは二方面の觀察方あるによる。一は「つぐ」と「往く」とを時間の繼續の上にとらむとするなり。一は「つぐ」と「往く」とを同時間的空間の繼續の上にとらむとするなり。而してこの同時間的空間の繼續の上にとらむとする意見は山は永久的の存在なるが故に、時間的に語りつぐといふことは無意義なりといふにあり。今この取舍を決せむには先づ、「語り繼ぎ」「言ひつぎ」といへる本集の語例が、時間的のものなりや空間のものなりやを檢するを要す。今「語りつぐ」といふ語例を見るにはこの卷「三一三」の「語之告者《カタリシツゲバ》、古所念《イニシヘオモホユ》」「三六四」の「後將見人者語繼金《ノチミムトヒトハカタリツグガネ》》」卷五「八七三」の「余呂豆余爾可多利都夏等之《ヨロヅヨニカタリツゲトシ》……」「八九四」に「神代欲理云傳介良久《カミヨヨリイヒツテケラク》……等加多利繼伊比都賀比計理《トカタリツギイヒツガヒケリ》」卷六「九七八」に「萬代爾語繼可名者不立之而《ヨロヅヨニカタリツグベクナハタタズシテ》」「一〇六五」に「諾石社見人毎爾語嗣偲家良思吉 《ウベシコソミルヒトゴトニカタリツギシヌビケラシキ》、百世歴而所偲將徃清白濱《モモヨヘテシヌバエユカムキヨキシラハマ》」卷九過葦屋處女墓時作歌(一八〇一)に「語嗣偲繼來處女等賀奧城所《カタリツギシヌビツギクルヲトメラガオクツキドコロ》」その反歌(一八〇三)に「語繼可良仁文《カタリツグカラニモ》」見菟原處女墓歌(一八〇九)に「避代爾語將繼常《トホキヨニカタリツガムト》」卷十二「三八七三」に「里人毛謂告我禰《サトビトモイヒツグガネ》云々」卷十三「三三二九」に「萬代爾語都我部等《ヨロヅヨニカタリツガヘト》」卷十七「三九一四」に「餘呂豆代爾可多理都具備久所念可母《ヨロヅヨニカタリツグベクオモホユルカモ》」卷十九「四一六〇」に「天地之遠始欲俗(354)中波常無毛能等語續奈我良倍伎多禮《アメツチノトホキハジメヨヨノナカハツネナキモノトカタリツギナガラヘキタレ》」「四一六四」に「後代乃可多利都具倍久名乎多都倍思母《ノチノヨノカタリツグベクナヲタツベシモ》」「四一六五」に「後代爾聞繼人毛可多里津具我禰《ノチノヨニキキツグヒトモカタリツグガネ》」「四一六六」に「從古昔可多理都藝都流鶯之宇都之眞子可母《イニシヘユカタリツギツルウグヒスノウツシマコカモ》」卷二十「四四六五」に「宇美乃古能伊也都藝都岐爾美流比等乃可多里都藝弖※[氏/一]《ウミノコノイヤツギツギニミルヒトノカタリツギテテ》」等はいづれも時間的繼續の上にたてる意なり。又同時的の意とも見らるるは卷十八「四〇四〇」の「布勢能宇良乎由吉底之見弖波毛母之綺能於保美夜比等爾可多利都藝底牟《フセノウラヲユキテシミテバモモシキノオホミヤビトニカタリツギテム》」又卷二十「四四六三」の「保等登藝須麻豆奈久安佐氣伊可爾世婆和我加度須疑自可多利都具麻※[泥/土]《ホトトギスマヅナクアサケイカニセバワガカドスギジカタリツグマデ》」のみなるが、これも、また時間的繼續の義を兼ね有することは疑ひなし。されば、「かたりつぎいひつぎ」といふ語を以て時間的繼續の上に立脚せる語遣と見ることはこの時の姿としては穩當なりとすべし。次に「將往」は身體を移動する意の行くが本體なれども時間的繼續の上に立脚して將來に及ぼさむとする意を「ゆかむ」といへる例上の卷六「一〇六五」にもあり、集中例少からぬ事なれば、これも否定すべからず。されば、これは新考の説の如き意も多少は存すべきかと思はるれど、專らこれによることは如何なり。この故に、童蒙抄の説の如きを穩とすべきか。されど、主點はなほ時間的繼續の上に存すべきなり。その故如何といふに、この歌は富士山の現在をうたへるに止まらずして「天地之分時從云々」といひて、古代より現在に亙りてかゝるものなりといひたるなれば、將來にも亙りてこの富士山をほめたゝへむといふなり。この語りつぎ言ひつぐをはたゞ富士山の高山なりといふ事實を語ると説くは淺し。ここは富士山の神聖高貴端麗なる徳をば萬世にわたりてほめたゝへむといふなればなり。
(355)○不盡能高嶺者 この一句は上の二句の上にあるべきを反轉法によりてここにおけるなり。而してその「ハ」は「ヲバ」の意を含めるものなり。
○一首の意 天地の開闢の時に成り出でて、その時より今に至るまで、神として存して高く聳え尊く仰がるる富士の高嶺をば、遠く天つ空に仰ぎ見れば、日月の光も影もこれに障へられて、時に見えぬ事あり、白雲の如きはもとより、これに障へられて、或は行路を轉じ或は行きもやらずただよふことあり、而して又四時殆ど絶ゆることなく、雪はふりてありけり。この山はかねてより聞き傳へてありしが、今見れば、まことに聞きしにまさりて崇高神聖なる山と見たりけり。あはれこの神とます山の昔よりの言ひつたへをば永く後の世に語り傳へむ、又神聖崇高なる姿はとこしなへにわたりてほめたゝへむとなり。
 
反歌
 
318 田兒之浦從《タゴノウラユ》、打出而見者《ウチイデテミレバ》、眞白衣《マシロニゾ》、不盡能高嶺爾《フジノタカネニ》、雪波零家留《ユキハフリケル》。
 
○田兒之浦從 舊板本「タコノウラニ」とよみたれど、「從」は「ニ」とよむべき字にあらず、代匠記に「タコノウラユ」とよめるに從ふべし。この句は代匠記に「題に望と云しは田兒浦よりなり。上に晝見れどあかぬ田兒の浦とよめる所より見たらむ興思ひやるべし」といへり。この「ユ」が「より」にして、田兒の浦よりの意なることは明かなるが、次の「打出で」との關係如何に至りては解釋區々たり。從つてこの「ユ」の説明にも異説起れり。先づ萬葉考は曰はく「こはまづ打出て田兒の浦(356)より見ればと心得べし。かく言を上下にして云事集にも古今歌集にも多し。さて駿河の清見の崎より東へ行ば今さつた坂といふ山の崖《キシ》の下なるなぎさづたひに道有。これ古の大道なり。その邊より向ひの伊豆の山もとまでの入海を惣て田兒の浦といへり。かくて右の岸堤を行はつれば、東北へ入たる海のわたの所より富士の嶺はじめて見ゆ。故に打出て田兒浦より見ればてふ心にてかくつゞけたるを知るなり」といへり。されど、「打出づ」といふ語は上の「田兒浦ユ」より直ちにつゞくる語遣にして、そこより「見る」といふにはあらじ。略解はその地理の説明は考によりながら「されば、田兒の浦より東へうち出て見ればといふ意にかくはよめり」といひ、古義は「田兒の浦より海の沖の方へ船漕出て不盡山を見ればといふ意なり」といへり。註疏は「田兒の浦より不盡のみゆる所までうちいでてみるよしなり」といひたり。然るに、槻落葉は「從」の字の上にこれが解決を求めて、「この從は常いふよりといふ言に違ひて輕く、爾の手爾波に似たり、既に出、別記あり」といひ、その別記を見れば、「さて從《ヨリ》は此方《コナタ》より彼方《カナタ》までをいひ、かしこより此所《ココ》までをいひ、それより是《コレ》、いにしへより今、いまより後までをいふ言なるに、さる意にもあらで、ただ輕く爾《ニ》といふ助辭《テニハ》に似たるあり。また遠《ヲ》に通ふもあり。」といひて「卷(ノ)二【三十五丁】に言左敝久《コトサヘク》、百濟原從神葬《クタラノハラユカムハフリ》同【四十四丁】三笠山野邊從遊久道《ミカサヤマヌベユユクミチ》【是は袁《ヲ》といふ助辭に似たり】」等の例を多くあげたり。檜嬬手にも「於2田兒之浦1の意也」といへり。而してこの「ユ」を「ニ」と同じとする説行はるるやうなるが、その説必ずしも從ふべからず。先づ槻落葉別記にその例としてあげたるものを見るに、卷二「言左倣久《コトサヘク》百濟原|從《ユ》神葬」(一九九)「三笠山野邊從遊久道《ミカサヤマヌベユユクミチ》」(二三四))卷三「從蘆邊滿來鹽之《アシベヨリミチクルシホノ》」(六一七)卷九「左丹(357)塗大橋之上從紅赤裳數十引《サニヌリノオホハシノウヘユクレナヰノアカモスソヒキ》」(一七四二)卷十四「久毛能宇倍由奈岐由久多豆《クモノウヘユナキユクタヅ》」(三五二二)などはそこを通過する由の意なるは明かなるが、なほ同じ趣なるは卷七「海人之燎火浪間從所見《アマノトモシビナミノマユミユ》」(一一九四)「掻上栲島波間從所見《カカゲタクシマナミノマユミユ》」(一二三三)「霍公鳥從是鳴渡《ホトギスコユナキワタル》」(一四七六)卷十一「男爲鳥從是渡妹使《ヲシトリノココユワタルハイモガツカヒカ》」(二四九一)卷十「鴈鳴乃所聞空從月立度《カリガネノキコユルソラユツキタチワタル》」(二二二四)卷十三「此從巨勢道柄《コユコセヂカラ》」(三三二〇)等にして、これらもそこを通過する由なるなり。又卷七「瀬湍由渡之石走無《セゼユワタシシイハハシモナシ》」(一一二六)卷七「吾舟者從奧莫離《ワガフネハオキユナサカリ》、向舟片待香光從浦榜將會《ムカヒブネカタマチガテリウラユコギアハム》」(一二〇〇)「殊放者奧從酒嘗《コトサケハオキユサケナム》」(一四〇二)はそこを通る意なり。又この次の歌「己知其智之國之三中從出立有不盡之高嶺者《コチゴチノクニノミナカユイデタテルフジノタカネハ》」のはこれらの國々の中より拔き出でたる由をいひたるものにして、これは經過の地點を示せるものにあらずして動作の出自を示せるものなり。又卷四「情由毛思哉妹之伊目爾之所見《ココロユモオモヘヤイモガイメニシミユル》」(四九〇)「從情毛吾不念寸《ココロユモワハオモハズキ》」(六〇一)卷五「許々呂由毛於毛波奴阿比陀爾《ココロユモオモハヌアヒダニ》」(七九四)卷七「從心毛不想人之衣爾須良由奈《ココロユモオモハヌヒトノキヌニスラユナ》」(一三三八)などもその念ふことの心より起るをいふにて出自を示したるなり。されば、かの槻落葉別記にあげたる例はいづれも「ニ」の意とは同一にあらず。そのうちに動作の出自をいふものは論ずるに及ばず、その他のものにはすべて經過する地點を示すものなるが、その中にただ一つ卷七の「瀬湍由渡之石走無《セゼユワタシシイハハシモナシ》」(一一二六)が「セゼに渡したる石橋」とやうに解しても差支なきが如くなるが故に、それとここの例とを一にして「ニ」の意の用法ありといはむとする説も見ゆるが、この「瀬湍ゆわたしし」はこの瀬よりかの瀬へと石橋をわたしたるにして、一箇の瀬に落ちつけていふ「に」の用法とは決して同一にあらねば、なほ經過の意は明かなりとす。なほ次の句にていふべし。
(358)○打出而見者 「ウチイデテミレバ」なり。考に「ウチデテミレバ」とあれど、必ずしも然よむべきにあらず。舊のままにて可なり。古今集以後にも多く「うちいでて云々」といへり。さてこの「うち出でて見れば」は上の語のつづきよりすれば、田兒浦より打出でて見るなり。「うち」につきては童蒙抄に「うちはことばの序也。發語といはんが如し。たゞ出てふじの高ねを眺望したる義也。打あふぎうち眺めなど云ふも同じ詞の序也。」といへる如く、ただ意を強むる用をなすものなり。かくて上句の「從」よりうくる語は「打出づ」といふ語なるべきことは自然の事にして、これを隔て「見れば」につづくが如きは不自然にして、特に必要なき限りはかかる句法は用ゐざるが普通なりとす。されば、古事記仁徳卷に「於志弖流夜那邇波能佐岐用伊傳多知弖和賀久邇美禮婆《オシテルヤナニハノサキユイデタチテワガクニレバ》」とあるも語のつゞきは難波崎より出で立つといふことにして、出で立ちて難波崎より見ればといふ語遣にあらぬなり。又卷十三に「相坂乎打出而見者淡海之海白木綿花爾浪立渡《アフサカヲウチイデテミレハアフミノミシラユフハナニナミタチワタル》」(三二三八)の如きは近江の逢坂山を打ち出でて、淡海の湖を見たるにて、湖畔に打出の濱と名づけられたる地のあるも、かく打出でて見る、さしあたりての濱なるが故の名なるべし。然らば「ユ」を「ヨリ」の意としては略解の如く解すべきか、又古義の如く解すべきかといふに、古義の如きは甚しき曲解にして田兒浦より船に乘りて海上より富士山を詠めたりとする必要は更になし。又略解によれば田兒浦より立出でて田兒浦以外に出でて見ればの意とするなるが、かくては田兒浦といふ地は富士山の見ゆる事なき地となるべし。されど、この歌の意はさることにはあらじ。實に田子浦は契沖がいへる如く絶景の地と思はれたれば、そこより富士山を眺むる(359)は一層の勝景と思はれしことは否定すべからず。然らば、考の如く解すべきかといふに、語遣の上よりして從ひがたきこと既にいへる所なりとす。然らば如何にすべきかといふに、ただ語の示す通りに「田兒の浦より打ち出でて見れば」にて何の不合理なきなり。元來田兒浦とは今信ぜらるる如くに古もありしならば、その間數里にわたれり。ここを經過し盡さずは「田兒浦より」といひうべからずといふ道理はなきなり。田兒浦の内の或地より打ち出で見ればといふことにて足る筈なり。かくてその立てる地も田子浦の中たるなり。この語の示す意が、一の固定點より富士山を眺めたるにあらざることを考ふべし。「ニ」にては一の靜止點を示すに止まれり。「ニ」と「ユ」とが、事實上同一の事をさすといふともその内心の意が經過的か、靜止的かによりてその感じ方は著しくかはるものなるに注意すべし。若しその「ユ」にて示されたる地點を全く離るるにあらずば、「ユ」を用あゐべからずとせば「鴈鳴乃所聞空從月立度《カリガネノキコユルソラユツキタチワタル》」(一一二六)の如きは空を離れていづこに行くにか、而してこれも「空ニ」見ることをうべき點なきにあらず。これ一例にても、「ニ」「ユ」の區別を見るべし。
○眞白衣 舊訓「マシロニゾ」とよめるを、古義に「マシロクゾ」とよむべしとせり。されど、本集に「シロシ」といふ用言に「マ」を冠したる語例を見ざるに、一方「マシロ」といへる例を見る。卷十九「四一五五」の「失形尾乃麻之路能鷹乎屋戸爾須惠《ヤカタヲノマシロノタカヲヤトニスヱ》」これなり。されば、「マシロ」とよむべきなり。「衣」は「ソ」の語に當るを假名にしたるなり。これを「ニゾ」とよむは、「ニ」助詞は書きあらはさねど、前後の關係にて加へてよむこと例少からねば、これに准じたるなり。
(360)○雪波零家留 「ユキハフリケル」とよむ。「ケル」は上の「ゾ」の係に對する結なり。
○一首の意 田子の浦より打出でてあちこちからして望めば、富士の高嶺には眞白に雪のふりけることよとなり。語簡易にして打ち見たるままの景をよめるなるが、眞白にぞといふ語が前だちてある爲に印象は深し。
 
詠2不盡山1歌一首并短歌
 
○ この歌富士山を詠じたる歌なるが故に、ここにあげたるか。作者の名なし。何人の詠なるか詳ならず。拾穗抄には「笠朝臣金村」といふ名をあらはせり。類聚古集には「不録作者若同赤人歟」とあり。これによれば、古くより作者の名を書せざりしものか。然るに拾穗抄に笠金村の歌と明かに記せるは何に據りしものか、或は古抄本の目録に「笠朝臣金村歌中之出」とあるによりしものか。なほ作者につきては下に論ずる所あるべし。
 
319 奈麻余美乃《ナマヨミノ》、甲斐乃國《カヒノクニ》、打縁流《ウチヨスル》、駿河能國與《スルガノクニト》、己知其智乃《コチゴチノ》、國之三中從《クニノミナカユ》、出立〔左○〕有《イデタテル》、不盡能高嶺者《フジノタカネハ》、天雲毛《アマグモモ》、伊去波伐〔左○〕加利《イユキハバカリ》、飛鳥母《トブトリモ》、翔毛不上《トビモノボラズ》、燎火乎《モユルヒヲ》、雪以滅《ユキモテケチ》、落雪乎《フルユキヲ》、火用消通都《ヒモテケチツツ》、言不得《イヒモエズ》、名不知《ナヅケモシラニ》、靈母《クスシクモ》、座神香聞《イマスカミカモ》。石花海跡《セノウミト》、名付而有毛《ナヅケテアルモ》、彼山之《ソノヤマノ》、堤有海曾《ツツメルウミゾ》、不盡河跡《フジカハト》、人乃渡毛《ヒトノワタルモ》、其山之《ソノヤマノ》、水乃當〔左○〕鳥《ミヅノタギチゾ》。日本之《ヒノモトノ》、山跡國乃《ヤマトノクニノ》、鎭十方《シヅメトモ》、座(361)祇〔左○〕可聞《イマスカミカモ》、寶十方《タカラトモ》、成有山可聞《ナレルヤマカモ》。駿河有《スルガナル》、不盡能高峯者《フジノタカネハ》、雖見不飽香聞《ミレドアカヌカモ》。
 
○奈麻余美乃 「ナマヨミノ」なり。これは甲斐に對する枕詞なることは古來異論なき所なれど、この語の意義とその枕詞となれる因由とは明かならず。古來種々の説試みられたれど、首肯すべきものを見ず。學者の研究を要するものなり。
○甲斐乃國 「カヒノクニ」なり。これは五音なれば、二音足らずとして、古寫本には「カヒノクニニシ」又は「カヒノクニヽハ」とよめるもあれど、無理なり。五音の句二句つづける例もなきにあらず。古事記應神天皇の御製に「多麻岐波流《タマキハル》、字知能阿曾《ウチノアソ》 」本集卷六聖武天皇の御製に「掻撫曾禰宜賜《カキナデゾネギタマヒ》、打撫曾禰宜賜」《ウチナデゾネギタマフ》(九七三)卷十三「三三三二」に「高山與海社者《クカヤマトウミコソハ》」卷十三「三二三四」に「聞食御食都國《キコシヲスミケツクニ》」などその例なり。
○打縁流 古來「ウチヨスル」とよみて異説なし。「縁」は元來「ヨル」と訓する字にして「ヨス」といふは轉用なりと思はるるが往々にして、しか用ゐたること、たとへば「因」も「ヨル」なるに、「因鹿」(卷三「四八一」)「因香」(四八二)とかきて「ヨスガ」とよまするが如きあり。かくの如き事情によりて「ヨス」にあてたるならむか。これは駿河の枕詞なりと見ゆるが、全く同じ語なる例はなけれど、卷二十「四三四五」に「宇知江須流須流河乃禰良波《ウチエスルスルガノネラハ》」とある「ウチエスル」はその訛れるものと見えたり。さてこれがスルガの枕詞なる因縁如何といふに、古來種々の説々行はれたれど、多くは鑿説にして、こはたゞ「ヨスル」の末の音の「スル」といふが、「スルガ」の「スル」と同音たるに止まるものなることは(362)疑ふべからず。
○駿河能國與 「スルガノクニト」とよむ。この「ト」につきて古來の注釋家説をなさず。この「ト」は同樣のものを並べあげてあはせいふ用をなすものなるが、この駿河の國に對して上に甲斐の國をあげたるが、それには「ト」を加へず。然れども意味はその下に「ト」を加へたると同じと考へらる。かくの如き場合に上の語の下なる「ト」を省くことあるは卷五「八二一」に「阿乎夜奈義烏梅等能波奈乎遠理可射之《アヲヤナギウメトノハナヲナヲヲリカザシ》」などの例にて心得べし。
○己知其智乃 「コチゴチノ」とよむ。この語の事は卷二「二一〇」の歌にありて、そこにても説き、又雜誌「アラヽギ」にて論ぜる如く、今「あちこち」といふに同じ意と用とをなしたるものなり。委しくは「アラヽギ」所載の考を見よ。
○國之三中從 舊訓「クニノサカヒニ」とよみたり。されど、「三中」を「サカヒ」とよむは由なきことなり。契沖はこれを「ミナカ」とよむべしといへり。「從」は「ニ」にあらずして「ユ」なること明かなれば、考に「クニノミナカユ」とよめるをよしとす。「ミナカ」といふ語の例は日本紀卷一の自注に「誓約之中此云2宇氣譬能美難箇《ウケヒノミナカ》1」とあり、又本集卷十四「三四六三」に「巨許呂奈久佐刀乃美奈可爾安敝流世奈可母《ココロナクサトノミナカニアヘルセナカモ》」あり。「み中」は「眞中」といふに同じ。甲斐國と駿河國とあちらとこちらとの國の眞中からといふ意味なり。
○出立有 流布本「出之有」とありて、「イテヽシアル」とよめり。古葉略類聚抄には「之」を「立」とせり。さて童蒙抄には「之」は「立」の誤かとし、考には明かに、「イデタテル」と訓せり。さてこれが意義につ(363)きても二説ありて、舊訓によるものはたとへば代匠記に「成出てあるなり」といひ、攷證に「之は助字にて富士の嶺は甲斐駿河の二國の中《マナカ》より出てありと也」といへり。而して攷證は「出立有」とする説を批評して、「出立といふは山にまれ、海にまれ外へゆくに先立出る足もとをいふ語なれば、ここに叶ひがたし。」といへり。如何にも「出立つ」といふ語をかく解する時はここに該當せぬは當然なり。然れども、これを甲斐駿河の間よりぬきんでて、聳え立てる意とせば、「出で立てるといひても不可なき心地するなり。現に「出でてしある」とよむもこの兩國の間よりぬきんで聳ゆる由にとるものなれば、その問題は「立つ」といふことを山の聳え立つにいひうるか否かによるものといはざるべからず。然るに一般にある山が、ある國より出づとのみいひては語をなさざることはいふまでもなし。加之「イテテシアル」といふ如くに「シ」を用ゐる例ありやと見るにかゝる用例は恐らくはあるまじ。而して一方に於いて山に「立てり」といふことは如何といふに、この語の用例は「日本乃青香具山者日經乃大御門爾春山路〔左○〕之美佐備立有耳高〔左○〕之青菅山者背友乃大御門爾宜名借神佐備立有《ヤマトノアヲカグヤマハヒノタテノオホミカドニハルヤマトシミサヒタテリミミナシノアヲスガヤマハソトモノオホミカドニヨロシナベカムサビタテリ》」(卷一「五二」)など、少からざるなり。されば、ここは「出で」と「立つ」との二語の各の意義を以ていへる語遣と見れば、不都合はあるまじきなり。されば「出立有」といふ或る山の某所より出でて聳ゆといふ事の意なること動くまじ。この故に「出立有」をとれり。都良香の富士山記を見るに「其聳峯欝起見在天際」とあり。
○天雲毛 「アマグモモ」なり。天雲は卷二「一六七」「一九九」等に既に出でたる如く、天の雲にして、前の長歌に「白雲毛」といへるとさす所は異ならず。
(364)○伊去波伐加利 上の長歌なると同じ。「伐」字流布本に「代」に作れど、多くの古寫本に「伐」につくるを正しとす。
○飛鳥毛 「トブトリモ」なり。「飛鳥」は「アスカ」の枕詞なるものもあれど、ここのは實際の天を飛ぶ鳥の義なるなり。
○翔毛不上 古來「トビモノボラズ」とよみて異説なし。「翔」は普通に「カケル」とよむ字なれど、今は「カケル」とよみては句をなさず。類聚名義抄には「トブ」の訓もあれば、古くかくも訓ぜることありしにてよみ方に不都合はなしとす。山甚だ高くして、鳥の飛びてもその頂に達すること能はずといふなり。
○燎火乎 「モユルヒヲ」とよむ。「燎」字に數義あれど、説文、玉篇又廣韻に「放火也」とあり、類聚名義抄には「モユ」の訓あり。これらによりてこのよみ方の不可にあらぬを見るべし。この「モユルヒ」とは古富士山の噴火せしが故にいへるなり。續日本紀には天應元年七月に富士山の下に灰を雨せしことを載せ、日本紀略に延暦十九年六月に富士山が、三月十九日より四月十八日まで、甚しく爆發せしことを載す。又三代實録には貞觀六年にも爆發せし由に見ゆ。都良香の富士山記には「其在v遠望者常見2煙火1」とあり。
○雪以滅 舊訓「ユキモテキヤシ」とよめるを考に「ユキモテケチ」とよみ、古義は「ユキモチケチ」とよめり。「滅」は「キヤシ」ともよまれざるにあらねど、この頃にこの語ありし證なし。「ケチ」といふ語は新撰宇鏡に「※[火+替]」字に注して「謂火滅爲※[火+替]燼火餘木治火介知宇佐无」とあれば「ケチ」とよむべし。(365)「以」は「モテ」とも「モチ」とよむをうべきが、古義の説は卷一の「一」の「美籠母乳」の條にいへるなり。曰はく「母乳は持なり。今(ノ)世ならば、母底《モテ》といふべきをかくのたまへるは古言なり。十七に美許登母知多知和可禮奈婆《ミコトモチタチワカレナバ》(四〇〇六)十八に夜保許毛知麻爲泥許之《ヤホコモチマヰデコシ》(四一一一)二十卷に麻蘇泥毛知奈美太乎能其比《マソデモチナミタヲノゴヒ》(四三九八)などあり。また古事記中卷(ノ)歌に伊斯都々伊母知宇知弖斯夜麻牟《イシツツイモチウチテシヤマム》また岐許志母知袁勢《キコシモチヲセ》下卷(ノ)歌に許久波母知宇知斯淤富涅《コクハモチウチシオホネ》また加微能美弖母知比久許登爾《カミノミテモチヒクコトニ》また多都碁母々々知弖許麻志母能《タツゴモモモチテコマシモノ》、續紀卅六後紀十四、續後紀一卷詔に清(キ)直(キ)心乎毛知また續後紀同卷に天之日嗣乎戴|荷知《モチ》などあるみな古風なり」といひ、更に曰はく「此(ノ)集十八に宇萬爾布都麻爾於保世母天《ウマニフツマニオホセモテ》とあるは別なり。そも/\母知と母底との差異をいふに母知は自ら然する詞、母底は他に燃せしむるをいふ詞にて美籠持眞袖持などいふは自(ラ)持(ツ)ことなれば、いづくにありても母知といひ、敬保世母天といふは他に持することなれば母底と云事にてこれ古言の定なり。元來《ソノモト》母底《モテ》は令《セ》v持《モタ》の約りたる言なればなり。タセ〔二字右○〕はテ〔右○〕と切るにて意得べし。この例は滿《ミツ》を美知《ミチ》といふと美底といふとの差異のごとし。美知は自ら滴ることにいひ、美底は令《セ》v滿の約りたる言にて然せしむる意となるに同じ。しかるを十五に和伎毛故我可多美能許呂母奈可里世婆奈爾毛能母底加伊能知都我麻之《ワキモコガカタミノコロモナカリセハナニモノモテカイノチツガマシ》とあるは自ら持(ツ)ことなれば、母知加とあるべきを後(ノ)世の詞づかひにのみ耳なれたるよりふと寫し誤れるにもあるべし。但し奈良朝の季つかたよりは、かゝる詞づかひのやゝ混亂《ミダリ》になりそめたりとおぼゆること他にも例あれば、これはもとより母底加《モテカ》といへるにてもあるべし。いかにまれこの一首のみをもて母知《モチ》と云母底と云も同じ(366)ことなりと思ふことなかれ。(中略)又母弖は母知弖の略語ぞといふ説は非なり。打まかせて言を略くといふこと古言にはすべてなし」といへり。この古義の説は一往道理ある如く見ゆれども、その説く所必ずしも首肯すべからず。先づ、「母弖」は「モタセ」にして、それと「モチ」との關係は「ミチ」と「ミテ」との關係に似たりといふことは誤なり。「ミチ」と「ミテ」とは一方は四段活用の語にして一方は下二段活用にしていかにも古義のいへる如き意義の相對的關係あり。然れども「モテ」といふは特立せる一節の用言にあらず。「モテ、モツ、モツル、モツレ」といふ活用あるべくもあらず。從ひてこれを「ミテ」と同一の格とするは誤なり。次に「母弖」の例としてあげたる卷十五「三七三三」の「奈爾毛能母※[氏/一]加」の例は寫誤なりといひたれど、證なきことにして古義の臆斷といふべし。又卷十八「四〇八一」の「可多於毛比遠宇萬爾布都麻爾於保世母天故事部爾夜良波比登加多波牟可母《カタオモヒヲウマニフツマニオホセモテコシヘニヤラバヒトカタハムカモ》」の「もて」も同樣に古義のいふ如き義にあらず。要するに古義の説ける如き「モテ」といふ語は萬葉集には存せざるなり。然らばこの「以」を「モテ」とよまむも不可なるにあらず、又古義の説の如く「モチ」といはむも亦不可なりといふにあらず。而してこれははじめは「モチ」なりしならむが、次第に「モテ」の形をも生ぜしものと思はる。但し、「美籠母乳」などの場合の「モチ」と今の場合の「以」とは全然同一の意義と用法とにあらず。「美籠母乳」の場合はその「持ち」は純然と動作をあらはせる語なるが、今の場合の「以」は「モチ」といふ語は同じとしても、下の語の意を十分に具體化せむが爲の修飾的の用法又は手段材料をあらはすものなりとす。この故にここを「モテ」として純なる動作をあらはす「もち」と別によむことは必ずしも不可ならず。又音調(367)の上よりみれば「ユキモチケチ」といふよりは「ユキモテケチ」といはむ方調へりとす。「モユル火ヲ雪モテ滅チ」とは噴火せる上に雪のふれるを見ていへるならむ。
○落雪乎 「フルユキヲ」なり。
○火用消通都 上に准じて「ヒモテケチツツ」とよむべし。これは上にいへる如く、噴火せる上に雪のふれば、その火は雪に消さるる如く見ゆるが、その間より又噴火すれば、この度はその雪が噴火に消さるるさまなればいふ。要するに山頂に於いて噴火と降雪と相尅せりといふことなり。かくの如き事はここにいへるを見れば、事もなげに見ゆるが、かく道破せるは蓋しこれがはじめてと思はれて、その構想の大なるに驚くべし。
○不言得 舊訓「イヒカネテ」とあり。代匠記は「イヒモカネ」又は「イヒカネテ」といへり。略解は「イヒモエズ」とよめり。而してこの訓神田本にも既にいへり。「不得」を「カネ」とよむことは必ずしも無理にあらず。即ち攷證に「不得をよめるは義訓にて本集七【四十丁】に忘不得裳《ワスレカネツモ》云々(一三九九)十一【七丁】に汝念不得《ナヲオモヒカネ》云々(二四二五)十二【三十四丁】に吾之待不得而《ワレマチカネテ》云々(三一四七)など見えたり」といへるが如し。然れども「不得」の二字は本集に於いて必ず「カネ」とよみて「エズ」とよまずといふことは誰人も主張したることなし。現に卷二「一九九」に「雖侍候佐母良比不得者《サモラヘドサモラヒエネバ》」とあるは古義は「者」を「弖」の誤として「サモラヒカネテ」とよみたれど、これは諸本に通じて誤字なきものにしてその文字通りならば、「エネバ」とよまむ外なきなり。又この卷「四六一」の「留不得壽爾之在者《トドメエヌイノチニシアレバ》」の「不得」は「エヌ」とよみて異論なく、又「カヌ」とよみては歌をなさぬこと明かなり。かくて兩樣によまるる(368)ことなるが、今下の「名不知」が、打消の語を有せるに對して、その對句と考ふる時は略解のいへる「イヒモエズ」とよめるによるをよしとすと思ふ。なほ下にいふことあるべし。
○名不知 舊訓「ナヲモシラセズ」とよみたれど、かくては意義通ぜず。神田本には「ナヅケモシラズ」とよみたるが代匠記にもかくよむべしとせり。考は「名」の下に「付」宇脱せりとして「ナツケモシラニ」とよみ、略解はこのままにて「ナヅケモシラニ」とよめり。さてこれは「名」一字にて用言として「ナヅク」の意にすることは支那にて既に行はれたることなれば、これは脱字ありといはずしても可なるものなり。「不知」は「シラズ」とよみても不可なりといふにあらねど、ここは連用形たるべき所なり。然るに「ズ」は連用形とも終止形とも見らるるものにして多少聽者をして動搖の感を起さしむる惧あれば、「シラニ」と確かに連用形とするをよしとす。「ニ」が打消の連用形として用ゐらるることは卷一以來屡説く所なれば、今委しく説くを要せざらむ。
○靈母 舊訓「アヤシクモ」とよみたるを槻落葉に「クスシクモ」とよめり。攷證は「アヤシクモ」とよむべしとして論じて曰はく「あやしとくすしとはいとよく似たる語なれば、よく考ふれば、あやしはあやしみかたぶく意、くすしはめづらしき意なれば、ここは必ずあやしと訓べき所なり」といひたれど、これは不十分なるいひ方なり。「あやし」は「あや」といふ驚きの語より起りたるものにしてこれが動詞となれば「あやしむ」といふことにして不思議といふに止まる。「くすし」は上の水島の歌に「如聞眞貴久奇母神左備居賀《キクガゴトマコトタフトククスシクモカムサビヲルカ》」(二四五)の下にもいへる如く神秘なるものに對しての語なり。而してこの「靈」字は神靈又靈妙の意なれば、單なるあやしみの意にあらずして「クス(369)シ」といふ語の意なることは否定すべからず。
○座神香聞 「イマスカミカモ」とよむ。この神は即ち富士山をさせるなり。
  以上第一段なり。
○石花海跡 「セノウミト」とよむ。「石花」は「セ」と名づくる動物の名なり。和名鈔龜貝類に「尨蹄子崔禹食經云、尨蹄子勢貌似2犬蹄1而附v石生者也。兼名苑注云、石花【或作華】二三月皆舒2紫花1附v右而生、故以名v之」とあり。即ち石花を「セ」といふ動物にあてたるを見る。尤も、石花は嚴密に論ずれば、尨蹄子と同じ物にあらずといふこと※[木+夜]齋の説く所の如くならむが、倭名鈔には同じ物と認め、石花をも「せ」にあてたるは明かなり。この尨蹄子は本草和名に「和名世衣」とあり、色葉字類抄には「尨蹄子【せ・せイ】石花同」とあり。これは今も「せい」ともいひ又「かめのて」といひて海中の石につきて生ずる動物なり。石花を「セ」の假名に用ゐたる例は卷十二「二九九一」に「垂乳根之母我養蠶乃眉隱馬聲蜂音石花蜘※[虫+厨]荒荒鹿異母二不相而《タラチネノハハガカフコノマユゴモリイブセクモアルカイモニアハズテ》」とあるあり。このセの海のことは下にいふべし。
○名付而有毛 「ナヅケテアルモ」にして異説なし。意も明かなり。
○彼山之 舊訓「ソカヤマノ」とよめるが、古寫本の多くは「カノヤマノ」とよめり。契沖は「ソノヤマノ」とよむをよしとし、槻落葉は「彼の字をカノとよむは集中例なし。そのとよむべき也」といへり。この事は余が奈良朝文法史にも既にいへる如く、「彼」は「ソノ」とよむべきものなれば、槻落葉の説によるべきものなり。「その山」とはもとより富士山をさせり。
○堤有海曾 「ツツメルウミゾ」とよむ。契沖曰はく「堤は水をつゝみて貯ふる故につつむと云用(370)の詞をもて體になつくればなり」といへり。和名鈔には「陂堤」と標出して、「禮記注云蓄v水曰v陂 音碑和名都々美下同 纂要云築V土過v水曰v塘亦謂2之堤1云々」とあり。而してその陂字については新撰字鏡に「坡陂 普何反平坎也以士壅水也道緩也佐加又與久又豆々牟」とあれば、「ツツム」といふ用言として用ゐたりと見ゆ。而して堤陂同義なれば、「ツツム」とよむこと差支なしといふべし。「せの海」と名付けてある海もその富士山のつつみてある海なるぞといふなるが、「海」は古湖沼にもいひたれば、ここも湖なるべきなり。さてこの「せの海」をば萬葉考に「嶺の上に、又峯あまた立たる中にめぐり、今の道一里ばかりの湖あり。ゆゑに其山のつゝめる海とはいふ也」といひ、略解には「せの海とは鳴澤の事也」といへり。この考の説く所は都良香の富士山記に「頂上有2平地1廣一許里、其頂中央窪下、體如2炊甑1。甑底有2神池1、池中有2大石1、石體驚奇、其甑中常有v氣蒸出、其色純青窺2其甑底1如2湯沸騰1」といへるものをさし、「なるさは」もまたこれをさせりと攷證にいへり。この頂上の池は今水なしといへども古は水も或は存せしならむ。然れどもそれをここの「せの海」なりといふことは信ぜられず。「せの海」とは三代實録の貞觀六年六月十七日に「甲斐國言、駿河國富士大山忽有2暴火1燒2碎崗巒1草木焦燒、土鑠石流埋2八代郡本栖并※[錢の旁+立刀]兩水海1云々兩海以東亦有2水海1名曰2河口海1云々」といひ、又貞觀七年十二月九日に「駿河國富士大山西峯、忽有2熾火1燒碎巖云々雖然兵火之變于v今未v止遣2使者1檢察埋2※[錢の旁+立刀]海1千許町云々」とある「※[錢の旁+立刀]海」即ちこれなるべしといふ。「※[錢の旁+立刀]」は廣韻に「初限反」とあれば、「セン」の音なるをその「ン」を省きて「せ」の音をかりたるものなればこれ即ちせの海なるべし。而して上の三代實録の文を綜合すれば、富士山の北にあたり、甲斐八代(371)郡に本栖、※[錢の旁+立刀]の二湖あり、又その東に河口海ありといふことを見る。而してその河口海は今も南都留郡に存する河口湖なるは著しきが、今はその西に、西湖、精進湖、本栖湖と順序して存せり。この最西の本栖湖は即ち、三代實録の本栖海なること著しきが、「セノ海」といふ名の湖は今存せず。然るに、今西湖といふは古のセの海の名殘なるべしといはれ、その西なる精進湖も亦古のせの海の名殘なる由は、精進湖はその村の地籍には「字石花湖」と記されてありといふ。(日本地理風俗大系)されば、この西湖と精進湖とはもと一のせの海なりしならむが、かの貞觀六年の噴火によりて中斷せられて二に分れしものと見ゆ。然るときは古の※[錢の旁+立刀]の海は「東西二里十町に亙る岳麓第一の大湖」(山梨縣編纂「富士山の自然界」の説)なりしなり。さてこの湖をば、富士山のつつめる海ぞといへるは如何といふ説或は生ぜん。現に考には「富士の麓に八の大池有りてその中にせの海といふもあるべしといふ人あれど、云々」といへるなり。されど、ここに「つつめる」といふ語を用ゐたればとて、眞實に富士山が、四方を圍みてあらずば不可なりといふ程嚴重に考へていへるにはあらざるべく、又今所々に存する池にもその傾斜の著しき地にあるものは一方に堤を築きてあるもの少からねど、なほその堤を「つゝみ」といふなり。四方を全くとりまくにあらずば「つつみ」といふべからすといふ程の事にもあらざるべければ、この富士山の山腹に生じたる池といふ程の意にてかくいひたりとて深く咎むるに及ばざるべし。
○不盡河跡 「フジカハト」とよむ。不盡河の名は日本紀皇極卷三年七月にも見ゆ。この河は源を、甲斐に發する河にして、笛吹川と釜無川と蘆川とが甲斐の八代郡市川大門村にて合流して(372)なれるものにして、途中に早川を合せ、後駿河に入り富士庵原二郡の界をなして蒲原の東より海に入る。市川大門より海まで長さ十八里、本邦有數の急流なり。さてその支流の一なる釜無川は源を駒(カ)嶺より發して北流して教來石をめぐりて東南流せるものにして富士山には關係なし。又笛吹川は源を山梨郡徳輪山に發して南流せるものにして、途中、重《オモ》川、日《ニツ》川、荒川等を合すれど、これらも亦富士山に直接關係なし。されば、大體富士山の水を集めて流るといふべき河にあらず、されど、富士山の背後より、その西をめぐりて、その裾野を通るが故にこの名を得たるならむ。「と」は例の「とて」の意に用ゐられたるなり。
○人乃渡毛 「ヒトノワタルモ」とよむ。意明かなるが、東海道の路程には必ずこれを渡らずばあらぬものなるが故にいへり。しかも、これ急流にして人の渡りわづらふものなれば、「渡る」といふことに深く關心せるさま見るべし。
○其山之 これも富士山をさすこといふまでもなし。
○水乃當烏 舊訓「ミヅノアタリソ」とよみたるが、童蒙抄には「ミヅノアタリヲ」とよみたり。然れども、「ミヅノアタリ」といふ事は語をなさず。考には「當は借字にて沸《タキリ》なり、其里と知と通ふ故に集中にたぎちと云多し」といひ、玉の小琴には「當を師はたきちと訓れたり。然らば知の字脱たるか、當麻などの例にたぎとは訓べし、たきちとは訓難からむ」といへり。槻落葉には「卷十に落當知足《オチタキチタル》(二一六四)とあれば、ここも知の字を脱せるものならむか。またみづのたぎぞと六言によむべきにや」といへり。かくてこの後多くの人は當を「タギチ」とよむこととせるが如し。按(373)ずるに上の「當知」又といふ地名「當麻」(記紀)「布當之宮」(卷六、一〇五〇」「一〇五三」)「布當乃野」(一〇五一)「布當山」(一〇五五)又卷十一「二四三二」に「山川之當《タギ》都心」など、皆「當」を「タギ」にあてたり。これはこの字は平聲唐の韻にて tang の音なれば、韻尾の「ng」を「ギ」にあてたるにて「愛宕」を「オタギ」といへると同じ趣の音なり。されば「タギ」といふ音をあらはすに用ゐたりといふは妨なけれど、これを以て直ちに「タギチ」といふことは不可能なり。されば當の下に知字脱せるかといふ説も生じたるなるが、今傳ふる諸本にここに異字あるものなし。攷證には「また考ふるに、七【八丁】に瀧至《タキチユク》と瀧の一字をたぎちと訓るを見れば當も本よりたきと訓べき字なれば、瀧の意もてたぎちと訓しにもあるべし」といへり。この説いかにも理ある如くなれど、瀧は意義によりてあてたる文字なれば、「タギ」にても「タギチ」にても用ゐて不可なることあるまじけれど、「當」はただ音にて「タギ」とあてたるまでなれば、それを「瀧」等と同樣に意義の上より「タギチ」とあてたりといふことは道理なき筈なり。然れども、今、他によきよみ方を知らねば、姑く考の説に從ふ。さて「タギチ」といふ語は「たぎる」といふに似たる「タギツ」といふ用言の連用形なるが、この語の例は少からず。上にも一あけたるが、なほ一二をいはば、卷六に「石走多藝千流皆泊瀬河《イハハシリタギチナガルルハツセガハ》」(九九一)卷十九に「安之比寄能山下響墮多藝知流辟田乃河瀬爾《アシビキノヤマシタトヨミオチタギチナガルルサキタノカハノセニ》」(四一五六)などあり。ここはその連用形を以て名詞としたるものなり。「烏」は訓義辨證にいへる如く古、焉と烏と字體甚しく似通へるよりの誤りにて「焉」字にして、その焉は漢文にて歇語の辭といへるものなるが、玉篇に、「語已之詞也是也」とあれば、それが、わが終止の「ゾ」に似たれば義字として借用したること明かなり。さてこの四句は富士河(374)をば、富士山より流れ出でたる水の集積なりといへるなるが、その實際にはあたらぬこと上にあげたる如し。されど、地理を精査せぬ以上、常人がかくの如く考ふることは不當といふべからず。古もかく考へしが故にかくはいへるならむが、都良香の記に「有2大泉1出v自2腹下1遂成2大河1其流寒暑水旱無v有2盈縮1」とあるもこの河の事をいへるは疑なし。以上一段落なり。
○日本之 「ヒノモトノ」とよむ。卷一にては「日本」をすべて「ヤマト」とよみたれど、ここにてはこれを「ヤマト」とよまば、次の句と調和せぬことになれば、上の如くよむ外あらじ。玉の小琴に曰はく「此日本は必ひのもと」訓べし。日本と云國號を立られたるも日のもとつ國と云意なれば爰も其意にて云るか。されど爰にては國號には非ず、山跡をほめて云る也。古書にひのもとと云るは是のみ也。餘は日本と書てもやまとと唱ること也。夫に付て又思ふに、爰は飛鳥とぶとりの飛鳥あすか、春日はるひの春日と云例にも似たれば、やまとを日本と書故に、其字の正訓をやがて枕詞にしたるが如くも聞ゆれど、はるひのかすがと云も上代の歌にも有れば春日の字によれる枕詞にはあらず。然ば、爰も唯日の本つ國の倭と云意の外なし」といへり。同じ趣なるは稍後なるが、日本後紀卷十九の興福寺の僧の奉れる長歌に「日本乃野馬臺乃國遠《ヒノモトノヤマトノクニヲ》」とあり。攷證にはこれを枕詞といひたれど、然らずして大體本居の言の如くにして「の」は日の本つ國なるやまとといふ義にてつづくる格なりとす。
○山跡國乃 山跡の文字は第一の歌に出づ。
○鎭十方座祇可聞 「シヅメトモイマスカミカモ」とよむ。「祇」字流布本に「神」としたれど、活字附訓(375)本をはじめ、その以前の本すべて「祇」に作れるなり。されば流布本さかしらに改めたるものなること著し。「祇」は「地祇」なれど、深き意なく、上の「神」と對して「祇」字を用ゐたるに止まるべし。國の鎭といふ語の例は本集には他に見ず。續日本紀天平寶字八年十月の詔には「國止方皇太子置定天之於多比常人念云所在」とあり。されど、意は多少異にして、ここは富士山がわが國の鎭守なりといふなり。山を國之鎭といふことは支那にもあることにて、文選東京賦に「大室作鎭」とある注に「大室(ハ)嵩高(ノ)別名、云々言以2嵩高之嶽1爲2國之鎭1也」とある外例少からず。「トモ」の「モ」は直接にかゝる處なきが如くにして、しかも力強く念を推す如き意あり。「カミ」といふ意は上に同じ。
○寶十方成有山可聞 「タカラトモナレルヤマカモ」とよむ。「寶」とは類稀にして貴ぶべきものをいふ。「寶」の上に「日本の大和の國の」の意を含めたり。意明かなり。以上一段落。
○駿河有不盡能高峯者 「スルガナルフジノタカネハ」なり。意明かなり。
○雖見不飽香聞 「ミレドアカヌカモ」この語例は卷一「三五」「六五」にあり。意明かなり。以上一段落。
○一首の意 この歌四段落にてなれるが、しかもその第二段、第三段はいづれも二の同樣の小段二を重ねたるものにして、これをも一段とせば、終止せる形すべて、六を重ね、しかも「かも」にて終止する形四ありて特種の構成法によれるものなり。意は甲斐國と駿河國と彼方此方の國と國との眞中より生え出でたる如くにしてそびえ立てる富士山は天の雲も、これに支へられて(376)自由に往來しえず、又空飛ぶ鳥も頂までとび上り得ざる程の高山にして、しかも噴火山なれば、頂には四時雪絶えず、雪は火もちて消し、火をば雪もちて消し、互に消すとはすれど、火も絶えず、雪も絶えず、實に不思議の靈山にして、これを言にて説かむとして説き得ず、何とか形容して名づけむとしても形容のし方もなき、神靈といふべき山なるかな。(第一段)かの石花の海とて甲斐の山中に存する大なる湖もこの山の作用にて生じたる湖なるぞ、富士河といひて東海道を通る人々の必ず渡る河もその山より下れる水のたぎりたる流れなるぞよ。(第二段)嗚呼わが日の本の國といはるる大和國の鎭守として坐す山なるかな、わが日本の寶ともなれる山なるかな。(第三段)ああこの山わが國の寶とも鎭守とも仰ぐ、富士山はいかにも靈妙なる神山にして、みれども/\あかぬことよとなり。(第四段)
 
反歌
 
320 不盡嶺爾《フジノネニ》、零置雪者《フリオクユキハ》、六月《ミナツキノ》、十五日消者《モチニキユレバ》、其夜布里家利《ソノヨフリケリ》。
 
○不盡嶺爾 「フジノネニ」とよむ。意明かなり。
○零置雪者 舊板本「フリオクユキハ」とよみたるが、古寫本中類聚古集、古葉略類葉鈔には「フリオケル」とよみ、考もまたかくよめり。「置」一字を以て「オケル」とよまむも差支なき場合本集に少からぬはいふまでもなき事なれど、ここは果して必ず「オケル」とよむべき所なるか。音の數よりいへば、「フリオクユキハ」の方穩かなり。又意義よりいひても「フリオク」とよむは不都合にして(377)必ず「オケル」とよむべしと主張すべき程の事なし。加之、かかる場合に「在」「有」「流」などの文字を加へずして「有」に複合せる動作存在詞をあらはせることこの卷には殆どなし。この卷にては
 三獵|立流《タヽセル》(二三九)
 盖爾|爲有《セリ》(二四〇)
 去過勝爾|思有者《オモヘレバ》(二五三)
 立在《タテル》松樹(三〇九)
 堤有《ツツメル》海曾(三一九)
 成有《ナレル》山可聞(三一九)
 吾王乃敷|座在《マセル》國(ノ)中|者《ニハ》(三二九)
 我|乘有《ノレル》馬曾爪突(三六五)
 雨零者將蓋跡|念有《オモヘル》笠乃山(三九四)
 春日野爾粟|種有《マケリ》世伐(四〇五)
 客爾|臥有《コヤセル》此旅人※[立心偏+可]怜(四一五)
 高山之石穗乃上爾君之|臥有《コヤセル》(四二二)
 手爾|纏在《マケル》玉者亂而(四二四)
 遠長(ク)將仕物常|念有之《オモヘリシ》君師|不坐《マサネ》者(四五七)
 憑有之《タノメリシ》人乃盡(四六〇)
(378) 打蝉乃|借有《カレル》身|在《ナレ》者(四六六)
 思有《オモヘリ》之心者不遂(四八一)
この外にはなし。ここは「置」一字なれば、舊訓をよしとせざるべからず。
○六月十五日 「ミナツキノモチニ」とよむ。六月を「ミナツキ」といふは今更いふをまたざるが、假名の例は本書又その外の古典には見えず。伊勢物語竹取物語に見ゆるを古しとす。太陰暦の六月にして、酷暑の候なり。「十五日」を「モチ」とよむは義訓なり。「モチ」はもと「モチツキ」より出でたれども十五日にも轉用せるものなるべし。卷十二に「十五日出之月乃《モチノヒニイヂニシツキノ》」(三〇〇五)とあるも略同じ。「六月(ノ)十五日」は恐らくは古は今土用眞中といふ語の如き酷暑の時の意に用ゐし語ならむ。下の「ニ」文字はなけれど、義によりて補ひてよむ。
○消者 舊訓「ケヌレハ」とよめるを代匠記に「キユレバ」ともよむべしといへり。ここも文字のままならば、「キユレバ」とよむべきものにして、しかよみて意味よく通る。「ヌ」にあたる文字なきに、強ひて「ケヌレバ」とよむべき必要ありとは思はれず。代匠記の説によるべし。
○其夜布里家利 「ソノヨフリケり」にして意も明かなり。契沖曰はく「此は消る間のなきをせめていはむとて其夜降けりとはいへり」と。
○一首の意 富士山に降り置く雪は年中絶えまなきが、世に傳ふる所には六月の十五日の酷暑の時に消ゆる事ありといへども、その夜直ちにふりつづくとなり。かくて年中絶ゆることなきなり。假に絶ゆる事ありても本《ホン》の片時の間なりといふ。仙覺の萬葉注釋に曰はく富士の(379)山には雪のふりつもりてあるが、六月十五日にその雪のきえて、子の時よりしもには又ふりかはると駿河風土記に見えたり」と。かかる傳説によりてよめるか。
 
321 布士能嶺乎《フジノネヲ》、高見恐見《タカミカシコミ》、天雲毛《アマグモモ》、伊去羽計《イユキハバカリ》、田菜〔左○〕引物緒《タナビクモノヲ》。
 
○布士能嶺乎 「フジノネヲ」にして、前なると文字たがへど、さす所一なるはいふまでもなし。
○高見恐見 「タカミカシコミ」とよむ。「富士の嶺を高み」「富士の嶺をかしこみ」といふべきを略し重ねたるいひざまなり。ここの「たかみ」に似たる例は卷一「四四」に「去未見乃山乎高三香裳日本之不所見國遠見可聞《イザミノヤマヲタカミカモヤマトノミエヌクニトホミカモ》」とあり。山が高きによりてといふに近き意なり。ここの「恐ミ」に似たる例はこの卷「三八八」に「鹽左爲能浪乎恐美淡路島磯隱居而《シホサヰノナミヲカシコミアハヂシマイソガクリヰテ》」とあるあり。又ここの如く重ねたる例は卷二「一一六」に「人事乎繁許知痛美《ヒトコゴトヲシゲミコチタミ》」あり。富土山の嶺が高きによりて、又富士山の嶺の威光が恐しきによりてなり。
○天雲毛伊去羽計 「アマグモモイユキハバカリ」なり。「去」は「ユキ」とよみ、「計」は「バカリ」なるを「羽計」二字にて「憚る」意の語をあらはせり。この二句の意は上の長歌の下にいへり。
○田菜引物緒 「菜」字流布本「莱」に作れり。然れども、義をなさず。他のすべての本に「菜」とせるを正しとす。「タナビクモノヲ」とよむ。「タナビク」といふ語は卷二、「一六一」の「向南山陣雲之」の下にいへる如く、「なびく」といふ語が基にして、それに「タ」といふ接頭辭のつきしものにして雲が行きとゞこほりてその中腹になびきかかれるをいへり。「ものを」の「もの」はこれにて上の句すべて(380)をうけて體言化せしめたるものにして、その句の意義は上來述べ來れる所の如くなるを體言化して感動の發表としたるもの。「を」は間投助詞にして、重き感動を寫しここにて終をなすものなり。槻落葉に「このをはよといふに同じく、よひ捨たるをなり。須佐の雄命の大御歌に其八重がきをとあるをはじめて集中にもいとおほかり」といひたり。この「よひ捨たる」といへる眞意如何を知らねど、その意略余が上にいへるに近からむか。古義は槻落葉の説をは「甚あらぬことなり」といひて「物緒は言を含め餘したる辭なり。二(ノ)卷に吾乎待跡君之沾計武足日木能山之四附二成益物乎とある物乎に同じ」といへるが、語法としては元來同一なるにて、その具體的の意はその場合によりて多少の差異あるべきなれど、強ひて彼を是とし此を非とする要なきことなり。
○一首の意 この富士の嶺の高きによりて、天雲もその頂まで達し得ず、又この富士の嶺の尊く靈びたる威光に恐れて天雲もこれを凌ぎて行くことを得ずして、この山の半腹にたなびきてあることよとなり。
 
右一首高橋連蟲麿之歌中出焉。以v類載v此。
 
○右一首 そのさす所に異説あり。下にこれを説くべし。
○高橋蟲麻呂歌之中出焉 高橋蟲麻呂といふ人の歌は本集中に七首見えたるが、その人の事蹟は他に傳ふる所なし。本集の歌の詞書によりて、天平四年藤原宇合が西海道の節度使として(381)遣はさるる時に歌をよみて餞し、又(常陸國)鹿島郡苅野橋にて大伴卿に別れし歌を見て、その時代と交際の一部とを知り、又筑波山に登りし歌、勝鹿の眞間娘子をよみ、葦屋の菟原處女をよめるにて、その足跡の一斑を知るに止まる。さてここに「高橋連蟲麿之歌中出」といへるは蟲麻呂の歌の中にここにいふ所の歌のありしことを告ぐるものなるが、卷九なるには「右件歌者高橋達蟲麻呂歌集中出」「右二首高橋蟲麻呂之歌集中出」「右五首高橋連蟲麻呂歌集中出」とあり、卷八なるには「右一首高橋連蟲麻呂之歌中出」とあり。これによりて考ふるに高橋連蟲麻呂歌集といふもの古存したりしにて、そのうちにこの歌を載せたりしをここに出したることは疑ふべからず。さればここも歌の下に「集」字あるべきものならむか。されど、卷八なるもここと同じ趣なり。これを以て見れば、古よりかくかきて來りしならむ。
○以類載此 は同じく不盡山を詠せし歌なるが故にここに參考として載せたりといふ事なるが、その右一首とはいづれの歌なるかにつきて更に又上の長歌の作者につきて諸家の意見區區たり。次にこれをあげて一言せむ。
 先づここにある右一首といふは、上の「三二一」の歌一首のみをさすといふ説即ち「三二一」一首に止まることをいへるは拾穗抄にして代匠記も童蒙抄も考もまたかく考へたるが如し。考の説に曰はく、「右一首といふは直に一首なり。然れば、この田菜引物緒てふは始のは無りしをかの集に有もて後に加へたるなり。さて此歌中に出といふは即蟲麻呂の歌と聞ゆれど、右の長歌ともに必其人の歌ならぬ事しるし。」といへり。略解、攷證、全釋これに從へり。
(382) さてこれらの説を主張する人は、上の「三一九」「三二〇」の長歌と反歌とを以て何と見しかといふに、契沖は「此歌作者見えず。其由も注せぬは作者未詳と云ことの脱たるか。但上の赤人の歌に一首并短歌と云ひ、下に右一首高橋連等と斷れば注せざれども作者しれざる事自ら顯るる故歟」として不明なりとしたるが、かかる態度に出でたるは童蒙抄(少しく態度曖昧なれど大體この説に傾けりと見ゆ)なり。而して新考またこの説に左袒せり。然るに、上田秋成の楢の杣はこの三首を一括して季吟の本には笠朝臣金村と歌ぬしを記されたり。古註には高橋連蟲麻呂之歌中出焉と見ゆ、たしかなる所證《ヨンドコロ》はあらねど、歌の巧妙人丸の餘《ホカ》には誰かはと思ゆるばかり也」といへり。このうち季吟の本云々は誤にして季吟が本笠朝臣金村とせるは上の「三一九、三二〇」にして「三二一」は高橋蟲麿とせるなるが、三首を一手とせるは明かなり。檜嬬手は「此歌拾穗本短歌(ノ)下有2笠朝臣金村1されど其れ等の人の企て及ぶべき手ぎはの歌ならず。左註に右一首高橋連蟲麿之集中出焉以v類載v此とあるは家持卿の筆なるべければ、もし蟲麿柿本朝臣の感服して吾が集へ書き加へおきつらん云々」といへり。これまた三首を一體と見たるなり。古義は「又右(ノ)歌等(長一首短二首)宮地(ノ)春樹(ノ)翁云この上下皆赤人の歌にして、且此(ノ)歌の調も赤人の口氣《クチツキ》なれば同人の作なること疑なかるべし」といへり。これまた三首を一體とせるなり。さて藤井高尚はその歌のしるべの中にて赤人の作とせるが、佐々木信綱氏はこれにつきて論じて曰はく「この右一首を古來の解釋の如くさながらに釋して單に最後の一首の短歌を指せりとせむか、さらば他の二首はいかにすべき、(卷三は殆どすべて作者の名をあげてある)藤井高(383)尚がなした如く之を赤人が作とするは到底赤人が歌風に關する眼識を缺けりとの譏を免かれない。これ決して平明單純なる赤人が作風でない。その作風に前述の蟲麿が風格あるは吾人の認むるところ。また反歌中に「六月の望に消ぬれば」と傳説を歌つたのも一證とし得る。さらば右一首は寧ろ之を右三首の誤となしてこの中間無所屬の二首を蟲麿の作とせむ方最も穩當なりと信ずる。」といへり。武田祐吉氏は萬葉集新解に「右一首とあるはどこまでも一首で、三首とも蟲麿の作品とは爲し難い。九の卷の蟲麿の集から出た歌にも長歌と反歌とを加へて右何首と數へてゐる。かつかくの如く對句を用ゐた作品は蟲麻呂の作品中に無い。また本集卷三の目録の古鈔本にはこの不盡山を詠める歌といふ下に笠朝臣金村歌中之出と數字があるが、これもどれほどの根據によつてこの文字があるか明でない。要するに今日ではなほ佚名氏の作となすべく、萬葉に名の顯れたもの以外にも優れた歌人の存してゐたことを語るものと見てよいであらう。」といへり。かく異説紛々たるものなるが、これらの諸家の説は枝葉に走りて臆測の言をなしてその根本問題を忘れたるに似たり。抑もこの間題は極めて簡單なることにして、「右一首」とあるものが、「三二一」の一首のみをさせるか、「三一九」の長歌以下を一括してさせるかを見れば、足るものなり。この間題だに定まらば、何等議論の餘地なき筈なり。而してその「三二一」一首のみをさせるか否かは本集の「右何首」とある實例に徴すれば一目にして瞭然たるものなり。
 今余は、かかる紛亂を根絶せむが爲に、本書の左注に「右何首」とかけるもの一切を網羅してこ(384)れを分類したるが、その短歌をその數量のまゝに計算したるものはここに必要なければあぐるを止むべく、長歌につきてもその長歌一首にして反歌のなきを「右一首」とかけるものもここに必要なければあげず。その他の長歌と短歌とを混淆して計算せるものすべてを類別してあぐれば次の如し。
 ○ 長歌一首反歌一首に對して「右二首」と記せるもの、
 卷一 額田王下近江國時作歌「一七」(長歌)反歌「一八」
  右二首歌山上憶良大夫類聚歌林曰……
 卷八 櫻花歌一首并短歌「一四二九」(長歌)反歌「一四三〇」
  右二首若宮年麻呂誦之
 卷九 鹿島郡苅野橋別大伴卿歌「一七八〇」(長歌)反歌「一七八一」
  右二首高橋連蟲麻呂之歌集中出
 卷十三「三二二三」(長歌)反歌「三二二四」
   此一首(三二二四)入道殿讀出給
  右二首
 卷十三「三二二五」(長歌)反歌「三二二六」
  右二首
 卷十三「三二三〇」(長歌)反歌「三二三一」
(385)  此歌(三二三一)入道殿讀出給
  右二首但或本歌曰……
 卷十三「三二三四(長歌)此歌……反歌「三二三五」
  右二首
 卷十三「三二四〇」(長歌)反歌「三二四一」
  右二首……
 卷十三「三二四三」(長歌)反歌「三二四四」
  右二首
 卷十三「三二四五」(長歌)反歌「三二四六」
  右二首
 卷十三「三二四八」(長歌)反歌「三二四九」
  右二首
 卷十三「三二五八」(長歌)反歌「三二五九」
  右二首
 卷十三「三二六六」(長歌)反歌「三二六七」
  右二首
 卷十三「三二六八」(長歌)反歌「三二六九」
(386)  右二首
 卷十三「三二七〇」(長歌)反歌「三二七一」
  右二首
 卷十三「一二二七二」(長歌)反歌「三二七三」
  右二首
 卷十三「三二七四」(長歌)反歌「三二七五」
  右二首
 卷十三「三二七六」(長歌)反歌「三二七七」
  右二首
 卷十三「三二七八」(長歌)反歌「三二七九」
  右二首
 卷十三「三二八九」(長歌)反歌「三二九〇」
  右二首
 卷十三「三二九一」(長歌)反歌「三二九二」
  右二首
 卷十三「三二九三」(長歌)反歌「三二九四」
  右二首
(387) 卷十三「三二九五」(長歌)反歌「三二九六」
  右二首
 卷十三「三二九七」(長歌)反歌「三二九八」
  右二首
 卷十三「三三〇三」(長歌)反歌「三三〇四」
  右二首
 卷十三「三三二四」(長歌)反歌「三三二五」
  右二首
 卷十三「三三二七」(長歌)反歌「三三二八」
  右二首
 卷十三「三三三三」(長歌)反歌「三三三四」
  右二首
 卷十三「三三四四」(長歌)反歌「三三四五」
  右二首
 卷十三「三三四六」(長歌)反歌「三三四七」
  右二首
 卷十八「四一二二」(長歌)反歌「四一二三」
(388)  右二首……
 卷十九「四一六四」(長歌)反歌「四一六五」
  右二首……
 卷十九「四二二〇」(長歌)反歌「四二二一」
  右二首
 卷十九「四二二七」(長歌)反歌「四二二八」
  右二首……
 卷十九「四二三七」(長歌)反歌「四二三八」
  右二首……
 卷十九「四二六六」(長歌)反歌「四二六七」
  右二首……
 ○ 長歌一首反歌二首に對して「右三首」と記せるもの、
 卷三 悲傷死妻高橋朝臣作歌一首并短歌「四八一」(長歌)短歌「四八二」「四八三」
  右三首七月廿日高橋朝臣作歌也云々
 卷九 思娘子作歌一首并短歌「一七九二」(長歌)反歌「一七九三」「一七九四」
  右三首田邊福麿之歌集出
 卷十三「三二二七」(長歌)反歌「三二二八」「三二二九」
(389)  右三首 但或書此短歌(三二二九)一首無有載之也
 卷十三「三二五五」(長歌)反歌「三二五六」「三二五七」
  右三首
 卷十三「三二六〇」(長歌)反歌「三二六一」「三二六二」
  右三首
 卷十三「三二六三」(長歌)反歌「三二六四」「三二六五」
  右三首
 卷十三「三三三〇」(長歌)反歌「三三三一」「三三三二」
  右三首
 卷十五 到壹岐島雪連宅満忽遇鬼病死去之時作歌一首并短歌
    「三六八八」(長歌)反歌二首「三六八九」「三六九〇」
  右三首挽歌
 卷十五「三六九一」(長歌〉反歌二首「三六九二」「三六九三」
  右三首葛井連子老作挽歌
 卷十五「三六九四」(長歌)反歌二首「三六九五」「三六九六」
  右三首六鯖作挽歌
 ○ 長歌二首反歌一首に對して「右三首」と記せるもの
(390) 卷十三「三二三六」(長歌)或本歌曰「三二三七」(長歌)反歌「三二三八」
  右三首
 ○ 長歌一首反歌三首に對して「右四首」と記せるもの
 卷十三「三三一四」(長歌)反歌「三三一五」「三三一六」「三三一七」
  右四首
 卷十八 獨居幄裏遙聞霍公鳥喧作歌
    「四〇八九」(長歌)反歌「四〇九〇」「四〇九一」「四〇九二」
  右四首……
 ○ 長歌二首反歌二首に對して「右四首」と記せるもの
 卷十三「三二八〇」「三二八一」(長歌)反歌「三二八二」「三二八三」
  右四首
 卷十三「三三一〇」(長歌)反歌「三三一一」「三三一二」(長歌)反歌「三三一三」
  右四首
 ○ 長歌一首反歌四首に對して「右五首」と記せるもの
 卷十三「三三一八」(長歌)反歌「三三一九」「三三二〇」「三三二一」「三三二二」
  右五首
 ○ 長歌二首反歌三首に對して「右五首」と記せるもの
(391) 卷九 神龜五年戊辰秋八月歌一首并短歌 「一七八五」(長歌)反歌「一七八六」
    天平元年己巳冬十二月歌一首井短歌「一七八七」(長歌)反歌「一七八八」「一七八九
  右件五首笠朝臣金村之歌中出
 卷九 詠勝鹿眞間娘子歌「一八〇七」(長歌)反歌「一八〇八」
    見蒐原處女墓歌「一八〇九」(長歌)反歌「一八一〇」「一八一一」
  右五首高橋連蟲麿之歌集中出
 卷十三「三二五〇」(長歌)反歌「三二五一」「三二五二」
    「三二五三」(長歌)(反歌)「三二五四」
  右五首
 ○ 長歌三首反歌二首に對して「右五首」と記せるもの
 卷十三「三二八四」(長歌)反歌「三二八五」
    「三二八六」(長歌)反歌「三二八七」
    「三二八八」(長歌)
  各五首
 卷十三「三三〇五」(長歌)反歌「三三〇六」
    「三三〇七」(長歌)反歌「三三〇八」
    「三三〇九」(長歌)
(392)  右五首
 ○ 長歌三首、反歌四首を一括して「右七首」と記せるもの
 卷九 過足柄坂見死人作歌「一八〇〇」(長歌)
    過葦屋處女時作歌「一八〇一」(長歌)反歌「一八〇二」「一八〇三」
    哀2弟死去1作歌「一八〇四」(長歌)反歌「一八〇五」「一八〇六」
  右七首田邊福麿之歌集出
 ○ 長歌三首反歌六首を一括して「右九首」と記せるもの
 卷十三「三三三五」(長歌)「三三三六」(長歌)反歌「三三三七」「三三三八」
  備後國神島濱調使者見屍作歌一首井短歌
    「三三三九」(長歌)反歌「三三四〇」「三三四一」「三三四二」「三三四三」
  右九首
 ○ 長歌六首、短歌十五首を一括して「右二十一首」と記せるもの
 卷六 悲寧樂故郷作歌一首并短歌「一〇四七」(長歌)反歌二首「一〇四八」「一〇四九」
  讃久邇新宮歌二首并短歌「一〇五〇」(長歌)反歌二首「一〇五一」「一〇五二」「一〇五三」(長歌)反歌五首「一〇五四」「一〇五五」「一〇五六」「一〇五七」「一〇五八」
  春日悲傷三香原荒墟作歌一首并短歌「一〇五九」(長歌)反歌二首「一〇六〇」「一〇六一」
  難波宮作歌一首并短歌「一〇六二」(長歌)反歌二首「一〇六三」「一〇六四」
(393)  過敏馬浦時作歌一首并短歌 「一〇六五」(長歌)反歌二首「一〇六六」「一〇六七」
  右二十一首田邊福麿之歌集中出也
以上は一切をあげたるなり。これに照して考ふれば、「右一首」といふ語を以て「三一九」以下の長歌以下三首を一括せりといふ論は全然根據なきものなりといふべし。
 次には長歌の次に反歌を連載してその左注に「右一首」と記せるこの歌の如き例ありやといふにここに二の例を見る。一は
 卷一 中大兄三山歌「一三」「一四」の次に「一五」ありて、これに對して
  「右一首今案不v似2反歌1云々」
にしてこれは明かに、最後の一首のみをさせりと見ゆるなり。他の一は
 卷五 戀男子名古日歌三首 長一首、短二首「九〇四」(長歌)「九〇五」「九〇六」(短歌)に對して
  右一首作者未詳但以裁歌之體似於山上之操載此攻焉とあり。
 (これははじめに三首とあるによりて右一首は「九〇六」に對するものたること知らる。)
されば、これらの例に推して考ふるときは「右一首」は明かに「三二一」の一首に限るものにして、これを他の歌に及ぼすことは左注の體例に合せず。從ひて、從來の紛々の議論はすべて臆測たるに止まるといふべし。かくて上の長歌及び反歌は高橋蟲麿の歌にあらぬは明かにして、ただ殘る問題は笠金村の歌なりといふ説のみなるが、これは今より臆測して決しうべき問題にはあらず。
 
(394)山部宿禰赤人至2伊豫温泉1作歌一首并短歌
 
○山部宿禰赤人 この人の事、上の「望不盡山歌」の條にいへり。
○至伊豫温泉 この温泉は今いふ道後の温泉の事なるべし。その起源は伊豫風土記(釋紀所引)によれば、神代にあり。而して、日本紀にも屡その名見え、本集卷一「六」の歌の左注にも見えたり。この歌はただ温泉をのみうたひしにあらずしてここに行幸ありしことをうたへるものなれば、それらの事實を先づ心得ずしては、歌の意を明かにしがたし。この故に先づ、その風土記の文をあげむ。曰はく、
  湯郡 大穴持命見2悔恥1而宿奈※[田+比]古那命(ヲ)欲v活大分速見湯自2下樋1持度來、以2宿奈※[田+比]古奈命1而漬浴者※[斬/足]間有2活起居1然詠曰眞※[斬/足]寢哉。踐健跡處今在2湯中石上1也。凡湯之貴奇不2神世時耳1於2今世1染2疼痾《(病)》1萬生爲2除病存身要藥1也。天皇等於v湯幸行降坐五度也。以d大帶日子天皇與2大后八坂入姫命1二躯u爲2一度1也。以d帶中日子天皇與2大后息長帶姫命1二躯u爲2一度1也。以2上宮聖徳皇子1爲2一度1、及侍高麗惠慈僧、葛城臣等也。于時立2湯岡側1碑文記云(略ス)以2岡本天皇并皇后二躯1爲2一度1。以2後岡本天皇近江大津宮御宇天皇、淨御原宮御宇天皇三躯1爲2一度1此謂2幸行五度1也。
とあり。この事は仙覺が萬葉集注釋卷三にも見ゆるが、文章出入ありて、彼是互に詳略あり。その事は下に必要ある所にていふべし。さて上文によれば、天皇皇后等のこの温泉に降りたまひしことは風土記撰集の時まで五度ありしなり。即ち景《(一)》行天皇及皇后の行幸啓、仲《(二)》哀天皇(395)神功皇后の行幸啓、聖《(三》徳太子の行啓、舒《(四)》明天皇及皇后(皇極天皇)の行幸啓、齊《(五)》明天皇、天智(時に皇太子)天武(時に皇子)の行幸啓の五度なりといふなり。而して、景行、仲哀の二朝の記事にはこの温泉に到りましし記事なし。されど、この二朝いづれも筑紫に巡狩せられしこと史に傳ふれば、その途次にこの事ありしならむ。又聖徳太子の行啓も史に明記せず、然れども、かの碑文は後人の僞託しうべきものにあらず。舒明天皇の行幸は日本紀によれば、即位十一年十二月に至りまして十二年の四月に還御ありしなり。又齊明天皇の行幸は七年西征の途次正月に伊豫熟田津石湯行宮に御船を泊てし由日本紀に見えたり。この時の事なるべし。然もなほこの外かの木梨輕太子をば伊余湯に流されし事、古事記に傳ふる所なり。されば、古來名高かりし所にして、大和の朝廷にもはやく知ろしめしし所なりしならむ。なほ日本紀によれば、天武天皇十三年十月壬辰(十四日)の人定(亥時)に大地震ありて都鄙に損害少からず、土左國に田苑五十萬|頃《シロ》没して海となり、伊豆に一島を生じたるが、その時に「伊豫湯泉没而不出」とあり。然るにここには温泉を詠ぜり。赤人は神龜、天平頃の人なること既にいへり。さてここに「至」とあれば赤人はここに至りしことは疑ふべからず。さればその後再び出でしにて、赤人はそこに至りてこの歌を作りしなり。但し、何によりてここに至りしかは詳かならず。
 
322 皇神祖之《スメロギノ》、神乃御言乃《カミノミコトノ》、敷座《シキイマス》、國之盡《クニノコトゴト》、湯者霜《ユハシモ》、左波爾雖在《サハニアレドモ》、島山之《シマヤマノ》、宜國跡《ヨロシキクニト》、極此疑《コゴシカモ》、伊豫能高嶺乃《イヨノタカネノ》、射狹庭乃《イサニハノ》、崗爾立之而《ヲカニタタシテ》、歌思《ウタオモヒ》、辭思爲師《コトオモハシシ》、三湯之上乃《ミユノウヘノ》、樹村乎(396)見者《コムラヲミレバ》、臣木毛《オミノキモ》、生繼爾家里《オヒツギニケリ》、鳴鳥之《ナクトリノ》、音毛不更《コヱモカハラズ》、遐代爾《トホキヨニ》、神左備將往《カムサビユカム》、行幸處《イデマシドコロ》。
 
○皇神祖 「スメロギ」とよむ。考には「カミロギ」とよみたれど、古義は舊訓をよしとせり。「カミロギ」は祝詞に「神魯岐」とあるより出でしならむが、それは必ず、「カムロギ」「カムロミ」と對する語にして皇祖の男神をさす語なればここにかなはず。「スメロギ」といふ語の事は卷一「二九」の「天皇」の字の下にあげたるが如く、卷十七「四〇〇六」卷十八「四〇九四」卷二十「四四六五」等に「須賣呂伎」とかけるにて著しきなり。この語の意は既にいへる如く、御祖の天皇を申すによりて、この如く皇神祖とかけるが最もよく當れる文字なり。然れども、意はそれより轉じて皇祖より當今の天皇までをかね申すこととなれり。ここもその意なるべし。
○神乃御言乃 「カミノミコトノ」とよむ。卷一「二九」の「天皇之神之御言能」とかけると同じ意なり。「御言」は「ミコト」といふ語にあてたるものなるが、それはよみ方のみにして、意は通常「尊」「命」の文字をあつる所の尊稱にして、「御事」といふに止まり、「神の御言」は「神の尊《ミコト》」なり。天皇は現人神にまします故にかくいへること卷一「二九」の場合におなじ。而してここの神の命は下にいふ如く舒明天皇を主としてさし奉れりと見ゆ。さてこれは主格なるが、この主格は次の敷きいますに直ちにつづくものの如くなれど、實は下の「イサニハの岡に立して」につゞくなり。
○敷座 寛永本「座」を「〓」に作れどもかゝる文字なく誤なること著し。他諸本には正しく「座」をかけり。よみ方は舊訓に「シキマス」とよみたるが、「代匠記には初稿に「シキマセル」とよみたり。さ(397)れど「マセル」とよむべき時は「座有」など「有」「在」等の文字を加ふる例にして「座」一字を「マセル」とよむはこの卷の例にあらず。代匠記の清撰本には「シカシマス」ともよむべしといへるが、「シカス」は「シク」の敬語なれど、通例「フトシカス」「フトタカシカス」などいひて、「シカシマス」といへる例を知らず。強ひて五音によまむとならば、「シキイマス」とよむべし。本集の假名書の例を見るに卷十八「四一二二」に「須賣呂伐能之伎麻須久爾能《スメロギノシキマスクニノ》」とあるなど、「シキイマス」とかける例を見ず。されど、この卷十八のは「シキマスクニノ」といふ七音の句の中なるものなれば、これを以て準據としがたし。本集の「座」の字の讀例を見るに、卷二、「一六七」の「神集集座而《カムツトヒツトヒイマシテ》」「神上上座奴《カムアガリアガリイマシヌ》」「宮柱太布座《ミヤバシラフトシキイマス》」「一九九」の「行宮爾安母理座而《カリミヤニアモリイマシテ》」この卷「三五五」の「大汝少彦名乃將座《オホナムチスクナビコナノイマシケム》」「四六〇」の「年緒長久住乍座之物乎《トシノヲナガクスマヒツヽイマシシモノヲ》」卷十二「三〇六一」の「此乎谷見乍座而《コレヲダニミツツイマシテ》」卷十九「四二四五」の「墨吉乃吾大御神舶乃倍爾宇之波伎座舶騰毛爾御立座而《スミノエノワガオホミカミフナノヘニウシハキイマシフナドモニタタシイマシテ》」の「座」字はいづれも「イマシ」とよむべきことは疑ふべからず。然らば、ここも「シキイマス」と五音によむを穩かなりとす。この「シク」といふ語は卷一「三六」の「太敷座波《フトシキマセバ》」の「シク」卷二「一六七」の「天皇之敷座國《スメロギノシキマスクニ》」などの「シク」と同じものにして、知りたまふこと。「シル」は領知の義にして統治したまふことなり。即ち天皇の統治したまふといふ意。
○國之盡 舊訓「クニシレ」とかきたるは拾穗抄にある如く「クニシシ」の誤なるべきが、しかも義をなさず。拾穗抄には又「盡湯」をつゞけて「ミユ」とよみたれど、「盡」を「ミ」とよむこと理由なし。代匠記の初稿には「クニノカギリニ」とよみ、清撰には「クニノコトゴト」とよみ、槻落葉は「クニノハタテニ」とよみたり。「盡」字を「カギリ」とよむことは全然不條理といふにあらねど、十分に落着せず。(398)攷證は「ハタテ」をよしとすれど、「ハタテ」は「ハテ」にして、かくよむ時は温泉は偏陬の地にのみ存すといふ事になりて事實に合はざれば、とるべからず。これは代匠記の清撰の説をよしとす。「盡」を「コトゴト」とよむ例は、卷一「二九」の「神之盡」の下にいへるが卷二「一九九」の「夜之盡《ヨノコトゴト》」「日之盡《ヒノコトゴト》」卷三「四六〇」の「人乃盡《ヒトノコトゴト》」など、一々例をあぐるに堪へず。而して「コトゴト」といへる假名書の例も少からず。卷五「七九七」に「久奴知許等其等美世摩斯母乃乎《クヌチコトゴトミセマシモノヲ》」「八九二」に「布可多衣安里能許等其等伎曾倍騰毛《ヌノカタギヌアリノコトゴトキソヘドモ》」などこれなり。「ことごと」は既にもいへる如く「コトゴトク」の意の古き語にして「國のことごと」は國の中すべてといふにおなじきが、ここは國中到る處にといふ程の意に解すべし。
○湯者霜左波爾雖在 「ユハシモサハニアレドモ」とよむ。「湯」はここにては温泉のことなり。和名鈔を見るに、「温泉」の注に「一云湯泉和名由」とあり、又色葉字類抄由の部に「温泉ユ」とあり。而して各地の温泉を某湯といへり。たとへば枕草子に「湯は、なゝくりのゆ、有馬のゆ、玉つくりの湯」とあるが如き、古事記下允恭段に「故其輕太子流於伊余湯也」とあるが如き、上の伊豫國風土記の文に「天皇等於湯行幸降坐五度也」とあるが如き、又温泉に浴することを古來湯治といふが如き、皆この例なり。卷十四「三四三一(3368?入力者)」の「阿之我利能刀比能可布知爾伊豆流湯能《アシガリノトヒノカフチニイヅルユノ》」とあるも足柄の土肥の河内に出づる温泉にして今いふ湯河原なりといふ。即ちこの湯は温泉をいふなり。「霜」は「シモ」といふ助詞に假り用ゐしなり。この語の例は卷一「三六」に「天下爾國者思毛澤二雖有」とあるにても知らるる如く、「シモ」は「シ」と「モ」との合成せしてその事物を特にとり出で強く指していふ助詞なり。「サハ」は物の多きをいふ。さてこの二句は、上の句をうけて、わが日本國に到る(399)處に温泉の多く在ることをいへるなり。八雲御抄を見るに、卷五温泉の部にあげられたるところ、
 あしがりのゆ、相方 なゝくりのゆ、信、相摸歌 ありまのいでゆ、攝 しなのゝみゆ、伊、なゝくり同所也 いよのゆ、伊、有御幸所也 なすの、拾遺短歌 なとりのみゆ、陸有大和物語 つかまの、信後拾遺 いぬかひのみゆ、拾信乃歌
などなるが、これらは歌枕たる所をあげられしところなり。紀記萬葉にては攝津の有馬、紀伊の牟婁、伊豫の湯等は行幸の屡ありし所なり。又出雲風土記に見ゆる玉造湯の如きも古來人の浴したる著しきものなり。さてここに「湯はしもさはにあれども」といへるは、その多き温泉の中にも伊豫湯はすぐれたりといはむとて、語氣を一轉せむとて「ども」とはいへるなり。
○島山之宜國跡 「シマヤマノヨロシキクニト」とよむ。「島山」といふ語は「シマ」と「ヤマ」との義にも「島ナル山」の義にも解せらるべきが、ここは如何に説くべきか。卷九に「難波經宿明日還來之時歌」と題せる歌「一七五一」に「島山乎射往廻流河副乃丘邊道從昨日己曾吾越來牡鹿一夜耳宿有之柄二岑上之櫻花者瀧之瀬從落墮而流《シマヤマヲイユキメグレルカハソヒノヲカヘノミチユキノフコソワガコエコシカヒトヨノミネタリシカラニヲノウヘノサクラノハナハタギツセユタギチテナガル》」とあるは、その上の歌にある所の龍田山の櫻をよめることならむと思はるるが、然るときはその島山は大和川の帶流せる由にていへることとなるべし。卷十七の「能登郡從香島津發船射熊來村往時作歌」の一首「四〇二六」に「登夫佐多底船木伎流等伊布能登乃島山《トブサタテフナキキルトイフノトノシマヤマ》」とあるは、海上より能登の山を見たるなるが、これは半島を古「シマ」といひしことにて意明かなり。卷十九「四二六六」に「島山爾安可流橘宇受爾指《シマヤマニアカルタチバナウズニサシ》」「四二七六」に「島山爾照有橘(400)宇受爾左之《シマヤマニテレルタチバナウズニサシ》」とある島山は島即ち庭園内の池の内の築山をさせるものなるべし。さる由は橘は元來わが國にては貴重の園樹とせしものなればなり。又卷十一「二四三九」の「淡海(ノ)奧(ツ)島山」は明かに湖中の島の山なり。その外「アベシマヤマ」「タマツシマヤマ」「フカツシマヤマ」等あれど、いづれも島なる山の義にしてシマとヤマとの意に用ゐたるものなし。されば、ここも又島なる山の義なるべし。さてこれにつきて契沖曰はく「島山は伊與の新居郡に島山あれど、それを云にはあらず、總じて彼國をさせり」といへり。これは四國全體が、島なる由なり。「よろし」は既にいへる如く、物の足れることをいへるなり。この國にはその見事なる島山の「國」なりとなり。「國跡」の「ト」は例の「トシテ」の意をあらはすに用ゐたるものにして、この「ト」より下の「崗爾立之而」につづく語勢なり。
○極此疑 舊訓「ココシキ」とよめり。代匠記は初稿に「キハメシカ」とよめるが、清撰には舊訓によれり。童蒙抄は「キハメケン」とよみ、考は「コゴシカモ」とよめり。「此」「疑」の二字は假名に用ゐたるもあれど、「ココシキ」にては音も足らず、意も十分に調はず、ことに音調の上に不備の感あり。これは「コゴシカモ」とよめるに從ふべし。この語は卷十七「四〇〇三」に「許其志可毛伊波能可牟佐備《コゴシカモイハノカムサビ》」とあるは越中立山の巖石をよめるなり。さてこの三字を如何なる理由にて「コゴシカモ」とよみうるかと考ふるに、「極」は舊訓以下すべて「コゴ」とよみて異議なきが、これは「コク」といふ音をば「ココ」とよめるなり。それは「塞」を「ソコ」徳を「トコ」といふが如く、入聲の「ク」音が上のオ韻音に同化せるものなりとす。「疑」はその字義よりして「カモ」にあてしものならむ。「疑」を「かも」とよめる(401)例は卷十「二一三五」に「押照難波穿江之葦邊者鴈宿有疑霜乃零爾《オシテルナニハホリエノアシベニハカリネタルカモシモノフラクニ》」といふあり。又「疑意」の二字を「カモ」とよめる意も同じかるべし。その例卷十「二二九九」に「秋夜之月疑意君者《アキノヨノツキカモキミハ》」「二三二四」に「足引山爾白者我屋戸爾昨日暮零之雪疑意《アシヒキノヤマニシロキハワガヤトニキノフノユフペフリシユキカモ》」あり。これらの「カモ」は疑の意をあらはす助詞なるが、ここの「コゴシカモ」の「カモ」は疑ふ意にあらずして感嘆の意をあらはしたるものなり。されば、これは「疑」を「カモ」とよみ、その「カモ」をばここに轉用したるものなりとす。「コゴシ」は「石根之許凝敷道《イハガネノコゴシキミチ》」(卷十三「三三二九」)「石根乃興凝敷道《チ》」(卷十三「三二七四」)「石金之凝木敷山《イハガネノコゴシキヤマ》」(卷七「一三三二」)「神左振磐根己凝敷三芳野之水分山《カムサブルイハネコゴシキミヨシヌノミクマリヤマ》」(卷七「一一三〇」)とかき、又この卷の上なる歌「三〇一」「磐金之凝敷山乎超不勝而《イハガネノコゴシキヤマヲコエカネテ》」の下にいへる如く一種の形容詞なるが、その語幹を以て體言に准じて「カモ」につづけたるものにして、卷五「七九七」に「久夜斯可母可久斯良摩世婆《クヤシカモカクシラマセバ》」とある「クヤシカモ」といへると同じ語格なり。この語の意は既にいへる如く岩石の凸凹多くして歩むに困難なるさまをあらはせるものなるべし。かくてこれは下の伊豫の山々の險阻なることをいへるなり。
○伊豫能高嶺乃 「イヨノタカネノ」なり。意明かなるが、伊豫にてその國の高嶺といひうべき山は世に名高き石槌山なるべし。この山は四國第一の高山にして、周桑郡|千足山《センゾクヤマ》村に屬すといへども山頂は周桑、新居、上浮穴三郡の境界線の會する所なり。高さ千九百二十一米突あり。古より伊豫の高嶺といふが固有の名の如くなりて、歌にもよまれ諸書にもいへり。西行の歌に「わすれては富士かとぞ思ふこれやこの伊與の高根の峯の白雪」と。この山は近くは年中行事大成に曰はく「石鎚山は四國の一高山にして嶮難いふばかりなし」といひ、古くは日本靈異記(402)に「伊與國神野郡郷内有v名號2石鎚山1是即彼有2右鎚神1之名也。其山高※[山+卒]而凡夫不v得2登到1死2淨行1人耳登到而居住」とあり。その行路極めてけはしくして棧百三十五、階五ありといふ。これ上に「コゴシカモ」といへる所以なるべし。
○射狹庭乃崗爾立之而 「射狹庭」をば舊訓「イヲニハ」とよめるが、仙覺は「イサニハ」とよめり。而して「狹」字神田本に「殘」に作れるが、「サ」とよむには異なることなし。「崗」の字は卷一「一」にいへり。これは仙覺抄卷三に引ける伊豫國風土記に曰はく「立2湯岡側碑文1其立2碑文1處曰2伊社邇波之岡1也。所3以名2伊社邇波1者當土諸人等其碑文欲v見而伊社那比來因謂2伊社邇波1本也云々」この地名起源説は必ずしも是認しうべきものにあらねど、ここにいふ、射狹庭乃崗と風土記の伊社邇波之岡と同じ地にして「イサニハノヲカ」とよむことは明かなりとす。さてその岡にかの聖徳太子の建てられし碑文ありしならむが、今は見えず。蓋し、かの天武天皇の御宇の地震に埋没せしならむ。然らば、その射狹庭の岡なる地も古の姿は今傳はらぬなるべきが、温泉の附近の丘陵なることは著し。さて地圖を案ずるに石鎚山頂より道後温泉までは西西北にあたり直徑七里強あれど、山脈連亘して漸くひくくなりて道後温泉の邊に至る。されば、「伊豫能高嶺乃射狹庭乃崗」といはむこと、不條理にあらざるべし。而して延喜式神名帳を按ずるに、伊豫國|温泉《ユノ》郡に阿治美神社、出雲崗神社、湯神社、伊佐爾波神社の四座あり。その湯神社は温泉の主神にして伊佐爾波神社の所在地即ち射狹庭の岡なりしならむ。この神社今は湯山に鎭座せらるゝが、もとは道後村伊佐爾波岡にありし由神名帳考などにいへり。その伊佐爾波岡といふ地明かな(403)らぬ故に確かにそれとさしがたからむ。今ある伊佐爾波神社は俗に湯月八幡といふ社にして、今道後公園とせる湯月城址の隣の岡にありといふが、果して古の伊佐爾波の岡なりしか否か斷言しかねたり。「立之」の「之」字神田本、西本願寺本、温故堂本、大矢本、京都大學本等に無し。されどあるをよしとす。「タタシテ」は「タチテ」と同じ意の語の敬語なり。
○歌思 舊本「ウタフオモヒ」とよみたるが、管見に「ウタオモヒ」とよみ、考に「ウタシヌビ」とよめり。按ずるに「ウタフオモヒ」といふは語をなさねば、從ひがたく、「思」を「シヌビ」とよむもここにては無理なるのみならず、かくては前にその「シヌブ」べき歌存すべきに、さる事聞えねば、管見の説によるべし。これは古、天皇、皇后等のこの地にて歌をよまむと思ひたまひし由にいへるが、この地にて詠ぜられし歌といふもの世に傳らず。然れども、本集卷一「六」の歌の左注に引ける類聚歌林の文中に「一書云、是時宮前在2二樹木1、此之二樹斑鳩、此米二鳥大集、時勅多掛稻穗而養之、仍作v歌云々」とあり。その歌、誰人の詠とも分明ならず、又歌も傳らねど、赤人以前にこれをよめる歌ありしことは疑なし。
○辭思爲師 舊訓「イフオモヒセシ」とよみたれど義をなさず。管見には「コトオモヒセシ」とよみ、考は「コトシヌビセシ」とし、槻落葉は「コトシヌバシシ」とよみ、玉の小琴は「コトオモハシシ」とよむべしといへり。思を「シヌビ」とよむことは上の場合におなじく從ひがたきが、「オモヒセシ」は文字よりいへば無理ならねど、本居説の如く「オモハシシ」と敬語によむ方まされり。さてその「コトオモハシシ」とは何事をさせるかといふに、かの聖徳太子の碑文をつくりたまひしことをさ(404)せるならむといふ説あり。されど、下には舒明天皇の時の故事のみあげたれば、この辭も亦その時の御歌の辭なるべし。
○三湯之上乃 「ミユノウヘノ」とよむ。「ミユ」の「ミ」は美稱にして「ミユ」はこの温泉をさせるならむ。「上」は上下の上にあらずして「邊」の義なり。
○樹村乎見者 「コムラヲミレバ」とよむ。「樹村」は「コムラ」とよむ。樹の群をいふなり。和名鈔木具に曰はく、「纂要云兩樹枝相交、陰下曰v※[木+越]【音越禹月反和名古無良】」とあり。この温泉の邊に古來名高き一群の樹ありて、次にいふ如く、風土記にも出でたるなり。
○臣木毛 舊訓「ヲミノキモ」とかけるが、神田本、西本願寺本、温故堂本等に「オミノキモ」とかけるを正しとす。この木の事は仙覺抄卷三に引ける伊豫國風土記に「云々以2岡本天皇并皇后二躯1爲2一度1、于時於2大殿戸1有2椹與臣木1於2其上1集2鵤與此米鳥1。 天皇爲2此鳥1繋v穗等1養賜也」とあり。即ちこの時に椹《ムクノキ》と臣木とありしに鵤とシメといふ鳥とが集り居りしを舒明天皇が、この鳥の爲に稻穗をかけて養ひ賜ひしなり。なほこの事は卷一「六」の歌の左注に類聚歌林を引けるうちに「一書曰是時宮前在2二樹木1此之二樹斑鳩此米二鳥大集、時勅多掛2稻穗1而養之乃作歌」とあり。さてこの臣木は如何なる木ぞといふに今「オミ」と名づくる木あるを知らず。契沖は曰はく「臣木はもみの木なるべし。於と毛とは同韻にて通ぜり」といへり。この説は古くよりありしものと見えて、片假名萬葉集抄の頭注に曰はく「私云勘之臣木者モミノ木ナリ」とあり。樅木は今も多くある木にして和名鈔には「爾雅云松葉栢身同樅七容反和名毛美」とあるが、「オミ」が「モミ」な(405)りといふ確證は一も存せず。又日本紀神武卷に「初孔舍衛之戰有v人隱2於大樹1而得v免v難。仍指2其樹1曰恩如v母、時人因號2其地1曰2母木邑1今云2飫悶廼奇1訛也」とある「オモノキ」といふもこれなりといふ説あり。されど、これは地名にして木の種名にあらざれば、また證とするに足らず。玉の小琴に曰はく「臣木師云樅の木也。古へ樅栂などを凡ておみの木と云しを、やゝ後に樅をは眞おみと云、まおを約むればもなり云々」とあり。これは眞淵の説なるが、樅即ちおみの木なりといはむにはこの説よりよきはなし。今、他に説を知らねば、姑くこれに從ひ、後の研究をまつ。
○生繼爾家里 「オヒツギニケリ」とよむ。意は明かなり。考に曰はく、「彼岡本天皇より五御代の後、清見原天皇十三年十月に大に地震《ナヰ》ふりて此湯の所うづもれ失て涌出ずと紀に見ゆ。其後六代を經て赤人の見たる時はむかし聞えし臣の木は失て後に生繼てそれもよろしきほどにて立るなるべし」と。この言の如きことなるべし。さて風土記には椹《ムク》と臣木との二種をいへるに、ここに臣木のみをいへるは一方をあげて他を略せるか、若くは臣木のみ存せるか、如何ともいひがたし。ここは終止形なれど、意は下につゞけり。
○鳴鳥之音毛不便 古來「ナクトリノコヱモカハラズ」とよみて異説なし。音は「オト」とも「ネ」ともいひうべけれど、鳥の「オト」といひては鳴音ときこえず、「ネ」とよみては音足らず。されば、古來の訓に異議なきなり。ここに「鳴鳥之音」も云々といへるは、風土記にある「いかるが」と「しめ」との二鳥を思ひていへるなり。その鳥の鳴音も昔にかはらず、今も昔の通りに集り來て鳴けりとなり。
(406)○遐代爾 流布本にかける、〓といふ字は古今に無き字なり。これは「遐」の誤ならむ。「遐」は「邇」と相對する字にして「ハルカ」「トホシ」などの訓あり。「トホキ世」は永遠の時代の意なるが、過去にも將來にもいひうべし。これは下に「神左備將往」とあるに照して考ふるに永遠の將來にといふ程の意なり。將來にいへる例は卷九「一八〇九」に「永代爾標得爲跡《ナガキヨニシルシニセムト》、遐代爾語將繼常《トホキヨニカタリツガムト》」あり。ここも「トホキヨニ」とよむべきなり。
○神左備將往 舊訓「カミサビユカム」とよめり。されど、これは卷一「三八」「四五」「五二」以下屡いへる如く、「カムサビ」とよむべきなり。「神さび」といふ語の本意も既にいへる如く、神としてのふるまひをする義なるが、轉じては、その土地樹木などの古色蒼然として神々しくなることをもいふなり。されどここはその元の方の意にして、神聖の姿をどこまでも維持して行くならむといふなり。さてこの「ユカム」は終止にあらずして連體なり。
○行幸處 舊訓「ミユキシトコロ」とよみたれど、語をなさず。行幸は「ミユキ」とよみうれど、しかよまば、「ミユキセシトコロ」といはざるべからざるなり。然するときは「行幸」の二字を「ミユキセシ」とよむとせざるべからず。されど、「ミユキ」はいつも名詞なれば、それに「行幸」の字をあつとせば、「セシ」の用言にあたるべき分なければ、このよみ方は從ひかねたり。されば、「イデマシドコロ」とよむべきなり。「行幸」の二字を「イデマシ」とよむことは卷一「五」の「遠神吾大王乃行幸能山越風乃《トホツカミワガオホキミノイデマシノヤマコスカゼノ》」とある下にいへるが、この語の例はこの卷「二九五」の「遠神我王之幸行處《トホツカミワガオホキミノイデマシドコロ》」あり。又この卷「三一五」の「萬代爾不改將有行幸之宮《ヨロヅヨニカハラズアラムイデマシノミヤ》」とある「イデマシノミヤ」も同じ趣の語なり。これは風土記に五度(407)行幸ありし由にいへるその如く行幸ありし處なるが爲にいへるならむが、歌の趣にてはそのうちにても舒明天皇の行幸に心をひかれてあるものと見らる。
○一首の意 先づ天皇の祖宗とます神の命即ち古の天皇(主として舒明天皇)が、統治したまふ國のうち到る處に温泉は澤山に有れども、島なる山の見事なる結構なる國と思召して、險阻にして登りわづらふといはるる伊豫乃高嶺(即ち石槌山)の山脈つづきのイサニハの崗に立ちたまひて歌を思ひたまひ、辭を思ひ給ひしと傳ふるこの温泉の邊の樹の群を見れば、古の臣木は今は何代か後の植ゑ繼ぎのものなれども、古の面影を傳へ殘してあるなり、といひ、次にその木群にすだく鳥の鳴音も古昔のままにかはらずといひて、上の木群と鳴鳥とを以て昔の舒明天皇の故事をしのび、今なほ古の如くそれらのかたみの存するをのぶ。これは現在に基づいて故事を偲べるなり。次にはかく古のままに今も傳はれるが、將來も永遠にこの神聖なる遺蹟が神神しき姿にて傳はり行くならむと祝したるなり。
 
反歌
 
323 百式紀乃《モモシキノ》、大宮人之《オホミヤビトノ》、飽田津爾《ニギタツニ》、船乘〔左○〕將爲《フナノリシケム》、年之不知久《トシノシラナク》。
 
○百式紀乃、「モモシキノ」とよみて異論なし。「百」は訓によりて「モモ」とよみ、「式」は「シ」の假名に用ゐたるに似たるが、委しくいへば一字にて「シキ」の音をあらはすになほその下に「紀」を加へてそのよみ方を確實にしたるものにして嚴密にいへば、「シ」のみをあらはしたるものにあらずと見ら(408)る。集中にかゝる例少からず。たとへば、「印《イ》(イヌ)南《ナミ》」「甲《カ》(カフ)斐《ヒ》」「安積《アサ》(サク)香《カ》山」「陳《チ》(チヌ)奴《ヌ》」「陳努《チヌ》」の如きこれなり。この語は卷一「二九」「三六」に「百磯城」と記し、又世に知らるる語なるが、その意は既にいへる如く、多く石もて堅固に築ける城《キ》にして宮城の枕詞とせるなり。ここにては前の「大宮人」の「大宮」に對しての枕詞たり。
○大宮人之 「オホミヤヒトノ」とよむ。大宮人は卷一、「三〇」「三六」「四一」以下に屡見ゆる如く大宮即ち皇宮に奉仕する貴人なり。ここにてはこの地に行幸ありし時に供奉して來りし大宮人をさせりと見ゆ。
○飽田津爾 舊本「ニキタツニ」とよむ。古寫本には「アキタツニ」とよめるあり。槻落葉「アキタツニ」とよみて曰はく「飽《アキ》は饒《ニキ》の誤也と師もいはれ、誰もさおもふに、西村重波はとしのはに彼國に下りてよくその地を知れるに饒田津といふ處も飽田津といふ處も今なほありてともに津なるべき處なりといへり」とあり。略解は「飽は饒の誤なるべし」といひて「ニギタツ」とよみたるが攷證には「玉篇に饒飽也とありて相通ずれば、飽にてもにぎたづとよまんに何ごとかあらん」といひて古來の訓をよしとせり。今按ずるにここに異字ある本一も見えねば、まづ誤字説は信ずべからず。次に伊豫に「アキタツ」といふ地ありといふ説なるが、これは上にひける槻落葉の説を基にするものなるが、先づそこに饒田津といふ地も今存すといふ事信ずべからず。饒田津といふ地名今存せぬことは既にいへる處なれば、それを今も存せる如くいへる槻落葉の説はまづ怪しとせざるべからず。しかれどもそは「アキタツ」といふ地名までを否定すべきにあ(409)らず。この「アキタツ」といふ地名につきては古義にも見ゆ。曰はく「飽田津は吾(カ)黨大久保(ノ)秀浪さきに彼(ノ)地に至りて、ところのさまをよく見て、土人にくはしく尋ねしに温泉郡一萬村の西、今道一餘里に、杉繩手とて小山の間に十町ばかりの地あり。その廿町ばかり西に去て南方に武田《タケタ》津、中間に秋田津《アキタツ》北方に成田津《ナリタツ》とて古(ヘ)の三(ツ)の津の跡ありて、今は潮退て田地となれるを、古三津《フルミツ》と今に呼なせり。その十四五町西に去て新三津と呼あり。これ今の舟津なり。古の飽田津はこの古三津の地なりと云傳たりと云り」とあり。されど、古義はなほ「ニギタツ」とよみたれば、この説を認めたりとも見えず。攷證は槻落葉の説につきて曰はく「また久老が考に……とてあきたづと訓たれどおぼつかなし。實にさる所ありともこの歌につきて好事のものの別に名づけしにあらざるか」といへり。しかも、古くは宍戸大成の伊豫舊蹟考及び慶應年中に著しし半井梧庵の愛媛の面影にはいづれもこの事を否定せり。而してこれ皆その國人たるなり。この故にこの事は信ずべからず。次には「飽」字は普通「アキ」とよむべき字にして、しかも古書にこれを「ニギハフ」とよめる例を未だ見ねど、攷證の説の如くに「ニギ」とよみ得ざる文字にあらず。而して「ニギタツ」と假名書にせるは、日本紀齊明天皇七年の紀に「御船泊2于伊豫熟田津石湯行宮1」とあるに注して「熟田津此云2※[人偏+爾]枳陀豆1」とあるによりてよみ方確定せり。又仙覺が萬葉集抄卷三には「伊豫風土記には後岡本天皇御歌曰美枳多頭爾波弖丁美禮婆云々」とあり。古は「ミ」「ニ」相通へること「ミブ」「ニブ」の如き例あれば、これも通ひて用ゐしならむ。この地の事は卷一「八」の歌に出で、又卷十二「三二〇二」に「柔田津爾舟乘將爲跡聞之苗如何毛君之所見不來將有《ニギタツニフナノリセムトキキシナベナニゾモキミガミエコザルラム》」とあ(410)るも同じ地ならむ。この地の事は卷一にも既にいへる如く温泉の地なりしことは知られたれど、今は明かにここなりと知らるべからず。ただ、日本紀卷一、卷十二の歌、又この歌によりてこの温泉に近き海路の碇泊地たりしことは疑ふべからず。
○船乘將爲 「乘」字流布本「垂」につくれり。されど、古寫本の多數が「乘」につくれるを正しとす。よみは古來「フナノリシケム」とよみ來れるを槻落葉に「フナノラシケム」とよめり。先づ「將」を「ケム」にあてたるはいづれも一致せり。「將」は「ム」にあつるが普通なれど、場合によりて「ケム」にも「ラム」にもあつることは卷一以來例多きことなれば、ここに「ケム」とよまむことは不合理にあらず。而してこれは過去にありしことを想像する所なれば、「ケム」とよむを當れりとす。次に「フナノリシケム」か「フナノラシケム」かいづれをとるべきかといふに、「フナノリシケム」は「フナノリ」といふを一の體言と取扱ひてサ行三段「ス」につづけたるものにしてかかる語例は古今に通じて行はるる所なり。「フナノラシケム」の方は如何といふに、これは「フナノラス」といふ一語ありしことを認めずば成立せぬものなり。而して「フナノラス」といふ語は敬語の格にしてその源は「フナノル」といふ語なるべきなり。この「フナノル」といふ語は卷十五「三五九三」卷二十「四三八一」に例あれど「フナノラス」といへる例は未だ見ず。この故に「フナノラシケム」といふよみ方はとるべからず。「フナノリス」といへる假名書の例は卷十五「三六〇一」の歌に「安胡乃宇良爾布奈能里須良牟乎等女良我《アゴノウラニフナノリスラムヲトメラガ》」とあり。
○年之不知久 「トシノシラナク」とよむ。類聚古葉、古葉類聚鈔に前の句とつづけて「フナノルト(411)シノシラズヒサシサ」とよみたれど、「將爲」の二字を全くよまぬといふ缺點あるが上に「知らず久しさ」といふは語をなさず、從ふべからず。ここと同じ語遣の假名書の例は卷十五「三七四九」に「伊都麻弖可安我古非乎良牟等伎之之良奈久《イツマデカアガコヒヲラムトキノシラナク》」卷十七「三八九二」に「我船波底牟伊蘇乃之良奈久《ワカフネハテムイソノシラナク》」卷二十「四四一三」に「麻可奈之伎西呂我馬伎己無都久乃之良奈久《マカナシキセロガマキコムツクノシラナク》」卷十七「三九三七」に「可敝里許牟月日乎之良牟須邊能思良難久《カヘリコムツキヒヲシラムスベノシラナク》」などあり。又卷二「一五八」に「山振之立儀足山清水酌爾雖行道之白鳴《ヤマブキノタチヨソヒタルヤマシミヅクミニユカメドミチノシラナク》」などあり。これを釋するに攷證に「年之の之もじはをの意也。なくの反ぬにて年をしらぬといへる意也」といひ、大方これにて意は酌まるれど、嚴密にいへば、「の」はもとより「の」にして「を」にあらず、即ちこれは、「知らぬ」といふ語に「コト」の意ある「ク」がつきて「シラナク」と體言扱になれる爲に、上の「年」がそれの連體格の形をとりて「の」といふ助詞のつけるものなり。即ち「年のしられぬことよ」といふほどのことなりとす。
○一首の意 攷證には「まへに引る額田王の歌(卷一「二九」)に「にぎたつにふなのりせんと月まてば云々」といふ歌にむかへて、その舟のりしけん年はいつにかありけんしりがたしと也。實に年月もたしかにしれたれど、かくおぼめかしいふは歌の常也。さてこの長歌には岡本天皇のここに行幸ありしをりの事をいひ、反歌には其のち後岡本天皇の行幸ありしをりの歌をとりてよまれたり。長歌も反歌も同時の事をよめりと思ひ誤る事なかれ」とあり。この説よくいはれたるやうなれどなほ飽かぬふしあり。反歌にはかの額田王の歌を基としてよめりといふことは或は然らむなれど、さりとて、後岡本宮天皇の事をよみたりと斷言するは極端なり。何(412)となれば、この地に行幸あらむにはいつもこの飽田津に船を泊てられたりし事は疑ふべくもあらぬのみならず、やがて、かへらむとせられむにはここにて船乘りせられむことも又疑ふべからぬことなり。舒明天皇の時はこの地に止まりて京にかへりますことなく、齋明天皇の時のみこの地より還御ありしといふ事實あらば、攷證の如くいひても不可なからむ。されど、行幸の後には必ず還幸あるべく、その場合にはいつもこの熟田津より船出せられしならむが故にかくはいへるならむ。即ちここに行幸ありて、さて還御のありしことをいへるにて、かの額田王の歌をにほはせてここに懷古の情を寓せるなり。
 
登2神岳1山部宿禰赤人作歌一首并短歌
 
○神岳 大矢本、京都大學本に「ミワヤマ」と訓じ、拾穗抄又しかよめり。代匠記にはよみ方なけれどこれを釋して、「みむろ山の一名なり」といへるが故に、これも「ミワヤマ」とよめるならむ。考は「カミヲカ」とよみ、槻落葉以下これに從へり。槻落葉には「この端書も前後の例に違へり山部宿禰云々登神岳作歌云々とあるべきなり」といひたり。一往いはれたる事なれど、この集の書ざま必ずしも一定せぬ事なり。さてこれは「ミワヤマ」とよむべきか「カミヲカ」とよむべきか。「神岳」の文字は卷二「一五九」に見え、そこにも「カミヲカ」「ミワヤマ」の二訓ありて論じたることなるが、この文字より見れば、二樣共によみて必ずしも不可なるにあらず。然るに、この反歌には明日香川をよめり。三輪山に登りてよめる歌ならば、その麓に見ゆる著しき泊瀬川をこそよむべ(413)きに、それをおきて、遙かに離れたる飛鳥川をよむべきにあらず。又この長歌のうちには明日香の舊京師をよめり。これはその岳より近く見ゆる所ならざるべからず。而して三輪山より飛鳥の舊都をよまむこと、これまた無理なり。されば、ここはかの卷二なると同じく飛鳥の雷岳をさせるにて「カミヲカ」とよむべきなり。この岳の事はなほ下にもいふことあるべし。
 
324 三諸乃《ミモロノ》、神名備山爾《カムナビヤマニ》、五百枝刺《イホエサシ》、繁生有《シジニオヒタル》、都賀乃樹乃《ツガノキノ》、彌繼嗣爾《イヤツギツギニ》、玉葛《タマカヅラ》、絶事無《タユルコトナク》、在管裳《アリツツモ》、不止將通《ヤマズカヨハム》、明日香能《アスカノ》、舊京師者《フルキミヤコハ》、山高三《ヤマタカミ》、河登保志呂之《カハトホシロシ》、春日者《ハルノヒハ》、山四見容之《ヤマシミガホシ》、秋夜者《アキノヨハ》、河四清之《カハシサヤケシ》、旦雲二《アサグモニ》、多頭羽亂《タヅハミダリ》、夕霧丹《ユフギリニ》、河津者驟《カハヅハサワグ》、毎見《ミルゴトニ》、哭耳所泣《ネノミシナカユ》、古思者《イニシヘオモヘバ》。
 
○三諸乃 「ミモロノ」とよむ。古寫本の多くに「ミモロノヤ」とよみ、拾穗抄もしかよめり。然れども、ここに「ヤ」とよむを示す文字なく、又古歌には四音一句なる例少からず、ことに卷九「一七六一」に「三諸之神邊山爾《ミモロノカムナビヤマニ》」卷十三「三二六六」に「三諸之神奈備山從《ミモロノカムナビヤマユ》」と四音一句なる「ミモロノ」といふ旁例あれば、「ミモロノ」とよみて可なりとす。「ミモロ」は御室の義にて神をいつき奉る室をいふ。日本紀天武天皇の卷に見ゆる「宮中御窟院」とあるは佛を祭られたるものかと思はれたるが、古來この御窟を「ミムロ」とよめるも神佛の差あれど同じ語なるべし。而してこれはいづれにあれ神を祭れる所をいふ語なり。普通に三輪山をさすは、この神は古、大和國にて第一の神と崇め(414)たるよりして專ら「ミモロ」の名を負せたるにて「ミモロ山」といふ本來固有の名稱にてはあらざりしなり。ここにては上に述べたる神岳をさす爲に用ゐしなり。神岳の事は次にいふべし。
○神名備山 舊訓「カミナヒヤマ」とよみたるが古義は「カムナビヤマ」とよめり。これは「神名火」(卷八「一四六六」)「神奈備山」(卷十三「三二六八」)「神南備」(卷九「一七七三」)「甘南備山」(卷十三「三二三〇」(「甘甞備」(卷十三「三二二七」)「神名火山」(卷十三「三二六六」)などかけるが、假名書にて「カミナビ」「カムナビ」を決すべき例を見ず。されど、神風(カムカゼ)(卷一「八一」に説明あり)神長柄(カムナガラ)(卷一「三八」に説明あり)神佐備(カムサビ)(同上)などの例によりて「カムナビ」とよむをよしとすべし。この神名備山は地名と見ゆれど、もと神名備といふ語は出雲國造神賀詞に「大御和乃神奈備《オホミワノカムナビ》」「葛木刀鴨能神奈備《カヅラキノカモカムナビ》」「飛鳥乃神奈備《アスカノカムナビ》」とある如く、神を祭る所を示せり。これは祝詞考に「神の毛理ちふ言なり。毛理の約|美《ミ》なれば神なみといふぞ本なるを美《ミ》と備《ビ》は常に通はし云へり」といひたるが大體かかる事なるべし。而して、上にあげたる外大和國の諸所、又山城などにあるはいづれも神の鎭りますよりの名なり。さてここは神岳即ち、上にいへる飛鳥の神奈備のある地なれば神奈備山といふ名も生ぜしなり。今はこの地は雷岡といひて、高市郡飛鳥村大字雷にありて俗に「上の山」「城山」といふ由なること卷二「一五九」の下にいへり。而してこれはこの卷「二三五」にある雷岳の事にしてこれを神岳といふ「カミ」は「雷」を「ナルカミ」ともたゞ「カミ」ともいひしよりの名なり。さてそこを「雷岳」といふ由は日本靈異記によれば、雄略天皇の時に小子部瀲〓〓に勅して三諸岳の雷を捉へしめられし故事によりて名を得たるものなり。さてこの山をばかく「ミ(415)モロノカムナビヤマ」といへる例は卷十三「三二六八」に「三諸之神名備山從登能陰雨者落來奴《ミモロノカムナビヤマユトノグモリアメハフリキヌ》」とある、又逆に「カムナビノミモロノヤマ」とよめるあり。卷十三「三二二七」の長歌に「甘南備乃三諸山者春去者春霞立秋往者紅丹穗經甘甞備乃三諸乃神之帶爲明日香之河之《カムナビノミモロノヤマハハルサレバハルガスミタチアキユケバクレナヰニホフカムナビノミモロノカミノオビニセルアスカノカハノ》云々」などあり。又單に「カムナビヤマ」といへるは卷十三「三二六六」に「味酒乎神名火山之帶丹爲留明日香之河乃《ウマサケヲカムナビヤマノオビニセルアスカノカハノ》云々」とありて、いづれも飛鳥川をよめるを見るべし。この神岳即ち雷岳は既にもいへる如くにして飛鳥川はその雷岳の南方より西方にかけて曲り流れあるなり。この事實によりても、神岳即雷岳にして同時にここの神名火山なることを知るべし。
○五百枝刺 「イホエサシ」とよむ。「五百」は數の甚だ多きことをいはむ爲に用ゐたるなり。「枝」は「エダ」の事なるが、これを單獨に用ゐたる假名書の例は卷二十「四四三九」に「麻都我延乃都知爾都久麻泥《マツガエノツチニツクマデ》」などあり。かく合成語となれるは「ホツ枝」「シツ枝」など、例多く一々あぐべからず。「刺」は「サシ」といふよみ方をかれるのみにして意は枝の生ひ出づるをいふ「さす」といふ語たり。
○繁生有 「シジニオヒタル」とよむ。この語の例は卷四「五〇九」に「打靡四時二生有莫告我《ウチナビキシジニオヒタルナノリソガ》(能)」卷六「九〇七」に「水枝指四時爾生有刀我乃樹能《ミヅエエサシシジニオヒタルトガノキノ》」とあり。又「繁」を「シジ」とよむことは卷十三「三二八六」に「竹珠呼之自二貫垂《タカダマヲシジニヌキタリ》」とあると卷三「三七九」にある「竹玉乎繁爾貫垂《タカダマヲシジニヌキタリ》」とを比べ、卷十五「三六一一」に「於保夫禰爾麻可治之自奴伎《オブネニマカヂシジヌキ》」とあると卷三「三六八」に「大船二眞梶繁貫《オホブネニマカヂシジヌキ》」とあるとを比べて知るべし。即ち多くの枝の繁く生ひたるなり。
○都賀乃樹乃 舊訓「トカノキノ」とよみたるを考に「ツガノキノ」と改めたり。「都」は「ト」とよむこと(416)をうべきが、本集にてはすべて「ツ」の假名に用ゐて「ト」にあてたる例を見ず。樹の名としては本集卷六「九〇七」に「刀我乃樹能《トガノキノ》」とある例もあれど、卷十七に「都我能奇《ツガノキ》」(四〇〇六)卷十九に「都我能木乃《ツガノキノ》」(四二六六)などあり。今は文字のままに「ツガノキ」とよむをよしとすべし。これは、その神岳に當時「ツガノキ」の生ひてありしならむが、今はそれをいひて、かねて下の「つぎ」といふ爲の枕詞とせり。この枕詞のことは卷一「二九」の「樛木乃彌繼嗣爾《ツガノキノイヤツギツギニ》」の下にいへり。
〇彌繼嗣爾 「イヤツギツギニ」なり。その意は卷一「二九」の下にいへるが、ここは人々の代々つぎつぎにといふなり。
○玉葛 「タマカヅラ」にして、この語は卷二「一〇一」にもいでたり。玉はただ美稱にして深き意なし。ここは次の「絶ゆる事無く」の枕詞とせるものなるが、「葛」は汎く蔓草をいへる語にして、その長く延《は》へゆくをとりてかくはいへるなり。卷十四「三五〇七」「多麻可豆良多延武能己許呂和我母波奈久爾《タマカヅラタエムノココロワガモハナクニ》」卷十一「二七七五」「玉葛絶時無見因毛欲得《タマカヅラタユルトキナクミムヨシモガモ》」卷十「二〇七八」「玉葛不絶物可良《タマカヅラタエヌモノカラ》」などみなおなじ心よりいへるなり。
○絶事無 「タユルコトナク」とよむこと異説なし。
○在管裳 「アリツツモ」とよむ。この語の例は卷二「八七」にあるが、意はやゝ異にして、ここはいつもかくありつゝもの意なり。
○不止將通 「ヤマズカヨハム」とよむ。略解は「不止」を「ツネニ」とよみたれど、この語の例は卷十四「三三八七」に「可都思加乃麻末乃都藝波思夜麻受可欲波牟《カツシカノママノツギハシヤマズカヨハム》」卷十七「四〇〇五」に「伊麻見流比等母夜(417)麻受可欲波牟《イマミルヒトモヤマズカヨハム》」卷二十「四三〇三」に「也麻受可欲波牟伊夜登之能波爾《ヤマズカヨハムイヤトシノハニ》」などあれば、舊訓をよしとす。これは、これより中絶することなく、この地に通ひて見むと思ふ、其の飛鳥の舊都といふことなれば、「カヨハム」は終止にあらずして連體格なりとす。
○明日香能舊京師者 「アスカノフルキミヤコハ」とよむ。考に曰はく「あすかは小治田宮より淨見原の宮まで六の御代の古郷なり」といひ、攷證はこれを非として「ここは專はら清御原宮をさせりとおぼし」といへり。この説をよしとす。小治田宮岡本宮は、古來飛鳥宮と稱へられたることなし。赤人は神龜天平の間の人にして奈良朝の人なれば、この飛鳥の地を舊京といへるに合へり。古の飛鳥宮のあとは、今明確にはあらねど、雷丘より遠からぬ地なりしならむ。さて端書とこの詞とによりて見れば神岳に登りて飛鳥の舊都を望み、その舊都を主としてうたへるものなりとす。
○山高三 「ヤマタカミ」なり。「タカミ」はマ行四段活用の連用形なれば、山が高くしてといふ程の意なり。この山をば古義に神岳をさせりとしたるが、新講には「この句を古義、註疏、新考に神岳の高い事を云つたやうに説いてあるけれども、神岳は小高い丘であつて決して高いとは云へない。(たとへ誇張したとしても)飛鳥の地にあつては西に遠く金剛葛城が高く聳えてゐるが、それまで行かずとも、東に近く多武峯山彙があり、それから南にかけて高取壺坂から吉野の連山が屏風を廻したやうに見え、又西には甘橿丘つづきの野口、五條野あたりの丘陵が指呼の間にあるのであるから、此所はそれらの山々を指したものに相違ない」とあり。されどこれも稍(418)過ぎたり。甘橿丘、野口、五條野あたりの丘陵をも山といふべくは雷丘を山といはむに差支も無き筈なるをや。これは全釋に「山は飛鳥附近の連山を指したのである。東から南にかけて倉橋、多武、細川、南淵、高取などの諸山が連なつてゐる」といへる程の意なるものなるべし。。
○河登保志呂之 「カハトホシロシ」とよむ。この河は飛鳥川をさすこといふまでもなし。「トホシロシ」は形容詞なるが、卷十七「四〇一一」にも「山高美河登保之呂思《ヤマタカミカハトホシロシ》」とあるあり。古典にはこの語はこの二例に止まりて、その他には見るところなし。これを釋するに契沖は「大きにゆたけき意なり。神武紀下云|集《ツトフ》2大《トホ》小《シロク・サキ》之魚《イヲトモヲ》1」といひ、考には「何にても大きなる事」といひたり。本居は玉の小琴に於いて「とほしろくはあざやかなることなり。凡てあざやかなることをしろしと云。いちしろきも是也。又御火しろくたけと云もあざやかに也。續世繼に、其大納言の御車のもむこそきらゝかにとほしろく侍りけれと有。中頃までもいひし言にて古の意と同じ。歌に遠白妙と云も物あさやかなるを云り」といひ、槻落葉も略似たる説にて「灼然をいちじろしといふをむかへて此とほじろの言《コト》を考るにいちととほとはその意相近し。いちとはあるか中にぬき出ていふ言にて俗にい(ツ)ち至(ツ)てなどいふ言にて至《イタリ》のたりを約めていちとはいふなるべし。さてはとほ〔二字二重傍線〕も達《トホル》の意にて達と至とはやゝ近し。いづれ白きはあざやかなるをいへば、さやけしといふにおなじ」といへり。これより後諸家の考區々として攷證の如きは「見る人心のひかん方にしたがふべし」とさへいへり。然るに、新考は雄大の義なるべしといひて、しかも「所詮見る人の心々なり、余は從來の義として用ゐたり」といひ、橋本進吉氏は「萬葉集に於いては(419)『とほしろ』の『ろ』には呂の字を宛て『しろし』(白)又は『いちじろし』の『ろ』には路の字を宛てて居るが元來萬葉時代には『ろ』の假名は二類にわかれて居たのであつて呂と路とは別の類に屬して決して混用する事なく隨つて當時その發音を異にしたものと考へられる。さすれば『とほしろし』の『しろし』と『しろし』(白)及び『いちしろし』の『しろし』とは同音でなく、隨つて之を同語と認める事は容易に許されないのである」といひて宣長久老等の説に異議を挾み、これを雄大偉大の義にとるべしと主張せり。(奈良文化第十七號)先づこれらの説につきて考ふべきはその意義と語源論とを直ちに混同すべきにあらざることなり。先づ語源説にては槻落葉の説と橋本氏の説との二なり。玉の小琴の説はただ「いちじろし」と「とほしろし」と似たりといふのみにて同語源なりと強く主張せるにあらず。槻落葉の「とほ」と「いち」と同じとせる説は臆説たるに止まりて確實なる根據ありといふにあらねば、これも論爭すべき程度のものにあらず。橋本氏の論は學術的態度をとれるものなれば、一往論ぜざるべからず。この説は石塚龍麿の假字遣奧山路によれるものなれど、その説果して確たる根據あるものなりや。石塚はただかかる用法の區別ありといふに止まり、發音の上に差ありとまでは論じたるにあらず。橋本氏はこれを發音上の差によるといはるれど、發音上如何に差のありしかは明示せられず。吾人もかかる大體の差別を立てうべしとせばこれには何等かの理由ありしにあらざるかとの問題に賛成するを躊躇せざるものなれども、實際の用例を見るに未だ遽かに賛成し得べき程度の事實を見るを得ざるものと思ふ。今石塚の説によるとすと(420)も、それには例外の往々存するを如何にせむ。ここには、當面の問題としてこの「ろ」につきて見るに、石塚は古事記及び萬葉集に通じて
    古事記  萬葉集
 (一) 呂侶   呂侶
 (二) 盧路樓  漏路
となり、(一)の團内(二)の團内にては通用すれど、(一)の團と(二)の團とは通用せずといへり。然るに事實必ずしも然らざるものを見る。今その大要をいはむに、「まつろふ」といふ語を
 古事記には「麻都|棲〔右○〕波奴」(景行卷)
 日本紀には「麻都|漏〔右○〕波奴」(崇神卷)
と書けるに、萬葉集には
  麻都|呂〔右○〕倍乃牟氣乃麻爾麻爾(卷十八、四〇九四)
  麻都|呂〔右○〕布物能等(卷十八、四〇九四)
  麻都|呂〔右○〕布物跡(卷十九、四二一四)
  麻都|呂〔右○〕倍奴(卷二十、四四六五)
とありてすべて「呂」のみを用ゐて、(二)の團の文字を用ゐたるものなし。又「くろ」といふ語を古事記には
  ※[言+可]具|漏〔右○〕比賣命(景行卷)
(421)とあれど、萬葉集には
  可具|呂〔右○〕伎可美爾(卷十五、三六四九)
  迦具|漏〔右○〕伎可美爾(卷五、八〇四)
とありて、二團混用せり。又「しろたへ」といふ語は萬葉集に於いて(同じ卷に於いてすら)
  之|路〔右○〕多倍(卷十五、三六〇七、三六二五、三七七八)
  思|漏〔右○〕多倍(卷十五、三七二五)
  之|呂〔右○〕多倍(卷十五、三七五一)
の如く二團混用せり。又「うつろふ」といふ語は萬葉集中にて見るに、一方に
  字都|呂〔右○〕波牟可母(卷十九、四二八二)
  字都|呂〔右○〕比(卷十九、四一六〇)字都|呂〔右○〕比爾家里(卷五、八〇四)(卷十五、三七一六)
  伊麻波字都|呂〔右○〕布(卷十五、三七一三)宇都|呂〔右○〕布麻泥爾(卷十七、三九七八)(ナホアリ)
の如く「呂」をかけると、
  字都|路〔右○〕比奴良牟(卷十七、三九一六)
  宇都|路〔右○〕布麻泥爾(卷十七、三九八二)
の如く「路」をかけるとの二樣あり。かくの如くに出入、混雜の存するをば、龍麿はそれら自説に合せぬものはすべて「不正なるべし」といひたれど、事實を歸納的に認めむ研究上の態度としてはかくの如き事實の一を正とし他を不正と斷すべき標準を示さずば獨斷の譏を免れず。さ(422)れば「とほしろし」の「しろし」と「いちしろし」の「しろし」とは全然別の語なりといふ事は容易に斷言しうべきものにあらざるべし。今この「とほしろし」といふ語を考ふるに「くしき」の活用をなすものなるは著しく、その構成を考ふるに一般に形容詞の語幹の三音以上なるものは單一の組織よりなれるものなくして多くは二個の語根又は語幹の合成より成るものなり。而して多くの場合はある形容詞の語幹を他の形容詞の上に冠して熟成せしめ
  あかぐろ〔四字傍線〕し  あつくる〔四字傍線〕し  あをぐろ〔四字傍線〕し  ほそなが〔四字傍線〕し  ながぼそ〔四字傍線〕し
の如くするを例とす。今のこの語も、その構造は
  「とほし」(「通」の語幹或は「遠」の語幹)と「しろし」(著)
との合成なるべく考ふるが普通なり。かくて合成せる語は、他の諸例に見る如く、一方のみの意をあらはすものにあらずして、元語たる二者の有する觀念の合體せる意をあらはすものとなるを多しとす。而して二者の觀念の合體せる結果としては新なる觀念を生ずるものにしてただ元の語の觀念を二個集めたりといふに止まらざるなり。今この「とほしろし」もまた然り。「とほ」は「遠く」「通る」の語幹としては深遠通達の意あり、「しろし」は顯著の義あり。かくて深遠通達にしてしかも顯著なる義とせば、雄大偉大の義として可なる筈なり。しかも、本集なるはいづれも、「山高み河とほしろし、」といへるにて河の流の遠く著しく通れる意は明かに見ゆるにあらずや。かくて古來の人々の意見は實はさまで大差なく、結局は同じ事をさせるものなり。かの日本書紀の傍訓の如きは往々後人の語を混ずるを以て確證とすべきにあらず。
(423)○春日者 「ハルノヒハ」はなり。意明かなり。
○山四見容之 古來「ヤマシミガホシ」とよめり。童蒙抄は「見」を「美」の誤として「ヤマシウルハシ」とよめり。然るにここには類聚古集に「見」を「※[貌の旁]」に作るはあれど、「美」に作る本一もなし。しかもその「兒」も亦誤にして、「見」を正しとすべし。惟ふに童蒙抄は「容」字を意義にて用ゐたりと見たる爲に上に「美」あるべしとしたるものならむ。然れどもこれは「容」を「カホ」といふ語にあつるその音をかりたる一種の假名たるに止まるものならむ。「容」は容貌の義にして、これに「カホ」の訓あることは明かなるが、集中に「容鳥《カホドリ》」(卷三「三七二」卷十「一八九八」)「容花《カホパナ》」(卷八「一六三〇」)などあり。さればこれを「ヤマシミガホシ」とよむべきなり。卷六「一〇四七」に「山見者山裳見貌石里見者里裳住宣《ヤマミレハヤマモミガホシサトミレバサトモスミヨシ》」とある「見貌石」も「みがほし」にして「貌」を「カホ」とよみてここに借りたるは同じ趣なり。さてこの語の例は古事記仁徳卷の磐之媛皇后の歌に「和賀美賀本斯久邇波迦豆良紀多迦美夜《ワガミガホシクニハカヅラキタカミヤ》」日本紀顯宗卷の歌に「野麻登陛※[人偏+爾]瀰我保指母能婆於尸農瀰能※[草がんむり/呂]能施※[加/可]紀儺屡都奴娑之能瀰野《ヤマトヘニミガホシモノハオシヌミノコノタカキナルツヌサシノミヤ》」とあり、本集にては卷十七「三九八五」に「夜麻可良夜見我保之加良武《ヤマカラヤミガホシカラム》」卷十八「四一一一」に「多知婆奈能成流其實者比太照爾伊夜見我保之久《タチバナノナレルソノミハヒタテリニイヤミガホシク》」「四一一二」に「移夜時自久爾奈保之見我保之《イヤトキジクニナホシミガホシ》」などの假名書の例も少からず。語の意は槻落葉に「山の出たちの容《カホ》よきをほめて見貌《ミカホ》しといふともいふべし」といひたれど、これも容貌の文字にとらはれたる考へなり。これは契沖が「見之欲《ミガホシ》なり」といへるを正しとすべし。考にはこれを受けて更に「常にはみまほしといひならへり」といへり。この語の組立は「見」を體言扱にしてこれを「欲し」の主格にしたるその「みがほし」を以てまた更に一の(424)用言として取扱ひ今の「見たし」といふに似たる意に用ゐたるにて「山之」の「シ」は強く示す意の助詞たるなり。さて「ミマホシ」といふ語は萬葉の頃になく、平安朝の頃よりあらはれ、又平安朝の頃には「ミガホシ」は見えねば、「ミガホシ」の亡びて「ミマホシ」これにかはれるならむ。
○秋夜者 「アキノヨハ」なり。上の「春日者」に對せるなり。
○河四清之 古來「カハシサヤケシ」とよめり。古今六帖にこの歌をひきて「カハシモキヨシ」とよみたれど、契沖はこれを非とせり。「サヤケシ」の例と意とは卷一「六一」の「見爾清潔之《ミルニサヤケシ》」の條にいへり。以上四句は山水の景色が春秋晝夜いつ見てもさやけくみがほしといへるなり。
○且雲二 「アサグモニ」とよむ。意明かなり。攷證に曰はく「旦雲は必らず朝ゐる雲にのみ限らざれど旦夕を以て對になせるにて云々」といへり。
○多頭羽亂 「亂」字神田本に「散」とあり。されど、大多數の本につきて「亂」を正しとすべし。舊訓「タヅハミダレテ」とよみたるを考に「タヅハミダレ」と六音によめり。ここに「テ」に當る字なし。加之、ここに「テ」を加へてよむ時は次の句と對するものとならずして下の句に引きつけらるる勢となるによりて六音のまゝ、「テ」を加へぬをよしとす。「羽」は助詞の「ハ」をあらはすに止まりて鳥の羽の意にあらず。「タヅ」は卷一「七一」にいへる如く、鶴類一群の總名なりしならむ。考に曰はく「飛事なければ亂と云ならん下にもあり」と。されど鶴の飛事なしとは如何なる事か明かならざるのみならず、「下にもあり」といひたれど、さる例は集中に見る事なし。かた/\從ひかねたり。攷證に「朝には雲ゐに鶴の飛亂といへる也。亂《ミタレ》はいくつともなく群飛せるをいへり」と(425)あり。この説によるべきが、「亂」は古は四段活用なれば、「ミダリ」といふべきなり。
○夕霧丹 舊訓「ユフキリニ」とよみ童蒙抄に「ユフクレニ」とよみたり。「霧」字類聚古集に「霞」とあれど、大多數の本によりて「霧」を正しとすべし。さて「霧」を「クレ」とよむことは道理無ければ、童蒙抄の説は從ひがたし。
○河津者驟 舊訓「カハヅハサワグ」とあり。※[手偏+君]解に「カハツハトヨム」とよみたれど、「驟」は「トヨム」とよむべき文字ならねば、從ふべからず。「驟」を「サワグ」とよむことは卷二「一九九」の「弓波受乃驟《ユハズノサワギ》」の下にいへる如く、卷九「一七〇四」に「細川瀬波驟祁留《ホソカハノセニナミノサワゲル》」にても知るべし。「河津」は何をさせるか。本集には川にすみて鳴くよしをうたへるもの多し。この卷「三五六」に「明日香河乃夕不離川津鳴瀬之清有良武《アスカノカハノユフサラズカハヅナクセノサヤケカルラム》」卷六「九一三」に「三芳野之眞木立山湯見降者川之瀬毎開來者朝霧立《ミヨシヌノマキタツヤマユミオロセハカハノセゴトニアケクレバアサギリタチ》、夕去者川津鳴奈辨《ユフサレハカハヅナクナベ》」卷十「一八六八」に「川津鳴吉野河之《カハヅナクヨシヌノカハノ》」「二一六一」に「三吉野乃石本不避鳴川津諾文鳴來河乎淨《ミヨシヌノイハモトサラズナクカハヅウベモナキケリカハヲサヤケミ》」卷七「一一〇六」に「河豆鳴清川原乎今日見而者《カハヅナクキヨキカハラヲケフミテハ》」卷六「九二〇」に「芳野河之河瀬乃淨乎見者上邊者千鳥數鳴《ヨシヌノカハノカハノセノキヨキヲミレバカミベニハ》、下邊者河津都麻喚《シモベニハカハヅツマヨブ》」卷七「一一二三」に「佐保河之清河原爾鳴知鳥河津跡二忘金都毛《サホガハノキヨキカハラニナクチドリカハヅトフタツワスレカネツモ》」卷八「一四三五」に「河津鳴甘南備河爾陰所見而《カハヅナクカムナビガハニカゲミエテ》」など少からず。而して、卷十を見るに、その秋雜歌の「詠蝦」と題する五首共に「川津」(二一六一、二一六二、二一六三、二一六四)「河津」(二一六五)の字を用ゐたり。又秋相聞の「寄蝦」と題する一首「二二六五」には「蝦」の字を用ゐたるを古來「カハヅ」とよめり。この蝦は「カヘル」なるが、本草和名、和名鈔等いづれも「カヘル」の語ありて「カハヅ」の語なし。而して本集には又「カハヅ」の語のみありて假名に「カヘル」とかけるなし。これによれば、「カヘル」「カハヅ」同じも(426)のにて古今によりて稱の異なるが如し。然るに、久老の槻落葉の別記には「河蝦は春秋ともによめりとおもふは集中をふかく考ざるもの也。すべて秋にのみよみて春によめる例なし」といひてその例證をあげ、次に「さて右の歌どもは河にのみよみ合せて古くは田にも沼にも池にも蝦《カハヅ》をよめる例なければ、今の田面に鳴《ナク》蛙《カハツ》にはあらじとおもへるに、云々」といひて、今俗に「カジカ」といふ名にて弄ぶ一種の蝦をさすなりといへり。かくてより後は殆ど、これに確定せる由に見ゆ。今「カジカ」といふはもと「カジカ」といふ川魚の名にしてこの蟲の鳴くをば、その魚の鳴くぞと心得ていひはじめし名なりとおぼえて、「カジカ」といふ一種の蝦の名は古には全く見ぬところなり。畔田伴存の古名録に曰はく、「河津ハ蝦蟇《カヘル》ト錦襖子《カシカ》ヲ通ジテ云者也。錦襖子は春夏間ニ鳴テ秋夜ハ不鳴也」といひ、又「河鹿ノ名ハ後世ノ名ニシテ物類稱呼ニ載タリ」とあり。されば、「カハヅ」即ち「カヘル」にて、古へは今の「カヘル」も「カジカ」も同じく「カハヅ」といへるならむ。而してここに聲を稱美する「カハヅ」は今いふ「カジカ」の事を主としていへるならむ。この蟲は沼田などにはすまず、清流にすむものにして、我はかつて山城清瀧川にて初夏にこれをききたるが、仙臺の廣瀬川にては盛夏にこれをきくをうべし。これは秋には鳴かずと古名録にいへれど、秋もたけてこそ鳴きもせざれ、初秋にはなほ鳴きしきるものをや。本集又初秋によめり。これは蛙の類にして體痩せて色黒く疣あり、趾端に吸盤あり、魚のかじかの棲む如き谷川の清流の岩間にすむなり。飛鳥川の清流に古この蟲の多く棲みしならむ。サワグは新撰宇鏡に「〓」に注して「衆口地佐和久」とあり、又「※[耳+舌]」に注して「誼語也」「左和久」とあるにても明かなる如く多くの(427)蝦のなくをいへるなり。
 以上一段落にして、その風物のよきをたたへたるなり。
○毎見 「ミルゴトニ」とよむ。この語は見る度毎にの意か、見る物ごとにの意か。全釋には見るものごとにの意とせり。これをよしとすべし。
○哭耳所泣 舊訓「ネニノミナカル」とよみたり。古今六帖には「ナキノミソナク」とよみたるを代匠記は非とせり。考は「ネヲノミシナカユ」とよみ、槻落葉は「ネノミシナカユ」とよめり。「哭」は「ネ」にして(卷二「一五五一」「所泣」は「ナカユ」とよむべきこと卷二の「聞者泣耳師所哭《キケバネノミシナカユ》」(二三〇)と同じ關係にあり。而して本集の例を見るに、「禰能尾志奈可由《ネノミシナカユ》(卷五「八九七」「八九八」)「禰能未之奈可由《ネノミシナカユ》」(卷十五「三六二七」)「禰能未之奈可由《ネノミシナカユ》」(卷十七「四〇〇八」)「禰能未之奈加由《ネノミシナカユ》」(卷十五「三七三二」卷二十「四四八〇」「四五一〇」)の如く假名書にて「ネノミシナカユ」とのみあり。又上の卷二の「二三〇」又卷四「五〇九」の「哭耳之所哭《ネノミシナカユ》」と「哭耳之所泣《ネノミシナカユ》」(卷九「一八一〇」卷十三「三三一四」)「哭耳思所泣《ネノミシナカユ》」(卷十三「三三四四」)とかけるも「ネノミシナカユ」とよむべきものなり。かくて「ナカユ」の上に「ネヲノミナカユ」「ネヲノミシナカユ」と上に「ヲ」を加へてよみたる例は一も見出でず。されば、ここには「シ」にあたる文字なけれど、槻落葉の説に從ふべし。
○古思者 舊訓「ムカシオモヘバ」とよみたれど、「古」は「ムカシ」とよまず、「イニシヘ」とよむべきものなれば、考に從ひて「イニシヘオモヘバ」とよむべし。この句は「毎見」の上にあるべきを反轉してここにおかれたるにて、飛鳥の京の盛なりし古の事を思へばといふなり。
(428)○一首の意 この神岳に登りて見れば、この山に多くの枝のさして盛えてあるつがの樹の名の如く長くつぎ/\に絶ゆる事なく常に通ひつつ見たしと思ふこの飛鳥の舊都は高き山も見え河も遠く著しく流れ、山水明媚の地にして、春には山のさま見るに足り、秋の夜は河の景色もさやかに見ゆ。朝は雲間に鶴亂れ飛び、夕は霧の中より河鹿の音かまびすしく聞ゆ。(第一段)かくの如き景勝の地にして見る物として舊都の盛んなりし古の形見ならぬはなければ、懷舊の情に堪へずして自然に泣かるることよとなり。
 
反歌
 
325 明日香河《アスカガハ》、川余藤不去《カハヨドサラズ》、立霧乃《タツキリノ》、念應過《オモヒスクベキ》、孤悲爾不有國《コヒニアラナクニ》。
 
○明日香河 「アスカガハ」いふまでもなし。既にいへる如く、かくあるによりて神岳が「カミヲカ」なるべきこと疑ふべからず。
○川余藤不去 「カハヨドサラズ」とよむ。「カハヨド」といふ語は、この卷「三七五」に「吉野爾有夏實之河乃川余杼爾鴨曾鳴成山影爾之※[氏/一]《ヨシヌナルナツミノカハノカハヨドニカモゾナクナルヤマカゲニシテ》」卷十二「三〇一九」に「河余杼能不通牟心思兼都母《カハヨドノヨドマムココロオモヒカネツモ》」とあり。「よど」は水のよどみたる所をいひ、川淀は川の淀みをいふ。「サラズ」はその川淀の邊に絶えず霧の立つをいふとするが、普通に行はるる説のやうに見ゆ。然れども、然る時は明日香川の淀みの邊には晝夜たえず、霧の立ちこもりてある事と見ざるべからず。然れどもさる事ありうべき事にあらねば、この説は從ひがたし。この「さる」はなほ「去る」の文字の意にて、その川淀の邊に即(429)して霧の立つといへるのみの事なるべし。卷十四「三五一三」に「由布佐禮婆美夜麻乎左良奴爾努具母能《ユフサレバミヤマヲサラヌニヌグモノ》」卷十七「三九三二」に「須麻比等乃海邊都禰佐良受夜久之保能《スマビトノウミベツネサラズヤクシホノ》」卷十「二一六一」に「三吉野乃石本不去鳴川津《ミヨシヌノイハモトサラズナクカハヅ》」これらみなその土地に即していへるなり。ここも川淀は殊に水分に富む故にその邊に霧の立ちやすきによりていふと思はる。
○立霧乃 「タツキリノ」とよむ。「立ツ」は雲霞霧のそこの邊に生ずるをいふ。霧にいへる例は、この外には卷十一「二六八〇」に「河千鳥住澤上爾立霧之《カハチドリスムサハノヘユタツキリノ》」卷十二「三〇三六」に「佐保山爾立雨霧乃應消所念《サホヤマニタツアマキリノケヌベクオモホユ》」卷十七「四〇〇三」に「安佐左良受綺利多知和多利《アササラズキリタチワタリ》」卷十九「四二一四」に「立霧之失去如久《タツキリノキエユクゴトク》」卷二十「四三一〇」に「安吉佐禮婆奇里多知和多流《アキサレハキリタチワタル》」などあり。これは川淀の邊に立つ霧の如くといひて下の句にかゝれるものなるが、そはこの霧のあるが爲なるべし。なほその意味は下の句に往きていふべし。
○念應過 「オモヒスグベキ」とよむ。ここに、この「オモヒスグ」といふは如何なる意かといふ問題と、上の「立霧の」といへる語が、この句に如何なる關係に立つかといふこととの二の問題を生ず。先づ、上の句がここに如何なる關係を有するかと考ふるに、卷十七「四〇〇〇」の「安佐欲比其等爾多都奇利能於毛比須疑米夜《アサヨヒゴトニタツキリノオモヒスギメヤ》」「四〇〇三」に「己許呂毛之努爾多都奇理能於毛比須具佐受由久美豆乃於等毛佐夜氣久《ココロモシヌニタツキリノオモヒスグサズユクミヅノオトモサヤケク》」とあれば、「おもひ」と「すぐ」との二者に共通してかゝれる如くに見ゆ。然れども、卷十一「二四五五」に「高山之峯朝霧過兼鴨《タカヤマノミネノアサギリスギニケムカモ》」を見れば、これは「過ぐ」といふことにつきてのみかゝる語なること著し。かく「すぐ」「すぐす」にかゝるは霧は朝又は夕に立つものなるが、それもいつ(430)しか消え失するものなるが故と思はる。かくて、「おもひすぐ」といふ全體にかゝらぬものといふことを一方に定めおきて、次はここの「おもひすぐ」とは如何といふにこれも今多く行はるる説は思ひをすぐしやる意にいへり。されど、今の例は「思ひすぐす」にあらずして「おもひすぎ」なればそれにては所謂自他の違ひあり。今なほこの語例を按ずるに、上にあげたる卷十七の「四〇〇〇」又この卷「四二二」に「振乃山有杉村乃思過倍吉君爾有名國《フルノヤマナルスギムラノオモヒスグベキキミナラナクニ》」卷四「六六八」に「白雲之可思過君爾不有國《シラクモノオモヒスグベキキミニアラナクニ》」卷十「二〇二四」に「萬世携手居而相見鞆念可過戀奈良莫國《ヨロヅヨニタツサハリヰテアヒミトモオモヒススクベキコヒナラナクニ》」卷十三「三二二八」に「三諸之山丹隱藏杉思將過哉蘿生左右《ミモロノヤマニイハフスギオモヒスギメヤコケムスマデニ》」等は「思ひすぐ」といふ一語なるが如くにも思はるべし。然れども、かく見ても、「思ひをすぐす」とはいふべからざるのみならず、卷十「二〇二四」の歌の如きは「思ひをすぐす」といひては全く不可解に陷るべし。ここに於いて、問題はその「思ひ」と「すぐ」との關係にうつる。ここに卷九「一七七三」の「神南備之神依板爾爲杉乃念母不過戀之茂爾《カムナビノカミヨリイタニスルスギノオモヒモスギヌコヒノシゲキニ》」卷十「二二六九」の「今夜乃曉降鳴鶴之念不過戀許曾益也《コノヨヒノアカツキクダチナクタヅノオモヒハスギズコヒコソマサレ》」の例を見るに、これらは「おもひ」が「すぐ」の主格たるべき關係に立てるものと考へらる。かくてその傍證として考へらるるは卷二「一九九」の「嘆毛未過爾憶毛來盡者《ナゲキモイマダスギヌニオモヒモイマダツキネバ》」なり。これは「嘆」と「憶」とは畢竟同じ意を語をかへていへるまでにて「嘆き」が「すぐ」の主格たれば、それに準じてここも同じ關係と思ふべし。かくてその主格に立つべき語とその動詞とをつづけて一語の如き形にせるものこの「おもひすぐ」なるべし。而してこれはいづこまでも所謂自動詞なり。若し、これを所謂他動詞とすれば卷十四「三五六四」の「可奈之氣兒呂乎於毛比須吾左牟《カナシケコロヲオモヒスゴサム》」の如く「おもひすごす」又は卷十七「四〇〇三」の「おもひすぐす」の形となるものな(431)り。されば、その思が霧のいつしか立消ゆる如き状態にあるを「おもひすぐ」といへるなりとすべし。「すぐ」とはこれが過去になりて現在には存せぬをいふ。
○孤悲爾不有國 「コヒニアラナクニ」とよむ。攷證は「コヒナラナクニ」とよめり。「ニアリ」の約せられて「ナリ」となること卷一以來多し。上にひける卷十二「二〇二四」の「戀奈有莫國」によれば、しかよみても不可なし。されどこの「二六三」によらば、舊訓にてよし。「孤悲」は戀の漢字にあたる。されど、これは男女の間の思をいふにあらずして代匠記にいへる如く「故都を戀る感慨なり」。
○一首の意 從來の説明抽象的にして興趣なし。この歌はその川霧を見ての事なり。今日ここに見れば折節明日香川の川淀の附近去らずに霧の立てるを見るが、この霧もやがては消え去るならむ。わが故き都の古を思ふ情はその霧の如く、消え去るべきものにはあらず。それより遙かに深く強くしてこの思慕の情は永遠にして、やがては消え去る如き淺薄なるものにはあらぬものなるをとなり。
 
門部王在2難波1見2漁父燭光1作歌一首
 
○門部王 この人は上にある「詠東市中樹作歌」(三一〇)の作者と同じ人なるべし。
○在難波 難波は攝津國難波なることいふまでもなし。但しこの王難波に至りしことの記事他に所見なし。
○漁父燭火 「漁父」は支那にての熟字にして、楚辭、史記(呂尚の事)に見えたり。倭名類聚鈔には「漁(432)父楚辭云漁父鼓v※[木+曳]而去」とあり、注に「漁父一名漁翁無良岐美」とあり。この漁父は所謂老漁の義にして、漁人の長たるものの名なり。その訓の「ムラキミ」は群君の義なるべくしてその語は空穗物語吹上の上の卷、又夫木抄なる顯仲の歌などに見ゆるが、ここはその意にあらずして汎く「漁人」「海人」の義として同じく「アマ」とよむべきならむ。「漁人」は和名鈔に「日本紀私記云漁人阿萬」とあり。「燭光」は「燭の光」の義なるが、燭は説文に「庭燎火燭也」廣韻に「燈燭」と見え、玉篇に「照也」と見え、倭名鈔には「燈燭」と掲げ、注して「和名並度毛師比」とあり。されば、「燭光」文字のままによまば、「トモシビノヒカリ」とよむべき筈なれど、槻落葉には「漁父燭光」にて「アマノイサリビ」とよむべしといへり。さることなるべし。
 
326 見渡者《ミワタセバ》、明石之浦爾《アカシノウラニ》、燒火乃《トモスヒノ》、保爾曾出流《ホニゾイデヌル》、妹爾戀久《イモニコフラク》。
 
○見渡者 「ミワタセバ」なり。この地より彼方を見渡せばなり。
○明石之浦爾 「アカシノウラニ」なり。明石は上「二五四」の歌に「明大門」の「明」にして今も名高き播磨の地なり。難波の地より見わたせば、明石の海上まで遙かに見ゆるによりていへるなり。
○燒火乃 舊訓「タケルヒノ」とよみたるを管見に「トモスヒノ」とよめり。「燒」は普通「ヤク」「タク」と訓すれど、「燃燒」と熟することあるが、その燃は類聚名義抄に「トモス」の訓あれば、「トモス」とよみうべきことを知るべし。而して漁火に對しては本集には卷十七「三八九九」に「海未通女伊射里多久火能於煩保之久《アマヲトメイザリタクヒノオボホシク》」とある如く、「タク」といへるもあれど、又卷十五「三六二三」に「伊射里須流安麻能等(433)毛之備於伎爾奈都佐布《イザリスルアマノトモシビオキニナヅサフ》」「三六四八」に「宇奈波良能於伎敝爾等毛之伊射流火波安可之弖登母世夜麻登思麻見無《ウナバラノオキヘニトモシイザルヒハアアカシテトモセヤマトシマミム》」「三六七二」に「伊刀麻奈久安麻能伊射里波等毛之安敝里見由《イトマナクアマノイザリハトモシハエリミユ》」の如く「トモス」といへるが多し。而して「タケル」といふべきならば「燒」一字ならずして「燒有」など書くべきなれば、ここは「トモスヒノ」とよむをよしとす。
○保爾曾出流 舊訓「ホニゾイデヌル」とよめるを童蒙抄に「ホニゾイデツル」とよみ、槻落葉には「出」の下に「奴」字を脱せりとして「ホニゾイデヌル」とよめり。然るに、諸本ここに脱字ありといふもの一もなければ、脱字説はうけられず。さて文字のまゝならば「ホニゾイヅル」とよむべきやうなれど、音も足らず、調もととのはず。さらば、「ヌル」か「ツル」かのいづれにかよるべきなるが、ここは「ヌル」の方穩なりと思はる。「ホニイヅ」とは内にこもりてありしものが外面にあらはれ出づることをいふにて、稻の穗、薄の穗などはもとより舟の帆などもこれに基づける名なり。日本紀神功卷に「幡荻積|出《イデシ》吾也云々」本集にては卷九「一七六八」に「石上振乃早田乃穗爾波不出心中爾戀流比日《イソノカミフルノワサタノホニハイデズココロノウチニコフルコノゴロ》云々」卷十「二二八五」に「花野乃爲酢寸穩庭不出吾戀度隱嬬波母《ハナヌノススキホニハイデスワガコヒワタルコモリヅマハモ》」卷十四「二五〇六」に「波太須酒伎穩爾※[氏/一]之伎美我《ハタススキホニデシキミガ》云々」卷十九「四二一八」に「伊射里火之保爾可將出吾之下念乎《イザリビノホニカイデナムワガシタモヒヲ》」とあり。「ゾ」の係にて下を「ル」とせるなり。
○妹爾戀久 「イモニコフラク」とよめり。「戀」は「コフル」なるが、それに「ク」を添ふる時に音を轉じて「コフラク」となれるなり。「ク」は或る點をさす意あり。これは反轉しておかれたる句にして妹に戀ふることが、穗にぞ出でぬるといへるなり。
(434)○一首の意 難波より播磨の方の海上を見渡せば、明石の浦に、漁父が、漁する爲にともせる火の著しく見ゆる如くに、わが妹に戀ふる下の心が、外にあらはれて人に知らるるやうになりたるよとなり。これは攷證には「故郷の妹を戀る思ひの穗にあらはれぬと也」といひたれど、さにはあらずして、何人か、その戀人によみて示されしものならずば意をなさず。略解に「是は相聞の歌なれど、旅に在てよめるゆゑここに次でたる也」といへる方寧ろまされり。但し、これは相聞の歌にはあらず。されど略解に相聞の歌といへるは戀の歌といふほどの意にていへるならば別にいふべきことなし。
 
或娘子等|贈〔左○〕2※[果/衣のなべぶたなし]乾鰒1戯請2通觀僧之咒願1時通觀作歌
 
○或娘子等 「アルヲトメラ」とよむ。その名等は記さざれば知らむによしなし。
○贈 この字神田本に「贈」とかけるが、他の本すべて「賜」なり。意によりて「贈」を正しとすべし。目録にはこの詞書をば、
 或娘子等以2※[果/衣のなべぶたなし]乾鰒1贈2通觀僧1戯請咒願1之時云々
とせり。この方意通れり。槻落葉には「卷八に山口(ノ)女王賜大伴宿禰家持云々湯原王賜2娘子1云々と見えたり。卷四に古人乃《フルヒトノ》今ものませるきびの酒やもはゞすべな貫簀|賜《タハ》らむ。卷八に玉に貫不令消賜艮牟《ヌキケタズタバラム》云々とあるも皆おくるの意と見て聞ゆれば、ここの賜をもさる意と見て有なんか。猶考べし」といひたり。これを見るに山口女王及湯原王のは皇族より臣下に賜はれ(435)るなれば論なし。今は或娘子より僧に遣すなるが、當時僧の地位は名もなき女子よりは社會的境遇として遙かに上位にあれば、「賜」の字は當らず。又「賜良牟」は今の俗語の「イタダカウ」といふ事なれば、主客の差あり。されば、この説は全く從ふべからず。
○※[果/衣のなべぶたなし]乾鰒 「※[果/衣のなべぶたなし]」は「裹」の俗字にして「ツヽム」の義あり。即ちこれは「ツツメルホシアハビ」なり。乾鰒は「アハビ貝」の肉をとりて乾したるものにして古代に貴重なる食品とせり。この乾鰒の引き延したるが、所謂「のしあはび」にして、古代には進物にする主たる物とせり。このなごりが、今も進物に「のし」をつくる事として傳はれるなり。鰒は和名砂に「四聲字宛云鰒、魚名似v蛤偏着v石。肉乾可v食。出2青洲海中1矣。本草云鮑一名鰒鮑音抱阿波比」とあり。類聚符宜抄卷三に載する※[皮+包]瘡の療法を訓示せる天平九年六月廿六日の太政官符に「但乾鰒堅魚等之類煎否皆良」とあり。又乾鰒を物につつめる事は延喜式内膳司式太宰府の御贄の條に「御取鰒四百五十九斤五裹、短鰒五百十八斤十二裹、薄鰒八百五十五斤十五裹、陰鰒八十六斤三裹、羽割鰒卅九斤一裹、火燒鰒三百卅五斤四裹已上調物」とあり。それらの鰒の製法明かならねど、裹にせること以て見るべし。
○通觀僧 「通觀《ツクワン》」はその名なり。「僧」は日本紀によめる如く「ホフシ」とよむべきが。この法師の事物に見えねば明かならず。
○呪願 は代匠記に曰はく、「咒願は僧家の祝言なり。十誦律云、佛言應d爲2施主1種種(ニ)讃歎(シ)咒願(ス)u若(シ)上座不v能即次座能者作(セ)」と。攷證には「今俗に云まじなひなり」といへれど、これは咒といふ文字にとらはれて佛教の實地を顧みぬ説なり。咒願は念佛誦號し法語を唱へて福利を願求する義(436)にして十誦律の言のいふ所にて明かなるが、普通には法會の時、導師が施主の願に從ひて施主又は先亡者の幸福を祈願することをいふ。さてここは何事の咒願なるかと考ふるに、若し、尋常の場合ならば、この物を施物として、自己の希ふ福利を咒願せむことを求むる意なりとすべし。然れども、さるときは「戯に請ふ」とかける意にかなはず。ここに思ふに、乾鰒を贈りて、これを先亡者に擬して、これが爲に、咒願せよと戯れたるものと見ざるべからず。よりて古來の咒願の例を見るに、東大寺要録に載する貞觀三年東大寺大佛等の咒願文をはじめ本朝文粹朝野群載等に載するものすべて四言の句を以てせる一種の韻文に一定せり。されば、當時のさまも略想像せらる。而してこれは歌の意に照せば、この乾鰒を亡者と見なして、これが成佛得脱を咒願せむことを戯に請ひしものとみるべきなり。
 
327 海若之《ワタツミノ》、奥爾持行而《オキニモチユキテ》、雖放《ハナツトモ》、宇禮牟曾此之《ウレムゾコレガ》、將死還生《ヨミカヘリナム》。
 
○海若之 「ワタツミノ」とよむ。「海若」は元來支那にて海神の事なり。一例をあぐれば文選西京賦に「海若游2於玄渚1」とある薛綜の注に「海若(ハ)海神」とあり。その海神はわが國に「ワタツミ」といふこと日本紀にて明かなるが、それより轉じて海そのものをも「ワタツミ」といふこと卷一「一五」の「渡津毎乃豐旗雲《ワタツミノトヨハタグモ》云々」に照して知るべし。ここはただ海の事なり。
○奧爾持行而雖放 「オキニモチユキテハナツトモ」なり。意明かなり。この乾鰒をば、海の沖にもち行きて放つともなり。
(437)○宇禮牟曾 舊訓「ウレモソ」とよめり。類聚古集には「ウレムソ」とあり。代匠記に曰はく「今按牟の字常の呉音にてうれむそと讀べきか。第十一、人丸集の歌に平山子松末有廉叙波云々、これをならやまのこまつかうれにあれこそはと點したれど、コとよむべき字なし。今按に彼もこまつかうれのうれんそはとよむへきにやと存す。委は彼處に注すべし。語勢を以て推するに、なんぞ、いかんぞなど云に同じく聞ゆ。」といへり。玉の小琴もこれに同意にして、卷十一の歌を引き「此第三の句うれむぞはと訓べし。子松がうれのうれと重たる歌なり」といへり。「廉」は平聲監韻にして「m」の韻なれは「レム」とあるが正し。これはこの本居の説の如くなるべきが、この語は他に類例なきものにして確かに如何なる語とも、如何なる意とも斷言しがたし。その「うれむぞ」といふが一語なるか、又「うれむ」にて一語なるにて「ぞ」は助詞なるかも斷言しかねたり。されど、恐らくは「ぞ」は助詞にして「うれむ」がこの語の實體なるべく、意は大體契沖のいへる如くならむ。なほ研究を要するものなり。
○此之 古來「コレガ」とよめり。乾鰒をさせるなり。
○將死還生 舊訓「シニカヘリイカム」とよめり。童蒙抄は「ヨミカヘランヤ」とよみ、考は「ヨミカヘリナム」とよみ、玉の小琴は「或人これをヨミカヘラマシと訓るは宜し、但しよみかへりなむとよむ方まさるべし」といへり。按ずるに、舊訓は拙くして歌の詞ともきこえず。これは「死還生」といふ三字にて蘇の義をあらはせることたとへば唐韻に蘇に注して「死而更生」といひ、康煕字典に「蘇」の字の注に「死更生」とあるに似たる用法なり。六朝時代の俗字に「蘇《ソ》を「甦《ソ》とせるもこの義(438)なり。かくして「ヨミガヘル」といふ語を示したるならむ。この語は新撰字鏡に「〓」(蘇の別體)に注して「束孤反又作甦更生也與彌加へ利」とあり。元來「ヨミ」は死後に人の往く國と信ぜられたる處なり。一旦「ヨミ」に行きて更にこの國に還りて生くるをいふ。さてこの句を「ヨミカヘラムヤ」とよむべきか、「ヨミカヘリナム」とよむべきか、「ヨミガヘラマシ」とよむべきかといふに、「ヤ」とよむべき文字無ければ、童蒙抄の説は隨ひがたし。又「將」は「ム」とも「マシ」ともよまるべけれど、もと、「ウレムゾ」といふ語の意十分に明かならねば、必ず「マシ」とよまざるべからずといふべき由なし。「將」の普通のよみ方に隨ひて「ヨミガヘリナム」とよみおきて反語をなすと見ておくべし。
○一首の意 これは乾し枯れたる鰒なれば、たとひこれを大海の沖に持ち行きて放つとも、何としてこれがよみがへることあらんやとなり。戯に贈れるに對しての答歌としてはたゞ言にすぎずして何の面白みも無き歌なり。これをここにのせたるは恐らくは僧侶の歌の珍しさによりてならむ。その以外にこれととるべき點ありとも見えず。
 
太宰少貳小野老朝臣歌一首
 
○太宰少貳 太宰府の次官にして大貳の次に位し、從五位下相當の官なり。
○小野老朝臣 小野朝臣の氏は新撰姓氏録によるに、孝昭天皇の皇子天押帶彦國押人命の後にして近江國滋賀郡小野村に居たるより起れるなり。されどこの人の父祖は詳かならず。この人は續紀を按ずるに養老三年正月に正六位下小野朝臣老に從五位下を授けらるる事見え、(439)養老四年十月に右少辨に任ぜられ、天平元年三月、從五位上に叙せられ天平三年正月に正五位下、同五年三月に正五位上、同六年正月に從四位下、同九年六月に太宰大貳從四位下小野朝臣老卒と見えたり。然れども、太宰少貳たりしことは見えず。蓋し、史に佚せるなり。然るに、本集卷五、天平二年正月十三日太宰帥大作卿宅宴梅花歌三十二首の中に少貳小野大夫とあり。この小野大夫は蓋しこの人にして少貳たりしは天平二年の頃にして、この詠もその頃のものと見るべし。さて令の規定を見るに、「三位以上直稱v姓、四位先v名後v姓五位先v姓後v名」とあり。これによらば、この時この人は從四位下たりし時ならむか。さらば、まさしくその規定にあへりといふべし。
 
328 青丹吉《アヲニヨシ》、寧樂乃京師者《ナラノミヤコハ》、咲花乃《サクハナノ》、薫如《ニホフガゴトク》、今盛有《イマサカリナリ》。
 
○青丹吉 「アヲニヨシ」卷一より例多し。「ナラ」の枕詞なり。
○寧樂乃京師者 「ナラノミヤコハ」なり。この都は元明天皇の和銅三年三月に藤原の京より遷され、七代の間の帝都たりしなるが、小野老の太宰少貳たりし天平二年の頃にはもとより帝都は奈良にありしなり。されば、この歌、その帝都をさしていへること明かなり。
○咲花乃 「サクハナノ」とよむに異議なし。「咲」の字、類聚古集に「嘆」とあれど、誤なること著し。「咲」は今專ら「さく」といふ語にあつれど、もと、これは「笑」の俗字にしてそれに「口」扁を加へて「※[口+笑]」とせるより起れるものなりとす。この事を花の「さく」に用ゐることは本集に頻繁に見ゆる所なるが、(440)その源が支那にありて「花笑鳥歌」などいふ語より出でしならむが、「咲」を専ら「サク」にあつるは本邦の俗なるべし。
○薫如 「ニホフガゴトク」とよむ。童蒙抄には「カヲレルゴトク」とよみたり。薫は「ニホフ」「カヲル」二樣によみうべきが、ここは色を主とせりと見るべく、「ニホフ」は今専ら香氣にいへど、古は色にもいひしこと、卷一「五七」の「仁保布榛原《ニホフハギハラ》」の下にいへる如し。「薫」を花の「ニホフ」に用ゐたる例は卷六「九七一」に「丹管士乃將薫時能《ニツツジノニホハムトキノ》」あり。而して花に「カヲル」といへる例は本集には一もなく、いづれも「ニホヒ」「ニホフ」のみなれば、ここも「ニホフ」とよみて、その色につきていへるものと思はる。
○今盛有 「イマサカリナリ」この語の例は卷五「八五〇」に「有米能波奈伊麻左加利奈利《ウメノハナイマサカリナリ》「八二〇」に「烏梅能波奈伊麻佐可利奈理意母布度知加射之爾斯弖奈伊麻佐可利奈理《ウメノハナイマサカリナリオモフドチカザシニシテナイマサカリナリ》」卷五「八三四」に「烏梅能波奈伊麻佐加利奈利《ウメノハナイマサカリナリ》」又卷二十「四三六一」に「櫻花伊麻佐可里奈里《サクラバナイマサカリナリ》」卷八「一四四九」に「都保須美禮今盛有《ツボスミレイマサカリナリ》」卷十「一九〇三」に「奧山之馬醉花之今盛有《オクイヤマノアシビノハナシイマサカリナリ》」「二一〇六」に「沙額田乃野邊乃秋芽子時有者今盛有《サヌカダノヌベノアキハギトキナレバイマサカリナリ》」などあるが、いづれも花に就いていへるを見れば、ここも花の盛なるが如くなりといへること著し。
○一首の意 明かなり。考に曰はく、「よく譬なしたり。この都の盛を今も見る如し。」といへり。これは遷都後約二十年の頃の詠と見ゆれば、その帝都のまさに盛んなりし頃なるを察すべし。契沖曰はく「此は朝集使などに差されて都に上りてよまれたるか」と。さることにもあるべし。
 
(441)防人司|佑〔左○〕大伴四綱歌二首
 
○防人司佑 防人司は太宰府下の一官廳にして防人の名帳、戎具、教閲及び食料の田の事を掌る所なり。令の制すべて司と名づくる官廳の長官は正、(次官なく)判官は佑、主典を令史とする規定なり。されはここに流布本「祐」とかけるは當らざるなり。「祐」は神祇官の判官にのみ用ゐらるる文字なればなり。古寫本を見るに、「佐」字をかきたるもの三種あれど、それも誤なり。攷證に佑祐相通として誤にあらずとせれど、令制に嚴然たるものを誤ならずとはいひがたし。西本願寺本、温故堂本、大矢本に「佑」とあるを正しとす。これは防人司の判官にして「ジヨウ」とよむべく相當は正八位上なり。
○大伴四綱 「オホトモノヨツナ」とよむべきか。「綱」の字流布本「繩」字とすれど古寫本すべて「綱」とあり。同じ人の歌卷四に二首、いづれも「四綱」とあり。卷八にある一首には流布本「繩」とあれど、古寫本「綱」とせり。この人、大伴氏なることのみ知られて父祖詳かならず。
 
329 安見知之《ヤスミシシ》、吾王乃《ワガオホキミノ》、敷座在《シキマセル》、國中者《クニノウチニハ》、京師所念《ミヤコオモホユ》。
 
○安見知之 「ヤスミシシ」卷一以來屡見ゆ。「オホキミ」の枕詞なり。
○吾王乃 「ワガオホキミノ」とよむ。ここは天皇をさし奉れるならむ。
○敷座在 「シキマセル」とよむ。「シキマス」は卷一の「三六」の「宮柱太敷座波」の下、又卷二「一六七」の天(442)皇之敷座國等」の下にいへる如く、「しりいます」と同じ意にしてこの天下を知ろしめすをいふ。「在」はそれに「アリ」を加へたるを示す者なれば。「シキマセル」とよむべきこと著し。
○國中者 舊訓「クニノナカニハ」とよみたるが、類聚古集には「クニノナカラハ」とよみ、槻落葉には「クニノマホラハ」とよみ、攷證には「クニノウチニハ」とし、古義は「者」を「在」の誤として、「クニノナカナル」とせり。然るに、ここに誤字一もなければ、古義の説は先づ從ひがたし。又「中」を「マホラ」とよむは無理なれば、これも從ひがたし。されば、「中」を「ナカ」「ナカラ」「ウチ」三者のうちにてよむべき事となる。「ナカ」とよむことにつきては攷證に「中《ナカ》といふは古事記中卷御歌に美都具理能曾能那迦都邇袁《ミツグリノソノナカツニヲ》云々本集五【卅九丁】に三枝之中爾乎禰牟登《サキクサノナカニヲネムト》云々九【廿丁】に三栗乃中爾向有《ミツグリノナカニムキタル》云々。また葦原中(ツ)國などいふ中《ナカ》もみな中央の意にのみいへばここに叶ひがたし」といひたり。これにて明かなる如く、「ナカ」は「ナカバ」と同じ語にして一延長にしては中間、面にては中央の意と聞ゆ。本集にていへば、「ナカ」と假名書なるは、卷十四「三四四五」に「美奈刀能也安之我奈可那流多麻古須氣《ミナトノヤアシガナカナルタマコスゲ》」卷十五「三七五五」に「山川乎奈可爾敝奈里※[氏/一]夜須家久毛奈之《ヤマカハヲナカニヘナリテヤスケクモナシ》」「三七六四に「山川乎奈可爾敝奈里弖等保久登母《ヤマカハヲナカニヘナリテトホクトモ》」卷十八「四一二五」に「夜洲能河波奈加爾敝太弖々《ヤスノカハナカニヘダテテ》」卷二十「四三五〇」に「爾波奈加能阿須波乃可美爾古志波佐之《ニハナカノアスハノカミニコシバザシ》」「四三七七」に「伊多太伎弖美都良乃奈可爾阿敝麻可麻久母《イタダキテミヅラノナカニアヘマカマクモ》」とあり。このうち、卷十四なると卷二十「四三七七」なるとはいづれとも分きがたきさまなれど、「ナカ」が中央の意なることは、「マ」といふ接頭辭を加へて「マナカ」といふ時に明確になるべし。若し、ここにいふ所、京都が帝都にして國の中央の意なりといふことならば歌の意をなさねば「ウチ」といひてあ(443)るべき所なるは明かなり。「ウチ」は外に對する語なり。「者」は「ハ」とも「ニハ」ともよめる例、卷一以來多し。ここは「クニノウチニハ」とよむべきなり。
○京師所念 舊訓「ミヤコシソオモフ」とあり。代匠記は「ミヤコオモホユ」とよみ、童蒙抄は「ミヤコシノバル」とし、考には「ミヤコシオモホユ」とよめり。「京師」は卷一「五一」「七九」にある如く一語にて「ミヤコ」なり。「所念」は「オモホユ」なり。されば代匠記の説をよしとすべく、考の説も惡しとあらねど、強ひて八音によむべき必要ありとは見えず。
○一首の意 意明かなり。わが天皇の知ろしめす國は廣くていづこもとりどりにあしといふにはあらねど、その中《ウチ》にも京都こそは最も慕はしく見たく思るる所なれといふなり。筑紫にありて京にあこがれたる思をうたへるなり。
 
330 藤浪之《フヂナミノ》、花者盛爾《ハナハサカリニ》、成來《ナリニケリ》。平城京乎《ナラノミヤコヲ》、御念八君《オモホスヤキミ》。
 
○藤浪之 「フヂナミノ」なり。この語は本集に例多し。その假名書なるは、卷十七「三九九三」に「布治奈美波佐岐底知里爾伎《フヂナミハサキテチリニキ》」卷十八「四〇四二」に「敷治奈美能佐伎由久見禮婆《フヂナミノサキユクミレバ》」「四〇四三」「安須能比能敷勢能宇良未能布治奈美爾《アスノヒノフセノウラミノフヂナミニ》」卷十九「四二一〇」に「敷治奈美乃志氣里波須疑奴《フヂナミノシゲリハスギヌ》」など多し。さてこれは上例にある如く「サキテチリニキ」「シゲリハスギヌ」とあるを見れば、花のみにあらぬを見るべし。この語の意は冠辭考に「藤なみといふ語、藤並、藤波など萬葉に書けるは共に借字にて實は藤|靡《ナミ》の意なり。しなひ靡くものなればなり」といへる如く、結局藤をさせるに止まるもの(444)と見ゆ。
○花者盛爾 「ハナハサカリニ」なり。意明かなり。
○成來 「ナリニケリ」なり。「來」を「ケリ」に借れるは卷二「二一六」の「外向來妹木枕《ホカニムキケリイモガコマクラ》」とあるをはじめ、この卷以後に例頗る多し。又「ニケリ」に借れるはこの上に「不服而來來《キズテキニケリ》」(二六九)をはじめこの卷以下にこれも例多し。
○平城京乎 「ナラノミヤコヲ」とよむ。平城は奈良の都の正しき名と見え、續日本紀和銅三年三月の條に「辛酉始遷2都于平城1」とあり。その以前この宮城を造らしめられし官を造平城宮司と稱せられたり。本集には卷六「九九二」に「青丹吉平城之明日香乎《アヲニヨシナラノアスカヲ》」とあるを見て「平城」を「ナラ」とよみたるを知る。
○御念八君 「オモホスヤキミ」とよむ。「御念」を「オモホス」とよむは卷一「七七」に「物莫御念《モノナオモホシ》」ありてここにいへり。「八」は數詞の「ヤ」なるをかりて疑の助詞「ヤ」にあてたるなり。「君」は呼掛の格にして、君は如何に念はるるぞと問ひかけたるなり。
○一首の意 この歌二段落なり。第一段落は折節の景色を見て藤の花は今や盛になりにけりといひ、第二段は第一段をうけて、この藤花の盛りを見るにつけても奈良の京の春のさまを想ひやらるるが、君は奈良の都を思ひ給ふか如何となり。代匠記に曰はく「君と指せるは大伴卿なり。次の歌これに和する心と見えたり。第十二、春日野の藤は散行てとよめり。若は大伴卿の奈良の宅に藤の有けるを筑紫にて藤さく比かくよめるか。第六に少貳石川足人が佐保(445)の山をば思ふやも君とよみて大伴卿に贈れる、今の歌に似たり。」といへり。
 
