定本柳田國男集　第十卷（新装版）、筑摩書房、1969､3､20（1972.1.30.6刷）

　

(1)　　先祖の話

　

(3)　　　　　自序

　

　ことし昭和二十年の四月上旬に筆を起し、五月の終りまでに是だけのものを書いて見たが、印刷の方に色々の支障が有つて、今頃漸くにして世の中へは出て行くことになつた。勿論始めから戰後の讀者を豫期し、平和になつてからの利用を心掛けて居たのではあるが、まさか是ほどまでに社會の實情が、改まつてしまはうとは思はなかつた。改めてもう一度讀み返して見ると、辭句には訂正しなければならぬ點が無いにしても、氣持の上には著しい今とのちがひが、自分にも先づ感じられる。我々の未來に對する推定が、まだ／＼精確を距ること甚だ遠きものだつたことを經驗して、今更のやうに望みを學問の前途に繋けずに居られない。

　人が平靜に物を考へ得るやうになるまでには、なほ何年かの月日を待たなければならぬことは止むを得ないであらう。しかし愈々是から考へて見ようといふ時になつて、もうその考へる材料ともいふべきものが、乏しくなつて居たらどうであらうか。家の問題は自分の見るところ、死後の計畫と關聯し、又靈魂の觀念とも深い交渉をもつて居て、國毎にそれ／”＼の常識の歴史がある。理論は是から何とでも立てられるか知らぬが、民族の年久しい慣習を無視したのでは、よかれ惡しかれ多數の同胞を、安んじて追隨せしめることが出來ない。家はどうなるか、又どうなつて行くべきであるか。もしくは少なくとも現在に於て、どうなるのがこの人たちの心の願ひであるか。それを決する爲にもまづ若干の事實を知つて居なければならぬ。明治以來の公人はその準備作業を煩はしがつて、努めてこの大きな問題を考へまいとして居たのである。文化の如何なる段階に在るを問はず、凡そ是くらゐ空漠不徹底な獨斷を以て、未來に對處して居た國民は珍しいと謂つてよい。斯ういふ時代が暫くでも續くならば、常識の世界には記録の證據などは無いから、忽ちにして大きな忘却が始まり、以前はどうだつたかを知る(4)途が絶えて行くのである。もとより以前とても次々の變化は有つた。人の行爲と信仰とは時と共に改まつて居る。どこをつかまへて以前の?態といふかと、思ふ者も有るか知らぬが、ともかくも變らぬ前の姿を、尋ね出すことが今ならば出來るのである。是には幸ひにして都鄙遠近のこま／”＼とした差等が、各地の生活相の新舊を段階づけて居る。その多くの事實の觀測と比較とによつて、もし傳はつてさへ居てくれるならば、大體に變化の道程を跡付け得られるのである。日本民俗學の提供せんとするものは結論では無い。人を誤つたる速斷に陷れないやうに、出來る限り確實なる豫備知識を、集めて保存して置きたいといふだけである。歴史の經驗といふものは、寧ろ失敗の側に於て印象の特に痛切なるものが多い。從つて審かにその顛末を知るといふことが、愈々復古を不利不得策とするやうな推論を、誘導することにならぬとは限らない。しかし其爲に強ひて現實に眼を掩ひ、乃至は最初から之を見くびつてかゝり、たゞ外國の事例などに準據せんとしたのが、今まで一つとして成功して居ないことも、亦我々は體驗して居るのである。今度といふ今度は十分に確實な、又しても反動の犠牲となつてしまはぬやうな、民族の自然と最もよく調和した、新たな社會組織が考へ出されなければならぬ。それには或る期間の混亂も忍耐するの他は無いであらうが、さう謂つて居るうちにも、捜さずにはすまされない色々の參考資料が、消えたり散らばつたりする虞れは有るのである。力微なりといへども我々の學問は、斯ういふ際にこそ出て大いに働くべきで、空しき咏歎を以てこの貴重なる過渡期を、見送つて居ることは出來ないのである。

　先祖の話といふやうな平易な讀み本が、果して何程の役に立たうかと、訝る人も或は無いとも限らぬが、是にも幾つかのまじめな動機が有つたのである。第一に私は世の所謂先覺指導者に、是等の事實を留意させ又討究せしめるに先だつて、まづ多數少壯の讀書子の、今まで世の習ひに引かれて知識が一方に偏し、つひぞ斯ういふ題目に觸れなかつた人たちに、新たなる興味が持たせたいのである。第二には私の集めて見ようとする資料は、白?をすれば實はまだ甚だ乏しいのであつた。多くの世人がほんの皮一重の裡に、持つて忘れようとして居る子供(5)の頃の記憶は、この僅かな機縁に由つて幾らでも喚び醒され、一種樂しい感慨を以て斯ういふ文章を讀み得るのみで無く、更に一歩を進めてはその思ひ出したものを以て、筆者に告げ教へることさへ出來るかと思ふのである。事實の記述を目的としたこの一册の書物が、時々まはりくどく又は理窟つぽくなつて居るのは、必ずしも文章の拙な爲ばかりでは無い。一つにはそれを平明に説き盡すことが出來るまでに、安全な證據がまだ出揃つて居らぬ結果である。この度の超非常時局によつて、國民の生活は底の底から引つかきまはされた。日頃は見聞することも出來ぬやうな、悲壯な痛烈な人間現象が、全國の最も靜かな區域にも簇出して居る。その片端だけが僅かに新聞などで世の中へ傳へられ、私たちは又それを尋ね捜しに地方をあるいて見ることも出來なかつた。曾ては常人が口にすることをさへ畏れて居た死後の世界、靈魂は有るか無いかの疑問、さては生者の是に對する心の奧の感じと考へ方等々、大よそ國民の意思と愛情とを、縱に百代に亙つて繋ぎ合せて居た絲筋のやうなものが、突如としてすべて人生の表層に顯はれ來つたのを、ぢつと見守つて居た人もこの讀者の間には多いのである。私はそれが此書に對する關心の端緒となることを、心窃かに期待して居る。故人は斯くの如く先祖といふものを解して居た。又斯くの如く家の未來といふものを思念して居たといふことは、決して今後も亦引續いて、さういふ物の見方をなさいといふ、勸告で無いことは言ふにも及ぶまい。たゞ我々が百千年の久しきに亙つて、積み重ねて來た所の經歴といふものを、丸々其痕も無いよその國々と、同一視することは許されないのみならず、現に是からさきの方案を決定するに當つても、やはり多數のさう謂つた人たちを相手に、成程さうだといふ所まで、對談しなければすまされぬのである。それは手數だから只何でもかでも押付けてしまへ、盲從させろといふことになつては、それこそ今までの政治と格別の變りは無い。人に自ら考へさせ、自ら判斷させようとしなかつた教育が、大きな禍根であることはもう認めて居る人も多からう。しかし國民をそれ／”＼に賢明ならしめる道は、學問より他に無いといふことまでは、考へて居ない者が政治家の中には多い。自分はそれを主張しようとするのである。長(6)い歴史を振り返つて見ても、人に現代のやうに豫言力の乏しい時代は無かつた。その不幸は戰後にもなほ續くものと患へられる。少しなりともこの力を快復する爲には、學者も亦頗る刻苦しなければならぬのは勿論である。ところが私は年をとり力やゝ衰へ、志は有つても事業がそれに追付かず、おまけにこの時代の急轉に面して、用意のまだ甚だ不足だつたといふ弱點を暴露した。故にこの本のねうちなども、さう大したものとは思はない。今はひたすらに是から世に立つ新鋭の間から、若干の理解と共鳴とを期するばかりである。

　　　昭和二十年十月二十二日

　

(7)　　　　　　　一　二通りの解釋

　

　先祖といふ言葉は、日本では人によつて稍々ちがつた意味に用ゐられ、又理解せられても居る。大體に是を二つに分けて、一方はまづ文字に依つてこの語を知つた者である。斯ういふ人たちは、通例家の最初の人たゞ一人が先祖だと思ひ、さうで無くとも大へん古い頃に、活きて働いて居た人のことだと考へて居る。文字の面からいふと、少しでも無理は無い解釋であり、又時々の話に出て來るのも、さういふ名の判つて居る人の事が多いのだから、自然に系圖などの筆始めに掲げられてある人をさして、先祖は誰それだと謂ふ者が多くなつて居るのである。

　しかし他の一方に、耳で小さい時からこの言葉を聽いて、古い人たちの心持を汲み取つて居る者は、後に文字を識りその用法を學ぶやうになつても、決してさういふ風には先祖といふ語を解しては居ない。一ばん大きなちがひは、此方の人たちは先祖は祭るべきもの、さうして自分たちの家で祭るのでなければ、何處も他では祭る者の無い人の靈、即ち先租は必ず各々家々に伴なふものと思つて居ることで、それを明白に言ひ切つた人こそ少ないが、その心持はいつでも此語を使ふときに現はれて居る。それを私はもう大分久しく、氣をつけて聽いて居たのである。

　是は近い頃の經驗だが、茨城縣内原の農民道場に於て、各地から集まつて來た篤農と言はるゝ人たちの中から、特に舊家の主人だけを、一縣十數人づゝも招待して、話をしてもらつたことがある。私の家は自分で二十何代になるといふのが古い方で、其他は大部分が十五世とか、十八世とかいふのばかりであつたが、さういふ中にたゞ一人だけ、六十何代になると答へた者があつた。びつくりしてなほよく尋ねて見ると、この家には甚だ詳しい系圖が出來て居たので、桓武天皇から世代を勘定して居たことが判明した。平氏は桓武天皇より出づ。全日本の平といふ姓の家は、悉く皆その御末であることに誤りは無いのだが、是は畏くも皇祖であつて、貴い嫡流の大御門より他では、この御方を(8)世代に數へる習はしも無く、又御祭り申す家も無いのである。斯んな混同が稀にも起るといふのは、つまりは二つの異なつた解釋が行はれて居る爲である。さういふ中でも文字の教育が進むと共に、第一の意味が強く浸み込んで行くのだが、この方は實は新しく又單純である。それ故に私は主として國民の多數の者の考へ方、いつの世からとも無く昔からさうきめ込んで居て、しかもはつきりとそれを表示せず、從つて世の中が變つて行くと共に、知らず／＼のうちに誤つてしまふかも知れない古い無學者の解澤の方に、力を入れて説いて見ようとするのである。

　

　　　　　　　二　小さな一つの實例

　

　我邦には藤原といふ姓の家が、平家よりも亦何倍か多い。確かに證明し得られるだけでも何十萬、事によると百萬を超えて居るのかも知れない。昔この姓からは有力な政治家が多く出たから、古い分は比較的よく判つて居る。奈良の春日と河内の枚岡《ひらをか》、この二つの官幣大社を始め、之を勸請した諸國の御社に御祭り申す天兒屋根命《あめのこやねのみこと》といふ神樣の御末だといふことになつて居るのだが、此神を藤原家の御先祖とは普通には言はぬのみならず、始めて藤原の姓を賜はつた鎌足は著名であり、如何なる藤原氏もその後裔で無いものは無いのだが、この人を先祖として祭つて居る家もまだ聽いたことが無い。それといふのが鎌足の孫の代になつて、男の子が四人あつて家を四つに分け、どれを本家とも決めなかつたからである。さういふ中でも北の藤原、房前《ふささき》といふ人の末が特に繁昌したが、それだけに殊に多くの家々が、この北家の筋からは分立した。さうして何れも皆その家を立てた人から後を、御先祖として祭つて居たのである。

　この點は尊卑分脈といふ本に詳しく示してあるが、關東の田舍などでは山蔭流、又は魚名流といふ系統の家が特に多かつた。私の家などもその魚名流の小さな端くれだから、實際の例を話すことが出來る。魚名流の中でも、取分け(9)有力であり又數の多かつたのは、私などの屬する秀郷流といふ一派で、曾て平の將門を攻め滅ぼした田原藤太秀郷を、一流の祖として居るので此名があるが、本家はどこに在つて秀郷を祭つて居るのか、もう永い間不明になつて居る。奧州平泉に三代の榮華を極めたといふ佐藤氏なども是から分れた家で、今も關東東北にはこの苗字を持つ舊家が非常に多く、それ故に又佐藤流と呼ぶ人も有る位だが、田原藤太の子孫の家は勿論是だけでは無い。大體に今の栃木縣の南部と、神奈川縣の西部とに此家筋の者が多く、前者には足利（田原）佐野小山結城長沼、後者には波多野氏があつて、松田河村等は又それから出て、何れも其本家は鎌倉時代の大名であつた。柳田といふ私の一族は、この河村家からの分れだと言はれて居る。それも本家などでは決して無く、現に栃木縣の方へ本據を移してからも、何十軒といふ程も名を知られた舊家があり、更に一部は爰から分岐して群馬縣の各地に移住し、なほ西へ進んで信州の北部までも入つて居る。さうして私の家などで先祖として祭つて居るのは、田原藤太秀郷でないのは勿論、始めて波多野松田河村等の家を立てた人たちでも無く、又その河村から分家をした柳田氏一門の第一世ですらも無いのである。先祖といふ言葉の二つの解釋のちがひは、ちやうど一方が柳田家の先祖を藤原魚名だ秀郷だといふに對して、他の一方が私などの如く、誰も知つて居ない柳田監物といふ人と、それから次々の主人主婦を、御先祖だと謂つて恭ひ拜んで居るちがひに該當する。言葉は同じでも心持はまるで別なのである。

　

　　　　　　　三　家の初代

　

　自慢でも何でも無いのだから、もう少し自分の家の話をさせてもらはう。この柳田監物は戰國の終り頃の人で、江戸幕府の始めにはもう老人であつた。宇都宮の殿樣の下に働いて戰場に功があつた故に、御褒美にこの監物といふ名を戴いたといふ記録があり、前名は彦兵衛であつた。宇都宮家が秀吉から憎まれて所領を失つてしまつた時に、牢人(10)をしたかと思はれて、それから後は同國｜眞岡《まうか》といふ處に引込んで住んで居た。多分暫くは農業で生計を立てゝ居たのであらう。眞岡には今でも柳田といふ舊家がある。私の家も或はその家の次男か三男かでは無かつたかと思ふが、こちらにはそんな言ひ傳へは殘つて居ない。この監物の彦兵衛の息子に、與兵衛といふしつかりした青年があつた。其頃に眞岡を領して居た堀といふ旗本の武士が、測らざる仕合せで大名に取立てられ、一萬何千石かで烏山の殿樣になつた頃に、志願して再び武家の奉公に出た。最初は無足《むそく》であつたが少しづゝ昇進して、後には御作事奉行や旗奉行などを勤め、役に立つたと見えて百石足らずの禄を受けて居た。それ故に私の家では、この柳田與兵衛といふ人が初代となつて居る。監物は隱居で御先祖の代數には算へなかつたと思はれるが、しかも初代の最も大切な家族として、墓の石にも寺の過去帳にも、又私の家の先祖棚にも、忌日と戒名とが正確に掲げられて居る。即ち盆には毎年定まつて還つて來られる私の家の御先祖、所謂ほとけ樣のうちなのである。この風習はほゞ全國に亙つて、今も行はれて居るやうで、中にはそれを今一段と擴張して、本家の主人であり次男に附いて分家しなかつた人でも、分家で祭つて居るといふ土地が少なくは無い。即ち初代の親に當る人だけは、雙方に位牌を設けて、分家の方でも祭つてよろしいといふことになつて居るのだが、是は恐らく古い頃からの考へ方で無く、もとは隱居をしてから次男以下と共に分家に入つた人だけが、其家の先祖だつたのであらうと思ふ。

　人が死後には祭つてもらひたいといふ念願は一般であつた。それを知り切つて居た子孫の者として、祭る先祖と祭らずともよい先祖とを差別しよう筈は無い。たゞその祭をする役目には定まつた掛りがあつて、誰が祭つても何處で祭つても、よいといふものでは無かつた。むつかしい言葉でいふならば、先祖の祭は子孫の義務といふだけで無く、もとは正統嫡流の主人主婦の權利でもあつた故に、たとへば私の家のやうに、よしや本家の先祖が判つて居たにしても、之を祭らうとはしなかつたのである。人を神に崇《あが》めた各地の御社と、今では此點が明らかにちがつて居る。

　

　　　　　　　四　御先祖になる

　

　先祖といふ言葉の民間の意味が、新しい學問をした人の考へて居るのとは、其間に大分の開きが有るといふことを前に説いたが、その似つかはしい實例として、「御先祖になる」といふ物の言ひ方が有る。文句が新しく印象が強いためか、私などの小さい頃にはよく用ゐられ、學者と言つてもよい人の口からも聽いたことがある。たとへば爰に體格のしつかりとした、眼の光がさわやかで物わかりのよい少年があつて、それが跡取息子でなかつたといふ場合には、必ず周圍の者が激勵して、今ならば早く立派な人になれとでもいふ代りに、精出して學問をして御先祖になりなさいと、少しも不吉な感じは無しに、言つて聽かせたものであつた。親たちが年を取つて末の子の前途を案じて居るやうな場合にも、いやこの兒は見どころが有る。きつと御先祖樣になる兒だなどゝ謂つて、慰め且つ力附ける者が多かつた。その意味は、やがて一家を創立し又永續させて、私の家の柳田與兵衛などのやうに、新たに初代となるだけの力量を備へて居るといふことを受合つた言葉である。人に冷飯食ひなどゝひやかされた次男坊三男坊たちは、之を聽いて居てどれ位前途の望みを廣くしたかわからない。實際又明治年間の新華族といふものゝ、半分はさういふ人たちであつた。

　それをもう大分久しい間、耳にする折が無くて居た私は、最近になつて偶然に、自分で御先祖になるのだといふ人に出逢つたのである。南多摩郡の丘陵地帶を、毎週の行事にして歩きまはつて居た頃に、原町田の町に住む陸川といふ、自分と同じ年輩の老人と、バスを待つ間の會話をしたことがある。我が店のしるしを染めた新しい半纏を重ね、護謨の長靴をはき、長い白い髯を垂れて居るといふ變つた風采の人だつたが、この人が頻りに御先祖になる積りだといふことを謂つたのである。生まれは越後の高田在で、母の在所の信州へ來て大工を覺えた。兵役の少し前から東京(12)へ出て働いたが、腕が良かつたと見えて四十前後には稍々仕出した。それから受負と材木の取引に轉じ、今では家作も大分持つて樂に暮して居る。子供は六人とかで出征して居るのもあるが、大體身がきまつたからそれ／”＼に家を持たせることが出來る。母も引取つて安らかに見送り、墓所も相應なものが出來て居る。もう爰より他へ移つて行く氣は無い。新たな六軒の一族の御先祖になるのです、と珍しく朗らかな話をした。一時にほゞ同等の六つの家を立てゝ、おもやひに自分を祭らせようといふだけは、少しばかり昔の先祖の念願とはちがふが、ともかくもそれを死んだ後までの目標にして、後世子孫の爲に計畫するといふことは、たとへ順境に惠まれて他の欲望が無くなつたからだとしても、今時ちよつと類の無い、古風なしかも穩健な心掛だと私は感心した。

　

　　　　　　　五　相續制と二種の分家

　

　日本の家族制度では、過去三百年以上の久しきに亙つて、ちやうどこの陸川老の腹の中のやうに、家の根幹を太く逞ましくしようとする長子家督法と、どの子も幸福にしてやりたいといふ分割相續法と、二つの主義が相闘ひ又妥協し續けて居た。さうして其結果が今日の海外進展になるまで、譬へやうも無い程の大きな歴史を作り上げて居るのである。先祖の惱み苦しみは、我民族に在つては特殊に深く又切であつた。それが全く正しいものであるか、但しは又將來更になほ完全に近いものを、考へ出す餘地があるか。是は大きな問題に相違ないが、今は之を論究するにふさはしい時でない。私に出來ることは、たゞ今まで世に現はれた事實を明らかにすること、殊に先祖が近世に入つてから、どれほど此爲に骨を折つて働いたかを、もう忘れかけて居る子孫の者に心付かせることだけで、それには何よりも先づ分家には二つの種類があつたこと、それが追々に一つになつて行かうとして居ることを、話す必要があるやうに思ふ。

(13)　家を強くするといふことは、總領の權力を大きくして置くことであつた。もつと詳しく言へば次男以下の者に、長兄とは比べものにならぬやうな惡い生活を辛抱させることであつた。家の一番早く弱るのは、農産物の收量の減ずることで、是では多くの人を養ふことが出來ず、今の言葉でいふと榮養が足りなくなるからである。以前の軍隊は誰も知つて居る通り、今のやうに方々から集めた者を以て編制しては居なかつた。普通には土地を領する家の主人又は其代理が、配下を引率して馳せ參ずるので、それが知らぬ間に無人になつて居る樣では當てにならない。だから單なる政治上軍略上の必要からだけでも、なほ家々の分割相續を抑制しなければならなかつたのである。世の中が平和になつて其必要が無く、寧ろ直接に家々から課役を徴する爲に、官府が戸數の増加を奨勵するやうな時代はやつて來たけれども、それでもなほ家自らとしては、よほど好都合な條件が揃はないと、やたらに分家を出し田地を分けようとしなかつたのは、必ずしも古い慣習の力ばかりでは無い。第一にそんな事をすれば毎年の家の祭や法事が淋しいものになり、前々の格式が保ち難くなるからである。親は末の子への愛情の爲にそれ位はがまんするとしても、それでは代々の御先祖樣に對して、申しわけが無いと感じたからである。世間もとかくに斯ういふ點にばかり注意の目を集め、少しでも今までの仕來《しきた》りを省くやうなことをすると、直ぐに何とかかとか噂をしはじめる。家が衰へかゝつたといふ意識も斯んな處に萌し、それを警戒する爲に舊家門閥では、皆苦心をして分家の問題を考究して居たのである。

　

　　　　　　　六　隱居と部屋

　

　愚者をたわけと謂ふのは、田を分けることが愚な事だからなどゝ、冗談見たやうな一説もあつた。農家一戸の作り高を、十石より小さくはさせぬといふ法令が、戸數増加を悦ぶやうな時代にもなほ行はれて居た地方も有る。しかし問題はさういふ小地主の上では無くて、却つて幾らでも分け得られる家の相續に在つたのである。斯ういふことは前(14)例が流行になりやすく、又互ひの張合ひといふこともあるので、古風な單純な山の中の村などには、一樣に村内の分家は許さぬことゝいふ、申し合せをした村も諸國に有る。飛騨の白川村などは夙に有名になつて居たが、同じ地方でも、家の者が出店と謂つて路傍に別屋を建てゝ商ひをするだけはよろしいとか、又は出店もなほ許さないが、隱居だけは本家の外に設けてもよいとか、面倒な制限をして居る處が幾つかある。隱居は家を讓つた先代の夫婦が、達者で居るうちだけの事で、亡くなれば再び本家に戻るからよかつたのである。ところが其慣習も少しづゝ中味が變つて來て、親が次男以下を引連れ相應な地面を持つて分れ、それを本家へ返さずに其まゝ弟たちに相續させるつもりの家を、やはり隱居と謂つて居る例も多く、そこを次男に與へて又次の隱居へ、三男以下を連れて出るといふやうな、働きのある親たちも有つた。地方によつてはインキヨとは次男のことだと思ひ、それに對して三男をサンキヨとさへ呼んで居る。即ちたゞ親が隱居をする時に附いて出る筈の子といふまでゝ、國民學校に通つて居る隱居もあるわけである。さうで無くとも標準語で、分家といふものをすべて隱居と呼び、年寄がそこに居ると居ないとを問はぬやうな例は至つて多い。つまりはもと隱居以外には、村内では家を二つにすることを許さなかつた名殘なのである。

　分家をヘヤ又はヒヤと謂つて居る地方も非常に弘いが、是も原因は隱居と近い。ヘヤは味噌部屋木部屋等の例を見てもわかるやうに、もとは同一屋敷内に建てられた附屬建物のことであつた。家に襖障子の間仕切《まじきり》が出來た結果、主屋《おもや》の一室をも部屋といふことになつたが、そこに寢る人を部屋住と謂つて、もとは主人主婦にならぬ者の全部のことであつた。家族が多ければそれを皆同じ棟の下に休ませることが出來ない。それで幾つもの小屋長屋を給して住ましめたのが、後々その部屋を屋敷外の地にも建てゝ、配偶者の有る者などをそこに置くことになり、それが本式の分家といふものと、段々に區別が付かなくなつて來た原因である。現在は時の新舊と家の大小以外には、雙方是といふ相違も無く、めい／＼も同じものゝやうに思つて居るのだが、それでも少し氣をつけて見ると、まだ幽かながら心持の差は認められる。古い分家といふものは大體に規模が小さい。しかも最初からさうなので、小さくなつたのでは無い(15)ことは、地取りと構造からでも判る。名子《なご》や奉公人の取立てられて家を持つたのは當然のことだが、血を分けた叔父弟の末といふものでも、古いのは皆小前である。小前といふよりも完全な別の家では無く、もとは部屋住も同じやうに、本家の一部として合同生活をした、言はゞたゞ寢る建物だけを異にした一家族であつた。それと近年の大きな新宅とは、構成が最初から別なものであつて、獨立して自分の先祖棚を持ち、先祖祭をするといふ分家は後者だけにしか無かつたのである。

　

　　　　　　　七　今と昔とのちがひ

　

　部屋と隱居は本來は分家とは謂へないものであつた。雨や休みの日は晝間でもそこに寢起きをし、食事も簡單なものはめい／＼の爐の火で調《とゝの》へて食べたにしても、祝ひ節供等の改まつた日は勿論、田植蒔物苅入取入から、味噌や漬物の仕込まで、少し大きな作業の有る際には、もとは總員が主屋に集まつて來て、そこの人間として共々に働き、そこの廣々とした座敷で共同の食事をした。餅搗きふかし物には主屋の庭の大きな竈が使はれ、其他多人數が一緒に活動する諸設備はすべて皆本家だけにしか無かつた。つまり建物は離れ／”＼になつて居ても、是は花びらのやうに中心を持つた集合體で、個々獨立した生計の單位では無く、或は是が我邦の大家族制の、特殊の形態だつたと言へるのかも知れない。ところが世の中が改まると、外からも又内からも、之をそれ／”＼に別箇のものと認め、どんなに小さくとも家は家だといふやうな考へ方が強くなつて、好い事もあつたが又心細い點も多くなつて來た。それでも手作と私仕事を出來るだけ擴張し、貸借日傭の契約を對等に取結んで、次第に一家の體面を確立することになつたが、なほ久しく本家を當てにして居た習はしから、何等かの省略や後まはしをしなければならぬものが、有つたのは實際已むを得なかつた。親代々の古い體驗の上に積上げられ、言葉や文字を以て教へ示さうとしなかつた無形の慣例、中でも先(16)祖に對する考へ方、殊に自分がよい先祖にならうといふ心掛のやうなことは、もと／＼死といふ聯想を誘ふものである故に、年寄などの前では口にせぬのを普通とし、從つて段々形式ばかりのものになる傾きさへあつた。新たに獨立を認められた近年の分家と、舊い分家との間に著しい氣持のちがひが有り、後者を古風なとか固いとか評してゐるうちはまだよろしいが、それを固くるしいとも舊弊なともいふやうになつては、數や力の上から言つても、前からあつたものが負けてしまふ。しかもさういふ形態の現はれたのは、江戸期の平和がやゝ續いた頃からのことで、決して明治の新時代、いはゆる西洋文化の入つてから後に、突然始まつた現象では無いのである。

　私は是までどちらかといふと、改良論者の一人であつた。少なくとも日本國民の是から後の生活ぶりは、現在の通りを續けて行けばそれでよいなどゝ、思つて居たことなどは一度も無い。世の中が大いに改まれば勿論だが、たとへ外部の情況には何の變化が無からうとも、なほ我々の活き方は今よりもよくなるやうに、始終考案し計畫し又討究すべきものだと思つて居た。過去がより正しく、それへ復《かへ》つて行くのが一番望ましいといふ場合も無論有り得る。しかしさう決定する爲にも、やはり先づ正確に知らなければならぬのは過去である。さうして今日はまだ知らぬことが幾らもあるのみか、一度は知つて居たことまでも、忘れ又は忘れかゝつて居る人が多くなつたのである。御手本になるか參考になるか、それは又今後の若い研究者にきめてもらつてもよい。兎に角にかつて我々の民族の中にたしかに有つた事實を、知らずに居るといふことがよくない。それを私は出來るだけ少なくしなければならぬと思ふのである。

　

　　　　　　　八　先祖の心づかひ

　

　前にも藤原氏の例に就て話したやうに、今日地方に於てよつぽどの舊い家と謂はれるものでも、創立の日に溯つて見れば、大抵は皆其當時の分家であり、私の出逢つた南多摩の老翁と同じく、誰か新たに御先祖になる人が有つた家(17)ばかりである。源平藤橘こと／”＼く、是こそ本當の本家だといふべき家は、捜しても何處にも無いのが普通で、唯ごく稀々に神の社に奉仕する家のうちに、神代以來の嫡々の正流を傳へるものが、有るといふ話を聽くだけになつて居る。家といふものにも人の身と同じやうに、やはり天壽とも名づくべきものがあつて、古いものが先づ逝き、新しいものが後に殘るといふ理法が有るのでは無いかとも思つて見たことがあるが、國の歴史に於ても戰國時代のやうに、特に舊い豪族の衰へ滅びやすかつた時代が、前にも何囘か有つたのである。家の生命の永續を念ずるの點に於て、何倍か今の人よりも注意深かつた昔の人たちにとつて、是が大切な經驗であつたことは爭はれない。それで親も子も心を一つにして、無理をせぬやうに本家の弱くならぬやうに、分家をするならば其家も健かに榮えて行くやうに、十分な計畫が立たぬと、容易にはそれを斷行しなかつたものと思はれる。さうして同じ一つの村の中に、部屋隱居以外の新しい一家を興すといふことは、もとは今よりも遙かに機會が得にくかつたのである。昔の分家の多くは村の外に、時々は驚くほども遠い土地に、創立せられて居たのにも、それだけの理由があつたのである。

　耕地は原則として最も安全なる財産であり、曾てはそれ以外に生計の基礎となるべきものが、考へられない地方さへ多かつた。さういふ中でも開發地主、即ち自分の力で原野を田畠に開いたものは、條件がよいので餘得が多く、あまり働かないでも立派な生活が續けられたが、年貢を當り前に納めて行く普通の作人とても、足手の勞さへ厭はなければ、毎年の衣食に事は缺かず、ほゞ安全に子孫を育てゝ行ける。それ故に土地さへ殘して置けばといふのが、上下を通じての古くからの常識であつて、しかも今日もまだ根強く傳はつて居る。さういふ人たちの子に對する愛情は、非常に苦しい形になつて表現せられたのである。先祖から讓られたものは本家に屬する。それを削つて家を弱めては先祖にすまない。子供を澤山もつたのだから已むを得ないと、腰の曲る年まで野山の空地を捜して、次男以下に遣るものを開き出さうと、苦勞をして居た人も少ない數では無かつた。或は是だけは自分の一代に殖した財産だ。だから分けて遣つても文句は有るまいと、言ひもし思ひもした人は多く、實際又年を取るまで、其爲に色々と劃策して、た(18)だ老い込んではしまはなかつた。?々失敗もしたか知らぬが、農村の人たちの、農家には似合はしくないほど世間の事業に手を出す者があつたのにも、斯ういふ同情すべき動機が下に在つたのである。

　

　　　　　　　九　武家繁榮の實情

　

　長子相續の制度が、動かすことの出來ない通則となつて居た中世の頃でも、親はもう下々の子供の爲に、右と同樣の苦勞を始めて居た。中世の武藏國（東京・神奈川・埼玉）には、武藏七黨系圖といふ可なり詳しい系圖が出來て居るが、それを讀んで見ると、有力なる武士のやゝ長命した者は、何れも三戸四戸の分家を創建して居る。多分はまだ足腰の達者なうちに、總領に嫁を迎へて本家を渡して置いて、それから日頃目を掛けて居る何人かの若い從者をつれて、少し離れた所の原野の傍に隱居をして、新たに開墾に着手したか、又は前から縁故のあつた田畠を引取つて、それを別途の財産とし、次男三男以下の家を作つたのであらう。苗字と呼ばれる家の名が、兄弟一人々々別になつて居るのも珍しからず、中には猶子養子といつて、其上に生みの子で無い者まで附け加へて居るのは、大抵は女子を是に配したものと思はれる。七黨といふのは七つの系統の大きな一族が對立して居たからで、それが入り交り縁組し又助け合つて居たらしいが、新地の開發となるとやゝ早い者勝ちの姿で、別に最初からの繩張りのやうなものは無かつたかと思はれる。さうして段々と本家の所在から、遠く隔たつた處まで進出して居るのである。それといふのも中世の關東地方には、まだ／＼大分の未開地が有つたからで、つまりこの地方の人口のうんと殖え、この田舍の早く繁榮することになつたのは、今も決して衰へては居ない父性愛の、結果だつたといふことが出來るのである。

　しかし其樣な空地などゝいふものは、さういつ迄も利用せられずに剰つて居るわけが無い。やがて目ぼしい場處が皆どこかの家に屬し、開かれた以上は收入の源だから、尺寸の田地も血眼になつて境を爭ふといふ時が來ると、弟や(19)甥の地位は目に見えて惡くなつた。新たに貫へるものとては切添へなどゝ稱して、村まはりの少しばかりの雜種地を開いたもの、さうで無ければ本家の持分の中を下受けして、追々と家來家の子の境遇と近くなる。さうして是が又始めから然るべき未墾地の近邊に無い地方での、至つて普通な?態でもあつた。武者修行といふ言葉などは中世にはまだ無かつたけれども、あの頃の若い者もよく旅をしたやうである。不平があり野心のある人たちは家を飛び出して、よい機會を捜しまはつたらしい。それには國役と謂つて地方から、年期を限つて京に出て假屋暮しをするのが、この時代の兵役であつたから都合がよかつた。京で知合ひになつた人も多からうし、又往還りに立寄つて優遇せられるといふこともあつたらう。田舍には娘の片付けに苦慮したり、又は手が足りなくてもう少し一門を大きくしたいと、思つて居る家もまだそちこちに有つたのである。さういふ中でも京都には夙く行詰りが現はれて、斯うして押出されて來る者の數が多く、しかも家筋や由緒の人に知られたものがあつたので、今日よりも又一段と地方には受けがよかつた。いはゆる人事の交流はこゝに起り、あまり眼に立たずに全國の事情は平均して行つたのだが、さういふ中でも武力の優越が物を言ひ、殊に東國武士は政治上の背景が有つた故に、僅かな期間に西は九州の隅々、北は奧羽の端までも分散して行つたのである。

　

　　　　　　　一〇　遠國分家

　

　坂東の八平氏や武藏の七黨、その他こちらにしか無いやうな苗字の家々が、弘く全國に見られるやうになつた原因の一つは是であつた。血筋の實際續いて居るかどうかは別として、ともかくも家は或る地域の、特殊なる好條件に由つて繁榮したものが、やがて充ち溢れ押出されて遠くに分れて行つたもので、全國どこでも平均に前から居たものが、少しづゝ増加して來たのでは無いやうである。ずつと大きな家だけにしかこの記録は殘らぬが、莊園は昔から、妙に(20)諸國に飛び／＼に別れたものが、一つの領主の家に附いて居た。平家追討以來の度々の動功によつて、新たに加給せられる領地が、殆と皆西と東に遠く隔たつて居たのも、何か隱れた蔭の縁故、たとへば身うちの者がその近くに、前から往つて居るといふ樣なことが有つたのかも知れない。ともかくも斯ういふ飛び／＼の所領こそは、分家を立てるのに最も適したる?態と謂つてよかつた。わざ／＼本家から代官を下して、支配させるといふことも不可能では無いが、監督にも骨が折れる、收入を取寄せようとしでも運送に費えてしまふ。ちやうど幸ひ弟なり次男なり、別に一家を立てさせたいと思つて居た者に、それだけを分けて遣らうといふことになるのは自然であつた。この?態は江戸時代の大名領にまで續いて、伊豫の宇和島が仙臺の伊達家から、讃岐の高松が水戸の�ｺ川家から、分れて出たといふ類の話は可なり多かつたのみならず、百姓町人も亦やゝそれに似たことをして居る。最初二箇所以上の店や農場を掛持ちしたものは、大抵はさういふ意味の遺言をして死ぬ。或は始めからその心積りをもつて、仕事を別にして居る者さへ少なくなかつた。是等の長い間のしきたりを考へ合せて見ると、新たに家を立てるには必ず一定の基礎、養分とも名づくべきものを要したのである。あらゆる生物は、たゞ其養分の備はらぬ處に殘した種は育たぬといふだけなのに反し、人のみは之を意識し又計畫して、始めから之を分家の缺くべからざる條件として居たのである。さうして其條件の第一として算へられたものが、物を生産する土地であり、最初は殆と是たゞ一つであつたことも、私などから見れば少しも不思議で無い。

　日本の國語では中世以來、この家々に附いてゐる根本の財産をトクと呼んで居る。多分は所得｜得米《とくまい》などの得といふ漢語から出たものであらうが、其内容が幾分か「得る」といふよりも廣いので、いつ頃さうし始めたか現行の民法に至るまで、家督といふ文字を書いてその家々のトクを表示して居るが、どう考へて見ても督といふ漢字には意味が無い。或は福�ｺだの�ｺをするだの、御�ｺ用などゝいふ語さへ出來て居るので、その�ｺから出て居るのだらうとも思つて居る人があらうが、是とても漢語の�ｺとは大分心持がちがひ、言はゞ日本限りの一種の宛字に過ぎなかつた。そんな(21)ら世襲の財産をトク又は家督といふ以前、何と呼んで居たらうかといふことが問題になるが、是はまだ見付からないのだから多分無かつたものであらう。即ち新たに幾つもの家を分ける風が、京都ばかりか地方にも盛んになつた頃、つまりは大家族制のやゝ崩れ出した時代になつて、始めて斯ういふ一つの語が無くてはすまなくなつたものと思ふ。

　

　　　　　　　一一　家督の重要性

　

　但し便利だからやはり家督といふ文字を使つて、この話を進めることにしよう。現在は分家といふ名稱が、可なり廣範圍に用ゐられ、實際分れ出た家だからさう謂つて差支へ無いなどゝ、是もたゞ文字の面だけから、勝手にさう解するやうになつて居るが、本來は家督の附いて居るか居ないかによつて、そこに明らかな差別があり、しかも其家督が分けてもらつたものだつたら分家、さうで無くして第一世が、自分で稼いでこしらへたものだつたら別本家《べつほんけ》と、いふことになつて居たのではないかと思ふ。是に就ても亦身近に實例があり、且つさういふ例は此頃になつて相應に多くなつて居る。私の生家松岡氏では、今から六代前の主が貧しい醫者であつた。その妹に一人、近い村に片づいて不縁になつて歸つて來たのがあつて、是は里方の世話になつて亡くなつた。ところがそれには男の子があつて、母と共に引取られたけれども醫者にはならず、町の商家に奉公してよく働いて資産を作り、母の實家の村のしかもごく近所に家を建てゝ商ひを始めた。是が又中々のえら物で、一生の間に富を積み、男女四五人の子を皆分家させて、わざとかと思ふ程に自分の家を本家々々と言はせた。さうして未だ曾て伯父の松岡家を、本家とは呼ばなかつたのである。今考へて見れば是は當り前のことで、分けてもらつた家督などは三文も無かつたのだから、當時の思想としては分家であるべき道理が無かつたのである。時世の變り目、殊に町が大きくなり、職業が幾らでも生まれるやうな時代には、(22)當然に斯ういふ腕と脛とを以て、獨自に御先祖となり得た人が多く、それが今後は又一層數を加へて行かなければならぬのだが、しかも今日の考へ方又法律用語では、是をも分家といふ中に入れてしまつて、其間に何の區別をも認めようとはせぬのである。今日はどんな新しい所謂成功者でも、やはり目に見えぬ無形の家督、即ち氣性や健康の親讓り先祖の遺傳、さては一人前になるまでの養育教育を恩と感じて、五反一町の田を分けてもらつた者よりも、更に濃厚なる關係を保つて居る例は決して少なくない。それだけならば國の古來の慣行が、たゞ幾分か適用の範圍を擴張したに過ぎぬのだから結構なことなのだが、實際は是が我邦の分家の性質を一變する元になつて居る。家と家督との今までの繋がりは、事實において一面になほ殘り、しかも多數は既に遠く離れて住むのだから、寧ろ却つて一般の解放、即ち近くに固まつて住む本家分家の間柄までが、もつと冷淡であつてもよいといふやうな考へ方に、かぶれて行く者が多くなつて居るのである。私などの考へて居ることは、先祖に對するやさしい又懇ろな態度といふものが、もとは各自の先祖になるといふ心掛を基底として居た。子孫後裔を死後にも守護したい、家を永遠に取續くことが出來るやうに計畫して置きたいといふ念慮が、實は家督といふ制度には具現せられて居るのであつた。其點に思ひを致さぬ者の多くなる傾きが有るのは氣がかりである。國の經濟の組織が發逢して來れば、家督は勿論土地で無くともよい。?々滅失の危險にさらされる有形の財産よりも、寧ろかほど迄に親密であつた先祖と子孫の者との間の交感を、出來るだけ具體的に知つて居る方が、どの位家の永續に役立つか知れない。それを無形の家督と呼ぶことは、今はまだ呑込みにくいかと思ふが、私が是から談つて見ようとして居るのは、主として其方面の隱れたる事實である。

　

　　　　　　　一二　家の傳統

　

　國民の多數を占める農民の間では、今でも家督といふ語をほゞ不動産と同じ意味に、解し又は用ゐて居る場合も無(23)いとは言へぬが、なほ正確にいふと二者は全く同じでは無く、何か物以外の無形の或るものを、取添へて相續するといふ感じだけは持つて居る。それを簡明に言ひ現はす言葉はまだ生まれて居ないけれども、斯うして考へて行くうちには、やがて覺えやすい好い名前が出來ることゝ思ふ。商人の仲間では、暖簾といひ得意といひ信用といふものが、よほど具體的で評價も出來るものになつて居るのに、農家の中にはそれより一層根の深い何物かを心付きながら、言葉はたゞその端々の小さい表はれに對して出來て居るだけで、それを綜合したものが無いといふのは、國語がたゞ自然の發育に放任してあつた結果である。是から私たちは大いに考へて見なければならない。

　傳統といふ語を、今は假に使つて居るが、是は何だかたゞ受身の考へ方、又は解し方だけのやうな感じを與へる。こゝに謂ふ傳統はそれ以上に、身に附け實行に移し、働きかけ又は見せ示し、學ばせ覺えさせて次の代に傳へようとして居たものであり、或はさういふ外部に顯はれたものからでも、耳と目とによつて存在をたしかめられるものであつた。是が私は多くの家督といふものゝ、中心では無いまでも臺になり覆ひになつて、周邊を取圍んで居たやうに思ふのである。中世の名稱で諸道とも職人とも謂つたもの、即ち耕作以外の勤勞によつて、交換を以て衣食の料を得て居た人々には、術藝もしくは業務そのものに對する態度、之を社會に役立たせる方式等に、家督の中心を置くものが多く、從つて口傳家傳といふ特殊の教育法があつた。つまりは是が土地のやうな眼に見える財産の代りを爲したので、元手即ち資本といふものにさう大きな力をもたせなかつた頃の商賣なども、同じ系列に算へられて居たのである。それよりも重要であつたのは役人といふ階級、是も農民の目からは、田を作らずに暮し得る人々として、諸道の中の最も高いものといふ風に見えたかも知れぬ。ともかくも是に世襲の慣例が伴なふ限り、其地位は亦一つの立派な家督であつた。古くは官途の上層に在る者は領地を持ち、自身耕耘はせぬまでも、土地の收益に活きることだけは農民と同じであつたが、後々さういふ知行を取る者は少なく、扶持給禄を受ける者ばかり多くなつても、なほ且つ一つの地位職分を持つこと、たとへば役人となり學者となることによつて、完全に獨立した一つの家を、新立することが出來た(24)のである。さうしてそれには確かに單なる傳授以外に、之を承け繼ぎ來つた代々の意思ともいふべきものが添ひ、又それに對する子孫の理解ともいふべきものが伴なつて居た。家門は此意味に於て、年代を超越した縱の結合體であつた。

　

　　　　　　　一三　まきと親類と

　

　すこし話がくだ／＼しかつたから、簡單にもう一度言ひなほすと、分家には異地分家と異職分家とが先づ起り、是には事實上本家の統制が及ばなかつたから、僅かな世代の間に別本家として獨立することが出來た。その家々の初代が自分の苦心經營を以て、家督を築き上げたものはなほ更のことである。之に對して同地同業の間に於て、大小によらず本家の家督を割いて、新たに家を立てるといふことは後に生まれた風習である。突き詰めて言へば大家族制の解體の過程とも見られる。もちろんそれを可能にするだけの條件は具はつて居たので、その一半は外部の經濟組織の革新だが、それに付け加へて之を斷行した家長の智慮才覺、及び少なからぬ苦心と努力とがあつた。分家といひ財産を分けるといふ言葉の、盛んに用ゐられるやうになつたのは、此制度が一般に認められるやうになつてから後のことだが、是にも實は二つの種類、もしくは少なくとも二つの傾向といふべきものが今でも有り、以前の部屋隱居に準じたものは孤立しにくゝ、本家を中心とした結合の必要であるに反して、他の一方の所謂異地異職の別家に御手本を採つたものは、何かといふと對立の勢ひを生じやすい。しかも現在はもうこの二つの成立事情のちがひを看過して、單なる文字の面に基いた概念によつて解決しようとするが故に、折々はめい／＼の注文が喰ひちがひ、先祖の計畫は阻止せられることが多く、どちらかといふと家の機能を發揮することが、雙方ともにやゝむつかしくなりかけて居るのである。やたらに危機といふやうな強い言葉を使つてはならぬが、少なくとも此方面の知識を今少し豐富にして置かな(25)いと、やがては困ることが出來はしないかと氣づかはれる。

　日本は昔から、決して小農の少ない國では無かつた。家に子供が多く生まれ一族が繁延して行くといふことも、半ばは偶然の仕合せで、各自の思ひのまゝにはならない。さういふ身内の少なく力の弱い人々が、行く先を氣づかつて互ひに助け合はうとするのは當然のことであり、爲政者も亦それを要望し勸誘して居た。甲信地方などで、折々耳にする合地《あひぢ》とか地類とかいふ家々の中には、血を分けた親類で無い者が、申し合せによつて團結して居たといふものも折々はあり、また關東では村身内《むらみうち》などゝ謂つて、同族の少ない者が他家と約束して、親類の附合ひをして居る風も稀ではないが、大體に於て先づ互ひに援助をしようといふのは古い親類であつた。民法に謂ふ所の親族の範圍には入らず、どういふ續き合ひになるのか當人たちも、はつきりとは知らぬといふ程の古い親類でも、なほいつ迄も同姓の誼みを棄てず、何か事が有れば招き招かれ又は尋ねて來るといふ例は今も稀で無いのみか、さういふのを寧ろ重親類《おもしんるゐ》と呼び、大切にして居るといふ話も毎度聽く。殊に御先祖の出た家といふことは、固い人たちのよく口にする言葉で、遠くに離れて居てもさういふ家へは必ず此方から義理をして居た。以前國々の所領に別れて住んで居た同族なども、たとへ血は薄く姻戚はすべて互ひに知らぬ者ばかりでも、なほ永く存問を絶たず、助けを求められゝば快く之に應じたのみか、又わざ／＼方法を設けて新たに血の繋がりを濃くしようとして居たのである。將來國民の海外進出が盛んになると共に、この第一段の同族聯合は、改良せられ又強化せられる必要のあることは言を須《ま》たぬ。それには又現在出發の第一歩に在る人たちが、今から考究して置くべきことの多いのも確かだが、他の一方に於て、同じ一つの村の中に住み、曾て一つの家督であつたものを分け合つて、久しく共同の生活を續けて居た家々の結合は又別なもので無ければならぬ。一方はたゞ單なる家一つの問題に過ぎなかつたに對して、この方は利害得失の論を超えて、ともかくも是が社會の全部であり、之を合せたものが同時に村の生活でもあつて、是が省みられなくなるといふことは、やがては公共團體の變貌改組にもなつてしまふからである。時はやゝ遲れその改變はすでに始まつて居るやうだが、今は(26)まだ古いものが一部には殘つて居る。たゞ單なる歴史としても、我々は之を明らかにせずには居られぬのである。

　

　　　　　　　一四　まきの結合力

　

　今日の實際からいふと、同じ一つの苗字を持つ家々は、大抵は或る地方に集まつて住んで居る。小林高橋田中佐藤といふ類の、最もよく知られて居る苗字でも、その分布には著しい片よりが有り、中には或る一つの地方より他には、無いといふ苗字も相應に多い。苗字を聽いて生まれ故郷を言ひ中てることは、私たちに取つてはさうむつかしいことで無いが、同じ苗字の二人に御親類かと尋ねて見ても、めつたにさうだといふ答へを得ることは無いものである。それほどにも同苗の家は多く、親類の數は限られて居たので、以前は親類だつたらしいが今は附合つて居ないとか、知つては居るがどういふ續き合ひか判らぬとか、又はちつとも關係が無いとかいふのが普通である。その親類の中には、現在は縁者即ち姻戚までを含めて居る。さういふ縁組によつて親しみを結んだものを除き、殘りの僅かなものが先づ大體に於て、私の言はうとする古くからの結合體であつた。精確にいふならば遠地に別れて住む先祖の出た家、その他特別の由緒が有つて附合ひを續けて居るものは、親類とは謂つても此中には算へられず、又血筋以外の縁故によつて、親類では無くても參加して居る者が若干は有るのだが、この二つの爲に結合體の本質は變化を受けて居ない。古い文書に一門といふのが是らしく、今では一家《いつけ》といふ語が最も廣く行はれて居るから、そのどちらかゞ多分標準語になるのであらう。西國の方では一統又は一類、或はヤウチともクルワとも言ふ名があつて、心持は皆よく似て居る。中部以東に於ては是をマキといふ人が多い。マキは内容に紛れが無く、又古い言葉かと思はれるので、私などは之を用ゐることにして居る。さうして便利の爲に卷といふ文字を使つて其話をする。

　卷《まき》には大卷と小卷と二段になつて居る地方もあるが、大の方はやゝ形式に流れて居る。生活力の今もなほ旺んなも(27)のは、どちらかといふと小さな卷の、それも中心の特にはつきりしたものゝ中に見出される。しかし本家の事務が其爲に特に煩瑣だといふ程では無く、現在はすでに干渉も依存も、よほど以前よりは控へ目になつて、家々は各自の生活設計を進めて居るのであるが、それでも若干の古い約束の爰《こゝ》だけに保存せられ、それを守らぬと義理を缺いた事になるものが、普通の隣保親近の社交以外に附加せられて居る。是を出來るだけ數多く又詳しく見て行くことが、おのづから卷といひ一家といふものゝ、今も存續しなければならぬ理由を覺らしめると私は思ふ。「先祖の話」に於て、自分のまづ考へて見ようとすることは二つ、その一つは毎年の年頭作法、次には先祖祭の日の集會慣習だが、兩者はもと同じ行事の、二つの側面を示すものでは無かつたらうか。まだ容易には然りと言へないだけに、研究者に取つては興味が深い。ともかくもこの間題の輪廓を明らかにして置くことが、同時に又我々の先祖たちが、「先祖」といふものに關して抱いて居た考へを知る道でもある。

　

　　　　　　　一五　めでたい日

　

　是は我邦民間年中行事の最も大きいもの、正月と盆との二つが、如何にして始まつたかといふ問題にもなる。この中でも盆の方は、今以て先祖を祭る爲ばかりに、存在するものといふことを人が承知して居るが、他の一方の正月は祝ふ日なのだから、又はめでたい日なのだからさうであるまいと思ふ人が多い。或は又一方は死人を取扱ふ寺の僧が干與し、こちらは三箇日を過ぎてしまふまで、法師には注連繩の下もくゞらせまいとするのだから、ちがふであらうと考へて居る者は多いやうだが、それは單に此頃はさうなつて居るといふだけで、最初からこの通りだつたか否かは、もつと詳しく事實を知つた上でないと速斷することが出來ない。盆でも最近の一年二年のうちに、不幸のあつた家は一部分で、暫く其樣な悲しい事にも出逢はず、二親が揃つて長生きをして居るやうな家々では目出たい日であつた。(28)現に田舍では、おめでたうと謂つて人が盆の禮に來て居る。祝ふといふ言葉は此頃では意味が少し變つて來たが、本來は身と心とを清くして、祭を營むに適した?態に居ることを謂つたものであつたことは、書物に現はれて居る古いこの語の用ゐ方を比べても判る。もとは齋ふといふ文字を書いて居て、神の御社の祭の用意も「いはひ」であつた。祭をする人々が行ひを慎しみ、穢れた忌はしいものに觸れず、心を靜かに和やかにして居るのが祝ひであり、その慎しみが完全に守られて居るのが、人にめでたいと言はれる?態でもあつた。だから盆にも正月と同じに、子供には泣くな喧嘩をするな、叱られるやうな惡戯をするなと誡めるだけで無く、親の有る者だけは今でもわざと魚類を食べて、精進の日で無いことを明らかにしようとして居る。正月とちがふのは一方が年の始めであるだけに、無事に又一年を重ねたといふ悦び、今年も同じやうに好い一年であれかしといふ望みが、特にこの際に於て強く感じられるといふ點で、それが又中世以來の福�ｺの追加増進といふやうな、慾の深い祈念にまでも展開したのであるが、なほ今でも御互ひの年頭辭令としては、御無事でと相變りませずとを言ひかはして居るのである。

　但しこの正月の祝言なるものが、今のやうに一般化して來たのは新しいことであつた。武家が元旦を參賀の式日と定めて、すべての配下の者の出頭を期したのも、本來は家々の祝ひを擴張しただけで、必ずしも朝廷の正朔の御儀禮に倣はうとしたのでは無からうが、それでも賑やかに集まつて來る方がよいから、なほ一年の殊にめでたい日を以て、家を異にした多くの從屬者の、忠誠を表示する機會としたものと思ふ。ケライといふ言葉なども、もとは京都では家禮と書く者が多かつた。即ち其家の人で無くても、正月その他の禮儀だけは、一家一門の人々と同じ作法を守るといふ意味だつたといふことである。さういふ禮儀が段々と擴張して、しまひには同僚知人、一二度出會つたといふほどの相手にまで、直ぐに謹賀新年の葉書を出すといふやうな、大戰前までの風習は普及したのである。いつの頃から斯うなつたといふ境目はまだ明らかで無いけれども、家門を異にした人々の間にまで、是が社交の大きな機會となつたのは、まさしく世の中の一つの變りであつて、もとは正月も盆と同じやうに、家へ先祖の靈の戻つて來る嬉しい再會(29)の日であつた。その事を私はやゝ詳しく話して見たいのである。

　

　　　　　　　一六　門明け・門開き

　

　農村でも村年始から名刺の交換會などゝ、近年は是が公人の資格のやうになつてしまつたが、一部には今なほ正月は内で祝ふもの、年始の訪問は三月一ばい、時には六月のむけの朔日《ついたち》までに、一度はする方が禮儀だといふ位なものであつて、少なくとも之を元日の行事とは認めない土地が多い。さうして一方には必ずこの日の早朝にしなければならぬことの中に、氏神社の社參と、本家への年頭禮があつたのである。

　四國の中央の山地のかなり廣い區域にわたつて、之をかど明けと名づけて、一家一統の嚴重な作法としてゐる村々が有る。同じ慣例は又他の地方でも聽くことで、或は誤つてカドワケとも謂ふ人があるのは、カドを門《もん》のことだと思つて居る爲らしいが、家の大戸の口も元はカドであつたことは、門松といふ語のあるのを見てもわかる。ともかくも是が私たちの謂ふ一卷《ひとまき》の中に於て、いつの頃からか行はれて居る正月元旦の禮儀であつた。この日の早朝、恐らくはまだ日の出前に、分家の全部もしくはその中の主な家の主人が、本家へ遣つて來て表の戸を開くのは、彼等の心持では初春の神を迎へ請ずるといふ意味であつたらう。現在は之に對して本家の主人が、後刻その分家の門を明けに行く例も有るやうだが、是は兩家の交際を七分三分にしようといふ趣旨の改良かと思はれる。そんなに遲くまで門をしめて待つて居る家は無いだらうから、事實はたゞ祝ひ酒を酌みかはすだけになつて、愈々門あけといふ言葉が不明に歸するのであつた。

　信州上伊那あたりの門びらきの少しちがつて居るのは、この際分家の主人が注連繩を持參して、それを本家の神棚に張り渡すことだといふが、それがもし古くからの仕來りの殘りだとすれば、もとはこの作法はもう少し込入つて居(30)て、時間のかゝるものだつたのかも知れない。注連や拜み松などの正月飾りは、二三日前から支度に取掛り、殊に一夜松と稱して大晦日になつてから飾ることを、嫌ふ風さへもそちこちに見られる。それは或は新しく言ひ出したことかとも思ふが、とにかくに正月樣の家々に到着せられるのは、元日の朝ではちと遲過ぎたのであつた。是は一年の境目と見るべき一日の始まりが、今の時計の何時であつたかといふ、興味ある問題と關聯するのだが、この點は故南方熊楠氏をはじめ多くの學者の研究によつて、もう大よそは明白になつて居る。即ち我々日本人の一晝夜は、もとは夜晝といふ順序になつて居て、朝の日の出に始まるのでは無く、眞夜中の零時を起點とするのでは尚更無く、今いふ前日の日没時、いはゆる夕日のくだちを以て境として居たことは、まだ幾つもの證據、たとへば漢語で昨晩といふのを、我邦の口語ではユフベといひ、却つて一昨晩をキノフノバンと謂ふ人が多かつたのでも判る。だから一年の境の年越の御節といふのも、支那では除夜といふ晩の夕飯時のことで、この刻限に神棚に御燈明を上げ、最も念の入つた御膳と神酒とを備へて、其前に一家總員が居竝んで、本式の食事をしたのである。町では夜半まで掛取りが歩きまはり、一夜明けてからやつと正月になるやうにいふ者が多くなつたが、そんなら何故に前晩に年越の祝ひをすますかを、説明することは不可能であつた。もとはこの一夜を年の夜と稱して、神の御社の祭の夜と同じやうに、家々では夜どほし起き明かして、嚴重な年籠りを守つて居たのであつた。是から考へて見ると、注連繩を元日の朝になつて、張りに來るといふのも訝かしいが、門の戸を外から明けに來るといふのも亦少々變である。察するところ本來はこの年越の夜の祭から、分家も必ず本家に來て其式に參加し、夜が明けいよ／＼物忌の滯り無く終つた時に、立つて晴れ／”＼と表の大戸を開くのを、この人々の役目として居たのが、後にめい／＼の部屋に於て、各自の祝ひ事をすませてから、出て來ることに變つたものであらう。

　

(31)　　　　　　　一七　卷うち年始の起原

　

　卷に屬する家々が、次第に獨立性を帶びて來る過程として、是と併行する變遷はなほ色々の點にも認められるのだが、其話に入つて行く前に、今少し正月の慣例を見て置かねばならぬ。戸あけ・門あけ・門開きなどの名は無くとも、いはゆる卷うち年始だけは、是非とも元日の朝のうちに勤めるといふ土地は多い。さういふ物固い家々に限つて、大抵は其前日の夕方又は夜に入つて、歳末の禮と謂つて一まきの家々を廻り、又は少なくとも本家だけには顔を出すことにして居る。それと翌元朝のいはゆる年頭の禮とは、をかしい程時間が接近して居るのである。もしも年の夜は起きて年籠りをする習はしが守られて居たならば、其まゝ留まつて語り明かしてもよささうに思はれるのだが、今日では成るべく遲くまで寢ないやうにするといふ程度、又は主婦と嫁娘だけが色々支度があつて睡らずに居るといふ位に改まつてしまつたので、禮者も一旦は引揚げて又出なほして來ることになつたのである。

　それから正月には注連繩や門の松以外にも、祭具や食器その他の新調すべきものが多く、以前は年の市に出て買ふといふことがなかつたので、之を取揃へることが中々大仕事であつた。それで餅搗きの手傳ひなどのやうに、舊家といふ中には暮の或る一日を定めて、一家うちの人々が集まつて來て、福箸や釜の棒、祝ひ木や別花の類をこしらへるのを、吉例とした話も殘つて居る。其後には勿論酒食が出るのだから、是も正月らしい樂しみな仕事であつた筈だが、實際働くのは出入りとか子方とかいふ小さな分家の者が多く、之を箸削りだの年奉公だのといふ古風な名で呼んで居るので、近く分れて出た新宅などの者は、此仲間に加はることをいやがつて、段々と各自別々の春用意をするやうになつて來た。しかしさういふ中でもなほ門松だけは、一番分家の主人が來て立てるとか、又は年男だけは一門の最もめでたい老人が勤めるとか、稀には古い仕來りを續けて居るものも有るのを見ると、もとは本家の祝ひ事の爲に、今(32)よりもずつと親密な協同が行はれて居たことが想像せられる。それをたゞ單なる一門の義務又は課役、或は本家の格式の承認とか支持とか解する傾きが現はれると、平和の間にも自然にこの慣行は弛まざるを得なかつたらうが、本來の目的は寧ろ各自の生活力を強健ならしむべく、進んで宗家の年々の祭典に參加して、先祖を共にする者の感銘を新たにするに在つたのである。ところが歴史として非常に重大なことは、この正月の儀禮の精神、又は意義ともいふべきものが、時と共に少しづゝ不明になつて來た。さうして一方には一般の社交が發達し、又分家にもそれ／”＼の有力なる先祖が祭られるやうになつて、自然の統一は幾分か弛まざるを得なかつたのである。しかし幸ひにして前々の仕來りが、形ばかりは斯うして保存せられて居るので、今ならばまだこの變化の跡が尋ねられるのである。

　

　　　　　　　一八　年の神は家の神

　

　そこで私たちの問題になるのは、先づ最初には正月に祭る神、本來本家が當然の中心となつて、この一年の始めの日に、祝ひかしづいて居た神はどういふ神であつたか。それを明らかにすることが順序であるが、是が又近世に入つてから、殊に外部の影響を受けて、色々と變化を重ねて居る點であつた。さういふ中でも正月はたゞ世を祝ひ身を祝うて、遊び樂しむ時であつて、別に神々を拜むことはせぬといふもの、是などは新しい家庭に少しは例があるかも知らぬが、全體から見ると其數はまだ決して多くない。大きな忙しい都會の中に住む人でも、元旦には早天に必ず社參をするといふ者があり、それも通例は氏神さま、又は産土の御社に詣でるのであつたが、汽車が自由な時代になつてからは、特に遠方の大きな御社に年籠りに行くことが流行し始めた。しかし正月早々から一家の主人が家を留守にするといふことは有り得ないことである。私たちの家などの慣例は、除夜から元日は公けの勤仕の外は家から出て行かない。さうして夜どほし起きて居るといふ忌籠りはもう無いが、其代りには年越の宵のおせちと、翌朝のいはゆる雜(33)煮を祝ふ時に兩度、神棚に燈明を上げ神酒と神饌を供へて、もとは其御前で一同が、はいお目出たうを交換したものであつた。さうして其神棚の神樣は、實は何樣であるかをはつきりと意識して居なかつたのである。たゞ年の暮には伊勢の御祓の札が配られ、又土地の氏神社からも御礼が渡り、それを神棚の中に納めることにして居るから、大方はこの大小兩處の神を拜むことになるのであらうと、漠然とさう思つて居ただけであつた。さういふいゝ加減なことは宜しくない。たしかに一國の宗廟を拜むものと心得よと、いつた樣な勸説は行はれて居るが、それは全く新しい大改良であつて、事實は少なくとも以前には無かつたことである。第一にさういふ尊い御しるしを、戸毎に配るといふことは、昔は勿論今でもまだ望まれないことなのである。しかしともかくも是に近い心持を以て、元朝に家の神を拜む人の數は、近頃になつて急に多くなつて來て居ることだけは爭はれず、又さうなつて然るべきだといふ説にも傾聽の値は有る。たゞ是が日本國民の、年を迎へる古來の慣習だつたといふ風に、思はせようとすることだけは間違つて居るのである。幾度かの考へ方の變化は有つたと思はれるが、まだ一度でも良き一國の大神が、正月家々に來り臨みたまふものと、信じて居たことは我々には無かつた。さうして一方には又我々の正月の神は、必ず祝ひ慎しむ者の家を、個々に訪れ來られるものと考へられて居たのである。

　

　　　　　　　一九　年棚と明きの方

　

　正月に家々を訪れて我々の祭を享けたまふ神樣は、もう大分の前から、どういふ方々かといふことが判然しなくなつて居て、國民の多數は是を年神さん又は歳�ｺ神、俗間ではもつと無造作に、正月樣とさへ呼び申して居た。神の御名は假に知つて居ても、それを口にしないのが日本人の慎しみであつて、たゞ神道の學者のみが之を憚らなかつた爲に、後になつて無理に押付けられたものも多いが、正月樣などはそれすらもまだ無かつた。農民たちの考へ方も誤つ(34)て居ないとは限らぬけれども、ともかくも日頃は遠い處にいます神であり、この年越の夕の祭を目あてに、遙々と訪ひ寄りたまふ御約束のあつたことは、今でも村の兒が暮に近くなると歌ひ出す、

　　　正月さまどうこまで

　　　何々山のしいたまで云々

といふ童詞からでも想像し得られる。??《ほき》と稱する陰陽道の説から出たと言はれて居るが、一つの特色は毎年この神の來られる方角が少しづゝ變ることで、誰がきめるのか知らないが、今でも毎年之を吉方《えはう》とも明きの方とも謂つて發表せられる。東北の田舍では、冬の最後の雷が鳴り納まつた方角が、次の新年の吉方だと謂つて居たことも有る。それだと一つの盆地毎に、吉方はぐる／＼と何處へでもまはつて行つた筈だが、此頃の東京あたりの吉方は、何だか毎年東によつた方角ばかりになつて居る。それを熱心に問ひ尋ねる人が多かつたのは、もとは決して惠方詣《ゑはうまゐ》りの必要ばかりからでは無かつたのである。

　或はまだ説明する必要も無いのか知れぬが、是には正月の特別の神棚を、どういふ風に釣るすかといふことが關係して居た。正月の家の祭のかはつて居る一點は、常設の神棚を使用しなかつたことである。さうして其棚は年棚又は年神棚、或はめでたく惠方棚とも名づけて、是非とも正月樣のやつて來られる明きの方を向けて、其棚を釣らなければならなかつた。江戸でも斯うするのが通例であつたことは、道中膝栗毛の作者十返舍一九の、次のやうな狂歌を見ただけでもわかる。

　　　正月はもう神田まで來にけらし筋かひにつる歳�ｺの棚

　乃ち正月樣どこまでの童謠は、江戸の小兒等も口ずさんで居たのである。筋かひといふのは今の萬世橋附近に在つた見附の名で、内外の神田を繋いで居た。それを年棚が毎年のやうに、斜めに釣り渡されて居たことに引掛けたしやれなのである。いはゆる凡帳面は壁や戸閾《としきゐ》と併行に物を並べることで、堅い家々では毎晩の行燈でさへも、筋かひに(35)置くのをひどく嫌つて居た。それが正月用の臨時の神棚に限つて、必ず吉方を向けるといふことは印象の深いものだつたに違ひない。さうして又簡單な装置でも無かつたのである。私の知つて居る東北の或る舊家では、廣間の屋根裏から樫の木の丸棒の、囘轉自在なものが下げてあつた。牛越にはそれへ年棚のしまつてあるのを取附けて、其年の明きの方に向く樣にして居たのである。しかし普通にはそれまでの用意は無い。大抵は程よい處に屋根裏から繩を下げて、それに板を渡し又は清淨な割木を竝べて、吉方を正面にこの棚を新設するので、棚には白幣を立て注連を張り、その四隅には若松の小枝などが結はへてあつた。鏡餅も毎日の御膳も皆この棚の上に供へ、常の神棚は正月には用ゐなかつたのである。

　

　　　　　　　二〇　神の御やしなひ

　

　但し何時の頃から始まつたかは知らぬが、是が國固有の定まつた作法で無いことだけは認められる。田舍の隅々には是よりももつと素朴な、更に自然に近い年神の祭壇を、設けて居る例が幾通りもあるからである。たとへば初春は臼を休めると稱して、それをうつむけに伏せて新しい藁の蓆を敷き、箕などを其上に置いて其中に飾り立てるものもある。或はこの爲に特に美しくこしらへた新米の俵を三俵又は五俵、内庭の正面とか大黒柱の根もと、もしくは廣間の常の神棚の下などに積み重ねて、其上で正月樣を祭るといふ家も多い。右の二つの場合には三階松五段松、大抵は新たに迎へて來た枝振りの好い大松を中心にして、是に白紙の幣を剪り掛け、又はホダレともカイダレともいふ削花を添へる。松を立てることは正月祭の特徴で、家によつては一つ／＼の小屋の口、井戸にも閑所《かんしよ》にも悉く之を飾るが、その中にはおのづから中心があり、殊に念入りな大きな一對を、立てる場所は大よそ定まつて居た。奧州も北の方に行くと拜み松と謂つて、常居《じやうゐ》即ち正式の爐の在る廣間の一隅、それも大戸を入つて直ぐに目に付くやうな、大黒柱の(36)まはりが多く、中には直接に此柱に結はへるものもある。さうで無ければ年神棚、もしくは臼や俵の祭壇の正面のものが見事であり、門松といふ名が今は普及して居るが、それも都會のやうに門前に進出したものよりも、家の表入口に軒近く立てたものを、特に立派にする場合も有るといふに過ぎない。

　いはゆる門松の由來に關する世諺問答以下の京都人の説明は、寧ろこの風俗の田舍武士と共に入つて來たもので、帝都固有の仕來りで無かつたことを暗示する。現に宮廷では今なほ是に重きを置いて居られぬのである。さうして一つの可なり重要な點が、書物で學問をする人からは見落されて居る。中部地方の農村には、今もまだ明確に傳はつて居る風習であるが、この主要なる正月の松飾りには、注連繩以外に意外なものが一つぶら下つて居た。信州などではそれをオヤス又はヤスノゴキと呼んで居る。新藁を曲げて拵へた簡略な藁製の皿又は壺で、即ち神に供物をさし上げる食器なのである。年男は年越の晩と三箇日、又六日十四日の夕祭などにも、必ず供物を持つてまはつて、この松の木の藁皿の中に少しづゝ上げる。是を御養《おやしな》ひと謂ふのを見ると、オヤスといふ語の語原は明らかである。是がたゞ一地方ばかりの珍しい民俗で無かつたことは、三重縣の南部海岸地方にも、伊豆の島々にも同じ物がまだ殘つて居り、又東京から遠くない三多摩の端々にも、百年ほど前までは少なくとも是があつて、ツボケ又はツボキと謂つたことが江戸人の隨筆にも出て居る。唯この方は何の爲に斯んなものを附けるのかを知らず、それを實地には使用して居なかつたらしいが、甲州信州等ではオヤスの實などゝ稱して、五月六月まで此中に凍つた米粒などを乾し貯へて置いて炒つて食べて居る。即ち餅や白い御飯の初穗では無しに、別に洗米を器に盛つて、それ／”＼のヤスの御器に供へてまはる者もあつたらしいのである。

　

(37)　　　　　　　二一　盆と正月との類似

　

　話は段々と枝を出して行くが、もう少しこの初春の松飾りのことを談るならば、是等の松の木は、農村では今なほ一般に「迎へ申す」と謂つて居る。大戰前までの大都會のやうに、決して川舟に山と積んで、河岸へはふり揚げて行くといふやうなもので無く、從つて又燃料の浪費などゝ非難せられるやうな、單なる趣味行爲と見るべきものでも無かつた。もとはこの松迎へを正月迎へとも謂つて、師走の十三日が其日となつて居たが、今から考へるとやゝ早過ぎる感じで、どうして松の内まで青々と保存させて居たかゞ私には判らない。近頃の松迎へは通例は二十八日、一日はおくれることがあつても晦日までは延ばさぬことにして居る。是も明きの方の山からといふ村が多く、又川下の方や自分の屋敷より低い處から迎へてはならぬといふ。山ではこの木と思ふものに神酒を供へ、新しい繩を持參して丁寧に背負うて來る慎しみだけは、年の若い年男たちも皆持つて居る。松は屋敷うちの最も清淨な場所に横にして置き、之を休ませると謂つて、此時も神酒を上げる家があつた。さうして愈々之を立てるに先だつて、程よいところから下を削り尖らせることを、お松樣の足を洗ふなどゝ謂つて居るのである。

　是等の多くの實例を竝べて見て、誰にも氣が付かずに居られないことは、盆棚盆迎へに關する數々の行事との對照であつて、今でこそ一方は佛事、こちらは清淨第一のめでたい儀式であるが、是だけの一致は無意識には起りさうに無い。殊に暦の頒布せられず、又讀む人も少なかつた農村の間では、以前は正月もやはり盆と丸半年を隔てた、春の初めの月の滿月の宵であつたことを考へると、この類似には一定の計畫があつたことを推測せずには居られない。勿論斷定を下すことはさし控へつゝ、なほ精細にこの二つの慣行を比較して行かねばならぬが、盆にも常設の持佛壇の他に、この日新たに棚をこしらへることは同じだが、先づ此方には吉方《えはう》といふ問題は無く、たゞ水の邊りとか門の脇(38)とか、軒先とか、外から訪れて來る靈の辿り付きやすい場所を選定するだけの心遣ひはある。それから今一つのちがひは松その他の緑の木の利用が無いことだが、其代りにはこちらは盆花採りと謂つて、山に登つて色々の季節の花を手折り、それをきまつて盆棚の飾りにして居るのである。其日は十一日といふ村が多いのは、あまりに早くからでは萎れてしまふ爲で、それと同一の目的からとも見られるのは、それから數日前に盆道作り、又は盆草苅りとも稱へて、山の高い處から里へ降りて來る小路を、きれいに掃除をして置く習はしである。暮の煤掃きに對しては一方に七月七日の井戸渫《ゐどさら》へ道具磨き等があり、爐に木を焚く家では又盆前の煤取りもして居た。それよりももつと大切なことは、正月の年頭禮と迎ひ合せて、盆には又盆禮とも盆義理ともいふ訪問が、卷《まき》の間ではねんごろに取交され、本家に對しては此點が殊に鄭重であつた。盆だから當然の話と考へられて居るかも知れぬが、活きた人たちに挨拶をする前に、先づ先祖棚に行つて御辭儀をして來るといふのが、固い年寄などの常の作法となつて居るのである。荒盆《あらぼん》新精靈《にひじやうろ》などといふ悲しみを分つ禮儀が、近代は殊に濃厚になつてゐる故に、さういふ方面のみが注意せられやすいが、十年二十年と何の不幸も無く、安らかに暮して居る家々はずつと多い。さういふ家どうしの往來を見て居ると、この正月と盆との類似は殊によく判るのである。靜かなよいお盆でござります。又は皆さんも御丈夫でおめでたうござりますといふ辭令は、新年と殆と異なる所が無く、又新年の方でも不吉のあつた家に對しては、別にそれに相應したかはつた作法があつたのである。

　

　　　　　　　二二　歳�ｺ神の御姿

　

　この比較を更に進めて行くには、今では年の終りの行事となつて居るミタマの飯の話をしなければならぬのだが、それはやゝ細かく盆の精靈の迎へ送りを、説いてから後の方が都合が好い。こゝで一通り明らかにして置きたいのは、(39)春の初めに明きの方から、我々の家を一つ／＼、訪れ寄りたまふ年の神の性質が、現在は甚だしく複雜になつて居て、人によつては是を我國の固有信仰の系統の外に在るものでゝもあるやうな、やゝ奇拔に過ぎた想像をして居るが、さういふ氣遣ひが無いといふ點である。もと／＼斯ういふことを考へ且つ守つて居るのは、學問や講義と最も縁の遠かつた、平凡通俗の人々が主であつて、しかも彼等のすることには地方や階級を超えた一致があり、又その切れ／”＼の仕來りや言ひ博への中には、新たに思ひ合さるゝ理由が幾つでも見つかつて來るのである。私の觀察にはまだ入透《いりとほ》らぬ部分が廣く、説明の十分に深切でないのは恥かしいが、とにかくに斯うして注意をして行くうちには、次第に判つて來さうだといふ望みだけは有る。それには先づ何よりも日本だけにしか無い事を、よその國もさうだらうと思つてしまつたり、當り前の事だと言つたりすることは止めなければならぬ。さうすれば自然によい疑問が承認せられて、それが人間の大きなさとりを、積み上げる礎《いしずゑ》ともなるにちがひない。

　春毎に來る我々の年の神を、商家では福の神、農家では又御田の神だと思つて居る人の多いのは、書物の知識からは解釋の出來ぬことだが、たとへ間違ひにしても何か隱れた原因のあることであらう。一つの想像は此神をねんごろに祭れば、家が安泰に富み榮え、殊に家督の田や畠が十分にその生産力を發揮するものと信じられ、且つその感應を各家が實驗して居たらしいことで、是ほど數多く又利害の必ずしも一致しない家々の爲に、一つ／＼の庇護支援を與へ得る神といへば、先祖の靈を外にしては、さう澤山はあり得なかつたらうと思ふ。新たな死者に對する追慕の情が濃かになり、囘向追慕の作法が繁くなると共に、祖靈を神と祭ることが段々に不可能になつて來た結果として、別に我國では神代卷研究者の力では、奈何ともすることの出來ない色々の神が、出現せられることになつたのかとも考へられる。神樣をそれ／”＼の御機能に據つて別立したまふものと見、且つ同時に地域の管轄を撤して、全國普遍の存在の如く認めることは、古代の國魂《くにたま》郡魂《こほりたま》の思想とも合はず、更に又近世の守護神信仰とも一致せぬから、是こそは佛教からの新たなる影響であつたかも知れないのである。

(40)　是に關しては、我々常人の幻覺といふものが好い參考になるのだが、その資料はまだ餘り集まつて居ない。歳�ｺ神といふ名稱は、吉方明きの方の思想と共に、以前博士と呼ばれて居た陰陽師等の説に由つたものに違ひないが、それにしては其歳�ｺ神の御姿までは、彼等は指示しようとしなかつたのである。明治の御代に入つて盛んに行はれた柱暦《はしらごよみ》の彩畫などには、よほど窮したと見えてこの歳�ｺさんを、辨才天女のやうな美しい女體に描いたものが多い。さうで無ければ惠比須大黒の二尊、是は夙くからの俗傳であつたらしく、木像に刻んで農家にもよく祭つて居り、又田の神を惠比須さまといふ處と、大黒さんだと思つて居る處とが有る。所謂七福神の取合せは奇拔に失するが、今でも正月の話題畫題として最も人望のあるわけは、或は斯ういふ處にも潜んで居るのかも知れぬ。ところが九州の方へ行くと、佐賀縣の田舍などでは、歳�ｺさんは福禄壽といふ、あの仙人見たやうな人のことだといひ、それで年神への供物は若い女に食べさせてはならぬ。もしもあの樣な長い禿頭の兒が生まれたら大變だからと、言ひ傳へて居るといふ話もある。是は必ずしも狹い地域だけの、新たな俗信でも無かつたと見えて、司馬江漢の西遊日記といふ百五十年ほど前の紀行にも、肥前平戸の島で歳�ｺ神と謂つて繪に描いて掛けて居るのは、七福神中の壽老人のことだとも話して居る。乃ち年神をめでたい老人の姿に、想像して居た者が爰にも有つたのである。

　暮に子供等が集まつて、正月樣どこまでと高く唱へて居た、その正月樣なども老人であつたらしく、彼等の歌言葉によつてその幻影がやゝ推察し得られるが、是はまだ其感じを覺えて居る者があることであらう。遠く離れた福島縣の海岸地帶では、その正月樣は十五日のとんど燒きの煙に乘つて、還つて行かれると言ひ傳へ、夕方その煙を透して西の方をぢつと視ると、ちやうど高砂の尉《じやう》と姥《うば》のやうな白髪の老二人が、髣髴として現はれるなどゝ謂つて居た。一方には九州のずつと南の方でも、除夜の年越の晩には年どん又は年ぢいさんといふ人が、好い子供には年玉の餅を持つて來てくれる。それを貫はぬと年を一つ重ねることが出來ぬといひ、信じはせぬまでも舶來のサンタクロウスと、全く同じ話をして居る家が多いさうだが、下甑《しもこしき》の島の或る古風な部落などは、人が頼まれてその年ぢいさんになつて、(41)籠を頭から被つて夜更に門の戸を叩き、子供にこの年の餅を持つて來る習はしさへあつた。家を富ましめ田畠を豐饒にする以上に、年を與へることまでが年神の力であつたとすれば、愈々以て此神のもとの地位は明らかである。さういふことまでを或る一つの家門の爲に、世話燒く神樣は他にあらうとも思はれない。さうして我々が之を白髪の翁嫗と想像したことも、亦決して不自然では無いと思ふ。盆に平和の家に還つて來る祖靈を、小兒等はやはりぢいさんばあさんと謂つて居た。是は此後に述べようとする靈融合の思想、即ち多くの先祖たちが一體となつて、子孫後裔を助け護らうとして居るといふ信仰を考へ合せると、子供に親しみを持たせる爲には、是より好い名は無いのであつた。さうして又我々の氏神樣も、もとは?々同じ老翁の御姿を以て、信ずる人々の幻覺に現はれて居られたのである。年神を我々の先祖であつたらうといふ私の想像は茲に根ざして居る。

　

　　　　　　　二三　先祖祭の觀念

　

　正月と盆との二つの祭が、昔は今よりも遙かに相近いものであつたことは、他にもまだ幾つかの事情を以て證明し得られると私は思つて居るのだが、是を現在の如く遠く引離してしまつた原因は、必ずしも佛道の教化ばかりでは無くて、一方には又神に對する國民の考へ方が、時代の進みと共に僅かづゝながら、狹く引締まつて來た爲もあるといふことを認めて置かなければならぬ。さうして話は此方が比較的簡單だから、先づ先祖祭といふことを説いて置いて、後にもう一度盆祭の話に返つて行くことにしよう。

　先祖といふ意味が人によつてやゝ區々であるやうに、先祖祭の名前も用法が隨分と廣く、端と端とのものを突合せて見ると、兩存し難いやうな場合も無しとしない。たとへば先祖の祭り方が足らぬといふこと、是などは普通に佛事供養を怠つて居ることゝ解せられて居た。家に病人が多く心配事が續き、又は毎夜の夢見が惡く氣にかゝる時などに、(42)自分でもふと心付くこともあるが、人からさう言はれたり又は占なひの表に現はれたりすることもある。親子兄弟の近い繋がりなら忘れるといふことも無く、又それを忘れる程の者なら何とも思はぬだらうが、それより遠い血縁で憶ひ出す折が少なく、ついうつかりと年囘忌日を過してしまふことは有り得る。さういふ場合にひどく是を氣にかけて、半ばは所謂潜在意識によつて、我と我身を苦しめる者が今もまだ多いのである。しかし何でも無い只の人に、七十年だ百年だといふやうな久しい法事を營むことは、佛法の教へにも無く、又日本の古い慣行でも無く、寺が僅かな檀家で支持せられるやうになつてから、後の事だといふのは本當であらう。昔高野の明遍僧正《みやうへんそうじやう》といふ高僧は、父の十三年忌の追善をしようといふ兄弟の勸めに、斷乎として反對したといふ有名な話がある。死んで五年も七年も六道の巷《ちまた》に流轉し、佛果を得ることもならぬやうに心得るのは、佛の御心にも背くことだといふのが理由で、彼等の信仰ではもう夙くのむかしに、淨土に往生して居なければならぬのであつた。盆の場合でも同じことだが、一方に念佛供養の功�ｺによつて、必ず極樂に行くといふことを請合つて置きながら、なほ毎年々々この世に戻つて來て、棚經を讀んでもらはぬと浮ばれぬやうに、思はせようとしたのは自信の無いことだつた。その矛盾を心付かぬほどの日本人ではなかつた筈であるが、是には大昔このかたの我々獨自の考へ方がまだ消えずにあつて、寧ろ毎年時を定めて、先祖は還つてござるものと信ずることが容易であつたらしいので、言はゞ此點はまだ佛教の感化では無かつたのである。

　私がこの本の中で力を入れて説きたいと思ふ一つの點は、日本人の死後の觀念、即ち靈は永久にこの國土のうちに留まつて、さう遠方へは行つてしまはないといふ信仰が、恐らくは世の始めから、少なくとも今日まで、可なり根強くまだ持ち續けられて居るといふことである。是が何れの外來宗教の教理とも、明白に喰ひ違つた重要な點であると思ふのだが、どういふ上手な説き方をしたものか、二つを突き合せてどちらが本當かといふやうな論爭は終に起らずに、たゞ何と無くそこを曙染《あけぼのぞめ》のやうにぼかして居た。そんなことをして置けば、こちらが押されるに極まつて居る。なぜかといふと向ふは筆豆の口達者であつて、書いたものが幾らでも殘つて人に讀まれ、こちらは只觀念であり古く(43)からの常識であつて、もとは證據などの少しでも要求せられないことだつたからである。しかも斯樣な不利な?態に在りながら、なほ今日でもこの考へ方が傳はつて居るとすると、是が暗々裡に國民の生活活動の上に働いて、歴史を今有るやうに作り上げた力は、相應に大きなものと見なければならない。先祖がいつ迄もこの國の中に、留まつて去らないものと見るか、又は追々に經や念佛の效果が現はれて、遠く十萬億土の彼方へ往つてしまふかによつて、先祖祭の目途と方式は違はずには居られない。さうして其相違は確かに現はれで居るのだけれども、なほ古くからの習はしが正月にも盆にも、その他幾つと無く無意識に保存せられて居るのである。

　

　　　　　　　二四　先祖祭の期日

　

　先祖祭といふ言葉の今でも用ゐられるのは、舊家を中心としたまきの年中行事の、それも正月と盆とを除いた別の日のものが一ばん多いやうである。是は各家共同の遠祖の記念に據つて、團結を強固にしようといふ趣旨が明らかであつて、事實その先祖の一人の遺志であつた場合も多いことゝ思はれるが、それを續けて行く爲には、今日の佛教信者たちの答へられない問題、或は考へて見ることも出來ない問題が二つ以上有る。さうして是が又私たちの新なる着眼點でもあるのだから、次にはそれをやゝ詳しく説いて見よう。

　段々進んで行くうちには、他にも大きな疑問が頭を出すかも知れぬが、先づ最初にはその先祖祭をいつにきめるかといふこと是が一つ、第二にはその先祖を、どういふ風にして祭るかといふことを考へた筈であるが、此方は暫く後まはしにして置く。法事又は年囘といふ佛式の祭は、人も知る通り甚だしく個人的のものであつた。それで第一に死亡の日がもうわからない人の法事には困る。次には五年や三年のちがひは構はずに、古い年囘は一つに集めて、大きく執り行はうとするのが普通であるが、さて其日を誰の忌辰に依つてよろしいか、迷ふ場合も時々出て來る。二十代(44)近くも續いて居るやうな舊家では、この注意が既に容易な業では無かつた。勿論御寺の方にはちやんと過去帳があり、又年繰りの帳面も出來て居て注意をしてくれる。家にも先祖棚には家限りの小さな忌日表のやうなものがあつて、朝々それを繰りひろげて、「其日のほとけさま」の戒名を口に唱へつゝ、鉦を鳴らすといふやうな人もあるが、是は簡略に流れやすく、又一家一門の合同の勤仕にはならない。主婦の役目としては、大抵は大切な日といふのが有つてそれを記憶し、その日の朝は別して懇ろな佛供を上げ、昔は又精進もして居たが、それは多くは中興の祖、もしくは特別に家の爲に働いた主翁一人の日に限られ、その他はどうしても順ぐりに、忘れられて行く傾きがあつたのである。先祖の祭りやうが足らぬと言はれてぎくりとするやうな者が、却つて斯ういふ人たちの中に多かつたのも、考へて見ると氣の毒な話であつた。つまりは家が舊くなり祭らねばならぬ靈が多くなつて來ると、次第に出來なくなることを強ひられて居たわけである。

　家が永續して先祖の靈が増加して行くと共に、段々に粗末になるかも知れぬ虞れのある祭り方、又は年と共に追善が間遠になつて、末には忘れたり思ひ出さぬやうになつたりする年忌といふものが、もしも佛法の本からの教へでも何でも無く、日本に入つて來て後に在來の慣行を認めて、それと折合ひを付けて斯うきめたものだとしたら、それは遺憾ながら改惡と評してもよいものであつた。折角我々の間にはいつ迄も先祖を思慕し、年々缺かさずに子孫が寄り集まつて、一定の期間生活を共にするといふ良い風習があつたものを、なまじひに或る少數の個人の記念に力を注いだばかりに、却つて他の多くのものを粗略にする結果になつた。それも八幡太郎とか鎌倉權五郎とか、歴史に傑出した人を共同の祖と仰ぐならばまだよいが、我々の多くの先祖は、名を覺えて居た所でなほ無名であり、又大抵は一代置きに、同じ通稱で通つて居て、家の者でさへよく間違へる。それで勢ひ親か祖父母か、自分が幽かにでも知つて居る人たちに偏して、先祖に對する情愛は次第に薄く、盆の祭はたゞ法事の附録の如く、近頃死に別れた者のある家だけの、悲しい行事のやうになつて來たのである。それも時世だと、言つてしまへないやうな感じが私にはする。少な(45)くとも以前はさうで無かつた。もしも昔も今日のやうであつたら、家もこの通りは永續せず、又その永續の爲に大いに働く人も出て來なかつたらう。此點だけは明らかにして置く必要が確かに有ると私は思ふ。

　

　　　　　　　二五　先祖正月

　

　家で先祖の靈を一人々々、その何十年目かの年忌毎に祭るといふことは、如何にも鄭重なやうに見えて、其實は行き屆かぬことであつた。家が舊くなり亡者の數が多くなると、短い生涯の主人などは時々は無視せられることがある。ましてや子も無く分家もせぬうちに、世を去つた兄弟の如きは、どんなに働いて家の爲又國の爲に盡して居ても、大抵はいはゆる無縁樣《むえんさま》になつてしまふのであつた。それを歎かはしく思つた爲でもあるまいが、以前の日本人の先祖に對する考へ方は、幸ひにしてさういふ差別待遇はせずに、人は亡くなつて或る年限を過ぎると、それから後は御先祖さま、又はみたま樣といふ一つの尊い靈體に、融け込んでしまふものとして居たやうである。是は神樣にも人格を説かうとする今日の人には解しにくいことであり、又幾らでも議論になる點であらうが、少なくとも曾てさういふ事實が有つたことだけは、私にはほゞ證明し得られる。先づ第一に卷《まき》の本家、即ち一門の中心に於て營まれる毎年の先祖祭はそれであつて、爰では先祖とは誰かと尋ねられても、奉仕者自らが答へ得ぬ場合が多いのであつた。

　この共同の先祖祭の祭日に、如何なる日を用ゐて居るかといふことは、是からも詳しく調べて見る價値がある。古くは時正《じしやう》とも呼ばれた春分秋分の兩日、それを中日にした前後七日間に、誰のといふことも無く一家の墓所を拜みに行く風習の如きは、進んだ暦の知識を前提として居るから、或は支那から入つて來たのかも知らぬが、ともかくも是を彼岸會の日としたのは、佛法の經文には何の所依も無いことださうである。ちやうど季節といひ農作の關係といひ、最もこの祭をするのに適はしい時であるのみならず、今は朝廷でもこの民間の慣例を御認めなされて、之を總國の祭(46)日となされたのは、我々にとつては譬へやうも無い心強さである。現在のところでは佛教と獨立して、之を先祖の還つて來る日として居るのは、私の知る限りでは秋田縣北部の農村くらゐなもので、彼地方では春の彼岸の日に、盆とよく似た迎へ送りの火を焚いて居るが、もとは日本の今一段と廣い區域に亙つて、この日を重要な節日として居たらしい痕跡は有る。この春分秋分の日と確定したことは、或は後の知識であつたとしても、大よそこの頃を以て先祖祭の季節としただけは古いのかも知れない。

　それを考へて見るには稍々まはりくどいけれども、やはり今日の正月の後先に於て、先祖の祭をして居る各地の實例を竝べて見る必要がある。さういふ中でも珍しい一つと謂つてよいのは、鹿兒島縣の南の海、薩摩の沖から奄美大島の北端にかけて、點々と棊布して居る今日の十島村、もとは七島とも道の島とも呼ばれた島々の、いはゆる七島正月の慣習である。理由は何人もまだ説明して居らぬやうだが、爰では從來の内地の正月より一箇月早く、ほゞ太陽暦の新年の前後に大きな祭があるので、之を七島正月と稱して、人が不思議にして居た。七島各々のちがひは些しづゝ有るかと思ふが、寶島などでは舊暦の十一月二十八日から始まつて、同じく十二月六日迄がその特別の正月である。祭の中心の日は十二月の朔日で、この日の朝、村を同じくするすべての子孫が集まつて來て神を祭り、それに引續いて神と人との直會《なほらひ》があるといふから、明らかに是は先祖祭であつた。さうして同じ月の六日の午後、ちやうど六日の月の登る頃になつて、海の方へ還つて行かれるといふのは、私たちの盆と比べると少し滯在の日數が長いだけで、之を送り申す作法はよく似て居る。それからもう一つの類似の點は、通例之を先祖祭とは言はず、たゞ親玉祭の名を以て知られて居ることであつた。

　

(47)　　　　　　　二六　親神の社

　

　親玉といふ言葉は、今日は妙なところにしか用ゐて居ないので、ちょつと聽くとをかしな感じがするが、オヤは「遠つおや」などゝいふ古來の用ゐ方もあり、今でも廣い範圍に目上の人を親と呼んで居て、生みの親だけには限らぬのである。先祖は漢語だからそれの輸入せられるまでは、これもオヤとかオヤオヤとか謂つて居たらしく、さうして一方には盆の魂祭なども、略してさうは呼ばないだけで、實際は又その遠いオヤオヤの魂祭だつたのである。家の氏神をおや神といふ處もそちこちに有る。さうして佐渡の島の内海府《うちかいふ》地方の如きは、正月六日の晩を以て、その親神さんの年夜《としや》と稱して居るのであつた。話は少し横へそれるが、この正月六日の夕を年越といふ理由は、まだ明らかにせられて居ない。しかも翌朝が支那でいふ人日《じんじつ》、七日の節供で七種の粥を給はるからといふだけでは、解し得られないさま／”＼の習俗が、弘く全國に亙つてこの六日の年の夜に附いて居るのである。お湯殿の上の日記を拜見すると、宮中でももう五百年以上も前から、節分を別にしてなほ三度の御年越といふ日が認められ、それは大晦日と十五日との他に、この六日の夕祭がそれであつた。十五日の分はまだ由來がやゝ判つて居るが、六日年《むいかどし》だけは恐らく是を守つて居る人も、もう何故かを知らないであらう。或は是が元旦を新年とするやうになつて後の、特に年神を御祭りする日であつたのかも知れないが、又或は七島の正月のやうに、もとはこの日を以て神の御還りの日と見て居たのかとも考へられる。斯ういふ點が是からの研究の、一つの目標となるのである。

　ともかくも月の今いふ朔日《ついたち》を以て、一月の初めの日とする暦法が普及した後で無ければ、こゝに謂ふ所の七島正月も起り得なかつた。もしも滿月の圓い光によつて月を算へ、祭その他の大切な作業を計畫するやうな社會だつたら、晦日と朔日は最も目立たぬ日で、是を晴の祭の日に擇ぶ氣にはならなかつたらうと思ふ。乃ち七島正月は新しい文化(48)に順應した、一つの改良であつたかと想像する理由である。明治以降の太陽暦でも經驗したやうに、暦の改定は人心を一新する。又その統一の必要に基いて、幾つかの公けの行事が、その朔且の正月に集注せられようとする。先祖の祭は決して穢れでは無いにしても、少なくとも一門一家の私事であつて、しかもこま／”＼とした心遣ひと作法とがある。是を公けの行事と同じ日に行ふことは難儀だつたのみならず、幾分か又保守の感覺とも反するので、自然に正月を二つに分けようとする傾きを生じたことは、ちやうど最近の新舊暦の過渡期が、七十年近くもかゝつたのと同じだつたかと思ふ。さうして七島では家々の先祖祭だけを、特に表向きから引離して、暖い土地だから一月前にくり上げたものゝやうである。近頃耳にした話では大分縣の鶴見崎半島の一隅に、現在は先祖祭を舊暦の二月一日に營んで居る落浦《おちうら》といふ部落がある。いつの頃からさうして居るのか、尋ねて見る方法もあり、又附近に似た例も有るだらうと思ふが、是なども前と後との差はあつても、やはり公けの正月を囘避すべく、わざと一月をちがはせたものだつたかも知れぬ。民間傳承の會報の中に（九ノ四）、詳しい報告が載せられて居るが、爰では七つの舊家の合同を以て、やゝ複雜な儀式が守り續けられて居た。乃ち最初にその七軒株の墓所を拜み廻つて、其後で村の氏神社に集まつて群飲するので、是などは全く盆と正月との中間のものといふことが出來る。墓所が人を埋める穢れた場所で無かつた場合には、先祖祭の多くは、斯ういふ形を以て營まれて居たものと見てよいのである。

　

　　　　　　　二七　はとけの正月

　

　近畿地方の村里では、もとは正月の六日を神年越《かみとしこし》といふ者が多かつた。この神年越の神は年神のことで、即ち又家々の先祖であらうといふ私の説は、或はまだ同意せぬ人も少なくないだらうが、他のもう一つの年越即ち正月十五日の晩を、土地によつては又神の年越と謂ひ、或は佛の年越とも謂つて居たことを考へると、さう無理な想像で無いこ(49)とが判つて來ると思ふ。私などの生まれ在所では、正月十五日が神樣の正月であつたが、一方には又翌日の十六日を以て佛の正月とし、從つて其前の宵を佛の年越と呼ぶ處が、關西の方には非常に多く、この方は實際に先祖棚へ雜煮を供へ、又は初墓參りをして居るのである。但し以前の民間の新年が、いはゆる望《もち》の夜・望《もち》の日であつたことは、今なほ色々の痕跡によつて窺ひ知られるのだが、其目の繰り方が二通りになつて居て、たとへば奧羽は一般に、十四日の晩から十五日の朝へかけての一夜を年越にして居る。一日の境が日の入り時であつた昔の習はしを考へると、是は精確に望の正月とは謂へないのであつて、寧ろ一年の第一日は、今いふ十五日の夕から、十六日の晩までゝあつた。さうしてこの十六日は、今でも多くの土地の先祖祭の日なのである。東北地方の十四日年越などは、是も事によると正月をその先祖の祭日から引離す爲に、わざと一晝夜くり上げたものかも知れない。さういふ場合も有り得ることは、この次に話して見ようとする所謂みたまの飯の風習の、幾らとも知れない改定からでも、類推することが出來るのである。

　ともかくも正月の十六日を以て、先祖を拜む日として居る例は極めて多い。先づ南の方では七島よりは更に南、奄美群島の�ｺ之島などでも、先祖正月といふのはこの日のことで、先祖の墓の前に集まつて酒盛をする風がもとは有つた。九州の各地はどうなつて居ることか、私はまだ聽いて居ない。四國では�ｺ島愛媛の二縣などは、十二月の最後の巳午《みうま》の日に、墓で祭をして正月は墓に近づかぬ樣にするが、それは一年の間に死者のあつた家だけの行事で、久しく不幸の無い平和な一門は、やはり正月十六日に佛正月の墓參りをする。さうして同じ慣習は中國一帶に及び、中には十一日の鏡開きの餅を燒き又は雜煮にして、先祖棚に供へるといふ佛正月もあるのである。

　越後の東蒲原郡などでは、この十六日を又｜後生始《ごしやうはじ》めとも謂つて居る。成ほど先祖を祭るのも後生ごとには相違ないが、家が永續し子孫が長生して、遠い親々を訪らふといふのは、不吉な事でも何でも無い。正月松の内には之を嫌つて、或は鉦起しだの念佛の口あけだのと稱し、十六日からでないとこの祭をしなかつたのは、全く其式が餘りに佛教(50)くさく、新たに喪に入つた場合とあまりにもよく似た祭り方だつたからで、殊に故人の靈を何の理由も無く、ホトケなどゝ呼んで居たのが惡かつたのである。いはゆる神葬式によつて祭をして居る家々で無くとも、死んで「ほとけ」などゝ呼ばれることを、迷惑に思つた者は昔から多い筈である。日本人の志としては、たとへ肉體は朽ちて跡なくなつてしまはうとも、なほ此國土との縁は斷たず、毎年日を定めて子孫の家と行き通ひ、幼い者の段々に世に出て働く樣子を見たいと思つて居たらうのに、最後は成佛であり、出て來るのは心得ちがひでゝもあるかの如く、頻りに遠い處へ送り付けようとする態度を僧たちが示したのは、餘りにも一つの民族の感情に反した話であつた。それだから又言葉は何となつて居らうとも、其趣旨はまだちつとも徹底して居ないのである。

　

　　　　　　　二八　御齋日

　

　東京では江戸と謂つた昔から、盆と正月との十六日を御齋日《おさいにち》といふ名が普及して、この日は地獄の釜の蓋も開くなどゝいひ、お寺の閻魔さまを拜みに行く風習もまだ殘つて居る。京阪その他の大きな都會でも、同じ名稱はまだ存するらしいが、不幸にして此語の起りの非常に古いことに、心付いて居る人は少ないのである。齋日といふ漢語のもとになる日本語は「ときの日」である。恐らくは節とほゞ同じ意味の「時」であつたらうと思ふが、事實は一年中の最も重要な時、即ち祭を營むべき改まつた日を意味して居た故に、是に齋といふ漢字を當てたのは正しかつた。齋は物忌みであり穢れの無いことであつて、即ち此日の晴の御饌が、極度の謹慎を以て調製せられるといふことを示して居る。ときといふ語の上にはそれまでの心持は現はれて居ないのだが、たま／＼斯ういふ文字が當てゝあつた御蔭に、是に伴なふ前代の感覺が、大よそは窺ひ知られるのである。ところが一方にいつの頃からとも知れず、僧徒に供與する所謂｜齋飯《さいはん》を、ときの飯といふことが始まり、それから又一つ轉じて葬式や法事の日の膳を、おときといふのが標準語の(51)やうになつて來た。そんなことをすれば一般の節日、殊にめでたい祭の日の食事に、此語を使ふことを忌むやうになるのは當り前だが、それでも田舍にはまだ一年の大切な日を、とき日とも、ときせつとも謂ふ者が稀で無く、たとへば先祖祭の正月十六日なども、その「とき日」の最も主要なる一つであつた。

　三《さん》とき五節供の祭の日といふことを、今でも中國地方では口にする者が多い。三ときといふのは正五九月の三度の十六日、その中ではちやうど田植の盛りになる舊五月の十六日を重んじ、この日一日は田にも出ず馬も使はず、家に籠つて神に仕へ、特に白米を飯に炊いで、神人の相饗《あひあへ》をするのが普通であつた。もとは或は毎月の十六日、即ち滿月の翌朝に同じ祭があつたものか、今でも月々の此日を以て、墓に參る日とした習はしが、埼玉縣などには有るといふことだが、正五九月の四月目毎に一度づゝ、特に力を入れる祭月を設けたのも新しいことでは無かつた。正月十六日は中國地方に限らず、東北から越後へかけても弘く此日がとき日であり、祭に先だつて一日の斷食をする處もあれば、又はとき堅めと謂つて特別の食物を食べる處もある。六月十六日は嘉定《かじやう》又は「かつう」と稱して、夙く足利氏の頃から京都でも祝ひ日の一つであつた。其來由は全く不明と言つてよいが、是も食事を中心にした儀式だから、古くからの「ときの日」の一つであらう。九月十六日は恐らくは稻の收穫と關係があつて、一方の五月の田植初めと對立させたものと思ふが、この日を三ときの一つにして居るといふのみで、之に關する特殊の言ひ傳へが有るか否かを私は知らない。たつた一つ、此例に引くのも恐れ多いが、伊勢の兩宮で御齋《ごさい》又はお齋日と傳へて居たのが、外宮では九月十六日、その次の日が内宮の御齋日であつた。是はたとへやうも無く重要な類例であるが、どういふものか民間にはその説明をしたものが無く、たゞその四周の村や濱邊に於て、是に因みある色々の信仰と口碑が注意せられ、又國々の神明社に於て稀に九月十六日を以て祭日としたものがあるだけである。

　七月の十六日を時まつりの日とする例は、關東北部から會津方面の、山で働いて居る人々の間にも見られる。即ち正月と七月との十六日に、同じ嚴重な物忌を以て神供の餅を作り、定まつた宿に於て一夜を御籠《おこも》りに明かすのだが、(52)爰ではお天道樣を拜むといひ、從つて又祭神を天照大御神として居る。しかしともかくも是は神事であつて、佛教とは少しも關係が無かつた。江戸の所謂御齋日も多分は是と同じく、一年に兩度六ヶ月置きに、くり返されて居た神祭であつた故に、もとは是を時の日と謂つて居たのであらう。盆は殊に精靈送りの後に續くので、何か凶禮に近いもののやうに考へられがちだが、さういふ形跡は今でも實は見出されない。寧ろ反對に家を出て働いて居る若い者が、仕事を休んで親に逢ひに行く日、即ち生きて居る親の「みたま」と相對して、食物を共にする日であつた。盆も本來は明朗なる祝ひの「とき」であつたことは、この生見玉《いきみたま》の古い風習だけからでも、考へて行くことが出來るのである。

　

　　　　　　　二九　四月の先祖祭

　

　正月と盆とは春秋の彼岸と同樣に、古くは一年に二度の時祭《ときまつり》で、儀式も其趣旨も、雙方異なる所が無かつたらうと私は思つて居るのだが、それを承認してもらふにはもう少しはつきりと、我々國民の活き方と考へ方が、永い間には少しづゝ變り動いて居るといふことゝ、それにも拘らず古い頃にあつたものゝ痕跡が、殘つて差支への無い區域にはまだ殘つて居て、それを寄せ集め比べ合せて行くうちには、今は忘れて居る變化以前の?態を、思ひ出すことが出來るといふことゝを、説いて置く必要があるのである。それにはちやうど都合のよい材料が得にくいので困るのだが、最近に私は偶然の仕合せから、新しい一つの事實を學ぶことが出來た。それは前に擧げた色々の例の外に、別にもう一つの先祖祭の日といふものがあつたことで、それを教へてくれた人には禮を言はなくてはならぬ。

