萬葉集講義卷第二
 
(1)自序
 
萬葉集講義卷第一を出版してよりここに四年。この間には篤學の士濟々として出で見るべき研究少からず、萬葉集の學また頗る進展せり。この際にあたりて今この卷第二を世に公にせむとす。顧みれば余が如き門外漢のこの小著の今の世に出づるは或は贅疣を加ふるが如き觀あらむ。しかも他山の石、また玉を攻くべしとせば或は何等かの用に供せらるべき點あらむか。本書に關しての余が態度は既に卷第一の序に述たる所なれば、ここに再びいはず。
 本書の稿本は東北帝國大學に於ける講義の草案にして昭和四年冬に脱稿せるものなり。かくてこれに基づいて再考を加へ、昭和五年夏にこれを了へて印刷に附せり。印刷に附してより殆ど一箇年昭和六年九月に本文は終了せしかど、索引の調製に多くの時日を費し、この日辛うじてその稿を脱せるなり。ここに出版の顛末を記して序に代ふ。
 昭和七年三月二十一日     山田孝雄
 
(1)例言
 
一、本書の本文は寛永版本を基としたれども、その誤の著しくして他の諸本によりて正字の知らるゝものはこれを訂してその字には左旁に「○」圏を加へたり。
一、諸本に通じて用ゐられてある字なれど、誤と認めずしては通じ難きものは左旁に「●」圏を加へて漫りに改むることをせず、解説中に意見を述べたり。
一、各首の歌の上に施せる番號は國歌大觀にて加へしものによれり。この番號は近時諸本に用ゐらるれば、本書もこれに傚へるなり。隨つて解説中に引ける歌もこの番號によつて示し、從來の卷張數を示す方法をとらず。
 
(1)萬葉集講義卷第二
                山田孝雄述
    卷第二の通説
 
 この卷は、講義卷第一の卷首にいへる如く、卷第一と共に一團をなすものなり。この一團全部を通じて見るに、雜歌相聞挽歌の三部門に分てるものにして、卷第一はそのうちの雜歌をあげ、この卷はそのうちの相聞と挽歌との二部門を載せたるものなり。而してその相聞と挽歌との意義は講義卷第一の卷頭と、この卷の各部門のはじめとに説きたれば、ここにこれを説かず。
 この卷の相聞は仁徳天皇の朝の歌と傳ふるものをはじめとして、柿本人麿の妻の歌にて終り、挽歌は舒明天皇の朝の歌をはじめとして、寧(2)樂宮の靈龜元年秋九月の歌にて終れり。即ち卷第一卷第二を通じて見れば、この相聞部のはじめの歌が、最も古く、挽歌部の終の歌が是も新しきなり。かくてこの一團は寧樂朝の初期に編纂せられしものならむことを思はしむるものあり。
 編纂の方法は既にいへる如く、卷第一、卷第二を通じて一種の特色ありて、明日香清見原宮御宇天皇までは宮號を以て天皇を稱へ奉り、一代毎に標出せるが、藤原宮以後は藤原宮にて持統文武二朝を記し、寧樂宮にて元明元正二朝を記し、なほ年號の明かなるものは年號を掲げて次第せり。
 なほこの二卷を通じて見るに、これはその材料となれるものを甚しく主觀を加ふることなくして、本の姿のままにとる主義にて編纂せしものかと思はるるふしあり。その一端は、本講義の「二〇七」以下の柿本人麿の歌につきて論ぜる如くに、この卷第一、卷第二を通じての人麿の(3)歌には一種殊なる現象を呈せるに、卷第三以下の人麿の歌と傳ふるものにはさる現象のあらはれたるを見ざるなり。これは人麿の歌を研究する上には頗る重大なる事柄と思はるるが、かくの如き編纂上の方針はその他の部分にも行はれたるべく思はるるなり。
〔5〜11、目次、省略〕
 
(13)相聞
 
○これは既にいへる如く卷第−卷第二を通じて一とせるうちの三の部類の隨一にして、雜歌挽歌と相對する一部門なり。相聞は從來戀歌の義に近きやうに説き來れども、さにはあらずして往來存問の義なること既に卷一のはじめにも説き又相聞考に詳述せれば、それに讓りて今はいはず。さてよみ方も「シタシミウタ」などよめるもあれど、ただ古來よみ來りしままに「サウモン」とよみてよかるべし。この時代に字音の語行はれずといふ反證なきのみならず、かへりて字音の語にて行はれしものも存すればなり。
 
難波高津宮御宇天皇代、大鷦鷯天皇
 
○難波高津宮御宇天皇 「ナニハノタカツノミヤニアメノシタヲサメタマヒシスメラミコト」とよむ。難波は古難波國ともいひて、後の攝津國西生郡及び東生郡の西邊かけての大名にして大阪わたりより住吉にかけての地にあたり、今の大阪市の地域を主とする地方の舊名なりとす。高津宮は仁徳紀に「元年正月丁丑朔、己卯都2雖波1是謂2高津宮1」とあり。古の難波の舊趾は今の大坂城より南方をかけて東高津味原池の邊ならむといへり。而して皇居はその高地の海岸にありしならむといへり。
○大鷦鷯天皇 難波高津宮に御宇ましし天皇の御名大鷦鷯尊と申す。應神天皇の御子にして(14)後に仁徳天皇と申す。多くの古寫本に小字にせるをよしとす。
 
磐姫皇后、思天皇御作歌四首
 
○磐姫皇后 「イハノヒメノオホキサキ」とよむべし。この皇后は古事記下卷に「大雀命坐2難波之高津宮1治2天下1也、此天皇娶2葛城之曾都毘古之女石之日賣命1云々」とある如く、葛城襲津彦の御女にして武内宿禰の御孫なり。日本紀仁徳卷には「二年春三月辛未朔戊寅立2磐之媛命1爲2皇后1」とあり、又續紀卷十の宣命には「葛城曾豆比古女子伊波乃比賣命」とあり。これによりて「イハノヒメ」とよむべきを知る。この皇后は履仲、反正、允恭三帝の御母にましますなり。皇后の御名をここに書き奉れるは異例に屬するによりて古來議論なきにあらず。考には「今本にここに御名を書たるは令法に背き此集の例にも違へり」といひて「磐姫」の字を除きて單に「皇后」とのみせり。これ一往は道理ある如くなれば、略解古義などもこれに從ひて、この二字を加へたるは後人のしわざなるべしといへり。然れども古寫本に一もかゝるものなしし。攷證に元暦本にこの二字なき由いへれど、それも妄説なり。この故に古より、かく書けりと見るべし。これにつきては又或は磐媛命は臣下の女にして實は彼時には皇后に立ちまさず、妃夫人の列にてありしなるべく、後に尊み崇めて皇后と申しけるなるが、昔よりのいひ來りにて御名をも憚らぬならむなどいひ、橘守部などは「こは大に心得となる事なり」などこと/\しき論をなしたれど、いづれも、當時の事情を顧みざる僻説なり。先づ、磐之媛命を臣下の女といへるは當らず。抑も(15)磐之媛命は孝元天皇の御子|彦太忍信《ヒコフトオシノマコトノ》命(子)その子|屋主忍男武雄心《ヤヌシオシヲタケヲゴヽロ》命(孫)その子武内宿禰(曾孫)その子葛城襲津彦(玄孫)その子磐之媛なれば、孝元天皇六世の孫なり。後世は五世まで皇親の列にしてその以下は臣籍に入れどこの頃は六世にても皇族なりしなるべく、古事記日本紀共上にもいへる如く「命」とも書かれたり。凡そ、古は皇族以外より皇后を立てられることなかりしことにて、令の制後宮職員として皇后の下に妃、夫人、嬪の三職を置かれしにも臣下の女は夫人に至るを最上級とし、妃は皇族に限られたるなり。而してこの制度は聖武天皇の御世のはじめまでは嚴重に守られたりしなり。かくて臣族より皇后とならるることは聖武天皇の天平元年に夫人藤原光明子を皇后に立てられしをはじめとす。その立后の時にはこの磐媛皇后を以て先例とせらるる由の宣命ありしかど、そは一時權宜の言なること史家の定論たり。この故に當時皇后ならざりし由などいふ説はとるに足らず。抑もこの皇后は仁徳天皇の三十五年夏六月に崩ぜられ、後三十八年に八田皇女を立てて皇后とせられし事なれば、仁徳天皇には前後皇后二人ましませるなり。さればただ皇后とのみ書きおきてはいづれの御方の御歌にか明かならぬ道理なり、この故に、御名を記しおきしにこそあれ。さて皇后は天皇の嫡妻を申すこと公式令の義解に「皇后謂2天子嫡妻1也」と見ゆ。皇后の文字は古今に通ずれど、その訓は古と今と異なり。古は天皇の御妻妾をさして汎く「キサキ」といへるが、正しき嫡妻は唯一人に限り、これを特に「オホキサキ」と申ししなり。「大后」はその「オホキサキ」の語をあらはすに用ゐたるものにして後世の皇太后の義にはあらず。現に古事記の此天皇の卷に「此天皇之世爲2大后〔二字右○〕(16)石之日賣命之〔六字傍点〕御名代1定2葛城部1」とあるにて知るべし。古事記神武卷に「更求d爲2大后〔二字右○〕1之美人u時云々」と見え、その時に求め得たまひしは比賣多多良伊須須氣余理比賣の皇后なり。
○思天皇御作歌 「スメラミコトヲシヌビタマヒテヨミマセルウタ」とよむべし。
○四首 この二字を考には削れり。されど、目録にもあり又他の例に準じてもあるをよしとす。
 
85 君之行《キミガユキ》、氣長成奴《ケナガクナリヌ》、山多都禰《ヤマタヅネ》、迎加將行《ムカヘカユカム》、待爾可將待《マチニカマタム》。
 
○君之行 「キミガユキ」とよむ。「行」は「ユク」を體言化したるにて、「ユクコト」の義にして今旅行といふにも似たり。御幸の「ミユキ」はその「ユキ」に敬意の接頭辭「ミ」を加へるなり。ただ「ユキ」といへる假名書の例は本集卷二十に「和我由伎乃伊伎都久之可波《ワガユキノイキツクシカバ》」(四四二一)とあり。「君がゆき」といふ例は卷十九に「君之往若久爾有婆《キミカユキモシヒサナラバ》」(四三三八)ともあり。卷五に「枳美可由伎氣那我久奈理努《キミカユキケナガクナリヌ》」(八六七)とあるは今と同じ語の假名書なるなり。
○氣長成奴 「ケナガクナリヌ」とよむ。「ケ」は既にいへる如く「キヘ」の約まれる語にして時間の經過をいふなり。「ケナガシ」といふ語も卷一にいへる如く、月日の多く經たるをいふ語にして久しくといふに似たり。以上第一段。
○山多都禰 「ヤマタヅネ」とよむべし。西本願寺本に「ヤマタツノ」とよみ、下にいへる如く古事記の歌に「山多豆乃」とあるによりて「ヤマタツノ」とよむをよしとする説多く、美夫君志の如く「禰」字に「ノ」の音ありなどいふ説も生じたれど、從はれず。これは、古事記の歌と同じものを誤り傳へ(17)たるものとは思はるれど、もとより古事記の歌を直ちに受けたるにあらねば、異なる説のありしならむと考へらる。かくて、ここにては山を尋ぬる由にとれるなり。かく「尋ね」といひても歌としては格破れたるにあらぬなり。
○迎加將行 「ムカヘカユカム」とよむ。「カ」は疑問の助詞にして係辭とせしなり。この「迎へ」は「行く」の目的を示せる目的準體言なれば、この下に「ニ」助詞あるべき筈なれば、今の語ならば、迎へに行かむかといふに略同じ。古事記なるは「牟加閇袁由加牟《ムカヘヲユカム》」とあり。意は異ならず。
○待爾可將待 「マチニカマタム」とよむべし。古事記なる歌には「麻都爾波麻多士《マツニハマタジ》」とあるによりてか、本居宣長はまちにかまたんにては上に叶はずとて、「さとにかまたん」に直されし由なれど、然しては歌の意も淺く調もあらぬさまなり。もとの如くにて差支なし。何となればかく動詞の連用形を助詞「に」にて受けて、下の同じ動詞に重ぬるは、一種の修飾格にして、下の用言の意を強むる作用をなすものなり。その例は、卷四に「如此許三禮二見津禮片思男責《カクバカリミツレニミツレカタモヒヲセム》」(七一九)「幾許久毛久流比爾久流必所念鴨《ココダクモクルヒニクルヒオモホユルカモ》」(七五一)卷六に「春去者乎呼理爾乎呼里※[(貝+貝)/鳥]之鳴吾島曾《ハルサレバヲヲリニヲヲリウグヒスノナクワガシマゾ》」(一〇六一)などあり。「まちに」は下の「まつ」を修飾して、待つ意を強むるものにして、ただこのままにてはいつまでも待ちをらむかといふ意なり。卷六に「吾屋戸乃君松授爾零雪乃行者不去待西將待《ワガヤドノキミマツノキニフルユキノユキニハユカジマチニシマタム》」(三〇四一)といへると詞遣の似通へるを思へ。
○一首の意 この歌二段落にして、第一段はわが君の御幸ありてより後隨分月日を多く經過したり。何とて、かく久しき旅をしたまふならむといふなり。第二段はさてかく久しく君を見(18)ねば、戀しさに堪へねば、山べなとに尋ねて迎へに行かむか。或は又このまま家にていつまでも待ちをらむかと兩端に述べたまへるなるが、婦人の夫を思ひあせりたる情をよくあらはされたりといふべし。
 
右一首歌山上憶良臣類聚歌林載焉
 
○ この左注によりこの歌は後人の加へたるなりといふ説もあれど、すべて左注に「右云々」とかけるはいつも原本に載せたる歌を基としていへるなれば、これはもとより原本にありしなり。即ちこの左注の意はこの歌萬葉集の原本に、もとより磐之媛皇后の御歌としてあげたるが、類聚歌林にもしか載せたりといふ義なるべし。類聚歌林はこの卷一卷二の成れりとおぼしき和銅の頃よりは後のものなれば、この左注はもとより後人の參考の爲に記入せしものなり。而して類聚歌林にも皇后の御歌としてあげたりしならむ。然らずば、先例によればここに作者の異説あることをことわるべき筈なればなり。
 
86 如此許《カクバカリ》、戀乍不有者《コヒツツアラズハ》、高山之《タカヤマノ》、磐根四卷手《イハネシマキテ》、死奈麻死物乎《シナマシモノヲ》。
 
○如此許 「カクバカリ」とよむ。卷十九に「可久婆可里古非之久安良婆《カクバカリコヒシクアラバ》」(四二二一)とあるなどその假名書の例なり。
○戀乍不有者 「コヒツツアラズハ」とよむ。卷二十に「伊閉爾之弖古非都都安良受波《イヘニシテコヒツツアラズハ》、奈我波氣流(19)多知爾奈里弖母伊波非弖之加母《ナガハケルタチニナリテモイハヒテシカモ》」(四三四七)とあるその假名書の例なり。なほ卷四に「如是許戀乍不有《カクバカリコヒツツアラズハ》、石木二毛成益物乎物不思四手《イハキニモナラマシモノヲモノモハズシテ》」(七二二)又この卷に「遺居而戀管不有者《オクレヰテコヒツツアラズハ》、追及武《オヒシカム》、道之阿囘爾標桔吾勢《ミチノクマミミニシメユヘワガセ》」(一一五)とあり。これは連用形の「ず」に係助詞「は」のつけりとする橋本進吉氏の説をよしとすべく、意は詞の玉緒に「あらんよりは」の意なりと説けるによるべく「云々といふ事を現にせるがさる事をせずしてむしろそれよりは」といふ意のいひまはし方の語なりと見ゆ。
○高山之 「タカヤマノ」とよむ。童蒙抄には「カグヤマノ」とよみたれど、かへりてよからずと思はる。この「高山」は或は地名か。然らば、この皇后の天皇をうらみまして宮つくりしてましまししといふ山城國筒城岡の南の地よりつづきてその近き所に大和國平群郡高山といふ地あり。或はただ高き山と宣ひしにか。然らば、陵墓の地の意あるべし。卷三に「石田王卒之時丹生王作歌」に「高山之石穗乃上爾伊座都流香聞《タカヤマノイハホノウヘニイマセツルカモ》」(四二〇)といひ、その反歌に「高山之石穗乃上爾君之臥有《タカヤマノイハホノウヘニキミガコヤセル》」(四二一)といひたるなどにてこの意ありしを思ふべく、ことにこの頃の陵墓はいづれも見はるかしのよき地にあり。光仁天皇の御母紀橡姫の吉隱陵の如きは著者自ら參拜せしに、その地極めて、高く、西は櫻井町より大和の平原を眺むべく、東は宇陀郡の各地を一望に見わたしうる地なりき。
○磐根四卷手 「イハネシマキテ」とよむ。「四」は助詞の「シ」にあてたるにて、強めていふ意あり。「まき」は、上にもいへる如く枕する意なり。卷四に「余衣形見爾奉布細之枕不離卷而左宿座《ワガコロモカタミニマツルシキタヘノマクラヲサケズマキテサネマセ》」(六三六)などあり。磐根を枕としての意なり。古、貴人の葬は石槨をかまへ、石棺に納め、石枕をして安(20)置するが故にかくいへるなり。
○死奈麻之物乎 「シナマシモノヲ」とよむ。「マシ」は假定する意の複語尾なり。「ヲ」は嘆息の意をあらはせり。
○一首の意 かほどまでにわが君を戀ひつつあらむよりは一層のこと高山の磐根を枕として死にてしまへばよからうものをとなり。その戀ふる意の切なるをうたひたまへるなり。
 
87 在管裳《アリツツモ》、君乎者將待《キミヲハマタム》、打靡《ウチナビク》、吾黒髪爾《ワガクロカミニ》、霜乃置萬代日《シモノオクマデニ》。
 
○在管裳 「アリツツモ」とよむ。卷二十に「安里都都母伎美伎麻之都都《アリツツウモキミキマシツツ》云々」(四三〇二)とあり。「在管裳」とかけるは卷三(三二四)に、「在乍毛」とかけるは卷四(五二九)に、「有乍」とかけるは卷七(一二九一)など例多し。このまゝにありつつもの意なるが、ここにてはながらへありつつの意に説くべし。
○君乎者將待 「キミヲバマタム」なり。上の歌をうけて、一旦死なましとまで思はれしが、再びおもひかへしたまへるさまあらはれたり。
○打靡 舊板本「ウチナビキ」とよませたり。かくてはこの語霜の置くにかかる形容となるべきこととなる。されど、ここはさにはあらずして黒髪にかかれるなれば「ウチナビク」とよめる本をよしとす。卷五に「有知奈毘久波流能也奈宜等《ウチナビクハルノヤナギト》」(八二六)とあるは同じ趣なるが、それは柳のしたれたるなるをあらはせり。さて從來の諸家これを髪の枕詞なりといはれたれど、これは實(21)際の形容にして枕詞にあらず。女の髪の長きはいふまでもなく、當時は專ら垂髪なりしが故に、「ウチナビク」といへるはよくその實際をあらはせるなり。
○吾黒髪爾 「ワガクロカミニ」とよむ。
○霜乃置萬代日 「シモノオクマデニ」とよむべし。「代」は「ダイ」の呉音にて「デ」の假名とし、「日」は「ニチ」の「チ」を省きて「ニ」の假名とせるなり。古寫本に「シモオキマヨヒ」などあるは、これが音の假名なるに心つかざりしにてとるべからず。これと似たる語は卷十二に「待君常庭耳居者打靡吾黒髪爾霜曾置爾家類《キミマツトハニシヲレバウチナビクワガクロニシモゾオキニケル》」(三〇四四)とあるなどにて知るべし。これは黒髪の白髪となるをば、霜の置くと歌詞にいへるなり。髪の白くなるを霜のふるになぞらふることは卷五に「美奈乃和多迦具漏伎可美爾伊都乃麻可斯毛乃布利家武《ミナノワタカグロキカミニイツノマカシモノフリケム》」(八〇四)とも見えたるにても知るべし。しかるに萬葉考にはこれを古歌の樣をよく意得ぬ人の書きあやまれるものなりとして「黒髪乃白久爲萬代日《クロカミノシロクナルマデニ》」と改めたり。されど、かくの如き本一もなきのみならず、本文のままにて意よく通ずるなり。まして古歌の趣にたがふふしとてもなきものをや。
○一首の意 さて一旦死なましとまで思ひしかど思ひめぐらせば、それも短慮の至なるべし。まづはかくのままに在りながらへつつ君の來まさむを待たむ。たとひ、わが黒髪の白くなるまでなりとも待たむ。君にあひ奉るを得べくば、しか白髪になるまで待たむもいとはじとなり。黒髪の白髪となるまで持たむと君を思ふ情の深くして切なるを見るべし。古の人の人を戀ふる情のあつかりしはかの雄略天草の御世の赤猪子の物語を思ひてもしらるべし。
 
(22)88 秋之田《アキノタノ》、穗上爾霧相《ホノヘニキラフ》、朝霞《アサガスミ》、何時邊乃方二《イヅヘノカタニ》、我戀將息《ワガコヒヤマム》。
 
○秋之田 「アキノタノ」とよむ。右寫本多くは「秋田之」とかけり。それをよしとす。但このままにてもしかよむにあしからず。
○穗上爾霧相 舊本「ホノウヘニキリアフ」とあり。又「キリアヒ」とよめる本もあり。されど、「ホノヘニキラフ」とよむべし。「云々のうへ」の「のへ」といへる例は「卷五に「比等能比射乃倍和我摩久良可武《ヒトノヒザノヘワガマクラカム》」(八一〇)又卷五に「烏梅能波奈多禮可有可倍志佐加豆伎能倍爾《ウメノハナタレカウカベシサカヅキノヘニ》」(八四〇)などの例あり。又「穗上」といへる例は、卷十に「秋田之穗上爾置白露之《アキノタノホノヘニオケルシラツユノ》云々」(二二四六)などあり。秋の田の稻穗の上にの意なり。「霧相」はもと「キリアフ」とよみたれど、契沖の改めたるによりて「キラフ」とよむべし。「キラフ」は「キル」といふ動詞を波行四段の複語尾に再び活用せしめしにて、「キル」は既にいへる如く「くもる」「かすむ」などに似て、霧の立つさまをいへる動詞にして「キリ」はそれの連用形が名詞になれるなり。類聚名義抄には「霽」「雰」等に「キル」の訓あり。「雰」は玉篇に「霧氣也」とあり。この「キル」は水蒸氣の多く立つをいへるにて催馬樂紀伊國に「風しもふいたればなごりしもたてればみなそこきりてはれその玉みえず」とあり。「キラフ」はその霧ることの作用の引續き存するをいふなり。日本紀齊明紀に「阿須箇我播瀰儺蟻羅※[田+比]都都喩矩瀰都能《アスカガハミナギラヒツツユクミヅノ》」などの例あり。この事は卷一「二九」の「霧流」の下に既にいへり。
○朝霞 「アサガスミ」とよむ。後世にては「カスミ」は春にして秋には「キリ」といふ例となりたれど、(23)古はこの區別なきのみならず、承暦年中書寫の金光明最勝王經音義には霧字に「加須美」の訓をつけたり。又卷八に七夕の歌に「霞立天河原爾待君登《カスミタツアマノカハラニキミマツト》」(一五二八)といふあり。又卷十秋相聞の寄蝦に「朝霞鹿火屋之下爾《アサカスミカヒヤガシタニ》」(二二六五)ともあり。これは今の語にては朝霧といふべきところなり。朝霞といへるは霧は朝その立つこと、殊に深きによりてかくいへるにて、秋田の朝霧立こめて東西も分ち難きさまなるをいひて次の句の下がまへとせるなり。
○何時邊乃方二 「イヅヘノカタニ」とよむべし。「何」時は「イツ」にして時の不明なるを示す文字なれど、これを「イヅ」といふ假名に用ゐたり。「イツ」といふ語は今は時の不明なるにのみいへど古くはすべて不明なることを示す代名詞なりと見ゆ。これに「レ」を添へて「イヅレ」といへばよく、その意を示すこと、「ワ」「ナ」「コ」「ソ」「カ」「ア」がもとより代名詞なるに「レ」を添へて「ワ」「ナレ」「コレ」「ソレ」「カレ」「アレ」といへば一層その意明なるに同じと知るべし。されば「イヅ」にて不明を示す語なるに「方」の意なる「へ」を添へて「イヅヘ」といひて(「ヅ」を濁り「ヘ」を清むべし)今の語にていへば「イヅカタ」といふに同じ意をあらはせるなり。「イヅヘ」の語の例は卷十九に「霍公鳥伊頭敝能山乎鳴可將超《ホトトギスイヅヘノヤマヲナキカコユラム》」(四一九五)とあり。「イヅヘノカタ」といふは重言なるに似たれど、今も「どちらの方」ともいふにおなじ語遣なれば、古とても不審なく用ゐしならむ。朝霧はやがていづ方ともなく消え失するを以て先づかくいへり。
○我戀將息 「ワガコヒヤマム」とよむ。上に「イヅヘノカタニ」とあるをうけて、わが戀のやむべきかと疑の形式を用ゐて嘆息の意をあらはされしなり。
(24)○一首の意 秋の田の面にきりわたれる朝霧はやがて消えうするものなるがそれを比喩にしてわが戀ふる思ひは東西もわかず、思ひをはるけむよすがもなきはその朝霧のこめたてあやめもわかぬにも似たるが、その朝霧とてもいつしか何處ともなく消え失するに、わが戀の思ひの苦しさはいつ如何にして消え失すべきか。いかにしてもわが戀ふる意をはるけむ由もがなとなり。
 以上四首は本文としたる皇后の御歌にして四首連續して一の想をなせること甚だ巧なりといふべし。第一首は起首として先づ、君を待つこと久しきをいひ、迎へに行くべきか、かくて待つべきかの二途いづれによるべきかといひて、胸中悶悶の情をあらはされたるなり。第二首は第一首を承けて、かくばかり戀ひて煩悶せむよりは一層死してこの苦境を脱せむかといひて、その情の最高潮に達せるをあらはせり。第三首は第二首を承けて更に一轉して思ひかへして、いやいや短慮はせずいつまでも待ち奉らむといふ事をあらはせるが、表面の煩悶は沈靜せる如くに見えて戀々の情一層深刻となれるを示せり。第四首は以上三首の歸結とし、特に遙に第一首の二途その一を擇ばむかといへるに對してその悶々の情殆ど、處置すべき方途なきを嘆息せられたるなり。一讀再讀その胸中の苦悩を描くこと深刻にして、萬葉集中かくの如き至情の流露するもの決して多からず。われはこれを以て集中有數の絶唱として愛吟措かざるものなり。これを以て察するに磐之媛命は史に傳ふる如く嫉妬の爲に、天皇と絶たれし悍き婦人にはあらで、寧ろ、天皇より敬遠せられて悶々のうちに崩ぜられしにあらざるか(25)を疑はしむ。古事記日本紀にこの皇后の御歌數首を載せたれど、一首だに似たるものなし。これを以て種々の異説も生じたるなり。若しこの歌眞に皇后の御歌にあらずとせば皇后の御胸中を同情して人のつくれるにてもよし。或は又全く別の歌を誤り載せたりとしてもよし。四首一聯にして、その情の深切にしてその作の巧妙なることは作者のいづれになりたりとて左右せらるべきにあらざるなり。この四首を切りはなし、唯一首をとりて論ずる如きはこの御歌の眞の味を知れるものにあらざるなり。
 
或本歌曰
 
○ これはこの次に載せたる歌は萬葉集の原本にはなくして、後の注者の參考として載せるものなり。されば或本歌としたるなるが、その或本は左注にいへり。さればこの歌は一字下げてかくをよしとすべきなり。目録を見れば、上の四首とこれらとの區別明かなるなり。而してこの歌は上の第三首の「在管裳」の歌に對しての異説としてあげたるなり。
 
89 居明而《ヰアカシテ》、君乎者將待《キミヲハマタム》。奴婆珠乃《ヌバタマノ》、吾黒髪爾《ワガクロカミニ》、霜者零騰文《シモハフルトモ》。
 
○居明而 舊訓「ヰアカシテ」とよめり。契沖は卷十八に「乎里安加之許余比波能麻牟《ヲリアカシコヨヒハノマム》」(四〇六八)とあるを例にとりて「ヲリアカシテ」とよむべきかといひ、玉勝間には直ちに「ヲリアカシテ」とよみ、美夫君志またこれに從へり。されど、「ゐる」といふ動詞は古くよりありたるものにして「乎利」(26)のみ正しといはるべきにあらず。これは音の關係よりいひてもなほ「ゐあかして」とよみてあるをよしとすべし。「ゐあかして」といふ例は枕草紙六に「廿六七日ばかりのあかつきに物がたりしゐあかしてみれば」と見ゆ。夜寢ずに居て夜を明すをいふなり。
○君乎者將待 上の歌におなじ。
○奴婆珠乃 「ヌバタマノ」とよむ。「ヌバタマ」は「ヒアフギ」又は「カラスアフギ」(射干)といふ草の實をいふ。その色黒くして小き球状をなせり。よりて黒き意の枕詞とせり。
○吾黒髪爾 上の歌にをなじ。
○霜者零騰文 「シモハフルトモ」とよめり。「オクトモ」とよめる古寫本ありといへども、零字は「フル」とよむべき字なれば、從ふべからず。この句は實の霜のふるをいへり。即ち
○一首の意 たとひわが黒髪に霜ふるとも今夜は居明して君を待たむとなり。
 
右一首古歌集中出
 
○ これは上の「或本云」と呼應したる後人の注記なり。その古歌集といふものは今傳はらねど、この歌が上の「ありつつも」の歌に似たるによりて參考としてあげたりとなり。
 
古事記曰輕太子奸2輕太郎女1故其太子涜2於伊豫湯1也。此時衣通王不v堪2戀慕1而追〔左○〕往時歌曰
 
(27)○ これは古事記允恭卷の文を節略せるものなり。
○輕太子 允恭天皇の皇太子木梨之輕太子なり。
○奸 「タハク」とよむべし。不義奸通するをいふ。
○輕|太郎女《オホイラツメ》 これ太子同母妹なり。この同胞相姦の事によりて太子は廢せられて、流されたまひしなり。
○伊豫湯 は必ずしも道後の温泉と定めて考ふべからず。温泉郡の或地に流されしならむ。
○衣通王 「ソトホリノミコ」とよむべし。輕大郎女の亦の名なり。古事記に輕太郎女亦名衣通郎女「【御名所3以負2衣通王1者其身之光自v衣通出也】」と見えたり。然るに、日本紀允恭卷には皇后大中津比賣命の御妹弟姫の亦名に衣通姫といふあり。同名異人か、若くは傳の異なるなるべし。
○不v堪2戀慕《オモヒカネテ・オモヒニタヘカネテ》1而|追往時《オヒイマストキニ》歌|曰《タマハク》 これは古事記の文のままなるが「追」字流布本に「遣」字をかけれどそは「追」の誤にて古事記にも「追」とあり、又大抵の古寫本みな正しく「追」とかけり。
 
90 君之行《キミガユキ》、氣長久成奴《ケナガクナリヌ》。山多豆乃《ヤマタヅノ》、迎乎將往《ムカヘヲユカム》。待爾有不待《マツニハマタジ》。此云2山多豆1者是今造木者也。
 
○ この歌は上の第一首の歌に對しての異説としてあげたるなり。
○君之行 古事記には「岐美賀由岐《キミガユキ》」とかけり。意は上にいへるにおなじ。
○氣長久成奴 古事記には「氣那賀久那理奴《ケナガクナリス》」とかけり。意は上にいへるにおなじ。
○山多豆乃 「ヤマタヅノ」とよむ。古事記には「夜麻多豆能《ヤマタヅノ》」とかけり。
(28)○ この歌に注して「此云山多豆者是今造木者也」といへるは古事記の注文をそのままとれるものにして實に「山多豆」といへるものの説明なりとす。この「ヤマタヅ」につきては古來異説多く、その注の「造木」も亦何をさせるか明かならざりしによりて或は「山釿《ヤマタツ》」にて斧の類なり、まさかりの類なりなど、種々の説ありしが、加納諸平が「造木」を「ミヤツコギ」とよみ、その「ミヤツコギ」は和名抄に「接骨木和名美夜都古木」とあるによりて今の「ニハトコ」なりとし、それやがて「ヤマタヅ」なりとせり。「ミヤツコギ」といふ語は色葉字類抄にも「接骨木ミヤツコギ」易林本節用集にの「接骨木《ミヤツコキ》」とあれば、近世までも接骨木をかく唱へしことは知られたり。この「ミヤツコギ」が「ニハトコ」と訛りしは古「ミ」と「ユ」とは音互に通ひしことあり。壬生はもと「ミブ」なるが、「ニブ」ともいひ、又「苦《ニガ》シ」といふ語を古「ミガシ」といへりし例あり。されば、「ミヤツコ」がいつしか「ニハトコ」と訛りしなるべきなり。この「ニハトコ」が「山多豆」と唱へらるる由はその枝葉共に兩々相對するものにして、草にもよく似たるありて、これを「クサタヅ」(漢名※[草冠/朔]※[草冠/瞿])といへるが殆ど同じさまなればそれに對して「ヤマタヅ」とはいはれしならむ。この「ニハトコ」は上にもいへる如く、枝も葉も必ず兩々相對して生ずるものなれば、迎へといふ語の縁にて冠して枕詞とせるならむ。卷六にも「山多頭能迎參出六《ヤマタヅノムカヘマヰデム》」(九七一)といふ例あり。
○迎乎將往 「ムカヘヲユカム」とよむ。古事記には「牟加閉袁由加牟《ムカヘヲユカム》」とかけり。この「乎」は感動の意をあらはす助詞にてその意を強むるなり。これが他の語の上に用ゐらるる時は玉緒繰分にいへる如く、下は未然形をうくる「む」又は命令形にてうくるを常格とす。「迎へに往かむよ」と(29)いふなり。
○待爾者不待 舊訓「マチニハマタジ」とあれど、古事記には「麻郡爾波麻多士《マツニハマタジ》」とあるによりて「マツニハ」とよむべきなり、かくて其の意は待つには堪へじの意なりと考へらる。
○一首の意 第一首なると大差なし。ただ「山タヅノ」を「ムカヘ」の枕詞とせるを異なりとす。
 
右一首歌古事記與2類聚歌林1所v説不v同、歌主亦異焉。
 
○ この左注にいへる趣は、かの第一首なる歌の左注に「類聚歌林云々」といへると照して考ふべきものなるが、その類聚歌林に傳ふる歌とこの古事記なる歌とを比較するに歌の上にも作者の上にも所傳の相違ある由をいへるなり。かくてこれを日本紀によりてその疑を決せむとして次の記事あるなり。
 
因檢2日本紀1曰難波高津宮御宇大鷦鷯天皇廿二年春正月天皇語2皇后1納2八田皇女1將v爲v妃、時皇后不v聽。爰天皇歌以乞2之於皇后1。三十年秋九月乙卯朔乙丑皇后遊2行紀伊國1到2熊野岬1取2其處之御綱葉1而還。於是天皇伺2皇后不1v在而娶2八田皇女1納2於宮中1。時皇后到2難波濟1聞v合2八田皇女1大恨之云々
 
(30)○ これ仁徳天皇の皇后の御事としては如何といふ點を示さむとて日本紀の文を節略して集めてあげたるなり。
 
亦曰遠飛鳥宮御宇雄朝嬬稚子宿禰天皇二十三年春正月甲午朔庚子木梨輕皇子爲2太子1容姿佳麗、見者自感。同母妹輕大娘女亦艶妙也、云云。遂竊通乃悒懷少息、廿四年夏六月御羮〔右○〕汁凝〔右○〕以作v氷。天皇異v之卜2其所1v由。卜者曰有2内亂1、盖親親相姦乎云云。仍移2大娘皇女於伊與1者。
 
○ これは允恭天皇時代の事としては如何といふ點を日本紀を節略して集めてあげたるなり。このうち流布本は「羮」を「美」に誤り、「凝」を「疑」に誤れり。「者」は「トイヘリ」とよむ。
 
今案二代二時不v見2此歌1也。
 
○ これ注者の斷案なるが、攷證に説きて曰はく、「二代は仁徳天皇と允恭天皇との二御代をいふ。二時は仁徳天皇の八田皇女をめしたまへるを皇后のうらみ給ひし事と、輕皇子の輕大娘皇女に通じし事とをいふ。不v見2此歌1とはまへに檢2日本紀1云々とある文をうけてかけるにて、右二代の二時に此|君《キミカ》之|行《ユキ》云々の歌書紀に見えずといへる也」と。即ち、かくて最後の斷案を得べからぬ由をいへるなり。
○ 以上二首共に後人の書入なりと考へらるるが、それにつけても、此歌は卷頭の歌に對して(31)の異説にしてこれの上なるは第三の歌に對しての異説なり。かく異説の歌の位置が、本文の歌の位置と前後せるは奇怪に見ゆることなり。按ずるにこは蓋し、もと裏書にせしものなるべきを後に表に移して書き添へしものなるべきが、その卷のままに書きつづけしが故にかく前後するに至りしものなるべし。
 
近江大津宮御宇天皇代 天命開別天皇
 
○ この事第一卷にいへるにおなじ。
 
天皇賜2鏡王女1御歌一首
 
○天皇 いふまでもなく天智天皇なり。
○鏡王女 これは「鏡女王」とかくべきを誤れるなりと諸家いひ考には本文を改めたり、然るにこの女王の御名この下になほ五ケ所あるもみな「王女」とあり、なほ卷四と卷八とに各一處あるも亦「王女」とあり。而してそれらの卷卷の目録も亦みな「王女」とあり。かくて、いづれの古寫本にても一處も「女王」とかける本をみざるのみならず、古今六帖に引けるにも「鏡王女」とあり。さればこれを「女王」と改むるはなかなかにさかしらといふべし。思ふに原本もとより「王女」とありしにて後人の書き誤れるにあらじ。さてこの字面は他の例と異にして一種かはりて、見ゆれど、「皇女」とかけるに對すれば、「王女」とある方かへりて異樣にあらずと見ゆ。恐らくは當時由(32)ありてこの「女王」の名にのみかかる字面を用ゐられしが、そのまま所謂固有名詞の姿として後までも傳はりしならむ。然らば、これを如何によむべきかといふに、これは上述の如く特別の字面なれど、意は「女王」と同しかるべければ、なほ「ヒメミコ」又は「オホキミ」とよむべきなるべし。さてこの「王女」は如何なる方ぞといふに、下の歌に「内大臣藤原卿娉鏡王女」とあれば、その内室となられし方なること知られたり。興福寺縁起を見るに「至2於天命開別天皇即位二年歳次己已冬十月1内大臣枕席不v安嫡室鏡女王請曰云々」とあれば、ここの鏡王女即ち興福寺縁起の鏡女王なること知られたり。按ずるに天武天皇紀十二年「秋七月丙戌朔己丑天皇幸2鏡姫王之家1訊v病庚寅鏡姫王薨」となり。諸陵式に「押坂墓鏡女王在大和國城上押坂陵域内東南無守戸」とあり。その後々まで重んぜられしを見るべし。さてこの歌はもとより天智天皇の御代の事なりとす。
○御歌一首 これは卷一の例によらば、「御製歌」とあるべきなり。恐らくは「製」字を脱したるならむ。訓み方は「オホミウタ」といふこと論なし。
 
91 妹之家毛《イモガイヘモ》、繼而見麻思乎《ツギテミマシヲ》。山跡有《ヤマトナル》、大島嶺爾《オホシマノネニ》、家母有猿尾《イヘモアラマシヲ》。【一云妹當繼而毛見武爾。一云家居麻之乎。】
 
○妹之家毛 「イモガイヘモ」とよむ。妹が家は即ち鏡王女の家なり。上に引ける如く、この王女病篤き時天武天皇の臨幸ありし由なれば、大和にその家ありしこと疑ふべからず。但し、天智天皇の御宇には如何にといふ論もいづべきが、なほ大和なりしならむことは「大島嶺」といはれたるにて知らる。下の「モ」は「ヲモ」の意の場合の「も」なり。「イモガイヘ」といへる例は卷十七に「伊(33)毛我伊弊爾《イモガイヘニ》」(三九五二)とあり。
○繼而見麻思乎 「ツギテミマシヲ」とよむ。「繼而」を「タエズ」と訓める古寫本もあれど、從ふべからず。卷四に「吾妹子乎次相見六事計爲與《ワギモコヲツギテアヒミムコトハカリセヨ》」(七五六)卷五に「用流能伊昧仁越都伎提美延許曾《ヨルノイメニヲツギテミエコソ》」(八〇七)卷二十に「安吉佐禮婆《アキサレバ》、奇里多知和多流安麻能河波伊之奈彌於可婆都藝弖見牟可母《キリタチワタルアマノガハイシナミオカバツギテミムカモ》」(四三一〇)といへる如く「ツギテミル」とは斷えず見る意なり。「マシ」は假想する意をあらはし、「ヲ」は「ものを」の意にて強く感動の意をあらはすものにしてこゝは終止に用ゐ指定する意あり。妹が家をも絶えず常に見むものとなり。以上一段落。
○山跡有 「ヤマトナル」とよむ。「山跡」の事は卷一の首にいへり。「有」を「ナル」とよむは「ニアル」の意にとりて約めよめるなり。さてここに「ヤマトナル」とあるによりて大和以外にてよまれしことを思ふべし。
○大島嶺爾 舊訓「オホシマミネニ」とよめるを童蒙抄に「オホシマノネニ」とよみ略解これに從へり。按ずるに「ミネ」といふは「ネ」といふ語を單獨に用ゐる時に接頭辭「ミ」を加へたるものなるが、之を其の名稱を示す語の下に加へて「某ミネ」といふことは古なかりしものと思はる。されど「オホシマネニ」といふ時は音足らざるのみならず、「シマネ」といふ語に混ずべし。さればなほ「オホシマノネニ」とよむ方によるべし。この山の存する處詳に知り難し。然るに、日本後紀大同三年九月の條に、「戊戌幸2神泉苑1有v勅令3從五位下平群朝臣賀是麿作2和歌1曰|伊賀爾布久賀是爾阿禮婆可於保志萬乃乎波奈能須惠乎布岐牟須悲太留《イカニフクカゼニアレバカオホシマノヲバナノスヱヲフキムスビタル》云々」と見ゆ。この平群氏は大和國平群郡(34)平群郷を本居とせる氏族なれば、ここに「於保志萬」とあるもその本居の地にある地名なるべきこと想像するを得べし。されどその地は今の何處に當るかを詳にせず。
○家母有猿尾 「イヘモアラマシヲ」とよむ。「猿」字を「マシ」の假名に用ゐたるは蓋し古語に「猿」を「マシ」といへるが故ならむ。普通の説には梵語に猿を「マシラ」といへるによりたりとせり。翻譯名義集には猿を「麻斯※[口+託の旁]《マシタ》」とあれど、古くより本邦に傳はれる梵語雜名によれば猿は「麼迦羅」玄應の音義も「麻迦※[口+託の旁]」にして「ましら」にはあらず。色葉字類抄には猿を「マシ」とのみいへり。されば、「ましら」の「ら」は助辭にすぎざるものなりとす。
○一云妹之當繼而毛見武爾 これ一書の傳にはこの上句を「イモガアタリツギテモミムニ」とある由をいへるなり。妹が家のあたりを斷えず見むと思ふにといふ意なり。
○一云家居麻之乎 これも一書の傳に、結句を「イヘヲラマシヲ」とある由をいへるなり。「家居る」といふ語は卷十「山近家哉可居《ヤマチカケイヘヤヲルベキ》」(二一四六)卷十二に「里近家哉應居《サトチカクイヘヤヲルベキ》(二八七六)卷十九に「多爾知可久伊敝波乎禮騰母《タニチカクイヘハヲレドモ》」(四二〇九)などありて、家居してあるをいふ古風の語遣なり。さてこの「一云」の二あるは同じ上二句と下一句とをかへたる一首の歌なるを分ちていへるものなるべし。然らばその歌は
 イモガアタリツギテモミムニ、ヤマトナルオホシマノネニイヘヲラマシヲ
といへるものなるべし
○一首の意 天皇は近江に都してまします故に大和なる鏡王女が家を不斷に見たまふこと難(35)し。大和國なる大島の嶺にわが女王の家のあるならば、近江よりその家を常に見るを得むものをとなり。從來この歌を解する人いづれも「大島嶺に家もあれかし、さらば、其處にわれ自ら家居して妹が家を繼ぎて見むものを」の意として殆ど異説なきなり。されど、この歌の結構を見るに、二段落よりなりて上の「妹之家毛繼而見麻思乎」と下の「山跡有大島嶺爾家母有猿尾」とは意を少しくかへたれど、畢竟同意の繰返なることは明かなり。これを繰返と見ずしては上下の打合都合せず。然るに諸家これに心づかで上は妹が家をいひ、下は我家をいひてうちあひてあるものと釋せり。かくの如く釋する時は歌の意通らぬに心づかぬにや。從來の諸家ただ木村正辭翁を除く外之を疑へるものなきは何ぞや。若亦舊來の説の如き意とせば、わざわざ大島嶺に家居する如きことよりもその隣などに住まむ方よかるべきにあらずや。なほ木村翁が美夫君志に「一首の意は二の句と結句とのうち合よろしからぬやうに聞ゆれど、云云」といはれたるは、されど、なほ未だし。すべてかく二段落三段落なる歌にて各段落を同樣の語にて結べるは同じ意をば繰返したるものなること古今の例なるのみならず、集中にも例多し。現にこの卷の藤原内大臣の歌などいと手近き例なり。かく見ずば、この歌眞に解し得たりとすべからぬなり。この意を以て解すれば、大和なる大島の嶺の上にわが妹子が家もあらましを然らば其の家をわれはたえず見むものとなり。高嶺の上にある家ならば、遠くても望みうべきが故にかくのたまへるなり。さてその大島嶺といふはいづれにありとしても實際上近江の大津宮よりは見ゆべきにあらねど、感情の高まりたるあまりにかくのたまへるものなる(36)べきが、一には又その大島嶺といふは鏡王女の家のあたりにて名高く、その名よりいへば、いかにも高大に聞ゆるによりてかくうたひたまひしならむ。次に一云の方の歌は一段落にして繰返しはあらねど、意は大略異なることなし。
 さて玉勝間にこの天皇と王女と戀愛の關係ありてこの歌もよまれたりとやうにいひてより諸家皆これに從へり。然れどもその説全く誤なり。宣長はこの王女の内大臣の嫡室たることを知らざりしと見え、天武紀にその病をとひたまひし事又薨去を記せるは天智天皇の妃なりしが故なりとせり。然れども、これはしかにはあらずして大化改新の第一の元老鎌足公の嫡妻たりしが故なること著しきものなるをや。事實をよくもたゞさずして臆斷以て古人を誣ふるは罪深きわざなり。按ずるにこの御製は前後の例を以て推すに御即位後の歌なること明かなれは、諸家のいへる如き戀愛の關係にあらず。まして雙方とも若年にもましまさぬによりて思ふに、これはかの内大臣藤原卿の薨後鏡女王が大和の故郷に歸りたまひしに、大津宮より贈りたまひし歌なるべし。然見るときはその心いとよくわかるやうに思はれずや。即ち君は故郷に歸り給ひぬれば、また相見むことは容易ならじ。せめて君の家が高山の嶺にだにありせば、ここより朝夕それを望みて君の安否を知らむとなり。
 
鏡王女奉和御〔左○〕歌一首 鏡王女又曰額田姫王也
 
○和御歌 「御」字目録になきをよしとす。「コタヘマツレルウタ」とよむ。上の御製に答へ奉れる(37)歌なり。
○鏡王女又曰額田姫也 古寫本無きあり。(大矢本、金澤本)有るものも多くは小字にてかけり。これは蓋し後人の追記とおぼえたり。恐らくは天武紀に「天皇初娶2鏡王額田姫王1生2十市皇女1とあるによりてかく記せるものならむが、卷四に額田王の歌に鏡王女の和せられしことを載せたれば、まさしく別人にてましますなり。但この二女王は姉妹にてましますべきなり。さればこの注は誤と認むべきものなりとす。
 
92 秋山之《アキヤマノ》、樹下隱《コノシタカクリ》、逝〔左○〕水乃《ユクミヅノ》、吾許曾益目《ワレコソマサメ》、御念從者《ミオモヒヨリハ》。
 
○秋山之 「アキヤマノ」とよむ。元暦本に「アキノヤマノ」とよめれど、從ひがたし。
○樹下隱 舊訓「コノシタカクレ」よみたるを考に「コノシタカクリ」と改めたり。「カクレ」は古語四段に活用せしによりて考の説をよしとす。古事記下卷顯宗段に「美夜萬賀久理弖《ミヤマガクリテ》」日本紀推古卷に「和俄於朋耆彌能※[言+可]句理摩須《ワガオホキミノカクリマス》」この集卷五に「許奴禮我久利※[氏/一]《コヌレガクリテ》」(八二七)卷十五に「夜蘇之麻我久里《ヤソシマガクリ》」(三六一三)又同卷に「久毛爲可久里奴《クモヰカクリヌ》」(三六二七)などの例にて知るべし。「コノシタ」といふ語の假名書の例は本集又紀記にも見ねど、本集卷八に「足引乃許乃間立八十一霍公鳥《アシヒキノコノマタチククホトトギス》」(一四九五)などにて推すべし。古今集以後には甚だ多く見ゆ。
○逝水乃 「逝」字流布本に「遊」に作る。されど、誤なること著しく古寫本の多くは正しく「逝」字を用ゐたり。「ユクミヅ」といふ語は集中に例多し。假名書の例は、卷十七に「可多加比能可波能瀬伎(38)欲久由久美豆能《カタカヒノカハノセキヨクユクミヅノ》」(四〇〇二)「由久美豆乃於等母佐夜氣久《ヨクユクミヅノオトモサヤケク》」(四〇〇三)などあり。流るる水をいふなり。以上三句は「ます」といはむ料なり。而してこれは一方には秋の山川は木葉のちりつもりてうづもれてありて、そが下ゆく水もうへには見えぬさまなるを婦人の身の萬事つつましく心に思ふことをうちつけに外にはあらはさぬにたとへていひ、一方には夏の水涸れたる川々も秋は水溢るるものなれば、下の「まさる」といふことの序とせるなり。
○吾許曾益目 舊本「ワレコソマサメ」とよみたるを古義には「アコマサラメ」とよめり。されどなほ古のままにてよかるべし。何となれば、これはわが思ひは君の御思ひよりはまさらむといふ意にはあらずして御思よりはわが思の方が、多からむといふ意なればなり。從來の諸家「ます」といふ語と「まさる」といふ語との區別を立てざりしに似たり。「ます」は量の加はるをいふ語、「まさる」は比較していふ語なり。「ます」はその君の御思よりも一層多く我は思ふといひて、わが心の作用をいひあらはせるにて君が思よりはわが思はまさりてありと比較していふ語にはあらず。而してここに「マス」といふ語を用ゐずば上の「秋山之木下隱りゆく水の」といふ序には打あはぬにあらずや。水の「ます」といふことはありうべし。
○御念從者 舊訓「ミオモヒヨリハ」とよめり。古寫本には「オモホスヨリハ」「ミオモフヨリハ」などいひ、古義に「オモホサムヨハ」とよみたれど、舊訓の方まされり。
○一首の意 われは秋山の木葉ちりつもれる下を流るる水の如く、下に思ひ奉るなるが、その思ひは、上べからは見えざる樣なれども、その思ひこそは秋の川水の増すが如く、君が御念よりは(39)量多くあらめと思ひ奉るとなり。
 
内大臣藤原卿〔左○〕娉2鏡王女1時鏡王女贈2内大臣1歌
 
○内大臣藤原卿 「卿」字流布本「郷」とするは誤なること著し。古寫本の多くは正しく「卿」とかけり。「卿」は高位の人の尊稱にして中古以來は三位以上に用ゐたるが、當時は然嚴重なる規定はなかりしならむが「大夫」に對して、その上位の人をさすに用ゐたりと見ゆ。委しくは卷三に論ずべし。訓して「オホマヘツギミ」とよむべきか。日本紀欽明卷に「蘇我卿」とあるもその例なり。ここはいふまでもなく大織冠藤原鎌足をさす。
○娉鏡王女時 「娉」は説文に「娉問也」と見え、玉篇に「娉娶也」とあり。禮記に「娉則爲v妻、走則爲v妾」とあり。「聘」は禮を備へて迎ふるをいふ。而して「聘」と「娉」と義通じ、妻とせむとて訪問するをいふ。この故に考に「ツマドヒ」とよめるを當れりとす。その語例は古事記雄略段に「娉物」をば「都麻杼比之物《ツマドヒノモノ」》といひ、卷三に「妻問爲家武《ツマドヒシケム》」(四三一)などかき、又卷十八に「氣奈我伎古良何都麻度比能欲曾《ケナガキコラガツマドヒノヨゾ》(四一二七)と假名書にせるあり。鏡王女の事は上にいへり。
○鏡王女贈2内大臣1歌 これ即ち鏡王女の歌にて鎌足の娉問に對して贈れるなり。然るを考に「贈内大臣」の四字を削りて「鏡女王作歌」と改め、守部など之に從へるはさかしらなり。
 
93 玉匣《タマクシゲ》、覆乎安美《オホフヲヤスミ》、開而行者《アケテユカバ》、君名者雖有《キミガナハアレド》、吾名之惜毛《ワガナシヲシモ》。
 
○玉匣 「タマクシグ」とよむ。「匣」は説文に「※[櫃の旁]也」と見え、廣韻に「箱匣也」とあれば「はこ」の類をいふ。(40)これを「クシゲ」といふ語にあてたるは卷四「五〇九」に「匣爾乘有鏡成《クシゲニノレルカガミナス》云々」又卷九「一七七七」に「匣有黄楊之小梳毛《ケシゲナルツゲノヲグシモ》云々」などあるにて、見るべし。古「笥《ケ》」といひしはすべて物を容るゝ箱の如き器の總稱にして「クシゲ」は櫛笥の義なるが、これは櫛に限らず、婦人の嚴粧《ケシヤウ》の具を納るゝ一種の箱の名なり。日本紀崇神卷には「櫛笥」の字を用ゐたるが、和名鈔には「嚴器」といふ字に對して「俗用2唐櫛匣1」といひ、その和名を「賀良玖師介」と注せり。さて「タマクシゲ」は玉もて飾れる匣の義なるべきが、又單に玉を美稱といひてもよからむ。さてこの「玉くしげ」といふ語をば「ふた」といふ語にかけたるあり。卷十七「三九五五」に「多末久之氣《タマクシゲ》、敷多我美夜麻爾月加多夫伎奴《フタガミヤマニツキカタブキヌ》」「三九八五」に「多麻久之氣布多我美山者《タマクシゲフタガミヤマハ》」(「三九八七」、「三九九一」なるも略同じ。)「み」にかけたるあり。次の歌の「玉匣將見圓山乃《タマクシゲミモロノヤマノ》」(九四)又卷七「一二四〇」に「珠匣見諸戸山《タマクシゲミモロトヤマ》とある、その例なり。又「あく」といふ語にかけたるあり。卷九「一六九三」に「玉匣開卷惜吝夜矣《タマクシゲアケマクヲシキアタラヨヲ》」卷十二「二八八四」に「玉匣將開明日《タマクシゲアケナムアスヲ》」卷十五「三七二六」に「多麻久之氣安氣弖乎知欲利《タマクシゲアケテヲチヨリ》」卷十七「四〇三八」に「多麻久之氣伊都之可安気牟《タマクシゲイツシカアケム》卷四「五九一」に「玉匣開阿氣津跡夢西所見《タマクシゲヒラキアケツトイメニシミユル》」卷九「一七四〇」に「王篋小披爾《タマクシゲスコシヒラクニ》」卷十一「二六七八」に「玉匣開而左宿吾其悔寸《タマクシグヒラキテサネシワレゾクヤシキ》」などあるこれなり。これらによりて考ふれば、當時玉匣といふものには蓋と實とを備へ、その蓋を開きあけて物を出し入れしたるものなること推して知るべし。かくて考ふれば、その蓋は又常は覆ひてあるものなれば次の覆ふを安みと連りたるなり。諸家多くはこれを「おほふ」の枕詞とせれど、然にはあらじ。
○覆乎安美 舊來「オホフヲヤスミ」とよみ來れり。然るに、代匠記には「オホヒヲヤスミ」とよみ、宣(41)長は「覆」字は誤れるならむといひ、古義は「安」の上に「不」字ありしが脱せるものとし、「カヘルヲイナミ」とよむべしといへり。然れどもいづれの本にも誤寫と見ゆる證なければ、字はこのままにてよむべし。玉匣は上にいへる如く、蓋のある器なれば、その蓋を開け又覆ふことあるべきはいふまでもなし。既に「開きあく」といふ方の語を用ゐてあれば、その「覆ふ」といふ方の語を用ゐることあるも當然の事といふべし。「蓋をあく」といふ方のみはゆるさるれど「蓋を覆ふ」といふ語を用ゐるはゆるされずといふ理由は成立つまじ。然らば、その開闔の安きをいへるに覆ふこと安きはやがて明くることも安き由にて下の「アク」(「ヲ安ミ」は「ガ安キニヨリテ」の意なり。)といふ語につづけ、上二句を「アケテ」の序としたるなり。かくて「オホヒヲ」といふよりは「オホフヲ」といふ方活動的に聞ゆるによりて古來のよみ方をよしとす。攷證に「名のたたぬやうにおほふ」意なりといへるは入ほがなり。
○開而行者 舊訓「アケテユカバ」とよみ、元暦本には「アケテイナバ」とよめり。略解はこれに從へり。いづれにてもあるべしとはいひながら、「行」字は「イヌ」とはよまぬ例なれば、舊訓のままに「ユカバ」とよむを穩かなりとすべし。夜更くれども、かへらずして、夜明けて後行かば、といふなり。
○君名者雖有吾名之惜毛 「毛」は元暦本金澤本等「裳」とせり。これの訓み方は古來「キミガナハアレドワガナシヲシモ」とよめり。然るに、古今六帖にこの歌を載せ二所に重出せるが、その二首の詞に多少の差あれどいづれも下句は「我名はありとも君が名をしも」とあり。これによらば、「君」と「吾」とは互に入れかはれりとすべく、後世の語にていはば、六帖の如くなる方意よく通るや(42)うなり。この故に、ここのを誤なりとする説あり。代匠記はこの説の代表者と見るべく、略解など之をうけていづれも「ワガナハアレド、キミガナシヲシモ」とよむべしとせり。然れども、古義は之に反對して、「君は男にてませば、御名の立たむもさることにはあれど、女の身にしては人に云ひさわがれむは羞しくわびしきわざぞと云り」と釋せり。これ人の眞情を露骨にいひたるものとみて、意かへりてとほれり。
○一首の意 以上古義の説によりて按ずるに、鎌足の懸想していひよれるに對して先づ一旦之を拒絶せられしなり。かくて何卒君は今の内に御引取下されよ。夜明けてかへらるる樣の事もあらば、種々の世評も出づべし。それも君は男にてませば、それにてもよからむかはしらねど、私がこまりますといふ程の心もちなりと知るべし。但しこれは新考にいへる如く女王の未だ鎌足になびきたまはぬ時の御歌ぞと知られたり。
 
内大臣藤原卿報贈2鏡王女1歌一首
 
○内大臣藤原卿 「卿」は上にいへると同じく流布本「郷」に誤れり。
○報贈鏡王女歌 童蒙抄に「報贈」を「コタヘオクル」と訓ぜり。考にはこれを和歌の誤とせるは武斷なり。これは前の歌に答へて卿の意を述べたり。
 
94 玉匣《タマクシゲ》、將見圓山乃《ミモロノヤマノ》、狹名葛《サナカヅラ》、佐不寐者遂爾《サネズハツヒニ》、有勝麻之自〔左○〕《アリカツマシジ》。或本歌云玉匣三室戸山乃。
 
(43)○玉匣 上の歌に「玉匣」といへるに答へて、之を用ゐたるなるが、ここには「ミモロ」の枕詞とせり。上にいへる如く「玉くしげ」は實と蓋とより成ればなり。
○將見圓山乃 舊訓「ミムマトヤマノ」とよめり。童蒙抄にこれを「ミムロノヤマノ」とよみて後諸家之に從へり。冠辭考には「將見」は「ミム」にして「圓」は「マロ」とよむを「マ」を省きて「ロ」の假名にせるなりといへり。誠にかくよむべきことと考へらるれど、その「圓」を「ロ」といふにつきての説は未だし。玉の小琴は上の「ム」と「マ」と通ふ音なるが故におのづから「みむまろ」とひびくが故に圓字をかけりといへるが、これもいかがなり。按ずるにこの所謂「ミムロ」につきて本集及び古典を通覽するに、本集にては三諸とかけるもの多くして、卷二、三、六、七、九、十九の各卷にあるものいづれもかくかけり。又假名にて「三毛侶」とかけるあり。(卷七「一〇九三」)。この外「三室」とかけるもの卷七に一所、卷十一に一所あれど、卷十−なるは一本にありとて引ける方には「三諸」とあり。(これは本行に「三室山石穂〔右○〕菅」とあるに對して一本は「三諸山之石小〔右○〕菅」とある由をいへなるが、その差の主點は「穂〔右○〕菅」と「小〔右○〕菅」との差に存すと考へられ、三諸も三室も訓は同じきなるべし。)されば、これらもなほ「ミモロ」とよむものなるべし。さて又古事記雄略天皇の御製なるにも「美母呂」とかきてあり。されば、これらの例によりて「ミムロ」とよまずして「ミモロ」とよむべきものと考へらる。かくて考ふるに「將見圓」は字のままによめば、「ミムマロ」といふべきに、これをここに用ゐたるは「ミモロ」の「モ」は「ム」にもあらず「マ」にもあらずいづれにもつかぬ中間音の「モ」なりしが故にわざとかかる書きざまをなしたりしなるべし、「ア」韻と「ウ」韻との中間の韻はまさしく「オ」韻な(44)れば、この事動くまじきなり。さて「ミモロ」の名義は「御室」にて「室」をばかかる際に音を轉ぜしか、若くは本は「ミムロ」といひしが、この歌の頃には音の轉ぜしならむ。その「御室」とは神をいつく室の義にしてかの「ヒモロギ」といふものも實は「ミモロギ」にして音の轉ぜしものならむ。日本紀天武卷に「設2齋於宮中御窟院1」とあるは神佛の違はあれど、その「御窟」も「ミモロ」なるべし。この故に「ミモロノヤマ」といへるはいづこにても神を祭れる山をさすをうる汎き語にして、また實際は一の山に限らざりしやうに見ゆ。されど、單に三諸の山といへるは、即ち大三輪の神のまします三輪山をさせること本集及び古典に通ずる例なり。崇神紀に「御諸山」といへる即ちその一例なり。されば、ここも三輪山をさせりと見るべし。
○狹名葛 舊訓「サネカツラ」とよめり。その物は今も「サネカヅラ」といふものに相違なけれど、文字のまま「サナカツラ」とよむべきこと既に代匠記にいひたるに從ふべきなり。これ古言なり。古事記應神天皇條に「舂2佐那【此二字以音】葛之根1取2其汁滑1而塗2其船中之※[竹/青]椅1云々」とあるその一證なり。本集にはこゝの外、卷十「二二九七」に「足引之山佐奈葛《アシビキノヤマサナカツラ》」ともあり。又本卷「二〇七」に「狹根葛後毛將相等《サネカヅラノチモアハムト》」とあるが如く「サネカツラ」ともいへるあり。されど、こはもとより字のままによむべきなり。その「サネカヅラ」とは漢名南五味子といふ木質蔓性の植物にして莖より粘液をとるべく、その粘液をば、古、頭髪に塗る料とせしが故に通俗の名をば、美男葛《ビナンカツラ》といひたり。「五味」といふ植物の名に本草和名に和名「佐禰加都良」と注し和名抄に和名「佐禰加豆良」と注せるもの即ちこれなり。かくて以上三句は次の「サネズハ」といふべき料の序たるなり。
(45)○佐不寢者遂爾 「サネズハツヒニ」とよむ。「サ」は「眞」の意、「サヨナカ」が眞夜中の意なるが如し。されば「眞寢《サヌ》」とは眞に寢ぬといふ義にて「サネズハ」とは寢に共に寢ずはといへるなり。この語の例は古事記中卷倭建命の御歌に「佐泥牟登波阿禮波意母閉杼《サネムトハアレハオモヘド》」又允恭卷の歌に「佐泥斯佐泥弖波《サネシサネテバ》」とあり。本集には卷五「八〇四」に「佐禰斯欲能伊久陀母阿羅禰婆《サネシヨノイクダモアラネバ》」など例少からず。「遂に」は終りの意にして、下の「アリカツマシジ」を修飾せり。或はこれを「サネズハ」の上に廻して心得べしといふ説あれど、さにはあらじ。
○有勝麻之自 舊本「自」を目に作り、訓は「アリカテマシモ」とよめり。然るに元暦本、類聚古集には「目」を「自」につくりて、「アリカテマシヲ」とよめり。この「目」又は「自」を「ヲ」とよまむは由なきことなり。されど、「自」字をかけるは大に注意すべし。按ずるに、こは橋本進吉氏が既にいへる如くその「自」字を正しとして、「アリカツマシジ」とよむべきなり。「ましじ」といふ複語尾は後に「まじ」となる複語尾として、現實の打消の推量をあらはせる語なり。卷十四「三三五四」に「由吉可都麻思自《ユキカツマシジ》」とある、その傍例なり。又卷二十「四四八二」なる「和須良由麻之自《ワスラユマシジ》」の「自」も流布本は「目」に作れど、元暦本には「自」とあれば、これも「マシジ」といふべきなり。さて續紀の宣命には第二十六詔第五十八詔に「ましじ」といふ複語尾のありし確證あり。又日本紀齊明卷の歌なる「伊麻紀能禹知播倭須羅庚麻旨珥《イマキノウチハワスラユマシジ》」との「麻旨珥」も古來「マジニ」とよみ來れど、「マシジ」ともよまるべし。かくして古典にまさしく「まじき」とかけるものは續紀第四十五詔の「得麻之伎」日本紀仁徳紀の「豫屡麻志枳《ヨルマシキ》」との二なれど、續紀のは一本に、「麻之宇岐」とあり。日本紀の前田家本に「麻志士枳」とあれば、これも正し(46)くは「ましじき」なりしなるべし。されば、この歌の頃は或は「まじ」といふ形は未だ生ぜざりしなるべく、奈良朝時代を通じて殆どすべて「ましじ」を用ゐたりしが如し。さてその上の「かつ」は下二段活用の動詞「勝」にして字の訓をとれるものなるべけれど、又その意をもちて用ゐしならむ「勝」は堪ふる意の字なるが、ここも敢へてたふる意なるべし。その語例は日本紀崇神卷に「多誤辭珥固佐婆固辭介※[氏/一]務介茂《タゴシニコサバコシカテムカモ》」などこれなり。從來この「かつ」「かて」を難の義とせるはあやまれるなり。さて「アリカツマシジ」とよむべきものはなほ他に少からず、卷四「七二三」に「有勝益士《アリカツマシジ》」卷十一「二七〇二」に「有勝申目《アリカツマシジ》」(自の誤として)などあるみなかくよみかく解すべき語なり。
○或本歌云々 これは第二句を「三室戸山乃」とせる本ある由をいへるなり。三室戸山といふは山城國宇治にあり。その山をいへるか否か、詳ならず。諸家に説々あれど、從ふべきを見ず。
○一首の意 我は君とさねずはこの世に遂に生きて有りうることかたしといふ意なり。
 
内大臣藤原卿〔左○〕|娶《エタル》2采女安見兒1時作歌一首
 
○内大臣藤原卿 「卿」を流布本「郷」に誤れること上の例におなじ。古寫本の多くに「卿」につくれるをよしとす。
○娶采女安見兒時 采女《サイヂヨ》の號は後漢に興れり。後漢書皇后紀緒論に「六宮稱號唯皇后貴人」といひ、「又置2美人宮人釆女三等1並無2爵秩1歳時賞賜充給而已」と見え、又後漢書※[登+おおざと]皇后紀に「入2掖庭1爲2釆女1」とある注に「采(ハ)擇也、以因2采擇1而立v名」と見えたり。この釆女の熟字を本朝にて借用して「うね(47)め」にあてたるなり。その釆女は日本紀孝徳天皇卷に「凡采女者貢2郡少領以上姉妹及子女形容端正者1」とあり。令制略之に同じ。これは古諸國より召し上げられて宮中に奉仕せし女にして、その職は令制にては水司に六人、膳司に六十人屬して、天皇の御膳に奉仕するを職とし釆女司ありて、その身分を管理せり。後世には神今食、新甞にのみ奉仕する職となれり。この采女は神聖なる職として、之を犯すものは重き罪に處せられたることは日本紀古事記に例少からず。鎌足公が得たりといふ釆女は私に得たるものならば、前の采女なりしなるべく、或は公に得たるものならば、勅許ありて前采女として賜はりしなるべし。いづれにしても當時釆女を得ることは容易の事にはあらざりしなり。「安見兒」はその釆女の名なり。その人の傳知られず。「娶」は古來「めとる」とよめる字にして、考にはかくよめり。さるを古義には歌の詞によりて「エタル」とよむべしといへり。歌の條にもいふ如く、古はかかる場合に「ウ」といふ語を用ゐたれば、古義のよみ方をよしとす。
○作歌 檜嬬手はその上に「戯」字ありしを脱せりとせり。されどこれは強言なり。このまゝにてよきなり。
 
95 吾者毛也《アレハモヤ》、安見兒得有《ヤスミコエタリ》。皆人乃《ミナヒトノ》、得難爾爲云《エガテニストフ》、安見兒衣多利《ヤスミコエタリ》。
 
○吾者毛也 舊來「ワレハモヤ」とよめり。古義には「アハモヤ」とよむべしとあれど、當時「ワレ」とよまむこと不都合なるにあらず、されど「アレ」といふ方古きに似たり。されば音數の五音なるに(48)とりて、舊訓を少しく改めて「アレハモヤ」とよむべし。「毛也」は卷一の首歌「コモヨ」の「モヨ」に似たる語にし「ヤ」は嘆息の間投助詞なり。「モヤ」とつづける例は日本紀皇極卷に「伊弊母始羅孺母也《イヘモシラズモヤ》」とあり。
○安見兒得有 「得有」は下句の「衣多利」に準じて「エタリ」とよむべし。古、女を娶りうることをただ「得《ウ》」といへりしなり。その證は古事記應神段に「故八十神雖v欲v得2是伊豆志袁登賣1皆不v得v婚」といひ、又「汝得2此孃子1乎答曰易v得也」といひ、又「吾者得2伊豆志袁登賣1」といへる如きなり。なほこの語は平安朝の物語にも多し。竹取、伊勢、大和等の卷々を見るべし。さてこれにて一段落なり。
○皆人乃 古來「ミナヒトノ」とよめり。古義にては「人皆乃」の誤として「ヒトミナノ」と改めたり。されど、かくかける本は一もなきを以て誤とする説はうけられず。加之「ミナヒト」といへる語は萬葉頃の語にあらずとはいはれず。卷四「六〇七」に「皆人乎宿與殿金者打禮杼《ミナヒトヲネヨトノカネハウツナレド》」卷七「一一三一」に「皆人之戀三吉野《ミナヒトノコフルミヨシヌ》」卷八「一四八二」に「皆人之待師宇能花《ミナヒトノマチシウノハナ》」などの例あればなり。「ミナヒト」は人に主點をおき「人皆」は「皆」に主點をおけば語の意も、ややかはれり。されば、集中別に「ヒトミナ」といへる例存するものありとも、何の妨にもならぬことなり。この故に古來の訓のままにてよしとす。
○得難爾爲云 舊訓「エガテニストイフ」とよめるを童蒙抄に「スチフ」と改め、考に「ストフ」と改めたり。先「難」は難き意にて「ガテ」とよむなり。その「ガテ」は難の意の「カヌ」と意通へる語なるが、卷二十「四四〇八」に「和可禮加弖爾等比伎等騰米《ワカレガテニトヒキトドメ》」卷十四「三三八八」に「筑波禰乃禰呂爾可須美爲須宜可(49)提爾《ツクハネノネロニカスミヰスギガテニ》」など、假名書の例あり。「爲」は廣く動作作用をいふ動詞なれば、ここは「思ふ」といふ程の意とすべし。「トイフ」といふも「チフ」といふも「トフ」といふも意は一なり。「トイフ」を「トフ」といへる例は卷一「三五」の「木路爾有云《キヂニアリトフ》」の條にあげたり。これによりてここもしかよむべし。
○一首の意 この歌二段落なり。第一段はわれ安見兒を得たりとうたひ、第二段は世の人の容易に得難しとせる安見兒を得たりといひて、得意の状をうたへり。元來采女といふものは前にもいへる如く殊に嚴しき制ありて之に姦くるは重き罪となり之を得るが如きは常人の及びもなきことなりしなり。それを得たれば、得意になりてこの歌ありしものと見ゆ。
 
久米禅師|娉《ツマトヒセル・ヨハヘル》2石川郎女1時歌五首
 
○久米禅師 この人の事詳ならず。久米は氏なることは論なけれど、この頃に「彌陀」「釋迦」などいふ名つけたるものあれば、この禅師も名なりや、はた法師といふ義なりやをも知り難し。三方沙彌などは眞の沙彌なり。靈異記中卷第十一條に「字曰2依網禅師1俗姓依網連故以爲v字」とあるは俗姓をとりてつけたるものなるに照して考ふれば、なほ法師の義なるべし。然りとせば、この歌はその在俗の時の詠なるべし。
○娉石川郎女時 石川郎女も傳詳ならず。郎女は日本紀景行卷に「郎姫此云2異羅菟※[口+羊]1」と見えたるに準じて「イラツメ」とよむべし。「娉」は上の例によりて「ツマドヒセル」ともよむべく、又「ヨバヘル」とよみてもあるべし。
(50)○歌五首 これは久米禅師と石川郎女との贈答せし歌の總數にして禅師のよめるもの三首、郎女のよめるもの二首なり。
 
96 水薦苅《ミススカル》、信濃乃眞弓《シナヌノマユミ》、吾引者《ワガヒカバ》、宇眞人佐備而《ウマビトサビテ》、不欲〔左○〕常將言可聞《イナトトイハムカモ》。 禅師
 
○水薦苅 舊板本の訓「ミクサカル」とよめり。元暦本、金澤本、類聚古集、古葉略類聚抄、神田本。大矢本等に、「ミコモカル」とよめり。これは古本の訓なりしを仙覺がそれをあかずとして「ミクサカル」とよみしが、今傳はる板本の訓の基なり。しかもなほそれをもあかずとして童蒙抄に「ミスズカル」とよみ、冠辭考及び考はそれをうけて、「薦」を「篶」の誤とし、訓は「ミスズカル」とせり。その證として神代紀に「五百箇野篶八十玉籤《ユツヌスズノヤソタマクシ》」とありといへり。されど、本集のいづれの本にも「篶」をかけるものなく、又日本紀にも古來「薦」をかきて「篶」とかける本一もなし。しかして木村正辭翁の説によれば「篶」は古くはなき字にて金の韓道昭といふものの著したる五音篇海といふ書に見えたるをはじめとすといへり。然るときは之を「篶」の誤なりとするは時代をわきまへぬ説といふべきなり。かく「薦」字をを誤にあらずとせば、それを「コモ」とよむが普通なればしかよむべきかといふに、古義にはこれによりて、「ミコモカル」とよみ、その「ミ」は眞の義なりとし、これを信濃の枕詞とするは「シナヌ」は「隱沼《シナヌ》」にて「コモリヌ」の義なりといへり。されど、信濃が隱沼の義なりといふことは古今になきことにして、「コモリヌ」を「シナヌ」といへることも古今かつて人のいひもせず、ききもせぬ事にして、古義一家の私言と思はるれば、從ひ難し。さてこの「薦」字をば日本紀に(51)「五百箇野薦八十玉籤」とかきて「野薦」を「ヌスス」とよませたるにて本邦の古に「薦」を「すす」といふ詞にもあてたりしを知るべし。されば、ここは文字は本のままにして、訓は日本紀を據として「スス」とよむべし。但しこれを濁るは誤にして「スス」と清音によむを正しとす。この「スス」といへるは竹の一種にして所謂山竹といはれ、稈は高さ一丈許、周圍八九分に達す。色緑にして細く強靱にして節低し、枝は上部のみに生じ、一節一枝なり。葉は濶く、大にして、長さ五寸乃至一尺幅八分乃至二寸、一枝に四五枚つく。往々實を結ぶ、その筍は味甘美にして食用に供す。稈は之を割り編みて籠類、行李、箕、帽子、敷物等につくる。この竹は本邦中部より北にわたり、山野に自生し、深山には數里に亘りて生ずといへり。中にも信濃國を以て古今ともにこの竹の最も多き産地とし、遠江駿河甲斐等の山地にも多しといふ。宮域縣にては宮城黒川刈田の各郡を主たる産地とす 余が郷里越中のうち飛騨につづく山地にも多く、初夏の候その筍を膳に上すを常とす。古も之を食せし證は古今著聞集卷十八に鞍馬寺より「すす」を多く得たる由の記事あるにても知るべし。さて「水」を「ミ」と読むことは「ミツ」の語の上の音をとれるものにして「水」を「ミ」の音に用ゐたる例は、卷四「五二四」に「水空往雲爾毛欲成《ミソラユククモニモガモ》」卷三「二七六、一本」に「水河乃二見之自道《ミカハノフタミノミチユ》」などあり。この「ミ」はかの「ミクサカル」といへる場合と同じく、美稱なるべし。さてこの「ミススカル」は枕詞にはあれど、單純の枕詞にはあらずして、まことに信濃にこの「スス」を多く産したりしによりていへること著し。
○信濃乃眞弓 「シナヌノマユミ」とよむ。信濃はいふまでもなく國の名にして、古事記に「科野と(52)かけり。「マユミ」の「マ」は美稱にして「マユミ」はただ弓の事をさせるなり。或は檀《マユミ》の木を以てつくれる弓なりとも考ふべけれど、その木の名の「檀《マユミ》」は弓に作る良材なるによりて得たる名なるが、ここは木の名にあらずして弓をいへること明かなり。古、信濃國より弓を貢れる事は續紀に屡見えたり。文武紀大寶二年三月甲午の條に「信濃國獻2梓弓一千二十張1以充2太宰府1」と見え、又慶雲元年夏四月庚午の條に「以2信濃國獻弓−千四百張1宛2太宰府1」とあるなどを見よ。又延喜神祇式二には「凡甲斐信濃兩國所v進祈年祭料雜弓百八十張【甲斐國槻弓八十張信濃國梓弓百張】」と見ゆ。以上を以て推せば、奈良朝以前にも信濃より「弓」を産せしことを知りうべく、その弓は梓弓なりしなりとも知られたり。ここに至りてこの「マユミ」も檀の材の弓の義にあらざるを見るべし。以上は次の句の「引者」といはむ料の序の詞たるなり。
○吾引者 「ワガヒカバ」とよむ。「引く」は心を引くにて、吾に依り靡くか如何と試みにいひよるなり。ここに「引く」といへるにより、それを導き出さむとて上の二句を序とせるなり。
○宇眞人佐備而 「ウマビトサビテ」とよむ。「ウマビト」といふ語は日本紀神功卷に「宇摩比等破于摩避苔奴知《ウマヒトハウマヒトドチ》又仁徳卷に「宇摩臂苔能多菟屡虚等太※[氏/一]《ウマヒトノタツルコトタテ》」と見え、本集卷五にも「美流爾之良延奴有麻必等能古等《ミルニシラエヌウマヒトノコト》」(八五三)など例多し。これは日本紀に君子、※[手偏+晋]紳、良家などを「ウマビト」とみ、詩經の「君子」をも古訓に「ウマビト」とよみ來れるが、この「ウマヒト」といふ語の構成は、古ほむる詞として用ゐし「うまし」といふ語の語幹より「人」につづけて熟語としたるものにして、專ら貴人即ち身分よき人をさすに用ゐたり。「サビ」は屡々いへる「神サビ」「翁サビ」「乙女サビ」などの「サビ」にして、その(53)さまに振舞ふをいふ爲の接尾辭なり。かくて「ウマビト」といふ動詞をなせるが、その意は貴人のさまに振舞ふこと即ち今の俗語にせば「貴人ぶりて」といふに近し。
○不欲常將言可聞 舊本「不言」に作りて「イナトイハムカモ」とよめり。又古寫本には「イネト」又「イサト」といへる本あれど、「イナト」といへるをよしとす。但「不言」を「イナ」といふは理當らず。これは、古寫本の大多數は「不欲」につくり、又「不知」につくれる本もあり。注釋にては仙覺の注には「不欲」につくり、代匠記は「不許」の誤りとせり。按ずるにここは「不言」とあるは義通ぜず、しかれば、古寫本又仙覺の注に「不欲」とかけるをよしとすべく、「不欲」の文字は「我は欲せず」といひて否むをあらはせれば「イナ」とよむに相應せり。さらば如何にして「不言」と誤りしかといふに、これは恐らくは、その「欲」の字の草體に「〓」「〓」とかける體王羲之の書に見え、「言」の草體には「〓」「〓」の如き形あるによりて之を楷書の體にする時にふとあやまりしならむ。「可聞」は「疑」の「カ」に「モ」の添へるなり。
○ 一首の意 われ君に戀ふる由をいひて君が心を引かむとすれば、君は貴人ぶりて賤しき我の如きものは對《アヒ》手とするに足らじとて否といひ受けがはざらむか。しかも自分の心の有り丈は君に知らせ奉らではあられぬとなり。
○禅師 この歌の作者を注せるなり。小字にかける本をよしとす。これは、その五首の贈答作者を注せずば、分明に讀者に歌の意を知らせかねたるによりて注せること著し。然るを、この五首各端辭ありつらむが、落失せしものといひ、その落失せし後に後人の注せしなりといふはかへりて入ほがなり。ただ大らかに、古よりかくありしなりといふをよしとす。
 
(54)97 三薦苅《ミススカル》、信濃乃眞弓《シナヌノマユミ》、不引爲而《ヒカズシテ》、強〔左○〕作留行事乎《ヲハクルワザヲ》、知跡言莫君二《シルトイハナクニ》。
 
○三薦苅、上の「水薦苅」と一字異なれど、同じく「ミススカル」といふ語なり。
○不引爲而 「ヒカズシテ」とよむ。上の句をうけて、弓を引かずしてといへるなり。
○強作留行事乎 舊訓「シヒサルワサヲ」とよめり。然れども、かくては何の義とも解しかねたる詞なり。ここに於いて代匠記には「強は弦の誤にて作は日本紀に矢作部と書てやはきへとよみたればつるはくるとよむべきか」といひたるより、後「強」は「弦」の誤なるべしといふこと一般に認められたるなり。今これ以外によき説を知らねば、確なる證の出づるまでこの説に從ふべし。さてかく「弦」の誤りとする説は一致すれど、「弦作留」のよみ方はなほ一定せず。童蒙抄には「ヲツクル」とよみ、考には「ヲハグル」とよませたり。考の説明に曰はく、「矢作《ヤハグ》てふは造ることなれど、こは左に都良弦取波氣《ツラヲトリハケ》といふ即是にて弓弦を懸るをはぐると云也」といへり。いかにもこの「作」は矢に羽を取り付くるをあらはせる文字にして、この語は「ハグ」といふ濁音を有したる四段活用の語なり。さて下の「都良弦取波氣」の「ハケ」は濁音を有せざる下二段活用の語にして漢字にては「佩」又は「懸」をあつべき語なり。されば、この二語を混じて同語とするは誤なり。然れども、萬葉集には清濁相通はして文字を借用することあれば、これも「作」はもと「ハグ」といふ四段活用の語にあたる字なるを清音にて「ハク」とよむこととし、それを借用して、下二段活用の「ハクル」といへる語の「ハク」といふ部分にあてたるものなるべし。弦を弓にかくるを「ハク」といへる(55)例は既にいへるが、牛に鼻緒をかくるをも「ハクル」といへり。その例巻十六「三八八六」に「牛爾己曾鼻繩波久例《ウシニコソハナナハハクレ》などあり。「行事」は「ワザ」とよむべきなるが、集中に傍例を求むれば、巻四「四九八」に「今耳之行事庭不有《イマノミノワザニハアラズ》」などあり。さて「ヲハクルワザ」とは弓に弦をかくることをいふ。
○知跡言莫君二 「シルトイハナクニ」とよめり。「君」は「クニ」の上の音をとれる假名なり。「ナク」は打消の「ヌ」に「ク」のつきたる言にして、「知るといはぬ事なるに」といふ意なり。
○一首の意 考には「弓を引かぬ人にて弦かくるわざをば知つといふ事はなし。其如く、我をいざなふわざもせでそらにいなといはむをば、はかり知給ふべからずと云也」といへり。諸説これに大同少異なり。されど、上の禅師のうたは明に女を挑める歌なれば、「我をいざなふわざもせで」と考にいへるは從ひがたし。なほ又考の説にては「引かずして」は「弓を引くことを知らぬ人」をさせることとなれるなり。按ずるにこれは弓を引くといふ事を實地にせずしてといふ事なるは明かなり。かくて語のつづきを考ふるには「弓を引かずして弦をはくることを知るとはいはぬものなるに」といへることは明かなるが、實際につきて考ふれば、弦をはけてその後にこそ弓を引くことのあるなるに、ここには引くことを先にいひて弦をはくることを後にいへり。さればいひ廻し方によりてかく前後せしめたりやと考ふるに、かかるいひ廻しのあるべくも考へられず。ここに思ふに、上の「引かずして」は弓に弦をかくるには「弓を撓むるわざをせずして」といふ義をあらはせるならむ。すべて弓に弦をかくるには本弭を何かに充て強く押して、弓を撓め本と末とを近づけずば弦はかけられぬものなり。かくすることは即ちをは(56)くるわざなり。さてかく弓を撓めて弦をかくるわざをするは、そのさま弓に矢をはげて引くときと略似たるなり。即ち弓を引けば弓は本末相近づきて撓むこと弦をかくる時と趣一なり。されば、弓は引かずして弦をかくるわざはせられぬものなり。この故に「引かずして」の下に「は」を添へて釋するをよしとす。さて歌の意を按ずるに、眞に人の心を引かむとならば、その引くといふことに相當するわざのある筈なり。眞に人の心を引くといふには、その結果を導くに足るだけのわざなかるべからざるは弦をはくるには弓を撓めねばならぬとおなじ。眞に人を戀ふとならば、眞情を打ちあけてこそ人もその情に感じて、心を合することも起らめ。君の如く口先ばかりにて、人を試めしなぶるが如き態度にては誰か感じ從ふべき。君の態度は恰も弓を撓めずして弦をかけむとするに似たり。この弓を引き撓むるといふ作業をせぬ人は弦をはくるわざを知れりといふことを得ざるが如く、君の我を戀ふといふことは信ずるを得ず。さやうなる事は眞平御免なりとなり。
 但しこの釋は、「引く」といふことを「弓を撓む」といふ語に用ゐたりといふ事の確證なき限りは確定説とはなるべからず。
○郎女 これも石川郎女の答歌なるを示せるなり。小字にせる本をよしとす。
 
98 梓弓《アヅサユミ》、引者隨意《ヒカバマニマニ》、依目友《ヨラメドモ》、後心乎《ノチノコヽロヲ》、知勝奴鴨《シリカテヌカモ》。 郎女
 
○梓弓 「アヅサユミ」梓にて造れる弓なり。これは古信濃より梓弓を産したるによりてよめり(57)とも見らる。但し歌詞としては必ず梓の弓ならでも歌の調にてかくよめること多く、ただ弓と心得てよき所少からず。ここも然るべし。
○引者隨意 「隨意」の字古寫本「こころに」「こゝろ」とよみ、又「ねかひに」などよめるもの多けれど、舊板本に「ヒカバマニマニ」とよめるをよしとす。「隨意」を「マニマニ」とよめるは義訓にして、集中には「任意」(卷十一「二七四〇」)をもしかよませたり。この「まにまに」は後世の「まま」といへる語の本源にして、そがつづまりて「まま」となれるなり。さてこの「まにまに」は又「まに」を重ねたるにて、その「まに」の「ま」が即ちもとは隨意任意の意ある獨立の副詞たりしなり。即ちこの「まに」又は「まにまに」は後世にては專ら「の」「が」の助詞を上に伴ひ、又用言の連體形につきて附屬的のもののみの如くなりたれど、古代にては獨立的にも用ゐられしなり。たとへば、卷五「八〇〇」に「保志伎麻爾麻爾《ホシキマニマニ》」續紀二十八詔に「己可欲末仁《オノガホシキマニ》」又本集卷六「一〇四七」に「皇之引乃眞爾眞爾《オホキミノヒキノマニマニ》」卷十八「四〇九四」に「牟氣乃麻爾麻爾《ムケノマニマニ》」卷十九「四二二〇」に「麻須良乎乃比伎能麻爾麻爾《マスラヲノヒキノマニマニ》」とあるなどこれなり。即ちここは、「まにまに」が、全く獨立の副詞として用ゐられし著しき例なり。されど、今日の語にてはかかる獨立の用法なければ、之を解せむには「引かば引かむままに」と釋するをよしとす。さてその引くは既にもいへる如く、弓を引くといふ意をあらはし、かねて心を引き誘ふをもいふ。
○依目友 これは古寫本に「よらすとも」「かなはめと」などよめるあれど、板本に「ヨラメトモ」とよめるをよしとす。「ム」の已然形に「ども」をつけて用ゐること、古書の格なり。「よる」といへるは弓を引けば、兩方の※[弓+肖]の方が相近よるによりてその弓※[弓+肖]の近よるにたとへて、引かば君が方に靡き(58)依らむといへるなり。「君による」といへる語の例は卷四「今更浪乎可將念打靡情者君爾縁爾之物乎《イマサラニナニヲカオモハムウチナビキコヽロハキミニヨリニシモノヲ》」(五〇五)卷十二「梓弓末者師不知雖然眞坂者君爾縁西物乎《アヅサユミスヱハシシラズシカレドモマサカハキミニヨリニシモノヲ》」(二九八五)などあり。
○後心乎 「ノチノココロヲ」とよむ。童蒙抄に「スエノコヽロヲ」とよめれど、從ひがたし。「後」は「ノチ」とよむ字にして、「後」に行末の心あるは、卷五「伊比都々母能却許曾斯良米《イヒツヽモノチコソシラメ》」等例多し。行末までの心を指すなり。
○知勝奴鴨 「シリカテヌカモ」とよめり。「カテ」といふ語は上の「アリカツマシシ」の「カツ」の未然形にして「カツ」は下二段活用なる動詞なり。この「カテ」が其の未然形なることはここに「奴」といふ打消の複語尾を用ゐたるにて明かなるが右の未然形の「カテ」の傍例は日本紀崇神卷に「飫朋佐介珥菟藝廼煩例屡伊辭務邏塢多誤辭珥固佐縻《オホサカニツギノボレルイシムラノタゴシニコサバ》、固辭介※[氏/一]務介茂《コシカテムカモ》」とあるその證なり。從來この「カテ」に難の意ありとして、「ヌ」には何の心もなし、と説けるは語法を無視せる説なり。複語尾を無義に用ゐることは古、今例なきところなりとす。「カモ」は詠歎の意をあらはせり。
○一首の意 君が我を眞に引き誘ひ給はば、引かるるままに、君が方に靡き依りもせむ。されども、靡き從ひての後は如何あらむ。君が行末まで我を愛したまふか否か。その將來の心をば今より知ることの出來ぬが心もとなきことよとなり。
○郎女 これも郎女の歌にして上と共に二首を同時に答歌としたりと見ゆ。
 
99 梓弓《アヅサユミ》、都良絃取波氣《ツラヲトリハケ》、引人者《ヒクヒトハ》、後心乎《ノチノココロヲ》、知人曾引《シルヒトゾヒケ》。 禅師
 
(59)○ 考にはこの歌の上に「久米禅師重贈歌」の題詞脱せりといひ、攷證は「久米禅師更贈歌二首」の題詞脱せりといへり。されど、上にいへる如く、もとよりかかることなくして五首といへるにて意明かなり。
○梓弓 これは枕詞にあらず。この弓に、下なる詞の「つらをとりはけ」も「引く」も關係あるなり。
○都良絃取波氣 「都良絃」を「ツルヲ」とよめる古寫本あれど、多くの本に「ツラヲトリハケ」とよめり。加之「良」を「ル」とよむべくもあらねば、普通の訓に從ふべし。「絃」字元暦本「緒」に作る。いづれにて意義もよみ方もかはらじ。「ツラ」は蔓なり。轡を「クツハツラ」とよむが如きその例なり。卷十四に「美知乃久能安太多良末由美波自伎於伎弖西良思馬伎那婆都良波可馬可毛《ミチノクノアダタラマユミハジキオキテセラシメキナハツラハカメカモ》」(三四三七)とある弓絃を「ツラ」といへるなり。「絃」は「弦」なり。「ツラヲ」にて弓弦をいへり。「ハケ」は上に「ハクルワザ」の所にいへり。弓に弦を佩かしめてなり。
○引人者 「ヒクヒトハ」とよむ。梓弓は弓絃を取佩けてそれを引く人といふことなるが、禅師自をたとへていへるなり。
○後心乎 「ノチノコヽロヲ」これも童蒙抄に「スヱノコヽロヲ」とよみたれど、「ノチ」にてよきなり。
○知人曾引 「シルヒトゾヒク」とよむ。これは「梓弓都良絃取波氣引人」は後の心を知る人なり。かく後の心を知る人ぞ人を引くなるといへるなり。われはわが行末の心をよく知れり、されば、君を引くなりとなり。
○一首の意 梓弓に弓絃を取り佩けて引くといふ人即ち君を誘ひ引くといふ人は君が案ぜら(60)るる如く、心のかはる人にはあらず。その人間は行末までもかはらじと思ひ定めて、かたく思ひつめたる人こそは人を引くものよといひて、上の「後の心を知りがてぬ」といへるに答へたるなり。
○禅師 これは郎女の答歌に更に答へたるなり。
 
100 東人之《アヅマドノ》、荷向※[しんにょう+(竹/夾)]乃《ノザキノハコノ》、荷之緒爾毛《ニノヲニモ》、妹情爾《イモガココロニ》、乘爾家留香問《ノリニケルカモ》。 禅師
 
○ 考にはここに題詞ありしが脱せるかといへり。されど、それは入りほがの説なること既にいへるとほりなり。
○東人之 舊本「アヅマノ」とよめり。古寫本には「アツマウトノ」「アツマヒトノ」などよみ、考には「アヅマドノ」とよみ、古義は「アツビトノ」とよむべしといへり。按ずるに當時の人名「フビト」は「フミビト」、「タビト」は「タビビト」をいひたりし例に照して考ふれば、「アヅマビト」を「アヅマド」とよみたりしことなしとせず。さて東人の義は東國の人といふに似たれど古くより汎く田舍人をさせるが如し。大須本和名抄「邊鄙」の注に「阿豆末豆《アツマツ》」といふ和名を附し、なほ注して「今案俗用2東人二字1其義近矣」といへり。この「アツマヅ」といへるは「アツマド」の訛なること著しければ、古くは「アツマド」といへることを推して知るべし。これによれば東人《アヅマド》は即ち本義は東國人なることは勿論ながら、後には邊鄙の人の汎稱となれりと見えたり。この故に今考の訓による。
○荷向※[しんにょう+(竹/夾)]乃 「ノサキノハコノ」とよむ。古寫本に「ニサキノハコノ」とよめるもあれど、「ノサキ」とい(61)ふ語は古來より存すもものなり。「ノサキ」は「荷前」とかくを普通とす。「ノサキ」とは毎年地方より奉れる調物の「はつほ」をいふ。延喜式祈年祭祝詞に「荷前者皇大御神大前如2横山1打積置※[氏/一]」と見え、大神宮九月神甞祭事には「調荷前絹一百十三疋一丈二尺云々以上諸國封戸調荷前」など見え、後世までも荷前は重き儀として、毎年十二月に先づ神宮山陵等に荷前使を立てこれを奉らしめられたる重き儀式なりき。さて「荷」を古言に「ノ」といへる例は日本紀神功皇后卷に「肥前國荷持田村」に注して「荷持此云能登利」とあるにても明かなり。「向」は、「昔」の義ある字にして、莊子禺言に「若向〔右○〕也俯而今〔右○〕也仰」とあり。よりて「サキ」といふ訓あり。類聚名義抄字鏡集を見よ。「※[しんにょう+(竹/夾)]」は「篋」の別體なり。古「匠」を「※[しんにょう+(一/斤)]とかける如く「匠の斤なし」を「※[しんにょう+一]」の形につくれるもの多く、それより又「一」を省きてかくはかけるなり。新撰字鏡之部に「※[しんにょう+(竹/夾)]口頬反笥也、己呂毛波古」とあり。ここはただ「ハコ」とよむべし。玉篇に※[しんにょう+(竹/夾)]に注して「笥也箱也」とあるにしるし。「ノサキノハコ」とは荷前の調物たる絹布などを納めたる筥をいふなり。この筥は如何なるものなりしか。延喜式によれば、調物たる布帛筆墨等は多くは韓櫃に盛られたるが如し。
○荷之緒爾毛 「ニノヲニモ」とよむ。古寫本に「かのを」とよめるもあれど、由なきことなり。流布本に「結」に作れるは「緒」の誤にして、古寫本多くは正しく「緒」とかけり。但し「緒」を「結」に作れるものは本集卷七「一三二一」に「玉之結」卷十二「二九八二」に「紐之結」にこの「結」字を用ゐたれば、或は當時通用したる事あらむか。「荷之緒」とは調物の荷をば馬に負はする爲に、鞍に結びつくる緒なり。延喜式析年祭祝詞に「自陸往道者荷緒縛堅※[氏/一]」とあるこれなり。「ニ」は形容せる意を示す「に」にて(62)「にも」は「の如くしても」の意に解すべきなり。卷一「七九」に「栲之穗爾夜之霜落《タヘノホニヨルノシモフリ》」卷十「二三〇四」に「秋都葉爾爾寶敝流衣《アキツハニニホヘルコロモ》」などいへるに同じ。以上「下」の「乘る」といふ語の形容として用ゐたるなり。
○妹惰爾乘爾家留香問 「イモガココロニノリニケルカモ」とよむ。類聚古集には「コヽロノ」とよみたれど、「爾」に「の」のよみ方なければ從ひがたし。考には「イモハ」とよみたるを玉の小琴に之を否とせり。童蒙抄には「乘」を「寄」の誤とし「ヨリニケルカモ」とよみたれど、かくかける本一もなく、「ノリニケルカモ」にて意通ずれば從ひ難し。さてこの「妹」は主格なれば、「イモが心」といふ連體格に解すべからず。されば、歌の調を顧みずしていはば、「心ニ妹ガ」と轉置して見れば心得やすし。これを明かにせむ爲にや、考は「イモハ」といひたれど、なほ「ガ」とよむ方意も強く、調もよしと思はる。「コヽロニノル」といふ語遣は卷四「六九一」に百磯城之大宮人者雖多有情爾乘而所念妹《モモシキノオホミヤヒトハオホカレドココロニノリテオモホユルイモ》」又卷十四「三五一七」に「思良久毛能多要爾之伊毛乎阿是西呂等許己呂爾能里※[氏/一]許己婆可那之家《シラクモノタエニシイモヲアゼセロトココロニノリテココバカナシケ》」などある例にて見るべく、又「妹ガ心ニノル」といへる例は、卷十「一八九六」に「春去爲垂柳十緒妹心乘在鴨《ハルサレバシダリヤナキノトヲヲニモイモガココロニノリニケルカモ》」卷十一「二四二七」に「是川瀬瀬敷浪布布妹心乘在鴨《ウヂカハノセゼノシキナミシクシクニイモガココロニノリニケルカモ》」などあるが、意ははいづれもおなじ。これは妹の事が心に常にありて、即ち忘れかねたることを妹が、わが心を占領するといふやうにとりて妹が我が心に乘るとはいへるなり。
○一首の意 田舍人が、荷前の※[しんにょう+(竹/夾)]を大事にして鞍に載せ荷緒もて堅く結びつけたる如く、わが愛する妹の事が我が心に乘りて、堅くはなれずといひて、我が心はただ君を思ふのみにて他事なし、といひて切なる情を最後にうちあけいへるなり。
(63)○禅師 これも贈れる歌ならむ。郎女が二首を以て答へたるによりて禅師もここに二首よめるならむ。考にはこれは贈る意なく獨り思ふ歌なれば、別に端詞ありしが、落ちたるかといはれたれど、かくよみてかへりて切なる情を通ずるに足るべきものをや。
 
大伴宿禰娉2巨勢郎女1時歌一首
 
○大伴宿禰 金澤本、元暦本等に注して曰はく、「大仲宿禰諱曰2安麿1也、難波朝右大臣大紫大伴長徳卿之第六子平城朝任大納言兼大將軍薨也」あり。安麿卿は大寶元年に既に中納言たり。續紀に「和銅七年五月朔日薨」とあり。考にはここの人を安麿の兄なる御行卿かといへれど、古本の注に從ふべきなり。天智天皇の朝には安麿は未だ公卿ならぬなれば、ただ姓の宿禰をのみいへるなるべし。大伴氏はもと連なりしを、天武十三年に宿禰とせられたり。さればこれは、編者の語なり。
○娉巨勢郎女時 「娉」は上にいへり。巨勢郎女は金澤本、元暦本等に、次の歌の端書の所に注して、前近江朝大納言巨勢人(日本紀に「巨勢比等」)卿之女也」といへり。この人なるべし。
 
101 玉葛《タマカツラ》、實不成樹爾波《ミナラヌキニハ》、千盤破《チハヤブル》、神曾著常云《カミゾツクトフ》、不成樹別爾《ナラヌキゴトニ》。
 
○玉葛 「タマカツラ」とよむ。玉は美稱にして深き意なし。ただ「かつら」と心得べし。さてこれをば考には「葛は子《ミ》の成もの故に次の言をいはん爲に冠らせしのみ也。且|子《ミ》の成てふまでに(64)いひて不成の不《ヌ》まではかけぬ類ひ集に多し。」といひ、美夫君志には實《ミ》の一言にかけたりとせり。されど、次の答歌によれば、この二説ともに當らぬを知るべし。これは新考にいへる如く、「ミナラヌ」にかかれりとすべきなり。さて、其の實ならぬは實の成りがたきをいへるならむが、その玉葛とは何をさせるものか、恐らくは「くず」をさせるものならむ。これはその果實の成らぬにはあらざれど、その實は著しからぬものなれば、花の著しきに對して實のならぬもののやうに世俗には信ぜられてありしにてもあらむ。なほ返歌の方をも考ふべし。
○實不成樹爾波 「ミナラヌキニハ」とよむ。實のならぬ樹にはといふことなるが、古は果實の著しくあらぬものをもかくいへりと見ゆ。卷八「一四四五」に「實爾不成吾宅之梅乎《ミニナラヌワギヘノウメヲ》」といふあり。卷四「五六四」に「山管乃實不成事乎《ヤマスゲノミナラヌコトヲ》」などあり。實のなるといふことは戀の實に成るをたとへていへるなり。かかる例は集中に少からず。卷七「一三六五」に「吾妹子之屋前之秋芽子自花者實爾成而許曾戀益家禮《ワギモコノヤドノアキハギハナヨリハミニナリテコソコヒマサリケレ》」などあり。
○千磐破 「チハヤブル」とよむ。「いちはやぶる」にて神の枕詞とせりといふ。但し、その意義はなほ考ふべき餘地あり。
○神曾著常云 舊本「カミゾツクトイフ」とよめるを童蒙抄に「ツクチフ」と改め、考に「ツクトフ」とよめり。今上例により考による。實のなるべき樹に實のならぬものあれば神の領じたまふものなりといふなり。これは女の年たくるまで男をもたずやもめなるをばその實のならぬ樹にたとへて神のつきたまふぞといへるなり。
(65)○不成樹別爾 「ナラヌキゴトニ」とよむ。その實の成らぬ樹ごとにといふにて第二句の意を繰り返しいへるまでなり。
○一首の意 實の成らぬ樹には古よりその樹ごとに神の依りて著きたまふといふ事のあるを知りたまへりや。女のさるべき時に男をもたぬは神の依りましぬとて大方の人の恐れ近づかずして遂に男を得ることもなくならむぞとおどろかしいへるなり。かくて早く實の心を以てわれに靡きたまへとすすむる心をあらはせり。源氏總角卷に、總角の大い君の薫大將に心のうつらぬを見て、侍女のいふ所に「大かた、例の見奉るに、しわのぶるここちしてめでたくあはれに見まほしき御かたち有樣をなどていともてはなれては聞えたまふらむ。何かこれは世の人のいふめるおそろしき神ぞつきたてまつりたらむと齒は打すきて愛敬なげにいひなす女あり」などいひ、又宇治拾遺二に柿木の實ならぬに佛現ずといふ俗説ありて、そが天狗なりし物語あり。これらによりて歌の心を知るべし。
 
巨勢郎女|報贈《コタヘオクレル》歌一首
 
○ これ上の返歌なり。考に報贈を「和」の誤とせるは例の入ほがなり。
 
102 玉葛〔左○〕《タマカツラ》、花耳開而《ハナノミサキテ》、不成有者《ナラザルハ》、誰戀爾有目《タカコヒナラメ》、吾孤悲念乎《アハコヒモフヲ》。
 
○玉葛 「葛」字流布本「萬」とせり。こは活字附訓本の誤植に基づくものにして活字無訓本以前古(66)寫本すべて「葛」とせるを正とす。「タマカツラ」とよむこと論なし。
○花耳開而不成有者 板本「ハナノミサキテナラズアルハ」とよめり。「不成有者」をば古寫本には「みならずは」「ならずあらば」「ならぬあるは」などよみたるが、代匠記には「ならざるは」とよめり。これは「誰戀爾有目」の主格なれば、「ならずあるは」又は「ならざるは」とよむべきものなり。今音の數よりして「ならざるは」とよむ。玉葛に「花のみさく」といへる由は上の歌にいへると同じ。さてこれは上の歌を受けて、いへるにて、「不成有」の上に實を略したるなり。而して、花をうはべの言葉にたとへ、實を心の誠にたとへ、言葉にのみいひて、實の心のなきをたとへたるなり。
○誰戀爾有目 舊本「タガコヒニアラメ」とよめるを代匠記に「タガコヒニアラモ」とよみ、童蒙抄に「タガコヒナラメ」とし考、これによれり。略解は「タガコヒナラメ」「タガコヒナラモ」の二説を並べあげたり。されど、「アラモ」「ナラモ」などいふ語遣はあるべきにあらねば從ひがたし。次には「タガコヒニアラメ」「タガコヒナラメ」いづれにてもあるべし。今音數の調へるによる。さて凡そ「タガ」の如く誰何等と係りて「メ」と結べるは古言の一格なり。卷三「三九三」に「不所見十方孰不戀有米山之末爾射狹夜歴月乎外爾見而思香《ミエズトモタレコヒザラメヤマノマニイサヨフツキヲヨソニミテシガ》」又卷四「六五九」に「奧裳何如荒海藻《オクモイカニアラメ》」卷七「一四二一」に「吾背子乎河處行目跡《ワガセコヲイヅクユカメト》」などあるにて知るべし。かくてかかる場合は「め」にて後世の「めや」といふに同じく反語をなすこと多し。ここのも「誰が戀にかあらむ」といふに同じ。
○吾孤悲念乎 舊本「ワカコヒオモフヲ」とよめるを、童蒙抄に「ワハコヒシノフヲ」とし、考に「アハコヒモフヲ」とし、略解に「ワハコヒモフヲ」とせり。按ずるに、「吾」は主格に立てるものなるが、「ガ」を連(67)體格のとせずして主格の意とせば、「ワガ」「ワハ」「アハ」いづれにてもあるべけれど、ここは、吾はかく思ふに君の態度は如何と相對的の語遣なれば「ハ」を用ゐる方區別を示してよし。その他「アハ」にても「ワハ」にても「コヒオモフ」「コヒモユ」にてもよきことなれど、音の關係よりして姑く略解の説によるべし。
○一首の意 この歌二段落なり。第一段は「玉葛の花のみ咲きて、實の成ならぬといふ如き言のみ巧にして心の實なきは誰人の戀にかあらむ」といひて、恐らくはそれはかくのたまふ君の自身のことをのたまふものならむの意をあらはし、第二段はわれこそは眞實に君を戀ひ慕ひ奉るものをといひて、わが心は君の比にあらずといひて、上の歌にこたへたるなり。
 
明日香清御原宮御宇天皇代 天渟名原瀛眞人天皇
 
○明日香清御原宮 は既にいへる如く、天武天皇の營みたまひし宮城なり。
○天渟名原瀛眞人天皇 「渟」字流布本「停」に作るは誤にして、古寫本多く正しくかけり。美夫君志には「停」を「渟」の一體とし、このままにて可なりといはれたれど、それはあまりに辯護にすぎたり。本書卷一及び日本紀また正しく「渟」とかけり。「アメノヌナハラオキノマヒトノスメラミコト」とよむ。天武天皇の尊號なり。さて以下には、天武天皇御宇の歌をあげたり。
 
天皇賜2藤原夫人1御歌
 
(68)○藤原夫人 「夫人」はもと支那にての名稱にして、禮記曲禮に天子有v后、有2夫人1、」といひ、漢時には天子の妻を夫人と稱したり。「夫人」は又先秦には諸侯の妻の號とし、又漢以後常人の正妻の稱とし、又婦人の尊稱ともしたり。ここも支那の名稱を襲用したるものなれど、職名なりとす。令の制には、皇后の外、後宮に備ふる職員に「妃二員夫人三員殯四員」あり。而して妃は皇族に限られ、臣族にして出身するものは最上を夫人に止められしなり。「夫人」はよみ方に種々の説あれど、音にて「フニン」とよむべきなるべし。この藤原夫人即ちその後宮の職員たりし藤原氏の女なり。天武紀によれば、「又夫人藤原大臣女氷上娘生2但馬皇女1、次夫人氷上女娘弟五百重娘生2新田部皇子1、」とあれば、この時藤原夫人と稱する人は二人ありていづれも鎌足公の女なりしなり。ここの藤原夫人はいづれの方ならむかと考ふるに、卷八夏雜歌に藤原夫人歌あり。之に注して「明日香清御原宮御宇天皇之夫人也、字曰2大原大刀自1即新田部皇子之母也」とあり。この贈答の歌の趣にては、この夫人は大原に住まれし由に見ゆれば、ここに大原大刀自といはれたる新田部皇子の母とます五百重娘の方なるべしと思はる。
○御歌 「御製歌」とあるべき筈なり。本書前後の例みな然り。然るに、目録も亦かくの如くにして、古寫本またかくの如し。蓋し、古より誤れるまま傳はれるならむ。
 
103 吾里爾《ワガサトニ》、大雪落有《オホユキフレリ》。大原乃《オホハラノ》、古爾之郷爾《フリシニサトニ》、落卷者後《フラマクハノチ》。
 
○吾里爾 「ワガサトニ」とよむ。吾が里とは皇居のある清御原の地をさしてのたまへるなり。
(69)○大雪落有 「オホユキフレリ」とよむ。大雪とは多くふれる雪をいふこと今におなじ。本卷「一九九」に「大雪乃亂而來禮《オホユキノミダリテキタレ》」又卷十九「四二八五」に「米都良之久布禮留大雪《メツラシクフレルオホユキ》」などいへり。「落有」は「フレリ」とよむべし。「落」を雨雪のふるに用ゐたることは既にいへり。
○大原乃 「オホハラノ」とよむ。大原は地名なり。この地は續紀卷二十六、天平神護元年十月辛未に紀伊に行幸ありし時の條に「是日到2高市郡小治田宮1」と見え、その翌日の條に「壬申車駕巡2歴大原長岡1臨2明日香川1而還」と見えたる地なるが、今飛鳥村の東南大字小原といふ地ありてそのうち字大原といふ地まさに存す。この地に鎌足公の誕生せられし第宅の舊址あり。古くは藤原寺といふがありしかど、今は廢して、その趾に藤原神社といふ神社あり、他の一部は田畝に變ぜり。この地即ち、藤原夫人の生地なるべければ、ここに住まひしてあられしによりて大原大刀自といふ名もつきにしならむ。
○古爾之郷爾 「フリニシサトニ」とよむ。卷十一「二五八七」にも「大原古郷妹置《オホハラノフリニシサトニイモヲオキテ》」などもいへり。「フリニシ」とよむ理由は、古、「フル」といふ上二段活用の動詞存したりしによる。この動詞の例は卷十七「三九一九」に「青丹余之奈良能美夜古波布里奴禮登《アヲニヨシナラノミヤコハフリヌレド》」などあり。さて「フリニシサト」とは即ち古郷の文字をあつべきものにして、それには人住むこと稀になり、あれたる郷の意もあり、又その人の本郷をいふ意もあり。この集にて例をいへば、卷四「七七五」に「鶉鳴故郷從念友《ウヅラナクフリニシサトユオモヘドモ》」卷十「二二八九」に「藤原古郷之秋芽子者《フヂハラノフリニシサトノアキハギハ》卷十一「二五六〇」「人毛無古郷爾有人乎《ヒトモナクフリニシサトニアルヒトヲ》」などは荒れたる意の方なるべく、卷三に大伴旅人が、太宰府にてよめる「萱草吾紐二付《ワスレクサワカヒモニツク》、香具山乃故去之里乎不忘之爲《カクヤマノフリニシサトヲワスレヌガタメ》」(三三四)(70)は本郷の義なるべし。されど、この頃は字義の如く、古くして住むこと稀にあれたる郷を主としていへるならむ。ここもその義なるべくして、夫人の當時居られし大原里を戯れてかくはのたまひしならむ。古事記傳には(卷三十四、藤原の語の下)この歌をあげて、「天皇初(メ)此(ノ)夫人の家に通ひ住(ミ)賜へりし故に古にし郷とはよみ給へるなるべし」といはれたれど、本書には御在位の時の御製としたるのみならず、古にし郷の義は上の如き用例あれば、從ひがたし。
○落卷者後 「フラマクハノチ」とよむ。「フラマクハ」とは「降らむことは」の意にして、若し降らむならば、この後に降らむとなり。
○一首の意 二段落なり。わが大宮のあるこの地には今日大雪ふりて景色の面白さいはむ方なし。大原の如く古きさびれたる里に若し降らむことあらば、そはわれらが十分にめではやしての後にこそ降らめとなり。戯れて羨ましめたまはむとの歌と見ゆ。
 
藤原夫人奉和歌一首
 
○奉和歌 は「コタヘマツレルウタ」とよむべし。御製に奉答せるなり。
 
104 吾崗之《ワガヲカノ》、於可美爾言而《オカミニイヒテ》、令落《フラシメシ》、雪之摧之《ユキノクダケシ》、彼所爾塵家武《ソコニチリケム》。
 
○ この歌板本に訓をつけず。
○吾崗之 「ワガヲカノ」とよむべし。「崗」は既にいひし如く「岡」の異體字なり。わが岡とは大原里(71)をさせり。この地丘陵の地なれば、岡といふにふさはし。
○於可美爾言而 「オカミニイヒテ」とよむべし。「オカミ」は日本紀卷一に「※[雨/龍]此云2於箇美1」と注せり。「※[雨/龍]」は委しくは「※[靈の巫が龍]」とかくべき字にして、玉篇に「※[靈の巫が龍]力丁切、龍也又作v靈神也善也或作※[〓+鬼]」と見え「※[雨/龍]同上」と記せり。されば支那にては龍神をば「※[靈の巫が龍]」とも「※[雨/龍]」ともいへるなり。本邦には日本紀に「高※[雨/龍]神」あり、古事記に「闇於加美神」あり。豐後風土記には「蛇※[雨/龍]」とかきてそれに「於箇美」と注せり。いづれも水をつかさどる神なりと信じたりと見えたり。さて水をつかさどるといふよりして雨をも降らしむる神と信ぜらわたることは祈雨の神として古來祭られしにて知らるる所なるが、それよりして雪をも降らしむべきものと考へられたるものなるべし。「イヒテ」は言ひ付けてなり。古義は「言」を「乞」の訓として「コヒテ」とよませたれど、證なければ從ひがたし。
○令落 元暦本金澤本には「フラシムル」とよみ、類聚古集には「フラシメシ」とよみ、又他の本にも多くこの二の訓の間をばいでず。童蒙抄には一按として「フラセタル」とよむべきことを提議し考にはそれによれり。按ずるにここに「有」字なければ、「タル」とよむべき理なし。次に「シムル」とよむ説と「シメシ」とよむ説とを比するに、既に降りたる雪をいへるなれば、「シメシ」とよむをよしとす。代匠記古義などの説これなり。
○雪之摧之 古寫本には「ユキノクダケテ」とよめると、「ユキノクダケシ」とよめると二樣あり。代匠記には「クダケノ」とよみ、童蒙抄には「クダケカ」とするか若くは「之」は「天」の誤ならむとせり。按ずるに「之」を「テ」とよむべき由なければ、「ユキノクダケシ」とよむをまされりとす。この「クダケ」は(72)契沖のいへる如く、物の摧けたる片はしの意なれば、體言の取扱をなせるなり。而してその下の「シ」は助詞にして指していへるなり。從來「クダケシ」とよめる人は多く「クゲケシモノ」の意にて「シ」までにて體言の取扱をなせりと考へたる人多けれど、さにはあらじ。又契沖などは「クダケ」を體言として取扱ひたるはよけれど、「シ」を助詞と考ふることなかりし故に「ノ」とか「カ」とかよまむと按ぜしならむ。「シ」はここにては主格につけり。
○彼所爾塵家武 「ソコニチリケム」とよむべし。「彼所」を「ソコ」とよむは古語なり。古くは「彼」を「カ」「カレ」とよまずして「ソ」「ソレ」とよみしなることは肥前の郡名に「彼杵」とかきて「ソノキ」とよめるにて知るべし。「塵」は名詞たる「チリ」をあらはす文字なるを「散る」の動詞の連用形の「チリ」をあらはす爲に借りしなり。しかもその「塵《チリ》」といふ名詞ももとはこの「散る」の連用形より轉じたるものなるべければ、古人には異樣に見えざりしならむ。「けむ」は既に了れることを推量していふ複語尾なり。
○一首の意 私はこの程わが里の龍神に言ひ付けて雪を降らしめたることにて候ふが、その雪のかけらが、わが君のましますあたりにも少しは散りたらむと思ひ居候ひしに、君が大雪と仰山らしく仰せらるるは大方そのかけらの降つたる爲にて候ふらむ。さるを大雪などことごとしく宣ふことのをかしさよ。雪ならば、私の方が、御あたりよりは見事に候ふものをとなり。
 
藤原宮御宇天皇代 天皇謚曰2持統天皇1
 
(73)○藤原宮御宇天皇代 元暦本は「御宇」の下に「高天原廣野姫」の六字あり。されど例に違へば從ふべからず。藤原宮は持統天皇のはじめたまひし宮にして文武天皇を經て、元明天皇の初年までまししなり。されば、この宮にて御宇ましし天皇は三帝ましますといふべし。而して、卷一の例によれば、まさにしかあるべく、この卷の挽歌の條も亦然れば、ここも然るべし。
○天皇謚曰持統天皇 藤原宮御宇天皇は持統天皇に限らねど、そのはじめの天皇にましませばかく注せるなるべし。然れどもここにかくかけるは他の例に異なり。卷一及びこの卷の挽歌の條の例によらば、「高天原廣野姫天皇」とあるべき筈なり。而して金澤本にはこの上に「高天原廣野姫」の六字あり。これによりて按ずるに、もとは、高天原廣野姫天皇」とありしに「謚曰持統天皇の六字を後人の加へしものなるべく、さてその後にこの度は上の六字を削りて下の八字を存したりしならむ。
 
大津皇子竊下2於伊勢神宮1上來時、大伯皇女御作歌
 
○大津皇子 天武天皇の第三皇子なり。勇武にして文學あり。英邁なりけれど、才を恃みて終を全くせられざりき。天武天皇の十二年に大政に參與せしめられしが、天皇の崩御あらせらるるや不軌を謀りて、朱鳥元年十月二日誅せられき。時に年二十四。
○竊下2於伊勢神宮 大津皇子の神宮に參られしこと、日本妃に載せず。「竊に」參られしが故なるべし。考別記に曰はく、「天武天皇は十五年九月九日崩ましぬ。さて大津皇子此時皇太子にそ(74)むき給ふ事、其十月二日にあらはれて三日にうしなはれ給へりき。此九月九日より十月二日までわづかに廿日ばかりのほどに伊勢へ下り給ふ暇はあらじ。且大御喪の間といひかの事おぼすほどに、石川郎女をめし給ふべくもあらず。仍て思ふに天皇御病おはすによりてはやくよりおぼし立こと有て、其七八月の比に彼大事の御祈又は御姉の齋王に聞え給んとて、伊勢へは下給ひつらん。さらば清御原宮の條に載べきを其天皇崩ましてより後の事は本よりにて崩給はぬ暫前の事も崩後にあらはれし故に持統の御代に入しならん」といへるは大略さる事ならむ。歌の趣を以て見れば秋の頃の事なれば蓋し天武天皇大漸の時伊勢に下り、神宮に祈請したまひし事ありしならむが、その祈請の何事なりしかは知るべからず。或は不軌の望を達せむと祈請せられしならむといひ、或はその事の發覺して禍の及ばむとするを恐れて祈請せられしならむともいふ。いづれかはもとより知るべからねど、その竊に伊勢に赴きて歸京せられて間もなく發覺せし故にこの御代の事として掲げしならむ。
○上來時 京に歸り上られし時をさす。
○大伯皇女 大津皇子の同母姉にまします。天武紀に「先納2皇后姉大田皇女1爲v妃生3大來皇女與2大津皇子1」とある大來皇女これなり。大來皇女又大伯皇女とかけるは、齊明紀に「七年春正月丁酉朔……甲辰御船到2於大伯海1時大田姫皇女産v女焉。仍名2是女1曰2大伯皇女1」とあるにて知らる。この大伯の地は備前國邑久とある地なり。この皇女は天武天皇の二年に十四歳にて齊王に立ち、翌年十月に伊勢神宮に到りまし、持統天皇の朱鳥元年十一月十六日に任解けて京に還り(75)ませり。されば、この歌は齋王にて伊勢にましまして弟皇子の至りませる時に別を惜みたまへる御歌と知られたり。其の御歌次にある二首なり。
 
105 吾勢枯乎《ワガセコヲ》、倭邊遣登《ヤマトヘヤルト》、佐夜深而《サヨフケテ》、鷄鳴露爾《アカトキツユニ》、吾立所霑之《ワガタチヌレシ》。
 
○吾勢枯乎 「ワガセコヲ」とよむ。この語の例は卷一「九」「一一」「四三」などにあり。「セコ」は兄子の義にして「セ」は女より男の兄弟を親みていふ語、「子」も亦親しみをあらはす語なり。「セ」は「兄」の字をかけど兄に限らざるなり。ここは御弟の大津皇子をさしてのたまへり。仁賢紀の自注に「古者不v言2兄弟長幼1女以v男稱v兄《セ》、男以v女稱v妹」とあるにて知るべし。
○倭邊遣登 「ヤマトヘヤルト」とよむ。「へ」は助詞にて「邊」はその假名なり。「と」は今の語にては「とて」の意に釋すべし。大津皇子の倭へかへりますを送るといふべきを御自らが、かへし遣りたまふ由にいひなしたまひ、これにて分れ難き意をあらはしたまへるなり。
○佐夜深而 「サヨフケテ」とよむ。「サヨ」はただ「夜」といふに同じく、「サ」は音調を添ふる爲の接頭辭なり。日本紀仁徳卷の歌に「瑳用廼虚烏《サヨドコヲ》といへるもただ「夜床ヲ」といふに異ならず。
○鷄鳴露爾 板本「アカツキツユニ」とよめるを略解は「アカトキツユニ」と改めたり。「鷄鳴」はただ鷄の鳴くをいへる語にあらずして、丑時をさす熟字なり。新撰宇鏡に「鷄鳴五時、平旦寅時」と記し、左傳昭公※[人偏+專]五年の杜預が注に「日之數、十故着2十時1。日中〔二字傍点〕當v王食時〔二字傍点〕當v公、平旦〔二字傍点〕爲v卿、鷄鳴〔二字右○〕爲v士、夜半爲v早、人定〔二字傍点〕爲v奧黄昏〔二字傍点〕爲v隷〔傍点〕、日入〔二字傍点〕爲v僚、※[日+甫]時〔二字傍点〕爲v僕日※[日+失]〔二字傍点〕爲v臺、隅中、日出〔四字傍点〕、闕不v在v第」と見えたるにて知る(76)べし。日本紀推古卷十九年には「五月五日藥2獵於兎田野1取2鷄明時〔三字右○〕1集2于藤原池上1以2會明1乃往之」とあれば、本邦にても時の名目として用ゐしを見るべし。日本紀にはこれを「アカツキ」とよませたり。(仁徳卷三十八年及び推古卷十九年)されど、「アカツキ」といふは後世の訛にして「アカトキ」とよむを古語とす。「アカトキ」は「明時」の義にして新撰字鏡には「※[日+出]」字に注して「向2曙色1也阿加止支」とあり。集中の假名書は「アカトキ」とのみあり。その例多きが、一二をいはゞ、卷十七「三九四五」に「安吉能欲波阿加登吉左牟之《アキノヨハアカトキサムシ》」卷十八「四〇八四に「安可登吉爾《アカトキニ》」などあり。「鷄鳴露」は曉の露なるが、これを熟語としたるものなれば「アカトキヅユ」とよむべし、その熟語も集中に例少からず。卷八「一六〇五」に「高圓之野邊乃秋芳子比日之曉露爾開兼可聞《タカマトノヌベノアキハギコノゴロノアカトキツユニサキニケムカモ》」又卷十「二一八二」に「比日之曉露爾《コノゴロノアカトキツユニ》」又同卷「二二一三」に「比者之五更露爾《コノゴロノアカトキツユニ》」などその例なり。
○吾立所霑之 板本「ワガタチヌレシ」とよみたり、元暦本金澤本等には「ワレタチヌレヌ」とよみ、拾穗抄に「ワレタチヌレシ」とよみ、略解もしかよめり。惟ふにこは板本のよみ方をよしとす。古事記神武卷にも「和賀布多理泥斯《ワガフタリネシ》」とあり。かく迫りたる語調の時は上に主格に「が」を添へて下を連體形にて結ぶこと古歌の一格なり。「霑」は「ヌルヽ」なるが又「漬」の義あり。「所」は受身をあらはす字なれば、「所霑」にても「ヌルヽ」なり。
○一首の意 大和國へかへらむとせらるゝ吾が兄《セ》の君(大津皇子)を、さ夜ふけて出でたゝせまゐらすとて、見送りまゐらせしほどに我はいつしか曉の露にぬれそぼちたる事よとなり。さ夜ふけてから曉まで立ちつくされし趣あると共に露には涙をよせてよまれし點ありとおぼゆ。
 
(77)106 二人行杼《フタリユケド》、去過難寸《ユキスギガタキ》、秋山乎《アキヤマヲ》、如何君之《イカニカキミガ》、獨越武《ヒトリコユラム》
 
○二人行杼 「フタリユケドとよむ。二人つれ立ちて行けどもなり。言の道理よりいはば、二人行くともといふべきなるが、これを假想としては弱く感すべきによりてかつて經驗せし事をとり來り、既定の事として述べたる所に深き感情を籠めたるさまあらはれたり。詩人の學ぶべき所。
○去過難寸 「ユキスギガタキ」とよむ。「去」は玉篇に「行也」と注せるにて「ユク」とよむべき字なるを知るべし。「寸」の古言「キ」なるを假名にかりしなり。
○秋山乎 秋の山は落葉、風の音、鹿の音などにてあはれに物淋しくして、二人つれ立ちて行けどもなほ行き過ぎ難きものなり。その如き秋山をばといふなり。
○如何君之 板本「イカデカキミガ」とよみ、諸家大方かくよみたれど不可なり。童蒙抄に「イカニカ」とよめるをよしとす。その故は本集中に「イカニ」「イカト」と假名書にせる例は多かれど、「イカデ」と假名にかける例一もなし。「イカデ」といふ語は恐らくは平安朝に入りて生ぜしものならむ。この事は余が奈良朝文法史に論ぜしが、新考またしかよむべしとせり。
○獨越武 舊來「ヒトリコユラム」とよみ來れるを考には「コエナム」と改めてより諸家多く之に從ひ、攷證は「良武」なりしが、脱せりとし、美夫君志はそのまま舊訓によるべしとせり。さて「コエナム」と讀む説は「武」の上に「良」字なきが故に「ラム」とよむべからずといふ意見なるべけれど、しかい(78)はば、「奈」字なきに「ナム」とよまむも同じ理にて從ひかねる譯なり。されば、字の面よりはいづれとも定むべき事にあらずして、所詮は歌の意により決すべきなり。按ずるにこの二の御歌は送別の歌とはいひながら、非常の事の伏在する時の事にして、新考にもいへる如く、別れたまひし後に皇子の御身の上をおぼしての御歌と見えたれば、今頃は一人淋しく秋山を越え給ふらむかと現前の事を推量してよまれたりと見るべきなり。されば、「ナム」とよまむよりは「ラム」とよまむかたその感直接におこるなり。若し「コエナム」にては如何でか一人にて山を越えたまふべき。越え給ふことあたはじの意となる。さるによりてとるべからず。この故に今舊訓に從ふ。
○一首の意 二人打語ひつつ行きたることありし時にも淋しかりしあの秋の山路をば、我が親愛なる弟の君が、心をうちあけ語ふ人もなく越え行き給ふことよ。如何さまにも淋しからむ。今はいづこのあたりを行き給ふらむ。あはれなることよとなり。
○ 以上二首底に悲哀の情を含めり。これ或は事の破れむを豫想せられたるにや、或は又生きて再び逢ふを得じの御思ひよりや出でけむ。よみ來ればあはれ深し。
 
大津皇子贈2石川郎女1御歌一首
 
○大津皇子 上に見ゆ。
○石川郎女 この石川郎女といふ名、上の久米禅師と贈答せる人に名は同じけれど、別人なるべ(79)しといふ。而して、この次に石川女郎とあるはこの人と同じきか異なるか、そは不明なるが、その石川女郎はこの卷の末に大津皇子侍石川女郎とあるに同じかるべく見ゆるが、ここは郎女とあれば、必ずしもそれと同じといふべからず。この人の傳知られず。
 
107 足日木乃《アシビキノ》、山之四付二《ヤマノシヅクニ》、妹待跡《イモマツト》、吾立所沾《ワレタチヌレヌ》、山之四附二《ヤマノシヅクニ》。
 
○足日木乃 「アシヒキノ」とよむ。山の枕詞なり。語の意は種々の説あれど、從ひがたく、なほ研究を要する語なり。
○山之四付二 「ヤマノシヅクニ」とよむ。山の草木などより落つる雨露の滴をいふ。語意これより「所沾」につゞくなり。
○妹待跡 「イモマツト」とよむ。妹即ち君を待つとての意なり。
○吾立所沾 舊訓「ワレタチヌレヌ」とよめるを童蒙抄に「ワレタチヌレシ」とし、考には「ワガタチヌレヌ」と改めたり。されど、強ひて改むべき理由なければ、舊訓に從ふを穩なりとす。「沾」字は史記滑稽傳優※[旗の其が丹]傳に「秦始皇時置酒而天雨、陛楯者皆沾寒」などありてぬるるの義あり。
○山之四附二 最後の句、上の第二句をくりかへして意の切なるをあらはせるなり。
○一首の意 わが愛する郎女に逢ひもするかとて山の草木の露滴をもいとはず、立ち待ちて吾れは身もしとどにぬれたるよとなり。
 
(80)石川郎女奉和歌一首、
 
○奉和歌 は答へ奉る歌なり。
 
108 吾乎待跡《アヲマツト》、君之沾計武《キミガヌレケム》、足日木之《アシヒキノ》、山之四附二《ヤマノシヅクニ》、成益物乎《ナラマシモノヲ》、
 
○吾乎待跡 舊訓「ワレヲマツト」とよめり。契沖は「吾はわ〔右○〕とひと文字にも讀むべし」といひ、考には「アヲ」をよむべしといへり。「アヲ」と書ける例は卷十二「三〇一三」に「安乎忘爲莫《アヲワスヲスナ》」卷十四「三四五六」に「安乎許登奈須那《アヲコトナスナ》」「三四五七」に「安乎和須良須那《アヲワスラスナ》」などあり。「ワヲ」を書ける例は卷十一「二四八三」に「和乎待難爾《ワヲマチガテニ》」卷十四「三五六三」に「和乎可麻郡那毛《ワヲカマツナモ》」卷十六「三八八六」に「和乎召良米夜《ワヲメスラメヤ》」等あり。されば「ワヲ」とよまむもあしきにあらず。今姑く考に從ふ。
○君之沾計武 「キミガヌレケム」とよむ。上の御歌の詞に因みていへるなり。
○成益物乎 「ナラマシモノヲ」とよむ。「まし」は豫想假設したるをいふ複語尾なり。
○一首の意 吾を待つとて君が山の雫にぬれたまひけむことこそ忝けれ。あはれそのしづくに我はならましものを。さらば、その時君が御身にもそひ奉らまし。かく君が我を思ひたまへるを知らずしてすごししことの口惜さよとなり。
 
大津皇子竊2婚石川女郎1時津守連通占(ヒ)2露(シカハ)其事1皇子御作歌一首
 
(81)○竊婚時 「シヌヒアヒタマヘルトキ」とよむべきか。ここに竊婚とあれば、この石川女郎は正しくは大津皇子にめさるべき人にてはあらざりしなるべし。この事はなほ次の歌の條にいふべきことあり。
○津守連通 この人の事は和銅七年正月に正七位上津守連通に從五位下を授けられ、十月に美作守となれり。績日本紀に「養老五年正月甲戌詔文人武士國家所v重、醫卜方術古今斯崇、宜d擇於2百僚之内1優2遊學業1堪v爲2師範1者加2賞賜1勘c勵後生u、因賜2明經第一博士………陰陽從五位上大津連首、從五位下津守連通……各※[糸+施の旁]十疋、絲十※[糸+句]、布二十端、鍬二十口1……」と見ゆ。さればその頃の陰陽道の達人なりしを見るべし。この人同七年正月には從五位上を授けられたり。津守氏は新撰姓氏録によれば二流あり。一は津守宿禰にして火明命の後、一は津守連にして天香山命之後なりと見ゆ。ここはその連姓のなり。
○占露 「ウラヘアラハシシカバ」とよむべし。「ウラヘ」といふ語は「卜合へ」の略まれるにて、古事記に「卜相」日本紀に「卜合」などかけるこれなり。今「うらなふ」といふ詞におなじ。「露」は露顯の義なり。
 
109 大船之《オホフネノ》、津守之占爾《ツモリノウラニ》、將告登波《ツケムトハ》、益爲爾知而《マサシニシリテ》、我二人宿之《ワガフタリネシ》。
 
○大船之 「オホフネノ」とよむ。「津守」の枕詞とせり。大船の泊つる津にかけたるなり。契沖は「住吉につもりのうらあれば通が氏よりうらなひまでにかけたまへり、又津をもるものは船の(82)出入をかんがへてみだりなることあらしめねばかれこれ心かよへり」といへり。攷證にはこの説にもとづきて、「占を浦にとりなしてことばのあやを爲せる也。」といへり。或はさる事もあるべし。
○津守之占爾 舊訓「ツモリノウラニ」とよめるを考に「ツモリガウラニ」と改めてより諸家之に從へり。されど、いづれにてもありなむ。津守連通が占卜にといふことなり。「ウラ」は本義「心」にて神慮を伺ふわざをするをもいふ。卷十四「三三七四」に「麻左※[氏/一]爾毛乃良奴伎美我名字良爾低爾家里《マサテニモノラヌキミガナウラニデニケリケリ》」と見ゆ。何の爲にかゝる事を占ひしか、公の命によりてか、又私の爲にか、その點は明かならず。
○將告登波 舊訓「ツケムトハ」とよめるを童蒙抄に「ノラムトハ」とよみ、考以下これに從へり。按ずるにかく「のる」といへるは、卷十四(上掲の)歌に「武藏野爾宇良敝可多也伎麻左※[氏/一]爾毛乃良〔二字右○〕奴伎美我名字良爾低有家里」とあるなどより考へしならむが、この「のる」は君が名を宣る意にして卜がその名を宣るといへるにはあらず。その他卷十一「二五〇六」に「占正謂妹相依《ウラマサニイヘイモニアハムヨシ》」とある「謂」をも「のる」とよめる本あるがいづれもこの例より考へつきたるに止まれり。もと「告」字は「のる」とも、「つぐ」ともよまるべき字なるが「のる」と「つぐ」とは國語としては意ややかはれり。「のる」は特定の對者に對する性質の語にあらずして、神又は君などの御心の發表をいふに止まり、若し對者ありとせば、一般世人を對者とすといふべし。問ひに對しては「つぐ」といふべきものり。然るに、略解には「卜には「のる」といふが定なり」といひたれど、その證なし。卷十三「三三一八」の長歌に「夕(83)卜乎吾問之可婆夕卜之吾爾告良久《ユフウラヲワガトヒシカバユフウラノワレニツグラク》」とある「告良久」は、「ノラク」「ノルラク」にあらずして「ツグラク」とよむべきなり。又「ツグラク」といへる語の例は巻十三「三三〇三」に「里人之吾丹告樂久《サトビトノワレニツグラク》」などあり。ここは人より問ふに對して神意の卜の告ぐることにして今も「神の御つげ」といへるは古語ののこれるならむ。「つぐ」といふ語は卷十七「三九五七」に「白雲爾多知多奈妣久等安禮爾都氣都流《シラクモニタチタナビクトアレニツゲツル》」又「四〇〇〇」に「伊末太見奴比等爾母都氣牟《イマダミヌヒトニモツゲム》などあり。
○益爲爾知弖 舊訓「マサシニシリテ」なり。然るに童蒙抄には「爾」は「久」の訓かといひて「マサシクシリテ」とよみ、本居宣長は「爲」は「※[氏/一]」の誤にして「マサテニシリテ」とよむべしといひ(略解)古義には、「益」は「兼」の誤「爲」は「而」の誤「爾」は「乎」の誤りとして「カネテヲシリテ」とよむべしといへり。されど、「爾」字の古葉略類聚鈔になき外、諸本に文宇の異なるなし。而して「まさしにしりて」とよみて不當なるにあらねば、舊訓のままなるべし。「まさし」は「まさしき」といふ形容詞の語幹にて體言の如く用ゐられ、事状の正《マサ》しきをさす言をあらはす。從來の諸説にこの「まさし」を占にいふ術語の如く説けるはあたらず。これは契沖が既に代匠記に於いて「まさしには正しくなり。西行もまさしに見えてかなふ初夢と立春の歌によまれたり云々」といへる如く、必ずしも占に限らぬ語なり。古今集俳諧に深養父の歌「おもひけん人をぞともにおもはまし、まさしやむくいなかりけりやは」とあり。かく「まさし」はその事の爭ふべからざるをいふ語なるが「まさしに」はこれに「に」助詞を添へて修飾格に立たしめたるものなり。
○我二人宿之 「ワガフタリネシ」とよむ。語の例は古事記中神武天皇の御歌に「阿斯波良能志祁(84)去岐袁夜邇須賀多多美伊夜佐夜斯岐弖和我布多理泥斯《アシハラノシケコキオヤニスガタタミイヤサヤシキテワガフタリネシ》」とあり。
○一首の意 かの津守連通が占に我等が事を告げむといふことは即ちこの事のいつかは露顯すべき事はかねて正しくしかあるべしと心得てありながらもわれらは相ひ合ひつることよと、その占ひあらはしたる事に爭ひたまはぬ心をあらはせり。
 
日並皇子尊贈2賜石川女郎1御歌一首 女郎字曰2大名兒1也〔四字右○〕
 
○日並皇子尊 卷一柿本人麿の安騎野の長歌の反歌四首の末の歌に「日雙斯皇子尊」といへる御方これなり。即ち草壁皇太子にして文武天皇の御父にませり。日並皇子尊と書けるにつきて考には「知」字を加へて日並知皇子と改めたり。これは績日本紀にしか書けるによりていへるなるべし。されど、この卷の末なるにも日並皇子とありて知字なし。こは本來粟原寺鑪盤銘に「日並御宇東宮」とあり、又本朝月令に引ける右官史記に「日並所知皇子命」とある如く正しくは「御宇」「所知」の文字にて「シ」の語のあらはされたるものなれば、しかかくべきを「知」一字とせるは既に略せるなり。かくて又更に今の如くに略せる書きざまも古くありしなるべければ、これを、誤なりとはすべからず。この御名の義は既に述べたり。
○贈賜石川女郎御歌 目録には「賜」字のみありて「贈」字なし。古寫本中にも細井本神田本には然あり。活字無訓本も亦然り。そのなきをよしとす。この石川女郎は恐らくは上の大津皇子の竊に婚したまひしといふ人なるべく、この人正しくは皇太子にめさせたまひしなるを大津(85)皇子の邪にとりたまひしなるべし。大津皇子が皇太子に反抗せむの意ありて、わざとさるわざしたまひしか、或はこの女の事を基として遂に反意を起したまひしか、いづれにしてもこの女の事は大津皇子と皇太子との間に起りし違ひ目の主なるものなるべし。然らずば上の文に「竊」といふ文字を用ゐる所以なし。
○女郎字曰大名兒也 これは注文なるが、板本「女郎字曰」の四字に止まれるは文を爲さず。脱字あること明かなり。活字無訓本には全くこの注文なく、元暦本金澤本等の古寫本にはこの下に續けて「大名兒也」の四字あり。目録にもしかあり。この注文なくば全くなかるべく、あらば、これまであるべきなり。字は本名の外に世に稱する名をさせり。大名は大名持命の大名と同じ意なるか。「兒」を女の名の下に添へていふこと上の「安見兒」卷十六に「櫻兒」「鬘兒」などあり。今もこの風殘れり。
 
110 大名兒《オホナコヲ》、彼方野邊爾《ヲチカタヌベニ》、苅草乃《カルクサノ》、束間毛《ツカノアヒダモ》、吾忘目八《ワレワスレメヤ》。
 
○大名兒 もと「オホナコヤ」とよみたるを仙覺が「オホナコヲ」とよみ改めたるなり。拾穗抄には「オホナコガ」をよしとし、代匠記には「オホナコヤ」ともよめり。按ずるにこれは末句の「忘る」の對象となる語なれば、「ヲ」とよむべきものなり。
○彼方野邊爾 「ヲチカタヌベニ」とよむ。「彼方」を「ヲチカタ」といふは日本紀神功卷に「烏智箇多能阿羅々麼菟麼邏《ヲチカタノアララマツバラ》」などその例なり。「遠近」とかきて「をちこち」とよむによりて往々「ヲチ」に遠き意(86)ありとするは誤なり。ただこちらに對してあちらといふ程の意なり。又「ヲチカタ」を地名の如くに心得るもよからず。ただあなたの邊といふまでの意と知るべし。
○苅草乃 舊板本「カルカヤノ」とよみ來れるが、元暦本、金澤本などには「カルクサ」ともよめり。按ずるに「カヤ」といふは屋を葺く料としての名なるに、ここにてはその「カヤ」とよむべき特別の理由なければ、ただ「クサ」とよみて足れり。一概に「苅る」とつづくる場合はみな「カヤ」とよまむは極端なり。秣草として、野の草を苅ることは萱を苅るよりも普通の事なるを見よ。さて苅りたる草は束ねて運ぶものなるによりて、次の「束」といふ詞につづくるものにして、以上二句は下の「束」の序詞とす。
○束間毛 「ツカノアヒダモ」とよむ。卷十一「三七六三」に「紅之淺葉乃野良爾苅草乃束之間毛吾忘渚菜《クレナヰノアサハノヌラニカルクサノツカノアヒダモワヲワスラスナ》」とありて、この歌と詞の趣似たり。又卷四「五〇二」に夏野去小牡鹿之角乃束間毛妹之心乎忘而念哉《ナツヌユクヲシカノツヌノツカノマモイモガコヽロヲワスレテオモヘヤ》」とある如く「ツカノマ」といへるもあり。さてこの「束」は上よりの關係にて見れば、苅りたる草を束ぬる由の詞なれど、ここの實際の意は短きことをいへるなり。その短き意なる「ツカ」は手にて握む意のつかにして四の指を並べてつかみたる長さをいふ。これ古への長さを計る一種の單位にして八握鬚、十握劍などいふ握これなり。單に「ツカ」といへるは即ち一握にして甚だ短きことをいふ代表語たり。されば「ツカノマ」は今の暫の間又は一寸の間などいふに似たる心持をあらはしたる詞と知るべし。
○吾忘目八 「ワレワスレメヤ」とよむ。「ワガ」とよめる本もあれど、それにては語の調あはず。「ヤ」(87)は疑問の助詞にして、ここには「む」の已然形を受けて反語をなせり。かくの如きは古語の一格なり。その意は決して忘れはせじと治定するなり。
○一首の意 かの名高き大名兒をば、われは暫しの間も忘れむことあらむや決して忘れはせじとなり。
 
幸2于吉野宮1時弓削皇子贈2與額田王1歌一首
 
○幸于吉野宮時 持統天皇の行幸ありし時に弓削皇子の供奉ありしなり。持統天皇の吉野離宮に行幸ありしは卷一にもいへる如く屡なるが、こは何時の行幸なりしか詳ならず。されど、「ほととぎす」をよまれたれば、四年五月か、五年四月かのうちなるべし。
○弓削皇子 この皇子は天武天皇第六の皇子にますこと、續日本紀文武天皇三年七月その薨去の記事に見えたり、日本紀天武天皇二年條に、「次妃大江皇女生2長皇子與弓削皇子1」とありて、長皇子の同母弟にます。持統天皇七年に位「淨廣貳」を授けられたり。
○贈與額田王 「贈與」は「オクリアタフ」とよむべきか。目録には「與」字なし。或は二字にてただ「オクリタマヘル」とよみてもあるべし。額田王は卷一にいへる如く、詳ならず。されど歌の趣にては天武天皇にめされし事ある額田王なるべく思はる。
 
111 古爾《イニシヘニ》、戀流鳥鴨《コフルトリカモ》、弓絃葉乃《ユヅルハノ》、三井能上從《ミヰノウヘヨリ》、嶋渡遊久《ナキワタリユク》。
 
(88)○古爾戀流鳥鴨 「イニシヘニコフルトリカモ」とよむ。童蒙抄に「ムカシカクワフルトリカモ」とよみたれど從ふべからず。されど、かくよみかへたるは「古にこふる」といふ語法の今と違へるに心づきし爲ならむ。さて契沖は「古に戀るは古を戀るなり」といへり。攷證はこれに基づきて「いにしへにのにもじはをの意にて君にこひ、妹にこひなどいふにもじと同じ」といへり。されど、これらはいづれも今の語法を以て古の語法に對していへるまでにして眞にその意を説けりとはいふべからず。この「に」は「に對して」の意ありて、その對象をさすなり。「戀ふる」といふ語に對する對象を「に」にて示すは古語のさまなり。卷四、「六九六」に「家人爾戀過目八方《イヘビトニコヒスギメヤモ》」卷六「九六一」に「湯原爾鳴蘆多頭者如吾妹爾戀哉時不定鳴《ユノハラニナクアシタヅハワガゴトクイモニコフレヤトキワカズナク》」などあるにて知るべし。今の語にて「何を戀ふる」といふと結局は同じ事をさせるに相違なけれど、考へ方は違へり。「を」は動的の目標をさし、「に」は靜的の目標をさせばなり。さてこの鳥は何なりしか。歌の上にては明かならず。次の奉和歌を見れば、「ほととぎす」なりしなり。「ほととぎす」は支那にて蜀魂などいひ、蜀王の死してその魂のなれる鳥にして、常に古を思ひては鳴くといふ傳説あり。その傳説はやく本邦にも傳はりて古を戀ひてなくとは信ぜられしならむ。古今集の壬生忠岑の歌に「むかしへや今もこひしきほとときす古郷にしもなきて來つらむ」といひ、平家物語大原御幸に郭公花橘の香をとめてなくは昔の人やこひしきし」といふ朗詠集(よみ人しらず)の歌を引けるなど皆この思想なり。「鴨」は感動の「カモ」といふ助詞にあてたるなり。
○弓絃葉乃 「ユヅルハノ」とよむ。「絃」字京都大學本、大矢本に「弦」に作れり。普通には「弓ヅル」に「弦」(89)をあつるものなれど、「弦」「絃」もと同字なれば不可ならず。略解に「弦」に改めたれど、必ずしも改むるに及ばず。「ユヅルハ」は今「ユヅリハ」といふ植物にてその葉を新年の飾に用ゐるなり。古「ユヅルハ」といひしことは卷十四「三五七二」に「阿自久麻夜末乃由豆流波乃《アシクマヤマノユヅルハノ》」とあるなどにて知るべし。
○三井能上從 「ミヰノウヘヨリ」とよむ。三井は御井の義なり。この「ユヅルハ」を名に負へる御井は蓋しその附近にこの木ありしが故なるべし。古の井のほとりには然るべき樹を植ゑしことは既にいへり。さてこの御井は吉野離宮の御用にあてしものにしてその附近にありしものなるべけれど、今詳ならず。然るに、その地と稱するもの二所ありて一は六田村に一は大瀧村にありと大和志にいへり。されど、それらは古の吉野離宮の地より頗る隔りたる土地なれば、いづれもあらぬ所なるべくして信ずべからず。「從」は「ヨリ」の助詞にあてたるなり。この「ヨリ」はその地點を經過して行く由をあらはす。
○鳴渡遊久 「ナキワタリユク」とよむ。即ち他より鳴き來りその御井の上を通りて他にわたり行く由をいへるなり。「なきわたる」といふ語は集中に例多し。今一々あげず。
○一首の意 この鳥は古に戀ふる鳥なるか。弓絃葉の御井を通りて鳴き渡り行くとなり。こは父帝の古、皇太弟を辭してこの宮に入りましし事、又御即位の後も屡行幸ありし時の事などの、その鳥、又はその御井によりて思ひ出でらるるふしありて、額田王も亦天武天皇の御ゆかりの人なれば、古を思ひ出でたまふよすがともあらむとて贈られしならむ。
 
(90)額田王奉和歌一首
 
○奉和歌 「コタヘマツレルウタ」とよむべし。但し、「和」を「コタフ」とよむは唱和の和にして應答の答にあらず。
○ 元暦本金澤本西本願寺本その他に「一首」の下に、「從倭京進入」と注せり。從ふべきなり。之によれば、額田王は行幸に供奉せず、都に止まりまししなり。かくて倭京にて上の御歌を受け、それに和して、この歌を吉野宮なる皇子の許に奉られしなり。
 
112 古爾《イニシヘニ》、戀良武鳥者《コフラムトリハ》、霍公鳥《ホトトギス》、蓋哉鳴之《ケダシヤナキシ》、吾戀流其騰《ワガコフルゴト》。
 
○古爾戀良武鳥者 「イニシヘニコフラムトリハ」とよむ。童蒙抄はここをも「ムカシカクワフラムトリハ」とよみたれど從ひ離し。「ラム」は終止形を受けて現實の推量をあらはす複語尾。君が古に戀ふる鳥かもとのたまひしその鳥、即ちその古に戀ふるならむとわが君の言をききて、推量するその鳥はといふ義なり。
○霍公鳥 「ホトトギス」とよむ。霍公鳥の字面その出典を知らず。或は郭公鳥を書きかへたるものなるべく、その郭公鳥は本來その鳴聲をとりて名づけしものにして、形は「ほととぎす」には酷似すれど、別なる鳥なり、されど本邦にては古くよりこの字を「ほととぎす」にてあてたり。本集卷十七に「思霍公鳥歌」と題して三首ある歌いづれも、「保登等藝須」をよめり、以て證とすべし。(91)さてこの「ほととぎす」は上の語と下の語とに各別なる關係を以て兩屬せる語にして、上に對しては「ほととぎす」ならむの意をなして、賓格兼述格の位地に立ち、下に對してはその「ほととぎす」はの意をなして主格の地位に立てり。
○蓋哉鳴之 古來「ケダシヤナキシ」とよめり。童蒙抄には「アカスヤ」とよみたれど、その理由なし。從ふべからず。「けだし」は「若し」といふに似て疑ひ推測する意の副詞なり。新撰字鏡に「儻設也若也※[人偏+周]也太止比又介太志」とあり。本集卷十五「三七二五」に「和我世故之氣太之麻可良婆思朗多部乃蘇低乎布良左禰《ワガセコガケダシマカラバシロタヘノソデヲフラサネ》」又卷十八「四〇四三」に「安須能比能敷勢能宇良末能布治奈美爾氣太之伎奈可須知良之底牟可母《アスノヒノフセノウラマノフヂナミニケダシキナカスチラシテムカモ》」とあり。さて「ヤ」は疑の助詞にして、これが係となりてあるが故に下を「ナキシ」と結べるなり。
○吾戀流其騰 古來「ワガコフルゴト」とよみ來れり。「其」字又「基」(金澤本)「碁」(神田本)に作れるあり。いづれにしても「ゴ」とよむに差支なし。「戀」字元暦本、金澤本等には「念」字をかけり。これによらば「ワガオモフゴト」とよむべきなり。いづれも意通らずといふことなければいづれをよしと定め難し。今は流布本に從ふ。「ごと」は「如く」の語幹にして古くはかく用ゐしこと少からず。
○一首の意 この歌上にいひし如く、「ほととぎす」が上下に兩屬し、これを中心として二段落をなせる歌なり。即ち、「古に戀ふらむ鳥はほととぎす」にて一段落をなす。その意は君が古に戀ふる鳥と仰せられし鳥は定めてほととぎすにて候ふべしとなり。次に「ほととぎすけだしやなきしわがこふるごと」を第二段落とす。その意はその霍公鳥は恐らくは私が古昔を戀ふる如(92)くに鳴きしならむとなり。かくいひてわれもその鳥の如くに古を戀ひ奉りて都に泣き居るよといふ意をあらはせるなり。
 
從2吉野1折2取蘿生松柯1遣時額田王奉入歌一首
 
○蘿生松柯 「蘿」は和名抄に「松蘿一名女蘿【和名萬豆乃古介一名佐流乎加世】とある植物にして、今も「さるをがせ」又「さがりごけ」といひて深山の松杉などの樹技にかかりて長く垂れてあり。ここにては、松に對していへるなれば、ただ「こけ」とのみよむべし。「生」は「ムセル」とよむべし。本卷、下「二二八」に「子松之末爾蘿生滿代爾《コマツガウレニコケムスマデニ》」とあるその例なり、「柯」は玉篇に「音哥、枝也又斧柄」と見えたり。「松柯」は「まつがえ」とよむべし。
○遣時 「遣」字元暦本、金澤本等多くの古寫本に「遺」に作れり。さては「遣」字を正しとすべきに似たれど、いづれにてもあるべし。「遺」字ならば、贈遺の義なれば、「オクレル」とよむべく「遣」字ならは「ツカハセル」とよむべし。さてこの松枝を贈れる人は誰なるか、明記なしといへども上の歌のつづきによりて弓削皇子なるべく思はる。
○奉入歌 「タテマツレルウタ」とよむべし。考に「イレマツル」とよみたり。されど、この「入」字は尊敬の意をあらはす爲に添へてかけるなり。延喜式、祝詞に「齋内親王參入時」その他參入進入など古書にその用例多し。吉野より弓削皇子が蘿むせる松枝をめづらしとて贈られたるにつきて額田王の奉りし歌なり。
 
(93)113 三芳野乃《ミヨシヌノ》、玉松之枝者《タママツガエハ》、波思吉香聞《ハシキカモ》、君之御言乎《キミガミコトヲ》、持而加欲波久《モチテカヨハク》。
 
○三吉野乃 卷一にいへり。
○玉枝之技者 「タママツガエハ」とよむ。「玉」は美稱に止まりて深き意あるにあらず。本居宣長は玉勝間十三卷に於いて、萬葉集に「玉」とあるは「山」の誤なること多しといひて、この「玉松」も「山松」の誤なりとし、「玉松」とかけるはこの一のみにして、しかも、玉松といふことはあることなしといひたり。されどこれは岸本の攷證にも既にいへる如く、ただ一所のみなりといひて誤りとせば、古書の貴重なる例證などすべてとられぬ事ならむ。「玉」を美稱として物名に冠することは古の風にして植物の名に冠せる例は「玉葛」(卷三以下)「玉藻」(卷一以下)その他後のものには玉篠、玉椿、玉柳、玉柏、玉藤などいへること頗る多し。(本居翁自身の著述には玉の小櫛、玉の小琴、玉の緒、玉勝間、玉あられど、玉を好みて用ゐし人のかかる説あるは奇なりといふべし。)「玉松の〔右○〕枝」といはずして「玉松が〔右○〕枝」とよむは、この頃に「松が〔右○〕枝」といふが普通のいひ方なりしが故なり。その證假名書なるは卷二十「四四三九」に「麻都我延乃都知爾都久麻※[泥/土]《マツガエノツチニツクマデ》」とあるにて知るべし。
○波思吉香聞 「ハシキカモ」とよむ。「ハシ」は愛すべき意をいふ古き形容詞にして、その假名書の例は卷三「四七四」に「波之吉佐寶山《ハシキサホヤマ》」又「四七九」に「波之吉可聞皇子之命乃安里我欲比《ハシキカモミコノミコトノアリガヨヒ》云々」卷十八「四一三四」に「波之伎故毛我母《ハシキコモガモ》」卷十九「四一八九」に「波之伎和我勢故《ハシキワガセコ》」卷二十「四三三一」に「波之伎都麻良者《ハシキツマラハ》」「四三九七」に「波之伎多我都麻《ハシキタガツマ》」などあり。この卷「二二〇」に「愛伎妻等者《ハシキツマラハ》」とかけるも「ハシキツマ(94)ラハ」とよむべきなり。「香聞」は「カモ」にして感動の助詞なり。
○君之御言乎 「キキミガミコトヲ」とよむ。御言は御ことばといふ事なるが、ここは恐らくは御文をさせるならむ。古は文歌などを木の枝などに結びつけて贈答せしなり。
○持而加欲波久 「モチテカヨハク」とよむ。「モチテ」は上にいへる如く、松の枝に文歌などの結びつけられてあるをば松がみづから持ち來れる由にいひなせるなり。「カヨハク」の「ク」の「事」の意の古言なるべく、「通ハク」はここにては「通ふことよ」といふほどの意なるべし。「通ふ」は往き來することをいふなり。
○一首の意 この吉野の玉松の枝はさるをがせなど生ひて面白きものなるが、さても愛すべきものなるかな。さるは、そのさまの面白きのみにあらず君が御言を持ちてここに通ひ來れることの故に一層愛すべく思はるとなり。これは松枝がわが君の御言を持ちてはる/”\ここに通ひ來しことよといひて、贈り賜ひし君の好意を謝する意をわざと松にかこつけていへるなり。
 
但馬皇女在2高市皇子宮1時思2穗積皇子1御歌一首
 
○但馬皇女 天武天皇の皇女にして、御母は藤原鎌足の女氷上娘なること、日本紀天武天皇二年の紀に見ゆ。續紀に、「和銅元年六月丙戌三品但馬内親王薨天武天皇之皇女也」と見ゆる但馬内親王これなり。
(95)○在高市皇子宮時 高市皇子は天武天皇の皇子にして御母は※[匈/月]形君徳善が女尼子娘なること日本紀天武天皇二年の紀に見ゆ。されば、この皇女とこの皇子とは異母兄弟にてましますなり。さて高市皇子はこの持統天皇の朝四年に太政大臣となり、十年七月に薨じたまひぬ。日本紀天武二年紀には「高市皇子命」と記し、又同紀持統十年紀にこの皇子薨去の條には「後皇子尊薨」と記し、又懷風藻なる葛野王の傳中に、「高市皇子死後皇太后引2王公卿士於禁中1謀v立1日嗣1」とあるより推せば、草壁皇太子の薨後、皇太子としておはせしものと見えたるが、史にその立太子の事を佚せるものと見えたり。さて但馬皇女が高市皇子の宮におはせしはただにおはせしにあらで、妃としてましますべき爲なりしなるべし。古は異母兄妹の婚を認めたり。
○思穗積皇子御歌 穗積皇子は天武天皇の第五皇子にして御母は蘇我赤兄大臣の女大〓娘なり。この皇子は續日本紀によれば、靈龜元年正月に一品に叙せられ、同七月に薨ぜられしなり。「御歌」の字元暦本、金澤本等には「御作歌」に作り、目録にも「作」字を加へたり。さてこの御歌はただに思ひ慕へるにあらで、竊に心を通したまひし趣に思はる。
 
114 秋田之《アキノタノ》、穗向乃所縁《ホムキノヨレル》、異所縁《カタヨリニ》、君爾因奈名《キミニヨリナナ》、事痛有登母《コチタカリトモ》。
 
○秋田之 「アキノタノ」とよむ。秋の實れる田をさす。
○穗向乃 舊本「ホムケノ」とよみたり。契沖は「ホムキノ」とよむべきかといひ、童蒙抄は「ホナミノ」とよめり。これは既に契沖が傍證とせる卷十七「三九四三」に「秋田之穗牟伎見我底利《アキノタノホムキミガテリ》」の例によ(96)りて「ホムキ」とよむをよしとす。「ほむき」は稻穗の熱するにしたがひて一方に靡きより傾くことをいへるなり。
○所縁 舊本「ヨスル」とよめるを契沖は「ヨレル」と改むべきかといひ、上を「ヨレル」とよみ、下を「カタヨリニ」とよめば上下打合ふ由にいへり、「縁」は元來「ヨル」とよむべき字にして「所」は「ル」の假名にあてたるものにして、その穗向はおのづからに、穗の片方によるものなれば、「ヨスル」とよむべきことにあらねば「ヨレル」とよむ方に從ふべし。
○異所縁 舊訓「カタヨリニ」とよめり。童蒙抄は「異」を「コト」とよみて「如」の意とし「所縁」を「ヨリシ」とよみたり。按ずるに卷十「二二四七」に「秋田之穗向之所依片縁吾者物念都連無物乎《アキノタノホムキノヨレルカタヨリニワレハモノモフツレナキモノヲ》」といふありて、上三句全く同じと思はれたれば、それによりて、舊説に從ふをよしとす。但し「異所縁」を「カタヨリ」とよむことは攷證にいへる如く義訓たるに相違なけれど、その樣は未だ明かならず。「カタヨリ」とは片方に一向になびくことを「カタヨル」といふを體言にしていへるなり。上三句の意は秋田の實れる稻穗の穗向の片よりて靡くが如くの意にして、下の句を導く爲の料なり。
○君爾因奈名 「キミニヨリナナ」とよむ。古義には「ヨラナナ」といふ或人の説ありといへるが、それは古義も既にいへる如く、從ふべからず。「ヨラナ」といへば、「ナ」は既に終止すべき助詞にして、その下に再び「ナ」あるべきにあらず。「ヨリナナ」の末の「ナ」は卷二の最初の歌にある「キカナ」などの「ナ」と同じく用言の未然形を受けて冀ふ意をあらはす助詞にしてここにては自らの希望をいふに用ゐたるなり。而してその上の「ナ」は「な、に、ぬ、ぬる、ぬれ、ね」と活用する完了決定又は確め(97)の複語尾の未然形にして、その「な」の複語尾は、用言の連用形に屬するものなれば、「ヨリナナ」といふべきものたるなり。さてこの「なな」は中世以後の詞にては「よりなばや」といふに似たる語なり。さてこの上の「な」は確めの意あるものなれば、「よりなな」は「必ず依り從はむと思ふ」といふ程の意なり。君は穗積皇子をさす。
○事痛有登母 舊訓「コチタカリトモ」とよめり。童蒙抄に「コチタクアリトモ」とすべしといへり。いづれにてもよかることなれば、舊訓を改むるに及ばざらむ。「コチタク」は「コトイクク」の約なるが、「コトイタク」は「言|甚《イタ》ク」にして甚く言ひ騷ぐさまをいふ。これを約めて「コチタク」といへる例の假名書にせるものは本集には見えねど、下なる同じ人の歌(一一六)に「人事乎繁美許知痛美《ヒトゴトヲシケミコチタミ》」とあるに照してかくよまむことの無理ならぬを思ふべし。なほ「こちたく」は下にいふべし。この一句は反轉法によれるものにして、文理のままならば、最も上にあるべきなり。
○一首の意 秋の田の熟れる稻穗の一方に片より靡く如く、われも一向に君のみを頼み奉らむ。たとひ人言がいかにうるさくやかましく、世間の人が彼是といひ騷ぐとも。われはそれらを顧みることなくひたすらに君に心をよせ奉るとなり。
 
勅2穗積皇子1遣〔左○〕2近江志賀山寺1時但馬皇女御作歌一首
 
○遣2近江志賀山寺1時 「遣」字流布本「遺」に作れるが、そは誤寫にして、元暦本、金澤本、京都大學本其他多くの古寫本并に目録に「遣」につくれるをよしとす。志賀山寺は續日本紀卷二に大寶元年八(98)月「甲辰太政官處分近江國志我山寺封云々」と見え又卷十三、天平十二月「乙丑幸2志賀山寺1禮v佛」とも見えたり。この寺は天智天皇の建立にして、志我山に建てられしよりの名なるが、本名を崇福寺といひ大寺として古に名高かりしが、後に遷して園城寺に合せたり。その遺趾は見世村(今南滋賀村)の邊にありといふ。中世の歌に志我山越といへるも白川よりこの寺に詣づる道なりしなり。さてこの皇子をこの寺に遣されしこと史にのせず、その理由も知りがたきことなり。考に「左右の御歌どもを思ふに、かりそめに遣さるる事にはあらじ。右の事顯れたるに依て此寺へうつして法師に爲給はんとにやあらん。」といへり。されど必ずしもかく斷ずべからず。攷證には「造立の事か、またはさるべき法會などありて勅使に遣はされしなるべし。」といへり。これも亦證なきことなれど或はこの方ならむ。
 
115 遺居而《オクレヰテ》、戀管不有者《コヒツツアラズハ》、追及武《オヒシカム》。道之阿回爾《ミチノクマミニ》、標結吾勢《シメユヘワガセ》。
 
○遺居而 古來「オクレヰテ」とよめるを童蒙抄に「ノコリ」とよめり。されど、古來の訓に從ふべし。「遺」は通例「ノコル」と「オクル」ともよむなり。これを「オクル」の義にとることは古言に旅などに行く人に對してあとに遺りて居ることを「オクル」といへばなり。その例は卷第九「一七七二」に「於久禮居而吾波也將戀《オクレヰテワレハヤコヒム》」卷十七「四〇〇八」に「無良等理能安佐太知伊奈婆於久禮多流阿禮也可奈之伎《ムラトリノアサタチイナバオクレタルアレヤカナシキ》」とあるが如きこれなり。
○戀管不有者 「コヒツツアラズハ」とよむ。「戀ひつつ居らずしてそれよりは」の意なり。かかる(99)際の「ズハ」の意は既にこの卷「八六」の下にいへり。
○追及武 舊訓「オヒユカム」とあり。契沖が、「及」字をば、日本紀及び本集に「シク」とよめるによりて「オヒシカム」とよむべしといへるに從ふべし。その「シク」は及ぶ意なり。古事記上巻に「亦云2其追斯伎斯1【此三字以音」而號2道敷大神1」と見え、又同仁徳卷に「夜麻斯呂邇伊斯祁登里夜麻《ヤマシロニイシケトリヤマ》、伊斯祁伊斯祁阿賀波斯豆摩邇伊斯岐阿波牟迦母《イシケイシケアガハシヅマニイシキアハムカモ》」とあり。この「イシク」の「イ」は所謂發語にしてその「シク」はこの「及」字にあたれり。この「オヒシカム」は今の語にては「オヒツカム」にあたる。以上第三句までにて一段落なり。
○道之阿回爾 「回」を元暦本、金澤本、京都大學本等に「廻」の體につくれるも意はかはらず。さてこれを舊訓「ミチノクマワニjとよめるを攷證に「クマミニ」とよむべしといひ、卷五「八八六」の「道乃久麻尾爾《ミチノクマミニ》」とあるを證とせり。回を「ミ」とよむことは巻一「四二」の「荒島回乎《アラキシマミヲ》」の下に述べおきたれば往きて見るべし。「阿」は玉篇に「曲也」又「水岸也」と注せるによりて「クマ」の義あるを知るべし。「クマミ」にて結局隈々といふに同じかるべし。
○標結吾勢 「シメユヘワガセ」とよむ。「シメユフ」といふ語は本卷「一五一」に「大御船泊之登萬里人標結麻思乎《オホミフネハテシトマリニシメユハマシヲ》」「一五四」に「爲誰可山爾標結《タガタメカヤマニシメユフ》」卷三「四〇一」に「其山爾標結立而《ソノヤマニシメユヒタテテ》」などあり。「シメ」には後世いふ「シメナハ」の意もあれど、ここはしるしをいへるにて、「標」の字の義よくあたれり。その意の「しめ」の假名書の例は卷十八「四〇九六」に「大伴能等保追可牟於夜能於久都奇波之流久之米多底比等能之流倍久《オホトモノトホツカムオヤノオクツキハシルクシメタテヒトノシルベク》」とあり。さてこの「シメ」は路しるべのしるしをいへるにて「シメユフ」とはその(200)道しるべのしるしをば道の曲り所、又は分れ路などの木などに結びおきてその道の行く手を後に來る人に知らしむるにて、世にいふ「しをり」といふにおなじ。その「シメ」をゆひおきてわが追ひ行かむに道のまがはぬやうに示しおきたまへとなり。「わがせ」はよびかけて宣へるなり。「せ」は女より男をよびていふ語なり。
○−首の意 君におくれてゐて戀ひつつ苦みてあらむよりは一層のことわれは君のあとを追つかけて追ひつき奉らむ。さらむが爲には道の迷ひぬべき所々にしるしを結びおきてわれに知らしめたまへ、わがせの君よとなり。この歌は二段落にして三句切れの歌なり。然るに、萬葉集に三句切の歌あるべからずとして、強ひておひしかむ道とつづく意に説ける人あり。強ひ言といふべきのみならず、かくてはこひつつあらむよりは「標結へ」といふ意になりて、歌の意全く通らずなるべきなり。從ふべからず。
 