帥大伴卿歌五首
 
○帥 帥は太宰府の長官なり。職員令に「太宰府…帥一人」とありて曰はく「掌d祠社、戸口、簿帳、字2養(シ)百姓(ヲ)1勸(メ)2課(セ)農桑(ヲ)1糾2察(シ)所部(ヲ)1貢擧、孝義、田宅、良賤、訴訟、租調、倉廩、徭役、兵士、器仗、郵驛、傳馬、烽候、城牧、過所、公私(ノ)馬牛、闌違(ノ)雜物、及寺、層尼(ノ)名籍、蕃客(ノ)歸化、饗讌(ノ)事u」とあり。官位令によれば從三位の官にして、大納言の下、皇太子傅、中務卿の上に位す。
○大伴卿 「オホトモノオホマヘツキミ」とよむ。名をさゝずして卿とのみかけるは、高官に上れる人を敬ひたるにて、その事は上「二八七」の「石上卿」の下にいへり。さて、大伴氏にして太宰帥に任ぜられし人は前に大伴安麿あり、次に大伴旅人あり、旅人の太宰帥に任ぜられたる事續紀に洩れたれど、本集には著しきことなり。この卷に「神龜五年戊辰太宰帥大作卿思2戀故人1歌三首」(四三八、四三九、四四〇)あり。卷十七卷首に「天平二年庚午冬十一月被v任2大納言1兼帥如v舊上v京之時……」とあれば、神龜の頃より天平二年十一月まで任にありしなり。公卿補任には太宰帥の任を記さねど、天平二年十月に大納言に任ぜられしことを載す。その父安麿は和銅七年に薨じてあれば、この神龜以後の太宰帥は旅人なること著し。ことに卷五に「大伴淡等謹状」として、天平元年十月に中衛大將藤原房前に呈したる書状は旅人が太宰帥たりしことを明示するものなり。而してこの歌、上の小野老朝臣よりの引きつづきと見るときは旅人の詠とすべきに(446)似たり。
 
331 吾盛《ワガサカリ》、復將變八方《マタヲチメヤモ》。殆《ホトホトニ》、寧樂京師乎《ナラノミヤコヲ》、不見歟將成《ミズカナリナム》。
 
○吾盛 「ワガサカリ」なり。盛りは身の壯なる程をいふ。卷五「八四七」に「和我佐可理伊多久久多知奴《ワガサカリイタククタチヌ》」とあり。
○復將變八方 舊訓「マタカヘレハモ」とよめるが、古寫本には「カヘレヤモ」「カヘムヤハ」「カヘジハモ」とよめるあり。代匠記は「マタカヘラメヤモ」とよみ、玉の小琴「マタヲチメヤモ」とよみ、槻落葉は「變」の下に「者」の字脱せりとして、玉の小琴の訓により、攷證は文字をそのままにて玉の小琴の訓によるべしとせり。今これらを按ずるに玉の小琴以前の訓は多くは語をなさずして從ひがたし。而も、ここに誤字ある本もなければ、攷證の如く、このまゝにて玉の小琴の訓によるべし。本居の説は玉の小琴にはその説明を缺けれど、玉勝間卷八に見ゆ。曰はく「萬葉集五の卷にわがさかりいたくくだちぬ雲にとぶ藥はむともまた遠知めやも、雲にとぶくすりはむよは京見ばいやしき我身また越知ぬべし。(八四七、八四八)此二つの遠知といふ言|落《オチ》にしては假字もたがひ歌の意も聞えず、昔より解《トキ》えたる人なきをおのれ考へ得たり。まづ此二うたは久しく筑紫に在て京を戀しく思ひてよめるにて、はじめの歌の意はわがよはひさかり過ていたくおとろへたり。今はかのもろこしに有し、淮南王の仙藥を服《ノム》とも又わかき昔にかへることはえあらじと也。次なるは淮南王の藥をはまんよりは我は京を見たらば、又昔にかへりてわかくな(447)るべしと也。遠知は何事にても、又もとへかへる意にて此歌どもなるは身の又わかかりしむかしにかへるをいへる也云々」と。槻落葉はこれにつきて曰はく「この説をあひあまなひて、猶|熱《ヨク》考るに、卷十三長歌に月夜見乃持有越水伊取來而《ツクヨミノモテルヲチミヅイトリキテ》、公奉而越得之牟物《キミニマツリテヲチエシムモノ》【今|牟〔二重傍線〕を早〔二重傍線〕に誤り、且本よみをも誤れり】反歌に天《アメ》なるや月日の如くわがもへる公《キミ》が日にけに、老《オイ》らく惜もとあり。この長歌の二つの越の字も遠知とよみて若《ワカキ》に變《カヘ》らしめんと願へる也。さる意は反歌にて明らか也。又卷(ノ)廿にわがやどに咲るなでしこ、幣《マヒ》はせん、ゆめ花ちるないや乎知に左家とあるも盛にかへるをいひて、乎知は同言也。是等みな變(ル)v若(ニ)をいふ言明らかなれば、集中變若と書るは必遠知とよむべき也。云々」といへり。かくて攷證に曰はく「さて久老は變の字の下、必らず、若の字あるべしとて加へつれど、文字を略きもし、添もして書る集中の常なるをや。さればもとのままにてありなん」といへり。さて「變」は「變若」の意にて「ヲチ」とよみ、將は「ム」の複語尾をあらはすが「ヤモ」は已然形をうくる助詞なれば「ヲチメヤモ」といふなり。意は反語をなし、をちむ(即ち若きにかへる)ことあらじとなり。
○殆 「ホトホトニ」とよむ。この語は今いふ「ホトンド」といふ語の本の形なり。假名書の例は卷十「一九七九」に「保等穗跡妹爾不相來爾家利《ホトホトイモニアハズキニケリ》」といふあり。「ホトホトニ」とよむべき假名書の例は見えず。されど、「シクシク」(三九七四)「シクシクニ」(三九八九)「サラサラ」(一九二七)「サラサラニ」(三三七三)などの如く副詞に「ニ」を加へて用ゐること、古今に少からねば、ここも加へてよむべきか。「殆」は韻會に「殆(ハ)危也、一曰近也、又將也」とあり。その事に將に達せんばかり近き意にていふ副詞(448)にして下の「見ズカナリナム」にかゝる。
○寧樂京師乎 「ナラノミヤコヲ」とよむ。意明かなり。
○不見歟將成 「ミズカナリナム」とよむ。見ずなりなむかといふなり。
○一首の意 この歌二段落なり。第一段は吾は今は老いはてて、若き盛の又かへり來べき事あらむや。第二段は恐らくは殆ど今後寧樂の京師を再び見ずこの筑紫にて朽ちはつることとならむかとなり。この旅人の年齡詳かならねど、公卿補任によるに、中納言勞十三年、大納言勞二年なる由にして養老二年にはじめて中納言たりし時假に四十歳とせば、薨ずる時六十二歳なり。さては、この歌をよみし時はその大納言に任ぜらるる少しく前として六十歳に垂んとせし時と思はる。この歌契沖の説の如くば、上の四綱の歌に答へたるものともいふべし。
 
332 吾命毛《ワガイノチモ》、常有奴可《ツネニアラヌカ》、昔見之《ムカシミシ》、象小河乎《キサノヲガハヲ》、行見爲《ユキテミムタメ》。
 
○吾命毛 「ワガイノチモ」とよむ。意明かなり。
○常有奴可 「ツネニアラヌカ」とよむ。これに似たる詞遣の例卷四「五二〇」に「久堅乃雨毛落糠《ヒサカタノアメモフラヌカ》」「五二五」に「黒馬之來夜者年爾母有糠《クロマノコムヨハトシニモアラヌカ》」卷七「一三七四」に「吾待月毛早毛照奴賀《ワガマツツキモハヤモテラヌカ》」卷八「一五九一」に「遊今夜者不開毛有奴香《アソブコヨヒハアケズモアラヌカ》」卷十「一八八二」に「念共來之今日者不晩毛荒糠《オモフドチキタリシケフハクレズモアラヌカ》」などありていづれも攷證にひけり。その意は契沖が「つねにあらぬかは願ふ詞にて、落著は常にあれかしなり」といへるにて一わたり知らるべし。然るにこれが語格の説明に至りては甚しき僻説行はる。古義に曰はく(449)「上略きて有奴可は有かしの意なるに准へて意得るときは其餘も皆おほくたがふふしはなければ、總て世の學者等おほかたの心は思ひ誤つことはなけれども其(ノ)詞の本(ノ)意をわきまへ知る人今までなし」といひて、契沖、久老、宣長の説を批難し、さて曰はく「抑々この奴《ヌ》は名告佐禰《ナノラサネ》などいふ禰《ネ》の言を轉じ云るにて希望(ノ)辭なり。かゝれば、奴といふも禰といふも意は全(ク)同じ。されば、有奴可《アラヌカ》は有禰《アラネ》とねがふ言なるを下の可《カ》に連く故に、第四位の言を第三位の言に轉じいへるものぞ(可《カ》は哉にて歎辭なり)猶その例をいはゞ有《アリ》許勢奴可毛、繼《ツギ》許勢奴可聞などあるも有許勢禰、繼許勢禰とねがふ意なるを可毛へ連く故|禰《ネ》を奴《ヌ》に轉じいへるを併(セ)せ考へて知べし」といへり。されど、この説にいへる「ネ」は活用なき助詞なり。助詞の音を變へて活用することは國語としてはあるべき事にあらず。「コセネ」と「コセヌカモ」との關係また同じ。鹿持の説はかへりて全く語格を無視したるものなり。先づ「こせね」「こせぬかも」の場合をいはむ。「ね」は未然形所屬の終助詞にして誂の意をあらはすもの。「ぬ」は未然形所屬の複語尾にして打消の「ず」の連體形たるものにしてそれより助詞「カモ」につづくもの。「カモ」は連體形所屬にして疑問の助詞なり。かくして「こせね」にては希望をあらはし、「こせぬかも」は「こせ」の打消をば「かも」にて受けて反語をなし、かへりて希望の意となるにて、決して「ヌ」「ネ」と言の變化せるにあらず。ここもそれと同じく、「ヌ」は打消の「ズ」の連體形にて疑問の助詞「カ」につけるなり。かくて反語をなして、「アラヌカ」如何に、「アリテホシキモノナリ」といふ意を生ずるなり。かかることは今日の俗語に「ドウダ君、サウシナイカ」といふは反語の格にて、結局は「君サウシタマヘ」といふ意に治定するにあらずや。(450)かかる見易き事を古來多くの碩學の惑へるは甚だ不審のことといふべし。ことに古義に「ネと同じといひたれど、古來「有り」に「ネ」を加へて「アラネ」といひたる例は見ざるなり。ここもその意にて、「かはらず有らぬものか如何に。何卒常にかはらず有りてほしきものなり」となり。
○昔見之 「ムカシミシ」なり。この語につきて思ひ出づるはこの卷の上にある「暮春之月幸2芳野離宮1中納言大伴卿奉v勅作歌一首并短歌」なり。而もその反歌(三一六)には「昔見之象乃小河乎今見者彌清成爾來鴨」とよめるが、今この歌にもかくよめるを見れば、かの吉野行幸の事をここに回想してそれと同じ語をここにくりかへしいへること著しとす。その意は「三一六」の下にいへる如く、大伴旅人が以前に見しことありしによりていへることなるが、かの歌をよめるは恐らくは神龜元年三月の事なりしならむに、その時に既に「昔見之」ともいへるなれば、ここは、その神龜元年以前に見しことと、神龜元年の事とをひきくるめていひしならむ。
○象小河乎 「キサノヲガハヲ」なり。この川も上述の反歌に見えたり。即ち卷一「七〇」の「象の中山」より流れ出づる小川にしてそのあたりの景色よきをいへるなり。
○行見爲 「ユキテミムタメ」とよむ。「タメ」をかくの如く用ゐたる例は卷六「九七六」に「在家妹之待將問多米《イヘナルイモガマチトハムタメ》」卷十八「四一〇四」に「和伎母故我許巳呂奈具左爾夜良無多米於伎都之麻奈流之良多麻母我毛《ワギモコガココロナグサニヤラムタメオキツシマナルシラタマモガモ》」卷二十「四三〇六」に「等香武等曾比毛波牟須妣之伊母爾安波牟多米《トカムトゾヒモハムスビシイモニアハムタメ》」「四四六九」に「伎欲吉曾能美知末多母安波無多米《キヨキソノミチマタモアハムタメ》」卷五「八〇六」に「奈良乃美夜古爾由吉帝己無丹米《ナラノミヤコニユキテコムタメ》」など例多し。以上三句は上二句の方便を示せるものにして、上にあるべきを反轉法によりて下におけるなり。
(451)○一首の意 昔、行幸の折供奉して見たりし吉野離宮のほとりの象の小川の景色のおもしろしかりしそれを又も行きて見たしと思ふが、それが爲には吾が命も何卒無事にありてほしきことよとなり。
 
333 淺茅原《アサヂハラ》、曲曲二《ツバラツバラニ》、物念者《モノモヘバ》、故郷之《フリニシサトシ》、所念可聞《オモホユルカモ》。
 
○淺茅原 「アサヂハラ」とよむ。枕詞なり。冠辭考に曰はく「萬葉卷三に【帥大伴卿の歌】淺茅原《アサヂハラ》、曲々二物念者故郷之所念可聞《ツバラツバラニモノモヘバフリニシサトシオモホユルカ》、卷五にまた淺茅原曲曲《アサヂハラツバラ/\》とよめり。こは卷八に茅花拔《ツバナヌク》、淺茅之原《アサヂガハラ》とよみて淺茅が穗花をばつばなといひ、又つまびらかてふ語を略きてつばらともいへば、淺茅原つばらつばらとはいひかけたり。云々」とあり。ここにいへる如く「ツバナ」といへば「チハラ」「ツハラ」同意なれば「ツバラ」にいひかけて枕詞にせるなり。攷證に「ツバナ」にかけたるといへるは不可なり。「淺茅原」とは茅といふ草はさまで丈高くならぬによりて淺茅生、淺茅原などいふなり。草生に淺といふは深草といふに對したる語なり。卷一「四」の「其草深野」の條を見るべし。
○曲曲二 舊訓「トサマカクサマニ」とよめり。されどかくよむべき理由なし。代匠記に曰はく「第二の句は今按つはら/\にと讀べし。舒明紀云、乃|曲《ツハヒラケク》擧2山背(ノ)大兄《オヒネノ》語(ヲ)1。これによるにつまびらかに同じ。此集第十八に梶の音のつばら/\に第十九に、やつをの椿つばらかに、是皆同意なり。淺茅原とおけるは知と豆と五音通ずる故に茅針をもつはなともいへば、チハラをたたむで云意に、さてかくつづくるなり」といへり。この語は「ツバラ」といふが本にてそれ一個の時(452)は「ツバラニ」とも「ツバラカニ」ともいひ、重ねては「ツバラ/\ニ」といふものならむ。「ツバラ/\」と假名書にせるは契沖のひける卷十八「四〇六五」の「安佐妣良伎伊里江許具奈流可治能於登乃都波良都婆良爾吾家之於母保由《アサビラキイリエコグナルカヂノオトノツバラツバラニワギヘシオモホユ》」あり。意は委曲の文字にあたる。委曲を「ツバラニ」とよむべきことは卷一、「一七」にいへり。
○物念者 舊訓「モノオモヘバ」とし、考に「モノモヘバ」とせり。いづれにてもあるべし。意明かにして「物」といふ語に深き意なく、いろ/\と思ひめぐらせばといふ程のことなり。
○故郷之 舊訓「フリニシサトノ」とよみたるを古義に「フリニシサトシ」とよめり。「故郷」は今普通に考ふる故郷の意ならば「フリニシサト」とよむは當らざるが如き心地す。然るに次の歌には「故去之里」とありて、それは「フリニシサト」とよむべくして奈良京をさしたるにあらで、飛鳥の故京をさせり。按ずるに、ここもその飛鳥の故京をさせるにて、「フリニシサト」とよむもその意を知るべし。己が故郷なればとて、當時の人情として今盛なる平城京をば「フリニシサト」といふべくもあらねばなり。即ち飛鳥の故き京のあたりに大伴氏の古來の住居の在りしにて、その名殘をいへるならむ。卷六に「大納言大伴卿在寧樂家思故郷歌二首」ありてその一首に「神名火乃淵者云々」(九六九)とあるを見ても知らるべし。「之」は「シ」とも「ノ」ともよまるべく、ここもいづれにても意とほるべく思はるゝが、これを「シ」とよむにつけて、古義に曰はく「之《シ》は助辭にて、その一(ト)すぢをおもくおもはするがためなり」といへり。今、この事を決せむが、上に「シ」とありて、下を「オモホユルカモ」にて結べる例を本集中に求むるに、卷十六「三八四四」に「巨勢乃小黒之所念可聞《コセノヲグロシオモホユルカモ》」「四(453)四八三」に「牟可之能比等之於毛保由流加母《ムカシノヒトシオモホユルカモ》」(これはこことおなじく「之」をかきたり。)卷八「一五七三」に「吾妹之屋戸志所念香聞《ワギモカヤドシオモホユルカモ》」卷六「一〇二九」に「妹之手本師所念鴨《イモガタモトシオモホユルカモ》」卷十一に「吾屋前之柳乃眉師所念可聞《ワガヤドノヤナギノマユシオモホユルカモ》」あり。上に「ノ」とありて下を「オモホユルカモ」と受けたる例を求むるに本集には一も之を證すべきを見ねば古義の説をよしとすべし。
○所念可聞 「オモホユルカモ」とよむ。この語の用例は上に出せり。意は後世の「オモハルルカナ」におなじく、自然に思ひ出さるることを嘆息していへるなり。
○一首の意 さても仔細に思ひめぐらせば、かの飛鳥の故き京にある故郷の事が戀しく思はることかなとなり。
 
334 萱草《ワスレクサ》、吾※[糸+刃]二付《ワガヒモニツク》、香具山乃《カグヤマノ》、故去乃里乎《フリニニサトヲ》、不忘之爲《ワスレヌガタメ》。
 
○萱草 「ワスレグサ」とよむ。「萱草」は本草にある熟字にして、和名鈔にこれを標出して、曰はく「兼名苑云萱草一名忘憂【萱音喧漢語抄云和須禮久佐俗云如環藻二音】とあり。これは詩經よりはじめ、諸書に見え、ことに、稽康の養生論に「合歡※[益+蜀]v念、萱草忘v憂、愚智所2共知1也」とありて、支那にては、人をして憂を忘れしむるものといへるより譯して名としたるものと見ゆ。この草は今專ら「クワンサウ」といひて、山野に自生する百合科の植物にして黄赤色の花を開くなり。
○吾※[糸+刃]二付 「ワガヒモニツク」とよむ。「※[糸+刃]」は「紐」の異體なること上「二五一」に見ゆ。萱草を紐につけたる由は、この歌の外に、卷四「七二七」に「萱草吾下紐爾著有跡《ワスレグサワガシタヒモノツケタレド》」卷十二「三〇六〇」に「萱草吾紐爾著《ワスレグサワガヒモニツケ》、(454)時常無念度者生跡文奈思《トキトナクオモヒワタレハイクルトモナシ》」あり。これは下紐ともあれば、下の褌に萱草をつくれば、思を忘るといふ俗信のありしなるべし。然れども、卷十二「三〇六二」に「萱草垣毛繁森雖殖有鬼之志許草猶戀爾家利《ワスレグサカキモシミミニウヱタレドシコノシコクサナホコヒニケリ》」とあれば、これを植ゑて忘るる爲とせしもありしなり。支那人にては專らこれを植うる由にいへれど、紐に付くとか身に佩ぶとかいへるものは見ず。されば紐につくといふ事は蘭を帶ぶなどいふ支那の風に倣ひて本邦にて行ひそめし事ならむか。
○香具山乃 「カグヤマノ」とよむ。これは大伴氏の故居が古の飛鳥の都の附近天香具山近くにありし由にいへるならむ。上にいへる卷六に神名火の淵云々といへる即ち、飛鳥川の神名備岳附近になれる淵をさせりと思はるればなり。
○故去之里乎 「フリニシサトヲ」とよむ。その意は上にいへる如し。
○不忘之爲 「ワスレヌガタメ」とよむ。考は「不」は「將」の誤なりとして「ワスレムガタメ」とよめり。されど、さる本一も無し。さればよみ方に異議生ずべくもあらず。されど、この語を今の俗にいふ意にとる時は萱草の憂を忘るといふことと矛盾すべし。これ考の説ある所以なり。されど、玉の小琴に曰はく「此結句は忘れぬやうにと云が如く聞ゆる故にさる意もて解る説あれど、僻事也。忘れぬ故にと云むが如し。然は忘ぬ故に、いかにもして忘れむとて萱草を紐に付る也」といへり。この説をよしとす。これは「容易に故郷を忘れかぬる」と一旦いひて、「それが爲に」これを忘れむとして萱草を身につくることなりといふなり。これは上の「三三二」の「行きて見む爲」と語似て趣異なるが、古今の人の考へ方の相違なりといふに止まらず、これは「忘れぬ」に(455)て一旦準體言となり、さてその準體言が、「が」によりて體言と同じ取扱をうけて、連體格にたてるもの、かれは「見む」が連體格として直ちに「爲」に接せるものにして語の資格も異なるなり。
○一首の意 この故郷思慕の情の忘れむとしても忘れられぬが爲に、われは萱草をばわが衣の下紐につくるなり。然せば、或はこの故郷を思ひ慕ふ情を少しは忘るることもあらむかとてなり。かくて、歸する所は香具山の故郷を忘るる能はざるなりといふにあり。
 
335 吾行者《ワガユキハ》、久者不有《ヒサニハアラジ》。夢乃和太《イメノワタ》、湍者不成而《セニハナラズテ》、淵有毛《フチニテアルカモ》。
 
○吾行者 舊訓「ワカユキハ」とあり。童蒙抄に「ワカタビハ」とよめり。されど「行」を「タビ」とよむは穩かならず、「ユキ」とよみて可なり。「ユキ」の例は卷二の初の歌の「君之行」の條にいへる如く、集中少からず存す。卷二十「四四二一」に「和我由伎乃《ワガユキノ》……」などもあるもその一なり。常住む所を去りて他に行くことを體言としていへるにて結局は旅行といふにおなじ。
○久者不有 舊訓「ヒサニハアラジ」とよみたるを攷證に「アラズ」と改めたり。この太宰帥の任は地方官の一なれば、任期限りあることをいへるなれば、「アラズ」と斷言すること差支なかるべきが、將來の事をかねていへるなれば、「ジ」といひても不可なるにあらず。今姑く舊に從ふ。この語の例は卷二「二三二」に「久爾有勿國《ヒサニアラナクニ》」といふあり。「久」は長き時間をいふ。
○夢乃和太 舊訓「コヽノワタ」とよめるが「夢」を如何なる理由にて「ココ」とよめるか明かならねど從ふべきものにあらず。管見には「ユメノワダ」とよみ、槻落葉に「イメノワダ」とよめり。然るに(456)「夢」は古「イメ」といひしなれば、槻落葉の説をよしとす。卷七「一一三二」に夢乃和太事西在來《イメノワダコトニシアリケリ》、寤毛見而來物乎念四念者《ウツツニモミテコシモノヲオモヒシオモハバ》」とあるも同じ地と見ゆ。これは「芳野作」と題せるうちなれば、その地は芳野のうちなること著し。玉の小琴に曰はく夢の和太は七卷【十丁】の歌にてしるく、又懷風藻に吉田連宜從駕吉野宮の詩にも夢淵と作れり」といへり。この地につきては大和志吉野郡山川の條に「夢(ノ)回淵」とありて、注して「在2御料庄|新任《アタラスミ》村1俗呼2梅|回《・ワタ》1、淵中奇石多、有2古歌1」といへり。されど、こは、下市の下流の地にして吉野離宮よりは甚しくへだたりてあれば、懷風藻にいへるに一致せず。鴻巣盛廣氏は「今も宮瀧の下流象の小川の注ぐあたりを所の人が夢淵《ユメフチ》といつてゐるから恐らくはそこであらう」といへるが、この説よからむ。「夢」はその地の名にして「ワタ」は水の淀める淵をいふなり。
○湍者不成而 舊訓「セトハナラズテ」とあり。童蒙抄には「セニハナラズテ」とあり。「者」を「ニハ」にあてたる例は、前々よりありたれど、「トハ」とよめる例は見ねば童蒙抄の訓をよしとす。「湍」は瀬と通用する文字にして和名鈔に「和名勢」とあり。湍になるとはその水の淺くなることをいふなり。卷六なる「大納言大伴卿在2寧樂家1思2故郷1歌」に「神名火乃淵者淺而瀬二香成良武《カムナヒノフチハアセニテセニカナルラム》」(九六九)とあるを參考とすべし。
○淵有毛 舊訓「フチトアリトモ」と訓ぜり。代匠記には「落句今の點意得ず。有の下に也八等の字脱たるか。ふちにあれやもなるべし」といへり。童蒙抄は「此句文字はすくなき故、よみ樣幾筋もあるべし。然れども歌の意に叶ふべからんは淵にてあるもと詠める義安かるべからん(457)か」といひ、考は童蒙抄のよみ方によれど、別に「有毛の毛はかもの略にていまだにもと見しごとく淵にてあるにかもとうたがへるなり」とあり。槻落葉は「フチニテアレモ」とよみて曰はく「契沖が有の下に八《ヤ》の字を脱せるにやといへるは、この結《ハテノ》句のいかによみても文字のたらはぬに似たればなり。されど、ただ下の毛《モ》はそヘ言として淵にてあれとよみて聞ゆめり」と。略解は「フチニアルカモ」とよみて曰はく「毛は毳の誤也と翁はいはれき。宣長は有の下也の字を脱せるか、ふちにあれやもにて淵にてあれといふ意也といへり」とあり。古義は「毛は乞(ノ)字の誤なるべしと大神(ノ)景井云り。是然るべし。フチニアリコソ〔七字右○〕と訓べし」といへり。かくよみ方まちまちなるは、この句の文字の少きによることなるべきが、諸本を見るに、類聚古集に「毛」を「如」とせる外には異なることなし。かくて類聚古集は「フチニアルゴト」とよみたれど、それにては意通ぜず。結局ここには誤脱ありと主張すべき事由なしとす。この故に誤脱説は從はぬこととしてここを讀まざるべからず。然る時は舊訓か童蒙抄の「フチニテアルモ」「フチニテアレモ」の三樣あり。先づ舊訓は「毛」を「トモ」とよめるなればこれも無理なり。然れども、「アレ」の下に「モ」を加へてよむが如きは(この説に賛成する人なきにあらねど)古今になき語法なれば斷じて從ひがたし。然らば、童蒙抄の如く「フチニテアルモ」とよむべきかといふに、これまた落ちつかず。かくて考ふるに、ここに誤脱なしとして、よみ方を考ふるに、殆ど、その手がかりなきに惑ふべし。ここに攷證は考の説によりて曰はく「今予は考の説にしたがはんとす。いかにとなれば、本集四【十四丁】七【十六丁】十【五十二丁】などにも毳をかもと訓て五經文字に※[鹿三つ]千奴反相承作v麁、及蟲字作v※[ノ/虫]之類(458)云々とある如く、漢土にて※[鹿三つ]を麁、蟲を虫とせる省字なれば、毛も中國製造の毳の省字なるべくおもはるれば也」といへり。若しこの説の如くば「毛」を「カモ」とよみて落着すべし。かくて支那にて毛を毳の意に用ゐたる例ありやと見るに、未だこれを見ず。然るに、本集卷十一「二五五九」に「昨日見而今日社間吾妹兒之幾許繼手見卷欲毛《キノフミテケフコソヘダテワギモコガココタクツギテミカクホリカモ》」とある「毛」を古來「カモ」とよみたるが、近世は代匠記に「ミマクホシキモ」とよみ、考は「卷」の下に「之」脱せりとして「ミマクシホシモ」とよみたれど、又新考など「毳」の誤として「カモ」とよめり。されど、これは一も異字なければ、もとより「毛」なり。若しそこを「カモ」とよむべくば、ここに「毛」を「カモ」にあてたるもの二例あることとなりて攷證の説有力とならむ。されど、今日の程度にてはこれを確定せりとは認めがたし。今姑く攷證の説によりて、後の考をまつ。かくて「カモ」は疑ふ意とすべし。
○一首の意 われは今任に地方にありて故郷を離れてあるが、これも久しからずして、いづれは故郷にかへりうる事ならむ。わが故郷に歸らむ時まで、かの吉野川の夢の淵は瀬にならずして昔のまゝにてあるならむか、如何にとなり。
 
沙彌滿誓詠v緜歌一|首〔左○〕
 
○沙彌 沙彌とは梵語 Sramanera の音譯にして、玄應音義卷二十三に曰はく「梵言2室末※[奴/手]伊洛迦1此云2勞之小者1也。亦言2息慈1、謂息v惡行v慈。義譯也。舊言2沙彌1者訛略也」と。これは男子の出家して十戒を受けたるものの通稱にして未だ修行熟せず、比丘の策勵を受くる者をいふ。わが國(459)にては剃髪して妻子を有する修行者をさす稱とせるが、この頃は如何にありしか明かならず。
○滿誓 この人は在俗の時は笠朝臣麻呂といひし人なるがその父祖詳ならず。慶雲元年正月に從五位下に敍せられ、美濃守兼尾張守等に歴任して養老四年十月に右大辨に任ぜられしなり。續日本紀によるに、養老五年五月の條「戊午右大辨從四位笠朝臣請d奉2爲太上天皇1出家入道u勅許v之」とあり。即ち、この時元明天皇の御病重かりし爲に、淨行の男女一百人を簡みとりて入道せしめられしことありしに因みてこの人も高位の人ながら聖旨に奉對せむとて出家せしなり。さて續紀養老七年の條に「二月丁酉勅一2僧滿誓【俗名從四位上笠朝臣麻呂】於2筑紫1令v造2觀世音寺1」と見ゆるによりてこの人たること明かなり。觀世音寺は天智天皇の御發願によりて起れる寺なるが、和銅の頃にも未だ完成せざりし由に見ゆ。この時滿誓は造營の監督を命ぜられて筑紫に行きてありしならむ。かくてこの歌は、養老七年以後の詠たることを見るべし。
○詠v緜歌 「緜」は「綿」の正字にして説文には糸部にあり。「説文に聯微也」と注し、玉篇には「新絮也」とせり。この「緜」及び「絮」の意は如何といふに急就篇注に曰はく「漬繭※[辟/手]v之精者曰v緜粗者曰v絮、今則謂2新者1爲v緜、故《フルキ》者曰v絮」とあり。この注は唐の顔師古の注なり。これによれば、支那の緜は唐の時まで、今の所謂眞綿なりしことは明かなり。然るに、近來の學者往々これを今の「木綿ワタ」とせるは如何。本邦に於いて木綿の傳來せしは日本後紀卷八に見ゆる如く、延暦十八年秋七月に崑崙人(天竺人)が參河國に漂着せし時にその舟にありし綿の種といふものをば、各地に植ゑしめられしをはじめとす。しかも、それも中絶せしことは、新撰六帖に衣笠内大臣家良の「綿」と(460)いふ題にてよめる歌、「しきしまのやまとにはあらぬから人のうゑてし綿の種は絶えにき」とあれば、鎌倉時代には既に昔話となりしを見るべし。然らばその以前に綿といひしは何かといふに、支那の綿の字の本義の通りに今の「まわた」即ち繭よりとりし綿たりしなり。否、近世まで綿といふはすべて今の「まわた」なりしなり。なほこの事は歌の説明に入りていふべし。
○一首 流布本「一前」とせるは活字本の誤植に基づける誤なり。
 
336 白縫《シラヌヒ》、筑紫乃綿者《ツクシノワタハ》、身著而《ミニツケテ》、未者伎禰杼《イマダハキネド》、暖所見《アタタケクミユ》。
 
○白縫 舊訓「シラヌヒノ」とよみたるを考に「シラヌヒ」と四音によめるをよしとす。卷五「七九四」に「斯良農比筑紫國爾《シヲヌヒツクシノクニニ》」卷二十「四三三一」に「之良奴日筑紫國波《シラヌヒツクシノクニハ》」とあり。これが「ツクシノクニ」の枕詞なることは疑ふべからねど、何故にかく枕詞とせるかは明かならず。日本紀景行天皇卷の火國の名の生じたる由の故事といふが普通の説なれど、そこには不知火といふ名目も見えず、(この不知火の名目は後世のものにして古きものに見えず)而も、これを冠するならば、火の國に冠すべきに、筑紫に冠するは條理立たず。この外に種々の説あれど、首肯すべきものを見ず。後の研究にまつべきものなり。
○筑紫乃綿者 「ツクシノワタハ」とよむ。「筑紫」はもと、今の筑前筑後が二國に分たれぬ前の一國の名なりしなり。されど、これがやがて九州島の總名たりしことは古事記上卷に「次生2筑紫島1此島者身一而有2面四1毎v面有v名故筑紫國謂2白日別1、豐國謂2豐日別1肥國謂2建日向日豐久士比泥別1(461)熊曾國謂2建日別1」とあるにて知られたり。ここはその總名の方なるべし。綿が古代、筑紫の名産なりしことは續日本紀卷二十九神護景雲三年三月の條に「乙未《(廿四日)》毎年運2太宰府(ノ)綿廿萬屯1以輸2京庫1」とあるをはじめ、(この時の官符類聚三代格に見ゆ)とし、これより毎年調物として京庫に納めしを見て知るべし。而してこの太宰府貢綿の事は類聚三代格に延暦二年三月廿一日の太政官符にて十萬屯に減ぜられ、弘仁四年四月十七日の太政官符によりて毎年を隔年に改められし事見ゆ。又三代實録に貞觀十四年十月廿六日の勅、元慶八年五月の太政官の處分等に見え、延喜式主計寮式を見れば、九國の庸にいづれも綿あり。即ち九州全體が、この綿の産地たりしことを見るべし。而してその綿が、繭よりとりしものなる證は三代實録元慶八年の條に「五月庚申朔、太宰府年貢綿十萬屯、其内二萬屯以v絹相轉進v之。彼府申請、春夏連雨蠶養不v利作v綿是乏、輸貢可v闕。望相換進v之。太政官處分。依v請焉」とあり。これは蠶養の利乏しくして綿をつくること不十分なりといふなれば、繭よりとりし綿なりしこと明かなり。而してここに絹を以てかふるば一見矛盾する如くなれど、これは元來太宰府の庫なるを奉る本旨のものなれば、その府庫にある絹をかはりに奉りしことと考へらる。これによりて繭綿なりしこと明かなるが、なほいはば、大寶令の賦役令に「若桑麻損盡者各免v調」の義解の中に「其桑麻、所輸※[糸+施の旁]布不v同故稱v各也」とあるが、集解の中には「穴云桑麻損盡各免v調(トハ)謂以2※[糸+施の旁]|綿〔右○〕布1爲v調也」とあるは桑と綿との關係をいへるにてこの「穴」といふは如何なる人の説か明かならねど、平安朝初期の學者の説たる事論なし。或は又、この太宰府の綿は舶來品にして、太宰府が、支那より輸入したるものなれば、(462)木綿なりしならむといふ説あり。この綿を太宰府にて貿易せりといふ事は何等根據なき事にして疑ふべく從ひがたき事なり。先づ、遣唐使の派遣が、大命を奉じて死生を賭して數年を費して往復するに、綿のみにても毎年廿萬屯づつを輸入せりとすべきか。屯は「唐令云綿六兩爲v屯」とあり、令制によりて十六兩を一斤とすれば、七萬五千斤なり。かくの如き大量の木綿を支那よりわが國に輸入すとせば支那には盛んにこれを栽培せしものならざるべからず。然るに、唐代にて普通に綿といひしは繭綿なりしことは上の顔師古の急就篇の注にて知られたり。加之、木綿は元來印度原産のものにして、支那には宋末より入りし由なれば、この時わが國に木綿入りしものとせば、印度よりの輸入品をわが國に轉送せしものとせざるべからず。然るときに、さる大量の輸入を如何にしてなし得たるか。通鑑に「梁武帝木棉皀帳」とあるはその奢侈を語ると共に木綿が同時に舶來品として貴重品と思はれしことを語るものにして、徳川幕府の中頃まで木綿織を「さらさ」「さんとめ」などいひて、貴重品とせしに異ならず。今木綿ワタの廉價にして下等品と見らるることを以て古を律すべからず。さてここにかくいへるを見れば當時より太宰府の府庫に綿の存せしことを見るべし。
○身著而 「ミニツケテ」とよむ。意明かなり。
○未者伎禰杼 「イマダハキネド」とよむ。意明かなり。
○暖所見 「アタタカニミユ」とよむ。古義には本居の説によれりとして「アタタケクミユ」とよめり。本集にはこの語いづれも假名書の例なし。「暖」字は今「アタタカ」とよむが普通なるが、類聚(463)名義抄にはこの字に「アタタカナリ」の訓あり、又別に「アタタカ」と訓せる字多し。一卷本新撰字鏡に「※[火+需]」字の注に「阿太々介志」とあり、天治本には「阿太へ志」と見ゆるは訛なるべし。されば、これは古義の説によるべし。
○一首の意 明かなりと思ふに、契沖は「綿を多く積置けるを見て綿の功用をほむるなり」といひ、考はこれを否として「さまでの意はあるべからず。打見たるままに心得べし」といへり。攷證は又「一首の意明らかなれど、この歌譬喩の歌にて滿誓、女など見られてたはぶれに詠れたるにてかの綿を積かさねなどしたるが暖げに見ゆるを女によそへられたるにもあるべし」といへり。されど、この歌にさる意ありとは見えず。考の説を穩かなりとす。即ち、筑紫の綿は名高きものなるが、それを身につけて未だ著ねども、見たるのみにても、暖かげに見ゆとなり。
 
山上臣憶良能宴歌一首
 
○山上臣憶良 細井本以外の古寫本すべて山上憶良臣とかけり。この人は卷一「六三」の歌の作者として既に述べたる人にして、既にいへる如く、和銅六年正月に從五位下に叙せられ、靈龜二年四月には伯耆守に任ぜられ養老五年には退朝之後東宮に侍せしめられたり。而して績紀には洩れたれど、筑前守となりて任に在りしこと卷五の記載によりて知られたり。その任ぜられしは明記せられざれど、天平二年の作歌に「ヒナニ五年スマヒツヽ」とあれば、神龜五年に任ぜられしなるを見るべし。さて古寫本に山上憶良臣とあるは、姓《カバネ》を名の下にかけるにて、令の(464)制によれば、四位の人たるべき筈なり。この事は上「三二八」の詞書の小野老朝臣の下にいへるが如し。されど、憶良が四位に敍せられしことを知らず。筑前は上國なればその守も亦從五位下相當の官なり。或は思ふに、若し、古寫本正しとせばこの時に俗間には後世の如く、五位にも名を前にし姓を後にすること行はれしにてもあらむか。
○罷宴歌 「罷」は卷二「二一八」の「罷道」の下にいへる如く、「マカル」とよむべく、意は宴を辭してかへることをいふなり。これを「ウタゲヨリマカル」とよむ、これにつきて尾山篤次郎氏が「此歌は憶良が宴席より退出せんとする際、四圍の客を顧みて詠つるなり。此歌の前に太宰少貳小野老朝臣歌一首、防人司佑大伴四繩歌二首、帥大伴卿歌五首あり。またこの歌の後に、太宰帥大伴卿讃酒歌十三首、沙彌滿誓歌一首(滿誓の歌、上にあるをば、尾山氏いはぬば、偶、脱したるならむ)あり。即ち前後は太宰府にての歌なり。この歌も太宰府廳の宴席に侍りて詠つるものなること論なし」といへり。まさにこの言の如くなるべし。
 
337 憶良等者《オクララハ》、今者將罷《イマハマカラム》。子將哭《コナクラム》。其彼母毛《ソモソノハハモ》、吾乎將待曾《ワヲマツラムゾ》。
 
○憶良等者 「オクララハ」とよむ。攷證に曰はく「この時は宴會のをりにて、外に人も多くあるべければ自ら名をさしていへる也。」と。されど「等」は「ラ」といふ音をかりたのみにて、多數をいふにあらず、所謂間投助詞なり。
○今者將罷 舊訓「イマハマカラム」とよみたるが、類聚古集は「イマハマケナム」とよみ、槻落葉は「イ(465)ママカラナム」とよめり。これは「今者」を「イマ」とよむこと「三一二」の「今者京引都備仁鷄里《イマハミヤコビキミヤコビニケリ》」に例あるによりていへるなり。今これを考ふるに「今者」を「イマ」とよむことは根據なき事にあらねど、「將罷」を「マカラナム」とよむは不當なり。何となれば「マカラナム」といふ時の「ナム」は未然形につくものにして冀望の意をあらはす助詞にして、「將」の意の複語尾「ナム」にあらず。而してその冀望は專ら他に對しての誂をあらはすものなれば、ここに當らず。複語尾の「ナム」は「ヌ」の未然形に「ム」のつけるものにして連用形につきて「マカリナム」といふべきものなり。されば上を「イマ」といはば「マカリナム」とよむべき筈なるが、然る時「イマハマカラム」と意は大差なくして、「今者」を「イマ」とよむか「イマハ」とよむかにより、よみ方を決すべきこととなる。「今者」を「イマハ」とよめる例は卷一「八」卷三「四八三」卷四「五四二」「六四四」「六八四」卷八「一四三三」「一四三九」卷十「二一八三」卷十二「二八八一」「二九〇五」「二九四一」「二九八四」「三〇八三」卷十三「三二六一」卷十三「三三一九」卷十七「三九一五」等あり。更に「何ハ今ハ」とある例を見るに、卷四「六九四」に「戀者今葉不有常吾羽《コヒハイマハアラジトワレハ》」卷八「一四三九」に「時者今者春爾成跡《トキハイマハハルニナリヌト》」卷十「二一八三」に「鴈鳴者今者來鳴沼《カリガネハイマハキナキヌ》」卷十二「二九四一」に「念八流跡状毛我者今者無《オモヒヤルタドキモワレハイマハナシ》」などあり。されば、ここを「今は」とよみて不可なるにあらねば、舊訓を改むるに及ばざるなり。今は退出せむとなり。以上を一段落とす。
○子將哭 「コナクラム」なり。意明かなり。これ第二段落なり。
○其彼母毛 舊訓「ソノカノハハモ」とよめるを槻落葉に「ソモソノハハモ」とよみたり。その説に曰はく「その子も其母もといふを上に子なくならんとあれば、今は子の言《コト》を省《ハブ》けり。今本のよ(466)みにては其彼の文字いづれひとつ衍《アマ》れり。まして彼の字は集中そのとよみてかのとよむ例なし。卷(ノ)十三に彼乎飼《カレヲカヒ》とあるもそを飼《カヒ》とよむべき也。その餘《ホカ》ひとつふたつ、かのとよめる處あるは皆ひがよみなり」といふにあり。先づ「彼」を集中には主として「ソノ」とよむべきはいはれたれど、「カノ」(卷十四「三五六六」)「カレ」(卷十八「四〇四五」)といふ語の全くなきにあらず。しかも、この頃には「ソノ」とよむべきものなるべし。然るときは「ソノソノ」といふ事になりて歌としては調はぬ事となる。この故に「ソモソノ云々」とよめるならむが、「ソモ」といふ語の例は本集に見えず。檜嬬手は「彼」は「兒」の誤として「ソノコノハハモ」とよめり。この「彼」の字、類聚古集には「子」とせるが、他のすべての本は「彼」なり。この類聚古集と檜嬬手とによらば「ソノコノハハモ」とよむべきに似たるが、かくては意あらはにすぎたり。されば、今姑く槻落葉のよみ方に從ふべし。
○吾乎將待曾 舊訓「カレヲマタムゾ」とよみたるが、槻落葉に「ワレヲマツラムゾ」とよめり。古寫本中にも類聚古集は「ワレヲマツラムゾ」とよめり。この文字にてはいづれにても不可といふべからぬが、「マツラム〔二字右○〕」といふことは、上の「コナクラム〔二字右○〕」に一致するが故にそれをよしとすべし。然る時は「吾」は「ワレ」といふよりも「ワ」とよむをよしとす。「ワヲ云々」といへるは集中に例多し。著しき一例は卷十六「三八八六」の「何爲牟爾《ナニセムニ》、和乎召良米夜明久吾知事乎歌人跡和乎召良米夜笛吹跡和乎召良米夜琴引跡和乎召良米夜《ワヲメスラメヤアキラケクワガシルコトヲウタビトトワヲメスラメヤフエフキトワヲメスラメヤコトヒキトワヲメスラメヤ》」なり。「ワヲマツ」といへる例は卷十七「三九七八」に吾乎麻都等奈須良牟妹乎安比庭早見牟《ワヲマツトナスラムイモヲアヒテハヤミム》」あり。又「マツラムゾ」といへる例は卷十八「四〇七二」に「奴波多麻能欲和多流都奇乎伊久欲布等余美都追伊毛波和禮麻都良牟曾《ヌバタマノヨワタルツキヲイクヨフトヨミツツイモハワレマツラムゾ》」あり。これらにて「ワヲマ(467)ツラムゾ」とよみて不可なきを見るべし。
○一首の意 構造は三段落にして意明かなり。第一段は憶良もはやこの席は罷り退き申さむとなり。第二段は子が、哭きをるならむと、自らの樂みをるうちにも、子の事の忘れられぬをいへるなり。第三段はその子も又その子の母なる者もわれを待ちてをるならむとなり。攷證に曰はく「憶良ことに妻子を愛せられし事は五の卷の歌に多くいでたるなど思ひ合すべし。」
 
太宰帥大伴卿讃酒歌十三首
 
○太宰帥大伴卿 これは上、「三三一」乃至「三三五」の作者と同じく大伴旅人なるべし。
○讃酒歌 酒をほむる歌なり。「讃」は釋名に「稱2人之美1曰v讃、讃纂也、纂2集其美1而敍v之也」といひ、玉篇に「讃(ハ)發2揚美徳1也」とあり。この酒の功徳を讃することは、支那にては古く西晋の張載の〓酒賦あり、鄒陽の酒賦あり、東晋戴逵の酒讃あり、陶淵明の詩あり、劉伯倫の酒徳頌あり。恐らくはそれらの支那の詩文がこれを誘發する縁となりしならむ。
 
338 驗無《シルシナキ》、物乎不念者《モノヲオモハズハ》、一杯乃《ヒトツキノ》、濁酒乎《ニゴレルサケヲ》、可飲有良師《ノムベクアルラシ》。
 
○驗無 「シルシナキ」とよむ。下の「物」につづくが爲なり。類聚名義抄に「驗」字に「シルシ」の訓あり。「驗」を「シルシ」とよませたる例は卷四「四一〇」に「橘乎屋前爾植生《タチバナヲヤドニウヱオホシ》、立而居而後雖悔驗將有八方《タチテヰテノチニクユトモシルシアラメヤモ》」「六七(468)三」に「眞十鏡磨師心乎縱者後爾雖云驗將在八方《マソカガミトギシココロヲユルシテバノチニイフトモシルシアラメヤモ》」卷十一「二五九九」に「驗無戀毛爲鹿《シルシキコヒモスルカ》」卷十二「二九七五」に「齋而持杼驗無可聞《イハヒテマテドシルシナキカモ》」などあり。又「記」を「シルシ」とよみたるあり。(卷十三「三三一六」)「印」を「シルシ」とよみたるあり。(卷十三「三三二四」「三三四四」卷十九「四二三〇」)「效」を「シルシ」とよみたるあり。(卷三「四八一」)又卷四「六一九」に「雖嘆知師乎無三雖念田付乎白土《ナゲケトモシルシヲナミオモヘドモタヅキヲシラニ》」の「知師」「六五九」に「雖念知僧裳無跡知物乎《オモヘドモシルシモナシトシルモノヲ》」の「知僧」も「シルシ」なり。全く假名書にせるは、卷十五「三六二七」に「毛弖禮杼毛之留思乎奈美等《モテレドモシルシヲナミト》」「三七五九」に「多如可敝里奈氣杼毛安禮波之流思奈美於毛比和夫禮弖奴流欲之曾於保伎《タチカヘリナケドモアレハシルシナミオモヒワブレテヌルヨシゾオホキ》」卷二十「四四三八」に「須疑奈無能知爾之流志安良米夜母《スギナムノチニシルシアラメヤモ》」あり。この語はもと「しるす」といふ動詞より出で、それよりして卷九「一八〇九」に「永代爾標將爲跡《ナガキヨニシルシニセムト》」とあるが如く、標記せるものをさしたりしが、一轉してある行爲の効驗利益をいふに至りしものたるなり。即ち「しるしなき」にて無效無益の義たるなり。
○物乎不念者 「モノヲオモハズハ」なり。考に「モノモハズハ」とよみたるが、いづれにてもよきなれば、改むるに及ばざるべし。「不念者」は卷二「八六」の「戀乍不有者」の下にいへる如く、念はむよりはの意なり。
○一杯乃 「ヒトツキノ」とよむ。、槻落葉には「延喜式に等呂須伎とあればふるくはすきといひしと見えたり」といひて「ヒトスキ」とよませたり。されど、これは今もいふ「サカヅキ」の「ツキ」にして、本集にては卷五「三四〇」に「烏梅能波奈多禮可有可倍志佐加豆岐能倍爾《ウメノハナタレカウカベシサカヅキノヘニ》」あり。和名鈔瓦器類に盃盞に注して「佐賀都岐」といひ、新撰字鏡に觚字、※[角+黄]字に注して「佐可豆支」といひ、類聚名義抄には(469)杯字盃字に「ツキ」と注せり。元來坏字は玉篇に「一曰瓦未燒」とありてわが國の土器のことをいふ文字なり。古代にツキといひしは一般にその土器のことをいへりしなり。今も、神事などに用ゐる「サカヅキ」は必ず、今のカハラケなることにてその古のさまを思ふべし。
○濁酒乎 古來「ニゴレルサケヲ」とよめり。濁酒の字面は支那に既に用ゐたる(説文に「〓濁酒也」玉篇に「〓酒濁酒」など、又文選などに例多し)を襲用したるものなり。これは古今「ニゴリザケ」といふを普通とす。類聚名義抄に「醪」に「ニゴリザケ」と注し、色葉字類抄にも同じ樣に注せり。されば、ここも「ニゴリザケ」とよむが普通なるべきに「ニゴレルサケ」とよむは如何。「ニゴレルサケ」とよむべきには「在」か「有」かをその間に入るべきが、この卷の例なり。しかも口調あしきが故「ニゴレルサケ」とよむより外あるまじ。されば、ここは特別の例として「有」「在」なくしても「ニゴレルサケ」とよむべきならむ。
○可飲有良師 舊本「ノムベクアラシ」とよみたるが、童蒙抄は「飲むべくあるらしと云詞の、くあをつゞめてかといふ也。よりてのむべかるらしと讀む」といへり。いづれも一往の理由あることなるが、本集にこの他に「ベカルラシ」とよめる例なし。されど「アルラシ」とよむべくかける例あり。卷十七「三九八四」に「己能和我佐刀爾伎奈可受安流良之《コノワガサトニキナカズアルラシ》」卷二十「四四八八」に「※[(貝+貝)/鳥]之奈加牟春敝波安須爾之安流良之《ウグヒスノナカムハルベハアスニシアルラシ》」などなり。又「アラシ」といへる例は卷十五「三六〇九」に「武庫能宇美能爾波餘久安良之《ムコノウミノニハヨクアラシ》」「三六六七」に「和我多妣波比左思久安良之《ワガタビハヒサシクアラシ》」などあり。こゝに特に「有良師」とかけるは「アルラシ」とよむべきを示せるものと見ゆれば「ノムベクアルラシ」とよみたり。
(470)○一首の意 何の益もなき物思をせむよりは一杯の濁酒にてものむ方まさりてあるやうに思はるとなり。支那にては易林に曰はく「酒爲2歡伯1除v憂來v樂」といへる如く、古、酒を勸伯といへり。劉伯倫が酒徳頌に曰はく「先生於v是方捧v※[嬰の女が瓦]承v糟銜v杯漱v醪奮v髯箕踞、枕v麹藉v糟無v思無v慮其樂陶陶」と。この意を合めりと見ゆ。
 
339 酒名乎《サケノナヲ》、聖跡負師《ヒジリトオホセシ》、古昔《イニシヘノ》、大聖之《オホキヒジリノ》、言乃宜左《コトノヨロシサ》。
 
○酒名乎 「サケノナヲ」とよみて、異説なく、義も亦明かなり。
○聖跡負師 舊訓「ヒジリトオヒシ」とよみたるが、「オヒシ」にては意とほらず。類聚古集に「オホセシ」とよみたるが、代匠記には「オフセシ」とよむべしとし、槻落葉に「オフシシ」とよみ、略解、古義に「オホセシ」とよみたり。元來これは名に負はす義なれば、「オホス」といふ下二段活用の語なるべき筈のものなり。この故に上の諸説のうちに「オホセシ」とあるをよしとす。この語の假名書の例は卷十八「四〇八一」に「可多於毛比遠宇萬爾布都麻爾於保世母天故事部爾夜良波比登加多波可母《カタオモヒヲウマニフツマニオホセモテコシヘニヤラバヒトカタハムカモ》」とあり。「酒の名を聖と負ほせし」といふは、酒をば聖と名づけたりといふことなり。これは鄒陽の酒賦に「清者爲v酒、濁者爲v醴、清者清明、濁者頑※[馬+矣]」といふこともあれど三國志魏志の徐※[しんにょう+貌]傳に「魏國初建爲2尚書郎1、時科2禁酒1。而※[しんにょう+貌]私飲沈醉。校事趙達問以2曹事1。※[しんにょう+貌]曰、中2聖人1。達白2之太祖1。大祖甚怒。渡遼將軍鮮于輔進曰、平日醉客謂v酒、清者爲2聖人1、濁者爲2賢人1耳。※[しんにょう+貌]性修慎、偶醉言耳。竟坐得v免v刑」とあるが如きことによれるならむ。即ち魏の時、酒を禁じたる爲に、(471)醉客の隱語として、清酒を聖人と呼びしことをさせるなり。
○古昔之 「イニシヘノ」とよむ。異説なし。
○大聖之 「オホキヒジリノとよむ。「大」を「オホキ」といふのは「オホキシ」の語幹にて又「オホキニ」などいふ場合に副詞ともなる。それを「ヒジリ」につづけて熟語とせるは大海を「於保吉宇美《オホキウミ》」(卷二十「四四九一」)といふに似たり。さて大聖とは誰なるか。元來これは既にいひし如く醉客の隱語なれば、これを名づけし人は大聖といふべき人にあらぬはいふまでもなく、又その名を命ぜし人も傳はらぬなり。然るにここに大聖としもいへるは、酒を聖人と名づけし人なれば、その名をつけし人はそれ以上の大聖といひて可ならむといふ心にて名づけしならむ。然れども、この語はもと上の徐※[しんにょう+貌]の故事により名高くなれる事にて、そ後、魏の文帝が徐※[しんにょう+貌]に問うて「頗復中2聖人1乎」といひしなど、徐※[しんにょう+貌]と離るべからぬ事となれりしものと見ゆ。然らば、ここは或は徐※[しんにょう+貌]をさせるにあらざるか。この人は人物高邁、一世の師表たりし人にて、盧欽がこの人を稱して、「聖人以v清爲v難而徐公之所v易(シトス)也」とあれば、大聖を以て目せられしなりともいふをうべし。
○言之宜左 「コトノヨロシサ」とよむ。「よろし」は適當の意なり。異説なし。その言の宜しきを喚體句としてうたへるなり。かかる語法は卷五「八六三」に「伊毛良遠美良牟比等能等母斯佐《イモラヲミラムヒトノトモシサ》」卷十「一九五二」に「霍公鳥喧奈流聲之音乃遙左《ホトトギスナクナルコヱノオトノハルケサ》」卷十七「三九二八」に「須流須邊乃奈左《スルスベノナサ》」などあり。
○一首の意 酒に聖人といふ名をおほせたりし昔の大聖人のその言はまことによく適切なることよとなり。
 
(472)340 古之《イニシヘノ》、七賢《ナナノサカシキ》、人等毛《ヒトタチモ》、欲爲物者《ホリスルモノハ》、酒西有良師《サケニシアルラシ》。
 
○古之 「イニシヘノ」なり。異説なし。
○七賢人等毛 舊訓「ナナノカシコキヒトヽラモ」とよみたるが、「人等」を「ヒトトラ」とよむべき理由なし。代匠記に「ヒトトモ」又は「ヒトタチ」とよむべしといへり。ここはその七賢人をやゝたふとむ意あるべければ、「タチ」とよむべきなり。「七」は「ナナ」とも「ナナツ」ともよむべきが、「七」を獨立して用ゐるときに「ナナツ」といへど、その他は「ナナ」とのみいへるが古語のさまなれば「ナナノ」にてよからむ。「賢」は日本紀仁徳卷の注に「賢遺此云2左何之能※[草がんむり/呂]里1」とあるごとく「サカシ」とよむべし。「カシコシ」は古語は「畏」「恐」などの意にして「賢」の意には用ゐざりしなり。されば古義に「サカシキヒト」とよめるをよしとす。古の七賢人とは支那の晋の七賢人即ち竹林の七賢をさせり。これは晋書の阮咸傳、※[禾+(尤/山)]康傳等に見ゆるが、世説の任誕篇に「陳留(ノ)阮籍、※[言+焦]國(ノ)※[(禾+尤)/山]康、河内(ノ)山濤三人年皆相比、康年少之。亞之預2此契1者沛國(ノ)劉伶、陳留(ノ)阮咸、河内(ノ)向秀、琅邪(ノ)王戎。七人集2于竹林之下1、肆v意酣暢。故世謂2竹林七賢1」とあり、その注に「晋陽秋曰、于時、風譽扇2于海内1。至2于今1詠之」とあり。酣暢は晋書阮修傳に「至2酒店1便獨酣暢」とある如く、酒を飲みて樂むことなり。
○欲爲物者 古來「ホリスルモノハ」とよめるを槻落葉に「ホリセシモノハ」とよめり。これは、過去の事なれば、過去の語法を用ゐよといふ理窟より出でしならむが、然るときは下も「酒にありけらし」といふべき理窟なり。されど元來この語法は自己の過去の經驗を回想することをあら(473)はすが本意たるものなれば、ここはかへりて古の訓をよしとす。この語の假名書の例は卷十四「三三八三」に「可久太爾毛久爾乃登保可婆奈我目保里勢牟《カクダニモクニノトホカバナガメホリセム》」あり。又卷十二「二八六三」に「戀乍毛後將相跡思許増己命乎長欲爲禮《コヒツツモノチニアハムトオモヘコソオノガイノチヲナガクホリスレ》」などあり。この語、後に「ホツス」といふ一語をなすに至るなり。
○酒西有良師 舊訓「サケニシアルラシ」とよめるが、槻落葉に「サケニシアラシ」とよめり。これは「三三八」にいへる理由によりて舊訓を改むるに及ばざるなり。「西」は「ニ」と「シ」との助詞をあらはすに借りたるなり。
○一首の意 傳へ聞くに、古の竹林七賢人たちも、樂み耽りたりしは酒にてありし樣子にてありしよとなり。
 
341 賢跡《サカシミト》、物言從者《モノイフヨリハ》、酒飲而《サケノミテ》、醉哭爲師《ヱヒナキスルシ》、益有良之《マサリテアルラシ》。
 
○賢跡 舊訓「カシコシト」とよみたるが、童蒙抄は「さかしらと」とよみ、古義は「サカシミト」とよめり。「カシコシ」といふ語はこの頃は畏恐の意のみなれば、賢をよむはあたらぬこと、及び賢は「サカシ」とよむべきこと既にいへり。さては「サカシラ」とよむべきかといふに、童蒙抄は「酒の歌なれば、さかしらとよむ方よからんか」といふ意見なり。されどこはその物いふことを傍觀してさかしらなりといふ意にあらずして、その物いふ本人が自ら賢なりと思ふ意にあるべきなれば、「さかしら」といふは當らず。「サカシミト」といふを當れりとす。「サカシミ」とは自ら賢しと思ふことをいふ語なり。卷十五「三六七三」に「可是布氣婆於吉都思良奈美可之故美等能許能等麻里爾(474)安麻多欲曾奴流《カゼフケバオキツシラナミカシコミトノコノトマリニアマタヨゾヌル》」「三七三〇」に「加思故美等能良受安里思乎《カシコミトノラズアリシヲ》」この卷「四一四」に「菅根乎引者難三等標耳曾結烏《スガノネヲヒカハカタミトシメノミゾユフ》」などこれと同じ詞遣なり。ここの「と」は「と思ふ」意の標目を示したるなり。
○物言從者 舊訓「モノイフヨリハ」とよみたるが、槻落葉は「モノイハムヨハ」とよめり。その理由とする所は「卷五に雲に飛くすりはむ用者〔二字右○〕とあれば、ここにも、ものいはむ〔三字右○〕よはとよみつ」といふにあり。然るに「はむよは」は麻行四段活用の連體形より「より」につづけるもの「いはむ」は波行四段活用の未然形に複語尾「む」のつけるその連體形よりつづけるものにして全く別のものなれば槻落葉の失考なること著し。されば、ここはもとより、「イフ」といふ四段活用の連體形より「ヨリ」につづくものとするを穩かなりとす。
○酒飲而 「サケノミテ」なり。異説なし。
○醉哭爲師 「ヱヒナキスルシ」とよむ。「ヱヒナキ」とは俗にいふ、泣上戸の事なり。本集には、この讃酒歌になほ二ケ所この語あり。續日本後紀(仁明天皇)の承和十年三月「辛卯出雲權守正四位下文屋朝臣秋津卒……論2武藝1足v稱2驍將1、但在2飲酒席1似v非2丈夫1、毎v至2酒三四抔1必有2醉泣之癖1故也」と見ゆ。この一句は次に對しての主格たり。「し」は間投助詞として意を強むる用をなす。
○益有良之 舊馴「マサリテアルラシ」とよみたるが、槻落葉は「マサリタルラシ」とよみたり。これは既にいへる如くいづれにてもよかるべきによりて舊訓を改むるに及ばざるべし。
○一首の意 賢人ぶりてわれかしこにものをいはむよりは酒を飲みて醉泣する方がかへりてまさりてあるべしとなり。醉泣することは通常醜きことにせられてあれど、それよりも賢ぶ(475)りたるかたが一層醜しと世を罵れるなり。
 
342 將言爲便《イハムスベ》、將爲便不知《セムスベシラニ》、極《キハマリテ》、貴物者《タフトキモノハ》、酒西有良之《サケニシアルラシ》。
 
○將言爲便 「イハムスベ」なり。この語は卷二「二〇七」に同じ文字を用ゐてあり。意は明かなり。
○將爲便不知 舊訓「セムスヘシラズ」とよみたるが、槻落葉は「爲」を一字補ひて「セムスベシラニ」とよませたり。然れども、卷二「二一三」に「爲便不知」を「セムスベシラニ」とよみたる如く、「爲便」二字のみにても「セムスベ」とよむべきなれば「將爲便」三字にて「セムスベ」とよむこともとより不可ならず。なほこれは卷二「二〇七」に「將言爲便《イハムスベ》、世武爲便不知爾《セムスベシラニ》」に準へて、「セムスベシラニ」とよむべきなり。「ニ」は打消の意にして連用形なれば、かく語を重ぬるに惡からす。
○極 舊訓「キハマリテ」とよみたり。考は「キハミタル」とよみ、槻落葉は「キハメタル」とよみたるが、これは集中ここのみにて他に例を見ざるものなり。按ずるに、これは後世「キハメテ」といふと同じ用ゐざまのものなるが、「キハメテ」といふ時は自らすることにて意穩かならず、その意にては「キハマリテ」とよむを穩かなりとするが、これは恐らくは漢語の程度を示す副詞の「極」を訓讀せしものならむ。宣命に同じ樣の「至」を「イタリテ」とよめること「第廿八詔」に「此禅師〔二字右○〕淨御法繼隆武止念行末之云々」と同じ樣なる用法ならむ。さらば舊のまゝにてよからむ。
○貴物者 舊訓「カシコキモノハ」とよめり。代匠記に「タフトキモノハ」とせり。「貴」を「カシコシ」と(476)よむは無理なれば、代匠記の説をよしとす。
○酒西有良之 舊訓「サケニシアルラシ」とよみたるを槻落葉に「サケニシアラシ」とよめり。されど、先々の例によりて舊訓を改むるに及ばず。
○一首の意 明かなり。言語に絶して、たまらぬ程極めて結構なるものは酒なるべしといふ意。これは漢書食貨志に「酒、天美禄、頤2養天下1」とか「酒百藥之長、嘉會之好」とかいへることを思ひていへるならむ。
 
343 中々二《ナカナカニ》、人跡不有者《ヒトトアラズハ》、酒|壷〔左○〕二《サカツボニ》、成而師鴨《ナリニテシガモ》。酒二染甞《サケニシミナム》。
 
○中々二 「ナカナカニ」とよむ。この語の例は、卷四「六八一」に「中々爾絶年云者《ナカナカニタユトシイハバ》」又「七五〇」に「念絶和備西物尾中々爾奈何辛苦相見始兼《オモヒタエワビニシモノヲナカナカニナニカクルシクアヒミソメケム》」卷九「一七九二」に「白玉之人乃其名矣中々二辭緒下延不遇日之數多過者《シラタマノヒトノソノナヲナカナカニコトノヲシタハヘアハヌヒノマネクスグレハ》」卷十一「二七四三」に「中々二君二不戀者枚浦乃白水郎有申尾《ナカナカニキミニコヒズハヒラノウラノアマナラマシヲ》」卷十二「三〇八六」に「中々二人跡不在者桑子爾毛成益物乎《ナカナカニヒトトアラズハクハコニモナラマシモノヲ》」卷十七「三九三四」に「奈加奈可爾之奈婆夜須家牟《ナカナカニシナバヤスケム》」などあり。語の意は槻落葉に「半《ナカラ》々にて事の行とゞかぬをいふ言也」といへるが、今の俗言に「なまなか」といふに似たり。
○人跡不有者 「ヒトトアラズハ」とよむ。「ヒトトアリ」とは人たりといふ事なり。卷五「八九二Lに「和久良婆爾比等等波安流乎《ワクラハニヒトトハアルヲ》」又卷十二「三〇八六」に「中々二人跡不在者《ナカナカニヒトトアラズハ》」とあるは同じ語にして人にてあらんよりはの意なり。
(477)○酒壺二 「壺」の字諸本に「〓」にツクルは誤れること著し。「〓」は音ココンにして宮中道の義なり。「ツツボ」は壺にして音「コ」なり。されば改めたり。「サカツボニ」とよむ。意明かなり。
○成而師鴨 舊訓「ナリニテシカモ」とよみたり。代匠記は「ナリニテシガモ」とよみ、考は「鴨」は「鬼」の誤にして「ナリニテシモノ」とよみ、槻落葉は「ナリテシカモ」とよみ、古義はこれによりて「カ」を清音によむべしとせり。按ずるに、ここに誤字ある本一もなければ考の説はうけられず。「鴨」を「カモ」とよむ説は古義を代表とすべきが、それは希望の助詞は「モ」の下にある時にかぎりて「ガ」と濁るにてその他は濁音にせずといふことなり。然るに「モガ」「モガモ」といふ場合にも、「母加」(卷二十「四三二七」)「毛鴨」(卷十二「三一六五」卷十三「三二九九」)「母鴨」(卷十一「二六四五」)又「天橋文長雲鴨高山文高雲鴨《アマハシモナガクモガモタカヤマモタカクモガモ》」(卷十三「三二四五」)など、清音なる字を「ガ」「ガモ」に用ゐたるものなれば、ここも「ガモ」とよみてもとより不可なき筈なり。ことに「カ」「カモ」とのみいひては感動と希望との區別立たず。古來より希望を「ガ」「ガモ」とよみ來れるを根據なくして破るは不條理なり。次に「ナリテシガモ」か「ナリニテシガモ」かといふに意に於いては大差なきものにして、これを必ず六音にせざるべからざる理由なければ、古來のよみ方によりてそれを「ガモ」と改むべきものなり。ここにて一段落にして、酒壺になりてしまひたしとの意なり。
○酒二染甞 古來「サケニシミナム」とよめり。考は「サケニシミナメ」とよみ、槻落葉は「サケニソミナム」とよめり。考の説は如何なる理由によるか道理なしと見ゆるによりて從ふべからず。「染」は普通「ソム」とよむことなれど、古くは「シム」とよみたるのみならず、「しむ」といふ語の方意適切(478)なり。卷二「一九六」の「益目頬染《イヤメヅラシミ》」卷四「六四一」の「和備染責跡《ワビシミセムト》」は「シミ」のかなに「染」をかり、この卷上「三〇〇」に「妹乎目不離相見染跡衣《イモヲメカレズアヒミメトゾ》」とある「染」は「令」の意の「シメ」にかりたるものにして當時これを「シム」とよみたる證なり。而してここは色の染まるにあらずして酒につかりなむといふなれば「シミナム」の方よしとす。「甞」は「ナム」といふ語をかりたるなり。
○ この歌は支那三國時代の呉の鄭泉の事蹟によりてよめるものなり。これにつきて、仙覺はその抄に
   人にあらすは酒の壺にならはやと云ことは本文にいはく、むかし酒をこのむものありけり、これがわれしなんには酒の壺にならずは、人の酒のまむにうけしたみてん所の土とならんとねがひて死にける也。その心をよめる歌也。
といへるが、その本文とは何なるを説かず。略解は
  呉志に鄭泉臨v卒時語2同輩1曰、必葬2我家之側1化而爲v土、幸見v取爲2酒壺1實獲2我心1矣。
とあり。なほ又この一條の語は世説新語補に出でたるを以て、萬葉集はこの世説新語補よりとりたるなりといふ説あれど、これはその原書たる世説に載せぬ所にして明代に増補せし部分にある語なれば、この説はとるべきにあらず。然らばこの語は呉志より出でたりとすべきか。呉志には鄭泉傳といふもの無くただその建武元年十二月の條に鄭泉の名見えたる下に「呉書曰云々」として引ける文あるを見るのみ。これを略解の引けるものと比較するに、文章はこれとは異にして、實は世説新語補の文を略解は孫引して「呉志に」といへるなり。さらば今の(479)これの出典は呉志の注なるかといふに、余は然らずして、※[王+周]玉集に出でたりと思ふ。この書は支那に佚したるものなれど、原、十五卷ありしものが、今は卷十二、卷十四の二卷のみ存して眞福寺に傳へて國寶たり。それの卷十四の嗜酒篇にこの鄭泉の話をのす。曰はく
 郵泉字文淵陳郡人也。孫權時爲2太中大夫1爲v性好v酒。乃嘆曰願得2三百※[百+升]船1酒滿2其中1以2四時甘※[食+肴]1置2於兩頭1安2升升在v傍、隨滅隨益、方可v足2一生1耳。臨v死之日勅2其子1曰我死可v埋2於窯之側1數百年之後化而成v土、※[豈+見]取爲2酒瓶1獲心願矣出2呉書1
とあるなり。これによれば、この話はその源呉書にあること明かなるが、その外には呉志と※[王+周]玉集との二書なり。旅人はこの三書のうちよりこの話を得しならむ。呉書は支那にもはやく佚し、我國に傳はれりといふ證なし。呉志即ち三國志は旅人より三四十年の後神護景雲三年にはじめて太宰府に下されたるものにして正史として極めて少かりしならむ。※[王+周]玉集は天平十九年の書寫のもの眞福寺にあり。加之、これは所謂小説にして世人に愛翫熟讀せられしものなるべければ、恐らくはこの※[王+周]玉集がその出典たりしものならむか。
○一首の意 前の鄭泉の話を心得てはじめて明かなりとす。この歌二段落にして、第一段は鄭泉の話の如くなまなかに人間として生れてあらんよりは一層のこと酒壷になりてしまはまむとなり。第二段はかくしてば絶えず酒に漬りしみてあらむとなり。これ即ち酒を愛するの極なる癡情を述べたるなり。
 
(480)344 痛醜《アナミニク》、賢良乎爲跡《サカシラヲスト》、酒不飲《サケノマヌ》、人乎※[就/火]見者《ヒトヲヨクミレバ》、猿二鴨似《サルニカモニル》。
 
○痛醜 古來「アナミニク」とよめり。攷證に曰はく「痛をあなと訓るは義訓にて痛はいたしともよみて甚しき意なればあなとは訓る也。本集四【二十八丁】に痛多豆多頭思《アナタヅタヅシ》(五七五)七【五丁】に痛足河《アナシノカハ》云云(一〇八七)などもありてあなてふ語は歎息の詞にて古語拾遺に事之甚切皆稱2阿那1云々と見え、かのあなにやしえとのたまひしあなもこれ也。書紀神武紀訓注に大醜此云2鞅奈彌邇句1と見えたり。玉篇に醜貌惡也とありて、今、見にくしとも見ぐるしともいふと同じ」といへり。これにて殆どいふべきこと盡きたるが、なほ卷十二「三一二六」に「纏向之痛足乃山爾雲居乍《マキムクノアナシノヤマニクモヰツツ》」など「痛」を「アナ」の假名に用ゐたる例あり。
○賢良乎爲跡 古來「サカシラヲスト」とよめり。「賢」を「サカシ」とよむべきこと既にいへる如くなればこのよみ方には古來異論なし。「サカシラ」といふ假名書の例は本集になけれど、卷十六「三八六〇」の「情進爾行之荒雄良《サカシラニユキシアラヲラ》」の「情進」を古來「サカシラ」とよみ、又卷十六「三八六四」の「情出爾行之荒雄良《サカシラニユキシアラヲラ》」とある「情出」をも「サカシラ」とよめるがいづれも義訓なり。この語は平安朝の歌文に頻繁に見ゆる所なるが、類聚名義抄には「※[人偏+纔の旁]」といふ字と「※[巣+力]説」といふ字に「サカシラ」の訓あり。「※[人偏+纔の旁]」字には種々の義あるが、禮記の表記に「君子不d以2一日1便c其躬※[人偏+纔の旁]焉如u不v終v日」とある注に「苟旦可輕之※[貌の旁]」とあるにあたるものにして、又禮記の曲禮に「長者未v及毋2※[人偏+纔の旁]言1」とある、これは「雜言也」と注せるが、他人の言事の未だ畢らざるに乃ち他事を擧げ言ひてその説を錯亂することをいふ。又廣雅(481)の釋詁には「疾也」ともあり。「※[巣+力]説」は禮記曲禮に「毋2※[巣+力]説1毋2雷同1」とあるが、これは他人の言説を襲ひ取りて己が有とすることをいふ。後漢書第六十九の孔※[人偏+喜]傳に「※[人偏+喜]曰書傳若v此多矣。隣房生梁郁※[人偏+纔の旁]2和之1曰如v此武帝亦是狗邪」とあるに注して曰はく「※[人偏+纔の旁]謂2不v與之言1而傍對也。禮記曰毋2※[人偏+纔の旁]言1」とあり。※[人偏+纔の旁]言はさし出で口をするをもいふ。「サカシラ」は「サカシ」といふ形容詞の語幹に接尾辭「ラ」を加へて副詞としたるものにて賢しき状態にするをいふが、ここは我ひとり賢だてをすることをいふならむ。「爲跡《スト》」は俗語「するとて」の意なり。
○酒不飲 舊訓「サケノマデ」とよみたるが、この頃「デ」といふ打消のいひ方ありしか否か、疑しきのみならず、かくては下につづかぬなり。代匠記に「サケノマヌ」とよみて「ヒト」につゞくるをよしとす。意明かなり。我ひとり賢人ぶりて酒を飲まぬ人をさすなり。
○人乎※[就/火]見者 舊訓「ヒトヲニクムハ」とよめり。「野※[就/火]字は卷一「八」の「※[就/火]田津」の條に既に見ゆるが、これは「熟」の俗體なり。さて「焚※[就/火]」をここに「ニクム」とよめるは如何。「熟」は「ニル」とはよむべけれど、この二字にて如何にしても「ニクム」とよむべき道理を生ぜず。かかればこのよみ方は從ふべきものにあらざるなり。代匠記には「ヒトヲヨクミバ」とし、童蒙抄は「ヒトヲナカムハ」とよみ、略解は「ヒトヲヨクミレバ」とよめり。童蒙抄の説は「熟見」の二字を以て「ナガム」の語をあらはしたりと見たるものなれば、不條理にはあらず。されど、しかする時は「ナガムルハ」とよまざるべからず。しかも萬葉集には「ナガム」といふ語を用ゐたる實例を見ざれば、この語を必ず用ゐるべしといふことは主張するを得ざるなり。さては「熟」を「ヨク」とよみたる説に從ふべきが。「熟」(482)を「ヨク」とよめる例は集中他に例を見ねど、「熟見」は「ツラ/\見ル」ことにして「ヨク見ル」といふ意にあたれば、恐らくは義訓なるべし。戰國策に「明日徐公來熟視之自以爲不知」とある「熟」は精詳にする義なれば、國語にて「よく見る」にあたる。顆聚名義抄には「※[目+占]」「※[目+并]」に「ヨクミル」の訓あり。「ヨクミル」の語例は卷一「二七」に既にあり。さて「熟見」を「ヨクミル」の語にあたるものとしてここは「ヨクミバ」とよむべきが、「ヨクミレバ」とよむべきかといふに、「ミバ」とよむ時は、假設條件となりて歌の意成立せず。ここは必ず「ヨクミレバ」とよむべきこといふまでもあらざるべし。意は明かなり。
○猿二鴨似 舊訓「サルニカモニル」とよみたるを代匠記に「サルニカモニン」とよめり。その理由とする所は「さかしらすとて酒をも飲ぬ人をつら/\能見は猿の人に似て人にあらぬか、さすかにこさかしきに似むとなり」といふにあり。さて後童蒙抄、考、略解、檜嬬手、全釋等は「ニル」とよむ方により、槻落葉、古義、註疏、新講、新考等は「ニム」とよむ方によれり。攷證は二者を併存せり。さてここは如何によむべきかといふに、上を「ヨクミレバ」とよめる以上ここは「ニル」にてよき筈なり。ここを必ず「ニム」とよまむとならば上を「ヨクミバ」とよまざるべからず。然れどもかくする時は既にいへる如くに、意不十分になりて不可なり。されば「ニル」とよむ方に從ふべきなり。而して「かも」は疑の助詞にしてそれに對して上を「ニル」と連體形にて結べり。ここに酒飲まぬ人を猿に似るかといへるは、如何なる故かと考ふるに、蓋し猿のこざかしきが如きなりと罵りたるものならむ。
(483)○一首の意 この歌童蒙抄に「此歌は下戸を譏り、下戸を猿にたとへて酒を賞美したる也」といへることは諸家一致して認むる所なり。されど、その上の二句の解に至つては諸家必ずしも一致せず。先づ、「痛醜」といへるは何を「醜し」といへるかといふに、これを明かにせる書少し。代匠記には「賢人だてをするとてのまゝほしき酒をも飲ずしてのむ人を惡み嫌ふ其人は譬は猿の人に似て人にも非ずこさかしきが如しと云ふ意か」といひたるが、なほ曰はく「されども猿にかも似ると云てにをは落着せず。亦はゑへる人を惡むは顔の赤きが猿に似たる嫌歟とも意得つべけれども、飲ずしてさかしらする者をあなみにくと謗る歌なればそれも叶はず。今按、酒のまぬ人をよく見は猿にかも似んと和すべし。さかしらすとて酒をも飲ぬ人をつら/\能見ば、猿の人に似て人にあらぬがさすがに、こさかしきに似むとなりていへり。かくて誰か誰をさして「あなみにく」といへるものとすべきかは明かならず。槻落葉は「酒のむものはいとみにくき事ありなどいひてさかしだてして不飲あるなり」といへれば、これは飲まぬ人より飲む人をあなみにくといふとする説なり。されど、かく解する時は酒のむ人を以て賢しらをすといふこととせざるべからざる事となる。檜嬬手には「酒を飲めば、貌赤くなりて猿に似たれど、又賢こだてすとて酒をものまず、何事にても皇國ぶりを嫌ふ人をよく/\見れば、却て猿が人まねするやうにてあな醜しと也」といへり。この説うがち過きたる嫌あれど、その賢らをする人をみにくにしといへるものなるが、攷證、古義等大體この説なり。これは次の句とのつづきを考へ、又一首の意を總合して推すに、「あなみにく」は上の「さかしらをすと、酒のまぬ人をよくみ(484)れば猿にかもにる」といふことを前提的にいへるなること著し。次に「賢しらをすと」は如何といふに、攷證には「酒のめば、さかしらする物ぞとて酒をのまざる人をよくみなば云々」といへるが、かく見る時はこの歌は興味索然として、殆ど歌としての意をなさざることとなる。これは檜嬬手にいへる程のもつてまはりたる意はあらざるべしといへども、大體はその意なること明かなるをや。さればこれは、即ちのみたく思ふ酒をも飲まずして、賢人だてをする人をば一寸見には如何にも尤もらしく思るるが、よく/\見れば、其人は譬へばそのこざかしきこと恰も猿に似たらんか。さてもみにくきことよとなり。
 
345 價無《アタヒナキ》、寶跡言十方《タカラトイフトモ》、一坏乃《ヒトツキノ》、濁酒爾《ニゴレルサケニ》、豈益目八《アニマサラメヤ》。
 
○價無寶跡言十方 「アタヒナキタカラトイフトモ」とよむ。「十方」は「トオモ」を約めて「トモ」といへるをかりて助詞の「トモ」をあらはしたるなり。「價」は「アタヘ」とよむ説(攷證等)と「アタヒ」(代匠記等)とよむ説とあり。この語の假名書の例は紀記萬葉集には一も見えねど、平安朝の文献ことに、類聚名義抄等にはいづれも「アタヒ」とあるもののみにして「アタヘ」とあるもの一も存せず。されば、「アタヒ」を正しとすべし。「價なき」寶とは有限の價を以てそれを評價すべきことを得ざる意にして無比の貴重なる寶の義なり。この語は續博物志に「魏田父耕2於野1而得v玉弗v識。隣人陰欲v得v之。給曰、此怪石也。田父置2玉於室1。其光燭夜、果以爲v怪棄2之於野1。人從而盗v之、以獻2魏王1。玉工望而拜曰。此無價之寶」と。これは尹文子に出でたるをとりたるなるが、尹文子に(485)は「玉工曰此無2價以當1v之云々」とある、これにてその意を知るべし。而して佛經にてはその無上の法をたとふるに無價寶珠といふ語を以てせり。たとへば、法華經受記品に「以2無價寶珠1繋2其衣裏1」といひ、大般若經第四百二十九に「譬如3無價寶珠具2無量種勝妙威徳1」といへるが如し。
○一坏乃濁酒爾 よみ方も意味も上にいへるにおなじ。
○豈益目八 「アニマサラメヤ」とよむべし。然るに類聚古集、古葉略類聚抄、神田本には「八」の下に「方」の字ありて、「アニシカメヤハ」とよめり。されど、「ヤハ」といふ語はこの頃に存せし證を見ず。この故に古義はこの「方」の存すべきを主張し、なほ、略類聚抄に益を「※[天/〓]に作れるは「若」の誤なりとして「アニシカメヤモ」と訓せり。されど、その略類聚抄の古鈔本なるはなほ「益」の草體の訛なること著しきものをや。さて「益」字とする時にこれを「シカメヤ」とよむべき理由なし。かくて、その形にて「方」字ありとせば、「アニマサメヤモ」とよむべきに似たり。然れども、かくよみてはその増すべき量をいふべき語なければ、ここの意にあはず。されば、多數の本の「方」字なき方により、よみ方も舊訓をよしとす。「豈」は今もいふ語にして、「ナニ」と殆ど同じく疑問の意を以て反語を導く爲の副詞なり。下の「や」は「豈」に應ずる助詞として已然形をうくるなり。
○一首の意 明かなり。支那の古書、又佛經などに無價の寶といふことをいふが、さやうなる無上の寶といふとも、一坏の濁酒に豈に益らんやとなり。即ち酒こそ無上の寶なれといふなるが、この歌一首としては理窟をいへるに似て興味少きものなりとす。
 
(486)346 夜光《ヨルヒカル》、玉跡言十方《タマトイフトモ》、酒飲而《サケノミテ》、情乎遣爾《ココロヲヤルニ》、豈若目八目《アニシカメヤモ》。【一云】八方。
 
○夜光玉言十方 「ヨルヒカルタマトイフトモ」とよむ。夜光る玉とは所謂夜光の玉なり。述異記に「南海有v珠、即鯨目、夜可2以鑒1謂2之夜光1」とあり。又戰國策に「張儀爲v秦破v從連横、諒2楚王1。楚王遣2使百乘1獻2駭※[奚+隹]之犀、夜光之璧于秦王1」とあり。その他文選などに屡見ゆるものなるが、古、支那にて、天下の至寶とせるものなり。
○酒飲而 「サケノミテ」なり。意明かなり。
○情乎遣爾 「ココロヲヤルニ」とよむ。意明かなり。心中に欝する思ひをはるけ遣るをいふ。代匠記に曰はく「文選魏武帝短歌行(ニ)云、慨當2以慷1、憂思難v忘、何以解v憂、惟(ノミ)有2杜康1。注謂杜康古之造酒者」とあり。まさにこの言の如くなるべし。
○豈若目八目 「アニシカメヤモ」なり。槻落葉には「若」は「益」の誤として、「アニマサメヤモ」とよみたり。これは神田本にも「益」とあれば、參考すべき説といふべし。されど、「マサメ」は「マス」といふ増加の意となり、「マサル」といへば、勝劣の意となるなれば、「益」字をよしとせば「マサラメヤモ」とよむべきものとす。而して、上の歌と意略似なれば、語をかへたる方穩かなり。されば舊のままにて、訓もそれをよしとす。意明かなり。
○一云八方 これは一本の傳に「八目」とあるを「八方」とかけりとなり。書き方の異なるのみにてよみ方も意も異ならず。
(487)○一首の意 明かなり。夜光の玉といふとも何にせむか。さやうのものよりも酒を飲みて思をやり陶々乎として天外に魂を遊ばしむるに豈若かんや。決して若くものにあらずとなり。前の一首と意略同じきが、前のは酒を主としてほめ、この一首は酒を飲む樂を主としていへるにて二首相合して酒をほめ樂む意を完くせしめたりと見るべし。
 
347 世間之《ヨノナカノ》、遊道爾《アソビノミチニ》、冷者《スズシキハ》、醉哭爲爾《ヱヒナキスルニ》、可有良師《アルベクアルラシ》。
 
○世間之 「ヨノナカノ」とよむ。この語の假名書の例は卷五に五あり、卷十五卷十七に各二宛あり。意明かなり。
○遊道爾 古來「アソビノミチニ」とよめ來り、異論なし。この意について略解は「遊の道は萬にわたりていふ」といへるが、攷證には委しく説く所あり。曰はく「すべて遊《アソビ》といふは歌舞管絃はさら也。漁獵また酒宴などすべてあそびとはいへる事、古事記上卷に何由以天宇受女者爲|樂《アソビ》亦八百萬神諸咲云々、又云日八日、夜八夜以遊也云々。又云、爲2鳥遊取魚1而往2御大之前1云々。又下卷御歌云、夜須美斯志和賀意富岐美能阿蘇婆志斯志斯能夜美斯志能《ヤスミシシワガオホキミノアソバシシシシノヤミシシノ》云々。續日本紀、天平十五年五月詔云、今日行賜布態乎見行直遊止乃味爾波不在之※[氏/一]《ケフオコナヒタマフワザヲミソナハスレバタタアソビトノミニハアラズシテ》云々。本集五【九丁】に阿迦胡麻爾志都久良宇知意伎波比能利提阿蘇比阿留伎斯余乃奈迦野《アカゴマニシヅクラウチオキハヒノリテアソビアルキシヨノナカヤ》云々。(八〇四)また【十七丁】に家布能阿素毘爾《ケフノアソビニ》云々(八三五)などありて、集中いと多し。道《ミチ》は術といはんが如し。久老云、道といふ事から國にはこちたくいへれど、吾御國には何のみちくれの道などいひてただそのすぢをいふ言也」(488)とあり。古義には「遊興の條《スヂ》々にといふ意なり」といへり。これらの意にて明かなるが如く、遊興のしかたは種々あるが、その中にての意なるべし。
○冷者 舊訓「マシラハヽ」とよめり。代匠記は「オカシキハと和すべきか」といひ、童蒙抄は「スサメルハ」とよみ、考は「サブシクハ」とよみ、玉の小琴には「冷」は「怜」の誤として「タヌシキハ」とよむべしとし、古義は「洽」の誤として「アマネキハ」とよめり。槻落葉は玉の小琴に從ひ、略解は考に從ひその後の諸家の説も區々なれど、大略上の範圍を出でず。ただ、近頃生田耕一氏は藝文(昭和五年五月號)にこれにつきての考説を發表して「スズシキハ」とよむべしといへり。(この説後に萬葉難語難訓攷に收む)ここに以上の諸説を見る前に、先づ、この文字に異同なきかを見るに、校本萬葉集にはこの文字に異字を用ゐたる本あることをいはざれば、諸本一致して「冷」とせりと信ぜらる。然るに拾穗抄には「洽」といふ文字にせり。これ古義の據る所なり。又校異には頭注に異と題して「冷作洽」とあり。この異本は何をさすか、今これを知らず。ここに考ふるに、かの拾穗抄には據る所を知らず、或は寫手又は刻手の誤ならむも知られず、校異も亦その據確かならねば、遽かにこれに據るべからず、況んや現存の古本すべて「冷」なれば、これを棄てて彼につくことは動かすべからざる理由あるにあらずば、不可なりとす。ここに先づ假りに「洽」として考ふるに、古義は「阿麻禰久は遺る事なきことをいふ古言なり。ここの洽《アマネキ》はたとへば、から籍書大禹謨に好生之徳洽2于民(ノ)心(ニ)1(正義に洽(ハ)謂沾漬優渥、洽2于民心(ニ)1言(ハ)潤澤多也とあり)とある洽の意に遺るくまなく心だらひなるをいふなり。そは世間に種々遊のすぢは多かる中にも洽く心だらひな(489)るはといふ意なり」といひて、一往は道理ある如く見ゆれど、熟考するに、遊の道に洽しといふ語ならば、果して古義の如く説きうべきか、これ蓋し牽強の説なるべし。次に「怜」とする玉の小琴の説如何といふに「冷は怜の誤にてたぬしきはと訓べし。さぶしを不怜とも不樂とも通はし書ればたぬしきにも怜の字をも書べき也。世の中の遊びの道の中にて第一の樂きことはと云意也」とあり。この説明にてこの歌の意明かになれるが如くなれど、その基とする「怜」字は果して「タヌシ」とよみうべきか。攷證はこれを敷衍せるものなるが、そのうちに「集韻に怜、靈年切音連與憐同とあればたぬしとよまん義もこもれり」といへり。怜は隣と同字なるは勿論にしてこれには「アハレム」「カナシム」「ウレフ」「ヤスンスル」「ナヅル」の訓あれど、古來「タノシ」と用ゐたる例なく、かへりてその反對たる「カナシフ」「ウレフ」の訓あるなり。これを樂と同義に用ゐることは字義を無視せるものなり。「不怜」「不樂」を共に「サブシ」とよむは二字成立の上にての共通にして「怜」「樂」各一字の上の共通にあらざるなり。「不※[立心偏+可]」は蓋「可怜」を「ウマシ」「オモシロシ」などいふ、それの反對に用ゐたるものならむ。されば、本居説は有力なるが如くなれど、必ずしも然らず。ここに於いて、吾人は「冷」の字のままとして考ふべきなり。かくて「冷」字として見れば、舊訓の「マシラハハ」とよめることは少も理由なきことなれば、先づ從ふべからず。次に代匠記の「オカシキ」とよめるは如何といふに、それは「冷笑」の意にとりてかくいへるなるが、「冷」一字にて冷笑の意とするは無理なるのみならず、それにてはこの歌の意通らねば從ひがたし。次に童蒙抄に「スサメルハ」とよめるは如何といふに、「スサム」といふ語の例は本集にその用例を見ざるのみならず、(490)これもかくよみてはこの歌の意通らぬこととなれば從ひがたし。考の「サブシク」とよむは如何といふに、これは文字の訓としては無理なりといふべからず。然れども、既に玉の小琴に「師は冷をさぶしくはと訓れしかど、さては道爾と云爾と爲爾と云爾とに叶はず、能味ふべし」といへる如く、歌の意通らずなるべきなれば從ひがたし。かく論じ來る時は、從來の訓すべてとるべからぬ事となる。かくて生田耕一氏の「スズシキハ」とよむ説のみ殘る。先づ「冷」を「スズシ」とよむことは今、何人も用ゐるところなるが、古は如何。卷十「二一〇三」に「秋風冷成奴《アキカゼハスズシクナリヌ》」とある「冷」は「スズシク」と古來よみ來れるが、卷二十「四三〇六」には「波都秋風須受之伎由布弊《ハツアキカセスズシキユフベ》」とあれば、當時「スズシ」といふ語あり、又「冷」を「スズシ」とよみて不可なきこと明かなり。生田氏はこの語の例として平安朝以後の歌文を多く引かれたるが、その意は余は寧ろ漢語の「冷」の字義によるものと思ふ。そは「冷々」「冷然」又「冷風」「清冷」などの熟字にあらはれたり。「冷々」といふ疊字は種々の意あり。一には音韻の清きをいひ、二には水の聲の清きをいひ、三には清凉なる形容にいふ。東方朔の七諫に曰はく「便娟之脩竹兮、寄生乎江潭、上藏※[草がんむり/(豕+生)]而防露兮、下冷冷而來風」とあり。王逸が注に「冷冷清涼貌」とあり。「冷然」といふ熟字は、輕妙の貌とも清和の貌ともいへり。莊子逍遙遊に「列子御v風而冷然善也」又晋書裴綽傳に「善言2玄理1音詞清暢、冷然若2琴瑟1」ともいひ、又、呂氏春秋、辨士篇に「師爲2冷風1」に注して「冷風和風所2以成1v※[穀に近い字]也」とあり。「清冷」といふ熟字は張衡の西京賦に「耕父揚2光於清冷之淵1」脹協の七命に「天清冷而無v霞」などありて清らかなるをいふ。これらの「冷」字の意義によれば心情の清《スガ》々しく和《ナゴヤカ》なるさまをいふに用ゐたりと考へらる。古、弘仁の御宇に創めら(491)れし後院を冷然院と名づけられしも、この冷字の義によられたるなり。(後に冷泉院に改めらる)かくて平安朝の歌文の例を見るに、極樂淨土を「すゞしき道」といへるあり。源氏物語、椎本に「世にこころとゞめ給はねば、出立いそぎをのみおぼせばすゞしき道にもむき給ひぬべきを」狹衣物語卷四に「此ひと卷ばかりはすゞしき道のしるべにもなし侍らん」とある、その例なり。心情の上にいへるは源氏物語、橋姫に「御心の内は何ごともすゞしくおしはかられ侍れば云々」とあり。徒然草に許由が事を叙してさて「いかばかりこゝろのうちすゞしかりけん」といへるもこの心なり。これらの意義を以て考ふれば、生田氏の考の如く「スズシキハ」とよむを以て當れりとすべし。而してその意は既に述べたるところなり。
○醉哭爲爾 「ヱヒナキスルニ」とよむ。上の「三四一」にいへるに略同じ。
○可有良師 舊訓「アリヌベカラシ」とよみたるが、童蒙抄は「アルベカルラシ」とよみたり。然るに「ベカルラシ」といふ形は「三三八」の下にいへる如くこの集に用例を見ざれば從ひがたし。然らば、舊訓よきかといふに、「ベクアリ」が「ベカリ」となるべき道理は否定しえねども、この集には「ベカラシ」と假名書にせるものもとよりなく、なほ又「ベカリ」と約めたることの行はれし明かなる證をも見ず。而して、他の一方に於いて、卷十五「三七二九」に「伊毛乎婆美受曾安流倍久安里家留《イモヲバミズゾアルベクアリケル》」といふ例あれば、ここも「ベク」と「アリ」とをもとの形のまゝによむべく、隨ひてこの二句は「アルベクアルラシ」若くは「アルベクアラシ」とよむべきならんが、余は上「三三八」の例によりて、「アルベクアルラシ」とよみておくべし。意は明かなり。
(492)○一首の意 この世俗の間には遊興の方法多くある中にて第一に心の愉快にすが/\しく、しかも一點の邪氣のなきものは酒飲みて醉泣することにあるべく思はるるよとなり。
 
348 今代爾之《コノヨニシ》、樂有者《タヌシクアラバ》、來生者《コムヨニハ》、蟲爾鳥爾毛《ムシニトリニモ》、吾羽成奈武《ワレハナリナム》。
 
○今代爾之 舊訓「コノヨニシ」とよむ。拾穗抄には「イマノヨニシ」とよみ、槻落葉これに從へり。「今代」は「イマノヨ」とよみて不都合なりといふこともなからむが、「コノヨ」とよみても差支なきなり。而して本集中には二者共に假名書の例を見ず。佛足石歌には「己乃與波乎閇牟《コノヨハヲヘム》」とあり。されば、「コノヨ」とよむ方證あり。而して音調の上よりも「コノヨニシ」とよむをよしとす。「シ」は強意の助詞なり。
○樂有者 舊訓「タノシクアラバ」とよめるを考に「タヌシクアラバ」とせり。「タノシ」と云ふ語は古語拾遺に「阿那多能志」と出で、これに注して「言伸v手而舞、今指2樂事(ヲ)1謂2之多能志1此意也」とあり。されど、本集なる假名書なるには「タノシ」とあるもの一もなくいづれも「タヌシ」なり。卷五「八一五」に「多努之岐乎倍米《タヌシキヲヘメ》」「八三二」に「家布能阿比太波多努斯久阿流倍斯《ケフノアヒダハタヌシクアルベシ》」「八三三」に「可久斯己曾烏梅乎加射之弖多努志久能麻米《カクシコソウメヲカザシテタヌシクノマメ》」卷十七「三九〇五」に「遊内乃多努之吉庭爾《アソブウチノタヌシキニハニ》」卷十八「四〇四七」に「介敷乃日婆多奴之久安曾敝《ケフノヒハタヌシクアソベ》」「四九七一」に「可久之許曾楊奈疑可豆良枳多努之久安蘇波米《カクシコソヤナギカヅラキタヌシクアソハメ》」卷二十「四三〇〇」に「多努之等曾毛布《タヌシトゾモフ》」とあるが如きこれなり。これは古語拾遺の説の當否は姑く措き、本集にては「タヌシ」といふ語を用ゐるを當れりとすべし。
(493)○來生者 舊來「コムヨニハ」とよみて異説なし。「來生」といふ熟字は佛經に出たるものにて未來の生報をいふ。(眞宗法要典據八(ノ)一五)生報とは此生に善惡の業を作して來生の苦樂の果報を受くるをいふ。卷四「五四一」にも「來生爾毛將相吾背子《コムヨニモアハムワガセコ》」とあり。「者」を「ニハ」とよむことは卷一以來例多し。
○蟲爾鳥爾毛 「ムシニトリニモ」とよむ。「ムシニモトリニモ」の意なるを語を急迫にしていへるなり。かかるとき、上にあるべきある助詞を書きていはざる例は卷六「一〇四三」に「門爾屋戸爾毛珠敷益乎《カドニヤドニモタマシカマシヲ》」あり。又卷五「八二一」に「阿乎夜奈義烏梅等能波奈乎遠理可射之《アヲヤナギウメトノハナヲヲリカザシ》」とあるは「アヲヤナギト〔右○〕ウメト〔右○〕ノハナ」なるべきを上なる「ト」をいはざるなり。かゝることはこの頃の一の語遣と見えたり。さてこの意は各が下の句につづきて蟲にもなりなむ、鳥にも成りなむといふなり。
○吾者成奈武 「ワレハナリナム」とよみて異説なし。意も明かなるが來生にはといへるによりて下を「なりなむ」といへり。この「なむ」は「ヌ」の未然形「ナ」に「ム」のつけるものにして將來のことを豫想して「ナツテシマハウ」といふが如き意を以ていへるなり。
○一首の意 文字のままにて明かなりといふべきに似たり。ここに來生に蟲にも鳥にも成りなむといへるは如何なる精神なるか。契沖はその代匠記には莊子應帝王篇の「泰氏其臥徐々其覺于々、一以v己爲v馬、一以v己爲v牛。」又賈誼の※[服+鳥]鳥賦の「忽爲v人兮、何足2※[手偏+穴]搏1。化爲2異物1又何足v患。小智自私兮賤v彼貴v我。達人大觀兮、物無v不v可」とあるを引いて、この老莊思想に出でたりとせり。これは一往道理の如くなれど、果して然らば、「今代に樂しくあらば」と「來生には蟲にも鳥にも成(494)りなむ」と相對していふべき必要なき筈なり。而して又それのみの思想ならば、酒を讃する所の趣旨一もあらはれずといふべし。攷證はこの一首を解して「現世のほどだに酒のみて樂しく世をすぐさば、たとへ來世は蟲鳥などに、うまるとも悔あらじといふにて、酒の事はいはざれど、樂有者《タヌシクアラバ》といふに酒の事こもれり。この歌佛説によりてよまれたりとおぼし。そは薩遮尼乾子經偈云飲酒多2放逸1、現世常愚癡、忘2失一切事1、常被2智者呵、來世常闇鈍、多失2諸功徳1云々などある意にてもあるべし」と。大體はこの如きことなるべし。されど、上に引ける偈は飲酒の過失をいへるに止まれば、その説は未しきものといふべし。按ずるにこれはかの五戒十戒の一なる飲酒戒に基づいて説けるものにして、その戒を破るものは未來の世に於いて苦を受けむといふことに對していへるものなることは疑ふべからず。菩薩戒經に曰はく、「若佛子故飲(ンヤ)v酒。而酒過失無量(ナリ)。若(キスラ)d自身(ノ)手(ヨリシテ)過2v酒器(ヲ)1與v人(ニ)飲uv酒者、五百世(マテ)無手。何(ニ)況(ンヤ)自(ラ)飲(ヤ)。亦不(レ)v得d教(テ)2一切(ノ)人(ヲ)1飲(シメ)及(ヒ)一切(ノ)衆生(ニ)飲(シムルコトヲ)uv酒。況(ヤ)自(ラ)飲(ンヤ)v酒、一切(ノ)酒不v得v飲。若故(ニ)自飲(ミ)教v人飲(シメハ)者犯2輕垢罪(ヲ)1。」とあるが、善惡因果經には「今身飲v酒醉亂者死墮2飲銅地獄(ノ)中(ニ)1」とあり。即ち飲酒をするは所謂破戒の徒なるが、破戒の徒は「死墮惡趣」と四分律に説けり。惡趣は普通に地獄、餓鬼、畜生の三道をいふ。この歌に來生の蟲にも鳥にも成りなむといふは「この飲酒を破れば、死後惡趣に趣くと佛教には説けり。よし、われはその死後の惡趣に趣いて、或は蟲になり或は鳥にならむとも、この世にて樂しくあらば、それにて足れば、來生の畜生道にうまれむことは何とも思はず」となり。佛教者より見れば、度し難き外道ならむか、酒に惑溺せるものの癡情を歌へるものとしては徹底したる痛快味(495)ありといふべし。契沖がこれを説かざりしは恐らくは佛教者としてこの破戒の言を是非しがたかりしが爲にこれをいふを憚りしものにして、この破戒の言を知らざりしにはあらざるべし。
 
349 生者《ウマルレバ》、遂毛死《ツヒニモシヌル》、物爾有者《モノニアレバ》、今生在間者《コノヨナルマハ》、樂乎有名《タヌシクヲアラナ》。
 
○生者 舊訓「イケルヒト」とよみたるが童蒙抄は「イケルモノ」とよみ、略解は「ウマルレバ」とよみたり。按ずるに史記孟甞君傳に「生者必有v死、物之必至也」ともありてこの思想は佛教に限るといふべきにあらねど、これはなほ佛教にいふ所の生者必滅(大涅槃經中の有名なる句)の意によりて歌へるものと思はるるが、その生者といふ熟字をここに通用したりと思はる。かくて、これは生といふ始あるものは死といふ終をとるといふ義なれば、生は「生キテアル」意にあらずして「ウマル」の意にとるべきこと明かなり。されば、「ウマルレバ」とよむべきこと疑なし。その他のよみ方は生者必滅の意に合せず、從ふべからず。
○遂毛死物爾有者 「ツヒニモシヌルモノニアレバ」とよむ。童蒙抄には「モノナレバ」とよめり。いづれにても不可なりといふにあらねば、強ひて改むるを要せず。「遂毛」を「ツヒニモ」とよむは「遂」を「ツヒニ」とよみ、それに「モ」といふ助詞を添へて下の陳述を有力ならしむるものなり。「ツヒニ」の假名書の例は卷二十「四五〇八」に「多可麻刀能努敝波布久受乃須惠都比爾知與爾和須禮牟和我於保伎美加母《タカマトノヌベハフクズノスヱツヒニチヨニワスレムワガオホキミカモ》」あり。以上三句にて佛者の生者必滅といふ常套語をとり來りて語をなし(496)たるなり。
○今生在間者 舊訓「コノヨナルマハ」とよめるを槻落葉に「イマイケルマハ」又は「イマイケルトハ」とよめり。されど、「イマイケルマ」「イマイケルト」といふ語は言葉落ちつかず。この「今生」は上の「來生」と同じく佛經に屡用ゐらるる熟字なるを通用したるなれば、「コノヨ」とよむべきものならむ。「在」を「ナル」とよめる例は卷一「六」に「家在妹」をはじめとして集中に多し。而して「ナル」は存在の意にて家に在る間の義なり。
○樂乎有名 舊訓「タノシクヲアレナ」とよみたるが、童蒙抄は「タノシキヲアラメ」とよみ、玉の小琴は有名を「アラナ」とし、槻落葉は「タヌシクアラナ」とせり。按ずるに「樂」は「タヌシク」とよむべきこと前にいへる通なり。「有名」を「アレナ」とよむ時は「アレ」にて命令形にて終止し、その下に「な」といふ感動の意ある終助詞のつきたるものとなり、「アラナ」といふ時は、その「ナ」は未然形につきて希望をあらはす終助詞にして、これには卷一の「キカナ」の下にいへる如く、卷五「八九九」に「出波之利伊奈奈等思騰《イデハシリイナナトオモヘド》」とあるが、自らの希望をあらはす意のものと、卷十七「三九三〇」の「米具美多麻波奈《メグミタマハナ》」佛足石歌の「和多志多麻波奈《ワタシタマハナ》、須久比多麻波奈《ナスクヒタマハナ》」の如く他に誂ふる意のものとあり。さてここを命令形とせば、主として他に誂ふることとなりて、歌の意不徹底なり。ここは己れの志をいへる歌なれば、自らの希望をいへるものとして「アラナ」とあるべきものとす。さてその「タヌシク」の下の「ヲ」はこれはこの頃に用ゐられし間投助詞にして、格助詞「に」「と」の下、形容詞の連用形の下、複語尾の連體形の下、命令形の下などにつきて、それらの意を重くする力を寓するものなり。(497)ここは「タヌシク」といふ形容詞の連用形につづきて力を寓したるものなり。それらの例は卷二十「四四三八」に「保等登藝須許許爾知可久乎伎奈伎弖余《ホトヽトギスココニチカクヲキナキテヨ》」あり。
○一首の意 明かなり。この世に生れたる者は遂に死ぬといふことは定まりたることなれば、死にて後には樂しまむよしもなければ、この世に在る間は樂しくしてあらむことこそのぞましけれ。それにつけては上述の如く酒をのむにこしたることあらじとなり。
 
350 黙然居而《モダヲリテ》、賢良爲者《サカシラスルハ》、飲酒而《サケノミテ》、醉泣爲爾《ヱヒナキスルニ》、尚不如來《ナホシカズケリ》。
 
○黙然居而 舊訓「タタニヰテ」と訓せるを童蒙抄は「モタシヰテ」とよみ、槻落葉は「モダヲリテ」とよみたり。意はいづれも大差なかるべけれど、「黙然」を「タダニ」とよむは當時の語なりや否や證なし。萬葉に「タダニ」といへるは多くはその「直接に」又「すぐに」といふ意なるものなり。この故にこれは可能性に乏し。次に「黙」字は「モダス」といふ用言にあたることは疑ひなし。されど、類聚名義抄を見れば「モタス」、は「※[火+黒]」、「※[陰の旁]」「陰」の訓にありて「モタ」は「※[口+黒]」「黙」(※[黒+吉]とあるが、黙の訛ならむ)とあれば動詞としては「モダス」副詞としては「モダ」といふ語の古、行はれたりしこと知られたり。而して「黙然」はいふまでもなく漢語としては形容辭なれば、わが副詞にあたるものなれば、「モダ」とよむべきなり。さてこの「モダ」につきて古事記傳卷三十に説あり。曰はく「黙坐は母陀伊麻志奴と訓べし。萬葉三【三十二丁】に黙然居而《モダヲリテ》、四【二十三丁】に黙然得不在者《モダエアラネバ》又【三十三丁】に黙毛有益呼《モダモアラマシヲ》(十二、十三にも如此《カク》あり)七【二十四丁】に黙然不有跡《モタアラジト》十二【二十一丁】に黙毛將有《モタモアラム》、十七【三十一丁】に母太毛安良牟《モタモアラム》(三九七六)などあ(498)り。(此言常には母陀須《モダス》と云へば、此《コヽ》も母陀志麻志奴とも訓べけれど、古言に母陀須母陀志など云る例を未だ見ざれば、萬葉の云(ヒ)ざまに依て訓つ)。伊麻志奴は萬葉(ノ)歌の居《ヲリ》有《アリ》にあたれり。母陀《モタ》は牟陀《ムダ》と通ひて徒然《イタヅラ》なる意なり。(徒の意又|空《ムナシク》の意を俗言に牟陀と云り)」とあり。これにて意略明かなり。さればここも「モダヲリテ」とよむべきならむ。意は漢語の黙然間居に近かるべし。
○賢良爲者 「サカシラスルハ」とよむこと及びその意は上「三四四」と大差なし。これは大學に所謂「小人間居爲2不善1」といへる如きことにして間居して、よからぬことをするはといふなり。
○飲酒而醉哭爲爾 「サケノミテヱヒナキスルニ」なり。意は明かなり。
○尚不如來 「ナホシカズケリ」とよみて異説なし。「來」を「ケリ」に用ゐたるは卷二「二一六」の外向來妹木枕《ホカニムキケリイモガコマクラ》」卷三「四三九」に「應還時者成來《カヘルベキトキニハナリケリ》」卷四「五七三」に「痛戀庭相時有來《イタキコヒニハアフトキアリケリ》」卷四「七五三」に「雖念彌戀益來《オモヘドイヨヨコヒマサリケリ》」「七六九」に「直獨山邊爾居者欝有來《タヾヒトリヤマベニヲレバイブセカリケリ》」等例多く一々あぐべからず。而して卷六「九一二」には「瀧乃水沫開來受屋《タギノミナワノサキニケラズヤ》」卷七「一二六一」に「山道曾茂成來忘來下《ヤマミチゾシゲケナリケルワスレケラシモ》」「一〇九八」に「二上山母妹許曾有來《フタガミヤマモイモコソアリケレ》」の如く「ケラ」「ケリ」「ケル」「ケレ」とも用ゐたるなり。さて又打消の「ズ」より「ケリ」とうくる例は本集の語法の特色にしてそれの假名書のものは卷十八「四〇四九」に「安利蘇野米具利見禮杼安可須介利《アリソノメグリミレドアカズケリ》」卷十七「三九八〇」に「多太爾安良禰婆孤悲夜麻受家里《タダニアラネバコヒヤマズケリ》」あり。今の語になほせば「如かざりけり」ともいふべきか。意は明かなるべし。
○一首の意 明かなり。酒飲みて醉哭することは醜しと思ふ人もあらんか。されど徒然に居(499)りて、よからぬさかしら事をすることは、酒を飲みて醉泣するにやはり如かざるものなりけりとなり。
○ 以上十三首一體となりて讃酒の意を完成するものなるべし。若し然らずして一首毎に讃酒の意を明かにあらはせるものと見むとせば、「三四八」「三四九」の如きは單なる現世享樂主義をうたへるものとなりて、讃酒と限るべき歌といふべからず。ここに於いてこの十三首又一連續をなして一の意を完うするものといふべきなり。かくてその十三首のうつり方を考ふるに先づ、
 第一(三三八)は冒頭として徒らに物を念はむよりは一杯の濁酒を飲むべしといひて、酒を提げ示せるなり。
 第二(三三九)は酒の名を古人が聖人と名づけたることを讃し、
 第三(三四〇)は古の七賢も酒を愛せしことを讃す。以上二首は古事を示して、古より酒を讃美せしことを明かにせり。
 第四(三四一)は酒を飲むことを讃美し、
 第五(三四二)は酒そのものを讃美し、
 第六(三四三)に至りて酒そのものに没頭せる極端を示しここに一度讃酒の頂に達し、
 第七(三四四)は一轉して酒飲まぬ賢しら人を罵倒す。かくて
 第八(三四五)は再び酒そのものを讀美し、
(500) 第九(三四六)は再び酒を飲むことを讃美し、第七にいへる酒飲まぬ賢しら人はこの無價の寶を知らずと罵り、
 第十(三四七)は世間遊興のうちに最も無邪氣なるものは飲を解するにありとして遙に「三四一」に應じ、更に
 第十一(三四八)に於いて酒をいはずして酒に溺るゝものの情の極端を示して遙かに第六(三四三)に應じて讃酒の絶頂に達す。かくて
 第十二(三四九)はそれをうけて、その意を敷衍せるものなるがこれもまた酒をいはずして讃酒の意をあらはせるは、二首相應せる趣あり。而して
 第十三(三五〇)に於いて、全體の意を結集して局を結ぶものなり。
 
沙彌滿誓歌一|首〔左○〕
 
○沙彌滿誓 これは上「三三六」の詠緜歌の作者におなじ。
○一首 流布本「首」を「前」とせり。これは慶長の活字本の誤植に基づくものにして、その他の古寫本にすべて「首」とせるを正しとす。
 
351 世間乎《ヨノナカヲ》、何物爾將譬《ナニニタトヘム》。旦開《アサビラキ》、※[手偏+旁]去師船之《コギイニシフネノ》、跡無如《アトナキガゴト》。
 
○世間乎 「ヨノナカヲ」とよみて異論なく、意も明かなり。
(501)○何物爾將譬 古來「ナニニタトヘム」とよみて異論なし。「何物」を「ナニ」といふは元來國語にて「ナニ」といふは副詞にして、それが轉じて體言たる代名詞となれるものなるが、それが、體言としての「ナニ」なる時は「何物」といふ漢字をあつるを通常とするが爲なるべし。攷證に「なにといふに何物と書る物の字は例の添たる也。」といひたれど、決して無意義に添へたるものにあらず。さてその「何物」を「ナニ」とよめる例は卷八「一四二〇」に「流倍散波何物《ナカラヘチルハナニ》(之)《ノ》)花其毛《ハナゾモ》」「一五八〇」に「黄葉乎落卷惜見手折來而今夜插頭津何物可將念《モミチバヲチラマクヲシミタヲリキテコヨヒカザシツナニカオモハム》」卷十「一九七四」に「何物鴨御狩人之折而將插頭《ナニヲカモミカリノヒトノヲリテカザサム》」卷十一「二五七三」に「何物乎鴨不云言此跡吾將竊食《ナニヲカモイハズテイヒシトワガヌスマハム》」卷十二「三〇〇五」に「高高爾君乎座而何物乎加將念《タカタカニキミヲイマセテナニヲカオモハム》」とあるが、いづれも、體言としての「ナニ」にして副詞としての「ナニ」にはあらぬを見るべし。「將譬」は「タトヘム」とよむに異議なし。以上一段落とす。
○旦開 「旦」字流布本「且」字とせるは誤にして、多くの古寫本に「旦」とあるを正しとす。よみ方はもと「アサボラケ」ともよみたりしを仙覺が「アサビラキ」とよみたるより後異論なき所なり。この語は卷九「一六七〇」に「朝開榜出而我者湯羅前《アサビラキコキデテワレハユラノサキ》云々」とあり、卷十五「三五九五」に「安佐妣良伎許藝弖天久禮婆《アサビラキ》コギデテクレハ》」卷十七「四〇二九」に「珠洲能宇美爾安佐妣良伎之弖許藝久禮婆《ススノウミニアサビラキシテコギクレバ》」卷十八「四〇六四」に「安佐比良伎伊里江許具奈流可治能於登乃《アサビラキイリエコグナルカヂノオトノ》」などあり。これらいづれも下に舟をこぐ由にいへるを見るべし。意義は冠辭考にいへる如く、朝に舟出するをいへるなり。
○※[手偏+旁]去師船之 舊訓「コギイニシフネノ」とよみたるを童蒙抄は「コギユキシ」とよみ、考は「コギニシ」とよめり。「去」は用言としての「イヌ」にもあつべく、又複語尾の「ヌ」にもあつべし。而して用言と(502)しての「イヌ」にあてて「コギイニシ」といふを約して「コギニシ」とよまれざるにはあらねど、しかよむときは複語尾の「ヌ」を用ゐて「コギニシ」といへるものとの差別、辨へがたくなるべし。かくてここはただ「※[手偏+旁]ぎにし」といふ意か「※[手偏+旁]ぎて去にし」といふ意かと考ふるに、※[手偏+旁]ぐといふ意ももとよりあれど、「去にし」といふ意に力點をおきてあるべきこと著しければ、「コギニシ」といふ紛らはしきよみ方をとるは宜しからざるべし。然らば、舊訓か童蒙抄の訓かをよしとすべきが、「去」は「ユク」とよむことは上に屡例ありしものなるが、「イヌ」とよむも不可ならねば、舊訓を改むるに及ばざるべし。
○船之跡無如 舊訓「フネノアトナキガゴト」とよみたるが、槻落葉には「アトナキゴトシ」と改めたり。その説明は「ここも跡《アト》なきがごととよむべけれど、卷(ノ)二に天見如久とある例によりて今もあとなき如しとはよみつ」とあり。されど、卷二のは(一六八)「如久」と明かに語尾の「久」文字を書き記したるものなるに、ここは「如」一字なれば、必ず「ゴトシ」とよむべしとはいふべからず。本卷「三〇九」も「相見如之」とあれば勿論なり。而して本集に「如」一字にてあらはせるものは古來多く「ゴト」とよみ來れるものなれば、強ひて改むる必要を認めず。されば、舊訓によるべし。
○一首の意 世間は無常にしてはかなきものなるが、これを何物にたとへむか。それは唯昨日まで湊に泊りし船が朝に船出して漕行きしその跡のいつしか消えさりて何物もなかりしさまにてあるが如きかとなり。この歌は滿誓沙彌が「筑紫の海邊にて舟によせて無常のこころをよまれし也」と攷證にいへるはさる事なり。この歌をば古今六帖及び拾遺集哀傷部にのせ(503)て「世の中を何にたとへむ、朝ぼらけ〔四字右○〕、こぎ行くふねの跡のしら波〔四字右○〕」とせり。これは歌の意を明かにし歌の體を當世風にせむが爲のこととおぼし。
 
若湯座王歌一首
 
○若湯座王 代匠記に「座は坐に作るべきか」といひなほ「神代紀下云、亦云彦火火出見尊取2婦人1爲2乳母及飯嚼湯坐【纂疏曰湯坐謂洗欲兒者】古事記中垂仁天皇段にも定2大湯坐若湯坐1宜|日足奉《ヒタシマツリタマヘ》とあり。兒に産湯あぶするに身のいたく柔なるを能すゑてあふすれば、ゆすゑと云べきをすゑを上略してゆゑと云か。むねとあふするを大湯坐と云ひ、大湯坐をたすくるを若湯坐と云なるべし。若湯坐は氏にも見えたり。雄略紀云、湯人《ユヱノ》廬城部連武彦【湯人此云臾衛】此湯人は地の名なり」といへり。而してなほ代匠記の初稿には「わかゆゑは所の名にや。」とあり。攷證に曰はく「湯座は(中略)兒に湯を浴《アム》する女の事なるを、後に氏ともなれる事、書紀、天武十三年紀に若|湯人《ユヱ》連賜v姓曰2宿禰1云々續日本紀、養老三年五月紀に若湯坐連家主、云々。神龜五年五月紀に若湯坐宿禰小月云々【この氏の人この外紀中にいと多し。】新撰姓氏録卷十一に若湯坐宿禰、石上同祖云々。また卷十九に若湯坐連、膽杵磯丹穗命之後也云々などあるにてしるべし。」といへり。さてこの王の事は他に傳ふる所なくして考ふべき術なし。この若湯坐はこの王の名なるが、恐らくは若湯坐の氏の人が、その乳人なりしが爲に名を得られしならむ。なほこの王の歌は集中にこの一首のみなり。
 
352 葦邊波《アシベニハ》、鶴之哭鳴而《タヅガネナキテ》、湖風《ミナトカゼ》、寒吹良武《サムクフクラム》、津乎能埼羽毛《ツヲノサキハモ》。
 
(504)○葦邊波 これは仙覺以前の古點には「アシヘナミ」とよみたるを仙覺が「アシヘニハ」とよめるなり。「アシヘ」といふ文字と「ハ」といふ文字とありて、「ニ」にあたる文字見えねど、前後のつづきにて加へてよむべき場合集中に例少からず。卷一にては「暮相而《ヨヒニアヒテ》」(六〇)「東野炎立《ヒムガシノヌニカギロヒノタツ》(四九)「山際《ヤマノマニ》」(一七)「夷者雖有《ヒナニハアレド》」(二九)などあり。さればこのよみ方によるべし。「アシベ」の語の例は卷一「六四」の「蘆邊行鴨之羽我比爾《アシベユクカモノハガヒニ》」以下本集に少からず。
○鶴之哭鳴而 仙覺が「タヅガネナキテ」とよみてより皆これに從へり。鶴は「ツル」とも「タヅ」ともよむべきが「タヅ」とよむことは卷一「七一」に「多津鳴倍思哉《タヅナクベシヤ》」とある下にもいへるが、「タヅ」は「ツル」の一名にして古、鶴類の一群をはひろく「ツル」とも「タヅ」ともいひしならむ。「哭」は哭く聲をさすがこれを「ネ」とよむことは卷二「一三五」この卷「三〇一」「三二四」等例少からず。而して本集には「ツルガネ」「ツルノネ」などいへる例は一もなく、卷十五「三五九五」に「牟故能宇良能之保非能可多爾多豆我許惠須毛《ムコノウラノシホヒノカタニタヅガコエスモ》」などの例あれば「カリガネ」に準じて「タヅガネ」とよむをよしとすべし。
○湖風 舊訓「ミナトカゼ」とよめり。これも仙覺が訓ぜしものなり。この「湖」字は神田本、細井本等には「潮」の字にせり。この「湖」にても「潮」にても、普通の訓としては「ミナト」の訓あるべき文字にあらねど、本卷「二七四」の「枚乃湖」の條に既にいへる如く、わが國の古には「湖」を「潮」と通用する文字と思ひしことあり、又「湖」を「ミナト」と訓ずる例となれりしものなれば、ここもそこに準じて湖を本體として「ミナト」と訓ずべきものならむ。「ミナトカゼ」の例は卷十七「四〇一八」に「美奈刀可世佐牟久布久良之《ミナトカゼサムクフクラシ》」とあり。
(505)○寒吹良武 「サムクフクラム」とよむに異説なし。湊風の寒く吹くといふことは上の卷十七「四〇一八」の歌に例あり。風の寒く吹くとはその風の寒きとその風の吹くとをば同時にいふ語法なり。この「らむ」は推量をあらはすものにして、下の「津乎の埼」につづく連體格なり。
○津乎能埼羽毛 「ツヲノサキハモ」とよむ。この津乎の崎とは何處なるか。仙覺抄には「都尾崎伊豫國野間郡にありとみえたり」といへるが、代匠記初稿には「和名集をみるに、近江國淺井郡都宇郷あり。湖風をみなと風とよめるはこの所にや」ともいへり。然れども、これらの「津宇」といふは元來「ツ」といふ地名なりしを二字にせむ爲に「ツ」の韻の「ウ」を加へたるものにして「ツ」に「ヲ」を加へたる名の「ツヲ」といふ所と同じなりといふべき根據なし。されば、今日に於いては所在未詳として後の攻究をまつべきものなり。下の「ハモ」は本卷「二八四」の「相之兒等羽裳」卷二「一七一」の「島宮婆母」の下にいへる如く、「何々は」にて下の陳述を中止し「も」を終止として感情を寓したるものなり。
○一首の意 これは津乎の崎に在りてよめるにあらずして、他方より津乎の崎をながめその地を推量してよめるならむ。津乎の崎の葦邊と思はるる邊に鶴の哭き聲聞ゆるが、そこにはみなと風が寒くして吹くならむかとなり。
 
釋通觀歌一首
 
○釋通觀 この人は上の「三二七」の歌の作者の通觀と同じ人ならむ。その人の事は既にいへり。
(506)ここに釋とあるは佛者の氏の如くに用ゐたるにて、今も往々この事あり。正字通に「釋又姓悉達太子成道姓釋。今佛家皆稱2釋氏1云々」と見ゆ。名は音にて「ツクワン」とよむ。
 
353 見吉野之《ミヨシヌノ》、高城乃山爾《タカキノヤマニ》、白雲者《シラクモハ》、行憚而《ユキハバカリテ》、棚引所見《タナビキミユル》。
 
○見吉野之 舊訓「ミヨシノノ」とよみたるが、上來いへる所によりて「ミヨシヌノ」とよむべし。「見」は「ミ」といふ音をあらはすに借りたるのみ。意は明かなり。
○高城乃山爾 「タカキノヤマニ」とよむ。この山は古典には他に所見なき山なれど、吉野郡なることは著し。大和志には「高城山在2吉野山東1中有壘址1有2古歌1」と見え、大和志料には「高城山 吉野山ノ東ニアリ山中ハ大塔宮ノ壘址アリ。因テ城山ト字ス」とあり。
○白雲者 「シラクモハ」とよむ。意明かなり。
○行憚而 「ユキハバカリテ」とよむ。これは上の山部宿禰赤人望不盡山歌(三一七)に「白雲母伊去波伐加利《シラクモモイユキハバカリ》」とあるに意異ならず。
○棚引所見 舊訓「タナビキテミユ」とよみたるを、童蒙抄に「タナビキミユル」とよみ、考は「タナビケルミユ」とよみ、古義は「タナビケリミユ」とよみたり。按ずるに「所見」は「ミユ」とよむべきこと論なく、隨ひて舊訓決してあしきにあらず、又動詞をあらはせる漢字に「テ」を加へずとも「テ」を讀み添ふる例本集になきにあらねば、この訓條理なしとすべからず。されど、上に「ユキハバカリテ」とありて、又「タナビキテミユ」とよむは稍語路惡しき感あり。次に「タナビケルミユ」「タナビケリミ(507)ユ」ともに萬葉集としてはありうべからざる語法にはあらず。かく終止形に「見ゆ」のつける似たる語遣の例は卷六「一〇〇三」に「恐海爾船出爲利所見《カシコキウミニフナデセリミユ》」古事記下卷顯宗天皇の御製に「志毘賀波多傳爾都麻多弖埋美由《シビガハタテニツマタテリミユ》」といふあり。されどこの卷の例にては「タナビケル」「タナビケリ」ならば普通「有」「在」などの文字を加ふべきものにして、ここに「有」「在」の字なきはこの卷としては違例なり。又それに「テ」を加へて「タナビキテ」といふは音調面白からざるが故に、童蒙抄の「タナビキミユル」とよめるに從ふべきが如くに見ゆ。「タナビキミユル」といふ場合は語のつゞきには不合理も不快もなく見ゆれどこの頃に「ミユル」と連體形にして終止とせることは異例に屬す。連體形にて上に「ゾ」「ナモ」などの係助詞なくても終止することは平安朝以後には盛んに行はれたるが、この頃は如何といふに、卷十「一九九四」に「夏草乃露別衣不着爾我衣手乃干時毛名寸《ナツクサノツユワケコロモキセナクニワカコロモデノヒルトキモナキ》」卷十九「四二七三」に「天地與相左可延牟等大宮乎都可倍麻都禮婆貴久宇禮之伎《アメツチトアヒサカエムトオホミヤヲツカヘマツレバタフトクウレシキ》」などの例あれど、これらはすべて形容詞にして動詞にあらねば、一概に論ずべからず。かくの如く論じ來れば、いづれもいづれも十分に成立しうべき點少し。しかもなほ考ふるに、「タナビキミユル」とよむ方穩かなるべく思はるゝによりて姑くこれに從ふ。「たなびく」は上にいへり。
○一首の意 明かなり。白雲は吉野の高城の山にさゝへられ行き過ぎかねてたなびきて見ゆることよとなり。
 
日置少老歌一首
 
(508)○日置少老 これをば、拾穗抄は「ヒヲキノスクナヲヒ」とよみ、童蒙抄は「ヘキノスクナオユ」とよみ、略解は「ヒオキノスクナオユ」とよみ、攷證は「ヒキノスクナオユ」とよみ、古義は「ヘキノヲオユ」とよめり。日置は氏なるが、新撰姓氏録によれば、皇別の日置朝臣あり、蕃別の日置造あり、ここは姓を記さねば、いづれの氏なるか知り難し。日置といふ地名、國々に多くしてそのよみ方も「伊勢國一志郡日置【比於木】」「能登國珠洲郡日置【比岐】」と和名鈔にある如く區々たり。而して古事記中卷に「是大山守命者土形君幣岐君榛原君之祖」とあり、姓氏録の日置朝臣も亦「日置朝臣應神天皇(ノ)皇子大山守王之後也」とあれば、日置を「ヘキ」ともよみたりしこと知られたり。次に「少老」はその人の名なるが、これを如何によむべきか。これは「老」といふ人名に對して「少老」といへるものならむが、その「少」は日本紀卷二十八に同じ人を「佐味君宿那麻呂」とも「佐味君少麻呂」ともかけるにてよみ方明かなり。されば、これは「ヘキノスクナオユ」とよむべきならむ。さてこの人、父祖明かならず、他に所見なく、よめる歌もこの一首を傳ふるのみ。
 
354 繩乃浦爾《ナハノウラニ》、鹽燒火氣《シホヤクケブリ》、夕去者《ユフサレバ》、行過不得而《ユキスギカネテ》、山爾棚引《ヤマニタナビク》。
 
○繩乃浦爾 「ナハノウラニ」とよむ。童蒙抄はその地名知られずといふを理由として、「つなにてあらんや」「あみの浦にてあらんや」といひて證明の後考をまつとせり。槻落葉は「綱」の誤として「ツヌノウラニ」としたり。然れども、この處に誤字ある本一も無ければ、文字のまゝ「ナハノウラ」とよむをよしとす。その地は今のいづこなるか、古義は土佐國安藝郡奈半の地を擬すれど、土(509)佐にてよめりとすべき證なし。檜嬬手は「此は播磨國飾磨郡にて入江のある地、此入江の中は五六石積みの船迄は泊る湊也。奈波のつぶら江とよめるも此地なるべし」といへり。これは飾磨郡にあらずして赤穗郡にある那波村をさせるものなるべし。この地は古の山陽道の要路赤穗街道の分岐點にあたり、山陽本線の那波驛のある地にして、如何にも海と山との相迫れる地にして、この歌にいへるに通へれば、或はこの地ならんか。この地方製鹽に名高き地なれば由ありと思はる。但し、もとより確證あるにあらず。
○鹽燒火氣 舊訓「シホヤクケブリ」とよみたるを略解に「ケムリ」とせり。火氣を「ケブリ」又は「ケムリ」とよむことは差支なき事なるが、本集に假名書の例なけれど、倭名抄に「煙」に注して「介不利」とあるによりてよむべし。火氣をケブリにあつる事は本集に頗る多きが何故にこの二字を「ケブリ」と訓するかといふ事は從來攷證に「火氣をけぶりと訓るは義訓也」といへる程度にして槻落葉などにも種々の説あれど要するに臆測の範圍を出でざりしが、東北大學卒業生中村たま子は説文に「煙火氣也」とある注に基づきて火氣を煙の義に用ゐたるならむといへり。この説まさしく當れりとす。鹽を製すとてたく火のけぶりなり。
○夕去者 「ユフサレバ」とよむ。この語は卷一「四五」の「夕去來者」の下にいへり。
○行過不得而 「ユキスギカネテ」とよむ。「不得」を「カヌ」とよめるはこの卷「二六八」に「吾背子我古家乃里之明日香庭乳鳥鳴成島待不得而《ワガセコガフルヘノサトノアスカニハチドリナクナリシママチカネテ》」とある外いと多し。意は明かなり。
○山爾棚引 「ヤマニタナビク」とよむ。意は明かなり。
(510)○一首の意 明かなり。繩の浦にて鹽を燒く藻鹽のけぶりは時も夕ぐれになりたれば、その邊に※[行人偏+※[氏/一]]徊して去ることを得ず、繩の地の附近にたなびくよとなり。平穩なる夕暮には煙の棚引くものなるが、その實景をよくあらはせるものにして意淺きに似たれど、叙景の歌としては上乘といふべし。
 
生石村主眞人歌一首
 
○生石村主眞人 生石といふ氏は新撰姓氏録に見えず。續日本紀には天平勝寶二年正月乙巳に「授正六位上大石村主眞人外從五位下」とあり。攷證にはこれを引きて「この氏本は大石にておほしと訓しを音便におふしといひしより文字に生石とも書る也」といへり。「生石」の「生」は「オホス」にて「生」一字にても「オホシ」とよむべきに「石」を「シ」の音の假名としてその音を示す爲に加へたるならむ。されば、この音便説はうけられねど、歸する所はその説の如くにてもあらむ。「オホシノスクリマヒト」とよむべし。「村主」は姓にして「眞人」は名なり。「大石村主」は坂上氏系圖に見えて坂上の同族たり。この人の歌他に所見なし。
 
355 大汝《オホナムヂ》、小彦名乃《スクナビコナノ》、將座《イマシケケム》、志都乃石室者《シツノイハヤハ》、幾代將經《イクヨヘヌラム》。
 
○大汝 「オホナムヂ」とよむ。「大」は「オホ」「汝」は「ナムヂ」なり。これはいふまでもなく、素戔嗚尊の孫たる大國主神の稱ある神の御名なり。古事記上卷に、「大穴牟遲神」とかき日本紀には「大己貴神」(511)とかき、注して「大己貴此云於褒婀娜武智」とかけり。これによりて俗に「オホアナムチ」とよむものもあれど、古事記傳にこれを非とせり。今この「大汝」の文字によれば「オホナムヂ」とよむべきこと知らるるが、卷六「九六三」に「大汝小彦名能神社者《オホナムヂスクナビコナノカミコソハ》云々」とあり、卷十八「四一〇六」に「於保奈牟知須久奈比古奈野神代欲《オホナムナスクナヒコナノカミヨヨリ》云々」とかけり。又古語拾遺には「大己貴神」と記してそれに注して「古語於保那武智神」といへり。これより後、新撰姓氏録には「大奈牟智神」文徳實録八齊衡三年十二月常陸國大洗磯前神の出現の記事に「我是大奈母知少比古奈命也云々」とあり。これらによりて「オホナムヂ」といふことを知るべし。
○小彦名乃 「スクナヒコナノ」とよむ。「小」字神田本「少」字にかき、槻落葉また、「少」と改めたり。されど、本集卷六(上掲)にも「小彦名」とかけり。加之本集に「小」を「スクナシ」に用ゐたる例卷十一「二五二三」に「小文心中吾念名君《スクナクモココロノウチニワガオモハナクニ》」「二五八一」に「小九毛心中二我念羽奈九二《スクナクモココロノウチニワガオモハナクニ》」卷十二「二九一一」に「小毛心中爾吾念莫國《スクナクモココロノウチニワガオモハナクニ》」などあり。而して類聚名義抄には「小」にも「少」にも「スクナシ」の訓あり。さればこのままにても不可なきなり。この神の名は上の大汝の下にも既に見えたる所にして、よみ方は古事記によりて「スクナビコナノ」とよむべし。この神は日本紀によれば高皇産靈神の子といひ、古事記によれば、神皇産靈神の子と傳へたり。而してこの神は日本紀に「夫大己貴命與2少彦名命1戮v力一v心經2營天下1。復爲2顯見《ウツシキ》蒼生及畜産1則定2其療病之方1。又爲v攘鳥獣昆蟲之災異1則定2其禁厭之法1。是以百姓至v今咸蒙2恩頼1。」とあり。古事記にはこの神の出現を叙したる條に神産巣日神の語をあげて「故與2汝葦原色許男命1(大巳貴命のこと)爲2兄弟1而作2堅其國1」と勅せられきとい(512)ひ、更に叙して「故自v爾大穴牟遲與少名毘古那二柱神相並作2堅此國1」とあり。即ちこの二神は神代に於いてわが國土の經營に大功ありし神にして、相並びて功をなしたまひしかば後世に到りても二神を並べてその神功をたたふる例となれるなり。
○將座 舊訓「イマシケム」とよみ、異説なし。「將」を「ケム」とよむこと、卷二「一四三」「一四六」本卷「三二三」「四〇二」「四二三」以下の卷にも例多し。
○志都乃石室者 「シヅノイハヤハ」とよむ。「シヅノイハヤ」といふ所は何處なるか。本集にはここに一所見ゆるのみなり。童蒙抄には「播州に今も石の寶殿とて不測の石殿ある由世に名高くきこえたる處也。決して此石宝殿の義なるべし。その處をしづといへる歟未考。大己貴少彦名神社播磨の式内には不現。延喜式卷第十、神名帳播磨宍粟郡内伊和坐大名持御魂神社名神大とあり。此社の舊都をしづのいはやといへる歟」といへり。考には「此石室は出雲にやあらんと思へど、風土記にしづのいはやてふは見えず。景行天皇御幸ありし時周防國の神夏磯姉磯津山の賢木に釼鏡をつけて參りし事、紀に在り。且御國に梟帥どもの石窟の多かりし事も同紀に見ゆれば、磯津山に此二神のませし石室もあるをよめるにや」といへるが、その頭注に「靜窟石見國邑知郡に在り。祭神大汝命少彦名命也。窟は口も廣奥へ至て深と眞風云り」とあり。これは澤眞風の説ならむ。本居宣長は古事記傳卷十二にはこの歌と上の博通法師のよめる紀伊國三穗石室歌(三〇七)と錯亂せりとして、「此(ノ)二柱(ノ)神の座《マシ》しは三穗(ノ)石室にて紀伊(ノ)國なり」といへり。然るに同人の玉勝間卷九には「石見國邑知(ノ)郡岩屋村といふにいと大きなろ岩屋(513)あり。里人しづ岩屋といふ。出雲備後のさかひに近きところにて、濱田より廿里あまり東の方いと山深き所にて濱田の主《ウシ》の領《シラ》す地《トコロ》なり。此岩屋、高さ卅五六間もある大岩屋なり。又その近きほとりにも大きなるちひさき岩屋あまた有(リ)。いにしへ大穴牟遲少彦名二神のかくれ給ひし岩屋也とむかしより里人語りつたへたり。さていにしへはやがて此岩屋を祭りしに、中ごろよりその外《ト》に別《コト》に社をたてゝ祭る。志津《シヅ》權現と申すとぞ。此事かの國の小篠の御野かもとより、ただにかの里人に逢てくはしくとひきゝつる也とて、いひおこせたるなり。萬葉集三の卷なる歌の志都の石室はこれならむかとも思へども、なほ思ふに、萬葉なるはいかゞあらむ。かの歌のよみぬし生石(ノ)村主眞人といふ人、もし石見國の官人などにてかの國に在てゆきてよめらむはしらず。さもあらざらむにはかの國は他國人のゆくことまれなるに、殊にさばかり山ふかきおくどころならむにはよの人のしりてよむべきものともおぼえず。されど後の世の人のつくりていふべきところともおぼえねば、かならずふるきよしありてただならぬところとはきこえたり」といへり。槻落葉にはこれにつきて縷々の説をなせるが、かの童蒙抄の説に對しては「また志都の石室を播磨の國の石の寶殿也といふも心得られず、此ものよく知《シリ》たる人のいふを聞にさらに石室といふべきものにあらず。その形(チ)寶殿の仰向たる如く、石を方《ケタ》に斫《キリ》たる也といへり。おもふに、このものはいにしへの天皇の御陵墓の石槨などにせんとて斫《キリ》かけたる石の殘れるを好事のもののこの集の歌によりて志都の石室也といひ、生石村主眞人作歌とあるによつて生石子の名はおふしけん」といひ、さて「此志都の石室は大汝少彦名(514)の神の大座しといふ傳のあれば、決て出雲國歟、紀伊國にあるべき也。出雲風土記に飫(ノ)郡に志都徑あり、和名抄石見國安濃郡郷名に靜間あり。延喜式神名帳、紀伊國名艸(ノ)郡靜火神社あり。かく志都といふ地名の出雲にも紀伊にもあれば、いづれ其所《ソコ》に石室ありて大汝少彦名の神の大座しといふ傳の有けるなるべき」といへり。さてその播磨の石寶殿を靜窟といひ、そこの神社を生石子大明神といふ由和漢三才圓會に載せ、又石見なるは伴蒿蹊が閑田耕筆にも見ゆ。曰はく「近年小條道沖といふ人、石見國濱田侯の臣にて京師逗留の日、話せられし趣を傳きくに其國邑知郡に靜窟といふもの有(リ)、ゆゑに其郷を岩屋村と號す。鏡岩といふものの下に小社ありて靜權現と稱す。」と見ゆ。然るに近頃は又石見國邇摩郡靜間村の海岸にある岩窟なりといふ説生ぜり。この靜間村なるは、濱田侯の領地なれば、古くよりこの説あらば、小篠敏がこれを説かざる筈はなきものなり。而してかの石寶殿は、播磨風土記にては物部守屋の作りしともいへり。而して紀伊國には、「シヅノイハヤ」といふ傳説あることなし。然れば、傳説としての可能性あるはただ石見國邑知郡石屋村の山中なるもの一のみ殘るなり。果してこの處の石窟をよめるか否かは斷言すべからねど、この外の地は一層信ずべからずといふべし。玉勝間の生石村主眞人が石見に至りし證なしといふ如きは有力なる反駁理由にあらず。
○幾代將經 舊來「イクヨヘヌラム」とよみ來れるを檜嬬手に「イクヨヘニケム」とよめり。これはその石窟を今見てよめるものなるべければ、「ヌラム」の方適切なりとす。
○一首の意 明かなり。神代にこの國を造り賜ひし大巳貴神少彦名神の座ししと傳ふるこの(515)志都の石室は幾らの年を經しことならむかとなり。
 
上古麻呂歌一首
 
○上古麻呂 「カミノコマロ」とよむべきなり。「上」は氏にして「古麻呂」は名なり。「上」氏は新撰姓氏録によれば「村主」姓なるもの四氏、「勝」姓なるもの一氏、「曰佐《ヲサ》」姓なるもの一氏あるがいづれも蕃別なり。上村主は魏の武帝の男陳思王曹植(七歩の才人)の後にして、上勝は百濟國人多利須須の後といひ、上曰佐は百濟國人久爾能古使主の後といふ。今この古麻呂は姓を記さねば、系統知られず。なほこの人の事他に所見なし。
 
356 今日可聞《ケフモカモ》、明日香河乃《アスカノカハノ》、夕不離《ユフサラズ》、川津鳴瀬之《カハヅナクセノ》、清有良武《サヤケカルラム》。或本歌發句云|明日香川今毛可毛等奈《アスカガハイマモカモトナ》。
 
○今日可聞 舊訓「ケフモカモ」とよめり。槻落葉は「日」を「目」の誤なりとして「イマモカモ」とよめり。されど、さる誤字ある本一も存ぜねば誤字説は從ひがたし。「今日」の下に「モ」にあたる字なけれど加へてよむべし。卷十「二二〇六」に「眞十鏡見名淵山者今日鴨白露置而黄葉將散《マソカガミミナブチヤマハケフモカモシラツユオキテモミヂチルラム》」とあり。これは「今日」といひて、下に「明日香」といへるに對へたること著し。卷十六の「三八八六」に「今日今日跡飛鳥爾到《ケフケフトアスカニイタリ》」とあるに照せば、ここも「今日もかも」「明日香」とかけたるものなることを思ふべし。「ケフモカモ」と云へる例は、卷二「一五九」に「今日毛鴨問給麻思《ケフモカモトヒタマハマシ》」卷六「一〇二六」に「百磯城乃大宮人者(516)今日毛鴨暇无跡里爾不去將有《モモシキノオホミヤビトハケフモカモイトマヲナミトサトニユカザラム》」卷七「一一六八」に「今日毛可母奥津玉藻者白浪之八重折之於丹亂而將有《ケフモカモオキツタマモハシラナミノヤヘヲルガウヘニミタレテアルラム》」卷十「一八六七」に「阿保山之佐宿木花者今日毛鴨散亂《アホヤマノサネキガハナハケフモカモチリミダルラム》」等あり。この「カモ」は疑の意にて下に係るなり。
○明日香河乃 「アスカノカハノ」とよむ。明日香河は、上來屡見ゆる大和の飛鳥川なることいふまでもなし。「河乃」の「の」は連體格にしてこれより下の「瀬」につづく格なり。
○夕不離 「ユフサラズ」とよむ。童蒙抄に「ユフカレズ」とよみたり。「離」は「サル」とも「カル」ともよむべきが、「夕《ユフ》カル」といふ事例なきことなれば從ふべからず。「夕サラズ」といへる例は卷七「一三七二」に「三空往月讀壯士夕不去目庭雖見因縁毛無《ミソラユクツキヨミヲトコユフサラズメニハミレドモヨルヨシモナシ》」卷十「二二二二」に「暮不去河蝦鳴成三和河之清瀬音乎聞師吉毛《ユフサラズカハヅナクナルミワガハノキヨキセノトヲキカクシヨシモ》」あり。この「夕サル」といふ語は、卷一の「春去者《ハルサレバ》」(一六)「夕去來者《ユフサリクレバ》」(四五)等の如く夕になることをいふ。即ち夕方になるをまたずに、「カハヅ」の鳴くをいへるならむ。
○川津鳴瀬之 「カハヅナクセノ」とよむ。「カハヅ」は上の「登神岳山部宿禰赤人歌」(三二四)に明日香川をよめるうちにも「夕霧丹河津者驟《ユフギリニカハヅハサワグ》」とある條にいへる如く、今いふ「カジカ」の事なり。
○清有良武 舊訓「キヨクアルラム」とよめるを童蒙抄に「サヤケカルラム」とよめり。これは「カハヅ」の聲にいへるなれば「サヤケカルラム」とよむをよしとす。
○或本歌云々 これは或本の歌にはじめの二句をば「明日香川今もかもとな」とありとなり。「もとな」とは理由なくといふ如き意なり。この本の歌の意は明日香川に今も猶、昔の如く夕になるを待たずしてカハヅの鳴く瀬の清けくあるらむか覺束なしとなり。
(517)○一首の意 夕方になるを待たずに川津の鳴くなるかの明日香川の瀬は今もなほありし昔の如くさやくあるらむかとなり。
 
山部宿禰赤人歌六首
 
○山部宿禰赤人 この人の事上、富士山を詠ずる歌の下にいへり。
○歌六首 この歌六首いづれも羈旅の作なりと見ゆ。
 
357 繩浦從《ナハノウラユ》、背向爾所見《ソガヒニミユル》、奧島《オキツシマ》、榜回舟者《コギタムフネハ》、釣爲良下《ツリヲスラシモ》。
 
○繩浦從 舊訓「ナハノウラヲ」とよみ、拾穗抄に「ナハノウラニ」とよみたるが、「從」は「ヲ」とよむも「ニ」とよむも誤なれば、代匠記の如く「ナハノウラユ」とよむをよしとす。考には「繩」は「綱《ツナ》」の誤としたれど、諸本いづれも誤字なければ從ひがたし。さて「ナハノウラ」とは何處なるか明かならず。上の日置少老の歌に見えたると同じ地か。然らばこれも播磨の那波の浦とせむか。或は當れるならむ。
○背向爾所見 「ソガヒニミユル」とよめり。この語の假名書の例は卷十四「三三九一」に「筑波禰爾曾我比爾美由流安之保夜麻《ツクバネニソガヒニミユルアシホヤマ》」「三五七七」に「可奈思伊毛乎伊都知由可米等夜麻須氣乃曾我比爾宿思久伊麻之久夜思母《カナシイモヲイヅチユカメトヤマスゲノソガヒニネシクイマシクヤシモ》」卷十七「四〇〇七」に「阿佐比左之曾我比爾見由流《アサヒサシソガヒニミユル》」「四〇一一」「三島野乎曾我比爾見都追《ミシマヌヲソガヒニミツツ》」卷十九「四二〇七」に「此間爾之※[氏/一]曾我比爾所見和我勢故我垣都能谿爾《ココニシテソガヒニミユルワガセコガカキツノタニニ》」卷二十「四四七二」(518)に「於保乃宇良乎曾我比爾美都々美也古敝能保流《オホノウラヲソガヒニミツツミヤコヘノボル》」とあり。「ソガヒに見ゆ」とは後方に在ることをいへるにして、必ずしも實地に見るといふ意にあらず。繩浦の、背面の方に在る所の奧島といふなり。即ちこれはそれを見る人が、海上に在らずして海邊より見たるにても不可なきなり。
○奧島 「オキツシマ」とよむ。地名と考ふる説あれど、その所在を明示すること能はず。又ただ沖なる島と見る説あり。これの假名書の例は卷十八「四一〇三」に「於伎都之麻伊由伎和多里弖《オキツシマイユキワタリテ》」「四一〇四」に「於伎都之麻奈流之良多麻母我毛《オキツシマナルシラタマモガモ》」とあり。卷六、「神龜元年甲子冬十月五日幸2于紀伊國1時山部宿禰赤人作歌」(九一七)には「左日鹿野由背|匕〔左○〕爾所見奧島《サヒガヌユソガヒニミユルオキツシマ》……神代從然曾尊吉玉津島夜麻《カミヨヨリシカゾタフトキタマツシマヤマ》」とあるを見れば、玉津島をば、雜賀野ゆ背向に見ゆる奧島といへり。これは同じ人の同じ語遣なれば、奧島とは固有の地名にあらずして陸地より見る海中の島といふ程の事と解すべし。然らばこの歌の那波の浦より見ゆる海中の島といふ程の事と解するを當れりとす。
○※[手偏+旁]回舟者 舊訓「コギタムフネハ」とよめり。この語の例は卷一「五八」に「何所爾可船泊爲良武安禮乃崎※[手偏+旁]多味行之棚無小舟《イツクニカフナハテスラムアレノサキコギタミユキシタナナシヲブネ》」の下に出したるが、なほ卷六「九四二」に「許伎多武流浦乃盡《コギタムルウラノコトゴト》」などあり。「回」字を「タム」とよむことは類聚名義抄に「迂廻」を「タミサカレル」「タミメクレル」と訓じ「迂」を「ダミタリ」と訓じたるにてもその意を見るべし。
○釣爲良下 舊訓「ツリヲスラシモ」とよみたるを玉の小琴は「つりをすらしもと訓てはを文字拙し」といふ理由により「ツリセスラシモ」とよみたるなるが、古義は「釣爲をツリセスと訓ときは釣(519)爲給ふといふ意になること上にたび/\云たる如し。此は釣し給ふと尊みいふべき所ならねばツリセスと訓はわろし」といひて否定し、「ツリシスラシモ」と訓むべしといひ、「之の助詞を訓付ること例多し」といへり。この本居説を否定せるは賛成すべきなれど、「ツリシスラシモ」とよむことは必ずしも賛成すべからず。「ツリ」と「ス」との間の關係は「ヲ」助詞を容るゝが、最も順當なるものにて上の歌「三四四」に「賢良乎爲跡《サカシラヲスト》」卷十二「三一一一」に「爲便毛無片戀乎爲登《スベモナキカタコヒヲスト》」ともあり。從來の諸家に種々の説あるは「云々をす」といふが俗語に似たりとての事ならむが、かかる語法は古今一貫せるものなれば決して俗と目すべきものにあらず。されば舊訓のままにてよしとす。「良下」は「ラシモ」の語に借りたるものにしてそれは「ラシ」に「モ」の添へるものなり。
○一首の意 繩の浦に立ちて顧みれば海上に見る沖の島の邊に※[手偏+旁]ぎめぐりてある舟は釣をする舟にてもあるらしきよとなり。
 
358 武庫浦乎《ムコノウラヲ》、※[手偏+旁]轉小舟《コギタムヲブネ》、粟島乎《アハシマヲ》、背爾見乍《ソガヒニミツツ》、乏小舟《トモシキヲブネ》。
 
○武庫浦乎 「ムコノウラヲ」とよむ。攝津國武庫郡の邊の海邊をいふ。古の武庫郡は河邊郡の西、菟原郡の東にありて、武庫川の流るる地域を主とすること既にいへるが如し。今の武庫郡は古の武庫郡と、その以西の地とを併せたるなれば、これを以て古を推すべきにあらず。「乎」はその海上をの意なり。
○※[手偏+旁]轉小舟 「コギタムヲブネ」とよむ。「轉」を「タム」とよむは「回」を「タム」とよむに同じ意なり。
(520)○粟島矣 「アハシマヲ」とよむ。粟島は地名なること著し。その地は何所なるか。卷四に「丹比眞人笠麻呂下筑紫國時作歌」(五〇九)には「青旗乃葛木山爾多奈引流白雲隱天佐我留夷乃國邊爾直向淡路乎過粟島乎背爾見管《アヲハタノカヅラキヤマニタナヒケルシラクモカクリアマザカルヒナノクニヘニタダムカフアハヂヲスギアハシマヲソガヒニミツツ》……稻日都麻浦箕乎過而《イナビツマウラミヲスギテ》……家乃島《イヘノシマ》云々」とあり。これによれば難波の三津濱より西をさして船出して淡路を過ぎ、粟島を背に見、播磨の稻日妻島の浦を過ぎ、さて家の島に至る順序なり。その家島は播磨灘の中、赤穗町と飾磨町との略中央にあたる室津村の南方海中(七海里)に見ゆる比較的に大なる名高き島なり。古は揖保郡なりしが、今飾磨郡に屬す。稻日都麻は播磨風土記にある島にして、加古川の河口にありしが、今高砂といふ陸地になれり。さてここの粟島なるが、これをば、仙覺抄に「讃岐國屋島北去百歩許有v島名曰2阿波島1」とあれど、その名の島の今存せぬは別として、それにては地理にあはず。これはそれと別なること著し。大日本地名辭書には淡路の北端岩屋岬の一部かといひたれど、證もなきことなり。按ずるに古事記上卷に「次生2淡島1是亦不v入2子之例1」とありて「淡島」といふがあり。且下卷に仁徳天皇が淡路島に坐して遙かに望みたまひてよまれし歌に「阿波志摩淤能碁呂志摩阿遲摩佐能志麻母美由《アハシマオノゴロシマアヂマサノシマモミユ》」とあり。又本集卷四なるは上にひけり。卷七「一二〇七」には粟島爾許枳將渡等思鞆赤石門浪未佐和來《アハシマニコギワタラムトオモヘドモアカシノトナミイマダサワゲリ》」とあり。又卷十五にも粟島あれど、これは周防の邊なれば別なるべし。かくてこれは淡路島の附近の地なることは疑ふべきことにはあらねど、今その名ある小島を見ず。古今にその名のかはれるが爲か。後賢の研究を待つ。
○背爾見乍 「ソガヒニミツヽ」とよむ。槻落葉に「向」の字脱すとすれど「背」一字を「ソガヒ」とよめる(521)は上にいへる卷四「五〇九」の歌にもあり。
○乏小舟 「トモシキヲブネ」とよむ。「トモシ」といふ語の例は卷一「五五」にいへるが、ここも羨しき意なり。
○一首の意 武庫の浦の海上を※[手偏+旁]きめぐれる小舟は粟島を背にしつつ大和の方に行く舟なるがあらうらやましき舟なるよとなり。これは己が旅は次第に大和を遠ざかるに、その小舟が、自分と反對に粟島の方よりして東をさしてはや武庫の海上をこぎ行くよといへるなり。等しく小舟といふ體言を骨子とする句二を重ねたるものにして、歌詞ひきしまりて如何にも羨しさにたへぬ情あらはれたり。
 
359 阿倍乃島《アベノシマ》、宇乃住石爾《ウノスムイソニ》、依浪《ヨルナミノ》、間無比來《マナクコノゴロ》、日本師所念《ヤマトシオモホユ》。
 
○阿倍乃島 「アベノシマ」とよむ。古義は「倍」を「波」の誤かとして「アハノシマ」とよむ。されど、いづれの本もかくあれば、誤りとはいひがたし。この島につきては諸家多くは攝津とすれど、その地を明かに示さず。攝津とするは、前後の歌より推せるなるべけれど、確證あるにあらず。攷證には別に「書紀仲哀八年紀に阿閇島とあるは通證にも筑前糟屋郡と注してここと別也」といへり。今所在を詳にせず。
○字乃住石爾 舊訓「ウノスムイシニ」とよみたるを考に「ウノスムイソニ」と改めたり。「宇」は鵜といふ鳥の名をあらはせり。「宇」といふ鳥の名は神代の神名にあらはれ、又神武天皇の御製にも(522)あらはれたるが、和名鈔鳥名に「俗云宇」と注せり。「石」は「イシ」とも「イソ」ともよむべきが、ここは海中の磯なれば「イソ」とよむをよしとすべし。「石」を「イソ」とよむは古く「石上神宮」「石上氏」の名にもあらはれ、本集にも「神前荒石毛不所見《ミワノサキアリソモミエズ》」(卷七「一二二六」)などあり。よりてこれをよしとす。鵜は海中の人氣稀なる磯にすむものなること古今かはらず。
○依波 「ヨルナミノ」とよめるを考に「ヨスルナミ」とよみたり。されど、「依」は「ヨル」とよむべき字にして「ヨスル」とよむは常規にあらず。卷七「一一一七」に「島廻爲等磯爾見之花風吹而波者雖縁不取不止《シマミストイソニミシハナカゼフキテナミハヨルトモトラズハヤマジ》」といふあり。
○間無 「マナク」とよむ。これは海中の磯に浪の絶間無くよる如くといひて、この間無くにて上の「所念」を修飾せるなり。卷十五「三六六〇」に「麻奈久也伊毛爾故非和多里奈牟《マナクヤイモニコヒワタリナム》」卷十七「三九七三」に「可保等利能麻奈久之婆奈久春野爾《カホドリノマナクシバナクハルノヌニ》」などその例なり。
○比來 「コノゴロ」とよむことこれは元來支那の熟字なること等卷二「一二三」にいへり。
○日本師所念 「ヤマトシオモホユ」とよむ。「日本」を「ヤマト」とよむことは卷一「四四」「五二」「六三」以下多く、「所念」を「オモホユ」とよむことは卷一「七」「六四」以下に多し。
○一首の意 今ここに阿部の島の邊をすぎて、その邊の磯に鵜のすむを見る。この鵜の住む磯による浪の間無きが如く、われはこの日來絶えず、故郷の大和のみ戀しく思はるるよとなり。
 
360 鹽干去者《シホヒナバ》、玉藻苅藏《タマモカリヲサメ》。家妹之《イヘノイモガ》、濱裹乞者《ハマヅトコハバ》、何矣示《ナニヲシメサム》。
 
(523)○鹽干去者 舊訓「シホヒナバ」とよみて異説なし。「去」はこの集にては複語尾の「ヌ」の各變化に用ゐる例なれば、ここはその未然形にあてたるなり。
○玉藻苅藏 舊訓「タマモカリツメ」とよみたるを童蒙抄には「カリテン」とよみ、考は「カラサメ」とよみ、槻落葉は「カラサム」とよみ、古義は「カリコメ」とよみ近頃の全釋は「カリヲサメ」とよめり。かく種々の説の生じたるは、「藏」を「ツム」とよむことの不可なりといふにあるならむが、「藏」を「テム」にあつるは何等の根據なく、又「藏」を「ヲサメ」とよむべしとしても、「刈藏」二字を「カラサメ」とよむことは道理なし。されば問題とすべきは「ツメ」か「コメ」か、「ヲサメ」かにして、そのうちのいづれをとるべきかといふに、この三訓いづれも「藏」の字義に觸れたる點あり。しかも類聚名義抄を見るに、藏字の動詞としての訓に「カクス」「ヲサム」「ツヽム」「トラフ」の訓を載せ、色葉字類抄には「オサム」の訓あり。されど、「コム」といふ訓を見ず。この故に古義の訓は從ひがたし。次に又「ツム」の訓も又見ざれば、舊訓從ひがたきに似たり。然るに略解に曰はく「宣長云、卷十六荒き田のしゝ田の稻を倉爾擧藏而《クラニツミテ》と書り。藏をつむと訓は倉に物をつみおく意也といへり」とあり。これによらば、「ツメ」とよむも道理あるが如し。藏の字は説文に「匿也」と見えたれど、易の繋辭には「君子藏2氣于身1、待v時而動」といふ場合の藏は「蓄」の義なり。而して藏字の訓には、色葉字類抄、類聚名義秒共に「ツム」とあり。されば「ツム」とよむに差支なきに似たり。されど「藏」をまさしく「ツム」と訓せる例なければ、卷十六の「擧藏」のみを傍證として「ツメ」とよまむことは理由薄弱なりと評すべし。この故に「ヲサメ」とよむ説をよしとすべし。これは古來の訓の存するのみならず、本集にても、(524)卷九「一七一〇」に「吾妹兒之赤裳泥塗而殖之田乎苅將藏倉無之濱《ワギモコガアカモヒヅチテウヱシタヲカリテヲサメムクラナシノハマ》」卷十六「三八一六」に「家爾有之櫃爾※[金+巣]刺藏師而《イヘニアリシヒツニザウサシヲサメテシ》云々」ともあればなり。「ヲサメ」は「ヲサメヨ」といふにおなじ。古は下二段活用にても「ヨ」を加へずして命令形の用を完くせしなり。その例卷十八「四〇九六」に「大伴能登保追可牟於夜能於久都寄波之流久之米多底比等能之流倍久《オホトモノトホツカムオヤノオクツキハシルクシメタテヒトノシルベク》」卷十九「四一九一」に「鵜河立取左牟安由能之我波多波吾等爾可伎無氣念之念婆《ウカハタチトラサムアユノシガハタハワレニカキムケオモヒシオモハバ》」又佛足石歌に「都止米毛呂毛呂《ツトメモロモロ》」とあり。「玉藻」の「玉」は例の美稱なり。
○家妹之 舊訓「イヘノイモガ」とよみたるを古義は卷二十「四三八八」の「以弊乃母加枳世之己呂母爾《イヘノモガキセシコロモニ》」とあるを證として「イヘノモガ」とよめり。然るに、又一方には「イヘノイモ」とよむべき證あり。卷十四「三四八一」に「安利伎奴乃佐惠佐惠之豆美伊敝能伊母爾毛乃伊波受伎爾弖《アリギヌノサヱサエシヅミイヘノイモニモノイハズキニテ》」卷二十「四三六四」に「伊敝乃伊毛何奈流敝伎己等乎伊波須伎奴可母《イヘノイモガナルベキコトヲイハズキヌカモ》」とあるなどこれなり。而して「イヘノモ」とかけるはただ一例に止まれば古來の説をよしとすべし。
○濱裹乞者 「ハマツトコハバ」とよむ。「ハマツト」といふ語は他に例なし。されど、「イヘヅト」「ヤマヅト」「ミチユキヅト」などの例によりてこの語を釋すべし。この卷「三〇六」に「妹之家裹爲《イモガイヘヅトニセム》」の下にいへり。「山ヅト」の例は卷二十卷頭「四二九三」に「山人乃和禮爾依志米之夜麻都刀曾許禮《ヤマビトノワレニエシメシヤマツトゾコレ》」「ミチユキヅト」の例は卷八「一五三四」に「玉桙乃道去裹跡爲乞兒《タマホコノミチユキヅトトコハムコノタメ》」あり。濱より家にもたらす土産物の意なり。
○何矣示 舊訓「ナニヲシメサム」とよめるを童蒙抄に「ナニヲカミセン」又は「何ヲミセナン」とよむ(525)べしとせり。これは「シメス」といふ語を避けむとせしものならむが、「示」は古來「シメス」と訓ぜる文字にして、これを「ミス」とよむはかへりて如何なり。而して「シメス」といふ語は上の卷「二七九」に「名次山角松原何時可將示《ナスキヤマツヌノマツバライツカシメサム》」の下にいへる如くにして、その意は攷證にいへる如く「人に物をゆぴさしてこれぞそれなるとをしへさとす意なり」といふべし。
○一首の意 この歌二段落なり。第一段はこの濱に於いて潮干なば、ここの藻をかりて藏めよ。故郷の家なる妻がこの濱からの土産物をと請はば、何物を示すべきか。この濱にあるこの藻をば家裹にせむといふ意なり。
 
361 秋風乃《アキカゼノ》、寒朝開乎《サムキアサケヲ》、佐農能崗《サヌノヲカ》、將超公爾《コユラムキミニ》、衣借益矣《キヌカサマシヲ》。
 
○秋風乃 「アキカゼノ」とよみ、意も明かなり。
○寒朝開乎 「サムキアサケヲ」とよむべし。類聚古集、古葉略類聚鈔、神田本に「アサケニ」とあれど、「乎」を「ニ」とよむべき理由なければ從ふべからず。「朝開」は「アサアケ」即ち「朝の夜あけ」の義にして「あした」の義なり。それを約して「アサケ」とよむことは卷十四「三五六九」に「佐伎母理爾多知之安佐氣乃可奈刀低爾《サキモリニタチシアサケノカナトデニ》」卷十七「三九四七」に「氣佐乃安佐氣秋風左牟之《ケサノアサケアキカゼサムシ》」、卷二十「四四六三」に「保等登藝須麻豆奈久安佐氣《ホトトギスマヅナクアサケ》」などの假名書の例にて著し。又「朝開」とかけるは卷七「一一五五」卷八「一五五五」「一六〇三」卷十「二一四一」等に多く、「朝明」と書けるは卷七「一一五七」卷十一「二四九三」「二六五四」等あり、「旦開」とかけるは卷八「一五一三」「一五四〇」、卷十「一九六〇」、卷十二「三〇九四」等あり。「朝開乎」の「乎」(526)は攷證に「古事記下卷和歌に淤富佐迦邇阿布夜袁登賣袁美知斗閉婆《オホサカニアフヤヲトメヲミチトヘバ》云々、書紀仁徳紀歌に和例烏斗波輸儺《ワレヲトハスナ》云々、本集十五【廿四丁】に伊豆良等和禮乎等婆波伊可爾伊婆牟《イヅラトワレヲトハバイカニイハム》云々などある乎もじと同じくにの意也」といへり。この説一往いはれたるやうなれど、必しも當らず。先づここの「乎」は物を處置する意にあらねば、常の「を」にあらざるは論なし。されど、「ニ」の意なりといふは如何。若「に」にてすむものならば始より「ニ」といひたる方意明かに示さるべきものならむ。加之「ヲ」と「ニ」とを同一なりとすることは古今に通じて認め難き説なり。次に攷證にあげたる三の「ヲ」の例はいづれも常の「を」と異なるものなり。しかも、それらはなほ「を」の本質を離れたるものにあらず。されど、今これを論ずる遑を有せざれば、姑く措く。ここの「ヲ」は上の三の例の場合とも又異なるものなり。ここの「ヲ」を時間を示す語につけるものなるを見よ。かかる例はこの卷「四六二」に「如何獨長夜乎將宿《イカニカヒトリナガキヨヲネム》」「四六三」に「長夜乎獨哉將宿跡君之云者《ナガキヨヲヒトリヤネムトキミガイヘバ》」卷四「四八四」に「長氣乎如此耳待者《ナガキケヲカクノミマタバ》」「四八五」に「阿可思通良久茂長此夜乎《アカシツラクモナガキコノヨヲ》」「四九三」に「置而行者妹將戀可聞敷細黒髪布而長此夜乎《オキテユカバイモコヒムカモシキタヘノクロカミシキテナガキコノヨヲ》」「五八八」に「待乍曾吾戀度此月比乎《マチツツゾワガコヒワタルコノツキゴロヲ》」卷五「八四六」に「可須美多都那我岐波流卑乎可謝勢例杼《カスミタツナガキハルビヲカザセレド》」卷十「一九二一」に「菅根乃長春日乎孤悲渡鴨《スガノネノナカキハルビヲコヒワタルカモ》」「二二六四」に「蟋蟀之待歡秋夜乎寢驗無枕與我者《コホロギノマチヨロコベルアキノヨヲヌルシルシナミマクラトワレハ》」「二二八二」に「長夜乎於君戀乍不生者《ナガキヨヲキミニコヒツツイケラズバ》」卷十一「二八〇二」に「念友念毛金津足檜之山鳥尾之永此夜乎《オモヘドモオモヒモカネツアシヒキノヤマトリノヲノナガキコノヨヲ》」卷十三「三二五八」に「霞立長春日乎天地丹思足椅《カスミタツナガキハルヒヲアメツチニオモヒタラハシ》」「三二八二」に「衣袖丹山下吹而寒夜乎君不來者獨鴨寢《コロモテニアラシノフキテサムキヨヲキミキタラズハヒトリカモネム》」卷十五「三六〇〇」に「字多我多毛比左之伎時乎須疑爾家流香母《ウタガタモヒサシキトキヲスギニケルカモ》」卷十六「三八六五」に「年之八歳乎待騰來不座《トシノヤトセヲマテドキマサズ》」卷二十「四三三一」に「奈我伎氣遠麻知可母戀牟《ナガキケヲマチカモコヒム》」などあり。かくの如く、長時繼續せる事項(527)を以て、説明せむとするとき、その時間の繼續せることを示す爲に用ゐる「を」たることは明かなり。而してこれ普通の「ヲ」とは異なる點あれど、その事項が時間的繼續を要するものなる點に於いて、なほ一種の動的目標にして、今も「日をくらす」「夜をあかす」「夜を通す」「年をすごす」などいふもの亦この用法の例に屬す。
○佐農能崗 舊訓「サノノヲカ」とよみたるが、童蒙抄に「サヌノヲカ」とよめり。「農」は古「ヌ」の假名に用ゐしこと卷五「八九六」に「難波津爾美船泊農等吉許延許婆《ナニハツニミフネハテヌトキコエコバ》」「八九七」に「見乍阿禮婆心波母延農《ミツツアレバココロハモエヌ》」などにても見るべし。されば「サヌノヲカ」をよしとす。この「サヌノヲカ」とは何處なるか。諸家いづれも紀伊國牟婁郡にして、上にある「神之埼《ミワノサキ》、狹野乃渡《サヌノワタリ》」とあると同じ地ならむとせり。今そこと明かに斷言すべき材料を知らねど、又否定すべき由もなければ、姑くこれに從ふ。
○將超公爾 舊訓「コユラムキミニ」とよみたるを略解に「コエナムキミニ」とよめり。「將」は「ラム」とも「ナム」ともよみて差支なかるべきが、「コエナム」といへば未だその地に到らざる前によめるものとなり、「コユラム」といへば、現にその地を超えつつあることを推量することとなる。ここは「ラム」とよむをよしとすべし。
○衣借益矣 舊訓「キヌカサマシヲ」とよみて異説なし。「借」は元來「カル」を本義とする文字なるに「カス」とせるは正しき用法にあらず。されど、「カス」に用ゐたる事卷一「七五」に「衣應借妹毛有勿久爾《コロモカスベキイモモアラナクニ》」とある下にいへる如くなり。ここはその意義より推して舊訓をよしとす。
○一首の意 今朝は秋風も頗る寒きが、この朝開の寒き時に日をかぞふれば、今日は恰もわが君(528)は紀伊の佐野の崗を越ゆるならむ。この寒さを凌ぎ給へといひて、その君に衣を貸し奉るべきに道の間遠くてせむ方なしとなり。この歌※[覊の馬が奇]旅にての歌にあらずして※[覊の馬が奇]旅に在る人を思ひやりてうたへる歌なり。これにつきて考にはこれを「妻の歌ならん」といひ、なほ「右にいふ如く、妻の都にゐておもへるなれば、別に端詞のあるべきを落しか、又赤人の歌集に右の歌の末に書添て有しを其まゝここに書載しにてあるべし。」といへり。されど、ここには「赤人歌六首」とあるのみにて「※[覊の馬が奇]旅歌」とは記さず。されば前四首が旅にての歌、次二首が、旅の歌ならずとも、端書には抵觸せざるものなり。加之これを妻の歌なりといふ事は何等の根據なきことにして「衣をかす」といへるが女の語に似たりといふに止まるのみ。然れども「吾妹兒爾衣借香之宜寸河《ワキモコニコロモカスガノヨシキガハ》」(卷十二「三〇一一」)などあれば、男より女にいふにも差支なきことなり。「衣を借す」といふ以上は必ず女の歌なりとは定め雖きことなり。
 
362 美沙居《ミサゴヰル》、石轉爾生《イソミニオフル》、名乘藻乃《ナノリソノ》、名者告志五余《ナハノラシテヨ》、親者知友《オヤハシルトモ》。
 
○美沙居 「ミサゴヰル」とよむ。「沙」は「イサゴ」といふ語に當る字なり。和名鈔に「砂」に注して「和名以佐古、一云須奈古」とあり。「美沙」をつづくれば「ミイサゴ」となるを約めて「ミサゴ」にあてたるなり。「イサゴ」の上を略してただ「サゴ」にあるは「石」を「シ」と「入」を「ル」とするが如き例なり。「ミサゴ」は鳥の名なり。和名鈔に「爾雅注云雎鳩上且余切雎亦作※[且+隹]和名美佐古G屬也好在2江邊山中1亦食魚者也云々」とあり。これはわが國にては海濱の岩壁などにすみて魚を捕へて食する鳥にし(529)て鷲の族なり。本集に「みさご」をよめる歌は他にもあり。卷十一「二七三九」に「水沙兒居奧麁礒爾緑浪《ミサゴヰルオキノアリソニヨスルナミ》」卷十二「三〇七七」に「三佐呉集荒礒爾生流勿謂藻乃《ミサゴヰルアリソニオフルナノリソノ》」「三二〇三」に「三沙呉居渚爾居舟之《ミサゴヰルスニヲルフネノ》」などこれなり。
○石轉爾生 舊訓「イソワニオフル」とよみたるが、考は「イソミニオフル」とよみ、攷證は「イソマニオフル」とせり。この「轉」は回轉と熟する文字なれば、「島回」「浦回」「阿回」「隈回」などの「回」と同じき意に用ゐたるにて「イソミ」とよむべきなり。「回」を「ミ」とよむべきことは卷一「四二」の「荒島回乎《アラキシマミヲ》」の下にいへり。「イソミ」といへる語の例は卷七「一二三四」「鹽早三礒廻荷者《シホハヤミイソミニハ》」卷十二「三一九九」「礒回從水手運往爲《イソミヨリコギタミユカセ》、月者雖經過《ツキハヘヌトモ》」などあり。「イソミ」は磯のぐるりなり。
○名乘藻乃 「ナノリソノ」とよむ。これは今いふ「ホンダハラ」といふ海藻なり。日本紀允恭天皇十一年の條に「時人號2濱藻1謂2奈能利曾毛1也云々」とあり、又和名鈔に「本朝式云莫鳴菜【奈乃利曾漢語抄云神馬藻、今按本文未詳但神馬莫騎之義也】」とあり。本集には「名告藻」(卷六「九四六」卷七「一三九五」等)「勿謂藻」(卷十二「三〇七七」)「莫告藻」(卷七「一一六七」卷十「一九三〇)」「名乘曾」(卷七「一二九〇」)などの文字を用ゐたり。このうち「勿謂」「莫告」はそれにて「ナノリ」にあて藻は義によりて添へたる爲なり。これは一面次の句の「名者告志弖余《ナハノラシテヨ》」を導く料とせるなり。
○名者告志|五〔左○〕餘 舊訓「ナハツケシコヨ」とよめり。されど、その意をなさず。考は「五」は「弖」の誤ならんとせるが、然らば「ナハノラシテヨ」とよむべきなり。かくて槻落葉、略解以下みなこの訓によれり。然るに、諸の寫本「弖」とかけるものを見ず。ただ神田本に「五」を「百一」とせるあれど、かく(530)ては一層不明にならむ。按ずるにこゝは諸本誤字なしといへども、恐らくは「弖」の字を誤りて「五」と書き傳へしものならむ。この故に今假りにこれを「弖」の誤ならむとして「ナハノラシテヨ」と訓ず。「テ」は「ツ」の命令形にしてそれに助詞「ヨ」を加へて命令の用を完くするなり。似たる例は卷二十「四四三八」に「保等登藝須許々爾知可久乎伎奈伎弖余《ホトトギスココニチカクヲキナキテヨ》」卷四「六六四」に「戀戀而相有時谷愛寸事盡手四長常念者《コヒコヒテアヘルトキダニウルハシキコトツクシテヨナガクトオモハバ》」あり。「名ヲバノリ給ヒテヨ」といふに同じ程の意なり。これは忍びて逢へる女にその名を告げたまへといへるなり。
○親者知友 「オヤハシルトモ」とよむ。意明かなるが、古はわが國の風俗、男女相あふ事ありて、はじめは人にも親にも知らせず、後に親にも告げしものと見ゆ。中古までもこの風のこりてありしことは歌集物語などを見て知らる。さてその親が知りては事の有樣によりて或は許し、或は許さずしてこれをさくる事もありしならむ。さるによりて「親は知るとも」といひしなり。即ち親のこれを知りてよしや彼是いはるゝことありともといふなり。この一句反轉法によりて上にあるべきを下にせるなり。
○一首の意 みさごの棲み居る海の磯回に生ふる「なのりそ」のその名稱の如く、君が名をば我に告げたまへ、たとひ親は知りて彼是いふことあらむともとなり。卷十二、寄物陳思歌のうちにこの歌に似たる歌「三佐呉集荒磯爾生流勿謂藻乃吉名者不告《ミサゴヰルアリソニオフルナノリソノヨシナハノラジ》、父母者知鞆《オヤハシルトモ》」(三〇七七)ありて、第二句、第四句かはれるが、その第四句の意はここと正反對になれり。
 
