定本柳田國男集　第一卷（新装版）、筑摩書房、1970､7､20､6刷

　

(1)　　　海上の道

　

(3)　　　　　海上の道

　

　　　　　　　　　　一

　

　今度の九學會連合の年會に於て私は大要次のやうな話をした。この新らしい協同體に參加してから、我々の積み重ねて行く愉快な體驗は無數であるが、さういふ中でも日本の民俗學會として、殊に喜ばねばならぬものが三つある。其一つは九つの團體がそれ／”＼の軌道を囘轉して、素より同じ圓周の一部を分擔するもので無い爲に、或時は遠く懸け離れ、又或時はすぐ眼の前に接近して來て、交叉し又衝突しさうな場合さへ折々はある。今までは無意識にそれを避けようとし、わざと問題の間地を殘して置かうとするやうな心づかひもあつたが、今度はちがつた角度からの批判を危ぶまないのみならず、次第に隣の學問の能力を理解し、折々はその長處を借りて、こちらの弱點を反省して見ることが出來るやうになつた。國の一隅に於て成長した民俗學の如き學問に於ては、是は決して小さくない恩惠であつた。

　第二にうれしいことは、このそれ／”＼に異なる態度方法、それ／”＼の閲歴を持ち寄つた九つの學會が、今や我邦の空前の事相に當面して、何等の話し合ひを經ることも無く、自然に一致して日本の民族の生存を、協同研究の對象として居ることである。他日我々の能力が充ち溢れるならば、無論次々に研究の領域を、海から外へ擴張して行くことであらうが、少なくとも是までの樣に、よその國の學問の現?を熟知し、それを同胞の間に傳へることを以て、學者(4)の本務の極限とするやうな、あはれな俗解は是で終止符を打たれるであらう。幸ひにこの豫言が當るならば、今日の會合も永く囘顧に値すると思ふ。

　第三には是ほど多くの學會が力を合せ、心を一つにして日本を研究せられること、すでに年久しいにも拘らず、まだ何處やらに未開の野、ちつとも答へられない問題が有りさうなこと、是が又感謝すべき好刺戟であると思ふ。年を取り過ぎた自分のやうな者にとつてこそ、是は心殘りの、又相すまぬことでもあるが、本日會合の諸君の大多數の爲には、是くらゐ張合ひのある現實はちよつと類が無いであらう。めい／＼の行く先に廣々とした未知の世界が有ることを知つて、それでは止めようといふ人などは、この中には一人も居られまいと思ふが、あはれや私などの物を學ぶ頃には、もう一通りの眞理は既に古人が明らかにしてくれてゐるやうに思つて、そこまでたどり付くことを先途とするやうな者ばかりが多かつたのである。

　

　　　　　　　　　　二

　

　幸ひにしてこの半世紀以來、問題とか疑問とかいふ言葉が、文化諸學の間にも流行して來たが、それも多くは今これから答へようとする者の用語であつて、我々の切望して居るやうな、確實なる無知無學の相續には歸着しなかつたのみか、一方には根本理念などと稱して、是だけは先づ論爭批判の外に置いて、其殘りで仕事をしようとするが如き學風が、何か新らしいものゝやうな顔をして、こちらへも手を伸ばしかゝつて居る。さういふ證明を要しない原理、固定不動の前提が多かつたばかりに、我々は苦しみ、又學問は遲々として進まなかつたのである。僅かな言葉の響きや方式の新らしさに絆されて、今頃再び以前と同樣な拘束の世界に戻つて行かうとする者はよもやもう有るまい。

　今まで久しい間氣がつかず、從つて又何等の解答も得られずにあつた問題は無數であらうが、さういふ中でも四面海を以て圍まれて、隣と引離された生存を續けて居た島國としては、この海上生活に對する無知は寧ろ異常である。(5)愈々其樣な氣樂なことを、言つては居られない時代が到來して、自然科學の方面では先づ一段の活氣が感じられ、其研究の成果には、或程度の期待が繋げられるやうになつたが、是と雁行し又互ひに利用し得べき文化史の方面では、まだ疑問の形すらも具はつて居ない。たとへば日本人は、最初どの方面からどこへ渡つて來たか。何百といふ數の大小遠近の島々のうち、どれへ始めて上陸し、次々にどの方角へ移り擴がつて行つたものか、それは全然わからぬ。わかる筈が無いといふだけの答すらも、どうやらまだ出來上つては居ないのである。しかもこの間題が何とでもきまつてからでないと、説くことの出來ない幾つかの推論が、既に日本ではほゞ承認せられかゝつて居る。それをあぶながり、又は難癖をつけるやうな、老成人風の批判ならば、まだ幾らでも出て來ることゝ思ふが、私だけは國の學問の前途のために、さういふ消極主義に與みしたくない。寧ろ其反對に、次々と新らしい假定説を提出させて、比較對照によつて互の弱點に心づかしめ、且つは素朴に過ぎたる追隨を戒める必要があると思つて、今日はその一つの見本のやうな話をする。

　

　　　　　　　　　　三

　

　二十年も前に、私は一時熱心に風の名の集録を心がけたことがある。農民も決して風に無關心ではないが、その呼稱の多くは海の生活からの感化を受けて居る。海ではそれ／”＼の風の性質が、風の名となつて居るのだが、内陸では專ら方角を問題にするが故に、それを地方的に意味を限定して使ひ、從つて到る處少しづゝ内容の差が生じて居る。たとへばヤマセは山の方から吹いて來る風である。それ故に江差松前では今以て東北風がヤマゼであり、瀬戸内海の北岸では、四國の方から來る南風をさういふ處もある。萬菓集の末二卷の中には、アユノカゼに東風の二字を宛てたものが有名であるので、多くの國語辭典にはこの語を東風と註し、それを他の方角の風とするものを方言と見下すらしいが、この漢字の使用こそは、越中文人の居住地が、ちやうど西隅に偏して居たことを意味するもので、現に今日(6)でも富山縣の海岸では、方角によつて能登アイと、宮崎アイとの二つのアイの風がある。宮崎は即ち東端越後境の海角であつて、是から吹きつける風のみが大伴家持等の袂を飜へし、能登から吹くアイは山に遮られて、此邊りでは心づかれなかつたので、まだ此頃までは漢字の利用が、其場限りの思ひつきだつたことが是でよく判る。

　アユは後世のアイノカゼも同樣に、海岸に向つてまともに吹いて來る風、即ち數々の渡海の船を安らかに港入りさせ、又はくさ／”＼の珍らかなる物を、渚に向つて吹き寄せる風のことであつた。今日は半ば死語に屬し、辛うじて字引と地方語の中に存留するのみであるが、果實のよく熟して樹から墮ちるのをアユルといひ、又はアユ・アユル・アエモノ等の語の古くからあるやうに、人を悦ばせ、おのづから人の望みに應ずるといふやうな樂しい?態を表示する爲に、夙く生れて居た單語では無かつたらうか。饗宴もしくは食物の供與を、アへと謂つて居たのも別の語では無いのかもしれぬ。子音の變化又は脱落は、永い歳月の間には、有つても不思議は無く、ましてや汀線の角度のちがひ、風が内陸へ入つて行く路筋によつて、それ／”＼に異なる語原があつたかの如く、考へて見る必要などは無いのである。

　日本海の側では、東は津輕の岬端から、西は島根縣の一部にまで、同じ風の名が今もほゞ一續きに行はれ、言葉がきれいな爲に時々は歌謠の中に入つて、海からやゝ入込んだ土地にまで傳はり又記憶せられて居る。たとへば越前の武生などには、今でも汽車が通るたびに、必ず憶ひ出す中世の遊女の歌がある。

　　　みちの口、

　　　武生のこふ（國府）に我ありと、

　　　親には申したべ心あひの風、

　　　さきんだちや

　曾てこの都會が東西交通の衝であつた時代に、遠くこの風の風下の方から、さすらへて來たと稱する女たちが、屡々斯ういふ歌を唱へて旅人の哀れみを誘はうとしたので、是と同巧異曲の「泣いて暮すというておくれ」といふ類の(7)文句は、近くは明治の始めまでなほ續いて居た。

　

　　　　　　　　　　四

　

　心あひの風は所謂掛け言葉で、風を孤獨の身の友と呼びかけたのであらうが、もうあの頃から發音は今と同じであつた。是を海上生活の最も大切な問題として、遊女は歌にうたひ、船人は淋しい日にそれを憶ひ起したので、遠い萬葉の昔から、この一語の流傳は絶えなかつたのである。近代の港の中にも、幾つかさういふものが殘り傳はつて居る。

　　　アイのこは吹きやヤマセのもとだ、

　　　ヤマセや別れの種となる、

　思ふ船が入つてしまへば、アイの風はもう問題でない。それよりも其風が強く吹き續けると、やがて轉じて別れの風になるのが氣づかひなといふので、是は多分蝦夷地での流行唄であらう。北陸方面では、ダシといふのがヤマセに近い風であつた。谷の奧から吹き出すといふ意味であつたらうが、後には風待ちの船を出してしまふからダシだと、思ふやうになつて居た。

　　　アイが吹かぬか荷が無うて來ぬか

　　　たゞしやにがたの河止めか

　是などは新潟の次の湊、酒田とか新湊とか、能登の小木宇出津とかの歌であらう。入船に都合の好い風をアイの風といふやうになつて、幾らかは最初の意味がかはつたかもしれぬが、とにかく海邊に住む者にとつて、心のときめく風であつたことは同じで、ただその強吹きの結果だけが、常に少しばかり氣づかはしかつたのかと思ふ。

　ところが日本海の船運が進展して、海峽から東の大洋へ出て行くやうになると、風の名の用法がやゝ變化して來た。全國の呼び方を集めて見ると、宮古八戸あたりの僅かな太平洋側の沿海だけに、陸から海に向けて吹く風を、アイと(8)謂つて居る地帶があるやうに思ふ。是などは明らかに水上生活者の運搬であり、濱に住む者の古くから使つて居た言葉では無いのであつた。同じ一つのアユ又はアイといふ風の名でも、永い歳月に亙つた經濟事情の變化によつて、眼に見えぬ重點の推移があつた。海が島國の文化に貢獻した一つの古い力は、形あるものゝ側では、今私などの寄物と名づけて居る繼續した自然現象が、全く忘却せられてしまはぬまでも、少なくとも次第に輕く視られがちになつて來たことは已むを得ない。現代の社會研究としては、それも當然のことと言つてよいであらうが、いはゆる史前學の範圍に於ては、是は寔に忍び難い不利である。かつて文獻記録の到り及ばざる世に於て、是ほど痛切にこの方面の經驗を、積み重ねて居る民族は尠なく、それを今の世まで持ち傳へて來たのも、日本人のやうに久しい者は稀であらうから、斯ういふ知識だけは、恐らくは外國學者の足跡に、ついて行くことが出來まいと思ふ。

　

　　　　　　　　　　五

　

　津とか問屋とかの制度の完備するまでは、時を定めずに入つて來る船なども、一種の寄物であつた。今でも尻屋あたりの荒濱をあるいて見ると、大小さま／”＼の難破船の破片が、昆布やあらめと共に、到る處の水際に積み上げられて、次々と村へ運び込まれて居る。暗夜に火を焚いて海を行く船を迷はしめたといふなどは、遠い昔の物語に過ぎぬだらうが、とにかく海から寄り來るものはその種類を問はず、本來はすべて浦人の所得だつたのが、後に少しづゝ法令を以て之を制限したのである。寄鯨の取締りなどは、さういふ中でも殊に新らしく、それよりも遙か以前から、都會に於ける鯨肉の消費は始まつて、是が先づ捕獲の技術を發達せしめて居る。漁が一つの生業として成立した順序は、日本のやうな國ならば、簡單に社會科でも教へることが出來る。最初は魚の方から群をなして押寄せて來て、ほしいと思ふ者には誰にでも取られてくれた。國の端々には今でもさういふ場所がまだ少しは殘つて居る。それを僅かな人の手で、及ぶ限り多くすくひ揚げ、上手に分配しようとしたのが漁業の始まりだが、農とちがつてその歴史はごく新(9)らしく、結局は魚を遠くの沖の方へ追拂ひ、是からの海邊の生活を、際限も無く變化させようとして居るのである。

　南の海上のザンの魚（儒艮）の物語と對立して、東日本の荒磯にはアシカ・アザラシ・ミチの寢流れなどの話がもとは多かつた。文字の教育が都府とその周邊に偏在した結果、是等はすべて永遠に、記録の外に迭散しようとして居る。之を保留し且つ前代の考察に取入れて行く勞苦は、今も若干の痕跡を傳へて居る網や釣繩の比では無い。其爲に人は?々現代の空氣の中に、遠い寂寞の世を推理しようとするのである。寄木流木の言ひ傳へなどは、之に比べると遭遇がやゝ多く、又若干の文獻にも惠まれて居るが、なほ我々は國内の山野が、曾て巨大の樹木を以て蔽はれ、それが次々と自然の力によつて、流れて海に出て居た時代を、想像して見ることが出來なくなつて居る。以前は水上から供給するものが、今よりも遙かに豐かだつたと思はれる。多くの沖の小島では、各自昔からの神山を抱へながら、それには愼しんで斧鉞を入れず、家を建てるにも竈の火を燃すにも、專ら大小の寄木を當てにして居た時代が久しく續いた。是にも年々の季節兆候があり、占有の方式があり、又信仰祈願があつたことは、田野の生産とほゞ一樣であつて、たゞ幾分か幸運の差等が大きかつた。唐木と呼ばるゝ珍奇なる南方の木材が寄つて來た場合には、之を家々の私用に供せず、必ず官府に屆けよといふ法令が、奄美大島の北部などには、舊藩時代の頃に出て居る。特に何れの海岸にさういふ實例が多かつたか、今もまだ調べて見ようとした人は無いが、恐らくは原地の實情も既に變つて、一般にもう稀有の事になつて居るのであらう。最近に與論島出身の某氏に逢つたときに、試みにあの島の寄物の印象を尋ねて見たが、この人の記憶に殘つて居るのは、一度難破船の積荷の、木臘か何かの箱詰が寄つて來たのと、島では浪の花と稱する輕石の大量が、東の渚に夥しく打寄せたのと、たゞ二つの事を擧げ得るのみであつた。しかも嵐の次の日の早朝に、一度は海端に出て見ずには居られぬといふ氣持だけは、どこの島にもまだ一樣に殘つて居る。是は無意識の傳承といふべきものであらう。

　

(10)　　　　　　　　　　六

　

　海からくさ／”＼の好ましいものを、日本人に寄與した風の名を、アユと呼んで居た理由は斯うして説明し得られるが、是が日本海の沿岸だけに弘く傳はつて、東や南に画した海邊には知られて居ないのは、やはり海運史の問題であらう。寄物は個々の地域地形に伴なふ現象だから、どこでも一樣にこの風の名を、知つて用ゐて居たとは限らない。これが今日の如く適用するやうになつたのは、風をたよりの人たちの、往來の力と思はれる。外でも同じ言葉を大よそ同じ意味に、使ふ者が多いと知ることが、言はゞ標準語の底力であつて、古いとか正しいとかいふのは問題でない。此意味に於てはアイの風は方言で無く、方言は他にもあるのかもしれぬが、今はまだ發見せられて居ないのである。

　或は地名などの中に埋もれて今も傳はつて居るのかもしれぬ。一つの例として心付くのは、尾張のアユチガタ、後には郡となり又縣の名にもなつたが、古くは年魚市（アユチ）とも字には書いて、越中と同じにアユと發音して居た。場所は熱田の神宮の東に續く平沙の地であつた。ちやうど伊勢の海の灣口をほゞまともに向いて、潮の流れと主風の方向とに、今昔の變化は無いかどうか、まだ自分には確かめられぬが、ともかくも爰に蓬莱の仙郷を夢想し、徐福楊貴妃を招き迎へようとした程度に、大洋との交通の考へられやすい土地であつた。或は尋常の貝石玉藻の類、又は流木や魚の群以外に、時あつて遠い常世國を偲ばしめるやうな、珍らかなる寄物を吹寄せて、土地の人の心を豐かにした故に、斯ういふ潟の名を世に殘したのでは無いか。アユチのチは東風をコチといふチも同じに、やはりめでたき物をもたらす風を、もとはこゝでもアユチと謂つて居たのではないかと思ふ。

　國の大昔の歴史と關係する古い幾つかの宮社が、何れも海の滸《ほと》りに近く立つて居るといふことを、稍々おろそかに考へる風が久しく續いたが、日本が島國であり、海を渡つて來た民族である限り、是はいつかは補強せらるべき弱點であつて、それには先づ隱れたる海上の道といふものゝ、次々と發見せられる日を期待しなければならない。それが(11)待遠に堪へぬとすれば、やはり斯ういふ多少のゆかりある雜談を試みて、ちよつとでも今日の希望を濃やかならしめるのが、よいかと思ふ。

　途方も無く古い話だが、私は明治三十年の夏、まだ大學の二年生の休みに、三河の伊良湖崎の突端に一月餘り遊んで居て、この所謂あゆの風の經驗をしたことがある。この村は其後ほど無く、陸軍の大砲實驗場に取上げられて、東の外海の海岸に移されてしまつたが、もとは伊勢灣の入口に面して、神宮との因縁も深く、昔なつかしい形勝の地であつた。村の中央には明神さまの御社と清い泉とがあつて村の人の渇仰を集め、それに養はれたと言はれる無筆の歌人、漁夫磯丸の舊宅と石の祠とは、ちやうど私の本を讀む窓と相對して居た。毎朝早天の日課には、村を南へ出て僅かな砂丘を横ぎり、岬のとつさきの小山といふ魚附林を一周して來ることにして居たが、そこにはさま／”＼の寄物の、立ち止まつてぢつと見ずには居られぬものが多かつた。船具や船の破片にはたま／＼文字の痕があつて、遠い海上の悲しみを傳ふるものがあり、一方には又名も知らぬ色々の貝類をゆり上げて、「その玉もてこ」と詠じた昔の歌の風情を、想ひ起さしむる場合もあつた。

　

　　　　　　　　　　七

　

　今でも明らかに記憶するのは、この小山の裾を東へまはつて、東おもての小松原の外に、舟の出入りにはあまり使はれない四五町ほどの砂濱が、東やゝ南に面して開けて居たが、そこには風のやゝ強かつた次の朝などに、椰子の實の流れ寄つて居たのを、三度まで見たことがある。一度は割れて眞白な果肉の露はれ居るもの、他の二つは皮に包まれたもので、どの邊の沖の小島から海に泛んだものかは今でも判らぬが、ともかくも遙かな波路を越えて、まだ新らしい姿で斯んな濱邊まで、渡つて來て居ることが私には大きな驚きであつた。

　この話を東京に還つて來て、島崎藤村君にしたことが私にはよい記念である。今でも多くの若い人たちに愛誦せら(12)れて居る椰子の實の歌といふのは、多分は同じ年のうちの製作であり、あれを貰ひましたよと、自分でも言はれたことがある。

　　　そを取りて胸に當つれば

　　　新たなり流離の愁ひ

といふ章句などは、固より私の擧動でも感懷でも無かつた上に、海の日の沈むを見れば云々の句を見ても、或は詩人は今すこし西の方の、寂しい磯ばたに持つて行きたいと思はれたのかもしれないが、ともかくもこの偶然の遭遇によつて、些々たる私の見聞も亦不朽のものになつた。伊勢が常世の波の重波寄する國であつたことは、すでに最古の記録にも掲げられて居るが、それを實證し得た幾つかの事實の中に、椰子の實も亦一つとして算へられたことを、説き得る者はまだ無かつたのである。土地にはもちろん是を知つて居る人が、昔も今も多かつたにちがひないが、それを一國文化の問題とするには綜合を要し、又は或一人のすぐれた詩人を要したのである。

　椰子の實の流れ着くといふ濱邊は多かつた筈であるが、是が島崎氏のいふやうな遊子によつて、取上げられる場合が少なかつたかと思はれる。昔はこの物を酒杯に造つて、珍重する風習があり、それも大陸から傳はつて來た樣に、多くの物知りには考へられて居た。倭名鈔の海髑子の條などは、明らかに書卷の知識であつて、もし酒中に毒あるときは、自ら割れ碎けて人を警戒するとあり、まだどういふ樹の果實なりとも知らず、何か海中の産物の如くにも想像せられて居たやうであるが、なほ夜之《やし》といふ單語だけは、すでに和名として歸化して居る。京人の知識は昔も今の如く、寧ろ文字を媒として外國の文化に親しみ、久しく眼前の事實を看過して、たゞ徒らに遠來の記録の、必ずしも正確豐富で無いものを捜索して居たことは、獨り椰子の實だけの經驗では無かつた。此頃やつとその習癖に氣が付いたと、言ひたいところだが、それもまだ少し怪しい。

　

(13)　　　　　　　　　　八

　

　日本の海端に、ココ椰子の實が流れ着くといふことは、決して千年ばかりの新らしい歴史では無かつた筈であるが、書物で海外の知識を學び取らうとした者は、却つて永い間それを知らずに居た。さうして一方には現實にその經驗をもつた人々には、今までそれを談り合ひ、又考へて見るやうな機會が、極端に少なかつたのである。或はその爲に私などの場合のやうに、一つ二つの見聞ばかりがあまりにも騷ぎ立てられて、結局は綜合の利益が收められずに居たのであらう。魚の尾や小鳥の足にも番號をはめて、放して見るやうな世の中になつたのだから、今に僅かな比較と推理とによつて、何かが教へられる時が來ることと思つて居る。かつて九州の南部の田舍を、あるいて見た時にも私は氣がついた。それから注意して友だちにも尋ねて見たが、あの方面には椰子の實で作つた酒器を持傳へて居る家々は少ない數では無い。支那の舊書に見えるやうな、盃の話はあまり聽かないが、大抵は例の燒酎入れ、又は小さな酒�ｺ利の携帶用のもの、時としては腰下げの煙草入れなどもあつて、必ずしも十襲珍藏といふほどでは無くとも、物が堅固なだけに重代の品が多く、從つてどうして手に入れたか、どこの海岸へ漂着したものかを、今となつては尋ね知ることが難い。たゞ或程度までは現在の分布によつて、比較的どの方面に其事例が多かつたかを、推測することが許される迄であらう。

　今日謂ふ所の西南諸島には、算へては見ないが少なくとも話は多く、且つやゝ普通化平凡化して居る。沖繩の本島などでは、土地でも手に入る場合があらうのに、更に商品として八重山方面から、いはゆる椰子小《やしぐわ》の輸送せられたものが、幾らも店先で賣られて居たといふ話も聽いた。しかも自分の知る限りでは、先島諸島にもココ椰子の結實する土地は無いのだから、言はゞ漂着の數が北の隣より多かつたといふことなのである。距離の大小は漂着とは交渉が無いともいへるが、やはり最初の陸地を乘り越えて、もつと遠くへ行かうとはしないだけに、原地に近いほど多かつた(14)といふことになるので、その反面に本州は更に少なく、從つて是を珍重し又問題とする人情も、一段と濃厚であつたと言へるのであらう。

　ともかくも此植物が東方列島の風土にふさはず、一度も芽を吹き親木を成長せしめ得なかつたといふことが、埋もれたる海上の道を探る上に、好箇の手掛りを供與する。古記に檳榔の字を以て誤記せられたコバといふ暖地植物などは、古くは瀬戸内海の各地にあつたと傳へ、今も現に紀州の一端とか、朝鮮東南岸の島々にまで生育する例が多く、曾て私は是を鳥類の運搬に托せんとしたこともあつたが、今は略々その誤りに心付いて居る。廣い意味では是も天然の分布であらうが、曾て海上を漂到した無數の種子の中から、たま／＼環境に適した僅かな個體だけが、芽を吹き大木となつた例はガジマル、又アコウといふ樹などにもあり、又は埋立新田の潮除堤の上に忽ち繁茂して行くトキハといふ一種の大な萱なども、其名稱から考へて見て、やはり遙かなる海の彼方から、新たに渡つて來た種なることがわかる。即ち獨りこの一種の椰子の實だけが、久しきを經て終に移住に成功し得なかつたのである。

　

　　　　　　　　　　九

　

　等しく漂着といふ中にも、色々の運命のあつたことが先づ考へられる。たとへば椰子の實の一例に就いて見ても、夙く南海の外の荒濱から、中華の文化地帶にもたらされた、やや不精確なる口碑が先づ傳はつて、ヤシといふ言葉がさき廻りをして、待ち受けて居たなどは奇遇であつた。北太平洋の多くの珊瑚礁に、この植物が分布したのは人の力では無く、從つて又新たに始まつたものでも無いとすれば、つまりは我邦の荒濱の事實が近世になるまで傳はらなかつたのである。親しく之を看た者も注意せず、或は名を付してやがて忘れてしまふやうな各地の出來事を、それと最も縁の薄い人の手に成つた文獻によつて、統一しようとして居たのは文化の病だつた。第二、第三の方法は必ず試みられなければならない。

(15)　椰子の實の日本語は、いつの昔からとも無くヤシホ又はヤシゥであつた。是が器物として利用せられたのも年久しい事であらうのに、あんな古い記録の次々と承け繼がれて居たばかりに、近世になるまで依然として一種の珍奇であつた。手近な例として擧げられるのは、江戸叢書の中にも採録せられた嘉陵紀行、是は村尾嘉陵といふ江戸の小吏が、勤務の暇ある毎に郊外の各處に日返りの旅行をした日記を集めたもので、時は文化から文政に掛けての、十數年のことだつたかと記憶する。或日新井の藥師から江古田の村あたりをあるいて、路傍の休み茶屋の豆腐屋を兼ねた店先に腰を掛けると、其家の老婆が頻りに嘉陵が携へて居たヤシホの盃に目を留め、其名を尋ね知つて愈々珍らしがり、やがて出て行つて一合ばかりの酒を求め來り、どうか一つめしあがつたあとで、私にも其盃でいたゞかせて下さい、と言つたといふ話が、至つて素朴に記述してあつた。僅か百年と少し前までは、斯ういつた快活な女性が、まだあの邊りにも居たといふこともなつかしいが、同時に又この一種のエキゾチシズムが無限に持續して、終に我々の學問に繋がるのも愉快だと思ふ。但しこの樹實の漂着地が、何れの海岸であつたかは問ひも答へもして居らぬが、恐らくは江戸の周邊などには、稀にも無いことであつた故に、是ほどにも珍重せられたので、やはり暗々裡に古書の外國記事が、自他の上に働いて居たのかもしれない。

　村尾老人の故郷は、たしか周防の岩國であつた。瀬戸内海でも多分めつたに無いことだつたらうが、外海の沿岸でならば、漂着は必ずしもさう稀有なことで無く、或日のアユの風が時あつて之を吹寄せた例は、日本海の側にもあつて、それが好事者の手を渡りあるいたことも、近代は次第に多くなつたかと思ふ。たとへば曲亭馬琴の烹雜《にまぜ》の記といふ隨筆に、佐渡ヶ島の記事がやゝ詳しく載せられ、濱に流れ寄るくさ／”＼の異郷の産物の中に、椰子藻珠などが有ることを話して居る。其モダマといふのは正しい名かどうか知らぬが、伊良湖で椰子と共に私が拾つた中にも、藤の實の形をして莢が二尺もあり、堅く扁たい濃茶色の豆をもつたものを、土地でもモダマと呼んで居たから同じもので、産地季節が同じかつた爲に、偶然に長い海上の旅を共にすることがあつたのであらう。

(16)　小野氏の本草啓蒙に依ると、佐渡の他にも但馬・若狹、奧州にも四國にも椰子の實の漂流して來た前例がすでに有つた。古書の記録の發見だけで無く、是からも皆で氣をつけて居たら、其事實は段々に積み重ねられるだらうが、それには何よりも地點を明かにする必要があると思ふ。何處の海邊へでも勝手放題に、上陸するものでは無いといふことを認めるのは、決して椰子の實一つの爲では無く、又地理の學者だけの任務とは限らないであらう。

　

　　　　　　　　　　一〇

　

　多數の漂着物は永い年代に亙つて、誰一人省みる者も無く、空しく磯山の陰に朽ち去つた。たま／＼それを取上げて愛玩し加工し、又授受するやうな時世になつても、其説話は必ずしも弘く傳はらず、もしくは誤解と誇張とを伴なつて世に殘つた。是からの學問はそれも整理しなければならない。加賀の手取川などは、同じく日本海に注ぐ著名な流れであるが、此あたりのアユの風は、椰子の實は吹き寄せなかつたものと見えて、飛んでもない噂話が記憶せられて居た。此川は水筋がすぐに通り且つ早瀬である爲に、出水があつても岸を溢れて、村里を害することが元は稀であつた。或年意外の高水が支へて、いつ迄も田畠を浸し劫かすので氣を付けて見ると、川の中流に黒い圓みのある大岩の如きものが横たはつて、流れを堰き止めて居て、其爲に水が引かぬのであつた。是をどうするがよいかと評定まち／＼の折柄、今度は川上の方から牛に似て更に大きな又一個の怪物が、流れに就いて下つて來て、前からあつた岩のやうな黒いものにひしと取付き、皮を喰ひ破つて強く吸ふ。さうすると中からは眞白な、どろ／＼としたものが多量に出て來て、それが第二の怪物に吸ひ取られるに從つて、段々と小さくなり、今まで堰かれて居た川の水も低くなつた。是こそ白山の山奧に産する、ヤシホといふ樹の實であつた云々といふ話が、三州奇談と題したあの地方の記録に載せられ、それも此頃は活版になつて流布して居る。うそをつくつもりで言ひ出した話で無い證據には、椰子の果實の中が白く、皮を破つて吸ひ出したといふ點だけを保存して居る。それを靈山の神異に托したのは信仰かもしれぬが、(17)少なくとも話者は同時代人の全部と共に、此樹實の産地に關する空想の自由を持つて居たのである。

　もちろん程度のちがひはあらうが、今でもこの自由をふりまはして居る人が少なくはないやうな氣がする。たとへば言語に若干の一致があるとか、習俗がやゝ似通ふといふことなどは、是だけ年久しい隣住居で、又折々の交通を考へると、無かつたら寧ろ不思議と言つてよい。いつかは必ず日本の最初の住民の、本家なり又同族なりが、この中から見付かつて來るものと當てにして居てもよいやうだが、さうは行かないわけはまだ一つ、今自分たちが思つて居るやうな場合、即ち以前の從兄弟たちが衰弱し散亂して、周圍のより強い部族に吸收せられて、言語や系統の意識を失つてしまつて居る場合があるからである。海を生活の場面とする大小の種族には、この實例は決して珍らしくない。ましてこの一つの天然の條件が完備した島群に於て、さしたる外部の擾亂も無く、數千年の生存を續けて居たとすれば、いつかは現在のやうな淺ましい一億共喰ひの?態に、陷つて行くのも逃れ難い命數だつたかもしれず、さうなるまいとすれば、今少しく知り且つ考へなければならない。何處か大陸の片隅に、この日本の紳士のやうな一團の人物が割據して、萬葉集に近い日本語でも話しつゝ、久しぶりの再會を待つて居るかの如く夢みることは、私などから見れば、まあ白山山中の大きな椰子の實のやうなものである。

　

　　　　　　　　　　一一

　

　人と椰子の實とを一つに見ようとすることは固より不倫な話に相違ないが、島の人生の最初を考へて見れば、是も亦漂着以外の機會は有り得なかつた。鼠や渡り鳥や魚の群などは、地圖を見たことも無く、地理の教育は全く受けないにも拘らず、結果だけから見れば、たしかに移住をして居る。人もそれと同樣に、やはり自分の羽で飛び、自分の鰭又は脚で水を掻いて、行きたい方角に進み、こいつは行けないと思へば、ともかくも引返し又は轉囘しようとする。是こそは計畫であり希望であつて、單なる盲動では無かつたと言へるかも知れぬが、その程度の心構へならば、ココ(18)椰子が潮に落る場合ならずとも、花の粉の蝶蝉の翼に乘つて空を行くなども、亦其例に算へなければなるまい。

　但し花粉や椰子の實の間にはまだ認められないが、少し大きな生物の群には、それ／”＼のモーゼが居たやうである。彼等の感覺は鋭どく、判斷は早く、又それを決行する勇氣をも具へて居た故に、是と行動を共にして居れば、百ある危險を二十三十に減少することは出來たらうが、行く手に不可知がなほ横たはる限り、萬全とは言ふことは出來なかつた。古來大陸の堅い土の上に於て幾度か行はれた民族の遷移でも、さては近い頃の多くの軍事行動でも、勝つて歡ぶ者の聲のみが高く響き、所謂萬骨の枯るるものが物言はなかつたのである。まして海上の危險は更に痛烈で、一人の落伍者逃竄者をも許さなかつたことは、今更改めて之を體驗して見るにも及ばなかつたのであるが、さういふ中にすらもなほこの日本の島々の如く、最初僅かな人の數を以て、この靜かなる緑の島を獨占し、無論幾多の辛苦經營の後とは言ひながら、終には山々の一滴の水、又は海の底の一片の藻の葉まで、悉く子孫の用に供せしめ得たといふことは、誠にたぐひも無い人類成功の例であつた。後代に之を顧みて神々の隱れたる意圖、神のよざしと解しなかつたら、寧ろ不自然であつたらう。たとへ數々の物語は事實のまゝで無からうとも、感謝のあまりには斯くも解し、又さながらに之を信ずることも出來たのであつた。イスラエルの神などは始めに存し、此土此民を選んで結び合せたのであつたが、國が荒れ人がすでに散亂したので、勢ひ解釋を改めなければすまなかつた。我々の國土はやゝ荒れたりと雖、幸ひにして今も血を承けた者が住んで居る。乃ち再び國の成立に就いて、まともに考へて見るべき時期ではないかと思ふ。

　

　　　　　　　　　　一二

　

　後期佛教の西方淨土とは對立して、對岸大陸には夙くから、東方を憧憬する民間信仰が普及して居た。いはゆる扶桑傳説は即ち是で、多分は太陽の海を離るゝ光景の美しさ貴とさから、導かれたものの如く私たちは推測して居る。(19)秦の徐福が童男女三百人をつれて、仙藥を求めて東方の島に渡つたといふことは世に知られ、我邦でも熊野の新宮がその居住地であつたとか、或は八丈島の人の始めが彼等では無かつたらうかとか、いふ類の雜説が色々と發生して居るけれども、それは何れもあちらの記録を讀んでから後に、考へ出したことだからちつとも當てにならない。ともかくも本國に於ては永遠に行方知れずであり、この遠征によつて彼我の交通が、開けたことにはなつて居ないのである。

　歐陽修の日本刀の歌は、日本にも夙く傳はつて居て、

　　　徐福往くとき書未だ燬けず

　　　逸史百篇今なほ存す　云々

といふ句などは、私たちもまだ記憶するが、こちらの歴史に引比べて見ると、王仁の千字文などよりは是は又ずつと前のことで、明かに詩人の空想であつたことがすぐに判る。太平の天子が人の世の歡樂に飽き滿ちて、そろ／＼と不老不死の術を戀ひ焦れ、終に道士の言に欺かれて無益の探求を企つるに至つたなどは、言はゞ支那古代の小説の一つの型であつて、たま／＼其中の特に美しく、且つ奇拔にして人心に投じたものが、永く記傳せられて世に殘つたに過ぎぬことは、今日はもう疑ふ人もあるまい。たゞさういふ樣々の趣向の取合せの中に於て、今の言葉でいふならば自然主義、即ち時代の人々が樂しみ聽いて、さも有りなんと思ひ、又全く無かつたことゝも言はれぬと、心に刻み付けて居たものを拾ひ上げて見るならば、或はさういふ中から逆に、人類の現實の移動を支配した、古代の社會力とも名づくべきものが、少しづゝは窺はれて來るのではないかと思ふのみである。

　たとへば東方の、旭日の昇つて來る方角に、目に見えぬ蓬莱又は常世といふ仙郷の有ると思ふ考へ方は、この大和島根を始めとして、遠くは西南の列島から、少なくとも臺灣の蕃族の一部までに、今日も尚分布して居る。槎《いかだ》に乘つて東の海に遊ばんとか、又は東海を踏んで死すあらんのみとか、半ば無意識にも之を口にする人が多かつたのは、必ずしも東だけに海をもつた大陸の、經驗とも言はれぬやうに思ふ。いはゆる徐福傳説の傳播と成長とには、少なくと(20)も底に目に見えぬ力があつて、暗々裡に日本諸島の開發に、寄與して居たことは考へられる。

　それからなほ一つ、是まで注意した人は無いやうだけれども、徐福が數百人の男女の未婚者を引連れて、船出をしたといふことには意味があつたと思ふ。もしも仙藥を採つて直ぐに還つて來る航海だつたら、そんな手足纏ひを同船する必要は少しも無く、同時に他意あることを疑はれもしたであらう。それを堂々とあの大一行を以て出征したといふのは、是も後世の開發團のやうに、行つて其土地に根を張らうといふ本式の移民事業か、少なくともさういふふれこみを以て、親々を承知させたものと、世間では解して居たのであらう。三千年に一度實を結ぶ桃といふ話もある。仙藥は決して夢の山のダイヤモンドのやうに、熊手で掻き集めて背負つて來られるもので無く、やはり育てゝ收穫して調製し加工して、後から／＼と獻上して來るものと豫定せられ、昔の人は氣が永いからそれを際限も無く待つて居たのかと思ふ。

　

　　　　　　　　　　一三

　

　地理の知識の少しでも確實でなかつた時代には、人の移動には大か小か、必ず漂着の分子を伴なうて居たことは、陸上の道とても變りは無いが、さういふ中でも海には豫想せられる危險が色々とあつた。岸に立ちもしくは些しばかり沖に出て、直ちに望み得る隣の島でも無い限り、人が目標も無しに渡航を計畫したといふことは、有り得ない話である。日本人の起原を説いて見ようとせられる學者がたが、今日まだ些しでも此點を考へようとせられぬのは、第一に私には不審である。昔は島毎に人が自然に發生し、もしくは製作せられたといふことも、たやすく承認したのだから問題は無い。次には神の啓示を以て、我々の經驗よりも更に遙かに有力なるものと信じて、之に基づいて遠い以前の記録無き社會を解釋し、始組は空を踏み海波を飛び越えて、或は高山の嶺に降り來つたとしても、それには時代としての十分な理由があるのだから、些しでも不審な點は無い。ところが一方に現代の所謂常識に依つて、そんな事が(21)有るものかと否認しつゝ、そんならどうして人が住み始めたのかを、合點が行くやうに説明して見ようとしなかつたのは、何だかお互ひの怠慢であつたやうで氣が咎める。

　その罪滅ぼしの意味もあつて、けふは一つの推定説を出して見る。次のより確かなる一説の出現を待つばかりである。同じく漂流漂着といふ中でも、結果のあつたものと空しいものとがあつて、勿論上古には第二の方が、悲しいほども多かつたにちがひない。活きて自分たちは爰に居ると、故郷に知らせることが出來なかつた人々も、程無く死に絶えたことであらう。海の冒險には妻娘を伴なつて行かぬのが常だからである。さうなると結局は一旦家に還つて來て、いろ／＼支度を整へ居住の企畫を立てゝ、再び渡つて行くことになるので、是は或程度の地理知識を具へ、明かな目標を見定めての航海だから、漂流で無いことは言ふまでも無く、いづれ危險も艱難も伴なはずにはすまなかつたらうが、ともかくも距離はさう遠くも無く、且つ現在までの生活境遇と比較して、顯著なる改良が期待せられる場合には、稀には昔の人たちでも、斯ういふ移住を決行することがあつたらうと思ふ。秦の徐福の童男童女などは、どこ迄も譚奇の物語としか私には思はれぬが、斯うした空想のベースとなつたものは、必ずしも蓬莱扶桑の神仙信仰だけで無く、別に海にいたつく貧苦の民の、年久しい言ひ傳への沈澱したものがあつた爲に、特に一般の印象を強め、記憶を容易にしたものかとも推測せられる。

　

　　　　　　　　　　一四

　

　そこで最初に先づ考へて見なければならぬのは、舟といふものの機能の幾つかの段階であるが、是は既に松本信廣氏等が、最も愼重なる比較調査を進めて居られるのだから、諸君は安んじて其結果を待たれてよい。たゞ極めて少數のそれを待ち切れぬ者の爲に、大づかみな見越しを試みるならば、舟はもと内地の小さな止水の上で、發明せられたものであつたとしても、是が大陸の沿海地方にまで、移し用ゐられるやうになるのは容易であり又自然である。たゞ(22)あの茫洋たる青海原に突進み、殊に一點の目標も無い水平線を越えて行かうとするには、ちやうど最近代の航空も同じやうに長期の經驗と準備と、又失敗とを重ねずばならなかつたのは當然であらう。帆といふものゝ考案も、早く始まつて居たことは疑はれないが、その構造と操作の方法が、完備したのは近世の事であつた。四面海に圍まれた日本のやうな國ですらも、まだ老翁の記憶の境まで、其利用は單純を極めて居り、前代文獻の書き傳へた限りでは、舟はたゞ磯づたひに漕ぎめぐり、たま／＼二つの海角の間を直航するときだけは、マギルと稱して帆を用ゐたが、是は素より其目の風次第であつた。大洋の知識の少しづゝ擴大して來たのは、今も續いて居る釣舟が主たる機會だつたかと思ふ。萬葉集の浦島子の歌にも有るやうに、海境《うなさか》を過ぎて漕ぎ行くといふ作業が普通であつて、是には帆を用意せぬ小舟も多かつたから、次第に大膽に遠く出る者があつたとはいふものの、いつでも地方《ぢかた》にアテ即ち目標を見定めて居て、よほど確かな船頭をもたぬ限り、山ナシといふ水域までは出ないやうにして居た。しかも各人の努力勇氣の加はるにつれて、次第に隣の陸地の存在を知る場合が多くなり、稀には少時間の空漠を耐へ忍んで、目に見えぬ島々を心ざした者が、意外な幸運を見つけて歸つて來て其體驗を談るといふやうなことが、年と共に段々と積み重ねられたことも考へられる。弘い意味に於ては是も發見であり、地理學の芽生えであつた。

　私たちの仲間でないと、まだ今日容易に認められまいと思ふことは、學問の中心は必ずしも京華文雅の士の、間にのみは存在しなかつたといふことである。極端な例を一つ擧げるならば、海部は日本人よりは多分遲く渡來して、ひどい片隅の文字無き生活を續けて居た人たちだけれども、海の知識に於ては誰よりも豐なるものを持ち、しかも文字が無いばかりに、是をまだ一般には傳へて居ない。絲滿人が九州の荒磯に出没し始めると、今まで記述せられなかつた色々の多彩の魚が市場に現はれて、内外の魚學者を喫驚させたといふ話も聽いて居る。絲滿は固より海部では無く、世の常の沖繩人の一群であらうが、既に部曲を分ち傳承の方式を異にすると、近づいて是に海上の道を學ばうとする者が無いのである。獨り絲滿の海底生物學のみと言はず、曾ては沖繩文化の中樞とも認められたトキ取り・エカ取り(23)の知識なども、人こそ知らね年久しい自然觀察と、その丹念な綜合とが基礎となつて、農耕漁撈の生産面は言ふに及ばず、神祭や生死の儀式にも一貫して、力強い指導原理を打立てゝ居たらしく、單なる方術の類で無かつたことは、僅かに殘つた遺跡からも窺はれるのだが、惜しいかな文字の記傳に乏しく、外部に立つ者にはもう利用することが出來ない。海を環つて居る潮流のこま／”＼とした枝分れ、常吹く風の季節毎の移動など、やがては綿密な學者の調査が、一々の地區に就いて説明してくれる日が來るのだらうけれども、今は何分にもまだ其便宜が無く、たとへば支那南海を黒潮に乘つてといふ類の大膽な一説が、誰にも笑はれずに闊歩する時代なのだから、當分はやはり從來の切れ／”＼の經驗の跡を繋いで行くの他は無いのである。

　

　　　　　　　　　　一五

　

　勿論私は椰子の實の漂着地の一つを以て、原始日本人の上陸點と見ようとするのではない。しかし少なくとも日本の海岸線の數千里の延長の中で、特に殊邦の物の流れ寄り易い區域が限られ、從つて久しく世に知られずに過ぎたといふ點は參考になり、同時に又簡單なる學校地圖によつて、こゝが近いから此邊から渡つて來たらうなどと、丸で飛石傳ひのやうな早合點をする人を、笑つてもよいことになるのである。

　八重の汐路といふ言葉は、歌や物語にこそ?々用ゐられるが、それが如何なる力をもつかを考へて見た人は、名も無き海上の猛者ばかりであつた。大きな海流の常の方向だけは、文書の學問として夙く我々も學ぶことを得たけれども、それが時あつて著しく流路を變へ、又は屈折し分岐して到る處に影響する實?に至つては、今は必ずしもまだ常識とまではなつて居ない。近年着々と進んで居る海底の調査によつて、新たに心付かれた法則も多い如く、空中と陸地とのさま／”＼の交渉にも、海國人ならば知らずにはすまされぬことが、まだ無限に殘つて居る。殊に日本の周邊地域のやうな、小さな區劃の中に現出する色々の變化、風が季節により、潮が刻限に伴なうて、大よそどの程度に船の(24)歩みを助け妨げ、又は強制して居るかといふことは、永い歳月に亙つてたゞ生死を是に托して居る人たちだけが、命をかけて體驗して居るに過ぎなかつた。勿論これが身の運の岐れ路であつた故に、教へるにも覺えるにも全力を傾け盡し、その執心は或は世の常の學問授受を超越したであらうが、あはれや陸上の人々は、概ね之を顧みなかつた。國の端々の海上知識は、多くは記憶しやすいコトワザの形になつて、今も其土地には散亂して居るのだが、それを蒐集して見ようとする人は稀にも無く、其うちに世は動力利用の時代になつて來て、多數の桑名屋�ｺ藏は老い去つて後を嗣ぐ者なく、湊々の日和山《ひよりやま》は、大抵はもう遊園地に化してしまつた。新古二通りの地理學の空隙にはまり込んで、我等の海上の道は一旦は更に跡付け難くなつたのである。

　もしも漂着を以て最初の交通と見ることが許されるならば、日本人の故郷はさう遠方でなかつたことが先づわかる。人は際限も無く椰子の實のやうに、海上にたゞようては居られないのみならず、幸ひに命活きて、此島住むに足るといふ印象を得たとすれば、一度は引返して必要なる物種をとゝのへ、殊に妻娘を伴なうて、永續の計を立てねばならぬ。さういふ企畫の可能なる場合は限られて居り、從つて又其條件の具はつた海邊を、見つけることもさまで困難ではない。動力航行の時代に生れた者が、最も見落しやすい一事は、昔の船人の心長さ、種播く農夫の秋の稔りを待つよりもなほ久しく、年に一度の往復を普通として居たことである。是が習性となつたと見るのは氣の毒だが、近世の鳥島漂流談などにも、三組の難船者が協力して島を脱出するのに、其中の最故參は二十年以上も忍耐して、機會を待つて居たといふ例がある。僅かな食物を見つける以外に、何一つ身を勞することも無く、たゞ一心に風と潮合ひとの便宜を觀察して、時節の到來を狙つて居たといふ根氣のよさは、恐らくは東洋の魯敏孫の特性であつて、距離がもつと近く船の修理に堪へるものがもしあつたら、無論それよりももつと早く、故郷の濱に還ることも不可能ではなかつたらう。

　

(25)　　　　　　　　　　一六

　

　そこで愈々私の問題の中心、どうして其樣な危險と不安との多かつた一つの島に、もう一度辛苦して家族朋友を誘うてまで、渡つて來ることになつたのかといふことになるのだが、私は是を最も簡單に、たゞ寶貝の魅力の爲と、一言で解説し得るやうに思つて居る。秦の始皇の世に、銅を通貨に鑄るやうになつたまでは、中國の至寶は寶貝であり、其中でも二種のシプレア・モネタと稱する黄に光る子安貝は、一切の利慾願望の中心であつた。今でもこの貝の産地は限られて居るが、極東の方面に至つては、我々の同胞種族が居住する群島周邊の珊瑚礁上より外には、近いあたりには、之を産する處は知られて居ない。殊に大陸の沿海の如きは、北は朝鮮の半島から馬來印度の果まで、稀にもこの貝の捕れるといふ例を聽かず、永い年代に亙つてすべて之を遠方の島に求めて居た。單なる暖流の影響といふ以上に、淺い岩瀬でないと生息しなかつた爲かと思はれる。今でも南海の産といふ言葉を、心輕く使つてゐる人も有るやうだが、古くは嶺南の陸路は通じなかつたのみで無く、海まで降りて行けば必ず手に入ると、いふものでは決してなかつたのである。金銀寶石と光輝を競ふことが、かの心理の根源ではあつたらうけれども、同時に又是を手に入れる機會の乏しさが、今日の眼からは考へられぬほどの、異常なる貴重視を促したのかと思はれる。

　中國古代史學の展開につれて、此點は今後益々確實になつて行くことが期待し得られる。殷の王朝が、中原に進出した背後の勢力は東方に在つた。所謂東夷の海の營みの中で、今でも既にほゞ明かになつて居るのは、寶貝の供給であつた。それが遙かなる西方の指導に呼應したか、はた又獨立して一つの流行の端緒を作つたかは、まだはつきりとは決し難いにしても、ともかくも或代の大きな偶然によつて、窄い入口の開いたことだけは、先づ疑ひが無い。たゞそれが東南の或一つの島群、最も大陸に近い、殊に風候の最も便宜ある、八重の汐路の一筋であつたことは、支那の文籍の問題で無いだけに心を留める者が少なく、こちらは又南海は何處の渚にも、あの美しい寶貝がころ／＼と轉が(26)つて居るものゝやうに、思つて居る人だらけなのだから、つひぞ話題には上らなかつたのである。實際の分布は黒潮の及ぶところ、太平洋岸は茨城福島の境まで、日本海側は富山縣を限りと言はれて居るが、それも種類が少なく美しいものは無く、殊にうつせ貝のあざれて濱に寄るものばかりで、活きて海中に居るのを手に入れることは容易でない。私は三十二年前の沖繩旅行に、故尚順男爵の目ざましい大蒐集を見せてもらつて、この近海が寶貝のあらゆる種類の産地であることを知り、始めてこの問題の大きさに心付き、近頃は又國頭郡北端の村々に於けるこの貝類の食用と捕獲法、それから今まで全く知らずに居たこの種の貝の生態とを、同地出身の崎濱信行君から教へられた外に、更に十何年か前に、西南諸島を巡歴して來た大森義憲氏の旅行記によつて、特に宮古島が注意すべき一つの中心地なることを感じ始めたのである。

　

　　　　　　　　　　一七

　

　いはゆる琉球三十六島の中でも、宮古は異常に歴史の進化の歩みが激しく、しかも天災地變の壓迫が強烈であつて、人は惱み且つ?々入替り、從つて言語文物の錯雜が著しいことは、夙く私も氣が付いて、「島の人生」の中にも一端を説いて見たことがあつたが、此島の周邊に廣い地域にわたつた干瀬《ひせ》があつて、そこが貝類の最も豐富なる産地であり、今も近隣の島々に供給して居ることは、今度大森君の紀行によつて始めて學び知つた。この島の記録は無論中世以後に偏して居るが、遠い昔の言ひ傳へには、幽かながら幾つかの奇拔なものが殘つて居り、殊にアヤゴといふ多くの語りものが、女性の傳誦に保存せられて居て、今もまだ採訪を可能にして居る。一つ一つの内容は如何にも茫漠としては居るが、之を排列し綜合すると共に、近く現實に記憶せられる戰前戰後に於ける島人等の海上の活躍を思ひ合せ、更に將來明かになつて來る潮流と季節風との法則に照らし見ることが出來たならば、やゝ大膽に過ぎたる今の私の假定、即ち始めて大陸から人の漂着したのは、この島では無かつたらうかといふ一説なども、少なくとも一應の檢討に(27)値ひするものだといふまでは認められ、更に進んでは是よりも一層有力なる一地點を、捜し出す端緒となるのかも知れない。

　たとへば此島には、近世に入つてからまで、唐人漂着の事實が折々あつた。それが大きな船の多人數で無く、又暫らく島人の中に住んで居て、やがて還つて往つたといふ話も一二では無かつたやうに思ふ。島の住民自らが漁に出で、又は公務の爲に海を渡つて居て、漂流して久しい後に戻つて來たといふ話は、八重山の方にもよく聽くことで、殆と常の生活の一部と言つてもよかつたのだが、さういふ中でも此島の事件はやゝ規模が大きく、又效果が著しかつた。近くは明治初年の臺灣問題なども、原因は宮古人の殺戮に始まり、古くは又大陸に記録を止めた最初の交通は、宮古の船であつたと藤田劔峯氏は述べて居られる。亞細亞東南の諸國との貿易には、明かに歴代寶案時代といふべきものがあつた。そこから蘇木胡椒の類を購ひ取つて、之を中朝に貢獻したといふ代償物は、いはゆる海肥即ち寶貝以外にはあつたとも思はれぬから、それを運んだのも亦此島の船であつたらう。ともかくもこの南方の島々と、大陸との間の往來には、文字の記録よりも遙かに古い痕跡があり、是に參加した者に宮古の船があり、又寶貝があつたといふまでは、ほゞ知られて居る。

　

　　　　　　　　　　一八

　

　今でも宮古島周邊の貝類採取地として年々多數の小舟《さばに》の集まつて居たのは、北には沖繩本島への航路に接して、八重干瀬《やへびし》といふ廣大な岩礁地域があり、他の側面では屬島伊良部島の佐良濱の磯まはりが著名であつた。近世幾度かの大きな災害にあつて、既に信仰傳承の大部分を失つて居るやうだが、この近くにはヌーシ山、又は乘瀬御嶽《のーせうたき》と稱する靈地があつて、海上守護の女神を祀つて居る。神がこの世に在りし日の名は玉めがといひ、老いたる夫婦の中の一人子であつた。或日水を汲みに出たまゝで姿を隱し、後にたゞ一度親に現はれて、此森の神になつて居ることを告げ、(28)村人海上の難を救ふべしと約束した。さうして唐神《たうがみ》といふ神を、相殿として共に祭られて居る。其祭の名はカムシュウリ、神主下りといふ漢字を當てた文書もあるが、本來はこの季節の名でもあつた。或はカムズといひ、字には神魂と書く例もあつて、遠い出雲國の同名の舊社を聯想せしめるが、ともかくも、此祭のカムズが下りると雨が降り、カムズがあがると西風が吹き始めて晴天がつゞき、支那に渡つて居た船が還つて來るといひ、又は難船をした者が遙かにこの御嶽に祈請して、恙無く島に戻つた話もある。

　祭の奉仕者はすべて婦人であり、何れも關係のある家から出ることになつて居た。カムシュバギといふ一種の蔓ある植物を以て頭に纏ひ、御嶽の中に在るカムシュ屋に入つて、祝女のつかさは神と話をする。その四日の間は男子は之を見ることを戒められて居たといふ。或は※［女＋馬］祖の信仰が後に入つて來て、影響を與へて居るかとも想像せられぬことは無いが、ともかくも一年一度の祭の日を境に、定まつた方角の風が吹き出すといふことは、この島限りでの經驗であり、それが海上の旅に利用せられるのは、新たに採用した慣行とは言ふことが出來ない。一國共通の學問にこそはまだ認められて居ないが、船を生活の場とした島人たちの爲には、この局面に限られた海上の道は、ちやうど奧山の猪鹿の道路も同じに、夙く土地人の精確なる知識にはなつて居たのである。

　

　　　　　　　　　　一九

　

　千に一つと言つてよい幸福に惠まれて、無人の孤島に流れ着き、そこに食物を求めようとして測らずも稀なる世の寶が、さゞれ小石の如く散亂して居るのを見付けたといふなどは、一つの大きな民族の起原として、あまりにもたより無い夢か傳奇のやうであらうが、正直なところけふといふ日まで、是よりももつと有り得べき解説を、まだ私などは聽いてゐないのである。海のほとりに住んで居れば、稀には晴れた日に折々は思ひを白雲の彼方に馳せ眉引く姿を望むことはあらうとも、何の望みがあつて波を越え水平線を越えて、そこへ渡つて行かうといふ氣にならうか。假に(29)測らざる理由によつて、一度は其岸に觸れたことがあつたにしても、再び家族をつれ、物種器什を船に積んで、來て住まうといふ決心をするだけの引力は何に見出し得たらうか。それよりも占ひや夢の告げ、鳥や獣の導きによつて、未來の安住の地を見立てたと傳へる方が、まだよつぽど考へやすい。察するところ以前も今の如く、人が多くて生れ故郷に住み剰り、乃至は一方に強い壓迫があつて、じつと落ちついては居られぬ場合が多く、移動は即ち人間の常の性となつた如く考へてゐる人たちが、やゝ氣輕に色々の動機を承認したのでもあらうが、互ひに事態の想像しやすい陸續きの土地ですらも、元は各自の疆域を守つて、さう無造作には出て行かなかつた。まして海上の不知不案内を犯して、危險と闘ふやうな必要などは有り得ない筈であつた。高千穗?觸峯の舊傳を否定して、人類遷移の法則を合理化しようとすれば、どうしても斯うした中世式な考へ方を見習はなければならない。御蔭で日本の國の始めは、存外に新らしいものになつてしまつた。島國成立の年久しいといふことは、言はゞ我々の艱苦の永く續いたことを意味し、必ずしもそれを誇りとして立證すべきものでもあるまいが、假に私などの推定せんとする如く、いはゆる東夷の活躍が次第に影響を中原の文化に及ぼし、寶貝の重視熱望がほゞ頂點に達せんとした時代が、ちやうど極東列島の何れかの一つに、始祖日本人の小さな群が足を印した頃らしいときまると、それから後の約二千年、即ち安全なる年代記に繋がるまでの大きな空間は、先づそつくりとこの九學會の領分に入つて來て、外ではたゞ研究の成果を期待することになるであらう。皆さんの責任は無上に重くはなるが、この想像はかなり爽快なものだと思ふ。

　

　　　　　　　　　　二〇

　

　私は年をとり氣力がすでに衰へて、さう多量の仕事を分擔することが許されぬが、稻作の問題だけは、是からもなほ些しづゝ考へて行き、必要とならば横合ひから口を挾んで見ようとして居る。現在の通説かと思はれるのは、ちやうど繩文期と彌生式期の境目の頃に、此國へは籾種が入つて來て、それから今のやゝうな米作國に、追々と進展したと(30)いふことらしいが、それが先づ自分には承服し難い。あらゆる穀作にも通じて言へることだが、稻には殊に年久しい觀察に養はれた、口傳とも加減とも名づくべき技藝が備はつて居た。籾種ばかりを只ひよいと手渡しされたところで、第一に食べて見ることすら出來ない。單に栽培者が自ら携へて來たといふ以上に、父祖傳來の經驗が集積調和して、之を教訓の形を以て引繼がれなかつたら、此作物の次々の改良はさておき、外部の色々の障碍にすらも、對抗することが出來なかつたらう。乃ち最初から、少なくとも或程度の技術と共に、或は其以外に米といふものゝ重要性の認識と共に、自ら種實を携へて、渡つて來たのが日本人であつたと、考へずには居られぬ理由である。

　米を數ある食料の一つに、近世始めて追加した國々の習慣と比較して、古來の稻作國の特徴といふべきものは幾つもある。米を主食といふ言葉は輕々しく用ゐられて居るけれども、今も全國を通じて米食率は恐らくは三分二以内、僅か半世紀以前までは、それが五十％を少し越える程度であり、しかも其中には都市と工場地、貴族富民其他の非農民階級の、米しか食はぬ者の多數を包含して居た。主として貧窮の爲、年貢の苛斂だつた爲と、解せられたのにも根據はあるが、今一つの理由は、是が本來は晴れの日の食物であつたことで、年に幾度の節日祭日、もしくは親の日身祝ひ日だけに、飽くまでそれを飲み食ひして、身も心も新たにしようといふ趣旨が、古くからついて廻つて居たことは、決して水田に乏しい地方だけに限らなかつたのである。

　曾て肉類のみによつて生を營んだ時代が、我々の中にもあつたといふことは信じにくい。稻以外の作物や採取物の、飢を醫するに足るものは以前も多く、其中には或は起原の稻よりも古いものが、あるかも知れぬと思ふにも拘らず、注意せずには居られない一つの特徴は、右に申す如く特別に之を重視し、あらゆる民間の信仰行事から、歳時暦法の末に至るまで、專ら稻の栽培收穫を目標として行はれて來たことであつた。米の信仰的用途ともいふべきものが、もし日本一國だけの現象であるならば、なほ自由なる種々の解釋を成立たせるであらうが、是には又二三の重要なる點に於て、四隣の幾つかの稻作國と共通のものが、指示し得られるやうになつて來たのである。昨年創始せられた新嘗(31)研究會の成績が切に期待せられると共に、一方には又稻の品種の精密なる比較檢討によつて、追々に其傳來の路筋を明かにし、延いては是を携へて東海の島々に進出した一つの民族の、故郷はどこであつたかゞ判つて來る望みも、丸々無いとまでは言はれぬのである。

　

　　　　　　　　　　二一

　

　人が大陸から稻の種を携へて、この列島に渡つて來たのも、たつた一度の偶然では無かつたのかもしれぬが、結果は一つに歸するやうだから、私は考へやすい方を考へて見る。沖繩諸島の有識者たちは、曾ての金澤博士のイニシ北方説に心服して、どうしても北から南の方へ渡つて行つたものと考へようとするが、それを何の爲に何人が計畫したかと尋ねて見ると、神の指定とでも答へるより他は無いやうである。結局は私の謂ふ海上の道、潮がどのやうに岐れ走り、風がどの方角へ強く吹くかを、もつと確實に突き留めてからで無いと斷定し難いが、稻を最初からの大切な携帶品と見る限りに於ては、南から北へ、小さな低い平たい島から、大きな高い島の方へ進み近よつたといふ方が少しは考へやすい。ともかくも四百近くもある日本の島々が、一度に人を住ませたとは誰も思つて居らず、其うちの特に大きな大切な島へといふのも、地圖が出來てから後の話である。

　寶貝の需要がさまで痛切ならず、人が其爲に身命を賭し、怒濤を乘切るまでの大きな刺戟が無くなつたのは、徐福のローマンスよりも更に前のことであらう。人が其島を我島と呼んで、安んじて住むやうになれば、やがては生産の地が足りなくなつて、行きやすい隣の島を物色することは、是は水平線外の冒險とは話がちがふ。一番大きな促迫は、稻を作る適地の缺乏であつたかと思ふ。漁獲は必ずしも定住を必要としなかつたからである。珊瑚礁の隆起で出來たやうな平島では、稻を生育せしめるやうな淺水の地はさう多くは無かつた。南方の諸島では、通例小さな水面をコモリと呼んで居る。舊日本の方にもコモリヌといふ語があり、現在もなほ二三の土地に、方言として殘つて居る。南島(32)のコモリには入江の奧などにあつて、海の水の通ふものが多いが、是も少しの土功を加へて外側を斷ち切り、降雨を待つて水を入替へて、小規模なる浦田湊田を設けることは、こちらでも例の多いことである。但し斯ういふのは多くは灌漑の設備が無く、從つて旱の年には却つて先づ苦しまなければならぬので、寧ろ低濕な沼地を選び、よそでは旱魃で困るやうな年を、待つて居るやうな傾きが生じた。ところが南方の暖地帶では、降雨が殆と唯一の灌漑法であつて、たまたま雨量の乏しい年に遭ふと苦勞をし、百方を講じて蒸發と吸收とを防止する。日本の稻作作業の中に於て、畦塗り底堅めに格別の注意を拂ふのは、事によると以前もつと南方の低地に在つて、降雨を唯一つの力にして居た餘習かも知れない。さう思つて見ると雨乞の行事なども、日本ではあまりにも重要視せられてゐる。

　

　　　　　　　　　　二二

　

　日本の稻作灌漑樣式は、その發達の跡に鑑みて、明かに四段階に分れて居り、しかも現在なほこの四つの型が併び存して居る。簡單に之を解説すれば（一）は地方《ぢかた》の書に天水場とあるもの、即ち小さな低い島々などの、雨より以外に水を與へる方法の無い、言はゞ天然の力に任せるものである。（二）にはいはゆる清水掛り、即ち筑波嶺の雫の田居などゝ稱して、山から絞り出す僅かな流れを利用するもので、源頭の小山田といふものから始まつて、ごく僅かな傾斜を以て廣々と裾を引くもの、古い土着の名殘を留めた昔なつかしい好風景の地であるが、過度の擴張によつて次第に其水の不足を感じやすく、殊に林相の零落が目に立つやうになると、雨乞の鉦太鼓が一段と耳に響く土地柄でもあつた。日本は舊國だけに、斯うした田面がもとは到る處に多かつたのであるが、久しい年代を重ねて、それが追々と（三）の池掛りといふものになつた。日本紀の崇神垂仁の御朝の記事などに、韓人に命じて某々の池を築かしめられたことが見える。是を稲作の振興期のやうに解した人もあるか知らぬが、實は今までの用水が不足した際に、其分配を調攝し、且つ能ふべくは新たな田を、開き添へようとしたものであつて、其點にかけては（四）の堰掛りと同じ(33)に、既に一種の外資借入れのやうなものであつた。堰掛りにも大小幾つもの等差がある。近年の新田開發に伴なふ大規模な資本事業の他に、僅かな隣人たちの協力に成つたのもあるが、是とても堰き止めて引いて來るほどの流れが無ければ、小さな島々の住民には先づ企てられないことであつた。

　以上四つの水利事業は、誰が最も利得するかは場合次第だとしても、技術上にはともかくも次々の進歩であつた。從つて稲の栽培の新たなる機會を求めて、次の島に移つて行かうとする者が、山が秀で清水の更に豐かなる大きな島を目ざすのは自然だが、既に第二第三の灌漑方式の可能なることを知つて居りながら、わざ／＼（一）の道しか無い小島へ渡つて、農を營まうと企てることは有り得ないであらう。最初に彼等はたつた一度だけ、至つて制限の多い、雨ばかりを頼らなければならぬ土地に於て、僅かな稻作を續けなければならなかつたが、それは豫期せざる遭遇であり、又偶然の大きな發見があつた爲と解せられる。愈々海邊の民の常道に復して、半農半漁の生計を持續し、又發展させるやうになると、むしろ中間の小さな平島はさしおいて、次々と水豐かに草木の濃く繁つた、地形の雄大なる陸地に、將來の足掛りを、求めようとしたであらうし、栽ゑて稔りを待つほどの忍耐を以て、氣永に風と潮行きとを觀測して行くとすれば、今度は海の上の失敗もよほど少なくすることが出來たことゝ思ふ。

　

　　　　　　　　　　二三

　

　以前は南方の島々には、燒いて掘り窪めて舟にするやうな大木が多く、それを何隻か結び連ねて、泛びやすく又覆り難くする技術も、夙く進んで居たかと思ふ。日數のかゝるといふことを問題とせずに、次々と日和を見定めてドアヒ（渡合）を乘切れば、いつの日にかは北方の大きな島々にも渡り付くことが出來たものと見られる。曾て私は西南の島々に、幾つかの古見又は久米と呼ばれる地域があり、何れも稻作の古く行はれた痕跡らしいと説いて置いたことがある。大八島の舊國の中にも、數多くの久米又は久見の地があり、其中の二三は内陸の山間であるが、他の多くは(34)海から近づき得る低地であつて、今も稲田がよく稔る古い土着の地であつた。舟で浦つたひにさういふ地形を求めてあるく習はしが、久しく續いて居たのではないかどうか。少くとも一度は考へて見る價値がある。今までの文化傳播論者の中には、大きな島の一端に屆いた外來事物は、忽ちにして全土の隅々にも及ぶものゝ如く、當然の連帶責任を押付ける人が稀にはあつた。汽車や電信電話の行渡つた今日でも、さういふ效果は簡單に期せられない。まして山には峠路、川には渡し場が全く無かつたやうな遠い昔に、さういふ交通の期せられた筈が無い。四面を海で圍まれた國の人としては、今はまたあまりにも海の路を無視し過ぎる。やゝ奇矯に失した私の民族起原論が、殆と完膚なく撃破せられるやうな日が來るならば、それこそは我々の學問の新らしい展開である。寧ろさういふ日の一日も早く、到來せんことを私は待ち焦れて居る。

　

(35)　　　　　海神宮考

　

　　　　　　　緒言

　

　再び南島研究の機運の萌しを見る悦びの餘りに、一つの新らしい問題を提出しようといふ氣になつた。それは耳から口へ、口から又耳へといふ經路を通つて、久しく保存せられて來た昔話や傳説の類を整理して、島と島との古くからの關係を考へて見ようとする學問は民族學の領分であるか。たゞしは又一國民俗學等の別な名稱を以て、その圏外に置くべきものであるか。少なくとも民族學協會の諸君は、どちらを正しいとせられるであらうか。是からの判斷を明かにしてもらふ爲に、先づ少しばかり實地の例を竝べて置くことにする。

　この決定が兩者何れに歸着するにしても、我々島に住む者の滿足には變りは無い。たゞどつちつかずにして置かれるのが困るだけである。古い文獻は絶無に近く、遺物は片端から腐り碎け、しかも人間が休みも無く動きまはつて居た洋上の生活に、將來の民族學がもし手を伸べるとすると、最初に行き當る資料は必然に口碑でなければならぬのだが、是は外から來る者には勞苦の業であつて、たつた一つの島にも年數がかゝり、今の速力では恐らくは間に合はない。これに對して一方の所謂フォクロアは、言葉や感覺の障碍が無い爲に、たしかに成績は擧げやすかつたけれども、その代りには活動の領域が限られ、外へは出て行かぬのを作法の如く、今までは考へられて居た。島の文化の變轉が(36)根こそげであつて、古い生活の痕跡の踏み消されやすいことを經驗した者には、今はもう定義や沿革を論ずべき場合では無い。雙方どちらでも便宜の多い側から出て行つて、結局我々が知らずにしまふことを、ちつとでも少なくすればよいのではあるまいか。

　二つの學問の境目は、特に日本では紛れやすい理由があつた。それを自分なども可なり氣にかけて居るが、或はこれもまた兩者が共に大いに成育して、やがては一つの名を以て、何の誤解も無く呼び得る時代が、到來するであらう前兆かもしれない。少なくとも太平洋上の諸島には、この未來の融合に向つて、期待を繋げずに居られぬものが多く、更に今囘の南島研究復興に至つては、新たなる一つの機縁ではないかとさへ想像せられる。何か少しのはかない思ひ付きでも、提出せずに居られぬのもその爲である。

　

　　　　　　　一　昔話の島嶼型

　

　別世界訪問、もしくは仙郷淹留譚などゝ呼ばるゝ民間説話に、島は島だけの特殊な型が有るといふことは、すでに注意した人もあらうし、又想像も出來ることである。沖繩を中心とした南の群島と、舊日本の島々との間に、それがどの程度一致し、又特にどういふ點がはつきりと異なつて居るか。次には其異同が、果して現在の學問を以て説明し得るものであるか。もしくは是から尚大いに考へて見なければならぬものであるか否か。斯ういふことを主題として、今自分の心づいて居ることをざつと述べて置きたい。

　民間説話の採集は、今から十數年前、些しく緒に就いたかと思つた際に、ちやうど我々の國では最惡の障碍に逢着した。沖繩本島でも、昔話の豐富であつた時代が、確かにあるといふ痕跡のみは明かになつて、まだ記録の整はぬうちに、好い傳承者が急に居なくなつた。たゞ幸ひなことには故岩倉市郎君の努力によつて、彼の故郷の喜界島と、沖(37)永艮部島との昔話集が世に殘り、奄美大島の村々の昔話も、一部分だけは保存することが出來て、以南の島々に向つての有效な飛石の役を果して居る。一方には日本各地の蒐集も同じ人たちの協同の結果として或程度の比較を可能ならしめた。もちろん是から後の資料の累積は多くを望み難いであらうが、今ある採訪記録の整頓だけからでも、なほ前代の學徒のやうな空漠たる假定説を闘はさずにすむことになつたのは、學問の爲に感謝してよいことだと思ふ。南の島々の過去文化は是を根據として、どこまで尋ね近よることが出來るであらうか。少なくとも我々は之を試みる義務を負うて居る。

　

　　　　　　　二　類似と差異

　

　今までの比較研究が、先づ二つの島群の一致と類似に、心を引かれたのは自然であつた。實際に個々の昔話を聽いて居ると、大抵は半分を聽いて殘りの部分が言ひ當てられ、兩處偶然に同じものが、それぞれに生れて出たとは思はれぬ話ばかり多い。例を擧げないと説明もしにくいが、一般に借りた教はつた覺えて來たと、いふ風な推測だけで島の人たちは滿足して居た。しかも比較の區域が段々に伸びて行くにつれて、第一にはさういふ運搬の機會が愈々想像しにくゝなり、第二には説話の年齡、或一つの形態の持續する期間が、意外に長かつたことが注意せられ、更に第三には僅かばかりの相異點が、之を存立せしめた社會相の理解に、非常に重要なものだつたことが心づかれるのである。自分の説いて見たいのは、主としてこの最後の一點に在るのだが、三者は關聯する故に、やはり簡略に説話の輪廓を敍述する必要がある。

　日本では浦島太郎といふのが、この種仙郷説話の通り名のやうになつて居るが、是は或一地に保存せられて居た歌物語で、筋も單純に過ぎ結果も淋しく、時の經過の速さといふ一點を除けば、昔話としての倶通性をもつて居ない。(38)國内各地の幾つかの類例には同じ名を以て呼ばれて居るものがあるが、話の構成は可なりちがつて居る。或は「龍宮入り」といふ總稱を用ゐてはどうかと思つたこともあつた。是も俵藤太の龍宮入りといふやうな、傳説に近い物語に始まつた言葉だが、少なくとも現在の多くの説話では、人が往來したといふ海底の仙郷は龍宮と呼ばれて居る。この名稱の民間に普及し、從つて誰もが之に由つて、或種の昔話を記憶するやうになつた始めは、文獻の側から明かにし得る道がある。起原は多分佛法の經文に在り、讀經師の口を經て、次第に通俗化して來たものと私などは思つて居る。今でも氣がつくのは、日本の昔話の龍宮には龍は居ない。さうして?々乙姫樣といふ美しい一人娘が居る。是から考へられるのは、新たに國外から運び入れたのは、主として語音の珍らしい其仙郷の名だけであつて、説話の内容は是が爲に大きな變化を受けて居なかつたといふことで、このたゞ一つの側面からでも、島毎の昔話の發生の時の、古さ新らしさが測定し得られると思ふ。

　

　　　　　　　三　龍宮と常世國

　

　然らばその龍宮といふ新語の採擇以前、どういふ名を以て海中の世界を呼んで居たらうか。この間題に答へるのはさう困難でない。雄略天皇紀の二十二年に、浦島子の記事が出て居るのは一つの不審だが、ともかくも是が最古の文獻であつて、こゝには蓬莱山といふ漢字を使ひ、其古訓はトコヨノクニであつた。釋日本紀の述義に引用した三つの書、丹後國風土記には蓬山とあり、又海中博大之島とあり、本朝神仙傳には蓬莱とあり、たゞ天書の第八といふものに、海龍宮とあるばかりであつた。蓬莱が龍宮以上の外來語なることは疑ひを容れぬが、古訓のトコヨノクニにも文化の香があつて、なほ最初からの民間の通語とは考へられぬのである。ところが萬葉集卷九の有名な長歌を見ると、是にも反歌に「とこ世べに住むべきものを云々」の一首があり、又是と前後して生れたかと思ふ風土記の物語の中に(39)も「子らに戀ひ朝戸を開き我が居ればとこ世の濱の浪の音きこゆ」といふ、あの感動すべき歌が殘つて居る。少なくとも當時の教養ある士女の間に、説話が斯ういふ名を以て傳承せられてゐたことは確かである。さうかと思ふと他の一方に、萬葉長歌の敍述として「わたつみの神の宮」又は「わたつみの神のをとめ」といふ言葉が用ゐられ、是は何人も直ちに思ひ起すであらう如く、紀記兩書の神代卷に、所謂山幸海幸の物語として、久しく語り繼がれて來た海の國の名であつた。それを耳にすれば合點せぬ者は無かつたかもしれぬが、歌や文章以外の交通には、何かもう少し覺えやすく、口で?々言ひやすい言葉が、一度は出來てゐてやがて消え忘れられたのでは無かつたらうか。どうして龍宮といふ言葉が此樣に弘く行渡つたものか。是は見掛けによらぬ重要な問題であつて、記録に全く省みられなかつた常民の精神史が、此方面からも少しづゝ、判つて來るやうな氣がする。自分などの經驗はまだ至つて淺いけれども、なほ南島研究の今後に向つて、大きな期待を繋ぐべき理由だけは見つけて居る。それをこの一文に於て、出來るだけ簡單に説いて置きたいのである。

　

　　　　　　　四　ニルヤと根屋

　

　寶海峽以南の島々に於ては、我々のいはゆる龍宮を、一般にニルヤ、又はそれと近い語を以て呼んで居た。例へば喜界島ではネインヤ、文字では根屋とも書き、それは龍宮のことだと、知つて居る者も少しはあつた。沖永良部島では、ニラの島といふのがそれであり、ニラの神又はニラの大主といふ名も昔話に出て來る。奄美大島でも龍宮と譯して話す人もあるが、普通には根屋、もしくはネリヤの名を以て同じ昔話を説いて居る。�ｺ之島與論その他の實例はまだ採録せられず、沖繩本島でも昔話として此語を用ゐたものはまだ現はれぬが、其代りには後者には五百年來の神歌の記録がある。おもろ・おもりは歌謠であり、善く知る者同志の感情の共鳴であつて、是からニルヤの解説を導くこ(40)とは難いけれども、少なくとも或時代に、この名が信仰界の重要な題目であつたことは察せられるのみならず、是と關係のある幾何かの事實が、その爲に記憶せられ、又傳説として言ひ繼がれても居た。さういふ中には説話との境目が明らかで無く、さながら眞實として主張せられるものが多いので、其爲に却つて將來の比較研究には十分に利用し得られるのである。

　一つの場合を擧げるならば、袋中上人の琉球神道記に、姿を隱して後三十二年目に、海から戻つて來た若い妻の話を載せて居る。あまりに若く見えるので、其夫までが初めは信じなかつたが、自分はたゞ二三日、野原で遊んで居たばかり、年を取るわけが無いと言つて、色々と閨中のみそかごとまでを語り出したので、もう疑ふことが出來なくなつたとある。よほど有名な古い話だつたと見えて、那覇の港に接した若狹町の、若狹殿といふのが其家であつた。袋中自らも其六代目の子孫を訪ねて見たといふことを記してゐるが、それが又既に三百五十年の昔である。さうしてニルヤの消息は、この傳説の中にはもう殘つて居ない。

　

　　　　　　　五　儀來河内

　

　ところが同じ書には今一つ、失せて七年後に還つて來たといふ、棚晴船頭（タナハルシドウ）の妻の話を掲げ、是は本人がなほ生存し、自分も現實に逢つて見たが、年は六十ばかりだつたと話して居る。還つて來た時には綾錦の衣を着て、其上を海の藻が覆うて居た。脱がせて常の麻衣に着かへさせると、忽ちにして前の衣裳が見えなくなつたとある。同じ話は又遺老説傳の中にもあるが是は別傳であつて、明かに袋中の神道記に依つたものではない。曰く棚原の祝女稲福婆、失せて三年の後に海に漂ひ歸る。頭禿げ髪無く、貝螺體に附き其氣未だ絶えず、前年たま／＼海底に遊び龍宮に進み、食を賜はるに鹽螺類を以てすと、言ひ畢つて吐くもの色黄なり。是に於て人始めて儀來婆と稱す。(41)子孫龍宮の事を問へども婆諱みて話さず、とある。

　この儀來婆の儀來はギライカナイ、即ちおもろ草紙のニライカナイの轉訛であつた。それが日本人の謂ふ龍宮のことだといふことは、遺老説傳の筆者は勿論、それより百數十年前の袋中上人にもわかつて居たのだが、その知識は遂に民間には普及しなかつたのである。南の島々の語音は轉訛の歩みが、こちらよりも更に速かつたやうに思はれる。おもろは幸ひにして古い形を固守して居てくれたが、其中にさへも稀にはミルヤカナヤがある。離島の中でも、久米島の神歌にはヂルヤカナヤ、もしくはヂロヤカナヤがあり、伊平屋島にはナルクミテルクミがあり、奄美大島の春祭に迎へ送らるゝナルコ神テルコ神なども、まだ確證は無いが、同じ系統の語かと想像せられる。儀來河内といふやうな無意味な漢字に接したのは新らしいだらうが、袋中の神道記にも其端緒は見え、それが又椿説弓張月を透して、夙く私たちの間にも知られて居た。神歌が古來の神がかりの方式を遵奉して、嚴格なる對句駢頭の表現を守つて居なかつたら、今頃は或はニルヤと儀來とは、全く別の世界といふやうな解説が生れて居たかもしれない。これほどにも近世以來のニルヤの觀念は激變し、もしくは衰頽して居たのであつた。是を少なくとも公私二面、ほゞ同一の信仰に活きて居た時代の姿にまで復原して見ない限りは廣い比較は出來ない。それにはやはり遠い小さい島々の記録以外の資料に對して、今まで以上の注意を拂ふ必要が有るわけである。

　

　　　　　　　六　龍宮譚の分類

　

　言語の研究はたしかに一つの手掛りであるけれども、今日はすでに心の裏付けが稀薄になつて居て、是ばかりではどんなちがつた假定説でも成立ち得る。たとへばニライカナイといふ言葉と、ニルヤカナヤといふ言葉とは、二つとも可なり數多く「おもろ」の中に現はれて、どちらが前の形かといふことを決するには骨が折れる。大體に沖繩本島(42)を中心にして、北にはニルヤが多く、南にはニラヤが普及して居るかと思はれ、後者は形容詞風に、他の語と組合せて使はれて居る。それを見定めて一つの場所の名にしたのがニルヤであり、即ち新たに生れたものと言ひ得るやうであるが、この南の方の資料は、實地に用ゐられぬ言葉だけに、捜して居ても中々集まつて來ない。遠く離れた太平洋上の島々にまで、もしも比較を推し進めて行かうとすれば、やはり手近の數多い事實に據つて、かつて其ニルヤが如何なる處だと、考へられて居たかを確めてかゝる他は無い。これが私たちの、昔話と、それと繋がりの多い土地毎の言ひ傳へとを、今後の南島研究の出發點として、勸説して見たいと思ふ理由である。

　問題の中心はニルヤの起源、どうしてさういふ不思議の國が、海の彼方に在るものと考へ始めたかといふ點であらうが、それを龍宮と呼びかへて怪しまなかつた北隣の島々でも、なは若干の思ひ當るふしを、持傳へては居なかつたかどうか。是を明らかにして置くことは雙方の利益である。最初に私などの考へずに居られぬことは、民間説話の島々の一致には、時と樣式とを異にした幾つもの原因が有り得る。それを荒まし分類して見た上でないと、是に由つて種族の親近を説くことは危ない。一つの例を擧げるならば猿の生肝、もしくは海月に骨の無いわけなどと我々が呼んで居る昔話、是が又ニルヤの出來事として、少なくとも大島喜界の二島には行はれ、其以南の島々にも、かつて有つたらしい形跡は存する。根屋の一人娘の大病に、猿の生肝がよく利くとわかつて、猿を騙してつれて來ようとして失敗する話で、他の多くの龍宮入り話と比べて、よほど型變りであり又新らしい。今昔物語や沙石集に、半分以上も是と同じ話があるので、そゝつかしい者には古い話の保存とも見えるが、彼には仙郷が無く又使者の失敗と懲罰といふことが無く、多分は佛典の中から採擇した説話であつたのを、後に龍宮入りと結び付けて、一つの新らしい笑話を作り上げたものと思はれ、この程度の改作の技能は、素人でも持つて居たらしい例は多い。殊にいはゆる一尋《ひとひろ》鰐の物語の、古い印象に養はれた人々ならば、猿が龜の背に乘つて、得々として海の都に行く繪樣に、どれくらゐ興じ笑つたかしれぬのである。ところが誰でも知つて居る如く、沖繩諸島には猿といふ獣は居ない。從つて是を單なる昔話の役(43)者として受入れる以外に、自ら此樣な改作をする力も無く、又其資材も持つて居なかつたらうと思ふ。いつ如何なる機會に輸入したかは言へないが、ちやうどニルヤに往來したといふ色々の昔話が、發達普及の頂點に達した際だけに、この種の笑話化は案外な效果を收めたのではないかと思ふ。猿を欺いて海底につれ込まうとした使者の役は、龜といふ例が最も多く、それが新舊二通りの説話の交叉點にもなつたかとも思はれるのだが、南の島々では其役をカマフタ即ち海月とし、或は又猿の自然の敵といはれる犬を使に遣つたといふ話さへある。是なども恐らくは島の外で、すでに出來上つて居た一つの説話を、新たに移し入れた證據であつた。斯ういふものまでを引きくるめて、ニルヤの本質を考へて見る資料とすることは出來ぬと思ふ。

　

　　　　　　　七　動物報恩型

　

　我々のいはゆる龍宮入りの話の中で、人を笑はせる爲に新たに結構せられたと思はれるものは、猿の生肝たゞ一つであるが、其他の幾つかの話し方とても、よく見るとやはり動機の差、從つて又出來た年代の前後があり、最初から斯う色々の種類が、竝び存して居たのではなかつた。發端と結末との二つの點から比べ合せて見ればそれがほゞ判る。たとへば魚の命を助けて、其御禮に好い處へ招待せられ、又は無類の財寶をもらつて來るといふ動物報恩型、是などは世界的な分布をもち、又古代からよく知られても居るが、是と極東のニルヤ話とが結び付いたのは、必ずしも非常に古いとは言へない。浦島太郎が子供のなぶる龜を買ひ取つて、放してやつた故にその御禮に、海底の宮殿に連れて行かれたといふことは、少なくとも初期の文獻には全然見えない。さうして一方沖繩の島及び宮古島などに傳はつて居た同系の口碑には、單に海邊に出て非常に長い髪の毛を見つけ、その不思議に感動して居ると、美しい女性が現はれて、彼を海の向うの仙郷に誘つて行つたといふことになつて居り、たゞ其中の一つだけが、髢《かもじ》を拾つて返してやつ(44)た御禮のやうに、言ひ傳へて居るのである。書紀の海神宮の物語に於ても、一書にたゞ一つだけ、羂《わな》にかゝつて居た川鴈を助けたことが、寧ろやゝ唐突に語り添へられてあるのを見ると、さういふ話し方も試みられて居たことは判るが、もとは二人の男女の相喜ぶといふだけでも、それが蓬莱へのパスポートとして、十分な時代があつたといふことが推測せられるのである。

　人が何萬何十萬とある中に、其たつた一人が選ばれて、さういふ幸福の國へ遊びに行くことが出來た理由は、説明を求められるのが自然である。其説明には二つの方向があつた。一つは當人にそれだけのねうちがあつたこと、無慾無邪氣の善人が選に當り、又は親孝行の�ｺによつて、海に迎へられたといふ話も南の島にあつた。今一つは何等かの功勞によるもの、鯛や海龜に姿をかへて、たまたま岸近く遊びに出て居た龍宮の乙姫が、凡俗の爲に苦しめられて居るのを救つて、豐かに賞せられた話は色々とあり、是にも島毎の發達は著しいが、大體に此方は新らしいものが多いかと思ふ。ところが其中でたゞ一つ、よそでは餘り類例を見ないものに、日本と南方の諸島に於て、非常に弘く多く且つ美しく變化して分布して居る、花賣龍神などと呼ばれる話の型があつて、是だけはどうして此樣に興味がもたれ、又是ほどまで複雜に發達したかが二十年來の私たちの宿題であつた。或は終局にこの一つの特徴から、龍宮即ちニルヤの起源が明かになり、同時に又遠い洋上の幾つかの島々との跡無き水の路が發掘し得られるのではないか。さういふ夢想をさへ我々は抱いて居るのである。

　

　　　　　　　八　花賣柴苅型

　

　それでやゝ具體的に、この型の昔話の輪廓を敍述すると、花賣とはいふけれども門松年木、又は尋常の薪や枯枝もあり、或はぬれた松明とか、根無し蔓といふ植物とか謂つて居る例も喜界島にはある。昔々一人の貧しい愚直な男が、(45)さういふ植物を賣りに出たが澤山に賣れ殘り、是を龍宮の神樣にさし上げますと言つて、海に投げ込んで還つて來ようとすると、忽ち龍宮から使が出て、御禮を言ひたいからすぐに來てくれと、連れて行かれて大へんな款待を受ける。さうして世にも珍らしいみやげ物を貰つて、すぐに萬福長者となつてしまふので、是にも浦島同樣の時の經過の早さを説くものは有るが、其速力のちがひは輕微であつて、格別主人公の迷惑にはならない。それよりも注意を引くことは、海に投げ入れた植物は賣れ殘りで、中には大晦日の門飾りもすんだ頃になつて、松や裏白などを山から背負ひ下して、何處でも買つてくれる家が無かつたといふ類の滑稽談もあり、わざ／＼海の神に捧げようとして、運んで來たといふ例は一つも無いに拘らず、きまつて迎への使者の口上の中には、ニルヤでは今ちやうど正月の松が無くで、もしくは花なり薪なりが手に入らぬので、頻りに求めてござる所だつた。それで此上も無い御悦びで、是非とも案内をして來いといふ御使に來ました。どうか暫くの間目をつぶつて居て下さいなどと、目無しかたまや龜の背といふ手續きも無く、いとも無造作に海中の異郷に連れて行くのが普通である。或は昔話の興味を高めんが爲に、次第に附加へた趣向だつたのかもしれぬが、もう眼をあけてもよいと言はれてあたりを見廻すと、そこには立派な御屋敷があり、門を入つた取付きの外庭には、さつきはふり込んだ薪なり門松なりが、ずらりときれいに積み竝べてあつたといふのが多い。話の細部は多く斯ういふ風に進化して、どんなのが舊い形といふことは勿論きめられないが、少なくとも日本本土の北の端から、南は奄美群島の二三の村にかけて、斯うした俗眼には何の價値も無い植物類が、無限に水の都では珍重せられて居たといふ話のみは、借り物でも無く又後々の附加へでも無く、夙にこの方面の島人たちの觀念に、根ざして居たものかと思はれる。それが如何なる原因からといふことは、殘念ながら今はまだ考へ出せないが、ともかくも將來の弘い比較のために斯ういふ事實だけは牢記する必要がある。何か御互ひの全く知らぬ歴史が、この蔭に潜んで居るにちがひないからである。

　

(46)　　　　　　　九　海彦山彦

　

　海に花又は正月の飾り松などを、投げ入れたといふ形の話し方は、繪樣としては美しいだけに、或はやゝ後になつての改良かとも考へられる。南の島では黍殻を束ねてこしらへた松明を、根屋の神にさし上げますと海にはふり込むと、ちやうど焚き物が不足で困つて居たところだつたと非常に悦ばれたといふ話もあるが、是には如何に貧しい者でも野山に入つて、自由に持つて來られる柴や枯枝が、水の彼方の國だけでそれ程にも貴重であつたといふ所に、最初の重點が置かれて居たのでは無かつたらうか。誇張は昔話の興味の一つであるが、それにしても少しく報酬といふものが功勞に對して大き過ぎる。何か後の人の忘れてしまつた教訓が、此間にあつた樣にも想像せられる。

　民族學がもしも多くの生活群の比較の上に立つ學問であるならば、單なる保存せられたものゝ尊重といふ以上に、出來る限りそれが今ある形にまで到達した道程又は順序を尋ね究むべきは當然であらう。さうしてそれの許される文化段階は、廣い太平洋の上でもさう多くは無い。たま／＼其境地に置かれた是からの南島研究者たちは、もつと努力しなければならぬといふことを、實はこの論文では言つて見ようとして居るのである。世界の民間説話の最も有りふれたモチーフ、日本で二人椋助とか上の爺下の爺とか謂つて居るものは、こゝでも夙くから富兄貧弟の形を以て通用したものが多かつた。さうして又九州の島や半島にも、是が海の神に木をまゐらせたといふ話と、結び付いた例が幾つかある。兄が無慈悲で少しも助けてくれないので、山に入つて薪を伐り出し、それも賣れ殘つて海に投げ込んで還らうとすると、忽ち龍宮へ迎へられて大相な寶物を頂戴する。それを羨む兄が借りて來て利用しようとするが、悉く失敗に終るといふ結末は花咲爺などと共通であつた。今まで心付かずに居たけれども、あの神代卷の海幸山幸の物語なども、やはりこの系統の一つの挿話の、あまりにも有名になつたものといふことが出來さうである。もしさうで無(47)いならば、あれまで際立つた兄弟幸福の差を、描き出すには及ばなかつた筈である。山本有三君の書いたものなどを讀むと、他にも同種の話が何處かにあつたかと思はれるが、自分はまだ確かめて見たことが無い。たつた一つ喜界島の昔話集に採集せられたものは、是は兄弟で無くて二人の漁師、一人が友だちの釣繩を借りて流してしまふ。替りの品を作つて返しても、相手は怒つて受取らず、是非とも元の物をと責めはたるので、已む無く舟に乘つて同じ場所に來て水中に潜り入ると、いつの間にか根の島に來てしまつた。濱に上つて當ても無しに路をあるいて行くと、或家の庭の薄の垣に、無くした釣繩が洗つて乾してある。早速その家をおとづれてわけをいふと、根屋の神が出て來て、おまへの物ならば返してやるが、先づ一とき休んで行けと言つて家に呼び上げて色々と御馳走をしてくれる。美しい一人娘の姿はこゝに見えないが、外を見ると赤い白い色々の鳥が高く飛び上つて行く。あれは人間に釣られて行く我等の魚だといふやうな、繪になる一節が此間に挿まつて居る。さうした結末はやはり一つの口傳「卯の日子の日は日半どれ」といふ、天氣占ひのことわざを覺えて還り、それを知らずに居た意地惡の友だちは、舟を覆へして死ぬといふことになつて居る。是までの變化を見ることは豫期の外ながら、ともかくも是を全然別系統の傳承と見ることは出來ない。

　

　　　　　　　一〇　神童と神女

　

　以上幾つかの例でも判るやうに、人が海底の異郷に入つて行く發端には、有心無心の色々の動機があつたけれども、ともかくもそこを訪れるといふことは特權であり、必ず非凡の幸福をもたらさずには終らなかつた、といふことが此説話の、最初からの要件であつたやうに私には考へられる。さうして人間の想像力が有限であつた爲か、その結果の幸福といふものにも、昔から一定の型が有つて、永い間にもさほど種類をふやしては居ない。是が亦一つの東方の特(48)徴を、見つけ出す手掛りになるのではないかと思ふ。日本のいはゆる龍宮入り話に、ほゞ例外無く附隨する一挿話が先づ注意せられる。迎へに來た使者は人であれ、龜・海月であれ、きまつて其途中で訪問者の利益になることを教へてくれる。龍宮に行つたら何か欲しいものは無いか。何でも遣るから所望せよと言はれるにちがひない。其時には他の品に目をかけず、必ず何々といふものを下されと言へと教へて其名を記憶させる。つまりは一種の内通であつて、猿の生肝話の告げ口などとも此點だけは似て居る。よその民族にも類例は有るか知らぬが、是を話の骨子とし、好奇心の集注點としたものは、私はまだ外國の話では氣付いて居ない。或は主人公の無慾無邪氣の反映とも、幸運の神秘とも見られようが、斯うして教へられる引出物の名稱が、十分に奇拔なのである。是は龍宮でも二つと無い大切なものなのだが、望みとあれば取らせずばなるまい。氣を付けて持つて行くやうになどと恩に着せ又は澁々と、龍宮の主がくれたといふものゝ中には、珍らしい名の寶物寶器も無論あるが、それよりもずつと多いのは小犬黒猫石龜の類、この方は九州一帶に分布する話の中にも出て來るのが普通で、それよりも東へ進むと越後から奧羽の果まで、見にくい顔で鼻汁を垂らした小さな子供を貰つて來るといふのが多く、それにはどの土地でも皆をかしな名がついて居て、しかも家々にとつては大へんな福の神であつた。同じ話は西國の方でも、肥後とか壹岐の島とかに、至つて奇拔な同じ例がまだ傳はつて居て、ほゞ全國の分布と推定することが出來、龜や小犬の類も多くは人語して居るから、本來は一つの話から分岐したものと考へられぬことは無い。

　或は花を海に投げ入れて大に悦ばれた男が、迎への龜のすゝめのまゝに、根屋の神樣のたつた一人の娘を、所望したといふ話さへ喜界島にはあつた。斯んな大膽且つ法外な望みでもやつぱり容れられて、其女性を伴なうて故郷に歸り住み、それから後の生活は、我々の謂ふ龍宮女房の説話と同じである。龍宮女房の普通の形は、今日の嫁入婚に近く、妻の親里に行き通ふといふことは無いのだが、この花賣龍宮入りだけは壻入に始まつて居る。是は説話を運ぶ人々の婚姻慣習の變化に伴なうて、追々と語りかへられる部分だつたのかもしれない。妻が縁組の後に海の故郷に還つ(49)て住み、次の年は三人の子が尋ねて來て、父を龍宮に誘うて行つたといふやうな話、又は海から來た美女と婚姻して、一人の女の子を儲けた夫婦が、後に其子だけを家に殘して、妻の國へ行つてしまつたといふやうな話が、久しい間宮古島では信じられて居た。固よりこの掟を以て推すことは出來まいが、母無くして生まるゝ子といふものは有り得ない。現在はどんなにきたならしい子供として語り傳へられて居らうとも、龍宮から貰つて來た子供、即ち我々のいはゆる海神少童は、やはり乙姫信仰の所産であつて、この二つはもと互ひに交渉して居たのが、永い歳月を經て段々に、記憶の筋をたぐり難くなつたものと思ふ。諸君の南島研究が新たなる側面から、もう一度このニルヤと婚姻の問題に、近よつて行くことを私は望んで居る。

　

　　　　　　　一一　寄木親の昔話

　

　昔話を援用して居ると長たらしくなつていけないが、終りにもう一つだけ、やゝ方面のちがつたものを擧げて置きたい。むかし旅人が路に行暮れて、とある小社の中に假宿すると、夜深く馬の鈴の音が聞えて來て社の前に立留り、こよひは何村に産があります。さあいつもの樣に運を定めに行つてやりませうと、さそひに來たといふ話がある。是も日本全國どこの隅にも行き渡つた、最もよく知られた昔話だが、結末が二つに分れて、一つは生れた子の運命を豫定し、今一つは軒竝びに男女の二兒が生れて、男は貧しく女は富み榮える運をもたせたと、言つたやうな話になつて居る他に、その連れ立つて行かうといふ神の名が、こちらでは道祖神・山の神又は箒の神、或は地藏が觀音を誘ひに來るともあつて、土地毎に少しも定まつて居ない。之に反して寶海峽以南に分布して居る説話には、島々の一致があり形もよく整ひ、是が原形であることは一見してよくわかり、どうしてこの樣に弘く遠く、北は奧羽の村里にまで行き渡つたらうかといふことが、又一つの新たな問題ともなるのである。後日詳かに立證すべきは勿論だが、自分のい(50)ま解して居る所は簡明である。深夜に神々の交語を聽いて、人の世の隱れた前完を知るといふことは、文化の或階段に達した社會ならば、幾らも起り得べき空想であつて、その偶合は怪しむに足らぬ。もとは南北二つの島群に於て、各自別々の趣向をつけて語られて居た二つの昔話が、たま／＼この前段の類似に引かれて、混同し又互ひに感化を受けやすかつたのである。年は十七、虻に手斧といつたやうな死の豫言の話なども、日本ではやゝ東部に偏して行はれ、一方には又宮古島の舊傳の中に、破片となつて保存せられて居る。之に對して男女二人の福分の厚薄が、生れる瞬間から既に定まつて居ることを知つて、親が急いで婚約したといふ方の話は、話が花やかで又曲折が多い爲に、一段と大きな影響を、北の隣人に與へたものと思はれる。曾て大和物語の蘆苅話の元の形かと考へて見た、近江由良の里の竜神の由來譚なども、袋中の大�ｺは是を事新らしく書き傳へたけれども、ちやんと其前から沖繩の島々にも行はれて居たものが、もつと寫實であり又原産地の香が濃い。さうして寄木親《よりきのおや》といふ珍らしい名を以て宮古島に傳はるのみか、北は奄美の二つの島にも採録せられて居る。寄木は流木の濱に漂着したものといひ、親はこちらで言ふならば長者のことである。その親が海に働かうとして曉に濱に出たが、まだ夜が明けぬので暫らく寄木を枕にして假睡して居ると、今ほど何某の家に子が産れる。早く往つて運をきめてやりませうと、その寄木を誘ひに來られたのが、ニラの神樣だつたと沖永良部島では謂ひ、喜界島の昔話では、龍宮の神樣と語られて居る。寄木は其神樣の誘ひに答へて、あいにくと今夜はサンカの者に股を貸して居るので、一しよに行きたいが立つことが出來ない。どうか獨りで行つて來て下さいといふ。それがやがて還り路に又聲をかけて、生れた兒の未來を斯うきめて來ましたと告げるのはごく自然に聽える。本州の類話はその神々佛たちの名を、その場限りにさし替へて居ながら、なほ山中の大木の根を枕にしてといふものがあり、又薩摩の甑島などでは、山の中に野宿して居るのに、山の神がホダ殿ホダ殿お産があるで早く行かうと誘ひに來る。ホダは伐られた木塊の名だが、或は此島では流木のことだつたかもしれない。ともかくもこの大木にもサンカの者即ち人間の運命を指定するだけの能力があるものと、感じて居た時代の作品であることが推定せられる。

　

(51)　　　　　　　一二　ニルヤから來るもの

　

　もう昔話の穿鑿もよい程に切上げたいと思ふが、こゝで私たちの當面する問題は、このニルヤと人界との交通が、昔話を別にしてどの範圍まで、もとはひろがつて居たらうかといふ點である。最初に思ひ浮ぶのはニルヤの大主（ウフシュ）、是は幾つかの神歌にも名を唱へ、禮讃せられて居るばかりでなく、沖繩本島の村々ではつい近頃まで、八月の祭の月に出現して、長者の大主と對談することが、定例の村狂言であつたさうだが、是はわざをぎであり藝能であるから、かつて其通りの事が現實にあつたといふ證據にはまだ足りない。奄美大島のナルコ神テルコ神は、やゝ不正確な記録を存するのみで、見たといふ人が居なくなつて年久しいが、もとは二月から四月までの間、男子の參加を排除して、女ばかりで款待したといふから演技では無い。後年此祭式が衰頽して、奇怪な姿をした色々の神靈が出現したことが、南島雜話のやうな外來人の書いたものにあるのを見ると、或者は意識してこれに扮し、他の多くの者は是を眞實と信じたといふ、言はゞ中間の段階が、久しく南方の島々にも續いて居たことは疑ひがない。

　この點が日本上代の綿津見の宮の言ひ傳へと、沖繩方面のニルヤカナヤの觀念との、二つを一つに見ることの出來ない、最も顯著なる差別であらうと思ふが、斯うなつて來た原因も、尋ねて見ればやがて判ることで、多分は信仰變革の時期、殊にその方式態樣が、雙方比べものにならぬほどちがつて居た爲で、始めから別だつたので無いといふ證據は、まだ幾つでも擧げ得られる。日本紀といふ公の記録が、編纂せられるよりもずつと以前から、こちらでは海陸二つの世界の交通が、ほゞ完全に閉鎖せられて居たのに對して、南の方の島々には、其樣な大きな斷層が起るほどの力は働かず、次第に遠い幽かな夢語りと化しつゝも、古い記憶は中世の終りに近づくまで、なほ半分は信じられて居た。いはゆる龍宮入り民話の單なる一致だけならば、之を摸倣とも運搬とも解してしまふ者があらうが、ともかくも(52)一方には文字の資料があつて、他の一方で既に常民の意識の底に沈潜したものを、こゝではしつかりと現世の生活に繋ぎ付けて居る。年經てめぐり逢ふ隣人のなつかしさといふものは、學問の上でもなほ無限の感激を與へずには居ない。

　さういふ中でも、殊に我々の心を動かすのは、ニルヤといふ海の隱れ里の消息が、この方面から次々と傳はつて來ることである。夢としか思はれなかつた海の神の美しい乙女、それを母とする靈なる童兒、如意の寶珠や智慧の言葉といふやうな數々の贈り物なども、たゞ卒然として人間の空想に生れたものでは無くて、何か基づくところの上代の事實、たとへば神聖なる誤謬ともいふべきものが、底に横たはつて居たことに心付かしめるのも、この比較の御蔭といふことが出來る。是が果して我々の島群のみに、許された機會であつたかどうか。或は又一定の條件の下に、今は隔離せられて居る二つ以上の遠い島々の間にも、試みられてよいものではないかどうか。さういふ問題に少しでも私は近よつて見たい。

　

　　　　　　　一三　火と稻の傳承

　

　島々の記録記憶を見渡すと、最初ニルヤから渡つて來たと傳へられる、至つて重要なものが幾つもある。その一つ一つの記述は長くなるから出來ないが、現在自分のほゞ立證し得るものは、第一には火である。もちろんこれを史實と見る者は無いであらうが、曉毎に東の地平線を望んで居た島人等が、かしこには湧きかへる不斷の火があり、テダ（太陽）は其中から新たに生れ出るものゝ如く想像し、又次々の經驗によつて、愈々それを確認するに至つたとしても不思議で無い。テダの語原には紛々の諸説があるが、私は照るものの義と解して疑はない。この一語の成立は島の統一以前、三山割據よりも更に前の頃に在つたかと思はれ、個々の邑里の按司世の主までを、テダとたゝへて居た例(53)がおもろの中には見出される。恐らくは是を火の管理者、もしくは火を與ふる者とする思想が元であり、其權能の起點も亦ニルヤであつた。從つて國王を唯一つの大テダと見るやうになれば、解釋は當然に改まらざるを得なかつたのである。第二に根源をニルヤに歸するものに稻の種がある。中山世鑑などはいとも簡單に、阿摩美久天上へ昇り五穀の種子を乞ひ降りと書き流して居るが、是は少なくとも古傳を改めたものであつて、由來記其他の後年の記録までが、一致して是と異なる傳へを載せて居る。注意すべき一つの特徴は、最初白色の壺に入れられて、久高の濱に漂着した五つの種子の中には、稻の種は無かつたといふ點である。それでアマミキョは天に?つて、鷲をニライカナイに遣はして求めさせたら、三百日目に三つの穗を咬へて還つて來た云々と御規式之次第にはあり、奄美大島の方では鶴が其稻穗を持つて來たことになつて居て、伊勢の神宮の周邊にあつたといふ言ひ傳へともやゝ接近して居る。一方には沖永良部島の島建國建の物語といふもの、是は口碑であつて岩倉君によつて始めて文字に録せられたが、やはり島の元祖が天の神に教へられて、ニラが島に行つて稻種を求めたといふことになつて居る。その時ニラの大主は是にこたへて、まだ御初祭をして居ないから物種は出すことが出來ぬと言つたといふのは、頗る我邦の新嘗の信仰とよく似て居る。島コーダ國コーダ（島建國建）はそれにも構はず、折角來たのだからたゞ戻ることはならじと、そつと稻の穗を摘み切つて袂に隱し、遁げて歸らうとしたが、ニラの神に追掛けられ打倒されて、ニシントー原アメノカタ原といふ處に、目こぼれ鼻こぼれして死んで居た。天の神は心配して侯を遣り、藥を飲ませて生き返らせ、稻の穗は再びニラの島に持參して元の穗に接ぎ、初穗の祭がすんで後に、改めて同じ種を乞ひ受けて來させた。それが此島に今もあるアサナツヌユニグンダニ（淺夏の稻子種？）といふ稻の始めだといふ。

　この話の半分似た口碑は、日本の全土に分布し、關西は專ら麥の種だが、奧羽は一般に稻を天竺又は唐土から、そつと持つて來た話として傳はつて居る。もちろん穀物傳來の經路を暗示するものとは言へないが、古人の考へ方の大體に同じ方向へ傾いて居た點に、自分などは特に深い興味を惹かれるのである。

　

(54)　　　　　　　一四　遠島の使

　

　以上の二つよりも更に大切なもの、雙方の言葉でイノチと呼ばるゝものが、曾てはやはりニルヤからもたらされると信じられて居たらしい形跡はあるのだが、是を正面から立證することはまだ私には出來ない。昔話の部面では前にも擧げたやうに、ニラの神さまが寄木の神を誘うて、生れ兒の運と壽命を定めに來るといふ語りもあれば、或は又海幸山幸と浦島とを繋ぎ合せたやうな沖永良部島の一話にも、人間に命をくれるのも位を授けるのも、共にニラの神樣だといふやうなことを述べて居る。かの仙郷で僅か三日と思つて居たのが、この世に還つて見るとすでに三百年、或は三年であり又は三月であつたといふなども、すべて生命がニルヤでは豐富であり、惜しげも無く用ゐ費やすこと、ちやうど米絹その他の財寶も同じであつたといふ風に、類推した空想かと考へられる。數百年來の沖繩の神歌に、數限りも無く唱へられたこルヤセヂ・カナヤセヂのセヂといふもの、是なども主として人間を幸福にする富貴長壽の類であつたらしく、それを祭祀と祈願との力によつて、國王世の主に進獻せしめようとするのが、すべての公の行事の最初からの目的であつた。海と天との對立が認められて、所謂オボツカクラのセヂといふものも、稀ならず歌詞の中には入つて來て居るが、この方は自分の見た限り、ミオヤセ即ち「まゐらせよ」と要望の形を取つたものが少ないやうに思ふ。二つの靈界の對立が最初からで無く、時の順位に間隔があつたことは、この比較によつて先づ明らかになる。時あつて是よりニライを訪れたといふ語が、後世にもくり返されて居た如く、セヂがニルヤの使者によつて、人界に齎らされるといふ信仰は、なほ久しい間續いて居た。乃ち海陸の交通は我が葦原の中つ國のやうに、夙く上代に於て斷絶してはしまはなかつたのである。

　聊か變つた方面から、この推定は確かめて行く望みがある。海の彼方の隱れ里を故郷として、この人間の世界へ送(55)り付けられたといふものゝ中で、たつた一つの迷惑至極なものは鼠であつた。鼠に關しては自分も少し書いて見る用意があり、伊波普猷君もすでに論じて居られるが、ともかくもこの小さな惡戯者の出自はニルヤであると、昔の島人等が信じて居た證據は幾つか有る。久米島仲里間切二百數十年前の記録に、稻の祭に伴なふ村々の願文を載せてあるが、その中には一つならず、鼠を小舟に載せてニルヤの磯に送り返す序を以て、特にその氏素性を説き立てたものがある。其要文をこゝに略記すれば、日の神の御子の一人にオトヂキョといふのがあつた。はつ子ともよばひ子ともいひ、又ふれ子あだな子なしやぶり子などと、色々の惡名を付けられて居るが、それが鼠を生み又は自ら鼠に變身したこともあつて、村によつて一樣ではないが、何れにしても相手の身元を詳しく知つて居るといふことが、法術又は祭儀の效果を確實にする古來の手段であることを知つて、それを適用して居ることは同じであり、從つてさういふ言ひ傳への、こゝに新たに始まつたものでないことだけはわかる。仲里舊記がたゞ一つ、偶然にその實例を傳へて居たのは大きなしあはせだが、是はたゞ一つの手掛りに過ぎない。この珍らかな文獻の價値を發揮する爲には、なほ弘く島々の傳承の中から、幾つもの旁證を見つけ出して、以前は海のあなたのニルヤカナヤとの通信往來が、それほどにも頻繁にあるものと信じられて居たことを明らかにする必要があらう。今日の社會?勢は、果してさういふ希望を可能にするかどうか。新たに進出せんとする我々の一國民俗學にとつても、是は寔に容易ならぬ試練であつた。

　

　　　　　　　一五　海神信仰の展開

　

　記録としては久米島にたゞ一つ、殘り傳はつて居るオトヂキョの神話が、日本の神代史の蛭子の物語と似通ふ節があることは、伊波君もすでに注意せられてゐる。南の島々の父神は日輪であるが、その數ある所生の中に、生れそこなひのふさはぬ子があつて、災ひを人の世に及ぼす故に、小舟に載せて、之を大海に流すといふ點が、我が神代史の(56)蛭子説話と、偶然の一致では無いやうに思はれる。その假定を確かめ得るものは、今後の多くのよその島々との比較であらうが、日本の内部に於ても、蛭子の舊傳には中世の著しい解釋の發展があつて、それは必ずしも首都の神道の、關與しなかつたものゝやうに思はれる。誰が最初に言ひ出したとも知れず、蛭子は後に惠比須神となり、今では田穀の神とさへ崇められて居るが、其前は商賣交易の保護者、もう一つ前には漁民の祭祀の當體であり、その中間には多分航路神としての信仰を經過して居る。古典の註釋家には支持せられなかつたやうだが、ともかくも可なり縁遠いこの二つの神が、知らぬうちに民間ではちやんと結合して居た。海上交通の歴史が四分の三以上、文書史料の外に在る國がらとしては、流傳の經路もほゞかの方面に在るものと推測してよいのであらう。安居院神道集の西宮の由來などは、是が唯一の根源とは見られないが、袋中上人もすでに之を沖繩に傳へて居り、しかも本文に可なりの異同がある。蛭子海に棄てられて龍宮に流れ着き、そこに三年の間養はれで身骨全く整ひ、鰐に乘つて故國に還つて來た。其時の引出物に、漁獵廻船出納賣買の支配を附與せられ、それにより、市町商ひ所に市神として祀ることになつたといふのは、もう久しい以前から普及して居た俗説であつたかと思はれる。いはゆる大和船頭が南方より、之を本州に運び入れたといふ證據は得られまいが、とにかくに一方は龍宮即ちニルヤとの交通が、なほ續いて居ることを信ずる島々であつた。オトヂキョと蛭子と、この程度の相似があるとしても怪しむに足りない。

　ところが他の一方に、更に強力な現世の強國との交通が繁くなるにつれて、徐々として信仰の態樣は變つて來た。最もはつきりと表層に顯れて居るのは統一主義、按司の又の按司、テダの中の大テダと呼ばるゝ者が、天に照るテダと相煥發するといふ思想で、あらゆる公の祭祀は悉く、是を中心に組織せられ經營せられ、それと相容れない地方の慣行は、少なくとも説明のしにくいものになつた。第二の特徴としては天地陰陽、いはゆる兩極思想の承認であつて、是は疑ひも無く輸入の王道觀の根底を成すものだが、それについて行かうとすると、海の世界の所屬が先づ不明になる。しかも年久しく島人の心に染み込んだものを、一朝にさし替へ置きかへることが出來ないのは、どこの民族も皆(57)同じことだが、殊に巫言をさながらに信じて居た國では、先づこの人たちの經驗を改めて行く必要があつて、それを氣永に企てゝ居るうちに、近世史の舞臺は幾度となく廻轉したのである。島の歴代の記録を飜へして見ると、我々が天神地祇の名を以て神々を總稱するところを、沖繩の方では天神海神と呼んで居る。或は又オボツカクラの君眞物（キンマモン）が天神であるに對して、儀來河内即ちニライカナイの君眞物を海神だといふのも、?々引用せられる箇條であつた。君眞物の君は本來は巫女のこと、眞物は正式の代表者といふ意味であつたのを、後には神そのものゝ名と解したのは變化だが、ともかくも海の信仰は獨立してなほ傳はつて居たのである。この點が大和と沖繩と南北二つの島群の、可なりはつきりとした歴史の差異だつたと言へるのかもしれない。しかし一方には惠美須のやうな新らしい神の倶通があり、又一方には中央に氣づかれずに、遠い昔のまゝの海の祭をして居る例が、こちらでもまだ確かに見出される。土地毎の沿革を念頭に置かずに、たゞ表面に現はれたものを代表として、雙方の異同を論ずることの危險は、御互ひに十分警戒しなければならぬ。

　

　　　　　　　一六　新神出現

　

　沖繩神道史の特徴として、何よりも目に着くのは新懸り、又は新神とも荒神ともいふ神の出現である。是は暦法の確立と共に、朝家の祭祀が次第に公事化して行く中でも、なほ豫期せられざる神の來臨が、稀ならずあつたことを意味し、言はゞ信仰の最も活氣ある部分であつたやうに思はれる。さういふ神々は後にはどうなつてしまつたらうかゞ一つの問題である。由來記や舊記の録するところに依れば、村々島々の御嶽拜所には、それ／”＼の神の御名があつて、名の意味は少しでもまだ説明せられて居ない。其中にはたゞ古くからさう傳へて居るといふに止まるもの、乃至は祭を掌どる神人たちの呼び名を呼ぶといふだけのものもあらうが、ともかくも近世の神社臺帳の如く、強ひて神代卷の(58)一つの神に持つて行かうとしたものでないだけに、無統一も亦興味ある史料である。さういふ中でも注意せずに居られぬのは、島の西南部の村又は離れの神に、大ヂキュウもしくはウフヂキュウといふ神名が幾つもあつて、それが野鼠を管理すといふ久米島のオトヂキョ又ワカヂキョと、類を同じうする海の神では無かつたかといふことである。おもろ草紙の中にはこの三つの名は見えぬやうだが、國のオトヂヤといふ言葉はあり、又ワカイキョがありワライキョといふのもあつて、そのワライキョは二三の地の嶽の神でもあつた。笑舅などといふ無茶な漢字を、舊記には宛てゝ居るが、是は少しでも當てにはならない。ウフヂキュウに大神宮の字を用ゐたなども、出たら目の甚だしきものである。袋中大�ｺの神道記を見ると、ヲウチキウといふ海神がある。長は一丈許、きん大なり。繩を結んで肩に掛く。初めに那婆の町に現ず。後に泊また城間、亦後には國上、近年は出ずといふから、其記念の地を祭場として居たものと思はれる。馬琴の椿説弓張月なども、この記事に據つた想像畫を掲げて居る。何とも早お産のさめる殺風景ではあるが、單なる一つの風説で無く、又或一部の幻覺でも無くて、かねてこの種の奇怪な感動を必要とするやうな傳統があつたものと思はれる。奄美大島の方でもワダガナシと呼ばるゝ海神が、地を曳くほどの偉大なフグリをぶら下げて出現することが、南島雜話補遺に誌されて居る。是は毎年の二月四日に迎へ祭られるナルコ神とは、又別な島の神だと同書にもあるが、とにかくに海を對象とした初期の信仰には、何か陰微なる男女關係の、からみ付いて居た痕跡の一つであり、將來の汎い比較の爲に、わからぬまでもなほ注意して見たいものと思ふ。

　但し當面の問題として、考へて見たいことは別にあるのである。久米島のオトヂキョ・ワカヂキョは、單に日の神の御子の一人とあるのみだが、その眷屬といふ小さな害獣は、數が増し害惡が眼にあまると、誓約を立てゝニルヤの沖に送り返される。さういふ場合にはオトヂキョも罵り詛はれたけれども、別に雨乞ひの爲には祈りタカベられても居たのである。是と新懸りに出現したといふ海の神のオホヂキウとは、名の對立があつて兄弟の順位を示すものゝやうにも見える。ワライキョといふ神の素性のみはまだ判明せぬが、何れも其分布が小さな島、もしくは海近くの里に(59)在るのを見ると、キョ又はキュ・キウの語尾は、或は海から渡つて來る者の通稱だつたのでは無からうか。沖繩の古代研究に於て、最も著名になつたアマミキョ又はアマミキュなども、其キョは「子」では無く「人」の意であると伊波君も斷言せられ、又現在の島言葉でも、アマンチュ即ちアマミ人となつて居る。村々の秋の地芝居に、年々くり返して演出せられるニライの大主なども、本來はあの仙郷の主神であるべきに拘らず、村によつては其ムングン（文言）として、

　　　わんや神んあらん、佛んあらん

　　　ジレー大主、カネー大ヌシ　云々

と謂つて、稻の種子を授けることになつて居たと、島袋君の「山原の土俗」には報じて居る。即ち是も久米島のオトヂキョと同じに、ニルヤを出發して人の國を訪れ來る者が、やはり人の類の特にすぐれた者であつたことを意味するのでは無かつたか。神と人の境目が南の島々の信仰ではよほど特殊であり、それが氣をつけて見ると本州の北部にも、幽かながら痕跡を留めて居る。所謂ニール人の問題は、この意味に於て我々の新たに拓くべき曠野である。

　

　　　　　　　一七　ニラ人アマミ人

　

　八重山石垣島のニイルピトゥの來訪といふ事は、今からもう三十何年か前に、「海南小記」に於て注意せられてから、何度とも無くすでに世上の話柄にはなつたが、其根源を尋ねて行く、路の栞はまだ得られなかつた。是は新神の出現では無くて、毎夏日を定めて二人の異人が、家々をおとづれることになつて居るのだつたが、それを人と呼んで少しも怪しまなかつた點だけは、あの大ふぐりのウフヂキュなどともよく似て居る。沖繩本島の方でも、おもろの中に少くとも一つ、ニラ人といふ語は用ゐられて居るが、是も多分はニライからの使者であらう。或はマヤの神といふ名が(60)同じ意味に、用ゐられたらしい例が幾つかあり、ナルクミ・テルクミも大島ではナルコ神テルコ神と呼んで居るから、神は人よりも常に貴といといふ今日の考へ方とはちがつて、人のすぐれて靈あるものをも、カミと名づけてあがめ尊む習はしが昔はあり、それが職分となり世襲となれば、乃ち沖繩諸島に於て多くの神人を神と呼び、さては奧州で盲の巫女をオカミといつたり、伊豆の島でヤカミシュといふ神の奉仕者があつたりする結果にもなつたので、つまりは唯國々の單語の内容の伸び縮みであつた。所謂ニルヤカナヤの信仰が、其變化の前に榮え、オボツカクラの天中心思想は、おくれて入つて來てそれを押除けるに足らなかつたことは、この一點からでも推測し得られるかと思ふ。

　海の來訪者のニイル人又はニラ人は、おもろ草紙では又ミルヤニヤとも謂つて居たやうである。ミルヤは次に來るナ行子音をいたはる爲の變聲であり、ニヤの人の中の稍々あがめられる者の稱呼であつた。村々の文書では普通には仁屋と書き、今日はたゞ君といふほどの意味に濫用せられて居るといふが、本來は新親《にひおや》、親のまだ年若なものをさしての敬稱だつたらしい。その親といふ語も古くは限定せられて、たゞ一つの群の長上だけにつけられた名であつたのが、更に大親といふ語が必要になり、それに又クムイなどを添へて、親雲上のやうな稱呼を普及させた。始めてこのニヤといふ名の、ミルヤの使者に附與せられた時代が、相應に早かつたことは是だけでもわかる。そのミルヤニヤが?々此世をおとづれ、世馴れ神とまで譽めたゝへられて居たのであつた。在來の學者がどうして心付かずに居たかと怪しまれるのは、是とアマミヤ・シネリヤとの關係の、限りも無く遠く久しかつたことである。是がもし琉球神道記以下に傳ふる如く、天より降り來つた始祖男女の故郷だとすれば、そことニルヤとの繋がりはどう付くか。アマミヤ世の世そうセヂといひ、又は甘世とさへ説明せられた、初期の島人の信仰生活は、多くの神歌の中に煩はしきまでに語り傳へられて居るのに、たつた一つの天降神話を信ぜんとしたばかりに、今はそれが悉く、まだ解釋し難いものになつて居る。固より其通りの現實があつたといふのでは無く、たゞ古人が一樣にさう思つて居たと主張するだけであらうが、それすらも私には考へられない。天を根源とすることは言はゞ理論であつて、道路も無く方角も定かならず、(61)まぼろしの據りどころといふものが無い。高天原とても同じことだが、是にはまだ些少の地理的觀念がある。オボツカクラの語源は確め難いが、それを天のこと也と注した解釋には全く基礎が無い。自分の假説を試みにいふと、日本でも古く經驗したやうに、日の神を拜む信仰は、最も容易に天を尊ぶ思想に移り得たのだが、それが沖繩ではやゝ遲く始まつた爲に、まだ完全なる分離を遂げなかつたのである。朝夕に天體の運行を仰いで居た人々には、所謂ニルヤ照りがありカナヤ望月が、冉冉として東の水平を離れて行くのを見て、その行く先になほ一つのより貴い靈地の有ることを認め、人間の至願のそこに徹しそこに知られることを期したのは、或は天の神格を認めるよりは前であつたらう。オボツはもとニルヤのオブ、即ちこの靈域の最も淨い奧地と感じたからの名だつたかもしれぬ。もしさうだとすれば、是が新たな神觀の移行を導くに便だつたことは、海をアマといひ、天をアメといふ二つの日本語の互ひに繋がり通うて居た實?からも類推し得られる。ともかくもアマミヤ世の遠い昔から、アマミは一つの海の國の名であつた。本州では是を南の島の名とし、沖繩では又之を隣の島の名として居たことに不思議は無く、そこに住む者そこから來る者をアマミキョと謂つたのも自然である。それをあながちに天の御子と解しようとしたばかりに、其アマミヤの元の意味が不明になつてしまつた。新らしい學問の働くべき餘地は、斯ういふ部面になほ殘つて居るやうである。

　

　　　　　　　一八　天孫氏説起源

　

　或はもう心付いた人が有るかも知れない。沖繩の史學に於て、初期の王統を天孫氏と稱へ出したのは、中山世鑑又は同じ著者の述作が始めであつて、それは島津氏の沖繩入りよりは、又四十何年か後のことであつた。この間には公の信仰にも若干の變化が起り、一方には前代日本に關する知識が進み、更に又目前の政治上の必要もやゝ感じられたかと思ふが、とにかくに天孫氏二十五代、一萬七千八百〇二年の數字を推算したことは、單なる古傳の祖述を超越し(62)た勇斷であつた。然るに世譜以下の後代の史書は、之を承繼せずには居られなかつたのみならず、是が一たび外に傳はるや、本邦の學者たち先づそれに共鳴し、次で清朝の册封使等、爭うて之を認め且つ傳へた故に、羽翼すでに成り、終に動かすべからざる定説となつてしまつたのである。有名な徐葆光の中山傳信録が、ちやうど世に公けにせられた頃に、琉球では雍正九年（一七三一）の朝議といふものがあつて、是が大きな問題となり、其文書は今も傳はつて居る。もし此傳説の如しとするならば、何故に王家の國廟には舜天王の神位を中尊とし、それに先だつ二十五世の天孫氏を祀らぬのか、といふのが論點であつて、少なからず當路を惱ませたらしいが、結局前年の江戸幕府の問合せに對して、源爲朝の子といふ舜天王が最初の王と答へてあるから、改めるわけには行くまいといふ樣な情實論を以て、決定を次代へ送り込み、一方天孫氏の稱號はそれからも引續き盛んに用ゐられて居た。今となつては是も信仰の推移を跡づける爲に、寧ろ幸ひな史料であつたといふことが言へる。

　アマミキュ・シネリキュが男女二人の名であり、この國未だ人住まざりし時に、初めて天より降つて三子を生んだといふことは、袋中の神道記が既に之を説き、それは世鑑よりは五十年ほども先だつて居る。おもろの有名な「昔はじまりや」の一篇は、少なくとも是よりも早いことは確かだが、其代りには意味が是だけでは十分に汲み取れない。たゞ僅かに後に出來た若干の散文記事によつて、多分は同じ事を言はうとして居るのだらうと推測するばかりで、乃ち解釋が後に斯くきまつたといふに過ぎぬのである。おもろが所謂敍事詩でないことは認めなければならぬ。聽く人も歌ひ上げる人々も、共に熟知して居る事柄について、深い感激と讃歎とを表現しようとした言葉の端々から、自然に底に意識せられて居たものを窺はうとすれば、何等の特別の目途を抱かない場合でも、世情が改まつて來れば解釋は片より、時としては眞相に遠くなることも有り得る。古典の註釋を業とする者の、是は一つの陷し穴であるが、我々だけは用心し又それを防ぐ策を講じなければならぬ。

　もとは詩歌のやうに力を入れる言葉は、?々對句を使ふことが、東方文藝の一つの特色であつたが、其中でも、おも(63)ろは最も顯著である。何か大事だと思ふことは必ず二度づゝ、やゝ言ひ方をかへてくり返さぬと氣がすまなかつたやうで、たとへば日輪の如きたゞ一つしか無いものでも、之をたゝへるには是非二つの名を竝べた。ニルヤ・カナヤが二つの別天地でないことは、南北多くの實例が之を證明するにも拘らず、陰陽二極の學説が流行すると、うつかりと是を天神海神の併立と解し、他の島々では又山神海神の二柱として、祭の日をさへ異にした例もある。斯ういふのは明らかにおもろの常の習ひを忘れ且つ又以前の信仰を持傳へて居なかつた證據である。其他オボツに對するカクラ、アマミヤに對するシネリヤも、多分はその異稱の一つであつたらうに、袋中大�ｺに話をして聽かせた人は、もうちやんとアマミキョ・シネリキュを男女二人とし、後には更に一方を阿摩美姑と字に書いて、言はゞ天孫降臨説の素地を準備して居たのである。

　しかし斯うまでして見たところで、今まで汎く行はれて居たアマミヤ・アマミキュの概念を覆へすには足りなかつたのは、つまりは民間信仰の、底になほ絶えず流れて居た力だと思ふ。東恩納氏も既に注意せられたやうに、中山世鑑以下の沖繩の史書には、折角始めて天降つた男女神が、其まゝ島人の元祖とはなつてしまはず、改めて天に昇つて天帝子を乞ひ降し、それから三筋の人種が増殖したやうに書き載せて居る。斯んな加筆の必要になつたのも、アマミが海であり、そこから渡つて來た人がアマミキュであつたことが、あの頃なほ凡俗の間に常識となつて知られて居たからであり、一方には又昔始めのおもろに「アマミヤスヂヤナスナ」といふ少しく解し難い文句のあるのも、さういふ根源を天に歸したい要望が、一部には既に萌して居た爲とも見られる。しかも其要望はいさゝか無理であつた故に、十分には成功せずに終つたのである。

　

(64)　　　　　　　一九　ニルヤと根の國

　

　昔話の第一次の用途が、すぐれた高貴なる氏族の根源の、必ず尋常を絶すべきことを信じて居た人々が、悦んで共に聽き、且つ末遠く取傳へようとするに在り、それも單なる夢や空想では無くて、基礎を年久しい一般の常識と自然觀とに置いたものであることを考へるならば、この數多くの離れ小島、又は片田舍の傳承の一致は、ちつとも不思議でないばかりか、我々にとつては譬へやうも無いなつかしさである。曾て是くらゐ廣々とした區域にわたつて、我國上代の正史に採録せられたものと、ほゞ同質の海上樂土の存在を信ずる者が、互ひに相知らずに分散して住んで居たのだつた。古事記日本紀は大切な文獻ではあるが、辛うじて保存せられた期間が長く續き、本の名をさへ知つて居る者がもとは稀であつた。もしもあの物語を聽いて居たならば、是と半分似た昔話は却つて流布しなかつたらうし、少なくとも今見る如き笑話化は起らなかつたらう。乃ち我々の神代卷が編纂せられた千二百數十年前よりも更に以前から、この話の種子は、すでに東方の島々に播かれてあつたのだ、といふことを私は疑ふことができない。

　それ故にこの島々の海上樂土觀には、先づどれだけの中代の變遷があり、結局どれほどの共通點が、今もまだ探り得られるかを考へて見る必要がある。最初に問題になるのは、沖繩諸島のニライカナイ、もしくはニルヤカナヤと、本州の記録の常世郷と、二つの全く別々のものと思はれるまでに、縁遠くなつてしまつた理由如何。この點は實は雙方ともに、從來あまり注意しようとしなかつたが、手掛りは幸ひにまだ殘つて居る。さうして互ひに有力な暗示を與へ合つて居る。たとへばニライ・ニルヤといふ言葉は、神歌祭文の衰微と共に、輕々しく日常の話に交へ用ゐなくなつて、追々と姿を隱して行くが、その代りになる名詞が、少しづゝ後から生れて居る。アマミヤ・アマミヨ・アマミキュなども、ちやうど海神宮の「わだつみの神の宮」のやうに、古いたゝへ詞の一つだつたらしいのを、新たなる天(65)孫氏傳説に援用したばかりに、其由來が却つて不明になつた。故伊波普猷氏のあまみや考は努力の著述だが、アマミは海人部なるべしといふ栗田翁の説を受けて、この種族の北からの移住をほゞ承認して居られる。其結果として、最初のニルヤは北に在り、中世の終りに近くなつて東の方へ變つたといふ、意外な結論が導かれたけれども、私などはどうも其證據を見出すことが出來ない。ニルヤが東方に在ることを明示した言葉が、古い文獻には見當らぬのは事實だらうが、それはたゞ新らしい名の入用が前は無かつたといふ迄でニルヤはさう簡單に北から東へ、方角を更へ得られるやうな信仰ではなかつたかと思ふ。但し東海岸の邑里の繁榮につれて、所謂アガルイの大主、テダが穴の大主の禮讃が盛んになり、殊に毎朝の觀望を以て、太陽の海から昇つて來る地點の推移、それと季節の關係に心づいて、暦法の知識を精確にした人々が、何か新たなる呼び名を設けて、それを唱へようとしたことはあらうが、是は沖繩文化の一躍進期と見るべきもので、早くとも十四世紀以前には溯り得ない。ニルヤの根本の信仰が此時になつて、其樣な大きな轉換を遂げたといふことは、私たちには信じられないのである。

　此點を確かめて行く方法として、自分の今考へて居るものが二つあつて、二つは共々に南北島群の間に比較を試みることが、可能であり又或は有效である。手短かに私の心づいたことを述べて置くと、その一つはニライ又はニルヤといふ單語の由來を尋ねることである。沖繩本島なども多分同じだらうが、ニーラには「非常に遠い」といふやうな語感が有ると、先島方面の人は謂つて居る。たとへば掘井の底の水面が、深い處で幽かに光り、容易につるべの屆きさうにも無いのを形容して、ニーラサといふやうな表現があるといふ。それで私はこの語尾のR子音は、もと形容詞化の爲の添附であつて、一語の要部はニー即ち「根」に在るのではないかとも想像して居る。根といふ語の用途は、植物のそれには限らず、又それの第二次の應用とも言へない。殊に沖繩では其範圍がこちらよりも弘く、村々の本家に該當するものを根所（ニードゥクル）、その他根神旅人根家などといふ言葉が、信仰と結び付いただけに、近頃になるまで盛んに行はれて居た。おもろには又根國根の島といふ語が?々見え、それは主として本國もしくは故郷の島(66)といふ意味をもち、本島の一部をもさういつた例があり、又もつと小さな一つ／＼の島を、根の島と呼んだこともある。さうしてまだ海上の靈地の名として用ゐられた明白な證據を見出し得ないのは、是には既に久しくニルヤもしくはアマミヤといふ別稱が具はつて居たからかと思ふ。とにかくに日本上代史の根國とは、語は同じでも感じは全く異なつて居るが、それは展開の經路の分れ／＼になつたことを意味し、從つて又比較の特に價値多き部分なることを考へさせる。根が本源であり又基底であつたことだけは、雙方に通じてほゞ誤りが無いやうである。

　

　　　　　　　二〇　根國思想の變遷

　

　夙く釋日本紀の私註以前から、我々の根國思想は一邊に偏し、彼處を黄泉國よみの國と同じとする解釋は、最近の復古時代までも續いて居た。果してそんな事で上代の文獻が殘らず判るものゝ如く思つて居たのであらうか。合點の行かぬ話であつた。たつた一つの著名な例を擧げても、素尊は妣の國へ行くと稱して、父の神の指命によつて根國へ渡つて行き、そこに年久しく住んで居られ、大國主神は後にその國を訪れて、結婚し又寶物を持つて來られた。是を漢土で黄泉とも呼んで居た冥界のことだと、信じて古人はこの記録を遺したと言へるだらうか。重要な大昔の一つの言葉でも、年を累ね世の中が改まれば、その受取り方がいつと無く變つて來ると、どうして考へて見ることができなかつたか。

　この事は後に蓬莱とも龍宮とも名を替へた、とこよのくにに就いても言ひ得る。所謂常世郷の記事は殊に日本紀の中に多い。浦島子の物語は、恐らく神代の海神宮古傳の殘んの形であらうから、これだけは別に又考へて見るとして、この他に田道間守の家の由緒でも秦河勝の手柄に歸した蟲の神の出處でも、事實の眞僞は問題で無く、斯ういふ話を聽く人々の胸に、前代の常世郷と異なるものを描き出させて居たことは認めなければならぬ。少彦名神が國土經營の(67)功を終へて、あの世界に赴いて永く止住なされたことは、神功妃の壽宴の御歌にも見えて、よほど素尊の根堅洲國と近く、かつは人界との往來も考へられるが、一方には又海上の危難を恨み憤つて、浪の秀を踏んで常世郷へ、往つてしまはれたといふ皇子もあつた。もと／＼永い年代に亙つて、一貫して動かぬといふ考へ方では無かつたのである。常世といふ漢字は不老不死、浦島子の歌などに表はれて居る感じからの選定かと思はれて、文藝語としては近世までも人望があつたが、以前は口語でもさう謂つて居たかどうか疑はしい。本居先生などはそれを問題にして居られる。元はソコヨリの國で、其ソコは地底には限らず、遠いこの世の果に在る國といふ意味だつたかと言はれたのは、或は一方の根の國底の國を、念頭に置かれた説かとも思ふが、まださうはつきりと、常世も根の國も同じとまでは斷言して居られない。沖繩の方では國頭にも又先島諸島にも、ニライソコといふ言葉が殘つて居り、前者に至つてはニライソコモイは鼠のことであつた。現在は何れも地底のことに解せられて居るが、それは根國を黄泉に同じといふのと、似通うた解釋の傾向であつた。つまりは海上の交通は遲かれ早かれ、一旦は斷絶せずには居なかつたのである。

　但し沖繩にはまだニルヤの大主の年々の來訪がわざをぎとして形を存し、ニラ人ミルヤニヤの古い記録、アマミキョがのだて始めの城の遺跡も、おもろ草紙を通して尋ね求めることが出來るが、人が此方から彼を訪ひ、又還つて來たといふ實例は、僅かに棚晴船頭の妻の話たゞ一つであるに反して、宮古島舊史の中には、さういふ口碑のやゝ昔話と近いものが幾つか保存せられ、一方道の島の三つの島などでは、此篇の初頭にも列擧したやうに、既に完全なる民間の文藝と化して、ニルヤ往來の話が數限りも無く口頭に傳承せられ、しかも舊日本の龍宮説話と、規則正しい連繋を保つて居たのである。少なくとも是は偶然の近似で無く、かつてこの海の彼方の樂土に對して、今よりも遙かに豐富な知識、乃至は空想を抱いて居た人が、多かつただけは是によつて推定し得られる。たゞ其信仰の本質が、如何に變化しつゝあつたかに就いて、まだ私の説き得ることが甚だ乏しいのを憾みとするばかりである。

