366番歌の「日本島根」について
米田進(こめだすすむ)
366 角鹿津乘船時笠朝臣金村作歌一首并短歌
越の海の 角鹿の浜ゆ 大船に 眞楫貫き下ろし 鯨魚取り 海道に出でて 喘きつつ 我が漕ぎ行けば ますらをの 手結が浦に 海女娘子 塩燒く煙 草枕 旅にしあれば ひとりして 見る験なみ 海神の 手に卷かしたる 玉たすき 懸けて偲ひつ 大和島根を
(反歌略)
高い評価もされない歌だが(私注に「長歌がすでに金村等の手には負へなくなつて、ただ言葉の上で平板に綴つて行つた」とある。)、表現に文(あや)があり、旅の歌として何となく印象に残る。その一つが最後の「大和島根を(原表記は「日本嶋根乎」)である。ただし語義が明瞭になっているとは言えない。ということで私見を示したい。
諸注を見るに、ほとんどがだいたい「大和の国を」と訳している。これはもうそう訳すしかない。つまり「島根」を国と取るわけだが、なぜ島根で国の意味になるのだろうか。普通には「海上からの想起」(多田全解、ほかに、釈注、新編全集、西宮全注、古典全集、私注、全註釈、金子評釈、槻落葉別記など)という説明で済ましている。つまり、この歌の場合、大和、または大和の国、といえばすむのを、敦賀湾上からはるかに偲んだから、島根をつけたのだというのである。なぜ本州島のごく小部分に過ぎない大和のことを島根(アイランドのこととされる)というのかわかりにくいところである。そこでこの説明をする注釈のうちのいくつかは、人麻呂の歌を証拠とする。
3-255 天離る鄙の長道ゆ恋ひ來れば明石の門より大和島見ゆ [一本云 家のあたり見ゆ]
3-303 名ぐはしき印南の海の沖つ波千重に隱りぬ大和島根は
この二首である。つまり明石海峡より手前では大和島(島根)が見え、過ぎると見えなくなるというので、大阪湾の海上から大和の方を見ると、手前の河内や和泉の平地は水平線上に不明となり河内大和境の連山が島のように見えるというわけで、一応筋は通っている。しかしこれを金村の歌に援用するには無理がある。いうまでもなく敦賀湾から見えるのは敦賀あたりや若越や江若の国境の高山で大和境の山など見えるわけがない。大和との間には、山城、近江、越前の多くの山々があり大和をアイランドとして想起するのは無理である。全注釈のように「思想的にいつている。」と言う説もあるが、敦賀湾上にいて大阪湾から見た景色を思想的(観念的ということか)に想起するというのも相当に不自然である。大和とその接する東西南北の国との間に海などはない。西の海から見たら島に見えるかもしれないが、北の海からでは山また山の向こうであり、観念上からでも無理である。これについては沢瀉も注釈で「大和境の山が見えるわけでもなく幾山川を隔てて島根の語は変だしかし海上から想起したからそういったのだろう。」と苦し紛れの説明をしている。
ところで今「一応筋は通っている」といったが、よく考えるとこれも無理である。人麻呂のように瀬戸内海や志摩地方を知っていると思われる場合、だいたい島というものの概念はあるだろうが、神戸沖から河内大和境の連山を見て「大和島」という大きな島と認識することはまず無いだろう。その連山は南の方では途切れなく河内、和泉と紀伊の間の葛城山地につながっており、北の方も河内山城境の山につながっている。さらには北摂、丹波方面へも地続きであり海が湾入しているわけでもなく、半島でもない。ここの大和は大きく畿内を指したのだとも言えるが、生駒の北方までを視野に入れて言ったのだとすれば畿内と言っても、摂津が含まれていないし、上で言ったように紀伊の境の方まで切れ目無くよく見えるのだから、畿内とも言えない。それに神戸沖から海面越しに眺めても、大和の西は河内で、大和の西に海はないという畿内の地理の知識が邪魔をしてそもそも島とは認識できないから、それを大和島と特定して呼ぶのは無理である。文学的な誇張としてもあまりに現実離れして冗談としか思えない。となると、人麻呂は、島(アイランド)の意味で「大和島」と言ったのではなく、大和の国のことを「大和島」と言ったのであり、この場合の島というのは島(アイランド)のことではないのだろうとなる。そうすると、金村の場合、人麻呂の語句を利用したのだろうが、「大和の国」のことを「大和島根」と言ったのであり、敦賀湾上からだから大和島根(アイランド)と呼んだのではないことになる。金村は人麻呂の使った語を正しく理解していたのだろう。