但馬皇女在2高市皇子宮1時竊接2穗積皇子1事既形而御作歌一首
 
○但馬皇女在2高市皇子宮1時 上にいへり。
○竊接2穗積皇子1事 「竊接」は「ヒソカニミアヒマシシコト」とよむべし。「接」は説文に「交也」廣韻に「合也」「會也」とあり。
○既形而 代匠記にこの下に「後」字脱すとせり。目録には「後」字あり。按ずるにこの字あるをよしとす。形」は「アラハルル」なり。大學に「此謂d誠2於中1形〔右○〕c於外u」とある、その例なり。
 
(101)116 人事乎《ヒトコトヲ》、繁美許知痛美《シゲミコチタミ》、己(母)世爾《オノガヨニ》、未渡《イマダワタラヌ》、朝川渡《アサカハワタル》。
 
○人事乎 「ヒトゴトヲ」とよむ。人言の義にて人のいひ騷ぐをいふ。卷十四「三四六四」に「比登其等乃之氣吉爾余里※[氏/一]《ヒトゴトノシゲキニヨリテ》」「三五五六」に「佐宿都禮婆比登其騰思氣志《サネツレバヒトゴトシゲシ》」とあり。
○繁美許知痛美 「シゲミコチタミ」とよむ。卷十二「二八九五」に「人言乎繁三言痛三我妹子二去月從未相可母《ヒトゴトヲシゲミコチタミワギモコニイニシツキヨリイマダアハヌカモ》」といふ歌あり。似たる趣の歌なり。これは「人言をしげみ」「人言をこちたみ」といふべきを重ね略したるなり。しげみは「繁く思ひ」にして「こちたみ」は「こちたく思ひ」なり。「しげく」は頻繁にいはるるをいふ。。「こちたく」は上にいへる如く「こといたく」の約まれるものにしてこの語の假名の例は未だ集中に見えず。卷七「一三四三」に「事痛者左右將爲乎《コチタクバカモカモセムヲ》」又卷七「二三二二」に「甚毛不零雪故言多毛天三空者隱相管《ハナハダモフラヌユキユヱコチタクモアマノミソラハクモリアヒツツ》」を「こちくは」「こちたくも」とよみたるなど同じ言の例とすべし。「こちたく」の「こと」は言にして、「いたく」は「甚く」の義なり。かくてもとはことにうるさくいはるる義なるべきが、言に限らずうるさき状をいふに用ゐたりと見ゆ。されば本集卷十二「二九三八」に「人言乎繁三毛人髪三我兄子乎目者雖見相因毛無《ヒトゴトヲシゲミコチタミワカセコヲメニハミレドモアフヨシモナシ》」に「毛人髪三」を「こちたみ」に用ゐたるもその義によれりと見ゆ。「毛人」は蝦夷人にしてその毛深きによりてかく古よりいへるが、その毛人の髪の多くて、みるからにこちたくありしより「毛人の髪」を「こちたし」と感じたるまま形容詞に借り用ゐしならむ。さて「人言をしげみ、こちたみ」は「人にしげくうるさくいひさわがるるによりて」の意なり。
(102)○己母世爾 舊本「オノカヨニ」とよめり。然れどもこのままにてしかはよみ難きなり。契沖は「イモセニ」とよみたれど意通ぜず。考には「オノモヨニ」とよみ長々と説を立てたれど、要するに解すべからず。ここに於いて誤字説起り、略解は「母」は「我」の誤にて「オノガヨニ」ならむといひ、宣長は「爾」は「川」「河」又は「水」の誤にして「イモセガハ」ならむといひ、守部は「母」は「介」の誤にしてその下に「流」を脱せるにて「己介流世《イケルヨ》二」ならむとし、古義には「己母」は「生有」の誤にして同じく「イケルヨニ」と訓めり。しかれども、かく二三字までも改めて己がよみに從はしめむとするは古書を取扱ふ態度としては最も忌むべきわざなり。或は字のまま「オノモヨニ」とよむこと攷證の如くすべきか、「オノモ」とはいはれざるべきにあらねど、未だ例を知らねば決し難し。按ずるに、元暦本、類聚古集、古葉略類聚鈔、神田本、西本願寺本、等には「母」字なきなり。この字なしとせば、舊訓のままにてよきなり。されば、今姑くこれに從ふ。さて「世」とは人の生ける間をいふ。「竹のよ」とは節間をいふ如く人の生れ出でてより死ぬるまでの間を「よ」とはいふなり。ここの「己が世」とは己がこの世に生れ出てより今までの間をいへるなり。
○未渡 「イマダワタラヌ」とよむ。「未だ渡りしことなかりし」の意なり。「渡る」は河を渡るをいへるものなるが、男女の逢ふ瀬を河を渡るにたとへていへること古に多し。本集卷四「六四三」に「世間之《ヨノナカノ》、女爾思有者《ヲミナニシアラバ》、吾渡痛背乃河乎渡金目八《ワガワタルアナセノカハヲワタリカネメヤ》」
○朝川渡 「アサカハワタル」とよむ。「朝川渡る」は川を朝渡るをいふ。語の例は卷一「三六」に「船並※[氏/一]旦川渡舟競夕河渡《フネナメテアサカハワタリフナギホヒユフカハワタル》」卷三「四六〇」に「佐保河乎朝川渡春日野乎背向爾見乍《サホガハヲアサカハワタリカスガヌヲソガヒニミツツ》」とあるを最も適切と(103)す。これにては「朝川渡る」といふ一の熟語の如くなれり。この意を考に「事あらはれしにつけて朝明に道行給ふよし有て皇女の慣れぬわびしき事にあひたまふをのたまふか」といへるをよしとす。守部は「今日迄知らぬ世のうき瀬を渡りて潔身《ミソギ》し給ふよしなるべし」といへるが、それは例の強言なり。
○一首の意 われは此度の事によりて人にうるさくかれこれといひさわがるるによりて、自分が生れてから經驗したる事もなかりし事をして川を朝疾く徒渡したることよとなり。蓋し、一時いづれにか身をかくしたまひし折の御歌なるべし。
 
舍人皇子御歌、一首
 
○舍人皇子 即ち舍人親王にして、天武天皇の第三皇子、御母は新田部皇女なり。日本紀の撰者にして、養老四年知太政官事となり、天平七年薨ず。此皇子の御子大炊王天平寶字二年に即位あり。淳仁天皇これなり。かくて天平寶字三年六月この皇子に追號ありて崇道盡敬皇帝と稱し奉られたり。
○御歌 他の例によれば「御作歌」とありて然るべき所なれど然あらず。これによりて補へる學者あれど、かくかける本一もなく、目録にもしか見えず。されば、古よりかくありしならむ。又考にはこの上に「贈與舍人娘子」の六字を加へたり。これもしかありてよき所なれど、それも諸本に見えねば、加ふるも強事なりとす。
 
(104)117 大夫哉《マスラヲヤ》、片戀將爲跡《カタコヒセムト》、嘆友《ナゲケドモ》、鬼乃益卜雄《シコノマスラヲ》、尚戀二家里《ナホコヒニケリ》。
 
○大夫哉 「マスラヲヤ」とよむ。「大夫」を「マスラヲ」とよむことは卷一にいへり。「ヤ」は疑の係助詞にして、ここは反語を起せり。
○片戀將爲跡 「カタコヒセムト」とよめり。片戀とは獨自ら思ふのみにて對手に通ぜぬ戀をいふ。片戀の文字は本卷「一九六」卷三「三七二」卷八「一四七三」等に屡見ゆ。又卷十一「二七九六」に「獨戀耳年者經管《カタコヒノミニトシハヘニツツ》」とある「獨戀」も「カタコヒ」にしてその文字よくその意をあらはせり。又卷十二「二九三三」に「肩戀丹吾者衣戀君之光儀《カタコヒニワレハゾコフルキミガスガタヲ》」とある「肩戀」はその讀み方を示すものといふべし。さて「せむ」は上の「や」に對しての結にして、「大夫や片戀せむ」といふなる一句をなすものなるが、その意は「大丈夫たるものは相も思はぬ人を片戀すべきことかは、すべきことにあらず」といふなり。「跡は假名にして助詞「ト」をあらはせり。
○嘆友 舊本「ナゲケドモ」とよめり。然るに「ナゲクトモ」と細井本にある由なれど、然る時は下に打合はず、舊本のままにてあるべし。
○鬼乃益下雄 舊板本「シコノマスラヲ」とよめり。然れども、元暦本金澤本等に「オニノマスラヲ」とよみ、契沖また「オニノマスラヲ」をよしとせり。これはもと「オニノマスラヲ」とよみたりしを仙覺が「シコノマスラヲ」とよむべく按出せし所にして、契沖は古點にかへしたるなり。童蒙抄は又「鬼」は「思」の誤かといひて、「モヒノマスラヲ」とよめり。されど、その證を知らず。契沖は「鬼と(105)はみつから罵訓なり」といひたれど、かかる事は證なし。契沖の證とせる遊仙窟の「窮鬼《イキスタマ》故|調《アサムク》v人(ヲ)」とある「窮鬼」はわが所謂「おに」の意にあらずして、俗にいふ貧乏神にして、他を罵る語なればこれを證とするは不當なり。次に「シコ」とよむべき事は如何と考ふるに、「シコ」といふ語の假名書の例は、卷八「一五〇七」に「志許霍公鳥《シコホトトギス》」卷十「一九五一」に「慨哉四去霍公鳥《ウレタキヤシコホトトギス》」卷十三「三二七〇」に「少屋之四忌屋爾《ヲヤノシコヤニ》事」卷十七「四〇一一」に「多夫禮多流之許都於吉奈乃《タブレタルシコツオキナノ》」卷二十「四三七三」に「意冨岐美乃之許乃美多弖等《オホキミノシコノミタテト》」等あれば、かかる語ありしを見るべし。その「しこ」といふ語の義は、古事記上卷に「豫母都志許賣《ヨモツシコメ》」とかけるを日本紀卷一には「泉津醜女」と書き、その自注に「醜女此云|志許賣《シコメ》」とあり。されば「志許」といふ語は「醜」字にあたるものと思はる。然るに、ここに「鬼」字をかけるは如何。集中「鬼」字を「シコ」とよむべき所はこの外にもあり。卷四「七二七」に「萱草吾下紐爾著有跡《ワスレグサワガシタヒモニツケタレド》、鬼乃志許草事二思安利家理《シコノシコクサコトニシアリケリ》」卷十二「三〇六二」に「萱草垣毛繁森雖殖鬼乃志許草猶戀爾家理《ワスレグサカキモシミミニウヱタレドシコノシコクサナホコヒニケリ》」又卷十三「三二七〇」に「少屋之四忌屋爾《ヲヤノシコヤニ》」又「鬼之四忌手乎指易而《シコノシコテヲサシカヘテ》」などこれなり。これらは「鬼」が「シコ」とよまるべくば「シコノシコ何」と重ねていへるものといふべきなり。この「鬼」字を「シコ」とよむべしとせば、そは、醜字と相通ずるものなるべしとは何人も思ひ及ぶべき所なるが、然らば何故に通用しうるか。普通の見地にては「鬼」は「醜」の略字なりといふなり。古事記傳卷六には(本書を引いて)「これらの鬼(ノ)字を於爾と訓るは非なり。こは醜(ノ)字の偏を略《ハブケ》るか又醜女の意を得て鬼とは書かいづれにまれ、志許なり。」といへり。按ずるに醜を略して鬼とせる例はいまだ知らねば、「醜女」の意にて鬼を用ゐしならむ。和名抄に「日本紀私記云醜女【志古女】或説黄泉之鬼也」とあり。日本紀通證(106)には神代記の醜女を注せるうちに「欽明紀魃鬼訓2志古女1則鬼之爲2醜女1可2以知1也」といへり。されば今いふ「オニ」といふことは古語「シコメ」なりしこと著し。今の「オニ」といふ語は元來漢語の「隱《オニ》」の音より出でしことは和名抄に「鬼」に注して「和名於邇或説云於邇者隱音之訛也」といへるにて明かなり。されば、「オニ」といふ語この頃既にありとしても、元來は漢語なるなれば「鬼」字即ち古語「シコメ」といひしなるべきが、それを「醜女」とかけるは醜に「シコ」の義ありて、その「メ」は「女」の義としてあてしならむが、「シコメ」といふ本語に女の義ありしか如何は疑はしけれど「醜女」とかけるによりて女性のものたるやうに思はれ易く、かくて「シコメ」即ち「女鬼」なるやうに思はる可ければ、女性ならぬ「シコメ」は「鬼」とかくやうにもなりしならむ。かくて「鬼」は「シコ」にあたるものといふやうになりしならむ。かくてその「シコ」の「鬼」字をばここにいふ「醜」字の義の「シコ」に假り用ゐしならむ。日本紀孝徳卷大化四年條に「高田醜【此云之渠】」とあるをも思ふべし。さてその「シコ」の本義をあらはす「醜」字に「ミニクシ」と普通に訓ずるは玉篇に「貌惡也」とあるに一致すれど、説文には單に「可v惡也」とあれば、必ずしも貌にかけてのみいふ語にあらざるなり。かくて國語の「シコ」はその「可v惡」の意にて、他に對しては物を罵りていふ語となり、自らに對しては或は自ら卑下し或は自ら嘲りていふ語となれりと思し。(諸注に自ら卑下する意と專らにいへるは不十分なり。)さてここは自ら嘲りていへることは明かなり。この「しこ」の用法を上の諸例にていへば、卷八卷十の「シコホトトギス」卷十七の「シコツオキナ」卷四卷十二の「シコノシコ草」は他を罵りていへる例にして、卷二十の「シコのミタテ」は自ら卑下していへるもの、この歌及び、卷十三の「ヲ(107)ヤノシコ屋」「シコノシコ手」は自ら嘲けれるものといふべし。[益卜雄」は「益卜」を「マスラ」(「正卜」の義)とよむによりて「雄」を加へて「ますらを」にあてたるなり。
○尚戀二家里 「ナホコヒニケリ」とよむ。「なほ」は「やはり」の意なり。
○一首の意 大丈夫たるものは、片戀などすべき事かはと自ら勵ませども、やはり片戀に戀にてあることよ。ああ、われは眞の丈夫にあらずしてしこのますらをなるよとなり。この御歌の片戀の相手たる戀人は歌には明かならねど、次の和歌によりて舍人娘子にありけりと知らる。しかも、これは片戀を嘆き給ふ由に宣ひ、又自ら嘲りて「しこ」のますらをとは宣へども、内實はその娘子の心を引き試みむ料によみたまへるなりけり。
 
舍人娘子奉和歌一首
 
○舍人娘子 この女の歌は卷一にもあり。事蹟はそこにいへり。舍人皇子の御名を以て按ずるに皇子の乳母即ち舍人氏にして、その女この娘子なるべければ、俗に所謂乳兄弟なりしが故に親しみもまししならむ。
○奉和歌一首 上にいへると同じ。
 
118 歎管《ナゲキツツ》、大夫之《マスラヲノコノ》、戀禮許曾《コフレコソ》、吾髪結乃《ワガモトユヒノ》、漬而奴禮計禮《ヒヂテヌレケレ》。
 
○歎管 「ナゲキツツ」とよむ。語勢は下の「戀禮」につづくなり。
(108)○大夫之 舊訓「マスラヲノコノ」とよめり。「ますらをのこ」とは異なる訓み方なる如くなれどかくよむべき例集中に少しくあり。卷九「一八〇一」に「古之益荒丁子各競《イニシヘノマスラヲノコノアヒキホヒ」とある「益荒」は「ますら」「丁子」は「をのこ」なるを以て「マスラヲノコノ」とよむべきなり。
○戀禮許曾 舊本「戀亂許曾」とあり。しかも「コフレコソ」とよめるは「亂」を「禮」の誤字なりと認めたるによる。古寫本につきていへば、金澤本、西本願寺本、大矢本京都大學本に「禮」をかけり。これによりて「亂」は「禮」の誤なりと認むべし。元暦本には上の句とこの句とにて「ますらをのかくわふれこそ」とよめり。されど「かく」といふ語をあらはせる文字なし。又古寫本中には「戀亂」にして「コヒミダレ」と旁訓せるもあれど、かくては「コソ」の處分に窮すべし。契沖はこの二句をば「マスラヲノコヒ、ミダレコソ」とよむべき由いへり。これ「マスラヲノコ」といふ語を無理なりとしての案なれば、傾聽すべき説なれど、既に「マスラヲノコ」といふ語の例證あり、又「亂」は「禮」の誤寫なるべき證あれば、普通の説に從ふを穩かなりとす。さてこの「コフレ」は已然形にしてここは下の句に對して條件を示すものなるが、かかる場合に今ならば、接續助詞「ば」を添ふべきにこれを添へざるは古語の一格なり。而してその條件と下の句との結合、はた思想上の強度を支配する爲にその已然形の下に係助詞「ぞ」「こそ」等を添ふることも亦古語の一格なり。この事は既に卷一藤原宮役民の歌の條にいへり。
○吾髪結乃 舊訓「ワガユフカミノ」とよめり。古寫本には或は「ワガモトユヒノ」とよめるもあり。この歌を古今六帖に引けるには「ワカモトユヒノ」とよめり。「髪結」は「ユフカミ」とよまるべき語(109)にあらず。童蒙抄は「結髪」の誤として「ユフカミ」とよませたり、されどこはなほ文字のままに「カミユヒ」とよむか、若くは契沖のいへる如く六帖の訓に從ひて「モトユヒ」とよむべきなり。「モトユヒ」とは髪の本即ち髻《モトドリ》を結ふといふ義より出でたる語にして和名抄に「※[髪の友が會]【音活和名毛度由比】以v組束v髪也」」とあり。「束髪」を日本流にかけば「髪結」ともなるべければ、之を「モトユヒ」とよまむも無理にはあらじ。「もとゆひ」は今「もとひ」といふ。髪を結ぶべき料の絲にして昔は紫色の組絲を用ゐしなり。古今集戀四に「君こずばねやへもいらじ、こむらさき〔五字右○〕わがもとゆひ〔四字傍点〕に霜はおくとも」とあり。「もとゆひ」は正しくは「髻結」とかくべきなり。延喜式の神宮式の大神宮装束のうちに「髻結紫絲八條【長五尺】とあり。さればここをも「髻結」とかくべきを誤れるなれば、「髪」を「髻」と改むべしといふ説もある由なれど、必ずしも改むるに及ばず。さて「モトユヒ」は又「本結」ともかけり。延暦の皇太神宮儀式帳には荒祭宮、月讀宮の装束中には「紫本結」と見え、瀧原宮の装束には「紫本結糸」と見え、瀧原並宮、伊雜宮の装束には「紫御本結糸」と見ゆ。これらによりて古「もとゆひ」が紫の組絲なりしを思ふべし。近き頃までも絲の元結は紫を用ゐたり。さてこの「もとゆひ」を延暦の皇太神宮儀式帳なる大神宮の御装束物中には「御加美結紫八條【長條別三尺】」とかけり。これによれば、「カミユヒ」ともいひしなり。されば、ここをも、文字のままに「カミユヒ」といひて、本結と同じ意を示したりしならむとも考へらる。然れどもその用例のなほ他に存するを發見するまでは通説に從ふを穩かなりとす。さてこの「もとゆひ」を釋して「髪を結ふべき料の絲なるが、やがて髻《モトドリ》の事ともなれる也」といひて、直ちに髪をさせりとやうにいふ説(契沖古義など)もあれど、し(110)か用ゐたる例を知らず。されば、ここはなほ字のままに、實際の「モトユヒ」をさせりとすべし。
○漬而奴禮計禮 「ヒヂテヌレケレ」とよめり。「ヒヂ」は上二段活用にして漬りぬるる意をあらはす動詞なるが集中假名書のものを見ず。古今集以下には例多し。この語は「ひづち」とは別の語なるを諸家混同して説けるは無用の事なり。「奴禮」は下二段活用の動詞にして普通には今いはゆる「濡るる」意の語なるが、ここには上に「ひぢて」といひたれば重言なるに似たり。按ずるにこの語は下の歌に「多氣婆奴禮多香根者長寸妹之髪《タケバヌレタカネバナガキイモガカミ》」(一二三)といふあり。又卷十四「三三七八」に「伊波爲都良比可婆奴流奴流《イハヰツラヒカバヌルヌル》」同卷「三四一六」に「伊波爲都良比可婆奴禮都追《イハヰツラヒカバヌレツツ》」などあると同じ趣の語なりと見ゆ。これにつきて考には「さてここにあぶらづきてぬる/\」としたる髪をいふ。ぬれとはたがねゆひたる髪のおのづからぬる/\ととけさがりたるをいふ。此下に多氣婆奴禮とよめる是也」といへり。新考には「膏づかば髪は却りてとけさがらざるべし。されば、古義にいへる如くヒチテヌレケレはただぬるる事にて云々」といへり。されど、ただ「ぬるる」事とせば、ここにてはあたらざるにあらねど、「たけばぬれ」にはあたらず、況んや「いはひづら」の引かは「ぬるぬる」といふには全く當らず。加之、全く今の「ぬるる」と同義とせば、「ひぢて」と同義たれば重言たるべし。重言はこの集に全くなしとはいはねど、歌としては拙なりといふべきに至らむ。按ずるにこの「ぬれ」も上述のその他の「ぬる」も同一の語にして本義は今「ぬるぬるすること」をいふ動詞なりしならむ。即ちその水分を多く含みたる意は本義にあらずして、ただ粘り滑るやうの義をあらはしたるにあらざるか。而して今「ぬるぬる」するといふもこの動詞の終止形を(111)重ねていへるにて、「ひぢてぬれけれ」は今の語にていひてば「ぬれて(ヒヂテ)ぬらぬらする(ぬれけれ)」といふ如き意なりしならむ。その他の語もしか説くべきならむ。かくて今の「ぬる」といふ語はその本義より一歩轉じ、水分を多く含みたるものは多くぬらぬらするより「ぬる」即ちその義となりしならむ。かくてここはその本義の方を用ゐたるならむ。さて又かく本結のひぢてぬるるにつきては、考に「且鼻ひ紐解などいへる類ひにて人に戀らるれば、吾髪の綰の解るてふ諺の有てよめるならん」といへり。今はこの綰の解くといふ説に從ひ難けれど、その趣は同じく本結のぬれてぬらぬらすることあるは人に戀ひられたるしるしなる由の諺のありしによりてかくよめるなるべし。末の「けれ」は上の「コソ」に對する結なり。
○一首の意 わが元結の濡れたるは何故ぞと思ひてあれば、大夫とます我が君が歎きつつ戀ひたまひつればにこそありけれとなり。
 
弓削皇子思2紀皇女1御歌四首
 
○弓削皇子 上にいへり。
○思2紀皇女1御軟 紀皇女は天武天皇の皇女にして御母は穗積皇子に同じくて妹にますこと日本紀に見えたり。されば、弓削皇子と異母の兄弟にましませり。考には「御歌」の「御」の下に「作」字あるべしとして補へり。されど目録もここの如くなれば、古よりなかりしならむ。
 
(112)119 芳野河《ヨシヌカハ》、逝瀕之早見《ユクセノハヤミ》、須臾毛《シマシクモ》、不通事無《ヨドムコトナク》、有巨勢濃香毛《アリコセヌカモ》。
 
○芳野河 「ヨシヌガハ」今の吉野川なり。
○逝瀬之早見 舊訓「ユクセノハヤミ」とよめり。然るに金澤本には「ユクセヲハヤミ」とよみ、守部も亦しかよみ、「之」は「乎」の誤なりとせり。然れども、諸本いづれも「之」にして異なる本なければ誤字説は從ふべからず。古義は「見」字なき本によらば「ハヤク」と訓すべしといへり、その「見」字なきは古葉略類聚鈔のみなれば必しも從ふべからず。さらばよみ方はいかにすべきかといふに「の……(形容詞の語幹)み」といふ形のいひ方なくば、このよみ方無理なりともいふべきが、卷十五「三六四六」「風波夜美於伎都美宇良爾夜杼里須流可毛《カセハヤミオキツミウラニヤドリスルカモ》」など、「を」を必ずしも要するものにあらねばこのまゝにてよかるべし。さて「逝」は説文に「往也」といひて「ゆく」の訓あり。「ゆく」は流れゆくなり。「はやみ」は體言にとりなしていへれば、流れ行く川瀬の水の早きさまをいへるなり。以上二句は次に對する譬喩なり。されば「…の如く」と釋すべし。
○須臾毛 舊訓「シハラクモ」とよめり 略解には「しましくも」とよみ、攷證は「シマラクモ」ともよめり。「シマシク」といふ例は本集卷十五「三六〇一」に「之麻思久母比等利安里宇流毛能爾安禮也《シマシクモヒトリアリウルモノニアレヤ》」同卷「三六三四」に「思末志久母見禰婆古非思吉《シマシクモミネバコヒシキ》」又「三七三一」に「之末思久毛伊母我目可禮弖《シマシクモイモガメカレテ》」とあり。「シマラク」といふ例は卷十四「三四七一」に「思麻良久波禰都追母安良牟乎《シマラクハネツツモアラムヲ》」といふ例あり。然れども「シバラク」と假名にてかける例なければ、これは後世の語なるべければ、かくはよむべからず。(113)されば、「シマシクモ」「シマラクモ」のいづれかによるべきが、今「シマシクモ」とよむ。意は文字の示す通り少時の間をさす。
○不通事無 舊訓「タユルコトナク」とよめり。契沖は「ヨドムコトナク」とよむべきかと案を出したりしが、略解以下之に從へり。「不通」を「ヨドム」とよめる例は卷十二「三〇一九」に「河余杼之不通牟心思兼都母《カハヨドノヨドマムココロオモヒカネツモ》」の「不通牟」は舊訓「タエザラム」とよみたれど歌調をなさず。上の語の關係より「ヨドマム」とよむべきは動くまじ。水の流れ通らずして滯りてあるを「よどむ」といふこと卷一「三一」にいへり。
○有巨勢濃香毛 「アリコセヌカモ」とよめり。かゝる語遣の例卷五「八一六」に「烏梅能波奈伊麻佐家留期等知利須義受和我覇能曾能爾阿利己奴加毛《ウメノハナイマサケルゴトチリスギズワガヘノソノニアリコセヌカモ》」又卷六「一〇二五」に「千年五百歳有巨勢奴香聞《チトセイホトセアリコセヌカモ》」などあり。この「コセ」は今も「おこす」といふ語の上略にして、その未然形なり。「ヌ」は打消の意をあらはし未然形に屬する複語尾なり。「ありこす」は「有りてくれる」といふ意にして「ぬ」にてそれを打消したるなり。「かも」は疑の助詞なるが、こゝは反語にて希望の意をあらはせり。即ち「ありてくれぬのか、何卒ありてくれよ」といふ意となる。
○一首の意 芳野河の流れ行く瀬の早くして滯らぬが如く我等の相見むことも暫くも滯る事なくありてほしきものなり。即ちはやく相見たしとなり。
 
120 吾妹兒爾《ワギモコニ》、戀乍不有者《コヒツツアラズハ》、秋芽之《アキハギノ》、咲而散去流《サキテチリヌル》、花爾有猿尾《ハナニアラマシヲ》。
 
(114)○吾妹兒爾 「ワギモコニ」とよむ。
○戀乍不有者 上にある「戀管不有者」と同じく「コヒツツアラズハ」とよむ。意もおなじ。
○秋芽之 「芽」字板本「茅」に作るは疑なく誤にして、多くの古寫本「芽」につくれり。契沖も亦これが誤字なる由をいへり。かくてよみ方は古より「アキハギノ」とよみ來れるは「芽」字としてよめること明かなり。「芽」を「ハギ」に用ゐることは集中例甚だ多く、攷證には百首ばかりある由にいへり。さてこの「芽」字につきては和名類聚鈔に「鹿鳴草爾雅注云萩【音秋一音蕉】一名蕭【音霄波岐今案牧用萩字萩倉是也辨色立成新撰萬葉集等用〓字唐韻〓音胡誤反草名也國史用芳宜草楊氏漢語抄又用鹿鳴草並本文未詳】と見えたり。これによれば、「芽」は正しくは「〓」なりとなる。この「〓」は廣韻に「〓胡護切草名」と見え玉篇に「※[草冠/互]胡故切草名」とある「※[草冠/互]」字と同じ字なる由は※[木+夜]齋の既にいへる所にして「互」と「〓」とは本來同宇たるものとす。さてこの「※[草冠/互]」字は本草によれば「常山」の一名「互草」とあるに相當するものなるべきが、その常山は本草和名に「久佐岐一名宇久比須乃以比禰」とあり。その「クサギ」はわが萩とは似もつかぬものなれば、「互草」の「※[草冠/互]」を「ハギ」にあてたるは怪むべしとす。さて又木集及び新撰萬葉集なるも近世の學者の意を以て改めたるものゝ外はいづれも「芽」とかきて「〓」とかけるものを見ず。これによりて木村正辭翁は「芽」は「〓と別の字にして、もとより「芽」字の形をなせるものなり。されど、支那の本來の萠芽の「芽」にあらずして本邦にて新につくれる文字なり」といへり。そは「ハギ」の花の形は「キバ」に似たる故につくれる本邦の造字にして會意の文字なる由なり。この説一わたりはいはれたるやうなれど、よく考ふれば當らざるを見る。何となれば辨色立成にこの字を載せたる由なるが(115)その辨色立成は本來漢籍なるに和訓を加へたるものと見ゆれば、本邦の造字といふ説は成立つべからず。さりとて「〓」字の通用なりといふことも亦成立つべからず。なほ箋注和名抄の注に新撰萬葉集を引けるには「芽字新撰萬葉集上卷三見」といへるは説き得て未だ詳ならずといふべし。この書に用ゐたるは「芽」の體のみにして「〓」の體のなきは既にいへる如くなるが、この書には和歌のみならず、漢詩にも屡用ゐたり。その例をいはゞ、上卷に
  白露之織足須芽〔右○〕之下黄葉、衣丹遷秋者來藝里。(これは歌)
  秋芽〔二字右○〕一種最須憐、半萼殷紅半萼遷、落葉風前碎錦播、垂枝雨後亂絲牽。(これは詩)
の如し。この外「※[草冠/聚]葉」「芽花」又下卷に「芽華」「秋芽」等見ゆ。されば、この頃「芽」字を「ハギ」に用ゐて漢詩にさへ詠ぜりしを見るべし。さて按ずるに本集には「芽」一字を「ハギ」にあててもあれど、多くは「穿子」の二字をあてたり。この「芽子」は蓋し、本草に「牙子」とあるに艸冠を加へしものならむ。この草は一名「狼牙」とも「犬牙」ともいはれたるものにして、本草和名に「うまつなぎ」といへるものなるが、この當否は今知るべからぬが、その植物の本草家の説明によれば、葉は三葉一※[草冠/帝]にして蛇苺に似たりといへり。その三葉一※[草冠/帝]なる點萩と似たれば、古「牙子」を誤りて本邦の「はぎ」にあてしならむか。かゝる例は古今に少からず。この説は山本章夫の「萬葉古今動植正名」にもあり。されば「芽子」と、もとかきしが後「芽」一字を用ゐるに至りしならむか。「ハギ」は秋花さくものなれば、「秋芽」といひて花さける芽を言外にあらはせるなり。
○咲而散去流 「サキテチリヌル」とよむ。萩の花の咲きてまもなく散りてしまひたるをいふ。
(116)○花爾有猿尾 舊訓「ハナニアラマシヲ」とよめり。考には「ハナナラマシヲ」とよめり。いづれにてもあるべし。「ましを」は上にいへり。
○一首の意 吾妹子に戀ひつゝかく苦みてあらむよりは秋の萩の花咲きてさてとく散るその花の如く一層の事一思ひに死に失せなば心安からむとなり。上の「高山のいはねしまきて云云」の御歌と趣似たり。
 
121 暮去者《ユフサラバ》、鹽滿來奈武《シホミチキナム》。住吉乃《スミノエノ》、淺香乃浦爾《アサカノウラニ》、玉藻苅手名《タマモカリテナ》。
 
○暮去者 舊訓「ユフサレバ」とよめるを契沖「ユフサラバ」とよむべしといへり。下の「來なむ」に對しての語なれば、契沖の説に從ふべきなり。
○鹽滿來奈武 「シホミチキナム」なり。鹽は宛字にして潮をさせり。夕潮の滿ち來るならむとなり。以上にて一段落。
○住吉乃 「スミノエノ」とよむ。古寫本往往「スミヨシノ」と訓せるものあれど、そは平安朝以後の語なれば、本集には用ゐるべからず。この事は巻一「六五」に既にいへり。
○淺香乃浦爾 「アサカノウラニ」とよむ。「アサカノウラ」は攝津志に「淺香丘在2住吉郡船堂村1林木緑茂迎v春霞香、西臨2滄溟1遊賞之地」とあるその淺香丘といふは住吉神社の南なる細江の南にありし由なるが、その西の方の浦を「あさかのうら」といひしならむ。
○玉藻苅手名 「タマモカリテナ」とよむ。玉藻はたゞ藻をいへるに止まる。「ナ」は未然形に附屬(117)して、希望をいふ助詞なり。「テ」は「ツ」の未然形なり。その意は藻をからばやといふに略おなじきが、その句に上に「早く」といふ意を含めて解すべし。
○一首の意 夕暮にならば夕潮みち來るならむ。かくては玉藻を苅ること能はざらむ。玉藻を苅らむには、引潮の間に手早くすべきわざなれば、早く住吉の淺香の浦の名の如く、水の淺きうちに玉藻を刈りてむとなり。これ比喩にして時おくれなば、妨もあらむ。故障の出で來ぬ間に早くわが戀を成し遂げばやといふなり。
 
122 大船之《オホフネノ》、泊流登麻里能《ハツルトマリノ》、絶多日二《タユタヒニ》、物念痩奴《モノオモヒヤセヌ》、人能兒故爾《ヒトノコユヱニ》。
 
○大船之 「オホフネノ」とよむ。下の「はつる」の主格たり。
○泊流登麻里能 「ハツルトマリノ」とよむ。古寫本に往々「トマルトマリ」とよめるもあれど、非なり。舟やどりするを「ハツ」といふは古語にして巻一に「フナハテスラム」とある條にもいへり。ここに一二の例をあげむ。巻十五「三六九七」に「毛母布禰乃波都流對馬能安佐治山《モモフネノハツルツシマノアサヂヤマ」又「三七二二」に「大伴乃美津能等麻里爾布禰波弖弖多郡多能山乎伊都可故延伊加武《オホトモノミツノトマリニフネハテテタツタノヤマヲイツカコエイカム》」とあるなどこれなり。「泊」をこの「ハツ」といふ下二段活用の動詞にあてたる例は少からぬが、地名の「ハツセ」を泊瀬とかけるが多きは最も見易く且動くまじき證なり。「とまり」はその船のやどる所をいふ。上の卷十五の歌にも見ゆ。上二句は次の「タユタヒ」を導く序なり。
○絶多日二 「タユタヒニ」とよむ。「タユタヒ」といふは「タユタフ」といふ動詞の連用形を名詞にし(118)たるなり。卷四「五四二」に「常不正通之君我使不來今昔不相跡絶多比奴良思《ツネヤマズカヨヒシキミガツカヒコズイマハアハジトタユタヒヌラシ》」又「七一三」に「垣穗成人辭聞而吾背子之情多由多比不合頃者《カキホナシヒトゴトキキテワガセコガココロタユタヒアハヌコノゴロ》」卷七「一〇八九」に「大海爾島毛不有爾海原絶塔浪爾立有白雲《オホウミニシマモアラナクニウナバラノタユタフナミニタテルシラクモ》卷十一「二七三八」に「大船乃絶多經海爾重石下何如爲鴨吾戀將止《オホフネノタユタフウミニイカリオロシイカニセバカモワガコヒヤマム》」「二八一六」に「浦觸而物魚念天雲之絶多不心吾念魚國《ウラブレテモノナオモヒソアマクモノタユタフココロワガモハナクニ》」卷十二「三〇三一」に「天雲乃絶多比安心有者吾乎莫憑待者苦毛《アマクモノタユタヒヤスキココロアラバワレヲナタノメマテバクルシモ》」卷十五「三七一六」に「安麻久毛能多由多比久禮婆九月能毛美知能山毛宇都呂比爾家里《アマクモノタユタヒクレハナガツキノモミヂノヤマモウツロヒニケリ》」卷十七「三八九六」に「家爾底母多由多敷命浪乃宇倍爾思之乎禮婆於久香之良受母《イヘニテモタユタフイノチナミノウヘニオモヒシヲレバオクカシラズモ》」などはその用言としての例なり。この動詞は動き搖れ靜まり定まらぬをいふ。こゝにては昔の大船は順風などなくば、沖へも出しがたく、さりとて邊にもよりがたく、波の上にゆら/\として、定まらず、しかも出づるにも入るにもとかく手間どるものなればいふ。この「たゆたひ」はそれを體言にして原因の補格に用ゐたり。かくてこれまで三句は大船の泊りにはてむとて彼是たゆたふ如くに我もさまさまと心をなやましさまよふによりての意なり。
○物念痩奴 「モノオモヒヤセヌ」とよむ。物を念ひて我が身は痩せぬとなり。卷四「七二三」に「念二思吾身者痩奴《オモフニシワガミハヤセヌ》」卷十五「三五八六」に「和我由惠爾於毛比奈夜勢曾《ワガユヱニオモヒナヤセソ》」などいへり。
○人能兒故爾 「ヒトノコユヱニ」とよむ。人の子といへるは多く人の妻なりといふ説あれど、必ずしも然らず。こゝに人の子とは皇女が未だ誰人の妻ともなりたまはぬによりていはれたりとおぼし。この「ゆゑ」を「なるものを」といふ意也とする説あれど、「ゆゑ」はいづこまでも原因理由をいふ語にして、古來の釋の不當なることは卷一「二一」にいへり。ここも然り。即ち「人の子(119)によりて」「人の子に戀する故に」といふ義なりとすべし。古の語遣の今と異なる點は其「故」をば今は抽象的に「理由原因」といふ形式的の語とするに對して、古は其理由原因たる具象的の事實をも含みたる意に用ゐたりと考へらる。されば古語の「ゆゑ」は戀ならば「戀の故」他の事ならば「その事の故」といふ意をあらはしたるものなるべし。さてこの句は反轉して置かれたるなり。
○一首の意 人の兒即ちわが知れる皇女を戀するにより彼や是やとたゆたひ物念ひする間にわれは身も痩せぬとなり。
 以上四首また一種の連作と見えたり。而して四首を連ねて一意をなすことは、卷一の安騎野の反歌、本卷の磐姫皇后御製とこれとここに三種あり。而してこれら連作がいづれも四首なることはかの絶句四句の起承轉結の法に傚へるものならむと思はる、しかも、この作はその法によく合せりとも思はれず、以前のものに比すれば劣れりとすべし、
 
三方沙彌娶2園臣生羽之女1未v經2幾時1臥v病作歌三首
 
○三方沙彌 この人傳詳かならず。諸家多くは之を日本妃持統天皇六年に「十月壬戌朔壬申授2山田史御形務廣肆1、前爲2沙門1學2問新羅1」とあるその三形の僧たりし時の名とせり。攷證には「三方は名、沙彌は僧なりしほどの官也、姓氏録、その外の書にも三方といふ氏の見えざるにても三方は氏ならざるをしるべし。又沙彌滿誓を四【四十一丁】に滿誓沙彌とかけるにても三方は名なる事明けし。」といへり。然れどもこの説は必ずしも首肯すべからず。先づ沙彌を官名の如(120)くいへるは不當なり。沙彌の義は下にいふべし。次に滿誓沙彌は滿誓は俗名にあらねば、これを沙彌の上に冠するは然るべき事にして後までも屡見る所なり。然れども三方の如き俗名をその上に冠せる例を知らず。又笠沙彌の如く氏を上にせるは例稀ならず。これらによらば「三方」は氏なるべく考へらる。考には「三方は氏、沙彌は常人の名なること上の久米禅師の下に云り」とあり。然れども、ここの沙彌はなほ本義の沙彌にして、名にはあらざるべし。攷證には「三方」といふ氏なしといひたれど、續日本紀桓武天皇延暦三年正月に從五位下を授けられたる人のうちに「三方宿禰廣名」といふあり。されば、三方といふ氏なきにあらざるなり。なほ續紀聖武天皇天平十九年十月に「春宮少屬御方大野」といふがありて、姓を賜はらむといふその情願に對しての勅を載す。そのうちに「然大野之父於2淨御原朝庭1在2皇子之列1而縁2微過1被2廢退1、朕甚哀憐。所以不v賜2其姓1也」と見ゆ。さればここにも三方といふ氏ありといふべし。但し、契沖は、上の御方大野の事を引きて「今、此に依に磯城皇子の事後に見えねば、此皇子廢せられ給へるか。沙彌と云者は若それなとにや」といへり。されど、其大野の父なる皇子が磯城皇子なりし由はこの勅にては明かならざるのみならず、磯城皇子は天武天皇崩御の前月に封二百戸を加へらるる由も見ゆればこの皇子にあらざるは明かなり。惟ふに、前代の皇子にして、この大野の父たりし人ありて、天武の御代に罪ありて皇族の籍を除かれし人ありしならむ。それも、微過とあれば、國家皇室に關する罪にあらざりしならむ、しかも皇親籍を除かるるほどなれば、また甚しく輕微の事にもあらざりしならむ。而してこの御方大野の父とあれば、その人の時(121)既に臣籍に入りて三方の氏を稱したりにてもあらむ。かくて自ら佛門に歸し、三方沙彌と稱へしことなしともいふべからず。以上はいづれも證なき事にして強く主張すべき事にあらねど三方といふ氏の存したりしこと、又三方沙彌といひうべき境遇の人のこの御世に在りと考へ得べき由をいへるなり。次に沙彌をば、攷證には僧の官名の如くいへるは甚しき誤なり。沙彌は十戒を受けて未だ修行熟せず、比丘となるまでの男をいふものにして、眞正の僧にあらず。況んや僧の官などにはあらざるなり。この故に沙彌は沙門とは意義異なり。史に山田史御方の前身を「沙門」とかければ、ここに沙彌とあるとは一致せず。されば、山田史の前身なりといふ説はうけ難しとす。
○娶園臣生羽之女 「園」は氏「臣」は姓、園臣は日本紀應神卷二十二年に「即以2苑縣1封2兄|浦凝《ウラコリ》別1、是苑臣之始祖也」とある氏にして、吉備稚武彦命の裔なり。「苑縣」は後の備中國下路郡曾能郷なり。本集卷六「一〇二七」の歌の左注に「但或本云三方沙彌戀妻苑臣作歌」と記せるあり。蓋し、これと同じ人の同じ時の歌たる由なり。この歌の事は次にいふべし。「生羽」は「イクハ」とよむ。古語「的」を「イクハ」といへり。この義をとれる名ならむ。この人の事他に所見なし。
○未經2幾時1臥v病作歌三首 「イクホドモヘズシテ云々」とよむべし。この三首は沙彌一人の歌にあらず、園臣女と贈答せるなり。而して、當時の婚姻のさまとして、男先女の家に行き通ひたるなるべし。この故に「臥病」といへるその意は病に臥して妻の家に行くを得ぬによりて、よみて贈りしならむ。
 
(122)123 多氣婆奴禮《タケバヌレ》、多香根者長寸《タカネバナガキ》、妹之髪《イモガカミ》、比來不見爾《コノゴロミヌニ》、掻入津良武香《ミタリツラムカ》。 三方沙彌
 
○多氣婆奴禮 「タケバヌレ」とよむ。「タク」といふ語は四段活用の動詞にて、髪絲繩などをたぐりあぐる意をあらはす「タグル」といふと意似たれど別の語なり。この語の例は次の歌に「多計登雖言《タケトイヘド》」卷九「一八〇九」の歌に「蘆屋之菟名負處女之八年兒之片生乃時從小放爾髪多久麻庭爾《アシノヤノウナヒヲトメノヤトセゴノカタオヒノトキユヲハナリニカミタクマテニ》」卷十一「二五四〇」の歌に「振別之髪乎短彌青草髪爾多久濫妹乎師曾於母布《フリワケノカミヲミジカワカクサヲカミニタクラムイモヲシゾオモフ》」とあり。これらはいづれも髪につきていへるなり。又卷七「一二三三」の歌に「未通女等之《ヲトメラガ》、織機上乎眞櫛用掻上栲島波間波間從所見《オルハタノウヘヲマクシモチカカゲタクシマナミノマユミユ》》とあり。これは「タク島」といふ名にかけたるが、機の上にある櫛形のものにて掻上ぐる事をいへり。又卷十四「三四五一」の歌に「左奈都良能乎可爾安波麻伎可奈之伎我古麻波多具等毛和波素登毛波自《サナツラノヲカニアハマキカナシキガコマハタグトワハソトモハジ》」卷十九「四一五四」の歌に「秋附婆芽子開爾保布石瀬野爾馬太伎由吉※[氏/一]《アキツケバハギサキニホフイハセノニウマタキユキテ》」とあり。これらは馬の手綱をかいくるをいへり。古今集雜下篁の歌に「思ひきやひなのわかれにおとろへてあまのなはたきいさりせんとは」とあり。これは網の繩などを手繰るなり。以上の例にてこの語の意は略知られつらむ。この語の解につきては契沖は「たけとはたくればなり」なりとも「あとたとは同韵にて通すればあくると云古語か」ともいへれど、あぐると同じ語にあるべからず。考には「多我《タガ》ぬれば我|奴《ヌ》の約|具《グ》にて、多|具禮婆《グレバ》とあるを、又その具禮を約れば、牙《ゲ》となる故に多氣波といへり」といへり。攷證は之を非として、「多氣波《タゲバ》とは髪をたぐり揚《アグ》る事にてたぐればの、ぐれの反げなれば、多氣波はたぐれば也」といへり。されどこれらの約音説はいづれ(123)も首肯せられず。按ずるに、「たぐる」といふ語は通常「手繰る」にて手にて「くる」由に解すれど、然にはあらずして「たぎくる」の約なるべし。然るときはこの「たぐ」は「たぐる」の約にあらずして、かへりてその基をなせる語なりと考へらる。されど、今はこの語亡びたれば、「たぐる」を以て代へて釋すべきなり。「奴禮」は上にもいへるが、ここは髪絲などの結べどもしまりなくほどけて垂るるをいふ。
○多香根者長寸 「タカネバナガキ」とよむ。「寸」を「キ」の假名に借ることは既にいへり。以上二句、少女の髪のさまをいへり。髪をたぐりあげねば、長きにすぎ、さりとて、たぐりあぐるにはなほ短くて、十分に結び上げられず、解け易きといふなり。
○妹之髪 「イモガカミ」なり。この髪の事につきて、考別記に曰はく、「凡そ古への女の髪のさま、末にも用あれば、くはしくいはん。そもそも幼《イトキナ》きほどには目ざしともいひて、ひたひ髪の目をさすばかり生下れり。それ過て肩あたりへ下るほどに末をきりてはなちてあるを放髪《ハナリガミ》とも童放《ウナヰハナリ》ともうなゐ兒ともいへり。八歳子《ヤトセゴ》と成てはきらで、長からしむ、それより十四五歳と成て、男するまでも垂れてのみあれば猶うなゐはなりともわらはともいへり。(中略)卷十六に橘寺之長屋爾吾率宿之童女波奈理波髪上都良武香などあり。かくてそのゐねて後に髪あげつらんかといへる、ここの沙彌が歌と似たり、且髪の事も年のほどをもしるべし。後のことながら伊勢物がたりに、ふり分髪も肩過ぬきみならずしてたれかあくべきかてふも是也、」といへり。この説參考に供すべし。
(124)○比來不見爾 「コノゴロミヌニ」とよむ。「比來」の義は、近來におなじ。「比來」の「來」は「元來」「爾來」「以來」「本來」「近來」などの「來」にして、多く時を示す助語辭に用ゐたり。「比」はもと近隣の義なるよりして近の義に轉じて用ゐたるか、若くは比歳を近年の意に用ゐるより轉用したるが、いづれかの一途によりて「比來」といふ語生じたるものなるべきがその意は「近來」におなじ。この語は、もとより支那にて用ゐしなるべきが、六朝頃の俗語とおなじく、經傳には見えぬ字面なり。本邦にては、この頃に用例少からず。正倉院文書寶龜三年桑名眞公不參解(南京遺文に載す)中に「仍請2藥作1比來之間治作」續紀天平十九年七月の勅「昔者五日之節d當用2菖蒲1爲v縵比來已停2此事1」天平寶字二年七月の勅に「比來皇太后寢膳不v安經2旬日1」神護景雲元年四月の勅に「比來諸國頻年不登」寶龜十年十一月の勅に「又調庸發期具著2令條1比來寛縱多不v依v限」などあり。「ミヌニ」は「ミヌ間ニ」といふ程の意なり。
○掻入津良武香 舊訓「ミタリツラムカ」とよみ、古今六帖には「みだれつらむか」とあり。されど「掻入」は普通には「ミダル」とよむべき字にあらず。元暦本には「かきいれつらむ」とよめり。契沖は「カキレ」とよむべきかといひ、本居宣長は「入」は「上」の誤にて「カキアゲツラムカ」なるべしといへり。かくのごとくにして、諸説紛々たり。さて「入」を「上」の誤とする説は卷十六「三八二二」に「橘寺之長屋爾吾率宿之童女波奈理波髪上都良武可《タチハナノテラノナガヤニワガヰネシウナヰハナリハカミアゲツラムカ》」とあるによれるものなるべけれど、「カミアゲ」と「カキアゲ」とは語別なれは之によりて、「カカゲ」とよまむこと如何なり。守部はこの字のままにて「タガネ」とよむべしといへり。されどこれも理なし。さてこの處文字の誤脱もやと見るに、「掻」を(125)温故堂本京都大學本に「※[手偏+密]」とかける由なれど、かかる文字なければ、これはなほ「掻」の訛なるべし。然りとすれば、ここに文字はこのままにして訓を考へざるべからず。さてこの文字のままにては「カキレ」とよむより外なき如く見ゆ。されど、髪をかき入るとは如何にすべきことにか、この訓み方を主張する人々の説をよみてもその意知るを得ざるなり。按ずるにこの「掻」字は美夫君志にいへる如く「騷」字の通用ならむか。三國呉志陸凱傳の凱の上疏中に「而更傾2動天掻2擾〔二字右○〕萬姓1使2民不1v安」又「加有2監官1、既不v愛v民、務行2威勢1所在掻擾〔二字右○〕更爲2煩苛1」晋書唐彬傳に「恐邊情掻動、使2彬蜜察1v之」とあり。かゝる例六朝の文中に少からず。さては騷の義によるべきが「騷」は説文に「擾」とあれば、「ミダル」といふ義あることは考へらるべし。而してこれの和歌に「亂有等母」とあれば「ミダル」といふ説の從ふべきを見るべし。「入」は「イル」といふ動詞をあらはせるが、「イリ」とも「イレ」ともよむべく從つて「掻入」をば「ミダリ」とも「ミダレ」ともよむべきやうに考へられ易し。されど、ここは「入」といふ字の意義にて用ゐられたりとは考へられねば假名に用ゐたるものと見らるるが、萬葉集中「入」を假名に用ゐたる場合には「リ」とのみ用ゐられて「レ」といふべきものを見ず。その例卷七「一一六七」に「朝入爲等磯爾吾見之莫告藻乎《アサリストイソニワガミシナノリソヲ》」卷九「一七二七」に「朝入爲流人跡乎見座《アサリスルヒトトヲミマセ》」卷十「一九一八」に「客爾也君之廬入西留艮武《タビニヤキミガイホリセルラム》」卷十二「三〇一二」に「登能雲入雨零河之左射禮浪《トノクモリアメフルカハノサザレナミ》」などなり。卷八「一六四四」に「梅花袖爾古寸入津《ウメノハナソデニコキイレツ》」とある「入」は「レ」の假名の如くなれど然らずして「イレ」の意明にしてその約なり。日本紀にも景行卷に「直入《ナホリノ》物部神」宣化卷に「檜隈廬入野《ヒノクマノイホリヌ》」古事記宣化段に「檜※[土+囘]之廬入野《ヒノクマノイホリヌ》」など。古より「入」を「リ」の假名に用ゐしを見る。さればここも「リ」にして「ミダ(126)リ」とよむべし。「ミダル」といふ語は今ならば下二段活用にすれど、古くは四段にも活用したるなり。今「みだりに」といふはその四段活用の語より出でたるものなり。「ツラム」は「ツ」といふ確述の複語尾に「ラム」といふ推量の複語尾を重ねたるものなり。「カ」は疑の助詞なり。
○三方沙彌 これは作者を注記せるなれば、多くの古寫本に小字にせるをよしとす。かく注せるは次の女の歌に對して先づ女に贈れる歌なる由を示せるなり。
○一首の意 わがはじめてあひし時掻き揚ぐれば、長さ足らずして垂れ下り、掻き揚げずにおけば、長きにすぎたる我妹子の髪は、われ近頃病に臥して往き見ねば、さぞ長くのびて亂れてあるべきならむかと。これは後世に女の鬢そぎといふ女子成年の式は許嫁たる男のするわざ(未だ許嫁せざる時は父兄等の代る。)なるを以て推し考ふるに、古夫もてる女の髪は夫とある男の理めし風俗などありしによれるなるべし。
 
124 人皆者《ヒトミナハ》、今波長跡《イマハナガシト》、多計登雖言《タケトイヘド》、君之見師髪《キミガミシカミ》、亂有等母《ミダリタリトモ》 娘子
 
○人皆者 「ヒトミナハ」とよむ。元暦本神田本には「人者皆」とありて、「ヒトハミナ」とよめり。いづれもあしきにあらねど今本のまゝにて意通れり。「人皆者」の例は卷十「二一一〇」の歌に「人皆者芽子乎秋云《ヒトミナハハギヲアキトイフ》」あり。「人皆の」といへる例は卷五「八六二」の歌に「比等未奈能美良武麻都良能《ヒトミナノミラムマツラノ》」等あり。
○今波長跡 古來「イマハナガシト」とよみしが、古義には「イマハナガミト」とよむべしといへり。されど「ナガシ」といふがわろしといふ理由もなく、必ず「ナガミ」といふべき道理もなければ、もと(127)のままにてあるべし。わが髪も今はのびて見る人毎に今は長くなりたりといひての意なり。この「と」は「といひて」の意を含めて解すべくこれより下の「雖言」につづく語脈なり。この「今は」といふ語には多少の意こもれり。これは今まで問題にせざりしことの、今問題となりしを語るものにして、年もやう/\長けて、今は男もつべきほどになりたればといふ如き心持の含まれあるならむ。
○多計登雖言 「タケトイヘド」とよむ。「タケ」は上の歌にいへる「タク」の命令形にして、髪上げをせよといへどの意あり。髪を上ぐるは女の男せることをあらはす古の風俗なりしならむこと上にもいへり。朝鮮の風俗は今も然り。この「イヘド」は上の句の「ナガシ」といふ語と、ここの「タケト」といふ語の二を並べ受けたる面白き語法にして歌に力を添ふるところ少からず。從來上の句の「と」を「トテ」と譯して、それを「タケ」につづくものとせるは當らずとす。
○君之見師髪 「キミガミシカミ」とよむ。「君がかの時見たまひし髪なれば」の意を含めたり。
○亂有等母 舊訓「ミタレタレトモ」とよめり。多くの古寫本また然り。神田本には「ミタリタレトモ」とよみ、童蒙抄に「ミタレタリトモ」とよみ、古義には「ミタリタリトモ」とよめり。この「等母」を「ドモ」とよむと「トモ」とよむとによりて歌の意頗る異なるに至るべし。「ドモ」とよむときは上の「イヘド」といふ語に勢同じくして文勢收捨すべからざるなり。これは「トモ」といふ假設條件としていふ語にすべし。この「トモ」は假設條件を否定して下に接する意なれば、たとひ亂れてありとも君がみし髪なれば、そのさまをかふるに忍びず。そのままにあらむとなり。さて「亂有」(128)は「ミダレタリ」にても「ミダリタリ」にても差支なきなれど、上の歌にむかへて「ミダリタリ」とよむべし。
○娘子 多くの古寫本歌の下に小字にてこの二字あり。よりて之を加ふ。流布本は誤りて脱せるなり。この文字脱せるが爲に、その歌主知られず。從つて種々の臆説生じ、代匠記の初按に「園臣生羽女」の五字脱せりとし、考及び攷證にはこの歌の前に「園臣生羽之女和歌」又は「……報贈歌−首」の如き題詞脱せりとし、從つてこの贈答三首各その題詞の落ちうせたるならむとまでいへり。されど上下の歌には「三方沙彌」の注あり、ここにも「娘子」とあれば、各々題詞ありしが脱せりなどいふ説は全く無用の事なりとす。ここの歌の記載方は、上の久米禅師(九六−一〇〇)の贈答歌と趣同じ。
○−首の意 如何にも君が宣ふ如く、髪も多少は延びたれば見る人毎に、今は長くなれりといひ、又さては髪掲げしたまへかしなど、いへども、こはわが君の見ましし髪なれば、君に見せずして髪のさまを變ふべきにあらねば、たとひ多少亂れてありとも、われは君に會ひ奉らむまではこのままにあらむと思ふとなり。卷十一「二五七八」に「朝宿髪吾者不梳《アサネガミワレハケヅラジ》、愛君之手枕觸義之鬼尾《ウツクシキキミガタマクラフレテシモノヲ》」とあるに感情相通じ、又伊勢物語に「くらべこしふりわけ髪もかたすぎぬ君ならずして誰かあぐべき」といへるに趣似たる點あり。
 
125 橘之《タチバナノ》、蔭履路乃《カゲフムミチノ》、八衢爾《ヤチマタニ》、物乎曾念《モノヲゾオモフ》、妹爾不相而《イモニアハズテ》。三方沙彌
 
(129)○橘之 「タチバナノ」なり。橘はいふまでもなく、かの田道間守が垂仁天皇の勅を奉じ、常世國に行きて傳へ來し菓樹なり。和名鈔菓類に「橘」に注して「和名太知波奈」とあり。
○蔭履路乃 「カゲフムミチノ」とよむ。古都の大路、市の衢驛路などに菓樹を植ゑしめられたるなり。この事は古く、日本紀雄略天皇の十三年紀に「餌香市邊橘本《ヱカノイチノヘノタチバナノモト》」と見え、類聚三代格卷七に載する天平寶字七年の乾政官符には
 右東大寺普照法師奉状※[人偏+稱の旁]、道路百姓來去不v絶。樹在2其傍1足v息2疲乏1。夏則就v蔭避v熱、飢則※[手偏+適]v子※[口+敢]之。 伏願城外道路兩邊栽2種菓子樹木1者、奉v勅依v奏。
とあり。これは京城、市等にはもとよりありしを京城以外に及ぼさむと願ひしが許されしなり。かくてこの事永き制となりしと見え、弘仁十二年の官符にはその路樹を斫損するを禁ぜられ、延喜式雜式には「凡請國驛邊植2菓樹1、令3往還人得2休息1」本集卷三には「門部王詠2束市之樹1作歌」(三〇九)あり。これは何の樹とも明記せられねど菓樹たるには疑なし。橘の植ゑられしことの例は古事紀應神卷の御歌に「和賀由久美知能迦具波斯波那多知婆那波《ワガユクミチノカグハシハナタチバナハ》」とあるにても知らる。ここに「橘の蔭履む」といへるは上の乾政官符に「夏則就v蔭避v熱」といへる如く事實に基づける語なりと見え、その橘の繁茂して日蔭のありしことを想像するに足れり。以上二句は八衢といふ語を導かむ料の序なりとす。
○八衢爾 「ヤチマタニ」とよむ。「チマタ」は道股《チマタ》の意にて道の岐るる所をいふ。「ヤ」は數の多きをいふ。古事記上卷に「居2天之八衢1」といふ例あり。即ち八衢は岐路の多くて迷ひやすきにたと(130)へたるものにして、この句は次の物思ふさまの比喩なり。
○物乎曾念 「モノヲゾオモフ」なり。心をなやますなり。
○妹爾不念而 「イモニアハズテ」よむ。「アハズシテ」とよめる本もあれど、「アハズテ」にてよしとす。本來は「ズシテ」なるべきがそれを約め、打消の「ズ」より「テ」につづく形とすることは古語の一格なり。その假名書の例は卷五「八七九」の「阿米能志多麻乎志多麻波禰美加度佐良受弖《アメノシタマヲシタマハネミカドサラズテ》」をはじめ例多し。さてこの句は反轉法によれるものなれば、首にめぐらして釋すべし。
○三方沙彌 これは沙彌の歌なる由を注せるなり。多くの古寫本に小字にせるをよしとす。沙彌が上の答歌を得て更に娘子に贈れるなり。
○一首の意 われは久しく吾妹子にあひ見ることなければ、戀しさに堪へず、種々に物思ひ亂れてありとなり。按ずるに、この歌上にいへる如く、卷六にもありて、それは「橘本爾道履《タチバナノモトニミチフミ》、八衢爾《ヤチマタニ》、物乎曾念《モノヲゾオモフ》、人爾不所知《ヒトニシラエズ》」(一〇二七)と見え、その第二句、第三句第五句かはれり。この歌は天平十年秋八月二十日右大臣橘諸兄公の家の宴によめる歌にしてその左注に「右−首右大辨高橋安麿卿語云故豐島采女之作也。但或本云三方沙彌戀2妻苑臣1作歌也。然則豐島釆女當v時當v所口吟2此歌1歟」といへり。即ち今のこの歌をば、この説の如く、時と所とに似付かはしく歌ひかへたるものなるべし。
 
石川女郎贈2大伴宿禰田主1歌一首
 
(131)○石川女郎 この名の人の事紛はしく分け難きこと既にいへる所なり。
○大伴宿禰田主 この人の事は元暦本などに題詞の下に注して「即佐保大納言大伴卿之第二子、母曰2巨勢朝臣1也」とあり。大納言大伴卿は上の「一〇一」の歌をよめる安麿にして、母巨勢朝臣は「一〇二」の歌の巨勢郎女なり。これによりて巨勢郎女が安麿の妻となりしこと著しくその間に生れしがこの田主たるなり。この人の事史に見えず。
 
126 遊士跡《ミヤビヲト》、吾者聞流乎《ワレハキケルヲ》、屋戸不借《ヤドカサズ》、吾乎還利《ワレヲカヘセリ》。於曾能風流士《オソノミヤビヲ》。
 
○遊士跡 舊訓「タハレヲト」とよめり。古寫本「アソヒヲト」とよめるもあり。童蒙抄には「ミヤビトト」とよみたれど、宮人と紛はしきによりて玉の小琴に「ミヤビヲト」とよむべしといへり。この「遊士」は下の「風流士」と同じ義なるべきものなるが、「遊士」とかける例は卷六「一〇一六」の歌に「海原之遠渡乎《ウナバラノトホキワタリヲ》遜士之|遊乎將見登《アソブヲミムト》、莫津左比曾來之《ナツサヒゾコシ》」とある左注に「右一首書2白紙1懸2著屋壁1也。題云蓬莱仙媛所v(賚〔左○〕)2※[草冠/縵]爲風流秀才之士1矣。斯凡客不v所2望見1哉」とあり。この左注なる「風流秀才之士は即ち歌の中の「遊士」に相當するものにして、この歌の下の「風流士」は「風流秀才之士」を略したるものなるべく、畢竟同義たるべし。されば、この遊士は風流の士といふ義なるべければ、「タハレヲ」とよむは當らざるべく「ミヤビヲ」とよむ方まされりとす、但し、その假名書の證を知らず。風流には「ミヤビ」とよむべき意あり。卷五「八五二」に「烏梅能波奈伊米爾加多良久美也備多流波奈等阿例母布左氣爾于可倍許曾《ウメノハナイメニカタラクミヤビタルハナトアレモフサケケニウカベコソ》」といふ歌あり。この「ミヤビ」の連用形を體言化して、「ヲ」につゞ(132)けたる語なり。
○吾者聞流乎 「ワレハキケルヲ」なり。君は風流の士なりとかねて噂にわれは聞きたるをといふなり。
○屋戸不借 「ヤドカサズ」とよむ。吾に宿を借さずなり。われを止むることをせずしてなり。この「ず」は終止にあらず連用にして、下のわれをかへせりにつゞくなり。
○吾乎還利 「ワレヲカヘセリ」なり。
○於曾能風流士 この「風流士」も舊訓「タハレヲ」とよみたれど、上の説明によりて「オソノミヤビヲ」とよむべし。「オソ」は「遲シ」の語幹にして、こゝは心の働きの鈍きをいひ、愚鈍の義にして今の俗の「マヌケ」といふが如き意をあらはせり。卷九「一七四一」の歌に「常世邊《トコヨヘニ》、可住物乎《スムベキモノヲ》、釼刀《ツルギタチ》、己之心柄《ナガココロカラ》、於曾也是君《オソヤコノキミ》」とある「オソ」も亦これにしてその本の長歌「一七四〇」には「世間之《ヨノナカノ》、愚人之《シレタルヒトノ》」と書けるにて意知らるべし。
○一首の意 この歌二段落にして第四句までを第一段落とし、第五句また一段落なり。その意は君は風流才士なりと吾はかねて聞きたる故にわれは慕はしさに堪へずして昨夜君の許に到れりしに、吾を止めむともせず、われをすげなく還したまへり。これ何事ぞや。風流才士といはれたるは果して信か。信ならば、わが君を訪ひし眞意ははやくもさとるべきに、之をもさとりえずしてありしは果して風流秀才の士といふをうべきか。さても愚なる風流秀才の士よとなり。なほこの歌の事は左注に委し。
 
(133)大伴田主字曰2仲郎1、容姿佳艶、風流秀絶、見人聞者靡v不2歎息1也。時有2石川女郎1、自成2雙栖之感1、恒悲2獨守之難1、意欲v寄v書、未v逢2良信1。爰作2方便1而似2賤嫗1、己提2鍋子1而到寢側1、哽v音跼v足叩v戸諮曰、東隣貧女將v取v火來矣。於是仲郎暗裏非v識2冒隱之形1、慮外不v堪2拘接之計1、任v念取v火就v跡歸去也。明後女郎既恥2自媒之可1v愧、復恨2心契之弗1v果。因作2斯歌1以贈謔〔左○〕戯焉。
 
○字曰2仲郎1 こゝの字は支那風の字なりとおほし。「仲郎」とは田主が第二子なりしによりていへるならむ。「仲」は伯仲叔の仲にして第二子をさすに用ゐたり。「郎」は男子の稱なり。
○容姿佳艶 艶は美色なること卷一にいへり。
○風流秀絶 風流は瀟洒にして世俗に超脱せをいふ。晋書王献之傳に「少有2盛名1、而高邁不羈風流爲2一時冠1」とあり。こゝも風流の時輩に拔んで秀でたるをいふ。「秀絶」の絶は「卓絶」「冠絶」などの「絶」の如く、群を拔き、類を絶つをあらはす語遣なり。
○自成2雙栖之感1 「雙栖」は思ふ人と共に栖《スマ》ふをいふなり。文選第二十三潘岳悼亡詩に「如2彼翰林鳥1、雙栖一朝隻」とあり。感は思ひなり。
○恒悲2獨守之難1 「獨守之難」は文選第二十九古詩第二首に「蕩子行不v歸、空牀難2獨守1」とあるによりてかけり。獨り空牀を守ることの難きをいふ。
○意欲v寄v書 「寄」はよせ傳ふることなり。
(134)○未v逢2良信1 「信」は使者なり。韻會小補「古者謂v使曰v信也》とあり。
○爰作2方便1 「方便」は佛經の語なり。飜譯名義集卷七引淨名疏云「方是智所v詣之※[行人偏+扁]法、便是菩薩權巧用之。能巧用2諸法1隨v機利v物故云2方便1」と見えたり。
○似2賤媼1 「嫗」は老年の女をさす。和名鈔に「嫗」に「和名於無奈」とあり、こゝは「オミナ」とよむべし。石川女郎が賤の嫗に扮ちたるなり。
○己提2鍋子1 「鍋」は古寫本多くは「堝]につくれり。金と土との差あれど、いづれも「ナベ」をさせり。和名鈔瓦器類に「辨色正成云堝【古禾反奈閉今案金謂2之鍋1瓦謂2之堝1字或相通》」とあり。「子」は支那にて名詞の下に添ふるに用ゐる字なり。「扇子」「倚子」「銚子」「拍子」等例多し。これ火を納れむ料としたるなり。
○到2寢側1 田主の寢ねたる側をいふ。
○哽v音。 「哽」は説文に「語爲v舌所v介也」と見ゆ。「ムセブ」「ムス」などの訓あれど、こゝは老女の聲色をつかふをいへり。
○跼v足 「跼」は古寫本多くは「※[足+滴の旁]」につくる。跼は廣韻に「曲也、俛也、促也」と注し集韻には「※[足+滴の旁]跼不v伸也」と注す。「※[足+滴の旁]」は玉篇に「※[足+滴の旁]躅」行不v進也」とあり。いづれにしても老女の足もとのたど/\しきさまをいへるなり。
○叩v戸諮曰 「諮」は玉篇に「謀也問也」とあり。こゝは「ハカリテ」とよむべし。
○東隣貧女將取火來矣 火種を近隣に乞ひしは往時の實状なり。それを得むが爲に山をも越え行きしことは御伽譚に殘り傳はれり。
(135)○暗裏 暗きうちなり。
○非v識2冐隱之形1 「冐」は玉篇に「覆也」とあり。物をかふりてその形を被ひかくせるを「冐隱之形」といへるなるべし。
○慮外 思慮の外の義。晋書毛※[王+據の旁]傳に「事乖2慮外1」とあるに意おなじ。今の俗語とは異なり。思ひもつかぬ事なればといふ程の事なり。
○不v堪2拘接之計1  「拘」は説文に「止也」とあり。接は説文に「交也」とあり。「拘接」とは止めて交るをいふ意なるべし。
○任v念取v火 「任念」は念のまゝなり。
○就v跡歸去也 「跡」は類篇に「歩處也」とあり、「就」は増韻に「從也」とある意なり。女郎の歩むあとに從ひて送り出すことなり。
○明後 夜明けて後なり。
○既恥2自媒之可1v愧 「自媒」は文選第三十七曹植が求2自試1表に「夫自衒自媒者士女之醜行也」とありて、媒を介せずして自ら嫁するをいふ。
○復恨2心契之弗1v果 心契は心に豫期せしことをいふならむ。
○以贈謔戯焉 「謔」字流布本「諺」に作れど、意をなさず。元暦本に「謔」とあるをよしとす。「謔」は諧謔の熟字にて見る如く、新撰字鏡には「太波夫留」と注せり。「謔戯」二字にて「たはぶれたり」とよむべし。
 
(136)大伴宿禰田主報贈歌一首
 
○報贈歌 「コタヘオクレルウタ」とよむべきか。考に「報贈」を「和」と改め、守部なども之に賛同せるは僻事なり。「和」といふ以上はそれに同意共鳴せざるべからざるものなるを忘れたるなり。これは止むを得ず、その詰問に答へたる歌なるべければ唱和とはいふを得ざるなり。
 
127 遊士爾《ミヤビヲニ》、吾者有家里《ワレハアリケリ》。屋戸不借《ヤドカサズ》、令還吾曾《カヘシシワレゾ》、風流士者有《ミヤビヲニハアル》。
 
○遊士爾吾者有家里 上の如く「ミヤビヲニワレハアリケリ」とよむべし。吾は風流士なりけりとなり。これにて一段落なり。
○令還吾曾 舊訓「令還」を「カヘセル」とよめり。古義は之を改めて「カヘセシ」とよめり。「令」は「ス」をあらはし、「令還」の二字にて「カヘス」なり。されど、「カヘス」は下二段活用にあらずして、四段活用なれば「カヘセシ」とはいふべきにあらずして「シ」をつくるならば、「カヘシシ」とよむべきなり。さて「カヘセル」とよむ時は、有か在かの文字を加へてあるべきに、これなきを以てしかよむべき理由なければ、「カヘシシワレゾ」とよむべし。
○風流土者有 舊訓「タハレヲニアル」とよみたるが、「風流士」は「ミヤビヲ」とよむべきこと既に述べし所なるが、「者」字ある以上たゞ「ニアル」とよむべきにあらねば、略解の如く「ミヤビヲニハアル」とよむべし。古義に「者」を「煮」の誤としたれど證なきことなれば從ふべからず。「者」一字を「ニハ」と(137)よめること前後に例多し。
○一首の意 君は我をおその風流士なりと嘲られたれど、然らず。我こそは眞の風流士なれ。何ぞといふに君の如き淺はかなるたばかりに惑はされず、そのまゝ還らしめたる我こそ眞の風流士なるよとなり。これもまた戯れを以てこたへたるなり。
 
同石川女郎更贈2大伴田主中郎1歌一首
 
○同 この字類聚古集、古葉略類聚鈔及び本書目録になし。考には之を衍なりとして省けり。されど多くの古寫本ここにこの字あれば、理由なくはあらず。按ずるに、これは上の三首の贈答に引つゞきてそれに關聯するものなれば、その事を知らせむ爲か、若くは石川女郎の名は前より屡出でて紛はしければ、上の贈答せし人なるを知らせむが爲なるべし。
○更贈 「更」字を衍なりとして考に省きたり。されど、これは上の「同」と關聯して更めて再び贈れる由を示せるなれば、省くは筆者の眞意をさとらぬわざなるべし。
○大伴田主中郎 「中郎」も「仲郎」も同じ義なり。代匠記に「仲郎」の誤なりとす。されど、畢竟同義なれば、改むるにも及ぶまじ、童蒙抄にこれを「ナカイツラコ」とよみたれど、これは支那風の字なれば、音によむべきなり。又ここは目録に「大伴宿禰田主」とあるによりて、こゝを誤として目録の如くにすべしと考、攷證等に主張し、檜嬬手に「聞2大伴宿禰田主足疾1贈歌」と改作せれど、いづれも強事なり。
 
(138)128 吾聞之《ワガキヽシ》、耳爾好似《ミミニヨクニル》、葦若末〔左○〕乃《アシノウレノ》、足痛吾勢《アシヒクワガセ》、勤多扶倍思《ツトメタブベシ》。
 
○吾聞之 「ワガキヽシ」なり。
○耳爾好似 流布本「ミミニヨクニバ」とあり。仙覺は「ミミニヨクニル」とよみ、古義は「ヨクニツ」とよめり。この一二卷の用字を見るに、「バ」といふ如き特別の意ある助詞を記さぬ例なければ「ニバ」とよむは穩ならず。古義の説は一往理ある如くなれど、かくては三段落となりて歌調くだくべし。仙覺の説をよしとす。「耳」とはきゝたる事をさす古語の一用法なり。卷十一「二五八一」に「言云者三三二田八酢之《コトニイヘバミミニタヤスシ》」とある、その例なり。さてこの「ニル」は終止の用法にあらずして連體として、下の「吾勢」に對しての限定をなす格たるなり。その意はわがかねて噂に聞きし所の如くにあるわが兄といふなり。
○葦若未乃 舊本「若未」とかき「アシカビノ」とよめり。これにつきては古來種々の説あり。先づ、この「若未」の文字につきて、古葉略類聚鈔に「若生」とあるによりて、本居宣長はそれによらば「アシカビノ」と訓ずべしといひ、攷證には「アシカビノ」とせり。訓は古點に「アシノハノ」とよみたるを否として仙覺は「アシカビノ」とよめり。拾穗抄は「アシノハノ」を可とし、代匠記は「アシワカノ」とせり。略解には宣長説によりて「アシノウレノ」とし、守部また同じ説なり。按ずるに、「アシカビ」は「葦牙」とかける如く、葦の芽ざしをいへるなれば「若未」「若生」といふ文字に必ずしも當らず。而して「若未」といふ文字はあるべくもあらねば「若末」なるを誤りしならむ。集中往々「未」「末」混同せ(139)ればなり。而してその「若末」は「ウレ」とよむべきなれば「アシノウレノ」とよむとせる説をよしとす。「若末」の字面は卷十の詠鳥の長歌に「神名備山爾明來者柘之左枝爾暮去者小松之若末爾里人之聞戀麻田山彦乃答響萬田霍公鳥都麻戀爲良思左夜中爾鳴《カムナビヤマニアケクレバツミノサエタニユフサレバコマツノウレニサトビトノキキコフルマデヤマヒコノコタフルマデニホトトギスツマゴヒスラシサヨナカニナク》」(三九三七)とありて古來「ウレ」とよみて異論なき所なり。この「ウレ」につきては別に委しく論ぜるが故に、今略すべきが、「ウレ」といふ語は普通に「末」と同じとのみ考へられたるやうなれど、新しく生長し行く末をいへるものにして生活しつゝある植物にのみいふ語なれば「若末」の文字よく意をあらはせり。又「若生」とありとても、なほ「ウレ」とよむに差支なきことなり。それらは上にいへる「うれ」の考にいひたれば、今略す。
○足痛吾勢 古點に「アシイタワガセ」とよみしを仙覺が改めて「アナヘクワカセ」とよみたるが、京都大學本の一の訓には「アシヒク」とありといふ。童蒙抄には「アシヒカハアセ」とよみ、考には「アシナヘワカセ」とよみ、その他古義には「アナヤム」とし、岡本保孝は「アシイタムワカセ」といひたり。按ずるに、「痛」字には「蹇」の義なければ「ナヘグ」の訓從ひがたし。考に「アシナヘ」と體言に改めたるは更に惡しくしたるものにていよ/\從ひ難し。古義の「アナヤム」といひ、用言とせるはよけれどなほ十分に首肯し難し。按ずるにこの「足痛」は左注に「足疾」と書けるに照して考ふるに、かれは「足疾」とかきて體言とし、ここは「足痛」とかきて用言としてあらはしたるならむ。かくてその「足疾」の文字は卷四「六七〇」の歌に「月讀之《ツキヨミノ》、光二來益《ヒカリニキマセ》、足疾乃《アシヒキノ》、山乎隔而《ヤマヲヘダテテ》、不遠國《トホカラナクニ》」とあり。又「足病」とかけるあり。卷七「一二六二」の歌に「足病之《アシヒキノ》、山海石榴開《ヤマツバキサク》、八岑越《ヤツヲコエ》」。これら「足疾」「足病」いづれも「アシ(140)ヒキ」とよむべきものなるに照して考ふれば、その用言たるものは「アシヒク」なるべきことは疑なかるべし。されば新考の説によりて「アシヒク」とよむべく、意義は足疾になやむ義とすべし。
○勤多扶倍的 「ツトメタブベシ」とよむ。。「ツトメ」は日本紀舒明卷に「慎以自愛矣」の「自愛」を「ツトメヨ」とよめり。この自愛の義を以て釋すべし。「タブ」は「たまふ」の古語たり
○一首の意 われはかねて君が足疾になやみたまふと聞きたり。昨夜御目にかゝりし時見れば果してわが聞く通りにて違なき事なるを知りたり。されば、隨分いたはり、自愛したまへやとなり。これ多少愚弄する意ありと見らる。
 
右依2中郎足疾1贈2此歌1問訊也。
 
○右依中郎足疾 「中郎」を諸家「仲郎」の誤とせり。されど、上の題詞に既に「中郎」とあれば、必ずしも誤にあらず。足疾は如何なる症なりしか、知るべからず。
○贈此歌問訊也 「訊」は玉篇に「問也」と注す。「問訊」二字にて「とぶらふ」なり。
 
大津皇子宮侍〔左○〕石川女郎贈2大伴宿禰宿奈麿1歌一首
 
○大津皇子宮侍〔左○〕石川女郎 「侍」字流布本「待」に作るは誤にして、多くの古寫本によりて「侍」なるを見るべし。「侍」は侍婢從女などの意にして古語「マカタチ」といへりと見え、日本紀の訓にこの語あり。欽明卷に「從女」の訓に、この語を用ゐたり。類聚名義抄には「※[女+賛]」に「マカタチ」の訓あり。この人上に屡あらはれたる石川女郎又は石川郎女と同じき人なりや否や。ここに「大津皇子宮侍」(141)と特にことわれるを見れば、或は別人なるべきにや。元暦本には注して「女郎字曰山田郎女也」とあり。然らば上にある「女郎大名兒也」とは全く別人たり。
○贈大伴宿禰宿奈麿歌 宿奈麿は元暦本に注して「宿奈麿宿禰者大納言兼大將軍卿之第三子也」といへり。この大納言兼大將軍卿とは大伴安麿にして、宿奈麿は實にその第三子たり。この人續日本紀によれば、和銅元年正月に從六位下より從五位下に叙せられ、靈龜元年五月には左衛土督に任ぜられ、養老元年正月に正五位下に叙せられ、養老三年七月に始めて按察使を置かれし時安藝周防二國の按察使に任ぜられ、同四年正月に正五位上神龜元年二月に從四位下を授けられき。その歿年を知らず。
 
129 古之《フリニシ》、嫗爾爲而也《オミナニシテヤ》、如此許《カクバカリ》、戀爾將沈《コヒニシヅマム》、如手童兒《タワラハノゴト》。一云戀乎太爾忍金手武多和郎〔左○〕波乃如。
 
○古之 舊訓「イニシヘノ」とよめり。されど「古の嫗」といふ語は穩かならねば、童蒙抄に「トシヘニシ」とよみたり。されど、「古」を「トシヘヌ」とよむも理無なきことなり。考には「フリニシ」とよむべしといへり。四音となれど、これをよしとす。
○嫗爾爲而也 舊訓「ヲウナニシテヤ」とよめり。されど「ヲウナ」といふ假名にては、女の義にして、嫗の義にあたらず。古寫本には「オムナ」又は「オウナ」とかけるあり。代匠記には「オムナ」といひ、考に「オヨナ」とし、攷證に「オミナ」とせり。この中、考にいへる「オヨナ」といふ語は古今にその例證(142)なき語なれば從ふべからず。「オムナ」といふ語は、和名鈔に嫗に注して「於無女」と訓し、靈異記中卷の訓釋に「嫗於于那」とあり。又新撰字鏡には「※[女+長]【於彌奈】」とあり。按ずるに、嫗は老女をいふ漢字なればその義に該當するやうに訓むべきなり。さて「ヲミナ」「ヲムナ」といふ時は普通の女をさせるものにして老女の時には「オミナナ」「オムナ」とよむべきものなるが、その「オ」は大の義をあらはせるなり。かくてこれは又「オウナ」ともいへるが、その源は「オミナ」にして一轉して「オムナ」となり、再轉して「オウナ」となれるなり。かくて、新撰字鏡にも「於彌奈」と見ゆれば、それより古き時代のこの集にてはもとより「オミナ」とよむべきなり。「ニシテ」は「ニアリテ」の意なり。今俗語「デアツテ」といふにおなじ。「ヤ」は疑の助詞にして、係となり、反語を起す力あり。
○如此許 「カクバカリ」とよむ。この語の假名書の例は卷十五「三七三九」に「可久婆可里古非牟等可禰硝弖之良末世婆《カクバカリコヒムトカネテシラマセバ》」とあり。「ばかり」は今「ほど」といふに似たり。
○戀爾將沈 「コヒニシヅマム」とよむ。「シヅム」は俗に泣き沈むといへるにて知らるべく、臥沈みて泣くをいふ。
○如手童兒 舊訓「タヽワラハコト」とよみたれど意をなさず。古寫本には「テワラハノコト」とよめるもあり、「タワラハノコト」とよめるあり。これは下一説にある「多和良波乃如」と同じ語なるべきによりて「タワラハノゴト」とよむべきなり。契沖ははじめ「タワラハ」とよみしが、後その清撰本に句々異なるものをあげたるものなれば、「テワラハ」とよむべしいへり。されど、これは第三、四句の異なるを示さむとてあげたれど、便宜下句全體をも示したるものと見るをうべきも(143)のなれば、契沖の説必ずしも當れとすべからず。「タワラハ」といふ語の意義につきては契沖はその代匠記の初稿に「ははめのなどの手をはなれぬをいふべし」といひ、考には「母の手さらずひたす程の乳兒をいふ」といへり。然るに、攷證にこの「た」は「發語にて、たもとほり、たばしる、たわすれ、たとほみ、などいふ類のた也」といへり。されど、この發語といへる「た」は用言の上には多くつきてこの他にも「たやすし」「たなびく」などの例あるものなるが、名詞の上に加へたる例はなし。されば、これはなほ「手」の義の著しきものにして考などの説によるべし。なほ手童兒といへる例は卷四「六一九」に「幼婦常言雲知久手小童之哭耳泣管《タワヤメトイハクモシルクタワラハノネノミナキツツ》」とあり。
○一云戀乎太〔左○〕爾忍金手武多和良〔左○〕波乃如 この十六字流布本別行大字にせること左注の如し。されど、元暦本類聚古集等に小字にして本文の下に注記せるをよしとするによりて、今それに從へり。これこの一説には第三、四句の異なる傳あることをいへるなり。而して「太」字「良」字多くは「大」「郎」に作れるが、大矢本京都大學本等に「太」「良」につくれるをよしとするによりて今正せり。その三四句は「コヒヲダニシヌビカネテム」とよむべし。意は明かなり。
○一首の意 年を多く經來し嫗にてある我が、戀によりてかく手童兒の泣きて物を乞ふ如く譯もなく思ひ沈むは如何なる事ぞ。まことにわが戀は小兒の如くすぢもたたぬ事よと切なる心をうたへるなり。
 
長皇子與2皇弟1御歌一首
 
(144)○長皇子 卷一「六〇」にいへり。
○與皇弟御歌 「與」は「アタフル」とよむべきか。皇弟は何人にましまさむか。皇子の同母弟ならば、弓削皇子なり。日本紀天武卷に「妃大江皇女生3皇子與2弓削皇子1」とあるにて知るべし。然れども、皇弟は元來天皇の御弟をさす語なれば皇子の弟の義とするは例に違へり。怪むべし。「弟」といふ語當時男女に通じて、用ゐたれば、或は當時の天皇の皇妹に呈せし歌か。いづれにしても不明なる事といふべし。
 
130 丹生乃河《ニフノカハ》、瀬者不渡而《セハワタラズテ》、由久遊〔左○〕久登《ユクユクト》、戀痛吾弟《コヒタムワガセ》、乞通來禰《コチカヨヒコネ》。
 
○丹生乃河 「ニフノカハ」とよむ。この名の川處々にあり。されど恐らくは、大和なる丹生河ならむか。さて大和にては芳野字智兩郡を流れて吉野川の支流なる丹生河最も著し。この川の上には名高き官幣大社丹生川上神社ありて古來知られたるなり。この川の事は大和志に「字智郡丹生河源出自2吉野郡加名生谷1經2丹原生子等1至2靈安寺村1入2吉野川1」と見えたり。この附近はかの内野のあるなるのみならず、後に、井上内親王、他戸廢太子などの幽閉せられてまし、その後御陵墓も亦この地附近にあり。靈安寺といふもその御靈を鎭め奉らるろ爲の社なれば、この邊古より皇室に縁故深かりしなり。よりて思ふに、長皇子とこの皇弟なる方と二皇子この川の彼方此方に住みたまひしならむ。
○瀬者不渡而 舊訓「セヲハワタラテ」とよみたり。されど、「ワタラデ」は後世の語遣なれば、契沖は(145)「セハワタラズテ」とよめり。これに從ふべし。「ズ」より「テ」につづくるは中間に「アリ」又はその代用なる「し」などを略せるものなるが、この期にこの用法既に存せり。例へば、卷五「八七九」に「阿米能志多麻乎志多麻波禰美加度佐良受弖《アメノシタマヲシタマハネミカドサラズテ》」「八八一」に「阿良多麻能吉倍由久等志乃可伎利斯良受提《アラタマノキヘユクトシノカギリシラズテ》」など例多し。河の瀬をば渡らずしてなり。
○由久遊久登 流布本「遊」を「※[しんにょう+(竹/夾)]」に誤れり。多くの古寫本みな「遊」とかけるを正しとす。よみ方は古來「ユクユクト」とありて、異説なし。その意は契沖は「大舟のゆくらなどよめるに同じ」といひ、「思ふ心のはかゆかでのびのびなる意なり」といへり。略解には又「物思ひにたゆたふ也」といひたり。然るを攷證にはこれらを「あまり思ひすぐしたる説也」と評し、さて拾遺集なる菅原道眞公の「君がすむ宿のこずゑのゆくゆくとかくるるまでにかへり見しはや」といふ歌を基として、「菅家はこの御歌の由久遊久等を行行とと心得給ひしと見えたり」といひ、なほ「これによりてここをば行行とと心得べし。まへに丹生の川瀬はわたらずてといひくだしたるにては、行行の意なるを知るべし」といへり。されど、ここは「戀痛」といふ語をあらはむ爲の前置なれば、「行行」といふ語にては何の意もなき事なれば、なほ「ゆくらゆくら」の意と見らる。「ゆくらゆくら」は猶豫ふ心にて卷十七「三九六二」に「大船乃由久良由久良爾思多呉非爾伊都可聞許武等麻多須良武情佐夫之苦《オホフネノユクラユクラニシタゴヒニイツカモコムトマタスラムココロサブシク》」卷十九「四二二〇」に「於保夫禰能由久良由久良耳於毛可宜爾毛得奈民延都都可久古非婆《オホブネノユクラユクラニオモカゲニモトナミエツツカクコヒバ》」など、戀ひ慕ふ心の状の形容に用ゐたるはここと同じきを見るべし。
○戀痛 舊訓「コヒイタム」とよめり。契沖は之によりて、「戀佗て心の痛むなり」といへり。童蒙抄(146)には「コヒワブ」といへるが、意義は通ずれど、「痛」を「ワブ」とよむは如何なり。考は「コヒタム」といひて説明なけれど、蓋し、「コヒイタム」を約していへりとせるならむ。略解には「コヒタキ」とよみて「いと戀しきを強くいふ詞也。愛るを愛痛《メデタキ》といふが如し」といへり。守部の説も略之に同じ。今按ずるに「メデタキ」などとこの「戀痛」とは詞の類、別なるべし。「愛痛」は「メデイタキ」といふ詞よりいでたる如くに見ゆる字面なれど、これは元來「めでたき」といふ形容詞なるを偶然「愛」と「痛」との二語を合せたるに似通ひたれば借りてかく表せるに止まるものならむ。然るに、「こひたき」といへる形容詞のあるべしとも思はれず、又古來の文獻にその證なければ、略解の説には從ふを得ず。攷證は又「コヒタム」とよみて、その「タム」は「集中回轉などの字をよみてものなづみゆく意にいへり。されば、こひたむのたむはまへのゆく/\とへかかりて戀になづみて行たむ意也」といへり。されど、回轉の意の「たむ」は行動又は道路などにいひて、しか戀など心の上に用ゐたりとは思はれず、攷證の説も僻せりといふべし。これはすなほに文字通りに、契沖説の如くに戀ひ痛むにてよかるべし。但し、字餘りとなればよみ方は考の方に從ふべきか。
○吾弟 舊訓「ワガセ」とよめり諸家多く之に從へり。古義には「アオト」とよむべしといへり。これは、皇弟の實體如何によりてよみ方に變動を生ずべきが、その實體明かならねば、いかによまむとも確定的のものにはあらざるべし。契沖は「此に弟の字をかける端作に皇弟とあれば意を得て義訓せり」といひて、「ワガセ」とよませたり。今姑く之に從ふ。
○乞通來禰 舊訓「コチカヨヒコネ」とよめり。代匠記には「イデカヨヒコネ」ともいひ略解それを(147)決定的にとり扱へり。「乞」を「コチ」といふ語に用ゐたる例は卷七「一〇九七」に「吾勢子乎乞許世山登《ワカセコヲコチコセセヤマト》」卷六「九二〇」に「越乞爾思自仁思有者《ヲチコチニシジニシアレバ》」卷七「一一三五」に「阿自呂人舟召音越古所聞《アジロヒトフネヨバフコヱヲチコチキコユ》」卷十二「二九七三」に「越乞兼而結鶴言下紐之所解日有米也《ヲチコチカネテムスビツルワガシタヒモノトクルヒアラメヤ》」等あり。又「乞」を「イデ」とよむべきは卷一(八)に既に例あり。意はいづれにても通ずべきさまなるが、「通來る」といふ語によくあはせむには「コチ」の方によるべきならむ。「來禰」を「コネ」といふは「コ」にて命令希求の語法をあらはせるに更に「ネ」といふ懇に念を推す意の終助詞を加へたるなり。その例は古事記中神武卷の歌に「志麻都登理宇加比賀登母伊麻須氣爾許泥《シマツトリウカヒガトモイマスケニコネ》」といふなどあり。
○一首の意 我は吾弟の君を見まほしく思へど、丹生の瀬を渡ることを得せずして君を戀ひさまさまに心を痛めつつあるなり。吾弟の君よ。願はくは御身より此方へ通ひ來たまへかしとなり。
 
柿本朝臣人麿從2石見國1別v妻上來時歌二首并短歌
 
○柿本朝臣人麿 卷一(二九)にいへり。
○從石見國別妻上來時 人麿は大方京に在りし人なりしことは前後の歌によりて知られたり。然るにここに石見國より上り來るとあるによれば國司としてその國に在任せしことありしならむ。その官職の程を考ふるに、史籍に記載する所なければ、守介などの顯職にあらず、掾目などのうちにありしならむか。かくてこの歌妻を國に止めおきて上京せるなれば、任滿ちて(148)歸京せし時にはあらずして、朝集使などとなりて、上京せし時の歌ならむ。朝集使は諸國より介掾目等を使として朝集帳を持ちて京に上せて辨官その他式部省兵部省等に就いて、雜政并に考選を申すなり。畿内は十月一日に上り、諸國は十一月一日に奉る。延喜式によるに調を貢する石見國の行程は上廿九日下十五日なり。されば人麿が朝集使としての石見國發程は十月の朔日頃より遲くとも十日頃までにありしことを想像しうべし。この妻何人なるか、明記なけれど次に依羅娘子と記せる、その人なるべし。然るに考の別記に人麿に妻四人あるかなどの説ありて、ここの妻と次の依羅娘子とは別人なりとせり。されど、「妻」は字義によれば「齊也」とありて、嫡妻にのみ用ゐるべき字にして、妾をも妻とかくことは、この時代既にあるべきにあらず。考及びその説に賛せる諸家の説強言なりとす。攷證にはこの下に「四首」の二字脱せりといひて補へり。然れども本集の體例しか定まれるにあらず。ここは長歌を主としていひたるなればこのままにてあるべきなり。
 
131 石見乃海《イハミノミ》、角乃浦回乎《ツヌノウラミヲ》、浦無等《ウラナシト》、人社見良目《ヒトコソミラメ》、滷無等《カタナシト》、【一云礒無登】 人社見良目《ヒトコソミラメ》、能咲〔左○〕八師《ヨシヱヤシ》、浦者無友《ウラハナクトモ》、縱畫屋師《ヨシヱヤシ》、滷者《カタハ》【一云礒者】無鞆《ナクトモ》。鯨魚取《イサナトリ》、海邊乎指而《ウミベヲサシテ》、和多豆乃《ワタツノ》、荒礒乃上爾《アリソノウヘニ》、香青生《カアヲナル》、玉藻息津藻《タマモオキツモ》、朝羽振《アサハフル》、風社依米《カゼコソヨラメ》、夕羽振流《ヨヒハフル》、浪社來縁《ナミコソキヨレ》、浪之共《ナミノムタ》、彼縁此依《カヨリカクヨリ》、玉藻成《タマモナス》、依宿之妹乎《ヨリネシイモヲ》、【一云波之伎余思妹之手本乎》】露霜乃《ツユシモノ》、置而之來者《オキテシクレバ》、此道乃《コノミチノ》、八十隈毎《ヤソクマゴトニ》、萬段《ヨロヅタヒ》、顧爲騰《カヘリミスレド》、彌遠爾《イヤトホニ》、里者放奴《サトハサカリヌ》、益高爾《イヤタカニ》、山毛越來奴《ヤマモコエキヌ》。夏草之《ナツクサノ》、念之奈要而《オモヒシナエテ》、志怒布良武《シヌブラム》、妹之門(149)將見《イモガカドミム》、靡此山《ナビケコノヤマ》。
 
○石見之海 古來「イハミノウミ」とよみしを。考には「イハミノミ」とよむべしといへり。これは、日本紀神功卷の歌に二所共に「阿布彌能彌《アフミノミ》」(淡海の海)とあるを據としての事なるが、從ふべきに似たり。
○角乃浦回乎 舊訓「ツノノウラワヲ」とよめり。略解には「ツヌノウラマヲ」とよみ、古義には「ツヌノウラミヲ」とよめり。「角」は元來地名にして、和名鈔郷名に「石見國那賀郡都農【都乃】」とある、これにして、後世專ら「ツノ」といひ、今「都農津」といへる地その主點たり。さて「ツヌ」「ツノ」同じ語にして、音に古今の差あるなるが、この地名當時「ツノ」といひしか「ツヌ」といひしかと考ふるに本集卷十七、「三八九九」にある「都努乃松原《ツヌノマツハラ》」とかける地は、卷三「二七九」に「角松原」とかき、又古事記仲哀卷に「高志前之角鹿」とかける地名を同應神卷の顔に「郡奴賀」とかけり。されば古は「ツヌ」といひしなるべく、「農」も古「ヌ」の假名に用ゐしことは、卷五「八八二」に「阿就農斯能美多麻多麻比弖《アガヌシノミタマタマヒテ》」など、集中いづれも「ヌ」にのみ用ゐたり。されば、古「ツヌ」とよびしならむ。「浦回」の「回」を「ミ」とよむべきことは卷一(四二)にいへり。浦は和名妙に「四聲字苑云浦【傍古反和名宇良】大川勞曲渚舩隱v風所也」とあり。「浦ミ」はその浦のあたりなり。されば、「ツヌノウラミ」とは今の都農津を主點としたるその邊一帶の海濱をさせり。さてその妻は國府におきたるなるべければ、ここはそこより東四五里にあり。
○浦無等 舊訓「ウラナミト」とよみたるが、又「ウラナシト」とよめる古寫本もあり。考には「ウラナ(150)シト」とよめり。「ナミ」といはゞその下に、その歸結の語存せざるべからざるものたるが、ここにはしかよむべき理由なければ、「ナシト」とよむをよしとす。「浦無し」の義は契沖が「能浦なし」といへるをよしとす。
○人社見良目 「ヒトコソミラメ」とよめり。「社」を「コソ」とよめるは古語と見えたり。日本紀孝徳卷大化二年二月の條に「神社福草《カミコソノサキクサ》」といふ人あり。又天武卷上に、「社戸臣大口」といふ人あり。この「社戸」は「コソヘ」とよみて、日本紀孝徳卷の注に「阿倍渠曾借臣」とかけるに同じき氏なり。これは、攝津國島上郡古曾部の地に因みある氏なるが、この外「社」が「コソ」といふ語にあたれる證少からず。その「コソ」をばこゝに助詞の「コソ」に借り用ゐしなり。「ラメ」は「ラム」の已然形にして、上の「コソ」の係に對する結なるが、この「ラム」は通例終止形所屬の複語尾なるが上代には上一段活用の動詞に限りて、その連用形より「ラム」「ラシ」につづけたるなり。今「ミラム」と假名書にせる例をあげむに、卷五「八六二」に「比等未奈能美良武麻都良能多麻志末乎《ヒトミナノミラムマツラノタマシマヲ》」又「八六三」に「伊毛良遠美良牟比等能等母斯佐《イモラヲミラムヒトノトモシサ》」とあるにて知るべし。これを「みるらむ」の略といへるは當らず。もとより古の語法の一格なり。「みらむ」の語遣は古今集にも見ゆ。
○滷無等 「カタナシト」とよむべし。「滷」は玉篇に「潟」と同字なりとし、廣韻亦然りとせり。されば新撰字鏡にもこの字に「加太」と注なり。「カタ」といふ語は和名鈔にも見えたり。それらの「カタ」は干潟の義にして普通にはいづれもみな然釋せり。而して日本海岸は概して干潟少き地なるが、これは古今を通じてかはらざるべし。然るにここに考ふべきことあり。そは他にあら(151)ず、日本海岸にて「かた」といへるは太平洋岸にての「カタ」といへるものとは異にして、一種の鹹湖をさす名稱として用ゐたるが、この事は古代よりと見ゆ。この「カタ」は海岸にありて、砂洲にて海と界せる湖水にして、古來名高き象潟、八郎潟の如きはもとより「若狹の三方郡の名は今もある、三の潟より出でし名なり。又但馬に二方郡といふがありしも(今は七美郡と二方郡と合せて美方郡といふ)古は二の潟ありしが故なるべし。その他、山陰、北陸、東山の沿海には潟の名ある地頗る多きが「陸奧に「十三潟」(青森縣)加賀に「柴山潟」「河北潟」能登に「邑知潟」越後に「鎧潟」等は今も存す。又地名に潟とありてその地に今潟なきは、其の地海中に陷没せしならむ。而して、かかる潟は通常風景よき地なれば、(出羽の象潟の如きことに名高し)この「カタナシト」も亦「よき潟なし」といふ義なるべし。
○一云礒無登 この「一云」は一本にかくあるをいへり。「イソナシト」よむべし。但し、これはよしとは思はれず。
○能咲八師 流布本に「能嘆八師」と「嘆」字をかきたれど、これを「ヱ」とよまむは無理なり。元暦本大矢本等多くの古寫本に「咲」とあるを正しとす。これは「卷十一「二六五九」に「縦咲八師《ヨシエヤシ》」卷十二「二八七三」に「縱咲也思《ヨシヱヤシ》」卷十三「三二二五」に「吉咲八師浦者無友《ヨシヱヤシウラハナクトモ》」とあるなどにて「咲」を「ヱ」にあて用ゐたるを見る。この「咲」は「笑」の俗體の字にして「ゑがほ」「ゑくぼ」「ゑつぼ」の「ゑ」にあたる語なり。さて又この「よしゑやし」といふ語の全く假名書なる例は卷十五「三六六二」に「與之惠也之《ヨシヱヤシ》》卷十七「三九七八」に「與思惠夜之《ヨシヱヤシ》」とあり。これにてそのよみ方を確むべし。さてこの語は先づ「ヨシエ」と「ヤシ」と(152)に分ちて見るべき語なり。「ヤシ」は古事記上卷に「阿那邇夜志《アナニヤシ》」又本集卷七「一三五八」の「波之吉也思《ハシキヤシ》」などの「ヤシ」におなじく、感嘆の意ある間投助詞「ヤ」と「シ」とを重ねたるなるが、意の主點は「ヤ」にありて、「ヨ」といふに似たり。さればこの「ヨシエヤシ」の主たる意は「ヨシヱ」といふにあり。「ヨシヱ」といふは本集にては別に、卷十一「二五三七」に「心者吉惠君之隨意《ココロハヨシヱキミガマニマニ》」といふあり。さてこの「ヨシヱ」も亦「ヨシ」と「ヱ」に分ち見るべきものにして、その「ヱ」は感嘆の終助詞にして、日本紀天智卷の童謠に「愛倶流之衛《エクルシヱ》」「阿例播倶流之衛《アレハクルシエ》」又本集卷四「四八八六」に「吾者左夫思惠《アレハサブシヱ》」卷十四「三四〇六」に「安禮波麻多牟惠《アレハマタムヱ》」とあるが如く、すべて終止するをうる形につくものなり。さればこれはただ「よし」といへるなり。この「よし」は次に「縱」字をかける如く「そのままに任す意をあらはすなり。かくてその意は後世の「ままよ」といふにも似たるが、ここにては「よしゑやし」にて後世の「よしや」といふ語に似たる意と用とをなせり。即ち「よしや云々なりとも」といふべき關係の語遣なりとす。
○浦者無友 古來「ウラハナクトモ」とよみ來れるを玉の小琴に「ナケドモ」と改むべしといひ、之を古言の一格なりと論じてより人多くは之に從へり。されど、これは上に「よしゑやし」と許容放任の語法をとれるに對する語法にして、必ず假設の戻續條件なるべきこと古今一貫せり。如何に古言なりとも、假設の條件をば已然形よりすることあるべからず。されば舊訓の如くにてよし。かくの如き語の實例は卷十五「三六六二」に「與之惠也之比等里奴流與波安氣婆安氣奴等母《ヨシエヤシヒトリヌルヨハアケバアケヌトモ》」などあり。形容詞の未然形又「ク」より「とも」につづけたる例は卷十五「三七六四」に「山川乎奈可爾敝奈里弖等保久登母《ヤマガハヲナカニヘナリテトホクトモ》」などあり。或は之をば、石見國には事實上、よき浦なく、よき潟なきに(153)よりて「なけども」といへりといふはこれまた人間の生きたる言語を知らぬ空論なり。かかる場合に「人が惡くいふなら〔二字右○〕さうにしておけ」などいふ「なら〔二字右○〕」も、人の惡くいふが事實なる場合にも「なら」といふ假設條件を用ゐて、それに拘泥せぬ場合の語遣とするを見よ、血ありて活ける人の言語は空論にて變更しうるものにあらず。
○縱畫屋師 「ヨシヱヤシ」とよむこと上に同じ。この「縦」を「ヨシ」とよむは「その語の本義を示せる正字なり。延喜式太政官式に「史仰云縱謂曰2與志1」とあるが如きその適例にしてこれはゆるす意をいへる語なり。「畫」はその「ヱ」なる音をとりて借りたる假名なり。
○滷者【一云礒者】無鞆 「カタハナクトモ」とよむこと上の「ウラハナクトモ」に同じく、その語の意も同じ。「一云」は上の場合に同じく「イソハ」とありとなり。但し、これはもとより本行の方によるべし。○ 以上一段落なるべし。上四句のさまは卷十三「三二二五」に「天雲之影塞所見隱來笶長谷之河者浦無蚊船之依不來《アマグモノカケサヘミエテコモリクノハツセノカハハウラナミカフネノヨリコヌ》、礒無蚊海部之釣不爲《イソナミカアマノツリセヌ》、吉咲八師浦者無友吉畫矢寺礒者無友《ヨシヱヤシウラハナクトモヨシヱヤシイソハナクトモ》、奧津浪諍榜入來白水郎之釣船《オキツナミイソヒコギリコアマノツリフネ》」に似たるが、それはその「よしゑやし……とも」の下にそれに對する歸結の語あるに、ここにはその歸結の語なし。されども、この下に契沖が「人は浦もなく潟もなしと見るとも吾ためには故郷にして妻とたぐひてすめば浦なし滷なしとも思はず、住よしとなり」といへる如き意ありとす。されば、この歸結の語を略したる格にしてそれを含めて解すべく、隨つてここにて一段をなすなり。
○鯨魚取 「イサナトリ」とよむ。海の枕詞なり。日本紀允恭卷の歌に「異舍儺等利宇瀰能波麻毛(154)能《イサナトリウミノハマモノ》」とあり。又本集卷十七「三八九三」に「伊佐魚取比治奇乃奈太乎今日見都流香母《イサナトリヒヂキノナダヲケフミツルカモ》」ともあり。「イサナ」は鯨の事にして、卷三「三六六」に「勇魚取《イサナトリ》」とかける勇魚の義なり。仙覺抄又詞林釆葉抄に引ける壹岐風土記に「鯨伏【在郡西】昔者※[魚+台]鰐追v鯨、鯨走來隱伏故云2鯨伏1云々俗云v鯨爲2伊佐1」とあり。
○海邊乎指而 舊訓「ウナビヲサシテ」とよみ、攷證などに之をよしとせれど、その證とせる卷十四「三三八一」の「奈都蘇妣久宇奈比乎左之※[氏/一]等夫登利乃《ナツソヒクウナヒヲサシテトブトリノ》」を證とすれども、これは地名なるべくして、ただ海邊といふにあらぬことは古義に既に論ぜり。さて卷十八「四〇四四」に「波萬部余里和我宇知由可波宇美邊欲利牟可倍母許奴可《ハマベヨリワガウチユカバウミベヨリムカヘモコヌカ》」とあるによりて「ウミベヲサシテ」とよむべし。さてこの下に「行ク」といふ語を置きて考ふべし。
○和多豆乃 舊訓「ニギタツノ」とよめり。これは仙覺の按出せしものにして、これは下の歌に「柔田津」とあるより考へつきしことなるべきが、この國にかかる地名の存せりといふ證なき限りは無理なることなり。ここはなほ文字のまま「ワタツノ」の四音によむべし。これは今渡津村とて角津の東にある地をさせるならむ。その名義は江川の渡の津の義なるべし。
○荒磯乃上爾 舊訓「アライソノウヘニ」とよみ、代匠記に「アリソ」ともよみ、考には、全く「アリソ」と改めたり。集中卷十七「三九九一」「之良奈美能安里蘇爾與須流《シラナミノアリソニヨスル》」「三九九三」に「之夫多爾能安里蘇乃佐伎爾《シブタニノアリソノサキニ》」など、例多し假名書なるに「アリソ」とあれば、しかよむべきなり。但し名義は荒き磯といふにあらずして現礒《アライソ》の義なるべし。さてこの下にも「生ふる」といふ語を略してありと心得べし。
○香青生 「カアヲナル」とよむ。この「生」字は生成の「ナル」の字なるを「ニアル」の約なる「ナル」に借用(155)せるなり。「カアヲ」の「カ」は所謂接頭辭にして深き意義なし。卷五「八〇四」に「美奈乃和多迦具漏伎可美邇《ミナノワタカグロキカミニ》」などあるその例なり。この一句青色なるの義なり。以上且は實景をよみ、且は玉藻奧津藻といふ語を導かむ科とせり。
○玉藻息津藻 「タマモオキツモ」とよむ。玉は美稱。「息」は「オキ」といふ語なるを奧の意の「オキ」に借り用ゐたるためなり。「オキツ藻」とは海の奧に生ふる藻なり。日本紀卷二に「憶企都茂播陛爾播譽戻耐母《オキツモハヘニハヨレドモ》」とあり。
○朝羽振 「アサハフル」とよむ。契沖曰はく「和名に鳥の羽振に※[者/羽]の字を出せり。はふくとも同じ詞なり。風の海水をうちて吹來る音は鳥の羽を打て振ふ樣なれば喩てかくいへり」と。攷證には「羽振は風波の發りたつを鳥の羽を振にたとへたる也」とも「それを朝ふく風に浪の起にそへてあさはふるとはいへる也」ともいへり。次の「夕羽振」に對して對句としたるにて、朝夕に風のふくを形容していへるなり。
○風社依米 「カゼコソヨラメ」とよむ。略解には「ヨセメ」とよみたれど、「依」は「ヨル」とよむべき文字なり。古義には「來依」の誤なりとせれど證なし。從來の訓によるべし。さて從來の説にては、風にこそ依るらめの意なりとせり。されどかかる場合の「に」を省くこと例を見ざれば、從ひがたし。按ずるに、これはただ風の吹き來るをいひたるにて、下の浪の生ずる事をいはむ序なり。
○夕羽振流 舊來「ユフハフル」とよみ來れり。考には「流」字衍とせり。されどかかるかきざま集中に多し。按ずるに、「あさ」に對してはいづれも「ヨヒ」といひたる事卷一「五」にいひし所の如くな(156)れば、ここも「ヨヒハフル」なるべきなり。意は上の「朝羽振」と對句をなして朝夕に羽振るといふなり。
○浪社來縁 舊訓「ナミコソキヨレ」とよみたるを萬葉集※[手偏+君]解に「ナミコソキヨセ」とよめり。されど「縁」は元來「ヨル」といふべき字なれば、舊のままにてよかるべし。浪こそより來れといふなり。これは契沖が「此浪も風に依て立てば、夕はふるといへり」といへり。この「夕はふる」は「朝はふる」に對する句としてあげたるまでにして朝に風ふけば、夕に浪立つといふ意にはあらず。(さる事實際にあるまじきは論をまたず。)これは朝夕に風のふきよれば、浪もそれに伴ひて立ちてきて岸による由をいへるに止まる。以上二句次の浪をいはむ料にして上の玉藻息津藻に直接の連絡なし。さてこの下に「然る時には」の意をこめて釋すべし。
○浪之共 「ナミノムタ」とよむ。「ムタ」は「共ニ」といふ意に似たる古語なるが、必ず「何ノムタ」「何ガムタ」といひて「ト共ニ」の意をなせり。卷十五「三六六一」に「可是能牟多與世久流奈美爾《カゼノムタヨセクルナミニ》」又「三七七三」に「君我牟多由可麻之毛能乎《キミガムタユカマシモノヲ》」などあるその例なり、上にいへる玉藻息津藻が浪のよるにつれてなびきよるをいはむとてなり。
○彼縁此依 「カヨリカクヨリ」とよむ。彼を「カ」といひ此を「カク」といふが二者相對して用ゐたる例古極めて多し。古事記應神卷に「迦母賀登和賀美斯古良《カモガトワガミシコラ》、迦久母賀登阿賀美斯古邇《カクモガトアガミシコニ》」又卷四「六二八」に「鹿※[者/火]藻闕二毛《カニモカクニモ》」卷五「八〇〇」に「可爾迦久爾保志伎麻爾麻爾《カニカクニホシキマニマニ》」卷十七「三九九一」に「可由吉加久遊岐見都禮騰母《カユキカクユキミツレドモ》」など例多し。彼方により此方によりさまざまの状態にしての義なり。さて(157)これは古義には「ヨル」とよみ切るべしといへり。若し古義の如くせぱ、「玉藻奧津藻の……かよりかくよる」といひて一段落となり、下の句とは縁なくなるべきなり。かくては歌の意通らぬ事とならむ。從ふべきにあらず。これは上の玉藻奧津藻の浪の共彼より此くよりする如くといひて下の「玉藻成すよりねし妹」を導かむ料なり。
○玉藻成 「タマモナス」とよむ。この「ナス」は「ノ如クニアル」の義あるなり。「依る」の形容に用ゐたり。
○依宿之妹乎 「ヨリネシイモヲ」とよむ。「ヨリヌ」とは傍にて添ひて宿ぬるをいふ。古事記允恭卷の歌に「余理泥弖登富禮《ヨリネテトホレ》」とあり。上述の如く依り添ひ寢し妹をばの義なり。最愛の妻をばの義なり。
○一云波之伎余思妹之手本乎 これは一本に上二句を「ハシキヨシイモガタモトヲ」とありとなり。「波」字流布本誤れり。多くの古寫本によりて改めたり、「はしき」は「愛すべき由をいふ形容詞なり。「ヨシ」は「アヲニヨシ」の「ヨシ」におなじ。さてこの語ここにてはよしとも思はれず。本行の方まされり。
○霜乃 「ツユシモノ」とよむ。玉勝間にはこれを露の事にして露と霜との二にあらずといへれど、ここにてはさる説は必要なし、露も霜も共に地におくものなれば「置く」の枕詞とせるまでなり。「露霜」といふ一種の露とすべき理由もなし。
○置而之來者 「オキテシクレバ」とよむ。「オキテ」とは殘し置くの義なるにて卷一に「倭乎置而」(二(158)九)以來屡例ありしものなり。妻を國に留め置きて別れ來ればなり。
○此道乃 「コノミチノ」とよむ。この道は人麿の今通る道即ち國府より都農の浦、渡津と經來る道なり。
○八十隈毎 「ヤソクマゴトニ」とよむ、これは卷一「七九」に「八十阿不落《ヤソクマオチズ》」とあると趣同じ。意もかれに準じて知るべし。
○萬段 「ヨロヅタビ」とよむ。これも卷一「七九」にあり。
○顧爲騰 「カヘリミスレド」とよむ。かへりみれどといふを意を強めたるいひ方なり。
○彌遠爾 「イヤトホニ」とよむ。卷二十「四三九八」に「伊也等保爾國乎波奈例伊夜多可爾山乎故要須疑《イヤトホニクニヲキハナレイヤタカニヤマヲコエスギ》」とあり。行程の進むにつれてますます遠くなるをいへり。
○里者放奴 舊本「放」にかななし。古寫本中に「サトハハナレヌ」とよめると「サトハサカリヌ」とよめるあり。契沖は「サトハワカレヌ」とよみ、童蒙抄には「サトハサカリヌ」とよめり。さて考が童蒙抄の説を奉じてより後皆之に從へり。「サカル」は卷五「七九四」に「伊弊社可利伊麻須《イヘザカリイマス》」とある如く、その間に隔りのあるをいふ語なり。後世の「遠ざかる」といふ語も之に基づけり。
○益高爾 舊本「マスタカニ」とよみたれど語をなさず。童蒙抄に「イヤタカニ」とよみ、考は「マシタカニ」によみたり。されど、これは本居宣長の説の如く「イヤタカニ」をよしとす。その語例は上の「彌遠爾」の下にあげたり。又卷十三「三二四〇」に「道前八十阿毎嗟乍吾過往者彌遠丹里離來奴《ミチノクマヤソクマゴトニナゲキツツワガスギユケバイヤトホニサトサカリキヌ》、彌高二山文越來奴《イヤタカニヤマモコエキヌ》」などあるにてその意をさとるべし。
(159)○山毛越來奴 「ヤマモコエキヌ」とよむ。進むにつれて、いよ/\高山を多く越え來ぬとなり。
 以上第二段落なり。
○夏草之 「ナツクサノ」とよむ。夏の草は烈しき日にあたりて萎ゆるものなれば、次の思萎ゆの枕詞とせり。
○念之奈要而 「オモヒシナエテ」とよむ。契沖は下なる長歌に「思志萎而」と書けるによりて「シ」を助詞とし萎を痿の義とせるによりて諸家之に從へり。然れども、卷十「二二九八」に「於君戀之奈要浦觸《キミニコヒシナエウラブレ》」卷十九「四一六六」に「宇知嘆之奈要宇良夫禮《ウチナゲキシナエウラブレ》」とある例を見れば、「シ」を助詞なりと釋すること能はず。これは「ナエ」と意は似たれど、別の詞にして「シナエ」はヤ行下二段活用なる一種の動詞たるなり。種々に思ひわづらひて力なきさまになるを草の日にあたりてしなしなとなれるにたとへたるなり。さて又「しなふ」(撓)といふ詞とも別なり。
○志怒布良武 「シヌブラム」なり。意は上に屡いへり。これは連體格にして下の妹につづけて「シヌブラム妹」といふなり。思ひしなえてわれを戀ひ思ふらむ妹といふなり。これはわが妹を思ふことの切なるを妹の上に投影していへるなり。
○妹之門將見 「イモガカドミム」なり。上にいへる如く思ひ戀ふる妻の家のあたりを見むと欲するなり。
○靡此山 「ナビケコノヤマ」とよむ。今見る前方の山に靡けと命令せるなり。山に靡けといふは高き山の低く平に横に長くなびき臥せよとなり。かくせば、先の方のよく見らるべきわけ(160)なり。されど山の靡くなどはあるべきことにあらぬは勿論なるを戀情の切なるあまりの詞にして、その意氣の壯なる、げにも人麿の歌といふべし。卷十二「三一五五」に「惡木山木末悉明日從者靡有社妹之當將兒《アシキヤマコヌレコトゴトアスヨリハナビキタレコソイモカアタリミム》」といへるも似たる思想なるが、この方は意切なりとす。
○一首の意 第一段は國府を立ち出でて今通る石見の海なる角の浦をば人々の見て或はよき浦なしといひ或はよき潟なしといふやうなるが、よしやよき浦はなくとも又よしやよき潟はなくとも、われはわが愛する妹の住める地なれば然るべき地と思ふとなり。第二段はその妹のあたりを離れて旅行するをいへるにてこの角の浦をわが行けば、渡津に至る、その渡津の荒磯の上に生ふる青き藻が、朝夕ふく風が海邊によれば、それにつれて浪の立つが、その浪のとほりに、彼方により、此方による如く、その玉藻の如く、我に依り添ひ寢し、妻をば國に留め置きて來れば、わがこの旅道には幾度も/\顧みすれば、行くに從ひて益遠く里を放れ、益高く山を幾重も越え來て今は妹があるあたりも見えずなりぬとなり。第三段はかく來りて思へば、國には種々に思ひ出して我を思ひ戀ふらむ妹のあるを、その妹が門を見むと思へば高角山にさはりて見えぬなり。この山がせめて低くもあらば見えむものを。この山よ汝は邪魔物なれば、かたすみに靡きよりてわが妹のあたりを見ゆるやうにせよとなり。「靡けこの山」といふあたりその戀情の切なるをあらはしえて古今に稀なるうたなりとす。
 
反歌
 
(161)○ 元暦本、大矢本、京都大學本等にこの下に二首の二字あり。實に二首あるなれば、ある方よかるべし。又目録には反歌となくして短歌とかけり。この故に檜嬬手には反歌を誤とせり。然れども、いづれにしてもよきことなり。
 
132 石見乃也《イハミノヤ》、高角山之《タカツヌヤマノ》、木際從《コノマヨリ》、我振袖乎《ワガフルソデヲ》、妹見都良武香《イモミツラムカ》。
 
○石見乃也 「イハミノヤ」とよむ。「ヤ」は間投助詞にして、調を添ふるのみにして、語の意義にも語の資格にも大なる影響を與ふることなし。その例は日本紀繼體卷に「阿符美能野※[立心偏+豈]那能倭倶吾伊《アフミノヤケナノワクゴイ》」又本集卷十四「三四四五」に「美奈刀能也安之我奈可那流《ミナトノヤアシガナカナル》」などみな「の」の下に「や」の添へるなり。意は「イハミノ高角山」とつゞくるものなり。
○高角山之 舊訓「タカツノヤマノ」とよめり。このよみ方惡しとにはあらねど、角を古く「ツヌ」とよめるに從ふ時は考の如く「タカツヌヤマノ」とよむべきなり。この山の所在詳かならず。或は「都野津の海岸に突出せる丘陵を指せるなるべし」といふ説もありて、この山の西に人麿神社あり。されどそは誤なることは石見國名跡考(石見藤井宗雄著)に指摘せり。而して今この名を以て知られたる山を知らず。然れども人麿が上京の順路にして石見國にあり、しかも、その妻の住せるあたりの詠めやらるる地點なりしことは歌の上より察せらる。
○木際從 「コノマヨリ」とよむ。考には一本に「從」の下に「文」とある本ありといひ、その本を可として、「コノマユモ」とよめり。然れども、今傳はれる諸の寫本に「文」の字ある本を見ざれば疑ふべき(162)のみならず、「モ」を加へずしては不可なりといふこともなく、このまゝにて意もよく通り、調も惡きにあらず。
○我振袖乎 「ワガフルソデヲ」とよむ。袖を振るは、別れを惜む心を遙に隔りたる先方に知らせむ爲に行ふわざなり。卷六「九六六」に「倭道者雲隱有《ヤマトヂハクモカクリタリ》、雖然余振袖乎無禮登母布奈《シカレドモワカフルソデヲナメシトモフナ》」卷七「一〇八五」に「妹之當吾袖將振木間從出來月爾雲莫棚引《イモガアタリワガゾデフラムコノマヨリイデクルツキニクモナタナヒキ》」卷十一「二四八九」に「袖振可見限吾雖有其松枝隱在《ソデフルヲミユベキカギリワレハアレドソノマツガエニカクリタリケリ》」とあるなど例多し。又袖ならずして領巾をも振りしは、卷五「八七一」に「得保都必等麻通良佐用比米都麻胡非爾比例布利之用利於返流夜麻《トホツヒトマツラサヨヒメツマゴヒニヒレフリシヨリオヘルヤマノナ》」など例多し。今も洋手巾をふりて分れを惜むを見れば古今の通情といふべし。
○妹見都良武香 「イモミツラムカ」とよむ。さてこの「見つらむ」といふ語をば、木際より直ちに受くるものとして、我が振る袖をば、高角山の木際より妹見つらむかと解すべしといふ説と、わが高角山の木際より袖を振るを家にありて妹が見つらむかと解すべしといふ説あり。この二説の可否は高角山の所在とその妻の所在との二者明確ならば、論議をなす餘地なき筈なるに、二者共に明かならねば、歌の上より判定せざるべからず。その高角山の木際より妹が見たりとする説は高角山を人麿の住める地とせるものとし、又はその高角山を上にいへる如く都野津の海岸の丘陵とし、都濃の地を妻の位地とせるものなるが、その都濃の地は妻の住地よりは隔たれることは、長歌にて知られたれば、たとひ高角山をその説の如くすとも、妻が、高角山の木際より見る由の證とはなるべからず。これはその旅路の景を料としていひ來れる末なれば、(163)その高角山も亦旅路のうちにあること著しく、又語のつゞきも「亦木際よりわがふる袖」と直ちにつゞくと見るが順當にして、他に之を否認すべき確證なき限りは穩かなる解し方とすべきものなりとす。
○一首の意 石見の高角山を越ゆとてその木間より妹が家の見ゆるによりて、別れを告げむとてわが袖を振るをば、我が妹はその門より見つらむか如何にとなり。此方が木際より眺めて振る袖の遠方よりは容易に認めかぬるは常識よりいひてもいはずもがなの事なるを之を知らざるにあらずして行ふが至情といふものなり。
 
133 小竹之葉者《ササノハハ》、三山毛清爾《ミヤマモサヤニ》、亂友《ミタレドモ》、吾者妹思《ワレハイモモフ》、別來禮婆《ワカレキヌレバ》。
 
○小竹之葉者 板本「ササノハハ」とよめり。代匠紀には「ササカハニ」とよみ、童蒙抄は「シヌノハハ」とよみ、略解は「ササガハハ」とも訓ず。按ずるに「小竹」は「シヌ」とよむこと卷一にいひたる如くなれど又古事記上に「訓小竹云2佐々1」とあり、又和名鈔に「篠【鳥反和名之乃一云佐々俗用小竹二字謂之佐々】細竹也」とあれば、「ササ」とよむも不可ならず。然らばいづれにてもあるべきが、「シヌ」とはその、撓ふ性の方につきにての名、「ササ」はその葉の音よりの名なるべきに、ここは下に「サヤニ」といひて音をあらはす爲に用ゐたりと見ゆれば、「ササ」とよむをよしとすべきなり。
○三山毛清爾 「ミヤマモサヤニ」とよむ。「ミ」は眞と略同じき意にして美稱として加へたるに止まること「みよしぬ」「みくまぬ」などの「み」におなじ。若し強ひて意を求めば「全山」といふに近かる(164)べし。俗に「深山」とかきて、「み山」にこの義ありとするは古語の義に當らず。この語の例は古事記顯宗卷の歌に「美夜麻賀久理弖《ミヤマガクリテ》」又本集卷十七「三九〇二」「烏梅乃花美夜萬等之美爾安里登母也《ウメノハナミヤマトシミニアリトモヤ》」などの例あり。「清」をば「さや」とよむは「さやか」と同義にして卷十四「三四〇二」に「比能具禮爾宇須比乃夜麻乎古由流日波勢奈能我素低母布良思都《ヒノクレニウスヒノヤマヲコユルヒハセナノガソデモサヤニニフラシツ》」卷二十「四四二三」に「伊波奈流伊毛波佐夜爾美毛可母《イハナルイモハサヤニミモガモ》」などにいへる「サヤ」の意にあたるものなるが、こゝはその「サヤ」といふ語をかりて上にいへる小竹の葉の風などによりて搖ぎて鳴りて立つる「サヤサヤ」といふ音をあらはす詞にかりたるなり。古語拾遺に「阿那佐夜憩《アナサヤケ》」とあるに注して「竹葉之聲也」とあるも、その「サヤ」は竹葉の動搖ぎ相觸るゝ音を「サヤ」といへりとおぼゆ。古事記仁徳卷に「斯賀阿麻理許等爾都久理《シガアマリコトニツクリ》…那豆能紀能佐夜佐夜《ナツノキノサヤサヤ》」とあるも、その琴の音をあらはしたるなり。かくてその「さや」を基として「さやぐ」といふ動詞生じたるなり。その例古事記神武卷の歌に「宇泥備夜麻許能波佐夜藝奴《ウネビヤマコノハサヤギヌ》」本集卷十「二一三四」に「葦邊在荻之葉左夜藝秋風之吹來苗丹《アシベナルヲギノハサヤギアキカゼノフキクルナヘニ》」卷二十「四四三一」に「佐左賀波乃佐也久志毛用爾《ササガハノサヤグシモヨニ》」などあり。「ミヤマモサヤニ」とは「ミチモセニ」などいふと同じ語格にして、「ミヤマ」又は「ミチ」は主格にして、「サヤ」「セ」はそれに對して説明をなすべき位地に立てるが、それには述格をあらはすべき用言なきが、「モ」といふ係助詞の力によりて、こゝに一句の資格を得、「ニ」といふ格助詞に導かれて修飾格に立てる一種の修飾句と考へらる。かゝる場合にはいつも、「モ……ニ」といふ形式にてあらはるゝものなり。その二三の例をいはゞ、古事記上卷は「奴那登《ヌナト》母〔右○〕母由良《モユラ》爾〔右○〕振滌天之眞名井而」本集卷十「二〇六五」に「足玉《アシダマ》母〔右○〕手珠《タダマ》毛〔右○〕由良《ユラ》爾〔右○〕織旗乎《オルハタヲ》》卷十四「三三九二」に「伊波毛(165)等杼呂《イハモトドロ》爾〔右○〕於都流美豆《オツルミヅ》」などなり。これにてその山路にある小竹の葉の吹く風にざわ/\と鳴りわたるをば「みや山もさやに」といへるなり。
○亂友 舊訓「ミタレトモ」とよめり,代匠記には「マガヘドモ」とよむべしといふ一説をあげ、考には「サワゲドモ」とよみ、攷證には「マガヘトモ」とよみ、檜嬬手は「サヤゲドモ」とよめり。然るに、この亂字には「サワグ」「サヤグ」とよむべしといふ證古今に一も存せず。略解に卷十二「三一七三」の「松浦舟亂堀江之」とあるを「さわぐ」とよみたりとて證にしたれど、これは「ミダル」とよむべきこと古義に既に論ぜり。「マガフ」とよむことは、攷證に卷八「一五五〇」に「秋芽之落之亂爾《アキハギノチリノマガヒニ》」卷十「一八六七」に「今日毛鴨散亂見人無二《ケフモカモチリマガフラムミムヒトナシニ》」卷十三「三三〇三」に「黄葉之散亂有《モミヂハノチリマガヒタル》」などかける亂を「マガフ」とよみて、その例によれるものなるが、その卷十、卷十三なるは「みだる」とよみて不都合なることなきものなり。ただ卷八なるは「ちりのまがひ」とよむをよしとすべく、しかよむべき假名書の例も(【卷十五「三七〇〇」卷十七「三九六三」】)あれば、そこは「マガヒ」とよむをよしとすべきが、その「まがふ」といふ訓は「紊亂」といふ熟字にて示されたる意にて考ふべきものなるが、これらの「ちりのまがひ」といへるは、いづれも「ちる」に關していひ、しかもそが、視覺に訴へたる場合にいへり。今ここは聽覺を主としていへるなるが、然るときはこゝはその竹葉のさやぐ聲を專らいひて、その聲を紛らす聲の雜然たるさまをいふとは考へられねば、ここを「まがへども」とよむべき理由は存せず。さればなほ古のまま「みだれども」とよむべし。この頃「みだる」は四段活用の語なりしが故に、「みだれ」は已然形にして「ども」に接するは不合理にあらず。その山の笹が、風に吹き亂されてさわ/”\と音を立つる(166)なり。
○吾者妹思 舊訓「ワレハイモオモフ」とよめり。童蒙抄には「イモシメフ」といひたれど、必ずしもしか訓までよしとす。但し、他の例によらば「イモモフ」とよむとすべし。
○別來禮婆 舊本この訓を「ワカレキレバ」とかけるは仙覺本に「ワカレキヌレバ」とあるを書きあやまりしこと著し。
○一首の意 石見の山は一體に古、笹繁りてありし由の證は新考にのせたるが、その全山が、笹にて被はれてありしものとせば、風の吹き渡るにつれてその笹の葉が、ざわ/\と音をたてゝ亂るるなり。されども、われは、それらの外物の騷亂に紛れて心を奪はるるやうの事はなくして、一向に別れ來たる妹を思ひつつありとなり。
 
或本反歌
 
これは上の「一三二」の「石見乃也云々」の反歌の別の傳として或本に載せたるものなるべきか。
 
134 石見爾有《イハミナル》、高角山乃《タカツヌヤマノ》、木間從文《コノマユモ》、吾袂振乎《ワガソデフルヲ》、味見監鴨《イモミケムカモ》。
 
○石見爾有 舊來「イハミナル」とよめり。「ニアル」を約めて「ナル」といへること上に屡いへり。
○高角山 上にいへり。
○木間從母 舊本「コノマニモ」とよめり。然れども「從」は「ニ」とよむべき字ならずして「ユ」とも「ヨ」と(167)もよむべし。この故に、代匠記には「コマノマユモ」とよみ、古義には「コノマヨモ」とよめり。いづれにてもよかるべきが、今代匠記に從へり。日本紀神武卷の歌に「伊那瑳能椰摩能虚能莽由毛《イナサノヤマノコノマユモ》」などあり。
○吾袂振乎 舊本「ワガソデフルヲ」とよめるに從ふべし。「袂」は今「タモト」とのみよめど、玉篇に「袖也」と注したれば「ソデ」といふに差支なし。上の歌は振れるその袖を主としていひ、ここは、袖をふるわざを主としていへるなるが、事實は一に歸すべし。
○妹見監鴨 「イモミケムカモ」とよむ。「かも」は疑の「か」に「も」を添へたるものなり。
○一首の意 上の歌に大略詞じ。
 
135 角※[章+おおざと]經《ツヌサハフ》、石見之海乃《イハミノミノ》、言佐敝久《コトサヘグ》、辛乃埼有《カラノサキナル》、伊久里爾曾《イクリニゾ》、深海松生流《フカミオルオフル》、荒礒爾曾《アリソニゾ》、玉藻者生流《タマモハオフル》、玉藻成《タマモナス》、靡寐之兒乎《ナビキネシコヲ》、深海松乃《フカミルノ》、深目手思騰《フカメテモヘド》、左宿夜者《サネシヨハ》、幾毛不有《イクラモアラズ》、延都多乃《ハフツタノ》、別之來者《ワカレシクレバ》、肝向《キモムカフ》、心乎痛《ココロヲイタミ》、念乍《オモヒツツ》、顧爲騰《カヘリミスレド》、大舟之《オホフネノ》、渡乃山之《ワタリノヤマノ》、黄葉乃《モミヂバノ》、散之亂爾《チリノマガヒニ》、妹袖《イモガソデ》、清爾毛不見《サヤニモミエズ》、嬬隱有《ツマゴモル》、屋上乃《ヤガミノ》【一云室上山】山乃《ヤマノ》、自雲間《クモマヨリ》、渡相月乃《ワタラフツキノ》、雖惜《ヲシケドモ》、隱比來者《カクロヒクレハ》、天傳《アマツタフ》、入日刺奴禮《イリヒサシヌレ》、大夫跡《マスラヲト》、念有吾毛《オモヘルワレモ》、敷妙乃《シキタヘノ》、衣袖者《コロモノソデハ》、通而沾奴《トホリテヌレヌ》。
 
○角※[章+おおざと]經 舊板本「ツノサハフ」とよみ、古寫本には「ツノサフル」とよみたるもあり。考には「ツヌサハフ」とよめり。「角」を「ツヌ」とよむべきは上にいへり。「※[章+おおざと]」は金澤本元暦本等に「障」に作る。この(168)※[章+おおざと]字は本來地名に用ゐたる字にして、(説文に「紀邑也」とあり春秋の注に「※[章+おおざと]紀附庸國云々」ともいへり)攷證には「障※[章+おおざと]通ずる事なし。誤なる事明かなれば…改む」といひたれど、「※[章+おおざと]」字を障字に通用せることは手近き康煕字典にもいへり。そが例證として禮祭法に「※[魚+系]※[章+おおざと]《フサイテ》2鴻水1而※[歹+亟]死」漢書張湯傳に「居2一※[章+おおざと]間1」とあるをひけり。されば、これは必ずしも誤にはあらざるなり。さてその字の訓の「サハル」の語幹の「サハ」といふをかり、之に「フ」の訓を有する「經」をかりて、加へて「サハフ」とよますべくせるものにして、「サフル」とよむべきにあらざるべし。かくいふは、「イハ」といふ語の枕詞として用ゐたるに「ツヌサハフ」といふ語の例他に存すればなり。例へば、日本紀卷十一の歌に「菟怒瑳破赴以破能臂謎餓《ツヌサハフイハノヒメガ》」同卷十七の歌に「都奴娑播苻以斯《ツヌサハフイハ》(簸)例能伊開能《レノイケノ》」などあり。さてその「ツヌ」は「ツナ」の轉にして「イハツナ」(卷六「一〇四六」)といふ語ある如く、石に纏ひ這ひ生ふる今「ツタ」といふものをさすといへり。冠辭考には「ツヌサ」は「ツナ」にして「ツタノハフ」なりといひ。荒木田久老は、「ツヌ」は「ツタ」にして「サハフ」は「サハハフ」の約なりといへり。先「ツヌサ」といふ名詞の存することなければ、冠辭考の説はうけられず。又久老の「サハハフ」といへるもうけ難し。按ずるに、「サハフ」の「サ」は接頭辭にして「這ふ」をいふ語なり。「つた」は漢名「絡石」とある如く岩に這ひ纏はりて生ずるものなれば、「いは」の枕詞とせるなり。
○石見之海乃 前の例によりて「イハミノミノ」とよむべし。
○言佐敝久 「コトサヘグ」とよむ。「コト」は言語なり。「サヘグ」は「サワグ」に同じき古語なり。「コトサヘグ」とは言語の意のききとれず、たださわがしく聞ゆるのみなるをいふ。本卷の歌「一九九」(169)に「言左敝久百濟之原從《コトサヘグクダラノハラユ》」とあり。これらいづれも外國人の言語の意義わかれずして、ただ音の騷がしくきこゆるのみなるをさしていへるものなるが、その意にて「から」の枕詞とせるなり。
○辛乃埼有 「カラノサキナル」とよむ。この地は萬葉集新講に石見風土記の逸文に「可良島秀2海中1、因v之可良埼云、度半里」とある地にして、渡津より東方十里許の邇摩郡宅野村の海上に辛島とある、その海濱の出鼻をいひたるものならむといへるは是なるに近からむ。「有」を「ナル」とよむは上に「ニ」ありと見ての事なり。
○伊久里爾曾 「イクリニゾ」とよむ。從來の説に海中の石をいふといへり。日本紀應神卷の歌に「由羅能斗那※[言+可]能異句離珥《ユラノトナカノイクリニ》」とあるを釋紀に注して「句離謂v石也異助語也」といへり。即ち「イ」は今いふ接頭辭なれば、「石」の義は「クリ」といふ語にあるべし。本集には卷六「九三三」に「淡路乃野島之海子乃海底奧津伊久里二鰒珠左盤爾潜出《アハチノヌシマノアマノワタノソコオキツイクリニアハビタマサハニカツキデ》」といふ例もあり。さて海中の石なることはもとよりなるが、如何なる場合の石もみな「いくり」又は「くり」といふかといふに必ずしも然らざるべし。袖中抄には「船路には石をくり」ともいへりといひ仙覺抄には「山陰道の風俗石をばくりと云也」といへり。これに就きて考ふるに、日本地誌提要には長門より羽後までひろく日本海沿岸の地方の地勢用言に暗礁を「何繰《ナニグリ》」といへるもの頗る多し。これ恐らくは古言の殘り傳はれるものなるべし。これによりて考ふるに、「山陰道の方言に石をくりといふ」といへるも、「船路には石をくり」といふといへるも、いづれもこの事をいへるにて、山陰道其他日本海治岸地方にてこの暗礁を「くり」といへるをさせるものたるべく考へらる。船路に云々とあるも、暗礁は船路(170)にてはことに注事を惹くものなればなるべし。なほ委しくは別にいへり。かくてここの「いくり」と次の「ありそ」とは相對し用ゐられたりと認めらる。
○深海松生流 「フカミルオフル」とよむ。海松は今もいふ「ミル」にして、和名鈔海菜類に「水松状如松而無葉和名美流揚氏漢語抄云海松【和名上同俗用之】とあり。一種の海藻にして、海中の岩につきて生ず、緑色にして枝多し。さて深海松といふ名より見れば、海中深き處に生ずる故の名なる如くなるが、延喜式宮内省諸國例貢御贄に志摩國よりの貢物に「深海松」とあり。されば特に「ふかみる」と名づけたるもの存すること明かなるが、いかなる種類の「みる」なるか、未だ詳かならず。深海松をよめる歌はなほ卷六「九四六」に「三犬女乃浦能奧部庭深海松採《ミヌメノウラノオキベニハフカミルトリ》」卷十三「三三〇一」には「神風之伊勢乃海之朝奈伎爾來依深海松暮奈藝爾來因俣海松《カムカゼノイセノウミノアサナギニキヨルフカミルユフナギニキヨルマタミル》」(「三三〇ニ」にもあり)あり。こは下の「深目手」を導く序としたるなり。
○荒礒爾曾 舊本「アライソニゾ」とよめり。代匠記には「アリソ」とよめり。いづれにてもよきが、音調の上より代匠記に從ふ。「アリソ」は「現《アラ》磯」にして、上の「いくり」に對していへるものと思しく一は暗礁一は現磯と相對せしめしものと見えたり。
○玉藻者生流 「タマモハオフル」とよむ。玉藻のことは屡いへり。
○ 以上はその見る所を叙し來りて、次の語を導く序としたるなり。
○玉藻成 上にいへるにおなじ。これは上の「玉藻は生ふる」をうけて、その玉藻の如くといひ、さて、「なびく」の枕詞としたるなり。
(171)○靡寐之兒乎 「ナビキネシコヲ」とよむ。「靡きねし」とは卷一「四七」に「打靡寐毛宿良目八方《ウチナビキイモヌラメヤモ》」の下にいへる如く安く臥したるさまにいふ語なるが、わが傍にそひふしたるをいふと見ゆれば、用ゐ方ややかはれり。卷三「四八一」に「白細之袖指可倍※[氏/一]靡寢吾黒髪乃《シロタヘノソデサシカヘテナビキネシワガクロカミノ》」とあるはここの意にかよへり。「兒」とは人を愛し親みていふ語にして、ここは己が妻をさせり。似たる用例は古事記下雄略卷に「本陀理斗良須古《ホタリトラスコ》」とのたまへるは袁杼比賣をさしたまひ、本集卷頭の歌に「菜採須兒《ナツマスコ》」卷五「八四五」に「宇米我波奈知良須阿利許曾意母布故我多米《ウメガハナチラズアリコソオモフコガタメ》」又卷七「一四一四」に「薦枕相卷之兒毛《コモマクラアヒマキシコモ》」などあるを見るべし。この「ヲ」は一句隔てたる「深めて思ふ」にかかるなり。
○深海松乃 上の深海松を受けて、之をくりかへし、下の「深め」の枕詞とせり。上にあげたる卷十三の例又かくの如くに用ゐたるものなり。卷十三「三三〇一」に「深梅松乃深目師吾乎《フカミルノフカメシワレヲ》」「三三〇二」に「深海松之深目思子等遠《フカミルノフカメシコラヲ》」とあり。
○深目手思騰 舊本「フカメテオモフ」とよめるを考には「フカメテモヘド」と改めたり。ここは前後の文勢を以て推すに、「ド」といふ助詞にて接續せしむべき意明かなれば、考の説にしたがふべし。心を深めて妹を思へどもといふ心なり。
○左宿夜者 「サヌルヨハ」とよみ來れり。古義には「サネシヨハ」とよむべしといへるが、この説に從ふべし。卷五「八〇四」に「佐禰斯欲能伊久陀母阿羅禰婆《サネヨノイクダモアラネバ》」と同じ趣の語遣なればなり。「さ」は接頭辭にして深き意なし。
○幾毛不有 舊訓「イクハクモアラス」とよみたるが、考に「イタダモアラズ」とよみ、古義之に從へり。(172)玉の小琴に「イクラモアラズ」とよみ、略解これに從へり。按ずるに「幾何」は上にいへる如く、卷五「八〇四」及び卷十、「二〇二三」「左尼始而何太毛不在者《サネソメテイクダモアラネバ》」の例によらば、「イクラ」とよむべく、卷十七「三九六二」に「年月毛伊久良母阿良奴爾《トシツキモイクラモアラヌニ》」とあるによらば、「イクラ」とよむべし。さて「イクダ」の「ダ」は「ラ」の轉じたるものにて、「ココラ」の「ココダ」となれるも同じ趣なれば、畢竟「イクダ」「イクラ」同じ語の音の変化によりて、二語と見ゆるなり。而して三者共に例あれば、いづれにてもよき筈ななるが、普通の語なる點によりて「イクラ」とよむを穩かなりとす。この「アラズ」は連用形にして、下の「別れ」につづく意なり。
○延都多乃 「ハフツタノ」とよむ。「つた」は上にもいへる草の名にして蔓の彼方此方に這ひ別るる如くといふ意にて「別る」の枕詞とせり。
○別之來者 「ワカレシクレバ」なり。「シ」は間投助詞にして、妻に別れくればなり。
○肝向 舊訓「キモムカヒ」とよめるを管見に「キモムカフ」とよみたり。童蒙抄には「肝」の上に「村」を脱し、「向」は「乃」の誤にして「ムラキモノ」かといへり。然れども、この誤字説は證なければ從ひがたし。契沖は「肝向ひと點せるは叶はず、向ふと改むべし。古事記下仁徳天皇の御歌末云、岐毛牟加布許々呂袁陀邇迦、阿比淤母波受阿良牟此を證とすべし」といへり。これに從ふべし。かくてこれを以て「ココロ」の枕詞とせり。「肝」とは今肝臓をさせるものなるが、古は必ずしも肝臓のみに限らず、内臓の類を汎くいへるものなるべく、「向ふ」はそれらは多く相對してあるものなるによりていひしものなるべく、これを「こころ」の枕詞とせる理由は宣長は「まづ腹の中にあるい(173)はゆる五臓六腑の類を上代にはすべて皆きもと云し也。さて腹の中に多くのきもの相對ひて集りありて、凝々《コリ/\》しと云意にてこころとはつづくる也」といへり。これにつきて考ふるにいかに古代なりとて、「はらわた」までも「きも」といふべからねば、「きも」はなほ五臓までに止まるべし。又「こりこりし」といふ意なりといふ説もあまりに常識に遠しといふべし。これは、萬葉集新講にいへる如く、古は心の働きは「きも」より起れるものと考へしものたることは疑ふべからず。かくて考ふれば卷一の「村肝の」を心の枕詞とせる點もこの常識説にて解決すべく思はる。
○心乎痛 「ココロヲイタミ」とよむ。この語のことは卷一「五」「村肝乃心乎痛見《ムラキモノココロヲイタミ》」の下にいへる如くここの「痛み」とは深く物を思ひて堪へ難きによりてといふ意なるなり。
○念乍 「オモヒツツ」なり。妹を念ひつつにして、直ちに下の「カヘリミスル」につづくなり。
○顧爲騰 「カヘリミスレド」とよむ。
○大舟之 「オホフネノ」なり。舟にて渡るといふ詞つづきにて「わたり」の枕詞とす。
○渡乃山之 「ワタリノヤマノ」とよむ。この山明かならず。島ノ星山をさすといふ説あれど、證なきことなり、
○黄葉乃 「モミヂハノ」とよむ。本集中「モミヂ」に黄葉の字を多く用ゐたること卷一「一六」にいへり。
○散之亂爾 舊板本「チリノマガヒニ」と訓じ元暦本等に「チリシミタレニ」とあり。古義は「チリノミタリニ」と訓せり。按ずるに卷十五「三七〇〇」に「毛美知葉能知里能麻河比波《ミミヂハノチリノマガヒハ》」卷十七「三九六三」(174)に「春花乃知里能麻可比爾《ハルハナノチリノマカヒニ》」とあるによりて「ちりのまがひ」とよむべし。古義の説は「亂」といふ文字は「ミダリ」とよみて「マガフ」とよむべきにあらずといふを根據とするものならむが、「紛亂」「錯亂」「混亂」等の熟字をなし、又呂覽論人に「此不肖主之所以|亂《マトフ》也」とありてこの亂は惑の義なりといへり。されば、「マガフ」とよみても無理にはあらぬなり。黄葉の散る事によりて、それにまぎらされて他のものの見えぬをいふなり。さてここに黄葉の散のまがひといへるは事實に基づけるものなるべければ、その時節の舊暦十月頃なりしことを證すといふべし。
○妹袖 「イモガソデ」なり。妻の姿をさすものなるが、特に袖といへるは、上にもいへる如く、妻が別れを惜みて袖を振りてあらむと想像して、さて、その袖が見えぬといへるなり。
○清爾毛不見 「サヤニモミエズ」なり。ここの清は正字にして之を「サヤ」とよむは、「サヤカ」の意なるなり。その語の例は上の「一三三」の下に引けり。明かにも見えずといふなり。この「ミエズ」も連用形にして重文をなせるなり。
○嬬隱有 舊板本「ツマゴモル」とよめり。元暦本は「ツマカクレナル」とよみたるなど占寫本に種種の説あれど、板本の訓をよしとす。その假名書の例は日本紀卷十六に「逗摩御暮屡嗚佐褒嗚須擬《ツマゴモルヲサホヲスギ》」とあり。さてこれは下の「ヤ」の枕詞とせるものにしてその例はなほ卷十「二一七八」に「妻隱矢野神山《ツマゴモルヤヌノカミヤマ》」とあり。古は妻を娶れば、新に屋を建てたることかの素戔嗚尊の御詠に「ツマコミニヤヘガキツクル」とよまれたる如くなれば、「ツマコモル」が家の枕詞となるなり。
○屋上乃山乃 「ヤカミノヤマノ」とよむ。「ヤカミ」といふ地名は所々にあれば或は因幡ならんといい(冠辭考)備前ならんといひ(代匠記)たれど石見の内なるべし。屋上山は日本地誌提要に「高仙《タカセン》山【又屋上山ト云那賀郡淺利村ヨリ十三町五間】とあり。淺利村は渡津より東、山陰道の要路に當れは、この邊に屋上山といふがある以上はそれなるべし。
○一云室上山 これは「屋上乃山」とある代りにかくかける本ある由を注せるものなるが、記し入るる方法不注意の爲に、「屋上乃【一云室上山】山乃」」なりたれば、契沖は「山字は衍かさらずは乃の字なるべし」といひたれど、これは「屋上乃山」の下にかくべきを誤りしものと見れば、論はなきなり。さてこれは文字のままならば「ムロカミヤマ」とよむべきものなるが、攷證は「訓は同じけれど、文字のかはれるによりてあげたるなるべし」といへり。かく見れば、論なきことなるが、新講は「屋上の山は渡津から江ノ川に沿うて一里許り上流に行つた所にある屋上山の事」といへり。この屋上山は上の屋上山とは別なるべく、或は今いへる室上山がこれに當るべし。但し、余は未だこの山の事の他に證ありやを知らず
○自雲間 「クモマヨリ」なり。かかる「ヨリ」はそこを經て進行する地點を示すに用ゐるなり。卷八「一四七八」に「霍公鳥從此間鳴渡《ホトトギスコユナキワタル》」卷十八「四〇五四」「保等登藝須許欲奈枳和多禮《ホトトギスコヨナキワタレ》」などこの例なり。
○渡相月乃 「ワタラフツキノ」とよむ。「ワタラフ」は「ワタル」といふ事の繼續して行ははるをいふ語なり。曇りたる夜に東より西に渡り行く月の偶雲間より見ゆるが、それも間もなくかくれ行くべきなれば、かくはいへるなり。卷十一「二四五〇」に「雲間從狹徑月乃《クモマヨリサワタルツキノ》」とあるも稍似たる趣あり。以上は次の句を導く爲の語の上の序にして實景にあらず。
(176)○雖惜 舊訓「ヲシメドモ」とよめるを代匠記に「ヲシケレドともよむべし」といひ考は之に從ひ、略解は「ヲシケドモ」とよめり。この訓み方の相違は先づ「惜」を動詞として「ヲシム」とよむか、形容詞として「ヲシ」とよむかの別にあるものなるが、その字は二樣によまるべく、又この頃にこの二樣の語共に用ゐられたれば、これらにて一方に決することは不可能なり。然れども、若し「惜む」といはば、上の月を惜む意なれば、「月を」といふ語法をとらざるべからず。「月の」といひて「惜む云々」といふ事必ず不可能なりといふにあらねど、上に「月乃」とあるに合せて、すなほに考ふれば、月の惜くあることをいふべきなれば、「惜し」といふ方によるべし。今の如き歌の例は卷十一「二六六八」に「二上爾隱經月之雖惜妹之田本乎加流類比來《フタガミニカクロフツキノヲシケドモイモガタモトヲカルルコノゴロ》」とあるも「月之」とあり。されば「をし」の方によむこととせむが、「をしけれど」とよむべきか「をしけども」とよむべきか。「をしけれど」は「をしくあれど」にして、「をしけども」はその「をしけれども」を約めたる語なれば、これも結局同一の語なるが、この頃の假名書の例には「をしけれど」とかけるを見ずして、卷五「八〇四」に「伊能知遠志家騰《イノチヲシケド》」卷十七「三九六二」に「伊乃知乎之家騰《イノチヲシケド》」「三九六九」に「伊能知乎之家登《イノチヲシケド》」とあり。「をしけども」といふ假名書の例は見えど音數の上よりしてかくよむべし。さるは卷四「五五三」に「遠鷄跡裳《トホケドモ》」卷十七「三九八一」に「等保家騰母《トホケドモ》》などの例に準じて見れば、これも不理にあらざるなり。
○隱比來者 古來「カクロヒクレバ」とよめるを古義に「者」を「乍」の誤として「カクロヒキツツ」とよめり。先づこの「者」を「乍」とかける本なければ、從ひがたきことなるが上に「は」とよみて意とほらぬ事なければ、古來のままにてよしとす。「カクロフ」は「カクル」の繼續作用をいふ語なり。「カク(177)ロフ」の語例は、上にいへる卷十一「二六六八」の歌又卷三「三一七」に「度日之陰毛隱比《ワタルヒノカゲモカクロヒ》」などあり。さてこれは上に對しては月の雲間に隱るるをいふやうの語つづきなるが、歌の本意よりは、「つまごもる」「をしけども」はただ「かくろふ」といはむ爲の序にして、その上なる、妹が袖さやにも見えず」かくろふをいふなり。かく「かくろひくれば」といへる由は妹がある家のあたりの漸々にかくれゆきて見えずなりぬるをいへるなり。かくてこの下の「ば」は下の「入日刺奴禮」につづきたるものなるが、かかる場合の「ば」は條件を示すにあらずして、同時に起る事を下にいひて、今の語に「と共に」又は「さうしてゐると」といふ如き用と意とをあらはせり。たとへば、卷十五「三六七四に「久佐麻久良多婢乎久流之美故非乎禮婆可也能山邊爾草乎思香奈久母《クサマクラタビヲクルシミコヒヲレバカヤノヤマベニサヲシカナクモ》」古事記上卷に「於須比遠母伊麻陀登加泥婆遠登賣能那須夜伊多斗遠《オスヒヲモイマダトカネバヲトメノナスヤイドヲ》」など例多し。
○天傳 古來「アマツタフ」とよめり。代匠記には「アマツタヒ」といへり。されど、これは古來いへる如く、「日」の枕詞なるべく、枕詞ならば、終止形を以てする例なれば、舊來のままにてよし。太陽は天をつたひ渡り行くものと見て「日」の枕詞とせるなり。
○入日刺奴禮 「イリヒサシヌレ」とよむ。「入日サシ」といふは卷一「一五」の歌に假名書の例あり。さてここの「奴禮」は已然形のままにて條件を示す古の語格の一にして、後世の語ならば、この下に「ば」を加へてさて下につづくるものなるが、ここはその「ば」なくして、しかも、下の語の條件となるなり。ここに似たる例は卷三「四六〇」に「晩闇跡隱益去禮《ユフヤミトカクリマシヌレ》、將言爲便《イハムスベ》、將爲須敝不知爾《セムスベシラニ》」「四七五」に「久堅乃天所知奴禮《ヒサカタノアメシラシヌレ》、展轉※[泥/土]打雖泣將爲須便毛奈思《コイマロビヒヅチナケドモセムスベモナシ》」など、少からず。
(178)○大夫跡念有吾毛 「マスラヲトオモヘルワレモ」とよむ。卷一「五」其他この語の例多し。「大夫」を「マスラヲ」とよむこともそこに既にいへり。
○敷妙乃 「シキタヘノ」とよむ。卷一「七二」に既にいづ。夜寢ぬる時の衣なる事もそこにいへり。
○衣袖者 「コロモノソデハ」とよむこと勿論なり。
○通而沾奴 「トホリテヌレヌ」とよむ。卷十三「三二五八」に「吾衣袖裳通手沾沼《ワカコロモテモトホリテヌレヌ》」卷十五「三七一一」に「和我袖波多毛登等保里弖奴禮奴等母《ワカソデハタモトトホリテヌレヌトモ》」卷十九「四一五六」に「服之襴毛等寶利※[氏/一]濃禮奴《コロモノスソモトホリテヌレヌ》」とあり。悲しみの涙の爲に夜の衣の袖の表より裏まで通りてぬれたりとなり。
○一首の意 われは公事によりて最愛の妻に別れて京に上る道すがら海邊の事なれば、深海松や藻やといふものを見るにつけてもいよ/\妹を思ふことなるが、あまりの慕はしさに妻の住むあたりを顧みしつれど、妻の吾を慕ひて袖を振るらむと思ふそれを見むと思へども、山の紅葉のちるにまぎれて、よくも見やられず。されば歎きつつ行けば、行くにつれて、妹があたりもかくれ行き、ゆく道の進むと共にはや入日さして日も暮るることとなりたれば、止むを得ず、旅宿もすべくなりたるが、思へば/\悲しきに堪へざるなり。常には自ら大丈夫ぞと思ひ居る我なれど今は前後も忘れ、めめしきことながら片敷く衣の袖も涙にぬれとほりぬとなり。
 
反歌二首
 
○ 檜嬬手「反歌」を「短歌」と改めたり。必ずしもしかせずともありなむ。
 
(179)136 青駒之《アヲコマノ》、足掻乎速《アガキヲハヤミ》、雲居曾《クモヰニゾ》、妹之當乎《イモガアタリヲ》、過而來計類《スギテキニケル》。【一云當者隱來計留】
 
○青駒之 「アヲゴマノ」とよむ。「あをうま」なり。「あをうま」とは所謂青毛の馬にして、被毛長毛共に黒色なるものをさす。然るに、中古の日記物語類より以下儀式の書に正月七日に白馬節會といふを載せ、之を「アヲウマノセチヱ」とよみならはせるによりて「アヲウマ」即ち白馬をさすならむの疑ひあり。然れどもそは既に古事記傳卷十八玉勝間卷十三に論ぜる如く、續日本後紀卷三承和元年の條(觀青馬)同六年の條(覽青馬)文徳實録仁壽二年の條(同上)三代實録貞觀七年の條(同上)貞觀十一年の條(同上)元慶元年の條(同上)及び内裏式(青岐馬)貞觀儀式(青馬)延喜式左右馬寮式等にはいづれも青馬とありて白馬とはかゝず。而して、白馬とかけるは歴史にては日本紀略天暦元年の條に「白馬宴」とあるより後白馬とのみありて青馬とかけるはなく、儀式の書にても、西宮記には「白馬」とあり。これより後は國史も儀式の書も、物語も日記もみな白馬節會とかけり。かくて音にて「ハクバノセチヱ」ともいひ、又舊の名をも呼びて「アヲウマノセチヱ」ともいへり。然れば青馬を白馬と改められしは延喜天暦の間にあるべきか。かくてこの正月七日に青馬を見るといふ事はもと支那より傳はりし行事にして、年中行事秘抄に引ける帝皇世記に曰はく「高辛氏之子以2正月七日1恒登v崗命2青衣人1令v列2青馬七疋1調2青陽之氣1馬者主v陽主v春、崗者萬物之始、人主之居、七者七耀之清徴、陽氣之温始也云々」とあるにて見るべく、本義は青馬を見るにてありしは明かなり。されば、本集卷二十、天平寶字二年正月七日侍宴の爲に大伴家持の(180)預めつくれる歌(四四九四)に「水鳥之可毛能羽我比能羽能伊呂乃青馬乎家布美流比等波可藝利奈之等伊布《ミヅトリノカモノハガヒノハノイロノアヲウマヲケフミルヒトハカギリナシトイフ》」とあり。これ即ち、當時の青馬節會の爲にして、その青馬は眞の青毛にてありしことは「かもの羽の色の」といへるにて明かなりとす。さればここは白馬にあらずして眞の青毛の馬なりしことは疑ふべからず。而してこの青駒はその人麿の旅行に騎りし馬をさしていへるものなりしなるべし。
○足掻乎速 「アガキヲハヤミ」とよむ。「アガキ」の「ア」は「足」なり。「足の音」「アノオト」といふ如く、(卷十四「三三八七」「安能於登世愛由可牟古馬母我《アノオトセズユカムコマモガ》」)足を古「ア」とのみもいへり。さて「あがき」は足を掻くにて足を動かし歩む状をいふ。新撰字鏡に「※[足+宛]※[足+牒の旁]也、踊也、馬奔走貌阿加久」とあり。本集卷七「一一四一」に「赤駒足何久激沾祁流鴨《アカゴマノアガクソヽキニヌレニケルカモ》」卷十一「二五一〇」に「赤駒之足我枳速者《アカゴマノアガキハヤケバ》」卷十四「三五四〇」に「安可故麻我安我伎乎波夜美《アカゴマガアガキヲハヤミ》」卷十七「四〇二二」に「許乃安我馬乃安我枳乃美豆爾《コノアガマノアガキノミヅニ》」とあり。「あがきをはやみ」は足掻が早きによりてなり。
○雲居曾 「クモヰニゾ」とよむ。「ニ」は無けれど、加へてよむなり。卷一「五二」の歌の下にいへる如く「クモヰ」即ち空なるが、空は遠く遙かにあれば、遙なることのたとひとせり。卷十二「三一九〇」に「雲居有海山越而伊往名者《クモヰナルウミヤマコエテイユキナバ》」などもこの例なり。文勢はこれより下の「すぎて」につづくなり。
○妹之當乎 「イモガアタリヲ」なり。「イモガアタリ」は卷一(八三)にいへる如く、妹がすむ家の邊なり。この語集中に例少からず。
○過而來計類 「スギテキニケル」とよむ。この「すぎて」は現前の現象にあらずなりたるをいへる(181)にて卷六「一〇六九」に「常者曾不念物乎此月之過匿卷惜夕香裳《ツネハカツテオモハヌモノヲコノツキノスギカクレマクヲシキヨヒカモ》」などいへる如くその家のわが視界より去りて見えずなりたるをいへるならむ。これは上の「クモヰニゾ」の「ゾ」の係を受けて「ケル」と結べるなり。
○一云當者隱來計留 こは一本に「妹ガアタリハカクレ來ニケル」とありとの意なり。その意は本文と大差なし。考にはこの「一云」の方をよしとせり。
○一首の意 妹がすむ故郷の邊を今暫し見てありたしと思へども、乘れる馬の足掻の早くして、今ははや遠く離れ過ぎ去りて見えずなりける事よとなり。これその馬の足掻が、特に早きをいへるにあらずして、己が、妹があたりを久しく見てありたしと思ふ心に、その馬の歩みの特に早く覺ゆるものなればかくいへるなり。
 
137 秋山爾《アキヤマニ》、落黄葉《オツルモミヂバ》、須臾者《シマラクハ》、勿散亂曾《ナチリミダリソ》、妹之當將見《イモカアタリミム》。【一云知里勿亂曾】
 
○秋山爾 「アキヤマニ」なり。この時秋なりしなり。
○落黄葉 舊訓「オツルモミヂバ」とよめるを古義には「落」の下に「相」又は「合」の字脱せりとして、「チラフモミヂハ」とよめり。然れども、この誤脱ある本一も見えねば脱字の説はうけ難し。さて「落」は「ちる」の義あること上にもいひたる所なれど、下に「ちり」といふ語あれば、ここはなほ「おつる」とよみてよかるべし。木葉の落ち散るを「おつ」ともいへる例は古事記下雄略卷の長歌に「本都延能延能字良婆波那加都延爾淤知布良婆閇《ホツエノエノウラバハナカツエニオチフラバヘ》、那加都延能延能宇良良婆波斯毛都延爾淤知布良婆閇《ナカツエノエノウラバハシモツエニオチフラバヘ》、(182)斯豆延能延能宇良婆波《シヅエノエノウラバハ》、阿理岐奴能美幣能古賀《アリギヌノミヘノコガ》、佐佐賀世流《ササガセル》、美豆多麻宇岐爾《ミツタマウキニ》、宇岐志阿夫良《ウキシアブラ》、淤知那豆佐比《オチナヅサヒ》」などあり。
○須臾者 舊本「シバラクハ」とあり、略解は「シマラクハ」とよみ、古義は「シマシクハ」とよめり。この語は上(一一九)に「シマシクモ」「シマラクモ」のいづれにかよむべき由いへるが、かく「ハ」につづけるは卷十四「三四七一」に「思麻良久波禰都追母安良牟乎《シマラクハネツツモアラムヲ》」とありて、「シマシクハ」といふ假名書の例見えねば、ここは「シマラクハ」とよむべきなり。
○勿散亂曾 舊訓「ナチリミダレソ」とよめり。代匠記には「ナチリマガヒソ」といひ、考には「ナチリミダリソ」といひたり。「マガヒ」といはゞ我が見ての詞にして「ミダル」といはば、その葉の方につきていへるなれば「ミダル」といはむ方歌の意に當れりと見ゆ。さてその「ミダル」を四段活用とせば「ナチリミダリソ」となり、下二段活用とせば「ナチリミダレソ」となる。ここは古き方につきて四段活用によむべし。よりて「ナチリミダリソ」とす。これは所謂「ナソ」の格にして、「ナ」と「ソ」との間に動詞の連用形を置くべきものなるが、ここは「チリミダル」といふ熟語の連用形を置きたるなり。卷十四「三五七五」に「可保我波奈《カホガハナ》、莫佐吉伊低曾禰《ナサキイデソネ》」とあるこの例なり。
○妹之當將見 「イモガアタリミム」とよむ、意は明かなり。
○一云知里勿亂曾 こは一本に上の「ナチリミダリソ」を「チリナミダリソ」とありとなり。かくの如くいふ事も古はありしなり。たとへば卷九「一七四七」に「須與者落莫亂曾《シマラクハチリナミダリソ》」とあるはここに似たり。意はかはることなし。
(183)○一首の意 秋山に落つる黄葉よ。心あらばしばらくは亂れ散ることを止めよ。その間だにもわれは妹が住む故郷のあたりを見むと思ふものをとなり。
 
或本歌一首并短歌
 
○ これは上の長歌二首のうちの初の歌(一三一)に對しての異本の歌をあげたるなり。されば、次にはただその異なる點のみを注す。攷證にはこの短歌の下に「一首」の二字あるべきが脱せりとて補へり。されど、かく書ける本一もなく、又目録にもなければ、このままにてよかるべし。
 
138 石見之海《イハミノミ》、津乃浦乎無美《ツノウラヲナミ》、浦無跡《ウラナシト》、人社見良目《ヒトコソミラメ》、滷無跡《カタナシト》、人社見良目《ヒトコソミラメ》、吉咲八師《ヨシヱヤシ》、浦者雖無《ウラハナクトモ》、縱惠夜思《ヨシヱヤシ》、滷者雖無《カタハナクトモ》。勇魚取《イサナトリ》、海邊乎指而《ウミベヲサシテ》、柔田津乃《ニギタツノ》、荒礒之上爾《アリソノウヘニ》、蚊青生《カアヲナル》、玉藻息都藻《タマモオキツモ》、明來者《アケクレバ》、浪巳曾來依《ナミコソキヨレ》、夕去者《ユフサレバ》、風已曾來依《カゼコソキヨレ》、浪之共《ナミノムタ》、彼依此依《カヨリカクヨリ》、玉藻成《タマモナス》、靡吾宿之《ナビキワガネシ》、敷妙之《シキタヘノ》、妹之手本乎《イモカタモトヲ》、露霜乃《ツユシモノ》、置而之來者《オキテシクレバ》、此道之《コノミチノ》、八十隈毎《ヤソクマゴトニ》、萬段《ヨロヅタビ》、顧雖爲《カヘリミスレド》、彌遠爾《イヤトホニ》、里放來奴《サトサカリキヌ》、益高爾《イヤタカニ》、山毛越來奴《ヤマモコエキヌ》。早敷屋師《ハシキヤシ》、吾嬬乃兒我《ワガツマノコガ》、夏草乃《ナツクサノ》、思志萎而《オモヒシナエテ》、將嘆《ナゲクラム》、角里將見《ツヌノサトミム》、靡此山《ナビケコノヤマ》。
 