　一つの問題として、ニライは此方の根國又常世郷の如く、かつては死者の行く處として望み又慕はれて居た時代が(68)あつたらうかといふことを考へて見る。南方では死者の世界を、あの世又はグショ（後生）と呼ぶらしいが、その後生の觀念が島毎に又は家毎に、甚だしく區々になつて居て、是からの現地調査に、まだ多くの收穫を約束するかと思はれる。死んで儀來河内に行くといふ沖繩のたゞ一つの例は、遺老説傳でも有名な善繩大屋子の話、是は海濱で美女に遭ひ、大きな海龜を貰ふといふ發端は昔話に似て居るが、家に歸る路すがら其大龜に頸を咬まれて死に、其亡骸を墓に埋めたのを、三日の後に開いて見ると棺は空であつた。空中に聲があつて彼は儀來河内に遊べりと告げたとあつて、目的はその御嶽の靈驗を説くに在り、言はゞ珍奇の例だから傳へたやうに見えるが、この葬後三日目に棺を開いて見るといふことは、もとは一般の慣習だつたらしい。沖永良部島では最近まで人が死ぬと其靈は天の庭へ上るといふ信仰が生きて居た。死人があるとすぐに葬るが、幾日かの後に（多くは三日）、魂分れ又は魂離れと稱して、ユタを招いて神降しの式を行ふ。それは近親の女性の一人を拜んで、死者の靈をそれに憑らしめ、其女が一定の方式によつて、或期間泉の水を浴びて精進をすると、死者は始めて天の庭に上ることが出來ると信ぜられて居た。ユタの教儀として改造せられた點もあらうが、是は明らかに尸者の行事であり、日本にも古く行はれたらしい痕跡はある。良き人の魂のみが天の庭へ上るといふ信條もあつたといふことで、是も恐らくは亦善繩大屋子の一例と見てよからう。果して最初から、特に擇ばれたる者のみがニルヤに往つたのか、或は前には誰も彼も、死ねば皆行くと考へられて居た時代があるのか。是が尚未決のまゝで殘るが、その參考になる少しの事實もある。ちやうど此序に手短かにそれを述べて置きたい。

　沖繩の方ではまだ聽かぬやうだが、奄美の島々にはコウソ祭、又はホウス祭といふのが先祖祭のことだつた。今では考祖と高祖とも書いて居るが、そんな漢字を人が知つてから、始めて生れた言葉では無いやうである。島津氏の支配になつて後、大島でも又沖繩でも、一般に七月盆の魂祭の風習を採用させたが、是には一種政治上の動機、即ち今まであまりにも強烈であつた島民の信仰を、やゝ牽制しようといふ意圖もあつて、新たに持込んだらしい形跡があ(69)る。其爲に村々の先祖祭は複雜なものとなり、今まであつた儀式は聊か衰へたやうだが、丸々古くからのものを置き替へることは出來ず、依然として七月の盆のあとに、又八月のコウソ祭があつて、この方が多くの行事と結び付き、踊その他の色々の催しを伴なうて、力の入れ方が格別であつた。この新舊の對立には意味があり、コウソといふ語はその一つの鍵なのだが、考祖高祖の字解に心服した人々は、之を疑つて見ることができなかつた。大島北部のよく開けた地域では、盆に祭を受けに來る新精靈さへも、アラホウスと呼ぶやうになつて居る。ところが同じ島でも南に寄つた村々、又は加計呂麻の島などでは、二つは別のものと考へられて居たらしく、其一方だけをコスガナシと呼んで居た。金久正君の報告に依れば、コスガナシは海を渡つて來られる。それで身が冷えて居るだらうといふいたはりから、コスガナシだけには麥藁を門火に焚いて御迎へをし、新らしい方の魂祭には火を焚かないといふことである。日本の盆行事も、地方毎の變化が大きく、まだ其順序を見定めることは出來ぬが、魂を送るには今でも海邊に行くものが多いに反して、迎へは墓所からといふのが大部分を占め、山から川上からといふものはよほど少なく、濱に出て迎へる例は愈々稀になつて居る。火を焚く慣行は迎へ火送り火・火振の松明柱松など、こちらは殆と普通になつて居るのに、島に渡つてから、是が新舊の目標となつて居るなどは、この祭り月の相違と共に、愈々注意すべきことであつて、つまりは永い年代の間に、異なる傾向が次々と加増して來たのである。果して其根源には、私の假想して居るやうに、海のあなたの常世郷、死者の魂の去來する根國といふものがあつたかどうか。コス又はコウソホウスといふ一つの語は、今はまだ由來不明ながら、此意味に於て最も重要だと思ふ。

　

　　　　　　　二一　東方淨土觀

　

　話がたゞ長くなるばかりで、確かな結論の出て來ぬのは寂しいが、こゝには新たな問題を後に留める趣意を以て、(70)なほ一二自分の心づいたことを附記して置かう。沖繩でも又やまとの島々でも、古い信仰が力を失ひ、形ばかり整つたものになつて來るのは、先づ都府の生活からであつた。國の端々に散らばつて住む者は、新らしい統一に觸れないから、思ひ切つた忘れ方はしない。何とも思はずに持ち傳へたものはばら／＼になりやすいが、それを數多く集めて行くうちには、他に説明のしやうも無い一致がある。是が我々の一國民俗學の、たまさかに效を奏しやすい點であり、又相接する二以上の民族文化の比較が、助けを民間の傳承に求めなければならぬ理由であつた。自分一箇の所感としては、文化が休む暇も無く成長し又推移しつゝあるものだといふことは、よその民族に就いてはともすれば忘れやすく、又認めにくいもののやうに思はれる。さういふ中でも島の外來の力の影響に弱く、殆と根こそげに變つてしまふといふことさへ有り得る。それを或一時點の横斷面によつて比べたならば、どんな飛んでも無い推斷でも、先づ成るほどといふことになるかもしれない。早い話が南の島々の後生觀などは其一例で、こゝには佛法の指導力が存外に弱かつた爲に、新らしい觀念は起らず、古くからあつたものは消え放題で、あの世といふ言葉は有りながら、それはこの世の中に在ると、いふやうな考へ方も行はれて居る。島毎にといはうよりも寧ろ家毎人毎に、死んで行く先を色々に考へて居る。ハンサといふ言葉が以前はあつて、それが現世のサンカと對立したらしいが、それも今はもう幽かな痕跡である。道の島の二つの昔話集にはダクの國、又はアンダの國といふのが後生のことで、多分は淨土教の安樂國を聽き傳へたものだらうが、それもあんまり遠い處でなく、海を越えて行くやうな話も無く、廣い野中に深い穴があり、石の蓋をはねのけると太い芭蕉の綱が下つて居たと、語つて居る例さへある。注意してよいと思ふことは、是と竝んで鬼が島、又は鬼が城といふ世界があつて、地獄では無いけれども怖ろしい處だつた。こちらの昔話とちがつた點は、鬼は後生の使となつて人の魂を取りに來るが、折々騙されて空手で歸ることもあり、或は頼まれて人の生存期間を加減したりする。震旦の小説にはよくある話だが、或は古い昔にセヂの管理、壽命や運勢を附與する力が、ニルヤに在つたといふ信仰から、筋を引いて居るものとも考へられぬことは無い。

(71)　之を要するにニライカナイといふ言葉が古くなつて、めつたに神歌祭文の外では聽かれなくなつてから、何か我々の心に殘るぼんやりとした概念を、表示するやうな單語の需要が生じ、それが思ひ／＼であつた故に、段々と分化したらしいのである。佛法の信者たちとつきあつて居れば、幾らでも選り取り見取りだが、小さな島では斯んな資材でも限りがあつた。アマミヤ・アマミキュも其一例かと思ふが、是はもう大分早く始まつて居た。沖永良部島のティンヌミヤ（天の庭）、喜界島の雲の世などは、さう弘く行はれなかつたらしいが、アガレヒラシマ又はアガレヤシマなどは、この二つの島に共通し、そこに美女を求めて未榮える婚姻をした話などが、近世のロマンスを樂しくして居る。アガレは東方、日の昇る處、平島は即ち地平の線上に横たはつて、?々靄や荒波に蔽ひ隱される島であつた。おもろ草紙の卷十三にはアガルイの三島、テダが穴の三島といふ句がある。或は本島内の三つの邑だとの説もあるが、知念玉城は太陽の穴では無い筈である。やはり海上遙かあなたに、そこから日輪の上つて來る三つの島があることを、人が共同に夢みて居たのだと思ふ。昔はそのオホアガリの島から、赤い髪の色をした男女が、時たま與那原の濱に渡つて來ることがあつたやうに、噂をする者が多く、伊波普猷氏なども幼ない頃、よく其話を聽いて居たさうである。今ある現實の大東島が發見せられたのは、それよりやゝおくれた明治十八年以後の事で、そこには人も住まず泉も無く、自然の條件は樂土と言ふには遠かつたけれども、やはり島の數は三つあり、又ほゞ旭日の上る方角に在つた故に、之を大東島と呼ぶことに何人も躊躇しなかつた。さうして南の人たちのまぼろしのオホアガリシマは、ちやうど此頃を限りとして、信仰の世界から消えてしまつたのである。但し現在の三つの島が、地圖の上に確認せられるよりも以前から、是を實存のものと見ようとする機運は動き、龍宮即ち琉球といふ説すら、之を信ずる者が少しはあつた。殊に南方の諸島に在つては、それかと思ふ島の影が遠く漂渺の間にちらついても居たのである。雨霽れ海上の清く澄みたる日に、遙か辰巳の方に其島の形を見ることありと、奄美大島の舊記にも誌されて居るが、是はどうやら傳聞の誤りがあつて、西の沖の横當島と混同して居るらしい。しかし百餘年前の文化三年に、笠利方の名士當濟といふ人が、舟(72)を艤し同志を伴なうて、往つて見て來たのは確かに今日の大東島であつた。逆潮に妨げられて上陸はし得なかつたが、却つて其爲にアガリヒラ島の解釋は、大きな影響を受けたかと思はれる。

　しかし考へて見なければならぬことは、南から北へか、北から南へかはまだ決し難いにしても、ともかくも多くの島の島人は移動して居る。日本は舊國の譽れが高かつたけれども、この葦原の中つ國への進出は、たつた二千六百餘年の昔である。所謂常世郷の信仰の始まつたのは、そんな新らしいことでは無いのだから、もしも偶然にこの東方の洋上に、それらしい美しい島があつたとしたら、却つて取扱に困るところだつた。しかもさういつた現實のニライカナイを持たぬ、三十度以北に住んで後まで、なほ引續いて南方の人たちと同じに、日の出る方を本つ國、清い靈魂の行き通ふ國、セヂの豐かに盈ち溢れて、惜みなく之を人間に頒たうとする國と信じて居たとしたら、それこそは我々の先祖の大昔の海の旅を、跡づけ得られる大切な道しるべであつたと言つてよい。浦島子の物語をたゞ一つの例外として、古事記の常世郷への交通記事は、何れも太平洋の岩邊と結びついて居る。少彦名命が熊野の御碕から、彼方へ御渡りなされたといふのもなつかしいが、伊勢を常世の浪の敷浪寄する國として、御選びになつたといふ古傳などは特に殊勝だと思ふ。數知れぬ北太平洋の島々に、果して幾つまでの種族が東方に淨土を認め、心の故郷を日出る方に望む者が、今も活きながらへ、古い信仰の記念を持ち傳へ、又は榮えて新らしい世に立たうとして居るであらうか。幸ひにして諸君の學問が、段々に之を究め明らめることが出來るとすれば、他人はいざ知らず、自分は何よりも先づ彼等の歩み來つた途が、どれ程の變化を以て、各自の艱苦を忍び各自の幸運を味はつて來たかを尋ねて見たいと思ふ。

　

(73)　　　　　みろくの船

　

　　　　　　　一　未來佛の信仰

　

　歌にしば／＼「そのあかつき」と詠ぜられた、未來佛・當來佛の信仰は、日本に渡つて來てから後、何かよほど大きな變化を遂げたのではないかといふことを、私は今考へ始めて居る。問題はしげく又末遠く、とても其一端を究めるだけの、時すらもこゝには無ささうに思はれるが、念ずるといふことも亦結縁である。茫洋たる學問の世界に於ても、なほ我々は待つ者の樂しみを味はふことができるのではあるまいか。

　西方の彌陀の淨土に押しせばめられて、彌勒の天國は段々と高く遠のき、其まぼろしは愈々幽かになつて、そこに往生を期する者も今は至つて稀であるが、不思議に斯邦ではあちらからの消息が絶えず、それも現世の果報に結びついて、墓とも寺とも縁の無い一種の東方佛教が、國の隅々には成長して居る。之を省みようとした人が無かつただけに、我々にとつては限りも無くなつかしいのである。前年岩波文庫の利根川圖志を校訂して居た際に、始めて心づいて興味を催したのであるが、常陸鹿島のあたりの土俗の習ひに、物の祝ひなどある折、又は祈事をする日など、老婆たち多く集まり、彌勒謠とて各々聲をあげて歌うたひ、太鼓を打ち踊つた。手を振りつゝ踊るさまいとをかしく、中昔の風と見えたり云々とあつて、其唱歌の一章を掲げて居る。後にわかつたことは、是はこの本より數十年も前に出(74)版せられた鹿島志からの全文轉載であつて、從つて安政年間までも此踊が行はれて居たといふ證據にはならぬが、一方には鶴峯戊申の海西漫録に、是より少し前鹿島宮に參詣して、老女が蓆の上に坐してこの歌をうたふのを聽いたといふ記事もある。辭句にはもちろん次々の改廢はあらうが、今でも土地にはまだ其記憶が殘つて居るかもしれない。尋ねて見たいものと思ふ。

　

　　　　　　　二　踊歌の流傳

　

　鹿島志以下の書に採録せられた彌勒謠の一篇は、やゝ長たらしいだけにおとなしく、所謂中昔の風も窺はれる。後の比較の爲に全文を掲げて置くことにする。

　　　世の中はまんご末代

　　　みろくの船がつゞいたァ

　　　ともへには伊勢と春日《かすが》

　　　中は鹿島のおやしろ

　　　ありがたや息栖《いきす》おもりは

　　　こがね社壇うてかゞやく

　　　うしろにはひよき（清き？）神たち

　　　前は女瓶《めがめ》男瓶《をがめ》ござふね

　　　かんどり（香取）は四十おやしろ

　　　音にきくもたふとや

(75)　　　一たびはまゐりまうして

　　　金《かね》の三合《さがふ》もまかうよ

　　　かねさごは及びござらぬ

　　　米《よね》の三合《さがふ》もまかうよ

　　　何事もかなへたまへ

　　　ひだちかしまの神々

　まことに老女らしい淡々たるユウモアではあるが、ともかくも盆の供養の踊のやうな、哀調でなかつたことは先づ注意せられる。但し黄金三合といふ戯れの誇張に對して、米の三合を撒かうといふのはたゞ空想で無く、或はもとこの踊の所作に伴なうて、何かさういふ行事があつたのかと思はれるふしがある。こゝと利根川を隔てゝ、さまで遠くない印旛沼周邊の村々には、春秋の祭の日に鹿島歌をうたひ、踊つてあるく慣習が近い頃まであつたことが、小寺君の郷土民謠舞踊辭典に見え、今でも尋ねて見ればまだ／＼多くの例が集められさうに思はれるが、さういふ中でも印旛郡本野村｜荒野《こうや》、十月十五日の雷公神社の祭日に、其年の新郎新婦が一組、特に盛装して社殿と寺、もとは庄屋の家へも廻つて行つて、男女それ／”＼に相傳したさゝげ歌といふのを歌ふことになつて居た。サヽゲは頭の上に物を戴くことをいふらしく、歌の詞の中からもほゞ其意味が汲み取られる。僅かばかりの記憶の誤りが有るやうだが、先づ男の方の辭句には、

　　　まことやら鹿島みなとへ

　　　彌勒かな、よき（マヽ）

　　　舳艫には伊勢春日

　　　中は鹿島の大やしろ

(76)　　　世の中はいつも正月

　　　男が水汲む、女がいたゞく

　　　其水を上げ下し見申せば

　　　子持金がなゝ（マヽ）九つ

　　　二つを宿に置き候

　　　七つで倉を建て候

　　　……………………

　　　……………………

　　　天竺の雲のあひから

　　　十三姫がなゝ（マヽ）米をまく

　　　米まけば只もまけかし

　　　みろく續けと米をまき云々

といふやうな言葉があり、又一方の女相傳の歌にも、

　　　……………………

　　　當村のうぶすな神

　　　天にござます神なれば

　　　七難を拂ひ申して

　　　村へ米を下すべし

　　　當年何どし、何の歳にて候

(77)　　　世は萬作年で候

　　　めでたいな、五穀上りて

　　　浮世の人が喜ぶ

　　　行き候や、かへり候や

　　　うしろへ彌勒がつゞいた

などといふ文句が列ねられて居るのを見ると、かつて稻作の豐熟を以て、いはゆる彌勒出世の第一の奇瑞と解し、米を祭場に撒きちらすことによつて、その絶大の歡喜を表示しようとした時代が、あつたといふことも想像し得られる。但し海からやゝ遠い農村であるだけに、こゝではもう舳《とも》艫《へ》といふ語が誤つて傳はるのみで、みろくの船といふことは既に忘れられて居るやうである。

　

　　　　　　　三　彌勒二年丁卯

　

　問題の中心とすべき點は、斯ういふ恐らくは佛教に基礎を持たぬ彌勒の信仰が、如何にして我邦に生れ且つ成長したかといふことであらうが、斷定は容易に下し得ないまでも、是が單なる愚民の訛謬として、不問に附し去るほどの小さな現象では無いといふことゝ、一方には又幽かながらも幾つかの手掛りはあり、之に近よつて行く方法も決して絶無とは言へないことだけは、今でも一通り述べて置く必要を感ずる。自分は元來問題を永く温め、やたらに青刈りをせぬといふ修養を心がけた者であるが、今や殘んの日も既に乏しく、しかも近年の學風は、教理の本源を究むるに專らなるあまり、往々にして國内千敷百年の變遷を擧げて、すべて零落の姿の如く、見てしまはうとする傾きを示して居る。せめては別に斯うした考へ方もあるといふだけを豫報して置かぬと、今ある僅かな民間傳承も消え埋もれ、(78)是を我々の新たなる覺りに、導いて來る機會は無くなるかもしれない。乃ち一種の發願の爲に、このたど／＼しい小文を書いて見る氣になつたのである。

　日本では應仁の亂後、世上が極度の窮乏と動搖の底に沈んで居た際に、彌勒の信仰が突如として目さめて來たらしく、彌勒二年といふ私年號が、弘く東國の各地に使用せられて居た證跡がある。富士山北麓の甲斐妙法寺記、下總香取神宮の録司代家文書、その他飛び／＼に發見せられた數箇所の例は、何れも書札作成の日附として記入せられたものであつた。前年改元の都の沙汰が、邊土に傳はつて行つた?況に照し合せると、こゝに二年とあるが殊に眞實性をもつ樣に受取られる。即ち一時は少なくともさういふ年號が、新たに制定せられたものと信じて、之を用ゐた人が多かつたのである。この彌録二年丁卯といふ年が、後柏原天皇の永正四年、西暦一五〇七年に該當することには先づ疑ひが無い。單に干支が一致するといふ以上に、記録の上からも推定し得られ、又土地の人々が誰も彼も、十干十二支の年繰りを誤るといふことは有り得ないからである。しかしさうした僞りの年號が、如何にして此樣に弘く、一般に遵奉せられることになつたかといふと、たゞ亂世の交通不便だけでは説明がつかない。風説の根元には相應な力があり、しかも之を遠くに運ぶほどの情報組織のあつたことが想像せられる以上に、一方民間にも文字ある階級を引きくるめて、是をさもあるべしと思ふやうな、常識なり信仰素地なりがあつたものと見なければならぬ。年號の更定には、國家の瑞祥を記念したものもあるがそれは大昔の話、後代は革令革命の理論に基づいて、定まつた年次にそれが行はれた以外、大抵は何か望ましからぬ異變があつた次の年に、改元があるものときまつて居た。朝廷の力が衰微して、それさへも計畫し難い期間は續いたのだが、なほ大衆は之を豫想し、荒れ狂ふ飢饉疾疫のさなかに於て、さういふ呪法に近い善政を待ち焦れて居たのである。現在もまだ殘つて居る世直しといふ言葉は、或はこの頃に始まつたものかもしれない。江戸ではたしかに田沼改權の倒壞した際にも、刺客の佐野某を世直し大明神と謂つて、墓參りが賑はつたといふ話もある。普通は地震の時の唱へ言ぐらゐにしか用ゐなかつたが、世の中とは元來農作の豐凶のことであつ(79)た。即ちその世の中を復興する力が、隱れて外に在り、それを信心によつて招き寄せ得るといふことが、惱み苦しむ生活のせめてもの樂しみだつたかと思はれる。彌勒といふ年號などは、京都の教養人には固より意外であり、又滑稽でもあつたらうけれども、是がある爲にこの種の他力信仰の時代色、もしくは中心とも根源とも名づくべきものが、少しづゝ摸索して行かれるのである。

　

　　　　　　　四　鹿島の事ふれ

　

　故橋川正君の日本佛教文化史の研究に、常陸鹿島の彌勒の船の踊歌を、この所謂彌勒二年の私年號と、關係のある現象だらうと説かれたのは、注意すべき一つの見解であつた。後の改作が想像し得られるに拘らず、今傳はつて居る謠の辭句も、表現が如何にも素樸であつて、室町期の氣分が感じられる他に、一方には寛永の頃、諸國に疫癘の災ひがあり、鹿島の神輿を渡して其患ひを除かんことを?つた際に、この躍を踊つたのが始めだといふ言ひ傳へもあるといふから、少なくとも近年の流行で無いだけは判る。この私年號の稱へ始めが、鹿島だといふ證據はまだ見當らぬが、常陸一國の文書の中にも二三の實例はあつて、こゝが年號使用國の東の端であり、其上に伊勢春日とも對立するほどの、有力な信仰の中心があつたのだから、其想像には若干の根據無しとしない。

　我々の是から資料を捜し求めて、由來を明かにして見たいと思ふことの一つは、鹿島の事觸と呼ばれた下級神人の巡歴である。近頃の記録に出て居るのは、すべて願人坊主に近い門付け物貰ひの徒であつたが、それでもまだ彼等の唱へあるいた歌詞などの中には、比較に値する僅かづゝの特徴が傳はつて居る。さうして鹿島の神威の全く及ばぬやうな遠い地方にも分散して、活計の爲に可なり自由な宣傳もして居たらしいが、別に本社の公認を受けて、御礼配り等をした者も少しはあつて、兩者の分堺は必ずしも明白でなかつた。常陸國誌の記すところに依れば、鹿島事觸は夙(80)く現はれ、すでに寛文十年（一六七〇）といふ年に、寺社奉行は大宮司則教の申立に基づいて、彼等の業務を祈?と札配りとに限定し、それも本社の允許を受くることを必要とし、且つ事觸の名を改めて、御師と謂ふことにしたとある。それにも拘らず元の名はなほ久しく行はれて居たのだから、法規の守られなかつたことも察せられる。伊勢の御師などは最初から、札配りが言はゞ表の任務で、祈?はたゞ取次をするのみだつたのに反して、鹿島の御師は事觸の名の示す如く、もとはこの二つの外に、なほ路頭の託宣を公認せられて居て、到る處辻々の群衆に對して、次の年の吉凶禍福を、神の言葉として觸れあるいたやうである。彼等の數がふえ、行動が遠く伸び、本社との聯絡が疎くなれば、弊害の次第に激化するのも當然であるが、それが官權によつて制御せられず、實際に又偏鄙の土地であるだけに、惡いたくらみを働かすほどの誘惑も無く、寧ろ適度の慰安と激勵とを配布しつゝ、過ぎて居た期間も相應に久しかつた。今ある一見不可解な色々の民間の言ひ傳への中には、斯ういふ異常な動搖の爲に、印象づけられて殘つたものが無いとは言はれず、たとへば彌勒二年といふやうな類の無い私年號なども、或は其一つであつたらうとも考へられぬことは無い。たゞ是と寛永年間の鹿島躍流行との間には、百年以上の經過があり、寛文十年の事觸禁止は、それから又五十年も後であつた。中間に幾度かの起伏があつたことは考へられるが、それにもせよともかくも彌勒出世の信仰は、世直しの思想と結びついて永く續き、更にその特色に富みたる行事形態を、物みな變り果てたと見られて居る、昭和戰後の今日まで、保存して居たのである。假に其背後に更に悠久の昔の世を、推定し得る望みが全く無いときまつた場合でも、なほこの現象は傳へて置く價値がある。しかも筆者はまだ決して其希望を棄てゝは居ないのである。

　

　　　　　　　五　路頭託宣

　

　鹿島事觸の路頭託宣といふ言葉は、古人の既に用ゐて居るのを珍らしいと思つただけで、新たに私が作り設けたも(81)のでは無い。記録文藝に痕を留めた事例こそは僅かであらうが、この民族の信仰が是によつて生育し、繁延し變化し複雜化したことは、中世以後に在つては寧ろ普通だつたと言ひ得る。近頃の踊る宗教を見ても察し得られるやうに、見知らぬ人たちが旅からやつて來て、新らしい教へを説かうといふのには、踊ることは近路であり、又有效なる方法でもあつた。聲高な言語は行く人を立止らせるが、趣意を汲み取らぬうちに、さつさと行き過ぎる者を制止することが出來ない。之に反して踊には切りがあり、又際限も無くくり返されて、段々と印象を成長させる。狂言記などの中には、移るといふ語を盛んに使つて居るが、單純な人たちはじつと氣を取られて見て居るうちに、思はず手ぶりを眞似、間拍子に乘つて、しまひには我知らず人數に加はつて行くといふやうな習性が空也以前、「八幡種蒔く」よりももつと昔から、すでにこの島國の住民たちの、もつて居た長處短處であるやうに私には考へられる。踊も藝能だから、一たび天才が之に參與するならば、いくらでも美しく花やかに、從つて又人を引寄せ得られた筈と、解してすませるのは月竝であつて、そんな職業が出來たのはずつと後の話、最初凡人大衆の群を面白がらせ、是を何でもかでも土地のものとして、守り育てゝ行かうといふ氣にならせた元の力は別に在り、それは技藝といふよりも寧ろ宗教的で、殊に外から入つて來たものが多かつたのではないかと思ふ。乃ち仲間の大勢と共にみんなのする通りに飛び跳ね又歌つて居るといふことが、先づ大きな樂しみであり心強さであつた期間が暫らくつゞき、それからおもむろに次々の改良と應用とが企てられるやうになつたものらしい。鹿島事觸の足跡は絶えて年久しく、是と彌勒の踊歌との關係は尋ね難いが、少なくとも曾て何等かの形を以て、この所謂路頭託宣が行はれなかつたならば、到底持運び得られまいと思ふ地域にまで、この一種の歌は分布し、しかも多くは祭禮の日の踊に伴なうて居る。私は問題は實は是より外に在るのだけれども、こゝを通つて進むのが、最も解釋に近づきやすい道のやうに感じて居る。

　鹿島踊といふ踊歌が、現在又はごく近い頃まで行はれて居た地域は、大體に東日本に偏して居る。小寺氏の辭典に拾ひ上げられた例の中で、一ばん鹿島から遠いのは越後頸城地方の彌勒歌で、是だけは祝宴の席に歌はれるとあつて、(82)神社の祭禮とは關係が無いやうだが、歌の章句にはやはり前に掲げた「世の中はまんご末代」があつた。其以外には多摩川上流の小河内村の鹿島踊でも、下總印旛郡の村々に分布するものでも、安房の半島から伊豆、大島更に其對岸の幾つかの海村に現存するものでも、いづれも一年にたゞ一度の大祭の日の催しとして、住民總員の熱意を傾ける晴の行事となつて居たのは、單なる流行とか好みとかいふ以上に、何か下に隱れたる共通の理由が、あつたことを推測せしめる。

　

　　　　　　　六　彌勒御船

　

　箱根山を西へ越えると、今はまだ一つだけ、遠州島田の大祭に、鹿島踊が出たといふ話を聽くのみで、それも詳しいことは知つて居らぬが、是は自分たちの今までの注意が足りなかつた爲といふのみで、是ほどの東西交通に於て、大井川が一方の終端といふことは多分は有り得まい。さうすると分布はどこまで及んで居るとするか。名が先づ消え失せて感覺はなほ殘り、手振り歌言葉の端々が、古い姿を留めて居るといふ例が、是からも少しづゝ集まつて來るのではないか。私のひそかに興味を寄せて居るのは、所謂みろく船の章句には、明かに二度以上の改定が行はれて居る。土地々々の空想も參加して居るにちがひないが、なほ根本には鹿島の神�ｺを説く點の共通が失はれて居ないのは、單に傳來の經路を明かにする以上に、或は又是をしも收容し得たやうな、以前の神社信仰の本質を、窺ひ知らしめる、一つの手掛りになるかもしれない。從つて將來のもつと弘い比較のために、豫めやゝ細密に之を檢討して置く必要がある。

　各地の鹿島踊歌のうち、武州小河内のものには紛亂があり、全くちがつたコキリコ踊と繋がつて、もう意味が取れなくなつて居る。大島元村の吉谷神社、正月十六日の踊歌といふのは、今傳はつて居る新らしい事觸の言葉と近く、(83)よほど遊戯味の多いものになつて居る。島に事觸の渡つて行つたことは考へにくいが、或は別に海上の宣傳方法があつたものか、又は之を招致するに適するやうな、特殊な信仰の素地があつたのか。何かまだ我々の知らない理由が有つたらしく、眼近く相對する伊豆東海岸の各地から、相州足柄下郡の浦々にかけて、祭にこの彌勒歌を踊つたといふ例が多く、しかも歌の詞は一樣に、却つて大島のものよりは古風なのである。

　熱海來宮の七月十六日の例祭に、古來行はれて居た鹿島踊の記録は、可なり精密なものが民俗藝術三の八に報告せられて居る。附近の幾つかの村のも是に準據したものか、歌の詞などは互ひによく似て居り、俚謠集に出て居る次の安房郡のものも大同小異である。

　　　ちはやふる神々をいさめなれば

　　　みろく踊のめでたし

　　　まことやら熱海の浦に

　　　みろく御舟が着いたとよ

　　　ともへには伊勢と春日の

　　　中は鹿島のおん社云々

　他にもまだ色々の歌はあるが、鹿島踊といふからには是が元歌であつたらう。この「熱海の浦」の句を、足柄下郡方では「眞鶴みなとに云々」と歌ひ替へて居り、安房では本のまゝに鹿島の浦にと歌ひ上げて居た。即ち鹿島志などに出て居る「世の中は萬劫末代」といふ初の句を、「まことやら」といふ想像の語に改めたのみで、大體に以前の構造を保存したものが、太平洋岸の是だけ弘い區域に、つい此頃まで殘り傳はつて居たのである。

　伊勢と春日とを招請した、一種東國風ともいふべき三社信仰は、推理によつてでもほゞ其成立の年代を明かにし得られようが、それが果して私の謂ふ世直し神の、遠く海上よりこの國土を訪れたまふべしといふ傳承の、起原を成し(84)て居たかどうかは、さう簡單にはきめられない。それよりも前に考へて見なければならぬのは彌勒の船、この人問の遁れ難い苦惱と哀愁を、いつかは完全に拔き棄てんが爲に、下生したまふべしといふ佛樣が、やはり船に乘り水を渡つて此岸に御着きなされるものと、最初から想像せられて居たかどうか。或は漫々たる大海によつて取圍まれたる島國である故に、こゝのみはさう解せずには居られなかつたか、但しは又別に元からの是にやゝ近い言ひ傳へが、常人の心の底に潜み殘つて居て、迎へて彼の信仰を此樣に育て上げたのではなかつたか。それを考へて行く爲にも幸ひにまだ僅かな資料がある。かつて鹿島の宣教が、今よりもずつと盛んだつた時期があるにしても、人間の脚には大よその限りがある。鳥も通はぬとさへ言はれて居た南の南の島々に、今でも行はれて居るといふ年々の彌勒踊が、この東國の同名の行事と、幾つかの類似をもつて居て、しかも鹿島との因縁が捜し出せないのは大きな意味がある。是も固より斯くあれかしのわざをぎではあつたらうが、その懷かしい幻影の種はどこに在るか。殊にミロクといふ名の起りは何に由るか。八重山諸島の節祭りの歌と行事、一方には宮古島の世積み綾船の古傳等に引き比べて、私は今改めてニライといふ海上の淨土のことを考へて見ようとして居るのである。

　

(85)　　　　　根の國の話

　

　　　　　　　一　亡き人に逢へる島

　

　肥前の下五島、昔の世の大値賀島の北部海岸に、三井樂《みゐらく》といふ岬の村が今もある。遠く萬葉集以來の歌に出て居るミミラクの崎と同じだと、今日の人は皆思つて居る。萬葉集は卷十六に歌が一首出て居て、そこに「肥前國松浦縣美禰良久崎」とあり、又續日本後紀の承和四年の記録にも、多分この地のことだらうと思はれる松浦郡の旻樂《みんらく》の崎といふ地名がある。私の想像では、とにかくこの崎は早くから大陸に渡る船が此處まで行き、もしくは向ふから還つて來た船が茲に舶繋りして、風潮の頃合ひを待つといつた、海上の要衝として注意せられて居たのである。

　一方に又ミミラクの島といふ歌は、それからずつと後の幾つかの歌の集に出て居て、その中で一番有名なのは源俊頼の散木奇謌集の中の、「尼上うせたまひて後、みみらくの島のことを思ひ出でてよめる」といふ詞書のある歌であるが、

　　　みみらくの我日本の島ならばけふも御影にあはましものを

と謂ふのは、この島に行けば、亡くなつた人の顔を見ることが出來るさうなといふ言ひ傳へが、この時代にあつたことを暗示して居る。「我日本の島ならば」とあるのは、乃ち日本でなかつた何處かの海に、その傳説の島はあると傳(86)へられたので、下五島北岸の同名の崎は、寧ろそれに基づいて後に生れたものであり、一方の島の名のミミラクは起源がもつと久しく、或はこの散木奇謌集などに出て居る樣に、其處へ行けば死んだ人に逢ふことが出來るといふやうな傳説が、夙くからあつたが爲ではないか。この點が私の新たに心づいた此問題の出發點なのである。即ち斯ういふ空想上の名前がもとからあつた故に、日本の一番突端の、外國に最も近く、さま／”＼の人の集つて來る處を、新たに又ミミラクの崎と言つたのではないだらうか、といふことを是から考へて見たい。

　文獻の上から言ふと、萬葉集の卷十六にしても、續日本後紀の記事にしても、みな散木奇謌集などの時代よりは古い。從つて或は崎の名の方が前に出來て居て、その珍らしい地名の評判から新たに國の外に其樣な奇怪な島、そこに行けば死に別れた親はらからにも逢へるといふやうな、又一つの同名の島を空想し始めたとも、考へられぬことは無いやうだが、それには或程度の反證が自分には擧げられる。單にミミラクの島といふ名が文獻の上に現れないだけで、日本に古くから傳はつて居る死者の國、それも海の彼方に隔絶して、稀々に生者も往き通ふと信じられて居た第二の世界が、我々の古典に於てはネノクニであり、又はネノカタスクニとも呼ばれて居り、それとミミラクとの繋りは説明し得られる。故に、それを日本の西の突端、外國に渡る境の地、是非とも船がかりをしなければならぬ御崎の名にしたのにも、埋もれたる意味があるのではないか。たとへ萬葉集や續日本後紀の時代であらうとも、そこに斯ういふ名を付ける爲には、何か其以前からの傳説がなほ民間に殘つて居ることを必要としたのでは無いか。今までの世の考證家たちは、とかく記録の前後といふことに囚はれてしまふやうだが、我々の忘れ殘りは、必ずしも文字や土器石器の間だけに限られては居ない。そこで最初には先づ根の國の問題、是が如何なる變遷を累ねて今日に傳はつて居るかを考へて見ようと思ふ。

　

(87)　　　　　　　二　根の國と常世の國

　

　根の國といふ語は、日本に常世の國といふ類の文藝語が現はれた結果として、次第に記録の上には使はれなくなつて居て、それを説明する資料は乏しく、從つてすぐれた近代の學者の中にも、びつくりするやうな解釋の相違があつて、今もなほ多分に研究の樂しみを殘してゐる。たとへば死後の世界を意味するヨミヂ又はヨミノクニといふ語は、今日も一部にはまだ現存するが、是が果して漢字通りに光無き地下の國を意味したかどうか、確かな證據も無いのに、日本紀にも古事記にも、夙くから黄泉といふ隣國の語を用ゐて居て、さも／＼人の魂が土の底深く、入つて行くもののやうな印象を與へて居る。私などの推測では、是は全くネノクニといふ我邦固有の大切な言葉に、やゝ無造作に漢字の根の字を當てゝしまつた結果、夙く此樣な誤解を導いたものらしく思はれる。それといふのも多數歸化人の文字の知識を重用して、國の口語の相應に發育し複雜化して後まで、なほ久しい間自分の表記法を設定せず、いはゆる萬葉式の不自由極まる書き方を、最近の候文時代まで、守りつゞけて居た公けの過失の爲であつた。もちろん漢字の根の字とても、根源とか根本とか、應用の區域は次第に擴張して居るが、その起りはやはり地下に入つて行くものに在つたらしいに反して、こちらのネ（根）の語の基づく所はどうやら別にあつたらしく、しかも世に出て働くために、一生懸命に一字づゝ漢語を學んで行く人々は、さういふ根本のちがひまでは經驗する機會が無い。乃ち上代の人も亦上代なりに、思ひちがひをする場合が有り得たのである。久しい年月を重ねるうちには、さういふ誤解も亦固定することがある。今日も「地下に感泣す」だの、又は「地下の靈もし知るあらば」だのと、平氣でいふ人もぽつ／＼ある。人の亡骸を深い穴の底に、ことんと入れてしまふ例は幾らもあるが、あれはナキガラであつて靈魂では無い上に、さういふ葬法もよほど新らしい起原であつた。一般には靈のみは自由に清い地に昇つて安住し、又は餘執があればさま(88)よひあるき、或は愛する者の間に生れ替つて來ようとしても居た。根が地下のことだといふたしかな證據があるか、又は正しい推定であつたかは、是からの大きな問題だが、少なくともミイラを作つた國の人のやうな、物質永續の信仰を日本人は持つて居なかつた。即ち黄なる泉の流れるといふ土の底まで、入つて行く場合などは有り得なかつた。從つて又我々のいはゆる根の國は、もつと安らかな、此世の人の往つたり來たりまでが、會ては可能と考へられた第二の世界であつた。中世の傳説のミミラクの島は、先づこの一點に於て是と牴觸する所が無い。

　

　　　　　　　三　比較の學問の夜明け

　

　久しく南端の島々に分れ住んで、互ひに異國のやうな感じを養ひつゞけて居た沖繩諸島の人たちが、近世漸くにして再會の機會を把へて、言語信仰その他の生活諸相に、埋もれたる上代の一致を心づくに至つたことは、我々の爲にも豫期せざる大いなる啓發であり、同時に又南北太平洋の洪大なる水面に、ばら／＼と散布して居る島々の居住者に取つても、測り知られぬほどの大いなる希望の種であつた。しかもこの大切なる比較の學問が、僅かに其萌芽を見せた矢先に、今度のやうな忌はしい事變が出現して、故老は次々と世を去り、遺跡は名ばかりにならうとして居るのは、歎いても歎ききれぬほどの情けない轉變であつた。しかし沖繩諸島だけにはそれでもまだ僅かな近世の文獻があつて、聊かの昔だけは是からでも尋ねて行かれる。たとへば日本の神代の根の國が、もとは單なる地底の「根」だけでなかつたことは、根國・根の島・根どころなどの語からも窺はれる。那覇の波の上といふ丘陵の高みでは、毎年日を定めて此附近の居留者が、各々其故郷の方角に向けて香爐を置き、それ／”＼の本國に向つて遙拜の式、こゝでネグニ拜みといふ祭が近い頃まで行はれて居た。こゝで根といふのは勿論地下ではなく、たとへば日本の前代に大和島根、もしくは富士の高根といふネと同じく、又此島で宗家をモトドコロ或はネドコロともいつたやうに、言はゞ出發點とも中(89)心點とも解すべきものであつて、次第に其在りかが不確かになつたとは言へ、是が本來は統一の力でもあつたのである。其記憶が島々への分離によつて、次第に稀薄になつたとは言つても、古い名稱のみはなほ久しく傳はつて居た。島々の上代を咏歎した詞曲の中に、?々くりかへされて居た神の故郷、ニライもしくはニルヤと呼ぶ海上の靈地の名は、多分は我々の根の國のネと、同じ言葉の次々の變化であらうと思ふ。

　おもろ草紙に保存せられた數々の詞曲の中には、樣々の變化を以て同じ言葉がくり返されて、詳しく分類して見ると興味は深いが、大體にニライカナイと、ニルヤカナヤとの二つの用法があつて、語尾に場所を示すヤを附したかと思はれるニルヤの方が、後の變化らしいことは、前に海神宮考の中でも説いて置いた。少なくとも南の先島地方にはニイラがあつて、ヤの語尾を添へたものは無く、北に連なる奄美の島々ではニルヤが多く、其他に又ネリヤがあり、根屋と書いてニーヤと呼ぶものさへあり、多くの昔話の中では龍宮といふ言葉が、その根屋と交互にさし替へられて居る。沖繩本島の昔話は散亂してしまつたやうだが、一般に此語を祭典を掌る家に專用させた爲か、僅かに八月の節祭の行事に、ニライの大王といふ靈物が、かの島から渡つて來るといふ年々のわざをぎが殘つて居たのみで、常の日の用語からはもう消えてしまつて居るらしいのに反して、宮古・八重山の二島群の方だけは、今なほ是が普通語の中に保存せられて、或程度まではその語原を尋ねて行くことが出來る。いはゆる三十六島の地積人口は、集算しても内地の一小縣に及ばぬのだが、島と島との隔離が大きく、住民の來歴が島毎に異なる爲に、相互に比較をして見ると思ひ當ることが多い。しかも今までは主島の威望が強かつた爲に、各島個々の觀測によつて、埋もれたる原因を見究めようとする努力が足りなかつた。少なくとも此方面には進展の餘地がなほ多いかと思ふ。

　

(90)　　　　　　　四　形容詞の發生

　

　自分が聽き知つた僅かな例の中にも、なほ幾つかの暗示がある。殊に八重山の主島などは、宮良當壯君の少年期の記憶が精確で、其資料は利用に値ひする。たとへばニーラーコンチェンマは、こちらでケラといふ蟲のことで、カンチャは娘の名、アンマは其敬稱であるといふ。此蟲は地底深く住み、井戸を掘るときなどに出て驚くことがある。この名の兒童遊戯は濱邊で一人を顔を蔽うてうつむき伏させ、其上からうんと砂を掛けて置いて、下界のことを尋ね問ふ遊びだといふ。即ち此島でも亦大和からの影響でなしに、ニーラを土の底といふ意味に解するやうになつて居るのである。それからこの石垣の島だけでは無いが、又ニーラスクといふ言葉があつて、是も地底の意に解せられて居るが、まだ一部分その原の心持が殘つて居る。石垣測候所の有名な老學者、岩崎卓爾翁の話に聽いたのは、冬のかゝりの或季節に、たしか東の方から吹いて來る寒い風を、ニーラスクから吹くといふ言ひ傳へがあるさうで、是は少なくとも海の彼方のことであつた。日本の古語にあるソキヘノキハミ、又はソキヲリトモヨのソキ・ソキヘなどは、底のソコと確かにもと一つであつたが、本來は單に遠い距離を意味し、必ずしも足もとの直下とは限らなかつたらしい。然るにも拘らず本居先生などは、常世のトコヨは底依の義なりと言ひつゝも、なほ一方に根の國底の國のソコの語に引かれて、愈々根の國を地底のやうに考へてしまはれたのである。是に附いて行けぬ人はあの頃から既に有り、現に平田翁は月の世界が根の國といふあの世であるやうにも説かれたが、この二つの懸離れた解説は、今もまだ何れとも決定しては居らぬかと思ふ。さうして氣輕なる世間の人々は、たゞ何と無く前の説に傾かうとして、しかもさうに違ひないとまでは信じて居ない。たよりない話である。

　そこで自分は國語の成長、又はその變化を考へて居る人たちに、いはゆる萬葉時代よりもう少し前、我々の言葉が(91)隣國の文字借用から、まだ大きな影響を受けなかつた頃の成長ぶりを尋ねてもらひたく、それには遺憾ながらもう何の資料も無いと、斷わられてしまはぬ用心のために、ほんの少しばかりの手掛りかと思ふものを、試みにこゝに提出して置きたいのである。八重山と宮古と二つの島群のちやうど中間に、多良間と稱する珊瑚礁で圍まれた小さな孤島がある。今からもう三十何年の昔、何年か前に此島から出て來て、東京で教員をして居た佐和田朝學君といふ人に出逢つて、私は一つの問ひを掛けて見た。貴君の故郷には、もしやニーラといふ言葉がありますか。有るならばそれはどういふ心持に、使はれて居ますかと聞いて見た。久しい記憶が幸ひに誤つて居らぬならば、其答へはちやうど此方の期待した通りで、今日の分類で言へば形容詞、しかも語尾の働き言葉を添へずに、ほゞ此方の歌詞などのアハレサやカナシサと近く、たゞ感投詞風にニーラと言ひ切つてしまふものだつた。一つの用法は掘井などの水面がむやみに遠く、たゞ暗い處でちら／＼と光つて居るのを、是は大へんだ、一ぱい汲み上げるのも容易で無いといふ意味に、このニーラといふ言葉を發するといふ話であつた。石垣島などのニーラスクを始めとし、北の方の島々のニルヤ・ネリヤの語尾のヤの如きも、是から推して行くと成立ちがほゞ判つて來る。もしも根の國の根が單に樹木の下部の名だつたら、斯ういふ名稱は生れて來さうにも無い。是も最初にはやはり遠く遙かなといふ意味をもち、今ならばネなる國とでもいふ感じを、表示しようとした構成であつたのかもしれぬ。若い鋭い學者の直感を以て、もう一度とくと考察してもらひたいものである。

　

　　　　　　　五　地名の起原の不明なもの

　

　それよりも差當つての必要は、ミミラク又はミーラクがもしもあの世とこの世との境の島であつたならば、それがどういふ經路を通つて、夙く今日の簡單なる根の國型に、落ついてしまつたかといふ問題を解き明らめることである。(92)是には自分はたゞ上代の末つ方、たとへば山城の京への都遷しが企てられ、之に伴なうての幾つかの政治改革が進み又は押返されて居た期間に、國の中央の言語の上にも、是に劣らぬほどの大きな變化が起つたこと、それもたゞ單なる推移には止まらず、或はもつと有力なる選擇があつたのでは無いかと感ずるのみで、其主力の流れを溯つて見ることもまだ出來ないが、とにかくに各地方の言語現象によつて、痕跡だけは今でもまだ突留めて行くことが出來ると思つて居る。

　一つの見方は古い頃の重要なる單語の、今は語原の尋ね難くなつて居るものと、一方には全國の端々にまで分布する昔からの地名との間に、、何か隱れたる成長過程の類似又は併行があつたらしいことである。日本は不思議に意味の取りにくい古い地名が多く、之を北隣のアイヌ居住地の、殆と片端から命名の動機の明かなのに對照して、殊に理由を知るに苦しむことは、ずつと以前に神保小虎博士も強く説かれた。それから今日まで、僅かアイヌ語の知識さへ持てば、すぐにそれを持つて來て我々の地名の由來を説かうとする、をかしな流行を持續させても居るのだが、通例地名などは親から子へ、若い者が年寄から、自然に聽き覺えていつ知つたとも無く使ふものなのに、それだけをアイヌが教へて置いて、すつと引揚げて行つたなどとは、何としても考へられぬ話である。それといふのもこの毎日のやうに入用のあつた言葉が、古いものほど意味の把へにくいのが多い爲で、しかも其存在が飛び／＼で、遠い端々の一致があるといふことを知らないからである。肥前値賀の島の美々良久の崎なども正しく其一例であるが、是とよく似た構成をもつものは、倭名鈔以前からの諸國の郡郷名に多い。先づ東國に於ては上野の邑樂《おはらき》、常陸の茨城《うばらき》もそれであらうし、西には又近江の古き都の信樂《しがらき》の地があり、大和には葛城《かつらぎ》の山嶺と大きな郡の名がある。山城の相樂郡は後にはサガラカと呼んで居たが、是も當て字を見れば同一の音だつたらしい。緩やかに捜して行けば同じ例は増加し得る。殊に文書には久しく顯れずして、しかも歴史は古いかと思ふ郷の名に、ラキ又はロキを下にもつものが、九州の端々には多いやうで、是と今日の訓詁學者までが、まだ説明に苦しんで居る重要な上代語、たとへばスメロギ・カムロ(93)》ギ・ヒモロギの類と、形のよく似て居るのは偶然ではあるまいと、今もまだ樂しい後々の發見が想望し得られるのである。

　

　　　　　　　六　國語の成長期

　

　しかも自分では力が不足なために、成功はせぬのみか時には失敗もして居る。若い頃始めて北九州の土を踏んだ際に、嚴木と文字には書いてケウラギと呼ぶ停車場のあることを知つて、このケウラは清らであり、しかも神聖なる木の在る處の意であらうと心づいた。天草上島の同名の村は教良木と書き、其他にも京良木と書く部落の名が、東の方にも幾つかあり、別に又甲州富士川沿ひの古驛の名に、教良石といふのがあることを思ひ合せて、是は何れも皆信仰に伴なふ傳説をもつ樹木巖石の所在地であらうと早合點をして、「郷土研究」に發表してしまつた。さういふ特例もあつて差支へは無いけれども、それだけでは近江の紫香樂《しがらき》や、肥後の百濟木《くだらき》などは説明が出來ない。キヨラ・ウマラは南島にまで共通した、古い形容詞の常の形であつたけれども、別に活用の目途を擴大したヤスラカ・アキラカなどの今も決して衰へて居らぬのを見ると、カ行の導入の其後更に著しいものがあつたものとも推測し得られる。日本といふ國の地方語の研究が、單なる古びやうつろひの資材のみを、對象として居られぬ理由は幾つもある。第一に種族がまだ若く、島へ渡つて來た時期がまだ早かつた爲に、それから後にも固有の文化が次々と成長したらしいことで、その段階が地方毎の差を見せて居る。さういふ中でも言葉は感覺と最も近いものである爲か、技藝と同じ樣に次々と發達し、又環境と歩調を合せて居る。第二には中古に國を連ねて併存する諸民族の知能に著しい差等があつて、しかも優者の影響を防ぐ途が無かつたことである。是がもし陸地つゞきの、又は海沿ひの隣國であつたならば、徐々たる不斷の侵略を免れることがむつかしかつたのだが、幸か不幸か洋海の潮と風とに支へられて、やゝ纏まつた計畫を立て(94)なければ國の境の出入をすることが出來ず、從つて先づ政治力の中心であつた近畿の地が、專らその文化遠征の目標となつて、爰を根據とする人々の智術のみが先づ進み、影響は徐々にしか地方には普及しなかつた。さういふ中でも文章はその特技をもつ人々の手に委託せられ、公私の記録は漢文を以て譯出するを本意とし、たま／＼現實の國語を寫し傳へようとした場合にも、其表記は主として漢字に據り、その音韻の判別は驚くべく精確であつたとさへ言はれて居る。斯ういふ國柄は沿海の所謂百越地帶などを捜しまはつたら、稀にも類似の例を見出し得られるものであらうかどうか。比較をして見る位ならば、先づこの方面に着目すべきでは無かつたらうか。單語の今ある形などは、偶然の一致で無いことを、立證するのにすでに骨が折れる。ましてや語音には一千年間の移行が著しく、どれを古い姿と見定めることが出來ぬ場合がなほ多い上に、語法の領域に於てすらも、別に久しい中間期の忌避と閑却とのあつたことが推定し得られる。それと後にやゝ日本化し得た我々の假名文字を、初期には女文字と呼んで居たことゝ、女流が日本文學の先進者であつたことゝは、明かな關係がある。彼女等の境遇は極度に限定せられ、その趣味感覺は何よりも鋭敏であつた。和歌とか消息文とか日記といふ類の推敲の文學が、當時以前の日本人の言語を、代表するもので無かつたことは勿論である。連歌師でも無い人たちまでが是を基底にして、辭書を作り國語史を説き、乃至は諸種族の親近性を考へ出さうとしたことは、少し早過ぎたといふ樣な非難を受けても仕方がない。

　但し自分などは、まだそれを論ずるほどの經歴が無い。たゞこゝで一つだけ説き立てずに居られぬことは、MN二つの子音の間隔が、以前は今よりもずつと近く、しば／＼通用せられて居たらしいことで、是は虹の地方語變化に就いて既に證明せられ、古くは徒然草にミナムスビ・ニナムスビの説もあつた。たゞ南島の現在發音は、曾てミャキセンと呼んだ今歸仁の郷の名を、現在はナチジンと謂ふやうに、又一方には庭のニハを、ミャーと呼ぶなどの、こちらとは逆になつた例が多い。假にミミラクなどの終りのK子音が、島を出てから後の追加だと決しても、ニーラがミーラとなつて居るまでの變化は、言葉そのものゝ性質と解することが出來る。たゞミミラクと二つ重ねたのは異例だが、(95)現在の地名は三井樂と書き、又古く續日本後紀にある旻樂はミンラクとも訓まれ、其上に又あの世を意味する言ひ傳へも古いので、斷定はまだ早いと決しても、是は亡き人の往つて住むといふ、此世の外の隱れ里、恐らくは遙けさを意味する大昔の根の國であり、同時に神と祖先との今も住む本つ國の言ひ傳へが、丸々消え失せては居なかつた例證の一つとまでは、推定して置いてよいかと思ふ。稻がそのニーラの島から、遠い昔に送り屆けられた神聖なる作物であつたことは、今日の考古學者たちの通説とはちがふけれども、少なくともさう信ぜられた時代が久しかつたことを、私は今考へて見ようとして居るのである。

　

　　　　　　　七　稻の種子を携へて

　

　稻の根元に關する言ひ傳へは、今は傳説とも言ひ難いくらゐに、各地各時代の變化をして居るが、なほ其底に潜んで幽かなる南北の一致が認められる。先づ日本の北部諸縣に在つては、大昔、大師といふ人が天竺に渡つて、一穗の稻を盗んで來て、狐に頼んで之を葦原の中に隱させた、といふ類の話が少しづゝの變りを以て、弘く流布して居る。其時に狐を神に祀る約束をしたともいへば、或は稻荷大明神が自ら其稻を取つて來られたとも語つて、少しづゝの合理化が試みられて居るが、ともかくもこの天竺は印度のことでは無く、單に天上を意味する農村語であつたことはほゞ明かで、しかもそのダイシは女性であつたとも、三十幾人かの子持ちであつたとも傳へられて、少なくとも眞言宗の始祖では無く、今もこの國の東半分に、汎く守られ續けて居る霜月三夜、即ち舊十一月二十三日からの稻祭、いはゆる大師講の名の起りでもあつた。

　ところが一方に是と半分まで同じ話が、遠く西日本の各地に飛び／＼に行はれて居る。自分等の聽き知る限りでは、隱して持つて來た穀物は稻では無く、おくれて斯邦に流傳した大麥であつた。たしかに稻となつて居る實例も有ると(96)いふが、幸ひにさうだつたら寧ろ私には都合が好い。とにかくに系統はもと一つであるが、此方は弘法大師、かつて唐土へ留學の旅の還りであつたらうか、是は本國へ持つて還らうと思つて、そつと一穗を抽いて身の内に隱して通り過ぎようとすると、或家の狗がそれを見つけ、吠え立てゝ何としてもやめない。飼主が氣の毒がつてしまひにはその狗を打殺した。それで目的の通りに種は手に入れたが、如何にも狗がかはいさうなので、後々その爲に狗の供養をすることになつたといふので、この方がよほど近世風の小説に近くなつて居るが、それだけに以前の形が別にあつたらしいことを推測せしめる。

　ともかくもこの一種の動物の參與といふことには、何か共通の由緒があつたとまでは考へられるが、東北地方のやうな後に新たに開けた處でも無い限り、よほどの大昔の事としないと、この話は通用しなかつたのであらう。東京の近くでは、上總國誌などに記録のある長粳山大通寺の縁起のやうに、鶴が穗をくはへて何處の島からとも知れず、飛んで來て落したといふ話ならば、思ひの外多くの土地に傳はつて居る。此頃始めて知つた三つ四つの例では、籾の長さが一寸八分などといふのさへあつて、さういふのは大抵は神として崇めても居るが、少なくともその種はもう今日は受け繼がれては居ない。察するに是は近世の種子交換が未だ始まらず、ましてや現在の如き交配は企てる者も無かつた時代の、一門一氏族の稻に對する誇りと信頼とが、たま／＼斯ういふ形を以て語り傳へられたものであらう。神道五部書の一つなる倭姫命世紀の中に、大きな海の鳥の鳴聲に導かれて、葦原の間に發見せられたといふ靈稻の話が載つて居る。これは今日の志州磯部、伊雜神宮の地であつて、いはゆる常世の浪の重浪寄する渚でもあつた。或は心もとない資料も加はつた記録のやうに言はれては居るが、是などは遙かなる南方の島々との間に、なほ一脈の通路のあつたことを推測せしめる。

　沖繩諸島の文獻は、大部分は慶長以後、やゝ年處を經て後に集録せられた、言はゞ島人の記憶の殘りであるが、その目途と用意との必ずしも統一せられて居ないところに、却つて一筋の經路が辿つて行かれさうな感じがする。稻と(97)ニルヤとの繋がりに問題を限つて説くならば、少なくともこの大きな主島だけでは、住民が稻の種を携へて入つては來なかつた。最も有名なるおもろの一章に依ると、アマミキョは彼等の始祖の名であつたやうにも取れるが、その次々の子孫もなほ暫らくは同じ名を以て呼ばれて居たらしく、一人では果し得ない色々の事業に携はつて居た。乃ち後代のアマンチュと同じに、古い頃の種族の名でもあつたかと思はれる。島の東南部に在る久高といふ屬島の濱に、白い小甕に入つて寄つて來た五つの種子の中には、シラチャネ即ち稻の種だけが缺けて居たので、アマミキョは天に?つて、鷲をニライカナイに遣つて之を求めさせたところ、三百日目に三穗をくはへて戻つて來た。始めて其種子を蒔いた田を三穗田と謂ふと、聞得大君御殿の御規式次第にあるのは、乃ち知念玉城の親田、高マシのマシカマの田に稻植ゑ始むと、由來記卷三にあるものと同じで、久高は元より砂地で水乏しき島であり、こゝに白種を蒔くことが出來なかつた爲である。

　

　　　　　　　八　穗落し神の傳説

　

　この鷲の鳥が三百日もかゝつて、たつた三穗だけの稻の種を運んだといふことは、由來記ばかりで無く、後に出た漢文の琉球國舊記にも省略して、阿摩美久自らが儀來河内に往來して、稻種を請け乞うて來たと明記したのは、單なる誤解や忘失では無く、專ら其阿摩美久を始祖の半神半人と見た爲に、鳥などに頼むわけが無いと推斷した結果であつた。しかも其試植に參與したといふ玉城百名の農民の家が、米之子（コメノシ）といふ稱號を賜はつて、永く存續したことを附記して居るのである。

　是等の舊記類はつい近頃まで、何れも寫本であつて之を藏する家も少なく、又讀んで理解する者もめつたに無い爲に、鳥が大海を飛び越えて稻の種を運んだといふ言ひ傳へは、元から有つたので無くとも、次々と遠慮無くひろまつ(98)て、今でも國頭郡の田港の海神祭の神歌には、をし鳥がこの甘種白種を口にくゝんで、畔から蒔き散らしたと唱へて居ることが、島袋源七君の「山原の土俗」に見え、遠く北に離れた奄美大島などでも、其鳥が鶴になつて居るだけで、やはり稻の種がニライカナイから運ばれたといふ話が、南島雜話には誌されてあると、伊波君は注意して居られる。捜せば他の島々にもまだ幾らもあるだらうが、考へて見ると是は必ずしも運搬者のみの問題では無い。稻といふ穀物の根原がニルヤに在り、之を繁茂せしめて人間の力と幸福とを、豐かにすることが本來の機能であつたのかも知れず、言はゞ南島の根の國が、單なる亡者の隱れ行く處であるに止まらず、絶えず是から流れ出て、現世を樂しく明るくするものゝ、爰が主要なる源頭であることを、曾て我々は南北共同に、信じて居た時代があつたのでは無いか。それも改めてもう一度考へて見る必要があるやうに思ふ。

　現在殘つて居る沖繩のおもろを見て行くと、この人世を支へ又は養ひ立てるニライの力を、本來はセヂと呼んで居たことがわかる。今ある日本語の何といふ言葉に、對應させてよいかはまだ突留められぬが、皇室を中心にして考へると、稜威といふ古語が大分近いやうに感じられる。沖繩は中世の終りに近くなつて、漸く三山の合一が行はれ、更に周圍の離島に向つて、權力を押し擴げて行く時代に際會して、祭祀女官の中心は悉く王家の出であつたのみか、分れて地方に住む古來の祝女たちまでが、所領榮典を以て中央に統御せられて居た結果、彼等の祭り歌も舞の曲も、一切のニルヤセヂを擧げて、按司の又の按司、即ち君主に奉獻せしめよと、高唱せぬものは無かつたのである。しかも僅か百年か二百年を溯つて見ると、全島は悉く割據であつて、一つ／＼の小さな盆地にも、それ／”＼のティダ即ち照る者、即ち太陽を以て比べられた微小なる世の主が、對立して睦び又は闘つて居たのであつた。ニルヤが最初から斯ういつた機關に向つて、其セヂの用途を集注して居たものでないことは、是だけからでも推究することが出來る上に、更に先島と呼ばるゝ二つの群島の實例が、寧ろこの古今の變革を實證するために、取殘されて居たかの姿さへあるのであつた。

(99_)　宮古島の万では、アヤゴといふ古い語りごとの數々が傳はつて居て、淺ましいまで烈しい闘諍の數々が、久しい歳月を越えてなほ記憶せられて居た。器量骨柄が尋常を絶した人々も、一代の間にはこの小さな島をさへ統一し得ず、次々と衰へて子孫は永續しなかつた。つまりは家なり個人なりの力の差が小さくて、且つ蓄積し得るほどの餘裕も無かつた爲に、忽ち次の者の取つて代る機會を與へたのである。斯ういふ中に於て、一方には稍々大きな隣島の懷柔に服し、他の一方にはより弱き島々の隙を狙つて、仲間爭ひの焦點を外へ移さうとした計略などは、曾て沖繩本島でも試みられ、又日本の戰國時代にも例の無いことでない。歴史の學問の我々常民の間に役立つのは、かねてかゝる悲しい體驗を知り拔いて、未然にこの?勢の迫り來る場合を防ぐことであつた。所謂セヂの均分などは賢い人々の多い時代にも、なほ公平を期し難いものであつた。まして其總體の分量の既に乏しい社會では、爭奪と怨恨とは何としても免れない。たゞ我々は囚はれない史心を以て、靜かにこのニライの神の志を、尋ねて行くの他は無いのである。

　

　　　　　　　九　氏族と信仰の對立

　

　最近に世に出た喜舍場翁の八重山歴史を一讀して、自分は改めて又此島でいふ所のニーラスク、遠い昔の世の海上淨土、我々の生命の古里の、昔にかはる姿を心に描いて見た。セヂといふ言葉の茲では稀にも用ゐられないのは、多分はそれが國王のものときまつてから既に年久しく、島にはそれを受用する者が居なかつた爲であらう。在番と稱して首里から或期間派遣せられて居た監督官と、其下にはやゝ、必要以上に多數な島出身の大小の役員があつたが、彼等は門地と年功とを頼み、所定の給禄と待遇に安堵して、努めて無事閑散の日を送らうとし、島以外の事情は豫め知る途が無い故に、寧ろその不安を詩酒遊藝の間に忘れようとした姿があつた。島に特有なる生活傳統、中でも海のあなたの遙かなる樂土から、心強い毎年の好意を送り續けて居た、古來の神々の約束などは、專ら現實に土に勞苦する(100)下層の人々だけに管理させて、指導はおろか分擔もしなかつたことは、少しばかり日本の近代社會と近く、沖繩本島の實際とは大分ちがつて居た。

　その代りには、こゝには意識した教法の改革といふものが無く、やゝ散亂の姿ではあるけれども、固有の信仰の古い形が、さまでの強辯を費さずして、ほゞ窺ひ知ることが出來るやうである。島では宮古と同樣に、一度も強力なる統一者が出なかつたために、セヂを集めて王樣に奉れといふやうな、新たな祈?の式は起らず、海の彼方から訪れたまふ年々の神の惠みは、專ら稻を作る人々の、島毎の小さな群に向けられて居た。古見の近世の聞書に、

　　猛貌の御神、身に草木の葉を纏ひ、頭に稻穗をいたゞき、出現之時は豐年にして、出現なき時は凶年なれば、所中の人、世持神と名づけ、崇め來り候………「八重山舊記帳、雍正五年（一七二七）。南島聞書に依る。」

とあるのが、古來の姿のまゝかと思はれる。ヨといふ日本語は、漢字の「世」を以て處理せられてから、段々に永い期間と解するやうになつて來たが、本來は竹の節と節との間をヨと謂ふのと同じ語で、殊に稻作の一期を限つてさういふことは、日本の方でも弘く又久しく、たとへば續猿蓑の連句の短句にも、

　　　奧の世なみは近年の出來

とあるのも稻作のことで、今も年とつた人の中では、さういふ言葉使ひはよく通用する。

　たゞ何故に特に稻の一生産期だけに限つて之をヨと呼ぶのかの理由だけが不明だつた。それが南端八重山古見の例によつて、この一種の穀物のみが特に重要であり、それの豐凶を以て神意の向ふ所を知り、之によつて以後一年間の人間の幸福の、程度厚薄を卜する信仰があつたことが、ほゞわかつて來るのである。日本の古來の農村でも、米は重要なる食料といふ意味で、主食と謂ふことは出來たか知らぬが、常食といふことは事實に合しなかつた。米より他に食ふものが無いといふ地方などは、近世以後の埋立新田の他には有り得なかつた。そこには都市が興り商工が繁榮して、所謂米穀經濟を成立せしめたけれども、それは交易の又新らしい段階であつて、なほ一部の古風の家庭ではつい(101)此頃まで、白い飯を炊くのは神の日か佛の日、節供祭禮祝ひ事のやうな、折目立つた日に限るのが普通であつた。驚くべき最近の増産技術の進歩と、自由なる外國貿易の展開とが、今辛うじてそれを可能にしたばかりで、しかも現實にそれを許されぬ家々もまだ多いのである。

　

　　　　　　　一〇　世持神と世持役

　

　殊に南方の諸島に於ては、温暖多濕の一二點は別にして、自然の條件は必ずしも萬全であつたとは言へない。砂地石地の始めから稻作に適せぬ地域が廣い上に、たま／＼水田に拓き得た場合にも、僅かな例外を除いては、嵐や高浪などの外部の障害に對して、自衛の道が立てにくかつた。勿論是が又古い祖先の、神の好意をいつ迄も信頼せんとした理由であつたらうが、同時に又廣く諸處の海邊を經歴して、比較を重ねた上の選定では無かつたことが察せられ、手短かに言ふならば此方面の移住は日本よりも古く久しく、しかもなほ偶然に初期の信仰を、一部は失はずに持ち傳へて居たものかと、自分などは推定して居るのである。

　稻がニライカナイの本國から、種子をもたらされたといふ、沖繩以北の島々の語り傳へは、無論さながらに事實として受け入れてよいものではあるまいが、少なくとも大和島根の方では、南北兩面の海邊づたひに、久米といふ氏族の次々と移住して行つた昔の痕跡を留めて居るに對して、奄美大島にも沖繩の主島にも、各々その西南側に古見又は久米といふ舊地があり、更に南端の八重山群島のまん中に、古見又は球美といふ稻作の大きな根據地があつたのである。續日本紀の靈龜元年に、南島から日本の使臣に引率せられて、來朝したといふ信覺球美等の國人が、各方物を貢して位を賜はつたといふ記事は、夙くから雙方に知られて居た。信覺が今の石垣島の外に引當てられぬ以上は、其後に續く球美も亦、其西隣の古見にちがびないと、島の人たちは信じて居るのだが、何分にも是と前に擧げた舊記帳の(102)記事との間には、丸一千年はどの時の間隔があつて、それを橋架けるほどの文獻の繋がりが無い。或は中間にまだ幾つかの古見が生れては又消えて居るとも考へるからで、それで私などは是から渡つて行かうとする人々のために、能ふ限りの資料を集めて見ようと思ひ、先づ一つの焦點をあの世持神の信仰に向けて、考察を試みようとしたのである。

　前に掲げた舊記帳の記事にすぐ續いて、次のやうな變動の歴史が述べてあるが、相當な時の經過が此中間にはあつたものと考へられる。

　　……終に此神かつて出現無くして凶年相續き候へば、豐年の願として人々かの形を似せ供物を備へ、古見三村より小舟一艘づゝ、賑やかに仕出し爭はせ、祭の儀式を勤め候。利生相見え豐年なれば、愈々その瑞氣を慕ひて懈怠無く祭り來り候。いま村にて世持役と申す役名も、是に準らへて祈り申す由に候。但し此時由來傳へ噺有之候也（以上）

　この末段には聊か不明の點もあり、又世持神から世持役への繋がりもはつきりしないが、是は諸島の信仰の近來の推移を體驗した者には、必ずしも解説し得ない程の不審では無い。つまりは世持神の傳説は、曾ては大多數の人によつて信じられ、後には是が村人の最も敬虔なる者が演じて居た、ワザヲギであることが判つて來たのである。「島」といふ今から二十何年前の月刊雜誌には、慶良間の或島で祭の夜、白衣の祝女たちの行列の間をくゞつて、小腰をかゞめて何べんか往來した紅衣の神が、後に村民某の妻だつたことをすつぱ拔かれて、其夜を限りにその祭が絶えたことが報告せられて居る。國頭郡の海岸の一村では、或青年が舟から上つて來る白衣の神を、不意に走り近づいて捉へて見たところ、それは自分の母であつて非常に叱りつけられたといふ話も、その近くの村の人から聽いたことがある。女性の祭典に參加する者は、夫や息子にすらも、式の秘密を知らせないことに、昔から定まつて居た。それに加へて嚴重なる齋忌の下に神に扮して居た女性は、其期間は自分の神であることを自らも信じて居た。君眞物とおもろに有るのも是であつたらしい。古見の世持神などは男子の役であつた爲に、或はその秘密が顯れやすかつたのであらう、(103)といふ風に私などは解して居る。もし其想像が當つて居るとすれば、演劇の歴史などは、まだ／＼遠い昔まで、溯つて行くことが出來るわけである。

　

　　　　　　　一一　古見の島の盛衰

　

　話がいさゝか前後したけれども、古見がかつて一たびは南島文化の一中心であつて、しかも近世に入つてから他に類例も無いほどの激しい盛衰を經て居るといふことだけは、弘く世上に向つて是非とも説き立てゝ置かねばならぬ。是には幸ひにしてまだ有形無形の史料が、必ずしも埋没しきつては居ない。たゞ統一時代に於ける我々の關心が、法外に乏しかつたのである。最初に先づ西表《いりおもて》といふ現在の島の名だが、もとは普通に古見の西表、即ち古見といふ島の西の船着きを意味して居り、そこの開發も可なり古く、多分は所謂倭寇時代の船の來往によつて、發見の端緒を得たものかと思ふが、一方には土着者の家にもほゞ同じ頃からの言ひ傳へがあつて、後に筆録せられて世に行はれて居る。是には主として水土の功、殊に與那國といふ近隣の一孤島の收容と連絡とが窺れるが、對岸大陸との交通には全く觸れて居ないのは、或は隱れたる動機があつたのかもしれない。とにかくに明治の新時代に入つてから、こゝが汽船の航運に利用せられたのは必然であつた上に、更に南島としては珍らしい石炭層が、ほんの僅かだがこの溪谷に發見せられた爲に、こゝが重要なる寄航地となつてしまひ、それに引續いては勞働力の供給問題、島の人たちはちつとも來て働かうとしないので、囚徒を入れ又浮浪者や貧窮人を連れ込んで、ひどい虐待をしたことが評判になり、所謂西表炭坑の慘?が新聞に書き立てられて、若年の私などは、是で始めてこの名の島の存在を、知つたやうな次第である。

　古見といふ一郷の驚くべき盛衰史を、人が片端でも知つて居たならば、斯んなまちがつた改稱を公認する筈は無かつたのである。島を形づくる中央の峰の名は、今でもなほ古見嶽であり、それから東南の入海に向つて、流れ出る大(104)川の名が古見川で、其流末の兩側に僅かの沖積地がひろがつて居て、それが古くからの古見の首邑の跡であつた。寛文印知集の終りに附載せられた琉球郷帳は、島津氏征略の直後に實行した檢地の記録であらうが、それには村の名を三離《みつはな》れ村と記してある。是は疑ひも無く土地の古來の聖地なる三離御嶽、土地の語音でミチャリオーンと呼んだ神の杜の名に依るもので、必ずしも部落が三つあつたわけでは無かつたらしく、少なくとも郷帳では一村の名となつて居る。

　村の連合の日本で郷と謂つた區域を、もう此頃から南方では間切《まぎり》と呼んで居た。現在の所謂西表島を二つの間切に分ち、西半を入表間切、こちらは則ち古見間切で、五つの村の外に小濱といふ島が之に屬して居た。入表の間切は畠方の五石八斗に對して、田方が千二百六十七石あつたのに、古見の間切の方は畠も九十七石餘。田は千八百七十石以上、この畠は所謂常畠であつて、燒畑切替畑は此外かとは思ふが、それにしても米の公稱産額は此通り多く、それだけでも稻の神の恩惠の異常に豐かな土地であつたことが察せられる。然るに地形は今もほゞ元のまゝなるに拘らず、それからの三百年間に人口は激減し、寶暦三年（一七五三）の番所日記には、それでも、まだ七百六十七人とあるのに、最近は十戸といふ報告もあり、或は新たなる移住者が招き寄せられて、再び百人に近くなつて來たともいふが、勿論是は舊時の傳統を保持する人々では無かつた。

　主たる原因はマラリヤの流行といふことが、古くから認められて居た。しかも之を原因たらしめた此方の弱味に、榮養の缺乏と氣力の減退、更に附加へて希望と信仰との、目に見えぬ急激なる一頓挫があつたのでは無いかと悲しまれる。明治以來の新らしい行政でも、マラリヤには氣がついて、色々の對策を講じて居たが、其效果のちつとも擧らぬうちに、恐ろしい大戰の時代がやつて來て、人は山林に遁げ隱れて、又大分この病で倒れたらしい。米國の軍隊では飛行機の上から、盛んに大量のDDTをまき散らしたといふ話だが、それが果して三離御嶽の、物深い掛海の底までも達し得たかどうか。私たちは重い心を以て、この新らしい試驗の結果を見守つて居る。

　

(105)　　　　　　　一二　宮古島との關係

　

　笹森儀助翁の「南島探檢」といふ一書は、明治二十六年（一八九三）かに、此人が沖繩縣の島々を巡歴して、還つて來てすぐに出版した紀行であるが、何かわけが有つて十數年も後に、やゝ大量に東京の古本店に出たことがある。自分もそれを買求めて一たびは精讀し、始めて南端の問題の奇異且つ有意義であつたことに心づいた。それを讀んだといふ人には其後何十人といふほども出逢つたが、各自の印象はまだ十分に語りかはすことも出來ずに居る。古見の島北岸の高地の村々のちやうど此病の爲に消え去らうとして居る地帶を、人の止めるのも聽かずに、通つて見たといふ日記の文が、殊に私の記憶には燒き付けられて居る。或一つの部落では全部が既に空屋となつて、まだ倒壞してしまはずに居た。又他の村では老人が一人居つて、物うげに何ともしやうの無い窮?を告げたともある。是と同じ事態が石垣主島の北部でも出現し又進行し、今日は又すでに山野に復つてしまつて居る。古見の舊邑なども、此時はもう既に衰頽の極度に達し、しかも其原因を尋ねようとする者は無かつたが、歴史に通じないこの旅人には、何故にこゝが一たびは榮えて新たな移住者を迎へ、後には止め度も無く一人づゝ減じて行くのかを、考へるまでの用意が無かつたのだから是非も無い。

　一つの推測は氏族の競爭、之に伴なふ所の信仰の僅かづゝの相異である。近い頃戯曲にまで作られた赤蜂本瓦（アカブザホンガハラ）の亂の石垣の島に起つたのは、明應九年（一五〇〇）の出來事であつた。其政敵であつた長田大主（ナータフーヂ）は、古見に遁れて生命を全うし、援を中山に乞うたといふことが、由來記に見えて居るが、さういふ遠方の聯絡が出來たかどうかはおぼつかない。察するに隣島宮古島の有力な首領仲宗根氏が、既に八重山に手を着けて居て、長田氏も亦其企てに參加して居た故に、背後の力も頼みやすかつたので、しかも此時代の古見はなほ昔(106)ながらの文化の中心であつて、かの宮古島の仲宗根豐見親なども、或は時あつて此地に來往して居たかと、思はれる節があるのである。アヤゴと稱する古い宮古の物語歌の中に、「古見の主」及び「四島の主」といふ二つの曲目があつて、今も女性によつて暗誦せられて居るが、現在の島人たちは之を解説して、宮古島にも別に一つの古見があつた、四島はたゞ四つの部落のことだつたと思つて居るやうだが、外部の私たちにはそれはまだ信じにくい。宮古の古見といふ地の存在が明示しにくいだけで無く、八重山の方の古見にこそ、小濱・竹富・新城・黒島といふ四つの島があつて、昔の首邑の東南面を防護するかのやうに併列して居るのみか、現に三離御嶽の祭儀の一部づゝを分擔して持傳へ、且つ一方には潮の迅い海を渡航して、今も親島の地に毎年の稻作を營み續けて居るのである。斷定はまだ決して出來ないが、此點は恐らく宮古島人の方の忘却であつた。あの明應の動亂が平定して後に、一時征服者の代表として、八重山の古見に駐留して居た時代があつたのか、もしくは或期間さういふ名譽ある稱號を、保持して居たことが有るのかと私は想像して居る。曲の内容は二つとも至つて平和なもので、殊に一方は首領の奧方の、優雅なる情懷を詠じたものであつた。此點もなほ詳しく考へて見たいのだが、資料も整はず、且つ餘りに長々しくなつたので、始めの計畫をかへて、たゞ大體の輪廓を陳べ、殘りを次の機會に讓らうと思ふ。

　

　　　　　　　終りに

　

　三井樂といふ地名の考證には私は最初南島のニルヤ・カナヤが、神代卷の所謂根の國と、根本一つの言葉であり信仰であることを説くと共に、それが海上の故郷であるが故に、單に現世に於て健闘した人々の爲に、安らかな休息の地を約束するばかりで無く、なほくさ／”＼の厚意と聲援とを送り屆けようとする精靈が止住し往來する據點でもあると、昔の人たちは信じて居たらしいこと、その恩惠の永續を確かめんが爲に、毎年心を籠め身を淨くして、稻といふ(107)作物の栽培をくり返し、その成果を以て人生の幸福の目盛りとする、古來の習はしがあつたかといふことを考へて見ようとした。この三つの假定もまだ十分に説明し得たと思はぬうちに、もう多くの時と紙とを費してしまつて、最初の計畫であつた第四の點、かつて本誌に載せていたゞいた「彌勒の船」の結論の部分を、爰に續けて行くことが出來なくなつたのは、何とも不手際なことであつた。幸ひに時が許すならば、もう一度計畫を立てなほして、他日是と共になほ若干の追加を公表して見たいと思つて居る。

　自分の年久しく抱へ込んでゐる腹案は、是も亦一種の彌勒出世であつた。この尊き導師が船に乘つて、遠く東日本の鹿島の海ばたに上陸なされたといふ言ひ傳へは、中古數百年間の歴史をもつて居るが、是は恐らくは言葉と語音の類似に導かれた、無意識の習合であつたらうといふことが、新たに八重山古見の信仰行事の、ごく近頃までの變遷を見比べることによつて、さまでの強辯を雇はずとも、ほゞ證明し得るかと思ふ。こゝでも現在は彌勒踊の名によつて知られて居るが、常陸鹿島の同じ名の踊とは、大よそ交通の跡は認められず、今でも雙方互ひに知らずに居る。古見の三離御嶽の世持神、もしくは世持役の扮する神樣は小濱ではニロウ神といひ、又明和の大海嘯の後に、新城の島から移住を命ぜられて來た石垣島南岸の宮良の村では、神を代表して家々を訪れる假装の若者を、赤マタ黒マタと呼び、又ニイルビトとも謂つて、文字には二色人とも表はして居るが、この二つは少なくとも、ニーラの島から來る神と解せられて、是と日を異にして行はれる彌勒踊とは、勿論同じ名と思ふ者は無い。其他竹富の島でも今は神事は絶えて居るが、古見に面した海岸を聖別してニーランと呼び、又島の最初の指導者として根原神人の家を傳へ、その呼び方もネーレカントであつた。ニーラがたゞ單なる遠き境で無く、年々訪れたまふ神の島であることは、少なくとも古見の系統に屬する信仰では認められて居る。

　是と現在なほ行はれる年々の彌勒踊との間には、島人たちの感覺に明かなる分界線があつて、後者は既に盆の一つの餘興の如く、樂しい催しものと見る者もあつて、島毎に行事の日もちがひ、又之を重要視する程度も區々になつて(108)居るが、一般に是を古來の稻の神の信仰から、進化したものとまでは思つて居らぬのは、近世に入つてからのこの伎藝の輸入の道筋が、今も可なり明かに跡づけられるからで、それをもやゝ詳かに説き得たならば、南北雙方の興味を引くことが出來ると思つたのだが、今はそれを試みる時間が無い。たゞ一つだけ、この布袋和尚の姿をして多くの子供を引連れ、行列してあるくバーズガマ、もしくは彌勒といふ踊りの神と、今も嚴肅を極めた古來の三離御嶽系の世持神の行事との中間に、別に島々の祭の日の舟漕ぎ歌などの中に「ミリク世ドムチワール、ナウル世ドムチワール」といふ類の歌言葉があつて、其範圍は弘く沖繩の北端にも及び、是は布袋和尚の姿とは關係無しに、常に直り世とか神の世とかいふ語を對句にして歌はれて居る。是が自分たちには殊に重要な手掛りの一つであつた。假に現在は兩者一續きのものと見られて居らうとも、是が採用せられた動機には大きな年月の開きがあり、從つて又その感覺にも島それ／”＼のちがひが著しいわけがあるのかと思ふ。地積人口の上から見れば、沖繩はたゞ小さな縣の一つに過ぎなかつたが、海洋の隔離が斯んな多くの文化對立を、作り上げて居ることは興味があり、又我々の理解が、世界の爲にも必要な理由でもある。

　彌勒出現の風説が、中世の世情を動搖させた實例は、朝鮮にもあれば中國にもあつたことは、自分も片端は聽いて知つて居る。佛門の碩學たちに話をすれば、いとも懇ろに其理由を教示してくれられることも亦明かである。たゞ我々はそんな概括論に一任する前に、もう一ぺん自分の内の歴史を調べて見る義務を負うた、群島國の學徒なのである。彌勒世といふ名目は足利時代の後期にも、關東に私年號の一つを發生せしめる程に有力に國内に擴まつた。今でも私は六つ七つの土地に於て、現在其語のまだ話題になつて居ることを經驗した。それが稻作の收穫の勞せずして豐富な世の中を意味することは、南端の島々も同じであつたが、それを何れか一方から運ばれて、さうなつたといふことはまだ斷定しにくい。殊に後者には、それが太古以來の神々の故國の名であることは皆知つて居たのである。さうして日本の方では昔も今の如く、中心都府の學問知識だけが、田舍との話し合ひも無く、法外に突進して居たのである。(109)利根川の水量が今日の三分の一よりもまだ少なく、川口の砂山はまだ生れず、鹿島香取の二大社の前面まで、海の潮がゆたかに湛へて居た時代に、印度の佛さまとやゝ近い名をもつた海の神が、船に乘り數々の福�ｺを滿載して、たとへば宮古島の世積綾船《よづみあやふね》のやうに、折々はそつと入つて來られることがあつたといふ奇跡を信じて、それを世の中の最もわびしく貪しかつた時代にまで、持傳へたと見ることもまた不可能ではない。常陸風土記を見ると、あの頃にはこゝが常世國かといふ土地の人がまだあつた。太平洋の沿岸には、さういふ傳説の土地が幾つもあつた。伊勢にも其名があり、熊野の崎にも亦一つの常世への渡り口があつた。それが或は補陀落渡海の新たなる佛法信仰の、そこに成長して來た因縁では無いかとも私は想像して居る。海の文化の經歴が、日本ではまだ少しも研究せられないのは、私たちから見れば文獻の中央山間への極端な片寄りと、文字が即ち學問の全部なりと、きめてかゝらうとした偏見の結果である。それを此次にはもう少しわかりやすい説明と證據とを以て若い同人に説くことが出來たならば、どのくらゐうれしく力強いだらうか、といふことを今も私が考へつゞけて居る。

　

(110)　　　　　鼠の淨土

　

　　　　　　　　　　一

　

　島に鼠があまり澤山居るので、人が住むことができないといつた話は、思ひの外多いものである。私は最初に日本のまはりの例を拾ひ集めて、それからよその遠くの島々はどうであらうかを尋ねて見ようと思つて居る。

　一ばんよく知られて居るのは肥後の鼠島、是は橘南谿の「西遊記」續篇といふ、百五十年ばかり前の旅行記に出て居る。肥後と天草の島との間、海中に小さき島あり。いかなることにや、此島には鼠昔よりおびただしく、元より小さき島なれば人も住まず、たゞ鼠のみなりといふ。この海を通ふ船にては、三味線を引くことを船頭堅く留めて許さず。もし此邊にてこの禁を犯せば、必ず波風大きに起りて危きことあり。三味線は猫の皮にて張りたるものなれば、鼠の忌む故なりとぞ云々とある。人をこの島に寄せ付けなかつたのみか、海上を行く船をさへ脅かしたといふのは、えらい劍幕であつたが、或は又聽きで少しばかりおまけがあるのかも知れない。「肥後國志」といふ同じ頃の郷土誌には、鼠島ではなくて鼠藏島とあつて、この方が正しいやうである。「俚俗かくれ里と云ひ、鼠多し。近年可賀島に移るといふ。この島にて猫の聲を禁ず」とあるが、それは前後二つの島の兩方ともに謂つて居たことゝ思はれる。この二つの島は、もとは熊本縣の八代の沖に在つた。ところがこの邊の海は遠淺で段々と埋め立てられて行くので、鼠藏の方は夙くから陸續きになつた。可賀島は少し離れて居たから、一時鼠はそれへ引移つたのであらうが、是もどう(111)やらもう新田場の外圍ひになつて、もう鼠ばかりの隱れ里では無くなつてしまつたのである。

　是と同じやうな鼠の島は、瀬戸内海の中にも幾つかあつたらしい。私の聽いて居る一つは山口縣の東部、大島群島の南の方にある片山島、是などは隣の島からは一里餘りしか無く、平地も大分にあるので、何度か開墾しようとして渡つて行く者もあつたが、何分にも鼠が多く、小屋を掛けて泊り込んで居ると、夜分は入つて來て人の鼻を咬んだといふやうな騷ぎなので、成功した者がないといふことだつたが、それは今から三十五年ほど前の話、此頃はもう畠も拓かれ、耕す人も住んで居るといふから、こゝの鼠の歴史には、たしかに又一つの變化があつたのである。

　人が夙くから活躍して居た爲か、この方面には特に注意すべき事件が多かつたやうに思ふ。伊豫の黒島の異變は、後に似た話と一括していふつもり、周防の大島邊でも、鼠の群が荒れまはつて、農作を妨げた話は毎度あつたやうで、片山島から大分東の方に離れた端島といふ小島なども、一旦開發せられて人家二十三戸、石高五十五石の檢地まですんで居たのに、鼠があまり多く農作を不可能にした爲に、引地即ち村を撤囘したといふことが、岩國藩の舊記に誌されて居て、それは享保十五年（一七三〇）の事實であるが、今日は又再び四十戸餘の家が出來て居る。

　この端島から更に三里ほど東、廣島縣倉橋島の南方一里半に、羽山島といふのがあつて今も鼠が多いといふから、或はまだ開かれずにあるのではないかと思ふが、確かなことは聽いて居ない。是も寶暦年間（一七五一）の倉橋風土記に、本浦の人來つて畑を開く。鼠害甚だしき故に之を棄つとあるさうである。僅かな島の中で、人が力を合せてもなほ驅除し盡さなかつたわけは、鼠が水を渡つて時とも無く、後から後からと入り込んだからと、いふことまでは先づ疑ひが無い。

　

　　　　　　　　　　二

　

　鼠には水鼠又はカハネズミと稱して、蹼あつてよく水に泳ぎ、小魚を捕つて食するものがあると、「本草啓蒙」その(112)他の書には説いて居るが、私はまだそれを知らぬのみで無く、こちらは陸に上つて繁殖し又惡戯をするのだから話は別であつて、つまりは普通の野鼠家鼠も、海を渡つて島々に移動したものがあるのである。近頃になつて始めて聽いたことは、船が港に入つて碇泊する際には、よほど嚴重な防備をしないと、陸の鼠が泳いで來て、船中で殖えて害をして困ることがある。或は又その船に便乘して、遠い處の鼠が入り込んだといふ話もある。沖繩には麝香鼠と謂つて、特殊の臭氣を發し、又鳴く聲もこちらの鼠とちがつたのが多いさうだが、鹿兒島だけにはそれが蕃殖していつの頃にか船で運ばれたものと想像せられて居り、又そこと交通のあつた長崎の町にも少々は棲息して居た。さうしてこの二つの土地以外では、まだあまり注意せられて居ないのは、この種の鼠のみは、何か陸上の移動に適しない特性があつたものと思はれる。ともかくも船と陸上との僅かな水面ならば、水掻きの有無にはよらず、たしかに鼠は泳いで渡つて居るのである。

　或は又シベリヤから還つて來た人の話に、北滿の或大きな川筋では、毛皮のために多量の鼠を、水上で捕獲する職業があつた。一つ／＼の鼠は尻尾をつんと立て、力一ぱいに毛をひろげて、群をなして水を渡らうとする。笠か何かで水面を強く敲くと、驚いて身をすくめるので忽ち水に沈む。それを片端から簡單にすくひ上げるといふのは、珍らしい經驗知識の實例だと思ふが、それは何といふ種類の鼠か、究めて見ることが出來ない。海でも或は同じやうな生態があるのを、まだ我々は見聞する機會をもたぬのかもしれぬ。是からも大いに氣をつけて居なければならない。

　但し港内の舶とか川の對岸とかは勿論の話、一里やそこいらの島から島へならば、行く先を目ざして思ひ切つて飛び込むといふことも有り得るが、いはゆる絶海の孤島にも、時として鼠が渡つて住んで居ることがある。私の一ばん驚いたのは、沖繩の所管と謂つても本島からは西へ百里、八重山島群からは北々西へ六十里餘、福建海岸へは二百里、最も近い久米赤島へも三十里といふ洋上の無人島、胡馬又は久場といふ小島にも、やはり鼠が住んで居た。笹森儀助翁明治二十六年の「南島探檢」に、こゝから戻つて來た花本某といふ若者と、那覇で會談したことが載せてある。人(113)に騙されて海鳥の羽毛を採りに行つたのだつたが、食料の爲に藷を栽ゑて見たけれども、忽ち鼠に喰ひ盡されて絶望したといふ話である。島は尖閣や釣魚臺と一列に、たゞ遠望の圖だけは航海記に見えて居るが、何れも絶壁に圍まれて船を寄せ難く、又そんな用事も無いのだから、鼠の便船などは大よそ想像しにくい。或は稀々に流木などの上に乘つて、腹に子をもつた一匹の鼠が、漂着したといふやうなことも無いとは言はれないが、何もそんなにまで押しつめて考へて見なくとも、天地は廣く、まだ人間の知らぬことは多い。もつと自然に近く、又何べんでも起りさうな機會があつたことを、是からあなた方が發見して行くのかもしれない。或は世界のどこかの隅には、あの北滿の川の鼠狩のやうに、ちやんと知つて居る人があるのかもしれない。

　

　　　　　　　　　　三

　

　ともかくも鼠が海を渡つて行くのには、たつた一ぴきだけでは冒險をしなかつたやうである。前にも言つて置いた瀬戸内海の西部、伊豫の黒鳥の鼠の話といふのは、古今著聞集の卷二十に記録せられて、古い話であるが作りごとでは無かつたと思ふ。場處もどの邊といふことが土地の人にはよくわかつて居る。矢野（ノ）保といふ莊園のうちで、人里より一里ばかり離れた所だとある。安貞の頃（一二二七）、桂はざまの大工といふ網人、網を曳かうとして窺ひありく時、この黒島のほとりの磯の水面がおびたゞしく光るのを、魚とばかり思つて引いたところ、それが悉く鼠であつた。鼠は濱に引上げられて皆ちり／”＼に遁げうせ、島にはそれ以來鼠滿ち／＼て畠の物を喰ひ失ひ、耕作が出來なくなつたといふ話。つまりは命がけで海を渡らうとして居た鼠の群を、物のまちがひとはいひながらも、介抱してつれ込んだことになつたのである。

　京都の讀書人には、是はたしかに珍事異聞の一つであつたらうが、話が中央まで傳はつたのは是だけでも、他にも同種の現象が無かつたとは言ひ切れない。時刻は深夜だつたらしいから、誰にも見つからずに、又魚類ともまちがへ(114)られずに、海を渡つて居た鼠の群は幾らもあつたかと思はれる。

　近世に入つてからは、この記録はぽつ／＼と現はれて居る。本州の北端では津輕領の某浦に、延寶七年（一六七九）の四月、浦人磯山の頂に登つて海上を見渡し、おびたゞしく鰯の寄るやうに見えたので、漁船を催して網を下げ、引揚げて見たところが、下腹の白く頭と背通りの赤い鼠億々無量、網にかゝつてあがるとあつて、是はひる間の話のやうで少しそゝつかしい話だが、大きな網だからもう中止することが出來なかつたものと見える。濱へ引寄せてから人々立寄り打殺したけれども、其鼠の殘りども悉く陸へ上り、南部秋田領まで逃げ散り、苗代を荒し竹の根を食ひ、或は草木の根を掘り起し、在家に入りて一夜のうち、に五穀を損なふこと際限なかりし。然るにその山中に入りたる鼠どもは、毒草でもあつたものか、そここゝに五百三百づゝ、一所に重なり合つて死んで居たとあるのは、注意すべき事實であつた。

　この記事を載録した大田蜀山の「一話一言」には、それに附け加へて下總のシンカイといふ處でも、近頃島渡りの鼠と稱して、漁夫の網に鼠がかゝり、網を損じた例があると話して居る。この近頃といふのは文化文政の交と思はれるから、津輕の事件から百三四十年の後である。島渡りといふのもたゞ海から上つたからさういふのであらうが、是は要するに鼠の自信及び其要求の問題で、泳げぬものならば島からも來なかつたであらうし、渡つて來られるものなら、陸つゞきでも大まはりはしなかつたらうと思ふ。

　北海道の方では又奧尻の島にも鼠の話があつて、是も天明寛政の頃に、漁師の網にかゝつて上つたと傳へられるが、詳しいことはまだ私にはわかつて居ない。しかし奧尻は其以前から鼠が多いので評判の島であり、同時に蚫と海鼠《なまこ》のよく取れる島でもあつた。それで鼠が蚫を食つて蕃殖し、又或年には蚫に食はれて減つて行くといふ話があり、或は海に入つて海鼠になるのだといふやうな話さへあつたが、それをみんなが信じて居たかどうかは明かでない。たゞ何等かの外部の理由で、この島の鼠の數に、著しい増減のあつたことだけは事實だつたらしい。島には限らず、内陸の(115)廣い土地でも、地を劃して見れば皆さうなのであらうが、島では殊にそれが目に立つて感じられる理由が色々とあつた。それを列擧して見ることは私にも樂しみなのだが、話がそれでは餘りにも長くなる。どうかあなた方が自分でも氣がつくやうに、成るだけ上手にこの話をして行きたいと思つて居る。

　

　　　　　　　　　　四

　

　日本では六十年目に一度づゝ、地竹に花が咲き實を結ぶと言はれて居る。竹の實は自然穀、又はジネゴといふ名もあつて、少しは人も採つて食べるが、大部分は野山の生物に委ねられる。鼠は一年に五六度も子を産み、その子が數ヶ月で又親になるから、竹に實のなる年は忽ち繁殖するが、米麥とちがつて次の收穫がつゞかず、活きて行けない?態がすぐに遣つて來るのである。以前「昔話と文學」といふ書物の中に、チュウドンブリといふ昔話を一つ載せて置いたが、薩摩の國の鼠たちと、長崎の港の鼠たちとが、互ひに相手の國の樣子をしらず、もしかあちらに行つたらまだ食ひものが有らうかと、大きな船を仕立てゝ海に乘り出したといふ風に、この昔話では語られて居る。それがちやうど肥後と天草島との間、鼠の隱れ里の沖あたりで行合ひ、船をとゞめて互ひに行く先の樣子を尋ね、向ふにも食べる物がちつとも無いと聽いて、泣きながら一匹づゝ海に入つてしまふといふ話であつた。是は勿論おどけ話だけれども、斯んな奇拔な趣向は空には浮ばなかつたらう。やはり鼠が缺乏に驅り立てられて、海に出て行くことだけは此邊の人が知つて居たので、斯んな話も生れたかと私は考へる。

　島に鼠が居ることだけは昔からであつても、年によつてそれが百倍にも二百倍にも數を増し、次の年は忽ちうんと少なくならなければ、全體が活きて行けないといふ?態は、特にこの竹の實の成熟の、長い週期をもつ島々に於て、著しかつたものではなからうか。精確な記録は無かつたやうだけれども、北海道の奧尻の島に、年によつて鼠が多かつたり少なかつたりしたのも、原因の一つを斯ういふ天然の事實に求めることが出來るのではないか。といふわけは(116)他にもなほ一つ、是とやゝ似た話が傳はつて居るからである。

　島根縣の西部海上、石見高島の鼠の話が、本居先生の「玉勝間」卷七に出て居る。此島鼠多く、人をも害することあり、或年濱田より人を遣はし驅除せしめらるゝも效無しとある。此書の出版は寛政十一年（一七九九）、ちやうど北邊の島で網に鼠がかゝつたといふのと、ほゞ同じ頃の話であつた。二十萬分の一の地圖には無論載つて居るが、この島の記事は、他には何の書物にも見つけ出せない。或は現在すでに無人島になつて居るのではないか。縣郡の吏員にでも尋ねて見たいと思ふ。玉勝間の記事は石見の人の書信又は談話を録したものらしいが、島の大きさは周五里、岸は皆懸崖なり、濱田より五里といへど遠しとある。民家もと七戸、今は十戸あり、一家に數夫婦共に住む。畠はあれども米は無く又牛馬も無し。貢物は鰤とあるから、乃ち漁民の小村であつた。周圍五里までは無ささうに見えるけれども、ともかくも耕地は僅かでその他は地竹の茂つた原野ではなかつたかと思ふ。ところがこの報告から又三十年ばかり後、文政天保の間かと思はれる頃に、同じ方面の海上で一事件が起つた。私はそれを讃岐の國學者、猪熊方主翁の書翰によつて知つたのであるが、この人は當時の大阪の市中に、專らその風説を傳へたと謂つて居るから、或は「浮世の有樣」のやうな書物にも、其開書を録して居るかもしれない。場處はこの高島からさう離れて居らぬ海面での事らしいが、或夜漁夫たちが舟を乘り出すと、おぴたゞしく沖が光つて居るので、ハマチ即ち鰤の大群と心得て、網を入れて引寄せて見たところが、何とそれが皆鼠であつた。忽ち四散して野山に入つてしまつた。其數は七萬ばかりとあるが、正確な計算ではないことは言ふまでも無い。大きさ鼬ほどもあり、足の指には水掻きがあつたともいふのは、一部は濱の者が打殺しもしたからかと思ふが、後には貂の如き獣が現はれて、追々に之を退治し盡したといふのは、素より實際の見聞とは思はれず、果してそれから又二十年足らずのうちに有名なる石見の大鼠害といふものが發生したのである。この時の記録は幕府の直轄地内のものだけが、代官某の報告によつて、江戸の市中の好事家の間にまで流傳して、幾つもの隨筆類に掲げられて居る。時は安政の卯年（一八五五）、すでに繁殖の兆候はその前年に(117)始まり、耕作の被害はなほ翌年まで續いた。驅除には有る限りの方法が試みられたが、中でも有效だつたのは鼠の買上げで、其爲に大よその數字も明かになつた。二十五萬何千といふのは誇張では無かつたらしく、乃ち是が前年の網にかゝつた七萬餘といふ海鼠の遺種であつたといふことも想像せられる。いはゆる竹實登熟の週期は、今までの學者が信じ説いた如く確實なものだつた。それに地域毎のずれがあつて、どの程度にまで鼠の移動を導いたか。さういふ幾つかの問題が我々に引繼がれて居る。

　

　　　　　　　　　　五

　

　鼠の害の人の力だけでは制止し得なかつた記事は、古い奈良朝の史籍にも既に見えて居る。島が小さければ小さい程、殊に其惱みの忍び難かつたことは、近くは昭和十二・三年に、鹿兒島縣の黒島などに於て、したゝかに我々の實驗したところで、十分なる記録も出來て居る筈であるが、害がやゝ下火になるとほつとする傾きがあつて、果して其結末までが、明かになつて居るかどうかは心もとない。黒島では野山の奧までも鼠が充ち滿ちて、青いものは一葉も無くなり、人の食物としては藷の蔓さへ殘らなかつたといふ話で、昔ならば當然立退くか自滅するより他は無いやうな切迫した事態であつた。だから鼠の最期まで見屆ける餘裕が無かつたのも是非がないが、それでもまだほんの偶然に、見たり出逢つたりしたことを、今ならば記憶して居る人が無いとも限らぬ。是からも注意して居りたいものと思ふ。もちろん當ても無く食物を求めあるくうちに、餓ゑて殪れた鼠の數は多かつたにちがひないけれども、もと／＼水を泳ぐ能力をもつて居るのだから、何か僅かの誘導があれば、群をなして海に飛込み、近くに上陸する所があればしあはせ、廣い海上へ出てしまふと、次から次へと不利な條件が累加して來て、大多數のものが生命を失ひ、たゞその際少部分だけが、種族を存續し得るやうに定まつて居たのではなからうか。さうでないならば方々の離れ小島に、鼠が入つて住んで居る理由が、私等にはちよつと考へられない。

(118)　それでも見た人が無いから、書いたものが傳はつて居ないからと、首をかしげる歴史家も無いとは言へぬが、それをいふならば人だつて同じことである。船をこしらへ計畫を立てゝ、渡つて行けるやうになつたのは新らしいことで、大抵の島には其ずつと以前から、ちやんと渡つて來て人が住んで居る。何か別の方式なり機會なりがあつて、ともかくも島の住民は實在して居たのである。知らぬといふことゝ無いといふことゝを、一しよくたにすることは出來ない。

　さういふ中でも殊に鼠の移住などは、現に見たといふ人があり、又その記録があつた。それを世間ではまだ知らずに居るだけである。南島雜話といふ本は明治より少し前、奄美大島北部の農村に、三年餘の流人生活を送つた、名越左源太といふ薩摩藩士の筆記であるが、其中には鼠についてのさま／”＼の見聞を載せて居る。ウンネジンといふのは海から入つて來る鼠のことであつて、形はすこし小さいが毛の色は常の鼠と異ならず、上陸してしまふと見分けることが出來なかつた。それが蝗も同じやうに、海上から來るもの害最も甚だしといつたのは、つまりは食に飢ゑて居たからかと思はれる。島々の天然が近世に入つて、激しい變貌を遂げたことは何處も同じだが、この大島などは更に特殊な社會的原因を附加して居る。この島には神山と稱して、古來手をつけない樹林地が廣く、椎や?類の老木が無數に繁茂して、年々の食物は保障せられ、人と鼠との社會は相侵す必要が無くて、久しく過ぎて居たらしい。ところが戸口の漸く増加するに際して、ちがつた信仰をもつ爲政者が、單なる殖産政策の立場から、勸め諭して神山の樹を伐らせ、それを開墾して砂糖黍などを栽ゑさせ、鼠の居處を狹めて、段々に里の方へ導いて來る結果になつたのである。名越氏の著述を讀んで見ると、鼠のいたづらの是ほど烈しかつた島もちょつと珍らしい。稻作尤も害を受く。苗蒔きの籾を食ひ、二三寸出てからも食ひ、又穗さきも食ふ。麥も粟も唐芋も落花生も砂糖黍も食ふ。高倉はもと鼠を防ぐ爲に、柱を高くした建物であるが、鼠は其柱に飛びついて、葛の蔓のやうに旋りつゝ登つてしまふ。又卵なども巣に運ぶといつて、その防禦には殆と手こずつて居た。しかも鼠を捕らうとして取遁がすと、其復讎が最も怖ろしいものと信じられて、常の日も決して彼等の本名を口にせず、家々村々には色々の忌言葉があつて、たとへば殿がなし、家(119)主がなし、又は旦那さまつくゎ等の名を以て呼んで居た。カナシは南の島々では最上の敬稱、クヮといふのは子又は小のコに該當し、旦那は支配階級のことだつたらしい。或は又甲子の祭の日には、

　　　ウンジャガナシ、　ウンジャガナシ

　　　作職に障りしょんな

　　　願ひをつと

と高く唱へて、祈願をするやうな慣習もあつた。ウンジャガナシの名の意味はもう今日は明かでなくなつた。國頭方面では海神がウンジャミだから、事によると其語音の殘留かもしれぬ。海鼠のウンネジンとは直接の關係は無くとも、なほその系統を遠ざかつては居らぬと思ふ。

　

　　　　　　　　　　六

　

　奄美大島の農民たちが、是ほどにもひどい毎年の害に苦しみながら、なほ鼠に對して尊敬の意を失はず、かなしの語をつけて之を呼ぶばかりか、一年のうちに少なくとも一日、通例は舊八月以後の甲子の日を以て、鼠の爲の物忌の日とし、鼠といふ語を口にしないのみか、もしか其姿を見れば害があると信じて、終日野原や畠へも出ずに居たといふのは、何か根原によく／＼の理由があつて、それがもう記憶の外になりかゝつて居るのである。曾ては鼠が神山の茂みに住んで、村の生業を荒さずに居られた時代が、あつたことも考へられるが、さういふ平和な對立の間からは、なほ是だけの畏敬の念は生れなかつたらう。ハブといふ毒蛇の場合にも見られるやうに、寧ろ、稀々に意外な暴威を振ふのを實驗した者が、之を神秘の力に歸するやうになつたので、他所の飢ゑたる鼠の群が、海を渡つて入つて來る時などに、特にこの信仰は伸び擴がつたのではないかと思ふ。

　昇曙夢さんの「大奄美史」に、大島では鼠も一つの神がなしで、テルコ神の使者だとあるのは、多分近頃までさう(120)いふ言ひ傳への、まだ殘つて居る村があつたことを意味するものであらう。新美な文化が普及する前までは、この島にはナルコテルコといふ神を、毎年二月に御迎へ申し四月に御送り申す嚴肅な祭があつて、その式作法も詳かに記憶せられて居る。本來は沖繩諸島のニルヤカナヤの大主も同じ樣に、單に一つの神の二重稱呼であつたのを、後々是を雙神と解するやうになつて、一方のナルコ神を山の神、テルコ神を海から來る神といふ人が多くなつた。伊平屋の島にもナルクミ・テルクミといふ言葉が殘つて居て、それが又ニライ・カナイ、即ち海上遙か彼方の神の世界だつたことを考へ合せると古い信仰には傳承の中心が無い爲に、歳月を重ねるうちに、次第に島毎の變化が多くなつて來たのである。島々の神歌は必ず對句を以てくり返され、一神二名といふことは寧ろ普通であつた。歌が衰へて名の暗記を主とすると、是を二つの神と解したのも自然である。沖繩本島では、其一方を天の神と見ようとする傾きも見られるが、奄美の島では蒼空の信仰はまだ起らず、神山の靈驗はなほ大きかつた故に、斯ういふ説明も可能であつたので、或は海を渡つて來て山に入つて行く鼠の群が、斯ういふ雙立神の信仰を導いたといふことも想像せられる。

　所謂ニライカナイが海上の淨土、遠く水平線の外に在る不思議の世界の名であつたことは、現在殘り傳はつて居る色々の資料によつて、もう大よそは確かめ得られるのだが、それを説いて居ると話があまり長くなる。こゝではたゞ問題の島の鼠が、最初はやはりこのニライカナイから渡つて來たものと、昔の人たちには考へられて居たらしい、といふことだけを述べて置きたい。此點については、伊波普猷さんといふ沖繩の學者も、すでに綿密な研究を遺して居られる。あの島々の鼠害も、決して北隣の奄美群島に劣らず、殊に小さな離れ島は夙く開け切り、之に對抗するやうな自然の敵も乏しく、久しく惱み苦しんで居たと見えて、久米島伊平屋の二つの島などでは、神に鼠の退治を祈願した年々の祭文の二百數十年前のものが保存せられてあつた。?る目當ての神はどういふ神か、是がわかるとよいのだが、島の人には口にする必要も無かつたのであらう。其點がさうはつきりとして居ない。久米島の方ではヂルヤ（ニルヤ）の大つかさ、又の名はカナヤの若つかさといふ神に、田を荒す惡鼠どもを引取つて、石の瀬の下に閉ぢ込め、(121)又は渡つて來ぬやうに誓約させて下されと念じて居るのは、多分は其日鼠を捕へて、小さな舟に乘せて海に流し、それがニライカナイヘ行くものと思つて居たのである。この島の鼠送りのオタカベ即ち祭文は數篇あり、村毎に少しづゝの内容はちがふが、何れもその初頭に鼠の素性、それがこの世に現はれた來由を説くことは同じで、相手の身元をよく知つて居るといふことが、乃ち彼等を制壓する力であるとする、古代人の物の考へ方に基づくものであつたらしい。この言ひ立てに依れば、鼠の元祖は天のテダ、又は大テダといふ日輪の神であつた。テダの子の一人にオトヂキョといふ神があり、鼠は又その生める子であつたといひ、或は直接にテダの私子、生みそこなひの子として生れたともいつて、人間世界に降つて蕃殖し、且つ兇暴を逞しくするのだと、ある限りの惡稱を以て憎み罵つて居るのは、珍らしい古文獻といつてよい。

　こゝに鼠の始祖を天の日といひ、又人の世に降り來るといふことは、島人も後にはさう考へ出したにちがひないが、私から見ると是は宗教發達の一つの過程であつて、最初は太陽もまた海の淨土の信仰に含まれ、寧ろ其信仰の基底でもあつた故に、鼠が之を父として生れるといふやうな、奇異なる言ひ傳へも發生し得たのかと思ふ。其いはゆる大テダの最も美しく輝かしく、又畏こくも尊とくも仰ぎ望まれたのは、大陸でもさうだつたかも知れぬが、海のとなかの島國に在つては、殊に早朝の一刻、旭の豐さかのぼりといはれた日出の前と後とであつた。おもろ草紙の神歌を見わたしても、沖繩の島人が日の神のけ高い御姿を、花とも錦とも詠歎したのは、すべて神がまだニライカナイの國を離れたまはぬうちだけで、テダが穴などといふ語は吾々には俗に聽えるけれども、ちやうど昇る日の直下だけが、鮮かに光り輝いて居るのを見て、そこを特殊に尊くも又慕はしい神の島と感じて、數々の幻しを積み重ねたのも自然であつた。それを新たな輸入の原理が、段々に突き崩して來たやうに思はれる。

　

(122)　　　　　　　　　　七

　

　たとへば沖繩のオボツカクラは、ちやうど本州の高天原に相當するものらしいが、あれに比べるとなほ一段と茫漠として居て、殆と地理上の概念ともいふことが出來ない。一方には安の川原、天の長田といふ類の、地名らしきものも生れて居るが、こちらは山か空か、どの邊に在るのかも考へられず、さうして又語義も明かでない。察するに是は半成の神學とも名づくべきもので、夙く東海岸に起つた日の神の信仰はまだ強く、文化の中心が西岸の濱に移つて、對岸大陸の影響を甘受する時代になつても、なほ之を天帝系統の教理に組み替へることが、さう容易ではなかつたのである。おもろ草紙の多くの歌を見ても、テダといふ語の用法は、舊日本の方よりもずつと弘い。獨り全土を統一した最高の王者のみと言はず、島々のかはら即ち頭、一地に割據した大小の按司世の主も亦テダであつた。いはゆるテダが末、即ち日の神の後裔といふ想像は、この海上の國に於て承認せられやすかつたので、それといふのも其本源のニライカナイが、八重の波路の遙かあなたとは言ひながらも、必ずしも往來し難い處とまでは考へられなかつたからであらう。實際に又人がこの海中の國へ招かれて遊びに行き、いろ／＼御馳走になり寶物をもらひ、又はニルヤの大主のたつた一人の娘を、嫁に所望して連れて還つたといふ外に、黄金をひり出す猫や小犬を、讓り受けて來たといふやうな昔話が、あの島この島に數多く語り傳へられて居る。無論この通りの事實がかつてあつたとは言へないが、斯ういつた昔話の成立は一つの歴史である。殊に鼠が海を渡つて來るといふまでは、稀々に新らしい現實の證據もあつた。所謂テダが穴の信仰のなほ活きて居た時代ならば、彼等を神の子の最も好ましからぬものとして、故郷に喚び戻し閉ぢ籠めて置いていたゞかうといふ?りが、熱烈であつたのも當然と見てよからう。

　しかし久米島たゞ一つの實例だけでは、まださう確かなことは言へない。弘く内外の島々に於て、鼠の害を防ぎ免れる方法は、どうして居たか、それを次々と突きとめる必要がある。舊日本の各地には鼠送りが多いかと思はれ、伊(123)豆の三宅島などでも、村からやゝ遠い空野に祭場を設け、それへ色々の食物を取揃へて鼠送りをして居たといふことで、そこには現在小さな祠があるさうである。沖繩の方でも近い頃まで、一匹の鼠を捕へて麥藁の舟に載せ、それを代表的に海へ流すといふ行事、ちやうどこちらの蟲送りと似た風習があつた。伊平屋の島の稻穗祭などでは其日に唱へたといふノダテゴト、即ち一種の願文の言葉の、是も相應に古い頃のものが、文書に殘つて居る。前に援用した久米島のオタカベと異なる點は、この方では鼠の來歴を明示せず、又ニライの神に送り返すといふ文言は無く、たゞこの害獣の地面の下から出て來て、?々田作りを食み荒らすを憎み、それを呪詛して無力ならしめようとするだけであるが、次のやうな發端の數句があつて、それが是からの問題になるのである。

　　一、島さしまはる、あんしゃしまはる、

　　二、にらいそこもい、かないそこもい、

　　三、ひやらしゃが下、なだらしゃが下、

　　四、おれどねどころ、とね所やよる　云々

　島の言葉だから少し解しにくいが、二の「にらいそこもい云々」は、原註には鼠の事也とある。モイは敬稱、カナシよりは一つ次、思ひといふ語から出たもので、鼠がニライに屬する尊者と認められて居たことは是で先づわかる。伊波さんの「あまみや考」には、このニライソコ・カナイソコを土の底と解し、ニライカナイは本來大地の下のことであつたのが、後に轉じて遙かなる海の彼方の意に、變つたのだと言つて居られるが、それは三の句のヒヤラシャ・ナダラシャが、岡の斜面の鼠穴のことを言つて居るからで、とても全體には適用せぬ説であつた。今ある文獻の示す限り、人がニライを拜むには必ず海の邊りに出で、毎年のニルヤの大主は、いつでも波を越えて渡つて來ると考へられて居た。死者の精靈に對してのみは、地下に向つて祭をする感覺が、日本ではいつの間にか發生して居るが、それさへも沖繩の島々には見られないのである。是は全く底といふ文字に囚はれ、底の國も常世の國も同じといふ古事記(124)傳の説を引用しながら、それを十分に考へて見られなかつた爲かと思はれる。

　但しニライスクといふ言葉は、伊平屋ばかりで無く又宮古にも八重山の諸島にも在つて、それが往々にして地底のごく深い處を、意味するといふのは事實である。たとへば八重山ではこの世の始めを説くのに、最初にニライスクからアマン即ち寄居貝《やどかり》が飛び出し、其次に人間の男女が出て來たといふなども、洞窟か自然の割れ目かは知らぬが、とにかくに大地の續きであつて、海の外からではなかつた。ニルヤの言ひ傳へなども、凡眼に見えぬ沖の小島のやうにも言へば、又時あつては蒼海の潮を押分けて、水底に所謂可怜小汀（うましをはま）の眞砂を踏んだと説く場合もある。水陸のけぢめは表邊のみで、下に行き通ふものといふ觀念を、我々は持つて居たのかもしれない。人が瓠やうつぼ舟に乘つて、浪に漂うて濱に寄つたといふ東方の昔語りは、?々桃太郎や瓜子姫の如き、川上から流れ下るといふ形に變り、深山の洞や瀧壺には、美しい龍宮の姫神の常住を説くものが稀でない。しかしさういふ話は氣をつけて見ると、どれも是も皆水に屬して居て、水がこの大地の内と外を、絶えず行き巡つて居るといふ事實から、導かれた想像とも見ることが出來る。それに反して單に地面に小さな穴があり、鼠がそれから出入をするといふだけで、地下をニライカナイだと考へたといふのは不思議である。是にはなほ隱れたる別の理由、たとへば久米島の祭文にもある如く、鼠がテダの神の末であり、海を渡つて遠くから來たといふ信仰があつたのではないか。其點が是から諸君と共に、もう少し研究して見たい問題である。

　

　　　　　　　　　　八

　

　この話をする私の一つの下心は、鼠にも大きな歴史があつてそれが夙く忘れられ、もしくは憶ひ出さうとする者の無かつたことは、少しばかり人間と似て居るけれども、もと／＼彼等の生きて續いて居るといふことが痕跡であり、又大切な證據でもあつた。精確に又懇ろに是を觀察して行かうとする者には、今からでも追々と、判つて來ることが(125)多いだらう、といふことを説いて見ようといふのであるが、さし當つては更に今一つ、日本と其南に連なる島々との古い關係が、何かこの方面からも少しづゝ、明かになつて來さうな樂しみが談つて見たかつた。獣類の多くは先祖から、人と敵對する爲に出て來たものでは無かつたが、さういふ中でも鼠はかはいさうに、其蕃殖力があんまり盛んなばかりに、人に迷惑を掛けて早くから、憎まれ又嫌はれて居る。沖繩諸島の住民がそれにも拘はらず、いつまでも彼等の氏素性を記憶し、又は格別怖ろしいことも無いのに、或程度の畏敬を以て是に應接して居たのは、何か隱れたる動機がなければならぬ。果してさういふ不可解な特徴が、南の一群の島のみに限られたものであるか。但しは舊日本にも若干の心あたりがあるか。殊に海の彼方に在りといふ神聖なる隱れ里を、故郷にもつといふやうな奇異なる言ひ傳へは、果して偶然にたつた一つの離れ島に、發生したものであるかどうかといふことが、先づ注意すべき問題となるのである。

　そこで順序として簡單な類似點から拾つて見ると、最初に鼠が人間の言葉を解して、折々立聽きをするといふこと、このほゝゑましい俗信はつい近頃まで、私の家などにも行はれて居たから、他にもまだ記憶する人がきつと多からう。新式の捕鼠器を仕掛け、又はストリキニーネを戸棚の口に置かうとする場合でも、誰かゞうつかりと鼠といふ語を口にしようものなら、私の母は大急ぎで今晩はやめませうと言つて、そつと天井を指さして合圖をした。鼠はどこかで人の話を聽いて居ると見えて、さういつた晩にはかつて罹つたためしが無い。無言で支度をするに越したことはないが、もしもしやべつたら必ず高聲で、打消して置かなければならぬときめて居た。今は信ずる者も無いであらうが、聽けば思ひ出す人は何處に行つても居る。奄美大島などは始めから、そんな機構を企てようともせず、どれほど暴れまはつてもそつとして置いたらしいが、やはり鼠の本名を口にせず、うつかり惡口でも言はうものなら、愈々其害がひどくなると信じて、唯ウエンチュとかウエヘガナシとか、敬語を用ゐて之を制止するだけだつたといふから、ともかくも鼠が人語を解し、更に對等以上の交際を要求するものと、思つて居た點までは少なくとも此方と似て居る。

(126)　鼠がネズミだといふことをちやんと知つて居りながら、それを公言しないのは忌言葉である。忌言葉の起りは一通りで無いらしく、それを考へて見ようとした人も、今まではあまり無かつたやうだが、正月には少なくとも別の語を以て鼠を呼ぶことにして居る家は今も日本には多い。或は一年中を通じて、彼等をオフクサンと謂つたり、又はヨメサマと謂つたりする人も少なくは無い。お福さんは鼠が大黒天の家來であり、たまには小判を口にくはへて還つて來ることもあるかの如く、思つて居た人々の附與した名のやうだが、一方の嫁樣又は嫁が君は傳來が弘く又久しい。御伽草子の「鼠の嫁入」などが世に行はれて、是を人間の若い妻に、たとへたものとする解釋も普通になつたが、さうなると實は説明がしにくいのである。第一に結婚が嫁入を以て開始する風習は新らしく、又其風習の行はれなかつた區域に、却つてこの忌言葉は強く傳はつて居るのである。極端な例から擧げて行くと、先づ沖繩列島の南の果、與那國の島にはドゥミーといふ語があり、嫁化して鼠となるといふ傳説をさへ伴なつて居る。此島では一切のヤ行音が、すべてダ行音に轉じて居るのだから、是を關東東北にも行き渡つたヨメゴやヨメサマと、同じ言葉と見ることはこじつけでも何でもない。それから中間に色々のものが入り交つて、次には宮古島にはユムヌがあり、更に沖繩本島よりは北、與論島でも沖永良部島にも、鼠をユムヌといふ語が知られて居る。多分はこの三つの島でも、今は夜ものの意味に取られて居るだらうが、私の考へた所では、右の二種の忌言葉は起りが一つだつた。

　

　　　　　　　　　　九

　

　鼠をヨモノと呼んで居る土地は、こちらでも福島縣の北半分、信州の南部、古くは又京都に接した山村にも飛び／＼にあり、中にはおどけて忠よもんといふ人もあつた。夜しか出て來ぬから夜物は判つて居るやうだが、それが早合點の一種であつたことは、簡單に證明し得られる。即ち鼠の他にもヨモノと呼ばれて居るものが、まだ幾つも有るのである。一々の例を竝べるのも煩はしいが、大體に東日本では狐・狸・猿や猫までをヨモノといふ土地が互ひに對立(127)し、西國殊に南九州の數縣に於ては、一般に猿ばかりがヨモン又はヨモであつた。沖繩の諸島には、猿は昔から住まなかつた筈であるが、昔話だけにはそれが出て來て、其名をユームーと呼ばれて居る。狐狸から猫まではまだ夜のものと謂つてもよかつたか知れぬが、猿を夜の者といふことは何としても理に合はない。故に私はヨモノはゆゝしきもの、直ちに本名を呼ぶことを忌み憚るべきものといふ義に解し、いはゆる嫁が君の起原も、やはり同種の心づかひに基づくものとして居るので、それには又一つ／＼、尋ねて知り得らるゝ理由があると思つて居る。

　鼠をヨモノだのヨモノヒトだのといふ中に挾まつて、東北地方などには稀には又、ウヘノアネサマといふ異名もある。姉樣は即ち長男の新婦、上とは屋根裏のことであるが、二階に簀をかき天井板を張ることは、古くからのことでは無いから、そこを姉樣の常の居處と見たことは、新たな趣向だつたかと思はれる。奄美大島などでも前に言つたやうに、鼠をウエンチュといひ上の人の意と説明して居り、村によつてはティンジョーヌシュグヮ、即ち天井の小旦那といふ言葉さへ出來て居るが、是などもやはり亦近年の變化かと思はれる。

　沖繩の本島では、發音の少しづゝの差はあるけれども、大體にウエンチュ又はヱンチュといふのが多く用ゐられ、從つて是も上の人、即ち二階の人と解せられる傾きがあるやうだが、年を取つた人たちはまだ古い語感を保ち、何か親類のぢい樣といふやうな意味をもつと、伊波君などは言つたかと思ふ。宮艮君の採訪語彙に當つて見ると、八重山の諸島にはウヤンチュといふ語が最も普通で、西表の島にはオイヅァ、鳩間島にはウヤザ、與那國にもウヤントゥといふ語がある。オヤは生みの親、又は郷黨の長者にも用ゐられぬことは無いが、それには又それ／”＼の語がすでに出來て居て、此ウヤから直接に受ける感じは、寧ろ祖先などの祖といふ語に近かつたらしい。何か方法を設けて確かめて置く必要があるが、ともかくも屋上天井の義で無かつたことだけは疑はれぬ。

　宮古郡の諸島はまだ十分に調べられて居ないが、是も前に出したユムヌの一語以外、まだ島毎里毎の變化がきつと有ると思ふ。それ等を集めて比較して行くうちには、段々に沿革の跡が明かになつて來るだらう。奄美群島の方でも、(128)天井の小旦那といふやうな新語の出來て居た佳計呂麻の實久の村に、別にウンジュガナシといふ語も採集せられ、是もカナシがついて居るのを見ると、多分は長老の靈といふ意味であらう。又ヱヘガナシの異名も大島の東方村にあるさうだが、是も前に掲げた鼠への敬語ウエヘガナシと同じく、カ行から轉じたハ行音であつて、やはり親族の靈のことだつたかもしれない。國頭方面の鼠の異名にもヱキといふのがあり、其ヱキは島尻のオエカと同じく、血筋の續きを表示する語だつたかと思はれる。弘い國土の端々に亙つて、今もネズミといふ名は知らぬ者が無く、心で思ふときには常にこの語を用ゐて居りながら、改めて是を口にする時ばかり、特にこしらへた語を使つて、それにも或程度の一致を見るといふことは、何か相應な理由のあるものと、私には考へられる。たゞ今日までは是といふ手掛りが無くて、どうして鼠を此樣に畏敬し、諱みて其實名を口にせぬ慣習が、根強く殘り傳はつて居るかの、一つの假説をすらも打立てることが出來なかつたのである。考へて見ると問題は思ひの外大きい。どうだつていゝぢや無いかとは言へないやうな氣がする。

　

　　　　　　　　　　一〇

　

　オトヂキョ神話といふ名を以て、私たちは是からこの問題を進めて見たい。鼠が日の神の初めの子、オトヂキョの後裔として末大いに繁殖し、此世に渡つて來てあまりなる害を作す故に、小舟に乘せてニルヤカナヤに送り返し、永くかの聖地の支配者の監視に委ね、いはゆる石礁金礁《いしぜかなせ》が下に、閉ぢ籠めて置かれんことを祈念した、久米島仲里間切の數々の祭文は、ともかくも新らしい暗示であつた。是と同種の古文獻は、多分はもう他の島々には傳はつても居るまいが、曾てこの小さな害獣の故郷を、海の彼方のニライの島と信じ、能く精誠の力を以て之を退去せしめる道があるといふ言ひ傳へが、久しく續いて居たといふことだけは、行く／＼なほ多くの傳承の綜合を以て、明確にし得る望みがある。さうして是が舊日本の諸島を含めて、弘く太平洋の水域に亙り、どれだけまでの共通が見出されるかとい(129)ふのが、未來の文化史に對する我々の無限の興味である。

　是も今日はまだ空想の一種としか見られぬかも知らぬが、私は鼠に對する島人たちの畏敬、殊に其實名をたやすく口にせぬといふ以上に、?々族長又は祖靈に對すると同じ呼び名を、附與するといふ慣行には、意味があり、或は又人間の靈魂の去來する聖地も亦ニライであり、鼠はたま／＼是と出自を同じくし、其消息に通ずと認められたが故に、あれほど無法な惡戯をするやうになつて後まで、過當の優遇を受けて居たのではないかと思つて居る。現在の後生觀は、何れの島でも漠然とし、又村毎の差異も著しいやうであり、一方には又二種幽界の思想が起つて、可なりの混亂を與へても居るが、少なくとも職分として魂をニルヤに去來せしむといふ者が曾て有り、又は毎年季節を定めて、彼より訪ひ寄る靈のあつたことも、文獻の上には痕跡を留めて居る。家々の祖靈が海から還つて來るといふ記憶はよほど幽かになつて居るけれども、いはゆる精靈舟の風習は、やまとの方でもなほ弘く保存せられ、たゞそれが行き着く處、又は其方角道筋に關して、今は甚だしく不精確になつて居るばかりである。魂祭の季節は南方の諸島に於て、以前は一般に舊暦の八月であつたらしい。是を自分などは大切な手掛りと思つて居るのだが、七月の盆行事が可なり有力に普及して後まで、是と對立して重要なる多くの行事が、いはゆる仲秋名月の前後に集合して居たことは、大陸東岸の廣い地帶から、九州の南半分にかけての、注意すべき一致であつて、何か民族移動の方向を意味するやうな、自然の法則がまだこの邊に隱れて居るのかとも想望せられる。

　奄美沖繩の二つの島群に於ては、この月はちやうど稻作の區切り期で、言はゞ日本内地の正月に該當する時節だつた。稻の收穫は舊六月を主とし、一年再收といふ場合には八月以後にも刈るが、此方は重視せられない。さうして九月には直ぐに又種取りの式が始まるのであつた。奄美の島々ではシチウンミ（節折目）、又はアラセツ（新節）といふ語もあつて、シチ又は節といへばこの八月の祭を意味して居り、先島の方にもシチ祭を、同じ八月の行事の名としてゐる例がある。南北の島群を通じて、最も弘く知られて居るのは柴指といふ日で、是は芒や樹の枝を折つて家の周り(130)に指すのだから、現實に祭の開始の日であつた。日の算へ方は島毎に區々で、大體に八月上句中、八日又は十一日と定めて居る村も多いが、奄美の諸島では月の初めの丙の日を新節とし、それから何日目を柴指といふ風に、次々と式の日を繰り出して行くのが普通になつて居る。

　現代の島人たちに、最も印象の濃いのは八月踊であるが、是には始めから定まつた日は無く、寧ろ他の色々の行事の少ない日を拾つて、この月中は何度でも踊つたやうである。之に反して、少なくとも個々の邑落毎に、式の日のきまつて居たものが二つある。その一つは墓祭、又は親の孝（ウヤンコウ）とも考祖祭（ホウスマトゥイ）とも呼ばるゝ祖靈供養であつて、是は一年に兩度、正月又は麥の收穫の後にも其祭をする島があり、或は十月以後に行はれる例も無しとしないが、大體にこの八月新節の後に來るものが重視せられ、たゞ其日の算へ方だけが、土地毎に少しづゝちがつて居た。それからもう一つの式日はドンガの日、此方は今でもやゝ廣い地域に亙つて、柴指の次に來る甲子の日ときまつて居るやうで、乃ち私の次に言はうとする鼠の物忌の日なのだが、是にもまだ明かになつて居らぬ若干の沿革があつたらしく思はれる。文字には頓賀と書き、又嫩芽などと書く人さへあるが、二つともに何の根據も無い當て字であつた。同じ大島でも南の方の村々では、ウルングヮと發音する者があつて、死後七年目の改葬をするのも此日であつた。沖繩の方にはドンガといふ語は無いが、舊三月四月の交の季節をウルズミともヲレズミともいふ語があつて、おもろの中にもよく出て來る。察する所文字に據らない發音は激しく變轉して、やがて又語義も其爲に不明になつて來るのである。南島雜話の話すところでは、頓賀は二日つゞき、甲子を以て始まる。八月に甲子の日無ければ、九月の甲子を以て高祖の祭をしたとある。喜界島などの或村では、壬戌の日を以てその所謂ホウスを祭り、仲一日を置いて翌々日の甲子を以てドンガの日として居る。以前は幾つかの行事が此日に集合して居たのを、後々鼠の忌を嚴肅にするやうになつて、特に其日を隔離する必要が起つたのではあるまいか。島の神山がまだ廣々と茂つて居た時代には、鼠が里に下つて害を作すことも、今のやうに甚だしからず、是を遁れる爲に別段の方式も必要で無く、從つて(131)此日の謹愼も目的は他に在つたのが、彼等の兇暴が堪へ難くなるにつれて、次第にドンガの解釋が變つて來たらしいことは、鼠の忌言葉の變遷からも推測せられる。鼠をウエヘガナシ又はウンジャガナシなどと呼んで、一門親族の祖靈の如く看做した動機は今一段と深い所に在つて、單なる恐怖や不安に基づくものでなかつたやうである。

　

　　　　　　　　　　一一

　

　いはゆるドンガの日の行事の一つとして、名瀬間切に行はれて居たシチヤガマといふ遊びは、是も其名の起りを知ることが出來ないが、甲子の前日に木を伐つて小屋を建て、其中で甘酒を造つて田の神を祭つたといつて、其祭の日の歌詞が傳はつて居る。その田の神は多分我々の年の神と同じやうに、毎年還つて來て家々の生産を援護する祖神であつて、一囘の秋の收穫が完成するたびに、子孫門黨の歡喜に送られて、靜かにその休息の地に歸つて行くものと、信じられた時代が久しく續いて居たのであらう。この種年々の行事に裏付けられた信仰は、世相が改まつてもさう根こそげには取り棄てられないと同時に、始終周圍の條件に適應して、目に立たぬ少しづゝの變更を重ねずには居なかつた。それ故にたつた一つの土地の實?を注視しただけでは、如何なる明察の力も其推移の足取りを跡づけ得ず、もしくはどの樣な奇拔奔放なる斷定も下し得られようが、それが安全なる將來の常識を、築き上げ得る望みはまことに少ない。ところが幸ひなことに、我々の住んで居る群島では、人の經驗が島毎にちがひ、しかも出發點は一つであつたかと思ふ痕跡は、今ほど改まつた時世にすらも、なほ次々と見つけ出される。人が輕々しく看過しがちな小さな事實の集積と、その周到なる比較とを目途にした民俗學の方法は、斯ういふ方面でこそ功を奏する望みがある。やたらに中央の解説に服從してしまはずに、段々と假定を確實に近づける道へ、各地の同志諸君は進んで行かなければならない。

　稻の毎年の收穫をヨと謂ふ言葉が、南島では弘く行はれ、本州の方でも稀ならず俗間に殘つて居たことは、私は偶(132)然でなからうと思ふ。家と穀物との結び付きは、昔は今よりも遙かに密接で、種とか筋とかいふ言葉も雙方に共に用ゐられ、それの永續を以て生存の主要な事業として居たことは、古い家の新年行事の中からも窺ふことが出來る。乃ち個々の生産期の境目に際し、生死二つの世界の靈魂の、系統を同じくするものが相會して、歌舞饗宴の悦樂を共にしようとしたことは、數多くの民族を通じて、素朴なる推理だつたかと思はれる。東方の諸島に分れ住む人々の間には、取り分けこの考へ方がはつきりと殘つて居た。必ず來年も又ござれと謂つて、この新嘗の神を送り申したこと、それが一つ／＼の家門毎に、それ／”＼因縁の深い神なりと信じられたこと、殊に嚴肅なる齋戒と、それに引續いた自由なる歡樂とが、最も鮮明に神の去來の時期、迎へ送りの感覺を際立たせて居たことは、斯ういふ新らしい世の中になつてからでも、なほ或程度までの立證が可能である。之に據つて直ちに根原の同一を推斷することは大膽に過ぐとしても、少なくとも是だけ複雜なる外來の影響を受けながら、なほ變化の傾向と順序とがほゞ一致し、たゞ其歩速のみが地域毎に著しくちがつて居たのだといふことが、比較によつて追々と判つて來ようとして居るのは頼もしい。夢かも知れないが將來の民族學が、一般にこの一國民俗學の方法を採つて、隅々の埋もれたる眞實を、少しの疑ひも無いものにする時が、やがては到達するであらうことを、實は私たちは豫期して居る。

　しかし差當つての問題は鼠であつた。鼠にどういふ權利があつて、この南方の八月先祖祭の季節に、出て來て重要なる一役を持つかといふ點に、我々の考察を限らなければならない。是も手短かに言つてしまふならば、今までは比較の範圍が、少しばかり狹きに失して居た。日本の内地で感覺の是と近いものは、舊七月盆の魂祭の後先に、盛んに飛びまはる色々の蜻蛉、又はホトケノウマなどと稱して、稻穗の上を渡りあるく蟷螂の類、是は先祖樣が乘つて來られると云ひ、又は亡き魂の假の姿かもしれぬといつて、如何なる惡太郎も捕獲をさし控へさせられる、それから今一つの例は現實の收穫祭の頃に、新米で餅を搗いて農神に供へると、蛙が其餅を背に負うて神の御伴をして山へ入つて行くといひ、それを眼で見た者はまだ無いけれども、農神さまがその後から、あんまり飛ぶなよ、粉んこが落ちるに(133)と云ひつゝ、歸つて行かれるなどといふ笑ひ話が、今もまだ東日本の田舍には傳はつて居る。偶像の國のやうに物知らずは言ふけれども、我々の神々は、凡眼には御姿の見えぬものときまつて居た。稀には幻しに見たと稱する者が、段々と新たな信仰の形を作つて行つたが、普通の場合には毎年の季節風物、その中でも斯ういふ生物の自然の動作によつて、端的に神の來格を推測して居た。常には見ることが無く、又はこの際に氣を付けて見れば見られる、或動物の集合と去來とを以て、眞率に神の通行の御先拂ひと考へる風が、近い頃までは確かに有つたのである。南の島々では何といふ言葉が之に該當するのかまだ知らないが、こちらではその姿を見せる小動物を全國的にミサキと呼んで居る。其ミサキの最も主要なものは狐であつたが、正月には山鴉も亦さう呼ばれる。狐が農作の神の如く一般に崇祀せられて居る起原は、漸く不明に歸しかけて居るが、それが我々の仲間の採訪によつて幸ひに湮滅を防ぐことが出來た。つまりは從神であり案内者であり、或は單なる神靈の目標に過ぎなかつたのが、誰かゞいつの間にか、獨立して一つの神ででもあるかの如く、誤解するやうになつたのである。是とよく似たものは山王の猿、富士にも其他の靈山にも、猿を使者とした信仰は弘かつたのだが、是は庚申となつて佛法に引込まれた爲だつたか、但しは別に?況のちがふものがあつたからか、稻荷ほどの大きな勢力を養ふには至らなかつた。その他になほ一つ、猿に關する信仰も、歩んだ途はちがふが、その變遷には比較に値ひするものがあり、一方には又狐より以後に、新たに承認せられたオコジョやイヅナの類がある。是等は著しく狐の影響を受けては居るが、とにかくに山から去來したまふ農作の神の、一種のミサキであつた點は、盆の蜻蛉や蟷螂とも共通であり、殊に家との因縁が深く、從つて之を祭る家と祭らぬ家との間に勢力の強弱を生じ、不愉快な社會問題をさへ引き起して居ることは困るが、この御蔭によつて山から迎へらるゝ我々の農神が、家毎にちがつた神であつたことが、ほゞ明かになつて來るのである。