　越後村上の百武氏といふ一まきでは、毎年二度、四月の十五日と九月の二十三日とに先祖祭を擧行して居る。祭場は土地の鎭守羽黒神社の社殿で、是へまき中の戸主が全部集まつて來て、共同の先祖の他に、各戸の先祖も皆併せて祭ることになつて居る。現在は世話人が二人、毎囘順番に世話する定めで、之をかぐら番と謂つて居る。即ちもう他(53)の一門の祭のやうに、當然祭主に任ずべき中心の家は無いのかと思はれる。日頃は往來もせぬ同苗字の人たちまでが、集まつて來るといふから、此まきはいはゆる大まきの方であらう。こゝの先祖祭は又しんと祭とも呼ばれて居る。シントは佛式に依らぬといふ意味の神道祭らしいから、古くからの名稱では無く、從つてこの祭の期日も、或は新しくきめたものかも知れないが、それにしたところで何に據つてさういふ日を擇んだか。或はこの地方には他にも四月と九月とを先祖の祭日として居る前例が多いのでは無いか。折が有つたら其祭のこま／”＼とした式と共に、調べて見たいものと思つて居る。

　前にも言つたやうに、一族の先祖が三人や五人で無い爲に、誰の忌辰に據つて祭の日をきめるといふことも出來ぬ場合に、別に好い日を擇ぶ必要は有つたにしても、四月の十五日としたのには何かそれだけの動機が無くてはならぬ。たゞ一箇所か二箇所だけなら偶然にさうなつたとも見られようが、是と同じ例は信州の方にも數多く出て來たのである。信州では東筑摩郡の教育會で、ちやうど此事實の報告せられた頃に、郡内各村の「いはひでん」の調査を發表したが、是には又四月の十五日、又はその一週間前後の、四月の八日もしくは二十二日を以て祭日としたものが、目に立つほども多數にあつたのである。いはひでんは此地方一帶、伊那諏訪から甲州の西部にかけて、卷《まき》で祭つて居る共同の小社のことで、東北や九州南部でいふ一家氏神に該當する。或は又いはひ神《じん》ともいふ人があるのを見ると、先祖の靈を神にいはふといふ意味で、付けられた名であらうと私は考へて居る。それが年毎に一度、多くは四月の望の日の前後を以て祭られるのは、まさに下越後の例と一致して居るのである。私の想像はやゝ進み過ぎるかも知れぬが、年と稻作との關聯は日本では特に深い。以前公けの暦本のまだ隅々まで頒布せられなかつた時代には、民間では或は初夏の滿月の日を以て、年の始めと見て居たので、是も新年に先祖を祭つて居た古い慣行が、公けの正月と分離獨立して、保存せられて居る例では無いかといふのである。後に改めて説かうとする卯月八日、この日の山登りに亡くなつた人の靈を、迎へに行くといふ風習などが、幾分か又この想像を支持してくれるやうに思ふ。

　

(54)　　　　　　　三〇　田の神と山の神

　

　家の成立には、曾ては土地が唯一の基礎であつた時代がある。田地が家督であり家存續の要件であつて、その開發なり相傳なりから家の世代を算へ始め、必ずしも血筋の源を究めなかつたといふことは、古くは例外も無く、今とてもなほ兩者を不可分と感ずる者は農民の中には多い。先祖が後裔を愛護する念慮は、もとは其全力が一定の土地の中に、打込まれて居たと言つてもよかつた。考へて見なければならぬことは、數ある農作物の中でも、稻はたゞ一つの卓越した重要性、即ち君と神との供御に必ず之を奉るといふ精神上の意義をもつて居た一方に、その生産には人力以上のもの、水と日の光の惠みに頼るべき部面が大きかつた。田地を家の生存の爲に遺した人の靈は、更にその年々の效果に就て、誰よりも大きな關心をもち、大きな支援を與へようとするものと、解して居た人が多かつたのも自然の推理だつた。近世の神道研究からは全く排除せられ、外から新たに入つて來た信仰で無いことは明らかなるにも拘はらず、終始不問に付せられて居る御田の神、又は農神《のうがみ》とも作の神とも呼ばれて居る家毎の神が、或は正月の年の神と共に、祭る人々の先祖の靈であつたらうかと、私が想像する理由の一つは茲に在るのである。

　その想像の當る當らぬは、やがて決定せられる日が來るであらう。今は勿論どうかなと、危み疑ふ人があつて些しも差支へは無い。たゞこの問題と關係のある若干の事實に、耳を潰して居られては困るだけである。たとへばもう久しい前から、私たちの注意して居る一事、春は山の神が里に降つて田の神となり、秋の終りには又田から上つて、山に還つて山の神となるといふ言ひ傳へ、是はそれ一つとしては何でも無い雜説のやうであるが、日本全國北から南の端々まで、さういふ傳への無い處の方が少ないと言つてもよいほど、弘く行はれて居るといふのが大きな事實であつて、しかもそれにはまだ心付かぬ者が多い。我々の山の神は大山祇《おほやまつみ》、又は木花開耶姫神《このはなさくやひめのかみ》ときまつて居るやうに學者だ(55)けは言ふが、實際は祭る者が獵夫であり杣樵《そまきこり》であり、又海上を往來する船の者であるによつて、信仰も異なり神�ｺの表現もちがつて居たのである。同じ一つの山神を共同に拜んで居るといふのは、大抵は新しい御社であつて、それも亦別種の信仰に基いで居る。農民の山の神は一年の四分の一だけ山に御憩ひなされ、他の四分の三は農作の守護の爲に、里に出て田の中又は田のほとりに居られるのだから、實際は冬の間、山に留まりたまふ神といふに過ぎないのであつた。

　それ故に土地によつては又家に還つて來られるやうにもいひ、又は直接に高い大空から、家々に降りて來られるやうにもいひ、又或は一旦家に還つて祭を受けたまひ、それから昇つて行かれるやうに信じて居る者もあるのであるが、ともかくも一年に兩度、春は來り冬は還りたまふといふ一定の去來の日が有ることだけは一致して居て、それを多くの農村では山神祭、もしくは山の講の日などゝ謂ふのである。一つの特徴はこの去來の日が同じになつて居ることで、現在は舊二月と十一月との七日九日十二日等、色々の日が用ゐられて居るが、東北地方などは可なり弘い區域に亙つて、やはり「ときの日」の十六日を以て、農神又は御作神の昇り降りの日として居る。但し冬の方は十月が多いやうだが、春は舊二月の十六日の處と、三月の村とがある。この日は未明に起きて粢《しとぎ》の餅を搗くと、田の神はその臼の音を聽いて降り又は昇つて行かれる。それ故に搗く米が無ければ空臼でも鳴らさなければならぬと謂ふ家が少なくない。その餅は搗いて神樣に上げるものなのだから、是だけを見ても春の方の祭の爲に、言ひ始めたものだといふことがわかる。實際又田の神の御還り祭の方は、土地によつて式もやゝ區々になつて居るのである。我々の先祖の靈が、極樂などには往つてしまはずに、子孫が年々の祭祀を絶やさぬ限り、永くこの國土の最も閑寂なる處に靜遊し、時を定めて故郷の家に往來せられるといふ考へがもし有つたとしたら、その時期は初秋の稻の花の漸く咲かうとする季節よりも、寧ろ苗代の支度に取かゝらうとして、人の心の最も動搖する際が、特に其降臨の待ち望まれる時だつたのではあるまいか。さうしてそれが又新しい暦法の普及して後まで、なほ農村だけには新年の先祖祭を、能ふ限り持續しよう(56)とした理由でもあつたのでは無いか。盆を佛法の支配の下に置いて後まで、なほ田舍には年の暮の魂祭といふものが殘つて居た。今でもその痕跡以上のものが保存せられて居るのである。

　

　　　　　　　三一　暮の魂祭

　

　もとは明らかに新年の魂祭であつたのだが、是を歳の暮の行事の一つと思ふやうになつたのも近頃からの事では無い。誰でも記憶して居る徒然草の一節、

　　晦日《つごもり》の夜いたう暗きに、……亡き人の來る夜とて、魂祭るわざは此頃都には無きを、東《あづま》の方には猶することにてありしこそ哀れなりしか。

　是なども祭が元日の朝に先だつて、この夜のうちに行はれたことを語つて居るが、實際はその東國地方には、今でもまだ暮から正月松の内にかけて、祭をして居る例が少なくないのである。とにかくに京都だけは、もう兼好の頃にはこの慣習は無くなつて居た。さうしてそれから三百何十年か前には、

　　　亡き人の乘る夜と聞けど君も無し

といふ和泉式部の歌、

　　　魂祭る歳の終りになりにけり

といふ曾根好忠の歌などがあつたのだから、恐らくは既に其時代から、魂を迎へるのが年越の前であつたのみで無く、その祭も夜のうちにすましてしまつて、元朝の晴の儀式とは境目を立てゝ居たのであらう。風俗の變移は多くの人が想像して居るやうに、近世に入つて始めて現はれたものではないのである。

　それと同時に他の一方には、古い生活樣式も存外になほ久しく殘つて居る。たとへば、今から百二三十年前の、越(57)後風俗問?答の中には、暮の精靈は十二月晦日の午時に來て、正月元日の卯《う》の時に還つて行かれると、言つて居る村があるといふことを報じて居る。この滯在は長いとは言はれないが、卯の時といへば今の午前六時過ぎ、ちやうど家々で屠蘇雜煮を祝ふ刻限で、ともかくも祭は新春の行事の一部をなして居たのである。どうして卯の時と謂つたものかはまだ説明が出來ぬが、是と關係が有りさうに思はれることは、同じ越後のうちでも、又信州でも東京附近の農村でも、正月樣は正月最初の卯の日に還つて行かれるといふ言ひ傳へがある。卯の日が早く來れば、一日一斗づゝの飯米を喰ひ殘して行かれるから其年は食物が豐かであり、もしも元日が辰の日で卯の日が十二日になれば、十二膳食ひ拂ひで凶年の虞れが有るなどゝも言つたさうである。年の神の御逗留の少しでも短いことを、悦んだといふのは意外なやうであるが、私などから見ると、是は先祖祭を正月全體の儀式から、段々と切離さうとした傾向を示すもので、乃ち亦此神が本來は祖靈であつた、證據の一つに算へてもよいかと思ふ。前に話をした七島正月の例などを思ひ合せると、初めはやはり正月六日の夕方まで、大體七日ほどの間がいはひ日であつたのを、後に初卯の説などが起つて、年によつては伸縮するものと考へることが出來たらしい。最近の太陽暦の經驗でも明らかなやうに、新しい暦法は原則を指示するが主であつて、是と今までの慣行との、どう折合ふべきかまでには干渉しない。それで地方が思ひ／＼に、自分ばかりの變更をすることが許されて、或は月送りや日のくり替へ、又は無理を承知の追隨といふやうに、同じ一つの儀式作法が、次第に全國共通で無くなり、從つて固有の感覺を稀薄ならしめたのである。魂祭が即ち先祖の祭であつたことを、忘れた人の多くなつた原因もこゝに在ると思ふ。

　

　　　　　　　三二　先祖祭と水

　

　盆の魂祭の多事多端なのに比べると、暮から新年へかけての同じ行事は、ちよつと不思議なほども單純なものであ(58)る。この著しい相違の原因はどこに在るだらうか。勿論盆の方に新たな附加への有ることも考へられるが、それよりも重要なものは、古くからの魂祭作法の一部分は、差支への無い限りは之を一般の新年行事の中へ、織込んだかと思はれる形跡が可なり多いのである。其諸點は是から詳かにしなければならぬのだが、さういふ中でも人の輕く看過してしまひさうな一つを先づ擧げて置くと、墓の石に水を手向け、又盆の祖靈に飲料を頻りに進めることは、佛教の側の先輩たちが寧ろ不思議として居る。是は日本民族の一つの特色であつて、經典の中には確かな所依も無いといふことを明言した人さへある。之に反して我々の魂祭では、米と水との二つが缺くべからざる供物であつた。現在の風俗では茶湯《ちやたう》と稱して、縁先に焜爐《こんろ》などを持出し、湯を沸かし茶を煎じて、一日に何十囘も取替へて上げることにして居るが、それでも猶一方には大きな水鉢を靈前に置いて、始終供物の上に新鮮な井の水を濺ぎかける。盆の精靈さまはひどく渇いてござるからなどゝ謂ふ者もあるが、それだけでは説明し難いことは、水の米又は水の實《み》とも水の子とも稱して、其水の中に洗米を粒のまゝ、もしくは粉にしたものを必ず加へ、それに又茄子や瓜などの細かく刻んだのを添へてあることで、素朴極まるものながら、是はやはり食物として供へたのかと考へられる。東北地方のやうに盆の十四日十五日にも墓前祭をする處では、やはり其供物の中に必ず米の粉を水で解いたものが有つて、それを眞白に墓の上に注ぎかけるので、可なり目立つた光景を呈する。是をアラネコするといふのは洗《あら》ひ米《よね》から出た動詞らしく、アラレといふ方は寧ろ誤解に基く轉音かと思はれるが、餅を小さく切つて炒つたいはゆる霰餅も、別になほ一脈の共通點が有るのである。

　遠い先祖の靈を故土に繋ぎ付けるには、水と米との二つが最も有力な、且つ親しみの深い絆だつた爲かと私は考へて居る。米は素より家創立の計畫の中に入つて居るのだが、水の味といふことも日本人は鋭敏に之を味はひ分けて、旅に出て居ても始終之を問題にして居る。だから先祖の祭に水を侑《すゝ》めるのも、是があなたの産湯の日から、生涯飲んで居られた水でござるといふことが、大きな款待《もてなし》の一つになつて居たらしいのである。さうすると一方のいはゆる暮(59)の魂祭に、それを略してしまふといふことは無い筈なのに、どうして居たらうかといふことが疑ひの種になる。私の知つて居る限りに於ては、陸中東北隅の安家《あつか》といふ僻村に於てたゞ一つ、この祭の中心を爲す御靈《みたま》の飯といふ米の飯を、年男が元朝の未明に若水を汲んで來て、其水を以て炊いで供へるといふ例が有るだけで、その他の土地では、大抵は除夜の夜半前にこの祭を一應終るので、若水の沙汰は無いのである。しかもどういふわけでこの年の夜の明方の水を、若水と名づけて改めて汲むことになつたかといふことも、實はまだ解説せられては居らぬ。私は寧ろ年の神の祭を、元日の朝になつて始めるものゝやうに、誤解した人が多くなつてから後に、是と御靈の祭とを二つに區切つて考へようとした者が、斯ういふ境目を立てたのでは無いかと思ふ。ところが實際は年神の到着はもつと早く、少なくとも除夜の年取りの御節には、もうこの神をお祭り申して居る家が、今でも決して少なくは無いのである。從つてこの若水迎へに該當する儀式が、もし古くから有つたとすれば、それは松迎へも同樣に、すでに魂祭の時刻に先だつて行はれて居た筈なのである。

　

　　　　　　　三三　みたまの飯

　

　全體に暮の魂祭だけを、何とかして他の一般の正月行事から、引離さうとする意圖は窺ひ知ることが出來るが、それは何れも新たなる試みのやうであつて、たとへば陸中｜安家《あつか》の如きまだ開けない土地では、是と年神祭とは混同して一つに近くなつて居る。差別の目標としては年神には鏡餅のおそなへを、みたま樣には白米の飯を、さし上げるといふのが普通のやうに見られて居るが、是とても東北には例外が幾らも有り、殊に安家などは其みたまの飯を、桝に移し箕に載せ臼の上に置いて、箕のさきを明きの方に向けて、その方を拜むといふまでが年神の祭壇の通りであつた。中部地方に於ても長野縣の北部などには、このみたまの飯を盛つたみたまの鉢といふものを、年神さまに上げると謂(60)つて年棚の上に供へ、又は特に年棚の端の方に置くといふ家が稀で無く、或は之を床の間に飾つて居る舊家も、越後などにはある。

　しかし數の上からいふと、現在はこのみたまの飯は、所謂お佛壇の中に上げる例が最も多い。是が魂祭を以て正月の行事と視ることの、どうしても出來なくなつた明らかな理由であるが、しかも一方にはなほ前々からのしきたりの、何と無く保存せられて居る部分も有る。それを私はやゝ詳しく説いて見たいのである。今日最も普通と見られて居るのは、大晦日の晩もう年取の祝ひも濟んでから後に、別に白い飯を炊いてみたまの飯の用意をする。稀には年取肴に手を觸れる前に、まだ精進の手でこの握飯を作るといふ例もあるが、むすぴに握つて供へるのは東北六縣が主であつて、信州などは一般にこの飯を折敦《をしき》に紙を敷いた上へ、又は木の鉢にたゞうづ高く盛るだけである。江戸の近くでも八王子邊から甲州にかけて、もとはやはり鉢や盆にこの飯を盛つて供へたといふことが、立路隨筆などには見えて居るが、今日は恐らくもう廢してしまつたことであらう。ともかくもそれを御先祖さまに供へてから、いはゆるお佛壇の戸を閉ぢてしまつて、正月三箇日の間は明けずに置くといふことは、どの土地でも大よそ同じであつた。

　其樣なことをする位ならば、別に正月以外のめでたくない日に、くり上げ又は繰り延べたらよさゝうにも思はれるが、實際は是が又新年の式の一部をなして居たことは、この御供物の結末を見れば略々わかる。早い處では正月四日にみたまの飯を佛壇から下して、それをこの朝の正式食物たる雜炊の中に入れて食べる慣例もあるが、外南部の方では七日まで其まゝ置いて、之を七日の小豆粥に加へるもの、又｜鹿角《かづの》地方では七草の粥の中にまじへて煮る眞似をして後に、更に苞《つと》に入れて貯へて置いて、腹下しの病人がある時に粥にして食べさせるといふ者もある。青森縣も津輕の方の農村には、今でもみたまの飯は小正月、即ち十五日の晩の行事として居る家があかが、是はたゞ一夜だけ供へて置いて、翌十六日の朝の粥に入れる。さうして此粥は我々の十五日粥と同じに、初穗を神樣にも參らせる最も清い食物だつたのである。

　

(61)　　　　　　　三四　箸と握飯の形

　

　米の飯を毎日の食物として居る人たちに取つては、是は如何にも目に立たぬ特徴であらうが、實際は今でもさういふ習慣の無いやうな土地だけに、主として年越の夜のみたま祭は行はれて居るので、その印象は至つて深いのである。しかも必ず米を以て祭るといふことゝ、之をみたまの飯と呼ぶといふことゝの二つの點を除いては、是ほど數多い實例が集まつて居るにも拘らず、その全國的の一致は寧ろ少なく、殊に小さい部分での相違が著しい。是を竝べて見た人は私で無くとも、この祭式に中世以來の僅かづゝの變遷が有つたことを、認めずには居られまいと思ふ。それがどういふ風にちがつて居るかを知るには、勢ひやゝ細かな點に入つて行かねばならぬが、先づ第一にみたま樣の米の飯を、鉢又は折敷に盛り上げるものと、之を握飯に結ぶものと、二通りが有ることは前にも述べて置いた。是に又殆と家毎にと言つてもよい、個數と形?とのちがひが見られるのである。それからなほ一つ、是はあまり廣い區域で無いが、飯を少しづゝ取分けて、笹の葉などに包む例があり、其形はやゝ五月節供の卷餅や、田植の日の厚朴葉飯《ほほのはめし》などゝ似て居るのも、私だけは一つの暗示のやうに考へて居る。但し其點まで入ると問題が複雜になるから、後に序があつたら述べることにして今は觸れないが、其他のすべての場合に共通して、誰にも目に着くことは箸をこのみたまの飯に刺すことである。

　箸を食物の上に立てることは、通例は人の嫌つてせぬことで、殊に一本箸を立てるのは、死者の枕飯に限るやうに考へられ、小兒などがそれをしても嚴重に叱り戒められる。然るにこの所謂暮の魂祭だけには、わざ／＼箸を折つて鉢の飯に突き刺し、又握飯ならば一つに一本づゝ、箸を立てるといふ習はしが最も廣く行はれて居る。いつから斯ういふことが始まつたか、又最初から此通りであるのかゞ論點であるが、行ふ者は説明し得ず、又は考へて見ようとし(62)たことも無かつた。通例人の言ふのは結びの數は十二個、その年に閏《うるふ》が有れば十三こしらへて、それに一本づゝ箸を折つて刺すといふのだが、是は恐らく十二であつた爲に、月の數だと思つて閏年に十三としただけで、同じやうな例は又正月の幸ひ木の十二｜節《ふし》、もしくは新木《にひぎ》といふ木片の十二書きにも見られ、或は惡鬼をまごつかせんが爲に、わざと平年に十三月と書くなどゝいふ俗習さへも出來て居る。何故に毎年判りきつた月の數を、斯うして表示するかといふ理由も無いのみならず、少なくともみたまの握飯に於ては、家々によつて六つ又は五つ、九つ十四といふやうな仕來りも色々あつて、決して何處でも十二とは極まつて居らず、又鉢の盛飯に插す箸の數も、家の族員が各々一本づゝとして居る處もあるのである。

　私の想像では、飯を高く美しく盛り上げる趣旨は、是はあなたばかりの召し上りもの、即ち多くの者が是から分けて食べる、共同の食物ではありませぬといふことを、不言のうちに表示するに在り、この點は鏡餅が神か人か、ともかくも只目ざす一方の前にすゑられるのとよく似て居る。或はこの食物の中高に尖つた形が、人の精神の在り處、即ち心臓をかたどつたものではないかと考へて見たこともあるが、それは當つて居らぬとしても、古來斯ういふ心ざす所の有る食物は、大體に皆形態が相似て居る。箸を其中央に立てるといふことは、たとへ今日の感覺には殺風景であらうとも、尚且つさういふ目的を表示するには力が有る。それを只一本だけ立てるといふことも、箸がもと食事に先だつてめい／＼の自ら作り、人に利用させたりまじなはせたりせぬやうに、屋外では必ず折つて棄てられたものらしいことを考へると、或はもと今ある割箸も同樣に、食ふべき人をして自ら之を二つに折り、新たに作らしめようとしたものかとも見られる。たゞ問題となるのは其箸を數多くし、又幾つもの握飯をこしらへて、一つの器に載せ進めることであるが、是も私の今抱いて居る想像では、暮の魂祭に祭られるみたま樣を、たつた一柱と視ることが、段々と出來なくなつて來てからの改定であつて、十二は好い數だから、是を以て多數といふことを代表せしめたものかと思つて居る。

　

(63)　　　　　　　三五　みたま思想の變化

　

　何れにしても「みたま」に對する我々の考へ方の、世を經て少しづゝ移り動いて居ることだけは爭ふべくも無い。正月のみたまの飯が、本來決して不吉なものでなかつたことは、之を節目の食物にまじへて食べてしまひ、又は保存して六月朔日の齒固めに妙つて食べ、又は火除けや夏病のまじなひに供し、或は種物を播くときに之を一しよに撒けば、豐作を期し得られるといふやうな言ひ傳へが有るのを見てもわかる。信州北部などでは、みたまの鉢の箸を寢せる日といふのが、家によつて一定して居ない。早いのは正月の二日から三日四日、又松送りの日までとも、正月十六日までとも、午の日までともいふのがある他に、主人の年日に之を卸して、主人だけが其卸しを食べるといふ家も有る。東北の方でも總領息子か跡取娘だけに食べさせて、その他の兄弟姉妹には與へないといふ例がある。先祖に子孫を繋ぎ付ける紐帶として、是ほど具體的な又適切な方式は他には無い。それを初春毎にくり返すといふことは、永續する舊家の大きな悦びであつた筈なのに、それがいつと無く食物を上げたまゝで先祖棚の扉をしめきり、又は其供物の卸しを、たゞまじなひのやうに利用することになつて居るのは、明らかに大きな變遷であつて、しかも亦盆行事の佛教化の、反射作用としか解することは出來ぬのである。

　二つの極端の例を竝べて見れば、この變遷の跡は一層明らかになるであらう。秋田縣の鳥海山麓の或る村などは、ニタマの座といふものを神棚に設けてそれへ繭玉をつるし、十二箇の握飯を箕の中に竝べて、新しい杉箸を一本づゝ插し立てる。つまりは前に擧げた安家村の例も同樣に、是が年神の祭の代りになつて居るのである。岩手縣水澤町のみたまは佛壇に上げるのだが、特に其握飯を十二竝べて置く白紙の前面に、紅で三つの圓を描くのが習はしであつた。乃ち三玉といふ言葉からの思ひ付きであらうが、ともかくも紅はその儀式が凶禮でないことを明示して居る。さうし(64)て勿論家に喪の有る年の正月には行はぬことゝ思はれる。ところが他の一方には信州の一部、南安曇郡の大野川などでは、其年不幸のあつた家に限つて、年取の夜白い飯を山に盛り、其上に箸を五本立てる。それへ近所の人たちが見舞に來て、通夜《つや》のやうに夜話をする。又下伊那郡南端の大川内といふ村などでも、年内に死者のあつた家のみが初みたまと稱して、高盛の飯に何本も箸を刺したのを、年神の棚に供へる習はしがある。是をみたま祭と謂ひ又近親の集まつて來ることを、みたま參りと謂つて居るさうである。是等の土地でも先祖の祭が無かつたわけではあるまいが、既に新たに世を去つた人の靈の爲に、同じ祭をすることになり、又少しでも之を鄭重に營むやうになつて來れば、めでたい何事も無かつた家々では同じ樣な祭はせず、又は少なくとも同じ名を以て呼ぶことを、正月であるだけに、避けようとしたことは當然の話である。飯に何本かの箸を立て、又はそれを年神棚の上に供へることが、他の多くの土地のみたまの飯と一致して居るのを見ると、もとは同一の行事であつたことは疑はれない。果して昔からさういふ新たな喪の有る家までが、この暮から正月へかけての魂祭を行ひ得たものかどうか。私はそれは許されないことであつたらうと思つて居るのだが、まだ確言するだけの證據は捉へて居ない。しかし調べて見ようと思へばそれ／”＼の土地に就て、是からでも追々に確かめ得られることである。つまりは是も盆の魂祭と同じやうに、近い身うちの者を哀慕するの情が、喪の穢れを超克してしまつた一つの變化であつて、一方それがどうしても超克し得られなくて、却つて後退し始めたのが他の多くの土地の正月の魂祭だつたのである。現在はまだ其分裂の中途にある爲に、二つを比べて考へて見ることが出來る。時が今些し過ぎると此點は愈々判りにくゝ、又説明しにくいものになることゝ思ふ。

　

　　　　　　　三六　あら年とあら御魂

　

　喪《も》の穢れを忌み嫌ふ感覺は、最近の百年以來、殊に現代は著しく衰頽して居る。原因は單なる社交の進み、又は生(65)計の忙はしさといふ以上に、もう少し深い處に在るやうに私には考へられる。それが惡いとか已むを得ぬとかいふ問題を離れて、この變遷の跡だけは何としても明らかにして置かなければならぬ。是に伴なはれてもう確かに今が昔の通りで無いものが、一つは少なくとも我々の精神行動面に、現はれて居ることが判明するからで、もしも其差を無視すれば、或は誤つた復古主義に陷つてしまふかも知れないからである。記録に幾らでも證據が有るだけで無く、現在も古風な人々は、まだこの感覺をはつきりと持つて居る。近い身うちに死なれ且つ其死に觸れた者には、忽ちにして大きな生活上の拘束が發生する。第一に晴の行事、殊に祭や儀式に參加することを許されぬだけで無く、其障碍は極めて敏速に、是と交渉した第二第三の者にも傳播して、若干程度の差はあるが、彼等も亦君に奉仕し神を拜することの出來ぬ人々となるのであつた。それが公共生活の爲に忍び難い不便であつたことは言ふ迄も無い。何とかしてこの不便を避けようとして、色々の方策が夙くから講じられて居る。最初は喪屋《もや》といふものを造つて、喪に在る人の限りを其中に閉ぢ籠らせ、外部との往來を遮斷させた。さうなると其期間の食物燃料は得る途が無いから、當然に周圍から補給してやらねばならぬ。それで次には其期間を短縮し、又は有效なる祓除の手段が色々と考へられたが、それにも限度があつて、親を葬つた者に翌日から、除服出仕を許すといふわけにも行かなかつた。そこで第三には忌むべき場合の制限、是だけは必ず守るといふ嚴肅なる行事を列記して、次第に觸穢の慎しみをやかましくいふやうになつたのも、一つには其他の些々たる警戒を、大目に見ようといふ趣旨からであつた。民間では神詣で御社の祭、年中行事の中では正月の注連《しめ》の内を、殊に清淨な日として居たのは、遠い昔からの感覺の保存でもあつたらうが、なほ一方には此限定によつて、他の普通の日の交際を少しづゝ自由にした結果にはなつて居る。それが又いつと無く忌の拘束を一般に輕めて居るのである。しかし朝廷の公事には、この大小の區別は認められなかつたのが當然で、從つて御式の度毎に、出仕の出來ぬ者は多かつたのである。中世末期の御日記を見ると、七月十五日の宮中の御式には、特に兩親の揃つた臣下のみを召して、勤仕せしめたまふことが定まつた慣例となつて居た。民間でも今なほこの差別だけは認(66)めて、親の無い者は盆の間精進を保つに對して、片親の有る者は十四日だけ、二親ともに活きて居る人は十四十五の兩日、必ず魚類を食べさせるといふことにして居るのだが、しかもこの人たちの間には隔離は無く、平氣で共々に此日を暮し、共々に先祖の魂棚を拜んで居た。さういふ中には過去一年のうちに、肉親と死に別れた者も當然にまじつて居るのであつた。

　もとはさうした寂しい家の盆と、主人の二親までがなほ長命して、樂しく集まつて居る家の先祖祭とは、はつきりと二種別々の行事であつたらうが、佛法の教化が汎く及ぶと共に、追々に近い者の供養に力を入れることになつて、先祖の方はたゞその序を以て祭られるやうに考へられ始めたのである。しかし正月だけには流石に其樣な混同は起らなかつた。門に緑の松が立ち注連繩が張られると、もう喪の有る家の者は其下をくゞつては來ない。僧侶はそれ自身穢れては居らぬ場合にも、なほ正月は四日にならぬと、寺年始には遣つて來ない。さうして一方に其年内に不幸のあつた家へは、大抵は年取の祝ひ前に、あら年《どし》の見舞に行くのである。

　　本年は存じも寄りませぬあら年でお淋しうござります

とか、又は、

　　ことしは誠にお淋しいお年取でござんす

といふのが、其場合の挨拶の言葉で、世間はいそ／＼と樂しく春を迎へようとして居るのに、爰ばかり其間に往來することも出來ぬのを歎くのだが、同時に又その淋しさに附合ふことも無く、自分たちばかりで世の常の正月をすることを、惡く思ふなといふ心持も含んで居た。さうして又さういふめでたい家々でも、別に自分のみたま祭はして居るのであつた。魂祭にはもと二種あつて、盆は即ちその混同であつたことが、是でほゞ明らかになると思ふ。あら年のみたまは又「あらみたま」とも呼ばれて居る。盆には之をあらそんじよ、又はにひ精靈とも謂ふところから、新の意味にしか人は解して居ないが、起りは荒忌《あらいみ》であり又｜荒御靈《あらみたま》であつて、まだ和やかなる先祖祭にはふさはしからず、別(67)に特殊な方式を以て先づその死後の生活を落付かせる必要を認めて居たのである。佛法の末流には死穢を厭はぬ者が多く、又その供養も主として新しい死者に向けられて居たのだが、それにも拘らず年越の日の荒年の祭ばかりは、なほ佛法以外の習はしを保存して居た。古い世の姿は或はこの方面から、探り求められるのではないかと私は思ふ。

　

　　　　　　　三七　精靈とみたま

　

　盆と正月と兩度の魂祭が、各々一方に偏して發達するやうになつてから、我々の先祖たちは之を二つに區別する方に力を入れ、次第に共通の點を見落さうとする傾きを生じた。その中でも著しいのは新年には「みたま」と謂ひ、盆に限つてシャウロ又は精靈さんなどゝいふことで、この爲に追々と別ものゝやうになつて來たが、二つは元來が同じものゝ和語漢語であつた。�ｺ島縣などのやうに家の所謂ほとけ樣を、正月中だけはみたま樣といふのだと、ちやんと心得て居る人も少なくないのみならず、盆にも折々はまだみたまといふ語を用ゐる例がある。たとへば生盆《いきぼん》などゝ稱して、達者に暮して居る親たちの處へ、魚類その他の食物を持つて行つて進めることを生見玉《いきみたま》、是などは今も昔も變つて居ない。まさか活きて居る人に精靈ともいへまいから、わざとさういふのだと考へられぬことも無いが、人が亡くなつた新盆のことを、現にあらみたまの盆と呼ぶ土地も、つい東京から近い川越あたりには有る。私などの生まれ在所、播州の中部でも、盆の十五日には小豆飯をたいて、まん丸な結びに握つて芋の葉に載せて供へるのを、みたまと謂つて居たのはやはり亦みたまの飯の意であつた。同じ風習は丹後の舞鶴附近、又伊豆半島の南端の村にもあつて、たゞ後者では之をニタマと訛つて居るが、是にも一本の麻稈の箸を插したことは、正月のみたまの飯と同じである。まん丸な結びといふものは此頃はよく見かけるやうになつたが、もとは斯ういふ時だけに作つたものらしく、それでニタマは此形の握飯の名であるやうに、思つて居る地方が東北には有る。しかし何處でもまん丸に限るといふわけで(68)は無く、今ある三角結びの一端をやゝ尖らせたものもあつて、只幾分か常の日の晝餉《ひるげ》用のものと形をちがへ、且つ念入りに結んで居たことは皆同じであつた。

　精靈とみたまと、二つどちらが古いかは言はずとも判つて居る。それよりもどうして此樣な古い佳い國語が有るのに、すき好んで發音のかなり面倒な漢語なんかを採用したかゞ問題になるのだが、是には盆と正月の魂祭を、二つに分けて考へる必要といふ以外に、もつと小さな理由があつて斯んな新語を用ゐ始め、それが結局は二者の對立を招いたとも見られるのである。

　漢語の輸入が我々の言葉の意義を紛亂させる原因となつて居ることは、勿論是が最も甚だしい一例でもあるまいが、爰でもやはり言葉の變つて來た筋道を明らかにして置かぬと、死んで何處へ行くかといふ大切な問題を、考へて見ることが出來ぬのである。教育ある昔の日本人には、いはゆる男文字の必要が曾ては大きかつた。即ち手紙でも日記でも、すべて漢字で書かねばならぬ時代が久しく續いたのである。耳でよく聽く言葉でも、文字ではどう書くかを知るに苦しんで、よかれ惡しかれ今までの人の前例を追ひ、それを又字面に據つて後々は唱へ替へても居たのである。みたまは上代からの正しい日本語だが、不幸なことにはちやうど是に適當した漢字が無かつた。それで清輔の奧儀抄《あうぎせう》などにも、年の終りの魂祭を解説して、

　　下人はみたま祭とぞ申す。公家には荷前《のさき》の祭といふ

などゝ、口に此語を使ふ者を無教育者視して居るのである。しかも最初から、適當なる漢字が無かつたわけでは決して無い。日本書紀の中には、みたまといふ言葉が幾つも見え、それにはすべて御靈といふ文字が宛てられて居る。御靈は直譯であり恐らくは我邦での組合せであつた。その用法を見ると皇祖神祇の御靈、又は天皇の御靈とさへ記して居て、その範圍は汎く顯幽の二界に及んで居た。ところが誠に是非も無い事情によつて、後々この二文字をさうは一般に用ゐられなくなつたのである。國史を讀む者は誰でも記憶するだらうが、ちやうど山城の京の奠定せられた初期(69)に、帝都の急激な繁榮につれて、諸種の天變災害の頻々として起つたことがあつた。それを當時の人々は其前後の政變と結び付けて、若干の憤りを含んで横死した者の、靈となつて崇りをなすものと解して怖れをのゝいたのである。一方に或は新宗教の感化も無かつたとは言へない。ともかくも冤癘｜殃《わざはひ》を爲すといふ推定の下に、新たに大きな法會が執行はれて是を御靈會《ごりやうゑ》と謂ひ、後に神に齋《いは》うて之を八所の御靈などゝ唱へた。さうなると普通の最も平和なる先祖のみたまを、もう御靈とは書くことが出來なかつたのである。しかもこの新しい「御靈」の信仰は一時的のもので無く、それからも永く續いて今日に及んで居り、又さういふ怖ろしい御靈になる人も絶えなかつた。無筆な下人等の口にするのはよいとして、弘く一般に先祖を意味して居た「みたま」といふ古語には、それ以來もう適當な文字が無くなつたのである。

　

　　　　　　　三八　幽靈と亡魂

　

　みたまも最初のうちは漢字の音に由つて、ゴリヤウと呼んでよかつた時代が有つたのかと思ふが、何にせよ此樣な特殊の御靈が續出するやうでは、それとちつとも同じで無い多くのみたまを、さう謂つて居るわけに行かぬのは當り前で、こゝに二つの語は手を分つてしまつたのである。精靈といふ語の歴史も或は是に近く、もとは新しい御靈で無いもの、即ち尋常のみたまを表示する爲に、設けられた新語ではないかと思ふが、是も久しからずして異なる内容を持つに至つたのである。細かく記録に當つて見たのでは無いが、精靈はもとは聖靈と書くものが多かつたやうに思はれる。二つは同じで無いと説く人もありさうだが、耳で此語を知つた者には其説は通用せぬ。又性靈とも生靈とも勝手な字を使ふ人が有つたのを見ると、多分起りは皆一つで、最初は教法によつて導かるべき靈、もしくは世に仇する惡念から清まはつた靈をいふやうな心持で、聖靈といふ文字が先づ選ばれたのかも知れない。しかし石清水や北野の(70)大きな御社、又は大阪の天王寺などで、聖靈會と謂つて居るものが御靈會と近く、やはり災害を防ぐ方の祭なので、是も家々の先祖を言ひ表はす文字として、やゝ似付かぬやうに感じられて來たのである。精靈と書いて見たところで、元は一つであり、支那ではあまり見馴れぬ熟字であることも同じだが、精も靈もそれ／”＼に、我國のたまといふ語の感じを持つて居るので、其二つを合せて代用に供したものかと思はれる。文字に親しみの薄い女や子供は、夙くからこの新しい字音を大抵はまちがへて發音して居たらしく、それが方言になつて東北ではオソレァ、近畿地方にはソンジョといび、シャアラさんといふ人も多く、九州南部などはセロ樣とさへ謂つて居る。それほどにも言ひにくい一つの新語が、よくも此樣に汎く行はれたものだと驚くやうであるが、これも後々の盆の先祖祭が變化して來た結果で、もはや何としても「みたま」とは謂ひにくゝなつて居るのに、なほ日本人の生活に於て、是を何とか呼ばなければならぬ必要だけが、長くいつまでも續いて居たのである。

　今日ならば「みたま」が歴史の有る最も良い單語だと決すれば、たとへ平假字で書いても之を續けて使はうと言ふべき所だが、以前の有識層は氣の毒なもので、何か是に該當する男文字が見つからぬとなると、文書にはもう此語を使ふことが出來なかつたのみか、晴の場合には之を口にすることも躊躇したのである。先祖といふ漢語がやゝ又限られた意味に用ゐられた原因も、或はこの「みたま」といふ語の代りにした爲かも知れない。幽靈や亡靈といふ語なども、最初は其缺を補ふ爲に、考へ付かれたものかと思はれ、それをたゞ亡くなつた故人の靈といふ意味に使つて居た例は幾らも有る。しかも結果は御承知の如く、その幽靈の特に浮ばれぬもの、出れば必ず人をきやつと言はせるものに限られ、丸で妖怪の仲間か隣人かの如き、非凡のものに限られるやうになつた。つまりは適切な對譯もないのに、なほ是非とも漢字で表現しようとした弊害、即ち私などの所謂｜節用禍《せつようくわ》なるものであつた。元來｜御靈《みたま》の御《み》は敬語で、家々の尊むべき靈のみを指した名であつた。後々は樣を附けて呼んだからよいやうなものゝ、なほ精靈や聖靈では十分な感じを表することがむつかしかつた。それで段々と少しも大事でない他所の靈、有難くも何とも無い風來の亡魂な(71)どまで、其中に包括せられるやうになつて來たので、是が又相應に盆祭の思想を複雜にして居る。尊靈といふ漢字を家の「みたま」の爲に充てた人も稀には有つたらしいが、民衆の間にはあまり行はれなかつた。もし斯ういふ漢語が廣く採用せられて居たら、今少し我々の理解に便だつた筈である。京都や奈良の附近でソンジョさんといつたのは、或は精の訛りでは無くて、この尊靈の實用だつたかも知れない。

　

　　　　　　　三九　三種の楕靈

　

　ともかくも現在の盆の精靈には、やゝ種類の異なる三通りのものが含まれて居る。此頃の人の細かな辨別力では、それを一つの語で間に合せにくいと感じ始めたものか、是に色々の限定辭を添へるものが先づ多く、更に地方によつては意義の分化が行はれて、特にその一つのものに此語を用ゐた結果、愈々本來の精靈をないがしろにする原因を追加した例さへある。過去一年の間に世を去つた荒忌《あらいみ》のみたまを、アラソンジョだのワカジャウロだの、又｜新精靈《にひじやうろ》だの呼ぶことは前にも述べたが、盆の魂棚は特に其爲のものを美々しく飾り、又はたゞ其場合のみに楕靈棚をしつらへるといふ土地も處々にあつて、さういふ家々では、もう精靈といふ語を新亡のことだと、解して居た者も少なくはない。是が日本國民の先祖思想に對して、可なり大きな變動を導いて居ることは、後でもう一度やゝ詳かに説いて見たい。

　次になほ一つ、九州の南部から島々にかけて、外精靈《ほかじやうりやう》と呼んで居るものがある。東北地方だけには妙に聽くことが少ないが、關東以西の廣い區域に亙つて是があり、たゞ其名稱だけは土地によつて、或はホカドン、トモドンと謂ひ、御客佛《おきやくぼとけ》といひ無縁樣といひ、又は餓鬼とさへ謂ふ處も少なからず、從つてその考へ方にも大分のちがひが出來て居る。しかし兎も角も必ず家で祭らなければならぬみたまより他の靈が、盆の機會を以て集まつて來ると見たまでは一つである。岐阜縣の一部にはこの外精靈を一切精靈樣《いつさいしやうろさま》と謂つて居る村がある。又壹岐の島でサンゲバンゲと謂ふのも三界(72)萬靈の訛音かと思はれる。是は我國固有の先祖祭思想の、恐らく豫期しなかつた新しい追加である。基督教の方にも十月四日の萬靈祭が有るやうに、是が佛法の世界教としての一つの強味であり、種族を超越した信仰共同への大きな歩みであつたことは認めなければならぬ。施餓鬼が盆の行事の中心であるやうに、僧たちの力説するのも彼等としては理據があり、現に又寺々の盆棚はたゞ其爲に設けられて居るのだが、それが我々の古い習はしのまゝで無いことは勿論、佛教も亦夙にこの差別を承認して、教理の許す限りといふよりも以上に、先祖を追慕する各家庭の感覺と、協調して行かうと試みて居た。此點が頗る五百年前の、切支丹傳道の態度とはちがふのである。

　それ故にこのいはゆる外精靈の解釋は、教化の程度によつて殆と地方毎にちがつて居る。從つて又之に對する家々の待遇ぶりにも、著しい差等があるのだが、今まで斯ういふ點を比較して見ようとした人も無かつた爲に、誰でも自分の土地の風のみを、全國普通のものと速斷する傾きがある。詳しく見て行くと、實はまだ此點に關しては、普通又常識といつてよいものが無いのである。餓鬼といふやうな惡い名をもつ精靈は勿論、南九州のフケジョロ又はトモドンと謂ふものなども、家の無い餓ゑたる求食者であつて、盆には家々の精靈樣の供物を横から取つて食べるといひ、先祖を靜かにもてなす爲には、先づ彼等にも何か食物を與へて、邪魔をせぬやうにする必要があると考へてゐるものがある。さうかと思ふと同じ無縁佛といふ中でも、文字通り家と全く縁の無い亡靈以外に、家の族員にして未婚のまゝで死んだ者を、さう謂つて別に祭る處も關東其他にはある。和歌山縣の紀ノ川沿岸などでいふ御客佛は、妻の里方の親兄弟、他家に嫁入した姉妹又は甥姪などの、新たに精靈になつたものゝことである。つまりは定まつて我家に祭るみたま以外に、別に盆棚を設けて祭をするものといふ點だけは共通でも、この三つの場合は心持がそれ／”＼にちがつて居た。西洋などでいふ一切精靈は、茫漠ながらも一つの大きな概念であるに對して、日本の外精靈には統一も何も無く、又どうして手分けをして家々に入つて來るのかの、理由が明白で無いものが多かつたのである。

　

(73)　　　　　　　四〇　柿の葉と蓮の葉

　

　盆の魂棚の位置構造又は管理方法が、年棚に比べると更に何層倍か、地方毎の變化を見せて居るのも、一つの原因は確かにこの所謂無縁佛、外精靈の參加に在るのだが、それが果して佛家の教へるが如き、三界萬靈を承認したものと言へるかどうかは、さう簡單には極められない。たとへば家々で謂ふ「みたま」のうち、最も清く且つ純粹なる部分だけが、分れて年の神として年棚に祭られることになつたのであらうといふ、私の推定が幸ひに成立つものならば、盆は季節といひ又之に携はる人々の聯想といひ、同じ分裂の殊に行はれやすい機會だつたと思はれるからである。近世の宗門改め制によつて、どんなに信心の薄い家庭でも、必ず菩提所を持ち一つの宗旨に屬すべきことになつてから、盆棚の祭は急に佛法くさくなつた。いはゆる棚輕まはりは一種の偵察方法であつたやうに謂ふ人さへある。しかもこの宗教はまだ祖靈の融合といふことを認めず、無暗に個人に就て年忌の供養のみを強調して居た。さうすれば年代の重なつて行く間に、次第に省みられない幽靈は多くなるにきまつて居る。一方には又災禍に遭ひ路上に斃れ死して、歸るべき家も無い遊魂といふものゝ、次々の増加も考へられる。日本は又昔から、ひどくその行逢ひを怖れて居た國でもあつた。大きな公けの行事に先だつて、又は四時の移り替りの際に、是を出來る限り一處に聚めて散らさぬやうにする祭典もあつたが、後々は力強い大神たちの威�ｺによつて、之を統御して戴くといふ信仰が起つた。みさき又は若宮といふ名を以て、此種の遊行神《うかれがみ》を呼ぶのもその結果であり、みさきといふのは即ち一つの大神の配下に入れられて、其指令に服する意味だつたと私は思つて居る。同じ無縁樣の中でも、このみさきと家々の無縁さま、即ち祭る子孫のない靈とは、明らかに二種別々のものであつた。しかし幽冥道の研究はまだ進んで居なかつたから、この堺目を明らかにすることは常人には出來ず、從つて解説は甚だしく區々であつて、或るものは無頼乞食の徒に該當するやう(74)な、餓鬼の草子などの淺ましい鬼形を胸に描き、又或るものは祖父の弟妹や曾祖父母の愛娘といふが如き、若くして世を去つたいたいけな魂を追想して居たのである。この混亂は明らかに家々にとつての不幸であつた。だからこの悲痛の感の慰藉としてならば、佛道の教化はたしかに若干の功があつたと言へるのである。

　以前は遠い田舍では子の無い老女などを罵つて、柿の葉めがと謂つたといふ話がある。今ならもうその樣な殘酷な言葉を口にする者もあるまいが、當の本人だけはまだ時々は之を思ひ出すかも知れない。私の先租の話をして見たくなつた動機も、一つには斯ういふ境涯に在る者の心寂しさを、由無いことだと思ふからである。柿の葉は本來素朴の世の食器であつた。土器や木地曲物《きぢまげもの》類の色々の取揃へられる世になつても、なほ無縁さまに供する食物だけは、この昔風を改めようとはしなかつたのである。柿の葉は後に又里芋の葉ともなり、殊に蓮の葉は佛法と縁が有るので、今でも一般に之を使はうとして居る家々さへ有る。しかし今日はともかくも無縁と所謂｜本佛《ほんぼとけ》との間に、何か境を設けようといふ趣旨が先に立つて居るので、同じ精靈棚の上で祭るにしても、柿の葉の供物は一段と低く又端の方に置き、又盛るときは是を後まはしにするが、供へるのは此方を先にする。それから其卸しだけは他の食物のやうに、家の者が分けてたべることはせずに、すべて一器に集めて置いて最終に流し棄てる等、何れも明らかに意識した差別待遇をして居るのである。是が初秋の魂祭に伴なうて、最初から有つたものとは思はれぬ以上、この點は少なくとも佛教の感化、又はその刺戟に基くものと言つてよからう。

　

　　　　　　　四一　常設の魂棚

　

　詳しい分布地圖を作つて見てからで無いと、確かにさうだとも斷言し得ないが、この精靈棚を毎年の盆祭の爲に造るといふ風習は、年棚よりも又ずつと少ないのではないかと思はれる。たとへば東京の町などでも、もとは正月樣の(75)棚は家毎に設けられて、盆の魂祭の方だけは、常設のいはゆる御佛壇を使ふ家が多かつたらしい。私の家の例をいふと、盆には青々とした一枚の眞菰《まこも》の蓆《むしろ》を敷き詰め、酸漿《ほゝづき》や柿栗の折枝などを繩につるして垂れる故に、印象は丸で改まるが、ともかくもそれは常のお持佛《ぢぶつ》の棚飾りに過ぎなかつた。江戸には旅先假住の家が多いので、斯ういふ略儀が始まつたものかと思つて居ると、地方の農村の廣々とした舊家にも、なほさうする仕來りは幾らも見られる。つまりは毎囘の鋪設を省かうとしたのでは無くて、寧ろ盆暮以外にも先祖と對面する機會を多くせんが爲に、日頃から居間の一隅に之を作つて居たのである。年忌命日の供養がしげくなつて、勿論その爲にも之を必要としたらうが、本來はそれよりももつと遠い、先祖の靈の祭壇としてゞあつたことは、特に荒忌の新精靈の爲に、必ず別の棚を作るといふ者が、最も多いのを見ただけでもほゞ疑ひが無い。ましてそれ以外にまだ幾つもの證據といつてよいものが有る。佛壇などゝいふ言葉が標準語になつて居る爲に、誤解をする人がまだあらうが、

　　　玉棚の奧なつかしや親の顔　　　　　去來

　佛壇は本來常設の魂棚に他ならぬのであつた。

　この去來の魂棚の句なども、年を取つてからの或る盆の日のまぼろしで、花や青葉で飾られた臨時の精靈棚の裡に、親の姿を見たといふ者の不思議談では無いことは、吟じて見れば自然にわかるだらう。之を註釋する人が、盆の間だけは佛壇を玉棚といふものだなどゝ説いたのは、或はいゝ加減な當て推量かも知れぬが、ともかくも既に常設の祭壇が備はつて居るのに、別に盆だけの魂棚をこしらへるのは、無用なやうな感じがせぬでも無い。察するに以前常の日の魂棚の他に、是非とも新たに棚をこしらへて祭るべき場合があつて、それを花や燈火を以て美しく飾ることに、非常に力を入れる風が始まつた爲に、何か精靈棚は又一つ別なもの、盆に限つて營むべき行事のやうに考へられて、却つて逆に今まである魂棚を、使ふまいとする風が或る地方には起つたのでは無いか。斯ういふ土地に於ては、盆の間中佛壇から位牌を取出して、それを新しい精靈棚に安置するので、一方は全く空になつて居る。信州飯田地方では之(76)を御留守居樣《おるすゐさま》と謂ふが、それでも一通りの供物だけはする。奧州三戸郷なども之を空棚《からだな》といふが、そこへもやはり御飯は上げることにして居る。若い者が時々それを忘れるので、年寄はよく「やどゐどさまんま上げたか」と注意をするさうである。ヤドヰは方言でやはり留守番のこと、即ちまだ誰か殘つて居る人が有ると見て居るのだが、敬語を添へて居ないのを見ると、お持佛のことゝは思つて居なかつたやうである。

　

　　　　　　　四二　佛壇といふ名稱

　

　誰でも彼でも死ねばすべてホトケと呼ばれたことゝ、この常設の魂棚をお佛壇と謂ふことゝは、二つ直接には關係が無いかも知れぬが、ともかくも斯ういふ似よりのことが二つまである爲に、人は往々にして盆を佛教のもの、佛教が日本に入つてから後に、始まつた行事のやうに誤解するやうになつた。近世のいはゆる神葬祭、即ち先祖祭も葬禮も共に佛式に依るまいとする家々には、急いでその佛壇を無くしてしまつて、是を神棚の方に合併したものも大分有つたが、それは少なくとも復古では無く、新しい一つの改革案の、まだ研究の餘地あるものであつた。私の生家松岡氏などでも、祖母は佛教信者だつたので是を佛式で供養し、その三年の喪が終つて後に、すべての佛具經卷と共に、代々の位牌を大川に流し棄てゝ、佛壇をたゞの戸棚にしてしまつた。神道の方では、この木主を位牌と呼ぶことを嫌ひ、別に白木の四角なのに、故人の名を墨書したものを新製して、之を神棚の左右の端に安置し、それを私たちは「みたま」と謂つて居た。祭の日には特にその祭るべきみたまのみを正面の少し低い段に請じて、最も嚴肅な心持をもつて覆ひの鞘をはづし、其みたまの木の棒の名の文字を現はして一同が是に拜禮した。此點が亦一つの新式であつたやうに私には思はれる。位牌は多分支那にも有る言葉で、決して佛法と不可分なもので無いのだが、單に年久しい抹香に燻されて佛臭くなつて居るといふばかりで無く、其表面には戒名といふものが彫つてあつて、それが甚だしく(77)此宗旨の外に在る者には氣に入らなかつた。又歴史の上から見ても理由の無いことであつた。戒名は元來活きて佛法を信じた人々の、五戒十戒を保つて居るしるしとして付與せられるものであつた。それを本人の承諾も無しに、死んでしまつてから後に勝手につけ、それが又意味もわからず、覺えても居られぬむつかしい名であることは、何としても無法な話だといふ非難は、よほど早い頃から唱へられて居たのである。しかし多數常民の心理は又格別なもので、是がある御蔭に生と死との明らかな境がたち、哀慕の俗念が時と共に漸く淨化せられて、永く之を一家の守護神として仰ぎ敬ふことが出來ると感じて居たらしく、其爲ばかりとも言はれないか知らぬが、神式葬祭の一派の人々にも、特にこの死後の異名を付けて置かうとして居る者が有る。何れにしても祖先の個性ともいふべきものを、いつまでも持續して行く點が、頗る私の言はうとする祖靈の融合單一化といふ思想とは、兩立し難いものであることは同じである。

　それよりも更に實際的な問題の一つは、新たなる信教自由の原則に基いて、佛法を出離してしまつた家々の先祖祭が、是からどうなつて行くだらうかといふことである。私の生家などでは幸ひに盆の魂祭を中止せず、七月十三日の日の入りには、村の群童と共に白地のさつぱりとした晴着などで、墓所へ精靈さんの御迎へに行き、よその樒《しきみ》や線香の香《か》の中にまじつて、自分のみは榊の枝をさゝげ御洗米を供へて、提灯をともして一しよに還つて來ることが出來たが、それでもなほ隣近所の棚經の聲や鉦の音を聽くと、何だか取殘された感じが無いでもなかつた。ましてや盆にこの祭を營むことが、まだ佛法に囚はれて居るやうな疚しさがあるために、祭を春秋の皇靈祭の日に振替へて、盆には休むばかりで何もせぬといふ風が、地方によつてはもう可なり廣まつて居るやうで、是が祖靈を粗略にする無關心派の増加を、間接に助けて居ることも爭はれぬのである。永い民族の歩みを跡づける爲には、たとへ外來信仰の習氣が濃く強く浸潤して居ようとも、なほ國民の大多數層に、遍く渡つて居るものを尊重しなければならぬ。さうしてもし改めてもらふ必要が有るとすれば、それを是から考へて見るの他はあるまいと思ふ。

　

(78)　　　　　　　四三　盆とほかひ

　

　しかし問題は思ひの外簡單なものである。ほんの二つか三つの是まで心付かずに居た點を先づ考へて見ようとする學問が、少しばかり働きさへすればよいのである。たとへば我邦では舊暦七月の十五日に、孟蘭盆會《うらぼんゑ》といふ法會を執行はしめられた例が、公けにも可なり古くからあつた。しかしそれだから此前後の幾日間を盆《ぼん》といふやうになつたのだといふ佛者の説は、有名又平凡だといふばかりで、ちつともまだ證明せられては居ないのである。果して梵語のウラブンナを、ボンと略しても通ずるやうな語法があるのか。もしくは漢土に於て音譯の孟蘭盆を、盆と書いても通用した例があるのか。はた又それは只我邦だけでの偶合であつて、たま／＼外來者の聯想があつた爲に、盆といふ漢字が僧俗の間に、特に人望を博したといふだけでは無いのか。それ等を考へ合せても見ずに、たゞ古來の速斷を受賣して居るのは困つたものである。

　私の解釋とても一説に過ぎないが、盆又は盆供《ぼんく》は中世以前の記録では、大抵は皆?の字を用ゐて居る。?も盆も共に土燒きの食器のことで同じ物らしいが、是を女や子供までが始めから音で呼んで居たか、但しは今日の「御座る」といふ語のやうに、文字を識る人々のしやれてボンと唱へたのが、後々普及したものか、實は漢文で見て居ただけでは判らぬのである。中世の歌にはボニ又はボニスルといふ言葉がたしかにある。

　　　わたつみに親を突き入れてこの主のぼにする見るぞあはれなりける

　もう此頃はボニといふ語が、普及して居たとまでは知れるが、是も作者は上流のしかも法師である。女子供までが皆さう謂つたかどうかはわからない。さうして一方にはこの音讀以前の日本語かと思はれるのが、少なくとも一つはまだ行はれて居るのである。中央と交通の最も少なかつた國の端々に於て、眞似も言ひ合せもせずに一致して存する(79)ものは、先づ一應は古い世から傳はつたものと私は見るのであるが、土佐では近頃までほゞ各郡に亙つて、盆の十四五六日の三夜、家々の門の口に焚く火をホーカイと謂つて居た。他の地方でいふ柱松明《はしらたいまつ》も同樣に、高い竿の頂きに焚くのが花々しいので、ホーカイを此火のことゝ思つて法界火、又は放火會《はうくわゑ》などゝ文字に書き、或は天を祭る奉火會であらうと言つた人も有るが、一つの特徴は此竿の根もとに、洗米や茄子の細切《こまぎり》などを供へ、更に其燃えさしを貰つて、子供たちが盆羽釜《ぼんはがま》の米を炊き、それを食べると夏病みをせぬといふ俗信があることであつた。大和の龍田《たつた》あたりにもホウカイ火といふ名がある。是はたゞ盆の頃に提灯を點して縁先に懸けることで、明智《あけち》光秀の靈を慰める爲などゝいふ言ひ傳へがあるのは珍しい話だが、是もそのホウカイ樣の箸を以て、疣《いぼ》を三度はさんでから其箸を川へ流すと疣が落ちるといふなどは食物と關係がある。長崎市史に出て居るかの港町のホウカイは、盆の精靈棚の片脇に無縁の靈を祭つて、是に供物の餘りを供へること、即ち前にいふ外精靈《ほかじやうりやう》の供養のことであつた。このホウカイ飯は朝晩の二度之を撒するが、家内の者は勿論、奉公人の男女までが之を食べることを嫌ひ、非人乞食の類の者が籠や擔桶を持つて、町から町へと貰ひ集めてあるくことは、江戸で寶暦の頃から始まつたといふ、十五日深夜のお迎へ／＼ともやゝ似通うて居る。

　日本の他の一方の端、青森岩手秋田の三縣に、今もまだ弘く行はれて居るほかひの行事、是などは墓前の祭であつて明らかに食物を中心とし、さうして又物貰ひとの關係があつた。其痕跡は他の東北三縣、關東越後などにもやゝ認められるのみか、北は海峽を越えて北海道の一部にも及び、

　　　盆の十三日やほけゃする晩げだ、小豆こはめし豆もやし

といふやうな盆踊歌が、壽都《すつつ》にも函館にも室蘭にも行はれて居た。津輕も南部も十三日の夕刻に之を行ふのが普通だが、或は曉ほかひと稱して十四日の未明に、又は同じ日の朝と夕と二度、又はもつと早く七日頃にほかひをしまふもの等、家々の仕來りは一定せず、たゞそれを終つてから各戸の棚祭にかゝることは皆同じだつたやうである。目に立(80)つ特色は墓石の前にほかひ棚を作つて、蒲や眞菰で編んだ簀薦を敷き、其上に色々の料理を供へることで、是には洗｜米《よね》を水に浸したもの、又は米の粉を溶いた白い液體を注ぎ掛ける。是をアラネコするとも又アラレとも謂ふことは前に既に説いた。雨天の日だけは家の佛壇の前で供へることにしてはどうだらうと、昔の人も書いて居るのを見ると、この供物の泥土に散らばつた光景は、可なり亂雜なものだつたらしい。しかし大抵は犬鴉が來て食ひ、又それに先だつて貧民が集まつて之を取り去つた。近頃はもうその乞兒の姿は見られなくなつたと、「ほかひ」を以て乞食のことゝ解する人があるほど、以前は是が普通の?態であつたのである。

　

　　　　　　　四四　ほかひと祭との差

　

　乞食をホイトといふ語は現在も東北には有るが、是をホカヒ人といふ名稱は、もう全國どこにも殘つて居ない。さうしてホガフ又はホカヒするといふ動詞は、今でもまだ嚴肅なる昔のまゝの意味で、弘く東西の各地に行はれて居るのである。たとへば秋田縣などでは、人に御馳走することをやゝおどけた意味で、ホガフといふことも稀には有るが、普通にさういふのは食物を神靈に供へること、それも主として盆の墓前の手向のことであつた。ほかひ道具と稱して特別の堺重《さかひぢゆう》などを用意した家もあるといふが、大抵は葦又は眞菰の簀に供物を包んで、手に持つて行くのがホカヒする人の常の姿であつて、又「あの墓にもホガヘ」といふ風に此言葉を使つて居る。類聚名義抄には祠又は祀の字をホガフ・マツル・イノルと訓み、伊呂波字類抄には祭をホガフ、延喜の宮内省式には大殿祭をオホトノホガヒと訓み、新撰字鏡にも祠の字を春祭也保加布と註して居る。即ち盆のほかひは日本の古語で、すでに千年以上の昔から行はれて居たくさ／”＼のホガヒの、一つであつたといふことが是だけでも判るのである。

　但し私の今考へて見たいと思つて居るのは、このホガヒとマツリとの二つのものが、果して日本の言葉として全く(81)同じものかどうかといふ問題で、やゝ横路に入ることになるが、盆の由來を知る爲に必要だから、もう少し詳しく述べて置きたい。笈埃隨筆《きふあいずゐひつ》といふ百六七十年前の紀行に、今の宮崎縣の山村の風俗を説いて、

　　常に酒を飲み茶を取るに、皆其初を神に供ふる儀を爲す。是をホカヒと謂ふ。古語なり云々

と誌して居るが、同じ風習は現在なほ消えてしまはず、高千穗地方では敬神の念の強い人たちが、酒を飲む前に指の先で三べんほど、酒を空中に散らすことをホカフといふさうである。アゲホケと謂ふのは神さまに酒を上げることだが、其方式はやゝ簡略で、或はかけぐりといふ竹の小さな筒に入れて樹の枝に掛け、又は水の流れに少量を注ぎ入れる。その第二のものを流しおみき、又はコボシホカヒとも呼んで居るのである。

　東北地方でも、津輕北秋田などのマタギといふ狩獵業者の間には、毛ボカヒの行事があつて、是が亦盆のホカヒとは別のものであつた。熊を取つて山中で解き分ける際に、剥いだ皮を逆さに被らせ、榊の枝を手に持つて唱へごとをする。熊を浮べる爲だとも又とむらひだとも謂つて居るが、やはり之に伴なつて獲物の内臓の一部を神に供へ、且つ仲間に分けて食べる式があつた。一方に九州の方でも熊本縣南部の山村などに、野猪を撃取つた後の毛祭《けまつり》といふ作法があつて、式はこの東北の毛ぼかひと似て居た。中世の矢祭から變つて來たものに違ひないが、射止めた同じ方向に鐵砲の筒を向けて、次のやうな詞を唱へて打放すといふ。

　　奧の山の神さん、中の山の神さん、下の山の神さん、ほかひはづしは有つても受取りはづしは無いやうに受取り下さい、なむあみだ

　ホカヒは此地方でも、神樣におみきを上げることをいふのだが、斯うして空に向つて銃彈を放すことも、又山の神にホカフと謂ふのであつた。

　京都から西北方の山村一帶では、正月四日の初山入りの日に、田植初めの祭に使ふべき柴を一荷、苅つて來る習はしがあつて、之をホナガと謂ひ又はホカヒと謂ふ村もある。その日は其薪に食物を供へて、祭るといふ習はしもまだ(82)そちこちに殘つて居る。阿蘇火山の麓の村々には、八月十五日に十二本の稻の穗を拔いて來て、之を作神さまに上げて置くことをオガエルと謂つて居る。土佐の沖）島の弘瀬部落などは、不漁が續くとまん直しの意味で、砂で舟をこすり其あと舟たでと謂つて、松明を以て舟のまはりを燒き焦す。それをフナオガヒと謂ひ又舟でもオガホぢや無いかといふさうである。壹岐の島でもホガフといふ動詞は一般に知られて居るが、その範圍は幾分かマツルよりは狹いらしい。通例よく聽くのは屋根葺き祝ひの葺きごもりといふ日に、粥を口に含んで十二本の柱の根に吹き散らす式で、之を粥ホガヒと稱して之に伴なふ唱へごとも有る。或は又入船ボッケと稱して、船安着の祝ひの日、飯を圓錐形に握つたものを多く作つて、子供たちに分ち與へるのも、今では別のものと考へて居るだらうが、やはり同じ部類に入るべきものと思ふ。信州の南安曇郡などでも、田植休みの日の子供角力の時だけに、家々から出してもらふ胡麻鹽の握飯又は強飯の結びをホケと呼んで居る。

　斯ういふ類例は捜せばまだ／＼有るが、あまりしつこいからもう此位にして置く。しかし是だけの場合を見渡しても、ホカヒがたゞ心ざす一座の神又は靈のみに、供御を進めるだけの式では無く、周圖になほ不定數の參加者、目に見えぬ均霑者ともいふべきものを、豫期して居たらしいことが推測せられる。中古の字書には既に混同して居るけれども、是が或は我邦のマツリとホカヒとの差別では無いかと思ふ。尤もマツリにも直會《なほらひ》といふ共餐者の例は有るが、是は賓客に對して亭主が相伴をする方に近い。誰とも知れぬ者や我仲間で無い者にまで分配せられるといふことは、食物の第一次の目的からは外へ出て居る。是が或は今日の盆の無縁佛、外精靈などゝいふ思想の基く所の、別に國内にも何か有つたこと、所謂三界萬靈の外來教義などは、たま／＼是と習合しかゝつて未だ遂げざるものであることを、明らかにし得る手掛りでは無いかと私は思ふ。乞食を倭名鈔にホカヒビトとあるのも、ホイトと同じにめでたい詞を陳べるからと解せられて居るやうだが、それは確かに根據も無く、又盆その他のホカヒといふものを、まだ知つて居ない人の言ふことだから當てにはならぬ。

　

(83)　　　　　　　四五　?も行器

　

　後水尾院當時年中行事といふ書の中に、長こきあたりにまゐらざるものゝ一つとして、

　　一、外居に入りたる物まゐらず

とある。是は我々に取つて亦一つの暗示であつた。外居《ほかゐ》は漢名を行器とも書いて、食物を家から外に運搬する木製の容器で、今も其形?は木鉢曲げ物から結桶《ゆひをけ》まで、さま／”＼の變化を示して居るが、物とこの名稱とを知らない土地は無いほど、全國に分布して居る。脚が三本外側に附いて居るので、それで外居《ほかゐ》といふのだとの説は、鎌倉頃から人が信じ始めたやうだが、それはソトとホカとの區別も知らぬ人の言で、物の外側はソトであつて、そこにくつゝいて居るものを日本ではホカとは謂はない。さうして又脚の無い行器も多いのである。是は延喜式その他の外居｜案《つくゑ》、即ち祭の爲などに屋外に居《す》ゑる案、ちやうど東北のほかひ棚の如きものを、外居の爲の案と誤讀したのがもとで、無論その臺の上に行器を載せたらうが、ほかひといふ名の起りはやはりホカヒする食物を入れたことに在つて、之をホカヰと書き始めたのは、疑ひも無くヰとヒの發音の區別が、不明になつてから後のことだと思ふ。現在の外居は形こそさま／”＼だが、どれも是も木で製したことは一樣であり、又大抵は漆を以て外を黒く内を赤く塗つて、從つて連年の使用に適するやうになつて居るが、以前は一囘毎に新しく調へるのに、白木ではあまりに費えであつて常の人には向かず、素燒の土器を以て好みの形を造つて居たのが、?又は盆といふものゝ起りで、その字が測らずも孟蘭盆會の文字の中にもある所から、是が大いに行はれたものだらうと私は想像して居る。

　但し?の字をホカヒと訓ませた例は、捜して居るけれども私にはまだ見付からない。中世の諸記録に?を送ると稱して、種々の食物を入れて菩提所や墓所へ送り屆けたのはすべて土器であつて、それを又木の櫃の中に納めたものと(84)見えるが、その土製の行器を日本の言葉で何と呼んだかゞ知れないのは、もう上流ではすべて字音を用ゐて居たからかも知れぬ。古い頃に溯つて行くと、祭祀に土器を用ゐた數は最も多い。その種類形?さま／”＼であつて、之を區別した漢字が、延喜式などには十幾つも有る。もしも和名が同じであつたならば、斯樣な煩はしい列記をしなかつたらうと思ふのに、それに加へられた後世の訓讀は頗る心もとなく、一つの漢字を幾通りにも訓み、又は幾つもの漢字にたゞ一つの名を附したものもある。たとへば?といふ文字なども、ヘともヒラカともホトギとも又サラケとも振假字をした所があつて、後の二つの單語には別になほ缶《ほとき》及び?《さらけ》の文字が多く用ゐられ、中にはそれと?とを列記した場合もあるのである。ホカヒが木製の行器に限るやうになつた以前、事によると土器のホカヒが有つて、それを?又は盆と書いて居たのではないかと思ふが、まだ積極的な證據は無い。和名抄には盆、之を缶保度岐と謂ふとあり、字鏡以下にも盆を保止支、又はホトギと訓ませて居る。鎌倉時代に出來た塵袋《ちりぶくろ》卷八には、

　　一　ホトキは孟蘭盆ノ時用ルモノナリ、世間ノ吉事ニハイロフマジキモノカ、　　　ﾎﾄｷﾞハ器物ノ一ノスガタニテ吉凶ニ通用スル歟、………盆ノ字ヲバヒラカト訓ム、ホトキハ缶ノ字ヲヨム、サレドモ通ヒテ共ニホトキトイヒ習ハセルニヤ

ともある。兎に角に此頃までの?は、形?も目途も共にこの缶《ほとき》といふものに近く、今いふお盆のやうな扁平なもので無かつたことだけは確かである。

　

　　　　　　　四六　ホトケの語源

　

　そこで私の第二の想像説、死者を無差別に皆ホトケといふやうになつたのは、本來はホトキといふ器物に食饌を入れて祭る靈といふことで、乃ち中世民間の盆の行事から始まつたのでは無いかといふ考へも、さう突拍子もないもの(85)とは言へなくなると思ふ。幾つもの方角から、この問題には近よつて行かれる。ホトケのホトは浮屠又は佛陀の音としてもわかるが、それにケの語を添へた理由は、今でもまだちつとも判つて居ない。或は浮屠家であらうといひ、又朝鮮風の接尾辭だらうといふなどは、本人もなほ危むほどの臆説であり、僧契沖のやうな考へ深い國學者ですらも、ほとけのケは木であつて、民草青人草の草に對する語だらうなどゝ、心細いことを言つたまゝになつて居る。それから今一つはこのホトケといふ言葉使ひが、全國の隅々に無いのは勿論、もとは案外に狹い區域だけのもので、たゞそれが中央の土地であり、折々は文章にも之を用ゐた爲に、耳には少しづゝ馴れて來ただけであることで、ホトケを所謂如來さまの意味にしか使はぬ人、またはやゝ異なる心持で使つて居る人が、是も日本の西南と東北との兩端に、多いといふことも注意しなければならぬ。對馬の島では家の神の一つに、ホタケ樣といふのがある。母音が一つちがふから、是も其一例だと言つたらこじつけにもならうが、更に南の方の屋久島《やくのしま》などでは、ホトケと謂ふのは卒塔婆のことであつた。この島は法事を一般に菩提と呼び、其たびに一本のホトケを墓の後に立てるが、年囘毎に之を段々と大きくして、三十三年の菩提の終りといふ日には、二尋《ふたひろ》ほどの高いホトケを立てる。それから又位牌のことも枕ボトケといふさうだが、枕ボトケは恐らく新亡の場合で、常の時の位牌はたゞホトケと謂つて居るのだらう。盆に魂祭の棚を構へることを、ホトケ迎へといふのは中央部と同じのやうだが、是も其際に位牌を是へ移すからかと思はれ、別に又ショロドン迎へといふ名もあるから、乃ち木主をその楕靈の依座《よりまし》として、ホトケと呼んで居たのに過ぎぬのである。一方遙か隔絶した奧羽の各縣では、一般に法事をホトケカキと謂ひ、佐渡の島でも佛さんを書いてもらふといふ處がある。即ちこの方面でも、ホトケは亦塔婆のことなのである。會津の喜多方などには、又ホトケ棒といふ言葉も有る。山から生木を伐つて來て其一部を削り白め、そこに戒名を書いてもらふ。他の多くの地方では三十三年の最終年忌の日に、この生木の棒を墓地に立てるのが通例で、それだけをホトケ棒又はトリアゲボトケとも謂つて居る土地は有るのだが、爰では葬式の當日にも、一周忌の供養にも、斯ういふ名の棒を立てるのださうである。寺々の施餓鬼の(86)日に、書いてもらつて納める板の小型の塔婆を、柾ボトケと呼ぶ例は東北各地に有る。それを輪廓のみ地藏尊や阿彌陀さまの形に刻んだのを、重ねて壁に打付けた千體佛の御堂が、二三の靈場には有つて是も柾ボトケと謂つて居るが、是は塔婆のホトケを出來るだけ本義に近よせようとしたものかと思ふ。有名な南部の恐山の地藏會などのものは、至つて簡單なたゞの小さい枌板《そぎいた》の片に、追善の文句だけを書いたもので、佛體とは全く關係は無かつた。或は家々の盆の魂棚にも、是よりももつと粗末な經木七枚に、七つ佛の御名を書いてもらつて、青葦の簾に插す風が男鹿《をが》半島などにあり、これをカナガラボトケと謂つたのは、飽屑《かんなくづ》のホトケといふことである。七つ佛を墓地の入口や蓮臺場《れんだいば》の傍に安置するのは全國的な風習である。それが共同のものならば石の像にも刻んだが、喪家で臨時に之を作るといふ場合には、是も小型の塔婆を七本、額のやうにして竝べたものを立てるだけである。石屋が手輕に佛體を刻んでくれるやうになるまでは、常民のホトケは多くは木の柱に字を書いたものだつたことは、繪卷物などの中に幾らも例がある。像といはゆる塔婆との間には、もとは今一段と深い聯絡があつたのである。

　

　　　　　　　四七　色々のホトケ

　

　ともかくも東北地方のホトケ棒が、向つて拜むものであつたことは確かであるが、それを一つ／＼の如來や菩薩と同じに、各個の教理をもつた信仰の當體と見るやうになつたのは新しい變化であつて、今でもまだ奇妙なほど、このホトケには敬語を附けて居ない。例は色々有るが、それを詳しく解説することは出來ないから、茲にはたゞ斯ういふものが有るといふことだけを述べて置く。近年二三の篤學に依つて注意せられ始めた詣《まゐ》りのホトケといふものなどは、ホトケの語が有るばかりに、最初から佛教系統のものときめてかゝる人が有るらしいが、その信仰はよほど他の地方で先祖祭、又は祝ひ神《じん》といふものに近く、之を管理する者は卷《まき》一門の宗家であることを常として居る。民族學年報(87)第三篇に掲げられた江刺郡の一つの例などは、祭日は毎年舊十月の十五日に、エドシ即ち同族の數戸を招いて祭を營む。祭には白い團子を供へるが其｜御下《おさが》りは主人嫡子のみが之を食べ、次三男や女子などの是から外へ出る者に與へないのは、頗る亦年越の日のみたまの飯と似て居る。是をいたゞくと生涯御縁日に參らねばならず、參らぬと祟りが有るからそれで戴かせぬのだとも言ひ傳へて居る。詣りのホトケの御正體《みしやうたい》は、又黒ボトケとも黒本尊ともいふから、木の造像もあつたかと思ふが、私の知る限りでは、それが何佛であるかを明らかにしたものは無く、又多くは朽ち蟲ばんだのを、其まゝに拜んで居た。或は文字と繪とを相交へた掛軸や卷物を拜む者もあつたといふが、それは系圖のやうに信仰の傳來を示したもので、しかも久しい間之を讀み解く力も無い人々の、恭敬の的となつて居たのである。

　青森縣などには家の相續人を、ホトケ持といふ方言がある。是は上方で孤子又は片親の無い者を、所謂｜二親持《にしんもち》に對してさう呼ぶのとはちがひ、まだ相續前の人なのだから、このホトケは死者の靈のことでは無かつた。さうして家々には右にいふ黒ボトケ以外にも、なほ種々のホトケが持傳へられて居たのである。いはゆる樺皮《かばかは》ボトケは白樺の樹皮を紙の代りにした繪像の掛軸だといふ話であるが、實は私はまだ一つも拜んで見たことが無い。或は詣りのホトケと同じものかも知れぬが、此方は寺の無い村々に於て、死者の取置きの日に掛けて拜ませたといふ話もよく聽いて居る。しかし由緒の有る舊家のみに、之を管理して居るといふ點は兩者同じだから、併せて考へて見なければならぬ。次に又十月ボトケといふのがある。是は鈎《かぎ》ボトケ、又はオシラボトケと同じものゝやうにいふ人もあるが、おしら樣の祭日は三月と九月の十六日が最も多く、十月ボトケは十月望の日に祭るとすれば、寧ろ江刺郡などの詣りのホトケの方に近いのである。しかし年に何度かの定まつたいはひ日を守つて居るうちに、新たに臨時の信仰行事が附け加はつた場合も無いとは言へない。おしらボトケの如きも、もとは春秋の御縁日にホロク又は遊ばせると稱して、女や子供などの縁の有る人々が寄り集まり、古く傳はつた語りごとを聽き、それに伴なふ簡單な舞の手振を見て、神と共に一日を樂しみ暮すだけだつたのに反して、何か疑惑があれば臨時に其神を請じて、啓示を求めようとする風が此頃は盛ん(88)になつて居る。勿論是にはイタコといふ盲目の巫女の職業的な活躍が動力となつて、其爲に家に附いた今までの祭り手、即ち主婦嫡女の信仰は後退したものと思はれるが、それでもなほ簡單な古い卜法や、神意の解釋の仕方などは家庭にも有つたのかも知れない。一つの例を擧げると、以前は野邊送りに柩《ひつぎ》の門を出るまで、何處へ送つて行くかをきめなかつた。先頭に立つ者がこのホトケの棒を眼より上に捧げ、唱へごとをして之を兩手で揉み廻らし、その鈎の鼻の向く方角に進んで、葬地を見つけることにしたといふ話がある。實地を見た者は無いから是も只の話かも知れぬが、ともかくもおしら樣の一名を鈎ボトケと謂ひ、今は木の端が頭になり鼻になつたものが多いが、其前には單に木の小枝の一部を殘して鈎の形にして居たのが多かつたといひ、一方には鈎殿《かぎどの》又は鈎さまと稱して、之をまはして方角を占なふ行事が、半ば遊戯と化しつゝも東北以外、汎く全國の各地にも行渡つて居るといふことは、考へて見ねばならぬ問題である。古く蝦夷地と接近して居たばかりに、東北の風習はとかく特殊視せられ勝ちであつたが、それを證明するやうな事實はまだあまり現はれて居ない。さうして現在の住民の中には、近世の移住者が寧ろ多く又有力であつた。最新の變化を受けずに居たといふ以外に、彼等の生活樣式には東北限りといふものが少ない。家門｜一卷《ひとまき》が各々自分たちの神を祭るといふことも全國的であり、それを木の依座《よりまし》に依つて拜むといふことも昔からの風であつた。たゞちがふのは斯ういふ木主をホトケと呼ぶことを、東北は九州の南の島と共に、今もまだ續けて居るといふ點だけである。

　

　　　　　　　四八　祭具と祭式

　

　死者を祭る爲には、我邦では此通り木を依座として立てるのが常であつた。それで佛法を信ずる人たちが、その祭らるゝものを浮屠の木といひ出したのだ、といふやうな説明をしても、承知したい者は承知するかも知れない。たゞ私にさうは思へないわけは、東北のホトケの中には卒塔婆や位牌だけで無く、喪とは直接に縁を引かぬもの、寧ろ佛(89)者の度外視するやうな、おしら樣といふ桑の木人形のホトケまでを含んで居るからである。佛陀といふ外來語の影響と支持を受けて居るにしても、佛をホトケといふことは實は一つの異名であつた。最初の公けの記録には、蕃神とか客神とかいふ文字が用ゐられ、之を神々のうちに算へて居たことが窺はれる。或は異名といふよりも一種の忌詞だつたのかも知れない。それが追々と神と對立せしめて、優劣長短を校量することを、布教の上に利なりと見るやうになつて、追々と此語の用途を擴張したのでは無いかと思ふ。もしさうだつたら最初から二つの全く異なるもの、即ち無上覺者と幽界の漂浪者とを包括して居たとしても不思議なことは無い。佛も死靈も共にホトケといふなどは、以前は到底許すべからざることであるが、今ならば已むを得ないといふ理窟は無いのである。しかも尋常の亡者をさう呼ぶ場合でも、之を蔑しみ輕んずる心持などは少しもなかつた。單に家より外に於て飲饌を供養する故に、ホトキといふ土製の行器を用ゐて、其祭をしなければならなかつたといふ意味でさう呼ぶので、實際亦この點のみは兩者共通であつた。それを悉皆成佛だから、佛といふのだと説明することこそ、自ら欺いて居る。もしそれならば毎年施餓鬼會を營み、淨土へ送り込まうと努める必要がどこに在らうか。

　そんな面倒な理窟よりも、缶《ほとき》といふ語がもう此以外の意味に、用ゐられぬやうになつたといふことが一つの證據と言つてよい。斯ういふ忌々《ゆゝ》しい又印象の深いものに適用せられると、意味が忽ち制限せられて、他の平凡なる場合には及ぼし難くなるのである。それと同じ現象は、佛をサラキといふ語にも見られる。昔は是もあの通り盛んに使はれた語であつたのが、今日は僅かに一人の高名な文人の雅號となつて、讀者を不審がらせて居るばかりで、他には此語を使ふ場合が無くなつてしまつた。大佛をオサラギと訓みそれが地名となつて居るのも、一つより外にはまだ例を知らぬが、兎に角に音の至つて明瞭でまちがへ樣も無く、辭書でも隣の遠いこの一つの單語が、鎌倉大佛の造立前に於て、土器から佛像の方へ移行して居たのである。缶《ほとき》も?《さらけ》も器物だからケの方が元かと思ふのが、佛を謂ふ場合には其キケが逆になつて居る。是もわざとさうしたのでは無くて、どちらでも通用したのであらう。奈良縣中部の地名に蛇(90)穴と書いてサラキと呼んで居るのがある。それを私は土器の製作地だつたのかと説いたことがある。蛇の所謂とぐろを卷くことを、サラニナルと謂ふ言葉は方々にあつて、それが土器をつくねる古い技法とも似て居たのである。皿も盆も今のものは皆扁たいが、祭具のサラケは液體にも用ゐられて居た。是に洗ひ米その他の穀類を盛つて、送り又供へて居たことは數多の記録が有る。ホトキ一つだけならば偶然の同語とも見られるが、サラキも佛であり、?も亦祭の名であつた。其上に木を以て造つた近世の行器の名が、同時にその食物を以て諸靈に供養する行事の名でもあつたのである。盆を所謂ウラブンナの破片に非ずして、此日必ず用ゐた祭具から出た名だらうといふ私の説も、まだ恠しいかは知らぬが、さう出たらめのものでは無い積りである。

　

　　　　　　　四九　祭られざる靈

　

　さて漸うのことで盆の魂祭の話に戻つて來ることが出來た。私の明らかにしたかつたのは、物の名の起りといふやうな小さな問題で無い。盆といひホカヒといふのは、たゞ單なる中世の新語では無く、爰に私たちが考へて見ようとして居る先祖の祭に對して、一種の外廓行事ともいふべきものであつて、或は最初から既にあつたにしても、後々佛教の感化によつて、特にこの部分で著しく發達したのだといふことが、是に基いて次第に判つて來る望みがあるのである。さうして現在以後の國民の生活に取つて、この知識こそは重要なのである。多くの辭書にはまだ區別を説いて居ないけれども、祭とほかひとは全くの同義語では無い。ほかびが同時に行器の名でもあり、盆は家から外へ送り出さるゝ食物であつたに反して、祭は則ち一家の裡に於て、遠い親々と子孫との間に行はるゝ、歡會であり又交感であつた。さうで無い場合にも定まつた日と處とに於て、年久しい神々を古例のまゝに御迎へ申す式で、祭主その他の奉仕者も皆定まつて居る。從つてたとへ眼に見えぬ無數の渡り神が集ひ近よつて、祭の平和を擾亂するといふやうな不(91)安は抱かない世になつても、否寧ろさういふ危虞の念の無い際にこそ、最も安らかなる祭を心行くばかりに營むべきであつた。ところが過去の歴史を振返つて見ると、今とはちがつて僅かな戰亂が有つても人が四散し、食物の缺乏が少し續けば、道途の上に出て斃れ死ぬ者が多かつた。家の覆没して跡を留めぬものも、算へるに遑なき實?であつたのである。先祖は必ず子孫の者が祭るといふことを知り切つて居た人々は、このいはゆる不祀の靈の増加に對して、大きな怖れを感ぜざるを得なかつた。國家及び領主たちが、家の永續といふことに力を入れたのも、一つにはこの活きて居る者の不安を濟ふ爲であつたが、實際は思つた程目的が達し得られなくて、却つて佛教を頼んで亡靈を遠い十萬億土へ送り付けてしまふことを、唯一の策とするやうにもなつたのである。しかも其方法もさう容易なものと考へられなかつた爲に、古來の我々の先祖祭は、大へんに煩はしいものとなり、毎年この季節が來るとさま／”＼の外精靈無縁ぼとけ等の爲に、別に外棚《ほかだな》門棚《かどだな》水棚などゝいふ棚を設け、又は先祖棚の片脇に餘分の座をこしらへて、供物を分ち與へることを條件としなければならぬやうになつた。墓は元來が先祖の祭場だつたのだけれども、そこも屋外である故に内外の境が立てにくゝ、折角それが有るのに再び又家の奧の間まで、先祖さまを迎へて來るか、さうで無ければこの周圍の群靈の供養に、重きを置かなければならぬことになつた。それが奧羽や四國の端々に傳はつて居るホカヒであり、又盆といふ名稱の由つて來る所でもあつたと、私は言はうとして居るのである。

　盆が元來は死に對する我々の怖れを、鎭め和める爲の式だつたことは確かだが、結果はやゝ意外にも一段と死といふことを忌み嫌はしめた。乃ち魂祭は全くの凶禮の如くなつて、正月と併立させられぬは勿論、一年に五度の節供といふ祝ひ日にも、どうして入れてあるのかを訝る人さへ出來て來た。その半分の原因は新精靈《にひじやうりやう》、即ち死んで間も無い身うちの者の祭のみに、あまり力を傾け過ぎたことにも在るのだが、それも間接には統御せられぬ亡靈といふものゝ、怖ろしさを教へられた結果であつた。合邦《がつばう》が辻といふ淨瑠璃の文句の中に、死靈は血縁の近いもの程怖ろしいといふことを説いて居る。よその民族の中にはたま／＼さういふ俗信も有つたか知らぬが、少なくとも日本では、もとは決(92)してそんなことを言はなかつた筈で、現におくつきの近くに喪屋《もや》を建てゝ住み、又亡骸に添寢をする風習なども、形ばかりはまだ稀に殘つて居る。たゞ一方のほかひの十分で無かつた外精靈が、この世に害をするといふ俗信ばかりは、以前は今よりも強かつたと見えて、農作を損ずる旱魃暴風、稻の蟲なども亡靈のわざと言はれた。傳染病の中でも、疱瘡の神だけは爺婆や若い男女の姿で一人あるいて居るが、疫病はいつも群靈のわざと考へられたらしい。腸チフスをボ又はボウといふ方言の有るのは、其作爲者をボの神、ボウの神と謂つた方が元で、東北には近い頃までこの爲に毎年のボの神送りが行はれた。暴だの棒だのゝ字を當てゝは居るけれども、是も實際は盆の神だつたかと思ふのは、今でも諸處の村に盆神といふ小さな祠がある。ほかひをしただけではまだ十分で無いと感じた場合に、之を祭りもすれば又追ひ攘ひもした。さうして是が又盆の踊りの、本來の目的でもあつたのである。

　

　　　　　　　五〇　新式盆祭の特徴

　

　日本人が最も先祖の祭を重んずる民族であつたことは、夙に穗積陳重先生の著述なども有つて、汎く海外の諸國にまでも知られて居る。たゞその民間の實?が、まだ詳かにせられて居なかつたばかりに、今も古風なものがその儘に傳はつて居るものゝ如く、又は僅かにその貴重なる痕跡ともいふべきものが、一部に發見せられるに過ぎぬが如くにも、解せられがちであつた。外國人の知識としてならば、其程度でも無きに優ると言ひ得られるか知らぬが、國民自らはもつと／＼多くを識つて居なければならぬ。なぜかといふと、我々は現になほ之を省くべからざるものとする社會に活き、又その空氣の中に物を考へつゝあるのみか、實際には是が永い年月の間に、少しづゝではあるが變化して來て居るのである。歴史としては殊に常人の生活に親しみのある體驗であり、問題としては今後我々の進路に、なほ幾度か推開いて行かねばならぬ關門を横たへて居る。平たい言葉でいふならば、國民に取つてはすぐ入用な知識なの(93)である。私の説明で間に合ふかどうかは別として、ともかくも是を不精確なまゝで棄てゝ置くわけには行かない。

　一目でこの古今の差を見るといふことは無理だらうが、さういふ中では盆の魂祭が、最も判りやすい多くの變化を含んで居る上に、御互ひは少なくともその若干の經驗をもち、且つ形の上には現はれない感覺の或るものを覺えて居る。だから此方面から入つて行けば、やがては今一段と由來の不明になつた正月の祭の元の心持も、理解し得る望みがあるかと思ふ。そこで改めてもう一度、盆の行事の上に見られる新たな特徴を列記して見るならば、一つには外精靈《ほかじやうりやう》の爲にするほかひ、是は必ずしも外來宗教によつて教へられた新たな行法でなかつたか知らぬが、それを盆の先祖祭の條件とし、又は準備もしくは隨伴の儀式として、其他の祭典には段々にこれを必要としなくなつたことは變化である。此爲に十六日早曉の精靈送りなどは、美しく花やかなばかりで、何か家庭の情愛からは疎いものになり、いはゆる御齋日《おさいにち》の意味が理解しにくゝなつた。

　二つには荒忌《あらいみ》の靈の祭を、別にしようとした動機がちがつて來たこと、新たに世を去つた人の喪の穢れを、既に清まはつたみたまの祭に近づけまいとした心遣ひは、今でも荒棚の構造の上に現はれて居て、或は此棚を軒の端に設けたり、又はわざと今年竹《ことしだけ》を柱に用ゐて、それを青葉で包んだり、成るべく常の魂棚とちがへようとする例もまだ多いのだが、後々は是を法事の一つの如く、親戚故舊が力を貸すやうになつて、所謂新盆の供養が盛んになつて來た。死穢の恐怖が我々の弱味であり、それが同時に又念佛宗門の、浸潤する機會でもあつたことは疑はれないが、更に他の一方には無縁の遊魂と對立して、特に我家のほとけを款待しなければならぬといふ心持、殊に肉親の盡きざる哀慕が、次第に此風習を助長したものと思はれる。盆は田の水や草取の勞苦も一應かたづいて、靜かに稻の花の盛りを待つ樂しい休息の時であつた筈なのに、是を寂しい感傷の日としてしまつたのは、必ずしも單なる季節の爲では無い。いはば此日の大切な訪問者の中に、現世の絆のなほ絶ちきれず、別離の涙のまだ乾かぬ人々が、まじり加はつてしかも正座を占めるやうに、考へる人が多くなつた結果であつて、忌と祭との古來の關係を思ひ合せると、是は恐らくは亦一(94)つの近世の變化であつた。

　

　　　　　　　五一　三十三年目

　

　以前は事によると荒忌の靈だけは、日をちがへ人を變へて、別の席で供養をして居たこと、ちやうど荒年の初みたまの如くでは無かつたかと思ふが、それにはまだ確かな證據が無い。たゞ現在のみたまの飯の作法に、強ひて初春の祝ひ事から、分離させようとする傾きの見られるのが、或はもと二つ異なる式のあつたのを、後々合併した形跡かとも見られるだけである。そこで問題にしてよいのは荒忌の期間、死後大よそどの位の年數を過ぎたならば、家の先祖として一樣にめでたい祭をしてもよいと、考へられて居たらうかといふことであるが、此點に關しても曾ては明白な境目があり、今日はもう追々と判らなくなりかけて居る。それが私などから見れば、盆の魂祭の第三の變化である。

　古風な地方の鄭重な家では、新盆は一年で終るものとはまだ思つて居ない。第二年目の同じ季節にも、やはり臨時の棚をかいて、幾分前囘より簡略な供養であるが、少なくとも常の年の祭り方とはやゝ變へて居る。しかし三周忌もまだすまぬ場合が有るのだから、勿論是を以て一つの境と見て居るわけでは無い。普通の方式を以て先祖と共々に祭つては居るものゝ、やはり盆の來るたびに思ひ出すのは、新たにほとけとなつた人たちのことで、その悲しみを記憶する者の居る限り、是が相應に永い間續くのである。いはゆる新盆を盆の重々しい行事と見る結果は、追憶はどうしても身に近い死者、即ち新しい御魂の方へ片よらざるを得ない。それが昔の先祖祭と、次第に異なるものとなつて來た又一つの點と、私などは考へて居る。

　「先祖になる」といふ言葉を、前に私の紹介したのとは全くちがつた意味で、使つて居る處が大和の吉野地方、又は河内南部の山村などには有る。人が亡くなつて通例は三十三年、稀には四十九年五十年の忌辰に、とぶらひ上げ又は(95)問ひきりと稱して最終の法事を營む。其日を以て人は先祖になるといふのである。是はたゞ單に一括して先祖代々と謂つて祭るからといふやうな理窟では無しに、斯うして個別に年囘を訪らふ間は、まだこの地方の住民たちの、先祖といふ概念の中には包むことが出來なかつたのである。北九州の或る島などは、三十三年の法事がすむと、人は神になるといふ者もある。土佐でも御子神《みこがみ》に奉仕する家の主人だけは、この期間を短縮して六年又は三年で神になることが出來ると謂つて居た。即ち喪の穢れから全く清まはり、神として之を祭つてよいといふ意味であつて、神職や巫女の家々には、さういふ信仰が古く有つたらしいのである。年忌の終了を以て先祖になる日としたのは、是とたしかに關係があらう。

　三十三年の法事がすむと、位牌を川に流すといふ習はしも東北には有つた。それよりも一層はつきりして居るのは南の島々の例で、その各地の小さな異同を、比較して見たならば得る所が更に大であらうが、先づ沖繩の本島に於ては、三十三年忌を境にして靈が御神《おかみ》になると信じられて居る。御靈前といふのが先祖棚、即ちこちらで佛壇といふものに當るのだが、舊い家ではそれと竝んで上の方に別に御神の棚があり、この際に御靈前の位牌の文字を削り取つて、それをその御神の棚に納めるのださうである。御靈前への供物は生人に進めるものと同じであり、御神には毎年二度の麥稻の祭の時に、精進の料理をこしらへて供へるといふ。喜界島では先祖をウヤフジと謂ひ、盆にウヤフジを祭ることは同じだが、三十三年を終れば一纏めにした供物をするに反して、それまでの間は一人々々毎に、一前《いちぜん》の食物を供へることにして居る。

　つまりは一定の年月を過ぎると、祖靈は個性を棄てゝ融合して一體になるものと認められて居たのである。是と同じ考へ方が中央部にも有つたといふことは、此方面からはまだ立證し得ないが、少なくとも三十三年はこちらでも大きな區切りであつた。弘い地域に亙つて一致して居る點は、この最後の法要の日、形のかはつた大きな木の塔婆を立てることで、四國や中國ではたゞ四角な棒だが、それより東の方に來ると葉附塔婆、うれ附塔婆又は生塔婆《いきたふば》などゝい(96)ふ名で、頂上に枝を殘した木を用ゐること、會津のホトケ棒と同じなのが多い。樹種は松杉榊楊、地方によつてほゞ定まつて居り、稀に其木の根づくことがあると、死者が生まれ替つたしるしだと甲州などでは謂つた。外南部《そとなんぶ》の方では葉や枝を附けず、たゞ二叉になつた木を立てるのも多いが、やはり三十三年經つともう何處かに生まれ替つて居る、其子がすら／＼と伸びて榮えるやうに、斯ういふ高い木を立てるのだと解説せられて居る。信州の上伊那郡には、靈が鳥になつて此木から天に昇るのだといふ人も有るさうだが、是などは或は新しい空想かも知れない。神になるといふのと、生まれ替るといふのとは、必ずしも兩立せぬ考へ方では無い。死後或る期間に再び人間に出現しなかつた靈が、永く祖神となつて家を護り、又この國土を守らうとするものと、昔の人たちは考へて居たのかも知れない。三河北設樂郡の山村などには、ほとけは三十三年で體を洗ひ神になると謂つて、川から枕石を一つ拾つて來て、氏神樣の傍に竝べる風習もある。ともかくもそれほど久しい後まで行く處も無しに、たゞ年忌のとぶらひを當てにするやうな靈は、我が民族の固有信仰に於ても、想像することが出來なかつたのである。

　

　　　　　　　五二　家々のみたま棚

　

　盆の祭の第四の變化は、御先祖といふ民間の言葉が、人によつてやゝ其意味を異にするやうになつて來たこと、是には勿論文字の知識、即ち字面から直接に語義を汲み取らうとする者が、多くなつたからといふことも考へられるが、又一つには盆の魂祭が、新たに靈界に入つた身近い人々の追善に、重きを置くことになつた結果でもあつた。去年や一昨年の新精靈で無いまでも、聲音面ざしのまだ消え殘つた、別れて程も無い故人たちを、先祖と言つて拜むことは大抵の者には出來ない。もとは先祖棚といふのが有りふれた名であつて、今もさういふ處は端々には幾らもあるのだが、それは何と無く似合はしからぬものになつてしまつた。佛壇といふ名なども考へて付けたもので無く、或る家で(97)は小さな持佛の像をそこに安置し、又或る宗派では特に掛軸の頒布に力を入れ、それを正面に据ゑて、位牌をその臣下の如く竝べて居るのも有るが、他の多くの場合は深い思案も無く、うちのほとけ樣を祭るから佛壇といふのだくらゐに、解してすまして居る者もあつたらうと思ふ。

　さうしてその誤解の結果は今になつて、思ひ掛けない方面に現はれて來たのである。佛法を離れた家々では、何はさし置いても先づこの佛壇と謂ふものを取片付けた。三十三年のとぶらひ上げもまだすまぬ靈位を、神と同じ列に配することは古い方式で無い。その感覺が暗々裡に働いて、爰に親を祭つて居ない家といふものが出來るのである。東京から遠くない或る田舍をあるいて見ると、氏神社の境内に祖靈社といふ石の祠《ほこら》が幾つか有る。此地方には神道の學問が夙く起り、いはゆる廢佛の家が少なくなかつた。それが近年ぽつ／＼と此小宮を建てたのださうである。是は色々の點から我々には興味の深い現象で、現に同種の傾向は神道の講説とは關係無しに、他の多くの地方にも見られ、前に掲げた三州山村の枕石の例も其一つだが、それ等は悉く荒忌《あらいみ》の穢れから、すでに清淨化したものだけに限るのであつた。然るに爰のは之に反して、死後半歳十箇月、まだ新しい悲しみに在るものさへ、この神域へ移すことが有るといふのである。どうして其樣な畏れ多いことをするのかと聽いて見ると、何分佛壇が家には無いので、他には祭るべき場所も得られず、斯うして居るのだと正直に答へた人もあつた。つまりは佛壇といふ名がある爲に、之を全廢したのがいけなかつたのである。もつと強くいふならば、佛教の教化の行渡るよりも前から、家には世を去つた人々のみたまを、新舊二つに分けて祭る方式があり、又その信仰があつたといふことを、忘れてしまつたのが惡いのである。人すらいやがるやうな新しい喪の穢れを、好んで氏神の受入れたまふわけが無いとすれば、是は事實に於て荒みたまの行き處を塞いだことになるのである。古い感覺を持ち傳へた人々の、容易にその流義に從ふ氣になれないのも、寧ろ當然のやうに私には思へる。

　もしも佛壇を先祖棚と呼びかへることが、若い精靈も有るので似つかはしくなかつたといふならば、もう一つ前に(98)戻つてみたま棚の名を復活してもよかつたのである。但しこの語にも永い歳月の間に、やはり少しづゝの意味の食ひ違ひが現はれて居て、土地によつては現在の用ゐ方を訂正しなければならぬものがある。正月中の忌詞としてで無くとも、佛壇をみたま樣と謂つて通用する處は、今でも比較的多からうと思ふが、なほその以外に神棚をさういつて居る例が薩摩などには有る。或は普通の神棚とは別なのかも知らぬが、ともかくも是は佛壇の外であつて、家が分れる時にも一方は隱居に持つて行くことがあるが、みたま樣だけは必ず本家に留めるといふ。一方東北にはもつとはつきりした例が、盛岡附近の舊家などには有つた。即ち此家では神棚佛壇以外に、更にみたま樣と稱して先祖の祭をする棚が出來て居る。此風習は必ずしも珍しいもので無く、たゞ今まで私たちが心付かずに居ただけかとも思ふ。最近始めて知つたのは上州赤城山下の北橘村に、やはりこの第三のみたま棚をもつ舊家があつた。場所は神棚と向き合ひの別の棚で、高さは同じらしいがまだ確かでない。師走の十三日の煤掃をした晩から、此棚でみたま樣に燈明を上げはじめる。その供物は餅になつて居るかも知らぬが、やはり新年のみたま祭を、この棚に於て行つたものと思はれる。

　

　　　　　　　五三　靈神のこと

　

　神とみたまとが、現在はすでに二つの異なるものと、考へられるやうになつて居るのである。神祇の御靈といふ言葉が古い記録に有るのを見ても、國の最初から斯うであつたと信ずることは出來ぬのだが、それがいつの頃から始まつたかといふことは、人の心の奧底の動きであるだけに、確かめることが恐らくはむつかしいであらう。しかし少なくとも是を上下の段階と認めて、條件順序を履んで移り進むものとしたのは、もと／＼人間の設けた制度である故に、記録の上からでも大よそ其時代を知り得られる。さうして格別に古い世の事でも無かつたやうである。死者の靈魂を敬ひ拜み、木を立て清き飲饌を捧げて、之を祭るまでは何人にも許されて居りながら、又その祭の方式には何の變り(99)も無いに拘らず、單に其靈が曾て人であつたといふ理由を以て、之を神とたゝへて拜むことだけが、今よりもなほ遙かにむつかしかつた時代が有るのである。それがちやうど神道發達の一つの時期、即ち氏とも産土《うぶすな》とも關係の無い、他處の大きな御社に參詣して、人が思ひ／＼の祈願を籠めるやうになつた時と、大よそ一致するのは偶然では無さゝうである。學者に説明の出來ないさま／”＼の小さな神々が、家の内外に無數に取殘されることにはなつたけれども、とにかくにこの一つの時代を境にして、神は愈々高く尊く、いはゆる神人の間隔は著しく遠ざかつて來たのである。

　人を新たに社に祭らうといふには、先づ靈神の稱號が付與せられるのが、中古以來の習はしであつた。もとは此語にそんな意味は無かつたのだが、是が名になると神よりは一歩手前のもの、さうして普通のたゞ靈といひ又みたまといふものからは、特に高められた地位と解せられて、こゝに古人の全く想像しなかつた新たな階級制が打立てられたことになるのである。實例は數多いがさういふ中でも、伊豫の有名な和靈樣《われいさま》の創立史などは、殊に適切にこの時代思想を表示して居る。山家《やんべ》清兵衛は正義の士で、深い恨みを含んで横死した人であつた。死後百年ばかりも過ぎて其靈が大に祟り、次第に民衆の畏服する所となつたのだが、之を靈神の名を以て祭つて居た間は、なほ昔の憤りが消え盡さず、温和の�ｺ澤は十分に發露しなかつた。そこで改めて大明神の神號を奉つて、終に現在のやうな大きな信仰の基礎を築いたといふことである。

