3295番「日本之 黄楊乃小櫛」の日本について
米田進(こめだすすむ)
3295 うちひさつ 三宅の原ゆ 直土に 足踏み貫き 夏草を 腰になづみ いかなるや 人の子ゆゑそ 通はすも我子 うべなうべな 母は知らじ うべなうべな 父は知らじ 蜷の腸 か黒き髪に 真木綿もち あざさ結ひ垂れ 日本《やまと》の 黄楊の小櫛を 押さへ挿す うらぐはし子 それそ我が妻
反歌(略)
三宅が今の三宅町だとしたら、近鉄橿原線石見駅の西方一帯で、真夏の寺川の堤防など腰どころか体全体が隠れて方向も分からないほどの茂りになるだろう(三宅道も下つ道をはずれたら似たようなものか)。奈良盆地の夏ではあちこちで見られる(た)光景で、そんなところの恐らく名家の娘との交際を自慢する歌だろう。男の住所は分からない。ひょっとして藤原や飛鳥方面の貴公子だろうか。一つ前の「御金の岳」(平野南西部からの眺望が素晴らしい)の歌と同じく大和平野南部の風土性がよく出ている。そんな中で気になるのが「日本之 黄楊乃小櫛」である。この「日本(やまと)」とはどこのことで、またなぜ「大和」とかではなく「日本」なのだろうか。
注釈類を纏めてみよう。
ア、大和の国(奈良県)のこと。新大系、和歌大系、注釈、全注釈、斎藤清衛總釈、全釈、古義
イ、大和。恐らくアのことだろうが、日本の総称の可能性もあり不明瞭。代匠記(古義はこれを大和の国として引用)、新考(アの意味のようだが曖昧)、窪田評釈、阿蘇全歌講義、多田全解
ウ、日本国のこと。松岡論究(舶來の唐櫛に対する名)
エ、大和(おおやまと)郷の中の都祁から黄楊櫛に冠したもの。考、略解 和名抄の、山辺郡に都介郷があり、城下郡に大和(おおやまと)郷がある。大和と都祁は独立した郷であり、相当に離れているから、大和郷の中に都祁があったという考の説は無理である。
オ、磯城郡大和郷あたり。私注。
カ、新全集、曾倉全注。三宅郷を含めた磯城郡・十市郡を主とする地域すなわち「現在の奈良県桜井・橿原両市を中心とした地域をさすか。
その他、代匠記の一説、松岡論究の一説。大和の国に都祁があるからというが、都祁のような僻地にわざわざ「やまとの」ということもないだろう。
アが一番穏当だが、新しいのでは、新大系、和歌大系ぐらいしかない。イも大体それに含まれるが、かなり古い注釈があり、最近では、阿蘇、多田といったのもある。ウは「日本」という表記に注目したものでもっとあっていいように思うが、松岡一つである。これは集中の「日本」の全用例(16例、題詞等は除く)について見るに総称ではなく「大和の国(今の奈良県)」の意味で使われたものが多いように見えるからだろうが、再検討の余地がある。のこるエオカは一連のもので、エの考(それの丸々引用の略解)については、前述のように和名抄でみても無理である。そこから都祁を除いたのがオの私注。そしてカは私注を拡大したような、新全集、曾倉全注の最近のもので、大和郷だけでなく、三宅を含む磯城郡やその隣の十市郡、高市郡などの広い地域の名称とする。これは古い注釈にはなかったもので、数は少ないが有力なように見える。深入りせずに直訳しただけのような「大和の国(奈良県)」説でいいのか、真新しく詳細な印象のある、カによるのか、そして松岡以外は言及しないが「日本」の表記に意味を見出すのか、が問題である。カのもとになったオの私注は、地理で奇説がよくあるので、あまり信用出来ないのだが、それを拡大したような、新全集、全注が出てきたのは、あきらかに直木孝次郎の論文(「〝やまと〟の範囲について-奈良盆地の一部としての」日本古文化論攷1970年所収)の影響だろう。
ということで、次に直木説を検討しよう。
その前に直木説が出る前提のような説があった。本居宣長の「国号考」(「私設万葉文庫」にあり)を見ると、