　以上を南方の諸島と比べて見るのに、祭は明かに家々のウヤンコウ、即ち祖靈の孝養であつたけれども、日本の方で氣がつくやうな色々の獣類はあちらには居ない。小魚や羽蟲などは群をなして飛んで來たらうが、其擧動に特別の(134)注意を拂つたといふ話はまだ聽き出さない。第一に奄美大島の主島より他には、高い峯も無く物深い林地も無く、魂は海を渡つて年々還つて來るものと信じて居たらしいことは、所謂コスガナシの迎へ火行事からも、又北隣の親玉祭からも類推せられる。山と海とでは丸でちがふやうだが、大きな島に移つて海の見えない山あひに住むやうになると、自然にこの變化は起るものと見えて、桃太郎の桃でも瓜子姫の瓜でも、共に川上から流れ下り、瀧壺の淵には龍宮の乙媛が機を織つて居られるやうにも傳へて居る。海の水平線も山嶺の空線も、天と日月とに連接することは似て居る故に、是を同じ列に考へることが、昔の人には出來たものと思はれる。鼠が里近くに現はれて、群を爲して行動することが、ちやうどこの收穫祭の前後だつたとすると、是を目に見えぬ賓客の同伴者と感じたのも自然であつたらうが、その上になほ彼等が水を渡つて、どこからとも無く島に入つて來ることは、島に住む者の年久しき經驗でもあつた。鼠を日の大神の後裔とし、ニルヤカナヤを以て彼等の故郷とするやうな驚くべき俗信は、是より以外に其原因を考へ出すことは出來ぬやうである。

　

　　　　　　　　　　一二

　

　是にもう一つの小さな原因を附加へるならば、ドンガを甲子の日とした前からの慣行が、一段とこの日を鼠の爲の齋忌の日のやうに、思はしめることに力があつたであらう。十干十二支によつて日を算へる習慣は、南方諸島でも存外に始まりが早く、必ずしも中世の交通によつて、輸入せられたともきめてしまはれない。さうして其六十日周期の第一日を、特に重要視する風は日本の方にも有り、南の島々にも弘く行き渡つて居た。例は幾らも擧げられようが、八重山群島の西表の節祭の如きも、やはり稻の生産期の境目に行はれる大祭で是は舊暦七、八月中の癸亥から三日間で、その第二日目の甲子の日が最も重要であつた。さうして是には鼠との交渉があつたといふ記事は見えず、たゞ其前後を年の祖と稱し、又は此節日をショウグヮッグヮ、即ち小さな正月といふ名稱のみが傳承せられて居る。子の日(135)は鼠の日だといふことは昔の人も知つて居たらうが、是を鼠の爲ばかりに、設けられた日なるが如く、解するに至つたのは新らしく、又限地的のものではないかと私は思ふ。北の方の奄美群島の中には、舊暦三、四月に來る甲子の日を選んで、鼠拂ひの行事をする村があつたが、それはこちらの鼠送りも同樣に、たゞ一匹の代表者を捕へて、海に流すといふやうな攻撃的のものだつたらしいのに反して、ドンガといふ甲子の日ばかりは優遇といふ以上に、この日鼠を見た者には災ひがあると謂つて、野外に出ることを愼しみ、もとは丸一日田畠を鼠に解放するのみか、鼠といふ語を口にさへしなかつたといふことである。勿論現在はさういふ事はしないさうだが、まだ其誤解のもとまでは考へて見た人も無いらしい。私の假定説では、此日は一般に島人の謹愼の日であつた。それを鼠の爲ばかりと思ふやうになつたのは、一つには鼠の害の段々と怖るべきものになつたからでもあらうが、又一つには是がちやうど、十二支の子の日でもあつたからであらう。書いたものゝ傳はらぬ土地では、この程度の思ひちがひは誰でもする。

　そればかりか時々にやゝ奇を好んだ風説を附け添へることさへある。是は「喜界島年中行事」に出て居る話だが、ドンガは鼠の遊ぶ日として以前は耕作を休み、外に出ることを忌んだ。從つて誰も見た人は無かつた筈なのに、此日は鼠が蝸牛を口にくはへて、

　　　猫のをらだな、わ自由／＼

と歌ひながら踊つて居るものだと言ひ傳へて居た。この話のユウモアは、却つて他府縣人の方に、面白く響くかもしれない。踊に笠を用ゐる風習は、南の島ではやゝ少なくなつたやうだが、島の鼠はからだ相應の蝸牛の貝を踊り笠とし、手に持つ代りに之を口に咬へて、斯ういつて踊つたのである。猫の「をらだな」は居らぬならば、「わ自由」は乃ち我が思ふまゝといふことで、この文句を踊の歌として覺えて居る人は喜界島以外には無いだらうが、大よそ昔話といふ語を知るほどの日本人ならば、聽いて思はず膝を打ち、又はうなづき微笑せぬ人はあるまいと思ふ位に、是は有名なる我々の昔話の語りごとであつた。それがいつの間にかこの奄美の島の節祭の古傳の中に忍び込んで居たのであ(136)る。

　「鼠の淨土」といふ名を以て、この昔話は全國に行き渡つて居る。土地によつて細部には少しづゝの潤色はあるが、大體の筋は互ひによく似て居て、つまりは一種の異郷訪問譚の、思ひ切つて童話化せられたものだつた。鼠の淨土は財貨に充ちたる隱れ里で、人間の住む村から目と鼻といふほどにも近い處にある。正直爺さんが招かれてそこに往つて見ると、澤山の鼠が集まつて、

　　　猫さへゐなけりゃおれが世ぢゃ

と歌ひつゝ餅を搗いて居たと謂ひ、又は、

　　　猫さへをらねば世の中チャンカラコ

と、機を織つて居たといふ話もあり、或は老いたる男女の鼠が奧の間で、

　　　百になつても、二百になつても

　　　ニャンゴといふ聲、聽きたくないでや

と歌つて居たとも語り傳へられる。さうして色々の好い物を貰つて、還つて來た爺さんが其話をすると、例の隣の慾深爺が羨んで眞似をする。それが折角歡待を受けて居るのに、しまひに鼠を追拂つて、寶物を皆持つて來ようと思つて、猫の聲を眞似したところが、四邊は忽ち眞暗になつて出られなくなつた。土を掻き分けてやつと地面に顔を出すと、むぐらもちとまちがへられて鼻を切られた、といふやうな結末になつた例も多い。

　私たちが問題にしようとして居るのは、もはやこの話の類例がどれほど數多く、又どの程度にまで日本全國に、分布して居るかといふ點ではない。むしろそれよりも以前の形、又は今有る形をこの位にも著名にした原の力があるならば、それを何とかして明かにして見たいので、些しの忍耐を甘んずる人には、それも不可能では無いのみか、事によつたら今のこの茫洋たる海島文化の歴史に、一線の光明を投げ掛ける望みもある。私の研究も實はそれを目ざして(137)居るのである。

　

　　　　　　　　　　一三

　

　「鼠の淨土」の昔話は、採集せられたものがすでに五十に近く、其話ならば私の處にもと、いふ人がまだ幾らも有るのだが、國の南北兩端に亙つてほゞ一貫した特徴は、うそが餘りにも誇張せられて居ることであつた。元來昔話の眞實性などは、保障せられたためしが無く、ダゲナ・アッタサウナの語尾を附して、私はさう聽いたといふことを明かにし、責任を負ふまいとするのが普通ではあるが、それでもおのづから一筋の路があつて、稀には幼ない者などが之を事實かと思ひ、又はさういふことがもし有つたらどうだらうと、考へる人があるやうな、ちやうど境目の線に沿つて話を進めようとして居る。是は昔話の始まりが、僅かな人たちの作りごとで無く、いはゆる誰言ふともなく、いつからとも無く一つの社會に、取傳へられたことを意味し、是を我々の學問に援用する場合の、可なり力強い據點となつて居るのだが、實際にはその眞實線とも名づくべきものが、話者の技術とは打合せも無しに、段々と後の方へ引下つて行く爲に、終には只のうそつきの作品と擇ぶ所も無い地位に、昔話を置くことになつてしまつたのである。しかもさういふ間にもなほ兩者の差別はあつて、第一には努めて信じてくれさうな聽手を捜すとか、遠い大昔の世ならば、さういふ不思議な事もあつたかしれぬぢやないかとか、話者自らは傳承に忠實である故に、作り話と謂はれることを非常に嫌ふのみか、近頃の童話作家なる者までが、出來る限り虚構の自由を制限して、その昔話の話し方、考へ方について行かうとして居た。つまりは今でもまだ昔話の古來の約束は、大體に守りつゞけられて居るのである。ところが其中に於てたゞ一部分、話者も聽手も承知の上で、到底いつの世にも有り得べからざる事實を、さも或昔の出來事であるかの如く、全く同じ形を以て語つて居る場合がある。私たちは是を假に大話といふ名を以て呼んで居るが、其語はまだ一般には通用しない。或は大抵は目的が笑ひにあるから、笑話と謂つてもよいかと思ふが、笑話は必ずしも(138)このやうな不可能事を説く場合だけに限られて居ない。さうして又動機も一樣でない。是は上古史の究明に就いても言へることであるが、つまりは私などの謂ふ眞實線の著しい移行によって、話者も聽手も共々に、もう何としても信用し又は説明することの出來なくなった昔話に對し、なほ其關心を持ちつゞけようとする、是が一つの處理方法だつたのである。教育といひ常識と稱するものゝ近代の變革に伴なうて、殊に其機會の増加したことは事實だが、以前とても必要は?々起つて居た。記録が遠い世の姿をさながらに保存しようとしたに對して、我々の口頭傳承は、それぞれの生活要求に適應するやうに、次々と改造しつゝ進んで來た。それがフォクロアの學問の單獨の立脚地であつて、同時に又文字に惠まれ得なかつた數多くの離れ小島の生活の、新たに省察せらるべき側面でもあらうかと私は考へる。

　鼠淨土の昔話に、此説を適用して見るならば、最初日本の常民の多數が、最も眞と信じにくかつた點は、人が招かれてこの小さい獣の國へ、入つて行つたといふ道筋又は道行きであるが、この疑惑は相手が鼠であり、地下の隱れ里であるが爲に特に痛切になつただけで、實は大昔の龍宮訪問の頃から、この感じはすでに萌して居た。最初は恐らく海上漂泊者の經驗に基づいて、あの地平線を越えて向ふの方に、さういふ樂しい島がちやんと横たはつて居るものと、想像することも出來たことゝ思はれるが、陸上の生活が何代も續いて、さういつた記憶も薄れてしまひ、現に眼界の及ぶ限りには、如何に晴れたる日にも島の影は無いとなると、それは漫々たる海水の底に潜まつた仙郷であり、天縁ある者のみの特に近よることを許される處と、解するやうになつたのも自然であつた。乃ち八尋鰐一尋鰐の奉仕から、更に一歩を進めて目無しかたまといふ樣な、今ある潜水艇に近い構造を、空想することにもなつたものと思はれる。しかしながら斯ういふのはまだ私の謂ふ大話では無い。神代の奇跡として是ばかりのことを、信じ得ない者はもとは一人も居なかつた。一方民間の説話に至つてはもつと安らかに、龜が出て來て暫くの間、私の背なかに乘つて居て下さい。もしくは龍宮の使者が、私がよろしいといふ迄、目を瞑つて私につかまつて居て下さいと言ふと、すなほに其通りにして居て、程無く金碧光り耀く常世の濱に到着した、といふ風にも語ることになつて居て、それをさも有りな(139)んと息を詰めて、聽き入つて居た人がもとは多かつたのである。この程度の不思議ならば、まだ之を受入れる力があり、驚きはするが疑ふ者は無く、まして戯れのこしらへ事と思ふ者はなほ無かつた。

　ところが一方の鼠の淨土となると、もう何としても本氣に聽くことは出來ない。第一に今いふ動物報恩譚が流行して、相手の動物とは既に事件の起る前から、交渉があつたといふことにすれば、さう遠方までこの世界を引離すことが出來ない。魚や小蛇の命を助けたといふ場合だと、たま／＼遠く遊びに來て居て、危難に遭うて居たのが救はれたといふ話も成り立つが、鼠ではそれを説明しにくゝ、勢ひ村近くの地面の下に、彼等鼠どもの隱れ里も有るといふことになつて、正直爺さんが如何にしてそこを訪れたかゞ、愈々問題とならざるを得なかつたらう。それが數多くの異郷訪問譚の中で、この系統の昔話ばかりが、ふざけ切つた大話になつてしまつて、人を只げら／＼と笑はせることが、昔話の能ででもあるかの如く、從つて又其研究には何の深い意味も無いかの如く、速斷せしめる原因にもなつて居たやうだが、最初からそれが目的であつたら、是までの手數を掛ける必要は無かつたらう。一言でいふならば昔話は變化してゐるのである。私たちはその原形を尋ねて見なければならない。

　

　　　　　　　　　　一四

　

　出來るだけ話を手短かに切上げて、もうこの一篇も結末をつけることにしよう。現在の鼠淨土譚には、わざと道行きを省略して、たゞ爺さんが訪ねて行つたらと、いふ風に語つて居るのもあるが、それでは小さな兒にも納得が出來ない。最も普通の形は畠の片端に、又は家の土間の隅に、小さな鼠の穴があつて、爺が誤つて一粒の團子を、其穴へ轉がし落してしまふのである。さうするとやがてそこから鼠が顔を出してたゞ今は有難うございました。みんな大悦びで、どうか御禮を申したいといひます。私が御案内をしますからと謂つて、爺さんに暫らく眼をつぶらせ尻尾につかまらせて、其小さな穴から鼠の屋形に入つて行くのである。結末は何れも猫の鳴き聲だが、其前に必ず隱れ里の富(140)裕な光景を詳しく説くことを忘れて居ない。その幻しが殊に樂しかつたと見えて、話は御伽の本の繪にも殘り、又諸國には鼠の隱れ里の故跡は爰だと稱して、耳を地面につけて聽くと、米搗く臼の音がきこえると謂つた、塚や森などもそちこちに有る。多分は曾て單純な人たちの間に、非常にこの話の有名であつた時代があるので、事によると斯んな有り得べからざる鼠穴から地下の世界に通ふといふやうな話でも、それを本とうにあつたことかと思ふ者が、古い色々の行き掛りにひかれて、まだ少しは殘つて居たのかも知れない。

　それが何としても、もはや信じられなくなつて、却つて我々の民間文藝が自由になつたものか、日本の昔話は、特にこの方面に於てよく發達して居る。三つ兒も知つて居た舌切雀、お宿はどこぢやなども其一つの場合であり、東北では豆こ噺などといつて、座頭がよく人を笑はせた大話も、是から導かれて居るやうだ。それよりももつと確かなのは團子淨土と私たちの呼んで居るもの、一粒の團子がおのづと轉げて、穴の中へ入つて行つたといふ昔話、是も僅かづゝ形をかへて、ほゞ全國の隅々にまで分布して居る。團子待てどこへ行くと、爺さんが跡を追つ掛けると穴の中は段々廣くなつて、そこに大きな石の地藏が立つてござる。こゝへ團子は轉げて來ませぬか。うん餘りうまさうだからわしが貰つて食べた、といふやうな話し方もあり、又は團子がころりん／＼と、穴へ轉げて入る拍子が面白いので、有るだけの團子を皆落し込み、其次には重箱を入れてもまだ足らず、おしまひには爺いころりん／＼と、自分まで轉んで行つたといふやうな、おどけた形のものもある。慾深爺さんが後で眞似をするので、どの話も必ず二度づゝはくり返され、それがところ／”＼わざとちがへてあるのが、幼ない人たちには格別にをかしいのであつた。たとへば地藏さんの前に轉がつて居る團子を拾ひ上げて、土のついたところをむしつて自分で食べ、きれいなところを地藏さんに上げると言つたのを、惡い爺はちやうど反對に、埃だらけの分を殘して、よいところを先づたべてしまふ。それから鬼が集まつて來て博奕をうつといふ條でも、一方は地藏に言はれて遠慮をしい／＼其肩に乘り、好い頃あひを見て鷄の鳴聲をまねすると、夜が明けたかと鬼どもはびつくりして餞も金も抛り出したまゝ遁げ去つたといふに對して、こ(141)ちらは何もかも其逆を行き、又は笑つてはならぬといふのを笑つて、見つかつてとう／＼食はれてしまふのである。此點は猫のこわいろなども全く同じ趣向で、どちらが先づ出來たかも實はきめられないが、少なくとも團子淨土の地藏や鬼の話などは、あの小さな鼠穴の前型が存在しなかつたならば、何もわざ／＼地面の深い底まで、持ち込んで行く必要も無いものであつた。かつて一度は有り得べき此世の不思議として、親から子孫へと語り繼がれて居た時代には、成るべくまちがへずに古い形を記憶しようとしたものが、人が賢くなつて何分にも之を信じ續けられず、どうせ夢ならば思ひ切つて痛快な夢をといふ風に、次々と語りかへられて來た過程が、斯うして數限りも無い變轉の段階を留めて居るのである。昔話の歴史を明かにしようとするには、各地の類例を集めて、もつと綿密な比較をして見る必要があり、それも我邦では可なり樂しみな事業であらうが、私には殘念ながら其時間が無く、又當面の研究としては、それまでの脱線は許されないであらう。たゞ一言だけ、「鼠の淨土」といふやうな珍らしい昔話が、是だけの變化と一致とを以て、今も全國に蔓延繁茂して居る原因には、何か是からもつと考へて見るべきものが、有るといふことは言つて置きたい。人が此世の生存を終つて後に、往つて靜かに休息する國が、何處かあんまり遠くない處に在るといふことを、大昔このかた我々は信じて居たらしい。そこが完全に樂しく又美しい淨土であると思つたことは、後に入つて來た幾つかの宗教ともほゞ似て居たが、こちらではいつ迄も往來交通があり、少なくとだ毎年季節を定めて、向ふからも還つて來ることが出來ると思ひ、從つて先祖と子孫とは親しく、又從つて人は百年千年の後の世を、憶ひ又憂ふることが出來たといふ點が、少しかはつて居たのでないかと考へられる。南方諸島の鼠が、かの樂しい海上淨土の出身として取扱はれたのは、ふとした誤解がもとであつたらうが、とにかくに人の幻覺は日に淡く、一方彼等の擧動には、色々の思ひ出を語るものがあつた故に、愛は屋上の烏に及ぶといふ諺もあるやうに、次第に加はつて來る彼等の惡戯を容赦して、新たに又解釋の地を設けるやうにもなつたのであらう。伊平屋の島の稻穗祭の祭文に、鼠をニライソコモイと謂つて居るのを説明して、ニライソコは即ち地底であり、土に穴を掘つて鼠が其下に住むことから、ニ(142)ライといふ言葉が生れたやうに、伊波氏などは論じて居られるが、それでは全く海の路が絶え、且つテダの神との繋がりが不明になつてしまふ。鼠をニルヤの所屬としたのも新らしいことでは無からうが、なほ其以前といふものが必ずあり、是を地底と想像するやうになつたのは、寧ろ鼠が誘因であつたやうに、私などは考へて居る。それも是も今にもう少しはつきりとする時が來るであらう。自分はたゞ一つの問題を提供した義理に、假に他の一つの見解を掲げて置くだけである。

　

　　　　　　　　　　一五

　

　ネズミといふ日本語の語原を、根の國に栖む者の義ならんと説いたのは、新井白石先生が始めのやうにいふが、簡單な思ひ付きだから、前にもさう解した人が無いとは限らぬ。しかも東雅に幽陰の處と説明して居るのは、あの古事記の根堅洲國の一段を、まともに讀んで見た人の言葉とは思はれない。大穴牟遲神の訪問された根の國は、十分に明るかつた。境に黄泉比良坂といふ名のあるのが不審な位に、自由に人の世から往き通ふ旅の神があり、又戀があり人情の葛藤があつた。神が鳴鏑の矢を捜しに、大野の中に入つて行かれると、火を以て燒き廻らされて、出る路がわからなくなつた。鼠來て云ひけるは、内はほら／＼外はすぶ／＼。乃ち其處を踏みしかば、落ちて隱れ入りたまふ間に、その火は燒け過ぎぬとある。是を直接に「鼠淨土」の古い形とまでは言へまいが、この話とても、やはり一つの昔話ではあつた。かつて此通りの事實が必ずあつたと、主張する者があるわけでは無く、とにかくにいつの世からとも知れず、此の如く語り傳へて來た故に、それをさながらに文筆の上に、書き殘して置かうとしたばかりで、たゞ後世の類話と異なつて居たのは、とても信ずる者などはあるまいと見切りをつけて、いつそのこともつと奇拔に誇張をしてやれといふやうな、不まじめな改作に出た者の無かつた點であらう。鼠の尻尾につかまり眼をつぶつて、小さな穴から入つて行つたといふ代りに、踏んで見たところがそこの土が落ち込んで、それから地下の廣い世界へ、入つて隱れ(143)ることが出來たとあるけれども、この上代の一語を引繼いで置かうとした人々の、素朴無心な態度がやゝ窺はれる。乃ちいはゆる如是我聞、斯ういふ話があるのだから語らずには居られぬといふ中でも、やはりうそだとは思はずに、聽いてくれるやうな聽手の、少しでも多いことを念じて居たのである。

　しかも結局するところ、我々の根の國思想は變化せずには居なかつた。第一にこゝを鼠の安全地帶とする言ひ傳へなどは、最初からのものである筈は無いのだが、それが既に北と南の二つの群島に亙つて、幽かながらも相似たる痕跡を留めて居る。さうして少なくとも日本の古文獻に於ては、この語りごとはまだ根の國が完全なる死者の島と、なつてしまはない以前の時期に屬して居る。今でも氣をつけて見るとこの傳説は、幾つもの筋から辿つて行かれさうに思ふが、我々の來世觀は本來はさう陰鬱な、又一本調子のものでなかつたやうである。死んで地獄に墮ちるほどの惡いことをした覺えも無く、さりとて極樂へすぐに迎へ取られるといふ自信も無い者が、實際には多數だつた爲もあらう。あれほどねんごろな念佛法門の説教繪解きがあつたにも拘らず、まだ日本人の魂の行くさきは、さう截然たる整理がついて居なかつた。さうして種々の雜説俗説の竝び行はれたといふ中でも、大體に明るく又自由で、笑ひも樂しみも事を缺かず、來たり還つたりの出來る處のやうに、想像するものゝ多かつたのは、やはり上古の習はしの名殘とも見られる。黄なる泉といふやうな漢語を、心無しに借用したのも古い事なのだが、それはあの頃の葬法とも一致しなかつた。まして根の國を暗いつめたい土の底と考へるなどは、一種神道家の哲學とも名づくべきもので、彼等は死者の穢れを厭ふあまりに、この解説を佛者に委ね去り、清い靈魂の問題に對してまで、時代に相應するだけの研究をし終せなかつたやうに思ふ。

　さういふ議論は端折ることにして、とにかくに我々の根の國が單なる凶地ではなかつたことは、南の島々のニルヤカナヤと比較することによつて、一段と明かになるだらうといふのが、私などの期待するところである。鼠が人間に害を加ふることが多くなつて、暗夜に去來するを常とし、ヨモノといふ忌詞をさへ曲解させたのは後のことであつた。(144)之によつて根の國を夜の世界と見ようとする、白石先生などの説は行き過ぎであつた。ヨミは一方にヨモツヒラ阪などの語もあつて、果して夜見の義であるかどうかも確かでなく、是が根の國のことをいふのやら、又はそこへ行く道のことやらも決定して居ない。その所謂夜見國が、光明化したのが常世郷だと、言はれた人が此頃もあつたらしいが、どちらが先だつたらうかは是からの問題である。南方諸島のニルヤカナヤに至つては、始めからテダの大神の豐榮昇る處であつて、しかも選ばれたる魂の行き通ふ島であり、同時に又昔話の常世郷でもあつた。有る限りの島人が、身まかれば皆渡つて行くものと思ふことが難くなつて來たらしいが、しかも現在はまだ第二の夜見國が考へられて居ない。グショ（後生）といふ語がありハンサといふ名も出來てゐるが、その觀念は島毎にちがふといつてよい。沖永良部島などの昔話集を讀むと、人が此世を辭して行く處を鬼が島、又はオニグスクと謂つて、ちやうど唐土の小説にある冥宮のやうな後生の使者が、三人づれで人を取りに來たり、又は壽命の帳面に照らして死期をきめたりするといふが、其鬼が島の入口といふのは、廣い野原のまん中に大きな平石があつて、それを引きのけて見ると下に穴があり、一本の棕梠繩の綱が垂れて居る。それにつかまつて鬼が出入するなどといふのは、是もどうやら鼠の淨土の影響を受けた、近世の空想かと思はれる。それよりも更に珍らしいのは、其鬼ヶ城の穴のすぐ隣に、もう一つ穴があつて、是には芭蕉の絲の太い綱が下げてある。この方はアンダの國、又ダクの國とも謂つて、明かに安樂國、即ち安樂淨土の名の借用と思はれるのだが、その地下の別天地にもやはり人間と同じやうな村里があり、大家があることは、他の多くのニライ訪問譚と異なるなく、たゞ其片隅の長屋か何かの中で、生前惡事をした者の裁判などをして居る。佛法の教化の弱かつた南の島々としては、大きな改作の折も無かつたのに不思議は無いが、ともかくも南方の根の國觀念が、何等分化の必要も感じられず、又解釋の擴張も試みられず、たゞ一樣に影が薄く印象が淡くなつて行かうとして居るのは淋しいことで、それがまだ辛うじて間に合ふうちに、比較の學問の燭光に照され出したといふことは、御互ひに取つての責めてもの慰藉であつたと思ふ。

　

(145)　　　　　　　　　　一六

　

　そこで最後に一言して置きたいことは、我々の學問には目的がある。それは決して鼠が昔話の中に、どうして入り込んで來たかといふやうな物好きな又どうだつてもよい問題に答へることでは無い。永い是からの集合生活の爲に、今とても是非知りたく、又將來は一層必要になるであらう知識、即ち我々群島の住民は、いつの世どの方角から、如何なる艱苦を重ねて渡つて來たか。かつての同類は消えたり混同したり、どうやら跡が絶えたかと思はれる中に、如何なる條件が備はつて我々の島ばかり、かたまつて是までの繁榮を見たのか。それと今までの歴史の進み方との間には、何か知つて居らねばならぬ關係は無いかどうか。さう明瞭には判つて來ぬかもしれぬが、ともかくも努力して見たいものである。圖書金石の文字の史料、地下地上の遺物遺跡が豐かに傳はる土地ならばよほど仕事は樂であらうが、島々の史學となると、當然にそればかりを當てにするわけには行かない。現實に殘つて居るものならば、至つて幽かな切れ／”＼の記憶と言ひ傳へ、寧ろ忘れそこなひと謂つてもよい隅々の無意識傳承を、少しも粗末にせず湛念に拾ひ合せて、今まで心づかずに居たことを問題にして行くだけの執心が必要であり、それには日本の民俗學徒の年來の實習が、或程度までは役に立つであらうことも疑はれない。海を故郷とする者の生活體驗が、今まで比較的に省みられなかつたことが事實だとすれば、其學風を一新するが爲にも、やはり日本人は率先しなければならぬであらう。

　今では子供も笑つてしまふやうな、小さな昔話ではあるけれども「鼠の淨土」の成り立ちには、一朝には説き盡されぬ歴史があつたやうである。我々の根の國は海の東、朝毎の日の御影が、花の如く空を彩る水平線の外に在つて、最初は生死の別も無く、人の魂の自由に行き通ふ島地であつたのが、次第にこちらの人の居處が移つて、しかも日の出る方角が動かなかつた爲に、いつと無く幻しの樂土と化し去つたのでは無いか、といふやうなことも先づ想像せられる。それは或は證明し難いことであらうが、少なくとも後々は是を波濤の底に隱れて、然るべき理由のあるごく僅(146)かな人だけが、稀々にそこを訪ひ、又戻つて來て見聞を談り、もしくは後より派遣せられて、人間の住む國へ、數々の幸福をもたらすこともある樣に、信じられて居た時代のあることだけは、ほゞ證跡を指示し得られる。本州の主要な島々では、この信仰が夙く少數の氏族に限られて、公けには承認せられなくなつたらしいが、沖繩諸島ではなほ久しい後まで、是が協同生活の根幹を爲し、ニルヤの交通を以て職掌とした人々が、政治の中心を支持して居たこともあつたやうだが、それと同時に中央の學問が進み、外來文化の影響も強くなつて、解釋は次々と變轉して、永く當初の信仰を持續し得なかつたことは、文字史料の側からも、大よそは窺ひ知ることが出來る。新たに入つて來る外からの感化に、動かされやすいといふことも孤島の運命だつたかもしれないが、一方には又古い形のまゝではいつ迄も信じて居られず、僅か改めれば又通じるといふ類の身近な傳説を、抱へて居た民族の不幸とも考へられる。たとへば龍を父とした、又は狼を母としたといふやうな發祥談であるならば、認めるか認めないかの二つの岐れ路しか無いだらうが、沖へ遙々と出て見たけれども、さういふ寶の島は見えないときまると、それでは空中に又は水の底に、隱れて凡俗の眼には入らぬものと、いふ風に考へて行くのにも、別に大きな指導者の努力を必要としなかつた。さうして程無く又第二第三の關門にぶつかつて、遠い行く手の見定めも無く、次々と無造作に屈曲して來たといふことが、所謂固有宗教の弱味といへば弱味だが、同時に又懷古の學問の、測り知れざる魅力ともなつて居るのである。

　今でも第二の世界は私たちのあこがれであり、それが何處にも無いと聽いて、悲しみ力を落す者はまだ多い。たゞそこへ行き又は戻つて來る通路が、はつきりとして居らぬ爲に、迷はざるを得なかつたのである。鼠の淨土の昔話なども、出しぬけにあゝいふ突飛な作り話をした人があるわけで無く、言はゞ或時代の失望感の記念であり、曾てこの小獣の群に導かれて、地下から根の國に通ふといふことも、無いとは言はれぬといふ程度に、信用して居た者が多かつたことを意味し、それが愈々見込無しときまつて、次第に誇張の高笑ひを以て、古い考へ方に區切りを付けようとしたのであらう。今でも世の中の變り目毎に、さういふことをする癖を我々は持つて居るが、それをして見たところ(147)で、過去に有つた事實は無くならず、たゞそれを明かにする機會を、段々に失つて行くだけである。以前私が海の神を、何故に少童と書くかを考へようとした時に、水の底の仙郷から子供を貰つて來たといふ全國の昔話の幾つかを集めて見たことがあつた。其中で岩手縣の江刺・紫波二郡から採録せられた話だけに、この鼠穴の例と思ひ合せられる特徴があつた。即ち谷川の淵の水が一ところ、渦を卷いて居るのが珍らしいので、正月の松を刈りに來た爺さんが、その松を一束投げ込んで見たところが、くる／＼と過つでつぶりと沈んで行くのが、何ともいへず面白い。それで一束又一束、一日刈つて束ねた門松を、悉くこの渦卷の中へ入れてしまふ。斯ういふ話が二箇所にも殘つて居り、更に今一つは山奧の岩の蔭に、小さな洞穴があいて居るのを見て、斯ういふ穴にはよく惡いものが入つて居ることがある、塞いで置いた方がよいと思つて、柴の一束を以て其穴に栓をすると、栓にはならずに穴の中へ入つてしまつた。これも一束又一束と、折角刈り集めた柴をみなしたといふ點は同じである。さうするとやがて其穴から人が出て來て、結構な木を澤山に有難う。是非御禮をしたいから遊びに來てくれと、同じ穴から爺さんを案内して入つて行く。中は廣々とした立派な屋敷で、門を入るとさつきの門松又は薪の束が、一列にちやんと積み上げてある。中では大相な御馳走があり、歸りには土産に一人の子供をくれる。それが福の神で、忽ち爺の家を富貴にしたといふまでは、他にも類例の多い話だが、其顛末は三つの話とも、それ／”＼にちがつて居る。海の神に木を贈つて非常に喜ばれ、又厚く報いられたといふ昔話は、北にも南にも沿海には至つて數多く分布し、こちらでは龍宮といひ、南方諸島ではニライ又はネリヤ、ニルヤと謂ふのだが、是には唯迎への使者の背に負はれて、目をつぶつて居るうち到着したといふだけである。さうして海からやゝ遠ざかつた山間の話だけが、渦卷又は小さな洞穴によつて、やゝ具體的に通路の入口を示して居る。鼠の生態の注意せられ、仔細に觀察せらるゝ以前から既に内陸に住む者には斯ういふ通路の思想の要求があつたとも見られるが、さうすると又其過程が問題になる。一方に鼠と根の國との關係の、始まつたのは古いことであつた。私は是が元來海上遙か彼方に在ると見られて居た夢の故郷を、次第に我々の踏む土の下に引寄せて、しかもそ(148)こを冷たい薄暗い處にしてしまつた、原因ではないかと思つて居るのだが、其證明にはもう少し時間がかゝるであらう。ともかくも今ある島々の文化の特徴を作り上げる爲には、鼠も亦一つの力であつた。從つて此方面からも、まだ我々の研究は入つて行かれる。

　

(149)　　　　　寶貝のこと

　

　　　　　　　　　　一

　

　或はすでにおもろ研究會の問題になつて居るのかもしれぬが、私にはまだ判らぬから示教を受けたい。草紙十三卷の二二四に、

　　　くめの島あつる

　　　つしやこかねわたちへ

　　　こしよわ（り）もりのほせて

　　　あちおそいにみおやせ

　　又かねのしまあつる

とある。この第二行のツシヤとは何であらうか。又はツシヤコカネは二つのもので無く、黄金にも準ずべきツシヤといふことではないかどうか、是を先づ久米島の學者に考へてもらひたい。このツシヤは明かに誤寫では無く、少くとも四つ以上、おもろの中に出て來るから、さういふ語がもとあつたのである。現に同じ卷の二一三に、

　　　旅立つあんや

　　　夏たなしやれは

(150)　　　ツシヤの玉やれは

　　　首からもさわらん

とある。意味はごく明白とまでは言へないが、タナシが肌につく衣類なることは、古今南北同じであるから、ツシヤも亦頸に懸ける装身具と、想像してよいやうな氣がする。さういつた名詞が、もしや遠い小さな離れにでも今も殘つて居るまいか。是を私などは南北共同の民俗學が、今後大いに極東の古代史の上に、寄與し得る重要な觀點とも考へて居るので、一度はこの知識慾の、まことに已むを得ざるものなることを説いて置きたいのである。

　同じくおもろ草紙の十五卷の六には、又次のやうな一章もある。

　　　たくしたらなつけてたよ

　　　ツシヤこのいしとかねとやに

　　　てたしひつかは

　　　とのす世はちよわれ

　　又よかるたらなつけ

　是も簡單な構成ながらも、第三行のシヒツカハが解し難く、又トノス世もはつきりしないから、何を咏じて居るのか見當もつかぬが、ともかくもツシヤの石と金屬とに縁があつたらしいことが考へられる。或はさういふものを緒にとほし頸に掛ける風習があつて、それをツシヤ又はツシヤコと呼んで居た時代に、このおもろが生れたものと見てよいのではあるまいか。

　結局はツシヤといふ一語のもとの起り、どこから導かれたかを知るまでは、何もかも假定に止まるわけなのだが、爰でもう一つ考へて見るべきは、この言葉の意味の中頃の變化である。島の世相の次々の影響から、此語も全く超然としては居なかつたらうといふことである。是も久米島に關係が有るといふ今一つのおもろ、十一卷の八二「しのく(151)りやは世なれかみやれば」といふ一篇の中に、

　　　やまとたひなおかいかのほて

　　　やしろたひなおかいかのほて

　　　あおしやてうたまかいか

　　　ふくしやてうつしやかいか

といふのがある。選釋にもすでに解説が試みられ、三・四行の始めの語は美麗を意味する形容詞、テウタマは頸飾りの珠のことらしいが、是に對するテウツシヤは不明だとある。しかし斯うして珠の對句にしたからには、全く同一物で無いとしても、ごく近いものであつたことは疑はれぬ。果してそれを買ひに、大和への旅に上る必要があつたとすれば、それは少なくとも沖繩の島々に於て、多量多種に産出し、且つ極度に美しく輝かしかつた、あの寶貝のことをさして居るのではなかつたと言はなければなるまい。乃ちツシヤといふ一語の内容が移つて、後には頸飾りそのものの名になつた頃に、おもろが生れたものと見なければ、是から言はうとする私の假説は成り立たぬのである。

　寶貝即ち私たちの謂ふ子安貝を、ツシヤ又は是と近い語で呼んでゐる島又は人の群は、今のところまだ見つかつて居ない。しかし東方海陸の言葉は千差萬別で、すでに最近の調査はよほど進んだと言ひながらも、その自由な利用はまだ我々に許されず、殊に個々の單語の重要さの程度などは、こちらで言はぬ限りは省みられぬのが普通である故に、先づ捜しものをする側から、之を知らずには居られぬ理由を説明しなければならぬ。

　

　　　　　　　　　　二

　

　ツシヤが最初は寶貝のことでは無かつたらうかといふ私の想像は、誠に幽かな暗示の上に築かれて居る。日本の古語の中で、語音の是に近いものを求めると、ツシタマといふものがたゞ一つある。ツシ或はツスと書いた例もあつて、(152)漢名を?苡といふ、一種野生の禾本科植物であつた。その穀粒は小麥などよりも遙かに大きく、表皮は硬く光澤があり、兒童それを採り絲に貫いて頸に掛けて遊ぶので、意外に親しみの多い草であつた。私なども生れた家のすぐ近くの竹藪の下に、毎年是が生えたから、殊に鮮かな幼時の記憶を持つて居る。近世は一般にズズダマと呼ぶ者が多かつたが、自分たちも是を絲に通して長さをくらべ、首に掛けたり手に持つたりして遊ぶのだから、珠數玉といふことであらうと思つて少しも疑はなかつた。二三の辭書類にもさういふ説明をしたものがあるやうだが、夙く倭名鈔には豆之太萬とあるのだから、是は明かに後世の誤解であつた。

　同じ植物は又沖繩の島々にも分布するらしいが、それを各地で現在は何といふか。先づ當つてみることが一つの手掛りだと思ふ。伊波さんの選釋の中に、ススタマといふ草の實を玉に貫き、それを首にかけて魔よけにする風習が殘つて居るとあるのは注意すべきだが、果して本島ではたしかにススダマと謂つたかどうか、單に標準名の援用でないかどうか。是非今一度たしかめて見たい。宮良氏の南島叢考には八重山では?苡仁をチーダマと謂ひ、之を常の日の頸珠にする風があつたといふのは、近い頃までのことだつたかどうか。ともかくも日本本土では只幼い者が、遊戯としてしか採り用ゐなくなつたものが、彼方ではずつと後々まで、實地に使はれて居たといふのは意味がある。それで私はツシヤがもと寶貝を絲に貫いて、頸に掛けて居た頃の名では無かつたかと思ふのである。大小の相異は著しいけれども、植物のツシタマも形?曲線、殊に色澤がよほどよくあの貝に似てゐる。この實は成熟につれて、同じ一つの穗でも段々と色あひをかへる。もしも其取合せが、この海の貝の頸飾りの樂しみの一つだつたならば、どうせ代用品だから物足らぬにはきまつて居るが、先づ是だけでも一應は氣がすんだことであらう。ツシヤといふ名前の、貝より草の實への移行は或は斯ういふ風にも説明することが出來はすまいか。

　

(153)　　　　　　　　　　三

　

　是は私たちの謂ふ一國民俗學の問題ではないが、沖繩諸島のやうに頸飾りの習俗が久しく傳はり、是に宗教的關心を寄せ續けて居た社會に於て、どうして又あの樣に手近に豐富に産出し、且つあれほどまで美しく、變化の奇を極めて居るといつてよい寶の貝を、わざと避けたかと思ふばかり、利用の外に置いて居たのかといふことが説明せられねばならぬ。或はあまりにも豐富に過ぎ、珍とするに足りなかつたからとも考へる人があらうが、さま／”＼の木の實草の實の、もつと有りふれた物をさへ島人は珠に貫いて居る。察するに是は「織る者は着ず、耕す者は食はず」の古い諺の如く、島々に分れ住した貧しく力徽なる人々に取つて、自ら愛用すべく餘りにも貴重なる寶の貝であつた故に、それを自分の頸飾りにすることの出來ぬ年月が長かつた爲であらう。今から顧みれば、同じ上代に屬するものとも言へるであらうが、曾て金銀の未だ冶鑄せられず、山が照り耀く石を未だ掘り出さしめなかつた期間、自然に掌上に取上げられるものとしては、寶貝より目ざましく、あでやかなる物は他に無かつた。乃ち強力なる中原の王者は、萬策を講じて遠い海の果から之をたぐり寄せ、或は又之を無形の武器として、洪大なる地域を征服し得たのも、すでに悠々たる三千年以上の昔のことである。この第一期の財寶の原産地が、果して世界に幾つあつたか、私たちはまだ究めることが出來ずに居るが、少なくとも支那で東夷といひ又島夷といつた方面に於て、その最も明かな痕跡を永く留めたのは沖繩の諸島である。輸送が江淮の間に限られず、供給の益々豐富になつて後まで、價値の漸く賤しきを思ひつゝも、なほ莫大なる輸出をして居たのが、この洋上の小王國であつた。久高島の所謂シナグルカナイなどは、伊波氏の論文にも詳しく説かれて居る。斯うして取れた寶貝を、悉く公の目途に振り向けた期間が長かつた爲に、本來の用法は忘れられたのであらうか。あの色々の珍らしい寶石類が手に入つて後に、始めて珠を卷く風習が此島々に起つたものと、解することは何人にも出來ないのみならず、もしもこの風習がすでに始まつて居なかつたならば、寶貝の貴

(154)〔「寶貝の山地分布圖ジャクソン氏の著書より」という説明付きの図有り。省略〕

(155)とさ美しさを、弘く世の人に知らせることも、恐らくはずつと遲くなつて居たであらう。それが自分などのこの一種の貝類に、必ず古い別の名があつたことを信じ、何とぞしてそれを知りたいと念じてゐる理由である。

　

　　　　　　　　　　四

　

　無論知つて居る人も多いことであらうが、外國ではこの寶貝愛用の歴史を、探り求めようとする學問は、夙く始まつてゐる。遠い大陸の、名さへ珍らしい未開人の間からも、この貝を利用した數々の神像呪物等が蒐集せられて、國々の博物館に陳列せられ、誰がどうしてあの樣な奧地にまで、この貝を運び込むことになつたかを怪しむばかりであるが、私はまだそれを明白に答へ得た人のあることを知らない。幾つもの中心がそちこちに有つて、偶然に一致を見たものと言はれぬこともないが、それにしては展開の經路方向が、あまりにも互ひに接近して居る。さうして是は考古學の領分になるが、此風習の流傳には地域により、可なり著しい年代のずれがあつて、甲から乙丙へと移り進んだ形跡が、ほゞ立證し得られるのではないかと思ふ。もしも私たちの假定する如く、多量の上世遺物を出現した、いはゆる中原の古代文化地帶が、其發源地の最も重要なるものであつたときまるならば、たとへ海上の跡はすでに湮滅したにしても、なほこの無數の美しい寶貝の品種を産出する南方の島々の交通を、一應は是と結びつけて考へて見なければならぬ。私は今から三十年の昔、一たび沖繩を訪れた際に、故尚順男爵の寶貝の蒐集を見せてもらつたことがある。首里からすぐ近い別莊の前の海で、手づから撈ひ捕られたものばかりといふのに、名も附けきれない程の何百といふ種類で、形よりも色と斑紋の變化が目ざましく、今でもあの驚きを忘れることが出來ない。沖繩が世界に稀なる寶貝の豐産地であつたことは、是たゞ一つの材料からでも、證明し得られるかと思ふほどの整理ぶりだつたが、あれは結局どうなつてしまつたらうか。尚男一家の悲慘なる遭難始末と共に、まだ私たちの處へは詳かに傳はつて來ない。島の歴史の尋ね難く、その僅かな手掛りすらも、又しても埋もれてしまふことを、いつまで我々は經驗しなければな(156)らぬのであらうか。今老境にさしかゝつて、特に此點を淋しく思ふ。

　

　　　　　　　　　　五

　

　言葉は散漫微弱なる資料には相違ないが、その傳播と保存が無意識であるだけに、偶然に或は過去の變遷を、跡付けしめるものをもつて居るかも知れない。たとへば現在タカラガヒの名を以て總括せられて居る、あの小さい美しい一種の貝の地方名は、沖繩諸島の南北を通じて、シビと呼んで居る例が最も弘い。注意すべき二三の例外もたしかに有るが、大體に於てシビ又はシピが行渡り、喜界島などでは之をスビ、其大なる一種をユナスビといふ者もある。ユナスビのユナは多分海のことで、新撰字鏡の所謂?、海豆比（ウミツビ）なるものと對比すべき語であらう。倭名鈔には都比（ツビ）に甲?子、又は海?を宛て、是を螺類の總名の如く解して居る爲に、田螺のツブ又は榮螺のツボ燒きなどと、結びつけて考へようとする人もあるが、右の南方諸島のシビ・スビと對照して見ると、此解は或はまちがひと言へるだらう。ツとスと通音の例は、唇を此方ではツバ、あちらではシバ又はスバ、前にも掲げた?苡のツシダマを、諸君の方ではススダマともシシダマとも謂ふと聽くから、珍らしいことでは無い。さうして今はほゞ忘れた人も多からうが、このツビ又はスビといふのが、實はよつぽど可咲しい戯れの名だつたのである。

　或は京都の上流は、そんなこととは氣づかずにしまつたのかとも思ふ。寶貝には禁呪厭勝の力ありと信じ始めたのには、必ず別に一般的な心理が働いたのであるが、さういふ中でも特に安産の守りとして、之を重んずるやうになつた頃には、恐らくはもうあの貝の珍らしい形に、專ら注意を向けるやうになつて居たであらう。燕の子安貝といふ言葉などは日本では相應に古く、あの小鳥が遠い常世の國から、貝を嘴にくはへて飛んで來ることがあるといふ言ひ傳へが、我邦にも有つたことは察せられるが、それがどんな形をした貝であつたやら、是だけはまだ明かになつたとは言へない。しかし竹取物語のあの個條が、やゝ下品な諧謔を目的とし、子安といふ言葉には別にちがつた内容があり(157)さうにも無いのだから、やはり今日と同じ樣な連想と俗信とが、もうあの頃からあつたものと見てよいのであらう。畔田翠山の古名録に依れば、ソソ貝だのベベ貝だのといふ名が、既に室町期の醫書類には用ゐられて居り、俗間にはそれよりももつと惡い異名が、今日は流行してゐるかとも想像せられる。しかしさういふ多くのものは、寧ろこの貝の人を助ける力を忘れてしまひ、たゞ形の珍らしさだけに、心を引かれるやうな連中の思ひつきであつて、その一つ以前の素朴なる人たちが、まのあたり天然の不可思議に驚き、是に隱れたる靈の作用を認めようとした場合とは、假に幽かな記憶の繋がりはあるにしても、命名の態度は恐らくは丸でちがつて居た。即ち一方は稀にしか之を口にせず、又は少なくとも戯笑の具には供しなかつた。その痕跡がまだシビ・スビ・ツビの語には殘つてゐるかと思ふ。私が是等を第二次の發生とし、別に今一つの本來の名詞が、無ければならぬとする理由も爰に在る。南方諸島に於て、最初この美しい寶の貝を緒に貫いて頸に掛けて居たのは、君々即ち嚴肅なる宗教女性であつた。さうして是がたゞ安産の守り、又は兒子の平安なる生育のみに、特效あるかの如くには信じて居なかつたらうからである。

　

　　　　　　　　　　六

　

　寶貝が大陸の奧の奧に流傳して、數十百年を經過するうちには、多分はあの採取時の美麗さは失はれ、何故に是が寶であるかの理由が、海から遠く離れて住む者には、段々に不可解になつたことは想像してよからう。それを現今のやうに、單なる社會の約束と解することは昔の人には出來ないから、次いで起るものは呪禁の力、是を手に持つときは敵を制し、乃至は一身の生活を樂しく安らかにするといふ類の信仰でなければならぬ。世界の隅々に現はれて居るこの觀念の變遷に就いては、既に研究が進んで居るのだらうが、私はまだ知ることが出來ない。少なくとも日本に關する限りは、私たちが是から考へて見なければならぬ。此方の大小の島々の海岸には、廣い地域に亙つて同種の貝を産するが、その種類は遙かに少なく、色も光も南隣の列島に比べて、可なり貧しく又劣つて居るかと思はれる。それ(158)で居てタカラ貝又はニシキ貝といふ言葉が、いつの世からとも無く行はれて居るのである。或は震旦上代の寶貝の名を知つて後に、それを直譯したとも見られようが、我語のタカラが彼の「寶」に當るといふことにも若干の思慮を必要とする。さうして一方には南方の或島々を、都貸邏と呼んで居たことも年久しいのである。ちやうど故尚男爵の蒐藏を觀て、自分が感じたやうな大きな驚きを、昔も經驗した人が非常に多かつたか。但しは又自らもあゝいふ美しいものを愛玩して居た時代が一度はあつて、後漸くに、寒い大きな島に移つて行き、陸上の美しい色彩に目を轉じなければならぬやうな境涯に進出して來たのであらうか。問題は結局するところ、所謂曲玉の藝術文化が、外から入つて來たか、内に在るものが、變展して來たか。假にあの材料の石類が皆手近かに在つたとしても、あれを斫り研き磨つて穴をあける技術が備はるまで、頸に玉を貫いて掛ける風習が、始まらずに待つて居たか。それとも最初には海から採り上げた色々の貝の中の、最も鮮麗なるものを選び用ゐる趣味が既に普及して居て、それが南の島々で見るやうに、特に獲難い石類にあこがれる傾向をうながしたか、親しく南北洋上の島々に就いて、今後は日本人が比較參照すべき問題であらうと思ふ。珠玉を纏ふ好みは、何だか近頃は毛皮の民族から學ぶやうにも感じられるが、最初はどう考へても裸の國、暖かい海のほとりの社會に始まるべきものだつた。萬葉集の卷九に、

　　　妹がため我玉ひろふ沖べなる玉よせもちこ云々

とうたひ、又は同じ集の十五に

　　　わたつみのたまきの玉を家づとに妹にやらんと云々

と言つた類の詞章は、現在はどう註釋せられて居るかしらないが、それは小石でなく、眞珠ではもちろん無かつたらう。山に向つて、その玉もてこと呼ばつた人は、まだ一度も無いやうに思ふが、それでも日本人は依然として、北大陸ツングースの方から渡つて來なければならなかつたのであらうか。

　私がおもろのツシヤの玉を、寶貝のことでないかと思ふ理由は、今は僅かな少年の日の、なつかしい野草の實の記(159)憶だけであるが、斯ういふ言葉こそは一つの鍵である。行く／＼或は大切な闇の間の戸を開いて、久しく忘れて居た昔の旅人の消息を知り、かつは東洋人の直覺が、稀には學問の進路を導き得る場合もあることを、例示する機會となるであらうことを望んで居る。

　

(160)　　　　　人とズズダマ

　

　　　　　　　　　　一

　

　Coix Lachryma Jobi L. ヨブの涙といふ珍らしい名をもつたこの草の實は、日本では千年以上の存在が證明せられて居る。私は殊に因縁があつて、幼少の頃から幾度と無く、是に興味を引かれ、又不審を抱いて來た記憶をもつ。學問としてはまだ格別の成育を遂げては居らぬが、是を書き殘して置けば、少しは後の人の捜索の勞を省くであらうし、あはよくば一二の重要なる問題の手掛りを、今生に於て捉へ得る機會に惠まれるかもしれない。自然史學會の諸君の熱情と好意とは、自分にとつては大いなる希望である。

　最初に私はこの植物の弘い分布、取分け南北大小の島々に於ける名の一致が、人爲の傳播を語るものであつて、本來は日本の國土に自生して居たので無からうかと想像して居るのだが、是が先づ一つの問題である。ともかくも中古以前には食用の記録は全く無く、其他の用途も次第に重要性を失つて、今では田舍にも氣づいて居る人は少なく、僅かばかりの文獻を引き散らすより他に、現實の經驗を基にして、或一つの人生問題に、近よつて行くことが出來なくならうとして居る。もしも將來其問題の解釋が、何としても必要といふ時が來るものとすると、眼に見えぬ眼前の變遷は不幸なものであり、從つて又是ぞといふ纏まつた意見も立たぬうちから、老人が騷ぎ出すのも少しは道理が有ると、いふことにならうと思ふ。

　

(161)　　　　　　　　　　二

　

　今日の國語教育、殊に漢字制限の方針が徹底すれば、古書の大多數は無用に近くなるにきまつて居るが、さういふ中でも打撃の最もひどいのは、本草の學問であらう。もともと隣國に於て先づ進んで居る研究を、理解し應用しようといふのが目的であり、しかも先方は領土が廣く、物も名稱も地方差が無數であり、之に對しては多くの見馴れぬ文字が使用せられて、其暗記が一應は主要なる作業になり、從つてやゝ其分量の多きを競ふの嫌ひも無かつたとは言へまいが、その間接の效果としては觀察の意義、比較の價値、更に進んでは物に適切なる名を附與する言語の力、記憶の樂しみまでを體得せしめて、終に今見るやうな日本人を、作り上げた功績は小さくない。その記録が概ね世に遠くなれば、改めて又別樣の方式を案出して、この曾て存し後に失はれた知識の空洞を補強しなければならぬ。さういふ必要は今ちやうど、我々の庭さきまで來て立つて居るやうな感じがする。たつた一つの私の記憶などは、何の役にも立たぬやうなものだが、偶然にそれが七十何年かの間、幽かに持續することを得たばかりに、或は日本の最も大きな問題の一つに、是から繋がつて行くのではないかといふ、樂しい希望が抱かれるのである。夢であつたら諸君に相すまぬが、先づ能ふ限り簡略に述べて置いて見よう。私の生れ故郷は中部播磨、姫路から四里ほどの上流で、僅かな岡の南の緩傾斜面に、古く拓かれた農村であつた。家の横手をお宮の方へ登つて行く、上阪といふ細逕があつて、それを隔てたすぐ西隣の田のへりに、この記念すべき植物が、毎年三四株自生して居たのである。後にその土地には登記所か何かゞ建つて、あたりは全く變つたからもう殘つては居まいが、たしか背後を少しの竹藪で圍はれて、日當りのよい、しかも濕地であつた。仲間がもう一人、幸ひに長命して居るから、或は思ひ出してくれるかもしれない。とにかくに四つか五つの年から數年の間、毎年この實が熟すると必ず採りに行き、草履を泥だらけにして叱られたことも覺えて居る。

　

(162)　　　　　　　　　　三

　

　親たちは大抵ズズダマと謂つて居たやうだが、私などは寺詣りの爺媼の手首に掛ける數珠と同じものと思つて、皆はつきりとジュズダマと呼んで居た。この實を採りに行くのも、絲に通して遊ぶ爲であつたが、珍らしいことにはそれは手くびには掛けず、長く二重にも三重にもわがねて、めい／＼が頸から帶のあたりにまで垂らして居た。法華行者や山伏などの長い念珠を首に掛ける者も、絶無では無かつたらうが、あの頃はさう普通でなかつた。後に東北のイタコの數珠や、アイヌの頸飾りなどを見るやうになつて、ジュズとは呼びながらも我々の眞似て居たのは、もつと古風な、又國風なものだつたことに心づいたことである。

　斯ういふたわいも無い子供遊びを、生涯記憶して居る因縁は他にも一つあつた。多分は私の九歳の年、その翌年は家が變つたから、それよりも遲いことは無い。顔から手足一面に疣が出來て、どうにもはふつて置けないことがあつた。父は漢法醫の業を廢した人だつたので、紙に三つの漢字を書いて、近くの生藥屋に求め、それを粉にして呑んだが少しもうまいもので無く、第一に分量が多いので閉口した。それよりも多分の好奇心を抱かしめられたのは、紙に書いてあつた?苡仁の三字で、字の形はすぐ覺えたが意味は不明、それよりも先づ何と讀むのかが、知りたくてたまらなかつた。少年が始めて漢字を習得するのには、本よりも何よりも、斯ういふのが最も適切な方式であつた。私は自身の惱みを處理する力として、二つと半分の未知の文字に當面したので、それを即座に自分のものとしようといふ、意欲に燃えなかつたら寧ろ白痴であらう。父の解説はしかも滿點であつた。これはヨクイニンと讀む。おまへたちが毎歳採つて來る、あのジュズ玉の皮を取つたものなのだと教へてくれた。之を聽いた時からちやうど七十年、まだ宿根は殘つて居るものと見えて、今頃又この樣な話を花咲かしめることになつた。疣も現在はもうすつかり治つて居るのだが、やはり縁に引かれて時々は想ひ出される。

　

(163)　　　　　　　　　　四

　

　新たな經驗は次々と、この幼い日の思ひ出の上に積み重ねられた。最初の一つなどは先づしくじりの例だが、尚かつそれに導かれて思ひかけぬ問題にめぐり逢ふことが出來た。疣から多分四年の後に、私は親に別れて關東の土を踏み、茨城縣の西南隅、布川といふ町に暫く住んで居たが、其頃がちやうど鳩麥煎餅といふ、紙の筒に入つた丸い煎餅の、人氣に投じて盛んに賣り弘められた時で、其製造元は爰から五六里の、たしか鳩崎といふ小さな町に在つた。ハトムギといふ名稱は、今では植物圖譜にも公認せられて、最もズズダマと近い食べられるCoix 種の本名にもなつて居るのだが、實はいつ頃如何なる人の群によつて、命名せられたかを語り得る人は居ない。私の説とても確かな根據は無いが、此煎餅の商標に二羽の山鳩を向ひ合せたのが、中古の男山の神號の文字、もしくは熊谷家の紋所などを聯想させて感じが好く、半ばは是が人氣の種となつて、東京にも又その以西にも賣れて行き、頼まれたせぬのに是を其煎餅原料の名と、認めてくれる人が多くなつたのかと思ふ。當時の引札でも保存した人が、もし有つたならば此事情は判るであらう。ともかくも私はまだ食はれないジュズダマの別に有ることを知らず、疣の藥の僅かな經驗から、是も砂糖や卵などを調合すれば、病人や小兒向きの輕い御菓子にもなるものと思ひ込んで、例のヨクイニンの文字を疊の上に書いて見せて、おとなを感心させて居たのは恥かしい話であつた。

　それだから本草の書物などは、氣をつけて置かねばならぬと、思ひ始めたのは又大分後のことである。近世の植物學の記述は精確無比で、物に引當てゝ一字一句を讀んで見れば誤りは少しも無いが、その代りには素人にはさつぱり面白くなく、記憶も殘らなければ想像も浮ばない。是に比べると一方は話上手で要點を抑へ、從うて又間ちがひが有れば見つけやすい。殊に小野氏の啓蒙などは、啓蒙といふだけあつていつも心安く、物を尋ねに近よつて行かれる。是が追々に國民と縁の無いものになつて行くことは、何と考へても淋しいことである。

　

(164)　　　　　　　　　　五

　

　ともかくも日本前代の學者たちは、百敷十年も前からこの二種の差異を知り、且つわかりやすく之を説明して居た。たゞ近頃の分類先生の如く、急いで是に自分の名を付けようとしなかつたのみである。たとへば蘭山先生の前出の書などは、?苡の目の下に食へるのを二種、食用とせぬもの二種を列記し、後者は宿根であつて荒野に自生し、實大きく皮至つて硬く、實中に自ら穴あつて穿つて貫珠となすべし。乃ちジュズダマ等の名を以て知らるゝは此方であるとわかりやすく明示して居る。是によつて新たに考へられる問題が三つ、先づ第一に擧げられた食用種、享保年間に我邦に渡つて來てまだ藥舗にも出ぬといふものが、眞の?苡だといふことはどうしてきまつたらうか。延喜式の典藥寮式に、大和近江等より進貢した年料の雜藥にもこの名が見え、其他この前後に世に出たいくつかの文獻には、何れも同じ文字のみが使はれて居て、主たる用途は藥もしくは呪法であつたが、猶稀々には之を食餌に供することもあつた。即ち當初この漢名の入つて來た頃には、まだ原地にもさう細かな名稱種別は無く、又色々の地方名が知られなかつたのかも知れない。

　次に問題となるのは第二の食用種、是は京都周邊の農村に於ても、以前から栽培せられて居た。トウムギ又は朝鮮ムギ等の名があつて、やはり或時代の追加だつたかも知れないが、この方は實の形も皮の硬さもよほど在來のズズダマの方に近く、たゞ秋後に苗根共に枯れることが、現在の所謂ハトムギと同じなのである。そこで私の知りたいと思ふのは、この二種の特質は持つて生れたものか、但しは播種といふ人の保護が加はつて後に、次第に根株の自存力が衰へて來たものか、稻の普及の歴史の爲にも參考になる點なのだが、今のところではまだ教を請ひに行く方角がわからぬ。始めてこの植物が人生と交渉をもつたのは、果して食用が第一次であつて、呪用藥用乃至は装飾用は後と、言へるかどうかゞ亦一つの問題になる。假に其順序は島毎に異り、或は一方を主として居たとしても、ともかくも人種(165)移動の埋もれ果てたる足跡を探るぺく、是は無視し難い目標の一つになるかと思ふ。私はまだ實物を見て居ないが、小野氏が漢名の?珠に比定せられた第四の非食用種、山伏修驗の徒がイラタカの數珠に製したといふオニジュズダマなどは、特に産地に就いて其保存の?と、是に伴なふ傳承とを、採録して置きたいものである。

　

　　　　　　　　　　六

　

　子供の所作などはいつの世にも、輕々に看過されがちなものであつたが、この中には前生活の痕跡が、全く無意識に取傳へられて居る例は一つや二つで無い。珠を緒に貫いて頸に掛ける風習の如きは、遠い上代に於て既に公の服制から脱落して、繪にも歌にも取上げられずに、千數百年を經てしまひ、今では外國婦人の眞似としか見られぬ迄になつて居るが、少し氣を付けて見ると此傳統は、絶え／”＼ながらなほ續いて居るのだつた。たとへば芭蕉の貞享四年の俳諧に、

　　　肌寒く習はぬ錢を襟に掛け　　涼葉

　　　　こぼるる鬢の黒き剛力　　　芭蕉

といふ一聯があつて寫生かと思はれる。がまぐちや財布などのまだ普及せぬ以前、錢は斯うして緒に貫いて襟にかける風習があつたので、即ち古來まん中に穴のあいて居た理由が、簡単に説明し得られる。或は二月八日のコトの日だつたかに、襟かけ餅と稱して七歳の童兒の爲に、小さな餅の幾つかを絲に通し頸にかけさせ、丈夫に育つて行くまじなひにした慣行が、關東の一部に近頃まであつたのも、やはり同系統のものと見ることができるであらう。

　今から千年餘りの前までは、日本は頸飾りの最も普及した國だつた。それが斯ういふ自分の推定を危ぶむまでに、根こそげに消滅してしまつた理由は如何。其點をこそ先づ尋ねて見なければならなかつた。我々が是から手を着けようとする西南の島々には、こちらに比べるとまだ／＼多くの昔が殘つて居る。沖繩では神に奉仕する女流の家々に、(166)水晶その他の曲玉管玉が傳へられて、それが先づ近年の訪問者を驚かせたけれども、是等はもとより海中の所産では無かつた。乃ち舊來の慣行の基礎の上に、新たに築き立てられた輸入材の文化だつたのである。所謂ズズダマの利用などは小兒が戯れに採つて遊べばこそ模倣とも見られるが、島では村々の娘たちが、之を身の粧ひにして居たのも近い頃までのことであつた。つまりは順序としては曲玉より一つ古いものが、保存せられて居たわけである。私などの殊になつかしく思ふことは、與那國島でいふビギリヤダマ、又は黒島などのアンビターといふ貝のやうに、干瀬に産する美しい小貝を、いろ／＼の木の實草の實と一つ置きに、絲に通して首に掛け、もしくは思ふ男に贈つて居たことで、是が恐らくは萬葉集に、「わたつみのたまきの玉」もしくは「妹がため我玉ひろふ沖べなる玉よせもちこ」と歌はれたあの時代の玉であつて、さういふ偶然に海からゆり上げられるものが、珊瑚や眞珠である場合は稀にも無く、ましてや山々の奧から運び出される硬玉でなかつたのは、言ふまでもないことであらう。

　

　　　　　　　　　　七

　

　今までの植物家は多分一樣に、ズズダマといふ名の起りを佛教の數珠に托し、子供が此草の實を採つて信心者の眞似をする故に、さう云ひ始めたものと解して居る。實際に又我々の大多數も、さう思つて成人して來たのであるが、それはたゞ所謂フォルクスエティモロギイに過ぎなかつたことは、何段にも説明することが出來ると思ふ。佛法の數珠が始めから、さういふ漢語の音と共に入つて來たといふことは疑はしく、それが又民間に普及したと思はれる時代よりも以前から、我邦には此植物が既に知られ、さうして又是に近い名があつた。たゞ或は雙方が歩み寄つて、更に之を有名にしたかもしれぬといふのみである。近世の各地方言を見て行くと、四國の方にはススタマ・スズタマ等の清音の例があつて、鈴や笹の實のスズなどが聯想せられるが、更に今一段と古い時代に溯ると、倭名抄その他の名彙にはツシタマ、新撰字鏡にはタマツシとさへあつて、何れも珠として之を用ゐた痕跡が窺はれる。大同三年（八〇八(167)年）に成ると傳ふる古語拾遺の終りの一節、大地主神が田を營み、牛の肉を田人に食べさせた罰によつて、蝗の害を受け苗葉忽ち枯れ損じたといふ條に、三種の植物を田の畔に置いて、呪法としたといふ記事があり、其三つの中に?子、古語に之を都須と曰ふと註したものが、やはりこの所謂豆之太末（ツシタマ）と同じものにちがひないが、今ある傳本の構成に若干の不審があるので、年代の證據にまでは援用しにくい。たゞ少なくとも之を藥品として貢進せしめた延喜式の頃には、ツス又はツシタマの名を以て世に知られ、數珠とは關係が無く、寧ろ穀物の粒などといふ言葉と、縁を引く語であつたやうに、私などは推測して居るのである。

　

　　　　　　　　　　八

　

　單語の今知られて居る外形のみによつて、物の由來を解説しようとすることは、どんな場合にも私などは賛成せぬが、他に好い手掛りがまだ見つからぬうちは、一應は試みに斯ういふ點にも注意して置くばかりである。沖繩では佛法の浸潤がなほ淺く、念珠といふものを知らぬ人が多いにも拘はらず、この草の實はよく知られ、之を緒に貫いて頸にかける風習も相應に普及して居る。現在の地方名はシシタマといふのが最も弘く、先島方面にはシダマ・スダマ、又時としてはチダマといふ例もあるのを見ると、曾ては今一段とツス・ツシタマと近かつたのかもしれぬ。全體に南島のシ・ス音は、チ・ツと通ふことが多く、唇のツバがスバとなり、尻のツビがスビとなるやうな例は幾らも拾ひ上げられる。津堅島のシヌグ歌にツヅムヌ・ユリムヌといふのは、粒物即ち穀類と寄り物即ち磯に拾ふ物とのことらしいが、宮古島の世直し節では、其粒をスズとも發音して居る。粒をツヅといふ例の關西に多いことは、東條氏の方言辭典にも出て居る。

　ツスはあらゆる穀粒の中でも、最も大きく且つ堅實であつた故に、時として之を稻の豐熟の呪ひにも、應用せられることがあつたかと、私は想像して居るのだがまだ斷定は決して出來ない。ともかくも之を頸珠として珍重した動機(168)にも、たゞ容色を粧ひ立てる以上に、まだ何かの隱れた力が考へられることは、古史を讀む者の年久しい體驗であつた。最近に宮本演彦・吉田久一の二君の篤志によつて、新たに採集せられて來た川平《かびら》のマユンガナシの神詞の中にも、注意すべき實例が幾つかある。川平は八重山郡石垣島の西岸に、古く開けた農村であつて、そこへ舊暦八月の節の日の深夜に、大海の彼方の國から訪れて來て、年毎の豐産と繁榮とを祝福したまふ神がマユンガナシ又はマヨの神であつた。其マヨは沖繩本島でいふアマンユ又はアマミヤ世と同じく、海の向ふに在る神靈の世界、即ちこちらでいふ常世郷と、同じものと私は解して居る。遠い昔からの約束によつて、一定の條件を具へた若者が之に扮し、其言葉は固より秘密であつて、それが今のやうに外間に傳はつたのは本意でない。しかも是が爲に島に住みつゞけた人々の信仰が、段々と理解せられる世の中が近づいて來るのである。

　

　　　　　　　　　　九

　

　今日のズズタマ、八重山で謂ふ所のシダマ又はチダマが、この詞章の中に出て來る例が、少なくとも三つ以上はある。何れも物の譬へとして引いたもので、それを竝べて見ると面白いのだが、解釋にも疑點があり、又部落毎の差異もあるので、こゝに長々しく説くことが出來ない。さういふ中に一つだけ、意味も大よそわかり構想も新らしく、文藝としても鑑賞に値するのは、牛馬の繁昌を祈念した神口で、それには次のやうな一節がある。

　　　大野廣野に出て追うば

　　　しんからぬ萬からぬで

　　　追ひかなひまはさり

　　　おりたびみしようり、　とうり

　　　いば路に出て追うば

(169)　　　昔シダマのゆんなしゆり

　　　追ひかなひまはさり

　　　おりたぼうらりぬ果報で

　　　眞世ん神、　とうどしさり。

　私の解し得た限りでは、家畜の數がおぴたゞしく、廣い野原では千匹萬匹と、群をなして寄せ集められ、狹い細路を追うて行けば、昔シダマを見るやうに、續々と繋がつて集まつて來る。さういふ豐かな繁殖を、眞世の神の恩�ｺに期待するといふ意味で、つまりは細い野路を一頭づゝ、長々と續いて行く牛の行列を、緒に貫いたシダマの珠にたとへて、樂しい空想を胸に描かうとしたものかと思はれる。

　「昔シダマのゆんな」とある一句が、爰では特に注意せられる。他の一つの稻の稔りを念じた章には、單に山シダマシシぬぐと、とあるに對して、是には昔の一語を添へたのは意味があるらしい。曾ては?苡の穀粒以外に、別にシダマと呼ばるゝ一種の珠が、同じ樣に緒に通して、頸の飾りとせられたのでは無かつたか。八重山諸島の畜産は、牛馬とはあるけれども牛を主として居た。さうして爰には又與那國のンブヲー（mbwo）、鳩間島のンボーマ、新城島のンボサの如く小さな牛の名を持つた一種の貝が多く、それも或時代には貫珠として、用ゐられたらしいからである。ンボーといふ語の起りは牛の鳴聲からであつたが、それを此貝の名にしたのは形の類似、即ち背の圓いことと斑の色どりとが、牛を思はせるやうな貝だつたからで、もしも野路を遠く行く牛の列を、其頸飾りにたとへたのだつたら、是は神口とも思はれぬほどの、奇警なる空想であつた。

　

　　　　　　　　　　一〇

　

　微々たる或一つの植物の分布存續でも、縁あつてもし仔細に考察することが許されるならば、そこになほ人類發展(170)の大きな理法を、見出すことが出來るかもしれない、といふことが私は説いて見たかつたのである。最初我々の祖先が頸飾りの珠として選んだのは、それが身を粧ひ人の眼を悦ばしめるに專らであつたか、はた又美しく照り耀くものに對する愛惜の情を、表現したいといふ願ひに出たかは定め難いが、ともかくも土地に手近に見出さるゝ自然の産物に、限られて居たらうことは疑ひが無い。それが次々と多くの島々に分れ住むに及んで、條件は漸く變化し、知つて得難くして遠く求め、或は測らずも山の奧、もしくは大海の外の國に、更にすぐれて美しいものの有ることを知つて、辛苦してそれを我物にしようとするに至つたのは進歩であつた。幾つかのやゝ大きな日本の島では、地下の數千年の遺跡から、目も綾なる色々の寶石の、緒を貫き頸に懸けたかと思はれるものが出て來る。遙々と是を一處に寄せ集めた、人間意力の逞ましさには感動するが、是を大昔の世の常と見、今ある離れ小島の竹玉ツシ玉、貝や木の實を珠に貫くわざを、零落退歩の姿、もしくは憫むべき摸倣のわざと解せんとしたのは、古史の正しい見方で無いのみか、國の是からの活き方の爲にも、有害なる文化史觀であらう。及ばぬのを知りつゝもひたすらによその眞似をしようとするのが、寧ろ現世の大きな悲しみでは無かつたか。

　上代の文藝を點檢しても、古人はいつも海上に向つて「その玉もてこ」といふ類ひの歌を詠じて居る。ユラとかユルギとかいふ多くの地名は、所謂たまきの珠の時あつて寄り來る樂しい濱邊だつた。會て海底に徑寸の鰒《あはび》の珠を、獲させられたといふ物語は傳はつて居るが、それはまだ考古家の眼にも觸れず、又屡々あつた事とも思はれない。尋常多數の人々によつて喜んで用ゐられたのは、形いろどりのさま／”＼なさゞれ石と貝殻、其中でも殊に世界に名を轟かせた寶貝の類であつたらう。

　寶貝の分布と其效果に就いては、自然史學會の將來に期待すべきものが最も多い。私は僅かに黒田�ｺ米氏の示教を援用するのみで、自身の討査はまだ一向に進まないが、この極東の島々の中でも、中部以北の海岸は黒潮の影響に遠く、たま／＼あつても此貝の種類が乏しく、又著しく美觀を缺き、或はこのあたりが石類との交替の堺であつたやう(171)にも考へられる。之に對して今謂ふ南西の島々の縁邊は稀なる産地であり、就中モネタと名のついた二種の子安貝に富み、その殊に豐富なる地域を、自分の如きも既に何箇所か聞知して居る。しかも三千數百年の昔から、久しく寶貝の重用せられた中原の地と、最も短い半徑をもつたのがこの群島であつた。江上波夫君などの子安貝談は精讀して居るが、此中でたゞ一つの不安は、支那大陸の所謂南海を以て、當然に寶貝の産地として居る點で、それはまだ決して實證せられては居らぬのであつた。

　

　　　　　　　　　　一一

　

　そこで立戻つて今一度、ツシタマの古名を考へて見なければならぬが、是は佛法の念珠の名を借りたもので無いときまると、その由來の解説が、やはり今後の事業の一つとなるのである。舊日本の方では地名その他に幽かな痕跡がある他に、もうこの單語は行はれて居ないのに反し、沖繩の島では幸ひに是と近い語がおもろといふ歌謠の中に保存せられて居た。おもろはもと歌ふもので又舞ふものであつたことは確かであるが、久しく記憶で傳はり、採録の時がやゝ遲れたばかりに、其沿革と成立の事情が明かで無く、今に於てなほ決定せざる諸説がある。神歌と我々は譯して居るが、現に祭事以外の目的に製作せられたものが稀ならずあり、用字法がやゝ現代と異なる故に、今日の耳には通じない語彙も若干ある。さういふ中に於て四五ヶ所以上、ツシヤといふ名詞が使はれて居るのは、ツシタマの根原を知らうとする者にとつて、注意せずには居られない事實であつた。

　先づ最初に、おもろ草紙のツシヤは、問題の?苡子、即ち今日謂ふ所のズズダマといふ草の實でないことは確かである。それは此集の十一卷の八十二の一節に、

　　　やまと旅なお買ひがのぼて

　　　やしろ旅なお買ひがのぼて

(172)　　　あおしやてうたま買ひが

　　　ふくしやてうツシヤ買ひが

とある。一と二、三と四は各と對句の繰返しで、前者の何を買ひにやまとの旅に登るかとの問ひに對して、「あおしや」といふのは形容詞らしく、「てうたま」といふものを買ひに行くと答へ、次のテウツシヤは其對句であるが、たゞ其テウといふのが伊波君たちにも不明とあり、爰では唯ツシヤなる語が、玉の反復語に用ゐられたことを知るのみである。シダマ・チダマと呼ばれる今日のシシダマが、わざ／＼上國へ買ひに行くほどの品物でないことは明かである。このおもろの第十一卷は、久米島傳來のものを集めたといふが、別に第十三の卷には、

　　　久米の島あつる

　　　ツシヤこがね渡ちへ

　　　こレより（？）森登せて

　　　あぢおそいにみおやせ

といふのがある。ミオヤセは獻上せよ、アヂオソイは按司を統御する者、即ち國王のことであつて、此島には既にツシヤといふ物が存在した。さうすると遠く大和まで求めに行つたテウツシヤは特別のものか。又は此島が船の交易によつて、兼てから輸入して貯へて來たことを意味するか、どちらかの一つであらう。

　次には同じ草紙の十五卷の六に、

　　　たくしたらなつけてだよ

　　　ツシヤコの石とかねとやに

　　　てだしひつかば（う）

　　　とのす世はちよわれ

(173)　このツシヤコは磁石のことだらうといふ説も有るが、全體にこの一篇は意味が取りにくい。僅かに判るのはテダは日輪のことだが、こゝではタクシといふ土地の頭目を意味し、その長久を石と金屬との永續性によそへたもので、恐らくは此おもろの生れた時代には、既に石類を磨き穴をあけ、又は金銀を打ち成して、頸飾りとしたものも輸入せられて居たけれども、なほ總稱はツシヤであつたことを意味するのであらう。是もまだ一部の不明な點はあるが、草紙の十三卷二百十三の一章に、

　　　旅立つあんや

　　　夏たなしやれば

　　　肌からむさはらん

　　　ツシヤの玉やれば

　　　首からもさはらん

といふのがある。このサハランは此方の障らぬでは解しにくいが、夏タナシはこちらでも簡單な帷子をいふ語だから、馴れて心安いといふ意味だけは大よそわかる。

　即ちツシヤが頸飾りのことであり、珠を貫いて之を作るといふよりも、その貫くものを乃ちタマと謂つたことが、幼ない頃の私たちの遊びも、南の島々の風俗も一つだつたのである。

　

　　　　　　　　　　一二

　

　終りになほ一つだけ言ひ添へたいことは、自分は最初おもろ草紙のツシヤといふ言葉を以て、日本でいふ子安貝、即ち海巴又は寶貝のことだと言ひ切らうとして居たのであるが、それはやがて證明し得られるかも知れぬ假定に止まつて居た。たゞ前に掲げた川平のマユンガナシの神口に昔シダマといふ言葉があつて、山シダマといふ名と對立させ(174)てあるだけは、新たに見つかつた有力なる暗示であつた。日本の方でも今あるズズダマの舊語が、ツス、ツシタマ又はタマツシであつた。是を記憶して居たならば、いつかは思ひがけぬ方面から、單語の一致又は同似が、立證し得られる日が來るかもしれない。數千年前に袖を分つた從兄弟を捜すのに、變つて又變つた現在の言葉を、足場手掛にしようとするのはまちがひである。

　そこで最後にもう一つの問題を出しておくとすれば、それほど重要である寶貝、又斯んなに美しく照り耀く寶貝が、何故に近世久しい間、之を緒に貫いて頸に掛けられることなしに、過ぎて居たかといふことである。或はあまりにも美しかつた爲、あまりにも豐かに産した結果と、言つてしまつても即座の答へになるかも知れない。消極的な事實ではあるけれども、斯くまで人を美しく又樂しくなし得るものが、全く遮斷せられて居たといふことも、説明しなければならぬ大きな現象であつた。伊波氏の書かれた「子安貝の琉球語を中心として」といふ一文に、たつた一つの例しか擧げてないが、宣�ｺ九年（一四三四）といふ年に、明の朝廷に輸送せられた琉球の貢物目録には、海巴五百五十萬個といふ大きな數字が見える。是は恐らく一年ばかりの特例ではなかつたらう。率直な言葉でいふならば、沖繩では是より以外に何一つ、あちらに無いものは出せなかつたのであらう。所謂仲次貿易の始めに於ては、蘇木胡椒等の南方の産物のみが、表文の上には出て居るが、是を調達するにも多くの寶貝を船に積んで、先づ西南の諸國と交易して來なければならなかつた。勿論年久しい蓄積によつて、價値は追々と低下したらうが、それでも之を補助貨として使つた期間が、此方面に於ては相應に永かつた。マルコポーロの時代の雲南の貝貨については、杉本教授の詳しい研究が出て居て、こゝでは專らマルデイブの諸島のものが、ベンガル・ビルマを經て供給せられたといふ話だが、それより南に下つた海にやゝ近い地域では、恐らくは沖繩諸島の産が、しまひまで有利に競爭することを得たので、中世後半の唐南蠻の通商は、言はゞ沖繩島内に於ける寶貝の頸飾りの禁止によつて、其花やかさを支へて居たもののやうに思はれる。さうして此起原はまだ少しも明かでないが、或は非常に遠いものであつたかもしれない。

(175)　所謂ンナグルカナイ、蜷を以て賦課とした制度は、是も伊波氏はた三つの例しか擧げて居られぬが、愈々この物の國際價値が低下して、量を以て其弱點を補はねばならぬやうになると、ちやうど近頃の鹽煙草の專賣の如く、其自用の禁止は全島にわたつて、相應に峻嚴なものであつたらうと思はれる。そんな必要は無論夙く無くなり、文書記録の類は島津入りの日に燒かれたのかも知れぬが、人が五代七代も引續いて、寶貝ばかりは頸飾りにすべきものでないときめてしまふと、一つの生活樣式はそれで中斷して、もはや復興を企てる力も無く、殊に此島々では政治と信仰との機能が密接して居たので、或は又一種のタブーが此上に働いて居たものと考へられる。ともかくもタマもて身を粧ふ風習の是ほど根強い種族が、この美しくして又由緒ある寶貝だけを、全く構ひつけずに居たといふことは、單なる偶然とは解し得られない。

　歴史には何人にも記傳せられなかつた最重要なものが、幾つでも埋もれて居るといふことが考へられる。佐渡ぢや蚯蚓が糞にひるといふ、近代の俗謠にもあるやうに、この東方の珊瑚礁間の島々では、腰蓑一つであるき廻つた程の自然兒が、暇にまかせて朝夕に採つては緒に繋ぎ、頸に掛け手足に纏うて居た寶貝が、一たび洋海を越えて輸送せられて、内陸深く持込んで行かれると、忽ち珍奇としてめで迎へられたのみか、次第に新たなる魅力を發散して、人をして身命を傾けしめ、いはゆる九鼎大呂にも換へ難しと、感ぜしめた時代も曾てはあつた。必ずしも島人が企て望んだことで無いにも拘らず、世降つて價値が廣く認められるやうになれば、乃ち彼等は風濤の間に辛苦しなければならなかつたのみか、終には無始の昔からの自然の樂しみを擧げて、之を忘却の奧に送り込むやうなことにもなつたのである。

　私の主題として來たズズダマといふ一種の植物の分布と存續、又は人間からの承認は、少なくとも我が極東の島群に至つては、この埋もれたる大きな歴史と關係が有つたやうに思はれる。我々は他にもさま／”＼の生活上の要求があつて、いつまでも寶貝の多い渚には留まつて居られなかつた。次第に肌寒い北の海邊にも船を寄せ、後には更に山や(176)岡を越えて、海の見えない川内でも世を送らねばならなくなつた。さうして少しでも以前のたしなみを持ち續けようとすると、先づ目に留まつたのはこのズズダマといふ草では無かつたらうか。殻を碎いて食料を得ないまでも、之を移植し又種を播く位は、たゞの親たちでも思ひつきさうなことで、それで又この草の所在が民居に近く、大體に榎や鴨脚樹のやうに、有りさうな場處にばかり有るのである。それよりも著しいのは雌蕊の拔け落ちたあと、粒のまん中に穴があいて居て、自然に絲を通すことが出來た點、それから又一つは色なりつやなり圓みまでが、可なり子安貝のそれに近かつたことである。沖繩の舊語はツシヤであつたが、是がもしも頸輪の珠、從つて又主として寶貝を意味して居たとすれば、ズズダマの名の起りのツシタマとは他人では有り得ない。たゞ是を確證するには、始めて日本人の出發した、元の海岸を捜してみる必要があるだけである。

　

　（附記）

　最初のやうな話し方では長くなり過ぎるので、中程から大分端折つて見た。この後に見つかる資料と合せて、成るべくもう一度書いて置かうと思ふ。ズズダマについては是ぞといふ參考文献は無い。二つの植物圖鑑の外、「古事類苑」植物七を先づ讀み、其中に抄録せられた本の、家藏するものだけは念の爲に眼を通した。畔田氏の古名録はあの中には無いが、幾つかの暗示を提供してくれる。しかし結局主たる資料は幼年時代からの自分の記憶だから、思ひちがひは勿論有り得るのである。寶貝については、貝塚氏の「中國古代史學の發展」が大きな感化力で、それがこの一文の發足點にもなつて居る。但し其以前に私はジャクソンの「文化傳播の證據としての貝類」を二度ほど讀んで居る。黒田�ｺ米氏は勿論是ほど斷定的なことは言はれないが、私は先生の若干の拔刷類を乞ひ受けて、自分の考へともし兩立せぬ意見があつたら、自分の説を引込めようと思つた。幸ひにして是ぞといふ矛盾は無かつたやうだが、なほ念の爲此文が出たら檢閲を乞ふ積りである。次には東洋學報第二卷の中の故濱田教授の二つの論文、(177)是は二年ほど前に讀み、此篇を書くに先だつては見ることが出來なかつた。次に江上波夫君の「極東に於ける子安貝流傳」は、人類學雜誌四七卷九號の拔刷を頂戴して二度讀み、今も座右に置いて居る。故伊波普猷君の「子安貝の琉球語を中心として」は、雜誌方言五卷十一號に出て居て今度も亦讀んだ。杉本教授の「中世に於ける雲南の貝貸」は、廣島史學研究會の史學研究第三集四一號に出て居て最近に讀んだ。マルコポーロの紀行の研究は近頃大いに進み、此中には他にも此時代の資料が得られさうに思ふのだが、まだ手を伸す力が無い。最近完成しようとする南方熊楠全集の中には二三の印度寶貝流通に關する記事があつて抄出した。しかしこの方面のことはあまりに知識が乏しいので、出來るならば溜山諸島誌と合せて、もう少し事實を集めたいと思つて居る。埃及以西の寶貝分布は、前掲ジャクソンの著述以外にまだ一度も見て居ない。

　

(178)　　　　　稻の産屋

　

　　　　　　　發端

　

　新嘗の嘗の字は、漢國にて秋祭を嘗と云ふを借れる也。伴信友の神社私考などには、明かに、斯く斷定し、その以前の學者たちも、ほゞ此點までは認めて居たかと思はれる。私が新たに問題にして見たいのは、それが單なる一箇の漢字の知識であつたのか、但しは又彼の嘗といふ祭と、我邦の現在にひなめと呼んで居る尊とい式典と、二者大體に同じものといふことを、意識した上での用法であつたかといふ點である。鶴とか馬とかの如く、物があつて乃ち名が存するといふ場合ならば、この差別は大きいものでは無い。嘗に至つては言はゞ書卷の知識であつた。人が學問によつて始めて覺え得る前代の事實であつた。自分は專門でないので確かなことは言へぬが、和漢兩朝の交通が始まつた頃には、もう嘗といふ收穫後の祭は、漢土には少なくとも公けに行はれて居なかつたらしい。單にこの一語の應用を正確にする爲にも、なほ上古の文籍を渉獵して居なければならなかつた。是には歸化文人の支援勸説も推測せられるのみならず、興國期の文物制度の中には、名と實とをさながらに彼から採用した例も稀なりとせぬが、嘗を以て表示する所の我邦の一儀式のみは、少なくとも民族固有のものであつて、遠い神代の昔から、連綿として記紀律令の時代まで、持續し來つたものと認められて居る。それが果して古く大國に行はれたといふ嘗なる文字を宛てゝ、當つて居(179)るか否かを決するのは、必ずや彼我の傳統の比較、即ち自今なほ日本の知識人の至難なりとする討究が、試みられなければならなかつたのである。しかも自分などの想像するやうに、いはゆる嘗の祭は彼邦には既に久しく絶え、此方にはなほ盛んに行はれて居たとすれば、二者の元來同一の語を以て處理し得るものなるか否かを定めることは、いはゆる今來《いまき》の諸越人《もろこしびと》たちには、少なくとも荷が勝ち過ぎたことだつたらうと思ふ。

　この意味に於て皆樣の新嘗研究は、第一歩に先づ嘗の漢語の比定、是と我邦の今いふにひなめとが、どれ程まで似通ひ、どの點が特に異なつて居るかに、向はなければならぬと私は考へる。もしも單なる思ひつきで、格別これといふ共通點も無かつたとすれば問題は小さいが、もしも看過し得ない一致が雙方にあるとすると、引續いて必ず何故にといふ疑ひが起るのである。たとへば期節の十月と十一月との差こそはあれ、稻はかの殿周文化の中心地帶に於て、やゝ少量ながら夙く又必ず栽培せられた穀物であつた。收穫期からいふと十月の方が寧ろ自然に近く、是を又一箇月遲くしたのは、別に日本だけの特殊な事由があつたものとも考へられる。最近十數年來の中國の古代研究の成果が、まだ私たち迄は屆いて居ないので、現在の通説を知る方法は無いが、或は嘗が稻一種の爲の祭典であつたことは、もう既に確定して居るのかも知れない。稻人又は稻米使者といふ名稱が夙く存し、必ずしも主食常食といふ程の産量は無かつたに拘らず、之を儀禮の爲に缺くべからざる農作物と認めたらしいことが、是も亦我邦の年久しい現實と、似通うて居るやうにも想像せられ、今はひたすらに此方面の隣國の研究が、次々と公表せられる日を待つの他は無いのである。

　

　　　　　　　にひなめといふ日本語

　

　一方には之に對して、嘗といふ漢字の採擇せられる以前、もしくはそれ以後に於ても俗衆の間に於て、何といふ日(180)本語がこの祭を表示して居たかといふ問題が、もう少し確實にせられなければならぬ。萬葉集の有名なる一例は、所謂東歌ではあるけれども、「ニフナミに我せを遣りて」とあつて、にひなめとは無い。書紀の神代卷でも、新嘗の文字を用ゐつゝも、天照大神當新嘗時を、ニハナヘきこしめす時と訓ませ、又その新宮をニハナヘノミヤと訓ませて居た。古事記傳卷八などには、日本紀の全卷を通じて、爾波那比、爾波能阿比、爾波那閇、爾波比、爾比閇等の讀法があることを列記しながら、獨り爾比那閇を以て正とし、他は皆正しからずと決定せられたのは、聊か專斷の嫌ひがあつた。書紀の振假字は固より一度に成つたもので無く、歴代の教師の口傳が積り溜まつたものであらうが、この數々の不一致こそは寧ろ意味があり、後久しからずして公けにも、シンジャウの音讀を認められたのも、多分は言葉の本義が夙く失はれて、家々の傳へが區々になつた結果とも見られる。つまりは本居氏が是をニヒナメの一つに統一せられたのは何の詮も無く、言はゞ後代の研究者の爲に、なほ發見の喜びを遺されたものと言つてもよい。

　釋日本紀の卷七に引用した私記の一説に、爾波奈比は嘗也、之を爾波と謂ふなり。今｜奈比《なひ》の辭を加ふるは、是れ師説の讀み加ふる所なり。即ち是れ會の義にして、新嘗の會を言ふとあるのは、いつの世誰人の説かは知らぬが、會の義なりとする誤りは、如何にも本居氏の説の通りであらう。しかも其前段のニハは嘗也といふ一説までを、無視してしまつたのは公平を缺いて居る。文字に新嘗と書くのは久しい習はしであるが、是をたゞ新らしいの意味の爲に、採用したものと見る必要は無い。現に古事記にも常陸風土記にも、共に嘗の一字を以て、我々の所謂にひなめを表して居り、嘗は又新たなる穀物を食べ試みる意味を初めから持つて居た。ニヒが果して其宛て字の如く、單純なる形容詞の語根であつたならば、是にノを附けてニヒノアヘ、それを約めてニヒナヘとし、又にひなめとしたといふ本居説は、愈々心もとないものとなりさうに、自分などには感じられる。書紀が最初の試みであつたかどうかは知らず、新の一字の採擇は相當に大きな結果をもたらして居る。たとへばナム（ナメル）といふ動詞は、舐の文字が宛てゝあるやうに、本來は舌を以てぺろりとやることであつたのに、是を「百草を嘗《な》めて始めて醫藥あり」といふ如く、試みに食べ(181)て見るといふ意味の漢語にも此訓を附けたばかりに、後世の神農像は何れも草を口にくはへて居られる。左傳その他の訓點にも此例が多く、現に日本紀の神武天皇紀にも、天皇嘗其嚴瓮之粮の嘗の字を、ナメタマヒテと訓むことになり、同じ一つの語音で異なる動詞、それも甚だ粉はしいものが又一つ生れて居る。是は全くニヒノアヘといふやうな無理な推定が出來なくて、しかも新嘗の新の字を、必ず形容の語と解しようとしたからであつた。古人も折々は物忘れ、思ひちがへをしたといふだけならば、何もわざ／＼證明をする必要は無い。たゞもし釋日本紀に引用した私記の一説のやうに、ニヒ、ニハ、ニフといふ方に特別の意味があつたとするならば、是をたゞ一箇の形容語と解して置いては、いつまでも眞實に近よつて行くことが出來ぬ故に、特に説破する必要を生ずる次第である。

　

　　　　　　　ニホの名の起り

　

　今からもう四十年も昔、郷土研究といふ雜誌に、稻村又は稻積といふものの各地の方言が數多く集められて居た際に、中部以東の日本の廣い地域に、現在なほ行ほれて居るニホ・ニョウ其他之に近い色々の名稱は、或はこの新嘗のニヒではあるまいかといふことを、折口君が言出されたことがある。餘りに思ひがけぬ提案であつた故に、其當時は之を追究しようとする者も無くて過ぎたが、今となつては思ひ當ることが次々と現はれて來る。自分にとつての一つの啓示は、近年活字になつた安原貞室の「かたこと」といふ京附近の俚言を集めた書に、

　　　穗を拾うてミョウにまゐらする

といふあの頃の諺が出て居る。是は「釋迦に説法」とか、「兩替屋に算盤」とかいふのと一類の讐へごとで、無益の心づくしを嘲笑した警句であらうが、之に由つて始めて知り得たのは、江戸期の初頭まで近畿地方にも、ニョウに近い稻穗の呼び名があつたといふ以上に、ミョウが拜みかしづかるゝ一種野外の祭場であつたらしいことである。今日の(182)ニホ場も田に近く家に遠く、形式配置共に、土地毎の年久しい習はしはあつたらしいが、近年色々の社會不安が加はつて、穗のまゝでは永く屋外に積んで置くことが出來ず、僅かな間に藁ニホばかりが多くなり、それさへ此頃はもう段々に罷めようとして居る。古い生活の痕の消えてしまふのも遠くはあるまいが、それでも自分などの旅をした頃までは、三河の作手《つくで》のやうな靜かな山村で無くとも、四國九州の海邊や鐡道沿線にも、穗のまゝ稻を積む習俗はなほ見られた。東北地方は一般にニホの形が大きく、又技術が念入りであつて、近年は稻藁だけでなく、薪も枯草なども巧みにニホに積むやうにはなつて居るが、なほ多くの村々に穗ニホ又は本ニホといふ名稱の存するのを見ると、ニホが本來は刈稻を其まゝ積んで置く場所なることを、まだ意識して居るのかと思はれる。ニホを新穗の義と解して居る人が今もそちこちに有る。岩木山の谷の奧にはニヒボの瀧、嚴冬にその瀧の水の形によつて、次の收穫の豐凶を卜すべく、深い雪を分けて見に行く農夫も元は多かつた。漢字では乳穗とも書き、人の乳房の形に氷るとも言つたが、それは恐らくは文字の知識のある者の想定に限られ、普通には是がニホであることを皆知つて居た。羽後の仙北の境の山には、ニウツムリといふ遠くから見える一峰があつて、それも文字では乳頭山などと書いて居るが、形は明かに稻ニホと近く、しかも或期節に消え殘つた雪の形を眺めて、來る秋の稔りを占なふ點は、津輕の山中の瀧とも似て居た。

　京都以西の村里に於ても、是と同系の古名は捜せばまだ存するかと思はれ、少なくとも今ある各地色々の方言は、互ひに孤存してそれ／”＼に略々その來由が考へられる。自分などの生れ故郷ではツボキ、是は多くの斯ういふ形をしたものに、共通した名のやうに思はれる。瀬戸内海の周邊をやゝ西へ行くと、グロといふ土地が多く、是も土篇に丸の字などを書いて、塚の意味に用ゐる地方があるから、グロは單なる堆積のことであつたらう。山陰地方に行くと是がクマになり、正月忌詞のイネツムを、大グマを積むなどゝいふ例もある。或は米の別稱のクマと關係があるのかも知れぬが、それとても尚一つの略語だから、最初からの名とは見られないのである。

　

(183)　　　　　　　稻積方式の特色

　

　九州はその北端の一區域から、對岸の長門周防にかけて、トシャク又はトウシャクといふ名が、分布して居るが、是は疑ひ無く稻積の音讀であつた。それから西南一帶はやゝ廣く、コヅミといふのが東日本のニホに該當し、今はコヅムといふ動詞も盛んに行はれ、且つ稻以外のあらゆる堆積にも應用せられるが、是なども穗積といふ古い名の變化の果らしく私には想像せられる。昔のH・K二子音は、今よりも一段と接近してゐたことは、其例は數多く拾ひ上げられるからである。

　あまり微細な點である爲に看過しやすいが、最初から各地の名が異なり、物や用法もそれ／”＼別であつたやうに思ふ人の爲に説いて置きたいのは、この稻の堆積には一つの樣式の共通があることで、すべて稻の束を、穗を内側にして圓錐形に積む以外に、最後の一東のみは笠のやうに、穗先を外に向けて蔽ひ掛ける者が今も多く、更に其上になほ一つ、特殊な形をした藁の工作物を載せて置く風が今もまだ見られる。將來誰かもし綿密な比較を試みるならば、是に全國を通じての著しい一致があり、更に海外の稻作種族との間にも、若干の連絡がたぐり寄せられさうに、私には夢想せられる。現在は成るほど夢に近い幽かな手懸りではあらうが、たゞ試みに心づいたことを述べて置くと、宮崎縣の西端、霧島山の麓、日向眞幸郷の小さな或部落では、刈稻を田に乾し束に結はへてコヅミに積んだ際、トッワラと稱する藁帽子を作つて其上に被せる。トッワラは北九州などの各地でトビといふものと同じで、萬葉集にもある足柄山のトブサなどと多分一つの語であり、種俵の前後に取つける棧俵も同樣に、本來は物の貴とさを標示する一種の徽章であつたかと思はれる。現今は素より土地によつて精粗の差もあらうが、楢木範行君の「日向馬關田の傳承」に説くところによれば、こゝのトッワラは作り方が六つかしく、誰にでも出來るといふわけには行かぬので、それを翌(184)年の用にしまつて置く家が多いといふことである。ところが是とよく似た話を、偶然に私は遠く福島縣會津の農村に就いても聽いて居る。山口彌一郎君の談であるが、彼の郷里の大沼郡新鶴村などでは、稻穗をニュウと呼び、やはり其上端には藁の小さな覆ひを載せるが、この地方では一般に之をボッチと呼んで居る。爰でも作り方は簡軍でないので、老人などの無い家では頼んで作つてもらひ、用がすんでからも翌年まで、大事に藏つて置く者があるといふ。この二つの實例は共に近い頃のことだから、今ならばまだ標本を作つてもらつて比べて見ることも容易であらう。いはゆる俵ばやし即ちさん俵の場合も同じやうに、別に口傳といふほどのもので無くとも、右とか左とかの手順が定まつて、それを取りちがへると結果が氣づかはしく、馴れてしまふまでには指導が必要であつたのであらう。開けた村里になると、もう古い作法などには重きをおかず、しかもまだ無意識に前からの慣行を續けて居る。我々の名づけて民間傳承といふものゝ中には、今ちやうどさういふ消滅の間際に在るものが多い。各地比較の殊に大切な時期といつてよい。近畿地方に弘く行はるゝ稻村をボウトといふ言葉なども、或はこの藁帽子の名だつたかと思ふ。それと接續した紀伊、伊勢、尾張等の方言の、スズキ、スズミ、スズシといふなども、もとはこの稻積の上に取つけた呪物から生れた名だつたやうに私は聽いて居るが、果して正しいかどうか。他日もう一度確かめて見ることにしたい。

　

　　　　　　　産屋をニブ

　

　鈴木氏の本姓が穗積だといふこと、鈴木は即ち稻の穗に他ならずといふことは、よく耳にする説だがまだ確かな典據を知らない。ともかくもニホが稻を穗のまゝに、或期間藏置する場所であつたことが明白だとすれば、是が農民の心のうちに占める地位が、今よりも遙かに重要であつたことは先づ推定し得られる。然るに今日數多き地名の中で、最も廣い區域を覆ふ一つのニホ又はミョウ等々といふ名のみが、今まではまだ語原を尋ぬることが出來ないで居た。(185)私は曾てフレエザー教授の書に依つて、穀靈相續の信仰が、弘く北歐其他の小麥耕作帶に流傳して居たことを教へられ、近くは更に宇野圓空博士の「マライシアに於ける稻米儀禮」に、亞細亞東南の島々の稻作種族の間にも、穀母が穀童を産み育てゝ行く信仰行事が、今なほ到る處に持續して居ることを報ぜられたのを見て、この東西の一致共通には、何か偶然ならぬ起因のあるらしきことを感じて居る。從つて或は幾分か意を以て迎へるやうな傾きが無いとも言へないが、大體に於てニホ又はニフ・ニュウ等が、産屋のことであつたとまでは考へて行くことが出來る。現在は一般にウブヤ・オブヤの語が弘く使はれるけれども、近畿と其周圍の土地には、ニブ入りといふ語だけがまだ活きて殘つて居る。是は主として嫁の初産を、里方に歸つてする習はしに伴なうて居たやうだが、其風がいつしか衰へると、母が安産の悦びに來ることも、又は生れ兒を見せに親元に行くことも、地を異にして共にニブ入りと呼ばれて居る。方言の中にも氣をつけて居たら、是からまだ見つかることだらうが、山陰山陽の畜牛地方などでは、牛が仔を産む時期に近づくことを、ニュウに入る、又はニュウにつくといふ例もあるといふ。

　一方古代日本語の中には、同じ痕跡がどの程度に保存せられて居るか、それが其次の間題になる。先づ心に浮ぶのは最初の記録に散見する御名代の壬生部《みぶべ》、稀には乳部とも書かれたもの、壬も乳も今ならばN子音だが、久しくミブ又はミブベと訓む習ひになつて居る。尊貴の御血筋の傳はらぬ方々の爲に、曾て御産屋に奉仕した者、又は其縁故を引く人々を以て組織した部曲であつて、之に由つて御名を永き世に留めんとしたものと、普通に解釋せられて居てまだ異説は無い。たゞ數多い諸州の郷名村名を以て、悉く何れかの壬生部の占據した地域とする場合に於て、いさゝかの難點があつた。賀茂眞淵大人は、是も東西の各地にある丹生といふ地名を、同じ例に加へようとせられたが、それには本居氏が先づ同意をしなかつた。今でも地圖に就いて其所在を見ればわかるやうに、多くはあまりにも引込んだ山間に在つて、そこ迄は新設の部曲が分散し得なかつたらうといふのが理由らしいが、今ある地方の壬生といふ在所とても、其點は五十歩百歩であつた。たゞ丹生の方だけには夙くから、丹土の採取地だからといふ解釋が知られて居(186)り、又現に伊勢の南部のやうに、實地の採掘が續いて居た例も擧げられようが、それとても是ほど數多い全國の地名を、説明するには足らぬかと思ふ。地名に一定の漢字の附與せられたのは後の事で、それには又統一の力さへあつた。何か其以前の隱れた事由が、豫め斯ういふ類似を遺して居るのかも知れぬと考へて、自分などは特に東國に數多い丹生の山田といふ古名に注意して居る。

　

　　　　　　　島々の一致

　

　古來多くの稻作民族の間に、紛ふ方なき信仰行事の一致があつて、その或ものは之を現世紀にまで持傳へて居るといふことは、他にも幾つかの證明方法があるので、必ずしも言語の末に據つて、之を推斷するの要は無いであらう。從つて假に稻村をニホ等々といふ言葉が、穀靈の生誕とは何の交渉も無い語原をもつと決しても、我々の研究には格別の障碍は無い。たゞ私の言擧げせずに居られないことは、第一に現在嘗の漢字に比定せられるアヘ又はニヘといふ日本語は、單純に食物の供進を意味し、それは又我邦の祭祀のすべてのものに伴なつて居た要件で、特殊に重要なる稻といふ一つの穀物の收穫に際し、あらゆる莊重なる儀式を備へて、執行はれて居た一つの祭典の名としては少しく精確で無いこと、更に言ふならば古事記などのやうに、たゞ嘗といふ一字を書いても、やはりニハナヘ・ニハヒ・にひなめ等と讀むべきものであつたのを、たま／＼念を入れて新の字を副へたばかりに、却つて本の意を朧ろにしたのではないかといふ點である。

　第二には我々日本人と出所を同じくし、中代幾たびか政治の手を分ち、疎隔の生活を續けて居たのに拘らず、今に至るまでなほ言語信仰のくさ／”＼の古風に、爭はれぬ一致を遺して居る西南諸島人の間に、やはり稻の産屋を意味する言葉が明かに痕づけられることであつた。雙方の文化を一望に觀察し得る地位に在る者が、現在はまだ至つて少な(187)い故に、私は敢て乏しい知識をさらけだすが、目的はたゞ今後の若い學徒に斯ういふ研究の缺くべからざることを力説するに過ぎない。南九州の海端まで弘く分布して居る所謂稻コヅミの風習は、海を越えて奄美の諸島に入ると、一旦はやゝ幽かになる。稻の栽培は島毎に絶えず、又重視せられても居るが、東日本のニホに該當するものが、如何なる名と形とを以て行はれて居たかをまだ確かめることが出來ない。たゞ村々の辻には高倉があつて稻を藏し、又一部には八月節の日にシチヤガマ（節小屋）が設けられて、そこの祭には新稻《にひに》がなしを迎へ、東西の稻靈《いにやたま》を禮讃する言葉があつたことを知るのみだが、是等は後に倉稻魂、ウガノミタマといふ神の條に於て併せ述べたい。次に沖繩の本島にも、曾ては同じ高倉があつたとも聽いて居るが、私はそれに行逢はずにしまつた。國頭《くにがみ》地方に於て自分の目に觸れたのは、イニマヂン（稻眞積）と稱して、形は此方のニホ・稻穗と近く、たゞ其所在が田間では無しに、人の住屋に最も近いものであつた。こゝに儀式の行はれたものがあるか無いかは、今なほ確めることが出來ない。是とやゝ似た名稱は、沖永良部島にもマンヂがあり、一方には又八重山語彙にも、マヂンといふ語が載せられて居る。或は比較的後代の統一でなかつたかと思ふのは、少なくとも八重山諸島の方には、別になほシラといふ一語が、弘く土地人の間に行渡り、其構造樣式が著しく舊日本のものに近いのみならず、其シラは同時に又人間の産屋生活を意味する名詞であつた。四十年前に爐邊叢書の一册として刊行した、本山桂川氏の與那國島國誌の中にも、あの島のシラの寫眞が載録せられて居るが、主島石垣を始めとし、他の島々にも類例は到る處に存し、單なる痕跡といふ以上に、シラに伴なふ季節儀禮が今もなほ正確に行はれて居るかと思はれる。それを詳かに比較して見ることが、自分等の切なる願ひであるが、現在はまだ力の及ばぬ區域が多い。

　

(188)　　　　　　　シラといふ語の分布

　

　たとへば宮古群島の方は、近世幾度かの地變があり、又住民の闘諍盛衰が激しかつた爲か、民居耕田の跡が移り動き、且つ一般に稻作はやゝ衰へて居る上に、文獻も口碑も此方面には傳ふる所が少ない。往つて懇ろに尋ねて見たならば、稻積をシラと呼んで居た痕跡はなほ存するかもしれぬが、少なくとも現在はまだ手掛りが得られて居らぬのである。

　沖繩本島以北の稻作地帶では、稻のシラといふ言葉はもう全く知られて居らぬ、といふのが或は實際であるかも知れない。貯穀管理に力を入れたマヂンの方式が既に普及し、且つ信仰を基柢とした古風の稻栽培が、次々と主要なる邑里の周圍から消え去つたからである。しかも他の一方に於て、人間の産屋をシラと呼ぶ珍らしい言葉だけは、今でも殆と三十六島の全部に、分布して且つ活きて居る。シラをウブヤと言ひ替へる者はたま／＼有つても、たとへば姙婦をシラピトウといひ、産婦をワカジラアといふ類の多くの複合形は、到る處に外來者の耳をそばだたせて居る。

　曾ては日本の西南一帶の地にも、産屋をシラと謂つた時代が、あつたのではないかと私は考へて居る。ほゞ紛れのない一つの例證は、いはゆる産屋の穢れをシラフジョウといふ地方語は、こちらでも決して珍らしくない。是は喪の忌を黒不浮、月の障りを赤不淨といふに對して、白であらうと事も無げに解する者が多いが、産屋の愼しみを白といふべき理由は無い。寧ろ果赤二つの名の方が、この誤解に誘はれて後から出て來たもので、つまりは是も亦シラといふ語の元の意味が、追々と忘れられて行く過程だつたかも知れない。是について更に思ひ合す一事例は、愛知縣の東北隅、三州北設樂の山村に、近い頃まで行はれて居た霜月神樂の中に、シラ山と稱する奇特なる行事があつた。數多の樹の枝や其他の材料を以て、臨時に大きな假山を作り、前後に出入りの口を設け、内には棧道を懸渡して、志願あ(189)る者をして其中を通り拔けさせた。是を胎内くゞりといふ言葉もあり、又障り無くこの行道を爲し遂げたことを、生れ清まはりと呼んで居たとも傳へられる。我邦の山嶽信仰の、是は普通の型とも見られようが、それをシラ山と名づけたのには、或は埋れたる古い意味があるのかもしれぬ。加賀の名山などは、夙く白山《はくさん》と字音に呼ぶことになつて居り、之を菊理媛の神の故事に結びつけた神道家の説も新らしいものでは無いが、今迄の常識者は寧ろ春深くまで、消え殘る高嶺の雪を聯想して怪しまなかつた。しかし考へて見れば是もやゝ無造作に過ぎて、命名の詮も無いやうである。

　近い頃自分は大白神考と題する一書を公けにして、東北地方に汎く行はれるオシラサマの信仰につき、今まで考へて居たことを敍述して置かうと試みた。關東の各地に行はれて居るオシラ講の祭神は、馬に騎し桑の枝を手に持つた女人像の掛軸であり、名馬に導かれて天に昇り、絹を吐く一種の蟲となつて再び此世に降つたといふ、捜神記一流の物語が茲にも傳はつて居るのみならず、蠶をオシラサマといふ方言は普通であり、それは又蠶蛾蛹等を含めて、すべてを比流《ひる》もしくは比々流と呼んで居た古語と、音韻の行通ひがあるかと思はれた故に、一たびは之を同一傳承の分岐したものか、さうで無いまでも奧羽地方のオシラサマも、名だけは少なくとも此方から、運ばれて行つたものの如く推定して居つた。今となつてはそれがさう早急に、きめてしまふべきものでなかつたことを、反省せずには居られない。

　

　　　　　　　稻と白山神

　

　東北のオシラサマには、現在は殊に地域毎の變化が大きい。根源は或は一つと言へるのかもしれないが、それとてもまだ證明し難く、まして其移行の順序などは判明しない。たゞこの際に注意をせずに居られぬのは、美姫と名馬と(190)の戀語りは傳はつて居りながら、以前は固より現在もまだ多くの村には、蠶養ひの業が盛ならず、從つてその豐産を祈念する行事は無く、たゞ毎年の定まつた日に、家々のオシラサマを遊ばせる、もしくはホログ（ひろげて見る？）とも稱して、廻つて來るイダコといふ盲目の巫女が、斯ういふ語りものを持つて居たのである。八戸市の郷土史家小井川潤次郎君などが、久しくこの問題に注意して居るが、外南部一帶の可なり弘い區域では、このオシラ遊びの式日は、正月を加へて年に三度、もしくは三月九月の十六日、即ち此地方でいふ農神降りと、農神上りの日であつて、それ故に又オシラ樣は農神のことと、思つて居る人も少なくないらしい。農神作神もしくは田の神の、降り昇りといふ日に、各戸祀りをするのは東日本の常の習ひで、二月と十月との相對日といふのが最も多いが、この邊は冬が永いので後先を切詰めて三月と九月にして居る。八戸附近の老人の茶話では、農神さまは、春秋の往き返りに途中で必ず雪神とすれちがはれる。九月は田に立ち勞れて、やつれて歸つて行くのを、何だ其ぼろ／＼したなりはと笑ひ、春の三月は又今頃出かけても、食ふものなんかもう何も無いのにとひやかすが、いゝえ私には餅だの白い飯だの、いろ／＼こしらへて待つて居てくれますと、答へてさつさと降りて來られると謂ふのは、どうやら女體の神と想像して居るらしい。この農神をオシラサマ、或はシラヤマ樣ともいふ者があつて、處々の山の口に小さな祠があり、文字を用ゐぬ人々には、是とハクサン樣とは全く別の神であつた。春の農始めには穀物の種子を持つて、高い空から御降りなされるものと信じて居る點は、頗る是から考へて見たいと思ふ南端の宮古島の、ムナフカといふ神の信仰とも似通うて居る。

　そこで立戻つてもう一度、何故に琉球列島の一部に、稻の藏置場と人間の産屋とを、共にシラと呼ぶ言葉が、殘り傳はつて居るのかを考へて見たい。容易には國語の先生の同意を得られぬ一説と思ふが、自分などは是をDR二つの子音の通融、と言はうよりも寧ろダ行が曾てはもつとラ行に近かつた時代の名殘では無いかと思つて居る。一つの類例は太陽をテダ、是は照るものといふより他の解は有り得ない。沖繩ではすべての行爲の主體を、A母音一つを以て(191)表示する習はしがある故に、生むもの又は育つものを、シダ即ちシラと謂つて通じたのかと思ふ。育つ・育つるといふ日本語の方は、夙く展開を停止したやうであるが、西南諸島のスダテイン（育つる）等は、別に原形のシデイン・シデイルンがあつて、人の生れることから卵のかへることまでを意味し、スデミヅは産井の水、スデガフーは大いなる喜悦の辭、更に此世の衆生をスヂャといふ語も元はあつた。舊日本の方でも、方言にはまだ幾つもの痕跡があとづけ得られる。たとへば育てるといふ代りに、大きくするといふ意味のシトネル、又は成長するといふ意味のシトナルなどは、人を動詞にしたやうにも考へられて居たが、實際はこの南方のスデルと同系の語らしい。それよりも更にはつきりとして居るのは、種子をスヂといふ語であつて、タネは沖繩の方にもあるが、別にやゝ變つた方面に用ゐられて居る。信越二國を流れる信濃川の水系では、翌年の種子に供すべき種籾をスヂと謂ひ、乃ち其スヂ俵を中心とした正月の色々の祭儀がある。遠く離れた肥前西彼杵の半島でも、稻の種實のみは特にスヂとよんで居る。この種神の信仰と、人間の血筋家筋の考へ方とは、多分は併行し、且つ互ひに助け合つて、この稻作民族の間にも成長して來たことは、所謂新嘗儀禮の民間の例からでも、證明し得られると私は信じて居る。

　

　　　　　　　朝野二つの祭式

　

　日本人の嘗の祭が、非常に古くからあつたことは想像し得られるが、是にも他の米作種族と同じやうに、所謂稻の産屋の信仰を伴なつて居たか、或は居なかつたかを確定しようとすると、今ある豐富な文獻資料だけでは實はまだ十分と言へない。といふわけは第一に、記録の分布が甚だしく上流に偏し、又中古に偏して居る。嘗といふ隣國の文字が、たゞ記録に殘るやうな特殊の場合に限つて、採用せられたことが第二の原因であり、更に第三にはその朝家の嘗の祭が永い歳月の間に意識してもしくは自然に、大なる改定を加へられて居たからである。もしもこの一千數百年間(192)の變遷が、二三の看過すべからざる特徴を保存して居なかつたならば、この研究は取つく島も無く、從つてどんな空疎なる立論をも可能にしたことであらうが、幸ひにして時代毎の忠實なる記述が殘り、一方には又文字に惠まれなかつた多數民人の間にも、是と對比し、且つ參照せらるべき幾つもの前代生活の持續が跡づけられる故に、過去は必ずしも埋没し盡しては居ない。たゞ多くの忍耐と辛苦を必要とするのみである。

　古史の文は、幾たびか讀み且つ味はつて見なければならぬ。たとへば皇極紀の元年十一月丁卯（十五日）の條に、天皇御新嘗（……ニハナヒをきこしめす）、又是日皇太子大臣各自新嘗（……ニハナヒしき）とある。是は霜月下卯の日を用ゐられた最古の例と認められ、又天皇即位の第一年なるが故に、後世謂ふ所の踐祚大嘗祭のことゝ思つた人もあらうが、もしも是が延喜式第七卷に列記せられたやうな大規模のものだつたならば、同じ日に大臣たちが家に退いて、各自の族の祭を營み得るわけが無い。それよりも更に大切な問題は、この日の祭の式典は、果して同じ名を以つて呼び得るほどに、民も大御門も似通うて居たらうかといふ點である。令制以後に於ける公けの新嘗には、少なくとも常人の模すべからざる特色が幾つか有つた。最も見落し難い大きな差別は、皇室が親しく稻作をなされざりしことである。供御の料田は十分に備はつて居ても、それを播き刈る者は御内人では無かつた。殊に大新嘗には國中の公田を悠紀主基に卜定して、其所産を以て祭儀の中心たるべき御飯の料に充てられることになつて居た。それが何れの代からの定めかは、政治史の問題に歸着するが、すでに億計弘計二王子の潜邸の御時にも、伊豫の久米部に屬する一官人が、大嘗の供物を集めに、播磨の東隅の村まで來たといふ記事もある。是等は到底尋常地方に割據する大小の農場主たちの、企て及ぶ所では無かつた。此點が先づはつきりとちがつて居る。

　それよりも更に重要な差別は、この日に迎へ拜せられる神々についての考へ方であつたらう。是までの普通の解説では、至尊が其年の新穀をきこしめすに際して、御親ら國内の主要なる神祇を御祭りなされる式典として、疑ふ者も無かつたやうだが、もしそれならば是は朝廷の御事業であつて、個々の稻耕作者たちの問題で無く、嘗の祭の一般共(193)通性などは、考へて見る餘地も無いわけである。神祇といふ言葉は、今は至つて心輕く、範圍を明らかにせずに用ゐられて居るが、本來は天神地祇、或は天社國社と謂つたのも同じで、つまりは斯邦の有りと有る家々に、齋き祀り申す神々の總稱といふべきものだつた。如何に信心の複雜化した時代でも、個々の一家の力では、爲し遂げ得ることでは無く、又其必要も無く、權能も有り得なかつた。即ち此點では明かに、皇室の新嘗が普通とは異なつて居たので、我々は先づいつの世から、何によつて斯うなつたかを考へて見なければならぬ。

　

　　　　　　　祭と幣帛の贈進

　

　我邦の所謂神祇政策が、由來極めて久しいものであつたことは、先づ日本紀が意識して之を書き傳へようとして居る。皇祖天皇が始めて中つ國に御遷りなされた時には、すでに其以前からの來住者の、邑里を成し各々首長を戴いて居る者が少なくなかつた。國津神の文化の稍々低級であつたことは、大祓の祝詞からでも窺はれるが、恐らくは語言はほゞ通じ、從つて相互の信仰は理解し得られ、烈しい闘諍を以て統一を期するまでの、必要は無かつたかと思はれる。素より勢力の優劣消長は免れなかつたらうが、永い間には縁組その他の交通によつて、自然の感化同化が行はれ、延喜式の時代になると、もう神名以外には對立の痕跡が無く、自他ともにこの差別を感じないやうになり、從つて天神地祇といふ物々しい呼び方までが、單なる麗句美辭の類に化してしまつた。

　しかも他の一方に、この天社國社の差別撤却、一視同仁の方針の爲に、夙に制定せられた慣行が幾つかある。平安奠都の前後から、盛に記録に現はれる神階の陞敍などは、失政だつたと言つてよからう。久しからずして極位に達して停止に歸し、徒らに稻荷の正一位に名殘を留めて弊害をさへ生じたが、之に伴なうて設けられた官知の特典と、社格の階段制とは、僅か形を替へて久しく記憶せられ、且つ明治の新政に於て復活した。しかし私などの見る所では、(194)是は主として幣帛供進の方式、又その數量品目の差等を意味したかと思はれる。世降つて恆例臨時の奉幣は?々絶え、之に代つて個々の祈願の奉幣のみが競ひ進んだ爲に、是が第二宗教の法會などと混同して、次第に朝家自ら其祭典を執行はせられるやうに、速斷する人を多くしたのも是非が無い。官祭といふ言葉の生れたのも、新しいことではあるまいが、其最初の趣旨はたゞ官知の祭、豫て其祭の世の爲に大切なることを認められて、定めの日時に神祇官からなり、又は國々の司からなり、恆例の幣物を捧げて參同する者を派遣せられる御定めであつたといふ迄であらう。幣帛は固より漢語であり、其用法はあちらの古書に數多く見える。本來は主として諸侯の間の財物の贈遺であつて、之に由つて尊敬又は關心の深さを表示するまでの約束はあつたらうが、之を祭主に代つて自ら祭儀を掌るものと解するほどの、大きな轉換はよもや無かつたらう。

　但し日本の幣帛が、後々神事に限られるやうになつたのは、かゝる用法が先に立つた故に、他には其名を憚り避けたと見られる以上に、今一つ特殊の事情が有つたと考へられる。我々日本人のヌサ又は捧げ物は、出來る限り清く汚れなくして、元は最も神の御座に近く進らせんとして、時としては眼に見えぬ靈體の所在を標示する樹枝や齋串の木に、直接に結はへつける習はしがあつたらしく、今でも片田舍にはそれが多く見られる。花や芒の葉のやうな自然物を、しでで目じるしとする場合はさうであるまいが、木棉《ゆふ》・麻・帛・白紙の類を用ゐるときには、シデとヌサとは混同し、又時としては兼用せられた。紙などは近世得やすくなつたので、細く長く剪つて垂れて、專らシデの用に供することになつたのに、尚二つの境を明かにし得ず、ゴヘイといふやうな新らしい日本語が生れて、文字を識る人たちが却つて迷うて居る。殊に迷惑といふべきは特殊のミテグラ、即ち幣帛を取つけたる齋串が珍重せられて、それをトヨミテグラ、ウヅノミテグラなどと呼んだのが原因となつてか、日本書紀の傍訓が幣帛をミテグラと讀ましめたのを始めに、平安初期の書言家が揃つて此對譯を認め、それを訝る者が誰も居なかつた爲に、信じにくい語原説が近年まで續出して居る。古人は過誤せずと思ひ、又は漢語で書いたものは皆正しいとすることは、殊に萬葉から古今後撰へ(195)かけての百年間餘りが危險である。此期間は日本最近の一世紀と同じく、外國の文學に心を傾け過ぎて、國語の變遷を御留守にした時代であつた。今度の研究會の計畫には別の趣旨もあらうが、此點に新たに注意することは、殊に一般の學問の爲の、可なり強い警策であらうと思ふ。

　

　　　　　　　世に傳はらぬ舊儀

　

　朝廷の大嘗に天神地祇を御祭りなされるといふことを、始めて公けに明示したのは、もし私が誤つて居らぬならば、職員令義解の神祇官の條に、大嘗謂嘗新穀以祭神祇也、朝者諸神之相嘗祭、夕者供新穀於至尊也とあるのがそれかと思はれる。この神祇は勿論天神地祇であつて、ある定まつた大神のことをいふのではない。天武天皇紀の五年十月丁酉の條に、奉幣帛於相嘗新嘗諸神祇とあつたのが、中間僅か一百五十年餘の程に變移して、先づ嘗といふ語の語感が改まつた。嘗はキコシメス、即ち天子に今年の稻穀を初めてさし上げることだつたのが、爰ではそれを中心とした前後一切の行事を謂ふやうになつて居り、次には幣帛を國内の諸社に送ることまでを、祭と誌して怪しまぬやうになつてしまつたのである。祭といふ漢字は、其本國に於ては、今古を一貫して地の神の奉祀を意味する語であつた。それを我邦のみは敬祭といふ語も古く、一切のマツリ、マツラフワザに宛てゝ用ゐることになつたのも、恐らくはこの誤解の導きであらう。

　但し右の職員令の個條は、本來は神祇官の職分を列擧せられたもので、神祇官は素より皇祖以來の神祇行政、即ち國内信仰の綜攬統合だけに參劃すべきものであつた。後世の卜部進出時代はいさ知らず、是が皇室御親らの祭の年久しい傳統までに、干與し得べかりし理由はあり得ない。然るに悠紀主基二殿内部の作法鋪設の如きものは、特に秘儀といふ迄の嚴重さでは無かつたといふにも拘らず、たゞその無限の尊とさの故に、是を群庶の間には知らしめようと(196)なされなかつた爲に、政治の動亂の永い世代には、定めて外部からの影響も多かつたことゝ拜察せられるにも拘らず、現在に至るまで、なほ數々の古い形が、傳はつて居るやうにも承はるのは忝いことで、少なくとも是は一國の古事を學ばんとする者に、或方法を設けて與かり知らしめて置くべき尊とい事實であつた。たとへばこの大嘗の日の神殿の奧に、迎へたまふ大神はたゞ一座、それも御褥御枕を備へ、御沓杖等を用意して、祭儀の中心を爲すものは神と君と、同時の御食事をなされる、寧ろ單純素朴に過ぎたとも思はれる行事であつたといふに至つては、是を一社にしてなほ數座を分ち、それ／”＼に幣帛を奉進したといふやうな、いはゆる天地神祇の敬祭と同日に語るべきものではない。名ある近世の學者が口を揃へて、この際に全國の有る限りの神々の御祭なされるかの如く説いて居たのは、主として神祇官系統の文獻に依り、別に文字以外に傳はるものを、顧慮しなかつた學風からであらうが、一方は又制度の統一、言ひ換へれば或一國の完備した制度文物に、同化しなければならぬといふ政治思想の流弊でもあつたかと思ふ。古事類苑といふ類の記録の集積は大きいが、大部分は個人の見聞記憶、それも今後の機會の爲にそれ／”＼の所役の心得になることを書き留めようとしたものばかりで、何故に是だけの珍らしい慣行が傳はり守られ、しかも内と外と、昔と今との解説が變つて來たかを訝り尋ねようとしたものが、有つたのかも知らぬが殘されては居ない。文字に忠誠なばかりに記されざるものを看過し、後世の誤れる解釋を成長せしめたのは、官人たちよりも寧ろ學者の責であつた。

　

　　　　　　　國々の相嘗祭

　

　今度の新たなる企てによつて、單に我々の假定が成長しただけで無く、單なる文字の間からでもなほ色々の古い歴史が掬み取られるやうになつたことは仕合せである。この民族の新嘗慣行は、先づ其中心に於て幾段かの變遷を經て居ることが心づかれる。いはゆる唐制採擇といふ意識した大改革以外にも、さまで人を驚かさゞりし色々の省略と追(197)加があつたことが、そんな筈は無いといふ律儀な斷定を超越して、次々と注意せずには居られなくなつた。たとへば前に掲げた令義解の文に、「朝には則ち諸神の相嘗祭云々」とあるに對して、後世の相嘗祭は日を異にして十二日早くなり、延喜の四時祭式には近國の七十一座の神々に限り、此日奉進すべき幣物の品目數量が定められて居る。是に就いての不審は色々あるが、まづ第一に相嘗といふ名の意味が判りにくい。相嘗は相饗又は共饌も同じ意で、神と人と同時に一つの食物を攝取せられることゝしか考へられぬが、是がもし玉勝間などの説くやうに、たゞ御相伴といふ意味であつたならば、新嘗當日の親祭は二度目になり、即ち「嘗」では無くなつてしまふ。そんな事は有らう筈が無い。神祇令の文にも仲冬上卯相嘗祭とあつて、義解に大嘗同日の朝のうちといふのは誤りかも知れぬが、それにした所で結果は一つである。夕の御饌が嘗であるのに、それに先だつて如何に尊とい諸國の神々でも、前々から御相伴をするとは考へられないことである。察するに是は京畿と其附近の神社には、同種の祭がこの頃に行はれ、それをも多分相嘗と呼んで居たのを、心無く公の文書にも採入れた爲に混亂したものであり、乃ち又當時此種の收穫後の信仰行事が、弘く邑里の間に分布して居たことを傳へたものと見られる。土地の言葉ではそれを何と謂つたか、わかると有益なのだが今はまだ方法が無い。ともかくも其祭の日は、朝家の儀典と同じ季節の、同じ日でないまでも其前後で、少しく發遣の日をくり上げると、賜はつた幣物が間に合つて、一段と祭を感深く且つうれしいものとなし得たので、之に對して一方の新嘗祭當日の案上案下の幣は、各々の社の祭には間に合はず、たゞ朝廷が顧念なされるといふ主義だけを、明かにする目的に專らだつた爲か、他の多くの例幣の物と同じく、いつ迄も頂戴に出て來ぬ者が多くて、追々に處理に困られることになつたらしい。地方に新嘗と同種の祭があつたことだけは、此方面からでも大よそ推定することが出來るのである。

　七十一座の神々に進らする相嘗祭への幣物に、種目數量の若干の異同があつたことは、何かそれ／”＼の理由が有つた筈だが、それを攷へて見る力は今の私には無い。たゞ一つ注意をせずに居られぬのは、此中には布帛食品器具等の(198)他に、酒の稻五斗又は一石といふまでも備はって居りながら、たゞ御飯に炊く稻一種のみは何れにも見えない。是だけは恐らくそれ／”＼の社に屬する神田から刈上げて、必ず其祭の用に宛てるだけで無く、いはゆる相嘗の貴とい役に奉仕する神主たちも、元は必ず其田を管理した戸主《へぬし》、郷長又は人このかみと呼ばれるやうな、一定の農民の中から出て居たものと思ふ。天が下の田を悉く公田とする原則は久しく動かなかつたけれども、それとても制定の始めがあつた。畏れ多い推定ながら、天の長田といふやうな大切な稻栽培地が皇室にも屬して居て、年々の齋田を卜定なされる必要は無い時代が遠い昔にはあり、所謂大新嘗は後代の各地の相嘗と、もう少し近いものだつたのではあるまいか。二つの祭の殿を竝べ構へることは、朝廷の大新嘗の著しい特徴であるが悠紀が齋忌を意味し、主基が第二のものゝ名だつたとすると、最も亦天地陰陽二極の思想に基づいて、制度として新たに設けられたものでは無かつたらうか。それが輕々に斷定すべきものでないとすれば、結局この一點のみが、問題として永く殘ることになるであらう。

　

　　　　　　　稻實公の任務

　

　嘗に該當する稻收穫後の祭典が、尋常民庶の間にも行はれて居たことは、之を疑はんとする者も無いだらうが、それが如何なる範圍に及び、又今日もなほ保存せられて居るか否かの問題になると、尋究の餘地は弘く殘り、解決は必ずしも容易でない。一つの手掛りはにひなめ又はニフナミ等といふ舊來の日本語の隱れたる意味と、是を暗示するかと思はれる國外の稻作諸民族の習俗の類似であるが、それにも今はまだ乘越えにくい幾つかの難關があつて、微細に農民の生活を觀察比較する私たちの學問に、割當てられた任務は小さくない。たとへば延喜式卷七は、踐祚大嘗祭の朝儀の最古最精確の現存記録であるが、此中にはすでに翌年播種の種子に對する心遣ひ、即ち私たちの謂はうとする稻の産屋の式作法が些しも見えない。

(199)　凡そ拔穗は卜部、國郡司以下及び雜色人等を率ゐて田に臨んで之を拔く。――先づ初拔四束を取つて供御の飯に擬し、自餘は皆黒白二酒に擬す云々とあつて、少なくとも京都の齋場へ輸送する稻束の中には、種子に宛てらるべきものは認められて居ない。是は嘗と呼ばれた隣邦古代の祭が其通りであつて、始めから之に依られたものか。但しは又齋田卜定の制があつて、朝家親しく田を營みたまはぬ爲に、自然に是が重要視せられなくなつたものか。ともかくも古い形のまゝでは無かつたと思はれる。

　伊勢の所謂神嘗の御祭にも、拔穗の式は嚴重に行はれて居るが、此方は齋田が至近の地に在り、之を佃くる者も神人であつた。近年はともかくとしても、古く此田の物種は如何に管理して居たらうか。それが判ると參考になるのだが、今はまだそこまでは手が及ばない。御代始めの大新嘗の朝儀が確立してからでも、二百餘年の間には沿革は無かつたとは言はれず、又其痕跡かと思はれるものが、延喜式の中にはまだ存して居て、それも後には次第に消え去つて居る。其一つとして注意しなければならぬのは、稻實齋屋《いなのみのいみや》の施設であつた。悠紀主基の國郡が卜定せられると、八月には神祇官から官主一人卜部三人が差遣せられ、それが二人づゝ兩國に入つて行くが、其一人を稻實卜部、一人を禰宜卜部と號するとあつて、職掌は明示せられて居ない。それから齋郡に於て大祓が行はれた後、更に田と齋場と雜色人とを卜定するが、その役員の中には別に又｜稻實公《いなのみのきみ》一人がある。その役目は拔穗の田に出て稻を拔き乾し收める以外に、九月に其稻を京都に運んで行く時にも、木桶鬘を着けて引道する者はこの稻實公であつた。京都の齋場でも、内院に稻實屋一宇を造り、それにすべての御稻を收めたとあるが、是には稻實公は參與しないに反して、悠紀主基の田の側では、八神殿の外に稻實齋屋を造り、是をば特に齋屋と呼んだのみならず、別に稻實公等の屋といふものも設けられて居た。乃ち彼は亦忌籠りの役でもあつたと見られる。或は意を以て迎へるからかも知れぬが、稻實といふ語は、飯料や造酒料の外では無かつたらうかといふ氣がする。京に出て來たのも別の目的があるわけではなく、たゞ聖別せ(200)られた稻の穗の中から、翌年の種實を拜受して、郷里に還つて來る任務が、最初にはまだ課せられて居た名殘ではなかつたらうか。

　

　　　　　　　年俵と種俵

　

　現代の農村行事の中でも、稻の種子の永續だけにはまだ若干の慣例が殘り、幽かながら以前の信仰を傳へたものが多い。明治以來の品種淘汰の動きの中にすらも、なほ家の種子を重んずる感じが見られる。是も今居る年寄の一代限りかも知れないが、たとへ改良種でも我田で取入れたものを、次の年からの苗代には播かうとすみやうである。拔穗といふ言葉はもう使はぬ土地でも、豫て田に在るうちに丈夫な稻莖を見立てゝ置いて、それから種を取らうとする念處は、口に出さないでも皆持つて居る。さうして實際の必要量よりはいつも餘分に、別に取分けて大切に保存して置く習はしは、今も一般にまだ續いて居り、それが單なる豫備とか用心のためでなかつたことは、少し氣をつけて見れば今でも確め得られる。

　たとへば千葉縣南部の農村などで、燒米貰ひと稱して苗代種蒔きの日に、子供が袋を持つて家々の田を巡り、もらひ集めてあるいた燒米の如きも、たゞ彼等を悦ばしめる爲に調製せられるもので無かつた。お初穗は先づ家の神棚に上げる外に、必ず田の水口の簡略なる祭壇に、木の葉などを敷いて供へるのが常の例である。舊暦八朔のタノムの節供の如きも、今は晩稻のまだ穗を出さぬものが多くなつて、單に田を譽め又は田の神さん頼みますなどと、わめいて巡るだけの村もあるやうだが、もとは若稻のまだよく固まらぬ穗を摘んで、之を火で炒つて扁米《ひらいごめ》といふのをこしらへ神と祖靈に供へ、家の者も相伴した。この新穀の香は忘れ難いといふのは、乃ち辛苦が漸く實を結んだ、うれしさ忝けなさを語るものだつたらしい。日本の風土としては收穫の季節には少し早過ぎるのだが、なほ此月の始めを拔穗の(201)日として、次の年の耕種との連鎖を考へたのは、看過すべからざる稻作の史料であらう。九州の北部に見らるゝ霜月丑の日の田の神迎へ、又は四國の一隅に今も殘つて居る大黒揚げの式などは、ちやうど八月の拔穗とは正反對に、わざと數株の稻を田の中に刈殘して置いて、是だけは主人が鎌と棒荷繩を持つて、自分で刈つて擔うて家に迎へて來るものときまつて居た。さア大黒さんいにましよやと謂つたり、又はわざと大聲にやれ重い／＼と謂つたりした。はつきりと教へてくれた人はまだ無いが、疑ひ無く是が次の年の種子になり、又田の神祭の日の供饌相饗の料にもなつたものと、自分では想像して居る。

　俵といふ言葉の意味及び起りは、まだ是からの研究事項であるが、以前は束把によつて稻を算へ、又頴即ち穗首を揃へて、貯藏運搬の用としたものが、後々この特殊な包装の方式を普及させた元には、恐らく信仰の動機があつたらうと思ふ。米が新年の儀禮に參與した重要性は、都府上流の蓬莱と呼ばれた三方飾りから、土佐の朝山、京都附近の山棚、又は多くの農村の年桶・年の鉢までを一貫して、稻の實を、缺くべからざるものとして居たことからも窺はれるが、もと／＼農を營まぬ人々の間に始まつた正月の慣習なるが故に、其用途は次第に食饌の方に片より、籾が玄米となり又白米となり、?米《をこしごめ》とさへなつた上に、餅の大きな改良によつて、是が中心の地位を占める時代が來て、この民族の歴史にとつて、最も重要であつたニヒナメの信仰が、又一段と究め難くなつたのである。たゞ我々の學問にとつて、一つの幸ひといつてもよいのは、年俵を祭の中心とした正月の儀式が、今はまだ國中の片田舍に、飛び／＼に遺り傳はつて居る。前に信濃川流域のスヂ俵に就いて一言したやうに、是たゞ一筋の傳承の明かに尋ね求められる御蔭に、獨り農民の理論無き保守主義が、一通り解説し得られるのみで無く、更に進んでは上古以來の嚴重なる農作の朝儀、即ち祈年と新嘗との二つの祭の、漢字採用以前の關係が、再びはつきりとして來るやうに、私には考へられる。