　しかし斯ういふ考へ方は、必ずしも汎く一般の間に徹底したわけでも無く、多數はなほこの差別には心付かずに、拜みもすれば又信心もして居る。たとへば關西の和靈大明神に對して、關東では佐倉の宗吾さんが、示現の形に於てよく似て居るが、此方は今でも靈堂と謂つて居るから、神社の系列には加はつて居ないので、しかも祟りのそれほど烈しかつた靈であるならば、祈願もかなへて下さるにちがひないといふ信頼が、年と共に強くなつたことは、雙方全く同じなのである。さうかと思ふと他の一方には、御靈今宮又は若宮等の名によつて、明らかに人を神に齋《いは》うたといふ例が又無數にあつた。その一部は神社として公認せられて居るが、殘りはまだ家々の私祭に屬し、神とも靈神とも(100)定め難い?態に在るのである。他日是等の民間の事實が、ほゞ一通りは世に知られて來たならば、必ず我々の神社制度は確立すると思ふが、今はとにかくにその端々に於て、まだ境目のはつきりとせぬ部分が有ることを免れない。殊に名稱には自然に生まれたと言つてよいものと、外から付與せられて考へも無く之に從つたものと、中味は變つて居るのに元の形を守るものと、三つが入り交つて一段と理解を妨げようとして居る。物に最初から複雜を以て始まるものはめつたに無い。曾ては今よりもずつと單純な信仰?態があつたのだらうといふことを、寧ろこの神棚とみたま棚との對立などが、我々に心付かせるのである。

　

　　　　　　　五四　祭場點定の方式

　

　大きな問題がまだ背後には控へて居る。それを此ついでに説いてしまふことは不可能だが、家の祭としては一言は觸れて置かねばならぬ。神棚魂棚などゝいふ棚なるものゝ起りは、家の一區割を祭を行ふに適はしい清淨な場處とする爲で、ちやうど屋外の祭に砂を持ち、土を盛り上げるのと同じ趣旨だつたらうと私は思ふ。關東東部に今も規則正しく行はれて居る村々の春祭、普通にビシャ又はオビシャ（御歩射）と呼ばれる合同の日待には、仲間の家々を順まはりに使ふのだが、是には必ず打板《うついた》といふ廣い板を牀の上に敷いて、すべての供物と飾り物をそれに竝べ置くことにして居る。神社の境内で臨時の祈願祭をする場合にも、やはりやゝ小型の木の臺を造つて、四隅を以て樹の枝につり下げ、それに供物をしてゐる例は東京の郊外でも?々見られる。サンバヤシと稱して米俵の蓋とよく似た圓いものを藁で造り、それを祭に用ゐるのも略形の一つかと思はれる。しかし是がもし屋外であるならば、豫て靈地として一區劃を指定して置き、之を尋常の用には宛てぬことも出來る。現に屋敷の片隅に石を置き榎木を栽ゑて、そこを祭場ときめて居た農家も多い。しかし祭が家の中で營まれる場合には、どうしても何か斯ういふ常は使はぬ板を以て、其部(101)分を覆はなければならなかつた。それが建築技工の進歩によつて、次第に常設の棚を用ゐるやうになつたのである。

　以前の民屋の素朴な構造を考へると、先祖を祭る場處も之を外部に求める必要が多く、又は少なくとも家の内外いづれにするかといふことが、大きな問題では無かつた時代が有るのである。冬の夜分の忌籠り、又は祭に伴なふ神態《かみわざ》と直會《なほらひ》が、長い時間に亙る場合などは、雨露を凌ぐほどの假屋を構へる代りに、成るべく住居の一部を使はうともしたか知れぬが、齋忌の慎みの嚴格であつた間は、是にも色々の制限と不便とがあつたので、現に今でも神が祭られる奧の一間だけは、成長した婦女の入ることを禁止し、又は神棚は主人の座の背後に在つて、從つて女はその横座の後を通り拔けることを許さぬといふ家が、田舍にはまだ多く殘つて居る。いはゆる床の間に對する色々の行儀作法にも、そこを神々の御床と見たときに、始めて成程と合點の出來るものが有るのである。

　或は屋外に指定せられた祭場の方が、一般に古いものだつたといふことまでは出來るかも知れない。しかし單なる場所の内と外とによつて、そこに祭らるゝ神樣の御地位、殊に段階までを推測ることは實は出來なかつたのである。氏神が本來氏の先祖を祀るものであつたことは、前人も?々之を説き、又その著しい實例が有るのみならず、今でも地方によつては家々の先祖たちが、氏神となつたものと思つて居る人は多いのだが、是を總括的に受入れられないやうな事情が、すでに幾つも現はれて居る爲に、現在は是が日本の固有信仰の、最も解釋し難い問題にならうとして居る。神道をたゞ單なる過去の事蹟と見てしまはうとする者で無い限り、たとへ力及ばずとも、少しづゝは是に近よつて見ようとしなければならない。第一の疑ひは家に先祖棚があり、先祖祭を營むのが普通の慣行である以上は、是と氏神の御社の祭とは二重になる虞れは無いかといふことで、此點は自分が或る程度まで説明して居る。即ち氏は繁榮と共に次々と分れて行つて、之を統一する中央の力が、弛み衰へ又は消え去り、一方に分家別家は各々その初代以下を、先祖として祭るを以て足れりとするやうになつて居るのである。この考へ方は、今後新たに先祖にならうとする人の意思を以て、改定することも決して不可能では無い。つまりは本家嫡流のすでに跡絶えた場合に、ひたすらにそ(102)の特權を侵すまいとする消極主義をやめて、何か之に代り得るやうな方法を立てるとよかつたので、實際又其方法は多くは立つて居る。現に家の退轉や不心得者の相續によつて、もう祭られなくなつた先祖は多いけれども、氏神の御社だけは國の保護もあつて、もう家と共に無くなるといふ場合が少なくなつたのである。

　

　　　　　　　五五　村の氏神

　

　しかもそれが又第二の疑ひの種にもなつて居るのである。氏神とは言つても數箇の氏、苗字系統を異にした村民が寄合つて、一つの氏神の祭を奉仕して居るのは是はどうか。名のみは氏の神でも今はもう別のものを、さう呼んで居るのでは無いかと、思ふ人も多くなつて來て居る。言葉は流行するからそれも絶無とは言へぬが、多くの村の氏神の歴史はまだ判つて居り、現に又甲信地方の齋神《いはひじん》のやうに、卷《まき》毎に各々一つの神を祀つて、それを氏神といふ地方も、國の南と北とには相應に弘いのである。さういふ幾つかの一門の神が、合同するに至つた徑路も尋ねられる場合が多い。事實は祭の合同と言つた方が當つて居るかと思ふが、つまり同じ日に同じ場處に於て祭をして居るうちに、段々と神も一つの如く、感ずる者が多くなつたのである。それには今一つ、次に述べようとする原因も加はつて居るだらうが、主たる動機は祭を盛大に、又樂しいものにしたいといふ願ひであつた。村には二つ以上の家筋の者がまじり住んで居ても、其間には往來が有り縁組があつたのみならず、又門地の差等が有つて一方はやゝ重んじられて居た。通例はさういふ有力な家の祭場を、他の家々が共に使ふといふことになるので、祭の日時などは大抵始めから近いものだつたらうと思ふ。或は雙方の折合ひをよくする爲に、別に新たな地を相し、社殿を建築するやうな場合もあつたか知らぬが、それよりも多いのは一方はすでにこの施設が具はつて、近世風の祭式を擧行し得たに對して、他の小さな氏神は臨時に假屋を作り、もしくは露地に幣束を樹てゝ、まだ古風な質素な祭り方を續けて居た場合などであらう。(103)ともかくも是が一つの區切りとなつて、以前は可能と考へられて居た次々の神の追加が無くなり、次第に各家の先祖棚の祭と、二つ別々のものゝやうに考へられて來たことだけは爭はれない。

　それからもう一つ、人が現在の氏神は氏の神ではあるまいと、思ふやうになつた原因は御社の名、即ち八幡北野賀茂春日等、名ある國内の大神を勸請したといふ氏神社が、事の外に數多いことであつた。是は如何とも解し難い不審ではあるが、この現象は既に一家氏神、即ち同族の間ばかりで年々の敬祭をして居た頃からあつたことで、必ずしも村の合同の社を設ける際に、始まつたものとは限らなかつた。私の解する所では、是はたゞ我々の氏神が、もとは一段と人間に近く、生前には各々國内の大神を仰ぎ敬ひ、事あれば?り願ひ、日頃も常に信じ頼つて居たこと、言はゞ自らの力のなほ限りあることを認めて、汎く國民一般の信仰を背景とするに非ざれば、子孫擁護の志を遂げ得ざるものゝやうに、既に生前から感じて居た結果と見られる。是を民族固有の觀念とは言はれぬだらうが、少なくとも遠い上世の統一政策の、次第に效を奏したものと言ふことは出來るのである。近頃の合祀は取合せが無茶である故に、一々神の御名を列擧する必要もあつたらうが、此方は某氏の祭り申す八幡樣、又は某の地に迎へ申した天神樣稻荷樣といふだけで、是に如何なる人の靈の參加して居るかゞ、もう十分に明白だつたのである。さうで無かつたならば、斯ういふ萬人の共に拜む一國の大神を、まちがへても氏神といふわけは無いのである。多くの氏神社では當然の祭主の家が亡び、又は協同の座衆が解體して、よその神職の奉仕を要するものが多く、この人たちには又鎭守と氏神との成立のちがひを考へて見る機會が無かつた故に、少なくとも國のまん中の一區域だけでは、今は確かに最初とは異なる意味で、氏神といふ語を使つて居る。しかしそれを訂正するまでは私の書の役目で無い。爰にはたゞ忌と穢れとを嚴重に遮斷して、清く祭らねばならぬ先祖のみたまの爲に、屋外の一地を點定したことが、今ある十萬餘の國内の御社の、最大多數のものゝ起りであつたといふことゝ、それと家々の神棚みたま棚とは、同じ一つの系列の上に立つそれ／”＼の時代相で、寧ろ前者のやゝ家庭の生活から遠ざかるにつれて、第二第三のものが必要になつたかといふことで(104)ある。是とても勿論一つの假定であつて、もつと明確な解説が出ればよいと、思ふ心は私も持つて居るが、たゞ今日の如き入組んだ信仰の行事、又幾つとも無い施設の重複が、古い世の姿のまゝだとは、自分だけには考へることが出來ないのである。

　

　　　　　　　五六　墓所は祭場

　

　そこで話の順序はやゝ豫定とちがつたが、墓所が又一つの屋外の祭場であつて、是と氏神の社とは神佛の差では決して無く、もとは荒忌のみたまを別に祭らうとする、先祖の神に對する心づかひから、考へ出された隔離では無かつたかといふことを述べて見たい。死後に我々は何處へ行くか。又は靈魂は日頃は何處に留まつて居るか。それは到底知り究められぬとしても、少なくとも前人は通例どう考へて居たらうか。この點が今日ではさう悠長な閑問題では無くなつて居り、しかも無意識ながらもなほ我々の行動を支配せんとして居る。その考へ方にも勿論變遷があり、どれが最も多いか又古いかといふことを決するのも容易では無いが、ともかくも丸々考へて見ないといふ人を除けば、墓へ土の下へといふのが、我邦では最も新しい考へ方で、それは主として盆の魂迎へに、墓所から精靈を誘導して來る風習に支持せられて居る。尤もその以前にも地下をあの世と見る觀念は書物にも見えて居る。又生前の姿のまゝで、隱した場所を以て終《つひ》の住家の如く、想像する者も有つたではあらうが、實際のところは日本人の墓所《むしよ》といふものは、元は埋葬の地とは異なるのが普通であつた。

　我々の調査團などでは、當らぬ名かも知らぬが此風習を、兩墓制と呼ぶことにして居る。即ち一方はいけ墓・上の墓・又棄て墓とさへいふ土地があつて、多くは山の奧や野の末、人の通らぬ海端などに送り、やがては不明になり、又さうなるのを好いとして居る處もある。之に對して他の一方には參り墓・祭り墓、もしくは内墓とも寺墓とも謂ふ(105)のが有つて、多くは寺に托し又參拜に都合のよい設備をして居る。遺骸を永久に保存する慣行が、一部上流の間に存したことは確かであるが、是と同種の葬法は民間には行はれず、しかも石を勒して記念とする風も一般では無かつたので、中古以前の常人の葬地は、其痕跡が甚だ幽かなのである。いはゆる兩墓制の普及する前後には、二種の單墓制があつて是と對立して居た。その一つは葬送のみがあつて碑を建てぬ場合、是にも樹を栽ゑたり石を置いたりして、標示をして居たのかも知らぬが、それを記憶する者が大體無くなる頃には、自然にその場處も忘れられてしまふのである。千年以上も使用せられた京都四周の所謂五三昧が、あれ位の小さな面積で間に合つた理由は、人は肉體の消滅を避くべからずとしたのみか、寧ろ消滅によつて靈魂の來去を自由にしたいと、願つて居たからではないかと思ふ。

　葬法の變化は主として新しい都市、又は人口の日に加はるべき生産地に始まつたものゝやうである。斯ういふ土地では、始めから共同の埋葬地を區劃せず、個々の廟所を以て直接に收藏の用に宛てた。この第二の單墓制は結果に於て、却つて土地の大きな費えとなり、僅かな年代を重ねるうちに、整理し難い紛亂の相を呈したのみならず、一方には又我々の先祖祭の方式をやゝ不明にした。同じ關東の平野の間でも、今なほ墓前に簡略な棚を設けて、盆には參つてほかひをする村が有るのに、東京などでは盆中は墓は空家だと考へて、之を省みる者が無いのである。祭場を追々に家の中に移したことは、祭を懇ろにする人情の表はれとも見られるが、墓を祖靈の宿りの如く考へながら、之を迎へに行くといふ十三日の祭はあつて、十六日早天の盆送りに、墓へは參らぬといふ不審を抱く者も無くなつて居る。つまりは石塔が又一つの古い靈位であつて、盆にはもと茲へみたまを迎へて祭つたのが、後々第二の祭場を家のまはりに設けることになつて、それが漸く不用になりかけて居ることを知らぬのである。しかし外國思想の影響といふものが問題になるとすれば、この埋葬地の禮拜などは、その最も徹底したものゝ一つてあつた。石碑はもと／＼墳墓では無かつたのだが、兩者を一つにする習はしが偶然に盛んになつた爲に、古來の葬法が何か粗暴なものゝやうに感じられ、孝子貞女の墓に對する考へ方が、よつぽど支那などの風に近くなつて來た。さうして死の聯想から出來るだけ(106)早く離脱して、清い安らかな心で故人の靈に對したいといふやうな、願ひを抱く者が昔は多かつたことまでが、もう段々と不可解な話にならうとして居る。神と先祖との間には、越え難い境の溝、又は幾つもの段階が出來た。どうして氏神樣の「みたまのふゆ」が、特に氏子にばかり篤いのかといふことを、説明し得る者がもう少なくなつたのも已むを得ない。

　

　　　　　　　五七　祖靈を孤獨にする

　

　内外二つの信仰の何分にも折合ひにくかつた點は、一方が荒忌の穢れを畏れつゝも、それを許さるゝ限り速かに清まはつて、早くあの世この世の交通に進みたいと念じて居たに對して、他の一方には始めから觸穢《しよくゑ》の制限を超越した法師といふ者が、いはゆる新精靈の供養を引受け、我々の不安を濟つてくれた代りに、さういふ?態をなほ出來るだけ永く、百年又は其以上にも續けさせようとして居たことであらう。法師たちの供養の最も期待せられた效果が、人を淨土に送り遣るに在つたのだから、それは生死の隔離であり、乃ち我々の必ずしも希はざる所であつた。現世にまだ／＼澤山の心殘りを持つ者が、どんなに佛法の盛行した時代にも、絶えなかつたのは國柄である。それを悉く妄執の名の下に一括して片付けようとしたのは、出來ない相談だつたことがやがて判つた。三十三回忌のとぶらひ上げといふことは、或は雙方からの讓歩であつて、其前は今少し短かつたのかとも思ふが、ともかくも是が大よそ好い頃合ひの區切りと認められ、それから後は人間の私多き個身を棄て去つて、先祖といふ一つの力強い靈體に融け込み、自由に家の爲又國の公けの爲に、活躍し得るものともとは考へて居た。それが氏神信仰の基底であつたやうに、自分のみは推測して居たのである。

　佛法は是等民族固有の觀念をよく理解して、是と調和し習合することを、古來一貫の方針として居たやうであるが、(107)それでも尚傾向の徐々に分岐することまでは、自ら抑制することが出來なかつた。村の氏神の祭典は尊重したけれども、家々の先祖祭や墓の管理には始終口を出した。殊に身近い近頃の死者に厚くすることは、人情の自然にも合したので、其説が行はれやすかつた。古いといふことに對しては、もと／＼我々はごく漠然とした知識しか持たなかつたのである。それを段々と今居る者の父母とか祖父母とか、至つて近い身のまはりへ引寄せて、我から進んで家の壽命を切詰めたことは、過去はさて置いて、未來の爲にも損なことであつた。遠い先祖の降りて來て祭られることが、同時に又今の我々の永く此國土に去來し得ることを、推理せしめる因縁ともなつて居たからである。それよりも大きな障りになつたのは人の名をさすこと、家にすぐれた大事な人が有つて、其事蹟の永く傳はるのはよいことであり、子孫の勵ましにもなることは確かだが、そればかりが餘りに鮮かに拜み祭られる結果は、幾多の蔭の靈を、無縁とも柿の葉とも言はるゝやうなものに、落すことになるのであつた。活きて居る間は一體となつて働き、泣くにも喜ぶにも常に其一部であつた者が引離されて、歴史はいつも寂しい個人の靈のみを作ることになつて居る。それも必ずしも萬人の仰ぎ認める者のみとは限らず、多くの孤靈の中にはたゞ家々の私情によつて、支持せられて居る者も多いのである。石塔がもとは埋墓《いけばか》とは獨立した祠廟であつたことは前に述べたが、是を当人にも許されたのは新しいことで、別に法令の出た樣子は無いが、是が勝手にどし／＼と建つことになつたのは、明治に入つてから後の事だつたらしい。私などの記憶する所では、もとはたゞ一基の先祖代々之墓といふのが非常に多かつた。日清戰役はあの時代としては絶大の事件で、それに出て行つて陣歿した若者の石碑が、頻りに村々の路の辻などに出來たのが、個人の爲に立派な墓石を作る一つの端緒であつた。それから後は資力の有る人々が、競うて斯ういふ擧に出づるやうになつたかと思はれる。それも國土の面積の許す限り、支援しなければならぬ良風かも知れぬし、又私の問題の範圍内でも無いが、何にもせよ斯うして永い世に名を殘すといふことが、一方には無名の幾億といふ同胞の靈を、深い埋没の底に置く結果になつて居ることだけは考へて見なければならない。元からさうであつたといふことは言はれぬのである。我々の先祖(108)祭は、一度はかつて此問題をあらましは解決して居た。家が斷絶して祭る人の無い靈を作り出すことだけは、めい／＼の力では防がれなかつたが、家さへ立つて行けば千年續いても、忘れられてしまふといふものは無い。少なくともさう信ずることがもとは出來たのである。此點にかけては我邦の神の道よりも、佛教の方がなほ多く現世に偏して居る。國が三千年も其以上も續いて居るといふことは、國民に子孫が絶えないことを意味する。それがたゞ僅かな記憶の限りを以て、先祖を祭つて居てよいとなれば、民族の縱の統一といふものは心細くならざるを得ない。それを佛教が省みなかつたとは言へまいが、少なくとも盆や墓所の祭り方を見て居ると、重きを其方に置かなかつたとまでは評し得られる。

　

　　　　　　　五八　無意識の傳承

　

　盆の祭は佛法の感化によつて、明らかに變形して居るのであるが、それが現在もなほ盛んであり又複雜になつた御蔭に、古い習はしの若干はまだ其間に保存せられて居る。我々が書物の通説と學者の放送をさし置いて、是非とも先づ年寄や女兒供の中に傳はるものを求めようとするのも、尋ねるのが痕跡であり、又無意識の傳承だからである。さうして今日の普通教育によつて、最も早く消えてしまふものも、斯ういふ方面に散亂した、文字と縁の薄い資料だからである。事があまりにも小さく又鄙びて居るといふ理由が、却つて幸ひに外部からの攪亂を防衛してゐたことになつた。村に生まれた人々も、之を我土地だけのをかしい風俗としか思つて居なかつた。是が新たによその例と比較せられるに及んで、始めてさう輕くは視られぬ文化史上の事實となつて來るのである。

　例を新盆の花やかなる棚飾りなどの外に於て、極めて普通のものから拾つて見るのがよいと思ふ。たとへば親子兄弟皆健やかに日を送り、近年暫くは不幸も無かつたといふ家は多いのだが、さういふ家々の先祖祭は、實はよつぽど(109)樂しい待遠なものだつた。盆を待つ心構へは何よりも食物の支度、家屋家財の拭き磨き、新しい晴着の用意に次いで、子供の戒められるのは蜻蛉やばつたを捕るなといふこと、喧嘩をするな、泣いたりわめいたりしないこと、それを盆さまがひどく嫌はつしやると、教へて居る家は決して少なくない。或は又盆には常のやうな仕事をしてはならぬこと、即ち休みは單なる勞働の免除では無くて、物忌の一つの慎しみであつた。裁ち縫ひ洗濯などならば忙しいからとも見られるが、牛馬を飼ふ家でも早くから草を苅りためて、盆中は苅りに出なかつた。精靈樣の足を傷けるといけないからと、十三日の魂迎へに先だつて、もう里近くに來て居られるやうなことを言ふ人も有る。さうかと思ふと一方には盆草苅り又は盆路造りといふことがあつた。大抵は七日又はその以前に、山から降りて來る一筋の小徑を、村中が共に出て苅拂ふので、それと同時に墓薙ぎといふこともするから、是が高い處から石塔の有るあたりまで、みたまの通路をきれいにして置く趣旨であつたことが判る。

　七月十一日の盆花採りの行事は、前に正月の松迎へと對照して述べて置いた。もとは到着の期日が今少し早くて、十五日の黄昏の松の火以外に、別に何等かのそれを確かめる兆候が有つたのかも知れない。京の松原の珍皇寺などでは、槇の小枝によつて精靈を迎へ、それを一晩は家の井戸の中に、息《やす》めて置くといふ話が有名になつて居るが、日はちがつて居ても稻荷山の驗《しるし》の杉、愛宕山の樒《しきみ》、又は津輕岩木山の松の小枝のやうに、靈山から靈を迎へて來る方式は皆似通うて居る。乃ちあの桔梗の紫の蕾、又は粟花《あはばな》の黄なる花の穗に、みたまの宿りを想像した時代もあつたのである。もつと珍しいのは九州の南端の田舍には、盆市に出て魂を迎へて來る風習もあつた。町の親しい店屋の片隅を借りて、盆の買物が終つた後、さゝやかな酒盛をする。それから家々の精靈部屋《せろべや》へ案内して來るのが、此地方の魂迎へになるのださうである。是などは所謂ニゼロ、即ち新精靈の場合に限られて居るが、東北では南部の八戸《はちのへ》附近に、やはり歳の暮の詰町《つめまち》に出て、みたまを迎へて來るといふ習はしが殘つて居た。祖靈が日を期して訪れて來るといふことは同じで、之を迎へる作法のみが、時代によつて色々と改められて居る。さういふ中でも市に迎へるといふことが、(110)殊に是からの研究者には興味があると思ふ。

　

　　　　　　　五九　このあかり

　

　盆の十三日の魂迎への行事にも、まだ佛教の圏外に在るものが少なくはない。第一にはこの夕方の迎火を焚く處、通例は一旦參り墓の石塔の前で焚いて、其火を提灯に移して迎へて來るといふのが多いだらうが、町や墓所の遠い家で無くとも、之をめい／＼の門の口だけに焚くといふ例は幾らも有り、又は路の辻や小川の岸から、すぐに家々へ迎へて來るやうに、そこへ出て此火を擧げるものがある。もつと目に立つのは村うちが申し合せて、附近の定まつた岡の頂上に登り、そこで大きな火を燃すもので、それが今では小兒の役となつて居る故に、彼等にも手に／＼小さな松明を持たせ、それを振つたり投げ上げたり、又は聲高くわめいたりすることを許して居る。それで半分はもう遊戯のやうになり、其爲に別に門前や墓前の火も焚いて居るやうだが、曾ては是が成人の眞面目な作法であつたことは、まだ實例も有るから想像に難くない。切籠《きりこ》や岐阜提灯の普及する以前、竿の頭に高燈籠を揚げ、又は大きな柱松明に火をつけて、曳起すといふことも一仕事であつたが、是とてもすべて後の考案であり、その又一つ前にはたゞ盛んな火を焚くことが、盆と正月との祭の中心になつて居た時代もあつた。それが夜の空に照り耀くのを、遠くから美しいと眺めて居た人々が、之を祖靈の道しるべの如く、考へ始めたのも至つて自然であるが、もとは此時よりももつと前に、もう來賓は着いて居られるものとして居たらしいのである。とにかくに現在は、此火が燃えて來るとすぐに、居合はす人々は昂奮して、多くは小兒の口を假りてだけれども、口々に最も素朴なる招魂の辭を唱へしめた。

　諏訪地方では盆の六日の晩にもう此火を焚いて、小兒等は之をキヤランノウと呼んで居た。たしかに「來たまはぬかよ」の地方語だつたらうと思うのだが、土地の人たちには來やれノンノウだと謂ふ者もある。島根鳥取の二縣の村(111)里で、盆の精靈をコナカレさんなどゝ謂つて居るのは、疑ひ無く「此あかり」といふ唱へごとから出て居る。今でも十三日には墓や川戸の傍に火を燃やして、

　　　盆さん盆さん

　　　このあかりでございやあし

と、何度も／＼くりかへす者があるといふことである。同じ唱へ言葉は日本海岸もずつと北の方、秋田から津輕にかけて弘く又久しく行はれて居る。古い頃の例を二つほど引くならば、寛政年間の奧民圖彙には弘前《ひろさき》附近の民俗として、

　　七月十三日の魂祭するを、ほかひするといふ。樺火とて櫻の木の皮を門毎に焚く。その焚くときの詞、

　　　おんぢいな、おんばうな

　　　べここうまこに乘つて

　　　來とうらい、來とうらい

　それから二十年ほど後の秋田風俗問?答には、此時の子供言葉を次のやうに録して居る。

　　　おんぢいな、おんばあな

　　　馬こに乘つて、べこゝに乘つて

　　　あかるいに來たうらえ／＼

　十六日の送り火の時には、勿論是を「行つたうらえ」といふのである。百數十年後の今日でも、まだ子供等はほゞ同じ文句を持傳へて居る。信州の北部各地にも、たゞ方言の僅かなさし替を以て、此唱へごとは最近まで行はれて居た。

　　　ぢいさん、ばあさん

　　　此あかりでおでやれ／＼

(112)　十六日には是を「おけえりやれ／＼」とちがへるだけであつた。上總の君津郡の例といふのは、

　　　おんぢいおんばあ、是をあかりに

　　　御茶飲みにおいでなして下され

　是が本來は僅かな子供の思ひつきで無しに、村中聲を合せて毎年の盆にくりかへし、幼い者も學び、年とつた者も思ひ出したのだとすると、古來農民の物の考へ方の上に、大きく働いて居たことは説き立てるまでもあるまい。

　

　　　　　　　六〇　小兒の言葉として

　

　他にもまだこの話によつて、自分の郷里の事を思ひ當る人は多いにちがひないが、私などの感動する點は、御先祖さま精靈さん、その他色々と此日の訪問者の名が有つた中に、どう謂へば小兒に最も親しく、又なつかしく考へられるだらうかといふ心づかひを、夙く年寄たちがして居たことである。爺さん婆さんは固より或る一組の老夫婦を、さしたもので無いことは判つて居る。先祖の中には若く惜まれて世を去つた者、又は一人殘つて老い朽ちた者もまじつて居たらうが、それを總括して何か單純な呼び名を付けようとすれば、やはり斯ういふのが子供には安らかだと思つたのである。或は大昔まだぢいばあといふ語の出來なかつた頃にも、既に是に當るやうな名が行はれて居て、それをたゞ時代と共に言ひ變へて來ればよかつたのかとも私は思ふ。少年少女には一人々々、有りし日の面影を思ひ浮べる必要も無い。又さういふことをすれば却つて記念の厚薄が出來るのであつた。たゞ彼等にはまだ現實の祖父母をもつ場合が多い故に、感覺が細かくなると、是を其まゝには高く呼べない場合が出來たらうと思ふのみである。

　關東の各處では、盆に來る御先祖だけを特にノンノヂイ、又ノンノバアと謂つて居る者がある。是などはたしかに活きて居る爺婆に斟酌した新語と思ふが、どうしてさういふのかゞ不明になりかけて居るから、もう是からは流布す(113)ることもあるまい。ノンノは日月神佛をノノ樣といふから、拜むといふ意味で附添へたのかとも考へられるが、以前はたしかに喚び掛ける言葉に、ノウノウといふことが今よりも多く、それを又新たに注意を惹かうとするとき、殊に神佛への悃願の場合に限つて、用ゐようとした者もあつたのである。南無といふ詞の兒童形のやうに言ふ人もあり、現に又佛壇をナンマイ樣、マンマンさんなどゝ言はせて居る家もあるが、それとこのノンノとは恐らく別で、後者は寧ろ今日のネェやナァ、即ちたゞ物申すの代りに、幾分か子供や婦人などが滋く使つたのかと思ふ。法師をノンノといふ方言も有るが、信州から越後にかけては巫女比丘尼、又は下級の神職をさへさう呼ぶ地方がある。察するに曾ては盆に來られる先祖に對して、ナウナウと物を言ひ掛けた名殘であらう。

　單に爺樣婆樣といふ名を付けても、之に向つて人に物を言ふやうに、話しかけることがもとは出來たのである。是も近頃は此あかりと同樣に、小兒に言はせてたゞ聽くばかりとなつて居るが、自分の熟知する中部の或る地方などは、今は世盛りの人の少年の頃まで、十三日の日の暮には墓の前で、火を焚き提灯に移してから、背へ手をまはしてぢいさまばあさま、さあ行きませうと、負ふ眞似をしたものであつたといふ。或はもつと具體的に、墓の前の小石を一つ拾つて、手背負《てじよひ》にして來る者もあつた。それからやゝ離れた村の老人には、毎年の盆の墓參りに必ず新しい荷繩を作つて、それを肩に掛けて行く者があつた。何にするのかと人が尋ねると、ほとけ樣を負うて來るのだと答へたといふことである。もとは神樣にもさうしたといふ話はあるが、ともかくも爰では御先祖だけにそれが殘つて居たのである。

　又私の聽いて居る或る武家の老主婦は、明治も中頃に近くなるまで、盆の魂祭りの日は黒の紋服を着て玄關の式臺に坐り、まるで生人に對するやうな改まつた挨拶をした。まことに行屆かぬ御もてなしでございましたのに、よう御逗留下さいました。又來年も御待ち申しますといふやうな言葉を、もつと長く丁寧に述べられたといふことである。それに答へられるともうなづかれるとも、思つて居たわけでは有るまいが、恐らくは是が代々のこの家の作法で、今日の教育とはちがつて、斯う言へ斯う思へと教へる代りに、自分で直接に實行して見せられたのであらう。私などの(114)家でも、もとは主人が袴をはいて、迎へ送りに表の口まで出た。それを形式だの虚禮だのと言つた人は、是が子供たちに昔を考へさせる機會だつたといふことを忘れて居るのである。足洗ひ水と謂つて縁側に新しい盥を置き水を張り、又は草履を揃へて置くといふなども、目的はやゝ又第二の點に在つたのかも知れない。しかもたま／＼は年とつた者などが、自分が孫であり祖父や祖母と共に居た日のことを憶ひ起し、更に又今の孫たちの自分のやうになる日を、想像して見るのも多くは此際の事であつた。

　

　　　　　　　六一　自然の體驗

　

　御先祖になるといふ言葉には、二つの稍々ちがつた意味が有ると言つて置いたが、煎じ詰めて見れば二つとも、盆に斯うして還つて來て、ゆつくりと遊んで行く家を持つやうに、といふ意味であることは同じであつた。以前は或は正月と二度、もしくは春秋の彼岸の中日その他、別に定まつた日が有つたやうに私は考へるのだが、その點はどうきまらうとも、兎に角に毎年少なくとも一囘、戻つて來て子孫後裔の誰彼と、共に暮し得られるのが御先祖であつた。死後には何等の存在も無いものと、考へて居る人々は言ふにも及ばず、さうで無くともそんな事は當てにならぬと、疑つて居る者にも是は重要な話では無いだらうが、我々の同胞國民は、いつの世からとも無く之を信じ、又今でもさう思つて居る人々が相當の數なのである。この信仰の一つの強味は、新たに誰からも説かれ教へられたので無く、小さい頃からの自然の體驗として、父母や祖父母と共にそれを感じて來た點で、若い頃には暫く半信半疑の間に在つた者でも、年を取つて後々のことを考へるやうになると、大抵は自分の小さい頃に、見たり聽いたりして居た前の人の話を憶ひ出して、可なり心強い氣持になつて是を當てにするやうになるのみか、家の中でもそれを受合ふべく、毎年の行事をたゆみ無く續けて、もとは其希望を打消さうとするやうな、態度に出づる者は一人も無かつた。乃ち此信仰(115)は人の生涯を通じて、家の中に於て養はれて來たのである。證據が無いといふやうなことを、考へて見る折はちつとも無かつたといふ以上に、寧ろ其信仰に基いて、新たに數々の證據を見たのである。

　誰でも自分の郷里だけの、珍しい例だと思つて居る一つの言ひ傳へが、北は秋田縣の八郎湖畔から、南は鹿見島縣の一つの離れ島まで、十數箇所の土地に分布して居ることを知つて、私などは喫驚したことである。昔よく稼ぐ若い夫婦者が、盆にも休まずに畠に出て働いて居ると、路を通る話し聲だけは聽えて、その話をする人の姿は見えない。折角斯うして戻つて來たのに、何の支度もして居なかつた。あんまり腹が立つから突き落して來たと言つて居る。はつと思つて胸騷ぎがして、急いで飛んで歸つて來て見ると、小さい子が爐に落ちて怪我をして居たといふ話、たつた是だけのことであり、又持つてあるく者もあるまいと思ふやうな話だが、それでも斯ういふ言葉にはつと思ひ當る人が、到る處に居たといふことは判るのであつた。或は又好意を示した人の靈に誘はれて、その家の祭に行つて見た者があつた。主人が召仕を叱り飛ばすのを聽いて、あゝいやだと言つて幽靈は歸つてしまひ、後に取殘されて其者の姿が顯はれたといふ話、是なども二三の土地の舊話として採集せられて居るのみで無く、古くは日本靈異記にもやゝ似た記事があつて、十二月晦日の祭の日にと言つて居り、又支那の近代にも同じやうな言ひ傳へがあつた。家を平和に又清淨に保つといふことが、みたまを迎へ祭る大切な條件であることを、古人は通例斯ういふ具體的な形によつて、永く銘記しようとして居た。それをたゞ珍しいと思つて聽くことが、同時に又是から大きくなつて行かうとする人たちの爲に、殊に安らかな教養の道でもあつたのである。

　

　　　　　　　六二　黄泉思想なるもの

　

　靈魂の行くへといふことに就ては、殆と民族毎にそれ／”＼の考へ方が有つて、之を人種區別の目標としてもよいか(116)と思ふ位である。たゞ進んだ國々では、新たに又幾つかの考へ方が附加はり入交り、互ひに他のものを不透明にしようとして居るのである。それを見分けるといふのが既に容易ならぬ仕事だ。まして其中のどれが眞實、どれが最も正しいかを極めるなどは、何人の力にも叶ふことで無い。さういふ出來もせぬことを企てる者に限つて、大抵はもう或る一つに囚はれて居るのである。私たちはこの大きな疑問を釋く爲にも、先づ事實を精確にしなければならぬと思ふのだが、今はそれよりも更に大急ぎで、答へを見つけなければならぬ問題があつて、それにも亦この現實の知識が必要なのである。判りきつた事だが信仰は理論で無い。さうして又過去は斯うだつたといふ物語でも無く、自分には斯うしか考へられぬといふ御披露とも別なものである。眼前我々と共に活きて居る人々が、最も多く且つ最も普通に、死後を如何に想像し又感じつゝあるかといふのが、知つて居らねばならぬ事實であり、それが又實際に、この大きな國運の歩みを導いても居るのである。どうして此の如き事實が有るのか、又有ると見るのは果して誤りが無いかといふ、小さな疑ひを先づ片付けてかゝることになつて、爰に始めてその過去の物語をも、確かめる必要が生じて來るのである。

　歴史をたゞ諳記しようとする人ばかり多いので困る。何故にこの樣な大切なことを疑つて見なかつたか。我々の精靈さまは、毎年たしかな約束があつて來られ、又決してよその家へは行かれない。行く所がきまらぬのでうろつきまごつき、測らず立寄られるのだと思つた者などは一人も居なかつた。それにも拘らず往生安樂國、早くあちらへ往つておしまひなさいと、勸め勵ますことが果して懇ろな御あしらひであつたらうか。さうして又其樣な教化が追々に、效目《きゝめ》の現はれるものと思ふことが出來たのであらうか。私等から見ると、あの棚經の言葉が陳芬漢で、死者にも生者にもよく通じなかつたので、せめて氣まづい思ひをすることが少なかつたからよいが、詳しく意味が判つたらびつくりせずには居られなかつたらう、と思つてもよい程に、寺と在家との計畫はちがつて居たのである。寒温二つの潮流の出合ひには霧が起る。まことに好い加減な説明を以て、納得して居た方にも責任が無いとは言へない。東國の村々(117)には盆の月の朔日を石の戸などゝ謂つて、此朝地面に耳をあてゝ聽くと、地獄の門の扉のぎいと開く音がするといふ話さへ傳はつて居る。即ち我々の先祖がすべて土の底に、常は閉ぢ籠められて此日を待つて居るやうに、説いて聽かせた者もあつたらしいのである。地獄がこの國土の何處かの山奧に、在るかの如く噂せられることは、老いたる凡人には心細くない話でも無かつたらうが、それでもまだ半分は古い考へ方に據らうとして居た。人の計算力の極度を示すやうな遠距離から、毎年日を約して訪れるといふことの方が、遙かに我々の想像を飛び離れて居たのである。それを何とかして調和させようとして居た所に、説教者の骨折もあつたか知らぬが、又無理なこじつけもあつたと思はれる。殊に地面の下といふことによつて、地獄に降る者を多くしたなどは、何としても殘酷な話だつた。

　

　　　　　　　六三　魂昇魄降説

　

　一つの妥協説としては、魂魄二體の分裂を言ふ者が有つた。支那では朱子が盛んに唱へたといふ話だが、無論その以前にも既に考へられて居たことゝ思ふ。我邦でこの考へ方の最もはつきりと表はれて居るのは、謠曲の「實盛」に、

　　　我實盛の幽靈なるが

　　　魂は冥途に在りながら

　　　魄はこの世に留まりて云々

とあり、同じく「朝長」の靈の言葉として、

　　　魂は善所におもむけども

　　　魄は修羅道に殘りつゝ

と、自ら語つて居るなどが例である。魄はやゝ重く濁り沈んで、少しは粗末に取扱はれても、致し方の無いものと見(118)たものゝやうで、縁も無い他人の前に突如として出現する場合ならそれでもよいが、家へ先祖として祭られに來るとなると、是では代人のやうな感じがせぬでも無い。大東亞圏内の幾つかの民族にも、所謂靈複體觀を持つて居る者が有るといふことであり、それが日本人の中にも有つたとしても意外で無く、寧ろ研究の興味は濃いのであるが、その痕跡は私にはまだ見つからぬ。能の幽靈などに言はしめた言葉は、多分は輸入であり、しかも全靈の救濟にならぬのだとすると、實は佛者の教へを裏切つても居るのである。

　つまりは其樣にしてまでも、なほ生きた人の社會と交通しようとするのが、先祖の靈だといふ日本人の考へ方を、容認せずには居られなかつたのである。我國の神道が彼の感化によつて、多少の變質をしたといふまでは、論ずる人が近頃加はつて行くが、それに先だつて佛法の日本化は、國人の知らずには居られぬことであつた。といふわけは是が近世の宗旨制度によつて、すべて庶民の現實生活面に、たゞ佛教の形相として表はれて居るからである。盆を孟蘭盆那の破片といひ、ほとけを佛陀の日本式發音だといふなどは、僅かにその誤解の一部にしか過ぎないからである。あれほど偉大なる碩�ｺの輩出があり、又千五百年以上の民間の浸透がありながら、少しも日本化した形跡が無かつたらそれこそどうかして居る。一方には又我が同胞國民の家に對し、子孫後裔に對する意圖計畫が、忽ち外來教によつて改まり變つて行くほど、淡いなまぬるいものだつたら、國を今日の力強い結合にまで、持運んで來ることが出來なかつたであらう。解釋講説の足らぬ所は有つたかも知れぬが、別に雙方とも恥づべき間違ひをして居たわけでは無い。特に考へて案を立てゝ見たにしても、やはり結局は是に近い線に拾うて、變化して來るの他は無かつたのかも知れぬ。たゞ私などの力説したいことは、この曠古の大時局に當面して、目ざましく發露した國民の精神力、殊に生死を超越した殉國の至情には、種子とか特質とかの根本的なるもの以外に、是を年久しく培《つちか》ひ育てゝ來た社會制、わけても常民の常識と名づくべきものが、隱れて大きな働きをして居るのだといふことである。現在はそれが最も著しい變化を始めて居るけれども、ともかくも今はまだ過去の原因を溯り探ることが出來る。今日の實情が效果を生ずるのは、更(119)に若干年の後のことであらう。我々の未來に期待するものは、この因この果の經驗を誤り無く覺ることによつて、是からでも未來の計畫は立てゝ行かれるかも知れない。さうで無いまでも訂正は可能である。歴史を鏡と言つた理由は茲に在り、又民俗學を以て反省の科學なりと、?々私たちの唱へて居る意味も此外には出でない。人を甘んじて邦家の爲に死なしめる道�ｺに、信仰の基底が無かつたといふことは考へられない。さうして以前にはそれが有つたといふことが、我々にはほゞ確かめ得られるのである。現在とても崩れ盡した筈は無いのだが、不幸にしてそれを單純に認める人が少ないのみか、全く無いといふ反證を擧げようとする人も見付からぬのである。この一般の無關心こそは、老いたる人々の愁ひである。是では人生の次の世といふものを、想像して見るすべも無いからである。如何なる時勢に在つても學問は進められなければならない。

　

　　　　　　　六四　死の親しさ

　

　どうして東洋人は死を怖れないかといふことを、西洋人が不審にし姶めたのも新しいことでは無いけれども、この問題にはまだ答へらしいものが出て居ない。怖れぬなどゝいふことは有らう筈が無いが、その怖れには色々の構成分子があつて、種族と文化とによつて其組合せが一樣で無かつたものと思はれる。生と死とが絶對の隔絶であることに變りは無くとも、是には距離と親しさといふ二つの點が、まだ勘定の中に入つて居なかつたやうで、少なくとも此方面の不安だけは、ほゞ完全に克服し得た時代が我々には有つたのである。それが色々の原因によつて、段々と高い垣根となり、之を乘り越すには強い意思と、深い感激との個人的なものを必要とすることになつたのは明白であるが、しかも親代々の習熟を重ねて、死は安しといふ比較の考へ方が、群の生活の中にはなほ傳はつて居た。信仰はたゞ個人の感得するものでは無くて、寧ろ多數の共同の事實だつたといふことを、今度の戰ほど痛切に證明したことは會て(120)無かつた。

　但しこの尊い愛國者たちの行動を解説するには、時期がまだ餘りにも早過ぎる。其上に常の年の普通の出來事と、竝べて考へて見るのは惜しいとさへ私には感じられる。仍て是からさきは專ら平和なる田園の間に、讀者の考察を導いて行くことにしようと思ふのである。日本人の多數が、もとは死後の世界を近く親しく、何か其消息に通じて居るやうな氣持を、抱いて居たといふことには幾つもの理由が擧げられる。さういふ中には比隣の諸民族、殊に漢土と共通のものもあると思ふが、それを説き立てようとすると私の時間が足りなくなる。茲に四つほどの特に日本的なもの、少なくとも我々の間に於て、やゝ著しく現はれて居るらしいものを列記すると、第一には死してもこの國の中に、靈は留まつて遠くへは行かぬと思つたこと、第二には顯幽二界の交通が繁く、單に春秋の定期の祭だけで無しに、何れか一方のみの心ざしによつて、招き招かるゝことがさまで困難で無いやうに思つて居たこと、第三には生人の今はの時の念願が、死後には必ず達成するものと思つて居たことで、是によつて子孫の爲に色々の計畫を立てたのみか、更に再び三たび生まれ代つて、同じ事業を續けられるものゝ如く、思つた者の多かつたといふのが第四である。是等の信條は何れも重大なものだつたが、集團宗教で無い爲に文字では傳はらず、人も亦互ひに其一致を確かめる方法が無く、自然に僅かづゝの差異も生じがちであり、從つて又之を口にして批判せられることを憚り、何等の抑壓も無いのに段々と力の弱いものとなつて來た。しかし今でもまだ多くの人の心の中に、思つて居ることを綜合して見ると、それが決して一時一部の人の空想から、始まつたもので無いことだけは判るのである。我々が先祖の加護を信じ、その自發の恩澤に身を打任せ、特に救はれんと欲する惱み苦しみを、表白する必要も無いやうに感じて、祭はたゞ謝恩と滿悦とが心の奧底から流露するに止まるかの如く見えるのは、其原因は全く歴世の知見、即ち先祖にその志が有り又その力があり、又外部にも之を可能ならしめる條件が具はつて居るといふことを、久しい經驗によつていつと無く覺えて居たからであつた。さうしてこの祭の樣式は、今は家々の年中行事と別なものと見られて居る村々の氏神の御社(121)にも及んで、著しく我邦の固有信仰を特色づけて居るのである。少なくとも二つの種類の神信心、即ち一方は年齡男女から、願ひの筋までをくだ／＼しく述べ立てゝ、神を搖ぶらんばかりの熱請を凝らすに對して、他の一方にはひたすら神の照鑑を信頼して疑はず、冥助の自然に厚かるべきことを期して、祭をたゞ宴集和樂の日として悦び迎へるものが、數に於て遙かに多いといふことは、他にも原因はなほ有らうが、主たる一つはこの先祖教の名殘だからであり、なほ一歩を進めて言ふならば、人間があの世に入つてから後に、如何に長らへ又働くかといふことに就て、可なり確實なる常識を養はれて居た結果に他ならぬと私は思つて居るのである。

　

　　　　　　　六五　あの世とこの世

　

　その前代の常識と見るべきものを、出來るだけ想像をまじへず、事實に據つて説いて見たいのが私の願ひだが、資料の集まり方がまだ足らぬので、爰にはたゞ大よその見當を付けて、あとを是からの同志に委ねるより他は無い。一ばんむつかしい點はやはり靈魂の不滅、それを信じた人たちがなほ其結末を談り得なかつたことだが、是は正直なところ靈自らも、明らかには知らなかつたと言つてよいであらう。ともかくもあの世の交通は近いところほど繁く、時が遠ざかると共に眼路《めぢ》が霞んで來て、末は幽かになるのも已むを得ぬことゝ、昔の人は諦めることが出來たのである。

　さうして先づあの世は何處に在るか。常にはどういふ場處に留まつて居るのかを、切に知らうとしたのであるが、是にもはや二つの考へ方が出來て居た。私は是を新舊時を異にして、一方が他を改めたものと思つて居る。沖繩諸島などでは、あの世のことをグショウ（後生）と呼んで居るが、それを事の外近い處のやうに考へて居るさうである。眼にこそ見えないが招けば必ず來り、又は自ら進んでも人に近づくことが有るとすると、月や季節の替り目のみに、日を定めて行はるゝことよりは、なほ近い處を想像しなければならなかつたわけである。日本の學界で幽冥道の問題(122)に注意し始めたのは、平田篤胤翁の頃からと、言つてもよいほどに新しいことであつたが、その多くの人はやはり同じ考へ方に傾いて居た。幽界眞語といふ類の見聞録は數多く出て居て、多いが爲に却つて訝かしい不一致が暴露するのを、何とかして信じられるものにしたいと願ふ學者たちは、さういふ糟みたやうな部分を拂ひのけて、後に殘つた共通の資料の中から、大よそ又是に近い結論を導いて居た。私が教を請けた松浦萩坪先生なども、其信者の一人であつた。御互ひの眼にこそ見えないが、君と自分とのこの空間も隱世《かくりよ》だ。我々の言ふことは聽かれて居る。することは視られて居る。それだから惡いことは出來ないのだと、かの楊震の四知のやうなことを毎度言はれた。しかし後になつて考へて見ると、是は一つの可能性といふべきもので、誰の靈がそこに來るかといふこともきまらず、又常に必ず居るとも言へないのであつた。多分は靈魂の去來が完全に自由であり、しかも其數は益々多くなり、又定まつた居處行き處をもたぬものが、世と共に増加することを感じた結果が、次第に斯ういふ推理を下さゞるを得なくなつたので、事によると神々を社殿に常在したまふものと考へ、朝晝時刻に構はず詣つて拜まれるやうに、降神昇神の式などは無用のものゝやうに、思ふ人が多くなつて來たことゝ、同じ系統に屬した信仰の推移であつたらう。古人はさういふ風には考へることが出來なかつたものと、私の思つて居る理由は強い。靈に對する恭敬が篤ければ篤いほど、生者の拘束は大きかつた。常に奉仕者の戒律を守り續けるといふことは、却つて過失を多くする懸念があつたのみで無く、又祭の感激を新たにする妨げにもなつた。我々に取つてはたゞ日常の普通の行爲と認むべきものゝ中にも、神と靈との厭ひ嫌はるゝものが、色々有るといふことを我々は知つて居た。それを自ら制抑して居ると、家庭の生活は營むことが出來なくなる。まして近代はその俗累が日に加はつて居るのである。齋忌の感覺がよほど弛綬しなければ、到底この樣な毎日の接觸は想像することが出來なかつたわけだが、それでもまだ畏怖の念がなほ殘つて、或は節日の前夜を以て鬼の覗きに來る日とし、又はその翌日を惡日として、氣を置くやうな俗信が流布して居た。つまりは我々は靈を拜する日の慎しみを、容易ならぬものと思つて居たのである。交通往來の甚だしく自由であつたのは、もとは恐らく(123)は無寄の遊魂ばかりであつた。それが世と共に數を増加して、統制が望まれなくなつた爲に、所謂みさき風・神行逢ひの恐怖が愈々滋くなつて、次第に近代人の幽冥觀に影響したものかと思はれる。

　

　　　　　　　六六　歸る山

　

　無難に一生を經過した人々の行き處は、是よりももつと靜かで清らかで、此世の常のざわめきから遠ざかり、且つ具體的にあのあたりと、大よそ望み見られるやうな場所でなければならぬ。少なくとも曾ては其樣に期待せられて居た形跡はなほ存する。村の周圖の或る秀でた峰の頂から、盆には盆路を苅り拂ひ、又は山川の流れの岸に魂を迎へ、又は川上の山から盆花を採つて來るなどの風習が、弘く各地の山村に今も行はれて居るなども其一つである。靈山の崇拜は、日本では佛教の渡來よりも古い。佛教は寧ろこの固有の信仰を、宣傳の上に利用したかと思はれる。以前に比べるとその中心點の數は勿論ずつと統合せられて居るけれども、それでも分布の實?を檢すると、まだ／＼地方割據の形勢は明らかに認められる。南部の宇曾利山《うそりざん》や越中の立山、さては熊野の妙法山の奧の院といふ樒《しきみ》山の最乘峰など、死んで亡者の先づ行くといふ山々は、その勢力圏こそは稍々遠く及んで居るが、何れも土地毎に管轄のやうなものがあつて、間違へてもよその御山へ登つたとは言はない。善光寺へ參ると謂つて居る地方も中部には中々弘いが、寺の言ひ傳へは何とあらうとも、起りはやはりあの周圖の住民の言ひ傳へからで、それも亦御堂の近くに聳え立つ二三の峰のたゝずまひと、關係の無かつたものとは私には思へない。或はさう言つては御迷惑になるやうな、清い神々の祭場となつて居るものもあるので遠慮をするが、五月田植の日、田人《たうど》早乙女《さをとめ》が一齊に振仰いで、山の姿を禮讃する歌をうたふやうな峰々は、何れも農作の豐饒の爲に、無限の關心を寄せたまふ田の神の宿りであつた。春は降り冬は昇りたまふといふ百姓の守護者が、遠い大昔の共同の先祖であつて、その最初の家督の效果が末永く收められること(124)を、見守つて居て下さるといふやうな考へ方が、或は今よりももつとはつきりとして居たのかも知れない。

　卯月八日の山登りといふ風習が、是と關係をもつことはほゞ疑ひが無く、一方には釋尊の誕生會から、導かれて來たかと思はるゝ手掛りは一向に無い。阿波の劍山の麓では山勇みと稱して、高きに登つて海を見る習はしもあり、さうで無くとも花摘みとか花折始めとか、聽いても樂しいやうな名を呼ぶものが多く、或は躑躅山吹石楠などの山の花を採つて來て、高い竿のさきに飾つて立てるやうな行事も普及して居て、之を佛法と結び付けることはむつかしい代りに、一方御靈の山に在るといふ信仰とも縁が無さゝうに見えるが、是は高山の上に登るにつれて、段々と穢れや悲しみから超越して、清い和やかな神になつて行かれるといふ思想からも説明し得られる。十分に適切な證據とも言はれまいが、富士や御嶽の行者などにも、死後の年數と供養とによつて、段々と順を追うて麓から頂上に登つて行き、しまひには神になるといふ信仰が今も行はれて居る。それが普通の人にも想像せられて居た時代があつたことは、以前の葬法が主として山の中に向つて、亡骸を送つて行かうとしたことゝ思ひ合せると、簡單に否定し去ることは出來ない。

　

　　　　　　　六七　卯月八日

　

　神社大觀や明治神社誌料の類を讀んで見ると、舊暦四月八日を大祭の日として居た神社は、郷社以上にも相應に數が多く、且つ何か一つの特徴が、共通して存するやうにも考へられる。或は私が意を以て迎へるからさう感ずるのかも知れないが、少なくともその目ぼしいものに、背後の靈山の崇敬を負うて居る御社の有ることは事實である。山宮里宮の二つの聖地が有つて、順次に二所の祭を執り行ふものは、其關係が今も明らかであるが、さうで無くとも神渡御《かみとぎよ》の儀式がよく發達して居て、祭の最も深い感激が、特に臨時の祭場に御降りを仰ぐ瞬間に在るものが、此日の祭に(125)は多いのではないかと思ふ。勿論色々の世俗的な事由に基いて、二つ社が絶縁して知らぬ顔をして居る例も　　　屡々有らうが、なほこの社地と祭の日との選定が、どうして行はれたかを尋ねて見ることによつて、偶然とは言へない共通の起原を探り得られる。卯月八日の山登りの盛んな山々を表に作つて、それと麓の村里の言ひ傳へとを引合せて見たならば、或はまだ何か判つて來ることが有らうかと思ふが、今は勿論以前にもさういふことをする人は無かつた。

　然るについ近頃になつて、私は思ひがけず新しい一つの知識を得たのである。關西方面と比べると、東國は一體に四月八日の行事は稀薄なやうに思つて居たが、赤城山にはなほ此日の山登りが行はれて居た。さうして其東麓の黒保根・東の二村だけでは、過去一年の間に死者のあつた家々から、必ず登山する慣習があつて、それを亡くなつた人に逢ひに行くと謂つて居るさうである。但し現在は月送りの新暦五月八日を用ゐる位だから、よほど氣持も昔とは變つて來て居ることゝ思ふが、ともかくも山中には六道の辻や賽《さい》の川原、血の池地獄などゝいふ地名が殘つて居るといふのは、多分はそれが路筋であり又巡拜の地だつたことを意味するのであらう。渡良瀬《わたらせ》川筋のこの二つの村ばかりが、昔の民俗を失はずに守つて居るのか、又はさういふ信仰行事が後に始まつて、まだ他の村々は同化せずに居るのか、宇曾利山の地藏會などの例を考へると、恐らくは佛教獨自の解釋によつて、やゝ指導の方向を變へたといふまでゝあつて、別にその基底となつた一般の通念は古く存し、それが却つてこの變革の爲に、他の村々よりは安全に殘り得たことは、ちやうど七月の魂祭なども同じいかと思ふ。

　四月に先祖の祭をするといふ習はしは、捜して見つけるほどの珍しい古いものであつた。それが大昔の新年だつたからといふ、私の考證の正しいか否かは別として、ともかくも今ある年の暮のみたまの飯よりも、又一つ前の慣例だつたのである。それがたゞ多くの山宮の大祭の日となり、もしくは苗代の勞作を前に控へた、若い農民たちの行樂の一日となつて、どうして卯月の八日であるかの説明は不可能のやうに思はれて居た。一方には山に靈魂の登つて行くといふ觀念も、今ではよほど空想の領分になりかけて居る。さうして赤城山麓の二村のやうな事實が、たつた一つで(126)も確かめ得られるとなると、たとへ斷定は下すことが出來なくとも、是で又再び若い新しい問題として、學者に取上げられてよいことになるのである。

　

　　　　　　　六八　さいの川原

　

　山中の地名はよく話題になる。殊に地獄谷といふやうな印象の深いものは、去年出來たと知つても記憶せずには居られぬのだが、是がどうして此樣に數多く、何處の山路にも同じ地名があるのかといふことは、存外に疑つて見る折が無かつたのである。赤城山中の賽の川原といふ話を知つてから、私は改めて今までの旅行の途次に、又は書物や人の話で聽いた諸國の賽の川原を、數へ且つ考へて見て居る。最初に言ふべきことは此地名には漢字が無い。乃ち生まれからの日本思想で、佛法はたゞ之を地獄の説明に、借用したに過ぎぬといふことである。從つて何が原因で斯んな名が出來たかは、尋ねて見る價値が有るのである。空也の作などゝいふ有名な地藏和讃は、私たちにとつても物の哀れを知る始めであつた。さうして是を幼兒の行く地獄の名のやうに、思ふ者が多くなつたのも其爲である。しかし山中の賽の川原には、こゝまで子供が來て居ようとは、誰も思つて居ないものが多い。又は普通の路傍のものでも、さう思つて通る者とさうは思はぬ者とが相半ばし、たゞ扁たい小石の數を積み上げた石の塔が幾つも出來て居て、崩せば又いつの間にか積まれて居る。さういふ處が賽の川原だといふだけである。つまりは極度に物悲しく又やゝ不條理な地藏和讃の、

　　　かのみどり兒の所作として

　　　河原の石を取り集め

　　　一じゆ組んでは父のため

(127)　　　二重くんでは母のため

　　　三じうくんではふる里の

　　　兄弟我身と囘向して

　　　晝はひとりで遊べども

　　　日も入りあひのその頃は云々

といふやうな章句が、この俗傳を親を泣かせる文藝に利用したといふに過ぎないのである。

　私の印象に殘る幾つかの賽の川原は、靈山の登路に接したものでは無かつた。信州東南隅の遠山和田から、青崩《あをくづれ》を越えて奧の山へ降つて行く水窪川《みさくぼがは》の川添ひに、兩山が迫り寄つて四五町の間、めつたに人にもすれちがはぬ寂しい路があつた。其路とほゞ平らな川床に一つの賽の川原がある。立止まつて私は石の塔を數へて見た。人は青鬼で無いから之を突崩さうともすまいが、僅かな風でもすぐ倒れるやうな、かりそめな積み方をしたものばかりであつた。知らぬ間に又積んで居るといふことは、爰ならば少しでも不思議は無いと私は思つた。涙新たなる親々は言ふに及ばず、其心根を汲み得る者は、誰でも少しの小石を積添へずには通られない。さうして通例は誰も見て居る者がないのである。我國には斯ういふ悲しみを道行く人に訴へて、供養の協力を求める習はしも、後生車とか洗ひ洒しとか、色々の形をとつて汎く分布して居る。

　佐渡の海府の内外の境には、願《ねげ》の賽の川原といふのがあつて著名である。人里を遠く離れた荒海の磯に臨んで、岡の根に洞門が通じて居る。もとは岩窟であつて是へ亡骸を送つたらしい形跡があり、勿論精靈の終の宿りでは無かつたのだが、爰にも數多の石佛に入交つて、誰が積むとも知れない小石の塔が幾つも見られた。或は砂の上に小兒の足跡が折々有るなどゝも謂つて、地藏和讃の物語を信ずる者もあるやうだが、爰などは殊に幼い靈魂とは縁が無さゝうに思はれた。やはり順禮の寂しい旅をする者が、死を考へ又は死者を憶ひ起さずには、通り過ぎることの出來ない關(128)門のやうなものであつた故に、自然に斯ういふ小石の塔が、くり返し積まれて行くのだらうと私は思つた。佐比《さひ》といふ川原はもとは京都でも五三昧の一つであつた。そこが單なる人里のはづれといふだけで無く、同時に又この世あの世の境でもあつたが故に、斯んな地名も付けられたので、言葉の起りは道祖神《さへのかみ》のサヘと一つであるべきことは、古い頃から之を説いた人も一人ならずある。是が多くの靈山の登り路に、同じ言ひ傳へを持つて今も殘つて居るのは、寧ろ佛教を離れた深い意味の有る、一つの現象だと私は思つて居る。

　

　　　　　　　六九　あの世へ行く路

　

　佐渡から數十里の海を北に隔てゝ、羽後の飛島にも又一つの賽の川原が有る。川原とは謂つても是も岩石の荒濱であつて、里から岡を越えて行く一筋の逕《こみち》があるばかり、通路の傍ではないのだが、やはり何人が積むとも知れない石の塔が幾つもあつた。爰のは石が大きく高さも四尺以上、一つづゝ積重ねたものも元はあつたさうで、梯子でも掛けぬと上げられぬが、そんな事をする者は無かつた。勿論子供のわざといふやうな話は無いのである。或は學生などが惡戯に突崩すことがあつても、一夜のうちに元通りになつて居ると謂つたが、さういふ實驗はめつたに無かつたらしく、又現在はもうさういふ一つ竝べの積み方にはなつて居ない。たゞ我々の注意するのは、爰が昔から島の人たちの、死んでから行く處となつて居たことで、しかも村々の埋葬地といふものは別な處にあるのであつた。島には秀でた峰は無い代りに、この賽の川原と相對して、海中に大きな岩が一つあり、周圍が崖になつて登ることが出來ぬのを、神聖の地として崇敬して居り、其又正面には遠く鳥海山の靈峰が横たはつて居る。今はさういふ言ひ傳へも殘つて居ないが、恐らく精靈が此濱から、追々に渡つて行くものと信じられて居たのであらう。

　飛島圖誌の筆者の聽いて來た話では、この近くの山で草を苅つて居ると、いゝ聲で唄を歌ひながら、脇の小徑を賽(129)の川原の方へ、通つて行くのを聽くことがある。さういふ時にはきつと村で誰か死んで居る。或は此通路に面して家を建てゝ住む老人が、夜更に何か獨り言をいひながら登つて行く聲を聽くことがあつた、あゝ又誰か死んだなと思ふと、果して翌日は必ず村から葬式が出た。時にはめそ／＼とすゝり泣きをして行く者もあれば、はアとたゞ一つ溜息が聽えたり、さうかと思ふとさも氣樂さうに、鼻唄で登つて行つた女もあるといふ。昔の感覺に浸つた老人の、一種の幻覺だつたかも知れぬが、ともかくも是は現身《うつしみ》の消え行く姿の外に、別にさういふ靈魂の擧動があるものと思つて居た結果なのである。

　さうして是と全く同じ經驗を談る者が、ずつと離れた岩手縣の片田舍にも、あつたといふことを私は記録して居る。岩手の方ではその死者の靈の行く處を、賽の川原とは言はずに、でんでら野と呼んで居た。この地名は少しづゝの發音差を以て、是も亦弘く全國に分布して居る。蓮臺《れんだい》野と文字に書くのが、正しいやうに思はれて居るが、果してさうかどうかはまだ決しられない。といふわけは是をたゞ三昧《さんまい》即ち埋葬地の意味にも、又石塔を建てゝ置く所謂詣り墓の意味にも謂ひ、共同墓地の入口に在る式場の石の臺座のことをさう謂ふ者もあつて、土地毎に色々である上に、更にこの岩手縣の例のやうに、死者の登つて行くといふ山中の高地をさすやうな例もあるからである。富士の北麓のある山村では、七つデンレイと稱して七箇所の靈地が、村の南の高みにある距離を以て竝んで居るといふ話を聽いた。それは少なくとも現在の埋葬地でも又石塔場でも無いやうである。或は年を重ねると共に、次々と靈の居場處が移つて行くといふやうな考へ方が前からあつて、それが又富士行者の信仰にも傳はつて居るのではないかと思ふ。

　

　　　　　　　七〇　はふりの目的

　

　そこで又一つの自分の想像を述べると、生と死との隔絶は古今文野の差を問はず、之を認めない者は無いのだけれ(130)ども、その境目に就ては今日のものと、異なる考へ方がもとは有つたらうかといふことである。簡單に言つてしまふならば、亡骸をあの世のものとは認めず、それも此世の側に屬せしめて居たのではあるまいか。靈の存在を確實に信じた人ならば、それが肉體を立退く瞬間から、あの世は始まるものと思ふのは當然である。もしも何かの事情があつて、たとへ身の中に宿つては居らずとも、なほ少しでも其牽聯を絶ち切れぬ限りは、完全なる靈として拜み又は祭ることが出來ぬといふ心持が有つたのかと思ふ。生者の側からばかり物を考へると、向ふへ引取つてもらへばさつぱりと際が立つてよいことは判つて居るが、ともかくも是は形有る物であり、きたなき物であり、始末に困ることは雙方同じであつた。それをこちらの管轄と認めて、出來るだけ早く片付けようとしたことは、寧ろ常理に近く又人情に富む所業だつたとも言へよう。

　但しこの考へ方には、民族毎の差等があり、葬法も亦是に伴なうて異なつて居たのに、我邦では外國文化の影響の下に、幾分か形態の上だけの改訂を急いだ嫌ひがある。それが現在の習俗異同、又相互の無理解の原因ともなつて居るかと思ふ。常民多數の者の間に行はれた處理法は、素より厚葬といふには遠かつたが、是は目的が遺物の速かに消えてしまふに在つて、保存の趣旨では無かつたからである。言はゞ亡骸を幽界の代表者として、拜み又奉仕するつもりは無かつたからである。保存をすべきものを粗末にして居たのでは決して無い。此點を會得せぬ人たちが、上に立つて居たことは不幸であつた。私は以前に新しい埋葬地の上へ、若木を栽ゑる風習の下越後などには有ることを報告して居る。或は色なり形なりに特徴のある小石を、海川の邊から拾つて來て、枕石として埋葬地の上に置く風なども、今なほ國の端々には弘く行はれる。葬儀に參與したほどの人々は、誰でも明確に其木其石を記憶して居るのだが、ちやうど其人たちが居なくなる頃には、次第に忘れられてたゞの松原、たゞの石原になつてしまふのは自然である。或は年忌の濟んだたびに、少しづゝ盛り土を平らにして行く處も東北などには有り、早く知れなくなるのがよいのだといふ人も少なくないのだが、文字の彫刻が始まるとそれが不可能になり、又往々にして荒れ墓が出來る。東京はよい(131)例で、四谷の寺町などの坂路には、石碑を積んだ石垣や石段が幾らも見られた。さうかと思ふと他の一方には、記憶のまだ鮮かなうちに墓地が整理せられて、いやな思ひをしなければならぬ場合も多くなつて來た。即ち三十三年のとぶらひ上げといふ制度が、もう一度考へて見らるべき時代になつて居るのである。

　國土に限りがあり、人の數の日に加はつて來ることが、變化を要求して居るのだといふことは爭へない。都市が勃興し人の來往の多くなつたのは、三百年以上の昔からであるが、もう其頃から我々の葬法は、亂雜になりかけて居たのである。しかしそれから以後でも空地のまだ多い田舍だけは、なほ現世生活の最後の名殘を、靜かに消滅せしめる方法は備はつて居た。人のあまり行かない山の奧や野の末に、たゞ送つて置いて來ればよかつたのである。最初は勿論喪屋を傍に造つて、喪に在る者の限りは其中に籠つたが、忌が晴れて常の生活に戻つて來ると、それから後はたゞ忘却が有るのみであつた。さうして同時に又みたまは日に清く日に親しくなつて、自在に祭の座に臨み、且つ漸々と高く登つて、遙かに愛着の深い子孫の社會を、眺め見守ることが出來るやうになる、といふ風に考えて見ることに、聊かの障碍も無かつたのである。山を周圍に持たない新地の經營が始まつて、すでに此觀念に若干の更訂が起つた。亡者の行くべき山々は統一せられ、佛法の力強い教へが之を支配するやうにもなつた。小さな島々では最初飛島の賽の川原のやうに、濱の一隅の殊に交通の少ない部分を區劃して、靈の安息所への出入口として居たらしいが、爰では經濟の事情が殊に變りやすく、今では大抵は舟着き荷積みの場所などになつて、現幽二つの世界が、あまりにも淺まな接觸を見るやうになつて居る。

　説明はまだ少し足りないやうだが、魂が身を去つて高い峰へ行くといふ考へ方と、その山陰に柩を送つて行く慣行との間には、多分關係が有つたらうと私は思ふのである。さうして形骸の消えて痕無くなると共に、次第に麓の方から登り進んで、しまひには天と最も近い清淨の境に、安らかに集まつて居られるものと我々は信じて居た。それが卯月八日の岳參りの理由でもあれば、又山の神が春の始めに、里に降つて來て田なつたのゝ成育を助けたまふといふ、(132)信仰のもとでもあつたかといふのが、現在の私の意見である。空と海とはたゞ一續きの廣い通路であり、靈は其間を自由に去來したのでもあらうが、それでもなほこの國土を離れ去つて、遠く渡つて行かうといふ蓬莱の島を、まだ我々はよそにもつては居なかつた。一言葉でいふならば、それはどこ迄も此國を愛して居たからであらうと思ふ。

　

　　　　　　　七一　二つの世の境目

　

　大體に此書物には、現在ほゞ明らかになつて居ることだけを書くつもりで、單なる空想は勿論、まだ研究中といふものも載せないことにして居るのだが、賽の川原の問題ばかりは既に口を切つたのだから、結末は付けて置かずばなるまい。私は多くの山中に此地名があり、そこには大小の石のたゝずまひが、よほど尋常と異なつて居るのは、古い世の信仰の痕跡であつて、決して卷間の地獄物語の、たゞかりそめの適用では無いと思つて居るのである。人が眼を瞑つて妻子の聲に答へなくなるのも、一つの生死の堺にはちがひないが、その後にはまだ在りし日の形ある物が殘つて居る。それが悉く此世から姿を消して、靈が眼に見えぬ一つの力、一つの愛情となり、又純なる思慕の的となり切る時が、更に大きな隔絶の線であるやうに、昔の人たちには考へられて居たのかと思ふ。其線を過ぎてから以後の交通には、祭といふ一定の方式があつて、常の日の心構へでは狎れ近づくことが許されなかつた。それが清まはりといふ觀念の基く所であり、神も靈も共に物忌を慎まざる者を、憎みたまふとした起りでは無かつたらうか。山を靈地とする我々の信仰は、國の地形に伴なふ偶然の發達とも見られぬことは無いが、ともかくも最も適切にこの道程を具體化して居る。サヘは即ち其關の戸の標示であつて、そこに何者のしわざとも知れぬ不思議の石積みが必ず有るといふのも、我々の側から言へば喪の穢れの終止點、他の一方から見れば神々の清淨地へ登り近づいて行く第一歩といふものが、どこか此あたりに無くてはならぬといふことを、感ずる者が多かつた結果と思はれる。よもつひら坂の大昔の(133)かたり言も、之を神々の國の事と解すれば、必ずしもこの觀念と矛盾するものではない。もしも永古に隱り世をきたないものとしたのだつたら、そこにまします御靈《みたま》を神として、我々の祭る筈が無いからである。

　しかも現世の生活が濃かになるにつれて、人間の咏歎はあまりにも關のこなた、近く別れた者の悲しみに偏して來た。假に繪解きの比丘尼などの牽強附會は無かつたとしても、なほこの境の地に低徊して、遠くを望むことの出來ぬ人が多かつたのである。たとへば羽後の飛島の賽の川原でも、海を隔てた鳥海の尊い山の姿は、今も昔のまゝに高々と仰がれるのだけれども、そこに島人の古い先祖たちが、永く留まつて居るといふことを考へる者は無くなつて、ただ單純なる靈山の信仰のみが殘つて居る。他の多くの海ばたの町や港では、精靈送りと稱して舟に數々の燈火を飾り、沖に押流す行事だけは發達して居るが、是は又無縁の萬靈を供養して、善處に赴かしめるといふ方に傾いてしまつて、空から峰への通ひ路といふことには心付かず、あの世は遙かなる地平の外に在るものゝ如く、想像する人ばかりが多くなつて來たのである。どちらが本當であらうかと、間はれても私は迷惑する。たゞ以前はさういふ風に考へて居なかつたといふことが、相應に確かな事實であるのみならず、その古い考へ方が今も名殘を留めて、折角の新しい教化にも耳を傾けぬ者が多く、さりとて元のまゝに死ねばこの國土の最も清らかなる區域に、入つて靜かに住むのだといふ信念を固執することも出來ず、何か中途の愈々空漠な、目標とも言へないものを胸に描いて、しかも靈性が全く虚無に歸するといふまでの、斷定を下さうとする者も少なく、言はゞ至つてあやふやな、成るべく其樣なことは考へずに置かうといふ者ばかりが、世に弘がつて居たといふことも亦近頃までの事實であつた。如何に熱心にきめようとしても、もうきめられない問題なのかも知らぬが、ともかくもこの新舊の二つの考へには、大きな結果のちがひが伴なうて居た。一方は何度でも歸つて來て逢へる。他の一方は去つて再び此國ではめぐり逢はぬ、行いて還らぬ死出の旅であつた。乃ち別れの悲しみは先祖たちの世に比べると、更に何層倍か痛切なものになつて居るのである。

　

(134)　　　　　　　七二　神降しの歌

　

　話が少しばかり寂しくなつたから、幾らか明るい方角をまはつて、次の題目に遷つて行くとしよう。是は民謠覺書といふ本にも書いて置いたことだが、曾て大阪の井野邊君といふ民謠研究者が訪ねて來て、頻りに追分節の起原が西國の方に在るといふことを私に説いたことがある。實例は幾つか擧げられたやうだが、其一つは確かに奈良縣の東南部、宇陀吉野の二郡の山間にもあつて、其曲譜も採集して居るといふ話であつた。當時はたゞそれは珍しいと聽いたばかりだつたが、それから何年かの後に、岩手縣の佐々木喜善君が又一つの不思議な話をした。娘を失つて悲しみの深いさなかに、三度まで續けてその娘を夢に見た。一囘は三十日祭の前の夜で、巌石の聳え立つ山の中腹を、この少女が行き巡つて路を覓めるらしい姿を見た。二度目は四十日祭の前の晩に、青空が照り輝いて何とも言へぬほど朗らな光の中を、たゞ一人宙宇を踏んで行くのを見た。其時に何處からとも無く、追分節の長々とした歌の聲が聞えて、其調子に合せて歩みを運んで居たことを覺えて居る。それから又幾夜か過ぎてもう一度、前と同じやうな美しい青空の下に、長い橋の上で亡き娘に行逢うた夢を見た。此時には此方から聲を掛けて、おまへは今何處に居るのかと尋ねて見ると、私はいま早池峰《はやちね》の山の上に居ますと、答へたと見て夢は醒めたといふことである。

　佐々木氏は更にその夢語りに附加へて、次のやうな經驗を私に傳へてくれた。是から又數箇月を經て後に、秋田縣の南部の或る村で、イダコといふ盲の巫女の神降しの歌を聽いて見ると、其前半分はまるで追分と同じ節であつた。人に尋ねて見ると此地方の巫女には二つの系統があり、羽黒山を本山と仰ぐ者の歌は總體に追分節に近く、それは又死者の靈の御山に行つて住むものを、迎へて來るときに歌はれるものであつたといふ。追分節は其名の示すやうに、もとは碓氷峠の西の麓、信濃の追分に弘まつた馬追歌だつたのが、次第に越後の海港に傳はつて、後には北海の船乘(135)歌となつて又發達したと、言はれて居るのが多分當つて居る。さうすると南大和の靈山の周圍に、又は羽黒の舊信仰を運んで居た巫女の歌に、同じメロデイが有つたといふことにも、何か一つ共通の原因が推測し得られる。即ち遠い昔の世の、まだ我々の祖靈が高山の頂上に、常には留まつて居ることを信じて居た時代から、歌の文句は全く別であつても、節まはしの是と大方は同じ歌を以て、是を家々に招き寄せる習はしが、少なくとも國の半分には行き渡つて居たといふことになるのかも知れず、或はなほ一歩を進めて、それが卯月八日の山登りの日に、みたまを誘うて降りて來たといふことを、家に居る人々に告げ知らしめて、ちやうど今日の「此あかり」の童詞などゝ、よく似た感動を與へたものが、後々職業の徒の利用する所となつたものとも考へられぬことは無いのである。

　誰か斯ういふことに興味を抱く人さへ有れば、是などはたゞ單なる一つの空想として、聽き棄てにせられてもしまはぬであらう。今はこの樣な事に時を割く時代で無いが、井野邊氏の家にもまだその曲譜は保存せられるであらうし、山形秋田の二縣に散在する羽黒巫女も、さう急激にはその神降しの歌を忘れきつてもしまはぬであらう。其上に民謠採録の事業も、あれから又大分進み且つ公表の計畫も立つて居る。或は第四第五の靈山の周圍からも、似よつた歌の調べが、やゝ異なる言ひ傳へを隨伴して、新たに出現して來ぬとも限らぬのである。たゞ珍しいとか面白いとかいふ問題では決して無い。我が同胞の是からさきの活き方、未來をどういふ風に考へて行くかをきめる場合に、最も大きな參考となるべき前人の足跡、即ち先祖は如何に歩んだかを明らかにする、是が又一つの手段なのである。

　

　　　　　　　七三　神を負うて來る人

　

　馬で山から神靈をお迎へ申すといふことは、諸國の神社の祭の式にも傳はつて居る他に、又家々の小さな祭にも見られる。たとへば分娩には山の神と箒の神、その他二つの神が必ずお立會ひなされるといひ、又は山中の大木の空洞《うつろ》(136)などに野宿して居ると、深夜に、馬の蹄の音が響いて來て此樹の前に立止まり、今宵は誰それの家に産があります、行つて生まれ兒の運を定めてやりませうと、誘つたといふやうな昔話もよく知られて居る。それがたゞ一つの語り草としてゞは無く、關東越後から奧羽へかけての弘い區域では、今でも少しく産が長びくと、馬を牽いて山の神を迎へに行くといふ風習が、稀にはまだ殘つて居るのである。眼には見えなくとも其馬が立ちどまり、耳尾を振り動かし、又はもと來た方へ向きかはることによつて、神の召されることを知つて引返して來るので、時によると村の出はづれからもう歸つて來ることもあれば、又は山の中を二里三里、半日も馬にまかせて登ることもあつたと謂つて居る。もとは盆の七日の盆路作りなどにも、或は斯うした作法を伴なうて居たことが無いとは限らない。いはゆる詣り墓の石塔が立つたのは、ほゞ江戸時代の初期の頃からかと思はれ、それより以前の墓どころといふものは、殆と完全にその痕跡を留めて居ない。即ち先祖の來り寄るべき廟所は無く、しかもたゞ家に居てじつと待つても居られなかつたらうからである。

　馬を飼つて居らぬ百姓の家では、どうして居たらうかゞ問題になるが、是は新しい背負繩を肩にかけて出かけること、たとへば信州の或る村の、物固い老人の魂迎への通りではなかつたかと思ふ。其荷繩には定めて嚴肅な結び方が有つたのであらうが、もう尋ねて見ても多分覺えて居る人は有るまい。島根縣石見の山村には、山の神をせなかうぢといふ藁製の背負臺に、乘り移らせ申す式が有るといふことを、覺えて居る者があつた。何でも道の片脇の小高い處に其せなかうぢを立て、繩を片手で引いて唱へ言をするものらしいが、うつかりさうして神を御返し申す作法を知らぬと、大變な事になるからと謂つて、今では寧ろ禁忌の戒めの一つに算へられて居る。村で草分けと言はるゝ舊家の氏神にも、初代の主人が背に負うて入つて來たといふ、口碑を持つものが少なくないが、是には木石金の御像といふやうな、形の有る御靈代《みたましろ》は無いのが普通であつた。即ち山から神を迎へて來る場合と同樣に、たゞ本人の異常なる感覺のみが、神は我背にいますと確信しただけで、今の人たちには覺束ない事かも知らぬが、多分は忽ち肩が重くなる(137)とか、急に氣分が爽快になるとかによつて、此方へ御移りなされたことを知り得たものであらう。歌と斯ういふ神秘な感動との間には、何か隱れた脈絡があつたのではないか。私は音樂の知識に疎いから言ふことは出來ぬが、資料が今もまだ殘つて居るのだから、いつかは考へて見てくれる人が出て來るであらう。妓女や船頭が追分節の創始者でなかつたやうに、假に馬方なり口寄せの盲巫女なりが、この曲の保存と普及とに功が有つたにしても、是を聲高く歌はずには居られなかつた者が、もつと古くから且つもつと一般に、我民族の中にはあつたらしいのである。さうして現在の利用者の境涯や情緒と比べて、やゝ不必要にこの歌の節の寂しくも又哀れなのは、或は是がもと我々の招魂の曲であつたからではないかとも考へられる。

　

　　　　　　　七四　魂を招く日

　

　新時代の法制に於ては、大小一切の託宣といふものを公認しないことにしてゐる。同じく小道巫術と謂はるゝものの中でも、祈?卜占呪禁の類までは、まだ若干の地歩を許容せられるのに、獨り所謂口寄せ取出しを職業とする輩のみは、完全に之を警察の取締に委ねて居る。この方面の近世の變化が殊に亂雜で、明らかに民衆の無知に乘ずる者が多かつたからであるが、誰でも言ひ得る如く、この制壓は一方に正しい智能の啓發を伴なはない限り、却つて惡質のものゝみが殘留して、暗裡に跳躍することを防ぎ難く、しかもこの變化の跡を辿つて、固有信仰の進んで來た道筋を、究めることを不可能にする嫌ひもあるのである。今度は人心の大きな動搖によつて、更に新たなる變態の此部面に現はれることも豫想せられる。それに先だつて一通り、今までの經過を知つて置くことは、國の政治の爲にも必要な事かと考へる。

　先祖の話の關係する限りに於ては、いはゆる憑依《よりまし》業者の進出は、幾分か靈と人との交通を滋くしたといふ中でも、(138)特に私の説く所の道祖《さへ》の川原よりこちらの側、即ち現世の終末ばかりを多事多端ならしめて居る。家々の祭主の祖靈を迎へる方式は、彼等の介助によつてたゞ簡略になつただけで、終に之に代るべきものを得ずにしまつた。盆と暮とのみたま祭に於ても、力を入れるのは新精靈と、招かずとも來て困る外精靈とであつて、家の興隆に大きな寄與をした遠つ親々を迎へる情は淡く、追遠の誠意の屆かぬやうになつたことは、佛法の供養も同じ傾向であつた。

　以前は國郡の最も大いなる御魂が、巫女に憑つて公けの神意を宣べられたことが、歴々として史書に録せられて居るが、近世は名のみは同じでも、大部分は主神の統制から遁げたやうな小さな諸靈のみで、それが憤りを含み災ひを以て脅し、もしくは縁もゆかりも無い個人を誘導して、その私の利益を講ぜしめようとして居るのであつた。たゝりといふ言葉は元來はたゞ神の示現といふ意味に過ぎなかつたのが、後にはいつでも恐れ入つて、詫びてなだめて祠に祀るべきものとなつた。主たる原因は巫蠱の弊なるものであつたらうが、又一つには災厄の不安が少しでも慰諭せられず、之に對抗する力としての家々の神への信頼が、段々と弱まつて來たからで、俗界でいふならば一門の結合力が弛むと共に、急に社交が辯侫に傾いたのとよく似て居る。

　此點を考へて見ただけでも、先祖祭の本旨を明らかにし、それと氏神信仰との續き合ひを知らせて置くことが、可なり效果のある政策であつたのにと、今も私は殘念に思つて居る。しかしさういふ議論などは中止して、口寄せをいふことが職業に化した結果、却つて死靈が安靜の地に止まつて、のどかに祖神となるの日を待つて居ることが出來なくなつたやうな感じがあることを、ごく手短かに述べて置くことにしよう。全國の口寄せ巫は名と種類は色々だが、今も行つて居ることは大よそ同じであつた。神と死に口と稀には生靈《いきりやう》も寄せると謂つたが、何れか一つを專門にするといふ者は殆と無く、多くは皆第二の死靈の口寄せで衣食して居た。もとは期日があつて盆の七日の盆寄せ、或は十六日のときの日に、頼まれて死者の言葉を傳へたのは、起原の魂迎へ魂送りに在つたことを推測せしめる。地方によつては此以外に、春の彼岸の中日を其日として、門の垂柳に白い旗などを掲げて置く風もある。春秋二度ある中に特(139)に春分の日に重きを置くのは、事によると昔の新年、即ち四月の八日なり十五日なりを引上げて、後の新年の一月を避けたものかも知れない。此日は今でも口寄せの門は、老壯の婦人を以て充ち溢れるが、しかし一年にたつた二度だけでは、近世の職業にはなり得ない。それで一方には梓の弓をかゝへて、時とも無く村里をあるきまはる巫女が出來、又一方には戰や旅の空で、何の遺言も無しに死んだ者は、一度は寄せて遣らぬと?の子が生まれるといひ、さうで無くとも死後百日又は中陰の明けた日、或は葬送の終つたすぐ後に、ほとけ降《おろ》しは必ずすべきものゝやうに、信ずる者を多くしたのである。巫女が實際は靈に宿られて居るのだと信ずる者がある限り、斯ういふ信仰を作るのは何でも無い。亡者の言葉としてちよつとさう言へばよいからである。そればかりか總體にあの世の消息を、此徒の貯へて居る知識と空想、又は經驗の範圍内に、嵌め込みつくね上げることも亦容易であつた。男は通例は耳を傾けぬやうにして居たが、それでもおい／＼と啼き悲しむ者を見て、先づ年の若い者から感化を受ける。たゞ人生の實情が複雜化したのと、彼等のいふことが餘りにも師匠の型だつたのとで、變だなと思ふことが稍々多くなり、最近の信用は少なくとも増進しては居ない。盲女が此業に携はるといふことは、心が散らないでもとはよかつたのだが、今では聽く人の表情を讀まねばならぬ必要から、目明きの巫女の方が便利を得て居るといふのも、一つのほゝゑましい時代風景であつた。しかも彼等をもう信じ得なくなつたといふことが、寂しい空隙となりつゝあることも亦爭はれぬのである。

　

　　　　　　　七五　最後の一念

　

　彼岸の中日より外の日に、亡き人の口を寄せると、其ほとけの位が一座下ると、香川縣などでは謂ふさうである。之を職業とする者には迷惑な俗信で、誰がさういふことを考へ出したものか、我々には興味がある。或は別れの涙がふりかゝると、死んで行く者が浮ばれぬといふのと同じに、此世の執着を斷ちきることを、解脱の道と説いたからと(140)も思はれるが、彼岸ならよろしいといふ説明にはまだ足りない。恐らく正式に靈の物言ふ日が、曾ては一年に一日しか無かつたのを、時とも無く呼出され引留められて、徒らに此世の絆《ほだし》を加へることが、先祖になつて行く道でないといふ意味であつたかと思ふ。ほとけに段階が有るといふことは、是より以外には解しやうも無いからである。

　しかし一方には生死のなほ定かで無い者を、何としても尋ね究めずには居られなかつたと同じく、すでに此世の人で無いことだけは明らかで、たゞその臨終の樣子を知つた者が無いといふやうな場合には、一度は何とかして招き寄せて、語らせて見たいといふのも人情で、或は最初には祭とは明らかに別な行事であつたかも知れぬが、後々はそれを盆彼岸の祭に先だち、又は其日の來るのさへ待兼ねて、あやしの歩行巫女《あるきみこ》でも頼まうといふことになつたので、是には又我同胞の久しい以前から、抱いて居た一つの信仰、即ち人の最後の一念が、永く後の世に跡を引くといふ考へが、暗々裡に働いて居たのでは無いかと私は思ふ。平和な尋常な長い一生の果ならば、意力も既に衰へ又新しい望みも無く、仲よく暮せとか墓所を大事にせよとか、誰でも言ふことを御揃ひに願つて居るものと、解して置いて先づ誤りは無いが、元氣な世盛りに突如として去つてしまふ者はさうは行かない。何か人にはまだ告げぬ計畫、必ずやり遂げるといふ強い決心を抱いて居たものが、聽いて遣らぬと埋没してしまふのである。知れば共鳴者もたやすく得られ、又は僅かな力添へによつて、花咲き實のることのほゞ確かなことを、再び第一歩から誰かにくり返させなければならぬとすれば、遺憾は決して本人たゞ獨りのものではない。同じ家筋一門に屬する者が、先づそれを聽いて見ようとするのは、言はゞ彼等の公けに對する務めなのであつた。中には勿論些々たる事、或は無理な望みや誤算なども多かつたに違ひないが、さりとて之を概括してすべて皆菩提の妨げ、あの世の障りとして棄却せしめようとするのは不人情な説法であつた。それが日本で一向效を奏して居ないのは、私などから見れば當然のことである。

　誰がかゝつて集めるのか知らぬが、幽靈の話などはどれも是も、女々しいけちくさい又個人的な、知らずにしまつても少しも差支への無いやうなのを、わざと竝べて我々を氣味惡がらせ、それだから此世をさつぱりと思ひ切つて、(141)遠く寂光の淨土へ旅立たせようとして居るのだが、まだ／＼此社會には正しきを貫く爲に、尊い事業を完成せんが爲に、化けて出て居た亡魂もうんとあるのである。殘念なことには之を引繼がうとする方法が惡く、又相手がたゞ愚癡未練だつたばかりに、陰鬱を極めた因果物語のみが世に弘まり、しかも後々は人から輕蔑せられるに至つたのは損な話だつた。長崎の學者中島廣足の橿《かし》のしづ枝《え》に、

　　清國人は死して幽靈になつて出るを尊き事にして、さる事も無き人を、幽靈にもえ成らぬことゝていたく賤しめおとすめり云々

といふ一節が有る。果してさういふ氣風が隣邦に倶通して居るものかどうか、うつかり此まゝは信じられないが、却つて我々の同胞の間にこそ、此痕跡はたしかに見出し得られるのであつた。今のやうに幽靈が安つぽくなつたのは、言はゞ芝居や草册子《くさざうし》の好み、又一つには叩き巫女や梓御子《あづさみこ》の輩が、あまりにも無教育だからであつた。まだたしかには成功しなかつたといふのみで、壯齡にして世を去る人々の、志を後代に遺す方法は、別に色々と昔から求められて居る。夢に來て逢はうといふやうな約束までを、素朴に信じて居た時代もあれば、又｜現《うつゝ》にも言葉を交した人々があつた。辭世といふものは?々一般の讀者を當てにした、いやな文藝に墮落して居るが、それでも恐らくは日本ほど、是を盛んに利用した國は他には無い。それから又そんな名前は使はなくとも、文字がこの爲に働いて居る區域は中々大きい。活きて居るうちには到底同感の士を得られないことを知りつゝも、人はなほ後代の爲にも大きな著述をして居たのである。

　

　　　　　　　七六　願ほどき

　

　然るにこの國民の珍しい能力、最後の一念を集注し又貫徹しようとする特長を、專ら個人の解脱の方に、導き去ら(142)うと努力した人が多かつたといふことは、彼等の所謂｜外道《げだう》の眼から見れば、甚だ以て安からぬことであつた。人の一代を傾け盡してもなほ爲し遂げられぬ事業は多く、たとへ如何なる幽かな消息でも、是が次の現世へ繋がることを信じたいと思ふ人々に、その僅かな望みさへも思ひ切らせ、善惡すべての雜念を拂ひのけて、ひたすら紫の雲の來迎を待たせようとしたのが、今はとにかく中代の能化《のうげ》たちの所作であつた。家に先祖の事業がなほ傳はり、社會が前賢の遺烈を無言の間に承け繼いで居るのが、もしも悉皆後の人だけの手柄でないとすると、寧ろ最後まで濟度に漏れて居た、善意の幽靈の多かつたことを悦ばなければならない。さうして是が又國土を永遠の住みかと信じて居た、一つの民族の本來の姿では無いかと思ふ。

　日本は神國也。斯ういふ言葉を口にして居た人が、昔は今よりも更に多かつた。私は實はその眞意を捉へるのに苦しんだ者だが、少なくともこの一つの點、即ち三百年來の宗旨制度によつて、うはべは佛教一色に塗り潰されてから後までも、今に至つてなほ是に同化し得ない部分が、この肝要なる死後信仰の上に、可なり鮮明に殘つて居るといふことに、心付いたのは嬉しかつた。素よりこの爭はれない一國の特質を容認しても、なほ布教を進めて行く道は有るのであらうが、ともかくも末派の人たちはそれを試みず、今までは極力その固有のものを抑へ退け萎《なや》し薄めようとして居たのである。それにも拘らず、現在もほゞ古い形のまゝで、靈はこの國土の中に相隣して止住し、徐々としてこの國の神とならうとして居ることを信ずる者が、たしかに民間には有るのである。さうして今や此事實を、單なる風説としてゞ無く、もつと明瞭に意識しなければならぬ時代が來て居るのである。信ずると信じないとは人々の自由であるが、この事實を知るといふまでは我々の役目である。

　話の理窟に流れるのを避ける爲に、もう一つだけ新しい話題を提供しよう。民俗學の學徒が解説に惱んで居る日本の慣習に、願もどし・立願《りふぐわん》ほどき、又は願拂ひといふものがある。それは葬式のすぐ後もしくは次の日に、死者が今まで掛けて居た神佛への祈願を、もう濟みましたと謂つて撤回する式だと認められ、多くは白扇の蟹目《かなめ》をはづして、(143)ばら／＼にして屋の棟を投げ越すのだが、中には生前の食器を毀ち、又は着て居た衣類を逆さまに、裾を持つて振りながら、願ほどきといふ言葉を高く唱へる。或はわざ／＼諸願成就と謂ふ者もあり、大抵は身内で無い者に是を頼むといふ。是を行ふ人の心意を探るには、もしさうしなかつたら結果はどうなるかと問うて見るがよいのだが、單によくないからといふ人も其心の中には、主としては死者が是あるが爲に苦しみ惱み、行くべき處へも行かれぬからと思ふらしい。着物を逆さまに振るなども成程結末を表示して居るが、扇は殊に神に物申す場合に、必ず手に執り又は前に置くものである。それを毀して又用ゐられなくするのは、明らかに絶縁を意味し、神佛とは謂ふけれども專ら神樣の、節度統制の外に出ようといふ目的と思はれた。一たび現世の國を越えて出ると、そこには明らかに二つの相容れぬ未來があつて、法師等はまだそれまでの習合を案出しては居なかつたのである。さうすれば勿論一方を無視するの他は無いが、それの出來ない者が寧ろ信徒の間に居た。幸か不幸か自然に成育した國民信仰といふものは、曾て單純な世情の中に於て、儘かな存立を許されたやうな推理をなほ續けて居る。我々の隱り世の系統の明らかでないことは弱味であつた。それで感情はなほ不安に閉されつゝも、忍んで口達者な人たちの説法に附いたのであつた。近世の幽冥道研究の如きは、動機は或は是に對處するに在つたかとも考へられる。藤井高尚の「松の落葉」に、人は後の世の爲にも神を祭り?るべき事といふ一章などは、たしかに神を信ずる者の言であつた。人は幽冥の事執りたまふ神に乞ひて、許したまはずは此世に出てとかくすることは成り難い。亡き魂の夢に見え人に憑り又形を顯はしもするのは、それが神の御心にかなふからだと、幽冥の道理を道破して居るのも、つまりは今まではたゞ家々の信仰現象に止まりつゝも、なほその間に民族としての、著しい共通點があつたといふことを、その新しい解説の論據として居るのである。學者の解説は是からもなほ變つたものが起り得る。たゞこの一國の自然の一致といふことだけは、彼と共に心を留めて見なければならない。

　

(144)　　　　　　　七七　生まれ替り

　

　顯幽二つの世界が日本では互ひに近く親しかつたことを説く爲に、最後になほ一つ、言ひ落してはならぬのは生まれ代り、即ち時々の訪問招待とは別に、魂がこの世へ復歸するといふ信仰である。是は漢土にも夙くから濃く行はれて居る民間の言ひ傳へであり、佛教は素より轉生を其特色の一つとして居るのだが、さういふ經典の支援があるといふことは、必ずしも古くあるものゝ保持に役立たず、却つて斯邦だけに限られて居るものを、不明にした嫌ひが無いでもない。書物を讀んで居ると何れの國の事か判らず、そつくり持つて來ても通用しさうな話ばかりが多いが、なほ眼の前の社會事象の中には、差別を立て得る資料が、少々は傳はつて居さうに思はれる。一つの要點は六道輪廻、前生の功過によつて鬼にも畜生にも、墮ちて行くといふ思想は日本には無く、支那が或は輸入國では無かつたかとも見られる。我邦では人の靈が木に依り、巌を座とするのは祭の時のみで、物にもそれ／”＼のタマは有ると見て居たが、それが人間の方から移つて行つたといふことを、考へて居る者は今でもさう増加しては居ない。それから修行の累積を以て、段々と高い世界に進み得るといふこと、是は私の謂ふみたまの清まはり、即ち現世の汚濁から遠ざかるにつれて、神と呼ばれてよい地位に登るといふ考へ方とは、同じもので無いと思ふわけは、前者は如何なる世界へでもなほ個人格を携へあるくのに、こちらは或る期間が過ぎてしまふと、いつと無く大きな靈體の中に融合して行くやうに感じられる。此點は私の力では保障することが出來ぬが、ともかくも神と祭られるやうになつてからは、もはや生まれ替りの機會は無いらしいのである。

　是等は消極的な否認に過ぎぬから、證據が出て來れば又言ひ方を更へなければなるまいが、一方にはもつと具體的に、今なほ國民の間にほゞ認められて居る諸點は、何れもよその國と可なりちがつて居る。その一つは生きて居る間(145)でも、身と魂とは別のもので、從つて?々遊離する。それが一種の能力のやうなもので、成長してからも魂が獨り遠く行き、用を足して來るといふ人が折々は有り、殊に死に先だつて逢ひたいと思ふ人を訪れるといふ話は多い。夢に飛びあるくと見ることの出來る人を、仙北では飛びだましと謂ひ、死前に人を訪ふものを津輕ではあま人と呼んで居て、何れも一方にはそれを見る力をもつた者が、職業の徒以外にもあつた。東北以外でも此話はよく聽くが、今では皆之を死後の靈に限る如く考へて居るのは、一つの變化であらう。

　しかし大體に於て魂の生身を離れ易いのは小兒であり、それを防がうとする呪法も數々あつたのみならず、小兒には更に魂のまだ入り込まぬ時期が有るとさへ考へられて居た。中國の各地では宮參りの日に、魂を産土神に入れてもらふといひ、又はその日の御神樂の太鼓の音によつて、赤子に性根が入るとも、魂を授かるとも信じて居る村々は多い。即ち魂は土地の神の管理したまふものであつて、體はその爲に始めて大切なものになることは、ちやうど佛像の入眼と同じく、現に又船でも家でも又祭の日の神輿與でも、すべてウブを入れるウツツを入れるなどゝ、宮參りの小兒の場合と、同じ言葉を用ゐて居るのである。人を神に祀るといふ信仰のもとは、もうこの時から備はつて居るので、順次に進級して行くのでは無かつたやうにも考へられるが、此點はまだ明らかに言ひ切ることが私には出來ない。

　

　　　　　　　七八　家と小兒

　

　日本の生まれ替りの第二の特色と言つてよいのは、魂を若くするといふ思想のあつたことである。小兒の生身玉《いきみたま》はマブリとも又ウブともウツツとも呼んで居たらしいが、是は年とつた者に比べると、身を離れて行く危險の多かつた代りに、又容易に次の生活に移ることも出來て、出入ともに甚だ敏活なやうに考へられて居た。沖繩諸島では童墓《わらべばか》と稱して、六歳以下で死んだ兒の爲に、別に區劃をした埋葬地が出來て居た。近畿中國に於ても兒三昧《こざんまい》、又は子墓とい(146)ふ名があつて、やはり成人とは遣る處を異にして居た例が多い。葬りの式も色々の點でちがつて居た。必ずしもまだ小さいから簡略にするといふので無く、佐渡ではかはつた形の花籠を飾り、阿波の曾谷山《いややま》では舟形の石を立てる。對馬の北部などでも佛像を碑の上半に彫刻して、それを彩色したものが小兒の墓であつた。關東東北の田舍には、水子にはわざと墓を設けず、家の牀下に埋めるものがもとは多かつた。若葉の魂といふことを巫女などは謂つたさうだが、それはたゞ穢れが無いといふだけで無しに、若葉の魂は貴重だから、早く再び此世の光に逢はせるやうに、成るべく近い處に休めて置いて、出て來やすいやうにしようといふ趣意が加はつて居た。青森縣の東部一帶では、小さな兒の埋葬には魚を持たせた。家によつては紫色の着物を着せ、口にごまめを咬《くは》へさせたとさへ傳へられる。ちやうど前掲の立願ほどきとは反對に、生臭物《なまぐさもの》によつて佛道の支配を防がうとしたものらしく、七歳までは子供は神だといふ諺が、今もほゞ全國に行はれて居るのと、何か關係の有ることのやうに思はれる。津輕の方では小兒の墓の上を、若い女を頼んで踏んでもらふ風習もある。魚を持たせてやる南部の方の慣行と共に、何れも生まれ替りを早くする爲だといふことを、まだ土地の人たちは意識して居るのである。

　この再生が遠い昔から、くり返されて居たものとすれば、若い魂といふものは有り得ない道理であるが、是は一旦の宿り處によつて、魂自らの生活力が若やぎ健やかになるものと、考へて居た結果と推測せられる。七十八十の長い生涯を、働き通して疲れ切つた魂よりも、若い盛りの肉體に宿つたものゝ方が、この世に於ても大きな艱苦に堪へ、又強烈な意思を貫き透すことが出來る。それがまだ十分に其力を發揮せぬうちに、俄かに身を去れば殘りの物は何處へ行くとするか。斯ういふこともきつと考へられたものと思ふ。時代が若返るといふことは、若い人々の多く出て働くことであつた。若さを美�ｺとし又美稱とした理由は、日本の古い歴史では可なりはつきりとして居る。恐らくは長老の老いてくたびれた魂も、出來るだけ長く休んで再び又、?剌たる肉體に宿らうと念じたことであらう。其期限といふものがとぶらひ上げ、即ち三十三年の梢附塔婆《うれつきたふば》が立てられる時と、昔の人たちは想像して居たのではなかつたか(147)と思ふ。

　

　　　　　　　七九　魂の若返り

　

　甲州では五十年目の年忌に、柳の木を幹のまゝ片端を少し削つて、草木國土悉皆成佛などゝ書いたものを立て、是を柳塔婆と謂つて居た。この木がたま／＼根づくことがあると、それはほとけの生まれ替つた驗だと見る風もあつた。富士の東北麓の忍野《をしの》といふ村では、夢のうちに死んだ人と言葉をかはしたと見れば、それは其人が何處かで生まれ替つて居る證據だと謂つたさうである。それは多くはとぶらひ上げよりも早い頃かと思ふが、ともかくも靈が所謂賽の川原を越えて、清い御山の頂上へは登らぬ前に、この轉生といふことが想像せられ、その行く先は人間界の、しかもこの一つの民族の間といふに止まらず、尋ねれば尋ねて行かれる近い處であるやうに、考へる人が多かつたのである。

　誰でも知つて居る話は、愛兒を失つた親や祖父母が、何處へ生まれて來るかを知りたいと思つて、腕や手掌《てのひら》に字を書いて置くと、それが今度の兒に必ず顯はれて、前の兒の墓の土でこすらぬと落ちない。それで或る大名長者の家から、内々で墓の土をもらひに來たといふやうな奇事を、事實のやうに語り傳へる者もあつた。勿論是は一種の説話であり、種は外國だと言つても當るか知らぬが、とにかくに人が知らずにしまつては我々の生まれ替りにはならなかつた。或は第三の特徴として、最初は必ず同一の氏族に、又血筋の末に又現はれると思つて居たのが、我邦の生まれ替りだつたかとも想像せられる。其痕跡も全く消え失せては居ない。神奈川縣の三浦半島などでは、いせき（跡取）は先祖の生まれ替りと謂つて居た。それ程概括してゞ無くとも、此兒は誰さんの生まれ替りだと、みんなでさういふので自分も其氣になつて居る者がある。顔か氣質かに似た所が著しいと、雙方を知つた人がつい之を説き、遺傳の原理を知らぬ者は、つい又是を信じたくなるのである。祖父が孫に生まれて來るといふことが、或は通則であつた時代も(148)あつたのでは無いか。といふわけは家の主人の通稱に、一代置きの繼承といふ例は少なくないからで、現に沖繩などは長男には祖父の名を、長女には祖母の名を付けるのが通例となつて居た。しかし是では少しく早きに過ぎて催促せられる氣味がある。さうして又是非ともさう限定しなければならぬ理由も無いのであつた。

　或は自分が生まれ替りであることを、まだ幽かに覺えて居たといふ話も時には有る。百年と少し前の頃、八王子附近の村にあつた事實として、江戸の閑人たちに騷がれた勝五郎再生談などは、五つになる男の兒が誰にも言つちやいけないと謂つて、そつと此秘密を姉だけに語つた。それが二親の知る所となつて、尋ねて行つて見ると二三里も離れた村に、果してその兒のいふ通りの家があり、その前生の兒の名も符合して、もう疑ふことが出來なかつたといふやうな話である。作り話の流行した時代だといふから、うつかり證據に引くわけには行かぬが、考へて見ると是はもと／＼證明のむつかしい事柄であつて、當の本人が何かの拍子に、もしもさういふことを言ひ出したとすれば、もうそれだけでも信じないでは居られぬやうな、心理の素地とも名づくべきものは、却つて周圍の者の間にすでに備はつて居たのである。私などの生まれた村では、初の誕生日の色々の儀式の一つに、箕を以てその滿一年の兒を煽ぎ、おまへは何處から來たと問うて見る行事があつた。幼兒の使ひ得る單語の數は限られて居る。中にはワンワンだのモウモウだのと謂ふので、笑つてしまふものも多かつたらうが、もしもアツチとかコツチとか、墓所や氏神の森の方角を指すことがあると、人々は顔を見合はせずには居なかつたのである。前の生といふことは?々この世の人の話題となり、それを又傍に居て小兒も聽いて居た。彼等の思ひかけぬ言葉に注意を拂ひ、又何かの折は言はせて見ようともする風が、近い頃までは我邦には盛んであつた。子を大事にするといふ感覺が、以前は寧ろ今よりも複雜であつたやうに見えるのも、單に我家の永續に働くべき者だからといふ以上に、もしかすると遠い先祖の靈が立ち返つて、宿つて居るのをもう忘れたのかも知れぬといふ、幽かな考へ方がなほ傳はつて居た爲とも考へられる。