そうすると問題は、「島」に「アイランド」とは違う「国」といった意味があるのかということになる。これは残念ながら状況証拠ぐらいのものしか示せないだろう。だから万葉の大和島根についてそういう説を述べたものはないようだ。岩波古語辞典では、限られた地域、として、上方では遊郭の意味とする項目を立てるが、おそらく比喩的な意味の拡張だろう。それも近世語らしく、時代別ではそういう項目はない。
ところが、その限られた地域ということについて宣長の「国号考」に詳しい説が出ている。戦前の郷土誌や万葉地理などでは、宣長の説いた島の語義を出すものを見ることがある(「奈良県磯城郡誌」1915年、阪口保「萬葉集大和地理辭典」1944年など)。ただし不十分なものであった。
そこで「国号考」を見るに、その最初の「大八嶋國」に、
皇大御國の號、神代に二つあり、一(ツ)には大八嶋國、(中略)そも/\志麻とは、周廻《メグ》りに界限《カギリ》のありて、一區《ヒトツボ》なる域《トコロ》をいふ名なり、然云《シカイフ》本の意は、しまるしゞまるせまるせばしなどいふ言と同じきなるべし、これらも、取《トリ》はなち曠《ムナシ》く界限《カギリ》なくはあらで、界限《カギリ》ありて、とりしまれる意よりいふ言なればなり、されば志麻《シマ》てふ名も、本はかならず海のみならず、國中《クニナカ》にて山川などのめぐれる地《トコロ》にもいへりと見ゆ、そのよしは下條《シモノクダリ》なる秋津嶋のところにいふを見てしるべし(中略)万葉集の哥には、海をへだてゝは、大和(ノ)國の方をさしても倭嶋とよみ、又此大八嶋をすべても、倭嶋根とよめるなど是なり。
とあって、多くのアイランド以外の「島」の例を見るにあてはまるものが多い。ただし実地を観察すると山や川がめぐっていなくとも、島と呼んだ例があるようだが、それも山や川以外のもの(人文的な要素)によって「周廻りに界限のありて、一區なる域をいふ名なり」の定義には当てはまるようだ。なお万葉集でアイランド以外の島が出たとき、半周近く川などの水に囲まれている所(山などがなければ河内)を言うとするのが通説のようだが、川以外の山や人文的な限界のある区切りを持つ地域を意味する島の例も存在するようだ。次に、秋津島について、
此秋津嶋なども.山のめぐれるをもていふなり、蜻蛉の臀※[口+占]せるが如しとのたまへるも、青山のめぐれるさまなるを思ふべし、またそのあたりを室といひしも、さる由にてつけたる名にやあらむ、
とある。これはもとの秋津村、つまり今の御所市池之内、室、富田などのある、朝町丘陵の北端、掖上の南西、蛇穴(さらぎ)の南東の小平地だが、宣長は現地を知らないのだろうか、北方に山はない。島というのは別の原因があろう。また、
猶他にも例多し、書紀に、越國を大八洲の一つにとりて、越洲といへるも、海は隔たらねども、彼(ノ)國は、いづくよりも山を隔てゝ、別に一區なるが如くなればなるべく、筑紫の宇佐を宇佐(ノ)嶋とあるも、山川などのめぐりて、一區の地なる故なり、又應神天皇の都は.大和(ノ)國高市(ノ)郡の輕といふ所なるを、輕嶋といひ(大系本書記は記伝の説を引用、ただし秋津島、師木島については引用せず)、欽明天皇の都は、師木といふ所なるを、師木嶋といへるなども皆同じ、此(ノ)餘にも海なき國々に、某嶋といふ地(ノ)名のおほかる、多くは此例にてぞつけつらむ、その中には、かならずいちじるき界限はなき地をも、ことさらに一區としめ定めて、名づけたるも有ぬべし(前述の人文的な要素と見てもよいだろう)、それもなづくる意は同じ事なりかし、
とある、宣長は精細なので長く引用した。ところで、軽島にしても敷島(師木嶋)にしても特に山や川がめぐっていると言うことはない。おそらく宣長が最後に言っている「かならずいちじるき界限はなき地をも、ことさらに一區としめ定めて、名づけたるも有ぬべし、」ことから島と言ったのだろうが、それは何かということが問題である。
なお師木については宣長は次のようなことも言う。
師木嶋は、(中略)師木嶋大宮(中略)磯城嶋(中略)磯城嶋金刺宮と有て、もと此欽明天皇の都の地名なるを、萬葉集の哥どもに、しきしまのやまとの國とよめり、抑(中略)もとは大和一國をさしてにはあらず、京師をさしてやまとゝはいへるにて、しきしまの都といはむが如し(中略)又かの秋津嶋倭とつゞけいふも、もはら同じくて、本は秋津嶋の京といはむがごとし、さればその秋津しまも師木嶋も、共にみな京の名をいへるにて、國の名にはあらず、