もとは狹き名の、後に廣くなれる例おほし、出羽加賀なども、もとは郡の名なりしを取て、國の名とはせられつること國史に見え、そのほか駿河國駿河郡駿河郷、出雲國出雲郡出雲郷、安藝國安藝郡安藝郷、大隅國大隅郡大隅郷なども、もと郷名なるが郡の名にもなり、郡の名の國名にもなれりと聞ゆるをや
とある。これをもとに、私注などは、大和郷という今の天理市にあったらしい郷名の所がが最初の大和だというのであろう(ただし宣長は大和郷を狭義の地名とは見なしていない、宣長は大和という行政国名が日本の国号になったのだと言うために地名の広狭の例を出した)。それでは三宅までは含まない。なお、直木説とは別に、高市郡あたりでも「大和」を使っているように見えるのがある(宣長「国号考」参照)。また別に、宣長説の応用のような説もある。吉田東伍「大日本地名辞書」(「私設万葉文庫」にあり)に、
神武帝磐余橿原宮に居たまひ神日本磐余彦の号あり、磐余即畝傍山の辺の総名にして倭の古国も此地に限れり。(今高市郡磯城郡蓋山処の義に出づ)後葛城国闘鶏国層富等に及ぼし、地方の総名と為ると倶に亦国朝の大号と為る。
とある。つまり神武天皇の号から畝傍山周辺を宣長の言う「狭き名」としたわけだが、神武天皇の名の「やまと」は畝傍山周辺の磐余地方(抑も畝傍山一帯を磐余とは言わない)から取ったものでなく、古典大系日本書紀の補注の言う「神日本は美称」とあるのがよいであろう。少なくとも大和の国以上の大和王権の支配地ということがわかる)。また「山処」は磯城郡から高市郡にわたる地方の名だったというのも疑わしい。宣長の「狭き名」というのは、ほぼ、郷名、郡名だが、磯城郡から高市郡にかけてを、大和郷と言ったことも,大和郡と言ったこともない。郷名郡名でなくとも、まとまった区域があれば(初瀬、吉野、都祁など)「狭き名」として呼べないこともないが、磯城郡高市郡一帯に特にまとまった地形といえるものもなく、それに、二郡(十市郡があったころなら三郡)にまたがるような「狭き名」というのも不自然である。この説はほとんど注目されなかったようだが、あらたに,宣長の「取った」ではなく成長したと言うような意味で、いくつかの証拠を出して新たな内容で復活させ、応用したのが直木説である。
直木説では、まず私注の言うような和名抄の大和郷を狭義の大和として認める。そして、
これ(大和に広狭があること)は学界の常識で…詳論を加える必要はないのであるが、個々の実例についてみたとき、…「やまと」の意味が広狭いずれに当るか、また狭義にとった場合の「やまと」の範囲は具体的にどれだけか、という点については、なお問題が残っているように思われる。またそれは、大和朝廷の勢力基盤とも連関する問題である。
と言う。これは宣長の説とは違う。宣長はただ郷名、郡名などを「狭き名」として総名に取ったというだけなのに,直木説はその「狭き名」にも大小があって時代と共に大きくなったのだという。だから大和王権の勢力基盤などというわけだが、それは地名と言うより国号(総名)とその直轄地の広狭の問題である。地理的な地名がゴムのように伸びてその時々の地名を同じ「やまと」と呼んだなどとは言えない。狭義の大和(大和の語源になった所)が大和朝廷の発展に伴ってその地名が段階を追って拡大していったという直木説は信じがたいのである。たとえば奈良県は奈良市の地名の奈良をとってつけただけで、奈良という地名が徐々に広がって今の奈良県全体の地名になったのではない(今の日本の県名は大方それ)。
話がそれた。直木説は、次に記紀歌謡を取り出し、
令制下の大和国や大和盆地よりも狭い地域を指すことばとして用いられた例は、つぎの歌にみられる。
つぎねふや 山代川を
宮のぼり わがのぼれば
あをによし 那良を過ぎ
をだて 大和を過ぎ
わが見がほし国は 葛城高宮
吾家のあたり