　

(149)　　　　　　　八〇　七生報國

　

　それは是から更に確かめて見なければ、さうとも否とも言へないことであらうが、少なくとも人があの世をさう遙かなる國とも考へず、一念の力によつてあまたゝび、此世と交通することが出來るのみか、更に改めて復立歸り、次々の人生を營むことも不能では無いと考へて居なかつたら、七生報國といふ願ひは我々の胸に、浮ばなかつたらうとまでは誰にでも考へられる。廣瀬中佐が是を最後の言葉として、旅順の閉塞船に上つたときには、既に此辭句が若い學徒の間に、著名なものとなつて居たことは事實である。中にはたゞ詩人の咏歎を以て、之を口にした場合も無かつたとは言へまいが、今生死の關頭に立つ誠實な一武人としては、是が其瞬間の心境に適切であつたのは固よりで、日頃愛誦の句であるだけに、感銘の更に新たなものがあつたらうことも疑はれぬ。同じ體驗が今度は又、至誠純情なる多數の若者によつて、次々と積み重ねられた。さうして愈々この四つの文字を以て、單なる文學を超越した、國民生活の一つの目標として居るのである。

　太平記の次の一節をよく讀んで見ると、この中にはまだ一抹の曇りといふやうなものが漂よつて居る。それを今までは全く氣が付かずに、深い印象を私たちは受けて居たのであつた。

　　手の者六十餘人、六間の客殿に二行に竝び居て、念佛十遍ばかり同音に唱へて、一度に腹をぞ切つたりける。正成座上に居つゝ、舍弟の正季に向ひて、そも／＼最後の一念に依つて、善惡の生を引くといへり、九界の間、何か御邊の望みなると問ひければ、正季から／＼と打笑ひて、七生まで只同じ人間に生まれて、朝敵を滅さばやとこそ存じ候へと申しければ、正成世にうれしげなる氣色にて、罪業深き惡念なれども、我も斯樣に思ふなり。いざさらば同じく生を替へて、この本懷を達せんと契りて、兄弟とも刺し違へて、同じ枕に伏しにけり。

(150)　人にもう一ぺん生まれて來ようといふ願ひまでが、罪業深き惡念であると、見られて居るやうな時代も有つたのである。是が楠公の當時の常識であつたのか。但しは又廣嚴寺の僧たちが、後にさういふ風に世の中に傳へたのか。もしくは語る者が、自分の批評を以て潤飾したか。三者何れであらうともそれは問ふ所で無い。國民はすでにもう久しい間、是を惡念とも妄執とも見ることを忘れて、たゞその志の向ふ所を仰慕して止まぬのである。

　安藤爲章の年山紀聞の中に、水戸の黄門光圀の侍女村上吉子、後に法體して一靜尼と謂つた人が、七十二歳を以て世を辭した時の歌を載せて居る。

　　　又も來ん人を導くえにしあらば八つの苦しみ絶え間無くとも

　女性として又佛道の人としては、誠に力強い最後の一念であつたが、それが如何なる方面に再生したかは、悲しいことにまだ明らかにはなつて居ない。人生は時あつて四苦八苦の衢であるけれども、それを畏れて我々が皆他の世界に往つてしまつては、次の明朗なる社會を期するの途は無いのである。我々が是を乘越えていつまでも、生まれ直して來ようと念ずるのは正しいと思ふ。しかも先祖代々くりかへして、同じ一つの國に奉仕し得られるものと、信ずることの出來たといふのは、特に我々に取つては幸福なことであつた。

　

　　　　　　　八一　二つの實際問題

　

　さて連日の警報の下に於て、ともかくもこの長話をまとめあげることが出來たのは、私にとつても一つのしあはせであつた。いつでも今少し靜かな時に、ゆつくりと書いて見たらよからうにとも言へないわけは、たゞ忘れてしまふといけないからといふ樣な、簡單なことだけでは無い。もとは他國へ出て行つて働くにも、やがては成功して故郷に還り、再び親類や故舊の間に住まうといふ者が多かつたやうだが、最近になつて人の心持はよほど改まり、何でもそ(151)の行く先の土地に根を生やして、新たに一つの家を創立しようといふ念願から、困苦と闘つて居る人たちが日に加はつて居る。乃ち家の永續は大きな問題とならざるを得ない。風土環境の我々に及ぼす力は輕く見ることが出來ぬであらうが、住めば忽ち其天然の中にまぎれ込んでしまつて、やがて見分けも付かなくなることは、少なくとも開發者の本意では無いのである。淋しい僅かな人の集合であれば有るだけに、時の古今に亙つた縱の團結といふことが考へられなければならぬ。未來に對してはそれが計畫であり遺志であり、又希望であり愛情である。悉く遠い昔の世の人のした通りを、倣ふといふことは出來ない話だが、彼等はどうして居たかといふまでは、參考として知つて置くのが強味である。古人は太平の變化少なき世に住んで、子孫が自分の先祖に對するのと同一の感じを以て、慕ひ懷かしみ迎へ祭るものと信ずることが出來た。しかし實際は次々と社會の事情が改まつて、或る部分に於ては明らかに失望して居るのである。其悲しみをちつとでも避けるが爲には、我々は是から後の世の中の、今の通りでは無いことを豫期することが必要であるのみで無く、それを力の及ぶ限り、現在我々が善しと信ずる方向へ、變らせて行くやうに骨折らなければならぬ。即ち家といふものゝ理想は外からも内からも、いゝ頃加減にしてほつたらかして置くわけに行かぬのである。日本の斯うして敷千年の間、繁り榮えて來た根本の理由には、家の構造の確固であつたといふことも、主要なる一つと認められて居る。さうして其大切な基礎が信仰であつたといふことを、私などは考へて居るのである。固より信仰は理を以て説き伏せることの出來るもので無く、人が背いて行くのを引留めることは困難であらうが、多數の我同胞は感覺に於て之を是認しつゝも、實は之を考へ又言葉にする機會だけをもたなかつたのである。はつきりと言つてしまつたら、却つて反對は強くなり、消滅の危險を多くすることになるのかも知れないが、なほ私はこの事實を正確にした上で、それを再出發の起點としなければならぬと思つて居る。

　それから第二段に、是も急いで明らかにして置かねばならぬ問題は、家と其家の子無くして死んだ人々との關係如何である。是には佛法以來の著しい考へ方の變化があることを、前にもうくだ／＼しく説いて居るが、少なくとも國(152)の爲に戰つて死んだ若人だけは、何としても之を佛徒の謂ふ無縁ぼとけの列に、疎外して置くわけには行くまいと思ふ。勿論國と府縣とには晴の祭場があり、靈の鎭まるべき處は設けられてあるが、一方には家々の骨肉相依るの情は無視することが出來ない。家としての新たなる責任、さうして又喜んで守らうとする義務は、記念を永く保つこと、さうしてその志を繼ぐこと、及び後々の祭を懇ろにすることで、是には必ず直系の子孫が祭るので無ければ、血食と謂ふことが出來ぬといふ風な、いはゆる一代人《いちだいびと》の思想に訂正を加へなければならぬであらう。死者が跡取ならば世代に加へる制度を設けるもよし、次男や弟たちならば、之を初代にして分家を出す計畫を立てるもよい。ともかくも歎き悲しむ人が亦逝き去つてしまふと、程なく家無しになつて、よその外棚《ほかだな》を覗きまはるやうな?態にして置くことは、人を安らかにあの世に赴かしめる途では無く、しかも戰後の人心の動搖を、慰撫するの趣旨にも反するかと思ふ。子代《こしろ》御名代《みなしろ》の貴き御ためしを引くまでも無く、古來我邦には叔母から姪女へ、伯父から甥へ行く相續法もあり、或は又血縁の繋がりの無い者にも、家名を承繼がせた習はしがよく發達して居る。新たに國難に身を捧げた者を初祖とした家が、數多く出來るといふことも、もう一度この固有の生死觀を振作せしめる一つの機會であるかも知れぬ。それは政治であつて私等の學問の外ではあるが、實は日本のたつた一つの弱味といふものが、政治家たちの學問への無關心、今なほ斯ういふ研究はよく／＼閑の有る人間だけに、任せて置いてよいかの如く、思つて居る人が多いことに在ると思ふので、思はず斯んな事にまで口を出すはづみになつたのである。

　

(153)　　日本の祭

　

(155)　　　　　自序

　

　昭和十六年の秋、東京の大學に全學會といふものが設けられ、その教養部に於て色々の講義を聽くことゝなつた際に、自分は頼まれてこの「日本の祭」といふ話をした。聽衆は理工農醫の襟章を附けた人が多く、文學部の學生は寧ろ少なかつた。自分も亦それを豫期して、この話し方に力を入れて見たのである。現代の日本には小學校以來、一度も斯ういふ講義を聽かないのは勿論、問題として是を考へて見る機會をもたなかつた人が、どうやら非常に多さうに思はれる。しかも遠からぬ未來に於て、是が國民總がゝりの研究事項となるであらうことも想像し得られる。今に於て健全なる常識を長養することは、缺くべからざる準備であり、それには又推理の能力に富み、且つ殆と白紙の如き感受性を備へた是等の若い人たちは、この上も無い好い聽手だと私は思つたのである。

　日本の祭は、今までとても決して省みられなかつたのでは無い。是を專管する官府神職の事業以外にも、民間の記録は日を追うて詳細を加へて居る。肥後氏の「宮座の研究」と前後して、山城には井上頼壽君の「京都古習志」が、最も周到なる村々の調査を録し、大和では辻村好孝君の實地見聞が、雜誌「磯城」に連載せられ、是亦近く一卷の書となつて世に見えんとしてゐる。その他播但各地に於ける西谷勝也君の採集、越前に於ける齋藤優君の若干の報告の如き、大體に前代文化の中心地から發足して、漸次に遠方に及ばんとして居るのは、洵に悦ばしい形勢といふことが出來る。諸國著名の祭の飛び／＼の記事に至つては、もし研究の志を抱く者が捜し集めようとするならば、この以外にも材料は豐富である。たとへば近年の雜誌としては「民俗藝術」「旅と傳説」の中にも幾つと無く確かな報告があり、更に松平齊光氏の「おまつり」の如き、奇特千萬なる專門誌さへ此頃は出て居(156)る。郡誌町村誌の數多い編輯ものを漁つて見ても、一つ以上の祭の記事を、載せて居らぬものは寧ろ稀なのである。固より全國大小の御社の數に比べると、是はまだ片端の事實に過ぎぬけれども、とにかくに分量はもう大したもので、一應は人に飽滿の感を與へずには居らぬのである。しかしながら是等の材料を整理分類して、日本の祭の現?を明らかにするのは、それは專門家の仕事である。この活?なる未來各方面の分擔者に對して、一通り國の固有信仰の有り形を知らしめるのは、別に十分なる要約が無ければならぬ。さうして又一度聽いたら、覺えられ考へられるものであり、且つ覺え考へてもらふ必要のあるものばかりでなくてはならぬ。徒らに資料だけが非常に豐富だと受合ふことは、却つて此人たちの知識欲を、阻むことにならぬとも限らない。だから是でも長過ぎはしなかつたかと私は危んで居る。又果してその要約の條件に、合致して居るかどうかを氣遣つても居る。

　專門家がおのれの所得を人に頒たうとする際に、無闇に自分の知つて居ることを竝べ立てゝ、相手の用途をよく考へようとしない弊風は稀ならずある。一つにはこの位なことは解りさうなものといふ、我身に引比べての推測の誤りもあり、又一つには少しでも多く、學ばせて置きたいといふ親切もあつたらうが、主たる動機は相手を安心させて、樂々と自説を信用せしめようといふ、學者らしい欲望に在つたやうにも思はれる。私は今に至るまで、單なる民間好學の徒の一人に過ぎなかつた爲に、別に世に傳へなければならぬ主張も無く、且つ自分でも常に迷うて居る。最も確かなる澤山の事實の中から、斯く歸納するより他は無いやうに、今は思つて居るのだがどんなものであらうかといふ風に、若い人たちに説くのには適して居るのである。だから此本の中にも是は一つの見方だ。うつかり丸呑に信じてはいけないといふことを、少しはをかしい位にくり返して居るのである。期する所はたゞ是が國民の痛切なる問題であることに心付かしめ、進んでその解決の道を見出さうとすれば、手段はほゞ備はり、學問は又時代の要望に促されて、此上にもなほ發達し得るものであることを、承認せしめようとするに在る。其目的は果して達し得たかどうか。志は切であつても遺憾ながら能力が之に伴なはない。殊に終りの二(157)章は、故障があつて講演を中止し、手控へを淨寫したまでゝある爲に、幾分か説明に物足らぬ點の有ることを感ずる。

　　　　　　昭和十七年十一月

　

(159)　　　　　學生生活と祭

　

　　　　　　　　　　一

　

　私などの學生生活は、諸君の時代に先だつこと四十餘年、今頃もう何の話をして見ても、共通點などは無いかの如く、始めから見切りを付けて居る人も多いことであらう。實際又外形だけから言ふならば、時世は變つて居ることも確かに變つて居る。たゞ其變化はどの點までか、といふことが問題になるのである。内側から見れば、明治時代はおろか、江戸期の三百年をさへ通り越して、遠くは平安朝の大學生と比べても、さして大きなちがひの無い點も有り得る。少なくとも古今の學生生活を共通ならしめるやうな、社會事情が無かつたとは斷言出來ない。この昔から現在へと變遷したものを、明らかにすることも勿論歴史であるが、それと同時にその千年以來を一貫した何物かのあることを知らず、時さへ過ぎれば何でもかでも、必ず變つて居るにちがひないと速斷してしまはぬやうに、注意させてくれるのも亦歴史の學問である。

　この最少限度の歴史知識、たとへ知識といふほどの纏まつたものでなくとも、少なくとも一つの觀念、もしくは當世の史學に對する一つの態度、私たちが假に名づけて史心といふものだけは、如何なる專門に進む者にも備はつて居なければならぬことは、ちやうど今日問題になつて居る數學や生物學も同じことだと思ふ。私などが普通教育に於て授けられた數學は乏しく又不完全なものであつた。その爲に一生の間、精確といふことの眞の意味が解らず、いつも(160)目分量とか程合ひとかいふ類の、母親ゆづりの機敏さを以て、其缺陷を補はうとして不必要に精力を費して居るのである。それと似たやうな歎きを、歴史の方面に於ても抱いて居る人は無いかどうか。始めから考へ方を教へられぬ爲に、考へようとしないといふ虞れは無いかどうか。それを一たび反省して見るといふことも、實は望ましい人生修練の機會なのである。諸君は果してどういふ豫想を以て、今度の講義を聽きに出られたらうか、私にはそれを推測することは出來ないが、自分の方には實は一つの動機があつたのである。最初にそれを告白して置く方が便利と思ふが、手短かにいふと我々御互ひには、「それはまだ氣付かずに居た」と言はねばならぬことが幾つもある。新たに氣を付けて居れば今からでも、それが段々と判つて來さうだ。歴史を人生に役立たせようと思へば、學ぶべき方法は眼の前にも在る。さういふ己を空しうする者の悦びを、もし出來るなら諸君にも分ちたいのである。

　

　　　　　　　　　　二

　

　過去を解説し又批判する風は、今日は既に盛んであるが、それは必ずしも常に知り盡した人の言葉では無い。しかも批判せられる相手方は、何を言はれても臆つて居る古人である。抗議も辯疏も出來ない過去の人の行爲に對して、そんないゝ加減な判斷を下すことは、單に不當であるのみならず、同時に自身の爲にも大きな損である。國を今日の?況にまで持つて來た力といふものは、好きにつけ惡しきにつけ、基く所は悉く過去に在り人に在る。特に其爲に大きく働いた中心人物が有つても無くても、とにかくに背後に一團としての國民の生き方と考へ方とが、關與して居なかつた場合は想像することが出來ない。それがどう動いてこの結果に到達したか、その筋路が次第に明らかになつて、それを參考として始めて我々の、今後の計劃は立つのである。それを究めなければ、よしや目標は高く掲げても、どうしてそれへ歩み近づいて行くかの、具體的な進路は定まるものでない。今まではそれを只いはゆる腰だめで狙つて居たのである。

(161)　歴史は本來は政治家の學問であつた。それを今日國民總數の普通教育の、缺くべからざる一科目と御定めなされた御趣旨は、我々には拜察することが出來る。一言でいふならば、之によつて我々は今までよりももつと賢くならなければならぬのである。眼前の世相の原因は、勿論複雜を極めたものであらうが、とにかくに斯うなつて來るには、さう幾つもの理由があらうわけは無い。つまりは數あまたの動力の、たつた一種の組合せしか無かつた筈である。それが現在我々に判つて居るだけでは、まだ合點の行くやうな説明が付かぬとすれば、もしくは色々の相背反する解説が成立ち得るとすれば、必ずどの部分かにまだ我々の氣付かずに居るもの、見過して居る點が殘つて居るのである。それを行く／＼一つも洩れ無く、突留める途は無いものかどうか。といふより前に、先づ御互ひの前代探求の方法に何が缺けて居るか。どれだけの歴史知識が我々の生活に必要なものであつて、しかも今はまだ學ぶことが出來ずに居るのであるか。斯ういふことを率直に考へてかゝるのがよいやうである。私は少なくともさういふ反省をして居る。今以て一向に得る所は無いけれども、少なくとも前途に希望を抱いて、心樂しく學問を續けて居る。もし聽いてくれる人が有るならば、さういふ話をして見たいと思つて、この講義には出て來たのである。「日本の祭」といふのは好い話題であり、重要な又興味深い社會事實ではあるが、それも實は一つの例示に過ぎぬ。本當の目的は諸君と共に、茲に御互ひの間の共通の問題たる、日本の傳銃といふものを考へて見たい爲に、それを具體化すべくこの御祭の話をするのである。

　

　　　　　　　　　　三

　

　以前から日本人は、歴史は決して嫌ひではなかつた。殊に西暦十九世紀以來の世界の風潮に乘つて、如何なる問題にも先づ歴史的沿革を問ふ癖を生じ、それが學生の間にも可なり行き渡つて居る。然るにちよつと意外なことには、その學生生活そのものゝ歴史だけは、まだ誰一人尋ねて見ようとした人も無かつた。多分は毎日の事だから、わかり(162)切つて居ると思つて居るのであらう。四十何年前の私などの學生時代と比べて、今がすつかり變つてしまつて居るのならそれも大事件、もし又何物かのどうしても改まり得ないものが有つたとすると、それも亦諸君等の關心を持たずには居られぬ所であらう。といふわけはこのいはゆる生活環境即ち我々が取卷かれて居る文化複合體の配合樣式は、この明治から昭和への半世紀間に於て變つて又變つて居るのである。其まん中に於て學生だけが、獨自の特色の或るものを保ち得たとすれば、それにも明らかにせられねばならぬ理由が有る筈だからである。

　近頃でもぽつ／＼耳にする大學生氣質といふもの、それが國によつて可なり相異なる特徴があると言はれるのは、私にはそれ／”＼の國家に於ける社會的條件の差のやうに感じられる。即ち國毎にどうしても大學生を出さずには居られぬ家といふものがあつて、以前はそれにやゝ著しい地方性又は偏倚性があり、それが學問の仕方や青年の生活ぶりを、左右することになつて居るのかと思はれる。勿論是はたゞ偏倚といふのみで、國全體の事情は均一といふわけでも無かつたらうが、一旦一つの氣風傾向が作り上げられると簡單なことでは消えてしまはない。是が今日の日本などで見るやうに、何人でも能力次第、自由に大規模な學問をすることが出來る時世になつて後まで、なほ久しい間前世紀の所謂書生風が、殘り傳はつて行く理由のやうに思はれる。尤も我々が斯ういふ點に氣がついたといふだけでも、もう一つの轉囘の機會でもあらうし、恐らくは今のこの世界大動亂の世代を一つの區切りとして、大學生活にも大きな變革が起り、後には一段と過去の囘顧を、困難にする時が來るのであらう。或はそれがもう來て居るので、今はちやうどその際どい過渡期だとも言へるのかも知れない。とにかくに一たび國民の間に或る特徴のやうなものが生まれたら、もしくはそれが稍々久しく續いて居るやうなら、永久にそれで押通されようなどゝは私は思つて居ない。寧ろ一つの變遷の近き將來に豫想せられるものがあるが故に、やゝ急いで現在の實?を明らかにして置かなければならぬと思ふのである。

　

(163)　　　　　　　　　　四

　

　近年しば／＼大學は職業教育であつては困るといふやうな批評を耳にしたやうだが、日本などは古い頃から、學問は全く一つの職業教育であつた。大江とか菅原とかいふ定まつた家が夙くあつて、其家に生まれた者だけは、よく／＼不適當な素質で無い限り、學生にならねばならぬと共に、もとは外部の需要も少ないので、其家以外からは入り込む隙間も無く、吉備眞備や源順などは、稀有の例外であつた樣である。この?態は可なり久しく續いた。日本で學問が振はなかつたといふ時代は、つまり此家々に優れた人の出なかつたことを意味する。或は經濟力の大小といふことが考へられるかも知らぬが、叡山や興福寺の法師には、幾らでも外から新參者が入り得た時代にも、この學問の方面だけには、一向出色の異分子といふ者が出來なかつた。�ｺ川家康の文事奨勵といふことは、今から振り返つて見ると大きな功績で、その間接の效果としては、如何なる地方の隅々までも、學者を尊重し且つ需要するの風を普及させ、從つて新たにこの列に加はる家を數多くしたことは事實であるが、しかもなほ最初のうちは、是が純然たる長袖階級であつて、頭は圓く剃り、着物は何だか拾得のやうなものを着せられて、普通の國民とはちがつた地位に置かれて居た。それは甚だ不當であると謂つて、たしか木下順菴の頃から、儒者もかみしもを着し髷を結ぶやうになつたが、なほ暫くの間は古風を守つた家も多く、少なくとも民間俗衆の感覺では、醫者・易者・驗者・藝者などゝ共に學者も「者」の字の附く者として、別扱ひをする仕來りが拔けなかつた。即ち一見この道に入つた以上、年取つてから再び尋常の民衆生活に、參加するやうな場合は豫期しなかつたのである。さうしてこの特殊なる修業の仕方は、まだ今日まで或る程度は引繼がれて居る。講釋師などがよくいふ文武兩道といふ語は世に行はれ、武士や農夫が修養の爲に學問の道に入り、天賦の才能があつて測らず深入りする者が、相應に數多くなつて後までも、なほさういふ人たちと本職の儒者學者との間には、可なりはつきりとした堺目があつた。といふわけは前者は別に各自の家々の爲に、活きて(164)行かねばならぬ今までの生業があつたのに反して、他の一方は是がたつた一つの存在の基礎だつたからである。この方を本職と呼び、他の一方の學問を道樂と呼ぶ言葉は、今でもほゞ通例に行はれて居る。さうして此差別觀は相應に又基礎のあるものだつた。

　

　　　　　　　　　　五

　

　この差別が古く溯るほど、何人の目にも著しかつたのである。第一には修業の方法、殊に意氣込が丸でちがつて居た。さむらひならば撃劔や馬や弓鐵砲などゝ共に、ことによると茶道香花音曲とも取交へて、若い頃に一通り、即ち竝の人の學ぶ程度まで、先生の處へ通つて教へを受け、たゞ特に熱心な人が、年を取つてからもひま／＼に之を繼續するだけで、特に其爲に遊學することなどは元は無かつた。從つて東北地方のやうに、土地に立派な先生が無ければ、へぼい先生にも就く故に、一般に學問が振はぬといふ結果にもなつたのである。

　農民の家では武藝の必要が無いから、學問だけの爲に若い日を費す餘裕はあつた。資力のある者は追々に、息子を外へ修業に出すことにもなつたが、それも所謂人中を見せるといふ趣旨が加味して居て、家を嗣ぐべき青年ならば精々一年か二年、その以外は心掛けのよい者が自修をするばかりで、自修によつて相應に進んだ所まで行つた人もあるが、働き盛りには家業を疎かにするといかぬと言つて、大抵は一時全く中止し、幾分かからだが樂になつて後にもう一度又始める。地方の物知りといふ人には是が多かつた。中にはその自修の時間を得る爲に隱居を急ぎ、又は弟に家を讓つて自分は出てしまつたといふのも折々聞くが、それは珍しい例外と言つてよかつた。多くの家の主人は、子供の頃は寺小屋通ひで手習が主であり、若干の讀書もそこで授けられたが、「學者」になつてしまふことを恐れて、成るべく早く下げるのを普通として居た。百姓には學問は用は無いとか、商人があまり物知りになるのも考へものなどゝいふ意見は、頑固親爺又は分らず屋の標本として、可なりこつぴどく若い人からは排斥せられたが、この舊弊には實(165)は歴史のあることであつた。家を大事にする爲に個人の幸福を犠牲にしたものゝ如く考へられたのは、必ずしも當つては居ない。當人自身の爲から見ても、斯んなことで職業を變へてしまふことは、もとは決して安全な判斷では無かつたのである。今とても或は一つの冒險と言はれるかも知れぬ。なまじ本式の大學教育を受けたが爲に、家の代々の土地とは絶縁してしまひ、どこに落着きを求めるとも無く、浮世の波の底に埋もれてしまふ人が、近世は可なり目に付くやうになつて居るのである。土地に根をさすことを安全と考へた人々に、さういふ未知の世界が危險視せられたのも無理は無い。ところがその冒險を敢てしなければならぬ必要が、段々と増加して來たのである。つまり世の中は變らずにはすまなかつたのである。

　

　　　　　　　　　　六

　

　人口の繁殖に伴なふ家々の剰つた勞力、いはゆる次男三男の始末、是が我邦の社會史に於ても非常に大きな時代變化を受けて居る。先づ第一に古今を比較して見ると、家の分立といふことは昔は少なかつた。周圍に土地の開發し得る餘裕があるうちは、親は子の愛の爲に餘分にも働いて、次の兒等にも新たなる獨立生活の機會を與へようとする。末子相續制の殘存などゝ謂つて居るのは多くは是で、日本には各地の漁村にも其例があるが、信州諏訪などのも次々の新墾地を、長男次男にと與へ行く故に、結局末の兒が自然に元の屋敷に殘ることになつただけである。だから一方にはそれと反對の順序に、新しく開いた土地へ次男以下を連れて出て行くものもある。つまりは雙方とも分割相續の一方法なのである。この未開原野がもう乏しく又は瘠薄になつて後まで、なほ昔からの因習のまゝに、親がこの方式を守つてひどい辛苦をして居る例も、肥前の下五島などにはある。しかし到底さういふ餘地が無いときまれば、兄弟集まつて一所に暮すより方法が無い。所謂大家族は、外に向つては一つの力ではあつたが、その屬員の爲には必ずしも樂天地だつたとは言へない。是にも幾通りかの待遇法は有つたやうだが、結局程無く貧民になつてしまふこと請合(166)ひの、小さな從屬的分家を本家のまはりに澤山こしらへることが落ちであつた。親はさういふ悲しい實例を幾つも見て居るので、どうかして我子にはそれを免れさせたいと苦心をした。その努力の痕が色々と殘つて居るのである。

　所謂對等分家といふものが其一つであつた。日本の分家には新舊の二種があつて、近世に出來たものは大半は本家を凌ぎ、從つて多くは兩方の仲が良くない。遠く離れた新開地に、さういふ分家を出すといふことは昔もあつたが、同じ部落のうちに軒を竝べて、どちらが本家かと思ふやうな新宅を立てることは、元は無かつたのである。其次には婿養子の流行、是も四隣の他民族には無いことで、もう恐らくは永くは續けられまい。西鶴や八文字屋本によく見える敷銀聟、又は株買ひ養子などゝいふのは、貰ふ方にも新たな必要はあつたので、言はゞ女子相續法の一つの新設であつたが、起りは次男以下を小前の農民にしたくない親心から出て居る。其次に現はれたのが店鋪職業の増加、酒屋・質屋・肥料商・穀屋などの早く村に起り、一方には又都會が驚くべく成長したのも、何れも皆日本が島國であつたが爲で、もしも大陸のやうに伸びて行くべき空閑の土地が地續きにあつたら、農民の子は悦んで先づ其方へ進出したことであらう。

　それよりも比較的自然に近い問題の解決法、即ち資金が無くとも始められる分家は、それ／”＼の子供の氣質に應じて、農以外の新たなる職を學ばしめることで、其中では學者修業が一番に新しく又高尚な一つの案であつた。但し是には適しない者が勿論非常に多い。大抵の場合に考へられるのは親方取り、即ち所謂年季奉公である。職人といふ階級の需要は次第に多く、次には商家の奉公も出世の道であつた。最も平凡なのは百姓奉公で、是は勞多くして成功の機會が少なく、辛抱しおほせてもたゞ水呑百姓になるだけであつた。武家奉公も以前は出やすかつたが、後には條件が附き、何か一藝を以て抱へられるやうになつた。さうして學者になるといふことは、もとはその禄仕の手段の一つだつたのである。此點が醫者や坊主と、學者とはちがつて居る。前の二つは公衆を相手にし得るが、學者はよほど大きな町でゝも無いと、開業をしても生計は立てにくかつたのである。

　

(167)　　　　　　　　　　七

　

　しかも學者は人の師とも仰がるべき立派な地位であつたが故に、其修業の苦しさも他の諸職とは比べものにならなかつた。以前の學者は暗記の部分が多く、又讀まなければならぬものが東洋では無やみに多くて、非常に澤山の時を要したのである。是に適するだけの天分の入用なことは言ふまでも無い。其上になほ大へんな努力勉強、是に堪へるだけの根氣と體質とを要し、從つて出來そこなひが幾らもあつた。資力の有る者には却つて此難關は押し切れなかつたらう。少なくとも澤山の學資はもとは使つて居ない。食ひ扶持持參と學僕との差はあつたが、とにかくに書生の金持といふものは至つて珍しかつた。氣ぐらゐだけは無暗に高くて、懷の淋しいのが以前の書生の特徴であつた。今ではもう絶對に見られなくなつたが、私などの大學時代までは、夜は人力車を曳いて居るといふ若者も確かに居た。牛乳新聞の配達は稀で無く、又人の家に寄食して僅かに通學の時間だけを與へられて居る者などは幾らでもあつた。斯ういふ青年が忍耐して學校さへ卒業してしまへば、すぐに好い地位を以て迎へられるといふ時代が、明治年間には可なり永く續いて居たのである。即ち維新以前の古い社會組織に比べると、人は一段と古い職業を棄てることが容易だつたのである。貧家の次男以下が、所謂風雲に際會する爲に苦學しただけで無く、又士族といふ失業階級が是を唯一の進路と考へただけで無く、父祖の生業を持ち傳へた家の跡取りまでが、結果は轉業となり土地との分離となることを知りつゝも、なほこの前代の分家方式の一つを、自分にも採用したのである。新たに始まつた小作農制が、地主を特別に農と縁の薄い閑なものにしたこと、及び職業自由の思想なども、この傾向を助けるのに力があつたかと思ふ。とにかくに彼等の多くは、父兄と共に活きた今までの生活には何の愛着も無く、又之を理解しようとも力めなかつた。たゞ詩人風に田園の平和風物を咏嘆することはあつても、その實際の生活に對しては、可なり冷酷なる批判を貯へて居た。國が新しくなるといふことは、或は斯ういふ意外な變化を覺悟すべきことを意味するのかも知れぬが、何にも(168)せよ茲には免れ難い一つの傳統の切れ目があつたのである。さうして是は必ずしも明治の新時代に入つて、突如として始まつた現象で無く、其萌しは既に百年二百年も前から、少しづゝ動いて居たのである。

　

　　　　　　　　　　八

　

　自分が「日本の祭」を説く前置きとして述べたいと思ふことは、昔の學生は學業が完成して後、常の人とはちがつた生活に入つて行くべき人であつた。其點では醫者や僧侶などゝよく似て居た。又江戸時代に多く出來た町の商人、諸種の職人などゝも似て居て、もう生まれた家々の傳統などは、忘れてもよい人々であつた。近世の官吏技師教員なども此類で、つまり手短かに言ふならば、生まれた家にはもう還つて行けない人々、もしくは舊家の相續人には許されない職業であつた。若いある期間の見習ひ奉公などゝは、よほどちがつた轉身であつた。しかも其數のまだ少なかつた間は、同化といふことも考へられた。たとへば村にたゞ一人か二人の長袖が住んで居ても、其爲に村の統一はこはれない。郷に入つては郷に從へといふ諺などもあつて、村ではこの新分子が一つの對立の勢力にはならなかつたのである。都會は之に比べると早く雜駁になり易かつたが、それでも伊藤仁齋などは、袴をはいて町内の井戸替へに出て來て、近所の人たちを恐縮させたといふ話なども殘つて居る。割長屋に浪人者が一戸まじつて居ても、小さくなつて何分よろしくと謂つて居たからすんだ。現代の如きは之に反して、すでに異分子とも言へないほど、澤山の新職業者が群をなし又は組織を作つて、先づ都會を無限に厖大にし、次には一つの上層勢力となつて、地方の古くからあつた活き方考へ方の上に、のしかゝつて居るのである。此の如き以前とは全く逆な?勢の下に在つて、果して一國古來の傳統なるものが、持續し保存し得られるかどうかといふことは、その傳統保存の是非を討究する前に、是非とも一應は考へて置くべき問題である。何となれば、假に一國の傳銃は守つて失ふべからざるものであるといふ結論が出たとしても、事實保存し得る見込が無いのだとすれば、それは結局むだな國策に歸するからである。今日我々の耳にす(169)る多くの傳統論などは、果して何が確かなる傳統であるかといふことも示して居ないのみか、それが斯くして傳はつたのだといふ筋路などは説かうとしない。曾ては安全にそれの持續し得る組織が備はつて居たのが、後には少しづゝ弛み崩れ心もと無くならうとして居るのではないかどうかといふことも考へて見ない。たゞ有りさうなものだ、有つて然るべきだと思つて居るだけである。そんな氣休めの原理だけでは、到底我々は活きて行けない。もつと具體的に考へて見る方法があつてよいと思ふ。

　

　　　　　　　　　　九

　

　諸君は小學校を出た十三四の年から、いよ／＼世の中に打つて出る二十四五歳の時まで、中には家庭から通つて居る人があつても、明けても暮れても學校の生活しかして居ない。全く通俗社會とは利害を絶縁した、同輩の中でばかり生きて居るのである。さうして一方に爭ふべからざる一事は、親から子へ、祖父母から孫へ、郷黨の長者から若い者へ、古來日本に持傳へた物心兩面の生活樣式を、受け繼ぎ覺え込むのも、實はこの十年餘りの青年時代だつたのである。新たに澤山の貴重なる知識、古人の夢想すらしなかつた深秘の法則を、體得するのも此期間だが、それにはある代償、ある種無形の授業料があつたといふことを思はねばならぬ。我々の?々口にする日本人らしさ、それがひし／＼と身に附き肉になり、自分と共に成長する機會、さう謂つたやうなものを諸君は其支拂に供して居るのである。勿論そんな事ぐらゐと言へるかも知れぬ。今から覺えさへすれば何でも無い。却つて順序も無く雜然と經驗し追隨して居る人々よりも、學問した上でならもつと要領よく呑込むことが出來ると言へるかも知れない。しかし兎も角も先づ心付くことが肝要である。このあらゆる勞苦に滿ちた十幾年の勉學を積み重ねて、なほ斯んな手近な處に是ほど大きな「無學」が、横たはつて居らうとは氣付かぬのも無理は無いが、事實是から私の説かうとする若干の知識は、諸君の恐らくは一度も考へて見なかつたことであり、しかも以前の世に於ては、瘋癲白痴の者を除くの外、一人として(170)知らず感ぜずには通り過ぎ得なかつた人生の事實なのである。今頃大學の講堂に於て、事々しく説き立てるのすら、をかしいと思はれることばかりなのである。それを夢にも知らずに、諸君は世の中へ出て行かうとして居る。國民の歴史の中には、文字には録せられず、たゞ多數人の氣持や擧動の中に、しかも殆と無意識に含まれて居るものが澤山あるといふことは、私たちの携はつて居る日本民俗學が世に現はれるまでは、教へようにも學ばうにも、その機會といふものが丸で無かつたのである。眞實といふものは今頃になつて新たに生まれて來よう筈が無い。單にさういふものを圍ひの外に置くのが今までの學問であつたので、學校へ出て來て學問をして居れば、今まではどうしても斯ういふ知識から、遠ざからずには居られなかつたのである。

　

　　　　　　　　　　一〇

　

　それにはまだ厄介なことが二つある。其一つは民衆は自分たちの年久しい平凡に倦みかけて居る。殊に明治以來は讀書人が片端から成功した。それを傍から見て居るから過度に新學を尊信して居る。ほんの切れ／”＼の何の訓育的意義の無い知識でも、學者に分配してもらふと經陀羅尼の如く暗記して、一方に自分等の昔からして居ることを粗末にし、又何でも無いことゝして卑下して居るのである。第二には學者の批判力、是が透徹して居て少しく同情が足りない。同情といふことは諸種の情實、今はまだ明らかになつて居ない小原因の多くが、埋もれて居るべきを認めることだらうと思ふが、其點が現在は特に缺けて居る。人間のすることには、假令氣狂でも動機はあるべきだが、それをすら近代は忘れて居り、たゞ蒙昧とか野蠻とかいふ一語で片付けてしまつて、自分の理解力を反省せぬ人が多くなつた。閑があつたら例で話をして見たいと思つて居るが、近頃でも其傾向は一部には可なり強い。古い記録は主として京都人の、しかも上流の世事にうとい人々の筆になるのだが、まだ彼等は凡俗の中に生きて居た。五山の僧などはあの頃のハイカラなのだが、それでもまだ民間の信仰現象などには、若干の理解をもつて居た。江戸期の漢學者と來ては、(171)ごく僅かの例外を除いて、まるで同胞の生活に對して別民族を見るやうな觀察をして居る。素より隣人のことだから觀察だけはして居るが、それを説明しようと努力した者は少ない。然らずんば支那の知識を借りて來て、それで一通りの説明をした積りで居る。不當極まる話だとは思ふが、要するにもう説明が出來なくなつて居るのである。以前の平穩な世の中ならば、まだそれでも笑つて居られたらう。もしも今日の如き時勢に於て、學者にも正しく説明し得ない世相が、後から／＼と現はれるやうであつたら、それこそ國は救ひ難き紛亂に陷るのである。警戒しなければならぬ危機だと思ふ。

　私が諸君に反省の手始めとして、先ず斯うして大學の學問にいそしんで居る間に、結局學ばずに終り感動せずにしまふべきことが、どの位有るだらうかを心付かしめたいと思ふ動機も、實は頗る切迫したものが有るのである。いづれ閑な休暇の日にゆつくり承りませうといふやうな、氣樂な話では無いと自分だけは信じて居る。たゞ其中から諸君の多數の關心を惹き得るもの、さうして又自分のほゞ安心して話し得る題目を見つけ出すとすると、それが幾つも無いのは殘念なことである。しかし假に「日本の祭」といふやうな一つの例示が效を奏すれば、あとは又同じ方向にもつと進んで見ようといふ人が、少しは史學科の人の中からでも出て來るだらう。要するに我々の學問にもつと信用を付けること、諸君の側から言へば、もつと現代の學問の前途に大きな期待をかけること、自分が自ら手を下されぬ專門外の問題は、努めて其道の人から多く教へられようとすること、從つてこの分科の繁瑣に過ぎた大學に全學會が設けられて、その各科相互の收穫が追々と利用せられ綜合せられること、それが白?をすればこの講義をする私の心の中の望みである。

　

　　　　　　　　　　一一

　

　三十何年間の公人生活に於て、常識といふ言葉ほど私を惱ませたものは無い。常識とは何ぞや、と反問して見たい(172)のは山々だが、そんな事をきくと又常識が無いと言はれる。是が目に視、耳に聽く具體的の世界だけなら、百科辭典の新版か何かを引いてもよいが、無形の生活に於ては實はつかまへどころが無い。さうして目まぐろしい程我々の常識は、段々に變つて行くのである。其原因はほゞ判つて居る。つまりは人が一人前になるまでの重要なる十何年間に於て、まち／＼の又思ひ／＼の修養をして居るからである。さうしてそれがどの位統一を缺いて居るかを、知らうとも努めなかつたからである。もしも是が常識などゝいふ漠然たる漢語を使はず、社會律とか公道法則とかいふやうな、少しでも押へどころのある字を用ゐて居たら、よもや此樣な大雜把な姿のまゝでは棄て置かれなかつたらう。現在の常識が正當か否か、どう改革すべきかは又別の人の課題として、とにかくに我々はその現在の實相、是を今日の多樣式にまで導いて來た、恐らくはごく短い期間の變遷經過だけを、明らかにして置くことにかゝりたいのである。

　諸君の郷里に於て、又は父祖の出身地に於て、必ず一定の青年期に於て學習せしめようとし、青年も亦喜んで修得し且つ立派に卒業して居た社會律、即ちそれに背くとすぐにやかましく批判せられ又忠言せられたもの、それを列擧すると中々數が多い。その中でも特に顯著なものが三つは確かにある。第一には婚姻に關する法則、是は國民學校の生徒には不關焉だが、それから以上になると全國民が皆專門家であつて、彼等は相集まつて徹底的に調査討究して居る。慣習などゝいふと自然の成行き、又は癖の如きものと同一視せられ易いが、中々そんないゝ加減のもので無く、斯うなくてはならぬといふきまりが、もとは時代毎にあつたのである。それが幾つかの新しい衝動によつて、改まるといふよりは寧ろ弛んで、今ある若干の亂雜と弊害とを招いて居るのだが、土地によつて多少の差はあるにもせよ、現在もなほ是が正しい、斯うなくてはならぬといふものを、社會は出來る限り未婚者に教へようとして居る。之をやゝ詳しく説くと面白いのだが、色々の點に考慮を拂つて私は差控へる。或は少し面白過ぎるからとも言へるのである。

　其次に來るのは共同勞働に關する法則、この共同には色々の形があつて、處を異にして生産する者の交易や交換までが、此中に含まれて居たかと思ふ。意識してさうしたかどうかはまだ問題だらうが、我邦では特に國民の青年期に(173)於て、一つの體制を備へてこの勞働の正義を教へて居た。さうして或は十分以上と言つてもよい程の效果があつた。今日の所謂青年團とその前身の若者組、是が前に擧げた婚姻道�ｺと共に、すべての同時勞働の場合の道�ｺを、徹底的に敲き込む機關であつて、昔の若連中などは幾分か頑固な、若い者にも似合はぬ舊弊さをさへもつて古い傳統を守り續けて居た。村では讀書に親しむやうな人の訓誡よりも、この仲間の相互制裁の方が大きな力であつた。たとへば團體の風紀が少し弛むと、忽ち淺ましい不秩序が普通になるほど、群の常識はよく全體を指導して居た。又是より他には別に統制の施設も無かつた。役人長老の村を治めようとする者も、色々の面白い手段を以て此機關を利用したやうである。青年團對學校といふ問題は、今後も實際政治としてきつと又論議せられるであらうが、私だけは其討究の結果に對して、或る大きな希望を寄せて居る。といふわけはこの二つのものは、始めから幾つもの共通性をもつて居るからである。斯ういふ未來の政策上の目途からも、諸君に若者組織の本質とその零落の過程とを、もう少し注意してもらふ必要があつたのである。

　

　　　　　　　　　　一二

　

　それから第三の重要なる問題は、則ち今囘の題目たる「日本の祭」、是も亦諸君の年齡に該當する若者の團體と、深い關係をもつて居た。或は今のやうな神職制度の導き入れられる以前からの、至つて古い關係ではなかつたかといふことが、此頃追々と心付かれるやうになつた。少なくとも記録資料からは獨立して別にこの人たちの感覺を透して、尋ねて見なければならぬものが殘つて居るのである。學問をした人の經驗から言ふと、この年齡は殊に批判的もしくは懷疑的な、一ばん信仰教育には不便な時期となつて居るのに、日本だけは誠に頼もしい例外であつて、年を取つた人の奧深い神社崇敬も、主としてこの期間に於て力強く植ゑ込まれて居たやうに思はれる。子供も勿論大きな興味を以て、祭の日が常の日とちがふことを觀察しては居るが、それも自分たちが大きくなつて、程無く參加し得る若者の(174)團體が、異常な力を以て精神的に熱中して居るのを見るからで、もしも祭がたゞ年寄だけの事務であつたら、恐らく少年たちにも是だけの印象を與へることは出來なかつたらう。

　神社は宗教でないといふ、政府の年來の解釋に對しては、實は自分なども元は甚だ不服であつた。しかし日本の祭を近よつて見て行くと、何か普通の宗教の定義以上に、更に餘分のものがあつたことを認めないわけには行かない。けだし天然又は靈界に對する、信仰といふよりも寧ろ觀念と名づくべきものを、我々は持つて居た。それが遠く前代に遡つて行くほどづゝ、神と圍體との關係は濃くなり、同時に又祈願よりも信頼の方に、力を入れる者が多くなつて居る。神が我々の共同體の、最も貴い構成部分であり、從つて個々の地域の支配者と、一體を爲して居るといふ考へはよく窺はれる。神道の教理にも後世の變化が色々あつて、現在は村々の神社は神代卷以來、何かの記録に出て居る神樣を祀るといふことになつて居るが、それは恐らくは卜部氏の活躍以後の現象で、少なくとも國民個々の家だけは、先祖と神樣とを一つに視て居たかと思はれる。神を拜むといふことが我々の生活であり、又我々の政治であるといふ考へ方は、たとへ今日はまだ私たちだけの獨斷だとしても、必ずしもさう輕々に看過してよい樣な説ではない。假に神職家に持傳へた記録からは立證することが出來なくとも、少なくとも我々が自分々々の持つて居る感覺の中から、行く／＼は是を明らかにし得る望みはあるのである。所謂神ながらの道は民俗學の方法によつて、段々と歸納し得る時代が來るかも知れない。

　

　　　　　　　　　　一三

　

　私等が大學の繁榮と學者の増加とによつて、或は斷絶してしまふかと恐れて居る日本の傳統は實は斯ういふ所に潜んで居るらしいのである。幸ひなことには婚姻や勞働とはちがつて、神祭だけには諸君も經驗があり、又樂しい記憶と取止めの無い好奇心を抱いて居る人が多いのみか、或は一種の「語りたさ」をさへ持つて居る人があると思ふ。私(175)はそれを一つの足掛りとして、實はこの講義を續けて見たいのである。是が國として大切な問題であることは、貴賤老若一樣に認めて居るにも拘らず、其變遷が餘りにも遠い上古に始まり、又地方的の利害が區々であつた爲に、いかほど熱心に舊い事を記憶して居る人があつても、一つの土地だけの知識では説明にならない。國又は民族としての總體の經過を辿るには、やつぱり我々の比較方法に由つて、あらゆる境涯と階級とに在るものを集め且つ排列して見て、次々新たに加はつたものを取除けて、しまひに固有又は原始と言つてよい元の形を見出すの他は無いのである。

　民俗學といふ學問は西洋の方でも、最初は基督教化以前の信仰?態を、探り出すのを以て主たる目的として居た。教會が設立せられ聖者たちが來て住んだといふことは、必ずしも全土を耶蘇の宗教にしたのでは無かつた。古い信仰の色々の殘留が、其中に埋もれて居て、それを集めて比較して見れば、元の姿が窺はれるといふことは我々と同じであつた。たゞ奈何せん毆羅巴人の研究は、その目標とするものが餘りに遠い。一番遲く改宗した北邊のスカンヂナビヤでも、西暦十世紀にはもう基督教化した。それから以後も實はなほ異教國だつたと言へば、承知をせぬのみか怒る人さへ多いのである。從つて其研究は言はゞ考古學的で、一つの發掘せられた破片からでも、全體を推定するの他はなかつたのである。之に反して我々日本人の疑問は今の世のものであり、その材料も亦眼前に滿ち、痕跡でも無ければ殘存でも無い。生きた證人といふべき者さへ澤山に居る一方には、この我々の研究は是から進んで行く實際社會の爲にも必要なのである。是がもし面白くない結果に導かれるやうだつたら、我々は可なり仕事がしにくゝなるだらう。ところが大きな幸ひは此問題が判つて來るほどづゝ段々と日本人の生活は明朗になるのである。全く偶然の事だが、今までの獨斷者流の當てずつぽうな説に、後から證據をもつて行つて遣ることの出來ることが幾つかある。さうして又彼等から邪魔もの扱ひにせられさうな結論はあまり出て來ぬのである。だから我々は最も心置きなく、日本神道の原始形態を、全力を盡して尋ね求めることが出來る。私の講義は多分その片端にしか觸れられまいが、少なくとも一つの門だけは開かれたのである。そつと覗いて見る位の好奇心は諸君の方にも有つてよからうと思ふ。

　

(176)　　　　　祭から祭禮へ

　

　　　　　　　　　　一

　

　是から六囘に分けて、日本の祭の御話をして見ようと思ふ。日本では「祭」といふたつた一つの行事を透してゞ無いと、國の固有の信仰の古い姿と、それが變遷して今ある　　　状態にまで改まつて來て居る實情とは、窺ひ知ることが出來ない。その理由は、諸君ならば定めて容易に認められるであらう。現在宗教と謂はるゝ幾つかの信仰組織、たとへば佛教や基督教と比べて見てもすぐに心づくが、我々の信仰には經典といふものが無い。たゞ正しい公けの歴史の一部分を以て、經典に準ずべきものだと見る人が有るだけである。しかも國の大多數の最も誠實なる信者は、之を讀む折が無く、又文書を以てその信仰を教へられても居なかつた。それ故に又説教者といふ者は無く、少なくとも平日即ち祭で無い日の傳道といふことは無かつた。さうして是から私の説いて見ようとする如く、以前は專門の神職といふものは存せず、ましてや彼等の教團組織などは無かつた。個々の御社を取圍んで、それ／”＼に多數の指導者が居たことは事實であるけれども、その教へは專ら行爲と感覺とを以て傳達せらるべきもので、常の日・常の席では之を口にすることを憚られて居た。即ち年に何度かの祭に參加した者だけが、次々にその體驗を新たにすべきものであつた。温帶の國々に於ては、四季の循環といふことが、誠に都合のよい記憶の支柱であつた。我々の祭は是を目標にして、昔から今に至るまでくり返されて居たのである。祭に逢はぬといふことは非常な損失であり、又時としては宥し難い(177)怠慢とさへ考へられて居た。祭は國民信仰の、言はゞたゞ一筋の飛石であつた。この筋を歩んで行くより他には、惟神之道、即ち神ながらの道といふものを、究めることは出來なかつたわけである。

　この祭といふ古い日本語の意味、それが何を要點とし、どれだけの範圍に及ぶかといふことは、今でも普通の人にはほゞ判つて居る。古來一年でも其繰返しを中絶したことの無い者が、この語の適用を誤るわけがない。定義といふやうな簡明な文句で、之を言ひ表はせと求められたら困る人は多いかも知れぬが、何がマツリであり又何がマツリでないかといふことは、一生に數百千囘、この言葉を使ふ人は皆知つて居る。呼ぶべからざるものをさう呼べば、少なくとも聽手が承知しない。たゞ現在は都市に住む人たち、又は其實際に參加せずに過ぎて居るやうな人々が、折々はこの語の解説に口を出す故に、幾分か混亂して、はつきりとした概念が得られなくなつて居るのである。

　

　　　　　　　　　　二

　

　たとへば茲に一つの問題がある。祭と祭禮と、この二つのものは同じか違ふかといふことを答へなければならぬとする。そゝつかしい人は無論同じだと言ふかも知らぬ。祭禮はマツリの氣の利いた表現だと、思つて居る人もたまには有らう。ところが其マツリの中には、實は何としてもサイレイとは謂へないものが幾らもある。家を普請すれば棟上げの祭をする。井戸をさらへると其後で井戸神樣を祭る。斯んなのは確かに祭禮ではない。もつと進んで言ふと、家に氣になることがあつて占ひに見てもらつたとき、又は何かの夢知らせがあつて、先祖のマツリが足らぬと言はれることがある。即ち法事とか盆施餓鬼とか、今は普通に佛教風の言葉を使つて居るものでも、日本語でいへばやはりマツリなのである。さうかと思ふと他の一方の所謂祭禮でも、幟や掛提灯にこそさう書いてはあるが、女や子供は大抵はマツリ・オマツリとしか謂はない。東北地方などに行くと、まだサイレイといふ語の無い村が多い。たゞ若干のインテリだけが、たま／＼大きな祭をゴシャレイなどゝ謂ふを聽くのみである。文字に書けばこそ祭の禮だらうが、(178)耳の日本語としては二つは丸でちがつたものである。是を全然同じものだと、考へない人の方が尤もである。今の多數者の用法からいふと、祭禮はつまり祭の一種、特に美々しく花やかで樂しみの多いものと定義することが出來るかも知れぬ。或はもつと具體的に、見物といふものが集まつて來る祭が、祭禮であると謂つてもよいかも知れないが、それでは又見物とは何かといふことを、説明しなければならぬから面倒になる。とにかくに祭禮はもと外國語だから古くからあつた筈は無いが、京都人の記録には鎌倉時代から既に見えて居る。或は捜したらもう少し前から用ゐたかも知れぬが、是も最初からたゞ祭の別稱では無く、どうやら有名な御社の大きな御祭だけに限つてさう謂つたものらしく、即ちほゞ又現在の用法に合するのである。

　三つほどの問題が是に伴なうて起つて來る。第一には、この祭禮といふ語が輸入もしくは新鑄せられるまで、土地々々では何といふ語を以て此區別を言ひ現はして居たらうか。或は元は全くさういふ區別の必要は無かつたらうかといふことである。今日でも公けの文書の中には、氣を付けて見ると祭禮といふ語はあまり使はれぬらしい。其代りには大祭といふ語がほゞ民間で祭禮といふものゝ意味に用ゐられて居る。即ち一年に何十何度とある祭典の中で、一つだけ大きな又評判のものがあつて、之を表向きには大祭と謂つて居る。或は斯ういふ名稱が古い頃にもあつて、元はオホマツリ、今はタイサイと呼ぶのではないか。是に就ての多少の心當りはマツリとオマツリとの區別である。女たちはもう混同して居るだらうが、男には此二つを使ひ分けて居る人が今も折々はある。著しい例は奈良の春日若宮の十一月の御祭、是は必ずオンマツリと一般に謂つて、たゞマツリといふ者は無い。この敬語には意味があつたかと思ふ。即ち祭るのは自分たちで無く、政府領主貴い方々が御祭りなされるからオマツリで、めい／＼だけで祭るものをたゞマツリと呼んで居たのが、それでは紛はしいので一方のごく少數のものを、祭禮と言ひ始めたのが元では無いか。現在も官祭私祭といふ差別を立てゝ居る人もあるらしいが、全國を見渡すと、斯ういふ御祭の使の立つやうな神社は僅かで、いはゆる祭禮のある御社の方はそれよりもずつと多いらしいから、事によると本來は官私の別とは關係が無(179)く、社毎に大祭小祭の區別が先づ存し、その大祭の方だけに、朝家官府が參與せられるの風が後に始まつたのかも知れぬ。

　もしも其想像の如くであるならば、然らば大小のちがひ目はどういふ點に在つたらうか、といふことが第二の問題になる。別の尋ね方をすると、新たに祭禮といふ名稱を設けて、他の一般の祭と差別しなければならぬ必要はどこに在つたらうか。年内の數多くの祭の中で、特にその一つだけを大祭にする土地が、段々と多くなつて來た原因は何か。大ざつばに言へば、無論世の中の進みと答へられるだらうが、それがどういふ風に我々の祭の全體に影響して居るか、といふことが説明せられなければならぬのである。

　

　　　　　　　　　　三

　

　第三の問題は更に根本的のものである。即ち祭禮が亦一つの祭だとするならば、さうしてマツリが古くからの忘るべからざる日本語であるとするならば、その大小各種の祭にも必ず共通した大切な意味が無ければならぬのだが、それは何れの點に求むべきものであらうか。我邦の祭が時代の文化の影響を受けて、世とともに徐々と樣式を改め、しかも各々御社毎に、それ／”＼單獨に發達して、外に現はれた祭、殊に祭禮の形が互ひにちがつて居るといふことは、一段とこの根本的な共通點を見遁がすべからざるものにする。さうして又幸ひにして此?態が、それを見つけ出すのに都合がよいのである。假に佛教の信仰行事のやうに、一宗一派で制定し教育し、全國御揃ひにきまつて居るものだつたら、よほど確かな記録でも無い限り、その一つ以前の形に復原することは難かつたらうが、祭の樣式は社毎に古例があつて、それが變遷の各段階を存し、又思ひ／＼の改定が加へられて居る。我々は今まで馴れて恠しまうともしなかつたが、同じ地方の祭又は祭禮といふものにも、こんなにもちがふかと思ふほどの變化が見られる。是を一つの信仰の現はれとして、少しも不審を抱かなかつたのも、國民の持つて生まれた確信の一例で、外から觀た者ならば疑(180)ふ方が當り前である。さういふ?態のまゝではいつまでも置けぬだらう。

　それでこの三つの問題の中では、當然に第三のものに最も多くの力を入れなければならぬことになるのだが、其手段としては、やはり第二の問題を通つて行く方が便利である。諸君の故郷の氏神樣には、年に五十度七十度といふほど、數多い祭があることを報告せられて居る御社もあるに拘らず、通例マツリの概念として胸に浮ぶのは、小さな頃に目を見張つた「祭禮」の光景ばかりで、たま／＼田舍をあるいて、是でもマツリだらうかと思ふやうな、靜かな質素な小社の祭を見ると、あれは信徒に力が乏しくて、萬づ簡略を旨とし、たゞ形ばかりを行うて居るのだらうといふ想像も起りがちだが、それは今一つ他の一面に、「祭禮」の方が後に色々の趣向を凝らし、新たな催し物などを附け添へて、斯ういふ花々しいものにしたのだらうといふ見方も成立つので、實際は其方が多くは當つて居るのである。

　實例によつて話をする方がわかりがよいであらう。祭禮といふと大抵の人が聯想するのは提灯のさま／”＼で、たとへば飛騨の高山などの祭禮には、町毎に御揃ひの長い提灯を軒につるし、その模樣がいかにも落着いて居て、是をこそ御祭氣分と感じない者は無いのだが、少し考へて見ると?燭はいつから日本にあるか、紙はいつから自由に供給せられ、是を割竹のひご〔二字傍点〕を細く撓めたものに貼り付けて伸縮を自在にし、桐油を是に塗つて雨に零れても、破れぬ樣にするまでの技術は、いつの頃から普及したか。この二つのものが合體しなければ提灯は無く、又それ以前から我邦には祭はあつた。現に今でも祭の夜に限つて篝を焚き松明の火を用ゐ、さういふ特徴を以て祭の名とするものも地方にはあるのである。

　

　　　　　　　　　　四

　

　或は又｜幟《のぼり》と稱して一反の白布に乳を附け竿にとほし、國土安全だの五穀成就だのといふ祈願の文字を大きく書いたもの、それが稻田を吹渡る秋の風にはた／＼とゆらめく光景は、祭禮の最も祭禮らしい思ひ出であるが、この幟が盛(181)んになつたのもさう古いことではないと見えて、繪卷や中世の記録の中には、まだ私は見たことが無い。後にこの問題をもう一度説くのであるが、要するに基く所は確かにあるとしても、外に現はれた形は丸で以前とは變つて居るのである。

　それよりも更に一般的なる祭禮の特色は、神輿の渡御、之に伴なふ色々の美しい行列であつた。中古以來、京都などではこの行列を風流《ふりう》と呼んで居た。風流は即ち思ひ付きといふことで、新しい意匠を競ひ、年々目先をかへて行くのが本意であつた。我々のマツリは是あるが爲に、サイレイになつたとも謂へるのである。しかも神々の降臨、即ち祭場に御降りなされるといふことは、私の信ずる所では古くからの考へ方であつた。たゞ今見るやうな金碧燦爛たる乘物に御乘せ申して、ちりん／＼と舁いて練りあるくといふことが、今以て他の小さな祭には無いのである。京都と其周圍の祭禮は、記録文書の史料の中からでも、大よそこの發達の跡を尋ねることが出來るかと思ふ。神樣を祭場へ御迎へ申す方式にも、乘物を用ゐた例は早くからあつた。神馬の方がもう一つ前であり、又今でも一段と弘いかも知れぬが、ミコシといふ例も少なくはなかつた。中世の歴史に有名な日吉の神輿はその一つ、春日の神木といふのも手輿に乘せ申して舁いて出た。たゞ現在普通になつて居るやうな飾り御輿に至つては、本來はたゞ定まつた或る御社だけのものであつた。京の祇園が最初であつた樣に、我々の間では想像して居る。その他には御靈《ごりやう》今宮といふやうな、祭り始めの歴史のわかつて居る御社、もつと進んで言ふならば怖るべき神々、特にその神の御怒りをなだめ奉るべき御祭のみが、もとは斯ういふ風に出來るだけ美々しい支度をしたのではないかと思つて居る。乃ち少なくとも諸國の多くの御社の神の御渡りにも、この綺麗な御輿を用ゐ始めたのは流行であり改造であり、近世の平和期以後の文化であり、從つて又主として都會地に先づ入つたものゝやうである。工藝史の方面から見ても、この事は可なりはつきりと説明し得られる。つまり日本の新たなる文化は、第一次に又廣範圍に、この方面に適用せられたのである。是には頗る複雜な社會心理が働いて居ることゝ思ふが、とにかくに之に由つて、多くの城下町や湊町に、一つの立脚地又は(182)一つの力と頼むものが出來たのだが、其代りには「日本の祭」は、よほど昔の世とは變つたものになつた。是が又いはゆる祭禮を、他の種類のさま／”＼の祭と對立させて、考へて見なければならぬ理由でもある。

　

　　　　　　　　　　五

　

　日本の祭の最も重要な一つの變り目は何だつたか。一言でいふと見物と稱する群の發生、即ち祭の參加者の中に、信仰を共にせざる人々、言はゞたゞ審美的の立場から、この行事を觀望する者の現はれたことであらう。それが都會の生活を花やかにもすれば、我々の幼い日の記念を樂しくもしたと共に、神社を中核とした信仰の統一はやゝ毀れ、しまひには村に住みながらも祭はたゞ眺めるものと、考へるやうな氣風をも養つたのである。この氣風は無論近世に始まつたものでない。從つて既に明治以前からも、村里の生活にも浸潤して居た。村の經濟の豐かな年には、農民はいつもこの「見られる祭」を美しくしようと心掛けつゝ、しかも一方には彼等傳來の感覺、神樣と祖先以來の御約束を、新たにしたいといふ願ひを棄てなかつた故に、勢ひ新舊の儀式の色々の組合せが起り、マツリには最も大規模なる祭禮を始めとして、大小幾つと無き階段を生ずることになり、一つの名を以て總括するのも無理なほど、さま／”＼の行事が含まれることになつたのである。さういふ中でも殊に複雜で、たゞ見て居ただけではちよつと沿革のわかりにくいのは、神さまを祭場へ御迎へ申す手續きであつた。前年私は甲州の御嶽に參つたとき、ちやうど其日が夏の祭禮の日だつたので、旅人として詳しく拜觀することが出來た。この祭には先づ金色の神輿が出て、それには神殿の御鏡を神官が袖に奉じて、輿の中へ御移し申す式もあるのだが、他の一方には神馬がその行列の中に加はつて居る。この馬は今は村の有志家から借上げるらしいが、是には神官が乘るのでも無く、又たゞ飾りとして後から曳くのでも無くて、特別の鞍があつて其中央に御幣を立てるやうになつて居る。その又御幣といふのが毎年の祭毎に、後から後からと白紙で剪つたしで〔二字傍点〕を、幣串のまはりに卷立てたもので、御幣とは謂つてもまん丸な獨樂のやうな、珍しい形のも(183)のになつて居る。本來は是が神靈の依坐《よりまし》であつたことは疑はれない。即ち新式の飾り御輿を、爰でもいつの頃からか擔ぐことにはなつて居るのだが、其爲に前々から有る神馬で御迎へ申す方式は中止しなかつたので、二通りの乘物が連なることになつて居るのである。

　この御社の古い方の神の依坐は、御幣即ちミテグラになつて居るのであつたが、是には又現實の活きた人間を使ふこともあつた。神靈の是に乘移らせたまふ後、歩ませて又は馬に乘せて、祭場に進む例は今でも稀でない。ヒトツモノといふのが多くは是であつた。その一つ物も熊野の新宮のやうに、いつの頃からか馬上の人形になつて居る處もある。さういふ場合には其人形の腰に插し又は笠の端につけた一種の神聖なる植物に、神靈が御依りなされるものと考へて居たやうである。言ふまでも無く是は儀式の最も神秘なる部分であるが故に、信心の無い者には見せたくないのが普通であつて、中には暗闇祭などゝ稱して、其時刻家々の燈火を消さしめて、誰にも見られぬ樣にして御わたましを仰ぐ例さへあつた。片輸車の怖ろしい傳説も是から起り、伊豆七島の正月二十四日、忌《き》の日とも日忌樣《ひいみさま》ともいふ祭には、赤い帆を掛けた神の船が海を渡つて來る、それを見た者は死ぬとまで傳へて居た。それが少なくとも神幸の途上だけは、成るたけ多くの人に拜ませようといふことになつたのだから、大きな變化と謂はねばならぬ。信心の深い者の心では、神の御出入といふ部分が祭の要處であり、それだけは一定の條件を具へた奉仕者より外の者に、見せてはならぬといふ戒めを守つて居るのだが、娘や子供や多數の路傍の人は、そんな點には注意を拂はうとしない。從つて其部分は寧ろ蔭の行事となり、中古の文藝にも?々見えて居る賀茂の御祭のやうに、棧敷を掛け渡し牛車を立て駐めて、甚だしきは樹の枝にさへ登つて今か今かと行列が前を通るのを待つたのである。神の御幸が晝間の行事となり、もとは必ず一續きであつたと思はれる祭の日を二つに分け、後の半分だけを本祭だの、當日だの又「日のはれ」などと呼ぶことになつたのも、原因は全くこの行列の風流の爲であつた。前にはどうだつたかを問題にする必要があるのである。

　

(184)　　　　　　　　　　六

　

　我々日本人の昔の一日が、今日の午後六時頃、いはゆる夕日のくだちから始まつて居たことはもう多くの學者が説いて居る。それ故に今なら一昨晩といふところを「きのふのばん」といふ語が全國に殘り、又十二月晦日の夕飯を、年越とも年取りとも謂つて居るのである。我々の祭の日も其日の境、即ち今なら前日といふ日の夕御饌《ゆふみけ》から始めて、次の朝御饌を以て完成したのであつた。ひるといふ食事は、もとは屋外だけに限られて居たやうである。つまりこの夕から朝までの間の一夜が、我々の祭の大切な部分であつて、主として屋内に於て、庭には庭燎《にはび》を焚いて奉仕せられたのであつた。夜半の零時を以て一日の境と考へ、又は一日は旭の登るときから、もしくは東の空の白む時から始まるといふ風な考へ方が行はれで、自然に之を二日つゞきの式のやうに解する人が多くなつたのは、是も亦大きな變遷であつた。それでも所謂宵宮の方が重いものゝ如く、感じて居る年寄もまだ多いのだが、とにかくに二日の祭だと思ふ爲に、二度參ればよいことゝして、晩に參つて歸つて來て、もう寢間着を着て寢てしまふのが當りまへになつて來た。さうして御籠り又は參籠といふ言葉が、もはや田舍でしか使はれぬ樣になつて居る。是は確かに一つの著しい變り目だから、もう一度その前と後とのちがひを見比べて見なければならぬ。宵宮又は夜宮などゝいふ言葉なども、果して夜中の宮參りの意であつたかどうか疑ひがある。中國西部から九州にかけて、所謂宵宮をヨドと謂ひヨドン夜ヨドン晩といひ、又ヨド參りといふ語もあり、祭の始まりをヨドを立てる、祭の終りをヨド拂ひともいふから、此ヨドは明らかに齋殿又は齋所であり、從つて我々の謂ふヨミヤも、齋屋であつたかも知れぬのである。さうすれば祭の行事の中心が、もとは屋内の奉仕にあつたことも是で判り、屋外日中の美觀を主とした「日のはれ」が、本來は祭を果した後の祝賀式、豐の明りの系統に屬したことも考へられる。少なくとも祭禮は晝間のもの、「祭」はもと夜を主とするものであつたと言つても誤りは無いやうだ。

(185)　この夜分を主にした祭の式は、捜せば民間にもまだ多いのであるが、宮中の御祭儀にも明らかに傳はつて居る。御一代御一度の大嘗祭は申すに及ばず、年々の秋の稔りの後の新嘗の御祭、又は冬の終りに近く執り行はせられる御神樂も是であつた。内外の官吏は今も各班一人づゝの代表を立てゝ是に參列する。夕の御饌が終つてから、一同は參集殿に追出して起き明かすので、其際は彼等にも酒食を下される。それから再び朝日の豐さか昇りの時刻になつて、又朝の御饌の神祭に參列するのである。この昔ゆかしい御作法は、今のやうな忙しい時世になるとよほど守りにくい。それで畏れ多いことだが、夕御饌の時刻をずつと遲くすると共に、一方朝の御式を未明まで引上げて、其間の時間が今はよほど短くなつて居る。それがよいとか惡いとかいふことを、私は論じようとするのでは無い。古い祭の式は一般に、この夕朝二度の供饌の續きであつて、諸人は清まはつた装束のまゝで、夜どほし奉仕するのが「日本の祭」であつた。さうして又今でも地方にはまだそれが行はれて居て、御夜籠《およごもり》といふのが即ちそれであつたといふことを述べれば足るのである。都市では御通夜《おつや》といふ言葉が、現在は凶事の場合のみに限られて居るが、是も夜どほしの意であり、又祭にもさういふ地方がある。祭に徹夜をする行事が無くなつたので、それが不幸の夜だけに限られて居るのである。

　

　　　　　　　　　　七

　

　古い言葉は斯くの如く、いつの間にか心持と感じが變つて來るのである。それでも注意して文獻を見れば、古今の差を知ることも困難では無い。マツルは歴代の學者も説いて居るやうにマツラフといふ語と別のものでは無い。今でいふならば「御側に居る」である。奉仕と謂つてもよいか知らぬが、もつと具體的に言へば御樣子を伺ひ、何でも仰せごとがあれば皆承はり、思召のまゝに勤仕しようといふ態度に他ならぬ。たゞ遠くから敬意を表するといふだけでは無いのであつた。マヰルといふ日本語も、今でこそちよつと立止まり、帽子を脱いで俯くだけの擧動までも含むら(186)しいが、それでもまだバスや電車の中から、目を伏せるだけでは參るとは言はない。以前の意味は國語も漢語も、共に定めの場所へ出頭して、少なくとも或る時間そこに居ることであつたのは、參列とか參加とかいふ用法にも現はれて居る。人が戯れに「參つた」などゝいふのも、失禮千萬な適用ではあるが、やはり亦屈服隨從の意であつた。我々の御辭儀は一般に非常に短くなつて居るので、是もその一例のやうに看過されては居るが、神參りだけは或はそれ以上の變り方があるかと思ふ。今日はよほど篤信な人たちでも、神前に立禮することを何とも思つて居ないが、さういふ拜み方などは百年以上の繪畫には見られない。地上に膝を突き扇を前にひろげて、拜んで居る姿なども元はあつた。多分は巡拜巡禮などゝ稱して、足ついでに幾つともない御社を拜んで廻るやうな風習がもとで、この參り方が急にぞんざいになつたものであらう。何れにもせよ、祭りと參りとの距離は、是が爲に更に一段と遠くなつて、新たに參詣といふ又一つの新たなる信仰行事が増加するに至つたのは、必ずしも外來宗教の影響ばかりでは無いのである。大きな御社では、今でも正式參拜といふ言葉があつて、可なり簡略化しては居るが、是はなほ社の側での一つの臨時祭であることが窺はれる。つまりは參るといふのは元は籠るといふことも同じで、或る一つの祭典に參加することであつた。從つて祭に仕へるだけの條件を具へた者でないと、參るといふことも元は出來なかつたのである。このいはゆる參詣と參籠との關係に就ては、後にもう一度話をする必要があるからこゝでは詳しく述べないが、兎に角に世の中が改まり生活事情がちがつて來れば、是ほど重要な祭といふ儀式でさへも、やはり變つて行かなければならなかつた。さうして一方に宵曉の御饌の間隔が、出來るだけ短縮せられたと同時に、他の一方では祭の時間が前と後とへ延びて、日中屋外での所作ばかり多くなり、又重いものと見られるやうになつて來た。是が私の考へて居る祭から祭禮への推移であつた。古今三千年の長い歳月を貫いて、何が「日本の祭」の變らざる要點であるかを、知らんとする志の有る者は、先づ以てこの著しい時代のちがひ方を認めてかゝらねばならぬ。都市と村落と、又は東北と西南と、殆と土地毎にと謂つてもよい程に、まち／＼になり切つて居る外觀の中に、なほ一筋の國全體に共通なものが見出されてこそ、(187)始めてそれが祖先傳來の道だつたと言へる。たゞ限りある各自の經驗を以て、偶然に作り上げた一つの概念を尺度とし、斯うでなければならぬといひ、さうで無いものは誤つて居るといふ樣な、我儘な物の考へ方をしては、わかるべきものさへ判らなくなつてしまふであらう。今日の?態では、それが又本人だけの損失ではすまぬのである。

　

　　　　　　　　　　八

　

　少しく餘計なことを言つた嫌ひはあるが、日本の神道くらゐ、この頑なな學者の態度の爲に、迷惑を被つて居るものも稀なのである。後から出て來たものがいつまでも前の説を突きのけて居るから、眼の前に大きな亂闘を見ることは幸ひに無かつたが、江戸期三百年の間だけでも、もう算へ切れない程の種々の解説が現はれて、それがどれも是も兩立せぬものばかり、一つでも研究の積み重ねといふことが無い。年を加へるほどたゞ煩雜になつて、どちらに附いて行つてよいのやら茫然としてしまふ。是は全く事實を集めて、比較をして見ようとする者が無かつたからである。それも絶無とまでは斷言出來ない。伴信友とか黒川春村とか、少なくとも一時はさういふ學風がやゝ萌したのだが、近頃は又消えかゝつて居る。事實を基にして考へて見る學問、どんな小さな事實でも粗末にせぬ態度、少し意外な事實に出逢ふと、すぐに人民は無智だからだの、誤つて居るだのと言つてしまはずに、果してたしかに其樣な事があるか。有るならどういふ原因からであらうかと、覺り得るまでは疑問にして持つて居るやうな研究方法の、國の將來の計畫の爲にも入用な時代は來て居るのである。

　さうして又少しづゝは判つて來ようとして居る。祭から祭禮へ、參籠からたゞの參拜へ、移つて來なければならぬ事情は外部にあつたのみならず、内にも夙くからさういふ傾向を、備へて居たかと思ふ場合は多い。傾向も亦一つの性質であるとすれば、即ち我々は變化そのものゝ中からでも、なほその根本の信仰の姿を、窺ひ知るよすがをもつて居るのである。たとへば前に言つた各地の祭禮風景、大きな幟の風にはためく風情なども、木綿が麻布と代つて墨で(188)字を染めることが出來、文字を人が書き又は讀み得るやうになれば、それが遠くからでもはつきりと見える樣に、片端に乳を附けて棒に通し、あまり飜へらぬやうにしたくなるのは自然で、本來は少しでも有效に、茲は祭場でござる、此家で今祭を營まうとして居りますといふことを、標示したいといふ念慮の展開に他ならぬ。祭場の標識に竿を建てるといふだけは、殆と最初からの約束と謂つても誤りはない。獨り日本のみで無く、いやしくも神が上空から降りたまふものと信じて居た民族ならば、皆之を立てたであらう。乃ち大空を行くものゝ、是が一つの目じるしだつたからである。目じるしだから日のうちは特に目につくもの、或は紙のしで〔二字傍点〕・麻の絲・布の類を附け、夜に入るとそれも見えなくなる故に、何とかして火をともさうとする。高い柱のてつぺんに火を掲げるといふことは、もとは骨折なわざであつた。それで大松明を引起す式があつたり、桂松の行事のある土地では、必ず投松明の競技が之に伴なひ、竿の頂上に燃料の籠を取附けて、下から火を投げ上げて之に點火させようとした（このことは柱松考といふ論文に書いて置いた）。燈籠や提灯といふ便利なものが普及すれば、誰だつて之を採用せずには居ない。それで高燈籠といふものが次に起り、提灯は乃ち祭禮の附きものとなつたのである。今日の祭とは最も深い關係に在る御燈明なども、起りは非常に古いが、やはり此事情の下に入つて來たものであらう。宮中の御祭には古風が多く傳はり、夜は篝と松明の火とを主にして居たが、私などが奉仕した大正御代初の大嘗には、火災の危險が何としても氣づかはしいので、始めて火?の形をした硝子製の、携帶用電氣燈が採用せられることになつた。村々の神社の常燈なども、始めて電燈になつた頃には何と無くうとましかつたが、現在はもうそれが當り前になつて恠しむ者も無い。もとは祭は滿月の夜で無い限り、片陰の暗いものときまつて居たらうが、町では「見られる祭」を美しくせんが爲に、先づ思ひ切つて多くの?燭を使つたのである。その點一つだけでも村の祭は淋しく感じられ、たゞ飲食の爲に親類が招かるゝ他は、見物といふ者を引付けることが出來なかつた。さうで無ければ在郷に似合はぬ花々しい大計畫を立てゝ、土地の祭禮を評判の高いものにした。今日でも變つた祭禮といふものゝ特に多いのは、京都に近くて人口の特に多い諸縣、さうで無く(189)ても濱方や富裕な農村に、稀には大きな祭禮があつて、爰の鎭守樣は賑やかなことが御好きなどゝ、いつから言ひ出したとも知れぬ言ひ傳へをもち、住民も亦それを誇りにして居るものがある。何れも大昔から此通りのやうにいふが、實は近年追々にさうなつたやうである。斯ういふ空氣の中に大きくなつた人々は、知らぬ間に祭の概念を變へられて居る。さうして是といふ見どころの無い村々の小さな祭を、何だか氣の毒なものゝやうに考へ始めたのである。

　

　　　　　　　　　　九

　

　祭と都市文化との交渉は可なり深いが、其中でも祭の季節といふものゝちがひは、誰の目にもはつきりとして居る。町の祭の思ひ出は夏のものに多く、夏の祭といふものは上代に少なかつた。勿論四時の境目毎に、祭を營むべき機會はあつたらうが、一年を通じて一ばん大きな祭は、何としても秋の収穫後の、物の豐かな時に行はれるもので、其次には春の末又は夏のかゝり、農村では苗代ごしらへにかゝる前のものがあつた。舊暦四月八日といふ日が、特に山の祭と關係があつた樣である。人のよく言ふのは春秋兩度の祭、是は農業殊に稻作の始めと終りとを、表示したことはほゞ確かで、其前と後と定まつた日を、山の神が田に下り又田の神が山に入る日として、祭るといふ風も農村には多い。或は是をえびす樣が稼ぎに出る日、又は大黒樣が稼ぎから戻つて來られる日などゝも謂つて、少しづゝ言ひ傳へは變つて居るが、國の公けの祭の新嘗祭に對して、二月に祈年祭があるのと本の趣旨は一つのものだと思ふ。

　暦は我邦では農作の爲、同時に又神祭の爲に備へられたものゝやうに思はれる。少なくとも祭に關係の無い節日といふものは元は無かつた。五節供といふ名稱は武家では重んじて居たやうだが、農民の間では節供といへば三月三日と五月五日が主で、正月と七月の七日も只の日では無かつたが、是を節供の一つとまでは思つて居ない者が多かつた。九月九日も節供と呼んで居る土地はあるが、是だけはやゝ別の心持を以て迎へられて居た。即ち此日を以て大祭の日、又祭禮の日とする地方が多かつたのである。九州の北半分では、クンチといふのが村の御社の例祭の日を意味して居(190)る。文字では供日とも宮日とも書いて居るが、なほ其名の起りは九日であつて、たま／＼其日に祭をせぬ土地があつた爲に、之を別の語かと思ふやうになつたのである。隣近所互ひに往來して、長く秋祭の喜びを續けるやうに、わざと八日にも十日十一日にも、日をちがへて居る村が私の郷里などにも多く、たしか明治の終り頃に、その弊害を認めて之を九日に統制したことがあつた。關東の各地にも、亦クニチといふ名がある。是ははつきりと九月九日のことゝ認め、たゞ作物成熟の遲速に應じて、三九日《みくにち》と稱して中の十九日でも、末の二十九日でもよいことにして居る。さうして例外もあるか知らぬが此方面では、祭禮とも名づくべき大祭は春季に擧行し、九日はたゞ物靜かな家々の食ひ祭、即ち親類が互ひに訪問して、酒を飲んで樂しむ日として居たものが多いやうである。それでも此日は馬場に幟を立て、御宮では太鼓を叩き、又西日本で謂ふ所の頭屋祭がある。たゞ祭禮といつてよい樣な行列や催し物が無く、從つて見物の群が出ぬだけで、却つて我々の想像して居る中世以前の祭に、近いやうな光景が見られる。

　この春秋二季の祭に次いで、冬の祭といふものも古くからあつたが、是は都會の地では今は寧ろ衰へて居る。近世の基督教でクリスマスといふものや、支那の暦でいふ冬至と同じやうに、つまりは一陽來復、即ち太陽の若やぐ日として、それを更に力づけるべく、大きな火を焚くことを以て特色として居る。近畿地方では御火焚きといひ、從つて後には鍛冶職の祭のやうにもなつたが、村でもサイトウなどゝ稱して之を行ふ處が多かつた。前に言つた宮中の御神樂も、多分は是と同系の祭かと思はれる。篝火を焚くといふことが主だつたものが、後には音樂を中心とするやうになつて居る。三河の山村で此頃大評判になつた神樂、又は花祭、之に接した信州南山の雪祭なども、やはり大きな火は焚くが、それよりも音樂舞踊の方が盛んである。とにかくに寒い土地では、春を待つの情が一段と切なるが爲に、特に此祭を重んじたらしいのである。

　

(191)　　　　　　　　　　一〇

　

　冬祭が寒い山間の村に盛んなのとは正反對に、夏の祭といふものは平地の方が多い。大小の都會地や海沿ひの村や湊、殊に水の近い處はどこも盛んである。私は必ずしも都市の要求が之を促したとのみは考へないが、夜の祭の樂しみは、家が多く燈火の水に映る處が、殊に印象が深かつたといふことは言へる。暑い月に入つてもう一度、改めて神を祭るべき必要は、もつと早くから農村にもあつたらう。京都では祇園といふ珍しい名の神さまが、舊暦六月の祭の中心であつた。東國では一般に天王さまと謂ひ、祇園を牛頭《ごづ》天王といふ名は古いので、是を同じ神といふことにきめてしまひ、普通に今は皆八坂神社と名を改めて居るが、この中には尾張の津島の天王さまの社から、別れて出たものも相當に多い。二つの天王社には色々の信仰のちがひがある。一方は八王子と謂つて御子神は八柱なのに、津島では彌五郎さんといふたつた一柱の小神が附隨して居る。さうして其二つ以外にも、なほ兩者何れにも付かぬ天王さまは有つたかと思はれ、天王おろしなどゝいふ祭の作法がやゝちがつた土地もある。しかしすべての天王に共通な點は、六月の一日と七日と十四日（又は十五日）とが祭日であつたことで、しかもこの三度の日は、天王又は祇園の御社の無い土地でもやはり祭日であつた。たとへば山陰地方でレンゲの日といひ、編笠燒などゝいふ特別の食物をこしらへるのも六月朔日、九州南部の弘い區域でも、此日をカハ祭と稱して水汲場を祭り、又は川童のごぜ迎へだの龜の子配りだのと謂つて、水に近よるのを警戒したのも此日であつた。例は歳時習俗語彙に詳しく載せて置いたから省略するが、殊に珍しいと思ふのは胡瓜の忌、即ち此日以後は食つてはならぬといふ土地と、此日まで又は此日だけ胡瓜を食べてはいけないといふ處とがあり、更に瓜に生年月を書いて川に流したり、又は之を神さまに供へる習はしもあり、一方には京の祇園にも、御紋瓜といひ又は瓜生石といふ信仰がある。すべてを祇園信仰の普及と言ふことが出來なければ、祇園は乃ちこの一般の信仰に據つて榮えたのである。

(192)　水の神の御惠みを求める必要は、本來は稻を作る人にも多かつた筈である。農民も單に水の利益を認めるだけで無く、又その怖ろしさをも既に知つて、同時に之を免れんことを?つて居たであらうが、都市の自ら田を栽ゑぬ人々に於ては、水の有難味を感謝する方は少なく、他の一方の水の筈の怖ろしさは、一段と多く經驗して居る。田舍ならば寧ろ喜んで迎へた夏の大雷雨も、彼等には桑原であつた。平安の京の或る時代に於ては、特に其畏怖の大きいことがあつたが、是は或は都市の新たなる繁榮に伴なふ疾疫の流行を、同一原因に基くものと誤解した爲かと思はれる。實際この二つの不安は大抵同じ季節に現はれたので、今ある夏の祭の起原は是であつた樣に、少なくとも當時の記録には見えて居る。御靈の信仰といふのは、單に小さい怒り易い神靈をなだめるだけで無く、更に彼等を統御する力を持ちたまふと信ずる天神に祈願して、其災ひを制していたゞかうとしたものであつた。御靈會聖靈會といふ祭は、祇園今宮上下の御靈社だけに止まらず、北野にも男山にも共に行はれ、一時風を爲すといふ形勢であつた。しかし其多くが夏月水の害の多い頃の、水の邊の祭禮であつたといふことは、基く所はなほ農民の生活に在つたらしく、彼等は都會の集合生活に入つて後、或は水が流行病の媒介物であることを、存外に早く經驗したのではないかとも想像せられる。尤も夏祭にはこの系統の御社以外、古くは住吉の神があり、又えびす神の諸處の社もあつて、是には疫病攘却といふ目的は無かつたかと思ふが、その祭場はやはり水のほとり、交通と交易とによつて生活する人々の群の中であつた。たとへ起原は農民と共通の信仰に在るにしても、特に夏の祭を此通り盛んにし、又多くの土地の祭を「祭禮」にしてしまつたのは、全體としては中世以來の都市文化の力であつたと言ひ得るのである。

　

(193)　　　　　祭場の標示

　

　　　　　　　　　　一

　

　祭には必ず木を立てるといふこと、是が日本の神道の古今を一貫する特徴の一つであつた。さうして其樣式は、際限も無く變化して居る。單に末梢のたつた一つ二つの例に基いて、根本の思想を推定することは不可能以上、即ち人を誤りの結論に導かずに居ないのである。だから出來るだけ弘く、眼前の諸相を觀察しなければならぬこと、それが假に望み難くとも、少なくとも變化の廣汎なるべきことを認めてかゝる必要のあることは、一切の國民生活の問題に就ても皆同じであるが、その必要は特に日本の祭に於て大きいのである。書物ばかりでは概念を作りにくいものゝ一例として、別に祭の問題を知らうといふ人で無くとも、なほ私の話を聽いて置かれることが參考にはならう。しかしたゞ變化が多いと言つたばかりでは、人を面倒くさがらせるより以上の效果は無いかも知れぬ故に、出來ないまでも分類を試み、又系統を立て順序を考へて、果して是が根本の一つの法則から、岐れて斯うなつたものと言へるかどうか。それに然りと答へる爲にはどれだけの差支へがあるかを、明らかにして見ようと努めなければならぬ。自分は今までさういふ氣持を以て進んで來て居るのであるが、幸ひにしてまだ意外な例外にはぶつかつては居ない。

　分類は無論簡單なものから始めるがよい。たとへば數である、又大小である。同じ神樣の祭に立てる幟でも、近頃の個人祈願には千本幟などゝ稱して、箸ほどの大きさの棒に紙を貼り付け、それに神の御名と願主の名や年齡を書い(194)たものを、一人で何十本と無く參詣路の側に突刺して居るが、一方村々の祭の日の幟は數は二本で見上げるやうに高く、それには墨黒々と大きなめでたい文字が書いてある。又同じ御幣でも、我々が見馴れて居るのは長さ二尺か三尺のものを正面に一本、それを目當てに諸人は拜をするのであるが、東北の各地でオサシボウと呼び、又は近畿から山陰地方にかけて、祭の日に新たに作るオハケサンなどゝ謂ふものなどは、一丈以上もある大幣であつて、それを時によつて四本も八本も樹てる例がある。名は色々とちがつて居ても、一見して別々の傳來と思ふ者は無い。しかも細かに注意して見ると、この御幣の製作形?には、少しづゝの差があつて、或は隣接の土地でも一樣でなく、しかも遠い處のものに却つて著しい一致類似の見られることがある。何か事情が無くては是だけの變化は生じなかつた筈である。さうして私だけはそれも追々に、説明し得る時代が來ると思つて居る。

　

　　　　　　　　　　二

　

　それよりももつと肝要な差別、事によると後世の人たちが、起原も別であらうと思ひさうな差別は、生きた自然の木や枝を立てるものと、木を削つて作つた大小の棒を立てるものとのちがひである。しかも是を祭の日に、祭を營む場處に、祭の支度として立てる點は、雙方ともに同じであり、その何れを採用するかには、土地毎の事情のまだ我々の心付かなかつたものがあるだけである。澤山の地方の例の中には、今でもまだ右の二つの中間のものがある。たとへば緑の樹の枝をもつて來て、その加工せられた棒なり柱なりのてつぺんを飾るもの、或は四月八日の天道花のやうに、躑躅や石楠の自然の花の枝を、竿のさきに結はへて高く立てるものもある。もつと奇拔なのは民間でウレツキトウバなどゝ呼ぶものでは是は「祭りあげ」とも又「とむらひあげ」とも謂つて、人が亡くなつてから五十年目、もしくは三十三年目の最終の法事、即ち人間の亡靈が是からいよ／＼神になるといふ日に、墓の上に立てる木である。全國を通じて殆と一樣に、杉の生木の四方を白く削つて、其表に戒名や法語を書し、其頂上のみは生の枝を其まゝ殘すこ(195)とにして居る。それで或は又「活き塔婆」といふ名もあり、今日は一般に塔婆の一種の如く見られて居るが、神職巫女の家などでは、この年限を更に短縮する習ひもあり、土佐の御子神は六年を過ぎれば、神に祀つてよかつたといふ話も傳はつて居る。即ち多分は國固有の風俗であつて、從つて又佛教以前の名稱もあつたことゝ思ふ。墓に立てる木は現在は塔婆といふのが普通であるが、是にも關西と東京附近とでは、立てる氣持がよほどちがつて居る。こちらでは親類知友めい／＼が一本づゝ持つて來て立てるので、年を取つて死んだ人の墓所には、この柱が林をなし垣をなして居るのをよく見かける。地方によつては直接に松や榊の苗木を栽ゑる例もある。上總の海岸などにもそれを見るが、年を重ねるにつれて段々と此木が成長して、空に伸び天に近づき、又新舊の墓の木が集まつて、物靜かな一群の森となつて行くやうにしたのは、いかにも自然に近い考へ方のやうに私には感じられる。少なくとも杉の穗先だけを殘した今日のうれ附き塔婆は、是と無關係に始まつたものとは思はれない。現に又それが根をさして大木となつた話も傳はつて居るのである。

　

　　　　　　　　　　三

　

　この二通りの柱と生木と、どちらが前からのものかといふことは、日本のやうな國ならば推測はさして困難でない。以前は我邦の野山は到る處樹林を以て覆はれ、その中には杉とか樅栂とかの大木の空高く伸びたものが多かつた。松なども群を抽いて亭々と立つて居たことゝ思はれる。さういふ中から特に秀でたる一本を選定して、是を神さまの天降りたまふ木ときめることが、却つて骨の折れる事業であつたかも知れない。從つてわざ／＼さういふ木を伐り削り、成長を止め又は朽ち易いものにして、立てる必要などは元は無かつた筈で、乃ち之を柱にし又は棒を作つて用ゐるなどは、後に發生した新たなる事情からといふことが想像せられるのである。一望千里といふやうな砂漠の國、又は草原の遠く續いた中に住む民族ならばこそ、或は最初の起りを忘れてしまつて、たゞ柱そのものを大切に保管し、之を(196)石にも金屬にも改めたかも知れぬが、日本人は本來樹木を離れては住み得なかつた國民であり、其國土は又常に是が成長に適して居た。だから最初は皆この自然の生木に依つて、容易に靈界交通の目的を遂げ得たことゝ思ふ。たゞ然らば又何の爲に後々幟やオサシ棒やウレツキ塔婆といふ類の、木製の高い竿を代用することになつたかといふ問題に答へようとすると、此點ではやはり四隣の異民族の生活慣行を記述する學問が、一つの參考になるのである。手短にいふならば祭場の選定、即ち人間の意思を以て或る程度まで、神を御迎へ申す場處を移さねばならぬ必要が起つた結果、幾つかの小さな段階を踏んで、徐々にこの形式の方へ進んで來たことが、之に由つて考へられる。この變遷を可能ならしめたものは、永い歳月に亙つた日本人の移住と拓殖で、遠い一方の端を見れば上代史であるが、こちらの一端は現代にまで繋がつて居る。朝鮮滿洲から南の島々まで、國民が新たな環境に入る毎に、其必要が新たに感じられることは昔からであつた。最初はたゞ爰で祭れといふ御示しに過ぎなかつたものが、後には此地で御祭り申してもよろしきやといふ御伺ひとなり、更に進んでは清淨の土地に、神の御社を建てずには居られぬといふ樣になつたと同樣に、之を標識する方法も少しづゝ携張せられて來た。即ち我々日本人の信仰は、些しでも神の御心に背くこと無しに、この程度にまでは展開し得たのである。さうしてその展開のあらゆる段階が、我々の時代にまで傳はつて居るのである。

　

　　　　　　　　　　四

　

　記録の示す所に依れば、その柱竿を樹の代りに立てたといふことも古い。たとへば書紀の大柱直《おほはしらのあたへ》の記事は、推古天皇の二十八年に、群臣が檜隈の山陵の外塚の上に柱を立てたとき、この人の柱が飛び抽けて高かつたので、それでこの姓を賜はつたといふことになつて居る。塚の上に柱を立てるのも祭の爲と思ふが、それはまだ或は疑ふ人が無いとも言へない。それよりも顯著なのは、延喜式時代の祝詞の慣用語に、底津磐根に宮柱太知り立て云々とあるもの、(197)是も宮柱とある故に、或は今見るやうな神殿の四方の柱などを想像する人があらうも知れぬが、もしこの宮柱が何本も立ち竝ぶものだつたら、之を信仰の中心とした考へ方は起らなかつたらう。神社の建築には歴世の發達があつたらしく、この方の專門家でないと古今の差を説きにくいが、少なくとも其中に於て、たゞ一本の重要なる柱を認めて居たことだけは確かである。伊勢の大廟でも中代以後、心柱又は心の御柱といふことを言ひ始め、是に色々のむつかしい教理を托せんとして居る。私は不敏にしてまだどうも其神秘の説が呑込めないが、とにかくに佛寺の塔などの心柱とはちがつて、數ある御柱の中のどれか一本をそれときめて、之を立てるに際して、其根に物を埋めるといふ類の、何か特別の儀式が行はれて居たものゝやうに思つて居る。即ち大昔以來の國の最も尊い大宮の地にも、なほ柱を立てて御祭を仕へる習はしは認められて居たのである。

　それよりももつと世に知られて居るのは諏訪の御柱、是などは殊に方式が素朴で、古い形の保存せられたものでないかと思はれるのだが、今も六年置きに一度づゝ、奧山から高い樹を伐つて曳いて來て、社地の四隅に立てるので、その四本の木には一定の高さの順序があり、たしか前面左隅のものが最も高い。さうして新たに此柱を立てると同時に、他の年には見られぬやうな大がゝりな祭があるのである。信州の多くの御社には、この柱立ての祭のあるものが多く、ある社では次の年に諏訪の本社の前の柱を持つて行つて立て、又ある社では獨立して自分々々の柱を立てるが、それが大祭の機會であることは皆同じである。それから此頃になつて始めて知つたのは、信州以外東北の各地にも是ほど高い柱では無いが、やはり二本又は三本の柱を立てゝ御祭を營む神社が方々にあつた。關東地方の何箇所かの土地に、つい近頃まで行はれたツクマヒといふ祭も、やはり一本の高い柱を立てゝ、人が其頂上に登つて舞を舞つたので、その點が特に有名になつたが、ツクといふのは柱のことである。諏訪ばかりは此柱の數が四本である故に、或は是を建築の代りでゝもあるやうに考へる人もあつたが、上の諏訪の如きはもと／＼神殿の無いといふことを特色とした御社であつた。そこに其樣な建てかけの形などを行ふ筈は無い。多分は伊勢の御式年制度からの類推であらうが、(198)もし兩者に聯絡があるとすれば、その聯絡は一段と深い處にあるであらう。諏訪では現在は御柱が立つ故に祭があるものゝやうに見られて居るが、私は寧ろ反對に、六年一度の大きな祭をする爲に、必ずこの高い樹を立てることになつたものと考へて居る。即ち是も亦祭の場處を指定して、是から中は清淨の土地、神さまの御降りなさるゝ庭といふことを標示すること、他の大小色々の木も同じであつたらうと思つて居る。

　

　　　　　　　　　　五

　

　境に木を立てゝ外部の穢れを遮斷するといふことは、よほど大きな祭でないと出來ぬことだが、外にもこの樣な儀式を中心とし又は特色とした祭が幾つかある。たとへば紀州岩出村の岩出大宮、古くは總社權現と稱して、根來寺の地主神であつた御社も、俗にヨミザシ祭、字に書いて齋刺神事といふものが是である。是は毎年八月朔日の夜の眞暗闇に、榊の木を舁いて村の東西の兩端にもつて行つて立てる。道中は鐡棒を引いて警固し、行列の前後左右に水を振りそゝぐ。この榊の葉には有難い力があると信ぜられ、附いてあるいて一枚でも取らうとする者が多いと、那賀郡誌には見えて居る。齋刺といふのは忌の木を境の地に刺すことで、之を刺し立てると其木から中が、祭を營むにふさはしい淨い處になるといふ意味であらう。村全體を斯うして圍ふことは實は廣きに過ぎ、從つて却つて穢れを大目に見なければならぬ樣な結果にもなるわけだが、祭に幟を立てる村でも、それを御宮の入口や頭屋《とうや》の前で無く、村の往還の兩端に立てる例が折々ある。昔は村中が一心になつて、物忌を守ることが出來たものと思はれる。信州の穗高神社に於て境立てといふもの、是も四方各十町ほどの境の端に、榊の木を立てる儀式で、南安曇郡誌には詳しい記録が載せられて居るが、現在は社殿造營の年だけに限るといふことである。十町四方もの廣い區域を齋場に指定して、榊を立てゝから後はもう一切の穢れを入れないとなると、今の社會ではとても毎年は行ひ難いだらうが、以前は或はそれでも行はれたか、或はもう少し狹い區域を限つて居たものか。土地へ行つて調べて見たらまだ判るだらう。

(199)　九州では宇佐の八幡宮で今も行はれて居る柴指の神事、是は二月と十一月の初の卯の日の大祭から七日前、即ち酉の日の夜中の二時頃に、四十五本の榊の木の齋柴《いみしば》といふものを、諸處に刺してあるく式であるが、公けの文書には之を致齋と稱して居る。即ちこの式が致齋と呼ばるゝ重い物忌の開始になるからである。この齋柴を刺してあるく場所は、古くから一定して居る。そのうち三本は御社の境内のある地點で、そこには前々からの榊の木が生えて居る。齋柴は多分新たに其枝に掛けられるのであらう。他の四十二本は本社末社の表入口に掛けられるのだから、是があつても祭の奉仕者以外の者の生活には影響は無い。たゞその區域以外に住む土地の人々も、いよ／＼この致齋の柴が刺されたと聞くと、敬虔なる者は心が改まり又引締まつて、祭の清淨を守らうと努めるのが、以前の習はしであつたらうことは察せられる。

　

　　　　　　　　　　六

　

　この柴指は無論忌柴刺し、即ち紀州などの齋刺神事と同じ言葉であらうが、九州の南の方の農村には弘く行はるゝ名であつて、一般に大祭の開始を意味するものゝやうである。其日は家々で山から木の枝を折つて來て、門の口や軒先などに插すことは、正月に松を立て、五月に蓬菖蒲を葺くのともよく似て居る。奄美大島からさきの多くの島々に於ては、柴指は舊八月の初の壬《みづのえ》の日ともいひ、或は又此月十一日ときめた處もある。この方面では柴指は先祖を祭る大切な日の始めで、御社の祭では無いが、やはり家の周り又垣根などに、青い芒の葉などを採つて來てさし繞らし、今この家には祭が營まれで居るといふことを表示するのは、南九州での柴指とかはる所は無い。宇佐八幡の柴指神事も、異なる點はたゞ一方では御社の表口や周圍、もしくは專門の神職の家に限り、南の島々では村中のどの家でも之をするといふだけである。自分は是が日本の祭といふものゝ大きな變遷の一つ、即ち正月とか節供とかの家々の年中行事と、村の神社の共同の祭とが、本來は一つのもので、後に二立てに分れて來た經過を例示するものではないかと(200)思つて居る。頭屋の制度と慣行に就ては、他日ある期會に一度詳しく説きたいと思つて居るが、是がちやうど右の二種の行事の中間に立つて居るので、或は又柴指と同じ趣旨の標識を、今でもその頭屋の家だけに立てる例もある。さうしてこの頭屋の行事にも、亦色々の地方的特徴があつて、今ならばまだこの推移の過程を跡づけることも容易なのである。一つの土地に育ち一つの實例しか見て居ない人々には、斯ういふことも氣付かぬかも知らぬが、祭の仕來りにも家々獨自の經營から、神職專管の代表祭まであつて、その中間には又この頭屋祭の幾つかの階段が見られるのである。たとへば中國の東部地方などでは、村の氏神樣の祭の日とは別に、部落の住民が順まはりで頭屋の祭を勤める。それにも神職を招いて式を進めてもらふこともあるが、少なくとも其日は社の例祭の他で、主として秋の收穫の後又は春の農作の前であつた。關東東部の村々でビシャ（歩射）と謂ひ、東近江から越前にかけてオコナヒといふもの、又は弘く全國に亙つて日待といひ二十三夜待といふものなども是に近い。是が一種の祭であることは知つて居るけれども、その行事はよほど我々のいふ年中行事の方に接近して居る。さうかと思ふとある地方の頭屋は、村の御社の大祭を奉仕するが爲に選定せられ、供物其他の經費を負擔するのみか、或は神宿と稱して自分の家屋敷までを祭に提供する。東京の市中にも殘つて居る頭屋は此系統のもので、今ではたゞ欣んでその信仰上の課役に服するだけになつて居るが、古風な土地に傳はつて居る慣例では、頭屋の主人の任務は時としては專門の神職よりも多く且つむつかしく、或は全く神職の手を借らずに、彼等自らが一年神主になる場合も稀で無い。單に名稱の一致から考へても、是が最初から別の起原をもつものでないことは明らかで、つまりは次々の社會事情によつて、それ／”＼に異なる變化を經て居るのであり、從つて何が共通の點、どういふのが元の形といふことが、問題にならざるを得ぬのである。

　

　　　　　　　　　　七

　

　この頭屋の選任方法にも、やはり段々の變遷があつた。肥後和男氏の「宮座の研究」に、近畿近江の例が詳しく出(201)て居るが、現在最も普通なのは順位制、即ち臈次年順又は軒竝で、爭ふものなく豫め定まつて居るもの、或は頭文とか頭屋帳とかにょつて、昔から順番のきまつて居るもので、是が負擔の上からは公平のやうに見えるが、なほ其以外に之を榮譽とし又特權として、進んで其任に當らんと望む者の中から、籤によつて一人をきめる例もある。以前は何人も一樣に之を望み、又いつでも之を勤めるだけの用意があつて、その指定を神意に仰ぐ習はしがあつたかと思はれて、今でもオハラヒミクジ又はヌサヅケなどゝ稱して、多くの紙切れに人の名を書いて器に入れ、先づ御幣の端に附いて上つて來た名の者を、頭屋に定めるといふ土地も稀では無い。八重山群島の世離れた村々でも、同じ手續を以てツカサ即ち祝女になるべき女性をきめて居るのを見ると、紙も文字も無いやうな時代から、もう何か是に近い方法を以て、神の思し召しを卜して居たのであり、しかも其手段に御幣が供せられたといふことは、私には決して偶然では無いやうに思はれるのである。

　是は木を削り白紙をしでに垂れた御幣といふものが、やはり一種の齋柴であることを説明すれば、おのづから諒解し得ることである。以前は頭屋に選ばれて次の年の祭に仕へる人となることを、頭屋にササレルと謂つて居た。さうしてやはり右に述べた樣な柴指の式が行はれて居た。たとへば近江多賀の御社の馬の頭などでも、いよ／＼頭人が定まると其夜のうちに、宮から御使が來て其家の表に榊を立てた。秋田地方のある舊社でも、神職がオサシ棒といふ大きな幣を送つて來て、頭屋の門にさしたといふ話がある。舞の本の「烏帽子折」といふ物語の中には、豐後の眞野長者の家の前に、宇佐の御祭の頭の榊が立つたといふことが語られて居る。是などは何だか主人も隣人も全く知らぬうちに、自然に其榊が來て立つたやうにも取られる。白羽の矢が立つといふ言葉は、現今は人身御供に娘を上げる場合だけに、限られたものゝ如く記憶せられて居るが、是も亦頭屋の指定が人間の計畫を超越して、單純に神の御よざしに由るものと、解せられて居た時世の常の出來事であつて、恐らくは其後もなほ久しい間、眞夜中に誰にも知られずに、もしくは常人の出て見ることを禁止して、頭屋の榊を刺し立てる習慣が續いて居たものかと思ふ。