ここで「島」というのは「都」のことだというのは論理の飛躍があるようだ。孝安(秋津島)、応神(軽島)、欽明(敷島)の時に限って大和〔都の意味としての)としての島だというのは不自然であり、また敷島と秋津島がなぜ大和の枕詞になるのか(引用外の部分で言っている)それの係り方の説明も例の狭義の大和が広義の大和に展開したというのと同じ論法のようで、曖昧である(岩波古語辞典がその説だが、係り方未詳とするのが穏当である)。宣長の「島」についての説は以上で終わる。
宣長の言う「ことさらに一區としめ定め」たのが、敷島であり軽島であり秋津島であろうと言ったが(つまり地形から見て山や川で区切られた地域ではない)、この三つ以外の万葉の島はどうであろうか(用例が少ないが、大量にある日本全国のこの種の島を点検する余裕はない)。三島はアイランドからきたようでもあり不明瞭である。野島ははっきりしないが、淡路の野島、御坊市の野島などは海辺の風の強い荒れた土地の一区域のようにも思える、豊島(てしま)(武蔵のだとすれば、としま、防人歌のは武蔵、そちらの方は行ったことがなくよく知らない)は今の池田、箕面、豊中あたりが中心で特に何かの一区らしいところもないが、強いて言えば池田などはすぐ西が猪名川でその上流川西や能勢からの道と大阪方面から来る道と西国街道とが合流する交通の要所であり、商業地になりやすい、高島は白鬚神社の北の明神崎で比良山系に沿った緩傾斜地とは完全に区切られた安曇川のかなり広い扇状地で、高島はその南部にあるが湖水と山に挟まれた小平地で独特の風土を持った島と言えるが、ここも豊島と同じで、敦賀への西近江路と朽木谷から来る道と若狭から来るいわゆる鯖街道とが出会う交通の要所としての島の可能性もある。志摩も曖昧だ。そもそも半島は島とも言えないことはないが(万葉の伊良湖の島などは半島の先端だし、三方が水面の地を島と呼ぶこともある)、志摩は紀伊半島の一部で、三方水面というほども突出しない、なにか他地域との境界が目立つものがあるだろう。宣長の「古事記伝」(筑摩版全集第十巻215頁)に、「嶋々の多くある處を、分て一國とはせられしものにて、…此に嶋とあるも、伊勢の海の嶋にて、即チ志摩ノ國なり」と言う説があるが疑わしい。といって豊島、高島のような陸上交通の要衝とも言えない。伊勢との境に朝熊ケ岳という横に広がった高く目立つ山があり、その南方は伊勢とはがらりと風光が変わって、低い山や丘陵と多くのリアス式海岸があってまさしく別の区域といえる。英虞湾など、島だらけのようだが、地図に名のある島は、賢島、間崎島、座賀島だけで、近鉄線でつながる賢島を除いて人の住むのは間崎島ぐらいしかない。もちろん鳥羽湾、的矢湾にも島はあるが、決して島だらけではない、入り江だらけなのである(島でない部分の方がはるかに大きく島が多いから島の国なのだという宣長の説は実地に合わないのである。)それよりも低平な山地とめざましいリアス式海岸という独特の風土によって志摩(島、一つの特色ある区域)と呼ばれたと見るべきだろう。
そこで宣長が問題にした、敷島、軽島、秋津島だが、まず敷島は桜井市金屋が故地とされる。ここは古代から海石榴市のあったところとして有名で、ちまたであり市のある島と見なせる。交通の要所である。ついで軽島は、万葉には「軽の路」とあるが、天武紀には「軽の市」とあり、有名で、山田道と下つ道がであうちまたである。ここもまた市の立つ交通の要所としての島であった。最後の秋津島だが、特に市として知られたところはない。既に述べたように地形的には島の要素はないので、やはり交通の要所であり、葛城山下の中心部と言えよう。今の御所市街地のすぐ南東部であり、かつてはここがちまた的な要所だったと思える。高市郡方面からの交通は一つは高取、明日香方面から来て掖上を経、もう一つは藤原京方面から来て、畝傍山の南西麓を経由し、一町(かずちょう)、観音寺、掖上を経、このかつての秋津村に出たのである。ということで、ここもまたちまたである島と言えよう。
ちまたとしての軽島については和田萃氏が飛鳥のちまたとして詳しく述べているが①、敷島、秋津島については飛鳥ではないので氏は触れなかった。ただし、氏は飛鳥のちまたとして、橘のチマタをあげている。確かに、中つ道の延長らしいものと、氏の言う飛鳥の横大路がぶつかり、さらには、多武峰、吉野、檜前方面からの道も出合う。万葉の島の宮は飛鳥川東岸だが、島という地名は今西岸にある橘(古代では両岸にわたる大地名)の一部のようである。そこでこの島の語源が問題になる。