と言う。大和盆地(奈良盆地のこと)の大きさの総名としての「大和」が存在したとは思わないが、それはともかく、直木説は、この歌謡の大和を天理市の大和郷とする。狭義ということである。歌謡そのものが簡単すぎて、奈良からどの道を取ったのか、奈良の南といっても広くて,どのあたりを言っているのか、はっきりしない。が、とにかく、奈良盆地全体を指すのでないことはあきらかである。葛城髙宮のあたりを見るなら,天理を過ぎた桜井あたりよりもっと御所よりの方がいいと思うが、だいたいでもいいだろうから,和名抄にもあるのだし,天理の大和郷を過ぎた所という通説通りを認めよう。しかし問題はその大和郷が狭義としての資格を持つかと言うことで、古事記の歌謡の場合、ただそこに大和郷があるというだけで、それが、後の大和の国の名に取られるほど,よく知られた有力な地名であったことにはならない。たしかにその郷のある竜王山麓や南隣の巻向遺跡一帯は大和朝廷発祥の有力候補地であり(ただしJR巻向駅から新泉の大和神社まで約2.6キロ、かなり離れている)、古代史にもよく出るが、巻向遺跡の一帯を大和という地名で呼ぶ資料などないといってもいい。そもそも大和郷という地名ももともとのそこの地名ではない。これについては宣長が「国号考」で述べている。
さて夜麻登といふはもとかの郷より始まりて、後に一國の名にもなれりといふは、上に引る諸國の例どもゝおほかれば、まことに論(ヒ)なきがごとし、然れども猶よく考るに、此名はもとより一國の名なるを、かの郷(ノ)名は、後に倭大國御魂神の鎮座るによりて、とり分て一國の名を負せて、その郷をも倭とはいふなるべし、
ここにはっきりと述べられているとおりである。神社の名によって大和郷という郷名がついたのだということである。そして宣長はその神社がそこに祭られたいきさつを詳説する。要するに、
定(メ)2神地於穴磯邑1、祀2於大市長岡岬1、
となる。大和郷の本来の地名は穴師の大市なのである(新泉まで大市の内とすると、穴師の範囲が広すぎるようだが)、大和郷がその後消滅し、神社も頽廃したあと、穴師という地名は僅かに残った。そして
倭(ノ)郷に鎮座せるは、崇神か垂仁の御世よりなれば、神武の御代に倭と云(フ)郷(ノ)名はあるべからず、
という。また
さて倭(ノ)大神と申すは、大倭一國の國御魂神に坐故の御號にして、鎭(リ)座る地名によれる御號にはあらず、故崇神垂仁の御世のころ倭てふ郷(ノ)名はいまだ聞えざれども、此神の御號はもとより有しなり、さて郷(ノ)名の倭は、仁徳天皇の大后石姫命の御哥に、始めて見えたり、をだて山(古事記伝では「をだて」とある)、やまとをすぎ、とあるこれなり、
と言う(「をだて」という枕詞は一国の大和に係ると言う、そうすると郷名の大和ではなくなるが、ここの枕詞は音的(形式的)に連接する機能のものだろう)。直木説の出した歌謡の大和はたしかに郷名(所謂狭義)の大和だが、それは仁徳の時代のもので、古くからあると言えるような郷名ではない。範囲も穴師の一部に過ぎない。辺鄙な所の神社名から出来た一郷名がその後の一国の大和の名のもとになった形跡はないと言うことである。直木説が歌謡の大和を大和郷のあたりとするのは認められるが、それが狭義の大和であることはないということになる。
先走ってしまった。直木説は、次の証拠として、同じ古事記歌謡の、のヤマトタケルの国しのび歌を出す。
やまとは 国のまほろば
たたなづく 青垣
山ごもれる やまとしうるはし
直木説は、通説を「『古事記』や『日本書紀』の編者はこのような意味——やまとは奈良盆地、国は日本全体——に解して、この歌を倭建命や景行天皇の物語のなかに使ったのであろう。」と理解し紹介する。大和平野の人間にとって、青垣山ごもれる大和、という表現はよく理解出来る。これを直木説は批判する。大化以前の作と思われるこの歌謡で、日本全体を国と呼ぶことはなかったというのである。そしてこの国は日本全体でなく奈良盆地のことだという。そしてその国のまほろばである「やまと」を奈良盆地あるいは令制の大和国の意味とすることは困難だとする。国の中のまほろばなのだから,奈良盆地の一部でなければならないというのである。一見分かりやすい論理である。そこから「既述の石比売の歌にみえる大和と同様、狭義のやまとと考えたいのである。」と結論する。そしてこの説の難点として「青垣山こもれる」とあるのは、奈良盆地全体をさすとする通説がふさわしく思えるのに対して、天理市の大和郷はそうではないように見えることだという。