(202)　頭屋の選任は現在は前年の祭の日に行はれ、從つて其任期は丸一年間にわたるのを普通とするが、是は恐らく他の色々の便宜に基いた改定であつて、次の祭の用意が其時から始まるといふわけでも無かつたやうである。とにかくに今日は頭屋がきまつても、直ぐに其しるしの木を立てに來るといふ例はあまり多くない。たゞ其際には先づ家を洗ひ淨め、注連を張りめぐらし穢れを遠ざけようとするだけで、愈々祭の日が近づき、潔齋が一段と嚴重になるに至つて、始めてオハケサンといふ大きな幣や、笹竹や榊の木や、又は幟の竿などを立てるのが普通であるが、何れにしても何等かの目に立つ方式を以て、神を祭るべき支度の全く調つて居るといふことを、標示せずには居ないのである。さうして其方式に數限りも無い變化があると同じく、是を掲げる場所も現在は色々になつて居るのである。多くの土地では御社の前、又は神職の家の門だけに之を立てるが、別に頭番に當つた家の外に立て、或は又氏子全體の家々にも、やゝ小形の木を配つて指し立てる例が、まだ方々に殘つて居る。

　

　　　　　　　　　　八

　

　是がそれ／”＼に別途の由來をもつものゝ如く、解説することは恐らくは不可能である。古くは何れも皆南方諸島の柴指のやうに、各戸悉く同じ時に祭の物忌に入り、同じやうに其物忌のしるしを出したものであつたことは、賀茂の祭の日に先だつて、軒の簾に葵を掛ける習はしが、記録に連綿として傳はつて居るのを見ても察せられるが、たゞ其植物の種類や方式が、土地によつて著しく色々になつて居るばかりに、今はまだ其共通に心付かぬ人が多いのである。是も京都の西に近い松尾神社の御出祭には、今でも榊立てと稱して村の青年が、家々の屋根の上へ榊の小枝を、成るべく家の人に知らせぬ樣に、投げ上げてあるく式がある。即ち祭そのものは既に改まつて、所謂神官の代表勤務になつて居ても、まだ斯うして古い頃の、總員奉仕の形式を止めて居る例があるのである。

　だから現今はもう最初の理由を忘れ、ほんの無意識に古い形式を傳へて居るものでも、努めて數多くの例を重ね積(203)んで行けば、自然に少しづゝはその一つ前の心持の、わかつて來る場合があるわけである。我々はまだ澤山の報告には接して居ないが、それでも若干の暗示はもう得て居る。たとへば秋田縣の生保内《おぼない》村などで、カクラ祭と謂つたのは山の神の祭であつた。もとは舊十一月の祭の日に、頭屋を勤める家へ法印が遣つて來て舞を舞つた。其舞にはミテグラと稱して、頭を尖らせた一つの御幣を手に持つて、舞ひながらそれを其家の屋根裏の萱に投げ上げて刺したので、仍て又此舞をミテグラ納めとも呼んで居た。勿論可なりの修練を要することで、何べん投げ上げても落ちて來るやうでは、不吉と感じられて居たといふから、誰にでも頼むといふわけに行かなかつた。乃ち又一つの專業者を、存立せしめる機會でもあつたらうが、是と前に擧げた松尾神社などの榊立てとは、趣旨も方式も稍々似て居る。此方は頭屋、他の一方は村各戸といふ差はあつても、神のよざしに依つて祭を奉仕する者が、心の用意を整へて此家には居るといふことを、自他共に感じ知らしめる目的には共に合して居るのである。

　右のミテグラといふ言葉は、古い文學にはあまた見えて居るのだが、實は其意味が今以て少しも明らかになつて居ない。

　　　ミテグラは我がにはあらず天《あめ》にます豐をか姫の宮のミテグラ

　　　ミテグラにならましものをすべ神の御手に執られてなづさはましを

　この二歌は共に有名な神遊びの歌で、素朴に之を誦すれば其意味は判る筈と思ふが、古來日本では幣の字を以て此語に充て、同時に又漢語の幣をもミテグラと訓ませて居た爲に、之を何か神に捧ぐる幣物の如く、想像する癖が已まなかつた。簡單に言ひ切るならば、我々のゴヘイは漢語の幣とはちがつて、神に進獻する財貨ではないのである。ゴヘイといふ日本語が新しい如く、是に幣帛の意味を持たせるやうになつたのも後の世のことで、其新語の生まれる以前、本來の名稱はミテグラであり、それはたゞ祭り人の手に執るクラ、今の語になほせば神座であつたかと思はれる。今でも所謂ゴヘイを伊豆の新島ではオンテグラ、淡路の島では田の神の祭の小さな御幣のみをミテグラ、壹岐島にも(204)ミチクラ樣といふ神があるのは、是を以て祭るからの名と思はれる。現に隣の對馬島には、祭の行列に捧持する大きな形の柱を、カナグラといふ例もある。とにかくにミテグラのミテが手であつて、之を手に執つて移動することが名の起りであつたことは、前の「御手にとられて」の歌からでも想像せられる。之に對して移動せぬもの、定まつた場所に突き立て、又は天然の樹に依つて設けたクラは何と呼んだらうか。それには明らかな總稱も傳はつて居らぬが、多分はクラと謂つても元は通じたのであらう。現在はクラシシ・クラツツジなどゝ、專ら山中の岩組み即ち岩倉にのみ此名は殘つて居るが、本來はすべて神の降りたまふべき處がクラであつたのが、後々それを手に執り移し申すことが主になつて、ミテグラの名のみが永く行はれたのかと思はれる。何れにしても信仰の樣式が、世と共に少しづゝ變つたのである。古來定まつた一つの大樹の下に、神を祭りつゞけて居るといふ土地は増加せぬのに反して、それを次々に移動し得る形に改めて、新しい土地に勸請するといふ場合が、段々と多くなつて來たのである。さうして之に伴なうて其ミテグラを手に持つ者が、神の指令を受けた者、御祭に奉仕する最も主要なる役だといふ考へ方が、一段と強くなつて來たことも爭はれぬのである。

　

　　　　　　　　　　九

　

　日本の二千六百年は、殆と一續きの移住拓殖の歴史だつたと言つてもよい。最近の北海道・樺太・臺灣・朝鮮の經營に至るまで、毎に隅々の空野に同胞を分ち送つて、新たなる村を創立せしめる努力があつたことは、悉く記録の上で證明せられて居る。神をミテグラに由つて迎へ奉ることがもしも出來なかつたら、どの位我々の生活は寂しかつたか知れない。だから今でも其心持が、朝鮮神社となり、又北滿神社の計畫となつて展開して居るのである。しかも斯邦の固有の信仰が、由緒深き靈山の麓に住んで、朝な夕なその高嶺の日の光と雲の影を仰ぎ、又は年經る樹木の下や、奇しき形の巌石の上に於て、毎年同じ季節に祈願と感謝の祭をくり返しつゝ、心の平和を保つて居た人々の間に、成(205)長したといふことも亦事實である。勿論このミテグラの思想が最初から有つたればこそ、かゝる大規模なる展開を許したのでもあらうが、少なくとも其解釋は、時代と環境との要求に應じて著しく進んで居る。さうして其解釋を進める爲には、我々の今日守つて居る推理法以上に、更になほ一つの甚だ有力なるもの、即ちレ※［ヰに濁点］イ・ブリュル等が謂ふ所の、プレロジックなるものを備へて居たのである。是を簡單に信仰の力といふことは不精確であらう。信仰は決して其樣に、人の考察と背反し又は兩存し得るものではない。豫てさもあるべしと思ふこと無くして、有り得べからざる事を信じ始めるといふ事は出來ないのである。

　我々の祖先の信仰を支持し得た人生觀、もしくは歴史觀ともいふべきものには、明らかにもう今の人の持つて居らぬものがあつた。その一つの殊に顯著なものは、私たちの假に末法思想と名づけ、或は此頃の人が輕々しく神話の世界などゝ呼んで居るものであつた。今日の目前の人生には到底有り得べからざる出來事でも、昔の世の中ならば有り得たらうといふ承認は、まだ少しばかり我々の間にも殘つて居る。ムカシは或は向ふといふ語と關係が有るらしく、時の長さを以て測ることの出來ないもの、神代といへば?焉として遠く、歴史を學ぶほどづゝ遙かにはなつて行くが、心の幼い人々の爲には、つい眼のさきまで垂れて來て居る。沖繩では甘世《あまよ》辛世《からよ》とも別ち、又｜蒲葵葉世《こばのはよ》といふ名もあつた。即ち岩根木草の言問ひかはした世であり、たつた三粒の米を入れて、一釜の飯の出來た世であつた。人が賢く世の交りが險しくなつた結果、もはや容易には見られぬやうになつたが、我々の遠い先祖は、常にさういふものを經驗することが出來た。だから其見聞を語り傳へて居るのだ、といふ風に考へることが、もとは日本人には出來たので、是はたしかに宗教史家の謂ふ信仰の外である。

　それから今一つは第二の世界との交通、夢に此世を去つた父母や故友と逢ふ。人が特殊の精神?態に入れば、常は見たり聞いたりし得ぬものを見聞する。凡夫にはわからぬといふのみで、靈界の人は常に語らうとして居る。鳥でも獣でも草木蟲魚でも皆通信して居るのだが、こちらに然るべきアンテナが無い爲に、通例はそれが受取れないのであ(206)る。斯ういつた考へ方も決してある一つの宗教の獨占で無く、現に又信仰無き者の間にすら行はれて居る。言はゞ人類の全體に行渡つた古風な考へ方で、それが只民族の差によつて若干の片寄りを見せるだけである。日本では特に神靈が人に憑いて語るといふこと、木でも草でも何にでも依るといふこと、この二つが大衆の古い常識であつた。神道は寧ろ之によつて扶けられて居たのである。近頃はこの外からの援助が切離された故に、説明が甚だしく煩雜且つ區々になつて居るのである。夢と託宣との眞實を認めるか認めないか。是が可なり大きな信仰の岐れ目になつて居る。しかも國内に充滿する數千の傳説、もしくは多くの御社の言ひ傳へは、何れも是を現實と同じに確認して居た時代の産物なのである。

　

　　　　　　　　　　一〇

　

　私はこの問題を論究する資格のやゝ怪しい者だが、自分の話にも入用が有るのだから是非が無い、少しばかり此點を説いて見なければならぬ。今日の言葉でいふならば信仰の運搬、即ち地方に於ける新たな祭場の設定は、元はこの傳説と呼ばるゝ特殊の經驗によつて、可能にもなれば又盛んにもなつたかと思はれる。神の遷移の記録の最も古いのは、東國では鹿島御子神、西では八幡神の京畿進出などであるが、それよりずつと後に出た延喜式の神名帳を見ても、地方の神々は殆と皆獨立して、他の土地から御迎へ申したと見えるものが少ない。然るに現在はどうであるか。北野の天神の勸請といふのが、大きいものだけでも全國に二萬數千、賀茂春日八幡八坂鹿島香取諏訪白山といふのも恐らくは同數に近く、其中には本社の中世に顯はれたまひしものもある。即ち是は決して大昔からの國固有の信仰現象とは言へないのである。この平安朝初期の大統一以來、漸次に普及して來た神分靈の思想は、今日謂ふ所のミテグラ信仰からは説明がしにくゝて、多分はその一つ前の形かと思ふ神木の言ひ傳へからならば、略々その經過を推定し得るのである。神木は社殿の建築が美々しくなるにつれて、段々と從屬物の地位に退いて居るが、それでもまだ數多くの(207)社頭の木の中からも、最も目に立つ一本の老樹に注連を張り垣を繞らし、祭の儀式を其前に行ふ土地も少なくは無い。伊賀から近江伊勢へかけての、春の始めの鈎曳祭などは好い例である。關東の平原では八幡太郎の旗立櫻、白旗松などゝいふ類の傳説が多いが、國總體を通じて最も著名なものは、逆さ杉又は杖立銀杏といふやうな、たとへば旅の高僧とか武運めでたき將軍とかゞ、杖を突き立てたのが成長したといひ、或は矢を刺し又は晝餉の箸をさして、此地もし行末永く榮ゆべくば比箸根を生じて成長せんと、祝して行つたといふ語りごとの傳はつて居るもの、此等が數に於ても最も多い。それとは少しかはつて投杉や笈入柳、即ちある地に既にあつた神木の枝を持つて來て、試みに地上に插して見たら根づいたといふ話、是などは稀に今でもさういふ事實があるので、いよ／＼後代の者が聽いて疑はないが、さうで無くとも神々の御心であるならば、もしくは之を刺す人が指命を受けて居る者ならば、もしくは其土地が祭を奉仕するのにふさはしい場所であるならば、昔は當然に杖が根をさして成長するといふやうな結果が現はれた。單に世が末になり人の心がすなほで無くなつたばかりに、今日はもうそれが奇蹟となり、何かよく／＼の場合で無いと、その奇蹟も現はれぬやうになつたのだ、といふ風な物の考へ方は、今日とてもまだ決して絶滅して居ないのである。勿論始めからじつと其經過を視て居た人の記録が存するわけでも無く、必ずその木が既に相應の老樹になつてから、漸くさう信ずる人が出來て來るのではあるが、假に推測にもせよ空な幻覺にもせよ、とにかくに之を疑はしめぬ外部の力といふものが、入用なだけは備はつて居たのである。

　

　　　　　　　　　　一一

　

　この新舊錯綜を極めた文化複合をかき分けて、國が持ち傳へたものゝ根原を突き留めるといふことは、容易な事業でないことはいふまでも無い。たゞ幸ひなことには民族としての結合が、日本は他に比べものゝ無いほど單純であつて、この永い間の成長にも、是といふ障碍も紛亂も無かつた故に、一方には何段となく進み改まつた形が目に付くと(208)共に、他の一方にはその進展の條件に缺くる點があつて、偶然にまだ前の素朴な姿のまゝで、保存せられて居たものが發見し得られるのである。その變化の無數の段階の比較が、行く／＼記録無き歴史の跡を、探り出し得る希望を約束する。是が又私たちのいふ日本民俗學の立脚點である。

　この方法の可能性を檢査する爲にも、ちやうど「日本の祭」などが手頃な又興味の多い好課題であつた。金銀の御幣といふやうな大がゝりなミテグラが、社殿の中央に立てられるやうな時代に入つても、なほ一方には津輕岩木山の松の枝、京都では稻荷山の杉、愛宕山の樒、さては熊野と伊豆の御山の梛《なぎ》の葉の如く、必ず靈場の木の端を手折つて、持つて降るといふ風習は今も弘く行はれて居る。山で數限りも無い樹木の中から、木樵りがどうしても斧を下さず、しまひには群を抽いて遠くからも望まれるほど、高く大きく伸びて行く木がある。どういふ木が特に神の木として畏れ敬はれるかといふことは、土地によつて選擇が一樣では無いが、最もよく耳にするのはカモ枝と謂つて一方の枝のみが茂るもの、窓木又は日通しなどゝ謂つて幹が二つに分れて居るもの、或は笠松などゝ稱して枝の端が段々と地に垂れて來る木、東北では三つ股に岐れたものを神樣の木として尊む例も多い。外國の學者によつて説かれて居るのは所謂霹靂木、即ちまのあたり神の降りたまふを見たといふ木、是も日本では早くより謂ふことで、今でも少しは有るやうだがどうも一般的では無い。

　或は別に異常心理になつた人、民衆の目からは神の力に支配せられて居ると見える人をして、決定せしめる方法もあつたのではないかと思ふ。諏訪の御柱の行事としてかはつて居るのは、最初山に入つて柱とすべき木をきめる時の作法であつた。今日は國有林だから山林の役人の同意を必要とするが、元は神職が鎌をもつて來て、是ぞと思ふ木に打込んで決定したといひ、今も形だけはそれを行うて居る。其鎌はさきに眼があり背にぎざ／＼のある變つた形のもので、御祭の行列にも之を先に立てゝあるくやうで、土地ではその鎌の名を薙鎌《ねえがま》と謂つて居る。この薙鎌が不思議に方々の山の大木の中から出て來る。是は近年伐木が盛んになつた爲で、乃ち以前は御柱に曳き下す木以外にも、此鎌(209)を打込む習慣があつたことを想像せしめる。白馬山麓の小谷郷などの口碑に、昔は毎年ネェガマといふものが諏訪から來て、國境をきめたなどゝ謂つて居る。多分は山の中の祭典にも、この鎌を以て神の御座となすべき木を決定したことがあつたのである。

　野中にたゞ一本の高い木が聳え、又は其形の特に他のものとちがつて居る木ならば、人は直覺にでも是が神樣の木だといふことを感じ得たであらう。たとへば杖銀杏・逆さ杉のやうな木は常には見ない。普通は上を向くべき枝が皆下へ垂れて居るのは、杖を刺したのが成長したのだからといふ樣な想像も起り易いが、そんなことを言ひ出さぬ場合にも、傘松などの枝のさきが地に向ふものは、天からこの土地へ降りたまふ神々の、梯子として便利なやうにも考へたのであらう。信州隨筆といふ私の本にこの事は書いて置いたが、しだれ栗・しだれ櫻の木の特別な注意を受けて居るのも、或は同じ動機からかも知れず、更にもう一歩を進めるならば、幽靈を柳の木の下に畫くやうになつたのも是かも知れない。藤とか葡萄とかの蔓物は、尋常民家の庭園に栽ゑることを忌む感覺が、今もまだ多くの土地に殘つて居て、とにかくに植物の形や成長ぶりの異常といふことに、一つの目標を置いた時代のあることは確かである。しかしごく古い頃の、野山が巨木を以て覆はれて居たときのことを考へると、この判別法はあまり役に立たぬ。別に何等かのもう少し適確に、この木こそ神靈の御宿りといふことを、見定める手段が求められたのではないかと思ふ。さうすればこのやゝ珍しい諏訪の薙鎌の如きも、或はその古い方の樣式の一つであつたかも知れぬのである。薙鎌の用法は今日は殆と忘れられ、たゞ僅かの痕跡の如きものを留めただけであるが、曾ては是が今日の御幣立ての如く、祭典の主要な部分をなして居たらしいことは、能登紀伊岩代等の國々の諏訪の社に、却つて本社の方では見られぬやうな神木に鎌を打込む作法が、一致して傳はつて居たのでもわかる。それと御柱の木の選定に薙鎌を打つたことゝを思ひ合せると、最初は或は鎌を遠く投げて數多い林の木の中から、毎年の神木を見付け出す習はしが、元は無かつたかとも想像する。それにはまだ幾つかの心當りがあるのだが、あまり話が細かくなるから爰では略して置く。たゞ一つだ(210)け比較の爲に説きたいのは、東國では甲州の笹子、相州の箱根、もしくは津輕と秋田の境の矢立峠などの頂上に、矢立杉といふ大木があつて、其木に矢を射立てゝ神を祭つたといふ言ひ傳へを存することである。今から百年餘り前の記録にも、今の大分宮崎二縣の境の梓峠に大きな杉があつて、之を伐つたところが澤山の鐡の鏃が出たといふ話が出て居る。東北地方でも、仙臺に近い愛島村笠島の道祖神の神木を始めとし、そちこちに樹幹から矢の根の出て來た話がある。神の木に向つて箭を放つなどは、穩かでない樣に感じられるが、もとは恐らくはそれが神の依りたまふべき木を見定める方式であつて、後には既に定まつた一本の老木に、いはゆる「うはざしの箭をたてまつる」ことを、祈願の作法とするやうに變つたので、私は是を解して、祭が以前には一區の靈域の中でも、毎回異なる地點に於て行はれて居たのが、いつと無く常に同じ場處、即ち定まつた一つの木を中心として、くり返されることになつた經過を、語るものかと思つて居る。但し是は新しい一つの假定だから、無論後に來る學徒と共々に、其當否を檢討して見なければならぬのである。

　

　　　　　　　　　　一二

　

　それには先づ以て今日の社殿の發達を考へて見る必要がある。建築の工藝が進んで、神の宮居が常設のものとなれば、祭の場所の固定するのは當然である。さうなると神木は益々大切な、かへることの出來ないものにはなるが、同時に又是が去年も同じ祭をした木であるといふことを、人には素より、神樣に對しても標示しなければならぬといふ感じが強くなつた筈である。だから常の日にも注連を張つて穢れを遠ざけるやうにする外に、いよ／＼祭の日が近く潔齋が始まると、特に念入りに其木を目立つものとする必要が感じられたかと思ふ。さうしてホデといふのが、其徽章を意味する日本語の一つであつたことも略々たしかである。今日殘つて居るホデには信仰用以外、たとへば入會の薪山草苅場又はくれ取場を占有して、採取の終るまで他人に手を付けさせぬ樣にするのに、棒を立てゝ其端に藁や茅(211)を結び付ける。それを東北では今もホデと謂つて居る。海岸の寄りもの、又は松蕈取るべからず、松葉掻くべからず等のしるしにも、この簡略なる結び藁を、木や棒に附ける風が各地にあるが、それはホデと謂つて居るかどうか確かめて居ない。それよりもよく知られて居るのは、芝居や相撲場の櫓の上に、高く掲げて置く大きな紙の御幣、是はボンデンと呼んで居るが、亦このホデであることは先づ確かである。東京では大山石尊の信徒が捧げて登山した大御幣、羽後では保呂羽山や大平山の參詣の大きな見ものとなつて居るボンデンなども、修驗や神宮寺の人々は梵天と書き、又さういふ風に解説して居るだらうが、この棒と梵天帝釋とは何分にも關係が有りさうにない。民間には昔から始終この樣な思ひちがひ、或は人を煙に卷く解説が流布して居る。佛法の方でも何か供養の爲に高い塔婆を立てゝ、それを大梵天と呼ぶ例がそちこちにあつた。さうして文字も大寶天王などゝ書きかへてしまつて、甚だ畏れ多い話だが、文武天皇の御遺蹟でゝもあるやうに、語り傳へた者さへあつたのである。

　學問のある人たちには、別に又シデといふ言葉が知られて居る。シデはしだれ柳のシダレルなどゝいふ語と聯想せられるが、果して一つの語原かどうか、まだ私は確かめて居ない。古くはユフシデといふ名もあつて、織布用の色々の繊維、殊に苧麻の絲をふさ／＼と垂れて居たと言はれ、現在も亦頻りにさうして居る。其シデの目的も本來は標識であつた。この木こそ最も神聖なる木である、靈の憑りたまふべき柱であるといふことを、神にも人にも共に明らかにする爲としか考へられぬのであるが、いつの世からか、其シデとヌサとの二つの語が混同して、同じ一つの漢字の幣を以て宛てるやうになつた。或はシデを垂れた木の竿又は小さな棒を以て、神の來臨を案内申上げる習はしから、特に神々のめで喜びたまふべき捧げ物をも、この木に共に結はへ付けることになつたのが原因かと思ふが、今はまだ容易に斷定は出來ない。とにかくにもとは貴人に捧げる物は雉鶉の類でも、又は手紙のやうなものまで、手ではぢかに持たずに、大抵は樹の枝に括り付けてさし出したことが文獻に見えて居る。籠とか臺とかの器物が具はつて、追々にさういふ古風は絶えたが、それでも強飯の進物に南天の小枝などは今も添へて居る。現在の御祭では、紅白の絹を(212)木に插んで、紙の白幣の外に別に立てるが、あれは多分ヌサであつてシデでは無からう。いつからあゝ定まつたか私は知らぬが、とにかくにミテグラを御幣と呼ぶやうになつたのは、シデとヌサとの混同であることは疑ひを容れぬ。何でもない事のやうだが、此爲に愈々木を立てゝ祭典の中心とした本の趣旨が隱れ、從つて又小さな只一本のゴヘイだけで、祭をして居る村々の幽かな祠の信仰と、堂々たる祭禮との共通點が不明になり、あれはあれで又別のもの、是と一つに見られては困るといふ風な考へをする者が現はれた。紙を剪つて垂らした今日の御幣なども、あまり見ごとであり又色々のむつかしい剪り方が始まつた爲に、是がシデであり要部はその幣串に在り、それが又一方現在の神式葬禮なるものに、極度まで濫用せられて居る榊の小枝の玉串と、同じ目的に出たものだといふことに、氣付かぬ人が多いのである。しかしこの樣に紙が村里にまで自由になつたのは、決して古くからの出來事では無い。さうしてその一つ前の世からシデの必要は既にあつた。即ち信仰の要求は永く留まり、風俗は世と共に推し移つたのである。中部日本の田舍に行つて、正月家々の神祭の?態を見ると、この進化の各段階は一ぺんに見渡すことが出來る。紙を立派に白々と長く垂れたものは、どういふわけでか「八丈の垂れ」と呼んで居る。又之を附けた注連を八丈しめ、紙を八丈紙といふ語も弘く聽くところである。その以外に別にホンダレともケェダレともいふ飾りがあり、信州などでは二者は異なるものゝ如く考へられて居るが、何れも古い世の「削りかけ」又は「削り花」といふものゝことで、それをたゞ花とばかり謂つて居る土地も、關東伊豆諸島に及んで居る。現在はもうその削り花を長々と削り上げるだけの技術が衰へて、ほんの型ばかりのものを少し作るだけになつて居るので、或は蝦夷の風俗の模倣でもあるかの如く、思つて居るやうな人さへ多いが、紙をシデに剪る智能なり資料なりが備はる以前は、削りかけが一ばん花やかな春の祭のシデであつたことは明らかで、即ち祭人の手に持ち又は祭壇に立てゝ仰ぐ、是が唯一のしるしでもあれば又飾りでもあつた。固より之を作る者は白く柔かな木を使ひ、刃物も念入りに研いだであらうが、それよりも昔はあつて今は無くなつたのは技術、技術と言はうよりも之を削り上げる爲の精神の統一、根氣とも慎しみともいふべきものが缺け(213)て來たのである。正月に作られる色々の棒の中でも、最も弘く國内に分布して居るのは祝ひ棒、子供の手に持たせて鳥を追ひ果樹を打ち、又は新婚の婦人の尻を叩いたりするハラメン棒の類であるが、是には今日は一種の總を下げるものと、畫を描き紋樣の紙を貼るものと、左卷きと稱して木の皮などを卷き爐の火で燻して型を附けるものと、更に昔ながらの削りかけを、ふさ／＼と垂れたものと、土地によつて新舊色々の變化がある。最近に霧島山麓のある老農から、作つて見せられた孕め棒などは、材は川楊の木で半分を削りかけ、その長さが二尺もあつて、一筋も落ちこぼれては居なかつた。曾ては天然の木草の葉をシデに垂れる以外には、たゞこの方法を以てのみ神の木を標示した時代があつたのである。

　

　　　　　　　　　　一三

　

　まだ幾つかの言ふべき點を殘したが、あまりに多岐に亙つたから一應はこゝで纏まりを付ける。要するに日本の祭は、大となく小となく、都會と田舍、村の公けと家々の祭とを問はず、木を立てずして行ふものは今とても一つも無い。從うて何が古今を一貫した我民族の特徴か、西洋人の普通として居る信仰行事と、明らかにちがつて居る點は何かといへば、少なくとも一つは是を指示することが出來る。

　十字架もクリスマス木も、所謂バウムクルトゥスの一例だといふ人はあらうが、それを承認せしめる爲には論證を要する。こちらのは只見ればわかるのである。たゞ我々の新たなる生活事情から、この間に幾つと無き變遷のあつたことを、豫め知つて置く必要が有るだけである。その變遷の最も主要なるものは、第一には移住が先づミテグラの必要を多くし、又その利用を盛んにしたことである。たとへば御幣を修祓の道具のやうに思ふ考へ方、是は清く祓はれたる人しか其下には立たぬのだから、結果は同じだが順序は逆になつて居る。次には之を以て神意を伺ふ手段とするオハラヒミクジの類、もしくはいはゆる神寄せの中座の手に持たせて、その御幣の動きゆれるのを、神の憑りたまふ(214)兆候と解したこと、是も亦永年の經驗に據つて、自然の效果を逆に手段とした例であつて、私たちは之を以て日本の祭が、參詣と稱する一つの新たなる信仰現象を分岐せしめた、重要なる段階として注意するのである。それよりも更に大きな變化は、この祭の木のミテグラが、次第に之を手に執る人を特殊の階級にしたことである。以前も一族門黨の中で、其役に當る者はおのづから定まつて居たらうが、それは其折毎の身分なり境遇なりによるので、言はゞ神意の顯はれの如きものであつた。最初はたゞこの執りものを手にするといふことが、人を特殊にする原因であつたものが、後にはいつと無く特殊な人であるが故に、之を持つて祭に仕へるのだといふやうに逆になつて來た。この變遷の殊に具體的にわかるのは、今でも歌舞伎の保名とか班女とかゞ、竹の小枝を肩にかけて出て來る習はしである。どうして狂亂ならば竹の枝を持つのか、それに答へる人は多分あるまいが、是は能の舞の物狂ひから續いて居る型であつて、現に謠曲の「歌占」などには、其枝を手に執れば神氣が添うて狂ほしくなるといひ、又他の多くの狂女ものでも、面白う狂うて見せ候へといつて居る。本來はその笹を手草に執るといふことが、即ち物に狂ふ條件だつたのを、今ではあべこべに笹は異常心理者の持たねばならぬものゝ樣に、解せられるに至つたのである。是と同じことが巫女と尸童との家にもあり、狂ひはせぬけれども神職の家でも、元は舊家の本家である故に、代々の主人が神を祭つて居たのを、後には段々と其役の世襲によつて、門地を保つて居るやうに自他共に解する者が多くなつた。祭祀を專門の職務としなければならなかつた理由は幾つかあり、又はさうしようと努めた人々の中には、實際に神道の深さと尊さとを明らかにした功勞ある人も多いのだが、一方には又單なる凡俗の動機から、強ひて其獨占の地位を守らうとする者も少なくは無かつた。殊に中古以前に於て、彼等に援助の手を貸したのは法師陰陽師、共に同胞の多數を痴愚として、寧ろ智能の懸隔を利用せんとする傾きをもつた人々であつた故に、時には何でも無いことをむつかしく、簡單に理解し得ることを神秘にせんとする心得ちがひもあつて、國民の信仰は終に諸君等の爲に甚だ物遠いものになり、少しも之を知らずして一生を終る人を多くしたのであつた。一つの例を引けば所謂御幣の剪り方は、紙が普及してから後の(215)事に相違ないのに、それが極度まで發達して、大夫か法印に頼まないと誰にも剪れないやうな、大事とか口傳とか名づけて常は隱して置くやうな、複雜きはまるものが世に現はれた。今日はそれが再び簡素な形に復したけれども、我々が自ら神を祭らうといふ心持は此爲に阻まれ、又實際に甚だしく粗略になつた。祭は本來國民に取つて、特に高尚なる一つの消費生活であつた。我々の生産活動は是あるが爲に、單なる物質の營みに墮在することを免れたのであつた。それが一つの收益中心と結び付くに至つて、新たに生まれた問題は算へ切れぬほどもある。さういふ中でも反省して見なければならぬ點は、昔は全く見なかつた個人祈願の盛んになつたことである。次には神道の歴史を囘顧する者が、すべて祭によつて衣食する側の人ばかりで、古來祭を必要とし又その最大の恩澤を受けて居た我々は、今はまだ彼等の記録に依る以外に、この重要なる變遷を覺り知る道の無いことである。祭に關する日本の學問は、將來更に大いに前進しなければならない。

　

(216)　　　　　物忌と精進

　

　　　　　　　　　　一

　

　所謂祭禮のヨミヤは夜の宮とも書くけれども、實際は忌屋、即ち忌を守る場所のことだといふことは、前にも既に氣が付いた人がある。是は決してたゞの想像説で無い。各地方でその祭の前夜を何と呼んで居るかを、ほんの少しばかり比べて見ても、思ひ當るふしはある。たとへば�ｺ島縣の可なり弘い區域で、その夜宮をショウジリと謂つて居ることは、あの地方の人なら知つて居るだらう。ショウジリは即ち精進入りであつて、祭に奉仕する人々は遲くとも此時から、精進の?態に入ることを意味する。精進といふ語は漢語であらうが、これが日本に歸化してから、ある特殊な具體的な内容をもたせられて居るので、今日の人もやゝ不精確ながらまだ其心持を理解し、之を「意思の力で自ら負ふところの拘束」と見て居るのだが、たゞ之を神道本來のものとは見ず、何か佛教の方からの影響でゝも有るかの如く、考へる人が多くなつて居る。是は一つの言葉を神佛雙方に用ゐて居た已むを得ざる結果であつて、二つが同じでないことは少し近よつて見れば判るのである。

　祭の精進をなし遂げる爲には、普通の生活とは隔絶せられた一つの建物を必要としたが、是などは確かに佛法の方には無いことであつた。大きな邸宅に住む人は、其一部を區切つてそこを使つたこともあるが、通例は精進屋と名づくる假小屋を新設し、又はそれに供し得る別建物を豫てから設けて置き、又は一つの尋常の民家を淨めて、臨時に其(217)用に供するものもあつて、何れの場合にも之を精進屋又は神宿、その他色々の特別の名をつけて居る。九州の南部から島々にかけては、ハナヤといふのがやはり其精進屋である。大抵は神を祭る祭場と接續し、もしくはその同じ場所で祭をした。今日拜殿と稱して御社の前面にある大きな建物、又は社務所と謂つて御守札や繪葉書などを頒つて居る建物も、多くの場合にはこの精進屋に用ゐられる。始めて斯ういふ建築を企てられた時の事情を考へて見ると、或は精進の人々を容れる方が、主たる目的であつたらうと思ふ。

　

　　　　　　　　　　二

　

　そこで一つの問題となるのは、精進が外來語の日本化したものであるならば、それが入つて來るまでの國語では何と謂つたらうか。イミ又はイモヒ、清まはりなどゝいふ古い單語も、その精進の?態を言ひ現はしては居るが、なほ近世民衆の日用語としては物々し過ぎる。多分はオコモリといふ言葉が、以前は女子供によく知られ、それで又十分だつたらうと私は思ふ。八丈島の村々などは、今でもコモリといふのが我々の宵宮、即ち祭の前夜のことであつた。越後新潟附近の村々、福島縣では相馬地方、又宮城縣の石卷あたりでも、共にオヨゴモリといふのが宵宮のことであつて、今日は既に夜を徹して御社に詰めて居る風は無くなつたが、そのコモルといふ言葉の意味だけは、誰にでもまだ記憶せられて居る。事實又秋ゴモリとか雨ゴモリとか謂つて、農作終了の感謝にも、雨を乞ひ?る祈願にも、晝の中に神社に集つて來る例は幾らもある。漁村では主人や息子の海に出て働いて居る間、家の女たちが御社に籠る例が多く、房州などでは之をオロシゴモリと呼んで居る。オロスとは船を海に出すことである。山村でも男たちの獵に出て居る留守に、女ばかりがオコモリをする風は古くからのやうである。勿論斯ういふ人々は、オコモリ即ち神を祭ることだとは知り切つて居るのだが、今日はたゞ此語の用ゐられる範圍が、幾分か以前よりも散漫になつて居て、土地によつてはオコモリは樂しいものだといふ、記念ばかり多いのである。

(218)　たとへば正月十五日又は七日に行はれる御柱の火祭を、京都では左義長といひ、九州では鬼の火とも又ホッケンギョウなどゝも謂ふが、東の方へ來ると之をサヘノカミ、又はサエド燒きと呼ぶ土地が多く、此火祭の柱の根もと又は片脇に假小屋を作り、前の晩には村中の少年が其中に入つて騷ぎ又泊り、翌早天に小屋も柱も共に燒いてしまふのが普通だつた。私の今住む村では、ある年寢て居る子供が燒け死んだといふ惨事があつて中止したといふが、附近の各部落では、宿泊はもうしないが、夜遲くまで飲食し遊んで居る風が、やつとこの非常時に入つてから無くなつたのである。飛行場で知られて居る所澤の町などにも、元は正月七日にこの火祭があつて、やはり其前夜をコモリと謂つて居た。或は初午の祭の前の晩に、稻荷さまを祭る家に子供が集まつて一所に遊ぶことを、オヨゴモリといふ處も東北にはある。是等は祭の奉仕者が幼い者に限られて居るといふのみで、素朴單純ではあるが、是でも昔からの一つの祭なのである。

　九州の方へ行くと、宵宮をゴヤゴモリなどゝいふ語があつて、大祭には夜分社殿に集まつて居るが、別に一方に日ゴモリ・晝ゴモリを行ふ囘數は多く、是には女や年寄の比較的閑な人たちが、重詰めの辨當におみき�ｺ利を携へて、御宮に集まつて來て食事を共にする。是を又宮籠りといふ名も存するが、一般にはたゞ一種の懇親會のやうに思つて居る人が多い。其期日もちやうど春秋の最も好い時候の、用の無い日を擇んで集まるので、土地によつては會場に御宮の拜殿を借用する位に、思つて居る人も無しとせぬ。下ノ關その他の山口縣各地は殊にさういふ風がある。しかし斯うなつてしまつて居ても、なほ參集の人々は、先づ始めに神さまを拜むだけでなく、持參の酒や食物をめい／＼に椿の葉などに載せて、御初を神に供へて、さて其後で分配し又互ひに交換して食べるのである。以前は是が夜分の行事であつて、年とつた人たちが神社で夜あかしをして居る處へ、家から娘や孫が肴を屆けて來るのが、しをらしい彼等の務めであつたと、長門の見島などでは言つて居る。或は特にその座中へ神職を聘して、祭典祓ひをして貰つてから、共同の飲食を始めるといふ例も、豐前の京都郡などにはあつたので、單なる樂しみの寄合で無かつたことは是で(219)明らかである。のみならずこの春秋の定例日以外にも、臨時に祈願なり御禮申しなりがあると、やはり同一の方式を以て宮籠りをして居る。それを風ごもり植付ごもりなどゝ、それ／”＼の目的によつて呼び、又病人のあるときは平癒の御願ひに、七人ごもりなどゝ稱へて、多くの人の祈念を集めようとするにも、やはり亦同一の形を採用して居たのである。

　

　　　　　　　　　　三

　

　つまりは「籠る」といふことが祭の本體だつたのである。即ち本來は酒食を以て神を御もてなし申す間、一同が御前に侍坐することがマツリであつた。さうしてその神にさし上げたのと同じ食物を、末座に於て共々にたまはるのが、直會《なほらひ》であつたらうと私は思つて居る。但しこのナホラヒの語原が、今日まだ明らかでないのだから斷定し得ないが、單に供物のおろしを後に頂戴することを、直會だと思つて居る御社が半分ほどあるのは、どうも心得ちがひらしく思はれる。果して直會が私の想像のやうに、神と人との相饗のことであるならば、この飲食物が極度に清潔でなければならぬと同樣に、之に參列して共食の光榮に與かる人も亦十分に物忌をして、少しの穢れも無い者でなければならぬのは當然の考へ方で、この慎みが足りないと、神は祭を享けたまはぬのみで無く、　　　屡々御憤りさへあるものと考へられて居た。此點が我々の同胞の信仰の、最も大きな特色であつたといふことが出來る。但し何がその穢れであり、又物忌の不足であつたかは、大昔以來言葉では説明せられず、單に行爲と其根柢を爲す感覺とを以て傳はつて居た。從つて解釋によつてその範圍は少しづゝ動き、又外來文化の感化なども受け易かつたのであるが、しかも國民の最大多數の者は、實は久しい間その影響の外に在つて、存外に古いまゝのものを多く保守して居る。さうして只諸君のやうな學問をする人の若干のみが、青年期以來邑里の保守主義の外に出て居て、この重要なる傳承に參加し得なかつただけである。

(220)　私のこの講演の中で最もむつかしく、しかも最も意義の大いなる問題は是であるが、とにかくに我々の先祖は、この慎みの最も完全なる?態を以て、古くは物忌と名づけ、後には精進とも謂つて居り、オコモリを以て其徹底を期する手段として居たのである。精進といふ言葉は佛教でも使ひ、又?々彼此混同して居たのであるが、二つの精進は名が一つでも、内容には可なり明らかな差異がある。たとへば佛法では一切の動物質の食物を口にするを嫌ふが、神道の精進で忌んだのは獣の宍と血のみであつた。一方は火の選擇には寛大であつたに反して、此方ではそれを特にやかましく言ひ、合火と稱して穢れた人の利用する火は、後からは勿論、事前にすら共に使ふことを避けて居た。更に積極的な側から言ふならば、神道の方では水の力即ちその物を洗ひ滌ぐ性能を非常に重んずるが、他の一方は水の不自由な土地に始まつた信仰である故か、水よりも寧ろ香を重んずる。即ち洗ひすてる代りに薫りで紛らさうとする。殊に大きなちがひは死穢を忌むこと、是が我々の生活の大きな拘束であつたことは、大化年間の記録にも既に見えて居る。然るに佛教も殊に民間に流布した宗旨では、寧ろ之を嫌はぬといふ一大特徴を以て、平たく言ふならば競爭に勝つたのである。其代りには此爲に佛者は神に近づくことが出來なかつた。一向宗だけは一向かまはぬと言つて、そんな制限は無視しようとするが、其他の派では神に參ることを差控へ、正月も寺年始は四日からときめてあつて、其前に注連をはづし松を取り、法師に注連繩の下をくゞらせぬといふ法則を守つて居る土地もある。十二月二十五日を念佛の口止め、正月十六日を口明けとも鉦起しとも謂つて、其間だけは佛名を唱へさせぬといふ慣習も弘く行はれ、又宮中でも神事には僧侶を斥けられたことが、歴代の記録に見えて居る。喪といふものゝ嚴格なる排除から、祭の期間や正月に、身うちに死なれた家の不幸は二倍であつた。是たゞ一つから見ても、二教の精進の二つ別なものであることが明らかにわかる。ところが現在は此區別が段々と目に立たなくなり始めたのである。食物だけからいふと、何だか佛教の精進の方が完全なやうに見え、大は小をまかなふから、此方にさへ依つて居れば安心なやうに思ふ者も多くなつた。さうして神職に葬儀を取扱はしめて、それが神樣を祭る物忌を傷けはしないかを、氣づかはぬ者ばかりが朝(221)野に充滿したのは、洵に怖ろしいほどの時代變北であつた。

　

　　　　　　　　　　四

　

　此問題には、實は中世以來の日本人も可なり惱んで居る。其爲には色々の折衷策や解釋が案出せられて、大體に神の精進を簡易にしようとする傾向は、夙くから現はれて居るのである。オコモリといふ方式は、今も全國ほゞ一樣であるにも拘らず、その内容即ち物忌の嚴重さには、地方毎に何十級といふほどのあらゆる段階が出來て居て、結局は之を特色とする御社の數が、列擧し得るほども少なくなつてしまつた。その僅かに殘つて居るものとても、この先いつまで續くであらうかは問題で、つまりこの古來二種の精進の、どれだけちがふかを體驗しない人々が要路に立てば、行く／＼は消え薄れることも自然であるが、少なくとも今ならばまだ若干の古い形が見られるのである。一ばん大きな物忌の拘束は、その期間の長さであつた。古人は普通には一月の四分の一、月の半弦から滿月まで、七日又は八日の間を、祭の勤仕に適する?態を作り上げるに必要と考へたらしいが、毎日働かずに居られぬ人々には、是が最も困難な經濟生活の障碍であつた。それで省略して二三日前から、そろ／＼と支度をして、愈々前夜祭の時になつて精進に入る者が多くなつて居るが、コモリは本來はもつと早く始まるべきものであつたらしい。現在私などの知つて居る範圍でこの祭前謹慎の最も弘く行はれて居るのは、京都の南方の祝園村の忌籠《いごもり》祭、是は井上頼壽氏の京都民俗志にも詳しく記録してあるが、その隣村にも同じ慣行の祭はあつた。祝園村では祭は一月初の中の日、申の日が三度あれば中の申の日、祭當日の丸二日前から、氏子全部の家々に於てこの物忌が始まる。めい／＼が家に居たまゝで物忌をするから、それで居籠りだとも解して居た樣だが、名の起りは忌籠りであらうと思ふ。その丸二日の間は晝睡り夜は起き明し、一切の音を立てない。水を汲みにも出ず、もとは下駄もはかず、柄杓の柄などにも繩を卷いて、水甕にあてゝもからりといはぬやうにする。かるたの遊びはしてもよいが、碁は音がするから打つてはならぬといふ。固い古風(222)な家の仕來りは、是以上にも嚴重だつたらうと思ふが、食物の精進の方はあまり言はなかつた。

　其次に有名なのは播州加古郡の日岡神社の祭に伴なふたの、是も一社限りの特例で無く、もとは此附近のやゝ弘い區域に行はれて居たやうである。是は一月の亥の日の亥の刻に始まり、巳の日の巳の刻を以て終るから、それで亥巳籠りだと今日では解せられて居るが、寧ろさういふ後の解釋から、日や刻限などは固定したものかも知れぬ。氏子は固よりのこと近村の住民までが、其間は洗濯をせず髪も結はず、刀物を使はず外出せず便所へも行かず、音のしさうな一切の道具には繩を卷く。たま／＼戒めを破つて外に出て神主の夜行に逢ふと、ヰスクミになるなどゝ謂つて畏れられて居る。この夜行といふのは、元來は常人に見せない深夜の行列といふだけであつたらうが、阿波の�ｺ島附近などでは、ヤギョウサンといふ魔神があるやうにいふ話もある。忌を犯した制裁の畏れが、いつの間にか妖怪の畏れに變化したので、その類例はまだ色々ある。つまりは稀にも忌を犯して、其結果を實驗した者が無かつた證據である。

　右の二つの祭前齋忌には、相似たる點が多い。とにかくに雙方とも、神職乃至頭屋だけの謹慎では無く、之を守る者は住民全體に及んで居るのが古風かと思ふ。是とやゝ近い例は又關東にもある。千葉縣の南部、上總の南の二郡から房州にかけて、舊十一月の下旬から長い處では十日又は一週間、神職の家は勿論だが、土地の普通の住民も固い家だけは、今でも同じやうな物忌をする。安房神社の信徒の間に最も強力に行はれて居るので、こゝが中心のやうにも考へられるが、他の村々の御社にも、同じ季節に同じやうな慣行を守るものは多い。やはり音を立てず、笑つたり高話したりせず、髪を結はず機を織らず又針を執らず、外へ出て働かず外の人を入れず、以前は殊に武士の訪問を嫌つたといふ。しかし此地方ではイゴモリといふ名は無くて、一般にミカリ又はミガハリと呼んで居る。神樣が此間に山に入つて獵をなさるので、お邪魔をしてはならぬからなどゝも謂ふが、それは恐らく名前から考へ出した後の説で、本來は「身變り」即ち常の俗界の肉身を改めて、清い祭の人になる準備期間の意であらう。從つて以前は食物の制限があつたにちがひないのだが、現在はその品目に就ては言ふことなく、たゞ安房の一度食ひといふ諺が傳はつて居る。(223)是も九月のことだともいひ、其説明ももう區々になつて居るが、恐らく毎回の※［者／火］炊きをせずに、前以て調理して置くことで、他の地方でも正月にはそれをして居る。支那でも寒食といふ慣習などが元はあつた。多分は庖丁や火を動かさぬのを主としたことゝ思ふが確かでない。とにかくに安房上總でのミカリ又はオミカハリは、上方の忌籠りと同じ作法であつた。

　

　　　　　　　　　　五

　

　攝津の西宮の正月九日の忌籠りも、一に又ミカリとも謂つたことが、西宮夷神研究に見えて居るが、是はどうやら神職の家だけの物忌になつて居るらしい。阿波の西境の山村、奧木頭《おくきとう》の北川といふ部落でも、ミカリ又はミカハリといふのがあつて、是は祭の頭屋だけの物忌であつた。やはり又祭の前一週間、他所の者を入れず、家では機を織らず牛を使はず、ミカシキ婆といふもはや女で無くなつた老女に、食物を調理させて頭人はそればかりを食べる。さうして度々水垢離を取つて後に、いよ／＼三日前になるとショウジ部屋といふのに入るのだといふ。是なども氏子全體の者が、一樣に守るには少し重々しすぎる精進であるが、少なくとも頭屋の主人だけは、他の人々を代表してその戒律に服したのである。是等三つの例を綜合して考へると、ミカリが御獵では無く、身を替へるといふ意味のミカハリであつたことが稍々わかる。出雲の神主の神秘として居た身ノガレの神事なども、恐らくは亦是であらうと思ふ。

　一つの御社に屬する氏子だけでは無く、弘く一つの地域の住民が、ある季節に入ると物忌をする例は、まだ他の地方にも幾つかあるが、全體にその忌は列擧的、一つ／＼の行爲を限つたものになつて居る。その一例としては針止め、即ち其地方の女たちが針を持ち縫ひ物をすることを戒める風などである。針は重要なる一つの文化産物で、最初から工藝作品であり又一商品であつた。是が市場に賣らるゝまでは、我々の衣服はどうして縫つたらうか。角とか骨とかを削つて針にしたものか、興味のある問題だが今はまだ誰も知つて居ない。とにかくに鐡を針にしたといふことは大き(224)な出來事で、從つて又水の神が針の毒にかゝつて斃れたといふ話も起り、我々の三輪山神話にも大きな變化を生じた。婦人がある季節に入つて、之を利用することを差控へるといふ物忌には、何かまだ我々の心付かぬ理由があつたものかと思ふ。三河の渥美半島の龜山村の風俗は、此頃石人和尚の風俗圖會によつて紹介せられたが、爰でも隣村の伊良湖明神の、四月十一日の御衣祭の日には、この村の女たちも縫ひ物せず機に上らず、苧桶は伏せ絲枠などは床の間に上げて置くといふ。是は多分五月に機を織つてはならぬといふ、廣く全國に行はれて居る忌も同じ趣旨で、即ち神の御召料を織る月だからといふわけであらう。

　前にも言つた如く、民間の所謂年中行事と御社の祭とは、元は今よりも近かつた。同じ針止めの禁忌も亦神社に伴なうて存する地方がある。たとへば栃木縣の矢板に近い木幡神社の舊暦十二月の遊行神事といふのにも、これは氏子一般の者が、前月の末から約半月の間、苧を績まず機を立てず、又針も手に取らなかつた。それよりも更に弘い區域に行はれて居るのは、宇都宮の二荒神社のオタリヤ祭に伴なふもので、此方はずつと南の方の芳賀郡の田舍まで、この御祭の日が近づくと、もとは女は針仕事をしなかつた。男も是と同時に色々の勞働を休み、非常に火を大切にして、爐の中へ足を入れることを戒め、又風呂を立てなかつたといふ村もある。このオタリヤ祭といふのは冬と春との二度あつて、御社の方では是を冬渡祭・春渡祭と書いて居り、やはり前にいふ矢板の遊行神事と同じく、子の日に始まつて午の日までだつたといふから、この俗稱のオタリヤも遊行と同じ意味の御渡りで、即ち其間は神樣が村々を御巡りになるといふ信仰があつたのであらう。現在はもう各社別々の言ひ傳へになつて居るだらうが、それを信じてこの各處の一致を無視することは出來ない。

　神巡遊の信仰の今日年中行事になつて居るのは、舊十一月二十三日を中心とした所謂御大師講であるが、この解説には佛法が干與して、俗間には高野の弘法大師が、今でも村々をあるかれるといふ言ひ傳へが弘く行はれる。しかも一方では眞言宗でない寺にも、やはり此日を認めて居る故に、近世の學者の新しい意見に從うて、是を支那の古名僧(225)天台智者大師の忌辰だといふことにして居る。そんな氣づかひは斷じて無いのである。土地によつて少しづゝ話はちがふが、大師の足跡隱しと謂つて此日は必ず雪が降るといひ、又は二股大根を女が洗つて居る處へ來て、半分貰つて食べたといふ類の、をかしい言ひ傳へばかりが多い。東北ではダイシコといふ人は女で、十二人又は三十三人の子持ちであつたともいふ。その多勢の子どもを養ふのに困るだらうと謂つて、この日は長い箸を添へて小豆粥を供へる。又はダイシ樣はその粥の鹽を買ひに出て、吹雪に倒れたからとも謂つて、今なほ鹽無し粥を※［者／火］るなどゝいふ由來譚も生まれて居る。實に天台大師らしからざること夥しいのである。私はこの問題に就て一册の本を書く企てをもつて居るのだが、あらましだけは子供の爲に出した「日本の傳説」を見ても知れる。其結論だけを言つて見ると、ダイシは上代に入つて來た漢語で、大子《おほいこ》即ち神の長子の意かと思はれる。大昔以來の民間の信仰では、冬と春との境に特に我々の間を巡つてあるきたまふ神があつて、それは天つ神の大子であるといふ信仰があつたらしいのである。多分は偶然であらうが、西洋でいふクリスマスなるものが、非常によく是と似て居る。あれも季節は一陽來復、即ち支那でいふ冬至の日であつた。さうして彼地には耶蘇教以前から既に存した、自然觀察の經驗に基く古い言ひ傳へであるといふ。日本では二十三夜待ちといふ信仰が、どうやら是と關係があるらしい。全國殆と隈無く行はれて居るが、是も東北では國巡りの神となつて居る。

　それからもう一つの例は伊豆七島の忌《き》の日又は日忌樣、この方は十一月で無く正月の二十四日になつて居るが、やはりこの夜を以て尊神の來臨を傳へ、色々の物忌を守つて御祭に奉仕して居る。大島新島では惡代官の亡靈、又は海難坊といふ妖魔の怖れに變形しかゝつて居るが、もつと先の方の御藏島などに行くと、赤い帆の船が海を渡つて來るのを、出て見た者は死ぬなどゝ畏れて居るのだから、やはり慎むべき精進の日であつた。國地の方でも月々の二十四日を精進して、或はこの一日酒を斷てば火の災ひを遁れるといふ説もある。之を地藏さまに又愛宕山の信仰に、結び付けて解説するのが普通だが、月の下弦の日の物忌といふことは、そんなものよりまだ少しばかり古さうである。

　

(226)　　　　　　　　　　六

　

　冬至を中心にした忌祭は、著名な御社だけでもなほ幾つかある。たとへば羽後の鳥海山を奧宮とする二箇所の大物忌神社もそれであつて、是は御社の名になるほどの重要な特徴であつた。西の方では長門の忌の宮、此祭が始まると附近の村々では物忌をする。海上二十五浬の長門見島などでは、之をオイミ講と呼び、十一月十四日以後の三日間、外の仕事をさし控へ、大きな物音を立てぬやうにして居る。神樣の御産があるのだから、どたんばたんすると御弓で射られるなどゝいふさうである。御弓は勿論この「御忌」の誤解である。島根縣の隱岐の島などでも、やはり十月と三月との巳の日が忌さん祭であつて、其間は大聲を揚げず、すべての物音を立てぬやうに慎んで居る。この方は多分出雲大社の御忌祭、もしくは佐陀の御社の御忌であらう。出雲の二つの御社にも嚴重な忌祭があつて、元は其期間が非常に長かつた。それを色々と解釋を緩めて、今日はよほど短くして居る。さうしなかつたら却つて破らねばならぬ場合が多く、信徒の不安と畏怖が大きかつたからで、見やうによつては是も亦その信仰が、まだ衰へない證據とも言ひ得るのである。

　私の想像では、斯ういふ古風の守らるゝ御社が近くに在ると、それに繋がれて忌の戒めが永く續くといふだけで、本來はどこの土地でも、皆めい／＼の祭るところの神に對して、同じ精進を守つて居たのではないかと思ふ。小さな島々は外部の感化が少ないので、比較的この習慣が濃く殘つて居るらしく、それを尋ねて見ることは日本でならば出來るのである。沖繩諸島の八月の物忌は、既に柴指の條に於て述べて置いた。壹岐の島でオイミサンと謂ふのは、冬春の境では無しに、夏と秋との行逢ひの六月晦日であつた。この日は眞砂包みと稱して、清い海の砂を供へて田の神を祭る式がある。式の趣旨はもうよく解らぬやうだが、とにかくに村々の人はふだんの心持で無く、色々の作業の此日だけは禁ぜられるものがあるといふ。一般に九州から中國西半では、この所謂ナゴシの日を重んじて居るが、作法(227)や言ひ傳へには、よほど京畿とちがつたものがある。日向大隅ではこの日をマンゴクメ（萬石米）の節供と謂ひ、或は又「龜の子くばり」といつて、川童が龜の子の進物を交換する日だなどゝいふ。牛の祇園と稱して牛を必ず海に入れるのも此日であれば、川童がその牛の壁蝨《だに》の水に落ちるのを食ひに出るとも謂つて居る。我邦は全體にこの水中の恠を怖れる話が多く、胡瓜を警戒する物忌も?々之に伴なうて記憶せられて居る。

　この西國の六月晦の忌の日に對して、東の方では佐渡の島などの忌の日はやはり冬春の境であつた。近頃世に出た佐渡年中行事といふ本に、詳しく村々の實例が報告せられて居る。大抵は一年に二度、冬は舊十一月から十二月への移りと、春は正月から二月への移り際と、つまり新年を中に挾んで、前後二囘の忌祭があることは、前に掲げた野州二荒神社のオタリヤ祭とも同じいのである。この二つの忌の中間を或はもと「忌なかさひ」と謂つたのでは無かつたか。或はこのイミナカセイを、二月の朔日から、卯の日までのことだとも謂ふ者もあるが、とにかくこの二度の忌の日の中間に、大切な正月の祭が行はれるのだから、此期間に何か名があつてもよかつたのである。現在の佐渡ヶ島では、たゞ忌の日の晩に仕事をしてはならぬとか、よそに泊つてはならぬとかいふ位で、其他には常の日とちがつた食物をこしらへて食べる程度だが、村によつてはこの暮の忌を日本の祭りをさめ、春の忌は日本の祭り始めだと言ひ傳へて居るさうである。私などには是が可なり興味の深い重要な暗示のやうに思はれるのであるが、諸君には格別さう面白い話だとも感じられないかも知れぬ。だから出來るだけ簡單に、どうして私がそれを興味が深いといふかを、説明して見ようと思ふ。

　

　　　　　　　　　　七

　

　この正月の祝言の日を中に置いて、冬春兩度の節日を設ける風は、忌とは直接の關係無しにだが、全國に行渡つて居るのである。東京などでさへも古風な家ではまだ守つて居る。十二月と二月との八日がそれで、一般には之をオコ(228)ト八日と稱し、ちやうど三月五月の節供と同じに、全國を通じて今も相應に重要な日となつて居る。關東各地の農村では、此日は餅をつき又オコト汁といふ食物を調へ、屋外にはメカヒといふ竹の小さな籠又は笊を高く掲げる習慣がある。此晩は一つ目小僧さまといひ又は大マナコともいふ怖ろしい魔物が來て家々を覗くのだが、メカヒを出して置くと、この竹籠は目が多いから、自分の目が一つしか無いのを省みて、又は其目の數を勘定しきれないで、閉口して早速立退くなどゝも言つて居た。江戸期後半の學者たちの隨筆類にも、このオコトの日の事を説いたものが多いが、をかしいことには二月八日の方を事始め、十二月八日の方を事納めだといふ人と、之と正反對に十二月を事始め、二月を事納めだといふ人と二派あり、地方の實際でもこの同じ二通りの相反する名稱がある。私などの判斷では、前の方の説は所謂合理的改訂であつて、コトを正月の祭、即ち年取行事のことゝ考へると、第二の民衆の呼び方の方が當つて居ることがわかる。つまりは初春に神を家々に御迎へ申して、祭をするといふのが重要なオコトだつた故に、その爲の物忌は前月師走の上弦の月の晩から、次の二月の上弦の日まで續いて、其切目の日を祝祭した名殘なのであつた。ところが物忌は嚴重であればあるほど、うつかりと破り易く、しかもその破つた結果がこはい。それで只その日を油斷のならぬ日、うつかりするとひどい目に遭ふ日とのみ考へるやうになつて、有りもせぬ一つ目小僧といふ化物などを、連れて來るに至つたのである。靜岡縣の西の郡に於ては、此日は必ず餅を搗き、その餅がくつゝいたまゝの杵をもつて、雨戸の外側に大の字を描く風習がある。この大の字といふのは、恐らくは物忌を嚴重に守つて居るといふ表示であつて、外國の學者の謂ふタブーのエンブレム、即ち注連繩や玉串・オサシ棒の端に垂れるシデに該當するものかと私は思つて居る。この講堂の窓からも見えるあの相州の山の下の村々でも、二月十二月の八日の晩は、殊にめいめいの履物類を、家の外に出し忘れて置くことを怖れる。それはもしかの一つ目先生が遣つて來て其上に燒印を捺すと、直ぐに持主の身の上にかゝはるからである。といふのもやはり上總房州のミカハリの夜の慎みと、考へ合せて然るべき祭の精進の方式の一つであつたらうと思ふ。

　

(229)　　　　　　　　　　八

　

　古い信仰感覺には言葉が無い爲に、女や子供には精確に學ぶことが出來ない。少しく其記憶を具體的にしようとすると、斯ういふ下駄に燒印といふやうな、たゞ片端の特に印象の深い一點を抽き出して、話題に上すの他は無いのであつた。人が其本旨を體得する爲に一生涯を費さないと、もしくは考へ深い年長者がその傳承に參與しないと、新しい文化に取殘される結果に歸するのである。いはゆるインテリ層の人々が子供の頃に家を離れ、國民の傳統を省みる機會を與へられなかつたといふことは、必ずしも物忌の問題には限らず、あらゆる生活の規準の保存に關して、ちつとやそつとの損失では無いのである。さういふ中でも多くの精進の戒めなどは、昔の社會の初等教育であつた故に、寧ろ若干の誇張と遊戯味とをまじへて記憶せしめられる。二月と十一月との山の神の祭日に、山に入つてはならぬといふ言ひ傳へなどは今でも有るが、もし子供が、それでも入つたらどうなるかと訊くとすると、怪我あやまちがあるとか、出て來られなくなるとか答へるのはまだ單純な方で、人によつては此日は山の神さまの木算へ日だから、樹の中へ算へ込まれてしまふ、即ち自分も樹になつてしまふなどゝ謂つて嚇かしたものであつた。或は八日のコトの日に仕事をして居ると、ヤウカゾといふおばけが出て來るともいふ。ヤウカゾはたゞ單に「今日は八日であるぞ」といふ注意の古語に過ぎぬのであつた。信州佐久地方の農村では正月の晦日、二月の月に移る晩をやはり怖れて居るが、此日もし山に入つて居ると、ミソカヨイと呼ぶ聲がする。その聲を聽いた者は死ぬなどゝ謂つて居た。是もやはりけふは大切な三十日だよといふ注意の聲に他ならぬのである。上方から關西の方へ行くと、十二月の二十日をハテノハツカと謂つてひどく怖れる風がある。是も正月の爲に精進を守るべき一日だつたかと思ふのだが、やはり山路に於て此日だけ化物が出るといふ話が、吉野の姥峯その他にはあり、さうかと思ふと此日は一年中の死刑囚の首を斬る目だといひ、又は山姥の洗濯日だから、もしくは乞食の袋洗ひの日だから、普通の家では洗濯をしてはいけないのだと言つ(230)たりする土地が多い。盆には蝶や蜻蛉を捕つてはならぬとか、正月三ヶ日から兄弟喧嘩をすると、一年中喧嘩をして居なければならぬなどゝ謂ふのも、何れもこの例示教育の一つで、さういふ教へ方をしたところで、もとは決してたゞそれだけを守つて居ればよいわけではなかつた。さういふ常には構はない事すら戒めなければならぬ大切な日だといふことは、是を言つて聽かせる女や年寄の擧動を見ても元はよくわかつたのである。今日はたゞ其事だけを慎めばそれでよい樣に、覺えて居る人も多くなつたが、針取らず水汲まず、鎌止め犂止め、さては肥精進・鷄精進などいふのも皆同じことで、曾ては之に伴なふ外廓空氣のあることを、言はず語らずのうちに我々が學んで居たのである。

　しかも一々の禁條を諳んじ、是までは差支へ無し是を過ぐれば穢れになるといふことを、知り盡して居るといふ自信は中々持てない。さういふ人も少しはあつたらうが、いはゆる慎しみ深い老人老女などの、あまり何事にもやかましくいふのは、ヒンミツとかゴヘイカツギとか、クスナ人などゝ謂つて段々にきらはれて來た。さうしてたゞ記憶しやすい二三の禁戒ばかりが、事々しく殘ることになつたのである。それから今一つは人が心付かずに、忌を破るといふことも　　　屡々有り得る。たとへば道中や船車の中で、喪の穢れのある人と合火をするといふやうな懸念も無いとは言へない。果して自分は身が淨く、大切な祭の役を奉仕するに適するか否かに就て、多少の不安の無い者は少なかつた。惡いことには巫女とか占ひ者といふ類の物知りは、いつも人のさういふ弱點のみを突かうとするので、半分の無關心は却つてこの迷信を強くした形があるのである。門口に注連を張り物忌の札を立て、又は努めて外出と接客を避けようとした中世の生活も、この不安を最少限度に縮めようとした、言はゞ弛緩期初頭の現象だつたのである。斯うまでして見ても、なほ隱れて氣づかなかつた若干の違犯は想像し得るので、その失敗を清算せんが爲に、祓といふことをして區切りをつけ、新たなる勇氣を振ひ起して、祭祀の事務に就かうとしたのであつた。

　

(231)　　　　　　　　　九

　

　祓といふ方式の起りは無論非常に古い。しかし其利用の範圍は近世に入るほど擴張して居る。之に信頼して日頃は自由な生活をする者、今に祓つてもらふからよいわと言つて、祭の前の晩まで牛肉を食ふ者などは元は決して無かつた。その上に祓の方法も近頃は極度に簡單になつた。いはゆる御幣を頭の上で振つてもらへば、それでまがこと罪穢れが銷除するなどゝいふことは、私の見る處ではハラヒの學説の進歩に他ならぬ。古い且つ最も本式なる祓の方法は、近頃再び復活しかゝつて居るミソギである。是はたしかに印象の深い行事で、元は之によつて肉身の改造に近い結果が得られるやうにも考へられ、又それが第一の目的であつたかも知れぬが、是と共に一時的に身の穢れや罪を自覺する者も、之によつて清め拭はれようとしたらしいのである。沖繩諸島で謂ふところのシューキーは、今では潮蹴りの意に解せられて居るが、もとの起りは「蹴る」では無いのかも知れぬ。とにかくに忌まれの?態のちやうど終つた者、又は新たに忌まはしい事の起つた場合に、共にそれを絶ち切る爲にこの潮蹴りを沖繩ではして居る。舊日本の方でも、前には喪の終りなどに之をしたかと思ふが、今日はそれが甚だしく略式になつて居る。たとへば葬式から歸つて來ると、水を張つた盥を跨ぎ臼のまはりを廻り、もしくはちよつと鹽を嘗める眞似をするといふ位なことで、多數の人々が喪に參加することになつては、さう大袈裟な事も出來まいが、是では完全に穢れの不安は取れず、從つて人が無感覺になるより他は無かつた。それよりも一段と濃厚に近頃まで殘つて居たのは、産の穢れの淨めで、是も山間の村とか、又は讃岐の伊吹島のやうな海近い村々が主であるが、女は月毎の忌まれにも昔通りの禁戒を守り、嚴寒にも荒海の濱に下りて身を滌ぐ者があつた。山で大きな野獣と闘ふべき人々、東北でいふマタギなどが、やはりこの水の祓を殊に重んじて居た。たゞに物質上の穢れだけで無く、山言葉の禁條を無意識に犯したといふ場合にも、やはり谷川に身を浸すことを強制せられ、又は何十杯も冷水を頭から掛けられた。即ちミソギは斯ういふ人々の間には、昔から引(232)續いて守られて居るのである。

　たゞ一つ今日の復活時代と異つて居る點は、彼等は一般にミソギといふ古代語を忘れてしまつて居た。さうして改めて之をコリと呼んで居る。コリには久しい以前から垢離といふ字を宛てゝ居るが、そんな變てこな漢語があらう筈は無い。即ち宛字はどうあらうとも、コリは日本語なのである。或は是もコモリといふ語から出たものかと私などは思つて居る。とにかくに祭の爲にコモル人々は、以前は其始めにも又中間にも、海川に降つてこのコリを取るのがきまりであつた。宮ゴモリを春秋の行樂の一つと思つて居る土地の人たちは、無論この樣な難行苦行はしないが、切なる祈願のある者は今でもよくこのコリをかいて居る。殊に村内に重病の人がある場合には、親族知友が合同して勢祈?又は千垢離といふミソギをした。即ち都會地などに行はるゝ御百度の一つ前の形で、多數の念力を集めて神の御助けを得ようといふ計畫なのである。越後の雪深い冬の祭にも、精進屋の作業の中心として之を行ふ例があつた。後には之を青年訓練の方法と見、又念佛の信仰と結び付けた精進屋もある。東京などの寒參りも其遺風であつて、今では深川の不動樣へ參る者ばかり多いやうだが、それでもなほ口には六根清淨を唱へて走るのは、つまりは一切の穢れの原因を防衛し得たといふこと即ちミソギをした清い身を以て、祭を奉仕しますといふ意味に他ならぬのであつた。

　

　　　　　　　　　　一〇

　

　水を以て身を清めた上でないと、神樣の前に近づくことが出來ぬといふ古來の約束は、社頭の石の手水鉢となつて今も殘つて居る。しかし今日はそれを只見て通る人が多く、柄杓が添へであつても百グラムとは水がすくへない。ちよつと口を濯ぎ手を拭くだけしか用意をしてないのが普通であるが、以前は詣るほどの人は悉くこゝで水を浴びたのである。村々の御社にも堀を引き池を湛へて、其爲の設備がしてあつた痕跡はまだ見られる。殊に靈山の登路には必ず其爲の川の流れがあり、之を精進川といふものが多い。誰でも知つて居る手近の例は、富士山の須走口などで、今(233)の登山口の橋からすぐ下流に、いはゆる垢離場があつて、しかもこゝを使はぬ人ばかりが、在ることも知らずに通つて居る。此頃聽いた話では、熊野大島の樫野村などは信心深い土地で、氏神の御社地は靈域であり、一人でも履物をはいたまゝで參詣する者などは無いさうだが、この御宮の山の麓に、幅三尺ほどの清い流れがあり、こゝで必ず手と口とを洗つてから登ることは、内宮の五十鈴川も同じであつて、村では其小流れをヂゲノ川と呼んで居る。ヂゲは地下と書き人民居住地の意に使はれる。即ち是が神と人との境の線で、ミソギをせぬ者が越えることを許されぬ關門なのである。他の地方の御社でも多くは同じやうな水の流れを控へて居るのだが、設備は昔のまゝでも、人の利用方法は世とゝもに改まつて居る。

　或はこの神社の前の流れを、シホイ川と謂ふ地方が鹿兒島縣大隅などにはある。シホイといふ言葉は西日本に弘く行はれて居るが、土地毎に少しづゝ内容がちがふ。九州の多くの海岸殊に島々では、潮水を汲んで家を淨め又身を清めることがシホイで、其爲にオシホイタゴ又は清め桶といふものを備へ、それを手に下げて毎朝もしくは月の三日、海端に出て潮を汲み來り、家の周圍に振り散らして神を拜んで居る光景はよく見かける。ところが福岡博多からその附近の村々は、シホイ桶の代りにシホイ箱といふ箱を戸の口に下げて置き、是へある一定の濱に出て、潮干の時の清い砂を取つて來て置き、やはり同じ用途にふり散らすのみか、海女などは水に潜る前に拜をして之を海面に撒くといふ。島根縣の海岸一帶には、潮水を汲む風もあるが、又同時に海近い神社の社頭にも、オシホイ石といふ平石があつて、是は潮水を汲んで來る代りに、潮に浸つて居た藻葉の一房を手に持つて社に參り、それを此石の上に置いて來るのである。この三通りのシホイの中で、どれが最も古い形かは容易に見わけられる。シホイといふのは本來潮を以て清めることなので、汲むから潮井であらうと思ふ人も多いが、此イはやはり忌籠りの忌らしいのである。中國から東の方は、西國のやうに盛んでないが、やはり熊野その他に今以て潮汲みの風はあり、又常の月にはさうしなくとも、いよ／＼例祭が近づくと之を始め、又は頭屋に指定せられた家だけが之をする。五里三里と離れた内陸の村からも、(234)祭の支度として海へ出て潮を汲み、其際には必ず垢離をかくといふ處もある。どちらが主でどちらが從であるかはわからぬが、コリにもカクといひ、潮を汲むこともシホカキといふから、二つは關係があるので、事によると沖繩でいふシホケリも、同じ言葉の變化かも知れない。

　遠州の山住神社などは、海から十數里も離れた奧山郷であるが、それでも祭には御潮取りに天龍川の下流、今では二俣のあたりまで行つて川の水を汲んで居る。爰までは海の潮が通ふものと見たのかと思ふ。隱岐の島ではシホタガとチヤトタガ（茶湯桶）とを區別し、神祭には是非とも潮桶に潮を汲み、佛事には必ず淡水をもつて參ることにして、之を茶湯桶と呼んで居る。長門の見島などではタテシホと稱して、海が荒れて潮を汲むことの出來ぬ日の神事には、水に眞鹽をまじへて用ゐるといふ。是等の例を見れば、祭に必ず海の水を使はねはならぬ仕來りがあつたので、即ち潮水そのものゝ力を認めて居るのかと思ふ。東京で今も見らるゝ盛り鹽や鹽花は、どうやら或る職業の家だけに限らるゝやうになつたが、是はこの階級が妙に古い形を守るからで、春の初市の吉例のあきなひに、若鹽賣りが出る土地がまだあるのと同樣に、ほんの偶然なる末端の保存かと思はれる。

　

　　　　　　　　　　一一

　

　如何なる信仰でも、解説者が中に立つて時代との調和を講じ、その理論化に耳を傾ける者が多くなると、その本筋は却つて最初の形からは遠ざかり、さしもに神々しい筑前の檍ヶ原の御物語が、たゞ祝詞の言葉として傳へ誦せられるだけになり、もとは其文句を唱へる度數の數取りに過ぎなかつた玉串を、オハラヒの名を以て尊重するまでになつてしまつた。しかも一方には其教理の外に在つて、自由に變化して行くものは統御する能はず、是もいつの間にか狹斜の巷の、門の敷石の一つまみの鹽にまで改まつて來たのである。國民が自ら學ばなかつたら、斯ういふ二つのものが根原は一つであることを、覺り又省みる機會は來ないであらうし、さうすれば再び又荒々しい獨斷論が相闘諍して、(235)結局素朴にして透徹した古人の心に、共鳴し得ることが困難になるばかりである。古今萬卷の神道傳書類を精讀して、公平なる批判を下すことも一手段であらうが、私たちは寧ろ自然に移り動き、しかも今までは全く齒牙に掛けられなかつたものを、跡つけ比べて行くことを近路と見て居る。此方には或る二三の卓越した人の、我執といふものが無いからである。さうして多數凡俗の群の、歩みさうな方角へしか歩んで居ないからである。

　基督教の方でも、所謂バプテスマが近代の歴史研究によつて、もう一度古式に復らうとして居ることは、我々のミソギとよく似て居る。しかし問題は必ずしも形式の古今で無い。古いものが正しく又有效であるかとは思ふが、さう決する前に先づ考へて見なければならぬことは、そんなら何が故にその古い方式が永く續かず、よかれ惡しかれ次々の變化を受けずには居なかつたかといふ點である。花が日を經て萎れ香がおのづから燼するやうに、時がさうさせたといふ考へ方もあらう。たゞ其時に働いたさま／”＼の力のうちで、あるものは遠く弱々しく、又あるものは痛切であり積極的であつて、避け又は免れることの出來ぬものがあつたことは認めなければならぬ。人の願ひと悦びとが、元は單純であり御揃ひであつて、容易に一つの神の一度の祭に協同し得たものが、次第に分れ／＼になつて來た傾きは、全國を通じて現はれて來て居る。同じ御社の一年の祭の度數が、先づ一般に多くなつて來た樣にも思はれる。其次には出でゝ他の地の大小の祭に仕へること、是は國内の交通が盛んになれば、當然にさうならずには居られぬわけで、それも各自の經驗が區々になるに伴なうて、末には祭とも名づけ難いほどの、隨時の物詣でばかり多く、日本は世界にも珍しい、氣まゝな巡禮の國になつて居るのである。斯ういふ個人の頻々たる臨時祭に、精進の準備の爲し遂げ難いことはわかつて居る。今でも出羽の三山の行者などは、自分たちのみで忌に籠るといふが、物忌は元來群の雰圍氣によつて支持せらるべきものであつた。しかも一方には新たなる生計の累ひが多くなつて、總員がその信仰上の義務に服し難く、村に頭屋の制を設けたと同じやうに、家々にも若い男女の一人を選定して、專ら神役に當らしめる獨り精進といふ風習も、越後や伊豆大島などにあつた。所謂講中の組織の如きも、亦一つの近世日本の特色であつて、人(236)が一生の間に必ず一度、この大切な役目を果すやうに企てられたものと思ふが、組が小さければ力が弱く、大きくなれば又輪番に洩れて、つひに其體驗をせずにしまふ者が多くなる。つまり我々は祭の有難く、精進の大事なことをよく知つて居るうちから、自分等のみは折が無くて、段々とこの行事から遠ざかつて行つたのである。是には勿論さういふ任務を專業とする者の、進出といふことも考へなければならぬが、少なくとも彼等の數の激増だけは、物忌衰退の原因では無くして、寧ろ其結果であつたかと私は思つて居る。應仁亂後の戰國時代から、急に盛んになつたといふ代參・代願・代垢離の風俗は、たしかに神職や修驗の地位を重要にした大きな力ではあらうが、是を促したものはたゞ平和なる交通の杜絶であつて、人が遠くの神々に?り、又は御禮申しの參拜を企てるといふことは、もうそのずつと前から普通になつて居た。信心は既に個人の事業となり、物忌も亦公共の利害と、交渉の無いものとなりかゝつて居たのである。孤立した各郷土の信仰が是によつて半ば解體しつゝも、同時に一方には之に代つて、もつと大きな全國的の統合が現はれて來たことも、驚嘆に値する國民精神の一致ではあるが、さういふ激變の數百年を重ねて、なほ以前の祭と物忌との方式を、幽かながらも持傳へて居る土地が、何箇處と無く國内に有るといふのも、是に劣らぬ位に昔なつかしく又嬉しい事實である。今日はこの信仰上の遠心力とも名づくべきものを、少しも計算に入れない學説が、建てゝは又崩されて居るのである。さうして民間の多くの信仰現象が、常に神道の説明の外に置かれて居る。この樣子ではいつの世になつても、國民は自分の問題として之を考へることが出來ないであらう。

　

(237)　　　　　神幸と神態

　

　　　　　　　　　　一

　

　今までに述べて來たのは、「日本の祭」の輪廓又は外景とも名づくべきもので、始めには祭の季節期日時刻とその時代變化を説き、第二段には祭の用意支度、即ち木を立てゝ祭の庭を標示し、又一定の神域の極度の清淨を保障すること、第三段には祭の奉仕者の資格もしくは要件、即ち精進して齋忌の法則に遵はぬ者は、絶對に神に近づくことを許されなかつたことまでを、一通り御話したつもりで居る。さうすると其次には、一體どういふことをするのが祭であるか。普通に神事と稱へて居るものゝ内容は何であるか。それがどの位まで區々になつて居るか。又どれだけまでは全國古今に亙つて一致して居るか、といふことを考へて見なければならぬのだが、是に先だつてなほ一つ、祭場即ち祭の庭には、如何なる處を選定するかといふ問題がある。是と祭の行事とは、明らかに二つの別な問題でなければならぬのだが、不思議に我邦の現代の祭禮では、是が結び合つて一つのものゝやうになつて居る。其原因は多分神の御降りといふことが段々と不明になると同時に、それを遊幸と解する考へ方が、世と共に重要になつて來たからであらうと私は思つて居る。

　式と行列とは最初から、關係のあつたものに相違ない。耶蘇教の祭典にもやはり小規模ながらプロセッションは見られる。もと／＼儀式は足を使ふものが多く、從つて空間を必要とし、又その行事が細かく立會人が多くなれば、順(238)序をまちがひ無く守る爲にも、行列を作らずには居られなかつたであらう。葬式でも嫁入でも、又軍隊の行進でも、行列の起りは一つであつたとも思はれる。たゞ日本ではそれに加ふるに、我々の信仰の特殊性が、異常に之を發達せしめて、それが今日では祭の大小の差別となり、行列の無いのがたゞのマツリ、所謂祭禮は必ず行列を伴なふといふ風に、一應はきめてしまつてもいゝやうになつたのである。斯ういふ差別がもしも昔からあつたのならば、或は我々の固有信仰には、最初から二通りの起原があると言ふべきであらうが、私などの見る所では、是は皆中期以後の著しい片よりであつて、根本の一致點が之によつて、幾分か蔽はれ埋もれて居るだけなのかと思ふ。

　

　　　　　　　　　　二

　

　この事情を説明するにも、マツリの中心即ち心の入れどころが、本來はどこに在り、又次々にどう移動したかを、先づ考へて見なければならない。民俗學の研究方法としては、資料を最も身に近いものから採ることを主眼にして居る。即ち何人の耳目にも觸れやすく、さして手數を掛けずに其存在が證明し得られるものから、論據を得ようとして居る。今でも毎年少なくとも一度はくり返され、見よう知らうと思へば一年だけ待つて居ればよいもの、ちやうど植物學者が花なり實なりで、草や木の性質を説かうとするのと、同じやうなところを狙つて居る。さういふ中でも今まではついうつかりと、觀察して見ようともしなかつたやうな平凡な事實に、特に我々は期待を置いて居るのである。私たちが目下數多く集めて見ようとして居るのは、やゝ奇妙な言葉だが祭の通稱又は俗名、即ち人が其祭を話題にするたびに使つて居る名前、是が全國に亙つて面白いほど數多く、又かはつたものが色々ある。固より通稱はその祭の要點を言ひ盡して居るとは限らぬが、とにかくに外部に向つてよく知られて居て、其名前を言へば直ぐに思ひ出すのだから、一つの特徴といふことだけは出來る。社殿の内陣に於て少數の神職や氏子總代等が、執り行つて居るやうな手續きは、寧ろ自然の秘密ともなつて居るが、他の多數者の參加して居る行事だけは、必ずこの名稱が代表して居る。(239)中には外からの見物のひやかしや惡評に基くものもあるやうだが、必ずしも關係者の是認せず、もしくは聽けば不快に感ずるといふものばかりでは無い。中には内外相應じて、皆がこの覺え易い呼び方に一致し、たゞ公文書の上にのみ、別のおもたゞしい名が認められるといふものも多いだけである。

　この祭の通稱なるものを見渡すと、是も前に言つた物忌の列擧式と同じに、たゞ多くの特徴のうちの最も目に立つ一つ、他所の祭とかはつて居る點に力を入れて、之に伴なふ他の幾つかは見落すのが常であるが、此名によつて素人の目の着けどころが大よそはわかり、それが又各地甚だしく區々になつて居るのである。例へば三河で評判のテンテコ祭、能登の七尾でチャンチキヤマ、京都東北郊の赤山明神のサンヤレ祭、安藝嚴島の御社でいふチンチリビツ、長崎の諏訪樣のコッコデショウ、其他之に類する多數の名稱は、何れもその祭禮が行列に力を入れ、それに繰返される囃し聲又は掛聲が、いつ迄も耳に殘り、何人も容易にこの一語によつて、此日の全體の雰圍氣を思ひ浮べることが出來る。さうかと思ふと他の一方には、殆と是といふ變つたことは無くて、たゞ物を食べることが主になつて居り、爰のはほんの食ひ祭だなどゝいふものもあるが、是にも亦色々の、一度耳にしたら忘れられない名がある。といふわけはその一つの食物が、多くは又神供にもなつて居て、それに説明の出來ない古い由緒があるからである。東京の近くでは府中の大國魂神社の初夏のスモモ祭、いつから謂ひ始めたことか、又神樣に供へて居るかどうかは知らぬが、とにかく此日は今でもその李の實が賣られて居る。大和ではエソといふ魚を賣りに來る頃の祭が多く、殆ときまつて祭にはこの魚を食べるので、エソ祭といふ名も方々で耳にする。もつと普通なのは鮨祭甘酒祭、又は芋煮の神事、是等は秋の祭の頃の最も得やすい食物だが、やはり祭の名となつた土地では、分量も豐富にこしらへ、又どんな事があつても省くことをしない。東北地方を始めとして、田舍には可なり素朴に過ぎた食物を祭の日に限つて今も調製し、中には生活風習が改まつてもう此日にしか見られないといふのもある。下總小御門神社の蓼の酢もその一つらしく、秋田縣北部にはシホデ祭だの、シルクサ祭だのといふのもある。さうかと思ふと料理法の古式を存し、しかも材料のも(240)う得にくゝなつた鯰祭だの、鱧切祭だのといふ例も若干はあつて、少なくとも祭に奉仕する人々だけは、神供と同じものゝ分配に與かつて居るので、それが珍しい食物となればなるほど、　　　愈々さういふ名稱が傳はり且つ改め難くなるのである。

　

　　　　　　　　　　三

　

　自分はこの種の祭の名稱を、既に數百といふ位も集めて居る。それ等を類別し排列して見れば、大よそ日本の祭が如何なる行事に、力を入れるものだつたかは窺はれるわけだが、一々の説明に時を費すのか情しいから、たゞ斯ういふ簡便な手掛りもあるといふことだけにして置くのである。たゞ此序に一つ話して見たいのは、右に掲げた兩端の特徴、即ち行列の囃しと家々の中での食物と、二つの慣行によつて名を得たもの以外、更にその中間には火祭とか田植祭とか、或は的射祭・玉取祭・鬼追祭とかいふやうに、其日祭場の前で行はるゝ數々のかはつた行事を、記念する名稱が非常に多く、しかもどの一つでもこの御社ばかりといふものは無く、近い郡村では他に類が無くとも、全國のどこかには、可なり似通うて居るものが捜し出されるといふことである。日本の祭の通念を得たいと思ふ者に取つて、この錯綜した事實はそも／＼何を意味するのであらうか。一つの府縣や地方だけに就て見ると、名稱は元來他所と異なる點に據つて居るのだから、最初に感ずるのはたゞ始末の付かぬ不統一、數百千の御社が肩を竝べて、各々勝手次第なことをして、それを祭禮又は祭と呼んで居るやうにも見える。果して其通りに昔から、千差萬別なものが日本の祭であつたらうか。是が先づ問題にならざるを得ぬのである。其樣なことがもし有り得ないとするならば、現在は既にこと／”＼く最初の形を改めてしまつて居るか、但しは又ある定まつた範圍までは古今を一貫して居て、それが次々の新たなる附加、乃至は力の入れ所、外界の評判の向ふ所に應じて、特別に發達しで居る爲に、勢ひ有りふれた部分を埋没させることになつたものかの何れかである。是を見究める爲にも我々は、比較の區域を擴げて行かなければな(241)らぬ。

　祭の特徴の著しく外に出て居る點は、決して前に擧げた兩端と中間と、三つの段階だけに限られて居ない。細かく觀察するならば此中にも、なほ幾通りもの差等が氣づかれる。しかも斯ういふさま／”＼の祭を通じて、どこにも必ず見られるといふ形又は行事が實は有るのである。先づ第一に祭を營むといふ以上、どんなに行列や催しものに力瘤を入れて居る御社でも、神供即ち神の召上り物は何も進らせぬといふものなどは一つも無い。次には其神供を御勸め申す間、御燈明を上げずに居るといふ御社も恐らく絶對にあるまい。私などの深く感じて居るのは、よその國々の他の宗教は知らず、日本の祭に於て神々を御もてなし申す方式だけは、人が最上級の賓客を迎へた場合と、完全によく似て居ることである。即ち食事の時刻ともなれば、酒と食物とを力の許す限り清らかに調理して供するのみか、少しでも永く其樂しみを續けたまふやうに、有りとあらゆる手段を盡すのであつた。現代は一般に夜が明るくなつた故に目に立たぬが、神の御食事の時刻は座上にも庭上にも、常の日に何倍するほどの火を焚く。昔は他の照明方法が無かつたから、それがすべて御篝火であり炬火であつたのが、後追々に油の火又は?燭となつただけである。滿月の夜頃を祭の日とした動機も同じかつたかも知れぬが、篝の火には更にあたりを煖かにする力もあつて、早春晩秋にはそれが又一つの款待の方法にもなつたと思はれる。この薪の火の燃え盛るのを眺めながら酒宴をするのは、昔の人たちの大きな歡びであつたので、神々も亦之を賞でたまふべしと、單純に推測したらしいのである。だから祭の中にも御火燒きを中心としたやうに見えるものが、冬の祭には多かつた。私たちの郷里では之をサイトウと謂つた。中古の神道者には柴燈護摩などの説もあるから、多分之に基いた新語であらうが、其以前に何と謂つたかは知られて居ない。本來はたゞ單なる饗宴の鋪設に過ぎなかつたのを、後には之を祭の中心と見るやうになつて、新たな解説を附け加へたり、一方には次第に大袈裟な柱松明などを立てたりすることになつたのかと思ふ。富士の北麓の吉田の御社にも、信州戸隱にも此火祭があつて有名である。羽黒山の歳夜祭なども之を特徴として居る。その火を二つにして火勢や煙の方向(242)等によつて年を占なふ風は方々にある。その中で盆の柱松だけが、亡者の供養のやうに夙くから解せられ、正月十五日の所謂左義長は、禁中では陰陽師の管理に歸し、民間では今は全く少年の携はる行事となつて、神の供物もなほざりになり掛けて居るが、本來は二つともに、火焚きといふ點に力を入れた村々家々の祭であつた。さうして年占の目的がこの火焚きに伴なふのも、次に述べようとする理由によつて、私は極めて自然の事だと思つて居る。

　

　　　　　　　　　　四

　

　其次に日本の祭に最も例の多いのは、趣向をさま／”＼にかへた庭上の催しものであるが、是も亦貴賓款待の大切な手段であつたことは、中世の文藝記録に幾つとも無く證據がある。伊豆の奧野の狩倉に、源氏の若君を招請して酒宴を催し、御慰みに相撲をとつて御目にかけたといふ曾我の物語なども、うそではあらうがあの時代の常識であつた。神來臨の日にも亦それをせずには居られなかつたのである。それを又餘念も無く看て樂しんだ人々が、神樣も同じやうに悦んで御盃を重ねたまふべしと類推したことは、なつかしい素朴な考へ方であつた。法樂と稱して下手くそな連歌の座を社頭に開いた心持も、どうやら此方面から説明がつくやうである。晝の中でないと催せない藝は、神の御宴の時刻を早めてもしたが、他の多くのものは夜に入つてからでも、晝のやうに篝火を焚いて續けて行くのを例として居た。たとへば綱曳などは小正月や盆の月、又は八月の滿月の下でも行はれた。?合せとか牛の突合ひといふ類は、選手が動物で夜は働けない故に、御旅所御到着の即刻からも始め、その日中の行事が追々と多くなると、又一段と是が饗宴の餘興だといふことに、氣付かぬ者を多くしたかも知れぬ。

　斯ういふ中にも日本人の趣味の現はれ、即ち我邦が久しい間、武を尚んだ國なるが故に、いつの頃からとも知れず最も盛んに行はれたのは、弓と馬との競技であつた。殊に御弓の神事・御的射の式といふものは、今でも地方によつては祭と不可分のものゝ如く考へられて居る。流鏑馬・笠掛・犬追物といふ類の、騎馬を利用するものはよほど貴族(243)的で、乘馬を飼ひ之に乘つてあるくだけの土豪でないと出演も出來ぬのだが、之を見て悦ぶ者は中産以下の者にも多かつたので、神社の力が少し大きくなれば、何とかして是を恒例の行事に取入れようとし、武士たちも亦その日の晴を目あてに、練習を励んだ樣である。けれども是は入費も多く、領主大名の保護が無くては續かぬので、明治以後はよほど衰へて其數も少なくなつて居る。之に對して一般農民の間には、歩射即ち「かち弓」が普通であり、此方が多分一時代古くからのものと思はれるが、是も共々に今は衰へかゝつて居る。關東その他の舊い御社の祭の名に、備射祭だの奉謝祭などゝ書くものも、元は騎射に對する歩射の祭であつた。それが今日は意味不明になり、なほ型ばかりの弓射の行事があるので、シャとは射ることだらう位にしか思つて居ない。其技術は練習の不足によつて下手になり、又面白くなくなつて居る。千葉茨城の二縣などで、春の始めのオビシャといふ集會の如きは、今日はもはや弓を射る式ですらもない。日待と謂つてもよく、宮籠りと見ても差支へ無いやうな、たゞの飲食ひの集まりで、それも順番頭屋がめい／＼の自宅を使ふので、後には女ビシャなどゝいふ女だけの會合さへ起り、祭だか何だか知らぬ人も多くならうとして居る。しかし是から西の方へ出て行くと、今もまだ型ばかりは祭に弓射る土地が多い。其方式には二通りあつて、一つはたゞ的に射中てることを主にしたもので、其的には鬼といふ字を描くものが稀でない。昔神さまの御威�ｺによつて、鬼を退治したといふ言ひ傳へを、形に現はして毎年くり返すのだといふものもあれば、又は村人一同の願ひが貫くやうにといふ心持だといふ者もあつて、此方は鬼の字をかく代りに、金的銀的などゝいふのを設けて、それを射あてた者を表彰したりして居る。江戸にも此風が元はあつたものか、大當りといふ語はよく用ゐられ、又は當り矢と稱して的の中央を箭で射貫いた形を、色々の模樣に使つたのが、つい近頃まで下町では見られた。

　次の今一つの的射の行事といふのは競技である。同じ御社の祭に仕へる者の中で、部落又は家筋によつて組を分ち、各々代表の選手を出して成績を競はしめ、當りの多少を以て勝負をきめるもので、古くは朝廷でも新春の射禮の他に別に日をかへて賭弓《のりゆみ》の式があり、此方にはかけもの即ち賞品が出たので、出演者にも見衆にも此方が興味が多かつた(244)樣である。起原は或は後だつたらうが、一方がとかく形式に流れやすいに反して、此方は実地の腕くらべだから力が入り、見物の中にも自然にひいきが出來る。社殿の正座で此技を御覽になる神樣も、多分は同樣であらうと推量したものか、この祭の日の競技に勝つた方の組が、その一年は萬車仕合せがよいと言つて、射手の少年に練習を勵ましめたのみか、なほ數日も前から頭屋同樣に、精進潔齋をさせる處が多く、その精進を又「射手ごもり」とも呼んで居る。組内の面々は申すに及ばず、遠くの親類までが應援に出る花を贈る。すむと御祝ひに酒宴を開く例も宮崎縣などにはあるといひ、それ迄はなくとも一般の大きな興奮であつた。瀬戸内海沿岸から九州の廣い區域にかけて、的射又は百手祭《ももてまつり》などゝいふのが、この第二種の弓の行事であつた。二本が一手だからもとは二百本の箭を、多くの組の者が出て射たのであらう。

　

　　　　　　　　　　五

　

　我國在來の運動競技は、殆と其全部が此種祭の日の催しに始まつて居る。後に相撲や競馬のやうに、信仰行事の外に出てしまつたものもあるが、其痕跡はなほ幽かに、たとへは角力場の太鼓やボンデン、さてはトウザイ／＼の言葉などにも見出さるゝのみか、他の一方には又各地の小さな御社の祭の行事として、やゝ零落した姿で殘留して居る。私などの生まれた村の宮相撲では、乾魚見たやうな痩せた子供までが土俵に立つた。さうして一人殘らず花をもらつたことを覺えて居る。その季節が正月とか盆とかの日ときまつて居たのも、必ずしも其日が休みだからといふだけで無く、別に由來のあつたことは證明し得られる。今日既に禁止せられて居るハマといふ遊戯なども、近世はたゞ兒童のすさびとして流行したが、曾ては亦神の御いつくしみの何方に厚いかを卜するが爲に、競馬や綱曳と同じやうに、春の始めに御社の前の馬場で、又は二つの部落の境の辻などで行はれたらしく、今も濱射場といふ地名が全國に亙つて、何百といふほども殘つて居る。單に小兒の遊戯の場所としてゞは、地名まで出來るのは少し大げさに過ぎるやう(245)に思ふ。印地打ちといふ石合戰の遊びが、中世久しい間行はれて居たことは、色々の記録に見えて居るが、是もたゞの思ひ付きのものではなかつたことは、日本では五月節供の日に限られ、古くは又四月二十二日の行事であつたのを見てもわかる。朝鮮にも是がまだ殘つて居て、おもに正月十五日の行事として傳はつて居る。男の兒の初正月の祝ひ物に、所謂破魔弓とぶり／＼といふものを贈る風を見ても、本來はこの競技の、男の子として一度は勤めなければならぬ祭の役だつたことが想像せられる。有名な御社の春祭として是が傳はつて居るのは、三河豐橋の神明社の正月十五日の榎玉神事、是は其勝負けによつてカン地フク地、即ち畠場と田どころとの二つの部落の、どちらが其年の仕合せがよいかを、占ふ方法に供せられたと言はれる。球の取合ひを中心にした競技は、玉取祭又は玉せゝりの神事と稱して、殊に北九州の諸社には多く行はれて居る。斯ういふ利害の感を離れてもなほ愉快な遊戯が、實は神樣の後援によつて克つと考へられ、しかもそれが一年間の神の御好意の表はれの如くにも解せられて居たのである。是に携はる人々の勝負に熱中し、永くその樂しみを忘れなかつたのも無理はない。

　我々はもう氣が付かずに居るが、多くの競技の昂奮の中には、今もまだ世界共通の心理學だけでは、解釋し得ない部分があるかと思ふ。前年この文學部の學友會でも、「膂力と信仰」といふ話をして、此點を考へて見たことがあるが、我々の競技の勝負の岐れ目を、全部が全部計算して出すことが出來るとは誰も思つては居ない。煎じつめて行くとチャンス即ち隱れたる外の力、人が詩人風に運命の神のほゝゑみなどゝ言はんとするものを、我々日本人は氏神の御ほゝゑみと感じて居た時代があり、又その考へ方は今も少しは續いて居るのである。今日贔屓とか應援とかいふものが、まだ痛切に其必要を認められて居るのも、やはり同じ一種の宗教的共感の延長であるのかも知れない。戰に勝つといふことに、銃後の力といふ無形の支持を缺くべからずとするのも、必ずしも由來のない民衆心理ではないやうである。

　

(246)　　　　　　　　　　六

　

　是に附け加へて考へて見るべきことがなほ一つある。我邦の神々には、何か斯ういふ單純なる方式を以て、御自分の御心持を信ずる人々に覺らせんとしたまふ思し召しがあるといふことを、昔の人たちは可なり固く信じて居た。さうして年に一度の祭の日の御くつろぎは、其神意を伺ふべき最もよい機會とも考へられて居たやうである。日々是好日などゝ支那の人は謂つて居るが、我々は外來の陰陽五行説を知るよりも前から、既に一年のうちにも好い日と惡い日とが有ることを考へ、節供正月等の昔から定まつた日の他に、毎年くりかへさるゝ祭の日といふものも、神の御示し下された「生日の足日」だと信じて居た。其日に行ふ事には皆正しい效果があると共に、その日に承はつた仰せ言は特にまちがひが無い。だから一年間の計畫は、出來る限り祭の日に定め且つ之を守らうとしたのである。さういふ中でも秋は成就の時、安らかに一囘の生産が完了したことを御禮申すのが主であつたが、春は之に反して問題の最も多い季節であつた。前に説いたやうな色々の年占の式は、言はゞこの未定の不安を信頼と覺悟とに取替へる爲の行事であつた。所謂年占の種類は土地の慣例によつて、この以外にもなほ數々あつた。最も簡單なものは世ためしの神事といふもので、是にも水のためし氷のためし飯のためし、又炭置の神事といふのもある。東北あたりの農民が小正月の宵に、今も家々に行ふ所の豆占や胡桃占といふのは、先づ圍爐裏の清い火を掻きならして、豆や栗胡桃のやうなものを其上に十二竝べ、之を其年の十二月に配當して、主として一年の天候を伺ふのである。白く灰になるのは其月は晴多く、黒くなるのは雨、ふうと吹くのは風の多い月と見るのである。月々の天候が大體に是でわかれば、それに應じて作物の種下し時を加減し、又品種や數量もきめられたのである。或は又筒粥管粥の神事と稱して、その神社の祭の日に行ふ年占も之と似て居る。是は葦とか小竹とかを管に切つて、月の數よりももつと多く、一つ／＼の作物や早晩種の名を書き付けたものを、その祭の日の粥の釜に入れて共に煮るので、管の中につまつた穀粒の多少を見て、其(247)年其作物の出來のよしあしを察するのである。關西では大阪府下河内の枚岡神社の粥占が殊に著名であり、東京四周の村々などへは、群馬縣の榛名神社の筒粥の成績が、印刷して配布せられる樣だが、なほ他の官國幣社の春の初めの祭にも、現在この方式を續けて居られるものが、五つや六つではきかないのである。私が意味深く感じて居ることは、是と全く同じ方法の年占を村毎に、今でも本家といふやうな家々で行うて居ることで、中部地方から東北へかけては、やはり正月十五日の前の晩、又は節分か大晦日の晩に、家々獨自に之を試みて居る。隣どうしで結果がちがつた場合はどうするかと思ふやうであるが、實のところ現在はさう重きを置いて居らぬので、是を唯一のたよりとした時代には、大きな中心があつてそこばかりで此年占をしたのであつた。昔の大家族制が弛んで、家が夫婦と子三人といふやうな小さなものになると、第一に斯んな管や筒が入れられるほどの大きな釜で、正月の粥を煮ては居ない。それで近頃はほんのしるしばかりに、所謂ケェカキボゥ（粥掻棒）を釜の中に入れて粥を掻きまはし、又はたゞ其一端の十文字の割目に儀式の粥を少し塗り付けて、めでたい／＼と神棚に上げて置いて、いよ／＼田植月に入ると、その棒を苗代の水口に立てるだけになつたのである。一年各月の天候の好し惡しまでが、前から定まつて居てそれを神々が御承知だらうと思ふのは、今日と比べると遙かに廣汎な信仰であつた。しかも其神慮が各人の常の日の生活と、切り離すことの出來ない指導力であつたことは、是からでも明らかにし得るのである。祭が凡下のあらゆる家庭の存立と、深い關係をもつて居たことは、後世の敬神思想よりも何倍か痛切なものがあつたのである。殊に稻米は皇室の供御、さうして同時に土地毎の神々の供物であり、又神を祭る人々が其期間、正式にたまはる所の食物であつた。それ故に其收穫の豐凶に心を費さずには居られない者が、政治家以外に、も實は非常に多數だつたのである。

　競馬といふ競技が祭の催しものとなつた起りも、單なる甲乙の技能の比較といふ以上に、右の筒粥と同じ樣な大きな代表的利害からではないかと私は思つて居る。さう思ふわけは、晴を?るには赤い馬、雨を祈るには黒の馬を、朝廷から大和の古い御社へ、御牽かせになつたといふ歴史からでも説かれる。中世以後の記録には、諸社の御祭に神馬(248)十列を進ぜられたことがよく見えて居る。十列は即ち十頭の馬らしいから、一年の月の數にはやゝ足らぬのだが、是は私は正月二月以外の各月を代表したものかと思ふ。やはり色々の毛の色をまじへ、その到着する順々を見て、月々の天候を豫知しようとするのが、最初の目的では無かつたらうか。とにかくに現在でも地方の古い御社で、五月田植の始まる頃の祭に、馬驅けといふ行事の行はれた所では、其馬には普通は人が乘つて居なかつた。賀茂の競べ馬なども本來は馬を競べる式だつたかと思はれ、其騎手はあるが之を乘尻と呼んで居る。最初には多分騎術の競技では無く、無心の馬どもが神意のまゝに、黒赤前後して馳せ進む　　　状を以て年占としたので、注目すべき點は人よりも馬に在り、假に三月が算へ始めとすれば、三番目の五月を代表する馬が、赤だつたら憂ひ黒だつたら喜んだ名殘ではないかと思ふ。記録を詳しく調べたらこの私の想像の誤りか否かを確かめる道はあると思ふ。とにかくに祭に仕へる人々の興味の中心は移つた。さうしてそれにつれて祭の態樣の、少しづゝ變らずには居なかつたことは、決して神輿の装飾美術だけでは無かつたのである。我々はあらゆる方法を以て、その本の形を探らねばならぬのである。

　

　　　　　　　　　　七

　

　この變遷は、近世特に急激であつたといふのみで、その以前とても少しづゝ目に立たぬ推移があつたことゝ思ふが、それを片端から明らかにして行くまでに、今日の研究はまだ進んで居ない。其中でも私たちが深い關心を寄せて居ながらも、殆と手を着けることが出來ずに居る問題は、右に列擧したやうなやゝ單純なる占法以外に、もつと重要な一家一門一社會の大事件に就て、神の啓示を承はる方式が、後々どういふ風に改まつて今日の如き?況に達したかといふことである。其樣な方式は以前の世にも無かつたのだと、言ふことは決して出來ない。宇佐八幡宮の神勅の話は特に有名であるが、其以外にも國家の憂患ある毎に、神樣が人間の口を假りて、最も具體的に豫告又は指導をなされた例は、列擧することも難いほど古い記録には多く見えて居る。それが後には段々と間違になり、少なくとも神社とは(249)關係の無い現象のやうに、なつて來た原因はどこに在るだらうか。單に民衆がそれを信じなくなつた結果とは言へない。民衆は今でも可なりよく神靈の語を信じて居る。たゞそれが名ある御社の仕へ人の口からは出ずに、?々司法警察で取締られるやうな、婆やよた者の媒介を經て居るものが多い點がちがふのである。どうして又其樣な中心の移動が起らねばならなかつたか。斯ういふ學問上の大切な疑問は、無論さう手輕には考へられるものでない。答へられなければ何時までも、抱へて温めて居ればよいといふのが、今までの私の流義ではあるが、それでは又講義としてあまりに頼りない。さうして又斯うではあるまいかといふ位の、見當は私にも付いて居るのである。諸君はうつかりそれを丸呑に信じてはいけないといふ警告附きで、御參考までに一通り茲で話して置きたいと思ふ。