　

(202)　　　　　　　アエノコトの要點

　

　單なる字義の上からの推定でも、祈年祭が國家の公の祭となつたのは、他の一方よりは早かつたかと思はれる。一つの願掛けを以て始まり、一つの御禮申しを以て終結するといふやうな一囘毎の交渉は、無始の昔からの信頼に根ざした、所謂固有宗教の教理とは合致せぬのみならず、又現に我々の體驗する所の多數無名の氏神社の通有性とも一致しない。殊に一部の稻實の聖別といふことは、來るべき生産の上から見れば、最も重要なる發端であり又開始であつて、御代始めの新嘗を特に莊重に執行はせられた最初の御趣旨も、亦爰に在つたかと思はれる。然るにトシを稻作の一期を劃する言葉だつたと知りつゝも、いはゆる正朔の統一にはなほ外國の前例を追ひ、輸入の暦法ばかりを唯一の知識とした爲に、中央では先づ年の境が農業と縁遠く、にひなめは唯前年のあと始末の如く、考へられるやうになつて來たが、もとは此方が大切な生活の出發點であり、二月の年乞ひは却つて其後に續くべき、第二の式であつたかも知れないのである。

　さうも想像せられる一つの根據は、愈々暦本が弘く國内に行渡り、之を讀解く者が邊土の村里にも出て來るやうになると、曾ては農家の新嘗に屬したかと思はるゝ幾つかの行事が、轉じて彼等の正月慣例の、容易に省略し難いものを構成して居る。我々の所謂民間暦なるものが、新たに中央に起つた正月制に支配せられ、妥協し服從し又後退し去つたのは、勿論さう古くからの變化ではあるまいが、もしさうだとするとその古來のものが、存外に久しい後までも、持續して居たことは感歎に値する。新らしい今年藁を以て念入りに俵を編み、それに次の苗代の種籾を入れて、年越にはそれを床の前、神棚の下、又は大黒柱の根もととか、臼柱の片脇の臼の上とかに積上げて、それに緑の松を立てて年神樣の來訪を迎へようとするなどは其一つであり、更にその俵の種籾を、必要量よりは何倍か多く、餘分は悉く(203)初田植の日の祭の供物、働く人々の晴の食料に宛てるべく、豫ねて用意して年神の祭壇を豐かにし、且つは祭に仕へる者の心を樂しくしようとしたなども、何れも新制の正月を採用するに際して、新たに思ひ構へた趣向であつたとは考へられない。是等の齋稻の相嘗の日はずつと遲くなり、從つて又初穗とは呼び難いやうだが、是は收穫の際から特に取分けて、常用のものとは別にしてあつた。さうして延喜式の本文の稻實齋屋も同じやうに、其管理には特別の心遣ひ、言葉には現はさぬ信仰を伴なうて居たのである。

　右の年俵又スヂ俵の慣習は、今は新年の作法に移されたものが多いが、稀には今もなほ霜月の祭の日に、同じ形のものを保存して居る例がある。能登の半島で近年注意せられたアエノコトといふ祭も其一つで、是は別に又報告する人がある筈だが、此方は收穫期に更に近い舊暦霜月初旬の行事であり、作法にも一段と新嘗と似たものがある。殊にうれしいことは村共同の行事とちがひ、個々の舊家で主人自らが祭主となつて、めい／＼の古い仕來りを守り續けて居た故に、比べ合せて見ると家毎のちがひが著しく、しかも其間に一貫した大切なる共通點のあることも、見落すことが出來ないのである。他日この問題をもつと詳しく、もつと弘い區域に亙つて觀察し記述する人がきつと出て來ることであらうが、特に自分などの重視して居る點は、第一には沐浴を必須の條件として居ることで、是は朝家の嘗の祭とも一致して居る。第二には種實と晴の日の食料とを聖別して、是を祭場の中心とし、人によつては稻が即ち神であるやうにも考へて居ることで、是が又多くの農村の正月行事、即ち種俵を以て初春の神の祭壇とする慣習ともよく似て居る。時代が舊生活を埋没せしむる力は至つて大きいが、しかも日本でならば、まだ／＼尋ね問ふ路は絶え切つては居ない。

　

(204)　　　　　　　齋忌の期間

　

　嘗といふ漢字の日本への採用が、本來どれ程までの深みを以て行はれたらうかといふことは、爰で愈々我々の問題となつて來る。年の循環を稻作の始め終りと、結びつけようとしたことは雙方同じでも、こちらは彼に比べて祭の期日が、又一月も遲くなつて居る。是がもし植物の自然の要求ならば何でもないが、晩稻が今のやうに普及してからでも、我邦の稻收穫期は先づ舊九月一ぱいで、十月は神無月、延喜の四時祭式を見ても、一社にも例祭の無い月である。この一箇月を超ゆる無爲の期間が、或は次の大事な祭を迎へるための、齋忌即ちゆまはりの期間ではなかつたか。精進潔齋といふ類の名目のみは物々しくて、しかもそれを僅かな職業者に代行せしめようとし、又は一般に其期日を短く、制約を外形に止めて、内部の效果を省みようとしなかつたことが、終には舊暦九月の物忌開始の日を重要にし、却つて中間の一箇月を、空虚に歸せしめたのではあるまいか。伊勢の神宮の神嘗の御祭は、常から奉仕の資格ある職員が備はつて居た故に、自然の收穫期に引續いて、早く新穀の祭を營むことが出來たものとも見られる。現在はすでに異なる解釋があちらでは安定して居るのかも知らぬが、少なくとも平田篤胤翁などの暦法相違説、即ち伊勢では建子の正月制を採用せられたので、嘗の期節が二月だけ早かつたといふ意見は、耕作の實際とも合はず、又は祭前齋忌の法則を省みないものである故に、我々は承認することが出來ない。

　最近に出雲の學者朝山皓氏は、かの地方の新嘗祭が元は舊暦十月であつたといふ説を公表して居るが、是も甚だ心もとない新見解の一つで、假にさういふ現實の例が何處かに有つたとしても、なほ容易にはそれを古來のものと認められない。祭の物忌は今日は一般に省略に傾き、有れども無きに近い宮社が多い中に、なほ稀々には其舊例を嚴守して、是を以て名を傳へて居るものが幾つかある。さうして出雲は其中の、特に重要なるものと見られて居るのに、そ(205)れではこの秋冬の間の長期のオイミは何の爲に、必ず守られて居たとするであらうか。

　以前は朝家が萬民に代つて、先づ初穗を聞しめすのが嘗の本義であつたことは、所謂案上案下の幣帛が中央の祭の日を以て發遣せられたのを見てもわかる。國土が擴大し地方の事情にも差異を生じたであらうが、少なくともこの信仰の統一を意識した者に限り、齋忌を省略して自然の欲求に遵依しようとした者は無かつたらうと思ふ。たゞ悲しいことには國内の交通が?々絶え、一方には儀典の改定がやゝ片よつて行はれ、物忌の方式が一般的で無くなつたのである。いはゆる稻實齋屋の所在が不明になり、致齋三日の間から既に殿中の淵醉が慣例として行はれた。五節舞姫は遠い起源が傳へられるが、丑の日寅の日の參入は新儀であり、全く前朝の御好みに始まることは、夙く三善清行の意見封事の中にも見えて居る。嘗と比定せられて居た日本の言葉が、僅かな世紀の間に音義ともに不明となり、終に漢音のまゝで呼ばれるに至つたのも其結果であつたと思はれるが、それにも拘らずなほ今日に至るまで國の邊陬に住む多くの農民の間に、幽かとは言へない程度に、古い世の慣行の一致を持傳へて居たといふことは、新たな學問の興隆のため、誠に有難い刺戟であつた。

　

　　　　　　　霜月粥と鹽

　

　此あとに日本の端々、殊に琉球の諸島に於て、どの程度までの稻の産屋の信仰が遺つて居るだらうかといふことゝ、次には秋の田の刈穗の菴、稻を久しく屋外に圍つて置いて、之を取入れる迄に如何なる物忌と、それを完成する爲の祭典とが行はれて居たかといふ點を、倉稻魂命即ちウガノミタマを中心として説いて見たいのだが、餘りにも紙と時とを費して堪へ難いので、殘りは次卷に譲ることを乞ふの他はない。本章にも述べ盡さなかつた箇條の多々あるのに心づくが、中でも必要だつたのは十一月下卯、即ち滿月の前二日から、下弦の後二日までの間に、年によつてちがふ(206)日を、かねて新嘗の日と定められてあつた理由である。十干十二支の組合せを以て年を算へ、又日を算へる方式が、我朝に採用せられたのはずつと後のことで、もとはたゞ期に臨んで、日の吉凶を卜定する習はしであつたのが、それでは準備にも差支がある故に、豫めその日をきめて置かうとなされたので、即ち卯といふ日のいつも吉日であることが、あの當時は少なくとも知られて居たのである。大きな神社の中にも、卯の日を例祭の日としたものが幾つかあるが、それよりも著しいのは田の神の祭、又は稻作に伴なふ色々の行事、及び正月の年の神の去來について、特に卯の日を重視する風は、現在もなほ到る處に殘つて居る。理由はまだ是から尋ねて行かなければならぬが、新嘗の日を卯の日と定められた動機にも、恐らくは關聯するものがあつたのである。卯を兎に當てた十二獣の説は、程無く我邦にも入つて來ては居るが、歌にしば／＼詠まれた「神まつる卯月」稻の種播くこの月の名だけは、今以てウサギの月といふやうな語感を帶びては居ない。或は初のウヒ、産のウムなどゝ繋がつた音であつて、嘗て一年の巡環の境目を、この月に認めた名殘かといふやうな、一つの想像説も成立つのである。

　明治六年の太陽暦施行の年には、新暦十一月の第二の卯の日が二十三日であつた。仍て此日を以て爾後毎年の新嘗祭日にしようといふ御沙汰書が殘つて居る。是はまことに注意すべき偶然であつて、以前も地方では十二支によつて日を定めずに、霜月二十三夜を以て稻の收穫に伴なふ物忌の祭を行ふ例が多く、現在もなほ稀ならず農村には殘つて居る。但し西南の一隅だけは前にも言ふ如く、此月始めの丑の日又は申の日に、やゝ早めに稻を家に入れる式をすませて居るやうだが、それから東へ進むと一般に、この二十三日を重視した痕跡が認められる。二十三夜の夜籠りの慣行は、次第に此夜の月の出を拜むといふ信仰に代つて來て、年に三度とか隔月にとかいふ例も多くなつたけれども、それでも中國地方の一部などで、ニジウソと呼んで居る日は舊十一月の二十三日であつた。今でも新穀の食物を以て、神を祭り申す習はしだけは跡付けられるが、大體に式の中心は十月の亥の子の日に引上げられた形である。

　之に對して此日を大師講といふ變つた名で呼んで居る地域は非常に弘く、少なくとも日本の領土の半ば以上に及ん(207)で居る。此名の起源には何か隱れたる一般の誤解がある。是を佛教の或一人の大師の記念事業の如く、説明する試みは夙く始まつて居るが、それには幾つかの差支へがあつた。第一にはこのオダイシにはたくさんの子があつたと傳へられ、又は片方の足がひどく惡いので、その足形を隱すために其晩は必ず跡隱しの雪が降るといふ言傳へもあつた。或は貧しい老女が、大師に供養する食物を盗みに出た。足が擂木だつたのは其老女の方で、大師はその罪の跡を匿すべく雪を降らせて下さつたやうに、語られて居る土地も多いが、それにもなほ隣の田の稻架から、僅かの稻穗を拔いて來て粥を煮て進ぜたといふ類の話を伴なうて居る。いはゆる霜月粥の根源は限りも無く遠く、是には必ずあの大昔の忌火飯の信仰が參加して居ると思ふが、現在各地の大師講としても例外で無く、粥を家々の神にさゝげると共に、人も亦當然にこの相饗に列することを悦びとして居た。久しく中絶に歸したと言はれる神今食の意義方式なども、或はもう一度この方面から、尋ねて行かれるのではないかと思ふのは、この所謂大師講の日の粥には、鹽を加へぬといふ慣例が處々に存し、之を説明しようとした傳説も幾つか生れて居る。新嘗と神今食との慣例には共通點が多く、ただ其食料の新穀であることが、特に前者を際立たせたのではないか。もしさうだとすれば齋田の地が隔絶して、初穗採取の行事が漸く朝儀の面から遠ざかつたのは惜しいことであつた。

　

　　　　　　　民間新嘗の殘留

　

　粥が必ずしも貧者の食物で無かつたことは、幾つもの證據が擧げ得られる。正月は粥始めと稱して、それを攝取する日が一つの節であつた。三山の行人などはオヤワラと名づけて、今でも之を精進屋の食事にして居る。新築葺替への日の屋移りの粥にも例はあるが、東北では所謂大師講の粥に、錢とか團子とかのかはつたものを入れて置いて、それに盛り當つた者の來年の幸運を占なはしめる土地が多い。閑かな村里の生活をする少年たちには、食物の變化は大(208)きな刺戟であつた。やがて祭だとか、是から忌に入るとかいふことを、心に銘記させるには是がたしかな方法の一つだつた。殊に小豆などは味よりも養ひよりも、始めはあの色相から、作物の中に加へられたかと考へられる。或は今一歩を進めて、米の飯や粥の色を花やかにして、食べる人の心を改まらしめる爲に、用ゐられ始めたかとさへ想像せられる。延喜式の中などにも可なりの量、數多くの機會に用度として列記せられ、一々はまだ當つて見ぬが、目途はすべて式典の爲であり、且つ小豆だけを、單獨に指定せられることは無かつたやうに思ふ。「小豆を食べる日」といふのを私は今集録して居る。たつた一日の誕生とか入學とかならば、めでたい祝ひ事の日にきまつて居るが、昔の世の「あらゆみまゆみ」のやうに、或期間に亙つた場合ならば、恐らくは連日といふわけには行かず、その後先の是から生活の態度が變るべき日を、氣づくといふ以上に銘記せしめる爲に、斯んな特殊な穀物が採用せられたので、それが又地方によつては葬式におこはを作るとか、法事にあんころ餅を配るとか言つて、人に不審を抱かせる疑問の答へにもなるのであらう。亞細亞東部の米作地帶に、小豆を栽培する種族が數多く列擧せられるのは、單なる偶然の流布?態では無いのではないか。今ある赤米の起源と展開とが、將來なほ少しく研究せられて行くならば、この二種の穀物の相關と聯絡とが、次第に明かになることゝ私は信ずる。

　さてこの鹽無しの小豆粥を、缺くべからざる食品とした霜月の二十三日は、果して我邦の最重要なる齋忌期間の、始めか終りかといふことが一つの問題になる。近世の農村では、この日へ續いて來る同系の行事が少なく、一方には北緯二十九度以北の七島正月とか、關東南部地方のミカリの祭などが後になつて居る故に、是を又一つの別の行事の開始のやうに、想定する人も無いとは言はれぬが、私たちから見ると、今まで列擧した諸點の一致は、なほ之を民間新嘗の簡素なる一つの型として、認めしむるに足るかと思ふ。新らしい時世の生活事情の變化、殊に課税や交易の必要によつて、長い物忌の精神が保ち切れなくなると、それが前後の一端に偏して行くのは自然であり、且つ收穫祭には特に後齋を際立たせねばならぬ事情もあつた。素朴な語で言ふならば、こゝに人間生殖の必要なる機會があつたの(209)である。

　其上になほ一つ、我々日本人の民間暦の進歩、即ち輸入暦法の文字知識以前に、自然の體驗によつて少しづゝ、覺え貯へて居た法則があつた。峯の雪山の櫻の咲き移らふ姿のみといはず、日影がこゝまで屆けばそれからは又動き轉じて、少しづゝ日は永く且つ暖くなつて行くことは、毎年の記憶が話題となつて、しまひには動かない豫定も生れて來る。どこ迄精密にし得るかは人にもより、又それ程の要求も無かつたらうが、ともかくも霜月二十三夜の前後、月の半輪が曉の空に、傾く頃が冬至であり、又恐らくは西洋のクリスマスでもあつた。こゝを一年の巡環の一區切りとして次のうれしい機會の爲に備へようとする考へは、大地にいたづく人々にとつては、殊に忘れ難きものであつたと思ふ。指を折つて干支を算へる技術を學ばぬ以前から、すでに我々は穀母の身ごもる日を豫知し、又それを上もなく神聖なる季節なりと、感ずることを得たのであつた。是が私などの今日まだついて行かうとして居る一つの假定である。

　

(210)　　　　　知りたいと思ふ事二三

　

　私の七十七歳の記念に、何か悦びさうなことをといふ趣意を以て、この頃自分の興味を寄せてゐる問題ばかりを集めて、一囘の特集號を出さうといふ計畫があるといふ。もうそれだけでも私は確かに悦んでゐるのだが、同じことならば些しでも成績を擧げたい。問題は大抵諸君に知られてゐるだらうが、その中でも熱心の差等がある。近年全く本ものゝ旅が出來なくなつた爲に、行つて聽けば何でも無いやうなことを、知らずにいゝ加減な想像ですませようとしてゐる問題が幾つか有る。かういふのは多分各地の同志の援助によつて、どちらとも一應は形がつくであらう。近況の報告かたがた、目下大よそ如何なる方向に、老人の知識慾が傾き又は伸びてゐるのかを列擧して見ることは、これからの諸君の話題を豐富にし、學問の新展開を促す上にも有效であらう。それもまた自分のこの上無く悦ぶことである。

　

　　　　　　　一　寄物のこと

　

　海は必然に日本の民俗學の大切な課題となるべきだが、その中にはまだこの島國で無いと、探求し得られないものの若干が取殘されてゐる。毎年大よそ季節を定めて、諸處の濱邊に打寄せられ、大小さま／”＼の影響を土地人の生活に與へて來たものは、決して魚類や海獣の殘骸だけでは無かつたのだが、是が文獻記録から完全に近く締出されてゐ(211)たのみか、數千年の過去にわたつて、ほゞ一貫した繰返しであることすら考へて見ようとした學徒は、他の部面にも少なかつた。私は今まで主として椰子の實の壺や盃などの方から入つて見ようとしたのだが、古くは「玉藻苅るあま乙女ども」と詠ぜられたその海の玉藻の用途、「それもてこ」と歌はれた色々の貝や石、更に進んでは寄木寄石の汰上《ゆりあ》げの森のやうに、知らぬ洋中から運ばれた古來の信仰など、省みられずに置かれたものがまだ幾らもあることを感じ始めてゐるのみか、漁業の根源にもこの方面からもう一度觀察すべき事柄が多かりさうな氣がする。かういふ傳承の所在は手近な處には無いにきまつてゐる。新たな採訪を思ひ立つ爲にも、やはり今までの印象の最も消え難いものをたとへ切れ／”＼にでも先づ排列して見るのがよいのでは無いかと思ふ。

　

　　　　　　　二　海豚參詣のこと

　

　これは三十年近くも前から、心に掛けてゐる問題だが、旅行を止めてしまつて、急に新らしい材料が集まつて來なくなり、しかも關心はまだ中々消え薄れない。この大きな動物の奇異なる群行動が、海に生を營む人々に注意せられ、又深い印象を與へたことは自然だが、その感激なり理解なりの、口碑や技藝の中に傳はつたものに、偶然とは思はれない東西の一致がある。それを日本の側において、出來るだけ私は拾ひ集めようとしてゐたのである。或は他の色々の魚群などにもあるかもしれぬが、毎年時を定めて廻遊して來るのを、海に臨んだ著名なる靈地に、參拜するものとする解説は、可なり弘く分布してゐる。これも寄物の幾つかの信仰のやうに、海の彼方との心の行通ひが、もとは常識であつた名殘では無いかどうか。出來るならば地圖の上にその分布を痕づけ、且つその言傳への種々相を分類して見たい。新たに捜しまはるといふことは出來ぬだらうが、現在偶然に聽いて知つてをられることを、成るべく數多く合せて見ることが私の願ひである。

　

(212)　　　　　　　三　子安神と子安貝のこと

　

　子安は近世は主として地藏や觀世音の靈驗と結合してゐるが、さういふ中でもなほ古い頃の民族信仰の名殘が見つけ出されるといふことは、四十年も前に一度書いて見たことがあり、又近年も子安講といふ團體の構成から推究しようと試みたことがある。可なり枝葉の多い問題ではあるが、さし當り考へて見ようとするのは、これとタカラガヒの別名なる子安貝とは、どちらが早く日本に生れたかといふことである。神の名の方が早く起り、一方はそれに引かれて新たにこの別名を得たとすれば問題はやゝ小さい。もしその反對だときまると、或は非常に古いところまで、人種の移動を尋ねて行くことになるかも知れぬのである。子安といふ單語のこしらへ方は異例であり、しかもこの語の存在は神も貝も、共に山城の京の初期にまで溯り得られる。さうして寶貝といふ本名の方は、却つて中華からの引繼ぎかもしれない。大陸の寶貝はその起原が最も遠く、しかも少なくとも中原一帶の文化圏に對しては、日本島群の南半分が、最も近く又便利な、殆と唯一の供給地といつてもよかつたことが、近頃少しづゝ心づかれて來たのである。しかもこの美しい貝を寶とし、貨幣とする風俗はこちらには全く無くて、たゞ限られたる目的の爲に、呪物としてこれを若い婦女たちに佩用せしめる習はしのみがあつたとすれば、愈々この物の輸送の方向が明かになるのだが、果して考古學の知識によつて支持せられるかどうか。それが決定する迄の間、我々としては先づ子安信仰の古い姿を、探り尋ねて置きたい。幸ひにしてこれは人情の古今に一貫した願望である故に、今でもまだ眼に立たぬ人々の言葉や行ひの中から久しく埋れてゐたものを發見し得る望みはある。今直ちにといふわけにも行くまいが、是からは子安といふ名を栞にして、もう少しこの民間傳承を精査して見たい。

　時間が無くなつた爲に是からは簡單に問題だけを掲げて置くことにする。御願ひをしたいのは、原稿を半紙形の紙(213)に書いてもらふことで、それは製本して私の手に保存して置き、雜誌に載せる分は誰かの補助を受けて、別に自分が編集することにしたい爲である。さうして出來るならば、なほ後々からの追加補修を送られんことを希望する。

　

　　　　　　　四　みろく船のこと

　

　彌勒の出現を海から迎へるといふ信仰が、遠く隔てた南北の二地にある。一方は常陸の鹿島を中心にした鹿島踊の祭歌、今一つは南方の八重山群島の四つ以上の島で、この方は明かにニロー神、即ちニライの島から渡つて來たまふ神を誤つて、さういふ風に解するやうになつたものと思ふ。鹿島の彌勒ももとはそれでなかつたかどうかは、この中間の他の地方に、是に類する信仰があるか否かによつて決する。中世の文學に幾たびか取上げられた美々良久の島、亡くなつた人に逢ふことが出來るといふ言ひ傳へのあるその島は、果して遣唐使が船を寄せたといふ肥前五島の三井樂の崎と同じであつたか、又は何處かの海上の彌勒の淨土を、かういふ風に語る人があつたものか。それを今私は考へて見ようとしてゐる。彌勒に對する古い信仰の名殘は、思ひの外そちこちに分布してゐる。海に接した他の地方にも、何かさういふ類の話は無いかどうか。もしあつたならば斷片でも知らせてもらひたい。

　

　　　　　　　五　鼠の島のこと

　

　鼠が海上を渡つて隣の島から入つて來たといふ話は、古今著聞集の安貞年間の記事を始めに、近世になつても、實際の經驗が五つ六つも傳はつてゐるが、私の知るものは北邊の一角と、中國西部の例に偏してゐる。是がどういふ事を意味するかは既に一文を草してこれを語つたのだがまだ發表せられてゐない。何か鼠の島に關する言ひ傳へは他の(214)地方にも無いかどうか。私はもつと多くを知りたい。

　

　　　　　　　六　黒モジといふ木のこと

　

　これは二三の雜誌にもかゝげて報告を求めてゐる。さし當り私の知りたいのは、この木の用途及び地方名、又はその由來についての説明である。トリシバといふのが京都周邊の異名であつて、これが意外にも東北の弘い區域に分布してゐる。中國は一般にフクギといふやうである。クロモジのモジは元はモンジヤといつたやうで、しかもその語原はわからない。古い時代の榊には、「香をかぐはしみ」といふ歌もあつて、或は樟科の木をさう謂つたものがあるのかとも思ふ。クロモジはこの科に屬するものゝ中で、最も北の方まで分布し、且つ祭の木としてよく用ゐられてゐるからである。

　

　　　　　　　七　小豆を食べる日のこと

　

　この事は前に「民間傳承」にも一度書いてゐる。私はこの赤い色の食物が、わざと用ゐられる場合を數多く集めて見て、それが物忌と常の日との境目を明かにする爲の食物だつたことが、證明し得られることを期してゐる。それをはつきりとした後に、小豆を栽培する他の民族の生活を比較して見たいからである。

　

(215)　　　　　　　八　霜月祭のこと

　

　稻の傳來は、私は國史の第一章を爲すべきものと思つてゐる。品種と系統の研究も必要だが、更にそれに伴なふ有形無形の技術、殊に信仰の類似し又變化する理法も考へて見たい。この事は既に一端を説きかけてゐるが、なほこの以上に稻米收穫の家々の祭の、今は既に衰へ幽かになつてゐるものを、傳承の側から次々と考へて行きたいのだが、問題があまりに廣汎なので、よほど多くの同志の協力を必要とする次第である。

　この以外にもまだ幾つかあるやうだが、あまり食慾だから一部分は遠慮することにした。

　

(217)　　　海南小記

　

(219)　　　　　自序

　

　ジュネヴの冬は寂しかつた。岡の竝木の散り盡す頃から、霧とも雲の屑ともわからぬものが、明けても暮れても空を蔽ひ、時としては園の梢を隱した。月夜などは忘れてしまふやうであつた。木枯も時雨も此國には無かつたが、四五日に一度づゝ、※［ヰに濁点］ーズと云ふしめつた風が湖水を越えて西北から吹いて來て、その度毎に冬を深くした。寒さの頂上と云ふ頃には、或朝は木花が咲く。其時ばかりは霧がすこし薄れて山の眞白な雪が見え、日影がさして鳥の姿などが目に映じた。

　遠い東南の虹鮮かなる海の島と、島で行逢うた色々の人と、その折の僅かな旅の日記とを、それからそれへと思ひ出すのは、斯ういふ日の午後の散歩の時であつた。自分以外にたゞ一人だけ、沖繩と云ふ島を知つて居る人が、同じこの都のしかも同じ丘に、わづか五六町を隔てゝ住んで居るのだが、それを知りながらも訪ねて話をすることの出來ぬのが、ことに堪へがたい旅人の無聊であつた。

　日本では誰知らぬ者も無いチェンバレン教授である。如何した心持からかジュネヴに來て、人に忘れられつゝ靜かに老いんとして居る。家はルッソオ舊居の近くに在つて番地までも自分は知つて居た。先生はラフカディオ・ハアンよりもたしか三つ四つ若かつたから、まだ七十には大分間がある筈だ。ひどく眼が惡くて、其眼は腦から來て居ると云ふことであつた。強ひて面會を求める手紙を出した者もあつたが、病氣に障るからと云ふ代筆の斷りが來たさうだ。秋の初めのまだ暖かい頃までは、それでもジャルダン・アングレェの樹蔭や水の滸を、看護人に伴はれて逍遙して居られるのを、見かけたと云ふ人も幾人かあつた。そんなら自分もよそながら一度はと思つて、折々靜かな午後などに往つて見たこともあつたが、終に目的を達せずして冬になつてしまつた。

(220)　ジャン・ロミウと云ふ日本ずきの青年工學士は、サン・ピエル大寺の横手の古本屋で、先生舊藏の若干の和書を買入れた。之を聞いて自分たちも往つて見たが、もう大部分は賣れてしまつて、一册の日本口語文典だけが殘つて居た。有名な先生の自著であつて、しかも澤山の書入が有るのは、疑も無く覆刻の準備であつた。同行の藤井悌君が心を動かして、値段に構はず購つて還つたから、此本ばかりは久しぶりに、再び日本の日の光を見たのである。

　日本と此學者との因縁は竝々でなかつた。日本に生れて一生を勉強したものにも、チェンバレン氏だけの蒐集と述作とを、遺し得た者は多くなかつた。我々が今頃少しづゝ、必要を唱へて居る民俗誌の研究に、彼は遠國から來て三十年前に手を着けた。アイヌ民族の言語に就いても、大なる感謝は彼に屬する。殊に琉球に至つては、母方の祖父船長ベシル・ホールの曾て訪ひ寄つて、なつかしい見聞録を世に留めた島である。其孫に取つては家の學であり、由緒ある研究でもあつた。定めて人知れぬ愛着を以て、此學問の成長を希うて居たことゝ思ふのに、あの後先生の跡を踏んで、之を敷衍しようとした者が無いばかりか、不本意なる若干の小誤謬までが、今に其儘にして棄てゝあつて、本だけが所謂珍本と爲つて、讀みもせぬ人の本箱の底に追々と隱れて行くのである。先生の今の境遇を知る者には、是は言ひやうも無い寂しさであつた。

　運命は此の如く、時としては人間の書齋までを支配する。古代の海洋民族が大移動を記念すべき、有形無形の不思議な遺物、彼等に拮抗して今尚聊かも衰へざる自然力、兩者の妥協を意味する文明の變化、就中血と言語との止む能はざる混淆が、著しい影響を與へた部曲組織宗教觀念、乃至は藝術樣式の島々の特色が、從來曾て見ない強烈なる興味を、諸國の學界に喚び起して、次第に大規模の討査と比較研究とを開始するやうになつたのは、恰かもこの疲れたる老學者が既に其生涯の學業を切上げた際であつた。是から大いに興らうとする新機運に向つては、彼は只一箇有益なる資料たるに止まり、其計畫と希望とには、もう參加することが出來ないのである。況(221)やこの北太平洋の一角に於て、漸く今始まつたばかりの若々しい運動、即ち島に生れた者自らが、島と島との生活の連鎖を、昔に溯つて考へて見ようとする學問の如きは、假令それが先生の深く愛した日本であり、且つ先生の感化が暗々裡に、働いて居ることは確かであつても、其悦びを我々と分つことが、最早出來ない迄に弱つてしまはれた。以前先生が名を聞きながら、手を着ける機會を得なかつた「おもろ御草紙」は、伊波普猷君などの辛苦に由つて今、現代に蘇らうとしで居る。是がたゞ沖繩一島の寶として羨むべきもので無く、此の如き信仰歸依、此の如き情緒を、島に家する者の祖先の心裡に、漲り溢れしむるに至つた最初の力は、濁り血を共にする大八洲の國々のみならず、同じ大海の潮に育まれて、北と南とに吹分けられた、遠い沖の小島の荒えびすの胸にも、なほ一樣に感じられて居たのでは無いか。之を推究してもらひたいのが引續いての我々の願であるが、久しい孤立に馴らされて小さな陸地を國と名づけ、渚から外をよそ〔二字傍点〕と考へた人々の、離れ／”＼の生涯の勞作が、果していつの世になつたら融け合うて一箇の完成と爲るであらうか。私は斯ういふ外國の學者の老境を眺めるにつけても、散漫なる今までのディレッタンティズムの、罪深さを感ぜざるを得なかつたのである。

　海南小記の如きは、至つて小さな咏歎の記録に過ぎない。もし其中に少しの學問があるとすれば、それは幸ひにして世を同じうする島々の篤學者の、暗示と感化とに出でたものばかりである。南島研究の新しい機運が、一箇旅人の筆を役して表現したものといふ迄である。唯自分は旅人であつた故に、常に一箇の島の立場からは、この群島の生活を觀なかつた。僅かの世紀の間に作り上げた歴史的差別を標準とはすること無く、南日本の大小遠近の島々に、普遍して居る生活の理法を尋ねて見ようとした。さうして又將來の優れた學者たちが、必ずこの心持を以て、やがて人間の無用なる闘諍を悔い歎き、必ずこの道を歩んで、次第に人種半等の光明世界に、入らんとするだらうと信じて居る。然らば又事業は微小なりと雖、やがて咲き香ふべきものゝ蕾である。歌ひ舞ふべきものゝ卵である。乃ち新しい民俗學の南無菩提の爲に、謹んで此書を以て日本の久しい友、ベシル・ホール・チ(222)ェンバレン先生の、生御魂に供養し奉る。

　

(223)　　　　　海南小記

　

　　　　　　　一　からいも地帶

　

　尋常五學年の小學讀本の中に、

　　甘藷ノ名ハ地方ニヨリテ異ナリ。関東ニテハ薩摩芋トイヒ、薩摩ニテハ琉球芋トイヒ、琉球ニテハ唐芋トイフ。名稱ノカク異ルヲ以テモ、此芋ノ次第ニ西方ヨリ傳來セシコトヲ知ルべシ。

とあるのは、ほんの些しばかりだが間違つて居る。琉球では甘藷を唐芋と謂ふ者は無く、一般に之をンムと呼んで居る。ンムは即ち我々のイモと同じ語である。カライモ又はタウイモと云ふ名は、弘く南九州一帶に行はれて居る。從つて薩摩でも之を琉球芋と呼ぶことはない。琉球芋と謂つたのは九州の北の一角から中國上方に亙る大區域であつたが、後漸く標準語のサツマイモに改まつて行かうとして居るのである。

　此類の誤は、子供たちにもよく判ることだから、單に其地方だけの爲にならば、之を訂正する必要は無いかも知れぬ。只氣になるのは之で以て、甘藷は南方よりと謂はずに、西方より傳來したとする推理法である。何となれば薩摩も琉球も、日本の南部である上に、甘藷は更に其南方の、南支那から輸入して来たことが確かだからである。

　以前奧州などの田舍の料理には、所謂薩摩芋は椎茸や蓮根と、同等以上の待遇を受けたものだ。それが運送が手輕(224)に成つたばかりか、氣仙あたりの島や半島にまで、とう／＼之を栽培するやうに爲つた結果、大分近頃は平凡化しようとして居る。之に反して關東の大都會には、八里半の名聲遠く轟き、青木昆陽の墓の前に、燒芋屋の組合が感謝の祭を營むやうな時代が來た。遠州御前崎附近は又事情が別で、薯種を輸入した大澤權右衛門の記念碑は、薯切乾生産業者等が、主として其建設の爲に奔走したやうである。同じ薩摩芋地帶の僅か數十年の歴史にも、よく見ると是だけの變化が有る。況や當初此物を沖繩に齎した野國總管、夫をヤマトに招き入れた薩州｜兒水《ちごがみづ》の繼川利右衛門、之を中國へ傳へた石見の薯代官井戸平左衛門等の、二百年前の心持では、果して今現に生じて居る社會上の效果の、どれだけの部分迄を豫期して居たものであつたか。到底我々「おさつ」階級に屬する者の、完全に理解し得る所では無いやうに思はれる。

　自分は考へる。少くとも是だけは意外の效果では無かつたかと。甘薯考其他の宣傳書を見ると、主として不作の年の百姓飯米を補ひ、或は島の流人等が飢を救ふのを以て、藷の恩澤の至極と認めて居た樣である。それが今日では隨分宏大な地域に亙つて、凶年でも無い年に流人でも無い人々が、必ず作り必ず食ふ農作物とは成つて居るのである。斯の如き生活上の變化は、正しく大事業である。しかも二百何十年の歳月より他に、誰が企てゝ之を爲し遂げたと、云ふ人も別に無かつたのである。

　カライモ地帶を旅行して見ると、又新たに國の運命と云ふやうなものを考へさせられる。海近く日の暖かい唐藷畠の一部分は、曾ては疑ひもなく浦人の粟生《あはふ》豆生《まめふ》であつた。こんな雜穀類の調製が面倒で、一人を養ふ爲の面積が多く入用なものより、甘いだけでも唐藷の方が好ましい。其上に世話も入費も概して少なく、凶作の患もずつと減じ得る。沖へ出て行く舟の辨當には、片手で食へるから便利だと云つた婦人もある。かう云ふ考が元になつて、日本人なれども永年の箸と茶碗に分れ、薯の食事を常とする樣になつたのである。しかも所謂港田の遠く拓かれ、清水豐かに之を灌ぐやうな濱方に於て、必ずしも急にこの薯作りの生活に移らなかつたのは、何と謂つても米に勝る食物は無いから(225)である。水に乏しい岬や島の蔭で、以前は多分に人を住ましむる望も無かつた畠場が、此唐芋の輸入に由つて、初めて或意味に於ける安樂郷と爲り、瞬くうちに今日の如き人口密集を見るに至つたのである。甘藷先生と其先進とがもし出なかつたら、此等の海岸の岡は今尚萱立雜木立のまゝで、しかも我々は夙に國内に溢れて居たであらう。勿論大いに苦悶しつゝも、既によほどの人數を他國に出して居り、この所謂民族主義の時世に出くはして、今更移民問題に行詰まるやうなこともなかつたであらう。實際この小さな島國の山國に、五千九百萬人を盛り得たのは、一半は即ちカライモの奇蹟である。或は激語してカライモの災ひと謂つた人さへもあるのである。

　藷から米への代用食奨勵は、成績を擧げにくい事情が少しばかりある。なあに魚類さへ澤山捕つて食へば、榮養には心配が無いと誰かは謂つた。或は又此頃の景氣なら、米を買つて食へぬことも無いが、それよりも薯で我慢して居つて、酒を澤山飲んだ方が幸福だと、謂つて居る人も有るさうだ。さうかも知れぬが其我慢だけは女房や子供にさせ、其酒は亭主ばかりが飲むのである。此の如き分配上の慣例は、黙つて見ては居られぬやうな氣がする。

　豐後では甘藷をトイモ又はタウイモと謂ふ。しかも此邊は既に自分の謂ふ唐芋地帶に屬して居る。日隅薩の海添には、水に乏しい磯山の蔭にも、薯に由つて多くの小樂天地が出來て居る。海南奄美の列島に渡れば、薯をトンと呼ぶ人々と、ハヌス又はハンスと謂ふ人たちとが、相接して住んで居り、其南は即ち沖繩のンム地帶である。更に南すると、之をアッコン又はウンティンなどと稱する先島の諸島があるが、生活の條件は諸島互に頗る相似て居る。南北三百何十里、中を隔てゝ廣漠の海がある。薯を此間に傳播し遂げたのは、果して皆偉人の力であらうか。或は又人間の安く活きる必要が、一部分は之を手傳つて斯んな作物を流行させて居るので無いか。自分は今でもまだ之を疑つて居る。

　

(226)　　　　　　　二　穗門の二夜

　

　近いうちに土佐の沖へ鮪《しび》釣りに出る支度に、臼杵の町へ買物に出て來た機動船に便乘して、風の寒い午後に保土《ほと》の島へは渡つた。島の郵便局長の家で、此頃買求めた船であつて、前からの機關手の若い朝鮮人がまだ乘つて居る。他の乘組は何れも島の者で、自分などには解らぬくらゐの内地語で、何かこの故參の青年に對して小言を謂つて居る。しかし私に向つては極度に懇切なる人々であつた。又も來られまい、ゆつくり遊んで御出でるがよい。明日は保土の村の夜乞です。小さな神樣が御降りになるので、などと謂つてくれる。夜乞とは祭の夜宮のことである。祭禮のことを神の御降りと、まだ此島では謂つて居るのである。

　斯んなうれしい島にならば、海が荒れて閉込められても本望だと、只ちよつと考へて見たばかりで、もう早其通りに爲つて居た。船が着いて見ると僅な防波堤の蔭には、早色々の小舟が避難して居る。正面の口からは、波がだぶり／＼と入つて來る。地方《ぢかた》の山は一圓の潮曇りであつた。あくる朝も裾を飜へす程の風が西から吹いて居た。對岸の四浦《ようら》の鼻は手の屆くほど近いが、此間はいつも潮が惡いのでよく船が覆へる。とても今日は渡されぬと謂ふから、仕方なしに今一夜とまることにして、それから何遍も村の中をあるいた。全體に平地はちつとも無い島である。見上げるやうな傾斜地に、同じ樣な家が境も不分明に建て續けてある。二階と下と別々に、入口を路へ附けて、二戸三戸が一棟の中に住んで居る。肥前の鳥栖《とす》から來た藥屋がこんな事を謂つた。よほど氣を付けぬと、同じ家へ二度入つて笑はれると。家の方でも今一段と不必要な訪問者に對しては、おまへは、先程も來たでは無いかと謂ふと、本當にさうかと思つて慌てゝ還つて行くと村の者も謂つた。

　家は近年に爲つて大分増加したものらしい。今でも行當るほど子供や女の數が多いのに、もう半月もすると壹岐五(227)島の方から、三百何十人の男たちが、漁を終つて戻つて來る。其時だけは眞に寢る所も無いさうである。だから半分は人の家に往つて寢る。それを又樂みにして待ち待たれる若い者が多い。役場の當直室などもやはり借りられる。借ると謂ふよりは單に蒲團を持つて來て休むので、つまり島一つが大家内の一家のやうなものだ。だから其間に挾まつた旅の者には、居心地は決してよくない。

　水は四百足らずの竈から、殆と唯一つの寺の後の泉を汲んで居る。誠に感謝に價する清水であつて、爰でもやはり御大師樣水と名づけ、而も其由來はもう説明し得ぬやうに爲つて居る。此靈泉の一つの缺點は、水量が人口に比例して増して來ぬことである。今日の風が雨に爲らぬやうだと、二三日の中には番を附けて、順番で汲ませねばならぬと謂つて居た。尤も風呂の水だけは別にあるが、幾つかの錢湯では祭の日のせゐか、いつも裸の人の方が湯の量よりも多い。處々の井戸では洗濯をしながら、女たちが水の湧くのを待つて居る。かと思ふほど水が少ない。

　時々は船に桶を乘せて、四浦へ汲みに行くさうである。燃料に至つては殆と全部を外から持つて來ねばならぬ。周一里餘の島は、見た所九分通り畠で、タウイモばかり作るかと思ふ程だが、夫でもまだ足らぬと謂ふ。野菜は自分たちと相乘りして、昨日も澤山に輸入せられた。島には何としても作る餘地が無いのである。段々畑の頂上には、それでも泉を養ふ少しの林が有る。其左手の小さな森は以前の物見所で、登つて見ると中には島人の墓がある。樹の間から伊豫の山が見え、又水之子の燈臺が見える。島の東側もやはり皆畑で、裾の方には四反ほど水田もあり、小舟で島をまはつて之を耕しに行く。之に灌漑する池もあり、折々はそれでも鴨が來て遊ぶ、又海岸の岩の蔭には河童も居る。友達の聲をして寺の和尚を夜中に喚び起し、朝の勤めの木魚を叩かせたと云ふ話もある。狸も何處から渡つたか夫婦二匹だけは居た。其一匹が殺されて、他の一つが大いに荒れたこともあつた。

　こんな話を聞きあるいて、夕方に宿の郵便局に歸つて見ると、あの朝鮮人は青い仕事着のまゝで、にこ／＼と藁仕事をして居る。宵祭の馳走がまだ調はぬうちから、三四人の老女たちがもう遊びに來て居る。賀茂樣の森には燈明が(228)ともつて、太鼓と石段の下駄の音とが聞える。ごろりと横になると、空には雲があるいて居る。終日白く騷いだ海面が、誰にも顧みられずに暮れてしまふ。其うちに下からは、婆さんたちの歌の聲が聞えて來る。伊勢踊と云ふさうだが、間の延びた伊呂波歌で、弘法大師の事を作つたものらしい。大層調子が揃ふなと思つて覗いて見ると、團扇を叩きながら婆が二人踊つて居た。それから又大に笑ひ、今度は別の歌である。若い後家なら何とかだと歌つて居る。あれは私が可愛さうだから、元氣を附けてやると言つて歌ふのですと言ひながら、室を片付けに來た未亡人は、改めて又眼を拭つて居る。斯う云ふ生活も保土の島には有つたのだ。

　次の朝は天氣であつたから、思ひ切つて小舟を下させた。すると此婦人を初め二三の島の人が、今日の祭の案内に、四浦の村々へ餅を持つて一緒に乘つて行く。出て見ると浪はまだ高いが、親類の客や土産の大根葱などを乘せて、もう戻つて來る島の船もある。自分の船にも夥しい重箱の包が有る。いつの間にこんなに搗いたかと思ふほどの餅である。今日の船は餅船だ。あんた方は餅に便船したやうなもんだと笑ひながら、島の人たちは別れて浦々に上陸し、船には自分等ばかりが淋しく殘つた。

　

　　　　　　　三　海ゆかば

　

　海で死んだ人の話を幾つも聞いた。越知浦では霧の深い冬の或日の朝、村の某の手繰網の小舟が、からつぽで波に漂うて居るのを見付け、それから其附近で倅の二十三になる青年の、厚い綿子を着込んだ亡骸を引揚げた。こ此あけがたに親子で出た筈と、熱心に捜し廻ると三日目に漸く、父親の方も淺ましい姿に爲つて出て來た。常からどうも頑丈とは謂はれぬ息子であつた。多分は櫓の綱でも切れて水に墜ちたのを、後先も考へずに助けに飛込んだものだらうと、今に同情の噂の種に爲つて居る。

(229)　船の扱ひは小さいうちから、親が教へる習はしである爲に、折々此樣な情無い不幸がある。保土の島でも二三年前に、他の者より些し先に五島を出た、親子三人の船が戻つて來なかつた。別にひどい大荒れでは無かつたけれども、船が如何にも弱々しい古船であつた。仲間の人たちは蟲が知らせたか、之を氣遣はしがつて色々と忠告をした。もう僅か待つて皆と一緒に引上げようぢや無いか。何も一日を爭うて還るにも及ぶまいと謂つたが、どうしたものか仕事の都合が有ると、何でも構はずに出帆してしまつた。さうして永遠に何處へか往つてしまつたのである。此附近の村役場には大抵一件か二件、毎年の徴兵事務に際して所在不明者の煩はしい手續を繰返さねばならぬ者がある。それが皆此類の、死んだに相違ない若者ばかりである。身寄や親しかつた人々には、死んだ者よりも猶一層の苦痛を與へる。明かに死んだ者には年忌が有る。假令其時は胸が裂ける程に悲しみ慕うても、月日が立つうちには間が遠くなり、年々の祭や供養が自然の垣根を作つてくれる。之に反してどうして居るか分らぬ人々の幻の始末は、司法や行政の法規よりも更に面倒である。其を考へての思遣りでもあるまいが、漁師たちの方でも行方不明になることを、死ぬより以上の不幸と感じて居るらしい。船の綱は大切な物だ。是さへ有れば死んでも分らなくなるやうなことは無いと、自分を載せた船方なども謂つて居た。さうして又斯んな話もして居つた。

　今からちやうど二年前に、臼杵の近くに在るセメント會社の工場へ、粘土を運んで來る伊豫の八幡濱の船が、豐後水道で難風に遭つて、六人の乘組は悉く死に、船と共に大濱村の浦に漂着した。其人たちは皆船の綱で、しつかりと身體を縛り附けて死んで居たと謂ふ。郡役所の吉野君は之を臨檢に往つたから、よく見て知つて居る。今思つても涙が出ると謂つて居た。よく／＼働いたものと見えて、六人ながら手掌の皮が剥けて居た。十五六に爲る少年が先づ斃れたかと思はれ、綱の一番細い處で船にくゝり附けてあつた。四人の若者も同じ綱に順々に結ばれて死んで居り、四十二三歳の船長は最後に最も簡單で、太い繩で只一重だけ、腰の周りをゆはへて居たと云ふ。こんな立派な覺悟は此仲間でもまだ見たことが無い。一切の帳面と書付類、それから濡れては居たが三百何十圓の紙幣まで、悉く素肌に卷(230)着けてあつたので、一行の書置も無かつたが、顛末は即座にわかつた。えらい物である。

　豐後は舞の本の、百合若大臣の故郷と云ふことに爲つて居る。浦の男女は今既に其歌を忘れてしまつたが、曲に現れた昔の愁と惱みとは相續して居る。玄界の離れ小島では、百合若はひたすらに故郷の家を戀焦れた。ロビンソンクルウソーの物語と比べると、先づ基調に於て全く異つて居るのである。緑丸はロビンソンの犬猫とは違つて、空中自在の靈鳥であつたけれども、主人の旨を承けて豐後の府中へ往來し、其妻子に安否を知らせるのを殆と唯一の目的として居つた。百合若單衣の白い袖を斷ち切り、紙筆と血で書いて此鳥に持たせて遣ると、世間知らずの奥方は、大きな硯までも入用かと思つて、之を翼に結附けて還した。緑丸は硯の重さに堪へず、終に玄界の渚に來て死んだとある。坪内先生の説では百合若は即ちユリシスの作り換へと云ふことであるが、鷹の忠義の因縁を嗟歎したのは、恐らく日本の方ばかりであつて、しかも征戰事繁き時代の、所謂春閨夢裡の人々に、新しい哀れを泣かしめたのは、正しく艶に優しいこの島住居の一節であつたらうと思ふ。さうすれば此が又、我邦傳來の海の文學であり、且は海の民の深いなげきの聲でもあつたのだ。

　雲海遠く隔たつた宮古の水納島《みんなじま》にも、ほゞ同じやうな大和人の漂流談が有つて、此は百合若とは謂つて居らぬ。硯を負うて流れ着いた鷹の墓は、後世一つの靈場と爲つて居た。秋毎に此墓の上には、多くの鷹が海を渡つて來て休むので、永く新なる感動を人に與へたと謂ふことである。緑丸の翼を休めたと云ふ松は諸國に在る。出羽にも奧州にも此鳥の爲に築いた塚がある。百合若が後に廻國して供養をしたなどと謂ふは作り事で、多分は遠き昔勇ましい鷹の姿を見て何れの旅人の家でも之を生靈の音信を傳へるものと、考へてゐた名殘であらう。絶海の孤島に獨り住む者、或はさうでもして生きて居るかと思ふ者の身内が、稍々肌寒い秋なかばに、遙々と渡つて來る鷹の聲を聽いて、忘れ難い有りし日の面影を深めるのは自然である。それと言ふのが無始の昔から、故郷は土であり、子孫は唯一の神主であることを、絶えず信じて居た我々の遺傳が、無意識に海の自由を制限してしまつた、その悲しい鎖國の名殘であるか(231)も知れぬ。

　

　　　　　　　四　ひじりの家

　

　日向路の五日はいつも良い月夜であつた。最初の晩は土々呂の海濱の松の蔭を、白い細かな砂をきしりつゝ、延岡へと車を走らせた。次の朝早天に出て見たら、薄雪ほどな霜が降つて居た。車の犬が叢を踏むと、其が煙のやうに散るのである。山の紅葉は若い櫨の木ばかりだが、新年も近いのにまだ鮮かに殘つて居る。處々の橋の袂、又は藪の片端などに、榎であらうか今散りますとでも云ふやうに、忽然として青い葉をこぼし始め、見て居るうちに散つてしまふ木がある。土持殿の御支配の頃から、否々皇祖御東征よりも更に以前から、海に近い縣の里の野原では、寒い霜夜の月の明方毎に、斯うして物の緑が土に歸して居たのであらうが、或時或旅人が通り過ぎて、之を美しいと見るのは瞬間であるなどと、自分は有りふれた斯んな事を考へ出した。それといふのも自分が今尋ねて行く人の境涯が、餘り我々の生活と變つて居る事を、想像しながら來たからであつた。

　南方の龍仙寺さんと謂つて尋ねて廻つたが、不思議と誰も知つた人には逢はぬ。そんな筈は無いのだ。内藤家の御祈願所の、隨分名の有る法印さんだと聞いて見る。それならば野田の稻荷山の行者殿に違ひ無い。もう此邊には他に無いからと謂ふので、旭がさして來た松山の霜解を、こつ／＼と登つて見た。縞の着物に角帶の、髪は一寸も延ばした老人が、果して訪ねる谷山さんであつた。日向に移住して來て既に十七代に爲る。本國は大和で谷山覺右衛門と云ふ人、土持家の盛りの頃に兵法の師範として、子息の重右衛門を連れて下つて來た。所領は山の麓の大貫村で、野田山に砦を構へ、稻荷は即ち其城内の鎭守であつた。世中が改まつて内藤氏の藩が出來た時、只の臣下で居る代りに山伏に爲つてしまつたが、それでも火事に遭つてこの山上に移つた父の代までは、大貫の元の屋敷に引續いて居たさう(232)である。稻荷大明神の右手には廣い平地が有つて、其中央に井戸がある。之を前に取つて今の住居が、背戸を谷間に臨ませて、幽かながらも城地の俤を遺して居る。明治五年に修驗の職は廢せられたが、關東諸郡の山伏のやうに、神主や只の農家に爲らうとはせずに、作州津山の在から潰れ寺の名跡を買ひ、表向き之を引移したのが龍仙寺で、土地の人もまだ其名を知らぬ位である。以前の名は明實院、それを法印は御自分の名にして御座る。

　鎭守の稻荷樣は御寺だけに、��枳尼天《だきにてん》として祀つてある。詣る人が今風だから、華鬘や提灯の眞赤なのも仕方が無い、自分は歸り途にその數多い鳥居の下を通りながら、是とは縁も無い津輕の海岸の荒濱を思ひ浮べた。今年初秋の風の早大いに冷かな朝であつた。一つ事ばかり考へながら、獨あの濱手の淋しい路を歩いた。會て深浦沿革史を世に公にした海浦さんと云ふ人は、名が義觀だから或は僧侶だらうとは思つたが、あんな阿倍比羅夫の直系見たやうな、昔の儘の山伏だらうとは考へて居なかつた。自分まででもう五十一代、肉身の相續で此十一面觀世音に御仕へ申すと謂つて居られた。一宗の事相は淵底を究めた篤信の聖である。日本の國風に此ほどよく適合した永い歴史の一宗派を、何で又取潰して只の眞言寺に編入してしまつたかと六尺もある大きな體を前にのし掛かつて、まるで私がさうしたかの如く、眞正面から見詰められる。わしの寺は聖�ｺ太子樣の時から、俗生活の儘で成佛する教に基づいて、肉食もすれば妻子も育んで來たものだ。世中が變つたからもう宜しいと、それを大目に見て置かれる寺とは話が違ふ。世間が八釜しく無いだけで、只の寺に女房を置くのはあれは非如法ぢや、破戒ぢや。わしの方は教理ぢや。手を組んで竝んで行かれるわけが無いのぢやとも言はれた。貴僧を見ると昔を見るやうな氣がします。定めて戰國の頃などは、此地方の勇士の家々と縁組なされ、薙刀などで大いに働いた人たちが、此御寺からも何人か出られたことであらうと謂つて見ても、にこりともせずに、此宗派の獨立せねばならぬことを説く人であつた。一度逢つたら忘れ能はざる上人である。

　日向の延岡の近くに谷山さんの居らるゝことは、この深浦のひじりから聞いたのである。修驗派獨立の初期の運動(233)に、東京は神田の電車の交叉點の近くで、全國の行人たちが大集會を催した事があつた。其所に兜巾鈴懸の昔のまゝの姿で、期成同盟に馳せ加はつたのは、龍仙寺の法印一人であつたさうだ。自分の寺は舊藩公の時代から、此行装で寺禄を食み祈?を仰せ付かつて來た。世間を憚かるべき道理は無いと、立派に言切つて居られたと謂ふが、自分が話をして見た感じでは、海浦さんと同樣小兒よりも無邪氣で、些しも山伏流の高慢な樣子などは無かつた。

　其とは反對に寧ろ寂寞たる陰影が有つた。津輕の御寺でも二三年前に、自分等より大分若い篤學なる嫡子を亡なつた。次男は繪などを描く人である。さうして同志と爲る弟子達が少ない。自分は日向へ來てこの氣の毒な話をすると、頻りに谷山さんの顔の色が曇つた。實は私の方でも相續させる積りの倅が死にました。其次は實業の方に居る爲に呼戻しもならず、十五に爲る孫を是から仕立てることになつたとある。其少年は今戸口に立つて、いつまでも歸る自分の後影を見て居るのがさうらしい。自分は旅人だから、勿論ずん／＼往つてしまふ。しかもこの閑かな山の寺の人々とても、やはり亦世中の道をあるいて居て、一つ處に永く彳んでは居られぬのである。

　

　　　　　　　五　水煙る川のほとり

　

　飫肥《をび》の町へは十二年ぶりに入つて來た。町にはまだ貂狐猿羚羊などの皮をぶら下げて賣つて居る。やがて海に入る靜かな川の音、板橋を渡る在所の馬の轟きまで、以前も聽いたやうな氣がしてなつかしい。城迹の木立の松杉は、伐つて又栽ゑた附近の山よりは大いに古く、曾て穴生役の技藝を盡したかと思ふ石垣の石の色には、歴史の書よりも更に透徹した、懷古の味ひを漂はせて居るが、今の小學枚の巨大な建物に、引懸つて居るものは振�ｺ堂の額だけで、百數十年の學徒の勞作や蒐集などは、もう偶然の訪問者等には、ちよつと觀られぬやうな處に藏してあるらしい。さう何時までも昔に滯つては居られぬと感ずる時代は、どこの城下の町にも一度づゝは必ず遣つて來る。或は此邊へは今(234)恰も來て居るのかも知れぬ。九州は全體に人の智惠の能く利用せらるゝ地方なるにも拘らず、政治の中心の地から稍々遠過ぎると云ふ不安が、無用に生活の常の道を攪亂する傾きがある。況や海と高山とで遮斷せられた南の果の町が、今は却て昔の要害を悔み、しもせぬ世間の聲に聞耳を立てゝ、見馴れた眼前の物の意味を、假に暫く忘れて居たとしても不思議は無い。

　のみならず或時代には、あんまり山から此方ばかりを、我天地として居た爲に、本意でも無い度々の戰をせねばならなかつた。外部を知ることの多少に從つて、同じ程の智者が成功もすれば蹉跌もした。しかも兎に角名の遺つたのは、此等少數の弘い世中と交渉の有つた人ばかりで、與へられたる平和を出來る限り樂み、安閑の生涯を送つて居た多數の高士は、永遠に歴史の表面から消え去つた。要するに斯う云ふ先例の集積したものが、即ち町それ自身であつたのである。都會は一般に現代を小賣する場所だ。從つて飫肥ばかりが古い感情の姨捨山で無かつたら其は寧ろ不自然な現象と謂はねばならぬ。

　自分は旅の無聊を奈何ともする能はずして、町の端まであるいて何か見る物を捜した。伊東家は他の諸國の中大名の多數に比べて、更に一段と嚴肅なる墓域を、其舊領の地に構へる權利が有る。昔工藤犬房丸の子孫が遠く下つて、此邊に盤崛しなかつたら、乃ち酒谷盆地の歴史は無いのである。人は省みないがそこいらの松よりも岩よりも、猶古い記念が溢れるほどもあるので、しかも其記念は此川の昨日の水の如く、既に流れて大海の潮にまじつて居る。それに比べると僅に松風の一つの岡を隔てゝ、今も現代の人々が來て歎く一團の墓の方は、さゝやかな清水のやうなものであつた。日本を大きくしたと云ふ近世二度の戰役に、此ほども死んだかと驚く程、此土地からも多くの若者が、出て戰つて死んで居る。それから其隣の一區劃には、此人たちの叔父の列の數十人が、やはり同じ位の若さで、當時賊と呼ばれた側で戰つて、さうして亦討死をして居るのである。三十二で腹を切つた惜しい新人物、小倉處平の墓を中にして左右に、何れも健氣な名前ばかりだが、世を憚つて齡と斃れた場處の他は刻んで無い。其中にたつた一つ、二(235)十八歳の平部俊彦だけは、祖父の?南先生が其碑文を書いて居る。十四で孤兒と爲つてから、先生が傍に置いて親ら之を教育した。夙く經學の要義を解し、文章も少年の作のやうでは無かつたので、東京に居た頃は安井先生も見込が有ると申された。郷里に還つて小學教員をして居る中に、今度の事件が起ると何の躊躇も無く、直ちに出て往つて小隊長に爲つた。さうして立派な死に方をしたと書いてある。當時の遺族の立場は定めし辛かつたであらうのに、半句も※［足＋疏の旁］明の辭が無いのは分かつた人である。先生は此時六十三、四つに爲る曾孫が母と共に殘された。久しからずして其兒も亦歿したと書いてある。

　若い人々の花やかな討死よりも、今に爲つて見ると老學者の生存の方が痛はしい。?南翁は明治五年に東京を引上げる前、郷里の家の六隣莊の記を書いて居られる。頤を支へ窓に凭つて山川を四顧し、遠く荒營古壘の迹を眺めては戰國將士の勞苦を思ひ、城市萬戸の煙を望むときは昭代太平の惠を感ずる。夜は高根の月、川の瀬の音、之に對しては酒無くして憂を忘れ、藥せずして長生を求めつべし。後世子孫幸に之を荒すなかれと謂つて居るが、子孫は先づ絶え、もう其屋敷の地には何人が來て住むやら、尋ねて見ても一寸は知れさうに無かつた。翁の遺著には永く世に傳ふべきものが勿論ある。併し之に由つて曾て一たび此學者の切實であつた生活を、果して繋ぎ留めることが出來ようか。我々が求める平和の基礎には、やはり澤山の忘却が必要なのではあるまいかとも思つて見た。

　山が近いからか又は此頃の季節の爲か。今朝も大いに立つて居た水煙が、晩方にも酒谷川の流を蔽うて居る。宿の欄干に出て立つと、河原には薄々と月がさして、もう物を洗ふ人の影は無い。前に來て泊つた家も板橋の近くであつたが、二階は無くて門の脇にたしか柳が一本有つた。名を忘れたばかりに誰に聞いてももう分らなくなつた。あの時夜更まで來て話した郡長の田内氏を始め、僅か十二年の間に死ぬ人は死に、去る人は遠く去つてしまつた。さうして自分も亦偶然に、今一度過ぎて往くのみである。未來にも仕事がある。強ひてはつきりと此樣な昔を、思ひ出さうとするには及ばぬのかも知れぬ。

　

(236)　　　　　　　六　地の島

　

　九州の東海岸には、忘れられた地《ぢ》の島が幾つも有る。沖の小島の遠く萬人に眺められ、夕日夕月に照され、歌に詠まれ、或時は漕寄せて蔭を求める船あり、清水が有れば來て汲み神を祀り、後には人も住み、風待ちの湊とも爲つて盛衰するのに比べると、此方は目に立たぬ淋しい境涯であつた、いつでも海邊の山の裁ち屑の如く取扱はれて居る。關東で言ふなら相州の江島、安房の仁右衝門島、又は常州磯原の天妃山の如き例外は、日向方面に於ては青島がたゞ一つ、是は幸ひにして滿山の蒲葵《びろう》林が、ちよつと熱帶らしい感じを與へる爲に、見物も來れば繪葉書も出來て居り、何時の間にか彦火々出見尊の御召舟の、無目籠《めなしかたま》が化して成つたと云ふ、傳説さへも行はれて居る。

　其よりも永くなつかしいのは、豐後では臼杵灣頭の津久見島である。山が險しい爲か此島ばかり、保安林に編入せられる以前も一向に斧斤を知らず、隙間も無く茂つた緑の樹の中から、色々の鳥の聲が遠く波の上の舟まで聞える。今は目白の名所だと謂ふが、ツグミと呼ぶのもやはり鳥の名から始まつたやうに思ふ。農家が只一戸對岸から渡つて小屋を構へ僅かの薯畠を作つて居る。シャアの村からも、稀に枯枝を拾ひに來る位で、人の歴史には縁の薄い島らしい。

　そこから出て來ると、左手の海上に沖の無垢島《むくじま》と地の無垢島が見え、次第に前に話をした保土の島に近づくのである。保土の山に登ると佐伯灣を隔てゝ、南に鶴見崎に接して大島と云ふのが指點せられる。保土から移住したと云ふ舊家なども有るさうだ。此入海では大入島《おほにふじま》が最も大きく、幾つかの網代と美しい清水とがある。娘たちが帆を操つて毎日町に往來して居る村である。又人は住まずして耕地ばかりの島も有る。中浦の沿岸を東へ進んで、大島の瀬戸を通り拔けると、鶴見の鼻から芹崎《せんざき》までの間に、多くの小さな無人島が連つて居る。地の黒島と沖の黒島との中を船は(237)行くが、沖黒島の方には蒲葵が生えて居る。蒲江の港の口には島が又二つあつて、その遠い方の深島には、人も住み學校も有り、蒲葵の林も有ると云ふ話であつたが、もう夕方に爲つて其風情を見ることは出來なかつた。

　日向路では東臼杵の富高の邊に、二つ三つの地の島が車の上からも見える。今や既に單純な草山である。其東の沖にも一の枇榔島があるのだが、懸離れて居て樣子が分らぬ。是から南はずつと青島の邊まで、川毎に砂を押出して長濱を作り、以前は地の島であつたらしいものが、多く地續きの岡に爲つて居る。内海港の南の巾着島なども、島は名ばかりで今は一個の岬である。九州一の良い港を、あたら僅かの新田の爲に淺くしてしまつたと謂ふ外浦《とのうら》の堤も、やはり大きな地の島を引寄せて繋いだもので、之を爲し遂げたのは人よりも二つの川の泥であつた。出雲風土記などでは國神の偉功に算へたほどの地變でも、時代が後であつたばかりに飫肥の海邊では、咲き榮えた靜かな文明を一朝に滅したのである。油津の繁華は恐らくは是から移つたものだらうが、依然たる昔の小場《こば》島大島は、此が爲に能く外洋の波濤を防ぎ、又參差たる入江の風光を衛つて居る。嘉永の頃までは此大島には人家は無かつた。藩の牧場として久しく良馬を産して居たと謂ふのは、多分駿馬を龍の種とする思想の繼續であらう。目井の津まで二十餘町、一の船着きも無かつた荒濱から、若駒を牽き出して往つた勇ましい光景が想像せられる。小場島は即ち亦蒲葵の島のことで、曾ては此島にも繁茂したものと思ふ。更に南に進んで市木村の築島にも、處々に同じ木の林がある。船から見える三四戸の農家が、塗壁瓦葺きの中國邊と同じやうな構で、蒲葵の白い葉の葉隱れに、立つて居るのは面白い。上つて遊んで行きたいやうな氣持がした。

　築島の蔭を離れると、次に鳥島と幸島《かうしま》とが現れる。幸島は少し大きくて周りが二十何町、一段と陸地に近い。松の密生した背面を、船は通つて行くのである。猿が多く居るので知られて居る。猿の中に只一軒、番人見たやうに住んで居る人が、手船を漕いで時折陸の方へ往來する外に、あまり來て見る者は無いさうである。猿も淋しいと云ふわけか、遊びに出かけることがある。一匹ぐらゐは見えさうなものと、船窓に凭つていつ迄も眺めたが、こんな風の寒い(238)日には出ますまい、夏ならば毎日のやうにあの邊の岩に降りて、蜷を採つて食べて居ますがとある。いつまで斯んな小さな島に、平安で有り得るかと思ふと、猿ばかりの問題では無いやうな氣がして來た。

　それから自分は都井の宮浦に上陸して、牧の野馬を見に岬の鼻まで往つた。高鍋藩の經營した、此も至つて古い海の牧場で、所謂福島馬の故郷である。今や馬種の改良が盛んに行はれて居る。御崎社内の野生蘇鐡と共に、「此山の猪捕るべからず」の制札を以て、天然記念物の野猪は保存せられて居るが、人作の福島馬のみはえらい虐待で、牡は悉く二歳に爲る前に、牧から追はれて試情馬などの淺ましい生活を送つて居り、之に代つて異國の種馬が、來つて極端の幸福を味はつて居る。

　此から峠を又一つ越えると、福島の町が見える。即ち中世の櫛間院の地であつて、クシは即ち亦岬の古語である。入海を隔てゝ志布志《しぶし》の蒲葵島が美しく、其向ふには大隅の山が見える。大隅のスミはやはり亦、シマのことだらうと考へられた。

　

　　　　　　　七　佐多へ行く路

　

　島泊の漁村は僅かな磯山川の川尻に固まつて居る。爰にも小さな地の島が一つ、殆と砂濱に續かんとする地位で、南海の風を遮つて立つて居る。昨夜夜半の大雨には、沿岸のボケ網舟は悉くぬれて戻つて來たが、此浦でも家の數より多いかと思ふ刺子の仕事着が、磯の大岩小岩にずらりと掛けて乾してある。さうして男たちはまだ寢て居るらしい。今日は大晦日だが、新で正月をする人は此村には居ない。

　伊座敷の町からこの島泊まで、元は一番高い山の八分まで登つて越えるのが、近い故に唯一の通路であつた。然るに隣の西方區を通つて、最近に一間幅の路を一建立で開いた人がある。それが豐後から來た炭燒だと聞いたときは、(239)何だか古い物語のやうで嬉しかつた。炭燒は十何年の勤儉で拵へた家屋敷を賣拂ひ、まだ入費が足らぬのでわざ／＼國へ金を取りに行つて來た。さうして出來上つた新道の片端に、かの小五郎の小屋の如きものを建てゝ住んで居る。どうして斯んな志を立てたか、又末には如何なる果報が來るものやら、自分などには分らずに終りさうである。

　九州も爰まで來ると、眞に國の端と云ふ感じが強い。淺い山を拓けるだけは薯畠にした爲に降るほどの雨が悉く谷川に出てしまひ、溢れて通路の草を漂はし、やがて皆海に呑まれて行く。徒渉りがすむと直に坂を登り、越えてしまふと又小川だ。坂も多いが曲り角も多い。三町と同じ方を向いて進むことが無い。樹の間からは大抵海が見え、清々とした聲で頬白などは、沖を見ながら囀つて居る。風がいつでも少しづゝ吹いて居る。

　尾渡瀬で一旦又海の渚に下り、村の後の放牧地を通つて、草山を十町ばかりも行くと、今度は外海の濱に出で、中央の山路と一つに成る。大泊と謂つて、むかし種子島へ渡つた船着きである。もう汽船の世中に爲つて、只の漁村に復つて了つたが、それでも松飾りをして春を迎へんとする帆船が二隻、入つて來て繋つて居る。歸りに見ると紅い國旗を立てゝ居た。小學校でも頻りに式場を用意して居る。岬の端まではまだ一里半もある。燈臺の人たちに子供が有つたら爰迄通つて來ねばならぬのだ。中間に田尻の部落はあるが、分教場すらも置いて無い。

　田尻は廣々とした石の多い濱である。其名の如く峠道の右左に、若干の水田を持つて村人は登つて耕して居る。村の周圍には蘇鐡が多い。此が自然に繁殖して居るのを見ると、御崎神社を信仰した樺山權左衛門が、琉球からの凱旋に携へ還つて奉納したのが始めとは、先づ信じにくい傳説である。村から社まではまだ二十町もある。此が一團の緑の御崎山で、社に詣る一筋の徑を除くの外、今なほ完全に小鳥の世界である。田尻の土持氏に今夜の宿を頼んで置いて、自分は獨り午後の日影の洩れる樹下の路を歩んだ。暇有つて樹實の正に熟する季節に、折好くも此山に來て見たことを喜んだ。花よりも麗しい黄紫色々の大小の珠玉が、枝毎に豐かに綴られて居る。之を啄みつゝ歌ふ者の聲である。諧々として自然の饗宴の樂みを、はてしも無く語つて居る。

(240)　同じ燈臺でも陸奧の尻屋の荒磯崎などでは、闇夜に迷うて來て突當つて落ちる鳥が多いと謂ふが、佐多に此事が稀なのは、是亦御崎の神の林の導く故であらう。秋から先は四方の渡鳥が悉く爰に來て休むかと思ふ程、樣々の鳥が遊んで居る。靜かな日には二十五海里の海峽の迅潮を越えて、種子屋久の磯の鳥までが、岬の岩の上に來て漁つて居る。空から行く者には此山ほど、好い目標は無いのだらうと、永年鳥を友とする人たちは語つて居た。人に取つては船が大きくなるにつれて、港から港の間が愈々遠くなるが、實際此岬まで來ると、南の島の一列の飛石であつたことがよく分る。黒島でも竹島でも硫黄島でも、佐多の岬の端に立つて見ると、顧みて薩州の山を望むよりは猶親しい。島々に行けば次の島が又さうであらう。沖へ出て見たら尚一層、移る心が自然に起ることであらう。

　御崎の山には蘇鐡と蒲葵とが多く、何れも實が熟して居る。親木の蔭からずつと離れた場所にまで繁殖して行くのは、やはり稍々大きな鳥が運ぶのだらうと、土地の人たちも謂つて居る。蒲葵も此邊まで來ると次第に民家の樹と爲り、殊に社や堂の近くに大木があるのは、是は古く此實を播いたものかと思ふ。併し笠や箒にする葉は、燈臺に近い小島から採つて居る。コバ笠コバ箒などと謂ふコバは、沖繩及び先島の、クバと同じ語である。

　田尻の除夜は浪の音ばかりであつた。戸を立てぬ縁側から月がさして、障子の紙がふるへる程の微風が吹く。時計を見ると今將に歳が替らうとして居た。初日の出には眞面に向つた濱である。おゆみと謂ふ村の女に荷物を持つて貰つて出て來ると、袴をはいた學校の兒が、早砂の上に小さい足跡をつけて新年の式を歌ひに先へ行く。大泊を過ぎて山の路にかゝると、再び佐多の御崎が深緑に遠く見える。幾らでも曲つて幾らでも登るかと思ふやうな路であつた。處々に牛馬の爲に稍々緩傾斜のつゞら折が新たに開いてはあるが、使はぬと見えて草が生え、人は昔からの急な坂を通るのである。頂上を大泊のヨクと呼んで居る。ヨクは「いこひ」といふ意味で、誰でも爰へ來れば休む。三方の海が見える。島々も見える。さあ行かうと立上ると、おゆみが荷の上に結はへ附けて、町へ持つて出るコバの葉の束が、がさ／＼と南國らしい音を立てた。

　

(241)　　　　　　　八　いれずみの南北

　

　七島南端の寶島と、大島の笠利岬との間の、潮の流れの最も迅い四十何海里は、民俗の上から觀てもやはり一つの境である。例へば中國四國の海の海岸で、カネリ或はイタヾキなどゝ名づけて、女が物を頭に載せてあるく風習は、九州南部にも弘く行はれ、殊に小さな島では水迄もさうして運ぶが、爰に來るとそれがまるで無くなつてしまふ。奄美列島では一番離れた與論島まで、それから沖繩の本島でも北部の三四箇村は、何れも幅二寸ばかりの苧の組紐を額に引掛けて、其を力に物を背負うてあるく。ちやうど内地の村の人たちが、胸の上部に引掛けて負ふやうに、石や薪の重い荷物でも、皆斯うして額に吊つて持つて出る。山坂があんまり險しい爲に、頭に載せてはあるかれぬからと、首里や那覇などの、イタヾキを常の習とする地方では説明して居るが、一方には又陸前牡鹿の江の島の如き、爰に限つて肩には負はず、頭に載せて居る島に於ても、やはり坂が急だから頭に載せるのだと言つて居るから當てにならぬ。山は少ないが沖繩から南にも、急な苦しい坂は隨分有る。處が此方面では一般に、必ず頭の上に戴くことに爲つて居るのである。額に掛ける風はアイヌの中にも行はれて居るが、それは偶合とも見ることが出來る。兩手を自由にして置いて物を運ばうとすれば、頭か額か兩肩か、先づ此以外には工夫が無いのである。隣の人を見て眞似たのも亦不思議で無いが、其よりも不思議なのは眞似に境のあることである。

　他所の風習はさう容易に模倣せられるもので無い。白野夏雲翁が今から四十年ほど前に、寶惡石の島々を巡視した時には、手に入墨をした女を何人か見た。何れも大島から落付いて來た婦人だと、七島問答の中には書いてある。此海峽を越えて、嫁に來るだけの親しみは有つても入墨の習ひは七島には入らなかつたのである。七島では手の甲の入墨の代りに、女が皆齒を染める。但し内地の方の昔風とは又ちがつて、十三の歳の五月に只一度だけ、鐵漿を附ける(242)のである。若い女が女に爲つた印に斯うすると、後には鐡漿其ものが美しく感ぜられ、装飾に爲り又道理が附添へられる。此點は南の方の島々の入墨もよく似て居る。

　廿何年以前に沖繩を旅した人の話に、十二三の小學の生徒が、豆粒程の入墨を刺したのが、愛らしく見えたと謂つて居る。此頃から始めて段々大きくして行く習ひであつたかと思はれる。處がちやうど其時分に、入墨を禁止する布令が出た。隱しては遣れぬ仕事なので、此禁制はよく行はれた。曾て美しかつた白い手が、もう追々皺になる年輩の女だけに、入墨が殘つて居る。もう頼んでも眞似をせぬ時代が來た。しかも昔はまだ老女の間に、はつきりと遺つて居る。

　沖繩縣では一般にハチジと謂ふやうである。慶長の初に出來た琉球神道記にも、入墨の風俗を述べて針突と書いて居るから、ハッツキの轉音であることがよく分る。大島では釘突と謂ふと南島雜話にあるのは、これも針突の誤寫では無からうか。何にしても二島分立の以前から、弘く行はれて居た風習であつて、それが時を經るうちに僅かづゝの變化を見た。大島の方ではもう珍らしいと云ふ程に、針突をした人が少なく爲つて居る。村に入つて之を捜して行くうちに、折々は絲滿からの移住者を見出した。絲滿の女たちは何處に來ても、頭に物を載せて往來する上に、依然として南沖繩のハチジをして居る。四瓣に區切つた菱形の花を、手首か甲の眞中に大きく彫り、指の根毎に幅一杯の星形を附けて居る。之に比べると大島の入墨は、人に依つて大小が有り、模樣なども思ひ／＼に、趣向をして居るかと思はれた。詳しく尋ねたら村として又は家として、何か變化を付けるわけが有るのかも知れぬ。たゞ尋ねて答へてくれさうな人が、今は既に無いのである。

　沖繩でも元は入墨に依つて、女の故郷が大凡知れた位、少しづゝの相違が有つた。島々には必ず其が著しかつたことゝ思ふ。しかも八重山の女たちの今のハチジには、沖繩とよく似た菱形や星が多いやうに見えた。其中でも與那國人の二三の例は、却つて遠く隔つた宮古の方に近く、宮古の入墨の沖繩と逢つて居ることは誰が見ても分る。宮古の(243)婦人は手首から、三四寸奧まで刺して居る。織つた上布の絣のがらを、一つ／＼彫入れて記念にすると謂ふのは、多分簡單な小さな模樣を、多く竝べて居るからの誤傳であらう。

　此樣に複雜な變化の中に、只一つ指の背を通した箭の形だけは、何れの島でも大方同じである。南の方では其箭に羽があり、沖繩より北に行けば、矢筈ばかりが著しく爲つて居る。恐らくは女性の物を指さす力が、宗教的に強かつた大昔の世の名殘であらう。それが何れの方を指さして居たかは、今は既に絶對に不明と爲り、人は只有る限りの島々に、散漫として移つたやうに考へて居る。是が果して島人の眞の歴史であらうか。千古の英傑に碑あり傳記ある如く、曾て鈴のやうな形の笠を深く被り、乃至は高い窓の外に立つて、援助の手のみを差出したと云ふ神女の事蹟は、獨り此の將に消えんとする針突の文字無き記録のみが、我々を喚び留めて之を語らうとして居るのである。

　

　　　　　　　九　三太郎坂

　

　名瀬の港は大島の西北の海に向つて開いて居る。砂濱を意味する名瀬の兼久から、東海岸に越えて南へ行く路は、大抵自動車の通る程に改修せられ、さうして早少しく損じて居る。併し常には曲り角毎に人に逢ふ位の人通りが、今日は舊正月の元日である爲に、かくの如く靜かに日が照つて淋しいのである。たまに向ふから人が來ると、必ず頬被りをして六尾七尾の鯛を擔つて居る。小湊附近は鯛の魚のよく捕れる處だ。除夜に大漁があつたから、今朝持つて出ると云ふばかりで、別に進物では無いさうだが、それでも何と無く正月らしい。里近くの谷に紅い山櫻が咲いて居る。絲芭蕉の畑が盡きると、まばらな蘇鐡の林が有る。蘇鐵とヘゴとは却つて國頭の山よりも多い。白い花の苺が咲いて居る。苺を此邊ではイチュビと呼んで居る。

　和瀬の新峠には、もう茶店が二軒建つて居る。手前の方の店先では黒の木綿の紋付羽織の男が、褒められて嬉しさ(244)うな顔をして、ママアンマ節と云ふのを彈いて居る。例の蟒蛇の皮を張つた小さな三味線である。海のよく見える今一軒では酒を飲んで居た。地酒又はモロハクと名づけて、味醂を薄めたやうな甘いので、薩摩で出來ると云ふことだ。盆の上にゆづる葉を二枚敷いて、白い盃を載せて自分にも勸めた。肴は例のテイノイヨ（鯛の魚）であつた。下りて又登るべき岡が海に近く見える。亭主夫婦の話は新道の事ばかりだ。なる程此邊の景色は別莊を建てゝ見るにはよい。車が多く通るやうになれば、爰へ來て休まぬ旅人はあるまい。それだから今に／＼と謂つて居るのである。爰を出て來ると伐り殘されの松の樹に鳥が清く囀り、外も誠に長閑な正月であつた。

　併しこんな好い日にも捜して見ると、淋しい人は何處にか居る。東仲間村の橋の袂から、右手へ上つて行く一筋路は、是も明治になつてからの新路だ。取付の五六町が急な坂であるばかりで、奧には一本も伐らぬかと思ふ椎樹の山が、深い縁の塊を爲して竝んで居る處を、谷川の向ひに眺めながら、緩々と行く長根である。如何にもよく考へて付けた路線だ。三十年餘り前に内地人の夫婦が、此峠に茶屋を建てゝ附近の林を開墾し始めた。肥後から薩摩に越える三太郎峠とは違つて、是は其爺の名に基いて、三太郎坂と呼ぶやうに爲つたのである。それほど世に聞えた三太郎ではあつたが、彼にも相談せずに世の中は變つた。事業の方は氣が長く、老ばかりはすぐ完成した。西仲間から昇る坂があまり眞直で左右に餘地が無い爲に、もう第二の新道は此峠を通らず、をめいても屆かぬやうな遠方の山をうねつて居る。畠を作る爲ばかりなら何も斯んな高い所へは登らなかつたであらうに、三太郎は終に茶店を罷めてしまつたさうである。それから後は如何して居るだらうかと、峠に上つて來て其一つ家の前に立留つて見ると、二方から踏込む店はすつかりしめ切り、出入の戸を只一尺ほど開けて、土間へ日が差して居る。正月だと謂ふのに婆さんは風でも引いたか、蒲團を被つた白髪の頭が見える。圍爐裏の此方には肱を枕にして、三太郎坂の三太郎はごろりと寢て居る。

　大島が今の大島になる迄には、それは／＼えらい苦闘が有つた。僅か四五十年の昔を振返つて見ても、今の三分の一の幸福も此島には無かつたのが、既にどし／＼と名士を島外に出すほどの活躍をして居る。島人全體としては、切(245)拔けて出て來たのだから明かに捷利だが、よく聽くと其勝鬨のどよみの中にも、幽かな坤吟の聲がまじつて居た。例へば今通つて來た朝戸の村なども、紅い櫻が咲いて平和らしい家竝であつたが、文化年間の記録を見ると、佐念と朝戸の兩村は今人家無之とある。男女借財の爲に悉く身賣して他村に行き、跡は作地のみ也ともあるから、乃ち其以後の植民であつた。これと同樣の潰れ村が、他にもなほ十何箇村有つて、其儘故迹と成つてしまつたのもある。此は享和の頃の凶作の結果であつたが、其前後にも不幸は?々繰返された。

　名瀬の近くの作大能とか云ふ處でも、或時の飢饉に男女山に入り、苺や阿檀の實を採つて食盡し、野山にはもう何も食ふ物が無くなつて、數十人の者が阿檀の木に首を縊つて死んだ。それから以後は毎年其月頃になると、亡靈が出て來て何とも謂はれぬいやな聲で、唄を歌つたと謂つて其唄が幾つも傳はつて居るのである。

　　　いちゆび山のぼて、

　　　いちゆび持ちくれちよ。

　　　あだん山登て、

　　　あだん持ちくれちよ。

　是は恐らくは例の魂祭の踊に、深い同情から發した悲壯な歌を唱へたのを、亡者の聲なりと誤つて傳へたものと解するが、飢ゑて人が死んだまでは事實であらう。最初から生れて來ぬ方がよかつたと思ふ者の魂魄の爲に、永く後々の弔ひをするのはをかしいが、此世で救ふだけの力の無い人々は、どこの國でも斯んな話を語り傳へて、只いつまでも歎息をして居るのである。

　

(246)　　　　　　　一〇　今何時ですか

　

　實に奇妙な子供の遊が流行して居る。見馴れぬ洋服の人などが通ると、時計を出させて見て後でみんなで笑ふ遊である。金か銀か大きいか小さいかを、前に言當てたものが勝になるらしい。自分はもう何遍か諸處で之に出逢つて居る。此大島でも、宅の末の兒ぐらゐのよち／＼と歩く子が、今何時でちかなどと謂つて附いて來た。たしか木村莊八君の紀行にも、大連で支那人の子供が、土塀の上から顔を出してさう叫んだと書いてあつた。彼等小兒は村から外へは滅多に出ぬ。さりとて誰が來てこんなくだらぬ事を教へようか。自分は何よりも先づ世の所謂流行には、まだ不明の原因が潜んで居ると云ふことを感じた。

　土地の人にもさう謂つて來たことだが、大島の子供には全體におつとりとした處が少ない。一つには普通教育と云ふ特殊の事情の爲かも知れぬが、通例人に聞えるやうに仲間同士で喋る代りに、臆面無く旅人に話しかける者が多かつた。或山の蔭では四五人の子が目白を捕つて還るのをぢつと見ると、すぐに買ひませんかと謂つた。町へ持つて行くと一圓になりますよと次の子が謂つた。又或板橋の上で遊んで居る夕方の群に、戯れに此狗の子は誰のだと聞くと、其はワームン（我物）だ、貰つてくれるなら縛つてあげませうと謂つたのが、ほんの十一二の生徒であつた。

　其よりも驚いたのは、住用村の或部落の宿屋で、色々の青年少年が旅人を見がてら、前の川端の路を往つたり來たりするのに、一人として胴魔聲を立てゝ、わめいて通らぬ者は無かつた。正月だから仕方も無いが、大きい者は皆醉つて居る。さうして彼等ばかりの風流とする事柄を隱語で怒鳴つて笑つて行く。子供にはそんな才覺も無く、又固より酒を飲む筈も無いが、出來るだけ醉つた先輩の荒い聲を眞似て、他には何もわめく種も無いものだから、互に相手の子の苗字などを、呼捨てに呼びかはして居る。こんな氣の毒な正月が、果して何時まで辛抱し得らるゝであらうか。

(247)　此子供たちに、昔あれ程澤山にあつた正月の遊はどうした。ネンと云ふのは我々の根木又は根ん棒と謂ふものと同じで、端を尖らせた二叉の枝を土に打込み、相手の木を倒さうとする勝負であつた。又イハと稱する遊もあつた。薩摩で金輪投げと謂ひ、東國では破魔ころなどと謂つて、圓い輪の類を飛ばして互に受留める遊は、蝦夷から南の何れの村にも有つたが、此島にも亦盛に行はれて居た。マウジヤと謂つたのがそれである。南島雜話には此以外にも、多くの遊の圖が載せてある。それは皆どう爲つてしまつたか。子供の趣味も變るから、是非殘すと云ふことはむつかしからうが、他の地方では何か代りが出來て後に、昔の遊が廢つて居る。處が此處だけはさうで無い。

　以前は童名には何カナと呼ぶものが多かつたさうだ。弘く八重山までも行渡つた風習で、即ち我々の古語のかなし子、或は狂言に出て來るかな法師などと一つで、大切なものを意味するのだが、南の方では一般にオテダカナシ・オツキカナシ又は世の主カナシなどと、最も尊く且最も大切なものを、同じ語を以て敬うて居たのである。村の平和の爲に必要な年に一度の祭に、毎に子供をして重い役を勤めさせた例の多いことは、起源に於て此と何か關係が有つたかも知れぬ。ヤマトの孟蘭盆に該當する八月甲子のドンガの祭の前に、シッチャガマと名づけて十二三から十五六歳までの男の兒が、小屋を作つて田の神を祀る儀式が有つた。左義長の鳥小屋などよりも今一段と嚴重で、其爲に特に白酒を造り、名瀬の間切では豐作を?る祭文も有つた。それから九月十月の境に入ると、ハツブロと稱して種下しの祭があつた。竹の皮で作つた鬼の面を被つて、家々を巡つて餅を貰ひ集め、持つて還つて一つ處で烹て食べた。斯んな幸福な儀式も、もう無くなつたやうである。しかも沖繩の方では十二月八日のウニムチー（鬼餅）は今もまだ子供が樂んで居る。

　大人が信ぜぬやうになれば、祭の式は追々に遊戯に爲つて行く。其痕跡は他國にも多く遺つて居る。大島ではアツラネ若くはアスナネと名づけて、蝮の害を拂ふと謂つた四月壬の日の祭などは、昔から旅人の迷惑する儀式であつた。他所から來る者に釜土の泥を投付け、或は石を打つて疵を付けたことさへもあつた。御用の役人とても、理由を話し(248)て入らぬと打たれた。其他の人々には或は火の燃切れを踏越えさせ、或は委細構はずに追拂つた。東京其他の兒童が今も唱へる、「御用の無いもの通しません」と云ふ歌なども、やはり是と似た風習の名殘であるが今の大島の時計遊びの如きも、ことによると是非とも何かをして樂まねばならぬ童兒たちの、外にすることが無い爲に、自然に引寄せられた新種の惡戯であらうと思ふ。但し誰がこんな島まで之を運んで來たかに至つては、やはり大なる一つの不思議である。

　

　　　　　　　一一　阿室の女夫松

　

　屋喜内灣内でも、阿室などは殊に古い村である。阿室には男松女松と名づけて珍らしい二本の大木が有つた。遠方から聞傳へて見に來る程の松であつたが、惜い哉五年前の正月の大火事に、燒けてしまつて根株ばかり殘つて居る。御嶽の岡の昇り口に近く、トネヤ（殿屋）の西隣の神アシアゲの廣場の端に、小高い家形の地が其遺跡で、火事後に生れた位の子供たちが、朝から晩まで來て遊んで居る。

　神の御嶽の樹を伐つた祟りと、今でも村の人には考へられて居る。百二十戸の民家は何れも茅葺きであつた爲に、日暮方から燒け出して夜中には悉く灰に爲つたが、此二本の松樹だけは三日三晩の間燃えて居た。中がもう洞空になつて居て風がよく通るので、折々は?を天に揚げて、非常な勢で燃えた。老人たちは之を見て、皆慟哭したさうである。村は既に建て直つて繁昌して居るが、今でも松の話をすると涙を流す者がある。

　火元は濱近くに豚を飼ふ小屋であつた。山手へ吹き付ける風は強かつたが、岡一族の屋敷の奧に祀つた、辨天樣の脇の樹に、火の粉が盛んにかゝる頃から急に風向きが一轉した。他の一方では學校の大きな建物も燒け落ちたが、御眞影を御移し申した碇氏の新築が、たつた一軒だけ助かつたのも奇瑞であつた。斯う云ふ數々の不思議に感動した村(249)の人は、先づ急いで御嶽の拜殿を立派に營んだ。今まではシマタテカミサマ（島立神樣）と拜んで居たこの拜所を、今後は秋葉神社と稱へて崇敬することにきめた。遠い遠州の奧の山の火防の靈神が、果して何人の説に基づいて、阿室の昔の御嶽の神の名に爲つたかは、敢て聞いて見ようとしなかつたが、少くとも是は我々の謂ふ勸請では無かつた。土地の人たちは決して新たに御迎へ申した神とは思つて居らぬから、即ち單純なる改名に過ぎぬのである。社殿には御簾の中に黒く尊げな木像を安置し、又内地にしか見られぬ紙の御幣も立てゝあつたが、構造は却つて宮古の漲水御嶽などの新しい拜殿に近く、殊に其建物を廻つて奧の方の靈地は、干瀬即ち珊瑚礁の石を取繞らし淨い白砂を敷きつめ、全然先島方面の御嶽のオブと同じであつた。何でも大島の神道には、昔から此程度の歩み合ひがあつたらしい。不意の感激と云ふ特別の原因は有つたけれども、阿室の信仰には此以上に變化させる必要も無ければ、又其人も無かつた。

　それ故に御嶽は依然として能呂（祝女）が之を祭つて居る。さうして再建以來一段と其信心は引締つた。能呂の數は此村は五人である。ワキガミと謂ふ者を加へて七人、白い祭衣を着て神の山に登り、祭を畢へて下りて來るまで、何人も之を窺ふことを許されぬ故に、式の樣子は只彼等のみが知つて居る。最近の神秘は火災以後の五年間、年に何囘かの祭の日の夕毎に、能呂たちが下りて來ると直に其後に、御嶽の山で鉦の音がする。或は又鐵棒を曳く音とも謂ふ。つまり幾つかの金屬の器を鳴らして、岡の頂上を行く聲がするのである。村民は一人として之を人がするのだと思ふ者は無い。又互に相歎くほどに疏遠の中でも無い。稀に一度と謂ふことなら、耳の誤りとも思へるが、年に何囘となく小學校の先生も聞いた。佐賀から來て居る商人の江口君親子も聞いて居る。さうして御嶽の東に住む平田の人たちには聞えぬのである。以前信仰の今よりも盛んであつた頃は、白い馬に騎つて神樣の御出でなさるのが、御嶽の昇り口の處までは見えたと謂ふ。トネヤ（殿屋）を葺換へる時の祭などには、殊に明かに拜まれたさうだ。其御姿を拜したと云ふ老人も、まだ何人か達者で居る。

(250)　能呂は必ず血筋の者が相續するが、嫁に行くから家としては次々に移るのである。他の部落に縁付いた者でも、祭の日だけは還つて來る。數ある一族の婦人の中でも、相續すべき者は神樣には最初からきまつて居る。先づセイヲヒクと謂つて、生れた年月日に由つて合性がある。火性と金性とはまるで能呂に爲る資格が無い。木水土の中でも亦條件があつて、山の上の土などは高過ぎてよくない。自分と對坐して居た親能呂の老女は、水性であつてイヂュン（泉）の水であつたと謂ふ。

　泉の水ならば林の奧の泉では無かつたらうか。至つて物靜かな生れで、湧いて流れるやうな話は出來なかつた。幸ひに沖繩とはちがつて大島には、グジと名づくる男の輔佐役があつて、オモロを語り傳へ、又少しは哲學が説ける。其グジの數も五人である。やはり性に由つて神から指名せられる。神のオモラヌ（在さぬ）日には、なんぼ信心しても無用である。天に七日、此娑婆に七日、龍宮に七日と昇りに七日とを御過しなされる。一月の中に七日しか無い祭の日を、私等だけは數へることができるのだと、その親グジの奉本翁は自分に語つた。

　

　　　　　　　一二　國頭の土

　

　加計呂麻は東西に細長い島だ。北に瀬戸を隔てた大島の多くの岬が、日を帶びて灣内の靜かな水に映る景色は、南の海では見られない趣であつたが、今斯うして冬の緑の山に分入り、切開かれた赭土の坂路を、昨日の雨の濕りを踏みながら登ると、再び國頭の遠い山村を巡つて居るやうな感じがする。其上に折々出逢ふ島の人の物腰や心持にも、まだ色々の似通ひがあるやうに思はれた。海上は二百浬、時代で言へば三百年、もう是以上の隔絶は想像も出來ぬ程であるが、やはり眼に見えぬ力が有つて、曾て繋がつて居たものが今も皆續いて居る。

　獨り昔の生活の痕が、殘り傳はると云ふのみでは無い。沖繩では近年階級の制限が殆と無くなつて、婦人の簪など(251)は上下一樣に銀色のものを用ゐて居る。首里の王城の片脇にも、既に此ばかりを作つて居る小店が有る。處が久しい間沖繩の簪の制と、何の交渉も無かつた筈の道の島々の女たちまでが、悉く在來の簪を罷めて、今は銀色のを挿し始めた。しかも其形が稍々長く細く、又端が劍のやうには尖つて居らぬから、南の沖繩本島の流行を追ふのでも無い。言はゞ彼等の黒い髪の毛に、白くして光あるものを取合せたいと云ふ趣味が、雙方一度に表はれたまでであらうが、それにしても何人にも知られずに、雙方が久しく此傾きを保持して來たのは、少くとも歴史の説明を超越した、寧ろ天然の原因があつたからである。

　普通の歴史には、大島群島が琉球の屬島と爲つたのを、文明三年以後のやうに書いたものもあるが、是は誠に誤解の虞有る説である。中山の世の主に些しの貢物を納めるか納めぬかは、單に或時代の浦々の按司の家の都合であつて、島人たちは夙に同じ衣を着て同じ語を話し、同じ季節と方法とを以て村々の神を祀つて居たとすれば、即ち國は始めから一つであつたのである。それ故に所謂君々の機關が王家の制御を受け、俗界の君主が宗教の力を利用して、之に由つて三十六島の統一策を行つたときには、北の方の島々も甘じて其節度を受けて永く渝らなかつた。即ち征服せられたのでは無くして、草木の風に靡くが如く歸服したのである。

　大島では能呂久米の首領を御印加奈之と呼んで居た。御印とは首里から出した辭令書のことで、之を持傳へた能呂なる故に、御印加奈之とは謂つたものである。島津家の支配に爲つた慶長十四年以後も、なほ暫くは祝女だけは沖繩から任命して居たのを、寛永の初に至つて禁止してしまつた。さうして以前貰つて置いた御印が、愈々尊いものに爲つた。それから後も百年ばかりの間は、一生涯に一度だけは大島の能呂久米、首里に出て往つて聞得大君に見えることを許されて居たのが、享保十何年かにはそれも亦禁ぜられた。併し小舟で荒海を凌いで、潜かに國頭の土をふむ者は絶えなかつたやうに思はれる。近世の記録に依れば、大島の能呂は何時の頃よりか二頭に分れて居た。甲を眞須知組と名づけ大和濱から南は之に屬し、乙は須多組と謂つて北部名瀬の周圍の數間切を支配した。シゥタは分家又は次(252)男の筋を意味するやうだ。マスヂは素より嫡流と云ふことである。須多が多く傳來の法式を省略し、又大和人の刀自と爲ることを禁じなかつたに反して、他の一方は今に古法を執し、内地人に嫁することを許さなかつたとある。これが本島の南から佳計呂麻の村々にかけての、今日までの宗教である。

　屋喜内方には有名な湯灣五郎の話が有る。虻一匹から金持に爲つた今昔物語の話にも似て居るが、史實で無いまでも昔の趣だけは傳へて居る。五郎は湯灣の村の生れで、家貪なるが故に人之を糠五郎とも呼んで居た。後に本琉球に渡つて、出世して按司の號を賜はり、佐渡山與名原の親方等は、彼が子孫であると傳へられる。其頃琉球の風習として、國王世子の始めての宮參りには、誰にてもあれ途中で最初に行逢うた人を頼んで父と爲し、それだけ結構に取立て、按司などにも召出すことであつた。五郎は其身の微賤を恥ぢて、遙に御神詣での行列を望んで道を變へて遁げ隱れようとしたが、王子の御供の面々に於ても、あまり風體の良くない男が來るので、避けて間道を通つたが爲に、思はずも雙方行逢ふことゝなつた。其名を問へば秋山の野夫湯灣の五郎なりと名乘つた。古の法なれば貴賤を論ずべきで無いと、終に王子の義父として、一躍して按司に爲されたと傳へて居る。

　瀬戸の靜かな海へは木や絲芭蕉を積みに、多くの山原船が入つて來た。那覇の港のうかれ女なども來て稼いで居る。久高の島人も古くから、こゝに來て永良部鰻などを捕つて居た。暇あるときは故郷を思ひ出して、色々の歌を歌つたでもあらうが、彼等ばかりの平凡な空想からは湯灣の糠五郎は生れさうにも思はれぬ。

　

　　　　　　　一三　遠く來る神

　

　沖の永良部の後蘭村では、沖繩世の主の墓と云ふのが御嶽になつて居て、今も年毎に遺骨を洗ふ祭りがあるさうだ。近世の琉球語では、世の主は即ち國王であるが、骨を留める程の新しい世代に、海の北に流寓して果てられた王は無(253)かつた上に、之と略々似た昔語は亦處々の小島にもある。もし單純な能呂久米の夢で無かつたとするならば、即ち分水嶺を以て限られた多くの小さい社會に、曾ては個々の世の主が支配したこともあつたことを想像せしめる。而も所謂百浦の按司たちの事蹟は、島の端々に行くに隨つて、痛ましい迄に埋もれて居る。中山の歴史家が始めて古傳を集成したのは、第五王朝も既に百數十年を過ぎて後であつた。祖先を慕うて止まぬ山北の遺民に取つて、今歸仁王都三代の榮華は、偏に一抹の山の霞の如きものであつた。

　北山古城の本丸の迹には、勇猛なる最後の王攀安知、劍を拔いて斫つたと傳ふる、嘉那比武の神石が今尚在る。逆臣本部大原の謀計に由つて、闘ひに勝つて還つて見ると、城は空虚と爲り妃嬪は悉く溢れて死んで居た。護國の神今は何かあらんと、大に憤つて其神石を劈き、分つて四塊と爲したと謂ふ、石の長さ五尺許、青色堅實なり、十文字に割れて居ると、遺老説傳などにはあるが、今見るところは二尺以内の灰色の石で、竪に只二つに割れて居る。遺老説傳は二百年前の書物、其前がまだ三百年ほども有る。此だけ永い歳月の間には、幾ら石でもちつとは變化しさうなものだ。それにも拘らず毎年夏秋の境には、遠近の村々から依然として萬を超ゆる士民が、此古跡に登つて來て、家々の拜所に香を燒いて巡るのである。

　思ふに是も亦、至つて自然なる人の心であつた。昔は固より過ぎて形を留めざるものゝ名であるが、猶之を思ひ慕ふとすれば、眼に見え手に觸れる何物かに據つて、辿つて行かねばならぬ。しかも都城は覆り史書は絶えて無く、祖先の日は益々遠ざかつたのである。身内に別れて寂しい不幸の日を送つた者は言ふに及ばず、富榮えで眷屬の多い人々でも、田舍では徒然なる夜の物語などに、此世の始と我家の始を、もつと精彩に知らねばならぬと、考へる折が多かつたことゝ思ふ、しかうして此要求に對しては、村々には物知りと稱する女性が居た。

　物知りは沖繩の方では、ユタと呼ぶのが普通である。大島佳計呂麻などでは正神、又ホゾンカナシとも謂つて居た、本尊と頼む神佛の力に由つて、只の人の目には見えぬ者を見る。故に其謂ふことが信ぜられた。今まで不明であつた(254)高祖の名でも事業でも、之に聽けば忽ち闇の園の燈火であつた。乃ち導かれて處々の故迹を巡り、絶えて久しい祖先の俤に對面した。唯不自由なのは北に寄つた山邊海邊には、花やかに延び榮えた思ひ出が如何にも少ない。優れた武士は戰つて多くは斃れて居る。又は南の平野から、遁げて來て世を狹めて居る。ユタとても信ずべからざることを語ることは出來ぬ。それ故に國頭の古い歴史は、終に晴れたる海の色の如くなるを得なかつたのである。

　尚圓王の興隆は此點から見ても世の濟ひであつた。此王は沖の小島の伊平屋から身を起して以前の鮫川大王などの如く、直に小舟を遠い佐敷の濱に寄せず、海を横ぎつて宜名眞に移り、奧間に遁げて鍛冶屋に助けられ、漸く南して久志の間切に入つたが、美しい汀間のミヤラビ（少女）を娶つて、爰に又二男一女を儲けるほど永く留つた。此傳記の何れかの部分は傳説かも知れぬ。しかも人は信じたいと思ふものを信じ易い。八郎爲朝は菊池幽芳君を須たずして、既に立派な沖繩の英雄であつた。況や國頭の物知りたちは、寂寞として久しく此の如きニライ神の遠くの島より寄り來らんことを待つて居たのである。

　自分は雨のふる或日の午後、福木の高く茂つた汀間の里を訪れた。山には躑躅が咲き鳥が鳴いて居る。若い英雄の戀語りを傳へた金丸川の泉は今も流れ、もし此日が夢ならば尚更に美しいがとさへ思はれた。金丸御殿に仕へるのは由緒ある昔のノロであつた。久志村の青年等は、ユタをば最早正しい職務とは認めて居ない。もし彼女が新しい豫言と啓示をすれば、乃ち之を信ずまいとする故に、古くからの夢語りのみが、愈々歴史として固定して行くらしいのである。斯うして人間の空想を制限して行くことが、幸福なものかどうかにはやゝ疑ひがある。此から後の百世に對する我々の好意と期待、又自分ですらも忘れて行く數々の愁ひと惱みは、實は民族の感情に最も鋭敏な、やさしい女たちの力に依らざれば、とても文字などでは傳へて置かれないのである。

　汀間の入江の岸には、歌で名高い汀間の神アシアゲがある。壁も簀子も無い森閑たる建物で二列に繞つた澤山の柱の間から、遠い大洋の水が眺められる。初夏の曉の靜かな海を渡つて、茲に迎へらるゝ神をニライ神加奈志と島人は(255)名づけて居た。大島でナルコ神テルコ神と謂つたのも同じである。しかも北東に面した久志の沖は、餘りにも茫洋として居る。伊平屋久高が神の島として遙拜せられ、人界の英俊も亦之に據つて出たのは、やはり我々の空想にも、何か具體的な飛石のやうなものを必要としたのではあるまいか。

　

　　　　　　　一四　山原船

　

　恩納の仲泊から美里の石川まで、島の幅が此邊では僅に三十町しか無い。大昔、神が未だ草木を以て此國を惠まざりし頃、東海の波が西海へ打越し、西の波は又東へ越えたと傳へるのは或は此近所の事かも知れぬ。今でもサバニと稱する小さな刳舟だけは、人が擔いで陸の上から往來し、遠く邊土名喜屋武の岬を廻る勞を避けて居る。内地の府縣で船越と云ふ多くの地名は何れも曾て此方法に由つて、小舟を別の海へ運んだ故跡である。島尻郡の方にも玉城村富名腰が有る。又同じ郡の佐敷村、八重山石垣島の伊原間などに、フナクヤと云ふ地名があるのは、皆この船越のことだらうと思ふ。

　近い頃までのサバニは、皆國頭の山の松樹を刳つて造つて居た。絲滿の漁師たちは遠く屋久島の杉を買求めて、追々に其船を改造し、猶鱶の脂を船と船具とに塗つて水を防ぎ、飽くまでも輕快に海上を馳驅しようとして居る。しかも山の良い樹は次第に乏しく、眞の丸木舟はもう殆と見られなくなつた。刳舟の縁にも他の材を綴附けて形を作り、其隙間を白い漆喰で留めて居る。仍て又綴舟の名もあるのである。

　道の島では小舟をスブネと呼んで居る。クルブニの名は今も有るが、もう其姿を見ることが稀で、之に代つて板附と謂ふのが多く用ゐられる。板附も形は絲滿人の刳舟に近いが、大小の板を釘で打付け、艫の方にも三角の板が角を下にして張つてある。此板には墨と一二の繪具で古風な模樣を描くのが習ひである。其中でも瀬戸の入江で幾つか見(256)た三本杉のやうな繪樣などは、本來南の島々には無い樹であるだけに、何か熊野の信仰とでも因が有るかと思はれてなつかしかつた。

　遠い國地の珍らしい文明を、先づ見て來るものは船であつた。それ故に最初は蒲葵の帆を掛けて支那の物見の役人を驚かした島人も、久しからずして福州あたりの造船所に依頼して、新しい立派な進貢船を造らせ、次では那覇の船大工が其型に由つて、大きい船を工夫するに至つた。淋しい山原の磯山蔭で作り出す船が、西南數百里の外を走つて居る支那のジャンクと、此樣によく似て來たのも偶然では無かつた。しかも其改造の更に以前を溯つて見ると、島人は出でて新しい物を?めんが爲に、兎に角に自ら渡海の船を持つて居たのである。

　島では人よりも船の方が早かつたわけである。然るに八重の汐路の先島に於ては、アマミコが碧空より降つたと云ふ神話はもう無くて、却つて船の始の物語が傳はつて居る。竹富島では島仲粟禮志の幼き兄妹、或日濱に遊んで形半輪の月の如くなる物が、海上に漂ひ來るを見て、木を伐つて其制に倣ひ、始めて船と云ふものを作り、之を五包七包と名づけて濱に泛べて樂みとした。其玩具の小船、後に又流れて隣の黒島に行き、黒島の人は之を大きく拵へて、漕ぎ乘つて竹富に遣つて來て、始めて子供たちの神から學んだ術であつたことを知つたとある。

　同じ話の變化かと思ふ話を、又宮古島の仲間御嶽にも傳へて居る。狩俣村で小舟を造ることの好きな子供、父が中山に往つた留守に父の船を眞似て小舟を作り、父を思ひつゝ毎日海に浮べて遊んで居ると、或時風波荒れて小兒は溺れ死し、小舟ばかり百里の海を漂ひ、那覇の港に流れ着いて、父之を拾ひ上げた。形が我船と同じいのみか、仲間御嶽の靈石が之に載せてあつたので、我兒の運命を知つて大いに歎き、その小舟と靈石とを携へ還つて、今に之を尊信すると謂ふので、稚い兒と神とが此の如く、共に最初の造船には干與して居たのである。

　昔の船の安全は半ば之を神の力に托して居た。八重山の船は蜈蚣の形を眞似て、イノー（龍卷）を制御する手段とした。今の山原の船にはちやんと眼球が描いてある。瞳を稍々片脇へ寄せて、支那の船よりも一層眼球らしいが、如(257)何なる理由でか之を艫の方に附けて居る。しかも盖敵を防ぐの術としては、此だけでも十分であつた。現に十八年前にパルチックの艦隊が來た時にも、或山原船は港の燈火と見誤つて、洋上に假泊して居た怖ろしい敵艦の眞中に船を漕入れた。ところが其頃まで髻を附けて居た國頭の船方たちは、其語音を聞いても到底日本の愛國者とは見えなかつた爲に、何の仔細も無く放された。それから大いに走つて八重山に來て電信を打つたが、其時にはもう對馬海峽の大戰は終つて居たさうである。時間が其樣に大切な場合には、彼等も今は機關のある船に乘つて居る。絲滿の漁民なども刳舟を定期船に積んで、自分も船客と爲つて内地に往來する。さうして船に醉うたりなどして居る。昔の航海は年に一度の風をでも待つた。永い年月の間に、子が親となり祖父と爲る期間に、人は徐々として偉大なる變化をしつゝ進んだのである。

　

　　　　　　　一五　猪垣の此方

　

　昔からの村には泉に據つて、山の中腹に住むものが多かつた。島が平和に爲つてから、次第に廣場へは下りて來たやうである。近世は又山林愛護などの爲に、法令を以て村を遷した場合も有つた。村の周圍には燃料其他の用に、若干のアタイバル（垣内山）を付與し、殘りの山野は公共の地であつた。原屋取と名づけて首里那覇の困窮士族が、入込んでは新しい部落を立てたのも此原である。明治以後の屋取人は、今でも質素以下の暮しを續けて居る。彼等の大部分は元の侍であつたが、剛健なる山原の氣風を毀すほど、町風の生活には前からも染みて居なかつた。さうして爭うて好い兒を育て、家運を興さうとする努力が、附近に居る舊住民の爲にも一つの刺戟になつて來た。

　霜雪も知らぬ山ではあるが、やはり天然の力と闘はねばならなかつた。峰續きの隙間も無い林から、緩傾斜の一角をかこひ取つて畠に拓かうとするには、長い石垣を築き繞らして、山から來り侵す者を防止せねばならぬ。紀州の南(258)熊野、又は豐後日向の境の村などで見たものと構造が同じで、國頭に於ては之をイヌガキと呼んで居る。狗は内に在つて守る者、猪垣を狗垣と謂ふ筈が無い。是はなほ昔の語の名殘であつて、曾ては野猪を單にヰと謂つた時代に、ヰの垣と呼んで居たのが、意味無しに傳はつたものだらう。

　今日では野猪はヤマシシと謂ふのであるが、之に由つてシシガキと云ふ語を作るにはまだ故障が有つた。何となればシシは沖繩では、宍即ち食用の獣の肉の總稱であつて、今の我々のやうに只一種の山の獣だけを、意味しては居ないからである。

　内地の方でも田舍に往つて見ると、シシが宍人部などの宍と、もと一つの語であつたことが直に分る。例へば鹿をカノシシと謂ひ、羚羊をアヲシシ、カモシシ又はクラシシなどと謂ひ、九州の島などには、牛を田ジシと呼ぶ所さへもある。唯宍を食ふ慣習が夙に衰へた爲に、何故に肉を以て獣の名とするかを、久しく忘れて居たと云ふだけである。沖繩の方では引續いて宍を用ゐて居た。故に山のシシ即ち野猪に對して、牛を田のシシと謂つたのが最も自然である。鹿を産するは慶良問群島の、座間味の島だけに爲つてしまつたが、カノシシの代りに之をカウノシシと呼んで居る。鹿の宍に一種の臭氣がある爲か、さうで爲ければ其鳴聲に由つて付いた名であらう。

　豚は一般にワと呼んで居る。チェンバレン氏の語典には、羅馬字でWwaと書き、鳴聲から來た名であることは、誰も之を疑ふものが無い。先島の人たちはWwoと謂つて居る。さうして見るとヰノシシのヰも、其理由は同じやうに簡單で、我々も一度は其ウィー／＼の聲に耳馴れるまで、親しく接して居たことが知れるのである。それを忘れてしまつて山に住むのをヰノシシ、家に飼ふのをヰノコなどと、區分したのはをかしかつた。尤も沖繩でも、區別の爲に一方をワ、又他の一方に居るのを、ヰと謂つた時代があつたかも知れぬ、前に申したヰノガキの外にも、婚禮の式の改まつた料理に、必ず出さねばならぬ野猪の吸物を、ヰヌムルチなどと呼ぶ例が遺つて居る。

　正月の食べ物には、餅よりも更に缺くべからざるは即ちこのワノシシである。暮には大抵の家でワを屠つて、我々(259)の彼岸の牡丹餅のやうに、遣つたり取つたりを盛んにする。此にも久しい由來の有つたことゝ思ふのは、家の記憶は最早失つた内地の國々の武家に、春の初の野猪の料理を重んじたことである。支那と交通して居たから支那から來た風習だらうなどと、よい加減に珍しがつて置いて今までは濟んで居た。さうして古い日本は埋もれて行つたのである。

　北太平洋の島々には野猪は到る所に住んで居た。島に猪が居り又土人が居れば、必ず之を捕へて來て家に飼うて居る。野猪が家猪に爲るのはそれ程手輕であつた。馬や猿ならば藝を仕込まねばならぬが、猪は檻の中で繁殖さへしてくれゝば即ち家畜である。獨り馬來の島々の囘教徒は之を惡み、山に居るのをも忌んで却つて跳梁させた。我々の島では少しづゝ食つたが、活かして貯へる程の必要は無かつたから、そこで昔の猪養の徒は轉業した。田神の祭に供へ來つた白い猪の種も切れて、近江の山で生捕つたヰノシシに、胡粉を塗つて間に合はせたと云ふ話も殘つて居る。さうして山にも澤山の山シシが住むのに、同じやうな黒い小さいのを、遙々船に積んで沖繩だけへ、持込んだ人が有ると云ふことに、歴史家にきめられようとして居るのである。

　奄美大島にも山にはヰノシシが居り、里にはワが孳殖して居る。少なくとも三百餘年の分立前から、ワは既に島人の生活に伴うて居たのである。更に今千年ほど以前に溯れば、大和の京でも其通りであつた。我々は只猪垣の此方の側で寧ろ不自然なる生活を忍びて、宍を食はずに居たのであつた。

　

　　　　　　　一六　舊城の花

　

　歌に名高い浦添城外の廣場は、後に久しくこの間切の番所であつたが、世が又改まつて爰に大きな小學校が建つた。さうして櫻が咲いて居る。桃よりも彼岸櫻よりももつと紅い花で、去年の葉の蔭に咲いて居るのは殊に珍らしい。眞青な明るい大空が、花と故城とを蔽うてぢつとして居る。昨日が立春と謂ふ二月の四日だが、まるで我々の内地の五(260)月のやうな日の光である。

　城の石垣の上に立つと、干瀬の美しい東西の海が一度に見える。島の歴史の八百年が見える。嘉津宇嶽の向の麓が運天の港で、彼處には百按司の骨が朽ちて殘つて居る。身長が六尺何寸、弓は三十人力と云ふ青年將軍が、大和から漕寄せてそこに上陸し、渚傳ひにのつし／＼と遣つて來て、やがて此下の牧港を出て還つてしまつた。殘波岬の波は其時分から、今に至るまで此島の女たちが、眺めては泣くべき波であつた。恩納岳は東へ靡いて山の姿がしをらしい。あの麓では女詩人の恩納なべが、戀を歌ひ又大王の�ｺを頌した。

　殘波を見下して座喜味の城山が聳えて居る。昔山北の鎭めに此城を築いた時は、鬼界大島からも人夫が來て石を運んだ。讀谷山に居た間は護佐丸も安泰であつたが、如何に堅固の要害でも、中城はあまりに勝連の城に迫つて居た。それ故に終に奸雄阿麻和利と「兩立することが出來なかつたのである。しかも今はそれがもう物語と爲つた。斯うして見て居ると唯香久山と耳梨山の、昔の爭ひを思出すばかりである。

　南は佐敷大里の山々にも、曾て幾度か矢叫び鬨の聲が山彦を喚んだ。英雄の郷里は必ず多事であつた。其間には又巫女の最も靈なるものが、夢から覺めて神異を語り、或は遠い國から小船に乘つて還つて來た。世治まつて人の信仰が稍々平凡に流れようとすると、忽ち神女は與那原の沖に天降り、薄紅の狹霧に包まれて入江の水に浴みした。歴史は此ほどまでに單調を憎んだけれども、しかも今見る物は只の林と、海と砂濱との他に何が有るか。

　此城なども榮えた時世よりも、淋しい間の方がずつと永かつた。あかい櫻が山に咲いて居た無爲の日に遣つて來て、恐らくは或日の大和の船頭殿加奈之なども、茫然として此昔を眺めたことであらう。如何なる種類の船頭殿であつたか、それも悉く今は不明に爲つたが、安波茶の友盛御嶽は即ち此人の塚で、永く旅客の神として祭られたと謂へば、來て居たことだけは確かである。日秀上人の來た頃にも、もう沖繩は平和であつた。但し邑人が餘りに妖怪に惱まされるのを氣の毒に思ひ、一字一石の經を寫して經塚を築くと、それが後には又御嶽と爲つて拜まれる。爲朝公の北の(261)方と若君が、船出の別を惜みに來たと云ふ牧港の岩屋なども、固より立派な拜所で、南に峙つ英祖の森城、此浦添の城の神、さては北の蔭に世を隔てたヨウドレの古陵と共に、史蹟は總て皆香の煙を以て保存せられて居る。さうして史蹟でも無い空つぽの昔が、其煙のやうに薄れて行くのである。

　首里の岡には松がまだ茂つて居る。浦添から見ると少し低くて、百浦の山を見渡す雄大な趣は此に及ばぬのに、夙に文明の中心が彼方へ移つたのは、單に風水の教への爲ばかりでは無かつたらう。王都の氣勢を支持すべき海の津が、那覇と泊に於ては猶深く、安謝と牧港は先づあせた。山を拓けば土を流す、泉を汲めば流れが細る。つまりは早く榮えたが爲に先づ衰へたのである。併し處は衰へても、人は移つて猶榮えた。浦添の按司が立つて中山に王と爲れば、鐡を積んで牧港に來た大和の船も、やがて泊の橋の下に、紙や絹を運んだのであらう。況や陸より行けば手が屆くほど近い。松を竝木にした石道の珊瑚岩を、朝出ては暮に戻る幾千萬の男女の足が、斯うして石の角の圓くなるまで、登り降りをしつゝ、終に又新都を古くした。

　首里は清水の永久に美しい町である。しかも聞得大君は辭し王は去つて、百浦添の南の芝生には、盛んに大葉酸漿の花のみが咲いて居る。

　

　　　　　　　一七　豆腐の話

　

　沖繩の新聞に依れば、那覇の遊女病院には、何時でも七八十人からの若い女が入つて居る。之を見舞ひに親切が三分、風流が四分と云ふ位な友人たちが、毎日何人か遣つて來る。見舞の品物は、以前は主として刻煙草であつたが、此頃では豆腐が多いと云ふことである。若い女には法律も怖いが、それよりも公然と煙草をのんで居ると、未成年者で無いと思はれるのが、猶一層こはいのであらう。それに比べると、豆腐は誠に罪の無い流行である。

(262)　暖かい南の國で有りながら、沖繩にはどうも白い色が豐かで無い。野山は一樣に冬も深い緑で、處々に花の紅を以て點綴する。島を取繞らす干瀬の浪だけを例外にして、大小の船の帆にも褐色のものが多い。?の羽の色も必ずしも白では無い。濱の眞砂の一文字も、遠く見れば所謂クリーム色であつて、之を運んで敷きつめた作り路も、リボンのやうで美しいが、やはり黄を帶びて緑と映じて居る。人間に在つても白を重んじ過ぎたと云ふものか、日常の生活には他の色のみが多く行はれ、島人は殊に年久しく山藍の香を愛して、其色に親しんで居たのである。普通の家の臺所などは、どこの國でも白いのは鹽ばかりで、勿論沖繩だけの特色とも謂はれぬが、實際これまでの民家の色は、此島では頗るくすんで居た。今や因習の縛めが時代の手にほどかれ、ちやうど朝鮮で平民の衣服が、晒しから染へ復つて來るやうに、琉球の家庭で白の自由を求めるとするならば、趣味の變化が豆腐から始まるのも不思議では無い。第一には物が手輕である。それにあの白さと云ひ、柔かな光と云ひ古色に倦んだ永年の眼を休める爲に、假に豆腐が食ふ物で無かつたならば、見る物としても亦必要であつたのである。

　豆腐の色は常に新しいが、其流行は殆と極度に達して居る。西宿の名護街道などを通つて見ると、買ふ家の數よりも多くは無いかと思ふ程、どこの家でも豆腐を造つて賣つて居る。表を圍うた石垣の片端、例のガジマルの樹蔭などに、麥酒箱を少し毀してそれへ板硝子を嵌め、僅かの豆腐を竝べて其箱を枝に吊り、又は杭の上に載せて居る。所謂人無しあきなひである。傍に寄つて覗くと、多い時も二梃か三梃、或は庖丁で切つて半分だけ賣るものもある。買人が無ければ晩には引込めて、多分我家で食つてしまふのであらう。

　以前は斯うでは無かつたさうである。察する所他府縣とは違つて、豆腐は家々で手作りにするのだが、器の都合などで一日の用ゐには餘るのを、かこうて置くよりは望み手が有れば讓つてしまつて、明日は又新しく作らうと云ふ、家刀自の才覺からで、しかも考へて見ると海道の軒の草鞋や馬の沓、元は斯う云ふ類のあきなひが他にも多かつたのである。それが豆腐を食ふ家の多くなるに比例して、軒出に小さな豆腐屋を見るやうに近頃爲つた。有名な「豆腐屋(263)へ二里」の狂歌などは、まだ此の心安い境涯を知らぬのであつた。

　肥後では球磨の下駄ふみ豆腐などと謂つて、人吉領では低い木の臺に載せて賣つて居た。沖繩でも同じやうな臺を用ゐて居るので、よく見るとそれは豆腐を作る箱の蓋を逆さにして其儘用ゐて居るのであつた。此邊の豆腐は搾つてから後に烹ると謂ふ。箱も蓋も共に釜の中へ入れると見えて、その押鮓の蓋のやうな下駄が、黒く水じんで居る。或は又我々の雪花菜の如く、大きな桃の形をした豆腐もよく見かけた。夫を四つにも八つにも切つて賣る。野武士の如き剛健なる豆腐である。華麗繊細なる都の絹漉どもをして、面を伏せ氣萎えしむべき豆腐である。それをば不幸なるアングワたちは食べて居る。

　辻の一廓には按摩の笛は無い。又ちりん／＼と鈴を鳴らして通るのは、只三世相の先生だけである。併しトーフイの聲は今や衢の夕を壓せんとして居る。田舍の邑里にも二里一里の間に眞の豆腐屋が今に出來るだらう。そんな未來には構はず村々の貞淑な女たちは、黙つて豆腐を作つて半分を賣つて居る。首里から岡を越えて那覇へ出る道を、晴れた日には幾人と無く桶を頭に戴き、泊の製鹽場に鹵汁を汲みに往來するのは、何れも白い豆腐の樂みを隣人と分かたんが爲に、勞苦する所の女性である。以前は濱に下つて海の水を汲んで還つたさうだ。松風村雨の昔とても、潮汲むわざはさう風流では無かつた筈である。

　

　　　　　　　一八　七度の解放

　

　平敷屋朝敏、才華は在五中將の如く、生涯は猶遙かに數奇であつた。どこの國でも策略を以て、老いたる政治家と闘へば敗れる。彼が十四人の同志と共に安謝の濱邊で斬られたのは、其三十六の歳であつた。妻は官に没せられて婢と爲り、孤兒は與那國の島に流され、今はもう家の衰運を歎くべき子孫も殘つて居らぬ。

(264)　天久の人里をすこし過ぎて、安謝の悲しい故跡へ下りて行かうとする坂の口に、道に面してナヽユーフィの墓が有る。近世式の見事な墓穴の前に、石を建てゝ詳しく故事を録して居る。ナヽユーフィは七度身を賣つて奴と爲り、七度身を贖つて後終に長者と爲つた人である。父に事へて斯程までに苦しんだ故に、至孝には天の御褒美が有つて、其末永く昌えて所謂血食の幸を享けて居る。

　路を隔てた岡の田を、又七ユーファとも呼んで居る。孝子が月の光で耕作をした遺蹟だと謂ふさうである。即ち連綿とした同じ家に、傳はる物語であらうのに、しかも遺老説傳の七與平利富を此地であつたとすれば、二百年前には全く別の由來記が有つたのである。漢文で書いた爲に精確で無いが、往昔の世天久に七人の男あり、共に身を某家に賣つて僕と爲る。家主は安謝の境に在る百二十歩の田圃を彼等に與へて、其利用の費に備へしめた。七人は善く主家の爲に勤め、暇ある時には兼て私用の田を耕し、數年の中に若干の米を貯へ、之を納めて七人一度に身を受けた。之を聞く人皆奇且異なりとし、遂に其地を名づけて七僕贖身之圃と謂つた。俗に七與平利富と稱すとある。ユーフィと謂ふのは、赦免を意味する古語かと思はれる。しかうして七つを一人の事と解すれば、其奇は愈々傳ふるに足るのである。

　昔の奴婢の主は此ほどに寛大であつたが、しかも身賣には年季と云ふ制が此島には無く、いつ迄經つても身の代を償はねばならぬこと、恰も我々の本物返しの如きものであつた。氣根の弱い者には一度でも身は拔けぬのに、七度とは誠に恐ろしい忍耐である。子孫に非ざる者も景慕せずには居られぬ。但し我々が若しユタなどの告げに逢ふならば、更に一歩を進めて聞いて見たいのは、其七ユーフィの高祖の又前の親は、果して如何なる事業を心掛けて、最愛の倅を七度も賣らねばならぬ程、金穀の必要を感じて居たかと云ふことである。或は寒中に鯉や筍を註文するやうな、支那上代の舜の父のやうな、分らぬ慘忍な人では無かつたか。

　自分は曾て揚子江を溯り武昌に遊んで、李白の詩に名高い黄鶴樓に登つたことが有る、樓には題詞が多く、坂路に(265)は乞食が多かつた。其石段を半ば降ると、前に行くのは出羽海見たやうな親爺さんで、其衣裳に全く隱れて、青い青年が一人附添うて居る。別に痛風でも無ささうな老人だが、ステッキはかう突くものと云ふやうな手をして、息子の肩を力一杯に?んで居た。多く見た中でも此孝行が最も慘酷であつた。支那の孝道は宗教であるから、之を論ずると冒?になるが、我々日本人には幸ひにして、天下の人の父と共に、孝行を受けるの道を講究するの自由がある。七ユーフィの父の如きは、正しくユタの夢にも現れる資格の無い、惡い魂であつたらしいのである。

　所謂男逸女勞の問題なども、之と同じく二通りの見方がある。刀自が夫を思ひ子女の行末を考へて、働かずには居られぬのならやさしい心掛けだが、所謂妻子珍寶及王位の思想では、もう我々はぢつと見ては居られぬ。多分そんな動機からではあるまいが、沖繩には時としては、良い兒の出世と共にひどく安心して、働けなくなつてしまふ親が少しづゝ有るらしい。此は其家に取つては不幸な出來事であるのに、之を又羨んで中途から、金を出して親に爲つて見たい人が居て、取子の習ひがいつまでも濫用されるとも聞いて居る。

　妻を求める爲に貯蓄せねばならぬ國の人を、氣の毒なものだと我々は常に謂つて居るが、村と村との間に遣るのを損と考へ、家と家との間に貰ふのを得とするやうでは、是亦一種の孝行貞節の評價ではあるまいか。中學の生徒には嫁の入用な筈は無いのに、處に由つては入學の條件として、不婚誓約をさせる必要があると云ふ話もある。幾ら誓約しても道�ｺを改良せぬ限りは、古風な勞働組織の束縛は止まぬであらう。どうか今一度健氣な多くの好青年を解放して、自由に心から其親を愛せしめたいものである。

　

(266)　　　　　　　一九　小さな誤解

　

　　　　　　　　　　上

　

　虚誕は書いて無くとも江戸時代の來聘記の類には、琉球を異國と見て珍らしがつた形が有る。之に比べると馬琴の弓張月の方は、利勇と毛國鼎とが爭つたり、爲朝の助けたのが尚寧王の姫君であつたり、わざとかと思ふ椿説は多いが、氣樂に時代の距離を短縮した一點を除けば、其態度は所謂寫實であつた。國姓爺などとはちやうど正反對に、我々二つの島の者が、大昔手を分つた同胞では無いかと云ふことを、此書に由つて感じ始めた者も多かつたやうに思ふ。さうすれば又尊敬すべき一の先覺者であつたのである。

　忠臣毛國鼎の如きは此椿説に由つて、太田道灌同然の從容たる態度で、辭世の三十一文字を遺したことにせられて居る。其歌が大出鱈目で、今評判の笑ひ話であるが、猶辯護をすれば中世の沖繩武士に、假に此種の文雅と高尚な名譽心が有つたと見ても、それだけは必ずしも無理な空想でなかつた。支那の學問に向つては、沖繩には五山僧以上の獨占者が有つた。久米村三十六姓の末は即ち是で、彼等は之に由つて此方面の交通を立塞いで居たのである。其階級を除いた一般の上流に取つて、文藝の標準はやはり山城の京であつた。關東奧羽の果よりも、更に因縁が薄く見えるのは單に路の遠近に比例したまでである。

　二百餘年前の混效驗集を見るに、伊勢や源氏の物語類から、徒然草太平記など迄が豐富に引用せられて居る。是が慶長の琉球入以後に、悉く薩摩を經て持込まれたものと考へる人は誰も有るまい。舊文明の誇りとしては、大和にも例の無い平假名文の石碑が十幾つかも殘つて居る。何れも唐風景慕の最も盛んな十六世紀に屬して居て、しかも借物(267)とは思はれぬ程度に、島の言語を書現して居る。公式令から頽れた我々の唐風に反して、此時代の下文も假名書きであつた。書體は世尊寺樣だと謂つて居る。月の十八日の和歌會の式に、細道の文臺を説くなどは、大内菊池等の風流大名たちと、異なる所が無かつたのである。

　聖禅二道の僧も多く入つて居る。權現の信仰は專ら熊野の系統であつた。彼等に假令傳道の志は有つても、互の湊に訪ひ寄る船が無かつたら、又其船人の胸の中に、似通ふ何物かゞ無かつたら、萬里の波濤を越えて來る因縁は結ばなかつたらう。後に航海が自由で無くなつて、寺も増さず名僧も出ず、古來の神道のみが引續いて全盛であつた爲に、沖繩の文明史を研究する人々に、此影響は至つて輕く見られて居るが、少なくとも名目なり外形なりに、今存する大和文化の痕跡も決して幽かでは無い。況や宗教こそは平民一般の風潮に、根を持たねばならぬから衰へもしようが、彼等歸化の大和人は、必ずしも此ばかりを携へては來なかつたのである。

　例へば袋中大�ｺの琉球神道記の如き、内地へ持て還つて久しい後に上木をしたが、沖繩の見聞録に費したのは其一小部分だけで、主としてはあの時代の普通學とも謂ふべき天竺震且の略史、佛教の傳來や十三佛の由緒などを、島の人たちに語らうとした説教の種本のやうなもので神々の縁起は專ら安居院の神道集に依り、暗記のまゝを書置くとあるを見れば、其目的は推測が出來る。所謂知識階級に按近して善根を栽ゑしめる爲には、恐らくは先づ彼等のゆかしがつた大和の事を多く語らねばならなかつた。此點に掛けては九州の偏土も事情は大差が無いのである。番にも訴訟にも京へ上らなくなると、遠國の莊園へ文化を普及する方法は、内地に於ても旅の法師以外には、もう無かつたのである。

　斯る個人的の交通でも、久しく續いて居れば生活の上に影響した。鑛山に乏しい島の社會にも、悲しい哉、武器と金銀とは夙く入つて居た。絹と珠玉とはやはり重ぜられた。歌や言語の上にも鎌倉趣味が傳はつて遺つて居る。浦々の按司を都に住ましめて、中央集權の實は大いに擧がつたが、なほ言語の統一が十分には行はれず、首里の官話が常(268)に特別に上品と認められたのは即ち外來語の採用に由つて、爰ばかり着々と物言ひが變つて居たからである。チェンバレン氏の琉球語研究は誠に辛苦の著であるが、其内に「う入りみしぇびり」や「いめんしぇびらん」などの二三の敬語の例を示して、日琉の言語の間に大分の隔絶が有るやうに、考へさせただけは無理であつた。此は都で近代に發達した「いらつしやいませ」の類であつて、只首里那覇の上流のみが之を用ゐ、宮古八重山は勿論、すこし田舍へ行けばもう常人は、今なほ之を用ゐて居ないのである。

　

　　　　　　　　　　下

　

　沖繩人が沖繩語に愛着するのは當然の話である。所謂普通語の如何に達者な人たちでも、互の間では之を使はぬやうにする。今の程度で二通りの語が、併用せられて行くことを望んで居る。伊波君などの沖繩口の講演は、非常に好い感じを以て聽かれて居る。やがては此で書いた本なども出ることゝ思ふ。自分は是が一種の國語運動であつても、猶賛成をする積りであるが、しかも遺憾ながら終には徒勞に歸するだらうと思ふ。其理由は極めて簡單である。沖繩語にはまだ統一の事業が完成して居なかつた。統一の基準と爲るべき首里那覇の語には活力は有るが、それが有り過ぎて却つて盛に變化して居る。是では保存の方で追付くことが出來ぬと思ふ。

　今後は益々さうであらうが、以前とても久しく此變化を續けて來たのである。島の外には新しいものが常に在る。一つの事物乃至は心持が入つて來る度に、必ず二つ宛の語を用意することは不可能である。新語の採用には我々も豐かな經驗を持つて居るが、支那で製した耳馴れぬ名稱などを、何とかして歌に詠めるやうな、風雅な語に引直さうとして見たけれども、自轉車をヲノコログルマと謂ふ類は、とう／＼通用しなかつた。所謂和歌和文の特殊文學が有つて之を注文してさへも、漢語の跋扈を制御することが難かつた。ましてや沖繩の方では眼の言語はずつと昔から大和と共通であつたのである。中でも官府の記録文書などは、如何して斯う迄に練熟し得たかと思ふほど、完全なる罷在(269)や奉存を綴つて居た。偶々一二の變つた用語が有るかと思へば、それも西國一帶の特色を傳へた迄であつた。此文章は勿論勉強して學んだものだが猶鹿兒島の腕力だけで、之を押付けたとは思はれぬ。最初から語脈の一致が有つて、表現の順序が同じかつた上に、社會關係の複雜緻密に爲るにつれて、之を意味する語の不足分を、追々に内地から取寄せて、補充して行く久しい仕來りがあつたから、別に此以外に沖繩一流の文章を、發達させる機會が無かつたのである。

　或種の公文には聲を揚げて、文字の無い者にも讀聞かせることが?々あつた。之を繰返して居るうちに、我々の所謂切口上の如く、文章の語を會話にも採用する。チェンバレン氏の僅かな語彙を見ても、此經路を通つて入つて來た、時代々々の癖のある語が中々多い。それを雙方で別々に支那から輸入でもしたやうに、又は互に獨立して案出したかの如く、同氏は説き人々は信じて居る。

　音韻の變化などは、離れて住めば何處にも起る。一所に住めば又次第に一致して行くだらう。それも今日のやうに新規に使はねばならぬ語が多いと、歩みの遲い學者たちがもう十分に研究したと謂ふまで、元の形を遺して居ることは困難であらう。我々から見れば沖繩は言葉の庫である。書物も無かつた上古以來、大略出來た時代の符徴を附けて、入れて置いた品が大抵殘つて居る。内地の方で損じたものが島では形を完うして居る。それを棚卸しをして引合せて見る爲には、先づ小さな誤解から片付けて行かねばならぬ。

　今の正しい首里語なるものに耳を傾けると、律義な九州邊の武士に對するやうな感じがする。彼等の應酬に多く用ゐられた、「尤も」「隨分」「全く」などの副詞が、意外に最初の意味に近く使はれて居る爲でもあらう。又何々の「やうな」をグトールと謂ひ、何々する「ならば」をドンセーと謂ふ類は、今も存する九州の方言であるが、或は本來の沖繩語かと思ふ程、盛んに用ゐられて居る。聽きたいをチヽブシャン、無いだらうをネランハジと謂ふブシャンやハジも、「欲しい」と「筈」との中世の用ゐ方の儘であるが、我々の俗語が却つて變つてしまつて、今では向ふの方の一(270)つの特色と見られて居る。

　「筈」は慥かに弓矢から出た武家の語で、きつと間違はぬと云ふ場合に用ゐたかと思ふのに現在此方では、「だらうと思ふが」位の處に使つて居る。それを忘れてしまつて沖繩人の辭令は婉曲過ぎる、明白な時にもハジと謂つて、斷定の責任を避けようとするなどと、飛んだ批評をする者のあるのは、是も亦一個の小さい誤解である。