(531) 或本歌曰
 
○ これは上の歌をば或る他の本には次の形の歌として載せたりといふなり。
 
363 美抄居《ミサゴヰル》、荒礒爾生《アリソニオフル》、名乘藻乃《ナノリソノ》、告名者告世《ナノラバノラセ》、父母者知友《オヤハシルトモ》。
 
○美沙居 これは上の歌におなじ。
○荒礒爾生 舊訓「アライソニオフル」とよみたるが、「アリソニオフル」とよむべきなり。意は明かなり。この句が上の歌と異なるなり。
○名乘藻乃 上のにおなじ。
○告名者告世 舊訓「ナノリハツケヨ」とよめり。代匠記は「ノルナハノラセ」とよみ、童蒙抄は「ノルナハノレヨ」又は「ノルナハナノレ」とし、考は「告名」の「告」は「吾」の訓にして「ワカナハノラセ」とし、槻落葉は「ノリナハノラセ」とし、略解は「告名」の「告」は「吉」の誤として訓「ヨシナハノラセ」とし、攷證は「ナノラバノラセ」若くは「ナノリハノラセ」とせり。按ずるに下の「告世」は代匠記及考以下の説の如く、「ノラセ」とよむをよしとすべし。上の「告名」は文字のままならば「ノリナ」若くは「ノルナ」とよまるべきさまなれど、「ノリナ」「ノルナ」などいへる語の例は未だかつて聞かざるところにして穩當ならず。又「告名者」三字を一にせば「ナノラバ」とよみうべきなり。かくて誤字ありやと見るに、諸本に誤字なし。されど、上の歌に「五」の例あれば、誤字なしともせざるべしと考へて、「吾名」の誤と(532)せむに、「ワガナハノラセ」といふことは何の意をなすべきか、吾名をば、吾が告げむといはむには「ノラセ」といふべからず。「ノラセ」を基とせば「汝ガ名ヲノラセ」とあるべき筈なり。さればこれ亦從ふべからず。次に「吉」の誤とせば、「ヨシ」は放任の意なれば「ヨシ名は告らせ」といひて可なる如くに見ゆ。攷證はこれを批難して、「よしなはのらせなるべしといへる事はうらうへの誤り也。ここをよし名はのらせと訓ては上よりのつづきも一首の意も聞えがたし」といへり。これは「よしなはのらじ」といふべき語詞なりとするものにして、一往は聞えたるやうなれど、この集中の「よし」といふ副詞の用例を見るに、「よし」に對しては下は戻續の「とも」の來ること少からねど、又卷十「二一一〇」に「人皆者芽子乎秋云縱吾等者乎花之末乎秋跡者將言《ヒトミナハハギヲアキトイフヨシワレハヲバナガウレヲアキトハイハム》」「三二二九」に「梅花縱比來者然而毛有金《ウメノハナヨシコノゴロハサテモアルガネ》」卷十一「二六〇三」に「縱比來者戀乍乎將有《ヨシコノゴロハコヒツヽヲアラム》」「二七七八」に「縱比者如是而將通《ヨシコノゴロハカクテカヨハム》」などあり。されば、この批難は必ずしも當らずといふべし。されど漫りに誤字説を主張するも如何なれば、文字のまゝ「ナノラバノラセ」とよむ方よからむか。これは假設の語にして意薄弱なるやうなれど、かく未然形を「バ」にてつゞけたる句を下に命令禁止の語にてうけて終止せる例あれば誤にはあらず。例へば卷十五「三六八七」に「美也故爾由加波伊毛爾安比弖許禰《ミヤコニユカバイモニアヒテコネ》」「三七四五」に「和我由惠爾波太奈於毛比曾伊能知多爾敝波《ワガユヱニハタナオモヒソイノチダニヘバ》」等の如し。
○父母者知友 「オヤハシルトモ」とよむ。かき方は異なれど、上の歌のと語は同じ。
○一首の意 みさごのゐる荒磯に生ふる名乘藻の名の如く、父母は知るとも君が名をば、のり給はむとならばのり給へよとなり。
 
(533)笠朝臣金村鹽津山作歌二首
 
○笠朝臣金村 この人の歌集の名は卷二「二三二」の左注に見えたるなり。この人は本集以外に所傳なし。笠氏は孝靈天童の皇子稚武彦命の孫鴨別命の後にして笠臣と稱へしが天武天皇の御世に朝臣の姓を賜ひしものにして、日本紀、新撰姓氏録等にてこれを明かにすべし。然れどもこの人の父祖、又傳記全く所傳なければ、知り難し。本集にはこの人の歌を載すること、短歌五首、長歌八首(反歌一首、多くは二首これに伴ふ)あり。又笠金村歌集に出づとせるもの短歌六首長歌三首(反歌これに伴ふ)あり。今その歌の端書によりて、察するに、その年代は
○靈龜元、秋九月 志貴親王薨時の詠(歌集ニ出ツ)
 養老七、夏五月 芳野離宮行幸の時の詠
 神龜元、冬十月 紀伊國行幸の時の詠
   二、春三月 甕原離宮行幸の時の詠
   二、夏五月 芳野離宮行幸の時の詠
   二、冬十月 難波離宮行幸の時の詠
   三、秋九月 播磨印南野行幸の時の詠
○神龜五、    難波離宮行幸の時の詠
○同   秋八月 詠
(534)○天平元、冬十二月詠
 天平五、閏三月、入唐使に贈る
とあり。(その上に○をつけたるは歌集に出づとせるものにて確かにこの人の詠と斷じ難きものなり。これによれば、元正天皇の養老の頃より天平五年までの詠を存するものにして、神龜二年の甕原離宮行幸乃至、同三年秋九月印南野行幸には供奉して詠せりと見ゆ。しかもこの人、五位以上の取扱をうけて見えざれば、六位以下の官にて供奉せしものならむ。さて又その足跡を考ふるに、上の行幸に供奉せる外の詠としてはこゝの
 鹽津山
 角鹿津にて船に乘る
と卷八に
 伊香山にての詠
とあり。これによれば、近江國より越前國敦賀に赴きて船に乘りしことありしなり。以上の外に何等の證を知らず。
○鹽津山作歌 鹽津は和名鈔によるに、近江國淺井郡にある郷名にして、その名を有する津は今もあり。これは琵琶湖の最北端に臨める地にして、今鹽津濱と名づくる村なり。さて鹽津山にてよめりとするこの歌は、そこを通りてよめるなるべし。かくて鹽津山といふ山の名は今傳らず。恐らくは鹽津より北して越前に赴くに越ゆる山をさせるならむ。按ずるに古の北(535)陸道は專ら湖西によれるものなれど、鹽津にかゝるは古の本街道にあらず。古の北陸道の本路は近江國滋賀郡穴太(大津市の北、二里許)和爾(堅田の北一里)高島郡三尾(今の白鬚神社の邊)鞆結(今、海津村の北なる浦村に鞆結神社あり)の諸驛を經て、愛發關にかゝりて今の疋田をすぎて越前國敦賀の西、松原驛に達するものなり。而してその愛發關の址は山中村に存す。その海《カイ》津よりして山中を越ゆる通路を今、俗に七里半越と稱し、古來有名なる難路とす。然るに延喜式の主税式を見るに越前以北の國々より京への運搬は敦賀まで海路、敦賀津より陸路、鹽津に運び、鹽津より湖上、大津に運びしなり。これは水路を主としての順路と見えたり。かくて鹽津よりして北する道は鹽津中村、沓掛村を經て、越前國敦賀郡新道野をすぎ、曾々木を經て疋田に達するものにして、これを沓掛越とも、新道野越とも鹽津越ともいひ、鹽津より敦賀へ五里半なれば、本街道よりも稍近きなり。即ちここは大津よりして水路をとりて鹽津に到り、さてその鹽津越をなししならむ。紫式部もここを越えしならむことはその集に「しほつ山といふみちのいとしげきをしづのをのあやしきさまどもして猶からきみちなりやといふをきゝて」といふ詞書あるが、この峠をわづらひての事と見ゆ。かく考へて、その鹽津山とは何をさすかといふに、要するに、その鹽津越に通る峠をさすものといふべきに似たり。
 
364 大夫之《マスラヲノ》、弓上振起《ユスヱフリオコシ》、射都流矢乎《イツルヤヲ》、後將見人者《ノチミムヒトハ》、語繼金《カタリツグガネ》。
 
○大夫之 「マスラヲノ」とよみて異説なし。この文字とその意とは卷一以來屡いへり。
(536)○弓上振起 舊訓「ユスヱフリオコシ」とよめり。古寫本中には、類聚古聚、古葉略類聚鈔、神田本等に「ユミトリタテヽ」とし、西本願寺本、細井本、温故堂本等には「振起」を「フリタテ」とし、六帖にもかくよめり。略解も亦然り。按ずるに卷七「一〇七〇」の歌にも「大夫之弓上振起借高之野邊副《マスラヲノユズヱフリオコシカリタカノヌベサヘ》云々」とあり。「ユミトリタテヽ」とよむ説は「上振起」を「トリタテヽ」とよむべしとせるならむが、それは無理なれば「弓上」と「振起」との二に分ちて考ふべきなり。「弓上」を「ユズヱ」とよむことは如何といふに、この語の假名書の例はなし。されど、弓の上部を「スヱ」といふ事は古今に通ぜり。本集にては卷九「一七三八」に「梓弓末乃珠名者《アツサユミスヱノタマナハ》」卷十二「二九八五」に「梓弓末者師不知《アヅサユミスヱハシシラズ》」等の例は「梓弓」を末の枕詞にせるものなり。又實際の弓末につきては卷十四「三四八七」に「安豆左由美須惠爾多麻末吉《アヅサユミスヱニタママキ》」卷十九「四一六四」に「梓弓須惠布理於許之《アヅサユミスヱフリオコシ》」とあり。されば「ユヅカ」「ユハズ」等の例によりて「ユズヱ」とよまむこと不可なかるべし。「振起」は「フリタテ」とよまれざるにあらねど、「起」は「オコシ」とよむが通例にして、しかも、上にいへる如く卷十九に「須惠布理於許之」といふ例あれば、「フリオコシ」の方によるべし。或は「弓上」にて單に「スヱ」とよまむ方正しきにあらずやと思はるれど、未だ旁證を得ざれば、舊訓に從ふ。「弓末振起し」とは弓を射るにははじめ末の方を稍前方に傾けて箭をはげ、弦をひくにつれて弓を立つるものなればかくいへるなり。
○射流矢乎 「イツルヤヲ」なり。意明かなり。古義はこれを「射つる矢なる物をの意なり。此詞の下に意を含め餘したるなり」といひてこれにて句を切れり。されど、これは明かにこの「矢を」が下の「見む」とつゞくものにしてここにて一段落とはすべきものにあらず。
(537)○後將見人者 「ノチミムヒトハ」とよむ。槻落葉は「後」を「得」として「エテミムヒトハ」とよみ、古本に從へりといへり。今、傳はる本にては神田本に「得」とせるあり。されど、「エテ」とよみたりとても後人が得てといふ意にとらずばあるべからぬ所なれば、「後」とある方よきなり。「ノチ、ミル」といへる例は卷二「一四六」に「後將見跡君之結有磐代乃子松之宇禮乎《ノチミムトキミガムスベルイハシロノコマツガウレヲ》」卷六「九五七」に「香椎滷從明日後爾波見縁母奈思《カシヒガタアスユノチニハミムヨシモナシ》」卷七「一三四二」に「淺法茅原後見多米爾標結申尾《アサヂハラノチミムタメニシメユハマシヲ》」なり。後來、これを見む人がといふなり。
○語繼金 舊訓「カタリツグガネ」とよみたるを童蒙抄には金は「かにともかねともかなとも讀むべし」といへり。されど、假名にて書ける例を見れば卷五「八一三」に「余呂豆余爾伊比都具可禰等《ヨロヅヨニイヒツグガネト》」卷十二「二八七三」に「里人毛謂告我禰《サトビトモカタリツグガネ》」卷十七「四〇〇〇」に「伊末太見奴比等爾母都氣牟於登能未毛名能未母伎吉底登母之夫流我禰《イマダミヌヒトニモツゲムオトノミモナノミモキキテトモシブルガネ》」卷十八「四一〇二」に「白玉乎都々美※[氏/一]夜良波安夜女具佐波奈多知婆奈爾安倍母奴久我禰《シラタマヲツツミテヤラバアヤメグサハナタチバナニアヘモヌクガネ》」卷十九「四一六五」に「大夫者名乎之立倍之後代爾聞繼人毛可多里都具我禰《マスラヲハナヲシタツベシノチノヨニキキツグヒトモカタリツグガネ》」などみな「がね」なり。されば、ここも「ガネ」と定めてよむべきなり。別に「ガニ」といふありて意似たるやうなれど、實は意も異なるものなり。この「がね」その源は格助詞の「が」と冀望の終助詞「ね」との合成なりと見ゆれど、後を豫期し冀ふ意をもてる一の體言の如くなれり。さてここの語は、卷十九「四一六五」の「後代爾聞繼人毛可多里都具我禰《ノチノヨニキキツグヒトモカタリツグガネ》」といへるに精神通へりと見ゆ。代匠記初稿には「今のよみやうにては歌の心とゞまる所なし。振起をふりたてよとよみて句絶とすべきにや」といひ、清撰本には「腰の句射つると云て矢をとことわりて此所句絶か。矢を射(538)つると云べけれども拙なければ、かく云にや。初の云殘す義にては射つると云詞少叶ひがたし。後の人能案すべし」。といへり。これは「ガネ」にては句の終とならずして下につづくか上に反るかすべきものと思ひたればなり。而して古義の「射つる矢を」にて一段落とする説もその源恐らくはここにあるべし。されど、これは「ガネ」と「ガニ」とを混同せるより起れる誤にして「ガニ」は必ず、下につづく語法をなし、「ガネ」はこれて終止するものなれば、これを反轉法によれるものとも、中止の語法によれりとも見る必要なし。隨ひて、中間に終止を求むる必要なきなり。
○一首の意 これにつきては先づ、その矢を何の爲に射、又何に對して射たるにかといふことを一往考へざるべからず。代匠記には「此歌如何なる意をよまれたるか知がたし。もし究竟の精兵にて後の世までの形見に彼山の木などに、一失射立置てゆかんと云ことを云殘されたるか」といひ、童蒙抄は「此歌を詠み給ふ金村の意趣は知れ難けれど、歌の意は聞えたる通の歌にて、古代は旅行などする時、山路深林などを通ふにはきはめて魑魅魍魎の氣を退散せんが爲に矢を發し、鳴弦などをせしこと也。此歌もその當然の義を詠まれたる義と見ゆる也。いかさまにも精兵などにてありし故、木などに、矢を射込みて、後の代にも知らしめんとの意にてもあるべき歟。旅行の山中に入るとき弓を射發つ事は此歌にても古實の義と知らるる也。」といへり。略解は「此人弓力の勝れたりけん、後世にもいひ傳へよと、山中の木岩などに矢を射つけたると見ゆ。」といひ、攷證は「中古よりしをりといふものの如く、此山を過つるしるしにとて木などに矢を射立おきしなるべし」といひたり。古義は「古(ハ)剛力《タケ》き男は道路の大木などに矢を射入(539)て、弓勢を末代の者に示しけるなるべし。中昔に崇徳天皇白川殿を落させ賜ふときに、八郎爲朝上矢の鏑一筋をとりて末代の者に弓勢のほどを示さむとて、寶莊嚴院の門の柱に射留置し事あり。此(ノ)類なり。又建久四年、曾我兄弟、親の敵を討む爲に富士の狩倉へ行とて箱根路の湯本の矢立の杉に矢を射立置し事もあり。近く寶暦九年の比日向(ノ)國の杣にて伐(リ)出せる杉の大木を船につみ運びて、備前(ノ)國岡山(ノ)府にて船材に割けるに鏃三枚木中より出けりと備前(ノ)國人土肥經平(ガ)春湊浪語に記せり。是も昔健士の射入たるなるべし」といへり。箱根路の矢立の杉は曾我物語に曰はく、「此杉と申すは元は湯本の杉といひけるを、一年九州阿蘇の平權守とて虎狼の逆臣あり。九國を討ち從へてちやうずる事四か年なり。(云々)。あまつさへ天下を悩まし奉らんとて國を催す聞え有りければ六孫王の御時其討手の爲に關東の兵を召され上りしに此杉のもとに下り居て祈りけるは九州に下り權守を討ち從へ、難無く都に歸り上り、名を後代に揚ぐべくは一の矢受け取り給へとておの/\射けるに、一人も射損ぜず。然て筑紫に下り合戰するに難無く打勝つて歸り上りぬ。其時よりして矢立の杉と申しけり。門出めでたき杉とて上下旅人心あるも無きも此木に上矢を參らせぬは無し。況や我等思ふこと有りて行く者ぞかし。如何でか上矢を參らせざらんとて十郎一の枝に留む。五郎二の枝にぞ射立てける」とあり。これは宴曲集、海道下に「朽殘るなるしるしをもいざゝはいて見ん矢立の杉」ともあり。この矢立の杉は箱根に今一つあり、それは三島より上る道にもありしなり。東遊記に「但峠ヨリ西ノ枯木坂ニモ矢立ノ杉ノ古跡アリ」とあるこれなり。なほこれは、箱根のみにあら(540)ずして、俚言集覽には「矢立杉 甲州笹子にあり、七抱半」と見ゆ。又羽後と陸奥との街道の境(今の碇關驛と陣場驛との中間)に矢立峠といふあり。ここにも大なる杉ありて、坂上田村麿が矢を射立てし杉なりといふ。この地はもと矢立杉といひしがそれによりて、後に矢立峠の名を生じたり。これは回國雜記の標注に「神に上矢を奉らんとて射立る事なれば矢立杉所々にある成べし」といひて曾我物語並に碓氷峠の矢立明神の名を出せる如く精査せば、他の地方にも存すべきを思ふ。而して、これはある特定の由來あるに止まらず、古くは旅行するものが、その旅中の安全を請ひ、又は卜するが爲に、山路などにかゝる際、ある著しき杉などの樹に矢を射止つることのありしならむ。然れば、これは、戯といふべからずして眞面目にこれを射しものならむ。ここも鹽津越のある地點に於いて、著しき杉などに、この矢を射立てしものありしならむか。かくて又考ふるに、この歌に「大夫」といへるは果して笠金村自身のことをいへるか。從來の諸家、一人もこれに異議なきが如しといへども、この歌の趣にてはかく必ず解釋すべき根據を有せず。自らを以て「大夫」と自稱することもとより無しといふべからねど、普通の場合ならば他の人をもいふに用ゐることは明かなり。この故に、余は歌の趣より推して、笠村が自ら射たる矢を詠じたるものと必するを得ざるものと考ふ。恐らくは、金村が通りたる時に前に通りし何人かの射立てたる箭のあるを見てよめるものならむ。余は上の如き意を以てこの歌を説かむ。今この鹽津山にさしかゝりて見れば矢立の杉に矢の立ちてあるを見る。惟ふにこの矢は誰とは知らねどいづれ勇士が弓末を振起して射たるものならむ。さる勇士の射(541)たる矢をば、今われは見て如何にも感深く思ふが、これより後に見む人はなほ更に語り繼ぎ、いひ繼ぎて永く後世まで、傳へてありたきものよとなり。即ちこれは矢立の杉を見ての詠とする方まされりと思ふ。
 
365 鹽津山《シホツヤマ》、打越去者《ウチコエユケバ》、我乘有《ワガノレル》、馬曾爪哭《ウマゾツマヅク》、家戀良霜《イヘコフラシモ》。
 
○鹽津山 「鹽」は玉邊に「〓也」とあり。古寫本に「鹽」とあり。「シホツヤマ」は上にいへり。
○打越去者 「ウチコエユケバ」とよむ。異説なく、意義も明かなり。卷九「一七四九」に「立田山乎打越去者《タツタノヤマヲウチコエユケバ》」卷十「二二〇一」に「射駒山撃越來者紅葉散筒《イコマヤマウチコエクレバモミヂチリツツ》」などの例あり。
○我乘有 「ワガノレル」なり。意明かなり。
○馬曾爪突 「ウマゾツマヅク」なり。異説なく、意明かなり。卷四「五四三」に「言將遣爲便乎不知跡立而爪衝《イヒヤラムスベヲシラニトタチテツマヅク》」卷十三「三二七六」に「馬自物立而爪衝《ウマジモノタチテツマヅキ》云々」とあり。
○家戀良霜 「イヘコフラシモ」とよむ。「良霜」は複語尾「ラシ」に助詞「モ」の添へるをあらはせり。「コフラシ」は「コフ」の終止形に「ラシ」のつけるものなり。「ラシ」のつける假名書の例はなけれど、卷十五「三六五三」に「伊敝妣等能麻知古布良牟爾《イヘビトノマチコフラムニ》」「三六八八」に「伊敝比等波麻知故布良牟爾《イヘヒトハマチコフラムニ》」「三七五〇」に「安我其等久伎美爾故布良牟比等波左禰安良自《アガゴトクキミニコフラムヒトハサネアラジ》」の如く「ラム」のうけたる例にて類推すべく、又卷七「一一九二」に「信士之山川爾吾馬難家戀良下《マツチノヤマカハニワカウマナヅムイヘコフラシモ》」卷八「一四六二」に「吾君爾戯奴者戀良思《ワガキミニワケハコフラシ》」にて「ラシ」の場合も同じと見るべし。さてこの句の意は、上句をうけて、途中にて馬の爪づくは、家を戀ふる(542)しるしならむといふなり。これは上にあげたる卷七の「の歌に「吾が馬なづむ、家こふらしも」と略同じ精神ならむか。然れども「なづむ」は内心に行くことを欲せざる由の意ありてわざと見ゆるなれど、これは馬の偶然爪づくを以て家を戀ふるしるしと見たるなれば、この方が、傳説的の色彩を帶べるものなり。卷七「一一九一」に「川之瀬速見吾馬爪衝家思良下《カハノセハヤミワカウマツマツクイヘオモフラシモ》」とあるも同じ意なり。
○一首の意 これは二段落なり。第一段は鹽津山を打越えて行ければ、わが乘れる馬が、つまづくよとなり。これ事實を叙せるなり。第二段は第一段の事實を解釋して大方これは馬さへも家を戀しく思ふによるならむといひて、己が家を戀ふる意を馬に託していへるなり。これをば考にも略解にも家人の戀ふれば、馬の爪づくといふ諺の有りしなるべしといへるが、これは攷證に論ずる如く非なり。家人をばただ家といふことの無理なればなり。ただ、その乘人が家を戀ふれば、馬もそれに感じてつまづくといふ程の考へはありしならむ。それ以上の事はこの歌にていふことかなはず。
 
角鹿津乘船時笠朝臣金村作謌一首并短歌
 
○角鹿津乘船時 「ツヌカノツニシテフネニノルトキ」とよむべし。角鹿津は今の敦賀港なり。日本紀垂仁卷に「一書云御間城天皇之世、額有v角人、乘2一船1泊2于越國笥飯浦1故號2其處1曰2角鹿1也」と見え、古事記中卷仲哀卷に「亦其入鹿魚之鼻血※[臭の大が死]、故號2其浦1謂2血浦1今謂2都賀1也」とあり。これを敦(543)賀とかくも「ツヌカ」にあてしものなれど、それを「ツルガ」ともいひし事は和名鈔郡名に「越前國敦賀都留我」とあるにても知らる。さてここより舟に乘りしことは明かなるが、金村はこれより何處に赴きしか。自然の順序としてはここより海路をとれば、越前の國府か、加賀、能登、越中、越後、佐渡、出羽等に至るべきものなり。延喜式主計式を見るに敦賀を基點とする海路を注せるは、越前國六日、加賀國八日、能登國二十七日、越中國二十七日、越後國卅六日、佐渡國卅九日、出羽國五十二日にして、その他は山陽道、南海道、西海道にも海路を注せれど、ここには關係なし。而して主税式を見れば、越前國は比樂湊より敦賀津にわたり、(加賀國には注脱す)能登國は加島津より敦賀津に亘り、越中國は亘理湊より敦賀津に亘る等の事を知る。されば、これは少くも越前の國府の邊に至りしならむ。しかも、歌の詞に於いてもこれを徴すべきものなし。
○作謌 「謌」字温故堂本、大矢本、京都大學本「歌」に作る。謌は歌と同字にして干禄字書に「歌謌並正多用上字」とあり。
○短歌 多くの古寫本小字にせり。
 
366 越海之《コシノウミノ》、角鹿乃濱從《ツヌカノハマユ》、大舟爾《オホブネニ》、眞梶貫下《マカヂヌキオロシ》、勇魚取《イサナトリ》、海路爾出而《ウミヂニイデテ》、阿倍寸管《アヘギツツ》、我※[手偏+旁]行者《ワカコギユケバ》、大夫乃《マスラヲノ》、手結我浦爾《タユヒガウラニ》、海未通女《アマヲトメ》、鹽燒炎《シホヤクケブリ》、草枕《クサマクラ》、客之有者《タビニシアレバ》、獨爲而《ヒトリシテ》、見知師無美《ミルシルシナミ》、綿津海乃《ワタツミノ》、手二卷四而有《テニマカシタル》、珠手次《タマタスキ》、懸而之奴櫃《カケテシヌヒツ》、日本島根乎《ヤマトシマネヲ》。
 
(544)○越海之 「コシノウミノ」とよむ。「越」は「コシ」といふ國語にあてたるなり。「コシ」は古事記に「高志」とかけり。これは今の越前より越後にわたりての古名にして、後にこれを越前、越中、越後と大別し、更に、越前をさきて能登、加賀等を分ちたるなり。「コシの海」とはこの越國の沿岸の海なり。ここに敦賀をいへれば、まづ、敦賀灣をさせるならむ。
○角鹿乃濱從 舊訓「ツノカノハマユ」とよめり。されど、「角鹿」は既にいへる如く、古名「ツヌカ」なれば、「ツヌカノハマユ」とよむべきこと論なし。今の敦賀の港の地なるべし。「從」は「ユ」とよみて「ヨリ」の意の古語なること屡いへり。
○大舟爾 「オネフネニ」とよむ。意明かなり。從來「大舟」といふ語本集に屡いでたれど、比喩に用ゐたるものにして、實際の舟にいへるはこれをはじめとす。さてここに大舟といへるは如何程の大さきの舟なりしか明かならねど、大和地方さては琵琶湖に浮べし舟に比べては、如何に古代といへども、海を渡る舟なれば大きなるものにして、眞に大舟といふ感じの生じたるものなるべし。
○眞梶貫下 舊訓「マカヂヌキオロシ」とよみたるを童蒙抄に「マカヂサシオロシ」とよめり。按ずるに「貫」は「ヌク」とよむべき文字にして、「サシ」とよむは穩かならざるのみならず、卷十五「三六三〇」に「眞可治奴伎布禰之由加受波《マカヂヌキフネシユカズハ》」とあるによりて「ヌキ」とよむべきを知るべし。「梶」は既にいへる如く、今の所謂舵にあらずして、擢きて舟をやる具にして所謂※[舟+虜]の如きもののことならむ。而して眞梶といへるは、この※[舟+虜]を左右に貫きおろすによりていへるなり。左右にあるを「マ」とい(545)ふは眞帆、眞袖、眞手、眞屋など古語に例多し。卷十五「三六二七」に「於保夫禰爾眞可治之自奴伎《オホブネニマカヂシジヌキ》」(「三六七九」にも同じ。)「三六一一」に「於保夫禰爾麻可治之自奴伎《オホブネニマカヂシジヌキ》」卷二十「四三六八」に「久自我波波佐氣久阿利麻弖志富夫禰爾麻可治之自奴伎和波可敝里許牟《クジガハハサケクアリマテシホブネニマカヂシジヌキワハカヘリコム》」この卷「三六八」の「大船二眞梶繁貫《オホブネニマカヂシジヌキ》」卷七「一三八六」に「眞梶繁貫水手出去之《マカチシジヌキコギデニシ》云々」の例によりて見れば、後世八挺※[舟+虜]などといふ如く大舟には多くの梶を用ゐしならむ。後世の戰艦には數十挺立てたり。
○勇魚取 「イサナトリ」とよむ。「ウミ」の枕詞なること、卷二「一三一」に既にいへり。
○海路爾出而 古來「ウミヂニイデテ」とよめるを考に「ウナヂ」とよめり。この「ウミヂ」といふ語の假名書の例未だ見出でず。或は「ウナヂ」とよむ方よからずやとも考ふれど、これも證なし。されば古よりの訓によるべきならむ。意は明らかなり。
○阿倍寸管 「アヘギツツ」なり。古義は「アベキ」と「ベ」を濁音にせれど、今もいふ如く「アヘギ」をよしとす。和名抄病類に「喘息、唐韻云※[端の旁+欠]【昌袞反亦作喘阿倍伎】口氣引貌也云々」とあり。これは病の名なれど、「アヘグ」を特徴とするによりての名なり。類聚名義抄には「喘息」「※[口+歳]」「※[口+息]」に「アヘキ」の訓を附け、「嘘」「※[口+據の旁]」「※[口+厥]」「喘」「毳」に「アヘク」の訓を附けたり。「アヘグ」は息をせはしくつかふことをいふ。これは下の「こぐ」を修飾するものにして力を入れて船をこぐ由をいへるものなり。
○我※[手偏+旁]行者 「ワガコギユケバ」なり。意明かなるが、事實は金村が自ら船をこぐにあらずして己が乘る舟を舟人のこぐなるをば歌詞としてかくいへるまでなり。卷二「二二〇」の「中乃水門從船浮而吾※[手偏+旁]來者《ナカノミナトユフネウケテワガコギクレバ》」とあるも同じ趣にして、この卷以下にも同じ趣の語多し。一々あげず。
(546)○大夫乃 「マスラヲノ」とよむこと論なし。これは「手結我浦」の枕詞とせること著しきが、如何にしてその枕詞とせるかにつきては次の句の下に論ずべし。
○手結我浦爾 「タユヒガウラニ」とよむ。この地は神名帳に越前國敦賀郡田結神社とあるその神社の存する地なるべし。按ずるに、今の敦賀の北、金崎より北して、海邊に沿うて五幡に超ゆる中途に田結といふ地あり。この地は敦賀よりは一里に滿たぬ地なり。この故に田結が浦といへるは、敦賀の津を離れて海上に出づれば、間も無く、東にあたりて見ゆる海邊なり。さてこの「タユヒガ浦」につきて「大夫乃」といへる枕詞を用ゐたるは如何といふに、長流の管見には「手結とは武士の籠《コ》手をいふ也。よつてますらをのとはいひかけたり」といへり。契沖はこれを受けて、「日本紀にあゆひを脚帶とかきたれば、手帶とかくへきにや」といへり。冠辭考に「こはますらをの手に著る手纏をこの浦の名にいひかけたり。和名抄に射※[韋+講の旁]和名多末岐一云小手也といひ、西宮抄裏書に小手と有るなどによるに古への手纏は弓の小手の本なり」といひたり。倭訓栞には「たゆひ 萬葉集に大夫の手結我浦とみゆ。日本紀に見えたる手纏也。西宮抄に手纏足纏と見えて裏書に小手とあり。足纏は足結也といへり」といへり。按ずるに「タヌキ」「タマキ」といふの假名書の例あれど、「タユヒ」と假名書にせるもの見えず。上にひける西宮抄は西宮記卷十九の五月六日の競馬の條にある文にして、競馬の乘人のいでたちを記せる文なり。曰はく「諸家(ノ)出(ス)馬乘人、鐙、※[衣+兩]※[衣+當]餘袴、手纏、足纏云々」とあるなるが、その足纏が、「アユヒ」とよむべきものならば。「手纏」も「タユヒ」とよみて可なることといふべし。然るに、「足纏」は「アユヒ」とよまむ外な(547)く、「アマキ」「アヌキ」などの語あるを知らず。然らば「手纏」を「タユヒ」とよむと考へても不都合なかるべし。さて西宮記のは競馬人の装束にして射手の装束にあらずして、後世には、この手纏足纏と目すべき装束は競馬の際に見えねど、古は用ゐしならむ。かくてこれは大體今の「小手」の如きものにてもありしならむか。それをば、丈夫の用ゐるといふことよりして「タユヒ」に對しての枕詞とせるものならむか。
○海未通女 「アマヲトメ」とよむ。この語は卷一「五」に「海處女」ともかけり。「未通女」は未だ男せぬ女の義にして「をとめ」といふ語にあてたり。この熟字は本邦にてつくれるにあらずして支那傳來のものと思はるれど、未だその出典を知らず。
○鹽燒炎 「シホヤクケブリ」とよむ。「炎」を「ケブリ」とよむは、後漢書蔡〓傳の注に「烟炎、煙火之微細者」とあるに基づくものならむ。これによれば、當時この手結の浦に於いて鹽を燒きてありしことと見ゆ。
○草枕 「クサマクラ」にして「タビ」の枕詞なること、上に屡例あり。
○客之有者 「タビニシアレバ」とよむ。「客」を「タビ」とよむことは卷一「五」にいへるが如し。「シ」は間投助詞にして意を強むるのみ。意明かなり。
○獨爲而 舊訓「ヒトリシテ」とよめるが、神田本に「ヒトリヰテ」とよみ、攷證も亦「ヒトリヰテ」とよむべしとせり。「爲」は訓にては「シ」とよむべく、音にては「ヰ」とよむべく、而して、二者共に本集に用例少からぬものなれば、この點よりして可否を論ずべからず。又「ヒトリシテ」といひても「ヒトリ(548)ヰテ」の意に用ゐらるるものなれば、この點よりしても可否を論じがたきのみならず、本集の用例を見るに卷七「一〇七三」に「獨居而見驗無暮月夜鴨《ヒトリヰテミルシルシナキユフヅクヨカモ》」とあるによらば、「ヒトリヰテ」とよむべきさまなれど、又ここは舟中にての所見なれば、「居ル」といふ不動の性質を有する語にては稍穩かならざる感あり。この故に「シテ」とよむ方まされり。「ヒトリシテ」といふ語はその用ゐる場合によりて種々の意に釋すべきが、ここは今の語にていふ「一人ニテ」といふ程の意と見るべし。かかる意の「ヒトリシテ」の例は、卷二十「四四〇六」に「可胡自母乃多太比等里之底安佐刀※[泥/土]乃可奈之伎吾子《カコジモノタダヒトリシテアサトデノカナシキワガコ》」卷十四「三四〇五」に「兒良波安波奈毛比等里能未思※[氏/一]《コラハアハナモヒトリノミシテ》」卷十二「二九一九」に「二爲而結之紐乎一爲而吾者解不見《フタリシテユヒテシヒモヲヒトリシテワレハトキミジ》」などの例あり。ここは「一人にてあれば」といふ程の強き意を合めり。
○見知師無美 「ミルシルシナミ」とよむ。この語の例は上に見えたる卷七「一〇七三」の歌にあり。又卷十五「三六七七」に「秋野乎爾保波須波疑波佐家禮杼母見流之留思奈之多婢爾師安禮婆《アキノヌヲニホハスハギハサケレドモミルシルシナシタビニシアレバ》」とあるも參考とすべし。「シルシナシ」といふことは今いふ「無效なり」といふ語に似たるものにして、故郷ならば、家人友人などと共に見て樂み慰めあふべきに旅なれば、吾ひとりして見るのみにて見るかひもなしといふなり。「無美」は「無きが故に」といふ程の意を寓せり。
○渡津海乃 「ワタツミノ」とよむ。この語は卷一「一五」の歌に「渡津海」とかけると同じ語なるが、それは轉じて海原をさせり。ここは原義のままにして海神をさす。かく海神をさせるものは、「海若」とかけるにても著し。(海若は支那にて海神の名とす。本集にては卷三「三二七」「三八八」卷九「一七四〇」「一七八四」卷十二「三〇七九」「三〇八〇」などにあり。)古事記上に「次生2海神1名2大綿津見神1」(549)とも見え、又和名鈔にも「海童即海神也、日本紀私記云和名和多豆美」と見ゆ。
○手二卷四而有 「テニマカシタル」とよむ。「マカシタル」は「マク」を敬語としたる「マカス」の連用形より「タル」にゆけるなり。海神の手に卷き給ひたる珠手次とつづくる料なること著しきが、それは玉のみにかゝれるか、「玉手次」全體にかゝれるか。今若し、「玉手次」全體にかゝれるものとせば、玉手次をまくといふこと古にありきとせざるべからず。然るに、本集の例を見るに、「玉手次」は「ウネビ」「カケ」「カケテ」に對する例のみなるを見る。然らば「王手次」全體にかゝれるものといふを得じ。次に玉につきて見るに、卷二「一五〇」に「放居而吾戀君玉有者手爾卷持而《サカリヰテワガコフルキミタマナラバテニマキモチテ》」卷三「四〇九」に「奈何其玉之手二卷難寸《ナゾソノタマノテニマキガタキ》」「四二四」に「手二纒在玉者亂而有不言八方《テニマケルタマハミダレテアリトイハズヤモ》」「四三六」に「人言之繁比日玉有者手爾卷持而不戀有益雄《ヒトゴトノシゲキコノゴロタマナラハテニマキモチオテコヒザラマシヲ》」卷四「七二九」に「玉有者手二母將卷乎《タマナラバテニモマカムヲ》」卷七「一三二七」に「海底奥在玉乎手纒左右二《ワタノソコオキナルタマヲテニマクマデニ》」卷十七「四〇〇六」に「保等登藝須許惠爾安倍奴久多麻爾母我手爾麻吉毛知底《ホトトギスコヱニアヘヌクマニモガテニマキモチテ》」「四〇〇七」に「和我勢故婆多麻爾母我母奈保等登伎須許惠爾安倍奴伎手爾麻伐底由加牟《ワガセコハタマニモガモナホトトギスコヱニアヘヌキテニマキテユカム》」卷十八「四一一一」に「安由流實波多麻爾奴伎都追手爾麻吉弖《アユルミハタマニヌキツツテニマキテ》」等の如く、玉を手に纏くといへる例甚だ多く、一々あぐべからず。而して、玉をば海神の手にまくといふ事は、卷十五「三六二七」に「和多都美能多麻伎能多麻乎伊敝都刀爾伊毛爾也良牟等《ワタツミノタマキノタマヲイヘヅトニイモニヤラムト》」卷七「一三〇一」に「海神手纒持在玉故石浦廻潜爲鴨《ワタツミノテニマキモタルタマユヱニイソノウラミニカツキスルカモ》」などに例あり。これは眞珠が海中より得らるる事多きを以て、これを海神の手纏の珠と見しならむが古の風俗に玉を手足に纏ひて装飾せしょり起りし語なること著し。かくてこれはただ次の「玉」といふ語を導く序とせるまでなるが、海上にての詠なれば、この點より見れば意義の上より(550)關係なきにあらず。
○懸而之努櫃 「カケテシヌビツ」なり。この語は卷一「六」に「家在妹乎懸而小竹櫃《イヘナルイモヲカケテシヌビツ》」といふ同じ語あり。そこにいへる如く「カケテ」は心にかけてなり。「シヌビツ」は思ひ慕ふ意なり。意は明かなり。
○日本島根乎 「ヤマトシマネヲ」とよむ。「ヤマトシマネヲカケテシヌビツ」といふべきを反轉法にてここにおけるものなり。「日本」を「やまと」とよむことは卷一の「四四」をはじめ、「五二」「六三」以下例多し。「ヤマトシマネ」は上「三〇三」の歌に「名細寸稻見乃海之奧津浪千重爾隱奴山跡島根者《ナグハシキイナミノウミノオキツナミチヘニカクリヌヤマトシマネハ》」の「山跡島根」におなじく、又「島根」はたゞ「島」といふにおなじく、「倭島」(二五五)といへると同じ意にして今の大和國をさせるなり。
○一首の意 明かなり。越の海の敦賀の津より舟出して、即ち大船に多くの※[舟+虜]を下《オロ》して路に出で立ち、力を入れて船をこぎつつ行けば、敦賀より北、東側に見ゆる手結が浦に海少女が、鹽を燒く煙の見ゆるが、この邊の景色は如何にもよき景色なり。(實際、この邊はよき景色にして鐵道にて見る杉津驛邊の敦賀灣の景にて想像し得べし)このよき景色をば、一人して見るは惜しき事と思へども、旅にてあれば、見るに見るかひも無きによりて、この景色を見るにつけても、大和國の故郷を心をかけて思ひ慕ふことよとなり。所のおもしろきにつきて家人と共に樂みを同じくし得ざるを思ひ、望郷の情をうたへるなり。
 
(551)反歌
 
367 越海乃《コシノウミノ》、手結之浦矣《タユヒノウラヲ》、客爲而《タビニシテ》、見者|乏〔左○〕見《ミレバトモシミ》、日本思櫃《ヤマトシヌビツ》。
 
○越海乃 「コシノウミノ」にして長歌にいへると同じ。
○手結之浦矣 「タユヒノウラヲ」にして、長歌の「手結我浦」におなじ。
○客爲而 上におなじく「タビニシテ」とよむ。意は少しく違ひ旅に在りての意なり。
○見者|乏〔左○〕見 「乏」の字流布本「之」に作る。これは流布本の誤にして活字本及びすべての古寫本「乏」に作るにより改めたり。「ミレバトモシミ」とよむ。「トモシ」の語は卷一「五三」「乏吉呂賀聞」「五五」に「乏母」「友師母」とかける條にいへる如く「羨しき」意あり、又卷二「六二」の「文爾乏寸《アヤニトモシキ》」の條にいへる如く、めづらしく愛すべき意あり。こゝは愛すべくめづらしき意の方なりと思はる。「トモシミ」といへるは「トモシク思ヒ」といふ程の意をあらはせり。
○日本思櫃 舊訓「ヤマトオモヒツ」とよみたるが、契沖は「思は偲にてシノヒツなるべし」といひ、童蒙抄は「シノビツ」とよみ、考は「シヌビツ」とよみたり。按ずるに「思」の字にて思慕の義の「シヌブ」といふ意に用ゐるなるべし。「思」の字を「シヌブ」にあてたる例は本集に少からず。さて、卷一の「懸而小竹櫃《カケテシノヌビツ》」卷二「一九九」の「玉手次懸而將偲《タマタスキカケテシヌバム》」上の歌の「懸而之努櫃《カケテシヌビツ》」卷八「一四五二」の「玉手次不懸時無《タマタスキカケヌトキナク》」卷九「一七八六」に「留有吾乎懸而小竹葉背《トマレルワレヲカケテシヌバセ》」卷十二「二九八一」に「犬馬鏡懸而偲相人毎《マソカガミカケテゾシヌブアフヒトゴトニ》」卷十三「三三二四」長歌に「珠手次懸而所偲《タマダスキカケテシヌバシ》」とあるが如きはいづれも「カケテシヌブ」といふ語のつゞきの例とし(552)て見るべく、かくて卷十三「三三二四」(長歌)に「珠手次懸而思名雖恐有《タマダスキカケテシヌバナカシコカレドモ》」の例は「シヌブ」とも「オモフ」ともよまるべきなれど、同じ歌の上の「所偲」に照せばなほ「シヌブ」の方なるべし。上は長歌の末二句におなじ。
○一首の意 旅に立ち出でてこの越の海の手結の浦を見れば、如何にもめづらしく面白く思ふ事なるが、かく面白く思ふにつけても故郷の人々に、この景色を見せたらばと思ふことよとなり。
 
石上大夫歌一首
 
○石上大夫歌 ここに「石上大夫」とあるのみにして名なければ、明かにその人を知り難し。多くの書に石上朝臣乙麿なりといへり。然れども石上朝臣乙麿なること明確ならば、この歌に對しての左注はなき筈なれば、ここに斷定的の言を以て乙麻呂とするは穩かならず。この故に乙麿説に關しては左注に於いて述ぶべきものなり。ただ、石上大夫とある以上は、地方官に在りては長官たる守をさせることは著しとせざるべからず。公式令に「唯於2太政官1三位以上稱(セヨ)2大夫1。四位稱v姓。五位先v名後v姓。其於2寮以上1、四位稱2大夫1、五位稱v姓、六位以下、稱2姓名1。司及中國以下、五位稱2大夫1」とあり。義解にはこの下に「謂一位以下通用2此稱1」とあり。官位令につきて見れば、大國守は從五位上、上國守は從五位下、中國守は正六位下、下國守は從六位下たり。かゝれば「中國以下云々」とあるは事實にあはず。中國には守といへども六位たればなり。されど、(553)官位令は官位の相當をあげたるなれば、中小國の間といへども陞叙して五位に到ることなしとせざるべし。とにかくここに石上大夫とある以上、石上氏の人にして五位以上の地位にありし人なりしことは明かなりとす。
 
368 大船二《オホブネニ》、眞梶繁貫《マカヂシジヌキ》、大王之《オホキミノ》、御命恐《ミコトカシコミ》、礒廻爲鴨《アサリスルカモ》。
 
○大船二 「オネフネニ」にしてその意は上「三六三」にいへるにおなじ。
○眞梶繁貫 流布本に「マカチシ ヌキ」とかけるは一字脱落せるなり。古寫本中、西本願寺本、大矢本京都大學本等は「シシヌキ」とよみ、神田本、細井本等は「シケメキ」とよめり。代匠記は「シシヌキ」とよみ、考以下これに從へり。これは卷十五「三六一一」に「於保夫禰爾麻可治之自奴伎《オホブネニマカヂシジヌキ》」「三六二七」に「於保夫禰爾眞可治之自沼伎《オホブネニマカヂシジヌキ》」(「三六七九」おなじ。)卷廿「四三六八」に「志富夫禰爾麻可知之自奴伎《シホブネニマカヂシジヌキ》とかけるにて「マカヂシジヌキ」とよむべきを見るべし。「繁」を「シジ」とよむことは卷十三「三二八六」の「竹珠呼之自二貰垂《タカダマヲシジニヌキタリ》」と卷三「三七九」の「竹玉乎繁爾貰垂《タカダマヲシジニヌキタリ》」とを比較し、卷六「九〇七」の「水枝指四時爾生有刀我乃樹能《ミヅエサシシジニオヒタルトガノキノ》」と卷三「三二四」の「五百枝刺繁生有都賀乃樹乃《イホエサシシジニオヒタルツカノキノ》」とを比較してさとるべし。左右の梶をば數多く舟に貫きおろして舟をこぐ意なり。
○大王之 「オホキミノ」なり。ここは、天皇をさし奉る。
○御命恐 「ミコトカシコミ」とよむ。卷一「七九」に「天皇乃御命畏美《オホキミノミコトカシコミ》」とあるに同じく、天皇の大命を畏み承りてといふ意なり。
(554)○礒廻爲鴨 舊訓「アサリスルカモ」とよめるが、童蒙抄に「イソミスルカモ」とよみて、「いそめぐりと書きたれば、めぐりの約言はみなり。國見をするといふ古語もあれば礒廻の二字をいそみと讀むべし。意はいそめぐりをするかなといふ義也」といへり。考は「イサリスルカモ」とよみて、「諸成案に伊曾麻波里の曾萬波の約言なれば、大船二眞梶繁貫て遠つ國へ渡るに國々の磯廻するをもいさりといふにや。土佐日記にかくいざるほどにといふも國の守の大船にていへり。こは風待して釣などする事のあれば海人のいさりをもかりて云へど、沖漕ずして磯廻すれば同じ意に、おつるをおもへ」といひ、槻落葉は「イソミ」云々の説によりて、「卷十九に藤波《フヂナミ》をかりほにつくり、灣《ウラ》回|爲流《セル》人等波|不知《シラニ》あまとか見らん。卷(ノ)七に鹽|早《ハヤ》み礒回《イソミ》にをればかづきするあまとやみらん旅ゆくわれを。是等《コレラ》の歌によるに、磯回《イソミ》するはいそべに船がかりするをいふ言なり」といひ、古義はこれによれり。略解攷證は「アサリスルカモ」の舊説に從へるが、攷證は縷々の言をなして、久老の説を否認し「必ずあさりとか、いさりと訓べき所なるを云々」といへり。按ずるにこの字面によれば、礒廻りをするといふ意なることは否認せられぬものなるが、そを何とよむべきかが、問題たるなり。上にいでたる「石轉」(卷三「三六二」)又卷七「一二三四」の「礒回」卷十二「三一九九」の「磯回」はいづれも體言たれば、「イソメグリ」を「イソミ」といふべしといふ證にはならぬ筈なり。又卷二「一八五」以下多くの「浦回」卷四「五〇九」以下の多くの「浦箕」卷十五「三六二二」の「宇艮未」も亦いづれも體言なれば、ここの傍證にはならず。ここの傍證とみゆるは卷七「一一六四」の「鳴鶴之音遠放磯回爲等霜《ナクタヅノコヱトホサカル(イソミ)スラシモ》」卷十九「四二〇二」の「灣廻爲流人等波不知爾《(ウラミ)スルヒトトハシラニ》」卷六「九四三」に「辛荷乃島爾島回(555)爲流《カラニノシマニ(シマミ)スル》」卷七「一一一七」に「島廻爲等礒爾見乃花《(シマミ)ストイソニミシハナ》」にあらはれたる「回」「廻」のよみ方なり。かくて攷證はこれらすべてを必ず「アサリ」とか「イサリ」とか訓むべきものとせり。即ちこれらの「礒廻」「礒回」「灣廻」「島回」「島廻」を一の語をさま/\にかけるものと認めたるなり。さて必ず「イソミスル」「ウラミスル」「シマミスル」とよむべき假名書の例ありやと顧みるに古今を通じて一も存することを見ず。而してこれらは文字の上よりすれば、いづれも「イソメグリスル」「ウラメグリスル」「シマメグリスル」ことなるは爭ふべからぬが、舊訓には「礒回」「灣廻」「礒廻」「島回」を「アサリ」とよめり。今按ずるに、「イソミスル」「ウラミスル」「シマミスル」とよむ時は「ミ」に「廻る」といふ動作の意ありと見ざるべからねど、かく主張すべき根據は一も存せざるを以て古來の見解の如く「アサリスル」又は「イサリスル」といふ方によるべし。かくて「アサリ」「イサリ」のいづれによるべきかといふに、「イサリ」は必ず漁獵することに用ゐたれど、「アサリ」は鳥の食を尋ねまはるにも用ゐること人の知る如く、本集にもその例少からぬが、その外に、卷五、八五三」に「阿佐里須流阿末能古等母等比得波伊倍騰《アサリスルアマノコドモトヒトハイヘド》」卷七「一一六七」に「朝入爲等礒爾吾見之莫告藻乎《アサリストイソニワガミシナノリソヲ》」「一一八六」に「朝入爲流海未通女等之袖通沾西衣雖干跡不乾《アサリスルアマヲトメラガソデトホリヌレニシコロモホセドカハカズ》」「一二一八」に「黒牛乃海紅丹穂經百磯城乃大宮人四朝入爲良霜《クロウシノウミクレナヰニホフモモシキノオホミヤヒトシアサリスラシモ》」などの例あり。ここは實地の漁獵にあらねば「アサリ」の方よかるべし。又思ふに「回」一字にても「アサリ」とよむをうべきか。※[土+蓋]嚢鈔に、「回鳥ノ二字ヲアサルトヨム、亦求食共書、鳥食ヲ求ルヲ回鳥ト云ト云々」と見ゆ。この回は徘徊の意ある文字にてやがて「アサル」の意をあらはすに用ゐらるるものなるべし。「カモ」は嘆息の意を寓せり。
(556)○一首の意 天皇の大命を畏み承りて、大船に多くの艫を貫き下して、島めぐりをすることよとなり。これは、地方官の任などに下りて乘船するをくるしと思ひて嘆息する意あるものなり。
 
右今案石上朝臣乙麻呂任2越前守1、蓋此大夫歟。
 
○ この左注は石上朝臣乙麿が越前守に任ぜられてこの國に下りし事あれば、詞書にある石上大夫とは乙麿の事ならむかといふなり。
○石上朝臣乙麻呂 この人は左大臣石上麻呂の子にして續日本紀によるに、神龜元年二月に正六位下よりして從五位下を授けられ、天平四年正月に從四位下を授けられ、左大辨に任ぜられ、天平十一年三月に事によりて土佐國に配流せられたるが、(天平十三年頃の大赦にあひて歸京せしものと見ゆ)天平十五年五月に從四位上を授けられ、十六年に西海道巡察使となり、十八年四月に常陸守に任ぜられ正四位下を授けられ、九月に右大辨となり、二十年二月に從三位を授けられ、天平勝寶元年七月に中納言に任ぜられ二年九月に薨ず。その紀事に「中納言從三位兼中務卿石上朝臣乙麻呂薨、左大臣贈從一位麻呂之子也云々」とあり。この人の歌はこの下に一首あり。又卷六に長歌三首(反歌各これに作ふ)あるをこの人の詠とせり。
○任越前守 石上乙麻呂の越前守に任ぜられしこと本書以外に所見なし。この故にこれを疑ふ人あれど、注者は越前守たりしことを確信したればこそかく書けりしなれば、これは史の缺文なりと信すべし。さてこの注の趣は端書に「石上大夫」とのみありて名を注せざれど、乙麻呂(557)が越前守に任ぜられしことあれば、この「石上大夫」と書けるは蓋し乙麻呂ならん歟といふ案を記せるなり。即ちこの案によらば乙麻呂が越前守に任ぜられて、任地に下るに、敦賀津より船に乘りて、國府に赴きし時によみしならむ。越前國府は今の丹生郡武生にありしなるが、現在の道路は敦賀より海岸を傳ひ手結、五幡、杉津、元比田、大谷を經て、大良より山路にかゝり春日野妙法寺を經て武生に達するものにして、十一里餘あり、古の驛路は松原驛(敦賀の西)より鹿蒜《カヒル》(これは險路として名高き木芽峠を越えて、その東麓にある歸村をさすなり、歸村は今庄驛の西南にありて近し)濟羅(サハアミとよみて、今の鯖波かといふ)より丹生驛に達す。これ即ち國府所在地なるべし。ここに海路をとれるは、或は三國港に至り、それより國府に至るなりといふ説もあるやうなれど、敦賀より三國港まで陸路にて二十一里許あり、海上も略々推して知るべし。三國港より武生まで十一里許ありて、その間は日野川の流れに沿うて溯るべしといへども、かかる迂回は物資の運搬以外にはとるべからず。恐らくは敦賀よりして北、河野の浦につき、そこより峠を越えて武生に入りしならむ。敦賀より河野、又は甲樂城までは七里許、これより武生までは三里半許なればこの道をとりしならむ。
 さてこの左注をすなほに受け入るれば、上述の如くに説くべきものなり。然るに、上の歌の意を推したりとして、この歌をばかの事ありて土佐國に配流せられたる時の歌に似たる詞あるによりて、その配流の折の歌なりとする説あり。これは考、略解、攷證、檜嬬手、註※[足+疏の旁]、など然り。されど、童蒙抄、古義などは左注によるべしとし、槻落葉は西海道の使たりし時の詠なるべしと(558)せり。この歌の趣にては旅路の難儀を多少嘆息せるさまに見ゆれど、配流せられたる時の詠といふべき程深刻なるものにあらず、上の田口益人大夫任上野國司時至駿河淨見崎作歌にも「晝見騰不飽田兒浦大王之命恐夜見鶴鴨」(二九七)あり。之に照す時は、「大王の命恐み」は何等不平の語と見ゆる點なきのみならず、かの場合も地方長官たるものに「大夫」とかきたれば、ここも地方長官の赴任の際の詠と見るべし。然らば、なほ左注を信用して説くを穩かなりとす。加之、これは次の和歌と相對して共に「笠朝臣金村之歌中出也」とあれば、編者は敦賀津のついでに載せたるにて、越前守としての詠と信じてありしことは疑ふべからず。
 
和歌一首
 
○ 上の歌に唱和せる歌なりといふなり。
 
369 物部乃《モノノフノ》、臣之壯士者《オミノヲトコハ》、大王《オホキミノ》、任乃隨意《ヨサシノマニマ》、聞跡云物曾《キクトフモノゾ》。
 
○物部乃 「モノノフノ」とよむ。「物部」の字面は卷一「七六」に見え「モノノフ」といふ語は卷一「五〇」の「物乃布」に見えて、その下にその意を説けり。即ち、これは朝廷に仕へ奉る文武の臣僚をさせるなり。
○臣乃壯士者 舊訓「オミノタケヲハ」とよめり。槻落葉には「壯士」を「ヲトコ」とよみ、それより後の人多くは「ヲトコ」といふ方に從へり。按するに「壯士」といふ熟字は「タケヲ」とよむをよしとする(559)に似たれど、古典に於いては必ずしも然らず。古事記上卷の自注に「訓2壯士1云2袁等古1」とあるを見れば、こゝの「壯士」もまた「ヲトコ」とよむべきものたるを見るべし。而してこの「壯士」の字面は本集にては「難波壯士」(卷四「五七七」)「壯士」(卷九「一七五九」)「智奴壯士」(卷九「一八〇九」)「宇奈比壯士」(卷九「一八〇九」)「血沼壯士」(卷九「一八〇九」)「菟原壯士」(卷九「一八〇九」)「陳努壯士」(卷九「一八一一」)「左佐良榎壯士」(卷六「九八三」の左注)などあり。さてその「智奴壯士」「血沼壯士」「陳努壯士」とかけるは卷十九「四二一一」の「智努乎登古宇奈比乎登古《チヌヲトコウナビヲトコ》」と書けるに照して考ふれば、「チヌヲトコ」とよむべきこと明かにして、卷十「二〇四三」に「天漢舟※[手偏+旁]渡月人壯子《アマノガハフネコギワタルツキヒトヲトコ》」卷十「二〇五一」の「白檀挽而隱在月人壯子《シラマユミヒキテカクセルツキヒトヲトコ》」同卷「二二二三」の「天海月船浮桂梶懸而※[手偏+旁]所見月人壯士《アメノウミニツキノフネウケカツラカヂカケテコグミユツキヒトヲトコ》」卷十の「二〇一〇」の「及何時仰而將待月人壯《イツマデカアフギテマタムツキヒトヲトコ》」とある「壯子」及び「壯」も「ヲトコ」とよむべきことは卷十五「三六一一」に「宇奈波良乎許藝弖天和多流月人乎登|※[示+古]〔左○〕而《ウナバラヲコキデテワタルツキヒトヲトコ》」とかけるにても知るべし。さて又「壯士」の字面を見るに、三十を「壯」といふことなれば、「壯士」は強壯なる男子をさす語なるが、ここもその意にて用ゐたりと見ゆ。次に「臣之云々」といへる例は古事記下雄略卷の歌に「淤美能袁登賣」といふ語あり、又日本紀武烈卷の歌に天智卷の歌におなじく「飫瀰能古能云々」といふ語あり。これらにて「オミノヲトコハ」とよむべきなり。ここに臣といへる意は下に「大君」といへるに對する意ありて、臣として仕へまつるものはといふ程の精神にていへるなり。
○大王 「オホキミノ」とよむ。下に「ノ」の字なけれど加へてよむべきなり。例は上に屡見えたり。その意も既にいへる如く天皇をさし奉れり。
(560)○任乃隨意 舊訓「ヨサシノマヽニ」とよめり。代匠記には「官本亦云マケノマニマニ」と注せり。考は「一に任を言とす。然らばみことのまにまと訓べし」といひたるが、さる本は今、一も見出でず。類聚古集、古葉略類聚抄には「大王」の下に「言之」とあるなり。されど、さありては語をなさねば隨ひがたし。槻落葉は「マケノマニマニ」とよみ、略解、古義、檜の嬬手等多くこれに從へり。この「マケノマニマニ」とよむ説の支證とする所は卷二「一九六」の下にもいへる如く、卷十七「三九五七」の「大王能麻氣乃麻爾麻爾《オホキミノマケノマニマニ》」「三六六七」の「大王能麻氣能麻爾麻爾《オホキミノマケノマニマニ》」「三九六九」の「於保吉民能麻氣乃麻爾麻爾《オホキミノマケノマニマニ》」卷二十「四三三一」の「麻氣乃麻爾麻爾《マケノマニマニ》」「四四〇八」の「大王乃麻氣乃麻爾麻爾《オホキミノマケノマニマニ》」の諸例に存す。而してこの「マケ」は古事記傳九にいへる如く「麻氣は京より他國《ヨソクニ》の官に、令罷《マカラスル》意にて御まからせを約めて麻氣とは云なり。萬葉に此言多し。みな鄙《ヰナカ》の官になりてゆくことのみ云り。心を付て見べし」といひたる如き意にして類聚名義抄に、退給を「マケタマヘ」とよみたるも同じ意なり。されば、この意にて見れば、卷十三「三二九一」の「天皇之遣之萬萬《オホキミノマケノマニマニ》」の如きはその意明かに「マケノマニマニ」とよむべきものに該當するかきざまなり。然るに、「任」をば「マカセ」の意にてその約言なりといふ説あれど、(攷證)それは既に卷二にいへる如く強言なり。この故にここの「任」字を字義によりて正しくよまば、舊訓の「ヨサシ」とあるによる外あるべからず。「任」を「ヨサシ」とよむことにつきては卷二「一九九」の「皇子隨任賜者」の下にいへり。「ヨサシ」は御委任の義にして「マケ」は「罷らせ」の義なれば語の本義異なり。この任命の結果地方に赴くことあらむが「任」の本義は「マケ」にはあらざることを注意せざるべからず。「隨意」は「マニマニ」若くは「マニ」とよむべく「マヽ(561)ニ」といへる語の例は本集には見えず。こゝは音數の關係より「マニマ」とよむべし。その例卷十七「三九九三」に「可毛加久母伎美我麻爾麻等《カモカクモキミガマニマト》云々」卷十八「四一一三」に「末支太末不官乃末爾末美由支布流古之爾久多利來《マキタマフツカサノマニマミユキフルコシニクダリキ》」などあり。天皇の御任命の通りにといふ程の意なり。
○聞跡云物曾 舊訓「キクトイフモノゾ」とよみたるを考に「キクトフモノゾ」とよめり。いづれにてもあるべきが、今音數の上よりして考に從ふ。ここの「きく」はただ耳にてきくといふ意にあらずして今の世に「人のいふ言をよく聞く」といふ如く、それをうけ入れ信じ從ふ意をいふなり。卷四「六六〇」に「汝乎與吾乎人曾離奈流《ナヲトワヲヒトゾサクナル》、乞吾君《イデアギミ》、人之中言聞起名湯目《ヒトノナカゴトキキコスナユメ》」卷十二「二八七一」に「人言之讒乎聞而玉桙之道毛不相常云吾妹《ヒトゴトノヨコスヲキキテタマホコノミチニモアハジトイヘリシワギモ》」又この卷「四六〇」に「人事乎吉跡所聞而《ヒトゴトヲヨシトキカシテ》」卷六「一〇五〇」に「諾己曾吾大王者《ウベシコソワガオホキミハ》、君之隨所聞賜而刺竹乃大宮此跡定異等霜《キミカマニキカシタマヒテサスタケノオホミヤココトサダメケラシモ》」又祝詞に多くいふ所の「キコシメセ」もこの意なり。
○一首の意 君に仕へまつる臣たるものは、生きも死にも君にまかせ奉りたるものなれば、天皇の御任命あらば、それを恐み承りてそのままに諾ひ從ひ奉るものなるぞとなり。これ上の歌に、「大王の御命恐みあさりするかも」といへるに對して、それを勵まし慰めたるものなりとす。諸家「マケノマニマニ」とよみて、乙麻呂が配流に處せられたる時の歌に對するものとせり。されど、「任」の文字は配流に處せられたる人に用ゐるべき文字にあらず。これは蓋し、上の歌の左注にいへる如く、越前守としての赴任の際によめるに和したるものとすべきなり。
 
(562)右作者未v審。但笠朝臣金村之歌中出也。
 
○右作者未v審 これは上の歌の作者の審かならぬをいひたるにて、今よりこれを明かにすべくもあらず。
○但笠朝臣金村之歌中出也 諸本かくの如くあり。槻落葉は「歌集中云々」と改めたり。その據を知らねど、恐らくは「集」の字の存すべきものならむ。かくて金村の歌集中にこの歌出でたりとせば、或は金村の詠ならむか。然れども今にしてこれを斷ずべきにあらず。
 
安倍廣庭卿歌一首
 
○安倍廣庭卿 この人の歌上(三〇二)にありて、そこには「中納言安倍廣庭卿」と記せるが、略傳はそこにいへれば略す。
 
370 雨不零《アメフラズ》、殿雲流夜之《トノクモルヨノ》、潤濕跡《ヌレヒヅト》、戀乍居寸《コヒツツヲリキ》、君待香光《キミマチガテリ》。
 
○雨不零 舊訓「アメフラデ」とよみたるを、玉の小琴は「零は霽の誤にて雨はれず也。集中とのぐもると云には必雨ふるよしを皆よめり。十二卷【十九丁】十三卷【十三丁】十七卷【四十五丁】十八卷の歌どもを考ふべし」といひ、槻落葉等これに從へり。略解は「雨不の二字※[雨/沐]の字の誤にてこさめふりならん、卷十六青雲のたな引日すら※[雨/沐]《コサメ》曾保零とあり」といへり。然るに、この所、いづれの本にも誤(563)字見えねば、誤字説は從ひがたし。さてこの文字のままにては「アメフラズ」とよまざるべからず。「デ」とよむ打消の語はこの頃に未だ行はれてあらざりしものと思はるればなり。玉の小琴には「とのぐもると云には必雨ふるよしを皆よめり」と論じたるが、その説一往道理の如く聞ゆれど、これは、空かきくもりて雨のふらむとするさまをいへることは卷十八「四一二二」に「等能具毛利安比弖安米母多麻波禰《トノグモリアヒテアメモタマハネ》」「四一二三」に「許能美由流久毛保妣許里弖等能具毛理安米毛布良奴可《コノミユルクモホビコリテトノグモリアメモフラヌカ》」にて著し。即ちこれはアメふりて後のことをいふ語にあらずして、雨を催せる空の氣色をいふ語なれば、「アメふらず」といひても不條理にあらず。即ちアメふらむとして未だふらずといふ意たること明かなり。
○殿雲流夜之 舊訓「トノグモルヨノ」とよめるを代匠記に「トノグモルヨシ」とよむべしといへり。「トノグモル」といふ語の例は上にあげたり。これは「タナグモル」ともいひて、雲の空にたなびきわたりてくもることをいへるなり。「之」字をば、古義に「乎」の誤として、「トノグモルヨヲ」とせり。されど、誤字ありといふ證なし。「之」字は「ノ」とよみても「シ」とよみても普通の解釋のし方にては意通せず。攷證は「にの意の之もじ也」といひたれど、しかいふべき理由なし。これはもとより「ノ」とよむべきが、その「ノ」は一種の修飾格を示すものにして、下の「ヌレヒヅ」といふことを修飾限定する關係に立てるものなり。即ち今にも雨ふるべき夜の事とて、ぬれひづることもあらむかといふ意なり。
○潤濕跡 舊訓「ヌレヒテト」とよめるを代匠記に「ヌレヒツト」とよみ、童蒙抄に「シメジメト」かとい(564)ひ、考には「蟾竢跡」の誤として「ツキマツト」なりといひ、玉の小琴は代匠記の説により、以後大抵これによれり。按するに「潤」字類聚古集に「澗」とあれど、誤なること著しく、他本みな流布本の通りなれば、考の説は從ふべからず。又「シメジメト」といふ訓は意義は必ずしも不當といふべからねど、古典に例なく、後世の俗語と思はれたれば從ひかねたり。「ヌレヒヅ」といふ語は「ヌル」と「ヒヅ」との重なれるものにして、「ヌル」は今もいふ語、「ヒヅ」は「ひたる」をいふ意なり。この潤字はこゝにては「ウルホフ」の意なるが、これを「ヌル」とよむは、卷七「一二七四」に「未通女等赤裳下閏將往見《ヲトメラガアカモノスソノヌレテユカムミム》」の「閏」は「潤」と同字なれば「ヌル」とよむべきを見るべし。「ヌレヒヅ」と直ちにつゞける例は他に見えねど、この卷「三七四」に「人爾莫令蓋霑者漬跡裳《ヒトニナキシメヌレハヒヅトモ》」とあるは「ヌレヒヅ」といふ語の中間に「は」を加へたるなり。「ヒヅ」といふ語は、古今集などにも盛んに用ゐられたれば例をあげず。こゝの「ト」は後世「トテ」といふに似たる用法なり。
○戀乍居寸 「コヒツツヲリキ」なり。考は「戀」を「立」の誤として「タチツツヲリキ」としたれど、誤字のありといふ證なければ從ひがたし。この「居り」は寢ねずして待ち居るをいふなり。卷十四、三四七五」に「古非都追母乎良牟等須禮杼《コヒツツモヲラムトスレド》」卷五「八六二」に「比等未奈能美良武麻都良能多麻志末乎美受弖夜和禮波故飛都々遠良武《ヒトミナノミラムマツラノタマシマヲミズテヤワレハコヒツツヲラム》」卷四「五〇九」に「吾妹兒爾戀乍居者《ワギモコニコヒツツヲレバ》」あり。
○君持香光 舊訓「キミマチガテラ」とよめり。槻落葉には「香光は集中に我弖利とも加弖良ともあればいづれにもよむべし」といへり。これは如何にも然る事なれど、「光」字は「テラ」とよむは無理にして「テル」の居名詞「テリ」なるべきものなれば、「ガテリ」とよむべきものとす。「ガテリ」の語は(565)卷一「八一」の「山邊乃御井乎見我※[氏/一]利《ヤマノベノミヰヲミガテリ》」にはじめて見え、そこにもいへる如く、或る事を主としてあれど、なほ他の事をもかぬる由をいふ語なり。さてこの一句は上の句の上にあるべきを反轉法にてここにおけるなり。この「君待ちがてり」は何に對していへるか。諸家の説盡きざるものの如し。下に論ぜむ。
○一首の意 この歌「君まちがてり」の解釋如何によりて意味のとり方かはるべし。「がてり」は他の事に對していへること明かなるが、何に對しての事なるか。攷證には「雨はふらねど、雨ふりぬべく曇りたる夜に、さすがにまだ雨ふらずとて、君がもとに出で行て、その道にて、もし雨ふりなば、吾身のぬれひたる事もやとて君が此方にくるをまちがてら雨づつみして君を戀つゝ居あかしけりと也」といへるが、かくては「がてり」の語の意とならざるなり。即ちこれにては君をまつことは即ち戀ふることにて一の事をしつつ他の事をかぬる意とてはあらざることとなる。その他の諸家これと大同小異なり。されど、かくては「ガテリ」の語詮なし。これは「ガテリ」といふ語にて示されたる事が、基となりて、その下にいへる語にて示されたる事が、隨ひあらはるることをいふ語法なれば、君を待つといふことが主にして、「ぬれひづとこひつつをりき」といふことが從なり。即ち「待ちがてら戀ひつつをりき」といふなれば、ここに「待つ」と「戀ふ」とは全然同じ意味若くは同じ事柄をあらはせるにあらざるべし。さらば如何に見るべきかといふに「待つ」は君が來り訪はむことを待つなり。「戀ふ」は君が、この今にもふらむとする雨夜には道中ぬれひづることもあらむかと、心を痛むることなり。この「戀ふ」は友人の身の上を思ひて心を(566)痛むる心あるものなり。ここに於いてこのこひを男女の戀愛にとる説はすべて當らぬにて恐らくは友人などが、來訪せむと約束したりしその夜に雨ふるべきさまなりしによりてよめるならむ。「戀」といふ語を友人の間に用ゐたる例は集中に多く、既に之を論じたれば今いはず。今の歌は即ち、君が來りたまはむことを待ち來りながら、又一方にて今にも雨降るべき樣にいたく曇りてあるこの夜の道に出でば、雨にあひてぬれたまふとて來りたまはぬにやあらむとて、いたく心をなやましてをりたりきとなり。
 
出雲守門部王思v京歌一首
 
○出雲守門部王 この王は上にある「門部王詠2東市之樹1作歌」(三一〇)「門部王在2簸波1見2漁父燭火1作歌」(三二六)の作者と同じ人なるべし。その人の事はその條にいひたるが、出雲守に任ぜられたる事は本書以外に所見なし。しかも卷四の「門部主戀歌」(五三六)の左注には「右門部王任2出雲守1時娶2部内娘子1也云々」とありて、その歌に「飫宇能海能云々」とあれば、出雲守に任ぜられしことは疑ふべくもあらず。紀に載せざるは史の缺けたるなり。
 
371 飫海乃《オウノウミノ》、河原之乳鳥《カハラノチドリ》、汝鳴者《ナガナケバ》、吾佐保河乃《ワガサホガハノ》、所念國《オモホユラクニ》。
 
○飫海乃 舊訓「オウノウミノ」とよめり。代匠記は「飫海は出雲なり。和名云、意宇【於宇】郡府。今按此集にも第四には飫宇乃海とあれば、今は宇の字を脱せるか」といへり。考に「海に河原といへ(567)るは心ゆかず。こは海は河の誤にや、また大池にも海と取なしいへるもあれば、こも飫宇の池河を海と取なして河原といへる歟、おぼつかなし」といへるが、槻落葉には卷(ノ)四に同王の歌に飫宇能海之鹽干乃滷之《オウノウミノシホヒノカタノ》云々とあれば、今も飫《オ》の下に宇能の二字を脱せるものとせば、こともなくやすく聞ゆれど、今按ずるに海は宇の假字に用ひたるにや。そは卷廿に宇乃《ウノ》波良和多流とあれば、海を宇とのみいへる也。さては出雲(ノ)國意宇乃河にて、乃の下|河《カハ》の上に今ひとつの河《カハ》の字を脱せる歟。また於宇乃三言を初句とすべきか」といひて、三字を「オウノ」とよませたり。又曰はく「さて卷(ノ)廿に集2於出雲椽安宿奈杼麿之家1宴(ル)歌におほきみのみことかしこみ於保乃宇艮乎そがひにみつゝ都へのぼるとあるも於保《オホ》飫宇同じきにや又別州にや」といへり。攷證はこれをうけて、これを「オホノウミノ」とよみさて曰はく「飫は書紀にも皆|於《オ》の假字のみに用ひたるをおほとよめるよしは玉篇に飫食過多とある意をもておほの借字に用ひたるなるべし」といひ、さて又「こは出雲國の地名にて風土記にも和名抄にも意宇郡とあるこの郡の海をいひて、また本集四【廿一丁】同歌に飫宇能海之云々とある左注に右門部王任出雲守時云々とあれば、ここも飫の下に宇を脱したるにておうの海と訓んかとも思ひつれど、二十【五十二丁】安宿奈杼麻呂の歌に……中略ことに於保乃宇良とあるは意宇郡の海なる事明らけしとあれば、飫を多の意をもておほの假字に用ひしなるべければ、今は飲海《オホノウミ》と訓り。」されど、この攷證の説は從ふべからず。「オホノウミ」と「オウノウミ」とは明かに假名も違ひ發音も異なれば、一にすべきにあらず。出雲風土記を見れば、意宇郡あり、又秋鹿郡に大野郷あり、いづれも中海又は宍道湖に沿ひたる地なり。(568)されば「オウ」と「オホノ」とは同じく出雲國ながら同じ地なりとはいひがたし。次に「飫」を「オホ」とよまむことは一理なきにあらねど、附會にすぐる感あり。而して諸本かくの如くなれば、誤字ありとするも穩かならず。又槻落葉の如く「海」を「ウ」の假名とするも例なきことなり。これは「飫」一字にて「オウ」とよむべき理由なしとせば、下に「宇」を誤り脱せりとする外に方途あるまじ。この「飫」字は長音にあらず、又尾韻なきものなれば、これ一字にては「オ」にして「オウ」にあつべき理由なし。されば、これは姑く「宇」字の脱落せるものと見なして説くべし。さて「オウノ海」とはいづこなるかといふに、出雲國の意宇郡の地に沿へる海ならざるべからざるか、その意宇郡は今の能義郡及び、八束郡にわたれる地にして中の海及び宍道湖の南岸に位せるものなり。されば、ここに飫宇の海とあるは、中の海若くは宍道湖たるべし。而して當時の守の居し地即國府は今の八束郡|出雲郷《アダカイ》村のうち「府敷《ブシキ》」といふ地なりといふ。然らば、中海の西南隅に近き邊なり。
○河原之乳鳥 「カハラノチドリ」とよむ。意も明かなり。「チドリ」は上の「夕浪千鳥《ユフナミチドリ》」(二六六)「乳鳥鳴成《チドリナクナリ》」(二六八)の下にいへり。ここの河原といへるは何處なるか。海に河原といふは異例なれば諸家に論ありしこと既にいへる如し。この國府の東に近く流れたる意宇川といふあり。これは今出雲郷川といひて、昔は今の地よりも東を流れたりといふ。これは中海に注ぐ川尻の海岸を袖師が浦といふ。河原の千鳥とは恐らくはこの川尻よりして海岸にかけて千鳥のすだきしならむ。果して然らば、「オウノウミ」「カハラノチドリ」といふにふさはしといふべし。而して風土記にいふ河原社といふがその河上にありし由なり。
(569)○汝鳴者 「ナガナケバ」とよむ。これと同じ語上(二六六)の「淡海乃海夕波千鳥汝鳴者情毛思努爾古所念《アフミノウミユフナミチドリナガナケバココロモシヌニイニシヘオモホユ》」とあり。
○吾佐保河乃 「ワガサホガハノ」とよむ。「ワガ」は親しみていへるにて「ワガ故郷ノサホガハノ」といふ程の意なり。佐保河は卷一「七九」にはじめて見ゆるが、今の奈良市の北なる佐保の地を西に流れ、さて南に向ひ、古の平城京の間を流れて、下は初瀬川と合して大和川となるものなれば門部王がわが佐保川といへるなり。佐保川に千鳥の來りしことは集中に著しく見ゆ。一二例をあぐれば、卷六「九四八」に「千鳥鳴其佐保川丹《チドリナクソノサホガハニ》」卷七「一一二四」に「佐保河爾小驟千鳥《サホガハニサヲドルチドリ》」「一二五一」に「佐保河爾鳴成智鳥《サホガハニナクナルチドリ》」卷四「五二六」に「千鳥鳴佐保乃河瀬之小浪《チドリナクサホノカハセノサザレナミ》」「五二八」に「千鳥鳴佐保乃河門乃瀬乎廣彌《チドリナクサホノカハトノセヲヒロミ》」「七一五」に「千鳥鳴佐保乃河門之清瀬乎《チドリナクサホノカハトノキヨキセヲ》」卷七「一一二三」に「佐保河之清河原爾鳴千鳥《サホガハノキヨキカハラニナクチドリ》」などあり。即ち、この河原の千鳥をききて故郷の奈良の佐保川の千鳥を思ひ出せるなり。
○所念國 「オモホユラクニ」とよむ。「所念」は「オモホユル」なるに「ク」と「ニ」を添へたる語法なり。卷十二「三一九一」に「木綿間山越去之公所念良國《ユフマヤマコエニニシキミガオモホユラクニ》」はこの語を一層明かに示せるなり。思はるることなるにの意なり。
○一首の意 明かなり。意宇の海にそそぐ意宇川の阿尻の河原になく千鳥よ。汝が鳴けば、吾が故郷の佐保川にも千鳥の鳴きしことの思ひ出されて、望郷の情に堪へざるものをとなり。よき歌なり。
 
(570)山部宿禰赤人登春日野作歌一首并短歌
 
○山部宿禰赤人 上にいへり。
○登春日野 童蒙抄には「此野の字不審也。山の字の誤なるべし。あやまるべき字形にもあらねど、篇集の時山と書くを野と書きあやまれるをその儘に用ゐ来れるなるべし。長歌短歌とも皆山の歌にて野の歌かつて見えざれば、決して山の字の誤りとは見ゆる也。よりてかすが山にのぼりてとは詠む也」としてかなづけせるが、槻落葉には野を山に改めたり。考はこの四字を衍なりとしてけづりたり。古義は「登春日野は山上にある野なれば、登といへり。高圓の岑上の宮とも、野上の宮とも云る例にて、すべて山上に野あることを知べし。廿(ノ)卷題詞に各提2壺酒1登2高圓野1聊述2心緒1作歌とも見ゆ」といひて、このまゝなるをよしとせり。今按ずるに諸本に一も誤字なければ、このまゝにて解すべきものにして古、春日野といひしは今いふ春日野よりは廣く、若草山あたりまでをこめしならむこと、高圓山より一帶の高原をば廿卷に高圓野といひしに准へて考ふべし。然らば「登」といにも不審なきなり。この春日野は一帶の高地にしてそこの眺めは明かに登るといふ語を用ゐてよきさまなり。
○短歌 多くの古寫本に小字とせり。
 
372 春日乎《ハルビヲ》、春日山乃《カスガノヤマノ》、高座之《タカクラノ》、御笠乃山爾《ミカサノヤマニ》、朝不離《アササラズ》、雲居多奈引《クモヰタナビキ》、容鳥能《カホドリノ》、間無數鳴《マナクシバナク》。雲居奈須《クモヰナス》、心射左欲比《ココロイサヨヒ》、其鳥乃《ソノトリノ》、片戀耳爾《カタコヒノミニ》、晝者毛《ヒルハモ》、日之盡《ヒノコトゴト》、夜者毛《ヨルハモ》、夜之盡《ヨノコトゴト》、立而(571)居而《タチテヰテ》、念曾吾爲流《オモヒゾワガスル》、不相兒故荷《アハヌコユヱニ》。
 
○春日乎 舊訓「ハルノヒヲ」とよめり。考に「ハルビヲ」と四音によむべしとして後諸家これに従へり。日本紀武烈卷の歌に「播屡比能《ハルヒノ》、筒須我嗚須擬《カスガヲスギ》」繼體卷の歌に「播屡比能《ハルヒノ》、智須我能倶※[人偏+爾]※[人偏+爾]《カスガノクニニ》」とあり、下が「ノ」と「ヲ」との差あれどこれに准じて「ハルビヲ」とよむべきなり。「ヲ」は間投助詞の「ヲ」にて深き意なからむ。卷十一「二四一五」に「處女等乎袖振山水垣久時由念來吾等者《ヲトメラヲソデフルヤマノミツガキノヒサシキトキユオモヒコシワレハ》」など、又卷四「七一二」に「味酒乎三輪之祝我忌杉《ウマサケヲミワノハフリガイハフスギ》」などの例これなり。これらは、みな「云々を」といひて、呼び掛の形にして、その全體が下につづけ、下の語に對しては「の」に似たる關係に立てるものなり。これを以てこの「を」は「の」の意なりといふ説あれど、それはこの呼掛の語の用法をば「を」の格助詞の意として誤りたる説なり。さて「ハルビヲ」を以て「春日」の枕詞とせるが、これは冠辭考に春の日の霞むといふ意よりいひかけたりとする説をよしとすべし。
○春日山乃 「カスガノヤマノ」とよむ。「春日」は和名鈔郷名に「大和國添上郡春日【加須加】」とあり、又日本紀開化巻に「遷2都于春日(ノ)地1」とありて自注に「春日此云2箇酒鵞1」とあり。この地は繼體紀の歌に「春日の國」とある地にして、後に郷となりしならむ。古、春日といひし區域は大和史料には「春日山以西率川地方ニ亘リ北ハ佐保ニ隣り、南ハ大宅ニ接スル所ノ惣稱ナルベシ」といへり。恐らくは然るべし。而してここにいへる春日山もその春日の地域にあるが故に名を得たるならむ。この春日山は今奈良市の東にあり、三の峰ありて今は一を本(ン)宮(ケ)嶽「一を水屋《ミヅヤ》嶺、一を高峯又(572)香山といふ。
○高座乃 「タカクラノ」とよむ。三笠の山に對しての枕詞たり。その理由は枕詞燭明抄に「天子御位に即かせ給ふ御座を高御座といふ。その上に天蓋のかゝれるによりて高座の御かさと續けたるなり」といひ代匠記また略、同樣にいへり。然るに枕辭一言抄には「高御座蓋あることを知らず。唯地名をいひならべたるにや」といへり。されど、奈良の邊に「タカクラ」といへる地あること古今にきかぬところなり。而して高御座に蓋あることを知らずといへれど、古今の高御座にいづれも蓋あることは古來の繪圖にても明かなるのみならず、延喜式内匠寮式に「凡毎年元正、前一日官人率2木工長上雜工等1装2飾大極殿高御座1」とありて、それに注して、「蓋作2八角1、角別(ニ)上(ノ)立2小鳳像1下懸以2玉幡1毎v面懸2鏡三面1、當v頂着2大鏡一面1、蓋上立2大鳳像1云々」とあれば、高御座の上部を蓋ふを御蓋といふこと當然といふべし。さて「高御座」といふもその本語は「高座《クカクラ》」にして、「御」は敬語として加へたるものなり。されば「高御座」の本語即ち「高座」といふべし。しかもなほ考ふるに「高御座」を以て他の場合の枕詞とすること恐多きことなればここに「高座」といへるは「高御座」の意にて用ゐたるにあらじと思ふ。當時佛法頗る盛にして、屡齋會を修せられしなるべきが、それらの儀式には講師讀師などの職ありて、これが爲に高座二具を設け、この講師讀師はいづれも高座に登りて、その任を行ふものなり。その製は高御座に比しては装飾に差ありしならんが、その形式は大抵似たりしものと思はる。延喜式圖所寮式に正月の最勝王經、齋會堂装束を記せるうちに、「高座二具」とありて、これに注して「蓋二條」とあり、更に内匠寮式にも「凡正(573)月齋會前一日長上率2雜工具1從2圖書寮1運2高座具1構2立大極殿1とあり。これらはまさしく「高座《タカクラ》」にしてこれにも「蓋」はあり。而して僧をば、深く尊みし時代なれば、その蓋を「ミカサ」といふに不合理ならず。されば、こは佛者の「高座」をさしてそれに因みて、「みかさ」の枕詞とせるなりと思はる。
○御笠乃山爾 「ミカサノヤマニ」なり。「ミカサヤマ」とは、春日山の西の峰にしてその形蓋に似たるより名づけたるなり。今俗に若草山を「ミカサヤマ」といへれど、それにはあらず。この三笠山の西の麓に春日神社の鎭り座すなり。ここに「春日の山の」「三笠の山」とあるは惣じては春日山といふ、そのうちの西の峰をば特に三笠山といふ故なり。
○朝不離 「アササラズ」とよむ。代匠記には官本に「アサカレズ」とありといひて、そのよみ方も不可ならずといへり。今傳はれる本にては西本願寺本、大矢本に注せるイ本の説に「カレズ」とあるなり。さて「不離」は「カレズ」とよまれざるにあらねど、「アサカレズ」とよむべしといふ證は古典に一も存せずして、よみ方の明示せられたるは卷十七「四〇〇三」に「安佐左良受綺利多知和多利《アササラズキリタチワタリ》」「四〇〇六」に「安佐左良受安比底許登騰比《アササラズアヒテコトトヒ》」又卷六「一〇五七」の「朝不去《アササラズ》、寸鳴響須※[(貝+貝)/鳥]之音《キナキトヨモスウグヒスノコヱ》」の如くいづれも「アササラズ」とよむべきもののみなり。而して「不離」を「サラズ」とよめる例は上の「三五六」の歌にあり。この語の意は「朝ごとに」といふ意なりといふが普通の説なれど、「さらず」といふ語を「ごとに」と同じとはいふべからず。朝毎にの意なりとする説は何に基づくか。次に若し「サル」といふ語を以て朝を放れ去るといふ義にとらば、朝に其の所を離れずといふ意なりといふべからむ。然れども、かかる語遣ありきと思はれず。これは「春去りくれば」「秋されば」「夕されば」な(574)どの「さる」におなじくてその時の來至ることをいふ語たるに疑なし。されば「朝さる」とは朝といふ時のあらはるることにして朝になるといふに大略同じ意なるべし。さらば「朝さらず」は「朝になるをまたず」といふ程の義なりと考へらる。かくて「朝毎に」といふ解は語の上よりは如何にしてもいふべきことにあらず。これは「朝早く」より雲のたなびくといふことを強調して、朝になるを待たずに早くから雲のたなびくといふやうの意にていへるものなりと思はる。
○雲居多奈引 「クモヰタナビキ」とよむ。雲居は元來は雲の居るといふ意にしてそれより天をさしていふ語に用ゐたり。諸家の説、ここは更に一轉して雲そのものをさせりとせり。かくてその用ゐざまの例として古事記中卷神武卷の歌に「久毛葦多知久母《クモヰタチクモ》」この集にては卷七「一〇八七」に「由槻我高仁雲居立良志《ユツキガタケニクモヰタツラシ》」卷十一「二四四九」に「香山爾雲居桁曳《カグヤマニクモヰタナビキ》」卷十七「四〇〇三」に「由布佐禮婆久毛爲多奈※[田+比]吉《ユフサレバクモヰタナビキ》」などをあげたり。されど、ここは果してかく決定しうべきか、多少の疑あり。余は「雲」がそこにたなびきあるをいふならむと思ふ。卷七、卷十七のもかく解しうべし。
○容鳥能 「カホドリノ」とよむ。この鳥は古來の諸家に定説なし。本集の用例を見るに、卷六「一〇四七」に「春日山御笠之野邊爾櫻花木晩※[穴/牛]皃鳥者間無數鳴《カスガヤマミカサノヌベニサクラバナコノクレガクリカホドリハマナクシバナク》」卷十「一八九八」に「容鳥之間無數鳴春野之《カホドリノマナクシバナクハルノヌノ》」卷十七「三九七三」に「夜麻備爾波佐久良婆奈知利可保等利能麻奈久之婆奈久春野爾《ヤマビニハサクラバナチリカホドリノマナクシバナクハルノヌニ》」とありて、晩春の頃より鳴く鳥にしてその鳴聲のしげきものと見えたり。賀茂眞淵はこれを田舍人の「かつぽうどり」といふ鳥にして「其こゑかほう/\と聞ゆれば集には容鳥ともよみたり」といへり。この鳥は漢字にて郭公とかく所の鳥にして、仙臺などにては「かつこどり」といへり。こ(575)の眞淵の説是なるべし。その鳴くことは春の末より夏にかけてきく所にそのこゑはいかにもしげきものなればなり。
○問無數鳴 「マナクシバナク」とよむ。「マナク」は間をおかぬをいふ。その假名書の例は卷十五「三六六〇」に「麻奈久也伊毛爾故非和多里奈牟《マナクヤイモニコヒワタリナム》」卷二十「四四六一」に「梶乃音乃麻奈久曾奈良波古非之可利家留《カヂノオトノマナクゾナラハコヒシカリケル》」あり。「シバナク」は頻りに鳴くなり。この語の假名書の例は卷十九「四二八六」に「御苑布能竹林爾※[(貝+貝)/鳥]波之波奈吉爾之乎雪波布利都都《ミソノフノタケノハヤシニウグヒスハシバナキニシヲユキハフリツツ》」「かほどりのまなくしばなく」といへる例は卷十七「三九七三」に「可保等利能麻奈久之婆奈久春野爾《カホドリノマナクシバナクハルノヌニ》」卷六「一〇四七」に「貌鳥者間無數鳴《カホドリハマナクシバナク》」卷十「一八九八」に「容鳥之間無數嶋春野之《カホドリノマナクシバナクハルノヌノ》」あり。
 以上にて一段落をなす。即ち春日野に於ける實際の景を叙せるなり。從來の諸説これを序の詞とせるは當らず。なほ下に論ずべし。
○雲居奈須 「クモヰナス」なり。「ナス」は形容する意をあらはすに用ゐること、卷一「一九」の「衣爾著成」卷二「一九九」の「鶉成」などにおなじ。雲のたなびきあるが如きさまにといふ程の意なり。ここの雲居も天の意にあらずして、雲の天にあるさまをさし、その雲の居ることは上下左右一所に定らぬものなれば、下の「イサヨヒ」の枕詞とせるなり。而してこれは第一段に「雲居多奈引」といへるをうけて起したるなり。
○心射左欲比 「ココロイサヨヒ」とよむ。「いさよふ」といふ語は卷三「二六四」にいへる如く進みかねてためらふことをいふ。ここの意はわが心の思ふ通にならぬことをいふならむ。
(576)○其鳥乃 「ソノトリノ」とよむ。その鳥とは上にいへる容鳥をさす。
○片戀耳爾 「カタコヒノミニ」とよむ。これは攷證に「容鳥は必らず片戀するものにもあらざらめど、本集二【卅三丁】に宿兄鳥之片戀嬬《ヌエドリノカタコヒヅマ》云々(一九六)八【廿四丁】に霍公鳥片戀爲乍《ホトトギスカタコヒシツツ》云々(一四七三)などある如く、鳥はおほく片戀といへり」といへる如きことならむが、これは鳥のひとり鳴くを見ていひ出せることならむ。語の意はこの句より下の「立而居而云々」につづくものなり。
○晝者毛 「ヒルハモ」とよむ。その例卷二「一五五」の「晝者母《ヒルハモ》」「二〇四」の「晝波毛《ヒルハモ》」「二一〇」の「晝羽裳《ヒルハモ》」以下多し。「モ」は意を強むる用をなすに止まる。
○日之盡 舊訓「ヒノツキ」とよみたれど、「ヒノコトゴト」とよむべきこと卷二「一五五」「二〇四」にいへるにおなじ。晝は日のある限りことごとくの意なり。
○夜者毛 「ヨルハモ」とよむ。その例卷二「一五五」の「夜者毛《ヨルハモ》」「二〇四」の「夜羽毛《ヨルハモ》」「二一〇」の「夜者裳《ヨルハモ》」以下におなじ。
○夜之盡 舊訓「ヨノツキ」とよみたれど、「ヨノコトゴト」とよむべきこと卷二「一五五」「二〇四」にいへるにおなじく、その意は「日之盡」に准じて知るべし。
○立而居而 「タチテヰテ」とよむ。卷十七「四〇〇三」に「多知底爲底見禮登毛安夜之《タチテヰテミレドモアヤシ》」卷三「四一〇」に「橘平屋前爾殖生立而居雨後雖悔驗將有八方《タチハナヲヤドニウヱオホシタチテヰテノナニクユトモシルシアラメヤモ》」「四四三」に「立而居而待監人者《タチテヰテマチケムヒトハ》」卷十九「四二五三」に「立而居而待登待可禰《タチテヰテマテドマチカネ》」など、似たる語づかひなり。これは攷證に「俗に立たり居たりしてといふ意也」といへるにて心得べく、心に煩悶する所ありて、身をさまざまにもちあつかひかぬるさまを(577)いへるなり。
○念曾吾爲流 「オモヒゾワガスル」なり。物思をわがするといふ意。
○不相兒故荷 「アハヌコユヱニ」とよむ。意は明かなり。「兒」は女をさして愛みいふ語なること上に屡例出でたり。「故荷」はその相はぬ兒によりて、わがさま/\に物思をするよといふなり。この句、反轉法にてここにおけるなり。
○一首の意 この歌、二段落にして、第一段は春日野の實景をうたひ、第二段はその實景より聯想して吾があはぬ女を想ひ出して詠ぜるなり。然るに、諸家多くはこの第一段をば、序の詞なりといひたり。さらば、この歌は「登春日野作歌」の題詞にあはず。この故に考は「登春日野」の四字をけづれるならむが、そは甚しき武斷といふべし。從來の説にては代匠記に「此歌は相聞に入べきを野望に因て物に感じてよまれたる故ここには載る歟」といひたるを最も穩當なる見解なりとす。即ち第一段は春日野の眺望をよみたるにて、ここに登り來りて見れば、春日山、またその前なる御笠山に早朝より雲がたなびきゐ、又その山には容鳥が絶え間なく頻りに鳴くといふなり。第二段はこの雲を見、この鳥の音を聞けば、その雲の如く、心落ちつかず、その鳥の如く片戀のみしつゝ晝は日ぐらし、夜は夜どほし、立ちても居ても居られぬ樣にわれはわが片戀に思ひ愛せる女を思ひつゝあるよとなり。
 
反歌
 
(578)373 高※[木+安]之《タカクラノ》、三笠乃山爾《ミカサノヤマニ》、鳴鳥之《ナクトリノ》、止者繼流《ヤメバツガルル》、戀哭爲鴨《コヒモスルカモ》。
 
○高※[木+安]之 「タカクラノ」とよも。「※[木+安]」といふ文字につきては本卷「三一一」の詞書「※[木+安]作村主益人」の下にいへる如く、木造の鞍の意にて木偏にせしにて支那にての造字なるべし。この一句、意は本歌にいへると同じく、「三笠」の枕詞とせり。
○三笠乃山爾 「ミカサノヤマニ」とよむ。「御」と「三」との文字のかはれるのみにて異なることなし。
○鳴鳥之 「ナクトリノ」なり。意は明かなるが、本歌に「容鳥の間無く數鳴」くといへるをうく。
○止者繼流 古來「ヤメバツガルヽ」とよめり。「ヤメバ」は鳴きやめばなり。「ツガルヽ」の「つぐ」はその鳥の鳴きやめば、他の鳥の鳴きつぐといふ意を基としていへるにて、「ツガルヽ」はその鳴くといふ事の自然に行はるることをいふ。ある事の次ぎに他の事のひきつづき行はるるを「ツグ」といへる例は、卷十「二二〇九」に「秋芽子之下葉乃黄葉花爾繼時過去者後將戀鴨《アキハギノシタバノモミヂハナニツグトキスギユカバノチコヒムカモ》」卷五「八二九」に「烏梅能波奈佐企弖知理奈波(佐)久良婆那都伎弖佐久倍久奈利爾弖阿良受也《ウメノハナサキテチリナバサクラバナツギテサクベクナリニテアラズヤ》」卷八「一五三六」に「芽子者散去寸黄葉早續也《ハギハチリニキモミヂハヤツゲ》」などあり。さてこの「つがるる」は下の「戀」に對しての連體格に立てるものにして、その時はこの「つがるる」といふ語のみ主となりて、その戀の永續することをいへるなり。「つぐ」といふ語をかくの如く「絶えず」又は「永く續く」意に用ゐること集中に例少からず。卷五、八〇七」に「字都豆仁波安布余志勿奈子《ウツツニハアフヨシモナシ》、奴波多麻能用流能伊昧仁越都伎提美延許曾《ヌバタマノヨルノイメニヲツギテミエコソ》」卷六「九八五」に「今夜乃長者五百夜繼許曾《コヨヒノナガサイホヨツギコソ》」卷十「一八二九」に「梓弓春山近家居之續而聞良牟※[(貝+貝)/鳥]之音《アヅサユミハルヤマチカクイヘヲラシツギテキクラムウグヒスノコヱ》」卷十二「二八六(579)〇」に「八鈎河水底不絶行水續戀是比歳《ヤツリカハミナソコタエズユクミヅノツギテゾコフルコノトシゴロハ》」卷十七「三九二九」に「多妣爾伊仁思吉美志毛都藝底伊米爾美由《タビニイニシキミシモツギテイメニミユ》」「三九三三」に「阿里佐利底能知毛相牟等於母倍許曾都由能伊乃知母都藝都追和多禮《アリサリテノチモアハムトオモヘコソツユノイノチモツギツツワタレ》」卷十八「四〇五七」に「保理江爾波多麻之伎美弖々都藝弖可欲波牟《ホリエニハタマシキミテテツギテカヨハム》」卷二十「四三一〇」に「安麻能河波伊之奈彌於可婆都藝弖見牟可母《アマノガハイシナミオカバツギテミムカモ》」などあり。さてこの場合も、その「つがるる」といへるは自然の勢やめむとしても止む能はざる意をあらはせり。
○戀哭爲鴨 舊訓「コヒモスルカモ」とよめるが「哭」を「モ」とよむは道理なき如く見ゆるによりて、諸家多くは「喪」の誤とし、或は又「コヒナキ」とよむ説(新訓)もあれど、この「哭」を「モ」の音にあてたる例、本集中に例少からず。たとへば、卷六「一〇五九」に「在杲石住吉里乃荒樂苦惜哭《アリガホシスミヨキサトノアルラクヲシモ》」卷七「一一八四」に「奧浪驂乎聞者數悲哭《オキツナミサワグヲキケバアマタカナシモ》」卷八「一六〇三」に「山乎會響狹尾牡鹿鳴哭《ヤマヲトヨモシサヲシカナクモ》」「一六一二」に「結之紐乎解者悲哭《ユヒテシヒモヲトカバカナシモ》」等あれば、これを「モ」の假名に用ゐたることを認むべし。從來はこれを「喪」の誤とする説か、又は攷證に「喪には必ず哭するものなればその義をもて「喪」(哭)を義訓して「も」の假字に用ゐたるが故なり」といふ如き説によりて、解決せむとせるなり。然れども余はなほこの外に考へ方あるべしと思ふ。今「喪」字の原字を見るに説文によれば、「喪」は「哭」と「亡」との會意の字にしてその體は「〓」の形なるが、少林寺碑には「〓」の形につくり、五經文字には〓につくり、宋※[王+景]碑には「〓」につくれり。干禄字書に「喪」を通とし、「〓」を正とせり。「恐」らくはこの唐の字體を略書せるものよりして下の「亡」をいつしか略して「哭」の字の如くなりしものならむ。
○一首の意 三笠の山に喧く喚子鳥の、一の鳥が啼きやめば、他の鳥が鳴き繼ぎて絶えまなきが(580)如く、われは不斷、間《ヒマ》もなき戀をもするなるよとなり。「鳴く鳥」は「やめばつがるる」といふ語を導く爲の語なり。わが鳴くことをいへりとする説あれど入りほがなり。卷十 一「二六七五」の「君之服三笠之山爾居雲乃立者繼流戀爲鴨《キミガキルミカサノヤマニヰルクモノタテバツガルルコヒモスルカモ》」はこれに似たる歌なるが、この歌の傳のかはれるならむといふ説あり。
 
石上乙麿朝臣歌一首
 
○石上乙麿朝臣 この人の事は「三六八」の左注にいへり。ここに「朝臣」とあるは、この人の四位なりし時の詠なることを示せり。
 
374 雨零者《アメフラバ》、將蓋跡念有《キムトオモヘル》、笠乃山《カサノヤマ》、人爾莫令蓋《ヒトニナキシメ》、霑者漬跡裳《ヌレハヒヅトモ》。
 
○雨零者 舊訓「アメフレバ」とよめるが、六帖には「フラバ」として載せ、童蒙抄にも「フラバ」とせり。これは下の「將蓋跡念有《キムトオモヘル》」に照さば「フラバ」とよむをよしとす。
○將監跡念有 舊訓「サヽムトオモヘル」とよみたるが、六帖には「キム」として載せ、考には「キム」とし、以後多くこれに從へるが、槻落葉は「キナム」とよめり。これは「キムトオモヘル」とよむをよしとすべし。「カサヲサス」といふは柄のある傘につきていへるものにして、これは古、專ら「オホカサ」といひしものにして、和名鈔に「史記音義云※[竹/登]音登、俗云大笠、於保賀佐笠有柄也」といへるものこれなり。「カサ」は和名鈔に「毛詩注云笠力執反賀佐所v以v禦v雨也」とあり。さて本集の例として普(581)通の「カサ」ならば「サス」といふよりは「キル」といふかたを普通とす。卷十一「二六八一」に「吾背子之使乎待跡笠毛不著出乍其見之雨落久爾《ワガセコガツカヒヲマツトカサモキズイデツツゾミシアメノフラクニ》」「二七七一」に「小菅乃笠乎不著而來二來有《ヲスゲノカサヲキズテキニケリ》」「二八一八」に「開沼之菅乎笠爾縫將著日乎待爾年曾經去來《サキヌノスゲヲカサニヌヒキムヒヲマツニトシゾヘニケル》」「二八一九」に「難波菅笠置古之後者誰將著笠有莫國《ナニハスガガサオキフルシノチハタガキムカサナラナクニ》」卷十二「三一二三」に「白細袖乎笠爾著沾乍曾來《シロタヘノソデヲカサニキヌレツツゾコシ》」「三一二一」に「吾勢子之使乎待跡笠不著出乍曾見雨零爾《ワガセコガツカヒヲマツトカサモキズイデツツゾミシアメノフラクニ》」(卷十「二六九一」と同じ歌なり)の例はみな「キル」といへる例にして「カサ」を「サス」といへる例は一も見えず。されば「キムトオモヘル」とよむべきものなり。わがその笠を着むと思へるといふなり。
○笠乃山 「カサノヤマ」とよむこと論なし。この山は「三笠山」と同じといふ説あれど然らじ。代匠記には「笠の山は大和國城上郡にあり」といひ、大和志にもしかあり。大和史料によれば式上郡笠村に「笠山」ありとし、「巒峰笠ノ如シ、因テ名ヅク」といへり。その笠村は初瀬の北より石上の地に通ずる路にあたれるが、ここには藤原不比等の創建といふ笠寺(竹林寺)あり。この村は笠山よりしてその名を得たる所と思はるれば、恐らくはこの笠山なるべし。これは蓋しその笠山の附近を通りてこれを眺めてよめるならむ。
○人爾莫令蓋 舊訓「ヒトニササスナ」とよみたるが、六帖には「ナキセソ」として載せ、考、槻落葉、略解等は六帖のよみに從へり。古義は「ヒトニナキシメ」とよめり。さて「蓋」は上にいへる如く「サス」といふ語を用ゐるは不可なれば「キル」の方によるべきが、「ナ」にあたる「莫」がその上にあれば「ナキセソ」か「ナキシメ」かの二者の可否を考ふべし。この二つのよみ方いづれも萬葉集としては無(582)理にあらず、されど、下に「ソ」にあたる字なきが故に「ソ」を必ずつけたるよみ方ならずともよく、「令」を「シム」とよむが普通なれば、「ナキシメ」とよむ方によるべきか。この「シメ」は下二段活用をなすものの連用形にして上の「ナ」に對する語法なり。本集に「ナ……シメ」とせる假名書の例なけれど、「シメ」の假名書の例は少からず。なほ卷八「一五六九」に「又更而雲勿田菜引《マタサラニシテクモナタナビキ》」卷十四「三五〇一」に「安乎許等奈多延《アヲコトナタエ》」卷十一「二六六九」に「清月夜爾雲莫田名引《キヨキツクヨニクモナタナビキ》」などの例によりて、「ナ」の下に連用形を以て結ぶを見るべく、又卷十九「四一七九」の「霍公鳥夜喧乎爲管我世兒乎安寢勿令寢由米情在《ホトトギスヨナキヲシツツワガセコヲヤスイナネシメユメココロアレ》」によりて「ナ……シメ」といふことの例もありとしるべし。他人にこの笠をば著すなといふなり。
○霑者清跡裳 「ヌレハヒヅトモ」とよむ。「ヌレヒヅトモ」といふを強調する爲に「ハ」をその二の用言の中間に加へたるなり。かゝる例は卷十七「三八四一」に「夜氣波之奴等母伎美乎之麻多武《ヤケハシヌトモキミヲシマタム》」「三九九一」に「波布都多能由伎波和可禮受《ハフツタノユキハワカレズ》」卷二十「四四五〇」に「伊夜波都波奈爾佐伎波麻須等母《イヤハツハナニサキハマストモ》」などの例にて知るべし。「ヌレヒヅ」の語は上「三七〇」にもあり。この一句は反轉法によりてここに置けるにて、「ヌレハヒヅトモ人ニナキシメ」なり。これは他人は如何にぬれひづともといふ意なり。
○一首の意 この笠山を見れば、その名によりて我は思ふ。この笠は若し雨ふらばわがきむと思ふ笠の山なれば、他人にはきすな。たとひ、その人はぬれひづることありとも、わがきる爲の笠なれば、他人にはきすべきにあらずとなり。これは、笠山を見て、それをめでたるあまりによめるものなるべし。攷證に「この歌譬喩歌にて笠の山を女などにたとへて人のいかやうにい(583)ふとも從ふ事なかれといふ意を……いへる也」といへり。これに似たる解釋は他の人の説にあり。されど、これは、上の三笠山の歌の解と同じく強ひたることなり。笠の山の形をめで、又その名を興じてよめるに止まるものとするを穩かなりとす。
 
湯原王芳野作歌一首
 
○湯原王 「ユハラノオネキミ」とよむ。日本後紀卷十三に「延暦廿四年十一月丁丑大納言正三位兼弾正尹壹志濃王薨云々。田原天皇之孫湯原親王之第二子也」と見ゆるが、田原天皇は施基親王にして、その御子光仁天皇即位の後御父親王を追尊せられ、御兄弟を親王とせられたれば、それより後湯原親王と申し奉りしにてその以前は湯原壬と申ししなり。さればこの王は天智天皇の御孫にして光仁天皇の御兄弟と思はるるが、紹運録には御弟とせり。この王の詠歌、本集に載する所少からず。この卷にすべて三首、卷四に八首、卷六に三首、卷八に五首を載せたり。されど、年代を明確にすべき材料なし。
○芳野作歌 「ヨシヌニシテヨメルウタ」とよむ。芳野離宮の邊にてよめる歌と思はる。
 
375 吉野爾有《ヨシヌナル》、夏實之河乃《ナツミノカハノ》、川余杼爾《カハヨドニ》、鴨曾鳴成《カモゾナクナル》、山影爾之※[氏/一]《ヤマカゲニシテ》。
 
○吉野爾有 「ヨシヌナル」とよむ。吉野の地にあるといふ意なり。
○夏實之河乃 「ナツミノカハノ」とよむ。この河は卷九「一七三七」に「大瀧乎過而夏箕爾傍爲而淨(584)河瀬見河明沙《オホタキヲスギテナツミニソヒテヰテキヨキカハセヲミルガサヤケサ》」「一七三六」に「山高見白木綿花爾落多藝津夏身之河門雖見不飽香聞《ヤマタカミシラユフハナニオチタギツナツミノカハトミレドアカヌカモ》」とあるものにして、懷風藻藤原朝臣史の遊吉野詩のうちに「夏身夏色古、秋津秋色新」とあり。この河は、芳野川の上流のある區域の名にして古の離宮の在りし地といふ宮瀧の上流、北方に曲り、數町にして更に南方に屈して、樫尾村に至る。その川のつつめる、半島状に突出せる地を今菜摘村といふ。その菜摘村より樫尾村に至る邊即ち古の「ナツミ川」の域たり。卷九の歌はその宮瀧より溯りて「ナツミ」に到れることを語るものといふべし。行嚢抄に曰はく「宮瀧(ノ)追分在2橋邊1。右ハ西河紀州所々(ノ)路、左(ハ)勢州紀州所々ノ道也。夏箕村、此村ハ川邊ニ在リ。夏箕川は村ノ東北ヲ流ル。名ニ高キ逸流也。橋アリ。長八間巾六間淵ノ上ニ渡ス。水底深シ。是ヲ夏箕(ノ)淀ト云フ。此橋ナクテハ人馬難(ク)v通(シ)要樞ノ所ナリ」とあり。(檜嬬手所引)かくてこの菜摘村の邊に川淀の存することも今も然り。
○川余杼爾 「カハヨドニ」なり。「カハヨド」の語は上「三二五」の「川余藤不去」の下にいへり。吉野川が夏箕の邊にて淀をつくれることは上にいへり。
○鴨曾鳴成 「カモゾナクナル」とよむ。鴨の、この川淀に於いて鳴くといふことをいへるなり。實際の事をよめるならむ。
○山影爾之※[氏/一] 「ヤマカゲニシテ」とよむ。「影」はよみ方を借りたるにて字義によりてかけるにあらず。山の陰にしてなり。「にして」は「に於いて」の意なり。攷證にこれを「ニテ」にして「シ」は意義なしといへるは逆なり。「ニシテ」が源にして略して「ニテ」となりたるものなり。而して「ニシテ」(585)の「シ」は汎く用言を代表せるものにして、その意義は適當にそこにあふやうに解すべきなり。この一句は反轉法によりてここにおけるなり。さてここに「山陰にして鴨ぞ鳴くなる」といへる時は、その鴨の鳴く所と、この歌をよめる所即ちその鳴く聲を開ける所との間には山を隔ててありと考へざるべからず。これによりて考ふるに、夏箕村の地にはその東に小山あり。(標高、三七八米)この山の陰なること著し。
○一首の意 明かなり。吉野なる夏箕の川の邊に來ればその山陰の川淀に於いて鴨のなくが聞ゆとなり。
 
湯原王宴席歌二首
 
○宴席歌 考に「ウタゲスルトキノウタ」とよみ、古義には「ウタゲノトキノウタ」とよめり。「ウタゲノムシロ」とよむは直譯に止まる。古義のよみ方をよしとす。この宴席は如何なる場合なるか詳ならず。
 
376 秋津羽之《アキツハノ》、袖振妹乎《ソデフルイモヲ》、珠※[しんにょう+更]《タマクシゲ》、奥爾念乎《オクニオモフヲ》、見賜吾君《ミタマヘワギミ》。
 
○秋津羽之 「アキツハノ」とよむ。「アキツ」は秋津蟲即ち蜻※[虫+廷]のことなり。古事記雄略卷の自注に「訓蜻蛉云2阿岐豆1」とあり、又その卷の御製の中にも「曾能阿牟袁阿岐豆波夜具比《アオノアムヲアキツハヤクヒ》云々」とあり。又新撰字鏡にも「※[虫+羽]阿支豆」とあり。「アキツハ」とはその蜻蛉の羽にしてそれは輕く薄く、透きて(586)うるはしく見ゆるものなれば、ここに漢語の輕羅といふ如き意にて美人の衣の形容とせり。卷十に「秋都葉爾爾寶敝流衣《アキツハニニホヘルコロモ》」(二三〇四)とあるこの例なり。又卷十三に「蜻領巾《アキツヒレ》」(三三一四)とあるもその輕羅にてつくれる領巾をいふなり。
○袖振妹乎 「ソデフルイモヲ」とよむ。「ソデフル」といふことの例は卷一「二〇」に「野守者不見哉君之袖布流《ヌモリハミズヤキミガゾデフル》」など少からず。これは宴席に侍する女の輕羅の衣裳を着けたるをよめるなり。
○珠※[しんにょう+更] 「※[しんにょう+更]」は異體の字にして正しくは「匣」とかくべきなり。干禄字書に「※[しんにょう+更]匣上通下正」とありて「〓」といふ形が連用として認められたるが、その「[匚」をば六朝頃より「※[一/しんにょう]」の形にせしにて「※[一/近]」(匠)「〓」(〓)等と同じ形式によれるものなれば誤といふべきものにあらず。かくて「タマクシゲ」とよむこと異論なし。「玉匣」は卷二「九三」に既に出でたり。ここは次の「奧」に對する枕詞とせり。その意は玉匣に納めて奥深く藏しおく意にていへりと思はる。
○奧爾念乎 「オクニオモフヲ」と讀む。「オク」といふ語はこの頃に、將來の意にも用ゐたれど、又内外の奧にも用ゐたり。卷十三「三三一二」に「奧床仁母者睡有外床丹父者寢有《オクドコニハハハネタリトトコニチチハネタリ》」の奧床外床の語を見て知らるべし。大切にして奥にしまひおく意にていへるなり。卷六「一〇二四」に「奧眞經而吾念君者《オクマヘテワガモフキミハ》」「一〇二五」に「奧眞經而吾乎念流吾背子者《オクマヘテワレヲオモヘルワガセコハ》」とある「オクマヘテ」も、奧に儲へおく意にして大切に思ふことにして、卷十一「二四三九」に「奧島山奧儲吾念妹事繁《オキツシマヤマオクマケテワガモフイモガコトノシゲケク》」の「奧儲けて」も同じ意と見ゆ。かくの如く奥に念ふ妻をば「オクヅマ」といへる事は卷十七「三九七八」に「波思家夜之安我於久豆麻《ハシケヤシアガオクヅマ》」の例にて知るべし。攷證に「おくに思ふとは深く思ふといふ意にて云々」といへるは當(587)らず。かゝる奧といふ語を今の語になほさば、「秘藏」といふに當るものなりとす。されば契沖が「秘藏の妓女云々」といへるを寧ろ當れりとす。
○見賜吾君 舊訓「ミタヘワカキミ」とよみたるを考に「ミタマヘワギミ」と改めたり。「タベ」は古き語にしてそれを波行四段に再び活用させたるが、「タマヘ」なるべきが故に舊訓必ずしも捨つべきにあらず。されど、「タマフ」と假名書にせる例遙かに多ければ、考の訓によるべし。「ワギミ」と假名書にせる例この集になけれど、意を以てよむべし。意は明かなり。
○一首の意 この歌「妹乎」よりと「念乎」よりと兩頭して思ふにかゝるなり。「蜻蛉羽の如き輕羅の衣をつけて立ち舞ふ妹を見給へ。この妹はわが秘藏の女なるを見給へ。吾が君よ。」となり。
 
377 青山之《アヲヤマノ》、嶺乃白雲《ミネノシラクモ》、朝爾食爾《アサニケニ》、恒見杼毛《ツネニミレドモ》、目頬四吾君《メヅラシワギミ》。
 
○青山之 「アヲヤマノ」とよむ。これは古事記上卷に「青山如枯山泣枯《アヲヤマヲカラヤマナスナキカラシ》云々」とある青山にして青青と木草のしげりたる山をいふ。古事記上卷の歌に「阿遠夜麻爾奴延波那伎《アヲヤマニヌエハナキ》」とあるによりてよみ方をも證すべし。
○嶺乃白雲 「ミネノシラクモ」とよむ。青山の嶺にかゝる白雲といふなり。意明かなり。
○朝爾食爾 「アサニケニ」とよむ。この語の例はこの卷「四〇三」に「朝爾食爾欲見其玉乎《アサニケニミマクホリスルソノタマヲ》」卷八「一五〇七」に「朝爾食爾出見毎《アサニケニイデミルゴトニ》」卷十二「二八九七」に「吾妹子之裳引之容儀朝爾食爾將見《ワギモコガモヒキノスガタアサニケニミム》」とあり。この「食」は「ケ」といふ音を借りたるものにして、その意は卷一「六〇」の「氣長妹之《ケナガキイモガ》云々」の「氣」におなじく「來(588)經《キヘ》」の約言にして、時間の經過をいふものなり。されば、卷六「九三一」に「月二異二日日雖見今耳二秋足目八方《ツキニケニヒニヒニミレドイマノミニアキタラメヤモ》」ともいひ、卷十五「三六五九」に「安伎可是比爾家爾布伎奴《アキカゼハヒニケニフキヌ》」などもいへるなり。この一句の、意は朝にその青山の嶺に白雲の立つことの、日毎にあるの意なり。
○恒見杼毛 「ツネニミレドモ」とよむ。その白雲をも日毎に恒に見れどもといふなり。
○目頬四吾君 舊訓「メツラシワカキミ」とよみたるを考に「メヅラシワギミ」と改めたり。「頬」は和名鈔に「都良一云保々」と注せり。さてこれも音調の上より考の説によるべし。そのめづらしきことの主格が「吾君」なるなればその友を親愛してうたはれたるなり。
○一首の意 朝毎に青山にたなびく白雲は日々に恒に見れども飽かず珍らしきものなるが、これと同じ樣にわが親愛する君は常に見れども、いつも愉快にめづらしきよとなり。
 
山部宿禰赤人詠2故太政大臣藤原家之山池1歌一首
 
○山部宿禰赤人 上に出でたり。
○故太政大臣 「太」の字流布本「大」に作る。多くの古寫本によりて改む。ここに太政大臣といへるは誰なるか。藤原奈良の二朝通じて生前太政大臣たりし人は高市皇子、道鏡の二人に止まる。而してここにいへるはこの二人にあらざるは疑なし。これは恐らくは藤原不比等が贈太政大臣たりしをさせるものなるべし。不比等は鎌足の二男にして、元明天皇の慶雲五年に右大臣に任ぜられ、元正天皇の養老二年より太政官の首班たりしが、養老四年八月に薨じ十月(589)に正一位太政大臣を贈られたるなり。されば、ここも「故贈太政大臣」と書くを正しとすべきに似たり。然れども本集卷十九「四二三五」の詞書にも「太政大臣藤原家之縣犬養命婦奉天皇歌」とあり、又續日本紀、天平二年九月の條に「祭(ラシム)2故太政大臣藤原朝臣(ノ)墓1」とあり、天平寶字四年八月の勅には「先朝太政大臣藤原朝臣」とあり。されば、贈字を加へずしてかく用ゐしことその當時の例なりしなり。これを以てこれを藤原不比等と推定する説に從ふ。
○藤原家 これは上に引ける卷十九の詞書にもあるが、藤原氏といふに大差なきものにしてその人の諱を書くを憚りて某家とのみいへるにて尊敬の意をあらはせるなり。後世菅原道眞をば、菅家とのみいふも同じ意なり。
○詠……山池歌 山池は南齊書劉悛傳に「車駕數幸2悛宅1、宅盛治2山池1造2甕※[片+庸]1」とある如く、築山と池との義にして畢竟造り山水をさすなり。その山池を詠めてよめる歌なり。
 
378 昔者之《イニシヘノ》、舊堤者《フルキツツミハ》、年深《トシフカミ》、池之〓爾《イケノナギサニ》、水草生家里《ミクサオヒニケリ》。
 
○昔者之 舊訓「イニシヘノ」とよめり。童蒙抄は「者」を「見」の誤として玉の小琴は「者」を「省」の誤として略解は「看」の誤として同じく「ムカシミシ」とよむべしとよべり。攷證はこれを誤ならずして、「文字を添もし略きもして書る事集中のつねにて者の字を添てかける也」といひたり。この攷證の説は誤とは云ひ難けれど、そが本集の書き振の一として添へたりとするは不徹底なり。元來この「昔者」の熟字は支那傳來のものなり。易説卦傳に「昔者聖人之作v易也幽2賛於神明1而生(590)蓍」といひ、その他詩經、孟子等に屡見る所なり。近くは孝經の序に「昔著明王之以v孝治2天下1也」ともあり。本集にては既に上「三一二」に「昔者社報波居中跡所言奚米」とあり。今ここに至りて遽かに誤字説を主張する諸家の學者的態度に疑を挾むべきものなり。かくて舊訓のまゝにて差支なきなり。
○舊堤者 「フルキツヽミハ」とよむ。主人なくて舊宅となりたるその園の池について舊き堤といへるなり。
○年深 舊訓「トシフカキ」とよめり。されど、かくよむ時は「年深き池」の意となるべきものにして意をなさず。古義及び攷證は「トシフカミ」とよみたるが、古今六帖にこの歌を引けるにもしかよめり。これをよしとす。年を經ることの多きを深しといへるなり。卷四「六一九」に「年深長四云者《トシフカクナガクシイヘバ》」卷六「一〇四二」に「一松幾代可經流吹風乃聲之清者年深香聞《ヒトツマツイクヨカヘヌルフクカゼノコヱノスメルハトシフカミカモ》」卷十九「四一五九」に「根乎延而年深有之《ネヲハヘテトシカカラシ》しなどその例なり。
○池之〓爾 「イケノナギサニ」とよむ。「〓」は正しくは「瀲」にしてこの「瀲」字は文選西征賦の注に「波際也」とあり、日本紀に神の御名に「波瀲」とかけるを古事記に「波限」と書きて自注に「訓2波限1云2那藝佐1」とあり。而して「ナギサ」の語は和名鈔に「韓詩注(ニ)一溢一否曰v渚昌與反和名奈岐佐」とあり。波のよせてはかへすその際をいふなり。
○水草 「ミクサ」とよむ。この語の假名書の例は本集に見えねど、古今集大歌所歌に「我門の板井の清水里遠み人しくまねばみくさおひにけり」とあり。「ミクサ」は水邊に生ふる草をいふ。
(591)○生家里 「オヒニケリ」とよむ。この語の例は卷二の「一八一」に「御立爲之島之荒磯乎今見者不生有之草生爾來鴨《ミタタシノシマノアリソヲイマミレバオヒザリシクサオヒニケルカモ》」あり。
○一首の意 古の舊き堤は年經たること久しくして、池のなぎさに水草生ひて荒れはてたるよといふなり。諸家卷二「一八一」にこれを同じ類なりといへるが、この歌は名高き赤人の詠なれど、名も無き舍人の彼の詠よりは劣れりとす。
 
大伴坂上郎女祭神歌一首并短歌
 
○大伴坂上郎女 この人の事は卷四「大伴郎女和歌四首」(五二五−五二八)の左注に
 右郎女者佐保大納言卿之女也。初嫁2一品穗積皇子1被v寵無v儔。而皇子薨之後時、藤原麿大夫嫂2之郎女1焉。郎女家2於坂上里1。仍族氏號曰2坂上郎女1也。
といひ、又「七五九」の左注には
 右田村大孃坂上女孃并是右大辨大伴宿奈麻呂卿之女也。卿居2田村里1號曰2田村大孃1。但妹坂上大孃者母居2坂上里1。仍曰2坂上大孃1云々
とあり。これらによりて見れば、この人は佐保大納言大伴宿禰安麻呂の女にして、旅人の妹、家持の叔母にして、又その姑たり。而して初め、一品穗積親王にめされ、皇子薨じ賜ひて後藤原朝臣麻呂の妻となり、幾程もなく麻呂薨ぜしかば、大伴宿禰宿奈麻呂に再嫁して坂上大孃(家持妻)坂上二孃(駿河麻呂妻)を生めり。この人坂上(ノ)里に家造りて居たる故に坂上郎女と呼ばれたり。(592)集中の女流歌人として著しき人なり。
○祭神歌 「カミヲマツルウタ」とよむ。この神は大伴氏祖神なり。なほその由は左注あれば、そこにていふべし。
○并短歌 「短歌」多くの古寫本小字にせり。
 
379 久堅之《ヒサカタノ》、天原從《アマノハラヨリ》、生來《アレキタル》、神之命《カミノミコト》、奥山乃《オクヤマノ》、賢木之枝爾《サカキノエタニ》、白香付《シラガツク》、木緜取付而《ユフトリツケテ》、齊〔左○〕戸乎《イハヒベヲ》、忌穿居《イハヒホリスヱ》、竹玉乎《タカタマヲ》、繁爾貫垂《シデニヌキタリ》、十六自物《シシジモノ》、膝折伏《ヒザヲリフセ》、手弱女之《タワヤメノ》、押日取懸《オスヒトリカケ》、如此谷裳《カクダニモ》、吾者祈〔左○〕奈牟《ワレハコヒナム》、君爾不相可聞《キミニアハジカモ》。
 
○久堅之 「ヒサカタノ」とよむ。天、日、月などの枕詞とすること人の知れる所なるが、その語の義は古來諸説紛々として定まらざれど、瓠形なりといふ古來の説を穩かなりとす。これはもと天の枕詞とせしが次第に擴張せられたるなり。
○天原從 舊本「アマノハラヨリ」とよめり。「天原」は「天」をさす。これはその祖神の高天原より生れつぎ來れる由をいはむとての料なり。大伴氏の祖神は古事記上卷天孫降臨の際に供奉せる神に天忍日命ありて、それに注して曰はく「故其天忍日命【此者大伴連等之祖】」と見えたり。
○生來 舊本「アレキタル」とよめり。古寫本には「ムマレクル」とよめるもあり。童蒙抄は「ウマレコシ」とし、槻落葉には「アレコシ」とよめり。「生」は「ウマレ」とも「アレ」ともよむべきが、この下に「神」と(593)あれば、「ウマレ」とよまむは當らず、「アレ」とよむべし。「來」は「キタル」とも「コシ」ともよまるべきが、「コシ」とよむ人は「キタル」を「キタリ」の訛にして後世の語なりと思へるやうなれど、然らず。これは「キイタル」の約にして、俗語にはあらず。「アレ」の二音につゞきて「キタル」と三音によむをよしとす。「アレ」は卷一「二九」に「阿禮座師神之盡《アレマシシカミノコトゴト》」卷六「一〇四七」に「阿禮將座御子之嗣繼《アレマサムミコノツギツギ》」などいふ語にて見る如く現るゝ義なり。祖神の神代より現れて今に傳はり來れるとなり。
○神之命 舊本「カミノミコトハ」とよみ、代匠記には「カミノミコトヲ」とよみ、考に「カミノミコト」とよめり。ここに「命」とのみありて助詞なきが、集中の例として必要あらば、加へよむをうべし。然るに「ハ」といふ時はその下に之に對する或る種の陳述を要求し、「ヲ」といふ時は又その下にこれに對する動詞存すべきに、さる詞なし。ここは神の命よと呼び掛くるものなれば、「カミノミコト」とよびかけの格によるをよしとす。「みこと」は「御事」といふ事にて敬稱語なり。
○奥山乃 「オクヤマノ」とよむ。卷十四「三四六七」に「於久夜麻能眞木能伊多度乎《オクヤマノマキノイタドヲ》」とあり。人の多く到らぬ深山をいふ。
○賢木之枝爾 「サカキノエダニ」なり。槻落葉に「サカキガエタ」とよめり。いづれにてもあるべし。「サカキ」は新撰字鏡に「杜」宇「榊」「※[木+祀]」「※[木+定]」の三字又「龍眼」に「佐加木」の注あり。本草和名にも「龍眼」に「和名佐加岐乃美」の注あり。和名鈔にはその祭祀具に「龍眼木佐賀岐」あり、木類に「日本紀私記云天香山之眞坂樹佐加木漢語抄榊字本朝式用賢木二字本草云龍眼一名益智、佐賀岐乃美」とあり。この「サカキ」といふ樹のこと、如何なる樹なるか種々の説あり。久老は古のさかきは樒な(594)る由いへり。奧山の賢木といふは人跡到らぬ樣なる清き地に生ひたる賢木といひて清淨なる由を言外にあらはせるなり。
○白香附 舊本「シラカツケ」とあり。考には「シラカツク」といへり。これと同じ趣なるは卷十二「二九九六」に「白香付木綿者花物事社者何時之眞枝毛《シラガツクユフハハナモノコトコソハイツノマサカモ》、常不所忘《ツネワスラエズ》」又卷十九「四二六五」に「四舶早還來等《ヨツノフネハヤカヘリコ》、 白香著朕裳裙爾鎮而將待《シラガツケワガノスソニイハヒテマタム》」とあり。本居太平の説に「集中三所にありて皆白香とのみ書て白髪とは書る所なし。されば白髪の意にはあらで白紙のことなるべし。奈良の頃より木綿に取そへて白紙をも切かけて付たりけん。されば、白紙を添付る木綿といふ意にて白香付木綿とはいふなるべし。さて卷十九に白香著《シラカツク》朕裳裾爾|鎭《シツメ》而將待とあるは木綿にはあらでたゞ白紙なるべし。白紙をシラカといふは白髪をシラガといふ例に同じ」といへり。これにつき近藤芳樹の案に曰はく「シラカの説はかくの如くなるべし。されども木綿に取そへて白紙をも切かけて付たりけんといへるはいかゞあらむ。當時《ソノカミ》にては白紙をやがて木綿となして取付たるにて白紙と木綿と二種にはあらざりけらし。されば白紙が即木綿なり。故に白香付を木綿の枕詞としたるものなれば、白紙と木綿と、別物にはあらじとしるべし」といへり。按ずるにこの説正しきか否か斷言すべからねど、他に考なければ姑く之に從ふ。ここに多少參考とすべきは古、髪置の式には白髪といふものあり。これは苧にて白髪に准ぜしものなり。さて「付」は「ツク」か「ツキ」か「ツケ」かといふに、卷十九なるは實につけさせたまふ由の語なれば「ツケ」なるべきが、ここは枕詞の格なれば、終止形にて「ツク」とよむべし。六人部是香の説に「ツケ」として枕(595)詞にあらずとしたるが、さる時は白香は木綿の外のもの(紙も木綿のかはり)ならざるべからず。これも考へがたし。
○木緜取付而 「緜」は「綿」の古字なればいづれにてもありぬべけれど、古寫本の多く、又無訓本に「綿」とあり。「ユフトリツケテ」なり。賢木の枝に木綿をとりつけてなり。木綿は既にいへる如く、穀木の繊維をとりたるものにて、之を榊にとりつけて神の幣帛とせしなり。之を榊にとりつくる事も古事記の上卷にあり。
○齊戸乎 「イハヒヘヲ」とよむ。代匠記に「齊」を「齋」の誤とせり。然れども、「齊」「齋」は支那の古より通用せるものなれば、改むるに及ばず。「イハヒヘ」と假名書にせる例は卷十七「三九二七」に「久佐麻久良多妣由久吉美乎佐伎久安禮等伊波比倍須惠都安我登許能敝爾《クサマクラタビユクキミヲサキクアレトイハヒベスヱツアガトコノヘニ》」卷二十「四三三一」に「伊波比倍乎等許敝爾須惠而《イハヒベヲトコベニスヱテ》」とあり。「齋」を「イハヒ」といふは日本紀卷二に齋主神の名の注に「齋主此云2伊幡※[田+比]《イハヒ》1」といひ、又神武卷に「朕親作2顯齋1」とある注に「顯齋此云2于圖詩恰破※[田+比]《ウツシイハヒ》1」とあり。その「イハフ」といふ語は卷十四「三四六〇」に「爾布奈未爾和家世乎夜里低伊波布許能戸乎《ニフナミニワガセヲヤリテイハフコノトヲ》」卷十九「四二四〇」に「大船爾眞梶繁貫此吾子乎韓國邊遣伊波敝神多智《オホフネニマカヂシジヌキコノアコヲカラクニヘヤルイハヘカミタチ》」又卷十五「三五八三」に「眞幸而伊毛我伊波伴伐於伎都奈美知敝爾多都等母佐波里安良米也母《マサキクテイモガイハハバオキツナミチヘニタツトモサハリアラメヤモ》」卷十五「三七七八」に「之路多倍乃阿我許呂毛弖乎登里母知弖伊波敝和我勢古多太爾安布末低爾《シロタヘノアガコロモデヲトリモチテイハヘワガセコタダニアフマデニ》」卷二十「四四〇九」に「伊弊妣等乃伊波倍爾可安良牟多比良氣久布奈※[泥/土]波之奴等於夜爾麻宇佐禰《イヘビトノイハヘニカアラムタヒラケクフナデハシヌトオヤニマウサネ》」卷十九「四三六三」に「梳毛見自《クシモミジ》、屋中毛波可自《ヤヌチモハカジ》、久左麻久艮多婢由久伎美乎伊波布等毛比低《クサマクラタビユクキミヲイハフトモヒテ》」卷二十「四四〇二」に「知波夜布留賀美乃美佐賀爾奴佐(596)麻都里伊波負伊能知波《チハヤブルカミノミサカニヌサマツリイハフイノチハ》」卷十五「三六五九」に「安伎可是波比爾家爾布伎奴和伎毛故波伊都登加和禮乎伊波比麻都良牟《アキカゼハヒニケニフキヌワギモコハイツトカワレヲイハヒマツラム》」「三六三六」に「伊敝妣等波可敝里波也許等伊波比之麻伊波比麻都良牟多妣由久和禮乎《イヘビトハカヘリハヤコトイハヒジマイハヒマツラムタビユクワレヲ》」卷十三「三二九二」に「打蝉之命乎長有社等留吾者五十羽旱將待《ウツセミノイノチヲナガクアリコソトトマレルワレハイハヒテマタム》」卷十五「三六八八」に「伊敝妣等能伊波比麻多禰可《イヘビトノイハヒマタネカ》」などあり。「イハフ」とは穢れを忌み、慎み清まはるをいふ。かくの如くにして、神に捧げつかへまつれる瓮をば忌瓮とはいへるなり。「へ」は日本紀仁賢卷に「瓮此云倍」と見え、土燒の瓶の如きものなり。貞觀儀式大嘗の用度に「淡路國瓮廿口【各受一斗五升】と見ゆ。これにてその大さの一斑を想像すべし。さてこれは神酒を供へて神を祭るに用ゐしならむ。
○忌穿居 「イハヒホリスヱ」とよむ。「イハフ」は上にいひたる如し。「ホリスエ」は土を穿ちて掘り居うるなり。ここにことさらに「ホリスヱ」といへるは攷證に説ける如き事情による。曰はく「この物ことさらに穿居といへるはこれを今もたまたま土中より堀出たる見るに、口せばく、後まろくして、たゞに置《オケ》ば、たふるゝ物なるは土を堀て居る料にて、たゞに置ときは必らず下に物をおきてそのうへに居るものと見えたり」といへり。今往々見るものもまことにかくの如きさましたり。さて神を祭るにイハヒベをいはひすゑしことは、古事記中卷孝靈段に「於2針間|氷河《ヒノカハ》之|前《サキ》1居2忌瓮1而針間爲2道口1以言2向吉備國1也」とあり、又崇神段に「於2丸邇《ワニ》坂1居2忌瓮1而」とあり。「イハヒホリスヱ」といへる例は卷十三「三二八四」に「齊戸乎石相穿居竹珠乎無間貫垂天地之神祇乎曾吾祈《イハヒベヲイハヒホリオスヱタカダマヲシジニヌキタリアメツチノカミヲゾアガノム》」又「三二八八」に「木綿手次肩荷取懸忌戸乎齊穿居玄黄之神社二衣吾祈《ユフタスキカタニトリカケイハヒベヲイハヒホリスエアメツチノカミニゾワカノム》」と見ゆ。
○竹玉乎 「タカタマヲ」なり。この語は上にあげたる卷十三「三二八四」の外この卷「四二〇」に「吾屋(597)戸爾御諸乎立而枕邊爾齊戸乎居竹玉乎無間貫垂《ワガヤトニミモロヲタテテマクラベニイハヒベヲスヱタカタマヲシジニヌキタリ》、木綿手次可比奈爾懸而《ユフダスキカヒナニカケテ》」卷九「一七九〇」に「竹珠乎密貫垂齊戸爾木綿取四手而《タカダマヲシジニヌキタリイハヒベニユフトリシデテ》」とあり。「竹玉」を「タカダマ」といふは「タカムラ」「タカヤブ」「タカンナ」「タカムシロ」「タカバウキ」などの例の如し。この竹玉とは如何なるものかといふに、仙覺が抄に曰はく「陰陽家に祭の次第をとひ侍へりしかば、……たかたまといへるは我朝の祭の中に昔は竹を玉のやうにきざみて神供の中にかけてかされる事ありとなん申す。さてそれをばたかたまといひける歟、たけたまといひけるかと問侍りしかばたかたまと云と申侍りし也」といひたるが、槻落葉には眞淵の説として、「賢木には木綿をとり付、篶竹《スヾ》には玉をぬきたれて神を祠れるなるべし」といへり。されど、「竹」に「玉を云々」といふべきを「タカダマ」とはいふべくもあらず。攷證には仙覺抄の説をうけて「云々とあるにて思ひ合すれば、まれ/\古墳より掘出る玉に管玉といひて、其色緑にて長は五六分ばかりにて管の如くなる玉ありて、實に細き竹をふつ/\と切たらんやうなるあり。これ古への竹玉にて其形の竹に似たるによりて竹玉とはいひけるなるべし。そをやがて實の竹を切て玉にかへて中古より神事に用るを仙覺抄にはいへるなるべし」といへり。げにかゝる事なるべきが、琉球諸島には今も細き短き竹管を紐にとほして頸にかくる風ありといへり。これ即ちここに竹玉といへるものならむ。
○繁爾貫垂 舊本「シジニヌキタレ」とよめり。考には「シジニヌキタリ」とよめり。「垂リ」は古、四段活用なりし故にかくよむをよしとす。このよみ方は卷十三「三二八六」に「竹珠呼之自二貫垂《タカダマヲシジニヌキタリ》」とあるにてよむべく、その意は「無間貫垂」とかけるにて察すべし。「しじ」は繁きさまをいふ副詞と(598)見えたり。これ即ちかの五百津御統玉のさまにして之を奉りし古風と同じ精神に出づるものならむ。
○十六自物 「シシジモノ」とよむ。「十六」は算術の九々によりてかけるものなり。卷二「一九九」に「鹿自物伊波比伏管《シシジモノイハヒフシツツ》」卷三「二三九」に「十六社者伊波比拜目《シシコソハイハヒヲロガメ》、鶉己曾伊波比廻禮《ウツラコソイハヒモトホレ》、四時自物伊波比拜《シシジモノイハヒヲロガミ》、鶉成伊波比毛等保理《ウヅラナスイハヒモトホリ》」などにて見るべし。「鹿じ」にて「鹿の如し」の意とし、その語幹より物につづけて熟語の形としたるものにして鹿の如きさましてといふ如き意にて枕詞として下の「膝折伏」につづけたり。
○膝折伏 舊本「ヒザオリフセテ」とよみたるを考に「ヒザヲリフセ」とせり。一言足らねど、考のよみ方をよしとす。獣の膝を折りて伏す如く、人の神の御前に跪坐するさまをいへるなり。
○手弱女之 舊本「タヲヤメガ」とよめるを槻落葉には「タワヤメノ」とよみたり。「タヲヤメ」といふ語は和名砂に見ゆれど、それより古きものには見えず。本集卷十五「三七五三」に「多和也女能於毛非美多禮而《タワヤメノオモヒミダレテ》」とあり。又古事記中倭建命の歌に「多和夜賀比那袁《タワヤガヒナヲ》」とある「タワヤ」も同じ語なるベし。この字面は集中にも多きが古事記上卷に「我心清明故(ニ)我所生之子得2手弱女1」とあり。「タヨワ」の音のおきかへより生ずる語ならむ。さてここは作者が自身をさしていへるなり。「たわやめなるわれが」といふ程の意なり。「之」は「ノ」とよまむ方「タワヤメ」にふさはし。
○押日取懸 舊本「押日」を「アフヒ」とよみたれど、義をなさず。代匠記に「オスヒトリカケ」とよめるに從ふべし。「オスヒ」は服の名にて上古は男女共に衣の上に被ひ着たりしものと見ゆ。古事(599)記上卷八千矛神の歌に「多知賀遠母伊麻陀登加受而《タチガヲモイマダトカズテ》、淤須比遠母伊麻陀登加泥婆《オスヒヲモイマダトカネバ》」と見え、中卷宮簀媛の歌に「和賀祁勢流意須比能須蘇爾都紀多多那牟余《ワガケセルオスヒノスソニツキタタナムヨ》」とあるなど例少からず。太神宮儀式帳には「帛御意須比八端【長各二丈五尺弘二幅】」とあり。さてここに取縣くとあるは、衣の上にかけ着る由をいへるならむが、何故にかくいへるかと考ふるに、止由氣宮儀式帳に「大物忌、無位神主岡成女……著明衣木綿手次前垂懸而、天押比蒙而洗v手不v干之而二所大神乃朝大御饌夕大御饌乎日別齋敬供奉」とあるに照せば、神に請ひ祈む時特に之を着たるものならむ。後世は絶えたれば、その制と用との委しきことを知らず。
○如此谷裳 「カクダニモ」とよむ。「谷」は助詞にかり用ゐたるなり。上の如く、神に祈る爲に種々の事をなしてといふなり。
○吾者祈奈牟 諸本「祈」を「折」とせり。訓は流布本「ワレハヲラナム」とよみたれど、意通せざれば、もとより從ふべからず、神田本、細井本、活字無訓本に「祈」につくれるをよしとす。訓は代匠記の初稿には「コヒナム」とせるをよしとすべし。反歌には「吾波乞嘗」とあり。その意をば代匠記には「なむはのむなり。日本紀には叩頭とかきてものむとよみたれば、罪過を謝する心もあるなり。云々」といひたるより諸家皆是に從へり。按ずるに「コヒナム」の「ナム」は「ヌ」の未然形「ナ」より「ム」の分出せるものなるべきが、然る時は「コヒナム」は將來をかけて推測する意となりて不合理となる。されば、契沖の説の如く見るべきか、未だ確證を知らず。されど、他に明解なければ姑くこれによる。「ノム」といふ語の例は卷五「九〇四」に「天神阿布藝許比乃美地祇布之而額拜《アマツカミアフギコヒノミクニツカミフシテヌカヅキ》」卷十七「四(600)〇一一」に「神社爾底流鏡之都爾等里蘇倍己比能美底《カミノヤシロニテルカガミシツニトリソヘコヒノミテ》」卷二十「四四九九」に「安米都知乃可未乎許比能美奈我久等曾於毛布《アメツチノカミヲコヒノミノミナガクトゾオモフ》」などあり。「祈」を「コフ」といふは類聚名義抄にも見えたり。
○君爾不相可聞 舊本「キミニアハジカモ」とよみたるが、槻落葉に、キミニアハヌカモ」とせり。これは反語をなすべきなれば、舊本のまゝなるべし。「ジ」より「カ」につづくる例卷五「八〇〇」に「斯可爾波阿羅慈迦《シカニハアラジカ》」卷十八「四一〇七」に「之可爾波安良司可《シカニハアラジカ》」などあり。新考に曰はく、「舊訓にキミニアハジカモとよめるを久老はアハメカモに改めたり。げにワが命モツネニアラヌカ、雨モフラヌカなどと同格なる如く見ゆれど、よく思ふに、これらはみな相手につきたるはたらきにてフラヌカはフラナム、アラヌカはアラナムと譯してよく通ずれど、君ニアハヌカモはアハナムとは譯せられず。アハナムといふ意ならば、君ノとか、君モとか云はずばかなはじ。たとへば十四卷に(三五五八)
  あはずしてゆかばをしけむ、まくらがのこがこぐふねに伎美毛〔右○〕安波奴可毛
とあるを思ふべし。さればなほ舊訓のまゝにアハジカモとよみてアハザラムカマアと譯し、其前にサテモナホなどいふ辭を補ひて聞くべし」といへり。攷證には「この可聞は裏へ意のかへる意にて君にあはじかも、かくまでに祈祷《コヒメ》ば君にあはざる事はあらじといふ意になる也」といへり。これ正しき解なり。君はその思ふ人なり。
○一首の意 神代より生れ來れるわが大伴の祖神よ。われは深山の清き榊の枝をとり來て、眞白の木綿を取りつけ、忌瓮に神酒を湛へて穿り居《ス》ゑて奉り、竹玉を繁く貫きたれて奉り、膝折伏(601)せて拜み奉り、禮服を正しく着て、かくばかり祈り奉るなり。わがかく眞心こめて祈り奉る上は君にあはざることはあらじと思ふ。
 
反謌
 
380 木綿疊《ユフダタミ》、手取持而《テニトリモチテ》、如此谷母《カクダニモ》、吾波乞甞《ワレハコヒナム》。君爾不相鴨《キミニアハジカモ》。
 
○木綿疊 「ユフダヽミ」とよむ。卷六天平八年同じ人のよめる歌「一〇一七」に「木綿疊手向山乎今日越而《ユフダヽミタムケノヤマヲケフコエテ》」とも見ゆ。木綿の長きを重ねたゝみたるものをいふ。蓋し切りて重ねしならむ。それを手にとり持ちて神に奉るなり。
○吾波乞嘗 「ワレハコヒナム」なり。「嘗」は「ナム」といふ語の音をかりたるなり。
○一首の意 長歌にいへるを要約せるにて明かなり。
 
右歌者以2天平五年冬十一月1供2祭大伴氏神1之時嘲作2此謌1。故曰2祭v神歌1。
 
○天平五年冬十一月 毎年十一月に祖神を祭るは古の風なりしならむ。類聚三代格に載する寛平七年十二月三日の太政官符に「又諸人氏神多在2畿内1。毎年二月四月十一月何廢2先祖之常祀1云々」とあり、又神宮雜例集に「二月中申日外宮禰宜氏神祭、禰宜中堪v事申2詔刀1。四月上申日中臣氏神祭、宮司當社神主奉2仕之1、祭用途司中勤v之、饗膳無v使之時、同司中勤v之。十一月上申日中臣氏神祭如2四月1、中酉日外宮禰宜氏神祭儀式同2二月1」とあり。これによれば、一年二回に氏神祭あり(602)て、春二月又は夏四月に冬は必ず十一月に、神の祭を奉仕せしなり。されば、春日神社の祭、大原野神社の祭の春二月、冬十一月に規定せられたるも、平野神社の祭を夏四月冬十一月に規定せられたるも、それらが、それ/”\の氏の神なればなり。而して上は二月四月と往々月を異にすれど、下は必ず十一月なりしは、この十一月の祭が、ことに重んぜられしにや。十一月の氏神祭の例は拾芥記に延徳元年十一月十八日壬申に菅原和長、爲學等の氏神祭を奉仕せし事を記し、又平田篤胤の玉手襁には「薩摩國にては十一月には必氏神祭とて家々に祭る習ひ也とぞ」といひて、その仕法の大略を記せり。さればこの左注の記事は明かにその事實を告ぐるものといふべし。攷證に如何なる由にて祭れるかと疑へるは古の祭祀の常例を知らぬよりの言なり。
○供祭大伴氏神之時 大伴氏の祖神は上にいひたる如く、天忍日命なるが、氏神の祭はその祖神を祭れる神社ありて氏人がそこに詣でて祭祀を營む例なり。大伴氏の氏神社は何處にありしか。延喜式神名帳山城國葛野郡に「件氏神社大、月次、新嘗」とあり。大伴氏は淳和天皇の御名大伴と申し奉るによりて件氏と改められたれば、この伴氏神社即ち大伴氏の氏神の社たることは明かなり。然るに、續日本紀に「承和元年正月山城國葛野郡上林郷地、方一町賜2伴宿禰等1爲d祭2氏神1處u」と見ゆれば、この伴氏神社は承和元年に他より移して奉祀せしなり。蓋し、その社が、山城京より隔りてありしが爲に、京近くに營みしものか。然らば、この歌をよみし頃の大伴氏の氏神は山城にあらずして他にありしならむ。この時より後の事なれど、三代實録貞觀十五年十二月廿日に「授2河内國正六位上天押日命神從五位下」とあれば、その河内國なるが、古來より(603)の大伴氏の氏神なりしならむ。この神の社は本居宣長の説に志紀郡の伴(ノ)林神社なりといへり。而して、この神社以外にそれとおぼしき社なし。恐らくはその山城國に移轉せし後專ら大伴氏の族林宿禰の氏神として奉仕することゝなりしならむか。河内國には中臣氏の族類の神、物部氏の祭れる神等多きを以て見れば、大伴氏の祖神も古はこの國に祭りしならむか。
○聊作此謌故曰祭神歌 この歌は祭にあたりて或人に逢はむことを乞へる事をうたへるが、その人は誰にして、如何なる由ありてよめるか。定めて、一族の間に然るべき事情ありての事ならむが、今詳かにするを得ざるなり。
 
筑紫娘子贈2行旅1歌一首
 
○筑紫娘子 「ツクシヲトメ」とよむべきか。これは如何なる人なるか。西本願寺本、細井本、温故堂本、大矢本、京都大學本等には題詞の下に小字にて「娘子字曰兒島」とあり。この「兒島」といふ女は卷六に天平二年「冬十二月太宰帥大伴卿上v京時娘子作歌二首」(九六五、九六六)ありて、その左注の中に「于時送v卿府吏之中有2遊行女婦1其字曰2兒島1也。於是娘子傷2此易1v別、嘆2彼難1v會、拭v涕自吟2振v袖之歌1」とあり。
○贈行旅歌 「行旅」は「タビビト」とよむべし。孟子梁惠王篇に曰はく「商賈皆欲v藏2於王之市1行旅皆欲v出2於王之塗1」と。これは如何なる人をさしたるか明かならぬなり。この娘子、若し上の注の如く兒島ならば所謂遊行女婦なれば、種々の旅客に應接せしならむを以てなり。
 
(604)381 思家登《イヘモフト》、情進莫《ココロススムナ》。風|候〔左○〕《カゼマモリ》、好爲而伊麻世《ヨクシテイマセ》。荒其路《アラキソノミチ》。
 
○思家登 舊訓「イヘオモフト」とよみ、考は「イヘモフト」とよめり。然るに、卷二十「四〇〇〇」に「伊弊於毛布等《イヘオモフト》、伊乎禰受乎禮婆《イヲネズヲレバ》」とわざと六音によめるもあれば、いづれとも定めがたし。「と」は「とて」の意にてその家なる妻子を思ふとての意なり。
○情進莫 舊訓「ココロススムナ」とよみたり。代匠記には「情進を第十六志賀海人荒雄をよめる歌にさかしらと讀たれば、此もさかしらするなともよむべし。※[楫+戈]取などをもとくを云べし。今の點にてもよし」といへり。考は「さかしらなせそ」とよめり。古義等は又舊訓によれり。卷十六なるは「情進爾|行之荒雄良奧爾袖振《ユキシアラヲラオキニソデフル》」(三八六〇)と書きたれば、「サカシラニ」とよむべきさまなり。されど、この卷のは契沖もいへる如く、「ココロススムナ」とよみて不可なく見ゆ。心すすむとははやりて、熟慮せずに事を行ふことをいふにあるべくして、「さかしら」とは同一にいふべからず。「情すゝむ」といふ語は本集には他に例なけれど、卷四「五五七」の「大船乎※[手偏+旁]乃進爾磐爾觸覆者覆《オホフネヲコギノススミニイハニフリカヘラバカヘレ》」卷九「一八〇〇」の「益荒夫乃去能進爾此間偃有《マスラヲノユキノススミニココニコヤセル》」などの「進《ススミ》」はその事の中庸を過ぎたるをいへるなれば、「心すゝむ」も、その中庸を過ぎたるをいふものとして、「さかしら」といふ語を用ゐむよりはまされりとすべし。されば、今舊訓による。以上一段落なり。
○風候 流布本「候」を「俟」として「カゼマチテ」とよめり。然れども、下の句「ヨクシテイマセ」なれば語のつづき穩かならず。すべての古寫本及び、活字素本「候」に作るを見れば、「俟」は活字附訓本の誤(605)植に基づくこと明かなり。よみ方は考、槻落葉に「カゼマモリ」とせり。この誤の例は卷七「一三九〇」に「淡海乃海浪恐登風守年者也將經去※[手偏+旁]者無二《アフミノミナミカシコミトカゼマモリトシハヤヘナムコグトハナシニ》」又「一四〇〇」に「島傳足速乃小船風守年者也經南相常齒無二《シマツタフアバヤノヲブネカゼマモリトシハヤヘナムアフトハナシニ》」とあり。日本紀雄略卷七年の條に「集2聚百濟所貢今來才伎於大島中1託2稱候風1掩留数月」とある「候風」もここと同じ語なるが、それは古來「カゼサムラフ」とよめり、この「サムラフ」は正しく「サモラフ」といふべきものにして、「モラフ」に「サ」のつけるもの、その「モラフ」は「モル」を波行四段に再び活用せしめたるものなり。本集卷七「一一七一」に「大御舟竟而佐守布高島之《オホミフネハテテサモラフタカシマノ》」卷二十「四三九八」に「安佐奈藝爾倍牟氣許我牟等住毛良布等和我乎流等伎爾《アサナギニヘムケコガムトサモラフトワガヲルトキニ》」とあるもこれなり。これは古の船を進むるは帆と、※[舟+虜]とによるものなれば順風によらざるべからざるが故に、その風をうかがふなり。これ古來港の側に日和山と名づくる地の少からぬ理由なり。
○好爲而伊麻世 「ヨクシテイマセ」なり。風守を十分にして、眞によき潮時を見て船出したまへといふ意なり。「伊麻世」は「坐せ」なるが、行き賜へといふ意の敬語に用ゐたるなり。以上又一段落なり。
○荒其路 「アラキソノミチ」とよむ。君のゆきたまふ航海は荒き路なりといふをば、喚體の句としていへるにて、卷四「五六七」に「周防在磐國山乎將超日者手向好爲與《スハフナルイハクニヤマヲコエムヒハタマウケヨクセヨ》、荒其道《アラキソノミチ》」とあると趣同じ。これは、その路は困難多き旅路なれば、十分に注意したまへといへる意をこの一句の喚體なるにて示せるが爲に、その力強く感ぜらるるなり。
○一首の意 この歌先づ三段落なるがめづらしとすべし。しかも、第二段、第三段と力強くせま(606)れる語調をもちゐて、よくその情をあらはせり。第一段は、故郷に早くかへりたしと思ふことは誰とても同じ事なるべけれど、心はやりて、極端なることしたまふなといひ、第二段はよく風や日和を見定めて、十分に安心しうる時になりてはじめて舟出したまへといひ、第三段は君が行き賜ふべき路は危險多き航路なるよといひて、くれぐれも十分に注意したまへといへるなり。これは、その筑紫より出發する際の事のみに止まらず、道中もくれ/\心せきてはやまりあやまちしたまふなと注意せしものと考へらる。歌としてよき歌なり。
 
登2筑波岳1丹比眞人國人作歌一首并短歌
 
○登筑波岳 歌に筑波乃山とあれば「ツクバヤマニノボリテ」とよむべし。この山は常陸國筑波郡にあり、さまで高からねど坂東平野の中に屹立して著しき山なれば古來富士筑波と並び稱へられし山なり。この山の事は古事記の日本武尊の御歌にも見え、又常陸國風土記にものせたり。委しきはここに説くべきまでもなければ略す。
○丹比眞人國人 丹比眞人は卷二「二二六」の作者にあれど、そこには「名闕」と注したれば、如何なる人か明かならず。新撰姓氏録には「多治比眞人、宜化天皇皇子賀美惠波王之後也」と見え、日本紀には宣化天皇の皇子上殖葉皇子をば「丹比公」の先祖とし、この丹比公は天武天皇の十三年に眞人を賜へるなり。この一族には文武天皇の朝の左大臣多治比眞人島といふ名高き人あれどこの國人といふ人の父祖は詳かならず。されど、この人の名は史に散見す。續紀、天平八年正(607)月に「授正六位上丹治比眞人國人授2從五位下1」と見ゆるをはじめ、天平十年閏七月には民部少輔となり、天平、勝寶三年正月には、從四位下に叙せられ、天平寶字二年六月には攝津大夫となり、七月には遠江守丹治比國人を伊豆國に配流せらるる由見えたり。ここに筑波山に登れるは史に見えねど常陸國司として赴任せしか、又は民部省の官僚として巡檢せしかの場合に在りし事ならむか。
 
382 ※[奚+隹]之鳴《トリガナク》、東國爾《アヅマノクニニ》、高山者《タカヤマハ》、左波爾雖有《サハニアレドモ》、明〔左○〕神之《フタガミノ》、貴山乃《タフトキヤマノ》、儕立乃《ナミタチノ》、見杲石山跡《ミガホシヤマト》、神代從《カミヨヨリ》、人之言嗣《ヒトノイヒツギ》、國見爲《クニミスル》、筑羽乃山矣《ツクバノヤマヲ》、冬木成《フユゴモリ》、時敷時跡《トキジキトキト》、不見而往者《ミズテイナバ》、益而戀石見《マシテコホシミ》、雪消爲《ユキゲスル》、山道尚矣《ヤマミチスラヲ》、名積叙吾來並〔左○〕二《ナヅミゾワガコシ》。
 
○※[奚+隹]之鳴 「トリガナク」とよむこと異論なし。「アヅマ」の枕詞とすること卷二「一九九」に「鳥之鳴吾妻之國《トリガナクアヅマノクニ》」とある所にいへり。
○東國爾 「アヅマノクニニ」とよむこと異論なし。東國も上にいへるにおなじ。ここは阪東をさせること著し。
○高山者 「タカヤマハ」とよむ。高山はただ高き山をさす。
○左波爾雖有 「サハニアレドモ」とよむ。卷一「三六」に「國者思毛澤二雖有《クニハシモサハニアレドモ》」この卷「三二二」に「湯者霜左波爾雖在《ユハシモサハニアレドモ》」の下にいへる如く、「サハ」は物の多きをいふ。これは東國に山は多くあれどもとい(608)ふなり。
○明神之 舊訓「アキツカミノ」とよみたるを童蒙抄は「明」を「朋」の誤として「トモガミノ」とよみ、考も「朋」の誤として「フタガミノ」とせり。然るに、いづれの本にもここに異字ある本なし。かくて誤字なしとして文字のままによまば、「アキツカミノ」とよむ外あるべからざるに、かくよみては現し世の神にます天皇をさし奉ることとして、事實に合せず。今假りに誤字説をゆるして「朋」字とする時は如何といふに、「朋」字はもと、兩の貝をいふこと漢書食貨志の蘇林の注に見え詩の〓風七月「朋酒斯饗」とある「朋酒」は古來「フタモタヒノサケ」とよめるが、「朋」に注して「兩樽曰朋」といへるが「フタモタヒ」とよめる根據なりとす。今これに準ずれば「朋神」を「フタカミ」とよまむこと不可なかるべく思はる。而して筑波山は誰人も知る如く、男體女體の二峰東西に相比びて二上といふにふさはしきものなるのみならず、卷九「一七五三」の歌に「男神」「女神」といひ。「一七六〇」に「男神」といへは今いふ男體山女體山といふ如くその山即ち神なれは男女雙びます神として「朋神」の文字もふさはしく思はる。この故に、この「朋神」の文字は恐らくは正しき字面なるべく思はるるものなりとす。
○貴山乃 舊訓「カシコキヤマノ」とよみたり。されども、「貴」を「カシコキ」とよむは無理なれば、童蒙抄に「タフトキヤマノ」とよめるに從ふべし。「タフトシ」とは卷二の「一六七」に「春花之貴在等」の下にいへる如く「フトシ」に「タ」の接頭辭を加へたるものなり。ここはその二神にてます貴き山といふなり。「の」は同じ趣の語を重ねいふに用ゐる助詞にして、この「貴き山」の以下の「みがほし山」(609)に重ねていふ用をなすなり。
○儕立乃 舊訓「トモタチノ」とよみたるが、細井本には「ナミタチノ」といふ訓をつけ、考も亦しかよませたり。按ずるに「トモタチノ」と訓むこと理由なしといふにあらねど、語雅馴ならず。「儕」の字は「※[藕の草がんむりなし]也」と漢書揚雄傳の注にある如くなれば、「儕立」を「※[藕の草がんむりなし]立」の意として並び立の語をとりて「ナミタチ」とよまむことは不可なかるべし。「ナミタチ」といふ語は他に例を見ず。されど、これに從ふをよしとすべし。卷九「一七五三」には「二並筑波乃山乎《フタナミノツクバノヤマヲ》」といへり。この意をこの歌に四句に詳かに述べたりと見ゆ。
○見杲山跡 「杲」字大矢本による。他の本はすべて「果」とせり。而して訓はいづれも「ミガホシヤマト」とせり。然るに「果」字にては「クワ」の音にして「カホ」となるべき根柢を缺くが故に大矢本に從ふべきか。さて「見」は「ミ」にして「石」は「シ」の假名に用ゐたること、この歌の「戀石見」卷六「一〇二一」に「繋卷裳湯湯石恐石《カケマクモユユシカシコシ》」卷四「七二九」に「世人有者手二卷難石《ヨノヒトナレバテニマキガタシ》」などの例にて見るべきなり。「果」はもとより「杲」も「カホ」となることは音韻上不合理なり。「杲」は韻鏡二十五轉上聲※[日+告]韻にして、古老切にして「カウ」の假名を用ゐるものなれば、「カホ」となるべき理由なきが如し。然して、本集を見れば、「朝杲《アサカホ》」(卷十「二一〇四」朝杲朝露負咲雖云暮陰社咲益家禮《アサカホハアサツユオヒテサクトイヘドユフカゲニコソサキマサリケレ》)「杲鳥《カホドリ》」(卷十「一八二三」朝戸代爾來鳴杲鳥汝谷文君丹戀八時不終鳴《アサトデニキナクカホドリナレダニモキミニコフレヤトキヲヘズナク》)「在杲石《アリカホシ》」(卷六「一〇五九」在杲石住吉里乃荒樂惜哭《アリカホシスミヨキサトノアルラクヲシモ》)「杲《カホ》」(卷十六「三七九一」己杲還氷見乍《オノガカホカヘラヒミツツ》)などいづれも「カホ」にあてたる例なり。ここに考ふべきは「カホ」といふ語を當時「カヲ」といふ音に訛りたるか、若くは「杲」が「カホ」といふ音に轉ずべき理由ありしが故かとい(610)ふことなり。然るに、萬葉集中に顔を假名書にせるにはすべて「カホ」とのみありて「カヲ」とかけるもの一も存することなし。然らば、これは國語の音のくづれたるものとはいふべからず。漢呉音徴には第二十五轉が唇内音なる故に「カヲ」を「カホ」に通用すといへり。果して然るか、これ亦未だ斷言すべからず。後の學者の周到なる研究に俟つべきなり。「ミガホシ」といふ語のことは上「三二四」の「山四見容之《ヤマシミガホシ》」といふ語の下にいへるが如く、みむことのほしく思はるるをいふ語なるが、これより直ちに體言につづく例は古事記下卷仁徳卷の歌に「和賀美賀本斯久邇波《ワガミガホシクニ》」日本書紀顯宗卷の歌に「野麻登陛※[人偏+爾]瀰我保指母能波《ヤマトベニミガホシモノハ》」卷十九「四一六九」に「眞珠乃見我保之御面《シラタマノミガホシミオモワ》」「四一七〇」に「白玉之見我保之君乎《シラタマノミガホシキミヲ》」などなり。これは「ミガホシ」といふ形容詞の語幹より直ちに體言につづけて熟語の如き形をなすものにして、「くはし妻」「さかしめ」「むなし煙」などいふと同じ語格なりとす。「と」は「とて」の意なり。
○神代從人之言嗣 「カミヨヨリヒトノイヒツギ」とよむ。意明かなり。常陸國風土記にはこの山の神代よりの口碑を載せ、又「夫筑波岳高秀2于雲1、最頂西峰※[山+爭]※[山+榮]謂2之雄神1不v令2登臨1、但東峰四方磐石昇降決屹其側流泉冬夏不v絶、自v坂已東諸國男女春花開時、秋葉黄節、相携駢圓飲食齎賚、騎歩登臨遊樂栖遲云々」といへり。即ちここにいふことは誇大にせるにあらぬなり。「いひつぎ」は連用形にして次の言に重ね連ねるなり。
○國見爲 「クニミスル」なり。「國見」の事は卷一「二」「三八」にいへり。筑波山は如何にも國見するによき地にして登りては關八州を一目に望むべきなり。卷九にもこの山にのぼりて國見せし(611)歌あり。(「一七五三」「一七五七」)
○筑羽乃山矣 「ツクバノヤマヲ」なり。
○冬木成 「フユゴモリ」とよむべきこと卷一「一六」の下にいへり。ただ、卷一のは「春去來者」の枕詞とせるに、ここは然らずして次の「トキジク時」につづけり。然らば、これは枕詞にあらずして實際の事をうたへるか。ここに疑問あり。この歌に契沖は「冬木成の下には今按句を落せり。私に補なはゞ春去來跡白雪乃と云べし」といひ、童豪抄も語を指定せねど、落せる句ありとし、槻落葉には「春爾波雖有零雪能」の二句を補へり。かくて諸家多少の異同はあれど、多くは二句の脱落ありとせり。ただ考は「ここは冠辭にはあらず、冬木|盛《モル》節にて高山に登るべきにあらずといふなり」といひ、略解、註疏これによれり。今按ずるに、いづれの本にもこのままの姿にありて、ここに誤脱あることを證すべきもの一もなし。然るときは脱落ありとする説は必ずしも從ふべからず。惟ふにここに誤脱ありとする説は「冬木成」が必ず「春」といふ語の枕詞なりと考ふることと、下の「時敷時」の解釋とより導かれたるものと思はるるが、下の句は次にゆづり、この「冬木成」の語を考ふるに、これが枕詞としては如何にも「春去來者」「春部」「春」などを導きてあり。されど、ここに脱落なきものとせば、さる意に説くを得ざれば、實際の事をうたへるものと釋すべきなり。然る時は考の説の如くに冬木もる時節の意に説く外はあるまじ。さてかく一旦考定して次の句にゆきて論ずべし。
○時敷時跡 舊訓「トコシクトキト」とよめり。されど、「時」を「トコ」とよむべき根據なければ、從ふべ(612)からず。代匠記は幽齋本に「トキジクトキト」とよめるをよしとして、それによりたるより近頃まで諸家多くこれに從へり。然れども、これは「トキジク」といふ語が、動詞にして四段活用なる場合に是認せらるべきものなれど、然らざる時には是認せらるべくもあらざるなり。然るにこの語は形容詞なること否定すべきものにあらねば、これをよまむには「トキジキトキ」とよまずばあるべからぬものなり。されば、これがよみ方は新考などの改めたるよみ方に從ふべきものなりとす。さてかくよみ方を定めて、その解釋にうつらむが、これ亦諸家必ずしも一定ならざるが、代匠記は「時じくは非時とかけば高山は春も猶時ならぬ雪のふればなり」といひ、考の説はそれと異なること上にいへるが如し。而してこの句の解釋は大體上述の二の説の範圍を出でぬものなり。要するに、「時じく」が時ならぬ意なるには異論なけれど、その時ならぬをば、雪のふることにかくると然らざるとの點にて差異を起せるなり。然るに、この句は「時じき時と見ずていなば」とありて、下に直接に雪に關する語を見ざるなり。これによりて上に脱落ありとして「雪」の事を補ふ説も生じたるならむが、それはそれらの人の自説辯護の爲に案出せるものに止まれり。然らば雪の事にあらぬものとせば如何といふに、高山に登るべき節にあらぬ意に説くより外に方法なかるべし。然れども考のは甚だ漠然たり。元來この山に登臨することは既にいひけるが如くに、常陸國風土記に「自坂已東諸國男女春花開時秋葉黄節〔八字傍点〕相携へて登臨せしものにして、その登山に一定の時節ありしことは明かなり。又本集卷九に「登筑波嶺爲2※[女+曜の旁]歌會1日作歌」(一七五九)を見れば、ここに※[女+曜の旁]歌會を催せる事もありしなり。なほ卷九には(613)「登筑波山詠月歌」(一七一二)あり、又「一七五七」「一七五八」の登筑波山歌は秋時登臨せし時の歌なり。これらの例はかの風土記の記事を裏書する事實なるなり。ただ「檢税使大伴卿登筑波山時歌」(一七五三、一七五四)は夏の登山なりしことを示す。されど、これには「春見麻之從者夏草之茂者雖在今日之樂者《ハルミマシユハナツクサノシゲクハアレドケフノタヌシサ》」とよめるを見れば、これも臨時の登山なりしこと明かなるのみならず」男神毛許賜《ヲノカミモユルシタマヒ》、女神毛千羽日給而《メカミモチハヒタマヒテ》云々」といへるを見れば、この山に登臨するを得るは神の許すによるといふ思想のありしなり。これこの山に限らず、古くは山自身を神としたるが故に、その許されたる時以外には濫りに登るべからざるなり。これ今も各名山に山開きといふ行事の存する所以ならむ。而して、臨時の登山も神の許を乞ひしものならむと考ふべきことなり。かくの如く考へてみれば、この句の意も略、解しうべきが如し。即ち筑波山に上るには一定の時期ありて、普通春秋の好時節を擇ぶものにして、又※[女+曜の旁]歌會などもこの山にて催したるが故に、さる時に人々相携へて上るが例なりしならむ。然れども、遠來の珍客など在る時には例外として臨時に登山をなしうるやうに取計ひし事もありしならむ。かく考ふれば、かの檢税使大伴卿の登山も時じくの登山なりしならむ。丹比連國人も亦偶この國に至れるなれば、例規の時にあらねど、例外として登臨の取扱をせしならむ。かくて「時じき時と見ずていなば」といふ語の意適切なる如く思はる。然らば、この「時じき時」は雪には關係なきものにして、雪に關係なしとする方かへりて意義深き事となる。かくして、上の「冬木成」も枕詞にあらずして、實際の冬の草木凋落の時節をさし、さる時節なれば登山の時にあらずといへる意にとるべし。「時と」は「時なり(614)といひて」といふにおなじ。
○不見而往者 舊訓「ミズテイナバ」とよめるを槻落葉に「ミズテユカバ」と改めたり。されど「ユク」は今の「アリク」といふ意なるものなれば「イナバ」の方よき筈なれば舊訓によるべし。
○益而戀石見 「石」は「シ」の假名なり。「戀石」は「二五三」「二七〇」にいへる如く「コホシ」とよむべく、「コホシミ」は戀しと思ふ心を起すことをいふ。登山せむと思ふ時に登山せずして、そのままにして歸り往なば、今目前に見てあるよりは一層戀しく思はむといふ意なり。
○雪消爲 「ユキゲスル」とよめり。「雪消」を「ユキゲ」とよむは「ユキキエ」の約まれるなり。本集にはかくよむべく假名書にせるものなし。されど、卷十「一八三九」の「惠具採跡雪消之水爾裳裾所沾《エグツムトユキゲノミヅニモノスソヌレヌ》」卷十八「四一〇六」の「南吹雪消益而射水河流水沫能《ミナミフキユキゲマサリテイミヅガハナカルミナワノ》」などかくよむをよしとするなり。攷證に曰はく「ここに雪消とあるにてこの歌は正月の末より二月ごろの歌なる事しらる。雪消は皆春にのみ詠り」とあり。大體かゝる事なれど、雪消を必ず、春とするは後世の規定なり。必ずしも春と限るべからず。又暦の上にて春なりといふとも、この山に登臨する時は春の花さく頃といふ事なれば、春の末頃なるべく、初春の雪消のする頃は登山の期にあらざるべく、又さる時を大らかに冬木成といひても不可なき筈なり。後世の規定を以て萬葉集を律すべからず。
○山道尚矣 「ヤマミチスラヲ」とよむ。「尚」は「スラ」に「矣」は「ヲ」にあたるものにして「尚」を「スラ」とよむことは卷二「一九四」に「多田名附柔膚尚乎劍刀於身副不寢者《タタナヅクヤハハダスラヲツルギタチミニソヘネネバ》」の下にいへる如く本集には例少からず。「スラヲ」と假名書にせる例は卷五「八九二」に「寒夜須良乎《サムキヨスラヲ》」卷九「一六九八」に「家人春雨須良乎(615)間使爾爲《イヘビトノハルサメスラヲマツカヒニスル》」などあることも既にいへり。「すら」は一事をあげて他を類推せしむる意をあらはす助詞にして、その登山の困難なる事を證せむとて雪消する山道をあげて他を類推せしめたるなり。
○名積叙吾來並〔左○〕二 「並」字神田本にあるが、朱にて消せり。諸他本「前」字とせり。而してよみ方は舊訓「ナツミソワクルニ」とよみて、「前」字をよまず。代匠記に「前」を「並」の誤とし、「並二」を「シ」の音にあて「ナツミソワガコシ」とよみたるを童蒙抄に「ナヅミゾワレコシ」とよめり。按ずるに「前二」はよみ方をしらず、「並二」は「二」を並ぶる意にて四の數を示せば、「シ」とよむに適す。「並二」を「シ」にあてたるはここ以外に例なけれど卷十三「三三一八」に「早有者今二日許將有等曾君者聞之二二勿戀吾妹《ハヤカラバイマフツカバカリアラムトゾキミハキコシシナコヒソワギモ》」卷六「九〇七」に「萬代如是二二知三《ヨロヅヨニカクシシラサム》」卷十三「三二九八」に「縱惠八師二二火四吾妹《ヨシヱヤシシナムヨワギモ》」などあり。これらに準じて「並二」を「シ」とよむと定むべし。「吾」は「ワガ」にても「ワレ」にても不可なきが如くなれど、その意せまれる意をあらはす方によりて「ワガコシ」とよむべし。「ナヅミコシ」といふ語は卷二「二一〇」に「石根左久見手名積來之《イハネサクミテナヅミコシ》」ありて「ナヅミ」はそこにいへる如く歩行になやむことをいへるなり。この山はさまで高きにあらねど、勾配急なれば、夏の如き時にあらずとも登るに難儀するなり。これ「ナヅミ」といへることのよく當れる所なり。
○一首の意 坂東の國々には高き山は多くあり。されどもそが中にも男神女神の兩柱の神とます貴き山にして、又男體女體の二の峯の並び立ちて、形もすぐれて誰も好んで見る山なりと神代の昔より今の現までも人々のいひ傳へ語りつぎて時々に登りて國見する筑波山をば今(616)は冬の草木凋落の時にして登山を許さるる時にあらずといひて、登り見ずしてこの地を去りなば、今思ふよりは一層戀ひしく慕ふ心も生ぜむと思ふが故に、雪の未だある頃にして登山の時にあらねど、われは折角の事なれば、登臨せむとて、雪消する難儀なる山道をさへもくるしみつつ登り來りしことよとなり。
 