○津乃浦乎無美 「ツノウラヲナミ」とよむ。考には「津」の下に「能」を脱し「浦」の下に「回」を脱せりとし「無美」は衍なりとして、本の歌の如く「ツノノウラワヲ」とよむべしとし、檜嬬手は「津奴乃浦回乎」を(184)正しとし、古義も亦大體考の説により「津」の下に「野」又は「努」脱せりとして「ツヌノウラミニ」とよめり。然れども、この所いづれの本にも誤脱なし。而して、かく異なる點あればこそ、あげたるなるべければ、その「つのうら」といふ地知られずとも、かく異本にありといふことなれば改むるは強事なるべく、ただ疑はしきを闕くに止まるべきなり。
○吉咲八師 縱惠夜思 共に「ヨシエヤシ」とよむ。その意は上にいへり。
○勇魚取 「イサナトリ」とよむ。意は上にいへり。
○柔田津乃 「ニキタツノ」とよむべし。石見にかかる地名あるを知らず。「ニギタツ」は卷一「八」に見えたるが、或はこれは上の「和多豆」の「和」を「ニギ」とよむによりて卷一の地名に附會して後人の書き改めしものなるべくして人麿の原本にはあらざるべし。
○蚊青生 上に「香青生」とかけるにおなじ。
○明來者 「アケクレバ」とよむ。上の歌の「朝羽振」のかはりにおきしものなるが、夜が明けて朝になることをさせり。この語集中に多きが假名書のもの卷十五「三六二五」に「由布佐禮婆安之敝爾佐和伎安氣久禮婆於伎爾奈都佐布可母須良母《ユフサレバアシベニサワキアケクレバオキニナツサフカモスラモ》」同「三六六四」に「之可能宇良爾伊射里須流安麻安氣久禮波宇良未許具良之可治能於等伎許由《シカノウラニイサリスルアマアケクレバウラミコグラシカヂノオトキコユ》」など多し。
○夕去者 「ユフサレバ」とよむ。上の歌の「夕《ヨヒ》羽振」のかはりにおきしものにして、夕になれば、の意なるが、「アササレバ」と、對していへる例は上の卷十五の「三六二五」の外この卷「一五九」に「八隅知之我大王之暮去者召賜良之《ヤスミシシワガオホキミノユフサレハメシタマフラシ》、明來者問脇良之《アケクレバトヒタマフラシ》」「暮去者綾哀明來者裏佐備晩《ユフサレバアヤニカナシミアケクレバウラサビクラシ》」卷六「九一三」に「開來者朝(185)霧立夕去者川津鳴奈辨《アケクレバアサキリタチユフサレバカハツナクナベ》」卷十「一九三七」に「明來者柘之左枝爾暮去者小松之若末爾《アケクレバツミノサエタニユフサレバコマツガウレニ》」など例多し。
○浪己曾來依 風己曾來依 これは上「風社依米浪社來縁」を置きかへたるものなるが、二句ともに「キヨレ」といひ、しかも、浪を前にし風を後にしたるは、それをおきかへたるものとして、拙きわざといふべし。
○彼依此依 「カヨリカクヨリ」にして上にいへると同じ。
○靡吾宿之 「ナビキワガネシ」とよむ。上の歌のは妹が吾に依り宿しをいひ、これは吾が妹に依り宿しをいへるなり。
○敷妙之 「シキタヘ」の事は既にいへるが、これは下の袂につづくにて「妹が敷妙の手本」なるなり。
○妹之手本乎 「イモガタモトヲ」なり。手本といふも袖なる由は既にいへり。
○里放來奴 「サトサカリキヌ」とよむ。上の「里者放奴」を少しくいひかへたるまでなり。
○早敷屋師 「ハシキヤシ」とよむ。これは「はしき」といふ語に「ヤシ」といふ助詞の添へるなり。その「ヤシ」は上の「ヨシヱヤシ」の「ヤシ」におなじ。「ハシキ」とは「ハシ」といふ形容詞の連體形にして「ハシ」といふ形容詞は漢宇にては愛字にあたること上の「三吉野乃玉松之枝者波思吉香聞」(一一三)に既にいへり。即ちここは「愛《ハ》しきわが嬬」といへるなり。この語の假名書の例は卷七「一三五八」に「波之吉也思吾家乃毛桃《ハシキヤシワギヘノケモヽ》」卷十二「三一四〇」に「波之寸八師志賀在戀爾毛有之鴨《ハシキヤシシカルコヒニモアリシカモ》」などあり。又ここに似たる書方のは卷十一「二三六九」に「早敷八四公目尚欲嘆《ハシキヤシキミカメスラヲホリテナゲクモ》」卷十二「三〇二五」に「早敷八抑君爾戀良久吾情柄《ハシキヤシキミニコフラクワガココロカラ》」などあり。
(186)○吾嬬乃兒我 「ワガツマノコガ」とよむ。「嬬」を「ツマ」とよむことは、卷一「一三」にいひ、その妻を「コ」といふことは上「一三五」にいへり。
○將嘆 「ナゲクラム」とよむべし。上の「シヌブラム」をいひかへたるまでなり。
○角里將見 「ツヌノサトミム」なり。角の里は上にいへるなるが、ここの趣にてはその角の里に人麿の妻の住めるにて上の歌と趣異なり。恐らくはこれは誤なること攷證の説の如くならむ。
 
○一首の意 大差なけれは、再び説かず。
 
反歌
 
○ これは上の「一三二」の歌に似て異なる故にあげたるならむ。
 
139 石見之海《イハミノミ》、打歌山乃《ウツタノヤマノ》、木際從《コノマヨリ》、吾振袖乎《ワカフルソデヲ》、妹將見香《イモミツラムカ》。
 
○石見之海 「イハミノミ」とよむべきこと「一三一」にいへり
○打歌山乃 古來文字のまゝ「ウツタノヤマノ」とよみ來れり。萬葉考には「打歌」を音にて「タカ」とよみてさて曰はく「此|打歌《タカ》は假字にて、次に角か津乃《ツノ》などの字落し事上の反歌もて知へし。今本にうつたの山と訓しは人わらへ也」といへり。古義には「打歌」は「竹綱」の誤として「タカツヌヤマノ」とせり。「ウツタノ山」といふ所ありや詳かならずして誤あるべく思はれざるにむあらね(187)ど、諸本みな然り。而して諸説皆得心しがたし。強ひて説を立てても今の分にては明かにあらぬ事なれば、そのままにて姑く舊訓に從ひおくべし。
○妹將見香 古來「イモミツラムカ」とよめり。これは「一三二」の歌によりて姑く古來のままにす。
○一首の意 いふまでもなし。
 
右歌體雖v同句句相替、因|此《コヽニ》重(テ)載(ス)。
 
○ 上の歌を載せたるにつきての注なり。
 
柿本朝臣人麿妻依羅娘子與2人麿1相別歌一首
 
○柿本朝臣人麿妻依羅娘子 「依羅」は氏の名にして「ヨサミ」とよむ。依羅氏は河内攝津などに住みてその地名ともなれるが、新撰姓氏録によるに宿禰姓なるあり、連姓なるあり。依羅宿禰は開化天皇の皇子「彦坐命之後也」といひ、依羅連は饒速日命之後なると、百濟國人素禰志夜麻美乃者之後なるとあり。この依羅娘子はいづれの氏人なるか詳かならず。さて考にはこの人を上の石見國に置きたる妻にあらずして京におきたる妻なりとして次の如くいへり。曰はく「かのかりに上る時石見の妹がよめる歌ならんと思ふ人あるべけれど、さいひては前後かなはぬ事あり」といへり。然れども何處にも之を證すべき點一も存せず。これは上の歌のつづきに置けるによりて、なほ石見國に留り殘れる妻の歌とせざるべからず。按ずるに人麿には前(188)に妻ありしがそれが身亡りしことはこの卷挽歌の中の長歌にて明かなるが、(二〇七)その下に人麿が石見國に在りて死に臨みし時に自ら傷《カナ》しみて作れる歌(二二三)の次に、人麿死時妻依羅娘子作歌とあれば、依羅娘子とあるはその後の妻なること明かなり。しかもこれの歌をば、京に在りてよめりとするによりて上の如き説も出でしなるべきが、そはその歌の解き方をさる意にとりなしたりしによることにて、その歌の趣にてはその墓地を明かに見知りての詠と思はるれば、この依羅娘子が石見に在りしことを思ふべきなり。なほその歌に行きていふべし。
○與人麿相別歌 上に人麿の妻に別れてよめる歌をあげたるに對してここにその妻の詠をもあげたるなり。
 
140 勿念跡《ナオモヒト》、君者雖言《キミハイヘドモ》、相時《アハムトキ》、何時跡知而加《イツトシリテカ》、吾不戀有乎《ワガコヒザラム》。
 
○勿念跡 舊來「オモフナト」とよめるを代匠記に「ナオモヒト」とも訓ずべしといひ、考には「ナモヒソト」とよめり。意義はいづれにも同じ事なれど、「勿」を上にせる書き方によらば「ナオモヒ」といへる代匠記の説によるべきか。「ナソ」の格は、古くは上の「ナ」のみにして下に「ソ」なくても用ゐしなり。その例古事記上卷に「阿夜爾那〔右○〕古悲岐許志〔五字傍線〕」、卷五「九〇四」に「父母毛|表者《ウヘハ》奈〔右○〕佐加利〔三字傍線〕」卷十一「二六六九」に「清月夜爾《キヨキツクヨニ》雪莫〔右○〕田名引〔三字傍線〕」などあり。もとより下に「ソ」を添へたる例もあれど、「ナモヒソト」の如く、「オモフ」とわざと「モフ」と約めてまで下に「ソ」を添ふる必要あるまじきなり。
○君者雖言 舊訓「キミハイフトモ」とよみ、代匠記は「キミハイヘドモ」とよめり。この字面はいづ(189)れともよまるべき字面なれど、「いふとも」といはば、「勿念」といふ事を假設していふこととなり、「いへども」といはば「勿念」と實際にいへる事となる。ここは人麿が慰めて「莫念」といひたるを受けたりとすべき所なれば「キミハイヘドモ」とよむをよしとす。
○相時 古來「アハムトキ」とよみ來りしを代匠記に「アフトキヲ」ともよむべしといひ、美夫君志又之に從へり。この「相」時は下の「知而加」の目標なれば、「ヲ」の格たることは明かなれど、必ず「ヲ」を加ふべしといふ説は入りほがなり。それよりも、これを「アハムトキ」とよむがよきか「アフトキ」とよむがよきかを考ふる必要あり。然るときは後に再會せむ時といふ義なれば「アハムトキ」とよむべくかくて「ヲ」助詞はなくともその格に立てること明かなり。かかる例は集中極めて多く、一々あぐべきにあらず。
○何時跡知而加 「イツトシリテカ」とよむ。君に相はむ時を何時とも知らぬによりていへるなり。
○吾不戀有乎 古來「ワガコヒザラム」とよめり。よみ方につきては異論を見ず。これには古寫本の多くに「乎」を「牟」とつくれるによりて「牟」を正しとして「乎」を誤なりといふ説もあれど、「乎」をかける古寫本も亦少からざるのみならず、「乎」は元來疑辭なれば、その本義よりして借りて疑問の歌辭とせるならむ。よみ方は卷十七「三八九一」に「伊頭禮乃時加吾弧悲射良牟《イヅレノトキカワガコヒザラム》」とあるによるべし。かくてこは上句の「加」によりて反語をなせるなり。
○一首の意 吾に對して君は思ひ歎くなと言ひて慰め給へども、再びこの地に還り來給はむ日(190)を、何時と知らねば、戀ひ奉らずてはあらじとなり。何時と明かに知りたらば、或は歎かずあらむが、何時と知らねば歎かずてはえあらじとなり。
 
挽歌
 
○ これは既にいへる如く、卷第一卷第二を通じて一とし、これを三に分類せるうちの一にして雜歌相聞に對する部類の一なり。挽歌といふことは崔豹の古今注に「薤露蒿里並喪歌也出2田横門人1。横自殺、門人傷v之爲2之悲歌1。言人命如2薤上之露1易2※[日+希]滅1也。亦謂人死魂魄歸2乎蒿里1故有2二章1……至2孝武時1李延年乃分爲2二曲1。薤露送2王公貴人1、蒿里送2士大夫庶人1。使2挽v柩者歌1v之、世呼爲2挽歌1」とあり。又晋書樂志に「挽歌出2于漢武帝役氏之勞1歌聲哀切遂以爲2送終之禮1」と見え、その歌聲の哀※[立心偏+宛]なるにより柩を挽く時の歌とせしより挽歌の名出で、その後そを目的としてつくりたる歌あるに至れりとおぼゆ。さるは文心雕龍の注に引ける文章志に「繆襲字※[にすい+煕]伯、作2魏鼓吹曲及挽歌1」とあり、文選には詩の類別中に「挽歌」の目を立て、それらの詩を「挽歌詩」といへり。而して又往々これを挽詩ともいへり。
 以上の如く挽歌といふ名目はもと柩を挽く時の歌の義なりしが、後には汎く喪儀に用ゐる歌の義となり、更に變じて死者を哭する詩の一體となりしものと見ゆるが、本集の用例を見ればまた喪歌の義にあらずして、支那の所謂挽歌詩の義に近く、なほそれよりも更に汎く後世の歌集に所謂哀傷の歌といふに似たる用をなせるものなり。
(191) 次にこれのよみ方なるが「これを「カナシミウタ」とよむべしとする説あれど、これも如何なれば音にてよむをよしとするが、それも呉音ならば「挽」は古來の慣例によりて「メン」とよむべきなるが、今は普通「バンカ」といへば、それにても可なるべし。
○ なほ本書目録の挽歌の下に「竹林樂」の文字を記載せることにつきての説は卷一のはじめにいひたれば、今贅せず。
 
後崗本宮御宇天皇代 天豐財重日足姫天皇
 
○ この事卷一にいへるにおなじ、齊明天皇の御宇の歌をあげたるなり。委しきは卷一の同じ天皇御宇の條を見るべし。
 
有馬皇子自傷結2松枝1歌二首
 
○有馬皇子 孝徳天皇の皇子にして御母は阿倍倉梯麻呂大臣の女小足媛なり。齊明天皇の御代に不軌を謀り陽りて紀伊の牟婁の温湯に病を療せむとして往き、歸り來りて國の體勢を讃めて天皇の志を勤し奉りてかの地に行幸をすすめ奉りしかば、同四年十月十五日に彼地に行幸ありしがその留守に乘じて不軌を企てしが、事露はれて十−月五日に捉へられ九日に紀の温湯の行宮に送られ、中大兄皇太子の訊問あり、同十一日護送せられ藤白坂にて死に處せられたまひぬ。御年十九。
(192)○自傷 自《ミヅカ》ら傷《カナ》しむことなり。史記蘇秦傳に「出游數歳大困而歸。兄弟嫂妹妻妾竊皆笑v之。蘇秦聞v之而自傷〔二字右○〕。閉v室不v出」とある自傷の義なり。
○結松枝歌 こはかの謀反の事あらはれ、牟婁の温湯の行宮に護送せらるる途中岩代の地を過ぎ、そこなる松を,結びてよまれたる歌なるべし。松枝を結ぶことは卷一「一〇」の歌に略その旨を述べたり。なほ歌の下にいふ事あるべし。
 
141 磐白乃《イハシロノ》、濱松之枝乎《ハママツガエヲ》、引結《ヒキムスビ》、眞幸有者《マサキクアラバ》、亦還見武《マタカヘリミム》。
 
○磐白乃 これは卷一「一〇」の歌に「磐代之岡之草根乎去來結手名《イハシロノヲカノクサネヲイザムスビテナ》」といへる磐代の地にして、紀伊國の日高郡にありて、牟婁温湯に赴く要路にあれば、かかる歌も生ぜしならむが、なほその卷一の歌に「君之齒母吾代毛知哉《キミガヨモワガヨモシラム》」といへる如くその地名に磐といふ語の存する爲に特にかかる場合にとりいでてよまれしならむ。さて卷一なるは草を結びしなるが、松の枝を結びし例は卷六「一〇四三」に「靈剋壽者不知《タマキハルイノチハシラズ》、松之枝結情者長等曾念《マツガエヲムスブココロハナカクトゾオモフ》」卷二十「四五〇一」に「夜知久佐能波奈波宇都呂布等伎波奈流麻郡能左要太乎和禮波牟須波奈《ヤチクサノハナハウツロフトキハナルマツノサエダヲワレハムスバナ》」などあるが、さる事をなす意はその長く恙なからむことをいはひちぎりてのわざなり。
○濱松之枝乎 古寫本の中には「ハママツノエヲ」とよめる本もあれど、多くの本に「ハママツガエヲ」とよめるをよしとす。「濱松之枝」といふ語の例は卷一「三四」の歌にあり。
○引結 「ヒキムスビ」なり。卷一「一〇」なるは草を結びたるなるが、ここは松が枝を結ぶなり。さ(193)れど、末を祝し、幸を祈ふ意にて行ふことは同じ。卷一「三四」なる「濱松之枝乃手向草」とあるは既にいへる如く幣にしてこことは意異なり。「濱松之枝」といふ語同じとても混同すべからず。
○眞幸有者 「マサキクアラバ」とよむ。舊本に「マサシクアラバ」又は「マコトサチアラバ」などとありしを仙覺が改め訓みしなり。「マサキク」といふ語の假名書の例は卷十七「三九五八」に「麻佐吉久登伊比底之物乎《マサキクトイヒテシモノヲ》」卷二十「四三三一」に「麻佐吉久母波夜久伊多里弖《マサキクモハヤクイタリテ》」などあり。その「マサキク」は「サキク」といふ語に眞の義ある頭辭「マ」を添へたるものにして、「サキク」は幸の字の義なること卷一「三〇」の下にいへり。
○亦還見武 「マタカヘリミム」なり。卷三「二八八」に「吾命之眞幸市者亦毛將見《ワガイノチシマサキクアラバ》、志賀乃大津二縁流白浪《マタモミムシガノカホツニヨスルシラナミ》」卷七「一一八三」に「好去而亦還見六《マサキクテマタカヘリミム》、大夫乃手二巻持在鞆之浦回乎《マスラヲノテニマキモタルトモノウラミヲ》」卷九「一六六八」に「白埼者幸在待《シラサキハサキクアリマテ》、大船尓真梶繁貫又將顧《オホフネニマカヂシジヌキマタカヘリミム》」卷十三「三二四〇」に「樂浪乃志我能韓崎幸有者又反見《ササナミノシガノカラサキサキクアラバマタカヘリミム》」などいへるは、「マサキクアラバ」に對して「マタカヘリミム」といへる語の參考として見るべき例なり。又卷十二「三〇五六」に「妹門去過不得而《イモガカドユキスギカネテ》、草結《クサムスブ》、風吹解勿又將顧《カゼフキトクナマタカヘリミム》」といへるはその結びたる松之枝を「又かへりみむ」といへるに對しての參考とすべし。
○一首の意 我はこの磐代の松枝を引結びて、祈り願ふ事あり。我れ今事によりて嫌疑を受けたれど、其の事申しひらき相立ちて恙なくあらば、この結びたる松枝をかへりて再び見むと希ふとなり。
 
(194)142 家有者《イヘニアレバ》、笥爾盛飯乎《ケニモルイヒヲ》、草枕《クサマクラ》、旅爾之有者《タビニシアレバ》、椎之葉爾盛《シヒノハニモル》。
 
○家有者 諸本「イヘニアレバ」とよめるを童蒙抄に「イヘナラバ」とよめり。されどこれは未然の事にあらずして、「家に在る時には」の意なれば、舊訓の方よしとす。さて音を約めて「ニアレバ」を「ナレバ」とよまむも不可にあらねど、必ずしかせずばあらざる理由なく、又このままにて意通ぜざるにあらねば舊訓のままなるべし。
○笥爾盛飯乎〔右○〕 「ケニモルイヒヲ」とよむ。「笥」は和名鈔に「禮記注云笥【思吏反和名介】盛v食器也」とあり、玉篇に「笥盛v飯方器也」と見ゆ。日本紀卷十六に「※[手偏+施の旁]摩該※[人偏+爾]播伊比佐倍母理《タマケニハイヒサヘモリ》」とある「タマケ」は漢字をあつれば玉笥の義なり。本邦にて笥といひしものは竹にてつくりしか木にてつくりしか確かなる證を知らねど、延喜式、四時祭式鎭魂祭の條には「供御飯笥一合」……と見え、その下に「炊以2韓竈訖即盛2藺笥1納v※[木+貴]居v案」と見えたれば、神に奉るに藺にてつくれる笥を用ゐたりと見えたれど、そは古風を傳へられしが爲にして高貴の實用には供せられしにはあらざるべし。齋宮式初齋院の條には「銀飯笥、一合、銀水鋺一合、」と見え、内匠寮式銀器に「御飯笥《ヲモノケ》一合【徑六寸深二寸七分】銀大二斤八兩云々」と見えたればこの頃高貴の方は銀器にて飯笥といふものを用ゐられてありしなる事明かなるが、大方の歴史上の事實より推して銀器は奈良朝にはもとより、その前代にも既に用ゐられてありしならむと思はるれば、この有間皇子の笥と仰せられしもなほさる貴き器なりしならむ。さてここに笥といへるは上にいへる飯笥なることは著し。
(195)○草枕旅爾之有者 卷一(五)軍王の歌にいへるにおなじ。
○椎之葉爾盛 古來「シヒノハニモル」とよみ來れり。然るを童蒙抄は「椎」は「松」の誤かといへり。按ずるに、椎の葉に飯を盛るとは如何にすべきか明かならず。さて又「椎」は普通に「シヒ」とよむ字にして和名鈔「椎子」の注に「和名之比」とあり、又日本紀神武卷には「椎根津彦」の名の椎に「椎此云辭※[田+比]」とあれば、椎とよむ事は不都合なるにあらず。されど椎は葉大ならぬものなれば、この上に飯を盛らむは如何にすべき事にか、考には「今も檜の葉を折敷て強飯を盛ことあるが如く旅の行方《ユクヘ》にてはそこに有あふ椎の小枝を折敷て盛つらん。椎は葉のこまかに繁くて平らかなれば、かりそめに物を盛べきもの也」といへり。然るに「椎」字は新撰宇鏡を見れば「奈良乃木也」と注し、又續日本紀卷八に元明天皇を葬れる山陵を「大和國添上郡椎山陵」とかけるが、この天皇の山陵は延喜式に「奈保山陵」とあるによりて「椎」は「楢」の誤なりといひたれど、この山陵の所在は古の奈良山なる事著しければ「椎」を「ナラ」の語にあてしは、明かなり。されば、ここも椎《ナラ》とよまれざるにあらず、又「ナラ」の葉ならば大にして今も山人の握飯を包み持つに用ゐる程なれば似合はしからぬにあらず。されど、今この歌は十月十一日の比によまれしなれば、楢の葉は直ちに得らるべくもあらねば、なほ常磐木の椎の方によるべくや。
○一首の意 事なくて家に在る時には然るべき飯笥に盛りて食すべき飯をば、今は旅にあれば、椎の葉に盛りて食するが悲しく物あはれなる事よとなり。この頃の旅は今の如く自由ならぬはいふをまたざれど、高貴の方の御旅行には然るべき調度どもをも具して行かれしならむ(196)なれば、椎の葉に盛るなどのはかなき事にもあらざりしならむと思はる。然れども、今有間皇子は謀反の嫌疑にて護送せられませば、その待遇は常の如くにあらざりしならむ。その旅中の實事を詠せられたれば、悲しく聞ゆるなり。從來この歌を古の旅の苦しさの例にひけるはこの歌の成れる由を顧みず又歌意を十分に味はぬ疎漏より出でたるなり。
 
長忌寸意吉麿見2結松1哀咽歌二首
 
○長忌寸意吉麿 この人は卷一「五七」の歌を詠ぜる長忌寸奧麿と同じ人なるべきが、それは大寶二年の歌なれば、上の有間皇子の時よりは五十年許の後の世によめる歌なり。されば、こは上の歌に因みある歌なればとて編者の便宜上加へしものなるべくして、もとこの御代の歌にあらず。或は後人の加へしものならむも知られず。
○見結松哀咽歌二首 「結松」と題にありて、歌にも結松とよめるを見れば、かの有間皇子の結びたまひしその松枝が、後世に名高くなりて結松の名を生ぜしならむ。哀咽は「かなしみむせぶ」と訓すべきが、その熟字は文選の陸雲與載季甫書(百三名家集)に「重惟痛恨、言増哀咽」などあり。二首の「二」の字木版本に脱せり。誤なること著しければ多くの古寫本によりて補へり。
 
143 磐代乃《イハシロノ》、岸之松枝《キシノマツガエ》、將結《ムスビケム》、人者反而《ヒトハカヘリテ》、復將見鴨《マタミケムカモ》。
 
○岸之松枝 「キシノマツガエ」とよむ。この松につきては上に濱松といひ、ここに岸といひ、次に(197)野中とよめるを見れば、磐代の松とは、海邊の野の岸にある松なりしこと想ひやらる。さてこの下に「ヲ」格助詞の存すべき場合なり。
○將結 板本「ムスビケム」とあり。古寫本には「ムスビタル」とあるもあれど、「將」字を「タル」とよまむ由なければ、從ひ難し。「將」字は「ム」の意の字なるを之を「ケム」とよめるは事實に基づきてよめるなり。さてこの「ケム」は連體格にして直ちに下の「人」につづくべきものなり。
○人者反而 「ヒトハカヘリテ」とよむ。「人」とはこの松を結びけむ人にして有馬皇子をさすなり。「カヘリテ」とは皇子の御歌に「マタカヘリミム」といはれたる如く、恙なくてかへり見けむかといふ意をあらはさむとていへるなり。
○復將見鴨 「マタミケムカモ」とよめり。「將」を「ケム」とよむは上におなじ。「カモ」は疑の「カ」に「モ」を添へたるにて、上の歌「一三四」に「吾袂振乎妹見監鴨《ワガゾデフルヲイモミケムカモ》」におなじ。但し、これは表に疑ひ、實はその事の無かりしことをいへるなれば、反語たるなり。
○一首の意 有間皇子が、この磐代の松枝を引結びて、まさきくあらば、またかへりみむと仰せられしが、その當人たる有間皇子は果して願ひの如く無事にて再び之をみたまひけむか如何に。否々さる事はなくして皇子は露ときえうせ給ひしが、松は昔のままに今に存して當時の悲惨事を語るに似たり。今まのあたりこの結松を見て之を思へば哀傷の念に堪へぬよとなり。
 
144 磐代乃《イハシロノ》、野中爾立有《ヌナカニタテル》、結松《ムスビマツ》、情毛不解《ココロモトケズ》、古所念《イニシヘオモホユ》。 未詳
 
(198)○野中爾立有 舊本「ノナカニタテル」とよめり。このよみ方誤れりといふにあらねど、「野」は古く「ヌ」なりしこと既にいへる如くなれば「ヌナカニ」とよむべきものなり。磐代の野とあるにて、その地は海岸にて稍廣き地なるを考ふべし。
○結松 この事上にいへり。
○情毛不解 「ココロモトケズ」とよむ。「結松」に射して「トケズ」といへるは一は詞の文《アヤ》なるが、一は結松の古結べるままに殘れる故にいへるなり。而して、情も解けずといふは心の結ぼれたるをいふなり。卷十七「三九四〇」に「餘呂豆代爾《ヨロヅヨニ》、許己呂波刀氣底和我世古我《ココロハトケテワガセコガ》、郡美之乎見都追《ツミシヲミツツツ》、志乃備加禰都母《シノビカネツモ》」とある如く、心解くるとは心情の快き状にあるをいふなり。卷九「一七五三」に「歡登紐之緒解而家如解而曾遊《ウレシミトヒモノヲトキテイヘノゴトトキテゾアソブ》」とある「ときて」も打ちとけたる心になるをいへるなり。
○古所念 舊本「ムカシオモヘバ」とよみたれど、「所念」をただ「おもふ」とよむも不可なるに「ば」にあたるべき文字も見えず。契沖は「イニシヘオモホユ」とよみ、童蒙抄に「ムカシオモハル」とよめり。「所念」は「オモハル」の意なること明かなれど、この頃には「オモホユ」といひしものなるべきを以て契沖説に從ふべし。その假名書の例は卷五「七九五」に「都麻夜佐夫斯久於母保由倍斯母《ツマサブシクオモホユベシモ》」「八〇二」に「宇利波米波胡藤母意母保由《ウリハメバコドモオモホユ》」などあり。さてここは自然に思はるる由にいへるなり。
○一首の意 今磐代の地に來りてその野中に立てるその名高き結松を見れば、その松の古、有間皇子が、結びたまひしままに大木となりてあるを見れば、その松の結ぼほれてある如く、見るわが心もむすぼほれてそのかみの事の悲しく思はるるよとなり。
(199)○未詳 この二字流布本は別行にし、活字素本には大字にしたれど、多くの古寫本小字にせるに從ふべし。この二字契沖は衍文にやといひ、又或は大寶元年の歌に作者なければ、もとそこに在りしがここに紛れ入りしにかといへり。按ずるにこの歌拾遺集に人麿の歌として載せたるによりて考ふるに、古くより人麿の歌なりといふ傳説も或はありしならむ。かくてこの集にいへる歌主と一致せぬを疑ひての注と見えたりといふ説あり。さもあるべし。さては恐らくはかの梨壺の人々又はその後の人の加へしものなるべし。
 
山上臣憶良追和歌
 
○山上臣憶良 卷一にいへり。
○追和歌 追和は後の人の追ひて和せる由をいへる字面なるが、卷五には「後追和梅歌」又「後人追和之詩」など集中に用例少からず。かゝる場合の和はあはする意にして答ふる意にあらず。即ちそれに同情を表して詠ずる由をいへるなり。この追和は何れの歌に追和せるにか。意吉麻呂は大寶二年に歌よみし事あるは既にいへる如くなるが、憶良は大寶元年に史に名見ゆれば、略同時代の人といふべし。而して年の少長は明かからねど、大寶元年に憶良は無位と見ゆれば、年なほ若かりしならむ。されば、或は意吉麻呂の方先輩なりしならむか。加之その歌意吉麻呂のはじめの歌と意の通ひたる點あれば、それに追和せるものならむと思はる。
 
(200)145 鳥翔成《カケルナス》、有我欲比管《アリガヨヒツツ》、見良目杼母《ミラメドモ》、人社不知《ヒトコソシラネ》、松者知良武《マツハシルラム》。
 
○鳥翔成 舊訓「トリハナス」とよみたり。童蒙抄には「アスカナシ」とよみ、考には「ツバサナス」とよみ、略解は「翔」は「翅」の誤なるべしといひて、考のよみ方により、攷證には「カケルナス」とよみたり。さてその「翔」字は古葉略類聚鈔のみは「羽」とせれど、これは誤といふべく、他のすべての本には「翔」とあれば、この字は動かすべからざるものといふべし。從つて略解の誤字説は考のよみ方に合せむ方に唱へたる説なるべくして從ふべからず。さて「鳥翔」の二字を「アスカ」とよむべき由なければ、童蒙抄の説は從ふべからず。又「翔」は羽翼をいふ字にあらざるのみならず、「トリハ」といふ如き語の例は未だ見ねば、これ亦從ふべからず。然らば「ツバサナス」とよむべきかといふに、この「翔」字は動詞をあらはす字にして名詞をあらはす字にあらねば、これも筋なきことなるのみならず、下の「アリガヨフ」に對する時に、「ツバサナス」にては打あはざるなり。守部は「ツバサナス」にて「鳥の如くにと云意也、鳥を翅と云ふは魚を鰭と云ふが如し」といひたれど、鳥を直ちに「ツバサ」といひたる例はもとより、魚をさして直ちに鰭といひたる例も亦古来一もあることなし。美夫君志には「ナスは作又は生などの意なるべし」として「ツバサナス」とよむ説を辯護したれど、翅を生じて飛ぶといふ如きは寧ろ滑稽の感を與ふるに止まればこれ亦從ふべからず。「翔」字は説文に「回飛也」と見え、又易の豐卦に「天際翔也」とある如く高き所を飛びかける意をあらはす文字にしてその訓は類聚名義抄に「カケル、フルマフ、アフク、アカル、トフ」と見ゆ。されば、從(201)來の説のうちにては攷證の説を最も是《ゼ》に近きものと見るべし。然れども、眞に「カケルナス」といふ語なりしならば「翔成」の二字にて足るべく、「鳥」字を加ふる必要なきなり。これはその訓み方は如何にもあれ、意は鳥の天を翔る如く皇子の御魂の天がけりてここに有通ふをいへるなり。されば、鳥の翔るといふことを三音若くは四音にていふこと當時ありしものならむが、それを用ゐしならむ。その語は未だ考へ得ずといへども「ツバサナス」とよむべきにあらぬは斷じて疑ふべからず。我れこの説を主張しはじめし時は未だ攷證を見ざりしが、後その説あるを知りてます/\この主張の理あるを信じたりしが、尾山篤二郎氏の山上憶良歌集また殆ど同じ説を主張せり。但し、未だそのよみ方を按出し得ざるを遺憾とす。かかる場合の「なす」は普通體言をうくるものと考へらるれど、必ずしも然らずして、用言の終止形をうくること、たとへば、卷十四「三五四八」に「奈流世呂爾木都能余須奈須《ナルセロニコツノヨスナス》、伊等能伎提可奈思家世呂爾比等佐敝余須母《イトノキテカナシケセロニヒトサヘヨスモ》」の如き例あれば、「鳥」の字なくば「カケルナス」とよむ方當然たるべきものとす。而して「カケル」といふ語は古事記下仁徳卷の歌に「比婆理波阿米邇迦氣流《ヒバリハアメニカケル》」日本紀卷十一の歌に「破夜歩佐波阿梅珥能朋利等弭箇慨梨伊菟岐餓宇倍能娑弉岐等羅佐泥《ハヤブサハアメニノボリトビカケリイツキガウヘノサザキトラサネ》」本集卷十七「四〇一一」に「久母我久理可氣理伊爾伎等《クモガクリカケリイニキト》」ともあり。さて又神靈の天がけり來るなどの信仰はこの頃に存せしものにして、その例は卷五「八九四」の歌に「天地能大御神等倭大國靈久堅能阿麻能見虚喩阿麻賀氣利見渡多麻比《アメツチノオホミカミタチヤマトノオホクニミタマヒサカタノアマノミソラユアマガケリミワタシタマヒ》」と見えたるにて知るべし。さればかくいへる事の由は心得らるべけれど、そをいかによむべきかは未だ知られず。しかも何とかよまではあるまじければ姑く攷證の説によりて、(202)後の賢者に俟つこととせり。
○有我欲比管 「アリガヨヒツツ」とよむ。元暦本などに「ワカオモヒツツ」とよみたれど、從ふを得ず。「アリガヨフ」といふ語の例は古事記上卷に「用婆比爾阿理加用波勢《ヨバヒニアリカヨハセ》」又本集卷三「三〇四」に「大王之遠乃朝庭跡蟻通島門乎見者神代之所念《オホキミノトホノミカドトアリカヨフシマトヲミレバカミヨシオモホユ》」又「四七九」に「皇子之命乃安里我欲比見之活道乃路波荒爾鷄里《ミコノミコトノアリガヨヒメシシイクヂノミチハアレニケリ》」又卷十七「三九〇七」に「安里我欲比都可倍麻都良武萬代麻底爾《アリガヨヒツカヘマツラムヨロヅヨマデニ》」など例少からす。而して本集中に「カヨフ」の「カ」に主として「我」を用ゐたるは「アリガヨフ」とよめるなるを見るべし。さてかく動詞の上に「アリ」を冠するはその事の引きつづきて行はるる由を示せるなり。引き續きかよひつつの意なり。
○見良目杵母 「ミラメドモ」なり。この頃の語法として上一段活用の語より「ラム」に行くときは連用形よりすること上(卷一「五五」)にいへり
○人社不知 「ヒトコソシラネ」とよむ。この一句は上の三句を受けて直ちにつづきてその結びをなし、かねて、下の句に對し條件の如くなるなり。その上をうけたるは即ち皇子の幽魂の鳥の翔る如く天翔りてここに通ひつつ見たまふらむと思はるれど、人の凡眼には見えざれば誰もしらぬとなり。さてこの句は下に對しては反撥的に條件をなすものなれば、その中間に「然れども」といふ如き語を加へて解せばよく了得せらるべし。
○松者知良武 「マツハシルラム」この松は磐代の結松をさす。
○一首の意 有間の皇子の御魂は鳥の翔る如く天かけり來ては、これを結び給ひし當時より今(203)に至るまでこの結松をば引き續き見給ふならむと思はるれど、我等凡人の目には知られぬなり。されど、松はその時より幾十年も無事に經たるものなればよく知りてあらむ。あはれこの松に昔の事をも問はばやと思はるるなり。
 
右件歌等、雖3不2挽v柩之時(ノ)所作1、准〔左○〕2擬《ナゾラヘテ》歌意1故以《コトサラニ》載2于挽歌類1焉。
 
○右件歌等 かくいひて指せるは上の有間皇子の歌二首と意吉麿の歌二首と憶良の歌とをすべていへるものなり。
○雖3不2挽v柩之時所作1 この挽柩之時所作を文字通りに柩を車にのせて挽くと解するは極端にして從ふべからず。ここに「挽柩之時所作」といへるはただ挽歌といふべきを文字をかへていへるに止まれり、漢文には避板の法とて文字の面に重複するを厭ひてかくの如くすること往々あり。諸家之を文字の通りに解釋して、左注の筆者を攻撃して、挽歌の文字に拘泥せる説明なりとするは、これ漢文の筆法をさとらず、又よく文意を斟みとらぬよりの過にして、その責はかへりて自己に存するを顧みよ。かくてこの五首が挽歌にあらぬは明かなり。
○准2擬歌意1故以載2于挽歌類1焉。 准字は流布本「唯」に作れり。金澤本其他に正しく「准」に作るに從ふべし。「准擬」二字にて「ナゾラフ」とよむべく、「故以」二字にて「コトサラニ」とよむべし。即ち上五首は挽歌にあらねど、歌意を考ふれば、哀傷の意明かなれば挽歌になぞらへてわざとここに載せたりとなり。
 
(204)大寶〔左○〕元年辛丑幸2于紀伊國1時見2結松1歌一首
 
○大寶元年辛丑幸于紀伊國時 「寶」の字寛永板本に「實」に作れるは誤にして、その前の板本古寫本みな正しく「寶」とせり。續日本紀大寶元年の條に「九月丁亥天皇幸2紀伊國1」又「冬十月丁未車駕至2武漏温泉1」又「戊午車駕自2紀伊1至」とあり。この時の事なるべし。
○見結松歌 結松は上にいへる磐代の結松なり、この歌作者なし。元暦本その他多くの古寫本には次行に小字にて「柿木朝臣人麿歌集中出也」と注せり。ここに作者の名なきは恐らくはもと「時」と「見」との間にありしが誤り脱せしなるべく、今にしてその作者を知るべからざるなり。考には「右の意寸萬呂の始めの哥を唱へ誤れるなるを後人みだりに書加へしものなり」といひてこれを全く削り去れり。されど、意寸麻呂の歌とこの歌とは趣異にして、別の歌なること著し。想ふに意寸麻呂以下三首の歌を結松の縁に何人かの追記したるをその後又何人か同じ結松の歌なるを以て更に加へしものならむ。初めより意寸麻呂等の歌と同時に書き加へしものならば、「右件歌等云々」の左注はこの歌の次に記すべきものなればなり。而して、この歌は上の元暦本等に記せる如く古き人麻呂集中にありしなるべければ、それより摘出せしものならむも知られず。いづれにしても意寸麻呂の歌とは異なるものなるは明かなり。
 
146 後將見跡《ノチミムト》、君之結有《キミガムスベル》、磐代乃《イハシロノ》、子松之宇禮乎《コマツガウレヲ》、又將見香聞《マタミケムカモ》。
 
(205)○後將見跡 「ノチミムト」とよむ。童蒙抄に「スヱミント」とよみたり。されど、將來を「スヱ」といへることこの頃にありしか否か疑はしきによりて從ひ難し。かかる時に「ノチ」といへる例は極めて多し。一二をいはば本卷「二〇七」に「懃欲見騰不止行者人目乎多見《ネモコロニミマクホシケドヤマズユカバヒトメヲオホミ》、眞根久往者人應知見狹根葛後毛將相等《マネクユカバヒトシリヌベミサネカツラノチモアハムト》」又卷三「三九四」に「印結而我定義之住吉乃濱乃小松者後毛吾松《シメユヒテワガサダメテシスミノエノハマノコマツハノチモワガマツ》」等なり。さてここは「のちに見むと思ひて」の意にして有間皇子の歌に「眞幸有者亦還見武《マサキクアラバマタカヘリミム》」とよまれたるを思ひていへるなり。
○君之結有 「君」の字板本に「若」に作れるは誤にして古寫本及び活字素本みな「君」につくれるを正しとす。「キミガムスベル」とよむ。君は有間皇子をさす。
○子松之字禮乎 「コマツカウレヲ」とよむ。この語の例本卷「二二八」に「姫島之子松之末爾《ヒメジマノコマツガウレニ》」又卷十「一九三七」に「暮去者小松之若末爾《ユフサレバコマツガウレニ》」などあり。この松が小き松にあらずして大なる松なりしことは犬鷄隨筆にいへる如く大寶元年より四十三年の前の結松をよめるにて大なる松たりしを考ふべく、犬鷄隨筆は「小松」の「コ」は「小」の意にあらずして、美稱なりといへること卷一に既にいへり。「ウレ」も上「一二八」にいへる如く若末の義にして草木の生長盛りの若き部分をいふ。
○又將見香聞 「マタミケムカモ」とよむ。古寫本には往々「マタモミムカモ」とよめるあり。されど、「モ」字なきに加へよむは如何なり。「將」を「ケム」によむ例は上に屡いへり。この句の意は意寸麻呂の歌の結句におなじ。
○一首の意 恙なくしてあらばまた見むと願ひて君が結びたたまひし松をば君は果して再びか(206)へり來て見給むけむか、如何。その松は今もあれど、その人は終に再び見給はざりしならむかと悲み嘆きたるなり。
 
近江大津宮御宇天皇代 天命開別天皇
 
○ この事すべて卷一、九三頁にいへるにおなじ。元暦本等にはこの下になほ續けて「謚曰天智天皇」の六字あり。されどそは後の書入なるべし。
 
天皇聖躬不豫之時太后奉御歌一首
 
○天皇聖躬不豫之時 「天皇」は天智天皇なり。「聖躬」とは天皇の大御身を申す。後漢書班彪傳下の注に「聖躬謂天子也」とあり。よみ方は「オホミミ」とよむべし。「不豫」は爾雅の釋詁に「豫樂也安也」とあるによりて不樂不安の意なるを見るべく「不豫」にて天皇の疾病にかかり給へるをいふなり。そのよみ方は古來「ヤクサミタマフ」とよめり。日本紀天智天皇十年九月に「天皇寢疾不豫」又「十月甲子朔庚辰天皇疾病彌留云々」とあり。されば、この御歌はその年九月十月頃によみたまひしなるべし。
○大后奉御歌 大后は天皇の皇后倭姫をさす。考に「いまた天皇崩まさぬ程の御歌なれば今本ここを書きしは誤」とて皇后と改めたり。されど、先にもいひし如く、こは當時嫡后即ち漢語にて皇后と申すをば「オホキサキ」と唱へて他の妃殯などと區別せし國語のままに書き出でたる(207)にて漢語の皇太后の意にあらねば誤にはあらず。倭姫皇后は古人大兄の女にして天皇が中大兄皇子と申しし頃より妃とましまし天皇即位と共に皇后の位に備りまししなり。攷證には皇太后の義としてこの所を辯護したれど、隨ひ難し。略解には「奉」の下に「獻」を脱せるかといへり。然れども古寫本等に一もその證なし。
 
147 天原《アマノハラ》、振放見者《フリサケミレバ》、大王乃《オホキミノ》、御壽者長久《ミイノチハナガク》、天足有《アマタラシタリ》。
 
○天原 「アマノハラ」とよむ、天の原にして、天の廣きをいふこと勿論なるが、この歌の解につきては二説ありて、一は實際の天を仰ぎ見たまひての意に説くものにしてこの説は從來多くの學者のとれる所なり。一は宮殿の屋を仰ぎ見て、祝福せられたるものとする説にして、橘守部の主唱せる説にして美夫君志之に賛せり。さて守部いいへる如くその家屋の構造をたたへて主人の祝福をなせることは、かの日本紀顯宗卷に載せたる天皇龍潜の時播磨國縮見屯倉の首の新室をほぎ給へる室壽の詞にても見るべく、又日本紀推古卷に「二十年春正月辛巳朔丁亥置酒宴2群卿1是日大臣上2壽歌1曰|夜須彌志斯《ヤスミシシ》、和餓於朋吉彌能《ワガオホキミノ》、※[言+可]勾理摩須《カクリマス》、阿摩能耶麻※[言+可]礙《アマノヤソカゲ》、異泥多多項《イデタタス》、彌蘇羅烏彌禮磨《ミソラヲミレバ》、豫呂豆余弭※[言+可]勾志茂餓茂《ヨロヅヨニカクシモガモ》云々」、又本集卷十九に天平勝寶四年十一月廿五日新甞會肆宴應詔歌中式部卿石川年足朝臣「天爾波母五百都綱波布《アメニハモイホツツナハフ》、萬代爾國所知牟等五百都都奈波布《ヨロヅヨニクニシラサムトイホツツナハフ》」(四二七四)とあるにても見るべきなり。而してただ天を仰ぎ天皇さらでも汎く人の壽を祝する如き事は本邦に於いて古今に類例を見ざる所なれば、われは、この守部の主唱せる(208)説に從ふべきものと考ふるなり。但し守部の説のうちにも從ふべからぬ點も存するはその所に行きていふべし。さて屋裏を「あめ」「そら」に準へいふことは古語にして、上の推古天皇卷の壽歌又本葉中卷十九の石川年足の壽歌にも見えたるが、今も越中の方言に「あま」といひてこの語殘れり。
○振放見者 「フリサケミレバ」とよむ。ふり仰ぎて遠く見やればの意なり。その見やる目的物は何ぞといふに、上に引ける壽歌にてもしるきが如く、又日本紀神代卷に「又汝應v往2天日隅宮1者今當2供造1即以2千尋栲繩1結爲2百八十綱1」といへるにても見らるる如く上代の建築に釘を用ゐず、繩綱を用ゐて、柱桁梁などを結び固めし、その固く結べる状を見て、主人の壽もかくの如く固くあれと祝せるなり。然るに、守部はこれをば、「其屋上に千尋繩を長く結ひ垂せるをいふ」といひ、「上代は屋上より結び垂らす繩綱を家の固めと重みして長く繁くたらししなり。」といへり。されどかく、繩綱を長く垂らしたりといふ證は古書に全く見る所なし。こは恐らくはこの御歌に「長く天足したり」とあるによりて思へる事なるべけれど、證なき事にして從ひ難し。古、この繩綱に關して祝福せし事を考ふるに、顯宗天皇の室壽の詞に「取結繩葛者此家|長《キミ》御壽之堅也」とある如く、その結べることの竪固なるを以て人の健康なるになぞらへたること著し。又年足の歌に「五百都綱波布」とあるは、その棟、梁、桁柱等を取結べる綱の長くして、彼方此方に引き延へたるをいへるにて長く垂したる謂にあらず。又續日本紀天平勝寶五年八月に載せたる聖武天皇の御母大皇太后宮子娘の崩御の後に奉られし尊號に「千尋|葛藤《カツラ》高知天宮姫尊」とあるも(209)同じ精神の尊號なるは著しきがその千尋葛藤は長く延ふべき爲の千尋にして垂らすべき爲の千尋にあらず。されば、長く垂れたりといふことは從ふべきにあらず。ここに振放け見ればとある對象は、その屋裏に見ゆる、所謂「繩葛」の千尋に延へ渡したる繩葛にて取結べる、その竪き結びを見たまひての事なり。古の宮殿に天井など無かりしが故に、振仰ぎ見れば、その繩葛の結び渡せるさまは直ちに見られしなり。今の建築法になりても紫宸殿のみは所謂|内室造《ウツムロヅクリ》にして天井なく、化粧屋根裏梁を見せたる建築とせられたるは古式を永く保有せられたるものなりとす。この事によりてこの歌の意を想ひ見るべし。
○大王乃 「オホキミノ」とよむ。天皇をさす。
○御壽者長久天足有 舊訓「オホミイノチハナガクテタレリ」とよめり。古寫本中金澤本には「イノチハナガクアマタラシアリ」とよみ、神田本には「オホミイノチハナカクテタレリ」といふ訓を加へ、京都大學本には「ミイノチハナガクアマタラシタリ」と訓せり。又代匠記には「オホミイノチハナカクアメタレリ」かといひ、考には「ミヨハトコシクアマタラシヌル」とよみたり。されど、これらの諸訓いづれも心ゆかず。略解には「ミノイチハナガクアマタラシタリ」とよみてより諸家多くは之に從へり。この訓も治定せりといはれねど、他によき案なきによりて姑く略解に從ふ。後のよき考をまつ。「天足らす」は天空の如く充足せる意にして、聖壽無疆ならむとなり。さてかく祝言によまれたるはかの石川年足の歌によめる如く、その家の屋を結び渡せる繩の長きが如く、家主とます天皇の御壽の長きをことほぎ、又顯宗天皇の室壽の御詞に「取結繩(210)葛者放家長御壽之堅也」とある如く、常磐に堅磐にましまさむとなり。
○一首の意 御寢殿の屋裏を振り仰ぎて見れば、千尋の綱葛を延へ渡して堅く取結びてあり。之を見て思ひ奉るに、古より壽詞にいふ如くかく長く延べ、ゆるびなく取結べる綱葛は大御壽の長く堅くましまさむと信ぜらるれば、わが大君の大御壽も亦天の如く無極に長く恙なくましさむと言ほぎ奉られしなり。
 
一書曰、近江天皇聖體不豫御病急時太后奉獻御歌一首
 
○一書曰云々 これは次の歌のはしがきの如く見ゆれど、その歌は崩御の後のものなれば、歌の意とこの文意と打ちあはず。この故に、攷證にはこれに對する歌の脱落ありとせり。按ずるにこれは略解の説の如く上の歌の左注にして一書にかく題せりといへるものと見るべし。
○近江天皇 即ち天智天皇なり。
○聖體不豫 上に「聖躬不豫」といへるにおなじ。
○御病急時 「オホミヤマヒオモクマシマシシトキニ」とよむべし。急は急迫の義にして、今いふ危篤に迫るをいふ。これを「アツシク」ともよむをうべきものなれど、その用例は平安朝のもののみに見ゆれば、ここはなほ上の如くによむべきなり。
○ さて上の如くなれば、次の歌のはし書はここになき事となるなり。而して次の歌は天皇崩御後の詠なるべく思はるれば、如何に考へても上の詞書を次の歌に關係して考ふるを得ず。(211)こは既に諸先輩のいへる如く、この間に既落あるものと考へらる。その脱落ありといふうちにも、種々の考案ありて、一々之をあげて評するを得ざれども、余は上の詞の後の歌の前に次の歌の端書ありしが脱せしものと考ふるなり。何が故に脱落の生じたるかはもとより知るべからずといへども或は古く卷子なりし時に一葉脱したりしか、然るときはなほ二三首の歌ありしならむも知られず。或は又、上の左注と、その脱落せしと考ふる端書と文句相似たるが爲に、見誤りて脱せるか。しか考ふる由は末に歌一首とあるが、普通の左注と異なればなり。されど今にして之を知るに由なし。考略解の如く、「人者縱」の歌の前なる詞書を次にめぐらし、二首の詞書なりといふも證なきことなり。而してかかるさまになりしも古き時よりの事なるは、今本の目録がすべてかくなれるによりても察すべし。
 
148 青旗乃《アヲハタノ》、木旗能上乎《コハタノウヘヲ》、賀欲布跡羽《カヨフトハ》、目爾者雖視《メニハミレドモ》、直爾不相香裳《タダニアハヌカモ》。
 
○青旗乃 「アヲハタノ」とよむ。この青旗をば諸説多くは仙覺抄の説に從ひ、日本紀孝徳卷の葬制と常陸風土記とを引きて葬具の由にいへれど從ふべからず。先づ仙覺抄に引ける常陸風土記を見るに、「葬具儀赤旗青幡交雜飄※[風+易]雲飛虹張螢野耀路、時人謂之幡垂國」(ハタシタリノクニ「信太郡」)とあるによれるものなるが、この青旗をその葬具とせるは下の「木旗の上」の解釋と連關する所あるによりてそこに説くべし。又考には青旗は白旗をいふとてこれは孝徳紀を引かれたれど、その葬制には「其葬時|帷《カタヒラ》帳《カイシロ》等用2白布1」とあるのみにして、旗に白布を用ゐよといふ事は(212)見えず、よし又旗に白きを用ゐたりとして、之をアヲ旗とはいふべきにあらず。余按ずるにこれは契沖が「此は木幡といはん爲の枕辭なり。木のしけりたるは青き旗を立たらんやうに見ゆればなり。第四【十六右】に青旗乃葛木山(五〇九)といひ、第十三【卅一右】に青幡之|忍坂《オサカノ》山(三三三一)と云へる皆同じ意なり」といへる如く集中「アヲハタノ」とあるは上の二とこことのみなれば、この説は動くまじきなり。
○木旗能上乎 「コハタノウヘヲ」とよむ。この「コハタ」を契沖は山城の木幡の地といひ、考には「木」を「小」の誤として「ヲハタ」とせり。檜嬬手は字のまま「コハタ」とよみて義は幢幡の類とせり。攷證はよみ方はかはらねど、「コ」は「小」の義なりとせり。かくて考、檜嬬手、攷證は多少の異同はあれど、歸する所は一にしてこれを青旗の小旗の上をかよふといへるなり。されば、これらの人の説にては葬具の旗を建ててある上を通ふといふ義にとれるなり。さてかくとるにつきて考ふべきは、その青旗なるものを何が故にここにとりいでたるか。常陸風土記なるには赤旗も見ゆるに、考の説の如くば白旗もありしならむに、特に青旗をいへる理由如何。又その旗は葬具にして、墓の具にあらねば、その説によらば、これは葬禮の鹵簿を見てよまれしものといふべきならむ。然れどもこれはさにあらずして、上の青旗が契沖の説の如く、木の茂りたる地をさせる枕詞なることは動かすべからねば、ここも契沖のいへる如く地名なるべし。さて「木幡」といふ地名は今も山城にありて、宇治木幡とつづき名高き處なるが、この木幡は中比木幡庄といはれ、その庄は北は深草を限り、南は岡の屋、五箇庄を限るといはれてあれど、古はしか劃然たる(213)ことなく、大樣にいへりしなるべく、この「コハタ」の地は、天智天皇の御陵のある山科と近き處に在りて、古は山科のこはたの里といはれしなり。拾遺集にいはく「山科のこはたの里に馬はあれどかちよりぞ來る君をおもへば」(一二四三)といふ歌あり。この歌は本集卷十一「二四二五」「山科強田山馬雖在歩吾來汝念不得《ヤマシナノコタノヤマヲウマハアレドカチヨリワガクナヲオモヒカネテ》」とある歌に基づけるものなり。これにて「こはた」は古へ山科の一部の名なりしを見るべく、而してここに「コハタノ上」とあるは、木幡山を主にさされしを考ふべく、又山科の山陵を思ひてコハタの山といはれしとも考ふべし。「上乎」の「ヲ」をそこを通る點をさし示すに用ゐる助詞なり。
○賀欲布跡羽 「カヨフトハ」とよむ。天智天皇崩御の事は日本紀に見えたれど、山陵の事は見えず。延喜式に載せたるには山科とあり。然るに、帝王編年記、水鏡等には御馬にめして天へ上らせ給ひければ、其御沓の落ちたる所に御陵は築かれたる由見えたり。されば古來天智天皇昇天の説ありしなり。その崩御の時よりはやくさる傳説の生じたるによりてかく山科又木幡の邊を天翔り通ひ給ふとはうたへるならむか、若くはこの歌の如きが、後にさる傳説を生ずる基となりしならむ。
○目爾者雖視 「メニハミレドモ」。かく木幡の邊をば天翔り通ひ給ふといひ、われもよそめには見奉れどもとなり。ここに見れどもとあれば、實に肉眼にて見たるさまに考へらるべき事なれど、もとよりさる事あるまじく、しか信じて見る目に生じたる幻覺か、若くは夢かなるべし。
○正爾不相香裳 「タダニアハヌカモ」。ここの「ただに」は今の語に「直接に」といふ意なり。「カモ」は(214)ここに嘆の意をあらはせり。
○一首の意 山科の木幡の邊を通はせ給ふやうによそには見奉れども、幽明境異なれば直接に逢ひ奉ることの叶はぬことよとなり。これは上にいへる如く詞書を逸したれど、なほ大后などの御歌なるべきなり。
 
天皇崩御之時倭太后作歌一首
 
○天皇崩御之呼 「スメラミコトカムアガリマシシトキ」とよむ。この天皇は天智天皇なることいふをまたず。
○倭大后 倭太后は即ち倭姫太后の意にてかけるなり。倭姫は古人皇子の御女にして天皇の七年二月に皇后にたちたまへり。太后の皇后の義なることは既にいへる如し。
 
149 人者縱《ヒトハヨシ》、念息登母《オモヒヤムトモ》、玉※[草冠/縵]《タマカツラ》、影爾所見乍《カゲニミエツツ》、不所忘鴨《ワスラエヌカモ》。
 
○人者縱 舊本「ヒトハイサ」とよめり。されど縱を「イサ」とよむべき由なし。契沖が上の人丸の長歌(一三一)に「よしゑやし」と云ふに「縱畫屋師」と書きたるなどを證として「よし」とよむべしといへるに從ふべし、なほそが證は既に「一三一」の條にいひたればそを見るべし。さてこの「よし」はゆるし又は假容放任をあらはすものにして、普通の場合には下に接續助詞「とも」のあるを要するなり。ここは放任の意なり。
(215)○念息登母 「オモヒヤムトモ」 「息」を「ヤム」とよむは「ヤスム」意の「ヤム」を「止ム」の意の假名につかへるなり。他人はよしや天皇を思ひ慕ひ奉ることを忘れ止む事ありともとなり。
○玉※[草冠/縵] 「タマカツラ」なり。玉の小琴に「玉」は「山」の誤にして「ヤマカツラ」とよむべしとあり。されど、これは上の「玉松」の條にもいへる如く、鑿ちすぎたる説にして從ふべからず。玉※[草冠/縵]といふ語は古くよりある語にして古事記下卷安康天皇の條に「押木之玉縵といふもあり。又江家次第齋王群行の條にも玉縵を着《ツケ》給ふこと見えたり。さて玉はほめていふ詞にして「かつら」は日蔭鬘の事にて、髪にかくるよりやがてこれを「かけ」の枕詞とせるなりといふ説普通なるやうなるが古義には「玉※[草冠/縵]は玉の光明《ヒカリ》のきら/\と照映《テリカヽヨ》ふものなるゆゑに玉カツラ映《カケ》とはいへるなり云々」といへり。かく種々の説を見るが、余はここは特別の意あるものなるべく思ふなり。その故は日本紀持統天皇元年十二月に「以2華縵1進2于殯宮1此曰2御蔭1」と見え、又翌二年三月の條にも「以2華縵1進2于殯宮1」といふことあり。その華縵といふものは如何なるものなるか。日本書紀通釋に曰はく「今按に此もの御蔭と稱するを思へば、佛家に云へる華鬘にはあらじ、ハナカツラと訓へし。内藏寮式に大神祭に忍冬花鬘萬葉に柳の鬘、櫻花の鬘、早稻穗《ワサホノ》鬘あり、又|百合《ユリノ》花鬘を客に贈る歌あり。後撰集に鬘料に菊花を人に乞ふ文あり。これらみな花鬘なる證なり。ここなるも麗しく作りなせる鬘を進めしなるべし。」といへり。按ずるにこの初度の記事は十二月の事なり。その頃に果して時の花ありしか疑ふべし。なほ次度の記事の下には通釋に曰はく「既に云ることこれも三月にて花の頃なれば時の櫻花にて作れる縵なり。佛器の作り(216)華※[草冠/縵]《ケマム》にあらざる事知べし」といひたれど、初度の十二月の時は自然の花とは思はれず。さて又曰はく「鬘を蔭と云ること大甞祭式に親王以下女嬬以上皆日蔭鬘萬葉十九新甞會時歌、足日木乃夜麻之多日影可豆良家流宇倍爾也左良爾梅乎之奴波牟とある日蔭は御鬘と同じ。皆鬘を蔭と謂ふ例なり。日も神も美稱なり」といへり。この鬘を蔭といふ事につきては如何にもいはれたる事と思はるるが、それを時の花を以てつくれりといふ説は信ぜられず。思ふにこれはなほ佛前の莊嚴に用ゐる華鬘と同じやうなるものをさせるならむか。それは通常華鬘とかき、ここは華※[草冠/縵]とかきて文字は少しく違へど、鬘※[草冠/縵]、いづれも「カツラ」と訓し、しかもその「カツラ」は頭髪に、縁あるものなれば、歸する所一に落つべし。さてかの持統紀の殯宮は天武天皇の殯宮なるが、この天皇御大葬に佛式の加へられしことは日本紀を見ても知らる、即ち「諸僧尼發哭於殯宮乃退之」といふ事屡見え、又持統天皇元年九月に國忌齋を京師の諸寺に設け、なほ齋を殯宮に設けられしことを見ても知らるるなり、かくてこの風天智天皇の殯宮にも行はれしことあらむと見るは不當にあらざるべし。大體皇室には葬儀に佛式の混ぜるは聖徳太子以後著しく、持統天皇の時火葬を行はれしにても著きことなり。さてその華※[草冠/縵]の形や質につきて奈良朝のものは略その制を考ふべし。然らば、これを以て推すにその制大差なからんか。されば、この玉鬘はその華※[草冠/縵]をばほめていへるにもあるべけれど、或は實際に玉をもて飾りしものにてもあらむ。而して華※[草冠/縵]をは當時「御蔭」ともいひし事は明かなれば、この語の縁によりてかくいはれしにて枕詞といはばいへ、ただの枕詞にはあらざるべきなり。
(217)○影爾所見乍 「カゲニミエツツ」なり。上の玉※[草冠/縵]をば「御かげ」ともいへるによりてそれを縁としてここに「かけ」といへるなるが、ここの「かげ」は面影の義なるべし。卷十一「二四六二」に「我妹吾矣念者眞鏡照出月影所見來《ワギモコシワレヲオモハヾマスカヾミテルミカヅキノカゲニミエコネ》」卷十八「四〇六〇」に「都奇麻知弖伊敝爾波由可牟和我佐世流安加良多知婆奈可氣爾見要都追《ツキマチテイヘニハユカムワガサセルアカラタチバナカゲニミエツツ》」などその例なり。「カゲニミユ」とは「影として」の義なるが、上にあげたるはいづれも面影の義の例なるが、實際の影なる場合もあり。卷七「一二九五」に「春日在三笠乃山二月船出遊士之飲酒杯爾陰爾所見管《カスガナルミカサノヤマニツキノフネイヅミヤヒヲノノムサカヅキニカケニミエツツ》」とあるが如きこれなり。
○不所忘鴨 舊訓「ワスラレヌカモ」とよめるを代匠記に「ワスラエヌカモ」とよむべきかといへり。舊訓にても不條理なるにあらねど、かかる「レ」を古「エ」といひしが故に代匠記の案をよしとす。卷五「八八〇」に「美夜故能堤夫利和周良延爾家利《ミヤコノテブリワスラエニケリ》」卷十三「三二五六」に「暫文吾者忘被沼鴨《シマシモワレハワスラエヌカモ》」卷二十「四四〇七」に「伊毛賀古比之久和須良延可母《イモガコヒシクワスラエカモ》」とある、其の例なり。「ワスル」はこの頃に四段活用なりしが、「エ、ユ、ユル、ユレ」といふ複語尾を分出せるなり。かくてこの「エ」は能力をあらはせるものにして忘れむとしても忘るること能はぬかなの意なり。
○一首の意 天皇の崩御ありし悲歎をば人はよしや思ひ止むことありとも、われは御面影が常に見え給へば忘れむとしても忘るること能はず。いつも新喪の如くに悲み歎くことよとなり。伊勢物語に「人はいさ思ひやすらむ、玉かつらおもかけにのみいとどみえつつ」とあるはこの歌を基としてよめるが如し。
 
(218)天皇崩時婦人作歌一首 姓氏未詳
 
○天皇崩時 上の天皇崩御之時におなじ
○婦人作歌 この婦人は宮人なるべし。後宮職員令の義解に「宮人謂2婦人任官者1之惣號」とあり。されどそは何人なるか詳かならぬこと既に本書に注せり。今にして知るべからず。
○姓氏未詳 流布本「姓氏」とあるは誤なること著しく、多くの古寫本正しく「姓氏」とかき小字にて注せり。今これに從へり。
 
150 空蝉師《ウツセミシ》、神爾不勝者《カミニタヘネバ》、離居而《ハナレヰテ》、朝嘆君《アサナゲクキミ》、放居而《サカリヰテ》、吾戀君《ワガコフルキミ》、玉有者《タマナラバ》、手爾卷持而《テニマキモチテ》、衣有者《キヌナラバ》、脱時毛無《ヌクトキモナク》、吾戀《ワガコフル》、君曾伎賊乃夜《キミゾキゾノヨ》、夢所見鶴《イメニミエツル》。
 
○空蝉師 「ウツセミシ」とよむ。「ウツセミ」は現し身の轉にして現の世にある人身をさすこと卷一に既にいへり。「し」は指す意の助詞なり。
○神爾不勝者 「カミニタヘネバ」なり。「勝」は※[舟+(ハ/夫)]と力との會意の字にして、名詞としては類聚名義抄に「フナニ」といふ如く船荷の義なり。動詞としては説文に「任也」と注し、正韻に「堪也」と注する如く、國語「タフ」にあたるものにして「カツ」とよめるは第二義によれるなり。攷證に「不勝の字をよめるはかたれざるよしの義訓にて云々」といへるは「勝」を「カツ」とのみよむと思へる誤にして從ふべからず。現の身は神に隨ひ奉るに堪へねばといふなり。
(219)○離居而 古来「ハナレヰテ」とよめり。これは下の「放居而」と同じ意なるが、それをも「ハナレヰテ」とよめり。「離」も「放」も共に「ハナル」とも「サカル」ともよみうる字なるが、契沖は「放居而」の方を「サカリヰテ」とよむべしといひ、雅澄は「離居而」の方を「サカリヰテ」とよむべしといへり。これはいづれにても道理なきにあらねど、「放」字は集中に多く「サカル」とよめば、ここは「ハナレヰテ」とよみ、次を「サカリヰテ」とよむをよしとすべし。意はいづれも同じく、君に對していへるなり。
○朝歎君 「アサナゲクキミ」とよむ、意は明かなりと思はるるが、契沖は下に「夕」といふ詞なければ、朝は朝夕の「アサ」にあらざるべしといひて、「マヰナゲクキミ」とよみ、本居翁は「夕」は「我」の誤とせり。されど、考には「下の昨夜《キソノヨ》夢に見えつるといふを思ふに其つとめてよめる故に朝といへるならん」といへり。これを強ひ言なりといふ説もあれど、よく考ふるになほこの説よしとす。ことにこの歌の眼目この「朝」といふ語にあり。そは下にいふべし。
○放居而 「サカリヰテ」とよむべきこと上にいへり。
○玉有者 「タマナラバ」とよむ。玉にてましまさばといふなり。人をかくたとへいへること古多し。次に例をあぐ。
○手爾卷持而 「テニマキモチテ」とよむ。手玉として手に纏ひ持ちてといふなり。巻三「四三六」に「人言之繁比日《ヒトゴトノシケキコノゴロ》、玉有者手爾巻以手《タマナラバテニマキモチテ》、不戀石益雄《コヒザラマシヲ》】巻四「七二九」に「玉有者手二母將卷乎欝瞻乃世人有者手二卷難石《タマナラバテニモマカムヲウツセミノヨノヒトナレバテニマキガタシ》」卷十七「三九九〇」に「我加勢故波多麻爾母我毛奈手爾麻伎底見郡追由可牟乎於吉底伊加婆乎思《ワガセコハタマニモガモナテニマキテミツツユカムヲオキテイカバヲシ》」などあり。古の風俗、手足に玉を纏きて飾とせることはよく人の知れる所に(220)して、日本紀卷二、一書に「手玉玲瑯瓏織※[糸+壬]之少女《タタマモユラニハタオルヲトメ》」と見え本集卷三「四二四」に「泊瀬越女我手二纏在玉者亂而有不言方《ハツセヲトメガテニマケルタマハミタリテアリトイハズヤモ》」卷七「一三〇一」に「海神手纏持在玉故石浦廻潜爲鴨《ワタツミノテニマキモタルタマユヱニイソノウラミニカツキスルカモ》」卷十(二〇六五)に「足玉母手珠毛由良爾織旗乎《アシダマモタダマモユラニオルハタヲ》」などあり。その手玉の制古墳の發掘物にて見るべく、延喜式大神宮式に「頸玉手玉足玉緒云々」とあれば、多くの玉を緒にぬき連ね、これを手に纏ひしなり。さてこの下の「テ」は同じ趣の句を下に連ぬる用をなせり。
○衣有者 「キヌナラバ」とよむ。衣にてましまさばなり。人をかくたとへ、いへること古に多し。次に例をあぐ。
○脱時毛無 舊訓「ヌクトキモナミ」とよめるが、古寫本には「ナク」とよめる本もあり。契沖は「ナク」とよみ、考には「ナケム」とよみたれど、「ナク」とよむ方に從ふべし。その故は下の「こふる」に對しての修飾格なればなり。卷十「二二六〇」に「吾妹子者衣丹有南秋風之寒比來下爾著益乎《ワギモコハキヌニアラナムアキカゼノサムキコノコロシタニキマシヲ》」卷十二「二八五二」に「人言繁時吾妹衣有裏服矣《ヒトゴトノシケキトキニハワギモコガキヌニアリセハシタニキマシヲ》」又「二九六四」に「如此耳在家流君乎衣爾有者下毛將著跡吾念有家留《カクノミニアリケルモノヲキヌナラバシタニモキムトワカモヘリケル》」などの例の如く衣にあらは脱く時も無くして常にきてあらむ如くと、ここに「如く」といふ形容の語を加ふべし。これ比喩にして、片時も君に離れ奉り難く思ふをたとへていへるなり。
○吾戀 古來「ワガコフル」とよめるを玉の小琴に「ワガコヒム」とよみしより略解なども之に從ひてよみ、かくてそを連體格とし諸家多く之に從へり。これは上に「衣ナラバ」とあるによりて「ム」といはでは打ちあはずとするなれど、これは實事と比喩とを混同したる説なり。上の「衣有者(221)脱時毛無」は比喩なれば、たとへば、云々の如くにわが戀ひ奉る君といふ義なり。かくて上の「衣ならば」に對しての歸結は「脱く時もなく」が修飾格に立てるために、それに、照應する語なくてすむものなり。而して「わがこひむ」といひては未だ戀ひ奉らずしてある者の將來に戀ひ奉らむといふ義になりて、歌の意もそこなはれ、この歌主は眞に戀ひ奉りて在りとは思はれざるなり。なまなかの文法に拘泥し歌の本旨を打ちこはすは如何。況んや文法上にもかくいひて破格には決してあらぬをや。
○君曾伎賊乃夜 「キミゾキゾノヨ」とよむ。「君ゾ」の「ゾ」は次の句にかかれり。「キゾノヨ」は咋夜なり。卷十四「三五〇五」に「孤悲天香眠良武伎曾母許余比毛《コヒテカヌラムキソモコヨヒモ》」同「三五二二」に「伎曾許曾波兒呂等佐宿之香《キソコソハコロトサネシカ》」同「三五六三」に「和乎可麻都那毛伎曾毛己余必母《ワヲカマツナモキソモコヨヒモ》」とあるなどその例なり。
○夢所見鶴 舊訓「ユメニミエツル」とよめり。考には「夢」を「イメ」と改めよめり。集中又古書皆「イメ」とあれば、考に從ふべし「イ」は寐の古言にして寐て見ゆるものなれば「イメ」とはいふなり。「ユメ」はその「イメ」の後世の轉訛なり。卷十五「三七三八」に「比登欲毛於知受伊米爾之美由流《ヒトヨモオチズイメニシミユル》」卷十七「三九八一」に「許己呂之遊氣婆伊米爾美要家里《ココロシユケバイメニミエケリ》」とあり。「鶴」は複語尾「ツ」の連體形「ツル」に借れるものにしてその「ツル」は上の句の「ゾ」に對する結なり。
○一首の意 現身なる我は神にあらねば、神として天に昇り給ひし天皇に隨ひ奉るに堪ふるものにあらねば、吾が大君をば離れ奉りて、歎き奉り、戀ひ奉るなり。若しわが大君が玉にてましまさば手に纏ひ持ち奉らむ、又衣にてましまさば着て脱ぐ時なきが如くに常に大御身に離れ(222)ず仕奉らむとわが戀ひ奉る君が毎夜夢に御見えになりしよとなり。かくてその夢に見たる朝によめるがこの歌なるべく「朝〔右○〕」といふ語ありて、この歌の印象を明確ならしむ。朝字なくしてはこの歌果して的確に味はるべきか如何。
 
天皇大殯之時歌二首
 
○大殯 考に「大殯宮」の三字につくり「オホミガリ」と訓ぜり。古義は古事記傳に「オホアラキ」とよめるに從へり。大殯の大は尊びて加へたる語にして殯は説文に「死在v棺、將v遷2葬柩1賓2遇之1」とある如く未だ葬り奉らず、新に構へたる別宮に置き奉る程をいふ。殯を「アラキ」といふは新城の義にして後世權殿といふに略おなじ。卷三に左大臣長屋(ノ)王賜死之後倉橋部女王歌「大皇之命恐大荒城乃時爾波不有跡雲隱座《オホキミノミコトカシコミオホアラキノトキニハアラネドクモカクリマス》」(四四一)とあるこの語の例なり。この大殯の時は日本紀天智十年十二月「癸亥朔乙丑天皇崩2于近江宮1癸酉殯2于新宮1」とあるこれなり。この歌作者を注せず。然れども、古寫本にはその各首の下に作者を注せり。そはその各首の下にいふべし。
 
151 如是有乃〔左●〕《カカラムト》、豫知勢婆《カネテシリセバ》、大御船《オホミフネ》、泊之登萬里人《ハテシトマリニ》、標結麻思乎《シメユハマシヲ》。 額田王
 
○如是有乃 「乃」は「刀」の誤なるべし、と代匠記にいひ、童蒙抄には「登」若くは「及」の誤なるべしといへり。而して現に傳はれる本には「乃」とのみありて他の文字を見ねど、「と」とあらずば、意通せざる所なれば、「ト」の誤なることは疑ふべからざるが、しかせば「乃」と「刀」とまぎれ易ければ、「刀」の誤とす(223)る代匠記の説よかるべし。「カカカラムト」は「かく崩御あらむと」の意なり。
○預知勢婆 「カネテシリセバ」とよむ、「カネテ」は將來をかけて思ふ意を示せり。卷十七「三九五九」に「可加良牟等可禰弖思理世婆《カカラムトカネテシリセバ》」といへる、その例なり。「セ」は「キ」「シ」の未然形にして「かねて知りてありたらば」の意なり。
○大御船 「オホミフネ」なり。天皇の乘りませる大御船なり。これは「泊之」の主格なり。
○泊之登萬里人 「ハテシトマリニ」とよむ。「人」を「ニ」の假名に用ゐたるはめづらしき例なるが、これは呉音「ニン」の首音をとれるなり。但し、古葉略類聚抄神田本には「尓」とせり。船の行き到りて止まるを「ハツ」といふこと卷一「五八」にいへり。「泊」はその船のはてたる港などをいふ。これは、古、近江の都の時滋賀の辛崎に船遊などあそばししことを思ひてよめるなり。卷一「三〇」の「樂浪之思賀乃辛崎雖幸有大宮人之船麻知兼津《ササナミノシガノカラサキサキクアレドオホミヤビトノフネマチカネツ》」といふ歌又次の歌をも參考すべし。
○標結麻思乎 「シメユハマシヲ」とよむ。ここに似たる語遣ひは卷七「一三四二」に「淺茅原後見多米爾標結申尾《アサチハラノチミムタメニシメユハマシヲ》」ともあり。「シメユフ」といふ事は上の「一一五」にもありて、卷七の歌のはその意の「シメ」なれど、ここのは少しく異なり。ここは古事記上卷天岩戸段に「布刀玉命以2尻久米繩1控2度其御後方1白言、後v此以内不v得2浸入1」とあると同じ心にて標繩を引き廻して出入を止めて、以て大御船を永く留め奉らましをとなり。考に曰はく「ここの汀に御舟のつきし時しめ繩ゆひはへて永くとどめ奉らんものをと、悲しみのあまりをさなく悔る也云々」といはれたるをよしとす。
○一首の意 かくゆくりなく崩御の事あらむとは思ひもかけざりし事なるが、かかる事あらむ(224)とかねて知りてありしならば、かの御船遊の時大御船のはてし辛崎の濱に標を結ひて永くとどめ奉るべかりしものをさても殘念なる事をしたりとなり。
○ 金澤本、類聚古集、神田本、温故堂本、西本願寺本等多くの古寫本歌の下に小字にて額田王と注せり。蓋しこの歌の作者たる由なり。
 
152 八隅知之《ヤスミシシ》、吾期大王乃《ワゴオホキミノ》、大御船《オホミフネ》、待可將戀《マチカコフラム》、四賀乃辛崎《シガノカラサキ》。 舎人吉年
 
○八隅知之 既にいへり。
○吾期大王乃 舊訓「ワガオホキミノ」とよみたり。されど、「吾期」とあるは「ワゴ」とよむべきこと卷一(五二)にいへり。
○大御船 上にいへり。この下に「ヲ」助詞を加へて解すべし。
○待可將戀 舊訓「マチカコヒナム」とよめり。代匠記にては初稿には「コフラム」とし、清撰には「コヒナム」を可とせり。略解は「コフラム」とよめり。而して諸家或は彼に從ひ是に從ひ區々たり。按ずるにこれは「待可」にて三音なれば、殘り四音にて「將戀」をよまざるべからざれば、「コフラム」「コヒナム」の外にはよみ方あるまじ。さて「ナム」といへば、將來を戀ふる意となり、「ラム」といへば、現實に戀ふる意となる。ここは崩御のありしをも知らず、現今も待ち奉る意とすべきなれば、「ラム」とよむをよしとす。「カ」は疑の助詞にて今の語にては下に回して解すべし。
○四賀乃辛崎 「シガノカラサキ」は滋賀の唐崎にして卷一「三〇」にいへり。この辛崎は主格なる(225)を反轉して下におけるなり。
○一首の意 滋賀の辛崎が、吾が天皇の崩御ましまししを知らず、大御幸はいつか/\と大御船にめさむ日を待ち戀ふるならむかとなり。この歌卷一の柿本人麿の歌の反歌の第一(三〇)に似たり。然れども、これは待つ由をいひ、かれは待ちて待ちえぬ由をいへれば、詞は似て趣は異なり。
○ 金澤本、神田本、西本願寺本、温故堂本、京都大學本等に歌の下に小字にて「舍人吉年」と書けり。蓋し、作者を注せるなり。「舍人」は氏にして「吉年」は名なるべきが、「キネ」とよむべきか。蓋し宮人ならむ。卷四田部忌寸櫟子任太宰時歌四首の第一首(四九二)の下に注して古寫本に「舍人吉年」とあるも同じ人なるべし。
 
大后御歌
 
○大后 は倭姫皇后なること上に述べたる所なり。この御歌は同じく大喪中の御詠なり。
 
153 鯨魚取《イサナトリ》、淡海乃海乎《アフミノウミヲ》、奧放而《オキサキテ》、榜來船《コギクルフネ》、邊附而《ヘツキテ》、榜來船《コギクルフネ》、奧津加伊《オキツカイ》、痛勿波禰曾《イタクナハネソ》、邊津加伊《ヘツカイ》、痛莫波禰曾《イタクナハネソ》、若草乃《ワカクサノ》、嬬之《ツマノ》、念鳥立《オモフトリタツ》。
 
○鮮魚取 「イサナトリ」とよむことは上に「勇魚取」(一三七)の下にいひし如し。さてこれはもと潮海につきていへる語なれど轉じて淡海の海にも用ゐて枕詞とせるなり。
(226)○淡海乃海乎 「アフミノウミヲ」とよむ。「淡海」はもと湖水の汎稱なるが、ここは地名とせしにて淡海の國の海即ち今の琵琶湖をさせり。
○奧放而 「オキサケテ」とよむ。奧は海の沖をいひ、「放けて」ははるかに遠くへだたててなり。契沖曰く「奧をさかりて此方にくると云にはあらず、奧の遠く放れたる方より來る舟なり」といへり。これ從ふべきが如くなれど、なほあかず。按ずるにこれは下に「邊附而」とあるに對する語なれば、放りたる奧を通りてここにくる舟といふ事なるべし。さけてはさかりてといふ語と所謂自他の差異あればさかりといふはあたらず。奧の方に、遠く間をおきてあるをば「オキサケテ」といふなり。
○榜來船 「コギクルフネ」とよむ。榜榜共にこぐとよむをうること卷一(四二)にいへり。
○邊附而 舊訓「ヘニツキテ」とよめるを考に「ヘヅキテ」とよみ、略解に「ヘツキテ」とよめり。「奧」と「邊」と對して用ゐる例は古事記上に「奧疎神邊疎神」この卷二「二二〇」「奧見者跡位浪立邊見者白浪散動《オキミレバシキナミタチヘミレバシラナミサワグ》」などあり。邊は海ばたをいふことは明かにして、その濱邊傳ひにくるをいふことは明かなるが、「ヘニツキテ」とよむべきか「ヘツキテ」とよむべきか。本集の例を見るに「ヘニツキテ」とよむべきものはなくして卷七「一四〇二」に「殊放者《コトサケハ》、奧從酒甞《オキユサケナム》、湊自邊著經時爾可放鬼香《ミナトヨリヘツカフトキニサクペキモノカ》」とありて「ヘツカフ」といへり。この「ツカフ」は「ツク」より變化せるものなれば、「ヘツキテ」とよむ方この時代の語なるべし。海邊に近き方につきてなり。
○奧津加伊 「オキツカイ」とよむ。下の「ヘツカイ」と併せ説くべし。
(227)○邊津加伊 「ヘツカイ」とよむ。「沖つ」「邊つ」と相對していふことは古書例多くして一一枚擧すべからず。「つ」は助詞にして「の」と似たり。「カイ」は今もいふ「カイ」にして船にありて水を掻きて船を進むる具なり。和名鈔舟具に「釋名云在v旁撥v水曰v櫂【直教反字亦作v棹楊氏漢語抄云加伊】擢2於水中1且進v櫂也」と見ゆ。「カイ」は「カキ」の音便にして水を掻く具なるよりの名なりとす。これまさしく釋名の「在v旁撥v水」の義に相當せり。その「カイ」といふ語の例は卷八「一五二〇」に「左丹塗之小船毛賀茂《サニヌリヲフネモカモ》、玉纏之眞可伊毛我母《タママキノマカイモガモ》」卷十九「四一八七」に「小船都良奈米《ヲブネツラナメ》、眞可伊可氣伊許藝米具禮婆《マカイカケイコギメグレバ》」卷二十「四三三一」に「大船爾末加伊之自奴伎《オホブネニマカイシジヌキ》」などあり。さて「オキツカイ」とは奧こぐ船の「カイ」にして「ヘツカイ」とは邊をこぐ船の「カイ」なり。古義に「オキツカイ」は左方にして「ヘツカイ」は右方といへるは證なきことにして推しあての強言なり。
○痛勿波禰曾 痛莫波禰曾 「勿」「莫」の字差あれど、いづれも「ナ」にして共に「イタクナハネソ」とよむ。「イタク」は「イト」と同源の語にしてそを形容詞としたるものなり。巻五「八四七」に「和我佐可理伊多久久多如奴《ワガサカリイタククダチヌ》」巻十五「三五九二」に「於伎都風伊多久奈布吉曾《オキツカゼイタクナフキソ》」など假名書の例多し。こは所謂「ナソ」の格にして上に「ナ」あり、下に「ソ」あり、其の間に動詞の連用形をおきて禁止をいひあらはせり。「はぬ」といふ語の例は古事記下雄略卷の歌に「加那須伎母伊本知母賀母須岐婆奴流母能《カナスキモイホチモガモスキハヌルモノ》」とあり。櫂は水を掻くものなるが、甚しく水を撥ぬることなかれとなり。
○若草乃 「ワカクサノ」とよむ。「ツマ」の枕詞とす。日本紀仁賢卷に「弱草吾夫※[立心偏+可]怜矣」とある自注に「古者以2弱草1喩2夫婦1故以2弱草1爲v夫」とあり。その意は冠辭考にいへる如く春のわか草はめづ(228)らしくうつくしまるる物なれば、それにたとへてわか草のつまとはつづけしなり。
○嬬之 「ツマノ」とよむ。これを一句とする時は三言の句となる。之を飽かすとにや童蒙抄には一句脱せしかとし、本居翁は「ツマノ命之」とありしが「命之」の二字脱せるかといへり。されど、三言と下の七言とに口調整はずとは思はれず。このままにてあるべきならむ。「嬬」を「ツマ」とよむことは卷一「一三」にいへるが、古は夫婦共に「ツマ」といひしが故に、ここはその字をかりて夫の義に用ゐたり。而してここの「ツマ」は天皇をさし奉られしこと明かなり。
○念鳥立 舊訓「オモフトリタツ」とよむ。古寫本中には「ヲモヘルトリコソタテ」(神田本)「ヲモフトリタテソ」(温故堂本)などよみ、又童蒙抄に「ツマノシノヘルトリモコソタテ」とよめるは皆上句を三音によむを飽かず思ひしよりの考案なるべけれど、從ふべくも思はれず。この句の意は契沖が「オモフ鳥とは帝の御在世中に叡覽有てめでさせ給ひしものなれば餘愛に不堪してかくはよませ給ふなり」といへるをよしとす。
○一首の意 今この宮より淡海の湖を見れば奧の方遠くより※[手偏+旁]ぎくる船あり。濱邊近くを※[手偏+旁]ぎくる船あり。その船どもの櫂をば、甚しくはぬることなかれ。天皇が御在世の砌愛し念ひたまひし水鳥のその水音に驚き立ち騷くがいとほしきにとなり。天皇を慕ひ奉らるる切なる情をその餘愛の鳥に遇してうたひ出されたるなり。
 
石川夫人歌一首
 
(229)○石川夫人 「夫人」は上にもいへる如く、妃に次ぐ後宮の職にして、嬪の上に位し、臣下にして後宮にめされたるものの最上級の職名にしてその次を嬪といふ。日本紀を按ずるに、天皇には皇后の外に四嬪あり。然れども「夫人」の職にありし人の名なし。然るに四嬪のうち蘇我山田石川麿大臣の女なる遠智娘、姪娘の二人あり。石川夫人といはれしはこの二人のうちに在るべし。
 
154 神樂浪乃《ササナミノ》、大山守者《オホヤマモリハ》、爲誰可《タガタメカ》、山爾標結《ヤマニシメユフ》、君毛不有國《キミモアラナクニ》。
 
○神樂浪乃 「ササナミノ」とよむ。その義は卷一「二九」の條にいへるが、その樂浪の文字はこの「神樂浪」を略せるものなり。「サナナミ」が古近江の滋賀郡邊一帶の地名なりしこと卷一「二九」以下にいへり。
○大山守者 「オホヤマモリハ」とよむ。「大」は美稱なるが、「ササナミ」の地は宮城の邊なれば、そこの山守をば重んじて特に大山守とはいへるなり。山守は日本紀應神卷に「五年秋八月庚寅朔壬寅令2諸國1定2海人及山守部1」と見え、又顯宗卷に前播磨國司來目部小楯を賞せらるる事を叙せる文に「小楯謝臼、山官宿所v願。乃拜2山官1改賜2姓山部連氏1、以2吉備臣1爲v副、以2山守部1爲v氏」とあり。即ち山守は山の官なるを知るべし。さて又續日本妃に「和銅三年二月庚戌初充2守山戸1令v禁v伐2諸山木1」と見えたるは攷證にいへる如く、この官中比たえしを又置かれしなるべきなり、即ちこの山守とは堺を守りて竹木を濫りに伐るを禁し、又御料の山にては衆庶の闌入するを監視せ(230)しめられしものならむ。卷三「四〇一」に「山守之有家留不知爾《ヤマモリノアリケルシラニ》、其山爾標結立而結之辱爲都《ソノヤマニシメユヒタテテユヒノハヂシツ》」又卷六「九五〇」に「大王之界賜跡《オホキミノサカヒタマフト》、山守居《ヤマモリスヱ》、守云山爾不入者不止《モルトフヤマニイラズハヤマジ》」などあるにてこの頃に山守といふ職ありて、山を守り、その山に所謂標を結ひ立てしを見るべし。
○爲誰可 「タガタメカ」とよむ。「タレストカ」とよめる古寫本もあれど從ふべからず。誰が爲にかの意なり。「ために」といふべきをただ「ため」といへる例は卷五「八〇六」に「奈良乃美夜古爾由吉帝己牟多米《ナラノミヤコニユキテコムタメ》」「八四五」に「宇米我波奈知良須阿利許曾意母布故我多米《ウメガハナチラズアリコソオモフコガタメ》」などあり。
○山爾標結 「ヤマニシメユフ」なり。「シメユフ」は上「一五一」の歌にも見ゆれど、ここの「シメユフ」とは目的違ひたり。ここは御料の山ぞとて標結ひて濫りに人を入らしめぬ爲に結へるなり。
○君毛不有國 舊訓「キミモマサナクニ」とよみ、諸家多く之に從へるが、略解は訓は之に從ひて、「有」は「在」の誤なりといひ、萬葉集※[手偏+君]解は「アラナクニ」とよめり。先づ略解は「マサナクニ」とよまむ爲に「在」字なりといへるならむがその説の如く、「在」字を書ける本一もなければ略解の誤字説はうけられず。さてこの歌を古今六帖袖中抄に引けるには、「アラナクニ」とよめり。ここに「マサナクニ」とよめるには、その主格が天皇なる故に敬語を用ゐるべしとせるか、若くは「アラナクニ」といふ語遣の例なしとせるかのうちなるべし。先づこの卷終の歌「三四」に「久爾有名國《ヒサニアラナクニ》」又卷四「六六六」に「不相見者幾久毛不有國《アヒミヌハイクバクヒサモアラナクニ》」などあるによりて「あらなくに」といふ語のなきにあらぬを見るべく、又この卷一「六四」に「欲見吾爲君毛不有爾《ミマクホリワガキミモアラナクニ》」は「君もあらなくに」とよむべく、歌にては必ずしも敬語を用ゐぬこと古今の例なればなり。されば「マサナクニ」とよまむも惡しとにはあらねど、(231)「有」の字によりて「アラナクニ」とよまむ方穩かなり。「アラナクニ」はあらぬものなるにといふいひ廻し方なり。
○一首の意 今は天皇も御座まさぬに、篠浪のこの御料の山の山守は誰が爲にせむとて、かく標を結ひて御山を守り居るならむ。わが君はゆきまして再びかてへりまさぬものをとなり。
 
從2山科御陵1退散之時額田王作歌一首
 
○從2山科御陵1 山科御陵は天智天皇の山陵なり。この山陵の事、日本紀に見えぬ由は上にいへり。略解に「天武天皇三年に至りて此陵は造らせ給へり」とあるは何によりしか詳かならず。ただ天武紀上に「朝廷宣2美濃尾張兩國司1曰爲v造2山陵1豫差2定人夫1」と見ゆる文あれど、これはそれを近江朝廷の陰謀ならむと天武天皇側の者の見し記事なり、續日本紀文武天皇三年の紀に「十月甲午詔赦2天下有v罪者1、但十惡強竊二盗不v在2赦限1。爲v欲2造越智(皇極)山科二山陵1」とあり。これは、修理を施されしをいへるならむ。延喜式諸陵式には、山科陵に注して、「近江大津宮御宇天智天皇在2山城國宇治郡1兆域東西十四町南北十四町陵戸六烟」とあり。さて御陵は即ち山陵の陵に御字を冠したるものなるが、陵字には新撰宇鏡に「彌佐々木」の訓あり、和名抄には「日本紀私記云山陵【美佐々岐】」とも見えたれば、「ミササキ」とよむべくも思はるれど、この歌なる「御陵」は「ミハカ」とよまではあらぬをみれば、「ミハカ」ともよむべきなり。かく二樣あるにつきて考ふるに、その物につきては「ミササキ」といひ、その主につきては「ミハカ」とよむべきものなるが如し。されば、こ(232)れは萬葉考の説の如く「ミハカ」とよむをよしとすべし。
○退散之時 「退」は「マカル」とよむべく、「散」は「アラク」とよむべきものなれど二字にて「マカル」とよむべきならむ。考には「アラケマカルトキ」とよめり。これは親しき皇族の方々大臣又側近に奉仕せし人々の殯宮に晝夜分番交代して仕奉りしものが御陵の事も一段落つきて退散する時をいへるなるべし、その奉仕せる期間は明かならず。
 
○額田王作歌 「ヌカダノオホキミノヨメルウタ」なり。額田王は卷一にいへり。
 
155 八隅知之《ヤスミシシ》、和期大王之《ワゴゴオホキミノ》、恐也《カシコキヤ》、御陵奉仕流《ミハカツカフル》、山科乃《ヤマシナノ》、鏡山爾《カガミノヤマニ》、夜者毛《ヨルハモ》、夜之盡《ヨノコトゴト》、晝者母《ヒルハモ》、日之盡《ヒノコトゴト》、哭耳呼《ネノミヲ》、泣乍在而哉《ナキツツアリテヤ》、百磯城乃《モモシキノ》、大宮人者《オホミヤビトハ》、去別南《ユキワカレナム》。
 
○八隅知之 既にいへり。
○和期大王之 卷一「五二」にいひ、又上の歌「一五二」にもいへり。
○恐也 舊訓「カシコミヤ」とよみ、古寫本中には「カシコシヤ」「カシコクヤ」とよみ、考には「カシコシヤ」をよしとせるが玉の小琴に「カシコキヤ」とし、略解之に從へり。玉の小琴の説に曰はく、「恐也をかしこみや、かしこしやなどと訓るはわろし。かしこきやと訓べし。やは添たる辭にて恐き御陵と云こと也。廿卷【五十四丁】に可之故伎也安米乃美加度乎(四四八〇)この例也 又八卷【三十丁】に宇禮多伎也、志許零公鳥(一五〇七)是等の例をも思ふべし」といへり。又卷二十(四三二一)「可之古伎夜美許等加我布理」といふ例もあり。まことにこの説の如く、かかる場合の「や」は間投助詞にし(233)て、「カシコキ」より御陵に續けて連體格にしたるものなり。申すも恐れ多き御陵といふ意なり。
○御陵奉仕流 舊訓「ミハカツカヘル」とよみたれど、これは後世の俗語の格(下一段)によみたるなれば從ふべからず。童蒙抄に「ミハカツカフル」とよめるをよしとす。陵は元來丘陵の意なれど天子の墓をいふに用ゐる語とせり。而してこれは漢代よりはじまれり。水經の渭水の注に「長陵亦謂2長山1也。秦名2天子冢1曰v山、漢曰v陵、故通曰2山陵1矣」とあり。喪葬令義解にも「帝王墳墓如v山如v陵故謂2之山陵1」とあり。而して令集解には「古記云、陵謂2墓一種1以2貴賤1爲2別名1耳」といへり。さてその訓は「ミササキ」とも「ミハカ」ともよむべきこと上にいへるが、ここは歌詞の上より、ミハカ」とよまざるべからざることは疑ひなし。「奉仕」の「奉」は敬語として冠したるにて重き義なし。山陵を作りつかへ奉るの義にていへるなり。
○山科之 上にいへる如く、山城國宇治郡の地にして天智天皇の御陵のある地なるが、和名抄の郷名に「山科」に注して「也末之奈」とあり。
○鏡山爾 「カガミノヤマニ」なり。鏡の山といふ名の山は近江にもあり、集中には豐前のも見ゆれど、ここはもとより宇治郡山科の御陵のある地の山なり。山城志に「在2御陵村西北1、圓峯高秀小山環列、行人以爲v望」といひ、雍州府志には「在2陵山東1斯麓有2鏡池1」といへり。府志の説實を得たり。今この邊を御陵村といへり。
○夜者毛云々畫者母 これ對句とせるものなるが、古來「ヨルハモ」「ヒルハモ」とよみ來れり。然るに、童蒙抄に「夜者毛」を「クルレハモ」とよみたれど「夜」を動詞によむは無理なれば、古來の訓をよし(234)とす。而してかかる詞遣の例はこの卷「二〇四」「二一〇」卷三「三七二」卷六「八九七」等にあり。この「ハモ」は係助詞「ハ」の下に更に係助詞「モ」の添へるものなるが、かかる場合の「も」は輕くして、ただ調子を添ふるに止まる。「夜は」「晝は」といふを重くいはむ爲の詞遣と見るべし。
○夜之盡 舊訓「ヨノツキ」とよめるは語をなさず。契沖は「ヨノコトゴト」とよみ、童蒙抄は「ヨノアクルマデ」とよみ考は「ヨノアクルキハミ」とよみたれど、「盡」一字を「アクルマデ」又は「アクルキハミ」とよむは道理にあはねば隨ひ難し。さりとて「ツキ」とよまむは文字の訓にはあへど、語をなさず。契沖の説をよしとす。その例をいはば古事記上卷に「伊毛波和須禮士《イモハワスレジ》、余能許登碁登爾《ヨノコトゴトニ》」とある「世之盡々」の義なり。卷五「八九二」に「布可多衣安里能許等其等伎曾倍當毛《ヌノカタキヌアリノコトゴトキソヘドモ》」とあるは「有之盡」なり。この「ことごと」は「ことごとく」といへる形容詞の語幹にして、卷五「七九七」に「久奴知許等其等美世摩斯母乃乎《クヌチコトゴトミセマシモノヲ》」卷二十「四〇〇〇」に「久奴知許登其等《クヌチコトゴト》」とあるごとく、副詞として用ゐる語なるをかく「何の」といひて體言を受けたることは「人のまに」「心のままに」、(「まに」「ままに」は副詞なり)などいふ如き語遣なり。その意は「夜のことごとく」といふ意にて、一夜中通してといふ心なり。
○日之盡 これも舊訓「ヒノツキ」とよみ、童蒙抄に「ヒノクルルマデ」とよみたれど、上と同じく契沖の「ヒノコトゴト」とよめるに從ふべし。これらの例は上にあげたる「二〇四」「二一〇」「三七二」卷五「八九七」等の例にて知らるべきが、なほその他にていはば、本卷「一九九」に「赤根刺日之盡《アカネサスヒノコトゴト》」卷三「四六〇」に「憑有之人之盡《タノメリシヒトノコトゴト》」などを見るべし。
○哭耳呼 舊訓「ネニノミヲ」とよめり。代匠記には「ネノミヲ」と四音によみ、童蒙抄に「ネノミオラ(235)ヒ」とよめり。童蒙抄の訓は「呼」を訓としてよめるものにして、他は「呼」を「ヲ」の假名としてよめり。按ずるに「呼」を「ヲ」の假名とせずば童蒙抄の説一理あるに似たれど、集中「呼」を多く「ヲ」の假名に用ゐたり。加之その「呼」字は西本願寺本に「乎」とあればます/\「ヲ」の假名なることを知るべし。又舊訓の如く「哭にのみを」と「に」助詞を加へては下の「ヲ」と打ちあはず、されば、代匠記の説に基づきて考に「ネノミヲ」とよめるに從ふべし。「哭」は説文に曰はく「哭哀聲也」とある如く元來音を立て泣く義をあらはせる文字なり。「ねをなく」といへることは平安朝の歌文に屡見ゆるものにして一々例をあぐるまでもなかるべし、「ねのみをなく」といへる例を本集中にていはば、卷十四「三三九〇」に「筑波禰爾可加奈久和之能禰乃未乎可奈伎和多里南牟安布登波奈思爾《ツクバネニカガナクワシノネノミヲカナキワタリナムアフトハナシニ》」といふあり。「ねをなく」は「ねにたてなくこと」をいひ、「ねのみをなく」とは「ねをなくことのみする」をいふ。
○泣乍在而哉 「ナキツツアリテヤ」とよむべし。童蒙抄には「イサチツツアリテヤ」とよみたれど、上にいへる如く、これは元來「ネヲナク」といふ語を基として二句とせるものなれは舊訓をよしとす。意は上にいへり。下の「ヤ」は疑の係詞にして、下の「なむ」をこれが結とせり。
○百磯城之大宮人者 「モモシキノ」「オホミヤビトハ」いづれも上にいへり。
○去別南 「ユキワカレナム」とよむ。考に曰はく「葬まして一周(滿一ケ年)の間は近習の臣より舍人まで諸、御陵に侍宿する事、下の日並知皇子尊の御墓づかへする舍人の歌にて知らる」と。
○一首の意 天皇の神上りませるによりて、側近に奉仕せし大宮人は御陵なる山科の殯宮に夜も晝も仕へ奉りて悲み慕ひ奉りつつ在りしが、今は其期も滿ちたれば、各退散する事となれる(236)が、かくいよ/\退散する事となれば今更思ひせまりて歎きは新になり、いよ/\悲しき事よとなり。
 
明日香清御原宮御宇天皇代 天渟中原瀛眞人天皇
 
○明日香清御原宮御宇天皇 この天皇及び宮城の事卷一(二二)にいへり。
○天渟中原瀛眞人天皇 天武天皇の御尊號なること卷一(二二)にいへり。
 
十市皇女薨時高市皇子尊御作歌三首
 
○十市皇女薨時 「薨時」は「カムサリタマヘルトキ」又は「スギタマヘルトキ」とよむべし。十市皇女の事は卷一「二二」の條に既にいへる如く、天武天皇の皇長女にして弘文天皇の妃となりて葛野王を生み給へるが、壬申の亂後、天武天皇の御許にかへりまししなるが、常に悲痛の念に堪へたまはざりしならむ。この皇女の薨去は不慮の外に出でしものと見ゆ。日本紀天武卷に「七年夏四月丁亥朔、欲v幸2齋宮1(この齋宮は倉梯河上に立てられしこと上文に見ゆ)卜之。癸己食v卜。仍取2平旦時1警蹕既動、百寮成v列、乘輿命v蓋。以未v及2出行1十市皇女卒然病發薨2於宮中1。由v此鹵簿既停不v得2幸行1。遂不v祭2神祇1矣」又「庚子葬2十市皇女於赤穗1、天皇臨之降v恩以發v哀」と見えたり。この御墓の所在地は今赤尾といひて忍坂の西にあり。
○高市皇子尊御作歌 高市皇子はこの卷上の歌(一一四)にいへるが、十市皇女の異母弟にましま(237)せり。ここに皇子尊と特別にかけるは皇太子にまししが故なり。日本紀の例を見るに、天武紀には草壁皇子尊と見え持統天皇三年紀には「皇太子草壁皇子尊薨」と記し、又高市皇子はその後に皇太子となり賜ひしものと見え同十年七月の條にその薨を記して「後皇子尊薨」といへり。されば、その皇太子となりまししは後の事なるが、この撰者が、この頃以後に之を撰せしものなるべくして、その位をさきにめぐらして記ししなるべし。從ひて御作歌の字面もその意にて修せるならむ。
 
156 三諸之《ミモロノ》、神之神須疑《カミノカムスギ》、己具耳央自得見監乍共、不寐夜叙多《イネヌヨゾオホキ》。
 
○三諸之 舊訓「ミモロノヤ」とよめり。然れども「ヤ」といふ語にあたるべき文字なければ、如何なり。契沖は「ミモロノ」とよむべしといへり。按ずるにかく四言にて一句とせるものは古歌に例少からざるものなり。「うまさけ」「そらみつ」「まきさく」「にひばり」「つぎねふ」「おしてる」の如き所謂枕詞はもとより、さならぬものにも例多く一々あぐるに堪へず。この卷の例をいはば、上の「一五五」の歌に「ひるはも」「よるはも」「ねのみを」など三句も存するにて見るべし。
○神之神須疑 「カミノカミスギ」と舊訓によめり。然れども「かむかぜ」(卷一、「八一」などの例によりて「カムスギ」とよむをよしとすべし。上の「神」は三諸の大神即ち大三輪の神をさす。「神須疑」は神杉なり。「かむすぎ」の語例は日本紀顯宗卷に「石上振之神椙【椙此云須擬】伐v本截v末《モトキリスヱオシハラヒ》云々」又本集卷十「一九二七」に石上振之神杉神備而《イソノカミフルノカムスギカムビニテ》」などいへるにてその意知らるべきが、ここは大三輪の社の(238)神杉なり。その三輪の神杉をうたへる例は卷四「七一二」に「味酒呼三輪之祝我忌杉手觸之罪歟君二遇難寸《ウマサケヲミワノハフリガイハフスギテフレシツミカキミニアヒガタキ》」又卷七「一四〇三」に「三幣帛取神之祝我鎭齋杉原《ミヌサトリミワノハフリガイハフスギハラ》云々」などあり。大三輪神社には古來名高き神木としての大なる杉あり。今はその木枯れたれど、なほ古の面影を殘せり。
○巳具耳矣自得見監乍共 この十字、二句に當るべきものなるが、讀み難し。古來種々の説あれど、從ふに足るべきものなし。研究を要するものなり。
○不寐夜叙多 舊訓「ネヌヨソオホキ」とよみたれど、「イヌ」といふ語を正しとすれば、考に「イネヌヨゾオホキ」とよめるに從ふべし。但し、上の二句のよみ方明かならねば、解を下すべき樣なし。
 
157 神山之《ミワヤマノ》、山邊眞蘇木綿《ヤマベマソユフ》、短木綿《ミジカユフ》、如此耳故爾《カクノミユヱニ》、 長等思伎《ナガクトオモヒキ》。
 
○神山之 舊訓「ミワヤマノ」とよみたるが、契沖は字のままに「カミヤマノ」とよむべしといひ、諸説とりどりなり。按ずるに「ミワヤマ」とよまむとするは古事記中卷崇神天皇の條の注に、「此意冨多多泥古命者神君、鴨君之祖」とある「神君」は「ミワノキミ」とよむべきものなるにつきて古事記傳に委しき説あるが、その要點をいへば「美和を神と書ゆゑは古大倭國に皇大宮敷坐りし御代には此美和大神を殊に崇《アガメ》奉らしてただに大神とのみ申せば、即此神の御事なりしから遂に其文字をやがて大美和と云に用ひることにぞなれりけむ。さるままに大を省きて云にも又神字を用ひしなりけり」といへり。かくてこの「神君」をば日本紀崇神卷には「所謂大田田根子今三輪君等之始祖也」と見え「神君」の「ミワノキミ」なることは著し。されば、「神山」を「ミワヤマ」とよまむに(239)はこの大和の大三輪神社の神山に限りてのみいへることなりと考へらる。而して、上の歌にも三輪の神杉をよまれたれば、十市皇女とこの三輪山と何か因縁あるべく思はるれば、古來の訓に從ふべきものならむ。
○山邊眞蘇木綿 「ヤマベマソユフ」とよむ。山邊とは上の「ミワヤマノ」のつづきにて三輪山の山邊にある木綿といふことなり、「マソ」は「眞麻苧」の義なるべくして「マ」は美稱にして「ソ」は「麻苧」の義なるべし。「麻苧《サヲ》」とは麻より取りたる苧《ヲ》の義にして「アサヲ」といふべきを上略して「サヲ」といひしものと見え、卷九「一八〇七」に「直佐麻乎裳者織服而《ヒタサヲヲモニハオリキテ》」といへる歌あり。その「さを」を更に約めていへるが「ソ」といふ語なるべく、卷子を「閉蘇」といへるも綜たる「麻苧」なるの義なり。大祓詞に「天津菅曾」といへる「菅曾」も「清麻苧《スカソ》」の義なるべし。「木綿」は豐後風土記に「速見郡柚富郡、此郷之中栲樹多生。常取栲皮以造2木綿1因曰2柚富郷1」と見えたる如くにて「ユフ」とよむべき由と、その材料とを見るべし。木綿は上にある如く、楮の甘皮の繊維をとりて製したるものにして、今奈良正倉院に存する木綿は緒又は紐にしたり。之を織物といふ説本居翁より始め多く行はるれどそれらは※[木+夜]齋が既にいへる如くすべて誤れるなり。さてその麻と木綿とは原料異なれど、それらのさまと用途とは略同じければ、古は共に「ソ」といひしならむ。さるによりて「マソユフ」といふならむ。
○短木綿 「ミジカユフ」とよむ。考に「こは長きも短きも有を短きを設出てこの御命の短きによそへ給へり。後にみじかきあしのふしの間もとよめるこの類也」といへり。諸家多く之に從(240)へり。さる事なるべし。
○如此耳故爾 古來「カクノミユヱニ」とよみ來れるを略解に「カクノミカラニ」と改め、檜嬬手には「短木綿を受けて如此耳と書けるなれは、みじかきからにとよむべきなり」といへり。檜嬬手のは「如此耳」三字を用ゐたるこの歌の意義をとけるものにしてよみ方を説けるものと認むべきにあらねば、從ふべからず。さてこの「故」は卷一「二一」の「人嬬故爾」の條下にいへる如く「ユヱ」とよむべく、必ずしも「カラ」とよむべき必要なきものなり。ここの「耳《ノミ》」は後世「ばかり」といふに似たる意の副助詞にして「かく」を助けてその意を限定せるものなり。さてこの「カクノミユヱニ」といへるは、守部のいへる如くかくばかり短き命なる故にといふなるが、その「故に」といふ語の用ゐ方は、今とややかはりあるが故に、「なるものを」と解すべしとするは從來諸家の通説なり。されど、既にいへる如く、「によりて」の如き意に釋すべきものにして、ここはかくばかり短命なる事に對してといふ程の意と見ゆ。
○長等思伎 流布板本「ナカクトオモヒキ」とよめり。古寫本中には「ナカシトオモヒキ」とよめる本少からず。仙覺はその古點を否として今の如く改めたるなり。これは「長ク」の下に「ましまさむ」などいふべき語を省きたりと見ゆれば、流布板本なるをよしとす。
○一首 神山の山邊に生ふる眞麻木綿の短木綿の如く短き命にてましましけり。かく、短き命にてましましけるものをば、長くましまさむと且つは頼み且つは油斷してありしことよ。かく短命にてましまさむとかねて知りせば、なほ盡し奉るべき途もありしものをとなり。この(241)「長く」といへる一語の下に無量の感慨を藏せられてありと見ゆ。
 
158 山振之《ヤマフキノ》、立儀足《タチヨソヒタル》、山清水《ヤマシミヅ》、酌爾雖行《クミニユカメド》、道之白鳴《ミチノシラナク》。
 
○山振之 古來「ヤマブキノ」とよめり。「振」字は今「フル」とよむ字なるが、その「フル」といふ語は古、「フク」といひしなり。日本妃卷一の一書に「故伊弉諾尊拔v劔背揮〔右○〕以逃矣」とある文の自注に「背揮此云2志理弊提爾布倶1」と見え、之に相當する古事記の文には「尓拔d所2御佩1之十拳劔u而於2後手1布伎〔二字右○〕都都逃來」とあるなどにてその關係を知るべし。されば、振を「フキ」の假名に用ゐるは古言に基づくものなり。これをただ音通によれりといふ説はあたらず。さてこの「山振」は今いふ黄色の花さく灌木にして、卷十七「三九七一」に「夜麻扶枳能之氣美登※[田+比]久久※[(貝+貝)/鳥]之《ヤマフキノシゲミトビククウクヒスノ》云々」「三九七四」に「夜麻夫枳波比爾比爾佐伎奴《ヤマフキハヒニヒニサキヌ》」卷二十、天平勝寶六年三月十九日の歌「四三〇二」に「夜麻夫伎波奈※[泥/土]都都於保佐牟《ヤマフキハナデツツオホサム》」又「四三〇三」に「和我勢枯我夜度乃也麻夫伎佐吉弖安良婆《ワカセコガヤドノヤマブキサキテアラバ》云々」同月二十五日の歌「四三〇四」に「夜麻夫伎能花能佐香利爾《ヤマブキノハナノサカリニ》云々」その他例多し。さてこれをその如く「山吹」とかけるは卷十九「四一八四」の歌なり。又ここの如く「山振」とかけるは卷八「一四三五」卷十「一九〇七」などなるが、今の山吹をいへりしことの特に明かなるは卷十春雜歌の詠花のうちに「花咲而實者不成登裳長氣所念鴨山振之花《ハナサキテミハナラネドモナガキケニオモホユルカモヤマブキノハナ》」(一八六〇)といへる歌なりとす。新撰宇鏡には「※[木+在]」字に「山不支」の訓を施せり。さてここに山吹をとり出でられしはその頃にこの花咲きてありしが故ならむ。
○立儀足山清水 この六字、二句に相當すもものなるが、舊板本は「サキタルヤマノシミヅヲバ」と(242)よめり。代匠記には「タチヨソヒタルヤマシミヅ」とよみ、童蒙抄には「立」は「光」の誤「足」は「色」の誤なりとして「ニホヘルイロノヤマシミヅ」とよみ、玉の小琴には「儀は誤字にて必しなひと云へき所也。字は靡か※[糸+麗]か猶考ふへし」といひ、※[手偏+君]解には熊谷直好の説として「サキタルヤマノキヨキミヅ」とよみ、古義は「儀」は「茂」の誤なりとして、「シゲミタル」とよむべしといへり。さて先その誤字説を見るに、この所一も異なる文字を用ゐたる本なければ、誤字ありとして立てたる説はすべて從ひがたし。その他の訓につきて見るに、「立儀」の二字を「サキ」とよむべき由のなきは明かなれば、かくよめる説は從ふべからず。かくして殘る所は契沖の説のみなり。按ずるに、「儀」字は儀容の意ある文字にして、類聚名義抄伊呂波字類抄共には「ヨソフ」の訓あり。されば、契沖説をよしとすべし。「足」を「タル」とよむは複語尾の「タル」に借りたるなり。「ヨソフ」といふ語は卷十四「三五二八」に「水都等利乃多々武與曾比爾《ミヅトリノタタムヨソヒニ》云々」卷二十「四三三〇」に「奈爾波都爾余曾比余曾比弖氣布能日夜伊田弖麻可良武美流波波奈之爾《ナニハヅニヨソヒヨソヒテケフノヒヤイデテマカラムミルハハナシニ》」など本集に例少からず。新撰宇鏡には「※[手偏+京]」字の注に「装※[手偏+京]也與曾比(加)佐留也」とあり。こは攷證にいへる如く「山ぶきの容をよそひたるごとく咲ととのひたるをのたまへり」と解すべし。「山清水」は山の清水にて異なる義なし。されどここに「山清水」をもち來せるは無意義なるにあらず。その「山」は、十市皇女を葬れるが山地なれば、思ひよせていはれたるものなれど、その山地に清水ありしが故によまれたりしか否かは詳かならず。按ずるに、この頃既に山吹を水邊に植ゑて賞したる事ありしが故にかかる詞もよまれしならむ。かく考ふる由はかの卷八の厚見王の歌に「河津鳴甘南備河爾陰所見而今哉開良武山振乃(243)花《カハツナクカムナビカハニカゲミエテイマヤサクラムヤマブキノハナ》」(一四三五)とあるなどによりてなり。されば、「山清水」とよまれたるも山吹の花のうるはしきさまを彷彿せしめむ下心ありしならむ。
○酌爾雖行 「クミニユカメド」とよめるをよしとす。上に「山清水」とよみしが故に「酌み」といひたるなり。酌みに行かむと欲すれどの意なるが、「む」の已然形「め」より接續助詞「ど」につづけてかかる語法をなせることこの頃に例多し。この卷「一六六」「磯之於爾生流馬醉木乎手折目杼令視倍吉君之在常不言爾《イソノウヘニオフルアシビヲタヲラメドミスベキキミガアリトイハナクニ》」などこれなり。
○道之白鳴 「ミチノシラナク」とよむ。「知ラナク」の「ク」は「コト」の意に近き語にして「道の知らなく」は道のわからぬことよといはむ程の意なり。「道ヲ」といはずして「道ノ」といへるは下に「なく」と體言の格にして止めたる故なり。卷三「三二三」に「船乘將爲年之不知久《フナノリスラムトシノシラナク》」卷十「二〇八四」に「君將來道乃不知久《キミガキマサムミチノシラナク》」卷十三「三三一九」に「杖衝毛不衝毛吾者行目友公之將來道之不知苦《ツエツキモツカズモワレハユカメドモキミガキマサムミチノシラナク》」など例多し。
○一首の意 この歌古來多く正しき解を得ざりしなり。先づ上三句の意をば、普通の説にては「赤穗は山なるべければ其比山吹有たるなるべし。山吹の匂へる妹などもよそへよめる花なれば、立よそひたると云べし。さらぬだにある山の井に山吹の影うつせらんは殊に清かりぬべし」(契冲説)といへり。まことに「山振の立よそひたる」といへるはその花の咲きそろひて、美しきをとりて皇女の御姿によそへていはれたるにてもあるべく思はるる點あり。されど、ただそれのみにては下の「酌みに行かめど道の知らなく」といはれたる意をば、如何にとるべきか。普通の説には「葬し山邊には皇女の今も山吹の如く姿とををに立よそひておはすらんと思へ(244)ど、とめゆかん道しられねば、かひなしとをさなく思ひたまふが悲き也」(考の説)といふなり。これにて一往は解し得たる如くなれど、上の如く解せむには、その葬所は山にして清水あり、その邊に山吹多く咲きてありしことなるべきが、それと共に、そこは至りうべき地にして道の知られぬところなるべき筈なり。その至らむ道だに知られぬ所には誰も行きうる所にあらねば、山吹の咲けりや清水のありやも見るに由なく、知るに由なき筈にあらずや。しかるに諸家これらの矛盾を説かむともせず、ただ「をさなく思ひたまふが悲しき也」といへる考の一語にて事を濟したりと思へるは如何。ここに橘守部は別に説を立てて曰はく「是迄の三句、(山清水までなり)は後世にいはゆる據字のよみかたにて、黄泉と書く字を黄なる泉として、其黄色を山吹花の寫《ウツ》るに持せ、山清水を泉になして、酌《クミ》とは只水の縁語のみ黄泉迄尋ね行かまほしかれど、幽冥の事なれば道のしられぬとのたまふなり」といへり。黄泉の字面は孟子滕文公下に「蚓上食2槁壤1下飲2黄泉1」とあるが、左傳隱公元年に「誓之曰、不v及2黄泉1無2相見1也」とある注に「地中之泉故曰2黄泉1」とあり。五行説によれば黄色は地に屬す。この故に地中の泉を黄泉といへるなるが、その黄泉とは地中に深く墓穴を掘りて泉に達する由なり。されば、黄泉ははじめ地中泉をいひ、轉じて墓穴をいへるが、再轉して死後の幽冥界をさす意に轉義せるなり。文選の古詩に「下有2陳死人1杳杳即2長暮1、潜寐2黄泉下1、千載不v寤」とあり。これなほ墓穴中の義なり。日本紀古事記に黄泉を「ヨミ」又「ヨモツクニ」にあてたるはこの再轉せる義にあてたるものにして、日本紀に「泉」を「ヨミ」にあて「泉津醜女」「泉津平坂」など書けるけ極端なる省略にして「黄泉」を以て「ヨミ」の義としたる(245)ことの由來久しかりしが爲といふべきなり。而して本集中他にも漢字漢語を使用せること自由なりしは、明かなれば、この守部の説を以て當れりとすべし。然らぬときは上にいへる如く、如何に歌なりとも、譯の分らぬ事となるべし。即ち、折から咲き滿てる山吹の花のうるはしきに皇女をたとへ、その色の黄なるに因みて黄泉といふ漢語をば文字のままに分解して「山吹の立ちよそひたる山清水」といひ、さて清水といひたる縁に「酌に行かめど」といひたるまでにして、黄泉《ヨモツクニ》に行きて、我妹子のうるはしき姿を見むとは思へども幽冥界にして、そのゆくべき道途を知らずと嘆かれたるなり。上三句は技巧を弄せられたる歌なれど、しかも眞情のこもりたる歌なり。
 
天皇崩之時太后御作歌一首
 
○天皇崩之時 「スメラミコトカムアガリマシシトキ」とよむをよしとす。こは天武天皇崩御の時なり。日本紀、朱鳥元年の條に「九月丙午天皇病遂不v差、崩2于正宮1。戊申始發v哭。則起2殯宮於南庭1」とあり。この時の作歌なる事を先づ心得では歌の意わからぬ所あるべし。
○太后御作歌 これも皇后の意にして、後に即位ありて持統天皇と申し奉る方なり。日本紀持統卷のはじめにこの天皇の事を申して「少名鵜野讃良皇女、天命開別天皇第二女也。云々天豐財重日足姫天皇三年適2天渟中原瀛眞人天皇1爲v妃。(中略)二年(天武)立爲2皇后1」とあり。ここに御作歌とありて御製といはぬは未だ皇位につきたまはぬ時の御詠なるが故なり。
 
(246)159 八隅知之《ヤスミシシ》、我大王之《ワガオホキミノ》、暮去者《ユフサレバ》、召賜良之《メシタマフラシ》、明來者《アケクレバ》、問賜良之《トヒタマフラシ》、神岳乃《カミヲカノ》、山之黄葉乎《ヤマノモミヂヲ》、今日毛鴨《ケフモカモ》、問給麻思《トヒタマハマシ》、明日毛鴨《アスモカモ》、召賜萬旨《メシタマハマシ》。其山乎《ソノヤマヲ》、振放見乍《フリサケミツツ》、暮去者《ユフサレバ》、綾哀《アヤニカナシミ》、明來者《アケクレバ》、裏佐備晩《ウラサビクラシ》、荒妙乃《アラタヘノ》、衣之袖者《コロモノソデハ》、乾時文無《ヒルトキモナシ》。
 
○八隅知之 既にいへる如し。
○我大王之 「ワガオホキミノ」なり。意は既にいへるが如し。
○暮去者 「ユフサレバ」とよむ。「暮」は「ユフ」の國語にあたる。「ユフサレバ」といふ語は上「三六」にもあるが,なほ他の例をいはゞ、卷十五「三六二五」に「由布佐禮婆安之敝爾佐和伎安氣久禮婆於伎爾奈都佐布可母須良母《ユフサレバアシベニサワギアケクレハオキニナヅサフカモスラモ》」又「三六六六」に「由布佐禮婆安伎可是左牟志《ユフサレバアキカゼサムシ》」などあり。その意は既にいへる如く「夕になれば」なり。
○召賜良之 これは古寫本に「メシタマフラシ」とありて、古くしかよみ來れるを仙覺が「メシタマヘラシ」とよみたるより流布板本にもしかよめるなり。契沖はこのよみ方に賛成して、これは「メシタマヘリシ」を轉じたるものとせり。然れども「タマヘリシ」を「タマヘラシ」と轉じ用ゐるが如き事古來なく、又これに似たる旁例もなきなり。この故にこの轉音説は從ふべからず。若し強ひて仙覺のよみ方を主張せむとせば、「タマヘルラシ」の約なりとすること「ナルラシ」が「ならし」「ケルラシ」が「けらし」となりたるが如きさまなりといふべきなれど、かく用ゐたる例また一もなければ、從ふべからざるのみならず、かくいひては仙覺契沖のいへる説にはあてはまらざる(247)點あるべし。(そは後に明かにすべし。)これは古訓の方宜しきにて玉の小琴にも之を可とせり。今之を可とする點は一なれど、玉の小琴の説も從ひかたし。さて「召」は「メシ」といふ語にあてたる借字にしてこの語は「召す」といふ義にあらずして「見《ミ》る」の敬語にして「見」よりサ行四段の複語尾を分出せる、その連用形なり。かくてその「メシ」より「賜ふ」に用ゐたるなり。「ラシ」は既にもいへる如く、ある現實の事を見て、そを基としての推量にいふ語なるを多くの注釋家、これを古は過去の事柄の推量にも用ゐたりといへり。これは玉の小琴の説に基づくものなり。曰はく、「云々召賜良之云々問賜良思、二つながらたまふらしと訓べし。十八卷【廿三丁】にみよしぬの、この大宮に、ありがよひ、賣之多麻布良之、もののふの云々(四〇九八)是と同じ格也。常のらしとは意かはりて何とかや心得にくき云ざま也。廿卷【六十丁】十に(四五一〇)「於保吉美乃都藝弖賣須良之多加麻刀能努敝美流其等爾禰能末之奈加由」(これは平假名にせるを今原字のままにして引けり。)此めすらしも常の格にあらず。過し方を云ること今と同じ。是等の例に依て、今もたまふらしと訓べきこと明けし」といへり。この「たまふらし」とよむべしとすることは異議なけれど、その理由につきては賛同するを得ず。按ずるに「良之」の意はいつも推量の意あるのみにして、用例によりその場合々々の事情を顧みて解すべきなれど、かく現在を離れて「けむ」の如き意をあらはすことは決してあるまじき事なり。先づ、その十八卷なるはもとより過去の事の推量にあらずして現前にあるべき事につきての推量なれば、論はあるまじ。二十卷のは「依v興各思2高圓離宮處1作歌五首」と題せるうちの一首にして、その他の歌に或は「多加麻刀能努乃宇倍(248)乃美也婆安禮爾家里《タカマトノヌノウヘノミヤハアレニケリ》」(四五〇五)といひ、「多加麻刀能乎能宇倍乃美也婆安禮努等母多多志之伎美能美奈和須禮米也《タカマトノヲノウヘノミヤハアレヌトモタタシシキミノミナワスレメヤ》」(四五〇八)といひ、「於保吉美能賣之思野邊爾波之米由布倍之母《オホキミノメシシノベニハシメユフベシモ》」(四五〇九)といへるに照していへる事なるべきが、ここに「ツギテメスラシ」とよめる意はこの高圓離宮を愛でましし天皇の崩御のありて後にその宮荒れて宮處のみとなりたれど、皇御靈は天翔りて、その古より引きつづき今も見賜ふらしといへるにて、上の「四一五」の「有我欲比管見良目抒母《アリガヨヒツツミラメドモ》」といひ、「一四八」の「青旗乃木旗能上乎賀欲布跡羽目爾者雖視《アヲハタノコハタノウヘヲカヨフトハメニハミレドモ》云々」といへる如き心にてよめるにて、決して過去の事をいへるにはあらずして、今も引きつづきて昔の如く天翔りて「めすらし」と推量せるものなり。(それらは靈魂不滅の精神の下に心得て見よ。)この故に、その例を以て過去の事を推量すといへるは當らざるなり。ここの場合は二十卷のよりも意明かなる「らし」の場合にて、九月崩御の折恰も黄葉の時なりしが故に、その目前にある黄葉を眺め給ひての御詠なれば、御在世にてあらば、天皇のこの黄葉を見て愛し賜ふらしといはれたるなり。若しかかる場合の「らし」を玉の小琴の如く過去の事を推量するものとせば、玉の小琴の自らあげたる卷十八の例を如何にせむとすべきか。それは決して過去の事にあらぬは明らかなるものなるをや。思ふに本居宣長はこの「らし」が體言につづくものたるを忘れて、かかる事をいはれしならむ。上の卷十八(四〇九五)の例卷二十(四五一〇)の例及びここの例すべて「らし」より直ちに體言につづくべき格なり。然るに「らし」は元來連體形にても終止に用ゐらるる例のみにして連體格に立てる例なき語なれば、本居翁の惑はれしも宜なりといふべし。上の諸例は奈良朝文法史に(249)いへる如くいづれも「らし」より熟語的に體言につづけたるものにして、その語遣は形容詞の終止形よりして「かなし妹」「空し煙」などいへる如きに似かよへるものにして、複語尾にては後世に「まけじ魂」「しらず顔」などいへるに似かよひ、又本集に多き「まし」より直ちに「物」につづく例も同じくこの格なりとす。さて又契沖の「めしたまへらし」をよしとし「タマヘリシ」の轉とせるも「タマフラシ」とせば、ここにて切るる語法となると考へ、切れては、語をなさねば、「し」を連體形と見る必要よりしての考なること著し。されど、吾人、のいふ如くに見れば、契沖説、又本居説の如き無理なることをいふ必要なき筈なり。但しここは、對句として重ねたる爲、形の上にては直ちにつづかぬ樣に見ゆれど、この語は下の「神岳の山の黄葉」につづけるなり。
○明來者 「アケクレバ」なり。この語は上(一三八)にいへる所に、おなじく夜の明けくればなり。「ユフサレハ」と「アケクレバ」とを對していへるも上におなじ。なほ一例をあぐれば上にあげたる卷十五「三六二五」の「由布佐禮婆《ユフサレバ》、安之敝爾佐和伎《アシヘニサワキ》、安氣久禮婆於伎爾奈都佐布可母須良母《アケクレバオキニナツサフカモスラモ》」などなり。
○問賜良之 これも、上の「召賜良之」におなじく「トヒタマフラシ」とよむべきなり。さてこの「トフ」は「問」字をかきたれど、「問」は借字にして、尋ね訪《トフラ》ふ意なり。卷三「四五五」に「如是耳有家類物乎芽子花咲而有哉跡問之君波母《カクノミニアリケルモノヲハキノハナサキテアリヤトトヒシキミハモ》」「四六〇」に「問放流親族兄弟《トヒサクルウカラハラカラ》」等の例あり。さてこの「ラシ」はこれより直ちに「神岳乃云々」につづくものなるが、上四句は對句をなして一の意をなし、「暮にも朝にも訪ひ見たまふらしと思はるる神岳の云々」とつづく筈の語遣なり。而してこの四句の意は「天皇が(250)神靈として見《メ》したまひ、訪ひたまふらし」の意に解すべきものなり。
○神岳乃 これも古訓「カミヲカノ」とありしを非として、仙覺が「ミワヤマノ」とよみ、舊板本それに從へるなり。然れども契沖又古にかへして「カミヲカノ」とよむべしとせり。先づ「神」を「ミワ」とよむことは無理にあらねど、「岳」を「ヤマ」とよめることは古今に例なし。この「岳」字は卷一の「一」にいへる如く「丘」の義にして「ヲカ」とよむべきものなり。而して「ミワヲカ」とはいふべくもあらねば古訓の如く「カミヲカ」とよむべく、八雲御抄にもしかよまれたり。さてこの神岳は何處ぞといふに、卷九「一六七六」に「勢能山爾黄葉常敷神岳之山黄葉者今日散濫《セノヤマニモミヂトコシクカミヲカノヤマノモミヂハケフカチルラム》」と見ゆる神岳と同じ地にして、いづれも黄葉の著しき地と見えたり。この卷九のは「大寶元年辛丑冬十月太上天皇大行天皇幸紀伊國時歌」なるが、これは紀伊の勢山の黄葉を見て、帝都の附近なる黄葉の名所たる神岳を思ひ出でたる歌なること著しく、ここの歌も、帝都附近の黄葉の名所たる故によまれしこと著し。さてこの神岳につきては契沖のいへる如く卷三に「登2神岳1山部宿禰赤人作歌一首並短歌」とあるこの「神岳」といふも同じ地なるべきを思ふべし。而してその長歌(三二四)のはじめに「三諸乃神名備山爾五百枝刺《ミモロノカムナビヤマニイホエサシ》云々」といへるにて、神岳即ち三室の神名備山なるを知るべし。而してその神岳が飛鳥の清御原宮に遠からず、そこより見渡されしは同じ歌に「明日香能舊京師者山高三河登保志呂之《アスカノフルキミヤコハヤマタカミカハトホシロシ》」といへるにても見るべく、さて又その神岳が飛鳥川近くにありしことはその反歌(三二五)に「明日香河川余藤不去立霧乃念應過孤悲不有國《アスカガハカハヨドサラズタツキリノオモヒスグベキコヒナラナクニ》」といへるにて著し。さてその三諸の神名備山をよめる歌は卷九「一七六一」に詠鳴鹿歌「三諸之神邊山爾《ミモロノカムナビヤマニ》、立向三垣山爾《タチムカフミカキノヤマニ》(251)云々」あり。又卷十三「三二六八」には「三諸之神名備山從登能陰雨者落來奴《ミモロノカムナビヤマユトノグモリアメハフリキヌ》」ともあり。さてこの山は又「かみなひのみもろやま」ともいひしものと見えて、卷十三「三二二七」の長歌に「甘南備乃三諸山者春去者《カムナビノミモロノヤマハハルサレバ》、春霞立《ハルガスミタチ》、秋往者《アキユケバ》、紅丹穗經甘甞備乃三諸乃神之帶爲明日香之河之《クレナヰニホフカムナビノミモロノカミノオバセルアスカノカハノ》云々」又その反歌(三二二八)に「神名備能三諸之山丹隱藏杉《カムナビノミモロノヤマニイハフスギ》」ともいへり。ここにも、黄葉をいへるのみならず、飛鳥河を帶にせる由をいへれば、上にいへる「みもろのかみなびや山」とおなじ地たるを知るべし。かくてこれをただ「神なび山」とのみもいひしなり。その證は卷十三「三二六六」の長歌に「春去者《ハルサレバ》、花咲乎呼里《ハナサキヲヲリ》、秋付者丹之穗爾黄色《アキツケバニノホニモミヅ》、味酒乎《ウマサケヲ》、神名火山之帶丹爲留《カムナビヤマノオビニセル》、明日香之河乃《アスカノカハノ》云々」といへるにてもしるく、又卷十「一九三七」に「故郷之神名備山爾《フルサトノカムナビヤマニ》」とよめるは「三二四」の歌に「飛鳥の舊き京は云々」といひしにおなじ趣にていへること著し。以上によりてこの地は飛鳥清見原京より遠からぬ地にありて、飛鳥川のめぐれる丘にして黄葉の名所なりしことを考ふべく、その名は「みもろのかむなびやま」とも「かむなびのみもろのやま」ともいひ、又ただ「かむなびやま」とも「かみをか」ともいひしならむが、そこは何處ぞといふに、契沖は三輪山の事なりといひたれど、三輪山と飛鳥川とはかけはなれてあれば、從ひがたし。契沖がかく考へし由は「みもろのかむなびやま」といひしが爲ならむか。「みもろ」とは元來御室の義にして神を齋ひ祭れる所をいふ語なるが、それが專ら大神神社にかかれるは、これが古朝廷崇敬の第一の社なればいはれしこと、後世「山」といひては專ら比叡山延暦寺をさし、寺といへば、專ら三井寺をさせると趣同じさまになれる爲なるが、同時に普く用ゐる「みもろ」といふ語も亦行はれしならむが、ここはその書き方の「みもろ」な(252)れば、略していふときは「神名火山」とはいへれども、「みもろ山」とはいひし例なきにて「みわ山」にあらぬを知るべし。さてこの神名火山又神岳とあるは、出雲國造神賀詞に「賀夜奈流美命乃御魂乎飛鳥乃神奈備爾坐天」とあるその飛鳥の神奈備なるべきが、この神奈備は神名帳の「高市郡飛鳥坐神社四坐」に相當するものなるが、この社の事は日本紀天武天皇朱鳥元年七月の條に「癸卯奉d幣於居2紀伊國1國懸神、飛鳥四社、住吉大神u」とある飛鳥四社これにして、日本紀略淳和天皇天長六年三月の條に「大和國高市郡賀美郷甘南備山飛鳥社遷2同郡同郷鳥形山1依2神託宣1也」とありて、それまでは飛鳥神社の鎭座ましましし地なり。この故に「かむなび」とも、「みもろ」ともいはれしならむ。この社の舊地は、今の高市郡飛鳥村大字雷にありて俗に「上の山」、 「城山」といふ由なるが、飛鳥川はその丘の南方より西方にかけて曲り流れたれば、「神南火山の帶にせる」といへるによくかなへりとす。さてこの丘は古雷丘ともいひし由なるが、かく名づくる由は雄略天皇の時小子部※[虫+果]羸をしてこの處にて雷を捕へしめられしより起れりと傳ふるなり。さてかく雷岳とかけるも集中にあり。卷三に天皇御2遊雷岳1之時柿本朝臣人麿作歌」と詞書せる歌(二三五)あるその雷岳なるべし。この雷岳はここにてはその歌に「雷之上於廬爲流鴨《イカツチノウヘニイホリスルカモ》」とありて「イカヅチノヲカ」とよむべきものなるが、この雷岳は「イカツチノヲカ」とも「カミヲカ」ともいひしならむ。その故は古、雷を「カミ」とのみもいひしを思へば知らるべし。日本紀應神卷の歌に「彌知能之利《ミチノシリ》、古破〓塢等綿塢《コハタヲトメヲ》、伽未能語等《カミノゴト》、枳虚曳之介廼《キコエシカド》、阿比摩區羅摩區《アヒマクラマク》」本集卷十二「三〇一五」に「如神所聞瀧之白浪之《カミノゴトキコユルタキノシラナミノ》」又卷十四「三四二一」に「伊香保禰爾可未奈那里曾禰《イカホネニカミナナリソネ》」などある「カミ」は雷にして「雷岳」即ち(253)「神岳」なる由も知らるべし。
○山之黄葉乎 「ヤマノモミヂヲ」とよむ。「モミヂ」に「黄葉」の字をあつること卷一「一六」にいへり。
○今日毛鴨 「ケフモカモ」とよむ。「カモ」は助詞なるに「鴨」をかりてあてたるなり。「今日も」といふ意の語に「か」といふ疑の助詞を添へ、更に「も」を添へたるが、下の「も」は餘精を深くあらせむとて添へたるなり。
○問給麻思 「トヒタマハマシ」とよむ。この「トヒ」は上の「トヒタマフラシ」の「トヒ」におなじ。「マシ」は條件附に假想する意の複語尾なれば、上に假設の條件なかるべからず。即ちこの句の上、又は「今日もかも」の上に、「天皇のおはしまさましかば」といふ如き意のあるべきを略して言にあらはされざるなり。卷八「一六五八」に「吾背兒與二有見麻世婆幾許香此零雪之懽有麻思《ワガセコトフタリミマセバイクバクカコノフルユキノウレシカラマシ》」卷五「八八六」に「國爾阿良波父刀利美麻之家爾阿良婆母刀利美麻志《クニニアラバチチトリミマシイヘニアラバハハトリミマシ》」などなり。さてここの「まし」は上の「かも」といふ係辭をうけたる結にて連體形としての終止なり。ここに似たる語遣の例は卷十五「三七七六」に「家布毛可母美也故奈里世婆見麻久保里《ケフモカモミヤコナリセバミマクホリ》、爾之能御馬屋乃刀爾多弖良麻之《ニシノミマヤノトニタテラマシ》」といふあり。さて、この邊の句の意義につきては學者によりて説を異にせるが、大體古義にいへる説即ち「世におはしまさば、今日も明日も問賜はましか、見賜はましか、しかばかりめでうつくしみ給はむ山なるを今は崩御せられしゆゑ問はせらるる事もなく、見賜ふ事もあらず」の如く解すると守部の説即ち「今年は御魂となりて今日か問はすらむ、明日か見ますらむ」の如く解するとあり。按ずるに。これは上に「か」といふ疑の語ある故に「まし」といふ意いよいよ明かになりて、若し(254)天皇の御在世ならば恐らくは今日はめで見たまふならむかと御在世の事を假想していふ語なれば、上の二説いづれもうけられず。古義の如くせば、「まし」の假想の意全くなくなるべし。守部の如くせば、「まし」と「らむ」との區別なくなるべきを以てなり。即ち「まし」にて假想し「か」にて疑惑をあらはし、「恐らくは……ならむか」といふ如き意をなせるなり。
○明日毛鴨 「アスモカモ」とよむ。意は上の「今日毛鴨」といへるに趣同じ。
○召賜萬旨 「メシタマハマシ」とよむ。意は上の「とひたまはし」といへるに趣同じ。この「めし」は上の「めしたまふらし」の「めし」におなじく、又この上に假設の條件あるべきことも同じ。この四句の意は我と共に問ひ賜はまし、見したまはしといふ意に解せらる。以上一段落なり。
○其山乎 「ソノヤマヲ」なり。神岳をいふ。
○振放見乍 「フリサケミツツ」なり。「乍」を「ツツ」とよむこと、卷一「二五」にいへり。「サク」は卷一「一七」の「見放武」にて云へる如く遠くより見やるをいひ、「フリサケミル」とは遠くより見やることなり。
○暮去者 上にある同じ語をここにくりかへして用ゐられしにて、その在世の折を思ひ出して、今の境遇をいはむ料とせられたり。
○綾哀 舊訓「アヤニカナシヒ」とよみたるを考に「カナシミ」と改めたり。本集の假名書の例を見るに、卷二十「四三八七」に「阿夜爾加奈之美於枳弖地加枳奴《アヤニカナシミオキテタガキヌ》」同卷「四四〇八」に「乎之美都都可奈之備伊麻世《ヲシミツツカナシビイマセ》」とあればいづれをよしとも定め難し。「アヤ」は驚き歎く聲に起りたる副詞にして、「アヤニ」云々といへる例古書に多し。今あげたる卷二十の「四三八七」の歌も、その例なるが、なほ一二(255)をいはば、卷五「八一三」に「可既麻久波阿夜爾可斯故斯《カケマクハアヤニカシコシ》」卷十四「三四六五」に「康杼世呂登可母安夜爾可奈之伎《アドセロトカモアヤニカナシキ》」卷十八「四一二五」に「許己宇之母安夜爾久須之彌《ココウシモアヤニユクスシミ》」などあり。これは漢語に言語道斷などいへるに似たる詞にして何とも言語にいひ出すこと能はざる程の事のさまにいへり。
○明來者 これも上にある同じ語をくりかへして用ゐられしにて、その意も同じ。
○裏佐備晩之 「ウラサビクラシ」なり。「ウラサビ」は「ウラサブ」といふ上二段活用の動詞の連用形にして、この語の意は卷一「三三」「八二」にいへる如く、ここは心樂まず、なぐさまず、日をくらす意なり。「くらし」も連用形なれば、下の「ひる時もなし」につづくなり。
○荒妙乃 「アラタヘノ」とよむ。荒妙の事は卷一「五〇」にいへる如く、荒々しき織物なるが、ここは枕詞にあらずして實際の荒妙をさす。即ち荒妙の衣とつづけて喪服をさすなり。儀制令義解に「謂2凶服1者|※[糸+衰]麻《サイマ》也」とあり。※[糸+衰]麻は支那の喪服なるが、その樣は和名抄葬送具に「唐韻云※[糸+衰]【倉回反與催同和名不知古路毛】喪服也」とありて、後世の歌に「ふぢごろも」といひて喪服をいへるも麁妙の藤衣たる義なり。藤衣といふも必しも藤にて織りたる布ならざるが、※[糸+衰]衣は古より荒々しき布にてつくればいひならはせるなり。
○衣之袖者 「コロモノソデハ」とよむ。
○乾時文無 「ヒルトキモナシ」とよむ。「乾」は「ヒル」とも「カワク」ともよむ。ここは二音にして「ヒル」とよむべきなり。「ヒル」は上一段の活用なるが、日本紀卷一の自注に「※[火+漢の旁]也此云v備」と見え、又本集卷五「七九八」に「和何那久那美多伊麻陀飛那久爾《ワガナクナミダイマダヒナクニ》」などあり。
(256)○一首の意 この歌二段落にして、第一段落はまづ、天皇を主として述べ、第二段は自己を主として述べられたり。さて第一段の意はわが天皇崩御の悲しき折に、眺むれば、かの飛鳥の神岳に黄葉の盛なるあり。この紅葉は天皇の朝に夕にいたくめでたまひ、その盛りの折には、わざわざいでまして見訪ひ給ひしものなるが、今もかく盛にあれば、大御靈は天翔りて今もなほ見給ふらしと思はるるなるが、かく思はるる神岳の山の黄葉を天皇の御在世ならば、自分と共に今日も明日もと見訪ひてめでたまはむかと思はるるに、幽明境を異にしたれば、さる事も今は望みうべからぬ世となりぬ。第二段の意はされば、今はただひとり、その天皇御在世の時、これを愛で給ひし折の事を、明けては思ひ出で、暮れては思ひ出でて、悲みさびしく思ひて、わが喪服の袖の乾く時もなしとなり。この御歌技巧もなきやうに見ゆれど、頗る巧みなる御歌にして、第一に天皇の神靈のその黄葉を照鑑せらるらしといひて、天皇の威靈を仰ぎ、次に、幽明境を異にして共に叡覽ありし時の如くならぬを嘆き、最後に、獨この世に止まれる悲嘆の情を抒べられたるがその間に幽界より明界にうつる。即ち第一、主として幽界につきていひ、第二、現幽交渉につきていひ(第一段)第三、現實界にかへる。(第二段)、而して、かくの如き意をあらはす爲に、對句を巧みに用ゐられ、しかもその技巧の存する所極めて自然にして人をして天衣無縫の歎あらしむ。今試みにその關係を圖表せむ。
  夕されば〔四字傍線〕−めし給ふらし〔六字二重傍線〕
  明けくれば〔五字傍線〕−問ひ賜ふらし〔六字二重傍線〕
(257)  今日もかも〔五字傍線〕 問ひ給はまし〔六字二重傍線〕
  明日もかも〔五字傍線〕 めし賜はまし〔六字二重傍線〕
  夕されば〔四字傍線〕 あやにかなしみ〔七字傍線〕
  明けくれば〔五字傍線〕 うらさびくらし〔七字傍線〕
 かくて、かく同じ語を繰り返されたる所には必ず、上の折の事を下に含蓄せる心ありてよまれしものと見ゆるなり。
 
一書曰天皇崩之時太上天皇御製歌二首
 
○太上天皇 天武天皇の御時太上天皇のおはしますことなし。この故に、代匠記には「大后」の誤かといへり。然れども、すべての本に一致してあれば誤りなりとはいひ難し。按ずるにこの太上天皇は持統天皇をさし奉るものと見ゆるが故に、代匠記に太后の誤かといへるなるべきが、天武天皇崩御の際の御歌なるべきが故に、如何にも代匠記の説の如くあるべきに太上天皇と書けるは故なかるべからず。既にいへる如く持統天皇を太上天皇と申し奉ることは文武天皇の御宇の事なれば、この記文も亦文武天皇の御宇に出でしこと推知せらる。而して、卷第一及び本卷の例を以て推すに、これは原本に存したるものにあらずして、文武天皇の御宇に何人か記し置けるその歌をばその端書と共にとりて後人がそのまま萬葉集に注記せしが、そのまま傳はりしなり。さればもとより萬葉集の原本の歌といふべからず。されども、文武天皇(258)御宇の撰なるある書にありしものなるべければ、その古きに於いては決して萬葉集に劣らざるものといふべし。而して、目録にも「一書歌二首」としてあげたれば、この記入も亦古きことなりといふべし。上の如くなれば、萬葉考にこれらを小字にせるは道理あることのやうなれど、古くよりの事なれば強ひてかくするにも及ぶまじきなり。
○御製歌二首 この當時の歌としては御製歌とかくべきにあらねど、太上天皇時代の記録なればかく記ししなり。これは次の二首の歌のはしがきなり。
 
160 燃火物《モユルヒモ》、取而裹而《トリテツヽミテ》、福路庭《フクロニハ》、入澄不言八《イルトイハズヤ》、面智男雲。
 
○燃火物 「燃」字金澤本「然」とせり。よみ方は舊板本「トモシヒモ」とし、金澤本には「トモシヒノ」とよみ、近くは童蒙抄に、トモシモノ」とよみたり。「燃」「然」同字にして、説文に「然燒也」と見え、廣韻に「燃俗然字」と見ゆ。而してその「然」「燃」は古來「モユ」といふ訓あるのみにして「ともす」といふことは例なきことなり。されば、管見にも「モユルヒモ」とよみ、諸家多く之に從へり。「燃」を「もゆ」と訓することは色葉字類抄等に見え、その「もゆ」といへる語の假名の例は古事記中卷橘媛の歌に「毛由流肥能本那迦爾多知弖《モユルヒノホナカニタチテ》」とあるなど例少からず。又新撰宇鏡の「※[火+毀]」字の訓に「佐加利爾毛由留火」などあり。「物」を「モ」の假名に用ゐることは集中に例多きことにして、卷三、四、五、七、九、十一、十三、十四、十六、十七、十八の各卷に見ゆ。
○取而裹而 「トリテツヽミテ」とよむこと古來異論なし。「※[果/衣]」字は普通に「裹」とかけど、元來同一字(259)なり。
○福路庭 「フクロニハ」とよむ。「福路」は嚢又は袋の漢字を用ゐていふ「フクロ」の借字なり。「庭」は助詞の「ニ」と「ハ」とを併せ用ゐたる語を示す借字にして卷一以來屡見る所なり。
○入澄不言八 この句のよみ方は古來まちまちなり。そのまちまちなる所以は二の事情あり。まづ「澄」を「ト」の假名に用ゐることは他に例なきことなるが、古葉略類聚抄にこの歌重出せるにはいづれも「登」とせり。考には「騰」の誤としたれどさる本は一もなし。この故に、もとのままにさしおきてよむべきが、「澄」は姑く「と」の假名と認めおくより外によき考案も世に出でこず。さて又この句より下のよみ方不審にして治定に至らず。さればこの句も亦上の如く「イハズヤ」までにて一句とする説、(管見、代匠記等)「面」までを一句として「イハズヤモ」とする説(考、略解、攷證等)とあり。童蒙抄は又「イルテフコトハ」若くは「イルトフコトハ」なりとせり。今考ふるに、下のよみ方治定せざるにこの句を強ひて奇矯によまむとするは由なきことなれば、普通のよみ方に從ひて七音を以て一句とする説に從ひおくべし。
○面智男雲 舊訓「モチヲノコクモ」とよみたれど何の義たるを詳にせず。管見には「オモシルナクモ」とよみ、代匠記は「智」を「知」の誤として「オモシルナクモ」とし、童蒙抄には「オモシロナクモ」とよみ、その他、考には「智」を「知」の誤とし、(「面」を上の句とせること既にいへり)「シルトイハナク」モとよみ、檜嬬手には「智」を「知日」の誤として、「アハンヒナクモ」とよめり。されどいづれも治定せる説とも見えず。なほ未決の問題として後の賢者の説を俟つべきものなり。
(260)○一首の意 上の如く、第五句のよみ方明かならねば、一首の意明かに知りかぬるはいふまでもなし。但し、第四句までは燃ゆる火をもとりて裹みて袋に入るといはずやとなり。これにつきて考は「後世も火をくひ、火を蹈わざを爲といへば、其御時在し役(ノ)小角がともがらの火を袋に包みなどする恠き術する事有けむ。云々といへり。これ一種の幻術をさせるものとするなるが、果して然らば、役小角までもなく、支那より傳はりし散樂にもこの幻術を行へば、これに似たることせしがありしならむ、されど、これらは臆説にて決し去るべきにあらず。或は又佛經などに出典のあるにや。いづれも未だ詳かならず。
 
161 向南山《キタヤマニ》、陣雲之《タナビククモノ》、青雲之《アヲクモノ》、星離去《ホシサカリユク》、月牟離而《ツキモサカリテ》。
 
○向南山 金澤本この上に「雲」字あり。されど、他の諸本になき所なれば、誤なりと認むべし。訓み方は舊板本「キタヤマノ」とよめり。古寫本にては類聚古集に「カムナミヤミ」とよみ、又「向南」の二字に「カミナヒ」と訓せる本(温故堂本、大矢本)あり。さて又童蒙抄には「キタヤマニ」とよみ、檜嬬手には「山」は「北」の誤にして「向南北」として「アマノガハ」と訓じ、玉の小琴は「向南」は誤字かといへり。按ずるに從來「向南」を「きた」とよみたるは所謂義訓にして南に對向する意にて「きた」をあらはせりと見たるなるべし。これにつきては攷證に顧瑛が詩を引きたれど、これは明代の人なれば、うけばりて證としがたし。支那になほ何等か出典あるべきか。余が按はよみ方に於いては「キタヤマ」とよむに異論はなけれど、かくよむ理由には少しく異なる點あり。按ずるにこれは(261)「向南」二字を以て一語として「キタ」にあてたるにあらず、「向南山」三字を以て一語として直ちに「キタヤマ」の義に用ゐたるなるべし。南に向へる山は即ち北山に外ならざればなり。さて「向南山」は「キタヤマ」とよみ、その下に別に助詞に該當する字なけれど、前後の關係によりて助詞を補ひよむべきなるが、舊訓は「ノ」を補ひてよみたれど、下にある「たなびく」といふ語につづくる關係より見れば「キタヤマニ」とよむをよしとすべし。さてここに北山とよまれしは何の爲ぞ。諸家之を説明せず。按ずるに、こは恐らくは南方よりその御陵所の方を眺めてよまれしならむ。山科御陵の地勢よくこの語にあてはまれり。
○陣雲之 舊板本「タナビククモノ」とよめり。古寫本には「ツラナルクモノ」とよめるもあり。(類聚古集神田本)陣字は多くの古寫本(金澤本、神田本、西本願寺本、温故堂本、大矢本、京都大學本、類聚古集)「陳」につくれり。玉篇を按ずるに、「陣」字に注して「本作陳」と見ゆれば、陳陣元來同字にしていづれも軍旅の義を本とせるが、後世「陣」字を專ら軍旅に用ゐたりと見ゆ。されば二字同義といふべきが、意義は玉篇に陳字に注して「列也、布也」といへるによるべきが、これは既に一轉しての意義と見ゆ。しかして今の用法はこの義によれるものならむが、字義の本來ならば、「ツラナル」とよむ説に從ふべきに似たり。されど雲のつらなるといへることは古來用例を見ずして雲には專ら「タナビク」といへり雲に「たなびく」といへる例は集中頗る多きが一二をいはば、卷三「三二一」に「天雲毛伊去羽計田菜引物緒《アマクモモイユキハバカリタナビクモノヲ》」卷四「六九三」に「秋津野爾多奈引雲能過跡者無二《アキツヌニタナビククモノスグトハナシニ》」卷九「一七四〇」に「白雲之自箱出而常世邊棚引去者《シラクモノハコヨリイデテトコヨヘニタナビキヌレバ》」卷十四「三五一一」に「安乎禰呂爾多奈妣久君母能伊佐欲比(262)爾《アヲネロニタナビククモノイサヨヒニ》」その他例少からず。さて山の巓などの邊に雲のかかりて長く引けるを「たなびく」といへること上の諸例にて見るべし。次に「之」をば童蒙抄には「シ」とよみ、又は「毛」の誤にて「クモモ」なるべきかといへり。されど、こはもとより「ノ」とよむべきものにして、この「ノ」は同じ趣の體言を重ねいふ場合に用ゐる「ノ」にして「タナビククモノアヲクモ」と重ねつづけていへるなり。
○青雲之 舊來「アヲグモノ」とよみ來れり。童蒙抄はこの「之」をも、「シ」又は「毛」とよむべくいへり。ここの「之」は上の「之」と全然同一にあらねば、「シ」とよみうる如くにもあれど、「アヲクモノホシ」とつづくべきものなれば、なほ「ノ」とよむをよしとすべし。青雲とは今青空とも青天ともいふ。大空の曇なく澄みわたりて、青く見ゆるをば、古は青雲と思ひしが故なり。青雲といへる例は、延喜式祈年祭祝詞に「青雲能靄極白雲能墜座向伏限《アヲクモノタナビクキハミシラクモノオリヰムカブスカキリ》」と見え、本集卷十三「三三二九」に「白雲之棚曳國之青雲之向伏國乃《シラクモノタナビククニノアヲクモノムカフスクニノ》」卷十四「三五一九」に「安乎久毛能伊※[氏/一]來和伎母兒《アヲクモノイテコワギモコ》」卷十六「三八八三」に「青雲乃田名引日須良霖曾保零《アヲクモノタナビクヒスラコサメソホフル》」などの例あり。この青天を青雲と考ふることは支那にもありて史記伯夷傳に「非v附2于青雲之士1惡能施2于後世1哉」といへる如きはその義理に轉じて高位高官の人をいへるものなりとす。
○星離去 舊板本「ホシワカレユキ」とよみ、類聚古集及び古葉略類聚鈔には「離去」を「サカリユク」とよめり。童蒙抄には「ハナレユキ」とよみ、考は「ハナレユク」とよみ、玉の小琴には「サカリ」とよむべしといひ古義は「サカリユキ」とよめり。玉の小琴に曰はく、「青雲之星とは青天にある星也。雲と星とははなるにはあらず。二つの離はさかりと訓て、月も星もうつりゆくをいふ。ほどふ(263)れば、星月も次第にうつりゆくを見たまひて、崩たまふ月日のほど遠くなりゆくをかなしみ給ふ也」といへり。さて離は「ワカレ」とよむは不理なれど、「サカリ」とも「ハナレ」ともよむべく、そのよみ方によりて意は多少異なるべし。又「去」を「ユク」とよむと「ユキ」とよむとは大差なき如くに見えて、實は文意に大なる關係あり。又「星」は「日毛」二字の誤なるべしといふ説あり。されど、その證なきことなれば如何なり。さて「青雲の星」は本居説の如くなるべきが、その他の意義はよみ方によりて種々にかはり行くべきなり。この歌の意未だ明かならねど、一首の歌たる以上、この一首にてをさまるべきものなれば、いづこにか切るる所なかるべからず。然るに結句は「而」にて止まれば、切るる句にあらず。中止述法によらざる限りは少くもこの句にて切らざるべからず。この見地よりすれば、「去」を「ユク」とよみてここにて句を切るべきなり。さて離は「ハナレ」とよまむは、ただ場所にのみ關するやうにとらるれば、ここは「サカリ」とよむべきならむ。その意は下に論ずべし。
○月牟灘而 舊板本「ツキモワカレテ」とよめり。「牟」字金澤本神田本「矣」につくりたるが、神田本は「ツキナハナレテ」とよみ、類聚古集は文字に異同なくして「ツキヲハナレテ」よめり。考には「牟」を「毛」の誤として、「ツキモハナレテ」とよめり。これ「牟」を「モ」とよむを不理としての事なるべきが、「牟」は通例「ム」とよめど、本來「モ」の音ある字なり。新撰萬葉集に「鶯者郁子牟鳴濫《ウグヒスハムベモナクラム》」又「山郭公老牟不死手《ヤマホトトギスオイモシナズテ》」などあれば、後までも「モ」に用ゐたるなり。さてこの「離」は上の離にならひて「サカリ」とよむをよしとすれば、この句は「ツキモサカリテ」とよむべきか。さて上に星離り去く月も離りてとあ(264)るは本居説の如くならば、支那の「物變星移移v幾度秋」(王勃滕王閣詩)「經2幾年月1、換2幾星霜1」(杜牧詩)などいへる思想に通へる所ありて、純なる日本思想にあらざるべく思はる。されど果して如何にや。
○一首の意 本居翁は上の如くいひ、橘守部は「向南北」を天河とし「星離去《ホシサカリユク》を星の「行道の轉じゆく」をいふとし、「月毛離而」を「月次の月の遠ざかりて星の行道の轉じゆくよし也」といひ、「彼の人死ねば、天の星となると云ふことを女心に信じ給ひて、御心あてに、御魂の星は此星ぞと銀河の中に見とめて其夕べより慕ひましけむを月比の經くまゝに其星の遠ざかりゆくを難き給ふなるべし。」といへり。されど、いづれも十分に首肯しうべき説にあらず。今之を決すべきだけのよき解釋を知らねば後の考へをまつ。
○ 以上二首考に「此二首は此大后の御歌のさまならず、から文學べる男のよみしにや。」といへり。如何にも然思はるる歌なり。若し、果して然りとせば、守部の説の如きもまた全然捨つべきにあらさらむ。
 
天皇崩之後八年九月九日奉爲御齊會之夜夢裏習賜御歌一首
 
○天皇崩之後八年 天武天皇の崩御は朱鳥元年なれば、その後八年は持統天皇御宇七年に當れり。この年に御齊曾ありしことは次にいふ如く日本紀に見えたり。
○九月九日 この日は天皇の御忌日なり。日本紀特統天皇巻に「七年九月丙申爲2清御原天皇1設2(265)無v遮大會於内裏1」となり。この丙申は日本紀にては十日に當れり。然るにここに九月九日なり。いづれを正しとせむか。但し御忌日は九日なれば.九日に行はるるが正當なりとす。
○奉爲御齊會之夜 「奉爲」は支那より傳はれる熟字にして「奉」は敬語たることを示す爲に加へたるものなれば古來「オホミタメ」訛りて「オホンタメ」とよめり。「ナシマツル」(考)又は「ナシタテマツル」とよむが如きは妄なり。(わが藝文に載せたる奉爲考を見よ)又「オホミタメニセシ」とよむ説あるが、これは「爲」字を一旦「タメ」とよみ、再び「セシ」とよむ事となりて、古來かつてなき所なり。「御齊會」の「齊」字普通ならは齋字を用ゐるべき所にして、古寫本中温故堂本、細井本はしか、かき、又代匠記にては「齋」の誤とせり。然れども大多数の古寫本かく書けるのみならず.既にいへる如く、齋齊元來通用する文字なれば、このままにてよきこと、巻一の「八一」の詞書にいへり。齋會とは齋を設けて三寶に供養する大會をいふなり。齋會の事は日本紀敏達卷に「大會設v齋」とあるを史上はじめて見る所とするが、これは蘇我馬子の家の齋會を叙せしなり.御齋會は天皇の御爲に設くる齋會なるが爲にいへるなるが、宮中御齋會の史に見ゆるは天武天皇四年四月「戊寅請2僧尼二千四百餘1而大設v會焉」とある時のをはじめとす。さて御齋會は「オホミヲガミ」とよみ來れるものなれば「奉爲御齋會」は「オホミタメノオホミヲガミ」とよむべきなり。即ちこは天武天皇の冥福を祈らむ爲の御齋會たる由なり。
○夢裏習賜御歌 夢裏は「ユメノウチ」なり。「習賜」は目録に加へたる旁訓には「ナレタマフ」とあり。されど「ナレタマフ」といふことは未だ遽に首肯すべからず。童蒙抄には「習」を「誦」の誤かといひ(266)て「ヨミタマフ」と訓じ、考には「習」を「唱」の義として「トナヘタマヘル」とよめり。されど諸本皆「習」とありて、他の字を用ゐず。美夫君志は文字のままに「ナラヒタマヘル」とよむべしといへり。按ずるに本集卷十六に「夢裡作歌」と題して「荒城田乃子師田乃稻乎倉爾擧藏而阿奈干稻干稻志吾戀良久者《アラキダノシシダノイネヲクラニアゲテアナヒネヒネシシワガコフラクハ》」(三八四八)といふ歌をあげ、その左注に「右歌一首、忌部黒麿夢裡〔二字右○〕作2此戀歌1贈v友、覺而令2(不ニ作ル本アリ非ナリ)誦習1如v前」とあるを見よ。それもこれも夢の裡によみたる歌にしていづれも「習」又は「誦習」といひたれば、同じ趣なるに似たり。されど上の「誦習」は覺而の後の事にして、ここのは夢裏に習ひ賜へるなれば、文字は一なりとも意は異なり。即ち十六卷のは論語の「學而時習之」といへる場合の「習」にして、夢裡によみし歌を覺而の後に重ねて之を誦したるなり。ここのは然らず。惟ふにこの「習」は「習慣」「積習」「習染」などの「習」にして自然に知るに至りしことをいへるなり。即ち何となしにかかる歌を得たまへるを「習」字にて記したるなるべきが、國語の「ならふ」といふもまたこの意をあらはすことあり。即ちこれは夢の裡に自ら作りたまひしともなく他人のうたひしともなく、自然にかかる歌をおぼえたまふに至りしをいふならむ。かかる事は古今に通じてある事にして、近世に御夢想の歌などいふものこれなり。
○御歌 この歌作者明記せねば、考に疑を存せり。されど、この文勢と前後の關係とより見れば持統天皇の御製として傳へしなること著し。而してこれをここに載するに至れることは上の二首と同じく後人の附載せしものなるべし。古寫本の多くは(金澤本、神田本、西本願寺本、大矢本、温故堂本京都大學本、類聚古集等)この題詞の下に「古歌集中出」と小字にて書けり。これ即(267)ちこの歌をここに記せし人の注なり。
 
162 明日香能《アスカノ》、清御原乃宮爾《キヨミハラノミヤニ》、天下《アメノシタ》、所知食之《シラシメシシ》、八隅知之《ヤスミシシ》、吾大王《ワカオホキミ》、高照《タカテラス》、日之皇子《ヒノミコ》、何方爾《イカサマニ》、所念食可《オモホシメセカ》、神風乃《カムカゼノ》、伊勢能國者《イセノクニハ》、奧津藻毛《オキツモモ》、靡足波爾《ナヒキシナミニ》、鹽氣能味《シホケノミ》、香乎禮流國爾《カヲレルクニニ》、味凝《ウマゴリ》、文爾乏寸《アヤニトモシキ》、高照《タカヒカル》、日之御子《ヒノミコ》
 
○明日香能 「アスカノ」なり。「明日香」を「アスカ」にあてたる事は卷一「七八」にいへり。さここは四言を一句とせるなり。
○清御原乃宮爾 「キヨミハラノミヤニ」とよむ。九言一句とせるなり。この宮の事は卷一にもこの卷にも既にいへり。
○天下 「アメノシタ」なり。この語の事は卷一「二九」「三六」等に既にいへり。
○所知食之 「シラシメシシ」とよむ。六言の一句なり。「シロシメシシ」とよむ説も多く行はるれど、必ずしも從ふべからぬことは卷一「二九」の下にいへり。「知る」は古語治むる意をもあらはせるものにして、「知らす」はその敬語なるが。「所念」はその敬語をあらはすに用ゐたり。又「めす」は屡いへる如く「見る」の敬語にして二者つづけて治めたまふといふ意をあらはす最敬の語とす。
○八隅知之、吾大王 「ヤスミシシワガオホキミ」とよむこと及びその意は既に屡いへり。ここは天武天皇をさし奉るなり。
○高照 「タカテラス」とよむ。考に「タカヒカル」とよみたれど、そは道理なきこと卷一「四五」にいへ(268)り。さてこの「高」は天と同じ意、「テラス」は照るの敬語にし天にてりたまふの意なることも既に屡いへり。
○日之皇子 「ヒノミコ」とよみて、四言の一句とす。舊板本に「ヒノワカミコ」とよめるは、ここを四言とせば音不足なりと認めたるが爲ならむ。されど、「ヒノミコ」とよみてよきことは卷一「四五」に述べたり。日の御子とは日神の御子孫といふ意にして、天皇は天照大神の御日嗣にましませばいへること、これも既にいへる如し。以上詞を重ね飾りたるが歸する所、天武天皇をさし奉るに止まる。而してこれまでが一體となりて、下に對して主格に立つなり。
○何方爾 舊板本「イカサマニ」とよめり。これを「イヅカタニ」とよめる本(神田本、温故堂本)なきにあらねど、卷一の「近江舊都時」柿本人麿がよめる歌(二九)にもこのままの文字ありて同じ訓を施せるが、その條にいひし如く、「イヅカタ」とよみては下の語に打ちあはず、且つ「さま」には元來「方」字の意あることなれば、その訓をよしとす。俗語に「ドノヤウニ」といふに似たり。
○所念食可 舊訓「オホシメシテカ」とよみたれど、「オボス」といふ語は「オモホス」の約まれるものにして平安朝の頃に見ゆれど、奈良朝の文獻に見えねば、この頃には元の形の「オモホス」を用ゐしなるべきこと、卷一「二九」の下にいへるが如し。さて「オモホス」は「オモフ」の敬語なるが「所念」はその語にあたるものにして、食は上の「所知食」の「食」におなじ。さて「イカサマニオモホシメセカ」といふ語は卷一「二九」にも見えたるが、「オモホシメセ」は「メス」の已然形にして、それを以て條件を示して下につづけたるものにして、これ古語の一格なること既に屡述べたり。これは後世なら(269)ば「バ」を加へて「オモホシメセバカ」といふべきを古語かくせるなり。これは「バ」を略したるにあらずして「バ」なくしてこの力十分にあらはれたる所に古語の格の存するなり。これを「ば」を省きたりといふ如き説明を下すは本末を轉倒したるものなり。末の「カ」は疑の助詞にしてその條件をうけて、下の「鹽氣能味香乎禮流國爾」といふあたりにかかれるものなり。
○神風乃 舊訓「カミカゼノ」とよめり。されど、卷一「八一」の下にいへる如く「カムカゼ」とよむべきことは日本紀古事記ともに假名書にて「カムカゼ」とせるにて著し。さてこれは「伊勢」の枕詞とせるが、その古語「息《イ》」といふにかかりての枕詞なること卷一「八一」にいへるが如し。
○伊勢能國者 舊訓「イセノクニニハ」とよめり。されどこれは下に對しての主格たれば「ニハ」といふべからず。「イセノクニハ」とよむべし。
○奧津藻毛 「オキツモモ」とよむ。「オキツモ」は上「一三一」の下にいへる如く、奧《オキ》の藻なり。下の助詞「も」の意は下の句に至りて明かになるべし。
○靡足波爾 舊訓「ナビキシナミニ」とよみたるを契沖は「ナビキタルナミニ」とも「ナミタルナミニ」ともよむべしといひ、考には「ナミタルナミニ」とよみ、檜嬬手は「足」は「留」の誤として「ナビケル」とよみ、古義は「足」は「合」の誤として「ナビカフ」とよみ、略解は「足」は「之」の誤として訓は舊本により。今古寫本を見るに、すべて一致してこの處誤字ありと認むべき點なければ、すべての誤字説は從ひ難し。この「足」は「アシ」の上略にして「シ」の假名に用ゐたりと見ゆ。その例は卷九「一七四二」に「級照片足羽河之左丹塗大橋之上從《シナテルカタシハカハノサニヌリノオホハシノウヘユ》」卷十「一九八二」に「日倉足者時常雖鳴《ヒクラシハトキトナケドモ》」といふあり。又日本紀に(270)仁賢天皇の御諱を仁賢紀には「諱大脚|更《マタノ》名大爲」とあり、顯宗紀には「更名大石尊」とあるが、いづれも「オホシ」とよむべきものなれば、こゝにも「脚」を「シ」とよむべき例を見るが、「足」「脚」文字は異なれど、いづれも「アシ」の上略たるなり。されば、このまゝにて「ナビキシナミニ」によむべきものなり。さてここの「なびく」は何につきていへるかといふに攷證に既にいへるが如く波にもかゝりたるものにして、藻も波もなびくなり。波の風にふきよせられなどするをばなびくといへることは攷證にもひける如く、卷二十「四五一四」に「阿乎宇奈波良加是奈美奈妣伎《アヲウナバラカゼナミナビキ》、由久佐久佐《ユクサクサ》、都都牟許等奈久《ツツムコトナク》、布禰波波布家無《フネハハヤケム》」とあるにても知るべし。
○鹽氣能味 「シホケノミ」とよむ。「シホケ」は潮の氣の義なり。この語の例は卷九「一七九七」に「鹽氣立荒磯丹者雖在往水之過去妹之方見等曾來《シホケタツアリソニハアレドユクミヅノスギニシイモガカタミトゾコシ》」あり。「のみ」は今「ばかり」といふに以たり。
○香乎禮流國爾 「カヲレルクニニ」とよむ。「かをる」は後世は香氣にのみいへど、古代は霧霞又火氣などにもいへり。火氣にいへるは神樂の弓立の歌に「いせじまや、あまのとねらが、たくほのけ、おけ/\、たくほのけ、いそらがさきにかをりあひにけり、おけ/\」といへる例あり。霧にいへるは日本紀卷第一の書に「伊弉諾尊我所生之國唯布2朝霧1而薫滿之哉乃吹撥之氣化爲神號曰2級長戸邊神1亦曰2級長津彦命1是風神也」とあり。こゝはその潮の水氣の烟りみてる國といふなるべし。さて上の「おきつも」の句よりのつゞきを見るに、「おきつもも共に靡きしその波に潮氣のみいちじるしくかをれる國に」といふ義なるが、それより一句上に溯れば「伊勢の國は」とあり。この場合の「は」は如何なる用方に立てるかといふに、卷一、「四五」の「隱口の泊瀬の山は眞木立荒山(271)道を」といへる場合に似たり。即ち「神風の伊勢の國はおきつ波と共に靡きしその波に潮氣のみかをれる國なるが、その國に」の意なり。然るに、それより更に溯れば、「何さまにおもほしめせか」とあれば、その條件に對しての歸結なかるべからず。然るに、この「かをれる國に」にてはそれが歸結とならず、而して、その次に降れば、又歸結となるべき語を發見せず。即ち、上の係に對する歸結はこゝに存せず。次の句に至れば、別の意となるが、故に、この下に何等かの脱落ありと認めざるべからずして、とにかくに段落は、こゝまでにして以下は別の段落に屬す。
○味凝 舊訓「アヂコリノ」とよみたれど、意義をさず。されば、童蒙抄に「ウマゴリノ」とよみ、考には「ウマゴリ」と四音一句とせり。この語は卷六「九一三」には「味凍綾丹乏敷鳴神乃音年聞師三芳野之眞木立山湯見降者《ウマコリアヤニトモシクナルカミノオトノミキキシミヨシヌノマキタツヤマユミクダセバ》」とあり。これを「うまこり」とよまむに、二者共によくあたれりといふべし。「「味」を「うま」の語にあてたるは「味酒」(卷一「一七」の例など、集中におほし。さてこれは「アヤ」の枕詞に用ゐたることは著しきが、之を釋して「ウマクオリ」として味く織りたる綾の義にとりて「アヤ」の枕詞とせりといふなり。余思ふに、この「オリ」は體言の取扱を受けたるものと考へらるれば、上も「ウマキ」なるべし。即ち「うまきおり」(結構なるおり物)の「あや」といふ意より枕詞とせしならむ。さてかく、之を體言の取扱と見る時は、「うまざけ」「にひばり」「みかしほ」の如く四音にて呼掛の形にせるが、古風にして強き感を與ふるを以て考の説に從ふをよしとす。
○文爾乏寸 「アヤニトモシキ」なり。「アヤ」は上の枕詞のかゝるは綾といふ織物なるが、こゝはただ「アヤ」といふ音の似たるのみにして、讃嘆の意をあらはす副詞の「アヤ」なり。上にあげたる卷(272)六の歌もまた同じ。かく「あやに」といふ語を以て形容詞に冠せしめて讃嘆の意をあらはせるは古語に屡見る所にして、その一二例をあぐれば、日本紀卷十四の歌に「據暮利矩能播都制能夜麻播阿野爾于羅虞波斯《コモリクノハツセノヤマハアヤニウラグハシ》」この卷「一九九」に「言久母綾爾畏伎《イハマクモアヤニカシコキ》」などなり。「トモシ」は卷一「五三」「五五」に既にいへる如く、うらやましき意あり、又めづらしく愛すべき意あり。ここは、愛すべき慕はしき意にてのたまへりと見ゆ。上にあげたる卷六の歌にも「あやにともしく」と見ゆ。なほ「ともしき」の例は卷十四「三五二三」に「等毛思吉伎美波安須佐倍母我毛《トモシキキミハアスサヘモガモ》」卷二十「四三六〇」に「夜麻美禮婆見能等母之久可波美禮婆見乃佐夜氣久《ヤマミレバミノトモシクカハミレハミノサヤケク》」など少からず。
○一首の意 この御歌既にいへる如く、第一段の末に脱落ありて意をなさず、その第一段の末に伊勢國とあるは天武天皇兵をあげたまひし時吉野よりいでて伊勢國桑名に滯在まししことあるを思ひ出でたまひしならむが、若し、しかりとせば、それより、壬申の亂を經て、天下一統になり、御治世の間をうたはれしものならむと思はるれば頗る長き歌となるべき勢なり。然るに、その中間の脱漏あるは、傳ふるものの逸したりしものか、はたはじめよりこれだけに止まりしか。惟ふに夢中の詠なれば、その前後のみ習ひたまひて中間は習ひたまはざりしものならむ。かくて今の如きさまのまゝにて傳はり來りしならむか。
 