　第一に考へられるのは、神の託宣に臨時と定期との二種があつたことである。氏子に何等の豫期も無いときに、突如として奇瑞が現はれて神靈の御言葉を聽くといふことは、絶大なる印象には相違ないが、それは何かよく／＼の福運又は災害の起る際で、それを承はつて急いで臨時の祭に取掛かつたにしても、それは多くの場合に定まつた祭の日以外の日の出來事であつたらう。之に對して一方の定期の託宣は、勿論十分な心構へを以て待ち迎へては居るが、それが大抵は平穩無事の日である故に、目を見張る樣な感動の大きな御言葉は無く、それも年と共に形式化してしまつて、終には他のさま／”＼の祭の行事の中に、紛れ込んで行つたのではなからうか。見方によつては祭の奉仕者の能力の退歩、又は神靈に憑られ易い素質の萎縮といふことも言はれようが、もと／＼祭の日に於て傳へられる神の仰せ言には、夙くから定まつた形が出來かゝつて居たのである。沖繩では毎年の農作祭に、祝女が高く唱へるオタカベといふ祈願の詞の外に、別に定まつたミセセリと稱する唱へごとがあつた。前者は人から神への陳述なるに對して、此方は神から人への交通の御言葉であつたかと思はれるが、今日は島々の司祭者たちまでが、もうこの二つの區別を意識せず又解説することも出來ぬ。大和の中つ國に古くから傳はつて居る祝詞の中にも、よく見るとこのミセセリ即ち神語に該當する部分があつて、一つの祭文の中に兩者融合してしまつて居るらしいと折口氏は言つて居られるが、自分(250)は古文辭に精しくないので、まだ之を拾ひ出すだけの力が無い。

　それから第二には是も稍々似たる分類だが、託宣には人が伺ひを立てゝから御答へになるものと、こちらは全く思ひも掛けぬときに、進んであなたより御告げになるものとがあることも考へられる。神々の氏人等は、出でゝ他處の神を拜まうとする者とはちがつて、最初から強い信頼をもつて居た。何か是非とも自分たちの早く知らなければならぬことは、年頃のゆかりとよしみとを以て、神樣が御知らせ下さるものと思つて安心して居た。それが平和の日が永く續いて、さうした異常の啓示も間遠になると、之を承はる聽明さは、おのづから普通の奉仕者の能力の外になり、別に一方にはさういふ事に得意な者の專門的活躍が始まつて、獨自の立脚地を神社以外にもつことになるのである。尤もさういふ專門の仲介者自身にも、氏神の御社はあり、その祭り方には若干の特殊性があつたらうと思ふが、始終村の外にばかり出あるいて居る爲に、段々とその御社との縁は薄くなる。ましてや其社獨自の教理を發達させて、よその御社の信仰行事を感化するまでの力は無いので、自然と行動の範圍を口寄せの職分だけに限るやうになり、こゝに祭典の式を掌る者と對立し又は分裂して、終に今見る如き二流れの、神に仕へる役目を併存せしめる結果になつたものらしい。官府に公認せられた神職の立場から言へば、一方は淫祀邪道といふより他は無いやうな、些しも理解せられない別派にはなつて居ても、なほ一般民衆の側からは、特にそれほど著しい境目があるものとも、元は見られて居なかつたやうに思はれる。少なくとも明治初年の力強い禁令が出るまでは、所謂巫女修驗の輩も亦、一種境遇の異なつた祭の奉仕者には相違なかつた。彼等の地元神職とちがふ點は、?々新しい神を迎へ入れんとし、且つ託宣即ち神の御告げに重きを置きすぎることであつたが、それは僅かばかり時代を溯ると、全國何れの地方にも見られた現象であつて、必ずしも此人たち限りの特徴でも無かつたやうに思はれる。

　

(251)　　　　　　　　　　八

　

　古くからの書いたものを見ても、又近頃の實例に徴しても、出でゝ新たに祭をうけたまふ神々ほど靈託は盛んであつた。さうして又小さな神々ほど、盛んに人に憑りもしくは憤りを示される。タタリといふ言葉は、本來たゞ示現といふ意味でしか無かつたと思はれるにも拘らず、今日は特に災害を下したまふ場合のみをさういふ樣になつて居る。人がまだ十分に新たな神の御力を體驗し得なかつたといふことが、祟りの必要を促して居たのであつた。年月を重ねて奉仕するうちには、自然に何の仰せ言を聽かずとも、定まつた祭を定めのまゝに續けて行けばよいと思ふやうになつて、いつと無く託宣に遠ざかつたのである。土地と久しい縁故のある神樣は、御自身も亦古い約束に信頼しきつて居られたかと思はれて、通俗の語で言へば一般にひどく鷹揚で、めつたにこの臨時自發的の託宣はせられなかつたのみか、更に新たに他處の神々の、來つて其靈異を示されることを容認し、又は誘導なされたことさへある。神は唯一つといふことを力説して居る諸外國の學者等には、恐らく理解することの出來ない寄宮《よりみや》相殿《あひどの》、行逢祭と稱する共同の祭式、或は末社と名づけて一つ御社の境内に、名有る多くの大社の神々を勸請してあることなどは、日本の信仰の一つの特色であり、從つて又我々を外にしては、其原由を究め得る者はない。私は必ずしもこのやうな複合?態が、國の最初から備はつたものとは思つて居らず、寧ろ其反對に個々の氏族が、各々單一の祖神のみを祭つて居た時代を想像して居るのだが、とにかくに近代の現實は明らかに斯うなつて居る。我々は村の氏神うぶすなの神の御心に、些しも逆らふこと無くして、一時に他の多くの神々を巡拜し、又迎へて我土地に祭ることが出來たのである。是は言ふまでも無く一つの時代變遷であつて、結局はその原因を新舊文化の折合ひ、又は之に動かされた農民心理のはたらきに尋ね求むべきものであらうが、とにかくに我々の固有信仰の中にも、この變遷を可能ならしめるだけの條件が、夙に具はつて居たことは認めぬわけに行かない。さうして其條件の一つとして、現在我々の心づいて居るものは、神の御(252)言葉を人間の推理よりも一段と正しく、又力強いものと考へ來つた習はしが、その最も大いなる一つである。近世は既に甚だしく衰へて居るけれども、もとは託宣が非常に重要な仕事をして居た。さうして託宣は之に携はる者の意思を以て、たやすく左右し得べきもので無かつたことは勿論であるが、それでもなほ暗々裡には之を掌る人々の上に、時代と社會環境と、又神道學者の學説との影響が働かずには居なかつたのである。

　

　　　　　　　　　　九

　

　神の新たなる示現は世と共に次第に稀になり、又は少なくとも其勸請の方式は改まつて來たが、しかし古くからの村々の御社の祭にも、第二の定期の託宣の方だけは全く絶えたのでなかつた。是を祭の特色として世に知られて居る例も若干は有る。人を神がゝりにする方式は區々で、後には色々の催眠術風のものも採用せられて居るが、古くからあつたかと思ふ一つは湯立てといふものである。或は是を問湯《とひゆ》といふ土地さへあつて、何か疑惑の神意に依らなければ、決し難いと思ふものゝ起つた場合、祭の庭に大きな釜を据ゑ火を焚き湯を沸かして、神の御力をたゝへ申すのである。現在はもう行はなくなつて居る御社でも、拜殿の中央を一部分土間にして、そこにこの湯釜を置いた痕跡を留めたものが多い。九州東海岸で私の聞いたのは、今でも年々の祭にこの釜の湯を立てゝ居る。大抵は他所から專門の祝《はふり》、方言でホッドンといふ人を頼んで來て、笹の枝を手に持つて釜の湯を四邊に振り濺がしめる。滿座の人々の晴衣もホッドンの淨衣も、皆しつとりと濡れとほるまで湯をそゝぐのは、一種湯垢離とも名づくべき光景であつて、是を掛けられた者は何とも言はれぬ嚴粛な氣持になるといふが、行事は普通にはたゞ是までゝ、まだ神の託言を語り出すやうな異常?態にはならぬ樣である。しかし以前は此方法のくり返しによつて、巫祝が自らに又は傍に居るある一人に神を憑らしめて、人間の言葉を透して神の御答へを受けようとしたことは、湯立てを以て御告げを聽いたといふ數々の昔語り、又はこの神の御口寄せの任に當る者を、ササハタキと呼ぶ地方が有るのを見てもわかる。つまりこの笹(253)は所謂幣束と同じに、神の力の表示であり、之を釜の湯に浸して振り濺ぐことが、神の仰せを聽けといふ指令の形でもあつたらしいのである。ところが其結果ばかりは、人の力を以て招き致すことが出來ない。是だけの手續きを盡してもなほ託宣の下らぬ場合が段々と多くなつて來た。それで後世には備中吉備津の宮の釜の如く、たゞ鳴り音の高さや調子を以て吉凶を卜したり、又は※［者／火］え湯の中へ手をさし入れても、ちつとも熱くない奇瑞を證するに止め、乃至は只の儀式として年に一度釜の湯を焚くことだけを續けるやうになつたのである。此頃人のよく見に行く三河北設樂郡の花祭に、湯たぶさといふ一種の手草を手に執つて、湯釜の周圍をまはる舞がある。見物の衆までが此時は口を揃へてタァフレ・タフレと囃すことになつて居るが、このタフレは或は物狂ひを意味するタフル又はタクラフといふ動詞の、命令形ではないかと私は想像して居る。しかも此樣にはやし立てゝも、現在ではもう神々の御言葉は聽かれない。つまり近代人は追々と、古い方式によつては動かされなくなつて來たのである。

　この所謂問湯の效果、即ち人を神憑きにする作用を促進する爲には、普通には音樂が用ゐられ、又はやゝ單調なる神をたゝへる詞が連唱せられた。今でも信心深い人々の間に行はれる千度祓ひ、もしくは六根清淨、謹上再拜やトホカミヱミタメの類も、文言それ自身に本來の意義があつたのでは無く、目的は寧ろその熱烈なる繰返しを以て、速かに靈媒の出現を見ようとするに在つたので、それ故に滿座の奉仕者が皆淨く、所定の物忌を誤り無く守つて居ることを宣言して、神の降下を切望したのだらうと私だけは思つて居る。或は御社によつては神歌といふものを高く唱へて居たものもある。

　　　よりまさば今よりまさねさはら木のさはらの枝にさはりぐま無く

　　　あづまより今ぞよります長濱や葦毛の駒にたづなゆりかけ

などゝいふ神歌は、今も東西各地の祭に多く傳はつて居るが、之をくり返した趣旨は、全く神のよりましを待つて居る間の、樂しみとあくがれとの他の何ものでも無かつた。或は是をもう一歩進めて、

(254)　　　神ならばゆらりさらりと降りたまへ　いかなる神か物耻ぢはする

といふやうな、少し率直に過ぎたる激勵の歌さへ元はあつたが、聽く人が第一にこの古い言葉を理解せずに歌つて居る位だから、效果の期せられなかつたのも是非ないことである。

　

　　　　　　　　　　一〇

　

　神舞といふ伎藝の世と共に盛んになつて來たのも、或は斯ういふ側面から説明し得るかも知れぬ。私は舞と踊との二つの流れに就て、大分久しい前から一つの少し變つた意見を抱いて居る。單簡な語でいふと、踊は行動であり、舞は行動を副産物とした歌又は「かたりごと」である。踊は外國でも可なりよく發達して居るが、舞の方はどうも西洋には無いやうだ。有るのかも知らぬが私はまだ是がさうだといふものに出逢つて居ない。といふわけは舞の起りは詞曲に在つたからである。口のわざが始めにあつて、それに連れて動き又は「しかた」をする。所謂ジェスチュアは第二次の發生だつたからである。私の考へでは、舞は神祭の信仰上の現象であつたやうに思ふ。本來は「たゝへごと」と稱して神樣の大きな力、無始の昔からの里人との因縁、必要ある場合にはいつでも出現なされて、尊い啓示をたまはることを、一同が牢く信じて少しも疑つて居りませぬといふ意味などを、熱心をこめてくり返して語つて居るうちに、自然に恍惚として人か神かの境に、入つて行くのが最初の舞であつて、斯う手をさし斯う足を踏むといふ型が定まつてしまつたのは、次々の變化であらうと私は思ふのである。「わざをぎ」といふ言葉は所謂芝居の意味に、今も風雅の人々は使つて居るが、ワザの所業であり行動であり又技術であることは知つて居ても、ヲギが招くを意味することは解し得ない人が多い。私の見る所では、ワザによつて神をヲグ即ち招くといふのが、此名稱の由つて來たる所であつた。或は經驗の結果として、始めから歌詞に伴なふ舞の形を案じてかゝつたものもあつたらうが、その經驗を得る爲にも、先づ我々は神と共に、この「たゝへ言」の尊さに動かされなければならなかつた。空にこの樣な舞の形(255)のみを、案じ出すといふことは想像し得られぬからである。乃ち最初に在つたものは言葉のあや又は力で、舞は寧ろその直接の效果、今一歩を進めて言ふならば、之によつて愈々神に依られんとする?態が、本來は舞といふものゝ姿では無かつたかとも思つて居る。

　然るに村々の神舞は型にはまり元を忘れ、どうして此樣に一つ處をくる／＼と廻るのかを、もはや説明することが出來なくなつて居るが、能の舞などにはまだ昔の痕跡を殘して居る。能のシテといふ舞人は大部分が神、さうでなければ精靈、さうでなければ物狂ひと呼ばれて、人か神かの境に立つ者であつて、所謂神氣が副うた人でなければ、唱へられぬやうな言葉を今でもなほ口誦して居る。それを「面白う狂うて見せ候へ」などゝ、面白いといふ語を以て形容したのも、本來は一つの信仰現象に他ならぬのであつた。後代徐々として感覺の内容が推し移り、終に面白といふことが祭を離れて存續し又發達することになつたけれども、なほその強烈なる印象の根源する所は、我邦でならば辿り尋ねて行くことが出來るやうである。多くの昔語り、即ち神秘なる古代人の生活傳承が、歴史の最も大切な部面として我々を動かすのも、本來は神を信じた人々の極めて眞摯なる禮讃だからであつた。たとへば人間に災禍をもたらす鬼どもの退治、その鬼は後世狒々となり大蛇となり又は山賊とも變つて居るが、今なほ文藝の一趣向として、大衆小説の中にまで續いて居るのは、言はゞ我々の遠い親たちの空想の遺産だからではなかつたか。或は清い少女を惡魔の厄難から救ひ出す話、後にそれを娶つて人間の最もすぐれたる英雄を生ましめた話、其他いやしくもローマンスを愛する人々のいつでも胸にゑがくことの出來る幾つかの物語は、試みにその水源に溯つて見れば、一つとして神に屬しなかつたものは無いのである。しかも最初に始めてその不思議な出來事を教へたまひしは神であつたとしても、之を金碧燦爛たる近世の演奏にまで持つて來たのは、すべて我々人間の力であつた。

　諸君は時あつて藝術の宗教的起原といふことを、考へて見られる折があらうが、それを教へようとする人は大抵はヘレニストである。大昔希臘でこのやうなことがあつたといふことを請合つて貰つて、さうでございますかと言つて(256)居るだけでは、合の子とすらも言へない西洋かぶれである。向うもさうださうなが日本にも同じことがある。大體人の心といふものは民族の差を超越して、同じやうに展開する可能性があるのではないか、といふ所までは責めて漕ぎ付けなければならないと思ふがどんなものだらうか。但し斯んなことまでを論ずるのは、私の講義の領分の外である。私の言はうと思つて居た點は、今ある文藝の多くの趣向には、最初祭の日の「たゝへごと」に始まり、人が自然の昂奮を表示した舞の手の仲介を通して、永く國民の間に傳はつたものが、有るらしいといふことだけである。年々の祭を機會として神の御心を和め、愈々その幸ひを民人の上に垂れたまふを期するには、たゞ抽象的に神�ｺの高く尊いことを、くり返して居るだけでは足りない。あなたは大昔、斯ういふ事もなされたといふではありませんか。斯ういふ言ひ傳へも手前どもは記憶して居りますといふことを説く以上に、更に又斯ういふ大きな願ひも、あなた樣ならば御聽き屆け下さる。もしくはそれが我々の遠い祖先との、堅い御約束であつたと心得て居りますといふ程度までの物語を、最も慎み深い言葉を以て恐る／＼、神の御機嫌の最もうるはしいと思ふ時を測つて、述べ立てることが許されて居た。それが感極まつて起つて舞ふまでに、身に沁み肝に銘じて敬聽せられたといふことを、今は想ひ起す折が少なくなつて居るのである。神と人間との間が昔は近く、世が進むとゝもに段々と遠くなるといふことは、之を具體的に言へば祭の態度が、以前は今よりも一段と、貴賓を歡待する場合に類似して居たといふことで、是だけならば何も古代を探らずとも、現在田舍の隅々にまだ活きて居る老翁の感覺からでも、之を窺ひ知ることが出來さうなものである。

　

　　　　　　　　　　一一

　

　春の始めに多くの御社に於て、今でも行はれて居る田植祭又田遊びといふものは、私の分類からいふと舞ではない。一種の「わざをぎ」ではあるが手足のわざを主とし、之を東北地方で踊と謂つて居る方が寧ろ當つて居る。たとへば庭の雪に畝を立てゝ、松葉を稻の苗に見立てゝ栽ゑる。又は人が牛になつて餅製の鋤を以て田をすく眞似をする。斯(257)ういふのには田歌があつても、それが演奏の一部として入つて來るだけで、ちやうど盆踊のはずんだ時に、クドキが入つて來るのとよく似て居る。東京の近くでは板橋の向うの赤塚�ｺ丸などに行はれた田遊びの實況は、四神地名録といふ書にも詳しく出て居るが、役者の割當てがあつて純然たる芝居であつた。今は横濱市に編入せられた舊都築郡杉山神社の田遊びなども、たしか神社便覽といふ本に其日の歌だけが出て居るが、御社の庭を田に見立てゝ代を掻き苗を植ゑて、其あとで雀・烏・鷺・?鼠《むぐらもち》、さては螻蛄・田螺・泥鰌などの、一切の田を害する動物を逐ひ、更に進んでは家々のよくしやべる女どもの、内證喰ひをする惡い癖までを、此序に追ひはらはうとするので、それは／＼念入りな所作であつた。斯ういふことを村共同の氏神の御社に祭の日の行事として行ふ土地があるかと思ふと、他の一方東北や北陸地方には、正月十五日の前の晩、家々に於て此通りの事をして、それを皐月とも田植とも呼んで居る例がある。或は少年男女が早乙女とか小苗打とか名のつて、大家の門口へ來て田植の眞似をして、餅や錢を貰つて行くやうな習はしもある。今日はたゞの慰みで笑つて見て居るだけになつては居るが、それでもまだ正月には是をやらせて見ないと、何だか物足らず又は不安を感ずる人が、古い家には殘つて居り、主人が諸君のやうな新しい教育を受けた人になつた機會に、大抵は中止せられるのを常とする。

　此種の行事は外形が呪法とよく似て居るが、さう思つて之を觀て居る者は私たちの仲間には無い。遠く起原を尋ねたら、或は信仰よりも一つ古いものかも知れぬが、とにかくに現在はすべて神祭の日の「わざをぎ」であり、人と共に之を見そなはす正月の神樣も、成るほど斯ういふことを皆の者は望んで居るのかと、御氣付きなされる樣にといふ趣意であつたことが察せられる。しかも一方では此わざが巧みになり、又をかしみが添へば添ふほど、是を祭の式から引離して、一つの遊藝として鑑賞したくなる者が、多くなつて來る傾向も否むことは出來ない。殊に大きな御社の祭の日に、外から見物に來る人々などは皆その方で、それを又豫期して居る行事の當事者、殊に御田植などよりももつと手のかゝる御旅所への行列の如きは、段々と祭の目的とは縁の薄い舞や踊に、年毎に新たな趣向を凝らし、目先(258)をかへて人をあつと言はせることに、骨折るやうになつて來るのである。中世京都の著名な祭では、この珍しい趣向を立てた催しを風流《ふりう》と呼んで居た。さうして其風流は際限も無く進展して、終に今見るやうな驚くべき外形の差異を來たしたのである。神が祭場に御降りなされるといふ「わざをぎ」が、最初から此樣な形であつた氣づかひは無い。だから私などは見物の衆も來ず、誰に見られて居るといふ豫想も無い島や山間の村の祭の方が、少なくともより古い形を多く殘して居ると推測するのである。

　

　　　　　　　　　　一二

　

　是も南の島々の例であるが、沖繩では今から二百年足らず前の記録にも、神女がある一つの靜かな海の入江に降つて、紅の狹霧の中に水浴びをなされたのを見たといふことを信じて記して居る。袋中和尚の琉球神道記の中には、何年かに一度、世の中の最も平穩なる時に、神がある靈山の頂上に降りたまひ、それから徐々と歩んで王宮の庭に來て、傘を立てゝ御遊びなされる習はしがあつたことを、詳しく述べて居るのは實見かと思はれる。今から僅か二十年前に、自分が訪れた奄美大島南部の村でも、神は祭の日に白い馬に乘つて、神山の麓の殿屋に御入りになるといふことを、まだ信じて居る人があつた。或は祭の日には同じ靈地の奧で、誰も鳴らす筈は無いのに鉦の音が高く響くといふことを、内地から移住して居る人までが疑はずに私に話してくれた。ところがそれと殆と同じ頃に、「山原の土俗」といふ本の著者などは、國頭郡のある御嶽に登つて、大きな平石の下に匿された三箇の鉦を發見して居る。それは神に奉仕する祝女のみの管理するもので、村人でも男たちには絶對の秘密であつたので、後をつけて來た老婆にうんと叱られたといふことを書いて居る。又ある海岸の村の出來事としては、海神の祭の日に、神が舟に乘らうとせられるのを望み見たある青年が、走つて行つて抱き留めて見たところが、それは自分の母親であつたといふ話さへ傳はつて居る。この島々では女性のみが祭を掌り、式の一切を男子には知らしめなかつた爲に、神は女の形を假りて出現したまふと(259)いふ信仰が、この樣に近い頃まで、こはれずに傳はつて居たので、男女のちがひはあるが此事情は、ニュウ・ヘプリーズの島のヅクヅクなどゝいふ行事とも稍々似て居る。然るに日本の本州の方では、女性のこの特權が夙く失はれた爲に、もう此樣な信仰は見られなくなつたが、それでもなほ近い頃まで、神が原則として女に憑りたまふこと、及びその巫女が神の御語を傳へるといふことは、之を信じて疑はぬ人が多かつた。或は又少年を以て神の尸童《よりまし》とすること、是は南の島々には無いことのやうだが、本州の方には古くから其例がある。一つ物と稱して花の枝・萱の莖又は山鳥の羽などを身に帶びた一人の童子が、馬に乘つて行列の中央に行くのを、定まつた期間、神と同じに尊みかしづいて居た。信州諏訪その他の祭では、近世は之を殿樣と呼び、從つて其練行を大名行列などゝ謂ふことになつて居るが、その殿樣を饗宴の正座に請じ、土上に足を觸れしめぬ樣にして居るのは、元は神實《かみざね》と見て居た證據であらう。土佐のある社の祭で大行事と稱した子供の役なども、やはり其祭の續く間だけは神であつた。白粉を以て其童子の額の上にあるしるしを描くと、其瞬間から所謂催眠?態に入り、馬に扶け乘せられて祭場に到着する。祭終つて其白粉を洗ひ落せば、忽ち正氣に復するとも傳へられて居た。現在の尸童は何れも無言で、たゞ祭の式に臨むだけである故に、いつと無く其重要性を失つて來て居るが、一方には中世以前の多くの記録にも、又近世の民間の記憶にも、斯ういふ幼稚な者が突如として、神の御言葉を口にして、周圍の人々を驚かしたといふ話が、幾らとも無く傳はつて居るのである。是と一本の串や柱又は生木を立てゝ、そこに尊神の來臨を感ずるものとは、外形に於ては既に著しい差異があるのだが、たゞ外形ばかりから信仰の眞相を知らうとするやうなことは、心有る者ならば外國人でも敢てせぬであらう。しかも今日までは却つて同胞國民の間に、その一々の事物に就て、煩はしい講説を試みようとする類の、奇妙な學風が盛んだつたのである。さういふことをする故に議論ばかり多く、印象は複雜又稀薄となり、祭に伴なふ國固有の感覺は、愈々片隅に押し遣られることになつた。改めて再び祭の中心はどこに在るか、何が最も主要なる事務であつたかを、出來るだけ單純に考へて見なければならぬ所以である。祭と「まつりごと」の一致を信ずるには、先づ祭の本(260)來の形を明らかにする必要がある。さうして之を明らかにする方法は、比較の他にはあるまいと思ふ。即ち第一には都鄙大小の祭に共通して居る點を見出すこと、第二にはその相互の差を見つけて、其差の由つて來たる所を考へること、第三には外形異なる各地の行事の中から、何か隱れたる聯絡と共通點とを探り出すこと、この三つは私たちの久しく心掛けて居ることで、共にまだ完成には甚だ程遠いが、少なくとも其希望だけは、今でも諸君に向つて之を説くことが出來るのである。

　

(261)　　　　　供物と神主

　

　　　　　　　　　　一

　

　今日マツリの總稱の中に入れられる一切の信仰行事を通じて、必ず備はつて居る要件、さうして日本以外の民族に在つては?々缺けて居る要件は二つある。その一つはミテグラを立てること、もう一つは必ず食物を御進め申すことである。さういふ中でも前者は色々と名が改まり、又形もあまりに變化して居て、御幣玉串笏や扇子などゝ、是が一つのものだと言ひ切るには、多少の論證を要するに反して、他の一方の御饌供進だけは、氣の付かぬ者は一人も無いほど、又はそれが當り前だと思ふほど、著しい全國の共通點となつて居る。或はマツルとは飲食物をさし上げることだと思つて居る人さへあるかも知れぬ。勿論この間にも單純簡略なものから、至つて込入つた重々しいものまで、幾つかの階段があつて、その端と端とを突き合せて、同じでないと言ひ張られるほどの隙間はある。たとへば正月に山に若木を迎へ、泉に若水を迎へに行くときに、人が携へて行くのも御供物なのだが、日本も西半分だけは御散供と稱して、洗米を白紙に包んで持つて行き、其まゝ供へもすれば又打ちまきにする處もあり、土地によつては其代りに蜜柑などを供へる風習も出來て居る。ところが關東地方から東北は一帶に、同じ場合に餅を持參し、それを山の神さまなり清水の神さまなりに上げる。殊に奧羽の各地では其餅を、山祭の場合にはヌサカケと稱して、一種の藁苞に挾んで樹の枝に懸け、ロウロウとかシナイシナイとか謂つて、山の烏を喚んでそれを食べさせるが、清水の神さまには普(262)通その丸餅を半分に割つて、一方を水桶の中に入れて持ち返り、他の半分を水の底に沈め、又は井の脇に置いて來る。それを子供らが、又は後から汲みに行つた者が、竹で刺して取つて行き、その代りに自分の餅の半分を上げて來るのである。是を水の餅と謂つて特別の力があると信じ、凍らせて干して貯へて置いて、六月朔日になつて出して戴くのが今いふ水餅の起りだつた樣で、之を齒固めと名づけて食べると齒が丈夫になるといひ或は咬み碎いて手足に塗りつけると蟲除けになるとも謂つた。現在は既に是を一種の餅貯藏法の如くに考へ、又は正月の水手桶の飾りのやうに見て居る地方も出來て居るが、幸ひにしてその水の餅を半分にして持ちかへるといふ處がまだ多いので、斯んな子供らしい一つの年中行事の中にすら、なほ直會《なほらひ》といふものゝ本の心持が窺はれる。即ち清水を民に與へたまふ尊い神が、半ばを召し上つたその同じ餅なるが故に、殘りの半分にも人を丈夫にし、もしくは蟲蛇の害を防ぐほどの、大きな效果が備はると、元は考へられて居たらしいのである。

　

　　　　　　　　　　二

　

　それから又一方の、山の神の餅を烏に持ち去らしめ、又は若水迎への餅を少年が後からまはつて刺して返るといふのも、單なる慰みでなかつたことが、他の例との比較によつて推測し得られる。神が現實に我々のさゝぐる食物を召し上ることを、もとは日本人は色々の方法によつて、確かめようとして居たのである。熱田や嚴島の如き古い大きな御社にも、神供の靈鳥によつて、啄み行かれる形を見屆けようとする祭式が今でもある。小さい里々の類例までを算へるならば、十指を屈しても足らぬほどに多い。それをトリバミの神事又はオトグヒの祭などゝ呼ぶことが、どの地方に行つても話題になつて居る。大隅の百引村などのは、之をミサキドン祭と謂つて、日は四月の八日になつて居るが、餅を藁苞に包んで高い枝に懸けることは、東北の正月四日のヌサカケも同じである。ミサキドンはこの土地では三光鳥のことだといふさうだが、それが出て來て食はぬ年があると、それを凶兆として怖れる點は、他の遠くの土地(263)とも一致する。東日本でも茨城から福島縣の海岸地方にかけては、烏をオミサキ／＼と謂つて喚び、この初山の日の餅を與へて居る。オミサキの信仰は弘く分布し、又色々と變化して居て、中には人に祟るやうな靈だけをさういふ例もあるが、語の起りはやはり先鋒のミサキであつて、神の御使はしめとして神慮を代表する者といふ意であらう。其中でも一ばん多いミサキは烏と狐で、常は嫌はれ憎まれる動物なるが故に、此日出現する者だけは、却つて特別なやうにも考へて居たのであらう。實際又不思議なほどよく人の惡意なきことを知つて、この日だけは一向人を怖れずに近づくと謂つて居る。

　或は少年たちが烏の啼聲を眞似て、祭の日の神供をもらひに來る風もある。兵庫縣蘆屋の烏塚なども其一例で、是は既に百數十年前の攝陽群談にも見えて居る。もとは小兒が烏の身ぶりをして、正月の供物を貰つて食べたのであつたが、現在はたゞ口々に、

　　　カァカァカァ

　　　山の神のさいでん棒

と唱へつゝ、水車納屋などを巡つて米を貰ひ集め、自分で團子をこしらへて烏塚へ供へに行くことになつて居る。それを一同の者も食べることは勿論であらう。同じ縣の姫路市附近のある村でも、氏神社の秋祭の日、神供と同じ飯で御握りを多く作り、之を參詣の兒童に分ち與へるのを、今でもカラスノママと謂つて居る。愛知縣渥美半島の龜山村の鎭守の祭などは、俗にカァカァ祭とも呼ばれ、是も少年組が皆烏の眞似をして、參詣の人々の持つて來る供物を、片端から貰つて食べるのださうである。

　さうかと思ふとこゝからさう遠くない靜岡縣西部の村々では、オコンコンサマといふのが同じやうな子供行事であつた。或は是を又オシャガミといふ郡もあるが、雙方ともに霜月十五日の地神の祭の日で、やはり彼等が狐の眞似をして、御供物の赤飯や大根膾などを貰つて食べるのである。オシャガミといふのは、越後では山の神をさういふ例も(264)あるから、或はこの日の祭を享けたまふ神の名か、さうでなければ「めしあがる」を意味するオスといふ古語と、關係のある名稱だつたかと思ふが、子供たちは今では是をたゞしやがむことゝ解して、

　　　おしやがみおくれ

　　　しやがんだにおくれ

などゝ口々に唱へて貰ひに來る。なほ此地方には正月の鉈借りといふ行事もあり、全體に子供が何かを貰ひに來る風が多いやうである。

　

　　　　　　　　　　三

　

　小兒をして神に代つて饗應を受けさせるといふことも、諏訪の祭の大名行列その他、決して例の乏しいことでは無い。乃ち必ずしも烏や狐の眞似をしないでも、人間の中では子供が最も此役に適して居るのである。祭には尸と稱する童子を選定して正座にすゑ、之を神靈の代表者として飲食を薦める例は支那にも朝鮮にも古くからあつたことだといふが、我邦でも神のヨリマシに向つて、尸童といふ漢字を宛てゝ居る。童兒を此任務に就かしめた風習が久しくあつたのである。しかし是非とも童兒でなければならぬといふわけもなかつた。前年私が南會津のある舊社で目撃したのは、兩親の揃つた穢れの無い男女が、めい／＼頭の上に酒や御膳を載せて、列をなして神前に進むと、神殿の中には紅い袍を着た神主が坐つて居て、一つ／＼それを受取つて居た。中の樣子はよく見えなかつたが、少なくとも器の蓋を取つて食べる形をするらしかつた。現在普通の考へ方では、神は飲食物の精だけを御取りになり、見た所少しも耗つては居なくても、その養ひの力はもう拔けて居ると、思つて居る者が多いやうだが、以前は現實に誰かゞ神に代つて食べたので、それが又神主といふ言葉の由つて來たる所でもあつたかと思ふ。今でもさういふ形をまだ保存して居るものが、小さい御社の祭には捜したら有るだらう。能登半島の奧の農村で、アエノコトと稱する家の祭は、是亦(265)冬の半ばの田の神への御禮申しであつた。田の神は愈々稻作りの大事業を終へて、それ／”＼の耕作者の家に御還りになる。それを饗應するのだからアエノコトとは謂つたものらしい。固い舊家の本家では、今でも續けて此祭をして居る。先づ新しく風呂をわかして、田の神さまを湯に御入れ申すといつて、主人が裃を着て御案内の役をする。神の御入浴といふのは實は主人自らが、その禮服を脱いで風呂に入ることであつた。それから座敷へ御手を引いて、田の神を御連れ申し、床の正座に本膳を据ゑて御もてなしをする。それには主人が一つ／＼、食器の蓋をとつて是は御飯、是はお膳、是はおつゆといふやうに、大きな聲で其名を言ふのが例で、其爲に田の神さまは久しく土の中においでゝ、御目が見えぬのだなどゝ説明して居るが、さういふ風に考へ始めた原因は別にあるのである。是とよく似たことは惠比須樣は聾だといひ、又は大黒さまは御耳が惡いから、よほど近くに寄つて大きな聲で、「大黒さま豆を摘まつしやれ」と言はなければならぬといふ言ひ傳へで、それは一箇所や二箇所の珍しい例でなく、前者は上方から關東まで、後者も亦越後から東北一圓に、十二月九日の大黒樣の御年取りに必ず言ふことである。是等も能登半島のアエノコトと同樣に、祭主が神に代つて直ちに食べてしまはずに、一つ／＼大きな聲でその供物の名を唱へる風があつたのを、いつの頃よりか神は御目が惡く又は御耳が遠いからと、解するやうになつた結果かと思はれる。

　

　　　　　　　　　　四

　

　今日年中行事と呼ばれて居る我々の家の神祭りでは、今でも其日に家の者が食べる御馳走と同じ物の初穗を上げる。といふよりも寧ろ神樣の召上がるのと同じ物を、神前に列坐して共々に食べるのがきまりである。此日の爲に特別の鍋釜や特別の膳椀があり、又常の日と變つた食品を調へて上げるとすると、それが同時に又人間にとつても、さういふ珍しいものが食べられる日となるので、節供といふ名も其文字が示す如く、基く所はこの節日の供物に在つた。それが後々はいつでも食べたい時に粽をこしらへたり、店屋へ買ひに行けば年中餅があるといふやうになつて、晴の膳(266)といふ觀念は甚だ不明なものになつたが、それでもまだ我々は突然小豆のこは飯などを出されると、けふは何だつたかと訊きたくなるやうな氣持だけはもつて居る。祭日と食物との深い結び付きは、丸つきり斷絶してしまつても居ないのである。たゞ現在は一般に公けの祭だけが、神に御供へ申す品物と、同じ時刻に人々の食べるものとを、二つ全く別々にして居るので、著しくこの民間年中行事の信仰上の意義を、稀薄にしてしまつたことは爭へないのである。

　しかし今日のやうな過渡期には、まだこの雙方の中間段階が幾らでも、尋ねて見ようと思へば見られる。たとへば一方にはおもたゞしき官國幣社の大祭にも、御供屋水屋の中での調理があつて、神さまが即座に御箸をおつけなさるやうな食物をさし上げ、その供進の殘りを奉仕者が共々に、いたゞく例は幾らでも有ると同時に、他の一方の家々の年中行事でも、其際は必ず神を祭り、先づ其節日の供物を神にまゐらせて後、さて一同も同じ膳に着くといふ風習がまだ／＼多い。盆の所謂ホトケ祭などもその一つの場合なのだが、是は佛法の支配のやうに思つて居る人がもう多いから、わざと問題にせずに置く。正月に至つては是がどうして目出たいのか、どうして此日をイハフのかといふことを、考へずに居るといふことはまちがつて居る。神棚に御燈明も上げず、御供餅も供へずに、たゞおめでたうと謂つて居るのは實はをかしい位のものである。それでもまだ全國の半ば以上、殊に農村の古くからある家では、歳神さま歳�ｺさま又は正月樣ともいふ神を、歳棚又は拜み松の上に祭つてをり、その神さまにはいはひの飲食物の、すべての初穗を上げずには居ないのである。佐渡の海府の入込んだ村里などでは、この行事を神やしなひと稱し、正月年男の最も大切な役目は、この神やしなひをすることだと謂つて居る。神やしなひなどゝいふと、何だか非常に失禮な言葉遣ひのやうにも聽えるか知らぬが、それは寧ろヤシナフといふ動詞の用途が制限せられて、妻子とか眷族とかに食を給する場合だけを、言ふやうになつた結果に他ならぬ。信州の北半分でも、正月だけにはまだ此語の古い用法が傳はつて居る。それで年神門神などの松に、藁を曲げてこしらへた椀形の食器を一つづゝ附けて、之をオヤスともヤセツボとも謂つて居る。或は又ヤスノゴキといふ處もあるが、何れも皆神を養ひたてまつる器物といふことである。他の(267)地方でも伊勢の南端、伊豆の島々又は東京近くの農村にも是が見られ、其名はツボケとかゴキとか結び皿とかいふだけになつて居るが、正月に年男が毎日の式の食物を、清い箸を以て少しづゝ、其中へ入れてまはる風だけは一樣である。即ち又門松といふ一つの木を以て祭場を標示して居る神々に、正月のオヤシナヒをすることは同じである。門松といふものゝ起原に就ても都會には又新しい別の解釋も出來て居るが、田舍では之を御松樣と敬語でよび、春の境になつて必ず一定の方角から、御迎へ申すといふのが多いから、本來は又一つの神の御座であつた。詳しくは私の集めた歳時習俗語彙に列擧してあるから、爰ではもう述べないことにする。

　

　　　　　　　　　　五

　

　今一つの例として擧げ得るのは、冬の始めに又年の暮に近よつて、營むところの惠比須講である。商家でも之を大きな樂しみの日として居たが、やはり正座には神を祭つて居た。百姓えびす講は舊暦十月の二十日が多い。講とはいふけれども實は家々のいはひ日であつて、元の起りは能登半島のアエノコトと同樣に、やはり農神の祭だつたやうである。他の土地たとへば北陸や奧羽で、田の神・作の神として傳へて居ることを、九州四國の農村では大黒樣といひ、中部地方などは惠比壽大黒、又關東ではたゞ惠比須さまとも謂ふので、いつの世から其樣な名が始まつたかは推測に難くも無い。とにかくにこの日にも祭があり定まつた食品があつて、それを家一同がたまはる前に、最初の一人前を神酒と共に、神樣に供へるのである。注意すべき一つの特徴には、この日の神の御供物だけはエビス膳と謂つて、折敷の板の杢目を竪にしてすゑる慣例のあることである。自分の故郷播州中部などではソウバ膳と謂つて居るが、常の日には非常に嫌はれることで、いつも私たちはやかましくなほされたものであつた。ところが惠比須さまに上げる膳のみは、わざと膳の木理を縱にしたので、それで斯ういふ名が行はれて居るものと思はれる。越後の刈羽郡などでは、惠比須さま以外の神々にも又寺方の御供へにも是をするといふが、その他の地方にも是に近いことがあるかどうか。(268)又ソウバ膳といふ言葉にも何かの暗示があるのではないかどうか。氣をつけて見て居たいと思ふ。或は神さまに限つてすることなるが故に、常人の常の日には忌み畏れてしなかつたのを、後には又惡いことのやうに思ひ始めたのではないか。しかも是たゞ一つの點を除いては、全然人の食べるのと同じ物を供へるのが、特にこの所謂惠比須講の作法でもあつた。遠州濱松附近の農村の生活を記述したものゝ中に、中道君といふ人が報告して居る、此地方の惠比須講では、家の者もこの同じ膳に坐つて、先づ神樣の箸を取られるのを待つて居る。餅や汁の椀が木器である爲に、じつと耳を傾けて居るとコトリといふ音がする。そうらおえびす樣がめし上つたといふので、一同の者が食べ始めるものだつたさうである。

　斯ういふのは誠に幽かな痕跡に相違ないが、いくら幽かでももし是が何ものかの痕跡であつたならば、いつかは必ず思ひ合すやうな事が、他の方面にも發見せられるであらう。少なくとも我々の祭の日の食物は、一旦神にさゝげたものを卸して、後でそれを人間が食べるのではなく、同じ品を同時に、即ち酒ならば同じ一つの甕から、餅ならば同じ臼で一度に搗いたものを、分けてもらつてすぐ後で食べるのである。然るに今日の神職家たちの、直會と呼んで居るものには二通りあつて、最も大きな御社の大きな祭にも、式の進行中に神前で同じ食品をたまはるのと、祭が畢つて供物を皆下げてから、社務所などに持つて行つて、あとでゆつくりと頂戴するのを、直會だと謂つて居るものとがあり、何だか第二の方が段々と多くなつて行くやうにも思ふ。この二つの食事は恐らくは別々のものであつて、どちらでもよろしいといふことは無い筈であるが、現在混同し又は區々になつて居るのは、何か近頃の理由があらう。私などの見る所では、是は飲食物の單位一體といふことが、段々と考へられなくなつた爲かとも思ふ。殊に酒などは現在は酒造會社の巨大な桶の中に釀され、それを五升一斗と取分けて行くのだから、それを一つのものとは見にくゝなつたが、以前はどの樣な粗末な一夜酒でも、一つの場所で一つの時に、一つの定まつた桶又は甕の中に作り込み、その初汲みを取つて先づ神にまゐらせ、殘りのものは其甕の底の顯はれるまで、掬んで飲むのだから神さまも人も、同(269)じ酒に醉うたといふことがよくわかる。餅なども現在は形を重んじ、又大きくこしらへて上げるやうになつたから、臼を共にするといふことは考へられず、是だけは共同とは言ひ難いやうだが、以前は御粢《おしとぎ》だからさう大きい鏡には取れなかつた。今の餅搗きでも杵に附いて飛び散る部分が多く、それを拾ひ集めるやうに臼の下に新薦を敷くこともあれば、又はわざと荒々しく搗いて、その落ちこぼれをこしらへる樣にする處さへある。米を水に柔らげて、はたいて粉にして居た頃は尚更のことで、其爲に毎年の神供の餅が小さくなり易く、それを監視したり檢査したりする必要もあつた。出雲の北濱村で餅吟味などゝ謂つたのも是であつた。その飛び散つた部分は勿論奉仕者の所得で、神さまより先にそれを食べてしまふやうなことは恐らく無かつたであらうが、のけて置いて御祭と同時に又はその後で、食べたらうことは疑ひが無い。即ち是なども亦決して「御さがり」では無かつたのである。

　

　　　　　　　　　　六

　

　飯を神供として居る場合などは、この相饗の關係が可なりよくわかる。紀州で有名だつた大飯の神事のやうに、多量の米の飯を炊ぐ例は折々あるが、斯ういふ名を得た御宮には、途法もない大きな飯釜が備へられて居て、一度に五斗六斗といふほどの飯を炊いで、しかも其全部を神々に供へるのではなかつた。九州の北部一帶、又近畿でも處々の御社に、御清盛り又はオキョウサマ、文字には御經だの京の飯だのと書いて居るのは多くは是で、杓子を水に沾らして出來る限りこの御飯を高く盛り上げ、其上端を柿の實のやうに細く尖らせ、その尖りの缺けることを非常に警成して居るものもある。或は又鉢卷結びなどゝ謂つて、神さまに上げる分だけは清い藁の鉢卷をさせることもあり、又はツモノケメシと稱して多分は錘の形に擬した三角むすびをこしらへる處もあつた。つまりは此分は神さまの御料といふことを、最も具體的に標示するので、此點は人生の三大機會、即ち誕生と結婚と死亡との三つの場合に、我々の爲に供せられる高盛りの飯も同じに、是は心ざす方への特別の供給といふことを、この異常の形式によつて明確にした(270)ものゝやうである。從つてこの飯を調製することは何よりも大切な役目であり、土地によつては是は男だきの飯と謂つて、女には一切手を着けさせず、或は西多摩郡の檜原村のやうに、この爲には嚴重なる潔齋を重ね、もし途中で女に逢ふと、何度でも川の流れに引返して、寒中に水浴をしなほすといふ例さへある。しかも斯うして至れり盡せりの謹慎を以て炊き上げた御飯とても、決してその全部を神に進らせるといふのでは無かつた。一部は最初から氏人の分けて戴くものときまつて居たのである。肥前の天川村などでいふオキョウマゥシは、是が祭の通稱となるほどの主要行事で、時は舊十一月丑の日の收穫祭であつたが、神の御清盛りを用意すると共に、更に同じ赤飯を以てこの柿の實形をしたやゝ小形のものを數多く作つて置き、それを參拜の人々に一つづゝ分け與へると、いたゞいた者は其まゝ家に持ち還つて、家族は勿論飼牛にまで、少しづゝ分けて食べさせるのださうである。東京や京都の多くの御社でも、御供《ごくう》と稱して同じ打菓子などを多量に用意し、祭の日神に詣でた人たちに付與するのが例であるが、是も亦御供の卸しを處理するのでは無くして、やはり御供と同じ物を分配するのである。

　この以外の、一社毎にちがつて居る色々の供物でも、古來之を一つの特色として居るやうな祭では、やはりこの方式の分配を豫期して居る。たとへば魚類などは丸ごと御供へ申すのだから、どうしても卸しを戴くより他は無いやうに思はれるが、是にも丹波の篠山に近い澤田八幡の鱧切祭や、美濃西部の某村の鰻祭などのやうに、奉仕者が神前で料理をして、その一部を神供とする例も多く、東京でも淺草のある眞宗の寺に、鯉料理をする古式で有名なものがあるが、その原型は古く京都の御社の祭にも有ると言はれて居る。その他近畿地方に於て?々名を聽くエソ祭・棒鱈祭・カスベ祭・鯰祭、野菜の方でも諏訪矢ヶ崎の御座石神社の獨活祭、甲州谷村附近の羽根子の蒟蒻祭、長門の吉部八幡の芋※［者／火］神事のやうに、祭の日必ず神に供へ申し、同時に氏子の家々でも皆たべるといふ食物が、いつの昔からとも無く色々と定まつて居た。それが今日のやうに、神さまにはすべて原料のまゝで御目に懸けるだけとなつては、たとへ古來の慣例によつて、今なほ村中がそれを食することになつて居ようとも、雙方にはもう聯絡が無く、言はゞた(271)ゞ一つの奇習となつてしまふのである。國の祭式の統一といふことは歡ばしいが、その爲に特殊神饌の省みられなくなつたものが多く、神と人との最も大切な接觸と融和、即ち目には見えない神秘の連鎖が、食物といふ身の内へ入つて行くものによつて、新たに補強せられるといふやうな素朴な物の考へ方が、愈々近代人の共鳴しがたきものになつて來るのである。

　

　　　　　　　　　　七

　

　故に日本の祭の本の意を掬まうと志す人々は、せめては此樣な大きな變遷があつたことだけは知つて居なければならぬ。それが望ましからぬ變遷であるか否か、再び古い形に復すべきものか否かを決するのは、私たちの引受けて居る學問の領分では無い。が兎に角に神さまに魚や野菜物の生のまゝを、御供へ申すといふやうになつたことは、疑ひも無く相饗思想の衰微ではあつた。直會の方式の少しづゝ改まり、又土地によつて區々になつて居るのも、その結果なのだから今は何とも致し方が無い。全體いつの頃どういふ事情から、此樣になつて來たものか、それも改めて大いに研究して見なければならぬが、以前はさういふ例の極めて稀であつたことは確かである。年々家の中に行はるゝ節供の行事は、是はもう「祭」の他に置かれて居るのだから、ちがつて居ても不思議は無いと思ふかも知らぬが、頭屋と稱して順まはりに、ところの神を祭る家でも、今はまだ人の食べるのと同じ物を上げて居る。といふよりも神のめしあがる物を人も食べて居る。食することを「たまはる」とも「いたゞく」とも謂つて居る。御社の中で祭をする場合にも、多くの舊社には御炊屋御水屋、又は御供舍といふ建物が附いて居て其中で調理して居る。水屋は我々の家で言へば勝手元又は流しなのである。さういふ屋舍の附設せられない場合には、特に指定せられてある家から、御膳をこしらへて頭の上に載せて運んで來る。其器にはユリ又はユリワといふものがあつて、一方には田植時に田人に飯を餉《おく》る時にも、この楕圓形の大きな盆を用ゐて居る。祭の時刻といへばちやうど所謂ジブンドキ、即ち夕方と朝との食事(272)の時刻であつた。即ちそれからもう一度手數を掛けないと、とてもめしあがることの出來ぬ物を、さし上げる時刻では無いのである。たとへに引くのは畏れ多いが、我々の家だつてもそんな時刻になつて、生魚生野菜を贈られては當惑する。少なくとも贈つた人の好意が割引せられる。なぜ斯んな簡單なことが氣づかれなかつたのか。私たちには寧ろ奇異である。それでも諏訪の御祭に鹿の頭を七十五、奈良の春日若宮には猪鹿兎狸などの數十頭を、掛けて獻上した類の古い記録があるぢやないかと、いふ人が多分あるだらうが、是は素より神の御目を怡ばしめまつるべきもので、當座の御饌の外だつたのである。犧には生けにえと稱してまだ活きて居るまゝを進らせ、その御用ゐの時刻方法を、神の思し召しのまゝにしたものもある。生けるを放たしめたまふといふ有名な御祭さへも出來てゐる。

　此外に今一つ、問題になつてよいのは洗ひ米である。五穀の中でも米だけは生のまゝで、神に進らせる習はしは古くかららしく、是を花米又はハナエリなどいふ語は全國に行はれ、又オサングといふ名も弘く知られて居る。オサングは又オサゴとも謂ふが、文字に書けば御散供で、或はもと是だけは供へ方が別であつたのかと思ふ。ウチマキといふ上品な語もまだ使つて居る人がある。之を御捻《おひね》りと稱して白紙に包んで其まゝも供へるが、本來は是が祭の最も簡略な形であつて、心ざす神々の御ありかを確かめ難い場合などに、之を撒き散らすのが趣旨では無かつたらうか。是と似通うた形式は棟上げ祭の日の餅まき、又は節分の夜の豆撒きにも見られる。本來は穀物に特別の力が有るやうに、考へて居た爲かとも思はれて、現に米を栽培する馬來人などの中にも、この風習の盛んに行はれて居ることは、スキート・ブラグデン、近くは宇野教授の著述によく見えて居る。とにかくに是が酒にもなり、餅や飯の資料であるといふだけで無く、生米も亦獨立して一つの食物であり、それが又他の四穀には無いことであつた。米嚼みといふ筋肉の名からも判るやうに、近い頃まで人がよく咬むんで居た。倉庫の入口に「生米咬むべからず」といふ貼札がしてあつたのを私なども見て居る。それから?米《ひらいごめ》・燒米・オコシ米・炒り種などゝ、少しづゝ手を掛けて食べやすくしたが、元は其まゝでも隨分食料にしたやうで、乃ち是が昔からの神供の一つであつても少しも不思議は無いのである。餅など(273)も今のふかし米を搗いて作るやうになるまでは、やはり亦一つの生米の食法であつた。前代に餅と謂つたのは今いふ生粢《なましとぎ》、白米を水に浸して柔らげたのを、小さな臼杵で碎いて粉にしたもので、煮ても燒いても食べたらうが、其まゝでも食べられたのである。シトギは非常に古い言葉で、多分濕らせた食物といふことであらう。今はオカラコと呼び、中部以西では白餅・白粉餅といふ處が多くなつて居る。必ずシトギを供へるといふ祭はもう少なく、或は棟上げ祭の時に限るやうにいひ（建築祭だから火にかけることをきらふ）、或は秋冬の境の山の神祭の時だけに必ず之を供へるともいふ。今でも子供だけは後からまはつて之を食べて居るが、普通の成人はもう生では食べようとしなくなつた。即ち人間の食習ばかりが既に改まつて、神さま方にはまだ古い世のまゝのものを續けてさし上げて居る例が稀にはあるのである。

　

　　　　　　　　　　八

　

　神さまの供物が人間の食べ物と分れて來た端緒は、或は斯ういふところにもあつたのかも知れぬ。中世の記録にはたしかに食品であつた熨蚫《のしあはび》や昆布、榧とか搗栗とかいふものも、もう其まゝでは食はぬ人が多くなつた。人は世につれて自由に好みを變へ、醤油とか砂糖とか胡椒とか、その他色々の調味品を使ひながら、神さまだけを元の御習はしに置き殘し申すといふのも相すまぬ話だが、それにもまして困つたことは、神と人と同時に同じ物を味はひ樂しむといふ、太古以來の儀式の趣旨が、追々と忘れられて行くことであつた。是は全く祭が新たなる文化を利用した結果、段々と其中心を供饌以外のものに移して行つて、大きな注意をこの點に拂はなくなつた爲であり、更に又一般に祭奉仕の役目を、限られたる家又は人に委ねてしまつたが爲であらう。

　祭の奉仕者の專業化といふことは、日本の神道にとつては何よりも大きな變遷であつて、しかも基く所は頗る古いと思はれるが、幸ひなことには今日はまだその推移の各段階が現存して居て、明らかに其道筋を知らうと思へば知ら(274)れる。必ずしも名も無い野山のつまやしろまでを比較の中に入れずとも、全國數千といふ官知の御社だけを見て行つても、甲から乙丙丁戊へと變つて來た、順序を尋ねることだけは可能である。たゞ今まではそれを試みる方法が無いと認められ、又さういふ熱心な人も居なかつた。今や其方法は既に見出され、又親切に古代を考へて見ようといふ若い人も多くなつた。終にはこの變化の理法が見付からずには居まいと思ふ。一つの目標としては神供調進の方式と、及び其管理と配當とが、何人の手によつて行はれるかを、見て行くといふことも便利であらう。祭に見物があり又遠方からの參詣があつて、神態《かみわざ》や神輿渡御のきらびやかな行事を伴なふものは、附近の評判が高いのを見てもわかるやうに、實は其數は甚だ限られて居るのである。さういふ評判のある同じ御社でも、年にたゞ一度の大祭以外、別に何十何度と算へるほどの定例の祭があつて、その多くは他人を交へずに、靜寂の間に擧行せられて居る。さうして斯ういふ場合にも、なほ一度として神に御供物を上げない祭といふものは無いのである。それをどういふ風に準備し又處理するかは、通例は土地の經濟事情、又は年久しい慣行と、之を守らうとする人の數によつてきまり、住民の出入の少ない處ほど、古い形や考へ方が多く保存せられて居る。從つて全國を見比べると、殆とあらゆる變遷の段階が見られる。假に一卷の正しい神道史を書いた人がまだ無いとしても、この現實相こそは未だ讀まれざる歴史である。

　現在の神社制度は、大體に中央の大きな御社に行はれて居るものを基準として、地方の端々の區々たるものを揃へようといふ方針と察せられるが、實際はまだ今までの年久しい行き掛りに讓歩しなければならぬ場合が多いやうである。たとへば三里五里の廣い區域に亙つてたつた一人しか神職が居らず、幾つもの御社の祠掌を兼務して居るものがある。近畿地方などのやうに、神社があれば神官が必ず其片脇に住んで居る土地ばかりを見馴れた者には、何だか物足らず又衰微のやうにも感じられるが、是は住民が協同して神を祭り或はその中心たる舊家の主人が、當然に祭主の任務を果して居る村で、新たに其樣な專門の家を設定するだけの餘地も必要も無かつたもの、私等から見れば寧ろ一時代古い形が殘つて居るのである。頭屋・一年神主などの慣行のまだ續いて居る土地では、村民は大抵は一度、祭の(275)大役を勤めた者で、かいなでの若い神職よりは事務にも作法にも通曉して居る。外から來た者には中々勤めにくゝ、よほど遠慮がちに介添の役に甘んじて居るか、さうで無ければずつと學問智能がすぐれて、所謂氏子總代等を引廻す位の力が無いと此地位には居りにくい。それで今もなほ九州でいふホッドンのやうな、甚だ遠慮深い巡囘神職の往來が續いて居るのである。

　

　　　　　　　　　　九

　

　諸國の古くからの仕來りを見ると、ホウリといひタイフといふ職にも、定まつた内容があるわけでは無い。たとへば伊豆の七島では、ホウリはもと名主の兼ねて居たほどの重々しい職であつて、八丈島などは後に之を別の家に引繼いだが、それも亦世襲であつた。鹿兄島縣の七島でも、地ボウリ本ボウリなどの名があつて、家筋と年功によつて當然に其人はきまつたらしく、其地位は相應に高いものであつた。或は族長の神を祭る權能ある者を、さう呼んで居たのかとも考へられる。古史の天野祝・小竹祝などのハフリも、地名を名のつて居たのを見ると是も亦其類であつて、職業と言はうよりも、地位といふべきもので無かつたかと思ふ。ところが九州の南部などに於て、現在ホイと呼びホッドンと謂つて居るのは、たゞ次から次へと祭に雇はれて、祭式の一部分を勤めるだけの輕い地位で、居村に專屬の御社を持つて居るのやら居らぬのやら、それすらも私たちは知らない。遠江の天龍川上流地方でホウジ、又周防の大島でホウジンと謂ふのも、名だけはやはりこのハフリらしいが、是等はもう一段と地位が低いやうである。

　タイフといふ名前も是と同樣に、先祖代々同じ御社に奉仕し、神の御血筋を引くとさへ傳へて居るタイフサマの家もあれば、一方には又九州などのホッドンのやうに、年に一度か二度たゞ雇はれて來て、祭の片端にしか參與しない大夫もある。ホウリが上代にあつたといふ祝のハフリと、同じ言葉の保存であることはほゞ確かなやうだが、その昔あつたといふ祝とても、實はどういふことをして居たものかまだはつきりとしては居ない。今はたゞ語原論みたやう(276)な推測説ばかりが行はれて居る時代であり、しかも昔もやはり時と地方とのちがひが有つたかも知れぬのである。之に反して、タイフが大夫であることは先づ問題は無く、其文字が輸入であつただけに、始めて之を用ゐた人の心持はよくわかる。つまりはすぐれて貴い御方の御側に近づき得る者、「夫」の中でも特に大なる者、古記にはマウチギミといふ訓さへ附いて居て、今ならば侍者といふやうな意味であつたことは想像せられる。それが後追々と種類を分岐して、中國地方でいふタクダイフ（託大夫）、土佐でイチダイフ（?大夫）、關東の諸國には舞大夫などゝ呼ばれる家筋を生じた。或は神主とタイフとは全く別で、前者は一つ／＼の御社に專屬する社人だが、タイフは附近の村々を巡つて、神樂の役だけをする一つ低い階級の如く見られて居る地方もある。大夫筋と稱して普通民の縁組を好まなかつた家々もある。つまりは後代に新たなる種類が加はつたのである。是は淨瑠璃の大夫や人形の大夫、もつと進んでは遊女までもさう呼ぶやうになつたのを見てもわかるやうに、或は中世以後の意味の擴張であり、曾てあつたものゝ變化では無かつたのかも知れぬが、しかも一旦應用が斯ういふ境まで延びると、もう一方には避けて之を名のらぬ者が出來るのは自然である。江戸時代の新語としては、各藩の家老をもさういふことがあつた。是は昔からある朝廷の官名と共に、わざとダイブと發音させて民間のタイフと區別して居たらしく、又餘りにも物が懸け隔たつて居れば、構はずに兩存させることも出來たかも知れぬが、同じく神祭に奉仕する者が二通りあるとすると、一方の低い地位の者にさう謂ふ以上は、もう他の一方には同じ名が使へなかつたわけで、是が土地毎に甚だしく内容のちがつて居る原因と見られる。

　大夫さんといふ言葉は、現在ホウリよりもずつと弘く行はれて居る。北は奧州の會津以北、中部にも信州などは處々、南は中國からさきは到る處で耳にする名で、しかも二つの土地を突き合せたら、或は不愉快の感を抱くかも知れぬと思ふのは、前にも擧げた如く是をやゝ安つぽく、僅かな定額で雇はれて來る臨時の輔佐役の如く、見て居る土地がまだ折々はあるからである。私はこの全國區々な事實を、次のやうに説明しようとして居る。即ち是は神職が職業化する一つ前の?態であつて、此人で無くては祭のある役目は勤まらぬといふ考へから、單に家の特權として其任務を世襲せしめただけで無く、更に一歩を進めて其家は神役にかゝりきりで、他の活計事業には携はれないやうに、なつて行く路筋に在るのではないかと思つて居る。ホウリは大夫よりも一段と早く、この專業化を完成したやうに思はれて居るが、それでもまだ若干は例外が殘つて居る。たとへば京都府東北隅の加佐郡野原などは、元は三十何戸かのホウリ株といふものがあつて、廻り持ちで氏神の神役を勤めて來たことは、他の地方でいふ頭屋制も同じであつたのが、後に協議の末その中のある一戸に全部を引受けさせ、今は其家のみが此村のホウリである。ところがそこから餘り遠くない若狹の常神村の如きは、今でもまだ四十二戸のホウリといふ家が有つて、半年づゝの廻り持ちで、正月と七月の朔日に交代して神主の役を勤めて居る。この變化を生じた原因は、村によつて信心の強さ弱さがあると共に、物忌精進の嚴重さにも著しい差異があり、更に又是から生ずる經濟上の拘束にも、堪へられるものと否とがあつたからであらう。頭屋は勿論大きな榮譽であり、又舊家の特權でもあつたが、之に伴なうて可なり大きな義務もある。それ故に現在は折々はその免除を乞ふ者と、喜び競うて之に就かうとする者と、村の?況に應じて幾段と無き差異が生じて居るのである。

　大夫も是と同樣に、曾ては村全體の、もしくは少なくとも多數の長百姓の、協同の任務であつた時代があつた。その痕跡は今もそちこちに殘り、たとへば農家の主人の祭の役を果したものだけが、何大夫の通稱を名のり得るといふ村もある。さうかと思ふと右衛門左衛門が勝手次第であると同じく、たゞ何と無くその通稱を用ゐる處もあり、或は私などの故郷のやうに、一二の特定の家だけが代々何大夫を通り名に付けるといふ例もあるので、其風習の起りがそれ／”＼別であつた氣遣ひは無い。最初は恐らくは何れも皆神祭と關係のある者の普通名詞であり、祭の儀式の中でも神饌供進といふやうな、最も神に近い部分に奉仕する者が大夫であつたのが、後々ある家の主人の呼び名ともなり、更に又何人がさう名乘つてもよいことになつたのは、誰でも知つて居る兵衛や衛門の擴張と同じであつたらう。この(278)想像がもし誤りなくば、大夫も亦若狹や丹後の海岸のホウリと同樣に、本來は職業の名では無かつたのである。ちやうど關取が毎年の優勝者の名であつたのに、いつの間にか相撲を業とする者の敬稱のやうになつた如く、後々之によつて衣食する專門の者に此名を付與した結果、もう其他の者には同じ名は用ゐられなくなつたのである。

　

　　　　　　　　　　一〇

　

　神主とかミコとかいふ名稱の如きも、やはり同じ事情によつて適用の範圍が移動し、又は地方的に内容が區々になつて居る。さういふ中でも神主といふ名は、今でもさうやたらには用ゐず、又は之を神職と同じでないと思つて居る土地は多い。この二つを混同して居るのは東京と其附近位なもので、他の多くの土地では可なりはつきりとした區別があり、從つてさういふ標準語を聽くと?々誤解を生ずる。殊に頭屋の慣例のまだ守られて居る御社では、神職は指導者であり又は監督者であつても神主では無い。神主はたゞ本百姓の勤める役だと心得て居る。尤も一方には神職にして同時に神主になり得る家が、有るといふことは知つて居るのだが、それは寧ろ近世に入つて、段々と數少なくなつて居るのである。つまりは現今の神職なるものゝ根原が、最初から又は中世以後、既に幾通りかに分れて居たのである。それに新たなる任命制度が加はつたのだから、この經濟生活と交渉のある一側面は、至つて複雜なものとならざるを得ない。それで自分は之を出來るだけ判り易くする爲に、大體に二通りに分けて見ようとして居る。その一つは土地の住民、神の氏人の中から出た神職、他の一つは中世以後に、外から入つて來た神職、是に又新舊の可なり著しい差異があるのである。

　第一種の土地生え拔きの神職の中には、爭ふべからざる一門の宗家で、家と神社との因縁を不可分に考へ、時として神の御血筋を引いた直系の子孫とさへ信じて居るものがあつた。斯ういふのが普通に神主と謂つても亦通ずる神職である。領主その他外部の崇敬が厚く、寄進の所領財産が豐かである場合には、彼等も其餘澤を受けて、奉仕を一つ(279)の專業とすることが出來たのだが、さういふ御社の數は實は何程も無かつた。他の大多數はその御社に仕へんが爲に、別に農林その他の生産にいそしんで居た。乃ち彼等にとつては神祭は最も高尚なる消費事業であつた。祭の經費を支辨するが爲には、自身先づ進んで農民の生活をしたのであつた。戰國の世ならば家門の安泰を維持する爲に戰もしなければならなかつたらうし、さうでなくても俗界の因縁は絶ち得なかつた故に、喜捨に活きて居る僧侶とはちがつて、教理の發達に專心することは出來ず、ひたすら傳統の守持に忠誠であつただけなので、折々は新たなる文化の時代相と調和し得ず、もしくはやゝ不利益なる妥協をして居る。さういふ苦境を脱するが爲にも、職務を純一にし生活の基礎を獨立せしめんとする試みは、起らざるを得なかつたのである。八丈島のホウリが名主家から分れて出たやうに、兄弟の一人又は一門の中のある一人の適任者を指定して、新たに神主家を創立した例は方々にあつたやうだが、是とても行く／＼專業になりやすいといふ程度で、やはり最初のうちは本業は農、自身耕作のすべてに携はらぬまでも、生計の根據を所有の土地の生産に、置かずには居られなかつたやうである。然るに他の一方に於ては氏人の繁榮増加、乃至は幾つかの氏族の合同によつて、多數の村民が一つの御社の神を祭るやうになると、この唯一戸の主なる家に、祭祀の特權を委ねてしまふことが出來ず、我も彼も共々に神の御側に仕へたいといふことになつて、順番交代して神主の役を勤めようとして、終に今見るやうな廻り神主、又は頭屋の規約といふものが出來て來たのである。斯うなると愈々事は面倒で、如何に信仰は熱烈であらうとも、不馴れな爲に修練は足らず、中には又不適任な者も出やすいので、何等か外部の條件が變るたびに、次第に第二種の神職の必要を多くする結果を見た。明治初頭の制度改革の如きも、言はゞその必要の特殊に顯著だつた場合の一つであつた。

　

　　　　　　　　　　一一

　

　第二種の外部から來た神職の起りも、決してさう新しいものでは無い。此中には今でもなほ多くの地方に見られる(280)やうに、本來はどこか近くの村の御社に仕へて居た大夫又はホウリが、力が餘りもしくは特別の素養があつて、頼まれて來て祭の式を援助して居るうちに、段々と必要な人になり、家を分ち又は移任してこちらの御社に專屬したといふのも有ることは確かだが、別にその以外に非常に遠い處から、斯ういふ業務の爲に旅行して來て、新たに便宜のある地に土着した者が可なり多いのである。是は大和の朝廷の終りに近い頃から、急に盛んになつて來た神々の遷徙、東國に在つては鹿島の御子神、鎭西の方からは八幡神設樂神などが、託宣を以て次々と移動なされたことゝ、元一つの趨勢の現はれでは無いかと私は察するのだが、それにはまだ安全な證據は無い。とにかくに此方はたゞ神職だけが遠くから遣つて來て、土地に前々からあつた御社に御仕へ申すことになつたのである。この事は別にやゝ詳しく記述した書物もあるから、爰には只さういふ事があつたといふだけに止めて置くが、ともかくも單なる私の想像では無い。可なり著しい一つの證跡は、府縣の多くの有力な御社の神職家が、其家名を共通にして居るのみで無く、往々にして似よつた祭の儀禮、又は特殊なる舞やかたりごとを持ち傳へて居ることで、殊に祭神と自分の家との縁故を説く場合に於て、一方在來の氏人等は、當然に神の後裔と名のつて居るに對して、この方は外戚の親を稱し、さういふ中でも所謂三輪式の神話、即ち清く美しい處女が恩寵を受けて、神の御子を儲けたと説く者が多い。或は又神に祀られたまふ貴人の、臣下從僕の家筋といひ、もしくは始めて大神を奉戴して遠くから旅して來たといふ物語を傳へる者もあつて、それが何れも異常に印象的な一つの型を具へて居る。氏神は氏人等の遠い昔の祖神だといふ考へ方が、この爲に段々と片隅へ押し遣られた姿になつたのは、恐らくはこの第二種の由緒譚の、國内に普及した結果だらうと私などは見て居る。土地に生え拔きの、最初から神を御祭り申して居る家々でも、何かの機會にさう信じ始める場合は絶無とまでは言へまいが、御社が既に儼存して居るところへ、後から新たに移住して來た者が、特に斯ういふ種類の因縁を感じやすかつたであらう。全國大小の御社の縁起と祭神の由來が、是が爲に複雜になつたことは迷惑なやうなものだが、もしも斯ういふ幾つかの變化と異同とが無かつたら、ちやうど村々の創業史も同じやうに、却つてその單調によ(281)つて人の記憶に根を下すことが出來ず、從つて比較を以て段々と一つ以前の姿に、探り近よることが困難になつて居たことであらう。

　近世の記録に現はれた所だけを見ると、此等の本國のほゞわかつて居る外來神職、鈴木榎本小野横山長谷川五十嵐といふやうな家々も、多くは他の一方の神と共に起つた舊族長の家と、見た目はさして異ならぬ土豪の生活をして居る。官府の庇護の新たに加はらぬ限り、單なる神祭の職分のみを以て世業を支へることは出來なかつた故に、彼等も最初はやはり農耕に頼らなければ、安全なる土着は望み難かつたものと思はれる。さうして世代を重ねて行くうちには、その聲望門地はおのづから高まり、後には御社の獨り古く、我家のそれよりも遙かに新しいものであることを、承認しなければならぬ必要は無くなつたのであるが、尚其家傳の中には中央の大姓から分岐したことを、一つの誇りとして語り繼ぐ者が稀で無い。しかも政權や武力の據るべき背景も無くて、是ほどにも弘く全國の各府縣に、散らばり且つ榮えて居る門黨といふものも異數である。今まで其理由を考へようとした人も無く、現に又祭祀と縁の無い職業に在るものも多いけれども、その幸福なる原因として想像し得べきものは一つしかない。即ち移住が彼等の家の數を増加させ、優秀なる信仰が又其移住を可能にしたとより、他には考へて見やうも無いのである。日本が今でもさういふ需要の多い國であることは、「あるきみこ」「雇はれ祝」の多いのを見てもわかる。どこにさういふ供給源があるかは別問題として、とにかくに同じ目的を以て移動漂泊して居る宗教業者の數は、現在もなほ相應に多いのである。彼等はまだ定住の地を得ない爲に、既に土着した人々からは差別視せられて居る。さうして兩者の地位は世と共に懸隔して居る。以前はさうでも無かつたといふことに心付くこと、是が沿革を明らかにする一つの秘訣であると私は考へて居る。

　

(282)　　　　　　　　　　一二

　

　今日謂ふ所の各派神道の、過去五六百年に亙つた興隆を考へて見るのに、必ずしも不世出の偉人の唱導に基くとのみは言はれない。他の一面には又民間にも、之を待ち迎へるだけの要求が無かつたら、斯うはならなかつたらうと思はれる事情がある。村人が族長や故老に率ゐられて、年久しく自ら神の祭を續けて居る中に來て、是からは私が助けてやらう、この役目だけは私たちに任せないかと言ふ爲には、何か彼等のもたぬやうな技能知識か、尋常の者には不可能な解説釋義か、つまりは自ら恃むに足る何物かゞ必要であつた。實際に又神祭の管理者が專業にならなければ、修めることも出來ず又發達もしなかつたらうと思はれるやうな學問が、中世に入つてから急に盛んになつて來て居るのである。一つには人間の智能が進み經驗が豐かになつて、新たなる懷疑が頭を擡げたからといふこともあらうが、別に今一つの原因としては、天台眞言の習合教義から白川吉田の學説、降つては吉川惟足とか吉見幸和とかいふ類の多くの神道家までが、盛んに口傳奧許しの關門を設けて居たのも、動機はこの素人神主と專業神主との間隔を、出來るだけ廣く引離さうといふ趣旨ではなかつたかと思ふ。つまり民間に既にさういふ註文が廣まつて居なかつたならば、獨立して此樣にまで綿密な一種の研究が、榮え且つ普及することは無かつた筈である。其痕跡の殊に著しく見られるのは、元を尋ねれば何でもないやうな長短さま／”＼の唱へごと、是にやゝ尤もらし過ぎるほどの講釋が附いたこと、或は近頃杉山壽榮男氏などの蒐集して居られる無數の御幣の剪り方、紙の折り方や紐の結び方の色々の變化、それに一つ／＼の理由と法則があるとなると、普通の者には到底學び取ることは出來ず、どうしても特殊の修業をした人たちに、其部分だけは委ねずには居られぬことになる。是が上世以來の常の姿では無く、後々發達して斯うなつたものといふことは、此知識を今でも及びなき事としてあきらめて居る者が、國の隅々には澤山に居ることからも推定し得られる。

(283)　しかし必ずしもわざと方式を煩瑣にして、普通の人々に斷念せしめようとしなくとも、祭の任務は段々と我々には重過ぎるやうになつて來ては居る。昔の農民には當り前の事であつた祭前齋忌、祭を中心としたさま／”＼の拘束、それが新しい世の經濟生活には一通りならぬ障碍であつた。一つの大きな例を擧げると、喪の忌に在る者の謹慎、之を徹底的に守らうとすれば、神に近よることはさておき、他の村人に立ちまじつて普通の生産に働くことも出來ない。以前はその隔離の期間だけ、外から養うてやる制度もあつたらしいが、もう久しく其習はしも絶えて、資力や職業によつては喪中でも、自分だけの活計を立てなければならぬ者が多くなつた。門口に竹の簾を垂れ忌中と書いて、人が穢れに染まることを警戒する風は都會にもまだ殘つて居るけれども、商賣の必要上すぐに其貼札を剥ぎ取つて、内部の忌服だけはなほ續けて居る。其上に喪をとむらふ社交は世と共に親密になつて、一戸に不幸があれば多くの隣人が、神を拜むに適せざる身となつたのである。一年神主の物忌の嚴重だつた土地では、その主人夫婦だけは警戒して、さういふ穢れに遠ざかつて居るけれども、なほその以外にも色々の小さな拘束、忘れて犯しさうな物忌の禁のあつたことは、たつた一つの肥料の問題だけを考へて見てもわかる。しかも一方には忌の期間は相應に永く、之を完全に守らぬと祭の效果が現はれず、又は却つて惡い結果を招くかもしれぬといふ不安のみは、依然として平民の心の中を支配して居たのである。この二つの必要の對立を折合はせる爲に、頭屋交替の制度も恐らくは大いに發達し、更に又代願代參代垢離の風習、即ちある一人を代表者として、尤も嚴重にこの義務を守らせ、又はある一人が代つて祭の役を勤めると、皆の者が奉仕したと同じことになるといふ樣な、考へ方が段々と擴張して來たのである。斯ういふ職分は專業になりやすかつた。江戸で願人だのスタ／＼坊主だのと謂つたのは、最も低俗な零落の形ではあるが、是とても我々の信仰行爲の、他人に代行せしめ得ることが認められなかつたら、商賣として成り立つ筈はなかつた。まして多くの行人とか先達とかいふ人々は、學識があり又練修があつて、寧ろ我々本人が自ら携はるよりも、もつと有效だらうといふ信頼をさへ受けて居たのである。或は戰國時代の交通杜絶と、熊野や富士白山のやうな遠方の神々の祭に參加(284)する信仰が大いに起つて、それがこの新たな風習の原因となつたやうに、考へて居る人も多からうが、他の一面にはやはり祭に奉仕する者の條件の充たし難いものが多くなつて、次第に神と氏人との間に立つ者を必要とした事情が、別になほ一つは有つたのである。だから此變遷は全國到る處、個々の土地限りの、他から參りの無い御社にも及ばんとして居る。祭の奉仕に當るべき者が變れば、其樣式も亦おのづから改まらざるを得ないであらう。供物が祭の庭で即座に直會し得るものから、段々に貯藏運搬に適するものとなり、從つてその管理處分の方法が問題となり始めたことは、既に出雲の美保關などの、頭屋一年神主の時代からであつた。是を佛堂僧院の慣行に、同化したものと見ることは誤つて居る。其方の影響も絶無とまでは言へまいが、なほ御社そのものゝ方にも、永く常人の全部に祭を掌らしめ得ないやうな、新たなる事情は生まれて居たのである。此?態をなほ持續して行くがよいか、但しは又何等かの考慮を費すがよいかは、前にも言ふ如くもはや日本民俗學の領分の外である。我々は單に昔は今日の通りでなかつたことを知ればよいのである。さうしてもし出來るならば、如何にして斯く變遷することになつたかを、もう少し的確且つ簡明に、同胞の誰にでも説き得るやうに、心掛けて居ればそれでよいと思つて居る。

　

(285)　　　　　參詣と參拜

　

　　　　　　　　　　一

　

　是まで神社制度の研究者たちに、とかく見殘されようとして居た一つの問題は、御賽錢箱がいつの頃、又如何なる必要に基いて始まつたかといふことである。是は全く凡俗な、人を下品にする事柄に相違ないが、之を明白にした上でないと、日本の祭の變遷の最も大きなものを考へて見ることが出來ない。さうして又この物のまだ無かつた時代を想像することによつて、國の大小さま／”＼の御社の間に、存外に著しい一致のあつたことが心付かれるのである。さういふ發見の大きな欣びの爲に、忍んで我々はこの下品な問題をも見なほさなければならない。

　誰しも最初から、是が我邦の御社に備はつて居たものと思ふ人は無い。たゞその新たに入用になつた時期について疑ひがあり、もしくは又全然無知なのである。一つには書物に其樣な模樣替へを記録したものが、少なかつたといふことも原因であらうが、たとへ記録がまるで無からうとも、之を確かめる途が絶えて居るわけではない。私たちの方法は、先づ以て現在はどうなつて居るかといふことから始める。二つ以上のちがつた?態があるときまれば、どちらの方が前の形であり、どうしてそれを後の方に改めたのであらうかを考へて見る。勿論雙方が共に新しいといふ場合も有り得るが、さうだつたところで一どきに斯う變つたのでないとすれば、やはり變化の順序だけは見られるわけである。めい／＼が最も手近なところから、次々と注意をして行くのが自然であらう。私などの故郷では、氏神社の拜(286)殿の奧正面に、可なり大きな御賽錢箱が置いてあつた外に、國道の傍に建造した惠比須社にも、鈴の綱のま下に此箱が設けられて居た。村の人のよく參る御社は、この他にも幾つかあつたのだが、それにはまだ是が出來て居なかつたのは、多分他所から參詣する人の、有るか無いかによる差別であつた爲と思ふ。素よりたゞ豫想であり、殊に參詣の多い少ないなどは不定なことだが、近世の宮大工等には、社殿を新築すれば普通に之を取附けるといふのが、もう常識となつて居たものであつた。だから近頃は又變つて來たらうが、私たちが地方をあるきまはつた頃までは、ちやうど自分のうぶすなの社も同じやうに、名は賽錢箱でも供米ばかりが打散つて雀小鳥が集まり、たまさか底の方に光つたものが入つて居ると、覗いて子供が問題にするといふやうな御社は、到る處にあつたのである。是を以て信仰の深い淺いを卜することは絶對に出來ない。言はゞ神を拜む方式といふものが、斯うして段々と二流れに分れてしまつたのである。

　この一つの箱を備へ付けない御社は、現在もまだ中々多い。獨り家々の屋敷神や内神、毎年日を定めて幟を立て假屋をしつらへる樣な、所謂無格以下の小さい神々だけでは無い。一村の鎭守として花やかな祭の執り行はれる御社でも、建築の型によつては之を置くやうな場所が無く、もしくは最初からその必要を感じなかつたかと思はれるものも、關東以北の田舍には?々見られる。一方には又京阪地方の名ある大社にも、曾てはあつたのかも知れぬが、現在は全く之を闕くものがある。この方は拜殿の正面に白布が敷いてあつて、其上には無數の銀銅貨が散亂して居るのみか、それにまじつて紙に包み又は包まざるウチマキの、雪霰の如くこぼれて居るのが、何とも言はれない複雜な印象を與へる。即ちちやうど自分等の村の社とは正反對に、爰では是ほどの著しい必要があるに拘らず、まるで賽錢といふものは無視せられて居るのである。もしも不可解といふものがこの世には有り得ないとすれば、是は改めて今一度、神を拜まうとする者の立場に立つて、考へて見なければならぬ歴史だと思ふ。

　

(287)　　　　　　　　　　二

　

　サイセンが輸入の新語であつたことは何人も認める。故にもし之を上げる慣習がその一語と共に、新たに始まつたものでないとするならば、以前は何と謂つて居たらうかゞ第一に考へられざるを得ない。最初に先づ想像に浮ぶのは、ヌサといふのがそれでは無かつたらうかといふことで、是は少なくとも問題にして見る價値がある。ヌサは手向山の菅家の歌以來、旅をする者の臨時の祭の捧げ物で、又紅葉の錦にも擬せらるべき美しい布帛であつたことが推測せられて居る。或はそれをこま／”＼と剪り刻んで、撒き散らすのが本意のやうに説いた者もあり、それはよつぽど危ない話だとしても、少なくとも常に幣帛とつゞけて言ふ位に、絹や精巧の麻布を用ゐて居たことだけは爭はれない。しかし是はたゞ中世の財貨の、最も普遍的な品が布帛だつた爲であつて、神に捧げる物は必ずそれと限つて居たのではない。現にヌサとはもう言はなかつたらうが、馬や劔太刀その他くさ／”＼の寶を、人を怡ばしめると同じ意味に、進獻する風は久しく續いて居り、古くは田園神戸を寄せ、又神賤を貢した例さへ傳はつて居る。貨幣の幣などもその本來の用途の一つは亦是で、必ずしも神にまゐらせることを主として居たとは言はれぬが、最近に志賀の大宮址からも發掘せられたやうに、之を一つの目的に豫期して居たことは窺はれ、新鑄の錢貨を先づ名ある神社に御送りなされたことも、正史に見えて居る。近世年々の幣帛供進なども、確かなことはまだ承はつて居らぬが、その一品として或はこの所謂オタカラも加はつて居ることかと思ふ。民間には素よりこの慣例が弘く久しく行はれ、決して新たなる略儀とは言はれないのである。しかも近頃見るやうな大きな賽錢箱、我も／＼と遠くの方から、かちんからりんと投げ込むやうな方式が、前から有つたものとは何としても考へることが出來ぬ。

　この變遷の順序も、今ならばまだ容易に見て知ることが出來る。土地で固い家とか昔風な人とか言はれるものゝ特質は、大抵は斯ういふ方面に於て認められるのである。銀貨にオアシとかオテウモク（御鳥目）とかいふ敬語の用ゐ(288)られるのは、今日はたゞ女言葉のやうに解せられるだらうが、本來は神や貴人に對する幣にもなるといふことを、意識して居たからの謹みでは無かつたらうか。私たちのやうな新しい人間でも、支拂ひの時だけは別として、人に金を贈るのに剥き出しでは氣が咎める。近頃は漸う西洋人を眞似て、使用人への心づけだけは、裸で遣つても禮を言はれるやうになつたが、まだ／＼その以外の者は受取らずに顔を見るであらう。だからあの通り、何でも結構といふやうな大きな箱が出て居ても、其中にはなほ若干の白紙のオヒネリがまじつて居るのである。

　オヒネリといふ古風な言葉は、東京でも一部には之を使ふ者が居るが、其意味は頗る全國の田舍とちがつて居る。こちらでは俗に謂ふチップ、即ち目下の者に向つてぽいと抛つて遣るやうなはした金に、此名を適用して居た時期が暫らくあつたのだが、それも既に必要が無くならうとして居る。以前は斯んなものがオヒネリで無かつたことは、賽餞箱の中からでも窺はれる。地方は是が今一段と嚴肅で、オヒネリを包むべき日と場合とは一定し、他にも應用はあるが主としては神詣での用であつた。さうして更に何よりも顯著なことには、此紙包みの中には必ず洗米が入つて居たのである。此問題は前に「食物と心臓」といふ著書の中にやゝ細かく述べて置いた。是は物よりも敬意の表示、今一歩を進めて言ふならば、先方の靈の承認を意味して居たことは、年の始めの最も改まつた期日に、家の周圍の泉や井戸その他あらゆる小さき神々だけで無く、日頃大事にして居る爐の鈎とか臼農具とかにまで、所謂トビを捻つて結はへ附ける土地があるのを見てもわかる。人にも之を贈るのは恐らくはその思想の延長であつて、しかも其オヒネリの米といふのは、必ず最初から用意せられ、家内一同の者も戴いて共にたべる所の、蓬莱とも三方とも謂ふ高折敷の中の米であつた。それを東京などではもう省略してしまつて、たゞ小餞だけを白紙に捻つたのを、オヒネリと呼ぶやうになつて居るのである。

　

(289)　　　　　　　　　　三

　

　僅か五十年か百年前の、オヒネリといふものゝ用法が今とちがふことは、浮世繪や市井文藝の中にいくらでも證據が殘つて居る。氣永に捜して見る人さへ有れば、斯んな講釋はする必要が無いのである。以前の江戸人は是を又十二銅とも呼んで居た。それはこの米の紙包みの中へ、更に十二文の銅錢を添へたからだつたが、後には勿體なくも米の方は省略してしまつて、錢だけを包むことになつたのである。其理由も亦頗る明白で、都會には前章にも言つた如く、代願代參の風が殊に盛んに行はれ、自身堂宮に參詣することの出來ぬ人の爲に、取次ぎ仲立ちを業とする者が年増しに多くなつて、しかもその連中は米を目あてにはしなかつた。勿論この錢とても手數料では無く、必ず何々樣へ十二銅を御上げなされと謂つて來たのだが、其錢がどういふ樣に處理せられるかは、大よそこちらにも判つて居た。後には依頼といふよりも寄附につくといふ氣持になり、都會ではこのオヒネリといふものゝ格式を、情けないほども低下させたのである。是と現在もなほ確かに行はれて居る村々のオヒネリと、二つは始めから別々のものだと、もし言へるものなら言ひたい位だが、奈何せんまだ記憶して居る老人も多いやうに、都會のオヒネリもやはり近い頃までは信仰用であつた。

　どちらが退化であり又零落の姿であつたかは、二つを比較して見れば忽ち明らかである。諸君の郷里にも多分同じ例が多いであらうが、私たちの少年の頃は、たとへ子供でも御宮に詣るのに、このオヒネリを持たぬ者は一人も無かつた。それを手に持つて行くことが、即ち參詣であるとまで思つて居た。儉約な家では半紙を二つ又は四つに切つて、それに白米を包んで紙の端を捻つて居た。オヒネリと謂つても無論通じたが、私たちの家では普通オセンマイといひ、又オサングともウチマキとも呼んで居た。サングは即ち散供の字音であつて、參詣をすると先づ其包みを解いて、中の米を賽錢箱の上に撒いたのである。といふわけは境内には幾つかの小さい神樣が居られるし、又矢大臣などゝ謂つ(290)た二座の門客神《かどまらうど》にも、左右の狛犬にも、少しづゝ上げなければならぬからであつた。しかし子供の中にはさういふことをする兒ばかりは居ない。或は紙包みのまゝで箱の中へ入れて歸つて來るのもあつた。其包みの中には米の外に、錢を入れたといふのも絶對に無かつたとは言へないが、少なくとも自分の家に於ては、オヒネリは常に米一色であつた。しかも一方には又御賽錢を持つて詣ることも知つて居たのだが、我々は何かこの二つの詣り方に、區別があるものゝやうに思つて、之を少しも不思議だとは感じなかつたのである。

　今日になつて見ると、この打撒きの風習の起りは中々解しにくい。先づ第一に春秋の定まつた祭の日には、多くの氏人はこの御散供を持たずに詣るのである。中には持つて行くのが癖になつて、斯ういふ日にも手ぶらでは詣らぬ人があるか知らぬが、とにかくに此日は神酒餅を始めとし、御供へ申すものが色々あるのだから、是が少しも重要で無くなるのである。それで私の親などは、ウチマキを祭典の最も略式のものと解して、家の神棚の朝々の拜禮にも、常の日はこの洗米だけをさし上げて居たやうであるが、それと紙に包んだ御散供とは、たしかに又同じものでは無かつた。一方はとにかく恭敬の限りを盡して神の御前に供進したに反して、こちらはたゞ無造作に打散らして居たのである。何か根原に於て二つは異なるものがあつたのを、忘れて段々に之を接近せしめようとして居たのではなからうか。最近に報告せられた青森縣三戸郡の話に（旅と傳説一四卷九號）、あの地方の村社にも賽錢箱はあるのだが、別に正門の後の方に木箱を掛けて、「外まきは此箱の中へ入れて下さい」と書いてあるのを、見かけることがあるといふ。この外まきは多分ウチマキを内撒きと解し、之に對して設けられた語であらうが、社の神樣を拜むに先だつて、ちがつた方角に向つて散供の一部又は金錢までを撒きちらすのださうである。それでは粗末になる故に其分も別の箱の中に納めるやうにといふ新しい注意と思はれる。いつの頃からこの所謂外撒きの慣行があつたらうかといふ點に、我々の興味は集注する。中央部の古い御社では、勿論今は其樣なことはしないが、其代りには境内の前後左右に、算へきれぬほどの小さな祠が列なつて居て、參詣者は通例御本社に詣つた序に、もとは其小祠に殘らず拜をすることが普通で、(291)其爲に鳩目錢と稱して、一文を更に十にも分けたほどの、小さな錢を賣つて居たといふ話もある。我々の解し難いことは、今では若宮や本社の從神の外に、是等も末社のうちに算へられて居るが、其小社の多くは餘りにも有名な、歴とした國々の大社の神々を祀つて居ることである。是が上代以來の習はしでないことは、恐らく雙方の大社の共に認める所であらうが、さりとて其由來もまだ明らかにはなつて居らぬのである。たゞ一座の尊い神に信心を運ぶ爲には、之に伴なうて外の神々を拜まなければならぬといふ點だけは、少なくとも奧南部の外撒きと似て居る。是は租靈と村の神社との元一つであつたことを考へぬ人には、或はあまりに隔絶した類似と見られるかも知らぬが、所謂盆の祭にも同じ事があるのである。無縁とか外精靈《ほかじやうろ》とか、その他土地によつて名はいろ／＼あるが、先祖さまを迎へて祭をする盆棚の他に、又はその片隅に、別にその以外の靈を供養する設備が必ずある。盆は佛法の影響が強く、或は全部が其管轄のやうに思ひ込んで居る人もあるけれども、斯ういふことは恐らくあちらでは説明が出來まい。その上に又正月年越の家々の祭にも、やはり神棚の端や一段下に、ミタマの飯といふものを供へる風習が、信越以東には弘く行はれて居る。即ちこの二通りの祭り方には、何か由來するところがなければならぬのである。

　

　　　　　　　　　　四

　

　そこで私の一つの假定説、即ち將來發見せらるべき事實によつて、確かめられもしくは訂正せられるであらう意見といふものを述べて置くが、是は我々日本國民の信仰する神々に、最初から内と外と二通りがあつたことを示すものかと思はれる。その二つのちがひは、元は可なりはつきりしたものだつたのが、國が統一に向つて進んだ如く、後追々に融合し又錯綜した爲に、境目の見分けにくい場合が多くなつたのである。しかし氣をつけて見れば判らぬ程ではない。多分斯うだらうと思ふ點を取立てゝいふと、内といふのはよく知つて居て親しい神、他の一方はまだ氣心を知らぬ故に畏るべき神、さうして方法を盡せば段々と、内の神と同じに又は其以上に、恩�ｺを垂れたまふ神であつた。(292)その經驗の累積といふものが、即ち我々の神祇道の發達、又變遷では無かつたらうかと私は考へて居る。

　我々の經驗の最初の機會は覊旅であつた。人が生まれた土地の中でのみ働いて居るうちは、よその神々を思ふ折がない。たま／＼やゝ遠く家を離れた場合にも、なほうぶすなの庇護、我氏神の兼ての御約諾を信ずる事が出來たであらう。家に信心深く祭をよく仕へて忌み籠つて居る者があるといふことを、唯一の力として居たのは、昔の世の軍兵ばかりでは無かつた。姉妹は旅する者の護り神だといふことは、もとは沖繩諸島でも信じられて居た。さうして此島々などは、今でもまだ他系の家の神の祭に、參加することが稀なのである。しかし故郷の消息が久しく絶え、雲山蒼波の隔たりが重なつて行くと、人は漸うに行く先々の神の強い力を感ぜずには居られない。殊に險難の嶺を越え、風濤忽ちにして吹き起るやうな濟《わたり》に臨むと、爰にもまだ知らぬ畏こき神がましまして、人の禍福を支配したまふかといふ想像が起りがちであつたらう。さうしてそれには又其土地々々の、住民の單純にして熱烈なる信仰の姿が、孤獨の異郷人に影響を與へるといふこともあり得たのである。

　異郷人の祭には、彼等の故郷に於て行はれる恒例の祭と比べて、當然に異なるべき點が幾つとも無くあつた筈である。その主要なる一つは神樣の御ありか、乃至は御擧動を知らなかつたことから來る。故郷の御社には幻の遺傳ともいふべきものがあつた。今の人から見れば何でも無いことだらうが、神の示現に際しては年久しい兆候が感じられ、或は山頂の雲の靡き或は神木の梢のそよぎなどによつて、時刻方角を覺知せぬ者は無く、最も素朴なる者の眼には、更に又黒髪白の御衣の、彷彿として近づき來る御影をさへ看取られたのであつた。然るに旅では其樣な豫定といふものが一つも無い。其上に友も無く調度もとゝのはず、多くは又俄かの營みであつた故に、日頃の祭の如く行き屆いた飲饌の數を揃へることが出來なかつた。それがウチマキといふやうな餘りにも簡單な方式を採用して、之を又一つの祭と見なければならなかつた必要のもとかと思ふ。採用と私が謂ふのにも反對の意見は起り得る。しかし米が食物の最も優れたものであつた爲か、之を呪法の目的に打ち散らした風習は、古く我邦にもあり又近隣の他民族にもある。(293)それ故に同じ行爲は、段々に祭と同じ列の信仰儀式と、解せられるやうになつたものと考へられるのである。この想像がもし誤つて居たとしても、さういふ又一つの祭の型が、新たに追加せられたといふことにはかはりは無い。つまりは祭る人の地位?況の變化、又信仰の展開によつて、斯ういふ方法でしか崇敬信頼の意を表し得ない場合が出來て來たのである。ヌサは細かく切り刻んだ布帛だといふ神道家の説なども、米の例を思ひ合せると丸きり跡方も無いことゝは言へない。たゞ斯うするものに限つたやうに言ふのがをかしいのである。それから今一つの起り得べき疑問は、旅がウチマキの祭の必要のもとゝいふならば、村の氏神社の參詣に、是を携へて行くのはどうしたわけだといふことであらうが、それには更に又近世の信仰の發達、兼て住民の熟知して居ない色々の神の、進出といふことが考へられなければならぬ。疫病その他の思ひ掛けぬ災厄が現はれるたびに、必ず新たなる神の祭が加はつたことは、昔からの習はしであつた。殊に以前は無かつたらうと思ふ獨り祭の普及があり、又祭の日の著しい増加があつた。故に是等を一通り明らかにしてからでないと、まだこの疑問には明確に答へられぬのである。

　

　　　　　　　　　　五

　

　この内外二通りの祭の式に於て、何よりも著明な相異の點は、祭の日の定め方であらう。一方は記憶を超越するほどの古い代から、誰がきめたとも言へない例日があつて、其日に參り合せぬと神に近づき奉ることも出來ず、氏子の列からも落伍するやうな不安があつて、今なほ遙かなる旅の空から、祭には還つて來るといふ村人が多いのに反して、他の一方は主として一身の都合により、外には友も無い森閑とした社頭に、寂しく額づいて行く場合が毎度あつた。それでも吉日を見定め、最短期間の物忌をして、旅の日數の延びるのを厭はなかつた者がもとは多く、近頃でもまだ折よく祭の日に通り合せたことを大きな欣びとした記録はあるのだが、さういふ氣の長い人も益々少なくなつた。交通は日増しに迅速になる。いつでも時は構はず御社のあたりを過ぎた際に、參詣をせぬのは却つて非禮のやうに、考(294)へる人ばかりが多くなつて來たのである。さうして祭と參詣とは、最初から二つ別々のものであつたといふ推定は、まさに成り立たうとして居るのである。

　どうして此樣な烈しい變化が、最近僅かな年月の間に起つたものかは、其事の善し惡し、又は避け難いか否かの問題とは別に、一度は諸君も是非考へて見なければならぬ。原因は勿論幾つもあつて、詳しく説明しようとしても見落しはあり得るが、其一つとして算へられるのは物忌の簡略、即ち旅人の道すがらの參詣のみは、土地の神々の祭に守られて居る最も手輕な精進をすらも、守らずともよいかの如く考へられ始めたことである。是もつまりは一般の弛緩、齋忌は祭の重要なる條件であつたことを、心づかぬ人の多くなつた結果とも言へるが、しかも村々の心安い祭については、忌の拘束が可なり寛大になつて後まで、なほ遠くのあらたかな神樣に對しては、特に嚴重に守られて居た時代もあつたのである。所謂代願代垢離の職業が盛んになつたのも其爲で、必ずしも道が遙かで旅行が出來なかつたからで無く、一つには此拘束がむつかしいばかりに、願掛け御禮申しの念を抱きつゝも、一種專業の人たちを頼まずには居られぬ者が多かつた。それが都會に於ては夙く流弊を生じ、ちつとも宛にはならなくなつたのも已むを得なかつたが、それに促されて精進そのものゝ意義までを、無視するに至つたのは新しい現象であつた。

　極端な例を擧げた方が話はわかり易い。出羽の三山の參詣などは、今でも里々に精進の小屋があつて、一七日以前から若者が其中に籠り、毎日水を浴み別火をするといふ例は東北にはまだ多いのだが、さういふ人たちの群と前後して、元氣な學生などの同じ嶺を經廻る者には、何一つそれに似た用意は無い。彼等も無論御社の前に出れば恭しく拜をする。さうしてそれをも參詣と思つて、以前の先達が徒らに無用の制限を設け、たゞ各自の特權を護らうとするかの如く批判して居るのである。富士は行者の特權の最も早く失はれた御山であるが、それでも黒山のやうな雜多な登山客にまじつて、昔ながらの白衣白鉢卷の信徒が、ちらほらと上下して居る。山岳會の青年たちが、何かといふとあの山この山を征服したなどゝいふのが、けしからぬことのやうに慨歎して居る人のあるのを私も聽いた。女を登山さ(295)せてよいかどうかは、大和の金峯山で近頃問題になり、それだけは確か否決せられたやうに記憶する。しかし女では無くとも死穢とか宍喰ひの穢れとか、以前は自ら參拜を制限して居た者が色々あつた。其障碍を外側からは如何にして見分けるか。是だけは餘りにむつかしいので、今なほ成行きに任せたまゝになつて居る。

　

　　　　　　　　　　六

　

　つまり祭にはどんなに僅かでも條件の守るべきものがあり、參詣には近年それが急に無くなつた。是が二つの者の手を別たうとして居る原因となつて居ることは確かである。平たく言ふならば、昔も今の通りと思つて居る人が多くなつて居る。斷じてさういふ事は無いといふ證據は、特に精進の嚴しかつた靈山の例を引かずとも、たゞの平地の御社にも必ず石の水盤があり、それを横目に見て前進する人が、稀ならず有るのを注意しただけでも足りる。しかもこの樣な外側のものゝ變り方よりも、なほ一段と重々しい原因は内部にもあつた。それを出來るだけわかり易く言へば、祈願の減少といふのが最も當つて居ると私は思ふ。

　祈願は祭の三つの要件のうちでも、特に旅人の切なる志の表はれであつた。「たむけよくせよ」といふ古い歌も有るやうに、家に在る日は是といふ改まつた欲求の無い者でも、一たび異郷に入れば色々の愁ひ、分けても前途の厄難と、離れて居る者の身の上とが氣にかゝつて、神を求めて御惠みに縋らうとする以外には、其不安を散ずべき方法を知らず、しかも現實には其願ひの容れられた結果と、解し得る場合も相應に多かつたのである。個人各自の信心といふものが、人生の爲に必要だといふ經驗は、通例佛教によつて得たものゝやうに説かれて居るが、私などは寧ろ人が家郷の地を出てあるくといふことが、もつと大きな機會であつたらうとまで想像して居る。少なくとも一門一郷黨が集合して、氏の神だけをお祭り申して居る間は、さういふ一種の拔け驅けのやうな祈願は、もとは試みる餘地は無かつた筈である。村にも後々は人が個別に、一身の私事を願掛けする御社も出來ては來たが、ともかくも氏神鎭守の神(296)だけは、その恩澤は共同のものと考へられて居た。村の例祭にも勿論祈願の意は含まれて居る。土地を昔ながらの平穩無事の?態に保ち續け、何等の豫想に反する驚きも悲しみも知らずに、一年を重ね得たのも神の御力であり、それが又全住民の心の底の望みであることを、しろしめしての神�ｺとは解して居たのであるが、それは既に高祖始祖以來、御許しなされたものとして滿幅の信頼を寄せて居る。たま／＼祈請の言葉をくり返すとしても、たゞ定まつた一つの形を守るのみで、今更事新しく申し上げるやうな、此上の願ひの無かつたのは當り前である。だから今年も亦安らかに、生産を遂げ得たといふ喜びのかへり申しと、神の御力に頼りきつて、些しでも他意はもたぬといふ渇仰讃歎との二つの表白に、村々の祭はやゝ偏して居たので、是がもし外の神々への祈願を主とした祭とちがふといふならば、其岐れ目は單に祭の奉仕者の境涯の差からであつた。類の相異と言はうよりも、もとはたゞ力の入れどころのちがひであつた。旅人も無事に長途の旅を終へて、再び同じ地を通れば必ず報賽の祭をしたであらうし、神�ｺのたゝへ事は、恐らくはおもねり〔四字傍点〕に近いほども丁寧であつたらうが、その根本の動機は新たなる願ひを、今まで思つて見たこともない他所の神に、掛けて見ようとするからであつた。即ち露はな言葉であるが、彼等は新たなる神を試みたので、この一點だけは大昔の難波堀江の大きな歴史とも近かつたのである。それが一方には可なり著しい影響を村々の神の祭に及ぼして置きながら、それ自身はいつと無く最初の動機から遠ざかり、しまひには斯うして遠くまで信心の歩を運ぶ者を、神せゝりなどゝ謂つて輕しめるやうになり、何の願ひも無く又恐らくは深い期待ももたぬ人々が、たゞ名ある神々の大前に額づくだけを以て足れりとするやうになつたのは、大きな變遷であつたと言はなければならぬ。今はまだ明白にならぬまでも、隱れた原因は又一つ、此上に働いて居るにちがひないのである。

　

　　　　　　　　　　七

　

　そこで最初に先づ村々の祭が、如何にしてたゞの參詣になつたかを考へ、其次にはそれに影響したかと思ふ他所の(297)神の參詣の、更に又一段と變化した事情を考へて見よう。之に比べると賽錢の問題などは實は小さく、多分はこの説明の過程に於て獨りでに解決すると思ふ。村の御社の方には、世を追うて臨時の祭が數を増して來て居る。中にはその必要が繁かつた爲に、いつの頃よりか恒例の中に編入したものも多い。最初の必要は風旱蟲疫、その他不時の災害が起つたのを攘ひのけんが爲の祈?で、是は經濟生活の濃かになると共に、免れ難い舊地の惱みであるが、それが爲に古來の本祭の樣式を改造すること無く、別に新たな祈願の祭を設けたのは心あるわざで、必ずしも時期がくひちがつて間に合はぬ爲のみでは無かつたと思ふ。この折の祭の方法は夜籠り日籠り、家々から供物を調じて來て、先づ神に進らせてから直會をする。その手順は年に一度の大祭とかはることも無く、寧ろ素朴の世の姿が此中から窺はれる。といふのは貧しい小さな里の本祭にも、神輿獅子頭等の神態は少しも無くて、是とごく近いものがあるからである。山村で獵に入り漁村で漁に出るに先だつて營む祭などには、或は始めからあつたかと思はれるものもあるが、やはり成果がやゝ不安定になつてから、農村の秋籠りなどゝ同じに行はれることになつたのかも知れない。少なくとも戰に出る前の祭などは、必ず行はれ又當然の臨時祭であつたらうと思ふ。

　其次に新たに起つたらうと思ふ祭は、村全體を襲ふやうな時疫その他の不安では無く、村の住民の一人が危篤に陷つた時に、急に思ひ立たれる臨時のもので、或は最初には族長その他、重要なる代表者の病氣した時だけに行はれて居たかも知れぬが、それを擴張して常の人にも及ばしめたのは、まことに好ましい新儀であつた。中國地方などでは之を千祈?、又は勢祈?と呼ぶ村もある。ちやうど雨乞の千駄焚きに、衆人が萱薪を山上に持寄つて焚くのと同じく、一人や二人の願ひでは望み難い奇瑞を、群の集めた念力によつて招き致さうとしたもので、ちやうど國初以來の氏の神の信仰にも一致する。最初は恐らく總がゝりであつたらうと思ふが、氏子が廣くなり又?らるゝ病人が小さくなると、其加勢の區域が垣内や隣組と狹まり、更に身うちや懇意な者だけの千度詣り、又は所謂御百度となつて、一人で何回とも無く御詣りの形をくり返したのである。この變遷の如きは、至つて徐々とした又自然のものではあつたが、(298)それでもなほ我々の神詣でを、今風のものにしてしまふのに與つて力があつた。部落一同が寄り集まつて、或る一人の病者の爲に臨時に祈?をしたやうな場合ならば、必ず祭の日にふさはしい神酒神饌の供物があつたらうが、近世の草雙紙に?々取扱つた如き、たつた一人の孝子貞女が、深夜にそつと起きて井戸端に垢離をとり、神の廣前に歩みを運ぶといふことになつては、其祭の方式は省かれるのみか、普通に供物の最も略なものと考へられて居たオヒネリの散供すらも、持つて行かれぬことが多かつたであらう。參詣といふ言葉は前にも言つたやうに、もとは祭の庭に出仕して、或る時間その片端に伺候して居ることを意味して居た。それが一囘の拜禮を以て直ちに退出することになつてしまつたのも、この爲ばかりとは決して言はれぬが、御百度といふやうな新しい風習も、一つの誘因にはなつて居たのである。