反歌
 
383 筑羽根矣《ツクバネヲ》、四十耳見乍《ヨソノミミツツ》、有金手《アリカネテ》、雪消乃道矣《ユキゲノミチヲ》、名積來有鴨《ナヅミケルカモ》。
 
○筑羽根矣 「ツクバネヲ」なり。筑波山を「ツクバネ」とよむは平安朝時代の歌に多きが、本集にも「筑波根」(卷八「一四九七」)「筑波禰」(卷十四「三三五〇」この卷にもあり)「都久波尼」(卷二十「四三六七」)「都久波禰」(卷二十「四三六九」)等の例あり。「ネ」は「峯《ミネ》」の本語にしてその「みね」は「ネ」に「み」を冠したるなり。その「ネ」(峯)といふ語に名稱たる「ツクバ」を冠して一語とせること、「伊香保禰《イカホネ》」(卷十四「三四二一」)「安比豆禰《アヒヅネ》」(卷十四「三四二六」)などの例なり。
○四十耳見乍 舊訓「ヨソニミナガラ」とよめるを代匠記に「ヨソノミミツツ」とよめり。舊訓も字面によれば必ずしも不可ならざる如くなれど、「乍」字は契沖がいへる如く、本集には「ナガラ」とよむことなく、「ツツ」とよみならはせり。ことに「石乍見《イハツツミ》」(卷二「一八五」)「打乍《ウツツ》」(卷四「七八四」)などにて「乍」が「ツツ」とよまれしこと明かなり。されば、契沖説をよしとして諸家皆これに從へり。「ヨソノミミツツ」と假名書にせる例は卷十九「四一六九」に「山乃多乎里爾立雲乎余曾能未見都追《ヤマノタヲリニタツクモヲヨソノミミツツ》」あり。(617)又卷十七「三九七八」に「宇乃花乃爾保弊流山乎余曾能未母布里佐氣見都追《ウノハナノニホヘルヤマヲヨソノミモフリサケミツツ》「四〇〇〇」に「余曾能未母布利佐氣見都々《ヨソノミモフリサケミツツ》」なども旁證とすべし。「よそにのみみつつ」といふにおなじきが、親しくその地に到らず、餘所のものとしてただ眺めつつといふ意なり。
○有金手 「アリカネテ」とよむ。「カネ」は難しとする意の動詞とすること今も然るが、本集には卷一「三〇」の「船麻知兼津《フネマチカネツ》」「七二」の「忘可禰津藻《ワスレカネツモ》」以下例多し。
○雪消乃道矣 「ユキゲノミチヲ」なり。意明かなり。
○名積來有鴨 舊訓「ナヅミクルカモ」とよみたるが、童蒙抄には「ナヅミキタルカモ」とよみ、考は「ナヅミタルカモ」とよみ、槻落葉は「ナヅミケルカモ」とよみたり。按ずるに「來有」の二字を「クル」とよむも「タル」とよむも道理なければ從ひがたし。「キタル」とよむは不可にあらねど、「ナヅミキタルカモ」は音あまりて調よろしからず。「ナヅミケルカモ」とよむべし。「來有」を「ケリ」「ケル」にあつるは集中にその例あり。卷十「二一一一」に「公之使之手折來有此秋芽子者《キミガツカヒノタヲリケルコノアキハギハ》」卷十二「三一二五」に「我門爾蓑笠不蒙而來有人哉誰《ワガカドニミノカサキズテケルヒトヤタレ》」などこれなり。かくて後諸家このよみ方に從へり。されど、槻落葉「ここは過去によまでは叶はねば、今はけるとよみたり」といへる説明は必ずしも從ふべからず。かく所謂過去の「ける」とせば、ここの用言の觀念内容は「ナヅミ」のみにして、「來」の意なきこととなるべし。然る時は本歌に「ナヅミ〔三字右○〕》ゾワガコシ〔二字右○〕」といへるに出であはず。ここはなほ「來」字の意あるべし。然らば、如何によむべきかといふに「ケル」にてよきなり。上の卷十二の例は「來有」にて「來たる」意を必然的にあらはせり。卷十の例も使の手折りて來れる意なるべければ同じと見(618)ゆ。されば「來有」を「ケル」とよみて、その意は今の語の「キタレル」と同じとすべし。「キタル」は「來至る」なること既にいへり。それは「キタリ」と「あり」と熟合して「キタレリ」となり、これは「キ」と「あり」と熟合して「ケル」となれるなり。この考へ方は古義等も同じ。
○一首の意 長歌の末の方の意をくりかへせるものと見るべし。即ち坂東の名勝の地たる筑波山を外目に見てのみはありかねて、雪消する道を踏み難儀して登りたることかなとなり。
 
山部宿禰赤人歌一首
 
○山部宿禰赤人 上にいへり。
 
384 吾屋戸爾《ワカヤドニ》、韓〔左○〕藍種生之《カラアヰマキオホシ》、雖干《カレヌレド》、不懲而亦毛《コリズテマタモ》、將蒔登曾念《マカムトゾオモフ》。
 
○吾屋戸爾 「ワガヤドニ」なり。「ヤド」の文字は屋の戸をさすに似たれど、この語には種々の意味あり。或は家の門なるあり。家の外即ち庭前なるあり。又單に家をさすに止まるあり。ここは庭前をさすに似たり。かかる用ゐざまなる所の本集にての例を求むれば卷六「一〇四三」に「豫公來座武跡知麻世婆門爾屋戸爾毛珠敷益乎《アラカジメキミキマサムトシラマセハカドニヤトニモタマシカマシヲ》」を著しとす。而して又「屋前」とかける所少からぬが(卷三「四一〇」「四六四」「四六六」「四六九」以下頗る多し)これらはその庭をさすこと著し。ここはひろく家とのみ見ても通ずべけれど、なほ庭前の意とする方よからむ。
○韓〔左○〕藍 流布本「アラアヰ」の訓あれども、「ア」は「カ」の誤なること著し。さて又「韓」の字古葉略類聚鈔(619)と活字附訓本、寛永本には「幹」とすれど、その他の諸本いづれも「韓」とせり。いづれにても「からあゐ」とよまむに不可ならねど、「韓藍」の文字をよしとすべし。卷七「一三六二」に「秋去者影毛將爲跡吾蒔之韓藍之花乎誰採家牟《アキサラバカゲニセムトワガマキシカラアヰノハナヲタレカツミケム》」卷十「二二七八」に「三苑圃能辛監花之色出來《ミソノフノカラアヰノハナノイロニデニケリ》」卷十一「二七八四に「三苑原之鷄冠草花乃色二出目八方《ミソノフノカラアヰノハナノイロニデメヤモ》」をばいづれも「カラアヰ」とよみ來れり。これは本草和名に「鷄冠草和名加良阿爲」とあれば、卷十一のよみ方は正しきこととなり、從ひて、「カラアヰ」即ち鷄冠草なりといふこととなるべし。然るに萬葉考にこれを紅花と解してより、槻落葉、略解等これに從ひ玉勝間にまたこれを論ぜり。然れども、鷄冠草の字面とその訓とによりて紅花ならぬことは明かなり。「色に出づ」といひ「秋」といひ「うつし」とあるにて紅花にあらぬをしるべし。この事は攷證に委しく論ずる所にてその上の言を費す必要なきまで明かなり。これのよみ方古義に「カラヰ」とよみたれど、本草和名に「カラアヰ」とあればそれによるべきものなり。この鷄冠草は今いふ鷄頭花のことなりといふことは本草家の認むる所なるが、これは本邦産のものにあらざれば、舶來珍奇の植物として當時庭前にうゑしなるべし。なほこれにつきては萬葉染色考の説參考とすべし。
○種生之 舊訓「ツミハヤシ」とよみたり。而して「種」字神田本「〓」とし、西本願寺本、細井本、大矢本、京都大學本「〓」とし、温故堂本、活字無訓本「蘇」とせり。即ち「種」とあるは類聚古集と、古葉略類聚抄と活字附訓本と寛永本のみにして他すべて「蘇」字又はそれに似たる體なりとす。かくてこれがよみ方は類聚古集と古葉類聚抄とは「種」を上につけて「カラアヰノタネハ」とよみたるが、神田本(620)は「マキオホシ」細井本には「カラアヰノタネシ」といふ訓と「カラアヰマキウヘシ」といふ訓とを加へ、西本願寺本、温故堂本、大矢本、京都大學本の青字の訓には「ツミハヤシ」とあり。又京都大學本の青字の訓に「マキオホシ」とあり。さて諸家の説には、代匠記に「マキオフシ或はウヱオフシと讀べし」といひ、考は「マキオフシ」とよみ、爾來人々多くこれに從へり。然るにこの文字を顧みるに、類聚古集と、古葉略類聚抄、活字附訓本とのみ「種」にして他はすべて「蘇」字若くは「蘇字」に似る形の字たり。而して、類聚古集と古葉略類聚抄とはよみ方に於いて「タネ」とあれば「種」字にあてたる訓なること明かなり。その他の古寫本の訓は「蘇」字の體をなせる字にあてたる訓なるべきこと疑ふべからず。而して寛永本に「種」字にせるは活字附訓本の誤植(無訓本は「蘇」なるを以て知るべし)に基づくものともいひうべきものなれば、まづ、その本たる文字につきて考へざるべからず。今先「蘇生之」と見てよまむとするに、これは一旦死して後更生することをいふなる文字なり。鷄冠草の蘇生すといふことは考へられぬにはあらねど、旱魃の時か、水をかふを怠れる時にいふべきものなれば必ずしもよしとすべからず。按ずるに、種字の古文は玉篇に「〓」に「古種子」と注せる如くなれば、「※[蘇の草がんむりなし]」と混じ易く「※[蘇の草がんむりなし]」は又「蘇」の別體たり。かく見れば、類聚古集等の字體は必ずしも誤れりともいひがたきなり。この故に、今は文字を「種」と認め、これがよみ方を考ふべし。「種」字には玉篇に「植也」と注せる如く、古來「ウウ」の訓あれど「マク」の訓はなし。然れども、この卷「四〇五」に「春日野爾粟種有世伐《カスガヌニアハマケリセバ》」とある「種」は「ウウ」とよむ方途なく、古來のよみ方の「マケリセバ」とよむより外なきことなるが、然らば、これは「種《タネ》マク」の義にて「マク」とよむ事もありと考ふ(621)べきものならむ。「生之」の語は「オホシ」なり。その例は卷二十「四三〇二」に「夜麻夫伎波奈泥都都於保左牟《ヤマブキハナデツツオホサム》」卷十八「四一一三」に「奈泥之故乎屋戸爾末枳於保之《ナデシコヲヤドニマキオホシ》」卷二十「四四四七」に「麻比之都都伎美我於保世流奈弖之故我《マヒシツツキミヲオホセルナデシコガ》」とある如くいづれも「オホシ」といふ語のみにして「オフシ」とかけるは一も存せず。さればここは「ウヱオホシ」とよむべきものなり。この草は一年生草なれば、種まきて生ぜしむるものなればかくいへるものとして事實に即せりといふべし。
○雖干 舊訓「カレヌトモ」とよみたるを考に「カレヌレド」とよめり。この文字の面にてはいづれにもよみうるものなるが、歌の意を以て推すに「カレヌトモ」と假設していはむには下の句の詮なし。「カレヌレド」と事實として考ふる方下句の意生き出づべし。「干」は水分のなくなることなるが、さればやがて草の枯るるにひゞければ之を用ゐたるなり。されば考の説に從ふべし。
○不懲而亦毛 「コリズテマタモ」とよむ。「ズテ」とつづく例は上の「二九一」の「之奴波受而《シヌバズテ》」卷五「八〇九」の「麻久良佐良受提伊米爾之美延牟《マクラサラズテイメニシミエム》」等多く、本集に盛んに用ゐられし語遣なり。
○將蒔登曾念 「マカムトソオモフ」とよむ。考に「マカントソモフ」とよみたれど、必ずしも改むるに及ばし。
○一首の意 わが庭前に鷄冠草を蒔きて生ぜしめ、觀賞用とせむとしたるが、それは枯れたり。然れども、それに懲りずして復び、われは種を蒔かむと思ふとなり。諸家これに寓意ありとし、女をからあゐにたとへたりとするもの多し。而して、これを譬喩の歌なりとし、(註疏、攷證、古義、槻の落葉、考、代匠記)下の譬喩歌に入るべきが、ここにまぎれ入れりとする説多し。されど、果し(622)て然りや否や。「からあゐ」といふものが、當時珍奇の植物なりしものとせば、必ずしも譬喩にあらずして、それを歌に詠ぜし事の既にめづらしかりしならむ。余は譬喩歌なりとする説に左袒すべき理由を發見せざるなり。
 
仙柘枝歌三首
 
○仙柘枝 これは如何なる人なるかといふに左注に「柘枝仙媛」とあれば女人にして、しかもそれが仙人と考へられたること明かなるが、柘枝は蓋しその名なるが如し。この人の事は左注に行きて論ずることとし、ここには主としてそのよみ方のみを考へむ。先づ「仙」は如何によむべきか。代匠記には「仙は日本紀にひしりとあれば今もさよむべし」といひ、古義これに從へり。考には「ヤマビト」とよませ、槻落葉これに從へり。案ずるに「ヒジリ」とよまむは聖にまぎれ、「ヤマビト」とよむはたゞの山人にまぎれ、いづれも適切の語とはいひがたきに似たり。但し、仙の字は釋名に「老而不v死曰v仙。仙遷也、遷入v山也。故制2其字1人傍作v山也」とあれば、「ヤマビト」といふも仙の字義に遠からず。本集卷九「一六八二」の「常之陪爾夏冬往哉裘扇不放山住人《トコシヘニナツフユユケヤカハゴロモアフギハナタズヤマニスムヒト》」といふ歌には「詠仙人形」と注せり。これらによれば「ヤマビト」とよむべきに似たり。次に「柘枝」の「柘」は木の名にして新撰字鏡に「豆美乃木」と注し、和名鈔には「豆美」と注せり。さらば、これは「ツミエ」とも「ツミノエ」とよむべきものなるべし。今は下にいふ續日本紀の長歌の初に從ひて「ツミノエ」とよむ。さてこれはその仙柘枝歌とありて柘枝の作れる歌とはなし。上よりの例によれば作歌と見(623)るべきならむが如くなれども必ずしも然らず。左注に至りて説くべし。
 
385 霰零《アラレフリ》、吉志美我高嶺乎《キシミガタケヲ》、險跡《サカシミト》、草取可奈和《クサトリカナワ》、妹手乎取《イモガテヲトル》。
 
○霰零 舊訓「アラレフル」とよみたり。「キシミ」の枕詞なり。卷七「一一七四」に「霰零《アラレフリ》、鹿島之崎乎《カシマガサキヲ》」とあるも同じ趣なるが、卷二十「四三七〇」に「阿良例布理可志麻能可美乎伊能利都都《アラレフリカシマノカミヲイノリツツ》」とあるによらば「アラレフリ」とよむべきなり。さて「カシマ」の枕詞とせるは「カシマシ」の意にてつづけたりと思はるるが、「キシミ」は「キシム」といふ語にとりてつづけたるものなり。「キシム」といふ語の例は本集になけれど、物の相摩して音高く聞ゆるをいふなれば、その意にて同じく枕詞とせりと見ゆるなり。
○吉志美我高嶺乎 「キシミガタケヲ」とよめり。「高嶺」を「タケ」とよめるは「タカネ」の約なるが如くなれど恐らくは高嶺即ち「タケ」なれば義訓とすべきなるべし。さてこのキシミがたけとは如何なる地なるか、左注の趣によれば、吉野山中のある峯の名といふべきに似たり。されど、今これに擬すべき嶺を知らざるなり。
○險跡 「サカシミト」とよめり。「險」は古來「サカシ」の訓あり。古事記下卷の歌に「波斯多弖能久良波斯夜麻袁佐賀志美登《ハシタテノクラハシヤマヲサガシミト》云々」とありて、この語の例とすべし。「サガシ」といふ語は新撰字鏡に「※[山+堯]」に注して「山高危峻之※[白/ハ]太加志又佐加志」又「嵯峨」に注して「高大之※[白/ハ]佐加志」「〓〓」に注して「山不平之※[白/ハ]、山峻※[白/ハ]佐我志」等とありて、山の險阻なるをいふなり。「サカシミ」はその山の險阻なるによ(624)りてといふ程の意なり。
○草取可奈和 舊訓「クサトルカナヤ」とよみたり。而して古葉類聚抄、神田本、細井本は「和」を「知」とせり。代匠記は舊訓によりて「和の字は十一にも十三にもヤとよめり。ワとヤと同韻相通なり」といへり。その卷十一にありといふは卷十一「二四七八」の「秋柏潤和川邊細竹目人不顔面公無勝《アキガシハウルワカハベノシヌノメノヒトニシヌベバキキミニタヘナク》」とあるが同卷「二七五四」の「朝柏潤八河邊之小竹之眼笶《アサカシハウルヤカハベノシヌノメノ》」とあるに同じものと見ての考にして、卷十三にありといふは「三三四六」の「少子等率和出將見《ワラハドモイザワイデミム》」とある「率和」を舊訓「イサヤ」とよみたるをさせるなるべきが、これら「和」を「ヤ」の音に用ゐたりや否や又別に「ワ」ともいひしが爲にかく書けりや容易く斷言しうべきものにあらず。萬葉考は「草取可奈」と句をきりて「和妹」を「ワギモ」とよめり。されど「ワギモ」は全部假名書か然らずば「吾味」「我妹」とかきてかく書ける例は一も存せざるのみならず「草とるかな」といひては一句の意、成立せず。加之「カナ」といふ形の助詞はこの頃には存したりし證なし。この故にこの説も亦從ふべからず。槻落葉は「可禰手」の誤とせり。かくの如くならば、論なきごとくなれど、證なきことなり。玉の小琴には「和をやと訓は僻事也。わと訓べし。誤字とするもわろし。可奈和と云言心得難きが如くなれど、本此歌は古事記に速總別王の御歌にはしたてのくらはし山をさかしみと岩かきかねて我手とらすもと云歌の轉じたる物也。然は草とりかなわとは彼歌の岩かきかねてと同意なるが詞の轉じたる也……されど、四の句の意は古事記の歌と同くて可奈は不得の意也。哉には非ず。さて和は下に付たる辭にて書紀にいざわ/\と有るもいざ/\とさそふ意なるに同じ。十三卷【三十四丁】にも(625)率和いざわとある也」といへり。この説は破邪の方面は十分にいはれたりと見ゆれど、顯正の方面は果して如何。「わ」は「イサワ」の「ワ」と同じものと見る説は或は可ならむが、「カナ」が如何にして「カネテ」の意をあらはす語となるべきか、これには合理的の説明を下すこと容易ならずと思ふ。
 大體この歌は仙覺が抄に肥前國風土記を引きていへる如く、そこなると殆ど同じ歌といひて可なるものなり。風土記に曰はく(現本にはこの文なし。今の本は略本なるが故か)「杵島郡縣南二里有2一孤山1。從v坤指v艮三峯相連是名曰2杵島1。坤者曰2比古神1、中者曰2比賣神1、艮者曰2御子神1【一名軍神動則兵興】郷閭士女提v酒抱v琴毎v歳春秋携v手登望、樂飲歌舞、曲盡而歸。歌詞曰阿羅禮符縷耆資麼《原本作》(熊)加多※[土+豈]塢、嵯峨紫彌|占《?・苫》區瑳刀理我泥底伊母我堤塢刀縷是杵島曲」とあり。この歌の異なる點は第二句と第四句とにあり。この杵島曲を本歌なりとせば、それをかくあやまれりといふにたやすきやうなれど、その文字をそのままにして正當の理解を得むことは容易にあらざるべし。しかもこれは吉野の詠とすべく、かれは肥前の詠と見え、しかも時代は甲乙なきものなるべければ、彼をここにうつしたりともいひがたし。若し、本居宣長の説の如く、古事記の歌を基とせば、それが、民間に流布して一種の民謡の如くなりて變形し、一は肥前に入りて杵島曲となり一はここに吉野の詠と考へらるるに至りしか。しかもこれを若し民謡的のものとせば、原義が忘れられて、ただ歌曲として傳承せられ、その傳承の間に語の訛を生じてそのまゝにては正しき解釋を加へうべからぬ形となりしならむ。かゝる事は神樂にも催馬樂にも多き事(626)なり。されど、これは一案に止まる。なほ後の君子の精到なる研究に俟つ。さればよみ方は姑く舊のまゝにせり。
○妹手乎取 「イモガテヲトル」なり。これは風土記の杵島曲と同じ語にして意明かなり。
○一首の意 第四句明かならねば正しく解しかねたり。今それを假に杵島曲の第四句に同じ意のものとして釋せば、この吉志美我嶽を登らむとするに險阻なれば、草にとりつきも登りつつあるが、ふとその草にとりつくことをしかねて思はずも妹が手を握りたるよとなり。さて、考にはこの歌の詞書を改めて「肥前國人登杵島(カ)嶺《タケ》宴歌一首」とせれど、もとより武斷にして從ふべからず。
 
右一首、或云、吉野人味稻與2柘枝仙媛1歌也。但見2柘枝傳1無v有2此歌1。
 
○右一首 これは、次々の歌にもかくあれば、三首各につきて注せるものなり。而してその第三首に「若宮年魚麻呂作」とあるを見れば、その歌は仙柘枝の作歌にあらずして仙柘枝を詠ぜる歌なること著し。然らば、この三首の歌ことごとく仙柘枝の作といふにあらずして仙柘枝を詠ずる歌なるが如し。然れども、この一首はその意よりして仙柘枝を詠ずる歌とはいひがたく、この左注によりて仙柘枝に味稻が與へたりといふ歌なりとてあげたること著し。さればこの三首は仙柘枝に關する歌といふ程の意にて一括してあげたるものなるべし。
○吉野人味稻與柘枝仙媛歌也 吉野人味稻は如何なる人か。實在の人か架空の人かも明かな(627)らず。懷風藻の太宰大貳紀朝臣男人の「遊吉野川」と題する詩に「萬丈(ノ)崇巖削(リ)成(テ)秀(テ)、千尋(ノ)素濤逆(ニ)析(ツ)v流(ヲ)、欲v訪2鍾池越潭(ノ)跡(ヲ)1留連美稻〔二字右○〕逢2槎洲1。」といひ、又同書の中納言丹※[土+穉の旁]眞人廣成の「遊吉野川」と題する詩に「栖《スマシメ》2心佳野(ノ)域1、尋2問美稻(ノ)津1」とあり、又「吉野之作」と題する詩に「鍾池越潭豈凡類、美稻〔二字右○〕》逢v仙月冰洲」とある「美稻」即ち味稻ならむ。然らば「ウマシネ」とよむべきか。而してその柘枝仙媛といふは、同じ懷風藻の贈太政大臣藤原朝臣史の「遊吉野」と題する詩二首の一首に「漆姫控v鶴擧、柘姫接v魚通」とある柘媛これなるべく、同じ書の鑄錢長官高向朝臣諸足の「從駕吉野宮」の詩に「在昔釣魚士、方今留鳳公、彈琴撫v仙戯、投江將神通、柘歌泛2寒渚1云々」とあるはその柘枝の詠歌にてもあらむ。又同じ書の左中辨兼神祇伯中臣朝臣人足の「遊吉野宮」の詩に「一朝逢2柘民1、風波轉入v曲」とあるは柘枝をいひて拙なるものならむ。これらによりて味稻と仙女柘枝といふものとの事を略察すべし。即ち高岡諸足の詩に「在昔釣魚士」といへるは味稻の事なるべく柘枝は女の神仙と信ぜられしなるべし。この頃に女仙といふ事の考へられてありしことは日本靈異記上卷に「女人妙2風聲之行1食2仙草1以現身飛天縁」といふ條ありて大和國宇太郡漆部里の漆部造麿の妾が仙術を得て、孝徳天皇御宇に天に登りし由を記せり。(これ蓋し即ち「漆姫」ならむ)さて又續日本後紀に嘉祥二年三月に興福寺大法師等が、天皇の寶算四十を賀し奉るとて、佛像と陀羅尼とを奉り、なほ祝賀の意を表する作物と長歌とを奉りしが、その作物のうちに、吉野女眇通上天而來且去等像」とあるあり、長歌のうちにはそれを詠じて「何志※[氏/一]帝之御世萬代※[氏/一]奉令榮柘之枝由求禮波云々」とていひ又「三吉野熊志禰〔三字右○〕天女(ニ)來(リ)通※[氏/一]其後蒙譴毘禮衣著爾支(628)云、是亦此島根爾許曾岐度那禮」といへり。これには、美稻が「くましね」となりたれど、同じ事を述べしならむ。即ち、その吉野の女仙柘枝といふものが吉野の味稻といふ人と契りしが、天の譴を蒙りてやがて、再び天上に去りきといふことと見えたり。なほこの他の事は次下の歌にていふべきが、今の歌にては上の事柄を考へて略意をうべし。即ち仙女柘枝と味稻と契りし事ありし、その或る時に、味稻が、柘枝に與へたる歌がこれなりといふ傳ありとてあげたるが、この左注の本旨なりとすべし。果して然らば、これはもとより杵島曲とは異にして味稻が、仙女と共にきしみがたけにこもるとき、その險に堪へずしてよめる歌とすべきものなりとす。而してその仙女が、味稻と契るに至りし事情は次下の歌の釋に入りて考へみるべし。
○但見2柘枝傳1無V有2此歌1。 これは上の説によりてここにあげたれど、柘枝の傳を見るに、この歌を載せずといふことをことわれるなり。これによりて見れば、古の世にその仙女柘枝の傳といふもの行はれてありしならむと想像せらる。されど諸の古書のうちにその書名をのせず、又その佚文と覺しきものも見ず。されば、頗る早き時代に既に佚せしものならむ。ここに考ふべきは支那に柘枝《シヤシ》舞といふあり、又柘枝詞といふ文章ありて、ここに文字似たれば、これの話も支那傳來ならむかの疑あり。されどそれに關する詩文は唐代に至りて見え、六朝のものを見ざれば、この時代以前にわが國に入りて、この頃既に一の傳説となりたりとは考へられず。而してそれはその名目の示す如く、一種の舞曲にして、妓のこれを演ぜしものの如し。白氏の「柘枝妓」の詩に曰はく「平舗2一合錦筵1開、連撃2三聲1畫鼓催、紅蝋燭移桃葉起、紫羅衫動柘枝來、帶垂2鈿胯1(629)花腰重、帽轉2金鈴1雪面廻看即曲終留不v住、雲※[風+票]雨送向2陽臺1、」と、又「看2常州柘枝1贈2賈使君1」の詩に「莫v惜2新衣1舞2柘枝1、也《マタ》從《マカス》2塵汚汗霑(ノ)垂(ニ)1、料君即却歸v朝去《サラマシ》、不v見銀泥|杉《ノ》故《カラン》 時(ヲ)」又「柘枝詞」に「柳闇(ノ)長廊合、花深小院開、蒼頭舗2錦褥1、皓腕捧2銀杯(ヲ)1、繍帽珠稠(ク)綴、香衫袖窄裁、將軍※[手偏+主]2毯杖1看d按《トリ》2妬枝1來u」とあるを見れば、錦の褥筵を鋪き、鼓を撃ちてはやし、將軍と目するものが、毯杖をついて、柘枝をとり出て來て舞ふ妓を見るものにしてその妓は金鈴をつけ珠玉を綴りたる繍帽を冒り、紫羅に銀泥を以て畫ける長袖の衫を着き、鈿せる袴に帶を垂れたる姿なりしなり。されば、この柘枝の譚とは柘枝といふことのみ似て他は更に關係もなきものたるや明かなり。
 
396 此暮《コノユフベ》、柘之左枝乃《ツミノサエダノ》、流來者《ナガレコバ》、梁者不打而《ヤナハウタズテ》、不取香聞將有《トラズカモアラム》。
 
○此暮 舊訓「コノクレニ」とよめり。玉の小琴には「コノユフベともよむべし」といへり。「暮」は「クレ」とよむべき文字なれど、本集にては卷一「五」の「長春日乃晩家流《ナガキハルビノクレニケル》」卷三「二七八」に「勝野原爾此日暮去者《カチヌノハラニコノヒクレナバ》」卷十七「三八九五」に「日能久禮由氣婆家乎之曾於毛布《ヒノクレユケバイヘヲシゾオモフ》」の如く主として動詞として用ゐられ、又然らずして體言になれるも卷四「五〇九」に「明晩乃旦霧隱鳴多頭乃《アケクレノアサギリガクリナクタツノ》」卷十四「三三五五」に「己能久禮能等伎由都利奈波《コノクレノトキユツリナハ》」同「三四〇二」に「比能具禮爾宇須比乃夜麻乎古由流日波《ヒノクレニウスヒノヤマヲコユルヒハ》」卷八「一四二八」に「草香乃山乎暮晩爾吾越來者《クサカノヤマヲユフクレニワガコエクレバ》」とある如くいづれも用言としての意と共に「暗き」意の方に用ゐて時刻をさす方には用ゐざりしが如し。而して時刻の方は卷五「九〇四に「夕星乃由布弊爾奈禮婆《ユフヅヅノユフベニナレバ》」卷十四「三五七〇」に「可母我鳴乃左牟伎由布敝思奈乎波思努波牟《カモガネノサムキユフベシナヲバシヌバム》」卷十五「三七六七」に「多麻之比波(630)安之多由布敝爾多麻布禮杼《タマシヒハアシタユフベニタマフレド》」等すべて、「ユフベ」といへり。さればここも「ユフベ」とよむをよしとす。
○柘之左枝乃 「ツミノサエダノ」とよむ。「ツミ」は上にいへる如く、今いふ山桑といふ木なり。それの枝をいふ。「左枝」の「サ」は接頭語なるが、場合によりては、その「狹」又は「小」なることを示す意もあり、又ただ、語を美しく感ぜしむるに止まる場合もあるべし。ここには二者、いづれもはたらけりと見ゆ。卷二十「四五〇一」に「等伎波奈流麻都能左要太乎和禮波牟須婆奈《トキハナルマツノサエダヲワレハムスバナ》」などその假名書の例なり。柘の左枝といへる例は卷十「一九三七」に「明來者柘之左枝爾暮去者小松之若末爾《アケクレバツミノサエダニユフサレバコマツガウレニ》」あり。
○流來者 舊訓「ナガレコバ」とよめるを童蒙抄に「ナガレクルハ」とよめり。「來者」を「コバ」とよむ時は假想していへることとなり、「クルハ」とよむ時は事實としてよめる事となる。その當否は後に論及すべし。
○梁者不打而 「ヤナハウタズテ」とよむ。「梁」字日本紀神武卷の自注に「梁此云2椰奈1」とある如く、古來「ヤナ」とよめり。和名類聚鈔に「毛詩云梁音良夜奈魚梁也。唐韵云※[竹/措]士角反漢語抄云夜奈須取v魚箔也」とあり。これは今も地方によりては行はるる「ヤナ」にして、專ら鮎魚を捕ふる爲に構ふる設備なり。即ち淺くして瀬の荒き川筋に構ふるものにして、川に杭を打ちて、魚の道を止め、一部を開きて、竹簀を平面に張わわたし、魚のその簀の上に止まるやうにするものなり。かくの如くに梁を構ふることを古今通じて「打つ」といへるは杭を打ちて構ふるものなればなり。(631)本集にてはここの外に卷十一「二六九八」に「安太人乃八名打度瀬速《アタビトノヤナウチワタスセヲハヤミ》」ともあり。これも吉野川の流のうち宇智郡阿陀に梁を打ちしなり。(安陀人は日本紀神武卷にアタノ苞苴擔云々とある如く、漁人の一部落なり)芳野川は今も鮎の名所なるが、古にこの河に梁を設けしことこれらにて知られたり。なほ懷風藻の兵部卿兼左右京大夫藤原朝臣萬里の「遊吉野川」の詩の中に「梁前招吟古、峽上※[竹/若]聲新」とあるも亦芳野川に古、梁のありしを語るものなり。これを釋清潭の釋に「梁前、山中に閣か又は堂か有るべし。然らずんば梁の有る筈無し」といひたれど、これは梁字を「ウツバリ」と誤認せし爲にして「ヤナ」とよむべきを顧みざるによるなり。さてこの句の文字通りの意は梁をば打たずしてといふなり。なほその本意は次の意と共に説くべし。
○不取香聞將有 「トラズカモアラム」とよむ。文字通りの意は明かなるが、何を取らずといへるにか、ここに上の句と合せてその意を考ふべし。代匠記は「若、今も柘の枝の流れ來る物ならば魚梁は打捨て先取擧こそせめといへるなり」といへり。槻落葉はただ「梁は打ずして魚はとらずかあらんと也」といひ玉の小琴は「魚を不取かもなり」と云ひたるのみにていづれも眞意は明かならねど、恐らくは代匠記と同じ意ならむ。考は「今も柘の枝の流來る事あらんに梁打てとどめんや、又とどめとらであらんやとゆくりなくおもふまゝをいひつづけしなり」といひたり。略解は「或人云、此歌の意、昔の人はよくこそ梁を打て柘杖を得たれ、今時は梁はうたずてあれば、たとひ柘の流來るとも取得ざらんかと也といへり」といひ、古義、註疏これに從へり。攷證は又「この夕べに吉野川より柘の小枝の流れ來りとも梁を打ずし、その枝をとらずかあらん」といへ(632)り。童蒙抄は第三句のよみ方普通と異なるが故にその釋も異なり。曰はく「此夕に柘の枝の流れくるは河上に梁を不v打故、柘枝のかく流れくるかとの意に聞ゆる也」といへり。ここに先づ、童蒙抄の説を考ふるに、その如くよみ、かくの如くに釋するは不合理といふべからす。然れども、かくては現實にその、柘枝の吉野川に流れ來るを見てよめりといふべきものにして、仙柘枝歌といふ題目には合致せず。柘枝はここには現實に流れ來てあるものにあらざるべければ、このよみ方とその釋とはとるべからざるなり。次に代匠記の意見如何といふに、「とる」といふ語は魚をとるといふ意にもその流れ來る柘枝をとるといふ意にもとらるべきものなれば、「不取香聞將有」の句のみにてはいづれとも決しがたき筈なり。かくてその上の「梁者不打而」の意によりてこの下の句の意も導かるべし。然るに「梁は打たずて」といふ句をば「魚梁を打捨てて」と釋するは不條理なり。それは、「打たずて」といふ語をば、打ち捨てて」とは釋すべからねばなり。この「打つ」は梁を構ふることなるは明かなるが、その梁を構ふるには一定の準備と時間とを要するものなれば、その流れ來る柘枝を見て急劇に梁を打ちうべきものにあらず。さればこれらの釋は成立せず。從ひて、下の「とる」も魚をとるにあらざること明かなり。かくして考ふるに、「取らず」といへるは上に「流れ來ば」と假想せる拓の枝なるべきこと明かなり。かく柘の枝の流れ來る事を假想せるなれば、下にそれを「取らずかもあらむ」と疑問にせるなり。さて又その「取らずかもあらむ」と疑問にせるは誰人が、取らぬにかといふに、その柘枝の流れこばと假想せる人、即ちこの歌を詠せる人ならざるべからず。然らば「梁は打たずて」といへるは如何な(633)る意かと見るに、梁が現實に打ちてあらざる故の語なることは明かなるが、その梁が若し打ちてあらば、柘の枝がそれに止まるべきに、止まるべき縁のなければといふ意なれば、即ち、梁を打たずしてあれば、その柘枝をとりえざらんかといふ意なり。即ち
○一首の意 この夕暮にこの吉野川に柘の枝の假りに、流れ來ることありとしても今は梁を打たずしてあれば、それを取り得ぬ事ならむかといふなり。かくてその反面を顧れば、吉野川に梁を打ちてある時に或る夕暮に柘の枝の流れ來てその梁にかゝりたるを、或る人がとりたる事ありし由を語れるものなり。かくて考ふるに、この柘枝といふものが、即ち女仙柘枝なるべく、その梁を打ちたりし人は味稻なるべく、上述のあらゆる事共を綜合して推測せば、恐らくは次の如き譚のありしならむ。
 吉野の漁人名は味稻といふ男、吉野川に梁を打ちて鮎を捕ふるを例とせしが、ある夕暮に上流より柘の枝の流れ來てその梁にか上りしをば、珍らしきものと思ひて家に持ちかへりて床の邊に置きしに化して人となりぬ。(かくの如き譚は古に少からず。古事記にある美和大物主神が丹塗矢と化して、三島湟咋の女勢夜陀多良比賣の手に持來され、化して男となりて、契りたる物語、釋日本紀に引ける山城國風土記に玉依媛が石川瀬見小川の邊に遊べる時に、川上より丹塗矢の流れ來りしをとりて床邊に置きしに、それは賀茂大神にてありしが、契りて男子をうめり。これ即ち賀茂別雷命なりといへり)かくて、柘枝の化せる女は實は神仙にして天の譴を蒙りて一時下界に下りしものなりしが、後にそれもゆるされて再び昇天せしなり。(この邊(634)は上の長歌にいふ所と一致せず、姑く竹取物語のかくや姫の傳説、羽衣の傳説、又白鳥傳説とも似たる點ありしものとして考ふ)といふ如き傳説ありしものと推測せらる。而してそれらの事を叙したるものが柘枝傳といふ書にてありしならむ。
 
右一首。此下無v詞、諸本同。
 
○ この左注の「此下云々」の七字細井本以外の古寫本に無き所なり。これは蓋し萬葉集の原本の左注にあらずして、後人が、この三首の左注を見渡して、この下に本來注の詞なかりしものなる由を注したるものなるべし。
 
387 古爾《イニシヘニ》、梁打人乃《ヤナウツヒトノ》、無有世伐《ナカリセバ》、此間毛有益《ココニモアラマシ》、柘之枝羽裳《ツミノエダハモ》。
 
○古爾 「イニシヘニ」とよむ。意明かなり。
○梁打人乃 「ヤナウツヒトノ」とよむ。梁打つといふ事は上にいへり。梁打つ人とは梁を打ちて鮎をとる事をする人なり。ここは、上來いへる味稻の事をさしていへるは明かなり。
○無有世伐 「ナカリセバ」とよむ。「伐」を「バ」の假名にせるはその昔の入聲を略せるなり。かかる例はこの卷になほ二處あり。「四〇四の「無有世伐《ナカリセバ》」「四〇五」の「種有世伐《マケリセバ》」又卷十五「三五八三」に「眞幸而伊毛我伊波伴伐《マサキクテイモガイハハバ》云々」ともあり。「ナカリセバ」といふ語の例はこの卷「四〇四」の「神之社四無有世伐《カミノヤシロシナカリセバ》」の外、卷十五「三七三三」に「和伎毛故我可多美能許呂母奈可里世婆《ワギモコガカタミノコロモナカリセバ》云々」といふあり。「無し」と(635)いふことを假想して條件とせるなり。
○此間毛有益 舊訓「コヽモアラマシ」とよめるが、古葉略類聚鈔には「コノマモアラマシ」とよめり。代匠記には「此間をこことよむ事勿論なり。今按第七第十二にはこのまと字のままにもよめれば、今はこのまとよむべきか。このまは此あひたにて今と云に同じ」といへり。略解はよみ方は舊のまゝにて「ここもあらましは此比までもあらんと也」といひ、なほ宣長の説として「ここにもあらましとよみて云々」といへり。古義は宣長の説によりて「コヽニモアラマシと訓べし」といひ、註疏これに從へり。又考は「コノゴロモアラマシ」とよみて、「今本の訓はいさゝかたらず」といひ、槻落葉は「コノトモアラマシ」とよみて「此間の二字集中すべて、こことよみたれど、この歌にては、こことよみては協はず。故《カレ》このとも〔四字傍点〕とよみつ。間をととよむは保杼の略。卷十によのふけぬ刀爾などあるもほどにの略也」といひ、その頭に注して「舊説に刀爾《トニ》を時爾《トキニ》の略也といへるはとらず」といへり。攷證は「イマモアラマシ」とよみて「こは義訓していまとよむべき也。上に古《イニシヘ》とあるにむかへたる語あれば、必らずいまといはでは聞えがたし。集中に今代をこのよ、今夜、今夕、此夕などをこよひとも訓て今と此とを通はしけるにても、ここはいまもあらましと訓べきをしるべし」といへり。按ずるに、ここの意は今も有らましといふ程の意なれば、攷證の説最も當を得たる如くなれど、「此間」を時間上の語にあてたる例は古今かつて聞かぬところなるのみならず、本集にある「此間」の他のすべての例二十(總索引をみよ)皆「ココ」とよみて今とよまではかなはぬ所一もなきのみならず、類聚名義鈔にも「此間」に「ココ」の訓をあぐれど、「イマ」の訓(636)を加へず。されば、「イマ」とよむ説には賛しかねたり。次に「此間」を「このごろ」とよみうべき例も他に一もなし。又「このと」といへる如き例も亦古今にきかぬ所なり。されば、「ここ」とよまむより外に方法なかるべし。又「ココモアラマシ」とよみて可なりといふ説もあれど、「ココニモ」の意を「ココモ」といへる例は一も存せざるのみならず「ソコモ」といひて「ソコニモ」の意をあらはしたる例もなし。かくては語をなさねば本居宣長の説によりて「ココニモアラマシ」とよむべきなり。「此間」の二字を「ココニ」とよめるものは卷二「二二六」に「吾此間有跡誰將告《ワレココナリトタレカツゲケム》」卷三「二八七」に「此間爲而家八方何處《ココニシテイヘヤモイツク》」卷四「五三四」に「遠嬬此間不在者《トホヅマノココニアラネバ》」「五七〇」に「率此間行毛不去毛遊而將歸《イサココニユクモユカヌモアソビテユカム》」「五七四」に「此間在而筑紫也何處《ココニアリテツクシヤイヅク》」等例少からず。されば、「ココニ」とよむべきなり。なほ「ココニアリ」といふ語を用ゐて字餘になれる句は卷十五「三七五七」に「安我未許曾世伎夜麻故要弖許己爾安良米《アガミコソセキヤマコエテココニアラメ》」あり。「あらまし」は假想する語法なるが、ここの「まし」は終止せるにあらずして、連體格として下の柘之枝を装定せるなり。かくの如き例は卷二「一七一」の「我日皇子乃萬代爾國所知麻之島宮婆母《ワガヒノミコノヨロヅヨニクニシラマシシマノミヤハモ》」卷六「九四八」の「馬名目而往益里乎《ウマナメテユカマシサトヲ》」などなり。
○柘之枝羽裳 「ツミノエダハモ」とよむ。「柘の枝は……も」といふ如くにして「は」にて一定の陳述を導き「も」にて終止する語法なるを以てその中に含蓄ありて感動の餘韻をあらはせる語法にして卷二の「一七一」の歌にその例あり。
○一首の意 古、味稻といふ人ありてこの吉野川に梁を打ちて柘の枝をとりてそれを娶りて妻とせし由なるが、その梁打つ人の無かりしならば、その柘の枝が或は現在わが許にもあらまし(637)と思はるるものを古にそれを取りたりしが故に今は如何ともしがたきことよとなり。蓋しこれらは梁に柘の枝のかゝりてとられて美し人に化たりしその傳説に因みてよみしならむと思はるゝなり。
 
右一首 若宮年魚麻呂作。
 
○若宮年魚麻呂 「若宮」は氏にして「ワカミヤ」とよむべきが、この氏は新撰姓氏録に見えず。年魚は「アユ」とよむこと古事記にも和名鈔に見えたれば、この名は「アユマロ」とよむべし。この人の事は史に見えず。この人の歌は集中ただこの一首のみなれど、この次の覊旅歌の左注に「若宮年魚麿誦v之」と見え、卷八の櫻花歌(「一四二九、一四三〇)の左注に「右二首若宮年魚麻呂誦之」と見えたり。
 
※[羈の馬が奇]旅歌一首并短歌
 
○※[羈の馬が奇]旅歌 ※[羈の馬が奇]旅歌の名目はこの上「柿本朝臣人麿※[羈の馬が奇]旅歌八首」(二四九−二五六)に見えたり。この歌淡路島にての詠と見ゆるが作者見えず。なほ左注にいふべし。
 
388 海若者《ワタツミハ》、靈寸物香《アヤシキモノカ》、淡路島《アハヂシマ》、中爾立置而《ナカニタテオキテ》、白浪乎《シラナミヲ》、伊與爾回之《イヨニメグラシ》、座待月《ヰマチヅキ》、開乃門從者《アカシノトユハ》、暮去者《ユフサレバ》、鹽乎令滿《シホヲミタシメ》、明去者《アケサレハ》、鹽乎令干《シホヲヒシム》。鹽左爲能《シホサヰノ》、浪乎恐美《ナミヲカシコミ》、淡路島《アハヂシマ》、礒隱居而《イソガクリヰテ》、(638)何時鴨《イツシカモ》、此夜乃將明跡《コノヨノアケムト》、侍〔左○〕從爾《サモラフニ》、寢乃不勝宿者《イノネガテネバ》、瀧上乃《タキノヘノ》、淺野之雉《アサヌノキギシ》、開去歳《アケヌトシ》、立動良之《タチサワグラシ》。率兒等《イザコドモ》、安倍而※[手偏+旁]出牟《アヘテコギイデム》。爾波母之頭氣師《ニハモシヅケシ》。
○海若者 「ワタツミハ」とよむ。「海若」とは支那にての海神の名なるを、わが國の海神の名にてよみたるなり。これは上、「三二七」の歌に既に出でたり。
○靈寸物香 舊訓「アヤシキモノカ」とよみたるを槻落葉に「クスシキモノカ」とよめり。この「靈」字につきては上の「詠不盡山歌」(三一九)にも「靈母座神香聞」とありて、そこにも舊訓「アヤシクモ」とよみ槻落葉は「クスシクモ」とよめり。そこにて既にいへる如く、「アヤシ」とは「あや」といふ驚きの語より起りたるものにして、それが動詞となれば、「アヤシム」といふ語となるものにしてただ不思議といふに止まる。「くすし」は神秘なるものにして、驚嘆鑽仰の意を表したるものなり。而して靈は上の海若に對してその神靈の作用の靈妙なることの意を以てかけるものにして「クスシ」とよむべきものなるが如し。されど類聚名義抄に靈に「アヤシ」の訓あるを見れば「アヤシキ」にても可ならむ。然らばこれはただその靈妙の作用に驚きたる意を主とすべきなり。「カ」はここは終助詞にして感動の意を示すものなり。かくてこの二句を前提として次下の事をいはむとするなり。
○淡路島 「アハヂシマ」これは今もいふ淡路島なり。この島は古事記に「淡道之穗之狹別島」といひ、又淡道島と書けるが日本紀には專ら淡路島とかけり。この島の事は今更ことごとしくい(639)ふまでもあらざるべし。
○中爾立置而 「ナカニタテオキテ」とよむ。これは淡路島が、紀伊、和泉、攝津、播磨と四國との相對せる海中の島にして東に大阪灣を控へ、西に瀬戸内海あり、南に紀伊水道を以て太平洋に臨み北は僅かに明石海峽を隔てて攝津、播磨に向へる地位に在りて、その淡路島なくば、紀伊水道、大阪灣、瀬戸内海一帶の海とあるべき地にそれらの中間に屹立して、三者をば、由良海峽、鳴門海峽、明石海峽の三によりて區劃を明かに示したるをば、海若の靈妙のしわざとして、この海中にこの島を立ておきたりと見たるなり。
○白浪乎 「シラナミヲ」なり。「白浪」といふ語は卷一より屡見えたり。この白浪をば、考に滿汐の波なりといへり。次の語を見るにこの説當れり。
○伊與爾回之 舊訓「イヨニメグラシ」とよみたるを槻落葉は「イヨニモトホシ」とよめり。「イヨ」は今いふ伊豫國なり。古事記日本紀には伊豫とかくを普通とすれど、古事記には又「伊余」(允恭段)ともかけり。而して本集卷二「九〇」の左注にはここと同じく「伊與」と書けり。「回之」は「メグラシ」とも「モトホシ」ともよみうべき文字なるが「もとほす」といふ語はそれの回りをとりまくことを主とするものなればここには當らず。ここはただその邊までめぐり行かしむるものなれば、「メグラシ」とよむべきなり。但「メグラス」といふ語の假名書の例は本集には見えず。この語は「メグル」といふ語をば、更にサ行四段に活用せしめしものなるが、その「メグル」といふ語は卷十七「三九四四」に「乎美奈敝之左伎多流野邊乎由伎米具利吉美乎念出《ヲミナヘシサキタルヌベヲユキメグリキミヲオモヒデ》」卷十七「三九九三」に「己藝米具利(640)美禮登母安可受《コギメグリミレドモアカズ》」卷十八「四〇四六」に「多流比女能佐吉許伎米具利《タルヒメノサキコギメグリ》」卷二十「四三四〇」に「由伎米具利可比利久麻弖爾《ユキメグリカヘリクマデニ》」同「四四〇九」に「安里米具利和我久流麻泥爾《アリメグリワガクルマデニ》」同「四三三一に「安里米具利事之乎波良波《アリメグリコトシヲハラバ》」同「四三三九」に「久爾米具留阿等利加麻氣利《クニメグルアトリカマケリ》」卷十九「四一八七」に(眞可伊可氣伊許藝米具禮婆《マカイカケイコギメグレバ》」などあり。而して、卷十七「三九八五」に「伊美都河泊伊由伎米具禮流多麻久之氣布多我美山者《イミヅカハイユキメグレルタマクシケフタガミヤマハ》」とある「メグレル」は卷六「九三一」の「四良名美乃五十開回有住吉能濱《シラナミノイサキメグレルスミノエノハマ》」とある「回有」と同じ語なれば、「回」を「メグル」とよむこと不可ならず。然らば、ここを「メグラシ」とよむことも亦不可にあらざるべし。さてここに「白浪を伊與にめぐらし」といへることは如何なる事かといふに、これも海神のしわざとしていへるなれば、事實は白浪が伊豫までめぐり至ることをいふものならむ。その白浪はいづこより伊豫までめぐり至るといふにかと考ふるにその淡路島の立てるによりて生じたる白波をさせることは語の上より見て疑ひあるまじ。然らば、その實際の事實は如何。考に曰はく「紀伊と土佐の間よりさし入潮は淡路島の南と北より西へさすなり。扨其の南なるは西の方伊豫を廻りてやみ、北なるは備中にてとどまりぬ。夫より西は西の海のしほの向ひ來て相せくなり」といへり。これは事實に合せりと思ふ。今小倉伸吉氏の著「潮の理」に説く所を見るに、曰はく「瀬戸内海の潮汐は甚だ複雜なり。瀬戸内の潮汐は主に紀伊、豐後兩水道より浸入する潮浪によりて支配せらる。……紀伊水道より入る潮浪は極めて複雜なる現象を呈す。同時潮時(同時に高潮となる點を結びつけて同時潮線といふ。その時數は太陽が標準子午線を經過してよりの太陽時數にて示す)六時に此水道に入る潮浪は友ケ島水道を經、七時半(641)に明石海峽に達す。之れより進行極めて緩となり、十時に漸く播磨灘の中央に達す。之れより西に向つて進み十一時半に備讃瀬戸に於て豐後水道より來る潮浪と相合す」と。備讃海峽とは、大體、讃岐の三崎と稱する半島(多度津の西にあり)と備後の鞆津とを結ぶ線に當る海峽をいふものにして、日本地理風俗大系に曰はく「この半島(三崎)は備後灘と鹽飽瀬戸との分界を成し、豐後水道と紀伊水道とから入り込む潮流はこの半島の東に在る粟島附近で出會つて進行が止る」とあり、又、曰はく「内海の潮流は各所において甚だ急激で、舟航に困難を及ぼすこと少くない。これ、内海は外洋の潮水が滿干に感應して潮汐に變化を起し、この潮汐が、比較的擴大な海中から輻輳して來り、狹い瀬戸を通過するため、勢ひ潮流が急激になる。この漲潮は備讃の粟島附近で兩潮が合し、東西に分れ太平洋に去るのである」とあり。されば、この東よりの潮浪は水島灘にて終り、三崎半島の西なる燧灘(これ伊豫の海なり)まで至らざるものなれば、「伊豫にめぐらし」といへる點は少しく誇張せる疑あれど、これ古、瀬戸内を航せしものの實地に驗せし智識に基づきしことは疑ふべからず。しかもなほ考ふれば、地理風俗大系にいへる如くこの水島灘燧灘の界にて相合する潮流はここより再び分れて各もとの道を經て還流するものなるを、學問的に精査せざるときは、その合致點より豐後水道の方に還流する潮流をば東より來れる潮流の更に西に進行せるものと誤認し易きはいふをまたず。されば、かゝるみ方よりすれば、これまた當時の智識としては當然の事といふべし。かくてこれは恐らくは當時の航海上の智識かくの如くにありしものならむ。この伊豫を伊與の二名州の義にして四國なりと(642)いふ説あれども四國全體をさすとせば、淡路島を中に立て云々といふ必要なき筈なり。この故にこの伊與は今の愛媛縣の地にしてそこに潮流の及ぶといへるなり。
○座待月 「ヰマチツキ」なり。舊訓「ヰマテツキ」とあるは「チ」を「テ」とあやまれるものなり。これは次の「アカシ」の枕詞なるが、後世には十八夜の月を「ゐまちの月」といふによりてそれをさすといふこと普通の説なれど、攷證にはこれを非として、「この枕詞は座《ヰ》とは居《ヲル》といふと同じく、居《ヲル》とは上【攷證上四丁】にいへるが如く不寢《イネヌ》して夜を居明《ヰアカ》す意なれば、ここの座待《ヰマチ》も不寢《イネズ》して居明《ヰアカ》し、月を待意にて、さて夜を明《アカ》すを地名の明石《アカシ》にとりなしてつづけたるにて何日ともかぎらず、有明の月をいふなるべし」といへり。この説をよしとす。
○開乃門從者 舊訓「アカシノトニハ」とよめり。されど、「從」は「ニ」とよむべき字にあらず、考に「アカシノトユハ」とよめるをよしとす。「開」字を「アカシ」とよむことは漢字の本義によれるにあらずして、わが國にての事と見ゆ。この「開」を以て夜のあくることに用ゐたるは本集卷五「九〇四」の「明星之開朝者《アカホシノアクルアシタハ》」の歌の「開去歳《アケヌルトシ》」卷四「五四八」の「今夜之早開者《コノヨラノハヤクアケナバ》」卷六「九一三」の「開來者朝霧立《アケクレバアサギリタチ》」など少からず。これよりして夜をあかすといふ意によりて開をアカシとよむべく用ゐたるならむ。さてこの「アカシ」の「ト」は、上にもいへる明石海峽をさす。瀬戸内海東部の海水は明石海峽と鳴戸海峽との二門によりて太平洋より出入するものなれど、鳴戸海峽は潮の理に「鳴海航門は古來潮流の激烈なるを以て知らる。この航門は極めて狹小なるを以て潮流は單に内外兩海面の差によりて支配せらる」といへる如く、ここよりは潮流の西に及ぶことなきなり。されば、こ(643)こにいへることまた事實に即せるや明かなり。
○暮去者 「ユフサレバ」とよむ。この語は卷一より屡いでたり。暮になればなり。
○鹽乎令滿 舊訓「シホヲミテシメ」とよみたるを童蒙抄に「シホヲミタシメ」とよみ槻落葉に「シホヲミタセ」とよみたり。按ずるに「ミテ」は下二段活用にして本集に假名書の例あれど、それは「ミタス」意の語なれば、それを更に「ミテシメ」といふことは不可なり。されは四段活用の「ミツ」の方によるべし。「令滿」は「ミタセ」とも「ミタシメ」とよむべきなり。されど、「令」の意の複語尾にサ行下二段活用なるもの當時行はれたりといふ證を知らねば、「ミタシメ」とよむをよしとす。「鹽」は潮をさすなり。さてここも、その潮の滿つることをば、海神のしわざと見たれば、かく「みたしめ」とはいへるなり。
○明去者 「アササレバ」とよむ。童蒙抄に「アケヌレバ」とよみ、槻落葉には「アケサレバ」とよみ古寫本にもしかよみたるもあり。「明」を「あさ」にあつることは、卷二「一六七」の「明言爾御言不御問《アサゴトニミコトトハサズ》」にその例あり。されば上の三訓いづれも理由ありといふべし。然るに又本集卷十九「四二〇七」に「安氣左禮婆榛之狹枝爾《アケサレバハギノサエダニ》、暮左禮婆《ユフサレバ》、藤之繁美爾《フヂノシゲミニ》」といふありて、ここと趣似たれば、それによりて、「アケサレバ」とよむべきか。さて其の意は「アケ」を體言として取扱へるものと見るべきなり。
○鹽乎令干 舊訓「シホヲホサシメ」とよみたるが、考は「シホヲヒサシメ」玉の小琴は「シホヲヒシム」とよみたり。さて考ふるに「干」は「ホス」とよむべけれど、「潮ヲホス」といへること古今に例なし。潮には「ヒル」といふ一段活用の語を用ゐること古今一轍なり。次に「ヒサシメ」とよむことを主(644)張せむは「ヒサ」といふ活用を有する語を存せしめざるべからず。されどかゝる語はこれ亦古今に聞かず。ここに於いて玉の小琴の説有力となる。曰はく、「しほをひしむと訓切て上のあやしき物かと云るを結ぶ也」と。げにここにて一段落とすべきなり。即ちこれ海若の靈妙の作用を述べたる一段なり。さてここに「結ぶ」といへることを文法上の係結と誤解すべからず。上の「か」は終助詞なれば、文法上それにて一句となれるなり。ただ、その意が、ここと照應して一段落となれるをいへるに止まるなり。さて上の四句、暮には必ず潮滿ち、朝には必ず潮ひるといふ事にあらず、四句一意をなして、朝暮に時を定めて潮汐の作用を起さしむといへるなり。即ち潮汐は普通一日に二回の昇降をなし、從つて、潮流も亦普通一日に二回其の方向を轉ずるものなればなり。而して、その昇降の間隔は平均十二時二十五分なれば、正しく一定の時間一日に二回の潮流あるにあらずして毎日約五十分づつおくるるものなり。昭和七年の暦にていへば、一月一日の干潮は午前三時五十五分、滿潮は午前十時四十五分、次の干潮は午後五時十分、次の滿潮は午後十二時二十五分(東京にての觀測)なるに、四月二十五日には干潮は午前一時三十五分、滿潮は午前六時五十分、次の干潮は午後二時十分、次の滿潮は午後九時四十分なるを見よ。即ちこれ、その朝夕に滿干の事の行はるといふことをうたへるに止まるを見るべし。
○潮左爲能浪乎恐美 「シホサヰノナミヲカシコミ」とよむ。「シホサヰ」は卷一「四二」に既に出でたる語にして、湖のさし來る時海の鳴るを云ふといひ、日本式の漁舟などにてそれに向ひて航することは頗る危險なるものなりといふこと、正宗敦夫氏がその地の漁夫にきく所なりとて語(645)られたり。而してそはこの潮流の一部兒島灣附近に於ける最近の實話なり。即ちこの句にいふ所は、その潮左爲の浪に向ひて航することは慎むべき事なるによりて、淡路島のある地に碇泊してありといふことをいはむとするなり。
○礒隱居而 舊訓「イソカクレヰテ」とよみたるを考に「イソカクリヰテ」とせり。卷六「九五一」には「石隱加我欲布珠乎《イハカクリカガヨフタマヲ》」卷十四「三三八三」に「宇麻具多能禰呂爾可久里爲《ウマクタノネロニカクリヰ》」とあり。「隱」は古語、四段活用なりしが故に考の説をよしとす。ある礒に船をとどめて、そこに隱れゐて、よき潮時をまつことならむが、いづこにゐたるか、次下の句に淺野の瀧をいへれば、西海岸の北方、富島《トジマ》若くは室津の附近なりしならむ。
○何時鴨 古來「イツシカモ」とよめり。「何時」は「イツ」「鴨」は「カモ」なれど、その間に「シ」の間投助詞を加へよむなり。かかる例少からず。卷十「一八七三」に「何時鴨此夜之將明《イツシカモコノヨノアケム》」卷二「二三〇」に「何鴨本名言《ナニシカモモトナイヘル》」卷四「六八九」に「奈何鴨目言乎谷裳幾許乏寸《ナニシカモメゴトヲダニモココダトモシキ》」「イツシカ」は待つ意をあらはす語なり。
○此夜乃將明跡 「コノヨノアケム」とよむ。同じ語の例は上に引ける卷十「一八七三」の歌にあり。八音を一句とせるなり。これは早くこの夜の明けよかしと待ちわぶる心をいへるなり。
○侍從爾 舊本「待從」として「マツヨトニ」とよみ、多くの古寫本及び拾穂抄は「マツヨリニ」とよみ、代匠記は「マツカラニ」とよみ、考は「マツママニ」とよめり。玉の小琴は「從を契沖はからと訓れどわろし。是は候の字の誤にてまちまつにと訓むべし。又二字をさもらふとも訓べし」といひ、槻落葉は「侍候爾」の誤として「サモラフニ」とよみたり。然るに誤字ありといふことは容易く信ぜ(646)られず、又細井本と無訓本の重複の分に「待」を「侍」とせるのみなるが、これは信用すべき價値に乏しきものなれば、下に論ぜむ。かくて、卷十一「二五〇八」に「皇祖乃神御門乎懼見等侍從時爾《スメロロギノカミノミカドヲカシコミトサモラフトキニ》」とあるを温故堂本には「待從」とせり。かかれば、「待從」若くは「侍從」の文字はもとよりのものにしてこれを改むるは武斷なるべし。かくて「マツヨトニ」「マツヨリニ」といふことは語をなさねば、從ふべからず。又「從」字を「カラ」又は「ママ」とよむも道理なきことなれば、從ふべからず。次に「待從」「侍從」のいづれよからむかと考ふるに、本集には「待」と「侍」と紛れたるも少からず。卷六「九四九」の左注に「此時宮中無|待〔右○〕從及侍衛」とある「待從」は「侍從」の誤なり、又卷二、「一二九」の詞書の「大津皇子宮|待〔右○〕石川女郎」とあるは「侍」たること著し。又卷十三「三三二六」に「遣之舍人之子等者行鳥之群而待《ツカハシシトネリノコラハユクトリノムレテサモラヒ》」とある「待」も「侍」の誤なり。かくて「待從」といふ熟字は和漢に無き處なれば、「侍從」の誤なること殆ど疑ふべからず。されば今は「侍從」を正しきものと推定して、さて次にそのよみ方は如何といふに、卷十一なると同じく「サモラフ」とよむべきなり。「侍」一字にて「さもらふ」といふ語にあたるが、「從」はその意を確めむが爲に加へたるものならむ。官名の侍從もその意なることもとより明かなり。さて「サモラフ」といふ語は卷二「一八四」に「雖伺侍《サモラヘド》」「一九九」に「雖侍候佐母良比不得者《サモラヘドサモラヒエネバ》」卷二十「四三九八」に「安佐奈藝爾倍牟氣許我牟等佐毛良布等和我乎流等伎爾《アサナギニヘムケコガムトサモラフトワガヲルトキニ》」などの例ありてその意は種々あれど、その源は卷七「一一七一」に「大御舟竟而佐守布高島乃《オホミフネハテテサモラフタカシマノ》云々」とかける如く「守ラフ」といふ語にありて、これに「サ」の接頭辭の加へられしものにして、その事を守り伺ふことを本義とするなり。而してここには、その風と潮とを測候することいふなり。これ即ち上の卷七、卷二(647)十の歌にいへるところなり。
○寢乃不勝宿者 舊訓「イノネラレネバ」とよめるを玉の小琴に「イノネカテネバ」とよめり。卷四「六〇七」に「君乎之念寢不勝鴨《キミヲシオモヒイネカテヌカモ》」卷十「二一四六」に「左小牡鹿乃音乎聞乍宿不勝鴨《サヲシカノコヱヲキキツツイネガテヌカモ》」卷十一「三六九八」に「朝香山山越置代宿不勝鴨《アサカヤマヤマコシニオキテイネガテヌカモ》」を「イネガテヌカモ」とよみ、「四九七」に「妹爾戀乍宿不勝家牟《イモニコヒツツイネガテズケム》」を「イネカテズケム」とよめるに照して考ふれば、玉の小琴の説をよしとすべし。「イ」は既にいへる如く「いぬる」ことをいふ名詞にして「ヌ」はそれに對する動詞なり。かくいふは「ねをなく」「ねになく」と同じさまの語遣なり。「カテ」は勝ふる意なれば、「イノネガテヌ」は寢ぬる事に勝へぬ由の語なり。
○瀧上乃淺野之雉 「雉」は舊訓「キヽス」とよめるが、古語「キギシ」なり。卷十四「三三七五」に「武藏野乃乎具奇我吉藝志《ムサシヌノヲクキガキギシ》」又古事記上卷に「佐怒都登理岐藝斯波登與牟《サヌツトリキギシハトヨム》」日本紀繼體卷にも「枳蟻矢《キギシ》」皇極卷にも「烏智可※[手偏+施の旁]能阿婆努能枳枳始《ヲチカタノアハヌノキギシ》云々」とあり。されば、「タキノヘノアサヌノキギシ」とよむべし。この瀧の上の淺野とは何處なるかといふに、淡路島の津名郡淺野村の溪間に、淺野瀧といふあり。直下七丈四尺、幅一丈二尺、楓樹多きが故に又紅葉瀧ともいふ。これは海岸より溪間をさかのぼること約十町の地にあり。(淡路の北端より西海岸二里許の地に淺野村あり、その村の上方十町許のところ)この瀧の落つる小高き丘の上に雉子のなきたるをいへるならむ。早朝に雉子のなきたる實景をよめるなり。これは事實にして、古事記、日本紀の歌にも其趣同じきあり。
○開去歳 「アケヌトシ」とよむ。契沖は「アクレコソ」とよむべしとせり。されど、かくよみては下(648)につづかず。從ふべからず。「去」は「ヌ」の假名として用ゐ「歳」は「ト」「シ」といふ二の助詞のつづけるをその訓を假りてあらはせるなり。「夜があけぬとて」といふ意にして、「シ」は間投助詞にして勢を添ふるに止まる。かかる場合に「シ」を用ゐて、末を「ラシ」とすることこの卷「三四一」に「酒飲而醉哭爲師益有良師《サケノミテヱヒナキスルシマサリタルラシ》」卷八「一五八五」に「錘禮能雨師無間零良志《シグレノアメシマナクフルラシ》」卷十「一八三八」に「峯上爾零置雪之風之共此間散良思《ヲノウヘニフリオクユキノカゼノムタココニチルラシ》」など例少からず。
○立動良之 舊訓「タチサワグラシ」とよみたるを、考は「タチトヨムラシ」とよみたり。槻落葉は「タチヨトムラシ」と假名つけせるが、その説明を見れば「トヨム」の書き誤なり。「動」字は「サワグ」とも「トヨム」とも本集にはよみたる例あり。而して古事記上卷の歌には「阿遠夜麻邇奴延波那伎佐怒都登理岐藝斯波登與牟《アヲヤマニヌエハナキサヌツトリキギシシハトヨム》」とあり、日本紀繼體卷の歌にも同じく「※[人偏+爾]播都等利柯稽幡儺倶怒都等利枳蟻矢播等余武《ニハツトリカケハナクヌツトリキギシハトヨム》」とあり。されば、「トヨム」とよむ方よからむかといふに未だ遽かに然りといふべからず。元來この「トヨム」といふ語は先づ或る音のありてそれが響くといふ意の語なり。されば本集の例を見るに、「トヨム」と確かによむべき假名書の例は卷十五「三七八〇」に「保等登藝須毛能毛布等伎爾伎奈吉等余牟流《ホトトギスモノモフトキニキナキトヨムル》」卷十七「三九一二」に「多知花乃多麻奴久月之來鳴登餘牟流《タチバナノタマヌクツキシキナキトヨムル》」卷十八「四〇九二」に「橘能播奈治流等吉爾伎奈吉登余牟流《タチバナノハナチルトキニキナキトヨムル》」卷十九「四一六六」に「鳴霍公鳥《ナクホトトギス》……喧等余牟禮杼何如將飽足《ナキトヨムレドイカガアキタラム》」卷十五「三六〇八」に「安之比奇能山妣故等余米佐乎思賀奈君母《アシヒキノヤマビコトヨメサヲシカナクモ》」卷十八「四〇五一」に「保登等藝須伎奈伎等余米波《ホトトギスキナキトヨメバ》」卷十九「四一七七」に「鳴等余米安寢不令宿君乎奈夜麻勢《ナキトヨメヤスイシナサズキミヲナヤマセ》」「四一八〇」に「足檜木乃山呼等余米左夜中爾鳴霍公鳥《アシヒキノヤマヨビトヨメサヨナカニナクホトトギス》」卷十七「三九九三」に「保登等藝須奈伎之等與米婆《ホトトギスナキシトヨメバ》」卷(649)十八「四〇六六」に「保等登藝須伎奈吉等與米余《ホトトギスキナキトヨメヨ》」以上は必ず鳴くといふ語を伴へるを見る。又卷十四「三四七四」に「宇惠多氣能毛登左倍登與美《ウヱタケノモトサヘトヨミ》」これは末の音に本のとよむなり。即ち或る音を基として、これに伴ひて響くを「トヨム」といへることは著し。古事記日本紀なるも「※[空+鳥]は鳴き」「鷄《カケ》は鳴く」といへるによりて「雉子はとよむ」とうけてあやなせるなり。されば、ここにその音の基たるものなくして直ちに「トヨム」とよむはあたらざること明かなり。されば「サワグ」とよめる舊訓をよしとすべし。鳥に「サワグ」といへる例はこの卷「二五七」に「邊津方爾味村左和伎《ヘツヘニアヂムラサワギ》」卷十七「三九九一」に「奈藝左爾波安遲牟良佐和伎《ナギサニハアヂムラサワギ》」卷二十「四三六〇」に「安治牟良能佐和伎々保比弖《アヂムラノサワギキホヒテ》」卷十五「三六二五」に「由布左禮波安之敝《》爾佐和伎安氣久禮波於伎爾奈都佐布可母須良母《ユフサレバアシベニサワギアケクレバオキニナツサフカモスラモ》」卷十五「三六四二」に「可良能宇艮爾安佐里須流多豆奈伎弖佐和伎奴《カラノウラニアサリスルタヅナキテサワギヌ》」卷十七「三九九三」に「奈伎佐爾波阿之賀毛佐和伎《ナギサニハアシガモサワキ》」「三九五三」に「鴈我禰波都可比爾許牟等佐和久良武《カリガネハツカヒニコムトサワグラム》」「四〇〇六」に「都麻欲夫等須騰理波佐和久《ツマヨブトスドリハサワグ》」卷六「九二四」に「幾許毛散和口鳥之聲可聞《ココダモサワグトリノコヱカモ》」などあり。而して動を「サワグ」とよむことの不可ならぬことは卷十四「三三四九」の「布奈妣等佐和久奈美多都良思母《フナビトサワグナミタツラシモ》」卷七「一二二八」の「船人動浪立良下《フナビトサワグナミタツラシモ》」と同じ語をかけるなるべきにても知らるべし。さて「雉子はさわぐ」は夜明けになりて雉子がとび立ちさわぐといふなり。以上、一段落、碇泊地の實景を敍して次の段を導く。
○率兒等 「イザコドモ」とよむ。「率」を「イザ」とよむことは上の「二九三」の「率行(テ)見(ム)」に例あり。「こども」は家人舟兒どもをいふなり。ここは呼び掛の形にいへり。
○安倍而※[手偏+旁]出牟 舊訓「アヘテコギイデム」とよむ。考は「アヘテコギデム」とよみたり。卷十七「三(650)九五六」は「伊麻許曾婆敷奈大那宇知底安倍底許藝泥米《イマコソハフナダナウチテアヘテコギデメ》」とあれば、考の説も據なしとせず。されど、七音の句の八音になれるものも少からねば必ず改むべしとにあらず。この「あへて」といふ語の例はこの卷十七の例の外に卷九「一六七一」に「磯浦箕乎敢而※[手偏+旁]動《イソノウラミヲアヘテコギトヨム》」あり。代匠記の初稿には「あへきて」の略語なるべしといひたれど清撰本にはこの卷九の歌によりて「此に依れば、あへきのきを略してあへてと云にはあらずして※[手偏+旁]出るに堪たる意なり」といへり。攷證は又上の歌及び濱松中納言物語に、「かいばみうかゞへど、あへてさやうなる人見えず云々。榮花物語淺緑卷に故殿の御心おきてのまゝにてはあへておぼしかくべきにはあらねど云々などありてみなあながちにといふ意に聞えてよく心得らるる也」といひ、なほ「また本集此卷【廿四丁】に競敢六鴨云々、十三【十五丁】讀文將敢|鴨《カモ》【この外にも猶あり】など、あへんといふに敢の字を用ひたれど、こは訓を借たるのみなれば同じ語なりと思ふ事なかれ」といへり。然れども、ここの「あへて」を「あながちに」といふ意にせば、かへりて意合せず。契沖のいへる※[手偏+旁]出づるに堪へたる意にてもなほ不十分なり。これは今も「敢へて」といふ語を釋するに「オシキリテ」といふそれなるべし。但、今日は漢文よみの慣例として下を必ず打消とせるが、本義は必ずしも然らじ。攷證にひける濱松中納言物語、榮花物語の例も下が打消なるなれば漢文流の語遣になりてあるものなり。「敢」の字は元來、勇敢、果敢、敢行などの熟字にても明かなるが如く、決心して行ふことをいふものなれば、この「アヘテ」も決心して※[手偏+旁]き出づることを行ふ意にいへることと思はる。
○爾波母之頭氣師 「ニハモシヅケシ」とよむ。「ニハ」は上「二五六」の歌に「飼飯乃海庭好有之《ケヒノウミニハヨクアラシ》」卷十一(651)「二七四六」の「庭淨奧方※[手偏+旁]出海舟乃《ニハキヨミオキヘコギイヅルアマヲブネノ》」卷十五「三五〇九」の「武庫能宇美能爾波余久安良之《ムコノウミノニハヨクアラシ》」などの「ニハ」にて、海面の靜かなるをいへるなり。
○一首の意 三段落の歌なるが、意は明かなり。第一段落は先淡路島について述べ、それより瀬戸内梅の潮流の明石海峽によりて往復することをのべ、第二段はその潮流に逆ひて航行するは危險なれば、淡路島の西岸の北部に碇泊して風潮をまつ程に、朝になりぬることを敍し、第三段は待ちたる朝和になりたれば、これよりいざ※[手偏+旁]ぎ出でむといへるなり。
 
反歌
 
389 島傳《シマヅタヒ》、敏馬乃埼乎《ミヌメノサキヲ》、許藝廻者《コギタメバ》、日本戀久《ヤマトコホシク》、鶴左波爾鳴《タツサハニナク》。
 
○島傳 「シマツタヒ」とよむ。この語の例は卷二十「四四〇八」に「之麻豆多比伊己藝和多利弖《シマツタヒイコギワタリテ》」などあり。島より島へとたどりつつ渡りゆくことをいふ。但し古、島といふは今いふ島のみならず半島をもいへるなり。
○敏馬乃崎乎 「ミヌメノサキヲ」とよむ。「敏」は呉音「ミヌ」なり。「ミヌメ」は上「二五〇」に「敏馬乎過《ミヌメヲスギテ》」といへる地にして、ミヌメの浦といふはそこにいへる如く、今の神戸市西灘村の海邊にして、敏馬崎といへるは蓋し神戸港の東の岬の邊の事ならむ。
○許藝廻者 「コキタメバ」とよめり。古寫本中に「コキマヘバ」とよめるもあれど、それにては意をなさず。「廻」は卷一「五八」の「※[手偏+旁]多味行之棚無小舟《コギタミユキシタナナシヲブネ》」と卷十九「四二八八」の「浦己藝廻都追年爾之努波(652)米《ウラコギタミツツトシニシヌバメ》」とを比較すれば「タム」とよむに不可なきは知られたり。然るにこの語は上の外に假名書のものは「多未足道《タミタルミチ》」(卷十一「二三六三」)「也良乃崎多未弖※[手偏+旁]來跡《ヤラノサキタミテコギクト》」(卷十六「三八六七」)「許藝多武流浦乃盡《コギタムルウラノコトゴト》」(卷六「九四二」)の例を見るのみなり。なほその外に「乎可之佐伎伊多牟流其等爾《ヲカノサキイタムルゴトニ》」(卷二十「四四〇六」)も接頭辭「イ」の加はれるにて、同じ語なるべし。さて、上の例語を一の語として見れば、マ行上二段活用なるが如くに思はるれど、「ヲカノサキタミタル道」とあるは所謂地形の自然をいふ語にして、「コギタミ行キシ」「タミテコギク」「コギタムル浦ノ盡」「岡ノ崎イタムルゴトニ」は人の動作をいふ語としておのづから別なり。今ここには上に「敏馬之埼乎」とあれば人の動作をいふ語なることは明かなり。かくてこの假名書の例のみにつきて考ふれば、これは「タミ」「タムル」と活用して上二段活用なるが如し。然る時はここは「タムレバ」とよむべきものにして「タメバ」とよむべき根據なきが如し。然るに、ここを「タムレバ」とよむときは歌の調をなさず。按ずるに、上にある如く、この卷「三五七」の「※[手偏+旁]回舟」「三五八」の「※[手偏+旁]轉小舟」はいづれも連體形なれど「コギタム」とよみ「コギタムル」とよまず、又しかよみては歌の調をなさず。これらによりて考ふれば、證はなきことなれど、この頃には四段活用にも活用せしならむか。四段活用とせば、その已然形として「タメバ」とよむに不可なし。されど、確證なきことなれば、なほ疑問として解決を後にまつべきなり。意は迂廻することなり。
○日本戀久 舊板本「ヤマトコヒシク」とよみたるを古義に「ヤマトコホシク」とよめり。日本を「ヤマト」とよむことは卷一に既に見ゆ。「コヒシク」も「コホシク」も同じ意なるが、既にいへる如く「コ(653)ヒシク」「コヒシキ」の假名書の例は卷十五以下に限られ、卷五にある假名書は「コホシ」とあれば、古くは「コホシ」といひしならむ。今この卷は卷五以前のものと見ゆれば、「コホシ」の方によることとせり。
○鶴左波爾鳴 「タヅサハニナク」とよむ。「タヅ」の事は卷一にあり。「サハニ」は澤山の意にて卷一にその例あり。又この卷「二七三」に「近江海八十之湊爾鶴佐波二鳴《アフミノヤソノミナトニタヅサハニナク》」ともあり。意明かなり。
○一首の意 多くの島々を傳ひつつ來て、敏馬の埼を※[手偏+旁]ぎめぐれば、その邊の濱邊に鶴が多くありて鳴くがそれをきくにつけてもわが故郷の戀しくてはやくかへりて妻子をみたく思はるるよとなり。これは敏馬をすぐれば、次の碇泊は難波にして、いよ/\上陸すべくなれば、心いよ/\せかるるによる。鶴をここにあげたるは實景なるが、それに感じて故郷をつよく思ひ出さする材料となりたるならむ。
 按ずるに上の長歌とこの反歌とによりて見れば、この歌主は、西國より瀬戸の島々を往つつ上り來りて淡路島に假泊し、さてその次に明石海峽を過ぎ、敏馬浦を通るときにこれを詠ぜるなり。或る説に、この敏馬浦に島なしといひ、野島崎なりしを唱へ誤りしにはあらざるかとあり。されど、多くの島々をつたひ、最後に今淡路を經てここに來るとせば、何等の不條理なる點なしとす。
 
右歌若宮年魚麿誦v之。但未v審2作者1。
 
(654)○右歌云々 若宮年魚麿の事上にあり。この左注はこの歌をば若宮年魚麿が、これを傳へ知りゐて、ある時にこれをうたひしによりて録したる由を告げ、なほその作者は當時既に知られずありし由をことわれるなり。これを考には家持の注とし、攷證はこれを全然否定して後人の注とせれど、二者共に穩かならず。左注には確に原撰者の加へし部分もあり、又後人の加へしものも少からざれば、一概に否定するは極端なり。この左注は原撰にありしものならむ、しかもこれを家持なりと斷定するは又早計なり。
 
譬喩歌
 
○ 譬喩歌は文字の面によりて見れば、物に喩へて思を陳ぶる歌の義なるべく見ゆるなり。ここに考ふべきはこの項目を立てたる本旨如何といふことなり。卷一卷二の一團に於いては雜歌、相聞、挽歌の三類を立てたるに、この卷三、卷四の一團に於いては雜歌、譬喩歌、挽歌、相聞の四類を立てたり。されば、これを卷一、卷二の分類法に照せば、この譬喩歌の一目を加へたり。この一目は卷一卷二の三類によらば、いづれに入るべきものなるか。或は上のある一類のうちよりとり出してわけたるか、或はすべての類にわたりて譬喩を以て詠ぜる歌をとり出して一目の下にあつめたるかといふことの問題あり。今他の卷について見るに、卷七には雜歌、譬喩歌、挽歌の三目を立て、卷十一には「古今相聞往來歌類之上」としてこれを旋頭歌、正述心緒歌寄物陳思歌、問答譬喩歌に分ち、卷十二には「古今相聞往來歌類之下」としてそれを正述心緒歌、寄物陳(655)思歌、問答歌、覊旅發思歌、悲別歌に分ちたり。卷十三は雜歌、相聞歌、問答歌、譬喩歌、挽歌、とし、卷十四の本歌中には雜歌、相聞往來歌、譬喩歌、挽歌とせり。かくの如く譬喩歌といふ名目は所々に用ゐられたるが、その所在は卷十一、二にては相聞往來歌のうちの一目とし、卷七は雜歌、挽歌と相對する一目とし、この三、四の卷に於いては雜歌、挽歌、相聞と相對する一目とせり。然れば、譬喩の目はその所在によりて種々の場合に用ゐられたりといふべし。然らばここにては如何といふに、攷證には「譬喩は物によそへて思ひをさとす意にてたとへうた也。此下に戀の歌をば載たれど、物にたとへたるなれば、ただ相聞といふと別なり。考、略解などに相聞也とのみ解れしはくはしからず」といへり。古義には「譬喩歌はタトヘウタと訓べし。古今集序に歌體六種《ウタノサマムツ》のことを云るところに、四にたとへうたとありて、その古注に、これは萬の草木鳥獣につけて心を見するなり、とあるが如し。故七卷譬喩歌部内に寄v衣寄v絲などのやうにしるして類を分たり。十一卷十三卷には相聞部内に問答歌譬喩歌などしるして假に類を分たり。さて譬喩は萬に亙りてある事なれど、此集にいへるは男女のなからひの事にかぎれり。」といへり。かくの如く、多くの人は譬喩歌といふは戀の歌なりとせり。されど、攷證にいへる如くに事實は戀をうたへりとしてもその名目は戀の歌といふ名目にはあらず。いづこまでも、譬喩の歌たることは一貫せり。それ故に、ここはいづこまでも、譬喩の歌とすべし。然らば譬喩とは何か。攷證には毛詩の子夏の序の所謂六義のうちの風にあたるとせり。然れども、この説は誤れり。抑も六義は風賦比興雅頌の六をさすものにして、この六義については古來種々の説行はれた(656)れど、孔頴達の疏には「風雅頌者詩篇之異體、賦比興者詩文之異辭耳。賦比興是詩之所用、風雅頌是詩之成形用2彼三事1成2此三事1。是故同種爲義」と見えたり。これによれば、譬喩歌は比に相當するものと見ゆべし。然るに、この孔疏によれば風これは詩の表現法よりするものと詩の體よりするものと原理よりするものを混同したりといふべきに似たり。然らば、風雅頌と賦比興との二を混合して排列するも如何なり。詩人玉屑にはこの六義を同一原理よりのものとせり。その解によれば、風は實體につきていへばいへば國風なり。「風風也教也、凡風化之所繋皆風也」とあり。ここの譬喩歌は表現の方法としても實體として風にあたるものにあらず。況んや雅頌をや。玉屑の説に曰はく「賦者鋪2陳其事1、比者引v物連類、興因v事感發」とこの三者のうち比のみこの譬喩歌にあたれり。要するにこれは表現の方法に基づく名目にして、物を引いて感想をそれに寓するものなり。この故に、これを一の類として、その内容による名目、挽歌、相聞などと相對せしめたるは學問的の意義より見れば、不十分なるものなりといふべし。恐らく目新しさのまま當時かかる名目を以て類聚することに興味を感じたるままにかゝる事を行ひしならむ。しかもその内容を見れば、主として戀に關するものを集録せりと見ゆ。さてこれを當時いかによみしか、訓にては仙覺抄によみし如く「たとへうた」とよむべきが如くなれど、或は音讀してヒユノウタとよみしものならむも知られず。
 
紀皇女御歌一首
 
(657)○紀皇女 この皇女の、御名は卷二「一一九」の詞書に弓削皇子思2紀皇女1御歌」とある所に出でたり。この皇女は天武天皇の皇女にして、穗積親王の同母妹にまします。母は夫人|大〓《オホヌ》姫、蘇我赤兄臣の女なり。
 
390 輕池之《カルノイケノ》、納回往轉留《ウラミユキメグル》、鴨尚爾《カモスラニ》、玉藻乃於丹《タマモノウヘニ》、獨宿名久二《ヒトリネナクニ》。
 
○輕池之 「カルノイケノ」なり。輕といふ地は卷二に輕の市など見ゆる地にして、大和國高市郡久米村の東南にあり。今の白橿村の東部、大輕、和田、石川、五條野の邊なるべしといふ。この池の事は、應神天皇十一年にこれを作られし由、日本紀に見えたるが、現存す。大和志に「在大哥留村廣一百五十畝」とあるこれなり。
○納回往轉留 舊訓「イリエメゲレル」とよめり。代匠記は「往轉留」を「ユキメグル」とよみ、童蒙抄はこの句を「ウチヲユキメグル」とよみ、考は「納」を「※[さんずい+内]」の誤として「ウラワユキメグル」とよみ、槻落葉は「ウラミユキタムル」又は「ウラミモトホル」とよみ、攷證は「※[さんずい+内]」をよしとして、「ウラマユキメグル」とよめり。古義は「※[さんずい+内]」を可として「ウラミモトホル」とよみ、註疏は「ウラミユキメグル」とよむ。さて「納」は「イリ」とよみうれど、「回」は「エ」とよむことは絶待にあるべきことにあらず。さて「納」は神田本に「洞」とあるか、西本願寺本に「※[さんずい+内]」とせり。ここはいかにも水邊をあらはすべき語にあたると見えたれば、「ウラ」とよむべき所と思はるるが、「※[さんずい+内]」には字典に「水之隈曲爲v※[さんずい+内]」とあるによりて、ウラとよむことを得ることは明かなり。而して、その「※[さんずい+内]」字を用ゐたる例は卷六「九五八」に「香椎滷潮干※[さんずい+内](658)爾玉藻苅而名《カシヒガタシホヒノウラニタマモカリテナ》」卷十三「三三三九」に「※[さんずい+内]潭矣枕丹卷而《ウラスヲマクラニマキテ》」「三三四二」に「※[さんずい+内]偃爲公矣《ウラニコヤセルキミヲ》」又「三三四三」に「※[さんずい+内]浪來依濱丹《ウラナミノキヨルハマベニ》」とあり。然らば「※[さんずい+内]」の誤とすべきかといふに、又卷六「一〇六二」に「鹽干之共《シホヒノムタ》、※[さんずい+内]渚爾波千鳥妻喚《ウラスニハチドリツマヨビ》」卷十二「三〇二九」に「貞能納爾依流白浪《サダノウラニヨスルシラナミ》」とあるあり。これについて攷證は「納(ハ)内也」と毛詩の箋、儀禮の注などに見ゆるによりて「納」を「ウラ」とよみて不可なしとし、木村正辭の訓義辨證にはこれを敷衍して納※[さんずい+内]通用せりとせり。されども辨證にあげたるはいづれも、納を内に通用する例と、※[さんずい+内]を内に通用する例とのみにして、納と※[さんずい+内]との直ちに通用せる例は一もあげてあらざれば、必ずしも※[さんずい+内]の義に「納」を用ゐたりとすべからず。攷證は「納」と「内」と通用し、内を「うら」といふ語にあてたるなりといふなれば、この方かへりて穩かなる樣なれど、内を「うら」とよみたる例はなし。この故になほ「※[さんずい+内]」を正字と認むべきものなり。さて、「※[さんずい+内]回」二字は「ウラミ」とよむべきなり。この語は卷二「一三一」に「角乃浦回乎《ツヌノウラミヲ》」「一八五」にもあり。「回」を「ミ」とよむことは卷一「四二」の「荒島回乎《アラキシマミヲ》」の下にいへり。「往轉留」は「ユキメグル」なり。
○鴨尚爾 「カモスラニ」なり。古義は「爾」を「毛」の誤として、「カモスラモ」とせり。然れども、さる本は一もなし。古義は何故にかゝる説をとれるかといふに、その説明なく、ただ「次に引十五歌にも可母須良母とあり」と注せるのみ。恐らくは「スラ」の下に「ニ」を加ふるを不可なりとしての事ならむ。されど、卷十七「三九六二」に「加苦思底也安良志乎須良爾奈氣枳布勢良武《カクシテヤアラシヲスラニナゲキフセラム》」とあるのみならず、平安朝の歌文にも「スラニ」の用例少からず。又一般に「スラ」「サヘ」「マデ」の如き副助詞の下に格助詞「ニ」のつくことは古今を通じたる現象なれば、更に疑ふべきものあらず。されば誤字説を(659)出してまで、主張するは不當なりとす。「スラニ」は「スラ」よりも一層その修飾的の意を確めたる語義なり。
○玉藻乃於丹 「タマモノウヘニ」なり。「於」を「ウヘ」の語にあつることはこの卷「二六一」に既にありて、そこにいへる如く、わが古典にはその用例頗る廣きものなり。玉藻はただ藻をさすに、語をうるはしくせるものなり。
○獨宿名久二 「ヒトリネナクニ」とよむ。一人寐ぬることはせぬものなるをの意なり。鴨といふ鳥はいつも雌雄相伴ひて、水上にすむものなるは明かなることなり。この卷「四六六」に「水鴨成二人雙居《ミカモナスフタリナラビヰ》」卷五「七九四」に「爾保鳥能布多利那良※[田+比]爲《ニホドリノフタリナラビヰ》」などあり。
○一首の意 これは輕池の水にすむ鴨に託して自らの獨宿を歎き給へるものなり。輕の池の池の浦回をあちこちと泳ぎまはる鴨さへも、常に雌雄相並びて睦まじく廻るものにして、夜も獨寐はせぬものなるに、われは獨宿をすることよとなり。この歌につきて最近に出でたる萬葉集年表には卷十二「三〇九八」の歌の左注に「右一首平羣文屋朝臣益人傳云、昔聞紀皇女竊嫁2高安王1被v責之御2作此歌1但高安王左降任2之伊與國守1也」とあるに照して、この歌もその高安王左遷當時の作ならむかといへり。恐らくは然らむ。さてこの歌、譬喩歌なれば、詞の上には穩かなれど、内には大なる不平を含めり。
 
造筑紫觀世音寺別當沙彌滿誓歌一首
 
(660)○造筑紫觀世音寺別當 これは職名なり。觀世音寺は筑前太宰府にありて、その寺の戒壇は日本三戒壇の一にして九州の僧のここにて受戒すべき規定なり。天智天皇が齊明天皇の遺志を奉じて創建せられし寺なり。然れども、その造作には多くの年月を要せしなり。續日本紀卷四、元明天皇の和銅二年の條に「二月戊子詔曰筑紫觀世音寺淡海大津宮御宇奉2爲後岡本宮御宇天皇1誓願所vy基也。雖v累2年代1迄v今未v了。宜d太宰商量充2駈使丁五十許人1及|遂《シタカヒテ》2閑月1、差2發人夫1、專加2※[手偏+僉]校1早令c營作u」とあり。かくして未完成にてありしが故か、續日本紀卷九、元正天皇の養老七年の條に「十一月乙卯勅2僧滿誓1【俗名從四位上笠朝臣麻呂】於2筑紫1令v造2觀世音寺1」とあり。ここに造觀世音寺別當とあるはこの時に命ぜられしならむ。さてこの別當といふ職名は普通の官職にては或るものが、臨時設置の職を擔當する場合に、その職の長官の名稱たるものにして、平安朝以來「使」と名づくる職の長官の名とせること、※[手偏+僉]非違使別當などにて知るべし。されども、奈良朝に一般の官職の名としてこの名目ありしか否か疑ふべし。奈良朝には各官寺に造寺司なるものありて、その造營を擔任せるが、その長官には造藥師寺大夫、造西大寺長官などの名目ありて別當の名目を見ず。然らば、この別當の名目は、平安朝以後の別當とは異なる意義あるべし。延喜式玄蕃寮を按ずるに、東大寺別當、興福、元興、大安、藥師、西大、法隆、弘福、四天王、崇福等寺別當などの語あり、而して「凡諸寺以2別當1爲2長官1、以2三綱1爲2任用1」と規定せり。これによれば、寺の長官を別當といひしこと明かなり。その別當の職名が、平安朝に入りて、諸々の官衙の職名に應用せられたるものにして、その源は僧職に存するなり。而して普通には天平勝寶四年五月に僧良辨(661)を東大寺の別當に補せしをはじめとする由にいへり。されど、そは東大寺別當のはじめにして、(この年に東大寺の成りしなり)それよりも早くこの別當あり。この別當はただ觀世音寺の長官の意にして、後世いふ造寺使の長官にはひとしからざるべし。然らば何故に「造觀世音寺別當」とかけるかと考ふるに、その任務の主眼が造營に存したればなるべし。
○沙彌滿誓 この人の事は、この卷「三三六」の歌の條にいへり。なほ上の續紀の注に見ゆる如くもと、從四位上笠朝臣麻呂といふ人なりしが出家せしなり。さて觀世音寺別當になりしは養老七年十一月なるが、七八年の後天平二年正月十三日太宰帥大伴旅人の宅に於ける宴に列して梅花の歌をよみ、天平三年大伴旅人上京の後に歌を贈りなどしたれば、この頃まで觀世音寺に在りしならむ。次の歌はこの詞書によれば、筑紫在任の時の詠とすべし。
 
391 鳥總立《トブサタテ》、足柄山爾《アシガラヤマニ》、船木伐《フナキキリ》、樹爾伐歸都《キニキリユキツ》、安多良船材乎《アタラフナキヲ》。
 
○鳥總立 古寫本の訓には「トフサタチ」とあるもあり、仙覺は古點に「トフサタツ」とありしを否として、「トフサタテ」と改めたるに後世みな從へるなり。この語の例は卷十七「四〇二六」に「登夫佐太底船木伎流等伊布能登乃島山《トブサタテフナキキルトイフノトノシマヤマ》」とあり。これに准へてこのよみ方をよしとすべし。さてかくいへることの意如何。和歌童蒙抄には「とぶさたてとはたづきたてといへることばなり」といへり。顯昭の袖中抄には「歌にとふさとよむは木の末なり。とふれといひ、ほつえと云ふ義なり。「家思ふみやこのはなのとふさたて君もしづえのしづ心あらじ」此の意なり。鳥總と書(662)てとふさとよめり」といへり。かくの如く、平安朝の末期に二樣の解釋行はれたるが、仙覺は「これはまさかり、をのなどやうの物にて木を切るにくだけてちるからをばそま人どもはあかしと云也。しかれば、とふさたてあしがら山とつづけたるなり」といひて童蒙抄の説を繼承し、由阿の詞林采葉集には「八雲御抄云木の梢なりと。或先達云草木の末を切りて木伐りたる代りに立つるをいふなりと。亦仙覺筑後入道寂意ともに斧まさかりをとぶさといひ、これを打立てて木を切ると云々。此の説もさして證據ありとも不覺歟。今この歌の心を推するに木を伐る時|木足《コアシ》とて切屑の散るが、鳥翅の飛ぶに似たるをとぶさといふ。木足の輕く散るを足柄とよせたるにや。又鳥の翔は鞦の總の如くなり。鳥の飛ばむとて、先翅を立てて足輕く飛ぶといふことにやと覺ゆ」といへり。上の三説によりて「とぶさ」は「たづき」といふ説と「木の末」をいふと「こけら」をいふと三説あることとなれり。近世の學者は如何といふに、契沖は代匠記の初稿に於いて「此とふさは木をきるもののきりをはりて、木の末をかの木のもとにたてて山の木の神などに祭るをいふともいひ、又|柿《(コケラ)》のたつをいふともい|へ〔□で囲む〕り。第十七にもとふさたてふな木|き〔□で囲む〕るといふ能登のしま山なとよめ|り〔□で囲む〕。先山神なとを祭るといふは延〔□で囲む〕喜式第八大殿祭祝詞云○推古紀|云〔□で囲む〕是年【二十五年】○これ舟木をきる|に〔□で囲む〕も宮木をきるにも山神樹神をまつるよしなり。本末をば、山の神に祭てとあれば、ことはりなきにあらず。されとも其本末をとふさといふことをいまだみず。次にこけらをとふさといふ事もたしかならぬにや。後拾遺集第十三、戀三にいはく、源遠古かむすめに物いひわたり侍りけるに、かれかもとに有けるをんなとまたつか(663)へ人あひすみけり。いせのくにゝくたりて都|こ〔□で囲む〕ひしうおほえけるにつかへ人も|お〔□で囲む〕なし心にやおもふらんとおしはかりてよめる、祭主輔親 我おもふみやこの花のとふさゆへ君もしつえのしつ心あらし。ふるき歌には是ならでは見をよひ侍らず。此歌木をきる詞はなけれ|と〔□で囲む〕きみもしつえのしつこころあらしといへば花のちるをこけらのやうにいひなして人の心のほかにうつりやすらんなとおほつかなくおもふ心なるべし」といへり。これは結局こけらとする説なり。冠辭考は「こは宮材船材などを山に入りて採る時、その切りたる木の末を折りて同じ株の中に立て、山神を祭るをとぶさ立つるといふなるべし。その故は延喜式に齋斧乎以伐採※[氏/一]本末乎波山神※[氏/一]中間持出來※[氏/一]云々。さて梢をとぶさといふは今も遠江の土人の大木を伐りてはその株に同じ木の※[木+少]を切りて立つることあり。右に本末を山神に祭るといふ。即如此して手向くるならん。さて木※[木+少]をとぶさといふことは、又遠江言に木の最末をとぼさきといへり。越前土佐などにてもさいふと。されば遠先の意なるをぼ〔右○〕とぶ〔右○〕の語を通し、且さきのき〔右○〕を略きてとぶさといふなりけり」といひ、鹿持雅澄の枕詞解には「鳥總はいとど心得がてなれど甞《ココロミ》にいはゞ鳥總と書るは借(リ)字にて材を割柝《ワリサク》料(ノ)器名にはあらざるにや」「土佐(ノ)國幡多郡(ノ)方言に手斧をトモノ〔三字右○〕と云こともあり。この登《ト》は敏鎌《トカマ》などいふ敏《ト》にて敏物《トモノ》と云ことゝ聞えたれば、登夫佐《トブサ》は敏物柝《トモサ》といふにて古(ヘ)材を拆(ク)器をしか稱《イヒ》しことのありしなどにもやあらむ。立(テ)とは其器を振立る謂《ヨシ》なり」といへり。又槻落葉別記には翅と鳥總と同じ言として説かんとし、攷證はこれに從へり。又この頃鴻巣盛廣氏は奈良文化第二十號に「鳥總立考」を著して、(664)薩藩叢書の稱名墓誌卷三なる屋久島なる如竹上人の墓の説明の條下に「又此島に平木を取ること如竹に始るとなん。其以前大樹を伐らず、伐れば必ず災ありと甚畏れしなり。如竹憂て愚民を諭さんと思ひ、その爲予山上に通夜し、伐て材に用ゐる事を祈らんと人々に誓ひ、一七日山中に籠り、下山の日諭しけるは以來伐らんと思ふ樹には前夜より斧を立掛をくべし。翌朝其倒れざるは災なし。災あるは極めて斧倒れんと山神の告を承けたりと教へけるとなり。故今に至て樹を伐る故實とはなれるよし、伊勢貞宣彼の島にて聞く所と云ふ。誠なるにや」とあるを引きて、從來の疑團全く氷解せりとして、これを解して、「早く他地方には亡びた古代の伐木の習俗が永く南海の孤島には殘つてゐるものと解釋すべきであらうと思ふ」といひ、又今も屋久島にこの方法行はれてあることを確め、かくて、「とぶさは和歌童蒙抄に記された古説の如く斧|※[金+番]《タツキ》のことで船木とすべき大木を伐る前に山神の意を知る爲に前日からその木の根本に斧を立て掛けて置いて、その代らむとする時まで、それが倒れてゐないならば、神意のこれを諾ひ給ふところとして安んじて伐採した風俗が行はれてゐたので、卷三では足柄山、卷十九では能登の國のことになつてゐるが、古代の日本では恐らくは全國的の行事であつたのであらう。それが、良材を出す薩南の孤島屋久島に今日なほ現存してゐるものに相違ないのである」といひ、「とぶさたて」は、斧を立つることなりと主張せられたり。先づ鴻巣氏が述ぶる如き習俗が、古代にありしが故に、童蒙抄の如き説も存したりしならむ。この故に氏が、この習俗が今も地方に存することを明かに示されたる功績は認めらるべきものなり。然れども、かくの如くする(665)ことが、ここにある「とぶさたて」といふ語にて示されたる事實なりやといふことは遽かに決しがたし。この説をなす人はこの事と「とぶさたて」といふ語との連絡を證明せざるべからず。これは「とぶさ」といふ語が斧の類の古名なりといふことの證明あれば足るものなり。然るに鴻巣氏の説は一言もこの點に觸れず。然らば、鴻巣氏以前にこれが結合が既に證明せられたりやと見るに、童蒙抄は上に述べたる如く、たださる習俗の存するをあてていへるのみにして言語上の證明は無し。又古義の説の如きは、ただ牽強といふに止まりて、古今を通じて何等の證なきことは明かなり。この故に、上述の習俗をば、「トブサタテ」といふ語にあててよきか否かは依然として殘れる問題なり。ここに再び「トブサ」といふ語の研究にうつるべし。斧|※[金+番]《タツキ》の類を「トブサ」といふことの證は一も存せず。又「コケラ」なりといふ説も臆測に止まりて證とすべきもの全くなし。「ツバサ」といふも亦然り。然らば木末といふ説は如何といふに、鴻巣氏が既に述べたる如く字鏡集に「朶」の字に「トブサ、エダ」の訓をつけ、又堀川百首の俊頼の歌に「卯花も神のひもろぎかけてけり、とぶさもたわにゆふかけて見ゆ」とあるもこの意なり。なほこの外には色葉字類抄にも植物部に「トブサ」といふ語に「朶」の字をあてたり。されば「トブサ」といふ語は木梢をいふといふことは明白なり。この故に八雲御抄卷四にも上の萬葉の歌をあげて「是はいづれも木の梢なり。杣にいりて木をきりては必ず木のすゑをきりて、切りたる木のあとに立也。たとへばかはり也」といはれたるなり。但し「トブサ」にあてたる漢字は「朶」のみにしてその以外には見えねば、これはただの木未といふ義にあらざるべし。「朶」は本字※[几/木]にして、説文に(666)は「樹木垂朶朶也」とあり。されば、これは枝葉のふさ/\と多くつける木末をさせるものならむ。かくして、彼の後拾遺集第十三戀三の大中臣輔親の歌「わが思ふ都の花のとぶさゆゑ君もしづえのしづ心あらじ」とある「とぶさ」の意も亦上部の枝の花のふさ/\とつけるものなること著し。而して輔親は一條天皇乃至三條天皇の頃の人なれば、「トブサ」を「朶」の意とすることの、平安朝末期に急に生じたるものにあらざるを見るべし。この故にここの「トブサ」もその朶の義にて立木の末の枝葉のつきたる部分をいふと思はれたり。然らば「トブサタテ」とはいかなる意かといふに、これは冠辭考の説、又詞林采葉の前の説、八雲御抄の御説の如く杣人が木を伐りたるとき、山神を祭る意味にて、その末の部を切りて、もとの切株の所に立つるをいふと解すべし。かく解する理由は、延喜式祝詞の大殿祭に、「今奧山大峽小峽齋部齋斧以伐採※[氏/一]本末【乎波】山(ノ)神※[氏/一]中間持出來※[氏/一]」とある如く、又大永二年に書寫せし大神宮心御柱記に「如例以2宣下1吉日(ニ)奉v祭2木本1也、一頭工採2料木1【長五尺口徑四寸】本末奉v祭2山祇1也」とある如く、古みなかくせしことと思はるればなり。なほこの説については鴻巣氏は「船木となる大樹を切つた後に、その梢の部分を立てて山神を祭るものとしてはとぶさたて船木切るといふ言ひ方では、とぶさを立てる動作が船木を切る動作よりも前のやうに聞えて穩かでない」と非難してあるがかやうに事實と言語の上との間に相前後するいひかたをなせるものは集中に例多きことなり。たとへば卷二十「四四〇七」に「之麻豆多比伊己藝和多利弖《シマヅタヒイコギワタリテ》」これは(こぎわたりてはじめて島傳をなしうるなり)。卷十七「四〇一六」に「賣比能野能須々吉於之奈倍布流由伎爾《メヒノノノススキオシナベフルユキニ》」これも雪が降(677)りたる爲に、薄の靡くなり。先づ靡きて後雪のふるにあらず。今とてもたゞの語にも歌にもさる説の如く詞を論理的に排列するものにあらず。かかる理窟を以て古歌を律するは無理なり。されば、ここはなほ生木の枝梢を立つることなるべし。而してこの風習は今も正月の門松を除き去る時にはその松の末を折りて、その跡に立ておくことの行はれてあるは誰人も知るところなり。さてこれをば、從來多くの説は枕詞としたれど、恐らくは枕詞にあらずして、かくして神を祭りて木を伐るといふ意をあらはしたるならむ。若し枕詞ならば、終止形を以てするが一般の例なれば、古點の如く「トブサタツ」といふべきなり。然れども卷十七には「登夫佐太底《トブサタテ》」とあれば、「トブサタツ」とよむべからず。かくて語の意は下の「船木伐」につづくものなり。
○足柄山爾 「アシガラヤマニ」なり。これは相模國の足柄山なり。これは古事記中卷に「足柄之坂下」とあり、本集には卷十四に「安思我良」(「三三六一」「三三六四」「三三七一」)卷二十に「阿志加良」(「四三七二」)「安之我良」(「四四二三」「四四四〇」)などかけり。
○船木伐 「フナキキリ」とよめり。「船木」を「フナキ」とよむべく假名書にせる例は見ざれども、卷十四「三三四九」に「布奈妣等《フナビト》」卷十七「三九五六」に「敷奈太那《フナダナ》」卷二十「四三二九」に「布奈可射里《フナカザリ》」とあるなどによりて、かくよみて不可なきを知るべし。船木は船に作るべき料の木材なり。この頃の船は材をはぎ合せてつくる堅牢なる船も未だ十分に發達せざりしならむからに、大なる船には大なる材を要せしならむ。この故に船木といはば巨大なる材にてありしものと思はる。上に引ける如く卷十七には「船木伎流等伊布能登乃島山《フナキキルトイフノトノシマヤマ》」とあり。古、これらの山に巨大なる船材(668)の産せしならむ。推古紀二十六年には安藝國に舶材を求められし記事あり。熊野伊豆などが古く、船の製造地なりしは巨材の生ぜし爲ならむ。
○樹爾伐歸 舊訓「キニキリヨセツ」とよみたるを拾穗抄に「キニキリカヘツ」とし、槻落葉は「キニキリユキツ」とせり。本居宣長は古事記傳卷十八に「喚歸は與備余世《ヨビヨセ》※[氏/一]と謂べし。歸を余世と訓る例は萬葉【四十丁】に樹爾伐|歸都《ヨセツ》と見え云々」といひたれど、略解に載せたるには「宜長云歸は集中ゆくとのみよめる例也」といひたるによりて、略解もこれに從へり。「歸」字は如何にも本集には「ユク」といふ例は少からねど「ヨセ」とよむべき例なし。その例はこの卷「二四〇」の「天歸月《アメユクツキ》」「二六三」の「見※[氏/一]毛和我歸志賀爾安良七國《ミテモワガユクシカニアラナクニ》」下の「四二三」の「朝不離將歸人乃《アササラズユキケムヒトノ》」卷九「一八〇七」に「歸香具禮人乃言時爾《ユキカグレヒトノイフトキニ》」又、この卷「二八〇」の「手折而將歸《タヲリテユカム》」等例多けれど、いづれも「ユク」といふ語の例としてあてて不可なるものなく「ヨス」といひては通ぜざるものなり。「歸」字は元來説文によれば「女嫁也」とある如く「ユク」を本來のよみ方とするものなれば、「ユク」とよみて不可なし。この句の意は略解に「さて四の句きにきりゆきつは舟木にといふべきを上にゆづりて舟の言を略ける也」といへるにて知らるる通り、船木としてきりてもちてゆきつとなり。
○安多良船材乎 舊訓「アタラフナキソ」とよめり。されど、「乎」は「ヲ」とよむが例にして「ソ」とよむは不可なれば、「アタラフナキヲ」とよむべきものなり。「アタラ」は可惜の意にて、副詞なるが、形容詞としては「アタラシ」といへり。古事記下卷に「阿多良須賀波良《アタラスガハラ》」「阿多良須賀志賣《アタラスガシメ》」又日本紀雄略卷に「阿施羅陀倶彌※[白+番]夜《アタラタクミハヤ》」「婀※[手偏+施の旁]羅須彌儺※[白+番]《アタラスミナハ》」この集にては卷二十「四三一八」に「安多良佐可里乎須具之(669)弖牟登香《アタラサカリヲスグシテムトカ》」などあり。而して、この「アタラフナキヲ」の句は反轉法にて下におけるにて、「アタラフナキヲ」きりゆきつといへるなり。
○一首の意 足柄山に立てる巨大なる樹をば、朶《トブサ》を立て山神に祭りてこれを船材として伐りて持ち行きたり。誠に惜むべき巨大なる材木なるをきりてもてゆきたりといふなり。これは船材を伐りてもて行けるにたとへて或る事をいへろことはいふをまたぬが、何をいはむとせるか。槻落葉にはその師眞淵の説として、「師説に此歌はその寺造る事にはあらず。相聞の歌なり。凡集中譬喩といへば、相聞なり。此一首のみ、さなくて、他の譬喩に交るべくもあらず。ここに譬喩とて二十首あるも皆相聞なり。歌意はわがふかく戀したへる女の人のものとなれるをあたらしみてよめるならん。出家以前の歌なるを後に聞たる人滿誓が今をもて造筑紫云々とは書しならんといへり」とあり。而して後の學者多くこれに從へり。これにつきて先づいふべきは相聞といへることなり。ここには相聞は戀歌といふ舊説によりていへるなれど、余が既に論じたる如く、相聞はただちに戀歌といふべからず。相聞といふは往復存間の義なるものにしてそれに戀の歌の多きは自然の勢なるべしと雖も戀歌ならぬものももとよりあることは卷二の例にても知られたり。されば、相聞即ち戀歌とすることは不當なり。さてここにある譬喩歌はその相聞の本義にあたるかといふに、中には往復存問に用ゐしものもなかりきとは斷ずべきにあらねど、又しかなりと斷言すべき材料もなし。されば、これは相聞歌なりといふことは不當といふべし。然らば、これを戀歌と見ることは如何といふに、その寓(670)意を推して戀の歌とすることは出來うべき餘地あり。されど、これを戀歌とせむには出家者としては如何なれば槻落葉にある如く、出家以前の歌をば、後の位地を冠して記載せりといふこととせむ外あらじ。されど、若し、出家以前の歌ならば、わざ/\造觀音寺別當云々と仰々しくその職名をあぐること穩かならずと考へらる。これは次々の歌に照して考ふれば、なほ、筑紫在任の詠と見るを穩當とするものなり。然る時にはこれを戀の歌と釋するは如何といふに、次一首を隔てたる「三九三」にも多少の戀の句はあり。されば、これにも戀の意の匂ふことありとてさまで不思議にあらざらむ。されど、それを強調して、槻落葉の説の如くに説くは穩かならず。この歌の趣は旁觀的の氣分十分にありて、本人が戀の當事者たる程の強き感はなし。これは輕く或る美人が、誰人かの專有になりしをば、多くの戀人が、これを羨ましく思へる心をばうたへるか、或は、自己には深き戀心もなけれども、あの美人が、一人の占有になりしを見て、恰も、深山の大樹が、自由にそだちしを船材によしとて切りてもてゆかれしが如く、傍觀者としても惜き感あるをうたへるものなるべし。
 
太宰大監大伴宿禰百代梅歌
 
○太宰大監 太宰府の判官なり。判官は和名鈔に「萬豆利古止比止《マツリゴトビト》」とよめり。職員令太宰府の條に「大監二人掌d糺2判府内1審2署文案1察c非違u。少監二人掌同2大監1」とあり。官位令によるに正六位下相當の官なり。
(671)○大伴宿禰百代 この人は宿禰姓なれば、旅人家持の一族ならむと思はるれど、父祖の名知られず、從つて旅人等との親縁明かならず。この人の太宰大監なりしことはこの集卷五天平二年正月太宰帥大伴旅人宅にて梅花の宴を催したりし時の詠に「大監大伴氏百代」と見え、又卷四には太宰大監大伴宿禰百代の戀歌四首と、天平二年夏六月に太宰大監大作宿禰百代等の驛使に贈れる歌とを載せたり。これらによれば、天平二年の頃この官に在りしなり。なほこの人の事は續日本紀に天平十年閏七月癸卯、外從五位下大伴宿禰百世を(兵部)少輔とせらるる記事あり。又十三年八月丁亥に外從五位下大作宿禰百世を美作守とせらるることあり。十五年十二月辛卯に「始置2筑紫鎭西府1以2大伴宿禰百世1爲2副將軍1」と見え、十八年四月癸卯に從五位下を授けられ、九月己巳に豐前守に任ぜられ、十九年正月丙申に「授2正五位下1」などあるが、その百世即ちこの百代ならむといふが恐らくは然るべし。この人の歌はこの外卷四に五首、卷五に一首見ゆ。
○梅歌 梅をよめる歌といふ義なるが、ここは譬喩歌のうちなればただの詠物歌にあらぬは論なし。
 
392 烏珠之《ヌバタマノ》、其夜乃梅乎《ソノヨノウメヲ》、手忘而《タワスレテ》、不折來家里《ヲラズキニケリ》、思之物乎《オモヒシモノヲ》。
 
○烏珠之 「ヌバタマノ」とよむ。これは卷二「一六九」にこゝと同じ文字を用ゐ、「一九四」に「烏玉乃」「一九九」に「烏玉能」とあるに同じく、ただ玉と珠との文字の差あるのみなり。その意は既にいへる(672)如く、ヒアフギの實にして珠、玉の形にして眞黒のものなり。それを轉用して夜の枕詞とせるなり。
○其夜乃梅乎 「ソノヨノウメヲ」なり。梅を太宰府にて、大伴旅人が其宅にて賞して人を集へて歌よみしこと、卷五にあり。これも、その頃の詠なるべきなり。梅は本集に「宇米」(卷五)「宇梅」(卷五)「烏梅」(卷五)などかけり。「其夜」とあるは或る夜に梅を見たりしその梅をば、後に想ひ起してよめるなり。
○手忘而 「タワスレテ」とよむ。この語の假名書の例は本集になけれど、かくよむに異論なし。この「タ」は所謂發語にして語勢を強むることをなせど深き意義なし。「タ」を動詞に冠したる例はこの卷「四五八」に「若子乃匍匐多毛登保里《ミドリコノハヒタモトホリ》」の「タモトホル」卷八「一四三九」の「遠山邊爾霞多奈婢久《トホヤマノヘニカスミタナビク》」等の「タナビク」などの「タ」これなり。語の意は打忘れてといふに近し。
○不折來家里 舊訓「ヲラデキニケリ」とよみたるを考及び槻落葉に「ヲラズキニケリ」とよみたり。打消の「デ」といふ語法はこの頃には未だ行はれざりし語なれば、「ズ」の方に從ふべし。折らずして、その梅の許を離れ來たりとなり。
○思之物乎 「オモヒシモノヲ」とよむ。語の上の意は折り來むと思ひしものをいふなり。この句は上にあるべきを反轉法にてここにおけり。
○一首の意 語の上の意は、宴會かなにかのありし其の夜の梅を折らむと思ひしものを、つひ忘れて折らずして歸り來たりとなり。これは譬喩歌なれば、梅を折ることを女に逢ふことにた(673)とへたりといふが普通の説なり。大體さる事ならむ。
 
滿誓沙彌月歌一首
 
○滿誓沙彌 上の沙彌滿誓におなじ。これは名を先づいひたるなり。
○月歌 月を以て譬喩とせしうたなり。
 
393 不所見十方《ミエズトモ》、孰不戀有米《タレコヒザラメ》。山之末爾《ヤマノハニ》、射狹夜歴月乎《イサヨフツキヲ》、外爾見而思香《ヨソニミテシガ》。
 
○不所見十方 「ミエズトモ」とよむ。「所見」は「ミユ」にあてたる字にしてその例はこの卷「二五五」の「倭島所見」など多し。「十方」は「トモ」にあてたり。十方を「トモ」にあてたるものは卷二「一七二」に「君不座十方」などあり。この語の假名書の例は卷十四「三五三〇」に「見要受等母《ミエズトモ》」あり。玉の小琴に曰はく、「此十方は雖の意には非ず。とにもの助辭を添たるとも也。上二句の意は凡て月は出るを待兼ぬる物にて、未だ出ぬ程は誰かは戀ざらむ、未だ見えぬ事かなと、誰も皆待かぬると云意也。さて出たらむをよそながらも早く見ま欲きと也」といへり。然れども、若し、この説の如くならば、「ト」は格助詞なればその「ミエズト」は「戀ふる」に對しての補格たるべし。然るときにはそれは「見えずと思ひて戀ふる意」となるべくして、この歌に於いて如何なることをいはむとするか、殆ど意をなさざるなり。されば、ここはなほ「雖」の字の意にして、實地に見て戀ふることは世の常の事なり、されどたとひ、見えずとも、孰か戀ひざらむやといふ意なり。
(674)○孰不戀有米 舊訓「タレコヒザラメ」とよみたるを、略解には「宣長云米は牟の誤にてこひざらん也」といへり。然るにこの「米」の字、類聚古集に「來」とかける外に異字を用ゐたる本なく、その「來」も「米」を誤れることいふをまたざれば、この誤字説は首肯すべからず。しかも何故に宣長がかく論ぜるものなるか、その理由を明言せざるが故に知り難しといへども、或は、「米」を已然形の「米」とするには上に「コソ」の係あるべきに、無きが故にかく思ひしか。されど、かく、上に「コソ」なくして「メ」にて終止する例は少からず。一二の例をあぐれば、卷二「一〇二」に「誰戀爾有目《タガコヒナラメ》」卷四「六五九」に「如是有者四惠也吾背子奥裳何如荒海藻《カクシアラバシヱヤワガセコオクモイカニアラメ》」の如し。但しかゝる時は上に疑問の語ありて、しかも反語をなすに限ると見ゆ。ここもその意なり。以上二句一段落なり。但し、その「不所見」といひし對象戀ふる所の對象は下の「イサヨフ月」なり。山の端にいさよふ月は未だ見えぬものなれば、第二句はこれに對していへるなり。その未だ見えぬ月なれども、それを孰か戀ひざらむといふなり。
○山之末爾 舊訓「ヤマノハニ」とよみたり。槻落葉はこれを「ヤマノマニ」とよみ、「山末は山際に同じく山のまとよむべき也」といへり。按ずるにこの槻落葉の説は「末」を音の假名と見ての事なるべきか。しかも「ヤマノマ」といふ時は山と山との間にといふ意なるべく、思はるるが、さやうの意にて、月のそこにいさよふといへることありや頗る疑はしきことなり。而して、「山之末」とかけるは集中ここに一處のみなれど、卷七には「一〇七一に「山末爾不知與歴月乎《ヤマノハニイサヨフツキヲ》」「一〇八四」に「山末爾不知夜經月乎《ヤマノハニイサヨフツキヲ》」とあるをば、これも古來「ヤマノハニ」とよみ來れり。而して、卷六「一〇〇八」に(675)は「山之葉爾不知世經月乃《ヤマノハニイサヨフツキノ》」とかき、「九八三」には「山葉左佐良榎壯子《ヤマノハノササラエヲトコ》」(左注に「月別名佐散良衣壯士」とあり)卷十六「三八〇三」に「山葉從出來月之《ヤマノハユイデクルツキノ》云々」とあり。されば月の山のはを出づといへるは例少からざるなり。又卷十五「三六二三」に「山乃波爾月可多夫氣婆《ヤマノハニツキカタブケバ》」とかける如く、月の入るにも「山ノハ」といへり。而して、月の出没に「山のま」と明かによむべくかける例は一も見えざるなり。然らば、この「山之末」又卷の「山末」の「末」は「マ」の假名なりと強く主張すること能はざるべし。ことに「山末」の文字は二字共義字として考へらるべき餘地存す。「末」字は玉篇に「端也、顛也、盡也」とあり。されば、山末はこれを義字として見る時には山端、又山顛の義に適すといふべし。しかも山末の熟字は支那の文獻に存するを見ざるが故に、これは本邦にての事ならむが、古事記上卷に「次大山咋神亦名山末之大主神」とある「山末」もよみ方は或は「ヤマスヱ」ならむが字義はここにいへるにおなじかるべし。支那にてはこの「山末」にあたる熟字として「山椒《ヤマスヱ》」といふを用ゐたり。かくて、山末は結局山の上端の義と見るべし。次に「山之末」とかけるは如何といふに、「之」は意義上より助詞として用ゐしなれば、その上下の「山」「末」二字も義字として用ゐたりとする方穩當ならむ。もとより「ノ」にて二の名詞をつづくる時に「之」の下に、假名を以ての名詞を示したるものなしとせざれど、それは甚だ稀にして、「之」を以てつなげる例、集中にある大多數は下が義字たるものなり。これらを以て考ふれば、「山之末」は即義字にして「ヤマノハ」とよむべきものたりといふべし。
○射|狹〔左○〕夜歴月乎 舊板本には「狹」を「※[獣偏+來]につくれり。されど、※[獣偏+來]字は異樣にしてこれを假名に用ゐ(676)たる例なきものなり。これは寛永版本にての刻り誤にしてその以前の版本、古寫本すべて「狹」につくれるを正しとす。訓は「射」は「イル」の活用「イ」「狹」は「サ」の訓「夜」は「ヨ」の訓により、「歴」は「フ」の用言の終止形をかりたるなり。この語の例は上に引ける「不知與歴《イサヨフ》」(一〇七一)「不知夜經《イサヨフ》」(一〇八四)「不知世經《イサヨフ》」(一〇〇八)又この卷「二六四」の「不知代經限《イサヨフキハミ》」「四二八」の「伊佐夜歴雲《イサヨフクモ》」卷十四「三五一二」の「伊佐欲布《イサヨフ》」などによりて見るべきが、その意は「二六四」の下にいへる如く、そこにとどこほりたゆたふをいふ。山の端を出でむとしてしかも速かに出でもやらぬ月をいふ。
○外爾見而思香 「ヨソニミテシガ」とよむ。この「香」は冀望の「ガ」をあらはしたるものとして濁音によむべきものなり。「外」を「ヨソ」とよむ例は卷二「一七四」の「外爾見之檀乃岡毛《ヨソニミシマユミノヲカモ》」をはじめこの卷には「四二五」の「外爾可聞見牟《ヨソニカモミム》」「四七四」の「昔許曾外爾毛見之加《ムカシコソヨソニモミシカ》」「四八二」の「外爾見之山矣《ヨソニミシヤマヲ》」その他例多く一々あぐべからず。さて末の「ガ」は願望をあらはすものとして、動詞よりうけて肯定的の願望をあらはすものは「テシガ」といふ形をとる。この「ヲ」は複語尾「ツ」の連用形「シ」は複語尾「キ」の連體形にして、それを「ガ」にて受けて終止するなり。ここに似たる語例は卷八「一六二二」に「今毛見師香妹之光儀乎《イマモミテシガイモガスガタヲ》」あり。その他卷五「八〇六」に「多都能馬母伊麻勿愛弖之可《タツノマモイマモエテシガ》」などあり。「ヨソニ見テシガ」とは外ながらにも見たきものよといふに似たり。
○一首の意 この歌既にいふ如く二段落なり。然るに、木居宣長が「山のはにいさよふ月を誰こひざらむ、見えずともよそに見てしかと三四二一五と句をついで、見べし」(略解)といひてより諸家これに從へり。先づその釋はさておき、この歌を二段落とせずして一段落とせるは甚しき(677)誤なり。第二句の「め」は明かに、終止せるものなり。又第五句も亦明かに終止せるものにして、その第一段の第一句より第二段落の第五句につづけて釋するが如きは段落の句別をも辨へぬものなりといふ譏を甘受せざるべからず。これは、その第三第四の二句に當る語が、第一句にも伴ふべきを便宜第二段落に讓りて言を簡にして歌の體を調へたるなり。されば、釋するには第二段落にもこれを加へざるべからず。その意は山の端を出でむとしてそこにいさよふ月をば、未だ見えずとも誰か見むと戀ひ願はざるものあらむや。あの山の端にいさよふ月をばよそながらも見たしといふ思ふが、何とぞしてその望を果したき事なるよとなり。
 
金明軍歌一首
 
○金明軍 「金」字神田本及び細井本、活字無訓本に「余」ともせり。槻落葉にも「余」の誤とせり。同じ名の人、この下「四五四」乃至「四五八」の五首の左注にもあるが、そこもここと同じく、古葉略類聚鈔、神田本、細井本、活字無訓本には「余」とあり。又卷四「五七九」の詞書にも同じ名見ゆるが、それには、元暦本、桂本、古葉略類聚鈔、神田本には「余」とせり。ここに「余」か「金」かその一は正しく他は訛なるべきこと知られたり。然るに、余氏も金氏も共に外來の氏族にしてこの頃に存せしなり。金氏は新羅國王族の氏にして、今も朝鮮に存す。大寶三年十月の紀に「僧隆觀還俗本姓金名財云々」とあり、元明天皇和銅元年正月に金上元に從五位下を授けられ、同二年十一月の記事に「從五位下金上元爲伯耆守」とあり。又東大寺正倉院文書右京三條の天平五年計帳に金月足の名あ(678)り。又聖武天皇神龜元年五月辛未に「從六位上金(ノ)宅良金(ノ)元吉賜2姓國看連1」とあり。聖武天皇天平五年六月の條に「武藏國埼玉郡新羅人徳師等男女五十三人依v請爲2金(ノ)姓1」と見ゆ。されば、金氏のわが國に廣く存し、枢要の官職にも就きたりしことを見るべし。余氏は百濟王族の氏にして、持統天皇紀に百濟王金禅廣の名見え、續記養老五年正月には正六位余泰勝に※[糸+施の旁]十疋を賜ふとあり、同七年正月には正六位上余仁軍といふに從五位下を授けられたり。これは一本「金」に作る。されどその他にも余氏あり。孝謙天皇天平寶字二年六月に太宰陰陽師從六位下余益人、造法華寺判官從六位下余東人等四人に百濟朝臣を賜ふことあり、淳仁天皇天平寶字五年三月に百濟人余民善等男女四人に姓を百濟公と賜ふことあり、その他多けれど略す。かの畫家として名高き百濟河成も本姓余なりしことは文徳實録に見えたり。かく二氏共に同時に存したりしが故に、今一を正しとすること困難なり。ただ養老七年紀に見ゆる余仁軍とこの明軍と名似たれば、それの一族として余氏ならむの疑あれど、しかも、これを以て決定することは危險なりとす。さてこの人は下の左注によれば大納言大伴旅人の資人たりしなり。資人とは尊貴の官位に在る人の警衛等に使ふ爲に公より給せられ人をにして「ツカヒヒト」といふ。續紀を見るに養老五年三月に中納言從三位大伴宿禰旅人に帶刀資人四人を給ふとあり。令の規定によれば三位に賜ふ資人は六十人なり。これはその六十人のうちに帶刀の資人四人を許されしことをいふならむ。
 
(679)394 印結而《シメユヒテ》、我定義之《ワガサダメテシ》、住吉乃《スミノエノ》、濱乃小松者《ハマノコマツハ》、後毛吾松《ノチモワガマツ》。
 
○印結而 「シメユヒテ」とよむ。「印」は今いふしるしなり。そのしるしを古「シメ」といひしが故に印字を「シメ」とよむなり。「標」を「シメ」とよむも精神は同じ。「標」を「シメ」とよめるは卷二「一一五」「一五一」「一五四」などに例多し。ここの如く「印」の字を用ゐしは、卷七「一三三五」に「雲飛山仁吾印結《ウネビノヤマニワカシメユヒツ》」卷十一「二四八一」に「大野跡状不知印結有不得吾眷《オホヌラニタツキモシラズシメユヒテアリカツマシジワガコフラクハ》」などあり。結ひはその印を結ひつくることなり。ここはわが領する所なりといふしるしをつけおきてといふなり。
○我定義之 舊訓「ワガサタメコシ」とよみたり。されど、義を「コ」とよむは根據なし。さて「定義之」を類聚古藥、古葉略類聚鈔などに「サタメテシ」とよめり。童蒙抄は「チギリニシ」とよみ、考は「義」は「篆」の誤として「サタメテシ」とよみたり。宣長は「サタメテシ」とよむべしとし、「義之」を「テシ」とよむことにつきては玉の小琴に委しく論ぜり。長文なれど重要なるものなれば次に引く。曰はく「義之はてしと訓べし。此外四卷【四十一丁】に言義之鬼尾《イヒテシモノヲ》七卷【三十一丁】に結義之《ムスビテシ》十卷【三十丁】に織義之《オリテシ》又|逢義之《アヒテシ》、十一巻【廿丁】に觸義之鬼尾《フレテシシモノヲ》、十二卷【廿丁】に結義之《ムスビテシ》是等皆同じ。てしと訓べきこと明らけし。さて是をてしと訓は義字をての假字に用たるには非ず。故に義之と續けるのみにて、義とのみ云るは一つもなし。義は即羲の字の誤にて漢國の王羲之と云人のこと也。此人書に名高きこと古今に竝びなし。此國にても古より此人の手跡をば殊にたふとみ、賞する故に手師の意にて書る也。書のことを手と云はいと古きことにて、書紀廿一卷【十九丁】にも書博士をてのは(680)かせともてかきとも訓たり。さて又七卷【三十一丁】十一卷【廿二丁】に結大王《ムスビテシ》、十卷【三十三丁】に定大王《ムスビテシ》、十一卷【四十七丁】に言大王物乎《イヒテシモノヲ》、是等の大王もてしと訓て義理明か也。古くはかく訓べきことを知らずして痛く誤り訓《ヨメ》り。是も彼王羲之がことにて、同く手師の意也。其故は羲之が子の王獻之と云るも手かきにて有ければ、父子を大王小王と云て、大王は羲之がことなれば也。かゝれば、かの羲之と此大王とを相照し證して、共にてしと訓べきことをも、又王羲之なることをも思ひ定むべし。師の説には義之をてしと訓は義は篆の誤也といはれしかど、篆を假字に用ひたる例なく、又義之と續けるのみにて、義と放して一字書る所もなければ、義之と二字續きたる意なること疑なし。又大王は天子の意也といはれしかど、天子の字音をとりて訓に用べきにも非ず。又其意ならば、直に天子と書る所もあるべし。天皇などと書る所もあるべきに、いづこも只大王とのみ書るは決て其意には非ずと知べし」と。これは實にすぐれたる見識にてまさしく從ふべきものなりとす。わがさだめてしとはわがものと定めてしといふなり。
○住吉乃 「スミノエノ」とよむ。この地は卷一に既に出でたり。攝津住吉の濱なり。
○濱乃小松者 「ハマノコマツハ」とよむ。訓み方に異議なく意も明かなり。住吉の濱には今も松あるが、古よりありしなり。上の「二九五」に「清江乃木笶松原《スミノエノキシノマツバラ》」卷七「一一五九」に「住吉之岸之松根《スミノエノキシノマツガネ》」卷二十「四四五七」に「須美乃江能波麻末都我根乃《スミノエノハママツガネノ》云々」などの例を見よ。
○後毛吾松 「ノチモワガマツ」なり、童蒙抄には「後」を「スヱ」とよみたれど、不可なること既に屡いへり。この「後も」といふを普通には「この後いつまでも」と説く攷證などの説によれるが、槻落葉(681)は「後つひに」の意にとき、略解は「またをさなき女を後は吾妻と思ひ定めし也」といひたり。されど、いづれも的切ならず。「後も」といふ語に行末いつまでもといふ永く繼續する意ありとはきこえず、又「つひに」といふ意ならば「後も」にては語足らず、又「後は」と「後も」とは明かに意異なり。先づ「後も」といふ以上は、それに對する觀念なかるべからず。この觀念は今ここに「印結ひて定めてし」ことなり。されば、この「後も」は今定めし如く、かはらず、後もその通りならむといふ意たり。ここに永くとかつひにとか、いふことは不要の言にして、かへりて意をあやまるなり。
○一首の意 明かなり。これは表面の意は今われが印をつけてわが物なりと定めたりしこの住吉の濱の小松は、わが、定めし通り、後に至りてもやはりわが松なるぞとなり。これを小女にたとへたりとするが、普通の説なり。或は然らむ。
 
笠女郎贈2大伴家持1歌三首
 
○笠女郎 この人の父祖明かならず。笠氏は既にいへる如く孝靈天皇の皇子稚武彦命の後なること日本紀應神卷、新撰姓氏録に見えたるが、その家の女ならむ。ここにいふ人は從來、主として笠金村と同族ならむと考へられ來たれど、委しき事はすべて知られざるなり。されど、この歌は前の歌とつゞけて考ふれば、滿誓沙彌と多少の縁故ある人にあらざるか。滿誓沙彌は既にいへる如く笠朝臣麿といふ人なり。これに縁故ある人としてその同族ならむかとも思はる。この人の作歌はここに三首、卷四に二十四首、卷八に二首あるが、すべて大伴家持に贈れ(682)る歌のみなり。これは一の注意すべき事項にして、これは、この人が家持と深き關係を有したりしが故なるべきことは勿論なり。されど、實際はそれに止まらず、なほその以上の研究事項を含むべし。即ち、この人が、これ以外に歌をよまざりしにはあらで、恐らくはたま/\大伴家持に贈りたりしもののみがこの集によりて後世に傳はりしが爲ならむ。然るときは、これに類似の事項蓋し少からずして大伴氏とこの集との關係深きことを考ふべき一の資料とみらるべきなり。
○贈大作宿禰家持歌 大伴家持は本集に深き關係ある人なるが、その名はここにはじめてあらはれたり。この人は大伴宿彌旅人の子にして大伴氏の正統を持し、延暦四年に中納言從三位にて歿せり。その年齡は明かならず。その作歌は、この卷に載せられたるは天平十一年六月の詠(「四六一」以下)をはじめとすれど、作歌の年月の明かに知られたるものとして最も古きは卷八「九九四」の天平五年作の初月歌にして、その次には天平八年丙子秋九月作の秋歌四首(「一五六六」−「一五六九」)なり。今この歌はいつの頃の詠か明かならねど、はやきころの歌ならむ。
 
395 託馬野爾《タクマヌニ》、生流紫《オフルムラサキ》、衣染《キヌニソメ》、未服而《イマダキズシテ》、色出來《イロニデニケリ》。
 
○託馬野 古來「ツクマノニ」とよみ、近江國坂田郡筑摩なりとして何等の異議なきやうなり。されど「託」字を如何なる理由によりて「ツク」とよみうるか。これにつきては「託」を訓にて「ツク」とよむといふより外に説明なかるべし。然るに、この字を「ツク」とよめる例は本集にありとせば、こ(683)こ一のみにして他に存せず、又他の古典にもこれを「ツク」とよむことは例を見ざるなり。されど、必ず、しか訓を以て地名をよむべしとすることは容易くいひうべからぬことにして、地名に用ゐる場合には主として音をかりてあつるを例とせり。かくて字音を以てせば、「託」は「タク」「タカ」の二者を出ですして、この地名は「タクマ」「タカマ」のいづれかを以てよむべきものならむ。今和名鈔の地名を見るに、肥後國の郡名に「託麻」ありて「多久萬」と注し、駿河國有渡郡の郷名に「託美」ありて「多久美」と注し、石見國邇摩郡の郷名に「託農」ありて「多久乃」と注し、阿波國勝浦郡の郷名に「託羅」ありて「多加艮」と注せり。その外筑前國恰土郡の郷名に「託杜」、讃岐國三野郡の郷名に「託間」あり。これらはいづれも「タカ」「タク」とよめるなり。然らばこれは「タカマヌ」か「タクマヌ」かといふべきに似たり。さて延喜式について「交易雜物」の紫草を産する國名を見るに、
 甲斐 八〇〇斤  相模 三七〇〇斤  武藏 三二〇〇斤  下總 二六〇〇斤  常陸 三八〇〇斤  信濃 二八〇〇斤  上野 二三〇〇斤  下野一〇〇〇斤  出雲一〇〇斤  石見 一〇〇斤  太宰府 五六〇〇斤
ありて近江國になし。されば、近江の筑摩の地より古、紫草を産せしか如何疑ふべし。思ふにここに「託麻」とあるは、恐らくは、「タクマ」とよむべきものにして、古、そこより紫草を産せしよりこの歌生ぜしならむか。かくて「タクマ」といふ地は讃岐國三野郡託間郷(これは後に託間庄となる)もあれど、恐らくは肥後國託麻郡にあらざるか。この託摩郡には今も託摩ケ原と名づくる大平原ありて、稻作の沃野となりてあるが、或はこれらの地をいふならむか。この地より紫草(684)を産したりといふ證なけれど、太宰府より貢せし五千六百斤の紫草の産は九州の某地にありしことは疑ふべきにあらず。以上は必ず然りと主張しうべき根據を有するにあらねど、よみ方は根據なく「ツクマヌ」と獨斷し去るべきものにあらざるを以て今「タクマヌ」とよみ、之を一の提案としてこれを示す。さて、今かくいはば、それを九州にしては甚だ遠きにすぎずやといふ異論或はあらむ。然れども次の歌は明かに陸奥といへり。これに對すれば、九州なりとても必ずしもよまざるにあらずと思はるるなり。或は又、この歌の時家持が父に件ひて筑紫に下りてありしにあらざるか。然らば一族なる滿誓沙彌が、筑紫にある縁につれてかねて知れる家持に贈りしものとも見らるべし。
○生流紫 「オフルムラサキ」とよむ。この「紫」は卷一に紫草とかけるものの意にして草の名なり。紫草は元來野生の草にして、今は稀なれど、古は各地に生ぜしこと、上にひける延喜式にても知らるべし。而してこれが、染料として用ゐられしことはこと/”\しくあぐるまでもなし。
○衣染 舊訓「キヌニソメ」とよみたるを槻落葉に「キヌニシメ」とよみ、古義は「コロモシメ」とよめり。染は「シム」とも「ソム」ともよみうべきが、この集の假名書の例を見るに、卷二十「四四四五」に「之美爾之許呂奈保古非爾家里《シミニシココロナホコヒニケリ》」あり。又この卷「三〇〇」に「妹乎目不離相見染跡衣《イモヲメカレズアヒミシメトゾ》」の「染」は「シメ」の假名に用ゐしものなるが、又卷二十「四四二四」に「伊呂夫可久世奈我許呂母波曾米麻之乎《イロフカクセナガコロモハソメマシヲ》」ともあり。古事記上卷の歌にも「曾米紀賀斯流爾斯米許呂毛《ソメキガシルニシメコロモ》」と二樣あり。されば、ここにも二樣によみうべきなり。然るに、今日にては「ソム」はその染色のわざの方を主としていひ、「シメ」はその色など(685)の深く定まりつく點を主としていふこととなりて稍區別あり。この區別は古にもありしか否か斷言しがたしといへども、上の例はこゝに抵觸せざるを見れば、ここはなほ「ソム」といふ方をよしとすべし。然らば、古來の訓によるべきものなり。紫をば衣に染めてといふ意。紫色は當時最上の服色とせられしものなることは大寶の衣服令の規定を見てしるべし。
○未服而 舊訓「イマダキズシテ」とよむ。童蒙抄に「イマダキネドモ」とあれど、「而」を「ども」にあつるは無理なれば從ひ難し。意明かなり。
○色爾出來 舊訓「イロニイデケリ」とよみ、槻の落葉には「イロニデニケリ」とよめり。文字の上にてはいづれともよみうべし。今本集中「イロニ」といふ語よりの例を假名書のものに見るに、卷十四「三三七六」に「伊呂爾豆奈由米《イロニヅナユメ》」「同上或本歌」に「伊呂爾低受安良牟《イロニデスアラム》」「三五〇三」に「伊呂爾※[氏/一]米也母《イロニデメヤモ》」「三五六〇」に「伊呂爾低※[氏/一]《イロニデテ》」などありて他の例なければ「デニケリ」にてもよしといふべきに似たり。されども、これらはすべて東歌なれば、確たる證にはならず。ここに「出來」の二字は「デニケリ」か「イデケリ」といふことを見むには又「來」字をも考へざるべからず。「來」を「ケリ」の複語尾に用ゐることは集中普通の事にして、從つて「ニケリ」とよむこともまた少からず。これらは一々例をあぐるまでもあらざるべし。結局、ここはいづれによみてもよき事なるが、「ニケリ」とよむ方、ここにては意深くなれば、今は槻落葉の説に從ふ。「色に出にけり」は紫に染めたる事よりの縁にて、いへるなれど、その事の外にあらはれたるをいふ。
○一首の意 託馬野に生ふる紫草を衣に染めて、未だ着もせぬほどにはや人に知られたりとい(686)ふことなり。この歌は末の「色に出にけり」の一句によりて前々の例とは別にして純粹の譬喩歌とはいひがたし。こは明かにその笠女郎が、家持を思ひてありし心のいつしか人に知られたりといふ意を示せるものにして戀愛の情をあらはしたることは著し。
 
396 陸奥之《ミチノクノ》、眞野乃草原《マヌノカヤハラ》、雖遠《トホケドモ》、面影爲而《オモカゲニシテ》、所見云物乎《ミユトイフモノヲ》。
 
○陸奥之 「ミチノクノ」とよむ。陸奧は文字のまゝによまば、和名抄に「陸奧【三知乃於久】」とある如く「みちのおく」とよむべく、その義も陸地のはての義なるべきが、本集には「みちのく」といへり。その例は卷十四「三四三七」に「美知乃久能安太多良末由美《ミチノクノアダタラマユミ》」「三四二七」に「美知乃久乃可刀利乎登女乃由比思比毛等久《ミチノクノカチリヲトメノユヒシヒモトク》」卷十八「四〇九四」に「美知能久乃小田在山爾《ミチノクノヲダナルヤマニ》」又卷十八「四〇九七」に「阿頭麻奈流美知能久夜麻《アヅマナルミチノクヤマ》」ともあり。「ミチノク」は「ミチノオク」の約なり。今の陸前、陸中、陸奧を主とし、磐城、岩代の兩國も皆古の陸奥國なり。
○眞野乃草原 舊訓「マノノカヤハラ」とよめり。「眞野」は和名鈔郷名に陸奧國行方郡の下に「眞野」とあり。行方郡は今磐城國に屬す。而してその地は今相馬郡中村町と原の町との中間にある鹿島町を經て大平洋に注ぐ、眞野川といふ川ありて鹿島町の南、眞野川に沿ひたる地を今眞野村といふ。その邊の地即ち古の眞野なるべし。(眞野村、上眞野村、鹿島町)草原はクサハラともよみうべけれど、古來「カヤハラ」とよみて異説なし。「カヤ」といふは卷一にいへる如く、日本紀神代卷に「生2草祖草野姫〔三字右○〕1」とあるを古事記に「生2野神名鹿屋野〔三字右○〕比賣1」とかける如く、草を「カヤ」とよむ(687)ことの證なるが、その「カヤ」は元來ただの雜草をいふにあらずして、屋に葺く料を主としていへるものなり。ここにこの地名を引けるはたやすく都人の到らぬ遠隔の地の例としたるなれど、上のを九州とせば、わざと東國をとりて對照せしめしならむ。
○雖遠 舊訓「トホケレド」とよめるを代匠記に「トホケドモ」とみてよりかくよむことに一定せり。本集の假名書の例を見るに、「トホケレド」とある例を見ず。「トホケドモ」は卷十七「三九八一」に「安之比奇能夜麻伎弊奈里底等保家騰母《アシビキノヤマキヘナリテトホケドモ》」卷二十「四五〇〇」に「等保安杼母己許呂母之努爾伎美乎之曾於毛布《トホケドモココロモシヌニキミヲシゾオモワ》」卷四「五五三」に「天雲乃遠隔乃極遠鷄跡裳《アマグモノソキヘノキハミトホケドモ》」などあり。これらによりて「トホケドモ」ともよむべし。「トホクアレドモ」といふにおなじ。
○面影爲而 「オモカゲニシテ」とよむ。「オモカゲ」といふ語は卷十九「四二二〇」に「於毛可宜爾毛得奈民延都々《オモカゲニモトナミエツツ》」あり。「面影にして」の「して」はある動詞の代をなすものなれば、その所に適すべき語にかへて解釋すべし。ここは「面影になりて」とも釋すべきか。かゝる場合に用ゐたる「シテ」は今の語にて見れば、これを省きても意通ずることあり。「オモカゲ」とは、文選に顔を「オモカゲ」と訓せるあるが如く、もとはかほつきなどの意なるが、轉じて、見前になきものの姿のさながら目前にある如く思はるることをいふ。ここもその轉じたる方の義なり。
○所見云物乎 舊訓「ミユトイフモノヲ」とよめるを考に「ミユトフモノヲ」といひ、古義に「ミユチフモノヲ」といへり。「トフ」「チフ」いづれも「トイフ」の約か略かなるが、「トフ」の例は、卷五「八八三」に「佐容比賣我必禮布理伎等敷吉民萬通良揚滿《サヨヒメガヒレフリキトフキミマツラヤマ》」卷十四「三三二一」に「可良須等布於保乎曾杼里能《カラストフオホヲソドリノ》」(この卷(688)にはなほ二あるを略す)卷十五「三六二五」に「宇知波良比左宿等布毛能乎《ウチハラヒサヌトフモノヲ》」(この卷にはなほ一あり)その他卷十九「四二二〇」に「等布」卷二十「四三二五」にも「登布」あり。又「チフ」の例は卷五「八九七」に「鹹鹽遠灌知布何其等久《カラシホヲソソグチフガゴトク》」「八〇〇」に「宇既具都遠奴伎都流其等久《ウゲグツヲヌギツルゴトク》、布美奴伎提由久智布比等波《フミヌギテユクチフヒトハ》」卷七「一一七〇」に「連庫山爾雲居者聞曾零智否反來吾背《ナミクラヤマニクモヰレバアメゾフルチフカヘリコワガセ》」卷八「一五四七」に「誰人可毛手爾將卷知布《タレノヒトカモテニマカムチフ》」卷十八「四一〇三」に「於伎都之麻伊由伎和多里弖可豆久知布安波妣多麻母我《オキツシマイユキワタリテカヅクチフアハビタマモガ》」等ありて、いづれにても不可なきものなり。然れども又卷十四「三五三六」に「伊可奈流勢奈可和我理許武等伊布《イカナルセナガワガリコムトイフ》」卷十八「四〇七八」に「故敷等伊布波衣毛名豆氣多理《コフトイフハエモナヅケタリ》」「四一〇一」に「可都伎等流登伊布安波妣多麻《カヅキトルトイフアハビタマ》」卷十九「四二〇五」に「射布折酒飲等伊布曾此保寶我之波《イシキヲリサケノムトイフゾコノホホガシハ》」卷二十「四四九四」に「青馬乎家布美流比等波可藝利奈之等伊布《アヲウマヲケフミルヒトハカギリナシトイフ》」卷十八「四〇八〇」に「都禰比等能故布登伊敷欲利波《ツネヒトノコフトイフヨリハ》」の如く「トイフ」といひて字餘りにせるもあり。しかもかく字餘によむ方力強くきこゆれば、古來の訓み方にて差支なしとす。「ものを」の「を」は感動をあらはす間投助詞の、終につけるなり。
○一首の意 陸奧の行方郡の眞野の草原は遠き處なれども、心に思へばその土地のさまは面影になりて見ゆといふものなるにといふなり。これは遠隔の地にありても心に思へば、その面影の見るものなることをいへるなり。
 
397 奥山之《オクヤマノ》、磐本管乎《イハモトスゲヲ》、根深目手《ネフカメテ》、結之情《ムスビシココロ》、忘不得裳《ワスレカネツモ》。
 
○奧山之 「オクヤマノ」とよむ。意明かなり。
(689)○磐本管乎 「イハモトスゲヲ」とよむ。これもよみ方に異説なし。「イハモトスゲ」とは、磐の本に生ひたる菅なり。卷十一「二七六一」に「奥山之石本菅乃根深毛所思鴨《オクヤマノイハモトスゲノネフカクモオモホユルカモ》」といふ同じ語なり。又卷十一「二四七二」の「見渡三室山石穗管《ミワタシノミムロノヤマノイハホスゲ》」とあるも巌の本に生ふる菅なり。又卷四「七九一」に「奧山之磐影爾生流菅根乃懃吾毛不相念有哉《オクヤマノイハカゲニオフルスガノネノネモコロワレモアヒオモハザラム》」とあるも同じ趣のものなり。この菅は多くの學者和名鈔草類に菅字に「須計」と注せるを引けど、これは「茅屬草也」とありて、普通に菅笠などにする菅は、濕地に生ふるものにして、奥山に生ふるものにあらず。これは奧山の磐の本に生ふるものなれば、「ヤマスゲ」なり。「ヤマスゲ」の名も本集に例多し。これは漢名麥門冬にして、和名鈔にも「夜末須介」といひ、本草和名にも「也末須介」とあり。これは山地の岩石の本に生ふるものなるが故にかくいへるなり。下の「乎」は格助詞にして、下の「結ぶ」に關するものなり。
○根深目手 「ネフカメテ」とよむ。山菅の縁にて根深めてといへるなり。そは卷十一の「石本管乃根深毛《イハモトスゲノネフカクモ》」ともいへる如く、岩の本に生ふる山菅は根の深く生ふるものなるが故なり。
○結之情 「ムスビシココロ」とよむ。童蒙抄には「カタメシココロ」とよみたり。その意は明かに諒解せらるれど、これは一面山菅を結ぶといふ語なれば「結ブ」とよむをよしとす。卷十一「二四七七」に「足引名負山菅押伏君結不相哉《アシヒキノナニオフヤマスゲオシフセテキミシムスババアハザラメヤモ》」とあれば、山菅を結ぶといふ語の行はれしを見る。なほ、草を結ぶことは卷一以下に例屡出でたり。これは一面山菅をば結びしといふ語なるが、その「結ぶ」は志を同じうするものの相契るをいふ。これは必ずしも戀にかぎるにあらず。この卷「四八一」に「玉緒乃不絶射妹跡結而之事者不果《タマノヲノタエジイイモトムスビテシコトハハタサズ》」卷十一「二六〇二」に「黒髪白髪左右跡結大王心一(690)乎今解目八方《クロカミノシラカミマデトムスビテシココロヒトツヲイマトカメヤモ》」卷十二「三〇二八」に「大海之底乎深目而結義之妹心者疑毛無《オホワタノソコヲフカメテムスビテシイモガココロハウタガヒモナシ》」卷十六「三七九七」に「死藻生藻同心跡結而之友八逢我藻將依《シニモイキモオナシココロトムスビテシトモヤタガハムワレモヨリナム》」なとあり。ことにその卷十二のはここと同じく「ふかめて結ぶ」とあり。これは深くして結ぶといふなり。
○忘不得裳 「ワスレカネツモ」とよむ。「不得」を「カネ」の語にあつる例はこの卷「二六八」に「島待不得而《シママチカネテ》」「三五四」に「行過不得而《ユキスギカネテ》」などをはじめ、卷十一「二六二四」の「色深染西鹿齒蚊遺不得鶴《イロフカクソミニシカバカワスレカネツル》」などあり。又卷七「一三九九」に「※[手偏+旁]船爾乘西情忘不得裳《コグフネニノリニシココロワスレカネツモ》」卷十「一九八一」に「短夜毛獨宿者明不得毛《ミジカヨモヒトリシヌレバアカシカネツモ》」卷十二「三〇四七」に「君心者忘不得毛《キモガココロハワスレカネツモ》」などは「カネツモ」とよめる例なり。これが假名書の例は、卷一「七二」の「枕之邊忘可禰津藻《マクラノアタリワスレカネツモ》」をはじめ卷五「八〇五」に「余能許等奈禮婆等登尾可禰都母《ヨノコトナレバトドミカネツモ》」等少からず。「も」は往往終にもつくこと、この頃の語遣なり。
○一首の意 明かなり。奧山の石の本に生ふる山菅は根深きものなるが、その山菅の如く、根深く契を結びしわが心は忘れかぬることよとなり。
 
藤原朝臣八束梅歌二首
 
○藤原朝臣八束 この人は天平寶字四年に眞楯と改名せしが故に、後の普通の歴史には眞楯とのみありて八束の名を用ゐず。本集はすべてその改名以前の詠なるが故か八束とのみあり。この人は藤原の房前の第三子にして、元正天皇靈龜元年に生る。天平十二年正月に從五位下に叙せられ、天平十三年右衛士督に任せられ、十九年治部卿に任ぜられ、二十年には參議兼式部(691)大輔たり、天平勝寶四年には攝津大夫となり、天平寶字二年は參議中務卿たり。同三年には太宰帥となり、六年には中納言兼信部卿(中務卿)たり。天平神護二年正月には大納言となり、三月に薨ず。この人の歌はここの外卷六に月歌一首、卷八に三首、卷十九に二首あり。
○梅歌 これも亦單なる詠物歌にあらざること著し。なほこれにつきては下にいふことあるべし。
 
398 妹家爾《イモガイヘニ》、開有梅之《サキタルウメノ》、何時毛何時毛《イツモイツモ》、將成時爾《ナリナムトキニ》、事者將定《コトハサダメム》。
 
○妹家爾 「イモガイヘニ」とよむ。攷證及古義は「イモガヘニ」とよむべしといへり。その理由は卷五「八四四」に「伊母我陛爾《イモガヘニ》」卷十四「三四四一」に「伊毛我敝爾《イモガヘニ》」とあるに准じての事なり。而して攷證はまた卷十四「三四二三」に「伊毛賀伊敝乃安多里《イモガイヘノアタリ》」「三五四二」に「安我毛布伊毛我伊敝乃安多里可聞《アガモフイモガイヘノアタリカモ》」云々などもあれどそれは七言の句にしてここは五言の句なれば、「いもがへ」と訓むべしといひたり。然るに、本集を見るに「いもがへ」と假名書なるは上の二例にして、「イモガイヘ」とあるは假名書上の外に卷十七「三九五二」の「伊毛我伊敝爾伊久里能母里乃藤花《イモガイヘニイクリノモリノフヂハナ》」といふ枕詞あり。されば、いづれにてもよきならむ。今は舊訓による。
○開有梅之 「サキタルウメノ」とよむ。「有」を「タリ」にあてたる例は卷一「二八」の「白妙能衣乾有《シロタヘノコロモホシタリ》」卷二「九五」の「安見兒得有《ヤスミコエタリ》」以外甚だ多し。
○何時毛何時毛 「イツモイツモ」とよむ。この語の集中の例を見るに、卷四「四九一」に「伊都藻之花(692)乃何時何時來益我背子《イツモノハナノイツモイツモキマセワガセコ》」卷十「一九三一」に「伊都藻之花之何時何時來座吾背子《イツモノハナノイツモイツモキマセワガセコ》」卷十一「二七七〇」に「道邊乃五柴原能何時毛何時毛人之將縱言乎思將待《ミチノヘノイツシバハラノイツモイツモヒトノユルサムコトヲシマタム》」卷二十「四三八六」に「以都母以都母於母加古比須奈《イツモイツモオモガコヒスナ》」とあり。代匠記には「いつも/\に二つの意あり。六帖に鹽のみつ出雲の浦のとつづけ、此集第四に河上のいつもの花のなとつづけたるは常の詞にて聞か如し。今の歌及ひ第十一に道の邊のいつしは原のいつも/\とよめるはいつにても/\と云はむが如し」といひ、攷證は「集中いつも/\といふは皆いつにてもといふ意也」といへり。今集中の上の諸例を通じて全く一の意なりとする攷證の説はすぎたり。代匠記の如く二の意に用ゐたりと見ゆ。而して、この例と卷十一の例とは「いつにても」の意をあらはせりと見ゆ。
○將成時爾 「ナリナムトキニ」とよみて異説なし。「將」を「ナム」にあてたる例は、卷二「一八五」の「磯浦回乃石乍自木丘開道乎又將見鴨《イソノウラミノイハツツジモクサクミチヲマタミナムカモ》」「二二六」の「誰將告《タレカツゲナム》」この卷にては「二五四」の「榜將別《コギワカレナム》」「三二七」の「將死還生《ヨミカヘリナム》」「二三一」の「不見歟將成《ミズカナリナム》」あり。以下にはもとより多く一々あぐべからず。この句の意は代匠記に曰はく「成なむ時とは實に成ん時なり。花はうるはしけれど、實とならぬもあり。言はよけれど誠なきもあり。花のみを見て實を定めがたく、言をのみ聞て誠を知かたければ、實になりかたまれる如くなる誠を見ん時こそ相思けりと知て、夫婦の契をば定めんと云心を梅の上に云が譬喩なり」と。大體かくの如き事ならむ。
○事者將定 「コトハサダメム」なり。意明かなり。
○一首の意 上の代匠記の説明にて粗つきたり。ただ妹が家に開きたる梅といひてその花を(693)あらはすと共にその女に關しての譬喩としたるものなり。即ち妹が家に今開きてある梅の實に成りなむ時に、即ち、君が言の誠を見屆けたる時に至らばいつにても契をば定めむとなり。
 この歌明かに梅の實の熟することを以て婚期に譬へたり。而して、同人の次の歌はもとより、次の大伴駿河麻呂の歌また然り。按ずるにこれらは恐らくは詩經召南※[手偏+票]有梅篇に模範を有せるものにあらざるか。その詩は
 ※[手偏+票]《オツルモノ》有v梅其實七(ツ)兮、求(ル)v我(ヲ)庶士(ノ)、※[しんにょう+台]《オヨハンカ》2其(ノ)吉《ヨキヒニ》1兮
 ※[手偏+票]有v梅、其實三(ツ)兮、求v我庶士、※[しんにょう+台]2其(ノ)吉1兮
 ※[手偏+票]有v梅|傾筺《ソハタテルカタミシテ》※[即/土]《トル》、求v我庶士、※[しんにょう+台]2其(ノ)謂(カタル)1兮
鄭箋に「梅實尚餘v七未v落喩2始衰1也。謂2女二十春盛而不v嫁至v夏則衰1而」といへり。元來梅は支那より來れるものにして、これを賞すること既に一の新しき事相なり。而してこれが結實を婚期に寓していふことも恐らくは當時の新智識の試みなりしならむ。
 
399 妹家爾《イモガイヘニ》、開有花之《サキタルハナノ》、梅花《ウメノハナ》、實之成名者《ミニシナリナバ》、左右將爲《カモカクモセム》。
 
○妹家爾 上に同じ。
○開有花之 「サキタルハナノ」なり。この「ノ」といふ助詞は同趣の語を重ねいふ時に用ゐるものなり。妹が家に咲きたる花即ち梅の花といふ關係にあるをつゞけていへるなり。これは古今に通じたるものにして既にこの集にも多くあらはれたり。
(694)○梅花 「ウメノハナ」なることいふまでもなし。最も集中にも卷五には「宇米我波奈」(八四五)「※[さんずい+于]米何波奈」(八三七)といふもあれど、又「于梅能波奈」(八六四)「宇米能波奈」(八二二)「宇梅能波奈」(八四三)「有米能波奈」(八五〇)「烏梅能半奈」(八四九)「烏梅乃波奈」(八二四)「烏梅能波奈」(八一六)(八一八)(八一九)(八二〇)(八二三)(八二五)(八二八)(八二九)(八三一)(八三二)(八三四)(八三五)(八三六)(八三八)(八三九)(八四〇)(八四一)(八四四)(八五二)「烏梅能波奈」(八一七)(八二六)(八三〇)「烏梅能波那」(八四六)等「ウメノハナ」といへる方多く、その他の卷々には「ウメガハナ」とよむべき證あるものは一もなし。されば「ウメノハナ」とよむをよしとす。
○實之成者 「ミニシナリナバ」とよむ。「ニ」の助詞書きてなけれど、加へてよむ例は卷一以來頻繁に行はれしことなり。「ニ」はその變化生成の目標をさす語にして「なりなば」の「なり」はその花が實となることをいふ。この句に參照すべきものは卷七「一三六五」に「屋前之秋芽子自花者實成而許曾戀益家禮《ヤドノアキハギハナヨリハミニナリテコソコヒマサリケレ》」卷八「一四四五」に「實爾不成吾宅之梅乎花爾令落莫《ミニナラヌワギヘノウメヲハナニチラスナ》」「一四六三」に「花耳爾咲而蓋實爾不成鴨《ハナノミニサキテケダシクミニナラジカモ》」「一四三九」に「珠爾可貫實爾成二家利《タマニヌクベクミニナリニケリ》」等なり。その花がやがて實に成りなばといふなり。「シ」は強意の助詞にして、かく「ば」にて條件を示す句の中に用ゐらるること少からず。卷二の「置而之來者《オキテクレバ》」(一三一)「別之來者《ワカレシクレバ》」(一三五)「旅爾之有者《タビニシアレバ》」(一四二)等少からず。
○左右將爲 舊訓「カモカクモセム」とよめるを童蒙抄は「モトコニハセム」とよめり。何故にかくよみ改めたるかといふに「古本印本等にはかもかくもせんと讀めり。尤左右の二字眞字伊物にも、かにかくにとも讀ませたり。然れども日本紀には此訓不v見、もとことは讀ませたり。義(695)訓にかもかくも、ともかくもとも讀まれまじきにもあらねど、古訓に從ふまじきや。かもかくもと讀む意は實だに相定まりたらば、いか樣ともせんと云事に聞ゆれども前に注せる如く、これは我許の子にせんといふ義にて嫁にとらんとの事をたとへたる歌ならんか。もとことは古訓といひ、歌の意嫁にせさせよ、又わが妻のことにもあれ、女の通稱を兒といへば、わがもとの兒にせんと云ふと見るによりて當家の傳は左右の二字はもとこと讀む也」とあり。この童蒙抄の説は左右の文字については無稽の説にあらず。日本紀垂仁卷のはじめに「天皇愛之引置左右」とあり、二年の條に「常在2左右1」とあるを「モトコ」とよみたるをはじめ、七年の「左右奏言」二十三年の「詔左右曰」二十四年の「左右奏言文」等をは「モトコヒト」とよみ來れり。その他の卷にても「左右」を專ら「モトコ」とよめるを以てこの説あるも偶然にあらず。この語の意は「許處《モトコ》」なりといへり。然るに、この語は日本紀の訓以外には用ゐたる例なき語にして、この頃に實際行はれたりしか否かは頗る疑ふべしとす。加之ここは側近の意にていふ所の左右の意にはあらざるべきこと他諸家の等しく認むるところなるが故に、先づこの文字の意よりして檢する必要あり。左右を一の成語とするときは、側近の人をいふを第一義とすることは日本紀の用法の如し。それより轉じて、その人を尊重してその侍者をさしていふ意にて敬語とし、又年齡の定まらぬときにたとへば「六十左右」などいふことあり。時としては又用言の意にて補佐の意とすることもあれど、「カモカクモ」とよむべきやうの熟字としては支那の文獻にこれを見ず。然るに、類聚名義抄には「左右」に「トニカクニ」とあり、文選の訓に「左右」に「アフサキルサ」とよめり。按ずるに(696)かくよめるものは「左右」を體言の如くにせるにあらずして、副詞の如くに用ゐたるものならむ。その例は、詩經周南に「參差(ト)※[草がんむり/行]菜(ノ)左右《・カタタカヒナルミツナハヒタリニモミキニモ》流之《ナカレノマニトルベシ》」又「參差※[草がんむり/行]菜左右采之」とある左右の義か。これはその解釋に種々の説あれど、わが古代よりのよみ方は「左にも右にも」の意にとれるなり。さて日本紀齊明卷五年七月の記の注なる伊吉連博徳書に「不評東西」といふ文字あるを「カニカクスルヲユルサズ」とよみ來れり。この東西も亦ここの左右に似たるものにして、二者いづれも、彼是とすることをいへるものなること知られたり。而して萬葉集を見るに、かかる意をあらはす語には「ト」と「カク」と相並べていへる例の假名書なるは一も見えずしていづれも「カ」と「カク」とを並べていへるなり。卷五「八〇〇」に「可邇迦久爾保志伎麻爾麻爾《カニカクニホシキマニマニ》」「八九七」に「可爾可久爾思和豆良比《カニカクニオモヒワヅラヒ》」卷四「六二八」に「鹿※[者/火]藻闕二毛求而將行《カニモカクニモモトメテユカム》」卷十七「三九九一」に「可由吉加久遊岐見都禮騰母《カユキカクユキミツレドモ》」卷十四「三三七七」に「可毛可久毛伎美我麻爾末爾《カモカクモキミガマニマニ》」卷十七「三九九三」に「可祁加久母伎美我麻爾麻等《カモカクモキミガマニマニト》」とある等あり。さればここもその「カ」「カク」を對比していへる詞遣によるべきが、その時には「カニカクニ」か「カモカクモ」かの二途を出づべからず。而して二者共に例あるが、なほ「左右」をよめる他の例を見るに、卷九「一七四九」には「左右君之三行者今西應有《カニカクニキミガミユキハイマニシアルベシ》」は「カニカクニ」とよみたれど、それはいづれも五言の句なれば、動かぬ證にはならじ。今、意を以て推すに「カニカクニセム」といふと「カモカクモセム」といふとはその論理上の關係はかはらねど、「カモカクモセム」といふ方は「モ」助詞の力にて感情の含蓄深くきこゆるなり。されば舊訓によるべきなり。その意はその事をばとにもかくにも定めてむといふなり。
(697)○一首の意 前の歌と略同じ意なるを稍趣をかへていへるなり。妹が家に咲きてある梅の花は麗はしきが、それが、實を結ぶことになるときまりたらば、その時に然るべく、われも定めむとなり。考にはこの歌につきて次の如くにいへり。「或本歌、……こは同歌の聊異なる故に後にせしなり。然るを今本の端に二首と書たるは後人のわざなり」といへり。然るに、ここに或本歌と記入せるものもなく、又上の「二首」の文字にも異説なければ、考の説は全くの臆測に止まり從ふべきものにあらず。二首の略、意似たる歌をよまずといふことあるべからぬ事なるをや。
 
大伴宿禰駿河麿梅歌一首
 
○大伴宿禰駿河麿 この人宿禰姓なれば、旅人家持の同族なるべきこと知られたれど、その系統は續紀にも公卿補任にも見えず。大日本史にこの人の傳あるが注して「萬葉集曰、大伴駿河麿高市大卿之孫、系圖或曰、參議道足之子、續日本紀、公卿補任不v載2父祖1、今無v所v考」といへり。本集卷四のこの人と坂上郎女との歌の左注に「右坂上部女者佐保大納言卿女也。駿河麻呂此高市大卿之孫也。兩卿兄弟之家、女孫姑姪之族。是以題v歌送答相2聞起居1」とあり。その佐保大納言は安麿なること明かなれど高市大卿は誰人なるか明かならず。今の萬葉集の諸注これを大伴御行なりとせるが、果してその證ありや。代匠記は「高市大卿は右大臣大伴宿禰御行にや」とあるのみなり。考には駿河麿の事を「高市麿の孫道足宿禰の子なり」といひたれど、高市麿といふ人所見なし。恐らくは高市大卿の語によりて推測したるならむ。高市大卿を御行と斷言せ(698)るは古義やはじめならむ。然れども、何等その證をあげたることなし。何を以てかくいへるか。攷證はこの歌の下にては「さだかならず」といひたれど、卷四の左注の下にては「こは大伴御行卿をいへり。この卿を高市大卿といふよしはしりがたけれど、次に兩卿兄弟之家とあれば、御行卿なる事明らけし」といへり。されど、これらはすべて推測に止まる。安麿と御行とは兄弟なれど、その輩行は史に明記なし。されど、御行は大寶元年に大納言の上首として五十六歳にて薨じ、その年に、安麿は中納言なり。年齡は明かならねど、和銅七年に大納言にて薨ぜしなり。されば、寧ろ御行が兄にして安麿は弟ならむ。而して兄弟二人に限るとならば上の説も眞ならんといふべきなれど、しかも公卿補任には安麿をば、「右大臣大紫長徳之六男」とあり、續日本紀には第六子とあり。御行の外にも男の兄弟ありしならむ。この故に以上の説は信ぜられざるものなり。ただ、安麿の兄弟なる高市大卿と唱へられたる人の孫なりといふに止まらむ。今、參議道足の子を駿河麿とせば、道足の父大伴馬來田即ち高市大卿たりといはざるべからず。然れども、馬來田は大伴咋の子にして長徳と兄弟たり。この故に道足の子といふ説も萬葉の左注と齟齬するが故に信ずべからず。されば大日本史の意見に從ひて、不詳とする外はあらず。かくその父祖の名は明かならねど、この人の事は續日本紀にて略知らる。即ち天平十五年五月に正六位上大伴宿禰駿河麿に從五位下を授けらろる記事あるをこの人の名の初めて見ゆるものとす。爾後、天平十八年九月には越前守に任ぜられ、天平寶字元年八月に起りたる橘奈良麿の事變に坐して罪を得て配流せらる。(その地を記さず)稱徳天皇の神護景雲(699)四年五月には從五位上大伴宿禰駿河麿を出雲守に任ぜられたれば、その前に召還されしこと明かなり。かくて、寶龜元年十月光仁天皇即位式の際正五位下に叙せられ、同三年九月には、從四位下大伴宿禰駿河麿を陸奥按察使に任ぜられたるが、その時特に勅ありて、その老年を以て辭せしかど、その人が適任なるを以て任ずる由を宣せられ、正四位下を授けられたり。同四年七月には陸奥國鎭守將軍を兼任し、同六年九月には參議となり、十一月に蝦夷鎭撫の功を賞して將士に位階を加へられし時に正四位上勲三等に叙せられたるが、同七年七月に卒す。贈從三位。享年詳かならず。この人の歌はこの歌をはじめとして、この卷に五首、卷四に五首、卷八に二首、すべて十二首あり。さてこの歌はその年若き頃の詠なること著しければ、天平十年前後のものならむ。
○梅歌 上の歌の例にて知るべし。
 
400 梅花《ウメノハナ》、開而落去登《サキテチリヌト》、人者雖云《ヒトハイヘド》、吾標結之《ワガシメユヒシ》、枝將有八方《エダナラメヤモ》。
 
○開而落去登 「サキテチリヌ」とよむ。「落」を「チル」「去」を「ヌ」にあつること前々よりの例なり。似たるいひ方は卷五「八二九」に「烏梅能波奈佐企弖知里奈婆《ウメノハナサキテチリナバ》」「八四一」に「烏梅能波奈和企弊能曾能爾佐伎弖知留美由《ウメノハナワギヘノソノニサキテチルミユ》」卷十「一九二二」に「梅花咲而落去者《ウメノハナサキテチリナバ》」卷十七「三九九三」に「布治奈美波佐伎底知里爾伎《フヂナミハサキテチリニキ》」などあり。語の意は明かなり。うるはしくさき、さて落りぬとなり。
○人者雖云 「ヒトハイヘド」とよむこと異説なし。意も明かなり。
(700)○吾標結之 「ワガシメユヒシ」といふことまた異論なし。「シメユフ」は上の「三九四」にいひし如く「標結」の文字は卷二の「一一五」「一五一」「一五四」に既にいでたり。
○枝將有八方 舊本の訓「エダニアラムヤモ」とあれど語をなさず。仙覺が「エダニアラメヤモ」とよめり。古今六帖卷五にこの歌を載せたるには「枝ならめやも」とよめり。「八方」は「ヤモ」にて疑問の助詞なるが、これが複語尾「ム」の已然形「め」をうけて、反語をなすこと古代の普通の語遣なり。その例は卷一「二一」の「吾戀目八方《ワレコヒメヤモ》」「三一」の「亦母相目八方《マタモアハメヤモ》」「四六」の「寢毛寢良目八方《イモヌラメヤモ》」以下多きことなり。「ナラ」「ニアラ」はいづれにてもあしとにあらぬが、前々よりの例によりて「ナラメヤモ」とよむ方よかるべし。
○一首の意 この歌、八にある、大伴家持贈紀女郎作歌の「瞿麥者咲而落去常《ナデシコハサキチリヌト》、人者雖言《ヒトハイヘド》、吾標之野乃花爾有目八方《ワガシメシヌノハナナラメヤモ》」(一五一〇)に甚しく似たり。ただ彼は瞿麥をよみ、これは梅をよめるを異なりとす。この歌の詞の上の意味は、人ありてうるはしく咲きてありし梅の花が、散りぬといふ。或はさる事もあらむ。されど、その散りたりといふ梅は、自分がわがものと定めて置きし枝にあらむやは。恐らくは外の梅の事にして、わがしめ結ひし梅にはあらじとなり。これを譬喩として、梅を女にとれば、おのが約束せし女が心がはりしたりと告ぐる人あれど、それは他人の事にして、わが約束せし女の事にはあらじといへる意にして、その事をきゝて多少の不安を感じつゝも、なほ自らたのめる心をあらはせるなり。この歌次の歌と關係ありと見る時は、攷證、古義等にある説の如く、その女をば大伴坂上娘女の二孃(後に駿河麿の妻たり)に關しての事な(701)らむといひたり。
 
大伴坂上郎女宴2親族1之日吟歌
 
○大伴坂上郎女 この人の事は上の祭神歌(三七九、三八〇)の條にいへり。
○宴親族之日 「親族」は「ウカラ」とよむべし。日本紀卷一に「不v負2於族1」に注して「此云宇我邏磨概茸」とあり、又同族骨肉等をも日本紀には「ウカラ」とよめり。「宴」は普通に「ウタゲ」とよめり。「ウタゲ」は「ウチアゲ」の約なり。而してその「うたげ」といふ語は假名書の例は本書には見えず。又古書にもかくよむべき積極的の證左なし。從來「ウタゲ」といふ語の古きものとしての證は、日本紀の訓に「宴」(天智卷)「讌」(允恭卷)をかくよめるによれるものなるが、古事記にも日本紀にも、「ウタゲ」と必ずよむべしといふ證はなし。而して、一方平安朝の物語等を見れば、竹取物語に「三日うちあげ遊ぶ」うつほ物語藤原の君卷に「すべて七日七夜とよのあかりしてうちあげあそぶ」榮花物語見はてぬ夢の卷に「御隨身所大舍人所は酒を飲のゝしりてうちあげのゝしる」同書淺緑の卷に「三日のほどよろづの殿ばらまゐりまかでうちあげ遊び給ふ」又本の雫の卷に「三日のほどめでたくうちあげあそびて過ぬ」とありて「うちあげあそぶ」「うちあげのゝしる」など、すべて用言として用ゐたるをみるが、これを體言としたるものを見ず。この「うちあぐ」といふことは日本紀顯宗卷の室壽詞のうちにも「手掌※[立心偏+樛の旁]亮拍上賜吾常世」等とあるを「タナソコモヤララニウチアゲタマフ」よめるそれも用言なり。而して拍上は必ず「ウチアゲ」とよむべき語なることを示せり。(702)釋日本紀にはこれを「拍上賜者飲酒儀也」と釋せり。この「うちあげ」といふ語は今も方言に殘れり。古事記傳二十七卷に曰はく「或人(ノ)云(ク)美濃(ノ)國の俗言によめ入(リ)の時に聟なる者の婦翁《シウト》の許《モト》に始めて行くを宇茶下《ウチヤゲ》と云と云り。宇多宜の古言の遣《ノコ》れるなり」とあり。わが越中にては今もかく聟がはじめて婦翁の許に行くをば「うちあげにゆく」と明亮に古言を傳へたり。さてこの「うちあげにゆく」は目的準體言なれば、その源は確かに用言たり。かくてそれが約めらるれば「ウタゲ」となることは當然なるが、上にもいへる如く「ウタゲ」といふことの確かなる證は古典に存せず、又平安朝のものにも見えず、僅かに類聚名義抄に「讌」字に注して「ウタゲウツ」とあるを見るのみなり。しかもこれは再び「ウツ」といふ用言を加へたり。今これらを通覽するに「うたげ」といふ形の語が、この頃に行はれしといふことは容易に斷言すべからず。若しこれをこの語にてよまむとならば、「うちあぐ」といふ用言にてよむべきものなり。その用言の意はいふまでもなく、かの室壽の詞にある如く、手を拍ちあぐる義にして祝宴の席に列席者一同掌をうちて歌ふことを主としたる語なること著し。さてかく考へ來れば、ここの「宴」字は必ず、「ウタゲスル」とよむべきものと斷言しうべきにあらず。されば、ここも用言によみて「ウチアグル」とよむか、「ウチアゲスル」とよむべきものならむ。かくてこの「宴親族之日」と書けるは全然漢文流に書けるにて、文字を拾ひよみにしては語をなさず。こは日本書紀景行天皇卷に熊襲が事を書ける條に「悉集2親族1而欲v宴」と書けるに似たり。而して「日」字は必ず、「ヒ」とよむべしとにあらず。この一句は「ウカラヲツドヘテ、ウチアゲスルトキニ」とよむべきものならむ。
(703)○吟歌 童蒙抄には「によふうた」とよみて「これは我作れる歌をひたもの/\となへ歌ふたる義を云也。これをによふと讀むべし。古點に、片假名にて吟の字にニヨフと付けたる點あり。みな人マヨフのサを脱したるものと心得てすませどもさにはあらず。によふと云古訓と見えたり。云々」とあり。槻落葉はこれに基ついてか「ニヨヘル」とよめり。考は別に吟を「うたへる」とよみ、攷證は「ウタフ」とよめり。今、吟字について説文には「呻也」と注し他の義なけれど、新撰字鏡には「吟」に注して「語也、呻也、嘆也、歌也」といへり。而してその「呻也、嘆也」とあるは呻吟と熟する文字にして、これは新撰字鏡に呻に注して「吟也歡也左萬與不、又奈介久」とある意にして、この方の訓は「ニヨブ」なり。その「ニヨブ」と云ふ語は、童蒙抄に「今も西國の方言には、人の煩ひなどにうめくことをによふといふ也。これ古語也。によふと云ふ義はなきよぶといふ義也。なきの約はに也」といへる如く(そのなきよぶの約といふ説はうけられねど)うめく意をいふ語なり。されど、ここにさやうに呻吟嗟嘆する意ありとは思はれず。次に「ウタフ」といふ訓は「歌也」とある注にあたるものなるが、これは文選陳孔※[王+章]が、答東阿王※[片+錢の旁]に「以爲吟頌」とある吟字の意にして、李善は之に注して「謂謳吟歌誦」といへり。ここは戰國策秦策注に吟歌といひたる文字を用ゐたるものと思はれ、呻吟懊悩の意ならずして、詠吟の意なること著しければ歌の字に准じて攷證の説に從ひてよむべきなり。
 