　我々の悲しまねばならぬ大きな誤解は、元を忘れるのが幸福に生きる手段、通説を批判せぬのが永遠の賢明と思つて居ることである。この私の解説などは誤つて居ても、學問さへ進めばすぐ訂正せられる。あんまり有難くは無いが日本なども、今やこの小誤解期に入つて居る。それを訂正するのも骨が折れるが、丸きり盲蛇のまゝで捨てゝ置かれるよりは少しはいゝ。

　

　　　　　　　二〇　久高の屁

　

　東西古今の屁の文獻の中で、哀絶又艶絶なるものが久高の島に殘つて居る。久高では外間の根人眞仁牛に、女の同胞が二人あつた。姉の於戸兼は外間の祝女で、島の御嶽の御祭に仕へて居た。妹の思樽は巫女であつた。首里に召されて王城の巫女と爲り、日夜禁中に住んで神の御役を勤めて居る中に、國王の御心にかなひ乃ち入つて内宮の人と爲つた。性貞靜にして姿は花よりも更に美しかつた故に、一人の寵愛と幾多の恨み嫉みと、悉く此君の身に集まり、宮中眼を峙てゝ物言交す友とては無かつた處に、どうした惡い拍子であつたか、多勢の居る中で、飛んでも無い不調法な音がしたさうである。

　官女たちは之を聽いて大に悦び、寄ると障るといつまでも此噂のみをした爲に、何分にも辛抱して御前には仕へ兼ね、終に御暇を賜はつて故郷の島に還つて來た。さうして久しからずして王子を産んだ。尊貴の御胤なれば、尋常を(271)以て遇するは恐れありと、新たに一棟の産屋を建てゝ之を育くみ、御名を思金松兼と附け申すとある。

　思金松兼八歳の童子と爲つて、日夜に我父は誰ぞと母に尋ねたまふ。人は皆父ありて生るゝに、我ばかり母一人の子と云ふ道理は無い。必ず之を匿さるゝならば、生きても味氣なしと食事を絶つて、憤り且哭いて御責めある故に、是非も無く昔の宮仕へのつらかつた日の話をした。さりながら田舍の果に人となりたまふも御運である。とても都に出て父の王と御名乘りかはしは叶ふまい。詮も無い素性語りをしなかつたのも其爲と、強ちに諫め申されたが、王子は之に耳をも掛けず、直に伊敷泊の濱に出て、七日の間東を向いて神々に?られた。

　其七日目の夜明け方に、沖の方から光り輝いて、寄つて來る物がある。衣の袖を展べ掬ひ取つて見ると、不思議や黄金の瓜であつた、大に喜んで之を懷にし、母に別を告げて遙々と首里の都の、王城の門の前に立つて、世の主加奈之に對面がしたいと申さるゝ。髪は赤く衣は粗く姿はしかも氣高い童子が、斯く／＼の次第と聞し召して、何事の願ぞと御前近く呼上げたまふに、懷中よりかの黄金の瓜を取出し、此は是國家の寶、天甘雨を降し沃土已に潤ふの時、曾て屁をしたことの無い女をして、此種を播かしめたまふものならば、繁茂して盛んに實を結ぶべしと申上げた。國王大に笑ひたまひ、そんな女が此世に有らうかと仰せられる。然らば屁で御咎めを受ける者も無い筈と、先づ御心を動かし奉る。やがて内院に左右の人を遠ざけ、御尋ねに由つて詳しく久高の母が歎きを言上した。此王他の御子とては無かつた故に、後に思金松兼を世子と定めたまひ、終に王の位に登つて百の果報を受けたまふと語り傳へて居る。

　第四王朝の尚金�ｺ王は、即ち此思金松兼の御事かと云ふ説がある。それでは僅四百四十年程の前であるが、或はもつと古い話であつたかも知れぬ。中山國王が年毎に一度、海を渡つて久高の島の神を御拜みなされたのも此時からで、其例が絶えて後も久しい間、外間の根人と外間祝女は、毎年上つて來て魚を獻じ御目見えをした。其時根人には玉貫一雙、祝女には葉茶と煙草とを賜はるが例であつた。

　又尚�ｺ王と云ふ若い武勇の世の主が有つた。或年の行幸に、此島の祝女の艶なる色香になづんで、永く逗留ある間(272)に、都は亂れて王妃王子も亂軍の中に失はれ玉ひ、衆に推されて英傑金丸は立つて王と爲る。之を聞いて尚�ｺ王は、或は憤つて自ら世を早められたとも謂ひ、或は還御に船覆つて海に隱れたまふとも傳へられる。尚巴志王の花やかな統一事業は、斯うして跡が絶えてしまつた。しかも今に至るまで久高の島人が、前朝を慕ふの情はまさしく一篇の詩であつた。八十年程前には此島の濱で、網を引いて黄金の菊の花の簪を得た。それを尚�ｺ王の遺物とすることに、一人も反對する者が無かつたが、實は簪の制度には變遷が有つたので、是は實際は此王以後のものであつた。外間の根人の家には、思金松兼の産屋を今でも保存して居る。母の思樽の衣袴も大切に傳へて居る。はかまと謂ふのは即ちカカンであるらしい。白い羽二重のやうな絹であつて、昔に象どつて後に製したので無い證據は、紐に結んだ皺があり、又ほんの少しばかり汚れて居る。即ち曾ては此美女の温かい肌を包んだものだといふのである。

　

　　　　　　　二一　千瀬の人生

　

　　　　　　　　　　上

　

　干瀬はさながら一條の練絹の如く、白波の帶を以て島を取卷き、海の瑠璃色の濃淡を劃して居る。月夜などにも遠くから光つて見える。雨が降ると潮曇りが爰でぼかされて、無限の雨の色と續いてしまふ。首里の王城の岡を降る路などは、西に慶良間の島々に面して、遙々と干瀬の景を見下して居る。虹が此海に橋を渡す朝などがもし有つたら、今でも我々は綿津見の宮の昔語を信じたであらう。

　俊寛僧都や成經康頼の輩は、憂ひ憤りに心が亂れてゐた爲か、この大潮の波を見て泣いたと謂ふ。少なくとも平家物語にはさう書いてある。京の小さな陰謀に没頭してしまつて、島を最も美しく又最も安全にせんとした天の大神の(273)政治には、意を注ぐ餘裕が無かつたのである。何人が見て名づけたものか、鬼界と云ふ語も天涯の孤客を劫すに足りた。それに沖繩より北の潮はまだ冷かで、珊瑚の生活が活?で無かつたものか、大瀬の隱れ岩は海底に潜む魔物のやうに其脊を只處々に露すばかりであつた。暗夜に海の鳥などが其上に居て鳴くと、馴れたる船人すらも怖れをのゝいたと謂ふから、めゝしい都人にはこの美しさがわからなかつたことであらう。

　斯うして久しく疎まれた南方の海にも、尚靜かなる文明の成長は有つた。薩摩の坊津秋目の浦々では、暮春初夏の凪の日に、花瀬見物と名づけて小舟を漕ぎ出し、遠く岬の外の澄み透つた潮の底に、青赤黄紫色々の岩の、立ち竝ぶ風情を賞美しに行くやうになつた。七島大島でも磯が有れば種々の砂を沖から吹き寄せて、いつと無く處々の兼久（砂原）を作り、今見る多くの村里は其兼久の上に立つた。港の奧が豐饒なる田と爲つたのも、ひる木の林の次第に入江を蔽うて茂つたのも、悉く大潮が荒海の怒を鎭めた力であつた。殊に沖繩では干瀬と呼ぶまでに此岩が高く、不斷の白波が島の姿を淨く尊くすることは、恰も佛菩薩の御像に光?を取附けた如くであつた。しかも斯うして外難からは保護せられて居ても、干瀬から内の生活が、やはり亦或時は至つて樂しく、或時は悲しく辛かつたことだけは致し方が無い。

　世界の海の荒れ狂ふ日には、餘波は寄せ來つて此干瀬を打越した。島ばかりが獨り平穩なるアトールのやうな世中を、維持して行くことは不可能であつた。空と海との縫目の絲も、時あつて綻びざるを得なかつた。日を經て南の風の吹く頃は、遙かなる常夏の國から、椰子の實が流れて來る。之に細工をして瓢に代へ泡盛の芳烈なるものを掬んで樂む中に、次第に島人の心は廣くなつた。沖に出て見ると渡り鳥はどこまでも飛んで行く。雲より外には又幽かなる次の島の影があつた。小舟にクバの葉などの帆を掛けて、知らぬ島々を見に往く者は、やがて又大きな船を誘うて戻つて來る。岡に登つて送る者待つ者、我と海上に漂ひあるく者も、いつと無く此干瀬の白い波を、眺めては憂苦するやうになつたのである。

(274)　寶貝は此あたりの海に、珠や錦よりも尚美麗な、樣々の種類を産する。それを貨幣の用に立てることは、沖繩では知らなかつた。又何處からも求めには來なかつたらしい。絲滿の漁民等は、只其中の大きな一種を探集め、之を刺網の錘に用ゐて干瀬の魚を捕り、さうして大に富んで居た。貝の種は盡きないが、人が多くなつては魚が不足する。乃ち友船を誘つて年毎に大海を横ぎり、南は石垣基隆の浦にも移り住み、或は遙々と唐桑金華山の、寒い磯までをあさるやうになつた。しかも故郷が有り家がある爲に折々は還つて來る。さうして又新たなる願を大小の船に積み、港の出入の追々と繁くなるにつれて、風や潮の響も昔の響では無くなつた。干瀬にも色々の悲しい記念が附添はつた。多良間は夢ほどの小さな沖の小島であるが、既に十幾つかの錆びた錨が、其干瀬の岩の間に沈み、空しく白波に洗はれて居る。

　併し島人が島を出なかつた以前の世の中でも、干瀬と生活との交渉は極めて繁かつた。生れてから死ぬまで、死んでから祀られる迄、家々の柱の礎、石垣の石、更に大島などではモヤと名づけて、古風な墓の作りには、悉く干瀬の石を引揚げて用ゐて居た。御嶽の靈地もナバ石を以て圍うて居る。ウブの入口には宮古でも八重山でも、特に菊明石の類を弓形に酢斫つて、小さな石の門を覆うて居る。濱から運んだ美しい眞砂も、もとは皆干瀬のものである。新しい道路にも之を敷詰めて、次第に野山を開いて行く。さうして其野山も畠もやはり亦、洪荒の世の干瀬であつた。

　

　　　　　　　　　　下

　

　石垣島の大濱では、西瓦東瓦の兄弟が祀られて居る。カハラは久米島の笠末若茶良《かさまわかちやら》などのチャラと同じく、又運天の百《もゝ》ぢやなのヂャナと同じく、部落の長を意味した語であらう。此兄弟二人の瓦の時代までは、八重山には闘爭と搶奪の他何物も無かつた。獨り彼等が相愛して、平和の草の庵を結んで居た爲に、招かざる四隣の男女、來つてこの頭目の傍に居を構へ、遂に集まつて宮良白保の二村と爲つた。然らば垣を築き禽獣を防ぐべしと、東は川尻より西は高(275)山まで、仲嵩《なかだけ》の靈地を中にして二里の間、始めて五尺の高さに大瀬を積繞らしたと傳へられる。干瀬は此の如くにして此島の神代から、文化生活の爲には必要であつたのである。

　併し其以前、人の大いに闘ひ爭つたのも、やはり亦干瀬の上であつた。宮古は珊瑚の島だけに、干瀬が我々の姨捨山に爲つて居る、西銘《にしめ》の主｜嘉播《かま》の親の三人の男子、老いて盲目と爲つた父を疎んじ、魚捕りて慰め申さんと僞り欺いて、沖の干瀬に伴ひ行き、引汐の硲に棚を拵へて其上で酒宴をした。やがてよい頃を見て各々小舟に取乘り、父を殘して還つて來ると、潮は滿ち棚は毀れて、嘉播の親は浪の上に漂うた。島には鱶を神とする多くの昔語が有るが、此時も忽然として大きな鱶現はれ、背に老翁を乘せて安々と濱に送り來る。兄とはちがつて孝行な二人の娘、先づ牛を宰して大魚の勞に謝し、家には人々を集めて歡びの宴を開いた。三人の兄弟は之を聞いて其恥に堪へず、怨は鱶に在りと干瀬をさして漕いで行くのを、盲目の父屋上に出でて之を詛へば、一陣の風吹起つて其舟を海に捲入れたと謂ひ傳へて居る。

　或時には又干瀬の遊びにかこつけて、仇家の孤兒の心を試さうとした武士があつた。陸で闘ふならばとても敵すべくも無かつたのを、却つて水中に機會を得た爲に、十歳の童子は偶然に親の怨を報いたと謂ふ。但し此話にも類型がなほ有つて、必ずしも史實とは認められぬが、此以外にまだ二つ、どうでも此邊の島で無ければ、起り得ぬやうな話が語られて居る。干瀬を見て過ぎる後の世の旅人が、いつかは思ひ出すやうに此序に書いて置かう。

　其一つは伊良部の島の漁夫、登佐と云ふ者の話である。登佐にはあでやかなる妻が有つた。或時干瀬に出て此男、岩の穴に手を差入れて蛸を捕らうとすると、其手がどうしても拔けない中に、潮が大いに滿ち來つた。爰で死なねばならぬかと、獨で悲しんで居る處へ、神谷の仁屋�ｺと云ふ者、通りかゝつて之を見付け、私の望を只一つ、許してくれるならば助けよう。命を救ふ禮として、御前の女房を讓つてくれと謂ふのであつた。死ぬよりはましと思つて之を承諾し二人連立つて戻つて其話をすると、妻は一笑して約束なれば是非も無し、吉日を擇んで婚禮の用意をしたまへ(276)と謂ふ。さうして數月を延ばした後に、或日神酒と肴とを調へ、登佐の妻は神谷の�ｺを招いて、斯う云ふ風な話をした。人の妻を取るのは善いことで無い。さうして唯一時の樂みである。併し約束を破るのも惡いことだ。何と二人で夫婦に爲つたと云ふ歌を作つて、之を島々にはやらせ、約束も破らず男も棄てさせず、さうして登佐と私とは、元の夫婦で居てはどうかと謂ふと、�ｺも感心して其意見に從ひ、神谷の仁屋が人を助けて、美しい妻を得たと云ふユンタばかり永く殘り、登佐の幸福は元の儘であつたと謂ふ。

　第二の話も亦干瀬の蛸に關して居るし石垣の四箇から未申の沖に、午の方干瀬と謂ふ怖ろしい岩がある。近い頃の大風の日に、一艘の傳馬船が此近くへ流れたのを、取りに往かうとした刳舟が先づ覆つた。三人の船頭の二人は行方知れず、今一人も死んだことゝ思つて居ると、風が鎭まつて後に、向ひの竹富の島から還つて來た。干瀬の上をあるいて自分で上陸したのださうだ。二島の端と端とは一里に近い。引潮には波が見える程の深さであつて、只二箇所ほど泳がねばならぬ切れ目があつた。この長い岩橋の上を、夜の十一時から次の日の午後二時までに、一足づゝ拾つて歩いて來た。島でインミと稱する海眼鏡をかけて居た。腹がへると蛸を見付けて捕つて食べたと謂ふ。此絲滿にも好い女房があつた。竹富の島から夫の乘つて來る舟が見えると、待遠しさと悦びの餘りに、海に飛込んで中途まで泳いで迎へに出たと云ふ話である。干瀬の附近には今でもまだ、此樣な生活がいくらでも有るらしい。

　

　　　　　　　二二　島布と粟

　

　沖繩の芭蕉布だけは、自ら織つて着る者がまだ多いが、北では奄美諸島の餅の紬、南は先島の紺白の上布などは、殆と皆他所の晴着となつてしまふのが、昔からの習はしであつた。島の女に布を織らしめる制度は、勿論近世の發明では無いが、其發達の跡を尋ねて見ると、今も遣瀬無い記念が遺つて居る。

(277)　以前田舍でよく聽いた子守唄に、七つ木綿の絲の數と云ふ言葉があつた。單純な村の娘に取つては、經絲の數を算むだけでも、辛氣臭い仕事であつた。それで物の綿々として盡きざることを、之に譬へて歌つたのである。處が南の果の島々へ來て見ると、妹脊山のお三輪が持つやうな緒環を片手にして、小屋の石垣に差込んだ二本の竹の串の間を往來しつゝ、一筋ならべに機の絲を綜《へ》て居る。つまりは布一匹の絲の長さだけ、素足で同じ路上を歩かねばならぬのである。僅かばかりの機道具ぐらゐは、工夫し出されぬやうな社會では無いのだが、昔から人の力は俵藤太の卷絹の如く、取れども盡きぬものと考へたのが癖で、斯うして銘も落款も無く島を出て行く物に、優しい女性の生涯を潰させて居るのである。

　但し島で上布を織る程の女は、敬はれもすれば又羨まれたした。二十｜桝《よみ》の紺縞になると、一反が竝の白布の七反分にも評價された。其家は言ふに及ばず、村でも之が爲に貢納が樂になる。それ故に名人の機の傍には、若い娘たちが多く見習ひに遣つて來て、次の代の苦勞の下拵へをした。宮古は今でも藍染の布を誇りとする。布織る女の手は遠くから見ても黔い。是も何とかすれば指を汚さぬ工夫は附くだらうが、凡そ此島で手の眞白な女などは、人中に出て物を言ふことは出來なかつた。どこの家でも嫁に取らうとしなかつた。針突なども同じことで、是が亦女同志の、伊達名聞にも爲つて居たのである。實際に宮古の人の黥には、絣の柄と似た模樣が多い。さうして若い女にも黥をする風が、まだ中々止まぬさうである。亭主に附いて島から外へ出ようとすると、これが何時でも妨げになると謂つて居る。併し他の島でも内地でも、黥をせずとも女はやはり多くは機などを織つて、家にばかり居るのだから、まだ現實の問題とは認められぬ。

　甘藷の種の輸入せられる迄、此島では專ら粟を食べて居た。四百年間の人頭税も、すべて此粟であつて、只布を納め得た者だけが、布に換算することを許された。中山《ちゆうさん》の方でも以前は先島の穀類を以て食料の一部に充てゝ居たのであらうが、ンムの世界と爲るに及んでは、澤山の粟は皆酒屋に拂下げられたさうだ。此が本來の泡盛であつて、米で(278)造つた今の燒酎よりは、ずつと辛く又強かつたと謂つて居る。兎も角も無くて濟みさうな物ばかりの爲に、竝の百姓の餘分の骨折は、一通りでは無かつたらしいのに、古くから有る宮古の記録では、島の土地が餘りに豐沃で、穀類の有餘る處から、人民が放埒で喧嘩爭闘の止む時が無い。是は何でも大國に御願ひ申し、少し重い年貢でも取立てゝ戴いたら、自然に勤勞の必要を感じて來て、惡い考を起す餘裕が無くならうかと、よく／＼思案の後に沖繩に從屬を申出でた、といふことに傳へて居る。即ち最初から現在の民意などは、特に少しも代表せぬ積りの仕事であつたが、記録は要するに有識階級のものである。沖繩に對する忠臣は同時に、島でも永く恩人として之を仰いで居るやうに、書殘されてあるのである。

　さうして役人には課税の減免があつた。上布の評價にも此人々のみは之に參與した。之に反して布織る女たちの境涯は、元は一つしか改良の途が無かつた。即ち若く且つ面影の清らかな間に、沖繩から來る高い官吏に愛せられ、子を生んでそれが男であつたら、後に士族と爲ることが出來たのである。尤も士族に爲つても立身をせぬ限り、布はやはり織らねばならなかつた。さうして又今でも織つて居る。勿論今日の勞働は自由であるが、小泉八雲さんの所謂先代のゴストが尚憑いて居る。島の人が只黙つて忍んで居る辛勞は幾つか有る。島の布の價は織つてしまつてもまだきまらぬ。商人の知らせて來る相場がどんなでも、そんなに廉くては賣らぬと言ふことは今日でも出來ぬ。布を賣つて買はねばならぬ物が多いからである。粟の耕作は減じ、米は始から少ない故に、飲むとすれば泡盛なども買はねばならぬ。宮古諸島は人口が五萬人で毎年一萬個の酒甕が輸入せられる。此だけの泡盛を父や夫に飲ませねばならぬ。

　

　　　　　　　二三　蘆刈と竈神

　

　老いて目盲ひて子に棄てられ、鱶に救はれ孝女に迎へられた宮古島のキングリヤ、西銘の主嘉播の親の前半生には、(279)尚二つの傳説が纏綿して居る。それが二つともに大和の中昔を、故郷とするらしいのは如何なる因縁であらうか。

　此長者、若い時の名は炭燒太良、荒野の草の一つ屋に、獨り炭を燒いて住んで居たのを、守護神の導きあつて幸運の妻を貰ひ當て、終に島隨一の有�ｺ人と爲つた話は、以前炭燒長者の研究に於て之を述べた。北は津輕の戸建澤、南部最上の田舍から、中國九州にも行渡つた物語で、分けても豐後の臼杵領の、石佛を以て評判せらるゝ深田の滿月寺、同じく三重の内山觀世音などが、夙くから有名である。

　宮古では長者の女房は出戻りであつた。良く無い本の夫とは稚い頃からの約婚であつたが、縁盡きて別れたことに爲つて居る。野崎の長井に住む二戸の民、一人は漁を業とす。曾て前離の干瀬に小舟を漕寄せ、磯に寄木の有つたのを枕として、潮合を待つて居るうちに、半夜に神々の話の聲がする。寄木大氏《よりきおほうぢ》、今宵は長井の村に、隣同士で子が生れる。いざ參つて運を定めてやりませう。いや此方には來客が有つて、今宵の御伴は致し兼ねる。どうぞ宜しきやうにと斷つて返すと、暫らくあつて以前の神又立寄り、男の方は乞食の運、女の方は産屋の作法にかなつたれば、一日毎に粮七升と述べて還る。漁師は思ひ當ることあつて、急ぎ戻つて見ると、我家には男子出産し、隣の家の女の赤兒には、生れると直に額に鍋の墨を附けて居た。心の驚きを包み隱して、斯く時を同じくして生れたのも天縁と、やがて隣同士の縁組を約束した。

　此話は他の府縣でも?々聞くが、多くはもう此だけで終つて居る。さうして山の神と道祖神の御談合と云ふことに爲つて居る。宮古の島で之を寄木の神と謂ふのは、如何にも自然な變化である上に、其話にはまだ續きが有る。此女の兒の名は眞氏、是が後には炭燒太良の妻である。振分髪の夫は放埒で身の運を知らず、或年新麥の初穗祭に、世の習ひの麥粉の供物を庭に投付け、女房に惡口した咎で、愈々ユリ（穀靈）と云ふ福神に見放され、妻は離別せられて西銘の村に往つてしまひ、自分は次第に零落して、終に家々の門に立つて、餘りの食物で命を繼いだと謂つて居る。

　宮古島では二百年も前から、之を大昔の族長が家の物語として語り傳へ、且色々の異傳をさへ生じて居る。斯うい(280)ふ全國に遍滿する昔話が、如何にして此島だけの歴史とは爲つたか。勿論何人も推斷することは出來ぬが、袋中和尚の琉球神道記には、竈神の由來として、殆と是と同樣の話を載せて居る。近江國は甲賀郡、由良の里に住む二人の民と謂つて居る。夜の假宿りに神の話を洩聞いたこと、前夫が無慈悲で好い女房を失つたのも、宮古の古傳と一樣で、しかも尚其先の話がある。前夫の名を箕作の翁と謂つた。後に乞食と爲つて長者の家の臺所に來り立ち、施しの食を受けて喰はうとして、ゆくり無く前の妻の姿を見た。悔と恥との情に堪へかねて、終に竈の傍に倒れて死んだのを、夫の長者に見せまい爲に、下人に言付けて竈の後の土を掘つて埋めさせたのが、後には此家の火の神と爲つて、愈々長者の福分を豐かにしたと云ふのである。

　長者の傳説は殊に斯う云ふ風に、次から次へ續いて行くのが例である。しかも神道記の方が遺老説傳よりも百年早く、宮古の方にも鍋の墨を、生れ兒の額に付けると云ふ點に於て、幽かながらも竈の信仰に縁を引くのを見ると、さう古くから雙方別々に、發達した口碑では無いのかも知れぬ。離別の妻の出世談は、今沖繩の組踊に、末めでたしの「花賣の縁」がある。更にヤマトの方では大和物語の時代から、蘆刈の話と云ふものが知られて居た。あしかりけりと云ふ秀句が使ひたさに、之を難波の浦に持つて往つたのかとも思ふが、近江の方でも箕作の翁と謂ふのが、蘆を刈る業體と稍々近い上に、豐後の炭燒長者には前の夫の話は少しも無くて、やはり又蘆刈某と云ふ子孫の苗字が傳はつて居る。

　竈神に醜い神像を作るのは、今尚東北一般の風である。之を火男と謂つたのがヒョットコと爲り、火吹きと謂つたのが潮吹の面に爲つたかと思はれる。善い妻と惡い夫の單純な物語は、此から發生して同じ民族の行く限り、野の果・島の果までも、火を焚く度に繰返されたものでは無いか。さすれば南海の沖の島に漂着した昔のものは、獨り平家の落人の口碑のみでは無かつたのである。

　

(281)　　　　　　　二四　はかり石

　

　南の島では到る所、多くの石敢當《せきかんたう》を見てあるいた。鹿兒島まで還つて來て石敢當の話をすると、其がどう誤つて傳はつたものか。土地の學者の折田翁が、何とも合點の行かぬ點で非難をせられた。自分は口碑も只の石碑と同じく、後には苔蒸し漫?するものだとは感じて居たが、斯くまで早速には變化しようとは思はなかつた。そこで此序に石敢當の事を報告する。

　石敢當の石を建てる風は現に東京にも在る。東京から北にも捜せばあるらしい。長崎には勿論ある。鹿兒島では名物に算へる位もある。つまり日本一圓の近世の流行であつた。從つて沖繩縣下の島々に在るものも、何處の眞似とも言ひにくいと共に、唐芋同樣に爰が輸入の水口とも謂はれぬ。只此石の文字は支那から學んだもの、さうして餘り古くからの風で無いことは、推定して置いても大抵よささうに思ふ。

　此推定を更に有力にするのは、八重山に於ける自分の實驗であつた。石垣島の四箇村でも、石敢當の立てゝあるのは鹿兒島邊と同じく、丁字路の突當り、人家の表口又は石垣の角などで石の形にも著しい變化は無いが、たつた一つの珍らしいことは、文字を刻して無い石敢當の有ることで、是をも土地の人は八重山風に、イシガントウと呼んで居る。年寄や女は又ピジュルとも謂つて居るが、是が石敢當の古い名稱と思はれた。或は二つ別々の物を、混同したのでは無いかとも思つて見たが、其石の在り處、其高さが二尺と三尺との間で、上の方が少しく細り、頃合の自然石か、もしくは僅かの人工を加へたものなることも雙方全く同じで、之に對する信仰も亦同じである。相異は單に文字の有無で、文字あるものは概して新しい。且つピジュルと云ふ名前も、必ずしも無文の石だけに限るのでは無い。

　沖繩本島にも字を刻せざる石敢當は有つたのかも知れぬが、自分には心附かなかつた。只國頭郡誌を見ると、國頭(282)地方には別にビジュルと名づくる信仰上の石があつた。是は内地の村々に在るハカリ石、岐阜縣などで重輕樣と云ふのと同樣に、祈願有る者が兩手で持上げ、重さ輕さの感じに由つて、心中の祈念が叶ふか否かを卜する爲に用ゐられる。即ち上古以來の石占である。石占の信仰が絶えて形式のみ殘る地方では、一方には力石と謂つて、一種青年の運動具と爲り、又他の一方には辨慶の礫石だの、牛若の背競べ石だのゝ傳説と爲つて居る。石を靈物として神意を之に問ふのは、日本には普通の習俗だから、其類例を沖繩のビジュルに見出すのは不思議とは思はなかつた。しかも國頭郡誌の著者島袋君などは、ビジュルと石敢當とは別の物だと、今でも信じて居られるさうだ。

　處が八重山のビジュルは石敢當である上に、此にはまだハカリ石の信仰が稍々遺つて居る。即ち此石が倒れると雨が降ると信じて居る。之を轉用して雨乞、には此石を倒す。内地の方でも村の石占には、晴雨は主要なる一問題であつた上に、石占に用ゐる石は今の石敢當と同じく、魔除の效を具ふる地境の立石が、やはり亦多かつたのである。

　そこで自分は進んで斯う推論しようとした。丁字路の衝などに石を立てゝ、目に見えぬ邪神の侵入を防ぐ風習は古く、其石に石敢當の三字を刻する行事は新しい。支那から輸入したのは此文字を彫入れる風だけである。支那でも南部の市邑には弘く石敢當の石が有るが、恐らくはこの刻字の選定は古いことであるまい。以前は多分魔除けの石神を武神と考へ、朝鮮などの如く石將軍と彫つて居たのが、歴史上の人物にちやうど此場合に似つかはしい、石敢當と云ふ將軍あることを知つて、始めて此文字が流行したのだらう。實在の人であると否とは、迷信者流の問ふ所では無かつた筈である。まづ此だけのことは確かに鹿兒島の史談會で述べた。

　又石敢當何人ぞやと云ふことは、如何にして日本に此種の石を建て始めたかの説明に、ちつとも役立たぬと今以て信じて居る。さうして我々の問はんとするは後者である。宮古の東仲宗根《あがりなかそね》の海際の芝生に、ぼつんと一つ文字の無い石が立てゝある。むかし少年を此傍に連れて來て背丈を檢し、石より高く爲つて居たら、人頭税を課し始めたものだと傳へて居る。即ち是も亦はかり石の一口碑である。石占の方法は重さだけでは無く、或は高い處へ投上げて乘るか(283)落ちるかを試みたり、或は繩などを持つて行つて長さを比べたりもした。其信仰が廢すると、次いで又斯んな説明的の傳説も起る。江戸期の隨筆の石敢當説も、多くは之に近い附會の説明を信じたものであつたから、顧る價値が無いのである。

　

　　　　　　　二五　赤蜂鬼虎

　

　靜かに考へて見ると、赤蜂本瓦も八重山の愛國者であつた。或は少なくとも獨立黨の領袖であつた。處が石垣村の士族には、之を征伐した宮古の勇士の血筋が多かつた。然らざれば反對派の長田大王が子孫である。島の記録は此人々と、中山政廳との間だけに交渉の有つたもので之と兩立せざる口碑は採用せられなかつた。其上に四百有餘囘の春秋は此事蹟を蔽うて居る。しかも昔の島の酋長にして所謂酒色に耽り下を虐げた者は、赤蜂一人には限らなかつた筈である。他の島々に對しては別に無法を働いたのでも無い。年貢は以前とても沖繩へは納めて居なかつた。尚眞大王の征服欲以外に、自分は彼の所業が叛逆と爲るべき理由を知らぬのである。

　赤蜂滅亡して四十年の後、與那國島には又鬼虎の亂なるものが起つた。鬼虎はもと宮古の狩俣村の者で、飢饉の歳に粟一斗で與那國へ賣られたと云ふ説が有る。然らば彼も亦一個外來の簒奪者であつた。附近の諸島が既に王化に潤うてしまふと、斯んな懸離れた島の謀叛人までが征伐を受ける。多くの勇士は功有つて賞せられたと謂ふよりも、寧ろ賞を得んが爲に其功を立てたやうに見える。西表の島の古英雄祖納堂の如きは、身の長六尺猛勇膂力ありとあつて、彼自身が既に赤蜂鬼虎の類であつた。天色清明の日に高山の峯に登り、遙かの西天に小島有つて雲の如く又霧の如く、波濤の間に隱見するのを望んで大に喜び、急に數十人の精兵を船に乘せて、攻めて討取つたのが與那國の島であつた。其酋長二三人を擒とし、中山に捷を奏して其支配の下に附けたとあつて、結局後援者ある第二第三の鬼虎は子孫まで(284)も繁昌し、孤島は一人の赤蜂が居なくてもやはり亦征伐せられたのである。

　赤蜂は八重山の語では、アカブザーと呼んで居る。ブザーは蜂を意味し同時に又平民を意味して居る。平民と士族との差別の八釜しく爲つたのは、弘治十三年の平定から後の事らしい故に、恐らく先住民の最も永く反抗したものを、ブザーとは呼んで居たことであらう。赤ブザーと本カワラとを、二人のやうに書いた歴史もあるが、其行動の跡を見れば一人である。さうしてカワラは前にも謂つた如く、島では酋長を意味する古語であつた。

　誠に赤蜂は怖るべきカワラであつた。威風赫々たる宮古の仲宗根豐見親すら、一時は謀計を以て款を之に通じて居た。川平《かびら》の仲間みちけも終に彼が爲に殺された。後に御嶽の神に爲る程の美宇底獅嘉殿《みうてしかどの》さへ、遠く波照間の島に鋭鋒を避けて猶殺された。獨り長田の大主のみは古見の山に身を潜め、辛うじて時節の到來を待ち得たけれども、殆と源頼朝以上の艱苦を嘗めて居る。彼の二人の弟は先づ殺され、美しい妹の二人の中、眞乙姥《まいつば》は助かつたが、古乙姥《こいつば》は赤蜂の妻と爲つて、後に夫と共に誅せられた。政治の不幸が家庭に及んだ點は、我々の戰國時代も同じであつた。

　此裏面には又宗教の爭闘があつた。八重山も沖繩と同じく巫女の神道であつたが、部落の隔絶する如く信仰の系統も別であつた。赤蜂征討の船軍には、特に君南風《きみはえ》と稱する久米島の巫女の長を乘組ませ、舳先に立つて朝敵退治の?を捧げ、將士の勇を勵まさしめたのには仔細があつたらしい。久米島は單に土地の八重山と最も近いのみで無く、互に姉妹の御神を祭ると云ふ傳へもあつて、本島の君々よりは幾分か縁も近かつた。それでも愈々四十六隻の中山の兵が、石垣の濱に上陸しようとすると、婦女數十人手に樹枝を持ち、天に號び地に呼ばはり、呪罵萬般にして法術を行ふかと思はれ、味方の士氣も爲に頗る沮んだと記してある。それ故にこそ眞乙姥が忠誠の情から、無事の凱旋を沖繩軍の爲に?らうと申出た時にも、一艘たりとも後れて那覇に着くならば、曲事たるべしと云ふやうな難題を掛けられた。即ち彼女をなほ赤ブザー方の巫女と、疑つて見たのである。幸ひにして美崎御嶽の神�ｺと、多田屋おなりの助力とに因つて船は悉く恙無く還つたので、二女は相次で大阿母即ち巫女の頭に命ぜられ、爰に始めて聞得大君の神道に(285)統一せらるゝことになつた。

　しかも大濱の百姓たちは、今以て村の殿内に赤蜂を祭つて居る。赤蜂實は死せずの傳説さへさゝやかれて居る。阿蘇の金八坊主が屠られて猶祭らるゝ如く、大隅の大人彌五郎が、祭禮の行列に刀を差して擔ぎ廻られるやうに、鬼ながらも彼はなほ慕はれて居る。

　

　　　　　　　二六　宮良橋

　

　八重山の神代は第十五世紀の終、宮古の豐見親が沖繩の兵船を嚮導して、石垣に攻め寄せた時分まで垂れ下つて居る。即ちこの赤蜂の騷亂なるものも、つまりは所謂神々の東雲であつた。島々には二十何所の御嶽があるが、一半は唯祭神の御名に由つて、其由來の至つて古いことを知るのみである。或は又之に事へた美女と英傑との物語も有るが、彼等は既に其信仰を異姓の民に讓つて、遠く雲煙の彼方に去つたものが多い。オーン（嶽）とファオーン（御子嶽）との關係の如きも、今では全く不明に歸して居る。祀る人が?々改まつたからである。

　此間に於て活々とした新しい歌が又起つた。節には大昔の人のすさびも遺つて居るらしいが之を承繼いで花やかな粧ひをさせたのは、亦次の代のビラマ（若殿原）であつた。琴は石垣一島に今十四面ほど有る。其中の唯一面が、ヤマトの三越呉服店から取寄せた五尺八寸のもので、他は悉く島の樂人が、島の桐を以て永い間に作り上げた傳來の名器である。沖繩の制と略々同じく、我々の用ゐるものより四五寸も長い。三線の方でも、目下輸入する材料は殆と蟒蛇の皮ばかりで、何れも黒木其他の堅い材を利用し、島の内で立派な樂器を造つて居る。島人が音律に精しいのは、全く天性であらうと言はれて居る。閑だと云ふだけでは斯んな細工は出來ない上に、此等の樂器の制は共に近昔に、沖繩の方から移したものである。神の發明では無いのである。

(286)　實際此島の生活には、せめては新しい歌や樂器を以て、慰問でもしてやりたいやうな不幸が有つた。獨り戰亂の悲しい思ひ出のみでは無い。嵐や海嘯や怖ろしい疫病などが、其後幾度か歎きの島を訪れた。朝夕の水汲む業さへ辛かつた。或年には鍋で煮るべき物が全く盡きて、薯盗人が畠の眞中に、寧ろ殺されたいと横はつたこともあつた。憂を忘れるには歌と音樂に優るものは無かつたが、只其惠澤が亦全島に及ばなかつたのである。島には我々の白拍子盲法師の如く、之を職業として流派を分つ者が居なかつた代りに、士族に非ざる者が古曲を保存し、又は之を發達させることは許されなかつた。同じ所謂ユカルビト（上流）の中でも、婦人は又琴三線にも手を觸れなかつた。島々の歌には早い又は緩やかな、舞の手が必ず附いて居た。一揃ひの舞衣裳は何れの村でも、村として之を備へ付けてあつた。しかも其面白い舞を舞ふ者は、悉く皆無系無姓の百姓の、髪黒く色白き好い娘のみであつた。喜舍場永�c君の調査に依れば、石垣の藏元から任命せられて、遠く近くの村々に在勤した役人の士族たちが、此等無數の島ぶりの歌の作者であつた。中にも青色の鉢卷に紗綾の大帶をした、目差と稱する若い輔佐役が、艶麗なる多くの戀の曲を殘して居る。歌に表れた涙と溜息との主は、何れも舞に巧なる平民の娘であつた。即ち奈良朝の淺香山の采女のやうに、出でて貴族に給仕した前代のミヤラビであつた。

　宮良の里は既に片田舍と爲つて、南に漫々たる蒼波に面して居る。曾ては蝦夷の日高の汐留と同じく、爰に風流のカワラが居を占めて、幾多の宮童の歌を養つたものらしいが、明和の大津浪に故の民の種は盡きて、今は幽かなる口碑も遺つて居らぬ。村の西の荒野を、宮良川は靜かにひる木林の蔭を流れて居る。歌に詠まれたヤクヂャマと云ふ蟹が、ひる木の實と同じ色の紅い爪を、三線彈くやうに上下して居るのも此岸である。干瀬の大きな石を斫つて來て、茲に架けた宮良橋は、島の一つの名所である。四十年前に巡視に來た大和御主前《やまとおしゆまへ》が、

　　　珊瑚疊み作す五橋材

　　　鶴葉千株短くして苔に似たり

(287)　　　是れ神仙の下り遊ぶ處なる莫らんや

　　　萬年の青髻流に映じ來る

と詠んだ萬年青岳は、此五枚橋の川上に遠く、萬古の愁の色は今もなほ神秘に包まれて居るが、ある一つの事件があつて以來、次第に島も今の世と爲つたと謂つて居る。それは最後の宮良のミヤラビが三人連で、夜深く石垣の村から戻つて來ると、之を戒告せんとして村の青年の群が此橋の袂に待つて居た。それが怖ろしさに下流を徒渉しようとして、浪にさらはれて三人ながら溺れた。手を繋いだまゝ濱に死んで居たさうである。この悲惨な出來事が昔語となる頃には島の藝術も淋しくなるだらう。花染手拭の色の褪せるやうに、詩人は老い歌は古くなつて行くだらう。併し此が爲に新しい力の日に豐かなるを恨むには及ばぬ。元來八重山の音樂には、世の始から悲調があつたのである。

　

　　　　　　　二七　二色人

　

　ナビントウは路の右手の海際に、僅かの木杜を負うた崖の岩屋である。毎年六月｜穗利《ぶーり》祭の二日目の暮方に、赤又黒又の二神は此洞から出て、宮良の今の村の家を巡つてあるく。必ず月の無い夜頃を擇ぶことに爲つて居る。夜どほし村の中をあるいて、天明には又洞の奧に還つて行くと、次の日は村の男女が此に參詣する。佐事と稱する六人の警固役が、杖を突いて其途に立つて居り、常々行ひの正しい者で無いと、何と言つても通ることを許さぬ。

　宮良の人々は神の名を呼ぶことを憚つて、單にこれをニイルピトと謂つて居る。それを赤と黒と二色の人と云ふことであると謂ふが、ニイルは即ち常世の國のことだから、是も遠くより來る神の意であらう。此村の舊家の前盛某が、平日は此神の装束を嚴重に預かつて居る。木を削つて作つた怖ろしい面で、赤は黒よりも猶一段と怖ろしいさうだ。茅や草の葉を身に覆うて人が此面を被ると云ふことだが、自分は信徒に對する敬意から、強ひて拜見を求めなかつた。(288)實際新宮良の住民は、祭の日には人が神と爲ることをよく知りつゝ、しかも人が神に扮するといふことは知らぬやうである。

　此夕は家を清め香を燒いて、早くから神の來臨を待つて居る。二色人が前盛の家へ來て、謂ふ詞は一定して居るが、其他の家々では形式が色々ある。不幸の有つた者は慰める。無事の者は激勵する。さうして何れも次に來る年の、更にめでたく又豐かであることを、親切に且つ面白く、謂つて聞かせるのださうである。初春に我々の門に來る春駒鳥追、其他種々の物吉ほぎ人と違ふ點は、單に家主が豫言者の前に跪いて、一句毎に丁寧に其受答へをするばかりでは無い。彼等は之を直接に神の御詞と信ずるが故に、如何な事が有つても村外の者に、其文句を知らしめぬ。是非とも之を聽かうとすると、うそを教へるさうである。

　しかも彼等の間に於ては、最も精確なる傳承が有る。村の青年の強健にして品行正しい幾人かゞ、毎年新たに選ばれて祭の役を勤める爲に、其練習と準備をして居る。殊に赤又黒又は式の間一切酒食を口にせず、終夜踊り且つ歌ふ骨折の役であれば、兼ての精進も一通りで無いがそれが又男として此上も無い面目と考へられて居る。老人などの此祭を大切に思ふことも、殆と想像を越えて居る。ゆかしいなつかしいと云ふ人間の感情の全部を、此神に集注すると謂つても可い。夜も早東雲に近くなり、愈々もとの洞に還らうとするのを見ては、又來年もおはしませと、落涙する者すらも尠くは無いさうである。

　宮良の二神は新城の島から、此村の前濱に上陸なされたと云ふ昔語りもある。併し此村は明和八年の大海嘯の後に、悉く小濱の島から移された民である。草分と呼ばるゝ前盛氏でも、第一世の仁屋が八十三歳で歿したのは、ほんの百年前の文政元年である。疑ひも無く故郷の島から持つて來た祭であつて、現に又其小濱にも新城にも、西表島の古見にも、此と同じ祭が今に行はれて居る。石垣島の方では川平と桴海の二村に、舊の八月又は九月の己亥の日、よく似た儀式があつて之を「まやの神」と名づけ、マヤとトモマヤとの二神が出現する。マヤは方言に猫を意味する所から、(289)普通は牡猫牝猫の面を被つて來ると謂ふが、舞にも詞にも猫らしい信仰は現れて居らぬ。阿檀の葉の蓑を着て、蒲葵で編んだ笠を深く被り、戸毎を巡つてやはり明年の祝言を述べる。其章句には農作の道を説くことが多く、沖繩本島のミセセリなどと共に、澤山の古い言語が、此中に保存せられて居るらしい。

　我々は無邪氣な童子等の口を假りて、せめては春の初には耳に快い祝福の言を聽かうとしたが、根本に於て既に縋るべきものを忘れた爲に、是も亦古臭い戯れごとと爲つてしまつて、正月は更に不安を新たにする。之に比べると絶海の小島は幸であつた。都鄙の區別を教へる講師も國司も居なかつた故に、永く神の御幸の昔の悦ばしさを味はふことが出來た。さうして其神は又果知らぬ海原から、天に續いた地平線の向ふから、安々と其小舟を島の渚には漕寄せることを得たのである。

　

　　　　　　　二八　龜恩を知る

　

　南々と謂つて居る中に、もう引返すべき汽船が入つて來た。石垣の端舟は帆ばかりが力で、只淺い灣内を右左にまぎつて行く。其間に見送りに出てくれた岸の人は、一人づゝ還つてしまひ、海を曇らしむる雲の影ばかり、次第に多くなつて來る。晴れて水底に日の光のさし込む朝ならば、蒼白い砂地の處々に、深緑の珊瑚岩が二尋ぐらゐ迄は覗かれるのだが、けふは一圓に只淋しい灰色である。昔の大津浪の日の早天には、稍々強い地震があつて潮は遠く退き去り、五彩の光眩き此海底の秘富が、悉く白日の下に露れたと云ふことだが、今はそれも喚び覺し難い夢のやうに感じられる。

　本船に乘る迄に、もう天氣はすつかり惡く爲つて居た。此浪では今夜はとても出せませぬ。明日の又今頃迄斯うして繋つて居ますから、も一度此傳馬で上陸なされては如何と言つて來たが、大抵の客は舌打ちなどをするばかりで、(290)或は傳言を頼んだり、刻煙草を取寄せたり、碁盤を借りたりして、還つて見ようとは言はなかつた。眼の前に毎日見て居ながら、終に渡つて見ることを得なかつた竹富の島は、砂濱以外に何物も無いかのやうに、寂寞として船の右手に横はつて居る。もう今夜は月も遲い。それに濕つた風が甲板を吹いて、永く立つて別を惜むことも出來なかつた。

　萬年青《おもと》は千古の靈山であつて、今も尋常の旅人には、只遙かに山の姿を仰ぐことを許して居る。しかもその裾野の一角が、殆と全部の八重山文明の舞臺で、其尖端の最も低い臺地に據つて、石垣四箇の邑落は在るのである。ケビンの窓の圓硝子越しに、折々首を擧げて覗いて見ると、船は搖くとも思はれないで、干瀬に續いた陸地の一文字が、譬へばアイヌの髭箸の如くに上へ下へと動いて居る。此があの莫大な戀歌の國、利害と人情との無暗に錯綜した、泣いたり怒つたりの浮世なのか。何だあかりがたつた七つしか見えないぢやないか。僅かな者だけが餘分に利巧なばかりに、此島も常に苦勞をして居る。さうして不必要に早く老いて居る。

　只些しばかり世間を知つた不幸ほど、始末の惡いものは無い。もう此社會には新しい不思議が現れて、人の心の向き方を變へるやうな、機會はまあ無いものと私などは思つて居た。處が人間界にはまだ見盡されぬ隈があつたのである。自分等より二船ほどおくれて、前の富士屋旅館の女主が、八重山から引き揚げて來てこんな話をした。虚誕だと思ひなはるなら、思ひなはつても仕方がありませんが、私が船に乘りますと、大きな龜が三つで、送つて來てくれましたよ。

　みんなが一所に見たのですから、今度誰にでも聞いて御覽なさい。役所の人達や女たちも、同じ傳馬で賑やかに送つて來てくれました。おいおかみ、僕等こそ斯うやつて見送りをするがあれ程助けて置いた龜はどうだい。どうぞ御無事でとも何とも言つて來ないぢや無いか。だから龜を助けるなんか詰らぬ事なんだと、言つたか言はぬかに舳先の方に乘つて居た誰かゞ、あつ龜が出たと大きな聲で申しました。私が見たときにはもう二番目のが、斯うやつて手を動かして船のすぐ脇を通りました。それから又一つ今度は少し小さいのが、背中を出す位にして蒸汽に乘る時まで附(291)いて來ましたといふ話である。

　是には蒼くなつて驚かぬ者は無かつたさうである。ちやうど自分が淋しく別れて來たあの海だ。常は海龜などの入つて遊ぶ場所でも無い。卵を産む季節だけは、この近くの濱にも上つて捕られるのを、土地の漁師は料理して肉を賣つて居た。其を助けて放すやうに爲つてから、何時でも先づ富士屋へ擔いで來た。門から中へ擔ぎ込んだからは、値が高からうが、安からうが買はずに返したことは無かつたさうだ。其爲に三年あまり、一枚だつても新しい衣類はこしらへたことがありませんと謂つて居る。

　何でうそだと思ふものかおかみさん。おかみさんは寒國の生れだから知るまいが、日本の大海にもそんな龜が昔は居たのだ。浦島でも山蔭の中納言でも、氣を長くして居た爲に、ずつと立派な答禮を受けて居る。おかみさんが女の癖に鐵砲をかついで、島で鳥打などをしてあるきながら、龜だけは性の有るものと思つて助けたくなつたのも、又内地の町の年寄たちが、小さな石龜でも放さうかと思ふのも、誰も知らない不思議の遺傳が有るからで、其が又暖かな南の海で無ければ、最初から經驗することの出來なかつたことなのだ。我々がとうの昔に忘れてしまつたことを、八重山の人たちは今ちやうど忘れようとして居るのだ。

　

　　　　　　　二九　南波照間

　

　西常央翁《にしつねなかをう》から聽いたと、南島探險記には書いてある。波照間の島は即ちハテウルマで、うるまの島々の南の果の、意味であらうと云ふことだ。なるほど氣を付けて見ると、八重山郡の東の海には多良間があり、宮古群島には來間島あり、沖繩の西南に近く慶良聞があり、更に大島に續いて佳計呂麻の島がある。南北三つのエラブ島も其轉訛かもしれぬ。語尾のよく似た島の名が、此ほど迄多いのは偶然ではあるまい。或は曾て島をウルマと呼ぶ人民が、爰にもや(292)まとの海邊にも多く榮えて居て、自然に都の歌や物語にも、「ウルマの島の人なれや」などと、口ずさまれるやうに爲つたのでは無いか。さうで無くても昔なつかしい言葉である。

　波照間島は石垣から西南、猶十一里餘の海上に孤立して居る。此から先は只茫々たる太平洋で、強ひて隣と謂へば臺灣が有るばかりだが、しかも茲へ來れば更に又、パェパトローの島を談ずるさうである。パエは南のことで、我々が南風をハエと呼ぶに同じく、パトローは即ち波照間の今の土音である。この波照間の南の沖に今一つ、税吏の未だ知つて居らぬ極樂の島が、浪に隱れてあるものと、かの島の人は信じて居た。

　昔百姓の年貢が堪へ難く重かつた時、此島の屋久のヤクアカマリと云ふ者、之を濟はんと思ひ立つて、遍く洋中を漕ぎ求めて終に其島を見出し、我島に因んで之を南波照間と名づけたと傳へて居る。徐福が大帝の命を承けたのとは事かはり、此は深夜に數十人の老幼男女を船に乘せて、竊かにその漂渺の邦へ移住してしまつた。其折に只一人の女が、家に鍋を忘れて取りに戻つて居る間に、夜が明けかゝつたので其船は出去つた。鍋掻と云ふ地は其故跡と云ふことに爲つて居る。取殘されて歎き悶え足摺し、濱の眞砂を鍋で掻き散らした處と謂ふのである。

　新たな島を求めんとする心は、人の世中が住みうくなる更に以前から、久しく島人の間には傳はつて居たものだらう。さうで無ければ太古の時から、既に此世は住みうい處であつたのか。兎に角にどの海のどの小島にも、人が渡つてもう住んで居る。島は盡きても求める心は絶えなかつた。ひとりこの波照間のみでは無い。沖繩でも南に大海を望む具志頭《ぐしかみ》村の銀河原に、俊寛僧都同系の悲慘な話が有つて、磨小塘《うすをども》の遺跡は亦南の果の島の鍋掻と對して居る。昔此里に住む夫婦の者、家計の不如意を愁ひて居る折柄、一人ある僕、釣に出でて颶風に遭ひ、珍らしい島に上つて數月を過した後、或日南の風に乘じて還つて來た。こんな結構な島があります、御伴をして參りませうと、五穀の種や色々の道具と共に、既に女房をも乘せ了つてから、僞つて主人に向つて、石臼を持て來てくれよと頼んだ。主人は急ぎ戻つて臼を持つて出て見ると、もう其小舟は沖中に漕ぎ出して居て、追付くことも出來なかつた。女房は涙の聲を張(293)揚げ、惡い僕に騙されて、私ばかり斯うして連れて行かれます。聞けばあの島には大きな蘆が茂つてゐるさうな。其蘆の莖を採つて本を切り末を切り、海に流したのが此濱に流れ着くならば、私はまだ生きて居ると思つて下さい。其が來ぬやうに爲つたら、死んだと思つて下さいと、泣いて約束をして汐路遠く往つてしまつた。亭主は只ぼんやりとして臼を此水中に投込み、還つて來たと云ふのはしやうも無い話だ。

　併し此話は又一方に、今昔物語の土佐の妹脊島の話にも似た所がある。船で田植に行く幡多郡の海岸の農夫、苗と兄妹の子供とを船に乘せ、一寸家に戻つて居るうちに風が吹いて、船は沖に出てしまつた。二人ばかり其島に漂着して、せん方も無く其苗を植ゑて、後に同胞で夫婦に爲つたと謂ふのである。臺灣の生蕃には殆と各蕃社毎に、之に似た兄妹漂流の事件を以て、部落の始とする口碑がある。神の怒りの大水で、臼に乘つて居た二人の外は皆死んだ。其臼の隅に挾まつて居た穀物の種を播いて、新たに次の世の親と爲つたと傳へて居るのである。

　波照間島の人類の始も、やはり亦災後の兄妹で、神の惠に依つて子孫を儲けたと傳へられる。但し爰では大水の代りに火の雨が降り、臼の代りに白金の鍋を以て、身を覆うて免れたと語つて居る。臼も鍋も要するに皆、ノアの箱舟に他ならぬ。時の大海原を如何なる風に乘つて、その箱舟の物語が廣く遠く、西東には吹分れたのであらうか。今ではもう具志頭の濱に、蘆の莖も流れて來ず、有名な與那國の大草鞋も、誰が何の爲に流したかゞ不明に爲つた。併し此等の物語は、決して其全部が夢では無い。石垣島では波照間島のヤクアマカリに該當する英傑を、本宮良と謂つて今も深く慕つて居る。即ち慶長の南蠻船漂着の頃に、切支丹の故を以て刑せられたと云ふ名士である。本宮良が自在に海上を去來して、さき／”＼で妻を持つて居たと云ふ、其島々の名は何人も知らぬが、彼が携へ還つた葉の紫な南蠻萬年青だけは、今もなほ此島人の庭や石垣に、日に照つて美しく榮えて居る。

　

(294)　　　　　　　與那國の女たち

　

　　　　　　　　　　一

　

　石垣島では與那國のことを、ユノーンと呼んで居る。かの島の人々は自らヅナーンと謂ふさうである。同じ八重山郡の内ながら、石垣からは何れの岡に登つても、與那國の島の姿を見ることが出來ぬ。西表の高い島山が、中を隔てて居るからである。さうして海上が五十幾里、冬は殊に浪が荒いと云ふが、それでも折々はあちらの船が、前觸れも無しに鳥などのやうにやつて來る。それに又便船すべく行く人や還る人が、もう來さうなものだと謂つて待つて居る。

　自分が石垣島に上陸した日の午後にも、ちやうど一般の朝來た船が還るので、旅館の主人の石本氏は、急に支度をして乘つて往つた。此人は數年前に上方から來て、島々の間で商賣をして居る。留守を預かる帳場の男は鹿兒島の者、其外に那覇から來た少年と、臺灣の打狗で生れてまだ内地を知らぬやまとの娘とが働いて居る。それだけでも既に珍らしい取合せであるのに、若い美しいおかみさん、即ち土地で刀自と稱する婦人は、與那國の生れであつた。刀自の名はクヤマ、髪かたちは島風であるが、「いらつしやる」を精確に使ひ得るほどに、内地の語には通じて居る。

　

　　　　　　　　　　二

　

　この若いクヤマを訪ねて、一人二人の與那國の女性が、夜分などに來ては物靜かに話をして居る。今朝の船で着い(295)たと云ふ者も居たが、自分たちとは違つて少しも旅人らしい樣子は無くまるで隣家の人のやうに落付いて居る。

　二十七八の小柄の、子供のやうな口元をした女は、この石垣村の小實業家の某と云ふ人の、與那國の刀自であつた。某君が病氣になつて、とんとあの島へも往かれぬやうになつてから、一年に二度か三度、斯うして向ふから渡つて來ては、ゆつくりと遊んで還る。年は若いが手に入墨をちやんとして居る。北の方の島々の黥とは又形式が變つて居るらしいので、よく見て置かうと思つて眼を着けると、之をすぐに覺つて頻りと左右の手を揉み合せ、私などは昔者だから、ヤマトウシュメーにはをかしいだらうと、傍の人を向いて言つて居る。それでも根氣よく頼んで居るうちに、かなり高い聲を揚げてションガネ節を歌つてくれた。さうして其歌の文句に表れた島の情合ひを、説明して聞かせようと力めてくれた。

　今一人、どうしても歌つてきかせようとせぬ婦人が居た。年は又七八つも上であらうに、此方は手に入墨をしては居なかつた。行政廳が針突の風習を制止したのが、明治三十一二年の事と謂ふから、此年齡の女ならば、して居らぬ方が當りまへである。それに家柄なども稍々良い方であるらしかつた。與那國では苗字よりも屋號の方が、普通に行はれて居ることは沖繩の農村と同樣で、家毎に尚一種の記號のやうな繪をもつて居る。それを集めた帳面を、自分が取出して見せると、皆で寄つて來て其中から、是が此人の家の符牒だ、これは其本家で、他所から來る人のよく泊めてもらふ家だなどと、一つ殘らずに知つて居た。此婦人は只一人ある男の子を那覇の中學校に入れる爲に、試驗を受けさせに石垣へ來たのであつた。首尾よく試驗が通れば沖繩まで自分が附いて行く。與那國の島ではこれで三人目とかであると謂ふ。又親類には醫者の免?を取つて、島に還つて開業をして居る者もある。其人の刀自は香川縣の生れであるとも謂つた。さすれば所謂女護の島にも、既にやまとの女性が來て住んで居るのである。他の島々と特に變つたことは無いのである。

　

(296)　　　　　　　　　　三

　

　首里や那覇でも内地と一樣に、與那囲に就ては徒らに奇拔な評判ばかり高いが、自分の聽いて見た所では、實は爰も新しい日本國の一島で、弱い者が餘分の苦みをすると云ふ以外に、何も特殊の社會組織が有るわけでは無いやうだ。唯やまとなどに比べると今一段と、歴史が新しくて昔が近い爲に、まだゴンボウを大切にする風が、少し殘つて居ると云ふばかりである。ゴンボウとは何であるか。はつきりとした意味は、自分にも説明し難いが、少なくとも與那國の島では、島人を父とせずに生れた子を、さう呼んで居るのである。那覇の色町などでは、只の浮氣と云ふ意味に此語を用ゐて居るらしいが、多分はもと假の妻と云ふやうな心持であつたのが、轉じてはさうして生れた兒の名にもなつたのであらう。

　與那國には限らず、近い昔までは琉球の島々では、在番役人の子を産めば、平民が士族に爲つた。さうして士族には經濟上の特權があつた。それ故に最初から、或時限りの刀自なることを承知の上で、滯在の人にかしづくことを厭はなかつたのである。今はもう其樣な誘因が、勿論何も無いのであるが、生活は至つて簡易であり、女は如何なる境遇に在つても働きさへすれば生きられる故に、やはり安心して色々の子を育てるのである。わざ／＼ゴンボウを産ませる爲に、此島に渡つて來る人は有る筈が無いのだが、海が荒れたり用事が片付かなかつたり、今も昔の如く圖らざる永逗留をするうちに、自然は此の如き大きな仕事をしてしまふのである。島の現在の有力者は、何だか大部分はゴンボウの子孫であるやうに、自分に話した人もあつた。そんな理由は無からうと思ふが、兎に角外部から、何の攪亂をも受けなかつた家の血が、平和なれども又平凡に流れ易い傾きはあつたかも知れぬ。それだけでは殆と何れの離れ島でも、免れ難い通勢であつて、たゞ島が小さいほど其結果が早く見えるのかも知れぬ。

　現在此島で指折りの物持の中に、一人の婦人が有る。噂によればずつと以前の、駐在巡査の刀自であつた。別離に(297)臨んで幾人かの子供と共に、若干の金子を其母の手に遺して來た。其高は何れ莫大では無かつたに相違無いが、島には現金の入用が無暗に多く、しかも人は皆義理が固い爲に、少しの危險も無しに其元金が次第に成長した。目前に斯う生活の例があるに由つて旅の人をゆかしがる氣風が今に止まぬのであると云ふ。ところがをかしいことには、此噂を自分にして聽かせた男も、第二の噂に依れば此島に七歳ばかりの落胤があつて、やはり若干の金を其母に殘して、間も無く遠方へ去つてしまつたと云ふことである。

　

　　　　　　　　　　四

　

　沖繩の文人の先島情調を説く者は、必ず其例としてウヤンマーの一曲を擧げるが、八重山は歌の國だと云ふ世評を悦ぶ島の人にも、之を以て彼等の音樂を代表せしめることだけは絶對に承認しない。ウヤンマーのアンマーは阿母加奈之などの阿母と同じく、地位ある婦人のこと、ウヤは親方親雲上などの親と同じく、つまりは令夫人とも譯すべき沖繩の語であつて、チェンバレンが琉球語研究の附録には其全譯を載せて、此語をマイレデイと譯して居る。任期三年の八重山在番が、船出に臨んで假の妹脊の永い別を悲み、頑是無い穉兒に取縋られて涙の袖をしぼると云ふ、至つて單純な趣向であるが、歌の章句には南國のペソスが有る。しかも八重山人の言に從へば、第一ウヤンマーは此島の語では無い。石垣でならばカリヤヌアンマと謂はねばならぬ。假屋は即ち在番の官舍のことである。第二にはこのチョーギン（狂言）の中の歌がまがひ物で、中にたゞ二つの本の歌も、元來石垣首邑の藏元の歌で無く、何れも與那國のションガネ節であり、その與那國には沖繩の官吏は在勤しなかつたから、乃ち別人の爲に發した愛慕の聲であつたのを、史實に反して此文學は横取りしたのである。

　　　いとま乞ひともて（思ひて）

　　　持ちゆる盃や

(298)　　　目なだ（涙）泡もらち

　　　飲みのならぬ

　是がその問題の歌の一つである。更に今一つの歌は、

　　　片帆持たしば

　　　片目のなだ（涙）落し

　　　もろ帆持たしば

　　　もろ目のなだ落し

と云ふのであるが、自分も現に與那國の女が、これを歌ふのを聽いたのだから、證人に立たざるを得ない。しかも此の如き剽竊は寧ろ孤島の面目であつて、淋しい島の女の無始の昔からの哀愁が、弘く世上の歌を好む人々をして、胸躍り袂沾はしめたのは嬉しいことだと思ふ。殊にはこの日本の果の果の島まで、曾て大いに都市ではやり、北は奧州の「さんさ時雨」の曲となつて傳はつた「しょんがえ」の歌の節が、一度は傳はり運ばれて更に又、沖繩の湊町に戻つて來たことをなつかしく感ずる。薩摩の海門に於ても、久しく土地の名物として同じ鄙ぶりがもてはやされ、「雲の帶してなよ／＼と」と云ふ歌は、多くの人が聽いて知つて居る。沖繩近海の船歌にも今もチョンガェと云ふ囃子がある。海の荒し子どもはいつの也にか、遙々と之を携へて與那國を訪ひ、今歌ふ少女の曾祖母あたりを、慰め又悲しましめて居たのである。

　

　　　　　　　　　　五

　

　所謂假屋のアンマの生活は、昔は殆と島毎にあつたものらしい。島の平民の娘にして、眉目清らに生れた者は、必ず何人かゞ勸めて化粧させ、新しい衣を着せて、目に立つ場處で布を織りつゝ、新任の官吏に見えしめた。狂言のウ(299)ヤンマーの如く男の兒を儲けて、幸福な士族の家の先祖と爲つた者もあれば、不幸にして老人にかしづき、後に淋しく別れてしまふ者もあつたさうだ。與那國などの遠い島では、與人《ゆんちゆ》と目差《めざし》と二人の役人が、藏元即ち首邑の石垣島からやつて來て、やはり沖繩と同じ方法で、其在任期間の刀自を選定した。從つて島の女の別離の歌曲には、彼等の眞情から出たものもあれば、又音樂を愛する青年官吏から、強ひて此の如く歌はしめられたものもあるだらう。其人々は男も女も皆死去つて、今では歌だけが前の歴史を語つて居る。強い者が曾て勝つたと云ふ、さびしい歴史を語つて居る。

　與那國では平家の一族の末と云ふ部落があつて、今尚在來の島人の子孫たちと對立し、平和の競爭を續けて居ると言つた人があるが、果してさうであらうか。平家は北に四百里を隔てた南九州の山村から、島では川邊郡の十島を始として、どこへも上陸して遺蹟を留めて居る。モリは社地又は靈山を意味する普通名詞であるが、之を祭る島では悉く、行《ゆき》の盛友《もりとも》の盛などの神歌を存し、更に系圖が出來、又後裔が榮えて居て、系圖を否認すれば恐らくは決闘を申込まれる。海は一續きであるから壇の浦の船の數だけは、落人の漂着した例も有り得るのであるが、實は其後の六七百年も、彼等をして優美なる由緒を保存せしめる程に、島の生活は無事單調では無かつた。

　たとへば石垣島に在つては、赤蜂本瓦が井底の痴蛙であつた爲に、宮古の仲宗根豐見親は、沖繩の船軍を嚮導して此島に攻入り、各村の舊住民を制御して之を只の百姓にしてしまつた。即ち石垣のユカルピト（優越階級）は、少なくとも其血の三分の二まで、宮古系になつたのである。之に反して與那國の島では、宮古出身と傳ふる酋長の鬼虎が、あまりに暴虐を振舞つた爲に、終に石垣からの遠征を受けて、忽ち全村の屈服となつてしまつた。其以前にも西表島の祖納堂と云ふ一勇士が、單に此島を發見したと云ふ理由のみで、攻めて來て占領した事實がある。慶田城《けたぐすく》の村に今もある祖納堂の家の火神は、それから以後與那國の船人等が、來ては拜んで行くことになつて居るのは、恐らくは此家の支系が、永く與那國の島に土着したこと、恰も宮古の勇士の末が八重山の士族になつたのと、同じであることを(300)意味するであらう。

　石垣の村にも亦與那國のオーン（御嶽）と稱して、かの島の島人だけが詣でては香を燒く靈地が、濱近くの人家の間に在つて、村では却つて之を顧みる者も無いのは、向ふへ移つて後に本家が絶えて、子孫があちらにばかり有る爲であらう。近くは明和の大海嘯、それに引續いての疫病流行で、石垣本島の人口は一時四分の一に減少した。其時は命令を以て附近の島々から無理に若干の民を此方へ移住せしめ、南に面した海岸の村々は、殆と皆昔を知らぬ者ばかりが廢墟の土を耕して居るのである。此以外にも次第に死に絶えたり、強ひて連れて行かれたり、人が乏しい爲に不自然なる婚姻もあれば、家の盛衰も亦異常であつた。斯うした永い年月の交通往來を重ねて居るうちに、人の血は愈々混淆して、恨んだ者も恨まれた者も、たゞ忘却の一體となつてしまつたことは、恰もこの漫々たる大海の波濤の如く、永古に殘るものとては、獨り底知れぬ潮の力のみであつた。

　與那國の女たちは、ほんの無邪氣な心持で、島の話をしたのであつたが、靜かに聽いて居ると幾らでも悲しくなる。生きると云ふことは全く大事業だ。あらゆる物が此爲には犠牲に供せられる。しかも人には美しく生きようとする願が常に在る。苦惱せざるを得ないでは無いか。

　

　　　　　　　　　　六

　

　なか／＼樂では無い島の生活ださうである。水は幸ひにして清い谷川が流れ、宮古のやうに降川《うりかは》を登り降る煩ひは無いが、如何にも風の強い島であつて、稻の實にならぬ年が何年も續くことがある。阿檀の芽だけは石垣でも食べると謂ふが、與那國では蒲葵の木の芽も食べておいしいと謂ふ。蒲葵の實も此島では食べる。海からも少しづゝ食物を惠まれるが、たゞ困ることは金に代へるやうな生産品が少ないのに、外から買はねばならぬ貨物が、時世と共に増して來ることである。豚でも鷄でも世間の相場を知らぬ爲に、折角繁殖させてから、まるで目算の違つた取引をするや(301)うなことが折々ある。斯う云ふ境涯に於て、女などが外へ出て住みたがるのは無理で無い。殊に此島の婦人には強い所がある。甲乙の組合を分けて競爭させると、道造りなどには篝を燒いて徹夜に働くこともある。運動會の催される日には、旗を立てゝ男たちを迎へに來る。役場にもめ事でもあつて、村の男の押掛けて來るときには、垣根の外は此に聲援する婦人で、一杯になるくらゐであると謂ふ。もつと南の大洋の島々の、女の地位風習などと考へ合せると、どうして又此樣な、きつい氣性が根ざしたものか。はた又此が將來にどう云ふ運命を開いて行くものか。自分などにはとても判斷をすることがむつかしい。

　此島の風俗の中には、他の沖繩の諸島を中に置いて、始めて葦原の中つ國と、根原が一つであることを知るものが多いやうに思ふ。例へば門の口に文字の無い石敢當を建てる風、式日や葬祭の日に猪を屠る風などは、何れも大琉球の文化を透して見ないと、見馴れぬ我々にはあまりに異樣に感ぜられる。言語に於ても亦其通りで、不意に行逢うては本の由縁を心付かぬ程に、我々の常の話とはかはつてゐる。是皆久しい間、島と島とが船の交通を、杜絶して居た結果である。我々は曾て大昔に小船に乘つて、この亞細亞の東端の海島に入込んだ者なることを知るのみで、北から次第に南の方へ下つたか、はた又反對に南から北へ歸る燕の路を逐うて來たものか、今尚民族の持ち傳へた生活樣式から、も一つ以前の居住地を推測する學問が進まぬ爲に如何なる臆斷でも成立ち得るやうであるが、少なくとも此等の沖の小島の生活を觀ると、それは寧ろ物の始の形に近く、世の終の姿とはどうしても思はれぬ。即ち大小數百の日本島の住民が、最初は一家一部落であつたとする場合に、與那國人の今日の風習が、小島に窄《すぼ》んだから斯うなつたと見るよりも、やまとの我々が大きな島に渡つた結果、今日の?態にまで發展したと見る方が、遙かに理由を説明しやすいやうに思はれる。北で溢れて押出されたとするには、平家の落人でも無い限は、こんな海の果までは來さうにも無いが、南の島に先づ上陸したとすれば、永くは居られぬからどうかして出て來たであらう。さうして取殘された前の島の人を、必ずしも?々想ひ出すことは無かつたかも知れぬ。假に此推測が當つて居たとすれば、我々は誠に偶然(302)の機會に由つて、遠い昔の世の人の苦悶を、僅かながらも此あたりの島から、見出し得たことになるのである。

　先島各地ではつい近い頃まで、何か仔細が有つてか沖繩本島のことを、惡鬼納の三字を以て書現して居た。士族に取つてはその惡鬼納への渡海が、戰陣にも相當する苦しい役であつた。王命とあれば唐へも大和へも行き向うたが、三つに一つは其船が還らなかつた。たま／＼漂流して生きて戻つた者に、怖ろしい異國の島の話があつた。與那國の人たちはもう忘れたかと思ふが、毎年一度一丈二丈の大草鞋を作つて、海に流して外敵を畏嚇したと謂ひ、或は之と反對にそんな物が、何處からとも無く流れて來たとも傳へられる。斯うして五里三里の小さな孤島に閉ぢ籠り、限りある平和を樂しんだ時も永かつた。荒海は誠に堅固なる障壁であつて、之を守つて居れば外界の幸福と比較して、徒らに憂へ憤るべき場合も起らぬ筈であつたが、悲しい哉不老不死の藥は、島の内では求め得られなかつた。徐福の船は又新たに出でて蓬莱の島を求めねばならぬやうになつた。空しく待つ者と終に還らぬ者とに、島の民は再び二分せられんとして居る。

　

　　　　　　　　　　七

　

　民族去來の悠久の足跡は、とてももう分らぬ問題として置いて、自分は尚石垣の港の町を、五十里を隔てた與那國を知らうとしてあるいて見た。庭に佛桑花《ぶつさうげ》の紅く咲く家に、まだ一人の與那國の女が居た。其名をナサーと謂つて不幸なるゴンボウの孤兒であつた。五つの年から母の島へは還つたことが無い。成長の後にある男に連れられて、與那國に住むつもりで渡つて往つたが、刑事事件が起つて又其船で男は引戻され、自分も終に獨り止まつて居ることが出來ぬので、石垣まで歸つて元のしどけ無い生存を繰返して居る。よく歌ひよく飲む妙な女だと云ふことを、幾度か土地の人から聞いただけで、自分は其以上の事を知る機會を得なかつた。

　又一人の亞米利加へ往つて來た女がある。マクダ部落の貧しい家の外に、高く細い木の臼で漆喰にする土をこつこ(303)つと搗いて居た。あれがヴァンクーバーと謂ふ女です。與那國の者です。一つ此方を向かせて見ませうかと言つて、親切な案内者がホーイと甲高い聲で喚んでくれたが、早くから知つて居たか、振向きもせねば頬の肉も動かさなかつた。、物ごしはすらりと上品な女であつたが、如何にも氣の毒な惡いきものを着て居る。歸つて來た當座には靴もあり帽子もあり、仕事着と云ふ洋服も持つて居たが、二三年の内に追々破れてしまつたさうである。是は亭主に棄てられて戻つて來たと云ふばかりで、最初からよく無い經歴の女では無かつた。それに年も若くて美しかつた。親類の者がたびたび與那國へ還るやうにと來ては勸めるが、何としても之に從はぬのは意地であらう。今ではこの石垣島の生活にも倦んで居る。こんな位ならば何をしてなりとも、カナダに殘つて居たものをと、折々は歎息するさうである。さうして是が後にはどうなつてしまふものか。やはり今までの多くの島の婦人の如く、しやうもなく早く老いてしまふのでは無からうか。子を持たぬと云ふ不幸は、島に於ては殊に堪へ難いものゝやうに思はれた。

　

(304)　　　　　南の島の清水

　

　　　　　　　むかし手にくだる、なさきから出ぢて、なまに流れゆる、ちゆ田の手水　（金武節）

　　　　　　　昔手に汲だす、いつの代がやたら、水やなままでむ、澄みてをすが　　　（同上）

　

　　　　　　　　　　一

　

　沖繩では組踊の「手水の縁」が、めつたに興行を許されぬやうになつても、晴れて日の照る日に許田《きよだ》の入江の村を通る者は、一人として昔其泉の側に於て、清水を手に掬して若き旅人に飲ましめたと云ふ美しい少女を、想ひ出さぬものは無いであらう。際限も無く古い親々の代から、一つ物語がしば／＼其影を變じて常に清新に、幽艶の調は流れて永く絶えざること、恰も此里の泉の水のやうであつたのは、是にも亦二つの源頭が有るからである。其一つは即ち清水を戀慕ふ島人の心もち、其二はどこまでも泉に纏綿した、村の女性の生活に他ならぬ。自分は前にも諸國の姥が井の由來について、少しく此間の消息を説かうと試みたことがあつたが、今度は又南の島を旅行して、もう一ぺん誰かと此話がして見たくなつた。併し問題は込入つて居り、私は中々忙しい。うまく簡單に説くことが出來ればよいがと思ふ。

　

(305)　　　　　　　　　　二

　

　平和の緑の色に一樣に取包まれた沖繩の村々も、水の一點だけには著しい幸不幸がある。概して言へば新しい村ほど、飲水の不自由を辛抱せねばならなんだやうである。那覇なども隨分古い湊であるが、當初今日ほどの繁榮を豫期しなかつた爲に、近く良い井戸の在る家は誠に少なく、他の多くは入江の對岸のウチンダ（落平《おちびら》）の泉から、遙々と汲んで來て用ゐて居る。町を貫く堀川に潮が滿ちて、翡翠の往來が次第に稀になる頃、ぎいと梶の音をさせて入つて來るのは、すべて水賣の船である。酒屋の庫にあるやうな大桶に幾つも汲入れて、家々に水を配つてまはるのである。又漆喰をよくした町屋の赤瓦は、その第二の目的として是で雨水を受留める。其末をタンクに貯へて、お茶の水にまで使つて居る家がある。

　郊外に出て見ると庭の木に斜めに繩を張つて、壺に僅かの雨の雫を集めようとした家もある。瓦葺きの多く無かつた時代には、是が最も普通の方法であつたらしい。八重山の石垣島などでも私の見たのは、福木の幹に一枚の棕櫚の葉を結びつけ、一尺ほど切殘した葉柄の端から、樹下の小瓶へ雨水の滴るやうにしてあつた。先島は一帶に水が十分で無くて、島布なども多くは海の水を以て晒して居るのである。

　

　　　　　　　　　　三

　

　井戸をカハと謂ふのは、必ずしも沖繩の諸島だけでは無い。九州でも弘く之をヰカハと呼んで居て、飲水の供給が最初は皆天然の流からであつたことゝ、其流を堰き留めて水を一處に止住せしめたのが、即ちヰと云ふ語の起原なることを示して居る。やまとの島で普通に見る掘り井戸を、宮古でも八重山でもツリカーと稱へて居る。釣瓶を以て水を釣る井戸の意味で、その釣瓶は蒲葵の葉を以て、巧みに鸚鵡貝のやうな形に縫うてある。大事に使へば一つが十日(306)餘りも持つと謂ふ。此頃は葉鐡で作つた同じ形の釣瓶も出來たが、元の蒲葵で製したものは輕過ぎて、使ひ馴れぬ者にはとても水が揚らぬ。其ばかりか深い釣井でも、水は幾らも無くて折々は新たに湧くのを待たねばならぬことがある。斯う云ふ井戸へ村中から、汲みに通ふ者は他の多くの民族と同じく、悉く村の女たちであつた。ツリカーに比べるとウリカーの方が更に苦しい。ウリカーは即ち降りて汲む井戸のことで、宮古の平良などには此ばかりしか無いやうである。それも舊記には十何箇處と記したものが、中にはもう丸で出なくなつたのもあれば、洗濯にしか用ゐられぬ濁り水もある。ほんの人家の片脇などに、追々に掘り窪めて九丈十丈と斜に降りて行く險しい石坂を、石の稜が滑かになるまで、毎日上下して僅かの水を頭に載せて來る。それが昔から皆女であつた。中世島と島との怖ろしい戰の時、八重山の島から捕はれて來て、深く危ふいスサカガー（白明井）の水を汲みに日毎に追ひ遣られた美しい娘が、身の薄運を歎き親の家を慕うた古歌が、今も尚宮古の島には傳はつて居て、其清水は既に滴れたと「古琉球」の中にも書いてある。

　

　　　　　　　　　　四

　

　或は斯うした水までも足りなくて、遙々船に乘つて貰ひに來る島もある。沖繩本島では國頭の古宇利の島、先島では多良間の北沖に在る水納の島などが、最も水に乏しい土地として知られて居るが、大きい島でも村によつては、旱の苦みを惱みぬく者が稀で無い。その色々の例を見た後に、島尻地方などの岡の根方に、珊瑚岩層の割れ目から、澄み徹つた清水が滾々として湧き且つ流れて居るのを見ると、實際誰でも神の恩惠を考へずには居られない。中世の南山王國の廢墟は、今は神社と公園と小學校とに爲つて居る。其石崖の東北隅に立つて見下すと、屋古《やこ》の古村の共同井がよく見える。大木の蔭に石を疊み、泉の口では水を汲み、其側では器を洗ひ、其下では衣を滌ぎ、其末では馬を冷し、數十人の娘たちが面白さうに一所に働いて居る。カンヂャーと名づけて旅の鑄物師が來ては仕事をする小屋など(307)も、瓦で葺いて流の傍に建つて居り、なほ下流に行くと川に橋があり、水車も此水に由つて廻轉し、數町歩の稻田も此から灌漑せられて居る。凡そ一村の生活は皆此泉を中心とするかの如く、結局水汲み場の唯一箇所であるのも、寧ろ部内の親睦を増すの途であるやうに思はれた。

　琉球國舊記其他の古い書物に、由來を傳へられた嘉手志川は、即ち此清水のことである。屋古は名を改めて今は大里と呼んで居る。古くは南山城の西の麓、即ち絲滿の港から登つて來る大手の口に在つたのが、此泉を慕うて次第に丘の北側に移つて來た。嘉手志は沖繩語で、人の集まつて來ることを意味すると謂ふが、果してさうであらうか。土地の一説では、古くは又カタリガーとも稱へた。即ち傳説の存する泉と謂ふことである。昔大旱の歳に人々船を仕立て、水を他處の岸に?めんとして居る處へ、一匹の狗が全身沾れそぼたれてやつて來た。不思議に思つて暫く船出を見合せ、其狗を先に立てゝ林の奧深く入つて見ると、果せるかな此の如き立派な清水が湧いて居た。さうして狗は水中に入つて忽ちに石と化し、其石は今なほ泉の上に安置せられて、郷人の尊敬を受けて居る。古來の口碑は此の如くであるが、別に他村の靈泉にも同じ類の話がある上に、東方諸民族の間に於ては、是は寧ろ有りふれたる物語であつた。現に臺灣山地に住む幼稚なる部落の間にも、狗に導かれて清水を見出したと云ふ舊傳が、幾らとも無く存在するから、恐らくは此島に在つても亦、話の方が泉よりもなほ一層古かつたのである。

　屋古の語り井の歴史は、更に又南山王國の盛衰とも深い關係があつた。最後の城の主島尻大里按司は智慮の短い人であつた。佐敷小按司《さしきこあんじ》尚巴志が秘藏する名劍を所望の餘りに、此泉を與へて之に交易したと謂ふことである。尚巴志は泉の水を自由にし得るに及んで、自分に懷く者の田にばかり、之を引くことを許した故に、終には南山城下の民は未だ戰はざる前から、既に敵の佐敷小按司に、歸服してしまつて居たと傳へられる。勿論是も亦物語ではあらうが、兎に角に泉の�ｺは神の�ｺであつて、兼て又王の�ｺであつたことが、島に來て見ると大方は想像し得られるのである。

　

(308)　　　　　　　　　　五

　

　所謂白鳥處女の傳説は、曾て高木敏雄君に由つて、其起原と分布とを説かれたことがある。神が人間界に配偶を求めたまふこと、鳥の形をして此世と往來したまふことは、至つて弘く且つ久しい傳承であるが、其が進んで三穗の松原や、近江の余吾湖の樣式を取るに至つたのには又其地方に相應した何ぞの事情が有つた筈である。さうして沖繩の島では泉の神の信仰が、明白に物語の一要素を爲して居たことを認めざるを得ない。それにつけても玉城朝薫《たまぐすくてうくん》の銘苅子《めかるし》の一曲が、あまりに謠曲の羽衣に近いのは不本意である。沖繩の天女譚には、たしかに此島の地方色が有つたのを、かの才子は輕々に看過してしまつた。

　銘苅子は那覇より程近い西海岸、安謝の村の農夫であつた。遺老傳の一説に今の天久《あめぐ》の聖現寺の神なる熊野權現と辨才天とを、顯し祀つたと傳ふる茗苅翁子と、恐らくは同じ人の事である。安謝の村では茗苅子の祠堂と謂ふものが、今も尚拜所の一つになつて居り、其由來談には謠曲の羽衣などには見られない、長い髪の毛の話が組入れられてある。茗苅子は或日田より歸りがけに、泉に臨んで手足を洗はうとすると、七八尺もある女の髪の毛が一すぢ、水の上に浮かんで居る。不思議に思つて折々其泉近くに身を潜めて窺ふうちに、終に嬋娟たる神女が衣服を樹の枝に脱ぎ掛けて、水に下つて頭髪を洗ふところを見付けた。仍て其衣を取匿し、捜してやると僞つて家に伴ひ還り且之を娶つた。後に一女二男を産ましむとある。其女の兒が稍々成長して、弟の子守をするときに、泣くな、泣かぬなら、遣らうよ母の飛衣をと歌つた。六股の倉に、稻束の下に、置き古してあるからと歌つた。母の神女は之を聽き、夫の留守を待つて其衣を捜し出し、恩愛の絆を絶ち切つて、忽ち天界に飛び還つたと傳へて居る。

　

(309)　　　　　　　　　　六

　

　球陽には右の古傳を録して、某の王妃は實に此神女の胤なりと謂つて居る。しかものんきな書物も有つたもので、殆と全く此と同樣の物語を、更になほ二つまで同じ本の中に載せて居るのである。第三王朝の第一世に察度王と云ふ人は、微賤から身を起した浦添の按司であつたが其家にも飛衣を匿されて凡夫の妻と爲つた天女の話がある。やはり泉の側で捉へられたことになつて居り、子供の歌から衣の所在を知つたのも亦同じである。

　第三の話も多くの點に於て此と似て居るが、場處は隣村の西原間切｜我謝《がじや》の烏帽子井と云ふ泉であり、農夫も小波津仁也《ごはつにや》と云ふ別の家の先祖であつた。この天女のみは天へ還る時に、二人の兒をつれて往つてしまつたと傳へられ、一つ話の一つ天女の事とは認めにくゝ爲つて居る。しかも此井は永く靈泉であつて、元禄三年以後にも三年に一度づゝ、中山王國の齋宮女王たる聞得大君が、親しく到り拜したまふほどの崇敬であつた。井の上には神の御嶽があり、其神の御名は「君が神水主が御水威部」、疑ふ所無く此泉の神であつた。以上三箇所の羽衣の物語の他に、琉球國由來記と琉球國舊記には、大里間切宮城村の、久場堂御嶽の下に在る遠蘇古井と云ふ泉にも、亦農夫に嫁したる第四の神女があつたことを記して居る。農夫此清水に近く家住みて、?々天を射るほどの光が此井からさすのを怪み、夜更け人靜かなる時之を窺ふと、此世ならざる清い女性が、五彩の衣を傍の枝に掛けて、只一人水際に立つのを見た。それから後の話は茗苅子に同じく、此も一男一女を生んだとある。只異なる點は此神女は、終に飛衣を見付け出すことを得なかつた、永く人界に留まり死して其骨を久場堂御嶽の大石の中に藏したと謂ふことである。嶽の神の御名は「一つ瀬｜安眞遠禮司《あまをれつかさ》の御威部」と傳へられる。アマヲレは即ち天降である。ツカサは神の名にして又神に仕ふる女のことをも言ふ。一つ瀬は其神女の骨を納めた大石の名と謂ふが、それは或は干瀬から運んで來た石を、大瀬などと呼ぶことに基づく想像であつて、やはりもと内地と同じやうに、沐浴の場所を意味した語であつたかも知れぬ。すぐれた先祖(310)の骨を保存し、洗つて之を祭ることは島の宗教の著しい特色であつた。此天女の生んだ女子、後に此村のノロ（祝女）と爲つたと云ふ傳へもあつて、人間に歸化してしまつた天女の家筋ではあつたが、やはりその最初の母を、天降る姫神として此御嶽には祀つたのである。

　

　　　　　　　　　　七

　

　やまとの島々の神道に於ても、神は井の上、清水の滸なる靈地に、降りたまふと信ぜられた例は多いが、至極の篤信者で無ければ御姿を拜むことも出來ず、たゞ神を代表するよりましの女に由つて、間接の御聲を聽くばかりであつた。之に反して南の海の島々ほど、昔から天降の盛んであつた處は無い。世に大事の起る時、人に善惡の爭ひあるときは勿論のこと、何年に一度かある御祭の時にも、乃至は人の信仰の稍々衰へんとする時にも、萬人一同に神の御姿を拜んだと云ふことは、段々の記録がある。それが又決して大昔の世の事のみでは無かつた。今から百七十年前の寶暦年間にも、前年東宮殿下の御上陸なされた與那原の濱に、天女三人降つて多くの人に拜まれ、水などを浴みて長く遊んだと、大島筆記其他の本に述べてあり、其から更に四十何年の天保九年にも、久高の島に二柱の神顯れたまひ、全村之を拜せざる者は無かつたと球陽にはある。個々の信者の見聞で無いだけに、普通の幻覺とも斷定してはしまはれぬ。自分の考では、是が古くから謂ふ所のミステリーなるもので、價値に於ては聊かも現實と違はぬ、特殊神聖なる演劇では無かつたかと思ふ。假に此推測の如しとしたならば、其神に扮した者は誰あらう。神に通じ且つ物忌の最も固かつたノロ即ち村々の祝女で無ければならなかつたのである。大里宮城のノロの始祖が、御嶽に靈骨を藏する天降りの司である理由は、たゞ此解釋に由つてのみ、荒唐無稽で無くなるのである。

　又次のやうな話も傳はつて居る。右の宮城に近く、同じ間切の稻嶺《いなみね》の村では、毎年春の初の稻穗祭の日に、他の多くの村とは違つて、ノロが神々のトン（殿）を巡拜することをせぬ。其由來は、むかし隣の部落の湧稻國《わきいなぐに》の里に、容(311)色絶世の若い祝女があつたのを、富盛城の主なる伊茶謝按司深く戀慕して、百方之に近づかうとしたけれども許さなかつた。稻穗祭の前の頃に、此ノロ寒水井の泉に往つて神衣を洗ひ、之を岡の上に白々と晒して置いたのを、按司遙かに望み訝つて、人を見せに遣つて之を知り、時こそよけれと刀を帶びて進んで之に迫つた。若きノロは其威勢に怖れて、深く御嶽の奧に隱れ、終に祭の日にも里に出て殿巡りをしなかつた。其が毎年の例と爲り、湧稻國と稻嶺ばかりは、祝女が此巡拜をせぬことになつたと傳へられる。

　此物語の如きは、現實の歴史としても何の差支も無いのであるが、しかも泉と云ひ白き衣を乾すと云ひ、神を祭るべき美女と謂ふに由つて、亦是れ一箇失敗したる茗苅子、乃至は小波津仁也の話では無かつたかを思はしめる。然らざればかの髪長き天女なるものが、夙く人間の最も氣高い者を意味して居たのでは無いか。人天の堺の線は本は必ずしも明瞭では無かつた。さうして恰も其境の上に立つて、所謂のろ／＼は神に仕へて居たのである。知念間切の齋場御嶽を始として、村々の靈地は悉く男子の立入ることを禁じて居た。島々の祭の中には、今でも男の見ることをさへ許さぬものがある。祝女は神にかしづく女であれば、本來人間の男の近づき得ざる清らなものであつたのを、政治の權力が宗教のそれよりも一段と強くなつてから、押してその物忌の衣を取匿す者を生じ、次第に神の國を遠く考へねばならぬ世中に、なつて行つたのでは無からうか。國頭地方の村々には、今以て公然の夫を持ち得ない祝女《のろ》が有る。祝女のサトと爲る男は長く生きぬと云ふ話も幾度か聽いて居る。神を娶ると云ふ如き奇拔なる空想も、古風な社會に於ては少なくとも不自然で無かつた。

　

　　　　　　　　　　八

　

　此につけて尚思ひ合すことは、久高《くだか》の島で最近まで行はれた刀自｜覓《もと》めの習慣である。此島では人の妻となる者は、必ず祝言の席上から遁げ走つて、十日二十日の間、新郎に捕へられぬやうに力めねばならなかつた。此頃向上會と稱(312)する青年團の骨折で、遁げ匿れて居る期間は四日を越ゆぺからずと申合せ、女たちは寧ろ竊かに之を喜んで居ると云ふことだが、今までは早くつかまつた花嫁を、何かみだらな女ででもあるかの如く、嘲つて居たさうである。今の外間のノロクモイの如きは、七十二日の間見付けられなかつたと自慢して居る。周圍一里とすこしの小島の内ではあるが、御嶽の中には男子が憚つて入らぬ爲に、此へ遁げ込めば何日でも捕へられずに居ることが出來た。多くの女はしば／＼里へ食事に來たり、或は自分が先づ退屈して、そつと居所を知らせて來たりする故に、三週間とは續かぬのだと、此老女は謂つたさうである。斯う云ふ半ば馴合ひの逃げ隱れであるが、それでも新郎は多くの友人の助力を頼み、實際血眼になつて捜しまはり、つかまれば又髪の毛を鷲づかみなどにして、手荒い折檻をするのが作法である。晝間捕へると一室に押込めて張番を附けて置き、夜見付けたら直ぐ寢てしまふ。此時に花嫁は必ず悲しい聲を立てゝ泣くことになつて居る。其聲を聞付けて附近の人々、どこそこの嫁もとう／＼捉まつたと見える。隨分長かつたとか、又は少し早過ぎるやうだとか、とり／”＼の評判をすると謂ふ話である。

　是は祝女でも無い只の女には、無用の手數のやうであるが、久高の島では實は全部の成長した婦人がカミンチュ（神人）である。十二年に一度づゝ、午の年を以て行はるゝイザイ法と云ふ式の日に、七つの木の橋を滯り無く渡つて、一人より他の男は設け無かつたことを、神と村人との前に證明し得た刀自たちは、悉く其日から神に仕へる女と爲り、祭のたび毎に二日前から小屋に籠つて、至つて重い物忌をする。男に逢はぬは固よりのこと、乳呑兒までも引離して、時々小屋の外へ呼んで來ては乳を與へるばかりである。是ほど迄にしなければ、島の神々の御惠みに答ふるには足りなかつた。久高の男は年中海に出て働いて居るので、農作は全部が女の手業であつた。しかも穢を忌むことがあまりに嚴かなる爲に、冬分は畠に肥料を施すことも出來なかつた。一度肥しを持てばすぐに海に下つて、髪の毛までもよく洗はねばならぬのが寒いからである。

　

(313)　　　　　　　　　　九

　

　銘苅子の天女が羽衣を泉の上の枝に引掛けた他に、長い／＼髪の毛を水の上に殘し留めたと謂ふのも、やはり沖繩諸島の神道と何かの關係があるらしい。宮古島にはツンネーリ（鼓練）と云ふ神祭りの尊い踊があつて、今も平良の村で形ばかり之を行うて居る。昔根間の伊嘉利と云ふ人孝心深く、父の墓の側に廬して晝夜泣き悲んで居ると、折しも天川崎と云ふ處に泉湧き出で、仙女天降りして此水に沐浴す。伊嘉利は之を知らず夢に父蘇生したりと見て驚き喜んでそこへ往つて見ると、異香空に滿ち奇妙なる髪毛が二筋落ちて居た。之を拾うて還らうとすると忽然として仙女現れ其毛を乞受けて去つた。鼓練の神の曲は其後磯邊をあるいて居て異人に逢ひ、三年の間海中の島に遊んで之を學んで戻つたと、宮古島舊史には記して居る。然るに別に沖繩の方へ傳はつた遺老の一説に於ては、話は著しく浦島子に近くなり、仙女は單に根間の伊嘉利の孝心を賞でたのみならず、長い三筋の髪の毛の返却を�ｺとして、他日自ら來つて彼を龍宮の金殿玉樓に誘うた。只の三日と思つたのが、還つて見れば人の世の三年であつたとある。しかも此時に學んで來たと云ふ神踊は、それ以來十二年目に一度の九月吉日に、根所に集まつて嚴重に之を行うて居た。之に與かる者二十五人、内一人は冠に白鷺の羽を貫連ね白い装束を着て、?の尾羽の冠に紺の衣を着た二十四人に取圍まれ、名藏草紙と云ふ詞を唱へ、拍子を取り鼓を打つて十三日の間踊るのが、中古までの例式であつたと謂へば、仙女が徒らに假初の縁を結びに、出現したので無かつたことは略々わかる。

　沖繩本島でも首里に近い南風原間切の與那覇に今一つ浦島に似た話がある。美しい女性に誘はれて龍宮に遊び、僅か三月と思つて還つて見ると、此世は既に三十三代を經て、もう子孫と云ふ者も無かつた。之を怪んで開くなと戒められた紙包を解くと、中には白い髪毛が有るのみで、それが皆飛んで此男の顔にくつつき、忽ち衰老となつて死んだとある。よく此だけまで似たものだ、或は一方の輸入かとも思はれるが、しかも最初に仙女に逢うた因縁は、龜を放(314)して助命したので無く、やはり宮古島の根間の伊嘉利と同じく、濱に出て異常なる髢を拾ひ、翌日落し主を探して美しい女性に返した爲で、是れ即ち我物なり、汝は眞に善人と云ふことになつて、海の都には招かるゝに至つたのである。この沖繩の浦島太郎が、死して葬られたと云ふ地は後に御嶽になつた。其山には桑の木が多く野生し、もと此男の突立てた桑の杖が、成長して繁茂したと傳へて居る。杖は即ち旅人のしるしであるが、しかも其杖を伐つて來た神の島は、もう何れの海にあつたかも不明である。

　

　　　　　　　　　　一〇

　

　際限も無いから話は此邊で止めたいが、要するに沖繩諸島の神女は、殊に沐浴を愛した。恰も村々の祝女が靈泉に由つて、其清淨を保たうとしたのと同じである。其泉は又酒を釀すにも必要であつた。酒造りも亦女の仕事である。さうして仲城安里の佐久井などの如く、井の畔で神女に逢ひ、夕毎に一壺の酒を賜はつた話もある。女房が之を嫉んで往つて見ると、壺の酒は乃ち變じて水と爲ると云ふこと、本州諸國の強清水と云ふ泉に、しば／＼「親は諸白子は清水」の話を傳へるのとよく似て居るが、たゞ沖繩の酒泉傳説に於ては、其村のノロは永く此井の水を汲んで、稻祭の日に神に供へて居たのである。暑くして水の大切な島であるが故に、泉に伴なふ神の口碑が多いのか。はた又女性が祭と水とを掌るが故に、水の邊に神を拜するの風が、次第に戀しなつかしの情緒をさそふやうになつたのか。許田の手水を始として、美しい多くの夢物語が、往々にして清水と處女とを結び合せ、島人の文學に向つて無限の涼味と休息とを供與せんとして居る。何れにしてもその由つて來る所は久しいのである。

　之に比べて見るとやまとの島の我々には、少しばかりきまりの惡いことがある。こちらの方でも海近くなどの水の戀しい地に、圖らず清冽甘美なる泉を見出すことはあるが、さう云ふ場合には多くは弘法大師を説き、且つ之に配するに一人の老婆子を以てする。あまりとしても彩色がくすんで居る。昔はきつと斯うでは無かつたらうと思ふ。大師(315)が全國を行脚して、水ばかり求めて居たのもよろしい。たつた一杯の水の親切にめでて、立派な清水を善良なる老女に與へた迄はよろしいが、少しく不親切な隣の婆があれば、すぐに又其制裁を下して芋を石芋にし井戸を鹽水泥水にして往つてしまつたと云ふのは、佛法の祖師よりも寧ろ遙か以前の神樣の如き、烈しい愛憎では無からうか。沖繩へは幸にして斯んな弘法大師は渡らなかつたが、やはり若干の最も世話燒きなる、且つ中々機嫌の取りにくい旅人が昔あるいて居た。例へば佐敷間切の津波古の村に於ては、古くから稻の大祭を行はず、又五月六月の稻刈時に際して、決して驟雨が降らぬ。これは曾て此里の名水多和田井の側に於て、或老女が水を汲まうとして來て見ると、井戸の左手の石の上に立つて、水を一杯と所望した人がある。老女は乃ち持つて來たマガリ（碗）の縁をわざと打缺いて、それから水を汲んで進らせた。何の爲に打缺いたかと旅人が問ふと、私が平生用ゐて居る器で、穢があつては畏多い。どうかその缺いた所から飲んで下されと答へたので、旅人の機嫌は非常によくなり、此村では何か困ることは無いかとある。農作忙しき最中に二度の稻祭のあることが一つ、稻を刈乾す頃の夕立の難儀が又一つと答へると、よろしい是からは、五月六月に俄雨は降るまい。稻の大祭はせずともよしと、斯ういふ約束をして往つた以上は、神樣に相違が無かつた。故に井の左に在る石を記念として祀つて居る。僅か茶碗の縁を少し打缺いたゞけの誠意にも、此だけ十分なる恩惠が酬いられた。況や許田の手水は花よりも更に艶なる若い娘が、玉の手に透きとほる水を掬んで勸めたのであつた。其旅人がもし旅の神ならば、必ずや其泉をして、愈々澄み愈々甘くつめたからしめ、歌ともなり又物語ともなつて、流れて永遠に島人の情をやさしく、夢を清からしめんとしたことであらう。日本の神代史のわたつみの宮は、即ち琉球のことだらうと云ふ説がある。然らば大昔、最も尊くして且つ若い神が、海で失せたる寶の釣針を捜しに、遙々と離れ小島の旅をなされた時、百枝さす湯津香木の樹蔭に於て、少女の手に持つた玉の碗から、樂しく御飲みなされたと云ふ清水は、今果していづこの海端に湧き且つ流れて居ることであらう。平和豐饒なる村里の數が追々に多くなつて、必ずしも精確に神の御悦びの場處を記念し得ずとしても、我々はなほ永く清き泉に對して、此民族の(316)優雅にして敬虔なる性情が、自然に神に仕へる道に適して居たことを、想像することが出來るのである。

　

(317)　　　　　炭燒小五郎が事

　

　　　　　　　　　　一

　

　大正九年の九月一日であつたかと思ふ。私は奧州の海岸を傳うて、とう／＼尻屋岬の突角に辿り着き、燈臺裏手の岩に腰をかけて、荒く寂しい北方の海を眺めた。三戸郡の鮫港から、此附近に來て事業をして居る本間君と云ふ人が、最も親切に世話をしてくれたので、別れに臨んで今に南九州に遊びに行くから、南の端の大隅の佐多岬から、必ず通信をしようと云ふ約束をした。ちやうど丸四ヶ月の旅行の後、豫定の如く佐多の田尻と云ふ村に宿して、元旦の鷄の聲を聽き、年始の?を本間君へ出したときは、何か大きな仕事を終つたやうな、滿足を感じたことであつた。佐多の燈臺監守の三宅氏は、家は相州に在るが尻屋の事もよく知つて居た。尻屋や遠州の御前崎、或は豐後水道の水之子などでは、渡り鳥の季節には燈臺の光に迷はされて、大小無數の鳥類が、突當つて落ちて死ぬと謂ふが、佐多では神の森がよく茂つて居る爲か、其樣なことが少ないと云ふ話もした。こんな細長い日本の島が、一つの國である爲に生活事情も亦一つで、坐して千里の天涯に在る雪の荒濱を、恰も隣家の噂をする如く話し合ふことが、此日は特別に有難く思はれた。

　佐多の島泊から伊座敷に越える山路を、豐後から來た炭燒が獨力で開いた話は、もう本文にも書いて置いたが、どう考へて見ても自分には、奇縁とより他は感ぜられなかつた。豐後は今に於て尚炭燒の本國である。其一半は進化し(318)てナバ師即ち椎茸作りと爲り、各地に招かれて、盛にナバ木の林を經營して居るが、他の半分は昔ながらの炭を燒くべく、此頃は主として隣國日向の東臼杵の奧山に入つて居る、炭燒には人も知る如く、現在なほ傳授を必要とする技術があつて、同じ楢なり櫪なりを伐つても、土地と竈とに由つて出來る炭には差等がある。しかも普通の民家に火桶を用ゐるに至つたのは、煙草などよりも更に新しいことで、偏土の山に炭を燒いた始は、必ず別に尋常ならざる需要があつた爲と思はれる。さすれば何が故に豐後の炭燒のみが夙く人に知られ、殊には小五郎長者の物語が、遠く久しくもてはやされるに至つたか。

　大分縣方言類集に依れば、字佐郡などで炭をイモジと謂ふとある。是がもし炭の最初の用途を語り、更に一歩を進めて宇佐の信仰の極めて神秘なる部分、即ち所謂薦の御驗、黄金の御正體の由來を解き明かす端緒ともなるならば、我々の學問は永く今日のしどけなさに棄てゝ置かれる患も無く、夢のやうな村々の歌が尚至つて大切なる昔を、忘却から救うて居たことを、追々に認める世の中が來るであらう。

　自分は尻屋外南部の旅を終つてから、船で青森灣を横ぎつて津輕に入り、弘前の町に於て始めて此地方の炭燒長者の話を知つた。豐後に起つたことは疑ひが無い炭燒の出世譚が、ほんの僅かな變更を以て、本土の北の端までも流布するのは如何なる理由であるかを訝るの餘り、稍々長い一篇の文を新聞に書いて置いて、九州の旅行には出て來たのであつた。豐後をあるいて見ると考へねばならぬことが愈々多かつた。其から途上に幾度と無く斯んなことを空想しつゝ、この大隅の佐多の島泊までやつて來て、さうして又豐後の炭燒の小屋の前を過ぎたのである。自分の想像では、豐後の國人は今でも炭燒を以て、微賤にして恥づべき職業と思つては居らぬやうである。聞いて見る機會は無かつたが、此小屋の主人なども、或は炭燒だから斯う云ふ尊い事業をするのだと考へて居たのかも知れぬ。近年石佛を以て一層有名になつたが、臼杵の城下に近い深田の里には、小五郎が燒いたと云ふ炭竈の址あり、岩のくづれの間から炭の屑の殘片と云ふ物が無數に出る。長者の後裔と稱する家には、俵のまゝ燒けた炭が二俵と鉈などを持ち傳へ、一年(319)一度の先祖祭に之を陳列して人に見せる。或は又家傳の花炭と稱して、七十八代の間連綿として、之を製したと云ふ由緒書も傳はつて居る。即ち或特定の家族に於ては、此物語は今も決して單純なる文學では無いのである。

　大昔小五郎の炭を燒いたのは、別に重要なる目的のあつたものと、推測する人は近年は既に多かつた。長者大いに家富みて後に、召されて都に登つた愛娘の船を、遠く見送つて別を惜んだと云ふ姫見嶽から、この深田の村近くまで、現に皆金銅鑛の試掘地に登録せられて居る。前に臼杵の警察署長で、後に大分銀行の支配人と爲つた某と云ふ人が、傳説から思ひ付いて出願したのがもとであるが、今は或大阪人が買取つて權利を持つて居る。爰から七八里離れた大野郡三重町の内山も、内山觀音の縁起に依れば、小五郎の初の在所であつて、炭を燒いて居た故迹は、程近い神野《かうの》の山家であつたと傳へる。しかもその燒いた炭をどうしたかと云ふことには考へ及ばずに、例の朝日さし夕日かゞやく云々の歌などに由つて、長者の寶を埋めた地を見付けようと、そこらを掘返した人が幾らもあつた。明治の少し前にもこの内山で、金の蒲鉾形の物を多數に發掘したことがあつたと謂ふ。それを買取つて外國人に賣り、後に發覺して獄に授ぜられ、維新の大赦で出牢を許された人のあることを、その實物を見たと云ふ人の子息から、匿名で知らせてくれたこともあつた。傳説の歴史とは、人がこれほど賢くなつてしまつた時代までも、まだ紛亂し混淆し、且つ身勝手に誤解せられて居るのである。況や郷土を愛する人々は、多く一地方の古傳に割據して、目前の因縁關係をすらも否認する爲に、一層此問題が解きにくゝなつてしまふのは、誠に是非も無い次第である。

　

　　　　　　　　　　二

　

　炭燒長者の話は、既に新聞にも出したのだから、出來るだけ簡單に、その諸國に共通の點のみを列擧すると、第一には極めて貧賤なる若者が、山中で一人炭を燒いて居たことである。豐後に於ては男の名を小五郎と謂ひ、安藝の賀茂郡の盆踊に於ても、其通りに歌つて居る。即ち、

(320)　　　筑紫豐後は臼杵の城下

　　　藁で髪ゆた炭燒小ごろ

なる者である。第二には都から貴族の娘が、兼て信仰する觀世音の御告げに由つて、遙々と押掛け嫁にやつて來る。姫の名がもし傳はつて居れば、玉世か玉屋か必ず玉の字が附いて居る。容貌醜くゝして良縁が無かつたからと謂ひ、或は痣が有つたのが結婚をしてから無くなつたなどと謂ふのは、何れも後の説明かと思はれる。第三には炭燒は花嫁から、小判又は砂金を貰つて、市へ買物に行く途すがら、水鳥を見つけてそれに黄金を投げ付ける。それが此物語の一つの山である。

　　　をしは舞ひ立つ小判は沈む

とあつて、鳥は鴛鴦であり或は鴨であり鷺鶴であることもあつて一定せぬが、兎に角必ず水鳥で、其場所の池又は淵が、故跡と爲つて?々永く遺つて居る。第四の點は即ち愉快なる發見である。何故に大切な黄金を投げ棄てたかと戒められると、あれが其樣な寶であるのか、

　　　あんな小石が寶になれば

　　　わしが炭燒く谷々に

　　　およそ小笊で山ほど御座る

と謂つて、それを拾つて來てすぐにする／＼と長者になつてしまふ。

　右の四つの要點のうち、少くとも三つ迄を具備した話が、北は津輕の岩木山の麓から、南は大隅半島の、佐多からさして遠く無い鹿屋の大窪村に亙つて、自分の知る限でも既に十幾つかの例を算へ、更に南に進んでは沖繩の諸島、殊には宮古島の一隅にまで、若干の變化を以て、疑ひも無き類話を留めて居るのである。事小なりと雖看過すべからざる奇事であつて、自分が日本のフォクロア興隆の爲に、何とぞして其由來を究めたいと云ふ誓願を立てたのも、亦(321)のがれ難き因縁であつた。

　炭燒小五郎は莫大の黄金を獲得して後に、其名を眞野長者と呼ばれ、或は又萬之長者とも謳はれて居る。眞野長者の榮華の物語は、中世民間文學の眞只中であつて、豐後と謂へば忽ちに此長者を想ひ浮べるほど、都鄙を通じてよく知られて居たのであるが、不思議なることには其出世の始を語つた、炭燒婚姻の一條のみは、之を豐後の出來事として、認めざる者が甚だ多い。現に津輕に於ては之を伯爵家の系圖の中に編入し、第四代左衛門尉頼秀、幼名は藤太、元仁元年九月生る。六歳の年父秀直、安東勢と津輕野に戰ひて討死す。仍て乳母に扶けられて姉の夫橘次信次の許に匿れたり。橘次は新城の豪族にして、黄金を採掘して之を賣りて富を致す。藤太を常人と共に使役して敵を欺かんと、戸建澤の山中に遣りて炭を燒かしむ。故に人呼びて炭燒藤太と謂ふとある。民間に於ては近衛殿の女福姫、もと甚だしい醜婦であつたが、津輕にさすらへ來りて或川の水に浴し、忽然として美女となり、後炭燒藤太殿に嫁したまふなどと謂ふ。鳥に小判を投げたといふことも、有るといふ話である。此等の古傳の少くとも一部分が、外部からの混入であることは、愛郷心の強い學者たちも之を認めて居る。津輕と近衛家との關係の其樣に古くは無いこと、或は藤太の母が唐絲御前で、即ち最明寺時頼の落胤であつたと云ふ説の無稽なこと等は、今や誰も之を爭ふ者が無い。しかも自分などが最も明瞭なる輸入の證とする點は、此の如き消極の材料では無くて、炭燒藤太と云ふ名前であり、又橘次と謂ふ金賣のあつたことである。豐後の方では此事は更に説かぬが、東日本へ進むほどづゝ、金賣吉次が突進して、炭燒の藤太と接近せんとする。就中羽前村山郡の寶澤と、岩代信夫郡の平澤とには、共に炭燒の藤太が住んで居た遺跡があつて、水鳥に向つて小判を打付けたと云ふ池も、雙方ともにちやんと在り、更に縁あつて遠國から來た花嫁の忠言に由り、後に無量の黄金を得たときには、何れも此水を以て之を洗つたやうに傳へて居る。吉次吉内吉六三兄弟の金賣は、即ち藤太の子どもであつて、彼等は単に父の幸運を以て授かつたものを、都へ運んで居たに過ぎぬことも、二處同樣の口碑である上に、記念として今日に殘るものに、福島に在つては隣村石那坂の吉次宮あり、山形の吉事の(322)宮は、後に兩所宮と改稱して、鳥海月山の二靈山を奉祀すと謂ふも尚且つ義經が願を受けて、吉次信高之を再建すと語り傳へるのである。兄弟の金賣が家の跡と稱する地は、勿論京都にもあれば、平泉の衣川の岸にもある。然るに陸前栗原郡の金成村には長者屋敷と名づけて又一つ彼等の故郷があり、近世に入つてから殊に色々の珍しい財寶を掘出したと云ふ噂を聞くが、此地に於ても父は炭燒であつたと謂ひ、其炭燒の名は藤太である。清水の觀音の御告げを受けて、京から嫁に來た姫が徒渉りをしたと云ふ小褄川、藤太が姉齒《あねは》の市へ米を買ひに行く路で、雁に小判を投げたと云ふ金沼などもやはり有るので、理由は知らずずつと古い時分の、互に比較をする折も無い頃から、斯うして話は方々の土に、何れも立派な根をおろして居たのである。

　それを移植若くは接木と見ることは、我々にはどうしても出來ぬ。第一には模倣をせねばならぬ理由も無く、又さうする機會も有りさうに無い。既に他郷でもてはやされて居ることを知れば、寧ろ語り傳へる張合ひが無くなるべきことは、近頃漸く同種の珍談が、他府縣にも有ることを知つた人々の、驚く顔失望する顔を見てもよくわかる。但し少くとも古い清水、濠の跡とか無名の塚とか、所謂由有りげなる處には、其邊を浮遊する昔物語の破片が、いつの間にか來て取附くことは、恰も米を寢させると麹と爲り、木を伐倒して置けば椎茸が成長するのと、ほゞ同じやうな作用である。口から耳へ傳承する文學の、書籍以上に保存がむつかしく、何かの原因で保存を業とする者が無くなれば、忽ち散亂して原の形を留めず、只其中の印象強き部分のみが斯うして我々の記憶に殘ることは、今の世の中でも普通の現象であつて、之を考へると此種の偶合は必ずしも奇異では無く、單に斯くばかり弘い地域に亙つて、如何なる事情が同じ話の種を、播いてあるいたかを尋ねて見る必要があるのみである。

　

　　　　　　　　　　三

　

　前代の地方人が傳承に忠實にして、甚だ創作に拙であつたことは、四箇所の炭燒長者の名が悉く藤太であつたと云(323)ふやうな、些細な點からも窺ふことが出來る。是が心あつての剽竊であつたならば、寧ろ名前ぐらゐは變へたであらう。然るに幾つかの山川を隔てゝ信州園原の伏屋長者なども、先祖は金賣吉次で其父は亦炭燒藤次であつた。阿智川の鶴卷淵は亦例の通り、鶴は飛び立ち小判は沈むと云ふ故迹であつて、是も物語の要點はすべて皆、豐後の長者譚の第一節と異なる所が無い。豐後の眞野長者は小五郎であるが、それは炭燒の子に養はれてから後の名で、童名はやはり藤治と呼ばれて居たとある。數多の國所を經廻つて、此だけの月日を重ねて後まで、話の興味とはさして關係も無ささうな、名前すらも變化をしなかつたと謂ふのは、恐らくは歌の口拍子の力であらう。

　此序になほ少しばかり、名前の點に付て考へて見たいのは、同じ盆踊の歌でも筑前朝倉郡に現存するのは、藝州に於て臼杵の小五郎を説くに反して、別に「豐後峰内炭燒又吾」と謂ひ、「又吾さんとも謂はれる人が、こんな寶を知らいですむか」ともうたうて居た。峰内は即ち三重の内山觀世音の地をさしたものらしく、今も彼處に傳はつて居る長者の記録では、又吾は小五郎を養育した親の炭燒の名であつて、爰に亦一代の延長を見るのである。大野郡の三重と海部郡の深田とは、山嶺を隔てゝ若干の距離がある。長者が船着きの便宜の爲に、海に臨んだ眞名原の地に、居館を移したと云ふのは説明であるが、然らば兩處で炭を燒いて居たと云ふ言ひ傳へは成立せぬ。兎に角に蓮城寺と滿月寺と、二箇の佛地の縁起には矛盾があり、之を流布した者の間にも、近世東西本願寺の如き爭奪のあつたことが、稍々推測し得られるやうである。其上に更に一つの錯綜は、周防大畠浦の般若寺の方からも加はつて居るらしいが、是はまだ目が屆かず、且つ直接に炭燒の話とは縁が無いから殘して置く。之を要するに豐後の本國に於ては、却つて後代の紛亂があつて、昔の物語の單純なる樣式は、別に四方に散亂した首尾整然たらざる斷片の中から、次第に之を辿り尋ねるの他は無いやうになつたものと考へられる。

　舞の本の烏帽子折の中に、美濃の青墓の遊女の長をして語らしめた一挿話、即ち山路《さんろ》が牛飼ひの一段は、文字の文學として傳はつた最も古い眞野長者であらう。用明天皇職人鑑を始めとし、近世の劇部は概ね範を此に採り、現に豐(324)後に行はるゝ長者の一代記の如きも、或は飜つて其説に據つたかと思ふ節があるが、固より必ずしも之を以て、久しい傳承を改めざりしものと信ずるには足らぬのである。長者の愛娘が觀世音の申し兒であつて、容色海内に隱れ無く、天朝百方に之を召したまへども、終に御仰せに從はなかつたと謂ふのは、竹取以來の有りふるしたる語り草ながら、之を假り來つて後に萬乘の大君が、草苅る童に御姿をやつして、慕ひ寄りたまふと云ふ異常なる出來事を、稍々實際化しようとした所に文人らしい結構がある。然るに其皇帝を用明天皇とした唯一つの理由は、生れたまふ御子が佛法最初の保護者、聖�ｺ太子であつたと謂はんが爲であつたらうに、其點に付ては何の述ぶる所も無い。しかも牛若御曹司の東下りの一條に、突如としてこの長物語を傭ひ入れたには、何等かの動機が有つた筈である。今は章句の蔭に隱れて居る笛の曲に、山路童の神秘なる戀を、想ひ起さしむる節があつたか。或は海道の妓女たちが、眞野長者の理華の物語を、歌にうたつて居た昔の習慣が、斯うして半ば無意識に殘つて居るのか、はた又金賣吉次三兄弟の父が、かの幸運なる炭燒であつたと云ふことが、將に漸く信ぜられんとする時代に、最後の烏帽子折の詞章は出來たのであらうか。何れにしても此中に保存せらるゝ、山路と玉世姫の世にも珍しい婚姻は、即ち豐後の長者の大なる物語の一節であつて、それも中世の語部の興味から、早既に著しい改作を加へて居たことを知るのである。

　

　　　　　　　　　　四

　

　溯れば源は尚遙かである。神が人間の少女を訪らひたまふと云ふことは、豐後に於ては姫嶽の麓に、花の本の神話として夙く之を傳へて居る。神裔は永く世に留まり、即ち緒形氏の一族と繁衍したと謂ふ。緒形は又｜大神田《おがた》とも書くものあり、大和の大三輪の古傳と、本は一つであらうと謂ふ説も、尚其據り所無しとせぬのであるが、更に之を隣國宇佐神宮の信仰に思ひ合せるときは、先づ其脈絡關係の殊に緊切なるものあるを認めざるを得ぬ。八幡は最も託宣を重んじたまふ大神であつた。歴史の録する所に從へば、其巫女の言は時代を逐うて進展し、現に朝家に在つては年久(325)しく宗廟の禮を以て之を齋ひ祀られてあるが、當初は單に或る尊き御母子の神と信ぜられ、必ずしも記紀に傳ふる所の應神天皇の事蹟とは一致せず、恰も山城の賀茂に於て別雷神と其御母とを祀るが如く、茲にも亦玉依姫は、其姫大神の御名であつた。大隅正八幡宮の如きは、後に宇佐より分れたまふ御社かと思ふのに、其社傳に於ては別に神秘なる童貞受胎の説があつて、頗る高麗百濟の王朝の出自と相類し、直接に日神を以て御父とすと迄信じられて居た。是れ日本の國家の未だ公けに認めざりし所ではあるが、少くとも以前の信徒の多數に、此の如く語り傳へる者はあつたのである。眞野の長者が放生會の頭に選ばれて、門前に榊を樹てられた時、流鏑馬の古式を知る者無くして、誰にてもあれ此神事を勤め得たらん者を、一人ある娘の壻に取らうと謂ふと、乃ち山路が進み出でて、始めて射藝を試みるといふ一段は後に百合若大臣の物語にも、取り用ゐられたる花やかな場面で、此曲に聽き入つた豐後人の胸の轟きは想像にも餘りがあるが、其よりも更に驚くべかりしは、愈々第三の矢を引きつがへて第三の的にかゝらんとしたまふ時しも、天地震動して八幡神は神殿を搖ぎ出でたまひ、君の御前に畏まつて、自ら敬を十善の天子に致したまふと云ふ條である。即ち神よりも尊とい御身が、斯んな草苅童の姿を假りて、暫く長者の家に止まりたまふと云ふことが、果して尋常文藝の遊戯として、古人の口の端に上るべきものであつたか否かは、詳しく説明する迄も無いのである。宇佐が古來の傳統に基いて、次々に四所八所の若宮王子神を顯し祀り、遠い東方の郡縣に、絶えず活き／＼とした信仰を運んで居たことを考へると、其力が山坂を越えつゝ、南隣の國々へも早くから、斯うして進んで居たことは疑ひが無い。要するにもと山路が笛の曲なるものは、神が人間界に往來したまふ折の警蹕の音であつたのを、佛家が干渉して神子を聖�ｺ太子と解せしめんとしたゝめに、是を何のつきも無く、用明天皇には托するに至つたのである。

　此推定を更に確めるものは、姫の名の玉世であつた。宇佐の姫神の御名を玉依姫と傳へた理由は、久しい間の學者の問題であつて、或は之に由つて山に祀つた御神を、海神の御筋かと解する者さへあつたが、神武天皇の御母君が、同じく玉依と云ふ御名であつたことは、唯多くの例の一つと謂ふばかりで、前にも云ふ如く賀茂でも大和でも、凡そ(326)神と婚して神子をまうけたまふ御母は、皆此名を以て呼ばれたまふのである。玉依は即ち靈託であつた。人間の少女の最も清く且つ最もさかしい者を選んで、神が其力を現したまふことは、日本神道の一番大切なる信條であつた。神の御力を最も深く感じた者が、御子を生み奉ることも亦宗教上の自然である。今日の心意を以て之を訝るの餘地は無いのである。眞野長者が愛娘も、玉世であつた故に現人神は乃ち訪ひ寄られた。それが亦八幡の古くからの信仰であつた。

　或は又別の傳へに、姫の名を般若姫と謂ふものがある。周防大畠に般若寺があつて、姫の廟所なりと謂ふ説と關係があらうと思ふが、尚さうしなければならぬ第二の必要は、姫の母長者の妻を亦玉世姫と謂ふ故に、之を避けんとしたものであつて、爰にも此物語の古い變化が認められる。烏帽子の挿話に於ては、長者の妻は其夫に向つて、「御身十八自ら十四の秋よりも、長者の院號蒙つて、四方に四萬の藏を立て」と謂ひ、山中に炭を燒いた以前の生活は、もう之を忘れしめられて居るやうであるが、此點は恐らく豐後人の承認し能はざる改訂であつたらう。長者の物語は其性質上、斯うして際限も無く成長し、後には繪卷の如く幾つかに切り放して、纏めて見れば一致せぬ箇條が、現れて來るのを普通とはするが、今もし母と子と二人の玉世の何れが先づ知られたかを決すべしとすれば、自分は躊躇無く話の發端であり、發生の動機の不明であり、且つ類型の少ない炭燒の婚姻を以て、神を壻とした玉世の姫の奇縁よりも、一つ前から存在した場面なりと認める。然らば宇佐の玉依姫の故事も、此には適用が無かつたかと謂ふと、それは唯記録に現れてからの八幡の信仰が、第二の玉世の物語に近かつたと云ふのみで神を尋ねて神に逢ふと云ふ更に古い炭燒口碑が尚古く存し、時の力で十分に人間化して、斯うして久しく殘つて居たとも、考へられぬことは無いのである。炭燒はなるほど今日の眼から、卑賤な職業とも見えるか知られぬが、昔は其目的が全然別であつた。石よりも硬い金屬を制御して、自在に其形?を指定する力は、普通の百姓の企て及ばぬ所であつて、第一にはタヽラを踏む者、第二には樹を焚いて炭を留むるの術を知つた者だけが、其技藝には與つて居たので、之を神技と稱し且つ其開祖を神(327)とする者が、曾てあつたとしても少しも不思議は無い。扶桑略記の卷三、或は宇佐の託宣集に、此郡厩の峰菱潟の池の邊に、鍛冶の翁あつて奇瑞を現ず。大神の比義なる者、三年の祈請を以て之を顯し奉る。乃ち三歳の小兒の形を現じ、我は是れ譽田天皇なりとのりたまふとある。若し自分などが推測する如く、比義は最初の巫女の名であつたとしたら、貴き炭燒小五郎が玉世姫の力に由つて顯れたと謂ふのは、最初極めて之と近い神話から、成長して來た物語と見ることができるのである。

　

　　　　　　　　　　五

　

　天皇潜幸の畏れ多い古傳は、かの炭燒藤太の出世譚と同じく、亦弘く東北に向つて分布して居る。富士淺間の御社に於ては、竹取物語の一異説として、かくや姫は聖�ｺ太子の御祖母なりと傳ふること、廣益俗説辨に擧げられ、有馬皇子が五萬長者の姫を慕ひ、下野に下つて暫く奴僕に身をやつしたまふといふことは、慈元抄に之を録して居るが、其よりも更に類似の著しいのは、岩代苅田宮の口碑である。是は物語と謂ふよりも寧ろ現存の信仰であつた。用明天皇或年此國に幸したまひ、玉世姫を娶りて一人の皇子を儲けたまふ。妃薨じて白き鳥と化したまふ。祠を建てゝ祀り奉り白鳥大明神と謂ふ。水旱疾疫に祈りて必ず驗あり、土人は今も白鳥を尊崇して、敢て之に近づく者も無いとある。後世の學者には此説の正史と一致せざるを感じ、白鳥の靈に由つて日本武尊の御事ならんと論ずる者があつた。社傳も亦漸く之に從はうとして居るが、郷人古來の傳承は、尚容易に動かすことを得ないやうである。此地方には一帶に、鵠《くゞひ》を崇敬する白鳥明神の例が多い。柴田郡では平村の大高山神社、之に隣する村田｜足立《あしたて》二處の白鳥社は、相連繋してよく似た傳説を奉じて居る。但し縁起は何れも三百年來の京都製であつて、殊に別當寺と神主側と互に相容れざる言立をして居るのは怪しいが、雙方の偶然に一致して居る箇條は、却つて最も荒唐信ずべからざる部分、即ち乳母が穉き皇子を川の水に投じたるに、忽ち白鳥と化して飛揚り去りたまふと云ふ點に在る。此の如き一見無用なる悲劇は、(328)固より後人の巧み設くべき物語で無い上に、苅田宮の方にも同じく兒宮・子捨川・投袋などの舊跡があつて、此と共通なるきれ／”＼の口碑の今も有るを見れば、何か尚背後に深く隱れたる神秘が有るであらう。それは又別の折に考へるとして、兎に角に御父を用明天皇、御母の名を玉倚媛とする尊い御子が、此地に祭られたまふ神なりと弘く久しく信ぜられて居たことだけは偶然の一致では無かつたらうと思ふ。以前平の隣村、金瀬宿の總兵衛と云ふ者の家には、古風なる一管の笛を藏して居た。其先祖某、或時林に入りて大木を伐り、其空洞の中より之を見出したと傳へ笛頭には菊の紋が彫つてある。是れ即ち山路用ゐる所の牧笛なるべしと、土地の人たちは謂つたとあるから、あの物語の爰でも歌はれて居たことは疑ひが無いのである。

　長者の娘、容顔花の如くにして、終に内裡に召され、妃嬪の列に加はつたと云ふ話は、備後の鞆津の新庄太郎、常陸の鹿島の鹽賣長者等其例少からず、古くは又實際の歴史であつたかも知れぬが、特に之を用明天皇に係けまつるに至つては、乃ち亦豐後の影響なることを感ずるのである。炭燒藤太の舊住地の一つ、陸前の栗原郡に於ては、姉齒の松の古事に托して、美女の途に死したる哀話を傳へて居る。氣仙高田の武日長者が一の娘であつたと謂ふ。其妹が後に代つて京に上らんとして、姉が墓の松に對して涕泣したと稱して、紙折《しをり》坂の地名もある。用明帝の御代の事と謂ひ、因つてその側に神通山用明寺があつた。陸中鹿角郡小豆澤のダンブリ長者は、蜻?《だんぶり》に教へられて酒の泉を發見し、之に由つて富を積んだと謂ふ有名な長者である。唯一人ある愛女を皇后に召されて、寂寞の餘りに財寶を佛に捧げたと云ふことが、是亦眞野長者の生涯に似通うて居るが、彼地に於ては之を繼體天皇の御時と傳へて居る。嶺を隔てゝ二戸都の田山に於ても、田山長者の事蹟は全く是と同じく、是は唯大昔の世の事とばかりで、何れも既に至尊巡狩の傳へは存せず、いよ／＼本の縁は薄れて居るが、なほ此物語の獨立して起つたので無いことは、之を推測せしむる餘地が有るのである。

　其理由の一つとして算へてよいのは、所謂滿能長者の名が、遠く本州の北邊まで知れ渡つて居たことである。蜻?(329)長者の例を見てもわかるやうに、大凡長者の名前ほど、變化自在なものは無い筈であるのに、説話中の長者の極度の富貴に住する者は、往々にして其名が滿能であつた。自分が始めて炭燒藤太の話を書いた後、八戸の中道等君が同處のイタコから、正月十六日のオシラ神遊びの詞曲を聽いて、手録した所の一篇にも、やはり「まんのう」長者とあつた。イタコは奧州の村々に於て、桑の木で刻んだ男女の神に仕へ、神託を宣るを業とする盲目の女性である。世を累ねて曾て文字無く、授受を苟くもせぬ彼等の經典に、なほこの名稱を存して居るのは、尋常流行の章句と同一視することが出來ぬのである。但し此曲に説く所は、炭とは何のゆかりも無い養蠶の起原であつた。長者の厩第一の駿馬せんだん栗毛、たゞ一人ある姫君に戀慕して命を失ひ、其靈は姫を誘ひて上天し、後に白黒二種の毛蟲となつて現れたのを、十二人の女房と八人の舍人、こかひ母、桑取り王子と爲つて之を養ふと謂ふのが其大要で、之に續いて春駒によく似た文段がある。干寶が捜神記は中央の學者等に取つても、手に入り易い平凡の書では無かつたのに、如何なる徑路を經廻つていつの時から、それと同じい話が北奧の地にばかり、斯うして姫見嶽の長者の名と結合しつゝ、巫女の秘曲には編入せらるゝに至つたか。誠に過去生活の不可思議は、窺ふに隨つて益々其渺茫を加ふるが如き感がある。

　

　　　　　　　　　　六

　

　津輕最上其他の炭燒藤太が、遠く西海の濱から巡歴して來たことは、最初より之を疑ふことを得なかつたが、然らば何人が何樣の意趣に基づいて、此話を運搬してあるいたかに就ては、解答は今以て容易で無い。自分が試に掲げた一箇の推定は、所謂金賣吉次を以て祖師と爲し、理想的人物と仰いで居た一派の圃體、即ち金屬の賣買を渡世とした旅行者の群に、特に歌詞に巧なりと云ふ長處があつて、之に由つて若干生計の便宜を、計つて居たのでは無いかと云ふに在つたが、現存の資料は必ずしも之を助けるものばかりで無い上に、全體に亙つて世上の忘却が甚だしく、年代(330)の雲霧は頗る我々の囘顧を遮るものがある。なほ辛抱強い後の人の研究に、委付するの他は無いのである。

　この自分の想像の第一の手掛りは、加賀の芋掘藤五郎の傳説であつた。野田の大乘寺の西田圃に在る二子塚を、藤五郎夫婦の墓と稱して、寛政九年には記念の石塔を建て、近年は又之を市中の伏見寺に移したのみならず、金澤市史には之を富樫次郎忠頼の事だとまで謂つて居る。即ち津輕と同じやうに、大半はもう歴史化して居るので、最早口碑とも謂はれぬか知れぬが、しかもその黄金發見の顛末に至つては、全然豐後の小五郎と異なる所が無いので、之を土地の人かぎりの賞翫に委ねて置くわけには行かぬのである。藤五郎芋を掘つて、細々の煙を立つる賤が伏屋に、大和初瀬の長者の娘、觀世音の御示しに由ると稱して押掛け嫁にやつて來る。長者の名を生玉右近萬信と謂ふのは、或は又滴能では無いだらうか。姫の名は和五と謂ふとある。和五は和子であつて單にお孃さまも同じことだ。藤五郎は芋を掘る處の土が皆黄金であるのにそれが寶であることをちつとも知らなかつた。或時父の右近が贈つた一包の砂金を以て、田に居る雁に打付けて還つて來た。妻女の注意を受けて始めて山に入り、莫大の黄金を持還つて、それを近くの金洗澤で洗つた。金澤の名も之より起り、兼六公園の泉の水は即ち其故迹であると云ふ。遠州濱松の近くにも、藤五郎とは謂はぬが、やはり一人の芋掘長者が居た。奈良の某長者の信心深い娘が、遙々と嫁に來てから一朝にして長者になつた。鴨江寺の觀世音は芋掘長者の一建立で、附近には尚黄金千杯朱千杯の噂もある。鴨江と謂ふからには、鴨の話も有つたのであらうが、書いたものには遺つて居らぬ。紀州の湯淺に近い小鶴谷の芋掘長者、是は町に出て廣川に遊ぶ?に、小判を打付けて居るところを、多くの人に見られた。何で其樣な勿體ないことをするかと戒められると、うちの芋畑にこんな物なら、鍬で掻寄せる位あると謂つたので、其自慢から芋掘長者の字が出來たとは、少しむつかし過ぎた説明である。此家の嫁は京から來た。隅櫓《すみやぐら》長者と謂ふのは角倉の聞き誤りか、信州園原の炭燒吉次も、京の角倉與一の遠祖であると傳へ、やはり炭から富を得た話の筋を引いて居る。但し此婦人の内助の功は傳はらず只大そうな衣裳持ちで、山の屋形で土用干しをすると、淡路の海まで照りかゞやき、魚が捕れぬと云ふ苦情が來たなど(331)と、花やかな語り草を殘して居るだけである。

　芋掘りも一人で山中に入り、土に親しむ生活をして居るから、幸運ならば黄金を得たかも知れぬが、自分だけは此イモを鑄物師のイモであらうと考へて居る。即ち炭を燒く者ともと同じ目的で、必ずしも世に疎く慾を知らぬ爲では無く、寧ろ現實の生活には滿足せぬ連中が、我境涯で夢想し得る最大限の福分、乃至は文字通りの過去黄金時代を、記憶し且つ語らざるを得なかつた結果が、自然に印象深く歌と爲り昔話と變じて、歳月の力に抵抗して來たのでは無いかと思つて居る。金賣吉次の黄金專門も、既に亦一つの空想であつた。あの頃に假に金賣りと云ふ職業があつたにしても、それは後世の金屋と同樣に、タヽラの助けに由つて有利に古金類を買集め得る者を除く外、さういふ旅行者は想像することが出來ぬ。吉次の遺迹と云ふ地が京都平泉、奧州路の宿驛附近の他に、最上苅田の山奧の鑛山にも、庄内會津越後などの山村にも、下野の國府の近くにも、下總印旛沼の畔にも、武藏の片田舍にもあれば、京から西の安藝の豐田郡にまで分散して、兩立せざる色々の記念を留めて居ることは、即ち彼自身が運搬自在なる假想の人物であつた一つの證據で、更に推測を進めて見れば、中古實在の鑄物師に、吉を名乘に用ゐた人の多かつたことゝ、何ぞの關係があるやうにも思はれる。

　金屋の旅行生活は、一方諸國に刀鍛冶の名工が輩出し、鏡や色々の佛具の技藝が著しく進んだ後まで、なほ持續して居たやうである。地方の需要に應じて製品の輸送の煩しさを省くの利はあつたが、原料の蒐集が甚だしく不定な爲に、生産を擴張することはむつかしかつたので、便宜を得る毎に土着を心掛けたらしく、近畿の諸國を始として、中部日本には金屋と稱する小部落が多く、其住民が以前漂泊者であつたことは、彼等が忘れた場合にもなほ證據がある。源三位頼政禁中に怪鳥を退治した時、仰を蒙つて百八箇の金燈爐を鑄て奉り、功を以て諸役免許の官符を賜はつたと謂ふ類の由緒書は、些少の變化を以て殆と之を持傳へざる家も無く、何れも只の百姓から轉業したものとは考へられて居らぬ上に、なほ鎌倉時代の東寺文書にも、金屋等が此大寺の保護の下に、五畿七道に往反して鍋釜以下、打鐵鋤(332)鍬の類より、更にその序を以て布米などをも賣買し、利潤の一部を寺へ年貢に備進して居たことが、明瞭に見えて居る。甑が廢れて鍋釜の弘く行はるゝに至つて、彼等の大半は鐡の鑄物師と爲り、鑄懸と稱する一派の小民は、亦其中から次第に分れて、鑄工が地方の需要に據つて、諸國の空閑に定住の地を求めて後も、依然として遷移の生活を續けて居た。所謂イカケ屋の天秤棒の、無暗に細長く突出して居たことは、即ち近江美濃等の多くの金屋村の文書に、「兼て又海道鞭打三尺二寸は、馬の吻《くち》料たるべし云々」とあるのと、必ず其根原を一にするものであつて、是亦此種の鑄物師の、久しく自由なる旅人であつた一つの證據である。

　鋤鍬其他の打物類も、もとは兼て鑄物師の取扱ふ所であつた。鑄物師も鍛冶も等しく金屋と呼ばれ、金屋神は其共同の守護神であつた。東海道の金谷驛は古くからの地名で、金谷の長者其一人娘を水神に取られ、金を湯にして池に注いだと云ふ口碑なども殘つて居て、即ち亦一箇の金賣吉次かと思はれるが、後世此地の名産は矢の根だけであつた。釘鍛冶庖刀鍛冶などの手輕な作業は、各自｜踏鞴《たゝら》を獨立し原料を別にするまでも無く、土地の工人の不自由勝ちな設備を以て、田舍の入用だけを充して居た痕跡は、今日の金物店にも殘つて居る。旅をしてあるけばまだ其以上に、臨時のホドも選定せねばならず、又燃料用の炭から燒いてかゝる必要もあつた。斯ういふ生活が遠國偏土に於ては、かなり久しくなほ續いて居たのである。

　

　　　　　　　　　　七

　