そこで、直木説は、通説の山に籠もった奈良盆地という表現の妥当性よりも、その中のまほろばという狭義の大和を優先させて、大和郷でも山に籠もる感じはすると弁解し、三輪山から春日山に至る山々を出すのだが、これでは屏風にはなっても取り囲むことにはならない。その難点を気にしたか、天理市の大和郷だけでは無理なので、「磯城郡とその南方に接する十市郡ぐらいは、ふくめて考える必要があるだろう。」と言う。それで多武峰あたりまで広がり、青垣の面積が南西方向に増えた分、山籠もる感じが増すが、しょせん隅は隅だから、葛城にいても、郡山にいても、奈良にいても「青垣こもれる」と言えることになり、特に磯城郡十市郡だけが「国のまほろば」とはならない。だからこれも、大和郷を狭義の大和とすることから出る話で、その前提がなければ、この歌謡の大和を無理な解釈までして狭義の大和とすることはできない。なお、大きな古墳や有名な神社や名山(三輪山など)があるからというが、それは「国のまほろば青垣山こもれる大和」という地理や自然環境とは関係のない話で、歌謡の直接的な解釈ではない。
さて、国は日本全国でもなくまた国文学者の言う陸地(「まほろば」を陸地の高まった所とする)でもなく国造などが統治する程度の大きさの土地で、ここでは奈良盆地のことだとするが、それだと、国は大和国ということになるので(実体は奈良盆地だが、それは大和の国(今の奈良県)そのもの)、大和(狭義)は国(一国としての大和)のまほろば、となり非常に紛らわしい。それでも、所謂狭義の大和に身を置いて「国」といえば大和の国となって意識するまでもない事だから、それでも良いとして、古事記の文脈では、伊勢の国から大和を偲んで作ったとあるのだから大和国を偲んだと見るのが穏当である。ありそうもない狭義の大和を想定するまでもない。そうすると、国はなんだと言うことになるが、当時(大化以前)日本全国を国と言ったことはないにしても、大津透氏(「律令国家と畿内 -古代国家の支配構造-」日本書紀研究第十三册1985年)の言う畿内(うちつくに)を国とする認識はあるのだから、それを当てはめればよい。つまり、大和(奈良盆地)は国(畿内(うちつくに))のまほろば、と解するわけである。ヤマトタケルが帰りたかったのはウチツクニであり、大和や河内であったが、とりわけて大和だったと言うことである(ちなみに白鳥になったタケルが大和で舞い降りたのは狭義の大和とされる磯城郡あたりではなく葛城の今の御所市富田(掖上の南西)のあたりだった)。大津氏は「畿内とは大化以前に遡り、ウチツクニという名称であったのではないかと考えられる。」といい、また「大和王権の故郷であるウチツクニ」とも言われる。また「…「四方国造」とある。これらから従来指摘されていないが、国造とは畿外にのみいるものであり、国造制とは実は畿外を対象とする支配機構ではないかと推測できる。抑、畿内の国造とされる倭直、山代直、凡河内直はいずれも畿外の国造の如く大きな権力を持った大豪族とは考えがたく、特殊なものであろう。」とも言われる。直木説の言う倭国造は磯城、十市、高市の一部といった大きな支配地域を持ち、葛城国造に対峙するような大きな氏ではなかったのである。狭義の大和郷に由来する名ではなく大和神社に由来する名であったのが大津説からも伺える。
直木説の点検は以上で終わるが、要するに狭義の大和といった地名はなく、古くから大和といえば畿内(ウチツクニ)の大和の国を意味したということである(もちろん、吉野、宇陀など盆地外も含む、だいたい盆地の西半分や南西部分からは大きな吉野の山々がよく見え、宇陀郡や都祁の高原部も高い山の稜線が見える、また交流も古くから盛んにあるのだから、奈良盆地だけを大和と言った時代など無かったと見るべきである、但し大和の語源は奈良盆地の地形に依ろう、河内が中心部の大和川の地形よったのと同じ)。