藤原宮御宇天皇代 高天原廣野姫天皇
 
○ この御代の事及び天皇の御稱號の事は既にいへり。
 
(273)大津皇子薨之後大來皇女從2伊勢齊宮1上v京之時御作歌二首
 
○大津皇子薨之後 大津皇子の事は上にいへり。この皇子に死を賜へる事は朱鳥元年十月戊辰朔庚午(三日)なることは日本紀に見えたり。
○大來皇女從伊勢齊宮上京之時 大來皇女は大伯皇女ともかき大津皇子の同母の御姉にましまし、天武天皇の朝に伊勢の齋王としてまししことは既にいへり。伊勢齋宮は齋王のまします宮にして、伊勢多氣郡櫛田にありて歌などに多氣郡とうたはれし地なり。齋王は天皇の大御手代とまします方にして天皇の御代かはれば、その齋王も退きたまふべき制なり。されば、天武天皇の崩御と共に大來皇女の齋王の任は解かるべき筈なり。而してその京師にかへられしは、日本紀朱鳥元年十一月にして、日本紀に「十一月丁酉朔壬子(十六日)奉2伊勢神祠1皇女大來還至2京師1」とあり。即ち十一月十六日に上京せられしが、その四十日ばかり前十月三日大津皇子は譯語田舍に於いて死を賜はりて既に世を去りてまししなり。而してこの御歌はその上京後まもなくよまれしものならむ。上の「一〇五」、「一〇六」の歌と併せて味ふべし。
 
163 神風之《カムカゼノ》、伊勢能國爾母《イセノクニニモ》、有益乎《アラマシヲ》。奈何可來計武君毛不有爾《ナニシカキケムキミモアラナクニ》。
 
○神風之伊勢能國爾母 これのよみ方は上にいへるにて知るべし。
○有益乎 「アラマシヲ」とよむ。こゝの「アラ」は在の意なり。さてかく「マシ」にて結べるものは必(274)ず上に假定假設の條件あるべき語格なれば、「かくの如き事ならば京に歸らずして伊勢國にそのまま居らましものを」となり。以上一段落。
○奈何可來計武 舊訓「ナニニカキケム」とよみたるを考に「ナニシカキケム」とよめり。「ナニニカ」といふ事不都合なりといふにあらねど、集中の假名書その他にて必ずかくよむべしと主張するに足るべき例を見ず。而して一方に於いて卷七「一二五一」に「伺師鴨川原乎思努比益河上《ナニシカモカハラヲシヌビイヤカハノボル》」卷十一「三五〇〇」に「何然公見不飽《ナニシカキミガミルニアカザラム》」卷十五「三五八一」に「奈爾之可母奇里爾多都倍久奈氣伎之麻左牟《ナニシカモキリニタツベクナゲキシマサム》」卷十七「三九五七」に「奈爾之加母時之波安良牟乎《ナニシカモトキシハアラムヲ》」卷十八「四一二五」に「奈爾之可母安吉爾之安良禰波許等騰比能等毛之伎古等《ナニシカモアキニシアラネバコトトヒノトモシキコラ》」、又卷十二「二九八九」に「今更何牡鹿將念《イマサラニナニシカオモハム》」などを見るときは「ナニシカ」とよむことの根據あるをさとるべし。さてその「シ」は強めの助詞なり。
○君毛不有爾 古來「キミモアラナクニ」によみ來れり。然るに檜嬬手には「キミモマサナクニ」とよむべしといひ、古義は「有」を「在」の誤として訓は「マサナク」とせり。按ずるにこの「君」は大津皇子をさしたまへり。「アラナクニ」の「なくに」は上「九七」にいへるが、「キミモアラナクニ」といふ語の事は「一五四」にいへり。
○一首の意 わが愛し慕ひ奉る君も今は此世におはしまさぬに、何故に遙々とこの京にわれはかへりし事ぞ、かくあらむには伊勢國にそのままに止まり在るべかりしものをとなり。上京してはじめて皇子の事をききたまひしか、若くは前にきかれし事なれど、上京して後その感ひしひしと思ひ出でられてよまれしならむ。
 
(275)164 欲見《ミマクホリ》、吾爲君毛不有爾《ワガスルキミモアラナクニ》、奈何可來計武《ナニシカキケム》、馬疲爾《ウマツカラシニ》。
 
○欲見 舊板本「ミマクホリ」とあれど、古寫本に「ミマホシミ」とよむあり、(金澤本、類聚古集、古葉略類聚鈔等)「ミマホシク」とよむあり。(細井本)本集卷十七「三九五七」に「見麻久保里念間爾《ミマクホリオモフアヒダニ》」又卷十八「四一二〇」に「見麻久保里於毛比之奈倍爾《ミマクホリオモヒシナベニ》」とある假名書の例によりて「ミマクホリ」とよむべきなり。その意は見むと欲するなり。「ホリ」は「ホル」といふ古き動詞の連用形なるが、卷四「七六六」に「路遠不來常波知有物可良爾然曾將待君之目乎保利《ミチトホミコジトハシレルモノカラニシカゾマツラムキミガメヲホリ》」日本紀卷十六の歌「※[手偏+施の旁]摩儺羅磨婀我〓屡舒※[手偏+施の旁]摩能阿波寐之羅陀魔《タマナラバアカホルタマノハビシラタマ》」などにてその動詞の形と意義とを知るべし。
○吾爲君毛 舊板本「ワカセシキミモ」とよみ、金澤本等には「ワカオモフキミモ」とよめり。さて考は「ワカスルキミモ」とよみたるが、「爲」字は「オモフ」と訓すべき字にあらねば、「スル」又は「セシ」の方によるべきが、かく「ミマクホリ」より「ス」につゞくる今と同じ語遣の例は卷四「五六〇」に「生日之爲社妹乎欲見爲禮《イケルヒノタメコソイモヲミマクホリスレ》」卷七「一二〇五」に「欲見吾爲里乃《ミマクホリワガスルサトノ》」又「一二八二」に「見欲我爲苗立白雲《ミマクホリワガスルナベニタテルシラクモ》」などあり。さてここは見むと現に欲する由なる意にとるときはその意切實なれば、考の説によるべし。
○不有爾 舊板本「アラナクニ」とよめり。古寫本には「マサナクニ」とよめるあり。古義檜嬬手又かくよめり。されど、これは「一五四」にいへる如く「アラナクニ」にて何の差支もなきことなり。さてここは意切れずして、下の句につづけり。
○奈何可來計武 上の歌にいへる如く「ナニシカキケム」とよむべし。文字も一致せり。
(276)○馬疲爾 舊板本「ウマツカラシニ」とよみたり、古寫本中には、「ウマツカラカシニ」とよめるもあれど、(大矢本、京都大學本、温故堂本)「ツカラカス」といふ語遣は古きものと見えず、平安朝の中頃より後に流行せるものと見ゆれば隨ひ難し。玉の小琴には「本の儘に訓ても有べけれど、猶うまつかるるにとや訓ままし。さては愈古るかめり。」といひ、略解之に從へり、されどこれは攷證に「舊訓のままうまつからしにとよむべし。わが見んと思ふ者もいまはおはさぬものを、何しにか來にけん、ただ馬をつからすのみぞと也」といへる如く、舊訓をよしとす。「疲」を「つかる」とよめる例は靈異記中卷に「疲【都加禮弖】」とあり。されど假名書のものにて「ツカラス」とよめる例は未だ見ず。この「ツカル」は下二段活用にして之に對し四段活用の「ツカラス」といふ語のありうべきは「イユ」と「イヤス」「オクル」(後)と「オクラス」「カフ」(交)と「カハス」「カル」(枯)と「カラス」「キユ」と「キヤス」「クル」(暮)と「クラス」などの如く、一方下二段活用の語にして一方佐行四段として、その幹音をア韻にしたるものが、しかせしむる意をなす語としてあらはれたるを見るに、古も「ツカラス」といふ語ありしならむ。されば、その例證を知らねど、意によりて姑くかくよめり。さてこの馬を疲れしむといふ意にのたまへるは何の故ぞと考ふるに、齋王御出發又御歸京は群行といひて一部隊の旅行なるが齋王は(駕與丁左右兵衛府より各十六人出づ)御輿にて出でますものなれば、御乘馬にはあらず、この馬は供奉の人々の乘馬、又駄馬もありしならむ。供奉の人々の乘馬の事は朝野群載四に載する「伊勢齋王歸京國々所課」の中に、近江國の下に「馬百匹、夫百人」、又齋宮寮の下に「肥馬」とあり。(數を記さず)なほ延喜式齋宮式には「凡從行群官以下給v馬主神司中臣忌部宮主(277)各二疋、頭四匹、助三疋、命婦四匹、乳母并女嬬各三疋輿長及殿守各一正云々」とあり。後世だにかくの如くなれば、この當時の御群行のさま想ひ見るべく、かくて「馬疲らし」にの意明かに認めらるべし。
○一首の意 わが都にかへりて相見むと思ふ君も今は御座さぬに、われは何しに都には來りしならむ。ただ徒らに馬を疲らしむるのみなるにとなり。その馬といふ語にはその馬につれての多くの官人はた馬夫の如きものまでをも合めり。上の御歌の意をくりかへして語を少しくかへたるなり。
 
移2葬大津皇子屍於葛城二上山1之時大來皇女哀傷御作歌二首
 
○移葬 文字の如くは今いふ改葬(即ち一旦葬りたる墓を更に他に移し葬ること)の如くに見え、諸家亦多くその意として説けれど、必ずしも然らざること攷證にいへる如し。そは如何といふに、この移葬は假寧令にいへる改葬と同じ意と見ゆるが、その改葬といふ事は集解に「釋云改2埋舊屍1。古記曰改葬謂殯2埋舊屍柩1改移之類」とありて、殯宮より屍を墓所に移して葬ることをさすなり。この移葬が喪のありしより多少の時日を經過することありしことは河内國古市村より出でし船首王後墓志(古京遺文所載)に王後が辛丑の年十二月三日に歿せしを三年を經て戊辰年十二月に殯※[草冠/死/土]せし由を載せ、因幡國府中の山中より出でし伊福部徳足比賣墓志には和銅元年七月一日に歿せしを翌々年三年十月に火葬せしを載す。これらはその間二三年を經(278)たるものなるが、その近きものにては、石川年足墓志(攝津國島上郡荒神山出土)に天平寶字六年九月丙子朔乙已に歿し、同年十二月乙巳朔壬申に葬れるあり。これらにて移葬といふことの一斑を知るべし。さて「屍」をば考に「オキツキ」とよめれど「オキツキ」とは墓の事なればしかよむは非にして「カバネ」とよむべし。さてこの御葬事は史に明記せず。
○葛城二上山 葛城山の一部なる二上山といふ義なり。いまは葛城山と二上山とは別とせらるれど、もとは總稱して葛城山といひしなり。その二上山とは、葛城山脈の北部にあたる部分にして、専ら葛城山といふは葛上郡に屬し.二上山は葛下郡に屬せり。この山は大和志葛下郡に「在2當麻村西北1半跨2河州1兩峯相對一曰2男嶽1一曰2女嶽1北有2小峰1呼2銀峯1南有2瀑布1高丈餘有2古歌1」と見え、又「二上山墓」については「在2二上山二上神社東1」と見ゆ。これ大津皇子の御墓なりといふ。
○大來皇女哀傷御作歌二首 上の大來皇女なるが、この歌は上の歌と相連なれりと見るべし。
 
165 宇都曾見乃《ウツソミノ》、人爾有吾哉《ヒトナルワレヤ》、從明日者《アスヨリハ》、二上山乎《フタガミヤマヲ》、弟世登吾將見《イロセトワガミム》。
 
○宇都曾見乃 「ウツソミノ」とよむ。「ウツソミ」は「現シ身」の義なるが、音の轉訛によりてかくなれり。「ウツセミ」といふも同じ。
○人爾有吾哉 文字のままならば、「ヒトニアルワレヤ」とよむべく、古來しかよみ來れるが、考に「ヒトナルワレヤ」と改めたり。意は同じけれど今音調の上より考に從ふ。「ヤ」は疑の助詞にして下にかかれり。
(279)○從明日者 「アスヨリハ」とよむ。意明かなり。今日ここに弟の命の墓を設けたれば、の意を含めて考ふべし。
○弟世登吾將見 舊板本「イモセトワレミム」とよめるが、古寫本中には、「弟世」を多く「茅世」とかき從つて「チヨト」とよめり。又代匠記には「ヲトセ」かといひ、考には「イモセトワガミム」か又は「弟世」の誤にて「ナセトワガミム」かといひ、古義には「吾世」の誤にて訓は「ワカゼ」とよむべきかといへり。案ずるに「茅世」といふ文字意をなさぬのみならず之を「チヨ」とよみても意通らねば、なほ「弟世」の文字に誤なしと認むべきが、「オトセ」といふ語の存せし證なく、語も雅ならねば、他のよみ方あるべし。又「弟」を「イモ」とよまむことも無理なり。新訓萬葉集には「イロセ」と訓めり。この語は本集に例なけれど、古事記上卷に素戔嗚尊が「吾者《アハ》天照大御神之|伊呂勢《イロセ》者也」と仰せられし事見え、又中卷神武卷に「其|伊呂兄《イロセ》五瀬命」など見ゆ。こは古事記傳にいへる如く同母兄弟をいふ古語なれば、ここに適せるが故に、「弟世」を必ずかくよむべしといふ確證を見ざれど姑く之に從ふ。「吾將見」は考の如く「ワガミム」とよむをよしとす。その故は上に既に「ワレ」とよみたれば一は重複を避くべく、一は「ワガ」といへる方の緊く下につづけばなり。
○一首の意 吾は現の人身にてあるに如何なる、因縁ありてか明日よりはこの二上山をばわが兄弟と見むこととなれることよとなり。而してこの二上山は大和|國中《クニナカ》にて著しく誰の目にもつき易き山なれば、この終の「見む」といふことよく意とほれり。
 
(280)166 礒之於爾《イソノウヘニ》、 生流馬醉木乎《オフルアシビヲ》、手折目杼《タヲラメド》、令視倍吉君之《ミスベキキミガ》、在常不言爾《アリトイハナクニ》。
 
○礒之於爾 「イソノウヘニ」とよむ。「礒」は「イソ」とよむが、その「磯」はもと水中にある岩石をあらはす文字にして今「イソ」とは主として海邊の岩石をさす語の如くに考へらるれど、その「イソ」といふ國語はもと汎く「イシ」と同じ義の語として用ゐしことは、「石上」を「いそのかみ」とよめるにても知るべし。即ちここは「磯」の漢字の本義にあらずして「イソ」即ち汎く石をさせりと見るべし。卷十一「二四八八」「機上立回香瀧心哀《イソノウヘニタチマフタキノココロイタク》」卷十二「二八六一」に「礒上生小松名惜人不知戀渡鴨《イソノウヘニオフルコマツノナヲヲシミヒトニシラレズコヒワタルカモ》」などこの例なり。「於」を「ウヘ」とよむことはかつて萬葉集訓義考(アラヽギ所載)にいへるが、その一二例をいはば、續日本紀巻一、大寶元年遣唐使の任命の記中に「山於億良」とあるは本集に作者として名高き「山上憶良」にして和名抄河内國志紀郡の郷名の「井於」も「ヰノウヘ」にしてこれを「爲乃倍」とよめり。又續紀天平神護二年四月の記事に「井於連」とあるも「ヰノヘノムラジ」なるべし。又續日本後紀承和十年十二月の條に見ゆる「井於枚麿」も同じ氏なるべし。又延暦の皇太神宮儀式帳には「於葺御門」「於不葺御門」又「於覆帛御被」とある「於」はみな「ウヘ」なり。その他靈異記などにも例あり。本集にも例多きがうち一二をいはば巻三の「二六一」の長歌の中に「大殿於《オホトノノウヘニ》」卷七「一二六三」に「木末之於者未靜之《コヌレノウヘハイマダシヅケシ》」卷十「一九一二」に「吾山之於爾《ワガヤマノウヘニ》」などなり。而してこれは法相宗の經論などにも行はれたるものにして、支那より傳はれる字義に基づくものにして、漫りに本邦人のよめるものにあらざるなり。さてこの「うへ」は「邊」の義なり。
(281)○生流馬醉木乎 舊板本「オフルツツジヲ」とよめるが、古寫本中には「馬醉木」の旁に「アセミ」と注せるあり。考にはこれを「アシミ」とよみ、略解は「アシビ」とよみたり。この「馬醉木」といふものは集中に屡見ゆる所にして、又「馬醉花」とあるもその花をさせるなるべし。この馬醉木、馬醉花の字面漢土の書には見えねば本邦にて設けたる文字なるべし。さてこの馬醉木は如何なるものにして何とよむべきかといふに、上の如く「つつじ」とする説と、「あせみ」又は「あしみ」或は「あしび」とよむ説とあり。その「ツツジ」とよむ説は和名抄に「羊躑躅」に注して「和名以波豆々之一云毛知豆々之」とあり、而してその物は本草注に「羊誤食v之躑躅而死故以名之jとあるによりて馬も喰へば醉ふなるべしといふ推測に出でしものならむが、今本邦にある普通の「つつじ」は食ふとも醉ひも死にもせぬものなり。而して羊躑躅にあつべきは黄色の大輪の花さく今「きつつじ」といふものにしてこれこそ毒あれば、食ふべからざるものにして、しかもこれは恐らくは外來の植物たりと見ゆ。今本集にある馬醉木は山野に自生したる樣に見ゆれば、この羊躑躅にあらざるは明かなりとす。さて本集卷十に馬醉木とかける三首の歌は古今六帖に「あせみ」の條にのせいづれも「あせみ」とよめり。されば馬醉木は「あせみ」といふ物にあたると平安朝頃の人には、思はれしこと明かなり、然るに、萬葉集には假名書に「あせみ」とせるものなくして、假名書にせるには「あしび」とかけるもの屡見ゆ。即ち卷七「一一二八」に「安志妣成榮之君之《アシビナスサカエシキミガ》」卷二十「四五一一」に「乎之能須牟伎美我許乃之麻家布美禮婆安之婢乃波奈毛左伎爾家流可母《ヲシノスムキミガコノシマケフミレバアシビノハナモサキニケルカモ》」又「安之婢」とかけるもの、(四五一二)(四五一三)あり。この「アシヒ」即ち馬醉木にして六帖の「あせみ」と同じものなるべしとい(282)ふ。この「あせみ」といふ木は「あせぼ」ともいふ常緑の木にしてその葉は、毒ありて獣決して之を食ふことなし。而してこの木は大和山城の山野に汎く自生せるものなるが、その著しきは今奈良公園春日社頭などにある常緑の灌木と見ゆるもの即ちこれなり。これはその神鹿も決して之を食ふことなきが故にいつも緑の葉を保てり。萬葉古今動植正名に「あしび」今名「あせぼ」(漢名※[木+浸の旁]木)としてあげ、説いて曰はく、「あせぼの葉を煎じそそげば田の蟲を殺すべし。又馬に食はしむれば、足痺れてつまづく故に馬醉木といふ。(云々)されど漢名にはあらざるなり。近山(著者山本章夫は京都人)に自生多し。春月花市へ花をきり出す。奈良春日山近傍殊に老木多きを見る。鹿この葉を食へば不時に角落つ。鹿も之を知り近づきよらぬ故、人家庭園に多く栽うるは鹿を防く用なりといふ。あしみ、又あせび、あせぼといふ、皆一物なり。」とあり。
○手折目杼 「タヲラメド」なり。「手折らむ」といふ句を「ど」助詞にてうけて下につづけたるものなるが、この「ど」は已然形をうくるものなるが故に「む」の已然形「め」より「ど」につづけたるなり。この詞遣は上の「クミニユカメド」(一五八)にいへり。
○令視倍吉君之 「ミスベキキミガ」とよむ。「令視」は「ミス」なり。この「ミスベキ」と「君」との關係は「君ニ見スベキ」といふべき場合のものにして、その君に見すべきものは上にいへる馬醉木なり。これを君に見せむと思へど、その見せたしと思ふ君がといふなり。この君は下の「在り」に對して主格なるものなり。
○在常不言爾 「アリトイハナクニ」とよむ。檜嬬手には「マストイハナクニ」とよみたれど、既に屡い(283)へる如く「君に對して「在り」といふこと差支なき事なれば必ずしも改むるに及ばざるべし。さてこの「在り」といふ語に對しての主格は「君」なること既にいへる如くなるが、かくいふその主格誰ぞと考ふるに、これは一般世人をさすものと見るべし。而して「いはなくに」は「いはぬに」といふと意義は大差なきものなるが、世人が君のおはしますといはぬなりとなり。この「に」はかへりみて思ひ出せる心地を十分にあらはせり。これを他の語にていへば、君が此世にましますといふ人は一人もなしとなり。これ誰も君のこの世にましますといふ人なしといひて、間接に君の現世にあらぬ人なる由をいはれしなり。或は思ふ。この「君が在りといはなくに」は君が「われここに在といはなくに」の意ならずやと。かくする時は「在り」は君の語る語となり、「いふ」の主格は「君」となるべし。されど、かかる語づかひの他の例を參照するに、なほ、はじめの如く解すべきものと考へらる。先づ「君」といふ語を主格として、下に「ありといふ」といへる歌の用例を見るに本卷「且今日且今日吾待君者石水貝爾交而有不言八方《ケフケフトワガマツキミハイシカハノカヒニマジリテアリトイハズヤモ》」(二二四)といふも上に余がいへる意義にとるべく、又古事記下卷允恭卷の歌に、「麻多麻那須阿賀母布伊毛加賀美那須阿賀母布都麻阿理登伊波婆許曾伊幣爾母由加米久爾袁母斯怒波米《マタマナスアガモフイモカガミナスアガモフツマアリトイハバコソイヘニモユカメクニヲモシヌバメ》」又本卷十三に「眞珠奈須我念妹鏡成我念妹毛有跡謂者社國爾毛家爾毛由可米誰故可將行《マタナスワガモフイモカガミナスワガモフイモモアリトイハバコソクニニモイヘニモユカメタレユヱカユカム》。」(三二六三)とあるも皆同じ趣にして、「君」の主格に對して「いふ」を述格とせるものにあらねば、なほ上述の如く解するをよしとすべし。
○一首の意 今この岩の邊に生ひてある馬醉木を見れば、如何にも美しければ、手折りて家苞にせむと思ひしが、さて家にかへりて見せ奉りて共に悦ばむと思ふ君は、この世にましますとい(284)ふ人は一人もなきことなるに。さてもかく花を見るにつけても何を見るにつけても君の御事の思ひ出でられ忘れ難き事なるよとなり。
 
右一首、今案不v似2移葬之歌1。蓋疑從2伊勢神宮1還v京之時路上見v花感傷哀咽作2此歌1乎。
 
○感傷哀咽 「感」字流布本「盛」に作るものは誤なり。多くの古寫本「感」に作るを正しとす。
○ この左注誤れり。大伯皇女伊勢よりかへらせ給ひし折は十一月にして「アシビ」にしても「ツツジ」にしてもその花の時にあらぬをや。されば代匠記は之を誤とし、考は之を削れり。されど、古よりかくあるものなれば、ただ古人の思ひ誤りしものなりと認めて、そのままにさしおくを穩かなりとす。
 
日並皇子尊殯宮之時柿本人麿作歌一首并短歌
 
○日並皇子尊 こは「ヒナミシノミコノミコト」とよむべきなり。この尊の事は卷一「九」にいへり。「日並」以下流布本上の左注の「乎」の下より書きつづけたるは誤なり。古寫本別行にせり。
○殯宮之時 「オホアラキノトキ」とよむべし。この皇太子は持統紀に「三年四月乙未皇太子草壁皇子尊薨」とあり。即ち、その殯宮の事のありし時に人麿のよめりしなり。考には天皇の外は別に殯宮をせられぬ由にいへれど、攷證にも既に論ぜる如く、この歌にも「眞弓乃岡爾宮柱太布(285)座云々」とあり、又下の明日香皇女木※[瓦+缶]殯宮歌にもその趣にあれば殯宮の實際に存せしことは明かなり。
 
167 天地之《アメツチノ》、初時之《ハジメノトキノ》、久堅之《ヒサカタノ》、天河原爾《アマノカハラニ》、八百萬《ヤホヨロツ》、千萬神之《チヨロツカミノ》、神集《カムツドヒ》、集座而《ツドヒイマシテ》、神分《カムハカリ》、分之時爾《ハカリシトキニ》、天照《アマテラス》、日女之命《ヒルメノミコト》、【一云指上日女之命】天乎波《アメヲバ》、所知食登《シラシメスト》、葦原乃《アシハラノ》、水穗之國乎《ミヅホノクニヲ》、天地之依相之極《アメツチノヨリアヒノキハミ》、所知行《シラシメス》、神之命等《カミノミコトト》、天雲之《アマグモノ》、八重掻別而《ヤヘカキワケテ》、【一云天雲之八重雲別而】神下《カムクダシ》、座奉之《イマセマツリシ》、高照《タカテラス》、日之皇子波《ヒノミコハ》、飛鳥之《アスカノ》、淨之宮爾《キヨミノミヤニ》、神髄《カムナガラ》、太布座而《フトシキマシテ》、天皇之《スメロギノ》、敷座國等《シキマスクニト》、天原《アマノハラ》、石門乎開《イハトヲヒラキ》、神上《カムアガリ》、上座奴《アガリイマシヌ》。【一云神登座爾之可婆】吾王《ワガオホキミ》、皇子之命乃《ミコノミコトノ》、天下《アメノシタ》、所知食世者《シラシメシセバ》、春花之《ハルバナノ》、貴在等《タフトカラムト》、望月乃《モチツキノ》、滿波之計武跡《タタハシケムト》、天下《アメノシタ》、【一云食國】四方之人乃《ヨモノヒトノ》、大船之《オホフネノ》、思憑而《オモヒタノミテ》、天水《アマツミヅ》、仰而待爾《アフギテマツニ》、何方爾《イカサマニ》、御念食可《オモホシメセカ》、由縁母無《ツレモナキ》、眞弓乃崗爾《マユミノヲカニ》、宮柱《ミヤバシラ》、太布座《フトシキマシテ》、御在香乎《ミアラカヲ》、高知座而《タカシリマシテ》、明言爾《アサゴトニ》、御言不御問《ミコトトハサズ》、日月之《ヒツキノ》、數多成塗《マネクナリヌル》、其故《ソコユヱニ》、皇子之宮人《ミコノミヤビト》、行方不知毛《ユクヘシラズモ》。【一云刺竹之皇子宮人歸邊不知爾爲。】
 
○天地之 「アメツチノ」とよむ。天を「アメ」地を「ツチ」とよむは古言にして、之を相對していへる假名書の例は、卷五「八〇〇」に「阿米弊由迦婆奈何麻爾麻爾都智奈良婆大王伊麻須《アメヘユカバナガマニマニツチナラバオホキミイマス》」とあり。之を合せて「アメツチ」といひしなるべきが、その例は「天地」とかける甚だ多けれど、よみ方の確證としかぬれば、假名書の例をあげむに、卷十五「三七五〇」に「安米都知乃曾許比能宇良爾《アメツチノソコヒノウラニ》」卷二十「四四九九」に「安米都知乃可未乎許比能美奈我久等曾於毛布《アメツチノカミヲコヒノミナガクトゾオモフ》」などあり。
(286)○初時之 流布板本「ハジメノトキシ」とよみたるを萬葉考に「ハシメノトキノ」とよみ、玉の小琴はこれを否定して、「シ」をよしといへり。その「シ」か「ノ」かは後に説く事とし、先づ「初時」をよむことをいふべし。「天地の初の時」とは古事記の冒頭に「天地初發之時」とあると同じく「アメツチノハジメノトキ」とよむべし。天地開闢の時といふに似たり。卷十「二〇八九」に「乾坤之初時從《アメツチノハジメノトキユ》」卷十九「四二一四」に「天地之初時從《アメツチノハジメノトキユ》」などみなこの例なり。さて下の「之」を「シ」とよむべきか「ノ」とよむべきかといふに、之を「シ」とよむ時は、その「シ」は係り詞と殆ど勢力を等しくするものにして、多くは下を「ぱ」にて條件を示す形にするか然らずば、終止をなすを常とす。これは本集にても、又古今以後にても大差なき用法たり。然るにここには「シ」とよむ場合にそれに對應すべき語法は全くなきなり。さればこれは考の如く「ノ」とよむべし。この「の」は同じ趣の體言を重ぬるものにして、上の歌「一六一」にいへる「向南山陣《キタヤマニタナビク》雲〔二重傍線〕之〔右○〕青雲〔二重傍線〕之」卷三「三七二」の「春日乎春日山〔三字二重傍線〕乃〔右○〕高座《タカクラ》之御笠山〔三字二重傍線〕爾」同卷「四二〇」の「天地爾《アメツチニ》悔事〔二字二重傍線〕乃〔右○〕世間乃《ヨノナカノ》悔事〔二字二重傍線〕者」卷五「八九二」の「風離(雜)雨布流〔六字傍線〕欲〔二重傍線〕乃〔右○〕雨雜雪布流〔五字傍線〕欲〔二重傍線〕波」卷九「一七六六」の「左手〔二字二重傍線〕乃〔右○〕奧手〔二字二重傍線〕爾」卷十三「三三二九」の「白雪之棚曳〔五字傍線〕國〔二重傍線〕之〔右○〕青雲之向伏〔五字傍線〕國〔二重傍線〕乃天雲下有人者」同卷「三三三一」の「隱來之長谷之山《コモリクノハツセノヤマ》、青幡之忍坂山者《アヲハタノヲサカノヤマハ》走出之宜〔四字傍線〕山〔二重傍線〕之〔右○〕出立之妙〔四字傍線〕山〔二重傍線〕叙」などの例にしてこれは
 天地初發〔四字傍線〕時〔二重傍線〕之〔右○〕
 久堅之天河原爾八百萬千萬神之神集座而神分文之〔久堅〜傍線〕時〔二重傍線〕爾
と相重ねしこと著し。ただかく認むるに迷ひを生じ易きは、他の例は上下略、同じ語數にて對(287)をなせるに、これは上下の間に長短の差甚しきによるものならむ。されど、かく長短の二句を相對せしめし所に人麿の手腕の存するなり。この「之」をかかぬ古寫本(金澤本等)一二あるによりて「之」を除きてよまぬ説もあれど、多くの古寫本にあれば、古より有りしなるべく、又除きたるよりも有りたる方歌の調も、歌の意も調ふものなれば除くは不可なりとす。(なほこの事は雜誌「奈良文化」に詳論せり。)
○久堅之 「ヒサカタノ」天の枕詞とす。その意義は、卷一「八二」にいへり。
○天河原爾 古來「アマノカハラニ」とよみ來りて異論なし。然れど、「天」を「ノ」につづくる場合には特別の場合の外は「アメノ」とよむべしとする本居宣長の論法よりせば、ここも「アメノカハラ」たるべきこととならむ。されど、これは古より異論なきこと上述の如くなるが、卷十「二〇九二」には「天之河原」とかきたるあり。元來これは古事記上卷に「是以八百萬神於|天《アメノ》安之河原神集神集而」とあるに同じ事をいへるものなるが、この「あまのかはら」といふはそのさす所は今もいふ「あまのかは」のかはらなるべきが、その「あまのがは」は萬葉にも頻繁に出づる詞にして之を假名書にせる例としては卷十五「三六五八」に「安麻能我波」卷二十「四三一〇」に「安麻能河波」などあれば、「あまのかはら」とよみて古來のよみ方の不當ならぬを思ふべし。
○八百萬千萬神之 「ヤホヨロヅチヨロヅガミノ」とよむ。「八百萬」と「千萬」とは數の極めて多きをいひて對したるまでにして深き意なし。古事記に「八百萬神」といへるもおなじ。
○神集座而 舊板本「カミアツメアツメイマシテ」とよめり。然るに契沖は代匠記の初稿に「カン(288)ツトヒツトヒイマシテ」とし、清撰に「カムツトヘニツトヘイマシテ」とし、考には「カムツマリツマリイマシテ」とよめり。ここに「集」字の訓を考ふるに「アツメ」「ツトフ」の訓はあれど、「ツマル」といふ訓はあるべきにあらねば考の説は先づ從ひ難し。次に「アツメ」も「ツドヒ」も共によまるべきさまなれどここは古事記上卷の上に引ける文と同じ事をいへるにて用字も「神集集而」とありて殆ど同じければ、同樣の事をさすのみならず、同樣の詞遣を爲せるものにして、その基づく所は恐らくは同一の舊辭によれるものならむが、古事記にはそこに注して「訓v集云都度比」とあれば「アツメ」とよむは從ふべからざるを見る。次に「ツドヒ」と「ツドヘ」とにては所謂自他の違ひあるものにして、古事記に「都度比」と注せるはこれ神々の御心としてみづから集られしことを示すものにして、「ツドヘ」といふ時は、大祓詞に「皇親神漏伎神朗美命以八百萬神等神集集賜」とある如く主脳者ありて、神を召集したる事となる。かくては古事記の「都度比」と注せる趣意徹らずといふべし。されば、ここも古事記と同じ趣にて「ツドヒ」とよむべきなり。次には「ツドヘニツドヘ云々」と契沖のよめる如く「ニ」助詞をその連用形に加ふべきか否か、といふことなるがかく「に」助詞を加ふることはその上を修飾格にする爲の一の語法なるが、しか「ニ」を加へずとも語の資格には差なきものなりとす。ここに似たる例は下の「神分〔二字傍線〕、分之時」もあり、又この卷「一九九」に「神葬葬伊座而」卷十三「三三二四」に「神葬葬奉而」などあるが假名書にてかくあるべきを示せる確なる證は古事記中卷神功皇后の御歌に「加牟菩岐、本岐〔六字右○〕玖流本斯、登余本岐、本岐〔六字右○〕母登本斯」とあるなり。これは日本紀の同皇后の御歌として同樣に傳へたり。ここにては「ニ」を加ふる(289)方五音となりてよかるべきに、四音のまま一句とせり。即ちこの形の言葉が古語の一格として存せしを見るべし。又古事記上卷に「伊都能知和岐〔三字二重傍線〕知和岐弖」とあり。さて又上の「神」は上の「カムホギ」の例によりて「カム」とよむべきこと知らる。かく「神」といふ語をここに冠するは神のしわざなればなり。
○神分分之時爾 舊板本「カムハカリハカリシトキニ」とよめり。代匠記には「カムハカリニハカリシトキニ」とよみ、又「カムワカチニワカチシトキニ」といへり。童蒙抄には「カンクハリクハリシトキニ」といひ、古義に「カムアガチアガチシトキニ」とよめり。かく種々のよみ方あるはこの「分」字のよみ方に基づくものにして「分」を「ハカル」とよむか、「ワカツ」とよむか「クハル」とよむか「アガツ」とよむかといふ問題の存するなり。而してこれらのよみ方はいづれも分字の訓として成立ちうるものなるが、その意義よりいへば「ハカル」とよむと、「ワカツ」「クハル」「アガツ」とよむとの二大別を見る。即ち「ワカツ」も「クハル」も「アガツ」も畢竟同じ義に落つるものにして神を分ち配る意なるべし。然るに、古典を通じて神々が天の河原にて會議して、神々を分ち配るといふことを議したりといふことは未だ曾てきかざる所なり。この故にこれらのよみ方は信をおきがたし。さて「分」を「ハカル」とよむことは證ありやといふに、字鏡集には「ハカル」の訓を加へたれば、これは事物を判別する意に用ゐたりと思はる。而して、こは大祓詞に上にも引ける如く「神議議賜※[氏/一]」とあると同じ事をいへるものなるべきが、ここは上の例と同じく「カムハカリ」をいひて下に「ニ」を加へぬものなるべし。
(290)○天照 「アマテラス」とよむ、「テラス」は照の敬語なること上來屡いへる如し。天に照りたまふの義なり。
○日女之命 舊本「ヒナメノミコ」とよみたれど「ヒナメ」といふ語あるべくもあらず。代匠記に「ヒルメノミコト」とよめるに從ふべし。今「ヒル」といはば「晝」の字に限るやうに思はるれど、「日」をも「ヒル」とよむこと「夜」を「ヨ」とも「ヨル」ともいふにて知るべし。日本紀第一の「生2日神1號2大日〓貴1」とある自注に「大日〓貴云2於保比屡※[口+羊]能武智1」と見ゆ。この「オホヒルメノムチ」即ちこの神なるが、「日〓」を「ヒルメ」とよむにて「日」を「ヒル」とよむことも古語なりと知るべし。さてこの「ヒルメノミコト」は即ち天照大神を申せり。
○一云指上日女之命 こは一本に上の二句をかく書けりといふなり。「日女之命」は本行と同じきが「指上」とある點の異なるなり。これは古來「サシノボル」とよみ來れるが童蒙抄には「サシアグル」とよめり。されど、これはかの朝日の豐榮登などとおなじく、朝日の上るをいひたるなるべければ古來のよみ方をよしとすべし。而してこれは「日」の枕詞とせるものなるべきが、歌としては本行の方すぐれたり。
○天乎波 舊板本「アマツヲバ」とよみたれど、「アマツ」の「ツ」は「ノ」に似たる助詞にて下に名詞の來るべき語遣なるをここには名詞の取扱としたるものとなるべきが、かかる事は古來なきことなれば從ふべからず。童蒙抄には「ミソラヲバ」とよめるが、かくせば五言の一句となるべけれど、「天」を「ミソラ」とよまむは無理なり。考には「アメヲバ」とよみ、古義には「波」は「婆」の誤にして「アメヲ(291)バ」とよみたり。按ずるに、「婆」とかける古寫本は金澤本以下少からねば、それによりて「ヲバ」とよむことは異論なきことなれど、「波」を「バ」に用ゐる例本集に少からねば、必ずしも誤りといふべからず。而してここは考の如く「アメヲバ」と四言一句とすべし。
○所知食登 舊板本「シロシメサムト」とよみたり。されどここに「ム」に相當する文字なければ、かくよむは無理なり。考には「シロシメシヌト」とよみたり。これも亦「ヌ」にあたる文字なきのみならず、「ヌ」と決定的にいはむは不可なれば、從ふべからず。玉の小琴には「シロシメスト」とよみたり。これは六言なれどまづ難なし。六言一句の例は本集中に少からず、一一あぐるに、及ばざるべし。さてこの「所知食」を「シロシメス」とよむこと不可なるにあらねど、萬葉集中これに相當する語の假名書なるはいづれも「シラシメス」なること卷一「二九」にいへる如し。即ちここも「シラシメスト」とよむべきなり。天照大神の高天原を知食すべき由天神の事依さしたまひし事紀記に見ゆ。古事記上卷に「其御頸珠之玉緒毛由良邇取由良迦志而賜2天照大御神1而詔之。汝命者所2知高天原1矣事依而賜也」とあり。「ト」は後世「トテ」といふに當る語遣なり。
○葦原乃水穗之國乎 「アシハラノミヅホノクニヲ」なり。こはわが日本國をさせるなるが、その語の義は葦原とは本居宣長の「いと/\上つ代には四方の海べたはことごとく葦原にて其中に國所はありて上方より見下せば葦原のめぐれる中に見えける故に高天原よりかくは名づけたる也」といへる如く、水穗國の水は借字にしてみづ/\しき意、穗は稻穗にて稻のよく熟りてすぐれたる國なれば水穗國といへるなり。古事記上卷に「豐葦原之千秋長五百秋之水穗國」(292)とあるはこの語をうるはしくいひたるなり。
○天地之 「アメツチノ」にして上にいへり。これは、實際の天と地とをさせり。
○依相之極 舊訓「ヨリアヒノカギリ」とよめり。古寫本中には「ヨリアヒシカギリ」(神田本)又「ヨリアヒシキハミ」(京都大學本)とよめるあり。管見には「ヨリアヒノキハミ」とよめり。この語の例は卷六「一〇四七」に「天地乃依會限萬世丹榮將往迹《アメツチノヨリアヒノキハミヨロツヨニサカエユカムト》」卷十一「二七八七」に「天地之依相極玉緒之不絶常念妹之當見津《アメツチノヨリアヒノキハミタマノヲノタエジトオモフイモガアタリミツ》」などなるが、「限」は「かぎり」とも「きはみ」ともよまるるが、「極」は「きはみ」とはよまるれど「かぎり」とは古來よまねば、これは「キハミ」といふ語をあらはしたるものと見ゆ。さてその上を「シ」とするか、「ノ」とよむかといふに上を用言と見れば、「シ」とすべく、體言と見れば「ノ」とすべきが、若し、用言とせば、天地の既に依り相ひしこととなるべきが、この語の意は考に「すでに天地の開わかれしてふにむかへて又よりあはむかぎりまで久しきためしにとりぬ」といへる如く、天地のはじめを開闢といふに對して天地が相依り相ひ區別なく再び混沌の状に復らむ時をさせるものなれば、ここは體言の取扱を爲すべきなり、されば「ヨリアヒノキハミ」とよむ八言の一句なりと見ゆ。開闢の昔、永遠の過去に對してこれは天地の再び依相はむ時のきはまりまでもいひて、畢竟無終の永遠の未來までといふことをあらはし、以て寶祚の「當與天壤無窮者矣」といへる日本紀の一書の説と同じ思想をあらはせるなり。而してこの一語のみにてわが、國民思想の抽象的にあらずしてしかも永遠の未來をいかによく具象にいひあらはしうるかに着眼すべし。
(293)○所知行 舊來「シラシメス」とよみ來れり。考には「シロシメス」とよみ、玉の小琴に「シロシメセ」とよめり。この語は「シラシメス」とよむべきことは上にいへる如くなるが、その末を「メス」とよむと「メセ」とよむとによりて文意に大なる差を生ず。「メセ」といふ時は命令の語法にてここにて切るると共に次の神にはつづくことなくなり、その意支離滅裂となるべし。ここは連體形にしてこの日本國を統治したまふ「神の命」と直ちに下につづけて之を限定せるなれば、「メス」とよむ外の方法なき筈なり。
○神之命等 「カミノミコトト」とよむ。卷一「二九」に「神之御言」とかけるにおなじ。この神は事實上皇孫彦火瓊々杵尊をさし奉れるものなるが、言語の上にてはただ、天壤無窮の皇位にましますべき神としての義なり。「命」は尊稱語にして、「ト」は「トシテ」の義にして文勢は下の「神下」につづけるなり。
○天雲之八重掻別而 「アマクモノヤヘカキワケテ」なり。天雲は天の雲なり。「八重」の「八」は多數をいへるにて幾重も重れるなり。さてこれは先づ「天雲の八重とつづけて見、それをかきわけてと解すべきなり。「天雲の八重」とは「天の八重雲」といふに殆ど同じく八重にかさなれる天雲をさすものなるが、かく實體を先にし、その數量を後にしてその間を「の」にてつづくる語法は古今に通ずる語格の一なるが、そが意味はその下の數量に重點をおくによりてかかる語格をなせるものにして、ただ語を上下におきかふるに止まるものにあらず。さてこの事は古事記上卷に「押2分天之八重多那雲1而伊都能知和岐知和岐弖於2天浮橋1宇岐士麻理蘇理多多斯弖天降坐2(294)于筑紫日向高子穗之久士布流多氣1」日本紀卷二に「且排2分天八雲1」と見え、大祓詞に「天之八重雲伊頭千別千別」とあり。天の雲の幾重ともなく重なりたるをかきわけて天降ありしをいふ。
〇一云天雲之八重雲別而 こは一説には「アマクモノヤヘグモワケテ」とありとなり。意は異なる事なけれど、修辭はこの方拙なり。
○神下 舊訓「カミクダリ」とよみ、神田本などに「アマクタリ」とよみ、代匠記には「カムクダリ」とし、考に「カンクダリ」檜嬬手に「カンクタシ」とせり。先「アマクダリ」とよまむは理なきことなれば從ふべからず。而して、ここは神の御はからひとして皇孫を此の國に下し給ひしなれば、「カムクタシ」とよむべきなり。「クダシ」の上を「カム」とよむは、上の「神集」と同じ。
○座奉之 舊訓「イマシツカヘシ」とよみ、考には「イマシマツラシ」とよみ、玉の小琴に「イマセマツリシ」とよみ、※[手偏+君]解に「イマシマツリシ」とよめり。先づ、奉を「ツカヘシ」とよむは例なきことなれば、從ひ難く「奉之」を「マツラシ」とよむも字面の上にて無理なるのみならず、奉らせたまふの義なるべければ義をなさず。「奉之」は疑もなく「マツリシ」とよむべきなるが、「奉《マツ》ル」は他に對していふ敬語なれば、上を「イマシ」といひては自他の違ひあれば、玉の小琴の如く「イマセマツリシ」とよむべきなり。その語例は卷十五「三七四九」に「比等久爾爾伎美乎伊麻勢※[氏/一]《ヒトクニニキミヲイマセテ》」とあるにて見るべく、下二段活用の語にて令v座の意をあらはせるなり。
○高照 上に屡いへり。
(295)○日之皇子波 舊本「ヒノワカミコハ」とよみたれど、ただ「ヒノミコハ」とよむべきは卷一「四五」にいへるが如し。日の皇子と申すは主として御代々の天皇さては皇太子をも申すなり。ここは日並知皇子尊をさし奉るなり。文意はこの「は」より數句をへだてて「天原石門乎云々」につづくべきなり。
○飛鳥之淨之宮爾 舊訓「アスカノキヨメシミヤニ」とよめり。文字「キヨメシミヤ」とよまれざるにあらねど、これは「キヨミハラノミヤ」なること明かなれば、契沖が「キヨミノミヤ」とよめるに從ふべし。玉の小琴には「飛鳥」を「トブトリノ」とよみたれど、かくせば、それは枕詞として用ゐしものといふべきこととなる。然るにここは實地の地名をさせるものなれば、明日香とよむべきなり。「飛鳥」は元來「アスカ」の枕詞なるを後に地名の「アスカ」にあつる樣になりしことは「春日」は元來「カスガ」の枕詞なるを地名の「カスガ」にあつる樣になりたると同じ關係なり。而して「飛鳥」を「アスカ」の地名をあらはすに用ゐたることの古き證は古事記に「近飛鳥」また「遠飛鳥」などかけるにて明かなり。このアスカノキヨミノ宮は即ち天武天皇の定められし都にして、持統天皇も引つづき之に座し、この薨去當時、持統天皇はなほこの都におはしたりしなり。
○神隨 舊訓「カミノママ」とよみたれど、考に「カンナガラ」とよめり。正しく「カムナガラ」とよむべきなり。語の意は卷一「三八」「三九」等に既にいへり。「神隨」とかくことは卷一「五〇」にいへり。
○太布座而 「フトシキマシテ」とよむ。その意は卷一「三六」にいへり。
○天皇之 舊訓「スメロギノ」とよめり。古寫本中には「スベラキ」とよめるあり(神田本等)されど、「ス(296)メロギ」とよむをよしとす。この語の事は卷一「二九」にいへり。
○敷坐國等 「シキマスクニト」とよむ。「シク」は至り及ぶ意をあらはす語にあらずして上の「フトシキマシテ」の「シク」にして、「シリ」と同語たること、卷一「三六」にいへるが如し。「ト」は「トシテ」の意なり。この國土は今の天皇のしります國として日並知皇子尊はここをさりて天に昇り給ふといふ意なり。
○天原 「アマノハラ」とよむ。上「一四七」に見えたり。この語は下の「石門」に對してその所在の場所をあげたるなり。
○石門乎開 古來「イハトヲヒラキ」とよめり。然るに玉の小琴には「開」は「閉」の誤にして、「イハトヲタテ」とよむべしとせり。その説に曰はく、「三卷【四十五丁】に豐國の鏡山之石戸立隱にけらし」(四一八)とある類也。開と云べき所に非ず。石門を閉て上ると云ては前後違へるやうに思ふ人有べけれど、神上りは隱れ給ふと云に同じ。」といへり。されどこれは、攷證に「門は出るにも入るにも開くべきものなれば、本のままに開として何のうたがはしき事かあらん」といひ、又古義にもいへる如くこの國土より高天原にのぼり座といふによりて門を開きて入りたまふ義とせるなれば、誤にはあらざるのみならず、この所に誤字ある本一もなきなり。さてこゝの石門とは古事記上卷に「天石屋戸」と見え、日本紀卷二に「引2開天磐戸1」と見ゆるも同じ意にして、「イハ」は堅固なるをたとへて添へたるものにして石製の物といふ意の語にてはあらず。門を「ト」といふも「戸」と同じ語なり。(漢字にても門は※[戸+戸の左向]にて戸を左右より向ひ合せたるなり)天上にて神のおは(297)す所の戸を開きてその所に入りたまふといふ語を用ゐて、神上りたまふさまを想像していへるなり。
○神上上座奴 舊本「カムアガリアガリイマシヌ」とよめるを考には「カムノボリノボリイマンシヌ」とよめり。上は「ノボリ」とも「アガリ」ともよまるべき字なるが、古事記日本紀には崩字を「カムアガリ」とよめるに照して考ふるにここは皇太子の薨去なれど、同じく「カムアガリ」とよむべきを知る。かく高貴の人の死歿をば神となりて天に上り給ふが故なりと考へもし、又しかいふ事は古の姿なり。さて又この「イマス」をば、「常の居る事を座といふとは少しことかはりて行ます事をいへる也」と攷證に論じたるによりて往々この説に從ふ人も見ゆれど、それらの例としてあげたるものは古事記中卷の「佐々那美遲袁《ササナミヂヲ》、須久須久登和賀伊麻勢婆《スクスクトワガイマセバ》」卷十五「三五八七」の「多久夫須麻新羅邊伊麻須《タクブスマシラキヘイマス》」などすべて、その語一にて實質として用ゐらるゝ場合のものなり。然るにここは上に「アガル」といふ實質用言ありてその意を具體的に示し「座《イマ》ス」は敬語としてそはれるのみにして意輕きものなり。すべて敬語は形式用言として取扱はるべき特性あるものなり。以上にて第一段とす。
○一云神登座爾之可婆 これは異説にこの二句を「カムノボリイマシニシカバ」といへりといふなるが、「シカバ」とありては下につづくさまにて文勢ととのはず。本行をよしとす。
○吾王皇子之命乃 「ワガオホキミミコノミコトノ」とよむべし。「吾王」を舊訓「ワカキミ」とよめるは非なること及びその意は卷一「三五」「三六」等に既にいへり。「吾王」とは親しみて申し上ぐるな(298)り。さて卷三に穗積皇子の薨じたまへる時の歌にも「吾王御子乃命」(七五八)「吾王皇子乃命」(四七八)とあれば、ここの「皇子命」は皇太子をいふに用ゐる爲に一の語となれるものとは異にして、その「命」はただの敬語にして妹の命、父の命、母の命などいふにおなじきこと攷證の説の如し。さてこは主格にして下の「天下所知食世波」にかゝる。
○所知食世波 舊訓「シラシメシセバ」とよめり。神田本には「シラシメマセハ」とよみたれどそのよみ方は理なし。考には「シロシメシセバ」とよみ、今大方これに從へれど、萬葉集としては「シラシメス」とよむをよしとすること屡いへる所なり。「セバ」の「セ」は「キ、シ、シカ」の未然形にして假設條件を示す。さては若しも天下を知食し給ふとせば、の意なり。これこの尊皇太子として天下の政事にはあづからせ給ひつれど、即位なくして薨ぜさせ給ひつればかくいへるなり。
○春花之 「ハルバナノ」とよむ。枕詞なりといふ説もあれど、事柄を形容せる語にして枕詞にあらず。春の花のめでたくうるはしきが如く貴からむとつづけたり。
○貴在等 舊板本「カシコカラムト」とよみたれど「貴」字に「カシコシ」とよむ由なければ、諸家の説紛々たり。代匠記には初め「タノシカラン」とよみたれど、「貴」を「タノシ」とよむも無理なれば、別に「タフトカラント」かといふ一説を加へたり。考には貴は花にいふことばにあらずとして「賞」の字にあらためて、「メデタカラント」とよみたり。されど「貴」字いづれも一致して別に誤字なりといふべき證もなければ、これも從ひがたし。「貴」は本來「タフトシ」とよむ文字なること明かなるが、かくよむことは古寫本にも往々ありて、神田本に「タフトクアラント」京都大學本には「タフトク(299)アラント」「タフトカラムト」の二訓をあげたり。玉の小琴には之につきて「たふとからむと訓べし。たふときと云ことは古はめでたきことにも多く云り。貴の字に拘りて只此字の意のみと思べからず。此事古事記傳に委く云り。」といひてより一定の事になれり。元來「たふとき」といふ語は、「フトシ」といふ語に「タ」を冠したるものにしてその「太シ」は豐かに美はしき意などをあらはせる語なれば春花のた太しといふは不條理にあらぬなり。その例は古事記上卷に「斯良多麻能伎美何余曾比斯多布斗久阿理祁理《シラタマノキミガヨソヒシタフトクアリケリケリ》」などにて知るべし。次「貴在」を「タフトカラム」とよまむは文字足らぬさまなるが、これは次の「滿波之計武跡《タタハシケムト》」に對して「ム」といふ複語尾を含めてよむべきを考ふ。萬葉集又古事記などの古典中往々かく同樣の句を並べかける場合に一方にそれをあらはすとき他の句にて簡略に書けることあり。たとへば、
  美籠母乳〔二字右○〕  美夫君志持〔右○〕  (卷一「一」)
  隱障〔二字右○〕倍之也(卷一「一七」) 可苦佐倍〔四字右○〕思哉(卷一「一八」)
  檜乃嬬〔右○〕手  眞木乃都麻〔二字右○〕手     (卷一「五〇」)
の如し。されば、これも下の句に照して「タフトカラムト」とよむべきならむ。さてここは皇太子の治世の春花の榮ゆる如くにあらむと期待せしをいへるなり。
○望月乃 「モチツキノ」とよむ。和名抄「此間云望月毛知豆岐」とあり「滿《ミチ》月」の義なりといへり。十五夜の滿月をさせり。さてこれも枕詞なりといふ説あれど、上の春花とおなじく事柄を形容していへるにて枕詞にあらず。かくてこれは春の花に對して秋の滿月をさせるなり。
(300)○滿波之計武跡 舊訓「ミチハシケム」とよみたり。されど「ミチハシ」といふ語あるべくもあらねば從ひがたし。滿は「足」なれば「タラハシケム」ともよむべけれど、契沖が卷十三の挽歌に「十五月之多田波思家武登《モチツキノタタハシケムト》」(三三二四)とよめるにあはせて「タタハシケム」とよむべしとしてより動かぬ説となりぬ。「タタハシ」といふ語は靈異記の上の訓注に「偉タヽ波シ久」とあるが、その本文は「天皇兄之恐、偉進2幣帛1令v還2落處1」とあり。又同中卷にも「偉」に「タヽハシク」の訓注ありて、その本文は「聖武天皇代、衣女得v病時、偉備2百味1祭2門左右1賂2於疫神1而饗之也」とあり。又新撰宇鏡には「※[人偏+鬼]」に「太々波志」の訓あり。これはその注に「恠也、美也、盛也」と見ゆる、その盛字の注に相當するものなるべし。なほ新撰字鏡十二卷本には「僂」字にも「太々皮志」の注あれど、これは「偉」と「僂」とを混同したるものなるべし。さて「※[人偏+鬼]」は廣韻に「天鬼」増韻に「偉大也」とある義にて盛大の貌なるべし。かくて「タタハシ」はもと、堪ふといふ語を形容詞に化せしめたる語にて、その「堪ふ」は事物の滿ち足らひたることをいふ語なれば滿の字の義に合せり。次に「タタハシケム」は「タタハシカラム」を約めたる語にして「タタハシクアラム」の意なり。
 以上四句は二句づつ對をなせるが二の「と」にて相對して下の「思ヒ」につづくるなり。
○天下 「アメノシタ」にして異なる意なし。
○一云食國 天下を一説に「ヲスクニ」とありとなるが、考にはこれをよしとせり。されど、本行にて不可なることなきなり。
○四方之人乃 「ヨモノヒトノ」とよむ。國中いづれの人々もの意なり。
(301)○大船之 「オホフネノ」とよむ。「たのむ」の枕詞なり。船の大なるものは海上にてはただ一のたのみとするものなればなり。例は甚だ多く一一あぐべからぬが、一二をいはば、この卷「二〇七」に「大船之思憑而《オホフネノオモヒタノミテ》」卷四「五五〇」に「大船之念憑師君之去者《オホフネノオモヒタノミシキミガイナバ》」卷五「九〇四」に「大船乃於毛比多能無爾《オホフネノオモヒタノムニ》」などあり。
○思憑而 「オモヒタノミテ」とよむ。童蒙抄に「オモヒヲカケテ」又は「オモヒヲヨセテ」とよみたれど、舊訓のままにてよし。「憑」は「タノム」とよむ字なるのみならず、卷十三「三三〇二」の「大舟乃思恃而」の如きは「オモヒタノミテ」とよまむ外なきのみならず、上にもあげたる卷五「九〇四」の「大船乃於毛比多能無爾」の例などにて「オモヒタノム」といふ語のありしことを明かに證すといふべし。こは、此皇太子の即位ましなばいかに政のめでたからむと思ひ、如何に事物のよく滿ち足らひなむと思ひて信頼してといふ意なり。
○天水 「アマツミヅ」とよむ。天より降る水にて雨をさすなり。天水を乞ふが如くの意にて下の仰ぎて待つにつづくものなるが、從來これを枕詞としたれど、枕詞の性質を有するものにあらずして、明かにこの歌の意に關係を有せり。次にいふべし。
○仰而待爾 「アフギテマツニ」とよむ。卷十八に「天平感寶元年閏五月六日以來の旱」あり六月朔日に雨雲の氣を見て大伴家持のつくれる歌に「彌騰里兒能知許布我其登久安麻都美豆安布藝弖曾麻都《ミドリコノチコフガゴトクアマツミヅアフギテソマツ》」(四一二二)とあるは實際に雨を乞ひたる情をうたへるものなり。ここは大旱に天を仰ぎて雨を乞ひてその降るを待つが如くにその御即位の時を仰ぎ持つにといふなり。即ち(302)天水は枕詞にあらずして、「天ヲ仰ギテ天水ヲ待ツガ如ク」と一旦形容して、更にその御即位の時を仰ぎ待つにといへるなり。
○何方爾御念食可 「イカサマニオモホシメセカ」なり。この語は卷一「三九」この卷「一六二」に既にいへり。
○由縁母無 舊訓「ユエモナキ」とよみ、代匠記には「ヨシモナキ」とよみ、玉の小琴には「ツレモナキ」とよめり、これは下に「所由無佐太乃岡邊」(本卷「一八七」)とあるも同じ趣の語なるが、これらはいづれも、その殯宮葬所をさせる語遣なり。而してかかる揚合のものを假名書にせるを見るに、卷三「四六〇」に「都禮毛奈吉佐保乃山邊爾《ツレモナキサホノヤマベニ》」卷十三「三三二六」に「津禮毛無城上宮爾《ツレモナキキノヘノミヤニ》」とある皆同じ趣なれば、ここも玉の小琴の説によりて「ツレモナキ」とよむべきなり。意義は字面の如く、「由縁」「所由」を「つれ」といふ語にあてたるが、これ今いふ關係縁故といふ如き意を「つれ」といひしなるべき(「つれ」は「つるる」意にて關係縁故の意あり)が、その意義にて「つれなし」とはこゝにては「ゆかり」の人も無きの意にして御陵墓を營むところはいづれも物淋しく思はるる所なればいへるならむ。強顔をツレナシといへるはこれより出でしにて、もとは一語なるが意稍かはれるなり。
○眞弓乃崗爾 「マユミノヲカニ」とよむ。「崗」の字につきては卷一「二」にいへり、延喜式諸陵寮式に「眞弓丘陵、岡宮御宇天皇、在2大和國高市郡1、兆域東西二町、南北一町、陵戸六烟」とあり。「岡宮御宇天皇」とは日並知皇子尊の追尊の號なり。續日本紀天平寶字二年八月の條にあり。なほ續日本紀、天平神護元年十月の條に「發酉車駕過2檀山陵1詔2陪從百官1悉令v下v馬儀衛卷2其旗幟1」と見ゆ。(303)この山陵は今高市郡越智岡大字森にあり。
○宮柱 「ミヤバシラ」とよむ。宮殿の柱をいふこと卷一「三六」にいへり。
○太布座 古來「フトシキマシテ」とよめり。「テ」にあたる文字なけれど、上の例の如く、下の句のよみ方に准ずべきものなれば、古來のままによむが穩かなり。その意は卷一「三六」にいへる如く、宮殿を營みますことをいへるなり。
○御在香乎 舊訓「ミアリカヲ」とよめれど、「ミアラカヲ」とよむべきこと、卷一「五〇」にいへる如くなるが、その意義は通常皇居をさし奉るに用ゐたるが、ここは殯宮なるべきを皇太子を天皇に准じていへる趣なればかくいへるなるべし。
○高知座而 「タカシリマシテ」なり。この語の意は卷一「三八」にいへる如く、意は「フトシキマシテ」におなじ。以上四句は二句づつ相對せり。
○明言爾 古來「アサゴトニ」とよむ。童蒙抄には「言」を「暮」の誤かといひてて「アケクレ」とよみたれど、いづれの本にも誤字なければ、從ひ難し。「明」を「アサ」とよむは朝の義に惜りたるなり。「言」も「毎」の意に借り用ゐたるなり。朝毎といふも日毎の意なり。代匠記に曰はく、「物のたまふ事は朝にかぎらざれども、伺候する人はことに朝とくより御あたりちかくはべりて物仰らるる也」とあり。かくの如き事には相違なけれど、これはただ語の解釋としていへるにすぎず。古の公に仕へ奉るものの常の事としてこの事を見るなり。そは如何といふに延喜式の陰陽寮式「撃d開2閇諸門1鼓u」の條に
(304) 起春分三日至九日
  卯二刻四分開諸門鼓
 ○卯四刻五分開大門鼓
 ○巳三刻八分退朝鼓
  酉三刻六分閇門鼓
 夏至十五日の頃
  寅四刻開諸門鼓
 ○卯二刻開大門鼓
 ○巳一刻八分退朝鼓
  戊一刻九分閇門鼓
 冬至十五日
  卯四刻六分開諸門鼓
 ○辰二刻七分開大門鼓
 ○午一刻六分退朝鼓
  酉一刻二分閇門鼓
とあるを見れば、百官の伺候は大體卯の刻(午前六時)にして退朝は巳の刻(午前十時)なりしを見るべく、又太政官式に辨官の申政時尅を
 自三月至七月辰三尅(午前八時)
 自九月至正月巳三尅(午前十時)
 二八兩月巳一尅
とありて今日の如きさまにあらざるのみならず、日本紀舒明天皇八年の條に「大|派《マタ》王謂2豐浦大臣1曰群卿及百寮朝參已懈。自今以後、卯始之、已後退之。因以v鐘爲v節。然大臣不v從」とあり。宮(305)衛令義解に「假如2卯之二刻1可v撃2第二鼓1」(大門ヲ開クナリ會昌應天ノ二門)」とあるにても知るべく、この事支那にも聞えたりと見え、隋書の倭國傳に「天未v明時出聽v政、跏趺坐、日出便停2理務1云々」とあり。又今昔物語に「昔、官ノツカサニ朝廳トイフ事ヲ行フイマダ曉ニ火ヲトモシテゾ人ハマヰリケル」といひ、續古事談に「昔平城天皇ノ御時マデハ此國ニモ朝マツリコトシ給ケリ……嵯峨天皇ヨリコノカタコノ事スタレニケリ云々」とあり。かくの如くにして早朝に公に至り、遲くも午刻までには退朝せしなり。これ即「朝」といふ文字の正しき義にして、ここに「明」字を用ゐたるも實事につきていへるにて代匠記の説はなほ不十分なりといふべきなり。
○御言不御問 舊本「ミコトトハセズ」とよみたり。不御問を「トハセズ」とよめるは敬語を用ゐたるなるべけれど、「セ、ス」の下二段活用の敬語は平安朝時代よりものに見ゆれば、奈良朝以前の語とは見えず。考に「ミコトトハサズ」とよめるをよしとす。「御問」の字面は「トフ」の敬語をあらはせるものなるべければ、「トハス」と佐行四段に再活せしむべきものなるそれより「ズ」につづけたるなればなり。「こととふ」とは物をのたまふなり。卷三「四八一」に「辭不問物爾波在跡《コトトハヌモノニハアレド》」卷五「八一一」に「許等等波奴樹爾波安里等母《コトトハヌキニハアリトモ》」卷二十「四四四〇八」に「今日太仁母許等騰比勢武等《ケフタニモコトトヒセムト》」などあり。これより日月の數多くなりぬるにかかるなり。檜嬬手はこの下に「暮言爾御物|不告《ノラサズ》」といふ句の脱せるものとせるは上の「アサ」に特別の意あるを忘れたるものにしてとるにたらず。
○日月之 舊訓「ヒツキノ」とよめり。童蒙抄に「ヒルヨルノ」とよみたれど、無理なり。考には「ツキヒノ」とよめり。この方は一理あることなるが、「ツキヒ」とよむべきは卷十三「三二四六」に「天有哉(306)月日如吾思有公之《アメナルヤツキヒノゴトクワガオモヘルキミガ》」とかきてあり。而「ツキヒ」とあるは多く、時間の「ツキヒ」をいへるなれば、なほ「ヒツキ」なるべし。されど、明かには決しがたし。
○數多成塗 舊訓「アマタニナリヌ」とよめり。玉の小琴には「マネクナリヌル」とよみ、檜嬬手に「マネクナリヌレ」とよめり。さて「アマタ」といふ語の假名書の例は本集にももとより存すれど、(卷十七「四〇一一」「安麻多」卷十四「三三五〇」一説「安麻多」卷十二「三一八四」「安萬田」等)「塗」を「ヌ」とのみよむは他に例なければ、「ヌル」若くは「ヌレ」とよむべき事なるが、かくすれば、「アマタニ」とよまむ事無理となるべければ「マネク」と三音によむをよしとす。「マネク」は卷一「八二」の「ココロサマネシ」の條にいへる如く、物事の多くしげきをいへる形容詞にして、その釋はその所によりて具體的に見るべきが、その言問ひまさぬ日數の多くなりたるをいへるなり。さて「塗」を「ヌル」とよむべきか、「ヌレ」とよむべきかといふに、「ヌレ」とよむ説はこれを條件とせる如くなるが、かくしては上に「イカサマニオモホシメセカ」とある「カ」といふ係に對する關係不明にならむ。ここは上の「カ」の結びなれば、連體形の「ヌル」にて終止せるなり。これを新考に「イカサマニオモホシメセカ……月日ノマネクナリヌルといひては義理通ぜざれば「マネクナリヌル」にて結べるにはあらで、結びを省けるなり」といはれたれど、これはただ「月日のまねくなりぬる」といふだけにて結べるものにあらず。「おもほしめせか」より下、「まねくなりぬる」まで全體の歌の意を以てこれに對應せるものなれば、誤にはあらず。さてここにて第二段落をなせり。
○其故 舊訓「ソノユエニ」とよめり。考は「ソコユヱニ」とよむべしとせり。按ずるに「ソノユヱ」と(307)いへる例本集に見えず、又この頃の語遣とも見えず。本集「一九四」に「所虚故名具鮫魚(兼)天《ソコユヱニナクサメカネチ》」卷十九「四一五四」に「曾己由惠爾《ソコユヱニ》」などの例によりて考の訓みに從ふべし。「そこ」とはその點といふにおなじ。
○皇子之宮人 「ミコノミヤビト」とよむ。皇太子の宮即ち春宮の職員、即ち春宮傅よりはじめて舍人までに至るをおしなべていふ事なり。大宮人に對していふ詞とも考ふべし。而してここは主として多くの舍人をさせるものと思はる。
○行方不知毛 「ユクヘシラズモ」とよむ。この語の例は卷三の柿本人麿の歌に「物乃部能八十氏阿白木爾不知代經浪乃去邊白不母《モノノフノヤソウヂカハノアジロキニイサヨフナミノユクヘシラズモ》」(二六四)卷七「一一五一」に「大伴之三津之濱邊乎打曝因來浪之逝方不知毛《オホトモノミツノハマヘヲウチサラシヨリクルナミノユクヘシラズモ》」とあり。これを往々その宮人の殯宮に奉仕する日數へて散り/\になりて行く方をしらぬ由にいへれど、如何なり。これは考に「その舍人の輩この尊の過ましてはつく所なくて思ひまどへることまことにおしはかられてかなし」といへる如く、それらの人人が將來如何にせばよきか方途に迷ふをいへるなり。以上にて第三段なり。
○一云刺竹之、皇子宮人、歸邊不知爾爲  一説にこの第三段をば、「サスタケノミコノミヤビト、ユクヘシラニス」とありとなり。これらの句よりも本行のよかるべきが故に委しく論する必要なき所なるが、最後の一句は古寫本中、神田本には「ユクヘシラニシテ」西本願寺本京都大學本等は「ユクヘイサニシテ」とよみ、童蒙抄には「シラザリシ」とよめり。文字のままならば、上の余がいへる如くよむべきが、かくよむときは其の「シラニス」といふ語は語學上の研究問題となるべきも(308)のなり。されど今これを論ぜず。
○一首の意 この歌三段落なり。第一段は先づ、天地の初、天河原に八百萬神の集りて議行賜ひし時に、高天原をば天照大御神の知しめすことと定まり、天孫は此の豐葦原の瑞穂國をば天地のあらむ限り知しめす現つ神として、天降りましましてより代代の天皇のしろしめしが、わが日並知皇子尊は「此國は今飛鳥の清御原宮にます天皇の所知す國なり」として天の石門を開き給ひて天に登り給ひぬとなり。第二段はわがしたひ、尊び奉る此の皇子尊の天下所知しめす事あらば、春の花の如く世は榮えに滿たむと思ひ、秋の望月の如く、百事足り給して、人々鼓腹撃壤の興あらむと、四方の人民らも深く信頼し奉り、鶴首して仰ぎ奉りつつありしに、如何なる故にか、ゆかりもなきかのさびしき眞弓の岡に宮つくりてかくりまして、宮の舍人等の毎朝伺候するにも御言をものたまはせ問はせ給ふ事もなくて月日重なりぬることよとなり。第三段はかくの如き有樣となりはてたれば、皇子の宮人は如何にせばよからむと方針にまよひ途方にくれてあることよとなり。
 
反歌二首
 
168 久堅乃《ヒサカタノ》、天見如久《アメミルゴトク》、仰見之《アフギミシ》、皇子乃御門之《ミコノミカドノ》、荒卷惜毛《アレマクヲシモ》。
 
○久堅乃 「ヒサカタノ」天の枕詞なること、既にいへり。
(309)○天見如久 舊板本「アメミルゴトク」とよめり。古葉略類聚抄、神田本等には「ソラミルガゴト」とあれど、「天」を「ソラ」とよむも「如久」を「ごと」とのみよむも理由なければ從ひがたし。意は明かなり。天を仰ぎ見る如くになり。
○仰見之 「アフギミシ」なり。この仰ぎと本歌の「仰而待爾」といへると同じ「仰ぎ」といふ語なれど、意は少しくかはれり。「仰ぐ」といふ語は下にありて上を仰ぐをいふ語なるが、本歌のは天を仰ぎ見る實際をいへる語としてあらはし、ここのは尊び敬ふ態度を形容する語に用ゐたるなり。
○皇子乃御門之 「ミコノミカドノ」とよむ、考には「こは高市郡橘の島宮の御門也。さて次の舍人等が歌どもにも此御門の事のみを專らいひ、下の高市皇子尊の殯の時人万呂の御門の人とよみしをむかへみるに、人万呂即舍人にてその守る御門を申す也けり」といへり。その島宮の事は次下の「一七〇」の歌等に明かなるが、御門を字のまま御門といへるは從ふべからず。既に卷一「五〇」に「吾作日之御門爾」といひ、「五二」に「藤井我原爾大御門始賜而」といへる條にもいへる如く、一部を以て全體を代表せしめしものにして、島の宮をさせること疑ふべくもあらず。次にこれの歌を以て人麿をばこの宮の舍人なりしならむといふ事は或は然らむといふべきなれど、舍人の職を以て御門を守る職とすることは不當なり。舍人の事は「一七一」に至りていふべし。
○荒卷惜毛 「アレマクヲシモ」とよむ。荒れむことの惜しきことよとなり。「毛」はここにては感情をあらはすに用ゐたり。かくの如き例は卷一「五五」に「朝毛吉木人乏母《アサモヨシキヒトトモシモ》、亦打山行來跡見良武(310)樹人友師母《マツチヤマユキクトミラムキヒトトモシモ》」とあるが如し。
○一首の意 我等が天を見る如く、敬虔の念を以て仰ぎ見し日並知皇子尊の御宮殿は今は棲む人なくて漸くに荒れ行かむと思へば、まことに殘念なることよと歎きたるなり。これにつきては古は死を穢れとして忌みたる爲に死者を出しし住居は住み捨てて荒るに委せたるものなり。これ上代に天皇一代毎に遷都ありし所以なるが、この歌の趣もその精神のあらはれたるものなり。さればその御宮殿の荒れ行くはその主人たる皇子尊の薨去の結果たるなり。
 
169 茜刺《アカネサス》、日者雖照有《ヒハテラセレド》、烏玉之《ヌバタマノ》、夜渡月之《ヨワタルツキノ》、隱良久惜毛《カクラクヲシモ》。【或本云以件歌爲後皇子尊〔左○〕殯宮之時歌反也】
 
○「茜刺」 「アカネサス」とよむ。「アカネサス紫野」といふこと卷一「二〇」にあれどここは稍異にして「日」「晝」などの枕詞とせるものなり。その意義につきては諸説紛々たり。「茜」は元來「アカネ」といふ草をさす文字なるが本草和名には「茜根」に注して「和名阿加禰」といひ、和名抄には「茜」一字に「阿加禰」と注せり。そはこの草の根は赤色の染料とするものなればなり。さてこの「アカネ」の語を釋するに諸家の説まちまちなれど、要するに、「ね」は「に」(丹)なりとか(檜嬬手)「ね」は唯添へたる言なりとか(萬葉枕詞解)日は赤色の根なりとか、(石上枕詞例)、或は「アカネ」は「カネ」の反「か」にして「アケ」なり(考)とかいふ如き説なるがいづれも「赤色」と解してしかも「ネ」の解釋につまづけるものなり。按ずるにこの「茜」は和名抄に染色具としてあげたる如く、草としても見らるるが、染料としても見らるるものなり。而して染料を以て直ちにその色の名とすること古今に通じたる現象な(311)るが、古にありては、「蘇芳」「櫨」「梔子」「橡《ツルハミ》」「紫草」「紅藍」「藍」の如き(共に倭名抄染色具にあり)いづれもその色の名目として用ゐられたるものなるが、本集にて染料の名を以て直ちにそのあらはせる色の名目とせるものを傍證として求むれば紅には卷五「八〇四」に「久禮奈爲乃意母堤乃宇倍爾《クレナヰノオモテノウヘニ》」卷十「八六一」に「久禮奈爲乃母能須蘇奴例弖《クレナヰノモノスソヌレテ》」などあり。紫草には卷十二「二九九三」に「紫綵色之※[草冠/縵]花八香爾《ムラサキノイロノカツラノハヤヤカニ》」卷七「一三四〇」に「紫絲乎曾吾搓《ムラサキノイトヲソワガヨル》」等例多し。(この紫は當時紫色の名のみにあらざりしことは「紫之根延横野之春野庭《ムラサキノネハフヨコヌノハルノニハ》」卷十「二八二五」とあるにても知るべし。)されば、この「茜」も染料としての名目にしてやがてそれにて染めたる色の名目とせしものといふべし、誰か、紫紅は染料の名にして同時に色の名目なるを肯肯すれど、茜のみは染料たるのみにして色の名目たるものにあらずといひうるものぞ、さればこの「アカネ」はただ茜色なるなり。かく考ふれば「ネ」に何等特別の解釋を工夫する必要なきなり。さてここの「さす」は紫の枕詞たる場合の「さす」と同音なれど義異にして、今「日の光のさす」といふ如く光線の發することをいへるなり。即ち赤色の光の射すといふ意にて「日」の枕詞とせり。
○日者雖照有 舊板本「ヒハテラセレド」とよみたり。古寫本には「テラセドモ」とよめるもの(金澤本、類聚古集、古葉略類聚鈔、温故堂本等)あれど、「照有」をただ「テラス」とよむことは無理なれば、板本の訓をよしとす。この「日」は天皇をたとへていへり。考にこの説を否定して「さてはなめげなるに似たるもかしこし。猶もいはば、此時天皇おはしまさねば、さるかたにもよくかなはざるめり」といへり。これ一は「てらせれど」といふ詞遣をさして無禮なりと考へたるにてもあるべ(312)く、一は當時持統天皇御即位以前なれば、いへるならむが、天皇を日にたとへて申すは無禮なりとは如何なる意味なるか。又御即位以前に天皇といはずとしても日にたとへ申さむは何のなめげなる事あらむや。この故にその説には從ふこと能はず。
○烏玉之 「ヌバタマノ」とよむ。この語は本卷「八九」に「奴婆珠乃」とある條にいへり。ここにては「夜《ヨ》」の枕詞なり。
○夜渡月之 「ヨワタルツキノ」とよむ。「夜空を渡る月の」といふ義なり。「渡る」は一端より他端に行き至るをいふ。月は運行するものなればいへり。本卷、上の「一二四」の長歌に「屋上乃山乃自雲間渡相月乃《ヤカミノヤマノクモマヨリワタラフツキノ》」の「渡ラフ」も同じ趣の詞なり。この「月」は上の「日」に對して皇子尊をたとへたるなり。而してかく月にたとへ奉ることは「日並皇子尊」と申し奉る意にもよくかなへり。
○隱良久惜毛 「カクラクヲシモ」とよむ。「カクル」は古、四段活用なりしことは古事記下雄略卷の歌に「袁登賣能伊加久流袁加袁《ヲトメノイカクルヲカヲ》」日本紀卷二十二の歌に「夜須彌志斯和餓於朋耆彌能※[言+可]句理摩須阿摩能椰蘇※[言+可]礙《ヤスミシシワガオホキミノカクリマスアマノヤソカゲ》」古事記上の歌に「阿遠夜麻邇比賀迦久良婆奴婆多麻能用波伊傳那牟《アヲヤマニヒガカクラバヌバタマノヨハイデナム》」などあり。それより「く」につづけて「かくらく」とせるが、これはかくるることの惜しきことよとなり。
○一首の意 天皇は天日の照すが如く儼然とましませば、尊く頼もしく思ひまゐらすれど、さても日に對する月として相並びますべき皇子尊の隱れたまひしことの惜しきことよとなり。
 
或本云以2件歌1爲2後皇子〔左○〕尊殯宮之時歌反1也
 
(313)○或本云 金澤本等に「云」なし。なきをよしとす。これ以下は或本に載せたる説をあげたるなり。
○以件歌爲2後皇子尊殯宮之時歌反1也 「尊」字流布本「貴」とせり。されど、金澤本をはじめ多くの古寫本「尊」とせれば、、「貴」誤なること著しければ改めつ。後皇子尊とは高市皇子尊をさす。この皇子の薨去の時の歌は「一九九」に長歌その反歌二首(二〇〇、二〇一)下にあり。或本にはその反歌の一とせりとなり。「歌反」は代匠記に「反歌」の誤かといひしより後そが誤なること明かなりとして書き改めたる本少ならず。(考略解等)されど、諸本ここに一も然かける本なく、金澤本には「歌返」とかけり。かくの如く一も證なき事なれば、反歌の誤なりとして直ちに書き改むるは武斷といふべし。按ずるに天元書寫の琴歌譜に「茲都歌」の「歌返」といふあり。これによりて考ふるに、古この類の歌を反歌とも歌返とも二樣の語にてあらはす事ありしにあらざるか、而してこれを漢文のさまにしては反歌と書き國語にては歌返といへる事ありしにあらざるか。然りとせば、これかへりてたまたま古の國語を傳へたるものにして、その方にとりては貴重なる史料といふべきなり。これを誤なりとして書き改むるが如きは貴重なる史料を湮滅するものとならむ。されどこの事は十分の研究を經ずしてはいづれとも斷言しがたき事なりとす。
 
或本歌一首
 
○ この歌ここに別にあげたれば、もとより上の長歌の反歌にあらず。考の説には次の二十三(314)首の中の一首が紛れてここに入りたりといひ、檜の嬬手は考の説に基づきて、次の題詞をこの所にうつし、二十三首を二十四首とし、古義はこれを二十三首中の異説とせり。されどさる事はいづれも證なき事を斷ぜるにて從ふべからず。ここに「或本歌」と題せるは或はこの歌をも或本に柿本人麿の草壁皇太子の挽歌としてあけたりしにてもあらむか。
 
170 島宮《シマノミヤ》、勾乃池之《マガリノイケノ》、放鳥《ハナチトリ》、人目爾戀而《ヒトメニコヒテ》、池爾不潜《イケニカツカズ》。
 
○島宮 「シマノミヤ」とよむ。もと「シマミヤノ」とよみたりしを仙覺が改めたるなり。この宮は日並知皇子の御殿の稱なり。かく稱ふる名義は島即ち庭作りのある宮といふ義にして、この島を主として稱へたる名なり。島とは庭に池島などを作りたるをいふことにして、俗にいふ築山、山水《センスヰ》などにあたる語なり。卷六に「鶯之鳴吾島曾《ウクヒスノナクワカシマゾ》」(一〇一二)卷二十に「屬目山齋作歌三首」のうちに「乎之能須牟伎美我許乃之麻家布見禮婆《ヲシノスムキミガコノシマケフミレバ》」(四五一一)とあるなどにて知るべし。又伊勢物語に「島このみ給ふ君なり此石を奉らんとのたまひて云々」といふあり。これは山科の禅師のみこの事を申ししなるが、同じ物語に「その山科の宮に瀧おとし、水はしらせなどして面しろくつくらせたるにまうで給うて云々」とあるにて島即ち造り庭の事なるを明かに知るべし。日本紀推古天皇三十四年條蘇我馬子死去の條に「家2於飛鳥河之傍1庭中開2小池1仍興2小島於池中1故時人曰2島大臣1」とあるにてかくの如きを島といふことの由來久しきを知るべし。俗に祝賀の席などに、据うる作物に島臺といふ名あるもその名殘なり。さてこの島宮は日本紀卷二十八(315)のはじめに天武天皇が東宮を辭して吉野に入りたまふ途次に一夜宿し給ひし由にて「是夕御2島宮1」の記事あり。又壬申の亂平ぎて凱旋せられし時の記事にも「九月巳丑朔……庚子詣2于倭京1而御2島宮1癸卯自2島宮1移2崗本宮1」とあり。この島宮は蓋し蘇我馬子の邸の舊地なりしを離宮とせられしならむ。天武天皇五年には「正月乙卯−是日天皇御2島宮1宴之」とも見えたり。後この宮に草壁皇太子の居住ましまししならむ。この宮に池のありしは日本紀天武天皇十年九月の條に「辛丑周芳國貢2赤龜1乃放2島宮池1」と見え、又島の營みありしは本集この卷の下なる舍人等が歌に「御立爲之島乎見時《ミタタシノシマヲミルトキ》」(一七八)「御立爲之島乎母家跡住烏毛《ミタタシノシマヲモイヘトスムトリモ》」(一八〇)「御立爲之島之荒磯乎今見者《ミタタシノシマノアリソヲイマミレバ》」(一八一)「島御橋爾誰加住舞無《シマノミハシニタレカスマハム》」(一八七)「御立之島爾下座而《ミタタシノシマニオリヰテ》」(一八八)などあるにて知らるべし。この島宮の舊地は今高市村大字島莊の地なるべしといふ説信ずべく、その池の名殘はその一郭高等小學校の邊にある池田といふ地名に殘れりといふ辰巳利文氏の説信ずべし。
○勾乃池之 古寫本中に「マナノイケナル」などよみたるを仙覺が「マガリノイケノ」とよみたるによりて正しくなれり。この勾乃池とは蓋し御庭の中の池の名なるべし。攷證には「こは御庭の中の池ながら勾《マガリ》は地名也」といひて、安閑天皇の勾金箸宮をここなるべしといひたれど、その勾の地は畝傍山の西北にあたる地にして、ここには縁なきなり。ここは恐くはその池の形などより名づけられしものならむか。
○放鳥 「ハナチドリ」とよむ。次の二十三首の中の歌にも「島宮上池有放鳥《シマノミヤウヘノイケナルハナチドリ》」(一七二)とあるに照し、又下の句に「池爾不潜」とあるによりてその鳥は水鳥なりしことを思ふべし。さて「はなちとり」(316)といふにとりて、二樣の解を施しうべし。一は放ち飼にしたる鳥なり、一は籠に納れて飼ひし鳥を放ちたるなり。いづれにしても意義は通ぜるなり。今この所の放鳥につきては學者によりてその説二樣に分れたり。されば、先づそれらのうちいづれによらむかを考へざるべからず。放飼の鳥を「はなち鳥」といへる例は後のものにて古今六帖五伊勢の歌に「はなち鳥つばさのなきをとふからに雲路をいかで思ひかくらむ」夫木抄二十七常磐井入道の歌に「山さくらちりしく池のはなち鳥、おのかはかせも浪やよすらむ」などの例あれど、古きものには多く見えず。又飼鳥を放ちしを「はなちとり」といひし例は後撰集戀歌二に「かげろふにみしばかりにやはなちどり〔五字右○〕行くへもしらぬ戀に惑はむ」(六五五)といふ歌あり。これは流布本に「濱千鳥」とあれど、奧儀抄にはこれを「はなちどり」の例とし、「はなちどりとはこにいれてかふとりをはなちたるをいふ也」と説明せり。又古今六帖六に「はなちどり」の題の下に「はなちどりゆくへもしらずなりぬれば、放れしことぞくやしかりける」といふあり。これもいづれも同時代にあれば、いづれにも用ゐしを見るべく、萬葉集にはここと次なるとの外には例なければ、それをいづれと決せむことは容易の事にあらず。さて普通はその放ち飼ひにせる鳥の義にとれど、古義には「飼せ賜ひし鳥どもを薨まして後に放ちたるが、猶その池にをるなり。」といひて、大鏡に延喜の帝の崩御の時「その日左衛門陣の前にて御鷹どもはなたれしはあはれなりしものかな」とあるを引きて「むかしよりかゝる時はなちやる例と見えたり」といひ、又續後紀に「承和七年五月癸未、後太上天皇崩2于淳和院1云々是日於2建禮門南庭1放2奔鷹鷂籠中小鳥等1」又「九年七月丁末太上天皇崩云(317)云丁末放2棄主鷹司鷹犬及籠中鳥1」とあるをひけり。これに基づきて考ふれば、皇太子の薨後その飼はせ賜ひし鳥どもを放ち賜ひしことなしといふべからず。而してかくの如き事はこれ佛教の思想に基づくものにして所謂放生と唱ふるわざなり。この放生の事は金光明最勝王經卷第九長者子流水品第二十五に委しく説けるものにして、これに基づきかの八幡の放生會といふ事の起りしなり。この事のはじめは養老年中宇佐八幡宮にてはじまりし事なり。されば、この放生といふ思想と行事とは、この薨の時に無しとはいふべからざるなり。さてかく考へてここの歌なる鳥を考ふるに上にいへる如く水鳥なり。かく水鳥を籠中におきて飼ふことは遊覽の爲にはふさはしからず。或は今の動物園の如きさまにせしならむといふ説も出でむかなれど、なほしかにはあらずして、こゝははじめより放飼にせられしものならむ。されど、今は主なき鳥となりたれば、その意にて下の意の「はなちどり」といはむには異論あるまじけれど、元來はなち飼にせられしならむにはことさらにこの説をとらずともよからむ。
○人目爾戀而 「ヒトメニコヒテ」とよむ。「戀フ」といふ語の對象につきては後世は「ヲ」格にすれど、古くは「ニ」格にせしこと既に上に(一一一)述べたり。「人目」は人の目なり。その「人の目」といへる例は卷十「一九三二」に「春雨之不止零零吾戀人之目尚矣不令相見《ハルサメノヤマズフルフルワガコフルヒトノメスラヲアヒミセナクニ》」あり、その目といふ語の例は卷四「七六六」に「路遠不來常波知有物可良爾然曾將待君之目乎保利《ミチトホミコジトハシレルモノカラニシカゾマツラムキミガメヲホリ》」などありて、いづれも目のはたらきを主としていへるにて「ミルコト」「ミユルコト」「ミラルルコト」などをいへるがその場合によりて釋すべし。「人目」といへる例は「二〇七」に「人目乎多見」など集中例多し。さてここは人に見(318)られむことを戀ひてといふ語なるが、ただ人をこひてといふ意なるをかくいへるまでなり。
○池爾不潜 「イケニカツカズ」とよむ。古寫本は「くくらず」とよめり。「くくる」といふも古語にはあれど、それは日本紀景行卷に「泳宮此云|區玖利能彌椰《ククリノミヤ》」とある如く泳字の義たるなり。「かつく」も亦古語にして、古事記上卷に「初於中瀬|堕《オリ》迦豆伎而|滌《ソヽギタマフ》時成坐神」云々とあり。又同書中卷仲哀卷に「阿布美能宇美邇迦豆岐勢那和《アフミノウミニカヅキセナワ》」とあり。(日本紀の歌も略同文日本妃神功卷に「齊多能和多利珥介豆區苔利《セタノワタリニカヅクトリ》」とも見ゆ。又古事紀中卷應神卷歌に「美本杼理能迦豆伎伊岐豆岐《ミホドリノカヅキイキヅキ》」と見え、本集第十八に「珠州乃安麻能於伎都美可未爾伊和多利弖可都枝等流登伊布安波妣多麻《ススノアマノオキツミカミニイワタリテカツキトルトイフアハビタマ》」(四一〇一)などあり。この語の意は古事記傳に「潜は頭衝《カヅク》と云意の言にて頭を衝入れて逆に水中に沈むを云。故水鳥の水中に没《イル》をも海人《アマ》の魚|捕《トリ》に海に没を云りしといへるをよしとす。さてここはその水鳥の水中に頭をつき入れて没するをいふなれば「ククル」とよまむは由なく「カツク」とよむべきなり。
○一首の意 島の宮の勾池に放ち飼ひしてある水鳥は、よく人になつきてあれば人をなつかしく戀しがりて水上にのみうきゐて水中に潜き入ることもなしとなり。これ鳥の人を戀しがるをいひたるなるが、言外にその宮のさびしく人氣けなくなれるあはれさをあらはせるものなり。
 
皇子尊宮舍人等慟傷作歌二十三首
 
(319)○皇子尊宮舍人 皇子尊は、日並知皇子尊をさす。これは上にいへる日並知皇子尊薨去の時の歌なるを上につぎて書きたれば、端詞を略して簡にせるなり。皇子尊宮舍人は春宮の舍人をさせり。令の制春宮の舍人は定員六百人あり。その職務は令に明記なけれど、宮中の内舍人と大舍人との職務を兼ねたるものなるべし。内舍人は「掌2帶刀宿衛供奉雜使1若駕行分2衛前後1」と見え大舍人は「分v番宿直假使」せらるる由なり。
○慟傷 「慟」は説文に「大哭也」と注し、玉篇に「哀極地」と注す。國語にては類聚名義砂に「イタム」の訓あり。傷は説文に「創也」と注すれど、ここはその原義にあたらず。爾椎には「憂思也」と注したるが、ここはその事なるべく、訓は類聚名義抄にこれも「イタム」とあり。慟傷の熟字は未だ出所を知らねど、二字にて「イタミテ」とよむべきものなるべきが或は「ナゲキイタミテ」ともよむべし。この歌下にあぐるものすべて二十三首同時の作なる由なり。
 
171 高光《タカヒカル》、我日皇子乃《ワガヒノミコノ》、萬代爾《ヨロヅヨニ》、國所知麻之《クニシラサマシ》、島宮婆母《シマノミヤハモ》。
 
○高光 舊訓に「タカテラス」といひ、又古寫本中金澤本、神田本等には「タカクテル」といへるもあれど、文字のまま「タカヒカル」とよむべきなり。「たかひかる」といふ語の存せし證は古事記中卷景行卷の、美夜受比賣の歌に「多迦比迦流比能美古《タカヒカルヒノミコ》」又下卷仁徳卷の建内宿禰の歌にも同じ文字にてかける同じ語あり、同書雄略卷の伊勢國之三重采女が歌に「多加比加流比能美古《タカヒカルヒノミコ》」といふあり。若日下部の歌にも同じ文字にてかける同じ語あり、雄略天皇の御製には「多加比加流比能美夜(320)比登《タカヒカルヒノミヤビト》」といふあり。これにてその語の存せしを知るべし。この「高」は既に屡いひたる如く「天」をさす語にして、天に光るといふ義にて「日」の枕詞としたるなり。ここは下の「わが日のみこ」の「日」にかかりて枕詞となれるなり。
○我日皇子乃 「ワガヒノミコノ」とよむ。「日のみこ」は既に卷一、(四五、五〇、等)に屡いへる如く、日神の子孫におはす天皇、皇太子、皇子に汎く稱へ奉る稱なり。「わがひのみこ」と申し奉るは己が主人と仰ぐ皇太子といひ、尊敬と親しみとを表したる語なり。この下(一七三)の歌にもあり、又卷三「二三九」の柿本人麿の長歌にも「高光吾日乃皇子乃《タカヒカルワガヒノミコノ》云々」とあり。
○萬代爾 「ヨロヅヨニ」とよむ。萬代に亙りての義なり。「ヨロヅヨ」といふ假名書の例は(卷一に脱したればここにあぐ)卷五「八一三」に「余呂豆余爾伊比都具可禰等《ヨロヅヨニイヒツグガネト》」又「八七三」に「余呂豆余爾可多利都夏等之《ヨロヅヨニカタリツゲトシ》」又「八七九」に「余呂豆余爾伊麻志多麻比弖《ヨロヅヨニイマシタマヒテ》」卷十七「三九一四」に「餘呂豆代爾可多理都具倍久《ヨロヅヨニカタリツグベク》」「四〇〇三」に「與呂豆餘爾伊比都藝由加牟《ヨロヅヨニイヒツギユカム》」などあり。
○國所知麻之 舊板本「クニシラレマシ」とよみたれど義をなさず。古寫本には「シラシマシ」とせるもあり。(西本願寺本、温故堂本等)されどこれも意通せず。これは契冲が「クニシラサマシ》とよみたるをよしとす。即ち後の諸家皆之によれり。「シラサ」は「シル」の敬語「シラス」の未然形にして「マシ」は假想をあらはすものにしてその未然形所屬の複語尾なり。これは「シリタマハマシ」といふに略おなじ。而してこの「マシ」は連體形を用ゐたるにて下の島宮につづくるなり。即ちこれはこの皇子尊のここにましまして天下をしろしめさましと思ひしその島宮よとい(321)ひたるなり。「萬代に國知らす」といへる例は卷十九「四二六六」に「萬代爾國所知等《ヨロヅヨニクニシラサムト》」また「四二七四」に「萬代爾國所知牟等五百都々奈波布《ヨロヅヨニクニシラサムトイホツツナハフ》」などあり。又「まし」の連體格の例は、古事記下卷履仲段の歌に「多都碁母母母知弖許麻斯母能《タツゴモモモチテコマシモノ》」又本集にはこの卷のはじめの歌(八六)に「高山之磐根四卷手死麻思物乎《タカヤマノイハネシマキテシナマシモノヲ》」など例少からず。
○島宮婆母 「シマノミヤハモ」とよむ。「婆」字このままにて通ぜぬにはあらねど、金澤本、類聚古集等に「波」に作るをよしとす。「ハモ」をかく體言に添へて終止する例は古多かりしものなるが、その例をいはゞ、古事記中卷の景行段の歌に「佐泥佐斯《サネサシ》、佐賀牟能袁怒邇《サカムノヲヌニ》、毛由流肥能本那迦邇多知弖斗比斯岐美波母《モユルヒノホナカニタチテトヒシキミハモ》」又本集卷三「二八四」に「阿倍乃市道爾相之兒等羽裳《アベニイチヂニアヒシコラハモ》」卷十七「三八九七」に「伊時伎麻佐武等問之兒等波母《イツキマサムトトヒシコラハモ》」卷二十「四四三六」に「伊都伎麻左牟等登比之古良波母《イツキマサムトヒシコラハモ》」卷三「四五五」に「芽子花咲而有哉跡問之君波母《ハキカハナサキテアリヤトトヒシキミハモ》」卷十一「二七〇六」に「不飽八妹登問師公羽装《アカズヤイモトトヒシキミハモ》」又卷四「五七八」に「天地與共久住波牟等念而有之家之庭羽裳《アメツチトトモニヒサシクスマハムトオモヒテアリシイヘノニハハモ》」卷十「二二八五」に「吾戀度隱妻波母《ワカコヒワタルコモリツマハモ》」卷十一「二五六六」「情中之隱妻波母《ココロノウチノコモリツマハモ》」「二七〇八」「名耳所縁之内妻波母《ナニノミヨセシコモリツマハモ》」「二八〇三」「甚者不鳴隱妻羽毛《イタクハナカヌコモリツマハモ》」等あり。この「ハ」「モ」共に係助詞なるが、先づ「は」を體言に添へたるはその體言にてあらはされたるものをさして、「これは」の如き意を以て下略の語體をとり餘情を含めて終止したるものにして「モ」はその「何々は」(云々)の下に更に歎息の意をこむる爲に添へて終止とせるなり。即ち上の體言に「はも」を添へて終止せる諸例すべて同じ樣のいひ方になれるを見よ。いづれも、「何々は如何に」といふ如き意を下に含めて解しうべきを見て、この「は」は係助詞の「は」にしてその下に略語あるべき語遣なるを見る(322)べし。これを單に「はも」といふ一語にして嘆息の辭なりといふ如きは甚だ疎略なることなり。
○一首の意 我が仰ぎ尊び奉る皇子尊のここにおはしまして天下を萬代までも知しめさましとかねては思ひてありしこの島の宮は、君がかくれまししかば、今は人げもなくあれはててありし古の姿もなくなりしを見るに、行く末いかに成り行くらむと悲み思へる心をうたへるなり。
 
172 島宮《シマノミヤ》、上池有《ウヘノイケナル》、放鳥《ハナチドリ》、荒備勿行《アラビナユキソ》、君不座十方《キミマサズトモ》。
 
○島宮 「シマノミヤ」上にいへる所なり。
○上池有 「ウヘノイケナル」とよむべし。金澤本には「イケノオモナル」とよみたれど、「上」を「オモ」とよむは、無理なれば、從ひがたし。神田本には「池上有」とかきて、「イケノウヘナル」とよみたり。考はこれをよしとせり。童蒙抄は「上」は「勾」の誤なるべしといひて「マガリノイケノ」とよみ、古義これに從へり。されど、この誤字説は信ずべからず。「池上」と「上池」といづれにても意通ずべく、強ひて「池上」とせではあらぬ理由もなければ、普通の本のままによむべし。又美夫君志には上の池は勾池と別にして、山の上なる池なりと、いへれど、これも證なきことなり。下にある勾池と同じきか別なるか知るに由なきことなり。
○放鳥 上にいへり。
○荒備勿行 「アラビナユキソ」とよむ。この「アラビ」は粗暴の意の語とは別にして物の疎く遠ざ(323)かり行くをいふ。卷四「五五六」に「筑紫船未毛不來者《ツクシブネイマダモコネバ》、豫荒振公乎見之悲左《アラカジメアラブルキミヲミルガカナシサ》」卷十一「二八二二」に「栲領巾乃白濱浪乃不肯縁荒振妹爾戀乍曾居《タクヒレノシラハマナミノヨリモアヘズアラブルイモニコヒツツゾヲル》」などその例なり。
○君不座十方 「キミマサズトモ」とよむ。「キミイマサズトモ」とよみても不可ならず。その由は次にいふをみよ。「十方」は「トオモ」の義によりて假り用ゐたるなり。
○一首の意 島宮の池なる放鳥よ。たとひ君おはしまさずとも、荒び放れ行く事なかれ。君が御形見と見むほどにとなり。
 
173 高光《タカヒカル》、吾日皇子乃《ワガヒノミコノ》、伊座世者《イマシセバ》、島御門者《シマノミカドハ》、不荒有益〔左○〕乎《アレザラマシヲ》。
 
○高光 「タカヒカル」上にいへり。
○吾日皇子乃 「ワガヒノミコノ」とよむ。意は上にいへり。
○伊座世者 「イマシセバ」とよむ。「イマス」も「マス」と同じ語なるが、ここは「伊」を加へたれば、「イマス」といふべきは論なし。續日本紀の宣命を見るに、この語他の用言の下にあらず、獨立の用言として用ゐらるる時には必ず、「イマス」とかけり。これによりて思ふに、「イマス」が本語にして「マス」はその略せられたるなり。「イマス」とかける例は記紀萬葉共に多きが、一二をあげむに、古事記上卷に「那許曾波遠爾伊麻世婆《ナコソハヲニイマセバ》」日本紀卷九の歌に「區之能伽彌等虚豫珥伊麻須伊破多多須周玖那彌伽未能《クシノカミトコヨニイマスイハタタスクナミカミノ》」又本卷「二一〇」に「烏自物朝立伊麻之弖《トリジモノアサタチイマシテ》」などなり。「御座世者」は「イマセバ」ともよまれざるにあらねど、然するときは一音不足するのみならず、おはしますこととなりて事實に合せ(324)ず。加之下に「マシヲ」とあるに照して考ふるに、ここは必ず假設條件を示すものならざるべからず。これは上の長歌の「シラシメシセバ」と同意なるを言ひかへたるまでのものなり。されば「イマシセバ」とよむべきなり、卷三「四五四」に「愛八師榮之君乃伊座勢波昨日毛今日毛吾乎召麻之乎《ハシキヤシサカエシキミノイマシセバキノフモケフモワヲメサマシヲ》」とあるも同じ場合なり。さてかく「イマシセバ」とよむべしとする説のうちにもこれを「イマサバ」といふを延べたるなりといふ説は文法を無視したるものにして不當なり。
○島御門者 「シマノミカドハ」とよむ。御門は島官の入口なるを宮のかへことばに用ゐたるなれば、島の御門即ち島宮をさせるなり。
○不荒有益乎 「益」字流布本「蓋」とせり。されどかくてはよみ下し難し。古寫本の多數に「益」とせるが正しきこと明かなり。よみ方は「アレザラマシヲ」とよむことは古來異論なし。これは上の「イマシセバ」の假設條件に對しての假想的歸結たるなり。
○一首の意 わが親愛畏敬して仕へ奉りし皇子尊のこの世に古の如く坐しますとせば、この島の宮は荒れずにあらましものをとなり。これ「その宮に年來仕へ奉りし心には其宮の荒れゆく事の悲しきあまりに云へる也」と守部のいへるをよしとす。
 
174 外爾見之《ヨソニミシ》、檀乃岡毛《マユミノヲカモ》、君座者《キミマセバ》、常都御門跡《トコツミカドト》、侍宿爲鴨《トノヰスルカモ》。
 
○外爾見之 古來「ヨソニミシ」しとよみて異議なし。蓋し「ヨソ」といふ語は純なる國語にあらずして「餘處」といふ漢語の輸入せられしならむ。「餘處」といふ語は佛書に多くたとへば法華經壽量(325)品に「我常在2此娑婆世界1説法教化亦於2餘處百千萬億那由佗、阿僧祇國1導2利衆生1」などあり。されど、本集中に「よそ」と假名書にせる例少からねば、この頃に國語化せりしことは明かなり。その例卷三「三八三」に「筑羽根矣四十耳見乍有金手《ツクバネヲヨソノミミツツアリカネテ》」卷十四「三四一七」に「與曾爾見之欲波伊麻許曾麻左禮《ヨソニミシヨハイマコソマサレ》」卷十五「三五九六」に「之良奈美多加彌與曾爾可母美牟《シラナミタカミヨソニカモミム》」「三六二七」に「與曾能未爾見都追須疑由伎《ヨソノミニミツツスギユキ》」「三六三一」に「伊都之可母見牟等於毛比師安波之麻乎與曾爾也故非無由久與思乎奈美《イツシカモミムトオモヒシアハシマヲヨソニヤコヒムユクヨシヲナミ》」卷二十「四三五五」に「余曾爾能美美弖夜和多良毛《ヨソニノミミテヤワタラモ》」等なほ多し。この句の意は今まではよそに見しといふなるがその「よそ」に見しとは我に關はりなきものとみたりしといふ義なり。
○檀乃岡毛 「マユミノヲカモ」とよむ。檀は「マユミ」といふ名の木なり。それを上の長歌にいへる「マユミノヲカ」の文字に用ゐたり。
○君座者 「キミマセバ」なり。この眞弓岡を御墓所の地としてそこに君がおはしますによりてなり。
○常都御門跡 「トコツミカドト」とよむ。金澤本には「ツネツ」と訓をつけたれど、「つね云々」といふことは古語に例なきことなれば、從ひがたし。「トコ」は常住不變の意「ツ」は「ノ」に似たる古き助詞なり。「御門」は上の「島御門」と同じ用例なれば「トコツミカド」は永久に鎭ります宮の義なり。「ト」は今もいふ助詞なるが、ここは「トシテ」の義にとるべし。
○侍宿爲鴨 「トノヰスルカモ」とよむ。「侍宿」は漢文にも用ゐる熟字にして漢書地理志燕の風俗を記せるに、「賓客相過、以v婦侍宿」と見ゆ。今ここのと同じ意に用ゐたるは日本紀に見ゆ。先づ(326)雄略卷十一年條に「信濃國直丁與2武藏國直丁1侍宿相謂曰云々」とあり、又皇極三年條に「中臣鎌子連曾善2於輕皇子1故詣2彼宮1而將2侍宿1」とあるこれなり。この「侍宿」は古來「トノヰシテ」とよみ來れり。「トノヰ」は谷川土清が「殿居也謂2更番直宿1」といへる如し。古來「直」字に「トノヰ」の訓を加ふること類聚名義抄にて知るべし。直とは文選の注に「直謂d宿2禁中1以備c非常u也」と見ゆ。これは御墓所に奉事することをいへるなり。
○一首の意 今まで自分等に無關係のものと思ひたりし檀岡なれども、今は君が御陵所となりたれば、君がとこしなへに鎭ります宮所として今よりわれらは殿居する事かなといひてかはりはてたる世のさまを打ち嘆きたるなり。
 
175 夢爾谷《イメニダニ》、不見在之物乎《ミザリシモノヲ》、欝悒《オボホシク》、宮出毛爲鹿《ミヤデモスルカ》、作日之隅囘乎《サヒノクマミヲ》。
 
○夢爾谷 古來「ユメニダニ」とよみ來りしを考に「イメニダニ」とよめり。「ユメ」は「イメ」の轉じたるにて同じ語なれど、本集中假名書にして「ユメ」とあるもの一もなく、假名書なるはすべて「イメ」とのみあり。二三の例をあぐれば、卷四「四九〇」に「掾由毛思哉妹之伊目爾之所見《ココロユモオモヘヤイモガイメニシミユル》」卷五「八〇九」に「麻久良佐良受提伊米爾之実延牟《マクラサラズテイメニシミエム》》「八五二」に「烏梅能波奈伊米爾加多良久《ウメノハナイメニカタラク》」卷十五「三六四七」に「奴婆多末能比登欲毛於知受伊米爾之美由流《ヌバタマノヒトヨモオチズイメニシミユル》」など多し。一々あぐるにたへず。「谷」は「ダニ」といふ副助詞をあらはすに借りたるものにして「ダニ」は今「でも」といふに似たり。
○不見在之物乎 「ミザリシモノヲ」なり。今までは夢にも見ざりしものをとなり。これ下にい(327)へることの夢想もせざりし事なりといはむとてなり。
○欝悒 舊訓「オボツカナ」とよみたるを代匠記に「オボホシク」とよみ、童蒙抄に「コヽロウク」とよめり。按ずるに欝悒の熟字は支那にてすでに用ゐたるものなり。その例は文選の司馬遷が報2任安1書に「獨欝悒而誰與語」とありて、李善が注には「欝悒不v通也」とあり。さてこれをいかによむべきか、といふに、「オボツカナシ」といふ語は萬葉にも證あれど、その意はこの訓には十分にあたれりといふべからず。さてこの卷「二二〇」に「玉桙之道太爾不知欝悒久待加戀良武愛伎妻等者《タマホコノミチタニシラズオボホシクマチカコフラムハシキツマラハ》」とあるによりてこれが形容詞として用ゐられしを先づ知るべく、次に卷七「一二二五」に「狹夜深而夜中乃方爾欝之苦呼之舟人泊兼鴨《サヨフケテヨナカノカタニオボホシクヨビシフナヒトハテニケムカモ》」とあるによりて、これが、「シクシキ」活用の語なるを見るべし。然るときは「オボツカナシ」も「コヽロウク」も共に當らずして「おぼほしく」とよめるが當るべきを思ふ。さてその「オボホシク」の假名書の例は卷五「八八四」に「於保保斯久許布夜須疑南《オボホシクコフヤスギナム》」八八七」に「意保々斯久伊豆知武伎提可阿我和哥留良武《オボホシクイヅチムキテカアガワカルラム》」又卷十一「二四五〇」に「雲間從狹徑月乃於保々思久相見子等乎見因鴨《クモマヨリサワタルツキノオボホシクアヒミシコラヲミルヨシモガモ》」「二四四九」に「於保保思久相見子等乎後戀牟鴨《オボホシクアヒミシフコラヲノチコヒムカモ》」卷十五「三五七一」に「於保保思久見都都曾伎奴流《オボホシクミツツゾキヌル》」卷十六「三七九四」に「大欲寸九兒等哉《オホホシキココノノコラヤ》」卷十七「三八九九」に「於煩保之久都努乃松原於母保由流可聞《オボホシクツヌノマツバラオモホユルカモ》」などあり。その十七卷の例にて「オボホシ」といふべきを見る。語の意は「オボロ」の語根に基づくものと思はれ、「オボオボシキ」の意にして、前途の明からず不安にして夢地をたどる如き心地なるをいふ語と見えたり。
○宮出毛爲鹿 舊板本「ミヤイデモスルカ」とよみたれど、語をなさず。大多數の古寫本に「スルカ」と(328)よめるを正しとす。代匠記には「ミヤデモスルカ」とよめるがこれも不可ならず。今いづれをとるべきかといふに、契沖がいへるごとく卷十八「四一〇八」に「美夜泥之理夫利《ミヤデシリブリ》」といふ語あれば、これによりて「ミヤデ」とよむ方よかるべし。「ミヤデ」は宮に出づるにて宮門を出入ることをいへるなり。
○作日之隅回乎 「作」字大多數の古寫本に「佐」につくれり。萬葉集の例を見るに、「作」を「サ」の假名に用ゐたるはここの外七卷二十卷に見るのみにして佐は各卷に通じて頗る多ければ、「佐」の方よきならむ。されど、「作」を全く用ゐずとにもあらねば、姑くこのまゝにてあるべし。「隅」字金澤本、神田本に「隈」字につくれり。案ずるに隈隅相通じて用ゐ、類聚名義抄には共に「クマ」の訓を加へたれば、いづれにても「クマ」とよむに差支なきなり。さて「回」字宣長は「一本佐田とあるを用べし」といひ守部も其説につきて、佐田をよしとせり。されど、今かかる本を全く見ず。疑ふべきなり。思ふにこはもとのまま「サヒノクマ」といふをよしとす。何となれば、「サヒノクマ」といふ語は本集中他にも例あり。卷七「一一〇九」に「佐檜乃熊《サヒノクマ》、檜隈川之瀬乎早《ヒノクマガハノセヲハヤミ》」卷十二「三〇九七」に「佐檜隈檜隈河爾馬駐《サヒノクマヒノクマガハニウマトメテ》」とあるが如き明證なり。これらの「さ」は所謂發語にてただ「ヒノクマ」といふにおなじ。檜隈は今は眞弓村の南にある一地の名となりたれど、昔は和名抄、大和國高市郡の郷名に「檜前【比之久末】」とある地にしてその區域は今の野口、栗原、平田等に亙りての大名なりしことは多くの陵名にても知られたり。即ち「欽明天皇」檜隈阪合陵(下平田村にあり)「【天武天皇持統天皇】」檜隈大内陵(野口村)「文武天皇檜前安古岡上陵(栗原村)かくて、かの眞弓岡は或はその檜隈の地域内たり(329)しかもはかられず。若、眞弓岡が檜隈の地にあらずとすともかの御墓に通ふには必ず通らねばならぬ地なれば「サヒノクマミヲ」といへるなり。「回」を「ミ」といふこと及びその意は、卷一「四二」の「島回」の下にいへるが、「クマミ」といふ語の例は卷五「八八六」に「道乃久麻尾《ミチノクマミ》」とあるにて知るべし。「ヒノクマノアタリヲ」といふ義に近し。
○一首の意 かからむ事は夢にも知らざりしものを。今この檜隈の隈回を通ひつつ眞弓の山陵に宮出をするが、あまりにも思ひかけぬことにて夢に夢みる心地のすることよとなり。
 
176 天地與《アメツチト》、共將終登《トモニヲヘムト》、念乍《オモヒツツ》、奉仕之《ツカヘマツリシ》、情違奴《ココロタガヒヌ》。
 
○天地與 「アメツチト」とよむ。天地の永久に存在する如くそれと久しからむといふ意にてあげたるなり。かくいふことは古くより行はれしことにて日本紀神代卷二に、「寶祚之隆當2與天壤無窮1者矣」と見え、又卷四「五七八」に「天地與共久住波牟等念而有師家之庭羽裳《アメツチトトモニヒサシクスマハムトオモヒテアリシイヘノニハハモ》」卷十五「三六九一」に「天地等登毛爾母我毛等《アメツチトトモニモガモト》」の如く「天地と共に」といへる外、卷三「四七八」に「天地與彌遠長爾萬代爾如此毛欲得跡憑有之皇子乃御門乃《アメツチトイヤトホナガニヨロヅヨニカクシモガモトタノメリシミコノミカドノ》云々」卷十九「四二七五」に「天地與久萬※[氏/一]爾《アメツチトヒサシキマデニ》」などいへるあり。又出雲國造神賀詞に「大八島國天地日月知行」ともいへり。
○共將終登《トモニヲヘムト》 舊板本「トモニヲヘム」とよめり。「天地ト共ニ」は久しきことを強めていへる語なり。古寫本中には「將終」を「ハテム」とよめるあり、(類聚古集、古葉略類聚鈔)「オハラム」とよめるあり。(神田本)「終」字は「ハツ」ともよまれざるにあらねど「ヲフ」「ヲハル」とよむを普通とす。而して「ヲフ」(330)と「ヲハル」とにつきてその意を考ふるに、「ヲフ」は他を然する意にして「ヲハル」は自然の意を示す。今ここを「ヲハル」といひては天地と共に終るもの存せざるべからず。然るに、歌の意を考ふるに天地と共に終らむとする者ありてそれをうたへりとも考へられず。されば「ヲヘム」とよめる流布本のをよしとすべし。かく「をへむ」といふは豫想若くは預定をいへるものなるが、その詞遣の例は卷五「八一五」に「武都紀多知波流能吉多良婆可久斯許曾烏梅乎乎利都都多努之岐乎倍米《ムツキタチハルノキタラバカクシコソウメヲヲリツツタヌシキヲヘメ》」又卷十九「四一七四」に「春裏之樂終者梅花手折乎伎郡追遊爾可有《ハルノウチノタヌシキヲヘバウメノハナタヲリヲキツツアソブニアルベシ》」又琴歌譜の片降の詞に「阿良多之支止之乃波之女爾可久之己曾知止世乎可禰弖《アラタシキトシノハシメニカクシコソチトセヲカネテ》、多乃之支乎倍女《タノシキヲヘメ》」などあり。これらはその樂きことをなしをふる由にいへるなることも、「終ふ」といふ已上、そのなしをふべきわざなかるべからず。それにつきては新考に「ヲヘムは仕ヲ終ヘムなり(芳樹同説)」といへるをよしとす。さてその「樂しきを終へむ」「仕へを終へむ」といへる、その「ヲフ」といふ語の意は祝詞に屡「稱辭竟奉」といへるその「ヲヘ奉ル」といふと同じ意なるべきが、祝詞のは眞淵の祝詞考に「竟《ヲヘ》は盡《ツク》すをいふ古言なり。」といひ同人の延喜式祝詞解に「竟奉とは其賛稱の辭を不2遺落1して稱擧し奉るとの義なり」といへるにて今の語にていはば「ある事をしつくす」といふべきを「をふ」といへりしものと見ゆ。
○念乍 「オモヒツツ」なり。「乍」を「ツツ」とよむべきこと、卷一「二五」にいへり。
○奉仕之 「ツカヘマツリシ」とよむ。「仕奉る」の語は卷一「三八」にいへり。「仕フ」は實質用言なれど、「奉る」は敬語なり。
(331)○情違奴 「ココロタガヒヌ」とよむ。この語の例は卷十九「四二三六」に「光神鳴波多※[女+感]嬬携手共將有等念爾之情違奴《ヒカルカミナルハタヲトメタヅサハリトモニアラムトオモヒニシココロタカヒヌ》」とあり。心に豫期せしことの合期せず、意外の事の生ぜる時にいふことばなり。
○一首の意 上にいへる所にて略明かなるべし。然るに古來多くは「天地と共に」をば「皇子を天地とともに久しからむとおもひしと也」(略解)とやうに説くもの少からず。言ひ方は少しづつ異なれど、攷證、檜嬬手、美夫君志、みなこの説なり。然れどもかくては、「終へむ」といふに打ちあはぬこと新考に論ぜるが如く、又下の句の意味にも打ちあはぬなり。さて「天地と共にをへむ」といふは語の上にては上にいへる如くなるが、その結局は新考の説の如く、とこしへに仕へ奉らむといふ意なるなり。即ち天地のあらん限り御奉公申し上げむと兼ねては思ひてありしが、今や豫期もせざりし大變の生じて、その豫期も遂けられぬ事となりたりとなり。考に之を評して「ひたふるに思ひ入たる心をいふなり」といへるは當れり。
 
177 朝日弖流《アサヒテル》、佐太乃岡邊爾《サタノヲカベニ》、羣居乍《ムレヰツツ》、吾等哭涙《ワガナクナミダ》、息時毛無《ヤムトキモナシ》、
 
○朝日弖流 「アサヒテル」とよむ。朝日の照るなり。この下の歌にも「旦日照島之御門爾《アサヒテルシマノミカドニ》」(一八九)とあり。又「朝日照佐太乃岡邊爾《アサヒテルサタノヲカベニ》」(一九二)と全く同じ語なるもあり。考には「朝日夕日をもて、山、岡、宮殿などの景をいふは集中また古き祝詞などにも多し。是に及《シク》ものなければなり。」といひ、略解はこれをうけて、「ここも只其所の景色をいふのみ」と附言せり。なほこれにつきて檜嬬(332)手には「朝日夕日は只何となく續くる語なれど、下に三首までも此の同じつづけのあるを見れば、東宮の鎭《シヅモラ》すを以《モ》て殊更におけるなり」といへり。然れども、この説は契沖が既に「朝日てる佐太ノ岡とつづけたるは、古今に夕月夜さすや岡邊と云ひ、拾遺に朝彦がさすや岡邊といへる如く、岡といはむ爲なり。朝日の光いづくはあれど先岡にあたりたるがはなやかに見ゆる故なり。下に朝くもり日の入ゆけはとよめるに思ひ合すれば東宮を朝日によそへて、日の替らす照につけて東宮のかくれ給へるを嘆く意にやともおほしきを、又下に朝日てる佐太の岡邊に鳴鳥とよめるは其意なければ、唯初の義なるべし」といへるをよしとすべく、守部の説は從ひがたし。即ちここは日當のよき、その岡の實際の地勢をいひてたたへ辭とせるなるべきが、わざわざ「朝日てる」といへるには特に意義あるべきなり。諸家これをいぬは疎かなりといふべし。
○佐太乃岡邊爾 「サタノヲカベニ」とよむ。佐太乃岡といふは上の眞弓の丘と相對してある丘陵なるが、その間の區別は明瞭ならずして、一の丘陵の如く見ゆるなり。即ちこの佐太岡の麓には今、佐太村あり、眞弓岡の麓には今、眞弓村あり。而して佐田村は眞弓村の西南にあるなり。これを以て推すに、今の眞弓村の西なるを眞弓岡とする時は今の岡宮天皇陵は眞弓岡にあらずといふべく今の佐太岡の南の方にその山陵存せり。されば、山陵所在の地は寧ろ佐太岡といふべきなり。然るに諸陵式等に眞弓丘陵といへるを見れば、古へはこの邊一帶の丘陵を眞弓丘といひしなるべく、その一部をば佐田の岡と稱へしならむ。麻
(333)○羣居乍 「ムレヰツツ」とよむ。眞弓御陵の侍宿所に群れゐつつなり。春宮舍人は既にいへる如く數百人ありしが故に、それらが分番宿衛すとしても人數多かりしことを想像しうべし。
○吾等哭涙 流布本「ワガナクナミタ」とよめり。古義には「アガナクナミダ」とよめり。「ワガ」「アガ」いづれにても誤にあらず。さて「吾等」二字を「ワガ」とも「アガ」ともよまむことは如何にといふに、その「われ」と唱ふるものの數人なる由をあらはさむとて「等」字を加へたるものなるべきが、ここは上に群れ居つつといへる如く數多の舍人あるが故に。「吾等」といふ文字をかけるにて無意義に書けるにあらざるべし。然らばこれを「ワレ」とよむは如何といふに、これは國語の特性に基つく所なり。即ち國語にては一人にても多人數にても「われ」にてよき筈なれば「我等」と書きてよみ方は「われ」「わが」とよみて差支なかるべきなり。卷三「二五〇」「一本云」の歌に「珠藻苅處女乎過而夏草乃野島我埼爾伊保里爲吾等者《タマモカルヲトメヲスギテナツクサノヌシマガサキニイホリスワレハ》」とある「吾等」を古來「ワレ」とよみ來れるが、この歌は卷十五に重出して、そこには「奈郡久佐能野島我左吉爾伊保理須和禮波《ナツクサノヌジマガサキニイホリスワレハ》」(三六〇六)とかければ、「吾等」にて「ワレ」なること著し。さてかく「等」を加へたるは筆者に然るべき心ありてかけるものなるべきに「等」をただ加へたるなりと事もなげにいひ去るものは古人の折角の苦心を認めざるものといふべし。「哭」は玉篇に「哀之發聲」とありて、類聚名義抄には「ナク」の訓あれば上のよみ方正しとす。
○息時毛無 「ヤムトキモナシ」とよむ。「息」は詩經などに屡「止」の義に用ゐられ古來「ヤム」の訓ある字なり。
(334)○一首の意 朝日のてる佐太の岡の宿衛所にわれら舍人が多く群れ居ることなるが、見霽しもあり、日當りもよき所なれば氣もはれはれとすべき所と餘所目には見ゆらむが、われらはただ悲嘆にくれて涙のやむ時もなしとなり。これ上に「朝日てる」といひて四圍の晴れ晴れとせるに、われら悲泣に堪へずといひて、その悲哀の情を強調せむ」とせる反襯の法なるなり、若し然らずば、「朝日てる」といへる甲斐なきにあらずや。諸家之に注意せぬは疎なりといふべし。
 
178 御立爲之《ミタタシノ》、島乎見時《シマヲミルトキ》、庭多泉《ニハタツミ》、流涙《ナガルルナミダ》、止曾金鶴《トメゾカネツル》。
 
○御立爲之 舊板本「ミタチセシ」とよめり。古寫本中には温故堂本に「ミタテセシ」とよみたるが「ミタテセシ」は全く語をなさねば從ひ難し。契沖は「ミタタセシ」とよみ、眞淵は「ミタタシシ」とよみたり。この内契沖の「ミタタセシ」は語法にあはねば、その方のよみ方にては眞淵の説をよしとすべきに似たり。さて、「ミタチセシ」といふと「ミタタシシ」との二は如何といふに「ミタチセシ」は「タツ」といふ動詞の連用形を名詞に準じて之に「ミ」を冠して敬語としたるを「セシ」の賓格にしたるものにして、「ミタタシシ」は「立ツ」をばサ行四段に再び活用して敬語としたる「タタス」の連用形に「ミ」を冠して敬語としたるものを複語尾「シ」にてうけたるものにていづれも理論上成立ちうる如くなるが果して、これらが當時の語法として行はれたるものなるか否かは精査せざるべからず。先づ「ミタチセシ」といふは不合理にあらねど、かくの如き語法の例は當時の實例には未だ見ざる所なり。新考には、動詞にはミを冠らすること事なければ、卷五に「ミタタシセリ(335)シ」を例として舊訓の如く「ミタチセシとよむべし」と主張せり。されど、この「ミタチ」の方は「タチ」といふ語に「ミ」を冠したるものにして、「ミタタシセリシ」の方は「タタス」といふ敬語の連用形の上に「ミ」を冠せしものにして、「タツ」といふ根本の語は同一なれど、いひ方は異なり。「ミタタシ」が「セリ」の賓格に立てりといふことを以て直ちに「ミタチ」を「ス」の賓格とすると同じ語法なりといふことを得ざるなり。而して、他にかくただの動詞連用形に「ミ」を冠して「ス」の賓格に立てたる例を知らねば、このよみ方は正しと斷言すべきにあらざるなり。次に「ミタタシシ」は如何といふに「タタシシ」といふことは勿論ありしことなれど、「ミ」を冠したる「ミタタス」といふ如き用言の例は當時に存するを知らず。これは新考に既に論ぜる如くなり。その論に曰はく、「乙いはくミタチセシとよまむは固より可なり。されど、又「ミタタシシ」とよむべし。下なる御立之島ニオリヰテナゲキツルカモ又十九卷なるフナドモニ御立座而はミタチセシ、ミタチシマシテとは訓むべからず。ミタタシシ、ミタタシマシテと訓まむ外なからずやと。甲又いはく、下なる御立之は上に三處まで御立爲之とあるに依れば、爲の字をおとしたるなり、又十九卷なる御立座而はタタシイマシテとよむべし。御立をタタシとよむべきことは上にオモホシを御念と書きトハサズを不御問と書けるを證とすべしと。甲は今の余、乙は前の余なり」といへり。これによりて「ミタタシシ」といふことの無理なることは知らるべきが、「ミタチセシ」は不合理ならねど、若し、從ふを得ずとせばここに一案あり。「御立爲」を「ミタタシ」とよむは余も亦それに從ふ所なるが、次の「之」を「ノ」とすることなり。かくする時は、「ミタタシ」は一の體言の賓格となり、その(336)次の「の」はその體言を受けて、下の語を形容修飾する意にて連體格に立たしめたるものなり。かくの如く動詞の連用形を體言に准じて之を「の」にて連體格に立たしめて、その形容修飾をあらはすことはこの頃にも盛んに用ゐたることなり。その一二例をいはむに、日本紀天智卷の歌謠に「伊提麻志能倶伊播阿羅珥茹《イデマシノクイハアラニゾ》」又本集卷三「三一五」に「天地與長久萬代爾不改將有行幸之宮《アメツチトナガクヒサシクヨロヅヨニカハラズアラムイテマシノミヤ》」などあり。これらはただの動詞にあらで、敬意を含めるものなれば、稍趣似たり。されど、全く同じ性質の語にあらず。ここと全く同じ趣なるは卷一「三」の「御執乃梓弓《ミトラシノアヅサノユミ》」とあるものなり。かれもこれも、その詞がサ行四段再活の敬語にして連用形をとり、而して、「ミ」を冠したるものが、體言に准ぜられて「の」にて連體格に立てるものにして、しかも、その連體格は全く名詞に化したるにあらずして、下の體言を形容修飾する關係に立てる點は全く同じ。されば、余はここを、「ミタタシノ」とよむべきものなりと主張す。かくしてはじめて、語格上の無理を避くべし。その意はをりをり出立たせ給ひしことあるによりていへるなり。
○島乎見時 「シマヲミルトキ」とよむ。この島は契沖が「島は宮の名に非ず。やがて下に見ゆるも勾池の中島なり」といへるをよしとすべきに似たれど、その島はひろくその池島ある庭をいへるなり。
○庭多泉 「ニハタツミ」とよむ。「泉」を「ツミ」とよむは「イツミ」の「イ」を省きたるなり。「ニハタツミ」とは和名砂に「唐韻云潦音老和名爾波太豆美雨水也」とあるものにして、集中にも屡見ゆる語なり。卷七「一三七〇」に「甚毛不零雨故庭立水大莫逝人之應知《ハナハタモフラヌアメユヱニハタツミイタクナユキソヒトノシルベク》」卷十九「四一六〇」に「爾波多豆美流涕等騰(337)米可禰都母《ニハタツミナガルルナミダトトメカネツモ》」「四二一四」に「庭多豆水流涕留可禰都母《ニハタツミナガルルナミダトトメカネツモ》」などこれなり。この語の義は契沖が「タツミは泉なり。夕立村雨などによりて庭に流るる水の泉の涌やうなれば名づくると意得るるに、文選に馬融長笛賦云秋(ノ)潦《ニハタヅミ》漱(ヒ)2其下趾(ヲ)1兮云々是は竹のまだ笛にきらで※[山+解]谷にある時をいへり。王勃が滕王閣序云潦水盡而寒潭清(メリ)。かかればにはゝ俄タツミはさきの如くにて雨によりて俄にまさる水の心なるべし。」といひ、冠辭考にも「俄泉の流るるといひかけたる也」といへり。檜嬬手には「庭立水の意なるべし」といひたれど、雨水のたまり流るるは庭に限らねば、「ニハ」は「俄」の義をよしとすべし。されど、「タツミ」は直ちに泉の義にあらねば契沖説も全くはうけられず、かへりて檜嬬手の「立水」の義なる方によるべし。古義には「さきに大原惠敏も邊鄙の言に夕立などのふりて庭に水の流るるをたづみがはしると云り。しかれば、たづみと云る古言片山里に殘れり。云々」といへるが、その「たづみ」といふ古言の存せしはよけれど、之を釋して、「庭漾水《ニハタタヨフミツ》」といへるは如何。「漾ふ水」か「たづみ」ならば、その古言に「たづみがはしる」といふに矛盾せり。仙覺の萬葉集注釋卷十一に「水にたて水ふし水といふ事あり、ふし水とはしたにたまりたれども出流るる事なき水なり。たちみづとはわき出でながるゝ水なり」といへる「たちみづ」即ちかの古義にいへる「たづみ」なるべく同時にここの「たつみ」なるべくして「たつみ」即ち立ち流るる水の義なるべく思はる。而して、ここは「流る」の枕詞とせるにて、卷十九「四一六〇」「四二一四」なるも同じ趣に用ゐたり。
○流涕 「ナガルルナミダ」なり。この語例は上にいへる如く、卷十九に二あり。(四一六〇)、(四二(338)一四)
○止曾金鶴 舊板「トメゾカネツル」とよめるを童蒙抄に「ヤメゾカネツル」とよめり、されど、童蒙抄以外の諸家、みな「トメゾカネツル」とよめるなり。按ずるに涙に「トドム」とよむこと、上にいへる如く卷十九に二例(四一六〇、四二一四)あるが、「トム」とよめる例は見出でず。されど又涙に「ヤム」とよめる例は萬葉集はもとより古今になきことなれば、ここは「トドム」とよむか「トム」とよむかの外なかるべきが「トメゾカネツル」とよまむには字餘にすぎて調破るれば、「トム」といへる例は見えど古來の如く「トメゾカネツル」とよみてあるべきか。按ずるに「トドム」といふ語は、「トム」を重ねて約したること「ツヅク」か「ツキツク」の約なるが如く、「トメトム」の約なるべきかも如られず。然りとせば、「トム」といふ語を涙に用ゐしこと古にありしならむとも思はる。この故に今姑く、上の如くによめり。「カネ」は難の意の動詞にてナ行下二段の活用をするものにして、集中に例多し。本卷に「此吾心鎭目金津毛《コノワガココロシヅメカネツモ》」(一九〇)卷一に「敷妙之枕之邊忘可禰津藻《シキタヘノマクラノアタリワスレカネツモ》」(七二)など一一あぐるにたへず。
○一首の意 今この島即ち庭園を見るに、この島は皇太子の平生|出《イデ》立たせまひて見そなはしし島なれば、當時の事の思ひ出されてにはたづみの如く涙出できて止めむとしても止めかねつるよとなり。
 
179 橘之《タチバナノ》、島宮爾者《シマノミヤニハ》、不飽鴨《アカネカモ》、佐田乃岡邊爾《サタノヲカベニ》、侍宿爲《トノヰ》、爾往《シニユク》。
 
(339)○橘之 「タチバナノ」。諸家橘は地名なるべしといへり。從ふべきに似たり。然るに今橘村といふは、上にいひし島莊と隣れる地ながら、飛鳥川を隔ててその西にある地にして聖徳太子にて有名なる橘寺ここにあるなり。然れば、現在の地にていはば、橘と島の莊とは各別の地といふべし。されど、島莊の名はかの馬子の島の邸即ち後の島宮の在るが爲に起りし名なるべく思はるればその本來の地名は別に存したりしものと考へざるべからす。かく考ふるときは、この橘の島の宮といふ語によりて、橘がその本來の地名なりしことを想像すべく、かくて、古橘といひし地は今の島莊までも包含せしものなるべく思はる。而して飛鳥川は恐らくは今の地よりも東方を流れてありしならむと思はるるふしあり。その事は「一八四」の歌の條にいふべし。次田氏の新講には橘樹が島の地に繁殖したる爲の名なりといはれたるが、その意十分にわからず。若し橘といふ地名のこれに基づくといふ意ならば、吾人も或は然らむと賛すべきが、この宮の島の中に橘ありし爲の名といふ事あらば恐らくは然にはあらじといはざるべからず。さて橘の島といへる語は卷七「一三一五」に「橘之島爾之居者河遠不曝縫之吾下衣《タチバナノシマニシヲレバカハトホミサラサズヌヒシワカシタコロモ》」とありてその「橘之島」とここのと同じ所なりといふ説あれど、果して然るか。容易くはいふを得ざるなり。
○島宮爾者 「シマノミヤニハ」とよむ。意ことなることなし。
○不飽鴨 舊板本の訓「アカズカモ」とあり。類聚古集、古葉略類聚鈔などは「アカヌカモ」とよませたり。さて契沖は「アカズカモ」といひ、考及び攷證は「アカヌカモ」とよみ、略解古義と檜嬬手とは(340)「アカネカモ」とよめり。この句の意をば契沖は「意は何の飽き足らぬ所有てか、此宮を除《オキ》て佐田の岡邊にとのゐしに行と悲しみの餘に設て云なり。島の宮におはしましける時の宮仕にあかでと云にはあらざるべし」といひ、攷證にもまた「島の宮にはとのゐをしたらねばにやあらん、今はまた陵所の佐田の岡へもとのゐしにゆくことよと也」といへるが、もしさる意をあらはさむには「アカヌカモ」といひても「アカスカモ」といひても當らぬ事なるに、さる意なりと主張しながら、さるよみ方をせるは自家撞着といふべし。即ち契沖又由豆流の説ける所の意をあらはすには「アカネカモ」とよまずばあるべからず。これ、近世の學者の一致して「アカネカモ」とよめる所以なり。「アカネ」の「ネ」は打消の複語尾の」已然形なるが、一般にこの頃の語遣として、已然形を以て下に接續して條件を示すこと後に「ば」の接續助詞を以てつづくると同じ趣の語遣たること屡いひし所なるが、その已然形にて接續せる下に「カモ」といふ係助詞を加へて、下との意を一際委しく結びつけたるものなり。さて、その「飽く」といふ語は十分に滿ち足ることをいふ語なれば、ここの「アカズ」といふは、考に「とのいを爲不足歟なり《ナシ》」といへる如き意あるものなるべく思はる。
○佐田乃岡邊爾 「一七七」なるに同じ。島庄と佐田の岡とは約一里許へだたれり。
○侍宿爲爾往 「トノヰシニユク」 「侍宿」は上にいへり。意かくれたる所なし。
○一首の意 皇子の御在世中橘の島の宮の御仕へをせしがそれにては宮仕をしたらぬによりてか、佐田の岡邊へまでも、とのゐしにゆくことよとなり。これ皇太子のおはしまさずなりて、(341)島宮に奉仕することの行はれず、佐田の御陵所へ通ふ樣になれるを歎きのあまり、その情を幼くいひあらはしたるなり。
 
180 御立爲之《ミタタシノ》、島乎母家跡《シマヲモイヘト》、住鳥毛《スムトリモ》、荒備勿行《アラビナユキソ》、年替左右《トシカハルマデ》。
 
○御立爲之 「一七八」にいへると同じ。
○島乎母家跡住鳥毛 よみ方には異論なし。島の宮の御池の島をもわが家として住む鳥もといふなり。「島をも」といへるは如何なる意ぞといふに、契沖が「水鳥は水をすみかとする物なれど、能飼ならし置たまへば、なつきて中島にもあがりて心やすく遊ぶ意なりといへり。かくまでの意はあるまじけれど、凡そ鳥といふもののすみかはもとより人の作りたる島などにあるべきものならぬが、年久しく飼ひならさるれば、馴れてその島をも本來のすみかの如くにする由をいふと思はる。「鳥も」の「も」は「人も」に對していへるものにして言外に宮仕人をも下にいへる如くいへるなり。
○荒備勿行 「一七二」にいへると同じ。
○年替左右 「トシカハルマデ」とよむ。「左右」を「マデ」とよむ由は、卷一「三四」にいへり。年のかはるといふことは如何なる義か。今は暦の改まりて年の名のかはるをいふ事なるが、ここは、恐らくは然にはあらずして、考に「來らん年の四月までもかく在て御あとをしたへ」といへる如く、(皇太子の薨去は上にいへる如く、四月十三日なれば)一周年をすぐるまでの意なるべく思はる。(342)美夫君志にはこの上に「せめて」といふ語を補ひて釋せり。從ふべし。この一句「荒びな行きそ」の上にあるべきを倒置せるなり。
○一首の意 皇太子の常に御立しありし島をもわが家として住む鳥も、せめて御一周忌のすむまでは他に行かずして、こここに居れ。汝はさきさきよりここを己が家としてすめるにあらずや。われらも、その間はせめての御恩報じにこゝに行通ひて仕へ奉るが故に汝らもここにありて、我らと憂を同じくせよ。それにぞわれらは、汝を友としてはせめても少しは慰むべく思はるればとなり。
 
181 御立爲之《ミタタシノ》、島之荒磯乎《シマノアリソヲ》、今見者《イマミレバ》、不生有之草《オヒザリシクサ》、生爾來鴨《オヒニケルカモ》。
 
○御立之 上にいへり。
○島之荒磯乎 舊訓「シマノアライソヲ」とよみたるが代匠記には「アリソ」とも訓むべしといへり。而してより後の學者いづれも「アリソ」とのみよめり。いづれにてもよき筈なるが、音の上より「アリソ」とよむをよしとすべし。「アリソ」は「アライソ」を約めたるものなるが、萬葉集には「あらいそ」と假名書にせるは一も見えずして假名書にせるには「アリソ」のみ見ゆ。さてその「アリソ」は上にいへる如く、現《アラ》礒の義なるべきなり。これにつきて契沖は「礒は海に限らず、川にも池にもよめり。されば、歌の習なれば、必あら浪よする所ならずとも大形に礒をアライソといへるか。若くは海邊を學びて作らせ給へば云か」といひ考には「御池に岩をたて、瀧おとしてあらき礒の(343)形作られしをいふなるべし」といへり。大體以上の如くなるべきか。但「アリ礒」を「荒浪のよする礒」の義とするに及ばざること上にいへる如く、ただ、庭の立石飾石などをすべていふと心得て十分なり。
○今見者 舊訓「ケフミレバ」とあり。契沖は、「官本の又點に「イマミレバ」とあり」といひ同本に又「今日見者」に作る」といへり。考は「今」の字のままに「イマミレバ」とよみ、略解之に從ひ、古義は舊訓に從ひつつ、契沖の官本を基として、それによらば「ケフミレバ」とよむべしといへり。然るに今傳はる官本の系統の本にも「今日」とある本一も見えず。されば、「イマミレバ」とよむ方よきが如くに思はるるに、美夫君志に又説あり。曰はく「日字は略してかける例あり。卷六、十左に今耳爾秋足目八方《ケフノミニアキタラメヤモ》。これを舊訓にイマノミニとあるはわろし。必ケフノミニと訓べし。玉響昨夕見物今朝《タマユラニキノフノユフベミシモノヲケフノアシタニ》(二三九一)又卷十一五左に今朝可戀物《ケフノアシタニコフベキモノカ》ともあり。此は文字を省きてかける一の法にて重石《イカリ》を重《イカリ》と作《カキ》、背向《ソガヒ》爲當《ハタ》を、當《ハタ》と作《カケ》るが如し。」といへり。これにより集中に「今」を「ケフ」とよめる例ありやといふに、卷十に「年有而今香將卷烏玉之夜霧隱遠妻之手乎《トシニアリテケフカマクラムヌバタマノヨギリカクリテトホツマガテヲ》」(二〇三五)卷九に「今日爾何如將及《ケフノヒニイカニカシカム》」(一七五四)などあり。これらによらば、美夫君志の説に從ふべきが如くなれど「イマ」とよむ方意徹底せり。意はかくれたることなきが、その御大事の當座は何事もおもほえずして日數經しが、やゝ心落ちゐて、さて庭のあたりを思ひ出したる如くにながめやりたる心地、この一語によくあらはれたり。
○不生有之草 「オヒザリシクサ」とよむ。意明かなり。
(344)○生爾來鴨 「オヒニケルカモ」とよむ。「來」を「けり」にあて用ゐること集中に例甚多し。一一例をあぐるに堪へぬが各種の活用形にあてたる例を一二あぐべし。卷六「九一二」に「三吉野乃瀧水沫開來受屋《ミヨシヌノタキノミナワニサキニケラズヤ》」卷四「七五三」に「相見者須臾戀者奈木六香登雖念彌戀益來《アヒミテバシマシモコヒハナギムカトオモヘトイヨヨコヒマサリケリ》」卷三「二六七」に「牟佐佐婢波木末求跡足日木乃山能佐都雄爾相爾來鴨《ムササビハコヌレモトムトアシヒノヤマノサツヲニアヒニケルカモ》」卷七「一〇九八」に「二上山母妹許曾有來《フタガミヤマモイモコソアリケレ》」あり。「かも」は例の歎息の意をあらはせるものなり。
○一首の意 君のましましたりしほどは草などをも苅はらふ人ありしかば、草も生ひざりしかど、君うせ給ひての當座はもとより前後のあやめもわかずして、月日を過ししが、今や少し心落ちつきて、あたりを見れば、さてもさても以前は生ふる事などあらざりし雜草のいたく生ひて荒れたる事よとなり。考には卷三の「詠故太政大臣藤家之山池」の赤人が歌に比べて言ひたれど、この歌の方感じ溌刺として生氣遙に滿ち、かの歌よりは數等の上に位す。謌主の有名と無名とに關せずよしをよしとすべきなり。
 
182 鳥〓立《トグラタテ》、飼之鴈乃兒《カヒシカリノコ》、栖立去者《スタチナバ》、檀崗爾《マユミノヲカニ》、飛反來年《トビカヘリコネ》。
 
○鳥〓立 舊訓「トクラタチ」とよみ、管見には「トクラタテ」とよめり。代匠記には「〓」は「栖」の誤とし、訓は舊によれり。古寫本には類聚古集、神田本、大矢本、京都大學本に「鳥垣」とかけり。按ずるに、「〓」といふ字、支那本邦の字書に未だ發見せず。然らば「鳥垣」を正しとせむかといふに、かかる成語も亦未だ發見せず。然るに木村正辭は「〓」は栖の俗字にして「トクラ」とよむべしといへり。(345)その説の要をいはむに、「此〓の字は栖の俗字にして、類聚名義抄に栖棲【二正】音西スミカ○ヤドル○ス○鳥ノス〓俗、字鏡集に棲〓同と見え、これを手偏に作《カケル》は劉龕手鑑手部に※[手偏+妻]【俗音西、正作棲鳥棲】※[手偏+西]【同上】とある、是也。かかれば、〓は栖の俗體なること明らけし」といへり。げにこの説の如くなりと思はる。さてその〓の字を土扁にせる理由を案ずるに類聚名義抄にはトクラの訓ある「塒」をば「※[木+時]とも「※[手偏+時]ともしていづれにも、同じ訓を施せり。されば、「トクラ」は「〓」「〓」「〓」の三體ありしことなりといふべきなり。なほ木村氏はその棲に「トクラ」の訓ある事を洩せり、類聚名義抄には「樓」字に明かに「トクラ」の訓を加へたり。さればその別體たる「〓」に「トクラ」の訓あること、疑ふべからず。「トクラ」とは何かといふに、新撰宇鏡に「※[木+桀]【巨栖別反入鷄栖杙、止久良】」とあり、和名砂には「毛詩云雛。栖于塒注云鑿墻而栖曰塒【音時訓止久良】」とあり。烏座の義にして鳥のやどり座る處をさせるなるが「トリクラ」の約なれば、「トグラ」と濁るべきならむ。本集にてはなほ卷十八「四一五四」に「枕附都麻屋之内爾鳥座由比須惠※[氏/一]曾我飼眞白部乃多可《マクラツクツマヤノウチニトクラユヒスヱテソワカカフマシラフノタカ》」とあり。それは鷹なれば、家の内に鳥座を構へしものなるが、ここは屋の内なりや否や明かならねど、庭上に構へられしならむといふ説(考略解等)あり。次に「立」は板本「タチ」とよみたるが、古寫本中にも「タテ」とよめるもの少からず。而してここは鳥座を構へ立つるなれば、「タテ」とよむべきところなり。
○飼之鴈乃兒 「カヒシカリノコ」とよむ。契沖は「雁の兒はかもの子をいふ。かるのこともいふと源氏物語の抄に見えたり。されどもいかにしてかりのこといふよしは見えず。(中略)又鴨の中にゐなかに一種かるとなづくるあり。ひなよりかへば、よくなつきて道をゆけば、しりに(346)たちてくるといへり」といひ、なほ鷹の字を誤りたるにやともいへるが、冠辭考はこれによりて「かるがも」なりとせり。按ずるに鴈は今ガンといふを主とすといへども、古は必ずしもその一種に限らざりしならむ。類聚名義抄には鴈の外、鴻、※[Mの旁+鳥]、鵝の字にも「かり」の訓あり、新撰字鏡には「鴻」に「宇加利」(大鴈の義)「※[立+鳥]」「鴨」「※[Mの旁+鳥]」いづれも「加利」の訓あり。されど、「鷹」とかける本は一もなく、又「鷹」を「かり」と訓したる例も一もなければ、「カリ」は雁鴨の類なりといふべく、それ以上の委しきことは今よりして知るべからず。
○栖立去者 「スダチナバ」とよむ。「去」を「ナ」といふは「去《イヌ》」の字を複語尾「ヌ」の位置に用ゐたる、その未然形なり、これも、「ヌ」の各活用形に「去」一字を用ゐたるなり。その一例をいはば、卷三「二七五」に「何處吾將宿《イツクニカアレハヤドラム》、高島乃勝野原爾此日暮去者《タカシマノカチヌノハラニコノヒクレナバ》」同卷「二七四」に「奧部莫逆左夜深去來《オキヘナサカリサヨフケニケリ》」卷一「三四」に「年之經去良武《トシノヘヌラム》」とあり。「栖立」とは生育して獨立し飛ぶを得て栖より立ち出で去るをいふ。
○檀崗爾 上にいへるにおなじ。
○飛反來年 「トビカヘリコネ」とよむ。これには古來異論もなかりしが、近く木村正辭は反變と通用の文字なるからに「反はウツリと訓むべし移の意なり」といへり。いかにも變の字には「ウツル」の語をあてはめうべけれど、「反」を變の字の義とするは、強言といふべくや。これにつきて新考には「九卷なる詠霍歌にウノ花ノサキタル野邊ユ飛飜《トヒカヘリ》來ナキトヨモシ(一七五五)とあるを見れば、トビカヘリは翻り飛ぶ事ならむ。さらば、結句はただ飛ヒ來ヨと心得べし」といへり。この説をよしとす。「來年」の「ネ」は用言の未然形をうけて他に誂ふる意を示して終止する助詞(347)なることは卷一「一」にいへり。ここは「來《ク》」の未然形「コ」をうけたるなり。
○一首の意 皇太子の御命によりて、鳥座を構へて飼ひし鴈の子よ。生ひ立ちて栖立ちをする樣にならば、この眞弓の岡に飛び通ひ來てわれらと共に皇太子の御靈を慰め奉れとなり。
 
183 吾御門《ワガミカド》、千代常登婆爾《チヨトコトハニ》、將榮等《サカエムト》、念而有之《オモヒテアリシ》、吾志悲毛《アレシカナシモ》。
 
○吾御門 「ワガミカド」なり。わが仕へ奉る皇太子の御宮なり、御門は宮殿の義なること既に屡いへり。
○千代常登婆爾 「チヨトコトハニ」なり。「千代」と「常登婆」とを重ねていへるなり。「千代」はいふまでもなし。「トコトハ」は又更に「トコ」と「トハ」とを重ねたるなり。「トコ」は常住不変の意なるは「常世」「常葉」などいへるにて知るべし。「トハ」も亦略同じ意と見ゆ。古今集第十四、「よみ人しらず」の歌に「津の國のなにはおもはず、山城のとはにあひみむ事をのみこそ」といふあり。「トコトハ」といへるは佛足石歌に「己禮乃與波宇都利佐留止毛止己止婆爾佐乃己利伊麻世《コレノヨハウツリサルトモトコトハニサノコリイマセ》、乃知乃與乃多米《ノチノヨノタメ》云々」とあるなどその例なり。永久不變にの義なり。
○將榮等 「サカエムト」なり。意明かなり。
○念而有之 「オモヒテアリシ」なり。童蒙抄には「ネガヒツツアリシ」とよみたれど、理なし。
○吾志悲毛 「アレシカナシモ」なり。「し」は力強くさし、「も」を終止とするは嘆息の意をあらはすに用ゐたり、これ上四字を以て「吾」の連體格に立たしめ、語格より見れば、ただ「吾は悲し」といふの(348)みにて一首の歌の格をなせるなるが、そのいひ方奇拔にして悲しみの意を力強く適切にあらはせり。
○一首の意 吾が仕へ奉る皇太子は永久にましまし、その御宮はとこしなへに榮えむと思ひてありしに、今かかる世のさまとなりては實に/\悲しさに堪へずとなり。
 
184 東乃《ヒムガシノ》、多藝能御門爾《タギノミカドニ》、雖伺侍《サモラヘド》、昨日毛今日毛《キノフモケフモ》、召言毛無《メスコトモナシ》。
 
○東乃 板本「ヒムガノ」とよめり。古寫本にはすべて、「ヒムカシノ」とあり。板本誤りて「シ」を脱したること著し。童蒙抄には「ヒガシノ」とよみたれど、考以下古にかへしてよめり。「ヒムガシノ」といふ語のこと卷一「四八」にいへるが、その例はそこにあげたり。
○多藝能御門爾 「タギノミカドニ」とよむ。「タギ」の事は卷一「三六」にいへる如く、今「たき」といへるとは少しく異にして、「たぎる」意にして、その「タギル」といふ語の語幹の名詞となれるにて卷一「三八」に「多藝津河内」といへるに似たる意義と用法とに立てるものにして水のたきち流るゝことをいへるなり。「御門」は上にいへる多くの例は宮殿の替詞なるが、ここのも然りといふ説もあれど、(美夫君志、)多くの學者は眞の御門をいふとせり。この説をよしとす。さてこの東の瀧の御門といふ語につきては近藤芳樹の註疏に「多藝は今の瀑布《タキ》のたぐひにはあらず。ただ勾の池の水の瀬をなして流るゝを瀧といへるなり。禁中に瀧口とて清涼殿の御落水《ミカハミヅ》に流れいづる處のあるが如きたぐひなり。そこにある御門ゆゑに此名あるなり。」といへり。まこと(349)さる事とおぼえたり。これにつきて次田氏の新講にはその島宮につきて〈一二三頁)「この地は最初蘇我馬子が邸宅を營んだ所で、支那式の造園法によつて池を掘り、飛鳥川の水を通はせ、池中に中島即ち島を築いたので云々といひ、又この歌の條には「東の瀧の御門は飛鳥川から引いた水が島宮の池に落ちる處にある御殿即ち後の泉殿のやうなものである。前にも述べた通り、この庭は支那式の造園法によつて造られたもので、中古の寢殿造の庭と同じ形式のものであつたのである。而して引水の落口は池の東にあるのが法式となつてゐるのである「東の」と歌つたのはそれが爲である。」といへり。この飛鳥川の水を引きたることと、支那式の造園法によりたる事とは首肯すべきことなるが、「東の」といへると「御門」といへるとの解釋は余は十分に首肯すること能はず。先づ、平安朝の庭園は大體その説の如く東に瀧口を設くる方式によれるものにして、之は聖徳太子の筆に成ると傳ふる庭地形取圖といふを基とせり。されど、この圖の原則は南面してつくられ且四神相應の地勢即ち北には高山、南は廣き田畑東に川流西に大道ある地勢に基づきてのものと見ゆるに、この島の地は南高くして北低く地勢は大體に於いて反對せり。されば、必ずしも然りといふべからず。さていづれにしても東に瀧ありとせざるべからざるが、その東に瀧ありとせば、そは水の落口といはむよりは取入口なりといはむ方地勢にかなへり。何となれば、この邊の地勢東は多武峯又細川山の麓にあたりて傾斜著しければなり。或は思ふに、當時飛鳥川の本流又は、支流たる細川が、この宮の東を流れてあり、それより水を池にとり入れられしにあらざるか。若し然りとせば、今の島の地と今の橘の地(350)とは川を隔てずして相續きてありしにあらざるか。或は又然らずとも、細川の水を引きて東よりとり入れられしならむ。この東の瀧はいづれにしても落口にあらざるべきは地勢上考へらるべきことなり。次に、ここに御門とあるは泉殿にあらでなほ實の御門をさせるなるべし。かく考ふる由は、支那の制は天子は南面するの主義によりて、南を正面とし南の門をことに正式の本門としたるにて、本邦にても、朱雀門、承明門、建禮門など、いづれも、最も重んぜられしなるが、さる事の著しかりし平安朝時代に於いても大臣公卿の出仕する際の事實上の正門は東面の御門陽明門(「近衛の御門」といふ)に限られたるにて、之を日の御門といひ重んぜしなり。神樂歌に「このゑのみかとにこじおといつ」といへるもこの由なり。これを以て案ずるに支那は南北を經とし東西を緯としたるに反し、本邦の古は東西を經とし、南北を緯としたること卷一、「五二」に述べたる如くなるが、その日經のうちにては東を主とすべきは勿論なれば、古は東の門を最も重んぜしものなるべく、南を重んぜしは恐らくは支那式宮城のはじめられし後の事なるべく、それもなほ事實の上にては、古來の如く、東面の御門を重んぜしなるべし。果して然らば、ここに東の瀧の御門といへるは偶然の事にあらで、これ即ち當時の正門なりしなるべければ、特にこれをいひて、舍人の出入する處、又護衛する重要なる場所の代表としていへるなるべし。
○雖伺侍 舊板本「サモラヘド」とよみ、金澤本、類聚古集等には「サフラヘド」とよめり。この「伺」字は説文に「候望也」と注し、廣韻に「伺候」と注せれば、「候」字と通用する字なり。「侍」字は説文に「承也」廣韻(351)に「近也從也」とあり。而して類聚名義抄には、「伺」にも「候」にも「侍」にも「サフラフ」の訓ありて、「サモラフ」といふ訓の字は一字も見えず。然るに萬葉集の假名書なるには「サモラフ」といふ語の例あり。本卷「一九九」のうちに「鶉成《ウツラナス》、伊波比廻雖侍候佐母良比不得者《イハヒモトホリサモラヘトサモラヒエネバ》」卷二十「四三九八」に「安佐奈藝爾倍牟氣許我牟等佐毛良布等和我乎流等伎爾《アサナギニヘムケコガムトサモラフトワガヲルトキニ》」卷七「一一七一」に「大御舟竟耐佐守布高島乃《オホミフネハテテサモラフタカシマノ》云々」など然り。されど、「サフラフ」とかける例一もなし。さればこの頃は專ら「サモラフ」といひしならむ。「伺」も「侍」も共に「サモラフ」の訓あれば、「伺侍」の二字熟して、「サモラフ」といふ語をあらはすなるべく、その熟字は支那に既に用ゐてありしものならむと思はるれど、未だ例を見出でず。
○昨日毛今日毛 「キノフモケフモ」なり、昨日はひろく、過去數多の日を含めていへりとおぼゆ。
○召言毛無 「メスコトモナシ」とよむ。言は「コト」の音をかりて事の義に用ゐたりといふ説多し。されど「事」と抽象的にいふよりも「言」の義とする方具象的にして意適切なり。即ち御用ありとて召したまふ言もきかずとなり。卷三「四五四」に「ハシキヤシサカエシキミノイマシセバキノフモケフモアヲメサマシヲヲ》」といふあり。
○一首の意 島の宮の東門なる瀧の御門に伺候して、わが君の御用事もあらむかと思ひて來てど、咋日も今日も召したまふ御言もきかずとなり。
 
185 水傳《ミヅツタフ》、磯乃浦回乃《イソノウラミノ》、石乍自《イハツツジ》、木丘開道乎《モクサクミチヲ》、又將見鴨《マタミナムカモ》。
 
○水傳 舊板本「ミヅツテノ」とよめるが、管見には「ミツツタフ」とよめりしより、諸家皆これに從へ(352)り。他に例のなき詞ながら文字のままに「ミツツタフ」とよむをよしとすべし、これを冠辭考に枕詞といへれど、實際の事をいひたる詞なりとする新考などの説をよしとす。語の意は契沖は「いそへは水につきてつたひゆけばなり」といひ、古義には「御庭の池の島のめぐりに走らせたる水の礒間々々をつたひて流るるをいへり」といへり。これは水が主格たるものなるべければ、古義の説をよしとす。
○礒乃浦回乃 「イソノウラミノ」なり。礒は上に荒礒といへると同じものにして、島の石をいふ。浦回も亦上にいへるが、ここは島ある池の汀の浦回のさまになれるをさせるなり。
○石乍自 「イハツツジ」とよむ。古義には「イソツツジ」とよめり。「乍」は「ツツ」なるを借り用ゐ、「乍自」にて植物の「ツツジ」にあてたるなり。さて「石」は「イソ」とも「イハ」ともよみうる字なるが、「イソツツジ」といへる語は古今に未だきかぬものなり。「イハツツジ」は本草和名及び和名抄に、羊躑躅の訓として用ゐ、新撰字鏡に茵芋の訓として用ゐて昔よりある語なるが、實際に於いて今も庭園に植うるには岩石をあしらひにおくものなれば、古も、しかなりしならむ。而して、こはその天然のさま岩石多き地に生ずるによりてならむ。而して島宮の庭園には實にかかるさまにいはつつじを植ゑてありしならむ。
○木丘開道乎 舊板本「モクサクミチヲ」とよみたるが、金澤本には「キミサヘ」とし、類聚古集、神田本には「キクサク」とせり。又季吟の拾穗抄には、「コクサクミチヲ」といふ古訓を可とし、童蒙抄は「開」は「關」の誤として、「ココセキミチヲ」かといひ、考は「木丘」は「森」の誤にして「シジニサクミチヲ」なりと(353)いひたり。されど、ここの所に古本どもに誤字あるもの一も見えねば、誤字説は先づ、うけられず。又拾穂抄の古訓なりといふ事も今は證を知らねば、從ひかねたり。さて殘る所にては、金澤本類聚古集の「きみさへ」「きくさく」共に道理なければ、從ひかねたり。されば文字のままによむべきならむが、「木」「丘」の二字共に音の假名としたる例他に見ねど、音としては「モク」とよむに差支なかるべきなり。次に「開」を「さく」といふは古今に通じて異論あらざるべし。さて「モク」とは如何なる語かといふに、和訓栞に「茂をよめるは音にあらず、もし〔二字傍線〕とももく〔二字傍線〕ともよみて神代紀に扶疏をしきもし〔四字傍線〕とよみ、皇代紀に薈蔚をもくしげく〔五字傍線〕とよめる意なり。盛をもるとよむが如し。」といへり。これは「もる」の語幹と「もし」の語幹とが共通せりといふことなるべきが、げにさと思はれたり。さて、この「もし」といふ語を日本紀の訓に用ゐたる例は上の外になほあり。應神妃に「芳草薈蔚」を「もくしげし」とよみ、又顯宗紀に來目部小楯の事をいひて「厥功茂焉」をも「もし」とよみたり。その他の書にては古語拾遺の古訓に「蕃茂」を「シキモセリ」とよみ、將門記の古訓に「蘭花欲茂」を「モカラムト欲」とよみ、朗詠の古訓には「惠茂2筑波山之陰1」を「ボシ」とよめり。又毛詩、尚書、文選、遊仙窟などの古訓にもこの語屡用ゐられ、色葉字類抄にはその辭字の部に「茂モシ莫候反卉木盛也」と注せり。されば、これは「モシ、モク、モキ」といふ形容詞なるべきこと明かなるが、漢字の「茂」を用言化せしものにあらずして古言なるべしといへり。朗詠の「ボシ」は「モシ」の音通なり。意は漢字の「茂」又「薈」の義にて察すべし。「薈」は玉篇に「草盛貌」とあり。「開」を花の咲くに用ゐたるは支那に起る。一二例をいはば、梁元帝の樂府に「春花向v雪開」梁簡文帝詩に「柳葉帶v風轉、桃(354)花含雨開」等あり。即ち「いはつつじ」の茂く盛んに咲く道といふなり。而して、四五月の頃はつつじの花盛なれば實感を基としてよめるなり。
○又將見鴨 舊訓「マタモミムカモ」といひ、考には「マタミナムカモ」とよみ、後の學者多く之に從へり。按ずるに、文字のままにては二者いづれによみても不可にあらず。しかれども、將來再び之を見るを得べきか、恐らくは然らざらむといふ意なるべければ、「マタミナムカモ」の方によるべし。「見ナム」は將來をかけて推測し、さる事をしえむといふ意をあらはせり。「かも」は疑問をあらはすものなるが、ここは反語に用ゐられたり。
○一首の意 水の傳ひながるるこの磯の浦つづきに並べ植ゑおかれたるいはつつじは今花の盛りなるが、かく茂く盛りにつつじの咲くこの池の邊の道をば、我等は將來またも見得べきか如何。恐らくは、再びこの庭の花盛にあひ見むことをなしうべからじと、やがてはこの宮を退散すべき身の感慨の餘にうたへるなり。
 
186 一日者《ヒトヒニハ》、千遍參入之《チタビマヰリシ》、東乃《ヒムカシノ》、大寸御門乎《オホキミカドヲ》、入不勝鴨《イリカテヌカモ》。
 
○一日者 「ヒトヒニハ」とよむ。「者」一字を「ニハ」とよめる例は卷一「二九」に「夷者雖有」「一四七」に「荒野者雖有」などをはじめ、集中に多し。一々あぐべからず。この「ハ」は意味頗る輕し。されど、無意味のものにあらず。
○千遍參入之 「チタビマヰリシ」とよむ。「チ」は數の甚だ多きをいふなり。「遍」は今も度數をかぞ(355)ふるに用ゐる字なるが、その源は支那にあり。魏志の賈達傳の注に曰はく「始達爲2諸生1略覽2大義1取2其1v用、最好2春秋左傳1及v爲2牧守1常自課讀之月常一遍」などこの一例なり。
○大寸御門乎 舊訓「タキノミカドヲ」とよみたるを考に、「寸《キ》は假宇也。假字の下に辭を添るよしなし」といひて「オホキミカドヲ」とよみたり。古義は「大」は誤にして拾穗本によりて「太」と改むべしとし「寸」の下に「能」字脱せりとて補ひ、さて「たぎのみかど」とよめり。攷證は考の説に反對して曰はく「されど人名地名などにはまま假字の下に辭を添ふること見えたり」といひて「タキノミカド」とよむことを主張し、美夫君志も亦同じ趣旨に論ぜり。その考の論據はこれらの説にて破られたれど、さりとてそのよみ方未だ必ずしも否認すべからず。先づ「大」を「タ」の假名に用ゐたるは異例にして、他には「一二八」の「一云」に「戀乎大〔右○〕爾」「二三二」の「己伎大〔右○〕雲」卷十八「四〇九四」の「許等大〔右○〕弖」の三を見るが、それらは古寫本にいづれも「太」に作れば誤なること著しきに、ここは諸本すべて「大」にして一も「太」に作る本を見ず。さればこれはその義によりて「オホキミカド」とよむこと太上天皇、太政大臣、大將軍、大辨、大貳等のよみ方の如くにすべし。この「オホキ」は「多」の意にあらずして「オホキシ」の語幹なり。かく形容詞の語幹を直ちに名詞に冠して熟語の形にすることは古も今も行はるる所なるが、本集中にここに似たる假名書の例を求むれば卷二十「四四九一」の「於保吉宇美能美奈曾己布可久《オホキウミノミナソコフカク》」あり。「大キ御門」とは大門又は正門といふ程の事なるべし。
○入不勝鴨 「イリカテヌカモ」とよむ。「カツ」は上「九四」の「有勝麻之自」の條にいへる如く、たふる由の語なり。「カテヌ」の「ヌ」は打消の語にてその連體形より「カモ」につづけたるにて「カモ」は感動の(356)意をあらはして終止せるなり。
○一首の意 これまでは愉快に一日に千遍も參入りしこの東の瀧の御門をば、將來も、以前の如くに參入ることを得べきか、否や。今や皇太子尊の此世におはさず、主のまさぬ宿となりはてたれば、我等は、參入るに堪へぬ事となれるかな。かくて、いよ/\荒れはて行くらむことの悲しさよ。
 