　氏神が本來群の爲の神樣であつたことは言ふまでも無い。然るに時あつて個人の祈願、それも公共の支持し得るものだけで無く、單なる私の望みまでも聽き屆けたまふものゝ如く、信じられるに至つたのは理由が無くてはならぬ。其一つには村の御社の合同、即ち幾つかの氏族が共々に、一つの神を氏神として齋くことになつたからで、人が多くなり生活が複雜になれば、たとへ利害はさう容易に牴觸せぬまでも、個々の信心の深さ正しさの差によつて、神の恩寵もおのづから厚薄が有るやうに、考へ始めることは免れない。さうして又現實に、人によつて神の御威�ｺを仰ぐ純一さが、必ずしも一樣で無くなつたばかりか、その解釋にも亦世の智慧が干渉して、行動は漸く區々になつて來たのである。しかも大體に於て篤信の人は重んじられ、神を恭敬することはいつの場合にも善行と認められて居た故に、參詣の條件と準備が簡易となると共に、その度數は一般に多くなる傾きをもつて居たやうである。たとへば日參は御百度と共に、所謂千垢離勢祈?から變形したもので、何かよく／＼の心願ある者の思ひ立つものとなつて居たのが、後にはたゞ毎日の無事息災を念ずる爲に、老人などの之を日課とする者が出來て來た。平田篤胤翁の時代に、まだ問題として論究せられた毎朝神拜の作法なども、今日はもう當然のことゝなつて居る。神が毎年の定まつた日に高い處(299)から御降り成されて、待ち喜ぶ民衆の祭を享けたまふといふ、古い世の考へ方と向き合せると、是は何分にも合點の行かぬことの樣だが、兩者の中間には數百年以上、或は千年にも近い體驗と推理とが介在して居るのである。代々の氏人は神の御力を信頼するの餘り、たとへ御約束の期日の外でも、切なる危急の祈請には出でゝ應へたまふべしと思ひ、又現に最も謹※［原／心］なる者の爲に、救助と警戒の手をさし伸べたまふ實例の、稀ならずあつたことを記憶して居るのである。神は正直の頭に宿りたまふといふ教訓も元は神託であつた。或は其解釋が次々と進んで、神如在といふことを、恭ふ人々の心の中に、又はかしこまり額づく社殿の奧深く、隱れて常にいますといふ意味に取つた者も多かつたらう。とにかくに是は既に近世の事實であつて、それをたゞ古い世の記録によつて、置き換へることは不可能になつて居る。其上に境を離れて遠く旅する者の、經驗も亦十分にそれを裏書したのである。内と外との二つの祭が、段々に融合せんとして來たのも自然である。

　

　　　　　　　　　　八

　

　爰に私が説明の便宜の爲に、假に外の祭もしくは知らぬ神と謂つたものには、際限も無い數と種類とがあつた。其中にはいつを祭の日とし、如何なる方法によつて祭を營むのが御心にかなふかを、今に至るまでなほ明らかにし得ない神々があると共に、一方には夙に有力なる一國の祭人があつて、懇ろに年々の祭をくり返して居るに拘らず、單に土地を隔て所屬を異にするばかりに、偶然に久しく相知らずに居たといふ御社も亦多かつた。人が始めて異郷の土を踏んで、測らず靈異を感じ、祭を仕へんとする志を起す場合にも、おのづからこの兩端の差があつたことは、現世の我々にもよく知られて居る。神を寄せ奉る者の最初の問ひは、今でも必ず「どなた樣ですか」、又は「何樣でいらせられますか」を以て始まつて居る。之に對する答へは近代は殊に區々で、御蔭に古記録のどの部分を捜しても、絶えて景跡の無い神の名が顯はれ、或は又佛教道教の感染の爭へないやうな、新しい神の名が名のられるのみか、時として(300)は是まで八百萬の神の中に算へても居なかつたものゝ靈が躍り出ることさへある。それを信ずると否とは、素より當人の判斷力、或は環境の力といふべきものであつたらうが、その效果の必ずしも一時一處に止まらなかつたことは、今日地方に分布する小社と祠、さては籔神ともガミとも呼ばれる色々の神の、弘い區域に亙つた名の一致を見てもわかる。顯祀もしくは「神を顯はし奉る」と、古い書物に於ては之を名づけて居る。是にも以前は嚴肅なる作法があり、且つ一郷一門の衆人の前に於て、最も慎重に行はれたことゝ思はれるが、後々僅かな者が生まれ在所の群から離れて、旅の孤獨を味はふやうな時代が來ると、この種の新しい神の遭遇は、漸く頻繁に又容易にもなつて、しかも個人に取つては絶大の印象であつた故に、折々はそれが周圍を感化し、弘く久しく傳はつて行く場合もあつたやうに思はれる。淫祠邪神の惡い名を負はされて、或は國家の煩ひとまで歎かれて居る小さな社の信仰でも、是を悉く巫覡の徒の、詐謀の致す所なりと言ひ切る人はあるまい。つまりは發見があまりに新しく、又發見者の用意が足らず、もしくは解釋が蕪雜を極めて居た爲に、未だ一部の崇祀者以外の、承認を得るに足らぬだけである。それが我々の熱烈なる祈願の祭に始まらぬものは、今でもまだ例外と言つてよい位に少ないのである。

　部族割據の遠い昔の世の事を考へて見ると、この承認は時として隣に住む者の祭にも及ばなかつた。今でも村々の主神の御社の方には、却つて幽かながら對抗の痕をさへ殘し留めて居るが、それを不可解な現象と感ずるまでに、一國の信仰は完全に融合してしまつたのである。民族文化の發達が、ひとりでに此結果を促したと見ることは、恐らくは歴朝の有難きおぼしめしを忘れ、殊に神社行政の根本方策に、年久しき傳統のあることを省みない者として、非難せられても一言無いであらう。しかし他の一面に國民各自の側に於ても、國の交通の開け進むと共に、更に一段と積極的に、その統一の御趣旨に共鳴し、又徹底して來たことも事實であつて、この事實は又往々にして看過せられて居る。人が異郷の土を踏んで、先づ最初に土地の住民の崇め敬ひ、祭を仕へ奉る神を問ひ、力の限り其信仰の行事に參與せんとしたこと、及び旅から入つて來る人のいはひかしづく神々を、何等の危惧の念も無しに、素朴に受け迎へ共(301)共に祈請を捧げようとしたことなども、世を追うて盛んになつたのだから、或は國民本有の性情とまでは言へなくとも、言はゞ我々の固有信仰は、國の團結の大いなる必要に適應して、次第にその寛容の度を加へ、内外多くの神の併立兩存を可能ならしめるほど、至つて協調しやすい素質を始めから具へて居たものと、推測し得られるかと私は思ふ。此點は獨り國内各地の神々の御間だけで無く、海を渡つて遙々と送られて來た、新古の宗教に就ても同じことが考へられる。兩部神道の一奇觀を展開した本地垂迹説、權現とか影向とかいふ新しい言葉でも、唱へて之を信じたのは日本人であつた。それを外國傳道師の智略ばかりに基くものとは、我々は思つて居ない。家々の神棚は現在もまだ問題である。三教歸一の論は組合せを取替へて、いつの時代にも通用して居る。つまりは國民の中に人の祭り拜む神を、承認しようといふ態度は古くからあつたのである。さうして同胞國民どうしの間では、其態度が特に親切だつたのである。

　

　　　　　　　　　　九

　

　人が年久しく一つの土地に於て、祭り來れる神を知り奉ることゝ、新たに未知の神を顯はし奉ることゝには、少なくとも二つの點に於て手續きの著しい差があつた。其一つは祭を營むべき時期、第二には神の實在を認める方式であつた。今まで何人がいつ何處で、祭に仕へて居たかを知ることの出來ぬ場合には、期日は自由といふよりも多分即座に、發見に引續いて祭つたので、それが顯祀といふ言葉の起りでもあつたらうかと思ふ。その期日は勿論恒例となり、今ある高名の御社にも、その大事件の日を記念として居るものが多い。之に對して既に各所の氏人の群が、父祖の代から祭りつゞけて居ることを知つた場合には、出來るならば其日を待ち合せようとしたことであらう。祭は本來多數の意思を統一したところに、深秘の效果があることを經驗して居るからで、よほどの自信があり能力もある人で無いと、旅程その他の一身上の必要から、單獨に臨時の祭を企てることは、少なくとも昔の世には出來ぬことであつたと(302)思ふ。

　それから第二段に神を認め奉る方法、是にも亦必ずしも神憑りや口寄せのやうな、強烈なる啓示の方法を期待するに及ばなかつた。單なる求むる心、もしくは微々たる靈感の動きだけでも、もし傍らに能の謠ひなどに見る如き、一二の「ところの者」の來合はせたものさへあれば、忽ちにして神の有難さを知ることが出來たので、たゞその最初の不思議が大きければ大きいほど、承認が確かな搖がないものになつたのみである。中將實方の笠島道祖或は紀貫之の蟻通明神等、昔の實例は幾つも記録せられて居る。ありとほしをば思ふべしやは、知らなかつたればこそ色々の怠りもあつた。既に神ましますと心づいた上は、いかでか神�ｺを否み奉るべきと、其場に奉獻して行くものが即ちヌサであつて、人により又は場合によつて、直ちに其ヌサを機會として合同の祭を營むものと、之を次の祭の日まで保管して置かうとするものと、元は二通りあつたのを、後々祭の物忌が一般に簡單になつて、臨時の祭の方が次第に多くなつたものと私は解して居る。さうして他の一方には近代の所謂御賽錢の如き、略式極まるヌサを納めた者までが、なほ一囘の私祭を擧行したやうな感を抱き、たゞに神を禮讃して御威�ｺの顯然たることを承認するのみならず、なほ其機會を以て一身の祈願を籠めて行くやうな、習はしを作つたのかと思はれる。一族門黨の大小には拘らず、本來すべて皆團體の公けの行事として、五穀成就村内安全、たゞ共同の祈願を專らとした御社の祭が、後いつと無く個人各自の、時としては互ひに相反する望みごとを以て、御煩はし申す手段とするやうになつたことは、或は他にも學者の説明があるかも知らぬが、少なくとも自分だけは、斯ういふ風に解するより他に、今はまだ別の道を知らぬのである。

　

　　　　　　　　　　一〇

　

　ヌサは我邦の最古の單語の一つであつて、今はもう其語原を究めることがむつかしくなつて居る。しかし少なくとも是に漢語の幣の字を宛て始めた頃までは、まだその本來の意味がわかつて居たものと信じてよい。是が公けの又大(303)切な言葉だから、私はさう信用するのである。さうするとその外來文字の本國に於ける、あの時代の用法は參考になる。向うは日本のやうに神に進らせる物だけには限つて居なかつたが、それでも決して凡下の贈遣にまでは幣の字は用ゐて居ない。單に敬意の表示と謂つては廣きに失するかも知らぬが、こちらでも後は少しづゝ其範圍を制限しようとして居るのである。是は一つには國柄であつて、一たび朝家の御用ゐになつた言葉は、常人は之を慎み避けようとした爲もあらう。それよりも更に重々しい理由は、國の公けの御ヌサには、是と隨伴する特別の意義があつたことである。公けの文書の用語としては、官知と謂つて居たのがそれであつた。如何に熱烈なる信仰に支持せられて居たにしても、兎に角に一地方の一氏族限りに祭り來れる御社が、新たに官府の知る所となるといふことは、幣帛の御贈賜にもました大いなる感激でなければならぬ。それを又世代の遠さや氏人の數力等に准じて、大小の差を立て中外の所管を區分なされたのも、一方の所謂天神地祇の同一視と共に、國の統一の上に最も效果の多い方策であつた。明治の新政は一千年を隔てゝ、改めて又この制度の大部分を復古なされたのだが、その根本の御趣旨を窺ひ知ることは困難でない。もしもこの新たな秩序が確立しなかつたら、たとへ政治上の藩籬はすべて取除くことが出來ても、信仰はなほ割據して、互ひに比隣の祭を理解せず、もしくは獨り大いに榮えんことを競うたであらう。敬神は維新の大いなる合言葉の一つであつた。さうして朝廷は先づその手本を示されたのである。

　是が現在の祭の大小、又は官祭私祭の區別の元になつて居ることは、最初から自分の説いて見たいと思つて居た要點であるが、其前になほ一つ必ず明らかにして置かねばならぬのは、奉幣は元來御社の外部、即ち氏人の群に屬せざる者の崇敬を表示する方法の總稱であつたのを、其中に於て朝廷官府の御使によつて進められるものと、その他の場合とを截然と區別し、特に一方のみを重要視する理由が、次々と強くなつて來たことである。幕末勤王論の最も盛んであつた頃に、斯ういふ歌を詠んだ人がある。

　　　ぬさ賜ふ二荒の山のほとゝぎす初音や神のかしこまりなる

(304)　作者の名はもう忘れたが、歌の感銘は今も私にははつきりと殘つて居る。この思想は既に古く、近頃でも故猪熊夏樹翁などは、「王は十善、神は九善」といふことを、始終口にして居られた。即ち神々よりも大御門の方が、一段と御位は高いと言ふのである。明治以降の如く、人臣の頻りに神と祀らるゝ御時世に於ては、殊にこの大義名分は明らかにせられねばならぬが、起原の最も久しい各地方の御社としても、その百中の九十九までは、曾ては陛下を顯つ神として、仰ぎたゝへた人々の神靈を祀つて居るとすれば、幣帛は常に下賜であり、神の御應答は先づかしこまりであつたと解することは、國民としては當然の推理とも見られる。固より朝家にも御自らの祭はあつた。殊に蒼生に代つて年を乞ひ晴雨を?りたまひ、さては災厄疾癘の攘却を祈願したまふことは、大いなる政事の隨一であつたが、それにはおのづから定まつた御社があつたのである。他の國中數多くの神々は、偏へにこの畏こき御承認を力として、愈々その威�ｺと靈驗を住民の間に耀かしたまふべきものといふことは、夙に一般民衆の常識とさへなつて居たのである。即ち祈願と報謝との、祭の二つの表現は彼等自身のもので、たゞ他の一つの渇仰禮讃が、官府の支持によつて著しく高め強められることになつて居たのである。この點は程度の大きな差はあつても、指命を受けたる國司郡領、乃至は後世の諸領主の、自發の崇敬に於ても同じことであつたらうと思ふ。しかもその奉幣の期日を、一年の最も主要なる祭の日、もしくは各社の由來最も遠く、最も異色に富むものゝ行はれる日に擇んだのも、多分はこの政策の本旨、即ち信仰統一の社會的意義を、意識してのわざであつたらう。臨時祭の期日がすぐに恒例となつて、?々本祭の翌日と定められたなどは、頗る自分の推測を支持する。乃ちそれはたゞ祭に仕ふる者の激勵であつただけで無く、同時に弘く社外の普通人に、一つの神を知り且つ敬ふ機會を、供與する結果をも豫期せられたのである。その上に平和交通の激増、都市人口の集注と城下町の成長とがあつた。今日謂ふところの官祭が花やかさに於て卓越し、同じ一つの御社の祭に、大小の著しい等差を生じたのも、寧ろ自然なことであつた。私は先年豐後の保戸島に渡つて、土地の老人から、「今宵は小さな神が御降りになります」といふ語を聽いて、非常に珍しく思つて之を「海南小記」に書き留めて置(305)いた。一つの土地の氏神に大小があるべき筈は無い。しかし外側の人々の參加の有る無しといふことは、まづ是ほどにも住民の感覺に影響するものだつたのである。

　

　　　　　　　　　　一一

　

　自分などの解するところでは、官祭はもと所謂官知の御社に、ヌサの贈進せられる日の祭であつた。朝廷が御自ら、諸司に命じて祭らしめたまふものとは異なり、此方にはそれ／”＼土地毎の小さき祭主があつて、夕朝の供饌は其人の任、祈願と御禮申しも其人に由つて住民の總意を傳達した。固よりそれが國家の期する所と、完全に合致して居たことは疑ひも無いが、とにかくに皆その御社の官知以前から、永續して居た式典であつて、新たに之に伴なうて創始せられたといふ祭は、絶無では無いまでも例外ではあつた。然るに祭の御使の參入といふことは、晴れであり大いなる眉目であり、又著しく儀禮の莊嚴を加へた故に、特に其感激が強く濃く、人の心を支配するに至つたのである。地方の神祇のこの殊遇を受けられたのは、元は限られたる數であつたけれども、是がおのづからの統一の指針となつて、汎く一般の信仰を支持して居たことは、記録の側だけでも擧げ切れぬほどの證據がある。後世の諸領主がこの從來の制度に遵依して、競うて領内の舊社に對して、崇敬の誠を表した時代になると、この内外二つの動機は往々にして混同せられて居る。豐稔雨乞風水害の防止といふやうな、民と利害を共にする祈願の祭だけで無く、一身の所謂心願の成就にも、なほ各社の氏人に祭を執り行はしめて、幣帛を奉進するといふ例が、段々と多くなつて來て居る。是は一つには領主の族長意識、自分が祭の主任であり適任であるといふ確信の名殘だつたかも知れぬが、少なくとも斯うして幾箇處もの御社の祭に、同時に仕へ得るといふのは新しい考へ方であつた。しかも一方には進んで敬神の範を示すことによつて、愈々神々の御�ｺを高め、庶民の信仰を力づけようとした前代の政策は、なほ熱心に踏襲せられて居たのである。

(306)　數ある毎年の祭の中で、そのたゞ一つを大祭と名づけ、他を小さな祭とする慣例は、昔からあつたもので無いやうに私には考へられる。官祭を官が御祭りなされるものとする解釋も是と同樣に後のもので、今ならば殆と論議の餘地も無いやうに見えるが、始めてこの漢土の文字を採擇した人々には、或は別に若干の用意のあつたことが、まだ記録の上からでも證明し得るのではないかと思ふ。少なくとも今日謂ふところの官祭以外の祭を、すべて一括して私祭と呼ぶやうなことは、以前は絶對に無かつた筈である。私祭といふ言葉の儼然として古く存するのは、何人も記憶する如く、伊勢の大廟に就てゞあつた。爰では朝廷の任命なされた祭主以外、何人にも御祭を營むことは許されて居ない。如何なる歴史の隆替を經ても、この一國至高の御權能のみは搖ぎ無く、現に毎日何萬人といふ參詣人の路を埋める世になつても、是を以て以前の私祭の禁が、解かれたものゝ如く心得て居る者は一人も無いと共に、一方にはその禁條が法文を以て明らかにせられたまでは、隨意に國民の或る者が、各自の祭を仕へることを認められて居たらうと、推測する者も亦絶對に無いのである。そんなら何の爲に、わざ／＼此樣な法令が新たに公布せられたらうかといふと、私の解釋ではちやうど此時期に、大きな御社の神�ｺが部外に及び、又は最初から定まつた氏子を持たぬ御社が創建せられて、互ひに聯絡の無い數多の氏族が、競うて祭をすることが認められ、もしくは期待せられた結果、それとは等しなみに見てはならぬといふ御趣旨を、改めて宣明せられる必要が生じたのである。それと對比することも畏れ多い話ながら、村々の小さな氏神の社でも、同じく無始の昔からの慣行によつて、祭主に該當するものは定まつて動かなかつたのである。官には知られぬ故に官祭と呼ぶことは許されぬが、少なくともそれは其土地限りの公けであつたから、公祭と名づけて然るべきものであつた。是に對して比隣の異氏族の者が、押掛け祭をしに來るといふことは有り得ないまでも、一門の中には本家と拮抗して自分が祭主にならうと企てる者は無いとも限らぬ。それを制壓して族長の格式を保つ必要は、古い頃から既に有つた筈であり、それが又個々の聚落の大切な秩序でもあつた。此點から見るときは、どんな小さな月々の祭、幣帛の供進も無く御使の參入も無い土地限りの祭も、決して私祭では無く、しかも(307)信仰の統一を期する爲には、爰にも亦私祭は禁止せらるべきものであつた。

　ところが世の中の進みにつれて、色々の變遷が此方面には起つた。一ばん大きなものは氏神の統一、幾つもの異なつた氏族が合同して一つの御社を祭らうとする申し合せで、是には有力なる一つの氏に從屬してしまふものと、大よそ對等なる協力とがあつて、後者の場合には祭主役の輪番制、いはゆるマハリトウ（廻り頭）・一年神主などゝいふものゝ規約が設けられた。斯うなると頭人の不馴れの爲に、段々と輔佐者の地位を重要にし、終に今日の神職制を可能にしたのである。第二の變遷は全國的では無いが、若干の御社の最初から氏人が無く、言はゞ各地離れ／”＼の信徒を集めて、祭を營むやうに出來て居るものが、次第に數が増し又榮えて來たことで、其影響はいつとなしに村々の神社にまで影響して、何の由緒も持たぬ遠來の旅人の爲に、臨時に祈願報賽の祭をすることを、恠しむ者が少なくなり、今や私祭の禁はこの方面に於て、殆と保ち難くなつて來て居る。少なくとも固有信仰の歴史を明らかにせんとする者にとつて、是などは誠に不幸なる混亂であつた。

　それから第三の更に大いなる變遷としては、祭に奉仕した諸國の舊家の退轉といふことがある。明治維新を境として、生活事情の萬般の異動の中でも、是ほど大規模で又重要なものは少ない。族長の没落といふことは昔の世にもあつたらうが、それは唯一つ／＼の出來事であつた上に、以前は氏族の分散と共に、氏の神の祭の絶えるのは已むを得ぬことゝ見られて居た。ところが此度ばかりは、家が去つて御社はなほ殘つたのである。是は兩者の間柄が、既にやや淡く力弱くなつて居た結果とも見られるし、一方から見れば國と社會との外部の崇敬が、之を支持するまでに強力になつて居た爲とも言ひ得る。とにかくに地方には以前の祭仕の家が、留まつてその御役を相續して居る者は、上下を通じて算へるほどしか無く、他は悉くもつと適任と認められる者によつて置換へられ、その人々も亦次々に更代して居る。土地の住民の窃かなる不安は、自分たちの祈願には言葉に表はさなかつたものが多い。神の年久しい御親しみに因つて、單なる黙約として傳はるものを信頼して居た。それが或は個人の熱心なる願望や、新たに外から來た人(308)の事新しい申しごとに押されて、微弱なものになりはせぬかといふ點である。即ち公祭と私祭とのけぢめが、公平なる一視同仁によつて、却つて不明に歸するかといふ心配があるのである。全國屈指の繁昌の御社だけはそれでもよい。其他の場合に於てはよほど此點に氣を付けないと、郷土の連帶の信仰は衰へるかも知れないのである。少なくとも年にたゞ一度の大祭だけに力を入れて、常の日に神を懷ふ者が少なくなつて行く懸念があるのである。

　

　　　　　　　　　　一二

　

　最後に是は民俗學の範圍外であるが、日本の祭を考へて見ようとする諸君に、此ついでを以て語つて置きたいことが一つある。諸君の境涯は、前人のあらゆる好き經驗を習得し、久しく世に隱れて居た法則の發見から、最初の恩惠を受けるのみならず、更に人生の今後の變化に就ても、最も確實に近い見透しを付ける術を學ぶことを許されて居る。假に寸分の迷ひも誤りも無しに、今から一生の計畫を立てゝ進まうとする人が、この中に有つたとしてもそれは少しも意外で無い。寧ろさうあるべきを私も期待して居る。しかし其技術を公有とし、乃至同胞の誰にでも傳授し得るものとせぬ限りは、まだ／＼諸君と同じ條件に惠まれない者が、ちがつた科學以外の方式によつて、その生活上の不安を處理しようとするのを、輕蔑する權利などは無い。少なくとも是を普通とする根本の考へ方を、あらまし理解した上でないと、批評をしたつもりでも實は批評にはなつて居ないのである。

　我々日本人の固有信仰は、昔から今に一貫して、他には似たる例を見出さぬほど、單純で潔白で又私の無いものであつた。欽明天皇の十三年、佛像經卷が進獻せられてよりこの方、大小さま／”＼の宗教は次々に、外から入つて來れば又國内にも結成せられて、それを信じた人の記録ばかりが、いやが上にも積み重ねられて居るが、しかも彼等の側から見て、不信者と呼ばなければならぬ人の數は、いつの時代にも非常に多かつただけで無く、一方には又全國の隅々に及ぶまで、兒が生まれて産屋の忌が晴れるや否や、先づうぶすなの御社を拜みに詣ることゝ、秋毎の收穫の終り(309)に際して、村を擧つて氏神の祭に、一年の歡喜を傾け盡すことゝの二つだけは、殆と例外も無しに現在もなほ持續して居るのである。この一見奇異に近い併立兩存の現象が、果して國教の本質に基くもので無く、すべて外來布教者の勸説智術、乃至は解釋の擴充のみによつて、可能になつたと言ひ得るか否かは、夙に日本の宗教史學の、答へて居なければならぬ重要な課題であつた。是がわかつて居たならばせずともよかつた論諍に、或は大分の力が費されて居たやうにも想像せられる。是非とも今からでも之を明らかにしようと努めなければならぬ。

　方法は必ずしもさう困難なもので無いと思ふ。最初に先づめい／＼が子供の頃から、もしくは現存の年長者たちの、たゞ神樣と謂つて居るものが、何をさして居るかを考へて見るがよいのである。何神何處の神と名を呼ぶのは色々あつても、村には神の森又は御宮といつて通ずるものは一つしか無かつた。二つ以上の門黨が合同して大きな祭を營むやうになつて、特に鎭守といふ言葉も生まれたけれども、是は漢語だから新しい名稱である。女や年寄には依然として、氏神又はうぶすな〔四字傍点〕といふ名が親しみを持ち、それが又各郷土の信仰の、爭ふべくも無い中心であつた。いはゆる神せゝり・佛いぢりの盛んな人たちでも、是と方々の堂宮との内外の區別はおのづから心得て居る。たとへば神を祭るには必ず神主が無ければならぬといふことは、一方では當然の常識であり、他の一方では是が無いのを普通にして居る。即ち誰でも隨意に私祭をして、恠しむ者の無かつた各地さま／”＼の社や祠や御堂の他に、別に古來の慣行の通りに定まつた人が奉仕しなければ、祭とはいふことの出來ぬ神樣のおはしますことを、口にこそ出さぬが認めない者はなかつたのである。その二つの境ひ目が制度と經濟事情の變化とによつて、此頃紛らはしくなりかゝつて居るのである。讀みきれない程澤山の書物は世に出ては居るが、まだこの最近の沿革を明らかにしたものが無い。獨り「日本の祭」の觀察ばかりが、案外容易にこの隱れたるものを心付かせてくれるのである。

　近世以前の信仰生活は、今と比べると遙かに孤立して居た。人は遠い旅行をせず、村と村との間も隔離して、寧ろ對立する場合が多かつた。神を奉じて新たに移住する者以外に、乙が甲から學ぶといふ機會は無かつたのみならず、(310)今でも四國九州と東北地方との間などには、さういふ接觸の可能なほどの交通は行はれて居ない。それで居て神祭の方式だけは、注意して見ると數々の一致を保存して居るのである。是は我々の高祖が最初一つの爐の火にあたり、一つの泉の水を掬んで飲んで居た者の分れであり、しかもいつ迄も昔の感動を、大切に傳へて居た結果とより他には、解釋のしやうも無い大きな事實なのであるが、不幸なことには今まではそれに氣が付く人が無かつた。其代りには一旦それに氣が付けば、其印象は新鮮にして且つ強烈である。諸君の如く無心淡懷に、新たに人生の事實に目を瞠らうとする人々を、聽手として私が歡迎する理由も亦茲に在る。

　言語を唯一の表現樣式として、社會行動を會得しようとする現代人にとつては、實は日本の祭はやゝ靜か過ぎる。外の神々を拜む折には、縷々と心の願ひを陳述し、時としては堂々たる願文をさへ納めようとする人たちが、自分の祭となるとたゞ黙然と式の庭に參列して、千年以前の古文辭をつらねた、少しも理解の出來ない祭の詞を謹聽して居る。さうしてたゞ數滴の神酒をいたゞいて欣んで退出し、先づ祭はすんだといふ樂しげなる顔をして居るのである。見物と稱する皮相の觀察者には、是でも祭かといふ疑ひが起るであらうし、或は又日本では祭といふものが、既に此樣な祈願も感謝も無い只の一つ儀式になつて居るかといふ樣な、飛んでも無い推斷を下す者も無いとは限らぬが、私だけは是が前々からの常の姿であつて、退化でも何でも無いばかりか、寧ろ近代に入つて、之を幾分か物々しくしようと試みた形跡さへ有ると思つて居る。ちよつと考へて見ても判るやうに、祭が滯りなく終つたといふことが是ほどまで嬉しく、よく／＼惡い年でも祭をせずに過すことは出來ず、遠くに出て居る者までが日を算へて、必ず還つて來るほどの祭である。それが内部の切なる要求も無く、又精神上の大きな效果も無しに、たゞ因習の力だけで持續して居る筈はない。簡單な語を以て説明するならば、つまりは我々は言擧げをしなかつただけである。神は人よりも遙かに詳細に、家々の昔を知つて居られる。個々の氏人は産屋を出た當日に、もう神樣に御目通りをして居る。彼等何をこひねがひ何を期待して居るかは、或は本人よりも正確に、神樣は知つて居られるので、普通の人情から推せば、寧(311)ろ外來の神に對するやうに、今更事新しい名のりをせず、單に物忌の條件を守つて黙つて慎み深い拜禮をして居る所に、無限の信頼の意が汲み取られると思つて居るのであつた。よそ外の宗教を見ても、神と人との約束は常に信仰の根柢であるが、我邦に於てはそれが極度に強く久しく、尊い親しみにさへ化して居たのである。神が祖靈の力の融合であつたといふことは、私はほゞ疑つて居らぬのであるが、それを立證しようとすると議論になり、又幾つかの例外を説明しなければならぬので、茲ではその點は假に未定として置かう。しかし少なくとも神の恩愛と同情とは、先祖が後裔に對すると近いものであり、同時に神子神孫の嫡流を以て神主とし、祭を其人の代表に委ねて、他の一類の者が安心しきつて居たことは、昔も多くの重い記録があり、近世にもその例の乏しきを患へない。國の固有の制度は信仰も政治經濟も、すべて互ひに相牽聯して發展して居る。是が國外から後に導き入れたものとの、最も明白なるちがひであつて、何も事新しく政は祭事だといふ點だけを、強調する必要は無かつたのである。しかし社會生活の複雜になるに伴なうて、いつも個々の機能が同じ方向に、同じ歩調を以て進んで行くものとも限らない。たとへば氏族が成長の極、段々と小さく分れ、もしくは強弱の差を現はし、又は相剋の勢ひを生ずると、その統御の方式は改められざるを得ない。人民の遷移が盛んになれば、自然に他氏族との交渉は濃かになつて來る。以前の孤立信仰は保ち難く、異姓によつて祭らるゝ神々の多くなつたことは、必ずしも新國家の統一行政を待たなかつたのである。我々は恐らく其事實を誤り無く認識すればよいので、未來の國策をその確實なる歴史知識の上に打建てる爲には、改めてこの二つのものゝ交渉を、特に政治と相對する祭事の側から、もう一度見なほさなければならぬだけである。

　世界に比類無き神國のマツリゴトの、最も重要なる原則は「承認」であつたと思ふ。朝家が御親ら祭りたまふ一國の宗廟と大社に對して、萬民が無限の崇敬を致すべきことは言ふまでも無いが、同時に他の一方には臣庶の祭り來れる個々の神社を、洩るゝ所なく公認なされ、その若干の最も有力なるものに向つては、祭の日に勅使を派し、或は官府國司をして幣帛を贈進せしめられた。此方策は武家封建の時代にも繼承せられ、更に復古の世になつて著しく官知(312)の範圍が擴張せられたのである。國民の所謂精神文化の統一は此の如くにして成つた。未だ曾て此神を祭れといひ、其方式を改めよといふ類の制令を下すことなくして、天下は悉く安んじたのである。固より根本に一致があり自然の共通があつて、甲乙扞格の虞れが無かつたことも幸ひであつたが、既に蕃神が災ひをもたらすと氣づかはれた時代にすら、なほ「宜しく情願の人に付すべし」といふ勅諚があり、今又憲法には信教自由の條章が掲げられて、特に國教の目は立てられなかつたのである。我々の祭は祈願の爲、又その祈願の容れられたことに、心の底からの感謝を捧げんが爲に營まれる。さうして神が如何なる聖人賢人にも備へ得ざる�ｺと力とを持ちたまふことを信ぜずして、祭をして居る者は無いのだから、普通の定義によれば是は信仰であり、又系統があるから一つの宗教であるとも言へる。しかも國家の力を以て支持して居たのは、單にその神々の尊さを公けに認められる點だけで、其他はすべて皆國民自らの心で、一端は神代につゞく遼遠の昔より、終始此の如くにして永續して居るのである。もしも是が世の所謂淫祠邪神のやうに、我身我妻子の福利欲望のみの爲に、衆を排して近より?らうとする祭であつたら、今頃は多分宗派も分立し牴觸も激しく、從うて國家が一視同仁に之を崇敬せられることも無かつたらう。誇つてよいことには日本の祭は、群の公共の祈願を專らにして居た。幟や提灯に文字を書くことが出來るやうになれば、村内安全五穀成就、更に一歩を進めては天下太平と日月清明をまで念じて居て、是には一郷の者が一人も背馳しなかつたのである。功を社會教育の指導に歸することも私には異存は無い。しかもさういふ善良なる素質があつたればこそ、氏族は衰へても其結合を部落に引繼ぎ、神主たる本家が退轉しても神職を代りに迎へて、之を神主さんと呼んで居る土地さへあるのである。しかしたつた一つの氣遣はしさをいへば、官府に公認せられるといふことゝ、祭司が官府によつて任命せられるといふことゝは、本來二つ別々の事であるに拘らず、前者を重々しく且つ光榮とする結果、祭も亦官府の事務かの如く、混同せられがちなことである。もつと深く立入つて言ふと、この大祭以外の例祭を、あたかも私祭であるやうに觀られやすいことである。この混同は必ず害があると思ふ。敬神は最も由緒ある我邦の神祇政策であり、同時に國民相互(313)の間の美�ｺである。是あるが爲に一國の信仰は統一し又調和した。しかしこの外からの承認がどのくらゐ懇切なものであらうとも、是のみではまだ祭祀の代りにはならない。神は人の敬によつて威�ｺを加へたまふといふことは、貞永式目以來の信條であつたけれども、同時に其反面に於て我々の祭が、常に公共の福祉を目的とした、純一無私のものであつたればこそ、總國敬神の念は期せずして是に集注したのだとも言へるのである。ところが我々のまだはつきりと意識せぬうちに、少しづゝこの根本の要件は變つて來た。第一には個人祈願、他には打明けることも出來ない身勝手な願ひごとを、氏神樣に向つて掛けるものが出來て、是には勿論神主の仲介を頼まない。私祭は殆と内外の區別を無視せんとして居る。次には部内の祭の唯一の條件であつた共同の謹慎を、守り得ない者が多くなつて來た。精進潔齋の戒律が日に弛んで、しかもなほ不淨を忌はしとする感覺だけは殘つて居るが故に、神の黙約に基く年來の恩澤が、果して持續して居るかどうかを危ぶむの念は、愚直な者の間に漸く瀰漫せんとして居る。國の固有信仰の傳統に於て、洵に是は一つの大いなる危機である。しかも一方にはたゞ歴史ある敬神の國是を強調することによつて、永く神國の傳統を支持し得べしと、思つて居るらしき人が居るのである。虚禮に陷ることなくんば幸ひである。

　諸君の如き次の代の有識者に向つて私の説きたいことは、現在も國民の恐らく三分の二以上、以前はほゞ其全數を擧げて、めい／＼に所屬の神を祭つて居た。さうして一定の方式を守ることによつて、無言の祈請の必ず聽受せられることを信頼し、心の平和を保ち得たのである。この事實だけはとにかくに認めなければならぬ。然るにこの祭の方式は寧ろ外部の力によつて、段々に押し崩されようとして居る。前章にも一たび説いたやうに、參拜の參はもと參列の意であつた。マヰルは即ち祭の庭に侍坐することであつて、さういふ人々の中には素より精進潔齋をせぬ者などは居なかつた。ある用意が無く又は其資格を缺く者が、憚つて出て來ぬのも謹慎であり、崇敬の一つの形でもあつた。それが此頃になると人の氣持は變つて、たとへ觸穢があり鳥居をくゞることの許されぬやうな者でも、立ち止つて帽を取り拜をして行かぬと、彼奴非禮といふことになりさうなのである。斯ういふ簡略な拜禮がたゞ囘數ばかり多くく(314)り返されて居るのも、つまりは參詣と稱して外から偶然に來合せた者が、祭の始め終りに參同する暇も無く、もしくは時とも無く路次に立ち寄つて、柴手水《しばてうづ》などゝいふ名ばかりの淨めを以て、神を拜んで居た名殘に他ならぬのだが、信心と敬神との内外のけぢめが明らかだつたうちは、是でもまだ格別の損失は無かつた。一旦是が公人の常の所作と認められて、祭に仕へる者までが斯うすればよいと思ふやうになつて、忽ちに儀典の外貌が改まつたのみか、内部の感覺も亦漸く影響を受けて、見物の群集が祭の中心のやうになり、見物の少ない祭は極度に淋しいものになつてしまつた。昔から此通りであつたと考へることは大きな誤りで、立禮脱帽などは今日の所謂洋服流行より、古い現象では斷じて無いのである。過去の信仰が今見る國民文化の特長に、たとへ一部でも參與して居ると言ひ得るならば、其信仰がちやうど變化しようとして居ることを、冷眼に看過すことは出來ない。固より是がよいとか惡いとかいふことは、容易には言へることでない。世の中が改まれば斯うなつて行くより他は無いのか、但しは又避け得られる道が有るのに避けなかつたのか。其點は實はまだ私なども決しかねて居る。しかし少なくともどうでもいゝ氣遣ひだけは無い。世人の無關心は言つて見れば無知から來て居る。自ら知るといふ學問が、今日はまだ甚だしく不振なのである。

　

(315)　　神道と民俗學

　

(317)　　　　　自序

　

　是は昭和十六年の夏、神社精神文化研究所の希望に應じて、民俗學の大意を説述した筆記に手を入れたものである。元の話は斯んなに長くはなかつたが、例を詳しくし又説明を補足して居るうちに、段々と一册の本見たやうになつてしまつた。しかしあの折に言つたことは一つも落さず、又まるで説かないことは新たに附け加へぬやうに心掛けた。この以外に今一つ、私は「日本の祭」といふ書を最近に公けにして居る。是もある講演の手控へであつて、聽衆が全く別だから同じことを述べてもよいのだが、成るべく言ひ古して無いことが談りたさに、彼には主として神祭りの變遷を説き、此は尊い氏神の成立ちと現?とを考へることに力を入れた。此方が後から出るので自然に續篇のやうな形になつて居る。その二つを併せ讀まれることが、私としては望ましい次第である。

　民俗學が世の誤解を受けて居るのは、今に始まつたことでは無い。一つには解説の拙劣だつた爲もあるが、それよりも大きな弱點といふのは、中心を現在の實際問題に置くことが出來ず、いつも八つ當りか蔭口のやうなものに成りがちだつたことである。今度は幸ひにして不審を抱く人々に對して、大よそその問はんとするものに答へたのである。其上に是は民俗學の方でも、特に重きを置き、又働き甲斐が有ると思つて居る神道の問題なのである。しかもその聽手の多數は、是から大いに次の世の爲に、考へようとして居る人たちであつた。たゞ理解せられたといふだけでも結構だが、恐らくは將來、若干は之を利用せずには居られぬことゝ思ふ。どうか早いうちに少しでもその成果を見て、多年の寂寞無聊の情を慰めたいものである。

　言ふまでも無くこの問題は重要であり、且つ又波及する所が弘い。私は常に自分の故郷の氏神鈴ヶ森の明神と、山下に年を送つた敬虔なる貧しい神道學者、即ち亡き父松岡約齋翁とを念頭に置きつゝ、注意深き筆を執つたつ(318)もりである。固より心にも無いことは一言も言はぬが、言ひたいことの若干は言ひ殘して居る。もし萬一にもこの中に、なほ若い諸君の氣に障ることが言つてあるとすれば、それは熱心の餘りであり、又好き表現法を學ばなかつた爲である。たゞ根本の動機に免じて、寛恕せられんことを冀ふのみである。

　

　　　いにしへの人の心を明らかにさとるさとりも神のまにまに

　

　　　　　昭和十七年十二月

　

(319)　　　　　　　　　　一

　

　神道と民俗學、斯ういふ大きな課題には準備も足らず、又時間も十分とは言へませぬが、諸君の知らんとせられるのは其中でも、特に今日の神道史研究と、私たちの一群が携はつて居る日本民俗學なるものと、この二つの學問はどこが異なるか。二つは結局合同し得るか。はた又いつまでも對立し、抗爭しなければならぬものであるか。此點を明らかにして置かうといふに在るかと拜察します。もしそれならば誠に好い問題であります。この國運の耀かしい進展に伴なうて、更に一段の民風作振が望まれて居る御時勢として、是は恐らく不問に付すべからざる題目でありませう。實は自分も少しづゝは之を考へて居りました。欣んで御答へを致します。

　御承知の通り、神道史の研究の我邦に始まりましたのは、決してさう古いことではありません。神道を説く人は昔から、次々と絶えなかつたのは固よりのことですが、是に歴史があらうとは考へる者が少なく、さういふうちに神道は變遷して居たのであります。この中世以來の雜然たるものを透して、遠い上つ世の神ながらの道を見究めんとせられたのが、感謝すべき先人の勞苦でありました。唯これが如何なる時の力に因り、又は如何なる社會?勢に基いて、移り動き又は改まらなければならなかつたかといふことは、新たに若干の篤學者の、其説明を試みたものはありましたが、調査は必ずしも隅々に屆いたとは言はれません。現在もなほ疑問が多く、從つて又之を釋かうとする人の仕事は續くので、それを御互ひが神道史の研究と呼んで居るのであります。

　神道史の研究は、今日に於てはまさしく一科の學問でありますが、この學問には我々から見ますと、二つの大きな特徴が有るやうであります。其一つは、以前のまだ學問とは言へぬ時代の諸説との、境目・繋ぎ目がはつきりと判つて居ない場合の稀ならず有ることです。是は最も幽玄なる精神現象の、しかも數千年に亙つた推移である故に、人に(320)熱烈なる志はあつたとしても、一朝にして覺り明らめ盡すといふことの出來ぬのは理の當然であるに拘らず、問題があまりに大切であり、又現實の生活と交渉する所が繁いので、他の多くの學問のやうに、或る點不明のまゝで之を次の代に引繼ぐことが出來なかつたのであります。師弟道の美�ｺは、しば／＼其缺漏を補ひました。是より以上は先生の信じたまふところを、まだ隱れたる理由と認めるの他は無いといふ覺悟を以て、我々は學問に入つて居たのであります。今でも師説といふものが、一つの學説に算へられて居ります。其上になほ大きな原因は、必ず信じなければならぬ人々が、主としてこの學問に進んで居たのであります。其結果としては、獨斷が衆を惑はし、又は容易に完成したと自得する危險を、警戒する必要は他の學問より多かつたわけであります。

　

　　　　　　　　　　二

　

　第二の特徴は何かと申せば、資料の多いこと、もつと精確にいふと多かりさうに見えることであります。現代のいはゆる神書は、まだ目録すらも編成中であると聞きますが、其數は多分三萬種か五萬種、本屋の眼から見ればもう確かに汗牛充棟以上であつて、之を一處に集めることはさて置き、人が一生涯に讀破するといふことも、先づ不可能といふ?態になつて居ります。さうなれば自然に分類と要約とが必要になりませうが、其以前に於て既に若干の弊といつてよいものが現はれて居ます。即ち學問に統一を缺き、同じ神道史の研究と謂つても、讀んで感化を受けた書物の種類によつて、甲乙可なりちがつた考へ方をして居る者が出來て來たこと是が一つ。二つにはこの未知の書物のゆかしさの方へ、學問の進路を引寄せられる懸念のあることで、この方が殊に國學の爲には大きな患ひでありました。おまけに是くらゐ豐富に書いたものが有るからには、何も其以外の手段を求めるには及ぶまいといふ考へ方、是は勿論素人の盲評以上のものではありませんが、それでも折々は諸君を惑はさぬとも限りません。其反證に力を入れることは、必ずしも獨り民俗學のためのみでは無いのであります。

(321)　私も曾ては斯ういふ本を讀み、又は集めようとした者ではありますが、さうで無くともこの分類には口を出すことが出來ます。第一に此通り無數に有る典籍が、果してまんべん無く我々の知識の欲求の、どの部分にも應答して居るか否かといふことは、考へて見る必要があります。此民族の久しい過去を三つに分けて、最初の千年餘りは口頭傳承の世でありました。その歴代の記憶の最も確かなものを採つて、文字に移したのが第二期の前半でありました。それが缺け損じも無く傳はつて居るのは、申す樣も無い有難いことでありますが、なほ之を註解して人に説くやうな事業は、久しい間起らずに居たのであります。この第二の約千年は、全體にまだ文獻の乏しい時代といふことが出來ます。神々を崇敬遊ばされた記事のみは、歴史に明確に皆掲げられてあり、之を旁證するやうな史料は、幸ひにしてまだ若干は備はつて居ります。殊に延喜式の一書は全國を綜覽し、首尾具足した貴重なる例規の集線でありますが、是等はすべて皆外部に表はれたもの、即ち萬人の耳目の及ぶ限りを誌し留めたばかりで、内に如何なる信仰があり、又敬虔なる感覺があつて、この年々の祭祀が持續せられて居たかは、あまりに尋常であり當然であつた爲か、文字に殘し傳へたものが至つて尠ない。たゞ朝廷官府の御祭に發せられた宣命や多くの祝詞が有るので、民庶も亦一樣に之を御手本として、その誠意を表白して居たことを推測するのみであります。然るに又次の第三期に入つて、是が不思議なほど詳しく判つて來たのみならず、中には進んで應作如是觀、今まで考へて居たことを改めて、此後は斯く心得よと説く者が多くなりました。さういふ書物を時代の差別も無く、中古以前のものと一しよくたに、數に算へる人はよもやあるまいと存じます。

　神道といふ文字こそは同じであつても、中古以來の解説は法師たちの始めたもので、卜部家の學者などは、寧ろ是に動かされたものゝやうに思はれます。法師にはそれをするだけの十分な理由があり、後世それにあきたらずして、論難し辯證しようとする者の輩出したのも尤もでありますが、是は根本の間違ひが明らかになれば、それでもう目的は終了したものであります。曾て斯ういふ一説があつたといふ事實を知る者以外には、つよく言ふならば一般には用(322)の無い本であります。他の我々が永く參考にしなければならぬ數少ない古代の記録と、斯んなものとを一つにして算へる者があるべき道理はありません。乃ち分類は先づ爰から手を着けて、本が無暗に豐富だといふ考へを、訂正してかゝらなければならなかつたのであります。

　

　　　　　　　　　　三

　

　ところがこの大切な古代の記録には、際限も無く註釋の書が出現しました。訓詁は本來は史學の外でありまして、之に對する態度用意、乃至は準則といふものが別に具はつて居る筈でありますが、我邦では妙に神道家が此方に進出し、御蔭で又一つの混亂が起つて居ります。是は漢字の災ひと謂つてよいものかどうか知りませぬが、何しろ常人の力に餘つた表現が用ゐてある爲に、釋紀纂疏以來、既に秘訓玄義といふ類の解説が簇出し、いはゆる前人未發の卓見が今に至つてなほ絶えないのであります。單なる自由な解釋だけならば、之を我々の學問の外に置いてもよいのですが、其解に據つて又一つの新説を、立てようとする者が以前には有りました。つまりは古典もまだ安心して、其まゝ神道史研究の典據とすることが出來ぬ場合があるので、それだけ又我々の資料が餘分に豐富になつて居るのであります。しかし幸ひにしてこの紛々たるものは、追々に整理せられて來ました。所謂現代譯の要求は偶然ながらも、國としての解釋を統一しようとして居るので、從つて我々は、特にさういふ經過を知らうとする者以外、もはや用濟みのものに苦勞するには及ばぬのであります。

　個々の著述の價値等差といふものは、結局は自分で讀んできめるか、少なくとも信ずる人の判斷に聽くの他は無く、又すぐれた見解の百世に通ずるものが、深く埋もれて居たといふことも絶無とは言へませぬが、實際のところは作者は誰、如何なる形を以て公表して居るかを見ただけでも、大體の見當はつき、又よほど無益の勞は省き得られるかと、私などは思つて居ります。さういふ大雜把なことは承知せられない諸君にも、なほ認めずには居られぬ一つの分類は、(323)一目見ただけでもわかる書物の内容、それが記述の書であるか、はた又辯證の書であるかといふこと、是だけは是非とも區別して置かれてよいかと思ひます。その理由は甚だ簡單で、たゞ事實を知ることのみが、もしくは其事實の綜合理解のみが、神道史であることは多分もう認められて居るからです。もしも此想像がはづれ、前人を祖述し又はある一つの信條を敷衍するものも、なほ神道史の研究だといふ人があるとしますると、話は又些し別になります。

　書物に載せた事實にも、誤りもあれば又稀には偏りもある。記述の書だから皆價値が高いとは言はれぬといふ人があるかも知れませんが、この誤謬と虚僞は發見せられ易く、それを發見するのも亦事實の力であります。之に對して私の辯證といふもの、即ち斯く解すべし、斯く考へるのが正しいといふ意見は、新たなる事實の追加によつて次々と更訂せられて居ります。殊に日本の神道觀では、殆と常法のやうに前説は覆つて居るのです。固より新舊を以て正否は決せられません。二つを比べて取捨を定めるのも、乃至は兩立併存を認めるのも、すべて皆我々の判斷でありまして、其判斷の根據となるものは結局は集積せられたる知識であります。單なる氣に食はぬ氣に入つたを以て、信不信をきめないのが學問だとしますれば、いはゆる神書の二種別は、其用途に於て既に大きな徑庭があるのであります。一方を丸々無用とまでは言ひ切れぬにしても、役に立つものは主として記述の書でありまして、しかも是だけならば格別多過ぎるといふ程では無いのであります。

　

　　　　　　　　　　四

　

　汎く神道の變速に關することならば、何なりとも一通りは知つて置かうといふ人たちには、或はまだ氣づかれぬかも知れませんが、もしも一つの問題に中心を据ゑ、又は特にある事柄を詳しく尋ね究めて見ようとせられる諸君ならば、この資料の有限性は、恐らくは既に感じて居られることゝ思ひます。一見有り餘るが如くに見える現在の文獻も、是を年代に配當すれば、極端なる近世への片寄りが有ると同樣に、之を全國の廣い地域に比べ、又は我々の知らんと(324)願ふ題目に割り付けて見ても、資料に著しいむら〔二字傍点〕のあることは否めませぬ。京畿と其周圍の國々には、文字の恩澤が先づ及び、もしくは之を利用し得る者の來往が滋く、そこに記録の濃厚であるのは寧ろ當然の結果であります。その記録にも書き傳へられる必要のあつたものと、さも無きものとが有つたことは確かで、通例あまりにも類が多く、誰しも當り前の事として記憶を心がけなかつたものが、世の中が改まつてしまふと却つて缺漏となるかと思はれます。たとへば山に入つて山の神を拜み、水の惠みを受ける者が水の神を祭るといふことは、近年始まつた風習で無い筈でありますが、この信仰を書き傳へたものは殆と一つもありませぬ。是等は皆有りふれた事であり、記録の目的はもと尋常に超えた事、もしくは後代の規模として永く忘れずに居たいことばかりであつた爲かと思ひます。

　或は是だけを代表的の記録として、其他は推して知られると安んじて居る人も有るでせう。民族生活の純一なる、外部の攪亂の存外に微弱であつた我邦では、この臆測もある程度までは許されます。しかしそれは題目にもよることで、どれだけ明確な前代の記録があらうとも、山の神海の神田の神井の神等々の祭と信仰とは、是に准じて理解し得るといふわけには行きませぬ。從つて斯ういふ神々だけは神道の外のやうに、多くの文獻派からは認められて居たのであります。そんな無謀な斷定は無いと思ひますが、今はそれを爭ふべき機會でありません。それよりも單に前代の記録の無いものが、すべて大御國の固有信仰でないと言ふならば、現在この國民の八割九割、かつては全部の者が産屋の戸を出るや否や直ちに宮參りをして一生の間、御仕へ申して居た氏神樣はどうでありませうか。昔は藤原とか橘とかの一族の者が、氏の上を中心に祖先の神の御社を祭つて居りました。現在の氏神は村に住する者の限り、異なる苗字の家々も協力して、一つの土地の神に奉仕して居るのみならず、其神も多くは國中の大社から、御迎へ申した大神の御分靈となつて居るのであります。名のみは一つでも内容は改まつて居て、しかもどうして斯く改まらねばならなかつたかを、解説しようとした資料といふものは得られないのであります。書物を忠實に捜して見さへすれば、すべての現在の我々の不審は、明らかになるといふ樂觀は棄てなければなりません。つまりは根據も無くたゞ後世はま(325)ちがへるものだと思ひ、もしくは小民は何の理由も無しに、正しくないことをする者だと言つてしまふか、さうで無ければ各自の利用し得る材料ばかりに依つて、わかつて來さうな題目だけに研究を限定するかで無ければ、この一見豐富と見える古今の典籍のみを以て、神道史といふ一つの新しい學問を維持することは困難だといふことが、もう薄々は感じられて來て居るのであります。

　

　　　　　　　　　　五

　

　右に擧げました神道史研究の二つの特徴は、或はまだ心付かずに居る人もあり、或は少しづゝさういふ感じがするといふだけで、今もはつきりとは意識せぬ人もありませう。とにかくに是は銘々の體驗すべきことで、人から説かれたとて直ぐに其氣になれるものではありません。それを私が指出がましく、聽衆の感情をも顧慮せずに、やゝ濃厚に絮説しました動機は、實は是によつて今日問題となつて居る日本民俗學の立場を、鮮明にしたい爲ばかりであります。手短かな語でいふならば、この二つのやゝ珍しい性質を全く具へず寧ろ他の一方の端に飛び離れて居るものが、我々の民俗學だからであります。二つの學問の差異を明らかにすることがもし必要ならば、最初には先づ消極的でありますが、此點を力説するより他は無いのであります。

　學問の目的又は之に由つて知り究めんとする事柄の種類を以て、科目を區別する風は現在は流行つて居りますけれども、もしさういふものを標準とするならば、二つは少しでも對立などはして居らぬのでありまして、民俗學は寧ろ神道史研究を志す學問、もしくは神道史も亦民俗學の重要なる項目の一つなのであります。外國の同種の學問を御覽になつてもわかりますが、是に携はつて居る者の研究は多端であり、又幾分か雜駁であります。ある人は一生涯「昔話」の蒐集に力を傾け、その各民族の間に行はれるものゝ比較によつて起原を尋ね、殊に神話といふものとの關係を明らかにしようとしました。又ある人は現在の信仰理念もしくは教育の效果に照して、何としても理解の出來ない色(326)々の小さな習慣に注意し、それが大昔の智能未だ進まず、又は今とちがつた自然觀人生觀が普遍して居た時代に、學んで浸み込んで居たものが偶然に保存せられて、時としては無意識に再現するものでないかを考へて見ようとして居ります。誕生と死亡の大きな區切り、その中間に於ける人生最大の變化、子供が大人になり、若者が夫婦となるといふ時期に際しては、必ず事々しい儀式があつて、それが又民族毎に顯著なる特質を、古くから持傳へて居るやうに見えます。辛うじて言語を解する程度の外來の觀察者には、たゞ外形の意想外のものが、奇風異俗として映ずるだけでありますが、同じ雰圍氣の中に成長した同胞には、言葉に現はされない内部の感覺、行事の齒車とも滑油ともなるものを、さながらに會得することも困難で無い。それでもし出來るならば國内の人どうし、これを細かく觀て考へようといふ傾向が、段々と盛んになつて參りました。しかも儀式のたゞ一囘の表現では、それをさう有らしめた根本の理由は呑込めない。もう一つ深部に入つて家門の構成、それを團結させて居る氏族部曲の力を究め、結局は戀愛も亦一つの社會機能であるが故に、群の制御といふものが暗々裡に働いて居り、それが又國毎に異なる態樣のあるものだといふことがわかつて來まして、今や族制の研究は急に著しい進展を見たのであります。算へ立てるならば民俗學の引受けなければならぬ仕事は、まだ／＼此以外にも色々とあるのでありますが、その恐らくはすべての部面に通じて、最も重要なる底の動力、今まではあまり氣が付かれず、是がわからぬ限りは一切の現象に、一部の不可思議といふものが殘留するのを奈何ともし難きもの、しかも殆と個々の民族毎に、互ひにちがつて居て且つ知らずに居るものは、祖先以來の信仰でありました。今後如何なる分業が民俗學の中に行はれようとも、この根源の一つの問題即ち家と先祖の祭といふことだけには、すべての研究者の關心が集注せざるを得ぬのであります。それが日本で言へば神道史の研究になるのですから、是を民俗學の領分の外と見ては、承知せぬ者の多いのは當然であります。

　

(327)　　　　　　　　　　六

　

　西洋の民俗學には、其隣に重なり合つて分堺に困るやうな、在來の神道史研究といふものは有りません。それは自明の話であつて、彼等の信仰には上代のものと、中世紀後のものとは別種であつて、國固有の古い信仰は基督教徒の省みる所では無く、年代も久しく經つて居ますが、寧ろ埋もれるだけは埋没させて居たのであります。新たに發見せられる前代信仰の痕跡といふものが、本ものか誤つて居るかは決し難いのみで無く、それがどちらであつても氣にする人は、今の信徒の中にはあまり居ません。是に反して我々の固有信仰は活きて居るのであります。佛法は神道よりも以前から、神道の以上にやたらに本を書いて置く宗教で、しかも神道とはちがつて、民間の微々たる個人の行跡まで、又は小さな路傍の御堂の歴史までを、文字にして後に傳へようとしました。單に分量の多きを競ふならば、さしもの神道家もきつと負けます。第一にこの方は關係者の數がずつと少ないのに、出した本の種類は遙かに多く、それも目的に從うて成るべく澤山の人に、讀ませる樣に力を費しました。殊に公邊上流の人々との交渉よりも、地方常民の生活に觸れようとした處に宣傳の趣旨があります。もしも下手に斯ういふ書物を集めて見るならば、一天四海は悉く佛法の何れかの宗旨に歸依して、日本は乃ち文字通りの佛教國に、なり切つた時代もあつたかの如く、速斷する人が無いと限りませぬが、實際には昔も今も一樣に、彼等の目から見れば不信者と言はなければならぬ者が、國民の大部分を占めて居たのであります。勿論念佛は民間の宗派で、曾ては祖師に附いて踊躍した者が、萬を以て算へられたこともあつたと云ひます。法華は之に次で教團を百姓の間に打立てようとしましたが、御覽の通り其勢力は地方的であります。其他の各派に至つては來る者は拒まず、單に葬送と宗門改めとのみに、一人も殘らず何れかの寺の管轄に屬しただけで、念佛も年を取つて息子の嫁を迎へてから、法事と棚經の時の外には、坊主とは附合はぬといふ人は幾らでもあつたのであります。是に反して氏神の神社のみは、何等の行政上の要求も無くて、どこの誰でも皆持つて居(328)りました。生まれて三十日目の初出の日には、産土神の御社に參らぬ者は一人も無く、七つの歳に潔齋をさせて、改めて氏子入りをさせて居た土地も多いのであります。海外の旅行の出立と歸着にも、都市のまん中でもなほ氏神社の祭典が行はれて居ます。日頃改まつた願掛けはせぬ者でも、不思議に命を助かつたといふ場合には、先づ氏神樣に禮參りをして居ります。殊に珍しいと思はれますことは、九月終りの日の「神の御立ち」の前夜に、神の縁結びといふことが氏神社頭に行はれ、うつかり離れて居て別の人に指さゝれると困るから、成るだけ神前に近く寄り添うて立つて居て、これとあれとが女夫ときめていたゞくといふやうな俗信が、各地方の村の青年男女の間には有りました。たわいも無い話のやうに神職は評して居ませうが、本來氏神樣は知り切つて居られたのであります。何代とも算へられぬ祖先の世から、人は生まれるとすぐに御目見えをして、毎日のやうに境内に來て遊びました。親祖父母以外に子供の成長ぶりを、又はどういふ心願が胸に萌して居るかを、氏神さまのやうによく御存じの方は、他に無いと考へられて居たのであります。年々の御祭もこの信頼によつて、事新しい祈願が行はれなかつたのであります。たとへ今日では其本志を忘れた者があり、又は他處の神佛に熱烈なる祈?を籠める者が出來ましても、其爲に我々の信仰の根幹をなすもの、即ち氏神と氏子との年久しい縁故は、未だくつがへつては居らぬのであります。是が根本は國の始めからのものか、乃至は後々徐々に改まつて此樣になつて來たのかは、是から考へて見なければ勿論決しられませんが、どちらでも無いといふ氣づかひは斷じてありません。「神道」を南都北嶺の法師の造つた語とせぬ限りは、現に信じて居るのだから、是こそは神の道であります。さうして其信仰が國民の最大多數の者の、生活行動を支配して今日に至つたのです。國の文化の成長を考へようとする人々に、その神道史の研究だけは手を着けるな、それだけは別にして此方に任せて置けといつて見たところで、そんならといつて引下る筈はありません。殊にこちらがまだ方法を制限せられ、答へられぬことが多く、又少々はドグマで補充しなければならぬ部分の存する間は猶更のことであります。

　

(329)　　　　　　　　　　七

　

　二つの學問の對立などゝいふことは、決して永遠のものでは無いと私は信じて居ります。つまりは其學問の成長して居る期間だけで、究竟は人を賢明にすること考へ深くすることの大きな目的に、すべての科學の歸一する時が、來ようかとさへ夢想して居るのであります。しかし現在はとにかくある一人の生涯に、一ぱいになる程の仕事がある以上は、いやでも分業にする他は無いのであります。もしも諸君がこの分類無き文獻の重荷に堪へ得ず、是を整頓して消化してしまふ迄には、結構各々一人の一生は費えると思つて居られる限りは、たとへ民俗學の主要なる目的が、國の神道の推移を跡づける點に於て一致して居ても、尚且つ別箇第二の學問であることを否むわけには行きませぬ。方法が恐らく丸でちがひ、態度が始めから異なつて居るからであります。但しこの態度だけは追々と共通にして行くことが出來るかと思ひます。即ちいやしくも史學といふからには、必ず文字に表はされたものだけを、證據にしなければすまぬといふ今までの考へ方を改めて、先づ知りたいといふことを先に立て、書物で學べぬとならば其以外の方法でも、とにかくに今まで斷念して居たことが、少しづゝでも判つて來れば嬉しいといふ心持にはやがてなれるのであります。國學院などでも大場樋口などゝいふ篤學者が出て來てから、神道考古學といふものが認められるやうになりました。靈地に塚があり塚の底から祝部の土器が出現すれば、それが遠い世の信仰行事に結果することも略々推測し得られ、書いたものとでは微塵も無いけれども、此限度に於ては古人の所作が復原し得られるのみか、事によると今まで理解の外であつた過去の記録に、ある解釋の手引きを供與するかも知れない。是だけはとにかくに新たな所得であつて、他流のものだから無いも同然に視るといふほどの、頑なゝ人はもう捜しても居ないでせう。或は最初にはそんなに迄して、わからぬ事を知らうとせずともと、内心考へて居た人はあるかも知れませんが、既に掘り出してしまつた以上は、是も新しい事實なのであります。民俗學などは地上採集であり、事が又現代に繋がつて居るのですから(330)平凡には相違ありませんが、近年の發見は又大分に量が多く、しかも偶然ながら各地方の一致が認められて、すでに通則といふべきものが考へられて居ります。從つて是も必要なる又一つの方法だといふことを、たゞちよつぴりと承認しただけで、諸君にとつては可なり有效な補助學となるのであります。私の話はさし當り、さういふ處まで漕ぎ付けるのが目的で、決してさう多くの改宗者を期待しても居りません。又さうすることは自他ともに利益では無いのです。民俗學の資料の證據力といふものは、現在はやゝ峻酷に評價せられて居りますが、是あるが爲にどの位我々は斷定に注意深くなつたか知れぬのであります。元はたつた一つの珍しい事例があると、それを論據にして勝手な空想を振りまはした者もありましたが、さういふ連中はもう小さくなつて居ります。私たちはたゞ今まで考へも付かなかつた一つの假定が、新たに評定の題目となることを樂しみとし、それを目に着く所に掲げて置いて、今後の資料がそれを支持してくれるか、もしくは反對に打ち覆へしてしまふかを、試みて見ようとして居るだけです。資料の採集の今日のやうに活き／＼と進行して居る學問で無いと、是はちよつと得られない快樂であります。

　

　　　　　　　　　　八

　

　それから今一つ、是は相應に氣になることですが、民俗學は書かれたものを粗末にする文獻無用論を唱へて居るといふ評判が立つて居ります。是は前にもいふ方法のちがひからであつて、我々は單に文獻の聊かも備はらざる區域にも、なほ勇猛に疑問を抱いて、どし／＼と入つて行き、又解決の路を求めるといふだけであります。記録が無いからといつてしよげて戻つては來ない。土地の人々の口傳へとか記憶以外に、いはゆる證文の全く無い場合にでも、確かに又新しい知識を穫ることが稀ならずある。是非とも書いたものゝ有る無しを問ふ必要は無い。たゞ斯ういふ意味に於て、文獻を無用とするのであります。延喜時代の國々の大神の御名、又はその御祭に具へたまふ供物幣物の品々、さういふことがもし知りたい場合に、延喜式を排斥する馬鹿者があるわけは無い。寧ろよく／＼の必要があるべきこ(331)とを知つて、日頃からも古い書物を大事にして居ます。たゞさういふ文獻のみを利用した研究をして居ないのは、必ずしも此方面には諸君の如き濟々たる多士あることを知つて、競望をさし控へて居る爲ばかりでは無い。又必ずしも自分の殘齡が既に乏しく、手分けをして馴れた仕事に專心しようが爲でもない。正直のところ此勞は償はぬからであります。今まで何ぞの折に本を讀めば判るかと思つて、幾たび苦い經驗をして居るか知れないのであります。勿論自分の心に抱く疑問が、偏しては居ないまでも自由なものであつたからとは言へるでせう。現代の地方をあるいて見て、我々の同胞が是ほどにまで、心を打入れて居る色々の信仰行事で、古書には勿論近い頃の人の記述にも、解説どころか注意をさへして居ないものは數多い。殊に祭の日の異常心理に至つては、今でも身自ら體驗をした者しか知つて居ません。斯ういふ體驗者が國内に充滿して居るうちはよいが、今は祭にはづれなければならぬ人の數が、必然的に激増して居るのであります。此まゝで若し進んで行くならば、或は是ほど偉大なる國民大多數の者の昂奮も、全く無かつたと同じに歸する時が來るかも知れません。又現にそれを注意せぬ人も多くなつて居るのであります。だから私などは記録の無用を説くどころか、寧ろ新たに今日の實?を傳へる文獻を、後世の爲に増加したいとさへ念じて居るのであります。

　國の學問の永續、代を異にして同じ民族の中に生まれた者を、智惠と覺りに於て提携協力させる爲には、書物は殆と唯一の媒介であります。是を無用視することは、取りもなほさず各人を小さくすることであります。たつた一つの今と昔との違ひは、古人は世の中が是ほどにも急激に、變化して行くだらうとは豫期しなかつたのであります。それで有りふれた毎年の出來事は、書いて傳へるにも及ばず、又我々が此樣にまで、忘れて思ひ出すに骨折るとは考へなかつたのであります。それに氣がついたといふことは、大切な經驗と言はなければなりません。それ故にたとへ我々の學んだことは小さくとも、再び子孫をして同じ勞苦を繰返さしめない爲に、確實な知識だけは積み重ねて行くべきであります。或はまだ確實とまでは言へないものでも、茲に答へられねばならぬ問題が有るといふことゝ、それには(332)まだ是だけの假定しか立てられなかつたといふことゝ、即ち我々の「無學」も亦、次の代に引繼がるべきものであります。昔の人たちが只新しい先例と特異な出來事だけを書き殘さうとしたことは、今となつては不幸なる親切でありました。御蔭で前代の最も普通なるものが埋没し、何れは無意味に歸してしまふやうな紛々たる末書ばかりが、我物顔に立ちはだかつて居るのであります。今日はもはや其樣な人も無いとは信じますが、もし萬一にも現存の文獻のみによつて、學問の方向が指導せられるやうなことがあつては、神道史研究の社會的意義などは、言ふにも足らぬものになつてしまふかも知れません。

　

　　　　　　　　　　九

　

　民俗學は諸君も知らるゝ如く、最初民間に起り、今とても官府の學問の外に立つて、我々見たやうな何でも無い者だけが、主として是に携はつて居ります。或は其爲に幾分か研究が下層に偏して居るかも知れませぬが、實際又問題はこの部面に多いのであります。今日の文運隆昌を以てして、なほ不可解の語を以て評せられなければならぬ現象が、爰だけにはまだ幾らもあり、しかもさういふものが國全體の行動を、支配はせぬまでも牽制して居るのであります。わざと文獻の役に立たぬ區域を擇んで、餘計な骨折をして居るかのやうに見られても、是はもう致し方の無いことです。好んで其樣な穿鑿に入つて行かうとしなくても、毎日の生活から起つて來る疑問が、自然に此方へ集注して來るのであります。それ故に是を又一つの神道史研究との差別點と、見ることは誤りで無いと思ひます。但し今までの神道史家とても、それを官府の學であると謂ひ、又はたゞ京畿緒紳と武門土豪だけの信仰を跡づける學問で、弘く國土の隅々には及ばぬものと謂はれたら、怫然とするにきまつて居りますが、正直のところ彼等の能力には限度がありました。殊にその根據として居る文字資料なるものは、獨り年代と地域との大きな偏倚が有るのみで無く、之を著作した者も亦甚だしく限られて居りました。即ち大抵は專業の神職、又はその相談相手となつて居る一種の學者、さうで(333)無ければ係りの役人といふやうな、下品な言葉を使ふことが許されるならば、神に依つて衣食をするやうな人ばかりで、關係はもつと深く感激はもつと大きかるべき土地々々の住民は有つても、さういふ人たちの經驗記録などは寧ろ稀なのであります。少しは利害を超越した局外の人々の手に成つた記録といふものが、有つてもよいと思ふのでありますが、それは近年の郷土誌時代までは、どの方面にも得られなかつたのであります。故に自分たちが記録に重きを置かず、寧ろさういふものゝ少しも無い御社に就て、新たに見聞くところを存録しようとしましたのは、消極的ながらも一つの用意であります。例を擧げると話が長くなりますが、たとへばある御社の創立の事情、是などは却つて何の古記録も留めて居らず、いつの頃よりかと言つて居るものゝ方が、奧ゆかしさは遙かに優つて居ります。縁起はごく僅かの例外を除いて、大部分は江戸時代の上半期に出來たもので、文體には明らかに一つの型があり、産地さへほゞわかつて居て、決して各地獨立して生まれたものではありません。社記社傳の是を參照とせずに、又はそれと兩立せぬ點の存することを顧慮しないで、書かれたものなどは稀にしか有りません。古書に旁證が有ると申したところで、それはたゞ前方その御社の存在したといふことを示すのみであります。たつた一つの土地で自分たちの縁起を拜讀する場合ですらも、實は正直なる氏子たちの、首を傾ける場合があるのであります。少なくともめい／＼の知つて居らぬことが書いてあつて、書いてあるべきことが?々略かれて居ります。ましてや一時に又は引續いて、澤山の御社の舊記を見なければならぬ者、たとへば社寺の係り役人といふ類の人々は、口には出さぬかも知れませんが、夙に縁起は斯ういふものだといふことを知つて居まして、是を今日の意味での證據といふものには算へて居りませぬ。事柄が絶大な重要性を帶び、又うそ僞りの無い人々の心に關するものであるだけに、是は容易ならぬ?態と申さなければなりませぬ。又さういふものばかりの地方に溢れて居るのを、よくも讀んで見もせずに、たゞ漠然と文獻の豐富のうちに算へるといふことは、心得ちがひと言はずには居られません。證據は如何なる場合にも、集めて行くほどづゝ濃厚になつて行くものである筈なのに、弘く知れば知るほど、比較を重ねれば重ねるほど、段々と恠しくなつて來るもの(334)を、知識と認めるわけには行きませぬ。是は今日の如く交通が進み、全國一齊の學問が大いに起つて來た際には、殊に考へなければならぬことで、人を割據孤立の姿に置いて、辛うじて心に疑惑の萌すのを抑へて置くなどゝいふことは、もはや出來ないことなのであります。必ずしも文書の乏しい土地ばかりを捜してあるかずとも、少なくともさういふものゝ有る無しには頓着せずに、專ら比較によつて追々と明確になつて行くやうな知識を集めることに、力を盡さなければならぬと思つて居る理由は是にあります。

　

　　　　　　　　　　一〇

　

　そこで改めて民俗學特殊の方法といふものを述べて見ますが、我々は先づ今まで知らなかつた事實を知る爲に、出來るだけ泉の源に就て汲まうとして居るのであります。採集といふ言葉が、植物や昆蟲などの方面には久しく行はれて居るので、人にわからせる必要上、之を借りて使ふことに致しました。すべての採集も同じやうに、採集には技術があり又頃合ひしほ時といふものがあります（この事は採集期と採集技能と題する一文に述べて置きました）。目の採集は安全で又簡單ですが、其代りに判斷に骨が折れ且つ機會が少ない樣であります。耳で話を聽くのには、相手の選擇が必要となります。被採集者といふ名も失禮ですから、假に故老と呼んで居りますが、この「故老」には女性もあり、又血氣旺んの若者子供さへあります。うそをつかぬだけなら大抵皆確かですけれども、時々は二つの事を混同し、又印象と記憶とは有りながら、表白のすべを知らぬ者もあります。書物や人の説に累はされて、多分の意見を加味し參酌する人も所謂インテリの中にはあります。たゞ幸ひなことにはある年齡に入ると、曾て自分も同じ年頃の人から、諄々と説き聽かされたことを想ひ起し、之を語らずには終るまいとする氣風が、日本人の中にはまだ強く殘つて居るのであります。是は國風を維持した古來重要な國民性の一つかと考へますが、最近の教育制度は青年の心理を變化させまして、斯ういふことに耳を貸す者を少なくし、又其樣な機會を奪ひました。それで落膽し又無聊を感じて(335)居る故老を多くしたのであります。我々の採集には特に企てなくとも、よく斯ういふ人たちに廻り會ひます。しかし大體からいふと、話の出やすい時刻季節、又は追憶の殊に鮮明になるやうな一種の昂奮期といふものが有るかと思はれます。それを巧みに捉へ又うながし出すといふことは、又採集者の態度修錬に由ることなのであります。

　私などがこの經驗を積み始めてから、もう彼是三十年以上になりますが、其間には自分よりも遙かに明敏で、且つ勞苦を惜まず、從つて澤山の仕事をして居る人を、次々と發見しました。この人々の技能は、何が大切なる學問の資料かといふことを見究めることで、たゞ何でも斯でも多量に集めるといふことは、實は效果の乏しいことなのであります。しかもさういふ切れ／”＼の資料といふものは、めつたに即座の役に立つといふことはありません。どんな珍しい意外な事實、よほど古くから變らずに傳はつて居ると思ふことでも、たつた一つしか發見せられぬうちは、中々安心して學問の用に供することは出來ません。縁もゆかりも無い懸け隔れた土地に、寧ろ少しづゝ形をかへて、幾つとも無く併存して居たことを知つて、始めて古い生活の痕跡といふことが想定せられます。しかもそれが我々の今抱いて居る疑問の、ちやうど答へになるともきまつて居らぬのであります。他日同學の人々の手によつて利用せられ、又大いに感激せられるであらうといふことを豫知して、ある不定の期間之を保存することも、採集者の技能のうちなのであります。即ち我々は文獻の備はらない區域に、新たに一種の記録を積み立てようとして居るので、此點から見ると一方の有り餘るものを整理して行く必要があるのと、ちやうど正反對といふことが出來ます。

　右の採集記録は、近年ぽつ／＼と本になつて世に公けにされて居ります。しかし大部分はまだ人の手帳に殘り、もしくは切れ／”＼に雜誌に掲げられ、或は郡誌などの中に散見して居るだけであります。特に民俗學の用途は考へずに、無意識に方言集などに拾ひ上げられて居るものも若干はあります。その一つ／＼は素より小さな事實で、是が累積し且つ比較綜合せられて、何かの大切な過去の生活を談るやうになるまでには、相應の歳月を要し從つて管理の問題がこゝに起ります。折角全國人の公有に屬した知識が、單に小さい爲に又はさし當つての用途が無い爲に、再び忘却に(336)復してしまふのは忍び難いことであります。それで私どもはもう十年ほども前から、假に民俗語彙と名づけて居るものゝ計畫を立てました。即ち將來この學問に携はる人々の、いつかは利用するであらう資料を、言葉を目安にして、成るべく一處に集めて置く仕事であります。それ自身が直接に學問の活動と言へぬことは、他から批評せられなくとも判り切つて居ります。たゞ何人かゞ公けの爲に、其勞苦を提供しなかつたら、單に採集がむだになるだけで無く、或は後々はもう捜しても容易に見付からぬ時が、來るかも知れぬからであります。

　

　　　　　　　　　　一一

　

　日本民俗學が諸君の眼から、何か些々たる時世と交渉も無いやうな題目の穿鑿に、うき身をやつして居る樣に見える原因は、主としてこの採集の注意深さと、是を再び散らさぬやうに努める熱心とが、在來の神道史研究には全く無いからであります。勿論採集者の感受性は、竝より遙かに鋭敏になつて居ります。それが何だと言はれるほどの小さな現象でも、我々にはうつかり看過すことが出來ません。殊に今までに經驗したことゝ結び付けて、隱れた意味を推測しようとする態度は、時としてはやゝ行き過ぎといふ處まで進んで居て、それに心づいて空しく引き返して來るやうなことがあるかも知れません。しかしその御蔭を以て、少なくとも問題は非常に多くなりました。もつと具體的に言ふと、この人生にはまだ何等の説明もしてなかつたことが、無數に殘つてゐるといふことが判つて來ました。獨り固有信仰のみと言はず、弘く國の文化の發達展開の跡を究める爲にも、幾多の新たなる目標を之に由つて捉へ得たのであります。いはゆる道の山口の栞は、しをられたのであります。

　事を好むといふことが、果して學問の上にもなほ厭はしいことであるか否かは、各位と共に是非討究して見なければなりません。ちつとやそつとの骨折では、到底解けさうにも思はれぬ問題が、この世の中に有ることは確かだが、それへ近よつて行くたゞ一筋の途は、行く手に横たはるもつと小さな障碍、即ち釋けば釋かれる問題を一つでも數多(337)く、處理して進むより他はありません。それが假に大疑の片端で無いとしても、少なくとも問題は答ふべきものであり、又答へ得られるものだといふ經驗は養はれるのであります。歴史の方面には、今まで知らぬことを知らぬとは言はずに、そんな小さな問題は答へるに及ばぬと、言つてごまかす者が時々ありました。その小さいといふことは如何して知つたかと、私はいつも冷笑して居るのでございます。民俗學がこの茫洋たる學問の曠野を前にして、豫て知らんと願ふことは未だ知られず、誰も問ふ者の無かつた事實が先づ採集せられて來て、問と答とが?々喰ひちがふのは、我々に取つて明らかに一つの苦惱でありますが、是は國人の協力が、やがて大きな效果を擧げるといふ、前兆と見ることも出來ます。とにかくに問題の新たに生まれることを避け怖れる必要は無い。寧ろ各人がたつた一つのものを抱きかゝへて居るよりも、互ひに他の者の持つ疑問を知つて、扶け合ふやうにした方が所得は多いと考へて居り、其爲に又我々の團體は、文字通りの知識の問屋になつて居るのであります。さうして一方の今までの神道史研究は答屋であるとすれば、此點が又恐らくは二つの學問の、大きな相異かと思つて居ります。

　この問屋の荷物も、もう少しづゝは片づいて來て居ります。それが多くの神道史家の、好意關心を御寄せ下さる點でもあり、又兩者の期する所の、存外に相同じかつたことを立證するよすがともなるのでありますが、何分現在はまだ成績も僅かであつて、取立てゝ吹聽する勇氣も我々には有りません。たゞそれよりも今度爰で御話をして見たいと思つて來ましたのは、程無く解決の出來さうな疑問を、無數に我々が抱へて居るといふことであります。固より自慢にも何にもならぬ話ではありますが、私の方では好い年をした者までが子供の樣に、それはなんのこと、どうしたわけであらうかといふ不審をすぐに起します。寧ろ疑問を以て學間の發足點と認めて居ります。しかも不可解を樂しみにして居るのではありませんから、世のいはゆる懷疑派とは違ひます。失禮とは思ひながらも、先輩の言はれることまで一應は訝かつて見ます。さうして納得が行けば始めから信じて居た人以上に、熱心に是に追隨します。證據といふ言葉を法廷以外へ持ち出したのも、或は我々が始めだつたかも知れません。これとても「採集」と同じに、有合せ(338)の言葉を利用したまでゝ、攻撃の下心などは全く無いのですが、とにかくに師弟道を基礎とした是までの文化科學には、異樣に響くであらうことは覺悟して居ります。それを又改革することが、今日の急務だと思ふからであります。判りさへすればよいものを、問題といふのも大袈裟であると同樣に、事實といふ語もやゝ濫用かも知れませんが、我々は單に各自の作りごと、一人で勝手に考へ出したことで無いもの、即ち誰が見ても聽いても、何度試して見ても、何處に行つても同じであることを、すべてさう呼んで居るのであります。ぼんやりとして通り過ぎてしまはぬ限り、普通の人ならば斯ういふ事實に出くはせば考へます。その考へを系統立て綜合して、ある「さとり」にまで持つて行きたいのが我々の素志であつて、それも國民教育の普及した今日、決して實現を望み難いことでは無いのですが、言はゞ問題がやゝ入組んで居る故に、まだ準備時代の少し困つた所を御目にかける他は無いのであります。

　

　　　　　　　　　　一二

　

　人が正しく覺らんが爲に先づ疑ふのを、惡�ｺのやうに見ることだけは止めなければなりません。それと同時に子供が何をでも平氣に訊く如く、人は公然と自己の無識を表白する勇氣を持たなければなりません。わかつた樣な顔をする風習、是が日本では悲しむべく瀰漫して居ります。試驗制度の弊ではないかと私は憂ひますが、一方には又少し講釋も過ぎるので、黙つて居るとまだどの位聽かされなければならぬか測られない。乃ち一種の防禦線だつたかもしれぬのであります。此方は第一に年を取つた我々などが慎むべきことです。同じ時代に生まれ同じやうな本を讀んで居る者の間に、そんなに大きな知識の隔絶が有らう筈は無い。殊に神道のやうな悠遠の過去に亙り、廣汎なる人生と交渉をもつた問題に、思ひ到らぬ隈がもし有りとすれば誰にもあります。その點はまだ學んで居ない。そこはまだ何とも説明することが出來ないと言つたところで、恥かしいことは聊かも有りません。寧ろさういふことのやゝ心苦しい地位に在る人々だけに、今までこの講説を委ねなければならなかつたといふことが、不幸なる國情であつたといふべ(339)きであります。我々の尊敬する前賢の中には、身はたとへ神職僧侶、又は人の心を指導する任務に在る者でも、學問に對する用意はおのづから別に有つて、少なくとも今は斯く解して居る。もしくは斯ういふ説明があるばかりだと、他日の進歩の爲に餘地を殘して居た人は多いのでありますが、日頃の習はしと言はうよりも、之に對し向ふ多數者の態度が、結局はやはり若干の拘束になつて居りました。それに比べると民俗學の學徒の、自由にどんな小さな又は平凡な問題をでも、疑ひ得る立場は有難いのでありまして、考へ深い諸君は之を利用し、彼等に疑はせてやがて其覺りを取入れるといふことも、恐らくは今に出來るのであります。たゞ如何なる場合にも、考へずにたゞ附き隨つて行くといふことの出來ぬのは、一言で言へば、神道史も亦暗記の學では無いからであります。

　但し御斷りをする必要は無いと思ひますが、この民俗學の出發點としての「疑問」は、決して信仰と對立するものではありません。人が何故に信ずるかといふことは、固より我々の學問の解説し得る所ではありませぬ。殊に父祖數千年を一貫して、同じ神々を拜み祀つて居るといふことは、御同樣の躬を以て體驗した炳焉たる一つの事實であつて、之を立證する必要も無いことなのであります。たゞ答ふべく又問はねばならぬことは、その第一の大きな事實と、それに接續した第二第三の事實との關係、たとへば如何にして神殿に本地佛を安置し、社僧修驗をして祭典を總攬せしめるやうなことが許され、それが又再び排佛毀釋といふが如き、思ひ切つた改廢を可能にしたらうかといふ類の問題であります。是などは既に考へ盡されて居るでせうが、程度の差はあつても信仰行事の外形に、前後を見比べたら驚かねばならぬやうな變革が、大小幾つと無く行はれ、殊に地域を限つて甲の地のみは改まり、乙丙丁はさうで無い場合も多いのであります。既に根本の信仰を事實として認めたからには、其以上は問ふな疑ふなといふ風な議論が、明らめられる歴史を今までは暗くして居たのかと思ひます。それも昔の互ひに知らなかつた世ならば是非もありませんが、現在のやうな進んだ交通?態に於て、是を研究しなかつたならば、地方の小さい信仰は衰へます。乃ち我々の疑問といふものは、寧ろ信仰といふ古來の大事實を、確認する道なのであります。

　

(340)　　　　　　　　　　一三

　

　大體に人は如何なる無智蒙昧の?態の下に於ても、決して趣意も理由も無いことをする者ではないといふこと、斯ういふ殆と當り前のことでも、世間にはそれを認めないのかと思ふ人が有る樣ですから、民俗學では是を最初の原則の一つに算へて居ります。即ち誤解にもせよ失念にもせよ、又眞似そこなひにもせよ騙されにもせよ、何か其時其場の動機が無くて、たゞぐず／＼にさうなつて行くといふことは、枯木枯草の類ならば知らず、活きて居る信仰には無いことだと我々は思つて居るのであります。其事情の一々を明らめることは、勿論容易の業では無いでせうが、然らばと謂つて都鄙大小のちがひを、たゞ概括的に一方の淺慮迷信に歸せんとしたことは、甚だしい不當であります。昔今の記録に明らかな通り、神祇政策の振作は必ず常に中央に起り、全國一律にといふ計畫はあつても、遠隔の土地には及ばずにしまふことは、現に最近の改革に洩れて、今なほ東北には藥師神社・虚空藏神社等の幾らも殘つて居るのを見てもわかります。一つ以前の姿がもし殘つて居るとすれば田舍であり、それの善惡は別として、歴史の順序としては古いものはあちらであります。それも第二の改革の起るまでには、必ず第一のものに徹底して居るとはきまりませんから、この古來の推移を問はんとすれば、寧ろ微々として世に知られぬ方面に、史料を探らなければならなかつたのであります。

　我々の團體に於て民間傳承といふ名を以て呼んで居るのは、この今まで省みられぬといふ以上に、事實の價値を低く、無きも同然に取扱はれて居たものゝことで、民間といふのはやゝ漠然として居ますが、つまりは書史の外、文字を利用する力の無い階級の、記憶と慣習とを以て傳へ守つて居るものをいふのであります。素よりさういふ力の弱い人たちのたつた二つや三つの特異なる例だけを以て、一國變遷の痕を明らかにしようとしても、證據とするには足りませぬ。それ故に我々は忍耐して、其類例の十分多くなるまでの間は、決して斷定は下さぬやうにして居るのですが、(341)實際は何の縁由も無い遠隔の土地に、同種の事實の併存して居るといふことは、可なりの重要な暗示にはなるのであります。

　神道史の研究は、今日早既に完成したと思つて居る人も少しは居ります。是からはたゞ判り易い説明、もしくは隅々の取片付けをして居れば、もう十分だと言ひさうな人も少々御出でになる。さういふ方々には私の話などは、ただくだ／＼しいものうるさいものであるにきまつて居ます。もし幸ひにして諸君のうちに、さういふ事が有るものか、この先ます／＼心を潜めて、此事も詳かにせねばならぬ、あの事も突留めて行くべきだと、つまり神道史はなほ大いに成長する學問であることを、信じて居て下さる人々があるならば、私は是非とも自他の誤解を防いで置きたいのであります。繰返して言ふならば二つの學問は、同じ高根の月を見ようとして居るのだが、分け登る麓の路が異なるのであります。第一に方法がちがひ、又目を着けて居る目標がちがひ、次には又態度がちがつて居ます。さうして多分は文獻派を以て任ずる人たちの、力及ばぬ區域を働いて見ようとして居るのであります。隣同士だから堺論も時々は起りませうが、それがこはさに中間を荒地にして置くことは損です。それよりも行く／＼垣根を取り、こちらへ入つて來て近道せられるやうにしてはどうかと言ひたいのであります。同情を乞ひたいことは學問がまだ年若で、時々は出來ぬことまでを出來るやうに考へて、いはゆる繩張りを荒す元氣者が現はれることでありますが、それを制御する道は幾らでもあります。即ち明らかに記録の本文に記述せられた事實と、ちがつた斷定を下す者は誤つて居ると見てよいのであります。私一人は少なくとも、さういふ程度までの文獻無用論を抱いては居りませぬ。

　

　　　　　　　　　　一四

　

　總論は是で先づ一わたり説き終つたものとしまして、今囘は誠に好い機會ですから、此あと民俗學がどういふ仕事をして居るか、現在如何なる問題に力を入れ、しかもまだはつきりとした答を得ないで難澁して居るかを、片端だけ(342)でも述べて見ませう。こんな事々しい我々の疑問が、もしも諸君の手で夙に答へられて居ることであり、もしくは文獻の資料に依つて、解説しようと思へば出來ることであり、或は又是が日本の神道といふものゝ、管轄では無いといふことが明らかになりますれば、必然に私たちの仕事は小さいものになり、無益な大言壯語といふことにも歸するのでありますが、其代りに、もしもその何れでも無かつたと決しますと、結論も亦ちやうど其正反對となり、乃ち大いにつまるもの、隨分とたわいの有る事だと、認められなければならぬのであります。

　自分どもの持つ一ばん大きな疑問は、どうして此樣に多くの日本人の日常生活に絡み付いた問題が、今まで問題ともならず、從つて又たとへ曲りなりの解釋なりとも、下されずに濟んで居るのだらうかといふことでありますが、是は當分まだはつきりとした答は無いものと斷念して居ります。それへ行くまでの小さな過程が、踏み試みられて居ないからであります。單に列記をするだけならば、人をうんざりとさせる程も問題は有ります。しかしたゞ迷ひ惑ふだけの仲間を、賑やかにして見たところで學問にはなりません。解決の曙光といふのも大袈裟な言葉ですが、とにかくにこの一つの方向に進んで行けば、少しづゝは判つて來るだらうと思ふもの、殊に幾つかの問題が結び合つて、一つが幸ひにしてやゝ明らかになれば、之に引かれて又其次のものも見當が付くといふやうなのが、同じ無學の白?としましても、幾分か私たちには張合ひがあるのであります。つまり私の茲に擧げるのは、斯ういふ興味ある問題も有るといふ迄で、是が全部でないことは勿論、主要なものだとすらも思つては居らぬのであります。

　理窟はいゝ加減に切上げて、以下自分たちの經驗を、すなほに御傳へ申さうと思ひます。私は幼い頃から、祭といふものゝ深い印象を受けて居りますが、其中でも殊に御旅所といふものには興味を感じて居りました。是が千葉縣などのある大きな御社のやうに、五里と十里と離れた海の渚へ御伴して行つて、祭を仕へるのならば御旅とも言はれませうが、同じ一つの邑里のやゝ片方の端に、臨時にしつらへた祭場を、御旅所といふのが不審であります。そこで早速に問題になりますのは、是が國初以來の神祭りの、普通の方式であつたか否か、といふのが其一であります。御旅(343)所といふ語は、續史愚抄や百錬抄の中にも幾らも見えて居りまして、勿論近代の俗稱ではないのですが、果して是がある二三の京師の大社に限つて行はれて居たものゝ、模倣なり採用なりで無かつたと言はれるかどうか。もしも採用だとすると次の問題は小さく、單に如何なる機會に又は何の目的から、眞似をすることになつたかを考へて見るだけでよいのですが、さうで無くして中世以前から、さういふ一般の古例があつたのだといふことになりますと、其後に控へて居るのは、可なり六つかしい大きな問題であります。即ち御旅所を設けて神をそこへ御迎へ申す祭と、さういふ用意は無く、たゞ最初から一つの祭場で、祭を營んで居るものとの間には、如何なるちがひ目があつたものか。つまりは日本の祭は本來は一通りか。それがどうして又二つの方式に分れたらうかといふことが疑はれて來るのであります。手數をかけたら算へ上げることも出來ますが、この御旅所への神事といふ形は、素人の概念では祭の要件の如くなつて居るにも拘らず、其數は他の一處を動かぬ祭の、何十分の一といふよりもなほ少ないのであり、しかもたゞ小さな無格社だけでは無しに、國家の最もおもだたしい大社の中にも、後者に屬すべき祭は幾つもあり、又同じ一つの御社の祭でも、祭毎に御旅所を以て祭場として居るのでは決して無いのであります。

　

　　　　　　　　　　一五

　

　但しこの事實を以て、祭に中古以來の新儀が加はり、都府から農村へ、追々と模倣せられたものゝやうに、きめてしまふことは精確で無いと思ひます。なるほど神輿が花やかにきら／＼しくなり、踊や囃子の見せたり聞かせたりしたい催しものが多くなると、行列を祭の中心の如く、考へるやうになつたことは爭へません。今まで御旅所への渡御が無かつた土地で、是を目あてに新たに御輿舁きを始めたといふ例も、たしか阿州の燈下録などには出て居ります。しかしさういふ風流とか通しものとかの、人に見られるものは少しも無い御社の祭でも、なほ古くから神の御渡りを要件として居るものが幾箇所か有つたのであります。或は深夜に人知れず、又はわざと家々の燈火を消さしめて、神(344)主ばかりが御伴をして行く例があり、普通の氏子は謹慎して、外に出ず隙見をせず、たま／＼この御通りを見れば、死ぬとか立ちすくみになるとか言つて居た話さへ傳はつて居ります。乃ちいつからといふことはまだ明らかになつて居ませんが、とにかくに神を別な土地へ御迎へ申して祭る習はしは早くからあり、しかもさういふことの無い社も一方には多いので、最初もし一つの方式しか祭には無かつたのだとしますと、どちらが何故に改まり變つたのかゞ、やはり答へなければならぬ大きな問題になります。

　神の御旅といふやうな言葉は、たとへ京都にあらうとも或は後に考へ出したものかも知れません。從つて古くはどういふ名を以て呼んで居たらうかといふことが、人の此行事をどう見て居たかを窺ふたよりになるのですが、是も幾つかあつて變化の順序を見定めることが出來ません。御出《おいで》といふ言葉は古い頃からのものださうですが（橘窓自語）、是はたゞ常の日の御宮から外へ、出でたまふといふことを示したまでのものであります。神幸又はミユキといふのも、たゞその御出の最上級の敬語に過ぎません。何れも是だけではまだ説明とは言はれぬのであります。土佐にはこの神の出ましを、オナバレといふ語が行はれて居ります。何か深い意味のありさうな名ですが、土地の人たちにもまだはつきりとした説明は無く、又土佐以外の土地では、是と似た用ゐ方もして居りません。ナバルといふ動詞は、萬葉には隱の字が當てゝあり、八丈島では今はナブルとなつて、やはり隱れることを意味し、隱れんぼをナブリッコなどゝ謂ひますが、相模の秦野附近に來ると、是が退轉とか放浪とかの、惡い意味にのみ用ゐられて居るやうです。或は此語にもと目に見えぬ移動の意味があつて、神の出遊にも敬語を添へて使ふことが出來たものではありますまいか。斯ういつた想像を私はして居るのですが、勿論斷言し得るだけの根據はありませぬ。しかし注意をして居たら是が手掛りとなつて、やがては古い世の心持を明らかにし得る時が來ると思ひます。

　越後中部ではこの祭の日の神渡御を、ゴウリンと謂つて居たことが、北越雪譜などに見えて居ります。ゴウリンは即ち降臨でありまして、神樣が祭場へ御出でになることを言ひ表はした、宗教家用語の通俗化であつたらしうござい(345)ますが、この地方では其行列に附く人々をも、降臨衆とさへ呼んで居りました。祭に先だつて神を降し奉るといふことは、支那と其文化を受けた諸國一樣の用語例でありまして、現に今日の我邦の如くに、神の常在を信じて居るやうな場合でも、なほ臨時の祭の多くには、降神の式といふものが行はれて居るのみならず、社殿の祭をさへも、御降りと言つて居る土地が方々にあります。勿論日頃は天上高い處にいます神々が、祭の日に際して地上に臨御なされるといふ信仰が最初には有つたので、外國から採用したのは、たゞ之を表示する文字だけだつたらうと私は推測して居ります。

　

　　　　　　　　　　一六

　

　從つてオクダリといふ言葉の方が、降臨よりは前からのものといふことは出來るのであります。九州の多くの土地では、同じこの御旅所への行列の式を、ハマトクダリと呼んで居りますが、ハマトは多分濱に設けられた祭場の意でありませう。他の地では一般に是を御濱下りといふ例が弘く行はれ、實際又海のほとりの平砂の地に、臨時の假宮をしつらへるのが普通なのであります。東京湾の沿岸、殊に上總の方面には是がよく見られました。今では埋立が進みましたから、元のまゝではあるまいと思ひますが、船で通つて見ると特別の棧橋を遠く水上に架け出したものが、祭過ぎてやゝ後まで各處に殘つて居りました。一つ／＼どの村の社とも聞いて居ませんが、可なり山坂を越えてこゝ迄出て來られる御輿もあるといふことでした。濱で御祭の行はれた後、若い者が酒を飲み過ぎて、還りには御伴をする者が大分落伍するのを、昔のやうで無いと歎く老人もありました。福島縣の海岸一帶にも、祭に濱下りをなされる御社が幾つもあつて、是は大抵は祭日を四月八日として居るのは、注意すべきことであります。この祭の記事は曾て詳しく雜誌にも報告せられ、いつでも讀んで見ることが出來ますが、やはり其濱のある村の神社だけで無く、中間幾つかの他の村を通過して、この水邊の祭場へ御出でになる古例なのであります。下總では飯岡高神のあたり、常陸では(346)村松の濱などにも同じ神事を仰ぐ例があるやうですが、石城の方では同じ日の一つの祭場に、二社以上の祭の行列が集まつて、所謂行逢祭の行はれるのが珍しいのであります。

　是等東國の多くの實例でもわかるやうに、この御旅所は昔から定まり、便宜によつて自由に變へることは出來ません。即ちこの特定の土地に於て、祭を營むといふことが重要なので、それまで御出でましになる途中、色々のいはゆる風流が附け加はつたのは、寧ろそれをよい機會として利用せられたのでありました。現に是といふ特別の催しも無く、たゞ賑々しく勇ましく、そこまで神輿を奉じて行くといふだけのものも、まだ數多くあるのであります。

　祭場を清き海の渚に設けるといふことも、偶然の一致では無いと思つて居ります。京都のやうな海から遠い土地では、古くは祇園の少將井、又は神泉苑の滸に御迎へ申した例もあり、或は大川の流れに臨んで、行宮をしつらへるものも各地には多いのであります。夏祭だから御輿洗ひとも御涼みとも謂ひますが、季節は決して暑月には限らないのであります。多分は山光水色の人の心にも樂しい處が、神の御好みにもかなふものと思ひ、更に又流れて末遠く行くものに托して、神の來去を想像するといふやうな、心持もあつたのかと考へられます。水が我邦の固有信仰と特殊に關係の深いものであつたことは、文野さま／”＼の他民族の宗教と、比べ合すにつれて愈々心付かれます。供物の調理にも器物の洗ひ滌ぎにも、我々ほど用水を選擇したものも無く、又その水の力を氏子たちの心を清くする爲にも、缺くべからざるものゝやうに信じ切つて居たのであります。現在ある御旅所の中には、たゞの平地の一區劃を點定して、常は兒童の遊び場の一つに開放してあるものも無いではありませんが、一方に是だけ海川池泉に近いといふことを、要件としたものゝ多いのを見比べますと、或は是も最初その場所を選定した動機の中に、今は涸れたり草に埋もれたりした泉の水が、あつたのでは無いかといふ氣がします。

　何れにしても、いはゆる御旅所の制度の起りに不審を抱く以上は、やはり第一次にその御旅所の種々相を、弘く見究め又比べて行くに限るといふのが、民俗學の一つの態度であります。自分の育つた土地の實例しか知らず、しかも(347)そればかりで獨自の判斷を下すには、少し氣がゝりな位には、他所のちがひのあることだけは聞いて居る。それで言ひ合せたやうに此間題は度外視するのです。今後採集の大いに進まねばならぬ所以であります。御旅所が決して根本の重要問題では無いにしても、我々はどうして此樣に全國の神の祭が、各地各社で異なつて居るのかを、答へなければならぬのであります。最初から區々だつたか、何が後々改まつたかを明らかにしたいのであります。その點をもう少し近よつて見る爲には、寧ろ斯ういふ見棄てゝあつた題目の方が、印象が深いのであります。

　

　　　　　　　　　　一七

　

　それで先づ少しばかり、中央の大都の例を考へて見ることにしませう。東京には御旅所といふものが、全く無いわけでなくとも目に立たぬやうであります。それで居て御祭の日の渡御は有るのであります。ダシとか屋臺とかの練りものはすべて衰へてしまひまして、御輿を舁く風だけはまだ殘り、子供までが其眞似をして居ります。行宮は無いのに御行きだけは有る。何だか私の今言つたことに反證が擧がつたやうにも取られませうが、實際は爰にも一種のそれに代るものがあつた痕跡は、歴然として居るのであります。祭の日に町をあるいて見ればすぐにわかります。神官を馬に乘せ、大きな傘などをさしかけた肅々たる行列が、御社を出て御社へ、たゞ一巡りぐるりとして來る樣には見えますけれども、其道筋には定まつて一箇所以上、神輿が暫らくの間休止したまふか、少なくとも其前で大いに揉み立てられる家があります。其家は必ずさつぱりと店の品を取片付けて、金屏風に赤毛氈、正面には獅子の面などを安置して神酒と餅とを供へ、町内の氏子どもの參拜しておみきを頂戴する、是が臨時の御假屋になつて居るのであります。東京では是を年番とか頭番の家とか、謂ふやうに思ひますが確かでありません。とにかくに毎歳順まはりに、町がこの祭場を鋪設する任務を負ひ、町内である一軒の篤志又は由縁のある家を選定して、神の御宿を奉仕させるのであります。何しろ手狹な家ばかりで、神輿を御憩はせ申す餘地は軒先にも無いので、漸次に駐輦も型のみのものとなつて(348)居りますが、以前は江戸でも堂々たる名門舊家が、進んで此役目に當つて居た時代には、少なくとも茲で一通りの祭儀は擧げられて居たことゝ思ひます。是が日本の神道の、殊に他に類例の無からうと思ふ頭屋《とうや》制の名殘なのであります。此制度は近世にも幾多の變達があり、現在なほ行はれて居るものにも樣式のちがひ、もしくは推移の各段階と見られるものがありまして、それを上手に述べることは私には出來ないかも知れませんが、もう二三のよい記述書も出て居りまして、一通り知つて置かうとなされば不可能では無いのです。頭屋といふ名稱も多分は上代からのものでは無いでせう。又さういふ名は用ゐなくて、其任務の一部又は全部を行うて居るものも少なしとしません。たとへば御旅所は別に正式のものがちやんと設けられて居て、それへ御わたましの行きか還りかに、神輿の暫らくの間御立寄りなされる舊家があります。手近くは中央線の相州與瀬の村には、昔淺草川の檜隈濱成のやうに、兄弟二人して神を發見したといふ由縁を以て、臼の上に新薦を敷いて、祭を奉仕するのを吉例として居た家などもありました。諏訪で有名なるたゝへの神事の如きも、前後七日にも亙つた御巡幸の御路筋に、夜毎の御宿に對して晝の御休みをなされる家が、次々に定まつて居たやうに記されて居ります。現在の各地の御出祭にも、斯ういふ光榮を擔ふ家の數は、追々増加して來た傾向が見えます。中には表座敷を淨めて行列の人々を請じ入れ、祭があり又正式の直會の行はれる家もありますが、さういふのは家格である故に、他に同種のものゝ加はることをさへ嫌ひました。新たに得た特權はもつと簡略なものばかりで、或は門外に床凡を出して置いて、御輿舁きの人々へ酒を出し、又はたゞおみき錢といふものを奮發して、軒先で一もみ揉んでもらふだけであります。東京で今見る頭屋神宿などは、單に家が小さくて入られぬといふ事情だけから、段々とこの手續きを手輕にして居るのですが、本來は特設の御旅所に代るほどの、重々しい設備であつたものがもう衰へて居るのです。

　

(349)　　　　　　　　　　一八

　