401 山守之《ヤマモリノ》、有家留不知爾《アリケルシラニ》、其山爾《ソノヤマニ》、標結立而《シメユヒタテテ》、結之辱爲都《ユヒノハヂシツ》。
 
(704)○山守之 「ヤマモリノ」とよむ。山守とは山を守る職又はそれを職とする人なり。この事は卷二「一五四」の「大山守」の下にいへる如く、山の堺を守りて、濫に竹木を伐ることを禁ずるを事とするものなり。
○有家留不知爾 「アリケルシラニ」とよむ。「不知爾」の「ニ」は打消の意をあらはす古代の複語尾にして、上の「不」はその意をあらはし、下なる「爾」は音をあらはし、二者相合して一の複語尾をあらはすものなり。かゝる書法の例は既に卷二「二〇七」「二一〇」の「世武爲便不知爾《セムスベシラニ》」に例あり、この卷以後の卷にも屡々あらはるゝものなり。この「ニ」は連用形にして、今の「ずして」又は「ずに」といふに似たる意と用法とをなせり。
○其山爾 「ソノヤマニ」なり。その山とはその山守のある山をさす。
○標結立而 「シメユヒタテヽ」とよむ。「シメユフ」は上の歌に「明かなり。「立てて」は攷證に「立《タテ》は詞にて意なし」といへれど、從ふべからず。これは結《ユヒ》は標をつくることにて「立て」はそれを著しく示す爲のわざをいふにてその立ての意は著しきものなり。卷十八「四〇九六」に「大伴能等保都可牟於夜能於久都奇波之流久之米多底比等能之流倍久《オホトモノトホツカムオヤノオクツキハシルクシメタテヒトノシルベク》」とあるを見よ。
○結之辱爲都 舊訓「ユヒノハヂシツ」とあるを童蒙抄に「ユヒシハヂシツ」とあり。童蒙抄の説にては「ユヒシ」が體言に准ぜらるゝか、若くは連體形にて體言の装定をなすべきものなり。されど、連體形として「ユヒシハヂ」といふ時は語をなさず、「ユヒシ」を準體言とすることはなしとにあらねど、連體形として装定せる場合に混同し易く、且つ意十分に明かならず。これは古來の訓(705)をよしとすべし。「ユヒノハヂ」とは「ユヒタルコト」の恥なり。かくいへる例はこれ一のみなれど、同じ趣の詞遣即ち用言の連用形にて臨時に體言化して「の」にて體言に冠したる例は古言に多し。たとへば、卷二「一三五」の「黄葉乃散之亂爾《モミヂバノチリノマガヒニ》」卷四「五五七」に「大船乎※[手偏+旁]乃進爾磐爾觸《オホブネヲコギノススミニイハニフリ》」卷九「一八〇〇」に「益荒天乃去能進爾此間偃有《マスラヲノユキノススミニココニコヤセル》」卷十四「三四五八」の「等里乃乎加恥《トリノヲカヂ》」(取の小梶)卷十七「三九〇四」に「宇梅能花佐吉乃盛波乎思吉物奈利《ウメノハナサキノサカリハヲシキモノナリ》」等なり。さればこれらによりて、「ユヒノハヂシツ」とよむべし。これは標を結ひたる事が恥の理由となれる場合をいへるなり。
○一首の意 表には山守の在りしことを知らずして、即ち、他人の山といふことを知らすして、その山にわが山なりといふ標を結ひ立てて、その結ひたる事によりて恥をかきたりとなり。これにつきては攷證に「坂上郎女宴親族時に駿河麻呂卿も大伴家の一族なれば、この宴席に在ん事もとよりにて、この卿、大伴家の一女、田村の大孃に相れしかば、母坂上郎女、わが娘の男におくれるにて駿河麿卿このごろ外の女にかたらひつき給ひし聞えありしなるべし。されば、外の女を山守によそへて、この山に山守のありともしらずして、わが聟ぞと標ゆひて、心やすく思ひしを今となりて、標ゆひたりと思ひしがはづかしくとなり」といへり。この言の如くならむ。
 
大伴宿禰駿河麻呂即和歌一首
 
○即和歌 「スナハチコタフルウタ」とよむべし。「即」は字義よりいひても玉篇に「今也」とある如く、即時ともいふ如く、ソノ時スグの意なるが、國語の「スナハチ」はまさに即時の意なり。卷八「一五(706)〇五」に「霍公鳥鳴之登時君之家爾往追者將至鴨《ホトtギスナキシスナハチキミガイヘニユケトオヒシハイタリケムカモ》」とある登時を「スナハチ」とよめり。「登」は一字にて立時の義に用ゐるものにして、三國志の魏志呉志等に屡用ゐ、その以下唐律に至るまでもこれを用ゐたり。それに時を加へて登時といへるも北史に「賊衆大驚、登時散走」と見え、任※[日+方]が文にも「登時欲捉取」とあり。「すなはち」の假名書の例は萬葉集の歌には見えねど、伊勢物語に「明けぬればおりたるすなはち〔四字傍点〕淺みどりなるうすやうにえんなる文をもて來り」字都保物語俊蔭に「生れ落るすなはち〔四字傍点〕女おのが布のふところにいだきて云々」同吹上上に「雪ふすまのごとこりてふるすなはち〔四字傍点〕きえぬ」源氏物語宿木に「例ならず、ゆるさせ給へりしよろこびにすなはちにも參らまほしく侍りしを」古今集覊旅の詞書に「此歌はある人男女もろともに人の國へまかりけり。男まかりいたりてすなはち身まかりにければ云々」など例甚だ多く一々あぐべからず。ここも、上の歌を坂上郎女がよみて駿河麿に見せたれば、駿河麿がこれを見てとりあへずよみてこたへたる歌なりといふなり。
 
402 山主者《ヤマモリハ》、蓋雖有《ケダシアリトモ》、吾妹子之《ワギモコガ》、將結標乎《ユヒケムシメヲ》、人將解八方《ヒトトカメヤモ》。
 
○山主者 「ヤマモリハ」とよみて異説なし。この歌を古今六帖卷五に引きて、「山ぬし」とよみ、八雲御抄にもしかあり。されど、これは代匠記に「八雲御抄にもやまぬしはと有れども、山守之有けるしらにと云和なれば今の點かなふべし。第四にも玉主をたまもりと點じ(六五二)官を主殿をもとのもりといへり」とある如く舊訓をよしとすべし。
(707)○蓋雖有 「ケダシアリトモ」とよむ。「蓋」といふ語は卷二「一一二」に「蓋哉鳴之」といふありて、そこに假名書の例(卷十五「三七二五」卷十八「四〇四三」)をあげていへる如く、意は今いふものよりはひろく「若し」といふに似て、疑ひ推測する意あるが、ここは、下に假設の條件を導けるが故に、今の「モシ」に殆ど同じと心得て可なり。若し山守がありとしてもといふ意なり。
○吾妹子之 「ワキモコガ」とよむ。これは坂上郎女をさすこと「四一一」の歌に照しても明かなり。
○將結標乎 舊訓「ユヒテムシメヲ」とよみたるが、童蒙抄に「ユヒケンシメヲ」とよみ、考、槻落葉、略解、古義等みなこれに從へり。「ユヒテム」といひては未だ標を結ばぬ事となれば、「ケム」といふべきなり。「將」を「ケム」とよむ例は卷二「一四三」の「將結人《ユヒケムヒト》」「復將見鴨《マタミケムカモ》」などあり。
○人將解八方 「ヒトトカメヤモ」とよみて異説なし。このよみ方の例は上の「四〇〇」に照して知るべし。
○一首の意 君の仰の如くに若し山守ありしとしても、わが君の結ひ立てし標をば、他人が解き去ることあらむや決してさる事あらじ。況んや山守ありといふは訛説なるをやといふなり。その裏の意はいふまでもなし。
 
大伴宿禰家持贈2同坂上家之大孃歌1一首
 
○大伴宿禰家持 上にいへり。
○贈同坂上家之大孃歌 同坂上家とは大伴氏の坂上家といふことなり。これは、大伴坂上郎女(708)の家をさせるなり。卷四、五十四張の左注(「七五九」の次にあり)に「右田村大孃坂上大孃并是右大辨大伴宿奈麻呂卿之女也。卿居2田村里1號曰2田村大孃1。但妹坂上大孃者母居2坂上里1仍曰2坂上大孃1」とあり。この坂上里は大和國、今の生駒郡立野の東北にありて、大和川に添へる地なり。今その坂上を「サカネ」といへるは「ヤノヘ」が「ヤネ」となれるにおなじ。ここに宿奈麻呂の妻たる人住みし故に坂上郎女といひたるならむ。その坂上家の大孃といふは、かの卷四の左注にいふ所の坂上大孃をさすならむ。即ちこれ宿奈麿の女にして坂上娘女の長女たるなり。宿奈麿は安麿の第三子なれば、坂上大孃と家持とは從兄弟たるなり。
       長男
   安麿――旅人――家持
      −宿奈麿−坂上大孃
 
403 朝爾食爾《アサニケニ》、欲見《ミマクホリスル》、其玉乎《ソノタマヲ》、如何爲鴨《イカニシテカモ》、從手不離有牟《テユカレザラム》。
 
○朝爾食爾 「アサニケニ」とよむ。この語既に上の「三七六」にあり。その意は「毎日」といふにおなじ。朝は日のうちにてもはじめなればいへるなり。
○欲見 舊訓「ミマクホリスル」とよみたり。古義に「ミマクホシケキ」とよみて「ミマクホリスルとよめるはいみじくわろし」といへり。されど、「ホシケキ」といふ語は古今になきものにてこの訓の方いみじくわろし。「ホシケク」といふがあれど、それは「ホシキ」に「イハク」などの「ク」のつゞきたるにて「ケキ」といふ形を生ずべき活用形にはあらざるなり。「欲」は形容詞にては「ホシ」動詞にて(709)は「ホル」なるが、「ミマクホリ」といふ語は卷十五「三七七六」に「見麻久保里《ミマクホリ》」卷十七「三九五七」に「見麻久保里念間爾《ミマクホリオモフアヒダニ》」卷十八「四一二〇」に「見麻久保里於毛比之奈倍爾《ミマクホリオモヒシナベニ》」卷二十「四三〇七」に「見麻久保里香聞《ミマクホリカモ》」卷十二「三〇二四」に「妹目乎見卷欲江之小浪《イモガメヲミマクホリエノサザレナミ》」あり。而「ミマクホリ」より「ス」の語につづけるは卷六「一〇六二」に「聞人之視卷欲爲《キクヒトノミマクホリシテ》」卷十一「二五九二」に「吾命生日社見幕欲爲禮《ワガイノチノイクルヒニコソミマクホリスレ》」卷六「九八四」に「吾戀月哉君之欲見爲流《ワガコフルツキヲヤキミガミマクホリスル》」卷八「一五一六」に「更哉秋乎欲見世武《サラニヤアキヲミマクホリセム》」これらによりて舊訓をよしとすべし。見むと欲すといふことなり。
○其玉乎 「ソノタマヲ」とよみて異説なし。
○如何爲鴨 舊板「イモ〔右○〕ニシテカモ」とあれど「イカ〔右○〕ニシテカモ」の誤なること著し。「鴨」は助詞「カモ」の宛字にして、この「カモ」は疑問をあらはすものなり。
○從手不離有牟 舊訓「テニサケザラム」とあり。童蒙抄は「テニカレザラン」とよめり。考は「テユカレザラム」とよみ、略解、古義、槻落葉は「テユサケザラム」とよみ、攷證、これに從へり。今按ずるに「從」は既に屡いへる如く「ニ」とよむべき理由なければ、「ヨリ」の意にて「ユ」とよむべきものなり。「離」は「サケ」とも「カレ」ともよみうるが「カレ」といふはただ離るる意、「サケ」といへば、故意にする意となる。ここは故意にする意にとる時は、不都合なれば、考のよみ方をよしとす。
○一首の意 常住不斷に見むことを欲するその玉をば如何樣にしたらば、手より離れずあらむかとなり。これその大孃を玉にたとへて、常に相棲みて、片時も離れずあらまほしといふ思を述べたるなり。
 
(710)娘子報《コタヘテ》2佐伯宿禰赤麿1贈《オクル》歌一首
 
○娘子 「ヲトメ」とよむべきが、誰人なるか、知るべからず。
○報佐伯宿禰赤麿贈歌 佐伯赤麿といふ人他に所見なし。攷證には續日本紀に佐伯宿禰淨麿といふ人見ゆるが、淨と赤と意近ければ、これを「アカマロ」とよみて同じ人かといひたれど、信じがたし。佐伯宿禰は大伴氏と祖を同じくすれば、これも大伴家持に縁ある人ならむか。されど、何ともいひかねたり。この人の歌なほ卷四に二首あり。「報」は「コタヘテ」とよむべし。即ち、赤麿が或る娘子に歌を贈れるに、その娘子が、それに報へて贈れる歌これなり。この詞書と次の詞書とによる時は、赤麿がはじめに贈れる歌なかるべからず。それ故に、考はこの詞書の前に「佐伯宿彌赤萬呂贈娘子歌」といふ詞書と、その歌とが脱せるものとせり。まさにしかいふべき所なり。或は、この外にもありしものが、脱せしか。されど、今にしてこれをいかにともいひがたし。
 
404 千磐破《チハヤブル》、神之社四《カミノヤシロシ》、無有世伐《ナカリセバ》、春日之野邊《カスガノヌベニ》、粟種益乎《アハマカマシヲ》。
 
○千磐破 「チハヤブル」とよむ。これは卷二の「一〇一」「一九九」等に既に出でたり。神の枕詞なること人の熟知する所なれど、意は確かに知られず。
○神之社四 舊來「カミノヤシロシ」とよみたるを童蒙抄に「カミノミモリシ」とよめり。されど、「ミ(711)モリ」といふ語未だきかざる語なり。舊訓によるべし。「ヤシロ」といふ語は卷二十「四三五一」に「久爾具爾乃夜之呂乃加美爾奴佐麻都理《クニグニノヤシロノカミニヌサマツリ》」ともありて古き語なり。
○無有世伐 「ナカリセバ」とよむ。これと同じ句上の「三八七」にありて意も同じ。
○春日之野邊 「カスガノヌベニ」とよむ。「ニ」の助詞無けれど、加へてよむべきこと前より屡見ゆ。春日の野邊とは今もいふ春日野なり。さてこの上に神の社しなかりせばとあるにより、ここの神社は、攷證に今の官幣大社春日神社なりとせるが、これが殆ど通説なりとす。されど、童蒙抄には「先は春日明神の社の事を云へると聞ゆる也。然れども春日社鎭座年月と、此娘子の時代と分明に前後の差別考へざれば、四所明神の事とも不v被v決」といへり。代匠記には「春日四座明神は稱徳天皇神護景雲二年に一時に鎭座し給ふとも云ひ、天兒屋根命は先立て、孝徳天皇御宇に鎭座したまふとも彼社家の記録には侍るとかや。今按、寧樂の京と成て後、淡海公或は四人の御子の時、勸請し給ふなるべきを慥なる傳記の失けるなるべし。其證は此歌并に第十九に天平勝寶三年の歌に春日祭神之日藤原太后御作歌一首あり。次に藤原清河の歌にも春日野にいつくみもろとよまる。此歌を合て案すべし」といへり。いかにも代匠記にもいへる如く「春日野にいつく三室の」(四一四一)とあれば、ここに神社のありしことは知られたり。されど、今の官幣大社たる春日四所明神は契沖が既にいへる如く、稱徳天皇の御宇の勸請なりといふ説眞に近くして、延喜式に載する所のこの神社の祝詞が、甚しく古からぬものにして奈良朝末期よりは溯らざるものなり。或は、天平勝寶三年の頃には臨時に祭られたりしが、固定して神(712)社となりしか。この時は孝謙天皇の御宇にして約十五年前なり。(一般に式の祝詞はその創始のものを傳へたりと見ゆるものなり)この故に、これを春日四社とすることは信ずべからず。然れども、春日野に古くより神社のありしことの確かなることは契沖の既に説けるところなり。この社は恐らくは延喜式に名神大なる春日祭神四社の外にある小社の春日神社ならむ。これ世にいふ春日神社の地主社にして、この社が、本來の春日神なるべし。かの南圓堂をつくりし時に役夫に交りて「補陀落の南の岸に堂たてて」の歌をよみし神も明かにこの地主社の春日神社なりしことは新古今集には明かにこれをしるせり。
○粟種益乎 「アハマカマシヲ」とよむ。「種」を「マキ」とよむことはこの卷「三八四」の「幹藍種生之《カラアヰマキオホシ》」の下にもいへる如く、確かなる證は無きものなれど、しかよむより外なきが故に、今またそれに從ふ。粟は今もいふ「アハ」にして主として陸田につくるもの、春日野は水田の地にあらねば、かくはいへるなるが、槻落葉には「粟を會の意に取なせり。卷十六にきみに粟嗣などよみたり」といひ、代匠記には「仙覺云、諸の穀多かる中に粟をよめる事はあはましと云心によそふるなり。又あはまかましをとは粟のたねを蒔置なば、終には實に成べければ、それが如く、やがてこそあはずとも恐るべき事だになかりせば、後にもあはむと契り置かましとよめるなり。今按第十四東歌に足柄の箱根の山に粟蒔て實とはなれるをあはなくもあやし(三三六四)と讀たれば仙覺の注叶ふべし」といへり。蓋し、粟蒔くを「逢はまく」にかけていへるなり。「マシ」は假想する意をあらはし「を」は感動の意をあらはして終止することいふまでもなし。
(713)○一首の意 春日野に神の社が無きならば、そこに粟を蒔かむものを、神の社あれば粟を蒔くこともなし得ずとなり。これは、神の社の在りといふことを以て、赤麿に妻のあるにたとへ、粟蒔くを逢はまくほりするにわけていへるならむ。
 
佐伯宿禰赤麿更贈歌一首
 
○ これは、上の歌を受けてまた娘子に贈れるなり。
 
405 春日野爾《カスガヌニ》、粟種有世伐《アハマケリセバ》、待鹿爾《シシマチニ》、繼而行益乎《ツギテユカマシヲ》、社師留焉〔左○〕《ヤシロシトドムル》。
 
○春日野爾 上に「春日之野邊」といへるをうけたるなり。
○粟種有世伐 「アハマケリセバ」とよむ。上の「粟種益乎」といへるを受けていへるにて、若し君が粟を蒔けりとせばといふ程の意なり。
○待鹿爾 舊板本「マタムカニ」とよめるが、これは古點に「マツシカニ」とありしを否として仙覺が改めしなり。代匠記は「古點を用べし。鹿は春日野に多き獣にて、粟などをもはむ物なれば、なりたらば、はまむと待意なり」といひ、童蒙抄も「まつしかに」とよみて略同じ樣に釋せり。略解これに從へり。考は「まつしかに」とよむことは同じく、意も略同じきが、「待鹿の如くにてふを略けり」といへり。古義は前説をば「待鹿《マツシカ》とのみ云て待はむ鹿とはいかできこゆべき」と批難して、自らは「シシマチニ」とよむべしと主張せり。槻落葉は「マタスカニ」とよみて、「このか爾はであらん(714)と云意……きこゆめり」といへり。攷證はこの説をうけて、これを強く主張せり。以上四説あるが、今これを「待たむがに」「またすがに」の如くに讀まば、その「まつ」は何物を何物が待つか主も客も不明になるにあらずや。假りにその待つ對象を粟の生熟としても、その粟の生熱を待つものは誰なりや。これを假りに上の歌の意をうけて、その娘子なりとせば、この歌全く意とほらずならむ。この故にこの説は全く通用せぬ説なり。次に「マツシカニ」といふことは如何といふに、これは上の「粟蒔く」といふことには意よく連絡すべきなれど、下の「繼ぎて云々」に照して見れば不可なり。何となれば、この「つぎて」は引つづきて行かむといふ意にして、「待鹿につぐ」といふ意にあらず。この「待鹿に」は下の行かむの目的を示す語として「シシマチニ」とよむをよしとすべし。鹿は「シカ」ともよめど、それは「シヽ」ともよむべし。卷二「一九九」に「鹿自物伊波比伏管《シシジモノイハヒフシツツ》」とあるは「シシジモノ」にして、この卷「二三九」に「四時自物伊波比拜《シシジモノイハヒヲロカミ》」「三七九」に「十六自物膝折伏《シシジモノヒザヲリフセ》」卷六「一〇一九」に「肉自物弓笶圍而《シシジモノユミヤカクミテ》」とあるみな然り。而して集中に「シカジモノ」とよむべき證は一もなし。さて「シシ」といふは鹿に限らず、肉を食料とする獣をさすものにして、この卷「四七八」に「朝獵爾鹿猪踐起暮獵爾鶉※[矢+鳥]覆立《アサガリニシシフミオコシユフガリニトリフミタテ》」は卷六「九二六」に「朝獵爾十六履起夕狩爾十里踏立《アサガリニシシフミオコシユフガリニトリフミタテ》」に照して鹿猪の類を一般にいふと心得べし。鹿猪の類は、稻粟等の熟する頃、盛に田畠に來りてこれを荒すものなり。これを待ちて獵らむとするなり。
○繼而行益乎 「ツギテユカマシヲ」とよみて異説なし。この「ツギテ」は卷二「九一」の「妹之家毛繼而見麻思乎《イモガイヘモツギテミマシヲ》」といへるにおなじく、引つづきて斷えず行く意なり。
(715)○社師留焉 「焉」字流布本「烏」に作る。古點に「モリシルカラス」とよみたるを仙覺は「ヤシロハシルヲ」と改めたり。童蒙抄は「モリハシルカラ」とよみて、「烏」を「から」とよめり。されど、「烏」をただ「から」とよむことは例もなきことなればこの説は從ひ難し。考は「ヤシロシトムルヲ」とよみ、略解、之に從へり。槻落葉は「今本怨焉を留烏に誤れり。古本によりて改」といひて、「ヤシロシウラメシ」とよみ、攷證は「烏」を「焉」の誤として「ヤシロシトドムル」とよみ、玉の小琴は「烏は戸母二字の誤にてやしろしるとも也。娘子の歌に神の社しなかりせば、とよめる故に其社は知とも繼て行む也」といひ、古義は「留は怨とある本に依に、有(ノ)字の草書※[有の草書]を※[※[人偏+留]の草書]と寫誤れるなるべく、烏は侶(ノ)字の草書※[侶の草書]を※[烏の草書]と寫誤れるなるべし」といひて、「ヤシロシアリトモ」とよめり。かく諸説區々たるが、ここに誤字ありやと見るに、「留」は神田本に「怨」の如くにし、神田本、類聚古集に「烏」を「焉」とかけり。この「烏」と「焉」とは本集にかぎらず、古書に多く混じてかけることなれば、これは紛れもしたりと見るべし。されど、神田本の「怨」は信ずべからず。これは留の古字に※[死/田]の體あるより寫誤れるものならむ。かく考へ來れば、槻落葉及び玉の小琴、古義の説は從ひがたし。「烏」と「鳥」と屡混同することは既にいへる如くなるが、本集には「焉」をば漢字本來の用法に從ひて、終詞に用ゐたるもの少からず。たとへば、この卷「四一四」に「標耳曾結《シメノミゾユフ》烏〔右○〕」の「烏」も「焉」の誤にして「結《ユフ》」にて終れるもの、卷四「七三六」に「行乎欲《ユカマクヲホリ》焉」「六二三」に「不相夜多《アハヌヨゾオホキ》烏」の「烏」も「焉」卷十「一八八八」に「※[(貝+貝)/鳥]鳴《ウグヒスナクモ》烏」の「烏」も「焉」「二一四五」に「戀許曾益《コヒコソマサレ》焉」などみな然り。されば「社師留」の三字にてよみ方を考ふべきものなり。かくて考ふれば考の説か、攷證の説かの二者の外なきこととなる。ここにこのよみ方の決定點は「留」の(716)よみ方に存するを見る。本集中のこの字よみ方を見るに「トドムル」又は「トマル」とよめるはあれど「トムル」とよめるはただ一つ、卷四「五三二」の「宮爾行兒乎眞悲見留者苦聽去者爲便無《ミヤニユクコヲマガナシミトムレバクルシヤレハスベナシ》」とあるのみなるが、これも、「トドメバクルシ、ヤラバスベナシ」とよむべきものならむ。かくてここをも、「トドムル」とよめる攷證の説に從ふ。さてかく、連體形にて終止することは普通の詞遣にあらずして餘情を含めていへるものなり。この例は攷證にもいへる如く、卷九「一六七三」に「風|莫《・(早)》乃濱之白浪徒於斯依久流見人無《カザハヤノハマノシラナミイタツラニココニヨリクルミルヒトナシニ》」卷十「二一七四」に「秋田苅借廬乎作吾居者衣手寒露置爾家留《アキタカルカリホヲツクリワガヲレバコロモデサムクツユゾオキニケル》」卷十八「四〇九二」に「保登等藝須伊登禰多家口波橘能播奈治流等吉爾伐奈吉登餘牟流《ホトトギスイトネタケクハタチバナノハナチルトキニキナキトヨムル》」などあり。
○一首の意 君は春日野に粟を蒔かむといはれたるが、さ樣に粟を蒔きたるならば、その粟によりくる鹿を待ちて獵りせむ爲に、斷えず、その春日野に行かむと思ふを、そこに神の社ありと君がいはれたれば、その神社に憚りて吾は得行かぬが、その行かぬはわが心よりして行かぬにあらずして神の社が、來るなかれとこれを止めたまふなりといふ。これは、娘子の歌にてはその神社をば赤麻呂の妻としていへるをば、この返歌には娘子に他の男のありてわれはそこに通ひがたしといへるに歌の面白味存するなり。然るに從來の多くの説これをしか解せざるは不十分なりといふべし。ただ全釋のみかやうにとれり。
 
娘子復報歌一首
 
○ 佐伯宿禰赤麿が上の歌を贈れるによりてそれに對しての返報としてまた娘子が贈れるな(717)り。
 
406 吾祭《ワガマツル》、神者不有《カミニハアラズ》。大夫爾《マスラヲニ》、認有神曾《ツナゲルカミゾ》、好應祀《ヨクマツルベキ》。
 
○吾祭神有不有 「ワガマツル」と古來よみ來れるを玉の小琴に、「此初句をわがまつると訓るは僻事也。さては一首の意心得難し。わはまつると訓べし。吾はそなたの祭るべき神には非ずの意也。さて三の句より下はそなたに本よりつきたる神をよく祭り玉ふべきこと也と云なり」といへり。古義はこの説をよしとして、「アハマツル」とよめり。略解は右の本居の説を紹介して可否をいはず、ただ「神は社の誤にて、わがまつるやしろはあらずとあらんかた穩か也」といへり。又槻落葉、攷證等は本居の説を不可なりとせり。按ずるに、本居説にて、その娘子が吾は汝の祭り給ふべき神にはあらずといひたる事となるべきこと明かなるが、戯れにもせよ、漫りに自ら神と僭することあるまじければ、この説の通りの情勢を導き出すには、上の赤麿の歌にそれだけの餘地既に生じてあらざるべからず。然るにさる事は考へられす。然らば、自らを神に擬することは如何なり。これはなほ古來の訓によるべきものなり。その意は次の句に行きて説くべし。
○神者不有 「カミニハアラズ」なり。略解には上の説の如く「神」を「社」の誤として「ワガマツルヤシロハアラズ」とよみたるが、「社」といひても結局神の事なれば、改むる要なし。加之、古來ここには誤字もなければ、從ふべからず。上二句にて一段落をなすものなるが、そのわが祭る神とは何(718)をさすかといふに、略解に「とめたる神とは右にとむるとよめるに同じ意也」といひたるは粗略にして意明かならず。攷證には「君が社しとゞむるとのたまふ、その社の神はわが祭れる神にはあらず」といへり。多くの學者はこの説に近きやうなり。されど、かく説きては意をなさず。さりとて、本居翁の説の如きものにもあらず。この歌はもとより前の赤麿の更に贈れる歌の返歌にはあれど、その赤麿の歌はもとより娘子の贈れる歌に基づくものなり。即ちそのもとは娘子が「神の社しなかりせば」とよみたるに對しての赤麿が返歌せしなり。されど、娘子はその赤麿の返歌に對して君の見解はわが歌の本意をさとらぬによる。わが「神の社しなかりせば云々」といひたる神はわが、奉祭する神の事をいひたるにはあらずといひたるなり。然く解せざれば、この二句の意徹底せざる筈なり。
○大夫爾 「マスラヲニ」とよむこと異議なし。これは上の「吾」に對して、赤麿をさすものなり。
○認有神曾 舊訓「トメタルカミゾ」とよみたるが考は「ツナゲルカミゾト」よみて、「つなぎとゞめて離れぬ神有といへり」と説けり。槻落葉は「シメタルカメゾ」とよみて「そなたにもとより屬《ツキ》たる神ぞといふ意」と説けり。古義は「ツキタルカミゾ」とよみて、説明は槻落葉に略同じ。而して代匠記、攷證等は古來の訓をよしとせり。ここによみ方にも説明にも種々の考説有るを見る。先づ、「認」の字につきて訓を考ふるに、本集にてはここと、卷十六に「所※[身+矢]鹿乎認河邊之和草《イユシシツナグカハヘノニコクサノ》云々」(三八七四)に「ツナグ」とよみたるとの二あるに止まる。類聚名義抄には、認の字に「トム」「キタル」「オモフ」「ツナク」「モトム」「シルシ」「サクル」「モロモロ」「タツヌ」「トメシリテ」「ナヤメリ」などの訓あり。今(719)これらの訓によれば「シメタル」「ツキタル」の訓は根據なきこととなる。然れども、その意よりして或はそれらの訓も成立すべきか。「認」字は説文に見えねば六朝頃に生ぜしものならむ。その義は玉篇に「識認也」廣韻に「識也」とあるのみなり。然るにこの字には別に今いふ認諾允許の意あり。これは古くは行はれざりしものならむ。されば、今は類聚名義抄の訓につきてここに用ゐられうべき訓を考へみむ。ここには上に「大夫に」とあれば、「トム」「ツナク」「モトム」「シルシス」「タツヌ」などの訓を除いては不適當なることとなるべし。而してその歌の意を考ふるに、代匠記に「認有は離れやらぬ意なり」といひ、童蒙抄に「此とめたると云言、詞釋兎角いひとき難し。まづ從ひたるといふ意と見ゆべし」といひ、考は「つなぎとゞめて離れぬ神有といへり」といひ、槻落葉は「そなたにもとより屬たる神ぞといふ意」といひ、古義は「寄屬たる神ぞの意なり」といひ、以上よみ方は區々なれども、「ツキタル」意とせり。又略解、攷證は「トメタル」とよみつつその意は上の句の「止メタル」といふ意に同じとやうにいへり。然れども、「止メタル」といふ意ならば、「大夫ヲ」といふべきものにして「大夫ニ」といふ如く上句に「ニ」助詞を用ゐることあるべからず。この故に、略解、攷證等の解釋は隨ひがたし。然らばその意は大夫即ち汝に從ひ屬きたる神といふ意より外に考へ方もなきなり。然るときには「トメタル」とよみてはその意をあらはすに適するものとして考へうべからず。又「モトム」「シルシス」「タツヌ」も適せりといふべからず。結局殘る所は「ツナグ」の一語のみとなる。この「ツナグ」といふ語は今普通に實體ある物に綱をつけてあることについていふ語にのみ用ゐるが、ここをさる意にて「ツナグ」といひたるものとしては(720)當らざること論なし。然るに、日本紀齊明卷の歌「伊喩之々乎都那遇何播抔能《イユシシヲツナグカハベノ》、倭柯矩娑能倭柯倶阿利岐騰阿我謨婆儺倶爾《ワカクサノワカクアリキトアガモハナクニ》」といふあり。これについて稜威言別なる守部の説に、「されど繩などして繋ことにはあらず、心に標おく所へ認《トメ》ゆくを云り。抄に鹿の跡を認《トム》るにて俗に跡を繋ぐと云是なり。水をも飲み草をも喰むべきために行べき處なる故に河邊に認るなりと云る。今此御句は信に然なり。然れども此語今世にては耳遠く誰も臍落のせざる詞なりければ、一とせ山の獵夫に問試みけるに其者いへらく山獣は被v射れば一旦は逃れども、遠くは走らざるものなり。故一打射留るを繋おくと云。譬へば獵犬の中にてかの手負猪は某が繋ぎたるなり。此疲れ鹿は誰か二日前に繋ぎたるなりとて、人とらず。若捕(ル)事あれば、其繋ぎたる本人にわたすならひなる、是其一(ツ)也。一(ツ)は繋ぎたる猪鹿を今頃は何處あたりにか、疲れ臥たらんとて覓《トメ》おくをもやはり繋ぐとも、跡繋ぐとも云と云り。於是其獵夫に、今此都那遇柯※[白+番]勝抔能の歌を語て問けるに、獵夫云、手負猪怒る時は然るが如く成行けば、必ず渇すめる故に、おのづから水邊に出るなり。就中川を超ては逃ざるもの故に其川を關にして追認ゆく。今も專する事也と云き。此も此獵夫が言にて解つべし。かゝれば、萬葉十六にいゆししを認《トムル》河邊の云々とある認(ノ)字をも猶認とよむべきにや。解云今船人の言に山をつなぐと云ことあり。さるは海上より遙に山を認《トメ》おくをいへば、ここにつなぐとあるも萬葉に認るとあると同意なりと云るも思ひ合すべし。此前後に云る言ともみなわろしと云り。此説然るべし。字鏡集、色葉字類抄に認をツナグと訓るも右の證とすべし」といへり。又雅言集覽増補なる、中島廣足の説に「廣足云(721)肥後の俗に鹿猪に手を負せて、其血のしたゝりを認ゆくことをツナグといへり。たとへば手負たる猪鹿の淺手にて血の跡さまで遠くなきか、又は谷川などありて、それわたりて血のあとの流失たるか、又夕ぐれになりて木下暗く物の色も分れざる如くなりては此手負たるハカリは明日ツナガンなどいへり。是もとより古言の遺たるなり」といへり。認をツナグといふは大方かゝる意なりと見えたり。さては神が大夫にツナゲル由に解せざるべからざるが。ことに一の疑は「ツナグ」は普通ならば、「ヲ」といふ格に立つべきものなるに、ことに「ニ」格に立てることなり。さりとて「ツナグ」を不可として「トメタル」とよみてもこの疑は同樣なり。「大夫ヲトム」といふが普通にして「大夫にトメタル」といふは普通のいひ方にあらず。「トメタル」といふ説をとる人々もこの問題には觸れざるが如し。されば、「ニ」といふ助詞よりすることを以て「ツナゲル」といふ語を以てすることの批難あらば、その人は「トメタル」といふ語を用ゐることについては自らこれをとるべからず。然るときはこれのよみ方は全く考へられざることとならむ。ここに於いていづれにしても、「大夫ニ」といへることにつきては尋常の用言の意のまゝの關係にはあらざるを見る。これは恐らくは「大夫ヲツナグ神」ありとして、その神のあることを傍觀的にいへる爲なるべし。然りとせば、ここは「大夫ニトメタル」とよむよりは「大夫ニツナゲル」といふ方まされりとすべし。この故に今は考のよみ方に從ふ。その意は大夫たる君に跡をツナギてある神ありと認むるが、かく君の跡にツナギつきてある神といふことなるべし。「神曾」は下の語より見れば「神ヲゾ」の意なり。
(722)○好應祀 「ヨクマツルベキ」とよむこと論なし。「應」は古來「ベシ」とよみ來り、その例は卷一、「七五」以來少からず、而して上の「ゾ」の係によりて「ベキ」といふ連體形を以て結べるなり。
○一首の意 この歌二段落なり。第一段は上にいへる如く、わが、「千はやふる神の社しなかりせば云々」といひたるに對して、君は何か仰せられたれど、それは誤解なり。わが上にいひし所の神はわが祭る所の神の事をいひしにあらずとなり。第二段は第一段をうけて、わが、いひし所の神は君のあとをつけて君に離るまじと、常に君につきまとひて、ある神ありと認めてわがいひしなるが、その神々ぞ君はよく祀りたまふべき事なれとなり。これは赤麿につきて女あるなるべければ、それをば大切に守り給へと戯れていへるならむ。
 
大伴宿禰駿河麿娉2同坂上家之二孃1歌一首
 
○大伴宿禰駿河麿 この人の事は上の「四〇〇」の歌の條にいへり。
○同坂上家之二孃 同坂上家とは大伴坂上家といふ意なること「四〇三」の場合におなじ。これは上の「四〇一」の歌の作者たる大伴坂上郎女の家なること明かなり。この大伴坂上郎女の事も上の「四〇〇」の歌の駿河麿の事をいへる内にいへり。さてこの二孃とは誰なるか。既に「四〇三」の説明のうちにいへるが如く、卷四の「七五九」の歌の左注に「右田村大孃坂上大孃并是右大辨大伴宿奈麿卿之女也。卿居2田村里1號曰2田村大孃1。但妹坂上大孃者母居2坂上里1仍曰2坂上大孃1」とあり。ここにいふ坂上家之二孃と坂上大孃とは別の人か、同じ人か。攷證には「坂上家之(723)二孃を諸註に坂上之大孃とするは非也。こは田村大孃、坂上大孃二人をさして二孃とはいへるに、後に姉田村大孃をば駿河卿の得給ひ、妹坂上大孃をば家持卿の得給ひし事集中の歌にて知らる」といへり。然れども、田村大孃と坂上大孃とを併せて、坂上家の二孃といふことは卷四の左注と撞着するが故に、從ひがたし。次に二孃は二人の孃とも第二の孃とも解しうべきものなるが、いづれにしてもこの語は支那流の語遣なり。支那にては唐の頃の風俗としてその輩行によりて男兒には太郎、二郎、三郎等と字し、女兒には大娘二娘三娘等と字せること當時の小説等に徴して知るべし。その習俗のわが國に傳はりて今に男子の名に太郎二郎三郎といふこと存するなり。女子には今はその事絶えたれど、ここにいへるはまさしくそれなり。而して、孃娘元來同じ字なれば大孃は第一の娘、二孃は第二の娘と解するを自然の見方とす。然らば、これは大伴家持が歌を贈れる坂上家之大孃とは同人にあらずして、その妹たる人ならむ。然るに、攷證には田村大孃をば駿河麿卿の得給ひ、妹坂上大孃をば家持卿の得給ひし事集中の歌にてしらるといへり。果して然るか。本集中には駿河麿の妻が誰人なりしかを明かにしたるものなく、その手がゝりとなるべきはただこの歌あるのみなれば何等の證なし。されば、これは上の解により、第二女の事とする外あるべからず。
○娉 は「ツマドヒスル」とよむべし。意は卷二「九三」の歌の詞書の「内大臣藤原卿娉2鏡王女1時云々」の下にいへり。
 
(724)407 春霞《ハルガスミ》、春日里|之〔左○〕《カスガノサトノ》、殖子水葱《ウヱコナギ》、苗有跡云師《ナヘナリトイヒシ》、柄者指爾家牟《エハサシニケム》。
 
○春霞 「ハルガスミ」とよみて、カスガの枕詞とすること諸家同じ。これに諸家の説さま/\なれど、要するに「カスミ」と「カスガ」と同じ意を含めりと見るか、又「カスム」とか「カスカ」とかいふ如き意にての枕詞とするものなり。その關係明白ならねど、その關係あることは疑ふべからず。
○春日里|之〔左○〕 「カスガノサトノ」なり。春日里は古來名高く大和國添上郡の地名なることは著しきが、ここはいづこをさすか。この春日里は嚴密にいへば、和名鈔にいふ所の春日郷ならざるべからず。この地は春日山以西、率川地方に亙り、北は佐保に隣り、南は大宅に接する、その間なりといへり。即ち今の奈良市の大部分これにあたれりとすべし。さてここに春日里ととり出していへるは如何なる事情によるか。下にいふ小水葱を坂上家之二孃に比し、その小水葱が春日里にある由にいふとせば、その二孃は春日里に在りしか、然らば、卷四の左注(三七九の詞書の説明に引けり)にいふ所の坂上里とここと同じきか否か。坂上里は平群郡の地名にして、ここは添上郡なれば、異なることは著し。然れども、何等の縁なきものならば、ここに春日里をいふことあるべからず。恐らくは、春日里に坂上家の別墅か、若くは本據か(若し本據とせば、その比坂上里より移轉せしがなほ坂上家といひしならむ)ありて、そこに二孃が住みしならむ。次に「春日里之」の「之」は流布本に「爾」とせり。かやうなるつづきは下にいふ如く、卷十四にも見ゆれど古寫本について見ればその最大部分は皆「之」字として、「爾」とあるはただ、古葉略類聚鈔のみ(725)にして版本にても活字無訓本には「之」とせり。されば、これは活字附訓本の誤植に基づくとすべし。これによりて改めつ。
○殖子水葱 普通に「ウヱコナギ」とよむ。されど類聚古典、古葉略類聚鈔、神田本、細井本には「ウヱシナギ」とあり。然れどこの語の例は卷十四「三四一五」に「可美都氣努伊可保乃奴麻爾字惠古奈宜《カミツケヌイカホノヌマニウヱコナギ》云々」とあるによりて「ウヱコナギ」とよむべきなり。水葱は植物の名にして、これをわが國にてはナギといふこと、本草和名に※[草がんむり/斛]菜に注して一名水葱とし、和名奈岐と注し、和名類聚鈔に水葱に水菜可食也と注し、又奈岐と注せるにて明かなり。さてその「コナギ」とは如何なる意かといふに、單に「ナギ」について「コナギ」といへるに止まらず、「コナギ」といふ一の語ありしことは、卷十四「三五七六」に「奈波之呂乃古奈伎我波奈乎伎奴爾須里《ナハシロノコナギガハナヲキヌニスリ》云々」とあるにて知られたり。さてその「ナギ」又「コナギ」は如何なるものかといふに、和漢三才圖會及び本草綱目啓蒙に水葵といふものを「ナギ」といひ、草木圖説にはその同種にして小に、花の數少くして長き穗をなすに至らぬものを「コナギ」といへり。これは、いづれも、水澤の中に生ずる草にして、葉は、初生はオモダカに似て小く、深緑色にして光澤あり、長ずれば竹柏の葉に似たり。秋穗を出して花をつく。花は六瓣青碧色又は白色にして、後小き角を結ぶ。冬は苗枯る。これは古、食料にせしものにして、正倉院古文書、延喜式に屡その名見ゆるのみならず、それらには「奈癸」とかけるもあり。又正倉院古文書には「水葱二千六百五十束」とあり。それは夏は生にて食ふのみならず、※[者/火]ても食ひしこと卷十六の歌に見ゆ。延喜式内膳司の條には「漬秋葉料」として、「水葱十石」「小水葱一石」とありて、そ(726)れらを糟漬とせしこと知られたり。而してこれらを田にうゑしことあるは催馬樂の田中井戸の曲に「たなかのゐごにひかれるたなぎ〔三字傍点〕つめつめあこめ云々」とあるにて知るべく、又延喜式には水葱の栽培についての耕地功費等をも記せり。これらはこの一句を解するに參考すべきものなり。さて「ウエコナギ」とは如何なる意なるかといふに、古事記傳卷十九の注に「倭(ノ)建(ノ)命段の歌に宇惠具佐、萬葉三に殖木《ウヱキ》、また植子水葱《ウヱコナギ》、十四にもうゑこなぎ、又うゑ竹などある宇惠《ウヱ》も人の植たる由にはあらずて、植《ウワ》りてある意なれば多知といふと同意なり」といひてより、古義、注疏これに從ひ、近時の學者も亦多くこれに從へり。然れども、「ウヱ」といふ語は元來の人の心より出でてするわざをさす意なれば、この説は從ふべからず。第一に「ウワル」といふ語、古にありしことの證なし。第二に、「ウウル」といふ語に自然に草木の生じてあることをいへる證なし。第三に本集に「ウヱ木」とあるもの三、そのうち「東市之殖木《ヒムカシノイチノウヱキ》」(この卷「三一〇」)「吾屋戸能殖木橘《ワガヤドノウヱキタチバナ》」(卷十九「四二〇七」)は明かに人の植ゑたる木といふべきものなり。(市に木を植うることは令の規定にあり、橘は外來の珍重すべき樹なり)「宇惠多氣《ウヱタケ》」(卷十四「三四七四」)「殖槻《ウヱツキ》」(卷十三「三三二四」)なるが、一も自然生のものに限るといふ證は一切存せず。ことに、この草は食用として水田に栽培せしこと著しきものをや。さて又ここに「ウエコナギ」とつづくは如何といふに、これは「ウヱ」といふ連用形を以て、體言化せしめ、それを「コナギ」につづけて熟語とせしものなり。植物の名につづけてかゝる形にせるは上にいひける「ウヱ木」「ウヱ竹」「ウヱ槻」又古事記の「ウヱ草」など然るのみならず、「ウヱ松」などあり。さてこれはその二孃をこなぎに比していへるなり。
(727)○苗有跡云師 この「云」字神田本に「之」とあり。槻落葉は「云」を「三」の誤として「ナヘナリトミシ」とよめり。然れども、他の多くの諸寫本すべて「云」なればなほそのままにして、古來の訓の如く、「ナヘナリトイヒシ」とよむべし。「苗」の訓は新撰字鏡に「苗、奈倍」とあり、卷十四「三四一八」に「佐野田能奈倍能武良奈倍爾《サヌタノナヘノムラナヘニ》」とあれば、「ナヘ」といふを正とす。「苗」の字は説文に「凡草初生亦曰苗」とあり、本集卷十一「二八三六」に「三島菅未苗生《ミシマスゲイマダナヘナリ》」とあり。その義は「萎」にて未だかよわくてなへなへとしてあれば「ナフル」の連用形を以て名としたるならむ。「有」を「ナリ」にあつることは卷一以來頻繁に出でたり。「ナヘナリトイヒシ」は過去にそれを問ひしことありしことを語るものにして、その時に未だ苗なりと云ひしといふなり。而してこの「シ」は「キ」の連體形にして、上のすべてを一體として準體言としたるものなるが、それが、全體を以て次の句に對して主格とせるなり。
○柄者指爾家牟 「エハサシニケム」とよむ。然るに、槻落葉には古本に「家里」とありといひて「エハサシニケリ」とよめり。されど、今ある古寫本には一もその證なきのみならず、「ケム」といひてこそ趣あれ、「ケリ」といひては全く意をなさざれば從ふべからず。柄は借字にて枝なり。枝の生ずるを「サス」といふこと、又既にもいへり。さて水葱は枝を生ずる草にあらぬに、ここに枝さすといへるは如何。これは恐らくはその草の生長して多くの葉の生ずるが、その葉柄の長くして互生すること木の枝の如くなるをさしていへるならむ。「さしにけむ」といへるは、自己は實は見ざるが、その間に長大せしならむといへるなり。
○一首の意 これは坂上家の二孃を小水葱に譬へていへるものにして、春日の里の殖小水葱は(728)かつて我が問ひし時は未だ苗なりといひし、その小水葱は今は既に十分成長して葉も繁く、のびて大きくなりしならむとなり。即ち二孃は今や成人したまひしならむ。いかで、わが妻に請ぜばやといふ意なり。
 
大伴宿禰家持贈2同坂上家之大孃1歌一首
 
○大伴宿禰家持云々 これと同じ詞書上の「四〇三」の歌にあり。贈れる時は別の時なるべし。
 
408 石竹之《ナデシコノ》、其花爾毛我《ソノハナニモガ》。朝旦《アサナサナ》、手取持而《テニトリモチテ》、不戀日將無《コヒヌヒナケム》。
 
○石竹之 「ナデシコノ」とよむ。「石竹」は今音にて「セキチク」といひて、花の特にうるはしきをいひて、普通の「ナデシコ」と別のものとすれど元來は同じ種類なるべく、ただその石竹と稱するものは蓋し舶來種なるべし。支那にては石竹、即ち瞿麥をさすことは本草綱目に「瞿麥釋名石竹」とあり。石竹の字面は箋注和名鈔に白居易の詩に見ゆといへれど、本集はそれより古し。按ずるに述異記(梁任妨著)にその名、見ゆれば六朝の間に既に用ゐしを本邦にも襲用せしなり。さてわが國にては本草和名にも和名鈔にも瞿麥に注して「奈天之古」とせり。又新撰字鏡には瞿麥に「奈弖志古」と注せり。「ナデシコは當時愛玩せられしものと見えて、本集には屡見えたり。「奈泥之放」と書けるもの(卷十七「四〇〇八」「四〇一〇」卷十八「四〇七〇」「四一一三」卷十九「四二三一」「四二三二」)「奈弖之故」とかけるもの(卷二十「四四四二」「四四四三」「四四四七」)「※[木/示]弖之故」とかけるもの(「四(729)四四六」「四四四九」「四四五〇」「四四五一」)あり。「瞿麥」とかけるは卷八「一四四八」「一五一〇」「一六一六」卷十「一九九二」あり「石竹」とかけるはこの卷になほ一つ「四六四」卷十に「一九七〇」あり。いづれもこれを愛玩せる心をうたへるものなり。この故に「ナデシコ」とよむべきことは當然にして、ここはそれを愛玩する小女にたとへたるなり。
○其花爾毛我 「ソノハナニモガ」とよむ。「ソノハナ」とは石竹の花なり。これは再歸法にたてる語法なり。その例卷六「一〇〇九」に「橘者實左倍花左倍《タチバナハミサヘハナサヘ》、其葉左倍《ソノハサヘ》」卷八「一六一四」に「九月之|其〔左○〕始鴈乃使爾毛《ソノハツカリノツカヒニモ》」「一六一五」に「大乃浦之其長濱爾縁流浪《オホノウラノソノナガハマニヨスルナミ》」卷九「一七三八」に「須輕娘子之其姿之端正爾《スガルヲトメノソノカホノキラ/\シキニ》」等例少からず。「ガ」は希望の終助詞にして、體言を對象とする場合はそれに「モ」といふ係助詞を添へたる下につきて「モガ」といふこと「安波妣多麻母我《アハビタマモガ》」(卷十八「四一〇三」)「美夜故邊爾由可牟船毛我《ミヤコベニユカムフネモガ》」(卷十五「三六四〇」)の如くなるを常規とするが、こゝは、それと異にして「ニモガ」とやうに、その對象に格助詞「ニ」を加へたれば、精神は「其花モガ」といふと甚しく異なり。「其花モガ」といふ時はその花をば希望の對象とするものなるが、ここはさにあらず。この「ニ」は格助詞にして、それに對應する用言が下にあるべき筈なり。而してその用言よりして「阿佐奈佐奈安我流比婆理爾奈里弖之可《アサナサナアガルヒバリニナリテシガ》」(卷二十「四四三三」)「消壺二成而師鴨《サカツボニナリニテシガモ》」(卷三「三四三」)などいふ例に似たる關係に立つべき筈なるを「ニ」より下の用言を省きて、それを直に「モガ」につづけたるものなり。それは
 天飛ぶ鳥にも〔三字右○〕(なりてし)がも。
 世の中は常にも〔三字右○〕(ありにし)がもな。
(730) 人の心を枕とも〔三字右○〕(してし)かな。
 飛ぶが如くに都へも〔三字右○〕(行きてし)がな。(土佐)
などの例にても見るべきものなり。ここに似たる例は卷四「七三四」に「吾念如此而不有者玉二毛我眞毛妹之手二所纒牟《ワガオモヒカクシテアラズバタマニモガマコトモイモガテニマカレナム》」卷八「一五七二」に「白露乎不令消而玉爾貫物爾毛我《シラツユヲケタズテタマニヌクモノニモガ》」卷十七「三九〇九」に「多知婆奈波常花爾毛歟《タチバナハトコハナニモガ》」「三九九〇」に「我加勢故波多麻爾母我毛奈《ワガセコハタマニモガモナ》、手爾麻伎底見都追由可牟乎《テニマキテミツツユカムヲ》」などあるいづれも、その「ニモ」の下と「ガ」の上との間に略語の行はれたる格なり。ここは、その坂上家の大孃をば、石竹の花にてあれかしと願ふ心をうたへるなり。かくてこゝにて終止するが故に、ここにて一段落とす。
○朝且 「アサナサナ」とよめり。この語の假名書の例は卷十七「四〇一〇」に「奈泥之故我波奈爾毛我母奈安佐奈佐奈見牟《ナデシコガハナニモガモナアサナサナミム》」卷二十「四四三三」に「阿佐奈佐奈安我流比婆理爾奈里弖之可《アサナサナアガルヒバリニナリテシガ》」あり。これは「アサナ」といふ語を重ねて「アサナアサナ」といふべきを約めたるなり。その「アサナ」は「アサニ」といふべきを音轉にて「アサナ」といふといへり。然ることならむ。古今集離別歌に「あさなけに見べき君としたのまねば、おもひたちぬる草枕なり」とある「あさなけに」も「あさにけに」なりといへり。意は朝毎にといふに大差なかるべし。
○手取持而 「テニトリモチテ」とよむ。そのナデシコを手にとり持ちてなり。
○不戀日將無 「コヒヌヒナケム」とよめり。ナカラムを約めて「ナケム」といふは、當時の一の語格なり。卷十七「三九〇九」に「保登等藝須《ホトトギス》、周無等來鳴者伎可奴日奈家牟《スムトキナカバキカヌヒナケム》」「四〇一一」に「左奈良弊流多(731)可波奈家牟等《サナラベルタカハナケムト》」などその例なり。さて「コヒヌヒナケム」といへるは毎日に「コフル」由の意なり。然るに其の「コフ」といふ語を今いふ普通の意にとる時は意義不徹底なるのみならず、殆ど、意をなさざるものとならむ。代匠記に曰はく「落句はこれわろく意得ば違ひぬべし。常に戀ぬ日はなしとよむは人をよそに置て見ねば、こひしく、見れば戀しき心の息《ヤム》なり。此は見ながら深く愛するを戀と云なり。第十に白露と秋の萩とは戀亂とよめり。其外あまたこれ體によめるが如し。古今にも、みる物からや戀しかるべきとよめり」といへり。考も亦「此戀といふはまのあたりに見つゝめづるなり。集中に花の盛にむかひ愛しといひ、秋の戀の盛など云が如し」ともいひ、註疏はこれを簡約にして「不愛日《ウツクシマヌヒ》なからんの意なり。ここの戀は目前にみつつ愛着する意なり」といへり。その意は略當れる事ならむが、代匠記に引ける例は「二一七一」の「白露與秋芽子者戀亂別事難吾情可聞《シラツユトアキノハギトハコヒミダレワクコトカタキワガココロカモ》」といふ歌なるが、これは白露と秋芽子とが、共に戀をしつゝありといふ意なれば正しく上の意か如何か確かには明言しがたけれど、卷十「一八五五」の「櫻花時者雖不過《サクラバナトキハスギネド》、見人之戀盛常今之將落《ミルヒトノコヒノサカリトイマシチルラム》」卷十九の詠山振歌「四一八五」に「朝露爾仁保敝流花乎見毎念者不止《アサツユニニホヘルハナヲミルコトニオモヒハヤマズ》、戀志繁母《コヒシシゲシモ》」その反歌「四一八六」に「見其等念者不止戀己曾益禮《ミルゴトニオモヒハヤマズコヒコソマサレ》」又卷十七「三九八七」の「鳴鳥能許惠乃許悲思吉登岐《》波伎爾家里《ナクトリノコヱノコヒシキキトキハキニケリ》」などは「コヒ」(名詞)「コヒシ」(形容詞)の例なれど、まさしく上にいへる例に近し。されば、この意にいふこともありしならむ。
○一首の意 明かなり。第一段はわが君はわが愛するなでしこの花にてもありたらばいかによからましと冀ふことよとなり。第二段は、さやうにわが君がなでしこの花にてあらば、それ(732)を毎日手にとり持ちてめではやさぬ日とてはあらざらむ。毎日にわが戀の心を滿足せさせむものをとなり。
 
大伴宿禰駿河麿歌一首
 
○ この人の事既に上にいへり。この歌はそのよめる場合をいはねど、上の歌の意に准じて略これを推知すべし。古義に「贈同坂上家之大孃」の字を加へたるはさかしらにして恐らくは事實に違へるならむ。
 
409 一日爾波《ヒトヒニハ》、千重浪敷爾《チヘナミシキニ》、雖念《オモヘドモ》、奈何其玉之《ナドソノタマノ》、手二卷難寸《テニマキガタキ》。
 
○一日爾波 「ヒトヒニハ」とよむ。この語の例は卷二「一八六」に「一日者」と記したり。意明かなり。
○千重浪敷爾 古來の如く「チヘナミシキニ」とよむべし。童蒙抄に「チヘナミウツニ」とよみたれど、如何なり。童蒙抄の説の根據とする所は波にはうつといふべく、敷の字をば「令集解神祇令神衣祭條下注」に「釋云【上略】敷和御衣織奉【中略】敷和者宇都波多也。」如此古訓うつと訓したる證例もあれば、浪につゞく詞にて、現の字の意をかねてうつと讀むこと然るべからんか」といふにあり。この敷和の熟字の本義未だ詳かならねば斷言しかねたりといへども、敷字にウツといふ訓ありとすることは受けられず。「敷」は「シク」とよむが普通なるのみならず、浪に「シク」といへる例は卷九「一七二九」に「梶島乃石越浪乃敷弖志所念《カヂシマノイソコスナミノシキテシオモホユ》」卷十八「四〇九三」に「餘須流之良奈美伊夜末之爾多(733)知之伎與世久《ヨスルシラナミイヤマシニタチシキヨセク》」卷十二「三〇二四」に「小浪敷而戀乍有跡告乞《サザレナミシキテコヒツヽアリトツゲコソ》」卷十七「三九八九」に「奈呉能宇美能意吉都之良奈美志苦思苦爾於毛保要武可母《ナゴノウミノオキツシラナミシクシクニオモホエムカモ》」などあり。なほ又卷十一「二四三七」に「五百重浪千重敷敷爾戀度鴨《イホヘナミチヘシクシクニコヒワタルカモ》」又卷十三「三二五三」に「五百重浪千重波爾敷《イホヘナミチヘナミニシキ》(考は「敷爾」の誤とせり)言上爲吾《コトアゲスルワレ》などの例にて、なほ古來の訓によるべきを見るべし。さてこの「シキ」は多くの釋「頻になり」といへど、適中せりと思はれず。二語意は共通する點あれど「頻り」は「シキル」といふラ行四段活用動詞の連用形を以て轉成せしめしものにして、「シキ」は力行四段活用の動詞なれば、別の語なり。この語の意はシゲク行はるるわざをいふ語なり。さてこの句と上の句とを合一してさて「一日には千重波」と「シキニ」との二に分ちて考ふべきものなり。その「一日には千重波」といふには上の「にはの助詞に對して下に相當の用言なくばあらざるを略せるものなれば、一日の中に千重の波のよする如くといふ程の意にて、下の「敷に」の意を修飾強調するに用ゐたるものなり。而してかやうなる例は上の卷十三の「三二五三」の例を見て知るべし。
○雖念 「オモヘドモ」とよむ。意明かなり。
○奈何 舊訓「ナド」とよみたるが、代匠記には「「ナゾ」ともよむべし」といへり。「奈何」は疑問の辭にしてこれは「ナド」とよみても「ナゾ」とよみても同じ意になるべく「ナド」の假名書の例は本集には、卷四「五〇九」に「奈騰可聞妹爾不告來二計謀《ナドカモイモニノラズキニケム》」卷十九「四二一〇」に「夜麻保登々藝須奈騰可伎奈駕奴《ヤマホトトギスナドカキナカヌ》」あり、又古事記中に「那杼佐祁流斗米《ナドサケルトメ》」あり。「ナゾ」の假名書の例は本集卷十五「三六八四」に「奈曾許己波伊能禰良要奴毛《ナゾココハイノネラエヌモ》」あり。さてその「ナ」は古代の疑問副詞にして「ゾ」は今も用ゐる係助詞にして(734)「ド」はその「ゾ」の古代の一の姿なりと見ゆれば、二者結局同じ語の二の姿にあらはれたるなりと認むべし。かくてそは「ナゾ」よりは「ナド」の方古き容と見ゆれば、ここは古の如く「ナド」にてよしとすべし。
○其玉之 「ソノタマノ」とよむ。「其玉」とは何をさすかといふに、誰人かを玉にたとへたりと認めたるものとせずば譬喩歌としての詮なきなり。さればこの歌を贈れる相手の人恐らくは坂上家の二孃をたとへていへるならむ。なほここに玉を以てたとへいへるは徒にいへるに止まらず、上に「千重浪」といへるに縁あるなり。そは如何にといふに、卷一「二二六」に「荒浪爾縁來玉乎枕爾置《アラナミニヨリクルタマヲマクラニオキ》」卷六「一〇〇三」に「海※[女+感]嬬玉求良之《アマヲトメタマモトムラシ》」「一〇六二」に「玉拾濱邊乎近見《タマヒリフハマベヲチカミ》」卷七「一一五四」に「吾兒之鹽干爾玉者將拾《アゴノシホヒニタマハヒロハム》」卷九「一六六五」に「爲妹吾玉拾《イモガタメワレタマヒロフ》、奧邊有玉縁持來奥津白浪《オキヘナルタマヨセモテコオキツシラナミ》」などの例にて見る如く、海中にある玉をば浪のよせ來て濱邊におくことあるによりていへるなり。その玉とは蓋し、正しくは今いふ眞珠のことならむ。今日にては容易に手に入れがたく見ゆれど、古は、往々さる眞珠を含める貝の浪に打ちよせられて濱邊にありしが故にかかる歌もありしならむ。
○手二卷難寸 「テニマキガタキ」とよむ。ここに連體形を以て終止とせるは上の奈何を「ナド」とよみたるに對しての結なり。玉を手にまくとは古は腕などに多くの玉を緒に貫きたるを纏ひしが故なり。その状は古墳より出づる埴輪の人形などにて想像しうべし。本集の歌にもこの事頻繁に見ゆ。而して卷二「一五〇」の「玉有者手爾卷持而《タマナラバテニマキモチテ》」卷四「七二九」の「玉有者手二母將卷乎《タマナラバテニモマカムヲ》」卷十七「三九九〇」に「我加勢故波多麻爾母我毛奈《ワガセコハタマニモガモナ》、手爾麻伎底見都追由可牟乎《テニマキテミツツユカムヲ》」などいづれも、そ(735)の愛して離れ難き人を、手に纏くべき玉にたとへていへるなり。ここもまさしくその意なりとす。
○一首の意 一日に千重にも寄する浪の如くにしげきさまにわれは思へども、何の故にかその玉のわが手に卷き難きかといふなり。浪の寄すると玉のよりくるとの縁と、玉を女にたとへたると、玉は手にまくことのあるとによりていへる歌なるが、巧みなるに似て深き情はうけとられぬ歌なり。
 
大伴坂上郎女橘歌一首
 
○大伴坂上郎女 上「三七九」以來屡見ゆる人なれば、再び説くを要せず。
○橘歌 これは橘によそへてよめる歌なり。按ずるに、その娘なる大孃二孃に關聯して、同族なる駿河麿、家持などとの交渉ありしさまなれば、この歌もそれらの間に譬喩の對象の存せしならむ。
 
410 橘乎《タチバナヲ》、屋前爾殖生《ヤドニウヱオホシ》、立而居而《タチテヰテ》、後雖悔《ノチニクユトモ》、驗將有八方《シルシアラメヤモ》。
 
○橘乎 「タチバナヲ」とよむに異議なし。橘については卷二「一二五」以後屡いへり。この木は舶來の菓樹として古來珍重せられ、術路樹又は庭園樹として殖ゑられしことは今更いふに及ばざるべし。
(736)○屋前 古來「ヤド」とよみ來れるを童蒙抄に「ニハ」とよみ、考も攷證も「ニハ」とよめり。その他の諸家古來の如く「ヤド」とよみたれど、その理由をいへるものなし。童蒙抄は「屋前の二字をやどとよむ義心得がたし」といひ、「やの前なれば庭とか、のきとか讀むべき也。兩義好む處にしたがふべし」といひ、考は理由をいはず。攷證は「屋《ヤ》の前《マヘ》は庭なれば其意をもて書る字なれば、皆にはと訓べし。宿といふに、集中、屋外《ヤド》屋戸などは書たれど、屋前の字をやどと訓べきよしなし。玉篇に「庭、堂階前也」とあるにて屋前はにはと訓へきをしるべし」といへり。按ずるに假名書の例によれば、「和家夜度能烏梅能波奈《ワガヤドノウメノハナ》」(卷五「八二六」)「和我夜度乃波奈多知婆奈波《ワガヤドノハナタチバナハ》」(卷十五「三七七九」「和我勢故我夜度乃也麻夫伎《ワガセコガヤドノヤマブキ》」(卷二十「四三〇三」)「和我勢故我夜度乃奈弖之故《ワガセコガヤトノナデシコ》」(卷二十「四四四二」)「和我屋度能麻都能葉見都都《ワカヤドノマツノハミツツ》」(卷十五「三七四七」)「吾屋戸爾幹藍種生之《ワガヤトニカラアヰマキオホシ》」(卷三「三八四」)「吾屋戸爾殖之藤浪《ワカヤドニウヱシフヂナミ》」(卷八「一四七一」)「奈泥之故乎屋戸爾末枳於保之《ナデシコヲヤドニマキオホシ》を(卷十八「四一一三」)「花橘乎屋戸爾波不殖而《ハナタチバナヲヤトニハウヱズテ》」(卷十九「四一七二」)「山振乎屋戸爾引植雨《ヤマブキヲヤドニヒキウヱテ》」などの例あれば、「ヤドニ」橘を植うといふに差支なきことなり。又「多知婆奈能之多泥流爾波爾等能多弖天《タチハナノシタデルニハニトノタテテ》」(卷十八「四〇五九」)「庭立麻手刈干《ニハニタチアサテカリホシ》」(卷四「五二一」)「橘之花散庭乎《タチバナノハナチルニハヲ》」(卷十「一九六八」)などあれば「ニハ」とよみても不可なきことなり。問題は「屋前」の二字を「ニハ」とよむをよしとするか「ヤド」とよむをよしとするか、その二者のうちいづれがこの字面に妥當なるかといふ點にあり。攷證には玉篇の「庭(ハ)堂階前也」とあるを引きて「ニハ」とよむべしといひたれど、引證としては不十分なり。この例は「堂前」とか「階前」とかの字面についての論ならば、或はよからむといへども「屋前」の字面の證にはならず。若し「屋前」の字面を「ニハ」とよむべしと(737)せば、それは倭名類聚鈔に「考聲切韻云庭【定丁反和名邇波】屋前也」とあるによらざるべからず。考聲切韻は今は佚書となりたれども、これは恐らくは六朝の頃の古書ならむ。それに庭字の説明に用ゐたる「屋前」の二字を庭の義に用ゐることはありうべきことにして、既にいへる所の説文の「煙火氣也」とあるを轉用して火氣を以てケブリの義に用ゐたると同じ手法なりとするをうべきが如し。然りとせば、「ニハ」とよむ方よきが如し。然れども假名の例を見れば、かやうなる場合「ニハニ云々」といふより「ヤドニ云々」といふ方遙に多く、ヤドといふ語の意には屋の戸即ち家の前なる所をさすこと本卷「三〇九」の「石室戸爾立在松樹《イハヤトニタテルマツノキ》」の例にても知らるる如くなれば、屋前を「ヤド」とよまむこと必ずしも不合理にあらざるを見る。この故に今はなほ古來の訓に從ひて「ヤド」といふことにせり。
○殖生 古來の訓は「ウヱオホシ」なるを玉の小琴に「うゑおふせと訓べし。早くそなたの屋前にうゑおふし玉への心也」といひてより、槻落葉、略解等之に隨ひ、古義は之によりて、「ウヱオホセ」とよめり。先づ「殖」字には種々の義あるうち、ここは書經、呂刑に「農殖2嘉穀1」とある如く「種殖」の義によれるものにして集中に例多し。色葉字類抄には「殖」を「ウユ」と注せり。次に「生」を「オホシ」とよむべきことは卷十八「四一一三」に「奈泥之故乎屋戸爾末枳於保之《ナデシコヲヤドニマキオホシ》を卷二十「四三〇二」に「夜麻夫伎波奈※[泥/土]都々於保佐牟《ヤマブキハナデツツオホサム》」などあれば、「オフシ」にあらざるを見るべし。さて上よりの意については契沖は駿河麿を催せる意ありとし、考は「むことる事をいふ」といひ、槻落葉は「早くそなたの屋前に殖令生てそなたのものとしたまへと也」といひ、古義これに從へり。先づ問題はこの橘を以て(738)何に譬へたるかといふことなり。玉の小琴、槻落葉、略解、古義等多くの書はそれをわが女に譬へたるものとせり。然るに、この頃までも橘は賞賛珍重せられたるものなれば、己が女をそれに譬ふるが如きは他に贈る歌として自賛に近きものなれば恐らくは從ふべからざるものならむ。これは恐らくは考に「むことる事をいふ」といへるにて暗示せられたる如くその相手の男をたとへたりとすべきものならむ。次に、「オホセ」と命令形にする時は他を挑む意となりて、穩かならざるのみならず、婚姻に關する古の事實とも一致せず、旁從ひがたし。之に就いて註疏に「略解にウヱオホセとは早くそこの庭にうゑおほせよといへるなりと註せるは後世の婚儀のごとく、婦を夫の家に嫁せしむるよしにおもへるがごとし。古の婚儀は然らず。おほかた夫の婦家に通ひすむならはしなれば、ここは郎女のわが女をその家に長《ヒタ》したてたる事をウヱオホシといへるなり」といへり。この後半のわが女をいへりとすることは從ひがたけれど、前半の婚姻に關する説明は從ふべし。結局これはその婿たらむとする人をわが家に迎ふることを譬へたりといふの外なからむ。
○立而居而 「タチテヰテ」とよむ。この語の例上の「三七二」の「立而居而念曾吾爲流《タチテヰテオモヒゾワガスル》」ありてそこにいへり。又この下「四四三」に「立居而待監人者《タチテヰテマチケムヒトハ》」卷四「五六八」に「五百重浪立毛居毛我念流吉美《イホヘナミタチテモヰテモワガモヘルキミ》」卷十「二二九四」に「立而毛居而毛君乎思曾念《タチテモヰテモキミヲシゾオモフ》」卷十三「三三四四」に「立而居而去方毛不知《タチテヰテユクヘモシラニ》」卷十七「四〇〇三」に「多知底爲底見禮登毛安夜之《タチテヰテミレドモアヤシ》」などあるが、いづれもその心に深く思ふ事ある時にあらはるゝ擧動をいひあらはす語なりと知らる。かくてこれは下の「悔ゆる」事を修飾するなり。
(739)○後雖悔 「ノチニクユトモ」とよむ。これに似たる語遣の例は卷四「六七三」に「眞十鏡磨師心乎縱者後爾雖云驗將在八方《マソカガミトギシココロヲユルシテハノチニイフトモシルシアラメヤモ》」あり。又卷四「六七四」に「相而後社悔二破有跡五十戸《アヒテノチコソクイニハアリトイヘ》」卷十一「二三八六」に「戀云事後悔在《コヒチフコトハノチノクイアリ》」あり。意は明かなり。
○驗將有八方 「シルシアラメヤモ」とよむ。驗を「シルシ」とよむは上の太宰帥大伴卿讃酒歌の第一の歌(三三八)にあり。「アラメヤモ」といふ語の例は卷十五「三五八三」に「於伎都奈美知敝爾多都等母佐波里安良米也母《オキツナミチヘニタツトモサハリアラメヤモ》」あり。「シルシアラメヤモ」の例は卷十八「四〇五二」に「保登等藝須伊麻奈
可受之弖安須古妻牟夜麻爾奈久等母之流思安良米夜母《ホトトギスイマナカズシテアスコエムヤマニナクトモシルシアラメヤモ》」卷二十「四四三八」に「保等登藝須許許爾知可久乎伎奈伎弖余須疑奈無能知爾之流志安良米夜母《ホトトギスココニチカクヲキナキテヨスギナムノチニシルシアラメヤモ》」あり。「八方」を「ヤモ」にあてたる例は卷一「二一」以來屡あり。さてかく「ム」の已然形より「ヤモ」につづけたるものは反語をなすものなれば、效驗あらむや、效驗あるまじとなり。
○一首の意 橘といふべき君をば、わが屋にむかへてすつかり根がつきて後に豫想と違へる事の生じてむか。その時に至りて立ちつ居つして悔ゆとも後悔の效はあるまじければ、輕卒の事は出來難し。即ち先づ、君の御心をよく知りての後にあらずば君の御申込には輕々しく應じかねたりとなり。これは鴻巣盛廣氏の全釋にいふ所に略同じ。われは同氏の見解に左袒するものなり。
 
和歌一首
 
(740)○ これは上の歌に和へたるものなるはいふまでもなきが、何人の詠なるか、その名を記さねば知りがたし。代匠記槻落葉等には駿河麻呂のよみしならむといへり。又、略解は「此卷家持卿の集と見ゆれば名を略きしならんか」といへれど、攷證にもいへる如く、この卷にも家持の名多く出でたれば、家持の歌なるが故に名を署せずといふ説も難あり。要はただ不明といふの外なかるべきなり。
 
411 吾妹兒之《ワギモコノ》、屋前之橘《ヤドノタチバナ》、甚近《イトチカク》、殖而師故二《ウヱテシユヱニ》、不成者不止《ナラズバヤマジ》。
 
○吾妹兒之 「ワギモコノ」なり。この語の例は卷一「四四」以下屡いでたり。意は今更いふまでもなし。
○屋前之橘 「ヤドノタチバナ」なり。よみ方と意とは上の歌に准じて知るべし。上の歌の橘はそのあひての男にたとへたるが、この歌はそれに對してその女を橘によそへたるなり。かくてわざと吾妹兒之屋前の橘としもいへるならむ。
○甚近 舊訓「イトチカシ」とよみたるを童蒙抄に「イトチカク」とよみ、考、槻落葉、玉の小琴等以下みなかくよめり ここを「チカシ」といひては、意下に通ぜぬが故に、「チカク」といひて、下につづくべきなり。「甚」を「イト」といには「甚シキ」の意なり。本集には假名書の「イト」の外は「甚」字のみを用ゐてこれをあらはしたり。類聚名義抄は又「太」「※[うがんむり/取]」「苦」の字に「イト」の訓あり、色葉字類抄には「最」「苦」「丁」に「イト」の訓あり。これらには「甚」の字に「イト」の訓を見ざれど、「太」と「甚」とは古來意義通じて(741)相熟して用ゐたるものにして詩經小雅巷伯に「彼※[言+僭の旁]人者、亦已(ニ)大甚《ハナハダシ》」とあり。これはわが國語にていへば、副詞なる場合と、用言なる場合とあり。その用言なる場合は論語衛靈公篇に「甚於水火」といふ如きものにしてこれを「ハナハダシ」とよむ例となれり。その副詞なるものは、「ハナハダ」とよむか、「ハナハダシク」とよむかを例とせるが、それがかく四音五音によむべからぬ所にあるはいづれも「イト」とよむべきものならむ。而して本集中古來「甚」を「イト」とよみ來れるものはこの歌なるを最初として卷四以下に六處あり。さて「イト」といふ副詞の當時存せしことは、卷四「七八六」に「梅花未咲久伊等若美可聞《ウメノハナイマダサカナクイトワカミカモ》」卷八「一五二四」に「天漢伊刀河浪者多多禰杼母《アマノガハイトカハナミハタタネドモ》」卷十八「四〇九二」に「保登等藝須伊登禰多家口波《ホトトギスイトネタケケクハ》」等例少からず。さてこの「イト」は「近シ」の程度を示す爲の副詞なり。この句の「いと近く」は次の「殖てし故に」の句の意に連なるものなれば、その説明は次に至りて説くべし。
○殖而師故二 「ウヱテシユヱニ」とよむ。古來異議なし。「故ニ」を玉の小琴に「うゑてし物をの心也」といひ、後人多くこれに從ひたり。されど、攷證は「故にといふに二つありて、一つはなるものをといふ意(中略)一つはたゞ俗言にもいふ所と同じ事なり。ここはなるものをといふ意にはあらで、たゞの故になり」といへり。その「故に」に「なるものを」といふ意ありといふ説は從ふべからざること、卷一「二一」の「人嬬故爾」の下に既に論ぜるところなるが、ここのはもとより攷證いふ如く、普通の「故ニ」の意なるものにして、何等特別の説明を要する所にあらず。この「殖てし」はその橘を植ゑたるをいふこと勿論なるが、それをわが家近くに植ゑたりといふ意なり。この近(742)く植ゑしをば諸家は親族の意とすれど、必ずしも然らじ。これは己が親しくまのあたり見、又は交際せしをいひしならむ。
○不成者不止 これは「ナラズバヤマジ」とよむべし。即ちこれは豫期する所ある語なれば「不」は「ジ」とよむべきこともとよりなり。ここと同じ詞遣なるは卷十「一八九三」に「本繁開在花不成不止《モトシゲクサキタルハナノナラズバヤマジ》」卷十一「二八三四」に「本繋言大王物乎不成不止《モトシゲクイヒテシモノヲナラズハヤマジ》」などあり。「なる」とは上の橘の縁によりて實のなることなり。「實」に「なる」といへることは上の「三九八」「三九九」にもあるが、卷二「一〇一」の「實不成樹《ミナラヌキ》云々」又「一〇二」の「花耳開而不成有者《ハナノミサキテナラザラバ》」の例をはじめ、集中に多きのみならず、今もいふ語なりとす。さてその橘が、花さき、そのうるはしく照れる實の成るにあらずば、わが努力をなすことは止むまじといふなり。されば、この「者」は接續助詞「ば」にあてたるなるべし。これを「は」とよめるは係助詞とせるものにして意とほらざるなり。
○一首の意 君が庭にある橘はわが家に甚だ近く植ゑてありしが故に、恰もわが橘の如き親しさを覺ゆるものなり。それ故に如何にも努力して、それに美しき實が成熟するにあらずばわが努力は止まじ。即ち、わが親しくせる君のわが愛する君の娘はわれはこれを深く愛するが故にこの戀をば必ず實現せずしてはあらじとなり。
 
市原王歌一首
 
○市原壬 この人の歌は本集中にすべて、八首あり。そのうち卷六の「九八八」の詞書によりてそ(743)の父の安貴王たることを知る。安貴王はこの卷「三〇六」の歌の作者にして、春日王の子にして、天智天皇の御孫なること、但し、その春日王の御父の詳かならぬことは既にいへり。この市原王は天平十一年に寫經司の舍人たり、天平十五年五月に從五位下を授けられ、その頃より、玄蕃頭として佛教を管理し、天平勝寶元年四月には東大寺大佛の造營の功によつて從五位上を授けられ、同二年十二月には同樣の功によつて正五位下に叙せられ、天平寶宇七年正月に攝津大夫、四月に造東大寺長官に任ぜられたること知らるゝが、本集によれば天平寶宇二年二月の頃には治部大輔たりしなり。なほ又天平五年には父王の健在を祝し、天平八年には獨子なるを悲める歌あり。又續日本紀、天應元年二月の條には光仁天皇の皇女能登内親王が市原王の配にして五百井女王、五百枝王を生みたまへる由見えたり。
 
412 伊奈太吉爾《イナダキニ》、伎須賣流玉者《キスメルタマハ》、無二《フタツナシ》。此方彼方毛《カニモカクニモ》、君之隨意《キミガマニマニ》。
 
○伊奈太吉爾 「イナダキニ」とよむべし。この語はこの所、以外に假名書の例なし。これは古來の説にいふ所の如く「イタダキ」と同じ語なりと考へらる。「イタダキ」といふ體言の假名書の例も亦本集には見えず。新撰宇鏡には「髻」に「伊太々支」の訓あり、和名抄には「顛」に「以太々岐」の訓あり。古語中の「ナ」といひし音を後に「ダ」の音にせし例少からず。「ムナ言」(卷二十「四四六五」の「牟奈許等」)が「ムダコト」となり、「ワナナク」(古事記に「手足和那々岐弖」)の「わな」を重ねたる「わなわな」が、狹衣物語にて「わだわだ」となれるが如し。又逆に古、「ダ」といひしを後世「ナ」といへるあり。「シダ」(時(744)の意。卷十四「三四六一」の「安家奴思太久流」)が後に「シナ」となり、(「往きしな」「還りしな」の「しな」)今いふ「シダ」といふ草も古は「シナ」なりしならむといへり。又「手練《テナレ》」をば軍記物には「テダレ」といへり。されば、「イタダキ」の古語に「イナダキ」といふ形ありと考ふることは不條理にあらずといふべし。然るに、鈴木重胤は日本書紀の傳に於いて「萬葉に伊奈太吉とある、奈字は多を誤れるなるべし」と論じたり。されど、諸の本みな「奈」とありて、ここに異字ある本一も存せざれば、なほ字のまゝによむべきものなり。「イタダキ」とはその文字の如く、頭の上又は髻をさせるものなれば、今あたまといふ程の意にとるべきなり。なほ次の句に行きていふべし。
○伎須賣流玉者 古來「キスメルタマハ」とよみて異説もなく、又文字にも疑問なし。されど、その解釋につきては論ずべき點少からず。先づ、諸家の説を見む。仙覺は「きすめるは來住《キタリスム》也。意《ココロ》は帝王は髻中明珠《クチウメイシユ》とてみづらの中に玉をいたゞき給へる也」といひたるが、契沖は「頂に令著なり」といひ、童蒙抄に「きたるといふ義也」といひ、考は「伎は久々里の約にて絞なり。須賣流は統《スベル》るなり。かくて神代紀に御統の玉と云に同じく頭を飾る數々の玉の緒をくゝり統る所に一つ大玉有、それを無二と云り」といひ、槻落葉にては「令著《キスメル》也。いにしへ玉は左右の「髻《ミヅラ》」につけて、飾とせり。神代紀に見えたり。令v著とは付をいへり」といひ、略解にはまづ考の説をあげ、次に「宣長云、伎は笠をきるなどのきるに同じ。頭におくをいふ。すめるは統にて二つなしとは玉の數をいふにはあらず。云々」といへり。かくてより後本居の説全盛にしてこれに從はざるもの殆どなく、ただ井上通泰氏の新考の、これに從はずして異説を立てたるのみ。その新考の説は(745)後に論及することとして、ここに上の諸説を一往評論せむ。「きすめる」といふ語は假名書にしてこれより外のよみ方なければ、その音の「キスメル」といふ語に基づいてその説の當否を考へむ。まづ、仙覺の「來住(ム)也」といへるはその語形よりして不合理といふべからず。童蒙抄の説は説明不十分にして可否をいふべきにあらず。考の「キ」は「ククリ」の約なりといふこと先づ無理なるが、「スメル」は「統《スベル》なり」といふは當時の語法にあはず。「スベル」といふ語は下二段活用の「スブル」といふ語の下一段に化したるものにして近世の俗語なり。萬葉集の時代にこの語ありたりとは思はれず。「スベラキ」は「スベ」と「キ」とにして「ラ」は補助部分たるに止まる。さればこの説も言語の上より承認しがたし。槻落葉の「令著《キスメル》」なりといへるは「キス」に「メリ」といふ複語尾のつけるものとせる説ならむが、若し、しかりとせば、先づ「キス」といふ語が、「着る」と同義に用ゐられたりといふことを證せざるべからず。然れども、「きる」は自ら着ることをいひ、「きす」は他に着することをいふものなれば、頂に「令著」といふにはその玉をその人に着せたる人他に存すべき道理なり。然れども、この歌の意にはさる意の存すべき筈なし。又玉を頂につくることを古代に「着る」若くは「きす」といひしことを證せざるべからず。然るに、玉を身につくるをば集中には「手にまき」(卷二、卷三、卷四、卷七、卷十三、卷十七「四〇〇七」)といひ、「ミヅラノナカニアヘマカマクモ」(卷二十「四五七七」)「吾宇奈雅流珠乃七條《ワガウナゲルタマノナナツラ》」(卷十六「三八七五」)といふことあるのみ。又日本紀にも古事記にも玉を「きる」「きす」といへる例は一も存せざるなり。されば、この説はまた信ずべからず。なほその上にここに「メリ」といふ複語尾存すとせざるべからざると共に、それの意として、それ(746)を傍觀的に推量する意ありとせざるべからざるに、當時「メリ」の存せりとは容易にいひ得べからず、又さる意味もここに存すといひがたし。この故に槻落葉の説また從ふべからず。宣長の説もまた、言語の上よりして論ずれば、一も取るべき點なし。更に、これを事實につきて考ふるに、仙覺の髻中明珠の説は佛經の文によれるものにして、わが國の事にあらねば、論を要せず。考の「頭を飾る數々の玉の緒をつくり統る所に一つ大玉有、それを無二と云り」とあれど、かゝることは佛教の珠數などにはあらむが、わが御銃の玉にありしか否か明かならず。槻落葉の「いにしへ玉は左右の髻につけて飾とせり」といふはさることながら、かくては左右二つに存すべくして、「無二」といふにあはず。溯りて仙覺の説を見るに、かれは「きすめるは來住也」といひたるが、その玉の説明は髻中明珠なりといふにあり。然れども、さる玉の如き無生の物の存するを「すむ」といふこと果して妥當なるか。ここに「すめる」といふ語にて考ふるに、仙覺の説の如く「住む」といふ意にとらば、これは「住有」の意として語の上にては不妥當とはいふべからず。然れども玉について住むといふことうべきかはもとより問題なり。普通には「すむ」といふ語は生物のそこに生活を營むことをいふに用ゐるなり。而して古語にても今の語にても生活を營むこと以外に「すむ」といへる例は一も存せず。この歌に「住める」といふ語にする以上は仙覺の説明にても不可なり。さてかく考ふる時は、その頂に來て住みてあるものは何かといふに、もとより「タマ」ならざるべからず。然れども無生物の玉の來り住むべき由なければ、この「玉」は借字にて「魂」をさすと考へざるべからず。魂を「タマ」といへることは古語の常にして、本集にも例稀(747)ならざれば魂として、その魂が頂に來り住むといふことを無理ならずとも考へうべし。然るに、この歌は譬喩歌なれば、この「タマ」は譬喩に用ゐたるものにして魂をいへりとは考へられず、なほ珠玉の「タマ」たるべきものなるべく思はる。こゝに於いて仙覺及び代匠記以來の諸家の説一も善しと證すべきものなし。ここに新考の説をあげむ。曰はく
 「案ずるに、播磨風土記賀毛郡の下に 伎須美野 右號2伎須美野1者品太天皇之世大伴連等請2此處1之時喚2國造黒田別1而問2地状1。爾時對曰縫(ヘル)衣(ヲ)如v藏2櫃(ノ)底1故曰2伎須美野1。
とあり。此文中の藏の字は「キスミタルとよむべければ、キスムは藏《ヲサ》むる事なり」といふにあり。然るに、かく「キスム」といふ語は他に例あるを知らず。(躬恒集に「梅が枝にきすむ〔三字傍点〕古巣の鶯はなきまに花を折らせつるかな」とある「きすむ〔三字傍点〕」は或はそれならむかともいはるれど、遽にいひ難し)然れども、これを藏すといふ意にとりてはじめて、「玉」と「髻」との關係を考へうべきものなれば、確證なきかぎり明かに然りとはいひがたきことなれど、姑くこれに從ふこととせむ。かくて、この玉と髻との關係について諸家の説を見るに、また疑問少からず。代匠記は「神代紀云便以2八坂瓊五百箇御統1纏2其髻鬘1云々法華經第五安樂行品(ニ)云、文殊師利如2轉輪王(ノ)見d諸(ノ)兵衆有2大功1者(ヲ)u心甚(ダ)歡喜(シテ)以d此難信之珠久(シク)在2髻中1不(ル)c妄與uv人而(モ)今與(ルカ)v之(ヲ)云々。此經文を本據とし、神代紀の詞を合せてよみ給ふなるべし」といへるが、その後の學者は專ら本邦の古代の御統の玉についていへるなり。然るに、この頃の髻髪は男子ならば、左右に角髪《ミヅラ》をゆへるものなれば、下の「二つなし」といふにあはず。又假りにそれを女子の髪にいふとしても御統の玉は玉一個のみにてなるもの(748)にあらねば、これ亦下の「二つなし」といふにあはず。かゝる事實あるを思へばにや本居宣長は「二つなしとは玉の數をいふにはあらず、統たる玉のたぐひなきよし也」とはいへるならむ。されどかく考へても、その御統の玉は髻に纏ふとはいふべくして藏すとはいふべからず。かくてこれは髻中に玉を藏することと解するより外には考ふべからず。然りとするときは本邦の古の風俗にかゝる事ありきと思はれぬによりて、惟ふに、これは所謂佛經にある髻中珠の事をいへるならむ。これは契沖がいへる如く、法華經、涅槃經、方等陀羅尼集經等にもありて、國王髻中明珠といふを以て、至上の佛法にたとへたるものなりとす。今、この事を考ふるに、この歌はこれによれるものと思はる。これは法華經安樂行品に曰はく「譬如協力(ノ)轉輸聖王欲d以2威勢1降c伏諸國u而諸(ノ)小王不v順2其命1時轉輸王起2種々兵1而往討伐。王見2兵衆(ノ)有v功者1即大歡喜。隨v功賞與。或與2田宅聚落城邑(中略)奴婢人民1、唯髻中明珠不2以與1v之所以者何獨王頂上有2此一珠〔六字右○〕1若以與之、王諸眷屬必大驚恠」とあるが如く、この頂上の珠は唯一無二のものにして漫りに人に與ふるものにあらざるを以てここにこれをたとへたるものといふべし。かくいふ時は本集にさる佛教の故事などを入るることあるべからずといふ説あらむかなれど、本集には佛教の無常思想をうたへるもの、稀なりといへども存すること明かなれば、かゝる事をよめること全くなしとはいふべからず。而して、この歌の作者の經歴を見れば、佛教に關係少からざるを見る。先づ、その寫經所舍人、造東大寺長官たる官が佛教に深き關係あることはいふをまたず、その玄蕃頭も治部大輔も亦佛教に深きなり。先づ、日本全國の佛寺僧尼の名籍と供養、齋食の事を管するも(749)のは玄蕃寮にして、それは治部省管下の一寮たり。この王は前後二十五年佛教に關係少からぬ官に歴任せる人なれば、その人の作として、かゝる事あるも異とすべきにあらざらむ。なほ又卷二十「四三七七」に「阿母刀自母多麻爾母賀母夜伊太多伎弖美都良乃奈可爾阿敝麻可麻久母《アモトジモタマニモカモヤイタダキテミヅラノナカニアヘマカマクモ》」とあるも恐らくはその意に基づくものならむ。
○二無 「フタツナシ」とよむ。意は唯一にして無二無三なりといふなり。以上一段落なり。
○此方彼方毛 古來「コナタカナタモ」とよみたるを玉の小琴に「かにもかくにもと訓べし」といひてより諸家多くこれに從へり。ここに似たる文字は卷九「一八〇九」に「處女墓中爾造置《ヲトメハカナカニツクリオキ》、壯士墓此方彼方二造置有故縁聞而《ヲトコハカ《コナタカナタニツクリオケルユヱヨシキキテ》」とあるが、そこは「カニカクニ」とはよまれぬ所にして、古來「コナタカナタニ」とよみ來れり。されど、「コナタ」といふ語も「カナタ」といふ語もこの頃に存せしことの證なきものなれば、そこのよみ方も一考を要する所なるが、今はそれを論ずべき所にあらねばここにつきてのみいふべし。上述の如くなれば、「コナタカナタモ」とよむことは時代錯誤の疑あれば、本居説に從ふべし。似たる詞の假名書の例は卷五「八〇〇」に「可爾迦久爾保志伎麻爾麻爾《カニカクニホシキマニマニ》」卷四「六二八」に「鹿※[者/火]藻闕二毛求而將行《カニモカクニモモトメテユカム》」とあり。又かく「かしと「かく」とを相對して用ゐる例は卷十七「三九九一」に「可由吉加久遊岐見都禮騰母《カユキカクユキミツレドモ》」卷二「一三一」に「浪之共彼縁此縁《ナミノムタカヨリカクヨリ》」卷十七「三九九三」に「可毛加久母伎美我麻爾麻等《カモカクモキミガマニマト》」などあり。意は今いふ「とにもかくにも」に似たり。
○君之隨意 「キミガマニマニ」とよむ。「隨意」を「マニマニ」とよむことは卷二「九八」の「引者隨意」の下にいへり。この語は上の卷五「八〇〇」の例と卷十七の「三九九三」の例とに照して考ふべきなり。(750)かくてこゝにて一段落なるが、この下に然るべき略語ありと見るべきものなり。
○一首の意 代匠記は一按として「第六に市原王悲獨子歌一首あり。それを可然人の得んと云時に、髻珠の如く愛する娘なれども君がのたまふ事なれば、仰に從かひて參らせんとにや」といひたり。されど、その歌は市原王自身が親の一人子にして兄弟なきを歎きしものなれば契沖の説は考違なり。この歌は第一段に於いて、かの佛教の譬にいへる頂上の髻中明珠といふものは無二の寶なりといふに止まる。しかも、これはその愛人をこれにたとへたりと見ゆ。第二段はそれをうけてわが愛する君はさる無二の寶なれば君の仰せとあらば、如何樣にも御意の通りに致すべしといへるなり。即ちかくてわれは、わが愛する君の爲ならば如何なる事にても辭することなしといふ意をあらはしたるものなるべし。
 
大|網〔左○〕公人主宴吟歌一首
 
○大網公人主 「網」字流布本「綱」に作る。然れども古寫本中「綱」に作るもの一もなし。活字本の誤植なること著しければ改めたり。これをば細井本には「ヲヽアミノキミ」とよみたれど、代匠記には「オホヨサミノキミ」とよめり。これは新撰姓氏録左京皇別に「大網公上毛野朝臣同祖、豐城入彦命六世孫、下毛野君奈良弟若眞君之後也」とある氏にして、考證にはこれ「オホアミ」とよむべしといひて、これを「地名ならば和名抄常陸國信太郡阿美郷にて、和名式に同郡阿彌神社今も阿見村にあり。天正四年九月、奥書ある本社縁起に祭神豐城入彦命云々大網君祖、故稱阿彌神社(751)又阿見村とあるは由ありげなり」といひ、代匠記は「和名云攝津國住吉郡大羅【於保與佐美】これ大依羅なるを養老年中の勅國郡等の名二字に限故に依の字を省きながら讀付たり。依羅を依網とも書けば、大網をも於保與佐美とよむにや」といひたり。いづれも一理あるに似たれど、住吉郡大依羅神社は依羅宿禰に關係あるものなるが如く、その氏は開化天皇の皇子彦座王の後なれば大網氏とは關係なきものと思はる。されば、考證の説にしたがひて、「オホアミノキミ」とよむべきなり。この人は父祖、官位年代考ふるたづきなし。この氏の人も、この後に續紀、寶龜九年に正六位上大網公廣道など見ゆれど、著しき人を見ず。
○宴吟歌 宴に吟へる歌なり。この頃宴席にては往々時に似つかはしき古歌を吟ずるならはしありきと見ゆ。攷證等には古歌なりといへれどこれは何等のことわりなければ自らが歌なるべし。
 
413 須麻乃海人之《スマノアマノ》、鹽燒衣乃《シホヤキギヌノ》、藤服《フヂゴロモ》、間遠之有者《マドホクシアレバ》、未着穢《イマダキナレズ》。
 
○須麻乃海人之 「スマノアマノ」なり。須麻は今の神戸市の西にある須磨にして古は攝津國八部郡の地にして須磨驛を置かれし地なり。而してその邊一帶の海濱即ち所謂須磨浦たるなり。「スマノアマ」とはその須磨の浦に住む海人なり。卷六「九四七」に「爲間乃海人之鹽燒衣乃奈禮名者香《スマノアマノシホヤキギヌノナレナバカ》云々」とあるもの、ここにいふと同じ。又卷十七「三九三二」に「爲麻比等乃海邊都禰佐良受夜久之保能《スマビトノウミベツネサラズメヤクシホノ》云々」といへる「スマビト」も同じ。
(752)○鹽燒衣乃 「シホヤキギヌノ」とよむ。この語は上にひける卷六の「九四七」にあり。又卷十一「二六二二」の「志賀乃白水郎之鹽燒衣雖穢戀云物者忘金津毛《シカノアマノシホヤキギヌノナルレトモコヒチフモノハワスレカネツモ》」の「シホヤキゴロモ」といふもおなじ。さてこれは攷證にも鹽燒衣といふ特別の衣服のあるにはあらず。鹽燒あまが着る衣などはいたく穢たるものなるべければ穢《ナル》といはん料也」といへるにて知るべし。鹽燒くとは鹽を※[者/火]るなり。須磨にて古鹽をつくりしことはこれらの歌にても知られたるが、古今集の頃にも然りと見えたり。
○藤服 「フヂゴロモ」とよむ。これは卷十二「二九七一」「大王之鹽燒海部乃藤衣穢者雖爲《オホキミノシホヤクアマノフヂゴロモナレハスレドモ》」にも例あり。「藤ごろも」とは「ふぢ」の繊維にて織れる布にてつくれる衣なるが、その「ふぢ」とは今いふ花のうるはしき藤に限らず、すべて玉篇に「藤草木蔓生者總名」とある如く、わが國にても然りしなり。この故に、人の氏にも葛井宿禰、葛井連の「葛井」は古來「フヂヰ」とよみ、日本書紀持統天皇七年三月の條には中臣大島のことを「葛原(藤原のこと)朝臣大島」とかき、同年六月の條には中臣意美麿のことを「葛原朝臣臣麿」と書き、寺の名にも河内國の葛井寺を「フヂヰデラ」とよみ來れり。又葛蔓の心《シン》をさらしてつくれる籠を俗に「ふぢごり」といへる、これらにて「フヂ」といふにも葛をさすことありと知るべし。されど、古事記應神天皇卷に「於v是有2二神1、兄號2秋山之下氷壯夫1、弟名2春山之霞壯夫1……爾其弟如2兄言1具白2其母1即其母取2布遅葛1、一宿之間織2縫衣褌及襪沓1、亦作2弓矢1令服2其衣褌等1令v取2其弓矢1遣2其孃子之家1、其衣服及弓矢悉成2藤花1」とあるはまことの花さく藤にてもつくりしことありしならむ。この藤布は和漢三才圖會に「不知沼乃」と訓し「出2於奥州相馬1緝2(753)藤皮1織v布、以爲2褻《ケノ》袴1如(シ)襞積《ヒタ》舒(ヒ)裔《スソ》皺《シワミテハ》則含水吹2沃之1疊乃如v新」といへり。倭訓栞には、「藤もて織しを藤布といふ、信濃あたりにありといへり。葛布は今も遠江より産するなり。いづれにしても麁末なる衣なり。又喪服を「フヂゴロモ」といふことあり、これも麁末なるが故にいふことなれど、ここにいふとは意味ことなり。
○間遠之有者 古來「マトホニシアレバ」とよめり。槻落葉は「今本|久〔二重傍線〕を之〔二重傍線〕に誤れり」といひて、「マトホクアレバ」とよめり。されど、さる本一も存せず、校異にも亦見えざれば、こは久老の武斷なるべし。古義は「マドホクシアレバ」とよめり。「ニ」の仮名はなくとも、加へよむこと例なれば、古來の訓必ずしも不可なりといふにはあらねど、古義の訓を穩かなりとす。この語の例は上の「三〇二」に「差間遠《ヤヽマドホキヲ》焉」又卷十四「三五二二」に「伎曾許曾波兒呂等左宿之香久毛能宇倍由奈伎由久多豆乃麻登保久於毛保由《キソコソハコロトサネシカクモノウヘユナキユクタヅノマトホクオモホユ》」などあり。これは契沖が「升《ヨミ》の少なきなり」といへる如く、織目の疎きをいへるなり。されば、古今集戀五に「すまのあまのしほやき衣をさをあらみまどほにあれや君がきまさぬ」ともいへり。さてここはその藤衣の織目のあらきをまとほにありといへるが表の意にして、その裏の意は相手の人との間の遠きよしをたとへていへるなるべし。
○未著穢 古來「イマダキナレズ」とよめり。穢は蕪穢の熟字にて示さるる如く普通「けがる」とよむ字にしてわが字書には「ナル」の訓をつけたるものを未だ見ず。而して「ナル」といふ下二段の語は今は「慣る」「馴る」の意にのみ専ら用ゐれど、古は然らず。新撰字鏡に※[黒+賣]字に注して「垢黒地慢也奈止留又奈禮太利」とあるを見れば、衣服の垢づき黒みたるを「ナレタリ」といひしことを知る(754)べし。而して本集には卷六「九四七」に「爲間乃海人之鹽燒衣乃 奈禮名者香一日母君乎忘而將念《スマノアマノシホヤキギヌノナレナバカヒトヒモワスレテオモハム》」又卷九「一七八七」に「紐不解丸寐乎爲者吾衣有服者奈禮奴《ヒモトカズマロネヲスレバワガキタルコロモハナレヌ》」卷十八「四一〇九」に「都流波美能奈禮爾之伎奴爾《ツルバミノナレニシキヌニ》」あり。又卷十五「三六二五」に「奈禮其呂母蘇弖加多思吉弖《ナレゴロモソデカタシキテ》」ともいふ。さればこそ又卷七「一三一二」に「下服而穢爾師衣乎《シタニキテナレニシキヌヲ》」とある「穢」を古來「ナレ」とよみたるも當れりとすべし。さてこの語は、もとより着物の著穢れぬをいへるものなれど、上の間遠にしあればといふこととこの句とは文字のまゝの意にては調和せぬものなり。即ちこの穢るを比喩とすべきか、若くは上の間遠くしあればを比喩とすべきかと考ふるに、衣の織目の荒きことは著穢れぬことの理由とすべきにあらねば、これは上にいへる如く比喩とすべきなるが、かくするときはこの着穢れぬはその服を着ること頻繁ならずして未だ穢れずといへることなるべし。されど單に衣服を著穢れぬことは歌となるべきものにあらねば、これはある人に未だ馴れぬ由をたとへていへるものとすべきなり。「著」は衣服の縁としていへるにて「來」の義はあらざるべし。
○一首の意 これは上三句はただ序の詞にして下二句を以て歌の意を見るべきなり。須磨の海人の鹽燒衣たる藤衣の如くに、間遠にして屡あふことなければ、未だ馴れずといふことなるが、これは如何なる意をいへるか、代匠記は「間遠にたま/\きませる君達と酒宴すればきなれぬ衣の如く新にしてめづらしくあかれずと譬へもてなす意なりといひ、童蒙抄、考、略解など、これに從へり。されど「めづらし」き意ならば、藤衣をたとへにすべきにあらず。槻落葉は「間遠く隔をりて、逢がたきと藤衣の間遠きに譬へたり」といへるが、これにてはその意未だ明かならず、(755)古義は「間遠く隔りたる故に未だ親しからずて逢難きよしを藤服に譬へたるなり」といひ、攷證は「女の家の遠きを葛布の織目のあらく間遠なるによそへてほど遠き故に女のもとにいまだ來馴れずといへる也」といへり。思ふに、攷證の「來馴れず」とする説は上にいへる如く從ひがたし。これは古義の如く澹泊に解すべきものならむ。
 
大伴宿禰家持歌一首
 
○ この歌題なし。如何なる時の詠とも知られず。
 
414 足日木能《アシヒキノ》、石根許其思美《イハネコゴシミ》、菅根乎《スガノネヲ》、引者難三等《ヒカバカタミト》、標耳曾結《シメノミゾユフ》焉〔左○〕。
 
○足日木能 「アシヒキノ」とよむ。「アシヒキノ」といふは山の枕詞なること世人の知る所なり。この語の意は未だ明かならぬこと既にいへり。さて元來はこの語の下に「山」の語あるべきものなるに、それをば、やがて「山」の意にとりて、「石根」につゞけたるなり。かゝる例は卷八「一四九五」に「足引乃許乃間立八十一霍公鳥《アシヒキノコノマタチククホトトギス》」卷十一「一六七九」に「足檜乃下風吹夜者《アシヒキノアラシフクヨハ》」あり。又卷五「七九七」の「阿乎爾與斯《アヲニヨシ》、久奴知許等其等美世摩斯母乃乎《クヌチコトゴトミセマシモノヲ》」などもその例なり。
○石根許其思美 「イハネコゴシミ」とよむ。「イハネ」といふ語は卷二「八六」の「高山之磐根四卷手」とあるより以下屡いでたり。「コゴシミ」は「コゴシ」といふ形容詞に基づきて生じたる語にして「コゴシキニヨリ」又「コゴシク思ヒ」などの意をなす。「コゴシ」は既にこの卷「三〇一」に「磐金之凝敷山(756)乎《イハガネノコゴシキヤマヲ》」又「三二二」に「極此疑伊豫能高嶺乃《ココシカモイヨノタカネノ》」又卷十七「四〇〇三」に「許其志可毛伊波能可牟佐備《コゴシカモイハノカムサピ》」等例少からず。岩石のありて、かたくこりたるさまをいふ。
○菅根乎 「スガノネヲ」とよむ。この語の假名書の例は卷二十「四四五四」に「高山乃伊波保爾於布流須我乃根能禰母許呂其呂爾布里於久白雪《タカヤマノイハホニオフルスガノネノネモコロゴロニフリオクシラユキ》」あり。山菅の根株をいふなり。山菅はこの卷「二九九」の「奥山之菅葉凌零雪乃《オクヤマノスガノハシノギフルユキノ》」といへる條にて既にいへり。
○引者難三等 古來「ヒケバカタミト」とよみたるを代匠記に「ひきはと改むべし。ひけばと讀ては難三等は根の竪き心なり。然らず引がたきなり」といひたり。然るに、玉の小琴は「ひかばと訓べし」といひたるより後諸家みなこれに隨へり。「難し」といふ語は今は他の用言即ち動詞をうけずしては實地に用ゐねど、古は單獨にて困難の意をあらはしたることは卷九「一七八五」に「人跡成事者難乎《ヒトトナルコトハカタキヲ》」卷十一「二五六八」に「如是許難御門乎退出米也母《カクバカリカタキミカドヲマカリデメヤモ》」卷十四「三四〇一」に「安布許等可多思《アフコトカタシ》」などにて見るべく、又「カタミ」といへるは卷十二「三二一五」に「白妙乃袖之別乎難見爲而荒津之濱爾屋取爲鴨《シロタヘノゾデノワカレヲカタミシテアラツノハマニヤドリスルカモ》」とあるなどにて見るべし。かく單獨にて、その、上《カミ》にいひたる事のなし難きをいふものなれば、上を「ひきは」と必ずよむべしといふことの必要なきなり。而して、これは未だ引かずして、そのひく場合を假想していへるなれば、「ヒカバ」といふべきものなり。この「ひかば」は山菅を引かばといふ意なるが、攷證には「岩根のこごしさに菅の根を引つゝ登るに其の心をさそひて引見るをかねたり」といへり。攷證の説の如くせば、山に登るに菅を引くはよしとせむも、菅根を引かば難みといふべき理由を見ず。されば、これは石根が、凝りかたくなりてあれ(757)ば、その岩根より生ずる菅の根の引きがたきことをいへるなり。菅を引くとは根こじにすることをいふことは小松を引くといふ故事にても又今もいふ大根を引くなどの語にて知るべし。かくこの「引く」をば、卷二の「吾引者」(九六)「引者隨意」)(九八)「不引爲而」(九七)などの引くの如く、人の心をさそひ引き試みるにかけていへるなり。「難ミ」は「カタキ故ニ」といふ程の意なり。
○標耳曾結|焉〔左○〕 最後の字流布本には「鳥」にせり、されど、古寫本には「焉」にせるもの(西木願寺本、京都大學本、類聚古集)「〓」とせるもの(神田本、温故堂本)「烏」とせるもの(大矢本、細井本)等にして「鳥」なるは古葉略類聚鈔のみなり。されば、これは活字本の誤にして、正しくは「焉」なるべきこと著しきが、ここは上の「四〇五」の「社師留烏」の「烏」が「焉」の誤なるべきと同じく「焉」の誤にして、その「焉」字をば漢文の終詞の如くに用ゐたるものにして國語に譯してよむを要せざるなり。それらの例は上に既にいへればあげず。「標」を「シメ」といふこと及びその意も上に既にいへり。
○一首の意 足引の山の石根が、堅く凝りかたまりてあるによりて、それに根ざせる山菅を根こじに引かむとせばたやすく引き難き故にと思ひて、今はそれはわが占めたるものなりとの標を結ふのみに止めおくとなり。その下の意は、女の心を菅の根の引きがたきにたとへて、たとひ、心を引き試むとも直ちにはうけひくまじき樣子なれば、これはただわがものなりといふ事を示す爲に標のみを結ひおくとなり。この標はもとより外部にこれを表示するものをさすことなれど、ここには契沖が「障ありて我手に入かたき人にも終にはあはむと心の標を結置く意なり」といへる如くわが心の中の事をいへるならむ。
 
(758)挽歌
 
○ これの意は卷二の挽歌の目の下に説きたり。而してこれこの卷三卷四を一團とする四部門の一たりとす。
 
上|宮〔左○〕聖徳皇子出2遊竹原井1之時、見2龍田山死人1悲傷御作歌一首
 
○上宮聖徳皇子 「上宮」の「宮」字を流布未「官」に誤れり。古爲本及び古活字本すべて「宮」にして流布本の誤なること著し。上宮に「ウヘノミヤノ」とよむべしと古事記傳にいへり。日本紀用明天皇卷に厩戸皇子の事を叙して「此之皇子初居2上宮1後移2班鳩1」とあり。これは日本紀推古天皇卷に「父天皇愛之、令v居2宮南上殿1故稱2其名1謂2上宮厩戸豊聰耳太子1」とあるが如く、當時の宮城の南に上宮といふ宮の有りしそこに住ませ給へるより起りし名にして、後に班鳩の地に移りたまひても、なほ上宮太子ともいへりしならむ。聖徳皇子は私記に音讀と注せるによりて「シヤウトコノミコ」とよむべし。これは日本書紀には一名としたれど、令集解には謚の例とせり。これは日本紀推古天皇卷のその皇太子薨去の記事に高麗僧惠灌の語として「固天攸v縱以2玄聖之徳1、生2日本之國1」とあるに基づくならむと谷川士清いへり。或は然らむ。この皇太子は用明天皇の御子にして推古天皇の御宇に皇太子として攝政せられしことは世人の熟知する所なり。
○出遊于竹原井 竹原井は「タカハラノヰ」とよむべし。続日本紀に曰はく「養老元年二月壬午天(759)皇幸2難波宮1○丙戌自難波至2和泉宮1○庚寅車駕還至2竹原井頓宮1」とあり。又「天平六年三月辛未行2幸難波宮1○庚未車駕發v自2難波1、宿2竹原井頓宮1○庚辰車駕遷v宮○夏四月甲午免2河内國安宿、大縣、志紀三郡今年田租1以v供2竹原井頓宮1也」とも見え、又天平十六年十月庚子太上天皇行2幸珍努及竹原井離宮1」ともあり。なほ「寶龜二年二月庚子車駕幸2交野1○辛丑進到2難波宮1○戊申車駕取2龍田道1還到2竹原井行宮1」ともあり。河内志を按ずるに、大縣郡に「竹原井」ありて、これに注して
 在高井田村 養老元年二月 車駕至2竹原井頓宮1免2安宿大縣志紀三郡今年田租1以供2竹原井頓宮1。寶龜二年二月發2自2難波1取2龍田道1還至2竹原井頓宮1。皆又有2石井1在2水涯1。傍有v石、攝州住吉神人甞修2禊此1、因名曰2住吉岩1。
とあり。これはここにいふ如く、清泉ありて名を得たるものにして、竹原がその地の本名なるべし。姓氏録河内蕃別に竹原連あるはこの地名を負へる氏ならむ。而してその高井田村は大和川の沿岸にありて、大和國より河内國にこゆる沿道にあたれり。この竹原井はその井あるよりして、古來名高き地なりしならむ。聖徳太子の時に行宮ありしか否かは明らかならず。「出遊」は西本願寺本、温故堂本、大矢本等に「イテマス」とよめり。よみ方はさる事とすべきが、「出遊」の文字は當時竹原井が名高き景勝地なりしことを告ぐるものと思はる、「出遊」の文字を用ゐしは卷十六の「三八三五」の歌の左注に「新田部親王、出2遊于堵裡1御見2勝間田之池1云々」とあり。
○龍田山 これは大和より難波に至る古道にあたる山にして、大和川その南を流るるなり。而して大和班鳩の地より河内の大縣郡竹原井に至るには必ずよるべき順路にあたれり。大和(760)志に曰はく、龍田山「在2立野村上方1、形勢雄偉巨川遶v麓流、山麓水潔」とあり。
○死人 その山に死せし人あよりしなり。槻落葉は「マガレルヒト」とよみたるが、卷二「二二〇」の詞書に「讃岐狹岑島石中死人云々」といへる如く「ミマカレルヒト」とよむべきか。
○悲傷御作歌 これは卷二「二〇三」の詞書に「悲傷流涕御作歌」とある條にいへる如く、「悲傷」二字にて「カナシム」なり。「カナシミテヨミマセルミウタ」とよむべし。
 
415 家有者《イヘナラバ》、妹之手將纒《イモガテマカム》。草枕《クサマクラ》、客爾臥有《タビニコヤセル》、此旅人※[立心偏+可]怜《コノタビトアハレ》。
 
○家有者 舊訓「イヘナラバ」とよめり。代匠記は「イヘニアラバ」ともよむべしといへり。いづれにもあるべきなり。その意はその人がその家に有らばの意なることいふまでもなし。
○妹之手將纏 「イモガテマカム」なり。「マク」は枕とすることなり。卷二「八六」の「磐棍四卷手《イハネシマキテ》」「二二二」の「枕等卷而《マクラトマキテ》」等の例にて見るべし。家に在らば、妻の手を枕として寢むとなり。以上一段落たり。
○草枕 「クサマクラ」。卷一より屡出でたる語にて旅の枕詞たり。
○客爾臥有 舊訓「タビニフシタル」とよめり。「客」を「タビ」とよむことは卷一「五」の「客爾之有者《タビニシアレハ》」「六九」の「客去君跡《タビユクキミト》」の條等に例少からず。「臥有」を考に「臥をこやせるともくやると云は古言なり。此皇子命ここと同事をよみませる御歌、紀には即下に引如く許夜勢留と有、集中に槻弓のくやりくやりも古今集神樂歌にもあり」といへり。ここにいへる歌は日本紀推古卷二十一年十二月(761)に「皇太子遊2行於片岡1時飢者臥2道(ノ)垂《ホトリニ》1。仍問2姓名1而不v言。皇太子視之、與2飲食1、即脱2衣裳1覆2飢者1而言。安臥也。則歌之|斯那提流箇多烏箇夜摩爾《シナテルカタヲカヤマニ》、伊比爾惠弖《イヒニヱテ》、許夜勢屡《コヤセル》、諸能多比等阿波禮《ソノタビトアハレ》、於夜那斯爾《オヤナシニ》、那禮奈理鷄迷夜佐須陀氣能枳彌波夜那祇《ナレナリケメヤサスダケノキミハヤナキ》、伊比爾鷄弖《イヒニヱテ》、許夜勢留《コヤセル》、諸能多比等阿波禮《ソノタビトアハレ》」とあり。なほ、その後使を遣して視せしめられしに、飢者既に死にたれば、その處に墓をつくりて葬らしめたりし由を記せり。その所も、その歌も異なれど、一事の二傳となれりしものならむ。而して上の歌に照していへば、この歌は必ずしも死者といふべきにあらざるに似たれど、卷二の「讃岐狹岑島視石中死人柿本朝臣人麿作歌」にても死にたる人の由は歌の詞の上にはあらはれずしてただ臥したる由にいへるのみなり。さてこの「臥有」を上の日本紀の歌によりて「コヤセル」とよむことは如何といふに、卷五「七九四」に「宇知那比枳許夜斯努禮《ウチナビキコヤシヌレ》」とあるによりて「コヤス」といふ語のありしことを知り、それより一轉して「コヤセル」といふ語のありしことは卷九「一八〇七」に「奥津城爾妹之臥勢流《オクツキニイモガコヤセル》」とあるにて知られたり。この「臥勢流《コヤセル》」とかけるは「コヤセル」といふ語の證とするに足らむ。さればここは「コヤセル」とよむこととすべし。さてこれは連體格にして下の「旅人」につづくなり。
○此旅人※[立心偏+可]怜 「コノタビトアハレ」とよむ。旅人は「タビビト」なるを約めて「タビト」といふ。その例は上の聖徳太子の推古紀なる歌にても知るべく、又大伴旅人をば本集卷五「八〇九」の次の署名に「大伴淡等」と書きたるも亦一の證なり。「※[立心偏+可]怜を「アハレ」とよむ例は、卷四「七六一」に「念而有師吾兒羽喪※[立心偏+可]怜《オモヒテアリシアガコハモアハレ》」卷七「一四一七」に「※[立心偏+可]怜其水手《アハレソノカコ》」卷九「一七五六」に「※[立心偏+可]怜其島《アハレソノシマ》」などあり。さてこの句(762)はかの推古紀の歌の「ソノタビトアハレ」と一語の差あるのみ。かく、その對象を以て喚體の句の主體として、下に「あはれ」といひたる例は上の推古紀の歌にて知るべし。
○一首の意 あはれ、この山道に行き斃れて臥せる旅人よ。家に有らば、妻が手に抱かれてもあるべきものを。あはれ獨にて旅の山路に臥せる旅人よ。となり。
 
大津皇子被v死之時磐余池般流涕御作歌一首
 
○大津皇子 この皇子の事卷二「一〇五」の作者にましまし、その事蹟の大要もそこにいへり。
○被死之時 大津皇子が不軌を謀りて死を賜はられしことは既にいへり。日本紀持統卷朱鳥元年冬十月の條に「庚午(三日)賜2死皇子大津於譯語田舍1、時年二十四」とあり。ここに「被死」とかけるは日本紀に「賜死」と書けると同じ意なるべし。日本紀にて「賜死」を「ミマカラシム」とよみならはせるによらば「ミマカラシメラエシトキ」ともよむべきか。
○磐余池般 磐余池は日本紀によれば、履中天皇の二年十一月に作られたる池なるが、今その池と傳ふるものなし。按ずるに履中天皇はその年十月に磐余に都せられ、やがてその池をつくられしものなれば、その宮城とこの池とは程遠からぬ地なりしことならむ。それはその翌年十一月に天皇が兩枝船を磐余市磯池に泛べて、遊宴したまひし時に、何處よりか櫻花の散り來れるにめで、宮城を磐余稚櫻宮と號せられし由なるが、その磐余市磯池即ち磐余池にしてやがて宮城の附近にありしこと知られたり。磐余稚櫻官の址も今詳かならず。或は今の磯城郡(763)櫻井町の西南方安倍村池の内の地といひ、或は櫻井町大字谷にある式内若櫻神社即ちその宮地につきて祭られし神社ならむといふ。然らばその附近にありし池ならむが、後世あせて跡方なくなりしならむ。「般」は類聚古集、神田本には「波」とあれど、他の諸本みな「般」とあり。「般」の字については代匠記は「般は史記(ノ)封禅書云、鴻(ノ)漸《ススム》2于般(ニ)1【漢書(ノ)音義(ニ)曰般(ハ)水涯(ノ)堆也】かくはあれども眼なれぬ字用べき所に非ず。目録に陂に作れり。今は陂を誤て般に作れるなるべし。和名曰、禮記云、畜v水曰v陂音碑和名豆豆三」といへるが、考、槻落葉、略解、古義等はこれをよしとせり。されど、攷證は契沖のあげたる證を基として般をよしとして「ツヽミ」とよめり。目録には如何にも陂とあれば、陂の方よきやうにも思はるれど、般に既に「ツヽミ」の訓ありとせば、又諸本大方かく書きたれば、必ずしも誤りとはすべからず。按ずるに、この「般」字を漢書音義に「水涯堆也」と注せるそのさす所の實は顔師古の「般山石之安者」とあるによれば、これは「磐」の字の義なること著し。されば、この漢書の般は寧ろ、「イハ」とよむことを本義にかなへりとすべきが、それの實が水の涯の「イハ」なれば、「ツツミ」とよまむも不可にあらざるべし。されば、今なほ舊の字のまゝにして「ツツミ」とよむべきなり。さてここに磐余池のつゝみにてこの歌をよまれたるは如何なる事情なるか。日本紀には譯語田舍にて死を賜ふとあり。譯語田(ノ)舍とは、蓋し大津皇子の邸をさすものなるべし。譯語田は敏達天皇の都せられし地なるが、その地は延喜式神名帳に大和國城上郡他田坐天照御魂神社の鎭り座せる地も同じ域内ならむともいはるれど、その神社の所在今明かならず。靈異記には磐余譯語田(ノ)宮と見え、帝王編年記には十市郡に在りとせり。今の説に磯城郡(764)城島村戒重にこの宮址ありとすれど、これも確實といふべからず。いづれにしても譯語田は右の磐余の地域内なりしが故にその池と皇子の邸とは近かりしならむ。なほこの下に「ニシテ」を加へてよむべきか。
○流涕御作歌 考は「流涕」の二字を衍なりとしてこれを削りたれど、武斷にして隨ふべからず。「流涕」の字は卷二「二〇三」の歌の詞書に「悲傷流涕御作歌」とあるに准じて意を得べし。「ナキテヨミマセルウタ」とよむべきに似たり。
 
416 百傳《モモヅタフ》、磐余池爾《イハレノイケニ》、鳴鴨乎《ナクカモヲ》、今日耳見哉《ケフノミミテヤ》、雲隱去牟《クモガクリナム》。
 
○百傳 「モモヅタフ」とよむ。この語の假名書の例は本集になけれど、日本紀には顯宗紀に天皇の御製歌のうちに「謨謀逗※[手偏+施の旁]甫《モモヅタフ》、奴程喩羅倶慕與《ヌデユラグモヨ》」とあり、古事記にも文字違へど同じ語あり。古事記應神天皇の御製歌のうちに「毛毛豆多布《モモヅタフ》、都奴賀能迦邇《ツヌガノカニ》」とあり。而して、日本紀神功卷に「百傳度逢縣」とあるは「モモヅタフツヌガ」といはれたるに趣通へる所あり。本集には卷七「一三九九」に「百傳八十之島廻乎《モモヅタフヤソノシマミヲ》」(卷九「一七一一」にもあり)これは下の磐余池に對しての枕詞と考へられてあるものなるが、燭明抄に「こは五十と書きてはいとよむなり。五十、六十、七十、八十、九十といひて百に傳ふ心なり。いといふ詞設けむとて百傳ふとは置くなり」といへり。考に「こは百に數へ傳ふる五十《イ》てふ意にていはれの|い〔右○〕一言にいひかけたり。」といへり。然るに、本居宣長はこれを否とし、古事記傳三十二に曰はく、「又萬葉三に百傳|磐余《イハレノ》池とある、百傳は角障《ツヌサハフ》を寫(シ)誤れるも(765)のなり。凡て磐余の枕詞は書紀繼體(ノ)卷又萬葉三(ノ)卷に今二(ツ)十三(ノ)卷に二(ツ)見えたる、何れも皆|角障經《ツヌサハフ》とありて、百傳と云るは、一(ツ)もあることなきを以て誤(リ)なることを知るべし。但しいづれも角障經と三字にのみ書るを經の字の無きは本は有(リ)けむを百傳と誤れるから經(ノ)字は衍と心得て後に削れるか云々」といひたれど、何等の證も無きことなれば隨ふべからず。「百傳」が「八十」の枕詞となりうる以上「五十」の枕詞になりえずとはいふべからず。卷一「五〇」に「百不足五十日太爾作《モモタラズイカダニツクリ》」卷十三「三二二三」に「百不足五十槻枝丹《モモタラズイツキガエダニ》」とありて、一方には卷三「四二七」に「百不足八十隅坂爾《モモタラズヤソクマサカニ》」卷十三「三二七八」に「百不足山田道乎《モモタラズヤマダノミチヲ》」卷十六「三八一一」に「百不足八十乃衢爾《モモタラズヤソノチマタニ》」とあるが如きを見ても思ふべし。これとそれとはいひ方に積極と消極との差あれど、歸する所一なるを思ふべし。而してこれは或はわざと「百傳」といひて、下の「今日耳」と相對して意をなせる趣もあらむか。
○鳴鴨乎 「ナクカモヲ」なり。鴨は冬わが國に來る候鳥なれば、この歌はその池に實際鴨の來りて鳴きしを聞きてよめるものとせば冬の詠ならざるべからず。而して、この皇子の賜死の日は十月三日にして太陽暦にては十月二十九日に當れば、まさしくあへり。鴨は卷一「六四」に出でたり。
○今日耳見哉 「ケフノミミテヤ」とよめり。「ケフノミ」とつゞくる例は卷二十「四四八八」に「三雪布流布由波祁布能未鶯乃奈加牟春敝波 安須爾之安流良之《ミユキフルフユハケフノミウグヒスノナカムハルベハアスニシアルラシ》」あり。「ミテヤ」とつづくる例は卷二十「四三五五」に「餘曾爾能美美弖夜和多良毛《ヨソニノミミテヤワタチモ》」あり。「のみ」はそれに限れる意を示す。
○雲隱去牟 舊訓「クモカクレナム」とよみたれど、隱は古、四段活用なりし故に、槻落葉のよめる如(766)く「クモガクリナム」とよむべし。この語の假名書の例は卷十七「四〇一一」に「二上山登妣古要底久母我久理可氣理伊爾伎等《フタカミノヤマトビコエテクモガクリカケリイニキト》云々」とあり。「去」を「ヌ」の複語尾に用ゐることは卷一「三四」の「年乃經去良武《トシノヘヌラム》」以下多し。「クモガクル」とは雲にかくるゝことなるが、古は貴人の死去をも「くもがくる」といひたれば、ここもその意なりと思はる。この卷「四四一」に「太皇之命恐《オホキミノミコトカシコミ》、大荒城乃時爾波不有跡雲隱坐《オホアラキノトキニハアラネドクモガクリマス》」「四六一」に「敷細乃家從者出而雲隱去寸《シキタヘノイヘユハイデテクモガクリニキ》」あり。又卷二「二〇五」に「王者神西座者天雲之五百重之下爾隱賜奴《オホキミハカミニシマセバアマグモノイホエガシタニカクリタマヒヌ》」とあるものみな然りとす。さてかゝる際の「ナム」は將來を推していふものなり。
○一首の意 明かなり。「百傳ふ五十《イ》」といふべきこの磐余の池に鳴く鴨をば、見ることは今日を限りとして、我は死にて行くことならむかとなり。懷風藻なるこの皇子の辭世の詩
 金烏臨2西舍1、鼓聲催2短命1
 泉路無2賓主1、此夕離v家向
と照しあはすれば、まことにあはれなる事なり。
 
右藤原宮朱鳥元年冬十月
 
○考はこれを「後人のしわざなるべし」とて削れり。然れども、古來の諸本に皆かくあれば、削るは武斷なり。今本の日本書紀にもかく朱鳥元年十月のこととせり。これは恐らくは、その日本書紀を以てその時を知らする爲ここに注せしならむ。この朱鳥元年は日本紀には天武天皇(767)にもかけ、持統天皇にかけても記せり。藤原宮は持統天皇の都せられしなれど、この時には持統天皇はなほ淨御原宮にまし/\しにて藤原宮はこの天皇の即位八年に移り給ひし地なれば、その前に藤原宮といへるは事實に合はず。されど、持統天皇の新に営まれし宮なれば、通常藤原宮御宇天皇といへば持統天皇をさし奉る例となりたれば、ここはただ持統天皇の御治世を示す意に止まると見るべし。
 
河内王葬2豐前國鏡山1之時、手持女王作歌三首
 
○河内王 「カフチノオホキミ」とよむ。この名、古書に見る所、日本書紀持統天皇三年に太宰帥に任ぜられし河内王、續日本紀、和銅七年正月に從四位下に叙せられたる河内王、天平九年九月に無位より從五位下に叙せられたる河内王、寶龜元年十月に無位より從五位上に叙せられたる河内王即ち同名の四人あり。今この歌を考ふるに、奈良朝に入らぬ前のものと考ふべきものなれば、持統天皇御宇の河内王なるべしと思はる。この王の事は日本紀卷二十九、天武天皇朱鳥元年正月の條に「是月爲v饗2新羅金智|淨《(祥)》1遣2淨廣肆川内王……等于筑紫1」とあるを史に見ゆるはじめとす。この新羅の金智淨を饗することは五月に行はれ新羅使も退去せしなれば、間もなく歸任せられしものならむ。同年九月に天皇崩御ありて、諸臣の誄事を奏せしうちに「次淨廣肆河内王誄2左右大舍人(ノ)事1とあれば、恐らくは大舍人寮の長官たりしならむ。次には持統天皇の三年閏八月に「以2浮廣肆河内王1爲2筑紫大宰帥1授2兵仗1及賜v物」と見ゆ。これによれば太宰帥と(768)して任地に下られしものならむ。同四年十月には「遣2使者1詔2筑紫大宰河内王等1曰云々」といふ記事あり、六年閏五月にも「詔2筑紫大宰率河内王等曰云々」といふ記事あり、然るに八年四月の條には「以2淨大肆1贈2筑紫大宰率河内王1并賜2賻物1」とあれば、この頃に薨去ありしことと見ゆるが、そはこの歌とこの記事とによりて、筑紫在任のまゝにて薨去ありしものなることは著しきが、その訃報が京に達して後に贈位も行はるべきものなれば、八年三月頃の薨去にてありしならむ。皇胤紹運録には天武天皇の御子長親王の御子に從三位高橋氏奉膳の祖とある川内王あれど、この人は時代あはねば、大宰帥たりし河内王にはあらざらむ。太宰帥たりしこの河内王の御系統は明かならず。
○葬豐前國鏡山之時 豐前園は上「三一一」の詞書にもあり。倭名鈔に「止與久邇乃美知乃久知」と記せり。これ古語なり。これは古事記に豐國とある國にして後に、前後と二國に分たれしよりの名なり。鏡山も、「三一一」の歌にありてそこにいへるが如く、今の豐前國小倉に程遠からぬ地、田川郡勾金村大字鏡山といふにあり、そこに鏡神社あり、又鏡の地ありといふ。さてこの詞書によれば河内王をここに葬りたりといふ事なるが、その河内王の基は今もその鏡山の西に存すといふ。その塚は前方後圓の所謂瓢塚にして、周廻凡そ百十七間五歩、高さ凡そ二十四尺にして、上に一大石槨ありて、陵土は雨水の爲に流下して、石棺は露出して南端の涯に接せりといふ。今は杉垣に固まれ、中央に櫨の大木一本茂りてありといふ。
○手持女王作歌 「タモチノオホキミ」とよむべきか、その父祖傳記等詳かならず。代匠記に「河内(769)王の妻なるべし」といへり。
 
417 王之《オホキミノ》、親魄相哉《ムツタマアヤ》、豐國乃《トヨクニノ》、鏡山乎《カガミノヤマヲ》、宮登定流《ミヤトサダムル》。
 
○王之 「オホキミノ」とよむ。この王のよみ方は卷一「二三」の「麻續王」に既に例あるが、卷二「二〇五」に「王者云々」の語あり。而してこれは天皇をさし奉るを本體とし、轉じて皇族をさし奉ることをいへり。卷二のは弓削皇子をさし奉り、ここは河内王をさし奉れることいふまでもなし。
○親魄 古來「ムツタマ」とよめり。親を「ムツ」とよむは、むつまじ」といふ意にての事と見ゆ。祝詞式大殿祭祝詞に「皇親神魯岐神魯美之命」大祓詞に「皇親神漏岐神漏実乃命」等とある「皇親」を「スメムツ」とも「スメラガムツ」ともよめるが、これに相當する語を同じ式の祈年祭、月次祭、大嘗祭等の祝詞には「皇睦神漏岐命神漏彌命」とあるにて「睦」と「親」と同じく用ゐしことを見るべし。類聚名義抄には「睦」にも「親」にも「ムツマシ」の訓あり。魄は魂魄と熟する字にして、いづれも人の神靈をいふものなるが、陽を魂とし、陰を魄とするの差ありとし、或は形に附く靈を魄とし、氣に附く神を魂とするなどの説あり。魄については説文に「陰神也」とし、玉篇に「人之精爽也」とせり。類聚名義抄には「魄」にも「靈」にも「タマシヒ」の訓あり、色葉字類抄には「魂」にも「魄」にも「タマシヒ」の訓あり。「タマシヒ」を萬葉時代に「タマ」といへることは「タマキハル」といふ語を「玉刻春」(卷一、「四」)「靈寸春」(卷十、「一九一二」)と書けるなどにて知るべし。「ムツタマ」といふ例はこれ一のみなるが、かく「ムツ何」といへる例は續日本紀天平元年八月の詔(第八詔)に「今|勅御事法《ノリタマヘルミコトノリ》者常(ノ)事爾波不有武都事思(770)坐故云々」あり。この語の意卷はむつまじき魄の義なり。
○相哉 古來「アヘヤ」とよめるが、童蒙抄は「ミユヤ」とよめり。これは「鏡山」とあるに對してよめりとする説なれど、なほ古よりの訓をよしとすべし。その故は、古は「靈あふ」といふことをいひしが故なり。その例は卷十二「三〇〇〇」に「靈合者相宿物乎《タマアハバアヒネムモノヲ》」卷十三「三二七六」に「玉相者君來益八跡《タマアハハキミキマスヤト》」卷十四「三三九三」に「波播已毛禮杼母多麻曾阿比爾家留《ハハイモレドモタマゾアヒニケル》」などあり。その意は心のあふ事なり。「ムツタマアフ」とは睦まじく思召す心ありて御心に合ふといふ義なるべし。「アヘヤ」とよむは後世に「アヘバニヤ」といふに似たる語法にして已然形にて條件を示すものに疑問の「ヤ」助詞の添へるなり。かゝる語法の例は卷一以來屡々あらはれたり。
○豐國 これは上「三一一」の歌に既にいへり。
○宮登定流 「ミヤトサダムル」とよむ。これはその地に葬られたまひたることをいへるなるがかくいふ例は卷二「明日香皇女木※[瓦+正のような字]殯宮之時柿本朝臣人麿作歌」(一九六)に「木※[瓦+正のような字]之宮乎常宮跡定賜《キノヘノミヤヲトコミヤトサダメタマヒテ》云々」又「高市皇子尊城上殯宮之時柿本朝臣人麿作歌」(一九九)に「木上宮乎常宮等高之奉而《キノヘノミヤヲトコミヤトタカクシマツリテ》」などの如く、その地に永く鎭りますをば宮所と定めたまふとはいへるにて實は御墓をそこに營まれたるをいへるなり。
○一首の意 この豐國の鏡山の地をば、河内王の御心によしと思召したればにや、ここをば宮所として永く鎭りますことよとなり。
 
(771)418 豐國乃《トヨクニノ》、鏡山之《カヾミノヤマノ》、石戸立《イハトタテ》、隱爾計良思《コモリニケラシ》。雖待不來座《マテドキマサズ》。
 
○豐國乃鏡山 上にいへり。
○石戸立 「イハトタテ」とよむ。石戸は窟の戸にて磐石にてつくれる戸なり。ここは御墓にこもりたまふことをいへり。卷二、日並皇子尊殯宮之時柿本朝臣人麿作歌(一六七)に「天原石門乎開神上上座奴《アマノハライハトヲヒラキカムアガリアガリイマシヌ》」とあるも略同じ意にして、これは内に入りてその戸を閉づるをいひ、彼はその内に入らむとてその戸を開くをいふの差あるのみ。而していづれも、その石にてたたみたる墓の内に入りますをいふなり。
○隱爾計良志 舊訓「カクレニケラシ」とよめり。槻落葉は「コモリニケラシ」とよみ、古義これに從へり。略解は「カクリニケラシ」とよめり。隱は「コモル」とも「カクル」ともよみうべきが、「コモル」はその内に在ることを主としていひ、「カクル」は視界に入らぬやうになることを主としていふ語なれば、ここは「コモリ」といふ方をよしとすべく、又古事記上に「天照大御神見畏閇天石屋戸而刺許母理坐也」とあるによりて「コモリ」とよむ。「ニケラシ」の例は上「二七一」の「年魚市方鹽干二家良進《アユチガタシホヒニケラシ》」の下にいへり。以上一段落なり。
○雖待不來座 「マテドキマサズ」とよむ。「不來座」は上に、特別の係詞なきが故に終止形にて「ズ」とよむべきなり。意明かなり。
○一首の意 わが河内王は豐國の鏡山に構へられたる窟の中に戸を閉ぢてこもりたまひにけ(772)るらし。いつまで待てども、終にここに來まさぬことよとなり。
 
419 石戸破《イハトワル》、手力毛欲得《タヂカラモガモ》。手弱寸《タヨワキ》、女有者《メニシアレバ》、爲便乃不知苦《スベノシラナク》。
 
○ この歌流布本上の歌の「不來座」の下につづけ書きたり。されど、これはもとより別の歌なること著しく、古寫本すべて然り。これは活字附訓本の誤植に基づくものなり。
○石戸破 「イハトワル」とよむ。窟の磐戸を破るといふなり。石戸は上の歌の石戸なり。
○手力毛欲得 舊訓「タヂカラモガナ」とよみたれど、考に「タヂカラモガモ」とよめるに隨ふべし。「ガナ」は冀望をいふこと「ガモ」と異なることなけれど、この語は平安朝以後の語と見えたれば、ここに用ゐるべからず。冀望の終助詞としての「ガモ」の例はこの卷「三四三」の「酒壺二成而師鴨酒二染嘗《サカツボニナリニテシガモサケニシミナム》」卷八「一五二〇」に「餘宿毛寢而師可聞秋爾安良受登母《アマタタビイモネテシガモアキニアラズトモ》」卷十五「三六七六」に「安麻等夫也可里乎都可比爾衣弖之可母奈良能彌夜古爾許登都礙夜良武《アマトブヤカリヲツカヒニエテシガモナラノミヤコニコトヅゲヤラム》」などあり。又「モガモ」といへる例は、卷四「七五八」に「高々二吾念妹將見因毛我母《タカ/\ニワガモフイモヲミムヨシモガモ》」卷五「八五〇」に「有米能波奈伊麻左加利奈利彌牟必登母我聞《ウメノハナイマサカリナリミムヒトモガモ》」など例多し。又「タヂカラモガモ」といへる例は卷十七「三九六三」に「波流能波奈伊麻波左加里爾仁保布良牟乎里底加射佐武多治可良毛我母《ハルノハナイマハサカリニニホフラムヲリテカザサムタヂカラモガモ》」(これは病床にてよめる歌)を證とすべし。「手刀」はいふまでもなく手の力即ち腕力なり。かの天窟戸の變の時、その窟戸の掖に立ちて、その窟戸を排し別けて、天照大御神の御手を取りて引き出し奉りし神の御名を天手力男神といふもこの意にて稱へられたる神なりとす。「欲得」の二字は上の卷十七の例に照して「ガモ」にあ(773)たるものなることを知りうべきが、この卷「三〇六」には「花爾欲得《ハナニモガ》」とありて「モガ」にあてたり。元來これは「ガ」といふ助詞に冀望をあらはす意ありて、上又は下の「も」はその意を助くるに止まるものなり。されば、「欲得」の二字はその「ガ」にあたるものといふべし。されば卷七「一三四四」に「菅根乎衣爾書付令服兒欲得《スガノネヲキヌニカキツケキセムコモガモ》」二字にて「モガモ」とよみ、ここの如く「ガモ」にあてたるは、卷六「九三六」に「船梶毛欲得浪高友《フナカヂモガモナミタカクトモ》」卷八「一五四二」に「吾岳之秋芽花風乎痛可落成將見人裳欲得《ワガヲカノアキハギノハナカゼヲイタミチルベクナリヌミムヒトモガモ》」など例多し。なほ「モガモ」の假名書の例は、卷四「七五八」に「高々二吾念妹乎將見因毛我母《タカ/\ニワガモフイモヲミムヨシモガモ》」卷五「八五〇」に「有米能波奈伊麻左加利奈利彌牟必登母我聞《ウメノハナイマサカリナリミムヒトモガモ》」等例多し。これは所謂喚體の句にして「石戸わる手力の欲しきことよ」といふ意を一元性の發表にていひあらはしたるものなり。以上一段落。
○手弱寸 「タヨワキ」とよむ。古義は「多和夜賣《タワヤメ》多和夜賀比那などある例によりてタワヤキと訓つ」といひたり。されど、これは攷證に既に「手弱女を多和也女《タワヤメ》とかく例もていはゞ、たわやきと訓べけれど、かれは一つの物の名、ここは詞にて弱はよわしといふが本語なるべければ、たよわきと訓べし。新撰字鏡に※[肉+柔]於毛與和志と見えたり」といへる如く、なほ舊訓のまゝなるべきなり。四言の一句なり。
○女有者 舊訓「ヲトメニシアレバ」とよみたるが、童蒙抄は「をんなにあれば」とよみ、考は「ヲミナニシアレバ」とよみ、略解、攷證これに從ひ、玉の小琴、槻落葉は「メニシアレバ」とよみ、古義これに從へり。按ずるに「女」一字を「ヲトメ」とよむことは理由なきことなれば從ふべからず。「ヲンナ」「ヲミナ」同じ事なれど、「をんな」は後の語なれば、從ふべからず。結局「ヲミナ」か「メ」かのうちを出でざる(774)べし。「ニ」も「シ」も文字の面にはあらはれざれど、かゝる場合には加へてよむこと例あり。さてはここは「ヲミナニシアレバ」とよみても「メニシアレバ」とよみても不可なりといふべからず。されど、今は古事記上卷の「阿波母與、賣邇斯阿禮婆」に准じて「メニシアレバ」とよむべし。かれも四六の二句、これも四六の二句となりて口調似たればなり。かくて、その調頗るしまりて強く切迫せる情をあらはすに適せり。
○爲便乃不知苦 「スベノシラナク」とよむ。「爲便」を「すべ」とよむことは卷二「一八二」「二〇七」「二一三」などに既に例あり。「シラナク」といふ語の例は卷二「一五八」に「道之白鳴《ミチノシラナク》」卷三「三二三」に「年之不知久《トシノシラナク》」あり。これは「その方法わからぬことよ」といふ程の意なり。
○一首の意 われに磐戸を破る程の手力もあれかし。然らば、この鏡山の磐窟よりわが親愛なる河内王を誘ひ出し奉らむものを。されどわれは手弱き女にあればさる事をする力をもたず、又如何にして河内王をこの世に再び、請じ奉るべきか、その方法をも知らぬことよとなり。この歌上の段をよめば、その勇しき調に心をどるものあり、下の段をよめば、顯幽、界をことにするが爲に如何ともすべからぬを歎く心切なり。從つてその調も亦切迫してよくその意にかなへり。佳作なり。これを惡しざまに批評するは歌調をもわきまへぬものといふべし。
 
石田王卒之時丹生王作歌一首并短歌
 
○石田王 この王の名「イシタ」とも「イハタ」ともよみうべし。和名鈔によるに對馬島の郡名、讃岐(775)國大内郡の郷名には「石田伊之太」とあり、伊勢國安濃郡の郷名「石田伊波多」ともあり。然るにこの壹岐の地名は今も「イシダ」といへど萬葉には卷十五「三六八九」に「伊波多野爾夜杼里須流伎美《イハタヌニヤドリスルキミ》」とあれば、古は「イハタ」といひし事著し。今それらに准じて「イハタノオホキミ」とよむべし。この王の事、史に所傳なし。知るべからず。しかも男女の區別もさだかならず。下の「四二三」の歌の詞によれば男王にますが如し。
○卒之時 「卒」は喪葬令に「凡百官身亡者、親王及三位以上稱v薨、五位以上及皇親稱v卒」とあり。これは皇親の物故をいふ所なれば、この文字によりてこの王を必ずしも五位以上といふべからず。皇親は無位にても「卒」といふべければなり。よみ方は童蒙抄に「ミマカル」とよみたれど、いかゞなり。「スギタマヘルトキ」若くは「ミマカリタマヘルトキ」といふべきなり。その卒去の時は、もとより明らかならねど、下にこの王の卒去を山前《ヤマクマノ》王の傷みてよまれたる歌あり。山前王は養老七年二月に卒せられし人なれば、その前の事なるは明かなり。
○丹生王 流布本「丹生」とのみありて「王」字なし。されど、古寫本のすべてに「王」字あるによりて補へり。これを考は「女王」の二字の脱せるものとし、略解、攷證等これに依りたれど、他に證なきなり。本集卷四(「五三三」の作者)卷八(「一六一〇」の作者)等に丹生女王あるによりて、ここもその丹生女王ならむと攷證にいへり。女王を王とのみかける例なきにあらねば、さる事なしとは斷言すべきにあらねど、又必ず女王なりとも斷言すべからず。この故に代匠記の如く未詳とするを穩かなりとす。その傳ももとより詳かならず。
 
(776)420 名湯竹乃《ナユタケノ》、十縁皇子《トヲヨルミコ》、狹丹頬相《サニツラフ》、吾大王者《ワガオホキミハ》、隱久乃《コモリクノ》、始瀬乃山爾《ハツセノヤマニ》、神左備爾《カムサビニ》、伊都伎坐等《イツキイマスト》、玉梓乃《タマヅサノ》、人曾言鶴《ヒトゾイヒツル》、於余頭禮可《オヨヅレカ》、吾聞都流《ワガキキツル》、狂言加《タハゴトカ》、我聞都流母《ワカキキツルモ》。天地爾《アメツチニ》、悔事乃《クヤシキコトノ》、世間乃《ヨノナカノ》、侮言者《クヤシキコトハ》、天雲乃《アマグモノ》、曾久敝能極《ソクヘノキハミ》、天地乃《アメツチノ》、至流左右二《イタレルマデニ》、枚策毛《ツヱツキモ》、不衝毛去而《ツカズモユキテ》、夕衢占問《ユフケトヒ》、石卜以而《イシウラモチテ》、吾屋戸爾《ワガヤトニ》、御諸乎立而《ミモロヲタテテ》、枕邊爾《マクラベニ》、齊戸乎居《イハヒベヲスヱ》、竹玉乎《タカダマヲ》、無間貫垂《シジニヌキタリ》、木綿手次《ユフダスキ》、可比奈爾懸而《カヒナニカケテ》、天有《アメナル》、左佐羅能小野之《ササラノヲヌノ》、七相菅《ナナフスゲ》、手取持而《テニトリモチテ》、久堅乃《ヒサカタノ》、天川原爾《アマノカハラニ》、出立而《イデタチテ》、潔身而麻之乎《ミソギテマシヲ》、高山乃《タカヤマノ》、石穂乃上爾《イハホノウヘニ》、伊座都流香物《イマシツルカモ》。
 
○名湯竹乃十縁皇子 「ナユタケノトヲヨルミコ」とよむ。この語は卷二「二一七」に「名用竹乃騰遠依子等《ナユタケノトヲヨルコラ》」といへるに准じて知るべし。「ナユタケ」とは既にいへる如く、今いふ女竹にしてこれはその姿の女竹のたわたわとしたる如く容貌のしなやかになよやかなるをいふなれば、この皇子は女王にましますが如くにも見ゆ。「皇子」は文字のまゝにては天皇の御子に限りて諸王には用ゐるべきにあらねど、こゝはただ「ミコ」といふ語にあてたるに止まるべし。然るに、下の「四二三」の歌によれば女王にはあらで男王にましますが如し。
○狭丹頬相 流布本「サモツラフ」とあれど、「モ」は「ニ」の誤なること著しく、古寫本等皆正し。この語の例は卷四「五〇九」に「狭丹頬相紐解不離《サニヅラフヒモトキサケズ》」と書けると、卷十二「三一四四」に「左丹頬合紐開不離戀流(777)比日《サニヅラフヒモトキサケズコフルコノゴロ》」とあるは「紐」に關する場合にして、卷十六「三八一一」に「左丹通良布君之三言等《サニヅラフキミガミコトト》」卷十「一九一一」に「左丹頬經妹乎念登《サニヅラフイモヲオモフト》」卷十六「三八一三」に「散追良布君爾依而曾長欲爲《サニヅラフキミニヨリテゾナガクホリセシ》」卷十三「三二七六」に「散鈎相君名曰者《サニヅラフキミガナイハバ》」とあるはここと同じく人にいふ場合なり。又卷六「一〇五三」に「狭丹頬歴黄葉散乍《サニヅラフモミヂチリツツ》」とあるは黄葉に関する場合にして、卷十一「二五二三」に「散頬相色者不出《サニツラフイロニハイデジ》」とあるは色の樣をいふものと見ゆ。これらの例を見れば「サニツラフ」といふ語の用ゐられしことを見るべきが、今この字面を見るに「狭」は「サ」「丹」は「ニ」なることいふまでもなく、「頬」は卷二「一九六」の「益自頬染」の下にいへる如く、古語「豆良」といひたり。「相」は「アフ」の語をとりて「頬相」(ツラアフ)とつゞけて「ツラフ」といふ語にあてしなり。さてこの語の意如何といふに冠辭考に「さはこと發す詞、丹つらふは丹著くるといふに同じ。音を通はし延べてにつらふとはいふ。さて艶やかに色づける顔ばせをいひて、他國に紅顔といふが如し。又紅なる色には黄葉、色、紐などにもいへり」といひ、鹿持の枕詞解には「狭は例の美稱、丹《ニ》は字の意、頬相《ツラフ》は(借(リ)字)引を引豆良布《ヒコヅラフ》、擧を擧都良布《アゲツラフ》云を云豆良布《イヒツラフ》などいふ豆良布に同じくして其(ノ)形容をいふ詞なり」といへり。冠辭考の語源の解は從ひかねたれど、その例はいはれたりといふべく、枕詞解の語の成立についての説また參考とすべし。按ずるにこれは先づ「サニ」といふ語ありて、その例は卷七「一三七六」に「山跡之宇陀乃眞赤土左丹著者《ヤマトノウダノマハニノサニツカバ》」又「左丹塗《サニヌリ》」(卷八「一五二〇」卷九「一七四二」)「狭丹塗J(卷九「一七八〇」)「左丹漆」(卷十三「三二九九」)等の「サニ」にして「丹」のよきものをさす語といふべし。その「サニ」に「ツラフ」といふ接尾辭の加はりて生じたる語なるべきが、その意は丹のうるはしき色即ち赤色のつやよくあらはれたるをいふなる(778)べし。かくてその用例を見るに「サニツラフ紅葉」(卷六「一〇五三」)は紅葉の赤色なるをいひ、「サニツラフ紐」(卷四「五〇五」卷十二「三一四四」)は赤色のうるはしき紐をいふべし。かくて人についてのその例を見るに卷十六「三八一一」「三八一三」のはその「夫」についていひ、卷十「一九一一」のは妹についていひたるが、これらすべてその容顔について血色のうるはしきをいへるなれば、從來の如く、これを枕詞といはむは當らず。ただ卷十一「二五二三」の「サニヅラフ色には出でじ」といふは「色」といふ語の枕詞といはざるべからねど、他は實質を示す語と見ずば、不可なり。今のことは明かに、容顔のうるはしき好人をいふ語なることを見るべし。
○吾大王者 「ワガオホキミハ」とよむ。「吾大王」の例は既に屡いでたり。
○隱久乃 「コモリクノ」とよむ。この語は卷一「四五」に「隱口乃」「七九」に「隱國乃」とありて、その意と「ハツセ」の枕詞とすることとは既にいへり。
○始瀬乃山爾 「ハツセノヤマニ」とよむ。「ハツセ」は「初瀬」「泊瀬」ともかけど、又「始瀬」ともかくことの例は卷七「一〇九五」に「隱口乃始瀬之檜原《コモリクノハツセノヒハラ》」あり。又「始鴈《ハツカリ》」(卷八「一六一四」)「始音《ハツコヱ》」(卷十「一九三九」)「梅始花《ウメノハツハナ》」(卷八「一六五一」)「始春《ハツハル》」(卷二十「四四九三」)などあり。ハツセの山は卷一「四五」にはじめて見えたるが、そこは今の初瀬町よりも西なる地域をさしたりと思はれたるが、ここは今の初瀬町の後なる山を主としていへるか、はたそれよりも汎き地域をさせるか明かならず。
○神左備爾 舊訓「カミサビニ」とよめり。この「爾」をば玉の小琴は「而か※[氏/一]かの誤也」といひ、古義は「手の誤にて「カムサビテ」なるべし」といひたり。されど、いづれの本にもかゝる例なければ從ひ(779)がたし。「神左備」は卷一「三八」「四五」の「神佐備世須」「五二」の「神佐備立有」の例によりて「カムサビ」とよむべし。この語は元來上二段活用の動詞なるが、ここにはその連用形を以て「ニ」格助詞につづけたり。これが意如何といふに、これは余が所謂目的準體言にして、卷一「八四」の「妻戀爾鹿鳴將山曾《ツマゴヒニカナカムヤマゾ》」卷二「一六四」の「奈何可來計武馬疲爾《ナニシカキケムウマツカラシニ》」卷四「七四四」に「暮去者屋戸開設而吾將待夢爾相見二將來云比登乎《ユフサラバヤドアケマケテワレマタムイメニアヒミニコムトイフヒトヲ》」「六二六」に「君爾因言之繁乎古郷之明日香乃河爾潔身爲爾去《キミニヨリコトノシゲキヲフルサトノアスカノカハニミソギシニユク》」「七七七」に「吾妹子之屋戸乃笆乎見爾往者蓋從門將返却可聞《ワギモコノヤドノマガキヲミユカバケダシカドヨリカヘシナムカモ》」卷六「九三五」に「見爾將去餘四能無者《ミニユカムヨシノナケレバ》」「九三六」に「玉藻苅海未通女女等見爾將去《タマモカルアマヲトメドモミニユカム》」卷七「一一四七」に「暇有者拾爾將往住吉之岸因云戀忘貝《イトマアラバヒリヒニユカムスミノエノキシニヨルトフコヒワスレカヒ》」「一一五二」に「梶之音曾髣髴爲鳴海未通女奧藻苅爾舟出爲等思母《カヂノトゾホノカニスナルアマヲトメオキツモカリニフナデスラシモ》」卷十「二〇一四」に「吾等待之白芽子開奴《ワガマチシアキハギサキヌ》、今谷毛爾寶比爾往奈越方人邇奈越方人邇《イマダニモニホヒニユカナナヲチカタビトニ》」「二一七六」に「白露者置穗田無跡告爾來良思《シラツユハオクホダナシトツゲニキヌラシ》」卷十七「三九九四」に「之良奈美能與世久流《シラナミノヨセクル》多麻毛余能安比太母都藝底民仁許武吉欲伎波麻備乎《タマモヨノアヒダモツギテミニコムキヨキハマビヲ》」など例多く一々あぐべからず。ここは下の「イツク」ことの目的が「神サビ」にあるにて、「神サブル爲に」といふが如き意なりとす。「神サビ」の例は卷一以下屡あらはれ、この卷に既にいでたる例も、「二四五」「二五九」「三一七」「三二二」あり。神としてましますといふ程の意と見て可なり。
○伊都伎坐等 「イツキイマスト」とよむ。攷證は「イツキマセリ」とよむべしといへり。その攷證の説く所は「諸注みな舊訓のまゝにて何ともいはざるはいぶかし。いつきいますとは外より云言にてかの王のことにいつかれまします事にはあらざれば、ここに叶ひがたし。さればいつきませりと訓べし。こは人ありて、かの王を泊瀬山に御墓を造りて齋《イツ》きまさしめたりとい(780)ふ意なるべし」といへり。この事一往はいはれたる如くなれど、その批難は「イマス」とよみても「マセリ」とよみても同じことなり。攷證の説を徹底せしめむには坐を下二段活用語として「イツキマセタリ」とよむべきならむが、しか、「マセタリ」といふを「坐」一字にて書きたる例なく、又しか書かむも無理なり。されば結局舊訓のまゝにてこの意を考ふべし。さて立ちかへりて攷證の論ずる所を更に檢するに、そのよみ方は賛成すべからねど、その舊説に對しての批難は一往當れりとすべし。この「イツキイマス」をそのまゝにし、又上の「皇子即ち大王は」をば主格とする時は、他の方が、石田王によりて神としていつかれましますとせざるべからず。若し又、石田王が主格にして他に客たる人なきものとせば、「イツカレマス」とせざるべからざる道理なり。然れども、上の二者いづれも成立すべからざるものなれば、このまゝにして、その意を説かざるべからず。惟ふにここに似たる語遣の例卷二の高市皇子尊城上|殯宮《オホアラキ》之時柿本朝臣人麿作歌一首并短歌(一九九)にあり。それは「言左敝久百濟之原從神葬葬伊座而《コトサヘグクダラノハラユカムハフリハフリイマシテ》云々」とある所なり。そこも昔より「ハフリイマシテ」とよみたるを近時「イマセテ」とよむべしといひて種々の論も起りたれど、その所にて既に論じたるが如く、その皇太子の御葬は臣下のすべきことにあらねば、即ち宮中にて、御葬を營み給ふが故にかく敬語を用ゐたるなるが、ここもそこにおなじく、その使の者の言として、吾石田王をば、初瀬山に神としていつき給へりといひたるなり。即ちこの「等」以上が、使者の言なれば「イツキ坐ス」と敬語を用ゐるも理由あることなり。從來の説一もこれをいはず、攷證も折角考を立てたれど、使者の言と思はざりしかば、如上の誤も生じたるなり。即(781)ちこの使者の言として見れば吾大王者は論理上の主格にあらずして、わが所謂提示語たるものたりとす。然してかく解する時に何等の無理も矛盾も存せずして古來の訓を是認すべきなり。「イツク」は卷二「一九九」の「渡會齊宮」の下にいへり。
○玉梓乃人曾言鶴 「タマヅサノヒトゾイヒツル」とよむ。「玉梓乃」は使の枕詞にしてその意は卷二の「二〇七」の「玉梓之使乃|言者《イヘバ》」の下にいへり。さて正しくは「玉梓乃使乃人」といふべきを直ちに「玉梓乃人」といへるは、上の「四一四」の「足日木能石根」といへるに似たる語遣にして、その「使」を略して「玉梓」を以て直ちに「使」の意にせるなり。この卷「四五四」に「玉梓乃事太爾不告往公鴨《タマヅサノコトダニツゲズイニシキミカモ》」といへるも趣稍似たり。
○於余頭禮可吾關都流 「オヨヅレカワガキキツル」とよむ。「オヨヅレ」といふ語は卷十七「三九五七」に「於餘豆禮能多婆許登等可毛《オヨヅレノタハゴトトカモ》」續紀賣龜二年二月左大臣藤原永手薨時の宣命に「於與豆禮加母多波許止乎加母《オヨヅレカモタハゴトヲカモ》」天應元年二月三品能登内親王薨時の詔に「於與豆禮加毛年高久成多流朕乎置弖罷麻之奴止《オヨヅレカモトシタカクナリタルアレヲオキテマカリマシヌト》云々」あり。又この卷「四七五」にある「逆言之枉言登加聞《オヨツレノタハコトトカモ》云々」卷七「一四九八」に「枉言香逆言哉隱口乃泊瀬山爾廬爲云《タハゴトカオヨツレコトカコモリクノハツセノヤマニイホリストイフ》」卷十九「四二一四」に「枉言哉人之云都流逆言乎人之告都流《タハゴトヤヒトノイヒツルオヨヅレヲヒトノツゲツル》」とある「逆言」をも「オヨヅレ」とも「オヨツレコト」とも古來よみ來れり。日本紀天智天皇九年正月に「禁斷|誣妄《タハコト》妖僞《オヨヅレ》」とある「妖僞」天武天皇四年十一月に「有人登2宮東岳1妖言而自刎死」とある「妖言」をも「オヨヅレ」とよみ來れり。この語は後世に例を見ざれば、確かなることは知りがたけれど、逆言、妖言、妖僞とかける字面を見てその意をさとるべし。妖言は支那にても用ゐる語にして、妄言(782)即ち不經の言をいふなるべし。「オヨヅレカワガキキツル」は「さる妄言をかわがききつる」にて「か」は疑問の意の係助詞なれば、下を連體形にて「ツル」と結べるなり。
○狂言加 流布本「枉言」とし「マカコトカ」とよみたるを、玉の小琴は「枉」は「狂」の誤として「タハコトカ」とよむべしといひ、攷證はこの字のままにて、「タハコトカ」と訓すべしといへり。今その枉字を見るに、神田本、温故堂本には「狂」とし、大矢本は「枉」とし、細井本、活字素本には「任」とせり。「任」にては義をなさねば、これは誤なること著しきが、他は「狂言」にても「※[手偏+王]言」にても意をなさずとはいひがたし。今、本書につきて見るに、この卷、次の歌「四二一」又「四七五」の「枉言」は神田本、西本願寺本、温故堂本等は「狂言」とし、又卷七「一四〇八」の「枉言」は類聚古集、神田本、西本願寺本等は「狂言」とし、卷十三「三三三三」「三三三四」の「枉言」は天治本、西本願寺本、大矢本等は「狂言」とし、卷十九「四二一四」の「枉言」は温故堂本、京都大學本等は「狂言」とせり。この他「※[手偏+王]言」とかけるも間々あれど、これは古寫本の最大多數につきて「狂言」といふ文字を正しとすべく、その他は類字なれば誤れりとすべし。而してかく「狂言」とかくときは「マガゴト」といふべからずして「タハレタル言」の義として「タハゴト」とよむべ、し。而して上にも引けるごとく、「オヨヅレ」と相對したるものはみな「タハゴト」とかくか、若くはしかよみ來れり。「タハゴト」といふ例は新撰字鏡にも「〓」に「久知波志留又太波己止又久留比天毛乃云」と注し、「訛譌」に注して「太波事」と注せり。「加」は上の「カ」と同じく「ヲカ」といふべき場合のものなり。
○我聞都流母 「ワガキキツルモ」とよむ。これは上の「吾聞都流」に「モ」の一語加はれる相違あり。(783)この「モ」は係助詞にして、往々かく用言にて終止するものの下につきて感動を強むる意を寓することあり。通常はその終止形につきて終止するものなれども、また、ここの如く係結の關係によりて特別の形をなせる終止の下にもつく。ここは上に「狂言カ」といへる「カ」の係によりて「聞都流」を連體形にて結べるその下につけるなり。かゝる例は卷十五「三六八四」に「奈|曾〔右○〕許己波伊能禰良要奴|毛〔右○〕」あり。以上、第一段、石田王の訃報を聞きて驚きたることを叙す。
○天地爾 「アメツチニ」とよむべし。攷證には「アメツチノ」とよみて理由をいはず。本集中「天地ニ悔シキコト」といへるはここのみにして他は「天地ノ悔シキコト」といへるなれば「ノ」の方よきやうにも思はるべけれど、「爾」は「ノ」とよむべき字にあらねばなほ舊の如く「アメツチニ」とよむべし。これは今の語にせば天地の間に於いて」といふ程の意なり。
○悔事乃 「クヤシキコトノ」とよむ。「クヤシ」といふ語の假名書の例は、卷五「七九七」に「久夜斯可母可久斯良摩世婆《クヤシカモカクシラマセバ》」卷十五「二五九四」に「之保麻都等安里家流布禰乎思良受志弖久夜之久妹乎和可禮伎爾家利《シホマツトアリケルフネヲシラズシテクヤシクイモヲワカレキニケリ》」「三七六九」に「安波受麻爾之弖伊麻曾久夜思吉《アハズマニシテイマゾクヤシキ》」等例多し。「天地に悔しき事」とはそのくやしき事の絶大なるを形容していへるなり。ここにいふ「くやしき事」とは勿論石田王の卒去をいたみていへることなり。「悔事乃」の「の」は同じ趣なる語を上下に重ぬる時にこれを連ぬる用をなす「の」なり。
○世間乃 「ヨノナカノ」とよむ。「世間」を「ヨノナカ」とよむことは卷二「二一〇」にいへり。これも上の「天地に」といへるに似たれど、ここは「の」とあれば、これは下の「悔言」の連體格たり。
(784)○悔言者 「クヤシキコトハ」とよむ。上の「悔事」とかけると文字異なれど、意同じ。「言」は「コト」といふ音をかりたるにて「事」の意なり。以上四句に「天地ニ悔シキ事ノ〔右○〕世間ノ悔シキ事」といへるはその悔しさの絶大なるをいへるにて、「天地間に於いて最も悔しき事」として又「世間に於いて最も悔しき事は」といへるなり。さて、ここに「云々の事は」といひて、次下に、その説明をあげむとせるが、之につきて攷證は「この下の潔身而麻之乎といふへかけて聞べし」といへり。されど、新考には「クヤシキ事ハは俗のクヤシキ事ニハの意にて、アマグモノ以下二十四句を隔ててタカヤマノ云云にかゝれりと見るより外なし」といへるが、この説を當れりとす。
○天雲乃 「アマグモノ」なり。「天雲」は卷二「一六七」「一九九」「二〇五」等にあり。
○曾久敝能極 「ソクヘノキハミ」とよむ。「ソクヘ」といふ語の假名書の例はこれ一なれど、卷四「五五三」に「天雲乃遠隔乃極《アマグモノソクヘノキハミ》」卷九「一八〇一」の「天雲乃退部乃限《アマグモノソクヘノキハミ》」と同じ語と見え、又卷十七「三九六四」に「山河乃曾伎敝乎登保美《ヤマガハノソキヘヲトホミ》」卷十九「四二四七」に「天雲能曾伎敝能伎波美《アマグモノソキヘノキハミ》」の「ソキヘ」と同じといへり。これらの語の意は上の例どもにて略、推測しうべきが、その語の源は代匠記に「そくへはしりへの意なり。天雲の退そき至りてはつる所をいへり」といひ、攷證は古事記傳(卷三)の説に基づきて「曾伎敝とは底方《ソコヘ》の意にて何にまれ、物の至りきはまる所を底《ソコ》といふも、そき、そこ音通なる事十五【卅四丁】に安米都知乃曾許比能宇良爾《アメツチノソコヒノウラニ》云々ともあると、六【廿五丁】に山乃曾伎野之衣寸見世常《ヤマノソキヌノソキミヨト》云々とを照して、そき、そこ同じ言なるを知るべし」といへり。されど、「ソキ」は元來「ソク」といふ用言に基づくものにて、「ソコ」といふ體言とは同一なりといふべからず。「ソク」といふ用言の例は古(785)事記仁徳條の「夜麻登幣邇爾斯布岐阿宜弖玖毛婆那禮《ヤマトベニニシフキアゲテクモバナレ》、曾岐袁理登母和禮和須禮米夜《ソキヲリトモワレワスレメヤ》」あり。これは「シリゾク」などの「ソク」の源をなせる語にして四段活用と見えたり。さてその連用形を以て體言とせるが卷六「九七一」の「山乃曾伎野之衣寸見世常《ヤマノソキヌノソキミヨト》云々」の「ソキ」にしてその「ソキ」に「方《ヘ》」を加へたるが、上にあげたる卷十七「三九六四」卷十九「四二四七」の「曾伎敝」なりとす。さてここの「ソクヘ」はその「ソキヘ」の音轉とも見られ、又「ソコヘ」の音轉とも見らるべきなれど、「ソコヘ」といへる語は例なくして、又「ソキヘ」の音轉と認めざるべからざる理由もなし。按ずるに、これは新考にいへる如く、或は天雲の退く方にて「ソク」は連體形にてあるべし。かくて、その意は古事記の歌の如く天の雲のはなれ退きてある所をいふにて卷九の「退部」とかけるはその「ソキ」といふ語に基きて書けるもの、卷四の「遠隔」はその全體の語意を以てかけるものならむ。「極」を「キハミ」とよむことは卷二「一六七」の「天地之依相之極」の下にいへり。
○天地乃至流左右二 「アメツチノイタレルマデニ」とよむ。「左右」を「マデ」とよむことは卷一「三四」の「幾代左右二賀」の下にいへり。天地の至りてあるはてまでにといふ程の意なり。
○杖策毛 「ツエツキモ」とよみ來れり。「杖」も「策」も體言としては「ツヱ」とよみ、用言としては「ツヱツク」とよみうる文字なり。「杖」は和名鈔に「都惠」の訓ありて今も體言として用ゐるが普通なれど、説文には「持也」とあれば、元來用言たるものなり。されば「杖策」の二字にて「ツエツク」とよむことは、「策」を體言とし、「杖」を用言としたるものなるが、これは元來漢文に慣用例あるを襲用したるなり。莊子讓王に「大王※[壇の旁]父居v※[分+おおざと]、故人攻v之、大王杖v※[竹/夾]〔右○〕而去之、民相連而從之」とあるを淮南子道應訓(786)には之によりて「杖策〔二字右○〕」と書けり。後漢書※[登+おおざと]禹傳に「及v聞3光武安2集河北1即杖v策〔二字右○〕北渡追2及於※[業+おおざと]1」とあり。又文選なる左思招隱詩に「杖v策〔二字右○〕招2隱士1、荒塗|横《フサガレリ》2古今1」といひ、大唐西域記卷十羯羅※[奴/手]蘇伐刺那國の條にも「有2一外道1腹2銅※[金+蝶の旁]1首載2明炬1杖v策〔二字右○〕高歩來入2此城1」ともあり。さてこの句は次の句の「不衝毛」と相並んで、「去而」につづくなり。
○不衝毛去而 「ツカズモユキテ」とよむ。「衝」を「ツク」とよむことは卷二「二一〇」の「氣衝明之《イキヅキアカシ》」「二一三」の「息衝明之《イキヅキアカシ》」あり。さてこの上よりの句は卷十三「三三一九」に「杖衝毛不衝毛吾者行目友《ツヱツキモツカズモワレハユカメドモ》」とあるものに似たるが、枚をついても去き又杖をつかずしても行きといふ意になるが、これは、あらゆる手段にて、天雲のそくへの極、天地の至れる所までに行かむといふ意をあらはせるなり。
○夕衝占問 古來「ユフケトヒ」とよみ來れり。「ユフケ」といふ語のありしは卷十四「三四六九」に「由布氣爾毛許余比登乃良路《ユフケニモコヨヒトノラロ》」卷十七「三九七八」に「可度爾多知由布氣刀比都追《カドニタチユフケトヒツツ》」といふ例にて知るべく、その事は「夕卜《ユフケ》」(卷十一「二六一三」「二六二五」)「夕占《ユフケ》」(卷四「七三六」卷十二「二五〇六」卷十六「三八一一」)などかけるとここの文字とにて略意を察しうべし。代匠記には「夕占と、辻占を問なり。末に道行占ともよめり」といひ(「路往占」卷十一「二五〇七」)たるが、その初稿本には「ゆふけとひ、つじうらを問ことなり。占をきかむとするものは夕さりつかたちまたに出てきくなり。よりてゆふけとふとも、又ゆふうらともよめり」といへり。拾芥抄(上本諸頌)に「問夕食歌」とありて、
 フケトサヤユフケノ神ニ物トヱハ道行《ミチユキ》人ヨウラマサニセヨ、兒女子(ノ)云、持《モツ》2黄楊櫛《ツゲノクシヲ》1女三人向2三辻(ニ)1問v之、又午(ノ)歳(ノ)女午(ノ)日問之(787)今案三度誦2此歌1作v場散v米、鳴(スコト)2櫛齒1三度、後境内(ニ)來(ル)人答(ルヲ)爲2内人1言語(ヲ)聞(テ)推2吉凶1
とあり。この歌は誤謬ありと見ゆるが、二中歴には「夕食問時誦」として
 布奈止佐倍、由不介乃加美爾毛乃止八々、美知由久比止與宇良末佐爾世與
 説云、三度誦2此歌1作v堺散米、鳴2櫛齒1、後堺内來、若屋内人言語聞天知2吉凶1
とあれば、拾芥鈔の説の根本はこの二中歴に既に存すといふべし。二中歴は、三善爲康の撰にして、鳥羽崇徳の頃に成りしものなれど、この夕食の占の如きは古代のものを繼承せしものたること疑ふべからず。もとよりこの所傳が、古代のもののそのまゝにして一毫も違はずとはいひがたきことなれど、大體は異なることなしと思ひてよからむ。されば、夕に衢に立て占ふが故にここに夕衢占とかけるは正しく意味をあらはしたる字面といふべく、衢とある以上、辻に立てりしことも知らる。而して、それにはある堺を限りて、その地域内に入り來る人、又はその域内の人の語る語によりて吉凶を判斷せむとせりと思はる。後世「ツジウラ」といふ語の生ずる基もここにあるものならむ。大鏡五にもゆふけをとひたる記事あり。
○石卜以而 古來「イシウラモチテ」とよめり。古義は「以は問(ノ)の誤にてイシウラトヒテ〔七字右○〕にてはあらぬにやと景井云り」といへり。されど、さる本一もなく、又このまゝにても意通ずれば誤にあらじ。思ふに、上の「夕衢占問」とこの「石卜以而」とは二句一意をなすものにして、「夕衢占ひを問ひ以ちて」「石卜を問ひ以ちて」といふことをば、言を簡にして、語を分ちていへるならむ。石卜といふことは本集にはここ一のみなるが、その事は如何なるわざをせしにか。雅言集覽は「足占《アシウラ》(788)して石をふみかぞふる也とぞ」といひたるが、この足占は徳川時代にも俗間に往々行はれたり。そは歩行の數によりて吉凶を判するものにして、石に限るべきものにあらねば、もとより別なるべし。日本紀に景行天皇十二年に、碩田國に至り、賊を討たむとて柏峽大野に次《ヤト》り給ふときその野にある長さ六尺廣さ三尺、厚一尺五寸の石をば、朕土蜘蛛を滅し得むならば、この石を蹶むに柏の葉の如く擧れと祈誓《ウケ》ひて蹶たまひしがその石柏葉の如く大虚に上れりといふことあり。かくの如きこと即ち「石卜」といふことならむ。この景行天皇の御世には石占横立といふ人あり。これらも、石占といふことに因みて名づけしか。塵袋一に「サイノ神トテ小社ニマロキ石ヲヲクハ石神歟」といふ問に對して「道祖神也。是ハ昔(シ)黄帝ノ子トヲク遊コトヲ好テ路ノホトリニ死ニ玉ヒケルカ今道祖神トナリ玉フ故ニ路ノカタハラニイハヒタテマツル。此ノ神ニ祈テコトノ成否ヲトフ時(キ)石ニツケテ輕重(ヲ)定(ルカ)路ユキ人ヲ護ル神也。石ニハ非ズ。石ハ路頭ニ便宜ノ物ナレハシハシメタルナルベシ」といへり。かくてこの石神につきては久安六年の百首(堀川百首)に中納言公能の夏の歌に「石神のうらにをとはん此くれに山ほとゝきす聞やきかすや」とある「石神のうら」とはやがて石卜と見るべく、又金葉集下に「あふことをといふ石神のつれなさにわかこころのみうこきぬるかな」とあるその石卜とは塵袋にいへる如く、石の輕重につき如何にかして卜へるものなるべし。さてこの石卜はしか、石の輕重につきて或る事を豫め定めおきてせるものか否か、詳かなる事は明かならねど、大方は推測せらる。考に「此言、次の言にてよくもかなはず。然ればこゝは何ぞの罪、いかなる祟《タヽリ》もてふ事を卜へしりてと(789)いふ言ども落しなるべし」といひたれど、このまゝにて意通ず。即ち以上八句(「天雲乃」より)は「ユフケ」石卜を以て下にいふ所の如何なる方法を以てせばよからむと知らむとせし由をいふ爲に先づいひ出でしものなり。
○吾屋戸爾 「ワガヤドニ」なり。これは吾が家といふ義もあれど、ここは家《ヤ》の處の意にして庭上などなるべし。屋戸の語は上にいでたり。
○御諸乎立而 「ミモロヲタテテ」とよむ。「みもろ」とは御室の義にて神をいつく宮殿をいふ。大和國の三諸山もそこに「みもろ」のありしよりいひしものなり。卷十九「四二四一」の「春日野爾伊都久御諸乃梅花《カスガノニイツクミモロノウメノハナ》」「一二七七」の「モメ木綿懸而祭三諸乃神佐備而《ユフカケテマツルミモロノカムサビテ》」卷十二「二九八一」の「祝部等之齋三諸乃犬馬鏡」《ハフリラガイハフミモロノマソカガミ》」などその例なり。攷證には「みもろとは神社のことなれど、ここに吾屋戸に御諸乎立而とあるは俄に宿に神社を立べき理りなきをもて思へば、みもろとは神社をもとにて、それよりうつりて神のよりたまはん料に木を立るをも神のおはします所てふ意もてみもろとはいへりと思はるるはまへの【此卷卅七丁】大伴坂上郎女祭神歌に賢本之枝爾白香付木綿取付而齊戸乎忌穿居竹玉(ヲ)繁爾貫垂云々とあるとここのつづけがらと大かたは似たるをもてしるべし」といへり。考に「檜の葉にて作る假の屋代をいふ」といへるもこの意にてのことならむ。されど、かの歌(三七九)は實地に神祭を行へるものにして、これは下の「潔身而麻之乎」とあるにて明かなるが如く、假想なれば、それを實地に立つることなく、又それを立つる餘地なくしてもいひうべき道理なれば、「俄に宿に神社を立べき理りなき」とても差支なき筈にして、この歌の意を上の如く解(790)しても差支なきなり。
○枕邊爾斉戸乎居 「マクラベニイハヒベヲスヱ」とよむべし。考は「今本牀を誤て枕とす」といひて、「卷十七に伊波比倍須惠都安我登許能弊爾《イハヒベスヱツアガトコノベニ》(三九二七)卷二十にも伊波比倍乎等許敝爾須惠弖《イハヒベヲトコベニスヱテ》(四三三一)この外も皆とこといへり。此床はいもひして居る齋床なり」と説けり。然れども、いづれの本にも「枕邊」とあれば誤といひがたし。加之、牀邊のうちにても、枕の方にすゑたりとせば誤とはいふ事もいひうべからぬなり。「マクラベ」といふ語は日本書紀卷一の自注に「頭邊此云2摩苦羅陛《マクラベ》1」とあり。「イハヒベ」は既にいひし如く「齋瓶」にて酒などを納れて神に奉る器にして壺の如きものなりしならむ。さてその齋瓶を誰の枕邊におけるにか。童蒙抄には「我居處の上座とするところにと云意也」とあり。他の諸家多くは之を明言せずして曖昧なり。考の説の如くならば、わが床の枕邊と解すべき勢にあり。槻落葉に「釀せる酒を※[瓦+肆の左]《ミカ》ながら枕邊に居置《スヱオキ》て則そこに齋《イミ》こもるをいふなるべし」といへるは即ちそれなり。註疏は「枕邊とはその御諸の傍のことにて齊戸竹玉等を陳列するところなり」といへり。この説やゝ正鵠に近づけるものの如し。案ずるにこれはその御諸の内に、神座を設け、その神座の頭邊をさすなり。古の神祭のさまは恐かれど、大甞宮の神座にて推察するに、三諸のうちに神の御床を設け、その御床の邊に種々の供物をしてまつれるなるべければ、この枕邊はその神床の頭邊なるべし。その神床が甚しく變形して後世床の間といふものにその名殘を止むるものと見えたり。これは古來何人もいはぬやうなれど、余は動くまじき事ならむと思へり。若し然らずば、この歌の「御諸を(791)立てて」とこの句以下とは如何樣に關係すべきにか、從來の説には一も首肯すべきものを見ず。
○竹玉乎 「タカダマヲ」なり。上「三七九」に既にいへり。
○無間貫垂 舊訓「マナクヌキタレ」とよみたるを考は「マナクヌキタリ」とし、玉の小琴は「シジにと訓べし」といへり。「マナク」といふ語も攷證にいへる如く本集に例多きものなり。されど「ヌキタリ」に對してのものは「無間」とある字面のみにして假名書の例なし。而して假名書の「マナク」の例を見るに卷十五「三六六〇」「麻奈久也伊毛爾故非和多里奈牟《マナクヤイモニコヒワタリナム》」卷十七「三九七三」「可保等利能麻奈久之婆奈久《カホトリノマナクシバナク》」卷十八「四〇三三」「末奈伎孤悲爾曾等之波倍爾家流《マナキコヒニゾトシハヘニケル》」卷二十「四四六一」「梶乃音乃麻奈久曾奈良波古非之可利家留《カヂノオトノマナクゾナラハコヒシカリケル》」とある假名書のものをはじめ、「間無」とかける、この卷「三五九」の「間無比來日本師所念《マナクコノゴロヤマトシオモホユ》」「三七二」の「容鳥能間無數鳴《カホドリノマナクシバナク》」をはじめとし、又「間無」とかける卷四「七〇二」の「至于今日吾者不忘無間苦思念者《ケフマデニワレハワスレズマナクシオモヘバ》」「七六〇」の「鳴鶴之間無時無吾戀良久波《ナクタヅノマナクトキナクワガコフラクハ》」等はすべて時間につきていへるもののみにて空間的にいへるものを見ず。而してかく竹玉につきてかけるは「無間貫垂」(ここと卷十三「三二八四)とありて、「間無」とかきてあらざれば、必ず「マナク」とよむべしと定まれるにあらず。さればこれは漢文流にかける字面と見ゆれば、義譯して可なるものと見ゆれば、上の「三七九」の例によりて「シジニ」とよむべきなり。又「垂」は古四段活用なりしが故に「シジニヌキタリ」とよむべきなり。
○木綿手次 「ユフタスキ」とよむ。木綿は既にいへる楮の繊維にして白く清きものなれば、神事に用ゐるなり。「手次」は卷一の「珠手次」「二九」の「玉手次」(卷二「一九九」「二〇七」にも)などにいへり。日(792)本紀允恭四年紀に「於是諸人著2木綿手襁1而赴v釜探湯」とあり。この語について代匠記に「木綿を著たると、木綿を以てしたる手次との兩義あるべし」といへり。如何にも兩義を考へうべきが、卷五「九〇四」に「志路多倍乃多須吉乎可氣麻蘇鏡《シロタヘノタスキヲカケマソカガミ》、弖爾登利毛知弖天神阿布藝許比乃美地祇布之弖額拜《テニトリモチテアマツカミアフギコヒノミクニツカミフシテヌカヅキ》」とある白妙のたすきは神事にかくるにてまさに木綿にてつくれるたすきなるべく思はる。さてそれをば、木綿手次といひしならむ。
○可比奈爾縣而 「カヒナニカケテ」なり。「カヒナ」は新撰字鏡に「肱」に注して「臂也、肩也、丁也、可比奈」といひ、古事記中卷に「多和夜賀比那」などあり。たすきは肩より常にかくるものなればかくいへるなり。
○天有 舊訓「アメニアル」とよみたるが、管見は「アメナルヤ」とよみ、考は「アメナル」とよめり。ここに「也」文字なければ、管見の説は從ふべからぬが、諸家多く考の説に從へり。卷七「一二七七」に「天在日賣菅原草莫苅嫌《アメナルヒメスガハラクサナカリソネ》」卷十一「二三六一」「天在一棚橋何將行《アメナルヒトツタナハシイカニカユカム》」なども「アメナル」とよめり。これらは四音の一句によめるなるが、その形の句、例少からねば、それに從ふべし。意明かなり。
○左佐羅能小野之 「ササラノヲヌノ」なり。この語は卷十六「三八八七」に「天爾有哉《アメナルヤ》、神樂良能小野爾茅草苅《ササラノヲヌニチカヤカリ》云々」とも見えたり。こは天上にかかる名の野ありといふ傳説のありしによりてよめるなるべし。或は卷六「九八三」に「山葉左佐良榎壯子天原門度光見良久之好藻《ヤマノハノササラエヲトコアマノハラトワタルヒカリミラクシヨシモ》」とある左注に「或云月別名曰佐散良衣壯士也」とあり。この「榎牡子」(衣壯士)は「良男」の意なるべければ、「左佐良」の良男といふ事ならむか。然らばその「ササラ」はここの「ササラノ小野」の「ササラ」と同じ意にして、(793)その天上にありと信ぜられたる國の名ならむも知られず。
○七相菅 舊本「ナヽニスゲ」とよめるが、古寫本には「ナヽミスケ」(西本願寺本、温故堂本、大矢本、京都大學本)とよみ、「ナヽアヒツヽ」(細井本、神田本)とよみたり。代匠記は「ナヽヒススケ」とよみ、考は「ナナマスゲ」とし、玉の小琴は「ナヽフスゲ」とし、古義は「七」は石の誤として「イハヒスゲ」とよめり。然るに「七」字は諸本みなかくあれば、古義の説は從ひがたし。次に舊本の訓は「相」の字に「ニ」をあてたるものなるが、その理由なきことなれば、何かの誤なるべし。又「ナナミスゲ」といふこと如何なる意か解すべからざること契沖既にいへり。契沖の説は「菅は幾重もかさなれる物にて纏へる皮の左右の端の相たれば云にや」といふにあり。玉の小琴は「ななふは七節也、みちのくのとふの菅ごもなゝふには君をねさせてみふにわがねん」といひ、槻落葉は「相《アフ》はふ〔傍線〕の假字に用ふべし。「太《オホ》」をほ〔傍線〕の假字に用ひしと同例なり。故(レ)按に卷十四にまをこもの布能美知可久弖《フノミチカクテ》、武烈紀の御歌に、於彌能姑能耶賦能之魔柯枳《オミノコノヤフノシバカキ》、古歌にみちのくのとふの菅ごもなゝ婦には云々などいへるは皆節の意なれば今もなゝ婦菅とよむべし。七節ともいふはそのたけの長ければなり」といひたり。それより後人々多く從ひたれど、上の例どもはいづれも古義に既にいへる如く「菅薦の編たる節を云るにて」「いかでか生《タチ》ながらある菅を七ふ菅、幾ふ菅とはいはむ。思はずといひつべし。」然れども古義の如く、文字を改めてよまむも武斷なり。されば、ここは文字はこのままにあるべく意味は上に、野といひ、下に潔身といへるにて祓の具とする菅の清きをさすものたることは疑なかるべし。さてよみ方も「ナナフスゲ」とよむが文字の面より見て最も(794)穩かなるが如く考へらるるが、さりとて、玉の小琴、槻落葉の如くに説明しうべきにあらず。按ずるに、「ナナフ」はなほ本居、荒木田の説の如く筵の編目の「フ」の七なることをさすなるべし。而してここに「七フスゲ」といへるは、その長大にして、筵目の「七フ」に達する長《タケ》あるものをいふなるべし。ただ問題は古の筵は幾フを以て幅とせしか、又一フが幾程の幅なりしかの事實なりとす。今の藺筵の如きは一幅を編むに、左右より一莖づつあみて、中央にその尖端の相交るさまなり。延喜式には薦につきては「長二丈廣四尺」なるもの「長三丈廣三尺」なるもの、掃部式に見え、葉薦といふものは「長二丈廣四尺」菅薦といふものは「長一丈二尺廣四尺」折薦といふものは「長二丈、廣三尺六尺」又韓薦といふものは「長四丈、廣七尺」と主計式に見えたり。もとよりこれらはイクフにせしか明かならず、而してその編み方精巧にならば、經の數しげくて、その一一の經の間狹くなるが故に同じく七經の長さといひても實際の長さは今日にして知るべくもあらず。今假に上の菅薦の廣さ四尺を十經とせば、七經はその長さ二尺八寸といふべきこととなる。果して然るか否かは斷言すべからねど、七經に達する長さの菅といふ義にとらば、必ずしも批難すべからざるに似たり。
○手取持而 「テニトリモチテ」にして意また明かなり。
○久堅乃天川原爾 上に屡いでたり。(卷二「一六七」等)
○出立而 「イデタチテ」とよむこと異説なく、意また明かなり。
○潔身而麻之乎 「ミソギテマシヲ」とよみて異説なし。卷六「九四八」に「往水丹潔而益乎《ユクミヅニミソギテマシヲ》」とあるも(795)同じ意なり。「ミソグ」は「水《ミ》ソソグ」の意とも考へられ、又「身ソソグ」の意とも考へらる。罪穢を祓はむ爲に行ふわざにして、古事記に伊邪那岐神の行はれたる如く川に下《オ》りて行ふものなり。「麻之」は假りに想定するものにして、その「まし」又は「ましを」にて終るものは上に多くはその事を導くべき假想的の條件あるべきこと、たとへば、「草枕客去君跡知麻世婆岸之埴布爾仁寶播散麻思乎《クサマクラタビユクキミトシラマセバキシノハニフニニホハマサシヲ》」(卷一「六九」)「旅爾之而物戀之伎乃鳴事毛不所聞有世者孤悲而死萬思《タビニシテモノコホシキノナクコトモキコエザリセバコヒテシナマシ》」(卷一「六七」)「明日香川四我良美渡之塞益者進留水母能杼爾賀有萬思《アスカガハシガラミワタシセカマセバナガルルミヅモノドニカアラマシ》」(卷二「一九七」)「妻毛有者採而多宜麻之《ツマモアラバツミテタゲマシ》」(卷二「二二一」)などの如くなるものなり。今ここも、さる趣ありて、「かゝる事ありとかねて知りてあらましかば」といふやうの條件ありて、さて、天雲の退く邊のはてまでも天地の至り得るはてまでもいかやうにしても往きて、夕けもとひ、石卜をもとひて、その神の告にしたがひて、わが宿に神殿をも營み、その神床の頭邊には酒を釀してそなへ、竹玉をもしげくたれて奉り、清く白き木綿をかけて人間のけがれをうけぬ天なるさゝらの小野の見事なる菅を手に取り持ちて、みそぎ祓をもして御身の恙なからむことを祈請すべかりしものを今は手おくれになりて、くやしき事よとなり。即ち、「天雲乃」以下二十八句は「天地爾、悔事乃、世間乃、悔言者、高山乃、石穗乃上爾、伊座都流香物」の中間に挿入せられたるものなり。
○高山乃 「タカヤマノ」なり。上に「始瀬乃山爾云々」といへるに應ず。
○石穗乃上爾 「イハホノウヘニ」とよむ。これは卷二「八六」の「如此許戀乍不有者高山之磐根四卷手死奈液死物乎《カクバカリコヒツツアラズハタカヤマノイハネシマキテシナマシモノヲ》」にある如く、その墓の石にて築かれてあるによりていふなり。
(796)○伊座都流香物 古來「イマシツルカモ」とよみたるを代匠記に「イマセツルカモ」とよむべしといへり。玉の小琴もさる説を主張して「ましと訓てはみづからゆき給ひし意になるをここはみづからゆき給ひし意にてはわろし。いはほの上へ令《セ》v座《マサ》奉りし意也」といへり。これは理窟は尤もらしく聞ゆれど、歌としてかへりて意淺く趣なし。卒去の事を忌みて、自らその地にしづまります意にする方趣深ければ古來の訓をよしとす。
○一首の意 二段落の歌なり。その意は略、上に述べたれば、ここにはたゞ概括するに止む。第一段は石田王の訃報をききて、それを妖言ならむ、訛言ならむといひて、驚き悲みのあまり、その言をにくむとまでいひて、その情の切なるさまをあらはせり。第二段は、その事をきゝてより悔しく思ふこと千萬端なるを述べて、若しかゝるべき事と前々知りたらば、如何なる手段にても講じて天地の神に請ひ、みそぎも祓ひもして、はやくその禍を祓ひ去り奉らましものを今や手後れになりて天地間に於いて人の世に於いてかゝる事はあらじと思ふ事はわが親愛なる石田王は今や始瀬の山の磐をば常宮として神として座すことよとなり。
 