折口の「萬葉集辞典」では、明日香の島の語源を飛鳥川と細川との合流するあたりを島といったので、蘇我馬子の庭園の島というのは書記の記者の作り事だろうと言っている。水に面するのが島というのは折口の持説だが、折口の言うところは祝戸あるいは阪田で島(地名、今の島庄が遺称地)ではないし、石舞台のあるところは小さい細川の北岸で少し離れており水に面するといえるような地形ではない。なお折口の批判したように、馬子の庭園の島が語源だというのはまさしく作り事であろう。誰もが鑑賞できるはずがないようなものが、誰もが使う地名になることはなかろう。ということで、ここの島も、交通の要所(ちまた)で、あちこちから人が集まる場所としての島と思われる②。
かなり回り道をしたが、ここで、人麻呂、金村の「大和島根」にもどる。宣長の説を応用すれば、この島根(島とほぼ同義)も、「ことさらに一區としめ定め」た地域と言うことになる。その場合大和一国が交通の要所(ちまた)ということは考えられない。ということで大和平野が四方を山に囲まれていることを島と言ったのではないだろうか、青垣山籠もれる大和、である。人麻呂は明石海峡の手前で大和河内国境の山地を見て山に囲まれた広大な大和平野(大和の国そのもの)を想起し、それを大和島根(大和島)と言ったのであろう。もちろんそんな固有名詞はないから人麻呂の造語の可能性もある讃称ということであろう(特に島根の方、補足参照)。
こう考えると、金村の大和島根もわかりやすくなる。アイランドの意味ではないのだから、敦賀湾から見たので島根と言ったのだという無理な解釈は必要ない。たまたま船に乗っていて、青垣山籠れるうるわしい大和の国(この場合山に囲まれた島)を想起したというだけのことである。地続きでない船上だけに余計に郷愁が深まったということもあろう。また日本島根というように日本と表記したのは、一国の首都のあるところということで、一層大和を讃美する気持ちもあろう。
注
①『日本古代の儀礼と祭祀・信仰中』塙書房1995年、「第Ⅳ章 古代祭祀の諸相」「第二 飛鳥のチマタ」。
②蘇我馬子を「嶋大臣」と言った由縁については、推古紀34年5月条に「飛鳥川のほとりに家を作り、庭に池を掘って池の中に小さい島を作ったので時の人が嶋大臣と言った。」とある。草壁挽歌の舎人の歌に出る「島」は稲岡全注では庭園全体のことと見るべきだとあり、馬子の島とは小異がある。馬子の邸宅の跡との関係も未定のようである。それはともかく、こちらも、島(地名)にあったから「島」の宮というので、池や島のある庭があるから島の宮と言ったのではないであろう。
補足、宣長説の、島は「ことさらに一區としめ定め」た地域、によって、一、ちまた(敷島、軽島など)、二、境界によってあきらかに別の風土と見なされるもの(志摩、他に宣長「国号考」が出した、越洲《コシノシマ》、宇佐の嶋など)にまとめたが、山や川ではなく、山だけで囲まれた島の例としては宣長が出した秋津島は実地の地形には合わない。また管見では、そういう例は見つからない。ということで、大和平野のような大きな空間を山に囲まれた島の例とするのはやや不安がある。これは三の項目を立てるのではなく、二の項目の中の一種と見ておくべきであろう。大きな区域だが山(境界)がその周囲をすべて限っているものとするわけである(志摩、越などは山と海。)。そう見たとき、金村の歌の「日本島根」がすっきりと解けるのである。
島と島根は同義だというのが通説だが、根という接尾語がつくと微妙な違いがあるであろう。大和島根以外の貴重な例である、山陰の島根については、出雲風土記の島根郡の条に八束水臣津野の命が命名したとあり、その古典大系本風土記頭注に「命名に関する神の言葉の伝承はなかったとすべきか。」とある、残念なことである。地形的に出雲の島根郡と大和平野では共通点がなさそうである。島根郡は島根半島の東端で島(アイランド)としての半島ということだろうか。それだとどうして根がつくのかわからない。もう一つ、續後紀嘉祥2年の長歌の例が時代別に出ている、「是亦(これもまた)此之嶋根乃(これのしまねの)人(下略)」というので、吉野の熊志禰もまた浦島と同じくこの日本の島の人であったということだが、浦島の行ったところはただ島と言ってるから、とくに日本のことを言うとき嶋根と言ったのだろう。これは讃称のようでもある。
〔2025年10月3日(金)成稿〕
補足、志摩は「嶋々の多くある處」という意味で名付けられたとする宣長説は疑わしいと言ったが、『古代地名語源辞典』東京堂出版1981年も、同様のことを言い、ついでに宣長の「国号考」の説を宣長説と断らずに紹介している。結論として半島だから志摩(島)だとしたが、これは従えない。
〔2025年10月9日(木)〕