残されたというか後回しにした問題がある。石の比売の歌謡にある「大和」は大和神社に由来する地名でいいとして、今否定した倭国造の大和(直木説は此や、大和の屯倉も大きな根拠にしていた)以外に、如何にも狭義の大和をさしたと思える例がいくつかあるのをどうするかと言うことである。直木説は歌謡以外の古事記の地名の倭(八例)は全部狭義だと言う。その中には文脈の誤読と思われるのもある。詳しく見る余裕はないが、上述してきた観点から読めば逆に全部「大和国」と見なしてよいだろう。
そこで直木説が言及しなかった万葉の「大和」が問題であるが、本稿の動機はもともと真淵などが万葉の「大和」を問題にしたのを受けている。そしてそれについても宣長が真淵の考の説に反論して的確に論じ、同じ真淵の「冠辞考」を正しいとしている。
さて又藤原(ノ)御井の哥に、日本の青香具山といひ、また幸(シヽ)2吉野(ノ)宮(ニ)1時の哥に、倭には、鳴てか來らむ、よぶこ鳥、云々といへるも、ともに大和の國内にして、さらに倭といへるは、…同じ倭(ノ)國の内ながらも、殊に京師のあたりをさして、倭とはいへるなり、
と宣長は言う。「京師のあたりをさして、倭とはいへる」というのは換喩のようなもので、大和そのものと言った意味で使われているのであり、特定の狭義の大和というような地名ではないと言える。
結
万葉集にも多くの「やまと」の例があるが、国号と一国の名の「大和」だけで、狭義の「大和」の例は一例もないということである。古代歌謡に一例あった天理の大和郷とその周辺とかも出ない。そこは巻向であり、穴師であり、天理の大和郷のある新泉の東方竜王山北西麓の衾路(衾田の手白香陵のあたりとされる)である。
ということで、3295 …日本(やまと)の 黄楊の小櫛を…、の日本は大和国であり、新全集や曾倉全注のいうような狭義の大和(この歌の場合三宅をさしている)ではない。三宅産の黄楊の櫛ではなく、大和国のどこかの産である。大和高原の奈良市都祁は黄楊に関係ありと言われ、そこの櫛かとも言えそうだが、黄楊などはどこにでもある(暖地の方が生育がよいので、日向(万葉2500)や三河、土佐産(延喜式民部下)が知られているが)。ただ、大和国内で櫛にした(あるいは売られていた)ということだろう。明日香藤原あたりの都の一流の工芸品かも知れない。
最後に、その大和をなぜ日本と表記したかと言うことだが、集中にはこういう使いかたをした日本が何首かありただの借字ですまされることが多い。結局この歌だけでその理由がはっきり分かるわけはなく、他の文献でもわからない。しょせん推測に終わるが、松岡の論究に言っているように、中国産の輸入品のようなものと比べて、日本産の櫛を褒めているということなのだろう。その場合大和と言って、日本の総称の意味もこめているということになろう。明日香藤原のあたりを大和といったのとは違い、大和国の事を言いながら、総称としての日本をもダブらせてこれまた換喩的な表現であろう。よく似た例に宣長(「国号考」)も挙げた「筑紫」「伊予(用例はほとんどないが)」がある。九州と四国の総名にもなる。
補注、金井清一氏に「古事記のヤマト(上)」論集上代文学第三十冊2008年、があるのを失念していた。要するに古事記の倭のほぼすべての用例について直木氏流の広狭判定を行ったもので、宣長の考えも入れて一部修正しながら、ほぼ同じ結論になっている。本論を書き直すほどの事はなかった。二点だけ注記すると、直木説が狭義の大和でも青垣籠もると言えるとしたのに対し、青垣の東の部分だけではそうはいえないと否定したのは、私見と同じである。もう一つは、「大和は国のまほろば」を、「の」を同格として「まほろばの国」と解したもので、これは承認出来ない。同格というのも乱暴だ。