反歌
 
○ ここに何首ともなけれど、次に見る如く反歌二首あるなり。
 
421 逆言之《オヨヅレノ》、狂〔左○〕言等可聞《タハゴトトカモ》、高山之《タカヤマノ》、石穗乃上爾《イハホノウヘニ》、君之臥有《キミガコヤセル》。
 
○逆言之 舊訓「サカゴトノ」とよめり。玉の小琴は「逆言をさかごとと訓めれ共をよづれと訓べ(797)き也。こゝの長歌にも於余頭禮|枉言《タハゴト》といひ、十七(ノ)卷【廿丁】にも於餘豆禮能多婆許登等可毛《オヨヅレノタハゴトトカモ》とし、光仁紀の宣命にも於與豆禮加母多波許止加母とあり。然れば、集中狂言とならべていへる逆言いづれもおよづれと訓べき也。天武紀に妖言をおよづれとよめり」といへり。この言の如く「およづれ」とよむべきなり。その意は上の長歌にいへり。
○狂言等可聞 流布本「枉言」とかきたれど、神田本、西本願寺本、温故堂本には「狂言」とあり。「狂言」を正しとすること上の長歌にいへる如し。よみ方も亦上にいへるによりて「タハゴトトカモ」とよむべきなり。意も亦上にいへり。「カモ」は係助詞「カ」と「モ」との複合にして「カ」は疑問をあらはせり。
○高山之石穗乃上爾 これは上の長歌にいへるにおなじ。
○君之臥有 舊訓「キミガフシタル」とよみたるを考に「キミガコヤセル」とよめり。「臥有」を「コヤセル」とよむことは上の「四一五」にいへり。されば、ここもかくよむをよしとす。下を「コヤセル」と連體形にして終止するやうによむは上の「カモ」に應ずるが故なり。意は既にいへるにおなじ。
○一首の意 明かなり。君が高山の巖の上に臥し給へりといふことを使の來り告げたるが、そのいふことは實際にはよもあらじ。妖言の僞言としてさやうなることをいふにあらむかとなり。
 
422 石上《イソノカミ》、振乃山有《フルノヤマナル》、杉村乃《スギムラノ》、思過倍吉《オモヒスグベキ》、君爾有名國《キミナラナクニ》。
 
(798)○石上 「イソノカミ」とよむ。これは地名なり。和名鈔郷名に大和國山邊郡に「石上【伊曾乃加美】」とありて、これは石上神宮の在る所として古來名高き所なり。
○振乃山有 「フルノヤマナル」とよむ。「振」は地名にして石上郷のうちにあり。延喜式神名帳に大和國山邊郡に石上坐布留御魂神社とあり、又新撰姓氏録卷七に布留宿禰を載せたるが、その條中に「賀2布都努斯神社於石上郷布留村高庭之地1」とあり。布都努斯神社即ち延喜式の石上坐布留御魂神社にしてそれやがて今の石上神宮なりとす。普通には石上を以て「フル」の枕詞とせり。然れどもここは石上も振も地名にして、石上のうちに振の地あるなれば、枕詞にあらず。振の山とは大和志に「布留山」とありて、「布留村東其北曰2桃尾山1、中掛2飛泉1直下數仞所謂布留瀑即此」と記せる山にして、今の地名にていはば、丹波市町大字布留の東にある山なり。「有」は「ニアル」の意にて「ナル」とよめるなり。
○杉村乃 「スギムラノ」とよむ。古、この山に杉のありしことは卷十「一九二七」に「石上振乃神杉」卷十一「二四一七」に「石上振神杉」などあるにて知るべし。
 以上三句は卷十三の「神名備能三諸之山丹隱藏杉思將過哉蘿生左右」(三二二八)とあるにおなじく次の句の「スグベキ」といふことを導き出す爲の序の詞なるべきが、ここに特にこれを用ゐたるはその石田王にか、若くは丹生王にか、その地が何等かの縁故ある地なりしによりていへるなるべし。されども如何なる事情ありしかは今にして知るを得ず。
○思過倍吉君爾有名國 「オモヒスグベキ、キミナラナクニ」とよむべし。「キミニアラナクニ」と舊(799)訓によみたるが、それもあしとにあらねど、今、考に「ナラナクニ」とよめるに從ふ。「ナラナクニ」は上に屡例あり。「思過くべき」とは如何なる意か。代匠記は曰はく「思ひ過べきは思を過しやるべきなり」と(初稿本)いひ、考は「思し過しやりがたきを云なり」といひ、攷證またこれに近き解をなしたるが、かゝる解釋にては何の意か明かには認めがたきことなり。童蒙抄には「過しやられぬといふ意也、忘れられぬといふ意と同じ」といひ、槻落葉には「吾おもひを過しやるべきといふ意にていつかわするべき君にあらぬといふ意」といひたり。又古義は「思(ヒ)を遣(リ)過し失ふべきの意なり。思は憂念なり」といひ、註疏はこれに從へり。されどこの語はこの卷「三二五」の「念應過孤悲爾不有國《オモヒスグベキコヒニアラナクニ》」の下に論ずる如く、以上の諸家の説いづれも「すぐ」を「すごす」ととりたる故にいづれも不當なり。これは「嘆き又は憶ひ」が主格となりてそれが、過去になりて現在に存せぬをいふなり。即ちその石田王を思ふ情が、霧や雲の如く、いつしか消えさるべきにあらずして思慕の情の永遠に存すべきをいふものなり。
○一首の意 石上の振の山にある杉の村立を思へば、すぐといふことの思ひ出さるるが、わが親愛なる石田王はその杉の如く、わが思慕する情のまもなく過ぎて無くなるといふやうなる君にはあらぬものを即ち永遠に忘られがたき君なるよとなり。
 
同石田王卒之時、山前王哀傷作歌一首
 
○同 この字を略解は後人の※[手偏+讒の旁]入かといひ、古義は「石田王卒之」の五字を削れり。ここのままに(800)て何の不合理もなき筈なり。
○山前王 ヤマクマノオホキミとよむべし。「前」を「クマ」とよむことは卷十三「三二四〇」に「道前八十阿毎嗟乍吾過往者《ミチノクマヤソクマゴトニナゲキツツワガスギユケバ》」又和名鈔郷名に大和國高市郡「檜前比乃久末」とあり。この「山前」といふも地名に基づける御名なるべし。續日本紀、天平賓宇五年三月に茅原王の罪ありて多※[衣+執]島に流されたりし時の記事に「茅原王者三品忍壁親王之孫、從四位下山前王之男云々」と見えたるによりて、この王は天武天皇の御孫にして忍壁親王の御子たるを知るべし。この王は續日本紀に慶雲二年十二月に「无位山前王授2從四位下1」とあり、養老七年十二月に「散位從四位下山前王卒」とありて、その散位なりしこと知られたれど、懷風藻に「從四位下刑部卿山前王一首」とありて五言侍宴の詩を載す。これによれば刑部卿たりしことを見るべし。さてこの王の卒去が養老七年十二月なれば、石田王の卒去はそれより前なりしなるべし。
○哀傷作歌 「カナシミテヨメルウタ」とよむべし。意は明かなり。
 
423 角障經《ツヌサハフ》、石村之道乎《イハレノミチヲ》、朝不離《アササラズ》、將歸人乃《ユキケムヒトノ》、念乍《オモヒツツ》、通計萬口波《カヨヒケマクハ》、霍公鳥《ホトトギス》、鳴五月者《ナクサツキニハ》、菖蒲《アヤメグサ》、花橘乎《ハナタチバナヲ》、玉爾貫《タマニヌキ》、【一云貫交】※[草冠/縵]爾將爲登《カヅラニセムト》、九月能《ナガツキノ》、四具禮能時者《シグレノトキハ》、黄葉乎《モミヂバヲ》、折挿頭跡《ヲリテカザスト》、延葛乃《ハフクズノ》、彌遠永《イヤトホナガク》、【一云田葛根乃彌遠長爾】 萬世爾《ヨロヅヨニ》、不絶等念而《タエジトオモヒテ》、【一云大船之念憑而】 將通《カヨヒケム》、君乎婆明日從《キミヲバアスユ》、【一云君乎從明日香】 外爾可聞見牟《ニカモミム》、
 
(801)○角障經 「ツヌサハフ」とよむ。この語は卷二「一三五」に「角障經石見之海乃《ツヌサハフイハミノウミノ》云々」といふあり、又この卷「二八二」に「角障經石村毛不過《ツヌサハフイハレモスギズ》」の下にいへり。而して「ツヌ」は今いふ絡石《ツタ》なるべく、それの岩石に這ひ纏ふといふより「イハ」の枕詞とする由もいへり。
○石村之道乎 舊訓「イハムラノミチヲ」といへるを代匠記には「イハレ」とよむべしといへり。これも上の「二八二」の「角障經石村毛不過《ツヌサハフイハレモスギズ》」の下にいへる如く「石村」は「イハアレ」にして、それをつゞめたるなれば「イハレノミチヲ」とよむべきなり。その「イハレ」の地は既にいへる如く、今の磯城郡櫻井町附近の地なりしなり。さてこの歌にかくいへるは、この地を石田王のしば/\通りたまひしが故か。或は又山前王の住居ここにありて、石田王のそこを通過したりしを常に見たりし故か、いづれにしても、縁故ありての事と見ゆ。
○朝不離 舊訓「アサカレズ」とよみたれど如何。玉の小琴に「あさゝらずといふ例也」といひ、槻落葉も「アササラズ」といひて、「上に夕不離《ユフサラズ》とあり」といへり。これは上の「三五六」の「今日可聞《ケフモカモ》、明日香河乃夕不離川津鳴瀬之清有良武《アスカノカハノユフサラズカハヅナクセノサヤケカルラム》」とあるをさせるなり。これは既に上の「三七二」にある「朝不離雲居多奈引《アササラズクモヰタナヒキ》」の如く「アササラズ」といふべく、その意は朝毎に必ずといふほどの意と知るべし。
○將歸人乃 舊訓「ヨリケムヒトノ」とよむ。代匠記の初稿には「ユキケン人のなどよむべき歟」といひたるが、清撰本には舊訓によれり。考には「ユキケムヒトノ」とよみて、「歸をゆくと訓る事上にも有」とあり。かくてその後の學者はみなこの訓によれり。歸を「ユク」の語にあてたる例は上の「二四〇」にいへるが如し。されば、ここも考のよみ方に隨ふべし。その石村の道を通りて(802)行く人とは石田王をさせるならむ。これは下の反歌を確かなるものとせば、石田王が泊瀬の處女の許に通ふとて石村の地を往復せられしものと見らるべし。
○念乍 「オモヒツヽ」なり。「乍」を「ツヽ」とよむことは卷一「二五」の「思乍叙|來《コシ》」の下にいへり。
○通計萬口波 流布本には「萬」の下「四」とありて、これを「カヨヒケマシハ」とよめり。然れども類聚古集、古葉略類聚抄、活字素本は「口」に作り、神田本、西本願寺本、温故堂本、大矢本、京都大學本は「石」につくれり。されば「四」は誤なること著しきが、「石」字を書ける本の性質よりして、信をおくべきによりて「石」を正しとすべきが如くなれど、「ケマシ」より「ハ」につゞくことは語法上ありうべきことにあらざれば、これは「口」を正しとして「カヨヒケマクハ」とよむべし。槻落葉にもしかいへり。これは「カヨヒケム」に「イハク」などの「ク」のつけるものにして、その例は卷十八「四一〇六」に「宇知奈氣伎可多里家末久波《ウチナゲキカタリケマクハ》」あり。その意は通ひけむことはといふ意にして下の「通ひけむ」に照應するなり。
○霍公鳥 「ホトトギス」なり。この文字は卷二「一一二」以後集中例頗る多し。
○鳴五月者 舊訓「ナクサツキニハ」とよみたるを槻落葉は「ナクサツキハ」とよみたり。又古義は上に「來」の字を脱せりとして「キナクサツキハ」とよめり。されど、ここに脱字ありといふ證なければ、この説は從ひがたし。「五月」を「サツキ」といふことは今更證をあぐるまでもなきが、卷十七「三九九六」に「保等登藝須奈可牟佐都奇波《ホトトギスナカムサツキハ》云々」とあり。按ずるに「者」を「ニハ」とよむこと集中例多きことにして卷十八「四一一一」に「保登等藝須奈久五月爾波《ホトトギスナクサツキニハ》」といふ例もあれば舊訓のまゝにて(803)よかるべし。ほとゝぎすは舊暦五月頃に盛んに鳴くものなればかくいへるなり。
○菖蒲 「アヤメグサ」とよむ。菖蒲は香高き草にして今は音にて「シヤウブ」といふ。古は、アヤメグサ」といへること、和名鈔に注して「阿夜女久左」とあるにて知るべし。本集には卷十八「四一〇一」に「保登等藝須伎奈久五月能安夜女具佐波奈多知波奈爾奴吉麻自倍《ホトトギスキナクサツキノアヤメグサハナタチハナニヌキマジヘ》云々」又「四一一六」に「保止止支須支奈久五月能安夜女具佐余母疑可豆良伎《ホトトギスキナクサツキノアヤメグサヨモギカヅラキ》」などにて知るべし。これは五月五日の節に菖蒲を種々に用ゐることあるによりていへるなり。
○花橘乎 「ハナタチバナヲ」なり。花橘とは花のさける橘なり。卷八「一四七八」に「吾屋前之花橘乃《ワガヤドノハナタチバナノ》云々」卷十「一九六七」に「香細寸花橘乎玉貫《カグハシキハナタナバナヲタマニヌキ》云々」など集中花橘といへる例頗る多し。
○玉爾貫 「タマニヌキ」なり。これは卷八「一四九〇」に「蒲草玉爾貫日乎未遠美香《アヤメグサタマニヌクヒヲイマダトホミカ》」卷八「一四七八」に「吾屋前之花橘乃何時毛珠貫倍久其實成奈武《ワガヤドノハナタチバナノイツシカモタマニヌクベクソノミナリナム》」卷十「一九六七」に「香細寸花橘乎玉貫《カグハシキハナタナバナヲタマニヌキ》」卷十七「三九一二」に「多知花乃多麻奴久月之《タチバナノタマヌクツキノ》」「三九九八」に「和我夜度能花橘乎波奈其米爾多麻爾曾安我奴久《ワガヤドノハナタチバナヲハナゴメニタマニゾアガヌク》」卷十九「四一六六」に「菖蒲花橘乎※[女+感]嬬良我珠貫麻泥爾《アヤメクサハナタチハナヲヲトメラガタマニヌクマデニ》」などにて菖蒲と花橘とを玉に貫くといふことを考ふべし。玉に貫くとは玉として貫くといふ義にしてこれは次にいふ所の菖蒲※[草冠/縵]にするなり。この事はなほ下にいふべし。
○一云貫交 これは「玉爾貫」とある句を一本に「ヌキマジヘ」とありと注したるなり。その例は卷十八「四一〇一」に「保登等藝須伎奈久五月能安夜女具佐《ホトトギスキナクサツキノアヤメグサ》、波奈多知波奈爾奴吉麻自倍可頭良爾世餘等《ハナタチハナニヌキマジヘカヅラニセ》云々」とあり。意は大差なし。
(804)○※[草冠/縵]爾將爲登 「カヅラニセムト」とよむ。これは卷十八「四〇三五」に「安夜賣具佐加豆良爾勢武日《アヤメグサカヅラニセムヒ》」又上にひける如く「安夜女具佐波奈多知波奈爾奴吉麻自倍可頭良爾世餘等《アヤメグサハナタチバナニヌキマジヘカツラニセヨト》」(四一〇一)又「四一一六」に「保止止支須支奈久五月能安夜女具佐余母疑可豆良伎《ホトトギスキナクサツキノアヤメグサヨモギカヅラキ》」ともいへる如く、菖蒲、蓬などの香草と花橘とを玉の如くに貫きて※[草冠/縵]として五月五日の節に頭髪につけたるものにしてこれを菖蒲鬘といひしなり。續日本紀天平十九年五月庚辰に「太上天皇詔曰、昔者五日之節常用2菖蒲1爲v縵、比來己停2此事1從v今而後非2菖蒲鬘1者勿v入2宮中1」延喜式太政官式に「凡五月五日……内外群官皆着2菖蒲鬘1諸司各供2其職1」とあり。さて又西宮記五月五日行事の條に「著2菖蒲鬘1如2日景縵1」とあれば頭髪の飾にせしこと明かなり。「※[草冠/縵]」は「縵」におなじきが、これを艸冠にせるは本邦の造字にして、わが國の古、主として蔓草をかづらにせしによりて「縵」に草冠を加へしならむともいひ、又「蔓」といふ字に糸編を加へしならむといへり。さて代匠記などに之を藥玉なりといへれど、藥玉は鬘にするものにあらず。この末の「ト」は下の「念而」につゞくなり。
○九月能 「ナガツキノ」とよむ。このかな書の例は本集には見えねど、古來の語なればもとよりかくよむべきなり。
○四具禮能時者 「シグレノトキハ」とよむ。「シグレ」は卷一「八二」の歌にも見えてここと同じ文字を用ゐたり。この「しぐれ」については卷一に既にいへる如く、和名鈔に「※[雨/衆]雨」に「之久禮」とあるが、それは寧ろあたらずして、秋より冬にかけて、ふりみふらずみ降りつゞく雨をいふなり。後世は「しぐれ」といへば、初冬に限ることになりたれど、本集には秋にいへること少からず。卷十「二(805)一七九」に「秋山爾鍾禮莫零《アキヤマニシクレナフリソ》」「二二三五」に「秋田苅客乃廬入爾四具禮零《アキタカルタビノイホリニシグレフリ》」卷十八「四一一一」に「秋豆氣婆之具禮能雨零《アキヅケバシグレノアメフリ》」などあり。九月にいへる例はなほ卷十「二一八〇」に「九月乃鍾禮乃雨丹沾通《ナガツキノシグレノアメニヌレトホリ》」「二二六三」に「九月四具禮乃雨之山霧之《ナガツキノシグレノアメノヤマキリノ》云々」卷十三「三二二三」に「九月乃鍾禮乃落者《ナガツキノシグレノフレバ》」「三三二四」に「九月之四具禮之秋者《ナガツキノシグレノアキハ》」などあり。「シグレノトキ」とは「シグレ」の降る時節にはの意なり。
○黄葉乎 「モミヂバヲ」なり。黄葉の字は卷一以來屡あらはれたり。意また明かなり。
○折挿頭跡 舊訓「ヲリテカザスト」とよみたるが、代匠記には「をりかざさむとと讀べきか、折の下に將の字落たるか」といへり。されど、さる文字ある本一も無ければ從ひがたし。又「將」字なくとも「アハム」とよむ例は本集に少からねど、この三四の卷に於いて例なきことなり。されば、これはなほ舊訓によるべきものなり。「テ」の文字なくても加へてよむ例は上にも屡あり。黄葉をかざすといふことは卷一「三八」に「黄葉頭刺理」より後例多し。さてこの「ト」も亦下の「不絶等念而」の「念而」につづくなり。かくてここに二の「ト」が相並びて下の「オモフ」につづくなり。かゝる例は卷二「一九九」に「千磐破人乎和爲跡不奉仕國乎治跡皇子隨任賜者《チハヤブルヒトヲヤハセトマツロハヌクニヲヲサメトミコナガラヨサシタマヘバ》」又卷五「八九三」に「世間乎宇之等夜佐之等於母倍杼母《ヨノナカヲウシトヤサシトオモヘドモ》」などあり。
○延葛乃 「ハフクズノ」とよむ。葛は誰も知る蔓草にして、夏に至りていたく蔓延するものなれば「ハフクズ」とはいへるなり。卷二十「四五〇八」に「多可麻刀能努敝波布久受乃須惠都比二《タカマトノヌベハフクズノスヱツヒニ》」などあり。かくてこの「ハフクズノ」は下の「彌遠永」の枕詞とせりといふが、普通の説なるが、文法上よりいへば、この「はふ葛」は下の「彌遠永」の主格たるなり。ここに似たるものには卷十二「三〇七二」(806)に「大埼之有礒乃渡延久受乃往方無哉戀渡南《オホサキノアリソノワタリハフクズノユクヘモナクヤコヒワタリナム》」あり。これも枕詞にあらずして一種の形容なり。尤も卷二十「四五〇九」の「波布久受能多要受之努波牟《ハフクズノタエズシヌバム》」などは枕詞といふを得むか。いづれにしても、その蔓延する状態よりいひたるものなり。
○彌遠永 舊訓「イヤトホナガク」とよめり。童蒙抄には「イヤヲチナガク、イヤスヱナガクとも讀べし」といはれたれど、「遠」の字を「ヲチ」といふも「スヱ」とよむも無理なり。舊訓のまゝにてよし。この語は文字少しくかはれど、卷二「一九六」に「天地之彌遠長久思將往御名爾懸世流明日香河《アメツチノイヤトホナガクオモヒユカムミナニカヽセルアスカヽハ》」と趣似たり。これは延ふ葛の遠く永く到るが如くに彌遠永くといふ意なり。
○一云田葛根乃彌速長爾 これは上の、延葛以下の二句を一本には斯くせりとなり。「田葛」の二字は「クズ」なり。かくかける例は本集に少からず。卷七「一三四六」に「姫押生澤邊之眞田葛原《ヲミナヘシオフルサハヘノマクズハラ》」卷十「一九八五」に「眞田葛延夏野之繁如是戀者《マクズハフナツヌノシゲクカクコヒバ》」卷十「二二九五」に「我屋戸之田葛葉日殊色付奴《ワガヤドノクズハヒニケニイロヅキヌ》」卷十二「三〇六八」に「水莖之崗乃田葛葉緒吹變《ミヅクキノヲカノクズハヲフキカヘシ》」「三〇六九」に「赤駒之射去羽許眞田葛原《アカゴマノイユキハバカルマクズハラ》」等なほ他にもあり。これらの例みな「田葛」二字にて「クズ」の語にあてたり。これにつきて説をなせるものは殆どなく、ただ攷證のみ説をなせり。曰はく「田字をばいかにしてそへたるにか心得がたし。古しへ、田の字は水ある田のみにあらで、書紀神代紀下に粟田《アハフ》、豆田《マメフ》云々和名抄田園類に、日本紀私紀云粟田【阿波不】豆【末米布】云々など生《フ》の意に田の字をかくを思へば、こゝもただ葛の生たる意にて田の字をば添て書るか。また廣雅釋詁二に田陳也とあれば、葛は蔓生して延陳《ハヒツラナル》もの故に其意をもて田の字をば添て書るか、猶よく考ふべし」といへり。按ずるに葛は本邦にては栽培したるを(807)きかねど、支那にては栽培せしなり。その證は本草綱目に「時珍曰葛有2野生1有2家種1云々」といへるにてしるく、それも古くよりありしことは、晋の張華の博物志に「野葛食v之殺v人、家葛種v之三年不v收後族生(スルモ)亦不v可v食」(族生謂「不播種而生」)といへるにてもしるべし。さてここに「野葛」「家葛」の熟字あり。これ李時珍の所謂野生と家種とにあたるものなるが、この外に「山葛」の熟字の應※[王+爰]、杜甫などの詩に散見するあり。この「山葛」は即ち「野葛」なれば「田麥」「田桑」の熟字の例によれば「家葛」又「田葛」といふをうべし。但し「田葛」の熟字の実例は未だ見出でねど、これは本邦製のものにあらずして、支那にての熟字を本邦にて襲用せしものならむ。かくてこの二句は「クズノネノイヤトホナガニ」とよむべきなり。その意も本行のに大差なきごとくなれど、その根にとりて遠長くといへるは拙なり。
○萬世爾 「ヨロヅヨニ」とよむ。この語の例は卷一「八〇」に「萬代爾吾母將通《ヨロツヨニワレモカヨハム》」卷二「一七一」に「萬代爾國所知麻之《ヨロヅヨニクニシラサマシ》」など少からず。その意は萬世にわたりての意なること屡いへり。
○不絶等念而 舊訓「タエジトオモヒテ」とよめるを考に「タエジトモヒテ」とよみたり。「不絶」は「タエズ」とも「タエジ」ともよみうべきが、ここは斷言すべき所にあらねば、「タエジ」とよむべきこと論なし。「モヒテ」は「オモヒテ」の上略なるがこれはいづれにてもよかるべし。この「念而」が上の二の「ト」をうくるものなることは既にいへり。
○一云大船之念憑而 これは上の二句をば一本に「オホフネノオモヒタノミテ」とせる本ありとなり。この語の例は卷二「一六七」は「天下四方之人乃大船之思憑而天水仰而待爾《アメノシタヨモノヒトノオホフネノオモヒタノミテアマツミヅアフギテマツニ》」「二〇七」に「大船(808)之思憑而《オホフネノオモヒタノミテ》」ありて、はやくそこにいへり。
○將通 舊訓「カヨヒケム」とよめるが、これは下の君に對しての連體格にしてかくよむにつきて古來異説なし。「將」を「ケム」にあてたる例は、卷二「一四三」に「磐代乃岸之松枝將結人者反而復將見鴨《イハシロノキシノマツガエムスビケムヒトハカヘリテマタミケムカモ》」あり。古義曰はく「ここにて上に「通計萬口波」とある首尾を相調へたり」とこの説の如し。
○君乎婆明日從 舊訓「キミヲバアスヨリ」とよみたるを考は「キミヲバアスユ」とよめり。「從」は「ヨリ」の意にして古語「ユ」ともいひたればいづれにても不條理にあらねど、ここは音の數の關係よりして考の説に從ふべし。意明かなり。
○一云君乎從明日香 この下の「香」字類聚古集、古葉類聚抄、神田本、細井本等に「者」にせり。古義はその「者」の字のある方をとり、それを本文に立てたり。されど、さる事は武斷にすぐ。又末の字多くの古寫本「香」なれば文字のままにては「キミヲアスユカ」といふなり。これをそのまゝ本文に立つれば、「か」の疑問の助詞二重になりて不可なり。よろしとも思はれず。
○外爾可聞見牟 古來「ヨソニカモミム」とよみて異説なし。「外」字を「ヨソ」とよむ例は卷二「一七四」に「外爾見之檀乃岡毛《ヨソニミシマユミノヲカモ》云々」にありてそこに説けり。
○一首の意 この石村の道をば朝毎に往復したまひけむ人即ち石田王の念ひつゝ通ひけむ事は、霍公鳥のなく五月には菖蒲や花橘を玉として貫きて鬘に爲むと念ひ、九月頃の時雨の降る時には黄葉せる木の枝を折りて挿頭とすべしと思ひ、かくの如く萬世までも絶えすまじと念ひてこの石村の道を通りて泊瀬女の許に朝毎に通ひけむ君をば、明日かの墓地に葬り奉らむ(809)後は外にのみ見てあることとならんか。あはれかはりはてたる世のさまかなとなり。
 
右一首或云柿本朝臣人麻呂作
 
○ これは上の長歌をば、人麿の作なりといふ一説ありとて注したるなり。考はこれを「人麿の歌しらぬものの註なり」と批難し、古義は「後人の註せるにて誤なり」といへり。されど、さる説ありとて注せるまでのものなれば、深く論議するを要せざるものなり。しかも古寫本すべてに存するものなれば、註疏に版本のみにあるもののやうにいへるは事實に違へり。
 
或本反歌二首
 
○ これを考は次の二首は前の長歌の意ともなく體も調も異なれば上の歌の反歌は脱せりとし、次の二首には別に端詞ありしを脱せりとせり。されども、必ずしもかく斷ずべからず。なほ舊に依りて説くべきものなり。
 
424 隱口乃《コモリクノ》、泊瀬越女我《ハツセヲトメガ》、手二纒在《テニマケル》、玉者亂而《タマハミダリテ》、有不言八方《アリトイハズヤモ》。
 
○隱口乃 上にもいへる「コモリクノ」なり。卷一「四五」にこの事の例あり。
○泊瀬越女我 古來「ハツセヲトメガ」とよめり。「泊瀬」は卷一「四五」に「泊瀬山」とありて、その後にも例多し。「越」は呉音「ヲチ」なるを「ヲト」と通用したるものにして「越女」にて「ヲトメ」をあらはしたる(810)なり。さてかく地名を冠して「何ヲトメ」といふことは古語に例多きことなり。古事記中卷に「古波陀袁登賣波《コハダヲトメハ》」下卷に「加志波良袁登賣《カシハラヲトメ》」又本集には卷十四「三四二七」に「可刀利乎登女《カトリヲトメ》」卷一「八一」に「伊勢處女等《イセヲトメドモ》」卷九「一八〇二」に「菟會處女《ウナビヲトメ》」などあり。その土地の處女といふ意なり。これは上の長歌に照して考ふれば石田王の愛せられし人をいへるならむ。
○手二纏在 「テニマケル」とよむ。「纏」は卷二「二七」に「布栲乃手枕纏而《シキタヘノタマクラマキテ》」の例あり。実際に「マトフ」意の「マキ」に用ゐたる例は卷七「一三〇一」に「海神手纏持在玉故《ワタツミノテニマキモテルタマユヱニ》」「一三二六」に「手爾纏古須玉毛欲得《テニマキフルスタマモガモ》」卷九「一七六〇」に「左手乃吾奧手爾纏而去麻師乎《ヒダリテノワガオクノテニマキテイナマシヲ》」等あり。古、玉を手にまける事は卷二「一五〇」に「玉有者《タマナラバ》、手爾卷持而《テニマキモチテ》、衣有者脱時毛無吾戀君曾《キヌナラバヌグトキモナクワガコフルキミゾ》云々」とある所にて説けり。これは上の卷二の歌にもいへる如く、その愛する人を玉にたとへていへるなり。
○王者亂而 舊訓「タマハミダレテ」とよみたれど、既に屡いへる如く「亂」は四段活用として「タマハミダリテ」とよむべきなり。この句の意は、古義に「王の卒去《ミマカラ》せるを手玉の緒絶して散亂れたるになずらへ云へり」といへるをよしとす。槻落葉に「石田(ノ)王の骨を散せるをいふにこそあらめ」といへるは牽強にすぎたり。それも古義が「唯玉と云る縁に亂と云るのみなり」といへるをよしとす。
○有不言八方 舊訓「アリトイハジヤモ」とよみたれど、拾穗抄は「アリトイハズヤモ」とよめるをよしとす。「イハジ」といひては歌の意をさまらず。この語の例は卷二「二二四」に「且今日且今日跡吾待君者石水貝爾交而有登不言八方《ケフケフトワガマツキミハイシカハノカヒニマジリテアリトイハズヤモ》」あり。「ヤモ」は反語として強く肯定せむとするなり。こ(811)この「言フ」は人のいふなり。
○一首の意 泊瀬の里のをとめが、手に卷きて愛したる玉はその緒絶えて亂れてありと人のいふにあらずや。あはれ悲しき事よとなり。
 
425 河風《カハカゼノ》、寒長谷乎《サムキハツセヲ》、歎乍《ナゲキツツ》、公之阿流久爾《キミガアルクニ》、似人母逢耶《ニルヒトモアヘヤ》。
 
○河風 「カハカゼノ」とよむ。「ノ」の字無けれど、前後の關係より加へてよむは例なり。「かはかぜ」の語は本集にこれ一のみなれど、卷一「七三」の「濱風」の例によりて知るべし。この河風は長谷川の河風なるべし。泊瀬川は泊瀬よりその長き谷間を西に流れ、三輪山の麓の邊より北に廻りて流るる川なり。古の石村の地より泊瀬に行くには、この長谷川に沿ひて溯ればおのづから到るべきなり。されば、これ實地につきていへるなり。
○寒長谷乎 「サムキハツセヲ」なり。「長谷」を「ハツセ」にあてたるは本集にてはこれをはじめとするが、集中には例少からず。而して、これは後世「ハセ」「ハセガハ」などいふ場合に必ず「長谷」の文字を用ゐるほどに慣行の固定せるものなるが、長谷の文字に「ハツセ」「ハセ」といふ語の義のあるにあらず。これ初瀬の地が長き谷の間にあるによるに止まるのみなり。上二句は河風の寒き長谷の河ぞひの地をいふ程の意を言に簡にしていへるなり。
○歎乍 「ナゲキツヽ」なり。この語の例は卷二「一一八」に「歎管云々」あり。意明かなり。
○公之阿流久爾 「キミガアルクニ」なり。「公」は「キミ」といふ語にあてたるまでなり。「アルク」は今(812)も用ゐる語なり。卷五「八〇四」に「阿蘇比阿留伎斯《アソビアルキシ》」卷十八「四一三〇」に「佐刀其等邇天良佐比安流氣騰《サトゴトニテラサヒアルケド》」あり。新撰字鏡に「蹊」に注して「阿留久」とあり。さてこの「キミ」をば、考は石田王の妻とし、攷證は石田王の思ひ人とし、槻落葉、古義は石田王とせり。代匠記には上の二説をあげて斷言せず。この事はなほ下にいふべし。
○似人母逢耶 舊訓「ニルヒトモアヘヤ」といひ、諸家異説なし。「アヘヤ」は已然形より係助詞「ヤ」につゞけるものにして「ワスレメヤ」「アラメヤ」などの場合とおなじくこの「ヤ」を以て反語をなすものなり。なほ「アヘ」を命令形として、それに「ヤ」のつけりとする説も見ゆれど、さる語法の例この頃に見えず。似たる例は卷十二「三〇一三」に「袖振河之將絶跡念倍也《ソデフルカハノタエムトモヤ》」卷十五「三六〇一」に「之麻思久毛比等利安里宇流毛能爾安禮也《シマシモヒトリアリウルモノニアレヤ》」など多し。さてこの「似ル人」は攷證にても古義にても石田王に似たる人をさすといへり。この點に於いては上の二説一致するに、その「公」といへるにつき二説に分るる所以は如何といふに、一は「君があるくに」の「に」をば、接續助詞の性質を有するものと解釋して、上下二句をつづくるものとし、一は「に」を格助詞として、「君がアルク」を體言に准ずるものとするにあり。而してこの「公」を石田王ならずとする説は「歎乍」を以て石田王の事を思ひ歎きつつ長谷河の邊をあるくと説くなり。これは「歎き」を亡き人を慕ひ歎くと解するよりの事なるが、歎くといふ語は必ずしもかゝる意に限らずして戀ふる心をいへることは今も然り。本集にてももとよりその例少からず。例へば、卷十八「四一一六」に「奈介伎都都安我末川君我《ナゲキツツアガマツキミガ》」卷十五「三六一六」に「和伎毛故我奈氣伎能奇里爾安可麻之母能乎《ワギモコガナゲキノキリニアカマシモノヲ》」卷二十「四三三二」に「和可禮乎(813)乎之美奈氣伎氣牟都麻《ワカレヲヲシミナゲキケムツマ》」かかる例一々あぐべからず。すなはち、これは、その女の許より止むを得ずかへりなどする人が別を惜み嘆きつつ家路をさして行くことなどあるをいへりとするときは別に深く論ずるまでなく、その意を知るべし。されば古義などの意をよしとす。
○一首の意 長谷河の河風寒き朝などに、この長谷の往來をば、歎きつつ石田王があるきたまひしが、今はた、しか王に似たる人にだにこの道にてあはば、少しは王を慕ふ情もはれむと思ふに、その王に似たる人にもあふ事あらんやはあらじとなり。
 
右二首者或云紀皇女薨後山前|王〔左○〕代2石田王1作之也。
 
○ この左注は上の二首に對して、本文には上の長歌の反歌といふ説によりてあげたれど、その外になほ別の傳ある由を注せるなり。その「或云」とあるは如何なるものに基づきしか今よりしては知りがたし。それ以上に彼是の論をなすは無理といふべし。
○紀皇女薨後 紀皇女の御名は卷二「一一九」の詞書に出で、又この卷「三九〇」の歌の作者として既にいへり。その薨去は何時なりしか詳かならず。
○山前|王〔左○〕 流布本「王」字を脱す。然れども、大矢本、京都大學本、細井本、古葉略類聚抄等に「王」字あるを正しとすべきによりて今補へり。
○代石田王作之也 意明かなり。
 
柿本朝臣人麻呂見2香具山屍1悲慟作歌一首
 
(814)○見香具山屍 香具山の事は卷二「二」の歌の詞書に見えて、そこに述べたり。「屍」は古義に「ミマカレルヒト」とよみたれど「屍」は人といふべきにあらねば無理なり。文字のまゝ「カバネ」とよむべし。類聚名義抄には「骼」「骸」「尸」「屍」に「カバネ」の訓あり。この屍はもとより何人の屍なりしか明かならず。この頃に香具山の邊にさる屍骸の横はりてありしを見てよめりしならむ。
○悲慟作歌 卷二に「悲傷流涕」(二〇三)「泣血哀慟」(二〇七)「悲嘆」(二二八)などの文字見え、この卷には上に「悲慟」(四一五)と見ゆ。「カナシミイタミテ」とよみてよかるべし。
 
426 草枕《クサマクラ》、※[覊の馬が奇]宿爾《タビノヤドリニ》、誰嬬可《タガツマカ》、國忘有《クニワスレタル》、家待莫國《イヘマタマクニ》。
 
○草枕 既に屡出でたる如く「タビ」の枕詞なり。
○※[覊の馬が奇]宿爾 古來「タビノヤドリ」とよめり。「※[覊の馬が奇]」を「タビ」とよむことはここにはじめてあらはるるものなるが、卷九「一六八五」にも「沾衣乎家者夜良奈※[覊の馬が奇]印《ヌレギヌヲイヘニハヤラナタビノシルシニ》」といふ例もあり。これは「羈」の俗字なるが、多くの古寫本は「羈」につくれり。これも同じく俗字なり。「※[羈の馬が奇]」は周禮地官に「※[羈の馬が奇]旅」と見え、又左傳莊二十山年にも「※[羈の馬が奇]旅之臣」とあり。もと旅寓の義なるが、「タビ」の意にも用ゐたり。「タビノヤドリ」といふ語は卷十五「三六四三」に「伊射都氣也良牟多婢能也登里乎《イザツゲヤラムタビノヤドリヲ》」卷六「九三〇」に「客乃屋取爾梶音所聞《タビノヤドリニカヂノトキコユ》」などの例あり。さればこのよみ方は正しきものといふべし。意は明かなるが、ここは香具山に客死せるを旅の宿りといへるなり。
○誰嬬可 「タガツマカ」とよむ。「嬬」をツマとよむことは卷一以來屡あらはれたり。この文字は(815)女をさす文字なれど、夫をもさすに用ゐたることは卷二「一五三」の「若草乃嬬之念鳥立《ワカクサノツマノオモフトリタツ》」「二一七」の「若草其嬬子者《ワカクサノソノツマノコハ》」の例などにて見るべし。これは男か女か明言せられてあらねど、古も今も旅に出づるは男の方多きことなれば、ここも恐らくは男なりしならむ。然らば、この屍となりてある人は誰人かの夫ならむと考へてかくいへるならむ。「可」は疑問の意の助詞なり。
○國忘有 古來「クニワスレタル」とよめり。これは上の「か」に對する故に「タル」とよめるなり。この「クニ」はその人の故郷をさせること今もいふ所と同じ。卷十五「三七四六」に「伊麻左良爾久爾和可禮之弖《イマサラニクニワカレシテ》」卷十七「三九九六」に「和我勢古我久爾弊麻之奈婆《ワガセコガクニヘマシナハ》」卷五「八八六」に「國爾阿良波父刀利美麻之《クニニアラバチヽトリミマシ》」などその例なり。この句は故郷を忘れたるかといふなり。以上にて一段落なり。
○家待莫國 舊訓「イヘマタナクニ」とよめり。類聚古集、古葉類聚抄、神田本、細井本等は「莫」字を「眞」字とせり。而してよみ方は古葉略類聚抄に「イヘマチカクニ」神田本は「イエマタマクニ」細井本は「イヘハマチカニ」とよめり。又童蒙抄は「莫」は「眞」の誤として「イヘマタマクニ」とよみ、考も亦この説によれり。玉の小琴は舊訓のまゝにてよしとして「またなくにといひてまたんにといふことになるべき也」といへり。今ここに誤字ありとして「眞」字とせば「イヘマタマクニ」とよむべきことなり。或は※[手偏+君]解の如く「莫」字のまゝにて「イヘマタマクニ」とよみて可なりといふ説あり。「莫」の音は「マク」なれば、いかにも道理ある如くにして、卷八「一五一七」に「秋乃黄葉散莫惜毛《アキノモミヂノチラマクヲシモ》」卷十三「三三二九」に「是長月之過莫乎伊多母爲便無見《コノナガツキスギマクヲイタモスベナミ》」卷十一「二五七七」に「不相見而將戀年月久家莫國《アヒミズテコヒムトシツキヒサシケマクニ》」といふ例もあれば、このまゝに「イヘマタマクニ」とよみても不可なるにあらず。然るに、「マクニ」と(816)「ナクニ」とは肯定と否定との相違にて意反對になるべし。「イヘマタナクニ」とせば如何なる意となるべきかといふに、契沖は「家またなくには家人の待んにと云意なり」といひたれど、「またなくに」は「待たぬに」といふ意に近くて契沖の説く如き意にはならず。それ故に契沖は「物ならなくになど云なくには非ず。荒きをあらけなく〔二字傍点〕と云如くなは助語なり」といへり。されど、「荒けなく」は一の形容詞にしてここは「またぬ」に「いはく」などの「く」のつきたるなれば、全く別なり。又玉の小琴の説は甚しき牽強にして從ふべき理由なし。今契沖が、はじめに釋せる如き意とせば、「マタマクニ」とせざるべからず。この故に「イヘマタマクニ」とよむべきなり。その意は家にて家人らがこの人の歸りを今か/\かと待ちてあらむにといふなり。家を以て家人の意にとりたるはこの歌のおもしろき點の一なり。
○一首の意 第一段はこの香具山にやどりて寢てあるこの人は誰が夫にかあらむ。この人は何故にかく旅の宿りに臥して故郷に歸ることを忘れたるか。第二には家人は、いつかこの人がかへり來らむと待ちつゝあるらむと思はるるにといふなり。
 
田口廣麿死之時刑部垂麿作歌一首
 
○田口廣麿 この人の事史に見ゆることなく、本集にても亦明かならず。續日本紀慶雲二年十二月癸酉に山前王を筆頭として叙位あり、その際從五位下に叙せられしうちに田口朝臣廣麻呂の名あり。この人の名は流布本には「廣」の字なくしてただ「麿」とのみありて「廣麿」とあるは卜(817)部本、尾張本、豐宮崎本等なるが、それらの本を正しとしてもここにいふ人と同じと斷言しうべからず。その故は五位以上の人ならば、ここに死と書かず、卒とかくべきなり。加之ここには姓《カバネ》なくして「田口廣麿」とあるのみなるに彼は「朝臣」の姓あり。朝臣なると姓なきとは貴賤の差著しきものなり。「死之時」は「スギケルトキ」とよむべし。
○刑部垂麿 「オサカベノタリマロ」とよむ。この人は上の「二六三」の作者にしてその人の事はそこにいへり。
 
427 百不足《モモタラズ》、八十隅坂爾《ヤソクマサカニ》、手向爲者《タムケセバ》、過去人爾《スギニシヒトニ》、蓋相牟鴨《ケダシアハムカモ》。
 
○百不足 舊訓「モモタラヌ」とよめり。されど、枕詞は終止形によむ例なれば「モモタラズ」とよむべし。この枕詞は卷一「五〇」の「百不足五十日太爾作」の下にいへるが、ここは「八十」の枕詞とせるなり。その例は卷十六「三八一一」に「百不足八十乃衢爾夕占爾毛卜爾毛曾問《モモタラズヤソノチマタニユフケニモウラニモゾトフ》」あり。
○八十隅坂爾 舊訓「ヤソスミサカニ」とよめり。考は「隅坂」を「隅路」と改めて、「ヤソノクマチニ」とよみ略解これに從へり。又槻落葉もしか改めて、「ヤソノクマデニ」とよみ、古義は文字はもとのままにて「クマチニ」とよみ、攷證は文字はもとのまゝにて「ヤソクマサカニ」とよみ、註疏等これに從へり。按ずるにこの所異字あるは細井本、活字無訓本に「坂」を「故」とせるあれど、もとより誤にして從ひ難く、その外に誤字なければ誤字説は從ふべからず。さればこのままにて訓を考ふべきが、「ヤソスミサカ」といふにつきては日本書紀神武天皇卷の大和國菟田の墨坂をいふといふ(818)説あれど、ここは地名にあらず。「スミサカ」といふことはいはれなきことなり。「隅」は廣雅に「隅隈垂」とあれば「クマ」とよむに差支なき筈にして、卷六「九四二」に「往隱島乃埼埼隅毛不置憶曾吾來《ユキカクルシマノサキサキクマモオカズオモヒゾワガクル》」と卷一「二五」の「隈毛不落思乍叙來其山道乎《クマモオチズオモヒツツゾコシソノヤマミチヲ》」とを照せば、「隅」即ち「クマ」にあてたりといふことを得べし。されど、「坂」は路の義のある文字にあらねば「隅坂」を「クマヂ」とよむことは不可能なり。これは字のまゝ「ヤソクマサカ」といふべきなり。「クマサカ」といふ語の例は集中こゝにある一のみなれど、「八十阿」」(卷一「七九」)「八十隅」(卷二「一三一」「一三八」)の例は既に出でたり。「八十阿」の坂の意と見るべし。この坂をば攷證に「黄泉平坂の坂にて黄泉國にも坂あるよしなれば、これも坂にてありぬべし」といへり。されど、黄泉平坂をさせりとも斷じがたし。按ずるに、古來、國の境界とする地に熊坂と名づけたる地名少なからず。余が實地にとほれる地にては信濃國と越後國との境の國道筋に熊坂あり、加賀國と越前國との界にも同じ名の地あり。今多くは古の強盗熊坂長範の住みし所といふ由なれど、それは俗説にてその語はおのづから國の境となるべき地勢の名目なりしなり。即「クマ」は(道又は山の脚などの)横に多く折れまがりたる地の屈曲の内部をいひ、「サカ」は縱に、折れ屈りたる地の斜面をいふなれば、その「クマ」と「サカ」との交はる所は多くは國境とするに適したる地勢なるが故に自然にかゝる事になりしならむ。さればここも多くの「クマサカ」即ち國の境となるべき地勢の所をさせるならむ。隨ひてこれは必ず黄泉平坂とせずとも、過去にし人は遙かに、遠き旅に出でしものと見らるべければ、その人の跡を追ひて八十の隅坂に手向する程に遠く至らばの意と見てよきことならむ。
(819)○手向爲者 「タムケセバ」とよむ。「タムケ」は卷一「三四」の「白浪乃濱松之枝乃手向草《シラナミノハママツガエノタムケグサ》」この卷「三三〇」の「佐保過而寧樂乃手祭爾置幣者《サホスギテナラノタムケニオクヌサハ》」などにて既にいひたる如く、神を祭る爲に物を供ふるをいふ。なほこのことは卷十二「三一二八」に「吾妹子夢見來倭路度瀬別手向吾爲《ワギモコヲイメニミエコトヤマトヂノワタリセゴトニタムケゾワガスル》」などに照して考ふれば意知らるべし。八十の坂毎に神に手向せば、思ふ人にあふを得むといふなり。ここには生者と死者との區別を立てざるなり。
○過去人爾 舊訓「スギユクヒトニ」とよめるを契沖は過去をは「スギニシとも讀べし」といひ、童蒙抄、槻落葉、略解、古義等みなこれに從へり。「去」はこの集には動詞としては「ユク」ともよむべく、又複語尾の「ヌ」にもあてたればいづれともよみうべきが、ここは死去せし人をいふなれば、「スギニシヒト」とよむべきなり。この語の例は既に卷一「四七」に「過去君之形見跡曾來師《スギニシキミガカタミトゾコシ》」あり。
○蓋相牟鴨 「ケダシアハムカモ」とよむ。「蓋」の例は既に卷二「一一二」に「蓋哉嶋之吾戀流其騰《ケダシヤナキシワガコフルゴト》」「一九四」に「氣田敷藻相屋當念而《ケダシクモアフヤトオモヒテ》」の例ありてそれらの下にいへる如く、「若し」といふに似て疑ひ推測する副詞なり。或はあふことあらむかといふなり。「カモ」は疑の助詞「カ」に「モ」の添へるなり。
○一首の意 わが友田口廣麻呂は身まかりて泉路に赴きたる由なるが、我れ今、多の隈坂毎に神に手向してわが友田口廣麻呂に會はせ給へと祈りつゝ行き行きて八十の隈坂ともかぞへつべくも手向せば、或はこの人に再びあふことを得むかとなり。
 
土形娘子火2葬泊瀬山1時、柿本朝臣人麿作歌一首
 
(820)○土形娘子 土形といふは和名鈔郷名に「遠江國城飼郡土形【比知加多】」とあるにて「ヒヂカタ」とよむべし。この氏は古事記中卷に「是大山守命者土形君弊岐君榛原君等之祖」とあり。蓋しその一族ならむが、父祖その他一も考ふべき由なし。考に采女ならむといはれたれど、采女ならば國名か郡名かを冠せる筈なれば、采女にあらざること著し。又遊女ならむといふ説あれど、しか思ふべき理由は一も存せず。
○火葬泊瀬山時 火葬は童蒙抄には「ほほむりし云々」とよみ、考は「ヒハフリ」とよみ、槻落葉は音にてよみ、古義に「ヤキハフレル」とよみ註疏これに從へり。按するに「ヤキハフル」といふ用言ありきとは考へられず。又「ヒハフリ」といふ語もありと考へられず。恐らくは火葬は一熟語をなして「ヤキハフリ」といひしならむ。今かりに「ヤキハフリセシトキ」とよみおくべし。火葬の事は文武天皇四年三月に僧道照を火葬せしよりはじまれる由續日本紀に見えたるが、間もなくその風天下に弘く行はれしものと見え、大寶二年十二月に持統天皇崩じ、同三年十二月には飛鳥岡に火葬し奉られたる程なり。この火葬も柿本朝臣人麿の在りし世なれば、その頃にしてなほ當時人の耳目を聳動せしが爲に、かく歌にもよみしならむか。こゝに泊瀬山とあり、持統天皇の御火葬も飛鳥岡にて行はれしを見れば、當時かく高き地にて火葬を行ひしならむか。
 
428 隱口能《コモリクノ》、泊瀬山之《ハツセヤマノ》、山際爾《ヤマノマニ》、伊佐夜歴雲者《イサヨフクモハ》、妹鴨有牟《イモニカモアラム》。
 
○隱口能 「コモリクノ」にして「ハツセ」の枕詞なること屡いへり。
(821)○泊瀬山之 「ハツセノヤマノ」なり。その地は何處なりしか、今よりして知るべからず。
○山際爾 舊訓「ヤマノハニ」とよみたるを考に「ヤマノマニ」とよめり。「山際」は「ヤマノハ」にあらずして「ヤマノマ」なるべきこと、卷一「一七」の「奈良能山乃山際爾伊隱萬代《ナラノヤマノヤマノマニイカクルマデ》」の下に既にいへり。山と山とのアヒダなり。
○伊佐夜歴雲者 「イサヨフクモハ」なり。この語はこの卷「二六四」の「物乃部能八十氏河乃阿白木爾不知代經浪乃去邊白不母《モノノフノヤソウヂカハノアジロギニイサヨフナミノユクヘシラズモ》」「三七二」の「雲居奈須心射左欲比《クモヰナスココロイサヨヒ》」「三九三」の「山之末爾射狹夜歴月乎外爾見而思香《ヤマノハニイサヨフツキヲヨソニミテシガ》」の例にて既に明かなる如く、その山の間に立ちも去らず、居もさだめぬさまに見ゆる雲をいふ。これはその火葬の煙をば、雲といひなしたるものならむ。
○妹鴨有牟 古來「イモニカモアラム」とよみて異説なし。その火葬の煙はその娘子のなれるはてなれば、煙そのものをその娘子ならむかといへるなり。「鴨」は疑の「カ」に「モ」のそはれるなり。
○一首の意 泊瀬山の山の際に立ちのぼりつつさりもやらずいさよふあの雲即ち煙は、あれは、土形娘子にてあるらむかとなり。卷七の挽歌の雜挽十二首中「一四〇七」に「隱口乃泊瀬山爾霞立棚引雲者妹爾鴨在武《コモリクノハツセノヤマニカスミタチタナビククモハイモニカカモアラム》」とあるはこの歌に甚しく似たり。
 
溺死出雲娘子火2葬吉野1時柿本朝臣人麿作歌二首
 
○溺死出雲娘子 「溺死」は「オボレシニタル」とよむべきか。「出雲娘子」は如何なる人とも知りがたし。「出雲」は國の名か、或は又氏の名か、それも亦知りがたし。出雲氏は新撰姓氏録に「出雲宿禰、(822)天穗日命子、天夷鳥命之後也」と見えたり。されどもとよりこの氏人とも定めがたし。その溺死の地は吉野川にてありしことはこの第二首の歌にて知られたり。
○火葬吉野時 吉野川にて溺死せし故に、その附近にて火葬せしなるべし。上の歌にもここにも火葬とことわれるは當時火葬が珍らしかりしが故なるべし。
 
429 山際從《ヤマノマユ》、出雲兒等者《イヅモノコラハ》、霧有哉《キリナレヤ》、吉野山《ヨシヌノヤマノ》、嶺霏※[雨/微]〔左○〕《ミネニタナビク》。
 
○山際從 舊本「ヤマノハニ」とよめり。代匠記は「ヤマノハユ」とも「ヤマノハヲ」とも讀べし」といひ、考は「ヤマノマユ」とよめり。これは上の歌にいへるが如き理由によりて「ヤマノマユ」とよむべきこといふをまたず。これは「山の間よりいづ」といふにとりて出雲の枕詞とせるものなり。攷證は「山間より出る雲とつづけたる也」といひたれど、「出づ」のみにつづくものにして「出づる雲」までの意はあらざるべし。
○出雲兒等者 「イヅモノコラハ」とよむ。これは出雲娘子をさせり。「等」は間投助詞の「ラ」をあらはせるにて多數をあらはせるものにあらず。かゝる「ラ」の例は卷十四「三四八四」に「安左乎良乎遠家爾布須左爾宇麻須登毛《アサヲラヲヲケニフスサニウマズトモ》」卷十六「二八六〇」に「情進爾行之荒雄良奥爾袖振《サカシラニユキシアラヲラオキニソデフル》」(以下五首ニモアリ)など多し。
○霧有哉 「キリナレヤ」とよむ。ここに似たる語遣は卷一「二三」の「打麻乎麻續王白水郎有哉射等籠荷四間乃珠藻苅麻須《ウツソヲヲミノオホキミアマナレヤイラコガシマノタマモカリマス》」に既に見え、又卷十四「三三七〇」の「爾古具佐能波奈豆麻奈禮也比母登可(823)受禰牟《ニコグサノハナヅマナレヤヒモトカズネム》」あり。これは「ナレ」にて、下の句に對しての條件を示すものなるを係助詞「ヤ」にてうけて疑問の意をあらはし、且つその結合を有力にしたるものなり。さてこの霧は實際の霧にあらずしてその火葬の煙を見なして霧とはいへるなり。
○吉野山 「ヨシヌノヤマノ」とよむ。「下」に「ノ」の字なけれど、次の「嶺」との關係よりして加へてよむなり。意は明かなり。
○嶺霏※[雨/微] 「※[雨/微]」の字流布本「※[雨/徽]」に作れども、かゝる文字は古來なき所にして「※[雨/微]」なるべきこと著し。古寫本には正しく「※[雨/微]」字をかけるもの少からず。この故に今は正しつ。この「霏※[雨/微]」の熟字は本集に用例少からずして、いづれも古來「タナビク」とよめり。卷九「一七〇六」に「衣手高屋於霏※[雨/微]麻天爾《コロモデヲタカヤノウヘニタナビクマデニ》」卷十「一八一五」に「春去者木葉凌而霞霏※[雨/微]《ハルサレバコノハシノギテカスミタナビク》」「一八一二」に「此夕霞霏※[雨/微]春立下《コノユフベカスミタナビクハルタツラシモ》」「一八一四」に「古人出殖兼杉枝霞霏※[雨/微]春者來良之《イニシヘノヒトノウヱケムスギガエニカスミタナビクハルハキヌラシ》」「一八一六」に「佐豆人之弓月我高荷霞霏※[雨/微]《サツヒトノユツキガタケニカスミタナビク》」これなり。「霏※[雨/微]の字はその本義による時は「霏」は説文に「雨雲貌」といひ、「※[雨/微]は集韻に「小雨也」とある如く、雨などの降るにいふものなるが、ここはその原義にては通ぜざるに似たり。原義のまゝにては、この二字を「タナビク」とよむことは首肯せらるべきにあらぬに諸家多くこれを看過せり。ひとり攷證は説をなして「義訓也」といひたれど、その理由をいはず。文選なる謝靈運の石壁精舍還湖中の詩に「雲霞收夕霏」の注に「善曰霏雲飛貌」といひ「濟曰、霏日氣也」といひたれば、説文の意より離れて「たなびく」とよみうべき意あり。然るに「※[雨/微]」は集韻(宋)に見えて、後世の造字なるが如く、その本字は※[さんずい+微の旁]なりといへり。その※[さんずい+微の旁]字は説文に「小雨也」とあり。されど、「霏※[雨/微]」と熟せる例は本集以外には未だ(824)見ざる所なり。よりて思ふに、これは或は「霏微」といふ熟字に基づくにあらざるか。「霏微」の字面は杜甫の詩(曲江對酒)に「水晶宮殿轉霏微」徐鉉の詩に「江證齊色霧霏微」など見え、分類に「霏微(ハ)烟霧※[貌の旁]」注に「霏微(トハ)音煙霧蔽之則不明矣」と見ゆ。六朝頃の例は未だ見出でず。されど、なほ六朝頃に行はれしを本邦にも用ゐしことならむか。而して本來下字は「微」字なるを上字に傚ひて雨を冠し「※[雨/微]」とせしにあらざるか。若しこの事ありしものとせば、「霏」は上の文選の例によるべく、「微」はその雲霧のさまをいふ爲に添へしものならむ。かくて二字にてたなびくの訓も生ぜしか。類聚名義鈔には「霏※[雨/微]」に「タナビク」の訓あり。これを以て見れば、萬葉集以外にもこの熟字を用ゐたるもの存したりしならむ。「ミネニ」の「ニ」にあたる文字なけれども、前後の關係によりて加へよむべきなり。意は明かなり。
○一首の意 出雲娘子は霧にあればにやあらん、吉野山の嶺にたなびけりとなり。その火葬の煙の吉野山にたなびけるをよめるなり。
 
430 八雲刺《ヤクモサス》、出雲子等《イヅモノコラガ》、黒髪者《クロカミハ》、吉野川《ヨシヌノカハノ》、奥名豆颯《オキニナヅサフ》。
 
○八雲刺 舊訓「ヤクモタツ」とよめり。されど、「刺」は「タツ」とよむべからず。古寫本中には「ヤクモサス」とよめるあり、代匠記も「ヤクモサス」とよめり。これは出雲の枕詞として「八雲立」出雲八重垣云々といふ名高き素戔嗚尊の神詠にあると同じき語なるべきが後世「タツ」が「サス」と訛りたるものならむ。それは日本紀崇神卷なる「揶句毛多菟《ヤクモタツ》、伊頭毛多鷄流蛾波鶏流多知《イヅモタケルガハケルタチ》云々」の歌を(825)古事記には景行天皇の御世の事としてその歌を「夜都米佐須伊豆毛多祁流賀波祁流多知《ヤツメサスイヅモタケルガハケルタチ》云々」とせり。これ即ち「ヤクモタツ」の訛れるものなり。今の「ヤクモサス」はその中間に位する訛として古來かかる傳もありしならむ。
○出雲子等 「イヅモノコラガ」とよむ。「ガ」字なけれど、前後の關係よりして加へてよむこと例の如し。
○黒髪者 「クロカミハ」とよむ。黒髪の語例は卷二「八七」に出でたり。
○吉野川 「ヨシヌノカハノ」とよむ。下の「ノ」は字なけれど、前後の關係によりて加へよむ。
○奧名豆颯 「オキニナヅサフ」とよむ。奧は「オキ」なり。卷二「一五三」の「奧放而榜來船《オキサケテコギクルフネ》」等以下例少からず。「ニ」は文字なけれど、前後の關係によりて補ひよむべし。「オキ」につきては略解は「川にても岸より遠き所を沖といへり」といへり。「名豆颯」を「ナヅサフ」とよむ「颯」は入聲合韻の字にして、廣韻には蘇合切とせれば「サフ」の音なるを「ナヅサフ」の假名に用ゐたるなり。「ナヅサフ」といふ語の例はこの卷「四四三」に「牛留鳥名津匝來與《クロトリノナヅサヒクルト》」卷四「五〇九」に「鳥自物魚津左比去者《トリジモノナヅサヒユケバ》」卷六「一〇一六」に「遊士之遊乎將見登莫津左比曾來之《ミヤビヲノアソブヲミムトナヅサヒゾコシ》」卷九「一七五〇」に「暇有者魚津柴比渡《イトマアレハナヅサヒワタリ》」卷十五「三六二七」に「柔保等里能奈豆左比由氣婆《ニホトリノナヅサヒユケバ》」「三六二三」に「伊射里須流安麻能等毛之備於伎爾奈都佐布《イザリスルアマノトモシビオキニナヅサフ》」「三六二五」に「安氣久禮婆於伎爾奈都佐布可母須良母《アケクレバオキニナヅサフカモスラモ》」「三六九一」に「奈美能宇部由奈豆佐比伎爾弖《ナミノウヘユナヅサヒキニテ》」卷十七「四〇一一」に「由久加波乃伎欲吉瀬其登爾可賀里左之奈豆左比能保流《ユクカハノキヨキセゴトニカガリサシナヅサヒノホル》」卷十九「四一五六」に「可我理左之奈津左比由氣波《カガリサシナヅサヒユケバ》」「四一八九」に「叔羅河奈頭左比沂《シクラガハナヅサヒノボリ》」等あり。さてこの語の意につきては古來定(826)説なかりしを、久老は槻落葉に於いて、この語の皆水邊ならぬはなきことを注意し、宣長は古事記傳卷四十二に於いて「淤知那豆佐比《オナナヅサヒ》」の説明に於いて次の如くいへり。曰はく「淤知は落なり。那豆佐比は浮ぶを云。凡て此(ノ)言は或は水に浮ぶをも云(ヒ)或は底に沈むをも云(ヒ)或は渡るをも云て、何れも水に著《ツク》ことに云り。(萬葉を見て知(ル)べし。なほ玉勝間に委く云り。)此(ノ)言昔より物知(リ)人みな解(キ)誤れり。さて此《コヽ》は御盃の酒に浮べるにて、水には非れども、酒も水の類なれば違へることなし。其(ノ)中に浮ぶを云る例は萬葉三【四十八丁】に云々黒髪者吉野川奧名豆颯四【十六丁】に鳥自物魚津左比去者(水鳥の水に浮て行(ク)如と云なり)十二【十二丁】に爾保鳥之奈津柴比|來《コシ》乎などなほあり」といへり。さて玉勝間にては卷六に「なづさふ」の條ありて、同じく説けるがその要をとれば、「萬葉集に……今その歌どもをあまねく考へ合するに、或は海川などにうかべること、或は船より渡ることなどにいひ、枕詞にも……いづれも/\水に着くことにのみいへり。水によらぬは一つもなし。集の中の歌共をこころみてしるべし。其中にこの卷なる長歌に「いかならむ年の月日かつつじ花かぐはし君が、引網のなづさひこむと云々これは上にも下にも海川などの事見えねども、他《ホカ》の例をもて思ふに海路をへて歸り來べき國の人なるべし云々」といひて中昔の物語書などに、なれしたしむことにいへると異なる意なるをいへり。今この語の用例を見るに、如何にも水邊に關する事に專らいひて、馴れ親む意とは見えず。然れども、この萬葉集時代の語の例についての適切なる解釋は古來未だ無しといふべし。本居の説もそれが、水邊に關する意のものなることを示したるに止まりて適切なる解を下してあらず。明治時代にて(827)は、佐藤誠實の語學指南に「ナツサフ淹」と標して「水ニ漬クヲイフ、轉ジテハ馴レ傍フヲ云フ「古」「源」」とあり。されども、これも未だ遽かに信ずべからず。今上にあげたる本集中のこの語の用例を見るに、
 ナヅサヒ〔四字傍線〕ユケ〔二字右○〕バ  (卷四、五〇九)
                      (卷十五、三六二七)
                      (卷十九、四一五六)
 ナヅサヒ〔四字傍線〕キ〔右○〕ニテ    (卷十五、三六九一)
 ナヅサヒ〔四字傍線〕コ〔右○〕ムト    (卷三、四四三)
 ナヅサヒ〔四字傍線〕ゾコ〔右○〕シ    (卷六、一〇一六)
 ナヅサヒ〔四字傍線〕コ〔右○〕シヲ    (卷十二、二九四七左注)
 ナヅサヒ〔四字傍線〕ノボル〔三字右○〕  (卷十七、四〇一一)
 ナヅサヒ〔四字傍線〕ノボリ〔三字右○〕  (卷十九、四一八九)
 ナヅサヒ〔四字傍線〕ワタリ〔三字右○〕  (卷九、一七五〇)
の諸例は自らなす移動的行動の意なること著しくて単に水に漬きてある意にあらず。ただ「なづさふ」とのみいへる例は
 オキニナヅサフ(海人の燈火) (卷十五、三六二三)
とありて、これは漁舟の燈火にして水に漬くものにあらず。次に同じく
(828) オキニナヅサフ(鴨)     (卷十五、三六二五)
あるが、これは水に漬くといふべきに似たりと見ゆれど、上の「海人の燈火」に照して考ふれば水中にひたされてありといふよりは水上に浮ぶといふべきに似たり。かくて又古事記の歌の
 「ナヅサフ」
も下枝の枝の末葉が盃の酒の上に落ちて浮びたるをよめること著し。さればこの語は水に漬るといふよりは寧ろ水に浮ぶをいふに近しといふべし。されど、なほ考ふるに、上の自らなす動作にいへる十例の中、
 卷十五「三六二七」の 「ナツサヒユケバ」(舟行)
 卷四「五〇九」の   「ナツサヒユケバ」(舟行)
 卷十五「三六九一」の 「ナヅサヒキニテ」(波上舟行)
の三は舟行なるが上に、上の「浮ぶ」といふ意なほありといひつべし。かくて、他の七例は舟行なりや否や決定せず。されど
 卷六「一〇一六」の「ナヅサヒゾコシ」はその上に「海原之遠(キ)渡乎」とあれば舟行なること著し。卷十二「二九四七」の左注の「ナツサヒコシヲ」は語の上には明かに見えねど、「ニホドリノ」の枕詞あれば、浮ぶ意なること著しく、上の卷十五「三六二五」の類ともいふべし。又卷三「四四三」の「ナヅサヒコムト」は旅して來むとまつ由なるが、これも「くろ鳥の」を通行の説の如く鴨の一種とせば、上の例と同じと見るべく、これ亦「三六二(829)五」の類といひつべし。
 次に他の四例中
 卷十九「四一五六」の 「ナヅサヒユケバ」(鵜河) (衣、ヌレヌといふ)
 卷十七「四〇一一」の 「ナヅサヒノボル」(鵜河)
 卷十九「四一八九」の 「ナヅサヒノボリ」(鵜河及漁獵)
の三は鵜河をよめるにて、舟か徒かにて水をわたりつゝ歩くことをいへるならむ。なほ他の一例
 卷九「一七五〇」の「ナヅサヒワタリ」
はその本の長歌によれば、向峯なる瀧の上の花を折らむとて、その水流にそひて渡る由なり。
 以上すべての例にわたりて考ふるに、水中に漬り沈むが如き意はなくして水上に浮ぶか、漂ふかの如き意のみなり。然るに、上に自らする行動の意なる由いへる、
 ナヅサヒ〔四字傍線〕ユケバ〔三字右○〕
 ナヅサヒ〔四字傍線〕キ〔右○〕ニテ――コ〔右○〕ムト――ゾコ〔右○〕シ――コ〔右○〕シヲ
 ナヅサヒ〔四字傍線〕ノボル〔三字右○〕――ノボリ〔三字右○〕
 ナヅサヒ〔四字傍線〕ワタリ〔三字右○〕
の諸例はその動作の意は「ユク」「クル」「ノボル」「ワタル」にあることはいふまでもなけれど、「ナヅサヒ」に固着不動の意味あるときはこの語つづきの生ずる原由なければ、なほ水上に浮ぶか漂ふ(830)かの意に近しといふべし。されど、今日の學問の程度にてはこれが確定的の解釋を下しうべくもあらず。ここは大體漂ひ浮ぶといふ程の意と解しおくべし。なほ後人の委しき考をまつ。
○一首の意 明かなり。出雲娘子の黒髪が、吉野川の川中に流れ漂ひ浮ぶよとなり。略解には「此二首前後せり」といへり。事實の上よりいへばさる事なり。されど、必ずしもかく嚴密に論ずるを要せじ。
 
過2勝鹿眞間娘子墓1時山部宿禰赤人作歌一首并短歌
 
○過 これは「スグル」とよめる人もあり。姑くそれによるべし。古義は「トホレル」とよみたれど、過を「トホル」とよむも不當なり。
○勝鹿眞間娘子墓 勝鹿は下總國葛飾郡の地なり。和名鈔郡名には「葛餝加止志加」とあれど、この歌にも「勝牡鹿」とかき、卷十四「三三四九」に「可豆思迦」「三二八四」に「可都思加」「二三八五」に「可豆思賀」などかければ、ここも「カツシカ」とよむべし。眞間は今もその名、殘れる地にして、下總國府臺より南にあり。なほ下にいふことあらむ。そこに俗にこの娘子の墓といふものも存す。この眞間娘子の事は卷九の「詠勝鹿眞間娘子歌」(一八〇七)にて知らるるが、美人にてありし由によめり。その歌には「勝牡鹿乃眞間乃手兒奈」といへり。この女の事につきて、下河邊長流の續歌林良材集に卷九の歌を引いて、「右下總國葛飾郡眞間といふ所にむかしひとりの美女ありけり。(831)賤しき家の女にて、あやしき衣をき、くつをもえはかずして或時はまゝの江におりて、玉もをかり、有時はまゝの井に出て水くみはこびなどしけれど、かたちのうつくしきことは高貴良家の女にも猶ならびなかりしかば、みる人きく人、相きほひあらそふこと飛蝶の火に入ことく、みなと入する舟の我をくれしときそふかことくなりなりければ、女おもひあつかひて一生いくはくもあらぬことを思とりて、かの津に身を投て、はかなく成にけり。されば其所に墓つくりて後人にはしめしけるなり」といへり。「墓」は歌の詞によりて「オクツキ」とよむべし。
○山部宿禰赤人作歌 山部宿禰赤人の事は上に屡出でたり。この人富土山を詠せる歌あるよりして見れば、事ありて東國に下りて、この墓をも見てよみしならむ。
 
431 古昔《イニシヘニ》、有家武人之《アリケムヒトノ》、倭文幡乃《シヅハタノ》、帶解替而《オビトキカヘテ》、廬屋立《フセヤタテ》、妻門爲家武《ツマドヒシケム》、勝牡鹿乃《カツシカノ》、眞間之手兒名之《ママノテコナガ》、奥槨乎《オクツキヲ》、此間登波聞杼《ココトハキケド》、眞木葉哉《マキノハヤ》、茂有武《シケリタルラム》、松之根也《マツガネヤ》、遠久寸《トホクヒサシキ》、言耳毛《コトノミモ》、名耳母《ナノミモ》、吾者不所忘《ワレハワスラエナクニ》。
 
○古昔 「イニシヘニ」とよむ。「古昔」を「イニシヘ」とよむことは卷一「一三」以來屡あり。ここに「ニ」にあたる假名なけれども、前後の關係によりて加へてよめるなり。
○有家武人之 「アリケムヒトノ」とよむ。意明かなり。古にありて、この眞間娘子につまどひせし人を想像していへるなり。
(832)○倭文幡乃 「文」字流布本及び多くの古寫本「父」に作れど意を爲さず。神田本、細井本等に「文」につくるを正しとすべし。「シヅハタノ」とよむ。卷十七「四〇一一」に「神社爾底流鏡之都爾等里蘇倍《カミノヤシロニテルカガミシヅニトリソヘ》」といふ「しづ」これなり。「倭文」の文字は日本紀卷二自注に「倭文神此云2斯圖梨能俄未《シヅリノカミ》1」天武紀下に「倭文連」の注に「倭文此云之頭於利」とあるによりて考ふるに「シヅリ」又「シツオリ」とよむが正しきものの如く、而してその「シヅリ」とは「シヅオリ」の義なりといふ。なほ又倭文の文字は古語拾遺に「天羽槌雄【倭文遠祖也】織2文布1」とあるによれば倭の文布の義にして、本邦古代の織物にして布の文あるものをさせるなり。古この「しづ」を以て神に奉る幣にもせしが故に上の卷十七「四〇一一」の歌もありしならむが、卷十三「三二八六」に「倭文幣乎手取持而《シヅヌサヲテニトリモチテ》」ともいへり。又これに基づき卷四「六七二」に「倭文手纏數仁毛不有壽持《シヅタマキカズニモアラヌイノチモチ》」とあるは「倭文」を織る爲の紡麻を緒環にせるをたゞ「たまき」といひたるなるべく、それは一端の織物をつくるにも多くの數の「たまき」を要するものなれば「數」の枕詞とせしならむ。かくて又ここにいふ「しづはた」の「はた」は元來機にして織物をつくる器械のことなれど、それにて織れる織物をもやがて「はた」といへるならむ。「しづはた」にて織物の義にせるは、日本紀武烈卷の歌に「於褒枳瀰能瀰於寐能之都》都波※[手偏+施の旁]夢須寐陀黎《オホキミノミオビノシツハタムスビタレ》」とあり。又本集卷十一「二六二八」に「去家之倭文旗帶乎結垂《イニシヘノシヅハタオビヲムスビタレ》」とあるも倭文|織《ハタ》の帶なるなり。ここも下の辭につづけてみれば、帶の料たるなり。
○帶解替而 「オビトキカヘテ」とよむ。倭文織の帶を解きかへてなり。この句より下二句につきては古來種々の説あり。先づこの句につきて契沖は「帶解替てと云へるは語らへる男有や(833)うに聞ゆ。第九の歌は定たる男なしと見ゆ。異義にや」といひ、考には「男女帶をときかはして寢るをいふ」といひ、攷證は「ここは帶をときかはしてといふ意也。さればこの手兒名、男にあへりしよしなるを九【卅四丁】にこの手兒名の事をくはしくよめる長歌にはよばふ人あまたある故に、いづれにもあはで、水に入てうせけるよしいへるは、傳への異なるにか。またここの帶解替而廬屋立妻問爲家武とある句のつづけあしきを思ふに、この帶解替而の下に、二人してねんとて、ますらをがなどいふ意の句の二句ばかりありしを脱せるにもあるべし」といひ、新考には「「帶トキカヘテ」を久老は「トキカヘテはトキカハシテなり」といひ、雅澄は「帶解|交《カハ》シテといふに同じ。互に帶解テといはむが如し」といへり。されど眞間娘子は九卷の長歌によれば、いづれの男にも逢はで死にしなれば、帶トキカハシテ又は互ニ帶解テなど云ふべからず。或は赤人は九卷の長歌とは異なる傳説によりて此歌を作れるなりとせむか。さてもなほ互に帶ときて寢る事はふせ屋を建てゝ妻問する事より後に云はざるべからず」といひ、なほ説をなして、結局「しづはたの帶ゆひたれてふせやたてつまとひしけむと訓みて、倭文の帶を結び垂れ、又新に家を立てて娘子をよばひし事とすべし。或は字訓共にもとのままにて舊キヲ解キ新シキ倭文ノ帶ニ替ヘテの意即帶シメ替ヘテの意とすべきか」といへり。近頃出でたる全釋は上述の多くの説を從ふべからずとして「この句は下に續き方が少し穩やかでない爲、かやうな説も出たのであるが、ここは廬屋立て倭文幡の帶解きかへて妻問ひしけむといふ意になつてゐるのである」といへり。今案ずるに、新考のここに誤字ありといふ説は證なきことにして諸家またいづれ(834)も誤字説を立てず、これは從ふべからず。而して「帶解かへて」は「帶解きかはして」と解するが當然にしてこの外に解すべきにあらず。然るに然するときはこの歌の詞のつづき方に解しがたき點ありて上述の如く諸家の説も出でたるなり。されど、この外に解すべき方法なきものなれば、今もこの句はここにいふ如く解して可なるものにて、余が考はかつて雜誌にて發表したることあり、今その余が説はおのづから下に論及すべし。
○廬屋立 古來「フセヤタテ」とよみ來れるが、考は「フセヤタツ」とよめり。その理由はこれを枕詞とせるなり。かくせば、古來の難問解決せらるるかの如くなれど、「タツ」といひても「タテ」といひても下の妻問につづくことにはかはりはなきなり。然らば枕詞とするもせざるも難問題たることはかはらず、加之何故に枕詞とせざるべからざるかの説明を加ふることをせざるべからずして一層の困難に陷るものといふべし。されば、穩かに古來のよみ方によるをよしとす。「廬屋」をふせやとよむことは本集卷十六「三八一七」「田廬乃毛等爾《タブセノモトニ》」の自注に「田廬|多夫世《タブセ》反」といひ、その田廬の字面は卷八「一五九二」に「田廬爾居者《タブセニヲレバ》」あり。又「フセヤ」の語の例は卷九「一八〇九」に「廬八燎須酒師競相結婚《フセヤタキススシキホヒアヒヨバヒ》」あり。「廬」といふ字は荀子正名篇注に「廬草屋也」とありて、小き粗末なる屋なるを更に「屋」を重ねて「ふせや」といへるなり。これは攷證に「こは妻どひせん料にまづ家を建るにて古しへは娶らんとするにまづ家を作りし也」とあり。されど、これは少しく言ひすぎなり。これにつきては古義の説要を得たり。曰はく「妻籠の料に屋を立る謂なり。さて古(ヘ)は妻問すとてはまづことに屋を造設る風俗《ナラハシ》にて其は古事記に見2立八尋殿(ヲ)1とあるは二柱(ノ)神の(835)御合坐む料《マケ》なるをはじめて、須佐之男(ノ)命の都麻碁微爾夜幣賀岐都久流《ツマゴミニヤヘカキツクル》と作ましゝも、妻と共に籠坐む爲ぞ(古事記傳の説も然り)そは良人《ウマヒト》には限らず、賤者とても必しかせしなるべし。かくて今も土佐(ノ)國にて少し城府を離りたる里の風俗には微賎者《イトイヤシキ》とても妻迎せむとては二人|宿《イネ》らるゝばかりの甚ちひさき屋を造りかまへてさて妻を迎て其(ノ)屋に率寢るなり。これ上古の風習の邊鄙に遺れるなるべし」といへり。なほこの句と前後の句との關係につきては上にいふごとく論すべきことあれど、それも後にいふべし。
○妻問爲家武 「ツマドヒシケム」とよむ。「ツマドヒ」といふ語は卷十八「四一二七」に「氣奈我伎古良何都麻土比能欲曾《ケナガキコラガツマドヒノヨゾ》」又古事記雄略卷に「是物音今日得道之奇物。故|都麻杼比《ツマドヒ》【此四字以音】之物《ノモノト》云而賜入也」とあり。この語の事は卷二「九三」の詞書にいへる如く漢字の「娉」字に該當するものにして、娉は聘と通ず。その聘は禮を具へて迎ふるをいひ、娉は妻とせむとて禮を以て娉問するをいふ。「ツマドヒシケム」は下の「眞間之手兒名」につゞく連體格たり。
 さて上の數句の意とこの句との關係は如何なる意に説くべきか。代匠記には「一家には妻と云物の有故に、妻と云はんとて此句あるか。又賤しき者なれど、此女をすゑむとて別にふせ屋を立と云か。又按ずるに第九に處女墓をよめる歌にふせやもえ、すゝしきほひて、あひたはけしける時には云々。此はすゝしと云はむ爲にふせやもえとおきたれば、今もふせ屋立は妻とつゞけむ爲にはあらで、此下に二句ばかり落たるにや。然らば帶解替てと云も賤しき者の爭ひの樣なるべし。左右の肩など脱垂れ、或は犢鼻《タフサキ》ばかりして相爭ふこと尋常の事なり」とい(836)ひ、種々の案を出して一定せず。童蒙抄は「帶解替而」には「下のふせや立てといはん爲の序詞也。ふせやとはふしふすといふ義によりて、おびときかへてふせやと續けたる也」といひ、「廬屋」に對しては「ここは夫婦ふすやといふ義也」といひたり。考、槻落葉等は説くこと明かならず。古義はその句の連絡については説く所なし。さて、この所、そのいふ事を實際に在りし事とする時にはいひ方顛倒せる如く見ゆ。それは如何といふに「妻問」といふ事先ありて後に結婚あり、結婚の事あるが故に新に廬屋を立つる必要起り、廬屋立ちて後、帶ときかはして寐ぬる事も起るなり。然るにこの歌の詞の順序はこの事實の當然に進行すべき順序と正反對なりといふべし。ここに於いて契沖の如く廬屋の下に又は攷證の如く帶解替の「下に二句ばかり落たるにや」といふ説も生じたるなり。然れども二句も落ちたりとすることは甚だ穩かならぬ見解にして從ふべからず。されば、又新考の如く「帶解替而は帶結垂兩而誤字」とする説も生じたれど、これ亦武斷にして從ふべからず。新考は又「或は字訓共にもとのまゝにて舊キヲ解キ新シキ倭文ノ帶ニ替ヘテの意、即帶シメ替ヘテの意とすべきか」といひたれど、廬屋を立て妻問する爲に新しき帶に替ふべき必要ありとも見えず。これ亦意義不通なりとす。
 按ずるにこの處女は男にあひしことなきは卷九の歌にて明かなれば、「帶解替而」の語を事實の通りと解せば、事實と齟齬すべきことはいふまでもなし。さりとてこれを新考の如く新しき帶に改むといふ如きことは語の意の上より見ても、事實の上より見てもあるべきことにあらず。これは如何に釋すべきかといふに、既にいへる如く帶を互に解きかはしてふすといふ(837)にあるべきはいふをまたず。然れども、それは事實にあらずしてただ語の上とのみ解せずばあるべからず。然らば何の故にかくいへるかと考ふるに、これはただ「ふせや」といふ語を導く序の詞に止まることは童蒙抄の説の如くなるべし。かく解するときはその語つづきに不都合の感起らざるべし。次に「廬屋立」も亦事實をいへるにあらずして結婚の爲に廬屋を建つることは自然にありうべきことなるによりて、これまた「妻問」に對する序の詞と見るべし。即ち「妻問」といふ語を導く序詞として「廬屋立」といひ、その「廬屋」の「フス」といふ語を導く序詞として「帶解替而」といひ、帶の枕詞として「倭文幡乃」といひたるにて、序詞中に序詞あり、その序詞中に更に枕詞ありといふ變態にして複雜なる組織をとれるものなりとす。しかもこの枕詞及び序詞いづれも、今述べむとする事柄に關係深く、事情に似つかはしき詞を用ゐたるが爲に、上にあげたる如き諸説の生じたるものなるべし。
○勝牡鹿乃 「カツシカノ」とよむ。流布本「壯」とし反歌にも二所ともかくかけり。されど誤なれば。古寫本によりて正す。「牡鹿」を「シカ」とよむことは「志賀乃白水郎」(卷十一「二六二二」)「思香乃白水郎」(卷十二「三一七〇」)に當る語を「牡鹿海部《シカノアマ》」(卷十一「二七四二」)とかき、又「昨日己曾吾越來牡鹿《キノフコソワガコエコシカ》」(卷九「一七五一」などかけるにても見るべし。これ即ち題詞の「勝鹿」とかけるにおなじき語なり。
○眞間之手兒名之 「ママノテコナガ」とよむ。「眞間」は上にいへり。「テコナ」は考に「今も上總下總などに最弟子《マナオトゴ》をてごといへり。遠江國にてはそれをはてのこと云、果《ハテ》の子てふ事なり。是を思ふにはての子のはてを略きててことは云なり。總て上總は略言の多き國なり。名はをみ(838)なを略いふ常の言ぞ」といひ、玉の小琴に「手兒《テコ》は|たへ《妙》兒か|あて《貴》兒かの意なるべし。ほめたる稱也。名《ナ》もほめいふ也。又いとけなき兒を人の手に抱かれてある意にて手兒《テコ》といふは是と別也」といひ、槻落葉は「手兒《テコ》は或人|妙子《タヘコ》とも貴子《アテコ》ともいへれど、父母の手にある處女をいふ意なるべし。卷(ノ)十四に哭乎曾《ネヲソ》なきつる手兒《テコ》にあらなくにとよめるはいはけなきをいへれど、手兒《テコ》の意は同じかるべし。同卷にたらちねの母が手《テ》放《ハナリ》と有るを思へ。さて名《ナ》は妹なね、世|奈能《ナノ》などいへる名にてしたしむ意に添る言《コトバ》なり」といひ、攷證は槻落葉の説をよしとせり。以上の諸説區々なれど、これをその女の名とせずしてある種の人をいふ普通の語とする點に於いて一致す。然るに古義は「娘子の名」として「愛兒《アテコ》の謂にて負せたる名にてもあらむか」といへり。これはその娘子の名ならずと斷言しうべきにあらねど、又名なりとも斷言しうべきにもあらず。按ずるに「てこ」といふ語は平安朝以後にも存す。落窪物語卷二に「まろがをぢにて治部(ノ)卿なる人のてこ〔二字傍線〕兵部少輔かたちいとよく云々」といひ、好忠集に「みつぎいと、てこらが布をさらせると見えしは花のさかり也けり」といひ、日蓮の遺文にも、てこご」といへることあり。これらのうち好忠集のは或はたゞ女といふ程の意に用ゐられたらむが如しといへども、落窪物語のは愛兒たる意にして、日蓮のは「てこご」にて愛兒たる兒といふ如き意に用ゐたり。而して日蓮のは安房上總邊の方言なりしならむと思はるるによりて考ふるに、その「てこご」とこの「てこな」と相通ずる所あるべし。されば、ここのは或は人名なりとせむもその語の意義は愛すべき兒の義なりと考へられたり。しか愛すべき兒の義なりとすれば、或は玉の小琴の説の方よからむとい(839)ふ説も出でむが如きさまなれど、攷證のいふ如く、槻落葉の説をよしとすべし。即ち父母の手を放さず愛する兒といふ義なるべきなり。「テコナ」の「な」は攷證には卷十四「三四七六」の「宇倍兒奈波和奴爾故布奈毛《ウベコナハワヌニコフナモ》」卷二十「四三五六」に「和努等里都伎弖伊比之古奈波毛《ワヌトリツキテイヒシコナハモ》」の「な」におなじといへり。或は「テコ」は槻落葉の説の如くにして、ここにいへる「コナ」と相重ねて「テコナ」といへるものならむか。
○奧槨乎 舊訓「オキツキヲ」とよめり。代匠記は「奧槨は墓なり。日本紀に墓とも丘墓ともかきておくつきとよめり。此集第十八にも大伴の遠つ神祖の於久都奇波云々。此に准じて後までも皆おくつきとよむべし」といへり。墓を「オクツキ」といふことはこの説の如くなるが、「奧槨」の字はその「オクツキ」にあてたるものなるべし。「槨」は一字にては「キ」ともよむが、これは元來棺を覆ふ物にして、墓の内におくものなれば、墓そのものにあらず。「オクツキ」といふ語は「奧ツ〔右○〕城」にして(「ツ」は助詞)奧はこの卷「三七六」に「奧爾念乎見賜吾君」とある如く、奥深き意にして、人の屍を奥深く藏め置く爲の築造物にして、その築造物をば城《キ》とはいへるなるべきが、今は「槨」の字をその「キ」にあてたりと見ゆ。
○此間登波聞杼 「ココトハキケド」とよむ。この語に似たる例は卷一「二九」の「大宮者此間等雖聞」あり。意は明かなり。
○眞木葉哉 「マキノハヤ」とよむ。ここにいふ「眞木」は或る種の樹木の名なるべし。これはこの卷「二九一」の「眞木葉乃之奈布勢能山《マキノハノシナフセノヤマ》」にていへる「眞木」と同じかるべく、卷六「一〇一〇」の「奧山眞木(840)葉凌零雪之《オクヤマノマキノハシノギフルユキノ》」卷七「一二一四」に「小爲手乃山之眞木葉毛久不見者蘿生爾家里《ヲステノヤマノマキノハモヒサシクミネバコケムシニケリ》」などの眞木これなり。
○茂有良武 舊訓「シケクアルラム」とよめり。童蒙抄は「シケリタルラム」とよみ、略解、攷證、註疏これによれり。古義は「シゲミタルラム」とよみたれど、「シゲム」といふ動詞の古、ありし證なければ、この説は從ひがたし。「シゲクアル」といふことは道理上不可なけれど、「シゲリタル」とよむ方生氣あり。「有」を「タリ」にあつることは卷二「二八」の「衣乾有」「二九」の「茂生有」「三三」の「荒有京」「七九」の「我宿有」をはじめ、例頻繁なり。その意は卷一「二九」の「春草之茂生有」に准じて知るべく、かくてその奧槨のよくは知られずといふなり。
○松之根也遠久寸 「マツガネヤトホクヒサシキ」とよむべし。「松がね」の例は卷一「六六」に出でたるものなり。さて略解に宣長の説として「也は之の誤にてまつがねのならん」といへり。かくせば、略解に「遠く久しきといはんための枕詞とすべし」といへる如く、意よく通ずる如くなれど、いづれの本もみな「也」とありて異字見えざれば、みだりに改むること能はず。かくて「也」を誤ならずとせば頗る拙劣なる歌となるべし。攷證は「松之根也の下二句ばかり脱たるにあらざるか」といへり。されど、これも證なし。今は拙なれど、このままとして、釋せざるべからず。然るときは松の根の遠く久しきかといふこととなるが、この遠く久しきはその手兒奈のありし時代の遠く久しき昔なる故かといふことなるべし。
○言耳母名耳母 「コトノミモナノミモ」とよむ。童蒙抄はこの邊に一句脱せるかといひ、槻落葉はこの下に「聞而」を脱するかといひ、又は「不絶」の二字脱せりとし、攷證また同じ趣の論をなせり。(841)されど、これ亦證なければ從ひがたし。このままにてよしとする人の説をきくに代匠記は「此娘子が事を云つたふる言のみにも娘子が名を聞のみにも悲し〔二字右○〕さの忘られぬとなり」といひ、略解これにより、考は「墓は見えずともあれ、古へより語こし言のみにても聞わたる名のみにも怨しさふかくして忘がたしと云なり。言を多く略きつゞけたれど、よく見れば理の聞るは赤人のわざなり」といひ、古義には「今までに絶ず言來る言にのみも名にのみも聞つゝ昨日しも見けむが如くおもほえて、暫も忘られぬことなるものをといふ意なり」といへり。按ずるにここに悲しさ怨しさの忘れられぬといふ程の意ありとは見えず。これも上の句の如く、もとより語足らねど、先は古義の説をよしとすべし。
○吾者不所忘 舊訓「ワレハワスラレナクニ」とよめり。考は「ワレハワスラエナクニ」とよみ、槻落葉は「ワハワスラエス」とよめり。これは上の句よりのつゞきは「コトノミモ」「ナノミモワレハ」各一句なれば「不所忘」を七言の一句によまずばあるべからねば、槻落葉の説は從ひがたし。さては古きにつきて「ワスラエナクニ」といふ方によるべし。この語の例は卷十「二五九七」に「吾妹子丹戀益跡所忘莫苦二《ワギモコニコヒハマサレドワスラエナクニ》」あり。「不」字にて「ナクニ」とよめる例は卷七「一三〇三」に「海神心不得所見不云《ワタツミノココロシエネバミユトイハナクニ》」「一三八〇」に「四賀良美有者靡不相《シガラミアレバナビキアハナクニ》」卷十「一九三二」に「吾戀人之目尚矣不相見《ワガコフルヒトノメスラヲアヒミセナクニ》」等少からねばかくよまむも不條理とすべからず。意は明かなり。
○一首の意 古の人が、いろ/\にして妻問したりといひ傳ふる名高き勝鹿の眞間の手兒名の墓をば今來り訪へば、その基はここにありといへど、確かにそれと思はるるものを見ざるなり。(842)これは眞木の葉が茂りたるが爲にかくれて見えぬならむか。或は、時代の遠く久しくなりたるが爲ならむか。されば今は手兒名といふこの名高き女のありきといふ言のみとなりたれど、又手兒名といふ名のみ傳はりて墓だに見えずなりたれど、われはなほその名高き手兒名をば忘るること能はずとなり。この歌既にいへる如く多少字句の上に批難すべき點あれど、さまで惡しき歌とはいひがたし。ことに末の三句はさすがに赤人の言といひつべきものなり。
 
反歌
 
○ ここに歌の數を記さざれど二首あるなり。
 
432 吾毛見都《ワレモミツ》、人爾毛將告《ヒトニモツゲム》、勝|牡〔左○〕鹿之《カツシカノ》、間間能手兒名之《ママノテコナガ》、奥津城處《オクツキドロ》。
 
○吾毛見都 「ワレモミツ」とよみ、意もまた明かにして異議なし。攷證には「長歌に墓をたづぬるよしをいひて、ここに至りてたしかに見しよしをいふ也」といへり。さる事なり。
○人爾毛將告 「ヒトニモツゲム」とよみて異議なし。攷證に「本集十七【四十丁】に伊末太見奴比等爾母都氣牟云々(四〇〇〇)ともあり。ここはかの墓をわれはからうじてたづね見たれば、こゝといふ事をいまだ見ぬ人につげんと也」といへり。これ亦さる事なり。
○勝牡鹿之 流布本「壯鹿」とあること長歌のにおなじ。
○間問能手兒名之 「ママノテコナガ」とよむ。「間々」は長歌に「眞間」にかけるとおなじ。「之」は「ノ」と(843)も「ガ」ともよむべきが「ガ」とよむことは卷一以來頻繁に例あり。「ノ」といふと「ガ」といふとにて輕重の差あり。「ガ」といふ時は、「ママノテコナ」の方重くなるなり。
○奧津城處 舊訓「オキツキトコロ」とよみたれど、長歌の下にいへる如く「オクツキトコロ」とよむをよしとす。略解、古義等かくよめり。この語は卷九「一八〇一」に「語嗣偲繼來處女等賀奧城所吾并見者悲裳古思者《カタリツギシヌヒツギクルヲトメラガオクツキドコロワレサヘニミレバカナシモイニシヘオモヘバ》」とあり。
○一首の意 明かなり。昔より名高き葛飾の眞間の手兒名の墳墓をば今日は吾來りて見たるが、かくわれも見たれは、これを未だ見ぬ人にも語り告げて知らしめむとなり。
 
433 勝|牡〔左○〕鹿之《カツシカノ》、眞々乃入江爾《ママノイリエニ》、打靡《ウチナビク》、玉藻苅兼《タマモカリケム》、手兒名志所念《テコナシオモホユ》。
 
○勝牡鹿乃 長歌の下にいへる如く「カツシカノ」なり。流布本に「壯鹿」とあること前に同じ。
○眞々乃入江爾 「ママノイリエニ」とよむ。「イリエ」といふ語は卷十五「三五七八」に「武庫能浦乃伊里江能渚鳥《ムコノウラノイリエノスドリ》」卷十七「四〇〇六」に「安麻乃乎夫禰波伊里延許具加遲能於等多可之《アマノヲブネハイリエコグカヂノオトタカシ》」卷十四「三五四七」に「阿知力須牟須沙能伊利江乃許母理沼乃《アヂノスムスサノイリエノコモリヌノ》」などにてしるべし。入江とは普通に海湖などの陸へ入りこみたる所をいふなるが、この眞間の地は利根川の側にて海湖の入江といふべき所と見えず。攷證には「このほとり海ちかくして殊に大河にのぞみたれば入江ともいふべし」とあり。されどこの語不可なり。たゞの河岸に對して入江といふ語を用ゐたりとせば、この語あまりに恣まなりといふべし。或はこの邊までも古は入海なりしならむとの考もあらむか。(844)されども、この歌の時にかかる邊まで入海たりしものとは考へられず。これによりて河の隈回せる水瀦に入江の語を用ゐたる例ありや否やを顧みむ。卷十一「二七五一」の「味乃住渚沙乃入江之荒磯松《アヂノスムスサノイリエノアリソマツ》云々」卷十四「三五四七」の「阿知乃須牟須沙乃伊利江乃許母理沼乃《アヂノスムスサノイリエノコモリヌノ》云々」(未勘國の相聞歌)といふ「すさのいりえ」は出雲國か紀伊國かの二説ありて一定せねど、紀伊國ならば、延喜式に紀伊國在田郡須佐神社とある神社の附近なるべくこの神社はその地方にては頗る著しき神社にして、その邊は在田川の右岸より深く入り込める窪地にして、古昔、在田川がこの邊までも入り込めることありしならむと思はる。若しかゝる事ありしものとせば、ここに古、「すさの入江」といふべきものありしならむ。而して、これ即ち河の曲に入江といひし一例と見るべからむ。今この眞間の地も、この邊、江戸川の支流なる眞間川といふ小川の流なる低濕の地にして、その流に沿ひたる地が、細長く東の方にわたりて入江をなしてありしならむと思はるる地勢なり。而してその窪地の北畔に今手兒奈塚といふあり。
○打靡 舊訓「ウチナビク」とよみたり。代匠記は「ウチナビキともよむべきか」といひ、さて曰はく「然よまば二つの意あるべし。一つには、第二に靡曼の體を人丸のよまれたるに、立たれば玉藻の如くとあれば、娘子が體をほむる詞なり。二つには眞間の入江に身を投たるを云ふべし。煩らひて床に臥をなひきこいふしと後にあまたよめり」といへり。されども、その第一の説明の卷二の例は玉藻を以て女をほめたるにて打靡きにて女の立姿をほめたる例はかつてなきことなれば從ふべからず。第二の説明は長く臥したる形容にして、下に藻を苅るといふにあ(845)はず、いづれも從ひがたし。略解(古義は略解をよまぬにや、自己と同じ説なるに、あらぬ説を略解の説として批難せるは輕率なり)古義、攷證等は舊訓をよしとせり。それは「打靡く」を玉藻の水に流れなびくさまをいへる詞なりと見たるものにしてこれをよしとす。
○玉藻苅兼 「タマモカリケム」とよむ。「玉藻」は卷一以來屡いでたる語にして藻をたゝへていふのみ。意明かなり。手兒名が昔その眞間の入江の玉藻を苅りけむと想像していへるなるが、しかも、ここにわざと玉藻といへるには意味なくばあらず。その意は既に契沖のいへる如き、意もありしならむ。惟ふに、この時に其の眞間の入江にある藻を見てかくよめりしならむが、それと同時に、その玉藻の水に打靡くさまを見て女の髪のすがたを連想して(卷二「八七」「在管裳君乎者將待《アリツツモキミヲバマタム》、打靡吾黒髪爾霜乃置萬代日《ウチナビクワガクロカミニシモノオクマデニ》」を見よ)その古より云ひ傳ふる美貌を思ひたるにてもあらむ。
○手兒名志所念 舊訓「テコナシゾオモフ」とあり。代匠記は「テコナシオモホユ」とよみ、童蒙抄は「テコナシシノバル」とよめり。「所」を助詞「ゾ」にあつるは卷十六に二、三あるのみにて本集の常の例にあらず。ここは「所念」二字にて一語をなすものにして「オモホユ」とよむをよしとす。その例は卷一「七」「六四」以下少からず。
○一首の意 今葛飾の眞間のこの地に來て見れば、その眞間の入江に水に打靡く玉藻を見るがこれにつけても、この玉藻の如くうるはしき髪をもちたる美貌の主手兒名のしのばるるよ。あはれ古、この玉藻を苅りけむ美貌の主手兒名の姿の偲ばるるかな。
 
(846)和銅四年辛亥河邊宮人見(テ)2姫島松原美人屍1哀慟作歌四首
 
○和銅四年辛亥 これは卷二「二二八」「二二九」にもある事柄にしてそこには「和銅四年歳次辛亥」とあり。
○河邊宮人 卷二「二二八」の詞書にいへり。
○見姫島松原美人屍 卷二の詞書には「姫島松原見孃子屍」とあり。それは姫島松原にて孃子の屍を見てよめる歌の義なるが、ここは姫島松原の美人の屍を見てよめる歌の義なり。事實は同じことをさすなれど、いひ方は同じからず。姫島松原は卷二に説けるが故にいはず。美人は美貌の婦人の義なれど、卷二の「孃子」にあたるものなれば、ただ「ヲトメ」とよむべきか。
○哀慟作歌 上に哀傷作歌(四二三)悲慟作歌(四二六)とかけると同じ意に止まるものを文字をかへてかけるなるべし。
○四首 ここに四首とありて、次にある歌も四首なり。かく數に於いては合致すれど、次の四首必ずしもこの詞書に合致する歌にあらず。この故に諸家これにつきて種々の説あり。それらの説は左注に行きて論ずることとして次にはたゞその歌の詞の意につきて説き、この詞書と必ずしも合せざる點ありても姑くおきてとはざることとせむ。
 
434 加|麻〔左●〕※[白+番]夜能《カザハヤノ》、美保乃浦廻之《ミホノウラミノ》、白管仕《シラツツジ》、見十方不怜《ミレドモサブシ》、無人念者《ナキヒトオモヘバ》。或云、見者悲霜《ミレバカナシモ》、(847)無人思丹《ナキヒトオモフニ》。
 
○加麻※[白+番]夜能 舊本「カサハヤノ」とよめり。されど、「麻」を「サ」とよむことは異例なれば、古寫本には「カマハヤノ」とよめる本少からず。童蒙抄には「五文字假名書にしたるに、中に挾たる一字、麻の字を訓にて讀むべき事心得難し。よりてかまはやとはよむ也」といひ、考は「麻はあさのさを用ひしか、訓の假字は下の言を用る例なり、又座を誤しにも有べし」といひ、略解は「麻は座ノ誤カ」と頭注にいひ、古義は異本に「座」とありとて「座」の誤とし、攷證も「座の誤」とせり。今傳はれる諸の古寫本中「座」の字をかける本一も存せず、古義に異本といへるは如何なる本をさすかいぶかしきことなり。又「麻」に「サ」の訓ありとの説あれど、ここの外には集中一も例なきのみならず、他の古典に於いてかつて見ざるところなれば、これまた從ひがたし。かくて「麻」を誤字ならず、又「サ」とよむべからずとせば、「カマハヤノ」とよむより外なきことなるが、「カマハヤ」といふ語の存せりと證すべきものなく、又地名としてもかゝる地ありともきこえず。然らば、「カサハヤ」といふは如何といふに、卷十五に「風速浦舶滑之夜作歌二首」ありて、その第一首(三六一五)には「風早能宇良能於伎敝爾奇里多奈妣家利《カサハヤノウラノオキベニキリタナビケリ》」といふあり、卷七「一二二八」に「風早之三穗乃浦廻乎榜舟之船人動波立良下《カザハヤノミホノウラミヲコグフネノフナビトサワグナミタツラシモ》」とありて上二句は恐らくは同じ地をいふと見えたればここも「カザハヤノ」とよむべきものならむ。然れどごの儘にては如何にしても「カザハヤノ」とよむべき根據なし。されば、證なきことなれど、字體の類似よりして恐らくは今本すべて「座」を「麻」と書き誤りしものならむと假(848)定して「カザハヤノ」とよむ。さてこれは地名なりや否や。地名ならば、上の卷十五の風速浦を思ふべきが、これは前後の歌によりて推すに、和名鈔に「安藝國高田郡風速加佐波也」とある地の浦をさすものならむと思はるゝが「みほのうら」はそこなりと直ちにいふべくもあらず。ここにいふ所は上にあげたる卷七「一二二八」によめると同じ地なるべく思はるるが、それは古義に「紀伊國日高郡の地名なり」といへる如く多くの學者にはこの卷「三〇七」の詞書にいへる三穗石室のある地と同じと見られてあり。然れども、卷七なるは果して紀伊の地の名なりや否や疑はしき點なきにあらず。これは羈旅作歌九十首のうちにあるものにして、その歌どもは地名なきとあると相交りてあるが、その地名は所々に群をなして、同じ地方の地名をよみたる歌を集めおけり。今それをあぐれば、
一一六一、 一一六二、圓方 一一六三、アユチ方 一一六四、 一一六五、 一一六六、眞野ノハキ原 一一六七、 一一六八、 一一六九、近江ノ湖 一一七〇、佐々浪ノ並庫山(近江) 一一七一、高島三尾勝野(近江) 一一七二、高島ノ香取浦(近江) 一一七三、丹生(ノ)河(?) 一一七四、鹿兒崎 一一七五、足柄ノ筥根 
一一七六、海上潟(下總) 一一七七、若狹ノ三方海 一一七八、印南野、日笠浦(播磨) 一一七九、印南野(同) 一一八〇、淡路島 一一八一、龍田山 一一八二、鞆浦 一一八三、同上 一一八四、(849) 一一八五、三津松原 一一八六、 一一八七、飽浦(紀伊?) 一一八八、遠津濱(?) 一一八九、一一八九、居名湊(津) 一一九〇、一一九〇、名子江(津) 一一九一、出入の河(?) 一一九二、信土山(紀) 一一九三、勢能山 一一九四、木國狹日鹿ノ浦 一一九五、木津妹背山〔一一九二〜左傍線〕 一一九六、 一一九七、 一一九八、 一一九九、妹之島、形見浦(?) 一二〇〇、 一二〇一、 一二〇二、玉之浦(【紀伊備中?】 一二〇三、 一二〇四、 一二〇五、 一二〇六、 一二〇七、粟島赤石門 一二〇八、勢能山 一二〇九、木川勢能山 一二一〇、妹勢山 一二一一、妹 一二一二、足代、絲鹿山 一二一三、名草山 一二一四、安太、小爲手山 一二一五、玉津島 一二一六、一二一七、玉津島 一二一八、黒牛海 一二一九、若浦 一二二〇、湯等 一二二一、 一二二二、玉津島 一二二三、 一二二四、大葉山(?) 一二二五、夜中乃方(?) 一二二六、神《ミワ》ノ前(紀)〔一二〇八〜傍線〕 一二二七、 一二二八、風早三穗浦 一二二九、明石 一二三〇、金之三崎(筑前) 一二三一、崗水門(同) 一二三二、 一二三三、梓島(出雲?) 一二三四、 一二三五、(850) 一二三六、小竹島(?) 一二三七、 一二三八、竹島(近江) 一二三九、 一二四〇、見諸戸山 一二四一、玄髪山 一二四二、 一二四三、 一二四四、木綿山(豐後) 一二四五、四可(筑前) 一二四六、之加(同上) 一二四七、妹勢能山 一二四八、 一二四九、浮沾池(?) 一二五〇、(紀)
以上のうち、「一二〇八」より「一二二六」までの一群は紀伊國の地名をよめるもの(「一二二三」のみは地名なけれど)と見られ、「一二二七」は地名なくして、その次がこの歌なり。されば、これは順序のうへより紀伊の歌とも見られ、又然らずとも見らるべし。かくて「一二二九」が明石にて播磨、「一二三〇」「一二三一」は筑前の地名なり。之を以て見れば、「一二二八」が必ず紀伊の三穗なりともいひ得べからずして、或は次の明石に照していへば安藝の風早ならむも知れず。古義は風速を地名として、「契沖が備後(ノ)國にこそ風速(ノ)浦はあれ、常に風の早き浦といふ心にて風早の浦とつづけいふなりと云れど地(ノ)名には諸國に同じきが多かるをや」といひて、契沖の風早の説を否定したれどこの古義の論法は同じく古義自身の説をも否定しうべきものならむ。即ち風早を地名とせば、紀伊にはその地なくして安藝として、三穗の浦といふをばいづこにもある地勢の名目と見るも不可なき事とならむ。三保の松原(駿河)三保崎、三保關(出雲)など、今も名高き地も少からざるものをや。若し又、三穗の浦を萬葉集中に確かなる地として存するものにとらば、この卷「二九六」の歌によりて駿河國の見穗の浦とすべく、紀伊國なるは「三穗の石室」にして浦にあ(851)らずともいひうべく、畢竟水掛論に終るに止まるべし。これは攷證にもいへる如く次の歌に「久米能若子」とよめると、上の「三〇六」の歌にも「久米能若子」とあるに照して同じ地にての詠と見るべきものと考ふといふ根據の上に、ここの「美保」と彼の「三穗」とを同じ地と見るべきものと考へ、さて一方はその地の石室につきていひ、一方はその地の浦につきていへるものと考ふべきものと思ふ。かくしてその紀伊の三保の地に風早といふ地名なきものとせば、ここは契沖説の如く風の早きといふ形容の意にとるべきものと思ふ。風の早きといふは速力のみにつきていふにあらずして風威の烈しきをいふこと神のいち早きなどいふ「はやき」ならむ。紀伊の三穗の地は、太平洋を眞南にうけたる地なれば風早といふにあたらずといふべからず。
○美保乃浦廻之 舊訓「ミホノウラワノ」とよめり。「浦廻」は卷一以來説ける例によりて「ウラミ」とよむべし。「ミホノウラ」の事は、上にいへり。
○白管仕 「シラツツジ」とよむ。卷十「一九〇五」に「姫部思咲野爾生白管自《ヲミナヘシサキヌニオフルシラウツツジ》」とあるも同じものをさす。白き花のつつじなり。折からそこに咲きてありしならむ。されば、この歌をよみし季節は略知られたり。
○見十方不怜 舊訓「ミレトモサビシ」とよめり。童蒙抄は「ミレトモカナシ」とし、考は「ミレドモサブシ」とよめり。「不怜」の字面は既に卷二「二一七」「二一八」に見えて「サブシ」とよむべきを論ぜり。ここもそれによるべし。意は後世の「サビシ」に異ならず。
○無人念者 「ナキヒトオモヘバ」とよむ。童蒙抄は「ナキヒトシノベバ」とよみたれど、「念」を「シノブ」(852)とよむは例なし。槻落葉は「ナキヒトモヘバ」とよめり。それにても不可ならず。意は同じくて明かなり。
○或云見者悲霜無人思丹 これは或る説には下の二句を「ミレバカナシモ、ナキヒトオモフニ」とありといふなり。意は明かなり。されど、本行にまされりと見えず、意はもとより大差なし。
○一首の意 この風のいち早き美保の浦邊に咲ける白つつじを見れば、美しく思はるるさまなれど、我は死去せし故人をこれによりて念ひ出づれば、心淋しく思ふことよとなり。「風早」にてその早死をあらはし、「白つつじ」にて故人の清楚なる姿を連想せりと見ゆ。さてこの歌標題にいへることに該當する歌とせば、姫島松原のあたりを美保の浦といひしことありとせざるべからず。而して、そこの白つつじを以て、その死美人になぞらへしものとすべきに似たり。然るに、上にいへる如く美保は紀伊國の地名と考へらるれば、この歌と題詞とは吻合せざるなり。
 
435 見津見淨四《ミツミツシ》、久米能若子我《クメノワクゴガ》、伊觸家武《イフリケム》、礒之草根乃《イソノクサネノ》、干卷|惜〔左○〕裳《カレマクヲシモ》。
 
○見津見津四 「ミツミツシ」とよむ。この語は本集にはここ一なれど、古事記中卷神武卷の歌に、「美都美都斯《ミツミツシ》、久米能古賀《クメノコガ》云々|美都美都斯久米能古良賀《ミツミツシクメノコラガ》」とみえ、日本紀神武卷にも大體同じ樣にて「瀰都瀰都志倶梅能固邏餓《ミツミツシクメノコラガ》」とあり。これは久米の枕詞として古來用ゐたるものなるが、その意は古義にいへるが最も近かるべきが、それも未しきにて「ミツ」は「武威」をいふ語にてそれを重(853)ねて、形容詞の語幹を構成したるものと思はる。
○久米能若子我 「クメノワクコガ」とよむ。「久米能若子」は上にいへる「三〇七」の三穗石室に住みけむ人なり。
○伊觸家武 舊訓「イフレケム」とよみたるを古義に「イフリケム」とよめり。げにも「觸る」といふ語は卷二十「四三二八」に「伊蘇爾布理宇乃波良和多流《イソニフリウノハラワタル》」とあるにて古、四段活用なりしことを知るべし。「イ」は接頭辭にして動詞の上に冠すろこと、「伊隱萬代《イカクルマテ》」(卷一「一七」)「伊縁《イヨリ》(卷一「三」)「伊積流萬代爾《イツモルマデニ》」(卷一「一七」)「伊去室而《イユキイタリテ》」(卷一「七九」)「伊波比廻《イハヒモトホリ》」(卷二「一九九」)「伊行《イユキ》而」(卷二「二一三」)等例多し。次に「ケム」は過去に在りしことを推測、想像するものなるが今の用法は連體格として下につづくなり。
○磯之草根 「イソノクサネノ」とよむ。略解に「イソノカヤネノ」とよみたれども、こゝはただの草をいふなれば、舊訓の方よしとす。「くさね」といふ語は卷一「一〇」にいへり。
○干卷惜裳 「干」字は多くの本「于」字に作れど、誤なること著し。又「惜」字流布本「情」に作れど、誤なり。古寫本のすべて及び活字素本「惜」に作れるを正しとす。よみ方は「カレマクヲシモ」とよむこといふまでもなし。「干」は水の乾《ひ》かわくにいふ文字なれど、草木の枯るゝも水分のなくなるによるものなれば畢竟一なること既にいへる所なり。これと同じ詞遣なるは卷二「一六八」の「皇子乃御門之荒卷惜毛《ミコノミカドノアレマクヲシモ》」卷八「一五一七」に「秋乃黄葉散莫惜毛《アキノモミヂノチラマクヲシモ》」卷二十「四五一三」の「左家流安之婢乃知良麻久乎思母《サケルアシビノチラマクヲシモ》」などあり。枯れむことの惜しきとなり。「モ」は係助詞なるが、終止形をとれる用言の下につきて終止するなり。
(854)○一首の意 古、名高き久米の若子が、この三穗の岩屋に住みきといふが、そのかみ、その若子がふれたりけむこの礒の草根のかれむことのをしきことよとなり。按ずるにこの歌明かに久米の若子といひたれば婦人の死を弔へる歌にあらず。されば、詞書と全然あはずと知られたり。
 
436 人言之《ヒトゴトノ》、繁比日《シゲキコノゴロ》、玉有者《タマナラバ》、手爾卷以而《テニマキモチテ》、不戀有益雄《コヒザラマシヲ》。
 
○人言之 「ヒトゴトノ」とよむ。人の彼是いふ語をいふ。卷二「一一六」の「人事乎繁美許知痛美」とあるも同じ。
○繁比日 「シゲキコノコロ」とよむ。「比日」をこの頃とよむ語にあてたるは本集に例甚だ多し。二三の例をあぐれば、卷四「六四八」に「不相見而氣長久成奴比日者奈何好去哉言借吾妹《アヒミズテケナガクナリヌコノゴロハイカニサキクヤイブカシワギモ》」卷六「九四八」に「道毛不出戀比日《ミチニモイデズコフルコノゴロ》」卷十「二一四一」に「比日之秋朝開爾《コノゴロノアキノアサケニ》」などあり。「比日」は元來支那の熟字にして後漢書朱浮傳に「而先建2太學1造2立横(黌ニ同シ)舍1、比日車駕親臨觀饗、將d以弘2時雍之化1顯c勉進之功u也」梁の※[麻垂/臾]肩吾の謝歴日啓に「斐回厚渥、比日爲v年」とある、これらの「比日」は元來連日の意に近きものたるべきが後に轉義せしならむ。類聚名義抄には「比日」に「コノゴロ」の訓あり。人言の繁きとは人に彼此といはるゝことのうるさきをいふ意なるが、主觀的に煩はしきをここに客觀的に「しげし」といへるなり。卷十四「三四六四」に「比等其等乃之氣吉爾余里※[氏/一]《ヒトゴトノシゲキニヨリテ》」卷四「五四一」に「現世爾波人事繁《コノヨニハヒトゴトシゲシ》」卷十「一九八三」に「人言者夏野乃草之繁友《ヒトゴトハナツヌノクサノシゲクトモ》」など、その語の例なり。
(855)○玉有者 「タマナラバ」とよむ。この語の例は卷二「一五〇」に「玉有者手爾卷持而衣有者脱時毛無吾戀君曾《タマナラバテニマキモチテキヌナラバヌグトキモナクワガコフルキミゾ》云々」をはじめ集中に少からず。その意は君が若し玉にてあらばといふなり。
○手爾卷以而 「テニマキモチテ」とよむ。卷四「七二九」に「玉有者手二母將卷乎欝瞻乃世人有者手二卷難石《タマナラバテニモマカムヲウツセミノヨノヒトナレバテニマキガタシ》」「七三四」に「吾念如此而不有者玉二毛我眞毛妹之手二所纏牟《ワガオモヒカクテアラスバタマニモガマコトモイモガテニマカレナム》」卷二十「四三七七」に「阿母刀自母多麻爾母賀母夜伊多太伐弖美都良乃奈可爾阿敝麻可麻久母《アモトジモタマニモガモヤイタダキテミヅラノナカニアヘマカマクモ》」とあるなどによりてここの意を思ふべし。
○不戀有益雄 舊訓「コヒズアラマシヲ」とよみたるを童蒙抄に「コヒザラマシヲ」とよめり。いづれにてもよしとすべきなれど、諸家多く童蒙抄の訓によれり。「ザラマシヲ」の語遣は卷二「一七三」に「高光吾日皇子乃伊座世者島御門者不荒有益乎《タカヒカルワガヒノミコノイマシセバシマノミカドハアレザラマシヲ》」をはじめ集中に類例少からず。みな假想の語なり。
○一首の意 攷證に「人のいひつる言のいとしげきこのごろ、わが思ふ人のもし玉にありせば、手に卷き持て居て、戀ふる事もなく身にそへてあらましものを」といへるにて略つきたり。さてこの歌は攷證に「全く戀の歌なれば、この挽歌の部に入べきならぬをいかゞしてここにはみだれ入けん。次の歌もしかなり」といへるは尤もの事なり。
 
437 妹毛吾毛《イモモアレモ》、清之河乃《キヨミノカハノ》、河岸之《カハギシノ》、妹我可悔《イモガクユベキ》、心者不持《ココロハモタジ》。
 
○妹毛吾毛 舊來「イモモワレモ」とよみたるが、「イモモアレモ」ともよみうべく、而して「アレ」の方、古(856)ければ、その方によるべし。さてこの一句の意は何を語るか。攷證は「妹も吾も心清くちぎれりといふを清みの川の川の名にいひかけたり」といへり。これは考に「清みはかたみに相思ふ心の疑なきを云」といへるに基づきたることいふまでもなかるべきが、それを事實上の語とする時は下の「妹が悔ゆべき心は持たじ」といふ語は效力なくして不要となるべきものなり。按ずるに、これは「清之河」に對する序の詞たるものにして事實の説明に用ゐたるにあらず。かゝる語は「兒等手乎卷向山《コラガテヲマキムクヤマ》」(卷七「一〇九三」)「妹等許今木乃嶺《イモラガリイマキノミネ》」(卷九「一七九五」)「吾紐乎妹手以而結八川《ワカヒモヲイモガテモチテユフヤガハ》」(卷七「一一一四」)「妹之紐解登結而立田山《イモガヒモトクトムスブトタツタヤマ》」(卷十「二二一一」)などの例に照して知るべし。或は、これは五音なれば枕詞と見ても可ならむ。
○清之河乃 舊訓「キヨメシノ」とよみたるを代匠記に「キヨミノ川ノとよむべし」といひ、童蒙抄には「みそぎし河の」とよめり。童蒙抄は意をとりてよまれしならむが「清」字「ミソギ」とよむは無理なり。代匠記の説によるべし。代匠記には「大井河下は桂と忠岑かよめるやうに飛鳥河を淨御原の邊にてはきよみの川とも申べし」といひ、考、槻落葉、略解等これに從へり。卷二「一六七」の「飛鳥之淨之宮《アスカノキヨミノミヤ》」の名に照して考ふれば恐らくは「キヨミ」はその一帶の地の名なりしなるべし。
○河岸之 「カハキシノ」とよみて異義なし。これはその河の岸のくゆる(崩)といふことに因みて、下の「悔ゆ」といふ語を導く序の詞たり。
○妹我可悔 「イモガクユベキ」とよむ。この「クユ」は序の詞よりの關係は岸の崩《ク》ゆることを以て縁とせるなり。岸のくゆるはヤ行下二段活用の語にして、卷十四「三三六六」に「可麻久良乃美胡(857)之能佐吉能伊波久叡乃伎美我久由倍伎己許呂波母多自《カマクラノミコシノサキノイハクエノキミガクユベキココロハモタジ》」にその例あり。ここの本義の「悔ゆる」はヤ行上二段活用の語なること人の知る所なり。「悔ゆ」は先にせし事を後に不可なりと思ふ感情を起すをいふ。
○心者不持 古來「ココロハモタジ」とよみ來れり。上の卷十四「三三六六」の歌に照して知るべし。
○一首の意 われは君がわれと契りし事を後悔する如き事あるべき二心は持たじとなり。われらの心はこの河の名の如く清く契りしものにて、しかもたとひ河の岸は崩《ク》ゆとも、われらの契はかはらじといふことをこの序の詞の二重になれるうちにふくめるとすべし。而してこの歌また相聞の歌にして挽歌の類にあるべきものと見えず。
 
右案、年紀並所處|乃〔左●〕娘子屍作歌人名巳見v上也。但歌辭相違、是非難v別、因以累載2於茲次1焉。
 
○ この左注は既にいへる如く、ここの題詞と歌とが、意味の上に於いて合致せぬことにつきて述べたるなり。先づ、
○年紀並所處 とは和銅四年辛亥の年紀と姫島松原といふ場所とをさせるものにしてそれが卷二の挽歌のうちに既に同じく出でたることを思ひて記せるなり。
○乃 諸本みなかくの如くなれど、意通せず。代匠記は「及」の誤ならむといひ、諸本これに從へり。本願寺本には別筆にて「及」と加へたり。「乃」にては意通せざれば誤と考へらる。
(858)○娘子屍 これは卷二には「娘子屍」と書き、ここの詞書に「美人屍」とかけれど、實は同じ意なればここにかくいへり。
○作歌人 これは作歌の作者にて「河邊宮人」といふ人名卷二とここと同じきなり。
○已見上世 これは、同じ年同じ所にて娘子屍を見て、同じ人の歌をよめりといふこと卷二に見えたることをいへるなり。
○但歌辭相違、是非難別 かく、卷二にあげたると、ここにあると歌の辭頗る相違して是非の判斷を下し難きとなり。これは如何にも尤の事にて、詞書によるときは挽歌なるべきに、相聞歌なるもの二首あり、又挽歌といはばいはるべき他の二首の歌にても、娘子につきての詠とは考へられざればなり。
○因以累載於茲次焉 これは卷二に似たるものあれど、これは頗る異なり、しかも、詞書が挽歌のうちに入るべきことを示すが故に、累ねて、ここの次第に載せたりとなり。即ち題の詞によりて挽歌の類に入れ、和銅四年とあるによりて神龜五年の前にここにおきたりとなり。
 さて、この左注によれば、當初よりかく錯亂を有したりしこと明かなりしかど、さかしらをすべきにあらねば、上述の如き處置をとれるものにして、止むを得ざるに出でたる穩當の處置といふべし。然るに、考、略解、古義などに、或は題詞を改め或は題詞を削り、或は題詞を加へ、或は左注を削りなどせるものあるはこの左注の精神を十分に知らぬさかしらなり。ただすなほに左注の説を見れば、そのままに諒としておくべきものなり。
 
(859)神龜五年戊辰太宰帥大伴卿思2戀故人1歌〔左○〕三首
 
○神龜五年戊辰 旅人の太宰帥に任ぜられしは神龜三四年の頃ならむと思はれ、この頃筑紫の地に在任せしものと見えたり。
○太宰帥大伴卿 大伴旅人をさすものなるべきこと上にいひたる所なり。
○思戀故人歌 「歌」の字流布本「卿」に作るはその源とせる活字本の誤植による。古寫本すべて正しく「歌」とせり。「故人」とは故舊即ち朋友をいふ意と物故の人即ち死したる人をいふ意とあり。謝眺の詩に「故人心尚爾、故心人不見」とあり。これは古來の説にいふ如く旅人の妻大伴郎女の死せし後にこれを思戀していへるなり。卷八「一四七二」の式部大輔石上堅魚朝臣歌の左注に「右神龜五年戌辰太宰帥大伴卿之妻大伴郎女遇v病長逝焉。于v時 勅使式部大輔石上朝臣堅魚遣2太宰府1弔v喪并賜v物也、其事既畢。驛使及府諸卿大夫等共登2記夷城1而望遊之日乃作2此歌1」とあり、卷五の卷頭に太宰帥大伴卿報凶問歌一首ありて、それには神龜五年六月二十三日とあり。さればその任地にて妻の歿せしを知るべし。而して、その石上堅魚の歌には「霍公鳥來鳴令響《ホトトギスキナキトヨモス》云々」とあると、上の日付を見れば、この歌は六月以降の詠なるべし。よみ方は「スギニシヒトヲシヌビテヨメルウタ」といふべきか。
 
438 愛《ウツクシキ》、人纏師《ヒトノマキテシ》、敷細之《シキタヘノ》、吾手枕乎《ワガタマクラヲ》、纒人將有哉《マクヒトアラメヤ》。
 
(860)○愛人 舊訓「ウツクシキヒトノ」とよめり。童蒙抄には「ウルハシキヒトノ」とよみ考、略解等これに從へり。されど槻落葉、古義、攷證等は又古來の訓のまゝに「ウツクシキヒトノ」とよむべしとせり。「愛」はその字義は美麗といふことにあらざれば、美麗の意にてよむとせば「ウツクシキ」にても「ウルハシキ」にても當れりとすべからず。かくて「ウルハシキ」といふ語には美麗の義あれど、愛すべきといふ意は直接に存するものにあらず。「ウツクシキ」は新撰字鏡に「姓美女貌、宇豆久之乎美奈」とあれば、美麗の意にも用ゐられたれど、又卷二十「四三九二」に「有都久之波波爾《ウツクシハハニ》」卷五「八〇〇」に「妻子美禮波米具斯宇都久志《メコミレバメグシウツクシ》」とある「ウツクシ」は美人といふ義にあらずして、親愛の義なること著しきなり。かくて日本紀孝徳卷の歌に「宇都久之伊母我《ウツクシイモカ》」齊明天皇の御製なる「宇都倶之枳阿餓倭柯枳古弘《ウツクシキアガワカキコヲ》」とあるも美麗なる意にあらずして、親愛の意なりと知られたり。さればここも「ウツクシキ」とよむべきものなるべし。その意は既にいへるが、これはその歿せし最愛の妻をさしていへることいふまでもなし。
○纏而師 古來「マキテシ」とよみて異説なし。「マク」とは枕とすることにして、この語は卷二「二二二」に「奧波來依荒磯乎色妙乃枕等卷而奈世流君香聞《オキツナミキヨルアリソヲシキタヘノマクラトマキテナセルキミカモ》」にて明かに知らるべく、又卷二「八六」に「磐根四卷而《イハネシマキテ》」等をはじめて例少からず。
○敷細之 「シキタヘノ」とよむ。この語は卷一「七二」の「敷妙之枕之邊《シキタヘノマクラノアタリ》」卷二「一三五」の「敷妙乃衣袖者《シキタヘノコロモノソデハ》」「一三八」の「敷妙之妹之手本乎《シキタヘノイモガタモトヲ》」「一九五」の「敷妙乃袖易之君《シキタヘノソデカヘシキミ》」「一九六」の「敷妙之袖携《シキタヘノゾデタヅサハリ》」「二一七」の「布栲乃手枕纏而《シキタヘノタマクラマキテ》」「二二〇」の「敷妙乃枕爾爲而《シキタヘノマクラニナシテ》」「二二二」の「色妙乃枕等卷而《シキタヘノマクラトマキテ》」等にて例を見るべし。「細」を「タヘ」(861)にあてたる例はここの外この卷「四六〇」に「布細之宅《シキタヘノイヘ》」「白細之衣袖《シキタヘノコロモデ》」「四七五」に「白細爾舍人装束而《シロタヘニトネリヨソヒテ》」など、以下の卷々に例少からず。按ずるに「細」の一字にて直ちに「タヘ」とよむべきことは義を有せず。これは恐らくは、卷十三「三三二四」に「大殿矣振放見者白細布飾奉而《オホトノヲフリサケミレバシロタヘニヨソヒマツリテ》」卷十一「二五一六」に「敷細布枕人事問哉《シキタヘノマクラキシヒトコトトヘヤ》」「二五一五」「布細布枕動夜不寢思人《シキタヘノマクラウゴキテヨモイネズオモフヒトニハ》」などに見ゆる「細布」をもととすべし。細は精細の義にして細布即ち「タヘ」なるべきを「布」を略して「細」のみにて「タヘ」とせるならむ。「シキタヘ」の義は卷一「七二」にいへる如く「夜の衣」をさすものにして、それより汎く「敷妙の枕」ともいふやうになれるものと見えたり。
○吾手枕乎 「ワガタマクラヲ」とよむに異議なし。「手枕」は「手を枕とすること」にしてその假名書の例は卷十四「三三六九」に「安是加麻可左武許呂勢多麻久良《アゼカマカサムコロセタマクラ》」「三四八〇」に「可奈之伊毛我多麻久良波奈禮欲太知伎努可母《カナシイモガタマクラハナレヨダチキヌカモ》」卷十七「三九七八」に「妹我多麻久良佐之加倍底《イモガタマクラサシカヘテ》」卷二十「四四三二」に「可奈之伊毛我多麻久良波奈禮阿夜爾可奈之毛《カナシイモガタマクラハナレアヤニカナシモ》」などあり。ここはいふまでもなく旅人が手を枕とするをさす。
○纏人將有哉 「マクヒトアラメヤ」とよみて異議なし。「將有哉」を「アラメヤ」とよむことは卷二「一一〇」の「吾忘目八《ワレワスレメヤ》」卷三「二四三」の「白雲毛三船乃山爾絶日安良米也《シラクモモミフネノヤマニタユルヒアラメヤ》」等にて知るべし。かくて反語をなすことは既に屡いへり。
○一首の意 吾が親愛なる人の枕としたりしわが手枕をば、枕とする人の他にまたとあらんやあるまじとなり。亡妻を悲しみて、わが最愛の人は故人となりたるが、これにかはる人はまた(862)とあらじといふなり。言平易なれど感慨深き歌なり。
 
右一首別去而經2數旬1作歌
 
○數旬 「旬」は説文に見ゆる如く十日をいふものなれば、數旬は數十日の義なり。この左注は右の歌は死別して三四十日を經たる時によめる歌なりといふなり。
 
439 應還《カヘルベキ》、時者成來《トキハナリケリ》。京師爾而《ミヤコニテ》、誰手本乎可《タカタモトヲカ》、吾將枕《ワガマクラカム》。
 
○應還時成來 舊訓「カヘルベキトキニハナリヌ」とよめるを代匠記には「カヘルベクトキハナリケリ」とよみ改め、童蒙抄には「カヘルベキトキニハナリケリ」とよみ、考は「カヘルベキトキニハナリク」とよみ、槻落葉は「カヘルベキトキハナリキヌ」とよみたり。略解は考のよみ方によれるが、なほ「宣長云、來は去の誤にてなりぬ也といへり」といへり。古義は「成」を「來」の誤寫として「カヘルベキトキハキニケリ」とよめり。されど、ここに文字の異同あるは、古葉略類聚鈔に「成」字なきのみにて他はすべてこの通なるが、古葉略類聚鈔のみを以て絶待の證とはなしがたければ、文字はこのまゝにてよみ方を考ふべし。さて「應」は國語の「ベシ」にあたる助動詞にして、卷一「七五」の「衣應借《コロモカスベキ》」に既にその例あり。「來」は「ヌ」とよむべき文字にあらずして、動詞として「ク」とよむか、複語尾として「ケリ」とよむかの二者を出でず。かくて「成來」の二字をよまむに「ナリク」といふ語は雅馴ならず、又「ナリキヌ」とよむも無理なれば「ナリケリ」とよむ外はあるまじ。「者」は「ハ」とも「ニハ」と(863)もよみうべきが、上を「カヘルベキ」とよむ時には「ハ」とよみては語をなさねば、「ニハ」とよまざるべからず。但し、契沖の説の如くせば、「ハ」とよみてもよきに似たり。さて契沖の説の如くせば、連用言を上にして主格等を中間に挾みて、下の用言につゞくものとなるが、かかる用例ありやと見るに、卷四「七四二」に「一重耳妹之將結帶乎尚三重可結吾身者成《ヒトヘノミイモガムスバムオビヲスラミヘムスブベクワガミハナリヌ》」卷七「一〇九一」に「可融雨者莫零《トホルベクアメハナフリソ》卷八「一四七八」に「花橘乃何時毛珠貫應其實成奈武《ハナタチバナノイツシカモタマニヌクベクソノミナリナム》」「一四八九」に「珠爾可貫實爾成二家利《タマニヌクベクミニナリニケリ》」卷十「二一七〇」に「寒毛時者成爾家類可聞《サムクモトキハナリニケルカモ》」卷十三「三二七三」に「常帶乎三重可結我身者成《ツネノオビヲミヘニユフベクワガミハナリヌ》」などあり。これらによらば、契沖の説によりてよむを以て最も適せりとすべし。かへるべき時とはその任期の滿ちて京に歸るべき時をいふ。その任期は日本紀寶龜十一年八月の太政官の奏によれは、筑紫太宰の官人の相替は從前、四年を限とせしを増して五年とせられたれば、旅人卿の在任の時は滿四年を以て任期とせしものなり。
○京師爾而 「ミヤコニテ」とよむ。「ニテ」は「ニ」と「テ」との間に略語あるものにして、卷一「二二」に「常丹毛冀名《ツネニモガモナ》、常處女※[者/火]手《トコヲトメニテ》」とあるその例なるが、ここは「都に於て」若くは「都に歸りて」「都に行きて」などの意なり。
○誰手本乎可 「タガタモトヲカ」とよむ。卷二「一三八」に「敷妙之妹之手本乎《シキタヘノイモガタモトヲ》云々」とあり。意明かなり。
○吾將枕 舊訓「ワガマクラセム」とよめり。童蒙抄は「ワレハマクラン」とよみ、槻落葉、考は「ワカマクラカム」とよめり。按ずるに「マクラク」といふ語は卷一「六六」に「大伴乃高師能濱乃松之根乎枕(864)宿杼家之所偲由《オホトモノタカシノハマノマツガネヲマクラキヌレドイヘシシヌバユ》」とありてそこに委しくいへるが故にここにただ「マクラカム」とよむべきことをいふに止む。意は枕せむといふに似たり。
○一首の意 わが、任期は終りに近づきて、今や京にかへるべくなりにたり。然るにこの地にて最愛の妻を失ひたれば、京師に歸りて誰が手をば我が枕とせむ。共に語ふべき最愛の妻には京に歸りても再び逢ふべきにあらず。普通の歸京ならば、京にて待つ最愛の妻あるべきに、わが歸京はいかにも物淋しきことよとなり。
 
440 在京師《ミヤコナル》、荒有家爾《アレタルイヘニ》、一宿者《ヒトリネバ》、益旅而《タビニマサリテ》、可辛苦《クルシカルベシ》。
 
○在京師 「ミヤコナル」とよみて異説なし。「ミヤコニ在ル」の義なり。意明かなり。
○荒有家爾 「アレタルイヘニ」とよむ。「荒有」は卷一「三三」に「荒有京」といへる例あり。これは京を離れて地方に在任する間、その京の家には自ら住むことなかりしが故にかくはいへるものならむが、又その家にかへりても待つ人もなく凄愴荒凉たる家なるべければ、かた/”\かくいへるものならむ。
○一宿者 「ヒトリネバ」とよむべし。ここの「バ」は未然形につける接續助詞なり。「一」を「ヒトリ」とよむことは卷八の卷末の歌「一六六三」に「手枕不纏一香聞將宿《タマクラマカズヒトリカモネム》」卷九「一六六六」に「一哉君之山道將越《ヒトリヤキミガヤマヂコユラム》」「一六九二」に「衣片敷一鴨將寐《コロモカタシキヒトリカモネム》」等例多し。ここにひとりぬるとはその妻を亡ひて孤閨に居ることをいへるものならむ。
(865)○益旅而 「タビニマサリテ」とよむ。意明かなり。下「四五一」に「草枕旅爾益而辛苦有家里《クサマクラタビニマサリテクルシカリケリ》」といへるは、同じ人のその空しき家にかへりての實感をうたへるにてここに照應するものなり。
○可辛苦 舊訓「クルシカルベシ」とよみたるが、童蒙抄には「カナシカルベシ」とよめり。されど「辛苦」は世に知る如く、元來「クルシ」といふ意をなす熟字にして本集にもこれを用ゐたること少からず。その例は上にあげたる外、卷八「一四六七」に「其鳴音乎聞者辛苦母《ソノナクコヱヲキケバクルシモ》」「一五四四」に「牽牛之念座良武從情見吾辛苦夜之更降去者《ヒコボシノオモヒマスラムココロユモミルワレクルシヨノフケユケバ》」等一々あぐべからず。特に、卷十「二一八三」の「吾待之黄葉早繼待者辛苦母《ワガマチシモミヂハヤツゲマタバクルシモ》」と卷十五「三六八二」の「安米都知能可未乎許比都都安禮麻多武波夜伎萬世伎美麻多波久流思母《アメツチノカミヲコヒツツアレマムハヤキマセキミマタバクルシモ》」とを照しあはせてその然ることを知るべし。
○一首の意 京師にあるわが家は、我が住まずして四五年を經たるのみならず、家刀自といはるるわが妻も住まずなりて、この地にて没したれば、今ここに任期滿ちて京に歸りたりともいかにも荒凉たる家といふべきなり。かゝる荒れたる殺風景なる家にて一人宿ぬる事とならば、旅にありて苦しく思ふよりもまさりてくるしからむとなり。それは旅宿にては旅宿なるが故に淋しさも止むを得ずといふあきらめも生ずべきなれど、わが家にありてはさるあきらめの生せざるはもとより、亡妻思慕の情、旅にての思よりは數層倍甚しかるべきによりてなり。この歌を誦するに言平易にして感傷あまりあり、よき歌といふべし。なほ下の「四五一」の歌と相照してこの情を味ふを要す。
 
(866)右二首臨2近向v京之時1作歌
 
○ この左注は上の二首が、京に向ふ時に臨み近づきてよめる歌なり。按ずるに大伴旅人が大納言に兼任せしは天平二年十月一日なる由この卷の末の附録にあり。而してこの卷の下の歌に「天平二年庚午冬十二月太宰帥大伴卿向京上道之時作歌」とあれば、この歌はその前なれど、大體天平二年のうたと見るべきものならむ。かく考へ來れば、ここに詞書と吻合せぬ事生ず。詞書にては神龜五年の詠なりとせり。然るに、この二首は天平二年の詠なるべく思はるるなり。然らば、はじめ一首のみが、神龜五年妻の没せし時の詠かといふに、詞書にては三首とあれば、これらすべてをさせること著し。加之、この三首共に「思戀故人歌」といふにはよくあへり。然らば、神龜五年はその任期の末に近かりしが爲かと見るに、天平二年を四年の任期の末とせば神龜五年はその中間期なるを以て「臨2近向v京之時」といふに適せず。これにつきて攷證は「この二首は京にかへらんとせらるゝ時に、天平二年の冬の歌なるを神龜五年の歌の中に加へしはいかにぞやおもはるれど、同じく妻をかなしめる歌なれば、類を以てここに加へしにてもあるべし」といへり。今はかゝる見解より以上にこれを解決すべき案を知らず。
 
神龜六年己巳左大臣長屋王賜v死之後、倉橋部女王作歌一首
 
○神龜六年己巳 長屋王の事のありしは神龜六年二月にして、その年八月に天平元年と改まり(867)しものなれば、ここには六年と記せるなり。
○左大臣長屋王 この王は卷一「七五」の歌の作者にして、そこにいへる如く天武天皇の御孫にして高市皇子の御子なり。左大臣に任ぜられしは神龜元年にして、爾來太政官の上首として國政を料理してありしが、神龜六年に讒にあひて、死を賜はりて五十三歳にて自盡せられ、妃吉備内親王をはじめ、御子膳夫王、桑田王、葛木王、鈎取王等みな自ら縊れたまひしこと史に記せり。
○賜死之後 この「賜死」は二月十二日(壬戍朔癸酉)なれば、この詠はその後のことなり。
○倉橋部女王 この女王の事父祖傳記すべて知られず。卷八「一六一三」の歌の詞書に賀茂女王歌一首とありて、それに注して「長屋王之女、母曰2阿倍朝臣1也」とあり、その左注に「石歌或云椋橋部女王或云笠縫女王作」とあり。その椋橋部女王とこの倉橋部女王とは恐らくは同じ人なるべし。
 
441 大〔左○〕皇之《オホキミノ》、命恐《ミコトカシコミ》、大荒城乃《オホアラキノ》、時爾波不有跡《トキニハアラネド》、雲隱座《クモガクリマス》。
 
○大皇之 「大」字流布本「太」とし、神田本、細井本等「天」とせるが、その他の古寫本みな「大」字にせるをよしとす。よみ方は古來「スメロギノ」とよみたるが、童蒙抄、槻落葉、古義、攷證等は「オホキミノ」とよめり。「天皇」とあらば「スメロギ」ともよみつべけれど、「大皇」とあるは「オホキミ」とよむべきものならむ。この語の例は卷一「七九」の「天皇乃御命畏」をはじめて多く、假名書の例にて二三をいはば、卷十四「三四八〇」に「於保伎美乃美己等可思古美《オホキミノミコトカシコミ》」卷十五「三六四四」に「於保伎美能美許等可之故美《オホキミノミコトカシコミ》」(868)卷十七「四〇〇八」に「於保伎美乃美許等可之古美《オホキミノミコトカシコミ》」等多くして一々あぐべからず。意は明かなり。
○命恐 「ミコトカシコミ」とよむ。その例上にあげたり。天皇の、勅命の恐きによりてなり。
○大荒城乃 「オホアラキノ」とよむ。「オホアラキ」といふ語は卷二「一五一」の詞書にある「大殯」の文字にあたるものなることその所にいへる所なるが、「殯」は説文に「死在v棺、將v遷2葬柩1賓2遇之1」とある如く、死亡したまひて後未だ葬り奉らず權殿をつくりておきて賓遇する時をいふ。「アラキ」は「新城《アラキ》」の義なり。
○時爾波不有跡 「トキニハアラネド」とよむ。「オホアラキノ時ニハアラネド」とは天命を以てみまかり給ふにあらずして、不時に命をすて給ひしことをいはむとての語なり。
○雲隱座 舊訓「クモカクレマス」とよみたるを槻落葉に「クモガクリマス」とよめり。「カクル」は古語四段活用なりしが故に、槻落葉の説をよしとす。「雲隱」るは雲に隱るる義にして人の死をたとへいふ語なりしこと、この卷「四一六」に「百傳磐余池爾鳴鴨乎今日耳見哉雲隱去牟《モモヅタフイハレノイケニナクカモヲケフノミミテヤクモガクリナム》」「四六一」に「留不得壽爾之在者敷細乃家從者出而雲隱去寸《トドメエヌイノチニシアレバシキタヘノイヘユハイデテクモガクリニキ》」などにて見るべし。
○一首の意 天皇の詔命のかしこさに、長屋王は大荒城を營むべき時にあらず、即ち未だ壽命の終るべき時にはあらざれど、詔命によりてみまかり給ひぬとなり。この歌詞の上には何ともなきさまなるが、かへりて悲しく思はるるなり。
 
悲2傷膳部王1歌一首
 
(869)○悲傷 「カナシミテ」とよむべし。
○膳部王 「カシハテノオホキミ」なり。この王は長屋王の子にして、御母は吉備内親王なり。續日本紀によるに、靈龜元年二月に御母吉備内親王の尊貴なるによりて皇子の列に入れて優遇せられたるが、神龜元年二月には從四位下を授けられたり。續紀の長屋王自盡の際の記事には「癸酉令2王自盡1。其室二品吉備内親王、男從四位下膳夫王、无位桑田王、葛木王、鈎取王等亦自縊」とあるが、その膳夫王即ちこの王にして父王の事に坐して共に自盡せられしなり。この歌はその膳部王の薨去をかなしみてよめるなり。
 
442 世間者《ヨノナカハ》、空物跡《ムナシキモノト》、將有登曾《アラムトゾ》、此照月者《コノテルツキハ》、滿闕爲家流《ミチカケシケル》。
 
○世間者 「ヨノナカハ」とよむ。「世間」を「ヨノナカ」とよむことははやく卷二「二一〇」にいへり。
○空物跡 「ムナシキモノト」とよむ。この語の例は卷五のはじめの「七九五」に「余能奈可波牟奈之伎母乃等志流等伎子伊興余麻須萬須加奈之可利家理《ヨノナカハムナシキモノシルトキシイヨヨマスマスカナシカリケリ》」にて見るべく、又似たる思想は卷五「八〇四」に「余乃奈迦野都禰爾阿利家留《ヨノナカヤツネニアリケル》」卷六「一〇四五」に「世間乎常無物跡今曾知《ヨノナカヲツネナキモノトイマゾシル》」卷八「一四五九」に「世間毛常麻師不有者《ヨノナカモツネニシアラネバ》」卷十七「三九六九」に「余能奈可乃都禰之奈家禮婆《ヨノナカノツネシナケレバ》」卷十九「四二一六」に「世間之無常事者知良牟乎《ヨノナカノツネナキコトハシルラムヲ》」等にして、この世間は無常にして空しきものなりといふにて佛教の思想に基づくものなること著し。
○將有登曾 「アラムトゾ」とよむ。意明かなり。「世間は空しき物と〔右○〕有らむ」となり。この「と」はか(870)く觀ずべき物たりといふ意をあらはさむとて用ゐし助詞なりと見ゆ。「物とあり」は即ち後世の「物たり」なればなり。かくの如き「とあり」はこの卷「三四三」に「中中二人跡不有者《ナカナカニヒトトアラズハ》」卷十二「三〇八六」に「中中二人跡不在者《ナカナカニヒトトアラズハ》」卷七「一三八五」に「埋木之不可顯事等不有君《ウモレギノアラハルマジキコトトアラナクニ》」などあり。次の「と」即ち「あらむとぞ」の「と」は、かくあらむが道理なりと示さむといふ程の心ありていへるなり。即ちこの「と」は或る目的を示す爲に用ゐしなり。
○此照月者 「コノテルツキハ」とよむ。「照月」といふ語は卷二「二〇七」又卷九「一六九一」などにあり。天にてる月といふ義なるが、これは恐らくは二月十二日に自盡せられたるなれば、その當時まもなき時の詠にして、その時、月の照れるを見てそれに感慨を寓したるものならむ。
○滿闕家流 「ミチカケシケル」とよむ。上に「曾」の係あるによりて「ケル」と結べるなり。卷十九「四一六〇」に「天原振左氣見婆照月毛盈〓之家里《アマノハラフリサケミレバテルツキモミチカケシケリ》」卷七「一二七〇」に「隱口乃泊瀬之山丹照月者盈〓爲烏人之常無《コモリクノハツセノヤマニテルツキハミチカケシテゾヒトノツネナキ》」とあり。「滿闕」は月の滿月となり新月となるとてたえず變ずるをいふにて、これを以て世のさまの有爲轉變きはまりなきをたとへていへるなり。
○一首の意 この世間といふものは無常にてはかなき物たりといふことを示さむとてぞ、この天に照る月も滿ちたり闕けたりすることなるよ。この膳部王は左大臣家の嫡子として、又御母の縁によりて皇子の待遇をうけて、さばかり、榮えたまひしに、父王が讒言にあひたまひて、家も身も滅びましたることはまことに世の無常の道理を實地に示したるものと見ゆとなり。
 
(871)右一首作者未詳
 
○ これは作者詳かならずといふなり。攷證は前の歌と同じく倉橋部女王なる事明かにして、この左注は誤りなりといへり。如何にしてそれを知り得たるか。何の證も存せざるなり。されば、なほ未詳といふをよしとす。
 
天平元年己巳、攝津國班田史生丈部龍麿自經死之時、判官大伴宿禰三中作歌一首并短歌
 
○天平元年己巳 は即ち神龜六年己巳にして同じ年なることいふまでもなし。然るに彼は神龜六年とし、これは天平元年とせるは改元以前と改元以後とによりて區別をせるなり。この改元は八月癸亥(己未朔なれば、五日なり)なれば、この事は八月五日以後に起りしものなりと知られたり。
○攝津國 この國名は今は「セツツノクニ」とよむなれど、古はたゞ「ツノクニ」とよめり。卷二十「四三八三」に「都乃久爾乃宇美能奈伎佐爾布奈與曾比《ツノクニノウミノナギサニフナヨソヒ》」といへるこれなり。攝津國はもと攝津職といひしものにして、職員令に「攝津職帶2津國1」とあるものこれなり。これ、は元來難波宮を監理するを主とし同時に津國の政務を掌りしものなれば、左右京職と同格の官廳を設けられそれを「職」と名づけられしが、それは津國の政務をも攝すといふ意にて「攝津職」とはいひしなり。この(872)「攝津職」は後には職の制を止められて、普通の國となりしなるが、それは令集解に注する官符にて延暦十二年三月なるを知る。曰はく、
 延暦十二年三月九日官符云、應d停2攝津職1爲c國司u事。右被2右大臣宣1※[人偏+稱の旁]、奉v勅、難波大宮既停、宜d改2職名1爲uv國云々とあり、日本紀略にも「延暦十二年三月丁亥改2攝津職1爲v國」とあるなり。さてかく職の名を停められし時にも津國といはずして文字をもとのまゝ用ゐて攝津國といひて、一種奇異の國名となりしなり。さてここに攝津國といへるは公式にいふ時は延暦十二年以後といふべきに似たり。然るに、この職名を停められしより前に既に攝津國といひたる例も少からず。日本書紀雄略天皇の十七年三月の記事に「攝津國來狹々村」あり、清寧天皇の三年三月の記事に「到2攝津國1」とあり、續日本紀和銅四年正月には「攝津國島上郡大原驛島下郡殖村驛」の名見え東大寺正倉院文書には「天平七年定」と記せる攝津國正税帳あり、天平十九年二月の法隆寺伽藍縁起并流記資財帳には「攝津國菟原郡」「攝津國雄伴郡」あり、續日本紀天平勝寶二年八月の記事には「攝津國住吉郡人云々」とあり、天平勝寶五年九月の記事には「攝津國御津村」とあり、天平寶字六年十二月に葬りし石川朝臣年足墓志には「攝津國島上郡白髪郷」とあり、續日本紀神護景雲二年九月三年二月の記事には「攝津國豐島郡人」等の語見えたれば、當時はやく攝津國ともいひしこと知られたり。しかも攝津職と正しくいひたること、もとよりなり。日本書紀天武天皇六年十月には「内大錦下丹比公麿爲攝津職大夫」と見え、續日本紀和銅六年九月には「攝津職言」といふ記事見ゆ。(873)なほ天平十五年九月一日の東大寺奴婢帳には「攝津職移」と見え、天平寶字四年十月廿二日の正倉院文書には「攝津職三島上郡」と見え、同年十一月十八日の東大寺小櫃文書には「東大寺三綱牒攝津職」と見え、同五年十月一日の法隆寺縁起資財帳には「攝津職住吉郡廿五町」と見えたり。かくの如く、當時既に二樣に用ゐたること知られたれば、ここも、その頃の俗用に隨ひしものと見えたり。
○班田史生 班田とは大化改新の制度によりて、公民たる百姓に口分田を班ち給ふ制度をいふ。その委しきは田令に見えたるが、要は六年毎に調査して舊を收め改めて班ち給するなり。これを掌るは畿内には特別の官署ありて班田使といひ、七道はその國司の任としたり。續日本紀に「天平元年十一月癸巳任2京及畿内斑田司1」とあり。これはさきに大寶二年に班田あり、次に六年を經て和銅元年に班田あり、次は和銅七年、次は養老四年、次は神龜三年にして、次は天平四年なるべき順序なるに、天平元年に上の如く班田司の任命ありしを見れば必ずしも六年毎に收檢する制の嚴守せられざりしを見るべし。史生《シシヤウ》は今の書記の如き職なり。判任の官にして、二官、八省、諸職、諸寮、諸司等すべての官署にありて公文書を掌る職なり。ここのは班田司所屬の史生たり。
○丈部龍麿 「ハセツカベノタツマロ」とよむべし。「丈部」といふ郷名、安房國長狹郡にありて和名鈔には「波世豆加倍」とよみたり。この人の事傳を知らず。丈部氏には造の姓なるもありて新撰姓氏録に「天足彦國押人命孫比古意祁豆命後也」とあれど、これは姓《カバネ》なければ、身分はさまで高(874)からざりし人ならむ。丈部氏は卷二十なる遠江、駿河、相模、安房、上總、下總の防人に見ゆる氏なるが、上の如く安房の地名にもあれば、この人、その邊の出身なりしものか。なほ下にいふことあるべし。
○自經死之時 「經」は楊子方言に「縊也」とありて、これは自ら縊れて死せしなり。よみ方は日本紀雄略卷には「經死」をワナキとよませたるによりてかくよむべしといふ説あれど、新撰宇鏡に「縊」に注して「校地、經也久比留」とあれば、なほ「クビル」とよむをよしとすべし。この人何が故に縊れ死にしかその由知られず、歌によれば罪に死にたるにあらぬことは考へらるれど、詳かなることは知るによしなし。
○判官 これは班田司の判官なり。判官は第三等の官にて長官次官の命を受けて、その官署の事務一切を實際に處理する任にあるによりて、實務上は重き任にあるものなり。これを國語にて「マツリゴトビト」と訓するはこの故なり。
○大伴宿禰三中 これは宿禰の姓あれば、大伴旅人等の一族たることは疑なけれど、その父祖は知られず。續日本紀を見るに、天平九年正月に遣新羅使等の入京せし時の記事に「副使從六位下大伴宿禰三中染v病不v得v入v京」とあり、その三月に「遣新羅副使正六位上大伴宿禰三中等四十人拜朝」とあり、なほ天平十二年正月には外從五位下を授けられ、天平十五年六月には兵部少輔となり、天平十六年九月に山陽道巡察使に任ぜられ、十七年六月に太宰少貳となり、十八年四月長門守に任ぜられ、十九年三月刑部省の大判事に任ぜられたり。その班田判官に任ぜられしこ(875)と史に明かならねど、本集によりてこれを知るべし。
 
443 天雲之《アマグモノ》、向伏國《ムカブスクニノ》、武士登《モノノフト》、所云人者《イハエシヒトハ》、皇祖《スメロギノ》、神之御門爾《カミノミカドニ》、外重爾立|候〔左○〕《トノヘニタチサモラヒ》、内重爾《ウチノヘニ》、仕奉《ツカヘマツリ》、玉葛《タマカヅラ》、彌遠長《イヤトホナカク》、祖名文《オヤノナモ》、繼往物與《ツギユクモノト》、母父爾《オモチチニ》、妻爾子等爾《ツマニコドモニ》、語而《カタラヒテ》、立西日從《タチニシヒヨリ》、帶乳根乃《タラチネノ》、母命者《ハハノミコトハ》、齋忌戸乎《イハヒベヲ》、前坐置而《マヘニスヱオキテ》、一手者《カタテニハ》、木綿取持《ユフトリモチ》、一手者《カタテニハ》、和細布奉《ニギタヘマツリ》、平〔左○〕《タヒラケク》、間幸座與《マサキクマセト》、天地乃《アメツチノ》、神祇乞祷《カミヲコヒノミ》、何在《イカナラム》、歳月日香《トシツキヒニカ》、茵花《ツツジバナ》、香君之《ニホヘルキミガ》、牛留鳥《クロトリノ》、名津匝來與《ナヅサヒコムト》、立居而《タチテヰテ》、待監人者《マチケムヒトハ》、王之《オホキミノ》、命恐《ミコトカシコミ》、押光《オシテル》、難波國爾《ナニハノクニニ》、荒玉之《アラタマノ》、年經左右二《トシフルマデニ》、白栲《シロタヘノ》、衣不干《コロモモホサズ》、朝夕《アサヨヒニ》、在鶴公者《アリツルキミハ》、何方爾《イカサマニ》、念座可《オモヒイマセカ》、鬱蝉乃《ウツセミノ》、惜此世乎《ヲシキコノヨヲ》、露霜《ツユシモノ》、置而往監《オキテイニケム》、時爾不在之天《トキナラズシテ》。
 