187 所由無《ツレモナキ》、佐太乃岡邊爾《サタノヲカベニ》、反居者《カヘリヰバ》、島御橋爾《シマノミハシニ》、誰加住舞無《タレカスマハム》。
 
○所由無 舊訓「ヨシモナク」とし、類聚古集、西本願寺本は「ヨシモナキ」とよめり。童蒙抄は「ユヱモナキ」とよみ、本居宣長は上の「由縁母無」(一六七)と同じく「ツレモナキ」とよむべしといひ略解之によれり。この説をよしとす。
○反居者 古來「カヘリヰバ」とよめり。古義は之を非とし、「反」は「君」の寫誤なりとして、「キミマセバ」とよみ、美夫君志は「反」を「ウツル」とよむべしといへり。されど、ここに誤字ある古寫本一もなければ、古義の説は從ひ難し。又「反」を「ウツル」とよむことの不條理なること既に「一八二」にいへる如くなれば、美夫君志の説も從ひ難し。然らば「カヘリヰバ」といふ語の意如何といふに、考に「かへりゐるとは行かへりつつ分番交替してゐるをいふ。」といへるをよしとす。然るに、古義は之を批難して、「もしさらば、カヘリヲレバといはではかなはぬことなり」といひ、新考などにも考の説にては意通ぜずといはれたり。余按ずるに、從來の諸家、賛する人も、反對する人もこの「カ(357)ヘル」をば、島宮と眞弓の陵所との間に往復交替する意にとるが故に、意義通ぜぬなり。まことに、島宮と眞弓の陵所との間を交替に分番宿衛するものとせば、これより下の二句の意了解しうべからぬ事は勿論なり。さりとて、これが爲に、誤字説を出さずば、了解し得られざる程の難解の歌にもあらざるものを。諸の大家如何に思ひ惑へる事にか。この「かへり」はもとより分番交替し宿衛の爲に眞弓の陵所に往復することをいへるに相違なし。されど、その舍人等の本居は島宮にあらで、恐らくはその附近に賜はれる舍屋ならむ。さらずば、上の歌にいへる「一日には千遍まゐりし東のたぎの御門」といふ語も無意義とならむ。即ち、これは「己等が賜はれる官舍よりしてかく眞弓の陵所に交替分番してゐば」、といふことにして、すべての人がその陵所に奉仕するに日もこれ足らず、島の御門には出入する事の絶えたる故にかくいへるなり。かくの如く見來りて、そこに何の無理なる點、また解し難き點あらむや。學者三思するを要す。
○島御橋爾 「シマノミハシニ」とよむ。この「ミハシ」をば、契沖は「御橋トハ書タレト御階ナルベシ」といひ、考略解、以下多く之に從へり。されど、新考には「契沖并に其説に從へる人人はシマノミカドを例としたるならめど、そのミカドは宮の御門といふことにはあらで、御殿といふ事なる由既に云へり。案ずるにシマノミハシは勾の池の中島に渡せる橋にて云々」といへるをよしとす 島といふ語のみにて島宮をいふべくもあらねばなり、これは島の池上の景色を賞すべく御橋に立つことありしを思へるならむ。
○誰加佐舞無 「タレカスマハム」なり。「スマフ」は「スム」をハ行四段に再び活用せしめたるものに(358)して、その作用の繼續せることをあらはせる語なり。その例は卷四「五七八」に「天地與共久住波牟等《アメツチトトモニヒサシクスマハムト》」卷五「八八〇」に「比奈爾伊都等世周麻比都々《ヒナニイツトセスマヒツツ》」等あり。その意は新考に「トドマラムといふ意にこそ。住居の意とすれば、御階にてもかなはず」といへるをよしとす。
○一首の意 もとゆかりもなかりし佐太の岡邊に、今は山陵をおかれたれば、我等は分番して宿衛する爲に絶えず往復するなるが、かくしてゐたらば、島の宮のあの景色のよき御橋の上にとどまりて眺めにふけるもの誰一人としてあらむやとなり。
 
188 旦〔左○〕覆《タナグモリ》、日之入去者《ヒノイリユケバ》、御立之《ミタタシノ》、島爾下座而《シマニオリヰテ》、嘆鶴鴨《ナゲキツルカモ》。
 
○旦覆 舊板本「且覆」につくり「アサグモリ」とよめり。されど、「且」字は「アサ」とよむべき字にあらず。金澤本、類聚古集、古葉略類聚抄、神田本には「旦」とせり。然るときは「アサ」とよむをうべし。されど、「覆」を「くもり」とは直ちによみうべきにあらず。この故に考は「天靄」の誤として「アマグモリ」とよみ、檜嬬手は「旦覆」にて「アサカヘリ」とよみ、古義は「茜指」の誤として「アカネサス」とよみ、美夫君志には「旦覆」にて「タナグモリ」とよむべしといひ、攷證は舊訓のままにてよかるべきをいへり。先づ、考及び古義の誤字を基とする説は從ふべきものにあらず。次に「且」は古寫本に從ひて「旦とすべし。しかする時には「アサ」とよむことは普通なるが、「覆」を「クモリ」とよむことは如何といふに、攷證に次の如くいへり。「覆は釋名釋言語に覆蓋蔽也云々とあるごとくおほふ事にて空をおほふ意なればくもりとはよめるなり」といへり。この義によらば「アサグモリ」とよむことを(359)得ともいふべし。されど、「アサグモリ」といふ詞を以て、「日のいる」といふに對すること、古今に證なく、又いかにして、かくいひつづくるにか。理なきことといふべし。代匠記にくだ/\しき説あれど從ひがたし。美夫君志の説は「撥假宇のン〔右○〕は奈行の通にてナ〔右○〕と轉じ用ゐる例なり」といひ、別記に、委しき説あるが、要をいはば「此旦は悉曇家にて所謂舌内聲の字なれば、……ナニヌネノの音に轉ずる例也……猶云はば國名の丹波も和名抄の訓注には太邇波とあり。これを古事記の孝元天皇の段には旦波《タニハ》と作《カケ》り。これ旦をタナ〔二字右○〕と訓べき明證也」といへり。「タナグモリ」といふ語は卷十三「三三一〇」に「棚雲利雪者零來奴《タナグモリユキハフリキヌ》」とあり。空のかきくもり暗くなるをいふことばと見えたり。さらば、美夫君志の説にしたがふべし。
○日之入去者 舊訓「ヒノイリユケバ」とよみて、異論もなかりしが、古義には「ヒノイリヌレバ」とよめり。「去」は「ユク」(卷一「六二」」ともよみ又「ヌ」にあてて用ゐること既にいひたる所なるが、ここにはいづれにても、意義通ぜざるにあらず。「イリユケバ」とよむときは、次第に入りゆく義となり、「イリヌレバ」とよむときは、入はてたるをいふ意となるが、實際の日につきていふ時は「ユケバ」とよまむ方まされり。この「イル」をば諸家多く暮に及びて日の傾きて入るをいふとせるに、攷證には「暮ゆく事にはあらで、日の雲に入をいへり」といへり。されど、夕日の入るといへること古來いひ來りたることにして、萬葉集にも卷十九「四二四五」に「日入國爾所遣和我勢能君乎《ヒノイルクニニツカハサルワカセノキミヲ》」ともいひ又「入日」といへる語(一五、二一〇、四六六等)多し。日の入るは普通の説にて毫もさし支なきことなり。以上二句を新考に「皇子の薨ぜしを譬へたるなるべし。夜になるを待ちて池の中島に(360)おりゐて嘆かむことあるべきにあらねばなり」といへり。いかにもこの下心ある事なるべし。されど、語の上にはこの事明かに示されず。なべて夕暮はもの悲しきものなれば、その表面の意にてももとより差支なき事なり。
○御立之 これは上の、御立爲之」(一八〇)と同じ語なるを簡にしてかけりとおぼゆ。考には「立」の下に「爲」を補へり。されど、「ミタチセシ」とよまむには「爲」なくてはあしかるべきが、余が案の如くはこのままにて「ミタタシノ」とよむに差支なし。意は既にいへり。
○島爾下座而 「シマニオリヰテ」とよむ。皇子のめで給ひし島、即ち庭に、御殿より下りて立つなり。然るに、契沖は「日暮ゆけば、宮の外|方《ザマ》の池島のほとりの舍へ下ゐる故にしかよめり」とあるが、これは新考に「皇子豈舍人の舍のある處に立ち給はむや、否皇子の立ち眺したまはむ小島に舍人の舍を設けむや」といへる如く、從ふべき説にあらず。
○嘆鶴鴨 「ナゲキツルカモ」なり。鶴鴨共に借字なり。「カモ」は嘆息の意をあらはす。
○一首の意 日も暮方になりて夕日も山の端に入り行けば、世間もほのぐらくなるにつれて、すずろに物悲しく、わが皇太子の御生前にめでたまひて御立ありしこの池庭にわれは下り立ちてありし昔をしのび嘆きつることよとなり。
 
189 旦日照《アサヒテル》、島乃御門爾《シマノミカドニ》、欝悒《オボホシク》、人音毛不爲者《ヒトオトモセネバ》、眞浦悲毛《マウラガナシモ》。
 
○旦日照 「アサヒテル」とよむ。流布本「且」に作れど古寫本多く「旦」に作るを正しとす。語の意は(361)「一七七」の「朝日弖流」の下にいへるにをなじ。
○島乃御門爾 「シマノミカドニ」とよむ。「シマノミカド」は上(一七三)にいへり。
○欝悒 上の「一七五」に同じ字あり。ここもおなじく「オボホシク」とよむべし。意もおなじ。この句は一句へだてて「マウラガナシモ」に接する意なれば、倒置せるなり。
○人音毛不爲者 舊訓「ヒトオトモセスハ」とよみたり。代匠記には「ヒトオトモセネハ」とよみたるより諸家之に從へるが、古義は「ヒトトモセネバ」とよみたり。古義には説明なけれど、「ヒトオト」を約めて「ヒトト」とよめるならむ。かくいひても不可なかるべきが、「ヒトオト」とよみて惡しきにあらねば、そのままにてありぬべし。「不爲者」は「セズバ」とも「セネバ」ともよみうるものなるが、ここは人の出入も稀に、すむ人もみえぬさびしさをば人の音もせぬといひたるにて、事實によりていへるなれば、「セネバ」とよむをよしとす。
○眞浦悲毛 「マウラガナシモ」とよむ。之を釋して考は「眞はまこと、浦は心也」といへり。この語は「うらがなし」といふ一の語に「ま」といふ接頭辭のつけるものなり。「ウラガナシ」といふその「うら」は心裏の字の意にして、「ウラゴヒ」「ウラコヒシ」「ウラサビシ」などの語をなせり。「ウラガナシ」といふ語の例は卷十五「三七五二」に「波流乃日能宇良我奈之伎爾《ハルノヒノウラガナシキニ》」卷十九「四一七七」に「豁敝爾波海石榴花咲《タニヘニハツバキハナサキ》、宇良悲《ウラガナシ》、春之過者《ハルノスグレバ》」などあり。その「ウラガナシ」に「マ」を冠したる例は他になけれど、「マガナシ」といへる例は卷二十「四四一三」に「麻可奈之伎西呂我馬伎己無《マガナシキセロガマキコム》」あり。これらに准じて知るべし。まことに悲しといふ意を一語にていへるなり。「も」は例の歎息の意をあらはせり。
(362)○一首の意 旦日照る島の御宮は主人皇太子のましましし頃は眞に照日の如く盛にてありしが、今は出入る人も稀にて人音もせぬ程なれば、如何なる事かと夢地をたどる如く、たよりなき心地して、實に悲しきよとなり。
 
190 眞木柱《マキバシラ》、太心者《フトキココロハ》、有之香杼《アリシカド》、此吾心《コノワガココロ》、鎭目金津毛《シヅメカネツモ》。
 
○眞木柱 「マキバシラ」とよむ。眞木即ち檜にてつくれる柱をいふ。檜は上品の材なれば、眞木柱は宮殿の柱をさす。これを「フトシ」の枕詞とせり。その意は、日本紀神代卷下に「造宮之制者柱則高太板則廣厚」とあるにて知るべく、卷六「九二八」に「長柄宮爾眞木柱太高敷而《ナガラノミヤニマキキバシラフトタカシキテ》」又卷七「一三五五」に「眞木柱作蘇麻人《マキバシラツクルソマビト》、伊左佐目丹《イササメニ》、借廬之爲跡造計米八方《カリホノタメトツクリケメヤモ》」とあるにて、眞木柱に「太し」といふ由あるを見るべし。
○太心者 「フトキココロハ」なり。太き心とはををしくすぐれたる心の義にて大丈夫の偉大なる動かぬ心をいふ。
○有之香梓 「アリシカド」とよむ。「香杼」共に音をかりたる假名なり。「シカ」は「キ」の已然形にして、それを接續助詞「ド」にてうけたるなり。
○此吾心 「コノワガココロ」といふ。この語遣のさまは卷十七「三九八四」に「己能和我佐刀爾《コノワガサトニ》」とあるに似たり。わが心をま近くさして「この」とはいへるなり。新考に「ワガ此悲ナリ」といへる如くこの悲みの心をさす。
(363)○鎭目金津毛 「シヅメカネツモ」とよむ。「モ」は例の歎息の意をあらはす。「カネツ」の「カヌ」は「難し」の意の動詞にして、卷一にもこの卷の上にも出でたり。「鎭め」は心を鎭靜《シヅ》むる意にして、ここは激情をしづめ、心を平靜に保つをいふ。日本紀顯宗卷の室壽詞中に「築立柱者此家長御心之鎭也」と見え、本集卷五「八一三」に「彌許々呂速斯豆迷多麻布等《ミココロヲシヅメタマフト》」とも見たり。而してはじめに眞木柱といひて、ここに「しづめかねつも」といへるおのづから、上の室壽詞に由ありて聞ゆ。恐らくは眞木柱は家の鎭めなりといふ如き常套語の當時行はれしものあらむ。
○一首の意 眞木柱の太くたくましきが如く、われはををしくすぐれたる丈夫心をもちてありしものと自任し、かねては何事にも動ずまじく思ひてありしかど、今ゆくりなくこの皇太子の大故にあひ奉りては哀しみに堪へかねて、心をしづめむと欲すれども、鎭むることをえせぬ事よとなり。
 
191 毛許呂裳遠《ケゴロモヲ》、春冬片設而《ハルユフカタマケテ》、幸之《イデマシシ》、宇陀乃大野者《ウタノオホヌハ》、所念武鴨《オモホエムカモ》。
 
○毛許呂裳遠 舊訓「ケコロモヲ」とあり。金澤本などには「コケコロモ」とよめるあり。されど、「コケコロモ」とよむべき由なければ、舊訓をよしとす。さて「毛衣」とは何か。契沖は鳥獣の毛を以て織れる衣なりといひ、考には「皮衣」といへり。而して、攷證と美夫君志とは考に毛衣皮衣を一にせしを誤なりといへり。然るに本邦の古に毛を以て織りて衣服の料としたるものありしといふ證一も見出でず。されば、毛皮を以てつくれる衣服をば、毛衣とも皮衣ともいひしもの(364)にして、一物二名ありしなるべし。今この歌は御狩の事をいへること著しきが、古狩には皮衣をつけしことは、嵯峨野物語に鷹飼の装束はみなかは衣かは袴なりといへるにても知るべく、又上代に毛皮の衣を用ゐしことは日本紀應神卷十三年の條に、日向諸縣君牛がその女の髪長媛を朝廷に奉りしとき、天皇淡路島に幸せられしが、西を望みたまへば、數十の鹿の海に浮きて來て播磨の鹿子水門に入るを見て、使を遣して見しめたまひしに、著角鹿皮を衣服としたるにてありきといふ事見ゆ。なほ平安朝にも貂裘といふものの貴重せられしこと物語ものなどに見ゆ。されば、ここは毛皮の衣を「けころも」といひしものとおもふ。さてこの「ケコロモヲ」は春の枕詞なりとする説、加茂眞淵をはじめ、略解、攷證、古義、などしかいへり。代匠記は「ケコロモを調置て春冬の來るや遲きと狩に出給ひつる心なり」といひ、美夫君志またその趣にいへり。按するに衣類を張るといふより春にかけて枕詞とせるものなるは勿論なるが、又御獵の縁によりて之を用ゐたるものなること檜嬬手にいへるが如くなるべし。
○春冬片設而 舊板本「ハルカタマケテ」とよめり。大矢本京都大學本は「トシカタ」といふ一訓をつく。代匠記には「ハルフユカタマケテ」とし、童蒙抄には「ハルフユカケテ」とし、考は「片」は「取」の誤なりとして、「ハルフユトリマケテ」なりとせり。されど、「片」字には諸本いづれも他の字を用ゐねば、誤字としがたし。さてこの文字のままにてよまば、代匠記の如くよむが、それにては九音となりて甚しき異例となる。新考には「春冬の冬の字は衍字なるべし。即春の字一本に冬とあるより春の字の傍に書きたるがまぎれて本行に入れるなるべし」といへるが或は此の如き事(365)ありしならむと思はる。然れども諸本にすべてこの所誤字なければ姑く古訓のままにてあるべし。「ハルカタマケテ」といふ語の例は卷五「八三八」に「烏梅能波奈知利麻我比多流乎加肥爾波宇具比須奈久母波流加多麻氣弖《ウメノハナチリマガヒタルヲカビニハウグヒスナクモハルカタマケテ》」といふあり。又「冬カタマケテ」といへる例は卷十「二一三三」に「秋田吾苅婆可能過去者雁之喧所聞冬方設而《アキノタノワカカリバカノスギユケバカリガネキコユフユカタマケテ》」といふあり。「アキカタマケテ」といへる例は、卷十互「三六一九」に、麻多母安比見牟秋加多麻氣低《マタモアヒミムアキカタマケテ》」といへるあり。又「ユフカタマケテ」といへる例卷十「二一六三」に「草枕客爾物思吾聞者《クサマクラタビニモノオモヒワカキケバ》、夕片設而鳴川津可聞《ユフカタマケテナクカハヅカモ》」あり。又卷十「一八五四」に「鶯之木傳梅乃移有櫻花時片設奴《ウクヒスノコヅタフウメノウツロヘバサクラノハナノトキカタマケヌ》」といふあり。これらによりて「カタマケテ」といふ語が、秋冬春又夕など、すべて時をあらはす語につけて用ゐられしことを見るべし。その意は、古義に「片附《カタツキ》設るよしなり」といひ攷證に「方儲《カタマケ》にて皆その時を待まうけたる意也」といへり。然れども新考には卷十の「冬カタマケテ」の例をひきて他動詞にあらずして自動詞なりといひて「語意はチカヅキテといふ事ならん」とあり。如何にも然か思はる。されば、これが、春秋冬夕などを人が、待ち設くる意にはあらず、それらの時自身が用意する意にて近づかむとしてそのしるしの見え初めなどするを「かたまけ」といへるなるべし。されば「春片設而」は春が近づきてといふことにて、なほ冬の時なるをいへるか。
○幸之 舊訓「ミユキセシ」とよみたるが、皇太子に「ミユキ」とよみたる例なれば、從ひ難し。童蒙抄には「イデマセシ」とよみ、考に「イデマシシ」とよめり。「イデマセシ」にては語格にあはねば、考によるべし。「幸」を「イデマス」とよむは、卷一「五」の「行幸能」といふ語の下にいへるが如く、類聚名義抄に(366)「行」を「イデマス」とよめるに准へてよむべし。
○宇陀乃大野者「ウタノオホヌハ」とよむ。この地は、卷一にいへる安騎の野なるべし。その地は宇陀郡のうちなればなり。攷證には「書紀天武紀に菟田郡【中略】到大野云々とあるここ也」といへれど、その大野は安騎より一日程を隔て伊賀に近き地にありて別なり。攷證は安騎の野とこことを混同せることは「本集一に安騎乃大野とあるも宇陀郡なれば、ここなるべし」といへるにてしるし。さて、宇陀の安騎の大野なるをかくは略していへるならむ。この野の事は考に「上の卷に宇陀の安騎にて日並斯皇子の御狩たたしし時は來向と人萬呂のよみし同じ御狩の事をここにもいふ也」といへり。
○所念武鴨 「オモホエムカモ」とよむべし。童蒙抄に「シノバレンカモ」とよみたれど、從ひ難し。この句の意契沖は「其時に至らば有し事の忘られず、思ひ出されむとなり」といひ、考には「今よりは此有し御狩の事を常の言ぐさ思ひ種として慕奉らん哉と歎ていふ也」といひたり。考の説をよしとす。
○一首の意 今より後年々冬となり、春となり狩獵に適する時節の近づき來れば皇太子の獵にいでまししあの宇陀の安騎の大野の事の思ひ出されて、いつまでも忘るることあるまじと思ふとなり。かの卷一の歌によりて見てもその御狩の思出深き事なりしを想はしむ。
 
192 朝日照《アサヒテル》、佐太乃岡邊爾《サタノヲカヘニ》、鳴鳥之《ナクトリノ》、夜鳴變布《ヨナキカハラフ》、此年己呂乎《コノトシゴロヲ》。
 
(367)○朝日照 上にいへるにおなじ。
○佐太乃岡邊爾 「サタノヲカヘニ」とよむ。「サタノヲカ」は上にいへる如く、皇太子の御陵のある地なり。
○鳴鳥之 「ナクトリノ」とよむ。古義には「之」は「毛」の誤にして、「ナクトリモ」ならむといへり。されどさる字ある本一もなく、又「之」にて意通ぜざるにあらねば、もとのまゝにてよきなり。さて「の」は「の如く」の意にして、この上三句を序として舍人等がなくことをいはむ爲におけりといふ説(考、略解古義嬬手)と「ふくろふのやうの凶鳥の夜鳴」をするなりといふ説(代匠記、美夫君志)とあり。この意義は下の「夜啼變布」の意義に左右せらるるものなれば、次に至りていふべし。
○夜鳴變布 舊訓「ヨナキカヘラフ」とよめり。古寫本中には「ヨルノナキカナ」(金澤本)「ヨナキカヘサフ」(類聚古集、神田本)とよめるあり。又管見には「ヨナキカハラフ」とよみ、童蒙抄は「變」は「戀」の誤にして「ヨナキコヒシキ」とよみ、古義は「ヨナキカヘラフ」を可とすといへり。先づここに誤字ありといふ説は證なければ從ふべからず。次に、變字は「カヘル」にあらずして「カハル」といふ語にあたる字なれば、「カハラフ」とよむべき筈なり。かくして意通せすば、他のよみをも考へざるべからざれど、それにて意通ぜば、強ひてかはりたる訓を考ふる必要なし。さて「夜鳴變らふ」といふ語とせば、如何に解すべきかといふに、「カハラフ」といふ語は「カハル」といふ語をハ行四段に再び活用せしめしものにして、その語にて示す事の引續き行はるることを示すものなり。かくすれば、下にこの「年比乎」といへるにも吻合するなり。さて「夜鳴變らふ」とは、如何なる意ぞとい(368)ふに、代匠記に「念比此さたの岡邊に凶鳥の夜鳴にあしきね鳴つるはかからむとてのさとしなりけるよと思ひ合てなけく意なり」といひ、考には「舍人等のかはるかはる夜のとのいを嘆つつするをいふ」といへるは極端の説なり。美夫君志は考の説に基づきて「鳥の鳴聲に依て吉凶を知ることは佛説十二縁生祥瑞經にも見えたるが、漢籍にもまたあり」とて説文遊仙窟などを證とせり。如何にも本邦にては今も鳥の惡しき鳴聲を忌むなどかかる思想の存せざるにあらず、古にありては蓋し甚しきものありしならむ。しかれども、さる事ならば、この歌をよめる當時の事にあらぬ事になり、「此年ごろを」といへるには合致せず。こは蓋し萬葉集新釋に「鳥の夜の鳴聲が前とは變つて悲しく聞えることである」といへる如き意なるべし。かく考へ來れば、上の句の「鳴鳥之」は實際の鳥の鳴聲をさせる語なりといふべし。
○此年己呂乎 「コノトシゴロヲ」とよむ。「年ゴロ」の「コロ」は時間をいふ語なれば、「としごろ」といふことばにてたゞ「年」といひてかぞふる時間といふ程の義と見ゆ。さてこの「乎」は「よといふに似て助辭也」と攷證にいひ、檜嬬手、美夫君志等之に從へり。この年頃の間をかはらふといへるなれば、格助詞の「を」なること新考にいへるが如し。されど、これを格助詞「ヲ」とすれば、とて、「ヨナキワタ〔二字右○〕ラフ」と改むる新考の説には從ひかねたり。「カハラフ」にて時間の繼續をあらはしてあればなり。
○一首の意 皇太子薨去より引つづき此年ごろの間佐太の岡の邊になく鳥の夜の鳴聲をきけば常とは邊りて悲しく聞ゆることよとなり。これは自己の悲しき情によりて鳥の鳴聲もこ(369)の比はかはりてきこゆるやうに思はるるをうたへるなり。
 
193 八多籠良家《ハタゴラガ》、夜晝登不云《ヨルヒルトイハズ》、行路乎《ユクミチヲ》、吾者皆悉《ワレハコトゴト》、常道敍爲《ミヤヂニゾスル》。
 
○八多籠良家 舊訓「ヤタコラガ」とよめり。代匠記には「ハタゴラカ」とよみ、考には「多」を「豆」の誤かとし「ヤツコラガ」とよみ、玉の小琴には「良」は「馬」の誤とし、「ハタコウマ」とよみ檜嬬手には「多」は「箇」の誤「家」は「我」の誤として訓は「ヤツコラガ」とせり。然るに古寫本すべて誤字なければ、誤字説は從ふべからず。然れども、「ヤタコ」といふ語は他に例もなく、その意も知られず。「ハタゴ」とよむ説は和名抄に行旅具に「※[竹/兜]…漢語抄云波太古俗用旅籠二字飼馬籠也」とあるに基づくものにして今旅籠の字に見る如く、昔は行旅の具として馬に飼ふ籠をさせるものなるが、その「ハタゴ」をつけて行く馬又その馬子をもさすといふなり。今姑くそれに從ふ。されど、これにて治定せりといふべからず。後の學者の考究をまつものなり。
○夜晝登不云 「ヨルヒルトイハズ」とよむ。卷九「一八〇四」に「味澤相宵晝不云《アチサハフヨルヒルトイハズ》、蜻※[虫+延]火之心所燎管《カギロヒノココロモエツツ》」卷四「七二三」に「野干玉之夜晝跡不言念二思吾身者痩奴《ヌバタマノヨルヒルトイハズオモフニシワガミハヤセヌ》」卷十一「二三七六」に「夜晝不言戀度《ヨルヒルイハズコヒシワタレバ》」などの例あり。夜晝とそのわかちをもいはずとの意なり。
○行路乎 「ユクミチヲ」なり。
○吾者皆悉 舊訓「ワレハサナガラ」とよみ考には「コトゴト」とよみたり。新考には「サナガラ」といふ語をよしとし、「ソノマヽニ」といふ意といへり。然るに、皆悉を「サナガラ」とよむべき理由を知(370)らず。又「皆悉」は「ソノマヽニ」の意をあらはせる文字にもあらず。いづれにしても道理なしと見ゆ。「皆悉」は今「悉皆」ともいふ如く、各字に「ミナ」「コトゴトク」の意あるを重ねてその意を確めたるなり。「ことごと」といふ語は「ことごとく」の語幹にして意同じきことは卷一「二九」にいへり。卷五「八九二」に「布可多衣安里能許等其等伎曾倍騰毛《ヌノカタギヌアリノコトゴトキソヘドモ》」とあるその假名書の例なり。この「ことごと」は何をさしていへるか。これは宮道にする事柄に對して「ことごと」といひたりとせば、近世の講釋師の言めきたる事となる。さる語遣のかかる古代にありとは思はれず。これは「我等悉くが」の意なることは爭ふべからず。かく數量を示す語が、それに對する本體の語につける「は」といふ助詞の下にあることは國語に於ける一の現象なり。(日本文法講義三五七節を見よ。)この關係を明かにせずば「コトゴト」とよみたりとも意は徹底せぬ筈なり。
○宮道叙爲 舊訓「ミヤカトソスル」とよめり。然れども「ミヤカ」といふ語あるべくもあらず。多くの古寫本(神田本、西本願寺本、温故堂本、大矢本、京都大學本等)「ミヤヂトゾスル」とせり。さて考には「ミヤヂニゾスル」とよめりしより後諸家これに從へり。按ずるに集中「ニ」といふ助詞をば、下に、或る助詞を書けるときにはかかずして加へよますること「者」を「ニハ」とよむが如く例少からねど、「ト」にはかゝる例をさ/\見えず。されば、こゝも「叙」を「ニゾ」とよむべきならむ。さて「ゾ」の係助詞の故に下の「爲」を「スル」と連體形によむべきなり。宮つかへの通路とする由の意なり。
○一首の意 宮路には道を守る人ありてみだりに夜行などをゆるされぬものなるが、賤しき奴等の晝夜とその區別なく、心のままに往來する、この眞弓丘、佐大岡あたりの道をばおもひもか(371)けず我等は一人ものこらず、宮仕する爲に往反する道とせるよとなり。これも世のうつりかはりたるさまをよくいひあらはせるものなり。
 
右日本紀曰三年己丑夏四月癸未朔乙未薨。
 
○ この左注は日本紀卷三十の文を節取して示せるなり。攷證には三年の上に「高天原廣野姫天皇とあるべき也。さなくてはいつの御代の三年かわかりがたし」といへるはさる事のやうにも思はるれど、必ずしも然といふを得ず。何となれば、このはじめこの天皇の御宇といふことを掲げてあれば、その御世の三年なることいはずして知らるればなり。
○ 以上の總評として考に曰はく「右は六百人の舍人なれば、歌もいと多かりけむを撰みて載られしなるべし。皆いとすぐれて嘆を盡し、事をつくせり。後にも悲みの歌はかくこそあらまほしけれ。」と。
 
柿本朝臣人麿獻2泊瀬部皇女忍坂部皇子1歌一首并短歌
 
○柿本朝臣人麿 上に屡いへり。
○泊瀬部皇女 「ハツセベノヒメミコ」續紀に長谷部内親王とかける御方なり。天武天皇の御子にして忍坂部皇子の同母の御妹におはします。日本紀天武天皇紀下に曰はく「次(ニ)宍人臣大麻(372)呂女|※[木+疑]《カヂ》(類本、作※[木+穀]蓋穀之訛)媛娘生2二男二女1。其一曰2忍壁皇子1、其二曰2磯城皇子1、其三曰2泊瀬部皇女1、其四曰2託基《タキ》皇女1」とあり。この皇女の事は續日本紀靈龜元年正月の條に四品長谷部内親王に封一百戸を益さるる記事あり。同天平九年二月の條に三品を授けらるる記事あり。天平十三年三月の條に「己酉日、三品長谷部内親王薨天武天皇女也」と見えたり。
○忍坂部皇子 「オサカベノミコ」。紀に忍壁皇子とかき續紀に刑部親王とかける御方なり。天武天皇の御子にして、泊瀬部皇女の御同母の御兄にましますこと上にいへる如し。この皇子の事は日本紀天武天皇十年三月の條に詔して帝紀及び上古の諸事を記し定めしめらるる諸員の中に御名見え、同十四年正月の條に丁卯日忍壁皇子に淨大參の位を授けらるることあり。同朱鳥元年八月の條に辛巳日忍壁皇子に封百戸を加へらるる記事あり。又續日本紀には文武天皇四年六月の條に淨大參刑部親王を首として、藤原不比等以下すべて十七名に勅して律令を撰定せしめられ、大寶元年八月條には三品刑部親王以下の撰定せし律令の始めて成れる由の記事あり。大寶三年正月の條には「壬午詔三品刑部親王知2太攻官事1」と見え、慶雲元年正月には封二百戸を益さるる由見え、同二年四月には「賜2三品刑部親王越前國野一百町1」と見え、なほ「五月内戌三品忍壁親王薨、遣v使監2護喪事1。天武天皇之第九皇子也」と見えたり。
○ この詞書につきて諸家に種々の異説あり。代匠記には皇女の下に「兼并等の字脱たるか」といひ考には全く誤れりとし、改めて「葬2河島皇子於越智野1之時柿本人磨献2泊瀬部皇女1歌」とし、檜嬬手之に從へり。又略解には、「忍坂部皇子の五字は次の明日香皇女木※[瓦+缶]殯宮云々の端詞に有(373)しが、ここに入しもの也」といひ、古義には「忍坂部皇子の五字を他より混入したるものとし、題詞を「河島皇子殯宮之時柿本朝臣人麿猷2泊瀬部皇女1歌云々」と改めたり。新考はただ、「忍坂皇子」の五字を衍なりとして、「おそらくはもとは註文にて忍坂皇子同母妹などぞありけむ」といへり。按ずるにこの端書のみにては、如何なる場合の枕詞なるか明かならず。この故にかく種々の説も出でたるなるが、考、古義等の説は左注を是なりとして、これをここにうつしたるにすぎざるものなり。然れども、古來かくありて、その事情詳かならずして、或本に左注の記せる如き事ありたればこそ左注も記せるなれ。されば、今更左注を本に立つることはかへりてさかしらなるべし。されば、ここは美夫君志に考の説をあげて、さて、「此はさる事ながら各本皆此の如くなれば、しばらく本《モト》のまゝにておきつ」といへる如き態度をとるを穩かなりとす。次に「忍坂部皇子」を衍なりとすることも道理あるかの如く見ゆれど、元來如何なる故にかくかけるか明かならぬものなれば、この皇子の御名を除きてもなほ明かならぬ點は同じく殘れり。されば、これはいづれにしても明かならぬものなれば、姑くただそのままにさしおく外なかるべし。
 
194 飛鳥《トブトリノ》、明日香乃《アスカノ》、河之《カハノ》、上瀬爾《カミツセニ》、生玉藻者《オフルタマモハ》、下瀬爾《シモツセニ》、流觸經《ナガレフリフル》、玉藻成《タマモナス》、彼依此依《カヨリカクヨリ》、靡相之《ナビカヒシ》、嬬乃命乃《ツマノミコトノ》、多田名附《タタナツク》、柔膚尚乎《ニキハダスラヲ》、劍刀《ツルギタチ》、於身副不寐者《ミニソヘネネバ》、烏玉乃《ヌバタマノ》、夜床母荒良無《ヨトコモアルラム》、【一云何禮奈牟】所虚故《ソコユヱニ》、名具鮫《ナクサメ》(魚《カネ》)天《テ》、氣田〔左○〕敷藻《ケタシクモ》、相屋常念而《アフヤトトオモヒテ》、【一云公毛相哉登】、玉垂乃《タマダタレノ》、越乃大野之《ヲチノオホヌノ》、且(374)露爾《アサツユニ》、玉藻者※[泥/土]打《タマモハヒヅチ》、夕霧爾《ユフギリニ》、衣者沾而《コロモハヌレテ》、草枕《クサマクラ》、旅宿鴨爲留《タビネカモスル》、不相君故《アハヌキミユヱ》。
 
○飛鳥 「トブトリノ」とよむ。これを「アスカ」の枕詞とせり。その意義及び、枕詞とせる理由明かならぬ由は卷一「七八」にいへる如し。
○明日香乃河之 「アスカノカハノ」とよむ。この河は古來名高き川なるが、その河は、その源二あり。一は高市郡畑村に發し稻淵村(古の南淵村)を經るによりて稻淵川といひ、一は十市郡(今の高市郡)多武峯に發して細川といひ、やがてその通る村をも細川村といふ。この二流高市郡祝戸といふ邊にて相會し、北に流れ、廣瀬郡|川合《カハヒ》村に至りて大和川に入る。今は大川といふべからねど、古は、水量多かりしなるべく思はるるは、この川の水源地を朝廷より保護せられしにて想像せらる。日本紀天武天皇五年五月の條に「勅(シテ)禁2南淵山、細川山1並|莫《ナカラシム》2蒭薪《クサカリキコルコト》1」とあるその證なり。
○上瀬爾 舊本「ノボリセニ」とよみたれど「ノボリセ」といふ詞は古今に例なきものなり。代匠記に「カミツセニ」とよめるをよしとす。古事記下卷允恭段に「許母理久能波都勢能賀波能賀美都勢爾伊久比袁宇知《コモリクノハツセノカハノカミツセニイクヒヲウチ》、新毛郡勢爾麻久比袁宇知《シモツセニマクヒヲウチ》云々」とあり。この同じ歌を本集卷十三に載せたるには「己母理久乃泊瀬之河之上瀬爾伊杭乎打《コモリクノハツセノカハノカミツセニイクヒヲウチ》、下湍爾眞杭乎格《シモツセニマクヒヲウチ》」(三二六三)とかけり。これによりてよみ方を確定すべし。意義は卷一「三八」にいへるが、ここは「上流」といふ程の意にみるべし。
○生玉藻者 「オフルタマモハ」とよむ。この語の假名書の例は卷十四に「於布流多麻母能《オフルタマモノ》」(三五六二)とあり。玉藻はただ藻をたゝへていへること卷一(「二三」「二四」「四一」「五〇」、「七二」)にいへり。
○下瀬爾 舊本「クダリセニ」とよみたれど、代匠記に「シモツセニ」とよめるをよしとす。その故は(375)「上瀬爾」の條を見よ。下流といふ意にみるべし。
○流觸經 舊板本「ナカレフルフル」と訓し、古寫本中には「ナカラフルフル」(西本願寺本)「ナカラフレフル」(温故堂本)などよみたり。契沖は舊訓によりたれど、その後の諸家多くは、異説を唱へたり。考は「ナカレフラヘリ」とよみ、玉の小琴は先づ「ながれふれふるとよめるはひかごとなり」といひ、考の説を否定してさて「是はふらばへと訓べき也」といひ、古義は一面本居説に賛成を表しつつ、自己は「ナガレフラフ」とよむべしといひ、なほ本居説の如くよまむには流觸羽經といふ「羽」の字脱たるならむといへり。さて本居の説は古事記雄略卷の歌に「本都延能延能宇良婆波《ホツエノエノウラバハ》、那加都延爾淤知布良婆閉《ナカツエニオチフラバヘ》、那加都延能《ナカツエノ》、延能宇良婆波《エノウラバハ》、斯毛都延爾《シモツエニ》、淤知布良婆閉《オチフラバヘ》」とあるに基づきたるものなるが、「觸經」を「フラバヘ」とよみうべきか如何。本居の説には「經の字はへとかふとかは訓へし」といひたるが、その點はよしとして、「觸」を「フラバ」の語に宛つることをば如何にして説明しうべきか。本居説を繼承せる諸家の説を見るに、この點につきては多くは無責任なり。ただ新考には本居説をあげてさて曰はく「此説に基づきてナガレフラバフとよむべし。經はハフとはよまれねば、もしハフとよむべくば、經の上に羽を補ふべしと云へる人(古義)もあれど、日ヲフ絲ヲフなどのフは元來ハフの約なれば、經の字は安んじてハフとも訓べし」といはれたり。この説一往聞えたるやうなれど、よく考ふるに、「フ」が「ハフ」の約なりといふ事の證は一も存するを知らず。されば、吾人の立脚地としては從ひ難き事なり。かくの如きことなれば「フラバフ」といふ語をあらはす爲に「觸經」の二字を用ゐたりとは如何にしても考ふべからざるなり。さて(376)又一歩を讓りて、この二字を「フラバフ」とよみうるものと假定して、さて、その「フラバフ」といふ語が果してここに適するか如何を顧みむ。古事記傳(四十二)に「淤知布良婆閇は落觸《オチフラバヘ》なり。布禮を布良婆閇と云は延《ノベ》て活《ハタラ》かしたる言なり」とありて今のこの歌を例としたるなれど、果してこの説の如く、信じて可なりや。しかも古事記の歌なるは、とにかくに上枝の葉が、落ちて中枝に觸れ、中枝の葉が落ち下枝に觸るることと解するものとして、さてこの歌の玉藻は如何。木葉の落るが如く、切れて流れて、藻が下つ瀬に觸るといふ義なりとするか。然らば、下つ瀬に觸るといふ事は如何なる事をなすにか。木の上枝中枝下枝の如く明かに、空間的に個別的なる場合にこそ落ちて觸るともいふべけれ。水流の如きは一連續をなせるものなり。若しある瀬に觸るといふ事をいふべくば、そは、水面より上にあるものが、落ち、又は垂れて水面に觸るる場合の外には瀬に觸るるといふことあるべきにあらず。この故に「フラバフ」といふ語が「觸」字の意義あるものとしても、吾人は之に從ふべき所以を知らず。されば吾人は本居説は何等從ふべき理由を知らずといはむとす。(文字のよみ方よりいひても、文字の意義よりいひても)然らば之を如何によむべきかといふに、余は大體に於いて舊のよみ方をよしと思ふ。さてその意義について契沖曰はく「流フレフルとは、上瀬の玉藻のなびき下て、下瀬の玉もにふれふるるなり。經の字日本紀に觸と同じくふると訓す。又此集第十二にも、妹とふれなむと云に、二つのふれに此字を用たり。字書にいまだ見及ばすといへども定て子細あるべし。假令、此所は觸の訓ならで經歴のふるを借て用と云とも子細なし」とあり。契沖は、上つ瀬の玉藻のなびき下(377)て下瀬の玉藻にふれふるるなりといひたれど、下瀬の玉藻といふべきものは歌に全くあらはれてあらぬ事なり。惟ふに契沖も亦觸字にとらはれてその字義にて説かむとせるが故にここに窮せるなり。彼の契沖に反對する諸家も亦「觸」字の義にとらはれてその範裡を脱すること能はざるなり。余思ふにこの觸字は所謂宛字にして、「フリ」といふ語を示す爲に用ゐしならむ。抑も「觸」字のあらはす意の動詞「フル」は普通に下二段活用なれど、古くは、四段活用なりしなり。その證は、本集卷二十「四三二八」に「於保吉美能美許等可之古美伊蘇爾布理宇乃波良和多流《オホキミノミコトカシコミイソニフリウノハラワタル》、知知波波乎於伎弖《チチハハヲオキテ》」などにて知るべし。されば、こはその連用形とし「フリ」とよみうることは疑ふべからず。かくて下の經は「フ」とも「へ」ともよむべきが、又その連體形として「フル」とよむべきは更に疑ふべきにあらず。ここに余はこの「觸經」の二字は「フリフル」といふ語をあらはす爲の借字と思ふ。その事は、觸にも經にもあらずして「振」の字の義の動詞を重ねて「ふりふる」といへるなりと思ふ。その意は左に振られ、右に振られ、ゆら/\と水流のままに靡きふることを重ね言としていへるならむと考ふ。かくの如き詞遣の例は卷一「二」の歌に「けぶりたちたつ」「かまめたちたつ」といへるにても知るべし。この故に余は、「ナガレフリフル」とよみて、上の如き意に釋すべきものと主張す。さてこの句の下に脱せる句ありとて、宇部は「下瀬爾生玉藻者上瀬爾靡觸經」を補ひ、さて曰はく「此四句十三字今何れの本にもあらざるははやく同字の多かるを見混《ミマガ》へて脱せる也。此は上の四句と合せて八句二聯の對なれば調べにとりても必ずなくては有るべからず。又此四句なくては次の彼依此依靡相之《カヨリカクヨリナビカヒシ》と云る序辭の例に叶ひがたし。故今(378)補v之。もし是を私事と見ん人は古への歌を聞わくる耳も目もなき心也。人麿大人の御魂はよろこびましなんかし」とまで極言せり。されど、こはただ對句を調へたりといふまでにして、必ずかくせずしては歌にならずといふ程の大事件にもあらず。按ずるに、こは本居の説の如く「ながれふらばへ」とよみては、かの古事記の歌を誰人も思ひ出づれば、それにひかれて、今一二句の對あらまほしく思へるが爲なるべきが、下つ瀬に生ふる玉藻の上つ瀬に靡きふるとは何の義ともいふべからず。水の逆流するをいへるにか。殆ど常識にては考へられぬことなり。而して、次の「彼依此依靡相之」といへる序辭の例に叶ひがたき由いへるは、自ら「流ふらばへ」とよめばこそあれ。余がよむ如くにせば、更にかかる強言をなす必要あらず。
○玉藻成 「タマモナス」とよむ。その語は、卷一「五〇」にいへり。「靡相之」さまを形容するに用ゐたる語なり。
○彼依此依 「カヨリカクヨリ」とよむ。本卷「一三」の歌に「彼縁此依」とかき、「一三八」の歌にここと同じ文字にてかけるが、意はそこと同じ。この語を導く序として、上に「流れふりふる」といひたるなるが、川の藻が靡き流れて水流にゆられて彼方により、此方による如くといへるなり。
○靡相之 舊板本「ナヒキアヒシ」とよみしを考に「ナビカヒシ」とよめり。按ずるに、これ「ナビキアフ」といふにあらずして「ナビク」を波行四段に更に活用せしめて、その事の繼續する事をあらはせる語なれは「ナビカヒシ」とよむをよしとす。この「ナビク」は上(一三五)に、「玉藻成靡宿之兒乎」とある「靡き宿」ぬる由をいへるなり。即ち傍に添ひ臥したるをいふなり。「一三五」を見よ。
(379)○嬬乃命乃 舊板本「イモノミコトノ」とよめり。古寫本には神田本に「ツマノイノチノ」とよみ、温故堂本に「ツマノミコト」とよめるが、代匠記には「ツマノミコト」とよめり。「嬬」を「ツマ」の語に用ゐたる例は卷一「一三」にいへり。ここは「ツマノミコトノ」とよむをよしとす。さてこの「ツマノミコト」とは何方をさすかといふに、契沖は「此嬬は假てかけり。注に依るに河島皇子の御事なれば、正しく夫の字を書べし」といへり。古事記上卷の八千矛神の御歌に「和加久佐能都麻能美許登《ワカクサノツマノミコト》」とあるは女性をさし、又卷十七「三九六二」に「波之吉與志都麻能美許登母《ハシキヨシツマノミコトモ》」とあるも、卷十八「四一〇一」に「波之吉餘之都麻乃美許登能《ハシキヨシツマノミコトノ》」とあるも、おほくは女性の方にいへり。されど、かく決定的にいふべきにあらず。下の「玉も」といふ語に照せば、この歌の主題となれる人は女性なれば、それに對してここはなほ男性にして夫の義なるべし。
○多田名附 「タタナツク」とよむ。この語の例は、卷六「九二三」に「立名附青墻隱《タタナヅクアヲカキコモリ》」卷十二「三一八七」に「田立名付青垣山之《タタナツクアヲガキヤマノ》」といひ、古事記景行卷に「多多那亘久阿哀加岐夜麻碁母禮流夜麻登志宇流波斯《タタナツクアヲカキヤマゴモレルヤマトシウルハシ》」日本紀景行卷にも「多多儺豆久阿烏枷枳夜摩許莽例屡夜麻苫之于漏波試《タタナツクアヲカキヤマコモレルヤマトシウルハシ》」とあり。これを枕詞なりといへり。如何にも「青垣」に對しては枕詞の如くなれど、今のここには枕詞とはいふべくもあらず。この場合には、攷證に「和らかなる單衣などの身に親しく疊《タタナハ》り付を妹が膚の和らかになびきたたなれるにたとへていへる也」といへる如き意と見ゆ。
○柔膚尚乎 舊訓「ヤハハタスラヲ」とよめり。攷證には荒木田久老の説によりて「ニコハタ」とよむべしといひ、古義に「ニキバダ」とよむべしといへり。按ずるに「柔」字は柔和の義にて「ヤハシ」の(380)語幹として「ヤハ」ともよむべく、又「ニギブ」の語幹にて「ニギ」ともよむべく、又「ニゴヤカ」の訓あるによりて「ニゴ」ともよむべきなり。而して意も大抵異なることなければ、いづれと定むべきかといふに、なほ本集中の假名書のものを主として據とすべきなり。然るときは名詞に冠して「ヤハ何」といへるはなく「ニギ何」といへるに假名書のはなく、「ニコ何」とあるは卷十一「二七六二」に「蘆垣之中之似兒草爾故余漢《アシガキノナカノニコグサニコヨカニ》」など「にこくさ」「にこよか」といへる語多けれど、これは、草の名又は副詞なるべければ、必ずしも據とすべからず。されば「ニギテ」(古語拾遺に「和幣」に「古語爾伎弖」〉「ニギミタマ」(日本紀神功哀紀に「和魂此云珥伎瀰多摩」)などの例に准じて「ニギハダスラヲ」とよむをよしとすべし。かく膚の柔なるをたたふるは古來主として女性につきていへれば、上の「ツマ」は女性なる如くなれど、下の「玉も」に照せば必ずしも然らざるを見る。「尚乎」は「スラヲ」とよめり。「尚」は漢語にては、「猶」と通用する義あるものを國語の副詞「スラ」にあてたるなり。「スラヲ」といへる例は卷九「一六九八」に「春雨須良乎間便爾爲《ハルサメスラヲマツカヒニスル》」卷五「八九二」「寒夜須良乎《サムキヨスラヲ》」などあり。又卷三「三八二」に「雪消山道尚矣名積叙吾來並二《ユキゲスルヤマミチスラヲナツミゾワガコシ》」とかけるは今の例なり。これは後世までも用ゐたる助詞にして、一事をあげて他を類推せしむる意を以て下に來る用言の意義を装定するものなり。
○釼刀 「ツルギタチ」とよむ。本卷「二一七」に「釼太刀身二副寐價牟《ツルギタチミニソヘネケム》」とあり。又卷十一「二六三七」に「釼刀身副妹之思來下《ツルギタチミニソフイモガオモヒケラシモ》」又卷十四「三四八五」に「都流伎多知身爾素布伊母乎等里見我禰《ツルギタチミニソフイモヲトリミカネ》」などいへるいづれも同じ趣の語なり。之を枕詞といへるが、これは卷四「六〇四」に「釼大刀身爾取副常夢見津《ツルキタチミニトリソフトイメニミツ》」卷十一「二六三五」に「劍刀身爾佩副流大夫也《ツルキタチミニハキソフルマスラヲヤ》」などは事實をいへるものなるが、ここは「身に副ふ」(381)といふ語を導く爲におけるなり。即ち刀釼は人の身を放たず、取りおぶるものなればなり。
○於身副不寐者 「ミニソヘネネバ」とよむ。「於」は漢語の助辭にして國語の「ニ」に似たるものなるが、それを漢語の本來の意義と用法とによりて「身」の上に置きたるなり。その夫君の逝去せられて、ひとりねなるをいはれたるなり。
○烏玉乃 流布本「鳥玉」に作れど、義をなさず。大多數の古寫本「烏」に作るをよしとすれば、今改めたり。「ヌバタマノ」とよむ。この語は本卷「八九」に「奴婆珠乃」とある條又「一六九」の「烏玉之」の下にいへり。そこにていへる如く、これは射干といふ草の實なるが、小き黒色の球状をなせるによりて「烏玉」とかけるなり。その草は和名抄に「本草云射干一名烏扇」とあり。卷四「六三九」に「夜干玉能」卷十一「二五八九」に「黒玉夢不見」などみな然り。「夜」の枕詞とするはもと「黒き」の枕詞とするより夜は暗きによりて轉用したるなり。
○夜床母荒良無 「ヨトコモアルラム」とよむ。夜床は夜の臥す床なり。日本紀仁徳卷に「瑳用廼虚烏那羅倍務耆瀰破《サヨドコヲナラベムキミハ》」と見ゆるも「サ」は接辭にして同じく夜床なり。本集卷十八「四一〇一」に「奴婆玉乃夜床加多左里《ヌバタマノヨドコカタサリ》」などの例あり。「あるらむ」は攷證には上の「荒備勿行」(一七二)と同じ意の由にいへども、「荒ぶ」と「荒る」とを同一語とするは不當なり。これは上の「一六八」の「皇子乃御門之荒卷惜毛」の「荒る」と同じ意なり。考に曰はく、「古へは旅行しあとの床をあやまちせじと謹む也。死たる後も一周はしかすれば、塵など忌みてはらはねば、荒《アル》らんといふ也」といへり。以上第一段、この歌によめる主人公の境遇を想像したるなり。「らむ」といふ語はこの爲におけり。
(382)○一云何禮奈牟 一本の説をあげたるなるが、この文字のままならば「カレナム」とよむべし。然るに「何」字類聚古集神田本等には「阿」とせり。然らば「あれなむ」なり。然れども、本行の方まされり。
○所虚故 「ソコユヱニ」とよむ。この語の事上の「一六七」の條にいへり。これは第一段に述べたる點をうけてそれをさして「そこ」といへるなり。
○名具鮫魚天 舊訓なほこの下の「氣留」までを一句として、「ナクサメテケル」とよみ、なほ下の方を「敷相屋常念而」を「シキモアフヤトトオモヒテ」とよみたるが、かくて讀み下しうるやうなれど、意通ぜず。古來難解の一として諸説紛々たり。今一々之をあげず。略解に荒木田久老の説をあげて云はく「魚は兼の誤留は田の誤にて、なぐさめかねてけたしくもと訓べしといへり。しかあらたむれば、或本の公もあふやと有にもよくつづけり。」といへり。いかにもこの説の如くなるべし。然るに、今傳はる諸本一も「魚」を「兼」につくれるものを見ざれば、確にしかと定めがたけれど、かく考ふればその意よく通じ、然せずば、意通ぜざるが故に今姑くこれに從ふ 但し本文は漫りに改むべくもあらねばなほ後の研究を待つ。鮫は今も「サメ」とよみ、和名抄に「佐米」の注あり。かくて借字とせしなり。「ナクサメカネテ」は自ら心を慰めむと欲して、しかも慰むるに能はぬをいふ。
○氣田敷藻 「田」字流布本「留」字とせり。舊訓は上にいへるが如し。而して久老の説は「留」は田の誤にして、「ケタシクモ」とよむべしといへり。古寫本中金澤本、類聚古集に「田」字をかきたれば、田(383)の字を正しとして、久老の説を當れりとすべし。「ケダシクモ」といへる例は卷十一「三一〇五」に「蓋雲吾戀死者《ケタシクモワカコヒシナバ》」卷十七「四〇一一」に「氣太之久毛安布許等安里也等《ケタシクモアフコトアリヤト》」とあり。なほ卷四「六八〇」卷七「一一二九」卷十「二一五四」に「盖毛」とかけるも皆この語なり。その意は今の「けだし」と同じ意にして、萬一の場合を推量想像するものなるべきが、この頃はかく「く」の形をとれること「もし」に對して「もしくは」といふ形の語のあると趣稍似たり。
○相屋常念而 舊訓にいへり。久老の上の訓につれて、ここを攷證などには「アフヤトオモヒテ」とよめり。古義は「ここは皇女の御うへを申せる語なれば、かならず御念《オモホシ》とあるべき所なり」といひて「御」字を補へり。されど、さる本一もなければ、從ひがたきのみならす、歌には必ずしも敬語を用ゐぬものなれば從ひがたし。見え逢ふことありやと思ひてなり。
○一云公相哉登 一本の説に「キミモアフヤト」とありとなり。考にはこれを本文に立てたれど、必ずしも改むるに及ばず。
○玉垂乃 「タマタレノ」とよむ。下の「越」の「ヲ」の枕詞なり。さて玉垂とは如何なるものか。倭訓栞には「珠簾の略なるべし。」といひ、楢の嬬手には「玉に緒をつらぬきてたるるをいふ」といへり。この玉に緒をつらぬきてたるるものとは如何なるものにして何に用ゐるものかこれを明確に説明せるものを見ず。又「玉すたれ」といふ説は本集に「玉たれのをす」といへる語(卷六「一〇七三」卷十一「二三六四」同卷「二五五六」あるより後世あやまれるものなるべきが、そは「小簾」全體に關するものにあらずして、ただ「を」といふ語のみに關するものなることは、この歌と次の歌とによ(384)りて知るべく又、「眞玉付ヲチコチ云々」といへるにても知るべし、さてそは玉を緒につらぬくより「を」にかけて枕詞とせりといふ事は疑なけれど、玉垂といふ名を有する實物は未だ明かなりといふを得ず。筑後國に有名なる高良玉垂神社ありて高良玉垂命を祭れりといへども、その祭神實は詳かならず。「高良」は但し「カワラ」にして甲冑の古名なれば、ある著しき神の遺物を神寶とせしか。然るときはその「カワラ」と「玉垂」とを祭れりといふべきに似たり。その「玉垂」といふもの若服飾とせば、支那にいふ玉佩といふものをさすにあらざるか。これは當時唐風の服飾として、禮服には必ずあるべきものたりしなり。姑く記して後の參考に供し、且つ後賢の研究を待つ。
○越乃大野之 舊訓「コスノオホノノ」とよみたり。代匠記に「ヲチノオホノノ」とよめり。これは反歌の一説に「乎知野」とかき、又左注に「越智野」とあるに同じ地をさせるものたるべく、代匠記の説をよしとす。「越」を「ヲチ」にあてたるは字音を用ゐたるなり。卷五「六七四」に「眞玉就越乞兼而《マタマツクヲチコチカネテ》」卷十三「二九七三」に「眞玉付彼此兼手《マタマツクヲチコチカネテ》」などを見て知るべし。さてその「ヲチ」といふは、何處ぞといふに、今の大和國高市郡に今越智岡村ありてその大字に越智及び北越智といふ地ありてその邊の野原をさせるものと見ゆるが、今その大字「越」とかきて「こし」とよべるは即ち、古の「ヲチ」を「越」字にてかけるを後世に讀みあやまりしものと考へらる。この地には皇極天皇の山陵ありて、延喜式には、越智崗上陵と記せるが、これをば日本紀天智卷第六年に「小市岡上陵」と記せり。「小市」「越智」同じ語なるなり。この御陵は越智の南の丘陵の南の部にありて、よくその名にあへり。(385)「大野」といへるはたたへ語なり。ここは蓋し、その夫君の葬所たるべし。
○旦露爾 「アサツユニ」とよむ。「朝の露に」なるが、草原を分けて來れば朝露にぬるるものなる故にいひたるものにして、これは藤原都より越智野に來る途上をうたへるならむ。
○玉藻有※[泥/土]打 舊板本「タマモハヒツチ」とよめり。古寫本中に「ヒチヌ」と訓せるもままあり。されど、「打」を「ヌ」とよむべき道理なければ從ふべからず。まづ「玉藻」の「藻」は借字にて「玉裳」なるなり。「玉」は美しき由のたたへ詞なり。裳は女性の禮裳の一にして、袴の上につくるものなり。この語によりて、この歌の主人公と立てたるものは女性なることを知る。「※[泥/土]打」を「ヒヅチ」とよむは「ヒヂウチ」の約まれるものなるべし。「※[泥/土]」は「泥土」の二字の合したるものなるが「泥」の俗字なる由、廣韻に見えたり。類聚名義抄に「泥」に「ヒヂ」の訓あり。今いふ「ドロ」の古言なり。「※[泥/土]打」とかけるは卷三「四七五」にも「輾轉※[泥/土]打雖泣《コイマロビヒヅチナケドモ》」とあり。又卷十三「三三二六」には「展轉土打哭杼母《コイマロビヒヅチナケドモ》」とあり。この「土打」も又「ヒヅチ」とよめり。さて果して「ヒヅチ」といふ語ありて、ここをかくよみてよきかといふに、卷十五「三六九一」に「安佐都由爾毛能須蘇比都知《アサツユニモノスソヒヅチ》、由布疑里爾己呂毛弖奴禮弖《ユフギリニコロモテヌレテ》」卷十七「三九六九」に「赤裳乃須蘇能波流佐米爾爾保比比豆知底《アカモノスソノハルサメニニホヒヒヅチテ》」といふ假名書あるによりて、當時かくいへる語あるのみならず、この假名書の例はいづれも、裳の裾のひづちたるなるが、この歌のも、裳なれば、同じ趣の事をよめりと見えたれば、古の訓のあたれるを見るべし。さて、その語の意は如何といふに、契沖は「ヒヂ」なりといへり。「ヒヂ」は濡るる事なり。其れより後種々の説あれど、要するに、「ヒヂ」と同語なりとするにありて、その説明は「つちの反ちなれば、ひちを延ていへる言にて(386)ひたす意なり」(攷證)といふが如きものなり。されど、「ヒヂ」が延びて「ひづち」となれりとは語法上いひうべき説にあらずして、學問上理なきことなり。古義には「ヒヂ」を活したるものといひて「タギツ」「モミヅ」の例をあげたるがその説も無理なる故に全くは從ひかぬるが、假に「ヒヂ」即※[泥/土]土の活用せる語として見れば、※[泥/土]によごれたる由にこそいへ、水にぬれたる由にのみいふは不條理なりとす。われ思ふに、「ヒヅ」と「ヒヅチ」とは同じ源の語にあらずして意義もまた別なるべし。今この語の假名書なるものの外の例を見るに、上にあげたる「※[泥/土]打」「土打」の外には、この卷「二三〇」に「玉桙之道來人乃泣涙※[雨/沛]霖爾落者白妙之衣※[泥/土]漬而《タマホコノミチクルヒトノナクナミダコサメニフレバシロタヘノコロモヒヅチテ》」又卷七「一〇九〇」に「吾妹子之赤裳裾之《ワギモコノアカモノスソノ》將染※[泥/土]《ヒツチナム・ヒツツラム》、今日之※[雨/脉]※[雨/沐]爾吾共所沾名《ケフノコサメニワレサヘヌレナ》」とありて他の書きざまなるものはなし。されば、これはいづれにしても、泥土に關する義をもてる語なりと考へらる。さて、略解には、上の卷七の歌の條に、「染※[泥/土]は義を以書り。此字の書ざまをとて、ひづちひぢの語釋べし。」といへり。古義は之を駁して、「染※[泥/土]は物に濕《ヒヅ》つ中の一方に就る書さまなり。此字に依てすべてヒヅツは※[泥/土]に染《ツク》ことぞと思は偏なり。略解の説など大(ジキ)誤なり。」といひたり。されど、上にあげたる如く、義をもてかけるには、「泥」「土」の字必ずありて他の書きざまのもの一もなし。そのうち「※[泥/土]打」「土打」は「ヒヂウチ」の音をかりたりといふことをうべけむ。されど、「※[泥/土]漬」「染※[泥/土]」の二つは、疑ひもなく、その意義によりてかけりと見られ、又然見ずしてはこれを「ヒヅチ」とよまむ由もあらざるべし。されば、これは「※[泥/土]に染み漬る」意なるべきを思ふと同時に「※[泥/土]打」「土打」も本義によりてかけるものなりと思はる。かくて考ふれば、「ひづち」と「ひづ」とは別の語にして別の義なるべければ、略解の卷七の釋もすぎた(387)るものといふべし。余は「ひづ」と「ひづち」とは別の語なりと思ふ。然るに古義にはこの歌の條に曰はく「※[泥/土]字につきて※[泥/土]に漬《ツキ》てぬるゝことと思ふことなかれ。比豆都《ヒヅツ》は雨露涙などをはじめ何にもぬるることに云り」といへり。この義は果して從ひうべきか。今上の諸例につきてひづちたるものと、そのひづちたる因縁と事情とを對照して見れば、
 アサ露に   玉裳は  ひづち      (この歌)
 同      赤裳の裾 ひづち      (卷十五)
 春雨に    赤裳の裾 にほひひづち   (卷十七)
 涙(ニ)   白妙之衣 ひづち      (卷二、「二三〇」)
 こさめ(ニ) 赤裳裾  ひづち      (卷七、)
 ?      ?    こいまろびひづち (卷三、卷十三)
の如くなるが、その卷三卷十三なるは何事とも明かに示されねば、論は如何樣にも立てうべきが故に別として、その他の例を見るに、卷二は「衣」といひたるにて稍異なれど、他はすべて裳にいへるを注意せよ。しかもその裳も多數が裾なるに注意せよ。ここに吾人はその「ひづち」といふ事を起す原因が、雨にせよ露にせよ。(涙は雨露に准じたるものなれば、論の外なり。)そのひづちといふ事實を生ずるものは裳の裾なることを注意すべきを思ふ。裳といへるはその全體をさし、衣といへるは更に衣服の總態をいへるにてその實にひづちする物は衣服のうちにも下部の外面なる裳にあり、裳にてもその下部の裾にありと見るべきにあらずや。而して、屋内(388)のことにあらずして、野外の道路の上の事にいへるは諸例に通じたる現象なり。かくてその原因として雨露をいへり。さればそれらを綜合して考ふるに道路の上にてある事にして、雨露によりておこることにして、泥土の作用にして、裳の裾にあらはるることにして、しかも、「染」字「漬」字にて示さるる事實といはざるべからず。かく考ふるときは、これは吾人が雨天にぬかるみを行くときに、衣の裾が、泥土に汚れ、染みつかる事にあらずや。この事以外に上述の諸の條件にあてはまる事はあらざるべし。かくて之は衣にて泥を打つといふ事をさすとみる時にはその「※[泥/土]打」「土打」の文字はまさしく實事を適切にあらはしたる語にして、これこそ本義にして、他は義により書きたるものと考ふ。即ち泥の點々を裳の裾をばぬかるみの泥土に打ちつくるさまにして染み汚すことをば「ヒヂウチ」といひ、それをつづめて「ひづち」といひたるものと考ふるなり。ここに於いて、卷三卷十三なる「こいまろびひづちなげく」といへるも、道路にふしまろびて、今の所謂泥まみれになるをいへるものと考ふるなり。かくの如く解して、はじめて、「ひづ」と「ひづち」とは同義同語にあらざるを知るべし。而して、契沖が、禮記の曲禮にいへる「送v葬不v避2塗潦1」といふ語を引けるも由ありといふべし。塗潦は道路のぬかるみなり。この精神にて、人の葬を送るには道路のぬかるみにて裳の裾の泥まみれになるをも知らず、(悲しみの爲に)又少々は知りても、直路に行きて避けず(謹愼と禮儀との爲に)ぬかるみをばさ/\ふみてゆくさまを想像しうべきにあらずや。
○夕霧爾 「ユフギリニ」になり。「アサツユニ」「ユフギリ」と對していへる例は、卷十五「三六九一」の例(389)にて知るべし。これは下にいへる旅宿の夕のさまをいふなり。
○衣者沾而 「コロモハヌレテ」なり。衣の霑るるは霧のみにあらず涙もあるべし。以上四句對句をなせり。
○草枕 「クサマクラ」「旅」の枕詞なること、卷一にいへり。
○旅宿鴨爲留 舊訓「タビネカモスル」とよみて異論なかりしが、古義には「留」は元「須」とありしを誤れるならむといひて「タビネカモセス」とよみ、「こは皇女の御事を申し、ことに、その皇女に献れる歌なれば、爲留《スル》と云むはいと不敬《ナメゲ》ならずや」といひたれど、上にもいへる如く、歌には必ずしも敬語を用ゐぬものなり。古義が既に引ける如く、卷三に「皇者神二四座者天雲之雷之上爾廬爲流鴨」(二三五)とあるにも「セル」とよむべしといふ説あれど、必ずしも然らざるなり。この故に古來の訓のままにてよしとすべし。「カモ」は疑の助詞にして之に對して「スル」と結べり。藤原都より越智野まではさほど隔れる所にあらねば、ここは遠き旅に出でたまふ由にていふべきにあらず。さらばこの旅ねとは何をさすかといふに、考に「古へは新喪に墓屋を作りて一周の間人しても守らせ、あるじもをり/\行て或はそこに住人も有しなり」といへるが、その頭注に記せる如く、日本紀舒明卷に「蘇我氏諸族等悉集爲2島大臣1造v墓而次2于墓所1。爰摩理勢臣壞2墓所之廬1退2蘇我田家1而不v仕」などあるによりて、墓所に廬を作りて住みしことを察すべし。
○不相君故 「アハヌキミユエ」とよむ。童蒙抄に「アハヌキミカラ」とよみたれど、從ふべからず。幽明、境を異にして再びあはぬ故によりての意なり。これは上に「けだしくもあふや」と思ひて(390)云々せさせ給ひしかど、やはり逢ひ給はざりきといふ結果を呈せるをさせるが、この「故」は世にいふ如く「なるに」の意にはあらざるなり。
○一首の意 この歌二段落なり。第一段落はあすか川の瀬に生ふる藻が、水流に從ひ、上流より下流に向ひて靡きゆられて、左右にゆれ、搖《ユラ》ぐが如くに、彼方此方により靡ひ從ひし夫の命の神去りまして、共に寢ね給ふ事もなくなれば、夜床も次第に荒れ行くならむといひて、人麿が、その歌の主人公と立てたる人の御境遇を想像したるなり。これ最後を「らむ」としたる所以なり。第二段落は以上の如き境遇にあらせらるるが故に、自ら何とかして、その淋しさを慰めむと思ひたまへども、その悲しさ淋しさを慰むる方法もおはしまさねば、堪へかねて、若し、或は、その夫の命にあひたまふことありやと思ひ給ひて、かく藤原都より、この墓所たる越智野にわざ/\いでまして.旦露をふみて、衣の裾をぬらし、夕霧に衣をぬらしては泣きつつこの越智野の御墓所の側なる廬に旅宿したまふにかあらむ。かく旅宿したまふ所以は、その夫の君に若しやあひたまはむかと思ひたまふ故にこそありけれど、しかしながら、遂に相ひたまはぬ君なり。されど、その君故にかくは旅宿をばしたまひつるは御志の至りといふべしとなり。
 
反歌一首
 
○ 上の詞書には短歌とありて、ここに反歌とあり。これ短歌はその體よりいひ、反歌はその用よりいひたるが爲にしてここにてはさす所は同じものなり。
 
(391)195 敷妙乃《シキタヘノ》、袖易之君《ソデカヘシキミ》、玉垂之《タマダレノ》、越野過去亦毛將相八方《ヲチヌニスギヌマタモアハメヤモ》。【一云乎知野爾過奴。】
 
○敷妙乃 「シキタヘノ」とよむ。その意は巻一「七二」にいへり。
○袖易之君 「ソデカヘシキミ」とよむ。巻三「四一」に「白細之袖指可倍弖靡寝《シロタヘノソデサシカヘテナビキネシ》」巻四「五四六」に「敷細乃衣手易而自妻跡憑有今夜J《シキタヘノコロモデカヘテオノヅマトタノメルコヨヒ》」巻十一「二四一〇」に「敷白之袖易子忘而念哉《シキタヘノソデカヘシコヲワスレテオモヘヤ》」巻九「一六二九」に「白細乃袖指代而佐寢之夜也常有家類《シロタヘノソデサシカヘテサネシヨヤツネニアリケル》」などその例なるが、衣の袖をかはして寝ぬるを「ソデカヘシ」とはいへるなり。
○越野過去 舊本「コスノヲスキテ」とよみたれど「越野」は「ヲチヌ」なることは論なし。「過去」を「…ヲスギテ」とよまむは聊か無理なり。代匠記には「…ヲスギヌ」又「スギユキ」「スギユク」などよみて一定せず。童蒙抄には「スギニシ」とよみたれど、いづれも穩かならず。考には「ヲチノニスギヌ」とよみたり。これは「一本云」と同じ語となるものにして、かくては「一本云」と注せる詮なきに似たれど、こはその字面の異なるによりてあげしなるべし。越野をすぎてとよむ時はそこをすぎて何處にか行けることになりて意通せず。ここは「過ぎ」とよみ「去」を「ヌ」の複語尾にあてしものとすべし。「スギヌ」とは死去をいへることは巻一「四七」の「過去《スキニシ》君之」の下にいへり。即ちその夫の君の薨ぜられて、越野に葬られてましますをいへるなり。以上一段落なり。
○ 終の「一云」はこの第三句をば異なる字面にてかけるものありといふ事を示せるにてよみ方も意も同じ。
(392)○亦毛將相八方 舊訓「マタモアハヌヤモ」とある「ヌ」は誤なること著し。西本願寺本、大矢本京都大學本などは「マタモヤアハメヤモ」とあり。考には「マタモアハムヤモ」といひ、玉小琴に「マタモアハメヤモ」とよめり。將相は「アハム」なるが、これより「ヤモ」につづく時は、古語、已然形の「メ」よりするを常とす、この事は巻一「二一」「三一」等にいへり。而してこれは反語をなす。
○一首の意 この歌二段落なり。君の契りをかはし賜ひし夫の君は越野にかくりましぬ。また再びあひたまふ事あらむや。恐らくはあひ賜ふことあらじとなり。
 
右或本曰、葬2河島皇子越智野之時1獻2泊瀬部皇女1歌也。日本紀曰朱鳥五年辛卯秋九月己已朔丁丑淨大參皇子川島薨。
 
○ これ上の歌につきての或本の傳を注したるなり。
○河島皇子 この皇子は天智天皇の御子にして御母は忍海造小龍が女、色夫古娘なる由、日本紀に見えたり。この皇子の日本紀天武天皇十四年正月の條に淨大參位を授けられたる由見え、持統天皇五年正月の條に、封百戸を増し前に通じて封五百戸となれる由見え、同年九月に「丁丑淨大參皇子川島薨」と見ゆ。(攷證にこの次に「辛卯以2直大貳1贈2佐伯宿禰大目1並贈賜賻物云々と見えたり」といへるは佐伯宿禰大目に位と賻物とを贈られしにてこの皇子には關係なきを思ひ違ひせしなり。)
○越智野 上にいへる「ヲチヌ」なり。
(393)○泊瀬部皇女 通行本泊瀬皇女に作る。誤りて「部」字を脱せるなり。古寫本「部」を加へたるものあり。(古葉略類聚抄、神田本、西本願寺本)按ずるにこの左注の趣にてはこの皇女川島皇子の御妃たりしなるべし。從兄弟の間にまします。
○朱鳥五年云々 これは今の日本紀には持統天皇の五年にして朱鳥元年よりは六年にあたれば、一致せず。これは既にいへる如く、古本の日本紀と今本と一年の差ある爲なり。
 
明日香皇女木※[瓦+(丶/正)]殯宮之時柿本朝臣人麿作歌一首并短歌。
 
○明日香皇女 天智天皇の皇女なり。日本紀天智巻に曰はく「遂納2四嬪1……次有2阿倍倉梯麿大臣1女曰2橘娘1生2飛鳥皇女與新田部皇女1」とあり。續紀文武天皇四年の條に「夏四月癸未(四日)淨廣肆明日香皇女薨遣v使吊2賻之1。天智天皇女也」とあり。これによりて、この歌はその文武天皇四年四月の頃の詠なることを見るべし。
○木※[瓦+(丶/正)]殯宮之時 「※[瓦+(丶/正)]」字代匠記の初稿には「※[瓦+并]」に當るべしといひ、清撰本には、「※[瓦+缶]」字なるを「※[瓦+并]」に作れるを誤れるかといへり。按ずるに「※[瓦+(丶/正)]」字は普通の字書に見ゆる所なき字なるが、美夫君志に曰はく、「※[瓦+(丶/正)]」の字は字書に見えず。集韻に缶※[缶+瓦]或從瓦とあり。此※[缶+瓦]の扁傍を左右せるなり。文宇の扁傍を左右し、又は上下するを隷行といふ。漢議郎元賓碑に翻※[羽/者]色斯とありて隷釋云以v※[羽/者]爲v※[者/羽]、隷辨云碑盖移2羽於上1、所謂隷行也。又郭忠恕佩※[角+雋]に※[司/言]※[月+良]之作2詞朗1是謂2隷行1とあり。もと篆文を變じて隷書とするをいふなり」といへり。さてこの「木※[缶+瓦]」を如何によむべきかといふに、(394)この字面、本歌中にも存して之を古來「コカメ」とよみ來れり。それをば、考に「キノベ」とよみ改めてより諸家之に從へり。按ずるにこれは殯宮の所在の地名なること著しければ、「コカメ」とよまむも「キノベ」とよまむも、さる地名なくては空言に墮すべし。考にはこの「木※[瓦+并]殯宮」と次の歌の「城上殯宮」と同じといへるなるが二者を全く同じとすることは賛成しかねる所なれど、「木※[瓦+(丶/正)]」即ち「城上」にして同じ地名なりとする説は從ふべきに似たり。この「城上」は和名抄に大和國廣瀬郡の郷名に「城戸」とある、その地なるべし。然るときは、これは「キノヘ」とよむべく「ベ」と濁るは誤なるべし。今之を「キノヘ」とよむこととすべきが、木※[瓦+(丶/正)]にて「キノヘ」とよみうべきかといへに、これは「※[瓦+(丶/正)]」に「へ」の語を充つることを得るを證すれば、足りぬべきなり。さて「※[瓦+(丶/正)]」は「※[缶+瓦]」と同字にして結局は「缶」字の別體たるべきものたること明かなるが、その「缶」は「瓦器」即ち今いふ土器の總名なるが、古語にはこれを「へ」といひたるなり。新撰宇鏡を見るに、「※[契の大が瓦]に「可多倍」の訓あり、「※[岡+瓦]」に「加万戸」の訓あり、※[瓦+通」「※[通+瓦]に「加太倍」の訓あり、「※[月+ム]」「※[月+首]」「※[月+黄]」「※[月+〓]」に「ヨコヘ」の訓あり、「※[契の大が瓦]」に「奈戸」の訓あり、「※[月+大]」「※[月+寺]」にも「奈戸」の訓あり、これらの「へ」即ちその熟語中にあらはれたるなり。又古語に「いはひへ」あり「齋戸」とかき(卷三「三七九」、「四二〇」卷九「一七九〇」卷十三「三二八四」)「齋忌戸」(卷三、「四四三」)「伊波比倍」(卷十七「三九二七」卷二十「四三三一」)「以波比弊」(卷二十「四三九三」)又日本紀神武卷の自注に「嚴瓮此云2怡途背1」とあるも「瓮」を「へ」と訓せるものなり。かくて「木※[瓦+(丶/正)]」即ち「キノヘ」とよむべきことは明かなりといふべし。その「キノヘ」は上にいへる如く、大和國廣瀬郡城上郷の地なるべきこと亦明かなるが、その地は今の如何なる處にあたれるかといふに、広瀬郡は今は北葛城郡の一部に入りて(395)あるが、右の「キノヘ」の岡に當る處は同郡|馬見《ウマミ》村大字大塚にありといひ、(大和志料)又大塚村の南方につゞける六道山の地なりともいへり。(北葛城郡史)なほ弘福寺文書によれば、「廣湍郡廿一條九里卅二坪、卅二坪、卅三坪」に當りて木戸《キノヘノ》池あり。この地點は今の北葛城郡王寺驛の東南より舊の廣瀬郡と葛下郡との間を遠く南に延び高田驛の西北に達する一帶の丘陵(汽車にて行けば、この丘陵の西麓の地を通るなり)の東麓に當るものなるべきが、六道山はその南端に近き邊にあり。その山の附近に池あり。これ或は古の木戸池か。「殯宮之時」は「一六七」の條にいへる如く、なほ「アラキノトキ」とよむべし。即ち明日香皇女の薨ぜられて、城上の地に殯宮を設けて喪葬の御儀ありし時といふ事なるべし。さてこの皇女薨去の時は文武天皇の御宇なれば、同じく「藤原宮御宇天皇御代」といへるうちにも世は既にうつりて文武天皇の御代をさせりと知るべし。
○柿本朝臣人麿作歌 これは上にもいへれば、今略す。さてこの文句をば、考には「人麿献忍坂部皇子歌」の誤として改め、檜嬬手なども之に從へり。考がかくせる理由は如何といふに、先づ、「忍坂部皇子」をいひて、「上の泊瀬部皇女の御兄弟にて明日香皇女の御夫君におはしける」といひ、次に「此長歌に夫《セ》君のなげき慕ひつつ木のべの御墓へ往來し給ふさまをいへるも、上の泊瀬部皇女の乎知野へ詣給ふと同じ樣也。然れば、此端にそのかよはせる皇子の御名を學ぶべきに、今はここには落て、上の歌の端に入し也。他の端詞の例をも思ふに疑なければ、彼所を除てここに入れたり」といへるなり。然れども、いづれの古寫本にもかくの如きことなければ、從ふべき(396)にあらず。加之明日香皇女の御夫君が忍坂部皇子なりといふ事は如何なる根據ありていへる事にか。歌の詞によれば明日香皇女に夫のましませる如くは見ゆれど、その夫君の誰人にましますかの證を一も見ざるものなるが、こは恐らくは眞淵の臆測に止まるものなるべく、前の歌の端詞を漫然とり來りてここに加ふるが如きは妄斷といふべし。然るに、眞淵の改竄説に從ふを肯んぜざる攷證をはじめ、略解、以下一切の萬葉集研究家、かかる臆断を既定の史實として盲從せるは如何。かくの如き態度を以て萬葉集を説き、それを基として時勢を論じ、文化を談ぜむとするは大膽とやいはむ。妄斷とやいはむ。驚くべき事なりとす。
○并短歌 攷證にはこの下に「二首」の二字脱せりとせり。必ずしも然いふに及ばさること屡いへる所なり。又美夫君志は「短歌」を小字とせり。これ多くの古寫本に從へるなるが、從來の例によれば必ずしも從ふを要せず。
 
196 飛鳥《トブトリノ》、明日香乃河之《アスカノカハノ》、上瀬《カミツセニ》、石橋渡《イハハシワタシ》、【一云、石浪】下瀬《シモツセニ》、打橋渡《ウチハシワタス》、石橋《イハハシニ》、【一云、 石浪】 生靡留《オヒナビケル》、玉藻毛叙《タマモモゾ》、絶者生流《タユレバオフル》、打橋《ウチハシニ》、生乎爲禮流《オヒヲヲレル》、川藻毛叙《カハモモゾ》、干者波由流《カルレバハユル》、何然毛《ナニシカモ》、吾王乃《ワガオホキミノ》、立者《タテバ》、玉藻之如許呂《タマモノモコロ》、臥者《フセバ》、川藻之如久《カハモノゴトク》、靡相之《ナビカヒシ》、宣君之《ヨロシキキミガ》、朝宮乎《アサミヤヲ》、忘賜哉《ワスレタマフヤ》、夕宮乎《ユフミヤヲ》、背賜哉《ソムキタマフヤ》。宇都曾臣跡《ウツソミト》、念之時《オモヒシトキニ》、春部者《ハルベハ》、花折挿頭《ハナヲリカザシ》、秋立者《アキタテバ》、黄葉挿頭《モミチバカザシ》、敷妙之《シキタヘノ》、袖携《ソデタツサハリ》、鏡成《カガミナス》、雖見不※[厭の雁だれなし]《ミレドモアカズ》、三五月之《モチツキノ》、益目頬染《イヤメヅラシミ》、所念之《オモホシシ》、君與時々《キミトトキトキ》、 幸而《イテマシテ》、遊賜之《アソビタマヒシ》、御食向《ミケムカフ》、木※[瓦+缶]之宮乎《キノヘノミヤヲ》、(397)常宮跡《トコミヤト》、定賜《サダメタマヒテ》、味澤相《アヂサハフ》、目辭毛絶奴《メコトモタエヌ》。然有鴨《シカレカモ》、【一云、所己乎之毛】 綾爾憐《アヤニカナシミ》、宿兄鳥之《ヌエドリノ》、片戀嬬《カタコヒツマ》、【一云、爲乍】朝鳥《アサトリノ》、【一云、朝霧】往來爲君之《カヨハスキミガ》、夏草乃《ナツクサノ》、念之萎而《オモヒシナエテ》、夕星之《ユフヅツノ》、彼往此去《カユキカクユキ》、大船《オホブネノ》、猶預不定〔左○〕見者《タユタフミレバ》、遣悶流《オモヒヤル》、情毛不在《ココロモアラズ》、其故《ソコユヱニ》、爲便知之也《スベシラマシヤ》、音耳母《オトノミモ》、名耳毛不絶《ナノミモタエズ》、天地之《アメツチノ》、彌遠長久《イヤトホナガク》、思將往《シヌビユカム》、御名爾懸世流《ミナニカカセル》、明日香河《アスカガハ》、及萬代《ヨロヅヨマデニ》、早布屋師《ハシキヤシ》、吾王乃《ワガオホキミノ》、形見何此焉《カタミニココヲ》。
 
○飛鳥 「トブトリノ」とよむこと、及びその意上「一九四」におなじ。
○明日香乃河之 「アスカノカハノ」とよむこと及びその意上「一九四」におなじ。
○上瀬 舊訓「ノボリセニ」とよみたるが、上「一九四」におなじく、「カミツセニ」とよむべし。「ニ」といふ語は文字の上にあらはれねど、下の「渡」といふ動詞に打合せては必ずなかるべからず。かかる場合に「ニ」を加へてよむ例は卷一(「一七」「四八」「六〇」)以下に多し。意は上「一九四」におなじ。
○石橋渡 舊訓「イハハシワタシ」とよめり。古寫本中(神田本、細井本)には「イシハシ」ともよみたるもあり。石は「イハ」とも「イシ」とよむべきが、萬葉集中にはこれを假名書にせるものなければ、必ずいづれをよしと定めよむべき理由を知らず。和名抄には「石橋」に「以之波之」の訓あれば、之に從ふべきが如くなれど、それは石造の橋といふによりて別なりとの説あり。これは一概の説にして、ここにいへる橋をも石造の橋もいづれも「いははし」「いしはし」といひうる道理のものなり。然れど、古語は今人の考へたる道理のみにて解決すべきにもあらざるべく、萬葉集には古(398)來「いははし」とよみ、その後の歌にも「いしはし」とよめるもの稀なれば、古來の訓も故ある事なるべく、今之を否定すべき有力の根據も無ければ、姑く之に從ふべし。さてその「イハハシ」とは如何なるものかといふに、これは今の岩石にて造れる橋をさすにあらずして、多くの石を川の淺瀬に並べおきて人の歩渡する便に供したるものをいふ。この石橋は支那にも古代より行ひし事にして爾雅の釋宮に「石※[木+工]謂2之|※[行人偏+奇]《キ》1」に注して郭璞曰はく「聚2石水中1以爲2歩渡※[行人偏+勺]1也。孟子曰歳十一月徒※[木+工]成。或曰今之石橋」と。而石橋の文字がまさしく、上にいへるものを示せるを見るべし。さてかく水中に石を置けるものなる故に下に藻の生ふるといへる所以も知らるべし。今の如く、水面を離れ、中空に架したるものにては藻の生ふる事あるべからざるを思へ。
○一云石浪 これは一説に「石浪渡シ」とあるをあげたるなり。「石浪」は「イシナミ」とよむべく、浪は借字にて石並即ち、上にいへる石橋と同じものにして語を異にせるなり。「イシナミ」といふ語の例は卷二十「四三一〇」に「安麻能河波伊之奈彌於可婆都藝弖見牟可母《アマノガハイシナミオカバツギテミムカモ》」とあり。
○下瀬 これも舊訓「クタリセニ」とよみたれど、上瀬におなじく「シモツセニ」とよむべし。その意上「一九四」にいへるにおなじ。
○打橋渡 舊訓「ウチハシワタシ」とよみたるが、萬葉集※[手偏+君]解、古義、美夫君志は「ワタス」とよむべしといへり。「ワタシ」と連用形によめば、下につづくる勢となるが、ここは一旦きりたる方、意引きしまるが故に「ワタス」とよむをよしとす。「打橋」とは如何なるものかといふに、日本紀神代卷下一書に「又爲2汝往來遊海之具1高橋浮橋及天鳥船亦將2供造1於2天安河1亦|造《ツクラン》2打橋1」又天智卷の童謠に「于(399)知波志能都梅能阿素弭爾伊提麻栖古《ウチハシノツメノアソビニイデマセコ》」又本集卷四「五二八」に「千鳥鳴佐保乃河門乃瀬乎廣彌打橋渡須奈我來跡念者《チドリナクサホノカハトノセヲヒロミウチハシワタスナガクトオモヘハ》」卷七「一一九三」に「勢能山爾直向妹之山事聽屋毛打橋渡《セノヤマニタダニムカヘルイモノヤマコトユルセヤモウチハシワタス》」卷十「二〇六二」に「機※[足+搨の旁]木持往而《ハタモノノフミキモチユキテ》、天河打橋度公之來爲《アマノガハウチハシワタスキミガコムタメ》」「二〇五六」に「天河打橋渡妹之家道不止通時不待友《アマノガハウチハシワタシイモガイヘヂヤマズカヨハムトキマタズトモ》」卷十七「三九〇七」に「泉河乃可美郡瀬爾宇知橋和多之《イツミノカハノカミツセニウチハシワタシ》、余登瀬爾波宇枳橋和多之《ヨトセニハウキハシワタシ》云々」とあり。これらにて「ウチハシ」といふ語又打橋といふもののさまを考ふべし。これにつきて本居宣長は玉の小琴に「うちはしを打渡す橋と心得るはいかゞ。打渡さぬ橋やあるべき。故に思ふに、打は借字にてうつしの約りたる也、こゝへもかしこへもうつしもてゆきて時に臨て、かりそめにわたす橋なり」といへり。これは源氏物語、枕草子などにいへるうちはしを思ひての事ならむが、それらは宮中の馬道などの上に臨時に打ち渡すものなれば、かくいへるも一わたり聞えたるが如し。然れども「うつし橋」といふもの古今にその名も聞えず、又しかいへる事の如く、實際に橋をば彼所此所に持ちあるくといふことは古今に未だ聞かざる所なり。宮中の打橋は蓋し、用あるに臨みて打渡し、用すめばはづして旁に取置きたりと見ゆ。それとても彼方此方に持ち行くものにはあらざるなり。ことに、天智紀の童謠なるは常設の橋たることは明かなりとす。されば、本居説は從ふべからず。按ずるに、これはなほ打橋の義なるべく、その橋は、高橋、浮橋、石橋などに對していへる語にして、板なり、材なりをば、彼方の岸と此方の岸とに打渡してかけたる橋をいふなるべし。これに對して、水中に石を置くを石橋といひ、水面に材木又は船を浮かべてつくれるを浮橋といひしなるべく、その打橋の岸の極めて高きにかけたるが高橋なるべきな(400)り。この次の飛鳥川には上瀬に石橋、下瀬に打橋といひ、卷二十の泉河には上瀬に打橋、淀瀬に浮橋といへるにて、歩渡りすべくもあらねど、あまりに河幅の廣からぬ處にかくるものなるを見るべし。
○石橋 舊板本の訓「イシヽシノ」とあるは、「イシハシノ」の誤なること著しきが、代匠記には「イハハシニ」とよめり。下の「生《オヒ》」といふ語に對すれば、「ニ」とよむべきなり。
○一云石浪 上の場合と同じ。「イシナミニ」とよむべし。
○生靡留 舊訓「オヒナヒカセル」とよめり。代匠記には「オヒテナビケル」ともよむべしといひ、考には「オヒナヒケル」とよめり。按ずるに舊訓は七音によまむためにせるならむが、「靡留」にて「ナビカセル」とよむも少しく無理なるのみならず、「ナビカセル」といふ語にてはここに適せず。代匠紀の説も七音にせむ爲なるべきが「テ」を加ふることも少しく無理なり。さるはこの歌の音數には種々の變態あれば、恐らくはここも考の説の如くはじめより六音によむべく構へしものなるべし。その意は上にいへる如く、水中に石橋としておける石に藻の生じて、長く水に從ひ靡けるをいへるなり。
○玉藻毛叙 「タマモモゾ」とよむ。玉藻は藻をたたへていへること上の「一九四」の場合におなじ。「毛叙」は「も」と「ぞ」と二の係助詞を重ねていへるものなるが、かかる場合には平安時代にては「も」「ぞ」個々の意にあらずして相合して新に將來をかねて推測する意をあらはすものとなれり。本集にある「もぞ」にはさる特別の意をあらはさずして、ただ「も」と「ぞ」との本然の意を以て重ね用ゐ(401)られたるものなるが、その意は「も」に主點を置き「ぞ」は其れに強勢を加へたるものと見ゆ。本卷「二一〇」に「吉雲曾無寸《ヨケクモゾナキ》」卷十一「二五五〇」に「立念居毛曾念《タチテオモヒヰテモゾオモフ》」などあるこれなり。ここは「玉藻といふものも絶ゆれば生ふるといふ事のありとぞ」といふ如き語意なりとす。
○絶者生流 「タユレバオフル」とよむ。意は藻といふものも、切れ絶えて一時なくなりたりとも再び生ふるといふ事ありといふ程の意なり。「オフル」と連體形にせるは上の「ゾ」に對しての結なり。
○打橋 これは舊訓この下の「生」までを一句として「ウチハシオフル」とよみたれど義をなさず。代匠記はその下の「乎爲禮流」までをつゞけて「ウチハシオヒヲセレル」とよみたれど、これも義を爲さず。考にはこれを「ウチハシニ〔右○〕」とよみたるが、上の「石橋」をも「イハハシニ〔右○〕」とよみたれば、それに照してこの訓をよしとす。「ニ」は下の「生」に對して加へよむこと上の場合におなじ。
○生乎爲禮流 「乎爲禮流」は古來「ヲスレル」とよみ代匠記に「ヲセレル」とよみたれど、いづれも古今にさる語のなきが故に從ふべからず。童蒙抄には「生」は「靡」の誤「爲」は「烏」の誤として「ナビキヲヽレル」とよみ、考は「爲」のみ「烏」の誤して「オヒヲヽレル」とよみたり。この所いづれの古寫本にも誤字更になければ、誤字説には容易に從ひ難し。されば「生」の字を「靡」の誤とする説はもとより從ふべきにあらぬが、「爲」を「ス」又は「セ」とよみても「ヰ」とよみても語をなさねば、姑く考の説の如く「オヒヲヽレル」とよみおき、さて後その當否を決せむとす。先づかく「ヲヲレル」といふ語當時ありしか如何といふに、卷六「九二三」に「春部者花咲乎遠里《ハルベハハナサキヲヲリ》」「一〇一二」に「春去者乎呼理爾乎呼里※[(貝+貝)/鳥]之鳴(402)吾島曾《ハルサレバヲヲリニヲヲリウクヒスノナクワカシマゾ》」「一〇五〇」に「巖者花開乎呼理《イハホニハハナサキヲヲリ》」「一〇五三」に「巖者山下耀錦成花咲乎呼里《イハホニハヤマシタヒカリニシキナスハナサキヲヲリ》」卷十「二二二八」に(芽子之花開乃乎再入緒見代跡可聞月夜之清戀益良國《ハギノハナサキノヲヲリヲミヨトカモツクヨノキヨキコヒマサラクニ》」卷十三「三二六六」に「春去者花咲乎呼里《ハルサレバハナサキヲヲリ》」卷十七「三九〇七」に「春佐禮播《ハルサレバハ》花咲乎乎理《ハナサキヲヲリ》」とある如く、「ヲヲル」といふ良行四段活用の動詞ありしことを知る。かくてその「ヲヽル」といふ動詞は如何なる意義をあらはせるかといふに考の説の大要をいはゞ、「枝もとををなどある「ヲヲ」にて、「トヲヲ」は「タワワ」と同語にて等を省きて乎々を活かしてヲヲリといふ」といひ、本居宣長は「わわ/\としけくて生たるをいふ也」といひたり。その意よくはわからぬ詞なれど、大體は考の説の如きことなるべし。されば、ここに「ヲヲレル」といふ語を用ゐるはふさはしからずとはいふべからず。然らば、ここを「ヲヲレル」とよみて「爲」を「烏」の誤とすべきか。然れども、誤字説は容易に從ひ難し。美夫君志の著者は之を誤字にあらずとして「爲」に「ヲ」の音ありしなりと字音辨證に之を詳論せり。辨證は、先づ例證として、この歌の所をあげ、次に、
 山邊爾波花咲乎爲里        (卷三、「四七五」)
 春山之開乃乎爲黒(里(ノ)誤)爾 (卷八、「一四二一」)
 開乎爲流櫻花者          (卷九、「一七四七」)
 開乎爲流櫻花乎          (卷九、「一七五二」)
の例をあげて、曰はく「これらの乎爲流乎爲里を舊訓に「ヲセル」「ヲセリ」と訓るは誤なり。こは必「ヲヽル」「ヲヽリ」と訓べし。但し爲は烏の誤なりといふ説あれど、かくいくらもある爲を皆烏の(403)誤とはいひがたし。按にこは爲にヲの音ありて、やがてその音を用ゐたるなるべし」といひ、又曰はく「さて爲をヲ〔右○〕と呼は意字愛字にオ〔右○〕以字にヨ〔右○〕の音あるたぐひ也」といひ、又曰はく「さてこれらは喉音の文字の第二ノ音を五ノ音にうつしたる也。またすべての第二ノ音の文字を五ノ音に轉じ呼例いと多し。其は苔にト〔右○〕能にノ〔右○〕姫《キ》其《キ》にコ〔右○〕忌にゴ〔右○〕の音あるなどなり」といへり。この説に從はば、「爲」に「ヲ」の音ありて誤字といはずしてすむべきなり。されど、ここの「ヲヽリ」にのみ「爲」を用ゐたれば、未だこのままにて治定せりといふべからず。なほ後賢の研鑽に待つ所ありといふべし。さて「ヲヽレル」は「ヲヽル」が「アリ」に熟合して成れる語なり。「生ひををれる」はその打橋の橋杭などに生ひ付き、靡きたをたをとせる藻をさせるなるべし。
○川藻毛叙 「カハモモゾ」なり。川に生ふる藻なり。「モゾ」は上におなじ。
○干者波由流 「カルレバハユル」とよむ。語の意は枯るれば生ゆるなり。「干」を「かる」と訓ずるは河池の乾涸の「かる」といふ語を借りたる如くなれど、必ずしも然らず。元來河池などの涸るることと、草木の枯るることは國語にては同一語なるなり。その故如何と云ふに、河池などの涸るるといふは水の、缺乏せる事實をいふ語なり。草木の枯るるも亦それらの水分の缺乏によることは植物學者ならでも常識にて明かなる事なり。されば干字を用ゐて、ここに川藻の枯死することに用ゐたるは必ずしも借字にあらずと知るべし。生を「ハユ」といふことは今もいふ語なるが、當時もしかいひたりし證は卷六「九四〇」に「家之小篠生《イヘシシヌハユ》」の場合に「生」を「ハユ」の借字に用ゐたるなどあり。
(404)○ 以上十四句、その地の實景を借り來りて、一旦なくなりても、再び生じ來ることあるものをあげて以て、下にいはむとする事の照應たらしむ。而して、最初二句を除く外は次の如き
 
  1 2 上瀬  石橋  石橋  玉藻
      下瀬  打橋  打橋  川藻 〔空間に複雑な線あり、略〕
 
形式にて對句をなし、以て、次下の句を導き出さむとせり。
○何然毛 「ナニシカモ」とよむ。「然《シカ》」と「毛《モ》」とは借字にして、語は「何」と「シ」といふ強意の助詞と、「カモ」といふ疑の助詞とによりなれる語なり。この語の例は卷七「一二五一」に「佐保河爾鳴成智鳥何師鴨川原乎思努比益河上《サホガハニナクナルチドリナニシカモカハラヲシヌビイヤカハノボル》」卷十五「三五八一」に「奈爾之可母奇里爾多都倍久奈氣伎之麻左牟《ナニシカモキリニタツベクナゲキシマサム》」など多し。何故にかと疑ひいひて、下の「忘賜哉」「背賜哉」にかゝれるなり。
○吾王乃 「ワガオホキミノ」とよむ。意は、明日香皇女をさし奉れり。
○立者 舊訓「タチタレバ」とよみ、代匠記には「タタセレバ」とよみ、考に「タタスレバ」とよみ、略解に「タタセバ」とよめり。これは攷證にいへる如く、舊訓の「タチタレバ」といふはしかよみうべき字面にあらねば從ひがたし。又考の「たたすれば」とよみたるも、「たたする」「たたすれ」といふ語なきが故に從ひがたし。又「タタセレバ」は破格にあらねど、「立者」の二字をよむべき語にあらず。これはその字のままによむべきが、略解の如くに「タタセバ」とよむも不可なるべきが、直ちに「タテバ」とよみてもよかるべし。歌には必ずしも敬語を用ゐざればなり。
○玉藻之如許呂 舊訓は「玉藻之如」にて「タマモノゴトク」とよみ、「許呂」を下句につけて「コロブセバ」(405)とよみたり。されど「コロブス」といふ語は古來なき語なれば從ふこと能はず、下「二二〇」に「自伏」を「コロブス」といへるはここの語に本づけるものにて從ふべからず。この「如」字金澤本に「母」に作れり。これによれば「モコロ」とよむべし。さてかく「モコロ」といふことと考ふれば、「如」一字にてはその義を示し「許呂」はその下部の音を示したりと見て、「モコロ」とよまれざるにあらず。この故に「タマモノモコロ」といふべし。この「モコロ」といふ語は既にいひたる如く、卷十四「三五二七」に「於吉爾須毛乎加母乃母己呂也左可杼利伊伎弖久伊毛乎於伎※[氏/一]伎努可母《オキニスモヲカモノモコロヤサカドリイキツクイモヲオキテキヌカモ》」又卷二十「四三七五」に「麻都能氣乃奈美多流美禮婆伊波比等乃和例乎美於久流等多多理之母己呂《マツノキノナミタルミレバイハヒトノワレヲミオクルトタタリシモコロ》」などにその例ありて、意は「ごとし」に近きものなり。
○臥者 舊訓「許呂臥者」とよみたる事既にいひしが如し。されど、そは從ふべからず。この「臥者」にて一字として、「立者」に對したるとして、「フセバ」とよむべし。若し「立者」を「タタセバ」といふこととせば、それに對してここを新考の如く「コヤセバ」と四音によむべし。されど、敬語を必ず要すべしとにあらねば、「フセバ」と三音にてありぬべし。
○川藻之如久 「カハモノゴトク」なり。
 以上四句は上の句を受けて、いへるにて立ちても居ても夫君に影の如く從ひたまひし事をいはむ形容とせるなり。
○靡相之 舊訓「ナヒキアヒシ」とよめり。童蒙抄には「ナミアヒシ」又は「ナキアヒシ」とし考「ナビカヒシ」とよめり。「靡」は普通「ナビク」とよむ文字なるが、ここは「一九四」の場合とおなじく「ナビカヒ(406)シ」とよむべし。その意は契沖は「たちゐおきふし、みなしなやかなる御ありさまをほめ奉るなり」といひ、攷證には「皇子皇女御夫婦のなからひ、御むつまじく、立たまふにも、ふし給ににも藻などの水になびくがごとくはなれたまはず、なびき居給ひしと也」といへり。攷證の説をよしとす。
○宜君之 「ヨロシキキミガ」とよむ。「ヨロシキ」といふ語の例は日本紀雄略卷の歌に「擧暮利矩能播都制能野磨播伊底※[手偏+施の旁]智能與盧斯企夜磨《コモリクノハツセノヤマハイテタチノヨロシキヤマ》」古事記上卷に「波多多藝母許斯與呂志《ハタタギモコシヨロシ》」又日本紀應神卷の歌「豫呂辭枳辭摩之魔《ヨロシキシマシマ》」本集卷二十「四三一五」に「宮人乃蘇泥都氣其呂母安伎波疑爾仁保比與呂之伎多加麻刀能美夜《ミヤヒトノソデツケゴロモアキハギニニホヒヨロシキタカマトノミヤ》」などあり。この語は今殆ど「ヨシ」と同じ意に用ゐるが、本意は少しく異にして、「よろ」は「よろふ」「よろづ」の「よろ」にして、物の足りそなはれるをいふ語なりといへり。この「君」は蓋し、明日香皇女の背の君をさし奉れるならむ。
○朝宮乎 「アサミヤヲ」なり。卷十三「三二三〇」に「朝宮仕奉而」とありて、それは朝に宮仕するをいへるなるが、これは夕宮に對して對句となり、さて夫君に朝夕に仕へたまふことをいへるなるべし。攷證にただ「朝夕常にまします宮なり」といへるは非なり。
○忘賜哉 舊訓「ワスレタマフヤ」とよめり。攷證は「ワスレタマヘヤ」とよめり。その説に、「たまへやのやは、ばやの意にてばを略ける也」といへり。今かくする時は、その「や」が係となりて條件として下につづき行くべき事となるが、この下に果してそれの結びとなる語の存するか如何も問題なれど、それよりも以前に問ふべきは、かくよむ時に、上の「ナニシカモ」の「カモ」に對しての結(407)は如何になれるか。若し、上の「カモ」に對しての結全くなしとせば、語法は第二としても、その意如何になるべきか。全然語をなさぬ事となるべし。されば、ここは、上の「カモ」に對しての結として見るべきものなれば、攷證の説は從ふべからずして舊訓をよしとす。さてこの「ヤ」につきて古義に曰はく「さて上に何然毛《ナニシカモ》とあるに、又ここに至りて賜哉《タマフヤ》とあるはたちまち(何《ナニ》し可《カ》もの可《カ》と賜哉《タマフヤ》の哉と)疑(ヒ)の詞重りたるはいかにぞといふにこは一ツの哉の言は輕く見る例にて云々」といへり。そのあげたる例には一々當れりといひ難きもあれど、略さる事なり。なほこの事は新考の説をよしとす。曰はく、「案ずるにこのヤは常のヤよりも輕くて、一種の助辭なり。雅澄の擧げたる例の中、今昔物語なる何ノ益カアラムヤといふのみ今と同じき格なり。後世常用ふる辭の中にも何トカヤといふことあり。此ヤ今の歌のヤに近し。玉の緒七卷八十に
 これはナニシカモにて切れたり。さる故に下に何の結びなし。タマフヤのヤへかけて見べからず
といへるは非なり」といへり。この言の如し。この「ヤ」は余が所謂間投助詞の「ヤ」なるべし。即ち「カモ」の結は「タマフ」にてあらはれたる下に「ヤ」を加へて力を添へたるなり。
○夕宮乎 舊訓「ユフミヤヲ」とよめり。諸家皆之に從へり。「朝宮乎」の對語にして朝夕に夫君に宮仕へたまふことをいへるなり。
○背賜哉 「ソムキタマフヤ」とよむ。攷證にこれも「ソムキタマヘヤ」とよみたれど、非なること既にいへる如し。以上四句にて語の表面は何故に朝夕の夫君への宮仕を忘れ背き賜ふぞやと(408)いひたるにて、實は薨去ありて世にましまさずなりたるを婉曲にいひ且つはその御名殘をしたひ奉る意をあらはせり。
 以上第一段落にて皇女のおはしまさぬをいぶかりたるさまにいへるなり。
○字都曾臣跡 「ウツソミト」とよむ。「臣」は「オミ」なるを「ミ」の假名に用ゐたり。この語の意は現し身にて、現の世に生れてある身をいふこと「一六五」に既にいへり。本卷「二一三」に「宇都曾臣等念之時携手吾二見之」云々とあり。
○念之時 舊訓「オモヒシトキノ」とよみ、考には、「オモヒシトキニ」とよみ萬葉※[手偏+君]解には熊谷直好の説として「オモヒシトキ」とよめり。そのうち「時ノ」とよむは道理なけれど、「トキニ」とよまむは無理にあらず。熊谷の説もすて難し。今は考に從ふ。考に曰はく、「顯の身にておはせし時といふのみ。念の言は添ていふ例上に見ゆ」といへり。これは卷一「三一」の一云の「將會跡母戸八」が、「亦母相目八毛」といへるに對せるをさせるものなるが、意は大體さる事なるべきが、語釋としてはなほ思ふの意あるべし。即ち皇女が現身としておはししをば、傍人よりは事實上現身なりと思ふ事當然にして「うつそみにおはしし」といへば客觀的の事實をいひ、「うつそみと念ひし」といへば、傍人の主觀的の語となる。
○春部者 舊訓「ハルベニハ」とよめり。考には「ハルベハ」とよめり。その例卷一「三八」にあり。そこと同じく「ハルベハ」とよむべし。春の頃はの義なり。
○花折挿頭 「ハナヲリカザシ」とよむ。卷一「三八」に「春部者花挿頭持」といへる例によりよむべし。(409)春になれば、花を折りて頭にさすをいふなり。
○秋立者 「アキタテバ」とよむ。秋になることを「秋立つ」といふ。「立秋」といふ漢語の譯語なるべし。これも卷一「三八」に「秋立者黄葉頭刺理《アキタテバモミヂカザセリ》」とあり。
○黄葉挿頭 「モミヂバカザシ」とよむ。意明かなり。以上四句、皇女の春秋の御遊のさまをいへるなり。
○敷妙之 「シキタヘノ」とよむ。意は卷一「七二」にいへり。
○袖携 「ソデタツサハリ」なり。「タツサハリ」といふ語の例は卷十七「三九九三」に「於毛布度知宇麻宇知牟禮底多豆佐波理伊泥多知美禮婆《オモフドチウマウチムレテタヅサハリイデタチミレバ》」卷二十「四四〇八」に「之路多倍之蘇※[泥/土]奈岐奴良之多豆佐波里和可禮加弖爾等《シロタヘノソデナキヌラシタツサハリワカレガテニト》」卷十八「四一二五」に「多豆佐波利宇奈我既利爲底《タヅサハリウナガケリヰテ》》とあり。「たづさはり」は「携へ」に對する語にして、一般に下二段活用の語に對してそれの語幹より起りて、「アハル」といふ形の良行四段活用の語をなすことたとへば、「たたぬ」に「たたなはる」「きよむ」に「きよまはる」などの如し。ここもそれなるが、意は、その語に對してその状態にある意を示すなれば携ふといふ状にある、即ち袖を連ね睦ましきさまにある意を示せり。
○鏡成 「カガミナス」とよむ。ここは「みる」の枕詞なり。
○雖見不※[厭のがんだれなし] 「ミレドモアカズ」なり。古義には「ミレドモアカニ」といへり。このよみ方惡しとにはあらねど、「ニ」と必ずよむべき所は「ニ」の音をあらはす字を用ゐるを例とすれば、舊訓にてよき筈なり。「※[厭のがんだれなし]」は説文に「飽也」玉篇に「是也」とあり。「厭」字の原の體なり。
(410)○三五月之 「モチツキノ」とよむ。「三五月」は十五夜の月の義なることはいふまでもなきが、「三五月」といふ字面は本邦人の工夫に出でしにあらずして支那の熟字を用ゐしならむ。梁の劉孝綽の詩に、「明々三五月、垂影當高樹」又玉臺新詠の古詠に「三五明月滿、四五蟾兎缺」とも見ゆ。これらによれるならむ。「モチツキ」の事は上「一六七」にいへり。「ノ」は「の如く」の意なり。
○益目頬染 舊訓「マシメツラシミ」とよめるを玉乃小琴に「イヤメツラシミ」とよみ改めたるより後諸家之に從へり。「益」を「イヤ」とよむこと本卷「一三一」にいへり。「頬」は新撰宇鏡にも、和名抄にも「豆良」の訓あり。これを借りたるなり。「染」も「シム」の訓あるを借りたるにて三字にして「メヅラシミ」の語にあてたるなり。「めづらし」といふ語の例は卷十九「四二八五」に「大宮能内爾毛外《オホミヤノウチニモトニ》爾母米郡良之久布《モメヅラシクフ》禮留大雪《レルオホユキ》」又日本紀の自注には「希見謂|梅豆邏志《メツラシ》と見え、靈異記上卷には「奇【女ツラシク又阿也之支】」と見えたり。「めづらし」とは「めづる」といふ動詞より轉じたる形容詞にしてめづべきさまなるをいふ。その「めづらし」をば更に動詞の如くにせるが「めづらしみ」なり。その意はめづらしく思ふことなり。
○所念之 舊訓「オモホヘシ」とよみたるを考に「オモホシシ」とよみたり。考の説をよしとす。思ひたまひしなり。
○君與時時 舊訓「キミトトキトキ」とよめるをば考は「キミトヲリヲリ」とよみたり。されど「ヲリヲリ」といふ語、萬葉時代の語なりや否や例なきを以て從ひがたし。「トキドキ」といへる例は、卷二十「四三二三」に「等伎騰吉乃波奈波佐家等母《トキドキノハナハサケドモ》」とあり。これによるべし。この「君」も上の「宜君」の(411)君をさせり。
○幸而 舊訓「ミユキシテ」とよめり。考には「イデマシテ」とよみたり。按ずるに、ここは天皇の御事ならねば、「ミユキシテ」とよむは穩かならず。「いでまし」の事は卷一「五」にいへり。
○遊賜之 「アソビタマヒシ」なり。共に遊び賜ひしなり。
○御食向 「ミケムカフ」とよむ。「キ」に對する枕詞なり。その意は舊説に御饌に供る物の名にいひかけたるものにして、ここは御食《ミケ》の料に備へ設る酒《キ》とつづけしなりといへり。(酒の古語「キ」にして今「オミキ」といふ「大御酒」の轉せるなり。)されど、これにては「むかふ」といふ義とほらず。按ずるに、「むかふ」といふは、「みけ」は一種ならず、御飯を主として種々の肴あれば、「みけ」として相向ふものの意によりて、御食の料とする「粟」「葱」「蜷」などにかけ、又廣く味にかけたるあり、されば、この「キ」も亦古義の一説の如く「葱《キ》」にかけしにて「酒」にかけしにあらざるべし。何となれば、古は御|酒《キ》御|饌《ケ》といひて、酒は「ケ」とはいはざればなり。
○木※[瓦+缶]之宮乎 舊訓「コカメノミヤヲ」(「ヲ」を「ノ」とせるはもとより誤なり)とよみたれど、「キノヘノミヤヲ」とよむべきこと既にいへるが如し。この歌の趣にては、この木※[瓦+缶]の地は明日香皇女の生前來り遊び愛し給ひし地と見ゆ。さる土地に御墓を營むは古今に通じたる人の常情なり。
○常宮跡定賜 「トコミヤトサダメタマヒテ」とよむ。「賜」の下に「テ」の字をかかねど、加へてよむべし。この次の歌(一九九)にも「朝毛吉木上宮乎常宮等高之奉而」とあるも意同じと見ゆ。この常宮とかけるものなほ本集にありて、卷六「九一七」に「安見知之和期大王之常宮等仕奉流左日鹿野(412)由《ヤスミシシワゴオホキミノトコミヤトツカヘマツルサヒカヌユ》」又卷二十「四三〇一」の詞書に「天皇太上天皇皇大后於2東常宮南大殿1肆宴」と見ゆ。按ずるに常宮といふ語の文字面の意は常《トコ》しへにかはる事なき宮といふ事にして、それにはいづれもかはりなかるべけれど、事實よりいへば、本卷のは御陵墓として鎭《トコシヘ》にしづまりますことをいひたるものなるべく、六卷二十卷は、常の宮殿を祝して名づけしなるべし。本居宣長はこれを「トツ宮《ミヤ》とよみ、離宮の意とせれど、「トコミヤ」と「トツミヤ」とはもとより別なれば從ひがたし。即ちここは永久に鎭ります宮處即ち御陵墓と定めたまひてなり。
○味澤相 舊訓「アチサハフ」とよみたるが、冠辭考には之を釋して、味はアチ鴨にして、サハは「多」にしてアチは群れゆくものなれば、そのむれの約言「メ」にかけて枕詞とすといひ、古義は「ウマサハフ」にして、「味之粟生」なるべきかといへり。されど、その説詳かならず。「メ」の枕詞に用ゐたることは著しけれど、そのよみ方もその意も明かならず。本集中にも「味澤相」とかけるのみにして、他の文字を用ゐたるを見ず。姑く舊訓によりて後人の研究をまつ。
○目辭毛絶奴 舊訓「マコトモタエヌ」とよみたり。考には「メゴトモタエヌ」とし、古義には「メコト」と清音によめり。按ずるに目言といふ語は卷四「六八九」に「海山毛隔莫國奈何鴨目言乎谷裳幾許乏寸《ウミヤマモヘダタラナクニナニシカモメゴトヲダニモココダトモシキ》」卷十一「二六四七」に「束細布從空延越達見社目言踈良米絶跡間也《ヨコクモノソラユヒキコシトホミコソメゴトカルラメタユトヘタツヤ》」などあるが、ここを「マコト」とよまば、これらも「マコト」とよむべき筈なり。然るに一方「味澤相」の下にある語は卷六「九四二」に「味澤相|妹目不數見而《イモガメカレテ》」卷十一「二五五五」に「味澤相目之乏流君今夜來座有」卷十二「二九三四」に「味澤相|目非不飽《メニハアケドモ》」などいづれも「目」にかけたれば、「メコト」とよむべきこと明かなり。「めこと」とは(413)何の意かといふに、「め」は目に見ることなり。「こと」は口にいふ事なり。されば「メコト」とよむべし。「めこともたえぬ」とは皇女の薨じ給ひしが故に、目に見奉る事もたえ、もの申し上ぐる事も出來ずなりぬといふなり。
 以上第二段落にて、第一段落を受けこれに應へ、かねて、一歩を進めて皇女の今や現身にましまさず、木上の御墓に永久にしづまります由をいへるなり。
○然有鴨 舊板本の訓「シカアルカモ」とよみ、神田本に「シカルカモ」とよめり。略解は「シカレカモ」とよみたるが、しかも、その詞落居ずとして一本の「ソコヲシモ」をよしとせり。今この文字のままならば略解の如くよむべきなり。これは「シカアレバカモ」といふと同じ格にして後世には「アレ」の下に必ず「バ」のある所なり。攷證には「卷十七に之比爾底安禮可母《シヒニテアレカモ》(四〇一四)とあると同格也」といへり。さてこの句意十分に通らずとして、略解には「此かもの詞ここにゐず。一本のそこをしもの方かなへり。」といひ、攷證、美夫君志等多くの學者これと同じ態度をとりたるが、萬葉考は「所己乎之毛」を本文とたて、檜嬬手古義も亦しかせり。さてこの所、いかにも「所己乎之毛」とせば、意一見明瞭になれば、その如くあらば、もとよりよかりなむかとも思はるれど、「シカレカモ」とありても意不通なるにあらざるのみならず、古來かくあるものなれば、これを更むるは武斷といふべし。今は舊のままによみ、舊本のままに解釋して進むべし。即ち、前段に述べたる如き次第にてあれば、云々と下數句を導き出せるものなるが、その「カモ」の係に對する結辭は如何にもあらはれてあらず。然らばそは如何になれるかといふに、かかる場合には、その結に(414)相當すべき句が、接續助詞「ば」「ど」「ども」などによりて下に接續する場合又はその句が獨立性を失ふ場合に、その結がその接續助詞に吸収せられ又はその獨立性を失ふと同時に失はれて、それより下の句にはあらはれざること古今に通じたる現象なりとす。この事を顧みずして、「カモ」の落居する所なしとするは未だしき論といふべし。この「カモ」の吸収せらるる所は下に至りていふべし。
○一云所己乎之毛 一本に「ソコヲシモ」とあること既にいひし所なり。
○綾爾憐 舊本「アヤニカシコミ」とよみたれど、「憐」を「カシコミ」とよむべき理由なければ從ひかねたり。神田本細井本には「アハレフ」の訓をつけ、西本願寺本には「カナシミ」と訓ぜり。又代匠記には、「アヤニカナシミ」と訓し、美夫君志は「アヤニカナシモ」とよみたり。さて考ふるに「憐」の字は説文に「哀也」廣韻に「哀衿也」と注し、類聚名義抄「カナシブ」と注せり。而して古來の訓はこれを動詞にあてて形容詞にあてたることなし。これによれば、美夫君志に「カナシ」といふ形容詞にあてたるは當らずして、代匠記の訓を當れりとすべし。而してその活用は、「マ行四段」にても濁音のハ行四段にても通用せられしものなるが、萬葉集時代には二樣に用ゐられしが、いづれにてもあるべし。今は代匠記によれり。
○宿兄鳥之 「ヌエトリノ」とよむ。「宿」は「ヌ」といふ動詞の終止形にあてて「ヌ」といふを借り、「兄」は「エ」なるを借りて「ヌエドリ」といふ語をあらはせり。さてこれは「片戀嬬」の枕詞とせるものなるがこれは、卷三「三七二」に「容鳥能間無數鳴雲居奈須心射左欲比其烏乃片戀耳爾《カホドリノマナクシバナククモヰナスココロイサヨヒソノトリノカタコヒノミニ》」卷八「一四七三」に「霍(415)公鳥片戀爲乍《ホトトキスカタコヒシツツ》」といへる如く、必ずしも「ヌエ鳥」に限らずしていへるなるが、これらの鳥をば、妻戀しつつなくものならむと考へて片戀の枕詞とせるものならむこと大體冠辭考の説の如し。
○片戀嬬 舊訓「カタコヒツマ」とよめり。然るに、攷證は「カタコフツマ」と訓すべしとせり。なほ、又考はこの「嬬」を否とし、「一云」の「爲乍」を本文として「カタコヒシツヽ」と改めたり。かくて檜嬬手、古義もかく改めたり。なほかく改めぬ本も大かた「爲乍」を正しとしてそれによれり。先づ、この文字は如何によむべきかといふに「嬬」の「ツマ」とよむべきは上に屡いへるが、「カタコフツマ」とよむときは「コフ」は用言として活動し、「カタコヒツマ」とよむ時は、一の體言となる。而して、本集の例を見るに、「カタコヒニ」(卷十二「二九三三」)「カタコヒノミニ」(卷三「三七二」)「カタコヒヲスト」(卷十二「三一一一」)とある如くいづれも「カタコヒ」といふ體言のみありて「カタコフ」といふ用言の存することを知らず。この故にこゝを「カタコフ」とよむべき根據は無しと知られたり。されば古來の訓にてよき筈なりとす。さてこの語の意は契沖が「ヌエ鳥の片戀つまは夫君の咽びて歎給を喩る意」といへる、その「咽びて」は入ほがなれど、夫君の歎給を喩ふる意なることは明かなり。然るに「爲乍」を正しとする説はここを「次へのつゞきよろしからねば」といふにあれど、つゞきよろしからずといふ程のこともあらざれば、改むるには及ばざるべし。而してこれは「ヌエトリノカタコヒツマ」と「アサトリノカヨハスキミ」と相對して一の意をなせるなれば、かへりてこの方よき筈なりとす。
○一云爲乍 一本に「カタコヒシツヽ」とあるを注せるなり。
(416)○朝鳥 「アサトリノ」とよむ。「ノ」を加ふること「飛鳥」の場合におなじ。これは次の「カヨハス」の枕詞なるが、その意は鳥は早朝にねぐらを出て彼方に往くものなるべし。卷二の「四五」に「坂鳥乃《サカトリノ》 朝越座而《アサコエマシテ》」の下にいへるも參考に供すべく又卷九「一七八五」に「朝鳥之朝立爲管《アサトリノアサタチシツツ》とあるもその趣同じ。
○一云朝露 これは一本に「アサツユノ」とありと注せるなり。されど、「朝露の」にて「往來爲《カヨハス》」の枕詞とするは如何なり。
○往來爲君之 舊訓「カヨヒシキミガ」とあり。神田本には「ユキカヒシ」と訓し、考には「カヨハスキミガ」とよめり。これより後諸家主として考によれるが、檜嬬手は舊訓によれり。按ずるに、「往來」二字を「カヨフ」といふは所謂義訓にして、これには異説あるべくもあらぬが、「爲」は「シ」とも「ス」ともよみうべきが故に、上の二説いづれにても不可なりといふ理窟は立ち難し。然れども「シ」とせば、回想の複語尾にあてたる例となりて、その往來したまふ事は過去となるべきが、ここは目的のさまをいへりと思はるれば「カヨハス」とよむ方よからむか。然らばその「カヨハス」の敬語の連體形と見るべきものなり。この「君」はその夫君をさし奉ることいふまでもなし。これは上の「ヌエトリノカタコヒツマ」と相對して夫君の片戀に妹の君をしたひてここにかよひますことをいへるなり。
○夏草乃 「ナツクサノ」なり。その意は、本卷上の「一三一」の「夏草之念之奈要而志努布良武妹之門將見」とあるにおなじ。
(417)○念之萎而 「オモヒシナエテ」なり。上にいへる「一三一」の「念之萎而」又「一三八」に「夏草乃思志萎而」とかけると同じ語にして「シナエテ」は夏草の炎天にしをるる如く、思ひ「シヲレテ」といふなり。
○夕星之 舊訓「ユフツツノ」とよめり。然るに神田本温故堂本には「ユフホシノ」とよみたり。按ずるに「夕星」は「ユフホシ」とよみうべくして、その「ユフホシ」といふ語は古に無かりきとはいふを得ざらむかなれども、ここは下の「カユキカクユキ」の枕詞なるものなれば、それに適したるよみ方をせざるべからず。和名抄に、「兼名宛云大白星一名長庚【此間云由布都々】暮見2於西方1爲2長庚1耳」とあり。この星は今いふ金星なるが、毛詩に「東有2啓明1西有2長庚1」とある啓明は俗にいふ曙《アケ》の明星にして、長庚は俗にいふ宵《ヨヒ》の明星なるが、その時刻によりて、東に見え、西に見ゆるによりて下の「カユキカクユキ」といふ語を導き出すものなれば、この夕星といふ文字は長庚即ち宵の明星をばかけること著し。ここに於いて、夕星即ち「ユフヅツ」といふ特種の名詞にして一般に夕空に出づる星の義にあらざるを考ふべし。
○彼往此去 舊訓「カユキカクユキ」とよめり。然れど、神田本には「アチキコチクル」とよみ、童蒙抄に「カナタコナタニ」とよめり。按ずるにこれは「彼」と「此」との對、「往」と「去」との對を以てかくかけるものにして、彼方此方に往き去く義なるは明かなるが、よみ方は、その意の古語の例によるべきなり。今童蒙抄の訓によれば「往」「去」の文字を用ゐたる詮なし、神田本の「アチ」「コチ」は訓としては不可なるにあらざるべけれども、萬葉集の頃に「アチ」といふ語の存せし證を知らず。さて「カユキカクユキ」の語の例は卷十七「三九九一」に「可由吉加久遊岐見都禮騰母《カユキカクユキミツレドモ》」といふあり。今「彼」は(418)「カ」「此」は「カク」とよむこと萬葉集にては例多く、「往」も「去」も「ユキ」とよむことまた集中に例少からず。この故にこのよみ方をよしとすべし。「夕星の曉に東に、夕に西に見ゆる如く、彼方に往き、此方に往き」といひて、下の「猶預不定」を導く料とせり。
○大船之 これは「一二二」の「大船之舶流澄麻里能絶多日二」とある如く「たゆたふ」の枕詞とせり。
○猶預不定見者 流布本「不※[山/疋のような字]」の如き文字に作れどかくの如き字は、正しき字とも見えず、古寫本及び、寛永本以前の版本みな「定」と書きたれば、之に從ふべきなり。さてこの「猶預不定」の四字は蓋し「タユタフ」といふ語にあつべく義を以てかけるものなるが、「猶預」は「猶豫」とも「猶與」ともかける雙聲の熟字にして、史記高帝紀に「諸呂老人猪預未v有v所v決」とある、その用例なり。本集の用例を見るに、「猶預」二字にて「タユタヒ」とよませたるあり。卷十一、「二六九〇」に「妹者不用猶預四手《イモニハアハズタユタヒニシテ》」これなり。然るにこれは「猶預」の外に「不定」の二字を加へてその意を明確にしたるならむ。「タユタフ」といふ語の例は卷四「五四二」に「今者不相跡絶多比奴良思《イマハアハジトタユタヒヌラシ》」卷十一「二七三八」に「大船乃絶多經海爾《オホフネノタユタフウミニ》」同卷「二八一六」に「天雲之絶多不心《アマグモノタユタフココロ》」卷十二「三〇三一」に「天雲之絶多比安心有者《アマグモノタユタヒヤスキココロアレバ》」卷十五「三七一六」に「安麻久毛能多由多比久禮婆《アマクモノタユタヒクレバ》」卷十七「三八九六」に「家爾底母多由多敷命《イヘニテモタユタフイノチ》」これらによりて、その意を知るべし。即ちその夫君の中空なる心にてましますことをいへるなるが、その「たゆたひたまふ」を見ればといへるなり。さて上の「しかれかも」の結は元來はこの「たゆたふ」といふ語の處に存すべき筈なるなり。然るに、この「たゆたふ」は準體句となりて、下の「みれば」の補格となりてあれば、ここに上の「かも」の結としての終止は形の上にあらはるべき事にはあらぬなり。こ(419)の事よく心をつけて見るべきなり。
○遣悶流 舊訓「オモヒヤル」とよめり。略解には本居の説によりて、「なぐさもる」とよみ、古義はそれに基づきて「なぐさむる」とよみたり。「遣悶」は支那に用ゐたる字面なるが、その義をとれば「ナグサムル」といふ語に當らずとはいふを得ずといへども、「オモヒヤル」といふ語がこの「遣悶」の字義に當る事の由は卷一「五」の歌に「思遣」の條にて既に説ける處にして、卷十七「四〇〇八」には明かに「於毛比夜流許等母安利之乎《オモヒヤルコトモアリシヲ》」とあり。蓋し本居の説は上に「オモヒ」とありて直下に「コヽロ」とあるが面白からずとてのよみ方なるべけれど、かゝる事は古歌には屡々あるなり。現に卷一の「五」にも「思ヒヤル」の下に「念ヒゾモユル吾が下情」とあるにあらずや。さればなほ古來の訓をよしとす。意は悶々の情を遣りて心をはるくる義なることいふまでもなし。
○情毛不在 「コヽロモアラズ」とよむ。意明かなり。
○其故 舊訓「ソノユヱヲ」とよみ、童蒙抄には「ソノユヱノ」とよみ、考に「ソコユヱニ》とよめり。この語は上の「一六七」に出で、そこにて説けるにおなじ。
○爲便知之也 舊訓「スヘモシラシヤ」とよみ、神田本に「スヘシルヤ」とよみたり。代匠記には「シラジ」と濁音にせり。考には「スヘシラマシヤ」といひ、玉の小琴には此一句誤ありとして「セムスベヲナミ」又は「セムスベシラニ」ならむとし、檜嬬手は「之也」は「良爾」の誤にして訓を「セムスベシラニ」とせり。如何にも誤字あるにあらずやと思はるる處なれど、古寫本を按ずるにここに誤字ある本は一もなし。されば文字はここのままにして、その訓を考ふべきが、舊訓の「スベモシラシ(420)ヤ」といふは語をなさず。代匠記の説も一往聞えたる如くなれど、「シラジヤ」の「ヤ」を如何に説くべきか。語法にあはねば從ひかねたり。然るときはただ考の「スベシラマシヤ」といふ訓のみ殘る事となるが、これにても十分に落居せりとは見えねど、意味は通ぜざるにあらず。たゞ「しらまし」を「知之」とかくか如何といふ點に疑あるなり。されど、今他によき説を知らねば、姑く之に從ふ。さてかくよみての意義は美夫君志に「ヤはうらへ意のかへるヤ〔右○〕にて、すべしらんや、すべしらずとなり」といへる如くなるべし。
○音耳母名耳毛不絶 「オトノミモ、ナノミモタエズ」とよむ。ここに似たる語遣の例は卷十七「四〇〇〇」に「於登能未毛名能未母伎吉底《オトノミモナノミモキキテ》」あり。又卷十八「四〇三九」に「於等能未爾伎吉底目爾見奴布能宇良乎《オトノミニキキテメニミヌフセノウラヲ》」といへる例あり。この「音」とは如何といふに、軍記物などに「日頃はおとにも聞きつらん、今は目にも見よ」などいへる場合の「おと」と同じ語にして、その名の世に聞ゆることをいふ。この「おと」は結局は「名」といふにおなじことに落つべきが、おのづから區別あり。「おと」はその名によりて傳へらるるもの即ち今いふ噂とか評判とかいふ方面をいふ。「おと」も「名」も、漢語の「名聲」といふに相當することある場合もあるが、その「聲」の方面は即ち「おと」なり。さればこの「おと」は「音響」「音聲」の「おと」といふ義より一轉したるものにして「聲名」「聲望」「聲譽」などの漢語の場合の「聲」字に該當するものなり。聲字のこの義なるは本卷「二〇七」に「梓弓聲〔右○〕爾聞而……聲〔右○〕耳乎聞而有不得者」などこれなり。これは御事蹟のいひ傳へなどを主とすと思はる。さてこの「おとのみも」「なのみも」とは如何なる意かと考ふるに、これは下の「思將往」にかゝれるものなれば、「お(421)とをしぬび、名をしぬぶ」といふ意なることは明かなり。然らば、「のみも」は如何なる意にて加へられしかといふに、「のみ」は余の所謂副助詞にして、すべてある意義を以て上下の關係を修飾するのみにして、上下の語の資格に變動を與ふる力なく「も」も亦その陳述の上に力を及ぼすのみにして、上下の語の關係に變動を與ふるものにあらず。されば、「おと」「な」は下の「思ふ」といふ語に對して有する一定の關係の上には特別の變化を與ふることなきなり。さて君の御噂君の御名のみをも「絶えず」といへるなるが、その「絶えず」は又下の「思ひゆかむ」と相合して一意をなすものにして、かくて上の「おと」と「名」とをうくるなり。
○天地之彌遠長久 「アメツチノイヤトホナガク」とよむ。普通にはこの「天地之」をば「天地のごとく」と解すべしといへり。されど、ここは然にはあらじ。ここの「之」は蓋し主格にして、「天地の彌遠く長く」なるべく、その「天地の彌遠長く」といふ全體を以て、修飾格に立てたるものなるべく思はる。これは卷一、「紫草のにほへる妹」の歌にいへると略同じきが、かれは體言を修飾せるもの、これは用言を修飾せるものにて稍趣異なれど、句の用ゐらるる心ざまは一なり。何故にかく説くべしとならば、「天地の如く」といひてもなほ實地の解釋には必ず、「天地《(主)》のあらん限り永遠に」とか又は「天地《(主)》の遠く長きが如くに遠く長く」といはでは解釋にならぬにあらずや。さてこの句は皇女の御事蹟上の噂又御名をば天地の永遠無窮なる如く、いや遠く長く年久しくわすれ奉る事なく思ひ奉りゆかむとなり。
○思將往 舊本「オモヒユカム」とよめり。代匠記には「思は偲にてしのびゆかむなるべし」といへ(422)り。「思」は、通常「オモフ」と訓するものなれど、これには「思慕」と熟して用ゐらるる意義あり。而して「慕」の字は「シノブ」といふ訓を類聚名義抄に加へたり。その「シノブ」は萬葉集にては「シヌブ」なること卷一より屡見えたり。されば「思慕」の意にて「シヌブ」とよみて不可なかるべきが、ここはその意義よりして「シヌブ」とよむ方あたれり。「思」を「シヌブ」とよませたる例は卷三「四六四」に「去者見乍思跡妹之殖之屋前之石竹開家流香聞《アキサラバミツツシヌベトイモガウヱシヤドノナデシコサキニケルカモ》」などあり。されば「シヌビユカム」とよむべし。その意義は將來永く、御噂をも御名をも、天地の長久なるごとく、慕ひつつ行かむと思ふその御名といふ事なり。さればここは連體格にして「御名」につづくるものなり。
○御名爾懸世流 舊訓「ミナニカケセル」とよみたり。されど「カケセル」といふ語はあるべくもあらず。考には「カカセル」とよめり。之に從ふべし。これは「カク」を敬語として「カカス」といひたる、それより「アリ」に熟せしめて、「カカセル」といへるなり。「名に懸く」とは「名に負ふ」といふに略同じく、その名としてもちてあることなり。卷三「二八五」に「妹名乎此勢能山爾懸者奈何將有《イモガナヲコノセノヤマニカケバイカニアラム》」卷十「一八一八」に「子等名丹關之宜朝妻之《コラガナニカケノヨロシキアサヅマノ》」などその例なり。「カカス」の例は卷十七「四〇〇〇」に「安麻射可流比奈爾奈可加須古思能奈可久奴知許登其等《アマザカルヒナニナカカスコシノナカクヌチコトゴト》……須賣加未能宇之波伐伊麻須《スメカミノウシハキイマス》云々」といへるあり。「カカセル」といふ假名書の例はなけれど、卷十六「三七八七」に「妹之名《イモガナニ》繋有〔二字右○〕櫻花開者《サクラハナサカバ》」の「繋有」は舊訓「カケタル」とよみたれど、或は「カカセル」とよむべきものにてもあらむ。
○明日香河 「アスカガハ」なり。飛鳥皇女の御名と同じ名なる河なればいへるなるが、この皇女の御名は川より生じたるにあらずとしても少くとも飛鳥といふ地名に基づくものなるべし。
(423)○及萬代 「ヨロヅヨマデニ」とよむ。「及」を「マデニ」とよむはその字義より起れるなるべし。卷九「一七四七」に「草枕客去君之及還來《クサマクラタビユクキミガカヘリクマデニ》」とあるもここにおなじ。この「までに」は下にいへる「カタミ」として永久にかたみにせむとなり。
○早布屋師 「ハシキヤシ」なり。「早」は「ハヤ」なるを「ハ」の音に惜り用ゐたり。その例は卷十一「二四二九」に「早敷哉相不子故《ハシキヤシアハヌコユヱニ》」卷十二「二三六九」「早敷八四《ハシキヤシ》」卷十三「三二四五」に「公奉而越得之早母《キミニマツリテコエムトシハモ》」にあり。「ハシキヤシ」といふ語の例は卷十二「三一四〇」に「波之寸八師志賀在戀爾毛有之鴨《ハシキヤシシカルコヒニモアリシカモ》」卷十六「三七九〇」に「端寸八爲今日八方子等丹《ハシキヤシケフヤモコラニ》」又「三七九四」に「端寸八爲老夫之歌丹《ハシキヤシオキナノウタニ》」などいと多し。この語の構造は「はしき」に「ヤシ」の添へるにてその「ヤシ」は「よしゑやし」の「ヤシ」に同じく、深き意なく、調を添ふるに止まれり。さては「はしき」といふを本體とするが、これは「はし」といふ語即ち「愛すべき」由の意の形容詞のその連體形にして連體格に立てるものなり。即ち愛しきわが王といふなり。
○吾王乃 「ワガオホキミノ」とよむ。意は上のに同じ。
○形見何此焉 舊訓「カタミカココモ」とよめり。代匠記には「カタミカコヽヲ」とよみ、略解には本居宣長の説として「何」は「荷」の訓として、「カタミニコヽヲ」とよめり。美夫君志には「荷」「何」の二字漢土にて古通用の文字なりとし、「何」をそのまゝ「ニ」の假名に借りたるなりとやうにいへり。「カタミ」といふ語は、卷十六「三八〇九」の歌の左注の文中に「寵薄之後還2賜寄物1」とある「寄物」をその自注に「俗云可多美」とかけり。遊仙窟に「記念」「信」を「カタミ」とよませたり。この語の事は卷一「四七」に既にあげたり。「焉」を「ヲ」とよむ事は如何なる意ぞといふに代匠記に曰はく「焉の字助語ながら、(424)をとよめる傍例はあり。」といへり。その傍例といふは、卷九「一八〇四」に「蜻※[虫+廷]火之心所燎管悲悽別焉《カキロヒノココロモエツツナゲクワカレヲ》」といへるなどをさせるなるべし。「焉」を「モ」とよむべき理由なければ姑く契沖説に從ふべし。さて此句の問題は一に「何」といふ字のよみ方にかゝりて存するが、「何」を音にてよまば「か」といひてよかるべく思はるべけれど、この字は元來「ガ」といふ濁音の字にして集中にその他の異例見えざるやうなれば「カ」とよまむことは容易に首肯せられず。加之「カタミカコヽヲ」とよまば、上の「萬代までに」とあるに打合ふべき語なければ、これは本居説の如く、「カタミニコヽヲ」とよみて、その意は「こゝをわが王のかたみにせむ」の「せむ〔二字右○〕」といふ語の略せられてあるものとするときは上の「萬代までに」といふに打合ふべし。されど、ここを「荷」とかける本は一もなし。若し「何」「荷」相通すといふといふ説によらば、正しき事となるべきが、「何」を「ニ」に用ゐたりとすべきは、この一にして他の「何」にはこの用法なければ、果して美夫君志の説の如くなりやも疑はし。されど、他によき考も出でねば、姑く上の如くによみおく。なほ後の考をまつ。
○一首の意 第一段は先づ皇女の御名に負へる飛鳥川を出してその上瀬に渡せる石橋、下つ瀬に渡せる打橋に生ふる玉藻川藻をあげて、それらは一旦絶えても生ひ、一旦枯れて生ゆるものなることをいひて、之に對して、その玉藻川藻の如くに夫君に靡きそひたまひし皇女の今はその結構申し分なき夫君の朝夕の御宮仕を忘れ背き賜ふにかといひて、藻の如きものは一旦絶え枯れても再び生ずることあるに人の身にはかかる事はあらぬ事を言外にいひて皇女の薨去を嘆く意をあらはし、なほ皇女の薨去をあらはにいはずして昨今見受け奉らぬは如何なる(425)由ぞといぶかりたる體にいへり。第二段は先づその皇女の御在世の時のことを思ひ出でて、その御在世の時には春秋の花や紅葉をば、互に御手を携へて、いつ見ても飽くことなしと思ひたまひ、又望月の如く見ればみるほど、愛すべく思ひ賜ひし夫君と共に時時いでまして遊覽し賜ひし城上の宮をば、今は常しへに鎭ります宮所と定めてここに鎭りたまひしかば幽冥境を異にして今は見奉る事も、言をかはし奉る事も絶えぬとなり。第三段は以上の如くなればにや夫者はその御事を言語道斷と申し上ぐべきほどに哀しみ給ひ、まことにぬえ鳥の片戀嬬と申し上ぐべき態にて、その木上の殯宮にかよひたまふその夫君が、夏の炎天にしをれたる草の如く思ひしをれて、彼方此方に往きつつ中空にたゆたふ思ひをばしたまふなり。その御有樣を見れば、如何にも御いたはしく見えて、我々までもその悶々の情にたへず又その思をはるくるすべもありとは思はれずとなり。さればせめての事に皇女の御評判なり、御名だけなりとも天地の遠く長きが如くに絶えずしのび行かむと思ふが、その名に懸けたまへる飛鳥川をば、萬代までもかはらぬ吾皇女の形見にしてしたひ奉らむとなり。
 
短歌二首
 
○考には「短歌」を「反歌」の誤とし、攷證之に賛成せり。されど改むるに及ばぬこと上に屡いへり。
 
197 明日香川《アスカガハ》、四我良美渡之《シガラミワタシ》、塞益者《セカマセバ》、進留水母《ナガルルミヅモ》、能杼爾賀有萬思《ノドニカアラマシ》。 【一云水乃與杼爾加有益。】
 
(426)○明日香川 いふまでもなし。
○四我良美渡之 「シガラミワタシ」とよむ。「シガラミ」とは木竹の枝などを杭などにからみわたして流水をせく料とする設けをいふこと世人の知る所にして普通には名詞と思へるが、本來動詞たりと思はる。卷六「一〇四七」に「芽子枝乎石辛見散之狹男鹿者妻呼令動《ハギガエヲシガラミチラシサヲシカハツマヨビトヨメ》」とあるは水流に毫も關係なくしてしかも「しがらむ」といふ動詞の連用形たるなり。古今集秋上に「秋萩をしがらみらみふせてなく鹿のめには見えずておとのさやけさ」又拾遺集雜下に「さをしかのしがらみふする秋萩は下葉や上になりかへるらん」貫之集「さをしかのつまにしがらむ秋はぎにおけるしら露われもけぬべし」これらにて必ずしも水に關係なきをしるべし。語義はことさらにからむ意なるべし。さてここは動詞の連用形としても意通らぬにはあらねど、なほ體言なるべし。卷七「一三八〇」に「明日香川湍瀬爾玉藻者雖生有四賀良美有者靡不相《アスカガハセセニタマモハオヒタレドシカラミアレバナビキアハナクニ》」と見ゆ。これにて、古、明日香川に實際しがらみを處々に構へしことありしを見るべし。ここはそのしがらみをつくりわたしてといへるなり。
○塞益者 「セカマセバ」とよむ。塞を「セク」といふ動詞にあてたるなるが、「セク」とはもと「狹《セ》」といふ(427)未然條件を示せるものなるが、この場合には、假設的の事を更に條件としていふにてその結は常に「まし」にて終るものとす。この句の意は明日香川の水を「せかませば」といふなり。
○進留水母 舊訓「ナガルルミヅモ」とよめり。代匠記には「スヽムルミヅモ」とし、童蒙抄は「ミナギルミヅモ」とよめり。そのうち「スヽムルミヅ」といふは語をなさず。又「進」は「ミナギル」とよむべき字にあらず。しかも「進」字に「ナガル」といふ訓を施したる例を未だ知らず。然れども、類聚名義抄には「行」に「ナガル」の訓あり。之を「進行」の熟字あるに照して考ふれば「水の前進する」は「ナガルル」なれば「進」を「ナガル」といふも全然あらぬ義なりといふべからず。されれば舊訓をよしとす。
○能杼爾賀有萬思 「ノドニカアラマシ」とよむ。「ノド」といふは「のどか」「のどやか」「のどけし」などの語根たる「のど」にて意はおなじ。この語の例は卷十三「三三三九」に「立浪裳篦跡丹者不起《タツナミモノドニハタタズ》」又續日本紀天平勝寶元年四月の宣命に「王幣【爾去曾】死能杼爾波不死《オホキミノヘニコソシナメノドニハシナジト》」とあるその「のど」なるが之を「和」とかける例あり。卷十三「三三三五」に「吹風母和者不吹《フクカセモノドニハフカス》」とあるこれなり。水流のしがらみにせかれて、のどかに流れもせぬさまにならましとなり。「まし」は假想する意ありて、上の「ませば」に應ぜり。
○一云水乃與杼爾加有益 「ミヅノヨドニカアラマシ」とよむ。一本に結句をかくせるがありとの事なり。「水の」は主格なるべし。「よど」は「よどむ」の語幹にして、又體言としても用ゐらる。卷三「三二五」に「明日香川川余藤不去立霧之《アスカガハカハヨドサラズタツキリノ》」「三七五」に「吉野爾有夏實之河乃川余杼爾鴨曾鳴成《ヨシヌナルナツミノカハノカハヨドニカモゾナクナル》」卷四「七七六」に「小山田之苗代水乃中與杼爾四手《ヲヤマダノナハシロミヅノナカヨドニシテ》」などこの語の例なり。意は本行のと大差なし。
(428)○一首の意 皇女の御名に懸けられたる明日香川にしがらみを構へわたして塞かば、流る水もここにとまりのどかにあるならむ。その如くその川と同じ名をもたせたまへる皇女の御命をせきとどめ奉る方法もあらばそれを構へてとどめ奉らましものを。さる手段も由もなかりしものかとなり。攷證に曰はく「古今集哀傷に壬生忠峯、瀬をせけば、淵となりてもよどみけり。わかれをとむるしがらみぞなき云々とよめるも似たり」と。如何にも然り。されど、守部はこれを「今とくらぶれば、よわくちひさきわざにこそ」といへり。
 
198 明日香川《アスカガハ》、明日谷《アスダニ》【一云左倍】將見等《ミムト》、念八方《オモヘヤモ》、【一云念香毛】吾王《ワガオホキミノ》、御名忘世奴《ミナワスレセヌ》。【一云御名不所忘。】
 
○明日香川 これは一面語を重ねて次の「アス」といふ語を導く料とせるなれど、一面はなほ明日香皇女の御名を懸けたる川の名なるを以ていへるなり。
○明日谷【一云左倍】將見等 本行のよみ方は「アスダニミムト」なり。この「あす」は明日一日に限りていへるにあらずして今より後の意なること美夫君志の説の如し。「だに」といふ助詞はそのあげたる點を主として他を顧みざる意をあらはせるものなるが、俗言には「せめて……なりとも」といふ如くに釋するを常とせり。
○一云左倍 これは一本に「アスサヘミムト」とある由を注せるなり。これにつきて考は「サヘ」を否とせるに、古義は「サヘ」を可として、之を本文とたてたり。されど「サヘ」はあるが上に物の加はることをいふ助詞にして俗語の「マデ」に相當するものなれば、ここにかなはず。ここは必ず「ダ(429)ニ」ならざるべからず。
○念八方 「オモヘヤモ」とよむ。拾穗抄には「オモフヤモ」とよみたれど、語格違へり。考には「八方」を否として一云の「香毛」をとりて本文とせり。按ずるにこの「オモヘ」は已然形の條件を示す形にして、「ヤモ」は之をうけたる係詞なるが、「モ」は意輕くして「ヤ」の疑の意が主となれるなり。されば、これは後世の語ならば、「オモヘバヤ。」といふに同じ關係にあるものなり。古義に「ヤは後世の也波《ヤハ》に同じ」といひ守部も同じ趣にいへるは共に非にして、かく反語とする時は意反對になるべし。而して「ヤモ」「カモ」畢竟同意なれば、考の如く「カモ」を否定するも不條理なり。さてこの「ヤモ」の係に對して下に「セヌ」と結べるなり。
○一云念香毛 上の句を「オモヘカモ」とせる一本ありとの注なり。いづれにても意はかはらざること上に述べし所なり。
○吾王 「ワガオホキミノ」とよむ。「ノ」の字なけれど加へてよむこと上に例を多くいへり。明日香皇女をさすこと勿論なり。
○御名忘世奴 「ミナワスレセヌ」とよむ。御名を忘るることをせずとなり。「せぬ」と連體形にいへるは「ヤモ」の結なればなり。
○一云御名不所忘 これは「ミナワスラエヌ」とよむべきが、意は同じ。
○一首の意 わが明日香皇女は今は此世にましまさずといふ事なるが、せめて明日なりとも又も見奉ることもあらむとわが心の奧に思へばにやわれはわが明日香皇女の御名を忘れ參ら(430)することのなきよとなり。即ち今日は見え奉らずとしてもこの御名の如く或は明日になりたらば、見え奉ることもあらむと思はれてその御名を忘れられぬとなり。
○ 以上の長歌及短歌二首をば古義は「弓削皇子薨時置始東人作歌一首并短歌」と「柿本朝臣人麿妻死之後泣血哀慟作歌二首并短歌」との間に移せり。この理由は「此皇女は弓削皇子より後に薨賜ひたれば必ずここに收べきことなり」といふにあり。年次のみだれたることはさる事ながらこれにつきては攷證にみだりに古書を改むるを非なりとせる論あり。古のままにおくを穩かなりとす。
 
高市皇子尊城上殯宮之時柿本朝臣人麿作歌一首并短歌
 
○高市皇子尊 この皇子の事は既にいへり。ここに「皇子尊」とあるは皇太子にましまししが故なり。この皇子の皇太子に立ちたまひし年月は既にいへる如く日本紀に明記なけれど、持統天皇三年四月草壁皇太子薨去の後なることは明かなり。この皇子は同四年七月に太政大臣に任ぜられたり。同月の詔勅中に「皇太子」といふ語あり。これ即ちこの皇子をさし奉れるならむ。持統天皇十年七月の紀に「庚戌(十日)後皇子尊薨」とあるはこの皇太子の薨ぜられし事の記事なり。されば、この歌はその折の事なることと知られたり。
○城上殯宮之時 これも「キノヘノオホアラキノトキ」とよむべきが、その「キノヘ」は上の飛鳥皇女の殯宮と全く同じ地とは考へられず、ただ「木ノヘ」の地域中にありし點のみ同じなるべし。而(431)してこの皇子の御墓は延喜式に「三立岡墓【高市皇子在大和國廣瀬郡兆域東西六町南四町無守戸】」とあり。この三立岡は上の城上岡の北方約十八町許の地にありて、今の馬見村|三吉《みつよし》字大垣内の一部に三立山とてあり。弘福寺文書に「廣瀬郡瓦山一處東從2御立路〔三字右○〕坂1至2坂合部岡1」とあり。この「御立路坂」は三立岡の坂なるべし。大和町村誌集廣瀬郡馬見村の下に三吉(これは齊音寺、赤部、大垣内の合併せるもの)の内に「三立岡墓」と見ゆるものこれなり。
○柿本朝臣人麿作歌一首并短歌 攷證はこの下に「二首」の二字あるべきなりとて之を補ひ、美夫君志は「短歌」の二字を古寫本に小字にかけるによりて小字にすべしといひて、然せり。
 
199 挂文《カケマクモ》、忌之伎鴨《ユユシキカモ》、【一云由遊志計禮杼母】 言久母《イハマクモ》、綾爾畏伎《アヤニカシコキ》、明日香乃《アスカノ》、眞神之原爾《マカミノハラニ》、久堅能《ヒサカタノ》、天津御門乎《アマツミカドヲ》、懼母《カシコクモ》、定賜而《サダメタマヒテ》、神佐扶跡《カムサブト》、磐隱座《イハガクリマス》、八隅知之《ヤスミシシ》、吾大王乃《ワガオホキミノ》、所聞見爲《キコシメス》、背友乃國之《ソトモノクニノ》、眞木立《マキタツ》、不破山越而《フハヤマコエテ》、狛釼《コマツルギ》、和射見我原乃《ワザミガハラノ》、行宮爾《カリミヤニ》、安母理座而《アモリイマシテ》、天下《アメノシタ》、治賜《ヲサメタマヒ》、【一云拂賜而】食國乎《ヲスクニヲ》、定賜等《サダメタマフト》、鳥之鳴《トリガナク》、吾妻乃國之《アヅマノクニノ》、御軍士乎《ミイクサヲ》、喚賜而《メシタマヒテ》、千磐破《チハヤブル》、人乎和爲跡《ヒトヲヤハセト》、不奉仕《マツロハヌ》、國乎治跡《クニヲオサメト》、【一云掃部等】皇子隨《ミコナガラ》、任賜者《ヨサシタマヘバ》、大御身爾《オホミミニ》、大刀取帶之《タチトリハカシ》、大御手爾《オホミテニ》、弓取持之《ユミトリモタシ》、御軍士乎《ミイクサヲ》、安騰毛比賜《アトモヒタマヒ》、齊流《トトノフル》、皷之音者《ツヅミノオトハ》、雷之《イカヅチノ》、聲登聞麻低《コヱトキクマデ》、吹響流《フキナセル》、小(432)角乃音母《クダノオトモ》、【一云笛之音波】敵見有《アタミタル》、虎可※[口+立刀]吼登《トラカホユルト》、諸人之《モロビトノ》、恊流麻低爾《オビユルマデニ》、【一云聞惑麻低】指擧有《ササゲタル》、幡之靡者《ハタノナビキハ》、冬木成《フユゴモリ》、春去來者《ハルサリクレバ》、野毎《ヌゴトニ》、著而有火之《ツキテアルヒノ》、【一云冬木成春野燒火乃】風之共《カゼノムタ》、靡如久《ナビクガゴトク》、取持流《トリモタル》、弓波受乃驟《ユハズノサワギ》、三雪落《ミユキフル》、冬乃林爾《フユノハヤシニ》、【一云由布之林】飄可母《ツムジカモ》、伊卷渡等《イマキワタルト》、念麻低《オモフマデ》、聞之恐久《キキノカシコク》、【一云諸人見惑麻低尓】引放《ヒキハナツ》、箭繁計久《ヤノシゲケク》、大雪乃《オホユキノ》、亂而來禮《ミダリテキタレ》、【一云霰成曾知余里久禮婆】不奉仕《マツロハズ》、立向之毛《タチムカヒシモ》、露霜之《ツユシモノ》、消者消倍久《ケナバケヌベク》、去鳥乃《ユクトトリノ》、相競端爾《アラソフハシニ》、【一云朝霜之消者消言爾打蝉等安良蘇布波之爾】渡會乃《ワタラヒノ》、齋宮從《イツキノミヤユ》、神風爾《カムカゼニ》、伊吹惑之《イフキマドハシ》、天雲乎《アマグモヲ》、日之目毛不令見《ヒノメモミセズ》、常闇爾《トコヤミニ》、覆賜而《オホヒタマヒテ》、定之《サダメテシ》、水穗之國乎《ミヅホノクニヲ》、神隨《カムナガラ》、太敷座而《フトシキマシテ》、八隅知之《ヤスミシシ》、吾大王之《ワガオホキミノ》、天下《アメノシタ》、申賜者《マヲシタマヘバ》、萬代《ヨロヅヨニ》、然之毛將有登《シカシモアラムト》、【一云如是毛安良無等】木綿花乃《ユフバナノ》、榮時爾《サカユルトキニ》、吾大王《ワガオホキミ》、皇子之御門乎《ミコノミカドヲ》、【一云刺竹皇子御門乎】神宮爾《カムミヤニ》、装束奉而《ヨソヒマツリテ》、遣使《ツカハシシ》、御門之人毛《ミカドノヒトモ》、白妙乃《シロタヘノ》、麻衣著《アサゴロモキテ》、埴安乃《ハニヤスノ》、御門之原爾《ミカドノハラニ》、赤根刺《アカネサス》、日之盡《ヒノコトゴト》、鹿自物《シシジモノ》、伊波比伏管《イハヒフシツツ》、烏玉能《ヌバタマノ》、暮爾至者《ユフベニナレバ》、大殿乎《オホトノヲ》、振放見乍《フリサケミツツ》、鶉成《ウヅラナス》、伊波比廻《イハヒモトホリ》、雖侍候《サモラヘド》、佐母良比不得者《サモラヒエネバ》、春鳥之《ハルトリノ》、佐麻(433)欲比奴禮者《サマヨヒヌレバ》、嘆毛《ナゲキモ》、未過爾《イマダスギヌニ》、憶毛《オモヒモ》、未盡者《イマダツキネバ》、言左敝久《コトサヘグ》、百濟之原從《クダラノハラユ》、神葬《カムハフリ》、葬伊座而《ハフリイマシテ》、朝毛吉《アサモヨシ》、木上宮乎《キノヘノミヤヲ》、常宮等《トコミヤト》、高之奉而《タカクシマツリテ》、神隨《カムナガラ》、安定座奴《シヅマリマシヌ》。雖然《シカレドモ》、吾大王之《ワガオホキミノ》、萬代跡《ヨロヅヨト》、所念食而《オモホシメシテ》、作良志之《ツクラシシ》、香來山之宮《カグヤマノミヤ》、萬代爾《ヨロヅヨニ》、過牟登念哉《スギムトオモヘヤ》。天之如《アメノゴト》、振放見乍《フリサケミツツ》、玉手次《タマダスキ》、懸而將偲《カケテシヌバム》、恐有騰文《カシコカレドモ》。
 