　例へば江戸周圍の平原の如きは、村が少ない爲か採鑛地が遠い故か、いつ迄も金屋の移動が止まなかつたやうである。尤も鍛冶屋の方だけは國境の山近くに、領主の保護を受けて二戸三戸づゝ、さびしく土着した者が農村の中にまじり、由緒は記憶し技藝は忘れてしまつて、後は普通の耕作者になつて居るが、鑄物師の部落は佐野の天明武藏の川口等、取續いて土着して居た者は至つて稀であつて、他の大部分の工人等の、地方の需要に應じて居た者は、空しく(333)遺跡のみを殘留して、皆どこへか立去つてしまつた。現在武藏相模の中間の樹林地に、カナクソ塚などと云ふ名のある小さい塚の、附近から多量の鐵の滓を發掘するものが多いのは、何れも鐡の生産地とは關係無く、是より他に想像の下しやうも無い彼等の仕事場である。又カネ塚又はカナイ塚と稱して、小さな封土の無數に在るのも、或は之を庚申の祭場に托する人もあるが、他の府縣に在るカネイ場と云ふ地名と共に、是も金を鑄る者の假住の地であつたらしい。彼等は單に在來の塚に據つて、露宿の便宜を求めたのか。仕事の必要から時として自ら之を構へたか。はた又別に信仰上の動機でもあつたものか。之を決定することはまだむつかしいが、兎に角に是が塚の名になつて殘るのには、單に稍々長い滯留のみで無く、或期間を隔てゝ繰返し、同じ場處に訪ひ寄ること、富山の藥屋や奧州のテンバのやうな、習性があつたことを想像せしめる。殊に金吹きの勞作には、人の手を多く要した。今のイカケ屋のやうな小ぢんまりとした道具では旅は出來なかつた。猿蓑集の附合の中に、

　　　押合うて寢ては又立つかり枕

　　　たゝらの雲のまだ赤き空

とあるのは、恐らくは貞享頃までの、武藏野あたりの普通の光景であつて、或は妻子老幼をも伴なうた物々しいカラバン姿が、相應に強い印象を村の人に與へた結果では無いかと思ふ。

　タヽラと云ふ地名も亦無數に殘つて居る。此徒は燃料の豐富なる供給を必要とした他に、尚水邊に就てその臨時の工場を開設せねばならぬ事情が有つたと見えて、沼池の岸、淵川の上などに、タヽラと呼ばるゝ地があつて、前代の金屋の事業を語り、さうで無くても鐡の滓を掘出すものが多く、しかも其主はもう行方を知らぬのである。水の神が鐡を怖れると云ふ話、或はそれと反對に、釣鐘其他の金屬の器を、極度に愛惜すると云ふ物語は、踏鞴師の殊に重きを置くべき言傳へであるが、今は一般の俗間に弘く分布して居るのも、何ぞの因縁らしく考へられる。炭燒藤太が將に運勢の絶頂に辿り付かんとするとき、必ず水鳥の遊ぶ水の邊を過ぎて、天下の至寶を無益の礫に打たずんば止まな(334)かつたのは、所謂隴畝に生を送つた單純な人々には、寧ろ聊か皮肉に失したる一空想であつた。或は此話が金を好むこと彼等に越えた者の、草枕の宵曉に靜かな水の面を眺めつゝ、?々想ひ起し語り傳へた昔の奇談であつたとしても、尚今一段と丁寧なる説明、例へば其鳥は神佛の化する所にして、夫婦を導いて新なる發見の端緒を得せしめたと云ふ類の、信心の奇特などを附加へる必要があつたかと思ふが、旅の金屋は亦之を爲すにも適して居たやうである。關東地方に於けるカナイ塚の築造、殊に其保存と尊敬は、或はまだ宗教的の起原を證するに足らぬかも知れぬが、次第に北に進んで下野の山村に入れば、金井神若くは家内神社などと書く神が著しく多くなり、福島宮城山形の三縣に於ては、其數が更に加はつて、その或ものは鍛冶鑄物師の筋を引く家に、由緒を以て祭られ、他の大部分は普通の村に、只の祠となつて祭られて居る。即ち此徒の第二の業體、もしくは少くとも旅行の補助手段が、斯う云ふ特殊の信仰の宣傳であつたことは、これでもう疑ひが無いのである。中部日本の金屋の神は、今は唯霜月八日の吹革《ふいご》祭に、近所の小兒たちが蜜柑を拾ひに參加するだけであるが、海南屋久島などに行けば、鍛冶屋神は村中から信ぜられて居た。白齒のうちに身持ちになる女があれば、必ず此神に賽錢を納めて鐵滓を申請け來り、此に唐竹と柳との葉を加へ煎じて其婦人に飲ましめる。魔性蛇體などの種ならば忽ちに下りてしまひ、人の子であれば何の障も無いと謂つたさうである。屋久では此神を?籥神《とうやくじん》、又は金山大明神と呼ぶと謂ふが、他の島々ではどうであらうか。中國地方の鐵産地に於ては、多くの村に金鑄護《かないご》又は金屋子といふ祠あり。金屋既に去つて後も、神のみは留まり、此頃の學問ある神官に由つて、金山彦命などと屆けられて居るが、人は依然として之をカナイゴサンと稱へるのである。備後の雙三郡に行はるるバンコ節は俚謠集にも出て居る。曾てタヽラの作業の折に歌つたものが、殘つて昔を語るのである。

　　　たゝら打ちたや、此ふろやぶへ

　　　鹽と御幣で、淨めておいて

　　　いはひこめたや、かないごじんを

(335)　山脈を隔てゝ出雲の大原郡にも、又別種のタヽラ歌がある。

　　　ヤーむらげ樣がナー、よければナー

　　　炭燒さまもよけれ

　　　イヤコノ世なるでナ

　　　その金が金性がよいわ

　ムラゲは鎔爐のことであるらしい。炭燒樣も爰ではもう祭られる神である。

　

　　　　　　　　　　八

　

　金屋が神と其舊傳とを奉じて、久しく漂泊して居た種族であるとしても、彼等と宇佐の大神との因縁は、此だけではまだ見出されないのである。又眞野長者を中心とした連環の物語が、その不文の記録から出たと云ふことも單に一箇の推測であつて、炭燒の一條が果して最初より是と不可分のものであつたか否かには疑がある。自分はたゞ是ほど奇拔にして且つ複雜な話が是ほどの類似を以て各地に偶發することは無いと信じ、何人かゞ運搬してあるいたとすれば、それは炭燒の業と最も親しかつた者が、古く信仰と共に或地方から持つて出たので、之を豐後とすれば比較的鍔目が合ふやうに思ふだけである。但しまだ／＼解きにくい難題がいくらもある。

　例へば芋掘藤五郎の、イモは鑄物師と見てもよいが、奧州三戸郡の是川村には、蕪燒笹四郎と爲つて同じ奇談が、路の行く手のヤチの鴨に、花嫁の二分金を打付けることから、後に發見した大判小判を洗ふこと迄、あとは大抵其まゝで傳はつて居る。親の讓りのたつた一枚の畠地から、朝夕蕪ばかりを掘つて燒いて來て食つて居たと云ふ點だけが違つて居る。遠くかけ離れて肥後の菊池の米原長者、是も名前が薦編みの孫三郎であつたのと、鳥が白鷺であつた點を除けば、長谷の觀世音の夢の告げと云ふことまで、符節を合したる小五郎であつた。黄金發見者の職業は、只何と(336)無く少し替へて見たのかも知らぬが、肝要な點である爲に看過することが出來ぬ。尤も肥後の方では程遠からぬ玉名郡の立願寺村に、匹石野《ひきしの》長者の舊記があつて、恰も中間の飛石を爲しては居る。此長者は貧しい炭燒別當であつた。花嫁は内裏の姫君、同じく觀世音の御夢想に由つて、女房十二人侍四人を從へて堂々として押掛けたまふ。但し此には水鳥の飛立つことは無く、青年は只一つの石塊をツチロとして、其炭薦を編んで居たとある。其ツチロは何處から持つて來たかと、問ふと斯樣なる石塊は此山中に何程もあり、炭燒が家では水石踏石まで皆此なりと答へ、乃ちそれが黄金であつたと謂ふ。此長者は早く退轉して、長者屋敷には瓦や礎が殘り、又例の糠の峰小豆塚等の遺迹の他に、金糞塚と稱して鐵滓多く出る塚もあつた。鐡の滓が出ただけでは、之を以て黄金發見者の實在を證することが出來ぬ次第であるが、よく似た話は羽前の寶澤村にも有つて、藤太の相續人が建てたと云ふ石寶山藤太寺は、是も炭燒男の言葉として、こんな石が三國の寶であるなら、私が山屋敷では藁打つ石まで、みんな此石だと謂つたのに基づくと傳へて居る。偶然の一致では無かつたやうである。しかも炭燒が薦を編んだ、藁を打つたと云ふことも、よく考へて見ると仔細があるらしい。即ち單に炭を包む爲だけに斯んな物を作つたのでは無く、金屋は一般に其製品の輸送に付いて、特に薦を大切にしたかと思ふ。江州長村の鑄物師の神は、豐滿明神と稱へて其語音は宇佐の御伯母神に近いがもと高野より移りたまふと傳へて居る。其時此地の米を獻上し、十符の菅薦を二つに切つて下された。今に至るまで其由緒を以て、鑄物師は五符の薦を以て包むと云ふ。此意味はまだよく分らぬが、荷造りにも作法のあつたことを謂ふのであらう。江戸深川の釜屋堀の鑄物師は、上總の五井の大宮神社に、十月十五日を以て始まる祭市と古くからの關係があつた。當日の神事のツク舞の柱に、高く結附けられる徑八尺の麻布の球は、必ず鍋釜を包装する藁の殘りを納めて、其心につめたと云ふ話がある。此ばかりの材料から推測をするのは大膽であるが、宇佐神宮の以前の御正體が、黄金であつたと謂ひ、薦を以て之を包んだと謂ふ神秘なる古傳は、即ち亦薦編みの孫三郎が、後終に米原長者と耀くべき宿縁を、豫め説明して居たものかとも考へられるのである。

(337)　孫三郎も小五郎も、畢竟するに常人下賤の俗稱である。此物語の盛に行はれた時代には、家々にそんな名の下人が多く使はれて居た。それ程の者でも長者になつたと云ふ變轉の面白味もあつたか知らぬが、尚大人彌五郎などの旁例を考へ合せると、特に八幡神の眷屬として、其名が似つかはしい事情があつたやうに感ずる。併し其點までは今は深入りせぬことにしよう。炭燒男の名としては既に列擧した藤次藤太の外に、なほ阿波の糠の丸長者の傳説に伴うて、攝津大阪には炭燒友藏が住んで居た。長者の一人娘は父に死別れて後、家の守護神なる白鼠に教へられ、遙々海を越えて尋ねて來て嫁となる。奇妙に光る石塊を井戸の傍に出て洗つて見て、是が黄金ですかと謂つた若者が、曾てあの大阪に住んで居たと謂ふのは、今更の滑稽である。

　大隅鹿屋郷大窪村の山で、からかねを發見したと云ふ觀音信者の炭燒は、初の名が五郎藏であつた。炭は暖い國に來るほど、段々と不用になる。故にもう是が日本の炭燒長者の、南の端であつても不思議は無いのだが、佐多の島泊の山に新たなる意外が起らんとしつゝある如く、更に又波濤の千海里を隔てゝ、世にも知られぬ寂寞たる長者が住んで居た。宮古の島の炭燒太良は即ち是であつて、事は本文に既に詳かに述べてあるが、自分が爰に問題として見たい唯一つの點は、冬も單衣ですむやうな常緑の島に在つて、なほ且つ炭を燒きつゝ終に長者と爲ることが、信じ得べき物語であつた根本の理由である。

　

　　　　　　　　　　九

　

　宮古群島の金屬の由來に關しては、現に二通りの古傳を存して居る。其一つは首邑平良の船立御嶽に屬するもので、昔久米島の某按司の娘、兄嫁の讒に由つて父に疎まれ、海上に追放されて兄と共に此地に漂着したが、かねこ世の主に嫁して九人の男子を産み、後に其子どもに扶けられて老いたる父を故郷の島に訪れた。父は先非を悔いて親子の愛を盡し、還るに臨みて鐵と其技藝の傳書を以て、引出物として娘に取らせた。其兄は之に由つて初めて鍛冶の工みを(338)仕出し、ヘラカマ等を作つて島人の耕作を助けた故に、永く其恩澤を仰いで兄妹の遺骨を、此御嶽に納めたと謂ふのである。今は主として船路の安泰を?るやうになつたが、男神をカネドノ女神をシラコニヤスツカサと唱へて、其功績を記念して居る。第二には伊良部の島の長山御嶽此はもう祭は絶えたらしいが、やはり神の名はカネドノであつた。鐡を持渡り候故にカネドノと唱へ申候とある。大和からの漂流人で、久しく此地に住んで農具を打調へて村人に與へた。仍て作物の神として其大和人を祭るのだと傳へて居る。鐵渡來前の島の農業は、牛馬の骨などを以て土地を掘り、功程はかどらず不作の年が多かつた。それが新たなる農具の助によつて、五穀豐かに生産し、渡世安樂になつたとあるのは、多分は現實の歴史であらう。荒れたる草の菴の炭燒太良が、忽ちにして威望隆々たる嘉播仁屋となつたのを、ユリと稱する穀靈の助けなりとする迄には、其背後に潜んで居た踏鞴の魅力が、殊に偉大であつたことを認めねばならぬが、しかも鐵無き此島に鐡を持込んだ人々は、謙遜にも自分の功勞は之を説立てず、炭燒奇瑞の古物語を、そつと殘して置いて又次の或島へ、いつの間にか渡つて往つてしまつたのである。

　宮古の炭燒長者は、島最初の歴史上の人物、仲宗根豐見親が六代の祖と傳へられる。之を事實としても西暦十四世紀の人である。沖繩本島に於てもちやうど其の少し前に、鐵器輸入のあつたことが、半ば物語化して語り傳へられて居る。察度王が未だ其志を得ずして、浦添城西の村に侘しく住んで居た時、勝連按司の姫、夙く英風に傾倒して、往いて之にかしづくこと、政子の頼朝に於けるが如くであつた。王の假屋形は庭にも垣根にも、無數の黄金白銀が恰も瓦石の如く、雨ざらしになつて轉がつて居た。それを新奧方が注意しても、笑うて顧みなかつたと傳へられる。其後鐡を滿載した日本の船が、牧港に入つて繋つた時に、察度は乃ち右の金銀をもつて殘らず其鐡を買取り、農具を製作して島人に頒ち與へ、一朝にして人心を收攬したと謂ふのは、興味ある傳説では無いか。琉球の史家が此記事に由つて、然らば我島にも昔は金銀を産したかと、有りさうにも無いことを想像して居るのは、寧ろ孤島の生活の淋しさを同情せしめる。島の文化史の時代區劃としては、鋤鍬の輸入は或は唐芋よりも重大であつた。所謂金宮の夢がたりを(339)傭ひ來るに非ざれば、説明することもむつかしい程の、何かの方便を盡して、兎に角に農具は改良せられた。單に鐡を載せた大和船の漂着だけでは、文明の進化は見ることを得なかつた筈である。然らば此島現在の金屬工藝には、何人が先づ參與したのか。言ひ換へれば久米島の按司が、宮古の娘に與へた卷物は、最初如何なる船に由つて、南の群島へは運ばれたのであるか。それはもう終古の謎である。今はたゞ僅かに殘つて居る釜細工の舞の曲と、其行装と歌の文句に由つて、彼等鑄工がもと旅人であり、物珍らしい國から來たことを、窺ひ知るの他は無いやうになつた。江戸で女の兒が手?の唄に、

　　　遠から御出でたおいも屋さん

　　　おいもは一升いくらです

　　　三十五文でござります

　　　もちつとまからかちやからかぽん

と謂ふのがあるが、之に附けても思ひ出される。斯う云ふ輕い道化は鑄物師たちの身上であつて、後に口拍子に眞似られたのではあるまいか。眞の芋賣りならば遠くからは來ない。所謂「取替へべえにしよ」の飴屋なども、潰れた雁首や剃刀の折れを、集めて持つて行くだけは古金買ひと聯絡があつた。併しもう忘れられようとして居る。此等に比べると釜細工といふ沖繩の舞は、まだ明瞭なる由緒を保ち、道具箱などは内地の鑄懸屋の通りであつた。或は流れ流れて金賣吉次の、是も淪落の一つの姿であることを、推測しても差支へが無いのかも知らぬ。

　水に乏しい南の島々では、黄金を鳥に擲つ話は既に聞くことが出來ぬ。しかも大なる清水に接近して、所謂カンヂャヤーの石小屋を見ることは多い。カンヂャヤーは固より鍛冶から出た語であらうが、沖繩では鍋釜其他一切の鑄物を扱ふ者を總括して斯う呼んで居る。自分は南山古城に近い屋古の嘉手志川、或は石垣島の白保などで、幾度か好事の情を以て其小屋を覗いて見たが、曾て工人の働いて居る者に出逢はなかつた。恐らくは村から村へ、今も僅かな人(340)數が移り歩いて、淡い親しみを續けて居るのであらう。彼等が炭の由來と黄金發見の信仰に付て、現に如何なる記憶を有するかは、自分の之を知らんとすること、恰も渇する者の泉を想ふ如くである。琉球國舊記等の書に依れば、炭には木炭と輕炭の二種があつて、輕炭を俗に鍛冶炭とも曰ふ。大工廻《だいくざこ》村に炭燒｜勢頭地《せとぢ》と謂ふ田地あつて、勢頭親部始めて之を製すと云ふ傳へあり。後世隣邑の宇久田と共に、毎年二種各二百俵の炭を王廷に貢した。其年代は不幸にして既に明白で無いが、三山併合よりも古いことでは無ささうだ。

　但し鍛冶以外の炭の用途も、勿論無かつたとも言はれぬ。島の神道に於ては火の神は即ち家の神で、所謂御三物の地位は、内地の近世の竈神即ち三寶荒神よりも、遙かに高く且つ重かつた。今は僅かに、火床の中央に、三塊の石の痕を留むるのみであるが、以前は祖先の火を此中に活けて、根所の神聖を保存したものと思はれる。火鉢の御せぢ（筋）は恐らくは之を意味し、火靈の相續は亦炭に由つて、爲し遂げられたかと想像する。此想像にして誤り無くんば、冶鑄技術の輸入は、即ち火神信仰の第二次の興隆であつて、民に鋼鐡の器を頒ち賜ふが故に、其威�ｺは愈々旺盛となり、終に王家をして之に據つて、能く民族統一の偉業を完成せしめたのである。之に反して内地の軻遇都智神は、恩澤未だ洽からず、又雄族の之を支持するもの無く、天朝の傳承は寧ろ宣傳に不利なりし爲に、次第に其聲望を降して、終には炊屋の一隅に殘壘を保つに至つたが、是が果して東國九州の偏卑に住む民の信仰であり、殊には筑紫の竈門山の神などの、教へ導きたまふ所のものと、一致して居つたか否かは問題である。しかも此の如き地方的の大變化が、薪を一旦炭にしてから、再び之を利用する技術の有無に原因して居るとしたら渺たる一個の小五郎の物語も、其の暗示する所は亦頗る重大である。

　遠野物語の中には、深山無人の地に入つて、黄金の樋を見たと云ふ話があるが、其が火と關係あるか否はまだ確實で無い。併し少なくとも火神の本原が太陽であつたことだけは、日と火の聲の同じい點からでも之を推測し得るかと思ふ。日本には火山は多いが、我民族の火の始は之に發したのでは無かつたらしい。天の大神の御子が別雷であつて、(341)後再び空に還りたまふと云ふ山城の賀茂、又は播磨の目一箇《まひとつ》の神の神話は、此國のプロメトイスが霹靂神《はたゝがみ》であつたことを示して居る。宇佐の舊傳が同じく玉依姫を説き、頻に又若宮の相續を重んずるは、本來天火の保存が信仰の中心を爲して居た結果では無かつたか。岩窟に火の御子を養育すれば、第一の御惠は必ず炭と爲つて現はれる。炭はまどろむ火であるが故に、之を奉じて各地に神裔を分つ風が先づ起り、金屬陶冶の術は則ち此に導かれたものでは無からうか。南太平洋の或民族、例へばタヒチの島人などの火渡りは、燃ゆる薪の中に石を燒いて、之を大きな竪坑に充たし、神系の貴族たちは列を作つて、其上を歩むのであつた。日本に於ても大穴牟遲神の、手間の山の故事のやうに、赤くなる迄石を燒く習があつたとすれば、或種の重く堅い石が、猛火の中に滴り落ちること、其石が凝つて再び色々の形を成すことは、所謂奧津彦奧津媛、即ち炭火の管理に任じた者には殊に遭遇しやすき實驗であつて、之を神威の不可思議と仰ぐは勿論、更に進んで其便益の大なることを諒解した場合には、必ずや新たに無限の歌を賦して、火の神の恩�ｺをたゝへんとしたことであらう。之を要するに炭燒小五郎の物語の起原が、もし自分の想像する如く、宇佐の大神の最も古い神話であつたとすれば、爰に始めて小倉の峰の菱形池の畔に、鍛冶の翁が神と顯れた理由もわかり、西に隣した筑前竈門山の姫神が、八幡の御伯母君とまで信じ傳へられた事情が、稍々明かになつて來るのである。所謂父無くして生れたまふ別雷の神の古傳は、至つて僅少の變化を以て、最も弘く國内に分布して居る。神話は本來各地方の信仰に根ざしたもので、その互に相容れざる所あるは寧ろ自然であるにも拘らず、日を最高の女神とする神代の記録の、此ほど大なる統一の力を以てするも、尚覆ひ盡すことを得なかつた一群の古い傳承が、特に火の精の相續に關して、今尚著しい一致を示して居ることは、果して何事を意味するのであらうか。播磨の古風土記の一例に於て、父の御神を天目一箇命と傳へて乃ち鍛冶の祖神の名と同じであつたことは、恐らくは此神話を大切に保存して居た階級が、昔の金屋であつたと認むべき一つの根據であらう。火の靈異に通じたる彼等は、日を以て火の根原とする思想と、いかづちと稱する若い勇ましい神が最初の火を天より携へて、人間の最も貞淑なる者の手に、御渡しなされたと(342)云ふ信仰を、持傳へ且つ流布せしむるに適して居たに相違ない。宇佐は決して此種の神話の獨占者では無かつたけれども、彼宮の神の火は何か隱れたる事情有つて、特に宏大なる恩澤を金屬工藝の徒に施した爲に、彼等をして永く其傳説を愛護せしむるに至つたので、炭燒長者が豐後で生れ、後に全國の旅をして、多くの田舍に假の遺跡を留めて置いてくれなかつたなら、獨り八幡神社の今日の盛況の、根本の理由が説明し難くなるのみで無く、我々の高祖の火の哲學は、永遠に不明に歸してしまつたかも知れない。然るに文字の記録を唯一の史料として、上古の文明を究めんとする學者が、誤り欺き又は獨斷するに非ざれば、則ち絶望しなければならなかつた問題の眼目を、斯く安々と語つて聽かせ得る者が、隱れて草莽の間に住んで居た。さうして滿山の黄金が天下の至寶なることに心付かず、之を空しき礫に擲ちつゝ、孤獨貧窮の生を營んで居た。新しい學問の玉依姫は、今や訪ひ來つて彼が柴の戸を叩いて居るのである。

　

　　　　　　　　　　一〇

　

　南の島々の金屬の始は、鑛物に豐かで無かつたばかりに、非常に我々の島よりはおくれて居た。それにも拘らずいつの間にか、炭燒長者は早ちやんと渡つて住んで居る。自分が本文の炭燒太良の話を書いて後、佐喜眞興英君は其祖母から聽いたと云ふ、山原地方の炭燒の話を、南島説話に於て發表せられた。大體に於て宮古島の例とよく似て居て、此も亦女房の福分が、二度目の夫を助けたことを説くらしいが、濱の寄木の神樣から、赤兒の運勢を洩れ聽くことゝ、鍋のヒスコを額に塗る風習を、説明しようとした部分は落ちてしまつて、其代りとして前の夫が、死んで竈の神と爲つた點を詳しく傳へて居る。沖繩と宮古と二處の話を重ね合はすれば、ちやうど琉球神道記の江州由良里の物語に近くなるから、或は之を以て慶長の初頃に、袋中上人一類の内地人から、聽いて記憶して居たものと見る者が有るか知らぬが、共では合點が行かぬ節々が少なく無い。殊に長者となるべかりし貧困なる第二の夫が、炭燒であつたと云ふ(343)一條が、沖繩と宮古とにはあつて、中世京都附近に行はれた物語には見えず、しかも千里の海山を隔てた奧州の田舍で、現に口から耳へ傳承する話に、炭燒が又出て來るのは、如何にしても不思議である。

　奧州方面の炭燒長者は、佐々木喜善君がその幾つもの例を採集して居る。今に書物になつて出るであらうが、さし當りの必要の爲に、二つだけ話の大筋を掲げて置く。一つは和賀郡に行はれて居るもの、他の一つは佐々木君の居村、上閉伊郡｜六角牛《ろつこうし》山の山口で、物知りの老女が記憶して居た話である。

　（一）木樵が二人山に泊つて同じ夢を見る。二人の家には男と女の兒が生れたが、女の兒は鹽一升に盃一つ、男は米一升の家福だと、山の神の御告げがあつたと思うて目がさめた。翌日還つて見ると果して子が生れて居る。成長の後夫婦となつて家が繁昌した。女房は一日に鹽を一升使ひ、盃には酒を絶やさず、大氣で出入の人々に振舞をするので、小心の夫は之を見かね、離縁をしてしまふ。女房は出て行つたが、腹がへつたので大根畠に入つて大根を拔くと、其穴から酒が涌き出たので、

　　　ふる酒の香がする

　　　泉の酒が涌くやら

と歌ひつゝ、女房は其酒を飲んで、元氣になつて行くうちに日が暮れる。山に迷つて一つ家の鍛冶屋に無理にとめてもらふ。翌朝見ると鍛冶場の何もかもが皆金である。それを主人に教へて町へ持出し、賣つて長者になつたら、其あたりが町になつた。後に薪を背負うて賣りに來た父と子の木こりがあつた。それは女房の先の夫であつたと謂ふ。

　（二）或鍛冶屋の女房、物使ひが荒くて弟子たちにまで惜しげ無く錢金を與へる。夫の鍛冶屋はこの女房を置いては、とても富貴にはなれぬと思うて、三つになる男の子をそへて離別する。女房は道に迷うて山に入込み、炭竈の煙を見つけて炭燒小屋に辿りつく。小屋のヒホド（爐）に小鍋が掛つて居る。主人が還つて來たから泊めてくれと謂ふと、今夜此飯を二人で食へばあすはもう食ふ物が無いと當惑するので、明日は又何とかしますと、それを二人でたべて寢(344)る。翌日女房は懷から金を出して、これで米を買うて來て下され。そんな小石で何の米が買はれべ。インニエこれは小石で無い、小判と謂ふ寶物だ。こんな物が寶なら、おれが炭燒く竈のはたはみんな小判だと謂つて笑ひながら、それでも買物に町へ出た。其あとで女房が往つて見ると、誠に炭竈のまはりには黄金が山のやうだ。之を運ぶと小屋が一杯になつて、入口から外へ溢れる。そこへ町から爺が還つて來る。一俵の米が殘り少なくなつて居るから、わけを聞くと途中で腹がへつたので、俵から米をつかんで食ひ／＼來た。後からも人が附いて來るから、其人にも一つかみづゝ投げてやりながら來たと謂ふ。其人といふのは自分の影法師のことであつた。さういふ風の人なれども女房はきらはず、次の日から其金で米を買ひ木こりや職人を呼んで、家倉小屋を數多く建てさせ、そこで炭燒長者と呼ばれるやうになると、其邊も村屋になつた。ところが先夫の鍛冶屋は女房を出してから、鎌を打たうとすれば鉈になり、鍬と思へば斧になる。けちが附いてろくな仕事も出來ないので、乞食になつてしまひに炭燒長者の門に來る。女房がそつと見ると元の夫であつたから、米三升をやつて無くなれば又來よと謂つて返す。それから長者の夫にも話して、共々にすゝめて下男にする。何も知らぬから悦んで、一生この炭燒長者の所で暮してしまふ。

　同じ老女の話したうちには、右の二つの物語が一つに續いて居るのもある。挿話があつてあまり長いから抄録しなかつたが、それにも大根を拔いた穴から甘露のやうな酒が出て、之を賣つて自ら長者の女王となつたとあり、即ち一方には田山小豆澤のダンプリ長者の話とつゞき、他の一方には三戸郡の蕪燒笹四郎の蕪を食べた話とも縁をひく。殊に面白いのは先夫に福分が無くて、藁に黄金を匿して、草履を作つて來いと謂つて渡すと、夜中に寒いので其藁を金と共に、ヒホド（爐）に燃してしまふ。握り飯の中に小判を入れて遣ると、歸りに沼に下りて居る鴨を見かけて、其むすびを投げつけてしまふ。女房はさて／＼運の無い人だと歎息して、すゝめて我家の下男とする。さうして酒屋長者の家で一生を終ると云ふのである。但し此方では長者は獨身の女王で、黄金は發見せずに酒の泉を發見した。第一の話は後の夫が鍛冶屋、第二の話だけは炭燒であるが、やはり亦前の亭主を鍛冶屋にして居る。他の類例を集まる限(345)り集めて見たら、必ず變化の中から一定の法則が、見出されることゝ信ずる。要するに話を愛した昔の人の心持は、一種精巧なる黄金の鏈の如きものであつた。

　

　　　　　　　　　　一一

　

　歌の豐後の炭燒小五郎が妻は、容みにくしと雖都方の上臈であつた。弘い世間に夫と頼む人が無いので、日頃信仰の觀世音の靈示に從ひ、遙々と鄙の山賤を尋ねて來たと云ふのが、物語の最も濃厚な色彩を爲して居るが、是は所謂佛法の影響であつて、又中代の趣味であらう。信心深い男女の間の前世の約束と云ふ簡單な語で、省略してしまつた身の運、家の幸福の説明は話に此ほどの共通がある以上は、後に來つて附加はつたものとは考へられぬ。況や其背後にはどこまでも火の神の思想と古い慣習が、殆と無意識に保存せられて居たのである。阿波の糠の丸長者の娘の嫁入には、觀音の代りを家の守の神の白鼠がつとめた。陸中の話では旅の六部に教へられて、月の十五日の朝日の押開《おつぴら》きに、九十九戸前の眞中の土藏の屋の棟を見ると、紫の直垂を着た小人の翁が三人で、旭の舞を舞うて居た。うつぎの弓に蓬の箭をはいで之を射ると、小人は眼又は膝を射られて忽然として消去り、それから家の運は傾いた。或は又路に三人の座敷ワラシかと思ふ美しい娘に逢ひ、行く先をきくと、この山越えあの山越えて、雉子の一聲の里へ行きますと、幸運の住家を教へてくれる。それが宮古の島ではユリと稱する穀物の精と現れて、女性を炭燒の小屋に導くのである。沖繩本島に於ては又變じて雀（クラー）になつて居る。折目の祭の日に下男の言ふまゝに、新米で飯を炊いだのが惡いと謂つて、夫に追出された女房が、こゝに隱れかしこに遁げて去りかねて居ると、斯う謂つて雀は彼女を導いた。

　　　クル、　クル

　　　クマネスダカラン（爰には住まはれぬ）

(346)　　　ヤンバルヤマカイ（山原山へ）

　　　タンヤチグラカイ（炭燒のクラへ）

　さうして炭燒の妻に爲つて、忽ち金持になつたのであるが、この古い／＼公冶長系統の一節も亦袋中上人所傳の外であつた。

　第二に注意することは、炭燒を尋ねて來た女性に、別に一人の同行者があつた點である。宮古島の舊史には隣婦を伴ひとあり、佐々木君の話の一つには下女を連れて行くとあるが、今一つの方では三つになる男の子を附けて離別したことになつて居る。或は又前の男が、貧乏をしてから其子をつれて薪を賣りに來たともある。何か仔細のあつたのが、もう忘れられたものと思はれる。佐喜眞君のおばあさんの話では、沖繩では女は姙娠の間に追出され、炭燒にとついでから男の子が生れたことになる。零落の夫がもとの妻であることを知らずに笊を賣りに來ると、長者の子供が彼に向つて惡戯をした。女房に向つて御宅の坊ちやまが、惡さをなされて困りますと謂ふと、今まで知らぬ顔をして居たのがもうたまらなくなつて、自分の子供まで見知らぬとは、何と云ふ馬鹿な人だと歎息したので、始めて昔の妻子かと心付き、其まゝひつくりかへつて死んでしまつたとある。此樣な何でも無いことまでが、手近の琉球神道記とは似ないで、遠い雪國の村の話と、一致しようとして居るのは何故であらうか。

　不思議はまだ是ばかりで無い。沖繩では斯うして恥ぢて死んだ男を、其まゝそこに埋めて、上に庭の飛石を置き、それから茶を飲む度に一杯づゝ、その石に灌いで手向にしたとある。其點が亦附いてまはつて居るのである。不運な前夫が知らずに來て、元の妻の世話になることは何れの話も一樣であるが、奧州では單に勸められて下男に爲り、炭竈長者の家で一生を終つたとある。之に反して江州由良の里では、箕作の翁は長者の臺所に來て食を乞ひ、別れた女の姿を見て恥と悔とに堪へず、忽ち竈の傍に倒れて死んだのを、後の夫に見せまい爲に、下人に命じて其まゝ竈の後に埋めさせた。それが此家の守り神と爲つたと謂ひ、それを竈神の由來と傳へて居る。清淨を重んずる家の火の信仰(347)に、死を説き埋葬を説くのは奇怪であるが、越後奧羽の廣い地方に亙つて、醜い人の面を竈の側に置くことが、現在までの風習であるから、是には尚さう傳へらるべかりし、深い理由があつたのであらう。廣益俗説辨には何に由つたか知らぬが、三寶荒神の始は、近江甲賀郡由良の里、百姓の夫婦と其婦女と、三人を祀つて竈の神にしたと云ふ、別の傳承を載せて居る。由良は通例海邊の地名であるから、近江は誤で無いかとも思ふが、何かなほ此方面に人の靈を火の靈として崇拜する、昔の理由が隱れて居るやうにも思ふ。

　若し此推測にして誤無くば、宮古の炭燒の話の發端に、二人生れた赤子の中で、女の方は額に鍋のヒスコを附けてあるから、一日に糧米七升の福分を與へ、男の兒は其事が無かつたから乞食の運ときめたと、神々の談合が有つたと謂ひ、それ故にこそ今に至る迄、生れ子の額には必ず鍋のヒスコを附ける也と、北の島々で宮參りの日に、紅で犬の字を描き、又は作り眉をするのと、よく似た風習を説明しようとして居るのは、是も同じく竈の神の信仰に基づくもので竈と炭との關係を考へ合せると、假令京都近くの書物に傳はつた話には見えなくとも、長者を炭燒とした話の方が、一段古い樣式であつたと考へてよろしい。

　謠の蘆苅の元の型は、今昔と大和と二つの物語に見え、その贈答の歌は既に拾遺集にも採擇せられて居る。それが純然たる作爲の文學で無かつたことは、大和物語に於ては前の夫が、上臈の姿を見知つて我身の淺ましさを恥ぢ、人の家に遁げ入つて竈の後にかゞまり匿れたとあるのを見てもわかる。蘆を苅つて露命を繋いだと謂ふのも、必ずしも「あしからじ」又「あしかりけり」の二つの歌が先づ成つて、これを能因法師の流義で難波の浦に持つて行つたと解することが出來ぬかと思ふのは、全然同種の近江の話に箕作の翁と謂ひ、沖繩に於ては笊を賣りに奧州に於ては草履を賣りに、或はマダ木の皮を剥ぎ又は薪を苅つて、之を背負うて賣りに來たと謂ふのが、同じやうな侘しい姿を思はせ、事によると肥後の薦編みや蓆織り長者、羽前の藁打ち長者の因縁を引くかとも思はれる上に、更に偶合としては餘りに奇なることは、豐後の内山附近にも蘆苅と云ふ部落があり、同じく臼杵の深田村では、小五郎の子孫と稱して蘆苅(348)俊藏氏あり、更に同じ苗字が弘く宇佐地方にまでも及んで居ることである。曾て後藤喜間太君が寫して示された、豐後海部郡の花炭の由緒書には、小五郎七十八代の後裔草苅左衛門尉氏次の名を録し、豐鐘善鳴録には長門國にも、草苅氏と云ふ一門が分れて居たと記してある。所謂山路の草苅笛の故事を辿れば、蘆苅は寧ろ誤では無いかと思つたが、現に之を名乘る舊家がある以上は、爭ふべき餘地が無い。更に進んで其舊傳を、究めて見たいものである。

　

　　　　　　　　　　一二

　

　果しも無い穿鑿は、もうこの位で一旦中止せねばならぬ。他日もし幸ひに機會があつたら、宇佐の根原が男性の日の神であり、其最初の王子神が、賀茂大神同系の別雷であり、次の代の若宮が火の御子であり炭の神であつて、所謂鍛冶の翁は其神�ｺの顯露であつたと云ふことの、果して證明し得べきや否やを究めて見ようと思ふ。現在の神官たちの承認を得ることは難いが八幡には今なほ闡明せられざる若干の神秘があるらしく、是は只その一端だけである。自分の試みは單に文字記録以外の材料から、どの程度まで大昔の世の生活が、わかるであらうかと云ふ點にあつて、殊に奈良の京以後突如として大いに盛んになつた宇佐の信仰が、本來は南日本の海の隈・島の蔭に、散亂して住んで居た我々の祖先の、無數の孤立團體に共通した、至つて單純なる自然宗教から出たもので無いかどうかを知りたかつたのである。託宣集や愚童訓別本を見ると、宇佐の山上には最も神靈視せられた巨大なる三石があつた。火の神とは傳へて居らぬが、寒雪の中にも暖味ありといひ、又は金色の光を放つて王城の方をさすとも謂つて居る。しかうして三箇の石は竈の最初の形であり、從つて火神の象徴であることは既に認められて居る。之に由つて所謂三寶荒神の思想も起つた。沖繩諸島に於ても御三物と稱して三石を火の神に祀つて居る。只未だ其起源に關しての説を聽かぬが、三箇の略々同じ大さと形の石が、引續いて海からゆり揚がる時は、之を奇瑞として拜したやうである。この二つの信仰には恐くは脈絡があるであらう。即ち南島の從兄弟たちは、未だ石凝姥・天目一箇の恩澤に浴せざる以前から我々と(349)よく似た方式を以て、根所の火に仕へて居たのである。炭燒長者の話がいと容易に受入れられた所以である。

　遺老説傳には與那覇親雲上鄭玖、或日未明に久米村から、首里の御所に朝せんとして、浮繩美御嶽の前を過ぎ、一老人の馬に炭二俵を積んで來るに逢うた。老人は強ひて玖をして家に引返さしめ、且つ其炭俵を與へて去る。後に侍僮をして之を焚かしめようとするに、どうしても燒けず、よく見れば炭は悉く黄金であつたと謂ふ。信州園原の伏屋長者が半燒けの炭を神棚に上げて置くと、それが忽ちに金に化したと云ふのと、全く同日の談であつたが、黄金を産せぬ島では、殊に此不思議は大きかつたことゝ思ふ。即ち干瀬の練絹を以て取圍んだ蓬莱山に在つても、父が炭燒藤太で無ければ、其子は金賣吉次であり得ないと云ふ理窟が、はつきりと其世の人の頭にはあつた。但し我々は今が今まで、もう之を忘れてしまつて居たのである。

　

(350)　　　　　　　阿遲摩佐の島

　　　　　　　　　　　大正十年二月二十一日夜、久留米市中學明善校にて談話。此夕大いに雪ふる。

　

　　　　　　　　　　一

　

　十二年前に、一度私は此地を通つて矢部川の上流に遊び、冬野と云ふ村を經て、肥後の來民《くだみ》へ越えて行き、それから段々と南の國を廻つたことがあります。阿蘇の火山を中心とした中央部の山地にも、三方四万から入つて見まして、今なほ鮮明なる色々の印象をもつて居ますが、今囘は島々の旅から還つて來たのであります故に、御聽き下さるならば主として海の方の話をしたいと思ひます。前囘は鹿兒島ではちやうど今の大みかどがまだ東宮に御いでになつて、海を巡つて行啓を遊ばされたばかりの時でありました。縣の物産館に、其折獻上をした蒲葵の笠や團扇と同じ品が、記念の爲に陳列してあるのを見て、始めて私は舊日本の國土にも、此植物の在つたことに心付きました。さうして更に考へて見ると、山城の京の數百年の間、白く晒したビロウの葉を以て、美しい車を造り、之を牛に牽かせてあまたの貴人たちが、都大路や郊外の野山を、清少納言の所謂「のどやかに遣つて」居たので、勿論其原料の樹木が、國内の何れかの地に、成長して居たことを推測せねばならなかつたのでありました。飾抄と云ふ書物には檳榔は前關白近衛殿の御領、鎭西志摩戸莊の土産なり、仍て所望して之を用ゐると有ります。志摩戸は即ち今の島津家の名字の地で、大隅國の東の境、近世略して莊内と呼んで居た廣大なる莊園でありまして、現在は最早内陸の方には、此木は一本も(351)無いやうでありますが、志布志の港町の前面、一里足らず離れた海上に、大なる蒲葵島があつて、高く抽き出た若干の松を除く外、全山すべて蒲葵であります。現に獻上の笠扇の類も、此地の住民が淨まはつて製したものだと承りましたが、常から若干の住民が、今なほ此職に携はつて居るのであります。

　島津氏の所領は、中世以後次第に膨張して、更に薩摩の西海岸に於て、幾つかの蒲葵ある島を包容しました。南から算へると秋目の港外に、優雅な姿をして立つ枇榔島、串木野村の海上十八町に在る羽島一名沖の島、阿久根の沖に在つて曾て藩主が鹿と都鳥とを放したと云ふ雌鳥一名桑島の如き、地誌や地圖に現れたものでも是だけあります。日向の東海岸にも、なほ幾つかあるのです。就中宮崎の市から僅か南、折生迫《をりふざこ》に接した青島は有名で、近頃は澤山の繪葉書も刊行せられ、汽車に乘つてみんなが見物に行く樣になりました。即ち所望する人が有るならば、都の檳榔毛の車の用ゐ料ぐらゐは、どこからでも之を採取することが出來たわけであります。しかも此物を特に大隅の島津莊からばかり出すことに爲つたのは、全く輸送關係の變遷からでありまして、決して此地方以外に蒲葵を産する島が無かつた故ではありません。距離は遠方でも島津莊は至つて大きな荘園で、年貢や人の往來の爲に兵庫堺への船便の序がいくらも有り、近い處よりは却つて取寄せることが容易であつたらしいのです。

　延喜式の時代には、まだビロウで飾つた車は流行しなかつたのですが、他に朝廷の御入用が有つて、九州では太宰府が、之を取揃へて貢進しました。即ち民部省式の下に、檳榔の馬蓑六十領、同じく螻蓑《けらみの》一百二十領とあるのがそれであります。車の代りに乘馬の飾りとして、賞玩せられたらしいのであります。太宰府は御承知の如く、九州二島を併せ支配して居りましたから、此も亦大隅薩摩などの島より取寄せたものとも想像し得られるかも知れませんが、さう迄せずともずつと近くの海岸にも、處々に蒲葵は生長して居たのであります。それから又典藥寮の式には、太宰府より進する年料の雜藥十二種の内、檳榔子二十斤と云ふのが見えます。是も多分蒲葵の實のことで、中世以後支那から輸入して香料藥用に供し、後には染物にも使はれたる本物の檳榔子とは、別の品であつたらうと考へます。蒲葵は(352)元來檳榔とは全く別種でありまして、蒲葵をビロウと呼ぶのは混同の誤りかと思ひます。松村博士の植物名彙に依れば、蒲葵は Livistonia Chinensis Br. で支那の在來種、檳榔は Areca Catechu L. で輸入種だとあります。其檳榔は沖繩の島でも、首里の圓覺寺に二三本、傳來の知れたものがある位で、内地の方には成長せぬものであつたのに、始めて漢字を日本に持込んだ時代、うつかりと蒲葵の木に、檳榔の字をあてゝしまつたのです。最も最初には、字音を以て之を呼んだので無く、別にアヂマサと云ふ語がありました。例へば檳榔之長穗宮と書いてアヂマサノナガホノミヤ、大山下《だいさんげ》狹井連檳榔と書いてサヰノムラジアヂマサと唱へて居たのでありますが、次第に漢字に親しくなつて牛車の行はれる頃には、大かたの者が之をビロウ毛の車と謂ふやうになり、從つて此木もさう呼ぶに至つたものと見えます。或は説を爲して、檳榔の字とは關係は無い。比閭といふ漢語の音を移したものであらうと謂ふ人があります。新井白石先生なども其一人であるかと思ひます。枇閭は又?櫚とも書き、即ち日本に多くある棕櫚のことでありまして、檳榔などよりは遙かによく蒲葵と似て居り、支那でも折々之を混同した人があると申しますが、併し判別は決してむつかしくありません。一方は葉がこはく幾筋にも分れてをり、蒲葵は柔かくて續いて居ます。柔かい故に笠や團扇にも造ることが出來るのです。又棕櫚には繩にするやうな丈夫な毛が有る代りに、葉は決して白く美しく晒すことが出來ませぬ。それに一方は隨分寒氣にも堪へて、中部以北の霜雪の中にも繁茂しますが、片方は南の海邊だけの物で、今まで我々でも知らなかつた位であります。花や實を見ても、其香氣を嗅いでも、又單に樹の形だけでも、見分けることは容易ですから、比閭と云ふやうな耳馴れぬ漢語を採用する餘地も無く、又ビロウをヒリヨと呼ぶ人は無かつたやうで、結局は檳榔と云ふ異國情調の豐かな文字に絆されて、千年前の古人もなほ誤を遺したものであります。

　

　　　　　　　　　　二

　

　九州以外の國からも、所謂檳榔の葉は之を朝廷へ納めて居りました。同じく民部省の式の次に諸國の年料｜別貢《べつく》の雜(353)物、伊豫國檳榔二百枚とあるなどが其證據であります。伊豫には西南に暖かい島が多く、現在土佐に屬して居る沖島あたり迄、昔は其管轄であつたから、幾らも之を採取することが出來たことゝは思ふが、果して今のどの島に産したものか、實地を見ないから想像が付きませぬ。流布本の延喜式は此條に誤りがあつて、檳榔の櫛二百枚となつて居る爲に色々無用な想像説も出たやうですが、櫛には何としても製しやうの無い植物で、全く是は榔の字の重複を櫛の字と見た誤解であり、二百枚の數は蒲葵の葉を算へたものであります。そんなら其葉は何の爲に御用ゐになつたかと申すと、それも同じ記録の内膳司式に、毎年の十一月、向ふ一箇年の料として請受くる檳榔葉二十八枚、内八枚は御飯を扇ぎ涼す料、他の二十枚は雜膳の火を扇ぐ料とあるなどが、其用途の一例でありました。禁中の御仕來りは些細な事でも、斯うして例條を定め置かれるほど、古風をよく守るものであるのに、どうして又御飯をさます扇までに、珍らしい遠地の産物を御使ひなされたものであらうか。單純なる物好みとは私には考へられないのであります。或は尊とい御方の御食物に當てる風は、特に蒲葵の葉より生ずる風で無ければならぬ道理があつたのでは無いか。伊勢の齋宮でも毎年御座所の料として、此葉を二枚づゝ乞ひ請けて居られたと言ふのを見れば、或は何かもう忘れてしまつた特殊の事情があつたのかも知れぬと思ひました。尤も蒲葵の扇は今でも人がほしがるやうに、しやれたものでもあれば調寶な物でもありました。紙の不自由な時代に、之を扇にしようとしたのは自然であります。故に只の人も其扇を使つて居たことは、繪卷物などに折々現れて居ります。今日南支南洋からみやげに持つて還る團扇とは形がまるで違つては居ましたが、以前は山伏修驗者も必ず之を携へて居ました。しかも日常の家具としてゞは無く、峰入の時には必ず腰にさし護摩の節には此で火を起す。言はゞ一種の信仰上のシムボルであつて、其名も陰陽道に因んで??扇《ほきせん》と謂つて居たのは、勿論蒲葵扇の音に由つたものであります。國史大辭典の修驗道の條には其蒲葵扇の繪が出て居ます。支那で仙人や隱者が手に持つ圃扇とは、まるで形のかはつた、頭が小さく且つ三角なものであります。其昔内膳の司に於て用ゐられた蒲葵の葉も、果して此と同じ形であつたかどうかは知らず、とにかく扇に編んで使つたことだけは(354)疑がありませぬ。

　延喜式の出來た時よりもずつと前、光仁天皇の御代しろしめす寶龜八年の五月に、渤海國の使節史都蒙等蕃に歸るに臨みて、かの國王に書を賜はり、海石榴《つばきの》油一｜缶《ほとぎ》、檳榔の扇十枚等を、請に任せて贈り賜はつたとあるのが、多分は記録に此物の名の顯れた初度であります。御承知かと思ひますが渤海は高句麗の遺種で、長白山の北麓から、今の浦潮斯�ｺ豆滿江の邊までを版圖として、獨立して居た一國でありますが、當時強大なる契丹に仲を遮られ、南出して支那の文明に接觸することが出來ず、艱難の船路を越えて遙々と我朝に誼を求め、前後百六七十年の間も、參り通うて居たのであります。さうして雪深き彼等の本國に於て、海のこなたの緑の島をゆかしがつたことは、一つには又珍しい南方の産物が、望のまゝに給與せられた爲かとも思はれます。即ち渤海王朝の人々に取つては、我が一群のやまとの島々が、やはり所謂「阿遲摩佐《あぢまさ》の島も見ゆ」であつたらしいのであります。

　

　　　　　　　　　　三

　

　私は尚進んで、この蒲葵と云ふ植物が、現在どの邊まで分布して居るかを知らうとしました。薩摩の西海岸のビロウ島のことは前に申しましたが、それから北に進んで肥後の八代郡にも、檳榔島といふ島がありました。八代城から西三里餘に在り、渡海の船の風濤を避くるもの、多く來り泊するを以て一に着島《つきしま》とも謂ふ。蒲葵の木多く、神ましまして此を採ることを惜みたまふ。又虻多し。寶暦の頃より薩摩の土人、往々にして來り盗むと、肥後國志には書いてあります。かの隣國人が聽いたならば、必ず抗議すべき記事でありまして、私もそんな必要は無かつたやうに思ひます。不知火灣の沿海には、其後段々の埋立新田が出來て、此島も今は内陸につゞいてしまつたやうでありまして、兎に角に此木の繁茂して居る島は、暫くあの邊を旅行して見ましたが、終に心付かずにしまひました。それから有明海島原半島の沖などには、有るかも知れませぬがまだ聞いて居りませぬ。併し肥前には古風土記の松浦郡｜値嘉《ちかの》郷、小近《をぢか》(355)大近島の條に産物として檳榔を擧げて居ります。即ち昔から既に知られて居たのであります。五島の中には亦一つの枇榔島のあることが、日本實測録には見えてゐます。今は美良島と書いて、福江島の南の端に近くあります。平戸附近の島にも、近年出來た「平戸しるべ」と云ふ本に、アコウ・ビロウ・ヘゴ・チカラシバなどの亞熱帶植物が健全に成育するとありまして、上下｜阿値《あちか》の小島などにも澤山にあるさうです。貝原氏の大和本草にも、肥前平戸に蒲葵多し、對馬にてゴハと謂ふとあります。朝鮮全羅の多島海にも檳榔嶼或は蒲葵嶼と名づくる小島が二つまで地圖の上に見えますから、それより緯度の低い對馬にあるのも不思議ではありませぬ。それよりも珍しいのはゴハと云ふ名稱が飛んで此邊の島にあることです。ゴハは事によるとコバの聽き誤りかも知れませぬ。沖繩縣の諸島では、到る處蒲葵をクバと稱し、ビロウと云ふ語を知らぬのでありまして、大隅日向の南端にも、尚コバと謂ふ名詞が殘つて居ます。今の沖繩語ではオ列は悉くウ列に發音し、現に書いた物には多くコバと爲つてゐますから、勿論一つの語であります。或はがば／＼といふ葉の音から出た名稱かも知れませぬ。しかも京都の文人たちも、全然コバと云ふ語を知らなかつたわけでも無いのに、どうして又誤つたるビロウの方に移つてしまひましたか。今の若い人が英語を口にすると同樣な、輕々しい風流心にでも歸するの他はありませぬ。赤染衛門の歌の集に、人の許にコハの有るを一つ乞ふに惜みければ、出したるまゝに取りて還りて云々とあつて「盗むともこは憎くからぬことゝ知れ」と云ふ歌があります。伊勢貞丈は右の大和本草の記事を引いて、コハ即ち蒲葵である。車の飾などの用途の爲に、京都に取寄せて貯へて居たものを、一枚だけ所望したのであらうと謂つて居ます。さすれば沖繩の島言葉が、後に内地の方へ移つたものとは、愈々推定しにくゝなるのでありまして、注意して居たならば地名か何かになつて、尚内地にも痕を留めて居ることが、見出され得るかも知れませぬ。

　本土の海岸で此植物の成長するのは、現在の私の知識に於ては、紀州が北の限であります。紀伊國續風土記の物産の部に、蒲葵ビロウ、在田郡處々に産す北地には絶えて無しとあります。小野蘭山の享和二年春の日記にも、湯淺の(356)町に近い廣村の八幡宮の社地に、巨大なる蒲葵の一本を見た記事があつて、是は確かであります。和泉には何處かに此樹があるといふことが、白石手簡の中には謂つてあるが、此方は噂ばかりで、まだ實跡を得ませぬ。併し必ずしも空な話で無いことは、大昔仁�ｺ天皇の淡路島行幸の折に、御眺望に入つた阿遲摩佐の島が、是より遠からぬ海上に在つたと云ふ一事からでも認められるのです。近世に右の御製の註釋をした橘守部は斯う云ふことを書いて居ります。大阪の商人で淡路島の産と云ふ蒲葵の葉を賣つて居る者があつたので、其店に就いて問合せて見たところが、實は淡路の近傍に一島蒲葵のみを生ずる小島がある。其島から持つて來るのだが、世間の人が普く知らぬ島だから、假に淡路からと謂つて賣ると答へた。多分は其島が大昔のアヂマサの島であらうと謂つてあります。其在り所がはつきりとせぬ限り、何とも云ふことは出來ませぬが、兎に角に近い頃まで、瀬戸内海の東部に此樣な島があつたものかと思ひます。現在はもう跡形が無くても、それで此話を疑ふわけには行きませぬ。保安林の制度が定められた前、一時盛んに島の木は伐られました。名ばかりビロウ島と稱して其木の絶えた島が、既に幾つかあるのです。土佐の西南幡多郡柏島から一海里ほど沖に、地圖にもビロウ島とある岩山があります。土州淵岳志には之を蒲扇島と記し、地方《ぢかた》の人民が舟で渡つて蒲葵の葉を採り來り、笠に縫うて賣買する。地は狹くして漁民も住み得ず全島殆と他の植物が無いと謂つて居ますが、其は悉く昔の事實で、前年私の友人關口健一郎君が、行政裁判所から臨檢に往つて來ての話には、ビロウは今はもう三本しか無い。全島到る處岩菅の大きな株が繁茂し、俗にカツヲ鳥と稱する大水凪鳥が、無數に其蔭に子を育てゝ居るのを見たと云ふことでありました。同じ書物の中には此植物、土佐には此島より外に無しとありますが、それも亦信じられませぬ。現に土佐國の内陸に屬する地名にも、蒲葵と云ふところがありました。斯うして考へて行くと、ビロウ即ちコバは我々の祖先の生活と、遙かに今よりも親しかつたこと、其が次第に都近くから消えたのは、寧ろ餘りに之を賞用した爲であつて、天然は必ずしも其成長分布を妨げて居たので無く、只幾分か繁殖の條件が南の方よりは惡かつた結果、此の如く需要に追付かなくなつた迄だと云ふことが、漸く明かになるやうに思はれま(357)す。所謂檳榔毛の輿や車は、蒲葵の葉が手に入らぬ場合には、菅の葉を以て之に代へたさうであります。菅は素より京畿以北の日本に、盛んに茂つて居た水草ですから、蓑や笠には之を用ゐてよかつたのですが、それにしても笠を作ることを縫ふと謂つたのは、菅と云ふ草から始まつた語とは思はれません。伊勢の神宮の御田植の神事か何かに、必ず蒲葵の笠を着て居た例があると云ふことを、白井教授から承つたことがありますが、後にはどう變化して居るものか、尋ねて見たいと思つてまだ其儘になつて居ます。伊勢には限らず國々の社の神態には、昔は笠が大へん重要な装束の一つでありました。其笠がもと何物で縫はれてあつたかは、我々の信仰の由來を究める爲に、至つて大切なる問題であります。次には中世の流行であるにしても、車を蒲葵の葉で葺き又は飾ると云ふ風習は、つきも無く卒然として始まるべきものでありません。是にも何か今一つ前の代から、其根ざしに爲つた古い生活の法則があつたのではありますまいか。古事記の垂仁天皇御宇の條に本牟智和氣御子出雲國に到り、檳榔之長穗宮に坐すとある記事は凡そ三つの場合を想像させます。即ち當時はあの國の海にも蒲葵島があつたか。さうで無ければ大分の遠方から、此葉をたてまつらしめて、兎に角に御假宮はアヂマサを以て葺き且つ圍はれてあつたか。或は又其宮を斯く稱へるだけの別の理由、例へば菅などを以て白々と美しく清らに屋根を蔽うて、人をして永く此植物の名を記憶せしめたのか。何れにしてもこの葦原の中つ國に、久しく住み着いて後までも、コバはなほ我民族に屬した樹木であつたのであります。

　

　　　　　　　　　　四

　

　大正十二年の春、郷土研究と云ふ雜誌に、私はこの蒲葵島の話をざつと書いて、如何にして蒲葵が古くから日本の土地に分布して居たかを考へて見ようとしました。それには此木の形がいかにも南洋くさく、我邦のやうな高い緯度には似付かぬやうに思はれたことゝ、其從兄弟の棕櫚なるものが、中世以後の歸化種であるらしいことから、稍々一種の豫斷を作つて居たかも知れませぬが、兎に角に豐後水道の兩側の島々、或は朝鮮半島の一端から五島平戸甑島の(358)内側にかけての一列と、何れも略々南北線の上に連つて居るのを見て、是は春秋の渡り鳥が種子を運搬するのでは無いかと推測しました。海沿ひの地の温度濕度が特に繁殖の條件であるならば、島と相對した内陸にも有るべき筈なのに、獨り人住まぬ靜かな島だけに此物を見るのは、無心無感覺の運搬者では無いだらうと考へたのであります。殊に此推測を強めてくれたのは、天野信景の隨筆鹽尻の記事でありました。同書（帝國書院本）卷五十三にはこんな事が書いてあります。日向の海にビロウ島がある。毎年朝鮮の方から鵯千萬と無く渡り來つてビロウの實を食ふ。其後鷹曇りと稱して、何日か續いて薄雲の空を蔽ふことがある。土地の人たち鷹來るべしと謂ふに、必ず鷹多く韓地より飛び渡る云々。日向の人から聽いたらしい話で作り事とは考へられず又東部日本に於ても、椋鳥｜鶫《つぐみ》などの來る路と期日とは一定して居りまして、從つて食料などの約束も不變ですから、今まで蒲葵の無かつた遠方の島にも、いつかは此種を運んで繁茂せしめることが有つたらうと、考へて見たのであります。

　ところが久しからずして、此説の弱點は露れ始めました。先づ第一着には本多林學博士が、蒲葵の實は大きくて、とても鵯には食へないと申されました。實は最近まで、私はビロウの實は見たことが無かつたので、この專門家の横槍には頗る閉口いたし、且つはつく／”＼と書齋の學問の、しやうも無いものであることを感じました。そこで今囘の南日本の旅には、最初から團子壻のおどけ話のやうに、ビロクの實コバの實と口癖に唱へながら、島々を經廻つたのであります。さうすると第二に行き當つたことは、蒲葵の分布が兼ての想像よりも、ずつと廣かつたと云ふことであります。即ち紀州の湯淺邊にもちやんと古木の蒲葵がありました。又人の住む島にもやはり立派に成長して居ました。豐後の姫島にもあると云ふことを教へてくれた船乘りがありましたが、それは自分で見たのではありませぬ。同じ國の中浦半島、即ち鶴見崎の鼻を南へかはすと、眼の先に沖の黒島が現れ、そこにはもう此木がありました。それから下入津《しもにふづ》の村を横斷して蒲江の港に出れば、海上四里ばかりに深島と云ふ島があり、日向へ行く船は其近くを走ります。こゝには住民も二十何戸、蒲葵林の傍に小學校の分教場まであるのです。日向でも青島から南には處々に此木を見か(359)けます。油津を船で乘出すと、少し行つて築島と云ふ島は、やはり小さな部落があり、土藏の白壁に蒲葵の緑の影が搖いで、ちよつと珍らしい風情を見せて居りました。此對岸は南那珂郡市木村の山地ですが、僅かながら處々に蒲葵が生えて居るさうです。青島の如く保護せられて居らぬ爲に次第に無くなると申します。現に近頃の共進會にも根付きのまゝ出品するやうに、郡長が勸誘を受けたけれども、入費が高くつくので中止したとも聞きました。都井《とゐ》の岬の御崎神社は野生の蘇鐵を天然記念物として保存して居ますが、蒲葵はもと無かつたやうです。それを新たに築島から移植しようと試みて、思ふ通りに根を下さなかつた、半枯れの木を幾つか見ました。併し今暫くすれば、爰も一つの蒲葵の名所となるかも知れませぬ。大隅半島に入つて見ると、島で無くても蒲葵は多く、殊に神社の境内には、必ずと謂つてもよい位にあります。佐多の岬の御崎神社は、島津家で專崇せられ航海の保護神でありますが、社頭には蘇鐡よりも蒲葵が多く、其見事なる老木を以て靈境を取圍み、私が參詣した十二月晦日には、よく熟した實はあまた落ちこぼれ、又去年の實から若芽を抽き出して居ました。此社の信仰に於ては、みだりに之を採ることを禁じて居るやうであります。其代りには岬の前面に小さな一つのビロウ島があつて、土地は燈臺に屬して居ますが、村の者の葉を採ることを大目に見てゐます。年にざつと三百圓ほどの物で、下駄の鼻緒や笠などを造つて賣ると云ふ話でありました。

　私はこの九州の南の端まで往つて、漸く氣付いたことが三つありました。一つにはいくら土地の人の謂ふことでも、一から十まで其儘は信じられぬこと、殊に彼等が知らぬと云ふのを、直ちに無いとは解すべからざることです。例へば私が試みに此木の名を問ふと、ビロウと答へてコバとは謂はないと明言した者が、少し間を置いて又試みに此葉は何に使ふと聞いたら、コバ笠を作るのだと謂ひました。斯んな經驗は沖繩の方でも何度か有つた。多くの人は忘れたと云ふことを忘れて居るものであります。第二には此植物の用途が、南日本の田舍に於ても思ひの外弘くして、?々繁殖が間に合はぬらしいことであります。從つて今は少しも無い地方にも昔から蒲葵が成長しなかつたと思ふことは、誤りの斷定を導く虞があります。第三に蒲葵が我邦に固有であつたことは確かとしても、どれが野生でどれが養殖で(360)あるかの差別は、さう容易には立てられぬことであります。ちがつた言現はしをするならば、コバの樹の分布に就ては、鵯などよりも遙かに貴とく且つ靈ある者が、其運搬及び保護に參與して居たらしいことであります。此點は南の島々を巡つて、愈々之を確かめましたが、南九州の各地に於ても、今日蒲葵の存在する場處は、若干の人家邸内を除きましては、他は殆と皆神の社の地であります。佐多でも御崎神社の他に、大字郡の神社などは殊に大木の林を爲して居ます。路傍の小さき社にも一本二本が眼に着きます。他の地方で申せば、前に擧げた肥後八代の着島を始め、薩州秋目の蒲葵島も戸柱大明神と稱して祇園を祀り、六月十五日が祭日であります。日向の青島にも權現の社あり、彦火々出見尊と仰がれてゐます。殊に著しいのは大隅の志布志の沖（ノ）島です。港の石垣に凭つて眺めると、手に取るばかり鮮かに見えますが、島には蚋や蚊が多いと謂つて、稼ぎに行く者の他は常には渡つて見ませぬ。島の頂上に檳榔御前、或は飛瀧權現とも書いてある姫神の社があつて、正月申の日には行つて祭りました。天智天皇の御女乙姫宮、御母は玉依姫と傳へて居ますが、元禄の初年には瀬多尾權現の別當小野寺の相模坊、島津殿の代參として此島に祈を籠め、三略書と云ふ一卷を天狗から直傳したと云ふ話もあつて、恐ろしい神樣であります。恐らくは笠團扇の原料を採りに行く人々も、深い信心と約束とを以て、漸くのことで之を許されて居たのでありませう。社は建てゝなくとも其他の島々でも、蒲葵は只徒らに繁茂して居たのでは無いやうです。

　

　　　　　　　　　　五

　

　それから立戻つて、果して鵯が蒲葵の實を食ふかの問題でありますが、成るほど是は些しむつかしいことになります。私は處々で此實を採集し、具さに考察して見ましたが、色も形も略々食卓のオリーブ位のもので、大きさから言へば、?の實ほどですが、あれは容易に二つに割れるに反して、此方は棗などの如く、中に大きく堅い核がある。かけ離れた島まで携へるのには鳥は一旦之を嚥下せねばならぬわけですが、それは鵯には望みにくいと思ひました。併(361)しそれでも尚懲りずに、逢ふ人ごとに色々の形で此事を尋ねました。例へば磯山の中腹に或は灌木の林にまじつて、ぽつんと一本の蒲葵がある。あれは誰かゞ栽ゑたのか。いゝや生えたのぢや。併し近くに親木も無いのに、どうして種が落ちるかね。大かた鳥ぢやらう。斯う云ふ問答をしたこともあります。又或人は鴉が蘇鐵の實をくはへて飛んで行くのを見たと教へてくれました。奄美大島は本年は蘇鐵の實の收穫の年で、どこへ行つても累々として蘇鐡の林が美しく、殊に此話を何度も聞きました。鴉は黒いもの蘇鐵の實は丹色ですから至つて目につくのです。是と鵯のビロウの實と、何も關係が無いやうですが、蘇鐡の實はほゞ二錢銅貨大で、厚みがあの四倍ほどあり、蒲葵の實對鵯と大よそ同じ比例である上に、中の核の硬く大きいことも一樣です。故にもし鹽尻の記事が、日向の人のうそで無かつたら、食べる以上は外の地へも持つて行くだらうと思はれますが、只私が遙々と大海を越えて、熱帶の島からでも來るやうに想像したのは根據の無いことでありました。さうすると結論は斯うなります。蒲葵は南九州ほどの温度には本來相應せぬものゝやうに見えるが、實際は始めから日本國の木であつた。但し人の入用が多い爲に、?々根絶する虞があつたのを、幸に神の森に保存せられて居り、又或力がそれを意外の地にも運び、意外な繁殖を見ることもあつたらしい。さうして敬虔なる昔の人が、我々とは別樣な態度を以て、其事實を觀察して居たかと思ふことは、此からなほ少しく考へて見ようとするのであります。

　鹿兒島灣を船で横ぎりますと、大隅半島の西岸では大根占《おほねじめ》村の民家に、始めてよく成長した蒲葵の木が、高く聳えて居るのを見かけます。南するに從つて次第に多く、何れもよく耕された畠の畔か、さうで無ければ人の垣根の中であつて、其他は皆神地のみであります。さうして只の家でも此木の無い處では、皆其葉をほしがつて居ります。佐多から戻つて來る時に、私の荷物を背負つてくれた女なども、其序に伊座敷《いざしき》の親類を訪ねると謂つて、手土産とも言はれないビロウの葉を十枚ばかり、鞄の上へがば／＼と結はへ附けました。野生とは申してもちやうど今日の京都附近で、松蕈を保護する程度の人爲が加はつて居ます。法律が之を顧みぬ代りに神樣が世話をして下されます。不思議な(362)ことには沖繩本島に渡つても、事情は正に之と同じやうでありました。ビロウの團扇は琉球から來たと謂ひ、もしくは少なくとも其製法を彼に學んだと思ふ者が多い位だから、南だけに此木も澤山有ることゝ思つて居ますと、やはり舊家らしい人の庭に、庭木として大切に育てゝ居るものゝ外は、殆と皆御嶽の茂みの中に在るばかりで寧ろ此木を遠く望んで乃ち御嶽なることを知ると云ふ有樣でありました。奄美大島と佳計呂麻の島では、それが一層少なくなつて居ります。村の屋敷にも神社にも、探してやつと見付けると云ふ程しかありませぬ。是は此島の信仰に稍々近世の變化があつたことゝ、同時に生活の促迫が一段と切であつたことに歸しても、誤が無からうと思ひました。大島と薩摩との間に棊布して居る所謂道の島々に於ても、やはり蒲葵は今將に種を絶たんとして居るやうであります。孤島の飢饉と云ふものは、我々が想像にも及ばぬ怖ろしいもので、殊に此方面には近年野鼠の害が多く、此獣が繁殖した年は、有る限の青い物を食ひ盡さねば止まぬこと、大陸の蝗の害と似て居ります。そんな場合には人も亦爭うて野生の草木を採つて食ふのです。僅かに神の杜の森嚴を以て、盗伐を制止し得たと云ふのは寧ろ哀れであります。三國名勝圖會卷二十八に、黒島の黒尾大明神、御神體は大小の石十三。社の山には蒲葵多し。土人は神木として其落葉をも取らず。同じ島菅尾大明神、或は黒島大明神とも謂ふ。海岸に接し蒲葵多し。土人神木として伐り取ることを禁ず。昔は此木山中諸處に多かりしが、皆伐り盡して神山の外殘す所無しとあります。之に隣する竹島、俊寛を祭つて居る硫黄島、其他の沖（ノ）小島に於ても、事情は似たものゝやうに思はれます。此三國名勝圖會が出來てから、今は又百年になんなんとして居ます。假に其後の變遷に由つて、早一本も影を止めず、渡り鳥は徒らに往來するやうになつてしまつて居るとしても、私は些しも之を怪しまぬのでありますが、事實は恐らくはまだ此記事の通りでありませう。

　

　　　　　　　　　　六

　

　コバの木の分布と保存に、神が參與して御出でることを知る爲には、どうしても沖繩の島々を見てあるかなければ(363)なりませぬ。もとは異國の如く考へられた此島の神道は、實は支那からの影響は至つて尠なく、佛法はなほ以て之に對して無勢力でありました。我々が大切に思ふ大和島根の今日の信仰から、中代の政治や文學の與へた感化と變動とを除き去つて見たならば、斯うもあつたらうかと思ふ節々が、色々あの島には保存せられてあります。必要なる片端だけを列擧しますならば、先づ第一には女性ばかりが、御祭に仕へて居たことであります。家の神が一族の神となり、次第に里の神・地方の大神と、成長なされたらしきことであります。巫女を通じての神託に依つて、神の御本意と時々の御心持とを理解し、之に基づいて信心をしたことであります。神の御名は神御自らが託宣を以て之を顯したまひ、從つて割據の時世に於ては御嶽毎に各々異なる神が出現なされ、諏訪八幡の如き勸請分靈の沙汰の無かつたことであります。八百萬と申して居ながら、古事記日本書紀の神代卷に由つて、神の御名を訂正しようとするが如き、企ての無かつたことであります。、神は御祭の折のみに降りたまふものと信じて居たことであります。神を社殿の中に御住ませ申さず、大和の三輪の山と同じやうに、天然の靈域を御嶽《おたけ》として尊敬して居たことであります。

　其上に尚、神人と人神との差別が明白に有りました。すぐれた人は死して祭られて、神と同じ尊とさに上りますが、其他になほ最初から神であつた神が、人に憑いて年毎に此世に出現なされました。さうして其出現の場處を、神自らが選定なされたもの、それが即ち御嶽であるのです。現今の沖繩人は、ウタキ（御嶽）とウガン（拜所）は同じ物だと、誰に訊ねても答へますが、私はなほ疑をもつて居ります。事によると山の神又海の神が、御降り成されると云ふ考へ方が世を經て漸くうとくなり、内地と同じやうに、次第に二種の神靈を差別せぬやうになつた結果人を葬つた一個の塚、人の建てた一基の石塔をも、御嶽と呼んでもよいことに爲つたのでは無からうか。即ち前代に於ては、拜所と謂へばすべての靈場で、其内の空より降り沖より寄りたまふ神の祭場、即ち琉球神道記に所謂拜林だけを、取分けて御嶽と稱へたのでは無いかと思つて居ます。沖繩で一番大きく且つ大切な齋場《さいは》御嶽なども、域内は一町歩以上もあつて、其中には五つも六つも拜所が分れてあります。其の一々の石又は岩窟を、更にウタキとは呼び得ないものゝやうであ(364)ります。

　御嶽は必しも我々が此文字に由つて想像する如き高山の頂ではありませぬ。寧ろ多くの場合には里に接した僅かの丘、又は平地の林でありますが、隙間も無く草木が茂り、其内景は神秘であります。普通は前面の空地に石の香爐を置き、そこを拜所又は察場にして居り、林の中へは入込む徑も無いかの如く見えますが、祭の日にはノロ（祝女）カミンチュ（神人）などの婦人のみが、式法に遵うて此に出入し、神を御迎へ申して來たと謂ひますから、尚林の奧にも一定の結構があつたものと思はれます。祭に仕へる者の詞をオタカベと謂ひ、之に答へたまふ神の御詞をミセセリと申します。其中に?々繰返されたオウタモト、シキタモトと云ふ語は、即ち中央の祭壇と外側の祭壇とを意味して居るのかと考へます。宮古八重山の二主島、又は大島の二三の村に於ては、御嶽の構造が少しく沖繩の本島と異なり、外の入口に鳥居に似た門があり、普通の拜所が其内に在ります爲に、我々は稍々立入つて中の樣子を窺ひ知ることが出來ました。靈場の中央は更に又珊瑚礁の石を以て、一區を劃してあつて、之をオブと謂つて居ります。僅かの地積ながら樹木深く、極めて屈曲して細路が付いて居ます。八重山の宮良《みやら》村で、處々の御嶽を案内してくれましたのは、前盛某と云ふ最も順良な青年でありましたが、オブの中へ入らぬは勿論、其正面に立つことをさへも避けました。理由を尋ねると、只どうしてもさうする氣になれぬと、しをらしくも答へました。宮古の方では此内陣の門は、干瀬の石を斫つて造つた高さ二尺程のもので、匍はなければ入られぬやうに最初から出來て居ます。併し強ひて見ようとすれば、中の樣子は石垣越しに樹の間からでも見られるのです。學問の爲憚る所無く申すならば、其細い徑の行き止りに、何か樹木があつてそれが屡々コバでありました。樹下には形の尋常で無い海石を、置いてあることがあります。正面僅かばかりの地には、清淨の砂が布いてありまして、其上にマガリと謂ふ素朴な土器を置き、或は二尺もある※［王＋車］※［王＋渠］《しゃこ》の貝が、仰向けにしてあることがあり、さうして又香爐があります。香爐の一點を除けば、他は悉くコドリングトンの、メラネシヤ誌などに在る寫眞などと同じ光景でありました。

　

(365)　　　　　　　　　　七

　

　沖繩本島の神の林の奧に於ても、蒲葵は亦往々にして、先島同樣の重要な地位を、占めて居たのでは無かつたか。是が私の今抱いて居る想像であります。其想像を強めしめる材料は、第一には御嶽の名であります。單にコバ森コバの嶽と呼ぶものは、恰も蒲葵あつて蒲葵島と謂ふに同じく、在來の地名に依つたものとも思はれますが、それにも久高島のコバウの森のやうに神がコバの種を蒔かしめたまひし口碑のあるものがあります。眞壁のコバ森の神にコバウの御イベ、西原間切｜翁長《をなが》のコバの嶽にコバツサカリノ御イベを祭るの類は、決して偶然の名とは見られませぬ。｜兼城《カネグスク》の安波根《あばこん》にはコバモトの嶽、宜野灣《ぎのわん》の安仁屋《あにや》にはコバツクリヨリアゲ森があります。淘り揚げと云ふ御嶽は多く渚に臨んだ靈地で、海がもたらしたる奇瑞の石を、齋くものかと思はれます。常に前兆と啓示とに基づいて、祭典を經營した民族に在つては、稍々普通で無い樹と石との行動は、すべて皆神の言語として受容れられたのです。數あるコバウ嶽の中でも、山北｜今歸仁《なきじん》のコバウの嶽は、殊に神山でありました。昔｜君眞物《きみまもの》の出現せんとする時には謝名のアフリノハナ（天降岬）に赤日傘が立てば、此御嶽には黄なる日傘が、彼に黄色なるものが立てば、此御嶽には赤いのが立つたと傳へて居ります。其日傘と云ふものも、紙の無い時代には、必ず亦コバの葉であつたらうと思はれます。

　次に見逃すことの出來ぬのは、嶽々の神の御名であります。康煕五十二年即ち日本の正�ｺ三年に、王命を奉じて編纂した琉球國由來記には、傳ふる限りの御嶽の神名を録してありまして其十八年後に成つた琉球國記附録は、之を不精確に漢字に書改めたものです。もと御嶽の神は村々の巫女が顯しまつりしもので、次の託言を以て改められるまで、敬虔に最初の御名を守り傳へた筈ですから、地方的に變化をして居てもよいのですが、事實は里を隔てゝ相似たる御名の神が多く、略々之を六七種に分類することが出來ます。中に就て最も多いのは蒲葵に因む神名であつて、六百足らずの御嶽に在つて、八十ばかりがそれであります。殊にコバツカサノ御イベとあるのが、又其大部分を占めて居り(366)ます。イベは琉球の神道に於て、最も概念を得にくい古語であります。或は我々の諱といふものと語原を同じくし、即ち叨りに口にすべからざることを意味するかとも思ひますが、八重山諸島では御嶽毎に、必ず神の名と威部《いべ》の名と、二つづゝ有るのが不思議です。ツカサは略々我々の用ゐ方と同じで、高い位置を謂ふらしく、今も巫女のことをさう呼ぶ地方があります。

　コバノツカサと對立して、次に多い神の御名は、イシラコ及びマシラコの御威部であります。是は石に依りたまふ御神かと思はれます。浪と嵐の次の朝などに、ゆくりなく海の岸に見出した石體に由つて、神々の御出現を知つたと云ふ例は、大倭の舊記にも幾つか有りますが、沖繩ではそれがまだ現在の信仰の一部を爲して居ます。多くの靈石は今なほ神の御座であります。神の御名之に基づくものとしますれば、コバツカサの方の由來も推し測ることが出來るのです。神が二柱ある場合には、他の一座をマネツカサの御威部と稱へ、具志川間切宇堅村のコバウの嶽同じく宮里村のコバノカタ嶽、勝連間切濱比嘉村の久場島の御嶽の如きは、共に一つある神をマネツカサノオイベと唱へてゐます。マネは眞根であつて、コバの同事異稱かとも思ひますが伊波君などは明白に、それはコバによく似たクロツグと云ふ植物だと申されます。

　御嶽成立に關する古い傳承の中からも、蒲葵の繁茂が神意に由ると解せられた痕跡を、見出すことが困難でありません。例へは南風原間切宮平村の善繩《よくつな》御嶽の如きは、もと善繩大屋子と云ふ人の屋敷でありました。此人或日我謝の海邊に出でて魚捕る柵《かき》を見廻る時、一つの龜を見付けた。そこに一人の女性現れ來つて、龜を大屋子の背に負はせ、家に持ち還らしめたところ龜途中に於て大屋子の首に?み付き、其傷に由つて大屋子は死んだ。葬送の後三日にして其墓所に往つて見ると、大屋子の亡骸が無い。之を不思議と驚いて居ますと、乃ち空中に聲あつて大屋子は死んだのでは無い、ギライカナイに參つたのだと呼ばはります。神託ならんと思つて居るうちに、忽ちにして彼の屋敷に薄マネコバ生ひ立つに由りて、御嶽として祭つたと申します。ギライカナイは又ニライカナイとも謂ひまして、海のあな(367)た天の外の、神々の御住國であります。沖繩人の Valhalla であります。此薄マネコバを琉球國舊記の文には、薄草及野葡萄と漢譯して居りますが、どうしても信ずることは出來ませぬ。

　それよりも今一層適切な例は、久高島に於ける穀物起源の傳説であります。昔此島の根人《ねびと》アナゴの子なる者、伊敷の泊に出でて海原を眺めて居ると、白い壺が一つ濱近く浮び寄る。取揚げんとすれども取られず、そこで家に歸つて妻のアナゴの姥に事の由を語れば、女房は行水して身を清め、白いきものを着て濱に出で、袖をひろげて迎へると、壺はたやすく流れ寄つて、其袖にすくはれました。家に還つて之を開いて見れば、中には麥粟黍遍豆の種の外に、尚コバとアサカシキヨとの種子が入つて居ました。此等の種を處々に播いて、生ひ立つたのを見ると食べ物でありました。コバとアサカシキヨとは二三年してから生えました。人に踏ませぬやうに大切にして居るうち、コバは高く秀でアサカシキヨは茂り、其頃君眞物出現してたび／＼此山に託遊なされた。誠に神遊の處と見えたり、念願を祈りければ驗あり、それより御嶽と崇め始むとあります。神秘の壺も之を土中に埋め、石を積み廻らして後々までありました。之を掘り出さうとして病を得、死んだ者もあつたと申します。由來記には之を久高島の二つの御嶽、中森とコバウの森との由來として載録して居るのでありますが、どちらが白い壺の中の種から始まつた森であるか、甚だ精確でありませぬ。只コバウの森の條下に、此森阿麻美久作りたまふと也とあるだけであります。アサカシキヨは草の名でありますが、和語の何に當るか、説明してくれる人がありませんでした。只所謂森の下草として、隙間も無く茂つて居ると云ふことを謂つた人があります。

　阿麻美久は此島最初の御神としてあります。久高の靈地と相對する知念の齋場御嶽、玉城｜百名《ひやくな》村の藪薩《やぶさつ》の嶽、それから北では今歸仁の城内上の嶽の如き、何れも阿麻美久の作りたまふと云ふ口碑がありますが、是は單に起源が極端に古いと云ふを意味するの他は無かつたかも知れませぬ。しかも八重山の島などでは、今日尚神が蒲葵の實を播きたまふことを、信じて居る者があるらしいのです。此島々の多くの御嶽は、四百年前の征服の時既に儼然として在つた(368)のですが、征服者側の記録のみ傳はつて、其由來がはつきりと致しません。石垣の里に近いクバントオーン（コバ本御嶽）の如きは由來記にも其名が見えず、又近年まであつたコバの木も枯れてしまひました。登野城《とのぐすく》の宮鳥御嶽は、由緒最も尊き豐見タトライの大神でありますが、今は後の山が小學校になつて、嶽の茂りの中に生徒の近路が生じて居ます。此嶽のオブでは、蒲葵を神木としてありました。後に此神に仕へるツカサの老女に逢つて、色々として此木の理由を尋ねましたが、僅かに知り得たことはコバは樹が高いから、神樣は之に由つて登り降りをなされると云ふことゝ、神は御降りになる場合に、自らコバの木を御立てなされると云ふことだけでありました。この「宮鳥」が何鳥であつたかは、知りもすまいし語ることも出來まいと思つて私はもう其以上を問ひませんでした。

　

　　　　　　　　　　八

　

　誠に閑人の所業のやうに見えますが、此の如く永たらしく、コバと我民族との親しみを説きますのも、畢竟はこの唯一つの點を以て、もと我々が南から來たと云ふことを、立證することが出來はしまいかと思ふからであります。勿論斷定は致しませぬ。私の攻究方法に缺點が有るならば、御注意に由つて先づ之を改良し、次には又此問題に必要なる知識を追加することに、御助勢を請ひたいのであります。地球の表面に於て、日本及び其諸島が占めて居る緯度經度、山の高さと在りどころ、島々の形と大きさ、島と島との互の遠さ、よく吹く風とよく降る雨との季節、其他萬殻の天然事實は、それこそ無二亦無三のものでありまして、しかもそれが我々の歴史を決し、運命を動かして居たのであります。如何なる國の學者に追隨しても、此點に關して模倣し得べき研究はまだ無かつたわけであります。自ら新たに考へて見なければならぬことが多いのです。さうして蒲葵も亦一つの着眼點であります。

　囘歸線北の太平洋では、波濤は無始の昔から高かつた。小舟の航路は常に艱苦を以て充されてあつた。從つて第二の移住者の來り侵すことは間遠であり、初めの文化、初めの生活樣式は保存せられましたが、其代りには島から出て(369)行く者も、頻々として海上に死し、人は別れることを死と同じく怖れて、終に徒らに小島の中に居るあまり、其末は自ら拯ふ爲に闘ひ又は殺戮するの必要を見ました。復讎は一種の經濟組織とさへなつて居ました。島が小さければ小さいほど、此苦惱は更に甚しかつたやうでありまして、先島二郡に屬する大小の島では、神代史として傳はつて居る物語は、其大部分が兇暴と武勇との交錯でありました。しかうして彼等の神々は、正に其間へ御降りになつたのであります。同胞の中の最も弱く且つやさしい者、即ち勇士たちの若い妹が、毎にオナリと稱して神に召され、神の御心を群衆に傳へる習でありましておのづから信仰の助に依つて、權力が稍々久しく一つの家門に止まつて居るやうになりました。家の優越はやがて又家の神の優越であり、一郷一島の祭祀は、此の如くにして次第に統一せられて來たのでありますが、御嶽の神話が年代の霞を隔てゝ眺められる頃になりますと、家は衰へ滅びても神のみは永く光り耀き、土地を守り萬人の祈願を御容れなされて、終には内外の境も無くなること、恰も我々の國魂郡魂の神々が、天朝の幣帛に參與し得たのと、同じ傾向を具へて居たのであります。只漫々たる海洋は、永く特殊の制限でありました爲に、地方の神を奉じて遠く從つて行くことが、此方面の人々には出來なかつたのみであります。人が住む以上は如何なる小さい島でも、おの／＼其島限りの歴史をもつて居るのは、この理由からでありまして、島限りの神代がこの歴史に導かれて、現世に入込んで來た時代にも、誠に著しい遲速があつたのですが、しかもその所謂黎明期の横雲の下にそよいで居たものは、常にコバの廣葉でありました。

　但し我々のなほ訝かしく思ふことは、三十六島の大昔に於ても、或は大隅の島津の沖、又は日向の青島などの如く、全山此木を以て蔽はれたコバ島があつたのか。但しは又何ぞの理由を以て、最初から今のやうに、コバは乏しい樹であつたのかと云ふ點であります。之に就て先づ考へて見るべきは、此木を食料とする風習であります。與那國の人の話に依れば、あの島では今も雌コバの若芽は食べるさうであります。又コバの實も鳥ばかりで無く、人が之をゆでて食べると申します。イリキヤアマリの大神の手から、八重山人等が賜はつた糧の中には、既に此物が有つたので、久(370)高の開闢の玉の壺に、穀類と共にコバの種を入れ置かれたのも、同じ御趣意からでは無かつたか。一旦食用にして居た植物を、後に他の品に見かへた事情は想像に難くありませぬ。コヽ椰子の若芽なども、此上無く結構であることは、熱帶の島人がよく記憶して居りますが、もう之を食物に利用することは敢てしませぬ。若芽を盛んに食へばコバは早く盡きます故に、寧ろ次第に年々の作物に、向つて行つたものと考へられます。コバの實に至つてはどう考へても、さほど旨からうとは思はれませんが、若芽の方は詳しく與那國の人に尋ねて見た上で無いと、果して或學者の推測する如く、アヂマサと云ふ古語の起原が、其味はひから出たものであるかどうかを、決することが出來ぬのであります。

　

　　　　　　　　　　九

　

　沖繩本島では國頭の多くの村に於て、大折目《おほをりめ》と云ふ祭の日に、百姓はコバ餅を造つて之を神アシアゲの神に供へます。其數を七十本百本と算へるのは、多分我々の茅卷笹卷と同じく、此葉を以て餅を包んだものと思はれ、是も亦一つのコバの用途であります。島尻地方に於ても、舊十二月八日の鬼餅は、サンニンの葉でも包みますが、又蒲葵をも用ゐる習でありまして、其前日には村々に於て、多くのコバの葉をかついであるく者を見かけました。鬼餅は鬼を退治た古い嘉例に遵ふと謂ひますが、此日尚蒲葵を以て鬼の形を造り、之を門戸に懸けて邪魔を攘ふと、琉球國記の附卷にあるのは、是がやはりコバの葉の一つの用途であつたことゝ思はれます。

　蒲葵が棕櫚とちがつて葉の間の連なつて居ることは、又水を汲む者の大なる助けでありました。先島では今も此葉を曲げ綴ぢて、葉柄に繩を附け、釣瓶の代用にしてをります。其形は南洋の鸚鵡貝の如く、やゝ平めなる圓い袋です。島では井戸をカハと謂ひ、オリカハとツリカハとの二種があります。ツリカハは掘井戸のことで勿論此器の用があり、オリカハは横井戸で坂路を地下に下りて汲むのですが、?々水が深くして此釣瓶を使ふ必要があります。竹も少なく桶の材料も無い島では、コバより他には水を汲む方法がありません。此頃ブリキ板を以て釣瓶を作るやうになりまし(371)たが、永年の習から、其形が今なほコバで造るものと同じです。注意して使ふと七日十日は、一つの葉で製したものが用ゐられるので、多くの家では金屬の釣瓶は買ひませぬ。

　第四の用途としては船の帆がありました。今では用ゐる人が少ないので編み方を知りませぬが、布の至つて貴とかつた時代が、島々には永く續き、しかも小舟を走らしむる必要は常にあつたのです。昔多くのコバの葉を積んで、支那に貢物としたと云ふ傳へは信じ難くとも、此を帆にして福州あたりの港までも、通はんとしたものは多かつたのです。船出に先だつ祭と祈?とは、何よりも嚴肅であつて、しかも風の心は?々測り難かつたのです。神の御許しを得て神山のコバの枝を採り、此に一半の平安の望みを托したことも、無かつたとは謂はれませぬ。

　同じく神風のかしこさを仰いだものに、又コバの葉の扇がありました。大和山城のおほやけに於ても、久しい年代を經て扇の料に、此葉を求められたのでありまして、單に後世の形式の變化のみに由つて、之を南島の慣習を學んだ風流の好みと見ることは出來ぬのであります。コバの葉は先づ天然の形が、其儘に扇でありました。之を手草に採つて打揮ふときは、則ち涼しい風を感ずることを得たのですから、製作の要は無かつた筈であります。さうして巫祝の輩はよく之を手に持ちました。例へば尚眞大王の差遣した兵船が、遠く石垣の島に赤蜂本瓦を討伐したときにも、數十の巫女が各々枝葉を手にして濱に下り、天に號び地に呼はつたと傳へられます。是は多分今も平民のツカサに由つて拜祀せられる宮鳥の御嶽、若くはクバントオーン即ち蒲葵樹下の靈地から、攀ぢ折り來つたる神の枝であつたらうと思ひます。併し此葉を扇に製したのも新しいことでは無く、それが又信仰に基づいた儀式でありました。由來記の佐敷間切の條に稻穗祭三日｜崇《たかべ》の次の日、間切中の巫々《のろ／＼》、其の掌る所の嶽々へ五水《ごすゐ》一對づゝ之を供へ、タカベ仕り、扇コバ取申す也とあるのを見ますと、其扇が、尋常の家の道具に用ゐられたので無いことが察せられます。最近に群島南端の波照間島に渡つて、七月十日の穗利《ほうり》祭を見て來た者の話では、各村の御嶽の前で二人の神女が新藁の鉢卷をし純白の神衣をはおつて、蒲葵の葉で作つた團扇を以て、神を招き下す作法を行つたと申します。大倭の中古の修驗者(372)が、所謂??扇で護摩の火を扇いだのも、さては又最も尊とき大君の日々の御食物を、此葉を以て扇ぎさましたと申すのも、すべてさう無ければならぬ理由のあることが分りまして、從つて大隅の佐多や志布志の扇造りの業も、由來する所極めて古いこと、更に窮北渤海國の國王に、所謂十枚の檳榔扇を下し賜はつた御趣旨も、單簡ではなかつたことが窺はれるのであります。

　コバ蓑とコバの笠も、やはり亦此葉で無ければならぬ仔細が、有つたやうに考へられます。八重山郡の島々で、或はニイル人と稱して、一年に一度の節日に、ニライカナイの常世から、人の世界を見舞ひたまふ神があります。我々の眼から見れば、それは正しく村内の二人の青年でありますが、彼等がこの蒲葵の葉を以て身を取装うて來るときは、村の者は乃ち之を神として迎へました。或部落ではニイル人の代りにマヤの神と稱する二柱の神が、家々を巡つてあるかれます。マヤの神も深いコバの葉の笠を被り、蓑を着てあるくのが定まりであります。北は奄美の諸島に於ても、昔は鈴のやうな形の笠に顔を隱し、助けの手ばかりを窓からさし入れて、百姓を憐れみたまひし神があつたと語り傳へて居りますのが、多分同じ慣習の記憶であり尚やまとの島々の正月十五日の夜に、ホト／＼又はカセトリなどと名づけて、顔を包んで餅を貰ひに來る遊戯も元は一つであつたらうかと思ひます。何れにしても祭に携はる者の蓑笠は、決して南の島ばかりの奇風俗では無かつたので、恐くは「月笠着る、八幡種播く、いで我等は」と高く唱へて神を送つて來た時代よりも以前から、近くは我々の田舍の盆の月夜に至るまで、神に代つて踊り又は舞ふ者の、必ず隱れ笠に由つて現世と遮斷し、先づ我が心靈を淨く且つ高くせんとした、素朴な信仰の原の形であるやうに思はれます。内地の御社の諸神體の中にも、往々にして笠を召した馬上の御姿を拜しますのは、即ち御一物《おひとつもの》などと稱へて祭の日の行列に、依坐《よりまし》の童兒に面ざしの隱れる迄、まぶかく笠を被らしめる習はしに由つて、説明することが出來ますが、久高伊平屋の島々に於ても、ニライ神ガナシ或はアマミヤ神ガナシと謂つて、遠い常世の國から船を漕ぎつゝ、祭を享けに現れたまふ大神がありまして、其御姿が亦色々の點に於て、是とよく似て居りました。素よりノロと稱する人間の(373)女性が、假に神を装うて出るのではありますが、信仰厚き者の笠の内の心持は、扮すると謂ふよりも寧ろ成ると謂ふ方が當つて居たやうでありまして、此の如き精神作用には亦コバの葉の力が多いのであります。

　それから今一歩を進めて考へて見ますと、昔國頭三座の靈山の頂上に、君眞物新たに出現したまはんとする年の八九月に、赤又は黄色の大きな涼傘《ひがさ》が、必ず立つたと云ふ言傳へは、是亦コバの葉の被り笠と、關係が有つたらしうございます。涼傘は尚巴志王の治世に始まると、琉球國舊記にはありますが、それは支那からの輸入であつて、之を島内に製したのは康煕五年、即ち日本の寛文六年を以て始とし、紙を漉く技術は更に二十年おくれて、薩摩の方から學んだとあります。即ち所謂キミテスリの信仰が、寧ろ　　　稍々衰へてから後に、今見るやうな大傘は行はれたので、以前久しく島の人が仰ぎ望んで居たものは、必ず此物では無いのであります。袋中和尚の神道記は、慶長初年の記録ですが、此には只國頭の深山にアヲリと云ふもの現る、其山をアヲリ嶽と謂ふ。五色鮮潔にして種々莊嚴せり、大さ一山を覆ひ盡すとありまして、赤黄の傘とは無いのです。アヲリは疑も無く我々のアモリであつて、神の天降る豫想なるが故に、後は嶽の名ともなつたものでせう。其出現は只の一日だけで、之を見た村では飛脚を馳せて首里の王廷に報告します。其十月には神乃ち現れ來り、宮殿の前なる庭に於て、託女群臣と共に鼓を撃ち歌ひ舞ふとあります。其折には三十本餘の涼傘を列ね立てました。最も大なるものは高七八丈、輪の徑十尋餘とありますが、これも亦蒲葵の葉を以て張つたのでは無いかと思ひます。或はそれには紙を用ゐるやうに早くなつたとしても、少くとも山北の三つの御嶽に於ては古い世からのコバの葉であつたらうと思ふのは、單にコバウ御嶽の名に由つて、推測するのみではありませぬ。君眞物は六年に一度、もしくは十年を隔てゝ降りたまふ神もありました。神が託女の手を假りて、兼て人知れず影向の地を選定することは自然であるに反して、斯る邊土に新式の大傘を用意することは、紙を輸入したやうな時代には想像することが難き故に、是も亦山中に生長する靈木の葉を材料として神即ち神の人が、豫め結構したもので無いかと思ふのであります。

　

(374）　　　　　　　　　　一〇

　

　沖繩では世の始りのことを、クバヌフアユー（蒲葵の葉世）と申すさうであります。其世には衣服と云ふものが無く、男も女もコバで作つた蓑やうのものを腰に纏うて居たと傳へられます。近世まで用ゐられて居た、ナヽフイジャカヽン（七襞襲袴）は、襞の極めて多い麻の裳でありますが、佐喜眞君などは之をクバの腰卷の遺制だと認めて居ます。今でも生れ兒に名を附ける時だけは、老女が此袴を頭に載せて出る習であるさうです。コバの葉の世代には衣類ばかりで無く住居にもコバが多く用ゐられたかと思ひます。今でも久高の島などでは、イザイ法と稱して、女性に最も大切な神祭の式に先だち、前五日の物忌をする爲に、家族の者と嚴重な隔離をしますが、其時に彼等の入つて住む小屋は必ず蒲葵を以て葺くと申します。此例はまだ外にも有らうと思つて居ます。

　兎に角に南海の島に於ては、蒲葵を清く且つめでたいものとした考へが、却つて　　　稍々其繁殖を制限したと云ふことは、略々斷定してもよいやうであります。私が見てあるいた限りに於て、コバの林を爲した地が何處にも無かつたことは、如何にしても島最初の天然の儘とは考へられませぬ。那覇の港の色町などに於て、今ももてはやされて居る鳩間節は、特にコバの林の美しさを歌つて居る爲に、永く我々の耳に殘りますが、其鳩間は遠い八重山の小島であつて、最も世離れた寂しい村でありました。

　　　鳩間中むり（中岡）ぱり（走り）ぬぶり（登り）

　　　くばぬ（蒲葵の）下におありぬぶり

　　　かいしや（美しや）むい（生ひ）たるむりぬくば

　　　ちゆらさ（清らさ）ちり（列り）たるちゞぬ（頂の）くば

　　　まんがぱいばた（南端）見わたせば

(375)　　　濱ぬ見るすやくらぬ（小浦の）濱

　斯う云ふ章句を以て其歌は始まつて居ります。此等の島の同胞と我々が袂を別つ以前、コバの清らさと美しさは、既に共通に感じられて居たものと見てよいのは、コバ無き國に移り住んで何世紀を經た後世まで、あらゆる便宜に由つて遠く其葉を求め、之を愛用した貴人の多かつたことが一つの證據であります。更に他の方面から説くならば、爰に一夕私が諸君と相會して、斯うしてコバの歴史を語ることを許されたのも、やがて又我民族が、永く此植物と親しかつた結果だと見ることが出來るのであります。

　私が此前日向の青島を訪ひましたのは、明治四十一年の七月中頃の事でありました。當時の東宮樣は船で、此島へも御立寄りになりましたので、青島神社の背後、大海に面した東の岸に七八本の蒲葵の木を伐つて平地を作り、蒲葵を柱とし屋根とした、御休息の四阿屋が建てられてありました。島の永遠の眉目として、此樹は惜むに足らぬのみならず、尚考へて見れば大昔、出雲國の或海邊に、旅の皇子の爲に結構せられた檳榔の長穗宮と云ふのも、遙かな年代を隔てゝ、相似たる國人の心づくしを語るものゝ如く思はれ、且は民風の久しく傳はること、斯くばかりであるかと驚いたのであります。都の風流の一つに數へられた所謂檳槨毛の車なども後には赤色の簾に錦の縁、下簾は蘇芳の末濃《すそご》にして帖《たゝみ》は繧※［糸＋間］縁《うんげんべり》、榻《しゞ》に金銅の金物と云ふやうな花やかなる装飾を以て、淡白なるコバの葉の光りが潤色せられたと謂ひますが、古く其起原を想像すれば、是も野山の春秋の遊びなどに、暫しは假宿りの素朴なる情趣を、味はうとした人の好みに出でたこと、恰も尾花苅り葺く御射山《みさやま》の故事が、繪にも歌にも永く傳はつたのと、同じやうな心理からでは無いかと思ひます。果してさうだとすれば是も亦、神に學んだと謂つてもよい位の、年久しい生活樣式の一つであります。

　所謂天然記念物の保存事業には、記念の趣旨のはつきりせぬものも折々有ります。日向の青島では土地の人は彦火火出見尊の沖津島鴨着島は爰だと謂つて居ります。或は又島は悉くヘゴの根を組んだ浮島であつて、即ち鹽土翁の目(376)無籠と謂つたのは、是のことであるとも申します。それは何れにしても、少しく島の樹の年代を、新しく推定し過ぎたかの感があります。但し天然は黙して終に語らず、人は之に對して餘りに物を考へる日が短い故に、忘れ／＼て後には記念の道までを誤るのであります。殊に我々の旅行は渡り鳥の如く規則正しく、之を繰返すことが出來ませぬ。私なども漸く十二年餘の月日を經て、なほ一度だけは此島の、冬の緑に面することを得たのですが、それは唯大海の神秘が、　　　愈々漂渺として測り知るべからざることを、今更の如く感ぜしめたばかりでありました。

　

　　　あぢまさの蔭うつくしき青島を波たちかへり又見つるかも

　

(377)　　　　　附記

　

一、書物のこと　南方研究に關する文獻は相應に豐富であるが、手に入り難い古寫本などを參考書として竝べるのも無用である。近年の刊行書も數多い中に、興味ある讀物としても、又研究の出發點としても、第一に擧げねばならぬのは、伊波普猷君の「古琉球」である。近年其三版が東京で出た。同君の著には又「古琉球の政治」・「沖繩女性史」・「おもろ選釋」などがある。眞境名安興君との共著「琉球の五偉人」も近代の島生活を語つて居る。眞境名氏と島谷龍治氏との共同事業たる「沖繩一千年史」は、親切周到なる編述で、少なくとも最近迄の學問の成績を纏めて居る。部分的の新研究としては、島出身の篤學者佐喜眞興英君の「南島説話」と、「シマの話」とを推薦する。後者は古來の村共産制の實例を詳述したもので、新發見に富んで居る。宮良當壯君の「沖繩の人形芝居」は中世移住民の痕跡を髣髴せしめる。

　地誌的の勞作には、既に島尻郡誌ありと聞くが見たことが無い。島袋源一郎氏の「國頭郡誌」は、精細なる編輯であるが、惜しい哉初版は頒ち盡し、二版がまだ出ない。大島には坂口�ｺ太郎氏の奄美大島史がある。是も多くの文獻を渉獵した苦心の編纂である。さうして珍しく色々の題目を提出する。先島方面には比嘉�ｺ君の「先島の研究」はあるが、至つて不完全なものである。之に比すれば八重山の在住者岩崎卓爾翁の「ひるぎの一葉」は、遙かに大なる功勞がある。是も殘念なことには久しく絶版になつて居るが、必ず増補再刊せらるべきものである。八重山では又島の學徒、喜舍場永※［王＋旬］君の「八重山民謠誌」が最近出た。言語と社會制度とを研究する者にも、興味多き參考書である。宮古に關しては二三の有意義なる著述が計畫せられて居るのみで、現在は尚甚だしく寂寞である。内地人の巡遊記の類には、まだ自分の知らぬものが多さうだ。菊地幽芳横山健堂二君の著は、既に非常に有名であつて紹介の必要も無(378)いが、それよりも以前のもので、大なる影響を我々に與へたものには、弘前の人で後に大島の島司になつた笹森儀助氏の「南島探險」がある。明治二十六七年の交には、實際島の旅行は探險であり、從つて旅人の感想記には色々の興味がある。しかし此本はもう求めることが容易で無い。近年になつても宮島・田邊・八田・伊東などの各方面の學者が、研究旅行をして居るのだが、その見聞記はまだ本の形を以て發表せられて居らぬ。これ等も次第に保存の方法を講じたいと思ふ。なほ最近の事業としては、本山桂川君の「南島情趣」と「與那國島圖誌」とが今將に出ようとして居る。

二、旅行のこと　海南小記の二十九章は、地圖の順序であつて、自分の旅行の順序では無かつた。故に參考の爲にごく簡略に、旅の經過を録して置きたいと思ふ。自分は大正九年十二月十九日の朝、大分から臼杵に來て、汽車と別れて以來、半分は汽船や小舟を利用して、次第に九州の東岸を、都井岬の突端まで下つた。それから十二年前の舊路を自動車で走つて大隅を横斷し、一旦は灣を渡つて鹿兒島に出て見たが、暮の町の混雜を避けて、沖繩行きの船を待つ間、再び引返して大隅の南端を究めたのである。一月四日には南航の船が出た。翌日は大島名瀬に寄るのだが、此時は町を見物したゞけで永く留まらなかつた。那覇では人と逢ひ書物を見る日などが多くて、澤山の旅行は出來なかつたが、それでも二週間ほどの滯在中に、島袋源一郎君に援助せられて國頭の山に入つて見た。今歸仁の諸喜田と、大宜味間切の鹽屋浦と、久志の瀬嵩とに各一泊して、草鞋もはきクリ舟も試みた。其他は只首里附近の村の一日の逍遥だけで、東西の離れには渡つて見ることが出來なかつた。一月二十日には先島行の船が出た。これもあわたゞしい旅で、宮古には往返を合せ一晝夜しか居なかつた故に、川滿與那覇の方面の二三の村を、馬で通つて見たのみであつた。多羅間は船の都合で干瀬の外まで往つて見た。水納の島も沖から眺めたのみであつた。八重山の石垣島にはそれでも五日居た。同じ汽船の基隆から引返すものに乘らうとした爲に、他の小島へは行く時間が無く、今に殘念に思ふがそれでも南海岸の村々と御嶽のみは訪れた。二月の二日かに宮古を經て那覇には還つて來た。それからの一週間は主と(379)して日返りの田舍を一人であるき、或日は齋場御嶽に詣でて久高を望み、知念小學校の新垣孫一君から其島の話を聽いた。九日にはいよ／＼沖繩を辭して、名瀬まで來て上陸した。こゝでも見物したのは瀬戸の南北の二島だけであつたが、山を行き海を越え、大小さま／”＼の船にのつて、苦しい且つ變化ある數日を過して、次の船で鹿兒島に歸着し、又鐵道の厄介になつたのである。新聞に出した觀察記を少しなりとも紀行風にしようとした爲に、却つて印象も知識も前後し錯綜して、一度あの邊を旅した人で無いと、はつきりとどの邊の話をして居るのかゞわからぬことになつたのは、不本意なことである。そのうちに簡單な案内記を誰かに書いて貰ひたいと思つて居る。

　

(381)　　　島の人生

　

(383)　　　　　自序

　

　美濃の東南部の山村をあるいてゐた際に、島内安全といふ文字を彫刻した路傍の立石を見たことがある。島はあの邊では民居の集合、今の言葉でいふ部落又は大字のことらしい。丹波の由良川の流域でも、島の字の附く地名の多いことが、たしか丹波志の中に注意してあつた。上野と武藏の境上、是も海からはずつと入込んだ利根川沿岸の低地部にも、地圖を見て行くと何島といふ類の村の名が、かなり數多く眼に着くやうである。以前は水の底だつたのが、流れが變つて耕地になつたからと、あたりの人たちは解して居るらしく、現に大宮近傍の古沼跡などでは、少し高みになつた肥沃なる畠を、一般にもシマとも呼んで居る。一々實地に當つて見たら、必ずしもすべてが水から取上げたものとは言はれぬであらうし、假にさうだとしても、今日普通に島と謂つて居る言葉の意味とは一致しない。つまりは大昔、我々のシマといふ日本語に、漢字の島を宛てたのが當らなかつたのである。佐喜眞興英君の「シマの話」にすでに説いたやうに、西南諸島でもシマは昔から島のことでは無かつた。島には別にハナレといふ語があり、又強ひてリトウ（離島）といふ新語も此頃は用ゐられて居る。僅か傳はつた中古以來の文獻を見渡しても、シマは一つ／＼の邑落の事であり、人が久しく生活を共にした特定の民家群のことであつた。それがたま／＼或小さな離島に孤存する故に、島の字を宛てゝも通用する場合が多かつただけである。故郷を根の島といひ又根國と呼んだ例は、おもろ草紙の歌謠にも稀でない。村里が連なり接してゐるやうなやゝ大きな島の中でも、人が一生を終つてあの世に赴くときには、島見又島別れの儀式があり、その島といふのは必ずワシマ、即ち一家同輩と共に暮して居ためい／＼のシマのことであつた。永い間の混用によつて、二つの語のけぢめが今は不明に歸して居る。

(384)　たつた一つの簡單な言葉だけれども、私などは是が島の人生の探求に對して、何か幽かな手引を供與するやうに感じて居る。假に構造の是に近い一語が、活きてまだどこかの片隅に、殘つて居ることまでは望めなくとも、少なくとも最初至つて小さな島に、そこを一つのシマとして住み始めた人々がこの言葉の使用者であつただけはわかる。私たちの是によつて想像し得ることは二つ、一つは彼等が單なる漂着者では無くて、ちやんと女房子を連れた、計畫ある移住者であつたといふことである。いはゆる先住民がもしも居たならば、仲よくしたにせよ闘つたにせよ、島と我村とをたつた一つのシマといふ語で、呼び得た筈は無いからである。ところが日本人の先祖は寒い大陸の曠野から渡つて來たと、信じたがつて居た人たちは、少しでも人類繁殖の原理を考へて見ようとしなかつたのみか、稻はどうして作るかとでも問はうものなら、すぐに先住民を持ち出して、起原の説明をたゞ少し延期しようとするのである。人は太古から互ひに征服し誅求せねばならぬほどに、充溢しては居なかつたと私は思つて居る。さうして稻と日本人との關係は、今少し深いものだつたといふことが、證明し得られるやうにも思つて居る。

　第二の想像はシマの土、そこに根をさし年を經るといふ因縁が、いはゆる土着の當時から、始まつて居たらうといふことである。海から渡つて來た者だから海の稼ぎだけで、活きて居たらうと思ふのは粗相な話で、シャアでもカネリでも又其以前の海部でも、寧ろ農作の盛んな土地の隣へ、交易の豫定を以て來て住んで居る。魚で命を繋ぐ獺や海狸のやうな民族で無い限り、自ら耕さずには永く孤島には留まり得なかつた。どこが最初の島だつたかは決し難いが、ともかくも我々の遠祖は穀物の種を携へて、之に適する水土を求めて居たのである。稻がその品目の主要なる一つであつたか否かは、又一つの問題にはなるであらうが、是が島々の信仰生活に、深い關係をもつことを知るならば、多分はもう疑ふわけには行くまい。偶然なる中途の供給は、島であるだけに愈々想像しにくゝ、しかも他の一方に、かつて計畫ある冒險がこの方面に行はれたらしい形跡は、今も全く埋もれ盡して(385)は居ない。遠く三千數百年の大昔に、多量の寶貝を中原の文化地域に運び入れた者は、東夷と稱し又島夷とも呼ばれて居た。其後裔はもう何處に住むとも知れないが、少なくとも彼等に覓められた美しい貝は、近くはこの群島の磯にしか産しなかつたのである。辛苦して之を拾ひに來た人々の中に、かねて徐福のやうな志を以て、殘り留まつた者があるとしても、ちつとも意外では無いと思ふ。

　今度の大戰が、まだ東方の海に荒れ狂はうとしなかつた以前、私たちは心ある沖繩諸島の學徒をかたらつて、南島談話會といふ小さな圃體を作り、次で「島」といふ雜誌を發行して、未知の同志の協力を求めようとしたことが有つた。當時我々の注意はまだ根原の問題に及ばなかつたのみならず、更に島々の文化が今日のやうに、一朝にして覆没の危機に瀕すべきことをさへ氣付かなかつた。氣永に研究に手を着けて置くならば、いつかは誰かによつて完成するであらうと夢みて居た。今から振りかへつて見ると、僅かに殘つたものはこのやうな切れ／”＼の、又片端の知識だけで、それも新たに知つたものである限り、無益とまでは思つてゐないのだが、是ばかりでは到底嗣いで起つ人の熱情を引寄せることは出來ない。さうして自分はもう疲れ切つてしまつた。せめてはこの殘燈の光をかゝげて、身近に落ち散つた少しのものを、是からもなほ集拾して見ようと試みるのである。

　この一册の中には、近藤富藏といふ人の名が、何のつきも無く數處に出現することを、奇異に感ぜらるゝ讀者がきつとあるだらう。是は私が「島」といふ雜誌の中に、一度は書いて見ようと思つて果し得なかつた題目の一つである。近藤氏は二十三歳で八丈島に流され、八十四でこの島に還つて死ぬまで、六十餘年の最大部分を、小さな一島の中に送つてしまつた人である。才能學業には何一つ凡俗を抽んでたものは無くて、その經歴と境遇のみが極端に數奇であり、又坐ながらにして社會と國情の、空前の激變を觀望し得たことは、冷淡なる後世人の眼から見れば、或は幸福ともいつてよい一生であつた。彼は長命して時が多く、書くより他の樂しみが無くて、やたらに書き殘したものが偶然に久しく傳はつて居るに拘らず、この一人の生きてさうして書いて居たことが、何(386)を意味するかは自分も心付かず、外からは勿論省みなかつた。此點がほんの少しばかり、「島の人生」の著者と似て居る。それもお互ひの生れた場所が、外からは知られ難いシマであつたが爲かと思ふがどうであらうか。

　　　　　昭和二十六年八月

　

(387)　　　　　　　高麗島の傳説

　

　　　　　　　　　　一

　

　平戸は九州でももうよつぽど西の島のやうに考へられて居るが、島の南の志々伎《しゝき》の崎を廻つて、更に三時間も西に向つて航海した所に、宇久と野崎と小値賀《をぢか》との三島は鼎立し、今日は五島と呼ばるゝ大値賀の列島は、それから又南西の方へ、遙々と棊布して居るのである。この小値賀の島の笛吹の港から、上五島へ渡つて行く船の中で、始めて私は高麗島の傳説を耳にした。次いで下五島の福江の人たちからも、又その隣の久賀の村長からも、同じ口碑のそれぞれの土に根を下して居ることを聽いて、いよ／＼以て昔物語が旅を好み、國土の果の果までを窮めんとするものであつたことを、深く感じたのである。

　右の小値賀の島から、ほゞ眞西に向つて四里ほどの海上に、美良島《びりやうじま》と呼ばるゝ周圖一里足らずの無人島がある。ビリョウは古名をコバとも謂ふ棕櫚に似た植物で、此樹が繁茂して居る爲に島の名は生れたのである。全島は切立つたやうな岩山であるが、僅かに東の片隅に一段歩ほどの平地があつて、其濱だけには小舟を寄せることが出來る。いつの頃からか人はこゝを寺屋敷と名づけ、土を穿つて往々古瓦を出すことがあると謂つて居る。さうして高麗島の傳説は、先づ一つの因縁をこの不思議な遺跡に繋いで居たのである。東の海上から遠望すると、この美良島の左手に竝んで、平島といふ平たい小島がある。今は白瀬の燈標の爲に働く人たちの、退休所に宛てられて居る。白瀬はこの二つ(388)の島から更に四里ばかりも難れた沖中の孤岩であるが、寂しい夜の海を乘りまはした人々ならば、必ず其燈火の光を記憶して居ることであらう。我々の傳説の高麗島は、是から又三里ほども西の方に、曾て繁榮して居て後に海底に沈んでしまつた島だと謂ふのである。

　

　　　　　　　　　　二

　

　現在は既に何でも無い只の水面であつて、恐らくは最も精密なる海圖だけに、ほのかに其痕跡を留めて居るのみであらうが、沖松浦《おきまつら》の漁民等は、今でも其場處を高麗瀬、もしくは、高麗曾根と稱してよく記憶して居る。ちやうど下五島の三井樂《みゐらく》の濱から、眞北に十里餘りも出た沖といふことで、そこでも此高麗瀬の昔語りを、聽いて居らぬ船子は無いといふ話である。瀬とは謂ひながらも淺い所が引潮に七尋、如何なる大船でも警戒せずに、通り過ぎるだけの深さはあるのだが、爰には鰤《ぶり》が附き又｜鰒《あはび》がよく育つので、海人は來て潜ぎ、釣する舟も?々訪れる。さうして還つて來る度にかの高麗島の昔を風説して、いつ迄も口碑を若々しくして置くらしいのである。

　高麗島は世に稀なる富裕の島であつたといふ話である。島の人たちは、此荒海のとなかに於て、優れたる陶器を製して生計を立てゝ居た。それが世上に傳はつて高麗燒と稱せらるゝ、と思つて居た人が附近の島々には多かつた。野崎の神島の御山の寶物にも、又は名ある宮寺や舊家の秘藏にも、此島で燒いたといふ鉢や皿を傳へたものがあつて、それを眼で見た以上は此傳説だけを疑ふといふことは出來なかつた。島の沈んだ跡の高麗瀬に往つて見ると、今でも數限り無い昔の陶器の破片がぐわら／＼と底波にゆられる音が、手に取るやうに聞えると謂ふのみか、稀には又漁夫の延繩《はへなは》にかゝつて、引上げたといふ話さへ殘つて居る。

　

(389)　　　　　　　　　　三

　

　此高麗島には大きな一つの御寺があつた。島覆歿の難を逃れて、最初には先づ美良島の片隅に再建せられた。それが寺屋敷の由來であり、又古瓦を掘り出す理由でもあつた。後に漸く衰微して、今度は小値賀の本島に移したといふが、其地は何處であるやら、尋ねて見ることが自分には出來なかつた。但し經ヶ崎といふ地名は高麗島の寺の經卷が、海を渡つて此島に漂着した故跡だと謂ひ、島の淨善寺にはその漂着した御經を、今でも什寶として傳へて居ると謂ふから、一方には美良島を仲に立てずに直接こゝへ移つたといふ言ひ傳へも有つたらしいのである。

　それよりも特に私の心を動かしたのは、島が沈没するに至つたといふ因縁と、其話だけは海底の水屑としてしまはずに、永く後代の語り草にすることを得た事情とである。多くの昔話には誰が見て居たか、誰が生き殘つて世には傳へたかを、訝らねはならぬものがあるが、此話ばかりはノアの箱船と同樣に、立派な見知り人を此世に留めて居る。昔高麗島には靈驗の至つてあらたかな、一體の石の地藏菩薩がおはしました。信心深い人々の夢枕に立つて、我顔が赤くなつたらば大難の前兆と心得て、早速に遁れて命を全うせよといふ御告げがあつた。邪慳の輩のみは却つて之を嘲り、戯れに繪具を以て地藏の御顔を塗つて、驚き慌てゝ遁げて行く者の魯かさを見て笑の種にしようとしたのであつたが、前兆は尚まさしく、島は一朝に海の底に落ち沈んで、殘つた者の限りは悉く死んでしまつたといふのである。

　下五島の本山村には、今でも此島から遁げて來たといふ高來といふ苗字の家が三戸ある。舊記の類は何も無かつたが、古い高麗の鉢を持傳へて證據にして居た。それを棚に上げて置いて落したとたいへば、又洗はうとして壞したとも謂つて、今ではもう跡形も無くして居るが、見たといふ人はまだ幾らも居る。久賀島の蕨といふ部落には、やはり高麗島から立退いて來た舊家で、現在尚その證據の陶器を藏して居るものがある。見せて貰ひに來る人が餘りに多く、中にはごまかしてすり替へて行きさうな者もあつたので、近頃は何と言つても、出して見せなくなつたから無いのも(390)同然だといふ。それよりも更に奇特なことは、この蕨といふ村にはその問題の石の地藏が、どうして渡つて來られたかちやんと渡つて來て、今でも以前の信心者の子孫に、かしづき祭られて御出でるといふ話で、是だけは誰にでも容易に拜むことが出來る。外では見られぬ位に御頸の長い地藏樣であるといふ。

　

　　　　　　　　　　四

　

　島で陶器を燒いて居たといふ話は、次に引用する萬里が島の一例を除いては、とんと他の地方では聞いたことが無い。さうして實物がまだ殘つて居るといふ點から、どうやら其傳來が手繰つて行けさうな氣がするのである。最近に櫻田勝�ｺ君が、薩摩の下甑島の旅行で聽いて來た所では、この西方の沖合ひに、曾て又一つのアトランチスがあつて、其名を萬里が島と謂つたさうである。久しい以前に海の底へ沈んでしまつたが、此島でもやはり陶器を製して居たといふことで、現に下甑の瀬々の浦の某家に、その萬里が島燒の茶碗といふものが秘藏せられて居る。内側に細かな文字が書いてある外に、その絲底には萬里寉の三文字が有るといふから、其道の人に尋ねたら産地もわかり、同時に傳説の年代も知れることゝ思つて居る。

　しかも萬里が島の海に沈んだといふ話だけならば、其起りは相應に古いものであつた。以前一度は目に觸れた本であるが、其時は全く心を留めなかつた本朝故事因縁集は、一向に當てにならぬ書物のやうに思つて居たところ、もうちやんと此話を録して居るのである。市場直次郎氏の發見によつて始めて知つたが、近年巖谷小波君などの手で編輯せられた東洋口碑大全上卷にも、此大要を書き直して掲げてあるさうだ。但し此二書は共に今手元に無いので、檢めて見ることが出來ぬが、是に萬｜重〔右○〕島とあるのはどうやら大全の方の誤植らしい。その唐土の萬重島といふ島に、金剛力士の石の像があつて其顔の色が赤く變ずる時は島が滅ぶ時だと言ひ傳へられて居た。或男が是を知りつゝ自ら朱を以て力士の面を塗つたところが、忽ち山嶽鳴動して島は海に沈み、住民は悉く溺れ死んだとあつて、生き殘つて此顛(391)末を語るべき者も無かつたやうにあるが、其石像が薩摩の野間の御崎に漂着して、永く崇信せられて居たといふだけは、高麗島の石地藏と似て居る。二つは別々の話の偶合したものでは無かつたのである。

　三國名勝圖會や地理纂考の類を捜して見たが、野間權現にはもう此話は傳はつて居らぬやうである。唯一つの心當りと言つてもよいのは、此御山の神が明瞭に支那から移し迎へた航海の守護神であり、曾て此方面に行はれた自由なる外國貿易の痕跡と認められて居ることである。野間といふ地名それ自身が、多分は娘媽の字音であらうといふ説もある。始めて祀られたのは天正年間のことかと謂つて居るが、それは領主の公認を受けた時で、起りはそれよりも又大分早かつたやうである。しかも長崎貿易の時代を終るまで、沖を通る南京船は祭を營み、更に又此社の修驗僧が長崎に出張して、護符を授け供物を受くる等、毎年の宗教的取引を續けて居たのである。假に表向きの記録には現はれずとも、土地の口碑の修飾せらるべき機會は幾らもあつた。所謂｜甫田《ほでん》の林氏の女なるものが、海に入り身亡びて後に神と顯はれたことは、支那に於ても既に色々の美しい物語と化して居たのだが、爰では又その神女の骸が、この加世田の渚に漂ひ來り、肌は桃の花の如く麗しく、煖ﾝかにして生人のやうであつたと謂ひ、之を葬つて後三年目に、唐から迎へが來て神骨を分けて歸つたなどゝ、さも此地を本山のやうに説く者もあつた。しかもその神靈の漂着といふことは、日本が島國である爲に特に發達した、古來著名の傳説の片端に過ぎなかつたのである。

　

　　　　　　　　　　五

　

　同じ九州の中でも薩摩と五島とは、地圖の面では可なり兩隅に懸け離れて居るのだが、其言語などには他のどこよりも近い類似がある。政治上の境涯は丸で異なつて居たに拘はらず、今尚若干の共通點が其習俗の上に認められるといふことは、恐らくは既に忘れられたる海上交通の結果だらうと思ふ。それを論證することは素より容易では無いが、少なくとも傳説が曾て船によつて運び移されたといふことだけならば、かゝる孤島の實例によつて、之を認めずには(392)居られない。しかも今までの我邦の傳説の如きは、未だ陸の上をすらも自由に行き廻るものとして、考へられては居なかつたのである。

　石像の面が赤くなつたといふ傳説の起源に就いては、既に市場氏の郷土趣味雜話が出て居るのだから、之を紹介する以上にもうくだ／＼しく述べる必要が無い。だから只簡單に私の意見の、繋ぎを附けるだけに止めて置くが、日本に此一條を始めて傳へたのは、今昔と宇治拾遺との二つの物語であつて、それも外國の説話の飜譯であることを明示して居る。芳賀博士の攷證今昔物語集卷十には捜神記以來の三つの出典を掲げて居られるが、それと本文の敍述との間には、幾つかの要素の異同がある。今少し尋ねて見たら直接の種本が出て來るかも知らぬが、それは支那の文獻學であつて、私たちの管轄する所では無い。私たちの知りたいのは是が我邦に入つて來てから、如何に改造せられ又は抑留せられて、一個の傳説として半ば信じられるに至つたかといふことである。隣國の三つの舊話では、赤く塗られたものは血であり、石は又城門の石であつた。是が多分は肝要な一點であつたらうと思ふが、今昔の物語では既に山頂の大いなる卒都婆となつて居る。さうして西海の二つの類例になると、再び變じて金剛力士、又は石地藏の現在の傳説と化したのである。腰二重なる老女が朝毎に杖を突いて、石の面の赤くないかどうかを見に來たといふのは、日本でも可なり面白がられさうな繪樣であるが、是さへも後には強ひて説かなくなつて、島が沈んで跡は漫々たる蒼海になつたといふ感動のみが、改めて永く國人の胸に印せられて居るのである。是を單なる傳播であり、保管であると見ることは許されない。別に國内の新たな理由があつて、之を斯ういふ形に進化させたことだけは認めなければならぬのである。

　

　　　　　　　　　　六

　

　同じ傳説の分布の例は、現在はまだ必ずしも廣く及んでは居ない。仙臺の近くの多賀村には、昔櫻木千軒赤松千軒(393)といふ二つの繁昌の町が、陷没して海になつたといふ傳説があり、是にも末の松山を浪が越した折に、麓の茶屋の正直な姥だけが、血の石の知らせに驚いて獨り遁れたなどといふ話を伴ふことを聽いて居るが、餘り趣向に過ぎる故に私にはまだ古くからのものとは思へない。しかし傳説の古い新らしいは、必ずしも今見る形のみでは決し難いもので、たとへば市場君の採録した豐後の瓜生島、もしくは久光島の陷没談の如きも、前者は慶長元年の閏七月、後者はそれよりも二年後の史實である以上は、當然に其前には無かつたと言つてよいのだが、しかも土地の人々にさうも考へさせ、又はさう聽けば信ずる者もあつたといふ原因は、此際始めて現はれたのでは無いのである。大體に傳説が歴史と同樣に、單なる一囘の事件を代表する排他的のものであるに拘はらず、とかく地を接して併存する傾向を持つて居ることは、即ち又その信仰の胞子とも名づくべきものが、豫て數多く空中に浮遊して、縁に就いて來り下つて芽を吹いた結果であらう。所謂｜函?灣頭《かんたんわんとう》の三四の口碑の如きも、一方がもし眞ならば他はすべて假托といふべきであつたが、實際は甲に促されて乙の夢は結ばれた形がある。阿波でも喜田博士は小松島港外の、お龜磯の舊事を記憶して居られたのだが、別に此以外に津田浦の一里沖に、昔あつたといふ某島の話もあつて、今でも其島から脱出した者の後裔が、安宅福島大工島等の苗字を名乘つて、近傍の地に居住するといふことを私は聽いて居る。菊池寛君の「亡兆」はまだ見て居ないが、是とても更に又第三の海面の、異なる空想であつたかも知れぬのである。斯ういふ奇異なる重複は歴史には見られない。以てこの兩者の差別を明かにするに足るべく、又現代の新らしい交通の下に、もはや傳説の生れ難い理由もわかることゝ思ふ。

　

　　　　　　　　　　七

　

　しかも傳説の何によつて遠く運ばれ、如何にして數百年の永い世代を、次々改造せられつゝ存續し得たかといふことは、又一つの困難なる問題であつた。自分などの知る限りに於ては、外國の學者は之を明かにせんとする志は、我(394)々よりも遙かに鞏固であるが、未だ其便宜を得られないかの觀がある。傳説は必ず土地に根を下して、是を他郷に移し植ゑることの、何よりも不自由な形になつて居るのに、それが時としては全國に數十百の同種のものを、分布して居るのは理由が無くてはならぬ。假に運ぶだけはうそつきが運んでくれるにしても、土地の正直者等が之を受け入れて、自分のものと認めるには條件があつた筈である。私などの假定では、是は神靈の語を傳ふる者、人を信ぜしむる資格ある者が、夙に文藝家と化して居たことを信者たちが知らなかつた結果、言ひ換へると説話は其外形に於て稍々久しい間古い樣式を其まゝに保持して居た爲に、少なくとも偏陬の土地だけでは、騙さうと思はずとも自ら人が騙された結果では無いかと思ふ。昔話の所謂げな／＼話、もしくは「有つたさうな」といふ形は、新らしいばかりで無く努力の痕がある。特に聽く者の信を執らざらんことを希望する者でなければ、斯ういふ方法を以て説話の傳説化することを豫防しようとはしなかつたらう。實際又信じ得べくんば信じた方が、話は身に沁みて聽かれるのである。

　奧州平泉高館の周圍の田舍には、鈴木三郎の子孫と信じて居る鈴木家が幾らもある。下五島本山村の高來氏も同じことで、彼等は自ら其出自を虚構し、たとへば高麗島の美しい歴史を描き出すなどは、敢てしなかつたらうのみならず第一に其技能が無かつた。たゞ彼等はそんな話が有るならば、假に少々は訝かしくとも、第一次に之を信じ切らうとする人々であつたことは確かである。苗字を教へられて付けかへる位は何でも無い。子孫が既にその前後の事情を忘れたとすれば、斷乎として家の古傳を守るのは義務である。從つて是を義經記や舞の本の致す所だと説かうとする者は、怒られても黙つて辭儀をして居るだけの覺悟を以て、暫らくこの歴史と傳説との混亂時代を經過すべきである。それも辛いか知らぬが自ら欺いて居るよりはましだ。

　

　　　　　　　　　　八

　

　そこで愈々最後の問題に入つて、然らばこの珍らしい混亂の發頭人は誰だつたか。活計の爲にせよはた征服慾の致(395)す處にせよ、そんな有りもしない高麗島の話などをかつぎ出して、人を面白く惑はしめたのは何者かといふことになるのだが、此方面に於ては遺憾ながら、私にはまだ一向に心當りが無い。さういふ中にも誤つて自分もしか信じ、もしくは批判も無しに語り傳へようとした者と、作り事は承知だがさう謂つても差支へ無いと思つて居た者と、一つ騙してやらうと企てた者とが、三つ入り交つて其境の明瞭で無かつたことも事實である。現代の作者意識とはちがつて、以前の語り部たちは大か小か、必ず異常心理の下に於て行動して居た。何だか知らぬが斯ういふ風に言はなければならぬと、言はゞ傳統によつて指示せられた部分が、相當に多かつたらしいのである。ボルネオ東部に住む男巫の中には、人から口寄せを頼まれると出たら目ばかりを語るくせに、家に心配事があり子供が病氣でもすれば、やつぱり自分も亦他の巫の口寄せを聽いて、其作りごとを信じようとする者が多いと、白人たちは不思議に思つて居るが、名歌を神に?つた國の文藝には、いつ迄も此部分が少しづゝは殘つて居た。是が又古い説話の久しく傳はり、且つ容易に傳説に戻つて行く理由でもあつたかと思ふ。

　或は全く縁の無いことかも知れぬが、私が遠松浦の海の旅に於て、興味深く聽いた話がもう二つある。其一つは高麗島から漂着して來た古い經卷を、今でも持つて居るといふ淨善寺の由緒であつて、是は福江の島に行つてから詳しく知つた。昔々五島家の年若き殿樣が、敵に逐はれて海上に落ちのぴ、小値賀の殿崎の海邊に上陸して寒さに惱んでござつた時に、そこを通りかゝつたのが、この淨善寺の盲僧であつた。背に負うて居た琵琶を打碎いて、それを火に焚いて當らせ申した。寺は其忠義の功により、末永く領内の島々を巡廻して、「まはれば百石」といふ收入を擧げることを許されて居たと謂つて居る。我々の目から見れば、是などはたゞ一つの爽快なるローマンスに過ぎぬのだが、事が創業期の開運談に關する故に、其子孫の家が先づ之を信じ、家來の役人たちも少しはうそだらうなどと、分析して見る必要を感じなかつた。さうして今となつては他の部分はどうでもよく、琵琶を薪にしたといふ一箇條だけが、麗々と歴史になりかけて居るのである。九州の盲僧は奧羽のボサマとは違つて、四季の土用の荒神祓ひといふ肝要の役(396)目があつた。しかも尚彼等の暗記力が、地方の舊傳の保存に利用せられ、こゝに歴代の誇張と修飾とが、積み蓄へられてあつたことは前者と同じかつたらしく、其上に一旦高められた地位を守るといふ、利害の念さへも伴なうて居たのである。我々の空想の散漫であつて、次々の興味によつて作者すらも、前に言つたことを忘れてしまはうとするに反して、師傳で相承した藝能には拘束があつた。殊に目の見えぬ者が覺え込んだ一言隻句は、容易には消えて新らしいものと入代らなかつたのである。高麗島の奇譚が一度此徒の口の端にかゝつたとすると、それが末永く群島の間を、流れ渡つたことも自分たちには不思議で無い。盲が高麗燒の鑑定を誤つて居たといふことは、必ずしも大いなる不名譽とも思はれない。

　

　　　　　　　　　　九

　

　それからもう一つ、是も小値賀の島で聽いて來た傳説であるが、昔は此島は東西に立分れて、其間は牛が渡るほど近く又淺かつた。それ故に今でも其低みを牛の渡りと呼んで居る。前《さき》の濱の住民がこゝに潮止めを築いて、開いて田にしようとした時に、何度でも其堤が出來ては又崩れる。どうしたものかと評議をして居ると、そこへ紀州の椀賣りさんが一人遣つて來て、是には人柱を立てるより他はあるまいと謂つた。人柱になる人は肩に伏せ繼ぎの布を當てた者と、是も其椀賣りが教へてくれたので、乃ち何百人の衣服を脱がせてしらべて見ると、たつた一人當の本人の椀賣りの着物だけが、肩のところに伏せ繼ぎをして居た。それで早速この男を人柱に立てると果して堤防は固まつて、今ある廣々とした田が出來た。次の年に椀賣りの息子が、父を尋ねて遙々と紀州から遣つて來た。さうして此話を聽いて歎き悲しみ、上の句は何といつたか忘れたが、雉子も啼かずは打たれまいものといふ、一首の歌を詠んで行つたといふことである。

　此一條も今はまだ信じられて居るやうだが、是を此島の歴史だといふことは、本を見た程の人ならば恐らくは合點(397)すまい。私も今頃この傳説の分布を説く必要は感じないが、大體に日本の人柱口碑は何れも旅の者に教へられてその者を水に入れたことになつて居るのが特徴のやうである。地方的の異同をいふならば、北と南の方とは犠牲になつたものが女であり、さうして又多くは母と子であつた。中央部に限つて雉子も啼かずはの歌があり、由なき進言をして身の命を失つた者が親爺であつた。攝津の長柄はもとであるが、大和にも同じ地名の村には同じ話がある。肩の伏せ繼ぎは島に來てからの變化のやうで、それだから肩には伏せ繼ぎを當てるもので無いと、今でも此地方では言つて居ることゝ思ふが、上方に於いてはそれが袴の横繼ぎといふことになつて居る。さうして九州に於ても豐前山國川の、鶴市明神の物語などは、一方に哀れなる母と子の落命を説きつゝも、尚袴のつぎの提案をして、自身其貧乏鬮を引當てた者が、何の弾正とかいふ武士になつて居るのは、何度も語り繼いで居る間の混亂であつた。つまり全國に流通した神秘なる舊傳に相違は無いのだが、尚この小値賀島に入つて來て居るものは、稍々後代の小説化した新型であつた。是がいつ頃のものかといふことも、遠からず明らかになると思つて居る。

　それよりも自分が面白いと思ふことは、他では一つも例の無い紀州の椀賣りさんが、島では人柱に立つて居る點である。椀賣りは後には黒江からも來たか知らぬが、以前最も多く全國を動いて居たのは、近江の小椋の者、と言はうよりも小椋を苗字とする一團の人々であつた。さうして此人々は昔話が上手であつた。同じ方面に何度でも遣つて來て、今までの由緒を説くのには特別の長處があつた。まさかに此邊り迄も來て居らうとは思はなかつたが、此人たちならば説話の輸送ぐらゐは容易に出來る。是も事によると薩摩の船と同樣に、傳説の系統を尋ねて見る一つの手掛りにならうも知れぬ。

　

　　　　　　　　　　一〇

　

　私の言つて見ようとしたことは、甚だ無細工ながら是で先づみてた。終りに數行だけ、あの當時の思ひ出を書き添(398)へて置かうと思ふ。私は昭和六年の五月五日、小値賀丸といふ小さな發動機船を傭つて、晴れて青々とした朝の海を、笛吹から中通島の青方《あをかた》へ渡つた。船の荷物といへば自分と黒い小さな革鞄だけであつた。船長は蓆を甲板の眞中に敷いて私を坐らせ、其傍に來てしやがんで色々の島の話をしてくれた。見送りに來た諸君の差圖もあつたからだが、一つにはこの若い船長の稀有の傳承者型であつた爲に、僅か半日の海の旅が、斯ういふ數限りも無い島々の昔を、心付かしめたのであつた。

　全體に船の人たちには、取越し苦勞といふものが少いやうに私は思ふ。發動機が出來てからはなほの事だらうが、昔も順風に帆をかけた朝開きの快さは、出たら直ぐに働く農夫などの味へぬものがあつたらしい。さういふ時刻の心持と雜話とは、私には此上も無くゆかしいのである。小値賀の西に峙だつ美良島などは、曾て住む人も無かつた樹林の島であるが、此あたりの漁民が之を親しみ友とするの情は、我々の測り知り難い迄である。朝鮮の濟州島は、こゝからちやうど眞北に當つて、その航路約十七時間と言はれて居る。それが美良の島の頭が見えなくなつて後一時間と少しでもう着くのだといふから、海上では始終是ばかりを目標にして居たのである。口で言ふ場合も言はぬ場合もあらうが、心は絶えず此島のまはりに在つて、今は茫々たる荒浪の底に、沈んで睡つて居る高麗島の繁華なども、?々幻の間に去來したことは察せられる。海は恐らくは傳説の沃野であつたらうと思ふ。