○天雲之向伏國 「アマクモノムカブスクニノ」とよむ。卷五「八〇〇」に「阿磨久毛能牟迦夫周伎波美《アマグモノムカブスキハミ》」卷十三「三三二九」に「青雲之向伏國《アヲグモノムカブスクニ》」などあり。これは延喜式祈年祭の祝詞に「白雲能墜坐向伏限《シラクモノオリヰムカブスカギリ》」とある、その意にて解すべきものにして、これはわれらの眼に映ずる土地のはてはその見たるままの感じは雲が、我れと對したる方に向ひ伏してある如く見ゆるによりて國土のはてをいふなり。
○武士登 舊來「モノノフト」とよみ來りしを古義に「マスラヲト」とよみ改めたり。されど「武士」の字を「マスラヲ」とよむこと古來、甞てなきことにて如何なり。「モノノフ」といふ語は卷一「五〇」に(876)「物力布能八十氏河《モノノフノヤソウヂガハ》」卷十七「三九九一」に「物能乃敷能夜蘇等母乃乎能《モノノフノヤソトモノヲノ》」卷十八「四〇九四」に「毛能乃布能八十伴雄乎《モノノフノヤソトモノヲヲ》」など假名書の例少からず。その「モノノフ」の意は既にいへる如く、もと文武官の分ちなく、すべて朝廷に仕へ奉る人をいへるものなるが、しかもそれらの人はすべてみな武勇ありて武事をかねざるはなく、一朝事ある場合には皆武人として活動せしが故に、後世武事を主とするものに專らこの名の傳はることになりしならむ。今ここに「武士」の文字をあてたる以上、これは古の「モノノフ」の意即ち汎く官人といふ意にあらずして、なほ武人を主としてさせることは思はざるべからず。
○所云人者 舊訓「イハレシヒトハ」とよみたるが、古義に「イハエシヒトハ」とよめり。いづれにてもよきが、語法の古き方によりて古義に從ふべし。これは古來より、諸國の武士といひて、ほめたゝへられし人はといふ程の意なるべし。
○皇祖 「スメロギノ」とよむ。「スメロギ」といふ語は卷十七「四〇〇六」に「須賣呂伎能乎須久爾奈禮婆《スメロギノヲスクニナレバ》」卷十八「四〇九四」に「須賣呂伎能神乃美許等能《スメロギノカミノミコトノ》」卷二十「四四六五」に「須賣呂伎能可未能御代欲利《スメロギノカミノミヨヨリ》」とあり。この語は上の卷二十の例の如く、ここに「皇祖」とかけるが、又この卷「三二〇」に「皇神祖」とかき、又卷七「一一三三」に「皇祖神」と書けるが、本義にして、轉じては天皇の義にもなれることは既に述べたる所なり。今この所は文字は元義のまま「皇祖」とあれど、實際は天皇をさし奉れるものなり。
○神之御門爾 「カミノミカドニ」なり。「スメロギノカミ」とは天皇をさし奉る。その例は卷一「二(877)九」の「天皇之神之御言能大宮者《スメロギノカミノミコトノオホミヤハ》云々」に既に出で、又卷二「二三〇」の「天皇之神之御子之《スメロギノカミノミコノ》云々」卷十一「二五〇八」に「皇祖乃神御門乎懼見等《スメロギノカミノミカドヲカシコミト》」又上にあげたる卷十八「四〇九四」の例、卷二十「四四六五」の例にて知るべし。「御門」といふは實際の御門をいふもあり、又一部を以て全體をさす意にて皇居をさすこともあり、又政廳としての朝廷をさすこともあり。今この所にいふは宮城の義と思はれたり。
○外重爾 舊訓「トハニ」とよみたるが「重」字は「ハ」とよむべき由なければ、舊訓は隨ふべからず。代匠記に「トノヘニ」と改めよみたるより諸家これに從へるが、四音一句の例の一とすべし。「重」は「千|重《ヘ》」「八|重《ヘ》」などの「ヘ」なれば「トノヘ」とよむは不條理ならず。「外重」といふ語は集中にはここ一のみなり。されど、古今集なる壬生忠峯の長歌に「みかきよりとのへもる身のみかきもり、をさをさしくもおもほえず云々」とありて、皇居の外廓をさすこと著しく、恐らくは古くよりいひ來りし語ならむ。これは次の「内重」に對する語にして、又「ココノヘ」の語によりても考へらるる語にして、宮城の外郭をいふなるべきが、この外郭を守る武士として奉仕せしをいふならむ。官衛令を見るに、「凡應v入2宮閤門1者云々」の義解に「謂衛門所v守謂2之官門1、兵衛所v守謂2之閤門1」とあり、集解には「古記云外門謂2最外四面十二大門1也、主當門司謂2門部1也、其中門謂2衛門與衛士共防守1也、門始著籍此門也、内門謂兵衛主當門之也」その内門中門外門は即ち内《ウチ》の重《ヘ》の門、中《ナカ》の重の門、外《ト》の重《ヘ》の門なるべし。而してその門を守るは衛府の任なることは宮衛令の中の「門司」の義解に「謂衛府也」とあり。衛府は大寶令には未だ近衛府の設なく、衛門府、左右衛士府、左右兵衛府の五府なる(878)が、衛門府は「當諸門禁衛」と規定しあるが、その所管の職名に門部二百人、物部三十人あり、ここの外重とは實際上にさす所明かにはあらねど、宮城の外廓をさすことは著し。
○立候 「候」字流布本「侯」とせり。されど、義をなさず。大多數の古寫本に「候」に作れるを正しとするによりて改む。舊訓「タチマチ」とよみたれどこれも義をなさず。代匠記に「タチサモラヒ」とよみたるをよしとす。「タチサモラフ」とつゞけたる例は本集にはここ一のみなるが、「サモラフ」といふ語の存せしことは卷二「一九九」に「鶉成伊波比廻雖侍候佐母良比不得者《ウヅラナスイハヒモトホリサモラヘトサモラヒエネバ》」卷二十「四三九八」に「安佐奈藝爾借牟氣許我牟等佐毛艮布等和我乎流等伎爾《アサナギニヘムケコガムトサモラフトワガヲルトキニ》」によりて見るべし。なほ御門に侍ひしことは卷二「一八四」に「東乃多藝能御門爾雖伺侍《ヒムガシノタギノミカドニサモラヘド》」とある如き、例に知るべし。但し卷二のは皇太子の宮門に侍ひしもの、こゝのは皇宮の御門なれば、輕重の差はあり。さて立ち候ふとは、皇宮の外郭を守衛する爲に奉仕することをいふ。この事實はかの壬生忠岑の例にて考へうることなるが、忠岑は延喜の頃右衛門府生たりし人なり。ここにいふ所はその丈部龍麿が實際に衛門府に屬したりしか否かは明かならず。そは次に「内重云々」ともあればなり。
○内重爾 舊訓「ウチハニ」とよみたれど、義をなさざること既にいへるにおなじ。代匠記に「ウチノヘニ」とよみ、考に「ナカノヘニ」とよみたり。按ずるに、上の「外重爾」に對する語なるは明かなるが「内」は「ウチ」とよむ例にして「ナカ」とよむべきにあらねば、代匠記の説に從ふべし。上に引ける令の集解の文によれは「内門」のある所が「ウチノヘ」「中門」のある所が「ナカノヘ」「外門」のある所が「トノヘ」にして「ナカノヘ」「ウチノヘ」は各別なるものの如く考へられざるにあらねど、ここは歌詞に(879)して嚴密に制度をあてて論ずべきにもあらねば、外重に對して、その内なるを「中重《ナカノヘ》」とも「内重《ウチノヘ》」ともいひうべきなり。「中重」なる語は寛平遺誡、侍中群要等に見ゆれど、本集にはその例なく、「ウチノヘ」といふ語は卷九「一七四〇」に「海若神之宮乃内隔之細有殿《ワタツミノカミノミヤノウチノヘノタヘナルトノ》」といふがあり。これ禁門内をさすなり。
○仕奉 舊訓には上の「内重爾仕奉」を一句としてこの二字ただ「ツカヘ」とよめり。されど「内重爾」にて一句、この二字にて一句なるべきものなり。これを代匠記には「ツカヘマツリテ」とよみ、槻落葉は「ツカヘマツリ」とよめるが、「マツリテ」とよむときはここにて一往一括する如き意となるが、ここは、なほ下に重ねいふ語法なれば、槻落葉によるべし。意は明かなり。さてここに内重に仕奉るといひ、上に外重に立候ふといふは如何にといふに略解に「龍麿は衛門府の門部か物部より兵衛府にも轉りしなるべし」といへり。内重に奉仕すとは兵衛府か衛士府かの職なるべきこといふまでもなけれど、龍麿が、かく外重を守る職より内重を守る職に轉じたりといふ事をいへるものとは思はれず。それは軍防令に「凡兵士向v京者名2衛士1」とありてその衛士は又「衛士至v京日兵部先檢2閲戎具1分配2三府1」とあり。三府とは衛門左右衛士府の三府なり。而して職員令には明かに衛門府左右衛士府の下に衛士とあり。「兵衛」は別にして、軍防令に「國司d※[草がんむり/間]郡司子弟強※[幹の旁が誇の旁]便2殻弓馬1者u、郡別一人貢之」とあり。職員令によれば右左兵衛府各四百人宛の兵衛ありて衛士はこの府にはなし。されば、略解の説は信ずべからず。ここは言のあやにて或は内重に或は外重に奉仕すといふに止まるべし。さて、この人が、かく武士の出身にして、班田史生(880)たる文官に任ずることを以て見れば、これはただの衛士にあらずして兵衛なりしならむことは疑ふべからず。軍防令に「凡兵衛毎v至2考滿1兵部※[手偏+交]練、隨2文武所能1具爲2等級1申v官。堪v理2時務1者量v才處分。」とあり。その義解に「謂量2其才能1任2文武官1」とあり。而して兵衛の身體虚弱なるものは宿衛を免じて郡司に任ぜられたることありしことも令に見えたり。今これらの事を以て考ふれば、兵衛は國にかへれば、郡司たることをうる階級の人物にして、この才能あれば中央政府にも仕官せしことこれにて知られたり。かくて考ふれば龍麿は兵衛として貢せられし人物にて、はじめより衛門府衛士府の人にはあらざりしならむ。然るときはます/\外重内重云云は語のあやにして、一般の武士たる衛士兵衛たるものに通じいひしに止まるものと見ざるべからず。
 かくの如く考へ來れば丈部龍麿はその出身よりしてある國の郡司の子弟たりしこと殆ど疑ふべからざるものとなる。されど、この事は龍麿につきていひしに止まり、本文に直接關係ある點は諸國より貢せし武人たりといふにて足れり。
○玉葛 「タマカヅラ」とよむ。この語は卷二「一〇一」「一〇二」にも見えたる如く、ただ「葛」をほめていふに止まるが、その蔓の長くはえわたるによりて、「絶事無《タユルコトナク》」(卷三「三二四」卷六「九二〇」)の枕詞とし、又ここの如く「彌遠長《イヤトホナガク》」の枕詞ともせり。
○彌遠長 「イヤトホナガク」とよむ。この語の例は卷二「一九六」に「天地之彌遠長久《アメツチノイヤトホナガク》」をはじめ卷十四「三三五六」に「不盡能禰乃伊夜等保奈我伎夜麻治乎毛《フジノネノイヤトホナガキヤマヂヲモ》」など稀ならず。時間の甚しく長く遠く(881)つづくことにいふ。
○祖名文 「オヤノナモ」とよむ。「オヤ」は古は直接の兩親のみならず、祖先を汎くもいへるが故に「祖」字をもよめり。卷十八「四〇九四に「人子者祖名不絶《ヒトノコハオヤノナタタズ》、大君爾麻都呂布物能等《オホキミニマツロフモノト》」卷二十「四四六五」に「牟奈許等母於夜乃名多都奈大伴乃宇治等名爾於敝流麻須良乎能等母《ムナゴトモオヤノナタツナオホトモノウヂトナニオヘルマスラヲノトモ》」などこの例なり。
○繼往物與 「ツギユクモノト」とよむ。先祖の名を繼ぎてその名をおとさず遠長くその名譽を傳へゆくものなりといふなり。卷十八「四〇九四」に「人子者祖名不絶《ヒトノコハオヤノナタタズ》、大君爾麻都呂布物能等《オホキミニマツロフモノト》」又續紀卷十五、天平十五年五月の宣命に「祖名乎戴持而天地與共爾長久遠仕奉禮等《オヤノナヲイタダキモチテアメツチトトモニナガクトホクツカヘマツレト》云々」(第十一詔)又卷廿五天平寶字八年九月の宣命に「夫人止之天己我先祖乃名乎興繼比呂米武止不念阿流方不在《ソレヒトトシテオノカトホツオヤノナヲオコシツギヒロメムトオモハズアルハアラジ》」(廿八詔)など、皆ここと同じ心なり。さてここの「と」は下の「語ふ」につゞく語遣なり。
○母父爾 舊訓「ハヽチヽニ」とよみたるが、考、略解は「オモチヽニ」とよみ、攷證は「チヽハヽニ」とよめり。按ずるに「チチハヽ」といふ語遣は古よりあれど、それをわざ/\「母父」とかくべきにあらず。支那の字例も「父母」とこそあれ「母父」といふ熟字のあるを知らず。この故に若し「チチハヽ」とよむべきものならば、必ず「父母」とかきてあるべくわざ/\「母父」とかくべからず。而して又「ハヽチヽ」といふ語の例を見ざれば、考、略解などの「オモチチ」のよみ方をよしとす。卷二十「四四〇二」に「伊波負伊能知波意毛知々我多米《イハフイノチハオモチヽガタメ》」とあるが、その例にして「四三七六」の「阿母志志爾己等麻乎佐受弖伊麻叙久夜之氣《アモシシニコトマヲサズテイマゾクヤシケ》」「四三七八」の「阿母志志可多麻乃須我多波和須例西奈布母《アモシシガタマノスガタハワスレセナフモ》」の「アモシシ」はその「オモチチ」の訛なり。攷證は「これらは皆國ぶりの歌にて方言ならんもしりがたければここ(882)にはとりがたし」といひたれど、「母」を「オモ」といふことは古言にして、例多きことにして、ことに「父」と重ね用ゐたるものなれば、これを否認するは不理なり。かくて「母父」とかけるはここの外、卷十三に(「三三三六」「三三三七」「三三三九」或本歌「三三四〇」)もあり。これをすべて「チチハハ」といふことは無理なりといふべし。
○妻爾子等爾 「ツマニコドモニ」とよむ。意明かなり。母父に語ひ、妻に語ひ、子供に語ひといふべきをかくの如くいへるなり。卷十三に「三三三七」の「母父毛妻毛子等毛高高二來跡待異六人之悲沙《オモチチモツマモコドモモタカ/”\ニコムトマチケムヒトノカナシサ》」とあり。
○語而 「カタラヒテ」とよむ。意明かなり。以上は國々より上京する衛士兵衛たる者の平素の心得として語り草とする所を龍麿がその父母妻子によく/\語ひおきて上京せしさまに述べたるものなり。
○立西日從 「タチニシヒヨリ」とよむ。「タツ」とは今もいふ如く旅に出で立つをいふ。卷十七「三九九九」に「美夜故弊爾多都日知可豆久《ミヤコベニタツヒチカヅク》」卷四「五七〇」に「山跡邊君之立日乃近者《ヤマトベニキミガタツヒノチカヅケバ》」などその例なり。「龍麿旅立したりし日より」といふなり。
○帶乳根乃 「タラチネノ」とよみて異説なし。この語の假名書の例は「多良知禰乃波波能美許等乃《タラチネノハハノミコトノ》」卷十七「三九六二」)「多良知禰乃波波乎和加例弖《タラチネノハハヲワカレテ》」(卷二十「四三四八」「多良知禰能波波母都末良母《タラチネノハハモツマラモ》」(卷十五「三六九一」などあり。又卷十三「三二五八」に「帶乳根笶母之養蠶之眉隱《タラチネノハハノカフコノマユゴモリ》」とあるもおなじ語なり。「帶」を「タラ」の語にあつるは古事記序文に「亦於v姓日下(ヲ)謂2玖沙※[言+可]1、於v名(ニ)帶(ノ)字(ヲ)謂2多羅斯1如是之(883)類隨v本不v改」といへる如く、古來帶の字を「タラシ」とよみ來れるものにしてたとへば神功皇后の御名を息長帶姫命とかけるその一例なり。その「タラシ」の「タラ」をかりてここにかけりと見えたり。さてこれは誰も知る如く、「ハヽ」の枕詞なるが、かく枕詞とする意につきては冠辭考にいふ「ヒタラシネ」の略轉なりといふが汎く行はるる所なるが、古義は足根《タラシネ》なりといへり。されど十分に首肯せられず。なほ研究の餘地あり。後賢の努力に俟つ。
○母命者 「ハハノミコトハ」なり。卷十九「四一六四」に「波播蘇葉乃母能美己等《ハソバノハハノミコト》」卷十七「三九六二」に「多良知禰乃波波能美許等乃《タラチネノハハミコトノ》」など母の命といへる例なほあり。又卷五「七九四」に「伊毛能美許等《イモノミコト》」卷十七「三九六二」に「都麻能美許登《ツマノミコト》」卷十七「三九五七」に「奈弟乃美許等《ナオトノミコト》」など「みこと」を加へていへる例少からず。「みこと」はその人のことをさす意にての尊稱の語とせるなり。
○齋忌戸乎 「イハヒヘヲ」とよむ。「イハヒベ」はこの卷「三七九」「四二〇」卷九「一七九〇」卷十三「三二八四」に「齊戸」をかき、卷十三「三二八八」に「忌戸」とかきたり。「齋忌」二字にて「イハヒ」の語をよくあらはすといふべし。その義既にいへり。
○前坐置而 「マヘニスヱオキテ」とよむ。「坐」はスウルなり。字義あきらかなるが、ここにいふ前は下の「天地乃神祇」に對していへるにてその「イハヒベ」を天地の神の前に坐ゑおくなり。「坐う」とは「三七九」の歌に「齊戸乎忌穿居《イハヒベヲイハヒホリスヱ》」といへるにおなじく、その瓶を地上に安定せしむべく坐ゑおくをいふ。
○一手者 舊訓「ヒトテニハ」とよみ、諸家異説なし。されど、細井本には「カタテニハ」とも訓ぜりと(884)いふ。文字のまゝにていはゞ「ヒトテ」といふに異議あるまじき樣に見ゆれども、「ヒトテ」といふ語の假名書の例は本集にもなく、又兩手に對して古來左右一方の手を「ヒトテ」といへる例もきかず。案ずるに、「二手」(卷三「二三八」)「左右手」(卷七「一一八九」)等を「マデ」とよむに照せば、「一手」は「カタテ」といふべきものなり。かく左右相並べる物につきてはその揃へるを「マ」とも「モロ」ともいひ、その一のみなる時に「カタ」といふこと古語の常なるは「眞帆」「片帆」「眞屋」(兩下)「片屋」などにて見るべきなり。かくて今は「兩手《リヤウテ》片手《カタテ》」といひて「ま手」といふ語は用ゐぬやうになれど「カタテ」といふは今も用ゐるなり。この「カタテ」といふ語は今日は卑俗の語の如くに思はれてあれど、「マテ」に對しての古語は必ず「カタテ」ならざるべからざるなり。今、ここは明かに「カタテ」の意にして「ヒトテ」といふは當らずとす。「カタテ」といふ語は平安朝には盛んに用ゐたるものにして、枕草子、源氏物語等にもその例を見る。而して、今いふ「カタテ」の意に「ヒトテ」といふ語を用ゐたりとは見えず。今兩方の目を一語にていふ語はなけれど、一方の目を「カタ目」といひ(これも古語なり)「ヒト目」とはいはず「ヒト目」といふは「兩方の目」を「一度はたらかす」といふ意に用ゐるが、これも古語のまゝなりといふべし。弓矢の道にて一手《ヒトテ》といふことあれど、それは甲乙二本の矢を同時に手にするよりいふものにして、その一本なるときにはこれ亦片手矢(萬葉集十二)又は片矢といふなることは堀川次郎百首に「はるされはかたやたはさみ、ともねうちわかかち弓のかすそかさなる」(仲實)にても知るべし。又「足」にしても足一本を「ヒトアシ」とはいはずして「カタアシ」といふことこれ亦古來の例なり。さればこれは「カタテニハ」とよむべきものなること著し。
(885)○木綿取持 舊訓「ユフトリモチテ」とありしを考に「ユフトリモチ」とせり。これも下の同趣の語に重ぬる語法なれば、考の説をよしとす。「木綿」は上に屡説けるが、神に奉る料なることいふまでもなし。
○和細布奉 和細布を舊訓「ヤマトホソヌノ」とよめり。管見は「ニキタヘノヌノ」とよみ、代匠記これに同じたるが、考は上の四字を一句として「ニギタヘマツリ」とよめり。これに從ふべし。「和細布」を「ニギタヘ」とよむべきことはこの歌より五首前の歌(四三八)の「敷細」の「細」を「タヘ」とよむことにつきての説明の中にいへり。さてこゝの和妙も神に奉る料たることいふまでもなし。
○平 この字殆どすべての本皆「乎」に作れるが、神田本に「平」とあり。「乎」としては意をなさず、句をなさざれば、「平」の誤りと認めらる。考は「平」を正しとして「タヒラケク」とよませたり。これによるべく思はる。卷二十「四四〇八」に「多比良氣久於夜波伊麻作禰《タヒラケクオヤハイマサネ》」「四四〇九」に「多比良氣久布奈泥波之奴等《タヒラケクフナデハシヌト》」卷五「八九七」に「内限者平氣久安久母阿良牟遠《ウチノカギリタヒラケクヤスクモアラムヲ》」とある、その假名書の例は母がその子の旅中の平安を神に祈るといふなれば、卷十七「三九五七」に「平久伊婆比底待登《タヒラケクイハヒテマテト》」卷十九「四二四五」に「平久率而可敝理麻世毛等能國家爾《タヒラケクヰテカヘリマセモトノミカドニ》」などによりてその心を見るべし。
○間幸座與 「マサキクマセト」とよむ。「間」は音をかりたるのみにて「眞」の意の接頭辭なり。「マサキク」の語は卷二「一四一」に「眞幸有者」あり。その假名の例は卷十七「三九五八」に「底之物乎《マサキクトイヒテシモノヲ》」卷二十「四二三一」に「麻佐吉久母波夜久伊多里弖《マサキクモハヤクイタリテ》」などあり。「サキク」は卷一「三〇」の「雖幸(886)有《サキクアレド》」にはじめて見ゆるが、無事平安にあるをいふ。
○天地乃神社乞祷 舊訓「アメツチノカミニコヒノミ」とよみ、多くの學者この訓によれり。されど、管見には「カミヲ」とよみ、槻落葉、攷證等これによれり。「天地」「神祇」の訓には異議なければいはず。ここは字の面に「ヲ」も「ニ」もなきに加へてよむものなるが、それは下の「コヒノム」に對する補格を示す助詞として加ふるものなれば、この頃の語遣としていづれを用ゐしかを考へざるべからず。然るに、下の「コヒノム」は「コヒ」と「ノム」との二の動詞よりなるものなれば、「コヒ」に對する場合「ノム」に對する場合との二方面に考へ及ぼさざるべからず。かくて「のむ」(即ちマ行四段活用)に對して如何にいひたるかを見るに卷十三「三二八八」に「玄黄之神祇二衣吾祈甚毛爲便無見《アメツチノカミニゾアガノムイタモスベナミ》」の例にては「ニ」助詞を用ゐたれど、卷十一「二六六〇」に「千石破神社乎不祈日者無《チハヤブルカミノヤシロヲノマヌヒハナシ》」「二六六二」に「千羽八振神社乎不祷日者無《チハヤブルカミノヤシロヲノマヌヒハナシ》」卷十三「三二八四」に「天地之神社乎曾吾祈《アメツチノカミヲゾワカノム》」とありて「ヲ」を用ゐたる例の方多し。又「こふ」(即ちハ行四段の請ふ)に對して如何にいひたるかと見るに、卷十三「三二八六」に「天地之神乎曾吾乞《アメツチノカミヲゾアカコフ》」卷十五「三六八二」に「安米都知能可未乎許比都都安禮麻多武《アメツチノカミヲコヒツツアレマタム》」の如く「ヲ」のみの例を見る。更に「コヒノム」といふ連語にては卷十三「三二四一」に「天地乎歎乞祷《アメツチヲナゲキコヒノミ》」卷二十「四四九九」に「安米都知乃可未乎許比能美奈我久等曾於毛布《アメツチノカミヲコヒノミナガクトゾオモフ》」といふ例のみなり。これらによれば「ヲ」といふ助詞を用ゐるをよしとすべし。「コヒノム」の語の假名書の例は上にあげたるにて知るべく、「コヒ」は今もいふ語なれば、説明するまでもあらざるべし。「のむ」といふ語は日本紀崇神天皇十年九月の條に「叩頭曰2我君1」とあるに對しての自注に「叩頭此云2廼務1」とあるにてその語の意を知る(887)べし。「叩頭」は支那の熟字にして周禮の鄭玄注に「頓首如2今叩頭之類1首叩v地也」とある如く、頭を地につけて禮する義なりと知られたり。さて國語の「のむ」といふ語の義は如何と見るに、上にあげたる萬葉集の例はいづれも神に祈請することにてあり、又「祈」「祷」の文字もその意に用ゐられたるものなれど、日本紀の文に見る如く、人に對してもいふ語なれば、「祈」「祷」の字義のうちより神に對する分を捨象して考ふべきならむ。「祈」字説文に「求福也」と注し、爾雅に「叫也」と注し、又詩大雅の用例によれば、報告の意にもなれり。「祷」字は説文「告事求福也」とあり。この「福」といふ字は既に「神」に對する義あるものなれど、これはひろく善事と見るをうべきなり。然らば「祈」「祷」の文字より神といふことを捨象すれば、事を告げて福を求むる意とすべし。わが「ノム」といふ語の意は恐らくはこの義ならむ。然るに日本紀に「叩頭」をこれにあてたるはこれその「のむ」といふことを表する動作を示す語としてあてたるなるべし。然るにこの「のむ」といふ語は平安朝以後の文献にかつて見ざるは如何と考ふるに、これは或は亡び失せたるが爲の如くに思はるれど、實はさにあらずして今の「タノム」といふ語にかはれるならむ。「タノム」の「タ」は「タナビク」「タスク」「タモトホル」「タヨル」「タバカル」などの「タ」におなじき接頭辭にして「タノム」の本語は「ノム」にあるべし。平安朝の「たのむ」は「のむ」よりは少しく意味の汎くなれる點ありと見ゆれど、ここの「のむ」の意なるものもとより存するなり。近世の「たのむ」は殆ど全くここの「のむ」に似たり。その點より見ても、その「ヲ」助詞を伴ふことをよしとすべし。
○何在 古來「イカナラム」とよみたるを古義に「イカニアラム」とよめり。意はかはらねど、古義に(888)いへる如く卷五「八一〇」の「伊可爾安良武日能等伎爾可母《イカニアラムヒノトキニカモ》」の例によりてよむべし。
○歳月日香 古來「トシノツキヒカ」とよみ、童蒙抄は「トシツキヒニカ」とよみ、略解、古義これに從ひ考は「トシツキヒニカ」とよめり。されど槻落葉、攷證は舊訓によれり。これにはその假名書の例なく、いづれにも大差なきが如くなれど、年と月とを同じ格にならべいひたりとするを穩かとすれば、童蒙抄の説に從ふべし。「ニ」を前後の關係より加へてよむこと上に屡例を見たり。
○茵花 古來「ツツジバナ」とよめり。「茵」は一字にては「シトネ」にして「ツツジ」にあらねど、「茵芋」の二字熱しては本草和名に「和名爾都々之一名乎加都々之」とある(和名類聚鈔同じ)が如く「ツツジ」にあたるものなり。されば正しくは茵芋花といふべきを、かく茵花とせるならむ。しかもこれは支那にて石榴花を榴花といひ、棕櫚花を棕花といひ、蕎麥花を蕎花といへるに照して考ふれば、これも或は支那にて既に用ゐし熟字ならむ。但しその實證は未だ見ず。
○香君之 舊訓「ニホヘルキミガ」とよみたり。略解には「宣長は香をかぐはしと訓べし。たゞくはしといふべきをかぐはしといへる例有といへり」といへり。されど、諸家みな舊によれり。「香」の字を本集について見るに、「カクハシ」にあてたるは卷十九「四一六九」に「花橘乃香吉於夜能御言《ハナタチバナノカクハシキオヤノミコト》」あり。「香」の字はいかにも「ニホフ」とも「カグハシ」ともよみうるさまなるによりて、そのいづれによるべきかは容易にいひがたし。按ずるに卷十三「三三〇五」に「茵花香未通女《ツツジバナニホヒヲトメ》」とあるは、古來「ニホヘルヲトメ」とよみ、近來「ニホヒヲトメ」とよめるものなり。ここに顧みるべきは「茵花《ツツジバナ》」と上に在る場合に、下にいかなる語を用ゐるかといふことなり。これが傍例としては卷十三「三三(889)〇九」に「都追慈花爾太遙越賣」とある一例を見るのみなれど、同卷の「三三〇五」のよみ方は略定めらるべし。又卷九「一六九四」の「細比禮乃鷺坂山白菅自吾爾尼保波尼〔左○〕《タクヒレノサギサカヤマシロツツジワレニニホハネ》」卷六「九七一」の「丹管士乃將馨時能《ニツツジノニホハムトキノ》」に照して考ふれば、ここにも「ニホフ」といふ語の方、縁近しと見えたれば舊訓による。しかも「ニホヘル」とよまむには「香」の下に「有」「在」などの有るべき筈なれば、異例に屬す。「ニホフ」は元來色の艶なるをいふ語なれば、ここもその容顔のうるはしき君といふ義なりと見ゆ。
○年留鳥 舊訓「ヒクアミノ」とよめり。管見は「クロアミノ」とよみ、考は上の「之」と「牛」とを一として「牽」の誤とし、訓は舊訓によれり。槻落葉は考によれるが、頭注には「牛留」を「爾富《ニホ》」の誤として「ニホトリノ」といふべしといへり。字音辨證には「牛」は「ク」「留」に「ロ」の音ありとして「クロトリ」とよませたり。これは下の「ナヅサヒ」に連ねて考ふれば、たとへば、卷十五「三六二七」の柔保等里能奈豆左比由氣婆《ニホトリノナヅサヒユケバ》」卷四「五〇九」の「鳥自物魚津左比去者《トリジモノナヅサヒユケバ》」卷十五「三六二五」の「於伎繭奈都佐布可母須良母《オキニナヅサフカモスラモ》」卷十二「二九四七」の左注に「爾保鳥之奈津柴比來乎《ニホドリノナヅサヒコシヲ》」とある如く水鳥に縁ある語と考へらるるものにして、「牛留鳥」とあるもなほある水鳥の名ならむと考へられざるにあらず。然るときは辨證にいへる如く、「牛」に「ク」の音ありと考ふることは不當とも見えず、「留」に「ロ」の音あることは和名鈔に「若榴一名安若榴音留佐久呂」とあるが、「石榴」即ち「サクロ」の音にあたるものといふべく、大神宮儀式帳に「佐古久志留」と書けるは「柝釧」にして古語拾遺に「皇親神留伎命」とあるは祝詞に「神漏伎命」と書けるにおなじく「留」に「ロ」の音ありといふをうべし。かくて「クロトリ」といふのは土佐日記によれば、海上に浮べる水鳥なること著しく、和名鈔にも「※[主+鳥]に注して「漢語抄云久呂止利」とも(890)「黒色水鳥名也」とあれば、まさしくこゝに當るものとも見られたり。されど、ここに疑しきは「留」字は本集に用ゐたること頗る頻繁なれど、「ロ」に用ゐたりとすべきもの他に一も存せざることなり。又他の説をかへりみるに「留鳥」を「アミ」にあてたるは卷十一「二七四三」の左注に「或本韻曰……留鳥浦之海部爾有益男《アミノウラノアマナラマシヲ》」とあるがそれなりといはれ、これは外によみ方もあらざれば、これも否定すべからず。されど、その上の「牛」はよみうべからず。されば、未だ確説とは認めがたけれど、姑く「クロトリ」とよむ説に從ふ。
○名津匝來與 「ナヅサヒコム」とよむ。「匝」は入聲合韻の字にて「サフ」の音なれば、これを「サヒ」に假り用ゐたること、地名の「姶羅阿|比〔右○〕良」(大隅郡名)「揖保伊|比〔右○〕保」(播磨郡名)「雜賀サ|ヒ〔右○〕カ」(紀伊村名)人名の藤原宇合」(又「馬養」と書けり。)又本集卷七「一二七三」の「雜豆臘漢女乎座而《サヒツラフアヤメヲマセテ》」の例にて知るべし。「與」は漢語の助詞たるを用ゐたるなり。「ナヅサフ」といふ語の意は上の「四三〇」の「吉野川奧名豆颯《ヨシヌノカハノオキニナツサフ》」の下にいへる如く、明かには知られてあらぬものなるが、そこにもいへる如く、この語は水邊に關する語と見ゆるものにして、上の如く水鳥の縁になれるもの多きも亦その意によるものと見らる。而してそこにもいひたる如く水上に漂ふか浮ぶかの意なるが最も近き筈なり。然らばここは如何に解すべきか。考は「遠き都道を漸歸來ん事を網を漸に引よするに譬たり」といひ槻落葉、略解などこれに隨ひたれど、これは上を「ひくあみの」とよみての上の事なれば、隨ひがたし。新考は「ナヅサフは艱むことなり。ここはただ來ムとのみ云ひて可なるを上代の旅行は艱難なるものなればナヅサヒを添へたるなり」といへり。されど、これも亦證なきことな(891)り。これは前にもいへる如く本集の用例につきていはば水上に浮ぶか、水に沿ふかの二者のうちを離れざるものなれば、なほその意に解する外に方法あるまじ。今、之を卷六「一〇一六」に「海原之遠渡乎遊士之遊乎見登莫津左比曾來之《ウナバラノトホキワタリヲミヤビヲノアソブヲミルトナヅサヒゾコシ》」とある歌に照して考ふれば海上遠き所より渡り行くをいふものと考ふべきに似たり。かくして若し、この龍麿を、安房上總邊の出身とせば、その地に歸らんには主として海路によるべきものなれば、ここに水上を行くか、若くは海邊を傳へ行くかの二者の一たることを失はずして「ナヅサフ」の語義にそむかざるを見るべし。この「ナヅサヒコムト」は龍麿の郷里の人が龍麿のいづれの日か海上を「ナヅサヒ」つゝ歸り來むかと待つなり。
○立居而 古來「タチテヰテ」とよめり。代匠記には「タチヰツヽ」とよむべしといひ「而」を「ツヽ」とよめる例ありといひたれど、舊訓に「而」を「ツヽ」とよませたる例(十一「二八三二」十三「三二四七」)二あるのみにしてそれも必ず「ツヽ」とよむべきものにあらず。この故に契沖の説は隨ひがたし。「タチテヰテ」の例はこの卷「三七二」に「立而居而念曾吾爲流《タチテヰテオモヒゾアガスル》」「四一〇」に「立而居而後雖悔《タチテヰテノチニクユトモ》」あり。その下にいへる如く、思ひわづらひさま/\の事をするをいふ。
○待監人者 「マチケムヒトハ」とよむ。「監」は呉音「ケム」なるを借れるなり。「ケム」は過去に或る事の存せしならむと想像する意をあらはす複語尾なり。今は龍麿は過去の人となりたるが、その生前にこの親たちが、今か還らむと待ちたりけむと想像してかくはいへるなれ。ここにいふ「人」は親たちの上述の如くにしてかへるをまちけむその人といふことにして龍麿をさせる(892)なり。
○王之命恐 「オホキミノミコトカシコミ」とよむ。そのよみ方は上來例少からず。この語の意も上の「四四一」の第一、二句に準じて知るべし。
○押光 舊訓「オシテルヤ」とよめり。本集に「オシテルヤ」と必ずよむべく「哉」を加へたるもあれど、ここの如く「ヤ」に當る字なきも少からず。それらは卷二十「四三六〇」の「於之弖流難波乃久爾爾《オシテルナニハノクニニ》」とあると、古事記仁徳卷の大御歌「淤志弖流夜那爾波能佐岐用《オシテルヤナニハノサキヨ》」を日本紀なるには「於辭※[氏/一]屡那弭破能瑳耆能《オシテルナニハノサキノ》」とあるとにてここは「オシテル」とよみてよきものと知るべし。さてこれは「ナニハ」の枕詞なることは古來知られたる所なるが、その意につきては諸説紛々として歸する所なし。これが説明の上に參考とすべきは卷十一「二六七九」に「窓超爾月臨照而《マドゴシニツキオシテリテ》」卷八「一四八〇」に「我屋戸爾月押照有《ワカヤドニツキオシテレリ》」とある語なり。これは又卷七「一〇七四」の「春日山押而照有此月者《カスガヤマオシラテラセルコノツキハ》云々」とある語とも相通ずるものにして月光の隈なく照り渡ることをいへるものなることは疑ふべからず。この意による時は代匠記に「應神天皇輕島豐明宮に天下を知召し、又難波にも大隅宮を造りてより/\御幸せさせ玉へり。されば押照の義ならむ」といへるが最も近きものならむ。
○難波國爾 「ナニハノクニニ」なり。「ナニハノクニ」は日本紀神武卷に「戊午年春二月丁酉朔丁未皇師遂東、舳艫相接方到2難波之崎1會d有2奔潮1太急u因以名爲2浪速國1亦曰2浪華1今謂2難波1訛」とあり。その地域は如何といふに古、難波大郡といひしは後の東生郡、難波小郡といひしは後の西成郡なれば、その二郡にわたりし地が、略古の難波國なりしならむ。これは日本紀には古くは「ナミ(893)ハヤ」といひしものといふが、果して然るか否かは明らかならねど、「ナニハ」ともいひしことはこの文字に知られたり。「難」は平聲寒韻の音にして、音尾は「n」なれば、「蘭」を「ラニ」丸を「ワニ」「丹」を「タニ」といふが如く、「ナニ」なることある道理なり。本集にても、卷十三「三二四九」に「式島乃山跡乃土丹人二有年念者難可將嗟《シキシマノヤマトノクニニヒトフタリアリトシオモハバナニカナゲカム》」「三二六五」に「吾哉難二加還而將成《ワレヤナニニカカヘリテナラム》」など用ゐたり。さてここに難波國とあり、詞書に攝津國とあるが、古の難波國は後の攝津國の一部となりたれど、攝津國の中心は難波宮にありたれば、かくはいひたるにて、實は攝津國をいへるなること著し。
○荒玉之 「アラタマノ」とよむ。これは卷五「八八一」の「阿良多麻能吉倍由久等志乃《アラタマノキヘユクトシノ》」卷十五「三六八三」の「安良多麻力多都追寄其等爾《アラタマノタツツキゴトニ》」卷十七「三九七九」の「安良多麻乃登之可弊流麻泥《アラタマノトシカヘルマデ》」など假名書の例もあり、又卷十一「二四一〇」に「璞之年者竟杼《アラタマノトシハヲフレド》」卷十二「二九五六」に「未玉之年月兼而《アラタマノトシツキカネテ》」などもかけり。これは「年」「日」などの枕詞なること世に知られたる所なれど、その意義についてはまた諸説紛々たり。されど枕詞なるものは哲學上の用語などの如く、深き理由ありて用ゐたりとは思はれず。今この枕詞の爲に用ゐたる文字を見るに、假名書のものは別としてその他は「荒玉《アラタマ》」卷四「五八七」「荒珠乃《アラタマノ》」(卷十「二〇八九」)「麁玉」(卷十一「二三八五」)「璞」「荒珠」(卷十七「三九七八」)「未玉」とあるに限れり。これらの文字はさま/”\あるに似たれど、歸する所は一なり。「荒玉」「荒珠」「荒璞」「麁玉」は「荒」「麁」の字に於いて共通せり。この「荒」「麁」の「あら」は國語にては十分に彫琢を加へぬに用ゐる語なれば、「荒玉」は未だ彫琢せぬ玉の義とも解すべし。而して「璞」の字は、玉篇に「玉未治者」とあれば、「荒玉」の國語にまさしく一致す。而して和名鈔には「璞」に「阿良太萬」の訓ありて、「未理也」と注せり。(894)「未玉」は「未治玉」の義なるべくしてこれまた璞と同義ならむ。ここに於いてこれらすべて、未だ彫琢を加へぬ玉の義なるを見る。按ずるに、この枕詞の本義は古來の説に一「璞……和名鈔に阿良太萬玉未理也とありて生れたるままの玉といふなり。されば砥にかけて磨ぐものなればなり」(歌袋にいふ)といへるをよしとす。即ちこれはもと「砥」にかけていへるまでにして「とし」の枕詞とすることの慣例となりて後、月日などにも轉用せらるるに至りしものなるべし。
○年經左右二 「トシフルマデニ」なり。「左右」を「マデ」とよむことは卷一以來屡例あり。この年經るまでとは何をさしていへるか。略解は「畿内の班田多く事成て攝津國に到て死たるなるべし。班田に年經て歸る故に田に立心をもて衣手はさすといふか」といひ、攷證は田令の文とその義解とを引きてさて「班田使其國に至りて今年の十一月より明年の二月までに百姓に田を班をはれば其國にて年を越によりて難波の國に年ふるまでにとはいへり」といへり。然れどもこの説は事實にあはず。この時の班田使は天平元年十一月に任ぜられたるものなれば、上の説の如くせば、龍麿は元年に任ぜられて後難波にて年を經たるものなりとなる故に、少くとも天平二年まで存命せりと見ざるべからず。然るに、その死の天平元年に在りしことは詞書の示す所なり。即ち龍麿には班田史生としては任命後二ケ月以内に自死せしことは明かなり。然るにここには難波國爾年經るまで在りつる由いへり。然るときはこの人は班田史生たりし以前に既に攝津國官吏としてありしならむ。按ずるに延喜式左右京職式に「班田使祗承屬一人史生三人、書生十四人云々」と見ゆるはその京職官員よりこれらの人々を班田使に附(895)屬せしむる制度たることを語れり。然らば攝津職にても同樣にてありしなれば、この龍麿は本官は攝津職の史生にてありしならむ。而してそれはもと兵衛として上京せしものが、後轉じてかく攝津職に奉職して幾年をか經たりしものと考へらる。
○白栲 「シロタヘノ」とよめり。「栲」は植物の名なるが、それは「タヘ」とも「タク」ともいひ、それの繊維にて織れるものを「タヘ」ともいへることは卷一「七九」の「栲穗」の下にいへり。なほここの字畫は卷二「二一三」にもあり、その他例少からず。意明かなり。これは次にいふ「衣」の枕詞なりといふが普通の説なり。されど、なほ輕きながらも實質のある語と見るべきものなり。
○衣不干 舊訓「コロモカハカズ」とよめり。考は「衣」の下に「手」の字脱せりとして「コロモテホサズ」とよみ、古義は「衣」の下に「袖」又は「手」脱せりとし、又は「衣」は「袖」の誤ならんといへり。されど、ここには誤脱ある本一もなく、このまゝにても意通ずるものなれば、誤字説は隨ふべからず。槻落葉はこのまゝに「コロモモホサズ」とよめり。ここは自らするわざをいふとすべき所なれば「コロモモホサズ」とあるべきものなり。これが意は種々の説あれど代匠記に「事を務むるに勞して汗の出で衣の濕をも脱ほす暇なきなり」といへるを穩かなりとす。
○朝夕 舊訓「アサユフニ」とよみたれど、卷一「五」にいひたる如く「アサヨヒニ」とよむべきなり。意は明かなり。
○在鶴公者 「アリツルキミハ」とよむ。意明かなるが、これは「アサヨヒニ、衣モホサズアリツル君」といふ意なり。略解に「三中も同司なれば日々に見馴しをいふ也」とあれど、これは疑はし。先(896)づ畿内の班田司は地方官たる國司を任ぜず、別に特に任ぜらるるものにして史生は地方官たるものをそれに附屬せしむるものなれば、數年を經て相見しものとはいふべからず。これはただ、龍麿が夙夜奉公せしことをいひしまでのものなるべし。
○何方爾 「イカサマニ」なり。この語の例は卷一「二九」にあれば、今いはず。
○念座可 舊訓「オモヒマシテカ」とよめるを槻落葉に「オモホシマセカ」とし、略解は「オモヒマセカ」とし、攷證は「オモホシメセカ」とせり。先づ「座」を「メス」とよむことは道理なきことなれば從ひがたし。又「念」一字を「オモホシ」とよまずとはいひがたけれど、「オモホシマス」は史生に對する語としては過ぎたる感あり。又「マシテカ」といふ語遣は後世の姿なれば、略解の説を少しく改めて「オモヒイマセカ」とよむをよしとす。意は後世の語法にていふ「思ひ座せばか」に近し。
○欝蝉乃 「ウツセミノ」なり。「欝」は音をかり、「蝉」は訓をかりたるものなり。これは卷一「一三」に「虚蝉」「二四」に「空蝉」ともかけるが、意は既に屡いへる如く「ウツシミノ」といふことにして元來は現し世に生れ出たる身をいふなるが、ここには次の「世」に對する枕詞とも云ひうべし。
○惜此世乎 「ヲシキコノヨヲ」とよむ。意明かなり。
○露霜 「ツユシモノ」とよむ。これは卷二「一三一」以下屡出でたる語にして「オキテ」といふ語を導く料の枕詞なり。
○置而往監 「オキテユキケム」とよむ。「オキテユク」とはその物をもとの所に殘し置きて自らは他に往くことにて卷一「二九」の「倭乎置而」已下に例多し。ここは「惜しき此世を後に殘し置きて、(897)あの世に往きけむといふなり。この「けむ」は上の「か」に對しての結なり。
○時爾不在之天 舊訓「トキニアラズシテ」とよみたるを考は、「キナラズシテ」とよめり。いづれにても不可なし。これは上の長屋王を傷める歌の「大荒城乃時爾波不有跡《オホアラキノトキニハアラネド》」と同じ意にして死すべき時にあらずして死したりといふなり。この句は上にあるべきを反轉法としてここにおきたるなり。
○一首の意 明かなり。地方諸國の武士と稱へられ來りし人は天皇の朝廷に、或は外重に立ち候ひて警衛し奉り、或は内重に奉仕して、古來より遠く先祖の遺業を繼ぎ來り、將來も永く先祖の名譽をおとさずして繼承し行く物なるぞと兩親にも、妻にも子等にも語り告げて、郷里を出發したりしが、その日より兩親ことに慈愛に富める母上は天地の神の前に齋瓮を坐ゑ置きて酒を奉り、或は木綿をそなへ、或は和妙布を奉りて、わが親愛なる子は平安に又幸福に居たまへと天地の神を勸請し奉りて、何時の日にか、紅顔の君が、海路を經て返り來るならむと立ちたり居たりして待ちたりけむものを、その待たれたりけむ人即ちわが龍麿主は一定の年限を過ぎたりし後も天皇の命の畏きによりて、難波國に仕へて、幾年かの間衣を干す間もなく夙夜公事に奉仕してゐたりし君が、未だ天命の盡きたりといふべき時にあらぬに、如何樣に思ひたればか、惜むべきこの現身の世をばあとに殘しおきて死にまかりたまひしことよとなり。
 
反歌
 
(898)444 昨日社《キノフコソ》、公者衣然《キミハアリシカ》。不思爾《オモハヌニ》、濱松之上《ハママツノウヘニ》、於雲棚引《クモニタナビク》。
 
○昨日社 「キノフコソ」とよむ。「社」を「コソ」とよむことは、卷二、「一三一」の歌に四所も見えて、その條に説けり。「昨日」といふ語は卷二「一八四」にはじめて見ゆ。かくて卷二にもこれより下にも屡用ゐられたり。
○公者在然 「キミハアリシカ」とよむ。「然」は副詞の「シカ」なるをその音をかりて複語尾「キ」の已然形「シカ」に用ゐたるものにして、これは上の「コソ」に對しての語なり。卷九「一七五一」に「昨日日己曾吾越來牡鹿《キノフコソワガコエコシカ》」卷十「一八四三」に「昨日社年者極之賀《キノフコソトシハハテシカ》」卷十七「三八九三」に「昨日許曾敷奈底婆勢之可《キノフコソフナデハセシカ》」あり。昨日までこそ確かに君はこの世に在りしかといふなるが、その昨日は事實今日より一日前の昨日ならずともいふべきことは歌の常なり。
○不思爾 舊訓「オモハズニ」とよめるを玉の小琴に「オモハヌニ」とせり。槻落葉、略解、古義、攷證等皆この説によれり。これは卷五「九〇四」に「大船乃於毛比多能無爾於毛波奴爾横風乃《オホフネノオモヒタノムニオモハヌニヨコシマカゼノ》云々」とあるによれるものなるが、「オモハズニ」といふと「オモハヌニ」といふとは意同じからず。「オモハズニ」といふ時は卷九「一七八七」の「五十母不宿二吾齒曾戀流《イモネズニワレハゾコフル》」卷十七「三九六九」の「此夜須我浪爾伊母禰受爾今日毛之賣良爾孤悲都追曾乎流《コノヨスガラニイモネズニケフモシメラニコヒツツゾヲル》」の如く、主として状態をいふ語となる。「オモハヌニ」といふときは卷十五「三六六五」に「伊母乎於毛比伊能禰良延奴爾安可等吉能安左宜理其母理可里我禰曾奈久《イモヲオモヒイネラエヌニアカトキノアサギリゴモリカリガネゾナク》」「三六七八」に「伊毛乎於毛比伊能禰良延奴爾安伎乃野爾草乎思香奈伎都《イモヲオモヒイノネラエヌニアキノヌニサヲシカナキツ》」(イノネラエ(899)ヌニ」はなほ「三六八〇」にもあり)卷十七「三九六二」に「年月毛伊久良母阿良奴爾宇都世美能代人奈禮婆《トシツキモイクラモアラヌニウツセミノヨノヒトナレバ》」卷十八「四〇八三」に「都禰能孤悲伊麻太夜麻奴爾《ツネノコヒイマダヤマヌニ》云々」等の如く「オモハヌ時ニ」又は「オモハヌニ加ヘテ」といふやうなる意となるべし。しかして、ここは「オモハズニ」とよみても、「オモハヌニ」とよみてもそれ/”\意通ずる所あり。ただ假名書の例としては「オモハズニ」は一もなく、「オモハヌニ」は上の一例のみなれど、後なる方によるべきならむ。思ひもよらぬにといふ程の意と見えたり。
○濱松之上於雲棚引 舊訓「ハママツノウヘニクモトタナビク」とよみたり。玉小琴には「上於雲はうへのくもと訓べしと道麿がいへるさること也。上《ウヘ》にといはんには於字を下にはかくべからねば也」といへり。略解、古義、攷證、註疏等多くこれに從ひ槻落葉は「ハママツノヘノクモトタナビク」といへるが、近時新考はこれを否として舊訓をよしとせり。古寫本を見るに、累聚古集、古葉略類聚鈔、神田本、細井本等には「上」字なし。これによらば「於」は「ウヘ」なるが故に、舊訓の如くよむをよしとすべきなり。しかもなほ多くの古寫本、ここにある通りなれば、これは「上」「於」ともにうへなれば二字を以て「うへ」にあてたりと考へられぬにはあらねど、例なきことなり。これによりて考ふるに、先づかく「上」と「雲」との間に「於」字ある如く、字をへだてたるものを連體格として、「上ノ雲」とよむが如きは例なきことといふべし。さて「於」を「ニ」とよむときは下におく例なく、すべてその對する體言の上におくを例とすることは玉の小琴の言の如くなれば「於雲」は「クモニ」とよむをうべし。若し然するときは「上」はその「クモニ」に先だちて「ウヘニ」とよむを穩かな(900)りとす。「雲にたなびく」といふ語の例は卷十九「四二三六」に「卷而寢之妹之手本者雲爾多奈妣久《マキテネシイモガタモトハクモニタナビク》あり。雲にたなびくは雲になりてたなびくなり。これは上の土形娘子火葬の歌(「四二八」「四二九」)に照して考ふればその屍を濱邊にて火葬にせしものなりと思はる。
○一首の意 君は昨日までは現前に在りき。然るに、思ひもよらず、今は雲になりてこの濱の松の樹の上にたなびくよとなり。
 
445 何時然跡《イツシカト》、待牟妹爾《マタサムイモニ》、玉梓乃《タマヅサノ》、事太爾不告《コトダニツゲズ》、往公鴨《イニシキミカモ》。
 
○何時然跡 「イツシカト」とよむ。「シカ」は「シ」「カ」共に助詞なるを、ここに「然」の字を借りてあらはせるなり。「イツシカ」といふ語の例卷十七「三九六二」に「伊都之加登奈氣可須良牟曾《イツシカトナゲカスラムゾ》」とあり。
○待牟妹爾 從來「マツラムイモニ」とよめり。されど、「牟」一字を「ラム」にあつることは無理なるのみならず、集中一も他に旁例なし。又「待」は「マツラ」とよみうべき文字にあらず。これは恐らくは「マタサムイモニ」とよむべきならむ。「マタサ」は「マタス」といふ敬語の未然形なるが、かく「待」一字を敬語にして「マタス」とよむべき例は集中になけれど、「問」一字を「トハサ」にあてたる例は卷十一「二三六四」に「足乳根之母我問者風跡將申《タラチネノハハガトハサバカゼトマヲサム》」にあり、「眠」一字を「ナサ」にあてたる例は卷十一「二五五六」に「寢者不眠友君者通速爲《イハナサズトモキミハカヨハセ》」語を「カタラハ」とよめる例は卷十三「三二七六」に「愛妻跡不語別之來者《ウツクシツマトカタラハズワカレシクレバ》」「通」を「カヨハサ」とよめる例は卷十一「二七七七」に「疊薦隔編數通者道之柴草不生有申尾《タタミゴモヘダテアムカズカヨハサバミチノシバクサオヒザラマシヲ》」「カヨハシ」とよむ例は卷四「六一九」に「通爲君毛不來座《カヨハシシキミモキマサズ》」「聞」を「キカセ」とよめる例は卷四「六八〇」に「盖毛人之(901)中言聞可毛幾許雖待君之不來益《ケダシクモヒトノナカゴトキカセカモココダクマテドキミガキマサヌ》」「榜」を「コガサ」とよめる例は卷九「一六八九」に「在衣邊著而榜尼《アリソベニツキテコガサネ》」あり。「立」を「タタシ」とよむ例は卷一「三」に「伊縁立之御執乃梓弓之《イヨリタタシシミトラシノアヅサノユミノ》……」あり。これらによりて「マタサムイモニ」とよむことの不理にあらぬことを知るべし。ここに敬語を用ゐたることは卷五「八五五」に「阿由都流等多多勢流伊毛何《アユツルトタタセルイモガ》」卷十八「四一〇六」に「波(放)居弖奈介可須移母我《サカリヰテナゲカスイモカ》」等集中に例多きことなり。
○玉梓乃 「タマヅサノ」これは卷二「二〇七」「二〇九」等に出で、「使」の枕詞とするものなるが、ここには下に使といふ語なくして、この語を以て直ちに使の義とせるにてその事は上「四二〇」の「玉梓乃人曾言鶴《タマヅサノヒトゾイヒツル》」の例にて知るべし。
○事太爾不告 「コトダニツケズ」とよむ。「事」は借字にて言の義なり。卷十七「四〇一一」に「許等太爾母吾爾波都氣受《コトダニモワレニハツゲズ》」卷十五「三六四〇」に「可里許母能美太禮弖於毛布許登都礙夜良武《カリコモノミダレテオモフコトツゲヤラム》」などいへり。ことばにてだに消息を告ぐることもせずしてといふ意。この句は次の「往にし」につゞく連用語なり。
○往公鴨 舊訓「イヌルキミカモ」とよみたるを考に「イニシキミカモ」とよめり。これは過去になりし人をいふなれば、考の説によるべし。六帖に引けるにも「いにし」とあり。
○一首の意 郷里に在りて何時しか歸り來まさむと待ちておはさむその妻に、使をやりて消息を告ぐることもせずして彼世に旅立ち行きし公かもといふなり。
 
(902)天平二年庚午冬十二月太宰帥大伴卿|向v京上道之時作歌《ミヤコニムカヒテミチタチスルトキヨメルウタ》五首
 
○天平二年庚午冬十二月 これは、太宰帥大作旅人が、天平二年十二月一日に大納言に任ぜられしこと上にいひし所なるが、その轉任によりて上京せむとて、太宰府を出で立ちて奈良京に向ひし時の詠なり。古義に「天平」の二字を衍なりとすれど、そは極端の説なり。
○向京上道之時 童蒙抄は「ミヤコニオモムクミチタチノトキ」とよみ、考は「ミヤコヘノホルトキ」とよみ、古義は「ミヤコニムキテミチダチスルトキ」とよめり。「上道」の熟字は晋書李密傳に「詔書功峻責2臣※[しんにょう+甫]慢1郡縣逼迫、催2臣上道1、州司臨V門急2于星火1」とある如く、旅行の途につくことなり。又「上路」とも「登路」とも「發途」ともかく。「上路」「登路」「發途」は日本紀には古來「ミチタチス」とよめり。この語は古典にかながきの證なけれど、これを否定すべき理由もなければ、上の如くよめり。
○作歌五首 下の左注によれば、鞆浦を過ぐとてよめるもの三首と敏馬崎を過ぐとてよめるもの二首となり。
 
446 吾妹子之《ワギモコガ》、見師鞆浦之《ミシトモノウラノ》、天木香樹者《ムロノキハ》、常世有跡《トコヨニアレド》、見之人曾奈吉《ミシヒトゾナキ》。
 
○吾妹子之 「ワギモコガ」なり。この語は卷「四四」「七三」以下屡出でたり。
○見師鞆浦之 「ミシトモノウラノ」よむこと古來異説なし。「鞆浦」は今の廣島縣備後國沼隈郡鞆町のある邊の海濱をさすならむ。この地は西海航路の要津として、古來名高く、今日にても、(903)内海航路の汽船の要津たること依然たり。この地は神功皇后征韓以來、外使接待の驛舘を置かれきと傳へ、太宰府の官吏又西國の國司の來往には必ず碇泊すべき地として昔時はことに繁昌せりと見ゆ。徳川時代に朝鮮の來聘使もまたここに碇泊するを例とし、朝鮮人李邦彦はこの地の福禅寺の境内に建てたる對潮樓に宿し、その絶景に感じて「日東第一形勝」とたゝへたりといふ。この地その海岸の斷崖と前面に横はる島嶼、仙醉島、皇后島、辨天島、玉津島等と相待ちて、天下に名高き風景の美なる地なりといふ。この地をうたへるもの、ここに二首、卷七に二首「海人小船帆毳張流登見左右荷《アマヲブネホカモハレルトミルマデニ》、鞆浦回二浪立有所見《トモノウラミニナミタテリミユ》」(一一八二)「好去而亦還見六《マサキクテマタカヘリミム》、大夫乃手二卷持在鞆之浦回乎《マスラヲノテニマキモテルトモノウラミヲ》」(一一八三)あり。いづれも、この地が、碇泊地たりしが上に風光の美なるが爲に、めでられしならむ。ここにも、その心十分にありと見ゆ。
○天木香樹者 舊訓「ムロノキハ」とよみたるを童蒙抄は「ヤドリキ」とよみたり。その理由は「天木と書きたれば、天然自然と生じたる木の葉と聞ゆる也。然れば、やどり木にてはあるまじきや。やどり木は木の股、石の上などに自然天然に生ずる木也。然れば、天木の字義にて書けるか」といふにあり。されど「ヤドリギ」を「天木」といへる例は一もなく、假りに「天木」を「ヤドリギ」とよみても下の「香樹」をよまずば、道理たたず。されば、諸家みななほ舊訓によれり。然るに「天木香樹」を「ムロノキ」とよむことは如何なる根據ありてかといふに諸家その理由を示さず。按ずるに「天木香」といふ熟字は本集以外に所見なし。されど、恐らくはこれ一種の香木の名ならむ。さて卷十六に「詠掃鎌天木つ(「水」)香棗歌」の題詞ありてその歌は「玉掃苅來鎌麿室乃樹與棗本可吉將掃(904)爲《タマハハキカリコカママロムロノキトナツメガモトヲカキハカムタメ》」(三八三〇)とあるに照せば、「天木香」即ち「室乃樹」にあたるものなれば、この集には「天木香樹」を「ムロノキ」とよむべく用ゐしものと見ゆ。ここにも次の歌に「鞆浦之磯之室木《トモノウラノイソノムロノキ》」とあれば、「天木香樹」即ち「ムロノキ」といひて可なるべし。かくて集中に「ムロノキ」とよめるもの如何と見るに、假名書なるは卷十五「三六〇〇」に「波奈禮蘇爾多※[氏/一]流牟漏能木《ハナレソニタテルムロノキ》」「三六一〇」に「之麻能牟漏能木波奈禮弖安流良武《シマノムロノキハナレテアルラム》」あり。而してこの次々の歌にも「磯の室木」「磯上に根はふ室木」とあれば、同じ木名といひて差支なきこと明かなり。かくて、他の書を見るに、本草和名には「赤※[木+聖]一名※[木+聖]乳【木中脂也】和名牟呂乃岐」とあり、新撰字鏡には「※[木+聖]」に注して「川夜奈支又牟呂乃木也」といひ、又「※[木+慈]〓二字牟呂乃木※[木+香]【上同又加豆良】」とあり、倭名抄は爾雅注に※[木+聖]「一名河柳」とあるをとり、注して「牟呂乃岐」とせり。さて上の三書共に「※[木+聖]」字を「ムロ」にあてたるが、古「※[木+聖]」字を「ムロ」にあてたることは、三代實録卷十四に「大和國從五位下※[木+聖]生龍穴神」とあるは延喜式にある宇陀郡の「室生龍穴神社」をさすこと著しく、又三善清行の意見封事に「※[木+聖]生泊」とあるは播磨風土記に「室原泊」とかけるにおなじくて、今の室津をさせるなり。これらにて「※[木+聖]」を「ムロ」とよむことは著し。さてこの「※[木+聖]」字に「カハヤナギ」の訓もあるによりて「ムロノキ」を河柳の類とする説あり。されど、これは元來、爾雅注の「河柳」とあるを直譯せしに止まりて、「カハヤナギ」と「ムロ」と同じ木なりとする根據としては如何なり。又この「※[木+聖]」を近世「御柳」と名づくる木なりといふ説あり。然るにこの樹は本邦には野生なく、寛保年中はじめて支那より渡りたるよりわが國に弘まりし由小野蘭山の説なれば、それらの木にあらざることは著し。さて文選南都賦に「其木則※[木+聖]松、楔※[木+〓]云々」とある注に「善曰※[木+聖]似v柏而香」とあり、又本(905)草和名に「一名※[木+聖]乳木中脂也」とあるを見れば、その樹脂即ち※[木+聖]乳にして、一種の香藥たりしならむ。さればこそ、新撰字鏡に「※[木+香]」の文字を訓したるならめ。かくて、考ふればここに「天木香」とあるも、恐らくはそれよりとる所の一種の香の名にして古にありてはよく知られてありしものならむ。然るに上にいへる「カハヤナギ」には香料たるべきものを見ず。さてこの「ムロノキ」は今俗に「ネズミサシ」といふ樹にして支那にて杜松ともいふ樹なりといへり。この樹は松杉料の植物にして、本邦の山野に自生するものにして、檜に似て葉は杉の如く樹心に香氣ある脂あれば、それに略當れりといふべし。されど、この「ネズミサシ」は海岸の岩石の上に生ずることをきかず。その「ネズミサシ」の一種「ハヒネズ」といふものあり。この樹は海邊に自生する常緑灌木にして、幹には多くの枝を出して地上に平臥するものなり。恐らくは古代には二者通じて「ムロ」といひしならむが、ここにはその海邊に自生する「ハヒネズ」の方をさせるならむ。さてその「ムロノキ」は如何なる所に生ひてありしか。次々の歌によればその浦の磯の上に生ひてありしこと知られたるが、内海萬葉地理考に鞆浦志の説とて次の文をひけり。曰はく、「室の木は關町濱邊にありといひ傳へたり。三かゝへ程ありて梢は向江島に横り、反橋の掛たるやうに見ゆる木なれども、帆持る船の往來にも障らずとなむ。いつしか枯倒れ、今はたゞ名のみ殘るも本意なし云々」とあり。木下勝俊の九州のみちの記に曰はく「備後のともといふ浦ちかきわたりに十日あまりとゝまりぬ。そのほとりのうら見にまかりぬ。さてみしとものうらのむろの木はとこよにあれとよめるはいつこそとたつねはへりければ、むかしはこの浦に有つと(906)云ひつたへたれと、今はあとかたもはへらねばさたかにしる人もさふらはず、されどあの磯にありしなど尚日記人は申をきたりけるいさゝせたまへ、をしへたてまつらんといふ程にまかりたれとことなるみところもなくたゝ波のよせくるのみにてそ有ける。かく名ある木もあとかたなく何事もむかしにかはりゆくこそもの毎に悲しくははへれ」とあれば、そのなくなりしも、久しき古の事と見えたり。
○常世有跡 「トコヨニアレド」とよむ。「常世」といふ語は卷一「五〇」に出で、そこにいへる如く常住不變の國といふ意なるを本とす。されど、ここはその國の意なくして常住不變なるさまをいふ語に用ゐたりと見ゆ。これはそのむろの木を太宰府に下りし時に見、四五年の後なる今かへりて見れば、かはらずありといふことをいへるなり。これによりてこれを常緑樹なることの證なりといふやうに説く人もあれど、それまでの事はいりほがなり。
○見之人曾奈吉 「ミシヒトゾナキ」とよむ。意明かなるが、その「ムロの木」を見し人ぞ今は無きといへるにてその見し人は上の吾妹子にて、筑紫にて亡せにしその夫人を思ひ出でたるならむ。
○一首の意 わが妻のわれと共に太宰府に下りし時に見しこの鞆の浦のむろの木は、今歸京の途次に再び見れば、昔にかはらずあれど、それを共に見し人ぞ今は無きことよとなり。
 
447 鞆浦之《トモノウラノ》、磯之室木《イソノムロノキ》、將見毎《ミムゴトニ》、相見之妹者《アヒミシイモハ》、將所忘八方《ワスラエメヤモ》。
 
○磯之室木 「イソノムロノキ」にしてその事は既にいへり。
(907)○將見毎 「ミムゴトニ」とよむ。これは將來の事を豫想していへるなるが、現在にかくその妻を偲ぶにつけても、將來の事の思はるる由にいへるなり。
○相見之妹者 「アヒミシイモハ」とよむ。「相見シ」は共に見しといふ義なり。「アフ」は人の共になる意にてここには「アヒ」といふ語を本義のまゝに用ゐし例なり。その例は卷十五「三六九一」に「安比於毛波奴君爾安禮也母《アヒオモハヌキミニアレヤモ》」卷十八「四〇九四」に「天地乃神安比宇豆奈比《アメツチノカミアヒウヅナヒ》」など多し。「妹者」は「イモヲバ」の意なり。
○將所忘八方 舊訓「ワスラレメヤモ」とよめるを槻落葉に「ワスラエメヤモ」とよめるより諸家これに從へり。「所忘」を「ワスラエ」といふことは卷二「一四九」の「不所忘鴨《ワスラエヌカモ》」の下にいへり。「將」は「ム」にあたるものなるが、「ヤモ」につゞく時に已然形の「メ」よりすることは卷一「二一」の「吾戀目八方《ワガコヒメヤモ》」卷二「一九五」の「亦毛將相八方《マタモアハメヤモ》」等に既に例あり。
○一首の意 今、この鞆の浦の磯の室の木を見れば、昔共にこれを賞し見たりし妹を偲ぶなるが、われはその妹をば忘られえむや。されは將來この室の木を見む毎に、妹を思ふ心の新にならむよとなり。
 
448磯上丹《イソノウヘニ》、根蔓室木《ネハフムロノキ》、見之人乎《ミシヒトヲ》、何在登問者《イヅラトトトハバ》、語將告可《カタリツゲムカ》。
 
○磯上丹 「イソノウヘニ」なり。「丹」は和名「ニ」なるを假名にかりたるなり。この磯は上の歌にいふ鞆浦の磯なり。
(908)○根蔓室木 「ネハフムロノキ」とよむ。ここの蔓は蔓延の義にして動詞なれば、類聚名義抄にある如く「ハフ」と訓ぜり。根はふにてその木の年ふりたることを思はするなり。この室木は「問ふ」の主格、「語る」の補格たり。
○見之人乎 「ミシヒトヲ」なり。上にいへるに意略似たり。
○何在覩問者 舊訓「イカナリトトハヾ」とよみたるを考に「イヅラトトハヾ」とよめり。されど、徳川時代の學者大抵舊訓によれり。近頃の新考及び全釋は考によれり。「何在」は「イカナリ」とよまるゝが如くなれど、「イカナリ」「イカニアリ」といふ例は本集に見えず。又「何在」を「イヅラ」とよめる例も他になけれど、卷十五「三六八九」に「伊敝妣等乃伊豆良等和禮乎等婆波伊可爾伊波牟《イヘビトノイヅラトワレヲトハバイカニイハム》」といふ例あれば、「イヅラトトハヾ」といふ語遣は例ありとすべし。而して「何在」は漢文讀にては「イヅクニカアル」なれば「イヅラ」といふ語にあつるに無理ならず。されば、考の説をよしとす。この問ふは室木にして問はるるものは説者なり。
○語將告可 古來「カタリヅケムカ」とよめり。この「告グ」は下二段の「ツグル」にして語りと略同義の語を重ねていへるなり。我はその人の在所を語り告げむか、はた如何にせむかといふなり。
○一首の意 この見る磯の上に根を深くひろく延べて、年古りたる室の木が、古のままにあるにより、古の事を忘れずして、我に向ひて古汝と共に我を見し人の今共に來らぬは如何にせしかと問はば、我は實を以て答ふるは悲し。如何にせむかとなり。これを室木に問はば、室木が語り告げむかと解するは淺し。卷十九の歌に照しても、上の如く解すべきを知るべし。
 
(909)右三首過2鞆浦1日作歌
 
449 與妹來之《イモトコシ》、敏馬能埼乎《ミヌメノサキヲ》、還左爾《カヘルサニ》、獨而見者《ヒトリシテミレバ》、涕具末之毛《ナミダグマシモ》。
 
○與妹來之 「イモトコシ」なり。「來之」を「コシ」とよむは卷五「七九六」に「之多比己之伊毛我己許呂乃《シタヒコシイモガココロノ》」卷十五「三六四六」に「宇良未欲里許藝許之布禰乎《ウラミヨリコギコシフネヲ》」卷十七「三九五七」に「平久伊婆比底待登可多良比底許之比乃伎波美《タヒラケクイハヒテマテトカタラヒテコシヒノキハミ》」等にて見るべし。
○敏馬能埼乎 「ミヌメノサキヲ」とよむ。「敏馬」は上「二五〇」の歌にいへる如く、攝津の地にして今の神戸港内をなす東の崎の邊なり。古そこの重要なる碇泊地なりしこと既にいへる所なり。
○還左爾 「カヘルサニ」とよむ。「カヘルサ」といふ語は卷十五「三六一四」に「可敝流散爾伊母爾見勢武爾《カヘルサニイモニミセムニ》」「三七〇六」に「可反流左爾見牟《カヘルサニミム》」とあり。「サ」はこの卷「二八一」の「往左來左《ユクサクサ》の「サ」と同じく、今「行キシナ」「カヘリシナ」などいふ「シナ」の古語「シダ」と同じ語なりといはれて、略、時といふ程の意ありと見ゆ。
○獨而見者 舊訓「ヒトリシテミレバ」とよめり。槻落葉は「而」を「之」の誤として「ヒトリシミレバ」とよめり。按ずるに古葉略類聚鈔には「而」を「之」に作れば、槻落葉の説據あるが如く見ゆ。されど、他の多くの諸本みな「而」に作れるによりて輕々しく誤字説をなすを得ず。卷二十「四四〇八」に「可胡自母乃多太比等里之※[氏/一]安佐刀※[泥/土]乃可奈之伎吾子《カコジモノタダヒトリシテアサトデノカナシキワガコ》」卷十二「二九一九」に「二爲而結之紐乎一爲而吾者解不見《フタリシテムスビシヒモヲヒトリシテワレハトキミジ》」の例のみならず、この卷「三六六」に「客之有者獨爲而見知師無美《タビニシアレバヒトリシテミルシルシナミ》」とあるに照し、「ヒト(910)リシテ」といふ語あるを知り、更に「四六〇」に「徘徊直獨而白細之衣袖不干嘆乍《タモトホリタヾヒトリシテシロタヘノコロモデホサズナゲキツツ》」あるを見れば「獨而」を「ヒトリシテ」とよむにあしからず。意は今の語ならば、「一人にて」といふ程の事なり。
○涕具末之毛 「ナミダグマシモ」とよむ。この語は日本紀仁徳卷に「和餓齊烏瀰例麼那瀰多愚摩辭母《ワガセヲミレバナミダグマシモ》」といふ例あり。これは「ナミダグム」といふ語を形容詞にしたるものにして、涙のおのづから出てくる樣なるをいふ。
○一首の意 往く時には妻と共に過ぎたりしこの敏馬埼を今還る時にただ獨にて見れば、その上《カミ》の事の思ひいでられて涕の催さるることよとなり。
ユクサニハフタリワガミシコノサキヲヒトリスグレバココロガナシモ
 
450 去左爾波《ユクサニハ》、二吾見之《フタリワガミシ》、此埼乎《コノサキヲ》、獨過者《ヒトリスグレバ》、情悲|裳〔左○〕《ココロガナシモ》。【一云見毛左可受伎濃。】
 
○去左爾波 「ユクサニハ」とよむ。「ユクサ」といふ語は上「二八一」に「往來來左」といふ例ありて、そこにいへり。
○二吾見之 「フタリワガミシ」とよむ。「二」を「フタリ」とよむことは卷二「二一三」に例あるが卷二十「四三四五」に「和伎米故等不多利我見之《ワギメコトフタリワガミシ》」ともあり。
○此埼乎 この埼は敏馬埼なり。
○獨過者 「ヒトリスグレバ」とよむ。意明けし。
○情悲裳 「裳」字流布本に「哀」に作れり。神田本、大矢本、京都大學本は「裳」とし、古葉略類聚鈔、細井本等は「喪」とせり。「裳」「喪」いづれも「モ」とよまるべきが「哀」は「モ」とよむべからず。「悲哀」二字にて「カナ(911)シ」ともよまるべけれど、なほ「モ」字を加へてよむべきならむ。さては今「裳」を正しと認む。「ココロガナシモ」とよむ。卷十五「三六三九」に「許己呂我奈之久伊米爾美要都流《ココロガナシケイメニミエツル》」あり。意明かなり。
○一云見毛左可受伎濃 これは上の歌の四、五を「ミモサカズキヌ」とありとなり。考は本文のをすてこれをとりて、「共に見しものと思ふに泪のすゝめば見も放《サケ》られずて過來ぬるといふなり。左氣良禮受の氣良の約可なり。且禮を略て左可受といへり」と論ぜり。されどその約略説は首肯しかねたり。「サケズ」を「サカズ」とはいふべからず。攷證に疑へるは當を得たり。
○一首の意 往く時には吾が妻と二人にて見しこの敏馬埼を今獨にて過ぐれば、情哀しとなり。
 
右二首過2敏馬埼1日作歌
 
○ 右鞆浦の三首と敏馬埼の二首とにて題詞の五首に合するなり。
 
還2入故郷家1即作歌三首
 
○還入故|郷〔左○〕家 「郷」字校本「卿」とすれど、他の本すべて「郷」とするをよしとす。ここにあぐる三首の歌はその主者をあらはさねど、前の五首に引きつづきたるものと見ゆれば、大伴旅人の歌と思はる。そは天平十二年十二月に大伴旅人が上京の途につきたるが某月某日、奈良京に著き、さてその故郷の家に還り入りしことをいへるなり。「故郷」は槻落葉には「フルサト」と訓するを不可とし、「クニ」と訓ぜり。「故郷」を事實上「クニ」といへることは上の「四二六」にその例あり。されど、(912)「故郷」の字を「クニ」といふこと例なきことなり。又註疏には「故郷」を「ミヤコ」とよみたり。これはたま/\旅人の故郷が「ミヤコ」なれば、事實に合へりとも評すべけれど、故郷の熟字には「ミヤコ」といふ義固有するものにあらず。「故郷」の熟字は史記項羽紀に「富貴不v歸2故郷1如2被v繍夜行1」とあるなど、古きものにして、すべて、吾が生れし地をいふなり。集中の歌に故郷とかけるもの少からぬが、古來みな「フルサト」とよみ來れるものにして、これを「ミヤコ」又は「クニ」とよみては歌をなさざるなり。たとへば、卷四「六二六」に「君爾因言之繁乎古郷之明日香乃河爾潔身爲爾去《キミニヨリコトノシゲキヲフルサトノアスカノカハニミソギシニユク》」卷十「一九七一」に「雨間開而國見毛將爲乎故郷之花橘者散家牟可聞《アママアケテクニミモセムヲフルサトノハナタチバナハチリニケムカモ》」の如き皆然り。ここに卷四長歌「七二三」の中の「如是許本名四戀者古郷爾此月期呂毛有勝益土《カクバカリモトナシコヒバフルサトニコノツキゴロモアリカツマシジ》」とあるも「フルサト」とよむべきが、この歌は「大伴坂上郎女從2跡見庄1贈2賜留v宅女子大孃1歌」なれば、攷證にもいへる如く、全くその坂上郎女の故郷たる跡見庄をさして故郷といへること著しきものをや。さて、その故郷の家はいづこにありしか明かならず。卷六には「大納言大伴卿在2寧樂家1思2故郷1歌二首」(九六九、九七〇)ありて、そこには「神名火乃淵」(九六九)「栗栖乃小野」(九七〇)とあり。その神名火は大和高市郡飛鳥の神奈備最も著しく、或はそこならむかとも思はるれど、この名は所々にあれば、直ちに飛鳥なりといひ難し。栗栖は和名鈔に大和國忍海郡栗栖とある、そこならむ。かくて、栗栖と飛鳥とは隣郡ながら、同じ地にあらず。今いふ所の故郷は果してその栗栖の地などをさせるか如何。按ずるに、上の「四四〇」の歌に照すに、そこに「在京師荒有家爾一宿者益旅而可か苦《ミヤコナルアレタルイヘニヒトリネバタビニマサリテクルシカルベシ》」といへるに對應せるもの即ち次の「人毛奈吉空家者草枕旅爾益而辛苦有家里《ヒトモナキムナシキイヘハクサマクラタビニマサリテクルシカリケリ》」といへる歌なること著し。こ(913)れを以て考ふるに、この故郷家とあるは、その「在京師家」をいへるものと考へらる。されば、これは、筑紫よりさしてかへるべき所の故郷の義にして、實は寧樂の京なる家をさせりと考ふるを穩かとすべし。されど、その寧樂なる家はいづこにありしか詳かならず。「還入」は「カヘリイリテ」なり。
○即作歌 「スナハチヨメルウタ」とよむべし。この「即」は即時の意にして、卷八「一五〇五」に「霍公鳥鳴之登時君之家爾往跡追者將至鴨《ホトトギスナキシスナハナキミガイヘニユケトオヒシハイタリケムカモ》」とある「登時」(立時の義)を「スナハチ」といふにおなじく、ここには恐らくは體言なるべし。
 
451 人毛奈吉《ヒトモナキ》、空家者《ムナシキイヘハ》、草枕《クサマクラ》、旅爾益而《タビニマサリテ》、辛苦有家里《クルシカリケリ》。
 
○人毛奈吉 「ヒトモナキ」とよむ。語の意は明かなるが、旅人の太宰帥在任の間、その家には全く住む人無かりしか如何。恐らくは留守を預れる人は在りしならむ。されば、ここにわざと人も無きといへるには特別の意ありて、上の「四二六」の歌に「見之人曾奈吉」といへると同じく、共に住みたりし妻のなくなりたるをいへるならむ。
○空家者 古來「ムナシキイヘハ」といへり。「空」を「ムナシ」とよむことは今も行はるるが、「ムナシ」といふ語の當時存せしことは卷五、卷頭の歌に「余能奈可波牟奈之伎母乃等志流等伎子伊與余麻須萬須加奈之可利家理《ヨノナカハムナシキモノトシルトキシイヨヨマスマスカナシカリケリ》」(七九三)又卷十九の長歌の中に「大夫夜無奈之久可在《マスラヲヤムナシクアルベキ》」(四一六四)とあるなどにて明かなり。「ムナシ」といふ語は内に物なき空虚をいふを本義とせるが、ここはその本義(914)にて用ゐたりと見ゆ。
○草枕 「クサマクラ」とよむ。旅の枕詞とすること、卷一以來屡いでたり。
○旅爾益而 「タビニマサリテ」とよむ。「旅」の字は卷一以來屡出づ。「益」を「マサル」とよむことはこの卷の歌に屡例あり。而してこれは上にもいへる如く、「四四〇」の「在京師荒有家爾一宿者旅而可辛苦《ミヤコナルアレタルイヘニヒトリネバタビニマサリテクルシカルベシ》」といへるそれと同じ語を用ゐたり。
○辛苦有家里 「クルシカリケリ」とよむ。「辛苦」を「クルシ」とよむべきことは上の「四四〇」の下にいへり。
○一首の意 明かなり。共に住みたりし人も今は無くなりたる空しき家にひとりすむことは旅よりもまさりて辛苦しくありけりとなり。即ち旅ならば、旅なるが故にといふ事にて淋しきながら、止むを得ぬ事として觀念もすべきなれど、家にありての一人寢は當然の事にあらねばことに辛苦しと思ふとなり。ここに「くるしかりけり」とあるは、前の歌に「旅にまさりてくるしかるべき」と推量せしが、ここに至りては如何にもその推量せしが如く「くるしくありけり」といへるにて、「けり」の意如何にもよくはたらきて聞ゆ。「けり」は半ば過去を追憶し、半ば、現實を觀察せるものなり。
 
452 與味爲而《イモトシテ》、二作之《フタリツクリシ》、吾山齋者《ワガシマハ》、木高繁《コタカクシゲク》、成家留鴨《ナリニケルカモ》。
 
○與妹爲而 これは古今六帖に入れる歌にしてそこには「いもとゐて」とよみたり。「爲」はもとよ(915)り「ヰ」とよむことをうる字なれど、ここにては槻落葉に論ぜる如く、「イモトシテ」とよむべし。「與妹」は上の「四四九」の「與妹來之《イモトコシ》」の「イモト」に同じく「妹と共に」の意なり。「爲而」を「シテ」とよむことは上の「三六六」に「草枕客之有者獨爲而見知師無美《クサマクラタビニシアレバヒトリシテミルシルシナミ》」の下にいへるが、ここもそれに同じ樣なる詞遣なれば、「シテ」とよむべし。即ちここの「シテ」は「ニテ」といふ程の意なるものなり。而してここはことに卷十二「二九一九」の「二爲而結之紐乎一爲而吾者解不見《フタリシテムスビシヒモヲヒトリシテワレハトキミジ》」とあるに似通へる點あるものなるが、ここに「妹トシテ」とあるは次の句とつゞけて見るときに、「妹と二人して作りし」といふべき意のものなるを歌の調の爲にかくおきかへたりと思はるるものなり。
○二作之 「フタリツクリシ」よめり。「二」を「フタリ」とよむ例は卷二「二一三」にその例あり。この上の歌にもあり。「妹と二人して作りし」といふなり。
○吾山齋者 舊訓「ワカヤマハ」とせり。考には「ワガソノハ」とし、略解は古今六帖に「ワガヤドハ」とよめるをよしとし、古義は「アガシマハ」とせり。「山齋」の「齋」は元來燕居之室をいふ語にして書室を書齋といひ、齋舍といふが如きその例なり。されば山齋は字義通りに見れば、山に作る齋室の義なり。南史孫※[王+場の旁]傳に「帝於2山齋1設2講肆1集2元儒之士1」とあり、又南史謝擧傳に「擧2宅内山齋1捨以爲v寺」とあり。又梁簡文帝晩春詩に「風花落未v已、山齋開2夜扉1」ともいひ、又白樂天山居詩に「山齋方獨往、塵事莫2相仍1」ともあり。これらは皆いづれも齋舍の義を失はざるものなり。然らば、ここは如何と見るに、下にいへる所は建物にあらずして庭木のさまをいへり。ここにこの熟字が集中の他の所に如何に用ゐられてあるかと見るに、卷二十に屬目山齋作歌三首ありて、そのは(916)じめの歌には「乎之能須牟伎美我許乃之麻家布美禮婆安之婢乃波奈毛左伎爾家流可母《ヲシノスムキミガコノシマケフミレバアシビノハナモサキニケルカモ》」(四五一一)といひ次の歌は「伊氣美豆爾可氣左倍見要底佐伎爾保布安之婢乃波奈乎蘇弖爾古伎禮奈《イケミヅニカゲサヘミエテサキニホフアシビノハナヲソデニコキレナ》」(四五一二)その次の歌は「伊蘇可氣乃美由流伊氣美豆※[氏/一]流麻※[泥/土]爾左家流安之婢乃知良麻久乎思母《イソカゲノミユルイケミヅテルマデニサケルアシビノチラマクヲシモ》」(四五一三)とあり。これによれば、そこには池ありて水を湛へ、鴛鴦之に住み、その池の岸には磯あり、岡には馬醉木花さきて池水に影を映ぜりと見えたるものにして、そこを「しま」といへることも知られたり。「屬目」とは目を注ぎて觀るをいふなれば、これは山齋にて見たる景物を詠ぜしものならむが、最初の詠は大監物御方王の詠にして「君が此の島」といひたれば、この人の山齋にあらぬは明かなり、次の詠は大伴家持の詠、その次の詠は大藏大輔甘南備伊香眞人とありてその作者を尊べるかきざまなり。その山齋の主人、誰なるか明かならねど、その主人を明言せざるところかへりて家持の山齋なりと想はるるなり。若し、この山齋その父旅人の時より傳はりしものならば、まさにここにいへると同じ處なるべきか。今にして明かにしがたき事なれど、當時の山齋といふものの有樣の一斑をこれにて想像しうべし。さてその卷二十なるは「山齋」に屬目しての詠なればその山齋とは、建物をさすに止まらずして島即ち假山水をもさせりと見らる。その假山水は島といへりしこと、卷二「一七〇」の下に詳かにいへり。されば、ここは「シマ」とよむをよしとすべきに似たり。
○木高 「コダカク」とよむ。「コダカシ」といふ語の例は卷十九「四二〇九」に「許太加久※[氏/一]佐刀波安禮騰母《コダカクテサトハアレドモ》」とあり。木の生長して丈高くのびたるをいふ。
(917)○繁成家留鴨 「シゲクナリニケルカモ」とよむ。「シゲクナル」といふ語の例は卷一「二九或云」に「繁成奴留」あり。その木の枝葉の多く生じたるをいへるなり。
○一首の意 明かなり。昔、妹と吾と二人して語り合ひつゝ作らしめし、吾が山齋の島は、わが太宰府の任にありし間は人任せにしておきたれは、つくろひたつる人もなくて、木立は高くなりすぎ、枝葉も苅り拂ふわざもせざれば繁り次第にて、あれはてたるものかなとなり。かくて、見し昔をしのび、庭の荒れたるにつけてもそのはじめつくりし時の相談相手たりし過ぎ去りし妻を思ひ出でてなげきつるなり。
 
453 吾妹子之《ワギモコガ》、殖之梅樹《ウヱシウメノキ》、毎見《ミルゴトニ》、情咽都追《ココロムセツツ》、涕之流《ナミダシナガル》。
 
○吾妹子之 「ワギモコガ」とよむ。この語の例は卷一以來屡出でたり。
○殖之梅樹 「ウヱシウメノキ」とよむ。「殖」を「ウヱ」とよめる例は上の「四一〇」にあり。「殖」は通例生殖繁殖の義を主とすれど、玉篇に「生也、種也」とあれば、「ウウ」といふも不可なし。而して本集には植よりもこの字を多く用ゐたり。梅の木は本集には櫻よりも多くよめるにて當時珍重せしものなるを見るが、ここにもその庭に植ゑてありしことを見るべし。旅人が梅を愛せしことは卷五なる太宰府にての梅花歌三十二首の催、又その追和の歌并に卷八「一六四〇」の歌などにてしるし。されば、その夫人も同じ趣味を有せしならむ。
○毎見 「ミルゴトニ」とよむ。この語の例は上「三二四」に「毎見哭耳所泣」ありてそこにいへり。
(918)○情咽都追 舊訓「ココロムセツツ」とよめり。この「咽」字は和名鈔に「※[口+更]咽」と標して、その下に「唐韻云※[口+更]壹※[糸+更]悦二音噎亦咽无須食塞也」とあり。又新撰字鏡には「〓爲黨反※[口+壽]也不能飲也牟須」とあり。この二例によれば、「ムス」とよむべく、その義は咽喉塞りて飲食すること能はざるをいふものにして今俗語に「むせる」といふにおなじ。その「咽」字は元來は「呑む」の意なるものなるべけれど「※[口+更]咽」と熟したる場合の音は「エツ」にして集韻に「聲塞也」といへり。この場合は「噎」と同じ意となるが、「噎」は説文に「飯塞也」とし、廣韻に「食塞」とし、詩の王風黍離に「中心如v噎」とある傳に「噎、憂不能息」とあり、疏には「噎者咽喉蔽塞之名」とあり。これによれば、「咽」は元來「ノム」の意なるものが、後世「エツ」といふ音を生じて噎に代用せらるるに至りしものゝ如し。かくて本集の例を見るに「ムス」とよめるはここの外に卷四「五四七」に「情耳咽乍有爾《ココロノミムセツツアルニ》」とあるのみにして、他には必ず「ムス」とよむべしとすべきものを見ず。而して別に卷四「六四五」に「心爾咽飲哭耳四所泣《ココロニムセビネノミシナカユ》」とあると、卷二十「四三九八」に「麻蘇※[泥/土]毛知奈美太乎能其比牟世比都都言語須禮婆《マソデモチナミダヲノゴヒムセビツツコトドヒスレバ》」とあるは、古來「ムセビ」とよみ來れり。卷二十のは假名書なれば論なく、卷四のは音の數の上より「ムセビ」とよむべきものならむ。かくて平安朝の文藝に見れば、かゝる場合には殆どみな「むせぶ」とありとありて、たゞ一つ例外として源氏明石卷に「思ひむせたるも云」とある本あれど、これも湖月抄など多くの本には「おもひむせびたる」とあり。されば、それらに准ずる時はここを「ムセブ」とよむべきさまに見ゆ。かくて更に考ふるに、本集中の四の例のうち、卷二十なるは涙に咽ぶさまと見らるれば、別として、他の三の例はいづれも心情に關するものなり。然らば、心情の上にて「ムス」若くは「ムセブ」と(919)は如何にするをいへるにか。元來「ムス」といふ國語は咽喉塞りて飲食をなしえずといふことに止まるものにして、これを心情に關する語とする時は如何なる意にとるべきか。國語の本來の意のそのままにては「ムス」としても「ムセブ」としても、その意を得ざるものなりとす。惟ふにこれは上にも引ける詩の「中心如v噎」とある、それより生じたるものならむ。これは「如v噎」とある如く、元來形容の語にして實に「ムセタル」をいふにあらず。人が、飲物にむせたる時に、堪ふべからず、いふべからざる苦しみを感ずる如くに心情のあるをいへるものなりとす。而してこれ恐らくは漢詩文の直譯より生じたる語ならむか。かくてこれを形容の語として漢語の直譯と考ふれば、「ムス」の國語は和名鈔、新撰字鏡に「ムス」とありて「ムセブ」と見えざれば、ここも「ムス」とよみて不可なきものならむ。「都追」を「ツヽ」とよむ事はここをはじめとすれど、以下集中に例甚だ多し。
○涕之流 「ナミダシナガル」とよめり。「涕」は本來「ナク」又は「ナミダナガル」とよむべき字なるが、玉篇廣韻共に「目汁也」とある上に、和名鈔に「涕涙體類二音奈美太目汁也」とあれば、「ナミダ」とよむべし。「シ」は強意の助詞なり。
○一首の意 わが愛する妻の植ゑたる梅樹を見る毎に悲哀の情に堪へずして涙流るゝことよとなり。これは物によりて懷舊の情感を催すことをいへるものにして、語平明にして情趣深し。ここに梅樹をいへるは折しも梅の花の咲けりしにてもあらむ。旅人の上京の途に就きしは天平二年十二月なるが、延喜式主計式を見るに、太宰府の行程は上廿七日、下十四日なり。(920)これは山城京なれど、大差なきものにして、その奈良京に到着せしは翌三年一月の中にありしものと考へらるれば、その頃梅の花は開き初めてありしものと考へらる。
 
天平三年辛未秋七月大納言大伴卿薨之時謌六首
 
○天平三年辛未秋七月大納言大伴卿薨之時 大伴旅人の薨せしことは續日本紀卷十一、天平三年の條に「秋七月辛未大納言從二位大伴宿禰旅人薨。難波朝右大臣大紫長徳之孫、大納言贈從二位安麻呂之第一子也」とあり、公卿補任には「七月廿五日薨」と記せり。さて、本書に天平三年辛未とあるはその年の干支を示したるものにして續紀にいふ秋七月辛未はその日の干支を示したるものにして別なり。この七月朔は丁未なれば辛未は二十五日なり。以上いづれも一致すといふべく、この卷末に附けたる旅人の履歴に七月一目薨とあるは誤なること著し。
○謌六首 これは下に示せる如く金明軍の詠五首と縣犬養宿禰人上の一首とを併せていへるものなり。
 
454 愛八師《ハシキヤシ》、榮之君乃《サカエシキミノ》、伊座勢波《イマシセバ》、昨日毛今日毛《キノフモケフモ》、吾乎召麻之乎《アヲメサマシヲ》。
 
○愛八師 舊訓「ヨシヱヤシ」とよみたるを代匠記に「ハシキヤシ」とよめり。「愛」を「ハシ」とよむべきことは卷二「二二〇」の「愛伎妻等者《ハシキツマラハ》」の下に既にいへり。されば、代匠記の説をよしとすべし。「ハシキヤシ」と假名書にせる例は、卷七「一三五八」に「波之吉也思吾家乃毛桃《ハシキヤシワギヘノケモモ》」卷十二「三一四〇」に「波之(921)寸八師志賀在戀爾毛有之鴨《ハシキヤシシカルコヒニモアリシカモ》」あり。又卷十六「三七九四」に「端寸八爲老夫之歌丹《ハシキヤシオキナノウタニ》」とあるなども同じよみ方にすべきものなり。この語は卷二、「一三八」の「早敷屋師《ハシキヤシ》」「一九八」の「早布屋師《ハシキヤシ》」に既に出でて、そこにいへる如く、「はしき」といふ語に「ヤ」「シ」といふ二の間投助詞の添へるにして「はしき君」とつゞくべき關係のものなり。「はしき」といふ語は卷二「一一三」にいへる如く愛すべきをいふ古き形容詞なり。
○榮之君乃 「サカエシキミノ」とよむ。似たる例は卷七「一一二八」に「安志妣成榮之君之《アシヒナスサカエシキミガ》」あり。卷十九「四一六九」に「松柏乃佐賀延伊麻佐彌尊安我吉美《マツカヘノサカエイマサネタフトキアガキミ》」なども、似たる語なり。これは旅人が在世中榮達せしをいへるなり。
○伊座勢波 「イマシセバ」とよむ。この語の例は卷二「一七三」に「高光吾日皇子乃伊座世者島御門者不荒有益乎《タカヒカルワガヒノミコノイマシセバシマノミカトハアレザラマシヲ》」とありてそこにいへり。この「せ」は「キ、シ、シカ」と同じ語の未然形として假設條件をいへるなり。
○昨日毛今日毛 「キノフモケフモ」なり。この語の例は卷二「一八四」に「昨日毛今日毛召言毛無《キノフモケフモメスコトモナシ》」とあり。意明かなり。
○吾乎召麻之乎 舊訓「ワレヲメサマシヲ」とよめるを槻落葉に「ワヲメサマシヲ」とよみ、古義は「アヲメサマシヲ」とよめり。舊訓は音數あまれば、とらず。「ヲ」といふ助詞につゞくに「アヲ」といふと「ワヲ」といふと二樣共にあること卷二「一〇八」の「吾乎侍跡」の下にいへり。今、姑く「アヲ」といふに從ふ。上に「セバ」とありて「マシヲ」と受けたるものは卷二「一七三」に既に例あるが、なほ少しく(922)いはゞ卷十六「三七八九」に「今日往跡吾爾告世婆還來麻之乎《ケフユクトワレニツゲセバカヘリコマシヲ》」卷十八「四〇五六」に「保里江爾波多麻之可麻之乎大皇乎美敷禰許我牟登可年弖之里勢婆《ホリエニハタマシカマシヲオホキミヲミフネコガムトカネテシリセバ》」卷二十「四三九七」に「可比爾安里世婆都刀爾勢麻之乎《カヒニアリセバツトニセマシヲ》」などあり。この「まし」は上の假設條件に對しての假想的歸結にして「ヲ」は感動を加ふる間投助詞の終止につけるものなり。
○一首の意 わが親愛して奉仕せし君、世に榮えたりしわが君の今も世におはしますならば、昨日も今日も吾を召したまふべきものを、世におはしまさねば、召すこともなしとなり。ここに昨日も今日も吾を召さましといへるは卷二「一八四」に「東乃多藝能御門爾雖伺候昨日毛今日毛召言毛無」と言へるに似たれど、それよりも趣深きなり。
 
455 如是耳《カクノミニ》、有家類物乎《アリケルモノヲ》。芽子花《ハギノハナ》、咲而有哉跡《サキテアリヤト》、問之君波母《トヒシキミハモ》。
 
○如是耳有家類物乎 舊訓「カクシノミアリケルモノヲ」とよめるを代匠記に「カクノミニアリケルモノヲ」とよめり。今本集の他の例を見るに、從來「カクシノミ」とよめる例はこの卷「四七〇」に「如是耳有家留物乎《カクノミニアリケルモノヲ》」卷四「六九三」に「如此耳戀哉將渡《カクノミニコヒヤワタラム》」卷十一「二三七四」に「是耳戀度《カクノミニコヒヤワタラム》」「二五七〇」に「如是耳戀者可死《カクノミニコヒバシヌベシ》」「二五九六」に「如是耳戀也度《カクノミニコヒヤワタラム》」卷十二「二九六四」に「如是耳在家流君乎《カクノミニアリケルキミヲ》」どもなるが、いづれも、必ずしかよまざるべからざるものにあらず。而して假名書の例としてはしかよむべきもの一も存せざるのみならず、「かく」と「のみ」との間に「シ」を加へたる語は他に全く例を見ざる所なれば、必ずしもよるべからざるなり。次に「カクノミニ」といへる例は如何といふに、卷十六「三(923)八〇四」に「如是耳爾有家流物乎《カクノミニアリケルモノヲ》」とあるはまさしくここにあるに似たるものなるが、この外には明かにかくかける例を見ず。されど「かくのみ」とつづくる例は少からず。卷二「一五七」の「如此耳故爾《カクノミユヱニ》」卷五「七九六」に「加久乃未可良爾《カクノミカラニ》」「八八一」に「加久能未夜伊吉豆伐遠良牟《カクノミヤイキヅキヲラム》」卷八「一五二〇」に「如是耳也伊伎都枳乎良牟《カクノミヤイキヅキヲラム》」卷九「一七六九」に「如是耳志戀思渡者《カクノミシコヒシワタレバ》」卷十三「三二五九」に「如是耳師相不思有者《カクノミシアヒオモハスアレバ》」「三二九八」に「各鑿社吾戀度七目《カクノミコソアハコヒワタリナメ》」卷十七「三九〇二」に「如此乃未君波見禮杼安可爾氣牟《カクノミキミハミレドアカニケム》」「三九三六」に「可久能未也伎美乎夜利都追安我孤悲乎良牟《カクノミヤキミヲヤリツツアガコヒヲラム》」「三九三八」に「可久能未也安我故悲乎浪牟《カクノミヤアガコヒヲラム》」以上はいづれも「かくのみ」とつづける例なり。又この卷「四七八」に「世間者如此耳奈良之《ヨノナカハカクノミナラシ》」卷五「八〇四」に「迦久能尾奈良志《カクノミナラシ》」「八八六」に「世間波迦久乃尾奈良志《ヨノナカハカクノミナラシ》」卷十九「四一六〇」の「宇都世実母如是能未奈良之《ウツセミモカクノミナラシ》」とある「かくのみならし」は「かくのみにあるらし」の約まれるものなれば「かくのみに」といふ語遣の存せしことの傍證とはなるべし。而してこれは「耳」を「ノミ」とよみ「ニ」は訓みそへたるなり。「ニ」をよみ添ふることは卷一以來例多し。以上によりてここは代匠記の説によりて讀むをよしとす。この語の意をば攷證に「かくばかりに萩の花は咲てありけるものをといふ意也」といへるは隨ひがたし。これは下「四七〇」に「如是耳有家留物乎《カクノミニアリケルモノヲ》、妹毛吾毛如千歳憑有來《イモモワレモチトセノゴトクタノミタリケリ》」といひ「四七二」に「世間之常如此耳跡可都知跡痛情者不忍得毛《ヨノナカノツネカクノミトカツシレドイタキココロハシノビカネツモ》」といへる如く、人の世の無常を觀じたる詞なること著しく、下の「ものを」にて咏歎の意を加へて終とせり。以上、一段落をなせり。
○芽子花 「ハギノハナ」とよむ。「芽」を「ハギ」とよむことは卷二「一二〇」に「芽子」を「ハギ」とよむことは同じく「二三一」に例ありて既に論ぜり。ここに芽子花をいへるはこの歌を詠ぜる季節をあら(924)はせるものにして、それと共に旅人が萩を愛せしことを思ひ出でてよめるならむ。旅人が萩をよめる歌は卷六「九七〇」卷八「一五四一」「一五四二」の三首あり、いづれも之をめでしものなり。
○咲而有哉跡 「サキテアリヤト」とよむ。よみ方に異説なく、意も亦明かなり。
○問之君波母 「トヒシキミハモ」とよむ。かくの如くいへる語の例は卷十一「二七〇六」に「泊湍川速見早湍乎結上而不飽八妹登問帥公羽裳《ハツセガハハヤミハヤセヲムスビアゲテアカズヤイモトトヒシキミハモ》」あり。又古事記中弟橘比賣の歌に「佐泥佐斯佐賀牟能袁恕邇毛由流肥能本那迦邇多知弖斗比斯岐美波母《サネサシサガムノヲヌニモユルヒノホナカニタチテトヒシキミハモ》」といふもあり。「ハモ」といひて、終とする語遣は卷二「一七一」に「高光我日皇子乃萬代爾國所知麻之島宮婆母《タカヒカルワガヒノミコノヨロヅヨニクニシラサマシシマノミヤハモ》」の下に詳かに論じたる如く「は」「も」共に係助詞にして、先づ「は」にて「これは云々」といふ如き意を以て下略の語體をとり、餘情を含めて終止したるものにして、「も」はその終止の形の下に添へて更に歎息の意を添ふるものにして、これを單に「はも」といふ一辭にして嘆息の辭とする如きは疎略なる説明なるなり。
○一首の意 二段落の歌たり。第二段は世の中は此の如く無常にのみありけるものをと、嘆息したるにて、その意は、かく無常なる世をば、君が榮えは永久のものと思ひけるよとなり。第二段はこの萩を見れば、君が「萩花は既に咲きたるか」と問ひ給ひし君の事を思ひいづるが、その君は今いづこぞや。あはれはかなかりける世かなとなり。かくの如く第二段に對して更に第一段を打ちかへして味ふべきものなり。餘情探き歌なり。
 
456 君爾戀《キミニコヒ》、痛毛爲便奈美《イタモスベナミ》、蘆鶴之《アシタヅノ》、哭耳所泣《ネノミシナカユ》、朝夕四天《アサヨヒニシテ》。
 
(925)○君爾戀 舊訓「キミニコヒ」とよめるを童蒙抄に「キミニワヒ」とよめり。されど、「戀」は「ワブ」とよむべきにあらねば舊訓によるべし。さてかく「云々にこふ」といへるは卷二「一一一」に「古爾戀流鳥鴨」の下にいへる如く古の語遣の一のさまなり。これを攷證に「君にこひ、妹にこひなどいふ、にもじは、をの意にて、君をこひ、妹をこひといふ意なる事上(「一一一」の條なり)にいへるが如し」といひたれど、古の考へ方はその戀ふる目標を靜的にし、戀ふるわれの方を動的にいへるにて、今と反對なれば、同一なりといふべからず。本集中に「キミヲコフ」とよめるものは卷十一「二五九八」に「遠有跡公衣戀流」とかけるをば流布本に「トホカレドキミヲゾコフル」とよみたる一例あれど、それには「ヲ」にあたる文字なくして加へよめるものなれば、「ニゾコフル」とよみうべきなり。その他の例には卷四「五九三」に「君爾戀《キミニコヒ》」卷十「一八二三」に「君丹戀八《キミニコフレヤ》」「二一四三」「二二九八」に「於君變《キミニコヒ》「二二八二」に「於君戀乍《キミニコヒツツ》」「二三一〇」に「君爾戀爾《キミニコフルニ》」卷十一「二七四一」に「公二戀等九《キミニコフラク》」「二七四三」に「君二不戀者《キミニコヒズハ》」卷十二「三〇二五」に「君爾戀良久《キミニコフラク》」卷十三「三二七一」に「君爾戀毛《キミニコフルモ》」「三三二九」に「君爾戀濫《キミニコフラム》」「君爾戀禮薄《キミニコフレバ》」「三三四四」に「君爾戀爾《キミニコフルニ》」卷十五「三七五〇」に「伎美爾故布良牟《キミニコフラム》」「三七五二」に「君爾古非都都《キミニコヒツツ》」卷十七「三九七二」に「伎彌爾故布流爾《キミニコフルニ》」とあり。この外「ワガセコニ」「イモニ」「ワギモコニ」「ツマニ」等多くの場合に於いて「ニコフ」といへるものを見るが、今一々例をあげず。最も、卷二十「四三七一」に「都久波能夜麻乎古比須安良米可毛《ツクバノヤマヲコヒズアラメカモ》」の如き例無きにあらねど、「ニコフ」といふ時と、その心の行き方かはれるものなり。
○痛毛爲便奈美 舊訓「イトモスヘナミ」とよめるを槻落葉に「イタモスベナミ」とよめり。「痛」を「イ(926)ト」とよむは例なきことなり。「イタモスベナミ」といへる例は槻落葉に既にあげたる如く、卷十三「三三二九」に「伊多母爲便無見《イタモスベナミ》」卷十五「三七八五」に「伊多母須敝奈之《イタモスベナシ》」卷十七「三九七八」に「伊多母須弊奈美《イタモスベナミ》」の假名書の例あり。これは攷證に「ここに痛の字を書るは借字にてこは古事記下卷御歌は伊多那加婆比登斯理奴倍志《イタナカバヒトシリヌベシ》云々とある伊多と同じく、いたくといふ意にてここは君を戀ても、ひたぶるに一向すべなきにといふ意也」といへるにて略々明かなり。
○蘆鶴之 「アシタヅノ」とよむ。「アシタヅ」といへる例は卷六「九六一」に「湯原爾鳴蘆多頭者《ユノハラニナクアシタヅハ》」卷十一「二七六八」に「葦多頭乃颯入江乃白菅乃《アシタヅノサワグイリエノシラスゲノ》」あり。これが、鶴なる事は卷六「九六一」の詞書に「帥大伴御宿2次田温泉1聞2鶴喧1作歌」と記したるには著しきが、「ツル」を「タヅ」ともいへるは、卷一「七四」の「多津鳴倍思哉《タヅナクベシヤ》」の下にいへり。而してこの語は倭名鈔に「今按倭俗謂v鶴爲2葦鶴1是也」あるによりて平安朝に入りても用ゐられしを見る。この語の意は攷證に「こは十一【四十七丁】に葦鴨之|多集《スダク》池水云々とあるもたゞ鴨をいひ、十六【卅丁】に葦河蘭乎云々とあるもたゝ蟹をいふなれば、これらみな葦邊に住るによりてその住所のものを名におはせて、鶴をさしてあしたづとはいふ也」といへるをよしとす。攷證、古義、註疏などにはこれを「音なく」の枕詞とすといへり。されど、これは、たゞの形容にして「蘆鶴の單になく如くなる」といふに止まるならむ。
○哭耳所泣 舊訓「ネニノミナカルヽ」とよめるを、代匠記に「ネニノミナカル」とし、童蒙抄に「ネノミソナカル」とし、考に「ネノミシナカユ」とせり。それらのよみ方いづれも道理なきにあらねど、「所泣」の「所」は「泣」に屬する字にして「ゾ」にあらざるべく、こゝに「ゾ」を加へてよむは穩かならずと思は(927)るれば、童蒙抄の説は先づ從ふべからず。又「なかるる」といふも、後世の風なれば舊訓も隨ひがたし。「ネニノミナク」といふいひ方も本集に例なければ、考の説によるべし。その例は既に卷二「二三〇」に「間者泣耳師所哭《キケバネノミシナカユ》」とありて、そこに論ぜり。かく助詞の「シ」を加へてよむことも卷二「一六三」以下に例多し。「哭」を「ね」とよむことも卷二「一五五」「哭耳呼《ネノミヲ》」の下にいへり。「ね」は哭するをいふなり。「なかゆ」は自然に泣かるるなり。
○朝夕四天 「アサヨヒニシテ」とよめり。「朝夕」を「アサヨヒ」とよむべきことは卷一「五」に既にいへる所なり。ここと同じ語遣なるは卷二十「四四八〇」に「可之故伎也安米乃美加度乎可氣都禮婆禰能未之奈加由安左欲比爾之弖《カシコキヤアメノミカドヲカケツレバネノミシナカユアサヨヒニシテ》」とあり。この「して」につきて槻落葉に「かゝるしては輕く添たる助辭にて意なし」といへり。されど、もとより意味なき語にあらず。上の「三七五」の「鴨曾鳴成山影爾之弖《カモゾナクナルヤマカゲニシテ》」とあるは場所をさせるもの、ここは時をさせるものにして、多少の差違はあれど、「ニ於イテ」の意なることは共通せるなり。
○一首の意 君に戀ひ奉りても、一向にその詮のなきによりて、蘆間の鶴の朝夕に於いて泣くが如くにわれも朝夕にたゞ泣きにのみをるよとなり。
 
457 遠長《トホナガク》、將仕物常《ツカヘムモノト》、念有之《オモヘリシ》、君師不座者《キミシマサネバ》、心神毛奈思《ココロトモナシ》。
 
○遠長 古來「トホナガク」とよめり。童蒙抄には「又すゑ長くとも讀むべし」といひ、槻落葉には「トホナガニ」とよめり。今、按ずるに「遠」は「スヱ」とよむべき字にあらざるのみならず「すゑながし」と(928)といふ語は後の語と見えて、この頃に例を見ざればしたがひがたし。又集中には「イヤトホナガニ」といへる例あれど、單に「トホナガニ」と必ずよむべき例なし。又「イヤトホナガク」といふ語の例はあれど、單に「トホナガク」と必ずよむべき例はなし。その「イヤトホナガニ」とよむべき例はこの卷「四七八」に「天地與彌遠長爾《アメツチトイヤトホナガニ》」卷十二「三〇五〇」に「吾念人者彌遠長爾《ワガオモワヒトハイヤトホナガニ》」卷十八「四〇九八」に「可久此許曾都可倍麻都良米伊夜等保奈我爾《カクシコソツカヘマツラメイヤトホナガニ》」あり。「イヤトホトガク」とよむべき例は卷二「一九六」に「天地之彌遠長久思將往《アメツチノイヤトホナガクシヌビユカム》」卷十「三三五六」に「不盡能禰乃伊夜等保奈我伎夜麻治乎毛《フジノネノイヤトホナガキヤマヂヲモ》」あり。かくの如く「トホナガニ」も「トホナガク」も共に明かにしかよむべき證なく、又「イヤ」を冠したるにも「イヤトホナガニ」「イヤトホナガク」二樣の用例あれば、結局いづれをよしとも決しがたく、又二者いづれを不可なりともいひがたし。されば、古來のよみ方によるを穩かなりとす。これは、時間の上にて永遠にといふことなり。
○將仕物常 「ツカヘムモノト」とよむ。「仕」を「ツカフ」とよむ例は卷一「三八」にあり。意明かなり。
○念有之 「オモヘリシ」とよむ。「念有」を「オモヘリ」とよむ例は卷一、「五」にあり。又ここと同じ語は卷二「二一〇」「二一三」にあり。意明かなり。
○君師不座者 「キミシマサネバ」とよむ。「マス」といふ語の例は上「二四三」に「王者千歳爾麻佐牟《オホキミハチトセニマサム》」卷十八「四〇六四」に「大皇波等吉波爾麻佐牟《オホキミハトキハニマサム》」卷十七「三九九六」に「和我勢古我久爾弊麻之奈婆《ワガセコガクニヘマシナバ》」あり。「不座者」は「マサズハ」ともよみうるものなれど、ここは、已然の事實をいへるなれば、舊訓をよしとす。「シ」は強意の助詞にして、多くは下を「ば」にてうくる例あり。
(929)○心神毛奈思 舊訓「タマシヒモナシ」とよみたるを槻落葉は「ココロドモナシ」とよめり。按ずるに集中の歌に「心神」といふ文字を用ゐたるは、ここと卷十二「三〇五五」に「山菅之不止而公乎念可母吾心神之頃者名寸《ヤマスゲノヤマズテキミヲオモヘカモワガココロトノコノゴロハナキ》」との二所なるが、その他には卷五には「脆開2封函1拜讀2芳藻1、心神開朗似v懷2泰初之月1」(三六四の前の詞書)とあるあり。この三者同じ意か、はた、詞書なると歌なるとは多少異なる點あるか。先づ、詞書なるは漢字の本義によれるは疑ふべからず。漢語の心神は魏書釋老志に「其爲教也、※[益+蜀]2去邪累1藻2雪心神1」と見え、又獨異志に「李廣夜夢一人曰、我心神也。君役v我太苦辭去。俄而廣卒」とありて、所謂「タマシヒ」にあたれるが如し。本集には又これに似たる「情神」といふあり。それはこの卷「四七一」に「離家伊麻須吾妹子乎停不得山隱都禮情神毛奈思《イヘサカリイマスワギモコヲトドメカネヤマガクリツレココロトモナシ》」とあるあり。これも古來「タマシヒ」とよみたるが、槻落葉はおなじく「ココロドモナシ」とよめり。この字はなほ、卷十七「思2放逸鷹1夢見感悦作歌一首并短歌」の次の左注の文に、「喩曰使君勿d作2苦念1空費c情神u」とあり。さて集中に「タマシヒ」といへる例ありやと見るに、卷十五「三七六七」に「多麻之比波安之多由布敝爾多麻布禮杼《タマシヒハアシタユフベニタマフレド》云々」といふ一例あり。又「ココロドモナシ」とある例を見るに、卷十七「三九二七」に「伊尼多多武知加良乎奈美等許母里爲底伎美爾故布流爾許己呂度母奈思《イデタタムチカラヲナミトコモリヰテキミニコフルニココロドモナシ》」とあるあり、又卷十三「三二七五」に「一眠夜算跡雖思戀茂二情利文梨《ヒトリヌルヨヲカゾヘムトオモヘドモコヒノシゲキニココロドモナシ》」もかくよむべきならむ。この「こころともなし」は「心とも無し」として、「と」「も」共に助詞と見らるるさまにもあれど、卷十一「二五二五」に「吾情利乃生戸裳名寸《ワガココロドノイケリトモナキ》」とあり、又卷十九「四一七三」に「吾情度乃奈具流日毛無《ワガココロドノナグルヒモナシ》」とあるはいづれも「ココロト」といふ體言の存したりしことを證するものといふべければ、「こころともなし」の「こころと」もそ(930)の體言の方と思はれたり。これにつきて、槻落葉別記には、「度の所の意にて心臓をいふにやあらん」といひ、攷證には「とごころと同じく、このともじは利とかける正字にて大祓祝詞に燒鎌乃敏鎌以※[氏/一]云々とある敏《ト》も同じく利《ト》き意にて利《ト》きは早きをいふ言なれば、心利《ココロト》は心のさとり早きをいひてさとき意なる事、十二【八丁】に大夫之聰神今者無云々ともあるにてしるべし」といへり。按ずるに「情利」とかけるは「利心」とかけると「利」の字共通するによりて、攷證の説の生じたるなるべけれど、その「ト」をいづれも「利」の意なりと假定してもその「利心」といふ場合の「ト」と「心利」といふ場合の「ト」とは語としての資格を異にせるが故にその「卜」は必ずしも一なりといふべからず。又同じ、假定の下に於て「利心」といふ場合と「心利」といふ場合とを比較するに、「利心」といふは心を主體としていひ、「心利」といふは「利き」ことを主體としていふなれば、これ亦意を異にす。かく假定しての「こころと」といふは「心の利き」ことをいふなるべきが、それを「心神」又は「情神」といふをうべきかこの點をよく考へざるべからず。假に卷十一の「情利乃生戸裳名寸」卷十九の「情度乃奈具流日毛無」につきて見るに、心の利きことの生くるとか和ぐるとかいふことは意をなさず。されば、攷證の説は不通の論といふべきに似たり。この故に「こころど」とよみてもその「利」は卷四「六一三」に「念弊利《オモヘド》」「七八〇」に「仕目利《ツカヘメド》」の如き假名にして實字にあらざるべし。されば「ココロト」とよむときには槻落葉の如く「心所」の義とすべきに似たり。されど、これを心臓なりといふは強ひごとにして、これは恐らくは心のおちつき所をさすものならむ。かく考ふる時は「こころどもなし」とよむ方「たましひもなし」といふもよりまされる心地す。この故に今姑く、槻落葉の(931)よみ方による。
○一首の意 遠く長く永遠に仕へ奉らむものと念ひて有りし君が、この世に座さずなりしが故に、われは心も身にそはずまどへることよとなり。卷二「一七六」の「天地與共將終登念乍奉仕之情違奴《アメツチトトモニオヘムトオモヒツツツカヘマツリシココロタガヒヌ》」とあると似たりといふ説あれど、それよりも客觀性乏しく主觀性つよく、ふかみありといふべし。
 
458 若子乃《ミドリコノ》、匍匐多毛登保里《ハヒタモトホリ》、朝夕《アサヨヒニ》、哭耳曾吾泣《ネノミゾワガナク》、君無二四天《キミナシニシテ》。
 
○若子乃 舊訓「ミトリコノ」とよめるを槻落葉に「ワカキコノ」とよめり。「若子」は文字のままにては「ワカキコ」とよみうるものなれど、卷二「二一〇」の「若兒乃乞泣毎《ミドリコノコヒナクゴトニ》」の下に説ける如く、「ミドリコ」とよむこと不可なく思はるるのみならず、この歌の意は一般の若き兒をさすにあらずして所謂「みどりこ」をさすと見ゆれば、舊訓をよしとすべし。さてこれを舊説「緑兒の如く」の意とせり。然らざることは下にいふべし。
○匍匐多毛登保里 「ハヒタモトホリ」とよむ。匍匐は「ハフ」なることは日本紀天武十一年九月の詔に「勅自今以後跪禮匍匐禮並止之更用難波朝廷之立禮」とある、その匍匐禮とは本集に「鹿自物伊波比伏管《シシジモノイハヒフシツツ》」「鶉成伊波比廻《ウヅラナスイハヒモトホリ》」(卷二「一九九)「十六社者伊波比拜目《シシコソハイハヒヲロガメ》」「鶉己曾伊波比廻禮《ウヅラコソイハヒモトホレ》」「四時自物伊波比拜《シシジモノイハヒヲロガミ》、鶉成伊波比毛等保理《ウヅラナスイハヒモトホリ》」(卷三「二三九」)の下にいへる如く、今人の坐して手を衝き、首を下ぐる禮をいへるにて著し。「タモトホル」といふ語は「モトホル」といふ語に「タ」といふ接頭辭を添へたる(932)ものにて、この頃に屡用ゐられたり。卷七「一二四二」に「視渡者近里廻乎田本欲今衣吾來《ミワタセバチカキサトミヲタモトホリイマゾワレコシ》」卷十七「三九四四」に「吉美乎念出多母登保里伎奴《キミヲオモヒデタモトホリキヌ》」「三九九一」に「之夫多爾能佐吉多母登保里麻都太要能奈我婆麻須義底《シブタニノサキタモトホリマツダエノナガハマスギテ》」「四〇一一」に「多古能之麻等比多毛登保里《タコノシマトビタモトホリ》」卷十八「四〇三七」に「乎敷乃佐吉許藝多母登保里《ヲフノサキコギタモトホリ》」などその例なり。「モトホル」といふ語は卷二「一九九」の下にいへる如く、同じやうなる所をあちこちとまはる事と見えたり。
○朝夕 「アサヨヒニ」とよむ。朝夕は上にいへり。ここには助詞「ニ」を加へよむべし。
○哭耳曾吾泣 舊訓「ネニソワカナク」とよみたるを代匠記は「ネノミソワカナク」とよめり。「耳」は音をとれば「ニ」とよむべく、義をとれば、「ノミ」とよむべく、而して本集にも「惑人者啼爾毛哭乍語嗣偲繼來《サトビトハネニモナキツツカタリツキシヌビツギクル》……」(卷九「一八〇一」)「椙野爾左乎騰流※[矢+鳥]灼然啼爾之毛將哭己母利豆麻可母《スギノヌニサヲドルキギスイチシロクネニシモナカムコモリヅマカモ》」(卷十九「四一四八」)など、明白なる例あれば、舊訓不可なりとはいふべからず。然れども、明白に「ネニ」とよむべき例は、上の二に限られたるものにして「ネノミ云々」といへるものは、三十例に近く存す。されば、ここはその多き方につきて代匠記のよみ方に隨ふをよしとすべし。意は明かなり。
○君無二四天 「キミナシニシテ」とよむ。かかる語例は卷二十「四四〇一」に「奈苦古良乎意伎弖曾伎怒也意母奈之二志弖《ナクコラヲオキテゾキヌヤオモナシニシテ》」「四三二一」に「阿須由利也加曳我伊牟多禰|乎〔左○〕伊牟奈之爾志弖《アスユリヤカエガイムタネヲイムナシニシテ》」卷四「五五五」に「獨哉將飲友無二思手《ヒトリヤノマムトモナシニシテ》」「五七五」に「痛多豆多頭思友無二指天《アナタヅタヅシトモナシニシテ》」あり。この「君なし」といふはこの歌にてはその状態をいふ語なれば「に」といふ格助詞は、修飾格を示すものといふべく「して」は「ありて」の代用をなせるものと見らる。かくて、この一句は反轉法によれるものにして、これを首に(933)廻して理解すべきものなり。
○一首の意 「君がましまさぬによりて、即ち「君なし」といふはかなき心細き事になりたるによりて、緑子の匍匐ひまはりて朝夕に哭くが如くに、我も悲みに堪へずして匍匐ひまはりて常に泣くことよとなり。「若子のはひたもとほり朝夕に泣く」といふことをかりてわが悲泣のさまを形容すべく用ゐたるものにして、「若子の」のみを「の如く」の意にとるはこの歌の趣を淺くするものなり。かくの如く、讐喩より、いつしか實事にうつりて行く所に古の歌のすぐれたる趣もあるものにして、今の世の理窟にとらはれたる人にはかゝる歌は作りうべからぬは勿論理解する事すら難きさまなり。
 
右五首、仕〔左○〕人金明軍不v勝2犬馬之慕、心中感緒1作歌
 
○仕人 これは古寫本に資人とせるをよしとす。「仕人」とあるも大體意同じく「ツカヒヒト」といひてよみ方は全く同じからむと思はるれど、正しといふべからず。資人は五位以上の官人に防衛駈使に供する爲に賜ふ所の人にして、その數は單防令に規定あり。位につきて賜ふを位分の資人といひ、一位に一百人、以下減じて從五位に廿人を賜ひ、官につきて賜ふを職分資人といひ、太政大臣に三百人、左右大臣に二百人、大納言に一百人を賜ふとあり。今、大伴旅人は大納言なれば一百人を賜ひしなり。その職分資人は親王に賜ふ帳内(これは名稱の差あるのみにて實は異ならず)と同じく六位以下の子及び庶人より文武の貢人に才に堪へたるものを取り(934)て之に補せらるゝものにして、式部省の判補による。而して外六位勲七等の人は情願によりて帳内及び職分資人に充つることを聽されたり。
○金明軍 これは古葉略類聚鈔、神田本等に「余明軍」とあれど、古寫本の大多數は、本文の如く「金明軍」とせり。余氏も金氏も蕃別の氏の名なれば二者共に有りうべきことなり。余氏は日本書紀欽明天皇の十三年六月等に百濟王餘昌とあり、齊明天皇の元年に百濟の大使の名に余宜受あり、同六年に百齊の王、余豐※[王+章]あり、持統天皇の五年に百濟王余禅廣とある、その余なり。これはもと扶餘の族なるが故にそれを略したる名と見ゆるが、その百濟王の亡國の後歸化したるは持統天皇の朝に百濟王といふ氏姓を賜ひたるが、その一族はなほ余氏を唱へしものなり。かくて、後には續日本紀孝謙天皇、天平寶字二年六月甲辰に太宰陰陽師從六位下余益人、造法華寺判官從六位下余東人等に百濟朝臣の姓を賜ひしことあり、淳仁天皇天平賓字五年三月庚子に百濟人余氏善軍男女四人に百濟公の姓を賜ひしことあり。されば余氏ならば、もと百濟の王族の歸化せしものの後なるべし。又金氏は元來新羅國王の姓なることは三國史記に見ゆる所にして東國通鑑に新羅に朴、昔、金の三氏ありて更る/\王となる由見ゆ。而して、朝鮮を統一したる新羅は金氏にして、ここに金氏永く王となり、新羅亡びて後も金氏は朝鮮の貴族として現代に及べり。而して天武持統二天皇の頃の記事に當時來朝せる新羅の使人に金氏なるもの甚だ多し。而して、この頃にそれら歸化人等にも金氏が我が國に多かりしことは日本書紀天智天皇八年に小山上の位を授けられし人に金羅、金須の名あり。續日本紀、元明天皇和(935)銅二年十一月に從五位上金上元を伯耆守に任ぜられしことあり、神龜元年五月に從六位上金宅良、金元吉に姓國看連を賜ひ、聖武天皇の天平五年六月に武藏國埼玉郡新羅人徳師等五十三人に「依v請爲2金姓1」とも見ゆ。又正倉院古文書天平五年右京計帳の校勘を加へたる人に金月足といふ名も見ゆ。而してこの人の歌は上「三九四」にも見え又家持に與ふる歌二首卷四(「五七九」「五八〇〕)に見ゆ。その上「三九四」なるは「余」とある本あり「金」とある本あり、卷四なるも亦然り。續日本紀養老七年正月の叙位の歴名に從五位下に叙せられし人の名に「余仁軍」といふあり、これも校本には「一作金」と注せり。この人の名はここの「金明軍」と關係あるにあらずやと思はるれど、他に何の證もなし。而してこの人の事は本集以外には所見なければ、いづれとも斷言しがたきことなれど、從來用ゐ來れると、例の多きとよりて姑く「金」としてとる。よみ方は音にて「コンノミヤウグン」とよむべきものならむ。
○犬馬之慕 これは史記三王世家に「臣竊不v勝2犬馬心1」といひ、漢書汲※[黒+音]傳に「常有2犬馬之心1」といふもあるが、主として文選曹子建上2責躬應詔詩1表に「不v勝2犬馬戀v主之情1」といへるに基づけるものならむ。古語拾遺にも「愚臣廣成朽邁之齡既逾八十、犬馬之戀旦暮彌切」とあり。「犬馬之心」とは臣がその君に忠をつくすことを謙りて稱する辭にして忠を效すを犬馬がその主に懷き慕ふに喩へたるなり。「犬馬之慕」とは廣成が「犬馬之戀」といへるにおなじくして「犬馬戀主之情」をさせるにて金明軍が資人としてその本主たる旅人に對して敬慕に堪へざる情をいへるなり。
○心中感緒 槻落葉は「心」を上の句につけて「慕心」とし、「中」を「申」の誤として「申ヘテ」とよめり。され(936)ど「中」字は諸本一致せれば漫に改むべからず。「感」は細井本等に「盛」とあれど意をなさず、且つ他の多くの本「感」とあるを正しとすべく、「緒」も神田本に「結」細井本に「持」とある由なれど、これも意をなさず、多くの本に「緒」とあるを正しとすべし。「感緒」の字面は支那にあるものなるべけれど、未だ例に接せず、されど「心緒」「傷緒」「懊緒」「怨緒」「悲緒」「愁緒」などの用例によりてその意を知るべし。「感」は文選王仲宜誄(曹子建作)に「哀風與感」などいふ場合の感にして「情動於中」をいふなり。「緒」は心緒の義なるべく、心之思想條理をいふといひ、「悲緒」は「憂思也」といへるが、「感緒」は感思といふにおなじかるべし。さてこれは從來一を「不v勝2犬馬之慕1」とし次に「心中感緒作歌」とよみたれど、「心中感緒作歌」といふことは文をなさず。この故に代匠記には「心」の上に「述」の字を脱せるかといへるなり。按ずるにこれは
 不v勝2犬馬之戀、心中感緒1作歌
とよむべきものなるべく、しかよむときは脱字説をなす必要なかるべし。即ち本主旅人を戀ひ、心中の深き感に勝へずしてよめる歌といふことなるべし。
 
459 見禮杼不飽《ミレドアカズ》、伊座之君我《イマシシキミガ》、黄葉乃《モミヂハノ》、移伊去者《ウツリイユケバ》、悲喪有香《カナシクモアルカ》。
 
○見禮杼 「ミレド」とよむこと論なし。この「みれど」は單なる「みれど」にあらず。卷一「三六」にある「瀧之宮子波見禮杼未飽可聞《タギノミヤコハミレドアカヌカモ》」「三七」の「雖見飽奴吉野乃河之《ミレドアカヌヨシヌノカハノ》云々」の「みれど」にして幾度見れどもいつも飽くことなき意にいへり。この意の語の例は下、卷七などにも見ゆ。
(937)○不飽 舊版本の訓「アカヌ」とあれど、古寫本の大多數「アカス」とあり。ここは下の「伊座之」につくべき處にして連用形なるべき筈なれば、「アカズ」とよむこと疑ふべからず。
○伊座之君我 舊訓「イマセシキミガ」とよみ多くはそれに隨ひ來れるを槻落葉に「イマシシキミガ」とよみ、略解もしかよめり。按ずるに、この「イマス」といふ語は四段活用なるものなれば、「イマセシ」といふことは正しからず。さてここに「座」一字にて「イマス」とよみうべきに「伊座」とかけるは「座」は單に「マス」とよみうべくして紛はしければ、確かに「イマス」とよましめむ爲と思はる。卷二「一七三」の「伊座世者」等これなり。「不飽伊座之君」とは、その君が世に在りし程は「見れども飽かずありし君」といふ義なり。ここの「います」は「在り」の敬語なればなり。さては元來見れど飽かぬ君といふことなりと思はる。卷四「四九五」に「朝日影爾保敝流山爾照月乃不※[厭のがんだれなし]君乎山越爾置手《アサヒカゲニホヘルヤマニテルツキノアカザルキミヲヤマコシニオキテ》」といふあり。即ち、何程も見たれど、飽かざりし君がといふなり。
○黄葉乃 「モミチハノ」とよむこと異説なし。「黄葉」は本集にては專ら「モミチバ」といへることは卷二、「一三五」「一三七」「一九六」「二〇七」「二〇九」等に例あり。ここは「モミヂハノ」とよむべく、而してこれは下の「ウツル」の枕詞の如くに用ゐたり。「もみぢばの」を枕詞として用ゐたる例は、卷一「四七」の下にも又卷二「二〇七」に「奥津藻之名引之妹者黄葉乃過伊去等玉梓之使乃言者《オキツモノナビキシイモハモミチハノスギテイニキトタマヅサノツカヒノイヘバ》」の下に既にいへるが、それは專ら「過ぐ」につゞけるものなるに、ここは「移りゆくにつゞけるものにていさゝか趣異なり。その意はなほ下にいふべし。さて、ここに黄葉といへるも、その薨時が秋なりしが故と思はる。
(938)○移伊去者 舊訓「ウツリイユケバ」とよめり。類聚古集等に「うつろひぬれば」とあれど、「伊」を「ヒ」の假名にすべき道理なし。又神田本に「ウツロイヌレハ」とあれど「ウロツイ」といふ活用あるべからず。考は「ウツリイヌレバ」とよめり。按ずるに「伊去者」は「イユケバ」とも「イヌレバ」ともよみうべく、遽かに甲乙しかねたり。かくて「伊去」とかける本集中の例につきて見るに、
 卷一「七九」  佐保川爾伊去〔二字右○〕至而
 卷三「三一七」 白雲母伊去〔二字右○〕波代(伐)加利
 卷三「三一九」 天雲毛伊去〔二字右○〕波代(伐)加利
 卷三「三二一」 天雲毛伊去〔二字右○〕羽計
 卷六「九七一」 五百隔山伊去〔二字右○〕割見
 卷十九「四一七八」 丹生之山邊爾伊去〔二字右○〕鳴爾毛
上の「伊去」は「イヌJとも「イニ」ともよまれず、必ず「イユキ」とよむべきものなり。ただ、
 卷二「二〇七」名延之妹者黄葉乃過伊去〔二字右○〕等玉梓之使乃言者
は「イニキ」ともよみうべく思はるるなり。かくて多きにつかば、「イユケバ」とよむ方をとるべきに似たり。「イユク」といふ語は例の多きものにして、
 伊|行《ユキ》(卷二「二一三」)(卷十「二三二〇」) 《ユク》(卷十六「三八八五」)
 仰|往(キ)(卷七「一一七七」)(卷十二「三一九〇」) 《ユク》(卷十二「三一六九」)
 五十行(キ)(卷四「五〇九」)
(939) 射去(キ)(卷十二「三〇六九」)  《イユク》(卷十「二一四七」)  《イユケ》(卷十一「二六八七」)
 射往(キ)(卷四「五〇九」)(卷九「一七五一」)
 射歸(キ)(卷九「一八〇九」)
 射行(キ)(卷九「一七五二」)
 伊由伎(卷十四「三五四〇」)(卷十七「三九七八」)(卷十七「三九八五」)(卷十八「四一〇三」)(卷十八「四一二五」)(卷二十「四三三一」)
などあり。「イユク」は「ユク」に接頭辭「イ」の加へられたるにて、大體意は異ならず。卷二十「四四八三」に「宇都里由久時見其登爾許《ウツリユクトキミルゴトニコ》己呂|伊多久牟可之能比等之於毛保由流加母《イタクムカシノヒトシオモホユルカモ》」とある「うつりゆく時」は時の景色の移りかはりゆくをいふ。ここは黄葉の移りゆく意にてたとへたるものなれば、「もみぢばの」はただの枕詞にあらずして、人の死に去るを形容したる意ありと思はる。
○悲喪有香 「カナシクモアルカ」とよむ。ここに「喪」の字を用ゐたるは「喪」は不幸の意の「も」の義なるを假名の「も」に用ゐたるなれど、例多からず。末の「カ」は「哉」の意の「カ」なり。
○一首の意 明かなり。見れども/\飽かずおはしましゝ君がこの秋の黄葉の移ろふ如くになり賜へば悲くもあるかなとなり。
 
右一首、勅2内禮正《ナイライノカミ》縣犬養宿禰人上1。使(ム)v※[手偏+僉]2護(セ)卿(ノ)病(ヲ)1。而醫藥無v驗、逝水不v留、因斯悲慟、即作2此歌1。
 
(940)○右一首 これは大伴旅人卿薨之時の歌六首とあるうちの一首なり。前五首は金明軍のなり。
○内禮正 神田本に「内紀正」細井本等に「内記正」とあれど、さる官あるべきにあらねば誤なること著し。内禮正は内禮司の長官にして、正六位上相當の官なり。内禮司《ナイライシ》は「内《ウチ》ノヰヤノツカサ」ともよむ。「正」はその「カミ」なり。中務省の被管にして、宮内の禮儀及び非違を禁祭することを掌る。
○縣犬養宿禰人上 縣犬養氏は新撰姓氏録に「神魂命八世孫、阿居太都《アケタツ》命之後也」と見ゆ。この氏はもと連なりし由にて、日本書紀安閑紀にその名見え、天武紀に十三年十二月に「縣犬養連、稚大養連賜v姓曰2宿禰1」とあれば、この時に宿彌の姓を賜はりたるなり。この氏人は日本書紀に天武天皇の御世に「大伴」「手織襁《タスキ》」の名見え、續日本紀に聖武天皇の御世に「石足《イハタリ》」「筑紫」「大唐」とあるをはじめ族人多く史に見え本集にも同姓の人見ゆれど、「人上」の名この外に見ず。隨つてその父祖を明かにせず。
○使檢護卿病 卿の病とは大伴旅人卿の病なり。政事要略、第九十五に引く醫疾令の逸文を按ずるに、
 五位以上病患(セハ)者並奏聞(シテ)遣v醫爲v療。仍量v病給v藥。
とありて、その義解の文に
 謂3疾病之家申2牒宮内省1、事少即省直處、事重者申2太政官1、官奏聞給。故公式令云奏2醫藥1、即畿内亦准2在京1。
(941)と見えたり。これによりて官より醫藥を給ふことありしを見るべし。さて檢護とは如何なる意か。喪葬令を按ずるに親王及び、三位以上并に皇親の喪には治部の大輔少輔丞をしてそれ/”\その喪事を監護せしめらるる規定あり。集解にこの「監護」の語を解して、曰はく、
 謂監視也、護助也。(中略)古記云、監護謂檢校也見治也(中略)凡監護喪事者至喪析而事訖可監護者。
この監は檢校也といふ解による時は監護も檢護も同樣の意ならむ。即ち、大伴旅人に醫藥を賜ふにつきて、職務上その事を檢校しつゝその病を看護する意なるべし。
○而醫藥無驗 はその意明かなり。官より賜はれる醫藥も效驗なきをいふ。
○逝水不v留 「逝水」の字面は王褒尉遲綱墓碑に「逝水※[言+巨]停、光陰不v借」隋煬帝詩に「會待高秋晩、愁田逝水歸」などあり。流れ行く水の留まらざるを以て薨逝をたとへいへるなり。
○因斯 薨逝に因りてなり。
○悲慟 「かなしみ、なく」なり。慟は玉篇に「哀極也」といひ、慟哭と熟するにてその意を見るべし。
 
七年乙亥大伴坂上郎女悲2歎尼理願死去1作歌一首并短歌
 
○七年乙亥 「七年」は上のつゞきにて天平七年なること著しく、乙亥は實に天平七年の干支たるなり。
○大伴坂上郎女 上「三七九」「三八〇」の歌の作者にして、そこにいひたれば略す。
(942)○尼理願 この人、歌の詞によれば、新羅人にして歸化したるなり。なほ左注に至りていふべし。
○悲嘆 「かなしみなげきて」なり。而してこの歌は歌詞と左注とに照せば、その悲しみを母石川命婦に報せるものなり。
 
460 栲角乃《タクヅヌノ》、新羅國從《シラギノクニユ》、人事乎《ヒトゴトヲ》、吉跡所聞而《ヨシトキコシテ》、問放流《トヒサクル》、親族兄弟《ウカラハラカラ》、無國爾《ナキクニニ》、渡來座而《ワタリキマシテ》、大〔左○〕皇之《オホキミノ》、敷座國爾《シキマスクニニ》、内日指《ウチヒサス》、京思美彌爾《ミヤコシミミニ》、里家者《サトイヘハ》、左波爾雖在《サハニアレドモ》、何方爾《イカサマニ》、念鶏目鴨《オモヒケメカモ》、都禮毛奈吉《ツレモナキ》、佐保乃山邊爾《サホノヤマベニ》、哭兒成《ナクコナス》、慕來座而《シタヒキマシテ》、布細乃《シキタヘノ》、宅乎毛造《イヘヲモツクリ》、荒玉乃《アラタマノ》、年緒長久《トシノヲナガク》、住乍《スマヒツツ》、座之物乎《イマシシモノヲ》、生者《ウマルレハ》、死云事爾《シヌトイフコトニ》、不免《マヌカレヌ》、物爾之有者《モノニシアレバ》、憑有之《タノメリシ》、人乃盡《ヒトノコトゴト》、草枕《クサマクラ》、客有間爾《タビニアルマニ》、佐保河乎《サホガハヲ》、朝川渡《アサカハワタリ》、春日野乎《カスガヌヲ》、背向爾見乍《ソガヒニミツツ》、足氷木乃《アシヒキノ》、山邊乎指而《ヤマベヲサシテ》、晩闇跡《ユフヤミト》、隱益去禮《カクリマシヌレ》、將言爲便《イハムスベ》、將爲須敝不知爾《セムスベシラニ》、徘徊《タモトホリ》、直獨而《タダヒトリシテ》、白細之《シロタヘノ》、衣袖不干《コロモデホサズ》、嘆乍《ナゲキツツ》、吾泣涙《ワガナクナミダ》、有間山《アリマヤマ》、雲居輕引《クモヰタナビキ》、雨爾零寸八《アメニフリキヤ》。
 
○栲角乃 舊訓「タクツノノ」とよめるを考に「タクツヌノ」とよむべしとせり。「角」といふ字は古は「ツヌ」とよむものなりしことは、本卷上の「角松原《ツヌノマツバラ》」(二七九)「角鹿津《ツヌカノツ》」「角鹿乃濱《ツヌカノハマ》」(共に三六六」)「角障經《ツヌサハフ》」(「二八二」)及び卷二の「角※[章+おおざと]徑《ツヌサハフ》」(一三五)「角乃浦回《ツヌノウラミ》」「一三一」「高角山《タカツヌヤマ》」(一三二)等にいへり。而して「タク(943)ツヌノ」といへる假名書の例は本集にては卷二十「四四〇八」の「多久頭怒能之良比氣乃宇倍由奈美太多利《タクツヌノシラヒゲノウヘユナミダタリ》」の一例に止まれど、古事記上卷の沼河日賣の歌又須勢理毘賣命の御歌に「多久豆怒能斯路岐多陀牟岐《タクツヌノシロキタダムキ》」とあり。而して、それらの例はいづれも「白き」の枕詞とせり。冠辭考に曰はく「栲《タク》は木の名にて、角《ツヌ》の借字、布にて栲の木の皮にて織たる布なり。これを細布《タヘ》とも、木綿《ユフ》ともいへり。こはきはめて白きものなれば新羅を白き意にいひかけたり」といへり。然れども、木綿はその繊維の製したるままのものにて織物にあらぬことは既にいへり。又「布」を「ヌ」とのみいひたりといふことは證なきことなり。「ツヌ」は「ツナ」の轉なること卷二「一三五」の「角※[章+おおざと]經《ツヌサハフ》」の條にいへる所なり。かくて「栲角」は「栲にてつくれる綱」なること著し。かくてその栲の繊維は今の白紙の原料と同じきものなれば、色の白きものなり。これよりして「白き」の枕詞とせるが、それより一轉して「シラギノクニ」の枕詞とせるものにして、それは「シラ」といふ語を白の意にとりなしてつゞけたるものなり。その栲の白きより新羅の枕詞とせる例は日本紀仲哀天皇卷に「栲衾新羅國」本集卷十五「三五八七」の「多久夫須麻新羅邊伊麻須《タクブスマシラギヘイマス》」出雲國風土記に「栲衾志羅紀乃三崎」又本集卷十一「二八二二」の「栲領巾乃白濱浪乃《タクヒレノシラハマナミノ》」の例などにて知るべし。
○新羅國從 舊訓「シラキノクニヽ」とよめるが、西本願寺本、温故堂本は「クニユ」とせるが童蒙抄又しかよめり。「從」はもとより「ニ」とよまるべき字にあらず、「ユ」とよむべきは論なし。新羅は古事記傳卷三十に説あり。曰はく、
 新羅は斯良|岐《ギ》と訓(メ)り。名(ノ)義は即(チ)字の音を用ひたるなるべし。姓氏録に新良貴と云|姓《ウヂ》あり、(944)出雲風土記に栲衾新羅紀乃三崎、遠飛鳥宮段に新良、書紀に新羅なども書(ケ)り。(或人新羅は斯良《シラ》と訓べし。岐《ギ》は具爾《グニ》の約まりたるにて斯良岐は新羅國の謂なれば、斯良岐之國とは云ふべきに非じと云り。是(レ)も一わたりいはれたることなり。斯羅、新良なども書(キ)漢籍に斯慮國とも云へれば、斯良《シラ》と云むことさもあるべし。然れども、皇國言に正しく斯良《シラ》と云る例を未(タ)見ず。又|百濟《クダラ》高麗《コマ》を久陀良岐、古麻岐と云ふ例もなければ、斯良のみ國を岐《ギ》と云むもいかゞなり。然れば、岐《ギ》はたとひ本は國《クニ》の謂《イヒ》にもあれ、久陀良《クダラ》、古麻《コマ》と並べて斯良岐と云(ヒ)來つれば、斯良岐之國と云むになてふことかあらむ。國(ノ)名の淡海《アフミ》は即|淡海《アハウミ》なれども、其海をば、あふみの海《ミ》と云ふに非ずや。次に引る萬葉三(ノ)卷の歌なるも、シラギノクニユ〔七字右○〕とこそ訓べけれ、シラノクニヨリと訓(マ)むはいかゞなり。云々
といへり。この當時新羅國は、天智天皇の御時の三韓の屬地放棄政策によりて我が國の版圖にあらずして獨立してありしかど、なほ舊の如く使を遣して調物を貢獻したりしなり。續紀によりて、その近き頃に來朝せしものをいへば天平六年十二月に新羅貢調使級伐※[にすい+食]金相貞の來朝せしあり、又その前天平四年五月に、新羅使金長孫等四十人入京せしことあり。同三年五月に新羅使薩※[にすい+食]造近等來朝して調を貢せしことあり、養老七年八月に新羅使朝奈麻金貞宿、副使韓奈麻昔楊節等一行十五人來貢せしことあり。尤もこれは彼國より來貢せしのみにあらずしてわが國よりも遣新羅使といふをつかはされて略對等の禮となりしものの如し。「從」を「ユ」とよむこと及びその意は卷一「二九」の「日知之御世從《ヒジリノミヨユ》」に既にいへり。
(945)○人事乎 「ヒトゴトヲ」とよむ。この語は卷二「一一六」に「人事乎繁美許知痛美《ヒトゴトヲシゲミコチタミ》」の下にいへり。童蒙抄には漢語の「人事」の義に釋せむとする意見あれど、なほ人のいふ言の義なるべし。
○吉跡 「ヨシト」となり。卷一「二七」に「淑人乃良跡吉見而好常吉師芳野吉見與《ヨキヒトノヨシトヨクミテヨシトイヒシヨシヌヨクミヨ》、良人四來三《ヨキヒトヨクミツ》」の歌の「良し」を思ふべし。
○所聞而 舊訓「キカレテ」とよみ、西本願寺本「キカシテ」とよみたるが、代匠記には「キカシテ」とよみ、考は「キコシテ」とよめり。「所」は支那の助動詞なるが、わが國にては「ル」にあつる場合もあれど、又敬語をなすサ行四段の複語尾をあらはすにも用ゐたること「所知」「所念」「所取」「所照」の如し。ことを「キカレテ」とよめるは恐らくは敬語の「ル」の意ならむが、當時は「ル」は未だ敬語として用ゐられざりしによりてこのよみ方は當らず。さて「キカス」「キコス」はもと同じ語にして「キカス」が本體「キコス」はその變形なるべく、いづれも古語にして古事記の八千矛神の御歌には一首の中に二樣によめるが、本集にては假名書に「キカセ」といへるは一例のみにして、それは「令」の意のものなり。その他敬語なるはすべて
 我我勢故之可久志伎許散婆安米都知乃可未乎許比能美奈我久等曾於毛布《ワガセコシカクシキコサバアメツチノカミヲコヒノミナガクトゾオモフ》(二十「四四九九」)
 難波乃海於之弖流宮爾伎許之賣須奈倍《ナニハノミオシテルミヤニキコシメスナベ》(二十「四三六一」)
 企許斯遠周久爾能麻保良叙《キコシヲスクニノマホラゾ》(五「八〇〇」)
 莫寢等母寸巨勢友《ナイネソトハハキコセドモ》(十三「三二八九L
とあり。されば、こゝも「キコシテ」とよむべきなり。代匠記初稿に「新羅に有し時、かの國の人と(946)ち、日本はよき國にて人も三寶を淨信すとかたるを聞てなり。又この國より新羅へゆく人もわが住方なればあるよりはよくかたりなすなるべし」といへり。
○問放流 「トヒサクル」とよむ。「放」を「サクル」とよむことは卷一以下に屡例あり。この語の例は卷五「七九四」に「伊波牟須弊世武須弊斯良爾《イハムスベセムスベシラニ》、石木乎母刀比佐氣斯良受《イハキヲモトヒサケシラズ》」あり。似たるいひ方の例は卷十九「四一五四」に「語左氣見左久流人眼乏等《カタリサケミサクルヒトメトモシミト》」あり。この語の意は代匠記に
 問さくるとは問は云なり。さくるは思ひをさくるなり。光仁紀に左大臣藤原永手の薨し給ける時の詔詞に云。朕大臣、誰爾加毛我語比佐氣牟敦爾加毛我問比佐氣牟止云々。此れ思召す事を誰に語りてか思ひをさけむ。誰に云ひてか思ひをさけむとのたまふなれば、今もうしろやすく物など云て、思ひをさけやるべき親族もなき國に來ると云なり。
といへり。然るに、古義には之に反對して
 問《トヒ》は言問《コトドヒ》すること、放流《サクル》は見放《ミサク》るの放《サク》にて、物言やると云に同じ。
といへり。されど、これはなほ契沖の説の如く、槻落葉に「言語《コトトヒ》して憂《ウレヒ》を放《サケ》やるをいふ」といへるをよしとす。
○親族兄弟 舊訓「ヤカラハラカラ」とよめり。親族を「ウカラ」とよむべきことは上「四〇一」の詞書の「大伴坂上郎女宴親族之日吟歌」の説明にいへり。兄弟を「はらから」とよむことは新撰字鏡に「昆」の下に「波良加良」とあり、昆は兄の義なり。さて又續紀、天平寶宇三年六月の宣命に「朕私父母波良何良爾至麻※[氏/一]爾云々」とあり。こゝは「ウカラハラカラ」とよむべし。槻落葉は「産《ウ》がら腹《ハラ》が(947)らにてからは國柄、山隨、人品などいふからにおなじかるべし」といへり。
○無國爾 「ナキクニニ」とよむこと論なし。意も明かなり。こはわが國には理願の親族も兄弟もなきによりていふなり。
○渡來座而 「ワタリキマシテ」とよむこと論なし。わが國に渡り來てやがて歸化せるなり。
○大〔左○〕皇之 寛永本「太皇之」とあり。略解など「大」を天と改めたれど、ここを天皇とせる本無し。古寫本殆どすべて「大」とあれば「太」は誤とすべし。さて舊訓は「スメロギノ」とよみたるが之を「オホキミ」とよむべき由は上「四四一」の「大皇之命恐云々」の下にいへり。今もその意によりて「オホキミノ」とよむ。
○敷坐國爾 「シキマスクニニ」とよむ。「シキマス」の意は卷二「一六七」の「天皇之敷座國等《オホキキミノシキマスクニト》」の下にいへるにおなじ。
○内日指 「ウチヒサス」とよむ。これは「宮」の枕詞なり。その例は卷四「五三二」に「打日指宮爾行兒乎《ウチヒサスミヤニユクコヲ》」卷五「八八六」に「宇知比佐受宮弊能保留等《ウチヒサスミヤヘノボルト》」卷十四「三四五七」に「宇知日佐須美夜能和我世波《ウチヒサスミヤノワガセハ》」などあり。それよりして、「ミヤコ」「ミヤヂ」などの枕詞ともなれるなり。卷二十「四四七三」に「宇知比左須美也古乃比等爾都氣麻久波《ウチヒサスミヤコノヒトニツゲマクハ》」卷十一「二三六五」に「内日左須宮道爾相之人妻※[女+后]《ウチヒサスミヤヂニアヒシヒトヅマユヱニ》」とある例などこれなり。この語の意は冠辭考に「麗しき日のさす宮と續けしなり。うつくしのつくし〔三字傍点〕を反せば、ち〔傍点〕となる故に、略きてうちといへり。記には朝日のたださす國、夕日の日照國なり云々。又卷向の日代宮は朝日の日照宮、夕日の日蔭る宮云々。この外にも日影を以て宮を褒めたる多(948)きを思ふべし」といへり。この日の射すといふことは異議あるまじけれど、「ウチ」は「うつくし」の約略といふことはうけられず。これより外諸家の説あれど、殆んど、皆所謂鑿説にてよしと思はるるはなし。代匠記には「宮殿の構高ければ、日さす宮と續けたるなり。仙覺抄の説さまざまにかけるが、誠の文字なるべし。それも刺すは射の字なるべきか。文選班孟堅が西都賦曰、上(ケ)2反宇《ソレルノキヲ》1以(テカ)蓋《・フケリ》戴(トツ)。※[しんにょう+激の旁]《ツイテ》2日景1而納v光と。これらの意なり」といへり。今按ずるにまことにこの説の如く宮殿の實景をいへるなるべし。文選の注に「激2日景1而納(トハ)v光言(ハ)宮殿(ノ)光輝外激(テ)2於日(ノ)1日景下照而反納2其光1也」といひ、又「濟曰、言(ハ)宮殿(ノ)光色與2日景1相激射而入2宮室1」とあり。ここに問題とする所は吾人の國語としての構成なり。先づ問ふべきは「ウチ日」の「射ス」といふ語かといふことなり。然るに、「ウチ日」といふ一語の在りきといふ證は一も存せざればこの考はすてざるべからず。次には日の「ウチサス」といふその「ウチサス」の中間に「日」の入りしものかといふことなり。されど、かかる構成法は國語に例なきことなり。然るときは殘る所たゞ一の場合、即ち「日刺ス」を一語として取扱ひ「ウチ」をこの上に冠したるものと見ざるべからず。語の構成はかくいふべきが、本來の意味は、日光が十分に射し入る如き高莊なる建築をほめたるものなるべし。それが、後にはただ「宮」といふ語の枕詞となりたるなるべし。
○京思美彌爾 「ミヤコシミミニ」とよむべし。これは「京」は上につきて「内日指京」とつゞき、「思美彌爾」はその京の繁昌をいへるなり。この語の例は卷十「二一八四」に「秋芽子者枝毛思美三二荷花開二家里《アキハギハエダモシミミニハナサキニケリ》」卷十一「二五二九」に「家人着路毛四美三荷雖(往)來《イヘビトハミチモシミミニカヨヘドモ》」卷十三「三三二四」に「大殿之砌志美彌雨露(949)負而靡芽子乎《オホトノノミギリシミミニツユオヒテナビケツハギヲ》」あり。ことに卷十三「三三二四」には「藤原王都志彌美爾人下滿雖有《フヂハラノミヤコシミミニヒトハシモミチテアレトモ》」とあるはここに特に參考とすべきものなり。この語の意は代匠記は「しけきなり」といひたり。この意は勿論あれど、委しからず。考には「繁々を略」といひ槻落葉に「繁繁爾《シミシミニ》也」といひたれど、これも徹底せず。古義は「繁森《シヽモリ》なり」といひたれど、これは全く從ふべからず。攷證は「思美彌は上【攷證一上廿九丁】にいへる如く、茂きをしみといへる、そのしみを繁々《シミ/\》と重ねたるにて、かく語を重ぬる時は下の語を一つ略く例なる事、あさなあさなをあさななといひ、とをとをといふをとををといひ、たわたわといふをたわわといふにてしるべし」といへり。この説をよしとす。先づ「シミ」といふ語は語源は未だ知られねど、卷一「五二」の「之美佐備立有《シミサビタテリ》」の「シミ」又卷十七「三九〇二」に「烏梅乃花美夜萬等之美爾安里登母也《ウメノハナミヤマトシミニアリトモヤ》云々」とある「シミニ」の「シミ」にして、繁の意のある副詞たる古語たり。それを二つ重ねいふ時「シミシミニ」となるべきをかゝる時に往々第二の語の首音を省きて連ぬるは古今に通ずる國語構成の方法なり。(小兒語の「あわわ」その他「とろろ」「つらら」「あいたた」「あつつ」などの今の俗語みなこの格なり)さて「シミ」は主として草木の繁茂せるを形容していふ語なるが、それになぞらへて、奈良の京の繁昌せる由をいへるなり。
○里家者 「サトイヘハ」とよむこと論なし。里は大寶令の制による時は、地方行政區劃の單位にして、五十戸を以て一里とするを原則とし、五十戸以下なるもまた一里として、里毎に長一人を置かれたるなり。京にては里といはずして坊といひ、四坊毎に令一人を置き、左京、右京各坊令十二人を置かれたれば、各四十八坊ありしこと當時の制なり。かく坊は京中の町をいふなれ(950)ど、字書に「言2人之所在之里1爲v坊」ともあれば、汎く里といふに不可なきなり。ここにいふ所は主として京の坊をいふに似たれど、もとよりしか限るべからず、京外の里どもをもさすなるべし。
○左波爾雖在 「サハニアレドモ」なり。この語は卷一「三六」の「國者思毛澤二雖有《クニハシモサハニアレトモ》」とあるにおなじ。さて上述の如くなれば、里の多くあることはいふまでもなく、里多ければ、家の數は更にその數十倍あるべきなれば、多きこといふをまたず。「大皇之」よりここまでは文脉旁系に屬す。
○何方爾 「イカサマニ」とよむ。この語のことは卷一「二九」の「何方御念食可《イカサマニオモホシメセカ》」の下にいへり。
○念鷄米鴨 「オモヒケメカモ」とよむ。「ケメ」は上に屡いでたる「ケム」の已然形にして、「カモ」は疑問の係助詞「カ」に「モ」の添はれるものにして、この已然形のまゝにて條件となりて、下につゞくべきを「カモ」の係助詞にてうけて下の陳述に關係を深くしたるものなり。かゝる例は卷四「六三三」に「幾許思異目鴨敷細之枕片去夢所見來之《イカバカリオモヒケメカモシキタヘノマクラカタサリイメニミエコシ》」といふあり。何樣に思ひけむによりてか然々のことをせしといふ意なり。
○都禮毛奈吉 「ツレモナキ」なり。この語の例は卷二「一六七」に「由縁母無眞弓乃崗《ツレモナキマユミノヲカ》」あり。その意はその下にいへる如く、關係も縁故も無きことをいふ。これは尼理願が本邦に來り、別に從來の縁故も無かりし大伴家をたよりとせしことをいへるなり。
○佐保乃山邊爾 「サホノヤマベニ」なり。槻落葉は「サホノヤマビニ」とよめれど、「ヤマビニ」といふは「ヤマ」のめぐりといふ如き意なれば舊訓をよしとす。左保は古の奈良京の東の郊外の地にして後世佐保村といふ。ここに左保山あり。大和志料に曰はく
(951) 垂仁天皇ノ皇后ヲ狹穗姫ト稱ス。其兄ニ狹穗彦アリ。狹穗ハ地名ニシテ即チ佐保ナリ。佐保山ハ今在家町及東坂ヨリ興福院ノ西邊ニ亘レル一帶ノ平地ヲ佐保ト汎稱シ、其村里ヲ佐保里トイヒ、其東方東大寺輾磑門ヨリ西眉間寺法華寺ニ達スル一條ノ道路ヲ佐保大路トイフ。即チ平城左京一條大路ナリ。
といへり。而して「明治二十一年法蓮、法花寺、半田開ノ三村ヲ佐保ト稱ス」といへり。これにて今佐保村といふは新しき名と知るべし。かくて和名鈔を見れば、大和國添上郡に山邊郷ありて大和志はこれを説明して
 山邊已廢存佐保法花寺二村
とあれば明治二十一年新定の佐保村の地即ち古の山邊郷の地なるべし。これは佐保山の邊といふことに基づくことなれど、一の地名として固定せしものの如し。然らば、この「山邊」も或はそれによりていへるか。但し、未だしか斷言しうべからず。さてこの邊の地平城京となりては、大官の殿邸を設けられしものと見え、藤原不比等をば佐保殿と號し、長屋王を佐保(ノ)左大臣と號せるが、大伴氏の邸もここにありしものと見たり。卷四、京職大夫藤原大夫贈大伴郎女歌に對して大伴郎女和歌の左注に「右郎女者任保大納言卿之女也。初嫁2一品穗積皇子1被v寵無v儔而皇子薨之後時藤原麻呂大夫娉之郎女焉。郎女家2於坂上里1仍族氏號曰2坂上郎女1也」とも見え、又同卷「六四九」の大伴坂上郎女歌一首の左注にも、「左坂上郎女者佐保大納言卿女也。駿河麻呂此高市大卿之孫也。兩卿兄弟之家、女孫姑姪之族、云々」とあり。佐保大納言卿とは、旅人の事を(952)いへるなり。卷八「一四四七」の大伴坂上郎女歌一首の左注には「右一首、天平四年三月一日佐保宅作」と記したれば、ここに大伴旅人の邸宅の在りしこと知られたり。
○哭兒成 「ナクコナス」とよむ。「シタフ」の枕詞なり。兒が泣きつゝ親を慕ふが如くにといふ意にいふ。卷五「七九四」に「泣子那須斯多比枳摩斯提《ナクコナスシタヒキマシテ》」とあり。
○慕來座而 「シタヒキマシテ」なり。語は上に例あり。意は明かなり。
○布細乃 「シキタヘノ」とよむ。「布細」を「しきたへ」とよむは卷十一「二五一五」に「布細布枕動夜不寐思人《シキタヘノマクラウゴキテヨルモネズオモフヒトニハ》云々」といふ「細布」は精細なる布の義にて「タヘ」にあてたるもの「布」は動詞としての「シキ」なり。「シキタヘ」の語は卷一「七二」の「敷妙」の下にいへる如く、夜の衣の義なるがここは「宅」につゞけたれば尋常の例にあらず。しかもこの反歌にも「敷細乃家」といへり。これは「シキタヘノ」は「枕」「床《トコ》」などの枕詞なるを、それを汎く夜床の意に擴張し更に夜寢ぬる意にせしならむ。
○宅乎毛造 「イヘヲモツクリ」とよむ。意明かなるが、これは理願が、大伴氏の佐保の宅のあたりにおのが住むべき家をも造り住みしをいふ。
○荒玉乃 「アラタマノ」とよむ。「年」の枕詞たること上「四四三」にいへり。
○年緒長久 「トシノヲナガク」とよむ。この語の例は頗る多し。卷四「五八七」に「荒珠年之緒長吾毛將思《アラタマノトシノヲナガクワレモシヌバム》」又卷十五「三七七五」に「安良多麻能等之能乎奈我久安波射禮杼《アラタマノトシノヲナガクアハザレド》」などその例なり。攷證に曰はく、「こは年のいくとせともなく續《ツヾ》く意にて、凡て物の續《ツヾ》きて絶ざるを袁といひて、(云々)魂の緒といふも、魂を放らさず、たもち續《つゞ》くるよしにていひ、氣《イキ》の緒といふも、氣を續《ツナ》ぐよしにしてい(953)へるなれば、この年の緒と同じ」といへり。その中略せる所は賛成しがたき所なるが、ここに引ける所はいはれたることにして年の緒の意これにて知るべし。
○住乍 「スマヒツヽ」とよむ。似たる語は、卷五「八八〇」に「比奈爾伊都等世周麻比都都《ヒナニイツトセスマヒツツ》」とあり。「スマフ」は「住ム」の繼續作用をいふ爲に波行四段活用に再び活用せしめたるものなり。この語格のこと上に屡いへり。
○座之物乎 「イマシシモノヲ」とよむ。意明かなり。
○生者 舊訓「イケルヒト」とよめり。攷證は「イケルモノ」とよみ、古義は「ウマルレバ」とよめり。これは上の「「三四九」の「生者遂毛死物爾有者《ウマルレバツヒニモシヌルモノニアレバ》」とあると同じ思想によりてのものにして「生の始」と「死の終」とを對していへるなれば、そこと同じく「ウマルレバ」とよむべきものなることそこにいへるに同じ。
○死云事爾 舊訓「シヌトイフコトニ」とよめり。考は「チフコトニ」とよみ、攷證は「トフコトニ」とよめり。いづれも例ある事なれど、舊訓を改むることの必要あるまじ。意明かなり。
○不免物爾之有者 舊訓「マヌカレヌモノニシアレバ」とよめるを槻落葉には「ノガロエヌ云々」とよめり。「免」字は類聚名義抄に「マヌカル」の訓あり、又天治本新撰字鏡の記入にも「マヌカル」の訓を附く。されば舊訓を改むるに及ぶまじきことなり。意は上にいへる如く、「生者必滅の理を免るること能はざるものなれば」といふこと勿論なるが、卷二「二一〇」の「世間乎背之不得者《ヨノナカヲソムキシエネバ》」といへると同じ思想をこれは委しく説明する形にせしものなり。
(954)○憑有之 「タノメリシ」とよむ。この語は卷二「二一〇」の「憑有之兒等爾者雖有《タノメリシコラニハアレド》」に照して知るべし。彼は妻を憑めりしこと、此は、理願が、大伴氏一家を憑みてありしなり。
○人之盡 「ヒトノコトゴト」とよむ。「盡」を「コトゴト」とよむことは卷一「二九」の「阿禮座師神之盡《アレマシシカミノコトゴト》」以下に例多く、意も亦これらによるべし。理願の憑みてありし大伴家の人盡くといふことなり。これは坂上郎女のみ留守して止まり、一家引き連れて有馬に赴きてありし間のことと見えたり。
○草枕 「クサマクラ」とよみ、旅の枕詞たること上に例多し。
○客有間爾 舊訓「タヒニアルマニ」とよめるを考は「タヒナルマニ」とよみ、槻落葉は「タヒナルハシニ」とよみ、略解「タヒナルホドニ」とよめたり。「客」を「タビ」とよむべきことは卷一に既にいへり。「間」は「ハシ」とはよまるれど「ホド」とよまむことは道理なし。又「ハシ」といふ語は俗にいふ「トタンニ」といふ如き語なれば、ここにあはず。「間」はすなほに「マ」とよむをよく當れりとす。然るときは考の如く特に字足らずによむべき必要なきによりて舊訓をよしとす。さてこは、末の詞又左注によるに有馬温泉に赴きありし間に尼理願が死去せしものと見えたり。
○佐保河乎 「サホガハヲ」とよむ。佐保川の事は卷一「七九」にいへるなるが、ここにいふ所は卷一「七九」にいふ所よりも上流にあたれる所につきていへるならむ。この河は佐保の内を流るゝなれど、そのうちにても南の方春日山の後より發源して北に流れ、かくて、西に向ひて春日の北域の山の裾をめぐりながるゝさまになれる川なれば、ここにいふ所を地點的に想像しうべし。
(955)○朝川渡 「アサカハワタリ」とよむ。「朝川渡」の語は卷二「一一六」に例ありてそこにいへり。即ち朝に川を渡ることを一の語の如くにしていへるなり。これよりはその死者を葬るわざをいへるならむ。
○春日野乎 「カスガヌヲ」とよむ。「春日野」は本卷「三七二」「四〇四」にいへり。ここは佐保より出で佐保川をわたりて春日野を通るよしにいへるなり。
○背向爾見乍 舊來「ソガヒニミツヽ」とよめるが別に異説なし。この語の例は本卷「三五八」に粟島矣背向爾見乍乏小舟《アハシマヲソガヒニミツツトモシキヲブネ》」とある下にいへる如く、背にしつゝ行くことを見つゝといへるは當時の言ひ慣はしなり。
○足氷木乃 「アシヒキノ」とよむ。この語の事は卷二「一〇七」の「足日木之」の下にいへり。「ヤマ」の枕詞なり。
○山邊乎指而 「ヤマベヲサシテ」とよむ。これは固有の地名にあらず。當時の葬地の山邊にありし故にそこを指して行きたるをいへることならむ。
○晩闇跡 舊訓「ユフヤミト」とよめるを玉の小琴には「クラヤミトかくりましぬれ、こは地下に葬る意もて云也」といひ、古義これをよしとせり。然るに、玉の小琴の説の本旨明瞭ならず、地下に葬る意もて云ふが故に「くらやみと」とよむべしとする意か。然れども、さる意にては何故に「くらやみと」といはざるべからざるか理由明かならず。地下に葬るは「かくる」といふ語にて十分なり。この語はこの「かくるゝ」ことを形容していふなれば、必ずくらやみといはざるべからざ(956)る理由なし。次に「くらやみ」といふ語は古義に引く如く平安朝には例少からねど、本集には確實にしかよむべき例なし。卷十「一九四八」に「木晩之暮閣有爾《コノクレノユフヤミナルニ》」をば古來「ユフヤミ」とよめるをも「クラヤミ」とよむべしといふ説もあれど、これも確かならず。「晩」も「暮」も「クラス」といふ動詞にはよめど、「クラシ」といふ形容詞にはよむこと例なし。「クラヤミ」の「クラ」は「クラシ」の語幹なれば、語義にあはず。「ユフヤミ」の例は卷四「七〇九」に「夕闇者路多豆多頭四《ユフヤミハミチタヅタヅシ》」卷十一「二六六六」に「夕闇之木葉隱有月待如《ユフヤミノコノハゴモレルツキマツゴトシ》」あり。「夕闇」は必ず「ユフヤミ」にして「クラヤミ」とはよむこと能はず。されば、「ユフヤミト」とよむべし。この「ト」は形容する意を示すものにして「ユフヤミノ如ク」の意なり。槻落葉に曰はく「夕ふ闇《ヤミ》のをぐらくものゝ見えわかぬがごとく山邊にかゝりましぬればといふ意」といへり。
○隱益去禮 舊訓「カクレマシヌレ」とよめるを、槻落葉に「カクリマシヌレ」とよめり。「カクル」は後世は下二段活用なれど、古は四段活用なりしこと卷二「九二」の「樹下隱」の下にいへり。されば槻落葉の訓によるべし。意は既にいへり。さてここは、已然形なるが、このまゝにて下につゞけて條件とせるものにして後世の語ならば、必ず、接續助詞「ば」を添へて示すべき所なり。
○將言爲便 「イハムスベ」なり。この語の例は卷二「二〇七」にありて、全く同じ。
○將爲須敝 「セムスベ」なり。文字は稍違へどこの語も卷二「二〇七」に「世武爲便」とありて、今特に説明するまでもなし。
○不知爾 「シラニ」なり。「不知」にても「シラニ」といふ語に相當すべけれど、それは「シラズ」ともよみ(957)うべきが故に下に「爾」を加へて、「シラニ」といふ語を確實にしたるものなり。この語の例は卷二「二一〇」の「世武爲便不知爾」あり。「シラニ」は「シラズ」の連用形に同じく、打消して「シラズシテ」の如き意にて下につゞく時にいふなり。
○徘徊 舊訓「タチトマリ」とよめり。この文字は古寫本の多く「俳※[人偏+回]」とせり。されど、行人偏なるをよしとす。よみ方は萬葉考に「タモトホリ」とし、爾來みなしかよめり。「徘徊」は「たちとまる」の意ととりては意十分ならず。「タモトホリ」の語は上「四五八」の「若子乃匍匐多毛登保理朝夕哭耳曾吾泣君無二四天《ミドリコノハヒタモトホリアサヨヒニネノミゾワガナクキミナシニシテ》」の條にいへり。この語は「モトホル」に接頭辭「タ」を添へたるものにして「モトホル」は卷二「一九九」に「鶉成伊波比廻《ウヅラナスイハヒモトホリ》」とあると、この卷「二三九」の「鶉成伊波比毛等保理《ウヅラナスイハヒモトホリ》」とあると同じきが如く、その邊を徘徊する意なればこのよみ方は當れりとす。攷證に曰はく「たもとほりのたは發語、もとほりは立めぐりさまよふ意にて、せんすべなき時のわざなる事上(【攷證此卷四十一丁】)にいへり。」と。
○直獨而 「タダヒトリシテ」とよむ。槻落葉は獨の下に居を加へて「ヒトリヰテ」とよむべしとせり。されどさる本一もなきのみならず、卷二十「四四〇八」に「可胡自母乃多太比等里之※[氏/一]《カコジモノタダヒトリシテ》」といへる例あり。又「獨而」を「ヒトリシテ」とよむ例は上の「四四九」の「獨而見者涕具未之毛《ヒトリシテミレバナミダグマシモ》」の下にいへり。されば、このまゝにて意十分にとほれるなり。即ち、尼理願の死にあひて、坂上郎女一人して、その所置をなすべく心を勞せし由なり。
○白細之 「シロタヘノ」とよむ。「細」を「たへ」とよむこと、上の「布細乃」の「細」におなし。「白たへ」の義は(958)卷一「二八」の「白妙」の下にいへる如く白き布なるが、ここは素服の意もこめてあるなるべし。素服は喪事に關する時に用ゐる白色の衣服なり。
○衣袖不干 「コロモデホサズ」とよむべし。「袖」は通常「ソデ」とよめど、それは「衣手《ソデ》」なれば「衣袖」二字にて「コロモデ」とよまむこと不理にあらず。「コロモデ」の語は卷一より屡いでたれば今いふまでもなし。槻落葉は「コロモソテヒズ」とよみたれど、あまりに理窟にとらはれて、趣味なきよみ方なり。わが乾さむと欲すれども衣の袖の乾く時無しといへるにて悲涙のひまなきをいへるものなり。
○嘆乍 「ナゲキツヽ」なり。「乍」を「ツヽ」とよむこと、卷一「二五」の「思乍叙來《オモヒツツゾコシ》」の下にいへり。意は明かなり。
○吾泣涙 「ワガナクナミダ」なり。これは下の「雨爾零寸八《アメニフリキヤ》」に對しての主格に立てり。
○有間山 「アリマヤマ」なり。卷七「一一四〇」の「志長鳥居名野乎來者有間山夕霧立宿者無爲《シナガドリヰナヌヲクレバアリマヤマユフギリタチヌヤドハナクシテ》」とあると同じ山にして、有間温泉の邊の山をさすなり。攝津志に、有馬郡有馬山有2湯山町上方1、即爲2武庫山西面1、又名2鹽原山1、山間有2鹽湯1因以爲v名。又有2落葉山、愛宕山、躑躅山等名1」とあり。この山をさせり。「有間山ニ」の意なり。
○雲居輕引 古來「クモヰタナビキ」とよめり。「輕引」を「タナビク」の語にあてたるは卷四「七八九」に「春霞輕引時二事之通者《ハルガスミタナビクトキニコトノカヨヘバ》」卷六「一〇〇五」に「芳野宮者山高雲曾輕引《ヨシヌノミヤハヤマタカミクモゾタナビク》」卷七「一一八一」に「朝霞不止輕引龍田山《アサガスミヤマズタナビクタツタヤマ》」「一二四六」に「燒鹽煙風乎疾立者不上山爾輕引《シホヤクケブリカゼヲイタミタチハノボラズヤマニタナビク》」卷八「一四六四」に「春霞輕引山乃《ハルガスミタナビクヤマノ》」卷十「一八四(959)四」に「滓鹿能山爾霞輕引《カスガノヤマニカスミタナビク》」とあるは皆しか讀まずばあらじ。この「輕引」といふ字面は恐らくは本邦にての用字と見ゆるが、かの日本書紀のはじめの文の
 其清陽者薄靡而爲天
とある「薄靡」の字面を聯想せしむるものあり。輕と薄とは相熟して、輕薄といふ語をなし、今は道徳上の惡しき意にのみとらるれど、元來物質の密ならず、輕きをいふ語なれば、それが虚空に浮べる意を明かにするに用ゐたるなるべく、靡は國語に「なびく」といふ如く曳きひろがる意あり。されば、漢語の薄靡を國語體に書くときは輕引とかきても意あらはるること明かなり。「雲居」は雲の居る所即ち空をいふこともあれど、ここはたゞ雲をいへるなり。その例は上「三七二」の「雲居多奈引《クモヰタナビキ》」の下にいへり。
○雨爾零寸八 「アメニフリキヤ」とよむ。「零」を「フリ」とよむことは卷一「二五」の「雨者零計類《アメハフリケル》」の下に、「寸」を「キ」とよむことは卷一「五」の「鶴寸乎白土」の下にいへり。「雨ニフリキヤ」は「雨となりて降りきや」といふなり。この語はわがこの佐保にて泣く涙のそなたの有馬山にかよひて雲となりてたなびき雨となりてふりきや如何といふにて、このわが悲涙はそなたにも感じたまはむといふ意を含めたり。かゝるいひ方なる例は、古事記上卷八千矛神の御歌に「那賀那加佐麻久阿佐阿米能佐疑理邇多多牟叙《ナガナカサマクアサアメノサギリニタタムゾ》」とあり。
○一首の意 この理願尼は新羅國より人の物語にてこの國をよき國と聞きたまひて、うれしき事も憂き事も共に語ひて心を遣るといふ親しき人々親族も兄弟も無きこの國に渡り來たま(960)ひて、わが天皇陛下の知りたまふ國には京都はいとも繁昌し、里も家も多く在れども、その多くの里家のうちにて、何と思ひ給ひてか何の縁故も無き、佐保の山邊のこの大伴氏の家に慕ひ來たまひて、その邊に家をも造りて、年永く住まひつゝゐたまひしものを、生れたる者は死ぬといふ事世の道理に免れぬ物にて有れば、その理願尼が憑みて在りしわが母人その他盡くの人が旅に出でたる間に、慮らずも死にて朝佐保川を渡りて、春日野を背にしつゝ、山の方を指して行きて、隱れたまひぬ。(即ち山に葬りたるをいふ)かく山に隱れてみえずなりたれば、言はむとすれど、言はむ爲便なく、如何にか爲むとすれど、爲むすべもなく、われ一人、彼方此方とたゞうろうろとして衣の袖の乾く間も無く嘆きつゝわが泣く涙はそなたの有馬山にかよひて雲とたなびき雨となりて降りたらむと思ふ。果して降りたりしか。如何に見たまひしかとなり。
 
反歌
 
461 留不得《トヾメエヌ》、壽爾之在者《イノチニシアレバ》、敷細乃《シキタヘノ》、家從者出而《イヘユハイデテ》、雲隱去寸《クモガクリニキ》。
 
○留不得 舊訓「トヾメエヌ」とよめるを槻落葉に「ツマリエヌ」ともよめり。留を「ツマリ」といふは祝詞の「神留」より考へたることならむが、ここは人の命は人の力にて止めむと欲してもとゞめ得ぬの意なれば、舊訓の方よきなり。
○壽爾之在者 「イノチニシアレバ」とよむ。壽を「イノチ」とよむことは卷二「一四七」に例あり。意は上にもいへる如く人の壽命は人の力にて左右し得ぬものなればといふなり。
(961)○敷細乃 「シキタヘノ」長歌にいへるにおなじ。
○家從者出而 舊訓「イヘヲハイデテ」とよみたれば、「從」を「ヲ」とよむは當らず、考に「イヘユハ」とよめるをよしとす。意明かなり。「ユ」は「ヨリ」の古語にしてここの「ユハ」の「ハ」は意輕くして、意を強むる用をなすものと思はる。
○雲隱去寸 舊訓「クモガクレニキ」とよみたれど、槻落葉に「クモガクリニキ」とよめるに從ふべし。「雲隱」は上の「四一六」の「雲隱去牟《クモガクリナム》」の下にいへる如く、死去せしをいへるなり。
○一首の意 明かなり。命といふものは人の力にてとゞめ得ぬものなれば家より出でて雲隱れたるよとなり。
 
右新羅國尼名曰2哩願1也。遠感2王徳1歸2化聖朝1。於v時、寄2住大納言大將軍大伴卿家1、既逕2數紀1焉。惟以2天平七年乙亥1忽沈2運病1、既趣2黄泉1。於是大家石川命婦依2餌藥事1往2有間温泉1而不v會2此哀1。但郎女獨留葬2送屍柩1既訖。仍作2此歌1贈2入温泉1。
 