○挂文 「カケマクモ」とよむ。「挂」は説文に「畫也」とあれど玉篇に「懸也」とありて、「掛」と通用せり。さてここに卷三「四七五」に「掛卷母綾爾恐之《カケマクモアヤニカシコシ》、言卷毛齋忌志伎可物《イハマクモユユシキカモ》」卷六「一〇二一」に「繋卷裳湯々石恐石《カケマクモユユシカシコシ》」卷十八「四一一一」に「可氣麻久母安夜爾加之古思《カケマクモアヤニカシコシ》」等の例にてよむべきが、古語に例多きなり。語の意は言にかけて白さむもといふ義にて下の「言はくも」と相對して同じ意なるを語をかへていへるなり。「心にかけて思奉らんも」の意なりといふは不可なり。語の成立をいはば「カケマク」の「ク」は「こと」の義にて、「かけむこと」の意なり。
○忌之伎鴨 古來「ユユシキカモ」とよめり。代匠記に「イミシキカモ」とも訓じたれど、萬葉集時代に「イミジ」といふ語のありし例を知らず。古訓のまゝにてあるべし。「ユユシ」といふ語の例は上にひける卷六の「湯々石恐石」卷十九「四二四五」の「懸麻久乃由由志恐伎墨吉乃吾大御神《カケマクノユユシカシコキスミノエノワガオホミカミ》」又古事記下卷雄略天皇の歌にも「由々斯伎加母加志波良袁登賣《ユユシキカモカシハラヲトメ」などにてしるべし。さて上の「忌之伎」をその「ユユシキ」にあつるは、上にいへる卷三「四七五」の「齋忌志伎可物」の場合におなじきがかく(434)「忌之」「齋忌之」を「ゆゆし」といふ形容詞にあてゝよむ故は「忌」も「齋忌」も共に忌み清まはる意にして、古語の動詞にては「ユム」といひしならむ。その由はその命令形として考へらるる語に「ユメ」といふあり、又「ユマハル」といふ語ありて、それに對して「ユム」といふの動詞ありしことを考へ得べきが、その語幹の「ユ」を重ね用ゐて形容詞とせしなること、「アダアダシキ」「ヲサヲサシキ」「クネクネシキ」「ノロノロシキ」「ヤツヤツシキ」などの例にて推しうべく又一音の語を重ねて形容詞の語幹としたるは「ヲヲシキ」「メメシキ」「美々シキ」「兒々シキ」などあり。これらに準じて知るべし。即ち忌み憚るべき状なるをいへるにて、今の語にては恐れ多しといふに似たり。「鴨」は「カモ」の助詞の假名にかりたるにて歎息の意を寓せり。この二句は先づ全篇の冒頭なるが、語の上にても下の二句と不完對をなせり。
○一云由遊志計禮杼母 上の句を一本に「ゆゆしけれども」とありとなり。されど、これは語のつづきよからず。
○言久母 「イハマクモ」とよむ。この語の例は上にいへる卷三「四七五」に「言卷毛齋忌志伎可物《イハマクモユユシキカモ》」又卷六「九四八」に「決卷毛綾爾恐《カケマクモアヤニカシコシ》、言卷毛湯湯敷石跡《イハマクモユユシケレド》」などあり。その意は「かけまくも」といふに同じきを語をかへたるまでなり。即ち語にかけていはむこともといふ義なり。
○綾爾畏伎 「アヤニカシコキ」なり。この語の例は卷十三「三二三四」に「挂卷毛文爾恐山邊乃五十師乃原爾内日刺大宮都可倍《カケマクモアヤニカシコキヤマヘノイシノハラニウチヒサスオホミヤツカヘ》」又卷三「四七五」に「掛卷母稜爾恐之《カケマクモアヤニカシコシ》」「四七八」に「掛卷毛文爾恐之《カケマクモアヤニカシコシ》」など例多し。その「アヤニ」は上の「一五九」「一九六」の「あやにかなしみ」の例と同じく歎聲の「アヤ」より起り(435)て情態副詞となれるにて、今言語道斷といふほどの事なること既にいへり。何とも申し上げやうもなく恐れ多きといふ意なり。かくて、この二句は上の二句と形の上にては對をなせるが、しかもその下部は對を破りて下につづくる連體格とせり。さてこの連體格はいづこにつづく義なるかといふに、古義に「綾爾畏伎は云々凡て天皇の御うへを申さむとしては必上の件の言を先づ初に冠らしめたるは古語の常なり。」といひ、これにて異論もなかりしやうなれど、ことばのつづきは、下の「明日香乃眞神原」につづくこと明かにして、古義にいへるが如き條理にはあらず。されば新考には「アヤニ畏伎といふ辭語格の上にてはアスカノ眞神ノ原にかゝれり」といはれたるが、こはさすがに慧眼なりといはざるべからず。然れども新考に「されば地名をいふにイハマクモアヤニカシコキとはいふべからず。案ずるに伎は之の誤にてアヤニカシコシと切りたるにこそ。さらでは第二句をユユシキカモと切りたるも不審なり。現に三卷安積皇子薨之時家持作歌にも
 かけまくもあやに恐之いはまくもゆゆしきかも、わがおほきみ御子の命の云々
とあり」といへるは如何なり。この説一わたりさる事と聞ゆる如くなれど、よく考ふるに從ふべからず。先づ第一に、いづれの本にもここに異なるかきざまなるものなければ、誤字説は首肯せられず。又卷三の歌を例にひかれたれど、それは二句づつの一對を以てその歌の冒頭とせるものにして、これは上の「かけまくもゆゝしきかも」二句だけにてこの歌の冒頭とせるものにして、この下の二句は形は上の二句と對をなせるが如くに見ゆれど、語の意にては、上の二句(436)とは別にて、下の「眞神」にかゝりてそれを修飾せるものなれば、一列に説くべからず。又これをば「地名をいふにイハマクモアヤニカシコシとはいふべからず」といはれたれど、余按ずるにこれは「眞神の原」の「眞神」といふ語にかけて「イハマクモアヤニカシコキ」といへるなるべくして、地名全體につきていへるものにあらざるべし。即ちこれは、語の上にてはいつも天皇皇太子などの御上を申しあぐる語を用ゐ來りて、その氣分をあらはしつゝ語格の上にては「眞神」の連體格として用ゐたるものなれば、神韻縹渺として捕捉しがたく見ゆるさまなるが、この歌の巧妙なる點なりとす。
○明日香乃眞神之原爾 「アスカノマカミノハラニ」とよむ。「アスカ」はその地の大名にして「マカミノハラ」は「アスカ」の地域内の一の地名なり。この眞神原は日本紀崇峻卷に「元年……壞2飛鳥衣縫造祖樹葉之家1始作2法興寺1此地名2飛鳥眞神原1亦名2飛鳥苫田1」とある邊なることは著しきが、その法興寺は又飛鳥寺ともいひ、かの中大兄皇子がその庭にて蹴鞠を催したまひしを以て史上に名高きが、その舊地は今飛鳥大佛といふ佛像のある安居院これなり。この寺は今高市郡高市村飛鳥にあり。この地名はなほ卷八「一六三六」に「大口能眞神之原爾零雪者甚莫零家母不有國《オホクチノマカミノハラニフルユキハイタクナフリソイヘモアラナクニ》」又卷十三「三二六八」に「三諸之神奈備山從登能陰雨者落來奴《ミモロノカムナビヤマユトノグモリアメハフリキヌ》、雨霧相《アマキラヒ》、風左倍吹奴《カゼサヘフキヌ》、大口乃眞神之原從思管還爾之人家《オホクチノマカミノハラユオモヒツツカヘリニシヒトイヘ》爾到伎也《イタリキヤ》」とあり。これによれば三諸山附近の原野たりしことは明かなるが、ここをば、何の爲にあげ來れるかは次の句に至りて説くべし。
○久堅能 「ヒサカタノ」とよむ。意は卷一「八二」にいへり。
(437)○天津御門乎 「アマツミカドヲ」とよむむ。「御門」は御宮の門をいふなれど、うつして御宮殿をいふこと、卷一より屡いへり。この「御門」といふ語を以て御陵墓の義とすることも、この卷「一六七」「一七四」にもあり、又下の「二〇四」の弓削皇子薨時置始東人歌のうちにも「久堅乃天宮爾神隨神等座者《ヒサカタノアマツミヤニカムナガラカミトイマセバ》」とあるにて知られたり。而して、從來の説は、これを御陵墓とする説なれど、喜田貞吉氏は之を實際の宮城なりといへり。なほ下の句に至りて説くべし。
○懼母定賜而 「カシコクモサダメタマヒテ」なり。「カシコシ」はいふまでもなし。この句の意は、上の飛鳥の眞神原に恐多くも大宮を定賜ひてといふなるが、下の「カムサブトイハガクリマス」につづけて、これを天武天皇の御陵をいふといふが普通の説なり。日本紀によれば天武天皇崩御の時朱鳥元年九月飛鳥淨御原宮の南庭にして殯宮を起され、翌持統天皇元年十月に大内陵を築きはじめられ、二年十一月に大内陵に葬られしなり。その大内陵は延喜式に檜隈大内陵と稱し、後持統天皇を合葬し奉れる所にして、今の高市村野口にあるなり。而してその邊一帶の地は所謂檜隈の地にして、飛鳥の地にあらず、又この陵地を上の歌にいへる眞神原にあたるかと考ふるに、三諸丘とはかけはなれてあれば、「飛鳥の眞神原に御大御門を定め賜ふ」といふことはこの御陵をさしたりとする説は事實に一致せざるなり。されば、これはなほ實際の宮城をさしたるものと考へざるべからず。然るときは淨御原の宮の所在はこの眞神原となるべくして、從來唱へられし、上居の地はその南の地に當る。これは喜田貞吉氏の説なるが、或は眞神原といふは、喜田氏が考へられてあるよりは廣き區域にして、今の上居の邊をも包含せし(438)か。いづれにしても大内陵をさせりといふは當らざるべし。
○神佐扶跡 舊訓「カミサブト」とよめるを美夫君志は「カムサブト」とよむべしといへり。この語は卷一にもありて、そこには「神佐備世須《カムサビセス》」(三八、四五)「神佐備立有《カムサビタテリ》」(五二)などあるが、「三八」の下にいへる如く、本集の假名書なるには「カムサビ云々」といふも「カミサブル」といへる例もあれば、いづれも證あることなるが、多きに從ひて「カムサブト」とよむべし。その意は神としての御行動をせらるることをいへるなるが、ここは事實上崩御せられしことをいひたり。崩御あらせられては神としてあがめ奉るが普通なる故に「神さぶ」といふ語は當らざるにあらず。然るときはこの句と上の句との間に「さて後」といふ程の意を含めてありと考ふべし。「跡」は「ト」の助詞にあてたるものなるが、この場合の「ト」は今の「トテ」といへるに近き意に用ゐられたり。
○磐隱座 舊訓「イハカクレマス」とよみたるが、攷證は「イハカクリマス」とよめり。この「カクル」といふ語は古四段活用なりしこと上の「一六九」の歌の「隱良久惜毛」の下にいへる如し。されば、攷證のよみ方をよしとすべし。「イハガクリマス」とは陵墓のうちにかくりますといふ義にして、陵墓は土を掘り岩棺石廓を築きて構ふるものなればかくいへるなり。卷九「一八〇一」に「磐構作冢矣《イハカマヘツクレルハカヲ》」などあるその例なり。この「マス」は下の「八隅知之吾大王」につゞく連體格なり。
○八隅知之 上にいへり。
○吾大王乃 「ワガオホキミノ」なり。ここは天武天皇をさし奉れること下の語にて明かなり。
○所聞見爲 舊訓「キカシミシ」とあれど語をなさず。代匠記に「キコシメス」とよみたるより諸家(439)それに從へり。「キコシ」は「キク」の敬語にして、「キカス」ともいふべきが、音の轉ぜるによりて「キコス」となりたるものにして、その事は卷一「三六」の「所聞食」を「キコシメス」とよむべき由いへる下にいへり。「メス」も亦「ミル」の敬語にしてその例は卷一「五〇」の「食國乎賣之賜牟登」又「五二」の「見之賜者」の下にいへり。さて「キコシメス」とつづくる例は卷二十「四三六〇」に「伎己之米須四方乃久爾欲里《キコシメヨモノクニヨリ》」又「四三六一」に「難波乃海於之弖流宮爾伎許之賣須奈倍《ナニハノミオシテルミヤニキコシメスナベ》」といふあり。語の意は「キキミ」賜ふといふことにして、知り賜ふといふと同義に落ち、結局天下を治め賜ふこととなるなり。
○背友乃國之 「ソトモノクニノ」とよむ。「背友」といふ字面は卷一「五二」の歌に「背友乃大御門」とあるにおなじ。これはその條にいへる如く、日本紀成務卷に「山陰曰2背面1」とあるその字義によるべきものにして「ソトモ」といふ音をあらはす爲に「友」の字をかれるなり。これは北方をさす語なるが、こは下にいふ美濃國をさせり。この國は大和國よりは北方に當るが故にかくいへるなり。
○眞木立 舊訓「マキタテル」とよみたるを考に「マキタツ」とよみたり。この語は卷一「四五」に「眞木立荒山道」とある所に意同じく大木の生ひ茂り立つといふ意なるべし。
○不破山越而 「フハヤマコエテ」とよむ。不破山とは美濃國不破郡の山をさせるならむが、今さる名の山のあることを知らず。よりて考ふるに不破郡中にて人の目につくものは所謂美濃の中山なれば、或は之をしか名づけしか或は又鈴鹿關不破關愛發關の三關の名を以て推すときは、鈴鹿關のあるは鈴鹿山愛發闘のあるは愛發山なるによりて不破關のある山即ち不破山(440)なるべく思はる。さて不破山こえてしとあれば、下のわざみの原は、その不破山をこえて彼方にあるべく思はるるが、わざみの原の地位とこの不破山との相關する點は十分に考へられざるべからず。なほ下にいふべし。
○狛劔 舊訓「コマツルギ」とよめり。下の「わざみの原」につづく枕詞なるが、その意は「ワ」にのみかかれるなり。卷十二「二九八三」に「高麗劔己之景迹故《コマツルギワガコヽロユヱ》」とあるもこの例なり。さて狛劔に「ワ」といふは、契沖曰はく「狛劔は高麗の劔なり。もろこしの劔には※[木+覇]のかしらに環をつくれば、高麗にもつくるなるべし。鐶のたぐひをもわといへばわさみとつゝけんためにいへり。戰國策云、「軍之所出矛戟折鐶鉉絶【鐶刀鐶補曰鉉姚本作弦】古樂府云藁砧今何在【藁砧※[石+夫]也※[石+夫]借爲夫】山上更有山【山上山言出也】何日大刀頭【太刀頭有鐶鐶借爲還】破鏡飛上天【破鏡微月也】云々」といへるが如し。而して今古墳等より出土せる古劔の柄にこの環頭なるもの頗る多く見ゆ。これ即ち「こまつるぎ」にして當時珍重せしものにしてやがて「ワ」の枕詞となることも、著しといふべし。
○和射見我原 「ワザミガハラ」なり。これは美濃國の地名にして、日本紀天武卷上に「和※[斬/足]とかける地なり。(※[斬/足]は暫と同じく覃韻にして、咸攝に屬し、「m」の尾韻なれば「ザミ」となるなり)さて、「ワザミガ原」といへる地を何處ぞといふに、今の關ケ原なりといふ説(上田秋成の膽大心小録)又野上なりといふ説(略解、古義、など)青野ケ原なりといふ説(長等の山風)あれど、いづれもその據り所を知らず。(檜嬬手には式に美濃國各務郡に和〔右○〕佐美神社あるに據りて各務郡なりといへり。これは加〔右○〕佐美神社を誤りていへるなれば、證にはならず。)日本紀を案ずるに「旦於2朝明郡迹太川(441)邊1望2拜天照大神1、是時……將及郡家……於是天皇美2雄依之務1既到2郡家1先遣2高市皇子於不破1令v監2軍事1」又「天皇……到2于野上1高市皇子自2和※[斬/足]1參迎……皇子則還2和※[斬/足]1」とありて、高市皇子の陣營の在りし所なること明かなり。而して野上は關ケ原の末にある地にして、ここに天武天皇は行宮を定めたまひて、和※[斬/足]の地へは屡往來したまひしこと日本紀に見えたり。たとへば上文の次に「天皇於v茲行宮興2野上1而居焉。……戊子天皇往2於和※[斬/足]1檢2※[手偏+交]軍事1而還」とあるが如きこれなり。この故に關ケ原、又野上とワサミの原とは別の地なること明かなり。されば、上の諸説中青野ケ原なりといふ説のみ取りうべきを思ふ。この説は長等の山風に美濃國人の説なりといふ。青野ケ原は野上よりは東方にありて、まことに兵を練るに適する地なり。恐らくはこの地なるべきか。卷十「二七二二」に「吾妹子之笠乃借手乃和射見野爾吾者入跡妹爾告乞《ワギモコガカサノカリテノワザミヌニワレハイリヌトイモニハツゲコソ》」とあるなども或は同じ地ならむか。
○行宮 「カリミヤ」なり。「行宮」は文選呉都賦に見えて、その注に「光武紀云濟陽有2武帝行過宮1」とも又「天子行所v名曰2行宮1」とも「行宮天子行幸所v止處也」と見え、和名鈔に「日本妃私記云行宮賀利美也同案俗云頓宮」とあり。さてこの行宮は天武天皇の行宮なりと諸注にいへり。されど、天武天皇の行宮は野上にありて、これは日本紀に不破行宮とあれば、關ケ原の野上の行宮なることは疑なくして和※[斬/足]とは別なり。實際和※[斬/足]原に屯したまひしは高市皇子にして天武天皇は時時出でまして閲兵せさせたまひしなり。されば、ここはその和※[斬/足]の原に屡天皇の出でまししが故に、特に行宮を營まれず(行宮は野上にありしことは明かなればなり)ありしかど、なほそこ(442)を行宮と見てかくいへるならむ。考に「和※[斬/足]に高市皇子のおはして近江の敵をおさへ天皇は野上の行宮におはしませしを、其野上よりわざみへ度々幸して御軍の政を聞しめせしこと紀に見ゆ。こゝには略きてかくよめり」といへり。壬申の亂には天武天皇は美濃國をその本營とせられしことこの歌の如くなるが、これは日本紀によればこの國安八磨郡にその湯沐邑ありしが故なりと考へらる
○安母理座而 舊訓「ヤスモリマシテ」とよみ、契沖などは「やすまりまして」なるべしといへれど、この時はしか安まりましし時にあらず。考に「アモリイマシテ」とよみたり。この語の例は卷十九「四二五四」に「蜻島《アキツシマ》、山跡國乎天雲爾磐船浮《ヤマトノクニヲアマグモニイハフネウカベ》、等母爾倍爾《トモニヘニ》、眞可伊繁貫《マカイシジヌキ》、伊詐藝都追國看之勢志※[氏/一]《イコギツツクニミシセシテ》、安母里麻之《アモリマシ》、……」卷二十「四四六五」に「比左加多能安麻能刀比良佼多可知保乃多氣爾阿毛利之須賣呂伎能可未能御代欲利《ヒサカタノアマノトヒラキタカチホノタケニアモリシスメロキノカミノミヨヨリリ》」などあり。これによりてしかよむべし。その意義は、考に「天降《アマクタリ》を約めていふ」といへり。されど、「アマクタリ」を約めても「アモリ」となる理由なし。「アマオリ」の約めなること既に攷證等にいひて定説となれり。さてこれは、不被山を越えてわざみの原にいでまししをいへるなるが、この時の實際の御道順は、天武天皇が伊勢桑名の行宮にましまししを高市皇子が(この時既に和※[斬/足]におはしまししなり)その遠方にありて不便なる由申されしかば、即日不破に入りたまひしにて、さて野上に到りまししなり。この順路は明かならねど、桑名より多度山の麓なる戸津(これ日本武尊の遺蹟小津崎なり)それより美濃の高須今尾等を經て垂井に到られしならむ。然るときには、不破山をこえられたることはあらず。又實際當時の事情(443)として、さきに一旦近江の多羅尾までいでまして、再び引かへして、伊勢へ出でたまひし如き事情なれば、近江に入り、近江の方より不破關をこえて、美濃に入りたまふが如きことは不可能なるのみならず、若しそれ程に容易ならば、美濃に行宮をつくりて屯します必要はなかりし筈なり。されば不破山が實際に不破關ならば、不破山こえとは實地に通過せさせ給へりといふ事にあらずして、その關のあなたに出でましてといふ程の事なるべし。若し又美濃中山を不破山といふ事ならば、これは實際にこえて彼方に出でまししならむ。いづれによるべきかといふに、なほ不破關としてはじめの説によるべきならむ。
○天下 「アメノシタ」卷一にいへり。
○治賜 舊訓「ヲサメタマヒシ」とよみたるが、代匠記には「ヲサメタマフ」と訓むべしとし、略解は「ヲサメタマヒ」と訓ぜり。又考には「一云」の方を本文に立てたり。されどこれは本文にて意通れば改むるに及ばず。訓は舊訓により「シ」とよみたりとてもその意通らず、又「タマフ」と切りてはこれまた意十分ならず。略解の如く下につづくるをよしとす。意は明かなるが下の「食國乎定賜」に對してつづくるものなり。
○一云拂賜而 一本に上の句を「ハラヒタマヒテ」とありとなり。これは天下を一掃したまひてといふことなるが、かくては戰亂收まりたるものとして下の戰亂をいへることとうちあはず。とるべからず。
○食國乎 舊訓「ヲシクニヲ」とよみたり。されど、その不可にして「ヲスクニ」とよむべきこと卷一(444)「五〇」の下にいへり。
○定賜等 舊訓「シヅメタマフト」とよめり。童蒙抄に「サダメタマフト」と訓じ、考略解等多く之に從へり。然るに、攷證には「是を考にさだめ給ふとよみ直されしはなかなかに誤り也。舊訓のまゝしづめ給ふとゝよむべし。こは天皇のしろしめす國中の亂を靜め給はんとて東國の兵士を召給ふといへるにて必らずしづといはでは叶はざる所也。増韻に定靜也云々周書謚法に大慮靜v民曰v定云々などあるにても定は靜の意なるをしるべし。また本集四【卅六丁】に戀水定云々とよめるにても定をしづめとよめるをしるべし」といへり。美夫君志はこれを自説の如くにせり。定は定靜の熟字ある事は誰人も知る所なれど、靜は「シヅカ」「シヅマル」にして「シヅムル」の義に用ゐるは普通の場合にあらず、定も亦人のねしづまる時(戌時)を「人定」といふ如く古來「シヅム」「四段」「シヅマル」とは訓じ來れど、「云々をシヅムル」(下二段)とよめる例は未だ知らず。又卷六「六二七」の例にも「戀水定白髪生二有《ナミダニシヅミシラガオヒニタリ》」とあるにて、これも「云々をシヅムル」といふ下二段活用の語に用ゐたるにはあらず。次に「サダム」といへる語の例は卷十八「四〇九八」に「可之古母波自米多麻比弖多不刀久母左太米多麻敝流美與之努能許乃於保美夜爾《カシコクモハシメタマヒテタフトクモサタメタマヘルミヨシヌノコノオホミヤニ》」あり。さればこれは「サダメタマフト」とよむより外に無き筈なり。而して、これは天下の動搖を安定にせむと云ふ義なり。「と」は例の「トテ」の意を有する語なり。
○鳥之鳴 この字すべての古寫本いづれも「鷄」又は「※[奚+隹]」につくれり。文字はこのままにてもあるべきが意はそれによるべし。訓は「トリガナク」なり。その他の例にても「※[奚+隹]之鳴」とかけるは卷(445)三「三八二」、「鳥鳴」とかけるは卷九「一八〇〇」、「鷄鳴」とかけるは卷九「一八〇七》、卷十二「三一九四」、卷十八「四〇九四」、假名書のものは卷十八「四一三一」に「等里我奈久安豆麻乎佐之天《トリガナクアヅマヲサシテ》」卷二十「四三三一」に「登利我奈久安豆麻乎能故波《トリガナクアツマヲノコハ》」この他「四三三三」にもあるが、いづれも「アヅマ」の枕詞とせる例のみなり。その意は曉に鷄の鳴くといふことは明かなれど、その「アヅマ」の枕詞とせる理由は確には知られず。冠辭考の説にては「鷄は夜の明《アカ》時に鳴く故に明《アカ》といひかけたる也」といひ、又「あづまの阿は阿賀《アガ》を略きていふ也。然れば、鶏が鳴あと一語にかかれる如くなれど、實は吾《アガ》てふもとの語によりて明《アカ》にいひかけたるなりけり」とやうにいひたれど、十分に首肯せられざるなり。古義には「こはさは鷄が鳴ぞやよ起(キ)よ吾夫《アツマ》と云意につゞくなるべし」といへり。されど、これも十分なりと認められず。なほ研究の餘地ありと思はる。
○吾妻乃國之 「アヅマノクニノ」とよむこと論なし。「吾妻乃國」は東國なることも論なきが、何によりてかくいふか。普通には日本紀、古事記にいへる如く、日本武尊の故事によりて坂東諸國を「アヅマ」と名づくといひ、(日本紀には山東諸國とあり)それに異論もなき事なるが、若し然りとせば、ここに美濃國を東之國といへるを如何に解釋すべきか。なほこの時美濃に召されし兵は日本紀に東海の軍東山の軍とあるが、その東海の軍は尾張の軍を主とし、東山の軍は釋紀に引ける私記に曰はく「案斗智徳日記云命發2信濃兵1」とあり。これによりて考ふるに、この時「アツマ」といふ語は坂東といふ固有の義にあらずして、汎く東方をすべて「アツマ」といひしなることを考ふべし。なほ思ふに或は「アヅマ」といふ語はただ東方といふ意の古語にして、日本武尊の(446)故事といふものもその説明の爲の傳説ならむも知られず。
○御軍士 「ミイクサ」とよむ。「イクサ」といふ語は戰をいふ事になりてあれど、そのもとは軍士をいへるなり。古事記上卷に「黄泉軍《ヨモツイクサ》」日本紀神武卷に「女軍」「男軍」又雄略卷に「兵士」を「イクサ」とよませたり。又類聚名義抄には「卒」」「兵」「將」「帥」「軍」「魁」「衆」「旅」「師」の字に「イクサ」の訓あり。軍將士卒即ち戰闘に從事する人を古すべて「イクサ」といひしを見るべし。さてここに見ゆる東國の兵士を召されし事は天武紀に先づ村國連男依、和珥臣君手、身毛君廣に詔して急に美濃關に往いて兵を起さしめられ、次いで「先遣2高市皇子於不破1令v監2軍事1」とあり。又「遣2山背部小田、安斗連阿加布1發2東海軍1又遣2稚櫻部臣五百瀬、土師連馬手1發2東山軍1」とあるにて知るべし。さて何が故にかく美濃國を以て軍事行動の中心とせられしかといふに、一は近江國への東國よりの通路を扼する軍事上の必要もありしなるべきが、その基は美濃國安八磨郡に天武天皇の皇子たりし時よりの湯沐邑ありてその經濟上の根據地にして、且つ地の理もよかりしが爲なるべし。
○喚賜而 舊訓「メシタマヒツツ」とよみたり。代匠紀には「ヨバヒタマヒテ」とも訓じ、考には「メシタマハシテ」とよみ、略解は「メシタマヒテ」とせるが美夫君志は舊訓をよしとせり。かくて「而」に「ツツ」の訓ある由訓義辨證に論ぜるが、その確證はなく、その説も未だ十分ならず。「而」はなほ「テ」とよみてあるべく、ここは略解の如く六音によむべきなり。東海、東山の軍兵を召集したまひてなり。
○千磐破人 舊訓「チハヤブルカミ」とよめり。されど人を「カミ」とはよむべからず、代匠記に「ヒト」(447)とよめるによるべし。「チハヤブル」といふ語は「いちはやぶる」の意にて古「いちはやし」といふ形容詞のありしその語幹を「ぶる」といふ接尾辭にて上二段活用の動詞とせるなり。「いちはやし」といふ語はこの頃の文獻には未だ例を見ねど、平安朝の語には例あり。この「いちはやし」は一轉して「うちはやし」といへるが、その例は續紀二十六卷天平神護元年正月の宣命(三十二詔)に「如此宇治方夜伎時仁身命不惜之天」とあり。これは今いふ人心恟々たる時といふ程の事なれば、それにて「ウヂハヤシ」といふ語の意をさとるべし。この「うちはやし」といふ語は、古事記の應神卷の歌に「知波夜比登宇遲能和多理爾《チハヤビトウヂノワタリニ》」又卷七「一三九」に「千早人氏川浪乎清可毛《チハヤビトウチカハナミヲキヨミカモ》」などあるにて知らるゝ如く「ウヂ」にかけて枕詞とせるものにて「ちはや」といふ語と「ウヂ」との關係を知る料とすべし。さてこれは「チハヤブル」といふ語形のみかといふに「イチハヤブル」ともいひしことは延喜式鎭火祭祝詞に「御心|一速《イチハヤ》波志止※[氏/一]云々」とあるにてしるべし。なほこの「ちはやぶる」といふ語の意は日本紀卷二の一書に「有2殘賊強暴横惡《チハヤブルアラブル》之神1」とある「殘賊強暴」の訓に「チハヤブル」とよませたり。古事記には之を「道速振荒振國神《チハヤブルアラブルクニツカミ》」とかけり。「チハヤブル」はその稜威の速き即ちその勢の烈しく恐るべきをいふが元にて、善惡いづれにもかよはし用ゐたるなるが、今のこの所はその惡しき方即ち日本紀の殘賊強暴の義に該當せり。即ちここは、天武天皇の方よりいへば、古事記の序にいへる如く兇徒にしてそれを「ちはやぶる」人とはいへるなれば、ここは、決して枕詞にあらずとする新考の説をよしとす。
○和爲跡 舊訓「ナコシト」とよめり。代匠紀には「ナコセト」とよみ、考に「ヤハセト」とよめり。舊訓(448)は「ナゴシ」といふ形容詞にせるなるが、かくする時は上の「ヲ」に對する語とならねば從ふべからず。又「ナゴセ」は命令形なるべきが、かかる命令形ある語は四段活用ならざるべからず。然るに、「ナゴス」といふ四段活用の語古ありきといふことを知らず。「ヤハス」といふ語は延喜式大殿祭祝詞に「言直【古語云夜波志】」とあり。又卷二十「四四六五」に「知波夜夫流神乎許等牟氣麻都呂倍奴比等乎母夜波之《チハヤブルカミヲコトムケマツロヘヌヒトヲモヤハシ》云々」とあるによりてその四段活用の語なるを知るべし。かくて、その命令形の「ヤハセ」をここに用ゐたりとするをよしとす。これは、天武天皇が、高市皇子にその任を授け給へることをいへるなり。
○不奉仕 「マツロハヌ」とよむ。古寫本に「ツカマツラヌ」といふ訓もあれど、「ツカマツル」は後世の訓なれば、隨ふべからず。古事記景行卷に「爾天藍亦頻詔2倭建命1言2向和平東方十二道之荒夫琉神摩都樓波奴人等1(トノリタマヒテ)而」又本集卷十八「四〇九四」に「大王爾麻都呂布物能等《オホキミニマツロフモノト》」卷十九「四二一四」に「大王爾麻都呂布物跡《オホキミニマツロフモノト》」とあるを見れば、「マツロフ」といふ波行四段活用の語あるを見る。又卷二十「四三六五」には「麻郁呂倍奴比等乎母夜波之《マツロヘヌヒトヲモヤハシ》とあるによらば、これはハ行下二段活用なるものもありしが如し。されど、そは恐らくは誤にあらずば、訛れるものなるべくして、正しくは波行四段活用の語なるべし。さてこれは「マツル」を波行四段に再び活用せしめしものにして服從し奉ることをいふ意なり。
○國乎治跡 舊訓「クニオサムト」とあり。代匠記には「シラセト」とよみ、略解には「ヲサメト」とよめり。考は「治跡」をわろしとして一云の「掃部等」を本文とせり。先「治」は「シラス」とよむ事をうれど(449)ここは服從せぬ國を從へしめよとの意にして、それらの國の統治を任せ賜ひしにあらねば、「シラセ」とよむは穩かならず。「ヲサム」とよむときは、命令の語法にあらねば、これ亦事實に一致せず。されば「ヲサメ」とよむをよしとす。下二段活用の命令形に「ヨ」を添へず、そのまゝ命令の語法に用ゐたるは古語に例あり。古事記允恭卷の歌に「加理許母能美陀禮婆美陀禮《カリコモノミダレバミダレ》」本集卷十八「四〇九六」に「大伴能等保追可牟於夜能於久都奇波之流久之米多底比等能之流倍久《オホトモノトホツカムオヤノオクツキハシルクシメタテヒトノシルベク》」卷十九「四一九一」に「※[盧+鳥]河立取左牟安由能之我婆多婆吾等爾可伎無氣念之念婆《ウカハタチトラサムアユノシガハタハワレニカキムケオモヒシモハバ》」又佛足石歌に「都止米毛呂毛呂須須賣毛呂毛呂《ツトメモロモロススメモロモロロ》」などあり。さて「治め」といへば、その亂れたるを整理する意となり、「掃へ」といへば、服從せぬものを掃ひ除く意となるが、いづれにても意は大差なく、「ハラヘ」を本文とすべき程の事なければもとのままにてあるべし。
○一云掃部等 これは一本に「治めと」を「ハラヘト」とありといふなり。その事は上にいへり。
○皇子隨任賜者 舊訓は「皇子」を「ワカミコノ」よみ「隨任賜者」を「マヽニタマヘバ」とよめり。神田本は「ミコノマヽヲサメタマヘバ」とよめり。詞林采葉には「スメミコニマカセタマヘバ」とよめり。(校本萬葉これを拾穗抄にもしかよむとせるは誤なり。)代匠記初稿には「ワカミコニマカセタマヘバ」とよみ清撰には「ミコノマニヨサシ給ヘバ」とよみ、考は「ミコナガラ、マケタマヘレバ」とよみ、略解は「ミコナガラ、マケタマヘバ」とよみ、古義は「ミコナガラ、マキタマヘバ」とよみたり。このよみ方につきては先づ「隨字」を上の句の部分とするか下の句の部分とするかによりてよみ方にも大なる差を生ずるなり。「隨」を下の句の部分とするものは「皇子」二字のみにて五音によま(450)ざるべからざる事となる。これによりて、「ワカミコノ」「ワカミコニ」「スメミコニ」といふ訓も生じたるなるが、「皇子」は弱年の方にのみいふ文字にあらねば、「ワカミコ」とよむべき理由なし。又「皇子」の字面は「スメミコ」とよまばよまるべきさまなれど、「スメミコ」といへる語は他に例證あるを知らず。されば、「皇子隨」を一句とする見解に從ふべきが、これには「ミコノマヽ」「ミコノマニ」」「ミコナガラ」の三樣の訓行はるるが、「隨」字は「マヽ」「マニ」「ナガラ」いづれによみても誤といふべからず。されど、これは考に「神隨とあるとひとしくて云々」といへるごとく、よみ方もそれに准じて「ミコナガラ」とよむべきなり。次に「任賜者」は「ヲサメタマベハ」「マカセタマヘバ」「ヨサシタマヘバ」「マケタマヘレバ」「マケタマヘバ」「マキタマヘバ」と六樣のよみ方行はるるが、「任」を「ヲサメ」とよまむ理由なければ、從ふべからず。「任」を「マケ」とよむことは多くの學者の隨ふ所なれど、いかがあらむ。先づ「任」字に古來「マケ」といふ訓を附けたるものなく、若しありとせば萬葉集のみなれば、それを以て確證とはすべからず。「マケ」は古事記傳九に既にいへる如く「麻氣は京より他國《ヨソノクニ》の官に令罷《マカラスル》意にて即(チ)まからせを約めて麻氣《マケ》とは云なり。万葉に此言多し。みな鄙《ヰナカ》の官になりてゆくことのみ云り。心を付て見べし」といひたるが類聚名義抄に「退給」を「マケタマヘ」とよみたるもまたこの意なり。即ち「マケ」は漢字にては「罷遣」の義を本とするなり。而して萬葉集中「まけ」といふ用言を用ゐたる假名書の例を見るに、卷十七「三九五七」に「安麻射加流比奈乎佐米爾等大王能麻氣乃麻爾末爾《アマザカルヒナヲサメニトオホキミノマケノマニマニ》」「三九六一」に「大王能麻氣能麻爾麻爾大夫之情布里於許之《オホキミノマケノマニマニマスラヲノココロフリオコシ》、安思比奇能山坂古延底安麻射加流比奈爾久太理伎《アシヒキノヤマサカコエテアマザカルヒナニクダリキ》」「三九六九」に「於保吉民能麻氣乃麻爾麻爾之奈射加流故之乎遠(451)佐米爾《オホキミノマケノマニマニシナザカルコシヲヲサメニ》」卷二十「四三三一」に「天皇能等保能朝廷等《スメロギノトホノミカドト》……麻氣乃麻爾麻爾多良知禰乃波波我目可禮弖《マケノマニマニタラチネノハハガメカレテ》」「四四〇八」に「大王乃麻氣乃麻爾麻爾島守爾我多知久禮婆《マビナニサキモリニワガタチクレバ》」などはいづれも古事記傳にいへると全く同じ意のものなり。ただ、卷十八「四〇九八」に「大王乃麻氣能麻久麻久〔四字右○〕此河能多由流許等奈久此山能伊夜都藝都藝爾可久之許曾都可倍麻都良米《コノカハノタユルコトナクコノヤマノイヤツギツギニカクシコソツカヘマツラメ》」とあるは稍異なるやうなれど、これは「爲幸2行芳野離宮1之時儲作歌」とあれば、なほ「罷らせ」の意なるものなり。さて又この他に「まけ」とよみたるものは卷十三「三二九一」の「天皇之|遣之萬萬《マケノマニマニ》」とあるものあり。これも「遣」なれば、上にいへると同じ意なり。今一つ卷三「三六九」に「物部乃臣之壯土者大王《モノノフノオミノヲノコハオホキミノ》任乃隨意|聞跡云物曾《キクトフモノゾ》」とある「任乃隨意」は舊訓「ヨサシノママニ」とよみたるを近來多くは「マケノマニマニ」とよみて殆ど定説の如くなりたるさまなり。されど、かく改めむには「ヨサシ」の訓が「任」字に適せずして必ず「マケ」とよまではあるべからざる證據と理由とを十分に示してはじめて決定せらるべき筈のものなり。然るに、攷證には「任《マケ》は其事をその人にゆだね委意《マカス》にてまかせのかせをつゞむれば、けとなれり。これにてもまけはまかせの意なるを知るべし」といひ、美夫君志等近頃の學者殆ど皆これに從へれど、何等の證なきことにして、みだりに約言説を以て古語を説くが如きはつつしむべきことなり。今ここの「任」を「まけ」とよまむとせば、上述の如く、卷三「三六九」の例を以て之を支へ、その意はなほ罷遣の意なりとすべき筈なり。然らばこゝに罷遣の意ありとして、「マケ」とよむべきかといふに、未だ遽に從ふべからず。何となれば、ここは下に「賜」といふ語あれば、その「まけ」は用言として活動せるものならざるべからず。然るに、萬葉中に「まけ」とよむべき語はす(452)べて「まけのまにまに」といふ語のみにして、その「まけ」は體言の取扱をうけてあり。かく體言の取扱をうけなどする時にその場合に限りて約音の現象の起ることはたとへは「雪ぎえ」の「雪げ」となるが如し。「消え」が「け」となれりとて、「消ゆ」といふ本來の用言の上には變化はなきなり。かかる場合と同じものとせば、「まかせ」が體言扱せられてあるために「まけ」となることありとしても、「まかせ」「まかす」が「まけ」「まく」となりてありきとはいひ得べきにあらず。されば、萬葉時代に「まけ」「まく」といふ用言ありしか如何といふにそのありきといふ證を見ず。また類聚名義抄の「退給」を「マケタマヘ」といへる「マケ」が用言たる證のごとく見ゆれど、「退」の字にはこの語の訓なくして「退給」の熟字の訓と見ゆれば、これもその熟字に限りて音の轉化ありしものと見らる。この故にこの「マケ」といふ用言ありきといふ證としては薄弱なり。なほこれをも百歩讓りてしかよむべしとせむに、それには派遣の義を離るるを得ざる筈なり。されど、天武紀には「既(ニシテ)天皇謂2高市皇子1曰、其近江朝(ニハ)左右(ノ)大臣及智謀群臣定v議、今朕無2與計v事者1有2幼小(ノ)少孺子1耳、奈之何。皇子攘v臂按v釼奏言。近江羣臣雖v多、何敢逆2天皇之靈1哉、天皇雖v獨、則臣高市頼2神祇之靈1請2天皇之命1引2率諸將1而征討。豈有v距乎。爰天皇譽之携v手撫v背曰、慎不v可v怠。因賜2鞍馬1悉授2軍事〔四字右○〕1」とあり。されば、ここに軍事の全權を委任せられしにて、部分的に派遣せられたる部將にあらず、後世の語にていはば、征近江總督ともいふべき任なり。これによりて、「まけ」といふ語にはあてはまらずと考へらる。なほ又これを「マケ」とよむときはこの句を七音にせむには「賜者」をば、考の如く「タマヘレバ」とよむべきに到らむ。されど、「タマヘレバ」とよまむには「賜有〔右○〕者」とかくべき例にし(453)て「腸者」を「タマヘレバ」とよむは無理なり。然らば、略解の如く「マケタマヘバ」とよむべきかといふに、「賜者」のよみ方は、穩當なれど、ここをわざ/\六音の句とする必要ありやといふ問題生ず。ここをわざ/\六音によまむにはこの「任」が「マケ」にして決して動くまじき事なりといふ根據の上に立たざるべからず。然るにこの「任」を「マケ」とよむべき理由は極めて薄弱なれば、それによりて六音によむべしと主張することは不合理なりといはざるべからず。上の種々の理由によりて「マケタマヘバ」とよまむことは賛成すべからず。古義の「マキタマヘバ」といふ説は、「マケ」を「マキ」といふ事の卷二十などにあるに基づきたるものにしてこれは卷十八「四一一三」に「末伎太末不官乃末爾末《マキタマフツカサノマニマ》」「四一一六」に「於保伎見能末伎能末爾末爾《オホキミノマキノマニマニ》」とあるによれるものなるが、この「マキ」即ち「マケ」の變轉にしてこれ亦特種の場合に限られたりと見ゆ。ならば「任」の本義は古語に如何によみたるかといふに、續紀の第五十一詔に「信爾之有者仕奉太政官之政乎波誰任〔二字右○〕加母罷伊麻須」の「任之」を「ヨサシ」とよみたり。而してこの「よさす」といふ語は古事記、日本紀、宣命、祝詞に極めて多き語にして一一あぐる繁に堪へず。さてその「よさす」は「よす」といふサ行四段(後世は下二段なれど、古語には四段なりしことは日本紀神代卷の歌に「妹廬豫嗣〔二字右○〕爾豫嗣〔二字右○〕預利據禰」本集卷十四「三四五四」に「都麻余之〔二字右○〕許西禰」などにて知るべし。)の語の更にサ行四段に活用したる敬語なるが、それを「賜」につづけたりと見らる。然らば「ヨサシ賜フ」とつづくる例ありやといふに、古事記には例少からず。一例をいはば「於是天神諸命以詔2伊邪那岐命、伊邪那美命二柱神(ニ)1修理固成《ツクリカタメナセ》是多陀用幣流之國賜矛而言依賜〔三字右○〕也」などこれなり。この故に今は代匠記清撰本の説(454)に從ひて「ヨサシタマヘバ」とよむべく、その意は委任したまへばといふことと考ふべし。かくてこの二句の意は如何といふに、考に「そのまゝ御子におはしまして、軍のつかさに任給ふと也」といへり。大體此の如きことなれど、やゝ不十分なり。古義は「皇子とまします其まゝに任賜へる軍事を負持(チ)賜ふよしなり」といひ、攷證は考の説をあげてさて「國史を考ふるに將軍はみな臣下の職なるを皇子ながらも其將軍にまけたまふよしなり」といへり。この攷證の説はかへりてひが事なり。古は軍國の大權は天皇自ら之を掌にしたまひ、時に、皇后、皇子に委ねたまふことはありしかど、臣下に委ねたまふことは稀なりしなり。專ら臣下に委ねられしさまになれるは、支那風の制度を採用せられし結果にして、攷證の説は、中世以來の頽廢せる軍制によりて立てたる論なり。否中世以降にても武士が源平の兩家に屬するに至りしものは、これ古の、兵權は臣下に委ねずといふ制度の精神のなごりにして、天下の武士が、皇族の血統たる源平二家に從ひて、他に屬するを欲せざりし結果なり。かくの如くなれば、「皇子《ミコ》ながら」といふ語の解釋は從前の説にては不十分なることいふまでもなし。即ち諸家の説はこの「ナガラ」をば「神隨」の「ナガラ」と同じといひながら、その説明に至りては後世の「ナガラ」の意にて説き「カムナガラ」とは別の解釋をなせるは不合理なりといふべし。この故に吾人はすべての諸家の説に隨ふことをせず。こは「神隨」の「ナガラ」と同じく、輕くいはゞ「皇子にましますままに」といふべく、重くいはゞ、「もとより皇子とましますが故に」といふべき程の意にして、即ち「皇子とましますが故に當然の事として軍の任をよさし賜へり」といへる事になるべきにて、攷證の説とは正反對となる(455)べきものと思ふなり。即ち將軍の大任は臣下に委ぬべきにあらねば、皇子の當然の任としてこの皇子に任じ賜へるなりといふなり。この皇子の當時大任を負ひ賜ひてしかも威海内を壓せられしことは、大伴吹負が大和にて軍を起ししとき、詐りて高市皇子不破より至るといひて、大に勝を制せし事などを見て知られたり。かくの如くなれば、壬申の亂に天武天皇の勝を制せられしは專らこの皇子の力なりと認めらる。これこの歌にその戰亂の際の事を力強く説けるなり。爾下にいふ所これなり。
○大御身爾 「オホミミニ」なり。「オホ」も「ミ」も敬意の接頭辭なり。「大御」を冠するは至尊至貴の意をあらはすものにして、卷一「三八」の「大御食」この卷「一五一」「一五二」の「大御舟」又次の「大御手」なども然り。ここは高市皇子の御身にといふなり。
○大刀取帶之 「タチトリハカシ」とよめる古寫本多し。(西本願寺本、細井本、温故堂本、大矢本、京都大學本)考には「タチトリオバシ」とよめり。「帶」は「オブ」とも「ハク」とも古來訓する字なれど、大刀には古來「ハク」とのみいへり。日本紀景行卷の歌に「多智波開摩之塢《タチハケマシヲ》」とあるは「ハカセマシ」なるべしといへり。本集卷五「八〇四」に「郡流岐多智許志爾刀利波枳《ツルキタチコシニトリハキ》」とあるなどその例なり。又「帶刀」を「タチハキ」といひ、大刀の異名を「ミハカシ」といへるにても大刀を「ハク」といふを證すといふべし。大刀を「オブ」といへること古語に例なし。「ハカシ」は「ハク」をサ行四投に活用せしめて敬語としたるその連用形なりは。
○大御手爾 「オホミテニ」とよむ。高市皇子の御手になり。
(456)○弓取持之 「ユミトリモタシ」とよむ。弓をとりもちたまひといふ意なり。
○安騰毛比賜 「アトモヒタマヒ」とよむ。檜嬬手には「古本亦一本等に賜の下に奴の字あり。加へてたまひぬとよむべし。此句にて一段也」といへり。然れども、今ある諸古寫本に一もさるものなし。疑ふべし。加之、ここに一段として切るはかへりて不可なれば從ひがたし。「アトモフ」といふ語の例は集中に多し。卷九「一七八〇」に「三船子呼阿騰母比立而喚立而三船出者《ミフナコヲアトモヒタテテヨビタテヽミフネイデナバ》」卷十七「三九九三」に「阿麻夫禰爾麻可治加伊奴吉《アマブネニマカヂカイヌキ》、之路多倍能蘇泥布理可邊之《シロタヘノソデフリカヘシ》、阿登毛比底和賀己藝由氣婆《アトモヒテワガコギユケバ》」、卷二十「四三三一」に「安佐奈藝爾可故等登能倍《アサナギニカコトトノヘ》、由布思保爾可知比岐乎里《ユフシホニカチヒキヲリ》、安謄母比弖許藝由久岐美波《アトモヒテコキユクキミハ》」などその假名書の例なり。又卷九「一七一八」に「足利思代榜行船薄《アトモヒテコキユクフネハ》」又卷十「二一四〇」に「阿跡念登夜渡吾乎問人哉誰《アトモフトヨワタルワレヲトフヒトヤタレ》」もこの語なるべし。その語の意は如何といふに、代匠記は「日本紀に誘の字をあとふとよめるこれなり」といひ、古義には「誂字をアドフと訓るも同じ」といひたれど、これらは、意同じきか否かと云ふよりもまづ、「あとふ」と「あともふ」とは異なる語なれば、これを以て證とはすべからず。しかも本集以外に未だその確なる例を見ねば、結局上の數例に基づきてその意を考へざるべからず。萬葉考は「率《ヒキヰ》るをいふ、集中に雁にも船にも此言をいひ、紀に誘の字を訓つ」といへり。然れど、紀云々の説は、契沖説を受けたるにて證とはならず。かくて、率ゐる意を以て釋すべしとして、卷三「四七八」の「物乃負能八十伴男乎召集聚率比賜比《モノノフノヤソトモノヲヲメシツトヘアトモヒタマヒ》」とある「率比」を「アトモヒ」とよめり。而して、多くの學者この説をよしとせり。今上の諸例を通覽するに、先づ舟をこぎゆく場合に用ゐたるものあり。
(457)  阿登毛比底和賀己藝由氣婆《アトモヒテワカコギユケバ》 十七「三九九三」
  安騰母比弖許藝由久岐美波《アトモヒテコヒユクキミハ》   二十「四三三一」
  足利思代榜行舶薄《アトモヒテコギユクフネハ》        九「一七一八」
同じ舟につきていへれど、その「あともふ」所の相手をあげたるあり。
  三船子呼阿騰母比立而喚立而三船出者《ミフナコヲアトモヒタテテヨビタテテミフネイデナバ》 九「一七八〇」
これに基づきて考ふれば、上の舟に關する三首も、そのあともふ相手は船子、水手のたぐひにしてそれらを船頭があともふなるべし。されば卷二十の歌の「安佐奈藝爾可故等登能倍《アサナキニカコトトノヘ》、由布思保爾可知比伎乎里《ユフシホニカヂヒキヲリ》、安騰母比弖許藝由久岐美波《アトモヒテコギユクキミハ》」とあるは、その安騰母ふ主は岐美にして、その「あともふ」相手は水手《カコ》なること明かなりとす。かくして、考ふれば、卷十七の歌の「阿登毛比〔四字右○〕底和賀〔二字右○〕己藝由氣婆」とあるも「あともふ」主は「われ」にして、そのわれが、船子水手を「あともふ」こととなるべし。而してかく考ふるときは、主長たるものが、その屬從を率ゐる意の如くに説かるべし。これ即ち率ゐるといふ説の起りし所以なるべけれど、しかする時は卷十「二一四〇」の「璞、年之經往者阿跡念登夜渡吾乎問人哉誰」といふ歌を如何にせむ。この歌は秋雜歌中の詠鴈と題せるものにして、その前の歌なる「野干玉之夜度鴈者|欝《オホホシク》、幾夜乎歴而鹿己名乎告」といふ歌に對しての答に擬したるものにしてこの歌の意は古義に「年の經ゆけば、親しかりしも疎くなりなど、ありしにかはるならひなれば、それがうれたさに心かはりのせざらむため、己が友を誘ひ率《イサナ》ふとて夜中に己が名を告りつゝ飛びわたる吾なるものを不審げに問給其人は誰なるぞとなり」といへ(458)るにて明かなるが、ここには主たるものが部下を率ゐるといふ意はなきなり。されば、この語はたゞ「誘《さそ》ひいざなふ意を本義とすべきものなるべし。さて今この場合を見るに「ミイクサヲアトモヒタマヒ」といへるは、卷九の「ミフナコヲアトモヒタテヽ」といへると共通せる點にして、下に「トヽノフル」とある點は卷二十の「アサナギニカコトヽノヘ〔六字右○〕、ユフシホニカヂヒキヲリ、アトモヒ〔四字傍点〕テコギユクキミハ」とあるに共通せり。ここは高市皇子が、部下の軍將士卒を誘ひ率ゐ給ふことをいへるなるべし。
○齊流 古寫本には「イモヒスル」とよみしを仙覺が「トヽノフル」と改めよみてより一定せるなり。然るに考には「トヽノヘル」とよめり。これは後世の俗語の格なれば、從ふべからず。この語の意如何といふに、契沖はただ「軍衆をとゝのふる鼓なり」といへるのみなれば、參考の價値なし。考には釋なし。玉の小琴には「とゝのふるは三卷【十二丁】に網子調流海人之呼聲とも有て軍士を呼起し調ふるを云り」といひ、歴朝詔詞解の第一詔「天下調賜」の下に、「第三詔に此(ノ)天(ノ)下治賜|諧《トヽノヘ》賜(ヒ)岐、第九詔に上下|齊《トヽノ》和氣、四十五詔に汝等等々能、萬葉二に…………三に…………十に左男牡鹿之妻整登鳴音之、十九に物乃布能八十友之雄乎撫賜等々能倍賜、廿に安佐奈藝爾可故等登能倍などに見ゆ。これらを合せて思ふに、此言はよそにあらけ居る者を呼(ヒ)集めて、みたれなく治むる意也。其中に呼(ヒ)來す方を主《ムネ》といへると亂れなく治むる方をむねとしていへるとの異《カハリ》ある也」といひ、又古事記傳三十の「整v軍」の注にも「登々能布は呼立る意なり」といひて、本集の例を多くひけり。かくの如くにして召し集むるなりといふ釋、定説の如くな(459)りてあれど、果して如何にや。今新撰宇鏡にて「トヽノフ」と訓める字を見るに、「※[口+律]【呂□反調人※[口/ハ]率下人也止々乃不伊佐奈不又女志止奈布】」「亂【力段及散亂也理也擾也收也治也亦作亂止々乃不】」「※[和/心]【活才反諧也調也止々乃不】」「※[手偏+燎の旁]【力條反※[手偏+樂]也理也取也構也止々乃不】」の四字あるが、いづれも「調、理、治」の意にして、又「率2下人1」の意あるもあれど、召し集むる意なりといふもの一もなし。又類聚名義抄なるには「トヽノフ」といふ語を以て訓したる文字凡六十三字色葉字類抄には凡四十四字を算すれど、召又は集の義なる文字一も見えず。然らば、古語は如何といふに、本集にては、既にあげられたる卷三「二三八」の「網引爲跡網子調流海人之呼聲」卷十「二一四二」の「左男牡鹿之妻整登鳴響之」卷十九「四二五四」の「物乃布能八十友之雄乎撫賜、等登能倍賜」卷二十「四三三一」の「安佐奈藝爾可故等登能倍、由布思保爾可遲比伎乎里、安騰母比弖許藝由久伎美波」又「四四〇八」の「奈爾波都爾船乎宇氣須惠、夜蘇加奴伎、可古登々能倍弖、安佐婢良伎、和波己藝※[泥/土]奴等」あり。宣命には第一詔に「此食國天十調賜率賜」第三詔に「此天下治賜諧賜〔二字右○〕」第九詔に「上下和氣」第廿九詔に「又竊(ニ)六|千《チヾ》等等乃又七人乃味之天牟止毛家利」第四十五詔に「汝等等々能」とあり。又古事記中卷仲哀天皇條に「整v軍雙船度幸之時」とあり。日本紀神武卷には「練」を景行卷には「經綸」を「トトノフ」とよみ、又舒明卷に「振旅」を「イクサトヽノフ」とよませ、又、卯(ノ)始(ニ)朝之已(ノ)後(ニ)退之因以v鐘爲v節」とある「節」を「トヽノヘ」とよめり。以上を通じて見るに、「呼ぶ」意ととらでは叶はぬ如く見ゆるものは十卷の「サヲシカノツマトヽノフトナクコヱノ」とあるのみにして他は然らず。ことに、入朝する時の合圖をも退朝する時の合圖をも「トヽノヘ」とよぶを見れば、呼ぶとか召すとかいふ事は決してあたらぬなり。されど、なほ念(460)の爲に上例を分類して見むに、宣命の調、諧齊とあるはいづれもその字義にあたるもの又宣命四十五詔の「心乎トヽノヘナホシ」も普通の「トヽノヘ」なれば特にいふを要せず。ここの如く軍兵にいへるは宣命第廿九詔の「六千兵ヲ發シトヽノヘ」なるが、こは上に「發し」とある以上は「トヽノヘ」は召集にあらざること明かなり。その他には軍隊ならねど、多人數の集合にいへるは卷三「二三八」の「アゴトヽノフル」卷二十「四三三一」の「カコトヽノヘ」「四四〇八」の「カコトヽノヘテ」なるが、これらも召集の義なりといふことをうけばりていひうる人はあるまじ。又卷十九「四二五四」の「モノノフノ八十友ノヲヲナデタマヒトヽノヘタマフ」とあるは召集したまふ意にはとるべき所にあらず。かくて召ぶの意にとるを得とせむものは、なほ「サヲシカノ妻トヽノフト」の一のみなり。されど、この一が、必ず召ぶの意ならば、これまた動かすべからぬものとなるべきが、これをば本居以前の學者は如何に説きしかと見るに、代匠記には初稿には「世俗に事の成就するをとゝのふといへり。今は此心にや」清撰本には「妻を呼そろふるなり。妻と副《タクヒ》て居れはとゝのほり、副はざればとゝのはぬなり」といへり。ここに「呼ぶ」といふ語を加へて釋したれど、主點は「そろふる」といふ語にありといふべし。この妻を整ふるといふ語は後世にもあり。たとへば、宇津保物語藤原君卷に「この右大將源のあさよりのぬしの女子ども十よ人にかゝりてあなり。ひとりにあたるをば御門に奉り。そのつぎ/\ことごとくにとゝのへたなり」とあるが如く妻を整ふるとは妻定めをするをいふなり。若、妻を呼ぶといふ義とせば宇都保などの義にあはず。而して後世にいふ妻を整ふといふ意に合せざるをも強ひて「呼ぶ」とせむには(461)萬葉集時代に「呼ぶ」といふ意がありきといふことを確定的に示さざるべからず。然るにさること一もなくして、ただこの「妻整ふ」といふ一語のみなり。されば、、「召《ヨ》ぶ」といふ義ありといふ從來の定説は從ふべき理由なきなり。惟ふに「ととのふ」はなほ今もいふ「ととのふ」の意に外ならずして、ただ、その用ゐらるる場合によりて多少意のかはれるのみなり。今色葉字類抄にあげたる「トノフ」の文字をあぐるに、
 調 律 整 齊 勅 格 正 歴 〓 御 餝 等 竝 階 虞 振 適 〓 〓 ※[手偏+総の旁] 肅 諧 〓 〓 謁 申仕  誠 展−馬車也 剪 方 〓 (歴) 膩 理 〓 〓 服 嚴 〓 選 藏 (振)
などなるが、これらのいづれかの字にて大方は義知らるべし。卷九の「網引すと網子調ふる海人の呼聲」といふは「呼聲」といふを必ず人を召しよぶ聲とせば、從來の如き解釋をとるべきか知らねど、呼聲とは叫び聲といふにおなじきこと多きは世人誰も疑ふまじ。即ちこれは、網を引くとて、網子を整ふる爲に海人の叫ぶ聲にして、その調ふるは、人數を完備せしむる如き場合にもいふべく又その人々をばそれぞれの部署につかしむる場合にもいふべく、呼ぶといふが語の主意にあらずしていづこまでも整ふるが主意になるなり。卷二十の「かこととのへ」「かこととのへて」も亦同じこといふまでもなし。次に、卷十九「物のふの八十伴のをを撫で賜ひ、ととのへ賜ふ」とあるは十分に供給あらせらるる義にして完備の意なるべし。而して宣命第廿九詔なると、今の歌とは軍兵を整ふることなるが、その整字は既に支那にてもいふことにして、詩の(462)大雅、皇矣に「爰整其旅」ともあり。されど、これを以て遽にその義なりといふべからず。惟ふにここの「ととのふる」には軍兵を「ととのふる」には相違なきが、それが爲に用ゐるものは下にいへる鼓なり。されば、この「ととのふる」は軍陣に於ける鼓の用をいへる場合のものと釋せざるべからず。然るにここにこの鼓の用を解するに參考とすべきはかの舒明紀八年の「卯始朝之已(ノ)後(ニ)退之。因以v鐘爲v節《トヽノヘ》」とあるその義なり。恐らくはこの節、又律などの意にて用ゐしならむか。而して實際軍旅に鼓を用ゐて節度としたる事は支那本邦に通じて古より行はれしところなり。然ればここの「ととのふる」は軍隊進退の節度を示すことをいふと考ふべきなり。これを外にしてここの場合を釋せむとするは誤なり。考に「調練」といへるは有事の日の實戰と、平素の調練とを混同して明確にせざりし弊はあれど、「ととのふる」といへる語の意にはそむかず。本居説は甚しきひがごとにして永く後世を迷はせるなり。
○鼓之音者 舊訓「ツヽミノコヱハ」とよみ、神田本に「コヱ」「ヲト」とよみ、考に「ツヽミノオトハ」とよみたり。(校本萬葉に「代匠記」とせるは誤なり。)「音」は普通に「オト」とせり。又「コヱ」とよむべき場合もなきにあらねど、「コヱ」は普通に人又は生物の聲音にいひ、「オト」は汎く音響にいふ語なれば、「オト」とよむをよしとす。皷は鼓の俗字にして和名鈔に「都々美」の訓あり。倭訓栞には「つゞみ、日本紀にもと※[革+皮]を訓せしは大皷也萬葉集に皷のおとはなるかみのといへり。今小皷をいふ、都曇の音也といへり。曇をつみとよむは阿曇をあづみとよめるがごとし。唐音に天竺技有2都曇皷1と見え、白孔六帖に都曇答臘は本外夷樂、都曇似2腰鼓1而小、答臘即※[虫+昔]鼓也」といへり。本居宣(463)長は、古事記仲哀卷の歌「許能美岐袁迦美祁牟比登波曾能都豆美宇須邇多弖弖宇多比都郡迦美祁禮加母云々」といふ「郡豆美」の説明の下に「或人云」としてこの文を引きてさて曰はく、「都|曇《ドミ》と云も答臘《タフラフ》と云も本其(ノ)音《オト》によりて着《ツケ》たる名と聞ゆ。さて皇國にて郡豆美《ツヅミ》と云は阿豆美《アツミ》を阿曇と書事例などを思ふにも、まことに都曇の字音なるべく思はる。然らば、皇國に本より有(リ)し物には非ず。外(ツ)國より來つる物なるべければ、此(ノ)大后(ノ)の御世には未(タ)有(ル)まじき物なるに此《コヽ》の歌によめるはいかに。故(レ)つら/\按《オモ》ふに、此時皇國に皷《ツヽミ》ありしには非ず云々」といひて之に賛成せり。然れどもこは未だ必ずしも從ふべからず、狩谷※[木+夜]齋は箋注倭名類聚抄にその説をあげ、さて曰はく「愚謂都都美以2其音1得v名、都曇鼓亦以v音得v名其名適合耳。非d依2都曇鼓1名c都都美u猶d※[奚+隹]雅以2鳴聲1得v名加介加良須亦以2鳴聲1得v名。然皆自皇國之名非依d※[奚+隹]雅字音1得c是名u也」といへり。この説是とすべし。さてこの鼓は、今の所謂「ツヾミ」にあらず、軍陳に用ゐる大鼓たること明かなり。軍防令に「凡軍團(ニハ)各置2鼓二面、大角二口、小角四口1通(ハシ)2用兵士(ヲ)1分番(シテ)教習(セヨ)」とあり、又「凡私家(ニハ)不v得v有2鼓鉦弩、牟、※[矛+肖]《シヤク》具装、大角小角及軍幡1」の義解に「謂皷者皮鼓也、鉦者金鼓也所2以靜v喧也」と見ゆ。さて令制兵部省の下に鼓吹司ありて鼓吹を調へ習はしむる事を掌れり。令集解に引ける延暦十九年十月七日管符中にのする鼓吹司解に曰はく「軍旅之役吹角爲v本、征戰之備鉦鼓爲v先」とあり。その鼓とは鼓鉦を鼓するをいふなり。吹とは大小の角を吹くをいふなり。いづれも軍旅征戰に進退を節度する合圖に用ゐるなり。而して貞觀儀式には三月一日於2鼓吹司1試2生等1儀式見ゆるが、その用ゐる鼓は一種のみならざるが、延喜式兵庫寮式によるに「凡鼓吹雜生(ノ)習技(ニ)所v須鉦(464)一口、大鼓一面、楯領鼓二回、多良羅鼓四面、答鼓一面、大角廿口、小角卅口、大笛四口緋幡二管、鉦鼓鎧※[竹/巽]※[竹/虚]九脚並待2官符充v之」とあり。而してこれらの鉦鼓の數は貞觀の儀式の諸生の數と合す。恐らくはこの制は支那の軍陣の法にして令前より既に行はれしならむ。かくいふ由は天智天皇の御世に三韓の事にて唐と爭ひて敗られしかば、大に兵を練られしことありて、兵法に閑へる谷那晋首、木素貴子、憶禮福留、答※[火+本]春初に位階を授けられしことあるは、その兵法を用ゐられし爲なることいふをまたず。
○雷之聲登聞麻低 「イカツチノコヱトキクマデ」とよめり。西本願寺本には「雷」に「ナルカミ」ともよめりといふ。「雷」は在來「ナルカミ」とも「イカツチ」ともよみ來り、本集にも「ナルカミ」といふ語(「鳴神」卷六「九一三」、その他十一、等にも多し)「イカツチ」といふ語(卷三「二三五」の歌の「雷之上」を左注に引ける歌に「伊加土山」とかけり。)あり。又倭名鈔には「雷公」に注して「和名奈流加美一云以加豆知」と見え、佛足石の歌には「伊加豆知乃比加利乃期止岐己禮乃微波云々」とあり。「イカツチ」といふは、その威の「イカメシキ」よりいひたる名目にして鳴神といふはその音響の方よりいひし名なるべし。而して、佛足石歌によれば、「イカツチの光」にて電光をいへれば、雷の本體と思ひしものを「イカツチ」といひしならむ。ここは雷神《イカツチ》の聲といふまでにて雷鳴をいへるなれば、「ナルカミノコヱ」といふ如き、重複すべきよみ方をせぬ方原作者の心にかなふべし。さてここの形容は日本紀天武卷に壬申の亂の最後の瀬田の戰の烈しきさまを記して「旗幟蔽v野埃塵連v天、鉦鼓之聲聞2數十里1列弩亂(レ)發(テ)失(ノ)下(ルコト)如v雨」とあるに合せり。
(465)○吠響流 「フキナセル」とよむ。「ナス」は「ナラス」の略なりといふこと普通の説なれど、さにはあらずして、「ナス」といふが「ナラス」と同じ意の古言なるべし。この事は古事記上卷に「鹽許袁呂許袁呂邇畫鳴而」と書ける自注に「訓v鳴云2那志《ナシ》1」とあるにても明かなり。又古事記上卷の歌に「遠登賣能那須夜伊多斗遠《ヲトメノナスヤイタドヲ》」又日本紀繼體卷の歌「須衛陛鳴磨府曳※[人偏+爾]都倶利府企儺須美母盧我紆陪※[人偏+爾]《スヱヘヲバフエニツクリフキナスミモロガウヘニ》」もこの例なり。萬葉集中にも「鳴」を「ナス」とよむべき所はあれど、「ナラス」とよむべき所果して存せりや疑はし。古今集にも「秋風にかきなすこと」といへり。されば、「ナス」は古語にして「ナラス」は後の語なるべく、「ナラス」の「ラ」を略して「ナス」といへりといふことは何等學問上の證なきことなりとす。されば「響」は「ナス」なるを「流」をつけたるは「ナセル」とよまむが爲に加へたるなり。この「吹鳴せる」は上又下に見ゆる大角小角笛などを吹奏するをいへるなり。
○小角乃音母 舊訓「ヲツノノコヱモ」とよめり。代匠記初稿本には「小角これををつのとよめるはあやまりなり。こふえとよむべし」といひ、「又くたのこゑもともじたらずにもよむべし。天武紀云|大角《波良》小角《久太》」といへり。又清撰本には「小角は今按くたと讀へきか。天武紀に大角を波良、小角を久太とよめり。和名云兼名苑(ノ)注(ニ)云、角(ハ)本出2胡中(ニ)1或云出2呉越(ニ)1以象(レリ)2龍吟(ニ)1》楊氏漢語抄云大角【波良乃布江】小角【久太能布江】令第五云々軍防令云々延喜式民部上云々」といへり。かくの如く「小角」といふものは古「クダ」といひしものなれば代匠記の訓に從ふべし。その小角といふものは上にひける軍防令に「大角二口小角四口」又延喜式兵庫寮式に「大角廿口、小角四十口」とある小角をさせることは明かなるが、このものは和名抄のみならず、新撰字鏡にも「※[竹/秋]」に「波良又久太」の訓あり。(466)この※[竹/萩]〔右○〕は字鏡に「吹※[竹/甬]爲起居節〓也」とあるが、「〓」は「序」の誤なるべく、その※[竹/甬]は字書に竹筒なりといへり。されば當時の制はとにあれ、竹筒を吹きて合圖をせるによりて「くだ」といへるならむ。その「角」字を用ゐたるはその源、獣角を用ゐしより出でしならむこと、喇叭の洋語の如くならむ。而してこれ亦軍旅征戰の具にして、進退の節度をなすものたること、かの令集解に引ける鼓吹司の解にて知るべし。「音を攷證に「コヱ」といへり。されど物の音なれば「オト」の方よしとす。考には「母の辭前後の辭の例に違」とて、「一云笛乃音波」とあるを本文に立てたり。萬葉※[手偏+君]解は「母」を「波」の誤としたり。然れども、ここに誤字ある本一もなきのみならず、攷證に「本書のまゝにしても母の字はまへの鼓之音者といふに對して鼓の音は雷の如く、また小角《クタ》の音も虎のほゆるがことし。その對にいへる所なれば、母とありてよく聞ゆるをや」といへるが如く、改むるに及ばざるなり。
○一云笛乃音波 「フエノオトハ」とよむ。一本の傳なり。考にはこれをよしとしたれど、いづれても大差なきことなり。但笛といへば、すべて吹奏するものをいふに似てよきやうに似たれど、「小角」を「クダ」といふ時は國語の上にてはこれ亦吹奏樂器の總名ととらるれば、要するに五十歩百歩の論のみ。
○敵見有 「アタミタル」とよむ。この語の意契沖は「あたみたるなり。あたはあひてなり」といひ、考に「敵に向ひたる」といひ、世俗或はこれらの説をよしとすれど、これは誤なり、こは攷證にいへる如く、新撰宇鏡に「怏【於高反去懃也強也心不服也宇良也牟又阿太牟又伊太牟」とあるその「あたむ」といへる用言なるべし。(467)この「懃」は「※[對/心]」の誤にして、「怏」は「惰止不滿足也」とみえ、類聚名義抄には「※[言+惡]」「〓」「讎」にいづれも「アタム」の訓あり。さて又「※[對/心]」は説文に「怨也」と注し、「※[言+惡]」は類篇に「憎也」と注したれば、これは「アタ」(仇)といふ體言に縁ある語ながら「アタヲミタル」にあらずして、「アタ」に對して發する憎惡怨恨の心情のはたらきをいひあらはせる語なるべきは疑ふべからず。
○虎可叫吼登 「トラカホユルト」とよむ。「虎」は和名抄に「止良」と注す。「※[口+立刀]」は「叫」の別體なり。「叫吼」にて「ホユル」とよむ。「ホユ」といふ語は和名鈔に「※[口+皐] 玉篇云※[口+皐]……虎狼聲也唐韵云吼………牛鳴也吠【……已上三字保由】犬之鳴聲也」とあり。これは小角の吹聲を虎のほゆるにたとへたるなり。「カ」は清音にして疑問の助詞にて係となれるが故に、「ほゆる」と連體形にて結とすべきなり。
○諸人之 「モロヒトノ」とよむ。もろもろの人といふ義なり。「モロヒト」といふ語の當時ありし事は假名書にせる例卷五「八三二」に「母呂比得波《モロヒトハ》」又「八四三」に「毛呂比登能阿蘇夫遠美禮婆《モロヒトノアソブヲミレバ》」とあるにて知るべし。
○※[立心偏+刀三つ]麻低爾 「オビユルマデニ」とよむ。「※[立心偏+刀三つ]」は正字通に「同恊]」といひ「恊」は玉篇に「恊許劫切以2威力1相恐恊也」と見え、新撰字鏡には「恊【今作脅虚業反怯也於比也須】」と見ゆ。この「オヒヤス」は「オビユ」と同源の語の他動となれるものなること明かなり。さて「オビユ」といふ語の例は新撰宇鏡に「〓」に「於比由」の訓あり、又「愕然【覺各戌驚愕也於豆又於比由又於止呂久】」「惶急【驚失意也於比由又阿和豆】」又靈異記上卷の訓注に「脅オヒユ」とあり。蓋し駕いて失神する如きさまになるを「オビユ」といへるなり。
○一云聞惑麻低 一本に「キキマドフマデ」とありとなり。意は本文の方よく聞ゆ。
(468)○指擧有 舊訓「サシアグル」とよみたれど、「擧有」の二字を「アグル」とよみては不十分なり。考に「ササゲタル」とよめるをよしとす。「サシアゲタル」を約めていへるなり。「サシアグ」を「ササグ」といへる例は佛足石歌に「乃知乃保止氣爾由豆利麻郡良牟佐々義麻宇佐牟《ノチノホトケニユヅリマツラムササゲマウサム》」とあり。これは次にいへる幡をささげたるをいふなり。
○幡之靡者 「ハタノナビキハ」とよむ。幡は軍防令の義解に「幡者旌旗惣名也。將軍所v載曰2〓幡1。隊長所v載曰2隊幡1。兵士所v載曰2軍幡1也」とあり。されば幡字は旌旗の總名に用ゐたる字なりと見るべし。「靡き」は風に吹き靡きたるさまをいへるなり。さてこの時天武天皇の方に赤き幡を用ゐられしことは古事記の序に「皇輿忽駕※[ニスイ+綾ノ旁]2渡山川1。六師雷(ノ)如ク震(ヒ)三軍電(ノ)如ク逝(ク)。杖矛擧威猛士烟(ノ如ク)起。鋒旗〔二字右○〕耀v兵、凶徒瓦解」とあるが其事をいへるなり。なほ日本紀天武卷上を見るに、「恐d其衆與2近江師(ト)難uv別以2赤色(ヲ)1著《ツク》2衣(ノ)上(ニ)1」と見えたれば、赤旗赤印にて、その大衆の殺到するさまは如何にも野火のひろごれるにたとへつべきものなりしならむ。これ次の句のある所以なり。
○冬木成 「フユゴモリ」とよむ。この事は卷一「一六」にいへり。
○春去來者 「ハルサリクレバ」とよむ。この事も卷一「一六」にいへり。
○野毎 舊訓「ノヘコトニ」とよめり。童蒙抄には「ノラコトニ」とよみ、略解には「ヌゴトニ」にとよめり。按ずるに「野」一字を「ノベ」とよまむは理なし。又「ノラ」とよむことも如何なり。略解の説の如く四音の一句とするをよしとす。
○著而有火之 舊訓「ツキテアルヒノ」とよめり。童蒙抄に「ツキタリシヒノ」とよめり。「著而有」は(469)「ツキタリ」ともよむべけれど、、「タリシ」とはよむべきにあらず。古來の訓をよしとす。この上四句の意は古、春になれば、野を燒くこと(これは所謂燒畑をつくる料にして、漫にするにあらず。)不破の軍の赤旗をささげ赤幟をつけたる大軍の殺到せるさまを野火の盛んにもえひろがるさまに見立てたるなり。野火の事はこの卷「二三〇」に「春野燒野火登見左右燎火乎《ハルヌヤクヌビトミルマテモユルヒヲ》」卷七「一三三六」に「冬隱春之大野乎燒人者燒不足香文《フユゴモリハルノオホヌヲヤクヒトハヤキアカネカモ》、吾情熾《ワカココロヤク》」とあるが如きここの例證にあぐべし。
○一云冬木成春野燒火乃 一本の傳に「フユゴモリ、ハルヌヤクヒノ」とありとなり。考にはこれをよしとして本文に立てたり。されど、大差なき事なれば改むるに及ばぬことなり。
○風之共 「カゼノムタ」とよむ。「ムタ」の事は上「一三一」の「浪之共」の條にいへり。「カゼノムタ」といへる例は卷十五「三六六一」に「可是能牟多與世久流奈美爾《カゼノムタヨセクルナミニ》」といふあり。
○靡如久 古來「ナビクガゴトク」とよめり。考は「ナビケルゴトク」とよみたり。されど、これは靡一字にて有字なければ、「ナビケル」とよむは當らず。野火の風に靡ける如きさまに赤旗赤幟の大軍のさまを見立てたるなり。
○取持流 舊訓「トリモタル」とよみたるを考に「トリモテル」とよめり。こは同じ語にしていづれにしてもよきなるが、今は普通の説によりて考とおなじくよむ。將士の手に取り持てる弓と下につづけていふなり。弓は「ミトラシ」といふ如く手に執りもちて取扱ふ武器なればなり。
○弓波受乃驟 舊訓「ユハズノウゴキ」とよめり。されど「驟」は「うごき」とよむべき字にあらねば、代匠記に「驟は「サワギ」とよむべきかといひしより諸家之に從ひて定説となれり。「弓波受」は新撰(470)字鏡に「弭弓波受」とあり和名鈔、「弓」の條に「釋名云弓末同v※[馬+肅]【音蕭由美波受】」とよみ、類聚名義抄に「弭」字に「ユムハズ」の訓あれど、「ユハズ」の語なし。されば「ユハズ」といふ語果して古にもありしか疑しき事なれど、日本紀の崇神卷の「弭調」を古來「ユハズノミツキ」とよみ來ればこれも古語なるべきか。今姑く古の訓のまゝに從ふ。「驟」は説文に「馬疾歩也」と注し、玉篇に「奔也」と注し、この二義を本義とし、その他「數也」「シバシバ」ともいへり。今類聚名義抄に就いて「聚」字の訓をみるに、「ウクツク」「ウヅク」「シバシバ」「イハユ」「シハル」「イヨ/\」「ワシル」の訓あれど、「ウゴク」「サワグ」といふ訓なし。然れども、本集卷三「三二四」に「旦雲二多頭羽亂《アサグモニタヅハミタレ》、夕霧丹河津者聚《ユフギリニカハヅハサワグ》」の「聚」を古來「サワグ」とよみ、又卷九「一七〇四」に「※[手偏+求]手折《ウチタヲリ》、多武山霧茂鴨細川瀬波聚祁留《タムノヤマギリシケミカモホソカハノセニナミノサワケル》」とよめるは「聚」を「サワグ」にあてたるものと見ゆ。又卷三「四七八」に「五月蠅成聚騷舍人者《サバヘナスサワグトネリハ》」とある「聚騷」二字を「サワグ」とよめり。この「聚騷」の二字を「サワグ」とよめるは、蓋し支那にこの熟宇を用ゐたるものありてこれによりしならむ。然りとせば、これを「サワグ」とよむ由もありといふべし。然れども未だ、その根據を知らず。この故に、姑く、契沖の説に從ひおくといへども現今の程度にては確定説とするには未だしきなり。「サワギ」とはもと「サワサワ」といふ音に出でたりと見ゆれば、弓を放つ時弦の鳴る音をいへるならむ。これを「弓」といはずして「弓波受」としもいへるはただ詞のあやなりと思はる。
○三雪落 「ミユキフル」とよむ。「ミユキ」の「ミ」は「み山」「み谷」などの「み」にてただ「雪」をいふなり。「落」を「フル」とよむことは卷一「二六」の下にいへるが、なほ「四五」には「三雪落」とあるなり。ここは「冬」の枕詞の如くに用ゐたり。
(471)○冬乃林爾 「フユノハヤシニ」とよむ。意明かなり。
○一云由布乃林 これは一本に、この句を「ユフノハヤシ」とありとなり。「ユフ」は「フユ」の誤なるべきが、一本にかくありとなれば、彼是の論は不要なり。但これは、從ふべからず。
○飄可毛 舊訓「アラシカモ」とよみたるが、考には「ツムシカモ」とよめり。先づこの「飄」字古寫本の多くは「※[風+票]につくれり。いづれにても通用する字なり。この字義は如何といふに爾雅に「廻風爲飄」とありて、郭璞の注に「旋風也」といひ、説文には「飄回風也」といひ、玉篇には「飄旋風也」といふ。この「旋風」は色葉字類抄に「※[風+火三つ]ヘウツムシカセ旋風同」ト見え、類聚名義抄には「飄」「※[風+火三つ]」「※[風+炎]」「夙」「※[風+重]」字に「ツムシカセ」の訓あり。又新撰字鏡には「※[風+火三つ]」「※[風+重]」「夙」に「豆牟也加世」「※[風+重]」」に「豆牟志風」の訓あり。これは回風旋風の文字にて明かなるが如く、今いふ辻風なり。(ツジ風はつむじ風の略なり。)今ここのもその「ツムジカゼ」なるが、これを「ツムジ」とのみいへるは略せるにて、一句の音數よりかくよまるるなるが、單に「ツムジ」とのみよみて「ツムジカゼ」の義となるは集中他に例を見ず。されど、文徳實録卷三仁壽元年九月に特に出雲國の諸神に位階を授けられたるうちに「速飄別命云々」とあるは神名式は意宇郡の條「波夜都武自和氣神社」トある神なるべければ、しかよむべきものならむ。されば、今は考の説による。さてここに「つむじ」とよむことは次の句の「い卷きわたる」にあふと知らる。
○伊卷渡等 「イマキワタルト」とよむ。「イ」は所謂發語にして、音調を添ふる爲に、動詞の上に冠するものにしてその例は集注に多きが、卷一にも「伊縁立之」(三)「伊隱萬代」(一七)「伊積萬代爾」(一七)「伊去《イユキ》(472)到而」(七九)などあり。これは上にいへる旋風の冬の枯木の林を吹き卷き渡るといへるなり。
○念麻低 「オモフマデ」とよむ。「三雪ふる冬の林に旋風の吹き渡ると思ふまで」といへるが、この「まで」の力にてこの上五句を以て一の修飾格として下の「聞きのかしこく」の修飾をなせるなり。「まで」は副助詞にしてかかる用法を有するは副助詞の特性の著しき點なり。この事は日本文法講義にいへり。
○聞之恐久 「キキノカシコク」とよむ。考には「聞」を「見」の誤として「ミノカシコク」とせり。然れども、ここに誤字ある本一も存することなく、加之考には「ここは聞ことならず、」といはれたれど、上に「弓波受のさわぎ」といへるが弓の弦音のかしがましきことにて、その音は木枯が冬の林に吹きまくが如く烈しき音のするをいへるなれば、かへりて「聞」といふべきこと明かなるをや。この故に舊訓のよみ方をよしとす。「きき」は連用形を體言にしたるにて「きくこと」をいへる語なり。かかる語法卷十八「四〇九八」に「伎吉能可奈之母」卷二十「四三六〇」に「夜麻美禮婆見能等母之久」とあるなどにてこの用例の存するを見るべし。「かしこく」は畏るべきをいふなり。
○一云諸人見惑麻低爾 一本に上の二句を「モロヒトノミマドフマデニ」とありとなり。略解はこれを「ここを見る事なれば一本の見まどふまでと有かた然るべし」といひたれど、上に考の説を批評せしが如くなれば不可なりとす。
○引放 「ヒキハナツ」なり。義明かなり。弓を引いて矢を放つをいふ。
○箭繁計久 舊訓「ヤノシケラケク」とよめるを代匠記は「ヤノシケヽク」とよめり。この「シケラケ(473)ク」とよめるは「アキラケク」などに准じてよめる由なるが、「アキラケク」は「アキラカ」といふ語に基づくが故にかくなれるなるに、「シゲラカ」といふ語なければ、かくよむべき根據なし。こは、契沖の如く「シゲケク」とよむべし。「シゲケク」は從來「シゲク」の緩言(美夫君志)なりなどの説明にてすましたれど、緩急の區別は何により、如何にして生ずるかの説明は未だ存せざりしが如し。これは單に「シゲク」といふとは別の詞にして、下の「ク」は「イハク」「玉ヒリヒシク」「ノリタマヒシク」などの「ク」にして活用にはあらず。而してこの「ク」は動詞には「イハク」「ミラク」などの如き形を呈してつくが、形容詞につけるは「シゲケク」はもとより、「アシケク」(萬五、「九〇四」)「ヨケク」(「同上)」「イタケク」(萬十七」「三九六九」)「カナシケク」(同上)など例多きが、いづれも、その連體形の「キ」よりうけたるものと見ゆるが、その「キ」が變形して「ケ」となれるものなり。而してそれらの「ク」は或は體言化せしめて「コト」の意となり、或は修飾格として、「その一點に於いて」などの如き意をなすものと見ゆ。)而してここも「シゲキ」に「ク」のそはりて「シゲケク」となれるにてここは修飾格として「シゲキ」その状態をいふに似たりと見ゆ。
○大雪乃 「オホユキノ」とよむ。大雪は上「一〇三」にいへり。この「乃」をば諸家多く「如く」の意なりとせり。されど、これはなほ普通の「の」にして次の亂れに對しての主格なり。「如く」の意になるはこれらの句の全體の用法より生じたるにて「の」にその意あるにあらず。「の如く」の意の「の」は「花の顔」「月の眉」などの如く體言と體言との上にこそ見ゆれ。用言に對してはなきことなり。
○亂而來禮 舊板本「ミタレテキタレ」とよめり。古寫本中には「來禮」を「クレバ」とよめるものあり。(474)されば、「來禮」のみなるを下に「バ」助詞を添へてよむは穩當ならず。童蒙抄は「禮」の下に「婆」脱せりとし、考は「者」脱せりとせり。されどかくかける本一もなきのみならず、かく已然形のままにて條件を示すは古語の一格なること上に屡いへる如くなれば、「ば」なくして「ば」のつけると同じ用をなすなり。されば、舊訓のままにてよしとす。この二句は大雪の亂れて來る如くに亂れて來ればといふにて「大雪の亂れて來る」はその一方には上の譬喩とし、一方にはその實事をさせるなり。かくの如くにして「の如く」の意生ずるものとす。この二句の意は上の引き放つ箭の繁きさまは、つむじ風に吹きまくられて大雪の亂れふるが如くに飛び來ればといふなり。上「大御身云々」よりここまで三十六句は高市皇子の御軍の勢の盛なりしさまをいひて、この下數句の條件となししなり。
○一云霰成曾知余里久禮婆 一本に上二句を「アラレナスソチヨリクレバ」とありとなり。「アラレナス」の一句は惡しきにあらねど、下の句はよしと思はれず。本文の方をよしとす。
○不奉仕 舊訓「マツロハヌ」とよみ、代匠記には「マツロハデ」とよみ、考に「マツロハズ」とよみたり。「不奉仕」は上に「マツロハヌ」とよみたれど、そこは連體格たる故なり。ここは連用言ならずば意通らねば、「ヌ」とよむはあたらず。「デ」は意通れども、この頃に「デ」といふ打消の語ありきや否や疑ふべし。されば考のよみ方をよしとす。意は上にいへり。
○立向之毛 「タチムカヒシモ」とよめり。立ち向ふはあらそひ敵対することをいふ。卷九「一八〇九」に「入v水火爾毛將入跡立向競時爾《ミヅニイリヒニモイラムトタチムカヒアラソフトキニ》」とあるその例なり。この「たちむかひし」は準體言にして(475)敵對せしものもの意なり。
○露霜之 「ツユシモノ」なり。この詞の事は上(一三一)にいへるが、ここもおなじく露や霜やといへるにて、露霜といふ一のものとは思はれず。さて、これを枕詞なりといへれど、なほただの比喩にして枕詞にはあらざるべく、上の「の」は「の如く」といへる如きに似たる用法なり。ただし、なほ「の如く」といふは當らずして「の」は主格を示すものと考へらる。
○消者消倍久 古來「ケナバケヌベク」とよめり。卷十一「二四九八」に「朝露(ノ)消々|念乍」《オモヒツツ》」の一「消々」を「古來「ケナバケヌベク」とよみ來り、又卷十三「三二六六」に「朝露之消者可消戀久毛知久毛相有《アサツユノケナバケヌペクコホラクモシルクモアヘル》……」の「消者可消」をもしかよみ來れり。又古今集卷十九の長歌に「ふるゆきのけなばけぬべく思へども」ともあり。按ずるに「これ古代の慣用語句の一にして、その意は露や霜の日にあひて、忽に消え失する如きに命を失ふをたとへていへるにて檜嬬手に、「盡きばつきよと身をすてゝ戰ふ也」といひ、古義に「身命を捨て向へるよしなり」といひ、新考に「終ニハ死ナハシヌベクなり」といへるが如く、死にはつるならば、死にはつべくといひて、身命をすつるを厭はずといふ心をいひたるものなりと見ゆ。
○去鳥之 「ユクトリノ」なり。「去」を「ユク」とよむこと、卷一「六九」にいへり。「群りてとび行く鳥の」といふ意にて、「あらそふ」の枕詞とせり。その意は群鳥はわれおくれじとあらそひ飛び行くにたとへていへるなり。
○相競端爾 「アラソフハシニ」とよむ。「相競」は二字熟して「アラソフ」の義をなせりと見ゆ。卷一(476)「一三」に「相格」を「アラソフ」とよみ、卷十九「四二一一」に「相爭」を「アラソフ」とよめるも同じ趣なり。「ハシ」は攷證に「間」の意の「ハシ」なりといひたれど、なほ「端」の字の意あること明かにして新考に「俗語のトタンニなり」といへるをよしとす。かかる語遣の例は卷十九「四一六六」に「宇知歎之奈要宇良夫禮之努比都追有爭波之爾《ウチナケキシナエウラブレシヌビツツアラソフハシニ》」とあるなどこれなり。漢語にていへば「あらそふその際に」といふにおなじ。
○一云朝霜之消者消言爾打蝉等安良蘇布波之爾 こは上四句を一本にかくありといふ説をあげたるなるが「言」といふ字の爲に十分によみ下しうべからず。代匠記は「言」は「阿」の誤とし古義は「香」の誤りとしたり。然らば「アサシモノ、ケナバケヌガニ、ウツセミトアラソフハシニ」とよむべきなるが、「言」は諸本皆かくありて誤ともいひがたし。然らば、西本願寺本、大矢本、京都大學本等に「ケナバケヌテフニ」とよめるを基として「ケナバケヌトフニ」とよむべきか。されどその説よしとは思はれず、本文の方をよしとす。
○渡會乃 「ワタラヒノ」とよむ。「ワタラヒ」は和名抄伊勢國の郡名に「度會和多良比」とあり「ワタリアヒ」を約めていへるなり。この度會郡は今も皇太神宮の鎭り座す地なり。皇太神宮儀式帳に「御坐地度會郡宇治里云々」とあり。
○齊宮從 舊訓「イツキノミヤニ」とよみたれど、「從」を「ニ」とよむべきにあらねば、代匠記に從ひて「ユ」とよむべし。「齊」は代匠記に「齋」の誤なりといひたれど、既に卷一、「八一」の詞書にもかくありて、古(ヘ)齊齋通用せしこと、そこにていへる如くなれば、必ずしも誤といふべからず。さてこれの訓を(477)考には「イハヒノミヤ」とよみたり。先づ、この齋宮の文宇につきてはまぎれ易きことあり。そはかの天皇の大御手代としてこの皇太神に齋き奉るを任としたまふ齋内親王の宮所をも齋宮と申し、又その内親王をも齋宮とも申し奉るによりてなり。されど、ここは皇太神を齋き奉る宮即ち今の語にていはば、神宮を申せる語なり。この事は皇太神宮儀式帳に「纏向珠城宮御宇活目天皇御世爾倭姫内親王遠爲2御杖代1齋奉支美和乃御諸原爾造2齋宮1天齋始奉支」と見え、又日本紀垂仁卷二十五年にも「故隨2大神教1其祠立2於伊勢國1因興2齋宮于五十鈴川上1」とあるにても知るべし。さてこれを「イツキノミヤ」とよむべきか、「イハヒノミヤ」とよむべきかといふに、多くの學者は「イツキノミヤ」とよめるに考は「イハヒノミヤ」とよみたり。されど、その説なし。古義はこれに賛成して曰はく「大御神(ノ)宮をも齋(ノ)王の坐(ス)宮をも倶に字には齋宮と書れども大御神(ノ)宮なるを申すにはイハヒ〔三字右○〕といひ、齊(ノ)王の坐(ス)宮をば後までも唱へ來れるごとくもとよりイツキ〔三字右○〕といひて別てりとおぼえて、雄略天皇(ノ)紀にも稚姫(ノ)皇女侍2勢(ノ)大神(ノ)祠《イハヒ》1とあるこの祠をイハヒと申來れるをも思ふべし」といへり。而してかの垂仁紀二十五年の「齊宮」をも日本紀には「イハヒ」とよみ來れり。然れば、古義の説も信ずべからぬ事にて、この二者の是非は容易にいふべからず。「いつく」といふ語は古事記上卷に「此三柱綿津見神者阿曇連等之祖神(ト)以都久神也」又「此之鏡者專爲我御魂而如v拜2吾前1伊都岐奉」(「いつく」といふ語、古事記になほ五あり)本集にては卷三「四二〇」こ「名湯竹乃十縁皇子《ナユタケノトヲヨルミコ》、狹丹頬相吾大王《サニツラフワガオホキミ》、隱久乃始瀬乃山爾神左備爾伊都伎坐等《コモリクノハツセノヤマニカムサビニイツキイマスト》」卷十九「四二四三」に「住吉爾伊都久祝之神言等行得毛來等毛舶波速家無《スミノエニイツクハフリガカムゴトトユクトモクトモフネハハヤケム》」といへるなど例多し。又「イハヒ」といへ(478)る例は日本紀卷二の自注に「齋主此云2伊幡比1」神武卷の自注に「顯齋此(ニハ)云2于圖詩怡破※[田+比]1」とあり。さればここのよみ方は未だいづれをよしともいふべからず。姑く古來の訓によれり。なほ後の考をまつ。さてここは皇太神宮をさせる事は「渡會乃齊宮」とあるにて著し。齋王の宮は多氣の郡にありしものなればなり。
○神風爾 舊訓「カミカゼニ」とよめり。されど、「カムカゼ」とよむべきこと卷一「八一」の下にいへるが如し。神風とは神の吹かしめたまふ風をいふ。この神風は神宮の攝社の風宮(風日祈宮)の神の吹かしめられしものと信ぜられしならむ。この風宮は皇太神宮にも豐受太神宮にもあるが、ここはもとより内宮の風宮をいへるならむ。有名なるかの弘安の役の神風もこの宮より吹かしめられしものと太平記にいへり。
○伊吹惑之 「イブキマドハシ」とよむ。古寫本「イフキマドヒシ」とよめるもあれど從ひがたし。「伊吹」の「伊」は「息《イキ》」の古語なり。古事記上卷に「於2吹棄氣吹《フキウツルイフキ》之狹霧所v成神名多紀理毘賣命」とあり。なほかく同じ状にいへる所、この下に五あり。日本紀卷二にも略同文なるが、その字面は「棄氣噴之狹霧」とありて、その下の自注に「此云2浮枳于都屡伊浮岐能佐擬理《ウキウツルイフキノサギリ》」とあり。、又大祓詞に「如此可可呑※[氏/一]波氣吹戸坐氣吹戸主云神、根國底之國氣吹放※[氏/一]牟」とある「氣吹」を「イブキ」とよめり。又日本紀雄略卷には「呼吸氣息似2於朝霧1」とある文の「呼吸」を「イブクイキ」とよみ來れり。即ち「いぶく」といふ動詞の古、ありしものと考へらる。而そのいぶくといふ動詞は「呼吸する」ことをいへるならむが、ここに「いぶきまどはし」といふ「いぶく」は風をば神の呼吸によりて起るもの(479)と考へたりと思はる。風の發生を神の呼吸によると考へたりしことは日本紀卷一の一書に「我所生之國唯有2朝霧1而薫滿之哉、乃吹|撥《ハラ》之|氣《イキ》化爲v神號曰2級長戸邊命1亦曰2級長津彦命1是風神〔二字右○〕也」とあるにて考へらるべし。「惑」は今もよむ如く「マドフ」とよむなるが、その例證は古事記上卷の「大戸惑神」の注に「訓v惑云2麻刀比1下傚v此」と見えたるが、ここはその「まどふ」を更にサ行四段に活用せしめて所謂他動詞としたるものなり。こはその戰闘の最中に伊勢の神宮より神風を吹かしめて天武天皇を助けまし、上にいへる「不2奉仕1立向之」ものどもをばその神風の勢の烈しさに心も昏迷せしむるほどに吹きまどはしたりとなり。これより下は天武天皇の軍に神助ありしことをいへるなるが、この神風吹きで助けられし事の由は日本紀にも見えず、古事記の序にも見えず。事實ありし事か、又文飾か詳ならず。但し天武天皇の兵を起されし際に伊勢大神宮の神助を祈られし事は日本紀に見えたり。即ちその擧兵の時夏六月丙戌(二十六日)の條に「丙戌旦於2朝明郡迹太川邊1望2拜天照大神1」と見え又その翌丁亥の條に「此夜雷電雨甚則天皇祈之曰、天神地祇扶v朕者雷雨息(マム)矣。言訖即雷雨止之」と見ゆ。恐らくはこれらの事を基として文を飾りしならむ。
○天雲乎 流布本「大雲」につくれど、多くの古寫本「天雲」につくれり。流布本の基たる活字附訓本にはじめて「大」とあり。蓋活字の誤植なり。「アマグモ」とよむ。「アマグモ」といへる假名書の例は卷五「八〇〇」に「阿麻久毛能牟迦夫周伎波美《アマグモノムカブスキハミ》」卷十四「三四〇九」に「伊香保侶爾安麻久妣伊都藝《イカホロニアマクモイツギ》云々」などあり。天雲といふは天にたなびく雲と云ふ義なるが、この天雲をば下の「覆ひて」につづ(480)くる文勢なりと知らる。
○ 日之目毛不令見 「ヒノメモミセズ」とよむ。日の目の目は「ミエ」の約りたるにて、見ゆべき筈の日をもみせずといふなり。卷四「七六六」に「君之目乎保利《キミガメヲホリ》」卷十二「三〇一一」に「妹之目乎將見《イモガメヲミム》」などの「目」におなじ。「令見」は「ミス」といふ下二段活用の語を示せるなり。今の語にていはば、太陽のかほもみせずなり。
○常闇爾 「トコヤミニ」とよむ。神田本は「トコクラニ」とよみたる由なれど、「トコクラ」といふ語の例を知らず。「常闇」の字面は日本紀卷一に「故六合之内常闇而不v知2晝夜之相代1」とありてこれを「トコヤミ」とよみ來れり。而してその意義もこれにて知るべし。「トコヤミ」といふ語の假名書の例は卷十五「三七四二」に「安波牟日乎矣其日等之良受等許也未爾伊豆禮能日麻弖安禮古非乎良牟《アハムヒヲソノヒトシラズトコヤミニイヅレノヒマデアレコヒヲラム》」あり。即ち「トコヤミ」とは常に闇夜なりといふ語にていつも闇夜の如くなるをいふ。これにつきて攷證は「常闇の常《トコ》は常しへに久しき意にはあらで、ただ晝夜のうちにのみいへるにて、夜の闇なるはもとよりの事なれど、晝さへも闇になりたりといふを夜より引つづくれば、晝までは久しき故に常闇とはいへる也」といへり。されど、これは入ほがの説といふべく月夜といふもありて夜はいつも闇なりと限らぬにあらずや。されば、これはなほ久しく闇夜の如きさまなるをいへるに止まるものなるべし。さてこの下の「ニ」は修飾格を示す「ニ」にして「常闇の状に」の意にして、天雲を覆ひて常闇のさまにせりといふことなり。
○覆賜而 「オホヒタマヒテ」なり。この「覆ふ」に對する補格の語は上の「天雲乎」にして、その天雲を(481)太陽の光をも見せず、覆ひ給ひて、常闇ともいふべき状態になしたまひてといふなり。これもかの瀬田の戰に天日暗くなるまで雲を以て天を覆ひて天武天皇の軍をば助けたまひしといふことなるが、この事も日本紀には見えず。或は日本紀に「旗幟蔽v野埃塵連v天」といへる如きさまを潤色していへるか。但し、たしかに然りとはいふを得ず。
 以上「渡會乃」よりここまで八句は壬申の戰に神助のありし由をいへるなるが、恐らくは天武天皇の皇位につかれしは神慮によるといふ事をにほはせたるならむ。
○定之 舊訓「シヅメテシ」とよみたるを考に「サダメテシ」とよめり。「サダメ」とよむをよしとすることは上の「定賜等」の下にいへり。叙上の如く神助ありて戰亂に克ち「天下を安定に歸せしめたまひし」といふなり。この「定めてし」の主格は高市皇子なるべし。即ちここまで壬申の戰に大功ありしを叙せるなり。
○水穗之國乎 「ミヅホノクニヲ」なり。上「一六七」にいへり。
○神隨 舊訓「カミノマニ」とよめり。「カムナガラ」とよむべきことは卷一「五〇」にいひ、その意は卷一「三八」にいへり。
○太敷座而 「太」字板本「大」につくる。されど多くの古寫本により「太」を正しとすべし。「フトシキマシテ」とよむ。「フトシク」といふ語の意は卷一「三六」にいへり。古義は「而」を衍なりとして「フトシキイマシ」とよむべしとし、「座而といひては下の申賜者といふこと天皇の申給ふことときこゆればなり」といひたるが、この疑は、若しありとせば、「而」とありても無くても同じことなれば、強(482)ひて「而」を衍なりといふに及ばじ。
○八隅知之 上に屡いへり。
○吾大王 「ワガオホキミ」とよむべきこと、卷一「三」又「五」などの下にいへり。さてこの「吾大王」は何方をさせりとすべきか。代匠記には當帝といへり。そは蓋し持統天皇をさし奉れりとする意なるべし。かくて略解、古義、攷證、美夫君志などこれに從ひて、持統天皇をさし奉れりとせり。若し然りとせば、この歌の主題たる高市皇子の御事をいづこにていへる事とすべきか。加之、これを持統天皇とせば下の「天の下申賜へば」も持統天皇とすべき事となりて語あはざるなり。ここの「吾大王」は如何にしても高市皇子ならざるべからず。然りとせば、又上の語に通じかぬる所ある如く見ゆるによりて、考は「神隨」の下に「是より下五句は又天皇の御事也」と注しながら、その五句の終の「申賜者」の下に注して、「天皇の敷座天下の大政を高市皇子の執《トリ》申し給へばといふ也。此あたりはことば多く略きつ」といへるは自家撞着の説を略語ありといふ事にて糊塗せむとしたりと考へらる。ここを高市皇子なりといへる説は古事記傳をはじめとし、近くは新考、新講、新釋等なるが、新考の説最も委し。されど、なほ、上の方は天皇を申したるにて、いたく辭を略きたりとやうにいへり。按ずるに、これら略語ありといふ事は全く首肯せられざる説なり。この前の諸句のつづきにつきてはここに少しくいはむ。先づ皇太子の御事を申すに「神隨太布座而」といへる例は上の日並皇子殯宮之時柿本人麿作歌(一六七)にあり。ここも同じ人の歌なれば、「太敷座而」とあるが、必ず天皇に限りて、皇太子にはいはずといふ論は成立たぬ道(483)理なり。次に皇太子に「八隅知之吾大王」といひし例は卷一、輕皇子宿2于安騎野1時柿本人麿作歌(四四)に「八隅知之吾大王高照日之皇子神長柄神佐備世須登太敷爲京乎置而」ともあるにあらずや。而してこれ皆人麿の作なり。されば、これより上の五句すべて高市皇子の事をいへるにて天皇にはかゝはらぬ事なりと見て差支なき筈なり。然るを同じ人の作歌の用語例を檢せずして、その時々の思ひなしによりて或は皇太子にかゝるとし、或は皇太子にかゝらぬとせるが故に、かく簡單なる事に惑をも起せるなり。
○天下申賜者 「アメノシタマヲシタマヘバ」とよむべし。ここと似たる語遣は卷五「八七九」に「余呂豆余爾伊麻志多麻比堤阿米能志多麻乎志多麻波禰美加度佐良受弖《ヨロヅヨニイマシタマヒテアメノシタマヲシタマヒネミカドサラズテ》又「八九四」に「神奈我良愛能盛爾天下奏多麻比志家子等撰多麻比天《カムナガラメデノサカリニアメノシタマヲシタマヒシイヘノコトエラビタマヒテ》」とあり。天下の大政を執り申す義にして事實は太政大臣に任ぜられし事をいへるならむ。高市皇子の太政大臣に任ぜられしは持統天皇四年七月なる事日本紀に見ゆ。これより後薨去の時まで大政を預り申されしなり。
○萬代 古來「ヨロツヨニ」とよめり。童蒙抄には「ヨロツヨモ」とよめり。その意は明かなるが「モ」といふ如き特別の助詞を此の如き書きざまの歌にて省きてあらはさぬは如何なり。かく時、場所をいふ語の場合に「ニ」を書きあらはさぬ例は集中に多し。卷一にていへば、「暮相而」(六○)「東野炎立」(四八)「山際」(一七)などあり。又この語の假名書の例は卷五「八一三」に「余呂豆余爾伊比都具可禰等《ヨロヅヨニイヒツグガネトネ》」又上の「八七九」の例など多し。されば舊訓によるべし。萬代に亙りて引き續きといふ意なり。
(484)○然之毛將有登 「シカシモアラムト」とよむ。「シカ」はさきに一旦示されたる事をさしていふ語なり。即ちここは上に天下の大政を申し賜へる事をさし、萬世も然あらむと豫定したる由なり。似たる例は卷十三「三三〇二」に「紀伊國之室之江邊爾千年爾障事無萬世爾如是將有登大舟乃思恃而出立之清瀲爾《キノクニノムロノエノヘニチトセニサハルコトナクヨロツヨニカクシモアラムトオホフネノオモヒタノミテイテタチノキヨキナギサニ》」とあり。「シモ」は強く念を押す爲の助詞なり。
○一云如是毛安良無等 これは上の「シカシモアラム」といふに對して「カクモアラムト」といふ一本ありといふなり。「カク」も「シカ」も意は大體異ならねど、「シカ」は彼方にあるをさす意にして「カク」は此方にあるをさす意なり。さてここはいづれにても意は一なり。
○木綿花乃 「エフハナノ」とよむ。この「ゆふ花」とは如何なるものか。冠辭考には「こは木綿もて造れる花を實に咲榮ゆる花の如くにいひなして皇子尊の御齡の盛なりしをいふ冠辭とせり。さて集中に春花の榮る時とよめる如く、實の花をいふべけれど、その比ユフもて作れる花をいとめづる事ありてよめるなるべし。」といひ、又考には「木綿もて造し花を髪に懸るは若く榮る女の體也。是をここも榮といふ冠辭とせしならん」といへるより諸家皆これに隨ひて異説なきが如し。但し木綿につきては織物なりと云ふ説古來あれど、そは誤にて、「ゆふ」は麻などの如く、その繊維の名にして、その「ゆふを織りたるものが「たへ」なるなり。このことは狩谷※[木+夜]齋が箋注倭名抄にいへる所なり。さてその「ゆふ」とは何かといふに卷一「七九」の「栲の穗」の下にいへる如く、今いふ楮の繊維をとりてつくれるものにして、苧のごとくにして白きものなり。さてこの木綿花を造花とせばその木綿即ち楮の繊維もてつくれるものとすべきに似たり。されど(485)果して然るか否か。若し又眞に造花とせば、如何なるさまなりしか、いづれも未だ確證を知らず。この故にこれも亦不明の一たりとす。されば、今姑く「榮ゆる」の枕詞とする説に從ひおくべし。
○榮時爾 「サカユルトキニ」とよむ。似たるいひざまの例は卷六「九九六」に「御民吾生有驗在天地榮時爾相樂念者《ミタミワレイケルシルシアリアメツチノサカユルトキニアフラクオモヘバ》」あり、卷二十「四三六〇」に「母能其等爾佐可由流等伎登賣之多麻比安伎良米多麻比《モノゴトニサカユルトキトメシタマヒアキラメタマヒ》」あり。古義これを釋して曰はく「さて佐迦由流とは繁榮の義のみならず、物のめでたく、うるはしくはえばえしきをいふ詞にて酒見附榮流とも咲榮流《エミサカユル》と云事にて其(ノ)意をさとるべし。さてここは木綿花のうるはしくはえばえしきをやがて皇子尊の御世の榮にかけていへるなり」といへり。これにて意は明かなれど、かゝるいひざまにては誤解をひき起し易し。即ち美夫君志などは「皇子のさかえ給を木綿花にたとへて……といへる也」といへり。これは誤解なり。こは新考に「ヨロヅニシカシモアラムトユフバナノサカユルトキニとはカヤウニアラウと思ひてといふことにて世の人の思ふ心なればサカユルトキニも世の人の事とせざるべからず」といはれたるが如し。古義の意も然る事なるべし。即ち吾等が將來を期待して樂み榮えてあるその時にといふ意なり。
 かくて以下急轉直下して皇子の薨去をいへり。
○吾大王 舊訓「ワカオホキミノ」とよみたるが、考は「ワガオホキミ」とよめり。こは卷一以來屡見ゆる所にして、同格として、下の「皇子」につづけたるものなれば考によるべし。「一六七」にも「吾王(486)皇子之命乃天下所知食世波」とあり。この「吾大王」も高市皇子をさし奉れり。
○皇子之御門乎 「ミコノミカドヲ」なり。「ミカド」は上「一六八」に「皇子乃御門」といへる如く御宮殿を代表していへるなり。即ち高市皇子の御住居なりし宮殿をばといふ意なり。
○一云刺竹皇子御門乎 上の二句を一本に「サスタケノミコノミカドヲ」とありとなり。この「刺竹」は枕詞なるべきが、その意は未だ詳ならず。古來種々の説あれど從ふべきものを見ず。これも意は本行のにことならず。
○神宮爾 古來「カムミヤニ」とよめり。げに「カムカゼ」の例に倣ひてしかよむべきなり。「ニ」は變化生成せるものを示す助詞にして皇子の御住居を神宮にしたることをいへるなり。ここに神宮といへるは皇子の薨去によりて殯宮にしつらひ奉りしことをいへるならむ。天皇皇子等のみまかりたまふを神去りますといふ如く、神になりたまふと云ふ事は古の信仰なり。
○装束奉而 舊訓「カザリマツリテ」とよみたるを略解に「ヨソヒマツリテ」とよみたり。先づ「装束」の字面は捜神記に「時已日暮、出告2使者1曰速装來吾當2夜去1」と見ゆるが、束はその装ふ動作の一端をあげて添へたる字なるべくして、此「束」には「カザル」の意なし。本邦の古書には古事記日本紀いづれも「装束」の字を「ヨソヒ」とよみ來りて「カザル」とよめる例を知らず。(新撰字鏡には「※[手偏+束]」字の註に「装※[手偏+束]也與曾比加佐留也」とあり。この「※[手偏+束]」字は音色句反にして「装」の義ありて「束」の別體にあらず)されば「ヨソヒマツリテ」とよむをよしとすべし。本集にても卷十二「二一一二」に「夢見雨去乎取服装束間爾妹之使先爾來《イメニミテコロモヲトリキヨソフマニイモガツカヒゾサキタチニケル》」とあるも「ヨソフ」とはよむべきが、「カザル」とはいふべからず。さ(487)て「ヨソフ」といふ語の例は卷二十「四三三〇」に「奈爾波都爾余曾比余曾比弖氣布能日夜伊田弖麻可良武美流波波奈之爾《ナニハツニヨソヒヨソテケフノヒヤイデテマカラムミルハハナシニ》」「四三九八」に「大夫情布里於許之等里與曾比門出乎須禮婆《マスラヲノココロフリオコシトリヨソヒカドデヲスレバ》」あり。古事記上卷の歌に「奴婆多麻能久路岐美祁斯遠麻都夫佐爾登理與曾比《ヌバタマノクロキミケシヲマツブサニトリヨソヒ》云々」(「トリヨソヒ」の語すべて三あり)あり。「ヨソフ」と「カザル」とは意似たる樣なれど異なり。「ヨソフ」は俗語の支度又は設備などいふ意にて必要の事をとりしたたむるをいふ語にて「カザル」といふ意はそれ以上に美を添ふる意を有するものなれば一にあらず。ここは皇子の薨去によりてその宮殿をば神の宮に装束《ヨソ》ひかへ奉るをいへるなり。
○遣使 「使」字流布本「便」に作れど意をなさず。多くの古寫本に「使」とあるによるべし。さてよみ方は舊本に「タテマタス」とよみたるが、童蒙抄に「ツカヘリシ」又は「ツカハセシ」と訓じ、考は「ツカハセル」とよみ、宣長は古事記傳卷十六中にここを「ツカハシシ」とよむべしといひ、略解はかくせり。按ずるに類聚名義抄には「遣使」の二字に「タテマタス」の訓あり。而して「タテマタス」といふ語は宇都保物語藤原の君、高光集などに見えたり。この「たてまたす」といふ語は「たつ」と「またす」とを重ねたる語なるが、その「またす」といふ語は下より上に奉ずる義にして「まつらす」の約なりといへり。されど、この語萬葉集時代に行はれしか否か證を見ざるのみならず、ここは「奉らす」の意にては義をなさざるなれば、この舊訓は從ふべからず。思ふに、ここは「遣」も「使」も共に「ツカフ」といふ語に當る字なるを二宇合せてその意を確めしものにして「ツカフ」といふ語にあたるものなるべし。然らば、「ツカヘリシ」か「ツカハセル」か「ツカハシシ」かのいづれかの一なるべきが、「ツカ(488)ヘリシ」といふは皇子の使ひたまひし事にならぬが故に不可なり。これは「ツカハス」といふ敬語を基とするものたるべきが、そのうち、「ツカハセシ」は語格の誤にして、「ツカハシシ」とあるを正しとせざるべからず。次に「ツカハセル」か「ツカハシシ」かの一なるべきが、、「ツカハセル」とよむには「有」の字などあるべきなり。「ツカハシシ」とよまむにも文字足らぬさまなれど、先づはこのよみ方によるべきなり。
○御門之人毛 「ミカドノヒトモ」なり。御在世の時召使ひたまひし御宮の舍人どもをさす。考、古義、美夫君志に御門を守る人といへるはあまりに限りすぎたり。この「も」にてその他にも同樣の人あるを知るべし。
○白妙乃 「シロタヘノ」とよむ。白妙の事は卷一の「二八」にいへり。
○麻衣著 舊訓「アサノコロモキ」とよめるを考に「アサゴロモキテ」とよめり。「著」一字を「キテ」とよむには文字足らぬ樣なれど「テ」を加へてよまむも例なきにあらず。さては「アサゴロモキテ」とよまむも「アサノコロモキ」とよまむもいづれをよしともあしともいひうべき證なけれども喪服を「フヂコロモ」といへるに準じて姑く「アサゴロモキテ」とよむに從ふ。さてこの白妙の麻衣は何かといふに喪服なりといへり。されど、ただ喪服といへるは委しからず。喪服は令制に天子に「錫紵」とあるが、この錫紵は臣下の喪服にもいひしこと同令の集解の文にて明かなり。この錫紵とは何かといふに、曰はく、「錫紵者細布即用2淺墨染1也」とあり。錫は鑞黒色の義にして後の墨染なり。紵は麻布の義なり。されば喪服は一般に墨染の麻布なりしを見るべし。然(489)るにこれは白妙の麻衣といへれば喪服にあらぬは明かなり。この白き麻布の衣は所謂素服にして元來神事の服なるが、葬送の時に喪服の上にも著たるものなり。又喪にあらぬ者にても葬儀の事にあづかる人はこの素服をきたり。これを後世に當色といへり。この素服は即ちここに白妙の麻衣といへるものなるべし。
○埴安乃御門之原爾 「埴」字流布本「垣」につくれるは誤なること著し。古寫本に正しく「埴」と書けるによりて正せり。埴安は天香山の麓の地にして、藤原宮の東に當る地なり。埴安の御門の原とは蓋し藤原宮の東門の外に原ありて、そこをさせるものならむ。藤原宮は持統天皇八年に成りて遷りまし、この皇太子の薨去は十年なれば、この詞よくあへり。さてこの原をここにとりたてていへるは下にいへるこの皇太子の御宮なる香來山之宮の所在地なりしによりていへるなるべし。これを藤原宮なりといへる説は從ひがたし。
○赤根刺 「アカネサス」なり。これは日の色の赤きによりてその枕詞とせるなり。「アカネ」の事は卷一「二〇」の歌にいへり。
○日之盡 古來「ヒノツクルマデ」とよみ來りしを代匠記に「ヒノコトゴト」とよめり。「盡」は「コトゴト」とよむべきこと卷一「二九」にいへり。なほこの語の例は上「一五五」にいへり。さてここは一日の間すべてといふことなり。
○鹿自物 「シシジモノ」とよむ。「鹿」を「シシ」といふはその「肉《シヽ》」を賞美するよりの名、「猪」を「シシ」といふも同じ。古はすべてその肉を賞美する獣をば「シシ」といひしなり。さて、それらのうちを區別(490)せむとては「カノシシ」「ヰノシシ」といふ。「ヰノシシ」は今もいへど、「カノシシ」は今いはず。能登の人は今熊を「クマノシシ」といへり。「シシジモノ」といへる例は日本紀武烈卷の歌に「斯斯貳暮能瀰逗矩陛御暮黎《シシジモノミヅクヘゴモリ》」とあり。本集にては卷三「二三九」に「四時自物伊波比拜鶉成伊波比毛等保理《シシジモノイハヒヲロガミウヅラナスイハヒモトホリ》」「二七九」に「十六自物膝折伏《シシジモノヒザヲリフセ》」など例少からず。「シシジモノ」の「ジモノ」の意は卷一「五〇」の「鴨自物」の下にいへるが如く、「ジ」は體言等につきて形容詞を構成する接尾辭にして「シシジ」にて「シク、シキ」活用の語の語幹をなせるが、その語幹より直ちに「物」につづけて熟語とせるなり。その意は鹿の如き物といふほどの事なり。委しくは奈良朝文法史又は本講義卷一を見よ。かくてこの「シシジモノ」にて次の「いはひ」又は「膝折伏」などの枕詞とせるなり。
○伊波比伏管 「イハヒフシツツ」なり。「イハヒ」の「イ」は所謂發語といはるる接頭辭にして深き意なく、「いはひ」にて「ハヒ」といふにおなじ。さてこの語は用言なるが、かく「イ」といふ接頭辭の冠せられたる例にはその連用形のみを見る。上にあげたる卷三「二三九」の歌の例をはじめ、集中にある諸例又日本紀神武卷の歌なる「伽牟伽筮能伊齊能于瀰能淤費異之珥夜《カムカゼノイセノウミノオヒイシニヤ》、異波臂茂等倍婁之多※[人偏+嚢]瀰能阿誤豫《イハヒモトヘルシタダミノアゴヨ》、之多太瀰能異波比茂等倍離于智弖之夜莽務《シタダミノイハヒモトヘリウチテシヤマム》云々」古事記中卷神武條の歌に「加牟加是能伊勢能宇美能意斐志爾波比母登富呂布志多陀美能伊波比母登冨理宇治弖志夜麻牟《カムカゼノイセノウミノオヒシニハヒモトホロフシタダミノイハヒモトホリウチテシヤマム》」など皆然り。即ち「這ひ伏しつつ」といふ事なるが、これは貴人に對する拜禮の容をいへるなり。日本紀天武卷十一年九月壬辰の條に曰はく「勅、自今以後跪禮匍匐禮並止之、更用2難波朝廷之立禮1」とあれば、跪坐禮匍の禮は公には停止せられたれど、實際には行はれしものなるべし。かく(491)いふ故は續紀慶雲元年正月の條に「斯停2百官跪伏禮1」と見え、同四年十二月にも再び勅ありしを見、今もなほこの禮あるに見ても古禮の容易に廢せられぬ事なるを見るべし。
○烏玉能 「ヌバタマノ」とよむ。「ヌバタマ」といふ語は上「八九」の歌にいへるが、その實は烏黒色なれば烏玉とはかけるなり。もと「黒き」の枕詞とせるが轉じて「夜」又「夕」の枕詞となれるなり。
○暮爾至者 古來「ユフベニナレバ」とよめり。契沖は「クレニイタレバ」とも訓ぜり。考は「ヨウベニナレバ」とよみたり。されど、「ヨウベ」といふ語この頃にあるべくもなければ、從ひかねたり。「クレニイタレバ」とよむは文字のままによめるものなるが、詞なだらかならず。卷五「九〇四」に「夕星乃由布弊爾奈禮婆《ユフツツノユフベニナレバ》」とある例によりて古來のまゝによむをよしとす。
○大殿乎 「オホトノヲ」とよむ。この語の例は卷一(二九)にあり。ここは高市皇子の宮殿をさせり。
○振放見乍 「フリサケミツツ」なり。「フリサケミル」といふ語は上の歌(一四七)に「天原振放見者」の下にいひつ。ここはその宮殿をふり仰ぎ見やるをいふが、宮際さほど遠くあらぬ宮をもかくいへるは己れらとの間の遠く尊きよしにいへるなり。
○鶉成 「ウヅラナス」なり。鶉の如くにあるの意にして、この鳥の草原に這ひ廻はる如きさまを以て、下の「いはひもとほり」の枕詞とせるなり。
○伊波比廻 「イハヒモトホリ」とよめり。これと同じ語を用ゐたるは上にひける古事記神武卷の歌あり、又卷三「二三九」の歌は「鶉成伊波比毛等保理恐等比奉而《ウヅラナスイハヒモトホリカシコミトツカヘマツリテ》」とありて全く同じ語なり。又(492)續日本紀卷十天平元年八月の改元の詔には「我皇太上天皇大前爾恐古士物進退|匍匐廻保理《イハヒモトホリ》白賜比受被賜久者」とあるにて、「廻」を「モトホル」とよむをうるを知るべし。「モトホル」といふ語は新撰宇鏡には「※[走+壇の旁]」字に「轉也、信也、移也、毛止保留」と注し、亦「※[走+〓]」字に注して「輸轉也、信也、※[しんにょう+壇の旁]」字同、毛止保留」といひ又「縁」字に「毛止保利」の訓を注せり。この「※[走+〓]」は文選謝靈運の詩に「※[走+〓]廻」とも見ゆるにて「廻」即ち「もとほる」なるを知るべし。同じ所をぐる/\まはる事と見えたり。されば、「縁」を「もとほり」とよむも、その意より出でたりと見ゆ。
 以上十句はその宮の舍人などの日夜御門に伺候して這ひ伏し、御宮を振りさけ見て、這ひ廻るといふ事を言をかざりていへるにて、晝は這ひ伏し、夜は這ひ回るといふ事にはあらず。かくて次の句に直ちにつづくなり。
○雖侍候佐母良比不得者 「サモラヘド、サモラヒエネバ」とよむ。童蒙抄は「者」は「煮」の誤として「サモラヒエヌニ」とよみ、玉の小琴は「者」は「天」の誤とし古義は「弖」の誤として共に「サモラヒカネテ」とよめり。されど、さる誤字ある本一もなければ從ふべからず。「侍候」を「サモラフ」とよむは下の「佐母良比」の語に照してよむを得るなるが、なほ上の歌(一八四)に「雖伺侍」を「サモラヘド」とよむべしといへる條にいへり。皇太子の御宮に伺候してあれど、伺候する詮もなき事なればといふなり。「カネテ」とする諸家の説、解釋としても無理なり。この句のつづき方は次に至りていふべし。
○春鳥之 舊訓「ウクヒスノ」とよめり。考は字のまま「ハルトリノ」とよみ、攷鐙は「モヽトリノ」とよ(493)めり。按ずるに、春鳥を「ウグヒス」と限りてよむも無理にして、「モモトリ」とよむも無理なり。考の説を穩なりとす。曰はく「集中には、はる花、はるくさ、はるやなぎなど、のを略きていへる多し」と。さて「春鳥」を「さまよふ」の枕詞とせるは如何といふに、春の鳥のあちこち囀りわたるをかりて、下のさまよふといふ語にかけていへるなり。卷九「一八〇四」に「葦垣之思亂而春鳥能鳴耳鳴乍《アシガキノオモヒミダレテハルトリノネノミナキツツ》」又卷二十「四四〇八」に「春鳥乃己惠乃佐麻欲比《ハルトリノコヱノサマヨヒ》」とあり。
○佐麻欲此奴禮者 「サマヨヒヌレバ」とよむ。「サマヨフ」といふ語は「マヨフ」に接頭辭「サ」の加はりてなれる語の如くなれど、その意は單なる「マヨフ」の意にあらずして嘆くに似たる意あり、又嘆聲を發するにまでもいへりと見ゆ。新撰宇鏡を見るに「サマヨフ」の訓をあてたる字あり。一は「※[口+屎]」にしてこれに注して「出氣息也、呻吟也、惠奈久、又佐萬與不、又奈介久」といひ、一は「呻」にしてこれに注して「吟也、歎也、佐萬與不又奈介久」とあり。この二字を通じて見れば、「サマヨフ」は「呻吟」の熟字に相當するものと考へらる。類聚名義抄には「往還」の熟字又「吟」「呻」「※[口+屎]」「懊」の各字に「サマヨフ」の訓あり。本集の例を見れば、卷二十「四四〇八」に「若草之都麻母古騰母毛乎知己知爾左波爾可久美爲春鳥乃己惠乃佐麻欲比之路多倍乃蘇※[泥/土]奈伎奴良之多豆佐波里《ワカクサノツマモコドモモヲチコチニサハニカクミヰハルトリノコヱノサマヨヒシロタヘノソデナキヌラシタヅサハリ》云々とあり。これも「春鳥」にかけたるが、しかも聲にかけたり。されば、ここのも春鳥の鳴く聲にかけていへるにて、呻吟の意即ち懊悩して思はず聲を發するをば、さまよふといへるなるべし。ここは上にいへる舍人等の在るにかひなくなげくことをいへるなり。さて上に「サモラヒエネバ」といひて、ここに又「サマヨヒヌレバ」とあれば、詞のつづき如何といふ論あり。されど、こは別に不審のある(494)べきにあらず。「サモラヒエネバ」は下の「サマヨフ」といふ事を導く事情にして、その前提となれるものにして、その「サモラヒエネバサマヨフ」といふ事を一括して更に下の前提として「サマヨヒヌレバ」といへるなり。即ち
     前提           歸結
  サモラヒエネバ〔七字傍線〕……サマヨヒ〔四字傍線〕ヌレバ〔・サモ〜傍線〕…
      前提           歸結
 の如き關係となるなり。かくの如き語遣は今も多きことなり。されば何の不審もなく、從ひて本居宣長の「サモラヒエネバ」を誤といへる説も不必要なりと知らる。
○嘆毛 古來「ナゲキモ」と四音によみ來りて異論なし。此の嘆は皇太子薨去の嘆なり。
○未過爾 「イマダスギヌニ」とよむ。「未だすぎぬ」とはその事の過去とならぬにといふ語なるが、その意はその事實がなほ生《ナマ》々しく眼前の事實なりと思はれてあるをいふ。卷八「一四三四」に「霜雪毛未過者不思爾春日里爾梅花見都《シモユキモイマダスギネバオモハズニカスガノサトニウメノハナミツ》」とあるなどその例なり。
○憶毛 「オモヒモ」とよむ。上の「ナゲキモ」に對して對句となれり。この思ひは所謂物思ひにして同じく皇太子薨去の悲をさせり。
○未盡者 「イマダヅキネバ」とよむ。童蒙抄には「者」は「煮」の誤にして「ツキヌニ」なりといへり。されど、さる本一もなく、「ツキネバ」にて不可なければ、從ふべからず。かゝる場合の「ねば」は「ぬに」と略同じきさまに用ゐて、殆ど同時に引つづき起る事を、次に合せいふ際に用ゐる、古の一の語格なり。その例は古事記卷上の歌に「於須比遠母伊麻陀登加泥婆《オスヒヲモイマダトカネバ》、遠登賣能那須夜伊多斗遠《ヲトメノナスヤイタトヲ》」日本(495)紀天智卷の童謠に、「比騰陛多爾伊麻陀藤柯禰波美古能比母騰矩《ヒトヘダニイマダトカネバミコノヒモトク》」又本集卷四「五七九」に「奉見而未時太爾不更者如年月所念君《ミマツリテイマダトキダニカハラネバトシツキノゴトオモホユルキミ》」卷八「一四三四」の例(上に見ゆ)「一四七七」に「宇能花毛未開者霍公鳥佐保乃山邊來鳴令響《ウノハナモイマダサカネバホトトギスササホノヤマベヲキナキトヨモス》」など、例少からず。
○言左敝久 流布本「左」を「右」につくり,多くの古寫本また然れど、誤なること著し。金澤本に「左」とあるが、正しきによりて改めつ。「コトサヘグ」とよむ。この語は上の歌「一三五」にも、「言佐敝久辛乃埼有」とあり。その意はそこにいへるが、ここはその「から」の一種なる百濟の枕詞とせるなり。
○百濟之原從 舊本「クタラノハラニ」とよみたれど、「從」は「ニ」とよむべき字にあらず。考に「ユ」とよめるに從ふべし。この「ユ」は「より」の古言にしてその「ユ」はその經過し、行く地點を示すに用ゐたり。百濟といふ地は大和國廣瀬郡(今は北葛城郡)の地にして今百濟村大字百濟といふ。飛鳥地方より城上の殯宮に至るに經過する地にして平野なれば、原とはいへるなり。卷八「一四三一」に「百濟野乃芽古枝爾待春跡居之瞿鳴爾鷄鵡鴨《クダラヌノハギノフルエニハルマツトスミシウグヒスナキニケムカモ》」とある百濟野も同じかるべし。この地には舒明天皇の御世に百濟宮を置かれ、又百濟大寺など設けられて、古來史上に著しき地なり。
○神葬 舊訓「タマハフリ」とよめり。代匠記は「カムハフリ」とよめり。「神」を「タマ」とよまむは精神の言ならば、或はよまれざるにあらざるべけれど、ここは「カミ」としての事なれば、代匠記の説によるべし。卷十三の挽歌「三三三四」にも「神葬葬奉者《カムハフリハフリマツレバ》」と見ゆ。この詞遣は上の「一六七」に「神〔右○〕集集〔二字右◎〕座而」「神〔右○〕分分〔二字右◎〕之時爾」「神〔右○〕上上〔二字右◎〕座奴」など集中に例多く、又古事記仲哀卷歌に「加牟《カム》菩岐本岐〔四字右◎〕玖流本斯《クルホシ》」などにも見る如く、その事が神業なる事をいふ爲に「神何」といひてその語の修飾とせるもの(496)なり。「葬」を「ハフル」といふは「放」の語に本づくこと本居宣長の説の如くなるべし。古事記傳卷廿九に曰はく、「さて此《コヽ》の葬は波夫理と訓べし。次なる大御葬も同じ。此《コ》は御屍《ミカハネ》を送遣奉る儀《ワザ》を云へればなり。凡て波夫理とは其(ノ)儀《ワザ》を云り。さて然云(フ)意は遠飛鳥(ノ)宮(ノ)段歌に意富岐美袁斯麻爾波夫良|婆《バ》續紀卅一の詔に彌麻之大臣之家内子等乎母波布理不賜失不賜慈賜波牟云々などある波夫流と本(ト)同言にて放《ハブ》るなり。葬は住《スミ》なれたる家より出して野山へ送りやるは放《ハブラ》かし遣《ヤ》る意より云るなり」とあり。誠にその言の如し。「葬」字に「ハフル」の訓を注したるは未だ發見せねど、新撰宇鏡に「※[巾+紵の旁]字に注して「充覆棺也※[巾+者]〔右○〕同|皮不利帷《ハフリカタビラ》也」といひ、又「※[巾+者]」字に注して「皮不利加太比良」といへり。宇鏡の「※[巾+紵の旁]」の宇注は誤ありと見ゆるが、この字は玉篇に「棺衣也亦※[衣+者]」と見え、禮記檀弓に「※[衣+者]幕《ハナリ》」とあり、注に「※[衣+者]覆棺之物、似2幕形1以v布爲v之」と見ゆれば、「ハフリカタビラ」の義にあへり。即ちこれ葬儀に棺を覆ふに用ゐる帷《カタビラ》の義なること明かなり。ここに「ハブリ」を葬儀の意に用ゐたり。これは體言たるが、かゝる體言はもと用言の連用形よりするものなれば、「ハフル」といふ用言に基づくこと明かなりとす。
○葬伊座而 古來「ハフリイマシテ」とよめるが、近時「イマセテ」とよむべしといふ説起れり。その「イマシテ」といふ語の意につきては考に「いにましての略也。此下に朝立伊麻之【一云伊行而】卷五、山越往坐君乎者とも有」といひ、略解これに從ひ、攷證、美夫君志又これに從へり。古義はよみ方に異論なけれど、これを釋して、「伊はそへ言にて葬座而《ハフリマシテ》と云に同じ。さて座《マシ》は行《ユク》ことにも來《クル》ことにも居《ヲル》ことにもいへり。伊《イ》の辭はあるもなきも一ツ意なり」といひ、なほ「しかるを岡部氏考に(497)伊座は去《イニ》ましのにを略けるなりと云るは例のいみじきひがごとなり。」と注せり。新考は間宮永好の犬※[奚+隹]隨筆に「伊座而を諸本イマシテと訓り。此訓惡し。イマセテと訓べし。令v座テの意なればなり」とあるをひきて「イマセテ」とよむべきかといひ、又「伊座而」は「奉而」の誤にて「ハフリマツリテ」なるかといひ、又新講は「イマセテ」の説に賛して委しく説明せり。按ずるに、この所古來、異字なければ、誤字といふ説は從ひがたく、本のままにてよみ方を考ふべきが、先づ考の説の如く、卷十三「三一八六」の「陰夜之田時毛不知山越而往座君者乎者何時將待《クモリヨノタドキモシラヌヤマコエテイマスキミヲバイツトカマタム》」の例によりて「伊座而」を「往座而」の義とすとしても、又「イ」を發語にして、「マス」と同じ語なりとして、その意は古義の如くなりとしても、その差は五十歩百歩に止まりて、上の「葬り」といふ語とうちあはざるは一なるにあらずや。「イニマス」としても、ただの「イマス」としてもいづれも敬稱の語にして、尊敬すべき第二者を主格にせる語法なるべきなり。然るときはこの場合の主格は高市皇子たりとすべきに似たるが、上の「葬り」は高市皇子に對し奉りて申す語なれば、高市の皇子が自己を葬りたまふ事とならざるべからず。若し然らずとして「イマス」といふ語をいかさむとせば、「はふられまして」などいふべき事なり。若し又「葬り」と「イマス」とを生かさむとせば、高市皇子が他の人を葬りいます事とすべきが、さる事はここの事實にあはず。「葬り」はいづこまでも他より高市皇子を葬り奉ることなるは、動かすべからず。然らば、「イマシ」は他に尊敬すべき方のありて高市皇子を葬り奉らるる意にとらざるべからず。次に別の「イマセテ」とよむ説は如何といふに、かくいふはもとより道理一貫すべきが故に、理論上よく聞えたるのみならず、卷十二「三〇〇五」に「十五(498)日出之月乃高高爾君于座而何物乎加將念《モチノヒニイデニシツキノタカタカニキミヲイマセテナニヲカオモハム》」又卷十四「三七四九」に「比等久爾爾伎美乎伊麻勢弖《ヒトクニニキミヲイマセテ》」とあるが如き例あれば、不可なるにはあらず。されど、なほよく考ふるに、かく「いませて」といふ場合にはその敬語は屬性的實質をも含みて、形式的の敬語にあらず。而して形式的の敬語に「イマセテ」といへる例あるを知らず。然るに、ここは上に「葬る」といふ用言あれば形式的の敬語となりたるものなり。然らば、「ハフリイマセテ」とよむべしといふ説も確定してよしといふべからず。按ずるに、ここはなほ舊來の説の如く「ハフリイマシテ」とよむべく、その「イマス」といふ語は「イニマス」にあらずして、ただの敬稱語なるべきなり。かくいふ理由は、こは「葬る」といふ語が根本なれば、その「葬る」の主格即ち葬儀を營む者は何人かを考へざるべからず。而してこは皇太子としての公の御葬儀なるべければ、朝廷のとり行はせたまふものなる事を考ふべし。柿本人麿又は春宮舍人が主となりてこの皇太子を葬り奉る事にてあらば、「奉りて」にても「イマセテ」にてもよかるべけれど、かかる身分の卑き人々が主となりて皇太子を葬り奉るべき事、古今に通じてあるべくもあらぬ事なり。皇太子の葬儀の如きはもとより朝廷より、それ/”\の所役を仰せてとり行はるべきものなれば、下々のものよりいへば、「葬奉りて」とはいひうべきものにあらずして必ず「葬座而」といふべきなり。即ちその「葬り」は高市皇太子を葬ることにして、「座而」は朝廷にしてその葬儀を行はせたまふによりていへる敬語なりと知られたり。この道理を思へば、この語遣は決して無理ならずといふべし。即ち皇太子薨せられしが、朝廷よりこの皇太子を葬りましましてといふ事なり。而してかく解するが最もよく事實にあへるにあら(499)ずや。
○朝毛吉 舊訓「アサモヨヒ」とよみたれど、「アサモヨシ」とよむべきこと卷一「五五」の「朝毛吉」の下にいへり。その「キ」の枕詞なることも同じ條にいへり。
○木上宮乎 舊訓「キノウヘノミヤヲ」とよめり。代匠記に「キノヘか」といへり。これは詞書に「城上殯宮」とかける所をさせること著しきが、「キノヘノミヤ」とよむべきこと既にいへり。
○常宮等 「トコミヤト」とよむ。上「一九六」にいへるにおなじ。
○高之奉而 舊板本「タカタシタテヽ」とよみたるが、神田本には「タカクマツリテ」とよめり。又童蒙抄は「之」を「久」の誤なりといへり。考には「高知座而」の誤にして「タカシリマシテ」とよみ、玉の小琴は「高之」の二字は「定」一字の誤なりといひ、略解は童蒙抄の説によりて「タカクマツリテ」とよみ或は又玉の小琴の説によりて「サダメマツリテ」かといへり。攷證は「之」を「シリ」とよみ、「奉」を「タテ」とよみて「タカシリタテテ」とよめり。美夫君志は又「タカクシタテヽ」とよみたり。按ずるに、この所いかにもよみかねたるやうなれど、古來異字あるをきかず。されば、誤字ありといふ證の出づるまでは誤字なきものとしてその訓を考へざるべからず。さてはそのよみ方につきては先づ「タカクシタテ〔三字傍点〕ヽ」「タカクマツリテ」「タカシリタテ〔三字傍点〕ヽ」「タカクシタテ〔三字傍点〕ヽ」の四樣の訓案出せられたるが、そのうちにとるべきものありや如何と考ふべし。「奉而」を「タテテ」とよむことは攷證に説あれど、強言なれば從ひ難し。然する時はただ「タカクマツリテ」といふ神田本の訓のみ殘ることとなる。然るに、この訓にては「之」を如何によむべきか「之」を全く衍なりとすべきか。然(500)れどもかかる事は無理なり。又「之」は支那にては助辭なれば、よまずとすべきか。然れども、かかる場合は文句の終にある時にあるが普通なることにて、しかも純漢文ならぬには無理なりと考へらる。さては「之」は必ず讀まざるべからず。よむとして、この場合には「シ」とよむ外あらず。次に「奉而」は「マツリテ」とよむが通例にして、集中に例多し。かくて文字のままによまば、「タカクシマツリテ」といふより外なき筈なり。かくいはば、八音となりて調は雅ならぬやうに聞ゆれど、意味はととのほれり。即ちこの場合の「シ」はサ行三段の「シ」にて汎く動詞の代用をなすものなれば「高く作り奉りて」といふことに同じ。されば誤字ありといふ確證出づるまでは吾人は「タカクシマツリテ」とよむべきものと認む。意は城上の地に殯宮を高く作り奉りてといふなること著し。
○神隨 「カムナガラ」なること卷一以來屡いへり。その意も既にいへり。
○安定座奴 舊板本「シヅマリマシヌ」とよみたるが、神田本には「サダマリマシヌ」とよめり。又考には「シヅモリマシヌ」とせり。按ずるに、「安定」は「サダマル」とよまばよまれざるにあらざるべけれど、その意よく通らず。「シヅモリ」は玉の小琴に「古言めきては聞ゆれど證例なきこと也」といへる如く從ふべからず。「安定」の字を按ずるに、説文には「安靜也」と見え、「定安也」と見ゆ。又増韻に「定」に「靜也」と注したれば、いづれも「シヅマル」の意あるを二字を合してその意を確に示したるなり。「シツマリマス」とは、「鎭座」の文字にて慣用せらるる如く、神の他にうつる事なく、其所に永く留り給ふことをいふなるが、ここは、この所に殯宮を營み奉れることを、容をかへて、いへるな(501)り。
 以上語の上にては第一段にして高市皇子の御功績をたたへ、その薨去ありしことなどをいひたるが、一括していへば、高市皇子の御事につきて客觀的にいへる段なり。而して以下は主觀的の記述なり。
○雖然 「シカレドモ」とよむ。この語の假名書の例は卷十五「三五八八」に「波呂波呂爾於毛保由流可母之可禮杼毛異惰乎安我毛波奈久爾《ハロハロニオモホユルカモシカレドモケシキコヽロヲアガモハナクニ》」卷十八「四〇九四」に「多弖麻豆流御調寶波可蘇倍衣受都久之毛可禰都之加禮騰母吾大王能毛呂比登乎伊射奈比多麻比善事乎波自米多麻比弖《タテマツルミツキタカラハカゾヘエズツクシモカネツシカレドモワガオホキミノモロヒトブヲイザナヒタマヒヨキコトヲハジメタマヒテ》云々」などあり。上の、薨去《カムサ》りまして御墓所に葬り奉りし事をうけて、それにも拘らずといひて、自己の感想を述べむ爲の起語とせるなり。
○吾大王之 「ワガオホキミノ」とよむ。この事は卷一「三」「五」等の下にいへり。ここは高市皇子をさし奉れるなり。
○萬代跡 「ヨロヅヨト」とよむ。萬代までも動きなくかはらじといふ意なり。かかる時はむしろ「永久」といふ程の意に解すべし。
○所念食而 「オモホシメシテ」とよむ。「所念」の二字は「念フ」の敬語「オモホス」をあらはすに用ゐたるものにして「所念食」の三字はそれに更に「メス」を加へたる「オモホシメス」といふ敬語をあらはすに用ゐたり。「所念」を「オモホス」とよめるは卷一「五〇」に「所念奈戸二」あり。又卷一「二九」に「御念食可」とあるを「或云所念計米可」とあるにても知るべく、「食」を加へたるはその卷一「二九」の例にて(502)も知るべし。かくの如きかきざま集中に例多し。「オモホシメス」といふ語の例及び意義は卷一「二九」の條にいへるを見よ。後世の「おぼしめす」といふ語の源なり。
○作良志之 「ツクラシシ」とよむ。「作ラス」は卷一「一一」にいへる如く「作りたまふ」の義なり。高市皇子の萬代に動きなくかはらじと思ほしめして作りたまひしといひて次の「かぐ山の宮」に對しての連體格とせるなり。
○香來山之宮 「カグヤマノミヤ」とよむ。この宮の事他の書に見えねど、實際高市皇子の宮として營まれしものなるべし。これは上にいへる埴安の御門の原と引きつづきたる所にして香來山の中腹か麓か若くはその麓に近くありしよりいでし名なるべし。而して下の反歌を見れば埴安の池その附近にありしなるべし。
○萬代爾過牟登念哉 古來「ヨロヅヨニスギムトオモヘヤ」とよめるを考に「モヘヤ」とよめり。いづれにてもあるべし。(「ヨロヅヨ」は上にいへる如く、永久といふ程の意にとるべし。)「念哉」を「オモヘヤ」とよむこと卷一「六八」の「忘而念哉」の下にいへり。この「過ぐ」といふは如何なる意かといふに、考には「過去めやてふ也。萬代とほぎ作りし宮なれば、失る代あらじ。是をだに御形見とあふぎ見つつあらんと也」といひ、略解以下大抵これによれり。然るに攷證には「過《スグ》はたゞ過《スギ》ゆくの意にはあらで、いたづらにすぎんと思へや、いたづらに過んとは思はざりしをと也」といへり。されど、攷證のいふ所何の意なるか明かならず。しかも考のいふ所も不十分なり。その「すぐ」は卷一「四七」の「過去君《スギニシキミ》」の下にいへる如く人の死去するを「イノチスグ」といへる「スグ」と源は(503)同じ意なるものにして攷證にひける例、卷三「三二五」に「明日香河川余杼不去立霧乃念應過孤悲爾不有國《アスカガハカハヨドサラズタツキリノオモヒスグベキコヒニアラナクニ》」卷四「六九三」の「如此耳戀裁將度秋津野爾多奈引雲能過跡者無二《カクノミニコヒヤワタラムアキツヌニタナビククモノスグトハナシニ》」又「六九六」の「家人爾戀過目八万川津鳴泉之里爾年之經去者《イヘビトニスギメヤモカハヅナクイヅミノサトニトシノヘヌレバ》」なども徒にすぐるの意にはあらで、その事の空しくなりて、今は過去の事と思はるるをいふ。されば、ここも考の如く、失《ウ》する意にして、その宮のありし事が昔話となりはつる如きことあらむとは思はむや決して思はじとなり。而してその宮の永く存せむことはただ物質的にいへるにあらで、契沖の代匠記の初稿に「萬代ふとも此宮昔がたりにならんとおもはねば、皇子の御かたみと天を仰ごとくあふぎみてつねにしのびたてまつらん云々」といひ、又清撰本に「後代まで御名の朽失ずして慕ひ參らせむことを云て云々御子孫相續して香久山の宮の萬代に殘べければ、仰見むとなり」といへる如き意ありと知るべし。さて「すぐ」を上の如く解してもなほこの二句につきて考ふべきあり。終の「ヤ」はもとより諸家のいふ如く反語をなせるものなるが、これを「ヨロヅヨニ」よりつづけて、ここに至りて反語となれりとするときは何の意かわからぬ事となるべし。されば、これは「萬代に」はそれにて、句をきりて、萬代に、存續しての意にとりて、そのままにおき、次に「や」の關する所は「過ぎむ」より下にして、過ぎむと思はむや決して過ぎじ、即ちこの香久山宮は、永久に存續すべく思ふと釋せざるべからず。前後のつづき、言たらずしてかた言のやうに見え、無理なるやうなれど、古はかかるいひざまもせしならむ。而してこの句はこれにて切れたれど、意下につづきて、その中間に「この故に」といふ如き意味を含みてありと考へらる。
(504)○天之如 「アメノゴト」とよむ。「如」は「ノゴトシ」と活用してもよみ、又語幹として「ゴト」とのみもよむべきが、ここは音の數より見て、「ゴト」とよむべきものと知らる。「ゴト」の用例は集中に多きが、一二をあげむに、卷五「八九二」に「綿毛奈伎布可多衣乃美留乃其等和和氣佐我禮流可可布能尾肩爾打懸《ワタモナキヌノカタギヌノミルノゴトワワケサガレルカカフノミカタニウチカケ》」卷十五「三六九四」に「伊米能其等美知能蘇良治爾和可禮須流伎美《イメノゴトミチノソラヂニワカレスルキミ》」などなり。これは大殿を振り仰ぎて見るを天を仰ぐにたとへていへるなり。卷十三「二三二四」に「君之御門乎如天仰而見乍雖畏思憑而《キミガミカドヲアメノゴトアフギテミツツカシコケドオモヒタノミテ》云々」とあるは、この語遣の例なり。
○振放見乍 「フリサケミツツ」とよむ。「フリサケミル」といふ語の事上にいへると同じ意なり。
○玉手次 「タマダスキ」とよむ。この字面は卷一「二九」にありて、そこにいへり。又「タマダスキ」の事は卷一「五」の「珠手次」の下にいへり。而してこれを「カケ」といふ語の枕詞とする由もその下にいへり。
○懸而將偲 舊訓「カケテシノバム」とあり。考には「カケテシヌバナ」とよめり。意は甚しくかはらねど、「ナ」は希望をいふ助詞なれば、「將」の字の意に十分にかなはず。「將」は「ム」にあつるが普通なり。又「偲」字の事は卷一「六六」の「家之所偲」の下にいへるが、「シヌブ」にても「シノブ」にても語は元來同じものなり。されど、この頃は「シヌブ」といひたること卷一「六六」にていへる如くなれば、ここは「カケテシヌバム」とよむべきなり。さて「カケテ」とは如何なる意ぞといふに、古義に「心に懸て偲慕むと云るなり」といひ、攷證美夫君志以下近頃の諸家皆かくいへり。「カケテ」の語例は卷一「六」の歌にあり。
(505)○恐有騰文 舊板本「カシコケレドモ」とよめるが、考には「カシコカレドモ」とよみたり。いづれにてもあしとにあらねど「カレドモ」の方、語の本形なるべければ、然よめり。この一句は顛倒しておかれたるにて、本來「カケテシヌバム」の上にあるべきものなり。ここの意は恐れあれどもといふなるが、何が恐れあるにかといはゞ賤しきわが身の心に懸けて偲び奉らむことの恐きなり。
○一首の意 此の歌長篇にして且つ組織頗る巧みなれば、單に語を逐ひて通解せむには脈絡不明瞭になるべければ、次に文脈をただして解説すべし。
 先づこの篇は前後の二大段落に分つべし。第一大段は「神隨安定座奴」までにして、それより下を第二大段とす。この段落はその長さに於いて大なる懸隔あり。全篇百四十九句中第一大段は百三十六句、第二大段は十三句なり。
 この第一大段はかくの如く長きが、いづこにも句の終りとすべき所なく、文法學上の見地よりすれば、ただ一箇の複文たるなり。かくの如き長き文法學上の一箇の文はかの冗長なる源氏物語にも稀なるべし。而して、その間に一の心を休むべき所もなく、所謂一氣呵成の文なるに於いて見れば、實に驚くべき大手腕といふべきなり。然るにこの歌をは三段落とすべしといふ説あるは如何なる故ぞ。この第一大段は既にいひしが如く、高市皇子の御功績より薨去ありしことに及びたるものにして主として高市皇子の御事に關する客觀的の記述にして所謂叙事たり。第二大段は人麿の皇子に對し奉る感想をのべたる主觀の所謂抒情なり。かく(506)の如き明かなる内容上の差あるをば、顧みずして漫然長さの如何によりて三段に分つといふことは如何なる理由によるか、全然考ふべからず。かゝる説は余はこの歌を解せざるものなりといふに躊躇せざるなり。
 さて第一大段は頗る長けれどその間に句切りといふものなく、嚴密の意にて段落と名づくべきものなきが故に、その叙事の内容の方向轉換如何に注目してそのうちの分け方を考ふべし。かかる注意を以て考ふる時は「定めてし瑞穗の國を神ながら太敷きまして、八隅知之わが大君の天の下申したまへば」までが高市皇子御在世の時の事にして、「わが大君、皇子の御門を神宮に装ひ奉りて」以下が薨去したまひし事にかゝる。さればこの間にて叙事の方面轉回せり。今かりにこれを段落と見なして、以上を第一中段といひ、以下を第二中段といふ。而してこれはもとより眞の段落にあらねば、その間のつなぎあり。そのつなぎは「萬代に然しもあらむと木綿花の榮ゆる時に〔二字右○〕」なり。これは上の第一中段につづきては御在世を謳歌する語なるが、最後の「時に」より急轉直下して形勢を一變せしめたるなり。
 次にその第一中段を見るに、これは御在世中の功績をいへるなるが、その中更に如何に方面の轉回が行はれてあるかを考ふるに「天雲を日の目もみせず、常闇に覆ひ賜ひて定めてし瑞穗國」までが、壬申の亂※[甚+戈]定の大功をいひたるものにして、「瑞穗國を神隨太しきまして」以下は太平の世の太政參與の事をいへるなれば、ここにも又その方面の一轉回せるを見る。これらを亦かりに段落と見なして、その上なるを第一小段と名づけ、下なるを第二小段と名づく。これら(507)も亦もとより段落にあらねば、その間のつなぎあり。そのつなぎは、瑞穗國なり。この「瑞穗國は上の小段の部分にして同時に下の小段の部分たるなり。
 次にその第一小段は壬申の亂を叙せるものなるが、その中に又區分を立つべき點ありやと見るに、「行く鳥のあらそふはしに」までは人々の相闘ひて未だ勝負の決せぬ間のことを叙したるものにして、「渡會のいつきの宮ゆ」以下は神の力の加はりて、最後の決定を與へたるにて、叙事の方面異なれば、ここにて二に分つべし。上を假に第一分段と名づけ、下を第二分段と名づく。ここにもつなぎあり。「爭ふはしに」といふ句が二者のつなぎとなれるなり。
 なほ次に、その第一分段は人々の相闘ふ事を叙せるが、そのうちにて又方向の差違ありやと見るに、「大雪のみだりてきたれ」までは主として高市皇子の軍の事にして、その以下は主として近江軍の事なれば、ここにて二に分つを得べく、ここには「みだりて來れ」といふ條件形あればみわけ易し。今この上なるを第一節といひ、下なるを第二節といふ。
 その第一節は專ら高市皇子の軍の事を叙せるが、その始の部分「皇子ながら任け賜へば」までは主として天武天皇の御上よりいひて、その終に高市皇子の大任を受けたまへるをいひ、「大御身に太刀取りはかし」以下は專ら高市皇子の軍事上の行動をいへり。而してその關節は「まけたまへば」といふ接續にあり。今、上を第一小節とし、次を第二小節とす。
 これより大意を上の分け方によりていふべし。第一小節は壬申の亂の起りて天武天皇の兵を起して高市皇子に軍事行動の全權を委任せられしことをいひ、第二小節は高市皇子が大(508)任を受けて軍務に鞅掌せられたる結果、その軍威の盛大にして、敵を壓倒せしことをいひたるが、以上合して第一節として、天武天皇の軍をいへるなり。第二節に於いてこれに對して近江朝の軍士も決死の覺悟にて奮闘せしことをいへるなり。以上二の節を合せて第一分段とす。この分段中、天武天皇の軍の事は七十二句にわたりて力説し、近江軍の事は殊死して奮闘すといひたれど、僅に六句にてこれに對立せしめたり。これは主客の別を失はぬ巧みなる叙事法といふべし。
 さて第一分段に天武の軍近江の軍相互に爭ひたる事をいひたれど、その決著をいはずして最後に「爭ふはしに」といひ、第二分段に入りて伊勢の皇大神の神助によりて天武軍の勝利となりて天下平定せしことをいへるが、これは暗に、天武天皇の皇位につかれしは神助あるによることを匂はせたるなること既にいへる如し。以上を合せて第一小段とするが、この小段は壬申の亂とその※[甚+戈]定とを主としていへるものにして、ここにも又人力を以ての爭ひは七十八句にわたりて説き、神助をいへるは十句に止まる。これは人事をつくせる事を主としていへるに似たるが、その主たる功勞の高市皇子にある事を明かにせむ爲の筆法と見らる。
 さて第一小段に壬申亂を叙し、その※[甚+戈]定せるは高市皇子の大功績たるの由を明かにせるが、第二小段は亂後太平の世に高市皇子の太政に參與せられしことをいひ、これを一括して第一中段とす。この中段は主として高市皇子御在世の間の事、主としてその功績の偉大なるを述べたるが、そのうちにも壬申の亂に關するものは八十八句にして、亂後の事は六句に止まる。(509)これこの皇子の大功績は何としても壬申の亂の※[甚+戈]定に存するを物語れるものなり。
 第二中段は二に分つべし。即ち「思ひも未だつきねば」までは皇子の薨去ありて、悲めるさまを叙し、「言さへぐ百濟の原ゆ」以下は御葬儀を叙したり。而して第一中段は全然叙事といふべく、第二中段は叙事に參ふるに抒情を以てせることも注意すべし。これ第二大段が全然、抒情となるべき下地を豫めつくれるものにしてまた巧みなりといふべし。しかしてその第一中段と第二中段とはかく内容の性質に於いて著しく相違せるに、その間に文句のきれめといふもの全くなくして、段落の名をつくべきにあらざるさまなるに、他の小段、分段、節、小節と余が名づけたる部分の間はかへりて、辨へ易きなり。これを考ふるに、その内容に於いて密接なるはかへりて外形に於いて方向の轉換せることを示し、内容に於いて甚しく異なる方面に轉換せるものはかへりて、外形に於いて、きれめをあらはさず。そのさま實に人の目を驚かしむるものあり。これこの人麿の文才の偉大にして常人の及ぶべからざる點の存する所にして、古來この歌の段落如何を明かにいふを得ざりし點實にここに存す。
 さて既にいひたる如く、第一大段に於いて百三十六句を以て主として皇子の御事を叙し、第二大段に於いて僅に十三句を以て、自己の敬慕の情を抒べ、しかも兩者相待ち、相持して、力の上に於いては相對して讓らざる概あり。されば代匠記に「人麿の獨歩の英才を以て皇子の大功を述べて薨去を慟奉らるれば、誠に不朽を日月に懸たる歌なり」と評せるも宜なりといふべし。
 
(510)短歌二首
 
○ この短歌の文字を考は改めて反歌とし、攷證またこれに傚へり。然れども短歌はその歌の體につきていへる名目にして、反歌はその歌の性質によりていへる名目なれば、必ずしも改むるに及ばず。かくの如き例は上にも多きことなれば改むるはかへりて強事となるべし。
 
200 久竪之《ヒサカタノ》、天所知流《アメシラシヌル》、君故爾《キミユヱニ》、日月毛不知《ヒツキモシラズ》、戀渡鴨《コヒワタルカモ》。
 
○久堅之 「ヒサカタノ」なり。「天《アメ》」の枕詞に用ゐたり。その意は卷一「八二」にいへり。
○天所知流 舊訓「アメニシラルヽ」とよめり。童蒙抄に「アメヲシラスル」とよみ、考に「アメシラシヌル」とよみたり。契沖は「天に知らるるとは神と成て天へ歸り給ふ意なり」といひたれど、さる意味は無き筈なれば、從ひがたし。ここは天を知らすとい云意にとるべきは疑なきが、童蒙抄のよみ方は語格にあはず。かかる意の「シラス」は四段活用なるべきに、下二段活用とせるは俗に知らせるといふ告知の意にして領知の意にあらず。さればここは考の如くによむべきか。されど、「流」一字を「ヌル」とよむも如何なれば或は「天ヲ知ラセル」とよむにあらざるか。しかも考の如くよみても誤にはあらじと思ふが故に姑くこれに從ふ。卷三「四七五」安積皇子薨時歌に「和豆香山御輿立之而《ワツカヤマミコシタタシテ》、久堅乃天所治奴禮《ヒサカタノアメシラシヌレ》」ともあり。さて天を知らすといふは字義のままにいへば、天を領したまへると云ふ事なるが、事實は薨去即ち神去りまして、天に止まり給ふといふ(511)事なるべし。
○君故爾 舊訓「キミユヱニ」とよみしが童蒙抄には「キミカラニ」とよめり。これは舊訓のままなるをよしとす。例は卷一「二一」以來屡あり。さてこの「故爾」は本居宣長は「君なるものをといふ意なり」といひ、略解以下これに從へり。即ち卷一の「人嬬故」の場合もかくいへるが、既にいへる如くこの解釋は從ふべからぬものにして、いづこまでも「ユヱ」といふ語の本義に基づきて解すべし。即ちここは「によりて」の意に解すべきこと「人ツマユヱニ」の場合に異ならず。
○日月毛不知 舊訓「ヒツキモシラズ」とよみ、代匠記の初稿には「ヒツキシモシラニ」とよみ、考は「ツキヒモシラズ」とよみ、略解は「ツキヒモシラニ」とよめり。按ずるに「日月」といふ熟字は支那の字面なるが、國語にては古來「ツキヒ」といひ來ればなほ「ツキヒ」とよむをよしとすべし。「不知」は「シラズ」「シラニ」いづれにてもよき筈なり。今姑く舊來の訓に從ふ。月日の幾日經たるかといふことをも知らずしての意なり。
○戀渡鴨 「コヒワタルカモ」なり。戀ひて多くの月日を渡り經るかなといふ意なり。「カモ」は歎息の意をあらはせり。卷四「五九九」に「朝霧之鬱相見人故爾命可死戀渡鴨《アサギリノオホニアヒミシヒトユヱニイノチシヌベクコヒワタルカモ》」卷十「一九一一」に「左丹頬經妹乎念登霞立春日毛晩爾戀渡可母《サニツラフイモヲオモフトカスミタツハルヒモクレニコヒワタルカモ》」卷十一「二六四五」に「宮材引泉之追馬喚犬二立民之息時無戀渡可聞《ミヤキヒクイヅミノソマニタツタミノヤムトキモナクコヒワタルカモ》」など似たる詞遣なり。されどこの「戀フ」といふは所謂男女間の戀愛にあらずして、こひしたふなり。「渡る」は上の諸歌にもある如く、多くの時間を經過してその事をつづくるをいふ。
(512)○一首の意 神去りて天に上りましましぬる君によりてわれらは月日の經過することをも知らず、ひたすら慕ひ戀ひ奉ることよとなり。これ「天しらしぬる君」といふことと、「月日も知らず」といふこととをとりあはせ、詞のあやをなせるものと見ゆるが、これのみにては意足らずして長歌の意切なるには應ぜざる如き感あり。或は思ふ。こは次の歌と相待ち、二首にて意を完くせるものならむ。然らば、これ一首をとりて論ずるは不可なりとすべし。
 
201 埴安乃《ハニヤスノ》、池之堤之《イケノツヽミノ》、隱沼乃《コモリヌノ》、去方乎不知《ユクヘヲシラニ》、舍人者迷惑《トネリハマドフ》。
 
○埴安乃池之堤之 「ハニヤスノイケノツツミノ」なり。この池の堤の事は卷一「五二」の藤原御井歌に見えたり。
○隱沼乃 舊訓「カクレヌノ」とよみ、代匠記には「コモリヌノ」とよむべき按を出せり。かくて考以下それによれり。「隱」は「カクレ」とよむこと、もとよりなるが、本集には又「コモル」とよみたる例あり。この卷「一三五:に「嬬隱有屋上乃山《ツマコモルヤカミノヤマ》」又卷十一「二五一一」に「隱口乃豐泊瀬道者《コモリイクノトヨハツセヂハ》」卷十三「三三三〇」に「隱來之長谷之川之上潮爾《コモリクノハツセノカハノカミツセニ》」など例多し。さて「コモリヌ」といへる例は卷十四「三五四七」に「阿知之須牟須抄能伊利江乃許母理沼乃安奈伊伎豆加思《アヂノスムスサノイリエノコモリヌノアナイキヅカシ》」卷十七「三九三五」に「許母利奴能之多由狐悲安麻利《コモリヌノシタユコヒアマリ》」など假名書のものあるによりて立證せらるれど、「カクレヌ」といへる語の證なし。されば「コモリヌノ」とよみてよきなり。「沼」は今「ヌマ」といふものなれど、古語はたゞ「ヌ」なりしたり。和名抄に「唐韻云沼 之少反和名奴 池沼也」とあり。さてこの「コモリヌ」とは如何なるものぞとい(513)ふに、考に「こは堤にこもりて水の流れ行ぬを人の行方をしらぬ譬にいへればこもりぬとよむ也」といひ、又「後世あし蒋などの生しげりて水を見えぬをかくれぬといふと心得てここを訓つるはひがごと也」といへり。略解、攷證、美夫君志などこれに從へり。古義には又「隱沼とは草などの多く生茂りて隱れて、水の流るる沼なり。九、十一、十四、十七の卷卷などにも見えたり。古事記仁徳天皇條に許母理豆能志多用波閉都々《コモリヅノシタヨハヘツツ》(隱水《コモリヅ》の下從延《シタヨハヘ》つゝなり)とある許母理豆の類なり。さてその隱沼は流れ行すゑの表《アラハ》にしられねば、去方《ユクヘ》乎不知といはむ料の序とせるなり」といひたり。註疏新考などこれに從へり。檜嬬手は二説を共に存して、ここは考の如く解せり。今二者のいづれに從ふべきかを知らむが爲に、この語の用例を按ずるに、
  隱沼乃下〔右○〕延置而(卷九、一八〇九)
  隱沼從|裏《・シタ》〔右○〕戀者(卷十一、二四四一)
  隱沼乃下〔右○〕爾戀者(卷十一、二七一九)、
  韻沼乃下〔右○〕從者將戀(卷十二、三〇二一)
  隱沼乃下〔右○〕從戀餘(卷十二、三〇二三)
  許母利奴能之多〔二字右○〕由弧悲安麻利(卷十七、三九三五)
の如く主として「シタ」といふ語を導く料に用ゐられてあれば、いかにも古義の説の如く、茂れる草にうづもりて、隱れてある沼をさすに似たり。然るにここに又
  許母理沼乃安奈伊伎豆加思(卷十四、三五四七)
(514)といふあり。これも亦上の如くに説かば説かれざるにあらねど、必ずしも然りとすべからず。ここに卷十二「三〇二三」の歌に
  去方無三隱有《・ユクヘナミコモレル》小沼〔八字右○〕乃卜〔右○〕思爾吾曾物念頃者之間《モヒニワレゾモノオモフコノゴロノマハ》
といふがあるが、この歌は「隱沼の下」といへるにも、又、ここの「去方不知」にも關係ある語を用ゐたれば、この歌を以て二者の關係的意義を解くをうべく思はる。又卷十一「二七〇八」の歌に
  青山之石垣沼間乃水隱爾戀哉度相縁乎無《アヲヤマノイハカキヌマノミコモリニコヒヤワタラムアフヨシヲナミ》
といふがあり。この歌にては「コモリヌ」とはなけれど、「水隱」とあれば、結局は同じことなり。今上の諸例を通覽するに、沼には
  「コモル」「コモリヌ」「ミコモリ」
といふこと普通の現象にして、沼の或る特殊の場合をいふとは考へられず。次に「コモリヌ」につきていはゞ
  「下」といふ語を導くもの
  「息づかし」といふ語を導くものの
二樣あるが、その下といふ語を導くものは「コモレルヌマノ下思ニ」とあるに照して考ふれば、「コモリヌ」「コモレルヌマ」畢竟同じものと見るべきなり。されば、われらは「コモリヌ」といふ語の意を詳にせむには單に「コモリヌ」といふ語を論ぜむよりもこの卷十一の歌と卷十二の歌とを精査する方捷徑なりと考ふるなり。さて
(515)  ユクヘナミ、コモレルヌマ(卷十二」
  青山ノ石垣ヌマノミコモリニ(卷十一)
の二首を通じて考ふるに、その「コモル」は、その沼の石垣又は堤などに圍み包まれて、水の行く方のなきをいへることなるは明かなり。かくて更に「コモル」といふ語の普通の意味を考ふるに、ある場所の中に在りて外と連絡を絶てることをいふ語なるは、家に籠る、城に立てこもるなど、いふ場合にても知るべし。かくて「こもる」と「かくる」とは意異なりといふべし。されば古義などの説は「コモリヌ」とはよみたれど、意は「カクル」の義にとれるものなるべし。この故に、吾人は「コモリヌ」「コモレルヌマ」「ミコモリ」いづれも同樣の意をあらはせるものにして考の如き意にて説くべきものと思ふ。かく説かば、必ず然る時は、下《シタ》といふ語を導く理由なきにあらずやといふ反問或は出でむ。されど、この反問は容易く解くを得べし。古義などにては「下」をば、或は視覺的に、或は上下《ウヘシタ》の場合に説かむとするによりてかくいへるならむが、元來「シタユ戀フ」といふ「シタ」はさる上下《ウヘシタ》又は視覺的の義にあらずして卷十(二四四一)の歌に「裏」字をかける如く心裡の義なり。「あないきづかし」をよめるもこの意による。即ち沼の水のこもりて流れ出づる所なきが如く心の裏に包みてある下の思ひをいへるなることいふをまたざるべし。この故にこの語の意は考などの説に從ふべきものにして、一はそのあたりの實地の景なるをとりて、かねて下の語の序とせるなり。
○去方乎不知 舊訓「ユクヘヲシラズ」とよみたるが、代匠記に「ユクヘヲシラニ」とよみたり。「シラ(516)ズ」「シラニ」いづれも意にかはりなく、いづれにても差支なき如くなるが、ここは「シラズシテ」と多少ためらふ意あれば、「シラニ」とよむかた、よかるべし。「去」を「ユク」とよむべきことは本卷「一〇六」「二人行跡去過難寸秋山乎」の下にいへる如く、玉篇に「去(ハ)行也」とあるにて知るべし。卷十五「三六七二」に「左欲布氣弖由久敝乎之良爾《サヨフケテユクヘヲシラニ》」卷十三「三三四四」に「立而居而去方毛不知朝霧乃思惑而《タチテヰテユクヘモシラニアサギリノオモヒマドヒテ》」などあるこの語の例なり。「コモリヌノ」よりこの語を導く理由は上の句の下にいへる如くなるが、卷十二の「去方無隱有小沼《ユクヘナミコモレルヲヌ》」といへる語最もよくその意を明かに示せり。さてこの語は上の「一六七」の長歌の末に「皇子之宮人行方不知毛」とよめるに同じき意なるが、これはただ行く方もなしといふにあらで、前途を失へるさまをいへるにて今の語にていへば途方にくれてゐるといふ程のことなるべし。
○舍人者迷惑 「トネリハマドフ」とよむ。「迷」「惑」共に「マドフ」といふ語にあてたるなるが、例の二字にてその意を確にせるなり。
〇一首の意 先にもいへる如く、この歌は上の歌と相待ちて、意を完うせるものと思しくて、この一首のみにては意足らず。先づこれを釋せむに、「われらの仰ぎ奉りし君は神去りましぬれば、われらは月日の經過するをも知らずに戀ひ渡り奉るが、(前の歌の意)さてもさても、これより後は如何にしてよき事なるか。恰もこの御門のほとりの埴安の池にこもれる水の如く去方を知らぬによりてわれら一同に途方にくれてあるよとなり。從來の諸家、この二首にして一の意を完くするものなることをいはざるは如何。かく説か(517)ずば、前の歌も後の歌も意不十分にして人麿ともある人の歌とも思はれざるさまに見ゆるにあらずや。
 
或書反歌一首
 
○ この題詞につきては、考は之を改めて、
  檜隈女王(ノ)作歌
となし、さて曰はく「今本右の反歌の次に、或書反歌一首とて此歌あれど、こは必人萬呂の歌の體ならず。されど捨べからぬ歌也。左に類聚歌林曰檜隈女王怨2泣澤神社1之哥也と註したるぞ實なるべくおぼゆ。仍てかくしるしつ」といへり。檜嬬手もかく改めたり。略解は改めざれど、それをよしとせり。されどこれは攷證に「例の古書を改るの僻なればとらず」といへるが如く從ふべからず。若し、はじめより考の如きことならば、この題詞も左注も不要なる筈なり。或書にかくあり、又類聚歌林には左注の如くなりてありたればこそかくは記せるなりしなれ。今にして漫りに古書を改むるは心なきわざなり。さてここは或書に上の長歌の「反歌一首」として次の歌ありとて參考として編者の載せたるなり。
 
202 哭澤之《ナキザハノ》、神社爾三輪須惠《モリニミワスヱ》、雖祷祈《イノレドモ》、我王者《ワカオホキミハ》、高日所知奴《タカヒシラシヌ》。
 
○哭澤之神社爾 「ナキサハノモリニ」とよむ。哭澤の神とは古事記上卷に「故爾《カレコヽニ》伊邪那岐命詔之、(518)愛我那邇妹命|乎《ヤ》、謂d易《カヘツル》2子之一(ツ)木《ケ》1乎《カモトノリタマヒテ》u乃|匍2匐《ハラバヒ》枕方1、匍2匐御足方1、而|哭時《ナキタマフトキ》、於《ニ》2御涙1所成神(ハ)坐2香山之畝尾(ノ)木本《コノモトニ》1名《ミナハ》泣澤女神。」と見え、又日本紀卷一に「于時伊弉諾尊恨之曰、惟以2一兒1替2我愛之妹1者乎則匍2匐頭邊1匍2匐脚邊1而哭泣流涕焉。其涙墮而爲v神、是即畝丘樹下(ニ)|所居《マス》之紳、號2啼澤女命1矣」と見えたる神なるべし。次に神社を「モリ」とよむことは、本集に稀ならぬことにして、卷七「一三四四」に「眞鳥住卯名手之神社之菅根乎衣爾書付令服兒欲得《マトリスムウナテノモリノスガノネヲキヌニカキツケキセムコモカモ》」とあると卷十二「三一〇〇」に「不想乎想常云者眞鳥住卯名手之杜之神思將所知《オモハヌヲオモフトイハバマトリスムウナデノモリノカミシシラサム》」とあるとを比較しても知るべし。この「ウナデノモリ」は高市郡雲梯村に坐せし高市御縣坐鴨事代主神社にして、延喜式の祝詞に御子事代主命の御魂を宇奈堤の神奈備に坐せて皇御孫命の近き守神とせられし由見えたる神なり。「杜」字は新撰字鏡に「毛利又佐加木」と注せり。又卷九「一七三一」に「山科乃石田社爾布靡越者《ヤマシナノイハタノモリニフミコエバ》云々」卷十一「二八五六」に「山代石田杜心鈍手向爲在妹相難《ヤマシロノイハタノモリニココロオゾクタムケシタレヤイモニアヒガタキ》」卷十三「三二三六」に「山科之石田之森之須馬神爾奴佐取向而吾者越往相坂山遠《ヤマシナノイハタノモリノスメガミニヌサトリムケテワレハコエユクアフサカヤマヲ》」とある「石田社」「石田杜」「右田之森」なるにて「社」「神社」みな「もり」とよむべきを見るべし。神社を「もり」といふことは代匠紀に「木の繁き所には多く神のいはゝれたまへばなるべし。又森をば神のまし/\て守たまへば、もとより云にやあらむ」といへり。大體かゝる意なるべく、又美夫君志には「社には樹木あるものなれば、或は木に从ひてかけるにて皇國古人の造字也」といへり。されど、新撰字鏡にも「毛利」と注せるにより、その源の遠きを知るべく、果して本邦人の造字なりや否やなほ考ふべきことなり。さてこの「哭澤之神社」とある神社は何處なるか。古事記には「香山之畝尾木本」にますといひ、日本紀には「畝丘樹下所居」といへるが、畢竟同(519)一の所なるべし。かくて延喜式には十市郡の條に「畝尾坐健土安神社」「畝尾都多本神社」といふあり。これらの「畝尾」はいづれも一の所にして、蓋し、香山の畝尾なるべし。古事記傳に曰はく「師(ノ)云(ク)此山の畝尾は西へも引ことに東へは長く曳渡《ヒキワタリ》りけむ。今はその畝尾の形いさゝか殘れり。」といへり。大和志によればその健土安(ノ)神社は今下八釣村にありといひ、都多本(ノ)神社は木本ミラ啼澤森にありといへり。而して下八釣(北)木本(南)相つゞきたる地にして共に香山の西麓の畝尾にあたれりとす。而してその都多本神社といふが在る所は世俗に啼澤森といへば、本歌にいへるはここなるべし。
○三輪須惠 「ミワスエ」とよむ。「ミワ」を「すゑて」といふ義なるが。「ミワ」とは何かといふに、卷一「一七」の歌の下にいへる如く、古語に御酒を「ミワ」といへるなり。本集卷十三「三二二九」に「五十串立《イグシタテ》、神酒座奉神主部之雲聚玉蔭見者乏文《ミワスヱマツリハフリベノウズノヤマカゲミレバトモシモ》」とある「神酒」即ち「みわ」なり。「みわをすう」とは神酒を滿てたる甕《ミカ》をば神にそなへ供するなるが、ことに「すゑ」といへるは如何といふに、攷證には「甕は長高く、大きなるものと見ゆれば、ことさらに居とはいへるにて、たゞ供する事のみにはあらず」といへり。この「ことさらに居といへる」にて「たゞ供する事のみにはあらず」といへるはさる事なれど、その理由が高く大きなるのみにてはあるべからず。普通に「すゑ」といふことはそをして安定の位置をえしむることをいふなるが、何故にかくいふかといふに、古の甕の類の今土中より發掘せらるるものを見るに、多くは底部丸くしてすわりのわるきものなれば、これを特に安定におくに心を用ゐたること想像せらる。これ特に「すゑ」といへる所以ならむ。卷三「四二〇」に「吾(520)屋戸爾御諸乎立而枕邊爾齊戸乎居《ワガヤドニミモロヲタテテマクラベニイハヒベヲスヱ》云々」と」いひ、同卷「三七九」に「奧山乃賢木之枝爾白香付木綿取付而《オクヤマノサカキノエダニシラカツケユフトリツケテ》、齊戸乎忌穿居《イハヒベヲイハヒホリスヱ》」卷十三「三二八四」「齊戸乎石相穿居竹殊乎無間貫垂天地之神祇乎曾吾祈《イハヒベヲイハヒホリスヱタカダマヲシシニヌキタリアメツチノカミヲゾワガノム》」「三二八八」に「忌戸乎齊穿居玄黄之神祇二衣吾祈《イハヒベヲイハイホリスヱアメツチノカミニゾワハコフ》」などいへる齊戸は即ちその神酒を盛れる甕なるべし。これに「ほりすゑ」といへるにてその地上を穿ちて底の安定なる位置をつくりしことを知るべし。「すゑ」と特にいへるは蓋しこれが爲なり。
○雖祷祈 舊訓「イノレドモ」とよみたるを代匠記に「クミノメド」と讀むべきかといひ、玉ノ小琴に「コヒノメド」とし、古義に「ノマメドモ」といへり。今按ずるに「クミノム」といふ語は日本紀の訓によれりといへども「クム」といふ語はその證もなく、又古今にわたりてありたりとも考へられねば從ひがたし。「ノマメドモ」とよむことはよまれざるにあらねど、かくよみては、未た祈らざる前の事と聞ゆれば、歌の意にかなはず。「コヒノメド」は惡しきにあらねど、祷も祈も「イノル」といふ語に當る文字にして「コフ」といふ義にはあたらず。恐らくは本居翁は二字なれば。、二語にてよむべしと考へられたるなるべきが、同義の字を二字重ね用ゐる場合の精神は卷一「六四」の「暮夕」の下にいへる如くなれば、この祷祈二字にて「イノル」とよまむこそこの文字を用ゐたるものの本旨にかなふといふべきなれ。「イノル」といふ語の例は卷二十「四三九二」に「阿米都之乃以都例乃可美乎以乃良波加有都久之波波爾麻多己等刀波牟《アメツスノイツレノカミヲイノラバカウツクシハハニマタコトトハム》」「四三七〇」に「阿良例布理可志麻能可美乎伊能利都都須米良美久佐爾和例波伎爾之乎《アラレフリカシマノカミヲイノリツツスメラミクサニワハレキニシヲ》」卷十三「三三〇八」に「天地之神尾母吾者祷而寸《アメツチノカミヲモワレハイノリテキ》、戀云物者都不止來《コヒチフモノハカツテヤマズケリ》」卷二十「四四〇八」に「須美乃延能安我須賣可未爾奴佐麻都利伊能里麻宇之弖《スミノエノアガスメカミニヌサマツリイノリマウシテ》」な(521)どあり。
○我王者 「ワガオホキミハ」とよむ。「王」を「オホキミ」とよむことは卷一「二三」の詞書なる麻績王にてもしるきが、本集の歌の中なるには、ここの外この卷「二〇五」に「王者神西座者《オホキミハカミニミシマセバ》云々」卷三「二四五」「王者千歳爾麻佐武《オホキミハチトセニマサム》」卷十六乞食者詠(三八八五)のうちに「王爾吾仕牟《オホキミニワレツカヘム》」卷十六「三八六〇」に「王之不遣爾情進爾行之荒雄良奧爾袖振《オホキミノツカハサナクニサカシラニユキノアラヲラオキニソデフル》」等あリ。「わがおほきみ」といふ語は上に屡見ゆ。
○高日所知奴 舊訓「タカヒシラレヌ」とよみたるが、童蒙抄には「タカヒシラシヌ」とよみ、考以下多く之に從へり。檜嬬手はもと「不知奴」とありしが「不」字を脱せりといひ、※[木+夜]齋本に「不」字ありといひて、「タタカヒシラサヌ」とよみたり。然れどもここに誤字ある本一も見ざるが故に、誤字説は容易に從ふべからざるのみならず、かくて守部の説く所は「常に高光日之御子と稱す高日なれば、此世に在高照しませと祈れども天(ツ)御座しらさぬよと歎き給ふなり」といへるなれど、「高光日の御子」といふ語は守部が自ら「天照す日の神の御子と云ふ意の古語也」といへる如くなれば、守部の説既に自家撞着せり。されば守部のこの説は斷じて取るべからず。かくて殘る所は「シラレヌ」と「シラシヌ」との二なるが、いづれにても、知りたまひぬといふ義なるべきが、その意にて「シラレヌ」といふ如き語法をとれることこの時代になき所なれば、「しらしぬ」とよむべきなり。「所知」を「シラス」とよむは卷一「二九」に「所知食之乎」「所知食兼」などあるそれらの例なり。「シラス」は「シル」を敬語として、サ行四段活用に再び活用せしめしものなり。「高日」の「高」は卷一の「高照日之御子」(四五、五〇、五二、)又「高知也」(五二)の「高」の下にいへる如く、「天」といふに同じ意の體言にして「高日」(522)は天日といふにおなじ語なり。即ち「高日しらしぬ」は天の日を知りたまひぬといふ語にしてその意は皇子の神となりて高天原に上りまして天を領しませりといひてその薨去の事をいひかへたるなり。
○一首の意 この歌を解するに先づ、人の命を泣澤の神に祈る習慣ありし事を考へおくべき必要あり。古事記傳に曰はく「昔かく人(ノ)命を此(ノ)神に祈(リ)けむ由は伊邪那美(ノ)神の崩(リ)坐るを哀《カナシ》みたまへる御涙より成り坐せる神なればか」と。ここにこの神の名を出せるは、一はその心もあるべく、一はその香山の宮に近きが故にありしならむ。歌の心は皇子の御命長かれと哭澤の神社に神酒を奉りなどさま/”\して祈り奉りしかど、その甲斐もなく神去りましぬることよとなり。
 