　

(399)　　　　　　　八丈島流人帳

　

　　　　　　　　　　一

　

　近藤富藏が人を殺して、伊豆の八丈が島へ島流しになつたのは、今から算へて百六年前、文政十年四月二十六日の事であつた。江戸は永代橋の川口から船が出て、途中三崎に寄り三宅島で永い日和待をして、島に到着したのは閏六月の某日であつた。海上に八十日ばかりの日數を費したことになつて居るが、此時代の航海には是は珍らしいことで無かつた。

　同じ船中の流刑囚が、富藏の他に尚八人あつた。その一人は僧で、本郷丸山本妙寺の寺中、本立院の光學といふ者、是は罪名は女犯とある。それから上總木更津の百姓久兵衛、常州｜高久《たかく》村百姓鶴松、下總金江津村の百姓才助、何れも罪は博奕又は貸元胴取であるが、徒黨でないと見えて別々の日に入獄して居る。殘り四人の武藏阪戸村無宿金太郎、曲ヶ島村無宿龜次郎、下總清水村百姓吉藏、武州内藤新宿旅籠屋喜十郎召仕伊助も、同樣に博徒であつたらうと思ふが、其罪名は記入せられて居ない。多分は金太郎を除いた他の三人が、島に着船の翌月早々に、前からの流人四名と共に、脱走をしてしまつた爲ではないかと思ふ。その四名の相棒といふのも、三人迄は人足寄場遁去者、即ち功を經た無頼漢であつた。

　此等同船者の運命は悉く近藤とは異なつて居る。坂戸の金太郎は七年居て島で死に、木更津の久兵衛は天保九年の(400)七月に、他の拔舟組に加はつて島を脱出した。日蓮僧の光學は十一年の島住居の後に死んだ。殘りの鶴松は弘化四年に、才助は明治の元年に、赦されて國に還つたのみならず、死んだ光學にも拔舟者の伊助にも、同じ際に赦免の?が下つて居る。遠島囚の記録はそれ程にも不確實なものであつた。其結果としては近藤富藏が、たゞ獨り最後まで島に取殘され、他では見られぬ樣な綿密なる八丈島の流人帳を、我々の間に保存してくれることになつたのである。

　

　　　　　　　　　　二

　

　私は他日如何にもして、此帳面を印刷にして置きたい志がある故に、今日は單に興味ある二三の事實を紹介するに留める。八丈島の流人はかの有名な關ヶ原役の敗將軍、浮田中納言の一家眷屬を以て始まると傳へられるが、それはたゞ其以前のものに、記録が無いといふことをしか意味しないやうである。記録は其以後といへども態と公けには殘さなかつたものもある。たとへば浮田一件より六年後の慶長十七年に、禁裡の上臈二人流されて此島に來り、十六七年を經て赦に逢うて還つたことは、八丈年代記には之を録して居るが、この流人帳の中からは省いてある。尤も最初は皆臨時の行政處分で、其數も僅かなものであつたから、斯ういふ帳簿の如きものゝ入用は無かつたのである。京都の女性が赦されて歸つた後、浮田の一類も唯兩名の子息を殘して他の十一人はすべて死歿した頃、寛永十一年に高木休菴父子從者五人の遠島があつたのが、此流人帳の先づ初筆である。それから中二十八年を置いて、寛文三年には堀田市郎兵衛以下五人の者が流されて居るが、この兩度の科人は休菴一人を除いて、何れも程無く赦されて國へ還つて居る。無期流刑の最初と言つてもよかつたのは、越後高田騷動の荻田主馬、永見大藏、及び渡邊大隅守三人の島送りで、是が又十八年後の天保元年の事であつた。翌々三年には引續いて、小栗甚之丞父子を始め九人の武家が流され、それと同じ船で出家が三人、町人が二人送られて來て島で死んだ。遠島が一つの定まつた刑罰の制度となつたのは、八丈島に於いては此年を以て始めと言つても差支へ無いのである。

(401)　此年以後明治二年まで、百九十年ほどの間、多いか少ないかの差はあるが、間斷無く流人は八丈の島へ入り續けて居た。流人帳に名を録したゞけでも、其數は既に二千に達せんとして居る。さうして其中には近藤富藏の如く、六十年近くも島に居て死んだ者も稀にはあつた。人口が始終七八千人の間を上下して居た孤島としては、是くらゐ迷惑な話は無かつたことゝ思はれる。それが善惡ともに格別大きな影響を與へた樣子も無く、島人は終始彼等に對して寛であり親切であつて、しかも略々平和に島固有の生活を持續して居たといふことは、考へて見ると一つの奇觀であつた。是には何か特別の事情の、單なる一卷の流人帳の中からでも、窺ひ得られるものが有るのかも知れない。斯ういふ推測が更に此古記録の價値を高くするのである。

　

　　　　　　　　　　三

　

　それで私は稍々今までとは違つた方法で、此史料を取扱つて見たのである。近藤富藏が流されて來た文政十年の閏六月には、八丈には前々からの流人が二百十六七人ほどたまつて居た。去年の十一月には恩赦があつて、古い罪人の數十名が、御免になつて出て往つたのだけれども、まだ斯んなに澤山の俊寛僧都が、殘されて島にさまようて居たのである。是を島流しの最盛期と言つてよいか否かは知らぬが、兎に角に近年送られて來る者の數が少しづゝ多くなり、其上に所謂甘藷政策の效果でもあつたか流人の生存年限が幾分か長くなつたらしい形跡が見える。一番の古顔の芝無宿入墨の長吉、是などは安永二年の流徒で、島に五十七年居て文政の十二年に死んで居る。其次は江戸も組の火消人足、兩替町一丁目の清次郎といふ男で、是は天明八年に來てから四十三年生きて居た。幾つの歳に流されたのか知らぬが、兎に角に長命な流人ではあつた。

　此頃の流人の中には、無宿入墨といふ類の者が最も多く、只の百姓と言つても罪　　　状は主として賭博であつた。古い分には罪名は注記して無いけれども、名前や肩書から過半は此徒であつたことが察せられる。斯ういふ無頼の輩を平(402)和な島に送り付けたといふのは、島人たちに對しては思ひ遣りの足らぬ處置であつた。事件はいつの場合にも大抵は此連中が引起して居るのである。其實例は尚後段に述べるとして、爰には先づ他の少數の異分子に就いて説いて見る。右の二百十何名の現在流人のうちで、最も目に立つのは苗字のある人たちであつた。罪科は銘々に異なつて居るが、その殆と全部が武士であり、且つ多くは幕臣であつたことが注意せられる。伊豆の島々が此種危險性ある士人の置場として選定せられたのは傳統である。それに中頃から市井の惡漢どもを附加することになつて、流人の數は激増したのである。旗本御家人の端くれだと言つても、島へ遣られるやうなのは何れ碌な者で無かつたらうが、それでも博徒や寄場人足の間にまじると、おのづから鷄群の一鶴といふ趣があつたのであらう。別圍ひと稱して最初から待遇を異にせられたものも若干はあつた。さうして或年限の後には、大部分は赦されて國地へ還つて居るが、是は必ずしも罪が輕く、又は改悛の情が著しい故で無く、恐らく江戸の故舊の救濟運動が、比較的效を奏し易かつた爲かと思はれる。兎に角に島に送られて來た數の割には、永く留まつて居る者は少なく、近藤氏の來た頃に島に居合せた者は、大小引きくるめて二十四五人に過ぎなかつた。

　

　　　　　　　　　　四

　

　是は島役人たちの考案であつたらうと思ふが、八丈では彼等の取扱に關して、ちよつと氣の利いた便法を設けて居たことが、今ある流人帳の面からも窺はれる。流人は此通り明白に上下の二種類があつたのだが、さて差別の待遇をしようとすると、是といふ標準が立てにくい。文政の初頃から、個々の流人に書き判をさせることにしたのが、自然にやゝ身分ある者を標出する手段になつた樣である。成る程是は賢明な思ひ付で、華押でも持つて居る程の者なら、先づ一通り教養ある者と見て差支へ無く、此等を寛大に遇しておけば、他は比較的手荒に監視しても、物議を釀さずに濟んだわけである。さうして又斯んな僅かなことでも一つの慰藉となつて、優種をしてやゝ自重せしめたことゝ思(403)ふ。

　右の書き判階級の中には、又醫者があり僧侶があつた。前者はその數が至つて少しだが、他の一方は中々多く、又遠く内陸の社會相を反映して居る。天和三年に但馬出石の勝林寺、奧州會津の長泉寺、羽州庄内の廣濟寺の三僧が流されて來て以來、前後百八十人近くの出家が、此帳に名を留めて居る。是にも一所不住の乞食坊主から、教義の爲に殉じた高僧まで、玉石混淆して居るらしいが、多くは年をとり又生活力が弱かつたと見えて、長く活き殘つて赦に會うた者は少ない。此中には本當兩山の修驗僧も少なからず、又稀には普化宗の薦僧もある。法華の門流の數多いことは事實であるが、果して世間傳ふる如く、專ら政策の迫害に出でたものか否か、是だけの材料ではまだ何とも言へない。淨土宗も來て居れば禅宗眞言の僧も可なり澤山に送られて居り、その近代の多くの例は、罪名が何れも女犯であつた。不受不施派の日蓮宗の流刑は、寶永六年八月の船で、守玄院と其弟子の元昌といふ者とが流されて來た例がただ一つ見える。島で此教義を立て通すことは中々の辛苦であつたらうと思ふが、それでも此僧だけは二十年餘りも、露命を繋いでから終つて居る。

　

　　　　　　　　　　五

　

　女の流人は文政十年の頃には、全島に僅か十九人しか居なかつたが、それから幕末までの四十年間に、更に二十九人送り込まれて居る。前後記録に名の見える者が、通計して六十七人である。浮田氏從屬の二人の女中は別として、始めて正式の流人として來たのは、吹上御廣敷茶之間の仕女、よせ・さきの兩名であつた。是などは既に世に知られて居るかも知れぬ。京都の女官が宥されて還つてから百十年ばかりも過ぎた元文二年の出來事である。それからぽつ／＼と女も八丈の島へ遣られるやうになつたが、最初のうちは是も士分の家の者に限らうとしたやうに見える。それが久しからずして百姓町人の母女房や召仕、更に所謂飯賣女、酌取女の類、又無宿女などをまじへ送ることになつて(404)來た。あの時代の司法官の裁量は存外に自由なものであつたのである。無宿女といふのは博徒や盗賊の妻であつたかと思はれる。流人の社會も段々と複雜化せざるを得なかつた。

　新吉原の遊女が一人づゝ、七回ほど此島に流されて來て居る。其中の三人は罪名が書込まれてあるが、何れも火附けの罪であつた。他の四名も恐らく別の科では無かつたらうと思ふ。豐菊といふ女は此仲間の中での初入であるが、是は文政四年の春送られて、島で丸二十五年の苦界を勤めてから、弘化二年の六月に拔舟をした。さうして沖合で召捕られて十一日目に死んで居る。寶禅といふ淨土宗の坊主、阪本茂三郎といふ小普請組の幕士、その他三四人の博徒が此企てに加擔し、發覺して半分は沖で死に、他の者は吟味中に皆死んだ。二度目の遊女流人は花鳥といひ、是は近藤富藏の次の年に島へ來たが、罪名は放火で齡が僅かに十五歳であつた。二十六の年に村上無宿の萬吉、下總佐原村新田百姓喜三郎、大倉村無宿茂八等と共謀して、拔船を試みて是は成功して居る。其一條は後に色々のおまけを添へて、面白をかしく講釋師などが語つて居るらしいが、佐原の喜三郎は實は二年足らずしか八丈には居なかつたので、島に來てから斯ういふ女を知つたのであつた。彼等の絶望に瀕した生活には、可なり陰慘で又奇怪な情景も有つたらしいが、そんな背後の事實までは、流人帳の上には録せられて居ない。

　

　　　　　　　　　　六

　

　島拔けは享保七年に、與兵衛萬之助の兩名が島人の漁船を盗んで、行衛知れずになつたのを最初にして、前後十三囘ほど行はれて居る。此以外にも三宅島の日和待ちの間を利用して、脱出した場合も何度かあり、それも時々は海に溺れ又は發覺して殺されて居る。八丈から遁げ去つた者にも、國地へ到達し得なかつたのが多かつたらうと思ふが、其消息は勿論傳はつて居ない。明白に失敗したのは前の遊女豐菊を中心としたものが一つ、もう一つは萬延元年の十月に、三十人ばかりの者が徒黨をして官船を奪つて飛出さうとした事件がある。是が最終であり又最も兇暴なもので(405)あつた。原因は飢渇の爲だと稱して居る。豫期の日取りの前の日に發覺し、突嗟の間に樫立村の名主兵吉の家を襲ひ、その父子を殺害し、鐵砲を盗んで山中に遁げ込んだが、村民に攻立てられて大半は自殺した。殘つて捕へられた者も痛め吟味に弱り、又は病を發して十日ほどの間に悉く死んで居る。流人の罪を重ねる者は島でも始末に困つた。補理牢に監禁して見ても給養が容易で無い。或者は島替と名づけて今一段惡い島、即ち小島とか青ヶ島とかへ送つて居たが、是は住民が少ないから、愈々以て制御が困難になつて來る。つまりは成るべく早く死んでくれることを、誰もが念ずるより他は無かつたのである。

　島には赦免花といふ迷信が出來て居た。それは一本の大きな蘇鐵であるが、其木に花の咲いた次の年は、必ず御赦免の沙汰が有るといふのである。幕末の頃には八丈の流人は段々と數を増し、政府も色々の機會に之を減らさうとして居たやうだが、其標準といふものが立つて居たわけでも無かつた。中には死んだ者又は島拔けをした者へ、年月を經てから島御免の?の到達することもある。それ程にも名簿は不精確であり、又選拔も出鱈目に近いものだつた。天運を宛てにする氣になつたのも止むを得ない。しかしさういふ中にも罪?が惡く、島へ來て後も色々の不始末をして、一段と人氣を失墜した者どもが、絶望に陷り暴擧を企て易かつたらうことは想像し得られる。博徒無宿の類が數多くなつてから、島拔けの事件が始まつたのも、或は其爲であつたかも知れぬが、原因は必ずしも一通りでは無かつたらう。何といつても素人の海上知識が、年と共に少しづゝは進んで居たのである。其上に或者は秘密に外部との聯絡があり、又は隱して若干の金でも持つて居たかと思ふ形跡もある。たとへば嘉永七年の六月十一日夜、松五郎逸平其他數名の島拔けの如きは、青ヶ島の御船水手三人を召連れて出帆したと言つて居る。即ち彼等を抱き込んで共々に身を隱してしまつたのである。

　

(406)　　　　　　　　　　七

　

　以前の流人は大抵は境遇の激變によつて、忽ち頓挫して意氣地の無い者になつて居たらしい。是が前通りのしたゝかなる惡者で居られたとしたら、島の社會は到底是だけの平穩を保つことを得なかつた筈である。前に掲げた萬延元年の名主殺しを除いては、島で大騷動といふのは元文二年の、佐野新藏事件だけであつた。是も記録は簡單なものしか殘つて居ないが、其目的は只の島拔けでは無く、或は保元物語の八郎爲朝のやうなことを夢みて居たのでは無いかと思ふ。小普請組に屬して居た幕府の士が四人、醫者に坊主に厚鬢《あつびん》の彌兵衛といふ町奴らしき者までが加擔して、役人の宅に火を掛けて討入らうとして居たのが、やはり未然に露顯して悉く召捕られた。しかも死罪に行はれたのは其内の四人だけで、他は青ヶ島と小島へ島替になつて、一人の外は皆相應の長生をして死んで居る。

　島替の流徒の行つた先で暴れた例は、小島には天保五年の御藥金次郎一件といふのが、八丈島仙郷志に見えて居る。御藏島へは近藤啓次郎といふ下級の士が、文政四年に八丈から島替になつて居るが、是が神主名主の不在に乘じて、長い間惡い事をして居たといふことである。此二人は共に最初から身を脱する謀は無くて、捕手が押寄せると早速に首を縊つて死んでしまつた。島の天然は永く惡人を生存せしめ得なかつたやうに思はれる。生きて殘つて居る者は、少なくとも無害になつて居たのであつた。

　さうかと言つて自殺する者も別に多くは無かつた。記録の表に現はれて居るのは、貞享元年に小島傳兵衛といふ者が三宅島まで來て水に飛込み、元禄二年には中性院といふ僧が自火減をした。同十年に太田七郎右衛門自水し、十三年には僧孝順が首をくゝり、享保三年には僧宗文が亦水に投じて死んだ。同じ年に金井六右衛門といふ幕臣が、書置を致し行衛無しとあるのも自殺であらう。内藤新宿の淨圓寺の僧寂忍は、享保三年に流されて來て三年の後に首を縊り、本所松阪町の平右衡門といふ男は、同十八年に島に送られて、二十二年も居つてから身投げをして居る。見落し(407)書き落しもあるのか知らぬが、それから以後の百何十年間には、ざつと見渡した處一人も自殺したといふ者が無いやうだ。生きて居りにくかつたであらうが存外によく生きて居る。

　

　　　　　　　　　　八

　

　其代り變死といふ例は相應にあつた。たとへば延享元年二月六日磯にて相果、無宿盗人四郎兵衛。元文元年十二月晦日磯にて死、無宿乙三郎。同三年十二月四日磯にて波に拂はれ死、神田無宿金藏。寛保三年四月十六日、出磯へ落死、甲州小澤村山伏覺法院等の類、是は説明が無くては其理由が判らぬかも知れない。流人の最も働きの無い者は、海邊に出て行つて流れ寄る物を拾つて食つたのである。それ故に斯ういふ最後は冬分に多い。冬は農家の貯へも薄くなるから、自然に餘裕を流人等に頒つことが出來なかつた。ひよろ／＼と磯をあるいて食物を求めて居た者は、餓ゑて始めから生きる力が乏しかつたのである。

　餓死と帳簿に記留された者も、以前には少なくは無かつた。百姓で始めて此島に流されて來た武州石神村の七郎右衙門と傳藏は、十五年ほど活きて居て元禄の十四年の春、二人相次いで餓死して居る。八丈年代記を見ると此前年は島の大凶年であつた。度々大風が吹いて麥作は悉く荒され、救助の船が間に合はないで普通の住民も多勢死んだ。流人が其難に殉じたのは、寧ろ平生は助けられて居たことを意味して居る。が兎に角に此冬から翌年にかけて、彼等の餓死した者は十人に越え、僧孝順の自殺も此苦しみに基づいたものらしいのである。

　是と同樣の災害は六十六年を隔てゝ、明和の三年四年にも再び出現して居る。此時にも島民は可なり多く死に、流人も亦二十人近く餓死して居る。薩摩芋の恩惠の承認せられるに至つたのは、この悲痛な經驗の完成してから後のことであつた。天明三年の凶作の後には、幕府は三年ばかり八丈へ流人を送ることを見合はせて居るが、この明和の年にはまだその手加減をせず、前々通りに島船に囚徒を積出して居る。その中の大部分の者が一年餘りの内に死んでし(408)まつたのは、恐らくは又食物の關係であつたらう。

　

　　　　　　　　　　九

　

　全體に流人の衣食に對する政府の手當が、八丈では最初から行屆いて居なかつたやうに思はれる。西國の島々には扶持附き流人の制度があつて、自活の出來さうも無い者には最少限の保障をしたのだが、此島などはそんな慣例のあつた樣子が無い。別圍ひや牢舍の者には勿論飯米が給せられ、又特別の場合だけは所縁の者の仕送りが許されたらうが、他の大部分は自分で努力して、食ひ且つ着なければならなかつた。島が大きいから何とか出來さうなものだ位に思つたのであらうが、もと／＼一人殘らず商賣違ひの者が、何等計畫も無しに轉住させられたのであるから、新たな職業の見つからぬのは當然であつた。島でも少しづゝは稍々似合ひの仕事を授けようとした樣だが、それは醫者とか手習ひの師匠とか、限られた需要のあるものばかりで、耕作などは元からの住民にも畠が幾分か不足であり、其他は荒くれ男にも開墾しにくい處だけが殘つて居た。乞食に近い生活より外には、流人を迎へる空席は無かつたのである。幸ひに一般の暮しが安易であり、物吝みをせぬ者が多かつたからよいが、一朝凶年となると乞食では到底活きて行けなかつたのである。

　意外な一つの拔け路は島の女との婚姻であつた。島では女がよく働いて、男に食はせて貰はうといふ考へが少ない。從つて縁が有れば流人の嫁にもなつて、家を持つて夫に明日は何を食はうかの、苦勞をさせなかつたのである。女護島の昔語りは全くの虚誕であるが、島の人口はいつも少しづゝ女が餘分であつた。しかし唯それのみでは此種の婚姻は説明しにくい。何か其以外に男を選ぶ者の心理に働きかける力が潜んで居たのである。島では斯ういふ流人の配偶者を水汲みと呼ばせて居た。安永三年の御代官の達しでは、水汲みは子を生み島に止まり、いとゞ不足なる島の食物を食ひ減らすから、今後は斷然水汲みを置くべからずといふことであつたが、左樣な不自然な禁令がいつ迄行はれよ(409)う。其後の流人たちも依然として可愛の水汲みを持つて居た。近藤富藏なども浮田中納言の第二子、小平次殿の後裔といふ一女と連れ添うて、何人かの娘や孫を八丈の島民にして居るのである。

　この有形無形の支援者が無かつたら、遠島の罪人等はもつと容易に絶望し、且つ兇暴となつて愈々その罪を重ねたことであらう。島の恩愛には感謝の情が交つて居た。是が眼に見えぬ首枷手鎖となつて、どれ位惡徒を無力にしたか知れぬのである。萬延元年の島拔け暴動團なども、多くはその水汲みに助けられて、島脱出の隱謀を進めて居た。秘密は一つでも女房たちの口からは漏れなかつたのである。巨魁の一人の久那右衛門といふ男は、もう一度子供の顔が見たさに、そつと我屋に戻つて來て、内に入れないので咽を突いた。島に仇する者すらも最後まで島の家を愛して居る。多數の流人を平和なる永住者にしたものは、必ずしも制度の力では無かつたのである。

　

　　　　　　　　　　一〇

　

　少し話が長くなつたから、殘りは手短かに切上げる。近藤富藏の流された文政十年以後に、八丈へ送られた者の數は六百足らずであつた。そのうち約半分が島で死に、七十人ばかりが拔舟を企てゝ失敗し又は成功して居る。殘りの二百人餘りが赦されて還つたわけであるが、其記録は完備して居ない。幕末の流人の中には變り種が少なくなかつた。たとへば岩戸開その他の著者、賀茂｜規清《のりきよ》こと梅辻飛騨なども其一人であるが、是は弘化四年に來て一年足らずで死んで居る。鹿島則文翁なども、父の罪に代つて慶應二年にこの島に流され、明治元年に赦されて還つた。帳簿の上には塙《はなは》五位と出て居るが、近藤の著はした八丈實記の序には本名を出して居る。其他若干の天才があつて、下手な狂詩や發句などを殘した僧も何人か居る。八丈寢覺草《やたけのねざめぐさ》の筆者なども、斯ういふ中の一人であらう。

　明治元年には大規模なる恩赦があつて、舊い流人は殆と一掃せられた觀があつたが、二年と三年には又若干の流刑囚が送り込まれて居る。斯ういふ中にはほんの少しばかり、新しい時代の風に吹かれて居た者があつて、それが吹き(410)まくるので島の空氣は動搖したが、幸ひに新しい流人には年期があつたのみならず、多くは其終りを待たずに喚還された。

　私の所にある流人帳のうら表紙に、近藤は斯んな事を書いて居る。曰く赦免花、明治七年に咲き同八年に十一人、同九年に咲いて同十年に十九人、同十一年七月に花咲きとあつて、其後は空白である。島の流人帳と中央の控へとが齟齬して居た爲に、彼は忘れられて最後まで取殘されたのである。

　

(411)　　　　　　　青ヶ島還住記

　

　　　　　　　　　　一

　

　文政十年の夏、近藤富藏等が流されて八丈島に來た際にも、多分何よりも先に是が目に留まつたことゝ思ふ。島では南の濱に面した大賀郷の地内に、流人とは別に十數戸の小屋を掛けて、見すぼらしい暮しを立てゝ居る半漁半農の居住民があつた。三根末吉などの村にも分れて一二軒、或は土地の物持ち衆の家に、かゝり人のやうになつて同居する仲間も若干はあつた。この人々の身の上話は、恐らくは流人以上に悲壯なもので、又その當時としては希望の少ないものであつた。ちやうど其年から四十三年前、遠く八丈の東南に孤立する青ヶ島に、前代未聞の大噴火が有つて、一切の生業のたつきを失ひ、命から／”＼救はれて出て來た者の、是が其の子孫であり、又は僅かなる生存者であつたのである。

　此人々はそれから更に八九年の後に、異常の勇猛心を振ひ起して、辛苦艱難を嘗め盡した末、漸くのことでもとの島に還つて往つた。それが今日の青ヶ島住民の先祖なのである。此事件の一部始終も、可なり詳細なる近藤氏の筆録に由つて、我々の間に傳はつて居る。八丈支廳の人々は既に熟知して居るかも知らぬが、私の知らせて置きたいと思ふのは、先づ第一には青ヶ島の少年たちだ。それから又斯ういふ歴史をもつた島が大海のまん中に在るといふことを、一度も教へてもらはなかつた地理の生徒たちにも、好奇心を以て聽かせて見たい。それには近藤富藏の書き留めて置(412)いてくれたものは幾分か散漫であつて整理を要するのである。

　最初に先づこの二つの島の交際と情誼、八丈の島人が五十餘年の間、斯くも親切に青ヶ島の避難民を、世話し續けて居た因縁から説くのが便利であらう。青ヶ島は八丈から南やゝ東へ三十六浬、十五里近くも離れて居るけれども、他には隣も無いので夙くから八丈の屬島であつた。村に名主だけは獨立して置かれて居たが、八丈の地役人が伊豆御代官の命の下に之を支配し、貢物の絹を取次いだのみならず、島には機を織り絲を染める者が無いので、白絲を持參して八丈の女たちに織つて貰つて納めて居た。その絲さへも足らぬ場合には、鰹節などを八丈に送つて來て、此方で取つた絲に交易したといふことで、つまりは他に掛替への無いたつた一つの取引先であつたのである。

　

　　　　　　　　　　二

　

　其上に島の住民の元祖も、どうやら亦八丈から渡つて行つた人であるらしい。青ヶ島の開闢に關しては、書いたものなどは殘つて居らう筈も無いが、島民強記にして一度見聞すれば終身之を忘れずと、伊豆海島志などにも見えて居て、口から耳へと次々に語り傳へて居たことが以前は相應に豐富だつたのである。それがどの部分まで現實の記憶であり、又どれだけが神を祭る者の夢を、信じ守つて居た名殘かといふことは、今とても容易に鑑別することが出來ぬのだが、中頃大きな災厄に遭つた爲に、いよ／＼不明のまゝに追々と忘れることになつたのである。單に斯ういふ樣な口碑があつたといふだけを、書き殘して置くの他は無いのである。

　島ではいつの頃からか鎭西八郎爲朝が、青ヶ島へも渡つて來たことがある樣に信じて居る。さうして島の大童《おほわらは》一人を具して、八丈に歸つて來たとも傳へて居る。或は又土を日に乾して土鍋を作ることを、この將軍に教へてもらつたと稱して、その禮謝として八丈へ渡航するたびに、十二の土鍋と十二組の木の弓箭とを、小島の八郎明神社へ獻納する習はしもあつた。さうすれば青ヶ島には其頃から既に住民が有つたわけであるが、それが今居る人々とどれ位の繋(413)がりがあるかといふと、其關係は誠に幽かなもので、土の鍋の由來ばかり傳はつて居るのが、寧ろ不思議に思はれる程であつた。

　島では曾て濱地ヶ平といふ處に八十在家、今の村の地に八在家、合はせて八十八戸の民家があつた時代があるといふ。ところがその八十戸の方の村では、忌服血の穢れに他家《たや》の隔てを設けず、小さな八在家の部落だけが、忌小屋の愼みをよく守つて居た爲に、或時山崩れがあつて一方の濱地ヶ平は、一夜のうちに家も人も殘り無く埋没し、八戸の部落だけが恙無く繁榮したと謂つて居る。或は助かつた家の數が、十五戸であつたといふ説もある。島では山崩れも折々は有つて、土地の形が絶えず變つて居たさうだから、さういふ事件が無いとは言はれぬが、兎に角に是は日本の内地を始め、よその民族の間にも?々聽く傳説であつて、寂しい人たちは殊更にこの種の想像を抱き、又は之を信じ易かつたやうである。

　

　　　　　　　　　　三

　

　事實は此全島に十戸内外の民家しかなかつた時代が可なり久しい間續いて居たことを、意味するのでは無いかと思ふ。ところがその僅かな部落の上に、又一つの危難が襲ひかゝつて、殆と絶滅の境まで臨んだことがあるといふ。是も或は又別種の傳説であつたかも知れぬが、もしも事實とすれば足利期の、終りに近い頃の出來事であつた。或年伊勢の國から米を積んだ一艘の船が難船して、青ヶ島の岸に漂着したことがあつた。島の住民は此時まで、米といふものを見たことが無かつたので、是は何であらうかと龜の卜方《うらかた》を燒いて占なうて見たところが食物であるといふ占が附いて、乃ち給ぺ試みると事の外風味がよろしかつた。是はいつその事乘組の者を殘らず殺して、米を奪ひ取つてしまふがよからうと、ふと惡心が起つて一同で計畫して居ると、端無く其企てが船の者に漏れて、彼等はあべこべに夜討をかけ、島人は悉く討ち取られてしまつた。其時島中を捜しまはつて見ると、幼少なる男女二人の兒が隱れて居た。(414)餘り小さいから助けて置いても後難はあるまいと、船へ取り入れて順風を待ち、國地へ還つて來る路すがら、再び海が荒れて八丈島へ漂着し、二人の兒を三根村にさし置いて、伊勢の船は本國へ歸つてしまつた。

　右の男女の小兒が三根村で成長して、後に青ヶ島に渡つて今の島人の先祖となつたといふのである。此頃廣江彌次郎信安といふ人が、内地のどこからか八丈に渡つて來て、三根の村に住んで居た。是が二人の者に逢うて詳しく父母の物語を聽き、以前も人の住んだ島ならば、開いて住むことが出來るであらう。自分が先づ渡つて樣子を見て、住める樣であつたら火を揚げて合圖をするから、追々に後から來いと、約束をして渡つて行つた。それで此人が青ヶ島の、中興開祖といふことになつて居るのである。

　廣江は公卿の子孫であつたとも謂ひ、又或は金奈川彌次郎とも記されて居る。この金奈川は今の武州の神奈川のことであるらしい。八丈の島の初期の開發にも、神奈川の領主の勢力が參與して居たことが年代記に出て居り、又青ヶ島の方でも佐々木氏の女トラゴといふ者が、蔓附きの根薯とやらを年貢に持つて毎年神奈川へ警固に行き、九度目に彼方で死んだといふ言ひ傳へも殘つて居る。記録の旁證はまだ見付からぬ樣だが、或は武州の此方面に、特に勇敢なる航海者の群があつて、曾ては七島の經營者を以て任じて居たのかも知れぬ。しかし彌次郎信安がもし此系統の人だつたとしたら、當然に青ヶ島の領主で無ければならぬのだが、島の口碑の廣江氏は神主役であり、又卜部役と坊主役とを兼ねて居た。後に其子孫は神祭りの職務を他家に讓つて、清受庵といふ淨土宗の寺の主になつて居る。さうして青ヶ島の名主役は最初から佐々木氏であつた。佐々木の元祖は名を佐々木左衛門尉金長と謂ひ、廣江彌次郎に加擔して島に渡つたことになつて居るが、その金長といふ名乘も、事によると神奈川と關係があるのかも知れない。島は小さいからどの家も互ひに通婚し、母方から見るならば皆先祖といへるのだが、家名を言ふならば佐々木家が名主で、後に一島の復興を完成して、永く功業をたゝへられて居る青ヶ島のモーゼ、次郎太夫伊信も亦此家の出であつた。

　

(415)　　　　　　　　　　四

　

　青ヶ島の名主の家は、噴火の當時までに八代續いて居る。其四代目の嘉兵衛といふのが、五箇年分の年貢の白絲を船に積み、之を八丈の島に持つて來ようとして、海上遭難して行方知れずになつたのは、寛永二十年の出來事だといふから、大よそ島開發の年代は察せられる。嘉兵衛の先代は父與五衛門、是も海上にて行方相知れ申さずと謂つて居る。島で名主の役を勤め終ほせることは、平和の年ですらも決して樂では無かつた。まして災厄の盛りの時に際して、彼等が島の惱みの全部を背に負うて、しかも健氣に働き續けて居たことは、單なる役目柄とは思はれぬものがあつた。必ずしも青ヶ島一島の爲と言はず、永く日本の制度史の上からも、今少し此來歴を考へて見たいものだと私は思ふ。

　青ヶ島の存在はそれ自身が噴火の産物であるが、島に民居が出來てから以後は、大きな活動はまだ記憶せられて居なかつた。承應元年辰の年に、地底烈しく燒け廻つて、處々より煙を上げたけれども、火を吹き出すまでには至らなかつた。それから十八年を過ぎた寛文十年には、大池の底から細かな砂を吐き出して、十年の間止まなかつた。しかし何れも植物の成育を筈する程ではなかつたと見えて、神土《かなど》の周圖にも大木が多かつたと記して居る。舊火口原の盆地を島では池の澤と呼んで居た。其中央に方七八町、深さ幾百尋とも知れぬ池があつて、其周圖が島民の主たる作場であつた。地味最上にして水旱風蟲の患ひ無く、そこに若干の水田もあつたといふのは、多分此池の水がもとは灌漑に用ゐられたのであらう。災害以前の事だから、はつきりとしたことが今は判らない。兎に角この一帶の島民の衣食には稍々餘分であつたかと思ふ豐沃の耕地が、忽然として熱湯の下になつてしまつたのである。

　第一囘の噴出は安永九年、即ち薩摩の櫻島が爆破した次の年の六月であつた。十八日から二十三日まで六日の間、晝夜休みも無く地震があつて、畑にも出ず用心をして居た處、二十四日の朝は地震が止み、二十六日の夕方から小雨が降り出した。それが程無く大降りとなつて、翌二十七日の朝まで續いたが、其時不意に池（ノ）丸橋といふ處に火穴が(416)あいて、夥だしい湯が湧き始め、一日の中に池の水位が六寸餘り高くなつた。二十八日以後は其穴がそちこちに數を増して、見る／＼池の周圖を浸水し、大池小池と二つあつたのが七月十五日にはもう一續きになつてしまつた。大池の方で一丈七八尺、小池は少し低かつたと見えて、三丈ばかりも滿水したと謂つて居る。池の水は最初のうちは今まで通りの温度であつたのが追々熱くなつて手を差入れることも出來なくなつた。大木の多く殘つて居た小池入といふ神士なども、根株を熱湯に浸されて忽ち落葉し、樹は悉く立ち枯れとなつた。周圖の傾斜地には水の屆かぬ處もあつたけれども、池が滿水すると共にそこからも煙を吹き出し、その上に以前から燒けて作れなかつた場所が處々にあつて、さういふ空地は愈々盛んに煙を吐き、是に當つて琉球芋以外の作物は皆枯れたと謂つて居る。

　甘藷は、其頃も既に栽培して居たのである。それが主として冬春の補食料であつて、ちやうど七分通り植ゑ込んだ後であつた。風の無い暖地を擇んで池のまはりに仕付けたのは皆無となり、高い處の畑だけが僅か殘つた。里芋は七月八月の扶食であつて、是から收穫にかゝる所であつたが、是も多くは谷底の平場に植ゑて居たので取れなくなつた。全體に小作は池の澤に多かつたので、先づ困るのは小さい家であつた。桑の木も以前は岡の高みに植ゑて、もう大木になつて居たのが、近年暴風が多く痛みがひどいので、追々と風蔭の池の澤に桑畠を仕付けることにして居た。それが一度に枯失したから、御年貢の養蠶も六つかしくなつたと謂つて居る。木綿は二十七年前の寶暦五年に、此島へ種が渡つて少しづゝ産額を増して居たが、是も池の近くばかりだからこの際に全滅し、衣服の材料にも難儀をする。それより更に困つたのは飲水で、以前の井戸は何れも低い所に在つたので、池が溢れると共に使へなくなつた。急いで掘つて見たがどの水も鹽氣が有る。なるだけ淺く掘れば幾分か鹽氣が薄いので、我慢すれば飲めぬことは無いと謂つて居る。

　

(417)　　　　　　　　　　五

　

　斯ういふ意味の書面が名主の七太夫、神主豐後以下の連署を以て、七月の中に八丈の島役人の所へ申達せられて居る。普通の罹災報告書は課税の豫防線を張つたやうなものが多いが、この青ヶ島のは遙かに其程度を越え、どうしたらよからうかといふ相談のやうにさへ見える。此月一杯位で食ふものが無くなりさうだと訴へて居る。たとへ岡地に植付け候分、滿作にて收納致し候共、例年の三分通りにも當るまじく、當時差當り難儀仕候とも謂つて居る。さうして池の底の熱水は中々滿ち止まりさうにも無かつたのである。

　八丈島では此急を聞いて、八月八日に大賀郷の年寄役忠次郎、見分の爲に青ヶ島に渡つて居る。八丈に貯藏せられてあつた御用米引殘りが、この際に島の救助の爲に下賜せられたといふが、それは別の船で先へ送られたので無く、多分同じ船で持つて行つたのであらう。さうだとすると無事にこの船が着いたのは幸ひなことであつた。後にももう一度詳しく述べる折があるが、僅か十五里足らずの二つの島の交通は、想像に及ばぬ難航路であつた。古來の渡海船は船も小さかつたに相違ないが、殆と二度に一度ぐらゐは難船して居る。年寄忠次郎の船なども、島の見分を終つて歸帆の際、海上惡風に遭うて、八月十九日には安房の内浦へ漂着して居る。それから前例に從ひ江戸へ乘り廻すべく、浦々引船を以て進行したが、引船に離れると又々風模樣惡くなり、八月二十四日に志摩國鳥羽湊に漂着した。御城主稻垣攝津守樣より種々御介抱に預り、同所役人より浦?を取り九月出帆の處、今度は潮風よろしく十月四日八丈島に歸着した。つまり以前の航海術では、どうしても乘り切れない季節が、島地では長かつたのである。

　しかも災害は此季節と歩調を保たず、且つ連年に起つたのであつた。この安永九年の涌き水は、翌天明元年の四月始めまでに、どうやら斯うやら引いて元の通りになつた。ところが四月の十日十一日に又々地震があり、十一日の晝少し前　池の澤のミソネといふ處に噴出があつた。今度は灰を吹き上げて島中が眞暗になり、それから夜に入つて又(418)又湯水が湧き上がつた。それも去年は半月以上もかゝつて、追々に水位が高くなつたに反して、此時のは夜中俄かの出水で、その高さは五尋に近く、去年よりもずつと量が多かつたのが、あがつたかと思ふと即刻に引いてしまつた。其結果は前囘の引水の跡、格別痛みはしなかつた作場の土が、今度は水と共に流れてしまつて、大小の石塊ばかりがごろ／＼と殘り、之を耕地に復すことが困難になつたのみならず、方々に池と岡との崩れ合ひがあり、澤への道路はよほど氣丈の者が、天氣のよい時にそつと樣子を見に行ける位で、氣の弱い者には通れない?態になつてしまつた。さうして水は引いたが尚噴煙は強く、地面の下が一帶に熱くなつて、最も丈夫な琉球芋さへも失せたと謂つて居る。

　青ヶ島の住民がこの續け打ちにもひるまなかつたのは一つには今までの境遇が、不安に對する抵抗力を強めて居た爲もあらうが、一つには又官府や母島の同情が篤かつた上に、去年の災厄が存外に早く、快復し得たやうに思はれたからであらう。しかも後から振りかへつて見ると、何だか其次のもう一段と強烈なものを、待つて居たやうな感じもあつた。役人たちの經驗では、斯樣な天災地變は一ぺんきりのもので、さう何年も續かうとは思つて居なかつたらしい。

　天明二年の四月なかば、代官江川氏の手代吉川義右衛門は、八丈の島役人菊池左門を伴なひ、青ヶ島名主七太夫を案内として渡島した。さうして山燒け跡の實況を取糺し、荒地起し返しの差圖を下して置いて、五月二十三日に彼島を引揚げた。此航海も往復とも非常な難航で辛うじて八丈には歸り着いたが、船は損じ船荷物は過半刎ね棄て、一行十餘人は命に別條が無かつたといふ迄であつた。さうして青ヶ島の方では又恐ろしい旱魃があつたのである。

　島では吉川氏の船が出帆した翌日、五月二十四日に雨が降つて以來、八月十六日まで八十數日の間一度も雨が無かつた。粟稗はとくに枯れ失せ、里芋薩摩芋あした草ばかり殘つて居たところへ、再び山が燒け砂が降り積つて、その在り所がわからなくなつた。それを捜しまはつて掘り當てた分を出して見ると、甘藷とあした草は全く腐り、里芋だけは十の内三つ四つは芋の味があつた。山歸來の芽が頭を出して來たので、それを目あてに其根を掘り採り、去年釣(419)つて置いた鰹の節と鹽辛、誰かゞ貯へて居た少々ばかりの麥を取合せ、是に海藻などを加へて食つて居た。翌年四月の報告文に、當四月までは漸く命取續き候へども、此上は御手當成し下されず候ては、相助かるべき樣御座無く存じ奉り候と謂つて居る。恐らくこの際まで船を通はすべき便宜が得られなかつたのである。

　

　　　　　　　　　　六

　

　この天明三年四月の通信は、同時に又第四囘目の噴火を報ずるの書?であつた。さうして此時の災厄は、前のよりも更に急なるもので、若干の人死にさへあつたのである。其大略を抄出すると、二月二十四日の晝頃から強い北風が吹き、雨が降つた。神子浦といふ島唯一の船着場が崩れ、赤い砂を夥しく地方へ吹上げて、處によつては三四尺も積つたといふから、是も亦噴出であつたらうが、日暮方になつて雨風の止むと共に、砂の降ることも止んだ。ところが三月九日の夜になつて、丑の刻に大きな地震が八度ゆつた。さうして暫くすると池の澤に大穴があいて、今度は火石を吹き上げ出した。石は五尺六尺もあるのは大抵中ほどから落ちて、小石ばかりが空へ吹き出したのであるが、それが外壁の上に在る村中へ降りかゝつて火災を起した。神主山城は家藏家財とも燒失して拜殿だけ殘り、清受庵は堂も家藏も家財も皆燒けた。名主七太夫は家・カイコ屋（釜屋）・家財とも燒けて藏は殘り、年寄五次郎組頭太郎右衛門は家藏家財全部、組頭勝右衛門では藏ばかり殘つた。其他に百姓の家二十九軒、堂小屋二十六を合せて六十一棟が烏有に歸した。多勢の者ども途方に暮れ、桶類戸板其他手に當る物を被り、築地の蔭或は所々の洞穴に逃げ込み、辛うじて命を完うした。翌十日の朝に至つて火石は降り止み、其あと砂が降り又夥しく泥土が降つて、晝頃になつてそれも止んだ。平地の畑には土砂の積ること三四尺、山手の傾斜地は一尺ぐらゐ、火穴から遠い場所には五寸ほどの處もあつた。

　池の澤の周圍の平地は、もう此頃は快復して、追々に栽培を始めて居たらしい。池の附近には温泉があつて、農作(420)の人々はそこに小屋をかけて宿泊し、往來の勞を省いて居た。三月九日の晩も男十一人女三人の者がそこに居て燒け死に、砂に埋まつたか死骸も見えないと報ぜられて居る。一説にはその夜こゝに居た者の數は八人であつたと謂ふ。其中で與太郎といふ男が只一人、馴染の女に逢ひに竊かに歸つて居て助かり、死んだのは七人だけであつたと謂つて居る。この與太郎は後に八丈へ遁げて來て、八十餘りまで生きて居た。自身この話を近藤富藏にしたのだから、報告文の方が多分誤りであつたらう。

　島の農作物や諸草木は、火穴から最も遠い西北の一隅に、僅かばかりの青みがあるばかりで、其外は一切跡形も無く、樹木は燒かれないものはすべて立枯れになつた。桑の木だけは肝要と存じ、早速根元より石砂を掻き除け、手入致せども益無しとある。前年以前の大損害にも拘らず、尚努力して養蠶は續けて居たのである。今年の噴火にも蠶兒は助かつた家があつたのだが、桑の葉が此通りなので全部損亡となつてしまつた。

　青ヶ島には牛が居ないと書いた書物もあるが、此頃は既に數多く飼養して居た。火石が降り出して如何とも仕樣がないので、綱を解いて放して遣つたところが、苦しがつて方々を驅けまはり、コシ即ち外側の崖から飛びおりて死んだものが過半であつた。殘りは三十頭ほどあるが飼草が無いので、海手のコシへ梯子などを渡して、どうやら斯うやら岩の蔭の草を集めて來て、養ひ續けることが出來た。

　水は今までは尚池の澤の近くの溜り水を汲んで來て飲んで居た。それが山燒けで通路が絶えてしまつたので、島中相談して越の川といふ處の僅かな清水を汲みに行くことにした。ほんの一滴づゝ垂れる水だから、全村の飲料には引足りさうも無い。雨の降るのを待つて天水を貯へる他は無いと謂つて居る。雨は幸ひにして此頃よく降つたが、其代り方々から燒砂や泥土を押流して、僅かに燒け殘つた家を埋め、板敷の上或は柱の中程までも上つて來る。それを總掛りで掘り除けるのだが、中には手に合はずその儘にした處もある。それよりも困つたのは道路の崩れたことで、神子浦と西浦との船着場には、辛うじてまだ細い道路があるが、此上もし崩れたら外部との聯絡が絶えようかと、それ(421)のみ苦勞にして居ると謂つて居る。斯ういふ?態の下に去年の旱魃の後を承けて、極度に食物が缺乏して居るのである。御手當が無くては助からぬと謂つたのは些しでも誇張の辭では無かつた。

　

　　　　　　　　　　七

　

　斯ういふ危急の際に、一月以上も報告がおくれたのは恐らく交通の方法が無かつた爲だらうと思ふ。島には雲霧のかゝる日が多く、八丈では此變を知らずに居たらしい。それが此知らせによつて非常に驚き、再び大賀郷の忠次郎、中之郷の清次郎、樫立村の市郎右衛門と三名の年寄たち、時刻を移さず早船を以て漕ぎ付け見分したといふが、其の記録は殘つて居ない。五月五日には末吉村の年寄淺沼源左衛門、組合頭甚三郎と共に、山燒け見分として青ヶ島に渡島した。其時の日記は此家に傳はつて居た。同じ日午後に西之浦に着岸し、六日は荷揚げ、七日は雨降つて山荒れ、八日は快晴だつたので、御圍ひの穀物を割り渡した。翌九日から島内の巡視に取掛つたが、毎日の大風雨で二十一日迄のうちに見分の出來た日はたつた二日きりであつた。二十二日には南風が吹いたので、神子浦から船を出したが、忽ち風が變つて船を戻し、六月五日まで十五日の間この島に滯在させられた。翌六日には再び出帆したが、海上霧がかゝつて針路を失ひ、八日には漸く地山《ぢやま》を見かけたが、土地が不案内なので沖へ突戻し、九日には天氣がよく、漁舟が出て居るからこゝは何處かと尋ねると、上總國興津といふ村であつた。上陸して名主と相談をしたが、こゝは外海の荒濱だから、村次で送つて貰つて房州の鼻をまはり、内海に入つて百首《ももくび》といふ村で水先を頼み、浦賀の番所に行つて改めを受け江戸表へ乘廻した。八丈島へ還つて來たのが翌四年の春であつて、たつた一度の見舞に小一年も費したわけだが、その代りには此序に江戸の役所で、青ヶ島の慘状を報告し、天明四年以後の年貢諸役免除、御救ひ穀支出の沙汰を受けて、戻つて來たのは手柄であつた。

　青ヶ島の方でも天明四年は、一年だけ災害が休みであつた。其間に於ける島民の結据經營は、想像することが出來(422)る。江戸表の御救ひ穀は出る。八丈からの圍ひ穀等も積み送られる。曖い土地だけに草木は速かにほき返り、荒れた作場も追々と地馴らしが進み、一旦枯れ盡した桑畠も、新たに苗木を植付けて程なく成長した。土地の收穫のまだ足らぬ部分は、山海の採取を以て補充した。この調子で行けば復興も早からうと、一同が元氣づいて居たのであつた。然るにその翌天明五年の春になつて、又新たなる噴火に見舞はれ、是が今まで經驗したものゝ、何れよりも更に激烈であつた。もうどうしても踏留まつて居ることは出來なくなつたのである。

　噴火の始まりは二年前の天明三年度と、僅か一日ちがひの三月十日午前であつた。青ヶ島の方角に當つて、火炎立ち昇るを望み見て、八丈では早速に通用船を仕立て、船頭惣兵衛に水手四人を副へて見屆けとして出帆させた。幸ひに風都合よろしく、夜の八ツ時に乘り附けたけれども、眞暗で船を寄せることが出來ず、夜の明くるを待つて帆を少し揚げ、走りながら島の樣子を見るに、神子浦から西浦、新島ヶ鼻までの間は黒闇で物の色目も見えず、灰煙が船へ吹掛けて來る。そこでやゝ沖中へ出て船を待たせ、島の形勢を望み見たるところ、頂上中央から北へ寄つて白煙渦卷き、島の周圖は一圓に黒煙で磯際からは稻妻の如く、絶えず火炎が燃え立ち、又空中からも火玉が閃めき、山の形は一帶に低くなつたやうに思はれた。さういふ内にも折々震動があり、山燒けは愈々募り、到底船を着け得る見込が無いので、空しく八丈の島へ引返して此?況を報告した。八丈の方では此報告を聽いて或はもう一人も殘らず、亡び失せたものと想像して居たのかも知れぬ。もしくは海が非常に惡くて、重ねて見に行くことも出來なかつたものか、其後二十日近くの間、どうする方法も立たずに眺め暮して居たやうだ。そこへ青ヶ島の方から船を艤して、名主七太夫外八名の者が、注進に來たので始めて實?が明かになつたのである。

　

　　　　　　　　　　八

　

　青ヶ島名主七太夫の注進は、この三月二十九日附けの文書となつて、八丈の島には傳はつて居るが、斯ういふ生死(423)の境の口上書としては、可なり明確に災厄前後の事情を悉して居る。殆と奇異に近いのは此島爆破の?況が、一囘毎に趣を變へて居ることで、是を詳しく知るのは學術の上にも價値が有ると思ふ。即ち安永九年のは湯水の湧出、翌天明元年は急激の増水と煙、同二年には砂が多く降り、同三年には火石が飛んで村が燒けた。さうして今度のも亦水は少しも出なかつたのである。三月十日の日の巳の上刻頃、例の池の澤から俄かに山燒けが起つて、先づ白煙を吹出し、次で黒煙が夥だしく立登つて、島中を眞暗に覆うた。其間に火石が飛び泥土が降り、怖ろしい音響と共に大地が震動して、黒煙の中からは折々稻妻のやうに火炎の燃え上がるのを見た。夜中に及んで泥の降るのは止んで、今度は砂土が降り始めた。それが翌日の朝になつて漸く止み、火石も鳴動も鎭まつたと思つて居ると、昨日と同じ時刻の午前九時過ぎから、又々砂が降り火石が飛び始めて、二十九日に島を出て來る時まで、ずつと續いて居た。十八日頃から一層猛烈になつたと謂つて居る。

　人家のある方へは砂土は盛んに降つたけれども、火石は幸ひにして屆かなかつた。さし當り一番困つて居るのは飲水であつた。島では其頃まで、まだ池の澤の底に在る大輪ヶ川といふ水を汲んで飲んで居た。そこが燒出しの地であるから、當然もう汲みに下りることは出來ない。其以外に五箇所あつた浦々澤々の僅かづゝの清水のうち、一箇所は天明三年の噴火の爲に崩れて通路が絶え、二箇所は今度の噴火で殆と涌きが止まつた。今一箇所も餘りに噴火の場所に近いので行くことが出來ない。殘るたゞ一箇所の滴り水だけでは、到底入用を充たすことが出來ず、當時は主として雨水を飲んで居るが、是も木の葉は枯れ落ち、たゞ立木の枝を傳ふ滴を溜めるだけで、しかも砂土が降り込んで水が濁り、芋やアシタ草を?《ゆ》でるには差支へないけれども、是で穀物を煮ると、何分にも澁味があつて食べられぬ。其水すらも少し晴天が續けば、無くなりさうで心細いと訴へて居る。作場は里近くのものだけは砂に埋もれても格別痛まなかつたが、二日目に風が南にまはつて、火氣を吹付けたのですぐに痛み、麥その他の作物は申すに及ばず、山野の草木までも青いものは皆枯れた。芋アシタ葉の畠なども、最初泥土が降つて根を堅め、其上へ砂がつもつたので手(424)が附けられない。通路が損じたので見に行くことも出來ぬが、島の外側もよほど崩れて居るし、澤々の山畑には立木殘らず、火石にて埋められた處も多い。一昨年まで噴火は程なく鎭靜したのだが、今度は二十日近くも荒れ續き、殊に十八日以後は一層烈しくなつた。以前底知れぬ池であつた池の澤が、吹出す火石と砂土とによつて、眞中から埋まつて行き、日ましに火口が高くなつて來る。是が此調子で今少し高くなれば、やがては火石が里中まで、吹掛けて來ることは必定で、さうすれば火難は遁れる途が無い。是では何分にも辛抱しては居られぬから、どうか此山燒けの鎭まる迄の間、在島の者を八丈島へ引取つて、一命を助けて下されといふのが、この七太夫等の願書の趣意であつた。

　

　　　　　　　　　　九

　

　八丈の方では此火急の報を受けて、無論即刻に救ひに行かうとしたのであらうが、やはり風波の妨げがあつたと見えて、十日ばかりも出發がひまどつた。四月十日の日には樫立村名主市郎右衛門等の一行が、青ヶ島から遣つて來た補理舟に乘つて、御救ひ穀を積んで八重根港を出帆した。夜に入つて海上六七里もあらうといふ所まで來ると、山燒けの火で空も島山も眞畫の如く、折々ひらめく炎は波濤を照らして物凄かつた。翌十一日の朝、辛うじて船を西浦に着け、積み載せた御救ひ穀を神主山城并に村下役人へ引渡し、尚島中を見分して還らうとしたが、折ふし風は南で、池の澤の黒煙灰砂を吹付け、人家も危い樣子だから早速に歸帆の舟を出した。青ヶ島の男女四十五人、この小さな舟に便乘して漕出したが、沖合に出るまで灰砂は舟に降りかゝり、難儀をしてやつと八丈へ戻つて來たといふことである。

　此時の見聞として八丈に傳はつて居る一つ話は、島の大神宮の御山ばかりはまだ火炎が及ばず、こゝに遁れた者が皆無事であつたといふ神�ｺの忝けなさ、今一つは島の飼牛の皆燒け死んだ中に、たつた一頭の大牛が、人も通ふことの出來ない岸の上に助かつて居たといふことなどである。此時には島は既に一面の火になり、人家も既に燒け失はれ(425)て居たのであらう。老少男女の者が濱に下り潮に浸り岩に取縋つて歎き悲しむ聲は、たとへ樣も無く哀れであつたと謂つて居る。名主七太夫以下の先に來た人々が之を聽いて、胸を痛めて居たことはさこそと察せられる。それでも救濟は尚容易で無く、更に半月餘を隔てゝ四月の二十七日に、漸う三艘の助け舟が、八丈島から出て此島へ漕ぎ寄せられた。生き殘つて居た人々の歡喜はいふばかり無く、一百八人の男女が速かに其舟に扶け乘せられて、大急ぎで八丈の島へ渡つて來た。島には此舟に乘ることの出來ぬものが、まだ幾人か殘つて居て、助けてくれと泣き叫んだが、舟は小さし人は多し、もうこれ以上はどうしても救ふことが出來なかつたと言つて居る。

　青ヶ島の人口は、中興廣江彌次郎の渡航の時、七軒百姓と謂つて居た者が、追々に繁昌して其八倍に近くなつて居た。江川代官の安永三年の大概書といふものに、家數は五十三軒、男百六十一女百六十六、合せて三百二十七人、外流人一人と見えて居る。是から六年目が最初の噴火だから、此時にもさまでの増減は無かつたものと見られる。それが四月二十七日の救ひ舟で百八人、其前の十一日の補理舟で四十五人、三月終りに名主等と共に來た者を合せて、二百二人だけが脱出した。殘つて死んだ者が百三四十人かと、近藤富藏の謂つたのは當つて居るが、其大部分は二度の助け舟よりも前に、恐らくは弱つて既に殪れたのであらう。此間にたつた一人、極めて異樣なる生殘者のあつたことが、全く忘れられ且つ偶然に記録せられて居る。それは安永三年の大概書に、外に流人一人とある其流人で、幕府の小普請組丹波五左衛門支配、鈴木新三郎の惣領正三郎のなれの果であつた。如何なる罪科に由るものか私はまだ知らぬが、享保十九年の冬、弟の數馬と共に八丈島へ流罪となり、それから三年後の佐野新藏の騷亂に加擔して、弟は小島へ島替になつて五十六年居て死に、兄の正三郎は青ヶ島へ移されて、四十八年目になる此年まで生きて居たらしいのである。あんまり久しくなるから別の人かと思はれるやうだが、彼と同罪で青ヶ島に來た者は尚二人あり、其一人の葛西の東昌寺といふ僧は、三十三年間島に居て病死し、今一人の古河の彦八といふ博徒あがりは、二十一年も經つてから惡いことをして、名主の倅の淺之助に殺された。この正三郎より外には島の流人は無いのである。流人帳の面(426)には、天明五年乙巳の十月に死んだとあるが、是が誤りで無いとすれば、此際八丈へ遁げ戻つて、半年足らずも居て死んだのである。非常な長命の流徒だが、島の書き役でも勤めて居て、先に名主の一行と共に出て來たのかも知れぬ。何にせよ最も奇拔なる不良少年の末路であつた。

　

　　　　　　　　　　一〇

　

　青ヶ島の避難民は八丈の島に來て、それ／”＼知るべの家を頼つて住んで居たが、何れも衣食に窮乏して居たと近藤氏は記して居る。島が平和の年ですらも、外へ持出し得るものは儘かな絹絲か、鰹節の他には何も無かつた。勞力はたしかに唯一つの利用し得るものであつたが、八丈の島にもそれは剰つて居て、少しづゝは内地の方へ出して見ようかといふ處であつた。それを代物に取つて貰つて、對等の交易生活をすることは六つかしかつた。乃ち八丈人の同情と好意とは片務的のもので、しかもそれが十分に豐かであつたのである。青ヶ島の青年たちが、永く記憶して居つて然るべき名前が幾つか有る。其中でも大きな力となつたのは、三根村の百姓高村三右衛門といふ者の敏活なる決意である。三右衛門は此時齡四十二歳、祖父の代には御船年寄を勤めて、通商によつて若干の富を積んで居たのであらうが、それにしても島の物々交換を主とした社會では、可なり大金の五百兩を投げ出して、是を官府に託して其利子を以て罹災民の救助に宛てんことを求めた。是が青ヶ島噴火の翌年早々のことで、天明八年の孝義録には其名が掲げられ、又其以前にも苗字永代御免、帶刀は一代限り御免、且つ御袴地一反の褒賞を賜はつて居る。此基金の年利は一割二分の六十兩とし、内十兩は三右衛門男子無きにより、相續の娘へ之を下げ渡すこととし、殘り五十兩を穀物に代へて積み下し、青ヶ島百姓へ甲乙無く分配して、尚餘分が有れば是を山燒け荒地の復興費に充てるといふ計畫であつた。勿論いくら島地でも是だけでは足りなかつたであらうが、當時の代官役所では年租免除と、貯穀の支出以外に、別の案も無かつた際に、率先して快復の策を立てた無形の支援は大きかつたらしく、事實また青ヶ島の人々は、此基金を(427)頼りにして、もう一度島に戻つて行く勇氣を起したやうである。

　右の高村三右衛門以外に、八丈の島人でこの恢復の事業に參加した者は多い。たとへば噴火の翌々年、天明七年の六月十日には、青ヶ島の舟を利用して見屆けに行つた者がある。其時の人名は傳はつて居らぬが、早速歸帆して山燒けは最早鎭まつたと報じて居る。次の天明八年には中之郷の年寄松次郎といふ者が、又見分の爲に渡海して、五月の朔日には歸帆屆を出して居る。青ヶ島の人々も共々に渡つたのであらうが、兎に角に八丈の役人たちは、是を自分たちの仕事の如く考へて、代る／”＼この難局に當つて居たのである。實際又渡航の不便、風波の荒かつたことが主要なる障碍でもあつた。もしも是が地續きであり又は近くの小島などであつたら、ぢつとして五十年以上もの、寄食人生活を續ける筈は無かつたのである。

　

　　　　　　　　　　一一

　

　記録の表には少しゝか見えて居らぬが、罹災者の辛苦は可なり忍び難いものであつたらしい。青ヶ島の代々名主、七太夫は老人であつたが、八丈へ來てから三四年の間にこの世を去り、伊勢崎と呼ばれた佐々木氏の本家は絶えてしまつた。是を嗣いで村無き青ヶ島の名主となつたのは三九郎であつた。三九郎の家筋と續き合ひは不明であるが、天明五年三月二十九日の屆書に、總百姓代として連署して居るのが同人らしいから、多分前名主と同道して八丈に渡り、之を助けて最初から艱難を共にしたのである。さうして此人の如く憂ひ悲しみの中に、一生を過した者も稀であつた。

　名主三九邸の青ヶ島へ渡つたことが、始めて記録せられて居るのは寛政元年、即ち大噴火の時から滿四年の後であつた。此年の閏六月十六日、三九郎は名主として故郷の島に渡航し、同じく二十一日に無事に歸つて來て居る。代官役所の方では、恐らくその實地見分の意見書に基づいて、新たに青ヶ島起し返しの方策を立てたやうで、即ち金二百五十七兩二分と銀五匁の拜借を仰せ付けられ、これを以て穀物諸色の購入、その他開發の用意に取掛かることになつ(428)たのである。それから約三年の日子は專ら此支度の爲に費されて居る。寛政四年の四月十五日、ちやうど青ヶ島の恩人の高村三右衛門が、此事業の成功も見ずに死んだ日から十日後に、名主三九郎は又青ヶ島に渡航して實況を見屆け、そこで愈々耕作の試みを、願ひ出るといふ段取にまで運んだのである。

　此計畫は資料の完備といひ、又是に携はつた者の意氣込から言つても、殆と萬全に近いものであつたのだが、たゞ一つ天候だけが是に幸ひしなかつた。二島の交通は素より難航路に相違なかつたけれども、前後の歴史に比べて此時ほど、海の荒かつたことも稀である。或は大山の噴出と同樣に、何か隱れた天然の原因が、潜んで居たのでは無いかとさへ思はれる。今その經過をざつと年順に敍べて行くと、第一囘の鹿島立ちは寛政五年、丑年七月十二日のことであつた。名主三九郎は同勢十九人と共に、穀物農具を船に積んで、三たび青ヶ島へ押渡つて、小屋を掛け十二人の者を殘し置き、自分等八人は八丈へ歸つて來た。ところが種穀が不足だといふので、翌八月には青ヶ島の方から、五人の者が八丈へ渡つて來ようとして、海上で行衛不明になつた。次の年の四月には二艘の船を仕立てゝ、食料を積んで此方から渡つて行つたが、是は青ヶ島に着いてから大時化に出逢ひ、波に拂はれて其船が流失した。それでよんどころ無く燒灰に埋つた家作を掘起し、農具を釘に打つて一艘の小舟を作り、それに取乘つて六月の幾日かに、辛うじて八丈へ還つて來た。一行は十三人、其中にも名主三九郎は加はつて居たのである。

　

　　　　　　　　　　一二

　

　次の寛政六年の七月、船頭彦次郎は小船を仕立てゝ、夫食《ぶじき》を積入れて八丈を出帆したが、此舟は難風に遭うて房州に漂着し、國地に越年して空しく八丈へ戻つて來た。次いで九月の十二日、又一艘の食料船を出したが、是は無事に着いて、歸つたのはやはり翌年であつた。寛政七年の一番舟は、二月の十九日に八丈を出帆して、まだ沖へも乘出さぬうちに、三根の神湊で難破し、乘組八人は殘らず溺死し、二番舟だけは四月に出帆して、無難に目的を達して二月(429)目に還つて來たが、それを最後にして約七年の間、事實に於て青ヶ島との交通は絶えてしまつた。

　今日鳥島と呼ばれて居る南方の無人島に、三度に漂着して居た三組の漂流者が、やつと船をこしらへて歸つて來る道すがら、青ヶ島に立ち寄つたといふのは此間の出來事である。その顛末は本篇の附録として、後に詳しく説くつもりであるが、其人たちまでが島の話を聽いて、驚き且つ歎息したといふことである。やつと日本の土地に辿りついたかと思ふと、まだ斯ういふ島も有るのかと、深く殘留者の身の上に同情したと傳へられる。青ヶ島の方でも久しく八丈からの仕送りは絶え、又こちらの容子も知らせることが出來なかつたので、此漂流船の寄港したのを幸ひに、吉三郎七三郎兩人の者を、水先案内として是へ乘込ませ、今度はどうやら無事に本島の方へ遣つて來た。さうして色々と青ヶ島の模樣を語つたさうである。島に殘つて居た者の苦勞も一通りで無かつた。島には當初十二人が殘り、内五人は八丈へ渡つて來ようとして海で死んだが、後に二人加はつて此時は九人になつて居た。初めの年は作物の生育よろしく、麥も粟も共に豐稔と思はれて居たところ、實入りの頃になつて數多くの野鼠が現はれ、次第に喰ひ荒らし、當年などはもはや一粒の種子も無い有樣で、僅かに芋甘藷の少し殘つたのを食つて命を繋いで居る。一方には島中總掛りで鼠狩りを行ひ、千五百疋も捕つて見たけれども、打てば増し殺せば殖えて、其害は久しい後までも絶えなかつたと言つて居る。

　右の漂流人等の八丈島へ寄港したのは、寛政九年七月中頃のことであつた。八丈ではこの前の年の四月にも、船を出して食料を積み送つたのだけれども、其船も難風に遭うて房州半島へ流れ、直ぐに三宅へ漕ぎ渡つて元の港へ引返し、青ヶ島へは到達し得なかつた。其人々が斯ういふ新たな消息に接して、心を痛めたことは想像に餘るものがある。名主三九郎等は大きな決心をした。さうして同じ月の二十九日には、再び船を仕立て開發の食物を積んで、男女十四人の者が八丈を出帆した。ところが此船が又難船をして、今度は紀州熊野浦の、三木島といふ海岸まで流れて行つた。此當時の記録は詳しいものが殘つて居ない。たゞわかつて居るのは彼地滯在の間に、乘組みの者十一人が病んで没し、(430)其中に名主三九郎もあつたといふことである。其他に女一人は送られて來て江戸に留まり、男二人だけが八丈へ戻つて來た。橘南谿の西遊記續篇に、著者の友人喜多某といふ醫者が、ちやうど此際に熊野の二木島に行き合せ（前にいふ三木島は二木の誤りかと思はれる）、青ヶ島の漂流民を治療した話を載せて居る。是を讀んで見ると其時の事情が稍々わかる。話は又聞きの誤りも少しあるらしいが、此時の渡航船には名主三九郎の一家男女、家具什具まで取載せ、八丈へ來てから生れた幼少の童兒も居たといふから、彼は斯ういふ不安の只中へ、尚永住の企てを以て還つて行かうとして居たのであつた。出來次郎といふ珍らしい名の青年は、この百姓の嫡子であつたと謂つて居る。それは全快して還つて行つた二人の中かと思はれる。「一島皆燒け果てたる後へ、年經てたゞ一家のみ立歸りて、何を爲して世のたつきとし、又何を樂しみともせんとにや。如何に故郷の戀しければとて、數百里離れたる沖の小島に、人も無く牛馬も無きに、我家内ばかり歸り住みたく思ふは、外よりはいと不審なること也。其上いつか燒け出でんも測り難きに、あはれなる人心なりけり云々」と記して居るのは、まだ此一行の人々の心持ちがよく飲み込めなかつたのである。名主三九郎が生きて居て述懷をしたならば、今少しは同情の有る批評も下されたことゝ思ふ。

　

　　　　　　　　　　一三

　

　三九郎一家の悲惨なる消息が傳はつて、八丈の殘留者等はさこそ落膽をしたことゝ思はれるのに、尚その間から同じ志を嗣がうとする者が現れた。中一年を置いて寛政十一年の九月四日、男女三十三人の青ヶ島人は、三たび穀類を船に積んで故郷の島に向つて出帆した。この人數から見ると船も稍々大きく、又數家族の協同であつたらしいのだが、是もやはり亦海上で難風に遭ひ、同じやうに紀州の洲浦といふ處まで漂流した。但し今度は幸ひに一人も損ぜず、全部救助せられて翌十二年三月に江戸へ送られ、同じき五月には八丈へ戻つて來た。青ヶ島還往の計畫は、茲に至つてか一旦の頓挫を見たのである。寛政五年以來、島に渡つて居た七人の者は、野鼠と闘ひ無限の寂寞と闘つて、兎に角(431)此時まで堪へ忍んで居たのであるが、船の通ひが絶えて既に丸六年、もはや何としても續命の途が無いので、次の享保元年の六月八日に、島で燒け殘りの家作を以て小舟を作り、全員それに取乘つて八丈へ引揚げて來た。高村三右衛門の義捐金も、此時は既に雜用に宛てゝ殘り無く、開田の力全く盡きて、誰一人之を企てようとする者が無くなつた。享和三年の五月には、代官手代秋元利左衛門青ヶ島に渡海して、燒け跡の荒地見分を遂げ、島は無人無毛の地となつてしまひ、次いで文化八年には、御普請役河口覺藏八丈に出張して、青ヶ島起し返しの問題を取調べたけれども、終に再度の開發の沙汰は無かつた。文化の末年には青ヶ島人の寄留者は、減じて百七十七人になつて居る。小屋は十三戸あつたといふが、人口に比べてやゝ少な過ぎる。一部分は知るべの家に同居して居たことであらう。八丈島の圍ひ穀のうち、青ヶ島の預り分といふのが粟六十九石餘、稗が十四石餘りあつたといふが、それは帳簿の上で實際は之を借りて食つて居たものと思はれる。高村氏の基金の五百兩は、文政四年から年利を八分に下げられ、四十兩づゝが罹災民に下げ渡された。是を生活の資に宛てゝ尚其中から、復興の餘力を積み上げるといふことは、到底尋常の忍耐では出來ぬことであつた。新しい名主の次郎太夫は、後に青ヶ島で神と祀られただけに、優れた才幹と強い意思と、又大いなる幸運とに惠まれて居た。彼を支持した主要なる力は、同郷人の一致と海上の平穩とであつて、今度は官府の特別の助勢無しに、比較的短かい期間に目的を達することが出來た。さうして近藤富藏の八丈へ遣つて來た時が、ちやうど其事業の將に成らんとする際であつたのである。

　

　　　　　　　　　　一四

　

　名主次郎太夫の名の始めて記録に見えたのは、青ヶ島最後の噴火から三十二年目、文化十四年のことであつた。島人は故郷の土地を失ひ、隣の島に寄食しつゝも、尚自分たちの名主を推し戴いて居たのである。次郎太夫は島に還つて後嘉永の五年に、八十四歳の高齡を以て歿して居るから、明和四年の生れで此時が四十七歳、天明五年には僅か十(432)五歳で、八丈へ遁げて來て居るのである。青ヶ島から來た者はどし／＼と死んで代が替り、たま／＼老功の者が殘つて居ても、次第に衰弱して自然と快復の志もくじけ、此儘で歳月を過ぎて行くならば、後には故郷の島へ還る機會を、捉へることも出來なくなるであらうといふこと、是が次郎太夫を發奮せしめた、何よりも大きな動機であつたと言つて居る。今一つは八丈島も以前とちがつて、人間の數が追々と増加し、斯ういふ假住居では渡世にも難澁をする。かた／”＼何時迄も此まゝでは居られない。何としてゞも還つて行かねばならぬ、といふのが表裏の無い眞情であつたやうに思はれる。

　何よりも不利なる?況は、前の三九郎名主の時とはちがつて、政府の援助金の一文も豫期せられなかつたことである。其上高村氏の基金ももう無くなつて居たものと見えて、それをどう使つたといふことが一言も述べられて居ない。實に心細い孤立獨行であつたのである。仲間が其積りを以て餘分の勤勞をしたことゝ、新たな希望が出來てから、異常の忍耐をしたことゝだけが、可なり明瞭に記録の端々から窺ひ得られる。さうして八丈の有力者たちの同情も、まだ幸ひにして衰へて居なかつたから、それが少なくとも無形の援助、即ち相談相手と激勵とにはなつたのである。何にしても名主次郎太夫の勇氣と細心とが、能く斯ういふ難事業を遂行するに適して居たことは、青ヶ島の爲に特筆大書すべきことに相違ない。文化十四年の願ひ書が取上げられて後、江戸表に出て下知を受け、兼て渡島の支度を取揃へに出國するに先だつて、仲間へ言ひ渡した規約といふものを讀んで見ると、それは驚くべく行き屆いた、又誠意の籠つたものであつた。彼の計畫では、最初にまづ百七十七人の同島民の中から、二十七人を選拔して内七人を交通方に、他の二十人を先發隊として、島に渡らせて建設の仕事に就かしめようとして居るが、恐らく其通りに實行せられたものと思はれる。個々の職制には各々其主任が指命せられて居る。船は大小の二艘を新造して、大形の渡海船には船頭に岩松、同｜親仁《おやぢ》に長吉を任じ、小船船頭は半右衛門、親仁は彦太夫であつた。殘り三人は水手となつて其下に附いたのである。先發隊の二十人の中では、第一に濱方普請棟梁に惣太郎、同じく手傳兼道普請棟梁に萬吉といふ者を(433)任じて居る。濱と道路とを島開發の最初の要件としたのである。其次には伐開棟梁に彦右衛門、其權能は單に荒地の開墾だけで無く、植付作物の選定から、伐倒した樹木の利用法の指圖までに及んで居た。其次には漁棟梁の職を設け、�ｺ右衛門なる者を是に當らしめた。耕地作物の充足する迄の間、魚類を以て食料を補ふだけで無く、是によつて働く人たちの精力を養ひ、兼て又魚油を夜の燈火の用に供せしめんとしたのである。しかも用意の周到なことは、更に一歩を進めて鰹節の貯藏に及び、他の漁獲物は勝手に處理してよいが、鰹節ばかりは向ふ三ヶ年の間、之を島中に圍つて置いて、一切隱し績み等をしてはならぬ。其禁を犯した者は罰を受け、且つ品物を取揚げると嚴命して居る。是は必ずしも食料の缺乏に備へるだけで無く、實は以前から是が青ヶ島の貨幣でもあつたからで、之を統制管理することが、自然に各人に私を營ませず、力を公共の目的に盡させる結果にもなつたのである。棟梁といふ名稱は、島に古くから行はれて居たものでも無いらしいが、單にカシラと呼ぶよりは印象が遙かに深いので、斯んな僅かな言葉の用方にも、尚人心を新たにしようとした企てのあつたことが窺はれる。太兵衛といふ者が右四人の棟梁の上に、取締役年寄として指命せられて居る。事實は島に於ける名主代理であつた。「太兵衛事は右の面々へ萬事差圖致し、且は相談等の節、年寄の權威を以て我意を申すまじく候。相互に親子兄弟の如く相睦み申すべき事」と謂ひ、又は「前書相定め候役々、何れも高下輕重無之候間、役好み等又は役儀の善惡を申さず急ぎ渡海の上は主役の通り出精相働き申すべく候。今般起し返し働きの儀は、銘々先祖代々住み來り候故郷へ還住の儀に候へば、名主は申すに及ばず、小役人及び此度相立て候役々の面々、小前一同、親子の如く相親しみ、喧嘩口論決して致すまじく候。且又名主小役人等に至るまで、小前へ對し無理非道を申し掛け、或は私慾を構へ依怙贔屓の沙汰決して仕るまじく候。夫食等割賦の節、正路に割り與へ、少しも疑はしき儀無之樣仕り云々」と述べて、部下を諭すと共に又自分たちを約束した態度などは、事は極めて小さいがその懇切の點に於て、昔の諸葛武侯が三軍に號令した物語をさへ聯想せしめる。

　

(434)　　　　　　　　　　一五

　

　この最後の復興計畫は着々として進行し、名主次郎太夫の訓示は文字通り實現したものと思はれるが、その經過に關する中間の報告は傳はつて居ない。其中でたつた一つ、一つ話のやうになつて殘つて居るのは、、島を荒らした野鼠の始末である。寛政度の移住以來、鼠の驅除には一同が力を盡してしかもその效果は擧がらなかつた。折角今年は豐年だと思つて居ると、收穫近くになつて瞬く間に食はれてしまふ。其爲に島では天保の末になるまで、また麥粟は栽培することが出來なかつた。是は何でも地火に燒け死んだ人々の、怨魂の化して成るのであらうといふことになつて、施餓鬼供養を營んでねんごろにその菩提を弔つたところが、それから次第に野鼠の數は少なくなつて、自由に何でも耕作することが出來たと言つて居る。次郎太夫の開發事業は、最初から豫想したゞけでも十分に困難なものであつたが、尚其以上に斯ういふ意外な障碍をさへ、排除して進まなければならなかつたのである。

　ところが是とは恰度正反對に、一方には又丸で思ひ掛けなかつた天佑もあつた。八丈年代記の傳ふる所に依れば、文明六年から享保四年までの二百四十六年間に、青ヶ島の貢船の無難に此島へ到達したのは、正�ｺ六年のたつた一度きりであつた。其他は多くは國地へ漂流し、中には行衛知れずになつた船もある。享保以後とても事情は略々同樣で、漂泊延着は普通の例であり、或は日和の日が無くて、一年一度の渡海船も出せぬ事があつた。殊に天明五年の島燒け以來は、海難は連歳であつて、終に名主三九郎の悲痛なる最後となり、殆と島の人の鋭氣を阻喪せしめて居たことは、前にも一通り述べて置いた通りである。それが此次郎太夫の計畫の始まつて以來、曾てたゞの一度も風波の妨げが無く、船は不思議なほどきちん／＼と、豫定のまゝに往來して居た。是には八丈の同情者たちも驚いたらしく取り分け全力を此事業に傾けて居た人々が、目に見えぬ神秘の導きを感じて、愈々希望ある者の勇敢を、養ひ得たことはよく察せられる。海で働く人々の運勢には、あまりにも顯著な禍福の境目があつた。だから假に彼等の宗教觀に、永く陸(435)上に住む者との差異があつたとしても、私などは尚是を種族先天のものゝ如く、解する氣にはなれないのである。

　そんな問題は今日何れでもよいとして、爰で考へて見たくなるのは、青ヶ島起し返しに費された年數のことである。是が果して次郎太夫等の目算であつたか。乃至は又案外に長くかゝつたものか。最初からの計畫としたならば、如何にあの時代としても餘りにゆつくりとし過ぎて居る。彼が願書を提出した文化十四年には、日は不明であるが兎に角に船は成り、二十人の先發隊は島に渡つて居る。翌文政元年から算へて見ても、それが十七年目の天保五年に至つて、やつと一通りの開發を終つて、青ヶ島人の全部は故土に還り、次の天保六年に檢地竿入れを受けて居るのである。當初それ／”＼の役に任じた人々が、もし相應な年輩の者であつたら、その若干は死し又は衰へたことゝ思ふ。さういふ氣の永い企てが始からあつたのかどうか。勿論是がもし政府の補助金を、毎年給與せられる事業ででもあつたならば、斯樣な施行案の認可せられる筈はなかつた。此點から見ると獨力經營といふことは、寧ろ自由なる手腕を揮はせるに便であつた。私の見る所では、年限は最初よりきめてかゝらず、出來次第に還つて行くといふことにしてあつたものかと思はれる。其爲には八丈に留つた同志の者が、常の通りに否それ以上にも働いて、先に渡つた人々に後顧の患ひ無からしめ、雙方各々自活して行くやうな計畫が立つて居たらしいのである。尤もそれは必ずしも新しい案で無かつたらう。前の名主三九郎の一族移住なども、もしも海上無難に青ヶ島に渡つて居たならば、或は立派に自活の途を立てて、次々仲間の者を招き得たかも知れぬ。たゞあの方は女子供を連れて、人數の割には勞力が乏しく、又どうかすると孤立分裂の懸念があつたに反して、こちらは家々から働き手だけをすぐつて出したのだから、本據との聯絡は最もよく保たれて居たのである。

　

　　　　　　　　　　一六

　

　兎にも角にも海上の往來に、故障の無かつたのは何よりの仕合せであつた。彼等はその毎年の船便によつて、幾度(436)か交替し又補充したことゝ思はれるが、之に關する記録は今保存せられて居ない。たゞ珍らしく思はれることは、この辛苦艱難の十七年間に、青ヶ島人の總數が僅かながら殖えて居ることである。天明五年に島から脱出した二百二人が、文化末年には百七十七人に減じて居たことは前にも記したが、それが移住を完了した天保六年の調査書には、早又男百三十三人女百八人、合計二百四十一人になつて居るのである（末吉村淺沼氏の舊記に、三十五戸百九十九人とあるのは、恐らくまだ全部が引移らぬ前の計數であらう）。故郷獲得の幸福なる新刺戟は、目に見えぬ影響を人口の上に及ぼして居る。天保十一年の計算といふものには、是が更に増して二百八十八人となり、その増加率は略々現代まで持續したやうに見える。近藤春夫の小笠原及八丈島記に依れば、それから七十五年後の大正四、五年にも、青ヶ島の人口は四百七十二人から六人に増して居る。

　獨り島住民の戸數のみと言はず、青ヶ島の復興は何れの角度から眺めても、十分に近いものであつた。八丈の島では地役人の高橋長左衛門｜爲全《ためたけ》といふ者が、既に計畫の當初から、影になり表に立つて其實現を助けて居た。それが此度の成功を我事の樣に悦んで、天保六年には進んで實地見分に出掛けて居る。竿取りとしては是も青ヶ島と縁の深い大賀郷の元年寄、多分此時はよほどの老人となつて居た忠次郎、それに名主の次郎太夫を同行して居る。四月の十六日に青ヶ島の船に乘つて、翌十七日には早くも着船し、それから多くの日數を費して、全島の測定をした。此際の報告書、種々なる往復文書は皆保存せられて居るが、尚その以外に同じ高橋氏が代筆したといふ青ヶ島大概書といふものが、是も亦近藤富藏の八丈實記、第八卷の中に採録してある。此等の記述を綜合して見ると、島の還往後の生活?態は、或點に於ては却つて災厄前よりは良くなつて居たかとさへ思はれる。先づ民家の再建せられたものは唯一戸で、他の四十一軒は假小屋だとあるが、是は單に表向きの名義であつたらしく、三方を丁寧に石垣で圍ひ、暴風を防ぐ用意がしてあつた。其他に神社も出來、清受寺といふ寺も建ち土藏も一棟は早くから作られた。水は五箇處の泉が四つまで潰れ、殘りの一箇處も人家より三十町餘りあり、旱の頃には細くなつてしまふので困ると謂つて居るが、それも(437)以前に懲りて居るから、雨水を受け溜めて使ひ水だけは貯へる設備が有つたことと思ふ。新らしい事業の一つとしては二箇所の鹽釜があつた。鹽は元々どうして得て居たものか、古い文書の中には少しも見えて居ない。多分は主として海の水を用ゐたのであらう。それが今度は兎に角に鹽を燒く計畫を立てたのである。崖が崩れて來たり高浪が揚がつたりして、滿足に鹽の取れる年が少なく、已む無く魚類の鹽辛を貯へて、鹽氣の代用にしたこともあれば、よくよく必要な時には土の小鍋を以て、一合二合の鹽を得たとも謂つて居るから、不自由には相違なかつたのである。

　部落は最初末吉に休戸《やすんど》、及び下澤の三つに分けて見ようといふ企てがあつたらしいが、是だけは實行に障りがあつたと見えて、後々の文書には此地名は現れず、始終一村として取扱はれて居る。儘かな家數だから別居を心細がり、いつと無く元の中心に移り集まつて來たかと思はれる。土地の配給に關しては、定めて色々の利害が抵觸したであらうが、少なくとも公の記録に其問題は頭を出して居ない。名主年寄たちの手腕と信望で、大きな不滿は起させなかつたものと察せられる。何よりも幸ひであつたことは、檢地の使者が深い同情を有つて居たことで、代官所は素より彼等の報告に信頼したのだから、其結果は青ヶ島の爲に、可なり我慢のし易いことになつて居る。青ヶ島の有租地は、古來總反別八十三町四反餘といふことになつて居て、是に一定の率をかけて年貢の絹を納めさせて居たのであるが、高橋長左衛門はその恢復後の成績を檢して、實?に由つて之を七級に分けた。第一が麥畑、是は國地の本畠に當るものである。第二が山畑成り、第三が山畑。山畑は多分伊豆大島などの例と同じく、所謂切替畑として十數年の間に二三囘、林藪を薙いで物を作つた税の安い土地であつたらう。第四以下は種々の荒地亡地で、是には勿論何等の賦課は無い。さうして結局の所災前の八十三町餘に對して、起し返しの地二十九町餘り、新開が五町三反と少しといふことに記帳して、是に在來の税率を以て、貢絹の量を算出することにしたのである。青ヶ島の住民に取つては、一年でも早く檢地をしてもらふことが、それ自身既に大きな恩惠であつた。殘りの未開地が後の樂しみに殘るからである。其上に年貢の絹の納付は、丸四年後の天保十年からといふことに定められて、欣然として承諾書を出して居る。絹は桑(438)を栽ゑる餘地がまだ無いから、八丈に頼んで織立てゝもらふことにした。其代償は恐らくは鰹節であつた。この慣例が後まで續いて居たかどうか。調べて見たいと思ふが私にはまだ判明しない。

　

　　　　　　　　　　一七

　

　斯ういふ離れ島の貢租などといふものは、本來は官廳にとつて算盤にも何も合ふものでは無かつた。如何なる平和の年にも收入は支出に屆かず、結局は僅かばかりの精巧な絹を手に入れる爲に、巨額の經費を投じて居ることに歸するのだが、それでも尚無役の民として化外に放置することの出來なかつたのは、言はゞ大義名分のやうなものであつた。國防や外交の重要性を生じた今日とはちがつて、昔の貢物には別に又精神上の鏈鎖の如きものがあつた。島が獨立して再び課役を負ふやうになつたといふ怡悦などは、此當時ですら内陸の人々には解らなかつたらう。青ヶ島の場合でいふと、斯樣な非常時の救濟や、是に備へた平生の圍ひ穀の手當の外に、古い仕來りとして意外なる下され物が種々あつた。たとへば島では金屬が得難いので、何年に一度づゝかの鍋類の給與がある。土器を燒くべき手段が無いので、折々は擂鉢のやうなもの迄も送られて居る。年貢は公物だから是を運ぶ爲に公けの船が無くてはならず、又是を動かす人々にも一定の扶持米が出て居る。御船の建造には毎囘金二十兩を給與せられる。それが頻々と難破漂歿した以上に、島には粉蟲といふ害蟲が居て、揚げて置くうちに船に穴をあけ、平均三年と持つた船は無かつた。青ヶ島の人々が八丈に避難して居る限り、此種の給與は一切停止せられる。島を無人の無租地として置くことを、格別幕府が苦にしなかつたわけは、斯ういふ所にも潜んで居るのである。それでは堪らぬと感ずる者は、島を故郷として戀ひ慕ふ者の外には無かつた。橘南谿のやうな同情の無い批評をする人が、多かつたといふことも不思議でない。それにも拘らず島の復興は着々と進み、天保十年には六十年近くも絶えて居た貢の絹が再び納められ、翌十一年には次郎太夫亡地新開の勲功を以て、愈々公船の免許が下がり、先規の如く助成の金子、御印浦手形が給付せられた。長さ六間(439)と四尺、横幅一丈七尺と五寸、深さ五尺といふ一艘の補理舟は、恰かも佐野源左衛門の愛馬のやうに、青ヶ島御船といふ標《しるし》の幟《のぼり》を立て、法螺貝を吹きつゝ堂々として、八丈の湊へ乘込んで來たのである。この法螺貝の響といふものには、リバースもエリオット・スミスも既に耳を傾けて居る。南北太平洋の古い漂泊の生活に、心を引かれて居るほどの學者ならば、青ヶ島ならずとも胸を轟かし、泪を目に溜めてゞ無くては聽くことの出來ぬものであつた。ましてや此島に於ては、それが六十年以上も絶えて居て再び響いたのである。

　青ヶ島復興の完了したのは、我々の最も欽慕する伊豆御代官羽倉外記の時代であつた。それが退職して又江川太郎左衛門の支配となつてから、愈々名主次郎太夫の表彰は行はれて居る。時は弘化と改元した天保十五年の六月、次郎太夫は齡すでに七十四であつた。此翁の長命の如きは誠に意義がある。兒孫は日に増し島の新たなる繁榮は眼前に在るのを、更に十年も見續けてから、死んでしかも神に祀られて居るのである。今ではもう只の墓となつたかも知らぬが、次郎太夫の祠といふのは島のテラノトンブといふ頂に在つた。永く吏長の兩人を青ヶ島の守護として勸請したとあるが、今一人は蹉跌した三九郎では無かつたらうか。その毎年の祭の日には、島人は祠の前に參集して、次のやうな祝詞を唱へたといふことである。祝詞とは言つても實は八丈島の高橋長左衛門が、青ヶ島の人たちを饗鷹の際に、作つて歌はせた口説節のやうなものであつた。それを後々まで島人が記憶して居たのである。今でも傳はつて居るかどうか。試みにこゝに全文を擧げて置かうと思ふ。

　　　天保六年

　　　五穀熟する乙《きのと》の未《ひつじ》

　　　青ヶ島なる新造《しんぞ》を出す

　　　卯月十三ぱつちり日和

　　　九人乘組や八重根に着いた

(440)　　　花の盛りの十六日に

　　　波も平らに風靜かにて

　　　御船首尾よく湊へ來たる

　　　新規開發御渡海さまよ

　　　五六三十の年月日頃

　　　御世話なされし庄屋どのの御蔭

　　　檢地とゝのひ御用も濟みて

　　　さても目出たい本望《ほんも》でござる

　　　皐月《さつき》三六、日の大凪に

　　　八丈八重根へ御船は着いた

　　　青ヶ島から御年貢納め

　　　御金賜うて御船は出來る

　　　里は豐作、百姓は繁昌

　　　目出た萬福《めでた》の次郎太夫樣や

　　　子孫榮えて八千代の椿

　　　島は蓬莱萬代までも

　　　燒けず崩れず南の海に

　　壽祝ふやれおめでたや

　

(441)　　　　　　　　　　一八

　

　名主次郎太夫が前には卜部であつたといふことも、或は彼の事業の好成績を擧げた、一つの原因かと思ふがそれは詳かで無い。卜部は最初此島の首領、廣江氏に屬した職分の一つであつたのが、子孫故有つて之を他の家に委讓して居る。八丈の島も同樣に、後に神主といふものが上に立つて、其勢力は微々たるものになつた樣だが、本來は一村の指導者であつたに違ひない。それが尋常の住民に尚暗々裡の感化を持つて居て、いと容易に彼の開發意見に、人心を統一し得たのかとも思はれるのである。もしさうだつたとすれば死後は神となり、記念の中心となつた理由もよく解るが、それを現在の民間傳承の中から、立證することは恐らくは望み難からう。今日の青ヶ島は全體に世間と遠くなつて居る。稀に此島へ上陸する人はあつても、胸の合ふ迄に語りかはす機會は無い。さうして島民が物を知るといふことは、やがては又この古い感覺を、忘れてしまふことをも意味する。人間の歴史のともすれば埋もれ勝ちであることは、心ある者の嗟歎に値すると思ふ。

　我々の耳に入る最近の島の消息は、如何にも不自由な島だといふことばかりである。定めし島の人たちも、同じやうに考へる傾きになつたことゝ思ふ。此島は所謂命令航路の寄航地で、月に一囘かの郵便物だけは、必ず來て積むことになつて居るのだが、濱が惡い爲に船の方では早く出ようとし、島では少しでも産物を積込ませたくて、わざと郵便の袋を出すことをぐず／＼するといふ話もある。私の一友人は島人の家に案内せられて、色々の食べ物を進めて引留められた。船へ歸ると船長が大いに憤つて、今度こんな事があると置いて出ますよと謂つたといふ。今度といつた所で二度行く人は先づ無いのである。或は女の行商人があつて、空壜を多く携へて上陸したといふ話も聽いた。それが賣れるかどうかは知らぬが、島には粘土が無くて液體の容器に不自由して居ることは事實らしい。昔鎭西八郎に教へて貰つたと謂つて、日に乾した土鍋のあつたことは舊記に出て居る。三十日乾すと三日使はれ、一年乾して置くと(442)一月の間役に立つたといふ、うその樣な話もあるのである。今では交易によつて内地の物品の入つて居ることは確かであるが、それを買ふ爲にも斯んな荒磯の崖の上から、牛なり甘藷なりを船に運ばなければならぬのである。牛は天明度の度々の噴火に一旦絶えてしまつたのを辛苦して再び二頭の半の仔を入れ、其後の百年足らずに之を特徴ある物産として居る。甘藷も近世に入つて小笠原島といふ販路が開けたので、可なり重要なる輸出品の一つになつて居るさうだ。たゞ何と謂つても自分の船、自分の湊をもたぬといふ惱みが、外部と交通して生活する時世になると、御藏島も同じことだらうが、著しく島の幸福を割引して居る。當初廣江氏等の一行が遣つて來た頃には、二箇所の船着は共にまだ浪除けの岩を控へて居た。それが追々に海に沈んで行つて、噴火よりも前からもう只の沖になつてしまつた。そこへ山崩れが一層烈しくなつて、之を防ぐだけにも大分の土工を要し、八丈へ渡海の船を出すには波風の無い日でも、男女總掛りで七八十人の人足をかけた。ふだん其船を圍うて置くこと、是が又容易ならぬ骨折であつた。僅か十七八間しか無い丸石の濱に、四方石垣を築いて船を入れるのだが、崖が崩れたり波に拂はれたりして、流してしまふことが何度もあつた。現に天保六年の悦ばしい報告書の中にも、去年の秋の時化吹きで渡海船の外、漁舟も三艘まで取られてしまつて、鰹漁にも出られぬといふ難澁を敍べて居る。さうして是が尚今日に至るまで、解決しきれない此島の問題である。

　

　　　　　　　　　　一九

　

　但し此問題を詳しく説くことは、島に行つても見ない私は其任で無い。是は現實に島を知り、又島を愛する人々に托して、根本からもう一度考へてもらふことにして、終りに今少しく快活な舊話を談り添へて、永く青ヶ島を記憶する種にしようと思ふ。

　此島人の漂流談といふものは、もう珍らしくないと言つては濟まないが、書き切れぬほど數多く傳はつて居る。其(443)中でたつた一つ、不思議な話として八丈でも傳へて居るのがある。正�ｺ五年の七月二十四日、青ヶ島から丸三年かゝつて、八丈へ渡つて來た船が、用を濟ませてもう歸つて行かうとして居る際に、ちやうど江戸からも御用船が到着して、其船に三人の青ヶ島の青年が便乘して居た。年頃は何れも十六七歳、二人は兄弟で他の一人は從弟であつた。同じ七月の九日の晩、濱に繋いである漁舟に乘つて釣をして居るうちに、つい三人とも眠り込んでしまつた。其間に引汐は強く舟の綱を引切り、夜が明けて眼を醒ますと、舟はもう大洋のまん中に出て居た。島へは歸れぬので風まかせに帆を揚げると、舟はどごとも無く沖を走つて、丸十二日の間飲まず食はずに居たさうである。十三日目の朝、漸くに御藏島に乘付けたのを、島から見付け人が泳ぎ寄つて之を助け、あと十日の間此島で世話になつた。ところへ三宅島から所用の船が遣つて來たので、是に便船させて三宅島まで送り屆けた。さうして四五日も居るうちに、折よく八丈へ行く御用船が三宅の沖を通る。早速漁船に乘せて、漕付けて是に乘せて貰つた。此用船の八丈へ着いたのが九月九日、ちやうど三年目に遣つて來た青ヶ島船が歸らうとして居るので、是に乘せて遣つたところが、同じ月の二十五日に無事に歸つたといふ便りがあつた。一方には三年かゝつて漸く來た船もあるのに、此青年たちは拍子がよくて、命拾ひをしてたつた四十何日目に、親々の家に戻つたので、斯ういふ運のいゝ場合も珍らしいと噂せられた。

　次にもう一つ、是も至つて珍らしい漂着の事實談がある。齋藤拙堂の無人島羽衣記と題する一文は此事件の顛末を敍したものであるが、それよりも近藤富藏の書いて殘したものが、俗文であるだけに感覺をよく寫して居る。青ヶ島最後の噴火があつた天明五年の二月の半ば、土佐の沖から漂流して來た船の生殘者一人と、天明八年の正月晦日に、下總銚子の海から漂流した肥前船の十餘人と、翌々寛政二年のちやうど又同じ日に、日向灘で難船した大隅志布志浦の船の六人とが、同じ一つの鳥島に落ち合うて、鳥を食ひ鳥の羽を衣に着つゝ、更に七年の島の生活をした後に、千辛萬苦して一艘の船を仕立てゝ、青ヶ島に辿り着いたといふ一條の物語であるが、餘り詳しく其顛末が傳はつて居るので、却つて其大要を説くことが六つかしい。他日機會もあらばもう一度書いて見ようと思ふ。時は寛政九年の七月(444)始の頃で、青ヶ島では先づ渡つて居た九人の島人が、既に三年も前から八丈との交通が絶えて、是も漂流人のやうな辛苦艱難を嘗め盡して居る際であつた。夜のしら／”＼明けに船を近寄せて見ると、島は周りが崖地であつて、其上端から濱へ楷子を掛けて居るのが白く見えた。それを傳はつて島の者が降りて來て、海を泳いで船の中に乘移り、始めて雙方の事情が明かになつた。島では此時には一隻の小舟も持たなかつた。小屋はあるけれども作物が殆と無く、鼠が多く水が至つて乏しかつた。船道具一切を陸に揚げ、船も楷子によつて岡の上へ引揚げて、先づ暫くは休息せよと言つたが、眼の前に横たはつた八丈の島に、三年の間も渡るべき便宜が無いと聞いては、助かつて歸つた樣な心持はしなかつた。それでも凪を見定めてこの漂流者の船を卸し、島人は鰹を釣つて久々の珍味を賞玩した。七月の八日は幸ひの順風であつたので、青ヶ島の人々が水先として同船し、恙なく八丈の八重根湊に着岸した。八丈の老若は岸に立出でて、何れも最初のうちは異國の船だらうと評定して居た。鳥島の新造船は流木の繼合せで、片�竅sかたゝな》に百四十枚もの板を打つけてあつた。帆柱は二本であつたが其四反帆は難船の艀《はしけ》の帆の破れに、船頭の古着を縫合せたもので、彼等は衣類を帆に供した代りに、めい／＼は海鳥の羽を集めて、こしらへた衣を着て居たから、さう思はれたのも無理は無かつた。悲壯なる青ヶ島の再興史には、又斯ういふ奇拔な一挿話さへ伴なつて居たのである。

　

(445)　　　　　島々の話　その一

　

　　　　　　　　　　一　島の數

　

　日本の島の數は誰も知つて居る者は無からう。帝國統計年鑑には周圖一里以上の島及び一里以内なるも民居あり又は望標等の用を爲す者のみを算へて居る。此が北海道沖繩臺灣等を除きたる舊日本だけで三百九十九といふことである。この三百九十九は大體伊能忠敬の實測録及び大圖に依つたもので其數も面積も周圖の積算も共に統計年鑑を始めてより二十七年の間些の増減をして居らぬ。半永久的絶望的の統計である。過去數十年の間には島の數は加はり且つ減つて居る。島の大さも色々と變つて居る。或は人が新に居住し或は居住を止めたのもあらう。此等の異動の些も現はれて居らぬ統計である。何が三百九十九やら、呑氣千萬な統計である。

　併し精確な島の統計を作らんとすれば先づ以て「島」の定義を極めねばならぬ。少しでも平水に由つて本土と隔離せられて居れば凡て島であるか、又は變り易い河の中洲や陸地植物の發生せぬ岩礁などは、假令土地の人は島と呼ぶとも之を除外すべきであるか、或は略々主陸からの距離や周圖の長さに依りて稍々顯著なるもののみを島として算へるか、先づ地理學者を煩して範圍をきめて貰はねば統計の怠慢を責めることも出來ぬ。が兎に角我々が平素島と稱して居るものでも五百や八百の少ない數ではあるまい。日本は珍しい島國である。

(446)　その島國の日本は妙に島の事に注意せぬ。三百九十九の大島ばかりでも面積は約四百十五方里、ざつと一府縣の廣さである。土地利用の精度（intensities）と人口の配布を參酌すれば、島の經濟上の價値は先づ兵庫愛知福岡の如き一流の縣一つに當るのである。然るに島に冷淡なのは統計ばかりでは無く、一般に世の中の注意が之に向はぬのである。島の生活は政府からも學者からも研究せられて居らぬ。是れ恐らくは擴張する帝國の國風でも有らうが、日本は決して平地ばかりの國では無いので、非常な深山もあれば數千の離島がある。平地だけに文明を布いて滿足することの出來ぬ國である。自分は少くも世人に島に對する好奇心を起さすべく島の話を試みようと思ふ。

　

　　　　　　　　　　二　島の數の異動

　

　假に島の數を算へ盡すとしてもそれは單に一時の數字である。島は其大小形?と共に其數に於ても古來隙も無く異動して居る。火山の力は恐しいもので、現に我々が記憶の前に於て或島は新に生じ或島は無くなつた。伊豆の大島の島の形は二百年この方大いに變つた。併し此の如き覇者なる變動の外に、徐々に起る島の増減は結果に於て却つて前の者よりも遙に大きいのである。島の數は減じた方が増した數よりは多いであらう。増したものは川口の島である。眼前に横はる佃島月島の如き例は諸國にも有る。日向の延岡に沿うて海に入る五箇瀬《ごかせ》川、其川口には方財島《はうざいたう》寺島の二つの島があつて小さいながら人が住んで居る。豐後の佐伯の番匠《ばんじやう》川口には亦三つの島がある。其一つは昔からの小島に寄洲が着いたものであらう。港は段々惡くなつて行く。木曾川の川口にも新しい三角洲が出來かけて居るが、これは川筋の改良の結果物に成らぬかも知れぬ。

　島の減ずるのは大抵は主陸と接續する結果である。其數が多いばかりで無く事情も色々複雜して居つて面白い。最も古いのは天然の地變の爲である。越後の彌彦山は記録には見えぬけれども島であつたに違ない。「彌彦のおのれ神(447)さび」といふ古歌もあつて姿の面白い孤山である。北の一面は海で、他の三面のうち約五分の四迄の間、其麓を環流する信濃川は、次第に海中に陸地を作つて流末を延長した形跡がある。新潟の港は最早海との連絡を絶ちかけて居るが、其港から七八里の上流に新津がある。蒲原の平野は今でも水澤である。地藏堂から彌彦の西麓なる寺泊までは二三里の距離であるのを見れば、今日でもたゞ僅なる陸地で繋がれて居る島である。出雲の島根半島も其名の示す如く以前は島である。東西の大海と中の海と宍道湖と今日でも水路相通じて居つて、其間に出來た平地は新しい寄洲と埋立である。出雲風土記に見えて居る國引の古傳説は、學者の解する如く神代の殖民を意味するものであらうけれども、此半島の連山が僅に主陸と結び付けられて居るのを見ると、神樣の力で藤の繩をかけて、もそろ／＼と引寄せられたといふ話が如何にも眞面目らしく聞える。

　島根半島と恰も腹背を爲す備前の兒島郡は記録以後にもまだ島であつた。大和路の吉備の兒島を見るときは筑紫の小島思ほゆるか李といふ歌の出來た時代には、九州から上る船は中國の岸に沿うて、山陽線の鐵道の南あたりを通り、今の兒島灣内を通過したのであらう。�ｺ川時代に岡山藩の津田左源太が計畫したのもこの舊水道の復活であつた。併し此は天然の傾向に反した計畫であつて、兒島が主陸と續かうとする希望は強力のものであつた。現に源平時代には昔の水路は次第に淺くなり、佐々木盛綱が徒渉する程の淺瀬が出來て居つた。今日となつては接觸面は四五里に亙り、灰貝を養殖した兒島灣の泥海は大部分藤田組の新田と成り、藤戸の渡の故跡といふのは遙に奧の方の丘の間の小流である。駿河の有度郡肥後の宇土郡は地形までが稍々似て居つて、共に單純なる孤山から成立つて居る一郡である。想像を逞しくすれば此も何時の世にか島であつたことがあらう。併し地理學者の反對の有無を知らぬ。

　大きな島が何時となく主陸に併呑せらるゝに反して、小さな島は人が態々引寄せたものが多い。海邊を埋立てゝ、新田を作るには地先に島が有れば最も好都合である。潮除の堤塘を作るには島を目當にすれば大に勞費を省くことが出來る。此の如くにして島は内地へ抱へ込まれるのである。中國を汽車で通ると澤山に此例を見る。西の方では長門(448)の海岸には最も孤山が多い。即ち島と島との間の碧海が田に成つたのである。春の未などに辨當を持つて登ると愉快な山である。備中の玉島停車場から南には此樣な島が幾何でも有る。玉島は既に一つの島であつたので、其東に連島。連島の南には小さき龜島。龜島の新田などは極めて新しいものである。玉島の西南に竝んで相島乙島寄島大島。今は陸續きであるけれども、曾てはその名の示す如く皆島で、今日の汽車の道は一體に海であつた。寄島町の海岸には、小さき島が次第に洲を作つて陸地に寄來りつゝあるが、是は思ふに寄島第二世であつて、以前の寄島は既に町の後になつて居る丘陵のことであらう。大島の西には神島。此も新田場で僅な川を隔つるまでに接近して來て居る。其西南備後の深安郡、鞆津の二里あまり東北に箕島といふのがある。此なども新田で陸に續いた島の好い見本である。

　肥後の海岸にも同樣の例が澤山ある。有明灣は泥海で遠淺の干潟には蠣、※［虫＋堅］《あけまき》の養殖場が多く、愈々土が多く積れば波除の堤、此地方の言葉で塘《とも》といふものを作つて、茲に埋立開墾地が出來るのである。加藤侯細川侯は共に大に之を奨勵せられた。地勢も亦之を促すのである。熊本の如きも中世國府のあつた時代には白河の川口であつたらうけれども、�ｺ川時代には二里も下流の高橋町を以て河港とし、次で更に一里の下流なる小島町に運送の中心が移つた。白川から南には殊に埋立の新田が多いが、此より北でも、玉名郡の高瀬停車場から一里餘南に横島といふ孤山は、新田で繋いだ稍々大きな島である。加藤氏時代の事業である。南の方では宇土郡の笠島といふ小島、此も例の塘で繋がれて歌の名所が無くなつて了つた。

　不知火灣も有明灣と同じ地勢で遠淺の平潟が廣くなる一方である。松合附近の住民は熱心なる漁民であるが、溝川のやうな狹い澪《みを》を三四里も漕がなければ、其漁場に達することが出來ない。此海には島が多かつたから併呑も盛に行はれた。百年前の肥後國志の記事中に島とあるのが大分無くなつて居る。八代町の西方に郡費で千町歩に近い埋立をしたのは最近の事實であつて、既に二百戸餘の小作人を入れて住ませたのに、まだ所屬が決定せぬ爲に法律上は水面の取扱である。自分は此新開地を展望すべく高島といふ小山に登つて見た。高島は肥後國志時代の島であるが今は此(449)埋立地の内部の地境に立つて居る。埋立地の中には産島小島白島の三の島を圍ひ込んで潮除堤の手傳ひをさせて居る。宇土半島の三角港から天草の下島へ行く汽船は、迂路をして八代沖の大島に寄港する。此大島は埋立地内の小島に對する大島であつて、石灰肥料の禁止せられぬ時代には、島灰《しまはひ》と言つて澤山の石灰を燒いて積出した。以前は遙に八代の沖合で有つたらうが、今日新開の埋立地と隅田川よりも狹い水面を隔てゝ居るばかりで、潮除の爲に境の上に植ゑた一種の茅が寂寞として連るところ、一寸綾瀬川の三叉《みつまた》の葦原のやうな趣がある。八代から出て天草へ行くのに汽車と汽船とで大きな圓を畫いたことになる。此海は秋の夜海上に火が燃えて幽玄な海であるが、その不知火の根據地も段々と平陸となつて行くのである。太古景行天皇の巡狩の折には水島を出でて暗い海を渡られたとある。萬葉集には「葦北の野坂の浦ゆ船出して水島に行かん波立つなゆめ」とある。其水島はどう成つたか、海上に見えないのを見れば此もとくの昔陸に續いて了つたのであらう。肥後國志に「鼠藏《ねずみくら》島、俚俗隱里トイフ、鼠多シ、近年加賀島ニ徙ルト言フ、此島ニテハ猫ノ聲ヲ禁ズ」とある面白い島も、今は又陸續きと成つて、八代郡の南の端に大鼠藏、小鼠藏といふ二つの小字ある丘は其痕跡である。又その加賀島も今日では球磨川の川口よりも少し上流になつて了つて中々隱里どころでは無いのである。

　

　　　　　　　　　　三　港と島

　

　島の接續はよき新田を作る外に又よき港を作ることがある。其適例は日向の細島港である。細島は其名の如く陸と直角に海中に突出した二つの細長い島山で、其中間の靜水は商船會社の船の定期寄港地である。記録は知らぬがさまで古からぬ接續である。土佐の西端幡多港も最近の一例である。今の宿毛《すくも》港は正しく言へば片島港で、昔の宿毛の西三十町を隔てた島の西面である。宿毛は伊豫境で舊藩時代には海陸の要地であつたが、何分港が埋つて役に立たぬ所(450)から近年同地出身の林有造氏等の經營で、地先の片島を目當に堤を築き、堤から北を新田に埋立てた。此と同時に片島の丘を切拔いて道路を延し、島の西側に舶着場を作つた者があつた。此が今の宿毛港で大島を左に伊豫の山と島を右にしてよき港である。伊豫の三津ヶ濱の前面には興居島といふ大きな横島があつて、其間の水道は潮は早いが船の往來は甚多い。所が三津ヶ濱と其東の高濱と近年政黨の爭が段々烈しくなつて、高濱側は縣會に勢力を占めて後、此海峽を三津ヶ濱の東に於て防波堤を以て絶ち切り、船を三津ヶ濱へ入れまいとした。此計畫は日露戰役の爲に中止したが隨分大膽な計畫であつた。

　此は人の力ではあるまいが、長門の萩の東北に笠山といふ半島がある。昔は勿論笠島であつたのであらう。僅なる平沙で主陸と接續してをつて、其地點を船越濱と言ひ内外二面の灣入部に嫁泣、夕凪の二つの小港を作つて居る。船越といふ地名は諸國の海邊によくある地名で、大抵島を主陸に結び付けた頸部である。その最も著しい例は志摩國の御座岬の根の所に船越、つまり岬端を同つて漕巡る勞力と時間とを省く爲に、船頭を多くして船を陸へ上せるのである。三河の伊良湖岬の小山とチョッポリ山との間にも船越といふ砂丘がある。大洋に面した海岸から伊勢海の方へ船を越すのである。此所も以前は島であつた。

　

　　　　　　　　　　四　島の樣々の異動

　

　相模の江島の如く橋を掛けて渡る者は一と數へてよいかどうか。併し此島は今に片瀬川の吐出す砂で橋も不用になるであらう。陸前の松島にも橋で繋いだ島がある。常陸の磯原の停車場の前にある天妃山も橋で渡られたやうに記憶する。天妃は航海を守る支那の女神である。水戸黄門が勸請せられた觀音と聖母マリヤを合體したやうな道教の神である。廣島の宇品港にも橋を架けて渡ることに成つた。干潮に徒渉の能る島は中々多い。薩摩の南端｜指宿《いぶすき》の海岸にあ(451)る知林島は、山川港に入る船の目標であるが、岩礁で殆と陸と續いて居る。序にいふが此北海岸にそばだつ魚見嶽は樹木が多く、同時に魚附林として保安林になつて居る。

　島の二つ連續した例も多くある。周防の�ｺ山港の西南にある今大華村といふ一島は地形が二つの島なることを示して居つて中間に田がある。天草の上島と下島との間は昔は船の通つた肝要なる瀬戸であるが、今は殆と接續して淺き水底に飛石が据ゑてある。自分は渡船で渡つたが牛は足だけ濡して歩して渡つた。之に反して音戸の瀬戸などのやうに新たに島を切分けた例もある。

　島の形と大さとは勿論不變のものではない。川口にある島などの寄洲で大きくなることは常にある。出雲の中の海には大大根・小大根の二島がある。後者は一に江島とも言ふ。寛政年中に出來た雲陽誌の記事では周圍十三町、伯耆の渡村へは八町とある。近頃「歴史地理」の附録として出した伊能忠敬の地圖に依るも、略々其位である。然るに陸地測量部の五萬分一地圖を見ると、周圍は確に一里以上あつて渡村へは一町餘である。是は全く近年其島の東側に埋立の新田を作つた爲であつて、此の如き島の成長の例は決して稀有では無からうと思ふ。人工に由らぬものでも伊豆の大島の如きは、火山の爲に古來幾度かその形を變じて居る。南方野増村の海岸は大崩の絶壁で、八郎爲朝の住宅跡などは今の海上にちがひない。近くは元禄の大地震には島の西側新島村の地先は大面積の陷没があつて、其爲に島の鹽濱は盡く無くなり、爾來鹽の年貢は廢止に歸し、大釜司、小釜司、釜百姓、釜の者などいふ語ばかり今日まで殘つて居るのである。此の如き例を調べて見ると、統計年鑑の數字なんか何の爲に麗々と始の方に陳列してあるのか、よく誰も何とも言はずに今日まで濟まして來たものだと思ふ。

　

(452)　　　　　島々の話　その二

　　　　　　　　　　　　　　　一どきに二日の物も喰うて置　凡兆

　　　　　　　　　　　　　　　　雪げにさむき島のきた風　　史邦

　　　　　　　　　　　　　　　火ともしに暮れば登る峯の寺　去來

　　　　　　　　　　　　　　　　ほとゝぎす皆鳴しまふたり　芭蕉

　　　　　　　　　　　　　　　やせ骨の又起直るちからなき　　邦

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（猿蓑五、鳶の羽の歌仙）

　

　　　　　　　　　　一　島の名

　

　島に名を附けることはたしかに愉快な事業である。絶海の蒼波を凌いで來た西洋の船長は島の影を見た嬉しさのあまりに、日頃信ずる神々の名又は時の御門の名を自分の地圖に書入れ、なほ餘分があると自分の名をも不朽にしようとした。我國の海部はそれ程の野心を持たぬのみならず、島の數も多い處から少しも命名の爲に苦心をして居らぬ。質朴なる昔の人がいつと無く一致した島の名は、多くは名を聞いたばかりで風景を想像し得るやうな印象的のものであつた。

　最初は海上を漕ぐ舟或は濱邊を行く旅人が遠くから望んで附けた名である。久しく舳から切れぬ故に長島、海岸線（453）と併行して見える故に横島、花崗石が崩れたり石灰石の露出して居る島を白鳥、同じく草木繁茂した島でも、傾斜の方向や日ざしとの關係から、青島とも呼べば黒鳥とも言ふ。朝夕に見馴れて親しくなると、やがて手近の品物を以て島の形を形容する。笠島・俵島・俎島などはその例である。兩方に頂があつて中低に見える島を、矢筈と呼ぶなどは今の人には附けられぬ名である。磯が荒いか又は地の利が乏しい爲に常には上陸せぬ島ならば、大概いつ迄もこんな名で呼んで居る。海岸の住民が折々通ふやうになれば、更に仔細なる觀察を下すと見えて特有の動植物の名を付與して居る。竹島・梶島・ヘゴノ島（志摩の南海）・野島と云ふのは早くから樹木の乏しかつた島であらう。小さな岩礁ではあるが海鹿《あしか》島は諸國にある。?島・雀島等は多くは名ばかりで、或は形似の名かとも思はれるけれど、全く人が其本主を追却したのである。出雲簸川都の海上に鷹巣島、鷹の雛は中世貴重なる貢物であつたのである。蒲葵島の蒲葵も其類で、京都の貴人が年々其牛車を飾つた檳榔の葉は、南國の島々から遙々と齎らし來つたものに相違ない。島の名に今も殘つて居るのは土佐の西南海、豐後の東の海に在る。八代灣の蒲葵島は今は名を改めたか其所在を知ることが出來ぬ。土佐豐後の蒲葵島には此樹既に盡きたかと思はれるが、大隅の志布志の海上にある蒲葵島は、滿山他樹をまじへずで、土地の人は笠に作り團扇に作つて居る。日向の青島は亦一の蒲葵島である。梅雨の晴れた日、此島へ渡つて皮のうまい日向蜜柑を食べたことがある。忘れることが出來ぬ。

　　　あぢまさの陰うつくしき青島を

　　　浪たちかへり又見てしがな

　同じ里の海上に二つ三つの島があるときは沖の島、地の島と區別し又は大島小島などと區別する。昔風の命名である。大島には右の如く小島に對するものゝ外、更に又絶對の大島がある、日本の海岸には六七十の大島があるが、其大きさに至つては區々である。最大の大島は薩摩の沖の大島、佐渡淡路の一州と肩を比ぶべきものである。之に次では周防と伊豆の大島で、面積はかなりの一郡に當る。小さい大島では石見那賀郡黒松村の大島は小學校の敷地ぐらゐ。(454)但馬城崎郡佐津村の大島、丹後竹野郡濱詰村の大島は、共に我々の宅地ほどで、近江の竹生島の三十分の一内外である。

　

　　　　　　　　　　二　島と山と

　

　一言にして言へば島と山とはよく似て居る。平野が交通を阻隔するのは單に距離の力で、人はどの方向にも歩を運ぶことが出來るが、海路には種々の制限がある。志州の神島は三河の海角から一里にして近いけれども、島の者が島へ歸るのには火を擧げで逆の舟を待たねばならぬ。それも荒磯で人手が少なく用が無いときは、目の先の島でも往來の便宜を見出すことが出來ぬ。船が大きくなれば却つて障碍が多くなる。南島の航路などは多分の補助金を遣つても、兵庫丸の航路は月一囘で、小笠島の住民は三月の中旬に日露の海戰を知つた。此點に於ては海上も深山も同樣である。支那の倭國傳にはよく「山島に依つて居を爲す」とある。成ほど日本は大小數百の山島であつた。今でこそ港を造り港田を築いて平地澤山の海岸であるが、二千年の昔を想へば本土九州も亦是である。我々の祖先は舟で渡つて來ながら山民であつた。嶮岨なる山島に居を占むることを、苦にしなかつた故に國を開き得たのである。併し此等の島陰から舟で出入するのは、峠を越えるよりも一層骨折であつたらうと思ふ。些細な交通にも人の合同を必要とする故に、自然に往來が大儀になる筈である。

　殊に小さい島は離群索居の本場である。昔の社會生活を何と無く保存して居るのは此爲である。古い日本を知る爲には深山と共に島々を求めねばならぬ。天草下島の西南隅、大江村と崎津村には、三百年の間國禁を犯してマドンナを禮拜して居る者が四五百戸あつた。明治に成つて佛蘭西の傳道師が來て見たら、經文の拉典《らてん》語は悉く片言で、安息日はいつの間にか月曜日になつて居た。昔の切支丹の墓石は凡て平らに地上に伏せてあつて文字が無い、肥後と長崎(455)と薩摩と、三方の風は三國の舟を寄せたけれども、今でも天草には天草の文明がある。郡役所の井上君は久しく鹿兒島の兵營に居つた天草人であるが、與論島などは天草よりももつと變つて居りますと云つた。その島から來る兵士は飯を食へと云ふのにも、此へ來いと云ふのにも常に「候へ」と云ふ語を附けるさうな。多分今でも謠曲時代の生活をして居るのであらう。

　沖繩の諸島は太古の殖民地であるから、今となつては却つて風俗や傳説の内地と共通な部分を探さねばならぬ位變つて居る。大島群島には又各別箇の特色がある。此島の寫眞を見て誰しも心付くのは其建築である。一つの家は必ず數棟になつて、同じ屋敷の中に小さな建築物がいくらもある。是は材料の關係も無論有ることであらうが、更に何等かの仔細が無くてはならぬ。鹿兒島の埠頭から一里に足らぬ櫻島の村々も小家の密集して居る有樣がよく大島の寫眞に似て居る。こゝでは大きな柱や棟木が得られぬ筈は無いのである。尤も櫻島は二百年此方の移住である。大噴火の後全島殆と人の影を絶ち、怖れて土着する者が無かつたのを、大膽な農民があつて僅二三戸で移住した處、土地の肥えて居る爲に、四五代の勤勉を以て、今だけの大村落になつたのである。故に一村の家々は悉く近親であつて、他國に其例を見ぬ程仲善く暮して居る。島には車馬の往來が無いから廣い路は要らぬ。家屋の密集の目に立つのは一は此爲かも知れぬ。それに村の敷地も多くは急傾斜で、とても大きな家を建てるだけの平地が得にくいからでもあらう。青い海の朝日の影に町から此島の畠や家を見ると、歸る糞舟までがなつかしい。榕樹《あかう》の木の陰に温泉が湧いて、枇杷や桃のよく熟する島である。

　伊豆の大島は數度の大火に遭つて、百年以前の記録は殆と一片も殘つて居らぬけれども、島人の無意識の生活の中に昔の面影を窺ふことが出來る。此島の沿岸に清水を圍んで居る六つの村は、前後六囘に移住して來た六つの移民團であつて、占有の順位に基いて以前は土地に對する權利に強弱が有つたものである。即ち元村と稱する新島は最も利益の多かつた漁業と製鹽業と舟運業とを獨占し、次で遣つて來た岡田、野増の二ヶ村には少分の海岸を分割したばか(456)りであつた故に、二ヶ村の住民は山畑の耕作を主として生活を營まねばならなかつた。製鹽に從事せしむる爲に新島人に招かれた差木地の一ヶ村も、鹽燒をやめると共に次第に廣い地積を持つて耕作をして居る。泉津と波浮の二村は比較的新しい土着で、何れも島地の一角を占めて居るばかりである。五十年前の?態を圖にかけば不精確ながらざつとこんな風である。然るに關東に大きな都會が出來て燃料が拂底となり、更に海運が便利になつて所謂島薪の値が高くなつて來る。製鹽は早く止み漁業には競爭も多い處から、新島の村民も次第に農業を大事に思ふやうになり、茲に始めて隣村に向つて、種々の條件を提供して段々海の幸と山の幸とを取換へた。今日では六ヶ村の生活?態に略々差異を見ぬやうになつて居る。

　此島の土地利用の有樣を見ると五段に分れて居る。其一は噴火口周圍の不毛地、其二は森林、其三は山畑即ち薪林と農地との切替である。其四は常畠、其五は海岸の屋敷地で漁業にも運送にも使はれる。右の五通りの土地は略々三原山の御神火を中心にして五つの圏を爲して居る所は、チューネンの孤立國 Isolierte Staat の法則を實現したもので、唯島だけに内外の順序が逆になつて居る。經濟の學者は嬉しがるであらう。山畑は近世迄村中の入會であつたが、之を四角な五六段歩の地面に切つて何囘にも村民に分配した。從つて大島には地主で無い戸主は極めて少ない。しかも地租は從前の仕來りに依つて、一段歩に一錢五厘とか二錢とか云ふ少額である。汽車の窓から見える大島は實際こんな島である。新島村の役場に在る此村の繪圖を見ると宅地の割り方が亦面白い。村で五六軒の舊家の宅地は皆其他の家々の宅地を孕んで居る。即ち一方の方形の大屋敷の中へ前後左右から澤山の小宅地が尻を挿入れて居るのである。此現象は明白に中世の名主と其家人との關係を示すものである。後々の分家又は譜第の者に構内の一隅を割いて住ませたものが、明治になつて現在の居住者に其所有權を認めた爲に、右の如く分筆の痕跡を留めたのである。此島の小作法も内地の現?の如き普通の賃貸借ではなく、やはり所謂庶子關係の者に無料で作らせるのである。

　

(457)　　　　　　　　　　三　島の果物

　

　果物の季節になると又島を想ひ出す。瀬戸内海の赤禿の島々にも色々の果物が出來る。伊豫の高濱に船が着くと、埠頭に夏蜜柑を賣る女共が多い。是は對岸興居島の産である。忽那氏の故址は今も此爲に富饒である。安藝の東部下大崎島邊では彩しく桃を栽培する。早稻田を出た青年で父と共に桃を作つて居た人があつた。其人の島へ歸る折に、私も一つ小さな島を買つて色の美しい果物を作つて見たいと言つたことがある。土佐の片島港の對岸のこれも小さな大島は、滿山夏蜜柑の畠であつた。

　海が荒れて港に滯在して居ると、朝々隣の娘が舟で蜜柑を採りに行く、其手拭が樹の蔭に見える。あの樹の花盛りには此處まで香つて來るだらうかなどと、樓上の客が話合つたことがある。

　鹿兒島の朝市には谷山の女が魚を賣りに、櫻島の女が果物を賣りに來る。枇杷が過ぎれば郁李となり桃となり、西洋の物も少しは出來る。海門嶽の麓に寢た夜は頻に南の島々の話を聞いた。鳳梨《あななす》や芭蕉の實は東京にも有るから戀しくも無かつたが、夜玖島《やくのしま》にはホートーと云ふ旨い果物があると聞いてしみ／”＼と此島に渡られなかつたのを殘念に思つた。芳橙と書くのでは無いかと言つたが、話の樣子が柑類では無いやうであつた。

　天草の高濱村は山に澤山の陶土を産し、全國の陶器製造地に供給して居る。下津深江の温泉の南の村である。此村には昔から葡萄を栽培する。行路の上に棚を作り又は藁葺の屋根の上にも這はせて、村の風情を爲して居る。船大工の住む村であるが、その幽なる小屋の軒にも、葡萄が累々と珠を垂れて居る。天草から島原半島へ渡る海上に、湯島と云ふ小島は規則正しいテーブルランドである。島原の亂の當時切支丹は先づ此島を策源地にして、銃砲を鑄たと云ふことで、其爲に一名を談合島と言つて居る。今でも如法の別天地で、人情が最も諄朴であるさうな。此島は無花果(458)の産地である。高濱の葡萄、薩州長島の西瓜と共に、夥しく長崎の市に送られる。梅雨の始めて晴れた日に、赤崎から小舟を雇つて大矢野島へ渡らうとして、風が出た爲に圖らず此島の沖を通つたが、終に上陸して見ることが出來なかつた。

　若狹の沿海にも一圓に枇杷を作つて居る。小濱の對岸の大島（今は僅に半島）は、殊に名産地である。折よく收穫の季節に旅をして、美しい枇杷山の話をきいた。順風一時間の舟路であるから是非行つて見たいと思つたが、其折も烈しい風雨で終に丹後へ越えてしまつた。併し此樹に夏の日の照る趣はよく知つて居る。此前日にも久々子《くゞし》湖口の早瀬の港から三方の町まで舟に乘つたが、枇杷を滿載した小舟にいくつも出逢つた。兩岸の山が低くて桑の林が多く、所々に雉の聲が聞える日であつた。舳先を高く上げて、港の方へ飛ぶやうに漕いで行く舟を見かへると、黄金色の枇杷の實が美しく光つて居た。

　

(459)　　　　　島々の語　その三

　

　帝國統計年鑑の初の頁に、昔から引續いて妙な事が記してある。全國の屬島の數、本州は百六十六・五、四國は七十四・五とあつて其脚註に、屬島の數に端數あるは一島にして兩地に屬する者あるに由る、即ち本州と四國の間にある石島是なりとある。屬島の統計は周囘一里以上の島と、一里以下でも人家望標等の在る島とを算入したものであると云ふが、八九十年の間、島の周長にも面積にも又人民居住の?態にも變遷が無かつたものとの推定は、少しく伊能忠敬翁に氣の毒なやうな感もする。唯是が絲口となつて島の問題の研究が始まるならば、統計年鑑は功績があつたと言ひ得るであらう。右の石島は恐くは備前兒島郡の南方海上に在る井島のことであらう。南北に長い島を斜に切つて、北の五分の二は兒島郡｜胸上《むねあげ》村に、殘りは讃岐香川郡直島村に屬せしめ、岡山縣の部分に石島と云ふ唯一つの村がある。直島村も名の示す如く島で、井島は兒島郡の一つと見えるから、恐くは後年備前の方から入込んで村を作つた者があつて此一部分を占據したので、事によると石島と言ふから石採取の目的で來たのかも知れない。舊記を檢したいと思ふ。瀬戸内海の如き生活の錯綜した所では此種の例は稀有で無い筈だ。概して今の四國と中國との海上の境界線は北の方へ推進して居り、殊に東半分に於ては讃岐、伊豫に屬する島の方が多い。此理由は何であらうか。或は中國の沿海には多分の干潟が出來て自分の島は内地になつてしまつた爲だらうか。はた又讃岐などは昔も今の如く土地の割に人口が多くして、早くから海の幸を覓めねばならなかつた爲であらうか。何故かは知らず兒島半島などでは、眼の前の島々が大方香川縣の島で、從つて海も自分の物で無い。右の直島より西々南へ三里ばかりの沖には、又大槌島と言(460)ふ孤島がある。徑四五町のまん丸な島を半分に切つて、是も兒島郡と香川郡と二縣二郡に分屬して居る。人家は無いらしい。大槌に對する小槌島が讃州の岸に接してあるのを見れば是も名を附けた時代には讃岐の島であつたらしい。然らば何故に此ほど廣い海上に、文句の無い自由な堺線を劃せずして小さな島の峯を堺にするかと言ふに、是は疑も無く其島又は周圍の磯が水産の利多かりし爲である。清水があつて村でも起れば脇から來て爭ふ者も無いか知らぬが、舟で通つて業をして居ては、如何に永年の慣行でも知らぬ間に他所の者も來て取り、所謂｜入會《いりあひ》になつてしまふ。これが他國他縣であるから珍しいが、相接した漁村で沖の島に入會つて居た例は隨分と多かるぺく、今では大抵何れかの一町村の所屬に定まつて居るが、斯く定まる迄には烈しい爭もあつたことであらう。安藝と伊豫との間の海上に、何と言ふ島であつたか忘れた。對岸の二藩から各々人を遣つて榜杭を立てさせた。然るに一方は「此處松山領」と書いた爲に島の中央の僅かな地を得、他の一方は「此島藝州領」と書いた爲に他の部分を皆我領分と裁決せられ、こゝに偶然にも蛇目形の領地が出來たと言ふ話を聞いたこともある。宇和島藩でも島の訴訟は甚だ永く續いた。鵜來《うぐる》島であつたか其よりもまだ西方の島であつたか、今日までも猶大分縣と漁業權を爭つて居る島がある由。沖島に關する土州藩との喧嘩も有名な話である。高知方の記録ばかり多く見たのでは自分にはまだ眞相が分らぬ。而して此等の諍訟を止めるためにも、又は所謂入會權の整理の爲にも、分割は内地の山林原野ほど單純な事業では無い。何となれば山野は到る處?況が一樣で、廣く薄く取合ふのも、他人交ぜずに狹い地を經營するのも結果に差異は無からうが、水面はさうは行かぬ。西風が強ければ東の島陰にまはらねばならず季節によつて磯の草にも厚薄がある。即ち人口が増せば増す程同じ地に競つて入會はねばならぬのである。近年の專用漁業權處分は果して偏頗の無い調訂をし得たか否か稍々氣遣はしい。源平時代の海戰と鯛の漁獲とで有名な水島灘は、群島の中間上水島と下水島との間に備前備中の國境があつて、其又下水島の小さい島を、備中淺口郡の黒崎、乙島、柏崎の三村で分割して居る。此などは尋ねたら面白い由來記のあることであらう。周防大島郡の森野村は沖に在る浮島の南端を少しばかり切つて持つて居る。此などは(461)薪山としてかも知れぬ。丹後宮津の沖に在る大島と言ふ小さい島は、今でも加佐郡東浦村と西大浦村との入會だ。是は肥料用の鳥糞を採取する島だ。近年又別樣の紛紜があると言ふ話を聞いた。如何に落着したかを知らぬ。

　

(462)　　　　　島々の話　その四

　

　　　　　　　　　　一

　

　昨年の夏、瑞西などで專ら人の噂になつて居たことは、南太平洋の東南端に、最も美しい離れ小島として又神秘の國として、世に聞えて居たイースターの島が沈んでしまつて見えなくなつたと言ふ話であつた。南島今日の造船技術では、とても通はれぬやうな遠い境に、歌と物語に富んだ靜かな民が住んで居て、島には住民の全部が働いても、とても完成することの出來ぬ程の大きな石の色々の工作物があつた。其不思議の島が、或船長の報告に依ると、もと在つた海上に、どうしても見えぬと言ふことであつた。西洋人はローマンスを喜び、又或意味に於ては島の生活を愛惜するが、それは只燈の光で花を見るやうな、遙かなる咏歎であつた。さうして後の智利《チリイ》からの電報で、島は依然として元の如しと傳へられると、なんの事だと舌を打つやうな人ばかり多かつた。

　大正八年の八月九月には怖しい流行感冒がタヒチ・サモア其他の島々を非常に荒した。ゴーガンの畫を賞し、スティブンソンの書翰集を讀んで、多くの文明人が南の海の椰子の蔭をゆかしがつて居る間に、病に馴れぬ若い土人等が無數に死んだ。島を惠んだ神々と勇士との事業は、今は其若干を異國語の文書に傳へるだけで自ら其美しさと尊さを感じ得る者は、もう絶えざること縷の如くなつて居る。さうして島人たちも自ら之を知らず、保護者同情者を以て任ずる人々も、それ程迄には深く物を考へず、是非無きことゝ歎息して、唯力を記録の散佚を防ぐことに費して居る。(463)ちやうど斯う言ふ時節に東洋の島國の、事件の誠に煩はしい世の中へ、我々は生れ合せて居るのである。

　

　　　　　　　　　　二

　

　自分は如何なる因縁が有つて、曾ては名を聞かなかつた遙かの島の住民の爲に、此樣に心を動かされることになつたのか、それを明瞭に考へて見ることが出來ぬ。日本は古くから大きな國であつた。此等の島々に住む土人とは、單に白人で無いといふ點より他に、何かの續き合ひが有らうとも思はれぬ。假に民族の生活力には、素質から來た優劣は無いものとしても、少くとも我々の群は大きかつた。歴史を變化せしめる外部の偶然に對して、いつでも臨機の應接をするだけの力があつた。彼等と比べて見て運勢に相異のあるのも、其由來する所は夙に知られて居る。今更取立てゝ我身の幸福を喜ぶ必要すら無いやうな氣がする。而もさう思ふ中にもどうしても感ぜずに居られぬことは、我々の同胞が西洋人との間に立てゝ居る精神上の國境が、いつになつても中々踏み越えにくいこと、之に反して碌に交通もしなかつた島々の住民が、假に心置き無く其身の上を語ることが出來たとしたら、すぐにも打解けて互の心持ちを知り、十分な推察と諒解を與へ得られさうだと言ふことである。是は必しも忘れられたる血の親みでは無いかも知れぬ。島に住む者で無ければ味はへない孤獨さと、そこで經驗して來た特殊なる艱苦とが、久しく内陸の人になつた後も、猶我々の性情を支配して、斯うした人種以上の差別觀を、暗々裡に作り上げたのかも知れぬ。

　

　　　　　　　　　　三

　

　曾て沖繩の青年の爲にこんな話をしたことがある。諸君の所謂世界苦は、よく注意して見たまへ、半分は孤島苦だ。自分等ばかり大きな群から隔絶して、遠くから之を批判し、情感の共通が少ない爲に何かと言ふと立場が對立する。而も衝突が起れば衆寡敵せぬ故に雌伏せんとする。其上に遠い爲の誤解がある。政治でも文化でも、中心に近い者に(464)遮られて、恩惠の均分を望み難い。此境遇に居る者の鬱屈は、多數の凡人を神經質にし皮肉にし、不平ずきにするには十分だ。以前渡海の船に磁石も無く機關も無かつた時のやうに、問はず問はれず各々の島を鎖して、寧ろ小さな天地に眠りをることを幸とすべきかも知れぬ。而も自ら指導して一箇の人を完成せんとする者には、おのづから又別箇の觀方が有る。沖繩は決して最後の沖の小島では無い。宮古、八重山の島人等が、永い歳月の間中山の首都に對して、感じて居る不便と不滿とも同じものなれば、更に又宮古に在つては多良間の島、その多良間に對しては水納の島の青年が、やはり之を經驗して居る筈である。八重山の主島に對する與那國の波照間も、事情は沖繩に均しくして尚一層の不幸は、彼等が最後であり又訴へても聽く人の無かつたことである。諸君の不平には限界が有つてはならぬ。飜つて又諸君の「中央」と名づけて居るものも、こんな小さな地球に於てすら、決して眞の中央では無いのだ。講和會議はヴェルサイユに開かれ、國際聯盟はジュネブに置かれる。二月も前から旅装を整へさせて、議論も十分には出來ぬ代表者を遙々と送り出さねばならぬ。高い通信料を拂ひつゝ相互の誤解をくりかへさねばならぬ。外交論といへば蔭辨慶で、正論と身勝手の差別がわからぬ。是が我々の日本の今の惱みで、同時に沖繩人の孤島苦を只鏡餅の上下ぐらゐに差等づけたに過ぎぬものだ。論理が徹底しないと反抗にも價値が無い。もう國の戸は開けたのに、獨りで自分を縱から看たり、横から看たり、徒らに憫れんで居ても仕方が無い。弘い共同の不滿を攷究して見ようで無いかと論じて見たことがあつた。

　

　　　　　　　　　　四

　