○右新羅國尼名曰理願也 「名」の字流布本に脱す。古版本、古寫本、皆あり。なくしては意十分ならず。よりて訂しつ。新羅國への往來の事は上にもいひたり。理願尼の事はこの外に所見なし。
(962)○遠感王徳 理願が遠く新羅にありてわが天皇の聖徳に感じ奉れりといふこと。
○歸化聖朝 「歸化」は徳化に歸服する義にして、外國の臣民のわが國に來りて臣民となること。唐書百官志に「職方郎中員外郎各一人掌2地圖城隍及四夷歸化之事1」とあり。ここはわが聖朝に理願が歸化したるをいふ。
○於時 その歸化したる時になり。
○寄住 「寄」は人をたよりて身を寄することなり。大伴氏の家にたよりて住するなり。
○大納言大將軍大伴卿家 大納言大將軍大伴卿とは大伴安麿なり。安麿は文武天皇の慶雲二年に大納言に任ぜられたれど、大將軍に任ぜられし年月明かならず。或は和銅二年十二月大將軍下毛野朝臣古麿卒の後に任ぜられしにあらざるか。續紀には「和銅七年五月丁亥朔、大納言兼大將軍正三位大伴宿禰安麻呂薨。云々」とあり。
○既逕數紀焉 「逕」の字は上「三一五」の詞書にも見えてそこに論ぜる如く、「經」字と同じ樣に用ゐたれば、そこに準じて、數紀を經たりとよむべきならむ。紀は年をかぞふる意ありて、その時は十二年を一紀とするなり。書經畢命に「既歴三紀」とあり、傳に「十二年四紀」とあるこれなり。これによるときは理願の歸化してよりは三四十年は經過せしものといはざるべからず。天平七年より和銅七年の安麿卿薨去の年まで溯れば、二十一年なり。又天平七年より三十年遡れば、慶雲二年の大伴安麿の大納言に任ぜられし年なり。恐らくは當時安麿太宰帥を兼任せしかば、それらの縁故によりて先づ理願が觸接して親しくなりて終生を托するにも至りしならむ。
(963)○惟以天平七年乙亥 「惟」は文の端を改め起す辭なり。
○忽沈運病 運病といふ熟字は未だ出典を知らず、然れども運は天命をさすことなれば、天命のつくべき所の病をさせるものか。
○既趣泉界 泉界は黄泉の界の義なり。即ち病死したる由をいへるなり。
○於是 「コヽニ」になり。その時に當りてといふ程のところなり。
○大家 「タイコ」とよむ例なり。これは大姑といふにおなじく、古、支那にて婦人の尊稱とせしなり。班昭即ち後漢の曹世叔の妻たりしを時の天子をはじめ曹大家と稱せしことあり。後漢書列女傳なる曹大家の傳に「帝數《(和帝)》召2入宮1令2皇后貴人師事1焉。號2大家1。毎v有v貢2獻異物1輙詔2大家1作2賦頌1」とあり。卷四「五一八」の歌の詞書に「石川郎女歌一首」とある下に古寫本のすべてに「佐保大伴大家也」と注せるもこの意なり。
○石川命婦 「命婦」はもと支那にて女官の名目にして、釋名に「大夫妃曰2命婦1」といひ、禮記祭義に「卿大夫相v君、命婦相2夫人1」とあり。儀禮の注に「命者加爵服之名」といへり。わが國の制は令義解中務省に内外命婦の名ありて、その義解に
 謂婦人帶2五位以上1曰2内命婦1也。五位以上妻曰2外命婦1也。
とあり。この石川命婦はいづれなりしか。卷二十に
 冬日幸2于靱負御井1之時内命婦石川朝臣應v詔賦v雪歌一首諱曰邑婆(四四三九)
とありてその左注に、
(964) 于時水主内親王寢膳不v安累日不v參因以2此日1太上天皇勅2侍嬬等1曰爲v遺2水主内親王1賦v雪作歌奉獻者。於v是諸命婦等不v堪v作v歌而此石川命婦獨作2此歌1奏之。
とありて、その次に
 右件四首上總國大椽正六位上大原眞人今城傳誦云爾。
とあり。大原眞人今城は續紀によるに天平寶字元年五月に正六位上より從五位下を授けられ、その六月に治部少輔となりたれば、この歌を傳唱せしは、天平勝寶八年以前にして、その頃に既にこれが傳説として存せしものなり。又水主内親王の薨去は續紀によるに、天平九年八月なり。然るに上の歌は冬日の事にして雪を賦する歌なればこの薨去の際にあらざることは明かなり。さて又、これを家持が採録せし時を天平勝寶八年と假に考ふるときに、太上天皇と申し上げ奉るは元正天皇にましませど、卷二十の彼の四首の第二首には「先太上天皇御製霍公鳥歌一首」とあり、次に「薩妙觀應詔奉和歌一首」とあれば、この太上天皇は元明天皇なるべく思はる。元明天皇御在位の時か御讓位の後か明かならねど、この天皇は靈龜元年に御讓位ありて、養老五年崩御なれば、御讓位以後靈龜元年より養老四年までの間の事かと考へらる。而して水主内親王は天智天皇の皇女にして元明天皇の御妹なりと考へらるれば、かた/”\由ありと思はる。かくてそれと共に考へらるゝ薩妙觀は聖武天皇神龜元年五月に姓を河上忌寸と賜はりしが故に、この傳が同時のものならば、神龜元年四月以前の事たるべきこと勿論なり。かくて考ふるにこの内命婦石川朝臣即ちここにいふ大家石川命婦なるべし。さて又卷四「六六(965)五」の安倍朝臣家麿歌一首「六六六」「六六七」の大伴坂上郎女歌二首の次の左注に
 右大伴坂上郎女之母石川内命婦與安倍朝臣蟲滿之母安曇外命婦同居姉妹同氣之親焉云々
とあれば、この坂上郎女の母即ち、石川内命婦なること著しく隨ひて坂上郎女がその母たる石川内命婦を尊びて大家とはいひしならむ。さてこの石川内命婦は出でて大伴安麿の妻となりて坂上郎女をうみ、安麿薨後も生存せしこと知られたり。而してこの天平七年には大伴家にては安麿の後の當主旅人も亦薨じて家持は幼年といふべきことなりしかば、坂上郎女は家事の上に大きなる責任を負ひてありしならむ。さてこの石川内命婦はその姓名は石川朝臣|邑婆《オフハ》といふ人なりしこと上にあげたる通なれど、その父祖は明かならず。石川朝臣は新撰姓氏録によるに、「孝元天皇皇子彦太忍信命之後也」とありてもと蘇我より分れし家にして當時にありても榮えし名族なり。
○依餌藥事 「餌藥」は攷證に「唐書成※[言+内]傳に晩好術士餌藥、瀕死而蘇云々。顔氏家訓(養生篇)に凡欲2餌藥1「陶隱居、太清方中總録甚備。但須2精審1不v可2輕(脱)1云々など見えたり。ここは病を療せんが爲にといふ意也」とあり。
○往2有間温泉1而 有間温泉は今もある攝津國湯山の温泉なり。この温泉は古より名高く日本紀舒明天皇三年九月に行幸あり、孝徳天皇三年十月にも行幸あり、その後も史乘に著しく、一々あげがたし。
○不v會2此哀1 この悲哀事にあはずとなり。
(966)○但郎女獨留 意明かなり。
○葬送屍|柩〔左○〕既訖 「柩」字流布本「枢」の如く作れど、誤なること著し。意明かなり。
○仍作2此歌1贈2入温泉1 其の母の許に贈らんとて温泉に送れる由をいへるなり。
 
十一年己卯夏六月大伴宿禰家持悲2傷亡妾1作歌一首
 
○十一年己卯 天平十二年なり。己卯はこの年の干支なり。
○大作宿禰家持 この人の名、集中に多きが、ここにはじめて見ゆるなり。家持は旅人の子にして、公卿補任によるに、寶龜十年の條に五十二歳とあり、天平元年生とあればこの年十一歳なり。されど、これは誤にしてそれより前の誕生ならむ。その故を少しくいはむ。この人の歌の年紀あるものは卷八秋雜歌中の四首にしてその左注に天平八年丙子秋九月作と見えたるを最も古しとす。さて又卷十七に載する天平十三年四月三日のこの人の詠には
 右内舍人大伴宿禰家持從久邇京報送弟書持
と記し、又この卷にも
 天平十六年甲申春二月安積皇子薨之時内舍人大伴宿禰家持作歌六首
と見えたり。さて續紀又公卿補任によるに、天平十七年正月に從五位下を授けられたれば、この頃には正しき官につけるならむ。さて内舍人は軍防令に
 凡五位以上子孫年廿一以上(ニシテ)見(ニ)無2役任1者毎年京國官司勘檢知v實、限2十二月一日1并《サヘニ》v身送2式部1、(967)申2太政官1檢2簡性識聰敏儀容可1v取充2内舎人1三位以上子不v在2簡限1云々
とあり。家持は父旅人は從二位大納言たりしが故に、身分上當然内舍人となり得たるものと思はるれど、その年齡は規程によりて二十一歳よりなりしならむ。かくて天平十三年を假りに初任の年とし、年齡も廿一歳になると同時に任ぜられしものと見ても、養老五年の誕生にして天平十一年には十九歳なり。恐らくはそれより年齡は若かるべからざる筈なり。續群書類從に收めたる大伴系圖には延暦四年薨ぜし時六十八歳とせり。それによれば、養老二年の出生にしてこの時には廿二歳なり。
○悲傷亡妾作歌 古義には「ミマカレルメヲカナシミヨメルウタ」とよめり。妾は元來僕妾の妾にして、女の召使をいふものなるが、又小妻側堂のことをもいへり。大寶令の規定によれば、妾は公に認められたるものにして戸籍にも登録せられたるものなり。これを國語にて如何によむべきか。倭名類聚鈔には「妾」に注して「和名乎無奈女」とあり。されどこれは古語とは思はれず。古義に「メ」とよめるは妻をも「メ」とよめば妻妾の區別なきこととなるべし。この頃には妻と妾との區別は明かにありしなるべきなるが、「妻」は「齊」の義にしてこれを「ツマ」とよむとき、それ以外即ち「妾」を汎く「め」とよむこととせしものならむも知られず。かゝれば、今姑く、古義によりてよみおけり。
 
462 從今者《イマヨリハ》、秋風寒《アキカゼサムク》、將吹烏《フキナムヲ》、如何獨《イカニカヒトリ》、長夜乎將宿《ナガキヨヲネム》。
 
(968)○從今者 古來「イマヨリハ」とよみて異論なし。意明かなり。ここに「今」といへるは亡妻の逝ける六月をさす。さて六月は夏の末なればこれより後間もなく秋となるべし。その死去が六月末なるときは、直ちに初秋となるべき筈なり。
○秋風寒 古來「アキカゼサムク」とよみて異論なし。意明かなり。「秋風寒く」といへるは主觀的に淋しさを感ずる意を寓していへることも論なし。
○將吹烏 古來「フキナムヲ」とよみて異議なし。但しこの「烏」字は西本願寺本、京都大學本「〓」とし、神田本、細井本等には「焉」としたり。槻落葉は「烏」を「焉」の誤とし、攷證は「焉」を否なりとして「烏」を正しとせり。然るに、本集にありては「烏」「焉」の字形の差別頗る困難にして、ことに「〓」の形なるものは「烏」の別體とも考へられ、又「焉」の別體とも考へらる。かく「烏」とせば、「ヲ」の音に用ゐたりと見るべく、「焉」とせば、義字と見るべきことなり。かくて「焉」を義字として「ヲ」にあてたる例は、卷二「一九六」に「吾王乃形見何此焉《ワガオホキミノカタミニココヲ》」卷九「一八〇四」に「心所燎管悲悽別焉《ココロモエツヅナゲクワカレヲ》」あり。「烏」を音字として「ヲ」にあてたる例はこの卷「三〇二」「兒等之家差間遠烏《コラガイヘヤヽマドホキヲ》」あり。かくて二者共に例あることなれば、今遽かに一方に定め難し。この故に今は流布本のままにさしおきつ。「將」は「ム」にも「ケム」にも「ラム」にも「ナム」にもよみうべき字にして童蒙抄には「ラム」とよみたれど、ここは將に到らむとするを推定せるなれば、「ナム」とよめるをよしとす。その意は「吹きなむものを」といふなり。
○如何 舊訓「イカテカ」とよめりしを童蒙抄に「イカニカ」と改めよめるをよしとす。この事は既に卷二「一〇六」の「如何君之獨越武《イカニカキミガヒトリコユラム》」の下にいへるが如し。
(969)○獨 「ヒトリ」とよむこと論なし。妾を失ひて、只獨り空閨に寢ぬるをいへるなり。
○長夜乎將宿 古來「ナガキヨヲネム」とよめり。「を」といふ助詞は作用の時間的經過をなす際の目標を示すなり。
○一首の意 明かなり。今よりは秋風の膚寒く吹くならむに、如何にしてわれ獨してその長き秋の夜を寢ねむかとなり。さらでだに秋は夜長く思はるゝ時なるに、淋しく、膚寒き秋風の夜を獨りいぬること堪へがたきをうたへり。言平易にして感慨溢れたる歌にしてよき歌なり。
 
弟大伴書持即和歌一首
 
○弟大伴書持 大伴書持は家持の弟なり。委しき傳は知られず。この人の歌、集中に少からず。その兄家持と贈答せしうた卷十七に見ゆ。而して卷十七には家持のこの人の長逝を哀傷せし長歌并短歌あり。その左注によれば天平十八年秋九月廿五日に任國越中に在りて遙かにその喪を聞きしなり。
○即和歌 「スナハチコタフルウタ」とよむべきが、その意は即時に和したる歌の意なり。
 
463 長夜乎《ナガキヨヲ》、獨哉將宿跡《ヒトリヤネムト》、君之云者《キミガイヘバ》、過去人之《スギニシヒトノ》、所念久爾《オモホユラクニ》。
 
○長夜乎 「ナガキヨヲ」なり。上の家持の歌をうけていへるなり。
○獨哉將宿跡 「ヒトリヤネムト」とよむ。「哉」を「ヤ」とよむことは卷一以來例多きが、かく係の「ヤ」に(970)用ゐたる例は卷二「一一二」の「盖我鳴之」に之を見る。「ヒトリヤネム」とは獨り寐ねうべけむやといふ程の意なり。
○君之云者 「キミガイヘバ」とよむ。意明かなり。
○過去人之 「スギニシヒトノ」とよみて古來異論なし。「スギニシヒト」は死去せし人にして上にいへる家持の妾をさす。この語は卷一「四七」に既にいへり。
○所念久爾 古來「オモホユラクニ」とよめるを童蒙抄に「シノバルラクニ」とよめり。されど、「念」を「シノブ」とよむこと例なし。「所念」を「オモホユ」とよめる例は卷一の「七」の「借五百磯祈念《カリイホシオモホユ》」をはじめ屡見えたり。されば舊訓を改むるに及ばざるなり。「オモホユラクニ」は念はるることなるにといふことにて亡き人の事の思ひ出でらるるものをといふに近し。
○一首の意 明かなり。君が、秋の寒き長き夜を獨り寐ぬることならむかと仰せらるれば、我も亦その亡き人の事のおもひ出でられて、悲しさに堪へがたきものを、その夫たる君が悲しく思はるゝことは最ものことよとなり。
 
又家持見2砌上(ノ)瞿麥花1作歌一首
 
○又 これは上の「悲傷亡妾作歌」のつづきにてこの歌もその亡妾を悲傷して作れる歌なるが故に「又」といへるなり。
○砌上 砌は漢字の義は「階甃也」とありて地に敷く石疊のことなり。和名類聚鈔居宅具に、「考聲(971)切韻云※[土+皆]土※[手偏+皆]也、一名階、古諧切、俗爲2※[土+皆]字1和名、波之、一訓之奈登v堂級道也。級階級也。又次第也。兼名苑云、砌千計切、訓美岐利階砌也」と見えたり。この「みぎり」とは松の落葉に云はく「みぎりといふを近世の歌よみは庭のことのやうにこゝろえて歌によめるあり、ひがごとなり。これはのきのしたにかざれり。西宮記に至2仁壽殿西砌下1拜舞以v雨不v立2庭中1とあるを見るべし」といへり。砌を階甃といへるはこの心なり。本集には卷十三「三三三四」に「大殿之砌志美彌爾露負而靡芽子乎《オホトノノミギリシミミニツユオヒテナビケルハギヲ》云々」とあり。「上」は攷證に曰はく、「上はほとりといふ意にて河の上《ヘ》井の上《ヘ》などの上と同じ」といへり。庭前の砌のほとりに植ゑてありしなり。
○瞿麥花 「瞿麥」は本草和名は「和名奈天之古」とあり。これは今もある花草なり。
 
464 秋去者《アキサラバ》、見乍思跡《ミツツシヌベト》、妹之殖之《イモガウヱシ》、屋前之石竹《ヤドノナデシコ》、開家流香聞《サキニケルカモ》。
 
○秋去者 古來「アキサラバ」とよみ來れり。ここは、亡妾のかねていひしことをいへるなれば「さらば」とあるべき所なり。この語の例は卷一「八四」にあり。
○見乍思跡 舊訓「ミツヽオモヘト」とよみたるを童蒙抄に「ミツヽシノベト」とよみ、考は「ミツヽシヌベト」とよみ、槻落葉は「思」を「偲」の誤として「ミツヽシヌベト」とよめり。されど「偲」とかける本もなければ、誤字説は隨ひがたし。按ずるに「思」は「オモフ」とも「シヌブ」ともよむべくして「シヌブ」とよめる例は卷二「一九六」の「思將往《シヌビユカム》」以下例少しとせず。而して「シノブ」「シヌブ」同じ語なれども、「シヌブ」の方古く、その例は卷一「二六」の「取而曾思奴布《トリテゾシヌブ》」卷二「一三一」の「志怒布良武《シヌブラム》」「二三三」の「見管思奴(972)幡武《ミツツシヌハム》」等少からず。「シヌブ」の義は既にいへり。ここは「オモフ」といふよりも「シヌブ」といふ方適切なり。ここに似たる語遣は卷七「一二四八」に「吾妹子見偲奧藻花開在我告與《ワギモコトミツヽシヌバムオキツモノハナサキタラバワレニツゲコセ》」卷十九「四一八七」に「安里我欲比見都追思努波米《アリガヨヒミツツシヌバメ》」卷二十「四三一四」に「佐加牟波奈乎之見都追思努波奈《サカムハナヲシミツツシヌバナ》」などあり。この「しぬぶ」は卷一「一六」の「黄葉乎婆取而曾思奴布《モミヂヲバトリテゾシヌブ》」の場合におなじく、過ぎにし方を慕ふ意にあらずして、眼前の事を心の底より出で愛で思ふ意なるべし。
○妹之殖之 「イモガウヱシ」なり。「殖」を「ウヱ」とよむことは上の「四一〇」にいへり。その亡妾が好んで殖ゑ置きしといふ意なり。
○屋前之 「ヤドノ」とよむことも、上の「四一〇」の「橘乎屋前爾殖生《タチバナヲヤドニウヱオホシ》云々」の下にいへるにおなじ。
○石竹 古來の訓「ナデシコ」なり。「石竹」は元來舶來の種にして「カラナデシコ」といひ、今は專ら音にてよべるが、これは夏さくものにして秋の花の「なでしこ」とは別なり。「石竹」は上の「四〇八」にもあり。
○開家流香聞 古來「サキニケルカモ」とよみて異論なし。意明かなり。
○一首の意 秋にならば、見て愛賞せよといひて女が植ゑおきし庭前の撫子の花は開きたりけることよ。これを見るにつけてその植ゑけむ人を思ひ、これを愛賞するにつけて、その植ゑけむ人を思慕することよとなり。これも語あらはにして、しかも感慨あるよき歌なり。
 
(973)移v朔而後悲2嘆秋風1家持作歌一首
 
○移朔 朔を移すとは月の改まることにして月をこゆるをいふ。文選王儉の※[衣+者]淵碑に「泰初之初、入爲2侍中1。曾不v移v朔遷2吏部尚書1云々」とあり。ここは前に六月とあれは朔を移すは秋七月に入ることなり。童蒙抄に之を「ヒカズウツリテ」とよめり。かくよめる意は諒とすべきなれど、かくよみても朔(月の名)のかはる意は明確ならず。強ひて、國語にてよまむとならば「ツキウツリテ」ともよむべきか。
○悲嘆秋風 秋風に悲嘆することなり。秋風を悲嘆してとよむは古の語遣にあらず。秋風によりて悲嘆するなり。これ亦、亡妾を秋風の物悲しさに思ひ出でよめる歌なり。情緒纒綿のさま、まことに同情に堪へざるものあり。
 
465 虚蝉之《ウツセミノ》、代者無常跡《ヨハツネナシト》、知物乎《シルモノヲ》、秋風寒《アキカゼサムミ》、思努妣都流可聞《シヌビツルカモ》。
 
○虚蝉之 「ウツセミノ」とよむ。この文字と語とは卷一「一三」に見えたり。之を「代」の枕詞とする説は普通なれど、ここには萬葉考にいへる如く現《ウツ》し身の意明かに存するものなれば、單なる枕詞にはあらざるなり。
○代者無常跡 古來「ヨハツネナシト」とよみ來れるによるべし。「代」は人の代なり。「代」は人にとりて人の生れてより死に至るまでをいふなれど、ここは佛教にいふ所の「世間無常」(たとへば大(974)智度論に「咄世間無常、如2水月芭蕉1」とあり)の意をかくいへるものなり。
○知物乎 古來「シルモノヲ」とよみ來れるを槻落葉に「乎」は「活本、古本ともに物者とあり。さてはしれるものとよむべし。昔者をむかし、今者をいまとよむと同例なり」といへり。かく「者」字をかけるは神田本、細井本、活字無訓本なれど、「物者」二字を「モノ」とよむべき理由なし。「昔者」「今者」は元來、支那にて熟字として「むかし」「いま」の義をあらはせるものなれば、ここの例にはならず。されば、文字は「乎」を正しとし、よみ方も舊訓をよしとす。「現身の世は無常なりとかねて知るものなるを」の意なり。
○秋風寒 舊訓「アキカゼサムシ」とよみたるが、類聚古集、古葉類聚鈔、西本願寺本に「サムミ」とよめり。注釋書にては拾穗抄「サムミ」とよみ、考、槻の落葉、略解、攷證これに隨ひ、代匠記、童蒙抄、古義は「サムシ」とよめり。いづれにても大差なきが如くなれど、ここは主觀のまさる方意味深かるべければ、「サムミ」とよむ方よからむ。卷十七「三九五三」に「秋風左無美曾乃可波能倍爾《アキカゼサムミソノカハノヘニ》」卷七「一一九八」に「曉去者濱風寒彌自妻喚毛《アケユケバハマカゼサムミオノヅマヨブモ》」卷十「二一六五」に「暮去者衣手寒三妻將枕跡香《ユフサレバコロモデサムミツママカムトカ》」などの例に照して「サムミ」とよむ場合をさとるべし。秋風の寒きによりて又は秋風の寒く感ずる故になどの心あるなり。
○思努妣都流可聞 舊訓「シノビツルカモ」とよみたれど、「努」は「ヌ」なれば「シヌビツルカモ」とよむべし。さてここには「シヌブ」その對者をいはず。されど、前々よりのつゞきにより亡き人を慕へることは著し。
(975)○一首の意 現身をもてる人の代は無常なるものなりといふ道理はかねてよく/\知れるものなるを、秋風の寒きに、なほ悲しさの催されて、故人の戀ひしくしたはるることかなとなり。
 
又家持歌一首并短歌
 
○これも亡妻を思へる歌にして長歌一首反歌三首なり。
 
466 吾屋前爾《ワガヤドニ》、花曾咲有《ハナゾサキタル》、其乎見杼《ソヲミレド》、情毛不行《ココロモユカズ》。愛八師《ハシキヤシ》、妹之有世婆《イモガアリセバ》、水鴨成《ミカモナス》、二人雙居《フタリナラビヰ》、手折而毛《タヲリテモ》、令見麻思物乎《ミセマシモノヲ》。打蝉乃《ウツセミノ》、借〔左○〕有身在者《カレルミナレバ》、露霜〔二字左○〕乃《ツユジモノ》、消去之如久《ケヌルガゴトク》、足日木乃《アシヒキノ》、山道乎指而《ヤマヂヲサシテ》、入日成《イリヒナス》、隱去可婆《カクリニシカバ》、曾許念爾《ソコモフニ》、※[匈/月]己所痛《ムネコソイタキ》、言毛不得《イヒモエズ》、名付毛不知《ナヅケモシラニ》、跡無《アトモナキ》、世間爾有者《ヨノナカニアレバ》、將爲須辨毛奈思《セムスベモナシ》。
 
○吾屋前爾 「ワガヤドニ」とよむ。「屋前」の義及びそを「ヤド」とよむことは上(四一〇)にいへり。
○花曾咲有 「ハナゾサキタル」とよむこと論なし。「咲」は元來「笑」の俗字にして「ワラフ」「ヱム」とよむを本義とする文字なるに、わが國にては主として花のさくにあてたり。これはもと詩に「花笑」(「花笑鶯歌詠」「沈※[修の彡なし]之」「花笑鶯歌迎帝輦」、)など慣用せしより起りしものならむが、その源は恐らくは支那にあるべし。さて本書にこれを「サク」にあてたるは卷二「一二〇」の「秋芽之咲而散去流花爾有猿毛《アキハギノサキテチリスルハナニアラマシモ》」をはじめ例少からず。「有」を上、用言を示す語につゞけて「タリ」にあてたるは卷一「二八」(976)の「衣乾有」をはじめ、例少からず。ここにいふ花は何をさすか。槻落葉は「秋草の花を云」といひ、攷證には「花とのみいへば、秋草の花也。本集七【廿九丁】に譬喩寄花歌に、是山黄葉下花矣我小端見反戀《コノヤマノモミヂノシタノハナヲワガハツ/\ニミテカヘルコヒシモ》とよめる秋の草花也」といへり。古義は「その妹が殖し石竹の花也」といへり。上の歌よりのつゞきによりて思へば、秋草の花なること著しく、ことに「なでしこ」を主としていへることと思はる。
○其乎見杼 「ソヲミレド」とよむこと論なし。その花を見れどの意なり。
○情毛不行 古來「コヽロモユカズ」とよみて異議あるべくもあらず。代匠記初稿に曰はく「心もゆかずとは水などのせかれたるやうに心のふさがるなり」と。童蒙抄に曰はく「不v慰也。面白からぬことを心不v行と云也」と。槻落葉に曰はく「憂をやるよしのなきなり」と。攷證に曰はく「こは心を遣《ヤル》といふにむかへたる言にて、花など見て心を遣《ヤレ》ども心ゆかずと也」といひ、古義は「情の行とは情念《モノモフココロ》の過失《スギウセ》て物思(ヒ)なく和《ナグ》さましきをいふ詞なり。情を遣(ル)といふも情念をやり失ふ意の詞にて、心の行も心を遣も、自然《オノヅカラシカ》ると、設て爲るとの差別《ワキタメ》あるのみにて、本は同じ趣なり。ここは花を見て情をやれども行ざるよしなり。」といへり。かゝる意にての「こころのゆく」といふことは本集には他に例なけれど、後のものにはもとよりありて、今も用ゐる語なり。たとへば源氏物語紅葉賀に「かしこまりたるさまにて御いらへも聞え給はねは心ゆかぬなりといとほしく覺す」などの如し。「心ゆく」とは滿足に思ふことなり。
○愛八師 舊訓「ヨシヱヤシ」とよみたり。されど、「愛」を「ヨシヱ」とよむべき根據なし。代匠記は「は(977)しきやしと讀べし」といへり。「愛」を「ハシキ」とよむことは卷二「二二〇」の「愛伎妻等者《ハシキツマラハ》」の下にいへり。又「ハシキヤシ」の語の例と意とは卷二「一三八」の「早敷屋師吾妻乃兒我《ハシキヤシアガツマノコガ》」「二九六」の「早布屋師吾王乃《ハシキヤシワガオホキミノ》」の下にいへり。「妹」を形容していへる語なり。
○妹之有世婆 「イモガアリセバ」とよむこと異説なし。妹がこの世に在りせばと、せめての餘りにその場合を假設し想像していへるなり。
○水鴨成 舊訓「ミカモナス」とよめり。「ミカモ」の「ミ」は「水草《ミクサ》」(卷三「三七八」)「水具麻《ミグマ》」(卷十一「二八三七」)「水分山《ミクマリヤマ》(卷七「一一三〇」「水空往《ミソラユク》(卷四「五三四」)などの如く「ミ」とよむべき例あり。而してその「ミ」は「ミヅ」の古語なることは卷十八「四〇九四」の「海行者美都久屍《ウミユカバミツクカバネ》」卷十四「三四二九」の「伊奈佐保曾江乃水乎都久思《イナサホソエノミヲツクシ》」などの例にあり。「水鴨《ミカモ》」は水上にすむ鴨の義なり。然るに攷證には「水と書るは借字にて眞《ミ》の字にて眞薦《ミスヾ》を水薦《ミスヾ》と書ると同じく、眞《マ》とも眞《ミ》ともいふ詞にて、眞雪《ミユキ》、眞籠《ミカタマ》などの眞に同じ。本集十四【廿八丁】に於吉都麻可母能云々とあるも眞鴨也」といへり。古義も略同じ事をいへり。眞鴨といへばたゞ鴨といふに同じき事なるが、吾人が鴨の雌雄雙び睦しくして在るさまを著しく知りうるはその水上に浮べる時なればなほ「水鴨」の義をよしとすべし。「なす」は「玉藻成《タマモナス》」(卷二「一三一」「一三五」「一三八」)「鏡成《カガミナス》」(卷二「一九六」)「鶉成《ウヅラナス》」(卷二「一九九」)の例におなじ。かくて、これを次の二人雙居の枕詞とせり。その意は攷證に「この枕詞は鴨など水鳥は雌雄はなれず、必らずならび居るものなれば、それが如くに並び居《ヰ》とつゞけしにて、五【五丁】に仁保鳥能布多利那良※[田+比]爲《ニホドリノフタリナラビヰ》云々とつゞけしもおなじ」といへり。まさにこの説の如きなり。
(978)○二人雙居 「フタリナラビヰ」とよむ。その意は上にいへり。
○手折而毛 「手」を類聚古集、活字無訓本に「乎」にせるは誤なり。他多くの本に「手」とあるをよしとす。「タヲリテモ」とよむ。「手折」の例は卷二「一六六」に「手折目杼《タヲラメド》」あり。意明かなり。その咲きたる花を手折りても見せむとなり。
○令見麻思物乎 「ミセマシモノヲ」とよむ。「令見」を「ミセ」とよむことは卷二「一六六」の「令視倍吉君之在常不言爾《ミスベキキミガアリトイハナクニ》」「一九九」の「日之目毛不令見《ヒノメモミセズ》」の例に照して知るべし。なほこの詞遣の例は卷二「八六」の「高山之磐根四卷手死奈麻死物乎《タカヤヤマノイハネシマキテシナマシモノヲ》」「一〇八」の「山之四附二成益物乎《ヤマノシヅクニナラマシモノヲ》」等あり。それらに准じて知るべし。妹に見せむものをと假想してのその歸結を假設していへるなり。
○打蝉乃 「ウツセミノ」とよむ。かくかける例は卷二「一九九」にあり。さてここも枕詞にあらずして「ウツシミノ」の意にていへるものなり。
○借〔左○〕有身在者 「借」の字流布本に「惜」にせり。されどこれは活字附訓本の誤植に基づくものにして他の諸本みな「借」につくれるを正しとす。よみ方は舊訓「カリノミナレバ」とよめり。されど、「借有」を「カリノ」とよむは無理なり。代匠記に「今按此句は惜を借に作てかれるみなればと讀べし。第二十にもみつほなすかれる身なればとよめり。今の點にては有の字に叶はず」といへり。なほその初稿には、かりなるみなれば」といふ按をも添へたるが、童蒙抄はこの方によれり。されど、「かりなる身なれば」とよむ時は口調よからねば、以後の諸家「かれるみなれば」とよめり。「有」を用言をあらはす字に添へて、その良行變格に再び活用する格となす例は卷一「五二」の「神佐(979)備立有《カムサビタテリ》」「之美佐備立有《シミサビタテリ》」以下例少からず。かれる身とは佛教の教理にて、人の身は衆縁の假りに合して成れるものとする故にいふ。原人論に曰はく「此身但是衆縁假和合(ノ)相、元無2我人1」といへるこれにして、これを假我といへり。これ即ちかれる身たるなり。
○露霜〔二字左○〕乃 この文字は流布本は「霜霑乃」とし、神田本、西本願寺本、温故堂本、大矢本、京都大學本は「霑霜」とし、類聚古集、細井本は「露霜乃」とせり。かくてよみ方も流布本は「トケシモノ」とよみたるが、細井本に「シモトケノ」とよみ、代匠記もしかよめり。童蒙秒は「露霜乃」に作るをよしとし、考、槻落葉、略解、古義、これに從へり。按ずるに「トケシモノ」とかける例は卷五「八八六」に「等|計〔左●〕自母能宇知許伊布志提《トコジモノウチコイフシテ》」とかけるあり。されど、これは意義通ぜざれば「計」は「許」の誤ならむといふ説專ら行はる。されば、「トケシモノ」といふ語は他に例なきことなり。かくて普通には童蒙抄以下の説によれるものなるを、攷證には「霑は本集此卷【卅六丁】に霑者漬跡裳云々とぬれとも訓て玉篇に霑濡也、漬也とありてぬるゝ意なれば、霜にぬるゝよしにて、霜霑と書たれば、義訓してつゆじもと訓べき事論なし。考にも略解にも久老が考にもつゆじもとは訓たれど、露霜と改めつるは例の古書を改る癖にて誤り也。さてつゆじもとはいへど、たゞつゆの事なる事上【攷證二中四丁】にいへるが如し」といへり。然れども霑は「ぬるゝ」意の字なるものを「つゆ」とよまむこと道理あるべしとも思はれず。「つゆじも」とよまむには童蒙抄の説による外はあるまじ。而して外によみ方も考へうべきさまなければ、これは「露霜乃」の誤なるべし。さて「霜霑乃」とかけるは活字附訓本に基づけりと見らるるが、これは「霑霜乃」の誤植といひうべく、かくかける本の多きことは上に(980)いへる如し。しかもその「霑」も亦「露」の誤なるべく思るるなり。かくてこれは「消去之如久」の枕詞とせるものにして、その例は卷二「一九九」に「露霜之消者消倍久《ツユジモノケナバケヌベク》」卷十二「三〇四三」に「露霜乃消安我身《ツユジモノケヤスキワガミ》」など既にいでたり。
○消去之如久 舊訓「キエユクカコトク」とよみたるを略解、槻落葉、古義、攷證は「けぬるがごとく」とよめり。「去」は「ユク」とも「ヌル」ともよみうべきが、「之」は「が」とよむべきなればここは音調の上より「ケヌルガゴトク」とよむ方によるべし。攷證には「こは失にし人をつゆじもきえぬるが如くにきえぬといふことにて、ここにて、うせにし事をいへり」といへり。
○足日木乃 「アシヒキノ」とよむ。「ヤマ」の枕詞なり。例は上に屡見えたり。
○山道乎指而 「ヤマヂヲサシテ」とよむこと異論なし。攷證に曰はく「前の尼理願死去の歌に山邊乎指而晩闇跡隱益去禮云々とある如く、ここもこれよりは葬りゆきて、山べにをさむるをいへり」とあり。さる事なり。
○入日成 「イリヒナス」とよむ。この語の例は卷二「二一〇」「二一三」にありてそこにいへるにおなじ。
○隱去可婆 舊訓「カクレニシカバ」とよみたれど、「カクリニシカバ」とよむべし。この語の例は卷二「二一三」の「入日成隱西加婆」ありて意はそこにいへるにおなじ。
○曾許念爾 舊訓「ソコオモヒニ」とよみたるが、童蒙抄は「ソコモヒニ」とよみたり。槻落葉に「ソコモフニ」とよみてより諸家皆これに隨へり。この語の例は卷十七「四〇〇六」に「則許母倍婆許己(981)呂志伊多思《ソコモヘバココロシイタシ》」などあり。「そこ」は今の語に「その點」といふ程の意にして「その事を思ふに」といふ意なり。
○※[匈/月]己所痛 「己所」は音にて「こそ」にあてたるなり。これは古來「ムネコソイタメ」とよみて異論なきが、「痛」字は「イタシ」とも「イタム」ともよみうる字なり。今、本集につきて假名書の似たる語例を見るに、卷八「一五一三」に「春日山黄葉家良思吾情痛之《カスガヤマモミヂニケラシワガココロイタシ》」卷十三「三三一四」に「曾許思爾心之痛之《ソコモフニココロシイタシ》」卷十五「三七六七」に「安我牟禰伊多之古非能之氣吉爾《アガムネイタシコヒノシヘキニ》」卷十七「四〇〇六」に「則許母倍婆詐己呂志伊多思《ソコモヘバココロシイタシ》」卷二十「四三〇七」に「秋等伊弊婆許己呂曾伊多伎《アキトイヘバココロゾイタキ》」「四四八三」に「許己呂伊多久牟可之能比等之於毛保由流加母《ココロイタクムカシノヒトシオモホユルカモ》」とのみありて「イタム」とよむべきはなし。今の場合と似たる例は卷八「一六二九」に「許己念者胸許曾痛《ココモヘバムネコソイタキ》」とありてその「痛」字を「いため」とよみ來てはあれど、ここと同じく確證とはならず。さて平安朝に入りての例を見るに竹取物語に「翁むねいたき事なのたまひそ。うるはしきすがたしたる使にもさはらじとねたみをり」といひ、源氏物語帚木に「事のいとわりなきをおぼすにいとむねいたし」といひ、蜻蛉日記に「いとむねいたきわざかな。世に道しもこそあれなどいひのゝしるに云々」ともいへり。かくてここを「イタメ」とよまむには一も傍例なきが故に、他の多くの假名書の例にならひて「イタキ」とよむべし。ここに上に「こそ」の係ありて連體形にて結ぶことは形容詞にては當時普通のことにして異例にあらず。たとへば、日本紀仁徳卷の歌に「虚呂望虚曾赴多弊茂豫耆《コロモコソフタヘモヨキ》」本集卷十一「二六五一」に「己妻許曾常目頬次吉《オノガツマコソトコメヅラシキ》」「二七八一」に「最今社戀者爲便無寸《モトモイマコソコヒハスベナキ》」卷十七「四〇一一」に「野乎比呂美久佐許曾之既吉《ヌヲヒロミクサコソシゲキ》」の如きこれなり。而してかく(982)いへる例は卷二「二三〇」の思貴親王薨時作歌のうちに「聞者泣耳師所泣《キケバネノミシナカユ》、語者心曾痛《カタレばココロゾイタキ》」あり。悲しさに心の苦痛の烈しきをいへるなれば、「いため」といふに似たりといひながら、その苦痛の切なる意あらはれたり。されば、「イタキ」とよむべきものなりとす。
○言毛不得名付毛不知 舊訓「イヒモカネ、ナヅケモシラズ」とよめり。この二句は上の「三一九」の「詠不盡山歌」に「言不得名不知《イヒモエズナヅケモシンラニ》」とあると、文字の多少の違はあれど、同じ語遣と見えたれば、彼に准じて「イヒモエズ、ナヅケモシラニ」とよむべきものならむ。語の意はそこにいへるにおなじきが、ここはその世間の無常を言語道斷なりといへるならむ。
○跡無 古來「アトモナキ」とよみ來れるを、槻落葉は「跡」の下に「状」脱せりとして「タツキナキ」とよませたり。されど、さる本一もなきのみならず、「アトモナキ」にて意通ずるが故に舊のままにてよからむ。この語の例はこの卷「三五一」に「世間乎何物爾將譬《ヨノナカヲナニニタトヘム》、旦開榜去師船之跡無如《アサビラキコギイニシフネノアトナキガゴト》」又卷十五「三六二五」に「安刀毛奈吉與能比登爾之弖《アトモナキヨノヒトニシテ》」などありて、意は無常のさまをいへるなり。
○世間爾有者 「ヨノナカニアレバ」とよみ來れり。代匠記には「ヨノナカナレバ」ともよむべしといへれど、これはこのまゝにてよかるべし。意は明かなり。
○將爲須辨毛奈思 「セムスベモナシ」とよむ。「將爲」は義を以て「セム」をあらはし、次下は音にていへるなり。「セムスベ」の例は卷二「二〇七」「二一〇」の「世武爲便」等にて知るべく、一句の意はあらはなり。
○一首の意 わが庭前に亡妻の植ゑたるなでしこの花咲きたり。その花を見れども、心に慰む(983)ことなし。愛すべきかの亡妾が傍に在らば、二人雙び居てこれを賞翫し、その花を手折りて見せもすべきものを、現し身の假なる身なれば、露霜の消えぬる如くに山道をさして入日の如くに隱れたりしかば、そのことを思ふにわが心は悲しさに烈しく苦痛を感ず。言ふことを得ず名状すべき術をも知らず。無常の世間なれば、如何ともなし難きことなりとなり。この歌先にいでたる諸の歌の詞を借用せりと見えたるが、その爲か生氣に乏しき感ありとす。
 
反歌
 
467 時者霜《トキハシモ》、何時毛將有乎《イツモアラムヲ》、情哀《コヽロイタク》、伊去吾妹可《イユクワギモカ》、若子乎置而《ミドリコヲオキテ》。
 
○時者霜 「トキハシモ」とよむ。「シモ」は助詞なり。この助詞の例は卷一「三六」の「國者思毛澤二雖有《クニシモサハニアレドモ》」などあり。
○何時毛將有乎 舊訓「イツモアラムヲ」とよめり。槻落葉は「イツシモアランヲ」とよみ、それを證せんとして「卷十七に奈爾之加毛時之波安良牟乎《ナニシカモトキシハアラムヲ》(三九五七)卷十九に何如可毛時之波將有《ナニシカモトキシハアラム》(四二一四)とあり」といひたり。されど、これには「ナニシカモ」といふ陳述の副詞が上にありて下に「時シハ」とある場合にてここと同一に取扱ふべき性質のいひ方にもあらず、又同一時の語にもあらねば證とするに足らず。加之舊訓にて不合理なることなければ改むるに及ばざるなり。その意は時はいつにてもありなんものをといふなり。
○情哀 舊訓「コヽロイタク」とよめり。童蒙抄には「コヽロウク」とよめり。按ずるに「哀」の字は普(984)通に「アハレム」「カナシム」などいひて、「イタク」とよむことなし。然れども、玉篇に「哀(ハ)傷也」といひたれば、類聚名義抄には「イタム」の訓あり。かくて爾雅釋訓に「哀哀悽悽懷v報v徳也」といひ詩經に「哀哀父母」とあるは形容の語にして、わが「イタシ」に似たりといふべく、かく考ふる時は「イタク」とよまむも不條理にあらねば舊訓にしたがふべし。この語の意は上の「胸こそいたき」におなじ。
○伊去吾妹可 舊訓「イユクワギモカ」とよめり。考には「イヌルワギモカ」とよみ、槻落葉は「イニシワギモカ」とよみ、略解之により、攷證は考の如くにも槻落葉の如くにもよめり。而して代匠記、童蒙抄、古義は舊訓によれり。今按ずるに、「伊去」は上の三樣いづれによみても文字の上にては不條理といふべからず。然れども「イヌル」「イニシ」とよむときは「伊」にその觀念の主體やどりて去字はただ複語尾をあらはすに止まりて如何なり。おもふにこの場合は「伊」は字の如く音を主とし「去」は義を主としたるものなるべきか。然らば、「イユク」とよむ舊訓の方よしとせむ。然る時は所謂過去の語法にならざる故に不可なりといふ論出でむか。されど、それはここには不要の論なり。亡き人を亡き人とせず、まざ/\と現在の如くに感じてこそ感慨も深きものといふべきものなればなり。かくて「イ」は古來いふ發語の「イ」即ち接頭辭たり。下の「カ」は終助詞にて感動を寓せるものなり。
○若子乎置而 舊訓「ミトリコヲオキテ」とよめり。玉の小琴は「ワクゴヲオキテ」とよみ、槻落葉は「ワカキコヲオキテ」とよみ、古義は「ワカキコヲキテ」とよめり。先づ、「若子」は卷二「二一〇」の「若兒乃乞泣母毎《ミドリコノコヒナクゴトニ》」の「若兒」と同じ語なるは著しく、そこに論ぜし如くなれば舊訓のまゝにてあるべきも(985)のなり。ことにこの頃の家持の歌は、上にいへる如く、古歌に準據するもの多ければ、ここも恐らくは彼に準據せしならむと思はるればなり。「置きて」は「殘し置きて」なり。
○一首の意 妹が死なむとならば、死ぬべき時も他にいくらもありなむものを嬰兒を殘し置きてわが情をいたく哀ましめて置き往く妹なるかなとなり。
 
468 出行《イデテユク》、道知末世波《ミチシラマセバ》、豫《アラカジメ》、妹乎將留《イモヲトドメム》、塞毛置末思乎《セキモオカマシヲ》。
 
○出行 舊訓「イデヽユク」とよみたるが、古義は「イデユカス」とよめり。されど、強ひて敬語とすべき理由なければ、舊訓によるべし。ここはたゞの出で行くにあらず。家を出でて冥途に行くことをかくいへるなり。
○道知末世波 「ミチシラマセバ」とよむ。ここの語遣は卷一「六九」の「草枕客去君跡知麻世婆岸之埴布爾仁寶播散麻思乎《クサマクラタビユクキミトシラマセバキシノハニフニニホハサマシヲ》」に似たれば、それに準じて釋すべし。出で行く道即ち、冥途に行く道をわが知りて居りたりしならばといふ意なり。
○豫 舊訓「カネテヨリ」とよみたるを考に「アラカジメ」とよみてより諸家多く之に隨へり。槻落葉に曰はく「豫、今本かねてよりとよみたり。卷四に筑紫船未毛不來者|豫《アラカジメ》荒振公乎見之悲左とあれば、ここもあらかじめとよむべくおもへど、古今集にもかねてより風に先だつ波なれや、とみえたれば、卷(ノ)四のよみはひがよみとすべけれど、卷(ノ)六散2禁於授刀寮1時(ニ)作(ル)歌に、言卷《イハマク》毛湯々|敷有跡豫《シカラムトアラカジメ》兼而知(セバ)者云々とあるは豫をかねてよりとよみては徒《イタヅラ》に言《コト》かさなれり。さてはあら(986)かじめとよむよりほかなく、卷四の歌もあらかじめ、あらふると言のひゞきもよければ、ひがよみにはあらじかし」といへるが、攷證は之を駁して「是を宣長も久老もあらかじめと訓て、本集二【廿三丁】に如是有刀豫知勢婆《カヽラムトカネテシリセバ》云々。四【廿五丁】に豫荒振公乎見之悲左《カネテヨリアラブルキミヲミムガカナシサ》云々。また【四十丁】豫人事繁《カネテヨリヒトゴトシゲシ》云々。六【卅四丁】に豫公來座武跡知麻世婆《カネテヨリキミキマサムトシラマセバ》云々。九【十七丁】に預己妻離而《カネテヨリオノヅマカレテ》云々などあるをも四より以下をば皆、あらかじめと訓たれど、あらかじめと言、正しき訓例もなく、寛弘長和のころまでの書には見えず。二【廿三丁】に豫知勢婆《カネテシリセバ》、十【六十三丁】に豫寒毛《カネテサムシモ》などあるは豫の字をかねてと訓るまきしき訓例なれば、例なきをすて、例あるに從ひて、皆かねてよりと訓べし。また六【十九丁】に豫兼而知者《カネテヨリカネテシリセバ》とあるをかねてよりかねてと訓ては重言なりと久老はいひつれど、かく重言なる事集中多かれば、これになづむ事なかれ」といへり。按ずるに「豫」の字を「かねて」とよむべきことは卷二「一五一」の「豫知勢婆」の例ありてこれらは「アラカジメ」とよむべきものにあらず。今、ここに問題となるは「豫」を「かねてより」と「より」を加へてよむことの可否に主點あるべく思はる。而してそれと關聯して攷證のいへる如く、「アラカジメ」といふ語をこの頃の語と認めらるべきか如何といふ問題も伴へるなり。かくて本集その他の古典を見るに、「カネテヨリ」といへるものも、「アラカジメ」といへるものも假名書の例を見ず。さてその「カネテヨリ」といふ語を考ふるに、「カネテ」といふ語も元來「かぬ」といふ用言より轉成したるものならむが、それを「より」にて受くる時はその「かねて」が體言に轉じたりとすべきものなり。されど、「かねて」を體言に轉ずることはこの頃に例なきのみならず、源氏物語には例あれど、それより以前には例なきことなり。加之、ここの歌の意に(987)は「より」の意を加ふべきものならず。これらの諸點より見て隨ひがたし。「豫」の字につきての訓を類聚名義抄につきて見れば、「アラカジメ」といふあれど、「カネテ」といふはなし。されば、古典に未だ例なしといへども、姑く「アラカジメ」とよむ方によるを穩かなりとすべし。意は今もいふ如く「前以て」といふが如き意なり。
○妹乎將留 「イモヲトヾメム」とよむ。意明らかなり。
○塞毛置末思乎 「セキモオカマシヲ」とよむ。「塞」を「セキ」とよむこと卷二「二〇三」にあり。「セキ」は關塞の「セキ」にして濫りに人の往來を許さず、「セキ」止むる所なり。ここは冥途へ行く道に關をおきて、妹をそこにて止めむとすべかりしものをとなり。
○一首の意 妹が出て行きたる道を知りてありたらば前以てその道に關を構へておきて、そこにて妹を止めてありたらむものを。殘念なることをしてけるよとなり。
 
469 妹之見師《イモガミシ》、屋前爾花咲《ヤドニハナサキ》。時者經去《トキハヘヌ》、吾泣涙《ワガナクナミダ》、未干爾《イマダヒナクニ》。
 
○妹之見師 「イモガミシ」とよむ。單に妹が見たりといふに止まらず、共に棲みてありしことを「見し」の一語にて代表せしめていへるものなり。
○屋前爾花咲 舊訓「ヤドニハナサク」とよみたるを童蒙抄に「ニハニハナサキ」とよみ、玉小琴に「ヤドニハナサヰ」とよめり。「花咲く」とよめばここにて一段落となるか、若しくは連體言として「トキ」につらなり、「花咲き」とよめば連用言として「時者經去」に重ねていふものとして重文となる。(988)これを連體言とし、重文とする時は理窟の上には不合理なからむが、感情の集注といふものなくなり、甚しく散文化すべし。これは眼前の景を見て感懷を起す所なれば「花サク」とよみて一段落とせざるべからず。「屋前」を「ヤド」とよむことは上にいへり。
○時者經去 「トキハヘヌ」とよむこと異論なし。意明かなり。
○吾泣涙未干爾 「ワガナクナミダイマダヒナクニ」とよむこと異議なし。これと同じ語は卷五「七九八」に「伊毛何美斯阿布知乃波那波知利奴倍斯《イモガミシアフチノハナハチリヌベシ》、和何那久那美多伊摩陀飛那久爾《ワガナクナミダイマダヒナクニ》」あり。吾が泣く涙も未だ干ぬに「時は經ぬ」といふべきを反轉法によりて斯くせるなり。
○一首の意 妹が我と共に見たる宿に昔の如く花咲きたり。亡せにし人を戀ひて吾が泣く涙のいまだ乾きもせぬに、はやくも時は經過したるよとなり。力強くよき歌なり。
 
悲緒未v息更作歌五首
 
○悲緒 この熟字は謝靈運の長歌行に「覽v物起2悲緒1、顧v己謝2憂端1」とある如く悲哀を感ずる端緒の義なれど、緒をコトの意にとりなして悲しみのことの義とするなり。
○未息 「イマダヤマズシテ」とよむ。上によめる三首の短歌及び長歌並に反歌三首をよみてもなほ悲しみの心やまずして事にふれて悲を感ずるなれば、更に作れる歌なりとなり。
 
470 如是耳《カクノミニ》、有家留物乎《アリケルモノヲ》、妹毛吾毛《イモモワレモ》、如千歳《チトセノゴトク》、憑有來《タノミタリケル》。
 
(989)○如是耳 舊訓「カクシノミ」とよめるを代匠記に「カクノミニ」とよめり。これは上「四五五」の「如是耳有家類物乎《カクノミニアリケルモノヲ》」と同じ語なれば、そこと同じくよむべし。
○有家留物乎 「アリケルモノヲ」とよむ。この語の例上にあぐ。
○妹毛吾毛 「イモモワレモ」とよむ。この語遣の例はこの卷「四三七」に「妹毛吾毛清之河乃河岸之《イモモアレモキヨミノカハノカハキシノ》云々」卷四「五〇八」に「妹毛吾母甚戀名相因乎奈美《イモモアレモイタクコヒムナアフヨシヲナミ》」などあり。意明かなり。
○如千歳 舊訓「チトセノゴトク」とよみたるを考に「チトセノゴトモ」とよめり。按ずるに「如」は「ゴトク」とも「ゴトモ」ともよみうべきが、「ゴトモ」といへる例は卷九「一八〇七」に「昨日霜將見我碁登母所念可聞《キノフシモミケムガゴトモオモホユルカモ》」「一八〇九」に「新裳之如毛哭泣鶴鴨《ニヒモノゴトモネナキツルカモ》」とあるが、下は「カモ」といふ歎息の語遣となれり。ここはそれと語遣一致すべきにあらねば、尋常に「ゴトク」とよみてあるべし。かく千歳の如く」といへる例は卷十一「二三八七」に「今日如千歳有與鴨《ケフノヒノチトセノゴトモアリコセヌカモ》」又「二三八一」に「是二夜千歳如吾戀哉《コノフタヨチトセノゴトモワガコフルカモ》」とあり。ここの意は千歳も共に眞幸くてあらむが如くに思ひたりとなり。
○憑有來 舊訓「タノミタリケル」とよめるを童蒙抄に「タノミタリケリ」とよめり。按ずるに「ケル」ととぢむる時は普通は上に「ゾ」「ナモ」「ヤ」「カ」の係助詞あるべし。これらなくして「ケル」ととぢむることは萬葉集時代にては極めて異例なり。然れども、卷二十「四四九六」に「宇良賣之久伎美波母安流加夜度乃烏梅能知利須具流麻泥美之米受安利家流《ウラメシクキミハモアルカヤドノウメノチリスグルマデミシメズアリケル》」の如きもの全くなきにもあらず。今、この處は感慨を寓する所なれば「ケル」とよみたる方よかるべし。この故に舊訓に隨ふ。「有」を「タリ」にあつること「來」を「ケリ」にあつることは上に屡例ありたれば今いはず。
(990)○一首の意 かくの如く短き契のみにてありけるものを、女も我も、千歳も共に眞幸くてあらむが如くに思ひ憑みてありたることよとはかなき世間の無常をかこちたるなり。
 
471 離家《イヘサカリ》、伊麻須吾妹乎《イマスワギモヲ》、停不得《トドメカネ》、山隱都禮《ヤマガクリツレ》、情神毛奈思《ココロドモナシ》。
 
○離家 舊訓訓「イヘサカリ」とよみたるを童蒙抄に「イヘヲハナレ」とよめり。「イヘサカリイマス」といへる例は卷五「七九四」に「加多良比斯詐許呂曾牟企弖伊弊社可利伊麻須《カタラヒシココロソムキテイサカリイマス》」あり。されば、わざと字餘りによむべきにあらず。舊訓のまゝにてよしとす。家を遠ざかりての意なり。
○伊麻須吾妹乎 「イマスワギモヲ」とよむ。さてこの「イマス」を槻落葉に「往《イニ》ます也」といひ、古義には「行(キ)座(ス)といふが如し」といひ、攷證に「往《ユキ》ますといふ也」といひたり。然れども、「います」といふ語に「行ク」「往ヌ」といふ意の存することの説明なし。こは如何に考へても「行く」「往ぬ」といふ語と同じ意の語とは信じ難し。若し「イ」といふを一の用言と見るにか。然らばこれは如何に活用する語なるか。かゝる語、古にも見ず、今も聞かざるものなり。されば、上の諸説皆非なりとすべし。これは上の「家離り」にて、家を離れて或る所に行きたるを既に示せるものなれば、特に「行く」「往ぬ」といはずしても明かなるものなり。されば、「います」はたゞの「います」にて意不十分ならざるものなりとす。「吾妹」は上に屡いへり。
○停不得 寛永本の假名不十分なれど、拾穗抄に見る如く「トヾメカネ」とよめりしものと思はる。童蒙抄は「トヾメエズ」とよめり。槻落葉は「トヾミカネ」とよみ、攷證古義之に同じ。かくて、この(991)よみ方は「停」のよみ方と「不得」のよみ方とに分ちて研究する要あり。「停」は今普通には下二段活用なれば「トヾメ」とあるは當然といふべし。然るに既に諸家の論ずる如くに、卷五「八〇四」に「等伎能佐迦利乎等々尾迦禰周具斯野利都禮《トキノサカリヲトドミカネスグシヤリツレ》」又「八〇五」に「等等尾可禰都母《トドミカネツモ》」又「八七四」に「由久布禰乎布利等騰尾加禰《ユクフネヲフリトドミカネ》」といふはみなここの訓み方の例とする所のものなり。又卷九「一七八〇」に「夕鹽之滿乃登等美爾《ユフシホノミチノトドミニ》」とあるは「トヾム」の連用形の居體言となれるものなり。然する時はこの「トヾミといふ用言はマ行四段活用をなすものの如く見ゆ。されど、その活用としてはこの「トヾミ」のみなればかく斷言すること困難なりとす。これにつきては槻落萎、古義は説明なく、攷證のみは「みとめと音通へばとゞめといふに同じ」といへり。然らば「とどめかね」といへる例無きかといふに、卷十九「四一六〇」に「爾波多豆美流※[さんずい+帝]等騰米可禰都母《ニハタヅミナガルヽナミタトドメカネツモ》」卷十七「四〇〇八」に「奈氣可久乎等騰米毛可禰底《ナゲカクヲトドメモカネテ》」などあり。その他「等杼米弖《トドメテ》」(卷十八「四〇八五」)「留目六」(卷四「七〇八」)「等杼米弖」(卷十五「三六二七」)「等騰米之」(卷二十「四四〇八)「留流」(卷十一「二六一七」)「等登牟流」(卷十一「二六一七」)「等登牟流」(卷十八「四〇三六」)等あり。今これらの例を通じて見れば、これは「トヾメ」の場合下二段活用なることは著しきものなれど、「トヾミ」の場合は四段活用なりとすべき確證なきのみならず、諸家の説もただ「トヾメ」の「メ」の音の轉じて「ミ」となれるのみといふ如きなり。この説によらば、「トヾミ」の方は雅言にあらずして一時的現象たる訛言なりといはざるべからず。次に「不得」は「エズ」ともよみうべきものにして、既に卷二「二〇七」の「聞而有不得者」「二一〇」「二一三」の「背之不得者」の「不得者」を「エネバ」とよみ來れるが上に、しかよむ外あるまじく、又この卷にては「四六一」の(992)「留不得壽爾之在者」の「不得」も「エヌ」とよむ外あるまじきものなり。この外「不得」を從來「エズ」「エヌ」とよめるもの多く、それらは皆その外によみ方あるまじき所なり。然るに一方には又「不得」をここの如く「カネ」と讀みたる例少からず。それらのうちには「エズ」とよみて差支なきものも少からねど、又「カネ」とよまではあられぬ所もあることはこの卷の「三九七」の「根深目手結之惰忘不得裳《ネフカメテムスビシココロワスレカネツモ》」の下にいへるが如し。されば、二者共にありうべきことにして意も大差なし。さらば、ここはいかにすべきかといふに、上にいへる「トドメカネ」の例の多きにつれてここも「カネ」の方による方よからむと思はる。
○山隱都禮 舊訓「ヤマカクレツレ」とよみたるが、槻落葉は「ヤマカクシツレ」とよみ、略解は「ヤマガクリツレ」とよめり。槻落葉にはその理由を示さざれど、「吾妹乎」とあるに對するものとしたるならむ。されど、「吾妹乎」の「乎」は「停」にかゝりてその用をはたしたるものにして、ここは吾妹が山に隱れたればといふ意なるべければ、舊訓の方まされり。但し、古語には「カクル」は四段活用なりしこと既に説きたる如くなれば、略解のよみ方をよしとす。さてこの「都禮」の已然形はそれにて下に接續して條件を示すものにして後世の語法にては「つれば」といふべき所にしてこは古の語法の一格なりしこと上に屡いへる所なり。
○情神毛 舊訓「タマシヒモナシ」とよめり。玉の小琴は田中道麻呂の説とて「コヽロトモナシ」とよむべしとせり。「タマシヒ」といふ語も本集に例なきにあらねど、ここにては、かくよみては意十分に通らず。「ココロドモナシ」とよむ語の例はこの卷「四五七」の「君師不座者心神毛奈思《キミシマサネハコロドモナシ》」の下(993)にいへる如くなれば、ここもそれに同じ趣の意として「ココロドモナシ」とよむこととせり。その語意も「四五七」の下に説けるに同じ。
○一首の意 家を出で離れています妹をとどめむとしたれども停めかねて、妹が山に隱れはてたれば、その歎き愁へにまどひ、われは心のありどころもしらずとなり。
 
472 世間之《ヨノナカシ》、常如此耳跡《ツネカクノミト》、可都知跡《カツシレド》、痛情者《イタキココロハ》、不忍都毛《シヌビカネツモ》。
 
○世間之 舊訓「ヨノナカノ」とよみたるを略解に「ヨノナカシ」とよめり。これは「世間シ常如此耳」といふ關係になるものにして、「シ」といへる方感動を寓すること深きなり。
○常如此耳跡 「ツネカクノミト」とよむ。これは「世間し常如此耳」(有ケルなどの語を略するか)といふにて一の句をなすを「ト」にて受けたるものなり。世間といふものは常にかくはかなくのみあるものと云々の意なり。
○可都知跡 「カツシレド」とよむ。「カツ」の語の用例は卷八「一六二六」に「妹之形見跡可都毛思怒播武《イモガカタミトカツモシヌバム》」卷四「五四三」に「安蘇蘇二破且者雖知《アソソニハカツハシレドモ》」などあり。この語の意は攷證に「宣長云、かつはこの事をなしながらかの事をもし、あるは、この事のあるに、かの事もはじまるやうの所につかふ詞也云々といはれつる如く、ここは世の中をば、常にかくばかり、はかなきものなりとはしれどもといふ意也」といひ、略解は「さてしれど、かつと心得べし」といへり。
○痛情者 舊訓「イタムコヽロハ」とよめり。童蒙抄は「イタキコヽロハ」とよみ、槻落葉、略解、古義、攷(994)證等は皆しかよめり。按ずるに「痛」字は「イタキ」とも「イタム」ともよむべきが故に、それのみにて直ちに可否をいふべからねど、上にもいへる如く、心に對しては專ら「イタシ」といへるが故に「イタキ」の方によるべし。卷二十「四三〇七」に「秋等伊弊波許己呂曾伊多伎《アキトイヘバココロゾイタキ》」「四四八三」に「許己呂伊多久牟可之能比等之於毛保由流加母《ココロイタクムカシノヒトシオモホユルカモ》」卷十七「四〇〇六」に「則許母倍婆許己呂志伊多思《ソコモヘバココロシイタシ》」卷八「一五一三」に「春日山黄葉家良思吾情痛之《カスガヤマモミヂニケラシワカココロイタシ》」卷十三「三三一四」に「曾許思爾心之痛之《ソコモフニココロシイタシ》」など皆その傍例たり。その意は上の長歌の「※[匈/月]己所痛」の下にいへるに相同じ。
○不忍都毛 舊訓「シノビカネツモ」とよみ、考は「不」の下に「都」を加へて「シヌビカネツモ」とよめり。代匠記は「不の字の下に得の字を脱せるか。或は忍不得なるべし。今のまゝにては義通ぜず」といひ、次いで考が「得」の字を加へてより槻落葉、略解、古義、攷證等皆之に隨へり。然るに童蒙抄は「或抄得の字を脱したるかといへり。さもあるべきか」といひたるが、なほ別に「不の字計にても此集中かねると讀めること多し」といひたり。然れども、槻落葉は「不忍の二字のみにてはか|ね〔二重傍線〕とよむ字なし。故《カレ》私に得〔二重傍線〕の字を補つ」といへり。さて按ずるに、諸本一も文字に異同なければ、漫に誤脱ありと論ずべからず。しかも亦「不」を「かぬ」とよむべき所はここ一所に止まれり。されど、「不忍」の二字を義訓として「忍びかぬ」にあつることは「不」の字義によりて不合理なりといふべからず。さればここに脱字ありといふことは首肯すべからず。さて「シノビ」か「シヌビ」かといふにこれは上に屡いひ來れる如く、「シヌビカネツモ」とよむべきなり。「シヌビ」の意は既に屡いへり。
(995)○一首の意 世間といふものは常に老少不定無常迅速のはかなきものとは且つは知りながらも、しかも悲み歎きに痛き情は忍びがたきことなるよとなり。
 
473 佐保山爾《サホヤマニ》、多奈引霞《タナビクカスミ》、毎見《ミルゴトニ》、妹乎思出《イモヲオモヒデ》、不泣日者無《ナカヌヒハナシ》。
 
○佐保山爾 「サホヤマニ」なり。「サホ山」は上「四六〇」にいふ「佐保乃山」なるが、次の歌によればそこに亡妻を葬りしなり。恐らくは大伴家の墓地ありしにあらざるか。
○多奈引霞 「タナビクカスミ」なり。代匠記に曰はく「霞を春秋に通して讀こと、第二に磐之媛の御歌に註せしが如し。霞はうるはしきに付てもはかなきに付ても思ひ出べし。古今にもかず/\に我を忘ぬ物ならは山の霞をあはれとは見よ」といへり。さる事なり。攷證に「こは霞を見て火葬の煙を思ひ出し也」といひ、略解、古義等皆同じ説なれど、これは穿ち過ぎたる説にして特にさる事をことわれるは別としてその墓のある山にたなびく霞にて亡き人を思ひ出づるは自然の人情なり。必ず火葬の煙を思ひ出づといふべきにあらず。
○毎見 「ミルゴトニ」とよむ。「毎」の字は卷二「一三一」以下に屡見ゆ。意明かなり。
○妹乎思出 舊訓「イモヲオモヒイデヽ」とよみたれど、九字の一句は長きに過ぐ。童蒙抄には「イモヲオモヒデ」とし、考は「イモヲモヒデテ」とし略解は「イモヲオモヒデテ」とせり。これは日本書紀仁徳卷の御歌に「望苫弊破枳瀰烏於望臂泥《モトヘハキミヲオモヒデ》、須惠弊破伊暮烏於望比泥《スヱヘハイモヲオモヒデ》」卷二十「四三九八」に「波呂波呂爾伊弊乎於毛比※[泥/土]於比曾箭乃曾與等奈流麻※[泥/土]奈氣吉都流香母《ハロバロニイヘヲオモヒデオヒソヤノソヨトナルマデナゲキツルカモ》」などの例によりて「オモヒ(996)デ」とよむべきものなり。意明かなり。
○不泣日者無 「ナカヌヒハナシ」とよむ。意明かなり。
○一首の意 明かなり。佐保山にたなびく霞を見る毎に亡き妾を思ひ出でて泣かぬ日とては無しとなり。言簡易にして意甚だ深し。上乘の歌と評すべし。
 
474 昔許曾《ムカシコソ》、外爾毛見之加《ヨソニモミシカ》。吾妹子之《ワギモコガ》、奥槨常念者《オクツキトオモヘバ》、波之吉佐寶山《ハシキサホヤマ》。
 
○昔許曾 「ムカシコソ」とよむ。意明かなるが、この昔は現在以前をいへるにて遠き昔の意にあらず。
○外爾毛見之加 「ヨソニモミシカ」とよむ。「外」を「ヨソ」とよむことは卷二「一七四の「外爾見之檀乃岡毛君座者常都御門跡侍宿爲鴨《ヨソニミシマユミノヲカモキミマセバトコツミカドトトノヰスルカモ》」の下にいへり。「ヨソニミシ」の意も上の歌に准じて知るべし。以前は我に關はりなきものと見たりしとなり。「シカ」は「コソ」の係に對する終止たり。ここにて一段落とす。
○吾妹子之 「ワギモコガ」とよむ。意明かなり。
○奧槨常念者 舊訓「オキツキトオモヘバ」とよめり。代匠記は奥槨をば袖中抄に「おくつき」とよめるをあげて「袖中抄のよみ日本紀に叶へり」といへり。これを槻落葉は「オクヅキ」とよみ、略解、攷證、古義は「オクツキ」とよめり。日本紀に「オクツキ」といふ語の假名書の例あることはなけれど、この語の事は既に上の「四三一」に論じたる所なり。さればここも「オクツキ」とよむべきなり。(997)「オモヘバ」「モヘバ」いづれも不可なきが故に、舊訓を改むる必要なし。意明かなり。
○波之吉佐寶山 「ハシキサホヤマ」とよむこと論なし。「ハシキ」といふ語は卷二「一一三」の「波思吉香聞《ハシキカモ》」「二二〇」の「愛伎妻等者《ハシキツマラハ》」などの下に屡いへり。「サホヤマ」を「佐寶山」とかけるは、懷風藻に長屋王のサホなる宅を寶宅といひ、そこの樓を作寶樓とかけるなど、好みて「寶」の字を用ゐしものと見ゆ。
○一首の意 この歌二段落なり。第一段落は佐保山を以前は我に何のかゝはりもなく見たりしとなり。第二段落は然るに、今は、吾妹子の墓所と思へば愛すべく、なつかしくうるはしき山と思ふとなり。表面、理窟にとらはれたるが如くにして實は情緒の纒綿たる歌なり。佳作と評すべし。
 
十六年甲申春二月、安積皇子薨之時、内舍人大伴宿禰家持作歌六首
 
○十六年甲申春二月 これは天平十六年なり。槻落葉はこの上に「天平」の二字脱すとせり。されど、上の「十一年己卯云々」(「四六二」の題詞)「七年乙亥云々」(「四六〇」の題詞)いづれも年號の字なし。而してそは「天平三年辛未秋七月云々」(「四五四」の題詞)の引きつゞきなること著しければ加ふるに及ばじ。さてこは安積皇子の薨去の時を示せるなるが、この皇子の薨去は續紀によるに、十六年閏正月のことなり。即ち閏正月朔は乙丑にして、その丁丑、十三日に薨ぜられしなり。然るに、ここに「二月」とあるは續紀と一致せず。これは續紀の誤か、この集の誤か。この集の誤と(998)しても「正月」の寫誤とはいふべからず。或は當時の暦法不正確にして、閏正月を二月としたるを後に暦法を正して。續紀に訂せるか。今の續日本紀の前半は二回の編輯を經たるものなれば、かゝる事なしとすべからず。三正綜覽によるにこの年の閏は唐暦にては二月にあり、然らば、續紀の閏正月は二月といふべきに似たり。されど、かゝる事は容易くいふべき事にあらず。かくて更に考ふるに、この二月を薨じ給ひし時とする時は次の作歌の二月三日と牴觸すべし。即ち閏正月十三日の薨去を二月十三日とせば薨去前にこの歌をよめりとする不合理を生ず。この故に薨去は閏正月十三日なることは史の如く誤りなしとして、この歌をよみたるが三月なる故に二月とかけりとせば、その不合理はかたづくべし。されど、然する時は後の三首は三月の作なれば、ここに又不合理を生ずる點あり。之を如何にすべきか。按ずるにこれはなほ閏正月の薨去にして先づこの歌をよみたるは二月にして、三月のは更に追加したるが故に、はじめのまゝに、二月としておきたるものなるべし。
○安積皇子 この御名「アサカ」とよむべし。この皇子は聖武天皇の御子にして、天平十六年閏正月乙丑朔丁丑の日に薨去せられし事續日本紀に見ゆ。その記事に曰はく、
 乙亥天皇行2幸灘波宮1(中略)是日安積親王縁2脚病1從2櫻井噸宮1還。丁丑薨。時年十七。遣2從四位下大市王、紀朝臣飯麻呂等1監2護葬事1。親王(ハ)天皇之皇子也。母(ハ)夫人正三位縣犬養宿禰廣刀自、從五位下|唐《モロコシ》之女也。
と見ゆ。この皇子は皇太子にも立ちてましますべかりしを御母藤原氏ならざりしが故に立(999)ち得たまはず、藤原氏の出なる皇女阿部内親王(孝謙天皇なり。天平十年皇太子に立ちたまふ。時に御年二十一)皇太子に立ちましゝなり。當時の時勢の變調なりしことを見るべく、家持のこの挽歌もその心して味ふべきものと思はる。ここにある櫻井頓宮は蓋し、河内國河内郡櫻井郷に在りしものにして、今、六萬寺といふが、その頓宮のありし所ならむといふ。
○内舍人 今、普通に「ウドネリ」といへど、ここは正しく「ウチノトネリ」とよむべし。この職は中務省に屬し定員九十人ありて大寶令には
 掌(ル)3帶刀宿衛(シ)、供2奉雜使1、若駕行(アレバ)分2衛(シ)前後(ヲ)1
とありて、專ら宮中にありて至尊の側近に奉仕警衛し奉るを任とせり。
○大伴宿禰 この人の事は今更にいはず。この内舍人なりしことは集中にはなほ卷六、卷八、卷十七に見えたるが、その年次を見るに、最も古きは天平十年(卷八「一五九一」)にして最も新しきはここの天平十六年なり。而して天平十二年(卷六「一〇二九」)天平十三年(卷十七「三九一三」)天平十五年(卷六「一〇三七」)にいづれも内舍人とあり。されば少くとも天平十年より十六年まで七ケ年間は内舍人たりしなり。而して家持と安積親王との交は如何と見るに、卷六、天平十五年癸未の條中に
  安積親王宴2左少辨藤原八束朝臣家1之日、内舍人大伴宿禰家持作歌一首
 久堅乃雨者零敷《ヒサカタノアメハフリシク》。念子之屋戸爾今夜者明而將去《オモフコガヤトニコヨヒハアカシテユカム》。(一〇四〇)
といふ歌あり。藤原八束朝臣は房前の子にして後に改めたる眞楯の名を以て知られたる人(1000)なり。この歌にいふ「念子」は普通に、その宅の主人八束をさすとせり。この時八束は年廿八歳、家持は上にいへる年齡として三十六歳なり。而して安積親王は十六歳にましませり。念ふ子とは或はこの親王をさし奉るにあらざるか、そはとにかくにこの卷六の歌によりて家持が安積皇子に特に親しみ奉りし事實の存せしを見るべきなり。
○六首 これは二月三日に作れる長歌一首反歌二首と三月二十四日作れる長歌一首反歌二首を合せていへるものなるが、題詞にかく書けるは、本集としては極めたる異例にして、卷一、卷二の常例による時は「作歌二首井短歌」とあるべきものなりとす。
 
475 掛卷母《カケマクモ》、綾爾恐之《アヤニカシコシ》、言卷毛《イハマクモ》、齋忌志伎可物《ユユシキカモ》。吾王《ワガオホキミ》、御子乃命《ミコノミコト》、萬代爾《ヨロヅヨニ》、食賜麻思《メシタマハマシ》、大日本《オホヤマト》、久邇乃京者《クニノミヤコハ》、打靡《ウチナビク》、春去奴禮婆《ハルサリヌレバ》、山邊爾波《ヤマベニハ》、花咲乎爲里《ハナサキヲヲリ》、河湍爾波《カハセニハ》、年魚小狹走《アユコサバシリ》、彌日異《イヤヒケニ》、榮時爾《サカユルトキニ》、逆言之《オヨヅレノ》、狂言登加聞《タハゴトトカモ》、白細爾《シロタヘニ》、舍人装束而《トネリヨソヒテ》、和豆香山《ワヅカヤマ》、御輿立之而《ミコシタタシテ》、久堅乃《ヒサカタノ》、天所知奴禮《アメシラシヌレ》、展轉《コイマロビ》、※[泥/土]打雖泣《ヒヅチナケドモ》、將爲須便毛奈思《セムスベモナシ》。
 
○掛卷母 「カケマクモ」とよむ。この語は卷二「一九九」の「挂文忌之伎鴨《カケマクモユユシキカモ》」の下にいへり。
○綾爾恐之 「アヤニカシコシ」とよむ。この語も卷二「一九九」の「綾爾畏伎《アヤニカシコキ》」の下にいへるに同じ。たゞ、ここはここにて終止せるを異なりとす。
(1001)○言卷毛 「イハマクモ」とよむ。この語の用例は卷六「九四八」に「決卷毛綾爾恐《カケマクモアヤニカシコク》、言卷毛湯湯敷有跡《イハマクモユユシカラムト》」とあるあり。「イハムコトモ」の意なること「カケマクモ」の例におなじ。
○齋忌志伎可物 舊訓「イハヽシカモ」とよみたれど、かゝる語古今に例を知らねば隨ひがたし。代匠記には「ゆゝしきかもと讀べし」といひ、童蒙抄以下これに隨へり。「ゆゆしきかも」といへる語は卷二「一九九」の「挂文忌之伎鴨」の下に委しくいへり。「齋忌」を「ユヽシ」とよむ意も彼處にいへるが、なほいはゞ、卷十五「三六〇三」に「湯種蒔《ユダネマキ》、忌忌伎美爾故悲和多流香母《ユユシキキミニコヒワタルカモ》」の「忌忌」を「ゆゝし」とよみ、卷十二「二八九三」の「忌忌久毛吾者歎鶴鴨《ユユシクモアハナゲキツルカモ》」の「忌忌久」を「ゆゝしく」とよめるが如く、「齋」も「忌」も「イム」意なれば、二字をあはせてかくいへるなり。そはたとへば、「イハヒベ」を「齋戸」(卷三「三七九」「四二〇」等)と書き、「忌戸」(卷十三「三二八八」)とも書き、又「齋忌戸」(卷三「四四三」)ともかくが如き關係なりとす。以上四句全篇の冒頭なるが、かの卷二「一九九」の「挂文忌之伎鴨」を四句の形にしたる姿なり。
○吾王 舊訓「ワカオホキミノ」とよみたれど、考はただ「ワガオホキミ」とよめり。これは、卷一、以來頻繁に例ある語にして、ここは安積皇子をさし奉れるなり。
○御子乃命 舊訓「ミコノミコトノ」とよみたり。考に「ミコノミコト」とよみて「ノ」を加へず、これより後、槻落葉、略解、古義等これに隨へり。ここは、かの卷一「四五」の「八隅知之吾大王高照日之皇子《ヤスミシシワガオホキミタカテラスヒノミコ》」と四句にせるを二句にていへるにて、文法上の格は同等なれば、考のよみ方に隨ひて可なり。「みこのみこと」は「日雙斯皇子命」(卷一「四九」卷二「一六七》)の場合は皇太子の尊稱と見えたるが、ここはこ皇太子にはましまさざりしかど、家持の心には重く思ひ奉りしものと思はる。
(1002)○萬代爾 「ヨロヅヨニ」とよむ。この語の例卷一「八〇」に既にありて、そこにいへるにて明かなり。
○食賜麻思 舊訓「メシタマハマシ」とよめり。代匠記に「ヲシタマハマシ」とよみ古義これに隨へり。按ずるに「食」を「袁須」とよむことは日本書紀の自注にあれば誤とすべからず。又本集卷十六「三八五三」の「夏痩爾吉跡云物曾《ナツヤセニヨシトイフモノゾ》、武奈伎取食《ムナギトリメセ》」の「食」に自ら注して「賣世《メセノ》反也」と、あれば、本集の「食」を「メス」とよむも誤にあらず。かくてここは天下を聞食す意の所なれば、その方面よりして「ヲス」よきか「メス」よきかを決せざるべからず。さて「賜フ」につゞくる語例を見るに、「ヲシ賜フ」とよむべき例は一も無く「メシタマフ」といへるは卷一「五〇」の「食國乎賣之賜牟登《ヲスクニヲメシタマハムト》」「五二」の「埴安乃堤上爾在立之見之賜者《ハニヤスノツツミノウヘニアリタタシメシタマヘバ》」等の下に説ける如く例少からず。かくて「メス」とよむを適當とすべきを見る。その意は卷一の諸例の下にいへるにおなじ。「メシタマハマシ」の「マシ」は連體形にして、直ちに大日本久邇乃京」につゞくものにして、その關係は卷一「一七一」の「高光《タカヒカル》、我日皇子乃萬代爾國所知麻之島宮婆母《ワガヒノミコノヨロヅヨニクニシラサマシシマノミヤハモ》」の「麻之」におなじ。
○大日本 「オホヤマト」とよむ。「オホヤマト」といふ時は、わが皇國の總稱ともなり、又今の奈良縣なる大和《ヤマト》國をもさすことあれど、次の「久邇乃京」は山城國なれば、ここは皇國の義の「オホヤマト」なり。さてかく「大日本」といふ文字を用ゐて皇國をさせるは、これや初見なるべき。
○久邇乃京者 「クニノミヤコハ」とよむ。これは今の山城國相樂郡木津村の地に營まれし舊都なり。この都は天平十二年十二月に遽かに造られし宮城にして、翌十三年正月この宮にて朝を受けたまひしが、當時宮垣未だ成らず、繞らすに帷帳を以てせられし由續日本紀に見え、なほ(1003)同年十一月の記事に曰はく
 右大臣橘宿禰諸兄奏曰、此間朝廷以2何名號1傳2於萬代天皇1。 勅曰、號爲2大養徳恭仁大宮1也
と見えたり。これ即ちここに「オホヤマトクニノミヤコ」といへる典據なりとす。かくて翌十四年正月には大極殿未だ成らざるを以て權に四阿《アツマ》殿をつくり、ここにて朝を受けましぬる由これまた續日本紀に見ゆ。天平十六年正月には百官を會して、恭仁難波二京の何れを都と定むべきかを問はせ賜ひ、又市人にも問はせ賜ひしが、百官の説は可否略半し、市人は殆どすべて、恭仁京を都とせむと願ひし由なるが、二月には遂に難波宮を皇都とせられ、天平十七年にはまた平城宮に還られ、十八年九月には恭仁宮の大極殿を國分寺に施入せられたれば、五年許の間の帝都たりしなり。今、この歌は天平十六年二月なれば、聖武天皇は難波宮にましまし、恭仁宮には知太政官事鈴鹿王等が留守官たりし時なり。
○打靡 舊訓「ウチナビキ」とよめるを代匠記に「ウチナビク」とよめるより諸家之に隨へり。按ずるにこれは枕詞にして、用言が枕詞たる時は終止形よりする例なれば、「ウチナビク」をよしとすべし。而してその假名書の例として卷五「八二六」に「有知奈※[田+比]久波流能也奈宜等《ウチナビクハルノヤナギト》」卷二十「四三六〇」に「宇知奈妣久春初波《ウチナビクハルノハジメハ》」(卷二十にはなほ二例あり)あるにて明かなり。これは春になれば、草木とも若くのびいで、なよ/\とうちなびくものなればかくいひて枕詞とせりと思はる。
○春去奴禮婆 「ハルサリヌレバ」とよむ。考は「奴」は「玖」の誤なりとして「ハルサリクレバ」とせり。然れど、さる字を書ける本一もなければ隨ひ難く、卷十「一八三六」に「霞田菜引春去爾來《スミタナビキハルサリニケリ》」といふ例(1004)もあれば、もとのまゝにてよきなり。「春サル」といふ語は卷一「一六」の「春去來者《ハルサリクレバ》」の下にいへるにおなじ。
○山邊爾波 「ヤマベニハ」とよむ。槻落葉は「ヤマビニハ」とよみたれど、舊訓によるべし。この語も、卷二「一五七」の「山邊眞蘇木綿《ヤマベマシユフ》」に例ありてここにいへるにおなじ。恭仁京の地は高からねど、四面に山近くめぐれる地なり。
○花咲乎爲里 舊訓「ハナサキヲセリ」とよめるを考に「爲」は「烏」の誤として、「ハナサキヲヽリ」とよめり。この「ヲヽリ」といふ語は卷二「一九六」の「打橋生乎爲禮流川藻毛叙《ウチハシニオヒヲヲレルカハモモゾ》云々」の「乎爲禮流」の基たる語にしてそこにて既に論ぜる如く、必ずしも「爲」を「烏」の誤ともいひ難きが、「ヲセリ」にあらずして「ヲヽリ」なることは勿論なり。その意は花のしげく咲ける形容たることと見ゆ。
○河湍爾波 「カハセニハ」とよむ。「湍」を「セ」とよむことは卷一「五四」の「許湍乃春野乎《コセノハルヌヲ》」の「湍」におなじ。この「河セ」は古の泉河今いふ木津河の川瀬なり。
○年魚小狹走 「アユコサバシリ」とよむ。考は「小」字を「子」と改めたり。されど、さる本一もなし。「子」も國語にて「小」の意なるものなれば、畢竟同義なり、改むる必要なし。「年魚」を「アユ」とよむことはこの卷「二七一」の「年魚市方」の條にいへるが、ここは實際の魚なり。さて「アユコサバシル」といへる例は卷五「八九九」に「加波度爾波阿由故佐婆斯留《カハトニハアユコサバシル》」卷十九「四一五六」に「河瀬爾年魚兒狹走《カハセニアユコサバシリ》」といふあり。さてこの「子」は歌詞として加へしものか、又は實際の「鮎子」なるかの問題あり。先づ卷九の「阿由故佐婆斯留《アユコサバシル》」とある歌は娘等更報歌三首の中なるが、その上の「八五八」の歌に「和可由都(1005)流《ワカユツル》」とあり、その上なる「蓬客等更贈歌三首」の第三首「八五七」には「和可由都流《ワカユツル》」とあり、さればこの「年魚子」は若鮎なること著し。又卷十九のはそのはじめに「春去者花耳爾保布《ハルサレバハナノミニホフ》云々」とありて、左注に「季春三月九日擬2出擧之政1行2於舊江村1道上屬目物花之詠并興中所作之歌」とありて、天平勝寶二年三月中の詠なりとす。されば、これらはいづれも春の詠にして若鮎をさせり。若鮎は春より初夏までの時期にして體小く、小動物を食とする時期にして、味も佳ならず、鮎は盛夏よりは成熟しては動物を食とせず、體また肥大す。その若鮎を「アユコ」といへるは自然のさまを知れる語にして當然なりとす。「さばしる」は上に例をあげたり。「さ」は接頭辭にして「はしる」といふ語に、鋭くこまかき感じを添ふる意あり。若鮎の勢鋭く水中を走るさまをよくいひあらはせる語と思はる。而して鮎は又木津川の名産なり。
○彌日異 「イヤヒケニ」とよみて異説なし。この語の假名書の例は卷二十「四五〇四」に「伊也比家爾伎末勢和我世古多由流曰奈之爾《イヤヒケニキマセワガセコタユルヒナシニ》」といふあり。又こゝと同じ書きざまなる例は卷十一「二七〇二」に「彌日異戀乃増者在勝申自《イヤヒケニコヒノマサラバアリカテマシジ》」などあり。この語は「ヒニケニ」といふ語と基を同じくしてそれに「イヤ」を冠して一語の如くにしたるものなり。「ヒニケニ」といふは卷十五「三六五九」に「安伎可是波比爾家爾布伎奴《アキカゼハヒニケニフキヌ》」卷十三「三三二〇」に「妾戀叙日爾異爾益《ワガコヒゾヒニケニマサル》」などの例にて知るべし。「異」の字を「ケニ」とよむことは卷十「二二九五」「我屋戸之田葛葉日殊色付奴《ワガヤドノクズバヒニケニイロヅキヌ》」卷十一「二五九六」の「如是耳戀也度月日殊《カクノミシコヒヤワタラムツキニヒケニ》」の「殊」を「ケニ」とよむに同じくこの「ケニ」は元來卷二十「四三〇七」の「秋等伊弊婆許己呂曾伊多伎宇多弖家爾花爾奈蘇倍弖見麻久保里香聞《アキトイヘハココロゾイタキウタテケニハナニナゾヘテミマクホリカモ》」の「家爾」にして今の「コトニ」の意にして、卷十「二(1006)一六六」の「浪間從鳥音異鳴秋過良之《ナミノマユトリガネケニナクアキスギヌラシ》」卷十二「二九四九」の「得田價異心欝悒《ウタテケニココロイブセミ》」卷十三「三三二八」の「衣袖大分青馬之嘶音情有鳧常從異鳴《コロモデヲアシゲノウマノイバエゴヱココロアレカモツネユケニナク》」の「異《ケニ》」の字はその本義に用ゐたるものなり。ここはその「ケニ」といふ「異」字をば、卷一「六〇」の「氣長妹《ケナガキイモ》」卷二「八五」の「氣長成奴《ケナガクナリヌ》」「九〇」の「氣長久成奴《ケナガクナリヌ》」この卷「二六三」の「氣並而見※[氏/一]毛和我歸志賀爾安良七國《ケナラベテミテモワガユクシガニアラナクニ》」の「氣」即ち日數の經過の意の「ケ」に借り用ゐたるなり。かくて「日に氣に」は「日に日に」にといふに近き意なるをその上に「彌」といふ、副詞を冠せしめたるものにして「いやひにけに」といふべきを口調の爲に約めて「イヤヒケニ」といへるなり。この「いや」といふ語は卷二「二一一」の「彌年放《イヤトシサカル》」の下にいへる如く一の副詞にしてこの語の本意は「榮ゆる」にかかるものと思はれたり。即ちいよいよ日に氣に榮ゆる時にといふ意なり。從來「イヤ」を「ヒケニ」に直ちにつづくとせるは誤れるものなり。
○榮時爾 「サカユルトキニ」とよむ。彌々益々榮ゆる時にといふなり。
○逆言之 舊訓「サカコトノ」とよめるを、考に「オヨヅレノ」とよみてより諸家皆之に隨へり。この語は上の「四二一」の「逆言之狂言等可聞《オヨヅレノタハゴトトカモ》」の下に既に述べたる所なり。ここもそれとおなじく「オヨヅレノ」とよむべく、意もそこにいへるにおなじ。
○狂言登加母 「タハゴトトカモ」とよむ。この語、上の「四二一」の「狂言等可聞《タハゴトトカモ》」とあるに同じければ、そこを見るべし。而してこの「カモ」は疑問の助詞にして係り詞たるものなり。
○白細爾 「シロタヘニ」とよむ。「白細」を「シロタヘ」とよむことは上「四六〇」の「白細之衣袖不干《シロタヘノコロモデホサズ》」の條にいへり。ここは白き装束を舍人がつけたる由にいへるなれば、「白き栲(織物の名)の衣に」とい(1007)ふ意なり。
○舍人装束而 「トネリヨソヒテ」とよむ。「舍人」の事は卷二「一七一」等の題詞にいへり。ここは皇太子にましまさぬによりて、令制には舍人の文字を用ゐずして帳内の文字を用ゐる。されど、國語にては同じく「トネリ」といへり。軍防令によるに、帳内は一品に一百六十人、二品に一百四十人、三品に一百二十人、四品に一百人なり。安積皇子の品位明かならねば、その數いふを得ず。帳内は六位以下の子及び庶人をとりて充てらるゝ規定なり。「装束」を「ヨソヒ」とよむことは卷二「一九九」の「神宮爾装束奉而《カムミヤニヨソヒマツリテ》」の條にいへり。舍人が白細の衣に装束ひてといふにて、これは素服をつけたるにて葬事を營むことをいへるなり。
○和豆香山 「ワツカヤマ」とよむ。「ワツカ」は山城國相樂郡にありて後に和束杣郷(興福寺官務牒)といひ、後又和束莊ともいひて北野社領となれり。和束莊といふは、「木屋、杣山、撰原、下鳴、南、釜塚、中、門前、湯船、原山、園、別所、白栖、石寺、田村、新田」の諸村を含める由山城志にいへるが、その地は今、湯船・東和束、西和束、中和束の四村に分れたり。この地は久邇京の東北にあたる山中にありて、北は綴喜郡と近江の甲賀郡とに堺せり。ここに和豆香山とあるは、この山中に安積皇子の御墓を營みて葬り奉りし由なり。その御墓は今の西和束村大字白栖の東、大勘定にありて陸地測量部の五萬分一地圖にも之を標せり。その所在は古の恭仁京の北邊より和束川(一名布當川)を溯りて和束莊の山中に入りてその川より北の側の山中にあり。されど、歌にては一帶にこの山間に入りませる由にいへるものなるべし。
(1008)○御輿立之而 舊訓「ミコシタテシテ」とよみたり。考は「ミコシタタシテ」とよみたるが、それより後の諸家皆これによれり。舊訓による時は「ミコシタテ」といふことを「して」といふ意に解すべきが、「みこしたて」といふこと古今に聞く所なし。「ミコシタタシテ」といふ語は他に例なけれど、卷一「四九」の「御獵立師斯時者來向《ミカリタタシシトキハキムカフ」卷三「二三九」の「馬並而三獵立流《ウマナメテミカリタタセル》云々」卷十九「四一九〇」に「和我勢故波宇河波多多佐禰《ワカセコハウカハタタサネ》」など、體言に直ちにつゞけたる例あれば、「ミコシタタシテ」とよむこと不合理ならざるのみならず、ここは「タチタマヒテ」の意なるべきによりて「タタシテ」とよむをよしとす。さて「御輿」といふはここは御葬儀の御輿なること明かなり。これを考に「葬車」といひ、略解に御葬の「くるまなり」といひ、攷證は日本書紀孝徳天皇卷に皇子以上には轜車を用ゐ、臣下には輿を用ゐる制あり、喪葬令にも親王大臣も轜車を用ゐらるゝ規定なるにここに輿とあるは「御身、皇子におはしませど、臣下のなみに輿にて送り奉りしにてもあるべし」といへり。然れども、令のこの規定は支那の法文により定められしものなるべくして、古來の大葬には必ず輦を用ゐられしを見れば「こし」の方古儀たるを見るべし。ことに和束の山中は車の通ふべき所にあらざるはいふまでもなし。次に「タタシテ」は攷證に「在立之などいふ立と同じく、そこに立やすらふをいひて、ここは輿をとゞむる也。今も駕《カゴ》をとどむるを立《タツ》るといふに同じ」といへり。
○久竪乃 「ヒサカタノ」とよみ天の枕詞なること上に屡いでたり。
○天所知奴禮 舊訓「アメシラレヌレ」とよみたれど、槻落葉に「アメシラシヌレ」とよみ、後諸家皆之に同じ。「所如」を「シラス」とよむことは卷二「一七一」の「國所知麻之《クニシラサマシ》」等例多く、ここに似たる語は卷(1009)二「二〇〇」の「久堅之天所知流君故爾《ヒサカタノアメシラシヌルキミユヱニ》、日月毛不知《ツキヒモシラズ》、戀渡鴨《コヒワタルカモ》」といふ例あり。語の意はそこにもいへる如く、字義のまゝにいへば天を領したまへりと云ふ事なるが、事實は薨去即ち神去りまして天に止まり給ふといふ事なるべきなり。さてここに「奴禮」とあるは、已然形にしてこれにて、條件を示して下に接續すること、後世ならば「ぬれば」といふべき所なり。この語格は上「四七一」の「山隱都禮《ヤマガクリツレ》」におなじ。
○展轉 舊訓「コヒマロヒ」とかけるを代匠記に「コイマロビ」とし、童蒙抄に「フシマロビ」とせり。さてこの「展轉」といふ熟字は詩經周南關雎の章に「悠哉悠哉輾轉反側」の「輾轉」と同じき語にして毛詩鄭箋には「輾本亦作展」とあるなり。かくて詩經の道春點のよみ方は「フシマロビ」とよめり。童蒙抄の訓は蓋しこれに基づくものならむ。さて「マロブ」といふ語の假名書の例は本集には見えねど、催馬樂の總角に「まろびあひにけり」とあり「轉字」は「マロブ」とよむべき字たることは類聚名義抄に「マロバス」の訓あるにて知るべし。さては「フシマロビ」とよむべきかといふに、「フス」といふ語に似たる語に「コユ」といふあり。これは卷十七「三九六九」に「宇知奈妣伎登許爾己伊布之《ウチナビキトコニコイフシ》」「三九六二」に「宇知奈妣伎等許爾許伊布之《ウチナビキトコニコイフシ》」卷十九「四二一四に「玉藻成《タマモナス》、靡許伊伏《ナビキコイフシ》」又卷五「八八六」に「等許自母能宇知許伊布志提《トコジモノウチコイフシテ》」などあり。この「こい」は「こゆ」といふ上二段活用の語の連用形にして、この語は「臥す」といふことの古語と見ゆれど、「コイフシ」とつづけるを見れば、「ふし」と似て又別の意ある語なるべし。これは恐らくは反轉の意ありてたふれふす如き意ありと思ゆ。かくてここは、上の諸例によりて「コイマロビ」とよむべきものなるべし。舊訓の「コヒ」は假名遣の誤(1010)たり。
○※[泥/土]打雖泣 「※[泥/土]」の字流布本「泥土」の二字とせり。されど、多くの古寫本及び活字無訓本に「※[泥/土]」の一字とせり。流布本は蓋し、活字附訓本に二字とせるに基づくものならむ。「※[泥/土]打」を「ヒヅチ」とよむことは卷二「一九四」の「玉藻者※[泥/土]打」によりて證すべく、「ヒヅチナケドモ」の例は卷十「三三二六」に「展轉土打哭杼母」あり。「ヒヅチ」の意諸家の説はたとへば攷證に「ふしまろびて涙に衣をひたし泣《ナケ》ども云々」といへるが如き意とするものなれど、「ヒヅチ」は既にいへる如く、ただぬれ漬《ヒタ》る事にあらざれば、説明不十分なり。ここは既にいへる如く、泥打つの意に衣の濡れ汚るゝことなり。ここは勿論衣の濡れ汚るゝことなれど、「ひづち」といふ語の本意ことなれば、それより受くる感じも亦おのづから異なるべきものなり。
○將爲須便毛奈思 「セムスベモナシ」とよむこと及びその意は上「四六六」の「將爲須辨毛奈思」におなじ。
○一首の意 心にかけて思ひ奉らむだにも思慮に絶して畏きことなるかな。語にて申し奉らむだにも忌み憚るべく恐れ多きことなるかな。わが大君、安積皇子の命の萬代にわたりて知し食すべき大日本久邇の京は、春になりぬれば、四方の山邊には花咲き滿ちて枝もしをるゝ許りに見え河の瀬には若點の勢よくさ走りて、その春の花の榮え、若點の勢盛んなるが如くわが皇子命も春秋に富みたまひ、日に日に彌々榮え坐す時に、如何なる惑ひ人のいふ凶言にてあるか、皇子の宮の舍人は白妙の装束をつけて、皇子の御輿を和豆香山の中に導き申してそこに立(1011)たせ給ひて、そこより天へ登りましぬといへば、われはそれをきくと共に倒れ臥し轉び、衣を濡し汚して泣けども、その甲斐もなくて永く皇子に別れ奉りけるよとなり。
 
反歌
 
476 吾王《ワガオホキミ》、天所知牟登《アメシラサムト》、不思者《オモハネバ》、於保爾曾見谿流《オホニゾミケル》、和豆香蘇麻山《ワツカソマヤマ》。
 
○吾王 「ワガオホキミ」とよむ。安積皇子を親しみ奉りて申せること論なし。
○天所知牟登 舊訓「アメシラレムト」とよみたれど、考に「アメシラサムト」とよめるをよしとすること長歌の場合におなじ。その意も長歌の「天所知奴禮」に同じく、事實は薨去をいひ、ここはそこに葬られたまふことを下に含みたるなり。
○不思者 「オモハネバ」とよむこと論なく、意も明かなり。
○於保爾曾見谿流 「オホニゾミケル」とよむ。「谿」は音にて「ケ」に借りたるなるが、「谿流」の二字にて、その沿ひて溯り行く和束川を思ひたる自然の文字遣と見えたり。「オホニミル」といふ語は卷二「二一九」の「天數凡津子之相日《アマカゾフオホツノコガアヒシヒニ》、於保爾見敷者《オホニミシカバ》、今叙悔《イマゾクヤシキ》」にその例ありて、おほよそになほざりにその和豆山を見たりける由なり。
○和豆香蘇麻山 「ワツカソマヤマ」とよむ。「ソマヤマ」は杣山なり。「ソマ」といふ語は卷七「一三五五」に「眞木柱作蘇麻人《マキバシラツクルソマビト》」又卷十一「二六四五」に「宮材引泉之追馬喚犬二立民乃《ミヤギヒクイヅミノソマニタツタミノ》云々」などの例ありて、和名鈔には「杣」の字に注して「功程式云、甲賀杣、田上杣、杣讀曾萬所出未詳。但功程式修理算師山(1012)田福吉等弘仁十四年所撰上所也」とあり。狩谷※[木+夜]齋の箋註に曰はく「按、曾萬蓋山中殖2樹木1爲2採造屋材之處1云々」とあり。若し、古、この山中一帶に杣山たりしならむ。太平記天正本には後醍醐天皇隱岐に行幸ありし後、光嚴院の元弘二年十二月に行はれたる大嘗會に營まれし大嘗宮の材木を和束山にて取られし由を記す。されば、この地、後まで杣山たりしものと知られたり。今、中和束村の大字に杣田といふ地名あるは古の名殘を止めたるものならむ。さて「わつかそま山」といふは、「わつか山」の「杣山」といふ義なるべし。
○一首の意 わが安積皇子の薨去ありて、この和束山に葬り奉ることあるべしとも思はざりしことなれば、今まではおほよそに見過し來りしことよとなり。かくて言外に今よりは忘れがたく親しく思はるゝといふ意を含めたり。
 
477 足檜木乃《アシヒキノ》、山左倍光《ヤマサヘヒカリ》、咲花乃《サクハナノ》、散去如寸《チリヌルゴトキ》、吾王香聞《ワガオホキミカモ》。
 
○足檜木乃 「アシヒキノ」とよむ。「山」の枕詞たり。
○山佐倍光 舊訓「ヤマサヘテリテ」とよめり。槻落葉の「ヤマサヘヒカリ」とよみてより諸家しかよめり。按ずるに「光」は「ヒカル」とも「テル」とも讀みうべき文字なるが、かく草木の花紅葉につきていへる例を見るに、卷十五「三七〇〇」に「安之比寄能山下比可流毛美知葉能《アシヒキノヤマシタヒカルモミチバノ》云々」とありて「ヒカル」といふをよしとすべきに似たれど、又卷十「一八六一」の「能登河之水底并爾光及爾三笠之山者咲來鴨《ノトガハノミナソコサヘニテルマデニミカサノヤマハサキニケルカモ》」の「光」は必ず「テル」とよむべきものなり。かくてこれはいづれにてもよかるべきものな(1013)るが、「光」を動詞の活用形のまゝ複語尾を加へぬものとするときは「ヒカリ」の方によるべし。攷證に曰はく、「こはいろいろの花の咲さかえて、山さへ色ににほふばかりなるを皇子のさかえおはしましゝにたとへて云々」といへり。略、かゝる意なるべし。
○咲花乃 「サクハナノ」とよむ。これはその花の「山さへ光り咲く」その花をさすなり。
○散去如寸 舊訓「チリユクゴトキ」とよめり。考は「チリニシコトキ」とし、略解之に隨ひ槻落葉は「チリヌルゴトキ」とし古義之に隨へり。攷證は「去はつねにゆくともにしともぬるとも訓る字にて、こゝもちりゆくとも、もりにしとも、ちりぬるとも、いづれによみても意きこゆればさだめがたし。さは舊訓に從ふのみ」といへり。されどここは「チリヌル」とよむ方意よくかなへりと見ゆ。
○吾王香聞 「ワガオホキミカモ」とよむ。この語遣は卷一「三八」の「神乃御代鴨」以下屡見ゆれば、今更に説かず。
○一首の意 山山が光る如くに美しく咲きたる花の散りたる如くに、青春の盛りにまし/\て前途洋々の希望に滿ちましし際に忽然としてこの世を去りたまひしわが皇子なるかなとなり。感慨無量まことに家持の青年時代の傑作と評すべし。
 
右三首、二月三日作歌
 
○右三首 これは長歌と反歌二首とを合せ算したるなり。
 
(1014)○二月三日作歌 安積皇子の薨去は閏正月十三日なりしなれば、それよりかぞへて(閏正月は大なれば三十日なり)二十一日目なり。この時既に、和束山に葬り奉れるものと見えたり。
 
478 掛卷毛《カケマクモ》、文爾恐之《アヤニカシコシ》、吾王《ワガオホキミ》、皇子之命《ミコノミコト》、物乃負能《モノノフノ》、八十伴男乎《ヤソトモノヲヲ》、召集聚《メシツドヘ》、率比賜比《アトモヒタマヒ》、朝獵爾《アサガリニ》、鹿猪踐起《シシフミオコシ》、暮獵爾《ユフガリニ》、鶉雉履立《トリフミタテ》、大御馬之《オホミマノ》、口抑駐《クチオサヘトメ》、御心乎《ミココロヲ》、見將明米之《メシアキメシ》、活道山《イクヂヤマ》、木立之繁爾《コダチノシジニ》、咲花毛《サクハナモ》、移爾氣里《ウツロヒニケリ》。世間者《ヨノナカハ》、如此耳奈良之《カクノミナラシ》、大夫之《マスラヲノ》、心振起《ココロフリオコシ》、劔刀《ツルキタチ》、腰爾取佩《コシニトリハキ》、梓弓《アヅサユミ》、靫取負而《ユギトリオヒテ》、天地與《アメツチト》、彌遠長爾《イヤトホナガニ》、萬代爾《ヨロヅヨニ》、如此欲得跡《カクシモガモト》、憑有之《タノメリシ》、皇子乃御門乃《ミコノミカドノ》、五月蠅成《サバヘナス》、驟騷舍人者《サワグトネリハ》、白栲爾《シロタヘニ》、服取著而《コロモトリキテ》、常有之《ツネナリシ》、咲比振麻比《ヱマヒフルマヒ》、彌日異《イヤヒケニ》、更經見者《カハラフミレバ》、悲|呂〔左○〕可聞《カナシキロカモ》。
 
○掛卷毛文爾恐之 「カケモクモアヤニカシコシ」とよむ。「文」の「アヤ」に用ゐたるは卷二「一六二」「二〇四」に例あり。意上の歌におなじ。
○吾王皇子之命 「ワガオホキミ、ミコノミコト」とよむべし。舊訓下に「ノ」を加へたれど、ここは加へざるをよしとす。意上の歌のにおなじ。
○物乃負能 「モノノフノ」とよむ。ここに「負」を「フ」の假名に用ゐたり。かゝる例は卷「一〇四七」の「物負之八十伴緒乃打經而里並敷者《モノノフノヤソトモノヲノウチハヘテサトナミシケバ》」又卷二十「四四〇ニ」の「怒佐麻都里伊波負伊能知波意毛知(1015)知我多米《ヌサマツリイハフイノチハオモチチガタメ》」「四四〇〇」の「伊弊於毛負等伊乎禰受乎禮婆《イヘオモフトイヲネズヲレバ》」の「負」又卷五の詞書の筑前國怡土郡深江村子負原云々」とあるなり。これは音も「フ」なれど、恐らくは訓にて「大《オホ》を「ホ」に用ゐる如く「オフ」の「フ」をとりて假名にしたるなるべし。これは「八十」の枕詞なることもあれど、ここは實義ある語なり。その意義は卷一「五〇」の「物乃布能八十氏河爾《モノノフノヤソウヂガハニ》」の條にいへり。
○八十伴男乎 「ヤソトモノヲヲ」とよむ。この語の例は少からぬが一二をあげむ。卷四「五四三」に「物部乃八十伴雄與《モノノフノヤソトモノヲト》」卷十七「三九九一」に「物能乃敷能夜蘇等母乃乎《モノノフノヤソトモノヲ》」卷十九「四二五四」に「物乃布能八十友之雄乎《モノノフノヤソトモノヲヲ》」の如く「モノノフノ」といふ語につけるもあれど、又卷十七「四〇二三」に「賣比河波能波夜伎瀬其等爾可我里佐之夜蘇登毛乃乎波宇加波多知家里《メヒカハノハヤキセゴトニカガリサシヤソトモノヲハウカハタチケリ》」卷十九「四二一四」の「宇都曾美能八十作男者大王爾麻都呂布物跡《ウツソミノヤソトモノヲハオホキミニマツロフモノト》」の如く單に「八十伴男」といふことあり。又單に「トモノヲ」といへるあり。卷七「一〇八六」に「靫懸流伴雄廣伎大伴爾《ユギカクルトモノヲヒロキオホトモニ》」卷二十「四四六六」に「安伎良氣伎名爾於布等毛能乎己許呂都刀米與《アキラケキナニオフトモノヲココロツトメヨ》」の例これなり。さてこの「トモノヲ」といふ語の義は、古事記の「五伴緒」の説明として古事記傳にいへるを參考とすべし。曰はく、
 伴緒 凡て伴《トモ》とは官職《ツカサ》にまれ、何《ナニ》にまれ、一部《ヒトムレ》ともなふを云、某伴《ナニノトモ》、某伴《ソレノトモ》と云是なり。(中略)緒は長《ヲサ》の本語《モトノコト》にて袁佐《ヲサ》と云は長兄名《ヲセナ》の意なり。書紀に魁帥渠帥などを伊佐袁と訓するも勇長《イサヲ》なり。然れば伴緒《トモノヲ》は其(ノ)部屬《トモ》の長《ヲサ》を云|稱《ナ》なり。(師説に此處《コヽ》の文を引て此(ノ)五伴(ノ)緒の中に二柱は女神なることを云(ヒ)、又祝詞に比禮懸《ヒレカクル》伴(ノ)緒と云るも女なれば、伴男《トモノヲ》などゝ書る男《ヲ》は皆借字にて男女にわたる稱なる由云れたるは信にさることなりかし。)さて緒《ヲ》と云(フ)意は師(ノ)説に、一(ツ)の(1016)緒《ヲ》に數の玉を貫くに譬へて云(フ)なれば、伴(ノ)緒と書る、正字なり、貫首など云貫も意通へりと云れたるは然ることなれども今少し精《クハ》しからず。其故は玉(ノ)緒などを袁《ヲ》と云も、多《オホク》の玉などを總縛《スベクク》る故の名、又物の長《ヲサ》を袁《ヲ》と云も、其(ノ)徒を統帥《スベヒキヰ》る故の稱にて、本同言なり。然れども何方《イヅレ》を本とも末とも定むべきに非れば、玉(ノ)緒は例には引(ク)べけれども、其《ソレ》に譬へて云とは云べきに非ずなむ。(さて又右の師説の意は伴(ノ)緒をたゞ其|部類《トモガラ》のことゝ心得て云(ハ)れたる物にして其(ノ)長の意に云るには非ず。是も又|精《クハ》しからず。其(ノ)故は次に云べし。)さて今右の、五柱(ノ)神を指(シ)て五伴(ノ)緒と云るは石屋戸(ノ)段に見えたる如くに此神たち各|掌《ツカサト》れる職《ワザ》ありて、其|職《ワザ》々の部屬《トモガラ》を帥《ヒキヰ》る長《ヲノ》神なればなり。(五神を指て五伴(ノ)緒と云(ヘ)れば、一伴緒《ヒトトモノヲ》は一神なり。然れば、伴(ノ)緒とは其(ノ)長《ヲサ》を云て、其(ノ)部類《トモガラ》を云に非ること明けし。書紀に此(レ)を五部神《イツトモノヲノカミ》と書(ケ)れば、五伴(ノ)緒はたゞ五部の意とも聞ゆるに似たれども、彼(レ)も五神を擧て云(ヘ)れば、其意に非ず。五部《イツトモ》の長《ヲノ》神といふこゝろなり。下卷遠(ツ)飛鳥(ノ)宮(ノ)段に定(メ)2賜(フ)天(ノ)下之|八十友緒氏姓《ヤソトモノヲノウヂカバネ》1(八十伴(ノ)緒とは所有諸《アラユルモロ/\ノ》の伴(ノ)緒を總《スベ》云なり。さて是は、長に限らず、部屬《トモガラ》までにわたる如く聞ゆめれど、これらは朝廷に仕奉る官人たちを大凡《オホヨソ》に云る、其《ソ》はいづれもほど/\に帥《ヒキヰ》る部屬《トモガラ》あれば、此(レ)も皆|長《ヲサ》なり。此外にも部(ノ)字などを書て、廣く其(ノ)屬を云る如く聞ゆるも皆くはしくいへば、其(ノ)長なり。又、萬葉に多く(中略)十九【二十七丁】に八十伴男者大王爾麻都呂布物跡|定有《サタマレル》官爾之在者云々(これに官《ツカサ》とあるも長なるゆゑなり)などよめり。大殿祭(ノ)祝詞(ノ)詞別に、皇御孫命(ノ)朝乃御膳、夕乃御膳供奉流、比禮懸伴(ノ)緒、襁懸伴(ノ)緒、大祓(ノ)詞に天皇朝廷爾仕奉留比禮挂伴男、手襁挂伴男、靫負伴男、劍佩伴男、伴男能八十伴男乎始弖、官(1017)官爾仕奉留人等(中略)とある是(レ)にて八十伴(ノ)男乎始|弖《テ》と云るを以て伴男《トモノヲ》は其(ノ)長なることを思ひ定むべし。さて次に官々爾《ツカサ/\ニ》云々と云るぞ、其(ノ)下に屬《ツケ》る部々《トモ/\》の人等《ヒトドモ》にはありける。
とあり。このうち「長は長兄名《ヲセナ》の意なり」といへるなど首肯し難き點なれど、その大旨はよくいはれたるなり。まことに部類は即ち「トモ」にて、その部類を組織する各員が「トモガラ」にして、その伴を統一する主脳者が伴緒たることは著しきなり。この緒が統一者をさすことは、日本書紀天智卷の歌に「多致播那播於能我曳多曳多那例々騰母《タチバナハオノガエダエダナレレドモ》、陀麻爾農矩騰岐於野兒弘※[人偏+爾]農倶《タマニヌクトキオヤジヲニヌク》」とあるが如く、多くの玉が一の緒にて統べらるゝをいふ、命を緒といふも生るるより死ぬるまで一にて貫けるが故と思はる。ここにいふ「八十伴男」は古事記下卷允恭天皇の段にいふ「天下之八十友緒」といへるにおなじく、あらゆる諸の伴(ノ)緒といへるなるが、その伴緒即ち部類の長をさせば、それの部屬《トモガラ》はもとより之に含まるればなり。かくて「モノノフノヤソトモノヲ」は多くの諸臣僚といふこととなることいふまでもなし。
○召集聚 舊訓「メシアツメ」とよめり。代匠記は「めしつどへともよむべし」といひたるが、考、槻落葉、略解、攷證、古義等皆しかよめり。この三字のうち「召」は「めし」とよむこと勿論なり。「集聚」の二字は一語をなすものなるが、家持の歌に殊にこの歌にかく熟字を用ゐること多し。この熟字は左傳、昭十七年の「五鳩(ハ)鳩民者也」の疏に「治v民尚2其集聚1惡2其流散1故以v鳩爲2官名1、欲3聚2叙其民1也」ととも見え、又易林に「鳳凰在左、麒麟在右、仁聖相遇、伊呂集聚、時無殃咎、福爲我母」とあり。かく漢語として用ゐたるを使用したりと見ゆ。さて「アツム」といへる語の用例は本集に見えざるが、こ(1018)れは或は當時歌詞にてあらざりしが故か。「集」を「ツドヒ」とよむ例は卷二「一六七」にあり。槻落葉に曰はく「古事記に訓v集云(フ)2都度比(ト)1とあり。今は令《セ》v集《ツトハ》也。ハセの約《ツヾ》めへなり」といへるが、この約音説は首肯せられず。これは集はする意にして下二段活用の語たるなり。
○率比賜比 舊訓「イサヨヒタマヒ」とよみたれど「率」を「イサヨヒ」とよむべき理由なし。代匠記は「イサナヒタマヒ」とよみ、考は「アトモヒタマヒ」とよめり。ここはただ「イザナフ」意にあらねば「アトモヒタマヒ」とよむべし。この語の意と例とは卷二「一九九」に「御軍士乎安騰毛比賜《ミイクサヲアトモヒタマヒ》」とある下にいへり。
○朝獵爾 「アサガリニ」とよむ。この語の例及び「ユフカリニ」に對する例は卷一「三」の「朝獵爾今立須良思暮獵爾今他田渚良之《アサガリニイマタタスラシユフガリニイマタタスラシ》」あり。それに照して意を知るべし。
○鹿猪踐起 「シシフミオコシ」とよみて異説なし。「鹿」「猪」の二字いづれも「しし」とよみうべきものなるが、それを一として「しし」にあてたりと見ゆるが、かゝる用例は今一つ、卷十二「三〇〇〇」に「小山田之鹿猪田禁如《ヲヤマダノシシダモルコト》」といふあり。これは「しし」といふはたゞ一種の獣にあらねばなり。即狩獵の目的たる獣は皆「しし」といひしならむ。さてかくいへる例は卷六「九二六」に「朝獵爾十六履起之《アサガリニシシフミオコシ》」あり。「ふみおこし」につきては童蒙抄に「朝つゆに伏したるししを踏みおこし也」といへり。さる事なるべし。但し、上の「朝獵」は對句の爲にいへるにて、獣狩を朝に限れりといふことにはあらざるべし。
○暮獵爾 「ユフガリニ」なり。意既にいへり。
(1019)○鶉雉履立 舊訓「トリフミタテヽ」とへり。されど考の「トリフミタテ」とよめるに隨ふべし。この方力強く聞ゆればなり。「鶉雉」は鷹狩する時の獲物の著しきは鶉雉などなるが故にこの二字を以て代表として「トリ」とよませたるものなるべし。さてかくいへる例は卷六「九二六」に「夕狩爾十里※[足+榻の旁]立《ユフガリニトリフミタテ》」あり。古義に曰はく「起(シ)立(テ)は伏たる鳥獣を驚かし起し立しむるを云」といへり。これも、鷹狩は暮に催したまふといふにあらずして暮獵は對句とする爲にいへるまでなり。
○大御馬之 舊訓「オホミウマノ」とよみたれど、童蒙抄の「オホミマノ」とよめるをよしとす。「御馬」を「ミマ」といへる例は卷五「八七七」に「美麻知可豆加婆和周良志奈牟迦《ミマチカヅカバワスラシナムカ》」あり。「大御馬」とは安積皇子の騎りたまへる馬をほめて申したるなり。
○口抑駐 舊訓「クチオサヘトメ」とよめるを童蒙抄は「クチオシトヾメ」とよめるが、「抑」は「オサヘ」とはよむべけれど、「オシ」といふべきにあらねば舊訓によるべし。卷六「一〇〇二」の「馬之歩押止駐余《ウマノアユミオサヘトドメヨ》」と字面稍似たり。その「押」を舊訓「ヲシテ」とよみたるをも、代匠記には「オサヘ」とよめるなり。「駐」は「トドム」とよむこと論なし。攷證に「馬の口づらをおさへてとゞむる也」といへるにて意を知るべし。
○御心乎 「ミココロヲ」とよむ。意は次の句に合せていふべし。
○見爲明米之 舊訓「ミセアキラメシ」とよめれど正しからず。考に「メシアキラメシ」とよみ、玉の小琴に「ミシアキラメシ」とよめり。「メシ」又は「ミシ」は「見る」の敬語として、サ行四段活用に再び活用せしめしものなるが、これには「メシ」といふ形のみありて必ず「ミシ」とよむべきものと主張す(1020)べき證は一も存せず。卷十八「四〇九八」に「許乃於保美夜爾安里我欲比賣之多麻布良之《コノオホミヤニアリガヨヒメシタマフラシ》」卷二十「四五〇九」に「於保吉美能賣之思野邊爾波之米由布倍之母《オホキミノメシシヌベニハシメユフベシモ》」又「メシアキラム」といふべき旁例は卷二十「四三六〇」に「倍之多麻比安伎良米多麻比《メシタマヒアキラメタマヒ》」「四四八五」に「可久之許曾賣之安伎良米晩阿伎多都其等爾《カクシコソメシアキラメアキタツゴトニ》」などあり。「見爲《メシ》」といへるは下の「活道山」を見たまふ意なり。「アキラメシ」は「御心を明めし」といふことにて卷十八「四〇九四」に「美知能久乃小田在山爾金有等麻宇之多麻敝禮《ミチノクノヲタナルヤマニクガネアリトマウシタマヘレ》、御心乎安吉良米多麻比《ミココロヲアキラメタマヒ》」卷十七「三九九三」に「可久之許曾美母安吉良米々《カクシコソミモアキラメメ》」など皆同じ精神なり。即ち、殘る所なく明らかに、見たまふ意にて今の見はらしのよき所にて心ゆくばかり眺望する義なり。
○活道山 舊訓「イクメチヤマ」とよみ、考は「クメチヤマ」とよみたれど、玉の小琴に「イクチヤマ」とよめるによるべし。これは反歌に「活道乃路」とよみ、又卷六「一〇四二」の詞書に(十六年申申春正月)同月十一日登2活道岡1集2一株松下1飲歌二首」とある、その活道岡と同じ所なり。上の二首の作は市原王とここの作者大伴家持となり。さてこの「イクチ山」又は活道岡はいづこなるか。この歌の作より僅に二ケ月に足らぬ前に家持のここに遊びし所にして、安積皇子も亦賞美せられし所なれば、久邇京近き地なりしならむこと想像せらる。大日本地名辭書はこの皇子の御墓地即ちそれなるべしといへり。されど、確かなる證あるにあらず。「イクヂ」といふ地名は越中にも越後にもあれば、これは一種の地勢の名目より出でしならむが、その義を知らず。ただ久邇京近き山の狩獵に適する奥まりたる地にしてその一部の岡は見晴よき地にして著しき一本松の在りし所なりしことは明かなりといふべし。
(1021)○木立之繁爾 舊訓「コダチノシジニ」とよみ槻落葉は「コダチノシゲニ」とよめり。「コダチ」といふ語は日本書紀舒明卷の歌に「于泥備椰摩虚多智于須家苔《ウネビヤマコダチウスケド》云々」本集卷五「八六七」に「志滿乃己太知母可牟佐飛仁家理《シマノコダチモカムサビニケリ》」卷十七「四〇二六」に「今日見者許太知之氣思物《ケフミレバコダチシゲシモ》」ありて今もいふ語なり。「茂」の字は「シゲ」とよむべけれど、この「シゲ」は「シゲル」の語幹にして、本集にてはこれを體言副詞としたる例を見ず。次に繁を「シジ」とよみうるかといふに、その例は既にこの卷、「三二四」の「繁生有」「三六八」の「大船二眞梶繁貫」「三七八」の「竹玉乎紫爾貫垂」の條にいへるにて見るべし。即ちここは「シジニ」とよむべきこと論なし。
○咲花毛 「サクハナモ」なり。さてこの句と上の句との關係は木立の花の、繁《シジ》に咲く花といふことをかく簡易にいひたるものなり。諸家多くは「木立の繁」として「繁」を「木立の繁き」をいふとすれど、「シジ」といふ副詞を以て直ちに説述せしむることは不可能なる筈なりとす。ここに「繁爾咲花」といへるは上の長歌に「花咲乎爲里」といへるに該當せり。
○移爾家里 「ウツロヒニケリ」とよむ。卷五「八〇四」に「散久伴奈能宇都呂比爾家里《サクハナノウツロヒニケリ》」卷十五「三七一六」に「九月能毛美知能山毛宇都呂比爾家里《ナガツキノモミヂノヤマモウツロヒニケリ》」などその例なり。「ウツロフ」は「ウツル」が更に波行四段に再び活用したるにて、その作用の繼續するを示す。「移る」といふは上「四五九」の「黄葉乃移伊去者」の下にいへる如く、散り過ぐることをいふ。ここは美はしき盛の花の散り過ぎぬるをいひて、安積皇子の若くして薨じたまひしことを歎く情を寓せり。以上を一段落とす。
○世間者如此耳奈良之 「ヨノナカハカクノミナラシ」とよむ。「世間」を「ヨノナカ」とよむことは上(1022)「四七二」又その前にも度々いへり。「如此耳」も「四七二」にあり。「奈良之」の例は卷五「八〇四」一云に「余乃奈可伴可久乃未奈良之《ヨノナカハカクノミナラシ》」卷十九「四一六〇」に「宇都勢美母如是能未奈良之《ウツセミモカクノミナラシ》」あり。この語は卷一「五〇」の「神隨爾有之」の下にいへり。世間といふものはかくあるのみのものなるらしと歎息したるなり。
○大夫之心振起 「マスラヲノココロフリオコシ」とよむ。この語に似たる例はこの卷「三六五」に「大夫之弓上振起射都流矢乎《マスラヲノユズヱフリオコシイツルヤヲ》」あるが、同じ語の例は卷十七「三九六二」の「大夫之情布里於許之《マスラヲノココロフリオコシ》」卷二十「四三九八」に「大夫情布理於許之《マスラヲノココロフリオコシ》」などあり。こゝにますらをの心を振り起すは家持自らのことをいへるなり。安積皇子を頼み奉りて大に奮起したりしことをいへるなり。
○劔刀 「ツルギタチ」とよむ。「ツルギ」は太刀の鋭利なるをほめていふ語。卷五「八〇四」に「都流岐多智許志爾刀利波枳《ツルギタチコシニトリハキ》云々」その他例多し。
○腰爾取佩 「コシニトリハキ」とよむ。この語の例上にあげたるが、なほ卷十八「四〇九四」に「劔大刀許之爾等里波伎《ツルギタチコビシニトリハキ》」などあり。太刀は腰に取佩くなり。
○梓弓 「アヅサユミ」これは卷一「三」に既にいへり。これは實際の弓をさす。
○靫取負而 「ユギトリオヒテ」とよむ。この語の例は卷九「一八〇九」に「白檀弓靫取負而《シラマユミユギトリオヒテ》」又卷二十「四三三二」に「麻須良男能由伎等里於比弖《マスラヲノユギトリオヒテ》」などあり。「靫」は和名類聚砂に「釋名云歩人所v帶曰v靫初牙反由岐以v箭叉2其中1也」とありて、矢を盛る器にして之を背に負ふが故に取負而とはいへるなり。上四句は劔太刀を腰に佩き、梓弓を持ち、靫を負ひてといへるにて、武人の征戰の具をとり(1023)て武装したる也。而してこれ古來大伴氏の世々奉仕し來れる職務によれる公の装たりしなり。
○天地與彌遠長爾 「アメツチトイヤトホナガニ」とよむ。この語は、卷二「一九六」に「天地之彌遠長久思將往《アメツチノイヤトホナガクオモヒユカム》云々」といへるに趣同じく、「一七六」に「天地與共將終登念乍奉仕之情違奴《アメツチトトモニヲヘムトオモヒツツツカヘマツリシココロタガヒヌ》」と心かよへり。天地の永久に存在するが如く、それと共に彌々遠く長くといふなり。卷十八「四〇〇八」に「可久之許曾都可倍麻都良米伊夜等保奈我邇《カクシコソツカヘマツラメイヤトホナガニ》」ともあり。
○萬代爾 「ヨロヅヨニ」とよむ。この語卷一以下に多し。
○如此毛欲得跡 舊訓「カクシモガナト」とよみたるを考に「カクシモガモト」とよみたり。さて「ガナ」も冀望の終助詞なれど、この頃に用ゐざりしものなれば、「ガモ」をよしとすること、及び「欲得」を「ガモ」といふ語にあてたることは上の「四一九」の「石戸破手力毛欲得《イハトワルタヂカラモガモ》」の條にいへり。「カクシモガモ」といへる假名書の例は、卷五「八〇五」に「等伎波奈周迦久斯母(何母)等意母閉等母《トキハナスカクシモガモトオモヘドモ》」あり。又卷十三「三三二四」に「萬歳如是霜欲得常大船之憑有時爾《ヨロヅヨニカクシモガモトオホフネノタノメルトキニ》」もこの例と見らる。又卷六「九二〇」に「萬代爾如此霜願跡天地之神乎曾祷恐有有等毛《ヨロヅヨニカクシモガモトアメツチノカミヲゾイノルカシコカレドモ》」とある「願」はその事を以て「ガモ」にあてたるにて、ここの「欲得」の二字まさにこれと相當するものなり。「かくしもがも」とは「かくし」の下に略語ありてそれを「も」と「がも」にてうけて終止せるものなり。この「も」と「がも」とは卷一「八一」の「常丹毛冀名《ツネニモガモナ》」に既に出でたり。
○憑有之 「タノメリシ」とよむ。この語は卷二「二〇九」に例ありてそこにいへるにおなじ。
(1024)○皇子乃御門乃 「ミコノミカドノ」とよむ。この語は卷二「一六八」「一九九」に例あるが、ここはその御宮殿をさせるなり。
○五月蠅成 「サバヘナス」とよむ。「五月蠅」を「サバヘ」とよめるは五月の頃に蠅の多く生ずる由に古來いへり。古事記天石屋戸の段に「於是萬神之聲者狹蠅那須皆滿、萬妖悉發」とあり、日本書紀卷二天孫降臨の前の記事に「晝者如五月蠅而沸騰之」とあり。これは枕詞にして、ここは次の「サワグ」を導くなり。
○驟騷舍人者 「サワグトネリハ」とよむ。「驟」一字にても「サワグ」とよむべきことは卷二「一九九」の「弓波受乃驟」の下にいへり。次に「騷」字はもとより「さわぐ」とよみ來れる字なれば「驟騷」二字にて「サワグ」とよむことは勿論なり。但し、その例はここに一所のみなるが、これは家持の熟字を好めるによるものなるべし。さて卷五「八九七」に五月蠅奈周佐和久兒等遠《サバヘナスサワグコドモヲ》」とあるはここの旁例とすべし。さてここの「さわぐ」は惡しき意にあらずして、多くの舍人が常に集まりゐてさゞめきあへるさまをいへりと見ゆ。この皇子の品位明かならねば帳内の數も明かならねど、四品としても百人は奉仕せし筈なれば賑はしく、さわがしく奉仕せしことを思ふべし。
○白拷爾 「シロタヘニ」とよむ。この白栲は素服なるべきこと、卷二「一九九」の「遣使御門之人毛白妙乃麻衣着」の下にいへるにて知るべし。
○服取著而 「コロモトリキテ」とよむ。衣服を白栲にして取り着てといふなり。
○常有之 「ツネナリシ」とよむ。卷五「八〇四」の一云に「都禰奈利之惠麻比麻欲毘伎《ツネナリシヱマヒマヨビキ》」といふあり。(1025)こは次の「咲比振麻比」の常なりし由をいへるにて、即ちこれまで、いつも賑はしく咲みさかえてありしことをいへるなり。
○咲比振麻比 「ヱマヒフルマヒ」とよむ。この「ヱマヒ」は上の卷五「八〇四」の例に見え、なほ卷十八「四一一四」に「乎登女良我惠末比能爾保比於母保由流可母《ヲトメラガヱマヒノニホヒオモホユルカモ》」又卷四「七一八」の「不念爾妹之咲※[人偏+舞]乎夢見而《オモハヌニイモガヱマヒヲイメニミテ》」などもその例なり。「フルマヒ」といふ語の例は本集にはこの一なるが、類聚名義抄には「儀」「姿」「擧動」「容止」「擧動」をかくよめり。それらの文字によりてこの語の意義を推知すべし。「ゑまひ」はゑまふことの居體言、「ふるまひ」は振まふことの居體言にて二語を重ねたるものなるが、舍人どものゑみさかえて立ちふるまひしこと共をかく二語にしていへるなり。
○彌日異 上の長歌「四七五」のにおなじ。
○更經見者 舊訓「カハラフミレバ」とよみ童蒙抄は「カハレルミレバ」とよめり。されど、「更經」を「カハレル」とよむは無理にして、「經」は「フ」の假名として用ゐたるものなれば、舊訓をよしとす。「更」の「カハル」なること上「三二二」の「鳴鳥之音毛不更《ナクトリノコヱモカハラズ》」の下にいへり。卷十九「四一六六」には「喧鳥乃音毛更布《ナクトリノコエモカハラフ》」とも見ゆ。「カハラフ」は「カハル」を再び、波行四段に活用したるものにして、その作用の繼續をあらはすものなり。ここは時の經るにつれて漸々にかはりつゝ行くをいふ。そのかはらふさまを見ればといふなり。
○悲|呂〔左○〕可聞 「呂」の字流布木には「召」とせり。隨つて流布本のよみ方は「カナシメシカモ」とよみたれど、かゝる語法ありとも思はれず。類聚古集は正しく「呂」と書き、西本願寺本、大矢本、京都大學(1026)本等は草體の「呂」とせり。代匠記は「召」は「呂」の訓として「カナシキロカモ」とよめるが、「呂」の字正しきものと認めらるれば、この訓をよしとす。この「ろ」は卷一「五三」の「處女之友者|乏〔左○〕吉呂賀聞」の下にいへり。悲しきかなといふに似たり。
○一首の意 この歌二段落なり。第一段落は安積皇子の御在世當時の盛なりしさまを叙して、終りにその薨去を言外にあらはして急に頓挫せしめ、第二段は先づ家持が大に皇子に景仰し奉りしをいひて、その志の遂げられざりし悲を抒べたるなり。即ち、心にかけて思ひ奉るだに言語道斷に恐れ多き事なり。わが大君、安積皇子の命は大宮人の多くの者共を召しつどへ、誘ひ率ゐ賜ひて、朝夕の御獵に或は鹿猪を追ひ、或は鶉雉を追ひたまひ、時には又大御馬の口を抑へ止めまして、四方の風景を御覽じて、御心を晴し給ひし活道山の木立の、數多く咲く花も盛りの時は過ぎ行きにけり。(即ち安積皇子の颯爽とまし/\し盛にまし/\し御姿も再び見られずなりたり)(第一段)世間はすべてかくあるものにてあるらしきが、悲しきことなるかな。我れ家持大丈夫の心を振ひ起し、劔刀を腰に取り佩き、梓弓を持ち、靫を負ひて、わが安積皇子に奉仕し、天地と共に永遠にかくして永く奉へ仕らむものと願ひ、憑みてありし、その皇子の御宮に仕へ奉れる多くの舍人どもが、白色の素服を着て、今までは常にありし嬉しげなりし顔貌、愉快さうにありし擧動も、日を經るにつれて、彌かはり行くを見れば、悲しきことなるかな。(第二段)
 
反歌
 
(1027)479 波之吉可聞《ハシキカモ》。皇子之命乃《ミコノミコトノ》、安里我欲比《アリガヨヒ》、見之活道乃《メシシイクヂノ》、路波荒爾鷄里《ミチハアレニケリ》。
 
○波之吉可聞 「ハシキカモ」とよむ。この語は既に屡見えたるが、卷二「一一三」の「三吉野乃玉松之枝者波思吉香聞《ミヨシヌノタママツガエハハシキカモ》」に照して意をしるべし。さてこの一句にて一段落として、冒頭に「愛すべきかな」と一句を大膽に投じたる手法、尋常歌人の及ぶ所にあらず。而してこれはその皇子之命をさし奉りて「はしきかも」といへるなり。
○皇子之命乃 「ミコノミコトノ」とよむ。安積皇子の命のといふ意なること勿論なり。
○安里我欲比 「アリガヨヒ」なり。この語の例は卷二「一四五」の「鳥翔成有我欲比管見良目抒母《カケルナスアリガヨヒツツミラメドモ》云云」にありて、意はそこにいへる如く、引きつゞきかよひたまふといふことなり。
○見之活道之 「メシシイクヂノ」とよむべきこと長歌の下にいへる所にて明かなり。その意も亦明かにして「見たまひし活道の」といふことなり。
○路波荒爾鷄里 「ミチハアレニケリ」とよむ。意明かなり。ここは卷二「二三四」の「三笠山野邊從遊久道己伎太久母荒爾計類鴨《ミカサヤマヌベユユクミチコキダクモアレニケルカモ》、久爾有勿國《ヒサニアラナクニ》」の感じに似たる點あり。即ち、ここに通ふことの絶えたるをいへるなり。
○一首の意 この歌二段落なり。第一段はああ愛すべきかな、わが安積皇子の忘れがたきことよとなり。第二段は安積皇子の命の常にかよひ賜ひて、愛しみたまひし活道山の路は人々の來通ふことも稀れになりて荒れはてたりといふなり。
 
(1028)480 大伴之《オホトモノ》、名負靫帶而《ナニヲフユキオヒテ》、萬代爾《ヨロヅヨニ》、憑之心《タノミシココロ》、何所可將寄《イヅクカヨセム》。
 
○大伴之 「オホトモノ」とよむ。この語は卷一「六三」にも見えたるが、そこは地名なり。ここは家持等の家の名なる大伴氏をさせり。「大伴」の「伴」は上にいへる「八十伴男」の伴とおなじくして部類又は團隊をいへるなり。かくて「大伴」とは大部隊といふ程の語なるが、その「オホ」は天皇の御親兵としての部隊なる故に尊んでいへるなり。抑も大伴氏は古事記に
  故爾天忍日命、天津久米命二人、取2負天之石靫1取2佩頭椎之大刀1取2持天之波士弓1手2挾天之眞鹿兒矢1立2御前1而仕奉。故其天忍日命此者大伴連等乏祖、天津久米命此者久米直等之祖也。
とある如く、天孫降臨の時に御親兵として警衛し奉りし天忍日命の末にして、爾來連綿として武人の長として奉仕せしものなり。大化改新以後文武の官を分たれしかど、大伴氏が武事に奉仕せしことはなほ舊によりしものなり。かくて、古は大伴といふ名即ち武人最高の地位と名譽とを示したりと思はれたり。
○名負靫帶而 舊訓「ナニオフユキオヒテ」とよめり。「オヒテ」を代匠記に「ハキテ」ともよみたれど、靫は背に負ふものにして腰に佩くものにあらねば、しかよむべからず。「帶而」は文字によらば「オビテ」とよむべくして「オヒテ」とよむべきにあらず。然れども靫は必ず負ふものにして帶ぶるものにあらねば、ここは「おぶ」とはいふべからず。然らば、これは清濁を顧みずして用ゐたるか如何。この頃濁音の語を往々清音の語に轉じて假用したるもの、たとへば「雉」を「岸」に借りた(1029)ること卷七「一三八九」の如き例あればかかることなしといふべからず。然れども、これは漢語に「靫」を「帶す」といふよりこの字を用ゐしものならむ。和名妙には「釋名云歩人所帶曰靫」とあり。これ支那にて靫を身に帶すといひしことの證なり。日本書紀孝徳天皇御即位の記事を見るに「于時大伴長徳連|帶〔右○〕2金靫1立2於壇右1、犬上健部君|帶〔右○〕2金靫1立2於壇左1」とあり。この「帶」も同じ。されば「帶」は直譯して「オブ」とよむべきものならで「帶靫」即ち「靫をおふ」といふ語にあたるものならむ。しかも、この句には上に既に「負」といふ字を用ゐたれば、同じ字を二度用ゐることを避けてわざと「帶」字をここに用ゐたるものと見ゆれば、その理由は如何にもあれ、「オヒテ」とよむへきものなり。名に負ふ靫といふは如何なる事かといふに、名に負ふとは通例その名を有することをいふ。さらばこゝは如何といふに、新撰姓氏録大伴宿禰の條に
  初天孫彦津火瓊々杵尊神駕之降地、天押日命、大來目部、立2於御前1降2于日向高千穗峯1。然後以2大來目部1爲2天靫負部1、天靫負之號起2於此1也。
とありて、大伴の部隊は又靫負部の名、天靫負の名を有するものなることを語れり。この靫負は大化改新の後官職の制度となりてより文字の上には公式に認められず、又必ず大伴氏の職掌とは限らずなりたれど、なほ左右衛門府の名となりて傳はれり。令集解の左衛士府の注なる大同三年七月廿日官奏に曰はく(これは衛門府を廢して衛士府に併せむとしての奏上なり)
  其諸門禁衛、出入禮儀、及門籍門※[片+旁]等事、同令2衛士府主1v之。然靫負爲v名年祀積久、今廢v彼混v此、雖v不v改2文字1號曰2左有靫負府1云々
(1030)とあり、更に弘仁二年十一月甘八日官符を載せたるには(これは先に左右衛士府に左右衛門府を併せたるが、此度は大伴佐伯二氏の請によりそれを左右衛門府と改稱せられたるなり)
  今得2散位從五位下大伴宿彌眞木麿、右兵庫頭從五位下佐伯宿禰金山等解1※[人偏+稱の旁]、己等之祖、室屋大連公鎭2靫負三千人1左右分衛。是以衛門開闔奕葉相承望改2衛士字1以爲2衛門1者。
といふ奏請によりたるものなるが、これは靫負の名に基づきて、かへりて衛士府の名を衛門府と改められしものなり。(右の奏請中の佐伯宿禰は大伴氏の支族大伴室屋の時、その兒|語《カタリ》に特に賜はれる氏なりとなり)この衛門府は倭名鈔に「由介比乃豆加佐」と訓ありて、その名久しく傳はり、檢非違使の職のはじめられて、衛門府の官人、やがてその名をつぎ檢非違使たる衛門尉を特に靫負尉と稱するを例とせり。これ等古來大伴佐伯の率ゐたりし部隊の名が靫負なりしが故なり。されば本集にも卷七「一〇八六」に「靫懸流伴雄廣伎大伴爾《ユキカクルトモノヲヒロキオホトモニ》」ともいへるなり。靫負といふ名を有するその靫を負ひてといふなり。
○萬代爾憑之心 「ヨロヅヨニタノミシココロ」とよむ。長歌にいふ所の「萬代爾如此毛欲得跡憑有之《ヨロヅヨニカクシモガモトカタノメリシ》」そのわが心なり。
○何所可將寄 舊訓「イツクニカヨセム」とよみたるを槻落葉には「イツクカヨセン」とせり。「何所」を「イヅク」とよむべきことは、卷一「四三」にいへる所なり。「イヅクニカ」といふべきを「イヅクカ」といへるは、この頃の語法に「ヲ」「ニ」といふ助詞を略して、たとへば、卷一「四三」の「吾勢枯波何所行良武《ワガセコハイヅクユクラム》」卷七「一四一二」に「吾背子乎何處行目跡辟竹之背向爾宿之久今思悔裳《ワガセコヲイヅクユカメトサキタケノソガヒニネシクイマシクヤシモ》」卷十「二一三八」に「鴈鳴者何(1031)處指香雲隱良哉《カリガネハイヅクサシテカクモガクルラム》」などその例なり。されば「イヅクカヨセム」とよむべきなり。
○一首の意 大伴といふ古來名高きわが家の靫負といふ名に負ふその靫を負ひて奉仕し、萬代もかはらじと憑み奉りしわがこの心は今よりはいづくによせむか。わが心のよすべき方を失ひ途方にくれたることよとなり。
 
右三首三月二十四日作歌
 
○三月二十四日 は安積皇子薨去の日よりかぞへて七十一日目にあたれり。
 
悲2傷死妻1高橋朝臣作歌一首并短歌
 
○悲2傷死妻1 「スギニシメヲカナシミテ」とよむべきか。
○高橋朝臣 名を署せず、左注にもその明かならぬ由をいへれば、今にして之を知るべくもあらず。
 
481 白細之《シロタヘノ》、袖指可倍※[氏/一]《ソデサシカヘテ》、靡寢《ナビキネシ》、吾黒髪乃《ワガクロカミノ》、眞白髪爾《マシラカニ》、成極《ナリキハマリテ》、新世爾《アラタヨニ》、共將有跡《トモニアラムト》、玉緒乃《タマノヲノ》、不絶射妹跡《タエジイイモト》、結而石《ムスビテシ》、事者不果《コトハハタサズ》、思有之《オモヘリシ》、心者不遂《ココロハトゲズ》、白妙之《シロタヘノ》、手本矣別《タモトヲワカレ》、丹杵火爾之《ニギビニシ》、家從裳出而《イヘユモイデテ》、緑兒乃《ミドリコノ》、哭乎毛置而《ナクヲモヲキテ》、朝霧《アサギリノ》、髣髴爲乍《オホニナリツツ》、山代乃《ヤマシロノ》、相樂山乃《サガラカヤマノ》、山際《ヤマノマニ》、往(1032)過奴禮婆《ユキスギヌレバ》、將云爲便《イハムスベ》、將爲便不知《セムスベシラニ》、吾妹子跡《ワギモコト》、左宿之妻屋爾《サネシツマヤニ》、朝庭《アシタニハ》、出立偲《イデタチシヌビ》、夕爾波《ユフベニハイリヰ》、入居嘆|舍〔左●〕《イリヰナケカヒ》、腋|挾〔左○〕《ワキハサム》、兒乃泣|母〔左●〕《コノナクゴトニ》、雄自毛能《ヲノコジモノ》、負見抱見《オヒミウダキミ》、朝鳥之《アサトリノ》、啼耳哭管《ネノミナキツツ》、雖戀《コフレドモ》、効矣無跡《シルシヲナミト》、辭不問《コトトハヌ》、物爾波在跡《モノニハアレド》、吾妹子之《ワギモコガ》、入爾之山乎《イリニシヤマヲ》、因鹿跡叙念《ヨスカトゾオモフ》。
 
○白細之 「シロタヘノ」とよむ。この字上の「四七五」にあり。ここは枕詞にもあらず、その白き潔き衣の義によめりと見ゆ。
○袖指可倍※[氏/一] 「ソデサシカヘテ」なり。卷八「一六二八」に「白細之袖指代而佐寐之夜也《シロタヘノソデサシカヘテサネシヨヤ》云々」とあり。卷二「一九五」に「敷妙乃袖易之君《シキタヘノソテカヘシキミ》」といふあり。衣の袖をさしかはして寢ぬるをいふ。
○靡寢 「ナビキネシ」とよむ。卷二「一三五」「玉藻成靡寐之兒乎《タマモナスナビキネシコヲ》」にこの語の例あり。そこと同じく、わが傍にそひふしたるをいふ。
○吾黒髪乃 「ワガクロカミノ」とよむ。「吾黒髪」といふ「吾」は卷二「八七」に「打靡吾黒髪爾霜乃置萬代二《ウチナビクワガクロカミニシモノオクマデニ》」にその例あり。ここは歌主のわがといへるなり。これはすべてその妻のことを動的にいへるに注意すべし。
○眞白髪爾 「マシラカニ」とよむ。攷證に「さて假字にしらかと書る例なければ、定めがたけれど、延喜式に多志良加といふ器を手白髪とも書たれば、かは清てよむべし」といへり。新撰宇鏡「〓」の下に注にして「方小反、白髪※[貌の旁]、志良加」とあり。即ち「シラカ」にして後世「シラガ」といへるは訛な(1033)りと知られたり。「ま」はその白髪を強調していへるなり。
○成極 舊訓「ナリキハマリテ」とよみたり。童蒙抄は「ナリハツルマデ」とよみ、考は「ナリキハムマデ」とよみ、槻落葉は「ナレラムキハミ」とよみ略解は「ナラムキハミ」とよみ、古義は「カハラムキハミ」とよみ、攷證は「ナルキハミマデ」とよみ諸説紛々たり。先づ「成」は「ナル」にして黒髪の白髪に化することをいへるは疑ふべからず。かく「化成する」を「ナル」といふは當然にして、古義が「カハラム」とよめるは字義にあはざるなり。次に「極」は「ハツル」とも「キハミ」ともよむべきこと不合理なりといふべからず。されど、ここはその前後の文意を考へざるべからず。この下に「新世爾」とあるに、照して考ふるに、物はその極に達すれば、ここに新になるものなれば、白髪になり、その極に達して革まりて、再び黒髪にかはるといふ如き思想にていへるものと思はる。この意にとりて考ふる時は舊訓の方適切なりとす。「極」を「キハマリテ」とよむことこの卷「三四二」に「極貴物者酒西有良之《キハマリテタワトキモノハサケニシアルラシ》」とあり。
○新世爾 舊訓「アタラヨニ」とよみたれど、槻落葉によりて「アラタヨニ」とよむべし。「新世」の事は卷一「五〇」に「我國者常世爾成牟圖負留神龜毛新代登泉乃河爾《ワガクニハトコヨニナラムフミオヘルアヤシキカメモアラタヨトイヅミノカハニ》云々」とある下にいへるが、そこはその新しき御世といふをほめたるなるが、ここは遙なる後の世といふことを主眼としていへるなり。
○共將有跡 「トモニアラムト」とよむ。夫婦共にその新世までもながらへあらむと思へるなり。さてこの「ト」助詞は下の「結而石《ムスビテシ》」につゞくなり。
(1034)○玉緒乃 「タマノヲノ」とよむ。これは下の「絶えじ」の枕詞として用ゐたるなり。この枕詞の例は卷十一「二七八八」に「玉緒乃絶天亂名知者知友《タマノヲノタエテミダレナシラバシルトモ》」「二七八七」に「玉緒之不絶當念妹之當見津《タマノヲノタエジトオモフイモガアタリミツ》」などあり。
○不絶射妹跡 舊訓「タエシヤイモト」とよみたれど玉の小琴に「タエジイイモト」とよめるに隨ふべし。攷證に曰はく「舊訓、射をやと訓たれど、射をやとよめるは藐姑射山《ハコヤヤヤ》といふ時より外は見えざれば常の如く不絶射《タエジイ》と訓べし」といへり。「射」の字を「い」に借りたる例は、卷一以來頻繁に用ゐたる處なれば例をあげず。されど、この「イ」につきては、從來の説多くは首肯せられず。この「イ」は所謂間投助詞にして、語調を強むる爲に加へたるものなりとす。卷七「一三六〇」に「向岡之若楓木下枝取花待伊間爾歎鶴鴨《ムカツヲノワカカツラノキシヅエトリハナマツイマニナゲキツルカモ》」卷十「一八五一」に「春風爾不亂伊間爾令視子裳欲得《ハルカゼニミダレヌイマニミセムコモガモ》」などこの「イ」の用例なり。この契は永く絶えじ妹よと結びてきとなり。
○結而石 「ムスビテシ」とよむ。「石」を「し」の假名に用ゐたる例は卷四「七二九」に「欝瞻乃世人有者手二卷難石《ウツセミノヨノヒトナレハテニマキカタシ》」卷六「一〇二一」に「繋卷裳湯湯石恐石《カケマクモユユシカシコシ》」「一〇四七」に「芽乃枝乎石辛見散之《ハギノエヲシガラミチラシ》、狹男鹿者妻呼令動山見者山裳見貌石《サヲシカハツマヨビトヨメヤマミレバヤマモミガホシ》」「萬世丹榮將往迹思煎石大宮尚矣《ヨロヅヨニサカエユカムトオモヒニシオホミヤスラヲ》」「一〇五二」に「川乃湍清石《カハノセキヨシ》」等例多し。「結ぶ」は契を結ぶにて、上二句をうけて「共に有らむ」「絶えじい妹」と結びたるなり。
○事者不果 「コトハハタサズ」とよむ。「結びてし事をば、果さず」といふなり。この「ず」は終止形にあらず連用形にして、次の語に重ねていへるなり。
○思有之心者不遂 「オモヘリシココロハトゲズ」とよむ。「オモヘリシ」といふ語は卷二又この卷(1035)に既にいへり。上の如く思ひて有りし心をば遂げず、といふなり。この「ず」も連用形にして、次の語に重ぬるなり。隨つて「ずして」の意に解すべし。
○白妙之 「シタロヘノ」とよむ。意は上の「白細之」と同じ。
○手本矣別 「タモトヲワカレ」とよむ。「手本」の例は卷二「一三一」等にあり。「矣」を助詞「ヲ」にあつることはこの卷「三六一」の「佐農能崗將超公爾衣借益矣《サヌノヲカコユラムキミニキヌカサマシヲ》」の下にいへり。「タモトヲワカレ」といふは卷二「一三八」の「敷妙之妹之手本乎露霜乃置而之來者《シキタヘノイモガタモトヲツユシモノオキテシクレバ》」卷十一「二六六八」に「妹之手本乎加流類比來《イモガタモトヲカルルコノゴロ》」などの例に似て妹のわが手本をば別れて行きたる由にいへるなり。
○丹杵火爾之 「ニギビニシ」とよむ。「杵」を「キ」とよむは肥前國の彼杵郡を古來「ソノキ」とよめるにて著しく、本集にても、卷六「一〇二二」に「吾者叙追遠杵土佐道矣《ワレハゾオヘルトホキトサヂヲ》」又卷九「一八〇四」に「朝露乃※[金+肖]易杵壽《アサユツユノケヤスキイノチ》」などあり。この語の例は卷一「七九」に「柔備爾之家乎擇《ニギヒニシイヘヲオキ》」ありて、相和して陸しく樂しくくらせるをいへるなり。
○家從裳出而 舊訓「イヘヲモイデテ」とよみたれど、「從」を「ヲ」とよむべからず。考に「イヘユモイデテ」とよめるをよしとす。「從」を「ユ」とよむことは卷一以來屡あり。
○緑兒乃 「ミドリコノ」とよむ。この語卷一「二一三」にいへり。
○哭乎毛置而 「ナクヲモオキテ」なり。緑兒の泣く子をも殘しおきて死せしをいふ。
○朝霧 「アサギリノ」とよむ。下の「髣髴爲乍」の枕詞なり。卷四「五九九」に「朝霧之欝相見之人故爾《アサギリノオホニアヒミシヒトユヱニ》」卷十三「三三四四」に「朝霧乃思惑而《アサギリノオモヒマドヒテ》」など似たる用例なり。
(1036)○髣髴爲乍 舊訓「ホノメカシツヽ」とよめり。童蒙抄は「ホノカニナリツヽ」考は「ホノニナリツヽ」玉の小琴は「オホニナリツヽ」とよめり。先づ「髣髴爲」を「ホノメカス」とよむは不條理なる上、語をなさゞれば隨ひがたし。「髣髴」を「オホニ」とよむことは卷二「二一七」に「梓弓音聞吾母髣髴見之事悔敷乎《アヅサユミオトキクワレモオホニミシコトクヤシキヲ》」の條に例あり。又卷四「五九九」に「朝霧之欝相見之《アサギリノオホニアヒミシ》」の「欝」も「オホニ」とよむことは卷二「二一九」の「天數凡津子之相日於保爾見敷者今叙悔《ソラカゾフオホツノコガアヒシヒニオホニミシカバイマゾクヤシキ》」に照して考ふべく、二者共に「朝霧の」を枕詞とせる點も相通ぜり。されば「オホニナリツヽ」とよむべきなり。されど、その「オホニ」の意は稍異なり。他は皆見る事の「おほ」なるものなるが、ここは「おほになる」なり。「おほになる」とは髣髴たるさまになることにして幻として形の偲ばるゝのみにして實には見られぬ由をいへるなり。
○山代乃 「ヤマシロノ」なり。今の山城國なり。卷六「一〇五〇」に「山代乃鹿脊出際爾《ヤマシロノカセヤマノマニ》」卷九「一七〇七」に「山代久世乃鷺坂《ヤマシロノクセノサギサカ》」などあり。
○相樂山乃 舊訓「サカラノヤマノ」とよみたれど、考に「サガラカヤマノ」とよめるをよしとす。和名類聚鈔には「相樂郡佐良加加」又「相樂郷佐加良加」とあり。「サガラ」といふは後の略語なり。これは相樂郡の山なるべきが、今特にかく名づけたる山なし。されど、かの和束山などももとより相樂山ともいひうべき山なり。とにかくにここにもこの山の中のいづこかに葬りしなり。
○山際 舊訓「ヤマノマヲ」とよみ、考は「ヤマノマニ」とよめり。「山際しを「ヤマノマ」とよむことは、卷一「一七」にあり、ここもそこに准じて「ヤマノマニ」とよむべし。「山の間に」の意なり。
○往過奴禮婆 「ユキスギヌレバ」とよむ。往きて見えずなりたるにいへるなり。山の際を過ぎ(1037)て他に往きぬといふにあらず。山の際に往きて見えずなりたるを過ぎぬればといへるなり。
○將云爲便 「イハムスベ」なり。卷二「二〇七」の「將言爲便」と同じ語なり。
○將爲便不知 「セムスベシラニ」なり。これは卷二「二一三」の「爲便不知」を「セムスベシラニ」とよむべきことを説ける際に論及せる所なり。意はそこにいへるに同じ。
○吾妹子跡 「ワギモコト」とよむ。意明かなり。
○左宿之妻屋爾 「サネシツマヤニ」とよむ。「サネシ」は「ネシ」におなじ。「サ」は接頭辭として加へしものなり。卷十四「三五〇五」の「宇良夜須爾左奴流夜曾奈伎兒呂乎之毛倍婆《ウラヤスニサヌルヨゾナキコロヲシモヘバ》」卷十五「三七三五」に「左奴流欲能伊米爾毛伊母我美延射良奈久爾《サヌルヨノイメニモイモガミエザラナクニ》」「三六二六」に「安奈多頭多頭志比等里佐奴禮婆《アナタヅタヅシヒトリサヌレバ》」卷五「八〇四」に「麻多麻提乃多麻提佐斯迦閉佐禰斯欲能《マタマデノタマデサシカヘサネシヨノ》」などその例なり。「妻屋」は卷二「二一〇」に「吾妹子與二人吾宿之枕付嬬屋之内爾《ワギモコトフタリワガネシマクラツクツマヤノウチニ》」にその語ありて、意はそこにいへるにおなじ。
○朝庭 「アシタニハ」とよむべし。之を槻落葉には「アサニハニ」とよみて曰はく「朝庭の爾波《ニハ》は助辭《テニハ》にあらず。卷十三【十五丁】に朝庭丹出居而嘆《アサニハイデヰテナゲキ》卷十七【二十一丁】に安佐爾波爾伊泥多知奈良之《アサニハニイデタチナラシ》と見えたり。されば、下の夕爾波も庭《ニハ》なるべく、卷(ノ)十七【二十一丁】に暮庭爾敷美多比良氣受《ユフニハニフミタヒラケズ》とあるに卷(ノ)十三【三十丁】に朝庭出居而嘆夕庭入居戀乍《アサニハニイデヰテナゲキユフニハイリヰコヒツツ》とさへあればいよゝ爾波《ニハ》は助辭ならじとおもへれど、同卷【十五丁】に同じ歌の出たるには朝庭爾《アサニハニ》云々|夕庭《ユフニハ》云々と書て、上には爾《ニ》の字をそへ、下には爾《ニ》の字なきに、こゝも上は庭と書て爾《ニ》の助辭はよみつくべく、下は爾波と假字書《カナガキ》にて爾《ニ》の助辞なきを相照らして考れば出立《イデタチ》云々は嬬屋《ツマヤ》の庭《ニハ》にといふ意、入居《イリヰ》云云は都麻屋《ツマヤ》の内《ウチ》にといふ意也。故ふ(1038)たつの庭《ニハ》は正字と助辭とにて上下違へり。よりて上はあさにはにとよみ、下はゆふべにはとよみたり」といひ、古義これにより、攷證はこれに賛成の意を明言せり。今槻落葉の第一の證とするは卷十五「三二七四」の「朝庭《アシタニハ》丹〔左○〕|出居而嘆夕庭入居而思《イデヰテナゲキユフベニハイリヰテオモヒ》」の丹なるが、これは古寫本の多くにはなきものなれば、誤りて※[手偏+讒の旁]入せしものと見るをよしとすべし。その卷十七の「三九五七」なるは「安佐爾汲爾伊泥多知奈良之暮庭爾敷美多比良氣受《アサニハニイデタチナラシユフニハニフミタヒラケズ》云々」とあるは「立ならし」「ふみたひらぐ」といへるにて、その對象が庭なること著しきが、ここは出づると入ると相對するなれば、對句としても不條理にあらず。按ずるにここは必ずしも庭に出づといふに限らざるべきは、卷十九「四二〇九」に「安志太爾波可度爾伊※[氏/一]多知由布敝爾波多爾乎美和多之古布禮騰母《アシタニハカドニイデタチユフベニハタニヲミワタシコブレドモ》」の例にて知るべく、又卷八「十六二九」には「旦者庭爾出立《アシタニハニハニイデタチ》、夕者床打拂《ユフベニハトコウチハラヒ》」とある如く、特に庭といへるもあり。されば、これは舊訓の如くよみて、完全なる對句とすべきものなり。「庭」を助詞「ニ」と「ハ」との合せるものに借りたる例は卷一「三」の「朝庭取撫賜《アシタニハトリナデタマヒ》、夕庭伊縁立之御執乃梓弓之《ユフベニハイヨリタタシシミトラシノアヅサノユミノ》」をはじめて例多きことは今更いふを要せず。
○出立偲 舊訓「イデタチシノビ」とよめり。「偲」は「シヌビ」とよむべきこと卷二「一三一」の「將偲」の例にて知るべし。「出立」は上の「四二〇九」の例によらば門に出で立つと見るべく「一六二九」の例によらば庭に出で立つと見るべく、いづれにして家居するに堪へずして家を出で外に立ちつゝ故人を思慕するなり。
○夕爾波 「ユフベニハ」なり。
(1039)○入居嘆|合〔左○〕 舊訓「イリヰナケクヤ」とよめり。考は「舍」は「合」の誤として「イリヰナゲカヒ」とよみ、槻落葉は「舍」は「會」の誤として訓は考と同じくせり。この「舍」字神田本に「會」とあるによれば槻落葉の説よきに似たり。按ずるに「合」を訓の假名とすること及びそを「ヤ」とよむことは例なきことなれば「舍」は「合」か「會」かの誤なるべく、字形よりいへば「合」の方近きものと思はる。いづれにしても「イリヰナゲカヒ」とよむべきなり。「入居」の例は卷十三「三三二九」に「朝庭出居而嘆《アシタニハイデヰテナゲキ》、夕庭入居戀乍《ユフベニハイリヰコヒツツ》」にこれを見る。家に入り居ることなるはいふまでもなし。「ナゲカヒ」といふ語の例は卷五「八九七」に「晝波母歎加比久良志夜波母息豆伎阿可志《ヒルハモナゲカヒクラシヨルハモイキヅキアカシ》」卷十七「三九六九」に「隱居而念奈氣加比奈具佐牟流許己呂波奈之爾《コモリヰテオモヒナゲカヒナグサムルココロハナシニ》」などあり。嘆きつゝあることなり。
○腋|挾〔左○〕 「挾」字流布本「狹」とす。古寫本に「挾」とあるによる。「ワキハサム」とよむこと勿論なり。これは卷二「二一〇」の「若兒乃乞泣毎取與物之無有鳥穗之物腋挾持《ミドリコノコヒナクゴトニトリアタフモノシナケレバトホシモノワキバサミモチ》」といへるにてその意を得べし。今ならば子を抱くといふを當時かくいへるなり。
○兒乃泣|母〔左○〕 舊訓「コノナカシメハ」とよめり。されど「母」は「シム」にあつること道理なし。代匠記は「ちこのなくをもとか或はこのいさつるもとか讀べし」といひ、考は「母」を「毎」の誤として「イサツコトニ」とよみ、槻落葉も「毎」の誤として「コノナクゴトニ」とよめり。今按ずるにここにすべての本誤字なけれど、意通せざれば「母」は「毎」の誤なるべし。かくて「コノナクゴトニ」とよむを穩かなりとすべし。意は明かなり。
○雄自毛能 舊訓「ヲノコシモノ」とよみ、槻落葉は「ヲトコジモノ」とよめり。いづれにてもあるべ(1040)きさまなる故に舊訓による。この語は卷二「二一三」に「男自物脅挿持《ヲノコジモノワキバサミモチ》」とあるにおなじ。男にてあるものが、子を負ひ、子を抱きなどさま/”\にするをいふ。
○負見抱見 舊訓「オヒミイダキミ」とよめるを考に「オヒミムダキミ」とし、古義「オヒミウダキミ」とせり。この差は「抱」のよみ方にあるなり。然るに集中「抱」の語を單獨に用ゐたる假名書の例なし。卷十四「三四〇四」に「可伎牟太伎奴禮杼安加奴乎《カキムダキヌレドアカヌヲ》」とあるによれば「ムダキ」といふべき如くなれど如何。日本靈異記には「抱【宇田支】」(卷下、第九)とせり。これによりて「ウダキ」とよむべし。さてこの二の「み」は後の歌に「神無月ふりみふらずみさだめなきしくれぞ冬のはじめなりける」(後撰集冬)なといへる如く、後世の「たり」といふ俗言に似たるものにして同じ趣の二語以上を相對して重ねいふ時に用ゐるなり。本集にての例は卷十一「二六二六」に「咲見慍見著四紐解《ヱミミイカリミツケシヒモトク》」「二六四〇」に「梓弓引見縱見思見而《アヅサユミヒキミユルベミオモヒミテ》」などあり。
○朝鳥之 「アサトリノ」とよむ。これは「なく」に對しての枕詞なり。朝は鳥の特によく啼くものなればなり。
○啼耳哭管 「ネノミナキツヽ」なり。「啼」は普通「ナク」と訓する字なれど、ここには體言に用ゐたるにて「泣」「哭」を「ネ」にあてたるも同じ道理なり。「ねにのみなきつゝ」といふことなり。
○雖戀 「コフレドモ」とよむ。意明かなり。
○効矣無跡 「シルシヲナミト」とよむ。「效」は效驗にして、「驗」をしるしとよむ(この卷「三三八」)と同じ意なり。かく「云々を無み」といふことは卷二「一三八」の「津乃浦乎無美《ツノウラヲナミ》」「二〇七」の「爲便乎無見《スベヲナミ》」「二一(1041)〇」の「相因乎無見《アフヨシヲナミ》」の場合におなし。又卷十五「三六二七」に「毛弖禮杼毛之留思乎奈美等麻多於伎都流可毛《モテレドモシルシヲナミトマタオキツルカモ》」卷十三「三三四四」に「嘆友記乎無見跡《ナゲケドモシルシヲナミト》」などここと同じ關係の語法なり。戀ふれども、そのかひの無きによりてと(思ひて)といふなり。
○辭不問物爾波在跡 「コトトハヌモノニハアレド」とよむ。「コト」は言語なり。「コトトフ」とは「ものいふ」なり。卷五「八一一」に「許等等波奴樹爾波安里等母《コトトハヌキニハアリトモ》」卷十九「四一六一」に「言等波奴木尚春開《コトトハヌキスラハルサキ》」など例多し。ここは山をさしていへるなり。
○吾妹子之入爾之山乎 「ワギモコガイリニシヤマヲ」とよむ。妻が葬られし相樂山をさしていふ。「入りにし」は上の「山際往過奴禮婆」に應じたるなり。
○因鹿跡叙念 舊訓「ヨスカトソオモフ」とよみ、考は「ヨスカトゾモフ」とす。いづれにてもよき筈なれば、舊訓による。攷證に曰はく「因鹿は佛足石歌に乃利乃多能與須加止奈禮利《ノリノタノヨスカトナレリ》云々。本集十六【廿丁】荒雄を悲しめる歌に志賀乃山痛勿伐《シカノヤマイタクナキリソ》、荒雄良我余須可乃山跡見管將偲《アラヲラガヨスカノヤマトミツツシヌバム》などありて因《ヨス》は心をよするを鹿《カ》は、住《スミ》か、隱《カク》れか、在《アリ》か、奥《オク》かなどいふ、かと同じく、所といふ意にて、皆かもじを清てよめれば、こゝもかもじを清て訓べし」といへり。槻落葉に曰はく「寄處《ヨスカ》也。こゝろをよせ、身をよするをいふ言なれば、常にはたよりといふ意なれど、こゝは形見といふに近し」といへり。さることなり。
○一首の意 互に白妙の袖をさし交して、寄り添ひ寢たる吾が黒髪の眞白髪になり極りて、再び新になる其世までにも共に居らむと約束し、この契は絶ゆまじ、妻よと約束せし事をば果すこ(1042)とを得せず、かく思ひてありし心は遂ぐる事を得せずして、白妙のわが衣の袖を別れ、共に睦びかはしたる家よりも出でて、緑兒の泣くをもさし置きて、おぼろけなるさまになりつゝ山城の相樂山の山間に往きて見えずなりたれば、我は言はむすべも知らず、爲むすべも知らず、ただ茫然として、吾妻と共に寢たる閨の内に居て朝に夕に或は外に出で立ちて思慕し、或は内に入り居て嘆き、腋に挾みて大切にする緑兒の泣く毎に、男ながらも或は負ひ、或は抱きて、泣聲を出して泣きてのみ居て妻を戀ふれどもその效驗の無きによりて、物をいはぬものなれど妻の入りたる山を妻の由縁と念ひ、せめてそれに慰まむと念ふとなり。
 
反歌
 
482 打背見乃《ウツセミノ》、世之事爾在者《ヨノコトニアレバ》、外爾見之《ヨソニミシ》、山矣耶今者《ヤマヲヤイマハ》、因香|跡〔左○〕思波牟《ヨスカトオモハム》。
 
○打背見乃 「ウツセミノ」とよむ。卷一「一三」に「虚蝉」とかき、「二四」に「空蝉之」卷二「一九九」に「打蝉」とかけるにおなじ。
○世之事爾在者 「ヨノコトニアレバ」とよむ。「ヨノコトナレバ」とよむも不可なし。この語の例は卷五「八〇五」に「余能許等奈禮婆等登尾可禰都母《ヨノコトナレバトドミカネツモ》」とあり。ここは卷二「一五〇」の「空蝉師神爾不勝者離居而朝嘆君《ウツセミシカミニタヘネバハナリヰテアサナゲクキミ》、放居而吾戀君《サカリヰテワガコフルキミ》」といへるに稍心似たり。
○外爾見之 「ヨソニミシ」なり。卷二「一七四」この卷「四七四」の「昔許曾外爾毛見之加《ムカシコソヨソニモミシカ》」といへるに心おなじ。
(1043)○山矣耶今者 「ヤマヲヤイマハ」とよむ。「耶」は「邪」の俗字にして「ヤ」の音あれば借りたるなり。もとは無關係と思ひし山を今はといふなり。「ヤ」は疑問の係助詞にして次の句の意に影響を及ぼす。
○因香跡思波牟 「跡」字流布本に「爾」とせり。すべての古寫本及び活字無訓本みな「跡」とせり。流布本は蓋し、活字附訓本の誤植に基づくものなり。舊訓に「ヨスカトオモハム」とあるも、その正しき文字によれるが故なり。
○一首の意 生るゝものは終には死ぬる事は世間の定まれる事にて如何ともしがたければ、今までは無關係と見てありし相樂山をば今は妻の葬られてあればそこを心のより所と思はむとなり。
 
483 朝鳥之《アサトリノ》、啼耳鳴六《ネノミシナカム》、吾妹子爾《ワギモコニ》、今亦更《イママタサラニ》、逢因矣無《アフヨシヲナミ》。
 
○朝鳥之 「アサトリノ」とよむ「啼」の枕詞なること上の長歌におなじ。
○啼耳鳴六 舊訓「ネノミヤナカム」とよめり。玉の小琴は「鳴六」は「之鳴」の誤として「ネノミシナカユ」とよみ、槻落葉は「耳」の下に「也」を加へて舊訓の如くし、古義はこのまゝにして「子ノミシナカム」とせり。今按ずるにここに脱字ある本なければ、このまゝにてよむを穩かなりとす。さて「ヤ」といふが如き特殊の助詞のなきをここに加へてよむは穩かならず。かくて「シ」を加へてよむは例少からねば、古義の説をよしとす。卷四「六一四」に「白細之袖漬左右二哭耳四泣裳《シロタヘノソデヒヅマデニネノミシナクモ》」など似た(1044)る例なり。
○今亦更 「イママタサラニ」なり。意明かなり。
○逢因矣無 「アフヨシヲナミ」とよむ。卷二「二一〇」に「戀友相因乎無見《コフレドモアフヨシヲナミ》」といへるに意同じ。
○一首の意 反轉法によれり。今は又更にわが妻に逢ふ由の無きによりてただ啼きのみ啼かむとなり。
 
右三首、七月廿日高橋朝臣作歌也。名字未v審。但云、奉膳之男子焉。
 
○七月廿日 これは前よりの引續きにて天平十六年七月廿日の作と推定すべきなり。
○高橋朝臣作歌也 高橋朝臣は阿部朝臣と同祖、孝元天皇の皇子大彦命の後なり。新撰姓氏録に曰はく。
 高橋朝臣、阿倍朝臣同祖、大稻輿命之後也。景行天皇巡2狩東國1供2獻大蛤1。于時天皇喜2其奇美1賜2姓膳臣1。天渟中原瀛眞人天皇十二年改2膳臣1賜2高橋朝臣1。
とあり。この氏人はかの高橋氏文にも明かなるが如く世々天皇の御膳を掌れり。さてこの作者は何人か「名字未審」といへれば、今に於いては知り難し。本集にこの氏の人は高橋朝臣國足あり。なほ、高橋連蟲麿等あれどそれは連のかばねにして氏族は別なり。高橋連は物部氏の同族にして神別なれば、皇別の高橋朝臣と混ずべきにあらず。
○名字未審云々 これら十二字をば考に衍とし、槻落葉は後人の加注なりとせり。何時の加注(1045)か、斷言すべきにあらねど、「但云奉膳之男子焉」とあるは無下の注にあらずして、この歌の作者として傳ふる所あるを注したること著しければ、編者の原注と見ても差支なきなり。
○但云奉膳之男子焉 これは作者の名と字とは知らねども、たゞ奉膳の官に在りし男子なりといひ傳へたりとなり。奉膳とは宮内省の内膳司の長官なり。令にいはく、
 奉膳二人掌3ハ2知御膳進食先嘗1
とあり、延喜式によれば、後に内膳司の長官に内膳正といふ名も起りたるが、それは式部式に、
 凡内膳司長除2高橋安曇二氏1以外爲v正
とあるが、後には奉膳の名すたれて專ら正の名を用ゐられたり。されど、職原抄に
 内膳司 掌御膳事
 正一人 奉膳一人 近代奉膳乃爲v正、高橋氏相傳任之
とありて高橋氏は後々までも内膳司の長官たりしなり。この時に奉膳たりし人は誰なるか明かならず。續日本紀によるに、神護景雲二年二月勅ありて、「以高橋安曇二氏1任内膳司者爲2奉膳1其以2他氏1任之者宜名爲正」とあり。按ずるに、その以前には專ら奉膳とのみいひしものならむ。天平寶字三年十一月に「從五位下高橋朝臣子老爲2内膳奉膳1」又天平寶字六年四月に「從五位下高橋朝臣老麿爲2内膳奉膳1」の記事あればなり。されど、これらの人はこの歌の作者といふべき證なし。
    (昭和十一年七月六日稿了、八月二十一日再訂了)
 
(1)萬葉集講義卷第三附録
 
   萬葉問題集 卷三
 
 この問題集の本旨は卷一の附録に述べたれば、今くりかへさず。なほこの問題集も主として、その問題として存する部分を指摘するに止めたり。本書に於いて著者が意見を述べたるものにつきてもなほ學者の講究を要すと思ふものはここに問題として採録せり。
 問題の下にその歌の番號と本書にはじめてあらはれたる頁とを注記すること卷一、卷二におなじ。而して同一の語の屡出づるものは最初のものをあぐるに止む。次に、卷一、卷二に既に問題として掲げたるものは本卷に於いては便宜上これを略することあり
  卷第三中の問題
獵路池 「二三九」(三六頁)
(2)春日王 「二四三」(五三頁)
野坂乃浦 「二四六」(六〇頁)
石川大夫 「二四七」(六二頁)
舟公宣 「二四九」(七一頁)
可古能島 「二五三」(八一頁)
潮   「二五三」(八一頁)
留火  「二五四」(八六頁)
雪驟朝樂毛 「二六二」(一一九頁)
馬莫疾打莫行 「二六三」(一二三頁)
赤乃曾保船 「二七〇」(一五二頁)
四極山 「二七二」(一六三頁)
笠縫之島 「二七二」(一六三頁)
磯前  「二七三」(一六六頁)
(3)八十之湊 「二七三」(一六六頁)
軍布 「二七八」(一八七頁)
髪梳乃少櫛 「二七八」(一八七頁)
名次山 「二七九」(一九三頁)
角松原 「二七九」(一九三頁)
石上卿 「二八七」(二一九頁)
夜隱  「二九〇」(二三三頁)
角麿  「二九二」(二四七頁)
廬前乃角大河原 「二九八」(二六七頁)
行年  「二九九」(二七三頁)
久米能若子 「三〇七」(三〇四頁)「四三五」(八五二頁)
京引  「三一二」(三三一頁)
奈麻余美乃 「三一九」(三六〇頁)
(4)水乃當〔右○〕「三一九」(三六〇頁)
射狭庭乃崗 「三二二」(三九五頁)
臣木  「三二二」(三九六頁)
飽田津 「三二三」(四〇七頁)
登保志呂之 「三二四」(四一三頁)
宇禮牟曾 「三二七」(四三六頁)
淵有毛〔右○〕「三三五」(四五五頁)
白縫〔二字右○〕筑紫 「三三六」(四六〇頁)
湖    「三五二」(五〇三頁)
高城乃山 「三五三」(五〇六頁)
繩乃浦 「三五四」(五〇八頁)「三五七」(五一七頁)
志都乃石室 「三五五」(五一〇頁)
粟島 「三五八」(五一九頁)
(5)阿倍乃島 「三五九」(五二一頁)
佐農能崗 「三六一」(五二五頁)
告志五〔右○〕余 「三六二」(五二八頁)
手結  「三六六」(五四三頁)
石上大夫 「三六八」(五五二頁)
飫海  「三七一」(五六六頁)
高座之 「三七二」(五七〇頁)
   著者は高座は高御座にあらずと本書にいへり。諸家の講究をまつ。
容鳥  「三七二」(五七〇頁)
祈奈牟 「三七九」(五九二頁)
情進莫 「三八一」(六〇四頁)
明〔右○〕(朋)神之 「三八二」(六〇七頁)
儕立乃 「三八二」(六〇七頁)
(6)見杲|石〔右○〕山 「三八二」(六〇七頁)
吉志美我高嶺 「三八五」(六二三頁)
草取可奈和〔三字右○〕「三八五」(六二三頁)
納回  「三九〇」(六五七頁)
鳥總立 「三九一」(六六一頁)
金明軍 「三九四」(六七七頁)(四五八)(八三三頁)
託馬野 「三九五」(六八二頁)
   「ツクマヌ」とよみうべきものにあらぬは本書に論ぜり。著者の一案は本書にあげたれどもとより一案に止まる。學者の講究をまつ所なり。
待鹿爾繼而行益乎 「四〇五」(七一三頁)
   著者の案は本書にいへり。なほ講究を要す。
認有  「四〇六」(七一七頁)
   同上
(7)屋南 「四一〇」(七三五頁)
伊奈太吉爾伎須賣流玉 「四一二」(七四三頁)
池|般〔右○〕 「四一六」(七六二頁)
手弱寸  「四一九」(七七二頁)
七相菅  「四二〇」(七七六頁)
田葛   「四二三」(八〇〇頁)
霏※[雨/微] 「四二九」(八二二頁)
   これに關する著者の見解は動くまじと思はるれど、なほ一段の研究を要す。
名豆颯 「四三〇」(八二四頁)
   同上
倭文幡乃帶解替而廬屋立妻問爲家武 「四三一」(八三一頁)
松之根也遠久寸 「四三一」(八三一頁)
加|麻〔右○〕※[白+番]夜能美保乃浦 「四三四」(八四六頁)
(8)清之河 「四三七」(八五五頁)
香君   「四四三」 (八七五頁)
牛留鳥  「四四三」 (八七五頁)
天木香樹 「四四六」 (九〇二頁)
心神  「四五七」 (九二七頁)
内日指 「四六〇」 (九四二頁)
豫   「四六八」 (九八五頁)
情神  「四七一」 (九九〇頁)(心神參照)
活道山 「四七八」 (一〇一四頁)
 
(1)萬葉集講義第三 索引
   例言
一、本索引は二部に分る。一部は國語索引にして、二部は漢字索引なり。これらはいづれにもこの卷の國語及び漢字をすべて網羅してあげむことを目的としたること前卷の場合におなじ。
二、記載例は前卷の場合におなじきを以て、詳細の説明は前卷のものを見らるべし。但しこの卷に至りて稍方法をかへたるものなきにあらず、されど、大綱はもとより變更せざるものなり。
三、一の歌の中に二回あらはるゝものはその項數を二回あぐることゝしたり。
 
         2011年4月25日(月)午前10時45分、入力終了、2011年5月11日(水)午後2時25分、未入力部分入力終了。
2016年12月2日(金)午前10時53分、校正終了。