右一首類聚歌林曰、檜隈女王怨2泣澤神社1之歌也。 案日本紀曰「持統天皇」十年丙申秋七月辛丑朔、庚戌後皇子尊薨。
 
○ この左注は二段よりなれり。第一段は上の一首に對しての類聚歌林の所傳をあげたるなり。この檜隈女王とは如何なる人なるか。契沖は皇太子の妃なるべしといへり。その女王の事史に見えずして父祖も詳かならず。ただ續紀天平九年二月の叙位に從四位下檜前王を從四位上に叙せらるる記事あり。この時の叙位には男女共に在りしが、この檜前王は女子の叙位の列中にあれば女王なること著し。而して檜前即ち檜隈なれば、この檜前王即ちこの歌(523)の女王ならむも知れず。若し然る時は高市皇子薨ずる時より天平九年まで四十二年なれば當時二十歳として天平九年には六十二歳となればありうべからざる事にあらず。されど確證なければ、斷言しうべからず。「怨泣澤神社之歌也」とは高市皇子の事を祈申されしかどその效あらざりしかば怨み奉られし折の歌といふ事なるが、これは山上憶良の類聚歌林に出でたる由なり。以上左注の第一段なり。左注の第二段は上の長歌よりここまでの注にして、高市皇子薨去の時を日本紀によりて注したるなり。然るに、ここに「持統天皇」とあるは、この卷の例と違ひ、又編述當時の記事と考へられず。金澤本、神田本、大矢本、西本願寺本、京都大學本等にはこの四字なし。恐らくはこれ後人の記入にして原本にはなかりしなるべし、古義に衍とせるはさることなり。美夫君志には元朱鳥とありしを後人の改めたるなりといへり。されど朱鳥ならば、十一年とあるべきなればこの説も從ふべからず。
 
但馬皇女薨後穗積皇子冬日雪落遙望2御墓1悲傷流涕御作歌一首
 
○但馬皇女 この「皇女」を類聚古集に「皇子」とせり。されど、「但馬皇子」といふ方この頃に所見なく、他の諸本みな皇女とあるのみならず上にもこの皇女と穗積皇子との事見えたれば、「皇女」とあるを正しとすべし。この皇女は上相聞の部に「但馬皇女在2高市皇子宮1時思2穗積皇子1御歌」(一一四)一首又「穗積皇子遣2近江志賀山寺1時但馬皇女御作歌」(一一五)一首ありて、そこにいへる如く、天武天皇の皇女にして御母は藤原氷上娘なり。
(524)○薨後 「スギタマヘルノチ」とよめり。但馬皇女の薨は續日本紀卷四和銅元年の條に「六月丙戌(十三日)三品但馬内親王薨(シヌ)。天武天皇之皇女也。」とあれば、この六月十三日以後御葬儀もすみ御墓をも營まれての後の事なるべきが、こは契沖のいへる如く、その元年の冬によませたまへるものなるべし。
○穗積皇子 この皇子も天武天皇の皇子にして、但馬皇女と異母の兄妹にましまし事は既にいへる如くなるが、又、上に「但馬皇女在2高市皇子宮1時竊接2穗積皇子1、事既形而後御作歌」(一一六)とある如く、妹背のかたらひましまししなり。而して穗積皇子は靈龜元年に薨去ありしにて、この時には知太政官事の任にまししなり。
○冬日雪落 考に「フユノユキフルヒ」とよめり。このよみ方はさまで問題にあらざるべきが、「冬日」はたゞ「フユ」とのみよみてよかるべく、雪落は雪のふれる時をいへるなり。
○遙望御墓 考に「ミハカノカタヲミサケテ」とよめり。されど、「ミハカ」と「ミハカノ方」とは必ずしも一ならざるのみならず、「御墓の方」ならば、「御墓」とのみは書くべからず。されば、ここは註疏によめる如く、「ミハカヲミサケテ」とよむ方まされりとす。而してこの御墓は今知られねど、この詞書と歌の趣とによれば、「ヨナバリ」の岡の上に在りしこと疑ふべからず。なほ又穗積皇子の宮は何所にありしか、これも詳かならねど、當時知太政官事として劇務に鞅掌せられしものなれば、宮城の所在地即ち藤原都にまししことならむ。その地より、吉隱の地を望みたまひての御歌なりと考へらる。
(525)○悲傷流涕作歌 考は「ナゲキカナシミテ云々」とよめり。「悲傷」は「カナシム」なり流涕は「ナク」なり。されば「カナシミナキテヨミマセルウタ」とよむべきに似たり。
○ さて萬葉考はこの題詞の前に後なる「和銅四年」の歌の上にある「寧樂宮」も三字を移せり。されど、攷證美夫君志は流布本のままなるをよしとせり。げにも、ここの歌は寧樂宮遷都以前の歌なれば、考の如くせばかへりて不合理とならむ。
 
203 零雪者《フルユキハ》、安幡爾勿落《アハニナフリソ》。吉隱之《ヨナバリノ》、猪養乃岡之《ヰカヒノヲカノ》、塞爲卷爾《セキニナラマクニ》。
 
○零雪者 「フルユキハ」とよむ。「零」を「フル」とよむことは卷一、「二五」の「雨者零計類」の下にいへり。意明かなり。
○安幡爾勿落 「アハニナフリソ」とよめり。考には「安」を「佐」と改めて「サハニナフリソ」とよめり。然るに如何なる本にもさる字を用ゐたるものなければ、この誤字説は從ふべからず。さて「アハ」として研究すべきが、契沖は沫雪の義として「ワ」「ハ」通ぜりといへれど、これは從べからず。拾穗抄には「淡に也。消安き淡雪にはなふりそ。降つもれ」といふ意なりといへり。然るに略解に本居宣長の説をあげてはく「又宣長云近江の淺井郡の人の云く、其あたりにては淺き雪をゆきといひ、深く一丈もつもる雪をばあはといふと也。こゝによくかなへり。古今集の雲のあはだつも雲の深く立意なるべしといへり。古言はゐ中に殘れる事もあればさる事にやあらむ。猶考べし」といへり。この宣長の説は古義、注疏、美夫君志等之に賛せり。而してこの「アハ」(526)といふものにつきては、萬葉集の注ならぬ他の隨筆にもあり。たとへば伴蒿蹊の閑田耕筆に近江彦根の陪臣大菅中養父、其主の領地を檢する時、或山家にて不納を責るにつきて其家の後山に林繁茂せるを見付、是を伐剪て、代《シロ》なさば、かく未納にも及ぶまじきをと咎む。農夫いな、これなくてはあわのふせぎいかにともすべからずといふ。それは何の事ぞと問しに、雪はつもる物なり。あわはつみて崩るゝものなれば、林をもて防がざれば、家をうちたふすなりと答へけるに、中養父は古義を好む人なれば、はじめてさとりぬ。萬葉集に「ふる雪はあわになふりそ吉隱《ヨナハリ》のゐかひの岡の塞《セキ》ならまくに」とあるも、正しく是にてあわはふりて崩るる故に塞となりがたければ、あわにはふることなかれといふなりけりとなり。
又村田春海の織錦舍隨筆に曰はく
  又あふみよりあたりには、雲のあはにふるといふ事ありと、さきに村田泰足がいひ侍りしが、まことにさることありやと問しかば、海量いへらく、近江にてはさはいはねどちかき國にていふ事に侍り。われは美濃國廣瀬の山中にてさいふ事を聞きはべりぬ。雪のふりてこほりたる上に、又あらたに降たる雪のいまだもとの雪ととぢあはぬ程に北風にさそはれてしづれ落つることあり。そはあたゝかなるけにさそはるるにはあらず。こをあはとぞいふなる。又そよともいふとぞ。
  さきに泰足がかたりけるは越前と近江の境に椿居村中の河内村などいふ所あり。山多き所なり。ひとゝせ其あたりに宿りしに、山あひの家の上に大木ともあまたおひしげりた(527)るを、こはなどきらざると問つれば、所の人の曰く、冬にいたりて雪あはにふる時、この木どもなければ、家をうづめそこのふ事あればきらであるなりといへり。あはにふるとはいかなる事ぞといへば、雪のおほくふる事をこゝにてはしかいふといへり。萬葉にふる雪はあはになふりそと有は、またくこれと同じ詞とみゆ。こは古言のおのづからに傳はりしなるべし。安幡を淡字の意とするも左幡の誤とするもみなひがごとなるべしといへり。泰足も近江の國の人なり。
といへり。而して、橘南谿の東遊記鈴木牧之の北越雪譜には越後にもかくいへることありと見え、田中大秀の荏野册子によれば、飛騨にてもかくいへる由なるが、今もしかいふなり。さて又、攷證には、「この安幡は必らず地名なるべし」といひて曰はく「安幡《アハ》は穂積皇子のおはします藤原の京より但馬皇女の御墓のある猪養の岡のほとりを望給ふ間にてこの御墓へ往來する道のほどの地名なるべし」といひ、書紀皇極紀の謠歌に「阿波努」とある所、又は「大和志十市郡に粟原てふ地」などをこれに擬せり。又新考には「アハはサハの誤にあらで、アハ即サハなるべし」といひて、「古今集墨滅歌の中なるクモノアハダツ山ノフモトニのアハダツもサハニタツなるべし」といへり。かく四説あるが、拾穂抄にいへる淡雪の説によれば深くふりつもれといふ義となるべし。されど、「あは雪」を單に「あは」といふ事ありや否やここに一の疑問ありといふべし。次に、本居説以下の「あは」といふ方言と同じとする説は頗る興味ある説なるがかく解してこの歌の意とほるべきか如何。その事はなほ下に論ずべし。攷證の地名説も、根據ある事ならば、こ(528)の歌の意を解するに便なる如く思はるれど、この説は全く根據なき事にして從ふべからず。粟原といふ地名は今も確に存するが、これを假にここにいふアハに宛てたりとすとも、藤原京よりいへば、吉隱(【長谷より東】)と粟原(【忍坂より入る南東】)とは頗る方向異なれば、かく歌はるべき理由なきなり。加之粟原即「アハ」なりといふこともとより證なきことなればなり。次に「アハ」即ち「サハ」といふ説も根據もなきことなるが、故に(「アハタツ」はおのづから別なり)從ひがたし。結局は淡雪をアハといへるか、若くは本居説の如きかの二者を出でざるべし。而してこの二説は趣略相反すれば、解釋の結果は或は反對となるべし。しかも、この歌は下句にも難解の點あれば、今はこのままにして進み、そこに至りてここに照して、眞意を知りうべきか否かを回顧せむとす。
○吉隱之 舊訓「ヨコモリノ」とよみたり。されどかくては意明かならねば、契沖は「ヨナバリノ」とよむべしといへるが、それより後この説に一定せり。契沖曰はく「是はよなはりといひて地の名なり。持統紀云、九年十月乙亥朔、乙酉幸2菟田吉隱1。丙戌至v自《ヨリ》2吉隱1。和州の者に尋侍しかば、宇陀郡によなはりと云村あり。今も吉隱と書侍り。長谷のけはひ阪を越て十町餘もや過侍らむと申きといへりこの村は、大體古の東海道の要點にあたれる地にして藤原京より長谷を經て、伊賀の名張に出づる街道にあたれり。而その地名は今も吉隱とかき、日本紀には宇※[おおざと+施の旁]とあれど、古く城上郡に屬せるが今は初瀬町のうちにあり。契沖が宇※[おおざと+施の旁]郡とかきしは傳ふる人の誤にして古より郡域は變更なかりしならむ。たゞ吉隱は今も宇※[おおざと+施の旁]郡と接したる地なれば、古はひろく宇※[おおざと+施の旁]吉隱といひしが郡を定められし時に磯城郡に入りしならむ。「隱」を「ナバリ」の(529)語にあつることは卷一「四三」の「隱乃山」「六〇」の「隱爾加」の下に既にいへり。
○猪養乃岡之 「ヰカヒノヲカノ」とよむ。これは吉隱のうちの一の地名なりしなるべし。さてこの地の事は卷八、大伴坂上郎女跡見田庄作歌二首の一(一五六一)「吉名張乃猪養山爾伏鹿之妻呼音乎聞之登聞思佐《ヨナバリノヰカヒノヤマニフスシカノツマヨブコヱヲキクガトモシサ》」とあると同じ所なるべきが、その「ゐかひ」の岡又山といふ所吉隱村のうちの山地なるべきことはいふをまたずして大和志に「猪飼山有2吉隱村上方1山多2楓樹1」と見えたれど、今その名をもてる地ありや否や詳かならず。この「猪養」の名を有せるを以て考ふるに、或は實際家猪(即ちぶた)を飼ひてありし地か、若くは猪養部の住める地若くはその部に屬する地なりしならむ。しかも今にしては詳にしるべからず。さてこの猪養の岡と但馬皇女の御墓とは如何なる關係になるかと考ふるに、その間に御墓の有りしならむと考へらる。
○塞爲卷爾 この句舊來訓を加へず。金澤本には「塞」を「寒」とせり。されど他本はすべて「塞」にして「寒」字としてもよむ方法明かならねば、なほ本のままにてよみ方を考ふべし。さて代匠記及拾穗抄には之を「セキニセヤクニ」とよみ、童蒙抄は「セキニナラマクニ」とよみ、考は「セキナラマクニ」とよみ、諸家之に從へり。古義は「セキナサマクニ」とよみ新考は「セキトナラマクニ」とよみたり。檜嬬手は又「寒有卷爾」の誤として「サムカラマクニ」とよみたり。されど、此の誤字説は從ひがたし。「塞」は金澤本に「寒」とあれど、その訓は「セキ」とあれば、誤寫なること明かなり。又「爲」は一も誤字たることを證すべきものなし。されば、これは「セキニセマクニ」か「セキニナラマクニ」か「セキナラマクニ」か「セキナサマクニ」か「セキトセマクニ」かの五樣のうちいづれかよきと見るに、(530)大體この難點は「爲卷爾」のよみ方にあるが如し。即ち「塞」は「セク」といふ國語にあたる漢字にして、古事記上卷に「逆|塞《セキ》2上(テ)天安河之水1而」とあるなどこれなるが、これを名詞にしたるが「セキ」にして關を「セキ」といふも同じ意たるなり。支那にても廣雅釋詁三に「關塞也」ともいへり。本集にては卷三「四六八」「妹乎將留塞毛置末思乎」とあり。さて次は「爲卷爾」のよみ方なるが、これは上の諸説を綜合すれば、「セマクニ」「ナラマクニ」「ナサマクニ」の三樣に攝すべきが如くなれど、「ナラマクニ」とよめるうちには、「考」の如く「セキナラマクニ」とよむときはその「ナラマクニ」は「アラマクニ」の約まれるものといふべきが、元來「爲」を「ナラ」とよむはラ行四段の「ナル」(化成)の意の語としての事なれば、かくよむことは無理なりといふべし。次に「セマクニ」「ナサマクニ」の二はよみ方異なれど、意は一なれば、これは畢竟一意とすべし。されば、この訓は「關にせむ」といふことか「關になる」といふことかの二意を先決問題とせざるべからず。而して若し關にせむとの意にとらば、その雪を以て皇女の御墓への通路を塞かむと欲する意となるべきを以て題詞と正反對の意となる。されば、この訓は結局「ナラマクニ」の訓即ち童蒙抄及び新考の説の二者以外のものは成立すべき餘地なき筈なり。而して童蒙抄と新考との説の差は「セキニナラマクニ」「セキトナラマクニ」の差即ち、「ニ」を添へてよむか「ト」を添へてよむかの別に止まれる。而して後世ならば、かかるところは「ニ」「ト」いづれにてもよき事と見ゆれど、古語にては「成る」の補格は「ニ」を伴ふを常とせり。その例卷一「五〇」に「常世爾成牟《トコヨニナラム》」卷十「一八五〇」に「朝旦吾見柳※[(貝+貝)/鳥]之來居而應鳴森爾早奈禮《アサナアサナワガミルヤナギウグヒスノキヰテナクベキモリニハヤナレ》」の如きこれなり。而して又「ト」にしても「ニ」にしても之を加へてよむべきなるが、かく加へてよ(531)まむにも從來卷一以來「ニ」を加へてよむべき例は「暮相而」(六〇)「東野炎立所見而」(四八)「夷者雖有」(二九)「荒野者雖有」(四七)など多くあれども、「ト」を加へてよむべきものは殆どなし。(「一」の歌の「背齒告目」は時別の場合なり)この故に、「セキニナラマクニ」とよむべし。さてこの「セキ」が、上の猪養の岡に對して如何なる關係に立てるかといふに、猪養の岡の關といふことは恐らくは猪養の岡の墓所への通路を遮る關といふことなるべし。かく考へ來るときにはその關となるものは、雪なるべきことは疑ふべからず。而して通路を妨ぐる程の雪は相當の量あるべき筈なれば、上の「あは」は本居説の如くに考ふるを穩なりとすべし。されど、當時の古語として果して之を信ずべきか否か、未だ旁證を得ざれば、それまでは從ふべき一説としておき定説とすることは躊躇すべきなり。
○一首の意 今ここより吉隱の猪飼の岡の御墓を望むに、今は恰も雪ふれるが、この雪が、あはにふり積りたらば、猪養岡の御墓地にかよふ道の塞ともなりなむと氣づかはしく思はる。雪よもし心あらば、あはにふることなかれとなり。われ大正九年の十一月暴雨を冒して、吉隱の陵(光仁天皇の御生母、皇太后紀橡姫の御陵)を拜せしが、この陵は吉隱村角柄にありて、急峻なる山の頂にありて晴れたる時は國中《クニナカ》地方を詠め又宇※[おおざと+施の旁]郡内を見るべしといへりしが、御陵を拜したる後少しく雲はれしそのたえまより櫻井今井の方面を見得たり。猪養の岡とはこの邊の事なるべきか、さらば藤原京のあたりより遙に望みうることは少しも疑なくして、この詞書のうきたることにあらざるを知れり。
 
(532)弓削皇子薨時置始東人歌一首并短歌
 
○弓削皇子薨時 弓削皇子は上に既に(一一一)見えたるが、そこにいへる如く、天武天皇第六の皇子にして、文武天皇三年七月(癸丑朔)癸酉(二十一日)薨ぜし由續日本紀に見えたり。この時の歌なり。
○置始東人歌 この人の名は卷一に見え、太上天皇幸于難波宮時歌の作者の一人なるが、その傳詳かならぬこと既にいへり。代匠記には「連」の字脱せるかといへれど、卷一にもかくあれば、姓なき人なりしならむ。さて金澤本、神田本には「歌」の上に「作」字あり。目録も亦然り。
○短歌 多くの古寫本小字とせり。
 
204 安見知之《ヤスミシシ》、吾王《ワガオホキミ》、高光《タカヒカル》、日之皇子《ヒノミコ》、久竪乃《ヒサカタノ》、天宮爾《アマツミヤニ》、神隨《カムナガラ》、神等座者《カミトイマセバ》、其乎霜《ソコヲシモ》、文爾恐美《アヤニカシコミ》、晝波毛《ヒルハモ》、日之盡《ヒノコトゴト》、夜羽毛《ヨルハモ》、夜之盡《ヨノコトゴト》、臥居雖嘆《フシヰナゲケド》、飽不足香裳《アキタラヌカモ》。
 
○安見知之 「ヤスミシシ」とよむ。卷一以來「八隅知之」とかけるにおなじ。卷一「三八」にはここと同じ文字にてかけり。この語の事は屡いへり。
○吾王 上「二〇二」に「我王」とかけるにおなじく「ワガオホキミ」なり。舊訓「ワガオホキミノ」とよみたれど、「ノ」を加へず。下と同格として重ぬべきこと、卷一「四五」の「八隅知之、吾大王、高照日之皇子」以(533)下に例多し。
○高光 舊訓「タカテラス」とよみたれど、文字のままに「タカヒカル」とよむべきこと本卷「一七一」の「高光我日皇子乃萬代爾國所知麻之島宮婆母」の條に既にいへるが、その語例は古事記に少からざることもいへり。意は天に光るの義にして「日」の枕詞なり。
○日之皇子 舊訓「ヒノワカミコハ」とよみたるが、卷「四五」以後屡いへる如く、「ヒノミコ」とよむべきなり。その意は日の神の御子の義にして、天皇をも皇子をもさし奉れるが、ここは弓削皇子をさせり。
○久堅乃 「ヒサカタノ」既にいへる如く「天」の枕詞なり。
○天宮爾 舊訓「アメノミヤニ」とよめり。神田本には「アマツノミヤニ」とよみたるが、童蒙抄は「ミソラノミヤニ」とよみ、考に「アマツミヤニ」とよめり。これは「安麻都美豆《アマツミヅ》」(卷十八、四一二二)「阿麻豆可未《アマツカミ》」(續紀、十五、聖武御製)等の例によりて考の説の如くよむをよしとす。
○神髓 「カムナガラ」とよむ。かくよむことは卷一「五〇」の「神髓爾有之」の下にいへり。この語の意は卷一「三八」の神長柄の下にいへる如く「神そのまゝ」の意にして、神にましますまゝに、又はもとより神とましますが故にといふ意なり。皇子は神孫にましますが故にかくいへり。
○神等座者 「カミトイマセバ」とよむ。この「ト」といふ助詞は資格を示すものとして神として座せばといふことなり。これ弓削皇子の薨去まししを神さりたまひしといへるなり。
○其乎霜 舊訓「ソレヲシモ」とよめるを考に「ソコヲシモ」と改めよめり。按ずるに萬葉集中には(534)「ソヲ」「ソコヲ」の例は見ゆれど「ソレヲ」といへる假名書の例は見えねばこの頃にかゝる詞遣ありしか否か疑ふべし。されば五音なるにたよりて「ソコヲシモ」とよむべきか。この詞遣の例は本卷「一九六」の歌のうちに「一云所己乎之毛」といふあり、又卷十七「三九九三」に「曾己乎之母宇良胡非之美等《ソコヲシモウラゴヒシミト》」「四〇〇六」に「曾己乎之毛安夜爾登母志美《ソコヲシモアヤニトモシミ》」などあるが、いづれも趣似たれば、このよみ方をよしとすべし。さてその「そこ」といふ語はソノ點といふ程の事なりとす。「シモ」は強く指定していふ助詞なり。その神上りまししことをさしていへるなり。
○文爾恐美 「アヤニカシコミ」とよむ。考には「恐」は「悲」の誤かといひ、檜嬬手には之を可として「アヤニカナシミ」とよめり。然れども、かくかける本一もなきのみならず、「恐み」にて意よく通れば改むるに及ばざるなり。「アヤに云々」の語は上「一五九」に「綾哀」「一六二」に「味凝文爾乏寸」又「一九九」に「言久《イハマク》母綾爾畏伎」などの例にある如く、讃嘆の意をあらはす副詞にして、今いふ言語道斷といふほどの意なること既に屡いへり。「カシコミ」は恐れ多く思ふことなり。
○晝波毛 「ヒルハモ」とよむ。童蒙抄に「アクレバモ」とよめるは五音にせむとての案なるべけれども「晝」を用言によむべき例も理由もなく、又かく四音を一句とせるは例多きのみならず、既に上「一五五」に「晝者母日之盡」といへるあり、又下「二一〇」にも「畫羽裳|浦不樂晩之《ウラサビクラシ》」卷三「三七二」卷五「八九七」などにおなじ趣の語あるが、いづれも古來四音によみ來れり。この「ハモ」は係助詞「は」の下に更に係助詞「も」の添へるにて、その場合には下の「も」は上の「は」を重くあらはさむ料として輕く添へたるなり。
(535)○日之盡 舊訓「ヒノツキ」とよみたるが、代匠紀には「ヒノコトゴト」とよみ、童蒙抄には「ヒノクルヽマデ」とよみたり。童蒙抄の説の起る所は諒解しうれど、「盡」を「クルヽマデ」といふ語にあてたりとは考へられず。又「ヒノツキ」とよみては語をなさず。契沖の説をよしとす。卷三に「國之盡」(三二二)「人乃盡」(四六〇)などかけるみなこの例によむべきなり。「コトゴト」の意は、いふまでもなく「ことごとく」の意なるが、ここにては日數の限り、又ことごとくの日といふ程の意に解すべし。
○夜羽毛 「ヨルハモ」とよむ。童蒙抄又「クルレバモ」とよみたれど、隨ふべからぬことは「晝波毛」の場合におなじ。その意も亦「ヒルハモ」に准じて知るべし。
○夜之盡 舊訓「ヨノツキ」とよみ、代匠記に「ヨノコトゴト」とよみ、童蒙抄「ヨノアクルマデ」とよみ、萬葉考に「ヨノアクルキハミ」とよみたれど、代匠記の説をよしとすること上におなじ。
○臥居雖嘆 「フシヰナゲケド」とよむ。臥居は或は臥し或は居て、さまざまに心をなやますさまをいへるなり。卷十「一九二四」に「大夫之伏居嘆而造有四垂柳之※[草冠/縵]爲吾妹《マスラヲノフシヰナゲキテツクリタルシダリヤナギノマヅラセワギモ》」とあるも同じ趣なり、さまざまにして嘆けどもなり。
○飽不足香裳 「アキタラヌカモ」とよむ。「アキタル」といふ語は新撰宇鏡に「※[女+爲]」字の訓に「阿支太留」と注せり。これは今もいふ語にして心に滿足せることをいふなるが、萬葉にての他の例を少しくあげむか、卷五「八三六」に「烏梅能波奈多乎利加射志弖阿蘇倍等母阿岐太良奴比波家布爾志阿利家利《ウメノハナタヲリカザシテアソベドモアキタラヌヒハケフニシアリケリ》」卷六「九三一」に「今耳二秋足目八方《イマノミニアキタラメヤモ》」卷十九「四二九九」に「年月波安多良安多良爾安比美禮騰安我毛布伎美波安伎太良奴可母《トシツキハアタラアタラニアヒミレドアガモフキミハアキタラヌカモ》」などあり。即ちここはその心を十分に滿足しえぬとなり。(536)「カモ」は嘆息の意を寓せる助詞なり。
○一首の意 すなほに明かなり。わが親しみ仰ぎ奉りし弓削皇子が、神上りまして天つ宮に神として鎭まりませば、その事をば、深く恐しと思ひ奉りて、晝は終日、夜はよもすがら毎日毎夜臥しつ居つ立居も安からぬほどに心をなやまし嘆き奉れど、この悲しみの心を十分にはらすことなきよとなり。考に「これは古語をもていひつゞけしのみにして、我歌なるべきことも見えず。そのつゞけに略きたるところは皆ことたらはずして拙し」と評せるが、かく惡評を受くべき歌のさまにも見えざるなり。眞淵翁の如何に思ひてかくいはれけむ、いぶかし。われはこの歌詞あさはかなる如くにして意はこまやかなりと見たるはひがめか。識者の教を俟つ。
 但この歌の在り所は古來多くの學者の論ずる如く正しからずといふべし。そは如何といふに、弓削皇子の薨去は、上の但馬皇女の薨去より九年前の事なればなり。これによりて、古義の如く置き所を改むる如き學者もいでたるが、考の惡評も大かたかゝる事に根ざせるが如くに思はる。されど、歌の位置の不合理が、歌の實質の批評にまでも影響すべきものにあらざるべし。さてこの藤原宮のあたりは年次の亂れ多くしてこゝにのみ限るべからず。この事は、卷一にても見たることなればなり。按ずるに萬葉集中この二卷は最も整へる如くなれど、なほ嚴撰せるものにあらねばこそかゝる錯亂もあるなれ。これによりて歌の意の上にまでとかくの批評を下し、又は歌をおきかふるが如きことは角を矯めて牛を殺すの諺にも似たらむ。ただ、その事實を明かにして讀者の注意を喚起しおくに止むべきのみ。
 
(537)反歌一首
 
205 王者《オホキミハ》、神西座者《カミニシマセバ》、天雲之《アマグモノ》、五百重之下爾《イホヘノシタニ》、隱賜奴《カクリタマヒヌ》。
 
○王者 「オホキミハ」とよむ。「王」を「オホキミ」とよむこと上にいへり。而して「オホキミ」は天皇をさすを本體とする語にして、轉じて皇族をもさし奉れるなるが、ここは弓削皇子をさし奉れり。卷三卷頭の歌(二三五)「皇者神二四座者天雲之雷之上爾廬爲流鴨《オホキミハカミニシマセバアマグモノイカツチノウヘニイホリスルカモ》」とあるを參考とすべし。
○神西座者 「カミニシマセバ」とよむ。「西」は「ニ」「シ」といふ助詞をあらはすにかれり。「シ」は強めの爲に加へし助詞にして「神ニマセバ」といふ事なり。「神ニマセバ」の「マス」は「アリ」に代ふる敬稱語なれば「神ニアレバ」の義なり。而してその「ニ」助詞は賓格を示すものなれば、「神ナレバ」といふにおなじ。これは皇子は今や神にましませばといふなり。
○天雲之 「アマグモノ」とよむ。この語は上にもありて例多きが、假名書のものにては卷十四「三四〇九」に「伊香保呂爾安麻久母伊都藝《イカホロニアマゲモイツギ》」卷十九「四二九六」に「安麻久母爾可里曾奈久奈流《アマグモニカリゾナクナル》」等なり。
○五百重之下爾 舊訓「イホヘノシタニ」とよめり。萬葉考は「下」は「上」の誤とせるが、本居宣長はもとのままなるをよしとせり。その説に曰はく「考に下を上と改められたるは僻事也。下は裏にてうちと云に同じ。うへは表なれば違へり。表に隱るゝと云ことやはあるべき。上下の字にのみなづみて表裏の意をわすれられし也。」と言へり。(王の小琴)この説もやゝ極端なるが、上といふも下といふも心のおき處の差にていづれを誤ともいひがたし。これにつきては(538)攷證に例をあげて曰はく「本集十一【七丁】に吾|裏紐《シタヒモヲ》云々(二四一三)また【八丁】從裏戀者《シタユコフレバ》云々(二四四一)十二【二丁】に裏服矣《シタニキマシヲ》云々(二八五二)など裏をもしたとよめるにてもこゝの下《シタ》は裏《ウラ》の意なるをしるべし」といへり。五百重は八重といへるよりも甚しく無數に重なりたるをいへるなり。
○隱賜奴 舊訓「カクレタマヒヌ」とよみたるが、略解の如く「カクリタマヒヌ」とよむをよしとす。「カクル」は今專ら下二段活用にのみ用ゐれど、古は四段活用にも用ゐしにて四段活用の方古語たるべきことは上の「一六九」の「隱良久惜毛」「一九九」の「磐隱座」の下にいへるが如し。
○一首の意 皇子は神にてましませば、天雲の五百重重なれるうちにかくれ給へりとなり。このうちに現身をもてるわれらの隨ひ奉ることを得ぬ嘆を含めたり。
 
又短歌一首
 
○ これにつきて考には別の書の歌なるべしといひ、古義にはこの五字削るべしとせり。その理由とする所は「右の反歌の一本ならば或本歌と載べし、又と書たることいかゞ」といふにあり。然れどもこれは攷證に「又とはまへの端辭の弓削皇子薨時置始連東人作歌とあるをうけて又そのをりのといへる意、短歌はまへの長歌にむかへいへるによりて短歌とはしるせるにて、たゞの歌といふ意なればこゝを前の長歌の反歌といふにあらで、かの弓削皇子の薨給へる時別によめるたゞの歌といふ也」といへるが本意を得たるものといふべし。さてこの歌作者誰人か明記せず。されど、その「又」とあるを上の如く釋するときは同人の作なる由なることは殆ど(539)疑ふべからざるが如し。
 
206 神樂波之《ササナミノ》、志賀左射禮浪《シガサザレナミ》、敷布爾《シクシクニ》、常丹跡君之《ツネニトキミガ》、所念有計類《オモホセリケル》。
 
○神樂波之 「ササナミノ」とよむ「神樂」を「ササ」の語にあつる事は卷一「二九」の「樂浪」の下にいへる如く神樂を古「佐々」といひしによる。(釋日本紀卷二十四)なほ委しくいはば、「佐々」は神樂の囃詞なれば卷七「一三九八」に「神樂聲《ササ》浪山とかけるを最も委しとす。而して卷二「一五四」に「神樂浪」とかけるが、ここはその「浪」と「波」とのかはれるのみなり。さて「ササナミ」は枕詞にはあらで地名にして近江の滋賀郡より高島郡にかけての一帶の地を含めりと見ゆること卷一「二九」の下にいへるが如し。
○志賀左射禮浪 「シガサザレナミ」とよむ。「ササレナミ」とよむ人あれど、「射」は元來濁音なれば「ザ」とよみて不當なるにあらず。「さざれ石」などの例に同じくよむべきものなり。この「志賀」は卷一「三一」の「左散難彌乃志我能大和太」といへる、かの湖をさせるものにして、さざれ浪とは卷十二「三〇一二」に「登能雲入雨零河之左射禮浪《トノクモリアメフルカハノサザレナミ》」、卷十三「三二二六」に「沙邪禮浪浮而流長谷河《サザレナミウキテナガルルハツセガハ》」卷十七「三九九三」に「佐射禮奈美多知底毛爲底母《サザレナミタチテモヰテモ》」とあるものにおなじく、細かなる浪なり。こまかきものに「さざれ何」といふは卷十四「三五四二」に「佐射禮伊思爾古馬乎波左世※[氏/一]《サザレイシニコマヲハサセテ》」とある「サザレイシ」は類聚名義抄に「礫」の訓としたるにても知るべし。「志賀さざれ浪」とは志賀の湖に立つさざれ浪といふ義なるが、面白きいひざまにして、古語の妙かくの如き所にも存すといふべく、卷三人麿の歌(540)(二六六)に「淡海乃海夕浪千鳥」といへるにも趣通へり。さてこの「サザレ浪」は「シクシクニ」を導く序とせるなり。
○敷布爾 舊訓「シクシクニ」とよむ。古寫本「シキシクニ」とよめるものあり、童蒙抄には「シキシキニ」又「ウツタヘニ」とよみたり。さてこの文字を「ウツタヘニ」とよまむは根據なき所なれば從ひ難し。「敷」も「布」も「シク」といふ動詞にあたるものなれば、文宇のままならば「シキシキ」とも「シキシク」とも「シクシク」ともよまれざるにあらず。されど、そのいづれにしても當時行はれし語をあらはせるものなるべければ、他に確證あるものによりてそのいづれによるべきかを決すべきなり。かくて考ふれば、卷十七「三九八六」に「之夫多爾能佐伎能安里蘇爾與須流奈美伊夜思久思久爾伊爾之弊於毛保由《シブタニノサキノアリソニヨスルナミイヤシクシクニイニシヘオモホユ》」又「三九八九」に「奈呉能宇美能意吉都之良奈美志苦思苦爾於毛保要武可母大知和可禮奈波《ナゴノウミノオキツシラナミシクシクニオモホエムカモタチワカレナバ》」とあるはこれ浪の縁によりて、下に「シクシクニ」といへるにて趣似たり。而して「ニ」なくして「シクシク」といへる語は例甚だ多くして、その假名書の例は卷十七「三九七四」に「宇流派之等安我毛布伎美波思久思久於毛保由《ウルハシトワガモフキミハシクシクオモホユ》」卷二十「四四七六」に「之久之久伎美爾故非和多利奈無《シクシクキミニコヒワタリナム》」などあり。しかるに「シキシクニ」又は「シキシキニ」と假名書にせるもの一も見えねば、「シクシクニ」とよむをよしとすべし。さて、この語は如何なる構造にして如何なる意を示すかといふに、これは「シク」といふ動詞の終止形を重ねて、情態の副詞の如き用をなすに用ゐたるものなり。かかる例は古語に多く「比可婆奴流奴流和爾奈多要曾禰《ヒカバヌルヌルワニナタエソネ》」(卷十四、三三七八)「可久須酒曾宿奈莫那里爾思於久乎可奴加奴《カクススゾネナナナリニシオクヲカヌカヌ》」(卷十四、三四八七)などみな「「ぬる」「す」「かぬ」といふ動詞の終止形を重ね(541)用ゐたるものにして、この形式によれるものは、「かへすかへす」「ますます」「なくなく」「はふはふ」「みすみす」「みるみる」「ゆくゆく」など今日の語にも多きなり。かくしてその語に更に往々「に」助詞を添へて用ゐることあるは、「ますますに」などいふ語にても知るべし。さてこの「シクシク」は如何なる義なるかといふに、この語はここの例の如く多く浪の縁にいへることは上にあげたる他の場合にても見るべくなほ集中に例多し。而して卷十一「二七三五」に「住吉之城師乃浦箕爾布浪之《スミノエノキシノウラミニシクナミノ》」「二四二七」に「是川瀬瀬敷浪布布《ウヂカハノセゼノシキナミシクシクニ》」など見えたるが「布」「敷」はよみをかりたるまでの字にして又日本紀垂仁卷に「重浪」とかけるをも古來「シキナミ」とよみ來れるが、この語は新撰字鏡に「※[さんずい+施の旁]※[さんずい+沓]」(文選海賦に「※[さんずい+沓]※[さんずい+※[しんにょう+施の旁]」とあるものの顛倒か。)に注して「波浪相重之※[白/ハ]|之支奈美《シキナミ》」と見ゆるにて明かなる如く、波の相重り至るを「シク」とはいへるなり。されば「シクシク」は引きつづき重なり至ることにして、上に「さざれ浪」をおきてその縁にかくいへるも道理あることといふべし。さてかく引きつづき波の重なり至る意よりして、「常」といふ語を導く形容の語の如くに誤解せられ易けれど、これは下の「思ふ」といふにかかりてそれの修飾格とせるものなり。
○常爾跡君之 「ツネニトキミガ」とよむ。考には「トコニト」とよみたれど、「トコニ」といふ語は古今に例なきものなれば、從ひ難し。「ツネニ」の例は集中に少からず。卷五「八〇四」に「余乃奈迦野都禰爾阿利家留《ヨノナカヤツネニアリケル》」卷二十「四四九八」に「伊蘇麻都能都禰爾伊麻佐禰《イソマツノツネニイマサネ》」などそれなり。その語の意は「不斷に」といふに近し。「常ニト」とある「ニ」と「ト」との間には然るべき語を略せる筈なり。その略せるは歌全體の意によりて推すべきなり。「君が」はここにては主格なること疑なければ「君が常(542)に……と所念有計類」といふ意なるべきが、下句に異説あれば、それを決するまでは「に」「と」の間の略語の意は計りがたし。
○所念有計類 舊訓「オボシタリケル」とよみたり。意義はそれにてもよからむが、「オボス」といふ語は「オモホス」を約めたるものにして、平安朝の形と認めらるるものなれば、ここのよみ方に用ゐるはよからず。代匠記は「オモホエタリケル」とよみたるが、玉の小琴は「オモホセリケル」とよみたり。代匠紀のかくよめりしは「東人がみづからの心を述たるなり」といふ解釋より出でたるものなるが、かくする時は上の「君が」はこの句に對しての主格にあらずして「常に」の主格となるべくして「常にと」の解釋にも差を生ずべし。然るにかく「常にと君が」といふ形を以て「『君が常に』と」といふ形の置きかへとするが如き語法は未だかつて例なきことなれば、從ふべからず。かくして「君が」はこの句の主格とする時は「オモホエタリケル」とよまむ時に、その「オモホエ」は敬意と見るより外に解釋の方法なかるべし。而してこの頃に「オモホユ」といふ形を敬語としたる例を見ず。これを敬語とする時は「オモホス」の外あるべからず。而して本集中「所思」「所念」を「オモホス」にあてたること例多ければ、ここは「オモホセリケル」といふ玉の小琴のよみ方に從ふべきなり。かく考ふるときに、君が「常におほしまさむ」と思ひ給ひしことよといふ如き意になりてはじめて略語の意を推すを得し。さて又ここに、この句は明かに「ケル」といふ連體形を以て終止せるに、上にそれを導くべき特別の係助詞なし。されば、これ尋常の終止の法にあらず。これは所謂餘情の終止にして、詠嘆の意を、これによりて寓しあらはしたるなり。
(543)○一首の意 初二句は第三句「シクシクニ」の序にして、わが君は常《ツネ》に斷えずこの世に御座しまさむとしくしくに、屡おもほしましけむものを。今はその御志も違ひて薨じ給へるくちをしさよとなり。
 
柿本朝臣人麿妻死之後泣血哀慟作歌二首并短歌
 
○柿本朝臣人麿 この人の事卷一「二九」の歌以下に屡見えたり。
○妻死之後 古義に「メノミマカリシノチ」とよめり。これも惡しきにあらねど、「メノスギニシノチ」ともよむべし。意は明かなり。然るに考はこの「妻死之後」以下を削り、その傍に加へて「所竊通娘子死之時悲傷《シヌビニカヨヘルヲトメガミマカレルトキカナシミテ》作歌」とし、さて曰はく、
  ここに今本には柿本朝臣人麻呂(ガ)妻死之後泣血哀慟作歌二首并短歌とのみ有は端詞どもの亂れ失たるを後人のこころもて書しものぞ。仍て今此一二卷の例に依て、傍の言をなしつ。其のゆゑはここの二首の長歌の意、前一首は忍びて通ふ女の死たるをいたみ、次なるは兒さへありしむかひ妻の死せるをなげける也。然れば、前なるをも妻とかきて同じ端詞の下に載べきにあらず。又益なく泣v血云々の言をいへること、此卷どもの例にたがへり。なまなまなる人のさかしら也。
といへり。かくて檜嬬手は全くこれに從ひて端詞を改めて次の如き論を爲せり。
  此端書本に……(原本の端書とて並べ出したれども、此二首の長歌によみたるにはあらず。(544)此一首は人麻呂主年弱き時、京に在ししほど、忍びて通ひし女の死けるを悼めるうた也。次なるは石見より歸京の後、嫡妻の死けるを悲める歌也。故にこたび端書を正し改めて別にせり。
といへり。これは、まさしく考の説に基づきてしかも更にその説を進めてそのよみたる時に前後ありとまでにいへるなり。略解は、さすがに端詞を改むることなけれども、なほその意につきては、
  此二首の長歌の意前一首は忍びて通ふ女の死たるをいたみ、次なるは子さへなしたる嫡妻の死たるをなけくと見ゆ。
といひて、考の説に從へるなり。攷證も亦
  人麿の妻の上【攷證二中一丁】にあげたる考別記の説のごとく、前後四人の中に二人は嫡褄、二人は妾とおぼしき也。ここなる二首の歌の前一首は妾、のちの一首は妻の失たるをかなしまれし歌と見えたり。さて考に、この端詞を柿本人麿所竊通娘子死之時悲傷作歌と改られしは誤り也。いにしへは、おほどかにして、妻をも妾をもおしなべてつまとはいひしなれば、ここに妻をも妾ともに、妻と書て二首の端詞を一つにてもたしめしなり。
といへり。その趣旨は略解と一なるが、委しく論ぜるを異なりとす。古義の説もながけれど、大體攷證と趣同じきものといふべし。註疏、美夫君志また簡單なるが、攷證、古義の説と歸を一にせり。按ずるに、考の端詞を改めたるは武斷にすぎて後の諸家一も賛成するものなきが如(545)く從ふべからぬは當然の事なり。然れども、ここに長歌一首短歌二首の各二重になりをるによりて、二人の妻妾ありしが爲なりとする事は以上の諸家のすべて一致する所なるは頗るいぶかしき事といふべし。この詞書のままならば、二人の妻又は妾を吊へりといふ事は考ふべからず。又前の歌には忍びて通ふ女のさまにいひ、後の歌には子をもてる女のさまにいひたりといふことは二人の妻妾を別々にうたへりといふ事の證になるべきことなりや。かかる事は全然無稽の論にして、決して從ふべきものにあらず。今先づ卷一卷二を通じて人麿の作歌の傾向を見るに、その短歌又長歌に於いて、一首のものよりも、二首以上の連作のもの多きを見る。即ちその短歌一首のものは、この卷の「柿本朝臣人麿在2石見國1臨死之時自傷作歌」(二二三)一首のみにして、他は反歌を伴へる長歌、若くは短歌の連作なり。而してその短歌の連作も卷一の「幸伊勢國之時留京柿本朝臣人麿作歌三首」(「四〇」「四一」「四二」)の一團のみにして他は長歌なり。而してその長歌も一首なるものと二首の集團なるものとあり。さて又その長歌一首なるものも反歌を伴はざるはなく、しかも、その伴はれたる反歌の一首に止まれるは卷二の「柿本朝臣人麿献泊瀬部皇女忍坂部皇子歌一首并短歌」(「一九四」「一九五」)の一團のみにして他は二首若くは四首の反歌を伴へるものなり。その反歌二首を伴へるは卷一の「過近江荒都時柿本朝臣人麿歌」(「二九」「三〇」「三一」の一團)卷二の「日並皇子尊殯宮之時柿本朝臣人麿作歌井短歌」(「一六七」「一六八」「一六九」の一團)「明日香皇女木※[瓦+正]殯宮之時柿本朝臣人麿作歌一首并短歌」(「一九六」「一九七」「一九八」の一團)、「高市皇子尊城上殯宮之時柿本朝臣人麿作歌一首并短歌」(「一九九」「二〇〇」(546)「二〇一」の一團)、「吉備津采女死後柿本朝臣人麿作歌一首并短歌」(「二一七」「二一八」「二一九」)の一團)、「讃岐狹岑島視石中死人柿木朝臣人磨作歌一首並短歌」(「二二〇」「二二一」「二二二」の一團)にして、卷一の「輕皇子宿于安騎野時柿本朝臣人麿作歌一首並短歌四首」(「四」「四六」「四七」「四八」「四九」)は長歌一首に反歌四首あるものなり。次に長歌二首の集團なるものにも二の種類あり。一は各の長歌が各一首づつの反歌を伴へるものにして、卷一「幸于吉野宮之時柿本朝臣人磨作歌」にして)「三六」「三七」「三八」「三九」)これはその詞書に明かにかかる形式なるを示せり。而して目録はこの下に「二首并短歌二首」と記してそが一團たることを明かに示せり。而して左注も亦これを一團として取扱へるなり。次に、他のー類は各の長歌が各二首づつの反歌を伴へるものにして。これはこの卷相聞中なる「柿本朝臣人磨從石見別妻上來時歌二首并短歌」と端詞を置けるものこれなり。即ち「一三一」「一三二」「一三三」「一三五」「一三六」「一三七」の一團これなり。而してその間なる「一三四」は「一三二」に對する或本の説にして「一三八」「一三九」は「一三一」「一三二」「一三三」の一團に對する或本の説たるなり。これによりて考ふるときは、今のこの歌は端書に二首并短歌と記せる如くまさしく「二〇七」(長)「二〇八」(反)「二〇九」(反)「二一〇」(長)「二一一」(反)「二一二」(反)」の形式にしてかの卷二の「一三一」乃至「一三七」の集團と同一形式のものにして決してここにはじめて特別の例を見るものにあらずして人麿の長歌に存する著しき傾向たること明かなるにあらずや。今なほ念の爲に、その統計表を次に示すべし。
卷一二所載柿本人磨作歌一覽表
 
(547)〔文章と同じ内容なので省略〕
 
(548)以上の如くなれば一の事項に對して二個の長歌(各反歌を伴へる)の集團を以て詠ぜしことは人麿の歌の著しき傾向なることは疑ふべからざるものなり。然るに從來の學者何が故にかかる視易き事實を見ずして、二個の長歌あるが故に二人の死をうたへりとせしにか。若しこの論法を以てせば、かの石見國より上りし時も二回ありしものとせざるべからず、吉野離宮にてよみしも二回ありしものとせざるべからざる道理なるにあらずや。然るに、上の如き説をとれる學者は、それの所には何事もなく經過し來りてここにてかく論ずるものは、條理一貫せざるものといふべし。而してかくの如き誤れる觀察を基として、或は同時に妻と妾とありといひ、或は妻四人ありと論じ、はては古來正しくつたはれる端詞を「なま/\なる人のさかしらなり」と罵るが如きは古人を誣ふるものといふべし。ただここに多少問題となることは前には「輕の道」といひ、後に「羽買の山」といへる地名の相違なるが、これはその妾の生地と葬地との別なればこれ亦問題なかるべし。この故に余は、これは一人の妻の死を傷める一回の詠なりと信ず。その二首の長歌を以てせるものは、かの短歌の連作、又反歌の連作と同一の傾向にして、その二首にて一の意を完くするものなりといふを憚らざるなり。而してこの後に依羅娘子の歌あればこの死せしは前妻なりしことはいふまでもなし。
○泣血哀慟作歌 これをも考に此卷どもの例にたがへりと批難せれど、この前の歌の詞書に「悲傷流涕〔四字右○〕御作歌」といひ、この卷の最後の歌の詞書に「悲嘆〔二字右○〕作歌」といひ、この卷(一七一以下)の「皇子尊舍人等慟作〔右○〕歌」その前(一六五)に「哀傷御作歌」又「見結松哀咽〔二字右○〕歌」(一四三)など大同小異といふべきも(549)のにして、これを批難せば、それらも又議せらるべき筈のものなり。而していづれの古寫本もかくあれば、之を改むるには及ばざるべきなり。さて之は契沖は「いさちいたみて」とよめるが、古義はただ「かなしみよめるうた」とよめり。さて「泣血」の熟字は詩小雅、雨無正章に「鼠|思泣(ク)血《・ウレヘオモヒテ》》」と見え、易の屯卦に「上六乘馬班如、泣血漣如」と見えたるが、その義は韓非子、卞和篇に「和乃抱2其|璞《ハク》1而哭2於楚山之下1三日三夜、泣盡而繼之以v血」とあるによりて知るべし。古今集などに血の涙といへるはこの事をいへるなるが、ここは如何によむべきか、なくことの甚しきをいへるなれど、これにあたる國語なければ、たゞ「なく」にてよかるべしと思ふ。若し契沖の如くいはむとならば「なきいさち」といふべし。この語は古事記にのみ見ゆる語なるが、たゞ「いさちる」とはなくて必ず「なき」とつづけ用ゐたればなり。「哀」は「アハレム」「カナシム」「慟」は「ナゲク」「イタム」「カナシム」などの訓あるその二字を以て「カナシム」の訓にあてたるものなるべし。卷十六卷初の歌の詞書にも「其兩壯士不v堪2敢哀慟1血泣漣襟各陳心緒」とあり。
○短歌 古寫本多く小字にせり。
 
207 天飛也《アマトブヤ》、輕路者《カルノミチハ》、吾妹兒之《ワギモコガ》、里爾思有者《サトニシアレバ》、懃《ネモゴロニ》、欲見騰《ミマクホシケド》、不止行者《ヤマズユカバ》、人目乎多見《ヒトメヲオホミ》、眞禰久往者《マネクユカバ》、人應知見《ヒトシリヌベミ》、狹根葛《サネカヅラ》、後毛將相等《ノチモアハムト》、大船之《オホブネノ》、思憑而《オモヒタノミテ》、玉蜻《タマカギル》、磐垣淵之《イハガキフチノ》、隱耳《コモリノミ》、戀管在爾《コヒツツアルニ》、度日〔左○〕乃《ワタルヒノ》、晩去之如《クレユクガゴト》、照月之《テルツキノ》、雲隱如《クモカクルゴト》、奧津藻之《オキツモノ》、名引之妹者《ナビキシイモハ》、黄葉乃《モミヂバノ》、過伊(550)去等《スギテイユクト》、玉梓之《タマヅサノ》、使乃言者《ツカヒノイヘバ》、梓弓《アヅサユミ》、聲爾聞而《ヲトニキキテ》、【一云聲耳聞而】將言爲便《イハムスベ》、世武爲便不知爾《セムスベシラニ》、聲耳乎《オトノミヲ》、聞而有不得者《キキテアリエネバ》、吾戀千重之一隔毛《ワガコフルチヘノヒトヘモ》、遣悶流《オモヒヤル》、情毛有八等《ココロモアリヤト》、吾妹子之《ワギモコガ》、不止出見之《ヤマズイデミシ》、輕市爾《カルノイチニ》、吾立聞者《ワガタチキケバ》、玉手次《タマダスキ》、畝火乃山爾《ウネビノヤマニ》、喧鳥之《ナクトリノ》、音母不所聞《オトモキコエズ》、玉桙《タマホコノ》、道行人毛《ミチユクヒトモ》、獨谷《ヒトリダニ》、似之不去者《ニテシユカネバ》、爲便乎無見《スベヲナミ》、妹之名喚而《イモガナヨビテ》、袖曾振鶴《ソデゾフリツル》。 【或本有d謂2之名耳聞而有不得1句u】
 
○天飛也 「アマトブヤ」とよむ。この語は卷四「五四二」に「天翔哉輕路從《アマトブヤカルノミチヨリ》」卷十一「二六五六」に「天飛也輕乃社之齋槻《アマトブヤカルノヤシロノイハヒツキ》」の如く「かる」の枕詞とせるものなるが、そは元來「かり」の枕詞なるものにして卷十「二二三八」に「天飛也鴈之翅乃覆羽之《アマトブヤカリノツバサノオホヒバノ》」とあるを正しとすべきなるが、その「カリ」を轉じて「かる」といふ地名にかけてその枕詞としたるものなり。「也」は「たかゆくや〔右○〕はやふさわけ」「たかしるや〔右○〕ひのみかげ」「いはみのや〔右○〕」「あふみのや〔右○〕」どの「や」におなじき間投助詞なり。
○輕路者 舊本「カルノミチヲハ」とよめり。玉の小琴に「カルノミチハ」と六言によむべしといへり。「者」一字を「ヲバ」とよむことは無理なる上、「ハ」のみにても「ヲバ」の意に用ゐること古今例多きことなるが故に本居の説に從ふべし。この「輕の路」は上にひける卷四の歌に「天翔哉輕路從《アマトブヤカルノミチヨリ》、玉手次畝火乎見管《タマダスキウネビヲミツツ》」とあり、又古事記に懿徳天皇の宮城を「輕之境岡宮」應神天皇の宮城を「輕島之明宮」應神天皇卷に「輕之酒折池」又垂仁天皇卷に「倭之市師池、輕池」といふあり。日本紀にも又屡見(551)ゆる地名にして、推古天皇の卷には皇大夫人堅鹽孃を檜隈大陵に改め葬りし時「輕街」に誄しまつりしことをいひ、又天武天皇の卷には輕寺の名見ゆ。本集にては上にあげたる「輕路」「輕乃社」の外に卷三「三九〇」に「輕池」あるのみならず、この歌に「輕市」とも見ゆ。これらによりてこの地は社あり、寺あり、市あり、大路あり、又池ありし地にして、畝傍山に遠からず、又檜隈に接せし地なりしことは疑ふべからず。さてその輕寺といふはもと大輕付にありしが今は廢寺となれりといへり。その大輕村は今の白橿村の地内にあるが、ここを大輕といふに照して考ふれば、輕といふ總名をもてよばれし地はなほ廣くしてこの附近をも含みしならむ。辰巳利文氏は今の大字五條野、石川、見瀬ありにまで延びてありしならむといはれたるが、恐らくは然らむ。「カルノミチ」とは、輕の地内の道路をも、又輕に行く道路をもいふべし。諸家必ず一方にかたよせむとするはいかゞなり。ここは理窟上よりいへば「輕」は「吾妹兒之里」にしてその道を「不止行者云々」とあるべきを約めていへるなること新考の説の如し。
○吾妹兒之 「ワギモコガ」とよむ。この語、卷一「四四」「七三」などにいへり。ここはその死せる妻をさせり。
○里爾思有者 「サトニシアレバ」なり。「シ」は強めて指したる助詞なり。この里はその妻の本つ家のある里をいふなり。今も嫁又聟のその生家を里といふは古の名殘なり。この卷「一〇三」に「吾里爾大雪落有《ワガサトニオホユキフレリ》、大原乃古爾之郷爾落卷者後《オホハラノフリニシサトニフラマクハノチ》」又卷三「二六八」に「吾背子我古家乃里之明日香庭《ワガセコガフルヘノサトノアスカニハ》」などあり。
(552)○懃 「ネモコロニ」とよめり。この字は廣韻に「慇懃」と熟してのみあげたるが、その「慇懃」は字典に「委曲也」と注せり。文選にては又「報任少卿書」(司馬遷)に「意氣慇懃懇懇」とあるに注して李善曰はく「慇懃懇懇忠款之※[白/ハ]也」といへり。而してこの「慇懃懇懇」は楊雄の劇秦美新には「勤勤懇懇」といふ文字に作れり。これによりて考ふるに、「懃」字はもと「勤」字に同じものなるべし。今わが訓を見るに、普通に「懃」にも「勤」にも「慇懃」にも「ネムゴロ」の訓を加ふ。而して類聚名義抄を見れば、「慇」「懇」「勤」共に「ネムコロ」の訓を加へ「慇懃」には「ネムコロナリ」と訓せり。色葉宇類抄には「懃」に「ネムコロ」「慇懃」に「ネムコロナリ」の訓あり。さればこれら略同一義なるべしとするが、その「懃」の基たりと思はるる「勤」字を詩〓風七月に「恩v斯勤v斯《ウツクシミヲアツクス》」とある「勤」の義なるべくしてこれは「篤厚也」と注せるものなり。かくて、靈異記を見るに、その中卷第十九の朱の方に「慇懃誦持(シ)晝夜不息」とある、その訓注には「慇【禰母呂爾】懃【都止米弖】」とあるが、〓齋の證注には「呂〔右○〕」の字の上に「古」字を脱せるものにして「ネモコロニ」なるべしといへり。これまことに然るべきことにして、、後世「ねむごろに」といへる語の基は「ネモコロ」なるべく思はる。而して、本集を見るに、「ネムコロ」とかけるものは一もなくして、いづれも「ネモコロ」とかけり。その例は「ねもころ」といへるが卷九「一七二三」に「河蝦鳴六田乃河之川楊乃根毛居侶雖見不飽君鴨《カハヅナクムツタノカハノカハヤギノネモコロミレドアカヌキミカモ》」といふあり。又「ねもころに」といへるは卷四「六一九」に「押照難波乃菅之根毛許呂爾君之開四乎《オシテルナニハノスゲノネモコロニキミガキキシヲ》」卷十一「二四八六」の或本歌に「血沼之海之鹽干能小松根母己呂爾戀屋度人兒故爾《チヌノウミノシホヒノコマツネモコロニコヒヤワタラムヒトノコユヱニ》」卷十四「三四一〇」に「伊香保呂能蘇比乃波里波良禰毛己呂爾於久乎奈加禰曾麻左可思余加婆《イカホロノヒノハリハラネモコロニオクヲナカネソママサカシヨカバ》」卷十七「四〇一一」に「伎奈牟和我勢故禰毛許呂爾奈孤悲曾余等曾伊麻爾都氣都流《キナムワガセコネモコロニナコヒソヨトソイマニツケツル》」(553)卷十八「四一六」に「奈呉江能須氣能根毛呂爾於母比牟須保禮《ナゴエノスケノネモコロニオモヒムスホレ》」あり。されば、ここの「懃」も「ねもころに」とよむべきものならむ。集中なほ「懃」字を用ゐたる例は卷四「五八〇」に「足引乃山爾生有菅根乃懃見卷欲君可聞《アシビキノヤマニオヒタルスガノネモコロミマクホシキキミカモ》」卷四「六八二」に「將念人爾有莫國懃情盡而戀流吾毳《オモフラムヒトニアラナクニネモコロニココロツクシテコフルワレカモ》「七四四」に「事耳乎後毛相跡懃吾乎令憑而不相可聞《コトノミヲノチモアハムトネモコロニワレヲタノメテアハザラメカモ》」「七九一」に「奧山之磐影爾生流菅根乃懃吾毛不相念有哉《オクヤマノイハカゲニオフルスガノネノネモコロワレモアヒオモハスアラム》」卷七「一三二四」に「葦根之懃念而結義之玉緒云者人將解八方《アシノネノネモコロオモヒテムスビテシタマノヲトイハバヒトトカメヤモ》」卷十一「二五二五」に「懃片念爲歟比者之吾情利乃生戸裳名寸《ネモゴロニカタモヒスレカコノゴロノワガココロドノイクルトモナキ》」「二七五八」の「菅根之懃妹爾戀西《スガノネノネモコロイモニコフルニシ》、益卜思而〔二字左○〕心不所念鴨《マスラヲゴコロオモホエヌカモ》」卷十二「三〇五一」に「足檜之山菅根乃懃吾波曾戀君之光儀乎《アシヒキノヤマスガノネノネモコロニワレハゾコフルキミガスガタヲ》」又「三〇五三」に「足檜木之山菅根乃懃不止念者於妹將相可聞《アシヒキノヤマスガノネノネモコロニヤマスオモハバイモニアハムカモ》」又「慇懃」の二字をよめるあり。卷十二「三一〇九」に「慇懃憶吾妹乎人言之繁爾因而不通比日可聞《ネモコロニオモフワキモヲヒトゴトノシゲキニヨリテヨドムコロカモ》」卷十三「三二九一」に「三芳野之眞木立山爾青生山菅之根乃慇懃吾念君者《ミヨシヌノマキタツヤマニカアヲナルヤマスガノネノネモコロニワカモフキミハ》」又「懃懇」の二字をよめるあり。卷十二「三〇五四」に「相不念有物乎鴨菅根之懃懇吾念有良武《アヒオモハズアルモノヲカモスガノネノネモコロニワガモヘルラム》」。又かくよむべき所に「惻隱」の二字をあてたるあり。前後の關係よりしてこれも「ネモコロニ」とよむべきものと考へらる。卷十一「二四七二」に「見渡三室山石穂菅惻隱吾片念爲《ミハタセハミモロノヤマノイハホスゲネモコロニワガカタモヒゾスル》」「二三九三」に「玉桙道不行爲有者惻隱此有戀不相《タマホコノミチユカズシテアラマセバネモコロカカルコヒニハアハジ》」「二四七三」に「菅根惻隱君結爲我紐緒解人不有《スガノネノネモコロキミガムスヒテシワガヒモノヲヲトクヒトアラジ》」また「ネモコロコロニ」とかけるあり。これは「ネモコロ」を重ねいふべきを約めたるなり。卷二十「四四五四」に「高山乃伊波保爾於布流須我乃根能根母許呂其呂爾布里於久白雪《タカヤマノイハホニオフルスガノネノネモコロゴロニフリオクシラユキ》」卷十三「三二八四」に「菅根之根毛一伏三向凝呂爾吾念有妹爾縁而者《スガノネノネモコロコロニワガオモヘルイモニヨリテバ》」の如きこれなり。かくて卷十二「二八五七」の「菅根之惻韻惻隱照日乾哉吾袖於妹不相爲《スカノネノネモコロコロニテレルヒニヒメヤワガソデイモニアハズシテ》」の場合の「惻隱惻隱」は「ネモコロコロニ」とよむべきことこれ亦首肯せらる。さて上の如く多くの例を(554)あげたるはこれによりて「ネモコロ」といふ語の意義を知らむと欲するが故なり。按ずるにこれが語源には多少の説なきにあらねど、首肯すべきものを見ず、又今の「ねんごろ」といふ語の基たるは明かなれど、今の義と必ずしも一ならねば、結局は實例によりて考ふる外あるまじきなり。今上の諸例を通じてその用ゐる場合を概括して見るに、
 ――ニオモヒ〔三字右○〕ムスボレ      (十八、四一一六)
 ――ワレモアヒオモハ〔三字右○〕ズアレヤ  (四、七九一)
 ――オモヒ〔三字右○〕テムスビテシ     (七、一三二四)
 ――ニカタモヒ〔四字右○〕スレカ      (十一、二五二五)
 ――ニヤマズオモハ〔三字右○〕バ      (十二、三〇五三)
 ――ニオモフ〔三字右○〕ワギモヲ      (十二、三一〇九)
 ――ニワガモフ〔二字右○〕キミハ      (十三、三二九一)
 ――ワレハオモヒ〔三字右○〕タルラム    (十二、三〇五四)
 ―― ワレハカタモヒ〔四字右○〕ニシテ   (十一、二四七二)
 ――ゴロニワガモヘル〔三字右○〕妹ニヨリテハ(十三、三二八四)
の如く「オモフ」といふ語に關するもの最も多く、次は
 ――ニコヒ〔二字右○〕ヤワタラム      (十一、二四八六或本歌)
 ――ニナコヒ〔二字右○〕ソヨトゾ      (十七、四〇一一)
(555) ――ココロツクシテコフル〔三字右○〕ワレカモ(四、六八二)
 ――イモニコヒ〔二字右○〕ニシ?      (十一、二七五八)
 ――ニワレハゾコフル〔三字右○〕      (十二、三〇五一)
の如く「コフ」といふ語に關するものあり。又
 ――ミレ〔二字右○〕ドアカヌキミカモ    (九、一七二三)
 ――ミ〔右○〕マクホシキキミカモ      (四、五八〇)
の如く「ミル」といふ語に關するものあり。又
 ――ニキミガキキシ〔三字右○〕ヲ      (四、六一九)
の如く「キク」といふ語に關するものあり。又
 ――ニワレヲタノメ〔三字右○〕テアハザラメカモ (四、七四〇)
 ――ニオクヲナカネソ〔七字右○〕      (十四、三四一〇)
の如く「約束スル」意の語に關するものあり。又
 ――カカル戀ニハアハジ           (十一、二三九三)
の如く、特別にかゝる語なく、下の句全體に關するものあり。以上は心情に關せる意をあらはせるものなるが、必ずしも然らざるなり。即ち
 ――君ガ結ビ〔二字右○〕テシ我ガ紐ノ緒   (十一、二四七三)
 ――ゴロニフリ〔二字右○〕オク白雪     (二十、四四五四)
(556) ――ニテレル〔三字右○〕日ニモ     (十一、二八五七)
の如く「紐を結ぶこと」「雪のふること」「日の照ること」にもいふを見れば、吾人の今日いふ「ねんごろ」といふ語とは異なる意味を有してありしものならむ。然れども、又その「思ふ」「戀ふ」又約束する意のものにては今の「ねんごろ」に似たる點もありしことは想像に堪へたり。されば、この頃の「ねもころ」は以上すべてに通じうる意のものなりしならむか。然れども、その意を捕ふるは容易ならざるを以て、更に古、「ねもころ」とよまれたりしならむと考へらるゝ「ねんころ」といふ語を以てあてられたる漢字を見るに、上來あげしものの外に、色葉字類抄には
  苦〔右○〕 寧〔右○〕 切 恩〔右○〕 丁寧〔二字右○〕 鄭重 懇切 一心
を見、類聚名義抄には
  僧 丁寧〔二字右○〕 渇 鄭 恩〔右○〕 思 恰 寧〔右○〕 困〔右○〕 苦〔右○〕 蓐 剋 欽 酸〔右○〕 投 闊 ※[草がんむり/濶] 力〔右○〕 甘 孔
等あり。されば、古の「ネモコロ」といひしには今いふ「鄭重」「丁寧」などの意もありしならむ。又されば、「ネモコロ」は「慇懃」「丁寧」「鄭重」「懇切」のすべてに通ずる言あるものなるべく、又「困」「苦」「酸」「力」などの字をよめるを見れば、「力を盡し」「身心を苦むる」意もありと見らるべく思はる。而してそは、主觀的のみならず、客觀的にも通じていへるものなれば、主觀的には「力を盡し、身を苦め、心を盡し、至らざる所なく十分なる」意にして又かの字典に注せる「委曲」文選の注の「忠款」詩經の注の「篤厚」の意を共通してもてるものなれば、客觀的には「徹底的」「普遍的」といふ程の意ありと見るべき(557)ものなり。ひきくるめていへば「十分に……」といふ語を基として主觀客觀兩界に之をあてて前のいづれかの意に照して釋すべきなり。
○欲見騰 舊訓「ミマクホリス」とよみたるが、童蒙抄には「ミマホシケレド」とよみ、考に「ミマクホシケド」とよめり。さて「ミマクホリスト」とよむときは、「懃に見たしとて」の意となれば、意味通らぬにはあらねど、不十分なり。されば、「ミマホシケレド」「ミマクホシケド」の二者のうちなるべし。この二者意は同じけれど、語に新古あり。「ミマホシ」といふ語は「ミマクホシ」と同じ意なれど、その約まれるものなるべくして平安朝以後に例多く、萬葉集時代の文献に例を見ざれば、從ひがたし。されば考の説に從ふべきが、この語の倒は卷六「九四六」に「深見流乃見卷欲跡」など書けるが、「ホシケド」といふ語の例は、古事記下、仁徳卷に「波斯多弖能久良波斯夜麻波《ハシタテノクラハシヤマハ》佐賀斯祁杼〔五字右○〕」本集卷五「八〇四」に「多摩枳波流伊能知遠志家騰世武周弊母奈斯《タマキハルイノチヲシケドセムスベモナシ》」卷十七「三九六二」に「多麻伎波流伊乃知乎之家騰《タマキハルイノチヲシケド》」「三九六九」に「多麻伎波流伊能知乎之家登《タマキハルイノチヲシケド》」などにて推すべし。即ち、これは「ミマクホシクアレド」の約まれるなり。「ミマクホシ」とはみむことのほしきなり。
○不止行者 舊來「ヤマズユカバ」とよみたるを、考に「ツネニユカバ」と改めたるが、玉小琴は舊訓をよしとせり。按ずるに「不止行」を三字一團として「ツネニユク」と義訓し得ることあらむも「不止」を「ツネニ」とよまむは無理なり、其の上に卷十四「三二八七」に「可都思加乃麻末乃都藝波思夜麻受可欲波牟《カツシカノママノツギハシヤマズカヨハム》」「三七六六」に「之多婢毛爾由比都氣毛《シタヒモニユヒツケモチ》知弖夜麻受之努波世《テヤマズシヌバセ》」といふ假名書の例あり、又卷十二「三〇五五」に「山菅之不正而公乎念可母《ヤマスゲノヤマズテキミヲオモヘカモ》」「三〇六六」に「山菅之不出八將戀命不死者《ヤマスゲノヤマズヤコヒムイノチシナズバ》」とあるはそ(558)の枕詞の關係よりして「ヤマズ」とよむべきものなるを確定的に示せるものなり。(やむ時なく」の意にして不斷の字あつべく、今の俗語に「たえずゆく」などいふ「たえず」におなじ。
○人目乎多見 「ヒトメヲオホミ」とよむ。卷十二「二九一〇」に「心者千重百重思有杼《ココロニハチヘニモモヘニオモヘレド》、人目乎多見《ヒトメヲオホミ》、妹爾不相可母《イモニアハヌカモ》」とあるを以てその心を知るべし。人目は上「一七〇」にいへり。人目を多しと思ふによりてなり。多くの人の目にかかるが厭はしきによりてといふ意なり。
○眞根久住者 「マネクユカバ」なり。「マネク」といふ語の例は卷一「八二」の「うらさぶる心さまねし」の下にもいへるが、なほ卷四「七八七」に「如夢所念鴨愛八師君之使乃麻禰久通者《イメノゴトオモホユルカモハシキヤシキミガツカヒノマネクカヨヘバ》」卷十七「四〇一二」に「矢形尾能多加乎手爾須惠美之麻野爾可良奴日麻禰久都奇曾倍爾家流《ヤカタヲノタカヲテニスヱミシマヌニカラヌヒマネクツキゾヘニケル》」などの例あり。この語は卷一に既にいへる如く「くしき」の活用をなす形容詞にして、物事のしげく多きをいふ意のものなるが、具體的にはその所々にあてて釋すべく、ここはその事の度々あるをいふ意のものにしてしげく度々その里に行かばの意なり。
○人應知見 「ヒトシリヌベミ」とよむ。「應」は「べし」なるが、「ベミ」とよむ爲に下に「見」を加へたるなり。この語を全く、假名書にせる例はなけれど、卷十九「四一九三」の「霍公鳥鳴羽觸爾毛落爾家利盛過良志藤奈美能花《ホトトキスナクハフリニモチリニケリサカリスグフヂナミノハナ》」に對して「一云、落奴倍美袖爾古伎禮都藤浪乃花《チリヌベミソデニコキレツフヂナミノハナ》」といひ、又卷十「二二九〇」に「秋芽子乎落過沼蛇手折持雖見不怜君西不有者《アキハギヲチリスギヌベミタヲリモチミレドモサブシキミニシアラネバ》」卷十四「三四六八」に「夜麻杼里乃乎呂能波都乎爾可賀美句氣刀奈布倍美許曾奈爾與曾利鷄米《ヤマドリノヲロノハツヲニカガミカケトナフベミコソナニヨソリケメ》」などあるによりて推して知るべし。「べみ」は「ベシ」の幹より麻行四段活用連用形の「み」の如きにうつり行きしものにして「べきによりて」といふ程の意(559)をあらはせり。「知りぬべし」は俗語にては「知りてしまふべし」の意なり。
○狹根葛 「サネカツラ」とよむ。これは木状蔓草の名にして、本草和名に「五味」に「和名佐禰加都良」とあり。これは上(九四)に「狹名葛」とあると同じものなれど、ここには明かに「根」字をかきたれば「サネカツラ」とよむべきなり。卷十三「二四七九」に「核葛後相夢耳受日度年經乍《サネカツラノチモアハムトイノメノミヲウケヒワタリテトシハヘニツヽ》」とあるはここと同じ用例なり。さて葛は長く延ひわたりて、末またはひあひからまるものなれば、後にあはむといふ事の枕詞にせるなり。
○復毛將相等 「ノチモアハムト」なり。「後にもあはむと」といふなり。この詞の例は卷四「七三九」に「後湍山後毛將相常念社可死物乎至今日毛生有《ノチセヤマノチモアハムトオモヘコソシヌベキモノヲケフマデモイケレ》」卷十七「三九三三」に「阿里佐利底能知毛相牟等於母倍許曾都由能伊乃知毛都藝都追和多禮《アリサリテノチモアハムトオモヘコソツユノイノチモツギツツワタレ》」など少からず。
○大船之思憑而 「オホブネノオモヒタノミテ」なり。この語の例は上の「一六七」の歌にありて、そこにいへり。
○玉蜻 舊訓「カケロフノ」とよみ、童蒙抄は「蜻」字は「限」又は「晴」の誤か(この時には「たまきはる」とよまむとするなり)といひ、萬葉考にはこのまゝにて、「カギロヒノ」とよみ、美夫君志にはこのままにて「タマガキル」とよめり。さてこの「蜻」は類聚古集に「情」とかけるが、そは誤なること著しくして、他の諸本すべて「蜻」なれば、それを基として論ずべし。さてこれは伴信友が玉蜻考をかきて「タマカギロ」とよむべしといひ、鹿持雅澄も別に玉蜻考を著して「タマカギル」とよむべしとせるが、鹿持の説によりて「タマカギル」とよむべきことは疑ふべからず。古義は未だ玉蜻考の出來ぬ前(560)の著なれば、舊説に從へるなり。而してその鹿持の玉蜻考は木村正辭によりて補正せられたるなり。委しくは各本書を見るべし。さてその「タマカギル」の意は卷一「四五」の歌の中の「玉限」の下に説けるが、その意は玉は麗しきをたたふる詞、「カギル」はかがやくをいふなるが、さてこれを以て「イハガキフチ」の枕詞とせりと見ゆれど、その枕詞とせる理由は未だ、明かならず。鹿持の玉蜻考には「おほよそ深き淵は青く透徹るやうなれば、玉※[火+玄]《タマカキル》といへりとすべきか」といひたれど、王蜻考補正には「玉はもと石また磐などの中に交りてあるものなれば、玉※[火+玄]磐とつゝけたるか、または……玉はすべて水中にあるよしなれば淵とはつゞけたるにもあるべし」といひ、さて又允恭紀の男狹磯が赤石の海底に眞珠を得し話を引きて「これ珠の淵にありて耀けるよし也、かかれば、玉※[火+玄]淵とつづけたるなるべし」といへり。このうち後説最も近かるべきが、然るときは、この場合には「玉」は實際の珠をさせる詞なりとすべきに似たり。さて「玉カギル」を「イハガキフチ」の枕詞に用ゐたる例は卷十一「二五〇九」に「眞祖鏡雖見言哉玉限石垣淵乃隱而在※[女+麗]《マソカガミミトモイハメヤタマカキルイハガキフチノコモリタルイモ》」(二七〇〇」に「玉蜻石垣淵之隱庭伏以死汝名羽不謂《タマカキルイハカキフチノコモリニハコイテシヌトモナガナハイハジ》」などあり。
○磐垣淵之 「イハガキフチノ」とよむ。この語につきて契沖は「いはほの立めくりて垣の如くなる中の山川の淵なり。」といへり。大體さることなるべし。この語の例は上にあげたり。これを以て、次の語の形容に用るたるによりて「ノ」といふ助詞を加へたり。
○隱耳 舊訓「カクレノミ」とよめるが、代匠記は「コモリノミ」とよみ、後諸家之に從へり。この「隱」字は「カクレ」とも「コモル」ともよみうることは上の「二〇一」の「隱沼」の下にいへるが、ここは「カクレ」に(561)あらずしてそこにいへると同じく、ここも「コモリノミ」とよむべきものなり。これは上の「不止行者、人目乎多見、眞根久往者人應知見」をうけて下の「戀管在」につづくものにして、之を「家に隱り居る」義とすること普通なるが、果して然るか。今集中にここと同樣の詞遣をせるを見るに、卷八「一四七九」に「隱耳居者欝悒奈具左武登出立聞者來鳴日晩《コモリノミヲレバイブセミナグサムトイデタチキケハキナクヒグラシ》」とあるは家に隱りてある事なるべきが、その他の卷六「九九七」に「住吉乃粉濱之四時美開藻不見隱耳哉戀度南《スミノエノコハマノジジミアケモミズコモリニノミヤコヒワタリナム》」卷十「一九九二」に「隱耳戀者苦瞿麥野之花爾開出與朝旦將見《コモリノミコフレバクルシナデシコノハナニサキデヨアサナサナミム》」卷十五「三八〇三」に「隱耳戀者辛苦《コモリノミコフレハクルシ》、山葉從出來月之顯者如何《ヤマノハユイデクルツキノアラハレバイカニ》」の諸例は心の中にこの事のこめられてあることをいへること明かなり。而してそれらはいづれも下に直に「戀フル」といふ語あるが、ここもそれと趣同じければ、これは心にこめてある事をいへるものにして家に隱りてある事にはあらざるべし。
○戀管在爾 「コヒツヽアルニ」とよむ。下に思ひこめて戀つつ時日を經たりしにといふ意なり。「コヒツヽアリ」といふ詞の事はこの卷のはじめ「八六」の下にあり。
○度日〔左○〕乃 「日」の字流布本に「目」とあり。されど、他のすべての本に「日」とあれば、流布本の誤なること著し。「ワタルヒノ」とよむこと論なし。卷三「三一七」にも「度日之陰毛《ワタルヒノカゲモ》、隱比《カクロヒ》、照月之光毛不見《テルツキノヒカリモミエズ》」又卷二十「四四六九」に「和多流日能加氣爾伎保比弖多豆禰弖奈《ワタルヒノカゲニキホヒテタヅネテナ》」などあり。日月に對してわたるといふはそれの空を行くことをいへることなりといふことは、この卷「一三五」の「渡相月」の下にいへり。
○晩去之如 舊訓「クレユクガコト」とよみたるが、考に「クレヌルガコト」とよめり。「去」字は「行ク」と(562)よむこと上に屡例あり。又「ヌル」に用ゐることも本集に例あることなれば、その點のみにてはいづれとも決しかぬるなり。されど、「クレヌル」といへば、通常既にくれはてて後の事の如くに用ゐ、さなくとも、「くるる」ことを明かに示せる詞となるが、「くれゆく」といふ時は、徐に晩れつつ時の進行するをいふ事となる。これを以て考ふるに、「くれゆく」といふ方歌の意に適せりといふべし。さて「之如」は「ガコト」とよめるが、かくの如く用言の連體形をうけてよむことは卷五「八九七」に「伊等能伎弖痛伎瘡爾波鹹鹽遠灌知布何其等久《イトノキテイタキキズニハカラシホヲソソグチフガゴトク》」卷十年三六二声に「吹風能美延奴我其等久《フクカゼノミエヌガゴトク》」卷九「一八〇七」に「昨日霜將見我其登毛《キノフシモミケムガゴトモ》」などあり。
○照月乃 「テルツキノ」とよむ。意明かなり。
○雪隱如 「クモガクルゴト」とよむ。神田本には「クモコモルゴト」とよみたれど、ここは「カクル」とよむべきなり。「クモコモル」といへることは古來例なければなり。「クモガクル」は古今に通じて用ゐらるるが、假名書の例もあぐれば、卷十七「四〇一一」に「久母我久理可氣理伊爾伎等《クモガクリカケリイニキト》」などあり。さてこの「かくる」は當時四段活用なりしものなれば、その連體形より「ゴト」につづけて「クモガクルゴト」といへるなり。後世の如く下二段活用ならば、「クモガクルルゴト」とあるべき所なりとす。
○奧津藻之 「オキツモノ」とよむ。「海川の底奧に生ずる藻の」といひて「ナビク」の枕詞とせり。藻は水の流又浪のまにまになびくものなればなり。卷十一「二七八二」に「左寐蟹齒孰共宿常奧藻之名延之君之言待吾乎《サヌガニハタレトモネメドオキツモノナヒキシキミガコトマツワレヲ》」とあるその例なり。
(563)○名延之妹者 「ナビキシイモハ」とよむ。この語の例は上の條に引けり。「ナビク」といふ語は卷一「四七」の「打靡」の下にいへる如く臥したるさまをいふものなること、卷五「七九四」の「宇知那比枳許夜斯努禮《ウチナビキコヤシヌレ》」卷十四「三五六二」「宇知奈婢伎比登里夜宿良牟《ウチナビキヒトリヤヌラム》」卷十一「二四八三」「敷栲之衣手離而玉藻成靡可宿濫和平待難爾《シキタヘノコロモテカレテタマモナスナビキカヌラムワヲマチガテニ》」卷十二「三〇七九」の「海若之奧津玉藻之靡將寢早來座君待者苦毛《ワタツミノオキツタマモノナビキネムハヤキマセキミマタバクルシモ》」などの例を見て知るべきが、それも、ただの寢ぬるにはあらずして、上の卷十二の例又この卷の「一三八」の「玉藻成靡吾宿之敷妙之妹之手本乎《タマモナスナビキワガネシシキタヘノイモカタモトヲ》」の場合の如く、我と共に宿しといふなり。さて又その「宿ぬる」をただに「なびく」といへることは上の「一九四」「一九六」の「ナビカヒシ」の例によりて推すを得べし。「かく我に從ひ寐し妻は」といふなり。
○黄葉乃 「モミチハノ」とよむ。「黄葉」の文宇の事は卷一の「一六」「三八」等の下にいへり。ここは「モミチバノ」にて「スグ」の枕詞とせるものなるが、その事は卷一「四七」の「葉過去君之形見跡曾來師」の「葉」字の下にいへるが、その例は卷四「六二三」に「松之葉爾月者由移去黄葉乃過哉君之不相夜多焉《マツノハニツキハユツリヌモミチバノスギヌヤキミガアハヌヨオホミ》」卷十「二二九七」に「黄葉之過不勝兒乎人妻跡見乍哉將有戀敷物乎《モミヂハノスギガテヌコヲヒトヅマトミツツヤヲラムコホシキモノヲ》」卷十三「三三四四」に「黄葉之過行跡玉梓之使之云者《モミヂハノスギテユキヌトタマヅサノツカヒノイヘバ》」などあり。
○過伊去等 舊訓「スギテイユクト」とよみたるが、童蒙抄に「チリテイユクト」とよみ、考に「スギテイニシ」とよみ、攷證に「スギテイニキト」とよめり。童蒙抄は上の黄葉の縁によりて義訓に「チリ」とよみたるなれど、「過」字は「チル」とよむべき文字にあらねば從ひがたし。「伊去」は「イユク」「イニシ」「イニキ」の三訓あるが、これは「イユク」か「イニキ」か、いづれにも讀まるる字なれど、恐らくは「去」の一(564)字にて「イヌ」といふ語にあてたるをば、なほその「イヌ」といふ訓み方を確に知らせむとて上に「イ」を加へたるにて「イ」そのものは發語の「イ」にあらずして、ただ、「去」を「イヌ」とよまむことを指導する爲の假名なるべし。かかることをせし、理由は「過去」は普通には「スギニシ」といふやうによまれ易ければ、その「去」が、用言の「イヌ」にして複語尾の「ヌ」にあらぬことを示す必要ありしが爲なるべし。又之を受くるに「と」といふ助詞を以てせるによりて上は終止形にて「キ」といふべきものなりとす。「すぐ」はここにては黄葉のちるをいふにあらで人の死去するをいふことなるが、その事は卷一「四七」の「過去君之」の下にいへるが如し。
○玉梓之 「タマヅサノ」とよむ。「玉アヅサ」をつづめて「タマヅサ」とよむなり。この詞は後世「玉章」とかけども、その本語は恐らくはこの文字にて示されたる通のものなるべし。而してここには、「使」の枕詞とせりと見ゆ。代匠記には「使は文をもてくるものなればかくつづく」といへるが、之はは「玉章」の文字によりて「タマヅサ」を「消息の文」と見たるものならむ。考には玉津佐てふ事は意得ず。強ておもふに、玉はほむることば、つは助の辭、佐は章の字音にや。」といへるが、これも「玉章」の二字を「タマヅサ」の本字と考へたる故なるべし。玉の小琴には之を否定してさて曰はく「今按上代には梓の木に玉を着たるを使の印に持てあるきしなるべし。そは思ひかけたる人の門に錦木を多くたてしと心ばへの似たることにて、凡て使を遣る音信の志を顯す印に玉付たる梓を持て行くなるべし。さて後に文字渡り來て書を通はす世になりて消息文は使のもて來るものなる故にかの玉梓に準へてそれを同じ玉づさと云るなるべし。」といへり。攷證は(565)枕詞なり、玉はほむる詞ときこゆれど、梓の字解しがたし。代匠記、考、などに説あれどよしとも思はれず。後人よく考へてよ。」といへり。註疏は大體本居説に賛すれど、なほ疑を存して「この説さもやと思はるれど、木も多かるをことに梓と定めたるはいかなるよしならん。なほよく考ふべし」といへり。この外なほ多少の説なきにあらねどいづれも首肯せられず。按ずるに集中のこの語の例を見るに、卷二「二〇九」に「玉梓之使乎見者」卷四「六一九」に「玉梓之使母|不所見成奴禮婆《ミエズナリヌレバ》」卷十一「二五八六」の「玉梓之使|不遣《モヤラス》」卷十二「三一〇三」に「玉梓之使|乎谷宅待八金手六《ヲダニモマチヤカネテム》」卷十三「三二五八」に「玉梓之使|之不來者《ノコネバ》」「三三四四」に「玉梓之使之|云者《イヘバ》」卷十六「三八一一」に「玉梓乃使毛|不來者《ノコネバ》」卷十七「三九五七」に「多麻豆佐能使乃家禮婆《タマヅサノツカヒノケレバ》」「三九七三」に「多麻豆佐能都可比多要米也《タマヅサノツカヒタエメヤ》」の例は「玉梓」とかく外は假名書なるがいづれも「使」の枕詞なり。又卷十「二二一一」に「玉梓公之使乃手折來有此秋芽子者雖見不飽鹿裳《タマヅサノキミガツカヒノタヲリケルコノアキハギハミレドアカヌカモ》」卷十一「二五四八」に「玉梓之|君之使乎待也金手武《キミガツカヒヲマチヤカネテム》」卷十二「二九四五」に「玉梓之|君之使乎待之夜之《キミガツカヒヲマチシヨノ》」とあるも「玉梓」とのみかき下は「君が使」といへるが、なほ「使」の枕詞と見えたり。次に卷三「四二〇」の「玉梓乃|人曾言鶴《ヒトゾイヒツル》」とあるは「玉梓の使の人即ち使なりと見え、「四四五」の「玉梓|乃事太爾不告往公鴨《ノコトダニツゲズイニシキミカモ》」とあるは「玉梓」を以て直ちに使の義にせりと見えたり。されば、これらは「使」の枕詞たりしものより轉化せしこと明かなり。次に卷七の「一四一五」に「玉梓|能妹者珠氈《ノイモハタマカモ》」又「一四一六」の「玉梓之|妹者花可毛《イモハハナカモ》」とあるはその意如何にか知り難けれど、「玉梓」とかけること上に一致せり。而してこれらの外に「タマヅサ」とかける例萬葉集になし。されば、「玉章」の字を以て「タマヅサ」を解かむとするは萬葉集に於いてはあるべからざるものなるを知る。かく(566)て假名書以外のものは一の例外なく「玉梓」とかければ、その詞は「梓」をさすに相違なく、玉はただ美稱にすぎざるべし。さてかく「梓」を以て使の枕詞とする所以は蓋し、その使たるものは古、梓の杖を携へしならむ。かくいふ由は古「ハセツカベ」といふものありしが、それは馳使部の意なるべきに文字に「丈部」とかけり。而して「丈」は即「杖」なることは些の疑なければ、馳使部は必杖を用ゐしなるべく、この杖は通常梓にてつくりしなるべし。今もステツキにつくるに多く「ヅサ」と名づくる木を用ゐるはその道の人のいふ所なり。(卷一「一」の梓弓の條參照)その「づさ」をほめて「玉づさ」といへるなるべし。然らば、これ何のむづかしき事もなかるべきなり。
○使乃言者 「ツカヒノイヘバ」なり。その妻の死せし事を使の知らせたるなり。以上の語あるによりて隱し嬬なりといふ説あれど、この頃の妻といふは必ず己が家に迎へたりといふ事もあるまじく、又何かの事によりてその里に歸り居りて病氣などにて死せしを報道せしにてもあるべし。
○梓弓 「アヅサユミ」なり。「オト」の枕詞とせり、下(二一七)にも「梓弓音聞吾母《アヅサユミオトキクワレモ》」とあり。蓋しこれは卷一、「三」に「御執乃梓弓之奈加弭乃音爲奈利」とあるが如く弓を引きて放つ弦音より音にかけて枕詞とせしならむ。
○聲爾聞而 舊訓「オトニキヽツヽ」とよめるが、略解は「オトニキキテ」とよみ攷證も亦「集中に而をつつと訓る例なければしばらくてと六言によめる」といひ、考は下の一説の「聲耳聞而」をとりて本文とし、「オトノミキキテ」とよみ、攷證もこの方いたくまされりといへり。さてこゑを「オト」と(567)いへることは、卷五「八四一」に「于遇比須能於登企久奈倍爾《ウグヒスノオトキクナベニ》」などの例あり。また「聲」の字を「オト」とよむ事は類聚名義抄に聲字に「オト」の訓を加へたるのみならず、普通の字書之を示し、又卷四「七九〇」「春風之聲爾四出名者《ハルカゼノオトニシデナバ》」卷十二「三〇九〇」に「葦邊往鴨之羽音之聲耳聞管本名戀渡鴨《アシベユクカモノハオトノオトノミニキキツツモトナコヒワタルカモ》」などの用例もあり。次に「而」を「ツツ」とよむ事は攷證にいへる如く本集に例なきことなるに、訓義辨證には「而」を「ツツ」とよむべき由を力説せり。然れども、一も證をあぐることなし。從ふべからず。加之、これを「オトニキキツツ」とよむときは、これが下の「言はむすべせむすべ知らに」の修飾格又は交互作用の如くなりて意味不明瞭となるべし。されば、ここは略解の如く六言によむべし。その意は、その死を使の來りていへば、その言をききて、さて次の句にいへる感想を生じたるなり。
○一云聲耳聞而 これは一本の傳を注したるなるが、考は之を「オトノミキヽテ」とよみて、之をよしとせれど、しかある時は下の「オトノミ」といへるに重複するのみならず、ここに先づ單純に「音をきゝ」といひてさて悲嘆の後に聲のみにては覺束なく思ふ心を起したりとする方まされば、寧ろ本文の方まされるにあらずや。
○將言爲便 「イハムスベ」とよむ。かくかける例は卷三「三四二」「四六〇」卷十九「四二三六」あり。又卷九「一六二九」に「將言爲便將爲爲便毛奈之」と云ふもあり。この語の假名書の例は卷五「七九四」に「伊波牟須弊世武須弊斯良爾《イハムスベセムスベシラニ》」などあり。
○世武爲便不知爾 「セムスベシラニ」とよむ。「不知爾」は上の「不」は打消の意を示し、下の「爾」はその(568)發音を示したるものなるが、この頃「に」といふ打消の複語尾の連用形ありしなり。この語の例は上にあげし卷五「七九四」に假名書のものあり。上二句の意は妻の身まかりし由を使の來りて告げしをききて、驚き嘆きていはむかたもなく、何とせむとも判斷つかず、ひたすらあきれはてたるさまをいへるなり。
○聲耳乎聞而不得者 この二句、「オトノミヲキキテアリエネバ」とよむ。似たる例は卷十一「二八一〇」に「音耳乎聞而哉戀犬馬鏡目相而《オトノミヲキキテヤコヒムマソカガミメニタヾニミテ》、戀卷裳太口《コヒマクモオホク》」などあるが、「のみを」といへる例は上「一五五」に「哭耳呼泣乍在而哉《ネノミヲナキツツアリテヤ》」あり、又卷十四「三三九〇」に「筑波禰爾可加奈久和之能禰乃未乎加奈岐和多里南牟安布登波奈思爾《ツクハネニカガナクワシノネノミヲカナキワタリナムアフトハナシニ》」あり。さてこの句の上に「されど」といふ如き意を含めて解すべし。されど、その通知だけをききて、それにて事實いかにも最もなりと信じてある譯にはゆかねばとなり。即ち、この通信を受けてより立ちても坐りても居られねばとなり。
○吾戀 舊飜「ワカコヒノ」とよみ、考に「ワカコフル」とよみたり。ここには戀の下に文字なきが故に、このままならば、づれにても不可といふを得ず。さて本集中の例を見るに、卷六「九〇三」に「吾戀之千重之一重裳《ワカコヒノチヘノヒトヘモ》云々」とあるは明かに「ワガコヒノチヘモヒトヘモ」とよむべきものなるが、かく明かなる證は少し。又卷四「五〇九」の「吾戀流千重之一隔母《ワガコヒノチヘノヒトヘモ》」卷十三「三二七二」「吾戀流千重乃一重母《ワカコフルチヘノヒトヘモ》」はいづれも「ワガコフルチヘノヒトヘモ」とよむべきものなるが、かく明かにかけるも例多からず。元來、「戀」といふ字は用言を本體とするが故にここにも動詞としてよむを主とすべし。されば「ワガコフル」とよむべく、その意はここにては準體言にして「わが戀ふることの」の意(569)にとるべきなり。
○千重之一隔毛 「チヘノヒトヘモ」とよむ。この語の例は上にいくつもあげたり。「隔」は「へだて」なればその意を以て「へ」にあてたるなり。語の意は千重ある中の一重といふ事なるが、これは今の語にていへば「千分の一」といふことなり。「三が一」とか「十の一」とかいふと同じいひざまなり。
○遣悶流 舊訓「オモヒヤル」とよみ異論も無かりしが、玉の小琴に「ナグサモル」とよみてより諸家往々之に從へり。本居のこの説は、蓋し、卷四「五〇九」の「吾戀流千重乃一隔裳名草漏情毛有哉跡《ワカコフルチヘノヒトヘモナクサモルココロモアレヤト》」卷六「一九六三」の「吾戀之千重之一重裳奈具佐末七國《ワカコヒノチヘノヒトヘモナクサマナクニ》」卷七「一二一三」の「吾戀千重一重名草目名國《ワカコフルチヘノヒトヘモナクサメナクニ》」とあるよりいでて、これらによりたるものなるべし。しかるにこの字面は上の「明日香皇女木※[瓦+缶]殯宮之時柿本朝臣人麿作歌」にも「遣悶流情毛不在」とありて、そこには玉の小琴に説なきなり。而して、それらは古來「オモヒヤル」とよみ來りて異論もなかりしなり。然るに、本居はここに到りて遽に「思ひやる」を否定して「ナグサモル」といふ語を主張せるなり。「思ひやる」といふ語は卷一「五」に「思遣鶴寸乎白土」とあり、又卷十七「四〇〇八」に「和賀勢故乎見都追志乎禮婆於毛比夜流許等母安利之乎《ワカセコヲミツツシヲレバオモヒヤルコトモアリシヲ》」とありて物思ひを消しやりはるくる意にて、「遣悶」の字に該當すること既に屡いひたる所なり。されば、ここを思ひやるとよみて何等の差支なき筈なり。然るに、他の所をば、「オモヒヤル」とよみて、異論も唱へざる人々が、(本居のみにあらず)ここにのみ異なるよみ方をするは如何なる理由ありての事か。「遣悶」の熟字は「ナグサム」といふより「オモヒヤル」といふ意に(570)適し、又上にいふ如く「思ひやる」といふ語當時に屡例あるにあらずや。
○情毛有八等 舊板本「コヽロモアレヤト」とよみたり。古寫本には「アリヤ」とよみたるもあり。考は「アルヤ」とよみ、玉小琴は「アレヤ」をよしとし、古義は「アリヤ」とよめり。先づこの「ヤ」は疑問をあらはすか感動をあらはすかが問題なれど、いづれにしても、「アルヤ」とはつづくべきものにあらず。疑問の意なるときには、「アレ」が條件を示す場合に「アレヤ」となり、ただの疑問のときに「アリヤ」となる。感動をあらはすときにもまた「アレヤ」となる。さて「アレヤ」となるには二の意あるが、疑問のときには「アレ」が條件たる場合なるに、しかせばこの歌の意明かならず、從ふべからず。今一つの「アレヤ」は如何といふに、本居はその意を釋せず。これに賛成せる攷證は「吾戀わたるところの千が一つもなぐさむる方もやあるとて輕の市にて立きくぞとなり」なり。されど、かくては疑問の意にて本居の説にはあはず。又美夫君志も攷證によれるが、これは「吾戀わたるこころの千重が一つだになぐさむる方もやあれ〔四字右○〕とて」といへり。「もやあれ」など語は古今になき所なれば、「ある〔二字右○〕」の誤植にてもあるべきが、誤植とせばこれ亦同じ。いづれにしても本居説は成立せずしてここは疑間なること著しければ、古義の如く「ありや」とよむべきなり。
○吾妹子之 舊板本「ワキモコシ」とよみたるが、古寫本中には「ワキモコガ」とよめるもの少からず、代匠記にもしかよめり。「之」は「シ」とも「ガ」ともよみうけれど、ここは「ガ」とよむべき所なり。意は明かなり。
○不止出見之 給本「ヤマズイデミシ」とよみたるが、考に「ツネニデテミシ」とよめり。「不止」は上に(571)いへる如く、「ヤマズ」とよむべきなり。次に「デテミシ」とよむべきか、「イデミシ」とよむべきかといふに、集中に「デテ」といへる例卷十四「三五六〇」に「伊呂爾低※[氏/一]伊波奈久能未曾《イロニデテイハナクノミゾ》」「三五〇三」に「宇家良我波奈乃伊呂爾※[氏/一]米也母《ウケラガハナノイロニデメヤモ》などあれば、本集の語として不當なるにはあらねど、この卷のかき方として、かゝる際に必ず「デテ」とよますべきものならば、「出」の下に「テ」にあたる文字を加へてありしならむ。さてはここは、普通の如く「いで見し」とよむべきなり。これにつきては攷證に「でては出而《イデテ》の略にていかにも古言にはあれど、ここには而もじもなく、またいで、いづなどいふ言、古言になくばしらず、いでも、いづも皆古言なれば、同じ古言の中にも略語をばおきて本語をとるべき也。こはいでゆくいでたつなどいふ出なれば、必らず、いでと本語によむべき所なるをや」といへるが正しき見といふべし。「いでみる」とつづける例は卷十五「三六九一」に「伊低見都追痲都良牟母能乎《イデミツツマツラムモノヲ》」又卷十八「四一一三」に「開花乎移低見波其等爾《サクハナヲイデミルゴトニ》」などあり。ここはその妻が、たえず出でて見し輕市といへるなるが、その市には人々の多く出で見るものなるが、人麿の妻もまた屡出でて見しなるをいへるなり。
○輕市爾 「カルノイチニ」なり。この市は當時宮城附近の大なる市にてありしものと見え、日本紀、天武十年十月の條に「是月天皇將v蒐2於廣瀬野1而行宮構訖、装束既備。然車駕遂不v幸矣。唯親王以下及群卿、皆居2于輕市1而檢2校装束鞍馬1小録以上大夫皆列2坐於樹下1、大山位以下者皆親乘之。共隨2大路1自2此南1行v北」とあり。この市を通して南北に通りたる大路ありしを見るべし。これ上に輕路といへるものなるべし。市は物品を交易賣買する爲に設けたる一定の地域をいふ。(572)關市令に「凡(ソ)市恒以2午時1集日入前撃鼓三度|散《アカレ》」とあり。義解「謂日中爲v市、致2天下之民1是也」とあり。かく多くの人の集まる所たることを先づ注意すべし。
○吾立聞者 「ワガタチキケバ」とよむ。上にいへる輕の市にわが出で立ちてきけばといふなり。こは戀しさにたへかねて妹がつねに出でて見たりし輕の市に行きてもしもここにて行きあふこともありやと聞けばとなり。これよりして下の「音毛不所聞」以下にかかれるなり。
○玉手次 「タマタスキ」なり。「畝火」の枕詞とすること、かくよむこと卷一「五」によるべく、「二九」にも例あり。
○畝火乃山爾 「ウネビノヤマニ」とよむ。この山の事は卷一「一三」の「雲根火」の下にいへり。又「畝火」とかけるは卷一、「二九」「五二」にいへり。これは輕の地より遠からずして、北西にありて高からねど著しく見ゆるによりてかくいへるなるべし。
○喧鳥之 「ナクトリノ」とよむ。「喧」字を「ナク」とよむことは卷一「一六」の「不喧有之烏毛來鳴奴」の下にいへり。さて「玉手次」よりここまで三句は下の「音」といふ詞を導き出さむ料の序にいへるにて、「ナクトリノ」「オト」とつづけたるなり。
○音母不所聞 流布本「オトモキコエズ」とよめるを、古義に「コヱモキコエズ」とよめり。鳥に對して「こゑ」とよめる例は卷十七「三九一五」に「安之比奇能山谷古延底野豆可佐爾今者鳴良武宇具比須乃許惠《アシビキノヤマタニコエテヌツカサニイマハナクラムウグヒスノコヱ》」「三九八七」に「多麻久之氣敷多我美也麻爾鳴鳥能許惠乃弧悲思吉登岐波伎爾家里《タマクシゲフタガミヤマニナクトリノコヱノコヒシキトキハキニケリ》」などあり。又「鳥」に「おと」といへる例は卷五「八四一」に「于遇比須能於登企久奈倍爾《ウグヒスノオトキクナベニ》」卷十七「三九八八」に(573)「保登等藝須奈久於登波流氣之《ホトトギスナクオトハルケシ》」などあり。これによれば、「コヱ」とも「オト」ともいひうべきなり。かくして、「音」字は類聚名義抄などに「コヱ」とも「オト」とも訓ずれば、その點よりいふとも、いづれとも定めがたし。されど、卷十「一九五二」に「霍公鳥喧奈流聲之音乃遙左《ホトトキスナクナルコヱノオトノハルケサ》」とあるが如く、「音」は「オト」とよむ方その文字の本性に近きを以て普通には「オト」とよみならはせり。而してここはその妻の聲といふよりも、その妻の聲らしく思はるる音響といふ意にとる方よかるべければ、「オト」とよむをよしとす。
○玉桙 「タマホコノ」とよむ。「道」の枕詞なるがその意は卷一「七九」の下にいへり。
○道行人毛 舊板本、「ミチユキヒト」とよみたるが、考に「ミチユクヒトモ」とよめり。按ずるにここは「みちゆきびと」といふ熟語をなすべき所にあらずして、「ゆく人」と連體格にすべき所なり。而して集中の例を見るに「道行人」とかけるは少からずしていづれともよまるべきが、假名書のものにては「ミチユキビト」とあるもの一もみえず、而して日本紀仁徳卷に「瀰致喩區茂能茂多愚譬※[氏/一]序豫耆《ミチユクモノモタグヒテゾヨキ》」又本集卷十七「四〇〇六」に「多麻保許乃美知由久和禮播《タマホコノミチユクワレハ》」とあるに照せば、「ミチユクヒト」とよむをよしとす。その輕の街を往來する群集の人をいふなり。
○獨谷 「ヒトリダニ」とよむ。「谷」は「ダニ」の助詞をあらはすに借り用ゐたるなり。一人なりともいふなり。
○似之不去者 古來「ニテシユカネバ」とよみて異論もなかりしが、檜嬬手に「ニシガユカネバ」とよめり。打見る所には檜嬬手の説の方わかり易きやうなれど、かくては甚だ拙し。この古來の(574)よみ方は、それを今のいひ方にせば「似た樣な姿して通る者がないから」といふ如きものにして、しかも、遙に巧妙、簡潔なるいひ方なりとす。かかる詞遣の例は卷一「六八」の「忘而念哉《ワスレテオオモヘヤ》」(そこに多くの假名書の例をあげたり)などありて、いづれも今の人のかけても思はぬ詞の遣ひざまなり。
○爲便乎無見 「スベヲナミ」なり。せむすべを無く思ひてなり。卷四「五四八」に「今夜之早開者爲便乎無三秋百夜乎願鶴鴨《コノヨラノハヤクアケナバスベヲナミアキノモモヨヲネガヒツルカモ》」などこの語例少からず。
○妹之名喚而袖曾振鶴 「イモガナヨビテソデゾフリツル」なり。妻の名を呼びて、袖をふりつとなり。袖を振ることは、上「一五二」の人麿石見より京上する時の反歌にもあるが、かれは別れを惜む情をあらはしたるものなり。その所の攷證に曰はく「袖を振は人と別るゝ時又はかなしき時戀しきにたへずしてする古しへのしわざなるべし。集中人にわかるる所に多くよめり」といへり。今その用例を見るに卷六の「九六五」「九六六」卷七「一〇八五」卷十「二〇〇九」卷十一「二四九三」卷十二「三一八四」卷十三「三二四三」卷十四「三三八九」等すべて人に別るる場合のみなり。されば、これも單に悲しさにたへずしてするわざにあらずして、生死の差こそあれ、わかれを惜む情をあらはすわざなるべし。
○或本有謂之名耳聞而有不得者句 これは金澤本、類聚古集、神田本、温故堂本、大矢本、京都大學本等に小字二行にせり。それをよしとすべし。これは「或本ニ之ヲ名耳聞而有不得者トイヘル句アリ」とよむべきものにして、その「之」にて、指さるる句ここになかるべからざるなり。然るにこの文にはその句なし。これは上の「聲耳乎聞而有不得者」とある句に對していへるものなる(575)べきこと疑ふべからず。然るにここに之を記せるは不十分なりといふべし。拾穗抄には「一云名耳聞而有不得者」として彼の下にいれたり。これは季吟の私案にや、又さる本ありしにや。この注につきで彼是の論あれど、かくある以上今更之を如何ともすべからず。唯上述の如き事なりと心得てあるべし。さてこの句のよみ方なるが、代匠記には「ナノミヲキヽテアリエネバ」とよめり。これによるべし。さらば本文の「聲」を「名」とせるが相違の主點とすべきが、ここは「名」といふべき所ならねば、本文の方よきはいふまでもなし。
○一首の意 輕といふ地は吾が妻の里なれば十分に見たく思ひしかど、人目多ければ、頻繁に行かば、人も知るらむと思ひ、後にもゆつくり逢はむと思ひ憑みて心にしぬびてある時にその妻は此世を去りたりと使の來りて告ぐるに、その音づれを聞きて、われはあきれまどひ、悲しさに堪へずして言ふべき語をも知らず、すべきわざも判斷がつかずあり。されど、また思ふに、これは使の言のみにては覺束なき事なれば、自ら行きて實否を知らむ、且は又わが戀ふる心の千分一もはるくる手段もあらむも知られずと思ひて、妻が常に立ち出でて見し、かの輕の市に行き立ちて、ここにて妻にあふこともあらむかと目をすまし、耳を欹てて、樣子をうかがへど、妻の聲に似たるおともせず、又妻の姿に似たる人も通らねば、さては如何にと考ふれども、如何にも致し方なく、何處とあてもなきに妻の名を呼びて、袖をふりつつ別れを惜みたりとなり。按ずるにこの歌の趣は妻の死去の報を受けて、直ちにその逢ひ初めし昔を回想し、なほ昔はその使が戀しきたよりなどをもたらしたりしことを思ひ、かくてそのたのしき夢より、直ちに現實の悲(576)哀に移れるさまに歌へるなるべし。これが爲にこれを隱し妻なりといふ説も出でしなるべけれど、古代の婚姻は、始は皆隱妻の形式にてありしことは平安朝の婚姻の式にも三日目に「露顯」又は「ところあらはし」といへるがありしなどにて、それよりも古き時代の事を思ふべし。
 
短歌二首
 
○ 考に反歌に作れり。されど、必ずかくせではかなはずといふ道理にはあらぬこと屡いへり。本のままにて差支なし。
 
208 秋山之《アキヤマノ》、黄葉乎茂《モミヂヲシゲミ》、迷流《マドハセル》、妹乎將求《イモヲモトメム》、山道不知母《ヤマヂシラズモ》。【一云路不知而。】
 
○秋山之 「アキヤマノ」なり。下の黄葉せる木のある山なり。
○黄葉乎茂 「モミヂヲシゲミ」なり。この「シゲミ」といふ詞の意義は卷一「一七」の「山乎茂」の下にもいへるが、卷六「一〇五七」に「鹿脊之山《カセノヤマ》、樹立矣繁三《コダチヲシゲミ》、朝不去寸鳴響爲※[(貝+貝)/鳥]之音《アササラズキナキトヨモスウグヒスノコヱ》」など例多し。黄葉を繁く思ひて、即ち黄葉が多くあるによりてなり。
○迷流 舊板本「マトヒヌル」とよみたるが、考には「マトハセル」とよみ、檜嬬手に「サドハセル」とよめり。されど「迷」字を「サドフ」といふ語にあて得べきか否か疑ふべし。又この字今は「マヨフ」とよめども、古は「マヨフ」といふ語は「※[糸+比]」字にあたるものにして「迷」は專ら「マドフ」といふ語にあてたり。その證は類聚名義妙に「マドフ」の訓はありて「マヨフ」の訓なし。されば、ここはなほ「マドフ」の方(577)るべし。次に「マドヒヌル」とよむべきか「マドハセル」とよむべきかといふに、「ヌル」といふ時は「迷フ」といふ事が、客觀的には、その事が、完く行はれてある由にいひ、主觀的にはその事を確にいふ事となるべきが、ここはただ假説なれば、「ヌル」を用ゐるは強きにすぐ。されば、考の説によりて「マドハセル」とよむべし。「マドハセル」は「マドハス」といふ敬語に「有り」の結合したるものなり。これは、その妻の死して山に葬られて在らぬを山に入りて、さまよひありくならむと譬喩的にいへるなり。
○妹乎將求 「イモヲモトメム」なり。その妻を捜し求めむといへるなるが、ここは連體格にて下の「山道」につづけるなり。
○山道不知母 「ヤマヂシラズモ」なり。その山道をば知らずとなり。「も」をかく終止につくる時は感動の意を強むる用をなすなり。
○一云路不知而 これは、結句に對する一説なるが、契沖は「ミチシラズシテ」とよみたれば、「山道不知母」の代りに之を用ゐるといふ説と考へたること著し。而して諸家大抵かく考へたるに、攷證は「路の上に山の字あるなれども山の字は本書にあれば略けるにて山路不知而《ヤマチシラズテ》なり」といへり。されど之は一句をかへたるものと見るべきなり。意を以て推すに、本文の方よかるべし。
○一首の意 契沖曰はく「此は次の長歌によるに羽易山に葬たるを黄葉をめでて見に入たるが、道まどひして歸らぬさまに云なせり。第七に秋山|に《(ノ)》黄葉あはれ|と《(ミ)》うらふれて入にし妹はまてどきまさ|ぬ《(ズ)》(一四〇九)これ能似たる歌なり。之に依に妻の死去、九月下旬なりけるにや」と。(578)この言の如し。
 
209 黄葉之《モミヂハノ》、落去奈倍爾《チリユクナベニ》、玉梓之《タマヅサノ》、使乎見者《ツカヒヲミレバ》、相日所念《アヒシヒオモホユ》。
 
○落去奈倍爾 「チリユクナベニ」なり。「落去」を「チリユク」とよむこと、上の、長歌の「晩去」の場合に同じ。「奈倍爾」は卷一「五〇」の「神長柄所念奈戸二《カムナガラオモホスナヘニ》」の下にいへるが如く、「と共に」「と同時に」「につれて」などと譯すべき語なり。
○使乎見者 「ツカヒヲミレバ」なり。この使は今訃報をもたらしたる使なるが、その使を見れば、昔を想起すとなり。
○相日所念 舊板本「アヒシヒオモホユ」とよめるが、童蒙抄に「ミシヒシノバル」とよみ、考に「アヘルヒオモホユ」とよみたり。「相」は「ミル」とよむを得べき字にして、本集中にまましか用ゐてあれど、ここはなほ「アフ」の方なるべし。「相」字は今專「アヒ」といひて接辭の如きさまにのみ用ゐれど、元來は用言をあらはせる字なればその方によるべし。かくて「アヘルヒ」といふよりは回想の意を明かにせむ爲に「アヒシヒ」とよむをよしとす。「所念」は「オモホユ」なることいふまでもなし。さてこの「アヒシ日」とはいつなるかといふに、恐らくは、長歌にいへる如く、逢ひ初めし頃をさせりと思はる。
○一首の意 今黄葉の散り去く時なるが、この時にかの里よりの使を見れば、昔彼の人と初めて逢ひし時の事の思ひ出さるるよとなり。以上はすべて、過去の追想に耽らむとする情をうた(579)へりと考へらる。而して、その妻の死が、黄葉の頃にてありしことは愈著しとす。
 
210 打蝉等《ウツセミト》、念之時爾《オモヒシトキニ》、【一云宇都曾臣與念之】取持而《トリモチテ》、吾二人見之《ワガフタリミシ》、※[走+多]出之《ワシリデノ》、堤爾立有《ツツミニタテル》、槻木之《ツキノキノ》、己知碁智乃枝之《コチゴチノエノ》、春葉之《ハルノハノ》、茂之如久《シゲキガゴトク》、念有之《オモヘリシ》、妹者雖有《イモニハアレド》、憑有之《タノメリシ》、兒等爾者雖有《コラニハアレド》、世間乎《ヨノナカヲ》、背之不得者《ソムキシエネバ》蜻火之《カギロヒノ》、燎流荒野爾《モユルアラヌニ》、白妙之《シロタヘノ》、天領巾隱《アマヒレガクリ》、鳥自物《トリジモノ》、朝立伊麻之弖《アサタチイマシテ》、入日成《イリヒナス》、隱去之鹿齒《カクリニシカバ》、吾妹子之《ワギモコガ》、形見爾置有《カタミニオケル》、若兒乃《ミドリコノ》、乞泣毎《コヒナクゴトニ》、取與《トリアタフ》、物之無者《モノシナケレバ》、鳥穗自物《トボシモノ》、腋挾〔左○〕持《ワキハサミモチ》、吾妹子與《ワギモコト》、二人吾宿之《フタリワガネシ》、枕付《マクラヅク》、嬬屋之内爾《ツマヤノウチニ》、晝羽裳《ヒルハモ》、浦不樂晩之《ウラサビクラシ》、夜者裳《ヨルハモ》、氣衝明之《イキヅキアカシ》、嘆友《ナゲケドモ》、世武爲便不知爾《セムスベシラニ》、戀友《コフレドモ》、相因乎無見《アフヨシヲナミ》、大鳥《オホトリノ》、羽易乃山爾《ハカヒノヤマニ》、吾戀流《ワガコフル》、妹者伊座等《イモハイマスト》、人之云者《ヒトノイヘバ》、石根左久見手〔左○〕《イハネサクミテ》、名積來之《ナヅミコシ》、吉雲曾無寸《ヨケクモゾナキ》、打蝉跡《ウツセミト》、念之妹之《オモヒシイモガ》、珠蜻《タマカギル》、髣髴谷裳《ホノカニダニモ》、不見思者《ミエヌオモヘバ》、
 
○ この歌の前に考は新に端詞をつくり加へたれど、かかる本古來一もなく從ふべからぬこと既にいへり。
○空蝉等念之時爾 「ウツセミトオモヒシトキニ」とよむ、「ウツセミ」といふ語の事は卷一「一三」の(580)「虚蝉」又「二四」の「空蝉」の下にいへり。ここは上の「一九六」の長歌の中間に「宇都曾臣跡念之時云々」といへると同じくその亡妻を現身なりと思ひし時といふ意なり。ここに妻の死をいはずして端的にかくいひ起したるを見、これを上の「一九六」の長歌に照して考ふるときは、これは前の「二〇七」と相持ちてはじめて一の意を完うするものにして、「二〇七」は「一九七」にていへば、前半に相當し、この歌はその「宇都曾臣跡念之時」以下の後半に相當せること明かなり。諸家多くはこれを閑却して、これらの二首を別時に別人の爲に詠ずとするは果して根據ありや。
○一云宇郡曾臣等念之 これは上の二句を一の傳に「ウツソミトオモヒシトキニ」とある由を注せるなるが、下の「時爾」は異ならねば、書かざりしなり。かくて結局は「ウツセミ」と「ウツソミ」との相違なるが、「宇都曾臣跡念之時」といふ語は上「一九六」にありて、同語の形のやゝ異なるのみなり。
○取持而 舊本「トリモチテ」とよめるを童蒙抄には「タツサヘテ」とよむべしといひ、攷證には「タツサヒテ」とよめり。攷證の説に曰はく、「集中|取持《トリモツ》といふこともいと多かれど、皆物を手に持事か、政を取持所にのみいひて、かゝる所にとりもつといひしことなく、こゝをとりもちてと訓ては詞後へかけて意聞えがたければ、考に下の或本に携手《タツサハリ》とあるをとりて、ここをもたづさへてとよまれしにしたがへり。されど、たづさへてとよまれしはいかゞ。たづさへといふ時は自《ミヅ》から妾をたづさへゆく事になれば、ここに當らず。ここはたづさはりてといふ意なればたづさひてと訓べし。はりの反ひなればたづさはりといふ言になる也」といへり。この説一往道理ある如くなれど、「タヅサハリ」の「ハリ」の反「ヒ」なれは、「タヅサヒテ」とよむべしとする説は用言の活(581)用の内部に反切を利用して説かむとするものにして國語の條理を無視したる説なれば從ふべからず。さらば、單に「タヅサヒテ」といふ用言にあてたりとする方まされりとせむか、「タヅサフ」といふ語は下二段活用にして當時四段活用の語たりし證なし。諸家多く直ちに「タヅサヒテ」として疑はざれど、われはその證を知らぬが故に隨ひ難し。さらば「タヅサヘテ」とよまむか、攷證にいへる如くこれ亦不可なり。されば、その意の如くによまむには「タヅサハリテ」と六音によまむ外あるべからず。然れども、「取持」二字を「タヅサハル」とよむべき理由を知らず。されば、これ亦從ひがたし。然れば結局舊本の如く「とりもちて」とよまむ外あるべからず。然るときは又考、攷經などにいへる如く「何をとりもつにか」といふ難いでむ。然れども、これは契沖が「とりもちては下にある槻の枝なり」といへることにて明かなるにあらずや。
○吾二人見之 「ワガフタリミシ」とよむ。われら二人にて見しといふなり。他の説にては堤を見る事の如くなれど、わが如くよまむときはこれより下の「槻木」につゞく文勢なり。
○※[走+多]出之 舊板本「ワシリイデノ」とよみ、考は「ハシリデノ」とよみ、攷證は「ワシリデノ」とよみたり。「※[走+多]」は廣韻に「俗趨字」と注して、類聚名義抄には「ワシル」とも「ハシル」とも注せり。さて「ハ」と「ワ」とは語によりては古くより相通せりと見え、その點よりいへば、いづれにてもよかるべきが、ここは日本紀雄略卷の御製歌に「和斯里底能與廬斯企野磨能《ワシリデノヨロシキヤマノ》……」とあるによりてよむべきなり。本集卷十三の「三三三一」に「隱來之《コモリクノ》、長谷之山《ハツセノヤマ》、青幡之忍坂山者《アヲハタノオサカノヤマハ》、走出之宜山之《ワシリデノヨロシキヤマノ》、出立之妙山叙《イデタチノクハシキヤマゾ》」とあるも同じ趣なる語なり。さてこの語の意は攷證に「走り出るばかり近きをいへる也」といひたれど、(582)これにては何の事かわからぬなり。寧ろ略解に「門近きを云」といへる方簡にして要を得たりといふべし。これは雄略の御製についての守部の説に「此方《コナタ》より出立(ツ)向ひを云なり。……されば、此山は朝倉宮に眞向ひて常に立(チ)馳にも出て見たまふ地なれば、出立とも走出とも詔ふなり」といへる如く門前近き所にして、一寸走り出づれはすぐに見ゆる地點にあるものをいふ爲の語と見えたり。
○堤爾立有 「ツツミニタテル」なり。堤は倭名妙に「陂堤」に注して「和名都々美」とあり。これは「池のつゝみ」にて土を築きて水をつつむより來りし語なるべし。「立有」は「タテル」なり。「タテル」は植ゑ立ちてあるをいふ。日本紀卷二に「植此云2多底婁1」とあり。人麿の住所か妻の住所かの附近に池ありて※[こざと+是]ありしことこれにて知るべし。
○槻木之 「ツキノキノ」とよむ。槻は倭名妙に「唐韵云槻【音規都岐乃岐】木名、堪v作v弓者地」と見ゆ。この木は欅に似て少しく異なるものにして、古來本邦に多かりしことは、古事記下卷雄略卷に「天皇坐2長谷之百枝槻下1爲2豐樂1」とあるなどにて知るべし。その槻木が、この堤の上に植ゑ立てられてありしならむ。堤に木を植うることは營繕令に「凡堤内外並堤上多殖2楡柳雜樹1充2堤|堰《ヰセキ》用1」とあるにて著しきが、槻木の植ゑられし例は卷十三「三二二三」に「神南備乃清三田屋乃垣津田乃池之堤之百不足五十槻技丹水枝指《カムナビノキヨキミタヤノカキツタノイケノツツミノモモタラズイツキガエタニミヅエサシ》云々」などを見て知るべし。
○己知碁智乃枝之 舊本「コチゴチノエノ」とよめりしを考に「コチゴチノエダノ」とよめり。「枝」は「エダ」なる事勿論なるが、古語に「エ」ともいへり。されば、この卷「一一三」に「玉松之枝」を「タママツガ(583)エ」とよみて、「エダ」とはよまざりしなり。ここに至りて遽に「エダ」とよみて字餘りの句とすべき道理何處にあるか。或は彼は上を「ガ」といひたれば「エ」といひ、ここは上を「ノ」いひたれば「エダ」といへるなりといふ如き説もいでむ。されど、それも亦據なきなり。日本紀雄略卷の歌に「阿理鳴能宇倍能婆利我曳陀阿西嗚《アリヲノウヘノハリガエダアセヲ》」とあり。これによれば、「エ」とも「エダ」ともその宜しきに從ひてよむべきなり。この故にここは舊訓によるをよしとす。「コチゴチ」といふ語は古事記雄略卷の歌に「久佐加辨能《クサカベノ》、許知能夜麻登《コチノヤマト》、多多美許母《タタミコモ》、幣具理能夜麻能《ヘグリノヤマノ》、許知碁知能《コチゴチノヤマノ》、夜麻能賀比爾多知邪加由流《カヒニタチサカユル》、波毘呂久麻加斯《ハビロクマカシ》」といへるをはじめ、本集にはここの外卷二「二一三」に「百兄槻木虚知期知爾枝刺有如《モモエツキノキコチゴチニエダサセルゴト》」卷三「三一九」に「奈麻余美乃《ナマヨミノ》、甲斐乃國《カヒノクニ》、打縁流《ウチヨスル》、駿河能國與己知其智乃國乃三中從出立有不盡能高嶺者《スルガノクニトコチゴチノクニノミナカユイデタテルフヂノタカネハ》」卷九「一七四九」に「瀧上之櫻花者開有者落過祁里《タギノウヘノサクラノハナハサキタルハチリスギニケリ》、含有者可開繼許智期智乃花之盛爾《フフメルハサキツギヌベシコチゴチノハナノサカリニ》」などあり。これにつきて從來は「をちこちにてかなたこなたなり」といふ如き説なりしを槻の落葉に三卷の歌につきて「こちは此方也。ちはいづちの知に同じ。甲斐の國の此方《コチ》、駿河の國の此方《コチ》とふたつに分る言なり」といひ、古事記傳はこの説をよしとして、「こは彼方|此方《ヲチ》なるを此方《コチ》此方《コチ》分りとしも云は此方《コナタ》より彼方《ソチ》と云處は彼方《ソナタ》にては又|此方《コチ》なれば、此方《コナタ》の此方《コチ》、彼方《アナタ》の此方《コチ》なり。各と云言の如し」といひ、又曰はく「此説は荒木田久老が萬葉の哥なるにつきて云る説にて、信に然ることなり。然るを昔より誰も許と袁を通ひて直《タゞ》に彼此と云言とのみ心得居るは精しからず。さては彼《ヲチ》と此《コチ》と混《ヒト》つになりて差なし」ともいへり。(四十一)守部の山彦册子に本居の説をもひがこととして説を立てて曰はく「詐知其知は彼此《ヲチコチ》とは元より別にて其(ノ)言(584)の貌《サマ》上に物二ツを先いひて、其(ノ)一ツを此《コチ》と指し、今一ツを此《コチ》と指ていふ詞なり。今の心にては兩(タツ)ながら此《コチ》といはん差別《ワキタメ》なく、いかゞなるやうなれど、今(ノ)俗言にも兩方にある物を指《ユビザ》して此方《コチラ》もよい、此方もよい又|此等《コチラ》が、おもしろい、否《イナ》此等《コチラ》がおもしろい、など、常にいふと同じいひざまなり」といひ、又「されば、かの彼此《ヲチコチ》と云(フ)語はうちつけにもよみ出せるを此(ノ)許知其知《コチゴチ》は一首の初めに、うち出せる例は非ずして必ず先上に物二ツを云て其次にのみいへり。」ともいへり。この語の事實上の説明は守部の説の如くにてあるべく、本居の説の如きは、わかりたるやうにて何の事か實は不明瞭に陷るべく思はる。先づこれが、「ヲチコチ」といふ語の轉にあらぬ事は、最初の音が「コチ」とあるにて明かなり。凡そ語言の轉ずる多くの場合はそが複合する際に、下に來る部分に轉音あるものにして最初に轉音あるが如きは極めて特異の場合なりとす。されば、「ヲチコチ」と「コチゴチ」とは明かに別の語なるべし。又下の語頭を濁れるは、これ「コチ」といふ語を疊ねたるものたるを示してあまりあり。さればこれは「コチ」といふ語が、基にてそを二つ疊ねたるものたるは明かなりといふべし。さて何が故に、我等が、今「アチコチ」といふべき所を「コチゴチ」といひしか。本居翁の説の如き理由によるが爲か、守部のいひしが如き考へ方に基づくかといふに、その實はさるむづかしき理由によるにあらずして、當時「あち」といふ語未だなかりしが故なるべく思はる。即ちこの頃の文獻をみるに「コチ」といふはあれど、「ソチ」といふは見えざること奈良朝文法史に既にいへる所なり。而して、第三人稱の所謂遠稱の「あ」「あれ」といふ語は全く當時に發生してあらず、同じく遠稱に「か」「かれ」はあれど、發達十分ならざるなり。又たと(585)ひ「か」「かれ」ありとても、「かち」といふ語は古來なき所なれば、これを用ゐて方向を示す語は全く成立せざりしなり。されば第三人稱の方向を指す語としては當時「コチ」の一語のみなれば、これを種々の場合に用ゐるより外に方法なき筈なり。この故に、本居翁の説の如きは架空の説明にしてとるに足らざるななり。又守部の「先(ツ)物二(ツ)をいひて云々」といへるも、ただ、ある場合の説明として役《ヤク》立つのみに止まり、この語法の根本義には更に觸れぬ論なり。「コチゴチ」と疊ねいへる以上、それによりて指示せらるるものは、二以上あるべきは理の見易きところなり。畢竟事實を精査せずしての空論は世をあやまるに止まるといふべきのみ。されば、その意は今の語の「あちらやこちらの」といふに異ならずと知るべし。「こちごちのえ」とは多くある枝を總じていへるなり。
○春葉之茂之如久 「ハルノハノシゲキガゴトク」とよむ。春の若葉の茂きが如くなり。春には若葉の盛りに出で茂るを以て、これによりて葉の數限りなく多きが如くとその思ひのしげきをたとへたるなり。卷十九「四一八七」に「念度知《オモフドチ》、大夫能《マスラヲノコノ》、許能久禮繁思乎《コノクレノシゲキオモヒヲ》」卷十「一九二〇」に「春草之《ハルクサノ》 繁吾戀《シゲキワガコヒ》」など似たるいひざまなり。
○念有之妹者雖有 「オモヘリシイモニハアレド」とよむ。「者」を「ニハ」とよむ例は卷一「二九」の「夷者雖有」「四七」の「荒野者雖有」など多きのみならず、本集の例として、上には略し、下には委しくかけること少からず。契沖之を釋して曰はく「されば下に「爾者」とあるに準じてここも知るべし。青者の日を逐て盛なる如く、いよ/\思ひまさる譬なり」と、まさに然るべし。
(586)○憑有之兒等爾者雖有 「タノメリシコラニハアレド」とよむ。心に思ひたのみたりし妹にはあれどといふなり。上(一三五)の「靡寢之兒乎」の下にいへる如く、「兒」は人を親しみ愛していふに用ゐる語なり。「等」はたゞ音調の爲にそへたるのみなり。以上二句にして、下の「隱去之鹿齒」にかかるなり。
○世間乎 「ヨノナカヲ」とよむ。「世間」を「ヨノナカ」とよむは、「人間」を「ヨノナカ」とよむと同義にしてその語例は卷五「八〇〇」に「余能奈迦波加久叙許等和理《ヨノナカハカクゾコトワリ》」「八〇四」に「余乃奈迦野都禰爾阿利家留《ヨノナカヤツネニアリケル》」「八一九」に「余能奈可波古飛斯宜志惠夜《ヨノナカハコヒシゲシヱヤ》」など、甚だ多し。かく「よのなか」といへる例は多きが、その用ゐ所によりて多少意義異なるものあれば、その心して釋すべし。ここは世の中のならはし即ち生者必滅の世間の掟の意なり。この思想は必ずしも佛教をまつものにあらじ。
○背之不得者 「ソムキシエネバ」とよむ。この「シ」は間投助詞にして、「ソムキ得ネバ」といふにおなじ。かかる語遣の假名書の例は卷十八「四〇九〇」に「保等登藝須奈枳之和多良婆可久夜思努波牟《ホトトキスナキシワタラバカクヤシヌバム》」卷九「一七六九」に「如是耳志戀思渡者《カクノミシコヒシワタレバ》」などこれなり。世の中の生死の掟を背き得ざればといふなり。
○蜻火之 舊訓「カゲロフノ」とよめるを考に「カギロヒノ」とよめり。「カギロヒ」といふ語は後に「かげろふ」といふこと勿論なるが古くは「カギロヒ」といひたること古事記履仲卷に「迦藝漏肥能毛由流伊幣牟良《カギロヒノモユルイヘムラ》」とかける如く著し。ここに「蜻」を下に「火」をかけることは卷九「一八〇四」に「蜻※[虫+廷]火之心所燎管悲悽別焉《カギロヒノココロモエツツナゲクワカレヲ》」とあると趣同じく、「カギロヒ」とよまむ爲に「火」を加へたるなるべし。蜻蛉(587)を本草和名に「和名加岐呂布」とあるその訓をかりたるなり。「カギロヒ」は卷一「四八」の下にいへる如く、ひろく光のさすさまにいふ語なるが、多くは日光にもあれ、火氣にもあれ、その氣の立つが大氣にうつりてゆら/\として見ゆるにいへり。
○燎流荒野爾 「モユルアラヌニ」なり。「燎」は説文及び玉篇に「放火也」と注し、類聚名義鈔に「モユ」と訓す。書經盤庚上に「若3火之燎2于原1」とあるその用例によりてここにかけりと見ゆ。荒野とは卷一「四七」に「眞草苅荒野者雖有《ミクサカルアラヌニハアレド》」とある荒野におなじく、人|氣《ケ》稀なる里はなれたる野をいふ。陽炎のもゆる荒野とはその野の廣漠として、遠く空しきさまをいへるなり。木立など深くては陽炎は見がたきなり。ここはその葬地のさまをいへるものなりと見ゆ。
○白妙之 「シロタヘノ」とよむ。「妙」を考に「栲」の誤なりといひたれど、諸本みなかくあるのみならず、祝詞などに、荒妙和妙など、「妙」字をあてたれば、誤とはいひ難し。さらば「妙」を何故に「タヘ」にあてたるか。「妙」字には織物などの意なし。或は「妙布」の略字ならむといふ説も見ゆれど、「妙布」といふ以上は精妙なるものに限るべきなるに「荒妙」(五〇)「麁妙」(五二)の文字既に卷一にあれば、「妙布」といふ説は成立しかねたり。こは恐らくは「妙」といふ字の意に當る「たへ」といふ古語ありてそれにあてたる「たへ」を同音によりて借りたるものなるべし。さてここは卷一に「白栲」(二八)とあるに同じく白き布なり。
○天領巾隱 舊本「アマヒレコモリ」とよみたるを管見に「アマヒレカクレ」とよみ、考に「アマヒレガクリ」とよみたり。玉の小琴には「あまひれかくりといひては理り聞え難ければ、只にあまぐも(588)と訓かたまさりぬべし」と一旦いひたれど、追考に「ひれ」と讀むべきかと改めたり。「領巾」は和名抄衣服類に「領巾【日本紀私記云比禮】婦人項上飾也」と見え又日本紀天武天皇十一年の詔中に「膳夫釆女等之手襁肩巾」といふ語ありて、その自注に「肩巾此云比例」とあり。これによりて考ふるに「比禮」は領項肩にかけたる巾なること著し。「巾」は説文に「佩巾也」と注し、玉篇に「佩巾本以拭v物後人著2之於頸1」とも見え、急就篇の注には「巾者一幅之巾所2以裹v頭也」とも見えたり。今朝鮮人は六尺計の長さある一幅の布片を常に携帶して、手拭などの如く、亦頭をつゝみなどするに用ゐるが、わが古のひれもかかるものなりしならむ。皇太神宮儀式帳に「生絹御比禮八端【須蘇長各五尺弘二幅】」豐受太神宮儀式帳には「生※[糸+施の旁]比禮四具【長各二尺五寸廣隨幅】」とも見え、北山抄内宴の條に「陪膳女藏人比禮料羅事舊年仰織部司人別一丈三尺云」と見ゆ。次に隱は「コモリ」とも「カクレ」とも「カクリ」ともよまるべけれど、ここは「コモリ」の意にては不合理と思はるれば、「カクリ」か「カクレ」かのうちなるべきが、古は四段活用なりし故に「カクリ」の方をよしとす。さてこの「アマヒレカクリ」といふ語の意如何。代匠記には「第十に秋風の吹たたよはす白雲はたなはたつめの天つひれかも(二〇四一)とよめるによれば、白雲かくれといへるかとおぼしければ、あまひれかくれと點すべきか。」といへりしが考は之によりて「是も天雲隱れて遠きをいふ」といひたり。宣長はかの再考の説として、「前にはあまぐもと訓つれども、雲を領巾とせむこといかゞ也。故思ふに葬送の時の旗を領巾と云るにて、字の儘にひれと訓べきか。領巾と旗と其さま似たれば、かくも云べし。其上此言朝立いましてと云詞の上にあれば、葬送のさまとおぼしき也」といひ、略解之によれり。守部は「領(589)巾とは書きたれども、是は天蓋の類にて柩を覆ふ蓋なるべし。凡てひら/\とするをひれと云べし」といひ、雅澄はまづ本居説をあげてさて曰はく「今按に旗を云といへることおぼつかなし。此は歩障を領巾に見なして云るなるべし。柩の前後右左に少障を立圍て行さま神祇伯葬式の古圖に見えたり。古より然せしなるべし。和名鈔にも葬送具に喪禮圖(ニ)云布帷以障2婦人1今按(ニ)俗用2歩障1是(ナリ)とあり。さて天領巾とは天人の天路を往來《カヨ》ふ領巾のよしなればここは葬を天に上ると見なして白布《シロタヘ》之天領巾とはいへるなるべし」といひ、攷證は考又宣長の説を否定して自説を述べて曰はく「まへに引ける本集八の歌(天河原爾、天飛也)領巾可多思吉と見えたれば、幅も廣く丈も長きものと見ゆ。されば、ここに天領巾隱といふはすべて失し人は天に上るよしにいへる事、集中の常にて、こゝはいまだ葬りのさまなれどもはや失しかば、天女にとりなして天つ領巾にかくるよしいへるにて、まへにもいへるが如く領巾は長も幅もゆたかなるものなれば、これを振おほはゞ容もなかばばかくれぬべければ、天ひれがくりとはいへるなるべし。」といへり。今これらの諸説を見わたすに、代匠記の説は多少の根據なきにあらねば、姑くこれをおきて後に論ずることとし、宣長の旗を領巾に見立つといふ説は、根據なきこといふまでもなく、守部の天蓋の類なりといふと雅澄の行障をさすといふ説とに至りては、領巾とは似もつかぬものを持ち來したるにて強言も甚しといふべし。かくて殘るは代匠記の説と攷證の説とのみなるが、代匠記の説は攷證に「考に引かれたるたなばたつめの天つ領巾かもといふ歌は雲を假に領巾と見なしたるにて雲の事を領巾といふにはあらざれば、證となしがたし。」(590)といひたる如く、從ひがたき事なり。されば、殘る所は攷證の説のみにしてこの説略當を得たりと考へらる。然れどもなほ、少しく補ひ正すべき點ありと思はるれば、余が考をいふべし。先づここにてはその死をいひたるのみにて明かに葬儀の事をいふべき所にあらねば、葬具と見るべきにあらず。この、領巾は旗にても、天蓋にても、歩障にてもあらずしてなほ明かに領巾そのものをさせるならむ。そを天領巾といへるは天女の空を飛ぶにまとへる天衣をさしていへる爲に天領巾といひしなるべし。天女の天衣をひれと見たてたることは、續日本後紀卷十九嘉祥二年三月に興福寺の僧が、天皇四十の賀の爲に上れる長歌の中に吉野仙女の事をいひては「三吉野爾有志熊志禰天女來通弖其後波蒙譴天毘禮衣着弖飛爾支度《ミヨシノニアリシクマシネアマツメニキタリカヨヒテソノノチハセメカカブリテヒレゴロモキテトビニキト》」といひ、又「天女拂石」をよみては「如八百里磐根爾毘禮衣裾垂飛派志拂人不拂成无《ヤホサトナスイハネニヒレコロモスソタレトハシハラフヒトハラハズナラム》云々」といへり。これらは天人の飛行白衣の天衣をば比禮衣といへること著し。而して本集中にもこれに似たることあり。卷八「一五二〇」に「久方之天河原爾天飛也領巾可多思吉眞王手乃玉手指更《ヒサカタノアマノカハラニアマトブヤヒレカタシキマタマデノタマデサシカヘ》云々」とあるが、この「かたしき」は「衣」にいへること、卷十一「二六〇八」に「白細乃衣片敷戀管曾寢留《シロタヘノコロモカタシキコヒツツゾヌル》」の如くなれば、ここの領巾といへるは、ただの領巾にあらずして領巾つける衣をまでさせりとおぼし。而してそれに「天飛ぶ」といふ修飾語を加へたるにて飛行自在の天衣といふ意にていへることは疑ふべからず。かく考ふれば、天女ならばただ領巾といひて天衣の事になるべけれど、天女ならぬものに特にいふなれば、その由を語にてあらはさざるべからず。それが爲にわざと天領巾といひて、普通の領巾と區別して示したるものなるべし。かくして天領巾は天つ比禮即ち天女の羽衣(591)の如きものをいひあらはすに用ゐしならむ。かくてそれにまとはれ身をかくして昇天せしものと見立てたるが爲に、「天領巾がくり」といひしものなるべし。さて又これを「白妙」といへるは如何といふに天女の比禮衣は五彩あるものなるべけれど、ここは葬式にてあればすべて白布を用ゐるが故にかくわざといひて暗にその實を示したるものなるべし。
○鳥自物 「トリジモノ」とよむ。かかる語法は卷一「五〇」の「鴨自物」の條にいへる如く、「鳥じ」は「鳥」を基としてつくりし形容詞の語幹なるが、その語斡より「物」につづけて熟語をなすこと「空し煙」「かなし妹」の如き構成にして、それを以て「朝立つ」といふ語の形容としたるなり。「とりじもの」といふは今の語に譯せば鳥といふ物の如くの意なり。これを「朝立つ」の形容にせるは、卷一の「四五」に「坂鳥乃朝越座而」といふに略同じく、渡鳥をはじめ、すべての鳥は未明に宿所を立ち出づるものなればなり。
○朝立伊麻之弖 「アサタチイマシテ」とよむ。「います」は上(一九九)の「高市皇子尊城上殯宮之時」の歌に「百濟之原從神葬葬伊座而」とある、そこと語は同じけれど、意は稍異なり。「一九九」のは形式的の敬稱語なれど、ここのは實質のある敬語たり。即ち古事記中卷應神天皇の御製に「佐々那美遲袁須久須久登和賀伊麻勢婆夜《ササナミヂヲスクスクトワガイマセバヤ》」とあり、又本集卷三「三八一」に「風候好爲而伊麻世《カゼマモリヨクシテイマセ》、荒其路《アラキソノミチ》」卷四「六一〇」に「彌遠君之伊座者有不勝自《イヤトホニキミガイマサバアリカツマシジ》」とあるが如きこれにしてこれは「行く」といふことの敬語として用ゐたるなり。即ち「朝立行く」といふを敬語にいへるなり。卷六「一〇四七」に「村鳥之旦立往者《ムラトリノアサタチユケバ》」卷十三「二三九一」に「群鳥之朝立行者後有我可將戀奈好《ムラトリノアサタチユカバオクレタルワレカコヒムナ》」などここの例に似たり。この句の意(592)は妻を葬りに立ちいづるを妻の自ら出立つ由にいひなせるなり。
○入日成 「イリヒナス」とよむ。「イリヒ」は卷一「一五」に「渡津海乃豐旗雲爾伊理比沙之」とあり。「なす」は卷一「一九」の「衣爾著成目爾都久和我勢」の下にいへる如く、名詞又は動詞の終止形をうけて、用言を形容するに用ゐる接辭なり。意は「入日の如くに」といふに似て、「隱る」の枕詞とせるなり。
○隱去之鹿齒 舊訓「カクレニシカハ」とよめるを攷證に「カクリニシカバ」とよめり。「隱」は古、四段活用として用ゐしなれば攷證の説をよしとす。卷三「四六六」にも「入日成隱可婆《イリヒナスカクリニシカバ》」と見えたり。妻のみまかりしことここにはじめて明かにいへり。
○吾妹子之形見爾置有 流布本「有」字なし。古來「ワギモコガカタミニオケル」とよみて、異論なし。但し「置」一字にて「オケル」とよむは無理なれば、金澤本、類聚古集、神田本、西本願寺本に「置有」とあるを正しとすべし。「形見」は「一九六」に見えたり。吾が妻が、その形見として若兒を此世に殘しおけるなり。
○若兒乃 舊訓「ミトリコノ」とよめり。代匠記には「ワカコノ」とよみ、古義には「ワカキコノ」とよめり。この若兒を如何によむべきか。「ミトリコ」とよむは攷證にいへる如く義訓なるべきが、「ミトリコ」といふ語の例は萬葉には「緑兒」とかける例卷三(四八一)卷十二(二九二五)「緑子」とかける例卷十六(三七九一)「彌騰里兒能」とかける例卷十八(四一二二)にあり。又「わかきこ」といふ語の例は日本紀齊明卷の歌に「宇都倶之枳阿俄倭柯枳古弘《ウツクシキアガワカキコヲ》」とあり、又本集卷十七に「伊母毛勢母和可伎兒等毛波《イモモセモワカキコドモハ》」(三九六二)とあり。されば、この二語いづれも例あることなるが、「若兒」は文字のままなら(593)ば、古義の如くよむべきに似たり。「みどりこ」といふは今いふ、「あかご」といふが如き語なることは和名抄に「孩」に注して、「辨色立成云嬰兒美都利古始生小兒也」といへるにてしるし。新撰字鏡にも亦「阿核兒」に「彌止利子」と注せり。而して「若兒」とあるは、必ずしも該兒ならずともいひうる語なり。されば、「ワカキコ」とよむべきかと考ふるに、卷十六「三七九一」には「緑子之若子蚊見庭《ミトリコノワクゴカミニハ》云々」とかける「若子」はそのよみ方はとにかくに、即ち緑子なることは著し。又卷三「四五八」に「若子|乃匍匐多毛登保里朝夕哭耳曾吾泣君無二四天《ノハヒタモトホリアサヨヒニネノミゾワカナクキミナシニシテ》」とある「若子」は古來「ミトリコ」とよみ來れるが、意義はまさしく然り。又卷十二「二九四二」に「小兒之|夜哭乎爲乍《ヨナキヲシツツ》」とある「小兒」をも「ミトリコ」とよみ來れるが、意義はいかにも然り。而してこの「小兒」はここにては「ミトリコ」とよむ外によみ方を知らず。されば、これらに準じて「若兒」を「みどりこ」とよまむことは必ずしも不可なからむ。されば、なほ舊來のままによれり。ここにては人麿の妻がさる若き兒を殘して死せしをいへり。
○乞泣毎 「コヒナクゴトニ」とよむ。その兒の物を乞ひて泣く毎になり。
○取與物之無者 「トリアタフモノシナケレバ」とよむ。「與」は後世專ら下二段活用になりてあれど、古代は、四段にも活用せしものと見ゆ。日本紀卷二の歌に「阿黨播奴介茂《アタハヌカモ》」といへるが如きその例なり。これによりて「取與物」は「トリアタフモノ」とよむべきなり。これにつきて考は「物は人也」といひたれど、ここは玉の小琴に「考に物は人也とあれどいかゞ。兒を取與とは云べからず。物は玩物にて泣をなぐさめむ料の物也」といへるをよしとす。泣く兒を慰めむ爲に取り與へむものもなければといふなり。
(594)○鳥穗自物 舊訓「トリホシモノ」とよみたるが、代匠記には「此句心得がたし。下のわきはさみ持とつゝくるは若《ワカ》兒をわきはさむを若|彈丸《サイトリ》を腋挾に譬て云か。彈丸は鳥の欲さに操《トレ》は愚推なり。又下の或本歌には男《ヲノコ》自物脅挿持と云ひ、第三に高橋氏が歌にもヲノコシモノ負見抱見とよめり。かゝれば若鳥は烏の字を誤れるにてヲホシモノにや。ヲとホとは同韻にて通ずればをほしは第一卷のうねひをゝしのヲヽシにてヲノコシモノと云意なり」といへり。されど「ヲヲシ」を「ヲホシ」とかゝむことあるべきにあらねば、この説後人の信をうけざりき。童蒙抄には字のまゝに「とぼしもの」とよみたるが、考には「鳥は烏穗は徳を誤りし也けり」といひて「ヲトコシモノ」とよみたり。かくて諸家この説に一定してすべて誤とせり。然れども、古寫本又多くの本にいづれもさる誤字ありといふ證は一もなきなり。又他の傍例によるに、「鳥」を「烏」と誤るが如きは生じ易きことなれど、「徳」を「穗」に誤ることは果して如何にぞや。されば、誤字にあらずとはいひがたれど、又誤字ありとも斷言しうべきにあらず。さらば、文字を改めずしてよみうべき方法なきかと見るに、「トリホシモノ」といふ語ありとも見えねば、その訓はとるべからねど、童蒙抄に「トボシモノ」とよめるは一往考ふべき點あり。「鳥」を「ト」と用ゐたる例は卷七「一二三四」に「海人鳥屋見濫《アマトヤミラム》」又卷三「三九一」に「鳥總立足柄山爾船木伐《トブサタテアシガラヤマニフナキキリ》」卷十七「四〇二六」に「登夫佐多底船木伎流等伊布《トブサタテフナキキルトイフ》」などに見るところなれば、「とぼしもの」とよまれざるにあらず。さてかくよみての意如何といふに、童蒙抄に「乏しもの也。今珍敷ものゝやうに大切にしてわきばさみもつごとくに、みどりこをいだきと也」といへり。この意にとるときは意義はまさしくいはれたり。され(595)ど、この頃に「ともし」を「とぼし」といひしことの證なければ、この説も亦確實なりといひがたし。今姑くかくよみたれど、これも後の學者の考定をまつべきなり。
○腋挾持 「挾」字は流布本「狹」に作れど西本願寺本に「挾」に作れるによるべし。訓は舊來「ワキハサミモチ」とよみたるを攷證に「ワキハサミモテ」とよむべしとせり。「腋挾」といふ語の意は攷證に「腋挾を字のまゝに見れば、兒を脇の下に挾《ハサ》むごとく聞ゆれど、さにあらず。腋挾は懷く意なり。そは古語拾遺に天照大神育2吾勝尊1特甚鍾愛常懷2脇下1稱曰2腋子1云々とあるにてこゝもただいだく事なるをしるべし。玉篇に挾懷也とも見えたり」といへり。卷三「四八一」に「腋挾兒乃泣毎」とあるもこの謂なるが、かの古語拾遺の説明によれば、特に愛し護る意をいふと見ゆ。さて「持」を「モテ」といふことは攷證に「もてはもちての略なり」といへど、當時「もて」といひしことの證なければ、從ひがたし。さてこの句の意は下の「浦不樂晩之云々」につづくなり。
○吾妹子與二人吾宿之 「ワギモコトフタリワガネシ」なり。この語のいひ方上の「吾二人見之」と語を前後したるいひざまなるが、妻と吾とが二人宿しといふなり。
○枕付 「マクラツク」なり。「ツマヤ」といふ語の枕詞なり。冠辭考に「夫婦《メヲ》は房《ネヤ》に枕を並《ナラベ》付てぬるが故にいへり。」といへり。卷五「七九五」に「摩久良豆久都摩夜佐夫斯久於母保由倍斯母《マクラツクツマヤサブシクオモホユベシモ》」とあるによりてよみ方の證とすべし。
○嬬屋之内爾 「ツマヤノウチニ」なり。この語の例は上の卷五の、例又卷十九「四一五四」に「枕附都麻屋之内爾鳥座由比須惠《マクラツクツマヤノウチニトグラユヒスヱ》云々」ともあり。「つまや」は通例「ねや」と同じ意に思ひ、古義にも「嬬屋は(596)夫妻|率《ヰ》て隱る所の屋なり。」などいへるが、代匠記には「妻屋は第十九に家持の鷹の歌にも枕付妻屋の内にとくらゆひとあれば、妻を置屋を云のみにはあらで、心安く馴て住處をも云なるべし」といへり。攷證にも異説ありて美夫君志之をうけて約説せり。曰はく「嬬は借字にて端《ツマ》の意也。衣のつまといふも衣の端、つま木といふも木の端也。かゝれば、つまやも端屋《ツマヤ》にて家の端《ハシ》の方にある屋なるべし。閨などは中央に作るべきものならねば、家の端《ハシ》のかたに造れるをも端《ツマ》屋といふなるべし」といへり。されど、かかる事古へありきとは考へられず。閨の如きは端につくるものなりといふことはかへりて如何にて、閨は奧深くつくるものなるべきは古今一轍ならむ。「ツマ」は端なりといふはなほ不可ならずとせむ。閨が端にありし故といふは從ふべからず。按ずるにこの説はかの契沖が指示せし如く、卷十九に家持がその愛する白大鷹をつま屋に居ゑ飼ひし由なるによりて疑を發せしならむが、鷹を飼ふには後世には鷹部屋といふがありてそこにかふものなるが、古も略、然りしならむをば、これは甚しく愛してその常に住む處に飼ひしものなるべければ、妻屋は即ち「ねや」なりといふに差支なき筈なり。この外に「つまや」といふ解は考ふる所なし。
○晝羽裳 「ヒルハモ」とよむ。この語の事上「一五五」「二〇四」等に屡いでたり。
○浦不樂晩之 給訓「ウラフレクラシ」とよみたり。代匠記は「ウラサビクラシ」とよみ考之に從ひたるが、玉の小琴に「卷々に浦觸裏觸と云ることいと多し。又五卷【廿五丁】十七卷【三十二丁】などに假字にも字良夫禮とかければわろからず」といへり。さて契沖が何故にかくよみたるかを見るに(597)「第三に鴨君足人が歌に不樂をさびしとよみたれば、今もうらさびくらしと讀べし」といへるなり。これは、「二五七」に「梶棹毛無而不樂毛己具人奈四二《カヂサヲモナクテサブシモコグヒトナシニ》」「二六〇」の或本歌には「竿梶母無而佐夫之毛|榜與《コカムト》雖思」とあり。又卷四「五七六」に「從今者城山道不樂牟吾將通常念之物乎《イマヨリハキノヤマミチハサフシケムワガカヨハムトオモヒシモノヲ》」とある如き例をさせるが、この場合の「不樂」は「ブル」とも「ブレ」ともよむを得ずして、「サブ」「サビシ」などよまむ外あるべからず。さて「ウラサブ」といふ語は卷一「三三」に「浦佐備而」「八二」に「浦左夫流情」とあり。この卷にも、「一五九」に「暮去者綾哀明來裏佐備晩《ユフサレハアヤニカナシミアケクレバウラサビクラシ》」と見ゆ。「うらさぶ」といふ語の意は卷一にいへる如く「ウラ」は心なり。「サブ」は「サビシキ」状なるをいふ動詞なり。心さびしくありて日を晩すといふなり。
○夜者裳 「ヨルハモ」とよむ。その意と例と上の「ヒルハモ」に照して知るべし。
○氣衝明之 「イキヅキアカシ」とよむ。卷五「八九七」に「夜波母《ヨルハモ》、息豆伎阿可志年長久夜美志渡禮婆《イキツキアカシトシナガクヤミシワタレバ》」とあるはここと同じ語遣なり。「いきづく」といふは吐氣をつくことにして、卷五「八八一」に「加久能未夜伊吉豆伎遠良牟《カクノミヤイキヅキヲラム》」とある如く、なげくことをいふなり。ここはその母なき子をもてなやみて息をつきつゝ夜をあかすとなり。
○嘆友 「ナゲケドモ」なり。これは事實をいへるなれば、「ドモ」の方なり。
○世武爲便不知爾 「セムスベシラニ」とよむ。上の長歌にこの語あり。意もおなじ。
○戀友 「コフレドモ」とよむ。これも「嘆友」と同じ意に基づくものなれば「ドモ」の方によむなり。
○相因乎無見 「アフヨシヲナミ」とよめり。「相」は「アフ」といふ動詞をあらはせるもの、「因」は原因理由などの意にて「ヨシ」とよめるなり。類聚名義抄には「理」「因」「由」等に「ヨシ」の訓を加へたり。卷(598)四(五〇八)に「妹毛吾母甚戀名相因乎奈美《イモモワレモイタクコヒムナアフヨシヲナミ》」とあるもここと同じくよめり。あふ方法のなきによりてなり。
○大鳥 「オホトリノ」とよむ。「ノ」文字なけれど、加へよむべし。「おほとり」とは和名抄に「鸛【古亂反和名於保止利】水鳥有二種似v鵠巣v樹者爲2白鸛1、曲頭爲2烏鸛1」と見ゆるものにして今「こうのとり」といふものなり。冠辭考には大鳥をば鸛又鷺などを指ていへるかといひ、さて「若鷲をいはゞ羽を易るを得て矢に用るなれば、羽易《ハガヘ》の意とすべし」といはれたれど、さるむづかしき意なく、ただ鳥の羽といふつゞきにて羽の枕詞とせしならむ。
○羽易乃山爾 舊訓「ハカヘノヤマニ」とよみ、代匠記に、ハカヒノヤマ」かといへり。この山は卷十「一八二七」に「春日有羽買之山從《カスガナルハカヒノヤマユ》」とも見えたれば、大和國添上郡春日に在りし地名と見ゆ。さてここに羽易とかけるによりて「ハカヘ」とよみ、卷十のをも「ハカヘ」とよむべしと萬葉考にいへり。略解はここを「はかひ」とよみて説なし。按ずるに、「易」は普通の訓によれば「かへ」なり。「買」は普通の訓によれば「カヒ」なり。一所の名に二の發音あるも不都合なるが「買」を「カヘ」とよまむことは無理にして必ず「カヒ」なるべし。然らば「易」はただには「カヘ」なれど、交易の意になれば、賣買の意として「カヒ」とよみて差支なき筈なり。かくてここも「ハカヒノヤマ」とよむべきなり。その羽買の山といふ所今の何といふ所にか明ならぬ事なるが、春日附近の山なりしものと見ゆ。もとよりこの地の春日といふは、或は今の春日といふよりも廣き地域なりしならむ。ここにこの山の名を出せるは恐らくはその妻を葬りし地なるべし。當時の葬地は必ずしもその住宅(599)附近に限らざりしことは春日宮におはしし志貴皇子即ち春日宮御宇天皇の田原山陵が、添上郡田原村矢田原の山中に營まれ、その妃妃橡姫の吉隱陵が、山邊郡初瀬町吉隱角柄の地に營まれしにても知るべし。
○吾戀流 「ワガコフル」とよむ。考には「吾」は「汝」の誤にして「ナガコフル」とせり。これは、下の一本の歌に基づきての説明なるべきが「ナガコフル妹ハイマス」といふは、他人の語を引用せる形式にしていへるにて、「ワガコフル妹ハ云々」といふは自らの語としていへるなり。いづれにしても意明かなるが故に、わざと改むるには及ぶべからず。況んや誤字ある本は一もなきをや。
○妹者伊座等 舊板本の訓「イモハイマセ」とあれど、古寫本多くは「イマスト」とあり。「イマセ」にては意をなさず。「イマス」とよむべきなり。
○人之云者 「ヒトノイヘバ」なり。人が上の如くいへばなり。六音にて一句とす。
○石根差久見手。舊本「手」を「乎」につくり「イハネサクミヲ」とよめり。代匠記には「乎」は手の誤にして「イハネサクミテ」とよむべしといへり。類聚古集には「手」とせり。これを正しとす。この語の例は卷二十「四四六五」に「山河乎伊波禰左久美弖布美等保利久爾麻藝之都都《ヤマカハヲイハネサクミテフミトホリクニマギシツツ》云々」とあり。「いはね」は卷一「四五」の「石根」を「イハガネ」とよみたる如く、根は地に固定せるものをいふなり。なほ「サクム」といふ語の例は卷六「九七一」に「五百隔山伊去割見賊筑紫爾至《イホヘヤマイユキサクミアタマモルツクシニイタリ》」又延喜式祝詞祈年祭の祝詞に「磐根木根履佐久彌弖《イハネキネフミサクミテ》」とあり。さて又これと同じ語ならむかと見ゆる「サククミ」といふ語あり。卷四「五〇九」の「浪上乎五十行左具久美磐間乎射往廻《ナミノウヘヲイユキサククミイハノマヲイユキモトホリ》」又卷二十「四三三一」に「奈美乃間乎伊(600)由伎佐具久美《ナミノマヲイユキサグクミ》云々」といふあり。この「さくむ」といふ語の意義につきて契沖曰はく「さくみては常の詞に物のくほみて斜なるをさくむと云へは石根を踏くほむるを云か。また心くく思ほゆるかもとも、茅生に足ふみ心くみともよめるは心苦しみなり。さればさは添たる字にて石根に苦みてといへるか。按ずるに後の義なるべきは第四第廿に浪の間をいゆきさくゝみとよめるも同じ詞と聞ゆれば、波は踏くほむと云べきことわりなければなり」といへり。考には「岩が根を踏|裂《サキ》てふ言なるを、其きを延て佐久美とはいへり。祈年祭祝詞に磐根木(ノ)根|履《フミ》佐久彌弖といひ、此集卷二十に奈美乃間乎伊由伎佐具久美《ナミノマヲイユキサグクミ》てふも浪間を船の行々裂々《ユキサキユキサキ》と重ねいふと皆同じことば也」といひ、略解これに從へり。玉の小琴には考の説を評して「さくみを考に裂のきを延てくみと云とあるはいかゞさを延てくみと云むもいかゞなる上に石根を踏裂と云こと有べくも非ず。今按は古事記傳の石拆神根拆神の下に云り」とあり。その古事記傳の説は「或説に人|面《オモ》のたくぼくあるをしやくみづらと云に同しくて岩の凸凹《タカビク》ある上を通行《トホリユク》を云なり。馬《ウマ》ざくりと云も能《ノウ》の面にさくみと云あるも同(シ)詞なりと云り。此言なるべし」といへり。これによりてか檜嬬手には「高低ある道をたどる/\ゆくを云ふ」といへり。攷證には「こはさくみ、さくむ、さくめなどはたらく言にてさくむのくむを約むれば、くとなりて、さくは放にて見放《ミサケ》、問放《トヒサケ》、語故《カタリサク》などいふ放と同じく石根木の根のきらひなくふみはなちゆく意也」といひ、美夫君志これに從へり。かく諸説紛々たるが、未だ得たりと思はるる説を見ず。先づ、攷證の「さくむ」の「くむ」を約むれば「く」となる故に「放《サケ》」といふ語におなじといふ説は條理なき事にして從ふべからず。(601)古事記傳の説は何の意なりといふこと明かならず、一種の謎といふべし。考の説は玉の小琴に評せる如くあるべきことにあらず。代匠記の前説は岩根を履くぼむる意なれば、鬼神のわざといふべくして人のわざにはふさはしからず。後説の「苦み」といふ語と同じといふ説は何等の根據なきなり。さてこの語の由來は未だ詳かならねど、檜嬬手の説明をとりて釋すれば略當れる如く見ゆ。然れども確かにしかりとも定めがたし。さて又これと同じ語ならむと諸家の推せる「さぐくみ」といへる語は如何といふに、これは「浪の上」「浪の間」とよみ「さくみ」は「山」「磐根」にのみよみたれば、似たりといへども別の語なるべく思はる。されば、この語は、今日に於いては未だ明かならぬ語なり。後の學者の考定を俟つ。
○名積來之 「ナヅミコシ」とよむ。「名積」は「ナヅミ」といふ動詞にあてたるなり。この語は古事記上卷に「堅庭者於2向股1蹈那豆瀰」中卷景行天皇卷歌に「阿佐志怒波良許斯那豆瀰《アサシヌハラコシナヅミ》云々」又日本紀仁徳卷の御製に「那珥波譬苔須儒赴泥苔羅齊許斯那豆瀰《ナニハヒトスズフネトラセコシナヅミ》云々」と見え、本集には卷三「三八二」に「雪消爲山道尚矣名積叙吾來並二《ユキケスルヤマミチスラヲナツミゾワカコシ》」卷八「一一一六」に「烏玉之吾黒髪爾落名積天之露霜取者消乍《ヌハタマノワガクロカミニフリナツムアメノツユシモトレバキエツツ》」卷十三「三一五七」に「直不來自此巨勢道柄石椅跡〔左○〕名積序吾來戀天窮見《タダニコズコユコセヂカライハハシフミナツミソワガコシコヒヲスベナミ》」「三二九五」に「夏草乎腰爾莫積如何有哉人子故曾通簀文《ナツクサヲコシニナツミイカナルヤヒトノコヱゾカヨハスモ》」卷十九「四二三〇」○「落雪乎腰爾奈都美※[氏/一]參來之印毛有香年之初爾《フルユキヲコシニナツミテマヰリコシシルシモアルカトシノハジメニ》」など例多きが、それらのうち最も多きは「腰になづむ」「腰なづむ」といへるものにして、これは腰に至るまで物に没して行くになやむことと見ゆ。次は「なづみくる」といふ語なるが、これは歩行になやみたることをいへるなり。又「向股にふみなづみ」といふ語は上にいへる「腰になづむ」「なづみく(602)る」の二方の意にまたがる趣あるが、これらの場合はすべてその脚なり、股なり、腰なりがある物に拘へ支へられて動しかね進みかぬるをいへりと見ゆ。さて黒髪に露霜のふりなづむといへるは露霜の髪に支へられて止まれるをいへるなれは結局は一なり。次に類聚名義抄をみれば「泥」「阻」等に「ナヅム」の訓あり。さればここは歩行に難儀することをいへるものと見ゆ。古義に「艱難《ワヅラヒ》苦勞《イタツキ》て」といひ、攷證に「勞する意也」といひ、美夫君志に「煩(ノ)字悩(ノ)字などの意也」などいへるはいづれも未だ盡さざるものにして、進動を阻止せらるといふ意にして抽象的の勞悩などの意のみにあらざるなり。「來之」は「コシ」とよむ。「シ」は連用形に屬する複語尾なれど、「來《ク》」には未然形よりするが古語の姿なり。その例は卷十七「三九五七」に「出而許之和禮乎於久流登《イデテコシワレヲオクルト》……可多良比※[氏/一]許之比乃伎波美《カタラヒテコシヒノキハミ》」「三九六九」に「之奈射加流故之乎遠佐米爾伊泥底許之麻須良和禮須良《シナザカルコシヲヲサメニイデテコシマスラワレスラ》」などの如し。さてここは契沖は「此下、句絶なり。或はなづみこしと意得べきか」といへり。その他の諸家この句の斷續をいひしものなし。されど、ここは契沖のいへる如く、一段落り。而してここに連體形を以て終止せるは普通の法にあらずして喚體に擬して餘情を含ましめたるなり。なほこれと次の句とのつづきはその間に「されど」といふ如き意を含めて釋すべし。
○吉雲曾無寸 「ヨケクモゾナキ」とよむ。略解に「今寸を十に誤」といへるは寶永版本に「寸」の字の缺けたるを見ていへるなり。寛永版本及びその以前の版本寫本共に正しく「寸」とかけり。「吉雲」は「ヨケクモ」といふ語にあてたる借字なり。「よけく」といふ説は卷五「九〇四」に「安志家口毛與家久母見牟登《アシケクモヨケクモミムト》……須臾毛余家久波奈之爾《シマラクモヨケクハナシニ》」卷九「一七五七」に「筑波嶺乃吉久乎見者《ツクバネノヨケクヲミレハ》」とあるが如し。(603)「ク」はこと又は點をさす語にして「ヨケク」はよきこと又はよき點といふ如き意なり。「けくはくを延たるなり」などいふ説の不當なること屡いへり。上の如く難儀しつつその山まで來しが、しかれども何のよき事もなきとなり。「もぞ」は二の係詞を重ねて、強くその意を指示せるなり。かくて「曾」に對して連體形の「き」にて結べるなるが、第二段落にありてこの一句が、終結となり、下の語句は、これが、上にあるべき條件なるを反轉法によりて顛倒して下におけるなり。
○打釋跡念之妹之 「ウツセミトオモヒシイモガ」とよむ。こは冐頭の「ウツセミトオモヒシトキ」に遙に應じて一篇の終結をなさむとするなり。今まで現し身と念ひたりし妻がといへる也。
○珠蜻 舊訓「カケロフノ」とよみ、考に「カギロヒノ」とよみたれど、上の「二〇七」の「玉蜻」とおなじく「タマカギル」とよむべきこといふまでもなし。ここは「ホノカ」の枕詞とせり。卷八「一五二六」に「玉蜻※[虫+廷]髣髴所見而別去者《タマカキルホノカニミエテワカレナバ》」卷十二「三〇八五」に「玉蜻髣髴所見而往之兒故爾《タマカキルホノカニミエテイニシコユヱニ》」などこの例なり。玉の光りかがやくことをいへるなるが、その光のさまにとりて枕詞とせるなり。
○髣髴谷裳 「ホノカニダニモ」とよむ。「髣髴」といふ熟語は支那にて慣用せるものにして文選の班固の幽通賦に「夢登v山而※[しんにょう+向](ニ)眺《ミル》兮、※[賣+見]《ミル》2幽人之|髣髴《ハウヒタル》1」とありてその注に「髣髴不2分明1※[白/ハ]」とあり。かくて類聚名義抄には「髣」にも「髴」にも「ホノカ」と注し色葉字類抄には髣髴を「ホノカナリ」と訓せり。さて本集の例を見るに上にあげたる外、卷七「一一五二」に「梶之音曾髣髴爲鳴《カヂノトゾホノカニスナル》」卷十二「三〇三七」に「朝霞髣髴谷八妹爾不相牟《アサガスミホノカニダニヤイモニアハザラム》」などみなかく「ほのかに」といふ語にあてたる例なり。又卷十一「二三九四」に「朝影吾身成玉垣入風所見去子故《アサカゲニワカミハナリヌタマカキルホノカニミエテイニシコユヱニ》」とある「風」は色葉字類抄に「ホノカ」といふ語の例にあげ(604)たるにてしるし。「ほのか」といふ語は「さだかならぬ」意をあらはせり。「だにも」は上にいへり。
○不見思者 舊訓「ミエヌオモヒハ」とよみたり。されど、かくては語をなさず。代匠記に「ミエヌオモヘバ」とよめるをよしとす。「ホノカニダニモ」妹の姿の見えぬ、といふことを以て準體言としてその見えぬことを思へば、かく難儀して來りしことも何の甲斐も何のよき事もなき事ぞとなり。
○一首の意 わが妻が現身にてありと思ひし時即ち妻が世にありし時に、われと妻と二人して取り持ち見などせし、門前遠からぬ堤に植ゑ立ちてある槻の木の彼方此方の枝に繁茂せる葉の益茂り行くが如くに且はしばしば思ひ且は思ひ憑みたりし妻なりしかど、世の中の習には背き得ずして空漠たる荒野に入り隱れたりしかば、(即ち死去して葬り去りしかば)そのあとに妻の形見として殘しおきし赤兒の物を乞ひて泣く毎に何物を與へて心を慰めやらむか與ふる物もなければ、ただ大切にしてそのもりをして、妻の世にありし時二人にて宿し閨の内にこもりて心さびしく大息つきつゝ日をくらし夜をあかし、嘆けども、戀ふれ共、再び妻にあふ手段もなく、ゐるに或人の話す所によれば、わが戀ふる妻は今羽買の山にをりといふ事なれば、さらば、往きてあはむとて、その山の石根のさかしきをふみさくみてやう/\にしてたどり來て見たりしよ。されど、そこには豫期にたがひて現身と思ひしその妻の姿はその影だにほのかにも見えぬなり。かかる事を思へば、ここに來りしも、何の甲斐もなき事なりしよとなり。この長歌に至りてはじめてその葬地をあらはし、且つとこしなへの恨を述べたるなり。かくて、上(605)の長歌と昔尾相應じて、意はじめて全くなるさまを見るべし。
 