　ところが歴史には國民的見方とも名づくべき一種の見方があつて、斯うした平面の比較をすることは容易で無い。公平なる裁判の機關が具はつて居る場合でも、雙方から所謂有力なる證據が出て來る。我が便宜と汝の都合との差異は巨大であつて、此爲にはつい近い頃迄、相隣する二つの部落でも、互に相許さなかつた。況や島と島との如きは眞(465)の別天地だ。乃ち別の歴史があつて、鬼が島の歴史は鬼の歴史であつた。言語も同じく神も同じいといふことは、ほんの此頃になつて漸と分つたが、悲しい哉其以前に、もう幾度かの征服と殺戮が行はれて居た。茫漠とした此世界に、同じ血を繼ぎ同じ信仰言語を持つ者は、さう澤山には固まつて居らぬ。血が近ければこそ近くの島に住むのに、それを此の如くに隔離させて、又互に遠慮なく攻め合はしめたのも島である。鬼と異教徒との區別をすら知らぬ程の智識を提げて、西洋諸國の探險船がうかれて來た頃、多くの南の島では島の内でもなほ闘つて居た。棒で叩き合ふほどの存外に害の小さい戰ひではあつたが、而もなほ鋼鐡と火藥との大きな威力を以て之に臨むのを、恩惠と認めしむるに十分であつた。此の如くにして好意の征服は行はれ、耶蘇教と貿易とを中心にして、色々の新な文明が入つて來た。島の女は罪も無く笑ひ歌うて、盛に合ひの子を儲けた。其結果が今の南の島である。

　囘歸線以北の琉球の諸島の、一番著しい歴史上の差異は、海が荒く風が烈しくて遠方の船を誘致するに足らなかつたことである。島の産物も必しも豐かでは無かつたので、乃ち幸にして免れたのである。島人等は只此が爲に、今日のやうな時節を待つて居ることが出來た。而も一通りならぬ忍耐を必要とした。島が小さければ小さいほど、早く艱難を嘗めなければならなかつた。我々は今となつて幽かなる昔の歴史を學び、縁あつて再會したこの兄弟たちの、やつれた姿を見るに忍びぬのである。

　

　　　　　　　　　　五

　

　宮古は就中我が愛する島であるが、限られたる小天地に身を托して、愛着の情が強かつたばかりに、其島人たちは數百年の久しい間、苦しい生存の闘ひを續けねばならなかつた。彼等は大倭の從兄弟とよく似た點は、その健氣な思ひ揚つた性情に在つた。神を慕ひ武を好み、兼て又詩を善くした。さうして其詩に歌ひ傳へらるべき喜びと悲みの題目は、世を經て盡くる所を知らなかつたのである。島の名のミヤコは起原不明であるが、疑ひも無く我々の「都」と、(466)もとの意味が一つである。此島の稗田阿禮が語り傳へて居る「あやご」の章句にも、「我が宮古の大宮古の」何々と云ふ對句が、?々繰返されて居る所を見ると、彼等は近世に至る迄も、此地を王者の居るにふさはしい處と、信じ且つ誇りとして居たのである。

　島より外を知らぬ島人には、望も滿足も共に小さかつた。珊瑚の砂に緑の草がかげり、日に映じ海の面に染め拔いて、見る目には如何にも美しいが、殖土の至つて薄い痩地ばかり多かつた。面積は僅かに九方里、附近の屬島と合せても、内地の稍々大きい一村に過ぎぬ。現在の人口は五萬であるが、何か特殊の工業の起らぬ限り、いつの世にも此だけの生活を支へることは難かつた。是をしもミヤコと命名して、安住して子孫の繁榮を樂しみ得た期間は、思ふに甚だ短かゝつたであらう。

　唯これ程狹苦しい一群の小島でも、人間の幸福がなほ均等で無かつた爲に、最も運の惡い部分がいち早く敗亡する間に、殘りの人々は少しづゝくつろぐことが出來た。島で怖しいのは高潮津浪の害である。椰子の繁茂する南太平洋の珊瑚礁では、人一代に一度は來るものときまつたやうである。八重山の石垣島では明和年間の大津浪に、南に面した村々の大半を空墟としたが、其後は幸にして久しく此災を免れて居る。宮古の方では年代は傳へぬが、海沿ひの榮えた村が一朝にして覆没した物語を、幾箇所とも無く傳へて居る。多分は記録に遺らぬ何度かの津波があつて、よく似た慘害を繰返したのであらう。島では之を四海波と呼んで居た。四海波に寄せられると、之を語り傳へる人迄が死に絶えて、村の跡が一旦は荒野になる。それを程無く拓きに出かけて、或家族が暫く榮える。其家々を取圍んで稍々有力なる政治の中心が出來かゝるが、爭ひ無しにはそれも久しくは續かなかつた。

　

　　　　　　　　　　六

　

　斯う言ふ事蹟は僅かに其片端が、島の記録に遺つて居るだけである。文字で昔の事を書き傳へたのは、何れの島で(467)も二百年内外のことである。其以前には大和のやうに、神に仕へる女たちが、大切に之を記憶して次の代へ傳へた。支那では竹帛に垂れるなどと言ふことが、宮古では即ち「あやご」に作ることであつた。「あやご」が無かつたら島には一册の史書も無いのだ。而も此傳承を掌つた「つかさ」と言ふ巫女は、同時に又おもなる氏族に屬する女性であつたが爲に、滅びた舊家の記事に至つては、只滅びたと云ふことしか傳はらぬ。斯うして島の内にもう闘爭が無用になる時代迄、烈しい人類の盛衰が續いたらしいのである。

　「あやご」の傳承にも、やはり限りがあつた。即ち最後に盛えて衰へなかつた家と、此に平和なる關係を持つ人々の歴史が、精確なる語りごとの殆と全部であつた。別の語で言へば宮古島の舊史は、今の郵便局長の仲宗根君の一家と此と同系の舊役人たち、其他二三の縁故ある家庭のみに、纏綿して成長したと言つてもよい。其他の花やかな勇士の生立ち、讎を打つたり討たれたりの物語も、よく見ると皆仲宗根の第一祖、たゝへ名を空廣と呼ばれた豐見親に、遠い血筋を引く者で無ければ、此家の家々で尊崇した御嶽の神々の御威�ｺに歸してしまふ。而も何れの國の歴史にも見るやうに、大昔は神も人の如く人も亦神のやうで、二者の交感には神秘が多い。しかも人間的なる世中と言ふものが、若しも我々の歴史の初とすべきならば、宮古島の神代は大和のよりはずつと下へ垂れ下つて、仲宗根豐見親の時から只百年の前、西暦で算へるならば第十四世紀の終頃に、所謂｜與那覇勢頭《よなはせづ》豐見親が、初めて中山に朝貢した時にまで及んで居る。此から以後にも神はなほ現れ、島人の信仰も概ねうぶの儘ではあつたが、政治に計畫があり、人がむだには死ぬまいとした努力と、外からふり返つて内を觀ようとした心持ちが、もう此島を夢の國にはして置かなかつた。だから村や名家の由來を説く「あやご」にも、昔神代にと言つて居るのは、必ず此以前のことを指して居るらしく思はれる。

　

(468)　　　　　　　　　　七

　

　物語の興味は言ふ迄も無く「神代」の方に深い者がある。我々ヤマト人との埋もれたる脈絡も、此方からのみ辿り得られるが、それは又第二の折にしよう。宮古の歴史に忘るべからざる二人傑、現存の「あやご」で讃歎して止まぬのは、やはり此島の運勢を變化させた、與那覇と仲宗根との兩人の豐見親であつたから、この事だけを荒々と話してしまはう。豐見親の「親」は長老を意味し、トヨミは嘖々として喧傳せらるゝと言ふ尊稱である。與那覇は島人の絶えざる爭闘を憂ひ、大國の力を借りて平和を保たうと企て、其策に成功して自身が後援ある島の首領に爲つた。神代の中にも海上に漂流して、未知の島人の手に陷つて不思議に命を助かり、祭の式や舞の曲を習つて還つて來た人の話があるのを見れば、島の北三十里に沖繩と言ふ島の有ることは、よもや知らずには居なかつたらうと思ふが、舊記の傳へでは彼は白川濱に砂の祭壇を築きて、五色の緒を取附けた竿を之に樹て、其緒の丑寅の方に靡くを見て、始めて大國の方位を知つたと稱して居る。其大國と言ふのが、今や孤島の苦を味つて居る琉球國であつた。大王は英邁で征服を夢みて居る處へ、與那覇の申出は謙遜至極なものであつた。宮古の民風亂を欲し、?々人命を?害するのは、地方偏小にして上下の分あることを知らず、且つ勝つことを好んで法律を恐れぬ爲もあるが、一つには衣食が過分に豐かで、身に餘裕があるからである。此上は十分な年貢を御取上げあつて、島人が辛苦勞働せねば生存の出來ぬやうにして下さるならば、空しく爭闘に日を送ることも出來なくなるのであらう。そこで此から朝貢を致したいと言ふのであつた。沖繩の方の記録には、聖上其忠誠をめでて褒賞を賜ふとある。なる程與那覇が目的は正に貫徹して、其から此島には戰は絶えたが、住民は豫定の通り死に至る迄辛苦した。島の粟は首里に運ばれて僅かの泡盛の原料であつた。實際穀物は澤山に持出すことが出來ぬので、主たる上納は女の手業の細布であつた。漸く眉の整ふ頃から老いて腰のかゞむ迄、手を藍に染めて片時も休まず、機絲の一筋づゝの長さを、足で歩んで繰つてゆくことが、あれから五百年(469)の運命になつてしまひ、僅かに士分の者だけが勞役を他に轉嫁し得るので、寧ろ在番の役人に寵せられて、男の兒を生む機會ばかりを祈つて居た。島の農夫には慢性の飢渇があつた。殺し合はぬ代りに長命の者が少なかつた。

　

　　　　　　　　　　八

　

　さうして居てもなほ人の剰る時代がやつて來た。特權ある階級が少し殖えると、忽ちに平民の分擔が堪へがたくなる。強壓にも限が有つた。そこで一種の植民策を考へ出して、士族の一部に安住の地を得しめんとしたのが、仲宗根の豐見親の智謀であつた。

　八重山と宮古とにはもう古くからの交通があつた。與那覇豐見親は八重山人を勸めて、共々に中山に朝貢したと傳へられる。而も後者は土地が少し遠いのと、島の天然の資源が比較的豐かで、内部の爭奪もさ程で無かつた爲か、沖繩の力に頼らうとする態度が、宮古ほど熱心で無かつた。島では酋長をカハラと呼んで居たらしい。八重山のカハラの中には、服從の必要を感ぜぬ者も多かつた。それを宮古の方では八重山の謀叛と謂つて居る。今から見れば一種の外交策であつたが、仲宗根氏は率先して其征伐を奏請した。所謂赤蜂本瓦の亂なる者は、八重山に取つては大きな哀史であつたが、是も滅された方の記鐘は少しも傳はらず、而も恭順派の方の長田大主の一族は永く榮えて居る。

　八重山の石垣では、南海岸の宮良と言ふ邑が、ミヤコに該當する島文明の中心であつたらしい。明和五年の大津浪に、一戸も殘らず遭難してしまつて、今居る村民は四近の島からの移民である。從つて一層古い事は傳はらぬが、要するに爭は地方的のものだつたらしく、そこの士族の大部分は、此機會に宮古の方から入つて來た者の後らしい。士族と平民との差別が如何にも嚴格で、一方はもう反抗も出來ぬ迄に屈して居る。沖繩本島などのやうに機會があつて士分に昇る折も無かつたらしく、後代までも征服の名殘が著しかつた。四百五十年も前の島と島との關係では、斯ういふ無理な方法より以外に剰つた人を外に移す途は無かつたのである。

(470)　同じ方法は與那國の島に對しても、二度三度迄適用せられた。鬼虎といふ酋長は元は宮古の狩俣村の産であつた。それが繁昌して居る頃に又大きな島から渡つて征伐をした。一度は八重山西表島の祖納堂が征服した。その西表島でも慶田城の攻略があつた。外々の小さい島にも記傳こそ無いが、今居る島人が古くからの居住者かどうかは分らぬ。小さい島では人がすぐ餘分になり、内で爭ふまいとする爲に外との交渉が繁くなる。それを又煩はしいと考へるときは、苦しい辛抱をしてはち切れる迄人をため、自然に天然の制限作用を待つて居るやうな結果になる。食物の不足をひどく感じた後は、無理な産兒制限をさへ黙許した世もあつた。此等の島にまつはる色々の不幸が、もう想像せられぬ新時代になると、我々の努力も亦新しい形を採らねばならぬ。小さい島ばかりの物語では無くなつた。島の歴史はどこ迄も比較をして見る必要がある。

　

(471)　　　　　島の歴史と藝術

　

　　　　　　　　　　一

　

　八重山群島は沖繩縣廳の所在地から海上更に二百數十浬、殆と日本の西南の果であります。其島から遙々と花の都に上つて來まして、斯うして皆樣の前にこの數百年の歴史ある伎藝を演ずるなどといふことは、島の人たちの朋友を以て任ずる我々にすらも、つい最近まで想像し得なかつたことであります。

　それが日本青年館の第三回郷土舞踊大會の催しに基きまして、測らずも他の府縣の珍しい色々の歌や踊と、一堂に會して其發達の跡を御目にかけることが出來たのであります。又前夜の四月十二日には、東京中央放送局に頼まれて、まづ此等の歌曲を放送しましたのも皆樣御承知の通りであります。八重山では其晩はかの有名なる石垣島測候所に島の人たちが集まつて來まして、千里の波の上を渡つて來るJOAKの歌を聽いたといふことを、電報で知らせて參りました。さうしてこの娘たちの親や友だちは、感極まつて皆泣いたさうであります。

　誠に此島始まつて以來と申しませうか。今後も恐らくはさう?々繰返さるべき出來事では無いのであります。假に他日再び同種の計畫が行はれたとしましても、果して我々は今度のやうな深い感興を以て、之を迎へることを得るや否やも疑問であります。それほど急激に島の社會事情は變遷しつゝあるのであります。

　その記念すべき催しも今夕は愈々御名殘であります故に、私は爰に僅かな時間を割愛していたゞいて、島の藝術を(472)成長せしめた社會相、時世の空氣ともいふべきものゝあらましを御話して見たいと思ひます。個々の曲目の解説と批評は、幕間の時間を利用して小寺君から述べられることになつて居ります。私としてはたゞ其下染に入用なる島の生活の輪廓だけを申上げたいのであります。

　

　　　　　　　　　　二

　

　先づ第一に御承知を願ひたいことは、今度の一行十何名の中には、一人として專門家は無いといふこと、殊に舞を舞ふ四人の娘と歌に携はる若干名とは純然たる農民であるといふことでございます。八重山人の多數は今日も尚音樂と歌舞とを以て主たる生活の慰安としては居りますが、古來今往未だ曾て之を以て生計を營まうとした者はありませんでした。さういふことの望まれる程の大きな又は富みたる島ではなかつたのであります。即ちこれは最も嚴密なる意味に於て、郷土の舞踊であり島の音樂であつたのであります。

　第二には此等の歌ひものは、始めて聽く人には解らぬ語、わからぬといへば隣の島にもよくは解らぬ語ですが、それが實際はすべて日本語であつて、單に永年の隔離に基づく發音の差、語法といふよりも造句法の少々の相異があるのみだといふ點であります。此事は近い頃までも一向心付かぬ人、又は疑ふ人がありましたが、幸ひにして現在は、如何なる方法でも之を證明することが出來るまでに、我々の學問は進みました。今夕はたゞ、それを申上げて居る機會で無いといふのみであります。

　第三には島人が夙に袂を分つた我々の兄弟でありまする故に、誰しも必ず古風のものゝ多く保存せらるゝことを豫期しますが、實際のところ此等の歌や舞は、つい近世の二百年か百年かの間に、非常に變化し且つ發達して居るのです。少なくとも多種多樣の新分子を、加味し且つ融合させて居るのであります。それが望ましいことであつたか否かは別の問題として、若し「純なるもの」を今晩の演奏からつかまへようとする人があるとしますれば、失望しなけれ(473)ばならぬのであります。

　

　　　　　　　　　　三

　

　此事情を一通り申上げて置くことは、無益では無いと思ひます。融合の例は一つには歌詞であります。「八重山島民謠誌」には骨を折つて其製作年代を調べて居ますが、かの集に掲げられた歌の大部分は、先づ元禄以後といふ中に百年そこ／＼のものが多いのでありまして、其作者の名も大抵は知れて居ります。作者といふよりも或は歌ひ始めた人といふ方が正しいかも知れません。即ち以前からあつた美しい歌の文句を、そちこち巧みに繋ぎ合せ一篇としたもので、其文句には久しく沖繩本島に行はれて居たものは勿論、中には沖繩を通つて來た内地語其まゝのものも若干あります。鹿兒島と那覇との二つの港は、少なくとも一度通過して來たものが多く、是に島在來の表現法が加へられて、一種獨特の情調を敍べて居るのであります。全體としては八重山の戀歌といふことが出來ますが、之を組立てた力は學問であり又は模倣でありました。しかも斯ういふ新詞曲と入交つて、尚昔からの素朴なる島のユンタも、同じ樣に歌はれて居たのであります。

　それから次には曲の節調のことであります。私は耳が惡くてはつきりと聽き分けることが出來ませぬが、是亦内外新舊の調和結合でありまして、所謂 adoption and adaptation の痕は、經驗ある人には之を認めることが出來るであらうと思ひます。樂器の如きも全く同樣でありまして、鼓と笛とは南端の島々にも古くからあつたとは申しますが、現在用ゐられて居るものと一つでは無く、それがどうして變化して來たかといふ系統も略々知れて居るのであります。太鼓の打ち方は明治の初年まで、沖繩にも此通りのものが行はれて居ました。それを八重山の士人が學んで、今では爰だけに本式を保存して居るのであります。笛は支那の制式に則つたものと、島の人が自稱して居ります。即ち八重山の人々は、新なる樂器を採用して自由に之を使ふだけの働きがあつたと申してよいのであります。箏の琴は筑紫琴(474)と申す位で、内地へも西の方から弘まつて來ました。内地と沖繩と何れが早かつたか。私は内地の方と思つて居りますが、まだ斷定は出來ませぬ。併し少なくとも八重山へ入つたのは一時代後のことで、やはり沖繩が中繼ぎをして居ることは確かであります。

　ところがもう現在では、島には島の人が島桐の木を以て、自ら作つた名器が幾つか傳はつて居るのであります。今晩の琴は東京のものですが、八重山の方のは是よりも確か一尺餘りも長いやうに記憶します。勿論非常な勞力と時間とを費してのことですが、兎に角手作りの樂器を以て、立派に間に合せて居るので、此一事を以てしても島の人の耳がよく、音律に精しいことは推定し得るのであります。三味線の方も三十六島ほゞ一樣の樂器でありますが、是亦島に産した材を削つて、夙くから自分で製作して居りました。今日も尚其通りであると申します。絃も本來は島産の苧絲をよつて、湛念に自作して居たやうですが、是は現在は買入れて居ります。皮は亦薄樣の紙を何枚も貼り重ねて、所謂蛇皮に代用した時代がありましたけれども、現在は本物の蟒の皮が輸入せられます。多分南支那の産でありませうが、是亦沖繩を經由して買ふことになつて居ります。一枚の皮から幾つか取れ、首に近い部分が最も佳いといふことで、以前は一梃分が五圓か六圓のものでありました。ところが此頃は内地の物ずきな人たちが、其蛇の皮を帶にしたりネクタイにしたりする流行が現れて、値段が倍にもなつたので島の音樂家たちは大弱りだと承りました。

　

　　　　　　　　　　四

　

　要するに島の現在の樂器は、何れも音樂そのものよりも遙かに新しいのであります。それから次には舞の衣裳、これも次から次へと新らしい好みで、色も形も改まつて來たやうであります。現に今晩も内地風の黒の紋付を着て舞ふ曲がありますが、それが模倣であることは申す迄もありません。其以外の装束とても、至つて簡單な勞働衣以外には、殆と一つとして之が島固有の風俗と、見てよいものはないのであります。

(475)　大體に南方諸島の衣服は、近世次第に單純化して來たやうであります。宮廷上流の服制は恐らく今よりも花やかであつたと思ひますが、舞の衣裳にはそれを踏襲し保存したものは寧ろ少なく、やはり我々の歌舞伎と同じく、獨立したる空想の趣味、若くは誤つたる歴史知識に基づいたもの、例へば妹背山の鱶七が半袖の褞袍を着て出るといふ類のものが、幾らでもあると思ひます。しかも島の本來の舞姿、即ち巫女が神事のために舞ふ場合の如きは、昔も今の如く白の單色の素朴な單衣を着たのであります。

　要するに斯ういふ彩色又は外線は、特に舞踊を樂んだ近世の生活の影響であります。さういふ時代が此島々には可なり永いこと續いたのであります。最近に至るまで、八重山の村々には公費を以て舞衣を調製し、且つ之を保管すべき義務がありました。其爲に今も村有の装束といふものがありまして、今度も其若干を携へて來て使つて居ります。内地の神社に持傳へる祭の衣裳よりももつと嚴重に、農民等は之を具へて置く義務を公課せられて居たのであります。

　それもこれも既に過去の歴史でありまして、現に今夕來て舞つて居る娘たちすらも、今はもう知らぬだらうと存じますが、この舞衣裳に限らず、歌や樂器を追々に斯くの如く變化せしめた、明白なる原因はあつたのであります。それを手短かに申しますれば、島の此樣な社會?態を持來たしたのは、先島特有の在番制度でありました。在番といふのは沖繩の王廷から派遣せられたる駐在役人、今なら島司とか郡守とかいふべき大官であります。彼等は離島に據つて自立することを防ぐためでか、妻子眷屬を伴うて來ることを許されず、其代りにはそれ／”＼島地に於て給仕人介抱人ともいふべき者を付與せられて居りまして、それを女頭《ぶなじ》など申しました。石垣本村に住む島内の士族たちが、自身村々の役人として在勤する場合にも、其特典は右の在番と同樣で、何れも村々の賦役として、善く舞ひ善く歌ふ者を點定したらしいのであります。村々の役人は通例二人、大を與人《ゆんちゆ》と謂ひ小を目差と謂ひました。與人は年功で大抵老人が任ぜられますが、其下の目差といふのは若い役人で、島限りで申せば花の如き貴公子でありました。八重山歌謠の多くの作者と傳へられるのは、十中八九まで斯ういふ境遇の村役人であります。

(476)　實際に役人としては理想的かも知れませぬ。頭の押へ手は無く、ちつとも用が無い。無事の退屈を風雅によつて紛らして居たのですから、好い歌も出來た筈であります。併し給養だけは必ずしも豐かで無く、豐かなのは人の力だけで、つまりは是を一種のボナスと心得たのであります。彼等が村の女たちの中から色白く髪長く聲美しく、最もよく歌舞する者を選擇して、更に之を教育して各自の文學と趣味とに同化させ、幾分か手前勝手な戀の歌を高唱せしめたことは、恰も我々の淨瑠璃などに於ていつも女の情の深さばかりを題材にしたのと、趣がよく似て居ります。

　

　　　　　　　　　　五

　

　この小さき孤島には限らず、多くの民族の藝術は往々にして斯ういふ事情の中から成長しました。藝術の保護者は一方には暴君でありました。是は如何にも悲しむべきことには相違ありませんが、小さな部曲の藝術が發達して、末には國民的となり又世界的となる爲には、或は一度は經なければならぬ關門であつたかも知れませぬ。日本でも上代の日韓交通に於ては、論語千字文の類から佛像經典に至るまで、あらゆる優良なる文化は古今を一貫して、悉く貢ぎ物の形式を以て入つて來ました。羅馬人が希臘の故土を支配した時代には、哲學者も美術家もすべて皆奴隷でありました。但し其中でも永久に顋と鞭とを以て驅使せられる者と、次第々々に引上げて温かく柔かな座席を供與せられ、いと容易に精神的に解放せらるゝ者とがありました。就中歌舞音曲に於ては、聽く者と奏する者との心持が、ぴたりと行逢ふことを目途としました爲か、殊に所謂融合が行はれ易かつたやうであります。優人伶人は憐まれ愛せらるゝのみならず、又尊まれる昔からの原因があつて、何れの伎藝よりも力強く且つ處を得て、所謂階級の爭から超越して居たかと思ひます。

　

(477)　　　　　　　　　　六

　

　八重山諸島の歴史を囘顧しますと、島に若し舞が無く歌が盛んに起らなかつたならば、土人の生活の苦味酸味は、もつと／＼忍び難いものであつたらうと思はれます。記録では今から約六百年以前、明の洪武年間から八重山は中山王國に朝貢して居たとありますが、それが果して全群島に沖繩の支配の及んで居たことを、意味するかどうかは確實でありませぬ。ところが其後尚百餘年も過ぎてから、叛亂をしたと稱して突如たる征伐を受けました。其時島内が二つに分れて、獨立派といふべき村々の酋長たちは皆亡び、その生き殘つた者が只の百姓になりました。今でもまだ幽かな痕跡を存する所の士族と平民との二つの階段を生じたのは、特に事大派の子孫のみが優遇せられた結果であります。多くの歌詞を作り新曲を按じ、種々なる色彩と外線、艶なる手ぶり足どりを採擇して、今ある島の舞を教へた人々は、何れもこの新しい語でいふ士族、島でヨカル人と稱する階級の者でありました。さうして歌ひ且つ舞ふ者は、必ず他の一方の百姓の娘たちであつたのであります。

　内地の中世史にも是と似たことはあります。靜御前の舞ふ日には梶原某、工藤某といふ類の武士が鼓を打ち笛を吹きました。樂器に對する紳士の嗜みは、今とは違つて居ります。言はゞ牧童の笛を吹いて牛を導くやうなものでありました。燈は暗し數行虞氏が涙、夜は深し四面楚歌の聲の詩を以て記憶せらるゝ三位中將重衡なども、最後の優遇として美人の歌を聽き、自ら樂器を執つて一曲を奏して居ります。又古くは橘諸兄公の如きも、京都の大官として奧州の邊土を巡察し、一夕何か非常に不機嫌なことがありました。其時美しい采女が出て酌を取り、かの淺香山影さへ見ゆる山の井のといふ歌をうたつたので機嫌が直つたといふことが傳へられて居ります。諸國に采女といふ女性を置いてあつた制度の、是が根本の理由であつたことは想像し得られます。

　異なる二つの種族の交通に於きましても、やはり隱れたる要件として、若い女と音樂が參與して居たかと思ひます。(478)それが輕々しい一時的の結合のみでなかつたことは、先づこの眞率な藝術の統一融和が之を證明します。強き者の氣まゝに泣かなければならなかつた者、恨みもあれば憎みも深かつた若い戀のもつれが、僅か三十年か五十年を經過する中には、いつとなく母や祖母の愛情に移つて來て一方徹底的にそれと仲直りの出來ぬ分子だけは、早く社會の表から消え又は埋もれて、元の惱みを遺さぬのであります。

　

　　　　　　　　　　七

　

　舞踊の夕の前座としましては、これは如何にも寂寞たる御話ではありますが、つまり藝術は花であり若い緑であります。其根が何に培はれ何に支へられて居るかを忘れてしまつて、斯うして現在と次に來る成長とを歡び樂しむ所に、その最も大なる文化價値は存するのかと思ひます。此心持を以て見ますれば、八重山歌舞の將來といふことは、我々に取つては何とも譬へ樣の無い興味ある問題でございます。

　皆樣が今から十年二十年の後、今夕の印象を何かの縁に因つて想ひ浮べられる頃には、この南方海島の伎藝は、果して如何なる形式をとつて成長して居るでありませうか。時間が乏しい爲に詳しく述べることを得ませぬが、島の人の音律感覺、又歌を愛する傾向は原始的のものであります。神祭り其他の精神生活、又は苦しい肉體の勞作にも、早くから必ず歌を伴うて居たのであります。假に新しい戀の歌、女が男を慕ふといふ類のなまめかしい歌と舞姿を、今日の盛大に持來たした環境なり條件なりは、既に悉く一變したとしましても、それが爲にこの淋しい島の生活から、歌の盡きるといふことはあるまいと思ひます。必ず何等かの新しい形を以て、再び新生面を開くにちがひ無いと思ひます。

　私はこの久しく鬱屈したる島の人たちの爲に、それが最も平和なる征服であり支配であつて、行く／＼は獨り日本一國の藝術の融和に貢獻するのみと言はず、弘く世界の音樂の一大諧調の中に、永く美しい綾紋樣の一つとして織込(479)まれて行くことを期待するものであります。さうして今一段と明るい快い感じを以て、更に今夕を囘顧する時代を待ち望んで居る者であります。

　

(480)　　　　　島の三大旅行家

　

　白野夏雲・田代安定・笹森儀助、この三翁は島の生活を記録して置かうと思ふ我々にとつて、最も忘却し難い近代の俊傑であつた。其中でも田代翁は近くまで生きて居られ、一方植物學上の業績は豐かに遺り、その教を受けた學徒も少なくない。自分の知る限りでは小石川植物園の松崎直枝君などが遺稿の集輯に從事せられて居るから、遠からず保存の道が立つことゝ思つて居る。先生の南島紀行は白野翁のそれよりは少しおくれて成り、東京人類學雜誌に一部が連載せられ、比較的この方面に志ある者の眼に觸れて居る。それから以後も薩摩と臺灣との間を、老に至るまで何囘と無く來往せられて居るから、見聞は恐らくなは多量に手録せられてあることゝ思ふが、それ等もやがて我々の利用し得る形になつて出て來ることゝ思ふ。たゞ現在の所では、まだその經歴を詳にすることが出來ぬだけである。

　田代翁はたしか鹿兒島縣の生れである。その壯齡の日が白野夏雲翁の、任に同縣の勸業課長に在つた際だから、兩者恐らくは若干の交渉を有したことであらう。もし相知つて居たとすれば、年長白野翁がより多くの感化を與へたことも想像し得られる。白野氏の學風は既に其頃の學術雜誌に掲げられて居るが、是を海南の列島に試みんとしたのは、その五年にわたる在任期間の事であつた。當時翁齡六旬に近く、職務は又異常に繁劇であつた。新たなる施設は相次いで企てられ、其上に更に内國博覽會を利用して、大いに地方の文物を紹介する必要もあつたのである。遺されたる若干の著述だけを見ても、翁は珍しくよく働いて居られる。有名なる麑海魚譜は自畫であつた。北海道大學の圖書館には其手稿の大部分が保存せられて居る。是を前後兩囘の銅版畫本と比べて見ると、前者の精彩は十の一すらも傳は(481)つて居らぬ。それ程にも辛苦經營の事業であつたのである。十島巡察の旅行は、この忙しい生活の僅かな時間を割いて、思ひ立たれたものであるが、是にも翁は尚全幅の精神を傾注し、舟中筆を走らせたかと思はるゝ一卷の圖譜は、淋漓として當年の氣魄を留めて居る。この強烈な意思と精力とは是を環視して居た同時代の好學青年に、何等かの刺戟を與へずして止むべきもので無かつたと思ふ。

　我々は前に十島圖譜を覆刻して世に頒つの際、この未聞の老學者の半生に關して、若干の mystification を試みようとした。其空想は餘りにも早く霧消したのであるが、しかも半分は現實と合致して居る。翁の前名は今泉耕作、中ごろ其故郷の村の名を採つて白野の姓を設け、夏雲の通稱は更に之と調和せしめたる翁の趣味であつた。孤行遠遊を愛した性情は、自ら此四文字の上にも表はれて居るのである。翁の令孫白野甲峯松氏現に札幌に住し、且つ若干の舊事を記憶して居る。翁の官歴と生歿年次とは、文書に據つて是を明確にすることが出來た。其壯年の事蹟も尋ねたら追々に判りさうである。幾つの年の事であつたか知らぬが、翁は甲府に出て行つて或幕臣の家に仕へた。後に磐瀬肥後守と謂つた人だといふことで、其書信の多くと九州の紀行とが、今の白野家には傳はつて居る。長崎在番の間に天草方面を經廻つた日記であつて、夙に島々との因縁は結ばれて居たのである。それから東國に還つて來て、暫らくは駿河にも居住した跡がある。多分明治のごく始めに、�ｺ川氏の遺臣と共に十勝國に移任し、同五年に開拓使の微職に就くまでの間、既にアイヌの生活觀察に指を染めて居られたらしい。妻子の縁はやゝ薄くて、晩年は淋しかつたが、故郷の消息は全く絶えてしまつては居なかつた。白野は甲州路の一驛であつて、今は笹子村の大字になつて居る。村には今泉を稱する舊家が多いから、たとへ此偉人の功業を知ること無くとも、生れた場所ぐらゐは是を記憶する者が有らうと思ふ。笹子の校長渡邊晃君が調査を諾して居て未だ約を果さない。春になつたらもう一度行つて見るつもりである。

　笹森儀助翁が南島旅行の途次、鹿兒島に立寄つた際には、白野翁は既に去つて年久しく、たゞ田代安定氏を訪問し(482)て、豫め島々の事情を尋ねたと言つて居る。しかし三人の中では笹森氏の旅が最も豪快であつた。獨り旅程の遠く艱苦の多かつたといふのみで無い。何等官府の使命を帶びず、從つて又寸分の庇護援引を受けず、是といふ目當ても計畫も無くて、單に一國の志士として、同胞生活の特に省みられざりしものを省みようとしたことは、其當時に在つても既に異常なる風格を以て目すべきであつた。斯翁の事業は必ずしも大成せず、殊にその晩年失意の境地から囘顧すると、空しく一生を風塵の間に老却した感はあるが、飜つて其文獻上の功績を問ふときは、優に他の二先輩を凌駕するものがあるやうに思ふ。翁の傳記は横山武夫君の手に成つて、近く世に送り出されんとして居るが、是に由つて我々の知つたことは多い。曾て一卷の南島探險が、我々島外研究者の好刺戟であつた樣に、翁の家に保存せられて居た十島の地誌、その他多數の著述は一つ毎に、それ／”＼獨自の價値を以て、永く後進を導くことであらう。笹森翁が老いて故山に歸臥して居られたのは、ちやうど自分などの頻りにあの地方に往來して居る頃であつたが、遠い南方の島々の貴重な經驗が、津輕の雪國に埋もれて居ようとは思はなかつた。奄美大島の年とつた住民の中には、今でも笹森島司の治績を記憶する者は有るか知らぬが、それが曾ては北千島の探險家であり、後には又遠く對岸大陸の奧地に、日本人の抱負を試みようとした旅人であつたことを、承知して居る者が幾らあらうか。旅は爽快なる一箇の技術に相違ないが、その感動は音樂などと同じやうに、空に消え去つて其痕を留めない。これを後代と繋ぐには筆を要し、又適切なる機會を要する。この二つの條件に就いては、三翁は共に惠まれて居る。殊に笹森翁の場合などは久しからずして忠實なる記傳者を得た。我々は決して之を不遇と評することが出來ない。

　

　　白野夏雲翁略歴

一、文政十年間六月二十六日、甲斐國都留郡白野村に生る。靜岡藩士、舊氏名は今泉耕作、後姓を白野と攻め更に名を夏雲と改む。

(483)二、明治五年二月、開拓使九等出仕となり、十勝州廣尾郡詰を命ぜらる。

三、同年五月、墺國博覽會に就き北海道物産取調を命ぜられ、五月六日箱館竝に十勝州に出張す。

　同五年、博覽會御用を以て上京を命ぜられ、八月開拓權大主典に任ぜらる。

　同六年六月、物産局鑛山課兼博物館製造課申付らる。

　八月、辭職。

四、明治八年三月、内務省地理寮十一等出仕に補せられ、土石調査の爲め、山梨、靜岡、濱松、愛知、足柄、千葉の各縣へ出張す。

　明治九年一月、更に名東、高知、愛媛の諸縣、同七月新潟其他の各縣へ出張。

　明治十年、地理寮廢せられ、内務六等屬となり、地理局事務取扱を命ぜらる。

五、明治十年十一月、第一回内國勸業博覽會に於ては委員竝に審査官となり、且つ出品の「建築石砥石硯石及石灰石土砂蒐集」に對しては「蒐集最も廣多にして其排頓亦宜しきを得たり。内國土石の工藝に需用すべき品質を參觀するに足る」とて龍文賞牌、「木材類集」に對しては「局命を奉じ各種の木材を類集し殘す處なく、排置宜しきを得たり」と花紋賞牌を授與さる。

六、明治十一年一月、土石調査の爲め兵庫、岡山、廣島、山口、鳥取、長崎、熊本、鹿兒島、大分、福岡の各縣に出張す。

七、明治十二年四月、鹿見島縣に出向を命ぜられ、五月鹿兒島縣四等屬に任ぜられ、勸業課勤務となる。

　同年五月より十三年八月に亙り、物産取調、樟材黄楊材取調等の御用を以て向潟、高江郷、久見崎、甑島、長島、大島郡、小根占郷、頴娃郷、宮崎高鍋延岡、山ヶ野長野芹ヶ野の三金山、桑原菱刈兩郡竝に大隅日向地方へ出張す。

八、同十三年十一月、第二囘勸業博覽會に付上京す。「木竹?葉」及び「名石類集」を出品し、前者に對しては「有用(484)の木材を類集して之に?葉を附し、詳かに其産地所用を説く、着意の切寔なる世に稗益す、協賛の勞多し」として協賛三等賞?を、後者に就ては「男女飾具の石材一百餘種を採集して本邦其産に乏しからざるを證し、以て參親に供す。稗益寔に多し、多年注意の篤きを觀るに足る。其有功嘉賞すべし」とて有功三等賞牌を授與さる。

九、明治十四年九月縣三等屬となり同年十二月より翌十五年に亙り、陶器用?藥實地調査の爲め硫黄島、南潟等に、又水産博覽會出品取調の爲め管内各地へ出張す。

一〇、明治十五年十二月、明年開設の水産博覽會の爲め上京す。

　同十六年五月、水産博覽會に「漁撈説略」「漁業規程雜纂」「松魚殖道圖」「板屋蚶録」「麑海魚譜」「管内水産統計表」を出品し、「六種其趣を異にし優秀差ありと雖も調査の周密なる記事の剴切なる最も用意の懇到なるを見る、詢に嘉賞すべし」とて三等賞牌を授けらる。

一一、明治十六年七月、勸業課長となる。同年十月、九州沖繩聯合共進會掛長を命ぜらる。

　明治十七年三月、物産採集の爲め川邊郡各島竝大島郡へ出張す。

一二、明治十七年十一月、上京、農商務省屬となる。

一三、明治十九年七月、北海道廳屬に任ぜらる。

　同十一月、蝦夷地名取調を命ぜらる。

　同二十二年五月、辭職。

一四、明治二十三年二月、札幌神社宮司に補せらる。

　同二十五年七月、北海道物産共進會審査員囑託。

　同二十六年十二月、正七位に敍せらる。

一五、明治三十二年九月、從六位に敍せらる。

(485)一六、明治三十二年九月一日、札幌神社は官幣大社に進められ、勅使御下向祭祀施行の事あり、八月末頃より札幌病院に入院中にて式祭に參列するを得ず、九月八日逝去す。

　

　　笹森儀助翁略歴

一、弘化二年一月二十五日、弘前在府町に生る。父重吉は弘前藩の御目付役たり。

二、十三歳父に別る。父に死別せし後、母ひさの手に養はれしが、その感化の大なりしことは、自ら「貧旅行之記」（明治二十四年）中に述懷せり。

三、修學、稽古館に修業、又、安政六年（十五歳）より慶應二年（二十二歳）迄、劍士山田登について劍を學ぶ。山田登の勤王思想、北海道拓殖論、農業尊重の思想等の感化大なり、後工藤他山に學び知友葛西膏彌に啓發さる。

　藩主に仕へ禄百石を賜り小姓組となりたるも、慶應二年、山田登の上書を藩公の机上に呈し世禄を没收せらる。明治三年、明治政府の特赦に遭ふ迄禁錮。

四、明治三年九月（二十六歳）弘前藩廳權少屬租税掛、爾來明治十四年青森縣中津輕郡長を辭する迄、縣の役人となる。

五、明治十四年六月十七日、明治天皇東北御巡幸の請願文を陳じ、容れられて大帝の御巡幸を仰ぐ。

六、明治十四年十一月十四日、縣令山田秀典と議合はず郡長を辭す。

七、明治十年九月以來企畫しつゝありし岩木山下の常盤野牧場に「農牧社」を經營す（明治十五年五月開業）。副社長後社長たり。これ士族授産の事業なり。

八、明治二十四年四月五日より六月十三日迄、自ら「貧旅行」と稱する旅行を鹿兒島迄試む。伊勢大廟參拜、霧島山上に祖宗の神靈を感佩せる外、各地御陵、勤皇志士の墓に詣で、又全國の士族授産事業を訪ね自己の事業不振の原(486)因を究めんとせり。これは、又政治家の政黨爭ひに没頭し、國家の大計のならざるを慨し、全國に愛國の士、不言實行の特志家を求めんとする念よりなせる旅なりき。「貪旅行之記」二册あり。

九、明治二十五年六月より十月十日迄、自ら請願して探險艦「磐城」に便乘し千島探險をなし、占守迄至りて歸る。

　明治二十六年二月十日「千島探險」と題して印刷、有志に頒布。

　同十五日を以て井上毅氏により、乙夜の覽を賜る。

十、同二十六年五月十日より十月二日迄、琉球探險の旅に上る（四十九歳）。

　翌年五月三十一日「南島探險」と題し印刷有志に頒布。天覽の榮に浴す。

十一、明治二十七年八月より三十一年八月迄、、大島島司。二十八年四月――八月迄、十島調査。

　「川邊十島巡廻概要日記」「拾島?況録」十册、（稿本）あり。

　二十九年三月――五月迄、臺灣視察をなす。「臺灣視察論」（稿本）あり。

　二十九年八月「藤井富傳翁傳」を公刊。諏訪瀬島の開拓者なり。

　三十一年八月、南洲翁記念碑を建つ。

十二、陸羯南の推薦にて近衛公の東亞同文會に賛し、三十二年五月、朝鮮咸鏡道の學堂建設、竝に城津校の校長となる。「西伯利亞旅行日記」（三十二年九月）「西伯利亞取調書」（同十一月）「北關豆滿江六鎭及露領ボスヱット灣清領琿春及三國境界視察日記」（三十二年十二月）「霧清韓三國境土戰爭後視察報告」（三十三年十月十五日――二十九日）（みな稿本）等あり。

　三十四年六月、歸國。

十三、明治三十五年五月六日、第二代青森市長となる。三十五年十月一日、「私立商業補習學校」開設。今の縣立商業學校の前身なり。

(487)　三十六年十二月十三日、辭職。

十四、四十年頃、大阪池田病院の事務官たりしことありといふも不明。又當縣五十九銀行監査役となりしことあり。

十五、大正四年九月二十九日、腦溢血にて逝く、七十一歳。純正院殿�ｺ譽義勇居士と名法す。

　

附記　この略歴は白野翁の分は白野甲峯松氏より貸與された、明治二十六年札幌宮司時代の履歴書に據り作製。笹森翁の分は横山武夫氏の記述になるものである。記して兩氏に謝意を表す。

　

　白野夏雲翁の生涯については、既に龜田次郎氏の調査によつて、其大要を知ることを得たのであるが、自分はなほ四十年來の一つの空想を棄てることが出來ない。斯翁の出所進退にはたしかに若干の故意の韜晦があつた。さうして珍らしい其氏名は、どうやらその全部が後年の製作に係るらしいのである。幕末維新の人物中には、一時の變名を以て世に出てしまつた者が折々は有る。白野といふ苗字は有つてもよい苗字だけれども、江戸でも甲州でも、又他の地方でもつひぞ耳にしたことのない家名であり、しかも餘りによく夏雲の號と調和し、且つ兩者を一貫して、餘りに適切に其持主の事業と經歴とを表現して居るやうに思ふ。自分は弱冠の頃に、?々此人の文章を讀んで、いつも斯ういふ氏名を名のる氣になつた筆者の心境を、譬へ樣も無くゆかしく懷つたことであつた。

　翁が晩年に還つて奉仕したといふ札幌神社、又は鹿兒島縣廳の舊記録を捜したならば、履歴書に其出生地だけは出て居ることであらう。それを手掛りにして尋ねて行けば、古い事では無いからまだ少しは明らかになる點も加つて來るかも知れぬ。しかし私たちの實驗に依れば、傳記は通例は用も無い部分のみが多く現はれ、却つて色々の臆測を誘導するに過ぎない。殊に先生の學問に師傳が無く、單に時代の變化に先づ目ざめて、覊旅の間に在つて感發し味得したものを、積んで大きくして行つたばかりだとすれば、その刻々の企畫と念願とは、恐らくは日記にも之を言ひ現は(488)すことは難かつたらう。まして後人の察し知ることは、此方面からは望めないのが當り前である。學者を知らうとするにはその著作に據るの他は無い。さうして幸ひに爰に肝要なる幾つかゞ、我々の間に保存せられて居たのである。永井龍一君が曩に「七島問答」の正續二篇を復刻して世に頒ち、今またこの「十島圖譜」の自筆本を、ほゞ原圖の通りに映印して、心有る者の手に留めようとせられることは、獨り南方の荒海の上に孤存する道の島々の住民を、欣喜せしむるのみでは無く、兼て又一人の忘られんとする學徒に對する何よりの供養でもあつた。白野夏雲といふ人はどんな人であつたか。西洋の文化の新らしい色と香とが、殆と一世を陶醉せしめようとした時代に、前には北邊の曠野に在つて夷人を友とし、更に身を飜へして南島の離れ小島の、一つ／＼を訪ひ寄つた彼の志は何れに存したか。是に答へ得る者といへば、今はたゞこの數卷あるのみである。遭遇は假に運でありはた偶然であるとしても、なほ人間の力の是に干與し得るものであることを、お蔭で私たちも經驗することが出來たのである。

　十島は久しい間、たゞ地圖の上の一奇現象であつた。單に其島影を望んで馳せ過ぐる者は、年に何千といふ船の數であつたが、親しく足を其土に踏み立てた者は誠に尠なく、島人がこの壺中の天地に於て、如何に生死し盛衰しつゝあるかを、省みる者は愈々稀であつた。我々の知る限りに於ては、この白野翁の外に、前には田代安定氏あり又中田直慈氏あつて、島を視察して其報告を世に傳へてゐる。最近には故岸上鎌吉博士が、魚族調査の爲に數週を各島の間に過し、歸途車中に於て半日の見聞談をせられたことは、自分に取つては意外なる好記念であつたが、多分その折の紀行は留められて居らぬことゝ思ふ。永井君が隣島奄美大島の出であつて、頻繁に是と往來するの機會はもたなかつたにも拘らず、終始十島と其憂喜を分ち、更に島人をして少しなりとも知らるゝ者の悦びを味ひ得しめんが爲に此書を公刊して之を島々に配布せんとせられることは、天界の白野夏雲翁もし知るあらば、必ず莞爾として點頭せずには居らぬであらうと思ふ。

　

(489)　（追記）　翁の官歴と生歿年次とは文書に據つて是を明確にすることが出來た。翁の前名は今泉耕作、中ごろ其故郷の村の名を採つて白野の姓を設けた。幾つの年の事であつたか知らぬが、翁は甲府に出て行つて或幕臣の家に仕へた。後九州に行き、それから東國に還つて來て暫くは駿河にも居住した跡がある。多分明治のごく初めに、�ｺ川氏の遺臣と共に十勝國に移住し、同五年に開拓使の微職に就いた。白野は甲州路の一驛であつて、今は笹子村の大字になつて居る。

　

(490)　　　　　水上大學のことなど

　

　昭和二十三年十二月十九日

　瑞西に寂しい朝夕を送つて居た頃、私が頻りに夢を描いて居たのは、海を學問の舞臺にして見たいといふことであつた。あれから二十八年、世相は逆ばかり連續するけれども、今でも未だ私は其實現を斷念しては居らず、又丸つきり空な夢だとも感じては居ない。少なくともこの話を聽いた人は皆快くほゝゑみうなづき、さういふ事が出來る世の中が來たら、さぞ好からうと言はぬ者は無かつた。たゞ片腕を貸さうとまで、誰も言つてくれなかつただけが缺點であるが、さういふ缺點ならば、私たちの計畫には常に附纏つて居る。今さら歎くまでも無いことである。

　最初は多分大阪商船の、紅丸などの經驗が夢の酵母になつて居る。私はもと船長を一生の志望にして居たことも有る男なのである。どうかしてこの位の船を一艘、純學問の爲に動かすことの出來るやうな、時代にして見たいといふのが第一歩だつたとも言はれる。さうして日本は海から近よつて行かなければならぬ仕事が際限も無く多く、又ちつとも手が着いて居ない國なのである。一番その必要を痛感して居る民俗學が發起者となつて、地學・社會學・生物學その他、少しでも關心のありさうな諸科の人をさそひ合せ、ぐる／＼航海してあるく研究所をこしらへたら、どんなに樂しいであらうと、思つたのが言はゞ病みつきであつた。

　澁澤敬三君一行の瀬戸内海巡航記は本になつて居る。それから引續いて更に大規模な道の島七島の旅行などは、世間が知らずに居てはすまぬほどの壯擧であつて、實は私も内々はやられたなと思つたのであつたが、幸か不幸かあの(491)劃期的な探險事業には、私が大事にして居たたつた一つの要件が缺けて居た。後が積かなかつたのは時世だから已むを得ぬとして、あれに携はつた人たちがあまりにも忙しく、陸上の覊絆があまりにも太くて、多い時間をこの爲に割くことができず、僅かに島の土を踏んだかと思ふと、もう出帆といふやうなせはしない訪問をして居たこと、是がまだ私の創案の是から働き得る餘地である。陸上の大學だつて兼職は決して面白いことでないが、海の研究所では絶對にそれが許されず、又斯うして世の中から引離されることが、大きな意義の一つでもあるので、つまりはもう既にえらくなつて居る人たちに、著述を通してより以外には、手を出させまいとするのが、内々の狙ひのうちなのである。

　學問を公衆の財産にすること、是は近頃になつてやつと言ひ始めたやうだが、この「公衆」の意味は今も情けなく限られて居る。島や岬の片陰に住む人々は、さういふ貴といものゝ存在にすらも無知であるのみか、彼等の眞劍な生活の營みが、文化科學との交渉を持つといふことすらも今はまだ心づかれて居ない。彼等自身の疑惑は飜譯せられたためしが無く、何か讀まうとすると先づ數百の用語を暗記すること、恰かも今日のインテリ青年の如くにならなければならない。それほどにも上層の表現技術は、一人よがりのめちやなものなのである。人と人とが對談をするとなると、そんな空疎な交通では十分間も辛抱して居られまい。假に相手は無感覺に別れようとしても、こちらは到底何の印象も無しに、戻つて來ることが出來ないであらう。それが私たちの年來企てゝ果せなかつた、本當の野外作業といふものなのである。生活の中から智慧を求めようとする念處は、恐らくはどの學問にも既に備はつて居るだらうが、是を顯微鏡ともレトルトとも、又一切の精巧なる機械とも、しなければならぬものはさう澤山はない。たとへば社會學は、生理學も多分さうであるやうに、或一つの個體を取つて、拔き檢査をしてもよいやうに考へて居るかも知れない。その他は推して知るべしと、坪苅りを以て全部を計算し得ると思つて居るかもしれない。民俗學ばかりは絶對にそれが望めないのである。結局は同じ安全率の支配を受けるのでもあらうが、其見切りを、付けるまでの根據はまだ一つも無い。やはり改めて個々の精確な記録を作り、比較の基底をこしらへて行かなければならぬのだが、それが今ま(492)では間に合せの域を脱しなかつたのである。

　根こそげ又は片端からの調査といふことは、望まれもせず又必要も無いかと思ふが、少なくとも是まで省みられなかつた箇處の、可なり多くのものを合せて見るといふことは、日本のやうな住民のよく移動した國では特に必要であり、しかも容易には果されぬ事業であつた。宿屋や乘物の心配から解き放されて、それを自由に見てあるかうといふには、船を使ふより他の方便は無かつたのである。勿論一つの學科の注文のみによつて、選定や順序をきめるわけには行くまいが、是は豫め机の上での計畫は立てられない。やはり行く先々で土地の話をきゝ、關係者の相談によつて、次々の場處を見立てゝ行くといふことになるであらう。少しは弊害も無いとは限らぬが、仲間さへよければ此方法はきつと面白く、今まで陸上では得られなかつた學問の協力、相互の理解又は利用が、極めて自然に進んで行きさうな氣がする。いつまでも所謂呉越同舟では、恐らくは居られまいと思ふ。

　健全で又無害なる副産物は、この外にも幾らも想像し得られる。たとへば寄航のついでを以て小規模な講演會、又は談話會などを開いて見ること、或は船中に繪圖や寫眞の類を陳列して、濱の人たちに展覽させるなどは、きつと雙方の親しみを加へ、むだな準備の期間を短くして、結局は調査の效果を擧げやすくすることになるであらう。引込んだ土地に住む者が、久しく求めて得られなかつたものが與へられ、更に我々に取つては人の爲に働く意欲と、その方法なり技術なりを改良する機會にもなることは、豫め計算の中に入れて置いてもよい。自ら進めることはやゝ下品にもなるが、世間では寧ろ此方面に、大きな期待をもたうとするかもしれない。實際又若い學徒の素朴にして誠實なる印象記或は寫眞やスケッチの類は、わざ／＼この爲だけに人を出して、募集公表しようとして居る新聞や出版書肆も多く、それが一般國民の常識水準を高めて來たことも近年の經驗だつたのである。

　

(493)　　　　　　　　　　○

　

　さて斯ういふことをのろ／＼書いて居るうちに、ふと思ひ出した一つの昔話、これは澁澤氏等の探險よりも又大分古いものであるが、殘念ながらそれよりも更に短い、線香花火のやうな小さな試みで自分ももう忘れかけて居たところだつた。大正四年の十一月の始め頃、愛媛縣の農會に頼まれて、大嘗祭についての講演に出かけた際に、私は英國の一旅客、スコット君といふ人を同行して居て、それに瀬戸内海の生活を少しなりとも見せてやりたいと思つて居た。何か御禮がしたいのだが、注文があるなら遠慮無く言へと内務部長がいふので、それでは御願ひして見るが明日は一日だけ、水上警察の船を私に使はせてくれないか。島をあの人にも見せてやりたいからといふと、評定の末それはよからうといふことになつた。船長さんけふは一日、私の行きたい處へ船を着けて下さいよと、先づ最初に上陸したのが忽那《くつな》島であつた。時が惜しい爲に民家を二三戸と村と氏神の御社とを見たゞけで、船へ戻つて來ようとすると小學生が七八人やつて來て、私たちの前後に附いた。その時の兒童の群の中に後に慶應大學の學生になつた大宮忠英君が居たといふことを、本人から直接に聽いたのも一つの奇縁であつた。それから段々に沖のとなかに乘り出して、あれは何といふ島かと尋ねたのが藍の島、昔はこのあたりで航路を曲げるので、風待ちの船の多く寄る繁昌の港であつた。汽船が通ひ出して追々とさびれ始めて居る。もう四五年も來たことが無い。今でもヲナゴ等は居るかしらんなどと、船員が口々に噂して居るうちに、やがて居ります／＼と望遠鏡を渡されて見ると、なるほど中形のやゝ白つぽい上張りを着たのが二人、村の者にまじつて濱へ出て何か働いて居た。それも近よつて見るともう相應なぼろぎもので、以前はどうか知らぬが今は完全に孤島の住民になりきつて居ることが判つた。それから岡へ登つて見ると小さな學校があり、四十餘りの教員がたつた一人晝寢をして居る。起すも氣の毒とそつと降りて來たのだが、其たぶさきの紅い木綿であつたことのみが、妙に鮮かに三十何年後の印象に殘つて居る。

　

(494)　　　　　　　　　　○

　

　或は斯ういふ記憶が無意識裡に積り重なつて、一生實現し得ない夢の計畫を結ばせたのかとも思ふが、それも今はもう辿り難い昔になつてしまつた。自分がはつきりと認めなければならぬ現實は、第一には似合はしい船が無く、人心の和熟が無い。つまらぬ仕事に使ふ金はあつても、又一部には熱情があつても、この二つを繋ぎ合せようとする機縁が無い。それほどにも世の中は荒びて居るのである。大きな美しい夢ばかりを食物にして、私などの一生は過ぎ去つてしまつたが、斯うした空しいものは、後から來る人に踏ませたくはない。近畿の諸君の進むべき路は、恐らくはこの以外にもつと着實な、小さいながらもしつかりと土に着いた、一足づゝでも段々と地歩を占めて、末路に文化の最高峰に到達し、四隣を睥睨することの出來るものが殘つて居るのであらう。實は此あとに續けて海に對する山の調査、峠の兩面の生活の比較といふことが、是も私には早期の失敗の記念に過ぎず、しかも諸君は景勝の地を占めて居られる故に、存外に效を收めやすさうに見えるといふ點を説きたかつたのだが、ちやうど歳の暮に迫つて、もう長話もして居られなくなつた。殘り半分は又の月曜日を期することにしようと思ふ。

　

(495)　　　　　日本の島々

　

　島には島人自らの記録が少なく、又記憶に値する事件も、さう數多くは起らなかつた。民俗學に所謂無意識傳承の、考察と利用とを試るには、最もふさはしい練修の場といふことが出來る。ところが近年は一般に、彼等の關心は外に向ひ、且つ急いで古い仕來りを改めようとして居る。見て置くならば今のうちといふ氣ぜはしなさは、期せずして何人の胸にも感じられるのである。しかし一つ／＼の島の成立ち、そこへ渡つてからの苦闘建設の歴史は、それ自身爽快な課題であり、又住民の切なる願ひでもあらうが、殘念ながら時がすでに遲く、或はもう間に合はぬのではないかとも思はれる。人の住む小島の數が、今でも日本には四百以上、其起立の明かに近代に屬するものは十ばかりしか無い。どんなに私たちが手分けをしても、是を片端から見て行くには時がかゝり、其うちには又隱れてしまふものが多いことであらう。結局は個々の島人をして、平易に且つ僻見無く、自ら知り自ら省みさせるやうに、外に在つて扶掖する學問が入用なのであるが、それが今日はまだ一向に進まず、殊に海洋の方面に於ては、かつて考へて見た者が一人も無いといふやうな、大きな六つかしい問題ばかり多いのである。迂遠なやうだが日本人の離島調査は、まづこの舊來の無知無能に、心付くといふ點から入つて行かなければならぬ。

　一つのしあはせは我々の四百有餘の島々が、大體に同じ方式、同じ機會、同じ資材によつて經營せられたかと思はれて、國樔とか熊襲とかいふ類の、異分子痕跡の少ないことである。是は何でもないことのやうだが、實はさう得やすい條件でなかつた。さうして是には必ず隱れたる原因があり、又結果を伴なふべきものであつた。前に蘭領印度と(496)言はれたモルッカス諸島の歴史を覗き見したことがあるが、こゝから今日のフィリッピン領へかけての、廣々とした海域の近代史は、すべて海賊の活躍を以て蔽はれて居たと言つてよい。處々のスルタンの勢威武略は、是と連續して少しの境目も無く、むしろ掠奪を以て財政の基礎とした觀があつた。一地に定住して平和なる生産を營む者は、たゞ其繁榮といふ事實によつて敵を招くので、海に面して村を開く風が、全く無くなつたといふ地方も幾つかある。殺戮と逃竄とが普通の運命であり、さうで無ければ船に積まれて、其勞力を遠くへ賣られる。其結果の頻繁なる住民の入替りとなり、更に又無法則なる人種の混同となつて、今なほ民族學の未開地を弘く殘して居ることは、否み難い眞實であつた。中華南海の多くの島々なども、私の知る限り、まだ學者の手を着けたことを聽かぬが、?勢經歴が半ば以上是と似て居るから、やはり小區域の調査は可能でも、全部長期を綜合した由來と推移とを、考へて見るのが容易で無いことは、スールー・モルッカスの海域にも近かつたかと思ふ。未來の樂しみといへば大きな樂しみだが、さしあたつてはちよつと手が付かない。

　ところが一方に日本のすべての屬島は、實に珍らしいはどよく纏まつて居る。もちろん大部分は私の謂ふ地の島で、朝夕に目に親しく、靜かな海ならば泳いでも渡れる距離しか無いものが多いけれども、その他の飛び離れた沖の小島でも、いつの間にやらちやんと日本人が渡つて、ほんの僅かな差異を以て、同じ國語を話して居るのみか、信仰にも家の組織にも、はた又正邪の判別の規準にも、あの點は少し妙だといふものが見付からない。囘歸線以北の海は荒く、季節風にもいろ／＼の他の力が加はつて、海の冒險者にも氣心の知れぬ大洋だつたからとも言へようが、それならば我々の同胞の間だけに、之を敢てした者が少なくなかつたといふことが、又一つの現象になつて來るのである。潮の泡から生れたといふ、古代の神のやうな人類も無いものとすれば、是はたゞ單に海を家とし、海に馴れ親しんだ期間の長さに歸すべきであらうが、何か我々のもう忘れかゝつて居る海の人の技術、又は觀念、もしくは心の働きともいふべきものがあつて、それが現在見るやうな種族の分布を可能にし、文獻はたま／＼其圏外の人々の事業だつた故に、(497)今や之を閑却して居るのではないかとも考へられる。海から渡つて來た民族の一つとして、我々日本人に課せられた任務は重く、しかも亦相應に張合ひのあるものである。

　故西村眞次氏の大きな努力はあつたが、何處で我々の祖先が舟を操る方法を學んで來たかは、まだ明白とまではなつて居ない。假に全員が半島の一角から、天氣を見定めて漕ぎ渡つたときまつても、なほ次々の大海を乘切る手段までは説明し難い。それは後々の發達であり、學んだ技術であると言はうとすると、沖繩などは幾つもの疑問を提出し得る。近世官船の構營は記録に傳はり、しかもそれ以前すでに年久しく、四海の交通が始まつて居たからである。現在はもはや微々たる痕跡になつて居るが、所謂もやひ舟・組さばねの慣習は夙く確立し、それが海上の勞働組織を、力強いものにして居たのでなければ、多※［衣＋執］掖玖の諸島が來朝したり、壹岐對馬隱岐佐渡がそれ／”＼に一つの國として、結合することも恐らくは望めなかつたらう。そこに此民族の海上生活誌が、改めて討究せられねばならぬ論據があるのである。

　時間が足りなくなつたから、續稿を他日に期する他は無いが、私は舟の操法に限らず、どうして此樣に早い頃から、島々に分れて住むことになつたかに就いて、今までの説明はまだ十分でないと感じて居る。個々の島限りの探究や討査によつて、それを明かにすることは望めぬかもしれないが、大體にそれが漁撈の必要からでは無く、土地を耕作して穀物に生を託する人たちまでが、海を離れてさう遠くの場處に、暮すことが出來ないやうな感覺が、以前の日本人の一部には、久しく殘り傳はつて居たのではないかどうか。それが或は數多くの島を知ることによつて、いつかは確かめ得られるやうな氣がする。勿論現在はすでに山の奧の、小さな谷間までが皆村となり、龍宮の所在を谷川の淵に求め又は山の峰を精靈の常の住みかと信ずる者が多くなり、それも中世以後に始まつた習俗ではないのだが、さうは考へきれない人々もなほ多く殘つて、自然に生活の方向を分岐することになつたとしてもそれもまた重要なるフォクロアである。國の統一が國民の全部を擧げて、新たなる一本の道に進ましめるものと、きめてかゝることは日本では(498)出來ない。むしろ文雅の教養が中央上流の間に偏して居る間こそ、自他ともにさうした斷定に安んじて居り得たので、それが是からは望まれないとすると、我々の新たに考へて見るべきことが、次々と加はつて來ずにはすまない。ともかくも我々の同志だけは容易な答へよりも、釋き難い疑問を貯へて行く方に力を傾けたい。海に對する信仰の變遷は恐らくはその色々の段階が、島々の生活に保存せられ、又は偶然に注意せられることゝ思ふ。今囘の同時調査の、是が一つの大いなる意義と言つてもよく、たつた一度の一つの島への旅では、斯うした比較の樂しみは期待することが出來なかつたのである。今からもう二十年も前に、「島」といふ小さな雜誌を出す團體を結んで、この茫洋たる荒海に乘出さうとした人々も、幽かながら同じ夢を見て居た。北太平洋の端つかたに片よつて、靜かに生を續けて來た日本人ではあるが、なほその年久しい體驗と直覺との中には、未だ世に知られなかつた生活の理法の、或ものを持ち傳へて居るのかもしれない。それがもし安全なる方法によつて、たとへ一部分なりとも確認せられる時が來るならば、是によつて前途に一道の光明を見出し得る者は、決して一隅の島人たちには限られぬであらう。どうして人生が今までは樂しく安らかであり、それが新らしい世に入つて、どうしてこのやうにわびしく惱ましく、住みにくゝ感じられるやうになつたか。古くさい問題にはちがひないが、やはりもう一度特に島々に生れた者の爲に、具體的に考へて見る必要があり、其知識を足場にしない限り、是からの進路は決定のしやうが無い。島を正しく知らうとする者の努力が、必ず集積せられ、又綜合せらるべきものであることは、我々の仲間だけは最初から皆信じて居る。たま／＼一部の珍奇を競はうとし、又は獨自の斷定を急がうとする者があるならば、明かにそれは邪道である。問題は中々さう單純ではないのである。

　

(501)　　　海女部史のエチュウド

　

　　　　　　　一　始めて見た海

　

　村を過ぎて行く川の水は、僅か一時間以内で大海の潮にまじるのだが、そんな事は少しも考へぬかの如く、忙しげに小石の上を走つて居た。魚島と稱する鯛さはらの季節には、朝の十時頃にはもう村々を賣りながら、濱の若い男が勇ましい聲で生魚を擔いで來た。章魚でも海老でも多くは活きて動いて居た。鰈なども籠の中で跳ねるのを見たことがある。前の立て場に休む人力の客も車夫も、港と蒸汽船の話をよくして居た。それだのに自分はまだ海を見たことが無かつたのである。本ではよく讀み繪も幾つと無く屏風や額で見た。學校の作文では、自分も海のことを書いたことがある。あまり笑はれるから何とかして、海を見ようと思つたのが十歳の春であつた。

　村の後の岡は美しい小松山で菜の花麥畑の眺望は一等であつたが、ちやうど眞南の川の岸に迫つて、飯盛といふ孤山が立ち塞ぎ、それに實は少し低かつた。今一つ奧の山里から來る同級生が、茱萸や虎杖や四十雀の巣などと一緒に、?々海を眺めた話を持つて來るのが、何か無暗に嫉ましかつた。ところが好い機會があつて山遊びの一行に連れられ、峯傳ひに北の村境の、いつも雨乞の晩には松明をともして皆の登る山に登つた。爰からなら海がよう見えると、岩の片端に人々と共に立つて見ると、うたてや五月半ばの夏霞で、川口近くの松林がもう煙つて居る。併し右の方へ少し(502)偏つて、山が二つほど見える。あれが家島や、漁師の餘計をる島やと、折角教へては貰つたが、たゞ藍鼠色の、夢のかたまり見たやうなものであつた。何か白い影が其前を折々通るのであつたが、それが帆掛船だといふ説にはまだ反對する者もあつた。いつから我々の村には來て住むことになつたか知らぬが、海の風は毎日の樣に吹いて來るのに尚一生海を見ずに村で終る者も多かつた。出世をせねばならぬ。さうして方々の海を見てあるかうと思つた。ビヨルンソンのアルネを讀んで居ると、雪を冠つた、高い嶺の外に、海といふ荒い水面のあることを聽かされて、恍惚として人生の第二頁を飜さうとする少年が出て來る。四海を威服した※［ヰに濁点］キングの後裔でも、一たび谷底の平和に根をさすと、元を忘れて更に新たなる空想の來り促すのを待たなければならなかつたのである。あらゆる生物に取つて、土は力強い鏈であつた。私などもあれから四十年の旅行生活を重ねたが、今でもまだ渚に立つて沖を望み、遠くから來り寄る物を、迎へて見ようとする考が止まぬ。海が故郷への途であることを知りつゝも、尚此島の美しい姿を、岸を離れて振囘つて望むことが出來なかつたのである。

　

　　　　　　　二　海無き國と云ふこと

　

　どうして又此樣に完全に、海の路を忘れてしまつたか。北へ日本人の移任して往つた時も、主として北上川の兩岸の土を、耕しつゝ進んだやうである。山一重の外の氣仙閉伊の海邊には、近い世までの異俗人の生活の痕がある。さうして又荒濱が多かつた。出羽の側でも最上雄物の二水域は、川上から開けて行つて海近くなつて止まつて居る。海沿ひには又別方面からの土着があつた。獵と農業との興味が我々の祖先と引わけたことは、殆と大洋を渡つて來た種族の末とも思はれぬ位で、險しい山坂は却つて之を苦にもせずに、樹海の底を泳ぎ潜つても、尚舟の旅を續けようとした形がある。即ち山脈の垣根は彼等に取つて、最も自由なる通路であつたにも拘らず自分勝手に之を以て行政區劃(503)を堺し、さうして海無き十餘國を作つて居た。日本のやうな小さい島で、海の無い地方といふものを、考へ出したのさへ珍しい。上野や下野などは平原の一續きで、まともに海の風が夏になると吹いて來る。住民の心が海を疎んずる以外に、此地を海と隔離する何の障壁も無かつたのである。だから海有る日向の國などでも、春は磯の松の根元迄麥を蒔き紫雲英の花を咲かせ目の屆く限り一隻の漁舟も見えず、浪は森閑として獨り靜かな田を守つて居る。四國の北岸を汽車で走つて見ても、海で働く人の家は、たゞ稀々に群を爲すのみで、清き渚は徒らに田畠の圍ひ堀、濠、又は普通の農家の背戸の景色を爲すばかりである。

　忘れたと言はんよりも、始から深くは海を思はなかつたのかも知れぬ。蜜柑で有名な瀬戸内海の大長村は、二十五箇の離れた陸地に、小舟で渡つて耕作をして居るが、其漕ぎ方には一目で分る百姓風があり、漫々たる門前の入江は有りながら、今でも漁師から生魚を買つて食べて居る。代々の眞宗門徒で、殺生を惡む爲とも説明せられて居るが釣だけは好んでするのを見るとさうでも無い。つまりは海上の手業の不得手なことを自ら知り、又それよりも土の上の勞働が、一段と上品なることを感じて居たのである。内海には大小の島の數しげく、いはゆる長汀曲浦も果し無く續いて居るが、心からの海の民といふものは存外に少なかつた。近世に入つて周防の或領主は、船方を其海岸に用意して置く爲に、寛大なる條件を掲げて東隣藝州の島々から漁村を移住せしめたことがある。紀州でもいつの時代にか熊野の海女の部落を誘うて、有川以西の濱に分村せしめたことがある。しかも其地方は昔の海部の居住地の跡であつた。沖繩に渡つて見て自分の驚いたのは、あの細長な如何なる小山の上からでも、左右兩側の海を一時に見るやうな島であつて、尚且つ海から食料を得ようとする念慮が甚だ乏しかつた。水産の極めて豐かな大洋を抛擲して、獨り穀類と山の肉との不足をのみ歎いて居た。尤も今日では到る處の砂濱に、二戸三戸の小屋が出來て網などを干して居るが、あれは何れも絲滿といふ一村から移つて來た者で、寧ろ在來の村人の土の生産を分けて貰ふべく、彼から交易を求めに近づいて來たのである。船をあやつる技術の如きも、殆と斯ういふ僅かな人の獨占であつた。若し此?態を以て分(504)業だと謂ふならば、この廣い海と狹い陸地に向つて斯る不均衡なる勞力の配置は天然にはどうしても想像し得られない。海を越えて來た者は最初から二通りの種族があつたか。さうで無ければ土の香の柔かい濕り氣の中に、故郷を忘れしめるだけの匿れた魅力があるのでは無いか。海を今後のアトリエとせねばならぬ我々に取つては、何れにしても至つて大切な歴史であつた。

　

　　　　　　　三　濱千鳥を羨む

　

　先づ第二の場合から考へて見ると、海人には追々と本の業を見棄てゝ、融けて無くなつて行く傾きがあつたらしい。前に擧げた紀州の海部郡でも、又は其對岸の阿波の同名の郡でも、水陸の便宜はほゞ昔の儘でありながら、曾て都の名を呼ぶ迄に群れて住んだ者の、どれが子孫であらうかと思ふ者さへ居らぬ。尾張の海部郡の如きは、無理に遠淺の潟を田に拓いて、今では純の純なる農村を以て充ちて居る。餘部と漢字に書いた郷村の中にも、海に近いものは彼等居住の名殘であるやうに信じられて居るのに、もうそれを證明するだけの史料は留めて居らぬ。佐渡ヶ島の内外の海府は、最も世に遠く攪亂が少なかつた地方であるけれども、やはり今の住民は主として牛を飼ひ山田を耕して居る。越後の海府は今日は汽車が走つて居るが、其開通前には後に高山を背負ひ、平地が至つて少なくして、海部で無ければ來て住むことも出來ぬ地形である故に、爰だけはまだ昔の生活の痕を、存して居ることゝ思つて往つて見ると、家居にも村の構成にも、それかと思ふ特色も無く、やはり山の裾に少しの田を築いて、清水の雫で湛念に稻を植ゑて居る。是が若し波濤に送られて遙かの南から、乘込んで來た白水郎の末であつたとすれば、さ程迄にして模倣せねばならなかつた農作の歡びはどこに至つたかと、今更に四邊を見まはすばかりであつた。

　昔は京近くでは難波の海人九州では筑前の志賀の海人の如き、正しく史書の上に現れて居た者が、今に其片影をも(505)見せぬのである。外海の風浪が荒いとならば、?眠る入江の松の蔭も多かつた。漁利と云ひ漕運と云ひ、機會は彼等の上に尚豐かであつた筈なのに、斯うして次々に北の濱に移つて、終に隴畝の中に消え去つたのは、或は本の島の常夏の心安さに比べて、此國四時の變化が海に居ては殊に忍び難かつたのでは無いか。

　廣東の珠江の水に浮んで居る數千艘の蜑民の船には、日本の中世の江口河尻の生活を想ひ起さしむる者が多かつた。彼等の中には流に溯つて遠く韶州の城外に至つて假泊し、尚煙花のなりはひに携る者さへあつた。恰かも妙女白女の徒が山崎鳥羽のあたりに迄棹さして、貴人の遊を迎へたのと同じである。定家卿の日記などを見ると、遊女には陸に上つて家居する者もあつた。南支那の蜑家が命終つて後漸く堅い土に睡ることを許されるのに比べると、誠に頼みある境遇のやうだが、しかもそれは唯艶にして善く歌舞する者のみの特權であつて、年老い色衰へて後は親夫に誘はれ、再び漂泊の船に上らなければならなかつたのである。故に或時には絶代の佳人の、能く其才藝を以て天が下の詞客を魅し盡し、意滿ち氣驕りてあるべき者までが、尚肅然として濱千鳥の一章を口吟したのである。

　　　濱千鳥飛ゆく限ありければ雲ゐる山をあはとこそ見れ

　此歌の哀音は海部千年の寂しい歴史を、理解する者の胸には沁み入つたであらう。千鳥でさへも末は落着く濱がある。遊行の女婦は一生をうかれあるいて、何處で果てるといふ宛ても無い。あの山に居る雲の如く、見る／＼行き動くが心細いと言つたのは、即ち後世の小唄の、「ちぎれ／＼のあの雲見れば」の元の形で兼て又此部落に屬する人々が土を懷しがつた大きな動機の一つであらう。

　

(506)　　　瀬戸内海の海人

　

　藝州御手洗（豐田町大崎下島）の邊で聽いた話。此附近ではリョウシと謂へば海人のことである。即ち頭の上に物を載せてあるく、他の地方でイタダキ、オタタ、カネリなどといふ女の一族を意味して居る。

　忠海などでは之をカベリと喚んで居る。カベルとは斯うして頭に物を載せる行爲を表する動詞である。

　カベリは忠海にも居り、又尾道にも澤山居る。交際は少しも普通とちがはぬやうに見えたが、内實はどうであるか知らぬ。

　大崎島でも又生口島などでも、常人は少しも漁をせず、眞宗の盛んな村では釣をさへ厭がつてしない。海の際に住みながら、魚類は悉くリョウシの女の、頭に載せて來るものを買つて居る。

　東生口の原と云ふ部落で、試みに四十前後の婦人に向つて、リョウシの處へ嫁に行く子があるかと尋ねたら、あるもんですかとはつきりと答へた。

　大長村（大崎下島）の村はづれにも、若干のリョウシが住んで居る。久友村大字久比からも遣つて來る。豐島（豐濱村に屬する島）には多數住んで居る。但し他の多數は所屬の村が有ると云ふのみで、家族と共に始終船の中に住み、家と云ふものを持たぬ。

　リョウシの船では女も共に漕ぎあるいて居る。屋根を板で葺いた船もあつた。

　但し女が乘つて居るから皆リョウシと見ることは出來ぬ。此節は只の船頭の女房も、自由に船に乘つて亭主を助け(507)且つ監督して居る。蚫を取る作業は此邊には少しも無くなつた。來島瀬戸近傍では採れるが、すべて潜水夫の仕事になつてしまつて居る。

　アマと謂ふ語は、よほど注意して居たけれども、終に聞くことを得なかつた。使はぬのであらう。瀬戸内海の事情に明るい諸君から之に關聯したもつと精確な話を承はりたい。

　

(508)　　　瀬戸内海の島々

　

　　　　　　　安藝大崎上島下島

　

　自分は大崎下島に於いて、此職業の女を招いて、仔細に内側からの觀察を聽取つた。今記憶して居る二三を記すならば、御手洗はもと神の社から出た名であるが、帆前船の時代に風待ちの湊として發達した。西やヤマジの吹く間は全盛だが、一旦コチが吹き始めると上がつたりである。といふわけは上り船は荷物ばかり多くても、船方の懷に金が無い。下りには金を持つて居るから、風を待つて居るうちは幾日も散財するが、流石順風が吹き出しては、繋つて居る口實が無いから皆出てしまふからである。以前西國の大名衆の海路參勤をした時代には、その船が風待ちをする間はえらい繁昌で、下々の者までは行き渡らぬので困つたことも多かつた。近年では世界大戰の終近い頃、石炭積みのダルマ船が何百ぱいと無く往來した時代で、其頃は三百人近い女が居たが、戰後二年目に私の訪れた時には七十人内外になつて居た。島の一番大きな置屋は、久しい前から念佛道場になつて居た。

　建築物ばかり元のまゝで、家が退轉してしまつたのである。此家には不思議な傳説が殘つて居る。九十九人より多くの女は置くことが出來ず、百人にすると必ず一人が死んだなどと謂つて居た。現今は勿論そんな大きなのは他に無い。大抵は五人か七人で、中には一人しか居らぬのもあつた。外から見て何人といふことを知るには、店土間の板壁(509)に三味線がつるしてあつた。一見質素な商人のやうな表口に、こんな物を見るのは異樣であつた。

　家の主人をオトッツァンと呼ぶ。チョキは其オトッツァンが漕ぐのである。人數の僅かな家ではよその小舟に托することもある。通例は五人か六人で一艘を漕ぐやうであつた。日没に海岸の方へ若い女が澤山行くのを不思議に思つて居ると、波止場に臨んで檢番といふものが在り之へ着到をつけて札を貰ひ、一番二番の順序を立てゝ出て行く。早いほど有利だから爭ひがあるらしい。客があつても無くても正十二時までは水上に居なければならぬ。夏の月夜などは大いによいが、寒い雨風には悲しくなるさうである。雨の降る晩はどうするだらうかといふと、漁夫の着るやうなトンザといふものを被るので、傘などは迚さゝれぬさうである。沾れるから上げておくれようなどと下から聲をかけると、可愛さうに思つて呼んでくれるさうである。オトッツァンは賣れ殘りだけを載せて夜中には町へ歸り、朝になると再び迎へに行くのである。夜遲く馴染の船に往つて居るといふ場合も珍らしく無い。

　第二の客があるといふ合圖には喇叭を吹く。それを聽いて何番の誰といふ事が分る。昔はこれが太鼓であつたといふ。即ち新しい色町のモラヒに該當するもので、之を拒絶しようとする前の客は、それから餘分の花を拂はされる。撥一本が十錢などといふことも聽いたが、詳しい計算法は覺えて居ない。陸上の青樓にも、以前は此風習が普通であつた。或は馴合ひで太鼓を打つ者もあるといふので、一番に一度以上は太鼓打つべからずといふ規約なども出來たといふことを聞いた。此序にいふが大分縣の下之江などでも、寢具は女の持參するものである爲に、眞夜中に太鼓がなると、返すならば客も起きてしまはなければならなかつた。親船の中では其懸念だけはなかつたのである。伊豫の安居島なども、以前は爰とよく似た制度であつたらしいが、是は既に完全に滅んでしまつた。十三年前に自分が往つて見たときには、濱の人々にまじつて中形の白單衣を着た女が二人居た。但し、其浴衣にはつぎが當つて居た。

　

(510)　　　　　　　備中北木島

　

　神島《かうのしま》を以て始まる小田郡の列島の南端に、讃岐の鹽飽七島と對立して北木といふ島がある。島人は島の名を北の木島と解釋して、四國の側から命名したものであらうと謂つて居る。それほど元は木の豐かな島であつたのが、三四百年來の耕作の爲に、殆と島の姿を一變してしまふばかりに、農業の土地利用が激烈であつた。現在は主たる收入は却つて石斫りの勞働から期待せられて居る。漁業も一時は鯛網が盛んであつたが、損を續けて中止する者が多い。その經濟上の推移にも興味ある事實は尚幾らもあるが、爰に報告して見たいのは前號でも問題にした婚姻の制度である。島ではオミキヲ入レルと稱して壻方の友人又は先輩が、酒を持つて娘の親に挨拶に行くと、それからは交通が公認せられる。女の家には特に一室を用意して、それに女を宿せしめ、壻殿は自由に之を訪問する。此關係が隨分久しく續くことがある。子が生れさうになると大抵は男方へ引取るらしい。但し法規の手續を履むのは引移り以後であるらしい。此風習は決して北木一島の特色では無く、もとは此海上一圓のものであつたかと思はれる。神島などでも外から來た人が、此家の娘は嫁に遣つたといふのに、どうして何時見ても内に來て働いて居るのかと、不審をしたといふ話もあつた。つまり女が盛んに働く故に、成るべく永く生家では留めて置きたい人情が、自然に武家風の輿入婚姻法を、採用することを遲くせしめたのであらう。又此隣島の白石島などには、嫁を取る一方式として奪略の遺風がつい此頃まで普通であつた。勿論親たちも取られることを多くは豫期して居たのだが、それより以外の形が無かつたらしいのを見ると、是も古くからの一慣習であつた。

　

(511)　　　伊豆大島の話

　

　　　　　　　　　　○

　

　大島の野増村にはシツナ神といふ女體の神があつて、近い頃までも稀には男を呪ふ女が祈願をかけたといふ話を聽いたが、本當のことであらうか。其神像は特に陰相を誇張した女姿であり、或は陰毛を拔いて神に祈つたといふ話もある。土地の歌にも、「しかながそゝ毛に掛けましよか」といふ文句があるさうだから、大和近江武藏下總其他に傳はつて居た七難の口碑と近似する所はあるのである。もし方法があるならば、今少しく事實を確かめて見たいと思つて居るが、兎に角に問題として注意を乞つて置く。

　

　　　　　　　　　　○

　

　大島の何村であるかは知らぬ。七人樣といふ唄が傳はつて居るさうだ。又ソファイ殿といふ歌もある。其章句だけは一見したけれども、意味がはつきりとせぬ上に、若干の近代語がまじつて居るのを見ると、果してそれが元歌であるか否かも明白でない。始は踊に伴ふクドキの類であつたらうと思ふ。

　佛教の因縁を述べては居るが本來は精靈攘却の歌らしく思はれた。「淨土國がよいから、歸らないとおつしやるやれ」といふのが、七人樣の終の句であつた。ソファイドノの方は殊に支離滅裂の文辭で或は氣まぐれに色々の唄を、(512)繋ぎ合せたかとも思はれる上、歌の題からして何を意味するかを知らぬのである。何か古い書物にでも出て居るかと思つて心がけて居る。正月二十四日の海南坊の物忌は、此島でも他の諸島同樣に、今以て固い信仰の一つになつて居る。只島の男子のみは盛んに江戸と交通して、近代の空氣を吸つた爲に、斯ういふ問題を説くことを好まぬ風がある。女性は固より愼み深い。彼等に特別の親しみある人々の中から、此の如き學問に理解のある者の、出て來るのを待つて居る他はあるまい。

　

　　　　　　　　　　○

　

　大島の習慣の中で、旅人の殊に珍しく思ふことは、嫁入の日の花嫁さんの擧動である。座敷では祝宴に列なる人々が盛装をしてひしめいて居るに反して、當の本人は不斷着の筒袖のまゝで、臺所に來てもう皆と一緒に膳立ての仕事に働いて居る。誰の爲の御祝ひかと思ふやうである。若い婦人の本當の服装が見られるのは、葬式の時である。此時ばかりは袂も長く、帶も幅廣のを前結びにして、頭の手拭も紫色のきれと取かへられる。

　一般に死者を弔ふ儀式は手厚であつて、島に住む人の情愛がよく窺はれるやうに思つた。面白いのは吉谷《よしや》さまの御詣りである。此晩は成人の婦女ばかりで、男は一切立入らしめず、歌をうたひ噺をして樂しげに夜を更かす習ひである。

　

(515)　　　海上文化

　　　　　　　　――東京高等商船學校講演――

　

　日本の文化が如何なる特徴を有つて居るかと謂ふことを御話するのが此講義の一つの目的である。私はそれに付加へて成るべく其話を印象深く、能うべくんば諸君が他日段々と、其問題を自ら成長させて行かれるやうにしたいといふ希望を有つてゐる。

　久しい間日本では東洋の英國といつたやうな外國を標準にした言葉をよく使ひ、さうして恰も文化といふものは一つの線の上を稍々遲れ先だつて追掛けて行くやうな、一つしか進んで行く道筋が無いやうに考へ勝であつたが、近來では東洋の英國といつたやうな言葉を使ふことを許さないのみか、何か別に行かなければならぬ道を求めるといふ傾向を生じて居る。實際最近我々の目前に展開して居る所の世界文化の成長振りを見ると、若し是が唯一の人の道であつたならば可なり心細い。斯ういふ風にしか進んで行かれぬのならば有難くもないといふ感がするのであつて、若しも我々が想像して居るやうに、文化の展開振りには幾筋も道があつて、現に今日まで取つて來た道筋が違つて居る如く、將來發展して行く行き方もまだ幾通りもあるのだといふことが證明し得るならば、人生はもう少し朗かに、明かになり得るのであつた。さういふ心持を根に持つて、今日は諸君と共に日本の文化には特徴があるか、若しあるならばどういふ所にあるかといふことを御話して見たい。但し正直の處今日迄之を論ずる人は非常に數多くあるが、どちらかと申せば獨斷的で、斯ういふ風に考へて貰はなくちや困るといつたやうな見方、説き方が多い。私自身は少くと(516)もさういふことは賛成出來ぬ。私共ははつきりしたことを諸君に言へれば言ひたいのは山々だ。けれども、若し言へなければ、この道を取つて調べて行つたならば、もう少しはつきりしたことが軈て諸君が成長された後に判るかも知れぬ。斯ういふ所に研究の餘地がありさうだといふ程度で止めてしまつて宜しい。尚同時にあなた方にちよつとでも強い印象を與へて、今後暇のある毎に機會のある毎に、自ら之を研究せられるやうな風にしたい。無論幾つもの例から見て行く道筋はあるが、私が今日特に海上文化といふ御話をする所以のものは、諸君等の今後?々接觸せられる方面に於て、日本の特色が考へられるかどうかといふことを言ひたいのである。成るたけ具體的の實例から御話をして、理窟つぽいことは申しませぬ。

　

　日本の外貌に於て他と違つて居る點を先づ最初に一つ申しますと、是は島の數が多いといふことである。日本に幾つ位島があるであらうかといふことは、地理の時間に考へられた人もあるだらうが、豫想以上である。是は統計年鑑の一番最初の頁に出てゐるから見ようと思へば直ぐ見られるが、島が餘り澤山あるものだから、其中の周圖一里以上、さうして人の住んで居るといふ二つの條件を以てさういふ島だけを勘定して居る。はつきりした數は空で覺えてないが、舊日本だけで慥か四百幾つかある。これだけ澤山の島を一つの民族が利用して居る所は少ないのであつて、是は確かに特色と言つて宜しい。此島がそれ／”＼現在利用せられて居るのである。永續的に居住者のある所と偶々渡つて利用する所があつても、國土として利用せられない所はないのである。いつの頃から利用し始めたのかといふことは事實に於てはつきりして居ない。例へば八丈島の如きも足利の半ば頃からの記録は殘つて居る。けれども其記録の中には其時始めて住んだとは書いてない。長い間ぼんやりと字を書くことの出來ない人、字を讀むことの出來ない人が利用して居た時代が大分續いて居るのである。伊豆の大島なぞは今住んで居る住民は近世の住民であることは略々疑ないのであるが、あそこの南の野増海岸の火山灰の約一丈三四尺の下から、古代人の遺物が出て來たのである。ラバ(517)で抑へられて崩れない中は見えなかつたけれども、其下には幾つかの人骨石器などが出て來るのである。昔私も行つて見たが、主として小規模な、黒曜石の矢根石といつたやうなものが出て居た。御承知の通り黒曜石は大島には産出せぬ。一番近い所は關東地方に於て物色するならば埼玉縣の秩父の山中に産するのが黒曜石の産地として近い所である。或はもつと便利の良い遠い所から運んだのかも知れないが、兎に角あの島に黒曜石を持ち渡つて鏃を作つて居る以上は、何れ魚を撃つか鳥を撃つか狩をして居つたに違ひないので、さういふことをして居つた土地が一丈何尺のラバの下になつて居るのである。其前にも彼處は?々噴火のあつた所であるから能く問題になつて居たさうであるが、井戸を掘らうと思つてボーリングをすると、岩石の下から木の葉が出て來たりして居つた。斯ういふ風な古代人住民の證據を探すのは譯ないのであつて、恐らく何處へ行つてゞも見付けることが出來るであらう。さうすると泳いで渡つて行つた氣遣ひはないから、其間の交通は必ず舟である。どういふ種類の舟を以て航海して居つたらうかといふことが、いつでも問題になると同時に、舟の始めといふ問題が起る。

　言葉を換へて言へば日本といふ國の文化に於ては、舟の歴史は可なり重要なテーマを成して居る。誰か研究しなければならない。私自身は忙しい爲に此方面は少しも研究して居ない。誰かないか知らんと思つて居るが、まだ今日迄それをやつて呉れる人がない。或は此學校でも航海の歴史として既に教へて居られるかも知れないが、是ほど我々國民生活に深い關係があつたに拘らず、まだ幾つかの肝腎の點が考へられて居ない。例へば近年になつてから崖を崩したり深い所を掘つたり、色々と土木工事が行はれる結果、東京の十五里、二十里半徑の間にも幾つかの舟が發掘されて其たびに新聞に出て居る。我々の知つて居るだけでも十や十五ではない。大抵は勿論非常に小さいもので、然も今日普通に考へられて居るやうに杉の木ではない。日本では杉の木で舟を造る。杉は何處迄も長く伸びるから杉の木で舟を造る歴史は久しい。現に最も古い書物の中にも、舟を浮寶と稱して、朝鮮の山に浮寶になるべき木が多いから之を利用しなければならぬといふやうな記事が出て居る。書紀の文面から見ると、日本人は皆杉を早くから舟に使つて(518)居たやうに見えるのであるが、實際關東地方などの多くの發掘は何れも楠の系統に屬する木である。楠の木とはつきりとは分らないが、大體燃やして臭ひのする楠の木の系統であつて、さうして刳舟である。即ち英語で dug-out′中を刳り拔いた舟である。漁や渡舟に使つて居つたのだらうといふ考へ方が強い。航海の用に供する舟は別にちやんと造つてあつて、地方々々の内水の上で生活する人々だけが、そんなものを造つて居つたのだらうといふことを言つて居るが、併し其大きい舟の歴史は愈々以つて判らない。紀州の熊野であるとか伊豆であるとか、海へ飛出して居る所の半島の先には現在は非常に杉の木が澤山栽ゑてあつて、それを舟に造つて遠く迄出て行つたらうと思はれるが、其技術の記録が無いのみか、遺物もまだ出て來て居らぬ。出て來るのは今のところ、樟類の丸木舟のみである。是でどうして大海を乘り切つたのか。誰かゞ是から大いに考へてくれなければならぬ問題である。日本は全國の地理的?勢の複雜した國で、或所では西洋と肩を竝べても宜い位な新しい文化工作、工藝をやつて居るのに、或所ではまだ／＼原始的な生活をして居る。だから何處かを探したならば昔の舟の造り方といふものが少しは殘つて居るに違ひない。是は非常に面倒な氣の長い仕事だが、ぽつり／＼と材料が出て來て居る。たゞこの方面から歴史を尋ねるには非常に時間が掛る。それでも少しづゝは御話の出來るやうな事實が判つて來て居る。現在石器や土器と一緒に土の底から現れて來る所の舟が樟樹の系統の木であるといふことは大變意味深く考へられる。近い所では伊豆の七島であるが、こゝには杉が甚だ少ない。あの島々の人が隣の島に行き又内地に通ふ所の船は杉で造るのが原則であつたならば、杉の少ない所だから内地から杉で舟を拵へて持つて來るのを待つより以外には、自分で動くことは出來なかつた筈である。伊豆七島ではタミと言つて居る木は、他の地方ではタモ又はタブとも言つて、少しづゝ土地に依つて發音が違ふ。伊豆七島の植物帶にはこのタミが多く、古くから島の人はこの木の太いのを伐り倒して、刳拔きを作つて最初に使つて居つたといふことが想像せられるのである。此舟の造り方は一番原始的なものである爲に何處の民族でもそれをやる。つまり舟の始めである。例へばニューギニヤの島で、此世紀の始め頃、造か一九〇八年かと思ふが、和蘭の學者が大(519)規模に探險した時に、彼處は中間に非常に高い一萬何千尺の山脈があつてそれを越えなければ南北が繋がらない。それを探險しようとした時の記録を讀んで見ると、入口迄は川の岸も非常に深いものであるから普通の舟で行つて、入口から稍々登つた所で吃水が許さなくなつて始めてそこでランチを下したのである。ランチで探り／＼又十五里とか二十里とか登つて行く。もうどうしても動けなくなつた所で、そこで始めて山の木を伐つて來るのである。さうすると是から先は土人の事業であつて、土人は其木を見て居る裡に一面だけ平にして其平になつたものゝ、大體是だけを舟にしようと思ふ所に松明を持つて行つて燒き、炭になつた所を小さな刀物で削り落す。丹念な話であるが朝から晩迄働いて居ると一週間位に可なり大きな物が出來る。今度は其刳舟を以て上つて行く。到頭中央山脈迄登つて行つた記録である。是と同じ形の舟の造り方を最近迄こちらでもやつて居た。鑿だの斧だの色々のものがあつたから、炭にしてから掘り起すといふやうなことはしなくても宜かつたのであるが、大體に舟の造り方といふものは斯ういふ樣に造つて居つたのである。

　刳舟の製し方が一番はつきりと、痕跡を殘して居るのは琉球の諸島である。島には舟を造る所の杉も若干ないではないが、杉に乏しい。それで多くの場合に於てはこのタモ其他の闊葉樹を使つて刳舟を造つて居た。あの邊では矢張りクリブニといふことを言つて居て、刳舟の言葉が普通になつて居るが、又スブネ、サバニなどとも謂ふ。島の人間は氣が長かつたか暴風雨の朝を待つて居て、始終海岸に漂着する木材を見て居つて、其木材の中に刳舟に適するものがあつたならばそれを使つた。それから行政官の中に非常に賢明な人があつて、百年も二百年も經なければ實際刳舟になるやうな杉の木は出來ないので、長い間掛つて刳舟の材を養成してそれを矢鱈に採ることを禁じてしまつた。其時の記録は今から二百年前位のものであるが、蔡温といふ有名な政治家が、造船材料に對する色々の手配の爲に山林行政をやつた其記録が傳はつて居る。沖繩の人口は今は非常に殖えて居るが、其時分は三萬か四萬かの人口であつて、そればかりの人口の需要でも島に産する樹木だけを使つて居つたのでは不足する。色々他の方面から舟材を供給せね(520)ばならぬといふことを、可なり綿密に近世風に研究して居る。先づ第一に山に木を植ゑて軈て大きくなるのを待つて舟を造る。それから流材の入つて來たのを皆粗末にしない。それから次には矢鱈に刳舟を造ることを禁止した。刳舟を造ることを禁止するといふことは殘酷のやうであるが、刳舟は眞中をうつろに作る爲に非常に太い木を無駄にしなければならぬのであり、材木の上から言つたら不利益な話で、是しか作れないならば兎も角、外の方法を知つた上では不經濟でたまらない。それで山の木を伐つて勝手に舟を造つてはならぬといふことを命令し、それを犯した者は酷い罰を與へるといふことにした。そこで始めてあの地方でとぢ舟、若しくは、はぎ舟といふものが始まつたのである。沖繩ではさきの刳舟のことをサバネと言つて居る。スウネとも聞える。スもサも共に小さいといふことで、只の舟といふことである。併し刳舟に造るのは非常な不經濟な話だから、はぎ舟、とぢ舟といふのを作らせようといふことになつた。とぢ舟といふのは、比較的小さな木でそれで刳舟の底だけ造つて、左右に別の板を綴ぢ付けるのである。つまり今日の造船技術の一番最初の起りが、あそこでは二百年前の記録に能く見えて居る。底を刳舟にして刳舟の左右にもつて行つて少し外向きに板を付ける。色々之には細かな技術があつて私の説明の出來ない部分もあるが、成るたけ積載量を多くして少し外側に向つて横に木を出して、此木を壞れないやうにはぎ合せて段々に繼いで行つたのである。後には段々兩方から付けて行つた木が多くなつて、殆と刳舟の元の形は見えなくなつたが、現在でも琉球の諸島奄美大島に行くと是が見られる。あなた方は御存じであるかどうか知らんが、奄美大島は瀬戸内といつて加計呂麻といふ島と大島と二つで作つた内海があつて、この瀬戸内あたりで使つて居る舟が皆この板つけである。沖繩でとぢ舟、はぎ舟とも言つて居るものを、奄美大島に行くと板つけと言つて居る。現在の板つけは、外から見るとこの小舟と同じやうに見えるが、元の言葉から想像せられるのは、始めは小さい刳舟の左右に板を付けて行つたのである。さうして段々に大きな船へ進んで行つた譯である。龍骨とかキールといふ言葉を以て呼んで居る船の一番下の木は、日本語ではカワラである。カワラといふ言葉が日本の古い言葉であつて、從つてキールを据ゑる儀式のことを漁師達は今だ(521)にカワラ据ゑの祝と言つて居る。カワラといふ言葉の起りは龜などの甲らも同じ言葉で、もとは大きな全體の一つの刳舟が段々に小さくなつて、仕舞ひに唯細い丈夫な一本の材木になつてしまつたけれども、今の所謂キールが刳舟からなつて來る道筋ははつきり殘つて居る。日本の船大工の書物には書かないけれども、頭の中で覺えて居る所の船造りの歴史を見ると、態々沖繩迄行かなくても到る所に於て刳舟が板付け舟になつて來た道筋は判るのである。さうして一方に於ては、此刳舟といふ一つの簡單な船造りの方法は、不經濟な話だと言ひながらもまだ殘つて居てそちこちに見られる。私が旅行して居る僅かの區域でも、もう新たに造る者はないかも知らぬが、隨分久しく保つからして古いものがまだ見ることが出來るのである。例へば陸前の大船渡の灣などは、今から二十年ばかり前に見たのだが、一方に於ては極く新らしいモーターボートが走つて居るにも拘らず、向ふの隅にはその刳舟がまだ殘つて居る。日本語で舟といふ言葉はまだ今でもウマフネ、馬に物を食はせる器を馬舟と言つたり、筧の水を引いて家の後へ持つて來るのを水舟と言つて居る。又人の骸を納める一番中の棺が舟である。貴人の入棺式を御舟入といふ言葉もある。舟といふことは要するに丸木を掘りくぼめて空洞にしたものゝ名であつた。それが今日の六七萬噸の汽船に迄變化發達をして來たのである。恐らく此點は日本人の非常に忍耐強い、しかも少しづゝはいつも改良して行くといふ氣持を現す實例だらうと思ふが、私等の行つて見た時分には沖繩ではもう既に杉の丸太を左右兩面だけ平にしたものを積み重ねた、可なり大きい山原船といふのがあつて、製式は全く支那の南海岸で見る戎克のやうな舟で、又その以外に矢張りとぢ舟と、時と場合に依つては純然たる刳舟も使つて居り、遠方へ航海する時だけ、この支那の造船技術に基づいた大きい船のキールが何であるかも判らなくなつたやうな船を造つて居る。だが島と島との交通は勿論、家畜を運ぶのにもまた刳舟を使つて居る。これは容易なことではない。牛が刳舟の上に乘つたらぐらんと覆へるのは當り前である。その刳舟を利用して牛みたいな大きな貨物でも安全に運べる方法が既に發明せられて居つた。あの邊では言葉しか殘つて居らないから、今諸君が御出になつて見ることは困難であるが、平安座《ひやんざ》といふ沖繩本島の東の方に一つの島がある。(522)そこの平安座舟といふのは、小さいとぢ舟の長さ一丈二尺か五尺しかない舟で、それを四つ五つ合せて、其上に横板を渡して引くりかへるのを防いで運ぶのである。是は暴風雨に耐へるものではないが、天氣を見て風を利用し、隣の島に渡るのは是で渡つたのである。其上に牛を乘せて動かないやうに足を縛つて、皆が其間々に乘つて一緒になつて渡つて行くといふ。外ではまだ私は聽かぬが平安座の島の船乘りたちが此舟で以て五里十里と離れて居る島の間を、航海して居た方法が是であつたのである。併し二艘三艘といふ舟を繋ぎ合せて安全を保たうといふ習慣は、日本では非常によく發逢して居る。又發達しなければならなかつたのである。北緯二十三度以北の海は可なり荒い。この海の上を?々甲の島から乙の島へ動くのに、刳舟だけでは到底行けないが、行かせる方法が別にあつたのである。寫眞でもよく見る南太平洋のビスマルク群島などの操舟法、舟の片つ方に大きな浮きを付けて、舟が傾いてもそこに迄しか落ちないやうになつた形のものがある。日本ではそれはやらなかつたが、二艘三艘の舟を繋ぎ合せてさうして荒い仕事をし大きな航海をするといふことだけは殆と常識であつた。私達は大きくなる迄知らずに居たが、二艘舟といふ舟を子供の時によく折紙で折つたりしたが、なぜ二艘舟といふか判らなかつた。是は小さいものが協力して難事業を仕遂げる一つの方式であつたのである。それの一番よく現はれて居るのがモヤヒといふ言葉である。東京あたりで現在もこの言葉は聞いて居るが、それは大川の河岸の杭に舟を縛り付けるのがモヤヒであるが、本來は二つ以上の舟を縛ぎ合せることがモヤヒであつた。詰りは單獨では到底出來ないことを、二つのものゝ協力でやつて行かうとするのである。陸上の者も同じ言葉は使つて居る。村でモヤヒ仕事と昔から言つて居るのも、人が合同して仕事をすることである。舟では一段と具體的にこのモヤヒといふ行爲に依つて、孤立の困難を防がうとして居たのである。段々に舟が大きくなると、此習慣は必要がなくなるから壞れたけれども、海岸地方には痕跡はまだよく殘つて居る。陸上の方でいふと、東北では友達のことをケヤクと呼び、北陸の方へ行くと、おいヤウチと言ふ。ヤウチは親類のことである。友達をさう呼ぶと非常に親しみを感ずる。舟では知人への挨拶がおいカタフネと言ふ。是はモヤヒの片舟の意味であ(523)る。本來は約束して居る交際の相手が片舟であるが、それを今では廣く使つて、小さな相撲取を關取りと呼ぶのと同じやうに知らぬ舟にまで廣く使つて、親しみを感ずる船乘同志の呼び方になつて居る。事實上のモヤヒはもう必要が無くなつたけれども、聯合して仕事をしようといふ氣持は濃厚に殘つて居る。澤山舟のこんで居る湊に、あとから入つて來る舟が一本の綱をどれかの舟の中にはふり込む。それを見ず知らずの舟でも知らん顔もせず、投げ込まれたならば其綱を引いてやり、もしくは繋ぎ付けてやらなければならぬ、といつた不文律がまだ殘つて居る。是は根本に於てモヤヒといふものが長い間、絶對に日本の海上生活に於て必要であつた所の名殘であつた。是が若しなかつたならば、即ち長い太い杉材の所謂ベンコウといふ類の船を造つた上でなければ、島と島との交通が出來ないといふことであつたならば、日本の周圍の島々に是だけの同胞は渡つて行つてゐない筈である。諸君も將來船に乘つてから私の今述べた話を思ひ出されたならば、幾らか氣持が違ふであらうと思ふ。沖繩の南部のまだ數十哩の先に先島といふ幾つかの群島、宮古や八重山のあることは御承知でせう。八重山群島のまだ先の臺灣海峽に偏つた所に與那國の島がある。斯ういふ島にも古くから住んで居るのは日本人であつて、現在でもまだ古風な生活をして居る。古風な生活と言つても簡單にお判りになるまいが、言語でいふならば日本人の古く使つた言葉を使ひ、信仰で申せば日本人が古く行うて居つた樣式で神樣を拜んで居るのである。例へば女を中心に女に祭の役をさせ、男がそれを仲介者として外側で合同して祭る。日本の一番古い信仰形式、言語樣式をその儘保存して居る。それ故に私は今日の大和民族はもと南の方から來たといふこと、その南から來た仲間を少しづゝ、途中の島に殘しながらこつちへ上つて來たやうに思つて居る。今まで日本の歴史といつたのは主として政治史であつた。政治の變化、戰爭の勝負、土地を經營して居る者の家の歴史とか、御寺の縁起、御宮の由來といふものは非常に詳しく判つて居る。併し一方にさういふ記録の少ない部分も、尚非常に大きい仕事をして居るだらうと思ふ。詰り海上の交通といふものは、漕ぎ去る舟の跡なきが如く、その瞬間に於て消えてしまふものではあるけれども、彼等が居なかつたならば到底成し遂げられなかつた所の、生活樣式の樣(524)様なる變化といふものは、今もはっきりと見えて居るのである。私は以前に玉蜀黍といふものゝ、日本に入って来た道筋を知りたいといふので、全國の友人に手紙をやって玉蜀黍の名前を調べて貰ったことがある。その時に非常によく判ったのですが、あれは江戸時代になつて日本に入って來たものであるけれども、日本の東の端、奥羽地方、越後あたりから北のある部分、青森、秋田、山形、新潟縣の北半分、九州の一部分だけにトウキビといふ同じ一つの言葉が残って居る。さうして中央部に於て色々な名稱ナンバとかトウモロコシとかトウナワとかいふ色々な言葉の變化が出来て居る。どうしてこの東北と九州とが同じ言葉を持って居るかといふことは一言で説明が付く。詰り新しく日本海の方へ、長崎方面から陸地の旅の順序を追うて北へ入って行かずに、直接船を以て早く運んでしまった。それ故九州と東北とは是だけ離れて居りながら、因縁は却つて深かつたのである。現在ある所の陸地上の種々な生活様式に、海がどの位參加して居るか、航海の力がどの位媒介して居るかといふことが斯ういふ端々から判るのである。

　是に今一つの私の研究題目で、もう諸君に段々興味も少くなつて居るかと思ふが、海上の生活で少しでも忘れてはならなかった風の名前がある。是が日本全國で約二十程ある。其中に航海に役立つ風が三分の二、航海に警戒しなければならない風が、三分の一ある。二十程の風の名が國中に分布して居るが、その分布の仕方が船乘りが持つて行かなければ運べないものであった。是から先は帆を使ふ人でないから、直接入用でないかも知れないが、何かといふとさういふ名前を諸君も耳にする機會が多いから、今日は一つ六つかしい話よりも、寧ろ風の名前がどう分布して居るか。どういふ風に運ばれて居るかといふことの話をしようと思ふ。

　一つの例を申すとイナサといふ風がある。私は上方で生れたから知らなくて関東へ来て始めて覺えた。凡そ東京地方を支配して居る一番多い風で、東南風である。その言葉の起りはイナは海、サは風、南をイナミといふのも海から出た語と思ふ。そのイナサは房總半島の人にとつては非常に重要な風である。北の方は金華山迄しか行って居らぬらしく、是より外には殆とこの名前は聞かない。南の方はぽつり／＼飛んで伊勢の方の海岸になくて、紀州でまたイナ(525)サを聞く。瀬戸内海へ入ってあの半分、土佐の突端でも又九州の一部でもイナサの名をきく。それ以外の所例へば日本海の側の人は知らない。イナサといふ風を利用して居った區域が、この邊までしかないことが判る。全體として太平洋側の帆船航海は發達しない儘ですんでしまつた。

　次はナラヒといふ風、東京では始終聞く。陸上の者もナレエなどと謂つて居るが、是も大抵中部地方迄行くとなくなつてしまふ。東京灣から南の海上では大事な風だが、どういふ譯か北部は岩手縣の一部迄しか行って居りますまい。冬の頃盛に吹く風で方角が土地毎に少しちがふ。是も日本海へは行つて居らぬやうに思ふ。それから之と反對にイナサ・ナラヒの名の無い處、奧州北部からそろ／＼始まつて西は山陰道の島根縣と鳥取縣の境位迄ずつとある風の名で、アイの風、是は日本海の航海には重要な風である。さうして又古い名前でもある。萬葉集には年魚《あゆ》の風と出て居る。是は海の方から吹く風で、港へ船が入つて來る時の都合の好い風である。海岸線に直角に吹く風、微風でさう強く吹かず、多くは柔かにふく。この微風が強くなると、「アイのこは吹きやヤマセのもとだ」――といふ歌もあるやうに、遂にヤマセにまはる。私の想像ではアユは果物の木から落ちるのをアユルといふのと同じ言葉で、本來は沖から色々の物を吹き寄せて來る風の意味だと思ふ。アエといふのは御馳走といふこと、詰り色々と物を海岸へ寄せてくる風といふことであつて、元は航海の爲でなく使つて居つたのであらうと思ふ。太平洋側には殆とこの風の名がなくて、愛知縣の縣郡の名又海岸の名になつて居る。愛知潟《あゆちがた》といふのにこのアエといふ言葉が孤立して殘って居る。元は必ずしも船の帆に入用の風でなくて、陸地に住んで居る者が木材、海草その他の寄り物の恩惠を受ける風といふ意味だつたらう。此風は海から陸地に向つて直角に吹いて來る風であることは間違ないので、私は斯ういふ樣に解釋する。陸から吹いて來る風をアイといふわけはない。ところがアイは西風といふことだけ覺えて来た船員が奧州の北の方の海岸で西から吹いて來る風、即ち山から吹く風をアイと呼んで居る。こゝのみは山から吹く風がアイの風なのである。

　太平洋岸では殆とない風でアイに對立する風を日本海でダシと言つて居る。ダシは主として日本海岸の方で内陸か(526)ら沖に向つて吹き出す風で、船が出るからダシだといふ風にも考へられる。船が港を離れるのには都合の好い風かも知れぬが此風は良い風ではない。谷間から強く吹くので日本海岸では實に始末の惡い、火災を大きくする風である。秋田の能代などは私が覺えてから、三四度も此爲に丸燒けになつて居る。其以外にも日本海岸の町はよく燒けるが、大抵はダシの吹く日で、火事の風と言つても宜い位烈しく吹いて來る。それから又船乘としては歌に別れの風などと言ふヤマセといふのも大體に同じものである。差別して使つて居る所もあるがヤマセといふのもセは風のことで、山の方から吹いて來る風であるから略々同じで、この方は大變弘くて西日本の方迄傳つて居る。一方北海道邊ではヤマセといふのは御天氣になる風、西の方では雨が降る風であつたり、土地によつて此名を使ふ人の感じが違ふが、とにかく山セとダシとはほゞ似て、陸地の方から吹いて來る風である。

　其他にはまだ幾つもの風の名があるが、もう一つ我々が面白いと思つて注意して居る風はタマカゼ、是は惡い風であり、船には利用することが出來ない。北の方ではタバ風とも言つて居る。一般に西北風の非常に強い風であつて、陸へ上れば農作物を害するし、海上でも突風だから船が損じ易い。この風は北海道の南の端から、大凡山陰道の沿岸、丁度先のアイの風の區域位迄も　日本海の方では廣がつて居る。太平洋岸に來ると絶無でもないが非常に少ない。佐渡を中心とした此附近の海上では、タマ風といふ名を聞いただけでも怖い位の風である。方々に此風の話が殘つて居るが、例へば富山縣の滑川附近の海上では、バイといふ貝を採つて食べるが、田螺のやうなもつと大きな非常に旨い貝である。この貝が丁度採れる最中の頃にバイダマといふタマ風が吹く。昔バイを採りに沖へ出て居つた船が覆つて皆死んでしまつたことがあつて、其時から此名が起つたと謂つて居る。タマ風即ち惡靈の風で、靈があつて吹かせる風といふやうに使つて居ることは大體想像が出來る。私の想像は果して當つて居るかどうか判らないが、京都の西北部の方角に丹波があり、東京でも武藏平野の西北隅、丹波山といふあたりから流れて出て、多摩川といふ名前も出來て居る。多摩山とは謂はずにタバ山と謂つて居る。丹波といふ言葉と西北とは爰でも關係があるのではないだらうか。(527)さうして西北は惡い所、非常に厭な所警戒すべき所といふやうな意味になつて居るのぢやなからうかと考へて居る。想像説ですから或は反對があるかも知れない。所が此タマ風といふ名を使はない西の方へ行くと、此同じ西北風をアナジと謂つて居る。其區域は太平洋岸は紀州迄、もつとこつちへ來て居るかも知れないが、私の知つて居るのは紀州から伊勢灣迄、此附近はすべて日本海のタマ風に該當する風をアナジと謂つて居る。この風も船には役に立たず、アナジに乘つて歸つて來るといふやうなことはない。いつも出し拔けに吹いて強吹きで、海は荒くなるし陸上でも農業者の嫌ふ風であるが、特に船にとつては怖ろしい風である。アナジは非常に惡い風として昔から日本にある言葉である。さうして百中九十六七まで西北風と限つて居る。アナジのジもアラシとかコチといふシ又はチと同じく風のことでアナは驚く感動詞かと思つて居る。アナジの古語として殘つて居るのは奈良の南、三輪の山の奧「纏向の穴師」、是は山の名で此山に祭る神は風の神樣だつたかと思はれる。大阪府の西南海岸にも古く穴師の神を祀つた所があつて、風の神樣であるといふ説もある。地形を見ても大和の穴師は内地だが風の吹出しになる山で、

　　　まきむくの穴師の山に雲ゐれば雨ぞ降るちふ歸りこわがせ

といふ古い歌もあつて、あの山は確かに風の出る山である。ダシと同じやうに二つの山筋に挾まつた盆地から吹出して來る強い東北風が恐れられた。西北風ではないが、恐ろしい突風の吹く山として、それをのがれるために神として祭つて居たと想像が付く。もう一つの古い例は長門をもとアナトと謂つて居た。今の馬關海峽に當る所である。此處も船乘りには怖い所であつて、海の狹く兩岸の見えて居る割りには恐ろしい所である。古い記録には「穴《あな》の濟《わたり》」といふ水路があつて、そこに惡い神樣が居て往來の船を?々害したといふことが出て居て、是は瀬戸内海のもつとも東の方である。とにかくアナといふ言葉は何か知らんが非常に惡い土地の名になつて居る。そのアナジといふ言葉が西北風と決つてしまふ以前から、既にあつた風の名前であるといふことが言へる。多分アナといふ言葉はびつくりする時に發する言葉だつたので、だし拔けといふ意味、藪から棒といふやうな意味があつたのぢやないかと思ふ。この解釋(528)は別に信ずる必要はないが、兎に角アナジといふ語は昔から人が恐れて居た風で、今はタマ風と同樣に兩方共西北風のことである。支那では昔から鬼門と言つて恐れて居た方角は丑寅の方即ち東北であるが、日本では戌亥の隅即ち西北が怖ろしい方角であつた。支那の學問をした人は、今でも家を建築する時に、鬼門に雪隱を拵へてはいかぬなどと、東北ばかりをやかましく言ふが、日本が昔から警戒して居た方角といふものは、現在も同じことに西北である。西北からはどうも昔から日本では恐ろしい風が吹いて來る。東南風にも作物を害したりする風があるけれども、西北風が一層怖ろしい。その風の呼び方は西半分でアナジ東半分でタマカゼと言つて、兩方共十分警戒する意味を有つて古人が知つて居たらしく思はれる。是は船乘の側から見れば、自分の航海の便利の爲に使はれ覺えられた言葉ではなくして、危險を警戒する爲に使つて居た言葉である。昔の交通が若し一地方々々々毎に割據して、隣を知らずに自分等だけで以て漁業をしたり農業なりをして生活をして居つたならば、そんなに廣い區域を一つの言葉で以て支配して居ることはない譯である。是が法律制度の言葉であるとか、税の言葉であるとか神樣を祭る言葉であるといふ風に、厭でも應でも外の人間に教へ込まなければならない言葉であれば格別、日常の生活と交渉ある言葉が廣い區域に渡つて一つで支配して居る。例へばイナサは關東から發して、九州迄飛び／＼に行ほれて居るのは、船が風の名を運んで居るのである。それは唯一つの例であつて、此外にも船乘の御蔭で運ばれたといふ地方の文化、藝術、技術といふものは多いと思ふ。殘念なことにはそれが多く明かな證據を殘して居ない。

　私はまた民謠に興味を有つて今迄も民謠の分布といふことを注意して居るが、何百年の昔に船乘は船で民謠を運送して居つたのは面白いと思ふ。仙臺邊の人は伊達政宗が作つたなどといふ「さんさ時雨」、終りの囃しに「しよんがい」と言ふ歌がある。是などはもうえらい所まで行つて居る。節が面白かつたと見えて投げ節とも「しよんがい」節とも言つて、是の擴まつて居る區域は非常に廣い。北の方は勿論、南の方に行くと薩摩大隅、又沖繩の一番突端の八重山群島の與那國の島にも、唯一つ殘つて居る昔の歌はやはり「しよんがね」といふ歌で、何のことか判らずに歌つ(529)て居るが歌の文句は同じである。あんな小さな板を竝ぺて漸く大海を乘切るやうな窮屈な船が、何の餘裕があつてかそんなもの迄も運んで居たといふことが、我々の知識欲を誘ふ。先だつて私は、以前酒田の湊で歌つて居つたといふ酒田節がどの位歩いて居るかといふことを調べて見たが、

　　　酒田コヤの濱、米ならよかろ　沖のベンザイ衆にたゞ積ましよ

　このベンザイ衆といふのは西の方から來る大船の船員のこと、コヤの濱は酒田の湊の新地で非常に大きな砂濱があるが、この眞白な砂濱が米ならば只で積ましてやるといふやうな非常なユーモラスな面白い歌である。この歌が、北の方に來ると青森縣の西北隅、十三潟の口の十三の港に行くと「十三《とさ》の砂山米ならよかろ」といひ、又新潟に來ると「新潟砂山米ならよかろ」さういふ風に土地々々の地名にかへて歌つて居るけれども、歌だけは調子の面白い歌であるからその所謂辨濟衆が持つて歩いた。さうして日本の國といふものは南北四百里もあつて可なり越え難い山坂を有つて居るに拘らず、現在でも大體同樣式の生活を全國が仕得るやうになつて居るので、その大部分は無論祖先を共通にして居るといふ點から自然と來るのではある。併しながら一方に於いては新らしいものがあればそれを持つて行つてやるといふ氣持、是が有力であつた。殊に昔の船といふものは今と違つて直ぐ歸つて來るといふことが出來ない。貿易風といふものは殆と吹く時が決まつて居る。日本の緯度では南洋程でなくつても、とにかく風の季節があつて先づ一年に二度通ふといふことは考へてない。それ程ゆつくりでなくても、兎に角良い風がなければ乘出しても詰らないと、ぢつとして一つの湊に居る。其爲に半分は土地の人、半分は旅の人といつたやうな關係が結ばれたのが、色々複雜な結果を起して居るやうである。兎に角書物だけ讀んで我々の先祖の航海者の功績を推測することは出來ない。彼等の隱れたる手柄といふものが澤山あるといふことを、あなた方が少なくも同情をもつて見なければならぬ。それも丸つきり空想ではなくて、ごく具體的に現在殘つて居る所の地方々々の生活の特徴に依つて、是はあちらから持つて來たなといふことが判る。今言つたのは方言とか民謠といふやうな小さい話であるが、併しそれ以外のものでも同じ(530)ことが言へると思ふ。とにかく各地の人の血筋が非常に入組んで居るといふことが言へる。

　その中でも私等が一番興味を有つて見て居るのは、紀州の熊野の海岸の文化、是が大きな仕事をして居ることである。熊野の御山は大變な高い山に祭られて居る、中世に始めて現はれた神樣である。京都の近くでは石清水八幡樣、京都では祇園樣の北野神社も今の京都が出來てから暫くして祭り始めた新らしい神樣であるが、熊野はそれよりもまだ新らしく、突如として斯ういふ半島の突端に新らしく祭られた。それが源平時代の前後には天子樣が御參りになり、上皇が何十囘も御參になるといふことがある位、京都に居る紳士有識者の階級で熊野へ參らない者がないのみならず、其信仰といふことが一つのシステムになつて今日迄殘つて居るほど、盛な影響を日本全體の文化の上に與へて居る。記録が燒けたり失はれたりして居るが、熊野の權現樣などは、陸地は何處を通つて來たといふ言ひ傳へがなくて、船から渡られたらしい痕跡が殘つてゐる。船で渡つて來るといふと、人は海岸に祭つてなければならぬやうに思ふが、是が熊野といふ信仰の一つの特徴であつた。即ち熊野人は山の民であつて同時に船に乘る民であつた。現在でも山の人間と海の人間とはカテゴリーが違ふやうに考へて居る人もあるが、木をくぼめて舟を造る人間は山の人間であり、又海の人間でなければならぬ。熊野だけは少なくも平安初期に、遠方から來られた神樣であることはほゞ疑ないにも拘らず、何處を通られたといふ道もなくて熊野川の上流へ入つて居られた。さうしてその神樣は非常に移動する神樣であり、又後世まで熊野の信仰といふものは東へ西へと進んで行つた。日本海にもあるが、太平洋岸を船で動いたかと思はれる。西の方面も亦九州から南、種子、屋久、沖繩迄行つて居る。中世沖繩で祭つて居た内地風の御宮は皆熊野である。奄美大島では杉で拵へた板付け舟の正面の所に繪があるが、一面は顔みたいなものが描いてあり、他の一面は杉が三本ある。即ち熊野の信仰である。どういふ風にして國中を歩いたか判らないが、熊野權現の信仰には他の御社にはないやうな特殊の樣式がある爲に、それを辿つて是は熊野に違ひないといふことが判る。例へば近い所で申すと、伊豆山の神社といふものは餘程久しい時代から、鎌倉の古い言傳へといふものは無論熊野ぢやないが、しかも(531)今ある古い縁起を讀むと熊野だといふことは幾らでも證據が擧げられる。三河の矢矧川の上流に足助といふ所がある。南朝の忠臣足助氏の出た所である。そこの八幡樣には足利時代の記録が殘つて居る。八幡樣だと表向は言つて居りながら、縁起の内容を讀んで見ると熊野である。さうして後になつて氣が付いたのは、天龍川を溯つて入つて來た熊野の信仰は強い幾つかの痕跡を殘して居る。お宮もあれば鈴木といふ苗字が村々に散らばつて居る。皆熊野である。紀州では鈴木といふのと榎本、宇井といふ三つの大族があつて、宇井といふのは存外紀州にも少ないが、榎本、鈴木といふ二軒は何處へでも行つて居る。此二つの苗字は熊野の神宮に附いて來たことは少しも疑ひなしに言ふことが出來る。それ位熊野の信仰は擴がつて居る。熊野の地形は小さな入江みたいなものが澤山あつて山が海に臨んで居る。灣に入ると直ぐ崖になつて居つて上は山である。小さな舟を下ろすには大變都合が好い。恐らく熊野を中心とした海上の移動といふものは今でもまだ辿ることが出來るだらう。斯ういふ心持を以て見ると、我々の歴史は今傳つて居るだけが總ての歴史でないといふことが能く判るので、私の近頃やつて居る仕事は、船でなくては通へない所や陸地の酷い山を越さなければ行かれない所の生活の、互ひに縁もゆかりもない所を成るべく澤山見て、それを比較して共通に殘つて居るものを求める。さうすると何か古くからあつたものがわかるだらう、といつたやうな氣特で段々調べて居るので、なか／＼一時間や二時間でその話を仕盡せない。もし諸君は少しでも是に注意するやうになつたら、今に追々明かになつて來るものがあらうと思ふ。

　斯ういふ調査をして居る中に段々判つて來たことの一つに、頭の上に物を載せて居る人々が、未だ海岸地帶を歩くと何處でもよく見かけられる。現在は非常に數が減つたけれども、西の方へ行けばそちこちで頭の上に載せて居るのが目につく。是が何か特別の歴史をもつ人の群ぢやないか。もつと具體的に言ふと、海人《あまべ》と稱する日本の第二の移住民、農民と對立して居つた農民以外の生産者のあれが特徴ぢやないかといふ風な心持ちで隨分見て歩いた。古い運搬法には一部を頭に載せ、一部の傾いてもよいものは背中に負うた。負ふといふにも肩にかけるのと額にかけるのと二(532)つある。頭の上にのみ載せてるのは系統が違ふらしい。私は海岸の村の者がよく頭の上に桶などを載せて居るのを見て、先にも言つたやうに海人の是が特徴だらうと思つたのだが、是は必ずしも海岸の者のみがやつて居たのではない。山の中でもそれをやつて居つた。併し是と同時に非常に大きいことを發見した。この頭の上に物を載せて居つた人たちが、日本では商業といふものゝ元祖だといふことである。今迄氣が付かない人もあつたらうが、多くの日本人の工藝に携はつた者、又は神官でも僧侶でも武士でも、自分がやらなくても自分の家來を使つて畠を作り田を作りして、必ず一方には農業をやつた。農業に全然關係ないといふ者はなかつた。皇室でも大御田を御有ちになつて皇室の爲に耕作する者が居た。所が日本では耕作を少しもやらずに濟す者が漁業者であつた。是が作らぬ農産物を食ふのであるから、交易をしなければならない。其必要から一番最初に漁民が農家へ漁獲物を持つて行つて働き掛けて貿易をした。是だけなら昔から判つて居ることで、誰でも想像の付くことだが、海人の頭の上に物を擔ぐ方式を以て女が主として働いて、大きな商業をして居つたといふことがこの頃判つて來た。今は色々の形になつて變化して居る。多くの土地では「いたゞき」と言つて居たが、名前だけあつてもう今はいたゞかない。リヤカーなんかで引張り廻して居る「いたゞき」が澤山出て來た。がそれもやはり貿易を主にして、農業をやらない。又やれないやうな所に住んで居る。海岸の僅かな濱とか少ししか平地のない處に居る者が是で生活をつゞけて居た。例へば石川縣の金澤から少し北の大根布あたりに住んで居る漁民は今も「いたゞき」をやつて居る。能登の七尾の西の石崎、越後の直江津の片端、四國では高松の一部分に住んで居る者などが今でも「いたゞき」と呼ばれて此交易をつゞけて居る。斯ういふ人々の中には一つのシステムが有つて、農を主業とする遠くの村々に各自の定まつた取引先を有つて居て、それをトクイと謂つて居る。町の商人の得意とはちがつて、兩者の間柄は唯の賣買の關係ぢやない。薩摩の西海岸などの例ではトクイの家に嫁取りがあるとか年祝があつて、是非魚が是に入用だといふ場合には、他から集めても全力を擧げて必ず供給する義理を有つて居る。その代り常の時には「いたゞき」がやつて來ると必ず何か買ひ、又宿をしてやらなければならぬ。(533)代々引續いて親類に近い親しみをもつて居る。此關係は世襲である故に相續する。農民の側ではさうでもないらしいが、濱から來る者の方はこのトクイ場を權利株のやうに考へて居ることは富山の藥屋などでも同じで、互にそれを奪はうとはしない。筑前の西海岸の野北のシガ（行商者）などは、他家へ嫁入つた娘にでも母から讓つてやることがある。さういふ場合には母娘同行してそのトクイの家に行き、是からはこの娘が來ますからよろしくと挨拶する。今一つの特色としては代價は必ず農産物でもらふことで、此爲にこの女の魚賣共は、皆一種變つた形のスミ袋又は烏口といふ布の袋を携へて來る。さうして魚の代を米麥で計算するといふよりも、寧ろ魚を進上して穀物を貰ふといふ形に近い。但し今日ではそれも算盤で彈いて相場に合せるやうにして居るのであらうが、とにかくまだこの古風な面倒な物々交換を續けて居る土地がある。つまりは此方に持たぬ物を求めて來るのが目的だつたからである。その著しい一つの例は山形縣酒田の對岸にある飛島といふ小さな島などは、是がもと唯一の食料取得の手段であつた。この島では以前は五月船、秋船といふ二度の渡海があつて、五月に農家が何も持つて居らぬ時期に、掛賣を覺悟の上で乾魚や色々の物を船一杯積んで（出る時には何か儀式があつたやうですが其儀式を濟して）内陸へ渡つて來る。某は何村、某は何家と行く所が皆決つて居つて、行つた先に一軒だけ宿を呉れる人がある。宿の亭主が帳面を付けてくれる。何處へ鯛を何匹鮹を幾らと書いてもらつて、その時はから身で歸つて來る。是が五月船である。それから愈々秋船といつて稻刈の濟んだといふ時期になると、今度は僅かの品物、干するめとか乾鮹といふやうな物を土産にして島から渡つて來る。今度は前の勘定を米で持つて還るのである。この貿易は明治以後大分後迄續いて居る。現在でも少しは痕跡がある。舊幕時代には鶴岡の酒井家へも先例によつて若干の魚を獻上し、之に對しては正式に頂くものゝ決まりがあつて、貿易だか進物だか判らなかつた。あなた方も日本の經濟史を學んで知つて居られるだらうが、足利時代に勘合船と申して、政府特許?を持つて支那に渡つた時の貿易の仕方が是です。向ふぢや來ちやいけない、さう度々來るのは困るといふのを、それでも是を獻上しますと色々の物産を獻上すると、大國の一つの體面があるから、其二倍も三(534)倍にも當るやうな品物を與へられる。貿易といふか貢物といふか境目が判らない。是がずつと江戸時代の始め迄、日本と支那との間に續いて居つた貿易の型なのである。それを今又今度は日本の方で若干眞似して、南京や和蘭と貿易して居つた。長崎貿易は幕府に向つて獻上する。其獻上に對する御下げ物と云ふのが原則であつて、最初の立前は明と日本と貿易して居つたと逆な形である。この形を山形縣の飛島、又福岡縣の筑前の野北邊ではつい近頃までやつて居た。さうして是と至つて近い貿易が、まだ他の海岸の村でも今日迄續いて居た。ところが大正始め頃から是が大飛躍をして來たのである。外でもやつて居るらしいけれども、最近私の知つたのは阿波の阿部村、愛媛縣の松山から西によつた松前村、この二箇處なども最初はほんの頭の上に物を載せて御得意だけ行つて置いて貰ひ、それに對して自分の入用な米なり芋なり漁村にない物を貰つて歸るだけの目的であつたものが、段々手を伸ばして、阿部は殆と日本全部、一時は美濃とか信州とかの、船も通はず海も何もない國に商ひをして居た。さういふ中に繭の値段が下つたり何かして、非常な貸倒れして今では中止して居るのがあるけれども、とにかく盛んな頃は魚の行商以外に、反物や瀬戸物何でも皆商ひして居た。元は大體海岸地帶を傳つて男が二人位、あとは女たちが乘り込んで、品物をうんと積んで、川があれば川筋を上つて行つて、都合の好ささうな所で御得意を新規に作つてそこで物を賣る。始めの中は自分の所で、あらめとか、するめとかだけ賣つて居たのが、段々大膽になつて、後には大阪へ行つてよその海産物を仕込んで、或る時代には名古屋などの工業生産物、あゝいふ漁民とは少しも關係のないものまで、どし／＼と商なつた。隨分遠方まで出て行くのだが、それが一年中でも一度だけは歸つて來て御祭りをする。御祭に歸らないと嚴しい制裁を受ける。それを終つて又おつと出掛けて行く。此村の人たちのもつて居る交通地理の知識といふものは驚くべきものであつた。ところがもつとえらいことをやつて居るのは伊豫の松前の方で、此處は單に日本内地を廻るだけではなく、大陸へ渡つて居る。今度の戰爭を利用して長江をずつと上り、北は齊々哈爾から、西は漢口の奧迄行つて居るといふ。女房が主體で亭主が之を助け、内地から色々な方法で物を取寄せて賣つて居る。商品は勿論海産物だけでない。(535)併し海産物以外のものをやるやうになつたのは近い頃からで、今では一組何萬圓といふ大きな商ひをして儲けて居る。最初は是も御得意制度で、これを次々増加したのであるが、後には今まで全く知らん所まで開拓して行つた。此二箇處の女行商人の發達といふものは特筆大書する値打がある。女共が單に頭に物を載せて歩いて居つた者が、經驗を積むと斯ういふことまで企てるのである。とにかく單に頭に物を載せる習慣のあつた所に、斯樣な大きな商業が發達したのである。日本商業史にはまだ是まで注意した人を見ないが、根原に遡つて考へると、一般國民が自給自足した時分でも、魚を捕る人たちのみは極端に農業が嫌ひで、今でも女房だけに畠の方をやらせて、男は少しも土にさはらぬ村が多い。それが米麥を常食にするのだから厭でも應でも貿易は此處から始まらなければならぬ。さうして其樣式が僅かの間に變化を見せて居る。幾つかの土地の實例を較べて見ると、獨り日本民族のみと言はず、何處の國の商業でも必ず通つて來た發達の各段階を、我々の前に斯の如き顯著な實例を以て示して居る。我々の過去と云ふものは書物に書かれて居る部分は本當に僅かしかない。殊に海上文化の成長した跡の如きも、若し諸君が圖書館に入つて書物だけ一生懸命に勉強すれば、それで我々の祖先の生活の跡が判ると思つたならば大間違である。勿論さう考へても差支ない方面もある。しかし方面に依つてはもうどうしても別に現在の事實の觀察から、新たに會得しなければならないものが多いのである。勿論あなた方はそんな餘裕は有つて居られないであらうが、併し少なくとも新しい學問の起るものに對して馬鹿にしてはいけない。是から先幾らもまだ發見せられる尊い知識が有り得る。過去の生活の跡にはもう永久に判らないだらうと思はれるものもあるけれども、探せば判るもので、まだ探してないものも幾らもある。さういふものを新規に知つてもう一度考へ直すのが、もう一度自分の生活振りを反省して見るといふことが即ち文化科學である。是が新たなすぐれた文化を創造して行く所以であるといふことを知らなければならぬ。幸ひにしてそれは多く面白いものである。なぜ面白いかといふと新らしいからである。今迄想像したこともない話がひよこ／＼出て來る。若い人たちの好奇心をいざなはずには置かない。私のたゞ一度の斯ういふお話が、果してどれだけの效果を殘す(536)かはおぼつかないけれども、少なくとも諸君が海の民の何千年といふ長い歴史を、久しいこと代表して居た者があるといふことを心付かれたならば、恐らく今後自分等よりも教育の低い者、亂暴な我雜な連中を相手にして生活して行く時代が來ても、相當彼等を理解し又同情をもつて見る事が出來るであらう。それだけでも諸君の世渡りは和やかになつて來る。甚だぼんやりとした話ではあるけれども、世の中にはまだ正しく自分等の生活を導くやうな知識が、隱れて幾らもあるといふことを、一通りは實例を以て諸君に知らせて置きたい。さういつたやうな心持ちで今日の話をしたのである。

　

(537)　　第一卷　内容細目

　

海上の道〔1961年7月、筑摩書房発行〕

　海上の道（昭和二十七年十月、十一月、十二月、心五卷十號、十一號、十二號）…三

　海神宮考（昭和二十五年十一月、民族學研究十五卷二號）…………………………三五

　みろくの船（昭和二十六年十月、心復刊一號）………………………………………七三

　根の國の話（昭和三十年九月、心八卷九號）…………………………………………八五

　鼠の淨土（昭和三十五年十月、傳承文化一號）……………………………………一一〇

　寶貝のこと（昭和二十五年十月、文化沖繩二卷七號）……………………………一四九

　人とズズダマ（昭和二十七年、自然と文化第三號）………………………………一六〇

　稻の産屋（昭和二十八年十一月、新嘗の研究第一輯）……………………………一七八

　知りたいと思ふ事二三（昭和二十六年七月、民間傳承十五卷七號）……………二一〇

　

海南小記〔1925年4月、大岡山書店発行〕

　自序

　海南小記（大正十年三月〜五月、朝日新聞）………………………………………二二三

　與那國の女たち（大正十年四月、太陽二十七卷四號）（原題、「與那國噺」）…二九四

　南の島の清水（大正十年五月、國粹二卷五號）……………………………………三〇四

　炭燒小五郎が事…………………………………………………………………………三一七

(538)　阿遲摩佐の島……………………………………………………………………三五〇

　附記

　

島の人生〔1951年9月、創元社発行〕

　自序

　高麗島の傳説（昭和八年五月、嶋一卷一號）………………………………………三八七

　八丈島流人帳（昭和八年七月、嶋一卷三號）………………………………………三九九

　青ヶ島還往記（昭和八年八月、九月、十月、嶋一卷四號、五號、六號）………四一一

　島々の話（その一）（明治四十二年五月、太陽十五卷六號）（原題、「島々の物語」）…………………………………………………………………………………………………四四五

　島々の話（その二）（明治四十三年四月、太陽十六卷五號）（原題、「島々の物語」）…………………………………………………………………………………………………四五二

　島々の話（その三）（大正三年十二月、郷土研究二卷十號）（原題、「島の入會」）……………………………………………………………………………………………………四五九

　島々の話（その四）（大正十三年八月、太陽三十卷十號）（原題、「島の人生」）………………………………………………………………………………………………………四六二

　島の歴史と藝術（昭和三年六月、民俗藝術一卷六號）……………………………四七一

　島の三大旅行家（昭和九年四月、島昭和九年前期）………………………………四八〇

　水上大學のことなど（昭和二十四年二月、近畿民俗學會々報一號）……………四九〇

　日本の島々（昭和二十六年四月、民間傳承十五卷四號）…………………………四九五

　

海女部史のエチュウド（大正十五年五月、文藝春秋四卷五號）……………………五〇一

　

瀬戸内海の海人（大正十四年十一月、民族一卷一號）………………………………五〇六

　

(539)瀬戸内海の島々（昭和二年五月、民族二卷四號）……………………………五〇八

　

伊豆大島の話（昭和二年五月、民族二卷四號）………………………………………五一一

　

海上文化（昭和十五年五月、海洋四八四號）…………………………………………五一五

　　　　　　　〔2014年8月9日（土）午後4時、入力終了〕