短歌二首
 
○ 考にはこの、短歌」をも「反歌」と改めたり。必ずしもし改むるに及ばぬことは屡いへり。
 
211 去年見而之《コゾミテシ》、秋乃月夜者《アキノツクヨハ》、雖照《テラセドモ》、相見之妹者《アヒミシイモハ》、彌年放《イヤトシサカル》。
 
○去年見而之 「コゾミテシ」なり。「去年」を「コゾ」といふは明かなるが、集中に假名書の例は卷十八「四一一七」「許序能秋安比見之末末爾《コゾノアキアヒミシママニ》」あり。
○秋乃月夜者 舊訓「アキノツキヨハ」とよめり。攷證は「月夜」を「ツクヨ」とよむべしといへりり。この事は卷一「一五」の「今夜乃月夜」「一七九」の「朝月夜」の條にいへる如くなれば、攷證の説をよしとす。
○雖照 舊訓「テラセドモ」とよみ、童蒙抄に「テラスレド」とよみ、考に「テラセレド」とよめり。「テラスレド」とよまむにはその語下二段活用ならざるべからざるが、さる活用の語あるべくもあらねば、童蒙抄の説は從ふべからず。又「照」一字を「テラセリ」とよまむは卷一、二、におきては例に違へり。この卷にて「テラセリ」といはむには「照有」とかきてあるべきなり。ここは舊訓のまゝをよしとす。新考もしかいへり。
○相見之妹者 「アヒミシイモハ」とよむ。去年相共に月を見し妻はの義なり。
○彌年放 「イヤトシサカル」とよむ。「彌」は「いや」とよみて、卷一「三六」に「此山乃、彌高良之」「二九」に「彌繼(606)嗣爾」などに既に例あることなるが、それらには直下にそのかゝる語のあれば、「イヤ」といふ語の本質十分に明かにしがたかりしが、ここには「イヤ」が「年」を隔てて「サカル」にかゝりてあるが故に明かにその本質を認めうべし。この「イヤ」は上の「イヤツギ」「イヤ遠爾」(卷二、「一三一」)「イヤ高ニ」(同上)などの如く、副詞形容詞の上に冠する接頭辭の如くに認められ、後世は專らかく用ゐたれど、もとは一個獨立の程度副詞にして今の「いよいよ」に似たる語たりしことはこの例にて明かなり。而してその「いよいよ」といふ語もその源はこの「イヤ」とい語の疊語の少しく形をかへたるものなりとす。ここの如き現象を呈したる用例は卷七「一二五一」に「佐保河爾鳴成智鳥何師鴨《サホガハニナクナルチドリナニシカモ》、川原乎思努比益河上《カハラヲシヌビイヤカハカハノホル》」を見て知るべし。「さかる」は屡いへり。この句の意はいよいよます/\年をへだてゆくとなり。
○一首の意 秋の月は去年の見し通りに今も照してあり。されど、去年相共に見し妹は今や在らずして漸くに年月遠くへたゝりぬとなり。此歌につきて古義は「この歌にてみれば、此長歌短歌は妻の死て一周忌によまれしなり。此歌拾遺集の詞書に妻にまかりおくれて又の年の秋月を見侍りてとあるはさる事なり」といへり。これは代匠記の初稿に「此反歌によりてみれば、後の歌ならひに、此短歌二首は一周忌によまれたるを類聚して一所にをけるなるべし」といへる同じ考に出でたるものなり。註疏には古義の語をあげて「芳樹按るに長歌のかたは世間乎背之不得者云々の十句の如き葬式の事をいへるに隱|去之《ニシ》鹿齒のニシ過去の辭なるゆゑに年月の過去し事にもいはれぬにはあらねど、よみさま一周もへての後のうたの如くはきこえ(607)ず。されば長歌は妻の无くなりてとほからぬほどによみたるに一周忌によみし短歌をそへたる物なるべし。」といへり。按ずるにこれはその詞書に、「妻死之後」とあれば、死後幾何かの時を經たる後の詠たるはもとよりなるが、長歌は註疏にもいへる如く、葬式をいへれば、一周忌の時の詠といふべきにあらず。さて又この短歌のいづこに一周忌の折の詠といふ證ありや。又拾遺集の詞書も一周忌なりと認めたりといふことにはならぬなり。これは、昨年妻と共に相賞せし月を本年見て、その妻の在世の時の事を思ひ出してよめるにて、さる意にこそ感慨も深きなれ。若し一周忌の時の歌とせば、その「相見し」は誰と共に見しといふ意か。而してさる意にては何等の感も起らぬただの理窟となりはつべきなり。即ち去年の秋月をめでし頃には妻が健全なりしが、その後に亡くなりしをそのあくる年の月の頃にこの歌をよみしならむ。
 
212 衾道乎《フスマヂヲ》、引手之山爾《ヒキテノヤマニ》、妹乎置而《イモヲオキテ》、山徑往者《ヤマヂヲユケバ》、生跡毛無《イクルトモナシ》、
 
○衾道乎 「フスマヂヲ」とよむ。「衾」は和名抄に「和名布須萬」とあり。これを「引手山」の枕詞とする説あり。(冠辭考)又「衾」は諸陵式に「衾田墓【手白香皇女在大和國山邊郡云々】」とあるによりてその衾田を「フスマ」とのみいひて、そこにかよふ道をいふなるべしといふ説あり。(註疏)されど、「衾田墓」のある邊を「フスマ」といへる事の證は一もなく地名説は信すべからす。されば枕詞の方ならむが、如何にして「引手」の枕詞となるべきか、冠辭考の説あれど、おぼつかなし。古の衾に「乳」といふものつきてありし故かといふ説も確とはいひがたし。又襖の戸の「ひきて」を「チ」といひしかといふ説(608)るが、襖障子がこの頃に在りといふ證明かならねば、これ亦推あての説なり。かた/\未だ明かならぬものとして後の研究をまつべし。
○引手乃山爾 「ヒキテノヤマニ」とよむ。引手山は大和志に山邊郡に在りとして曰はく「在2中村東1呼曰2龍王1高聳人以爲v望」とあり。この龍王山といふは朝和村大字萱生中山と藤井との間にあるなり。されど、これ果して古、引手山といひしか否か明かならず。長歌によれば「羽易山」といへり。然らば「引手山」「羽易山」一所兩名か、若くは相接近せる地なるべき筈なり。ここはその妻の葬地なること著し。
○妹乎置而 「イモヲオキテ」妻をその葬地に置きて、さてその地を離れざるをいへり。
○山徑往者 「ヤマヂヲユケバ」とよむ。「徑」は「コミチ」なるが、この山には大路なければ、義を以て「徑」をかけるなり。「山徑」は支那にて古來用ゐし熟字なり。孟子以下諸書に見ゆ。「ユク」は通行することにして、われ獨り行けばの意なり。
○生跡毛無 舊訓「イケリトモナシ」とよみたり。代匠記には「落句は集中に多き詞なり。いける心ちもせぬなり。今按、第十九に伊家流等毛奈之と書たれば彼に准じて皆いけるともなしと點すべきか」といへるが、本居宣長はこれを敷衍して王の小琴に追考として曰はく、
  生跡毛無、いけるとゝ訓べし。此跡はてにをはに非ず。燒太刀のと心、又心利もなしなど云る利にて生るともなしは心のはたらきもなく、はれて生る如くにもなきを云也。此言集中に多し。皆同じこと也。十九卷【十六丁】に伊家流等毛奈之とある流の字は前に若は理の誤(609)かと云るは僻事也けり。てにをはのとなれば、必上を伊家理と云ざれば叶はず。去ど能思へば、てにをはには非ざる也。
又玉勝間卷十三に更に詳説して曰はく、
  同集歌に生《イケ》るともなしとよめる多し。二の卷に衾道乎《フスマヂヲ》云々|生跡毛無《イケルトモナシ》(二一二)また衾路《フスマヂヲ》云々|生刀毛無《イケルトモナシ》(二一五)また天離《アマサカル》云々|生刀毛無《イケルトモナシ》(二二七)十一の卷に懃《ネモコロニ》云々|吾情利乃生戸裳名寸《ワガコヽロトノイケルトモナキ》(二五二五)十二の卷に萱草《ワスレクサ》云々|生跡文奈思《イケルトモナシ》(三〇六〇)また空蝉之《ウツセミノ》云々|生跡毛奈思《イケルトモナシ》(三一〇七)また白銅鏡(マソカヽミ》云々|生跡文無《イケルトモナシ》(三一八五)十九の卷に白玉之見我保之君乎不見久爾夷爾之乎禮婆|伊家流等毛奈思《イケルトモナシ》(四一七〇)これら也。いづれもみな、十九の卷なる假名書にならひて、イケ〔右○〕ルトモナシと訓べし。本にイケリ〔右○〕トモナシと訓るは誤なり。生《イケ》る刀《ト》とは刀《ト》は利心《トヾコロ》心利《コヽロト》などの利《ト》にて生《イケ》る利心《トゴヽロ》もなく、心の空《ウツ》けたるよしなり。されば刀《ト》は辭《テニヲハ》の登にはあらず。これによりて伊家流等《イケルト》といへる也。もし辭《テニヲハ》なれば、いけり〔右○〕ともなしといふぞ詞のさだまりなる。又|刀《トノ》字などはてにをはのとには用ひざる假字也。これらを以て古假宇づかひの嚴《オゴソカ》なりしこと、又詞つゞけのみだりならざりしほどをも知るべし。然るを本にいけり〔右○〕ともなしと訓るは、これらのわきためなく、たゞ辭《テニヲハ》と心得たるひがこと也。
といへり。これより後往々本居説に從へる學者あり。然れども亦之に反對する説もあり。攷證は玉勝間の説を引きて、さて曰はく、
  すべてを考ふるに、とはてにをはにて生りよしなき意とこそ聞ゆれ。宣長は生りともの、と(610)文字へ心をつけて、十九なるは、まへにぞの疑の詞なくて、るより、ととうけたれば生利《イケルト》もならんと思はれしかど、かゝる事猶ありて、これ一をもて例とはなしがたし。この事は十九の卷にいふべし。
といひたるが、その十九の攷證は今傳はらねば委しきを知らず。美夫君志は本文の注に、上の攷證と殆ど同じ文をのせてなほ別記に委しといへるがその別記に曰はく、
  正辭按るに、此に出したる歌舊訓には皆イケ〔右○〕リトモナシとあり。然るに、卷十九十六左なるは伊家流等毛奈之と假字書(キ)なるによりて等《ト》をてにをはのト〔右○〕とするときは、此歌上にゾノヤカ〔四字右○〕の辭なくて續く詞の流を等とうくるは不合格なりと思ひて等〔右○〕は辭《テニヲハ》にあらず、利〔右○〕の意なりといひたるものなり。されど此流〔右○〕は常にル〔右○〕の假字とせるとは其音異にて、リ〔右○〕の音を用ゐたるなり。【其由は次にいふべし。】されば、生跡毛無《イケリトモナシ》などあると同じく生《イキ》て居《ヲル》心ちもせぬと云意にて此|刀《ト》はかの利心などの利《ト》にはあらで、全くてにをはのト〔右○〕なるべし。しかいふは利心《トゴコロ》のト〔右○〕には利(ノ)字又は鋒(ノ)字神(ノ)字などを用ゐたるを生刀毛《イケリトモ》の刀《ト》には刀、跡などの字を用ゐず、これ古人の注意せしなるべし。かくて右に引ける歌の中卷十一【十五左】なる吾情利乃生戸裳名寸といふ歌は情利乃生戸裳名寸とト〔右○〕を重ねたるに、生戸のかたは戸を用ゐて、利を用ゐざるも、故ある事ならむ。かゝれば此は生跡のト〔右○〕と利心のト〔右○〕とは別意とせむかた穩かなるべし。かくて考ふるに、卷十九【十六左】なる伊家流等毛奈之の流〔右○〕はり〔右○〕の音にて用ゐたるものとおぼゆ。しかいふ故は、卷二十【四十右】に許連乃波流母志《コレノハルモシ》、同【二十七右】に佐由流波奈同【三十左】に(611)志流敝爾波【後方には也】などある流はり〔右○〕の音のかたにてなるべし。此は東歌なればともいふべけれど、同東歌にて、卷二十【十六左】には等能々志利弊乃《トノノシリヘノ》とあれば、猶上の志流敝もしり〔右○〕へとよむべくもおぼえたり。猶いはゞ催馬樂|階香取《シナガドリ》に天治本の假字之奈加止留〔右○〕夜爲奈乃見奈止仁とあり、次なる本末歌も二首共に、之奈加止留〔右○〕とありて、これを梁塵愚案|抄《(マヽ)》には皆しながとり〔右○〕やとかけり。元龜三年六月四日式部少輔藤長の寫したる梁塵愚|抄《?》の古本を余藏せり、此本には三首共にしながとる〔右○〕やとあり。これによれば、古本には之奈加止留〔右○〕夜とありし事明か也。留流〔二字右○〕は韻鏡第三十七開轉來母三等の劉字と同音にて漢音リユウ〔三字傍線〕呉音リユ〔二字傍線〕なり。又三音正譌に劉《ル》【リウ〔二字傍線〕は漢音】とあり。此點は開轉なれば、ウクスツヌフムユルウの音あるまじき事なるに、常に此第三等の音とするものは第十二合〔右○〕轉の虞模の韻と通ずる故に、その合〔右○〕にあやかりたるなり。今は本音の申リユ〔二字傍線〕の省呼なるべし。又鈴屋は刀の字などはてにをはのと〔右○〕には用ゐざる假字なりといへど、此はたま/\てにをはに用ゐざりしのみにて、別に意あるにはあらざるべし。さて卷二【二十三右】に如是有乃豫知勢婆《カヽラムトカネテシリセバ》云々とある乃〔右○〕は刀〔右○〕の誤なりとの説に從ひて、記傳二十四【四十九右】に刀〔右○〕と改て引用したり。其説齟齬せり云々
といへり。今之を按ずるに先づ、本居翁が、「刀(ノ)字なとはてにをはのトには用ひざる假字也」といへる論は首肯すべからず。こは既に上の「一五一」の「如是有乃〔右○〕豫知勢波」とある「乃」は「刀」の誤なるべくして、古事記傳にはそを「刀」の字に改めて引用せること美夫君志に摘示せる如くにして、これ既に自家撞着といふべきものなり。されば「刀」を必ず助詞にあらずとはいふべからざる(612)なり。然らば、美夫君志の如く「流」に「り」音ありとしてすべて「イケリ〔二字右○〕トモナシ」とすべきかといふに、これ亦無理なりと思ふ。美夫君志のあげし卷二十の「コレノハ流〔右○〕モシ」「サユ流〔右○〕ノハナ」「シ流〔右○〕敝ニハ」などは「ハリ」「サユリ」「シリヘ」などいふ語に相對すれど、これは防人の鄙語なれば、訛りたることはいふをまたず。(「モチ〔右○〕」を「モシ〔右○〕」とその直下にあるにても思ふべし。)又催馬樂階香取に天治本の假字を之奈加此留〔右○〕夜々々」といへるによりて天治本を檢するに、この階香取の曲は全然なきなり。これは蓋し、樂章類語鈔にあげたるを天治本にあるものと誤認せしものなるべきが、この樂章類語鈔の階香取は何によれりしかは今詳にせず。加之「階香取」は古來和樂の曲名にして催馬樂の曲名にあらず。されば、樂章類語鈔も亦この點に於いては信ずべからず。これらによりて「流」に「り」の音ありとする説は信ずべからず。されば、卷十九のはもとより「イケルトモナシ」なるべきこと疑ふべからず。然らば、本居説に從ひてこれらをすべて「イケルトモナシ」とよむべきかと考ふるに、必ずしも然りといふべからず、これには種々の疑難あり。先づ、本居説の如く、この「ト」を「利《ト》」の意とするときは新考に「生ける利心といふ事あるべきにあらず」といへる如く意をなさぬこととなるべく、若しなほ「利心」のとする時は卷十一の「吾情利乃生戸裳名寸」とあるは一層の不明なる語となるべし。然らば、「と」を助詞とすべきかといふに、然るときは、卷十九の「イケルト〔右○〕」といふ言遣にあはず。他の例はよみ方は種々に考へうべきなれど、卷十九の假名書の例はみだりにうごかすべからず。然りとて、卷十九の歌に誤字ありといふことは容易にいふべきことにあらず。かくして考ふるにその「止」は果して本居説の如く、「利心」の義なり(613)や、又舊説の如く助詞なりやの疑問を一往考ふべきなり。若し、助詞の「と」にあらずとせば、體言といふより外なかるべきが、體言の「と」は「心利」の「と」といふが如き外なきか如何。按ずるに「心利」などいふ「と」は寧ろ稀なる例にして、「ト」は普通には時、所をあらはす語なるなり。而して「と」をさる時所に通じたるものとして考ふるに、今日の「點」といふべき意もありと考へらる。さる考をなして見るときは、卷十九の「イケルトモナシ」もさる方に解して意に差支なきやうに考へらる。果して然りとせば、他の場合も「イケルトモナシ」といふやうによみて、さるやうに解して一も通らぬ點なく、又「わが心利の生〔右○〕るともなき」も亦通るべく思はる。然らばこれにて治定せりやといふに、なほ疑あり。今本居説も舊説も「生」字につきては「イケリ」とよむ(「イケル」も「イケリ」もただ活用形の少差に止まる)ことを前定せるものなるが、これ果して當を得たるか。今これらの語の例を見るに、卷十九の假名書の例は別として他はすべて「生」一字を書きて例外なきなり。「生」一字にては四段の「イク」下二段の「イクル」とよむが本體にして、「イケリ」とよむは特別の場合に屬すべき筈のものにして、これを直ちに「イケル」「イケリ」とよまむは、一往、かくよまざるを得ざる理由を説明しての事ならざるべからず。今他の卷はさておき、この卷につきて動作存在詞(「イケリ」の如きこの例なり)の記載例を見るに、假名書のものは今論ずる範圍にあらぬが、その他の場合には、
 大雪|落有《フレリ》(一〇三)
 念有《オモヘル》吾毛(一三五) 念有之《オモヘリシ》妹(二一〇)(二一三)
(614) 野中爾|立有《タテル》(一四四) 堤爾|立有《タテル》(二一〇)
 憑有之《タノメリシ》(二一〇)  恃有之《タノメリシ》(二一三)
 形見爾|置有《オケル》(二一三) 
 盤根之|卷有《マケル》(二二三) 
の如く、下に「有」を加へたるものと、
 取|持流《モテル》(一九九)
 吹|響流《ナセル》(一九九)
 御名爾|懸世流《カカセル》(一九六)
 迷流《マドハセル》(二〇八}
の如く下に「ル」の假名を加ふるものとの二樣の方式を見るなり。ただ(二一〇)の
 吾妹子之形見爾置〔右○〕(有)兒乃……
の場合に「置」一字を流布本に「オケル」とよめる一異例あるのみなるが、それも金澤本、類聚古集、神田本、西本願寺本には「置有」とあるなれば、これ亦上の例に洩れずといふべし。更に又卷一につきて見るに、
 念有〔二字右○〕我毛(五)
 之美佐備立有〔二字右○〕(五二) 神佐備立有《タテル》(五二)
の一類、
(615) 春日之霧流〔二字右○〕(二九) 春日霧流〔二字右○〕(二九)
 頭刺理〔二字右○〕(三八)
 圖負留〔二字右○〕(五〇)
 浮流禮〔二字右○〕(五〇) 持越流〔二字右○〕(五〇)
 廬利爲里〔二字右○〕計武(六〇)
 嗣而賜流〔二字右○〕(七七)
の一類とに分つべく、ただ(七九)なる
 作家爾
を「ツクレルイヘニ」とよみたれど、これも確證なきことにして、卷一、二を通じての諸例によらば、「ツクレル」とよむときは、「作有」又は「作流」の如くかくべきなれば、僻案抄の如く「ツクリシ家」とよむべきにあらざるか。若しからずとせば、この「生」と、かの「作」との二字のみ、「イケル」「ツクレル」とよむべきこととならむ。恐らくはさることなくして、「作家」は「ツクリシ家」又は「ツクル家」ならむ。かくして、ここの「生」を「イケリ」とよむも「イケル」とよむも、卷一卷二を通じての記載例としては變例とすべきものなれば、しかよむべきものとは斷言すべからず。余はこれは一字のままの時に普通の動詞として取扱ふものとし、「ト」は名詞として取扱ふものとして、「イクルトモナシ」とよむものならざるかと考ふるものなり。但し、これを以て斷言すべしとは信ぜず。試みに一案を立てたるまでなり。後の學者の考定を俟つ。かくてよみ方を、新に立つるもいかがなれどこ(616)の案にによりおけり。
○一首の意 明かなり。この引手の山に、わが最愛の妻を置きて、山路を通れば、生命ある我とは思はれずとなり。
 
或本歌曰
 
○ これは、上の歌に對しての或本の傳をあげたるものなるが、上の長歌は二首なるに、ここには長歌一首なり。さらば、その二首に對して一首といふ傳の有りしが爲にあげたるか、或は二首のうち一首に對しての異傳かと考ふるに、この歌の趣前なる「二一〇」の歌と頗る似たれば、それに對しての異傳なるべく思はる。而してそれには短歌二首附屬し、これには短歌三首附屬せるが三首中のはじめ二首は又それ/”\「二一一」「二一二」と略同じさまなれば、かた/\その後なる歌の異傳なりと考へらる。
 
213 宇都曾臣等《ウツソミト》、念之時《オモヒシトキニ》、携手《タヅサハリ》、吾二見之《ワガフタリミシ》、出立《イデタチノ》、百兄槻木、《モモエツキノキ》、虚知期知爾《コチゴチニ》、枝刺有如《エダサセルゴト》、春葉《ハルノハノ》、茂如《シゲキガゴトク》、念有之《オモヘリシ》、妹庭雖在《イモニハアレド》、恃有之《タノメリシ》、妹庭雖有《イモニハアレド》、世中《ヨノナカヲ》、背不得者《ソムキシエネバ》、香切火之《カギロヒノ》、燎流荒野爾《モユルアラヌニ》、白栲《シロタヘノ》、天領巾隱《アマヒレガクリ》、鳥自物《トリジモノ》、朝立伊行而《アサタチイユキテ》、入日成《イリヒナス》、隱西加婆《カクリニシカバ》、吾妹子之《ワギモコガ》、形見爾置有《カタミニオケル》、緑兒之《ミドリコノ》、乞哭別《コヒナクゴトニ》、取委《トリマカスル》、物之無者《モノシナケレバ》、男自物《ヲノコジモノ》、脅挿持《ワキバサミモチ》、吾妹子與《ワギモコト》、二吾宿之《フタリワガネシ》、枕附《マクラヅク》、(617)嬬屋内爾《ツマヤノウチニ》、旦者《ヒルハ》、浦不怜晩之《ウラサビクラシ》、夜者《ヨルハ》、息衝明之《イキヅキアカシ》、雖嘆《ナゲケトモ》、爲便不知《セムスベシラニ》、雖戀《コフレドモ》、相縁無《アフヨシモナミ》、大鳥《オホトリノ》、羽易山爾《ハカヒノヤマニ》、汝戀《ナガコフル》、妹座等《イモハイマスト》、人云者《ヒトノイヘバ》、石根割見而《イハネサクミテ》、奈積來之《ナヅミコシ》、好雲叙無《ヨケクモゾナキ》、宇都曾臣《ウツソミト》、念之妹我《オモヒシイモガ》、灰而座者《ハヒニテマセバ》。
 
○宇都曾臣等 「ウツソミト」とよむ。この字面上(一九六)にあり。又「二一〇」には「打蝉」とあり。「臣」を「ミ」とよむは「オミ」の上略なるが、上に「ソ」といふありて「オ」韻なるが故にそれに没入せるものとも考へらる。「宇都曾見」とかける例上(一六五)にあり。○念之時 「オモヒシトキニ」とよむ。「二一〇」と語同じ。
○携手 舊訓「タヅサヘテ」とよめり。攷證には「タツサハリ」とよむべしとせり。按ずるに「手」を複語尾の「テ」と見るか、又實際の手と見るべきかといふ事を先決の間題とす。然るに、「携手」とかけるはここの外卷十「二〇二四」に「萬世携手居而相見鞆《ヨロヅヨニタツサハリヰテアヒミトモ》」卷十九「四二三六」に「鳴波多※[女+感]嬬携手共將有等《ナルハタヲトメタツサハリトモニアラムト》」とありこれも同樣と思はる。かく集中同樣に携字を用あたる例を見るに、卷四「七二八」には「吾妹兒與携行而《ワキモコトタツサハリユキテ》」とあるは或は「携」を四音によむべく、卷九「一七四〇」の長歌なる「海若神之宮乃内隔之細有殿爾携二人入居而《ワタツミノカミノミヤノウチノヘノタヘナルトノニタツサハリフタリイリヰテ》」、同卷「一七九六」の「黄葉之過去子等携遊磯麻見者悲裳《モミヂハノスギニシコラトタツサハリアソビシイソマミレバカナシモ》」卷十「一九八三」に「妹與吾携宿者《イモトワレタツサハリネバ》」卷十二「二九三四」に「携不問事毛苦勞有來《タツサハリコトトハナクモクルシカリケリ》」とありて、これらはいづれも五音によむべきものにして舊來「タヅサハリ」とよみ來れるものなり。さて又假名書の例を見るに、卷十(618)七「三九九三」に「於毛布度知宇麻宇知牟禮底多豆佐波理伊泥多知美禮婆《オモフドチウマウチムレテタヅサハリイデタチミレバ》」卷十八「「四一二五」に「多豆佐波利宇奈我既刊爲※[氏/一]《タヅサハリウナガケリヰテ》」卷二十「四四〇八」に「多豆佐波里和可禮加弖爾等《タヅサハリワカレガテニト》」などいづれも「タヅサハリ」とよみて「タヅサヒ」「タヅサヘ」の例を見ず。又卷五「八〇四」に「餘知古良等手多豆佐波利提阿蘇比家武等伎能佐迦利乎《ヨチコラトテタヅサハリテアソヒケムトキノサカリヲ》」「九〇四」に「伊射禰余止手乎多豆佐波里父母毛表者奈佐我利《イザネヨトテヲタヅサハリチチハハモウヘハナサカリ》」といへる例あり。これらの例によれは「携」は「タヅサハリ」とよまむ外なく、下の「手」は義を以て加へたるにて、「テヲタヅサハリ」又は「携手」にて「タヅサハリ」とよむべきものならむと考へらる。然るにここは五音によむべき所なれば、「タヅサハリ」とよむべきならむ。意は共に手に手をとる意なり。
○吾二見之 「ワガフタリミシ」とよむこと上の歌におなじ。
○出立 舊訓「イテタテル」とよみたれど、「出立てる槻木」といふべくもあらねば、從ひがたし。代匠記に「イデタチノ」とよめるをよしとす。日本紀雄略卷の御歌に「擧暮利矩能播都制能野磨漕伊底※[手偏+施の旁]智能與廬斯企夜磨《コモリクノハツセノヤマハイデタチノヨロシキヤマ》」又卷九「一六七四」に「出立之此松原乎今日香過南《イデタチノコノマツバラヲケフカスギナム》」卷十三「三三三一」に「忍坂山者走出之宜山之《オサカノヤマハワシリデノヨロシキヤマノイデタチノ》、妙山叙《クハシキヤマゾ》」又「三三〇二」に「出立之清瀲爾《イデタチノキヨキナキサニ》云々」とあるによりて「イデタチノ」とよむべし。意は上の歌の「ワシリデノ」に同じくして出立の堤にある義なり。
○百兄槻木 「モモエツキノキ」とよむ。「兄」は借字にて「枝《エ》」なり。古事記雄略卷に、「天皇坐長谷之百枝槻下爲豐樂之時」とありてその時の釆女歌に「毛毛陀流都紀賀延波」とあり「モモエ」百枝にて多くの枝をもてる由をいへり。卷八「一五〇七」に「吾屋前爾百枝刺於布流橘《ワガヤトニモモエサシオフルタチバナ》」などあり。
○虚知期知爾 流布本「カチコチニ」と訓せり。その「カ」は活字附訓本に「コ」の活字を誤り植ゑて「※[コの左向き]」(619)の如くせるを寛永本に「カ」と誤り刻せしものにして、活字素本以前の諸本にはいづれも「コ」とせり。「こちごち」の意は上にいへり。
○枝刺有如 「エダサセルゴト」とよむ。百枝の槻木が彼方此方に枝させる如くの意なり。
○春葉茂加 舊訓「ハルノハノシケルガゴト」とよみたれど、上の歌に「春葉之茂之如久」とかけると同じ語なること著しければ同じく「ハルノハノシゲキガゴトク」とよむべし。
○念有之妹庭雖在 「オモヘリシ、イモニハアレド」とよむ。上の歌にあると同じなり。
○恃有之妹庭雖有 「タノメリシ、イモニハアレド」とよむ。意は上の歌の「憑有之兒等爾者雖有」と同じ。
○世中背不得者 「ヨノナカヲ、ソムキシエネバ」とよむ。上の歌の「世間乎背之不得者」におなじ。
○香切火之燎流荒野爾 「カギロヒノ、モユルアラヌニ」とよむ。上の歌に「蜻火之燎流荒野爾」とかけるにおなじ。
○白栲天領巾隱 「シロタヘノアマヒレガクリ」とよむこと上の歌に異ならず。
○鳥自物 上におなじ。
○朝立伊行而 「アサタチイユキテ」とよむ。「イ」は所謂發語にて深き意なし。上の歌に「朝立伊麻之弖」とあるに大差なし。
○入日成 上におなじ。
○隱西加婆 「カクリニシカバ」とよむこと上の歌におなじ。
(620)○吾妹子之形兒爾置有 上の歌におなじ。
○緑兒之 「ミドリコノ」とよむ。意上にいへり。
○乞哭別 「コヒナクゴトニ」とよむ。上の歌にいへると同じ。「別」を「ゴト」とよむは、上の「一〇一」の「不成樹別爾」の例あり。
○取委 この句、上の歌には「取與」とあり。さてこれを舊訓に「トリマカス」とよみたるが、代匠記には「トリユダヌルともよむべし」といへり。童蒙抄又「トリユタネ」とよむべしとせり。按ずるに、これはよみ方と意義との二重の見方あり。まづ、その意につきては契沖は「まかすは緑兒に持せて彼が心に任するなり」といへり。この意ならば、「マカス」とよむをよしとすべし。略解、古義、註疏この趣にとけり。童蒙抄は「此處には委の字をかきたれば、ゆだねとよむで、みどりこをとりあつかふものしなきとの事也」といへり。攷詔は「まかす」とよみて意は「とりまかすはその子をとりゆだぬるをいふ。任をまけとよむも、その事をその人にまかするをいひてまかせをつづめてまけとはいへるにて意はここのまかすと同じ」といひ又本歌に取與物之無者とある物は取あたふ品をいへれど、ここの物無者の物は取まかせてゆだぬる人しなければといふ意にて人をさしてものとはいへり」ともいへり。さて上の歌の意にして語のみかはれるものとせば契沖などの説によるべし。されど、「與ふ」といふが如き意に「委す」といふことをいへりや如何。按ふに「まかす」とよみても「ゆだぬ」とよみてもその意は童蒙抄、攷證などの意なるべきが自然なるべし。よりて今それによるべし。さてよみ方は如何といふに、「委」は普通に「ユダヌ」とよみ、又(621)「マカス」とよむ字なるが、その二語共に萬葉集その他古典中に假名書の例を見ず。而してこの二語共に下二段活用の語なれば、下の「物」につづくる爲には「マカスル」又は「ユダヌル」とよむべきものにして「マカス」「ユダヌ」とよむは破格となるなり。若それが破格ならずとせば、これらは當時下二段活用ならずして四段活用なりしものとせざるべからず。然るにこれも亦證なきことなり。以上の如くなれば、この訓につきは決定的の言は下しがたきものなりとす。今姑く、字餘りなれど「トリマカスル」とよむ。
○物之無者 「モノシナケレバ」なり。この「物」は攷證に「人をさしてものといふは古事記中卷に問2其機者1曰など見えたり」といへる如し。
○男自物脅插持 「ヲノコジモノ、ワキバサミモチ」にして上の歌にあるにおなじ。
○吾妹子與二人吾宿之枕附嬬屋内爾 上の歌のにをなじ。
○旦〔左○〕者 「旦」字金澤本類聚古集に「日」とし、神田本大矢本京郡大學本「且」とせり。「旦」の誤たるべし。訓は古來「ヒルハ」とよめり。上の歌は「晝羽裳」とありて稍異なれど、意おなじ。三音の一句なり。
○浦不怜晩之 舊訓「ウラブレクラシ」とよみたるが、契沖の「ウラサビクラシ」とよめるをよしとす。上の歌に「浦不樂晩之」とあるにおなじ。
○夜者 「ヨルハ」とよむ。「ヒルハ」に對する三音の一句たり。上の歌に「夜者裳」とあるに意同じ。
○息衝明之 「イキヅキアカシ」とよむ。上の歌と語おなじ。
○雖嘆 上の歌におなじ。
(622)○爲使不知 これは上の歌の、「世武爲使不知爾」に相當るものなるが、舊訓には「セムスベシラニ」とよめり。童蒙抄には「本集には世武のこ字かな書にて下をすべとよみたり。此は本集の通にはよみがたし。ここには同じ義なれども、すべのしらなくとか、すべもしられずとかよむべき也」といへり。考には「爲便不知と有も字の略のみにて訓は今とひとし」といへり。按ずるに本集中「爲便」とかけるもの少からねど、「世武爲便」とかけるもの卷二、「二〇七」「二一〇」卷四「五一五」卷五「九〇〇」等にあり。又「將作爲便」とかけるは卷十九「四二三六」にあり。「將爲爲便」とかけるもの卷九「一六二九」にあり。又「爲便」とかきて「スベ」にあてたるもの卷三「三四三」「四六六」「四八〇」卷十一「二七八一」卷十三「三二九一」「三三二九」卷十九、四三三六」等に見えたり。然れば、「爲便」は元來「スベ」とよむべき文字なるが如し。然るに、卷三「三四三」と「四八一」とには「將爲便」とかきて「セムスベ」とよましむべき所あり。これらは「將爲爲〔二字右○〕便」とあるべきを「爲」を一字にて略せるかとも見ゆるなり。然るに、卷十二「二九五三」には「戀君吾哭涕《キミコフトワガナクナミダ》。白妙袖兼所漬而爲便母奈之《シロタヘノソデサヘヒヂテセムスベモナシ》」とかけるあり。この「爲便」は「セムスベ」とよまずばあるべからず。これに照して考ふるに或は「將爲便」は「將爲」にて「セム」とよみ「便」一字を「スベ」とよませたるにて、卷十二のは「爲」を一字にて「セム」とよみ「便」一字にて「スベ」とよむべきものなるべきか。然れども、又或は然らずして考にいへる如く古く略せるものか。未だ斷言すべからずといへどもこの一句は「セムスベシラニ」とよめる考の説に從ふべきなり。
○雖戀相縁無 「コフレドモ、アフヨシヲナミ」とよむ。舊訓に「アフヨシモナミ」とよみたれど、上の歌によりてよむべきなり。「縁」を「ヨシ」とよむは「由縁」の義によるなり。
(623)○大鳥羽易山爾 上の歌のにおなじ。
○汝戀 「ナガコフル」なり。上の歌には「吾戀流」とありて主客の違ひあれど、そのさす所は一にして、これは他人の語をそのまゝとりたるさまによめるなり。
○妹座等 上の歌のにおなじ。
○人云者 「ヒトノイヘバ」なり。語は上の歌のにおなじ。
○石根割見而 上の歌に「石根佐久見手」とあるにおなじ。
○奈積來之 「ナヅミコシ」、上の歌のにおなじ。
○好雲叙無 上の歌のにおなじ。
○宇都曾臣 「ト」字なけれど下の「念」につづくると、上の歌の例とを參照して「ウツソミト」とよむべし。
○念之妹我 「オモヒシイモガ」なり。
○灰而座者 舊訓「ハヒシテマセバ(「ン」とあるは「シ」の誤)とよみたれど、攷證に「ハヒニテマセバ」とよませたるをよしとす。古義は「灰而座者は解難し、誤字脱字などあるべし」といひ、又「強て甞にいはゞ玉蜻仄谷母不見座者など、もとはありしを後に火葬のことを思ひ仄を灰に誤れるより亂れたるものか」といへり。然れども、この所諸本いづれも異なることなければ、もとよりかくありしならむ。契沖は「火葬して灰となりていませばなり」といへり。考には「或本に灰而座者とあるは亂れ本のまゝなるを、或人そをはひれてませばと訓て文武天皇の四年三月に始て道昭(624)を火葬せし後にてこれも火葬して灰まじりに座てふ事かといへるは誤りを助けて人まどはせるわざ也。火葬しては古へも今もやがて骨を拾ひてさるべき所にをさめて墓とすめるを、此反歌は葬の明る年の秋まゐでゝよめるなるを、ひとめぐりの秋までも骨を納めず、捨おけりとせんかは。又この妻の死は人まろのまだ若きほどの事とおもはるゝよしあれば、かの道昭の火葬より前なるべくぞおぼえらる。さてその灰の字を誤りとする時はこれも本文のごとき心詞にて珠蜻仄谷毛見而不座者とぞありつらんを字おちしなるべし」といひたるを攷證はそれに反對して、「例のしひて古書を改めんとするの癖にて、甚しき誤なり」といひ、さて曰はく「右にいはれつるごとく、火葬は道昭より始れる事は日本紀に、文武天皇四年三月己未道昭和尚物化火2葬於栗原1天下火葬從v此而始也云々とありて、其後俄に天下あまねく火葬を用ひし事、持統天皇の崩たまへるをさへ、大寶三年十二月飛鳥岡にて火葬し奉れるにて、しられたり。この文武天皇四年より大寶三年までははづか四年が間に、かくあまねくなりし也。さればこの人麿の妻の失しも火葬始りてより後にて人麿の世にあられし時既に火葬の專らなりし事、本集三【四十七丁】に土形娘子火2葬泊瀬山1時柿本朝臣人麿作歌云々、また【四十八丁】溺死出雲娘子火2葬吉野1時柿本朝臣人磨作歌云々などあるにてしらるれば、この妻をも火葬せしにて、今は灰となりませばといふを灰而座者とはいへるなり。考に一周の秋まで骨を納めず捨おけりとせんかはといはれしは、ここの文をいかに見られたるにか。ここの文は火葬して埋めしをたゞ大どかに灰になるとはいへるにて火葬せしまゝ捨おかずして埋めたりとも一度火葬せしは灰ならずや。(625)續日本紀神護景雲三年十月詔に體方《ミハ》灰埋《ウヅモ》利奴禮止云々などあるにても埋みても猶灰とともにて灰にあるをしるべし。又考に、この妻の死は人まろのまだ若きほどの事とおもはるゝよしあれば、かの道昭の火葬より前なるべくぞおぼえらるといはれしもいかゞ。何をもて若きほどの事とせらるゝにか。そはこの妻失し時若兒ありて後にまた依羅娘子を妻とせられし故なるべけれど、男はたとへ五六十に及たりとも子をも生せ妻をもめとる事何のめづらしき事かあらん。これらにても考の説の誤りなるをしるべし」といへり。この説にて殆どいふべきことなきなり。たゞ少しく補はむに當時死去後必ずしも直に火葬せしにあらぬは伊福吉部徳足比賣墓誌(古京遺文に載す)に和銅元年秋七月一日に卒せしを三年冬十月に火葬せし由を記せり。されば、考の説いよ/\從ひがたしといふべし。
○一首の意 粗異なることなし。ただ火葬せし故をいへる點を異なりとす。
 
短歌三首
 
○ 上の歌には二首なるにここに三首なるは最後の一首が、全く別のものの加はれるなり。
 
214 去年見而之《コゾミテシ》、秋之月夜《アキノツキヨハ》、雖度《ワタレドモ》、相見之妹者《アヒミシイモハ》、益年離《イヤトシサカル》。
 
○去年見而之 上の「二一一」のにおなじ。
○秋之月夜 「者」字なけれど、「二一一」のに照して「アキノツクヨハ」とよむべし。意は明かなり。
(626)○雖度 「ワタレドモ」とよむ。上の歌は「テラセドモ」とあり。月の空を行くをいへること、上(二〇七)の「度日」といへるにおなじ。この一句のみ異なり。
○相見之妹者益年離 上「二一一」のに同じくよむべ。
○一首の意 第三句の稍異なるのみにて、意は同じ。
 
215 衾路《フスマジヲ》、引出山《ヒキテノヤマニ》、妹置《イモヲオキテ》、山路念邇《ヤマヂオモフニ》、生刀毛無《イケルトモナシ》。
 
○衾道引出山妹置 上「二一二」と文字異なれど、これはテニヲハを略けるにてよみ方は同じかるべし。或は「引出山」とあれば「ヒキデノヤマ」といふが正しきか。
○山路念邇 「ヤマヂオモフニ」とよむ。この一句上「二一二」と異なるなり。その意は引出の山に妹を置きて來たれば、その妹が居る山路を思へば、いきてある心地もせずとなり。
○生跡毛撫 上「二一二」と同じく姑く「イクルトモナシ」とよむべし。
○一首の意 大體「二一二」におなじ。ただかれとこれと第四句の異なるにて、山路を思へばといへるを異なりとす。
 
216 家來而《イヘニキテ》、吾屋乎見者《ワガヤヲミレバ》、玉床之《タマドコノ》、外向來《ホカニムキケリ》、妹木枕《イモガコマクラ》。
 
○家來而 「イヘニキテ」とよむ。「妻の墓にまうでてさて家にかへりて也」と攷證にいへり。
○吾家乎見者 「ワガヤヲミレバ」とよむ。考には「吾」を「妻」の誤かといひ、古義はそれをよしとして(627)「ツマヤヲミレバ」とよめり。されど、かくかける本一も存せねば誤字説は從ふべからず。意は明かなり。
○玉床之 舊訓「タマユカノ」とよめり。考には「七夕の哥に玉床乎打拂と有はさる事にて人まろの妻には似つかず。思ふにこは死て臥たりし床なれば靈《タマ》床の意ならん」といひて「タマトコノ」とよめり。略解は之に賛して「玉床は按るに續後紀弟十四、甲斐國言、山梨郡人伴直富成女年十五にて郷人三枝直平麿に嫁、平麿死て後靈床を敬事存日の如しと見えたる靈床にて卷十、七夕の歌に玉床とよめるとは異也」といへり。さてこの「床」は「ユカ」にあらずして「トコ」なるべきは事實より推しうべきが、その玉床といへるは「玉床」の義か。しかれども上の「靈床」は漢字にて意をあらはせるに止まりてこれによりて「タマドコ」とよむべしとすることは立證せられたりとすべからず。されば、これは意義は靈床の義にても、よみ方はただ尋常の床と同樣なるべし。然らば、何故に「玉」といへるかといふに、これは攷證に「玉床とは愛する妹と宿し床なれば玉とほむる也。本集十【廿九丁】に明日從者吾玉床乎打拂公常不宿孤可母寐《アスヨリハワガタマドコヲウチハラヒキミトイネズテヒトリカモネン》云々(二〇五〇)など見えたり」といへる意なりとす。
○外向來 奮訓「ホカニムキケル」とよみ、童蒙抄は「ヨソムキニケリ」とよみ、考には「ホカニムキケリ」とよみ、古義には「トニムカヒケリ」とよめり。先づ「來」を「ケリ」とよめる例は卷十一(二四六五)に「浦乾來《ウラガレニケリ》」卷十三「三三〇八」に「戀云物者都不止來《コヒチフモノハカツテヤマズケリ》」卷四「七五三」に「戀益來《コヒマサリケリ》」などあり。又「ケル」とよめる例は卷三「二六七」に「相爾來鴨《アヒニケルカモ》」などあり。次に「外」は「ホカ」とも「ト」ともよむべきが、「ホカ」といへばもと(628)のさまと異なる由に汎く考へらるるが、「ト」とよむときは内方にありしが外方に向ひしこととなるべく、然るときは外方に向ふ事につきての何等かの忌むべき事情ありしものと考へらるべきなり。然れども、さる事は考へらるべくもあらねば、ただ、外ざまに向きたるをいへるのみならむ。されば「ホカ」とよむをよしとすべし。「ヨソ」とよまむも「ホカ」と心は同じかるべけれど、「ヨソ」は「餘所」といふ字音より出でし漢語なるべければ從ひがたし。されば、「ホカニムキケリ」か「ムキケル」かの一によむべきが、「ケル」とよむときはこの歌の切れ目なし。されば「ホカニムキケリ」とよむべきなり。
○妹木枕 「イモガコマクラ」なり。木枕は木にてつくれる枕なり。本集卷十一「二六三〇」に「吾木枕蘿生來《ワガコマクラニコケオヒニケリ》」と見え、「二五〇三」に「黄楊枕《ツゲマクラ》」とも見えたり。
○一首の意 考に「去年死て葬やりしかば、又の秋まで其床の枕さへ其まゝにてあらんこと、おぼつかなしと思ふ人有べし。此こと上にもいへる如く、古へは人死て一周の間、むかしの夜床に手をだにふれず、いみつゝしめる例なれば、此靈床は又の秋までかくてある也けり。譬ば旅行人の故郷の床の疊にあやまちすれば、旅にてもこと有とて其疊を大事とすること、古事記にも集にも見ゆ。これに依て此哥と上の河島皇子を乎知野に葬てふにぬば玉の夜床母|荒《アル》良無とよめるなどをむかへ見に、よみ路にても事なからん事を思ふは人の情なれば、しか有べきこと也。こぬ人を待とても床のちりつもるともあるゝともいふ。是もその床に手ふるるを齋《イム》故なれば、此三つ同じ意にわたる也」といへり。一週年説と「靈床」のよみ方とには從ふべからねど(629)大意はこの通の事なるべし。なほ考はこの歌をよしとして次の如くいへり。曰はく「人まろの歌は長哥より反歌をかけて心をいひはつること上にいへるが如し。然れば、此家に歸りて遂に無人を思ひ知しかなしみの極みを此哥にてつくせれば、こは必これに添べし」といへり。契沖は「潘安仁悼亡詩云展轉〓2枕席1長箪|竟《ワタテ》v牀空。ハして右の歌ども悼亡詩三首を引合てかなしびを思ひやるべし」といへり。
 
吉備(ノ)津(ノ)采女死時柿本朝臣人麿作歌一首并短歌。
 
○吉備津釆女 このよみ方につきて、代匠記は「下の二首短歌に依て、津は釆女が名なれば、吉備は氏なり。吉備の津の釆女と讀べし。拾遺に初の短歌を載らるゝに、吉備津の釆女なくなりて後よみ侍けるとあるは三字を合て氏とせられたるか、名とせられたるか、知がたし」といへり。次に童蒙抄は「今云備前備中備後の内より貢献したる采女と見えたり。吉備津といふところ未v考。津は、なには津、大津などの津にて、ひろくさしたる所の義か。但し三備の國の内に吉備津といふところあるか、未詳」といへり。考に、「此釆女の氏は吉備津なり」といひたるが、玉の小琴には「吉備津を考に此釆女の姓のよしあれど、凡て釆女は出たる地を以てよぶ例にて姓氏を云例なし。此上反歌に志我津子とも凡津子ともよめるを思ふに近江の志我の津より出たる釆女にて爰に吉備と書るは志我の誤にて志我津の釆女なるべし。」といへり。略解古義攷證以下大抵これに從へり。檜嬬手の如きは標題をまでも「志我津釆女」と書き改めたり。今按ずる(630)にこの釆女は下の短歌によりて如何にも近江の志賀の大津に縁ある人なるべく思はるるを以て、本居説は一往道理ある如くなれど、よく考ふるに必ずしも從ふべからず。その故如何といふに、釆女は元來各地方よりそれぞれ貢したるものなれば、その出身地を以てその同職の他の人々と區別することを要したるが爲に地名を冠したるものなるべきが、古事記には雄略卷に「伊勢國之三重※[女+采]」あり、日本紀には允恭卷に「小墾田采女」あり、雄略卷に「伊勢采女」あり、「吉備上道釆女大海」あり、舒明卷に「吉備國蚊屋采女」あり、天智卷に「伊賀采女宅子」あり。これらいづれも主として後世いふ國名或は郡名又は國名郡名を重ねたるなり。ただ、「小墾田采女」のみは大和國高市郡内の地名にして國郡名をいへるとは一致せず。されど、この小墾田は「小墾田屯倉」(安閑卷)の在りし所なれば當時その屯倉の首の子女などを貢せしにてかくは名づけしならむ。さて令の制度を見れば、各國より郡司の女の然るべきものを貢せられしなれば、それらの采女はいづれも委しくはその國と郡とを以てこれを示されしこと、上の「伊勢國之三重※[女+采]」「吉備上遺釆女」「吉備國蚊屋采女」の如くなりしなるべく、又國名のみを示されたること「伊勢采女」「伊賀采女」などの如くなりしならむ。今本集の他の例を見るに、卷四「五三四」「五三五」左注「因幡八上采女」又「駿河采女」(卷四)「八上采女」(卷六)「豐島采女」(卷六)あり。その「駿河采女」は上の「伊勢采女」「伊賀采女」の如く、その出身の國名を負ひしものにして、「八上采女」「豐島采女」(八上は因幡國の郡名、豐島は攝津國の郡名)は國を略して郡名のみを以て示されたるものと見ゆ。されば、これらはもとより采女その人の名にはあらずして、任命と貢進との差はあれど「駿河守」「伊勢守」又「八上郡大領」「豐島郡大(631)領」などいふ場合と同じ精神にて地名を冠せるものと見ゆ。されば、續日本紀卷十四天平十四年四月の條に「伊勢國飯高郡采女正八位下飯高君笠目」といふあり、同卷三十一、寶龜二年二月の條に「因幡國高草采女從五位下國造淨成女」(高草は因幡の郡名にして、日本後紀卷五、延麿十五年十月の條にこの人の事を記して「淨成女元因幡國高草郡之采女也」とあり)卷三十九、延暦六年四月の條に「武藏國足立郡采女掌侍兼典掃從四位下武藏宿禰家刀自」の名あり。又朝野群載には「伊豫采女」「播磨采女」あり。これらみなその貢献せる同郡の名を負へるものにして、漫りにいへるにあらざるなり。これを以て思ふに大化の改新以後は采女の貢献は諸國の郡に限られたれば、その國郡の名を以てその采女に負すること例となりしならむ。然るときは「吉備津」の名は地名とせば、國と郡とに在らざるべからざる筈なり。かくて備前備中備後の三國中に津の名を負へる郡名ありやと見るに、備中國に都宇郡あり。これは都宇の二字をあてたれど、もとは津一字の郡名なりし事は疑ふべからず。和銅の頃勅して國郡等の名は好字二字を以てつけしめられしが爲に、從來一字を用ゐし木國が「紀伊」と書く事となれる如く、この「津」もまた「都宇」となりしなり。かくもと一音の郡名をは上の字の韻に當る字を加へて二字とせし例は、
 紀伊(山城)
 寶飫(穗)(參河)
 都宇(備中)
 基肄(肥前)
(632) 頴娃(衣)(薩摩)
  贈於(襲)(大隅)
 等なり。これによれば、津は吉備國の郡名なること著しく、同時にこれが和銅以前の事たるを見るべし。而して他方に、かの「志賀津采女」とする説を考ふるに、「志賀」と「大津」とはいづれも地名なれど、「志賀津」といへることの例を知らず。加之假令「志賀津を地名なりとすともにそれが、采女を貢献すべき一行攻區劃の名なりといふことは一も證なし。近江國志賀郡の貢献ならば近江志賀采女とか、單に近江采女若くは志賀采女といふべきものにして志賀津采女といふべくもあらず。況んや短歌には「志我津子」「凡津子」といへるのみにして「某采女」といへるにあらぬをや。この故に、この吉備津采女は代匠記の説によりて「キビノツノウネメ」とよむべし。今かくよむ時は短歌の「志賀都子」等の語は如何にせむといふにそれは別に短歌に行きて説くべきことなるが、本歌中にこの采女の夫ありしさまに見ゆるも不審なり。これらは各その條下に説くべし。
○死時 「ミマカレルトキ」と考によめるに從ふべし。
○短歌 多くの古寫本これを小字にせるをよしとす。ここに數を記さねど、二首あり。
 
217 秋山《アキヤマノ》、下部留妹《シタブルイモ》、奈用竹乃《ナユタケノ》、騰遠依子等者《トヲヨルコラハ》、何方爾《イカサマニ》、念居可《オモヒテヲレカ》、栲紲之《タクナハノ》、長命乎《ナガキイノチヲ》、露己曾婆《ツユコソハ》、朝爾置而《アシタニオキテ》、夕者《ユフベニハ》、消等言《キユトイヘ》、霧已曾婆《キリコソハ》、夕立而《ユフベニタチテ》、明者失等言《アシタニハウストイヘ》、梓弓《アヅサユミ》、音聞吾母《オトキクワレモ》、髣(613)髴見之事悔敷乎《オホニミシコトクヤシキヲ》、布栲乃《シキタヘノ》、手枕纏而《タマクラマキテ》、劔刀《ツルギタチ》、身二副寐價牟《ミニソヘネケム》、若草《ワカクサノ》、其嬬子者《ソノツマノコハ》、不怜彌可《サブシミカ》、念而寐良武《オモヒテヌラム》、時不在《トキナラズ》、過去子等我《スギニシコラガ》、朝露乃如也《アサツユノゴト》、夕霧乃如也《ユフギリノゴト》。
 
○秋山 舊訓「アキヤマノ」とよめるが、神田本には「アキヤマニ」とあり。これは古事記記中卷應神卷に「秋山之下氷壯夫」とあるによりて舊訓をよしとすべし。これをば冠辭考に枕詞なりとせしより諸家皆これに從へり。されどこれは枕詞にあらずして、下の「下部流」に對しての主客たり。而してこれは秋の紅葉せる山をさせりと見ゆ。
○下部留妹 舊訓「シタヘルイモ」とあり。古事記傳三十四には之を「シタブルイモ」とよみて「部留をベルと訓は非なり」といひ、略解はこれをとりて、「シタブルともよむべし」といへり。而して檜嬬手、註疏は「シタブル」とよむ方によれり。さてこの「部」を「ヘ」とよむべきか「フ」とよむべきかといふに元來この「部」を「ベ」とよむは字音にあらずして訓たるなり。この字の音は、漢音「ホウ」にして呉音「ブ」たるものなり。されば音假名として當然「ブ」とよむべきものなりとす。而して本集中明かに「フ」とよむべきものは、卷三「二六四」の「物乃部能八十氏河乃《モノフノヤソウヂカハノ》」卷十九「四一五四」に「枕附都麻屋之内爾鳥座由比須惠※[氏/一]曾我飼眞白部乃多可《マクラツクツマヤノウチニトグラユヒスヱテテアガカフマシラフノタカ》」とあるなり。又日本紀卷十九に「膳臣傾子」の名を注して「※[舟+可]※[手偏+施の旁]部古《カタフコ》」とあり。これらによりてここも「シタブル」とよみうることをさとるべし。かくて「シタブル」とよむべきか、「シタベル」とよむべきかといふに、「シタベル」といふ時はそは連體形(634)なるべきを以て、そはラ行四段の活用か、動作存在詞かならざるべからず。而してそれらはいづれにしても「シタベラ」「シタベリ」など活用する語なるべきに、未だかかる動詞の存する例を知らず。而してそれが又動作存在詞ならば、「シタバ」、「シタビ」など活用する波行四段活用の語ならざるべからず。然れども、さる語も未だかつてきかざる所なり。されば、「シタベル」とよむことは語の上より存在を認むること不可能なりといふべし。然らば、「シタブル」は如何といふに、これは蓋し、下二段活用か上二段活用かなるべきなり。かくてこの語の同類なりと考へらるるものに、古事記中卷應神卷なる「秋山之下氷壯夫《アキヤマノシタビヲトコ》」又この集卷十「二二三九」に「金山舌日下鳴烏音谷聞何嘆《アキヤマノシタビガシタニナクトリノコヱダニキカバナニカナゲカム》」とある「シタビ」はいづれも名詞の取扱を受けたれど、もと用言の連用形なること著しきなり。而して之を「シタブル」と照し考ふるに意共通せり。さればこれは上二段活用の語たること明かなりといふべし。さてこの語の意如何といふに、契沖は「シタヘル」とよみて「したへるはしなへるなるべし」といひ、又「もみちの色うるはしくして枝しなやかなるに譬るなり」といへり。童蒙抄には「たとなと同音故しなへると云義との説もあれど、山のしなへるといふ義いかにとも心得がたし」といひ、なほ他の案あれど、從ひがたき説なり。考には「下部留は萎《シナベル》也、秋の葉はしなび枯る比に色づけばしなべるとはもみぢするをいへり」といへり。本居宣長は、古事記應神卷の秋山之下氷壯夫の説明を下せる條に「下氷は【字は借字にて】諸木《キギ》の變紅《モミヂ》したる秋山の色を云。そは萬葉二【四十丁】に秋山(ノ)下郡流妹【五十丁】に金山舌日(カ)下(ニ)などあるを秋山か紅葉の色なりと師の云れたる是なり。かくて此(ノ)言の本の意は朝備《アシタビ》と云ふことにて【備は夫流と活く言なり故志多夫流とも云り】秋山の(635)色の赤葉《モミチ》に丹穗へるが赤根さす朝の天の如くなる由なり。【萬葉に朱引朝《アカラヒクアサ》ともありて朝の天《ソラ》は赤き物なり】(中略)かくて右の下部留妹又山下影日賣など皆|紅顔《ニホヘルカホ》を稱美《ホメ》て云るなれば此《コレ》下氷壯夫も秋山の色の美麗《ウルハシ》きを以て稱へたる名なり」といへり。その語源説は必ずしも從ふべからねど、必ず秋山に對せる例なるを見れば、秋の紅葉につきていへることは疑ふべからず。而して下氷壯夫又ここの下部流妹といへるを考ふるに、壯年の肉體美をたとへたることは疑ふべからず。以上の他には未だ類例を見ねど、意は本居の説の如くなるべし。童蒙抄に「山のしなへるといふ義いかにとも心得がたし」とあれど、委しくは秋山の紅葉の下部流といふべきを秋山の下部流とやうにいふ例は本集に少からす。かつてもいへる如く、「白浪乃(よする)濱松(ガ)之枝」(卷一「三四」)「炎乃(もゆる)春」「露霜乃(おく)秋」卷六「一〇四七」)「※[(貝+貝)/鳥]之(なく)春」(卷十「一八四五」)の如く中間の用言をいはぬ例あり、卷十一(一八六一)に「能登河之水底并爾光及爾三笠之山者咲來鴨《ノトカハノミナソコサヘニテルマテニミカサノヤマハサキニケルカモ》」又卷十三「三二三四」に「春山之四名比盛而秋山之色名付思吉百磯城之大宮人者《ハルヤマノシナヒサカエテアキヤマノイロナツカシキモモシキノオホミヤビトハ》」とあるも「春山之(草木の)云々秋山之(紅葉の)云々」といふべきを略言せるものなり。されば、これはそれらに例のある事なりとす。さて從來は上の「秋山の」を枕詞とし「下部流」にて妹を形容せりといふやうに説きたり。されど、こは卷一「二一」の「紫草能爾保敝類妹」といへると同格にして、秋山の紅葉の下部流といふ句にて妹を形容したるものにして、單に「下部流如き妹」といふ意にはあらざるなり。その事はなほ下の句につきて説くべし。「妹」はかの釆女をさせり。
○奈用竹乃 舊訓「ナユタケノト」とよめるが、拾穂抄は「ナヨタケノ」とせり。「用」は呉音「ユウ」漢音「ヨウ」(636)なり。されど、萬葉集にては、この卷以外には卷五卷二十に用ゐたるがいづれも「ヨ」の假名にせり。その例を以て推さば、「ナヨタケ」とよむべきが如し。而して一方、この語の用例を見るに、卷三「四二〇」には「名湯竹乃十縁皇子《ナユタケノトヲヨルミコ》」とありて、「ナユタケ」の語あるを見てその他の例は見ず。さればここはいづれにてもあるべきが、今は傍例と舊訓とによれり。「なゆたけ」とはなよなよとしなやかなる竹の義なり。類聚名義抄には「※[菫の草が竹]竹」に「ナヨタケ」の訓あり。これは今いふ女竹なり。これも從來は枕詞としたれど、然らずして、下の「とをよる」に對しての主格たり。その事は次にいふべし。
○騰遠依子等者 「トヲヨルコラハ」とよむ。この語の例は上にいへる卷三の「名湯竹乃十縁皇子《ナユタケノトヲヨルミコ》」の外に卷七「一二九九」に「安治村十依海船浮白玉採人所知勿《アヂムラノトヲヨルウミニフネウケテシラタマトラムヒトニシラユナ》」といへるあり。この語の意は契沖は「舊事紀に柝竹之登遠々邇と云如くなよ竹の攀ればたわみよるやうにたをやかなる意なり」といへり。童蒙抄には「奈用竹乃騰遠依子等。これは釆女の全體をほめて云たる義也。女はすべてすがたたをやかにしなへたるものなればたをやかにしなへたるすがたの女と云義をなよたけのとをよるとはいひたる也。とをはたわゝなど云と同じ」といへり。考には「とをゝにしなゆる竹もて妹が姿をたとふ」といひ、略解また「とをよるはたをやかなる姿をいふ」といへり。本居宣長はこの語につきて古事記傳に「萬葉などに枝のたわむを刀袁余流とも云」(卷五)といへり。又攷證には「(上略)ここの騰遠依のとをも女のすがたのなよゝかにたわみたるをいへる也。すべて女はなよゝかにしなやかなるをよしとする事腰細のすがるをとめなどつゞく(637)るにても思ふべし。依はより靡意」といへり。古義はまた「騰遠は(中略)多用多和と撓む貌を云言にて撓み依なびく子をいふことにて容貌のしなやかになよゝかなるよしなり」といへり。以上の諸説略一致する所ありていづれも女の姿のしなやかなる由を形容する語とせり。然るに、この「とをよる」といふ語は上にあげたる「十縁皇子」又「安治村十依海」などの例あれば、その語の本意は女の姿の形容を主とせるにあらぬは明かなり。按ずるに、この語は「とを」と「よる」との合成せしものなるべきが、「とを」は卷八「一五九五」に「秋芽子乃枝毛十尾二降露乃《アキハギノエダモトヲヲニオクツユノ》」又卷十「一八九六」に「爲垂柳十緒《ダリヤナギノトヲヲニモ》」「二三一五」に「白杜※[木+戈]枝母等乎乎爾雪落者《シシラカシノエダモトヲヲニユキフレバ》」とある「とをを」といふ語は「とをとを」を約略して「とをゝ」といへるものにして、もと「とをを」を疊ねたりと考へらるるなり。而してその「とをを」は「たわたわ」と同意なるべきは上の卷十「二三一五」の歌の左注「或云枝毛多和多和」と注せるにても知らるべし。即ちこれは「たわ」も「とを」も母韻の轉じたるにて撓むさまをいへる語とおぼゆ。されば、これは「撓みよる」といふ程の意なる語なるべし。然るときに、かの「あぢむらのとをよる海」とは如何なる義ぞと、いふに、古義に誤字説を唱へたるを排して新考に「海上に浮べるあぢの村鳥の浪風にすまはずして一方に靡き寄る事とすればトヲヨルにて通ぜざるにあらず」といへる如き意なるべし。かくて上の三例を通覽して今の「とをよる」といふ語を考ふるに、ここにてはまさにたわみよるといふ如き意にしてこの一語のみにては美人の形容といはむよりは腰のまがれる老婆の形容に近しといふべきさまなり。然るに從來の説明は「なよ竹の」を「とをよる」の枕詞として、意を解し得たりとせるは如何なる意ぞ。惟ふに、これはその形容の主(638)眼點が「なよ竹」に存することは明かならずや。即ちなよ竹の如きしなやかなる姿したる女といふ義なれば、「なよ竹の」は主格にして、如きの意は「なよ竹のとをよる」より「子等」に接するその連體格として立つ爲に成立するものたるや明かなり。而してそれと同じく王の「秋山のしたぶる妹」も「秋山の紅葉のしたぶる」如き妹といふことにして「秋山の、紅葉」がその形容の本體たるべきなり。「子等」の「子」は男にもあれ女にもあれその人をさして親みいへる語なること卷一「一」の下にいへるが、ここはかの釆女をさす。「等」は「ら」といふ音の借字にしてその「ら」はただ音調をそふるに止まりて、多數をいふにあらず。その用例は卷十「二〇七〇」に「君待夜等者不明毛有寐鹿《キミマツヨラハアケズモアラヌカ》」卷十二「三二二〇」に「君待夜等者左夜深來《キミマツヨラハサヨフケニケリ》」又卷十四「三四八四」に「安左乎良乎遠家爾布須左爾宇麻受登毛《アサヲラヲヲケニフスサニウマズトトモ》」などいへるにて知るべし。以上四句、二句づつ相對して、かの釆女をほめていへるなり。
○何方爾 舊訓「イカサマニ」とよみたるが、※[手偏+君]解に「イツカタニ」とよめり。「何方」を−「イカサマ」とよむことは卷一「二九」の下、卷二「一六七」の下にいへり。
○念居可 舊訓「オモヒヲリテカ」とよみたるが、略解に「オモヒヲレカ」とよみ攷證は「オモヒテヲレカ」とよみたり。古義には「オモヒマセカ」とよむべしといひたり。さて「居」の字は「マセ」とよむべき字にあらず、又ここは「マセ」といふ敬語を必ず用ゐるべしといふべき所にあらねば古義の説は從ふべからず。「オモヒヲリテカ」とよむときは、下につづく所なければこの訓は從ふべからず。されば、「オモヒヲレカ」「オモヒテヲレカ」の二者の中いづれかに從ふべきが、その義は同じけれど、六音と七音との差あるなり。さてここは六音に必ずよむべしといふ事なければ攷證の(639)如く「オモヒテヲレカ」に從ふを穩かなりとす。その意をば「いかさまに思ひをればか、かく失つらん夫のなげくらんといふ意をふくめたり」と攷證にいへり。されど、これは下の「栲なはの長き命をすぎにし」といふことにかゝれるものにして直下に略語あるにあらず。
○栲紲之 舊訓「タクナハノ」とよめるが、考に「タクヅヌノ」とよめり。「栲」の字は卷一「七九」の「栲の穗」の下にいへるが、その「栲」といふ字、本は「タク」といふ木にあつべきものなるが、日本紀仲哀卷に「栲衾新羅國」といふと同じ語をば萬葉卷十五「三五八七」には「多久夫須麻新羅」とかけり。その栲といふは楮の類なるべきこと既にいへり。「紲」字は説文に「系也」と注せるが、玉篇には「馬※[革+橿の旁]也、凡繋※[糸+累]牛馬皆曰紲」と見えたり。國語には類聚名義抄に「ナハ」の訓あり、又「ツナク」の訓あり。されば「ツヌ」といふも無理なる訓にあらずといふべし。然るに「タクヅヌノ」といへる枕詞の例を見るに、古事記上卷なるには「多久豆怒能斯路岐陀牟岐《タクツヌノシロキタムキ》」(二あり)本集には卷三「四六〇」に「栲角乃新羅國《タクツヌノシラキノク》」卷二十「四四〇八」に「多久頭怒能之良比氣乃宇倍由《タクツヌノシラヒケノウヘユ》」いづれも「白き」由にいへるのみにて「長き」由の語は一も見えず。さて「タクナハノ」の方は如何といふに、日本紀卷二に「千尋栲繩」といふ語あり、本集卷四「七〇四」に「栲繩之永命乎欲苦波《タクナハノナガキイノチヲホシケクハ》」卷五「九〇二」に「栲繩能千尋爾母何等慕久良志都《タクナハノチヒロニモガトネガヒクラシツ》」などいづれも長き由をいへれば、ここは「タクナハ」なるべきなり。その「タクナハ」とは「タク」の繊維にて綯へる繩なるべくして、色白きが故に「シロシ」の枕詞とし、又これを以て永き事のたとへにしたりと見ゆ。
○長命乎 「ナガキイノチヲ」とよむ。行末長き命をといふ義なるべし。さればこの釆女はうら(640)若くして死にしなり。さてこれより下の句につづきゆく状態異樣なれば、香川景樹は「なかき命をの次に一二句おちたる也」といひ、新考には「イノチヲといひさして之を受くる辭なし」といへり。されど、こはさることにあらずして、「露己曾婆」以下二十句を隔てて「時不在過去子等」といふにつづくる格なり。即ち「その行末長き命をいかさまにおもひたればか時ならず死せしぞ」といふ意なることは明かなるをや。ただし以下の句法も頗る錯綜したれば心を鎭めて熟視せずば、正しき理解は得がたからむ。
○露己曾婆 「ツユコソハ」とよむ。「婆」はここに清音によめり。以下八句はこの采女の短命なるを嘆く意を露と霧とをあげて説けるなり。
○朝爾置而 「アシタニオキテ」とよむ。意明かなり。
○夕者 舊訓「ユフベニハ」とあるを古義に「ユフベハ」とよめり。されど卷一「三」には「朝庭」「夕庭」とかき、卷三「四八一」には「朝庭」「夕爾波」とかき、卷十三「三二二一」には「朝爾波白露置夕爾波霞多奈妣久《アシタニハシラツユオキユフベニハカスミタナビク》」「三二七四」及「三三二九」には「朝庭」「夕庭」卷十九「四二〇九」に「安志太爾波」「由布敝爾波」とあり。而して「アシタハ」「ユフベハ」とよめるは七音の句中なるにはあれど、かくよみて四音一句とすべきものは例證なし。ただ卷九「一六二九」に「旦者《アシタニハ》、庭爾出立《ニハニイデタチ》、夕者《ユフベニハ》、床打拂《トコウチハラヒ》」卷十三「三三二六」に「朝者《アシタニハ》、召而使《メシテツカハシ》、夕者召而使《ユフベニハメシテツカハシ》」とあるものぞここと同じ書きざまなれど、それも古來「アシタニハ」「ユフベニハ」とよみ來て、「アシタハ」「ユフベハ」とよむべしといふ證にはならず。加之「者」字を「ニハ」とよむことは卷一「二九」の「夷者雖有」「四七」の「荒野者雖有」以下その例甚だ多くして一々枚擧すべからず。これにより(641)て古義の説の根據なく從ふべからぬを見るべし。
○消等言 舊訓「キエヌトイヘ」とよみたるを考には「ケヌルトイヘ」と同じく六音によみ、略解には「キユトイヘ」と五音によめり。按ずるにここは「消ユル」ことをいふに止まれば、略解によめるが如くにすべきなり。これは元來五言二句の形式をとれるものにしてかかる例は他にもあり。卷六「九七三」に「天皇朕宇頭乃御手以《スメラアガウヅノミテモチ》、掻撫曾《カキナデゾ》、禰宜賜《ネキタマフ》、打撫曾《ウチナデソ》、禰宜賜《ネギタマフ》」の如し。さてこの「言」を「イヘ」とよむは上に「露己曾」といひて己曾の係辭あるに對せるなるが、これは、普通にいふ係結と趣異なる如くに見ゆ。そは普通には露が主體にしてそれに對して「消ゆ」といへるなれば、その「こそ」に對しては「消ゆれ」といひて結ぶべきが如くなれど、係詞はただ陳述に關係を有するのみにしてその主格と述格との關係を必ず結合すべしとは限らねばかかる異例も起れるなり。これらはもとより普通の例にあらねど、さりとて誤とはいふべからず、例外の一格と見るべきものなり。後世の歌などにもかゝる例あり。而してかゝることは專ら「と」助詞にてつづくる場合に限られたり。
○霧己曾婆 「キリコソハ」とよむ。これも意明かなり。
○夕立而 「ユフベニタチテ」とよむ。露に「オク」といひ、霧に「タツ」といへるは古より今に至るまで同じ。
○明者 舊訓「アシタニハ」とよみたるを上の「ユフベニハ」と同じく古義に「アタシハ」とよめり。されど、上の「ユフベニハ」の條にいへる如く、古義の説は從ふべからず。「明」字を「アシタ」とよむこと(642)は「明旦」の義なり。
○失等言 舊訓に「ウセヌトイヘ」とよみたるを略解に「ウストイヘ」とよめり。今略解に從ふこと上にいへるに同じ。以上八句は攷證に「露こそは朝おきても夕べはきえぬといへ、霧こそは夕へに立ちても明ぬれば、うせぬといへ、されども人はさはあらざるものをといふ意也」といへり。誠にこの言の如くにして、この八句はかの采女のはかなくなれるが、露霜の忽ち消失せぬるが如きを下に嘆く心ありてその死を惜む情を言外にあらはせりと見ゆ。而してこの八句はこの前の句とは直接の脈絡なくして註釋的に挿入せるさまなれば、括弧を以て先づとりわけおくべき性質を有す。かくてこれより次の句にうつるにも一の飛躍あり。その間に「然るに」又は「然れども」といふ如き意を介してはじめて意通ずる所あるなり。
○梓弓 「アヅサユミ」とよむ。「梓」にてつくれる弓なることいふまでもなし。「オト」の枕詞とせることは上(二〇七)の歌におなじ。
○音聞吾母 「オトキクワレモ」とよむ。音にききたる吾もといふことにして、その音とは、采女の死にたりといふうはさをよそに聞きたる吾もといへるなり。この「も」は下にいへる「其嬬子」に對して吾さへ悔しきにてその夫は如何ならむといふ情をこめてあらかじめいへるなり。
○髣髴見之、舊訓「ホノニミシ」とよみたるを、考に「オホニミシ」とよみたるが、その理由として「反歌に於保爾云々と有、即この訓也」といへり。略解は「ホノミシ」と四音によみたれど、注に於いて考にしたがへり。さて、ここは考の説によるべきなり。「オホニミル」といふ語の例はこの外卷三(643)「四七六」に「吾王天所知牟登不思者於保爾曾見溪流《ワガオホキミアメシラサムトオモハネバオホニゾミケル》云々」卷七「一二五二」に「人社者意保爾毛言目《ヒトコソハオホニモイハメ》」卷七「一三三三」に「佐保山乎於凡爾見之鹿跡今見者山夏香思母風吹莫動《サホヤマヲオホニミシカドイマミレバヤマナツカシモカゼフクナユメ》」卷十四「三五三九」に「於能我乎遠於保爾奈於毛比曾《オノガヲエオオホニナオモヒソ》」などあり。さてその「オホニ」といふ語は「オボツカナシ」「オボロ」「オボロゲ」「オホロカ」「オボメク」の「オホ」なれば、髣髴の字義にあたれりとすべし。「ホノニミシ」は不十分に見しにて見は見たれど十分に見ざりしことをいへるなり。
○事悔敷乎 「コトクヤシキヲ」とよむ。この「ヲ」は「ものを」の意にして吾が采女の生きてありしほど、おほよそに見すぐしたる事の今となりては悔しく思はるるをましてその夫たる人は如何ならむかと下の句を導き出せるなり。
○布栲乃 「シキタヘノ」とよむ。「布」は「シク」なり。「栲」を「タヘ」とよむことは卷一「七九」の「栲乃穗」の下にいへり。又「シキタヘ」といふ語は枕詞にあらずして夜の衣の事なる由は卷一「七二」の「敷妙」の下にいへるが、かくてこれは下の手枕を導けるなり。
○手枕纏而 「タマクラマキテ」とよむ。「タマクラ」は手を枕とするものにして、卷十七「三九七八」に「加弊利爾太仁母宇知由吉底妹我多麻久良佐之加倍底禰天蒙許萬思乎《カヘリニダニモウチユキテイモガタマクラサシカヘテネテモコマシヲ》」とあり。「マキテ」は枕とすることなり。この語の例は古事記下卷の歌に「多麻傳佐斯麻岐《タマデサシマキ》」又この卷「二二二」に「奧波來依荒磯乎色妙乃枕等卷而奈世流君香聞《オキツナミキヨルキヨルアリソヲシキタヘノマクラトマキテナセルキミカモ》」卷四「六三六」に「余衣形見爾奉布細之枕不離卷而左宿座《ワガコロモカタミニマタスシキタヘノマクラカラサズマキテサネマセ》」ともあり。即ち釆女が手を枕としての意なり。
○劍刀 「ツルギタチ」とよむ。刀劍の最も重んずべきは身なれば「み」の枕詞とせること上(一九四)(644)にいへるにおなじ。
○身二副寢價牟 「ミニソヘネケム」とよむ。「價」はその呉音「ケ」をとりて假名に用ゐたるなり。共に率寢けむ夫とつづくるなり。
○若草 「ワカクサノ」とよむ。「ノ」字なけれど加へてよむは例多し。この語上の「一五三」に例あり。
○其嬬子者 「ソノツマノコハ」とよむ。「嬬」は妻の義なるを夫の義の「ツマ」に用ゐたるなり。「コ」は親みてその夫をさせるなり。卷十「二〇八九」に「稚草乃妻手枕迹大船乃思憑而榜來等六其夫乃子我《ワカクサノツマラテマカムトオホブネノオモヒタノミテコギクラムソノツマノコガ》」卷十八「四一〇六」に「波之吉余之曾能都末能古等《ハシキヨシソノツマノコト》」など同じ語の例なり。「その」は夫それ自身をさせるなり。さてここに采女に夫のある事をいへるを見れば、この吉備(ノ)津(ノ)采女は現職の釆女にあらずして前の采女たりしものなるべし。現職の采女にして夫ある筈はあるべからぬ事なり。なほこの事に關聯して短歌にいふべき事あり。
○不怜彌可 舊訓「サビシミカ」とよみたるを考に「サブシミカ」と改めたり。「サブシ」も「サビシ」も同じ語なるが、古は「サブシ」とのみいひ「サビシ」とはいはざりけりと見えて「サビシ」と假名にてかける例一も存せず。「サブシ」の語は卷一「二九」に「或云見有左夫思母」とある條にもいへるが、その他の例を少しくあげむに、卷四「四八六」に「吾者左夫思母《アレハサブシモ》」卷五「七九五」に「都麻夜佐夫斯久於母保由倍斯母《ツマヤサプシクオモホユベシモ》」卷十七「三九六二」に「思多呉非爾伊都可聞許武等麻多須良武情左夫之苦《シタゴヒニイツカモコムトマタスラムココロサブシク》」などあり。その「さぶし」の語幹を「み」にてうけたるにて「さびしく思ふ」意をあらはす語とせるなり。
○念而寐良武 「オモヒテヌラム」とよむ。「寐」は「良武」につづくる爲に終止形の「ヌ」にてよむべきな(645)り。意は明かなり。
○ この句の次に、御所本、西本願寺本、細井本、活字無訓本、及び類聚古集に「悔彌可念戀良武」の七字あり。これ「クヤシミカ、オモヒコフラム」の二句によむべきものなり。代匠記に曰はく「念而寐良武の下に、別の校本に悔みか念こふらむと云二句あり。上の語勢を以て案ずるにさひしみか念てぬらむとのみにては夫君が心を想像たるほと略にて情すくなきやうなれば、諸本に此二句脱たるか」といへり。この二句在らば、在るにて意強くなるべし。されどなくても事缺かず。本文のまゝにても在りぬべし。以上十二句は采女の死去につきて惜む情をうたへるものなるが、その前八句と共にすべて二十句は「長命乎」より「時不在過去子等」につづくべきその中間に投げ置かれたる形になれるものにして、文意を次第を推していはば、その二十句はこれらより下に在りても可なるものなるさまなるが、なほそを委しくいはば、その二十句中前八句はなほその「時不在過去子等我朝露乃如也、夕霧乃如也」の上にありて、そのはかなき死去を形容しつつ惜む情をあらはす用をなすを得るものなるが、以下の十二句は意義上全くこの「時不在過去子等」を惜む精神をうたへるものなれば、その後にあらはるるが、順序上當然たるものなり。然るにここにこの十二句あり。これ特異の句法にしてこの歌の巧妙なる構成を有する由以て見るべきなり。
○時不在 舊訓「トキナラヌ」とよみたるを代匠記に「トキナラズ」と改め、考には「トキナラデ」とせり。さて「デ」といふ打消の形は當時未だ存せざりしものと見ゆれば、考の説は從ふべからず。次に(646)「時ならぬ」とよむ時は「子等」につづくべくして意をなさず。契沖の説に從ふべし。若くして死ぬべき時とも思はれぬ時に死にたるによりていへるなり。結局は天壽を全うせずして死にたるをさせるが如く聞ゆ。この故に諸家多くは自殺ならむと疑へり。卷三に攝津國班田史生丈部龍麿自經死之時判官大伴宿禰三中作歌(四四三)に「欝蝉乃惜此世乎露霜置而往監時爾不在之天《ウツセミノヲシキコノヨヲツユシモノオキテユキケムトキナラズシテ》」とあるも似たればなり。されどここにては不慮の死といふ事は考へらるれど、自殺なりと考ふべき事情は言の上にあらはれぬなり。
○過去子等我 「スギニシコラガ」とよめり。代匠記には「スギユク」とも心に任せてよむべしといへり。されど、「スギユク」は現に死ぬるところをいひ、「スギニシ」は死にし後にいへる語なり。而してこれは他より死を傳聞せしものなるべければ、「スギニシ」とよむべきものなり。さて又古義は「我」を「香(ノ)字などの誤にや」といひ、「死(ニ)去し子等哉といふにて香は歎息(ノ)辭なり」といへり。この説いはれたる如くにて一往は從ふべく見ゆ。何となれば、「時ならず過ぎにし子等が朝露の如、夕霧の如」といひては何となく文の終末もなく見ゆるによりて過にし子等かなにて終止とし、その下二句を嘆息の餘情に發する語とする方穩なるが如くに見ゆるを以てなり。然れどもかく誤字ありといふべき證は一もなくして、熟考するに、かへりて「我」とありてこそ文意も句法も巧妙なりと思はるるものにして、決して誤にあらぬなり。そは如何といふに、これを「我」とするときは、この、時ならず過ぎにし子等は主格となりてその果敢なく失せしことを下に朝露の如、夕霧の如と比喩にていへるにかかりて文勢せまり、感情をよくあらはせるをや。この故に(647)こはこのままにて巧妙なる構成によれるものといふべし。
○朝露乃如也 舊訓「アサツユノゴトヤ」とよみたるが玉の小琴には次の如くいへり。「如也はごとと訓べし。也の字は焉の字などの如く只添て書るのみ也。ごとやと訓てはや文字調はず。さて此終りの四句は子等が露のごと夕霧のごと時ならず過ぬると次第する意、如此見ざれは語調はざる也。さて朝露夕霧は上に云置たる露と霧とを結べる物也」と。攷證はこれに反對して「也もじはごとくやなどいふにて嘆息の意のや也」といへり。さてこの卷一、二にはかかる漢字の助字を歌中にそのまま用ゐたる例を他に見ねど、他の卷には往々例あること玉の小琴にいへるが如し。たとへば、卷三「四一四」の「菅根乎引者難三等標耳曾結《スガノネヲヒカバカタミトシメノミゾユフ》焉〔右◎〕」の「焉」卷四「六二三」の「黄葉乃過哉君之不相夜多鳥《モミチハノスキヌヤキミガアハヌヨオホケム》」の「烏」は「焉」の誤なるべく、卷四「七三六」の「夕占問足卜乎曾爲之行乎欲《ユフケトヒアシウラッヲゾセシユカマクヲホリ》焉〔右◎〕」の「焉」卷七「一〇九〇」の「今日之※[雨/脉]沐爾吾共所沾《ケフノコサメニワレサヘヌレナ》者〔右◎〕」の「者」」「一一〇二」の「細谷川之音乃清《ホソタガハノオトノサヤケサ》也〔右◎〕」の「也」卷八「一四四二」の「後居而春菜採兒乎見之悲《ヲクレヰテワカナツムコヲミルガカナシサ》也〔右◎〕」の「也」「一五三六」の「隱野乃芽子者散去寸紅葉早續《ナバリヌノハキハチリニキモミヂハヤツゲ》也〔右◎〕」の「也」などこれなり。今これらに准じて本居説をよしとす。
○夕霧乃如也 上の説によりて「ユフギリノゴト」とよむべし。
○一首の意 この歌句法綜錯交雜して目もあやなれば、之を解するに深く注意せずば妙味を味ふことを得ずしてかへりて不可解に陷らむ。試に次にいふ如く屡順序をかへ、又もとにもどりて見るべし。紅顔の美人、嫋々たる佳人たるわが吉備の津の采女は如何に思ひたる事にか、行末長かるべき命をば不慮に過ぎ去りにしことぞや。露こそは朝に置きて夕に消ゆるもの(648)なりと信ぜられてあれ、霧こそは夕に立ちて朝に失するものなりと世に信ぜられてをれ、人生は如何にはかなしとてもさるものにあらぬをば如何にして、わが采女は朝露の夕に消ゆるが如く、夕霧の朝に失ゆるが如くはかなく失せたる事ぞや。あはれわれは采女の生前ほのかに見たる事ありしが、今その訃音を聞いて誠にあはれに惜しき事したり、何故に十分に見ずしてありしかと後悔すれども甲斐なきに歎きもあへず。かく、その死を傳聞するに止まるわれさへかく歎かしく思ふものを親しく共に手を携はり睦びあひしその夫の君は如何なる思に住すらむ。思ひやるだに心苦しきことなるぞや。あはれ朝露の如く夕霧の如くにして不慮に身まかりし采女の子はや。上の如く大小の環を連ねたる如く屡循環して説かずしてはその意を理解すべくもあらぬなり。その巧妙なる結構に於いてはかの卷一の藤原宮役民作歌に似て更に一段の巧を加へたり。技巧の極ここに達せるか、はた天來の妙音おのづからこれを爲せるか、われ未だこれを判するを得す。人麿作歌中巧妙なるものの一なりといふべし。
 
短歌二首
 
○「短歌」の字拾穗抄に「反歌」に作る。又「二首」の字細井本、活字無訓本になし。
 
218 樂浪之《ササナミノ》、忘我津子等何《シガツノコラガ》、【一云志我津之子我】罷道之《マカリヂノ》、川瀬道《カハセノミチヲ》、見者不怜毛《ミレバサブシモ》。
 
○樂浪之 「ササナミノ」とよむ。この字面の事は卷一「二九」の下にいへり。枕詞にあらずして「サ(649)サナミ」は既にいへる如く近江國内の一地方の名稱にして、今の滋賀郡より高島郡に亘り、湖西一帶の地をさせるが如し。
○志我津子等何 舊板本訓をつけず。類聚古集、西本願寺本、細井本、温故堂本等に「シカツノコラカ」の訓をつけたり。又神田本には「シカツノコラカ」京都大學本に「シカツコラカ」といふ假名をつけたり。按ずるに、これは「シカツ」を一語にして「シガツノコラガ」とよむべきなり。「シガツ」の事は卷七「一二五三」に「神樂浪之思我津乃白水郎者《ササナミノシガツノアマハ》」又「一三九八」に「神樂聲浪乃四賀津乃浦能《ササナミノシガツノウラノ》」とあり。これは近江國滋賀郡の津の事なるが、その津といふは、大津をさせるならむ。「子等」は前にいへる「騰遠依子等」「過去子等」の「子等」におなじくかの采女をさせり。「何」は「ガ」の假名に用ゐたり。さてここにかの采女をば「志我津の子」といへるは何故ぞ。契沖は代匠記の初稿に「津の子といはんためにさゝ浪のしがとはいへり。これにつきて不審あり。以下の歌にもおほしつのことよめり。長歌に、わか草のそのつまのこといへるは凡直氏などにて名を津の子といひけるか。又吉備津采女が氏凡直にて名を吉備津といひければ上の吉備を略して津子といへるか」といひたるが、その清撰には單に「采女が名の津の子をいはむとてさゝ浪のしかとは云出せり。」といへり。童蒙抄には「此しか津子とよみ出したるは貢る采女の近江のしがつに居て朝勤をしたりと見えたり」といへり。その他の諸家は、吉備津を「志我津」の誤とする假説によれるものなれば論の外なり。さて代匠記の説はその主眼とするところは吉備の津の采女の「津」といふことを導かむが爲に、この歌に「ささ浪のしが」といへりとする説なるが、かゝるいひ方は本集に(650)例なきにあらず。たとへば、卷三「二六四」に「物乃部能八十氏河乃云々」卷十一「二七一四」に「物部乃八十氏河之云々」といひて「ウヂガハ」を導き、などする倒によりてかゝる事なしとは斷言すべからず。されば、その點はありうべき事とせむに、ここに「志賀津」といひ、次に「凡津」といへるは語こそちがへ、いづれもさす所は一なれば、この采女に何等かの縁故ありし所ならずや。若し縁故ある所とせば、必ずしも「津」を導く料としていひしにあらざるにはあらぬか。童蒙抄は先にもいへる如く、この采女の近江のしがつに居たる由に見たるが、拾穗抄にもしかいへり。しかれども、この歌は藤原朝時代のものと見ゆれば、近江の志賀津に住みて、藤原宮に通ひて奉仕せむことあるべくもあらず。されば、上の二家の説は從ひがたし。按ずるに、この女には長歌に見ゆる如く夫あれば、現在の采女にあらずして前采女なるべきは既に論ぜしところなり。されば、その夫たる人の家が、近江の滋賀津に在りしなるべく思はる。而してその前采女を妻にもてるは世人の耳目を聳動せしものにして名の世に聞えたりしものなるべきなり。何となれば、采女に夫あること既に前采女たることを語り、又吉備出身の采女は直ちに志賀津凡津といふべきいはれなき事なれば、これはその夫たる人の住所か、又は夫をもちての後の住所なるべきなり。若し果して余が按の如くならば、その「津の采女」といはむ爲といふ説は必要なきに至らむ。
○一云志我津之子我 これは上の一句につきての異説あるをあげたるなり。これは「シガツノコガ」とよむべくして本文に「子ら」とあるを「コガ」とせる點が異説たりと兒ゆ。然るに類聚古集、(651)古葉略類聚抄、西本願寺本、神田本には「志我乃津之子我」とありといふ。攷證などはこれをよしとせり。されど、いづれにしても大差なければ本文のまゝにて在りなむ。
○罷道之 舊板本「ユクミチノ」とよめり。古葉略類聚鈔、京都大學本には「マカリチノ」といふ旁訓を施せり。拾遺集にこの歌を收めたるが、それには「さゝ浪や志賀のてこらがまかりにしかはせの道を見ればかなしも」と改作せり。童蒙抄には「まかりぢの」とよみて「采女朝勤の年限はてゝ吉備津に歸へる道の事を云ひたる義と見えたり」といへり。考も亦「マカリヂ」とよみたるが、玉の小琴には「道は邇の誤なるべし。爰はまかりぢにてはわろし」といひたれど、理由を示さず。檜嬬手、古義、新考等これに從へり。按ずるに、罷字は國語呉語に「遠者罷而未至」といふ下に注して「罷歸也」とありて、通常「マカル」とよむ字にて(色葉字類抄にもある如く)「ユク」とよむは古來例なきことなれば從ふべからず。「マカル」といふ語は辭し去る意をあらはすものにして、本集中に、卷三「三三七」に「億良等者今者將罷子將哭《オクララハイマハマカラムコナクラム》云々」卷五「八九四」に「唐能遠境爾都加播佐禮麻加利伊麻勢《モロコシノトホキサカヒニツカハサレマカリイマセ》」又卷十五「三七二五」に「和我世故之氣太之麻可良婆思漏多倍乃蘇低乎布良左禰《ワガセコガケダシマカラバシロタヘノソデヲフラサネ》」などあり。その「まかる」は「身まかる」などの例にてしるき如く死去する意にも用ゐたり。これらの意は「マカリヂ」とよみたりとも「マカリニシ」とよみたりとも變ぜざるべきなり。さて本居説の誤字如何といふに古來ここに誤字ありといふ證は一も存せず。加之本居説はその理由を示さざるが、攷證にもいへる如く「マカリヂ」にてもよく聞ゆるにあらずや。さて又「マカリヂ」といへる語は續日本紀卷卅一に左大臣藤原永手の薨去を悼ませたまへる宣命(五一)に「美麻之大臣罷道(652)宇之呂輕意太比罷止富良須倍之止詔大命宣」とあり。かく、「マカリヂ」といふ語の例存する上に、「マカリチノカハセノミチ」といふ語法は必ず「マカリヂ」とよますべきことを吾人に告ぐるなり。何となれば、「ノ」といふ助詞は同じ趣の語を重ね示す用をなすものにして「罷道〔右○〕」と「川瀬道〔右○〕」とが、大略に於いて同じ意を示す語なるが故に「ノ」にて重ね示すことは既に上の「一六七」の條中にいへる所なれば、今再び例をあげず。されば、これは必ず「マカリヂノ」とよむべき所なること明かなりとす。さてこの「マカリヂ」といふ語の意如何といふに、童蒙抄は上に引ける如く、任はてて吉備津に歸る義とせり。又考は葬送の事とし、略解、古義等これに從へり。さてここの罷道も、かの宣命の罷道も元來同じ語なるべきによりて考ふるに、宣命の罷道は俗にいふ死出の旅の道の義なることは下に「平久幸久罷止富良須倍之」とあるにても明かなり。されば、ここも采女の死出の旅の道なるべきが、その道は下に、川瀬道とあれば、この現世に存する道路なり。この道路を通りて死の旅をする由に聞ゆれば、ここはその葬送の道をばたとへていへるものなるべきなり。この事なほ下にいふべし。
○川瀬道 「カハセノミチヲ」とよめり。「ヲ」の助詞なけれど、下の「見る」の補格なること著しければ、これを補ひよむべきなり。この道は如何なることを示すかと考ふるに契沖は「川瀬の道は身を投むとて行しを云なるべし」といへり。然る時は上の「罷道」に対しての用法としては吻合せず、本居流の「罷爾之」とせば、その川瀬に身を投げしことともいひうべけむ。されど、然いふべからねば、「罷道」即ち「川瀬道」なるべければ、契沖説は從ふべからず。然らば「川瀬道」とはいかなる道(653)かといふに、諸家これを説けるもの殆ど見えぬが、新考に「川瀬を渡りてゆく道なり」といへるをよしとす。その川を渡り行く道はいづこなりけむ、今より知るべからねど、その葬地に行くに川瀬を歩渡りして行けることは想像せらる。
○見者不怜毛 舊訓「ミレバサビシモ」とよみたり。類聚古集神田本には「ミレバカナシモ」の訓あり。童蒙抄には「カナシモ」とよむべきをいひ、考には「サブシモ」とよませたるが、爾來諸家みな考の説に從へり。この「不怜」のよみ方につきては上の長歌の「不怜彌可」の下にいへる如く、古は「サビシ」といふ語なく、それらは專ら「サブシ」といひたるなれば、考の説をよしとす。
○一首の意 さゝ浪の滋賀津に住めるわが、采女が身まかりて葬られ行く所は、川瀬を渡り行くべきさひしき所なれば、その事を見、その事を思ふに、いかにも心すさまじくなぐさめがたしとなり。
 
219 天數《アマカゾフ》、凡津子之《オホシツノコガ》、相日《アヒシヒニ》、於保爾見數者《オホニミシカバ》、今叙悔《イマゾクヤシキ》。
 
○天敷 舊板本「アマカソフ」とよみたるが、代匠記に「アメノカズ」とよみ、童蒙抄は「アマツカズ」とよみ、考には「ソラカゾフ」とよみたり。古義には「天」字を「左々」か「樂」かの誤として「數」を「ナミ」とよみて「ササナミノ」とよませたり。又檜嬬手は「佛説の天數にて兜率の三十三天を思へるなるべし。さらば三三並ぶ意にて三三並《ササナミ》とよまする義訓とすべし」といへり。然るに、ここに古來誤字なければ、古義の説は從ふべからず。檜嬬手の説は極端なる附曾説と評するの外なし。されば(654)「天數」の文字のままよむべきが、それには上の三説共に行はるべき道理あれば、いづれも、無理とはいふべからず。されば、それらの諸説につきて、その意を考へて訓を考ふべし。先づ「ソラカゾフ」といふ訓は考の説なるが、そは「物をさだかにせで、凡にそら量りをするをそら數へといふを、以て大津の大を凡の意にとりなして冠らせたり」といふにあり。この説は古義に大《イミシキ》誤なりとて「そもそも、蘇良と云言は古(ヘ)は蒼天《オホソラ》をのみ云ことにて暗推に物することを蘇良某と云しことは一(ツ)もあることなし。そら誦そら言など云類の蘇良《ソラ》は古(ヘ)は牟那《ムナ》とのみ云しをや。云々」といへる如く、古語にはなきことなり。されば、「ソラ」とよまむにもその意は疎空虚儀の意にあらずして實際の天の義なるべし。然らば「アメ」又「アマ」とよみてあらむ方穩なるべし。さては舊訓の「アマカゾフ」か、代匠記の「アメノカズ」か、「アマツカズ」かのいづれによるべきか。しかもこれはここに一所あるのみにして他に旁例なきものなれば、最後の決定は下し難きに似たるが、三者の訓は「天」の意は異なることなりと見ゆるが、「數」をば、體言とするか、用言とするかの違あるのみなり。さて契沖は代匠記の初稿に於いて「これはおほしといはむためなり。おほしとはおほよそなり。日月の行度、星の舍次などをかぞふることはおほよそなることなればかくつゞくるなり。」といひ、清撰本に於いては「(上略)一つは一の處、二つは二の處なり。かくの如く千萬に至るまで皆天然の數にていくつといへば、津と云名にそへむとてあまかそふとは云出せるか」といへるが、いづれも理窟に走りすぎて、古代人の考へたりしこととも思はれず。童蒙抄には契沖説その他を駁してさて曰はく「天數は大なるものといふ意にて數大とうけたる詞と(655)見る也。」といへり。これも儒者の考の如くにして、本邦の古代人の考へとは思はれず。攷證は「何にまれ天なる物をかぞふるは凡なるものなれば、そらかぞふ凡とはつゞけしなり」といへり。されど、「凡」は「オホ」の語をあらはす借字なれば凡の字につきての釋はうけられず。按ずるにこれは恐らくは天の星の數の事などをいへるにあらざるか。「天」はもとより天にして星にはあらねど、上にもいへる如く、「山」といひて、それに存する草木の花紅葉までをいへる例にて推さば、天といひて天なる星をもさすことなしとすべからず。若し果して「天を以て天の星の意をも含めたりとせば、星の數は多きものなれば、これにて「オホ」の枕詞とせしものならむ。然るときにはこれは「アメノカズ」にても「アマカゾフ」にても通ぜずといふべからず。然りとせば、そのよみ方は舊來のによりて改めざるを穩なりとすべし。
○凡津子之 舊訓「オフシツノコガ」とよみ攷證之をよしとせり。代匠記には凡を「オホ」とよみ、童蒙抄は「オホツノコガ」とよみ、考これに賛せり。按ずるに「凡」は人名地名などに「凡河内」「凡人」などの如く「凡」を「オホシ」とよめるがなきにあらねど、本集に「凡」字を用ゐたるは「凡可爾」(卷六(九七四」)の如く「オホロ」とよましむるあり、又「凡爾」(卷七、「一三一二」十二「二九〇九」)「凡者」(卷十二、「二九一三」)の如く「オホヨソ」とよましむるあり、又「オホ」とのみよましむるものあれど、「オホシ」と必ず讀ましむべしと見ゆるものなし。而して「オホ」とよむべきは卷六「九六五」に「凡有者左毛右毛將爲乎《オホナラバカモカクモセムヲ》」卷十一「二五三二」に「凡者碓將見鴨黒玉乃我玄髪乎靡而將居《オホナラバラガミムトカモヌバタマノワガクロカミヲナビケテヲラム》」とあり。これによりて「オホツノコガ」とよむべし。その「凡都」即ち大津にて上の志賀津と同じ地なるべきなり。
(656)○相日 舊訓「アヒシヒヲ」とよめり。童蒙抄には「存日」の誤かといひて「アリシヒヲ」とよみ、考には「アヒシヒニ」とよめり。これは諸本に誤字なけれ童蒙抄の説は從ひ難く、下の「見る」といふ語につづけて考ふるに「相ヒシ日」を見るといふべくもあらねば、考の説によるべし。而して、その意は何か事の序ありて彼の采女に相ひし事ありしを思ひ出し、「その時に」といふ意なり。
○於保爾見敷者 「オホニミシカバ」とよむ。「敷」は「シク」の未然形の「シカ」をかりて複語尾の「シカ」にあてたるなり。「オホ」は長歌に「髣髴」とかける意にして、上の「オホツノコ」はこの「オホ」を導かむ爲に意識して「シガツノコ」といふと同義の語を用ゐしならむ。十分に見ざりしかばといふ意なり。
○今叙悔 「イマゾクヤシキ」とよむ。「叙」は係助詞「ゾ」にして、その結として「悔」を連體形によめり。
○一首の意 われかつて事の次にかの采女に面會せしことありしが、その時はただおほよそに見過したりしことを思へば、悔しき事よ。その時は末長き人と思ひたればいづれまた、心のどかに相語らはむなど思ひつゝありて油斷して、かく遂に死なむとは思はざりしものを。さても殘多きことよとなり。
 
讃岐狹岑島視2石中死人1柿本朝臣人麿作歌一首并短歌。
 
○讃岐狹岑島 「岑」字西本願寺本、京都大學本に「峯」とす。これは「ミネ」とよむとせば、いづれにても通ずべし。考には「讃岐の下に「國」字脱せりとす。されど諸本皆この字を存せねば、もとよりな(657)きものにして、又なくとも意通ずるなり。かくて讃岐はいふまでもなく、今の讃岐國なり。狹岑は「サミネ」とよまるべきによりて多くかくよみ來れるに、代匠記には「狹岑島は那珂郡にあり。所の者サミシマと云。反歌にも佐美乃山とよまれたれば、サネとはよむまじきなり」といひてより諸家多くこれに從へり。然れども「岑」にしても「峯」にしても「ミネ」といはむは論なれけど、「ミ」とはよまるべからず。何となれば、「ミネ」といふ語の本體は「嶺《ネ》」にありて「ミ」はその「嶺《ネ》」に對する美稱なるものなればこの二字を強ひて二音にせば「サネ」とこそよまるべきものなれ、決して「サミ」とよまるべき文字にあらず。若し「サミ」と必ずよむべきならば、此の字面を用ゐざりしならむ。されば「サミネ」とよむをよしとすべし。然らば、そのサミネの島といふは何處ぞといふに反歌に「佐美乃山」とあるその地と同じきものなるべきなり。果して然りとせば、一方に「サミネ」の島といひ、一方に「サミ」の山といへるは如何。これにつきて新考に説あり。曰はく、「サミネのネは峯にてツクバをツクバネといふに齊し」と。まさにこの説の如くなるべし。「サミ」即ち島の名なるが、それを「サミネ」といひしことは、かの「ツクバネ」の例にてもしるべきが、なほこの「ネ」は「シマネ」といへる如く古く島にいへることは、卷一「六二」の「在根良し」の下にもいへるが、瀬戸内海のこの邊の島又は岩礁にていはば、平根《ヒラネ》(讃岐)赤穗根島《アカホネシマ》(伊豫)高根《カウネ》島(安藝)宿根《スクネ》島(安藝)平根《ヒラネ》(周防)などあり。これらによりて「サミ」の島も「サミネ」にしてやがて「サミネ」の島ともいひしなるべきをさとるべし。さてこの島は古くは耶珂郡にして今仲多度郡に屬し、鹽飽諸島の一なる與島《ヨシマ》に屬する砂彌《シヤミ》島なりといふ。即ち宇多津町の北方海中にある小島にして、當時の航路にあたれる地なり(658)しならむ。
○視石中死人 「イシノウチニミマカレルヒトヲミテ」とよむべきか。代匠記には「石中とは石をかまへて葬るには非ず。石の中に交るなり」といひ、攷證には「磯邊の小石などある中にありしなるべし。石窟などをいふにはあらじ」といへり。さる事なるべし。さてはこれは溺死者の流れ着きたるか、又は行旅の病者などの行き倒れ死にたるなるべし。
○柿本朝臣人麿作歌 これによれば、人麿この邊を旅行せしこと著し。
○短歌 神田本、西本願寺本、細井本、大矢本、京都大學本小字にせり。
 
220 玉藻吉《タマモヨシ》、讃岐國者《サヌキノクニハ》、國柄加《クニカラカ》、雖見不飽《ミレドモアカヌ》、神柄加《カムガラカ》、幾許貴寸《ココダタフトキ》。天地《アメツチ》、日月與共《ヒツキトトモニ》、滿將行《タリユカム》、神乃御面跡《カミノミオモト》、次來《ツギテクル》、中乃水門從《ナカノミナトユ》、船浮而《フネウケテ》、吾榜來者《ワガコギクレバ》、時風《トキツカゼ》、雲居爾吹爾《クモヰニフクニ》、奧見者《オキミレバ》、跡位浪立《シキナミタチ》、邊見者《ヘミレバ》、白浪散動《シラナミサワク》。鯨魚取《イサナトリ》、海乎恐《ウミヲカシコミ》、行船乃《ユクフネノ》、梶引折而《カヂヒキヲリテ》、彼此之《ヲチコチノ》、島者雖多《シマハオホケド》、名細之《ナグハシ》、狹岑之島乃《サミネノシマノ》、荒磯面爾《アリソモニ》、廬作而見者《イホリシテミレバ》、浪音乃《ナミノトノ》、茂濱邊乎《シゲキハマベヲ》、敷妙乃《シキタヘノ》、枕爾爲而《マクラニナシテ》、荒床《アラドコト》、自伏君之《ヨリフスキミガ》、家知者《イヘシラバ》、往而毛將告《ユキテモツゲム》、妻知者《ツマシラバ》、來毛問益乎《キテモトハマシヲ》、玉桙之《タマホコノ》、道太爾不知《ミチダニシラズ》、欝悒久《オホホシク》、待加戀良武《マチカコフラム》、愛伎妻等者《ハシキツマラハ》。
 
(659)○玉藻吉吉 舊本「タマモヨキ」とよめるを代匠記に「タマモヨシ」とよめり。これは讃岐の枕詞なりと古來認められ、それにつきては誰人も異論なけれど、これがよみ方につきては上の如く二説あり、又その意義につきては種々の説あり。然るにこの枕詞は古典にはこの所に一あるのみなれば他より證をとりて論ずる便宜なし。さて、これを枕詞として先よみ方を考ふるにこの「吉」を用言として見る時に於いても終止形をとりて「よし」とよむべきなり。さて他の「在根良」「朝毛吉「青丹吉」「大魚よし」「眞菅吉」などの例によらば、「よし」は「よ」といふに意異ならずして「玉藻よ」といふにおなじとすべし。而して、恐らくはその「玉藻よ」の意なるべし。これは先然りとして、その「玉藻」の語は如何といふに、「玉」は古に多き美稱にして、「藻」が本體なるべきが、その文によれば植物の藻をさせりとすべきが如し。或は「裳」の借字とも考へられざるにあらず。今藻として考ふるに、「玉藻よ讃岐」とつゞくべき由を知らず。この故に「よし」といふ用言の義として讃岐の國は海藻のいとよき國なればなりといふ説あり。されど延喜式主計式に讃岐の中男作物として「海藻」の目あり、阿波伊豫には中男作物中に海藻三種あれど民部省式を見るに、阿波伊豫などにはそれぞれ海藻の産あれど、讃岐には一もその名を載せず。これによらば特に「藻」のよき故といふ説は必ずしもよるべからぬものなり。又弘法大師の三教指歸には讃岐をさして「玉藻所歸之島」と見ゆるによれば、「よし」は「依す」の義かと考ふるに、こは後のものにして萬葉集の根據とするに足らず。又「玉裳」といふ説もあれど、これも又「サヌキ」といふにつゞく理由をしらず。今はただ「吉」を他の例に倣ひて「よし」とよみて、さてその意はすべて未詳として後の考をまつべ(660)きなり。
○讃岐國者 「サヌキノクニハ」なり。この國の名は古事記に「次生2伊豫之二名島1、此島者身一而有2面四1、毎v面有v名、……讃岐國謂2飯依比古1」と見えたるにて古くよりの名なるを知る。
○國柄加 「クニカラカ」とよむ。かくのごとき「から」といふ語の例は卷三「三一五」に「芳野乃宮者山可良志貴有師《ヨシヌノミヤハヤマカラシタフトカルラシ》、水可良思清有師《カハカラシサヤケカルラシ》云々」卷六「九〇七」に「蜻蛉乃宮者神柄香貴將有《アキツノミヤハカムガラカタフトカルラム》、國柄鹿見欲將有《クニカラカミガホシカラム》云々」などあり。考には「國がらのからは隨のなを略きたる言にて上に出たる神隨《カンナガラ》のながらにおなじくて國のよろしきまゝか國つ神の御心よりかく宜きかと云々」といへり。古義には之を否定して柄は故の意なりとし「國柄加はすぐれたる國ゆへにかといふ意なり」といへり。攷證も略同意にて「この言は上に詞を添て、のよき故に、のわろき故にと云意の語なり」といへり。而して近頃の學者多くこれに賛同せり。然るに、卷十三「三二〇五」に「蜻島倭之國者神柄跡言擧不爲國《アキツシマヤマトノクニハカムガラトコトアゲセヌクニ》」とあるに同じ趣なる語を同卷「三二五三」に「葦原水穗國者神在隨事擧不爲國《アシハラノミヅホノクニハカムナガラコトアゲセヌクニ》」といへり。これによれば、「カムカラト」といへると「カムナガラ」といへるとは語は異なりとしてもその意は同じに歸するを見るべし。而して「カムカラト」は「カムカラ」に基づきその、「カムカラ」は「神」と「カラ」とに基づくものにして、「カムナガラ」は「神」と「ナガラ」とに分つべく「ナガラ」は「ナ」(「ノ」の意の古き助詞)と「カラ」とに分つべきものにして、結局二語とも「神」と「カラ」との結合せるものにしてその結合の方式が異なるに止まる。この故に、考に「國がらのからは隨《ナカラ》のなを略きたる言にて」といへるは賛成しうべからぬ説なれど、「神隨のなからにおなじくて」と説けることは決して否定すべからず。(661)されば、考の説を否定せる諸説はかへりて非なりといふべし。さてその意は如何といふに「カラ」はもとより「故《カラ》」といふ意なれば、諸家の説く所、結局は一に歸すべく、彼を是しこれを非するはいづれも「カラ」の眞意に觸れざるものといふべし。さて下の「カ」はいふまでもなく疑問の意の係詞なり。この「國柄か」といふ語は「讃岐國は見れども飽かぬ」といふ事の理由をいへる修飾格に立てるものにして、この讃岐國はいくら見ても飽かぬはさすが名高き國故ならむといふ程の意なりと見ゆ。
○雖見不飽 「ミレドモアカヌ」とよむ。考に「ミレドモアカズ」とよみたれど、上にある「カ」の結としては連體形の「ヌ」にて終止すべき筈なり。いくら見てもみあかぬといふ意なり。
○神柄加 舊訓「カミカラカ」とよみたるを、攷證に「カムカラカ」と改めたり。そは卷十七「三九八五」に「可牟加良夜曾許婆多敷刀伎《カムカラヤソコバタフトキ》」「四〇〇一」に「多知夜麻爾布里於家流由伎子常己奈都爾見禮等母安可受加武賀良奈良之《タチヤマヌフリオケルユキヲトコナツニミレドモアカズカムガラナラシ》」とあるにて知べく、又「カムカゼ」「カムナガラ」の例に準じて「カムガラ」とよむべし。(「カ」も上の「む」の勢にて濁りよむべきならむ。)さてここに讃岐國につきて「神から」といへるが、卷六「九〇七」「九一〇」には芳野につきて「神から」といひ、卷十三「三二五〇」には「倭之國」につきて「神からと」といひ、「三二五三」には「葦原水穗國」につきて「神ながら」といへる例にても見るべきものにして、卷十七「三九八五」は二上山につきて「かむからや」といひ「四〇〇一」には立山につきて「かむがら」といへり。これらは土地その者を直ちに神といへるものにして、かくの如きことは、上代人には普通の思想なりしなり。されば既にいへる如く、古事記上卷に「次生2伊豫之二名(662)島1此島者身一而有2面四1毎v面有v名、故伊豫國謂2愛比賣1讃岐國謂2飯依比古1云々」とありて神の生みましし國にしてその國は同時に子たる神たること著し。されば、ここの神といへるも讃岐國それ自體をさせるなり。攷證に「この讃岐の國は神の生しし故にかたふとかるらん」といへるはここの意に似たるが如くにして不十分なるものなり。即ちここの「神」は直に國の事なりとせざるべからず。而して「國からか」「神がらか」は結局同じ事を語をかへていへるに止まれり。
○幾許貴寸 舊板本「コヽハカシコキ」とよみたるが管見には幾許を「コヽタ」とよみ代匠記には「貴寸」を「タフトキ」とよみたり。按ずるに「貴寸」は「タフトキ」とよむべくして「カシコキ」とよまむは無理なるが、「幾許」を「ココバ」とよむべきか、「ココダ」とよむべきかといふに、この二語共に本集に假名書の例あり。卷五「八四四」に「伊母我陛邇由岐可母不流登彌流麻提爾許許陀母麻我不烏梅能波奈可毛《イモガヘニユキカモフルトミルマデニココダモマガフウメノハナナカモ》」卷十四「三三七三」に「左良左良爾奈仁曾許能兄乃己許太可奈之伎《サラサラニナニゾコノコノココダカナシキ》」とあるによりて「ココダ」といふ語ありしを知るべく、卷十四「三九一七」に「阿是西呂等許己呂爾能里※[氏/一]許己婆可那之家《アゼセロトココロニノリテココバカナシケ》」とあるによりて「ココバ」といふ語もありしを知るべし。さて「ココバ」は恐らくは「ココバク」といふ語の略にしてその「バク」は「バカリ」の意なるべし。又「ココダ」は後「ダ」を「ラ」として「ココラ」といへる語にして多き意をあらはせりと見ゆ。さて「幾許」の文字は今の「いくらばかり」の意の文字なるが故に「ココバ」とよむべきが如くなれど又それを以て數多の意に用ゐたるものとも見ゆれば、「ココダ」とよまむも無理ならず。ここはその疑ふ方によらずして多き方を主としていへるものと見らるれば、「ココダタフトキ」とよむ説によれり。さてこれは上の「讃岐國」を受けて、「讃岐國(663)はここだたふとき」といへるなり。「讃岐國といふ神はいみじき神なる故にか、非常に貴きことよ」となり。「貴寸」は「か」の結なることは上の「アカヌ」におなじ。以上第一段落。讃岐國を讃美せるなり。
○天地 舊板本「アメツチノ」とよみたるが、童蒙抄に「アメツチト」とよみ考に「アメツチ」と四音によめり。ここに「天地ノ」とよむときは「日月」の限定語となるべくして歌の意にあはずと考へらる。又「天地ト」とよまむは如何といふに、卷十三「三二三四」に「天地與日月共萬代爾母我」とあるは古來「アメツチトツキヒト共ニ」とよみ來れるが、それに照せば童蒙抄の説をよしとすべきに似たれど、「ト」にあたる文字なければ考の説によるべし。これは下の「月日」にただ重ねつづけたるものにして、「たり行く」といふ語を導く料とせるが、その例は卷十三「三二五八」に「霞立長春日乎天地丹思足椅《カスミタツナガキハルヒヲアメツチニオモヒタラハシ》」「三二七六」に「物部乃八十乃心呼天地二念足橋《モノノフノヤソノココロヲアメツチニオモヒタラハシ》」「三三二九」に「天地滿言《アメツチニイヒタラハシテ》」卷十九「四二七二」に「天地爾足照而吾大皇之伎座婆可母樂伎小里《アメツチタラハシテリテワカオホキミシキマセバカモタヌシキヲサト》」などあるが、これらは天地を以て物の足ることのたとへにしたりと思はる。 
○日月與共 舊訓「ヒツキトトモニ」とよみたるを考に「ツキヒトトモニ」とよみ改めたり。これは上「一六七」にもいへるが如く「ヒツキ」にてもあるべきなり。この「日月」も亦足り行くことのたとへに用ゐたりと思はる。上の「一六七」の長歌に「望月乃滿波之計武跡《モチヅキノタヽハシケムト》」とあり、又卷九「一八〇七」に「望月之滿有面輪二《モチヅキノタレルオモワニ》」とあるなどにて想ひやるべし。
○滿將行 舊訓「ミチユカム」とよめるを考には「タリユカム」と改めたり。「滿」は「ミチ」とよむが、又滿(664)足の意にて「タル」ともよむをうべきなるが、ここは如何といふに、上の「天地」の下にあげたる例に照して「タリユカム」とよむをよしとすべきこと知られたり。この「足り行かむ」といふその目標如何といふに下の「御面」なり。神代の神名に面足尊とあるもその意あればいへるならむ。神の御面の漸次に足り行かむといへるなり。
○神乃御面跡 「カミノミオモト」とよむ。ここの意は攷證に「四國は神の生ませりといふ傳へにてその國の年經つゝひらけゆきで、足《タリ》とゝのひそなはれるを神の御面のそなはれるによせていへるなり」といへるが如き意なるべきが、なほ委しくいはば、この讃岐國即ち伊豫二名島といふ神の面なればなり。「ト」は「と思ひて」といふ程の意を含めたり。
○次來 舊訓「ツキテクル」とよみ、攷證は「ツキテコシ」とよみ、古義は「次」の上に「云」字を脱せりとして「イヒツゲル」とよめり。然れども「云」字ある本はかつてなきことなれば、古義の説は從ふべからず。その意につきては契沖は「上中下とも始中終ともいふ時、上より中につぎ、始より中に次ゆへに中といはんとてつぎてくるといふ歟」といひたるが、童蒙抄はこれを入ほがなりとして、「人麿西國にくだる行路の次第を來るつぎ/”\といふ義、また神のおも跡の次/\を來るにさぬきは中にあたる國故中のみとうけんための義ともきこゆる也」との二説を按出し、考には「神代よりいひ繼來る也」といひ、攷證は「道を次て來るといふ意にて云々」といひ、福井久藏氏の「枕詞の研究と釋義」には「百船の續き來るといふ意なれば枕詞にあらず」といへり。按ずるにこはこの「次ぎて來る」所の主格如何といふことによりて決定すべきものなり。百船の續き來るといふ(665)説は頗る面白きやうなれど、果してさる場合に主格を省くことありや。こは殆ど信ぜられず。次に、神の御面わのつぎて來るといふことは意義をなさず、又いひつぎ來るを單に「つぐ」といふは不條理なり。されば、最も普通に考へらるべきことはその説者自身が主格たる場合に省けることなり。今かく考へ來れば、童蒙抄の前の説を以て得たりとすべし。而して「つぐ」といふ語は今「つづく」といふ語にあたれる場合あるものなるが、こはその揚合と考へらる。(「つづく」は「つぎつぐ」を約せる語なるべし。)即ち人麿が西方より上りて讃岐の那珂の湊に來りたるか、若くは東方より下りて那珂の湊に來れるかのいづれかにしてその引つづき來れる航路の中途に那珂の湊に泊りしなりしならむ。「つぎて」を「引續きて」の意に用ゐたるは、卷五「八〇七」に「宇豆都仁波安布余志勿奈子奴波多痲能用流能伊昧仁越都伎堤美延許曾《ウツツニハアフヨシモナシヌバタマノヨルノイメニヲツギテミエコソ》」卷十八「四〇五七」に「多萬之可受伎美我久伊弖伊布保理江爾波多麻之伎美弖々都藝弖可欲波牟《タマシカズキミガクイテイフホリエエニハタマシキミテテツギテカヨハム》」など例多きことなり。かくて考ふれはば「來」は「クル」とよむべきなり。
○中乃水門從 「ナカノミナトユ」とよむ。これにつきて考に「讃岐に那珂郡あり。そこの湊をいふならむ」といはれしが、實にさる事と見ゆ。那珂郡は今多度郡と合して仲多度郡となれるが、その那珂の湊は蓋し、丸龜の附近なる中津といへる地ならむ。これより砂彌島へは北東にあたれば、西より東へ航したるならむ。
○船浮而 「フネウケテ」なり。この語の例は卷一「七九」にあり。
○吾榜來者 「ワガコギクレバ」とよむ。人磨自身に船を榜ぐにあらずともかくいふに差支なし。(666)船に乘りて榜がしめ來るをもかくいへるならむ。
○時風 「トキツカゼ」とよむ。卷六「九五八に「時風應吹成奴香椎滷潮干※[さんずい+内]玉藻而名《トキツカゼフクベクナリヌカシヒガタシホヒノウラニタマモカリテナ》」その他卷七「一一五七」卷十二「三二〇一」などに「時風」とかけり。「ツ」は連體格の助詞なるが、この字なけれど、加へてよむべし。その意は契沖は「時に隨て吹風なり。下に時つ風とよめる歌どもいかさまにも春にまれ秋にまれ、微風《コカゼ》を云事とは見えず。意を著べし」といへり。童蒙抄は「あらき風の事を云。旋風といふ意なるべし。今時のときつかぜと異意也」といひ、考には「うなしほ滿來る時には必風の吹おくるをときつ風とはいへり。」といひ、攷證には「思ひよらぬ時に吹來る風をいへる也」といへり。されど、攷證の如き意ならば、時ならぬといふ語と同義といふべきにて「時つ云々」といふべき理なし。されば、これは略契沖のいへる如くなるべきが、意稍異にしてその時に當りて吹く風の義ならざるべからず。而してそは相當に著しき風なるべきなり。卷六に「時つ風吹くべくなりぬ」といへるはその吹くべき時の豫め知らるるによりていへることと考へられ、又卷七の「時風吹麻久不知」といへるも同義なりと見ゆ。その風の強かりしことは下の詞に見ゆるが、人麿のその航海せる時に當りて吹ける風なるべし。
○雲居爾吹爾 「クモヰニフクニ」とよむ。雲居は卷一「五二」にいへる如く空をさせるが、天の雲脚の異樣になりて風暴く吹き初めしことをいへるなるべく、ただ遠き意とせるは當らずといふべし。
○奧見者 「オキミレバ」とよむ。「奥」は「海」の「オキ」にして既にしばしばいへり。
(667)○跡位浪立 舊訓「アトヰナミタチ」とよみ、代匠紀には「アトクラナミ」と云べきか」といへり。童蒙抄は古來の訓を心得がたしといひて種々の意味をあて試みたれど、斷案を示さず。考は「跡位は敷坐《シキヰル》てふ意の字なるを重浪《シキナミ》の重《シキ》に借て書り。卷三(流布本の卷十三)「立浪母踈不立、跡座浪之立|宰《サフ》道|麻《ヲ》」(三三三五)その次の歌(三三三九)に上には「敷浪乃寄濱邊丹」と有て、其末に「腫浪能恐海矣直渉|異將《ケム》」と有も共に重《シキ》浪てふ意なるに敷とも腫とも書てよみをしらせたるを思ふべし」といひてより諸家多くこれに從へり。さて考ふるに、「アトヰナミ」とは如何なるものか、ありとも考へられざる語なれば、從ふべからざることは著し。さて考にいへる「三三三九」の歌の「敷浪」は「シキナミ」とよむこと著しく、その下の「腫」は「鐘禮」を「シグレ」とよむが如く、古音「シク」「シキ」として表示したるものなること著しきが故に「腫浪」も亦「シキナミ」なること明かなり。かくてその「三三三五」の歌も、それと同じ趣なるにそのシキ浪に相當する語を「跡座浪」とかけり。而して今の「跡位浪」とその字面頗る似て「跡伎」「跡座」いづれも「シキ」とよまるべき筈と見えたり。然れども考の説の如くにては「跡位」又「跡座」を「シキ」とよむべしといふ理由とするに足らず、萬葉用字格には「殿舍の席は事有時人々の位次によりて座を敷設れば敷座《シキヰル》てふ意なるを重浪《シキナミ》に借て書り。跡は敷の意也。位も座も均しき也」といへり。されど、「跡」を「敷《シキ》」の意とする時に「位」及び「座」はこの字面の上に如何なる意と用とをなすものか。通ぜる如くに見えて一向通ぜぬ論にあらずや。然はいへど、「跡位」「跡座」はいづれも「シキ」といふ語をあらはすに用ゐたる事は殆ど否定すべからず。然りとせば、ここに何等かの根據なくばあるべからず。然れどもこの二熟字漢語なりとは見(668)えず。按ずるにこは「跡」字の意と「位」「座」二字に共通する語の意との合同によりて生ぜる語をあらはすものならざるべからず。「位」は國語に「くらゐ」とよむを常とし、又天の石位などのときは「くら」とのみよむことあり。「座」は古語「くら」とよむを通例とせり。されば、「位」「座」二字に共通する國語は「くら」なり。さてその「くら」とは如何なる語ぞといふに、人ならば「居る所」又物ならば、載せおく所をいふを本義とせり。されば「位」「座」共にその「くら」の意と見るべし。一方に「跡」字は「アト」と訓するを常とするが、その「アト」の本義は「足處《アト》」にして足を下したる所の義なり。然りとせば、「跡位」「跡座」の二字にて示さるるところは足を下す所に於ける、ある物を載せおく所をいふ義なるべし。而してこれは結局足を下してそを載する所の義と見るべし。かくてこれらの意を以て國語の「シキ」にあてしものならむか。今かく考へてこれにあたるべき「シキ」といふ語なきかと考ふるに、倭名鈔履襪具中に「野王曰〓【思協反久都和良一云久都乃之岐】履中薦也」と見ゆるものをさせりと考へらる。「クツノシキ」は古代の履の内部にありて足の下にあたる部位に置く敷物なるによりて「しき」とはいへるなり。而して類聚名義鈔には「居」字に訓して「クツノシキ」といへり。これは上の「座」「位」の字に趣似たり。これを單に「シキ」といへるは色葉宇類抄に「履シキ」とあるにても明かなり。されは「跡位浪」即ち「シキナミ」とよむも理由ある事と考へらる。重浪とは頻繁によせくる浪の義なるが、ここは沖に高浪の頻に引つづき立ちよするをいふなるべし。
○邊見者 舊訓「ヘヲミレバ」とよみたるが童蒙抄は「ヘタミレバ」とよみ、檜抓手は「ヘミレバ」とよみたり。「ヘタ」といふ語は卷十二「三〇二七」に「淡海之海邊多波人知」とあるが如く集中に例あれど、(669)奧に對してはいつも「へ」とのみいふこと古語の例なれば、「へ」にてよかるべし。さて「見る」に對しては「ヲ」を補へよむべきが如くなれど、上の「一五三」「奧放而榜來船邊附而榜來船」の例にならひて「ヘミレバ」とよむべきが如し。
○白浪散動 舊訓「シラナミトヨミ」とよみたるが、童蒙抄は「シラナミサワギ」とよみ、考は「シラナミサワグ」とよめり。これにつきて攷證曰はく「とよむとさわぐとはいとちかくいづれも古言にて、いづれにても聞ゆるやうなれど、よく/\考ふれば、とよむは音につきていひ、さわぐは形につきていふとのわかち也けり。ここはまへに邊見者《ヘヲミレバ》とありて形につきていふ所なればさわぐとよむべし。」といへり。まことにこの言の如くなるべし。「散動」の字面は卷六「九二七」に「御※[獣偏+葛]人得物失手狹散動而有所見《ミカリビトサツヤタバサミサワギタルミユ》」又「九三八」に「鮪釣等海人船散動鹽燒等人曾左波爾有《シビツルトアマブネサワギシホヤクトヒトノサハナル》」などあり。さてここは「サワグ」と終止すべき所なり。即ちその沖より打ちよする浪の岸に打よせて碎けて散り浪となりてさわぐをいふ。以上第二段讃岐の海上のあらきをいふ。
○鯨魚取 「イサナトリ」上の「一三一」に出づ。海の枕詞なり。
○海乎恐 「ウミヲカシコミ」とよむ。海を恐み畏れつゝといふ程の意にて下につづく。
○行船乃 「ユクフネノ」なり。「海を恐みて行くその船の」なり。
○梶引折而 「カヂヒキヲリテ」とよむ。「梶」を「カヂ」とよむは普通なれど、この字は支那にても集韻類篇等宋時代の字書に見ゆるものにして彼地に古より存したりしか疑はし。而して集韻には「木※[木+少]也」とあれば「こずゑ」の義なり。されば萬葉集に用ゐるこの字は本邦若くは三韓などに(670)てつくれる會意の文字なるべし。而してこれにあつる「カヂ」といふ語は倭名鈔に舟具に「釋名云※[楫+戈]音接一音集賀遲使2舟捷疾1也」とあるものにして、これやがて今の※[舟+虜]《ロ》といふものに同じと見えたり。さてここと同じさまの語は卷二十「四三三一」に「大船爾末加伊之自奴伎《オホフネニマカイシジヌキ》、安佐奈藝爾可故等電能倍《アサナキニカコトトノヘ》、由布思保爾可知比伎乎里《ユフシホニカヂヒキヲリ》、安騰母比弖《アトモヒテ》、許藝由久伎美波《コギユクキミハ》」とあり。この引をりは引しをる意にして撓むることをいへり。
○彼此之 「ヲチコチノ」とよむ。「をち」は「をちかた」の「をち」なり。その例は卷七「九二〇」に「百磯城乃大宮人毛越乞爾思自仁思有者《モモシキノオホミヤビトモヲチコチニシジニシアレバ》」「一一三五」に「阿自呂人舟召音越乞所聞《アシロヒトフネヨバフコヱヲチコチキコユ》」卷十七、三九六二−に「伊母毛勢母和可伎兒等毛波乎知許知爾佐和吉奈久良牟《イモモセモワカキコドモハヲチコチニサワキナクラム》」などあり。意は明かなり。その見渡しの附近に島の多きよしにていへり。
○島者雖多 舊訓「シマハオホカレド」とよめるを考に「オホケド」と改めたり。形容存在詞の已然形に「ど」のつける形「ケレド」を「ケド」と約め轉じていへるは例古に多し。一二の例をいはば、古事記下卷仁徳段に「波斯多弖能久良波野夜麻波佐賀新祁杼伊毛登能煩禮婆佐賀斯玖母阿良受《ハシタテノクラハシヤマハサカシケトイモトノボレバサガシクモアラズ》」日本紀舒明卷に「于泥備椰摩虚多智于須家苔多能彌介茂氣菟能和區呉能虚茂邏勢利祁牟《ウネビヤマコタチウスケドタノミカモケツノワクゴノコモラセリケム》」本集卷五「八〇四」に「伊能知遠志家騰貴世武周弊母奈斯《イノチヲシケドセムスベモナシ》」卷十七「三九六三」に「多麻伎波流伊乃知乎之家騰《タマキハルイノチヲシケド》」などなほ多し。
○名細之 「ナクハシ」とよむこと卷一「五二」の下にいへるが如し。その意もその下にいへるにおなじ。よろしき名の世に聞えし狹岑の島といふ意にて枕詞とせりと見ゆ。
(671)○狹岑之島乃 「サミネノシマノ」とよむべきこと詞書の下にいへるにおなじ。
○荒磯而爾 舊板本「アライソモニ」とよめり。代匠記には「面」は「回」の誤として、「アライソワニ」又は「アリソワニ」と訓じ、考は「回」を正しとして「アリソワニ」とよみ、檜嬬手も「回」字を正しとして「アリソミニ」と訓せり。されど、いづれの本にも「面」とありて「回」をかけるものなし。この故に誤字説は從ふべからず。攷證は文字のまゝに「アリソモニ」とよみて、「荒磯面はありそのおもといふおを略けるにて、面の磯のおもてにて川づら海づらなどいふつらと同じ。本集十四【五丁】に「安思我良能乎弖毛許乃母爾佐須和奈乃《アシカラノヲテモコノモニサスワナノ》」云々(三三六一)とあるも彼而此面《ヲテモコノモ》にて面をもといへり。」といへり。「アリソ」は上にいへるが、この攷證の説をよしとすべし。
○廬作而見者 舊訓「イホリツクリテミレバ」とよめるが十音一句は例なき事なれば、この訓疑はし。代匠記はこの句と上の句との間に脱せる句あるかといひて、この句を「イホリヲツクリテミレバ」とよむかといひ、童蒙抄は「イホリシテ」又は「ヤドリテ」とよむべしといひ、考に「イホリシテミレバ」とよみてより諸家多く之に從へり。按ずるに「イホリ」を直に動詞とせる例を知らねば、「イホリテ」とよむは無理なるべし。次に「ス」といふ動詞は汎く諸の動作作用をあらはすに用ゐる語にして殊に「ツクル」を「ス」といふこと多し。古よりものを作る工人を「弓師」「塗師」などいふ語ありて、「師」字をあつれど、本來は「ス」の連用形より出でたる「シ」といふ名詞なるべし。されば、「廬作」は即ち「イホリス」なれは「イホリシテミレバ」とよむをよしとす。その語の例は卷三「二五〇」に「野島我崎爾伊保里爲吾等者《ヌマガサキニイホリスワレハ》」卷十五「三六〇六」に「野島我左吉爾伊保里須和禮波」卷一「六〇」に「隱爾加(672)氣長妹之廬利爲里計武《ナハリニカケナガキイガイホセリケム》」などこれなり。これは既にもいへる如く、古は旅人宿といふものなかりしかば、旅人は至る所の山野海岸などに假廬を作りてやどりしなり。かくの如く假廬をその狹岑の島の荒磯のある邊につくりて見ればといふなり。
○浪音乃 「ナミノトノ」とよみて異論なし。「ナミノオトノ」の約なり。卷十四「三四五三」に「可是乃等能登抱吉和伎母賀《カゼノトノトホキワキモガ》」などあるその例なり。
○茂濱蓮乎 「シゲキハマベヲ」とよむ。浪の音のしげく聞ゆる濱邊をいふなり。卷九「一八〇七」に「浪音乃驟湊之奧津城爾《ナミノトノサワグミナトノオクツキニ》」とあるも同じ樣なる所をいへるなり。
○敷妙乃 「シキタヘノ」とよむ。「シキタヘ」は上に屡いへり。
○枕爾爲而 「マクラニナシテ」とよむ。童蒙抄に「マクラニシツツ」とよみたれど、「而」を「ツツ」とよむは無理なり。浪の音の茂き濱邊を枕にしてそこに伏すといへるなり。
○荒床 舊訓「アラトコト」とよめるを考に「アラトコニ」とよめり。ここには假名なければ、「ニ」も「ト」も加へてよむべきこととなるが、「ニ」とよむときはその床が荒床といふ床たることを示し、「ト」とよむ時はその床を荒床と形容せることを示すと考へらる。かくて諸家の解釋を見るに、契沖は「荒床は和名云野王曰槨【古傳反與郭、同和名於保土古】周v棺槨者也。此おほとこの意にて濱邊の石間をやがて棺槨とする意か。又常の床にてそれがあらゝかなるを云か。」といへり。考はただ「床として伏をるなり」といひて釋なし。略解は「荒山荒野の荒の如し」とのみいひ。古義は「荒き海邊を寢床になしたるなり」といひ、檜嬬手は「死者の床を荒床と云ふを以てなり」といひ、攷證には「あれはて(673)て人げなきをいへるにて、濱べにかの死人が伏たるを床と見なしてよめる也」といひたり。按ずるに死人の床を「あらとこ」といふ事證なきことなれば、契沖の前説と守部の説とはうけられず。かくて殘る所は大體「荒らかなる床」(契沖の後説)の義のみなるが、それが、實際の床をさすか、又形容の語かと見るに、これは事實上さる床をさせるにあらねば、形容の語たること明かなりとす。然るときは「ト」といふ助詞にて導くを當れりとすべし。その意は攷證の説にて略可なり。即ち濱邊にてかの死人が横はり臥せるそこをば床と見なして、荒らゝかなる床としてそこに臥せりといへるなり。
○自君伏之 舊訓「コロフスキミガ」とよみて異論なかりしものなり。然れども、「コロブス」といふ語は古今を通じて證なきものにして、從來は上の「一九六」の長歌に、「立者玉藻之|如許呂《モコロ》、臥者川藻之如久」の「如許呂」をはよみ誤りて、「如」を上の句につけて「ゴトク」とよみ、「許呂」を下につけて、「許呂臥者《コロフセバ》」とよみたるに基づき、そを以て「コロブス」とよみ、「コロビフス」といふ語の約まれるものと稱してここをもしか讀み來れるものなり。然るに、既にいへる如く、「一九六」は「タテバタマモノモコロ、フセバカハモノゴトク」とよむべきものにして「コロブス」といふ語は事實なきことを證せり。されば、それによりてここを「コロブス」とよまむは不條理なりといふべし。さらば如何によむべきかといふに「ヨリフスキミガ」とよむを穩かなりとす。新考にはこのわが説によりて「コロブス」といふ語を否定したれど、「自」を「臥」の誤として「コイフス」とよむべしといへり。然れども、ここは古來誤字なき所なるのみならず、「自」を「より」とよまば不理なりといふべきにあらねば、新考(674)の説には從ひがたし。「自」は「出自の意にて「より」の語として用ゐることは集中に例少からぬことなれば、あげず。この「君」はその死人をさしていへるなり。
○家知者 「イヘシラバ」とよむ。我れ若その人の家を知らばといふなり。
○往而毛將告 「ユキテモツゲム」とよむ。その家に行きてその家人にしかじかの由を告げ知らせむとなり。
○妻知者 「ツマシラバ」とよむ。ここは「家知者」と詞遣似たれど主客たがへり。即ち、この死人の妻が、その夫のかかる所に横はり死ぬる事を知らばといふなり。
○來毛問益乎 舊訓「キテモトハマシヲ」とよみたるを略解に「キモトハマシヲ」とよみたり。この二樣のよみ方はいづれにてもあるべきさまなるが、この語の意は訪ひに來らむといふ意なれば「キトフ」といふ語を基にして、それに「モ」といふ助詞を加へたる「キモトハマシヲ」の方まされりとすべし。かくの如き語はこの歌の「待加戀良武」もそれなるが、なほ卷十七「三九九三」に「可久之許曾美母安吉良米々《カクシコソミモアキラメメ》」卷八「一五六六」に「鳴曾去奈流早田鴈之哭《ナキゾユクナルワサダカリガネ》」など例甚だ多し。「乎」はここにて嘆息の意を含めて終止せるなり。以上第三段とす。
○玉桙之 「タマホコノ」道の枕詞なること上に屡いへり。
○道太爾不知 「ミチダニシラズ」とよむ。ここもなほその妻につきていへるなるが、その妻といふ語は下にある、はしき妻等者といへるものにつきていへるにてその妻が、ここに死にてある事を知らざるべければ、いづこに尋ね行くべきか、その道をだにも知らずしてといふなり。
(675)○欝悒久 「オボホシク」とよむべきことは上「一八九」の「欝悒」の字につきていへる如し。意もそこにいへり。
○待加戀良武 「マチカコフラム」とよむ。待ち戀ふらむといふに「カ」といふ係助詞の加はれるなり。意は明かなり。
○愛伎妻等者 舊訓「ヲシキツマラハ」とよみたるが、代匠記に「ハシキ」とよむべしといひてより諸家これに從へり。「ハシキ」といふ語はこの卷の上「一一三」の歌に「三吉野乃玉松之枝者波思吉香聞」「一九六」の歌に「早布屋師吾王乃《ハシキヤシワガオホキミノ》」とある所に既にいへるが、なほいはば、卷二十「四三三一」に「奈我伎氣遠麻知可母戀牟波之伎都麻良波《ナガキケヲマチカモコヒムハシキツマラハ》」とあるはまさしくここと同じ語遣なり。さてこれは主格を顛倒してここにおけるなり。
○一首の意 第一段には讃岐國のうるはしきをほめ、第二段はそれを受けて天地日月と共に足り行かむ神の御面といひ、さてかく見て旅行しつゝ次ぎ次ぎに泊り來れるうち讃岐の中の湊より船出して進みくれば、時恰も風烈しく遠くより吹き來り、沖にはたえず浪が頻りつゞき、邊にはその浪打ちよせて白浪が立ちさわぐを見るといひて海上の風波荒きをいふ。第三段はかゝるさまなれば海上の路を恐れて行く船の梶を引きたわめて、彼方此方多き島の中にも名高き狹岑の島の磯邊に泊ててそこに下り立ち廬をつくりてさて見れば、かく浪の音のたえず聞ゆる濱邊に打ち臥せる人を見る。あはれこの君はいづこの人ならむ。君が家を我若し知らば、往きてその家人に告げむと思へども、われはそを知らざれは如何ともしがたし。又この(676)人の妻が、かくと知らば訪ひ來ましと思はるるに、それも知らねば、訪ひ來むとも思はれずと云ひて同情をよせ、第四段はあはれこの君の最愛と思へる妻らは、この君のいづこに行きたりしかその道だにも知らねば、如何に覺束なく思ひつゝ待ち戀ひてをるらむ。あなあはれ。といひて、結とせり。
 
反歌二首
 
221 妻毛有者《ツマモアラバ》。採而多宜麻之《ツミテタゲマシ》。佐美乃山《サミノヤマ》、野上乃宇波疑《ヌノヘノウハギ》、過去計良受也《スキニケラズヤ》。
 
○妻毛有者 「ツマモアラバ」とよむ。その死たる人の妻の共に居るならばといへるなり。
○採而多宜麻之 舊訓「トリテタキマシ」とよみたるが、代匠記には初稿に「採而」を「ツミテ」ともよむべしといひ、清撰本には「トリテタケマシ」とよませたり。考には「ツミテタゲマシ」としよみ、略解は「トリテタゲマシ」とよめり。按ずるに「採」は「トル」とも「ツム」とよむべく、卷一第一の歌には「ツム」とよませたり。ここは下の「宇波疑」に關していへるなれば「ツム」とよむかよしとすべし。「宜」は集中に「ギ」の假名にも「ゲ」の假名にも用ゐたり。然るに「タギマシ」とよまむにはさる上二段活用の語ありしことを證せざるべからず。然るにさる語は古今を通じて聞くことなし。されば「タゲマシ」とよむべし。かくて「タゲマシ」とよめる人々の説明を見るに、考は日本紀皇極卷の童謡を證として「紀に【皇極】童謠に伊波能杯※[人偏+尓]古佐屡渠梅野倶【小猿米燒也】渠梅多※[人偏+尓]母多礙底騰褒※[口+羅]栖歌麻(677)之々能烏膩といふは燒たる米の飯を給《タベ》て行《トホラ》せ也。然ればここも採て給《タベ》させまし物をといふ古言なるを知めり」といへり。古義註疏など略同じ。然るに、略解は本居宣長の説に基づき「とりてたげましは死屍をとりあぐる事也。たげは髪たぐなどのたぐと同音なり」といひ、檜嬬手、攷證等これによれり。然るに、髪たぐといふ語は四段活用なることは上の「一二三」の歌の例(「タケバ〔三字傍線〕ヌレタカネ〔三字傍線〕ネバ」)にても著しきに、これは未然形所屬の「まし」にて受けたる形が「タゲ」なれば下二段活用にして全然別なる語なること明かなるをや。されば、これは考の説に基づきて考ふべきなり。これにつきて古義は考の説によりながら「岡部氏考に多宜《タゲ》は給《タベ》なりといへるは大誤《イミシキヒカゴト》なり」といへり。されど、これはたゞ大まかにその時の語を以ていへる爲の誤にしてさして咎むべき程の大過誤にあらざるなり。さて上の皇極紀の童謠なるは聖徳太子傳暦には第四句を「喫而今核《タゲテイマサネ》」とかけるのみならず、下文に「四五日淹留於山不v得2喫飲1」とあるに打ちあはせて考ふれば「タゲテ」は喫字の義と認めたりと考へらる。なほこの語は上宮法王帝説に太子の御歌として「伊我留我乃止美能井乃美豆伊加奈久爾《イカルガノトミノヰノミヅイカナクニ》、多義※[氏/一]麻之母乃止美乃井能美豆《タゲテマシモノトミノヰノミヅ》」とあり、常陸風土記に「安良佐賀乃賀味能彌佐氣乎多義止伊比祁婆賀母與《アラサカノカミノミサケヲタゲトイヒケバカモヨ》云々」とあるも水酒を喫することをいへりと考へらる。又日本紀雄略卷十四年夏四月の條に「天皇欲v設2呉人1歴2問群臣1曰其共食者誰好(カ)乎」とある「共食者」を古來「アヒタケヒト」とよみ來れり。この語は推古卷十八年冬十月の條にも「以2河内(ノ)漢(ノ)直贄1爲2新羅(ノ)共食者1錦織(ノ)首久僧爲2任那共食者1」と見え、延喜式治郡省式蕃客入朝條に「共食二人、掌d饗日各對2使者1飲宴u」とある「共食」もみなこれなり。これは相ひ喫ぐる者にして今(678)いふ相伴人のことなるべし。これによりて「タグ」といふ語は飲食すること即喫字に該當する語なりと知られたり。而してここはまさにそれなりと見ゆ。以上にて一段落なり。
○佐美乃山 「サミノヤマ」とよむ。童蒙抄に「サミナヤマ」とよみ、古義に「乃」は「尼」又は「年」などの誤として訓は「サミネヤマ」とよみたれど、いづれも根據なきことなれば從ふべからず。これは狹岑の島即ち後の砂彌島をさせることいふまでもなし。
○野上乃宇波疑 舊訓「ノカミノウハギ」とよみたるが考に「ノノヘノウハギ」とよみ、略解に「ヌノヘノウハギ」とよみ攷證に「ヌノベノウハギ」とよめり。略解に從ひてよむべし。「野上」を「ノガミ」とよむはここの意にあはず、又「上」を邊の意にして「べ」とよむは無理なればなり。かくよむべきは卷六「一〇三五」に「田跡河之瀧乎清美香從古宮仕兼多藝乃野之上爾《タトカハノタキヲキヨミカイニシヘユミヤツカヘケムタキノヌノヘニ》」とある「野之上《ヌノヘ》」又この卷、上なる「八八」の「穗上」などこれなり。「ウハギ」は卷十「一八七九」に「春野之菟芳子採而※良思文《ハルヌノウハキツミテニラシモ》」ありて、本草和名に「薺蒿菜」に「和名於波岐」といひ、和名鈔に「七卷食經云薺菜……和名於八木」とあるものと見ゆる「オハギ」と同じものたるべしといへるは「オウ」の音轉によるべし。而してこの物今「よめな」とも野菊ともいふものなりといへり。延喜式には内膳式に漬年料雜菜のうちに「薺蒿一石五斗料鹽六升右漬春菜料」とあり。
○過去計良受也 「スギニケラズヤ」とよむ。「ケラズ」は「ケリ」の未然形「ケラ」に打消の「ズ」のつけるものなるが、この未然形のケラなる活用形は後世なくなりたれど、當時は用ゐたり。その例は卷五「八一七」に「烏梅能波奈佐吉多流僧能能阿遠也疑波可豆良爾須倍久奈里爾家良受也《ウメノハナサキタルソノノアヲヤギハカヅラニスベクナリニケラズヤ》」卷八「一四(679)五七」に「此花乃一與乃裏波百種乃言持不勝而所折家良受也《コノハナノヒトヨノウチハモモクサノコトモチカネテヲラエケラズヤ》」あり。ここに「過ぐ」とはかのうはぎの摘みて喫ぐべき時の過ぐるをいふなり。この「ヤ」は詞の玉緒卷七に「ヤハの意にてケラズヤは、ケリといふ意におつるなり」といへり。即ち反語をなせるなり。
○一首の意 第一段はここにこの人の妻もあらば、この山の野のよめなを採みて、食用に供せましものをとなり。第二段は今この野を見れば、はやくも採むべき時節が過ぎ去りて食ふべくもあらずなりたるにあらずやとなり。これは新考に「その死人を假に餓死したるものと斷定し、その傍によめ菜の多く生ひて盛過ぎたるを見て若し、妻を具したらば、此よめ菜をつみて食はすべく、さらば餓死にも及ばじをといへるなり、」といへるをよしとす。而してそのうはぎの食ふべき時のすぎたるを見てよめるものとせば、まさに夏も闌なる頃なりしならむか。
 
222 奧波《オキツナミ》、來依荒磯乎《キヨルアリソヲ》、色妙乃《シキタヘノ》、枕等卷而《マクラトマキテ》、奈世流君香聞《ナセルキミカモ》。
 
○奧波 「オキツナミ」とよむ。この語の例甚だ多きが故に一二をあげむ。卷三「三〇三」に「稻見乃海之奧津浪《イナミノウミノオキツナミ》」卷七「一一八四」に「奧津浪驂乎聞者《オキツナミサワグヲキケバ》」などなり。
○來依荒磯乎 舊訓「キヨルアライソヲ」とよめるを代匠記に「アリソヲ」とよめり。代匠記によるべし。長歌にいへる如く奧より浪の依りくる荒磯を枕としてといふなり。
○色妙乃 「シキタヘノ」とよむ。「色」の字音をかりたるなり。「色」を「シキ」に借りたるは本集には稀なれど、古事記の人名には多し。
(680)○枕等卷而 「マクラトマキテ」とよむ。「マク」は上の「二一七」に「布栲乃手枕纏而」の下にいへるが如し。
○奈世流君香聞 「ナセルキミカモ」とよむ。「ナセル」は「ナス」の動作存在詞にして「ナス」は「ヌ」の敬語として佐行四段活用に再び活用せしめしなり。その例は古事記上卷の歌に「多麻傳佐斯麻岐《タマデサシマキ》、毛毛那賀爾伊波那佐牟遠《モモナガニイハナサムヲ》」又、卷十七「三九七八」に「吾乎麻都等奈須良牟妹乎《ワヲマツトナスラムイモヲ》」などあるなり。その「ナス」より「アリ」に複合して「ナセリ」といへるがその語なり。されば寐たまひてある君かもといへるなり。
○一首の意 奧より荒浪のよりくる荒磯をば枕として寢たまへる君かなとなり。これ表面は寢ぬといひて下に死をいへるなり。
 
柿本朝臣人麿在2石見國1臨v死時自傷作歌一首
 
○在2石見國1臨v死時 これは柿本人麿が石見國に在りて客死せる事を示せる文字なり。人麿の生國は石見國なりといふ説あれど、ここに「在石見國云々」とかけるによりて、本來石見國の人にあらざることを言外にさとるをうべし。「臨死時」は考に「ミマカラムトスルトキ」とよめり。さてここ及び次の詞書に「死」の字を用ゐたるを見れば、人麿は五位には達せざりし人なるを考ふべし。喪葬令に曰はく「凡百官身亡、親王及三位以上稱v薨、五位以上及皇親稱v卒、六位以下達2於庶人1稱v死」とあるによりて明かなり。かくて人麿がこの國の國司たりしものとせば、この國は中(681)國なれば、守とても正六位下なれば、ましてその下僚ならば、死とかくは當然の事なりとす。なほその死が和銅三年三月以前にてありしなるべきことは下に寧樂宮とあるによりて想定せらる。その事はなほ下にいふべし。
○自傷作歌 考に「カナシミテヨメルウタ」とよめり。
 
223 鴨山之《カモヤマノ》、磐根之卷有《イハネシマケル》、吾乎鴨《ワレヲカモ》、不知等妹之《シラニトイモガ》、待乍將有《マチツツアラム》。
 
○鴨山之 「カモヤマノ」とよみて異論なし。鴨山は地名なり。この山につきては古來異説少からず。童蒙抄には「鴨山 石見國の地名也。此山に葬りたる歟」といひ、考には「こは常に葬する山ならん」といひたり。古義に「鴨山は石見國美濃郡高津浦の沖にありて今は鴨島と呼《イヒ》てそこに人丸大明神の社鎭座ありて木像を安置《イマセ》たり、古代のものたりと、國人云り」といひたるは蓋し、石見國人岡熊臣の柿本人麿事蹟考辨にいへるに基づきていへるならむ。この熊臣の説は守部などもそのまゝ受け入れたり。事蹟考辨の著者は然るべき學者なるが故に之を信用する人少からず。余は岡熊臣を信用せずといふにあらねど、その人丸神社のありといふ地は高角山といひて、かの相聞部にある人麿の長歌に見ゆる地名に基づきたるものと見えたり。然るにその長歌なる高角山は國府附近にありて、しかも、それより上京の路上にあたるべき地點なるべくして、かく石見にても西端といふべき長門の堺に近き地にあるべき筈なし。されば、その地名は或は古より類似せりといふとも、人麿の歌なる高角山にあらぬはいふまでもなし。(682)而してその高角山の人丸神社がその基づく所鴨島の人丸社にありて、そての鴨島が、古海嘯によりて海中に没入せし故にここにうつせりといふはあまりに附倉に似たりといふべし。況んやその鴨島といふが、古ありしといふに止まり、現になきなれば、この説は容易く信すべきにあらぬなり。この他には石見國名跡考の著者石見人藤井宗雄の説に那賀郡濱田町の舊城山を今龜山といふが、それ即ち古の鴨山の訛なりといへり。されどこれも亦根據ありとも見えず。又吉田東伍の説には那賀郡|神村《カムラ》の山とせり。これも亦根據あるべしと思はれず。以上諸説あれど、結局は今にして明かならずといふに止まるべきなり。然れどもいづれの人もその國府以外の地ならむと暗黙の間に認めたる點に於いて一致せり。これ自然の事ながら注意すべきことなり。
○磐根之卷有 「イハネシマケル」とよむ。「卷有」は「マキアリ」の熟合せる語なるが、「マク」は上の「八六」に「磐根四卷手死奈麻死物乎」の下にいへる如く、枕とすることなり。さて「シ」は強意の助詞なり。この句は磐根を枕にしてある吾といふ意にていへるなり。然るに、これを釋する學者多くはこれをその鴨山にて死し、葬りたる意にとれり。そは上にあげたる童蒙抄及び考の説を始として、略解、攷證、檜嬬手等皆然り。然れども、この詞は然解しうべきものにあらず。されば新考に「眞淵は「常に葬する山ならむ」といへれど、もしカモ山ノイハネシマケルが鴨山に葬《カク》さるゝ意ならば、今はまだ死にだにせざるなればイハネシマカムとこそいふべけれ。おそらくは旅にて病に罹りて鴨山の山べに假庵を作りて臥したりけむをカモ山ノイハネシマケルトいへる(683)なるべし。」といへり。實にこの言のごとくなるべし。かくて上の鴨山が、國府以外の土地なることもよく考へらるるなり。鴨山の地今明かならずといへども、旅中に人麿が死せしことは略想像しうべし。
○吾乎鴨 「ワレヲカモ」とよむ。「鴨」は借字にして「カモ」は係助詞「カ」「モ」を重ねたり。この「を」よりして「待ち」につゞくなり。
○不知等妹之 舊訓「シラズトイモガ」とよめるを玉の小琴に「シラニト」とよむべしといへり。「シラズト」とよむときは語法あらはにして含蓄なし。「シラニト」とよむときは含蓄あり。その故はこの「ニ」は古代の連用形なりと認めらるゝものにして、中止の述法をなせりと見ゆれば、その下になほ幾何かいふべき事あるを言にあらはさずして止みたる形なればなり。而して、この語遣の例は古事記崇神卷の歌に「伊由岐多賀比宇迦々波久斯良邇等美麻紀伊理毘古波夜《イユキタガヒウカガハクシラニトミマキイリヒコハヤ》」あり。この下の「ト」につきては古義に「凡そ不知《シラニ》といふ言の下にある等《ト》はみな助辭にて語(ノ)勢を助けたるのみにて意には關からねば捨て聞べし」といひたり。されど、かくいふは甚だ疎略なる事なり。元來ここは「知らずして云々」といふ意を含めてさて「ト」にてそれ全體を一種の状態と取扱ひ修飾格とせるにて、「ト」は決して無意義無用のものにあらざるなり。さりとて攷證に「とて」の意といへるも違へり。妹はその妻をさせり。
○待乍將有 「マチツツアラム」なり。意明かなり。上の「カモ」の係詞に對して「アラム」と連禮形にて結べるなり。
(684)○一首の意 この鴨山にて病の床に臥して今や死なむとしてゐる我をばかかる事とは知るべくもなければ、わが妻は今や無事にてかへらむ、今幾日せば夫がかへるらむとて待ちつつ居るならむかとなり。
 
柿本朝臣人麿死時妻依羅娘子作歌二首
 
○柿本朝臣人磨死時 上に人麿の臨死時の歌あれば、その後まもなく死に、その妻の悼み詠める歌をここにあげたりと見ゆ。
○妻依羅娘子作歌 この妻は上の「柿本朝臣人磨從石見國別妻上來時歌」の次に「柿本朝臣人麿妻依羅娘子與人麿相別歌」とあるその人と同じ人なること明らかなるが、この人をば京におきたりし妻なりといふ説(考など)もあるやうなれど、既にいひし如く、上の歌の次第にて上京の際石見國に置きたる妻が即ち依羅娘子なるべきことは否定すべからねば、ここもその石見國にこの依羅娘子は在りしならむ。
 
224 且〔左○〕今日且今日《ケフケフト》、吾待君者《ワガマツキミハ》、石水《イシカハノ》、貝爾《カヒニ》【一云谷爾】交而《マジリテ》、有登不言八方《アリトイハズヤモ》。
 
○且今日且今日 上の「且」を流布本に「旦」に誤れるが、下の「且」と同じ文字なるべきこと明かなり。これを占來多く「ケフケフト」とよみ來れるが、金澤本に「ケサコトニ」とよみ、類聚古集古葉略類聚鈔に「ケサケサ」とよみたり。これは「旦」を「アサ」の義にとりしが爲にかくよみしならむが從ふ(685)べからず。童蒙抄に「アケクレト」とよみたれど、かくよむべき理なし。ここと同じき字面は卷九「一七六五」に「且今日且今日吾待君之船出爲等霜《ケフケフトワガマツキミガフナデスラシモ》」卷十「二二六六」に「出去者天飛鴈之可泣美且今日且今日云二年曾經去家類《イデテイナバアマトブカリノナキヌベミケフケフトイフニトシソヘニケル》」にもありて、そこも「ケフケフト」とよみ慣はせり。この場合の「且」は何の爲に書き加へたるか。契沖は「けふ/\とはけふも/\の意なり。凡集中に此心に用たる時は皆且の字を加へたり。苟且はかりそめにてたしかならねばなり」といひ、童蒙抄には種々の説をあげたれど治定せず、古義は「且は不定辭也と注せり。たしかに其(ノ)日と定めず今日か今日かとおもふよしにて書る字なるべし」といへり。ここに卷八「一五三五」の歌に「吾背兒乎何時曾且今登待苗爾於毛也者將見秋風吹《ワガセコヲイツゾイマカトマツナベニオモヤハミエムアキノカゼフク》」(且〔右○〕温故堂本)とかき、卷十「二三二三」に「吾背子乎且今且今出見者沫雪零有庭毛保杼呂爾《ワガセコヲイマキマカトイデミレバアハユキフレリニハモホドロニ》」卷十二「二八六四」に「吾背子乎且今且今跡住居爾夜深去者嘆鶴鴨《ワガセコヲイマカマカトマチヲルニヨノフケユケバナゲキツルカモ》」とかけるあり。これらはいづれも「且今」を「イマカ」とよみ來れり。而してこれを「イマカ」とよみて意よく通じ、しかもそれより外のよみ方もなしと考へらるれば、まさしく「且今」は「イマカ」といふ語にあてたりと見えたり。然りとせば、「且」は「今か」の「カ」の意をあらはすに用ゐたりと見らるるなり。然らば、何の故を以て「且」を「カ」にあつるを得るかといふに、これは「且」字の漢語としての本來の用法に基づけるものなるが如し。「且」字は漢文の助宇として種々の用法ある字なるが、そのうちに戰國策に「且天下之半」といへるに注して「猶幾也」といへるが如く、類聚名義抄には「ナム/\トス」といふ訓あるその意にて、「且今」の二字を「イマカ」と訓すべく用ゐたるなるべし。然りとして考ふれば「且今日」は「ケフカ」にて、「且今日且今日」は「ケフカケフカ」といふ意をあらはせる(686)字面といはざるべからず。然らば「ケフカケフカト」とよむべきかといふにかくては七音になりて五音の句をかくせる例を見ねば、なほ古來の如く「ケフケフト」とよむべきが如し。若しかくよむべきものとせば、他に同じ用例あるべく思はるるによりて之を檢するに、卷五「八九〇」に「出弖由伎斯日乎可俗閉都都家布家布等阿袁麻多周良武知知波波良波母《イデテユキシヒヲカゾヘツツケフケフトアヲマタスラムチチハハラハモ》」卷十三「三三四二」に「今日今日跡將來跡將待妻之可奈思母《ケフケフトコムトマツラムツマシカナシモ》」卷十五「三七七一」に「宮人能夜須伊毛禰受弖家布家布等麻都良武毛能乎美要奴君可聞《ミヤビトノヤスイイモネズテケフケフトラムモノヲミエヌキミカモ》」といへるがいづれもその語の證となるべきなり。されば、「ケフケフト」とよみて、「ケフカケフカト」の意に解すべきなり。
○吾待君者 「ワガマツキミハ」なり。意明かなり。
○石水 仙覺が「イシカハノ」とよみしより之に從ふ事となれり。金澤本、類聚古集、神田本、西本願寺本、温故堂本、大矢本、京都大學本には「水」の下に「之」字あり。檜嬬手は「水」の下に「山」字脱せりとして「イハミヤミ」とよめり。されど、いづれの本にもさる字なければ從ひがたし。「水」字を「カハ」とよめるは所謂義訓なるが、これは例少からず。本集にては卷七「一一一〇」に「湯種蒔荒木之小田矣求跡足結出(者)所沾此水之湍爾《ユダネマキアラキノヲタヲモトムトアユヒハヌレヌコノカハノセニ》」。又日本紀には「水」を「川」の義に用ゐたるもの少からず、雄略卷には「於是日晩田罷神侍2送天皇1至2來目水1」とあり。又三代實錬卷五貞觀三年四月十二日に「賀茂齋内親王臨2鴨|水《カハ》1修v禊」とあるを見よ。されば「石水」は「イシカハ」とよむべく、次の歌には「石川」と明かにかけり。さてその石川といふは何處かといふに、岡熊臣は今の高津川の古名なりとせり。されど、その高津が古の鴨山なりといふ事既に疑はしきに高津川即ち石川なりといふ事も證(687)なき事にして從ふべくもあらず。今はただ不明なりとしおかむのみ。
○貝爾【一云谷爾】交而 「カヒニマジリテ」とよむ。「貝」字金澤本、類聚古集、古葉類集鈔、神田本「見」に作れるが、、「見」にてはよみ下すを得ざれば、「貝」を正しとすべし。守部は「交而」を「コヤシテ」とよみたれど「交」は「コヤス」とよむべき由なし。この語の意如何といふに契沖は「貝にまじりては鴨山の麓かけて川邊に葬れるにこそ」といひ、なほいはく「仙覺抄に源氏蜻蛉を引て云、水の音の聞ゆる限は心のみさはぎ給てからをたに尋ず。淺ましくてもやみぬるかな。いかなるさまにていづれの底のうつせに交りけむなどやるかたなくおぼす」と、これによれば、その石川に溺死せしかの如くにも考へられしと見ゆ。かくて、多くはこれらの説により、略解の如きは「一首の意心得がたし。猶考ふべし」といひたるが、荒木田久老は槻之落葉卷下にて「卷二にけふ/\とわが待君は石水の玉〔左○〕にまじてありといはずやもとあるは火葬せしその骨をいへる言と聞ゆれば云々」といへり。(「石水の「玉〔右○〕」といへるは上記の覺え違なり。)然れども石川の貝に交りてありといふ事がその火葬せし遺骨をいふとするときはその遺骨をそこに散亂せしめしことをいふべきなり。然れども、當時かく散骨せしといふ事は果して信ずべきか、疑はしき事といふべし。ここに近藤芳樹が註疏にいへる一説あり。「貝は借字にて峽《カヒ》なり。和名抄に考聲切韻云峽山間|陜《セハキ》處也俗云【山乃加比】とあるカヒにて石水は國府近邊の山間《ヤマノカヒ》の谷川なるゆゑに、その谷川のある山と山との峽にまじりての意なり。交而《マジリテ》とは野山に入て遊ぶことを古今集などにマジリテといへり云々。」といへり。恐らくはこの説よろしかるべし。「カヒ」は山と山との間の峽谷をいふ(688)なれば、そこに石川といふ、川の流れてあらむには石川の峽といはむに差支あるまじ。次に「まじり」はそこにたち入ることをいへるは、註疏の説の如くなるがなほいはば、古今集物名に「ほととぎすみねの雲にやまじりにし、ありとはきけどみるよしもなき」又古今集春下に「いざけふは春の山べに、まじりなん、くれなばなげの花のかげかは」竹取物語のはじめに「野山にまじりて竹をとりつゝよろづの事につかひけり」といへるなど、いづれもその間に入り込むことをいへるなり。さればその一云に「谷爾」とあるも同じ意なるが、ただ「峽」と「谷」との語の異なるのみなりとす。
○有登不言八方 「アリトイハズヤモ」とよむ。「ヤモ」は反語をなせり。卷三「四二四」に「隱口乃泊瀬越女我手二纏在玉者亂而有不言八耳《コモリクノハツセヲトメガテニマケルタマハミタレテアリトイハズヤモ》」とあるも似たる語遣なり。ここの「言ふ」はその死を告ぐる人のいふなり。
○一首の意 今日かへり給ふか明日かへり給ふかとわが待ちわたる夫君は石川の峽に入り込みてそこに有と人が來りて告ぐるにあらずや。誠に然らば思ひもかけぬ事なるよとなり。ここに何等の悲みの語をあげざるはその悲みの大にして言語道斷あきれはてたるさまをよくあらはせるものと見ゆ。
 
225 直相者《タダニアハバ》、相不勝《アヒモカネテム》。石川爾《イシカハニ》、雲立渡禮《クモタチワタレ》。見乍將偲《ミツツシヌバム》。
 
○直相者 舊訓「タダニアハバ」とよみ來るを玉の小琴に「ただのあひはとよむべし。直にあふを(689)かく云は逢を體言に云る物也。其例四卷【五十二丁】に夢之相者苦かりけり(七四一)と有。是も夢に逢ことをいめのあひと云り」といへり。攷證にはこれを否定せり。されど、その理由を示さず。按ずするに「タヾノアヒハ」とよまば、下は多くは形容詞となること王の小琴のあげし例にてもしるべく、なほかかるいひざまの例をいはば、卷八「一五〇〇」に「夏野乃繁見開有姫由理乃不所知知戀者苦物乎《ナツノヌノシゲミニサケルヒメユリノシラレヌコヒハクルシキモノヲ》」卷十二「二八六五」に「夜之長毛歡有倍吉《ヨノナガケクモウレシカルベキ》」などあり。而して「タダノアヒ」といふ語は「アヒモカネテム」の主格とはなるべき語にあらねばことばつゞき連續せざるなり。されば「タダニアハバ」といふ舊訓の方まされりとす。「ただにあふ」といふ詞の例は古事記中卷神武卷に「袁登賣爾多※[こざと+施の旁]爾阿波牟登《ヲトメニタダニアハムト》」又この卷、上の歌(一四八)に「目爾者雖視直爾不相香裳《メニハミレドモタダニアハヌカモ》」卷五「八〇九」に「多※[こざと+施の旁]爾阿波須阿良久毛於保久《タダニアハズアラクモオホク》」とあるによりて見るべし。「ただにあふ」とは現實に直接にあひ見る事をいふ。されど、ここは「相はむとせば」といふ程の義にていへりと考へらる。この如き語法は日本紀崇神卷の歌に「飫朋佐介珥兎藝能煩例屡伊辭務羅塢多誤辭珥固佐麼固辭介※[氏/一]務介茂《オホサカニツギノボレルイシムラヲタゴシニコサハコシカテムカモ》」などあり。
○相不勝 舊訓「アヒモカネテム」とよみたるを、童蒙抄に「アヒガテマシヲ」とよみ、考これに從へり。然るに玉の小琴には「本の儘に、あひもかねてむと訓かた穩にて能當れり。不勝をかねと訓例も多き也。考にあひかてましをと訓れたるはましをの辭爰に叶はず」といひ、新考には橋本進吉氏の説によりて「アヒカツマシジ」とよめり。この新考の訓は道理あるさまなれど、本集中「不勝」を「カヌ」といふ語にあてたること少からず。その例は卷三「三〇一」に「凝敷山乎超不勝而《コゴシキヤマヲコエカネテ》」卷八(690)「一四五七」に「百種乃言持不勝而所折家良受也《モモクサノコトモチカネテヲラエケラズヤ》」「一六一七」「落涙者留不勝都毛《オツルナミダハトドメカネツモ》」などあるが、これらは「カツマシジ」とはよまるべきさまならずして古來の訓の如く「カヌ」にあてたりとすべし。ことに「タダノアヒハアヒカツマシジ」といふは前後打あはぬなり。これは上の「たごしにこさばこしがてむかも」の例に准じてよむべきものにして舊訓によるをよ