　祭場には別に點定せられた御旅所に於てゞなく、頭屋と稱する常民の家を以て充てる例は、是も列擧がしにくいほど方々にあります。そのうちに最も前者と近いものは、出雲八束郡の海岸一帶にあります。此地は色々古い事の殘つて居るかと思はれるなつかしい土地ですが、珍しいことにはこゝの御假屋の祭は、氏神樣では無くて正月の歳神樣であり、從つてこの祭場を歳神樣とも謂ひますから、人は氣が付きません。しかし頭屋があり神輿があり、その神輿を迎へ申して頭屋で祭をするのですから、他の地方に於ける年々の氏神祭も同じであります。いはゆる歳神樣の神屋は切組みになつて居て、祭が濟むと解いて村で保管します。頭屋にさゝれた家は正月の始めに、是を邸内の淨地に組み立てゝ、其中に歳神の御輿といふものを安置するのであります。その御輿を若者たちが舁いて村中を練りあるくことも鎭守の祭と同じく、たゞ二日乃至三日の行宮の祭が終つて後に、他の地方で還御と謂つて居る式が簡略なだけであります。

　話はあまり細かくなりますが、私たちがこの出雲海岸の歳神祭に興味をもつわけは、是が現在我々の民間年中行事といふもの、即ち節供とか正月とかの家々での慣習と、神道史の諸君の神祭りと謂つて居られるものとの、ちやうど中間の橋渡しになつて居ることで、是あるが故に日本の節日が、もとは神道の領分であつたことが、推測し得られるのであります。同じ島根縣の沿海地帶でも、村によつては歳神に神輿は無く、たゞ竹を中心の柱にして、見ごとな飾り物をするだけのものがあります。さうしてそれにも毎年の頭屋、即ち責任者があるのであります。さうなつて來ると、形はよほど正月の火祭、京都で三鞠杖《さぎつちよう》といひ、他の多くの地方でホチョジともトンドとも、又サヘドヤキともいふものと近くなるのですが、出雲の歳神の飾り方には、扇を三つ開いて圓盤を作るとか、額を打つとか娘たちの縫つた袋を下げるとか、手の込んだ特色があつて、それが又若干の距離を中に置いて、福井縣栗田部地方などの莱祀とい(350)ふ正月行事と似て居るのであります。どうして莱祀といふ樣な變つた新名が出來たものか、私にははつきりとわかりませんが、多分は蓬莱山の形になぞらへた飾り物で、正月の神を祀るといふことかと思つて居ます。是も所謂左義長の日の祭であり、且つ柱を一處に刺し立てずして、神輿の如く舁いてあるくのであります。富山縣に來ると魚津の湊町に、之とよく似た小正月の行事があります。又それから遠くない越後の西頸城地方にも、出雲の竹もらひとよく似た風習があつて、青年は是に熱中します。信州でもこゝに接した南北安曇、東筑摩郡の一部などでは、こゝで三九郎と稱するトンド燒き以外に、別にオンベ（御幣）といふ燒いてはしまはぬ飾り柱があり、是は移動させませんが、木を切組んで置いて毎年使ふことゝ、その飾り方とが出雲と同じです。即ちこの柱が亦歳神の祭であつたことが、略々窺はれるのであります。但し此方の異なる點を指摘すれば、信州のオンベの柱は立つ場所がきまつて居て、頭屋制によつて管理者を轉々せぬことですが、それでも若い衆や子供の爲に、世話をする宿といふものは毎年かはります。私などの生まれた播州中部の田舍には、サイノトウといふ言葉があつて、?々｜柴燈《さいとう》と混同して居たやうです。是には他の地方で見るやうな正月十五日の飾り燒きがあるのみで、頭屋と謂つてもよい年番の宿はもう無かつたのです。ところが同じ地方でも、印南郡の郡誌などを見ますと、そこのトンドにはたしかに頭屋があつて、火祭も其家の前で行はれ、又費用を支辨すべき頭田《とうだ》といふ田があり、それを翌年の頭屋になる者が、元は廻り作に耕して其收穫を取つて居ました（この郡誌では、トウヤを?屋と書いて居ります）。比較といふ方法の有難味は、是で大抵はわかつて來るのであります。即ち出雲八束郡の歳神樣の慣行が世に知られた御蔭に、左義長も亦一つの春の神祭りであることゝ、そこにも頭屋を以て祭場とした、神の御降りが認められて居たらしいことが、大よそ推定し得られるやうになつたのであります。

　

(351)　　　　　　　　　　一九

　

　民家を神宿として毎年の御降りを迎へる風習は、中古以來の若干の變革があつたとは思ひますが、起原に於て必ずしも獨立の御旅所よりも新しいと言はれません。是は即ち神々の御好み、即ちいつの昔からとも知れない氏人等の確信によつて、二者何れか一つの方式を守つて行くことが、土地毎の古い慣例であつたと思はれるからであります。祭の中心の役を勤める者の家が、山の麓とか清き泉の傍とかの便宜の地に在つて、且つ一家全體の精進潔齋が、何の手落ちも無く完全に行はれる場合ならば、或は我邦のやうな氣象の變化の多い土地では、家を其まゝ祭場に供するといふことの方が、自然の考へ方であつたかも知れませぬ。後々神幸の路次の行事が、缺くべからざるものになつただけで無く、坐ながら神を御迎へ申すといふことには、俗界の故障が世と共に増加して來た筈なのでありますが、それでもまだ斯ういふ家祭りの方式が、頭屋制の行はれる地域には數しげく殘つて居たのであります。頭屋の順番は、今では一年毎に廻るのを普通にして居ります。前の年の大祭の滯りなく終つた時に、もしくはまだ其祭の進行中に、次の年の頭屋は確定するので、さうすると時を移さず、先づ其家が洗ひ淨められ、一切の神の御宿にふさはしからぬものは外へ出され、注連などが張り渡される村もあります。翌年の祭の物忌の始まりまでは、まだ大分の時日が有るにも拘らず、もう此瞬間から頭人夫婦の戒律は嚴しくなるのであります。たとへば月の三日には垢離をかいて社參をするとか、社の掃除や燈明までも引構へてする者がある外に、喪を問はず穢れのある者と火を合はせず、村人は亦色々の作法を設けて、頭屋の清淨を保護しようとします。以前は恐らく農作方面にも、肥料その他の多くの制限があつて、十分なる生産を爲し遂げることが出來ず、外部から其缺乏を補はうとした結果、自然に物質の側から見まして、斯ういふ家が優勢を占めるやうになつたことも考へられます。もしも我々が想像してゐるやうに、氏を神祭りの單位とするのが、普通であつた時代といふものが有るとしますと、本家即ち個々の氏族の中心たる家は、單なる信仰上の必要(352)からだけでも、高め重んじ又愛護せられなければならなかつたので、それが族長その人の力と言はうよりも、寧ろ其邸宅が神の降臨を謹み迎ふべき、至淨の祭場に豫定せられて居た爲であつたことは、今でも幽かながら頭屋の守つて居る作法の中に、痕跡を認めることが出來るやうであります。祭が必ずある特定の御旅所に於て、執り行はるべきものでもし最初からあつたならば、今見る頭屋といふ制度の、發生する餘地は無かつたらうと私には感じられます。

　但しこの現在の頭屋輪番制の始まつたことだけは、全く新しい社會的事情からといふことが出來ます。第一には氏神樣の併合合祀です。是は村といふ公共團體の生活意識、即ち祭にも他の色々の事業と同じやうに、出來るだけ衆力を聚めて效果を大きくしようといふ願ひに基いて、祭主の任に當り得る者の數を多くしたのであります。次には一つの氏族の繁衍と複雜化とが、いつと無く小さな中心の數を増加して、部内の和熟を期する爲には、徐々に此榮譽と特權との分配をしなければならなかつたといふこともありませうが、それよりも大きな原因には文化の進み、人の働くべき部面が益々擴張して、其仕事の中には、神祭りの戒律とは兩立し難いものが、往々にして現はれて來たことであらうと思ひます。しかも人が一代のうちに少なくとも一囘以上、必ずこの神聖なる古來の任務を奉仕し、それを又出來るだけ多くの同時代人の間に、均一に體驗せしめようとしたのは、殊勝なる心掛けでありました。其代りにはおのれは本年の神主といふ覺悟のみが強くなつて、爰が祭場といふ意識は幾分か淡くなり、終にそれから後の色々の變革を、誘致する端緒を開いたのではないかと考へられます。勿論斯うより他には考へられないといふのではありません。たゞ私だけが今さう思つて居るのであります。

　

　　　　　　　　　　二〇

　

　頭屋に神を御迎へ申す儀式には、現在は無數の變化が出來て居ります。是が時勢もしくは人の考へ方の移り替りの、各段階を示すものであるかどうかは、勿論各地の事實を多過ぎるほど多く集めて、靜かに綜合し又分類して見た上で(353)無いと、決し得られることではありませぬが、それをするにも先づある一つの目安、基準といふものが入用であります。一ばんの端の例としましては、一年の祭が完了するやすなはち、御神體と言はれるものを奉持して、次の年の頭屋の家に納めまつるもので、是も現在なほ稀には有ります。越後の長岡で俗に王神と謂つて居た神樣などがそれで、前代の地誌にも之を説いて居りますが、最近には星山貢氏の詳しい記述が、大册となつて世に出て居ります。斯ういふ風に神樣の御行先が常に有つたのでは、本の御社といふものがいつでも御留守になつて居るわけで、さう解しては居られぬ今日でありますから、その村々を次々に巡つて行くものを、一つの徽章又は神具と見て、それを祭の日まで大切に御守り申すことに、今は解して居るかと思ひます。實際に又神の未だ依りたまはざる前の依代《よりしろ》、即ち鉾とか杓とか幣串とかいふものは、本來の性質はさう見るのが正しかつたかも知れません。他の多くの古い御社にも、祭の日に頭渡しがあつて翌年の頭屋がきまると、すぐに頭屋の榊や御指し棒を持つて來て、其家の門の口に刺し立てる例がありまして、是は勿論御神體でも無く、次の祭の開始をも意味しては居ないのです。しかし一方には小さな例ではありますが、以前の尾張知多半島の英久比《あぐひ》の天神の木像のやうに、又は近頃まで關東で信仰せられて居た阿波《あば》の大杉さんの鼻高面などの如く、始終ある期間を限つて信徒の家々を、巡つて居られた神樣もあつたのであります。頭屋の床の間に是が安置してある間は、そこが祭場であつて信心の者は、參り又祈願をします。つまりは年にたゞ一度の公共の祭しか行はれないか、又は個人が隨意に臨時の小さき祭を營み得るかの差によつて、この頭屋の正面に齋き拜まれるものゝ、信仰上の意義はちがつて來るのであります。出雲の美保の關の舊い御社に於て、古來有名であつた一年神主なども、その家々の祭場に御參りする者は限定せられて居ましたがなほ最近の改革が斷行せられるまでは、本社社殿の御祈?は、この人々が管掌して居りました。乃ち頭屋が神秘なる指定によつて、神に最も近き者となつたといふ點は同じであります。

　第二の樣式の、是が最も普通の如く見られて居るものは、愈々祭の期日が到來して、頭屋の用意が完成し、頭人夫(354)婦親子の物忌が徹底した時に、始めて神の來臨を御迎へ申す例であります。是にも明らかに二通りの差別があつて、一つは祭の日の前夜又は前々夜に、神職その他の僅かな者が御伴をして、御宮から直接に、もしくはある一定の場處を通つて、設けられた祭場に御入りになるもので、式は多くは眞夜中に行はれ、今謂ふ神の御幸とは殆と正反對に、たゞの氏子の路に出て拜むことさへ禁止するものが有りました。丹後のある海岸の村の話として私の聞きましたのは、この御通りに行き逢ふ者は死ぬといふ言ひ傳へが、まだ信じられて居たにも拘らず、生き惱んだ老人などの、わざと路傍に出て立つ者があり、それが又きまつて次の年の祭までに、世を去つたといふことであります。人の知らない愁ひは有るもので、あの人までが出て居るのかと、嗟歎するやうなことが折々あつたといふのは、誠に哀れな話でありました。しかし他の多くの土地に於ては、たゞさういふ怖ろしい戒めがあるだけで、普通は慎んで誰も出て見ようとしないのであります。

　

　　　　　　　　　　二一

　

　之に對して白晝美々しい行列を整へて、數多の氏子や見物に拜まれつゝ、頭屋の祭場に御渡りになる古例も處々に殘つて居ります。東京の市中に見られるものなどはたゞ一つの略形でありまして、本來はいはゆる宵宮の前に御着きになり、そこに夕曉の供饌を奉仕し、一夜を參籠に明かすのが定めだつたかと思はれますが、祭の神態が滋く參列者が多くなると共に、座席の制限も有つて駐輦の時間は段々と短くなり、又一方には路次の御立寄りの家が漸く増して來ました。さうして常設の御旅所といふものが、その頭屋とは獨立して、新たに少しづゝ加はつて來たのでは無からうかと、私は想像して居ります。

　勿論最初から個人の屋敷地、又はその他の私占の地以外に、共同の祭場を控へて居られた御社も、有つたには違ひないのです。その最も著しいものは氏子の無い大きな御社、もしくは氏人が遠く離れ住んで、家に降臨を仰ぐべき便(355)宜の無い御社などであります。氏神の合同がやゝ弘く行はれ、或は其信仰の大區域に及んだ御社の祭では、たやすくは毎年の祭場を更改することも出來ず、又さういふ處では頭屋も既に無いか、もしくは其機能がよほど退縮して居ります。近世の大都に發生した頭番の町なども其一つの場合ですが、諏訪の頭郷も亦夙い頃からの異例でありました。爰には御頭といふ言葉は盛んに用ゐられて居りながら、遠い境に住む信徒からは、たゞ御頭の禮錢といふものだけを納めさせて居りました。それが近世に入つてたゞ内縣《うちあがた》の十五郷だけに限られるやうになつても、各頭郷はたゞ一團として頭番の神役に勤仕するので、其中から特に一軒の頭屋といふものは立てなかつた樣であります。さうして毎年の祭の神使、又は湛《たゝへ》の神事の巡幸には、別に古く定まつた順路と御旅宿とが有つたかと思はれます。即ち頭屋の制度とは關係無しに、且つ又代々の神主の家より外に、特に祭場を點定する習はしは夙くあつたので、たゞ後世各地にその方式に準據するものが、追々多くなつて行く傾きが生じたかと思はれるだけであります。

　この第三樣式ともいふべきものには、神を頭屋の家に御迎へ申す行事がもう無いのであります。たゞ本社社頭の祭儀に、又は御假宮に於ける神事に、必ず精進潔齋した頭人の夫婦、又はその嫡子嫡女の列席を必要とし、之を招請する七度半の使が立つたりします。或は神渡御の行列の中に、頭屋が加はらぬと祭は完成せぬものと見られて居て、特に晴れがましい地位が彼等に與へられて居る例も澤山にあります。しかし何れにして見たところで、一年の久しきに亙つた頭屋の家の淨まはりが、是では無意味に歸することは同じですから、私などは是を一つの退縮の形と感じて居るのであります。果してさう謂つてよいかどうか、關心を持たずには居られぬ人が、皆樣の中にもきつと有ることゝ思ひます。

　京都周圍の村々の頭屋の記事を讀んで見ますと、神の御出が其家に向はせられるもの、又たゞ一時の御立寄りといふことも、今は至つて少ないのであります。それで居て其門前に大きな幣束を立て、御芝を張り、さては家のまはりに注連繩を繞らすばかりか、主人が潔齋をしてあらゆる穢れを近づけぬ一室の設備だけには、嚴重なる例規のあるも(356)のが比々として有ります（京都古習志）。是はたとへやうも無く昔なつかしいことで、元は恐らくは頭人の出でゝ社頭の祭に奉仕する、條件だけでは無かつたらうと思はれるのであります。誰もがまだ注意しては居りませぬけれども、祭の當日家の者が出て行つたあと、もしくは其直前に、頭屋の家の内には如何なる事が行はれるかを、尋ねて見たならば何か新たに氣づかれる點が有るかも知れません。とにかくにこの日は頭人の所役が、中々重く又大がゝりでありまして、其支度にも後始末にも、又多くの隣人の援助にも、今なほその家を利用せずには居られぬのであります。

　

　　　　　　　　　　二二

　

　最も肝要な點と見られるのは、祭の神饌を調理することであります。是は昔から今日まで、大小一切の神祭りを通じて、缺くべからざる要件であり、或は是が祭の中心とさへ認められたものでありますが、今でも是を頭屋の家で用意して居る例は、稀々ならず有るのであります。其供物の品目が特殊である場合には、或はそれを祭場まで運ぶ行列が儀式の要部をなし、祭の呼び名にさへなつて居る土地もあります。さうして元はその古例が色々と守られて居たのであります。たとへば酒は酒甕を頭屋の庭に作りすゑて、必ずこの家の酵母を以て釀し、其爲に頭屋を酒元と謂つて居る村もありました。餅の大きさと形が嚴重にきまつて居りまして、頭屋の臼によつて、多くの人の臼唄を以て賑々しく舂き上げ、それを宿老が立會つて檢査する式などもありました。御清盛りと名づけて飯を結びにする形も定まつて居り、それを數多くこしらへて氏子一同に分ち、或は又正式の一揃ひの膳部に、仲間の家々の者を饗應するといふ慣例も殘つて居ります。其食物は神にさし上げるのと同じものを同時に作るのですから、つまりは直會であります。それよりも大切なことは、この供物の材料を生産する爲に、海川で祭の漁が行はれると同じく、陸上では神田が耕作せられますが、それが又其年の頭屋の管理に屬して居て、通例は頭田と呼ばれて居りました。とにかくに是が無ければ祭で無いと思はれるほどの重要なる勤仕が、元はすべて頭屋を中心として營まれて居たのであります。

(357)　ところが世の中の事情は少しづゝ變つて來まして、第一に頭田宮田の保存せられて居るものがよほど少なく、積金といふやうな形に改まり、どこの海川で捕られたのかもわからぬといふ魚介が、買ひとゝのへられて供御に上り、精米所が村に備はつて、家々の臼は用ゐ難くなりました。酒は殊に商品となつてしまつて、特殊の釀造法を續けてゐる神社が、ごく僅かな數になつて來て居ります。つまりは頭屋の勞力や心遣ひに由るものが段々と少なくなり、其代りに祭は多くの費用のかゝる事業となつて行きつゝあります。それを厭ふやうな頭屋は今でもまだ無いと思ひます。祭の心理は全く別なものでありまして、是に澤山の財力を傾けたといふことは、往々にして樂しい思ひ出に化して居りますが、しかも其爲に曾て我家が祭場であり、又は其祭場の最も主要なる控へ屋であつたといふ意識は、もう今日の所謂氏子總代には無くならうとして居るのであります。其費用も隣保相助の感覺から、又は住民の出入の繁さから、追々と戸數割の形に變化して行くのは是非ないことでありました。其上に一方の御旅所の祭、又その路次の行事といふものが、もと／＼風流とさへ呼んで居た位ですから、年々目先をかへて美々しく花やかに、他處の見物を引付けるやうになるのは當り前であり、從うて土地の人々の力は其方へ追々と向けられるやうになつたのであります。氏人が神を祭るといふこと、氏神は乃ち氏子の奉仕を受けたまふものといふ、人の考へ方は決して失はれては居りませぬが、それでも合點の行かぬといふ現象の、日増しに多くなつて來たのは、免れ難いその結果かと思はれるのであります。數から言つてはたゞ僅かでしか無い國の重要なる御社の事蹟に、もしも神道史の研究が片よるやうなことがありますと、愈々この國民の大多數の、最も普通として居る信仰生活、日本のどこの隅々に行つても、たゞこの一つの祭といふものに據つて、安心立命の地を保つて居た人々の現　　　状が、省みられない懸念は深くなるのであります。

　

　　　　　　　　　　二三

　

　それから尚一つ、更に一段と御社の祭からは分離した頭屋の祭があります。中國地方の諸縣には、可なり系統立つ(358)た弘い風習となつて居るものがありますが、關東奧羽の方面にも、たゞ僅かばかり形を變へて、是に似寄つた行事の續けられて居る處が幾らもあります。現在は何れも一年交替に、順まはりに各家でこの頭を勤めて居りますが、村の氏神の合同の行はれなかつた以前には、或は是も亦一門の本家を以て、いはゆる常頭屋として居たのではないかと思ひます。とにかくに此方は頭屋が正式の祭場になつて居りまして、祭の全部はこの家の中に於て今も行はれるのでありますが、其代りには爰の祭の日は、村の御社の例祭の日とは別になつて居るのです。通例は秋の收穫の全く終つて後に、やゝ小さな仲間で集まつて、神前の酒宴を主とした祭を執り行ひます。行列は申すに及ばず、屋外の催し物は何一つ無いのが多いやうですが、それでも飲食の調製には分限の許すだけ、又はそれ以上の張込みをしますので、岡山縣東部の頭屋祭などでは、近い親類から米や金錢その他の助勢をすることが、義理になつて居るさうであります。尤もこの祭にはどこの地方でも、村の御社の神職を招請して、御幣のしでを剪つてもらひ、又祝詞を奏してもらふものが多いのですが、この日は本社の祭日の中には算へられて居らず、從つて現在の神職諸君のうちには、是をめい／＼の奉仕する御社とは別途の祭で、たゞ古來の慣例によつて是へ列座するだけだと考へる傾向が著はれて居ります。しかし慣例といふ以上は、村人等の氏神と關係のあることは確かであり、實際又他處の神々を迎へて祭つて居る形跡は無いのであります。

　とにかく斯ういつた考へ方が普及した爲に、御社とこの頭屋祭との、分立は次第に大きくなつて來ました。いはゆる兼攝社掌の手が廻り兼ねる村々では、頭仲間の者ばかりで此祭を營むものも多くなり、又は飛んでも無い巫女などを頼んで居ります。神を正面に御祭り申さぬ頭といふたのはまだありませんが、其式は簡略になりやすく、たゞ共同飲食の樂しみと、懇親と慰勞との意味ばかりが、幾分濃くなつて來ましたことは、西國の方に多い春秋の宮籠りも同じであります。關東殊に千葉茨城二縣の村々で、ビシャと謂つて居るのも頭屋祭の一種であります。是は大抵春季耕耘の開始に先だつて、年を祈り又世中の善惡を卜せんが爲に、弓を射て神意を伺はうとした式らしく、語の起りは歩(359)射即ちかち弓の義であつたことは確かでありますが、今では其射藝を全く試みないものばかり多く、或は女備謝などと稱して、婦人ばかりの集會さへ出來て居ます。

　中部以西の弘い地域で、御日待と謂つて居るものも、同じくまはり頭の祭でありました。元は正月十月の十五日の前晩、或は村の御社の本祭の前の宵に、氏子が相會して奉仕した祭であつたのですが、神職を招かぬ場合が多いばかりに、氏神との縁が薄くなつて來て、今では夜籠りをして翌朝の朝日を拜むから日待だと、解する人が多くなりました。さうして之に對して半夜に參籠を終つて退出するのを、月侍といふ名さへ出來て居ります。しかし二十三夜樣などは、今でもまだ國の端々に行くと、是を佛者の謂ふ月天子の信仰とは、考へて居らぬものが多いのでありまして、多分は伊豆の島々でいふ日忌《ひいみ》樣や、十一月二十三日の御大師講と共に、もつと古くから傳はつた祭り方の名殘と思ひます。是に特別の御掛軸が出來たり、又この晩に讀む御經がきまつたりしましたのは、庚申講や甲子講、さては東京周圍の村々に於て、女たちが集まつて拜む子安樣が觀音となり、蠶の神が馬鳴菩薩の馬上像となつたりして居るのも同樣に、新たな文化の力であつて、祭る人々の考への變化ではなかつたのであります。

　

　　　　　　　　　　二四

　

　しかし一般に家が小さくなり、長者といふやうな中心が少なくなりますと、斯ういふ御宮の管轄を離れた講仲間は縮小し、且つ團結が任意になりまして、五戸七戸のまはり頭ばかりが數多く、しまひには家毎日待《やごとひまち》などゝ謂つて、たゞ一軒だけの臨時の催しのやうなものさへ出來て居ります。土地によつては日待はたゞ近い身うちや友人を招いて、酒食を共にする家の祝のやうに思つて居る者があります。伊豆の北部でいふ快氣日待などは、東京でならば全快祝といふべきものですが、それでも神棚又は床の間に燈明を上げ、來會の諸人が拜をして席に就くだけの、祭場の設備はあるのですから、もとは祭であつたことが大よそわかります。

(360)　或は又部落總體の、やゝ大きな頭屋祭を續けて行かうとするには、寺の本堂などを借用するものが近畿諸國にはあります。座敷に事缺いたのが一つの理由かも知れませんが、さうで無くとも中世の法師は、神事には大いに干與し、式と解説とを其教法に引付けて居ります。近江から越前へかけて、春の始めのオコナヒといふ慣行などは、名はたしかに修正會や修二會の日本言葉と一つでありますが、その内容を見ると、御社の社殿を使つて行はれる春の祭と、是といふほどのちがひは無く、やはり頭屋が主となつて、古來定まつた御供物を調進して居るのであります。若狹から丹波丹後、その他山陰の諸國に於て、コト又は春ゴトと謂つて居るものは、寺は借用せぬ代りにもう集會では無く、各家めい／＼にたゞ正式の食膳につくことになつて居て、從つて普通の祝日休日と異なる點が無いやうになりかけて居ますが、それでもまだ各地共通の特色としては、コトの箸と稱する注意すべき儀式があります。即ち此日新たに削つて用ゐた家族全員の箸を、神樣の御箸を一ばん上にして簾のやうに編み、下には其日の食物の殘りを苞に入れて結び付け、之を庭の樹の梢に垂れ下げて置くのであります。理由又は效果はまだ私にはわかりませぬが、コトが祭であることは是ではつきりとして居ります。さうして今でも獨りゴトはせぬものと言つて、必ず近隣の五戸三戸と、同じ日を擇んで一緒に此祭を營んで居るのであります。家が數十人の家族から成り、又は末家や部屋や隱居が、まだ本家の大竈を共用して居た頃の事を想像しますと、是が相應に氣の改まつた晴の日であつたことは確かで、現に又關東奧羽の方でも、コト日といふのが休日といふ以上に、斯うした里毎の無名の小さな祭のある日のことなのであります。

　我々の是非とも今後の問題にしなければならぬと思つて居ること、又出來るならば諸君にも、共々に考へていたゞきたいと念じますのは、この小さな村々のコトや日待に於て、弘く國内同胞の御祭り申して居る神樣は、果して日本の神道の外か内かといふことであります。そんなことを問題にする者があるかといふのが、もし幸ひにして通説ならば、然らばその固有の神樣は何さまかといふことを、次に明らかにしなければなりません。神樣といふ單語の常の用法として、特にどこそこの又は何々の神と、御名を添へて呼ばぬ場合の神樣は、おのづから定まつたものゝあつたこ(361)とは、村・家・親・主等々の語も同じでは無かつたのでせうか。少なくともさうきめて居る者が以前は多く、後々學問の一つの傾向によつて、いはゆる抽象的概念が生まれ、それが又我々の解釋を複雜にして居るのではありますまいか。この問題の如きは必ずしも小さなつまらぬものでは無いと信じます。

　

　　　　　　　　　　二五

　

　我々日本人の大昔以來、祭り拜み來つた神々が、八百萬といふほどにも數多くおはしますといふことが決しますと、分類と言つては甚だ心穩かでありませんが、是を樣々に分けて考へ奉るべきだといふことは、當り前の話であります。大きな最も貴い神が有るといふことは、一方に一段と低い神のあつたことを意味します。人間よりは勿論高くすぐれて居られるにしても、神としてはやゝ小さき神々が、數多くこの世には有るといふことは、古人も明瞭に既に知つて居りました。名神といふのは恐らくは名有る神、即ち一方に名未だ顯はれたまはざる里々の神の、氏毎に祭られたまふことを豫期したる公けの御稱呼でありませう。明神は元あきつ神といふのと同じであつたかも知れませぬが、後世語音のひとしきに引かれて、誰しも我氏神の御名の、弘くさう呼ばれたまふことを望んだことは、至つて自然であります。しかも其以外の多くの神々にも、それ／”＼の御神�ｺによつて、祭を營み祈願を掛けずには居られなかつたことは、今なほそれが一つとして、我々の生存目的の何れかの部分に、交渉せぬものが無いのを見てもわかります。たま／＼崇信の理由の明らかでないものが有るのは、寧ろ以前の祭場が、常設の祠となつて後に殘つて居るからと思はれます。信仰さへなほ傳はつて居れば、木のもと流れの岸などの、常には何の跡形も無い處にも、毎年の祭を經營して居るのであります。さうして神に御祭り申さうといふ動機が、この通り千差萬別であります以上は、信仰の行事のそれによつて、一部は異なるのも已み難いことでありまして、單にまだ知らぬ考へぬといふだけの理由を以て、是を説明の外に置くことは、今日はもう許されぬ時代になつて居るやうに思ひます。

(362)　それで私はこの御旅所が祭場になつて居るのと、頭屋即ち氏子のある一人の家もしくは邸地を、其用に供して居るものとの區別は、本來は御祭り申す神樣のちがひから、發してゐるのでは無いかと考へ始め、其判斷を各位に謀りたいと思つて居るのであります。神が最初から公衆の爲に御降りなされるのと、氏々の群の中心たる者のところへ、顯はれて祭を御享けになる場合との、樣式のちがひは有つてよかつたのでは無いか。それが村團結の増強擴大すると共に、必ずしも異姓の人が祭を奉仕するを否みたまはず、しかも一方には式を花やかに、外に認められるやうにする要望が強くなり、又大家族の分蘖は各個人の資力を制限して、終に此頃のやうに、祭といへばたゞ路次の催し物を聯想するが如き、世相を實現したのではありますまいか。是が又一つの歴史の問題となるのであります。

　さうすると第二段に、然らば是に對して御社といふものは何であるか。同じ年々の祭の中でもある特定の期日にのみ、社外の祭場に神の降臨を御迎へ申し、其他の折々の祭に於ては、常の神宮居の中に於て、式を擧げてそれでよかつたのはどういふわけか、といふことが考へられずには居られません。是も事の外難儀な疑問でありまして、答は到底單一では有り得ませぬが、大體に私は、神を二處に於てお祭り申すといふことが、古くからの習はしであり、從つて又根本の原因ではなかつたらうかと想像して居ります。この一方の所謂小祭が繁くなると、社殿の重要性が追々と増加するのは必然でありまして、現に旱魃や洪水、火災や疾疫の如く、開發と交通の進みに伴なうて、臨時に祈願すべき憂患が多くなつて居るのみならず、國として又は大きな社會として、各地共同に行ふべき祭は、文化の發達と共に追々と追加せられます。其上に多分は佛教の影響によつて、個人祈願といふものが急増して居るのであります。今までは一地一族全體の休戚のみを、たゞ神樣の恩惠に投げ掛けて居たものが、個々の病者の爲にする勢祈?や御百度詣り、丑の時參りといふものさへ始まりました。人に信心の深さ淺さが考へられるやうになつて、朝毎の神詣でを企てる者も多くなつて居ります。是では常の日の祭場ともいふべき御宮の方が益々重要になつて、愈々神のます處といふ想像を強くし、御出を御旅と謂つても恠しむ者は無くなつて來るのであります。ヤシロは御屋を設くべきしろ、即(363)ち豫定地であるべき筈ですが、社殿が常設のものとなりましては、もう其語義が考へられなくなつたのも致し方ありません。

　

　　　　　　　　　　二六

　

　神を二處にお祭り申して居た原因も、まだ色々のものが想像せられ、勿論私の言ふ所に全幅の信頼を置かれるには及びませぬが、少なくとも神のおましの高い所に在ると感じたのが其一つであつたことだけは確かで、今も各地に存する里宮と山宮との對立が、之を支持して居ります。さういふ中でも下野二荒の兩宮などは、夙くから分裂して社人が相爭つて居りましたが、陸中膽澤の駒形神社に至つては、今有る平地の御本社は明治三十六年まで、遙拜所だつたと承つて居ります。即ち同名の御山の上に齋かれたまふ御社の方が重かつたのであります。是と關係のよく似た宮城縣の苅田嶺神社に於ても、里宮が奧州往還の衝に立たせたまふを見れば、此方が先づ世に顯はれたまひ、從つて社地の莊嚴が進んだものと思はれますが、既に元文年間の封内風土記に依るも、一年を兩分して十月の八日から四月の八日までが、里中の御止住期であり、その二度の御引移りには、おもだたしい神事の行事があつた樣であります。是は冬春が山上の雪氷に閉されて居る期間である上は、至つて自然なる考へ方と言はねばなりません。現に越後の米山の如きも、今は佛法の有名な靈地となりましても、やはり山下の村々では、この四月と十月の八日の日を、特にお藥師さんの日として休み、餅を搗く者が多いさうであります。西頸城郡のある村に於ては、米山さんは四月の八日に山に登らつしやれるので、此日を御戸開きといひ、十月の八日には又麓へ下りて冬を送られるのだと謂つて、オカラコ即ち粢をはたいて新藁の苞に入れて供へ申すのは、明らかに農作に因んだ信仰が有るのでありますが、又他のある村では、お藥師さまは十月八日に、出雲へ藥を合せに出かけられ、四月八日に歸つて來られるのだとも謂つて居ります（同郡年中行事）。是は幾分か長逗留の嫌ひがありますが、多分は神々の出雲行きといふ俗傳に、折合はせようとした(364)試みであらうと思ひます。

　私の解する所では、是と福島縣海岸一帶の、四月八日の濱降り祭とは、偶然の一致では無さゝうであります。明治神社誌料などで調べて見ましても、例祭を舊四月の八日として居たものは、名山の麓にある御社に多いやうであります。比叡に一日の女人登山を許したといふ花摘の行事なども、あの山だけでは相當な講釋も成立つて居りませうが、近畿とその周圍の國々は、今でも一樣に卯月八日を以て、山參りの日として居るのであります。さうして色々の山の花を折つて來て、高い竿のさきに結はへて立てるのが、いはゆる天道花であります。乃ちこの季節の最も伸び／＼とした展開の姿を見て、農民は愈々其生活の烈しい營みに入つて行くので、私たちは年と稔とが同じ言葉であつた時代には、即ち支那の暦法のまだ一般に普及しなかつた時代には、この日が一歳の循環の古い區切りで無かつたらうかとさへ考へて居るのであります。

　いはゆる神在月の説、全國の神々が出雲國に御集まりなされるといふ言ひ傳へは、興味の最も豐かな話題ではありますが、中古以前の記録には見えぬやうであり、又彼地の舊社でも、言ふなら言はせて置けの程度で、強ひて主張はせられないやうであります。一つの強味と言つてもよいのは、この俗信の弘い地域に行はれて居ることで、是にも亦何かさうなつて來た理由がなければなりませぬ。村々の御社の祠官たちには、この事實を認めて祝詞を奏して居る人はあるまいと思ひますが、事實この神無月の前と後とには、氏子が定まつて參籠をする御社は至つて多いのであります。たゞ其期日が精確に月の朔日と晦日とでは無く、又土地によつては名稱も區々になつて居ります。關東では神の御上り御下り、九州では御出船御入船といふ者が多く、紀州などは普通に神の御飛びと謂ひます。其他の土地でも神渡り又は御立ちと謂つて、其頃は荒い風が吹くといふ者があり、又はたゞ神送り神迎へといふだけで、何方へとも云はぬ者が少なくありません。是を神樣の出雲行きなどゝいふのは、寧ろやゝ事を好んだ言葉かと思ひますが、それでも御立ちの前に、前にも申した如く、若い男女の縁定めをなされるといひ、それが又出雲をひどく人望ある神地とし(365)たことは確かなやうであります。

　

　　　　　　　　　　二七

　

　斯うなつて來た原因には、もう現在は忘れかゝつて居る何物かを思ひ出さなければなりません。それはたゞ單純に、祭の爲に御迎へ申した神樣なるが故に、祭終つて御送り申すのは當然であつたやうに、私は解して居るのですが、皆樣の御考へはどうでせうか。九月は大祭の最も多い月であつたことが、特に其次の月を神無月と、感じさせたのではありますまいか。歳の暮には小兒たちが、

　　　正月さまどこまで

　　　何々山の下まで

と高く唱へて、待ちに待つた春の神樣でも、やはり左義長の煙に乘つて、御還りなされるものと彼等は考へて居ました。三月節供の翌日にも雛送りがあり、娘たちは川原に出て悲しい歌をうたひました。五月は翌六日を慎みの日として居るだけで、之と近い例はまだ聽いて居りませぬが、七月七日の七夕流しにも、「又來年ございの」と唱へる處があり、大阪天王寺の道祖神祭の終りにも、「來年の／＼」と歌つたことが、江戸期半ばの書には見えて居ります。その他田植の最後の日の田唄にも、是とよく似た惜別の辭がありました。決して盆の精靈送りの日ばかりでは無かつたのであります。

　是は祭の嚴肅味を保つ上からも、必要なことだつたのであります。神と人との永く處を同じうするといふことは、たゞに人間に安息の時を與へぬといふだけで無く、同時に又神の尊さを認める道でも無かつたのであります。物忌の忍苦緊張といふことをたゞ一通りにしか考へぬ今の世の人には、或は想像の外かも知れませんが、是は期間があつて始めて守られ得るほどの難業苦行でありました。

(366)　　　いはひ來し神は祭りつあすよりは組の緒しでて遊べたちはき　乃ち古くは豐の明りと謂ひ、近世には又笠破りといひ、瓶底飲みといふほどの大いなる歡樂が、祭の後に續いた所以でありまして、之を要するに神を送るといふことは、祭そのものゝ爲に必要だつたのであります。

　ところが不幸なことには中世以後、急いで送らねばならぬ小さき神々の數が増加して來ました。たとへば風の神うんかの神、又は疱瘡の神といふ類の、寧ろ送らんが爲に先づ祭るといふほどの荒ぶる神が、毎年のやうに人里を訪れて來ました。この方はすでに害を被つた者の感情も表はれがちで、送り方が物々しく徹底して居ました。其爲に年久しい親しみをもつ氏族郷黨の神を送るといふことが、段々と言ひにくゝなつたらしいのです。さうして其神々の御降りは意識しても、御昇りの刻限ははつきりしなくなりました。少なくとも二種の神送りは混同して居ります。たとへば二月と十二月の八日の日、俗にコトの日とも八日節供ともいふ日は、四月十月の八日にも劣らぬほどの好き日であつたにも拘らず、信州の南部遠州の北部、天龍川の中流地帶に於ては、此日コトの神送りを行ひ、それを又咳氣の神送りと、呼んで居る村も多いのであります。是には五彩の幣束を振り鉦太鼓を鳴らして、サンヤレサンヤレと送つて行くことは、他の地方の神輿渡御の光景にも近いのですが、なほ現在之に携はつて居る人々の感覺では、夏の間の蟲送りやボウの神送りも同樣に、手偏王　津日の神を急いで祭却するといふ意味が強くなつて居ることゝ思ひます。然るに同じ川も更に下流の方まで下つて來ますと、コトの日の神送りは漸く少なく、別に九月の三十日を以て神送りをするのが普通であり、此方は流石に咳氣の神とは唱へませんが、笹を海川まで送つて流すことなどは、やはり何と無く修祓の感じを伴なひます。是をオナリ神送りといふ村のあるのは、私には一つの愉快なる不審でありまして、其理由がもし明らかになつたら、解釋は又一歩を進めると思ひますが、とにかくにこの九月晦日の夕、又は十月朔日の早曉といふことは、全國に亙つた神渡し神の御飛び等と、別箇のもので無いだけは確かであります。

　

(367)　　　　　　　　　　二八

　

　しかもこの濱名湖周圍などの十月初頭の神送りだけには、之に對する一箇月後の神迎へといふものが無いのであります。是から推し進めた私の一つの假定では、神送りは元來秋の祭の神降しと對立するものであつて、一月間の御留守を意味するものでは無かつたのであります。しかし神無月の異名は此月に限られ、人はさう永々しい神の御不在を考へることを欲せず、冬には又冬の小さい祭があるので、いつの頃よりか十一月の初めには、もうちやんと御還りになつて居るといふ風に、解することになつたので、この方は比較的新しい信仰であらうと私は想像して居ります。原因はやはり祭の度數が多く、殊に個人祈願が盛んになつて、暫らくも神と御別れ申して居ることを、淋しく心細く感ずるやうになつたことで、渇仰歸依の餘りとも見られぬことはありませんが、一方から言ふと遠祖以來の有難い御約諾に信頼して、神は遠くにいまして何もかも御存じであると、安心しきつて居られなくなつた爲であつたのです。求めて始めて與へられるといふ外の教へが入つて來て、我々の信仰は幾分か平易では無くなつた樣であります。

　神の御鎭座の地は、以前は山や丘の上、さうで無ければ喬木の生ひ茂つた森の奧深くに在り、それが段々と里近く、もしくは民居の方から近よつて行つたものゝやうに、私は夙くから考へて居るのであります。是は固よりその一つ一つに就て究めて見なければならぬことでありますが、少なくともさう有つて然るべきものゝ樣に今でも思つて居ります。新編會津風土記などを讀んで見ますと、この地方では二月と十月に農神の來往があると申して居ましたが、其日は兼て定まつて居て、必ず粢の餅を搗いて御供へ申すことは、越後米山山下の村々も同じことでありました。神樣はこの臼杵の音を聽いて、二月には天から御降りになるやうに、會津では言ひ傳へて居り、だから米が無ければたとへ空の臼でも、鳴らさねばならぬとさへ申して居りました。この農神の御在りか、秋の稻揚げが全く終つて後に、御還りなさるゝ場處といふものが、日本のやうに書いたものゝ傳はらぬ國では、世と共に又土地毎に、變つて行かねばな(368)らなかつたのであります。たとへば九州北部で丑の日樣といふのは、舊十一月（今は十二月）の初の丑の日に、田から歸つて來て家々で祭を御受けになる神でありますが、其あと何方へ御出でになるものか、今はもうはつきりとしては居りません。必ず丑の日に限るので此名が有りますが、やはり農作の神樣にはちがひないのであります。前日の子の日の晩に御祭り申す大黒さまと、關係があるやうに考へたものらしく、此日の式を大黒あげといふ土地も九州から四國にはあります。最後に殘した數株の稻を、主人自らが出て苅り取り、之を束にして朸に引掛け、さあ大黒さん、いにましよやと言つたり、或はわざと重い／＼と謂つたりして、擔つて歸つて庭でこの祭をするのであります。能登の珠洲郡でアエノコトと謂つて居るのも、同じく此月の初めに田から家へ、神を御迎へ申す祭であります。越後の頸城地方から、信州にかけて行はれて居る案山子揚げは、十月の十日、即ち十日夜《とをかんや》の日ときまつて居て、是も家のまはりの清い土地に、案山子を立て、餅やオカラコを供へて祭るのですが、信州ではこの案山子を山の神といふ者があり、越後の方では又田の神がこの日天竺へ、又出雲の國へ又は暖い國へ、御出發なされるやうに謂つて居るのであります。

　田の神が冬は山に入つて山の神になり、春は又再び田の神に御なりなされるといふことは、日本では最も普通の又有名な話であります。少しの交通も考へられぬ南北のかけ隔たつた土地で、同じ言ひ傳へを毎度耳にしますのは、決して小さな事實とは言はれません。つまりは山宮里宮といふやうな常設の建造物の無かつた時から、既に我々は神の去來を認めて居たのであります。それが大黒さまとなり又は惠比須神となつて、惠比須は十月二十日の夷講の日に、うんと寶を持つて稼ぎから戻つてござるなどゝ、土を耕す農家までが言ふやうになつたのは、つまりは此信仰に管理者が無かつたからであります。我々は是非とも無意識に保存せられたものを、言外に味はつて見ようとしなければなりません。山へ御昇りになるから山の神と言ひましても、是は木樵りや獵夫の拜む山の神とは別であります。又國民の殆と全部が、國土に作るものを最も貴重な食品として居た時代を考へますと、名は農神作神田神等と呼んで居ましても、是はたゞ其場所のみを掌りたまふ神で無かつたことも推測せられるのであります。神々の數は我邦では無數の(369)やうに言はれて居りますが、個々の國民の祭らなければならぬのは、さう色々とは無かつたのであります。單に今まで分類を怠つて居たばかりで無く、個々の切れ／”＼の見聞に囚はれて、餘分に我々は複雜の感を抱き、しかも其爲に端々の解説を斷念しようとして居たのであります。神道史の研究を統一するが爲にも、小さな多くの事實を正確にすることは、缺くべからざる準備であると思ひます。

　

　　　　　　　　　　二九

　

　日本民俗學が注意し始めた是等の諸事實が、今後もし幸ひにして一段と確かなものになりましたならば、多分は現在のやうな、そつとして置くといふ態度が無くなり、國民は幾つかの小さな眼の前の不審に對して、明朗に答が求められるといふ安心を得るのみか、更に進んではこの二千六百年以上を乘り越えて、今まで續いて居る固有信仰の根強さに就ての、一通りの常識を共有することが出來るかと存じます。千古を曠しうするほどの輝かしい大御代に生まれ合せながら、時世が變遷したといふこと、今が昔のまゝでは無いといふことを、存分に考へ又は説くことも出來ぬといふやうな、窮屈な話は有るものでない。しかも變つて居る部分をかきわけて見なければ、古く且つ一貫して居るものを是だと指して、我人一樣に見て悦ぶことも實は出來ない筈なのであります。人を怯懦にするものは無知であります。知識は有るが上にも更に求めようとしなければなりません。少なくとも我々は、さういふ大きな樂しみを持つて、この仕事にはかゝつて居るのであります。

　それには現在集まつて來る事實が雜駁であつて、時としては兩立し得ないかの如く見えるといふことも、寧ろ喜ばしい刺戟であります。勿論一方のうそ誤りといふことも絶無とは言へませんが、それだけならば容易に證明し得る筈であります。それよりも價値の多いのは、さういふ一見矛盾の如くにある二つ以上の事實を、相容れ竝び存せしめるもとの理由が、まだ埋もれて我々の發見を待つて居るといふことであります。書物の記載と今の人の見聞との間にも、(370)さういふことは有つてよいのでありますが、是は時がちがふから場處が同じでないからと言へば、簡單に片づいたかも知れませぬ。目前のことだと諸君も指摘せずには居られますまい。たとへば私の話の中で、田の神は十月に山に入られるといふのに、米山や苅田嶽の山の神は、四月まで里に駐りたまひ、それから始めて山に還られるのであります。乃ち同じ神來去の例とは見られないやうなのであります。斯ういふ喰ひちがひの原因は、なほ永く問題にしなければなりませんが、私は或は之によつて、現今まで明らかでない祭場選定の事情が、少しづゝ判つて來るのではないかと思ひます。つまりは一年を半分に分けて、神が半年づゝ一處に御止住なされるといふ考へよりか前に、春秋の兩度に神の御降りを仰ぎ、やがて御送り申した信仰があつたのかも知れぬのであります。數年前に奧州九戸郡の某村から、やゝ珍しい方式の村の祭が報告せられました。御社はある里離れた山の頂上に在つて、常の日は空虚だといふのであります。さうして御神體と言はれる一つの箱は、日頃は地頭の家の庫の中に納められ、此日奉戴してそれを山上に運び、その日一日の祭が賑はしく行はれるのであります。日は舊五月二十五日となつて居ります。即ち此村では、特に山の上が祭場であつて、しかもそこだけに御社があるのであります。薩摩の出水郡の島々にも、舊十月始めの祭を山に登つて行ひ、頭屋に該當する者は麓に在つて、そこを直會の座として居る例があります。是も稻作の祭かと思はれますが、なほ山の上の祭を本體とする爲か、之を山神祭と呼んで居ります。隱岐島前で有名な燒火山《たくひさん》は、本社は山巓に在つてまだ里宮は發達して居りませぬ。爰へ里々の信徒は正月の雪を犯して登り、神主と古式な盃事をするのであります。山を祭場とする御社は、足弱や通りすがりの者は參らず、寂しいかも知れませんが祭の神々しさはよく保たれました。是を麓の方へ御移し申すことによつて、祭の大きさや度數、殊に力の入れどころが變つて來たことは認めぬわけに行きません。

　鎭守と氏神と又ウブスナ樣と、この三つのものは同じか、はた又どこがちがふかといふことは、始終我々の間では問題になつて居ります。確かなことはまだ言へず、取分けウブスナ樣は名の起りすら不明でありますが、本居又は産(371)土の文字をさう訓ませてあるのを見ると、是はたゞ生まれ在所といふまでゝ、そこの神ならば元は氏神だけであつた時代が考へられますので、又とにかくに現在この二つを、一つに考へて居る人が最も多いのであります。之に反して鎭守はよほど新しい語でありました。氏との關係よりも土地全體を護つて下さるといふ考へから、採用した語であることが想像せられます。この管内の住民を、氏子といふことも既に公認せられ、且つ現實に二つを同一視して居る地方も可なり有るのですが、なほ兩方を別々にして居る處が、列擧すれば少なくは無いので、本來一つのものとは見難いのであります。數からいふときは、氏神を兼ねぬ鎭守樣はよほど少なく、又其管轄は、城や寺伽藍の鎭守の如く居住者の少ないものも稀にはありますが、大體に廣く大きく、從つて文頭屋の家を祭場とする場合が少ないのであります。日本で今日問題としなければならぬのは、何と言つても全國の御社の大多數を占め、同時に國民の殆と全部が今でも氏子となつて居る氏神樣と、是を意味する所の鎭守樣であります。是が他の一方の純然たる鎭守社の影響を受けて、内にも外にも最も大いなる變化を遂げ、又更に變化しようとして居るのであります。今度の大戰役は稀有の機會であつて、やゝ埋もれかゝつて居た古い信仰が復活しました。又その復活が期待せられても居ます。氏と神との年久しい因縁は、獨り神道史研究と民俗學の學説のみで無く、弘く一般の國民にも考へさせなければならぬのであります。

　

　　　　　　　　　　三〇

　

　神社の外景は最近の百年以内に、著しく統一せられて來ました。單に建築の樣式や境内地の構成だけでは、社格を知ることすら容易でありません。ましてや氏神と鎭守のちがひなどは、無いのを當然のやうに思つて居る者が多いのであります。さうして他の一方には是と小さき孤立の御社、又は臨時に設けられる祭場との相異は、日一日と著しくなつて來て、是だけは新附のもの、日本の神道から外のものゝやうに見られ、從うてこの外廓は紛亂しかゝつて居るのであります。いはゆる淫祀邪祠の取締りは嚴重見たやうですが、それの新たに起りやすい、絶好のコンデションと(372)評してもさう不當ではありません。今ある無格社以上のどの點が本來の特色であり、又どれだけの部分が變り改まつたものであるかを見定めて置くことが、淫祀防衛の一つの手段のやうに私は考へて居ります。即ち世に謂ふ所の發生學的考察は、數が多いからとておろそかには出來ないのでありました。創立年代の古さといふことを、以前からも標準にして居るやうですが、是は確かなことが判らず、しかも大よそは似たりよつたりで、江戸時代にも既に佛法にかぶれて、個人の信仰を以て建てたものがありますから、古いだけでは差別になりません。大體には信仰の相續、即ち父祖が神�ｺを信じて祭つて居たといふ理由のみを以て、子孫も共々に今なほ祭つて居るといふことが、神道史としても意味が深く、又創立の年久しさが、神を尊くする根本の力にもなる點かと思ひます。或は之を他の半面から見て、一家一門乃至は一部落の、共同の祭祀を基礎として居るものだけが、神社だといふのも當つて居りませう。といふわけは其他の祠の中には、今も個人の祈願を主とし、もしくは最初からそれを目的に、起したものが多いからで、さういふ寄せ集めの信徒は幾ら多くても思ひ／＼で、費用以外には祭の共同は出來ません。從つて又事實氏神樣にちがひない無格社の氏子を、信徒と呼んで居る地方のあるのは、不幸なる混淆と言ふべきであります。

　氏神の信仰もその最初に溯れば、個人の心理現象であつたらうと、想像して居られる諸君が有るかと思ひますが、それが果してさうであるか否かは、私たちの是非とも明らかにしなければならぬ、殊に大切な問題であります。少なくとも記憶の及ぶ限りでは、村では公けの祭といふことが御社の出發點でありました。此點は獨り神社とそれで無いものとの、境をきめる上に必要なだけで無く、同時に神社そのものを細かに分けて考へるにも、是に由るべき場合があります。單なる崇敬の目的だけの爲に、創立せられて居る御社も此頃は有るのですが、是は案外なほど數も少なく、又説きにくい問題を含んで居るので私は避けます。其他の大多數の、祈願と御禮申しとを目的にして居るといひ得る御社の中には、弘く全日本の端々から、各箇別々の參拜者を制限も無く集めて居られるのと、心願は常に一つの合同のものであつて、是を一ぺんに申し上げる機會、即ち公共の祭を持つ者との二通りが有るのであります。個人の願掛(373)けも、或は一囘毎の臨時祭なのかも知れませぬが、是には古來の祭と呼ばれたものゝ條件が揃ひません。即ち頭屋も無くいはゆる御旅所も無く、又神降臨の行列といふものもありません。從つて二つは可なりはつきりとした差別だつたのでありますが、今は雙方から之を目立たぬやうにする運動が起つて來まして、よほど邊鄙の名の現はれぬ御社で無いと、元あつた特徴は見られぬことになりました。しかも個人の信心のどのやうに盛んな、外部からの御參りさへ少なからぬ處でも、それを共同の祈願よりは次のもの、從たるものと見る感覺が、まだ氏神樣だけには殘つて居ります。乃ち研究の手掛りは有るのであります。

　

　　　　　　　　　　三一

　

　だから又統一の既に行はれて居る部面について、氏神の特徴を捜し求めようとすることは無理であります。たとへば神殿は常設せず、たゞ祭の日に御假屋を建てゝ、神を御迎へ申して居る慣例などは、今では却つて官幣の大社に傳はつて居るだけですが、以前はさういふものが各地に有つた筈で、現に雲陽志や防長の風土注進案の中にも、社無しといふ村々の神の森が、幾つとも無く擧げられて居るのであります。今日はそれが合祀によつて開墾せられてしまつたか、又は宮大工に普通の設計をさせて、森の樹を伐つて新たな建築をして居るのであります。沖繩の島々などは、御嶽《おたけ》の奧は神秘であつて、寧ろ人工の加はつたものゝ無いのを特色として居りましたが、それも最近には鳥居を立て、拜殿を設ける風が行はれて來ました。さうして我々は木の神水の神、もしくは家々の屋敷神などの、祭に先だつて藁のほこらを作り、又はたゞ幣串を刺して祭るものを、この恒久の建物の有る無しによつて、區別せんとして居るのであります。斯ういふ點から明らかになつて來るのは、寧ろ變遷の過程でありまして、曾てはそれ／”＼に別箇の趣旨を持つて居たのであらうものが、どうして又是ほどまで、都鄙大小を引きくるめた統一制に、適應することが出來たのであるかを、考へて見る方が效果は多いのであります。

(374)　是について今私などの注意して居る問題が二つあつて、二つはどうやら互ひに關聯し、その背後にやゝ重大なる又次の問題を導いて居るやうであります。その一つといふのは、末社もしくは境内社といふものゝ、いつの頃から又如何なる理由を以て、この樣に多く又普通になつたかといふことであります。神道史の研究家は是をどう説明して居られるか。或は何故に説明して居られぬのか。それが私は知りたいのであります。所謂淫祀やぶ神といふ類の、小さい祠には勿論是はありません。たゞ村々の氏神の御社地に、きまつてこの境内社が多くあるばかりか、又近年増加して居るのであります。京都とその周邊の大きな御社にあるのが、もう一時代前からで、こちらはそれを御手本にしたとも考へられますが、それにしたところで何の必要も無いのに、たゞ體裁を整へるといふことは有り得ないと思ひます。其上に中央の大社に在つては、別にさうなつてもよい事情がありました。その一つは若宮眷屬神の信仰が最初からあつて、必ず主神の御傍に共に祭るべき必要もあり、又他にはさういふ場處も無かつたことであります。次には斯ういふ大きな御社を拜みに來る者の多數は、兼てよそ外の神々にも信心を運ぶ輩で、或は一社に專念して他を忘れてしまふことを戒めて居た爲に、斯うして同時に方々の神を拜する機會を得たことを、感謝したらうとも考へられます。それにしたところで少し亂暴な話ではあります。多分は本の御社の全く知らぬうちに、あんな粗相な割長屋見たやうな小さな祠の中に、同等以上の大神を齋ひ込めるといふのは、どういふ動機からでありませうか。私にはまだ考へることが出來ません。何か書いたものでも殘つては居らぬかと心がけて居りますが、多數の關係者は是は當り前のことだ、何處でも斯うだからといふのみで、録するに足らぬと思つて居たやうであります。

　

　　　　　　　　　　三二

　

　之に比べると村々の小さい御社に在るものは、まだ變化が新しいだけに、或はその當初の感覺を、片端は傳へて居るかも知れません。探つて見るべきであります。今までに私の心づいて居りますのは、村々の氏神樣の境内末社の中(375)には、形も整はず扁額なども無いのが折々あります。是は何樣ですかと尋ね試みると、珍しい御名の神もあり、又單に是は家々の神樣だといふものもあります。村社を鎭守さんだの明神さんだのと謂つて居る土地では、この方を氏神と答へた例さへあります。さうして此移動は、今ちやうど進行中のやうに思はれます。たとへば伊豆の大島などでは、之をイボッチャといふ變つた名で呼んで居ります。單に藁の束の上の方を括つて、下を擴げただけの雨覆ひを謂ふのですから、私はあの島の女の髪形のイボンジリ、即ち蟷螂の名から出た言葉かと想像して居たのですが、土地出身の一人の同志の感じでは、結ひボッチャの意かと思つて居たとのことであります。ボッチャは斯ういふ藁をつくねた物にもいふでせうから、是も有り得べき推測ではありますが、或は二つとも當つて居ないかも知れません。とにかくこのイボッチャは、元は路の傍などの少しの空地に在つたもので、それを各家々で一つづゝ管理し又祭つて居りました。近頃になつて段々と村社の境内へ、持つて來て竝べるやうになつたので、祭るのは今もめい／＼の家でありますから、單に人家が殖え餘地が乏しく、自然に粗末になりやすいからとも、考へられぬことはありません。是と同じことが、虎兒島縣の南の黒島にも、今行はれて居るやうであります。前には住民の重立つた者の邸地に祭つて居たのを、追々に中央の御社の境内の、本社の左右に排列するやうになつて來たので、爰ではたしかにこの方を氏神と謂つて居るのであります。

　それから今一つ、又やゝ變つた例を、信州の上伊那地方で私は見ました。ほこらの材料は藁では無く、樹の細い柱を上窄まりに、壺形に組合せた上へ、檜の青葉を隙間も無く編み附けたもので、伊豆の大島のと形はやゝ似て居りますが、この方が何十倍も大きく、地上三四尺のところに板の床を張つて、簡略な梯子が掛けてありました。一方に口があいて居るので覗いて見ますと、正面には戸隱神社の御札が立て掛けてあるのみで、別に器具などは置いてありませんでした。ところの人の話を聽くと、戸隱さまには限らず、新たに遠くの神社に參詣して來た村民が、是を新造して御礼を祭つて置くのださうで、他の人々にもそれを拜ませようとする點は、伊勢參宮などの御祓ひ配りも同じ趣旨(376)だつたかと思はれますが、とにかくこの形?が、賀茂の御生野《みあれの》の神事の青柴垣にも、又一方には此地方で見られる、正月十五日の火祭の三九郎の構造とも、似通うて居たことは大きな興味でありました。信州以外の土地にも有りさうなものと、氣を付けて居ますがまだ僅かしか見出しませぬ。三河ではこの神の名をオタチクサマと謂つた人がありますが、其名が弘く行はれて居るかどうかも確かでありませぬ。注意すべき言葉だとは思つて居ります。といふわけは墓地の殊に古く、由緒があつて半ば忘れられて居るやうなのを、オタッチョウ又はタッシャバなどゝいふ語が、信遠地方から始めて、弘く四國九州あたりまでも行はれて居て、其起りはタツ即ち靈の出現するといふ意味の動詞から、導かれて居るやうに考へられるからであります。他にも書きましたから詳しく申しませんが、とにかくこの二つの境内末社は、少なくも今日の官國幣の大社には無いことであります。

　

　　　　　　　　　　三三

　

　村の御社の方の異色は是のみでありませぬ。境内に齋ひ申して居る小祠の種類が、どうやら亦少しく二十二社といふやうな大社とはちがつて居ります。勿論名ある遠國のあらたかな神々を、末社にして居る例も絶無ではありませんが、それよりもずつと數の多いのは山の神水の神、又は火伏せの神や疱瘡神といふ類の、住民の常の生活と交渉の絶えない神々であつて、獨立した個々の村社の主神としては、是ほどにも普通になつて居る八幡さまや北野天神が、その境内の祠には存外に祀られて居らぬといふことで、是には何か然るべき仔細が有ることだと私は思ひます。京都の内外の御本社に行くと之と反對に、限りある御眷屬の小祠は別として、その他は寧ろ御互ひに、著名な御社どうしが他を末社扱ひにし合つて居る、と言つてわるければ互ひに認め合はうとして居る姿があるので、この點はたしかに町田舍の、見遁がせない傾向のちがひであります。

　それから今一歩を進めて考へて見たいことは、この村々の神社の境内社と、相殿といふものとの關係であります。(377)官府の命令又は奨勵によつて、近年行はれた合祀には思ひ切つたのがあつて、何の御由縁も有り得ない二十幾柱もの神々を、順位も如何はしく竝べ立てた例もありますが、其以前の、藩の干渉の無かつた地方に於ても、火災その他の事情によつて、自然に住民の間だけで企てられた合祀といふものが時々はあり、或は又いつの世からとも知れず、よそでは別々の御社に祀るのを常とする神々を相殿として居るものもあります。さうして是にも境内社と同じやうな、其地限りの主從の地位があつたやうであります。一ばん極端な例では拜殿の外廊下の片端などに、別の小さな木の祠を作つて安置したもの、是などは境内社とのちがひは、たゞ露地の上で無いといふだけであります。次には新潟の住吉さまのやうに、いつまでも拜殿の一隅を占めて居られる別の神樣、是も御席がよくないから、或は信者には相殿とは考へられぬかも知れません。中部以西の各府縣に於ては、普通に斯ういふ神々をマラウト樣、即ち客の神と呼んで居るやうであります。劇場の鎭守を客人大權現と唱へて居たといふ、江戸期の笑話も殘つて居りますが、本來小さい寄寓の神を客人神といふ風習が既に有つた爲であります。この中で人が最もよく知るのは門客人、即ち神門の左右に金網などを張つた中に、俗に矢大臣左大臣などゝいふ二柱の神、是は印象の深い木の坐像になつて居て、御姿からいふと明らかに隨從護衛の神です。是をマラウトさんといひ、是だけが客神であるやうに思つて居る者も多いのですが、恐らくは誤りで、是はたゞ客神の一種なのです。現に拜殿の奧の方にこの御像を置く社もあり、又獨立して一つの末社と、祭られて居るのもあります。客神は單に他から來られた神、土地や氏子との縁故の、比較的新しい神といふ意味と、解すべきだらうと私は思ひます。同じ相殿の半ばを御頒ちなされる場合とても、其いにしへに溯つて見れば、主客新舊のけぢめは必ず有つた筈であります。さうすると今までの氏子たちが、前の主神の神意に反すること無くして、斯ういふ合同を行ひ得た根據はどこに在つたでせうか。單に差支へはないと御許しなされたとするか、それはよいことだ是非さうせよとの御指圖があつたとするか。何れにしたところで御斷りも無しに、それだけの新儀は強行し得なかつた筈であります。或は改めて思し召しを伺ふまでも無く、本來さういふことを御好みなされると解して居た(378)にしましても、やはり其解釋の基礎は入用だつたのであります。境内社の場合も是と同じで、一旦氏神の御處と定めて區劃してある土地に、新たに一つの客神を迎へ申すとするには、少なくとも元の神の黙諾許容が必要でありました。或はそれ以上に、それが日頃の神慮に合するものと、思つて居たかとも想像せられるのであります。

　

　　　　　　　　　　三四

　

　是は既に意識して居る人も少なくなりましたが、明治の御代以來、全國を通じて弘く行はれた神社合祀といふ政策の、大切なる信仰的根據であらうかと私は思つて居ります。一門一郷黨と立ち分れて、各自の氏子をもち祭が有つたばかりか、時としては隣どうし、競ひ爭ひたまふこともあつたといふ、言ひ傳へさへ稀では無いのに、それにも拘らず我々の神樣は、國が一つであり又信仰が共通のものであるからでありませう、互ひによその神々をよく知つて居られました。先づ第一には國に衆庶の均しく崇敬する大神のおはしまして、その御力の殊にすぐれて高いことを、氏神たちは知つて居られました。其次には氏神の御いつくしみ、即ち氏族派生以來の何百千年とも知れぬ御親しみによつて、祈請願文の事々しい言擧げが無くとも、民の喜び愁ひをおのづからに洞察なされて、それを望みの如くかなへようといふ御誓ひの、彼是一樣であることも知つて居られました。それよりも更に著しいことには、時と場合によつて神の御力にも能不能があり、又は管轄といふべきものゝあることを、承認なされて居る點であります。人と土地とによつて神の領域が別になるといふ信仰では、是は必然の推理だつたのですが、交通がなほ開けず、人事のまだ簡素であつた時代には、暫らくは其實驗が得られなかつたのでせう。全國が一齊にといふのでは決して無く、中央は早く地方はやゝおくれて、追々と神々の聯絡、協力合作といふことが考へられて來たのであります。さういふ中でも災禍を掌るものが、小神ではあるけれども專門の力があつて又數が多い。それを一つ／＼和めて宥恕を乞ふよりも、之を統御したまふ大きな神樣に、御願ひ申すのが有效であらうと考へるやうになつて、中世にはさういふ強力な神々の、新(379)たに顯はれ又次々へ御移行なされるのが多くなつて來て居ります。氏子を憫み守りたまふ御恩�ｺは、他には及ぶものも無く厚く且つ懇ろであつたけれども、もしくは其御親切の絶大であつただけに、氏神樣には殊に自ら進んで、さういふ大きな神々の助勢を、御求めになる理由があつたかと思はれます。

　是は理論で無く、一つの曾て有つた事實を説かうとして居るのです。世間には?々斯うで無くではならぬと、信じさせようとする先達がありますけれども、私のは證據があります。固よりこの證據もまだ不十分で、事實を確かめようと思へば、もつと集めなければなりませんが、少なくとも斯う解してよい史料が傳はつて居ます。縁起靈驗記その他中古以來の物語集などの中には、神が更に他の何々の神に願つて見よと、御示しなされた例が多く出て居ります。或は又二柱三柱の神が集まつて、どうしたらよいかを御相談なされるのを、夢に見たといふ話もあり、もつと進んでは氏神の御言葉として、この者は自分の氏子ながら、今まで斯く／＼の理由を以て其願ひを聽き屆けてやらずに居りました。どうかあなたの御力で、斯ういふ風にして御やり下されと、他處の神樣に説いて居られるのを、夢の中にまざ／＼と聽いたといふ類の記事もあります。夢を證據といふことは今日は既に認められませんが、以前は凡慮の及ばぬ眞實が、此中にあるものとも信じられ、人は亦夢を有り得べきものとするやうに、日頃の知識と經驗とを積み重ねて居たのであります。

　さうして又夢以外の方法によつて、神意の在るところを知ることも、?々行はれて居たかと思ひます。御鬮とか石占とかの簡單な手續きによつて、吉か凶かの二つを決するものゝ外に、湯立てや巫女の言葉から、もつと込入つた説明までを伺ふ道もありました。後世は多くはもつと氣の永い、結果を見て居るといふやうな方法もあつて、どうもあの改革をしてから、火事があつたり病人が多く出たり、その他よくない事が續くといふやうな意見から、折角考へてさうきめたものでも、未練も無く直ぐに元へ戻す場合の今でも多いことは、諸君ならば定めしよく御承知でせう。大體に古例は出來るだけ守らうとするのですが、それでも永い間には以前の姿が、見ちがへるばかりに改まつて居りま(380)す。乃ち少なくとも何の御咎めも無かつた、だから御許しがあつたのだといふ解釋をして居るのであります。神慮はそれほどにも精確なものと信ずるのが、村の神の信仰の根基でありました。從うて又今後その信仰が薄くなるといふのは、容易ならぬことなのであります。

　

　　　　　　　　　　三五

　

　今日の境内社の多くのものゝ中には、單に他に然るべき場處が得られぬ爲に、御許しを得て又は御差支が無かつたら、爰に置かせていたゞかうといふものも、含まれて居ることは爭へませぬが、なほ最初からそれだけの理由で、始められたものばかりとは見ることが出來ませぬ。今まで家々に別に祭つて居た祠を、新たに茲に移したといふのには、きいてもまだ明瞭でない何か特別の動機が有つたと思ひますが、それはもう一度後に考へて見ることにします。氏子が參詣して來た遠方の大社の、御移しを暫らくこゝに置くといふのも、たゞ其信心を内證事で無く、我村の神にも公けに認めていたゞかうといふ趣意だけとは思はれません。火の用心には秋葉さまを、流行病には祇園さまを、末社に新設したのを見ても判るやうに、是ほどにも我々はこの災ひを怖れ氣づかひ、有る限りの方法を盡して居るのを照覽あれと、もしも氏神に他を排除したまふ御心があり、氏人の二心を憎みたまふ傾きが少しでもあつたら、必ず避けたであらうと思ふことを、公然と行うて居るのであります。乃ちそれが又主神のよみしたまふ所であることを、牢く信じて居たとまでは言へると信じます。或は更に一歩を進めて、本來この小さな色々の祭典も、なほ氏神樣の監督の下に、もしくはその御立會を仰いで執り行はれて居たかとも見えます。即ち理窟つぽい文句でいふならば、氏神を通して又は氏神に由つて、之を營んだものと言ふべきであつたかも知れません。たゞ一つの差別の點は、是が全部落の共同の祭であつた場合でも、なほその境内社の祭をする者を、其小社の氏子とは言つて居らぬことであります。

　之に對して本社の奧深く、所謂相殿として祀られたまふよそ外の神々は、既に村中の氏神の、少なくとも一部には(381)なつて居られるのであります。是は重大な點である故に、別途にして考へられなければなりません。さうして私などの第二に解かうとして居る問題、即ち神分靈の思想とも、聯關して居ることであります。客人とか荒脛巾《あらはゞき》といふ類の、別に役目があつたらしい周圍の神は兎も角もとしまして、今まで祭つて居る神と一體不二、同じ神殿の正面に於て、一つの神座に安め奉るべく、更に新たなる神を迎へるといふことが、單なる御承諾だけで出來るとは考へられません。人間凡俗の情から推して見ても、屋敷の片隅に小屋を建てゝ住ませる者と、家内に同居者を置くといふことゝは、決心の大小がありますのに、ましてや是は主人の地位を分ち、末永く祭場の出入を共にし、一つの祝詞に耳を傾けたまはんとするのであります。即ちもはや「まらうど」神では無いのであります。その大きな神社組織の變更は、たゞの御許諾御同意でなかつたことは勿論、協力とか合同とかの程度よりも、もつと進んだものであつたことは確かで、恐らく此點には、日本の神樣に限つての、一つの考へ方の今はまだ明らかで無いものが潜まつて居るのです。先づ想像に浮びますのは、一方の神が第二の神の御�ｺを認めたまふといふことは、それが其まゝに力となり、又は光のやうなものになつて、たゞ御身にさし添はるだけであつて、其爲に主神の一體といふことが、こはれるものでは無いといふ考へ方があつたのではないかといふことですが、固より言説を絶した題目であります故、筆にも口にもさういふ證據は傳はりません。たゞさう考へてもよい理由かと思ひますのは、如何ほど土地住民と因みの薄い外の神が入つてござつても、其爲に前からあつた氏神としての機能は、少しでも縮少しては居りません。即ち新たなる合祀によつて、氏神が退位し又は讓歩なされたと思はれるふしの無いだけは確かであります。

　

　　　　　　　　　　三六

　

　此ことを特に念入りに考へて見たいわけは、現在各地の無格社以上の社號には、京都を始め全國有數の御社から出たものが五千六千、中には萬を以て數ふべきものさへあつて、しかも其種類の甚だしく限られて居ることが、私には(382)不思議でたまらぬからであります。是をたゞさう有るのだ、事實がさうなのだと、言つて澄まして居てよければ何の事はありませんが、少なくとも延喜式の頃、又は八幡・天神・八坂等の御社の創設せられる前には、斯ういふことは無かつたのですから、乃ち變遷があつたのであります。その變遷を説明することが出來ないのは、神道史の手柄では無いのであります。勿論斯ういふ中には新たな土地を拓いて、新たに大きな御社の神を勸請しただけといふのも有るでせうが、人が集まつて居なければ御社は建たず、人が居て御社がまだ無かつたといふ土地は、漂流先きでゝも無いと想像し得られません。たとへ今見るやうな輪奐の美を極めたものは無くとも、年に一度以上の祭を營んで居たとしますれば、元からある意味での御ヤシロは必ず有つたことゝ思ひます。それが全國殆と一樣に、今の如くなつて居るのは改稱であり、その改稱の原因は、主神の新舊更代よりも、多分は合祀相殿から出たものであらうと思ひます。

　尾張地名考などを見ますと、昔は惨酷なことをしたもので、巡視の役人に向つて由緒不明、祭つて居るのは何といふ神か知りませんと答へると、取潰される懸念があつたさうであります。それで�ｺ川家と縁の深い八幡宮だと申立てて置けば、安心だらうといふことになつて、急に八幡と名のる社が多くなつたとも書いてあります。さうで無くとも源氏の將軍が續いて、夙くから八幡社は多くなつて來て居ました。水戸でも岡山でも名君が出た際には、寧ろ八幡の減少を目標に、寄せ宮の工作を進めたとさへ言はれで居ます。八幡で無い御社を八幡と申し立てることは、農民には出來ないことでしたらう。多分は八幡さまも合せ祀られて居る御社だから、それを第一に擧げる位のことをしたのかも知れません。とにかくにはつきりと祭神の名を言へなどゝ無理なことを言つたら、神社の稱號は今日の如く固定するにきまつて居ます。神名帳考證といふ類の學究的著作の世に出てから後でも、國々の古い社の祭神はまだ論爭の的でした。無學な百姓の明らかに祭神を知つて居るのは、精々今ある二十種内外のものだつたからであります。

　其以前は恐らくどこそこの明神と土地の名を擧げるか、さうで無ければその祭に參加する一族の名を冠らせて、ずつと延喜式などの神名に近い、昔なつかしいものだつたと思ひます。是も私の當てずつほうで無く、捜し出せば記録(383)に證據があります。それを公邊の臺帳が寧ろあべこべに、氏子の方を拘束しましたが、元來は大抵氏神と八幡、又は氏神及び鹿島香取等といふ心得で、祭もすれば信心もして居たことゝ思ひます。さうしてその外來の大神を崇敬するにも、必ずしも今のやうな相殿では無く、他の一方の大社の境内末社の如く、たゞその神々の列在したまふことを、明示するに止めて居たかも知れません。さう思ふわけは、昔は常設の神殿の無いものが多かつたからであります。單に祭の日の式場に、御名を唱へて招き降し奉るに際しては、相殿の沙汰は無かつたらうからであります。

　氏神が名ある中央の大神の御分靈たゞ一ところと決して居る場合にも、なほ古來の祭神は退き隱れたまはず、永く住民との間に立つて公共の願望を傳達なされるのみか、或は寧ろその大神の名に依つて、もしくは其御威�ｺを身に副へて、自ら氏子たちの指導と庇護に御當りなされるかと思はれる形跡はまだ色々とあります。學問に縁の少ない人々の中には夢に又恍惚の間に神を見たといふ實驗は、今でも存外に多いものですが、注意して其容子を聽いて見ると、その幻は必ずしも本社の説いて居る所と合ひませぬ。大抵は白衣白髪の老翁などゝ謂ひますが、或は嚴島神社と謂つて童形の御木像を安置するといふやうな、社毎の少しづゝのちがひが有るやうであります。神の特質又は御好みといふやうなものが、同じ社號の神々でもかはつて居るといふことは、是亦本社が解説の責任を負ひ得ない所だらうと思ひます。或は何村の八幡は氣が御荒いとか賑やかなことが御すきとか、白の馬を忌んで村中に御飼はせなされぬとか、もつと進んでは曾て胡麻の莖で左の御眼を突かれてから、胡麻を栽培する家には不吉があるといふやうな言ひ傳へまでが、一社限りに殘つて居ります。祭式の異同、殊に祭の日の定め方までが、同名の御社互ひにも區々であり、又?々本社とも一つでありません。是が御揃ひであつても説明に困ることは同じですが、是が土地毎の事情によるとすると、愈々共通なのは社名だけといふことになるのであります。

　

(384)　　　　　　　　　　三七

　

　祭には數社の寄合ひ祭といふものが、今でも弘く方々の府縣に有ります。其中には東京市内のある區にも見るやうに、南北二つの宿の氏神樣の御輿が、堺の橋の上に會して式を行ふ所謂行逢祭もありました。神が男女の二柱と信じられると、殊に和氣の天地に盈つるものがあつたと思ひますが、是も本來は平和の裡に、境を劃定しようといふ社會的意圖の、加味せられたものであつたかも知れません。周防の西部には男神の御輿が、次の村の御社の前を音無しに通つて、もう一つ先の御社へ神幸のある例もあり、之をばウハナリ祭、或はオヌカリ御損の神事などゝいふ珍しい名で呼んで居りました。しかし其以外には又五社六社の行列が、一處に集まつて合同の祭を擧行するものもあり、是に携はる氏子たちの印象は、外から見た以上に強烈なものがあつたやうで、其效果は單なる數の加算ではないのでありました。神が祭の終つて後、それ／”＼に鎭座の地に御還りになるものだと考へ得られたうちは、この合同は幾らでも擴張することが出來ました。それが遠來の且つ威望すぐれたる神々を迎へたといふことになれば、その感激の強く深く、人の信仰を新たにする力の、大きかつたことも推し測られます。然るに我々の神に求むることが日に多く、祭の囘數は年と共に滋くなつて、神の來去といふことが、先づ斯ういふ遙かなる國の社に就て、想像し難いものになつて來たのであります。是には相隣する佛法の信仰慣習、殊に外から來た社僧法師たちが、自身縁故の有る勸請神の肩を持つことになつて、終に今までの土地の氏神樣が、たとへ表向きだけにもせよ、身を引きたまふことになつたものと、私は今考へて居るのであります。

　尤も是にも亦一方に、此樣に大きな變革でも、さしたる無理も無しに實現し得られるやうな、國の固有信仰の素質、又は性格ともいふべきものがあつたらうことが考へられます。それは何かといふことは可なり六つかしい問題で、うまく説き終せる自信もありませぬが、言ひ出した以上は片端なりとも述べて見ませう。今まで私は氏神樣といふたゞ(385)一柱の、名の無いもしくは名を稱へることを許されぬ神を想定して來ましたが、この一柱といふことは實は考へ方でありまして、元に溯りますと我々の氏神は、夙くから一つの大きな合同體でありました。日本の神社合祀は、官府の慫慂を待つことなしに、以前にもくり返し行はれて居たのであります。古記の表に依りますと、氏神は紛れも無く氏の神、たゞ氏人のみの集まつて祭を仕へる神でありました。ところが現在は三つ五つの異民族の者が、共々に一社の氏神の、氏子となつて居るのであります。古い名が轉じて他の物に附くといふことも絶無ではありませんが、此場合に限つてそれでは無い證據には、一方には今なほ昔ながらに一氏一神の例が少なからぬのみか、他の一方には氏人の感覺が、なほ集合した氏神にも相續せられて居るのであります。即ち自分たちの群のみに縁故ある神、他を排してたゞ氏子のみの兩社を、念として居て下さる神と思つて居るのであります。信仰の樣式にも、氏の神なるが故の特色が殘つて居ります。即ち祭は必ず共同であり日は定まつた例日があります。それから祈?の言葉が極度に簡略で、他の神々に向ふ時のやうに、めい／＼の名や年を申さず、心願の筋を表白するやうなこともありません。そんなことはせずとも、氏の神だからすべて御承知と思つて居たのであります。乃ち氏人として爲すべきことは、前々から定まつて居りまして、その通りさへ怠らず守つて居れば、神も亦親代々の御誓約を御果し下されるものといふのが信仰でありました。以前の氏神祭も此以外を出でなかつたらうことは想像し得られます。それが唯組織の一點に於て昔とちがつて居るのは、つまりは合併があつたからであります。

　合併の行はれなければならなかつた理由、是はさして推測に困難でありません。氏子たちの最も強い希望は、我神を大きく力強く莊嚴にすることでありましたらうが、是が單獨では望まれぬ場合が、人間には?々起つたのであります。強い大きいは共に比較の語ですから、世上の祭が花やかになれば我方のは見窄らしくなります。一たび合併の試みが起れば、それが風潮となるのも亦自然であります。村には異姓にして親しみの一門と近いものが幾らもありました。たとへは愛する妻娘を通じての姻戚であります。孤獨の力弱い者を庇護した養子猶子であります。是を一門の親(386)と同視することは、理論は或は之を許さなかつたかも知れませんが、利害と感情の差別はもう少なくなつて居りました。殊に母には兩家の神を、共に我氏神と見ることが出來たのでありました。其上に我邦の村々には、最初から恐らく縁組の目的を以て、數戸の異なる苗字の者が、打連れて入つて來て草分けとなつたものが多く、中華民國の農村で見るやうな、一姓が村を建てるといふ例は不思議に少なかつたやうであります。婚姻の方式の差だつたかも知れません。即ち女にも配偶者の選擇が出來るやうに、早くから相知ることを必要としたので、村内の婚姻が普通だつたらしいのであります。

　

　　　　　　　　　　三八

　

　氏神合同の最も大いなる結果は、異姓の人が神を祭ることの、少しも奇恠で無くなつた端緒を作つたことに在るかと思ひます。頭屋の輪番祭場制は、以前から一つの神域の中で、折々地點を變へて居たので、或は存外に容易に行はれたのかも知れませぬが、それが展開して末には今日の如く誰が祭つてもよいことになると迄は、豫測することが出來なかつたのであります。神子神裔が神に仕へるといふ傳説から、後には臣從もしくは外戚の親しみとなり、更に進んでは單なる縁故者又は信仰者の崇敬とまで改まつて來たのも、神と人の間の日に遠く、高々と隔たつて來た社會?勢を反映した、自然の傾向であつたといふことが出來ます。

　しかし少なくとも合祀の當初に於ては、人は各自の氏の神と、別れてしまつたとは考へ得なかつた筈であります。如何に勢力ある長者の一門と、同じ祭場の祭をする場合にでも、其爲に我家の神を見棄てゝ、所謂血食の望みを奪ひ去ることは出來なかつたらうと思ひます。乃ち神々はこの合同によつて、容易に一體の最も尊きものに、混融したまふものゝ如く考へ得られたであらうと、私などの推測して居る根據であります。神の鎭座の處がちやうどこの機會に於て、新たに景勝の地を選定して、建立せられたものが多いらしいのも、或はこの思想に基いて、前には色々であつ(387)た神來去の御路筋を、統一しようといふ試みとも見られます。たゞ是が間接の影響として、何としても免れることの出來なかつたことは、氏神の固定と言つたら最もよく當るもの、即ち今までお祭り申して居る神と、是から更にその氏神の中に加はりたまふ神との境が確立して、越え難いものになつてしまつたことであります。

　是は直接に我々日本人の靈魂の問題となるので、たとへ過去の事に屬すとしても、輕々に看過することは出來ぬのであります。靈魂が果して存在するものならば、死んで後永くどこに行くか。それと活きて居る子や孫や末々の者との、繋がりはどうなつてしまふと我々は思ふか。もしくは思つて居たのであらうか。斯んな大事な歴史が、今はやゝ朧ろにならうとしで居るのであります。佛法の教へを明らかに信じて居らぬ人々までが、なほぼんやりと淨土地獄のやうなものを認めて居りました。しかも盆の滿月の頃には、その先祖が年々戻つて來るやうにも考へられて居たのです。徹底しない話であります。そんなことでは凡庸の者は安心がなりません。それで彼等は皆死ねば祭られるものと信じ、それを確實にする爲に、めい／＼も亦活きて居るうちは、他意も無く先祖の祭を營んで居たので、詳しいことは知りませんけれども、是が或は對岸大陸と島々の諸民族に、共通の死生觀であつたかと思ひます。

　但しこの死後の祭には、佛道普及の前から、既に明らかに一つの制限が附いて居ました。第一に我邦では、死といふことは穢れであり忌はしいことである故に、是を至つて清きものと一つに置くことは出來ませぬ。それである期間を中に立てゝ、神として仕ふるに適する條件の成就を待つたやうであります。沖繩の島々などに行つて御尋ねになると、まだ此方式の細かな點までを、談り得る人が殘つて居りませう。普通に五十年を過ぎると戒名を削り去り、個人名を忘れてしまつて、先祖の神の中に加へるのであります。外ではその期間にちやうど墓の木は林となり、しるしの石は見覺えが無くなり、有つたものはすべて土に復つて居るわけで、清まはりは即ち完成するのであります。中央の田舍では寺で百年忌や三百回忌の法要までを勤めるやうになつて居りますが、それでもなほ三十三年を「とぶらひあげ」などゝ稱して、うれ附き塔婆又は活き塔婆ともいふ青葉の附いたまゝの特別の柱を立てゝ供養し、それから後は(388)たゞ先祖樣として祭るのが普通であります。陶器を葬具にした土地では、この日掘り返して割つて棄てるものも見受けます。墓地が區劃されて居ると、たとへ斯うまでしても忘れてしまふことは六つかしいのですが、古くは山谷の奧に送つて置いて、ある期間の後には寧ろそこを避けて近よらぬやうにして居たやうであります。是が即ち先祖を神に祭る條件でありました。

　

　　　　　　　　　　三九

　

　祖靈の中では始祖が最も大切な、功績の偉大な神であつたことは言ふまでもありませんが、家道には變轉があつて、又中興の祖といふものも感謝せられて居るのみならず、是を重んじて中間の著はれざる代々を、粗略にするわけには行きません。人間の經驗から推せば、家の主には代毎にかはつた長處がありまして、その集合協力を認めることが、殊に其恩澤慈愛を心強く感ぜしめたのであります。だから常民の常の一族では、所領の證明より以外には系圖を吟味せず、たゞ先祖樣といふ言葉の中に、想像し得る限りのすべての尊屬を含めて居たのであります。神に今日の如くそれ／”＼の人格を認めることになりますと、日本のやうな年久しい社會では、しまひには考へきれぬことになつて行くでせうが、幸ひにして我々はさういふ風には一族の神靈を、解しては居なかつたのであります。村の結合の爲に大きな推進となつて居た氏神の合同の如きも、是がある御蔭に安らかに爲し遂げられたものと思ひますが、たつた一つの困つたことには、それからあと次々に神に加はるべき靈魂の、納まり處が無くなつたやうに、考へるものが多くなつて來たことであります。是には中心の力を強く輝かしいものにせん爲に、全國の中でも殊に有數の、尊き大神を御迎へ申して來たことが、よきにつけ惡しきにつけ、とにかくに隔絶の一つの原因でありました。

　然らばその民間信仰に及ぼした影響はどうであつたか。御社は如何なる片山里の片陰に在るものまで、すべて一國の公けの機關となつて、大小の差等は認められて居るにしましても、その祭の態樣方式は段々と統一して來ました。(389)一地の歴史を談るべき特徴は、有るには有つても漸うと薄れました。氏子の數や貧富とは別に、外からの信心によつて、榮え衰へるといふことが有り得るやうになりました。それはたしかに外部へ向つての成長と言へます。其代りには内では我々の靈魂の結末の付かぬものがぐん／＼と増加しまして、新たに靈神といふ思想が、やゝ著しい擴大を見たものゝやうに私には思はれます。靈神は中世以後、或は大昔にも既に認められて居たもので、大體に死の穢れの未だ脱却し得られぬ者、又は俗世の絆しがあまりにも強くて、神と清まはるだけの力の無いものを、主として含むやうに見られて居りました。子孫無くして死に又は家が祭を持續するだけの能力を失つて、無視せられて居る亡魂も、段々と多くなつて居ることゝ想像するやうになつたのであります。斯ういふ頼りない亡者はよく顯はれよく祟り、何とかして祭られるやうにならうと努めるものと、考へ始めたのも自然でありました。それで日本では幽靈は化けて出るもの、又こはいものになつたのであります。家々の盆の祭に於ても、いはゆる無縁佛又は外精靈が餓鬼でありまして、是が先祖樣の正當に受けられる饗宴を攪き亂す虞れがあるので、この爲に別に一段低い祭壇を設けるのが、普通の慣習になつて居ります。盆は精靈といひ正月年越にミタマといふのも、一つのものゝ兩名であつて、即ち同じ祭を古くは又年の暮にも行つて居たのであります。氏神樣の範圍が次々に伸びて行くことの出來た時代には、ミタマ即ち精靈といふ語の中には、このアラミタマ又は新精靈（ニヒジャウロ・アラソンジョ）と、無縁の三界萬靈とだけを含んで居たわけでありますが、行く／＼神人の隔離が強くなつて、先代の至つて安らかなる爺婆の靈魂も、家の中で私に祭らなければならぬ故に、段々とこの精靈の一部となりました。家の持佛壇の重要性は急に加はり、從つて又棚經を讀みに來る人々の權能が、著しく増長したのであります。だから日本を佛教國の一つのやうにしたのは、却つてこの氏神信仰の發達だつたといふことが出來ます。

　

(390)　　　　　　　　　　四〇

　

　諸君の郷里のさま／”＼の事實を、試みに比較して見られると段々に判つて來ることですが、盆と正月その他の節供の日に、一門親族の禮を盡すべき方法は、今もほゞ二通りに分れて居ります。その一つは分家や外に縁付いた者がやつて來て、先づ御内佛を拜んでから後で家の人たちに挨拶をするやうなのを、固いと謂つて居る地方であります。今一つは本家に特別の神の祭場があつて、それへ一門の者が來て參列し、その祭の後が酒宴になるといふやうな方式でありまして、その他の色々なものは、大抵どちらかの稍々崩れたものであります。この二つが行はれて居る地域を比べても、又はたゞ見ただけでも、第二の神祭りの方が古いといふことは出來ます。是を現實に今なほ先祖祭、又は系圖祭とさへ呼んで居る處があるのであります。此祭の祭場は屋敷内の小さな祠であつたり、又は別地に設けた小祠であつたり、又は家の奧出居《おくでゐ》の正面の神座だつたりします。その神實も不思議な古い箱であり、もしくは單なる幣束であり、稀にはなほ本地佛の木像を拜むこともあるやうですが、とにかくに現在我々の氏神社といふものとは別で、そこの神職も通例は招かれては來ません。乃ち氏神の合同といふことが斷行せられて後に、更に其氏子の中から、一族だけの小さい結合を保たうとした趣意だつたことが窺はれるのであります。分家の弘く散る地方になると、氏子としては多くの御社に屬して居る家々が、斯うして先祖祭には寄るのですから、古さ大きさを誇る家々などでは、この必要はなほ絶えなかつたのであります。

　其爲に或は實際に於ては既に合同して居りながら、なほこの氏神の名を、家々に新たに設けた祠に保留して居る村々も各地方にはあるのです。九州の南部や東北地方に參りますと、濁音を明らかにしませぬ爲に、ウッガミ・ウチガミと發音して居ても、内神だか氏神だかのきめられないものがあります。しかし語源に溯れば内も氏も一つでありませうし、又自分は内神のつもりで用ゐても、別に其以外の氏神といふ語は、耳では標準語と認めるといふだけで、考(391)へる言葉には持つて居ないのが普通のやうです。さうして斯ういふ土地には當然に鎭守・ところ神、又はオブシナ樣などゝいふ名が、村合同の御社の方には宛てられて居るのであります。

　或はこの御社の方を、親神と謂つて居る者が佐渡の海府などには有るといひます。最初は是も祖先神の義であつたのか知れませんが、誤解が無い以上は是もよい言葉だと思ひます。何れにしても鎭守は新しい語といふだけで無く、其起原に於て我々の氏神の具へて居たものを持つて居りません。何か大きな事變のある毎にたしかに御互ひが經驗しました如く、單なる郷土の安全の保障、その地域の外から災ひせられることだけを、防護することが神�ｺでは無かつたのであります。國の共同の問題を解決するに先だつて何よりも有難いことは、一國の秩序に服し、各自の區處に就き、皇家の安泰の爲に働かうとした點であります。具體的にいふと神御自身の御分限をお認めなされ、より大いなる神々の御威�ｺに據つて、更に萬民をもつと高い幸福へ進ませようとせられる點であります。神となつて後もなほ朝廷に忠誠であつたことであります。斯ういふことが果して我々の靈の、死してなほ永遠に此邦に安住する姿を信ぜず、それが一團の清い力に融合して、未來に光被するといふことを信じない者に、爲し得られることでありませうか。是を彼等と共に信ずるか否かは、各人の境涯であり又は因縁であつて、強ひることは出來ぬとしましても、少なくとも斯くあつたと云ふことは過去の事實だから、之を認めないわけに行くまいと私は考へます。この見方に對する諸君の判斷はそも／＼どうでありませうか。どちらでもよいといふことだけは、言はぬやうにして戴きたいものです。

　是等の事實を綜合して見ますと、近年の神社合祀は多くの住民を寂しがらせ、結果必ずしもすべて良とは申せませんが、是は全くもとあつた考へ方を失つて居るまゝだつたからで、説くに方法を以てすれば、又は古人が思つて居たやうな心持を抱くことが出來れば、此後も或はなほ可能なことかも知れません。神道の玄義の更に探求せられねばならぬ所以であります。今ある我々の家の神又は邸内のいはゆる内神などは、ちやうど山林や流れの岸で、山の神水の神を祭つて居ると同樣に、その目的が小さく限られて居ます。それでもよろしいと思ふ者と、それでは何となく心細(392)いと感ずる者と、二たてになるのも已むを得なかつたと思ひます。伊豆大島や薩摩の黒島で、この神を村の社に寄せつけようとするなどは、その後の方だつたかも知れません。從つて今は殆と禁止の形になつて居ますが、大きな繁延する一門一葉の中に、共同の祖先を思慕するの情が強くなると、再び結合して神社とは言へない祭場の形式によつて、此信仰を復活させるかも知れぬと共に、之を奇貨として奇恠極まる傳道に從事する者を誘發せぬとも限らぬのであります。信仰は警察の取締のみによつて善導し得るものでは無く、先づ民衆の心の底に潜むものを、一わたりは明らかにする學問を必要とするわけであります。一家一門中の比較的に神に近より易い者が主唱して、大きな全國的の宗派を興した例も目前に有ります。それが刑法の罰條に觸れるのを待つて、始めて處理しなければならぬといふのはあぶない話であります。

　

　　　　　　　　　　四一

　

　是に關聯してなほ問題は次々と起りますが、其樣にまでしつこく説く必要は、少なくとも諸君に於ては無いと思ひまして、もういゝ加減に切上げます。たつた一つの餘談として提出して見たいのは、お稻荷樣はどうして此樣に、盛んな江戸以來の屋敷神となつてござるのかといふことであります。各地方の例を見て行きますと、思ひ當るふしが少しあります。關東も農村の多くで、又是から西の方の東海方面にかけて、地神樣と謂つて祀つて居るものが多い。名から考へても是は道教の香がします。陰陽師は此方面には無力ですから、多分佛徒又は修驗の行法に基くものでせう。それから西には又稻荷さまの多い地域があつて、九州に行くとやゝ弘く、荒神の名で屋敷の神を祭つて居るやうであります。荒神は荒ぶる神で、文字は輸入ですが國自身の意味があります。之を竈の神と解して居るのは、もとは土用神、即ち亦土地を支配して且つ四季に巡りあるく神としたからで、現に中國ではロックサマ、即ち土公神といふのが屋敷神であるのに、上方ではロクダイは大竈のことです。しかし荒ぶる神は無論この道家の神のみとは限りません。(393)是をさう呼ぶのも祟が烈しかつたからで、其以外にも少しの侵犯をも容赦したまはぬ小神は數々ありました。その何れを念じたのかは實はまだわからぬのであります。珍しいことには四國の處々、土佐とか讃岐とかのある村又は隱岐の島の舊家などに、若宮といふ名を用ゐて居ることで、それが更に珍しいのは、曾て下女とか旅人とかを殺したことがあつて、それが甚だ祟つたので屋敷神にして居るといふ、言ひ傳へがなほ存することであります。祭るまではせん無いとして、さういふ氣味の惡い神に屋敷の守護を頼んだ動機が不思議であります。しかしこの若宮は變遷の多かつた神であります。前年神道談話會でこの話をした際には、宮地君などはちつとも賛成しない顔をせられましたが、私はその資料を可なり集めて居るのであります。文字の表から見ますと、若宮は貴い御方の御子、即ち王子といふのも同じわけでありますが、王子權現には其樣な由來譚が無いに反して、若宮には非業の死を遂げた人の靈を祀つて居る例が至つて多い。近畿東國でも幾らも擧げられますが、殊に熊本縣の球磨郡神社記などは、是を以て充ちて居ると言つてもよく、又その南に接した薩摩の各郡でも、若くて殺された武人は大抵若宮八幡になつて居ます。そんな筈は無いと言つたところが、斯う有るべきだと言つたところが、とてもこの澤山の事實を無くすることは出來ません。さうして又事實には必ず原因があるのであります。是は何でも神の御子又は御猶子といふ考へが、次第に一切の御配下眷屬といふところまで、數が多いといふことを特色とするやうになつて後に、段々と擴張して行つたのであります。さうして大神の之を統御したまふ力を信ずるの餘り、後には祟りを現じてから、新たに之を若宮とする祭の式が始まつたかと思はれるのであります。それほどにもこの眷屬の小神たちはよく怒り、同時に又大神の御威望ならば、たやすく抑制せられるものと考へられて居たのであります。岡山縣下の三箇國などに、今も非常に多く祀られて居るミサキといふ神も此類であります。ミサキは言葉のもとは只前驅者といふことで、大神の代表となつて先づ示現せられるといふだけであつたのが、後には色々の祟りをなす者、主神の御力を仰いで辛うじて制止し得る者となり、更に一歩を進めては色々の災ひをもたらす小さな靈、即ち幽靈はもとより狐や鴉の類までが、弘くオミサキと喚ばれるやうにな(394)つたのであります。

　家にその若宮の殊によく祟るものを祭らうとしたわけは、恐らくはそれがある種の方法を以てすれば制御し得られることを信じ、しかも不案内に外から來る者だけには、地雷火のやうな防禦力があると思つたからでありませうが、さういふ内外に態度を異にする靈の存在を信じ得たのも、元來は家の近代の先祖だけは、氏神の中には祭り込み得ずに、御靈と見るやうになつた結果ではあるまいかと思つて居ります。

　

　　　　　　　　　　四二

　

　それと共にもう一つ、私の今問題にして居る事實は、信州の南半から美濃飛騨にかけて、今なほ一族だけでお祭り申す神を、非常に大事にして居る處があります。是にはもう氏神といふ名を避けて、普通にイハヒデン又はウエデンサマ、文字には祝殿と書いて居ります。是が神にイハフといふ古くからの一語に、關係をもつといふだけは想像して居るのですが、さてその大切なイハフといふ動詞の意味が、今もまだはつきりと私たちには取れないのです。同じ漢字の齋といふ語を、ある時はイツクと訓ませ、又ある時はイハフと分けて使ふ理由や如何。齋は物忌精進をすることで、兩方ともにこの慎みをしたとまでは思はれますが、現に日本語として明らかに二つちがつて居るものを、對譯の漢字が一つだから、同じことだらうと謂つてしまふのは不當であります。それで或は一つ二つの例に囚はれた説かも知れませんが、私は今まで神とは言はなかつたものを、神として祭り始める時の潔齋だけがイハヒであり、第二のイツクは即ち勸請又は御分靈の奉迎、即ち既に堂々として大神でおはします神を、新たに別地にお祭り申すことだつたらうかと考へ、このイハヒ殿を又一つの、靈神を氏神へ御移し申すまでの、祭場の例かと推定して居るのであります。イハヒ神といふ小さな御社は、佐賀縣北部にも在り、又他の地方にもそちこちあつたやうに思ひます。是を出來ることならば詳しく比較して見て、この假定の果して成立つものか否かを檢討したいものです。佐賀縣の例では、家の建(395)築に先だつて用ゐた水繩を、乾の隅とかに埋めた處がイハヒ神だと説明する者があります。偶合とも言はれますが、諏訪神社の特色の一つになつて居る御左口神《おさくじ》といふ祠が、やはり土地丈量の尺であつて、それを埋めて神に祭つたといふ言ひ傳へが、東日本の處々に分布して居ります。さうして此神の新たに起つた理由は、久しく考へては居ますがまだ一向に私にはわからぬのです。或は信州の家々の祝殿にも、近くの諏訪大社から左口神の串を受けて來て神實とすれば、新たなる神が生まれるといふやうな、イハヒの祭があつたのではありますまいか。示現の方式は今日は祭る者の欲する形となつて居るかと思はれますが、本來は依坐《よりまし》の口を透して、御言葉を聽いたのでありませうから、最初の一句からでもどなた樣であるかゞ、明らかになつた筈であり、それには又確乎たる形式の差があつたことゝ思ひます。何とかしてそれを明らかにし、少なくとも今日のやうなだらしの無いイハフといふ言葉の概念を、自肅して見たいものと思ひます。

　私の一箇國民としての意見、又は政策といふものを述べますことは、皆樣の課題の外に逸出することになりますからさし控へます。民俗學がたゞ單なる文獻否認者で無いことだけは、是で先づ御承知を受けたことゝ信じますが、私は更に進んで、我々は寧ろ文獻のより善き利用者にならうとして居るといふことも告白したいのであります。記録は如何なる場合にも、我々の學問の吟味役であります。少しでも是と兩立せぬことを申せば、忽ち落第し、もしくは相當の申し開きをして宥されなければなりません。たゞその記録といふものが眞の記録、即ち曾て有つた事實の記述でなければなりません。それが斯うにちがびないといふ獨斷、もしくは斯うなのだよといふ造りごとの間に、今は淺ましく埋没して居るのであります。それを鑑別し整理して、大きな捜索の勞を費きずして、直ちに志有る學徒の利用に供し得るやうに、索引をこしらへる必要があるのであります。諸君の仕事もまだ中々殘つて居ります。前代の記録の現在神書の目に載らぬものに、神祭の事實が數多く散見して居るのみならず、近年我々の仲間から、供出して居る採集記録の分量とても、少々では無いのであります。是等も一通り眼を通さなければなりますまい。容易な業でなから(396)うと思って居ります。どうか健康に留意して、いつ迄も國の學問の爲に働いて下さい。さうしていつかは共々にある一つの目的地點に到達して、感激の握手といふものをして見たいのが、私の切なる念願であります。

　

(397)　　祭禮と世間

　

(399)　　　　　　　　　　一

　

　東京朝日新聞の仙臺通信に依れば、東北大學の日下部《くさかべ》博士は、是を信仰物理學と名づけて居られるらしい。國幣中社鹽竈神社の帆手祭《ほてまつり》に、神輿が暴れ廻つて毎年三戸四戸の人家を壞し、本年などはたうとう警察署の構内まで亂入したので、官憲でも捨て置かれぬことになり、端無くも茲に八百年前の山法師問題と、よく似た問題を再現することになつたのを、右教授は頼まれて現場に出張し、何人でも「さうですか」と言はずに居られぬやうな報告をせられた。

　教授の意見では、多數の人が神輿の如き重い物を舁いであるくと、偶然に行列の路筋で無い處にも、飛込むものであると云ふ。何れにしても信仰物理學とは新しく、面白さうな名稱である。東北地方には、南部の恐山を始めとして、研究の材料になりさうな場處が少なく無い。何れは早晩此等の事項を取扱つた教科書も出ることであらうが、平民の生活に交渉多き此類の社會現象が果して如何なる程度まで、之に由つて解説せられるのであらうか。

　我々の不安心を率直に打明けるならば、此の如く學者が銘々の机の引出しへ、手頃の種を拾ひ込み、新しい學問を作ることにすると、今日の有樣では、信仰生理學や信仰經濟學が繁昌することになり、結局本元の信仰宗教學の分の掛りが、不當に樂をするやうになりはすまいか。假にさうは成るまいとしても、先づ／＼今の處は日下部教授に對する全部の感謝は之を他日に留保し右の新しさうな科目の唱道と、自分に取つては豫て論じて見たいと思つて居た問題の提供とだけに對して、一應の御禮を申上げることにして置かう。

　實は自分は永い間、この所謂信仰物理現象の將來如何といふ問題に付いて、心を勞して居る者である。さうして假令鹽竈樣の神輿舁きの若者等が、警察の門までは突き破らぬにした處が、鼎の輕重ならぬ神輿の輕重は、既に久しい前から問はれんとして居るのである。

(400)　國が明治となつてより後にも、町村の祭禮の行列には、必ず昔ながらの警固役《けいごやく》と云ふ者があつて、或は鐵棒を突き鳴らして前を怫ひ、或は又扇を開いて、四邊を制するやうな形をして居たものだが、しかも別になほ紅い格子を染めた丸提燈などを手に持ち、靴をぎう／＼、洋劔《サーベル》をがちや／＼言はせる人が若干名、群衆の中に交つて居て、實權は夙に其方へ完全に移つて居たのである。公共團體の制裁を統一し得る力が、鎭守の神に對する信仰以外に於て、別に儼乎として來り臨んで居たのである。語を換へで言ふならば、今回の鹽竈事件の如きは、新舊警察力衝突の一個の事例に過ぎないので、其原因の明白なるは勿論、世の中が改まると共に、折合ひが次第に六つかしくなつたと云ふ點に於ても、些しも意外又は偶然の現象では無いのである。

　然らば此傾向を以て進むと、是から先どうなつて行くのか、陸前鹽竈樣の神輿などは、如何なる指揮者を得、其運動量とかは、どう統一せられることになるのかと云ふと、それはまだ大いに考へて見ないと何とも言はれない。

　是も近い頃の出來事であるが、東京から遠くない一都會の祭禮に、神輿を舁く若い衆たちが、日本銀行の支店とかへ、祭の入費の寄附を頼みに往つたことがあつた。ところが會社の豫算には税金ならばあるが、此類の支出は名目が無いと云ふ、一應は尤もな斷りがあつて、町の口聞きも言ふ事が無くて還つて來たが、其年の神輿練《みこしねり》はさて暴れた。殊に銀行の鐵柵や窓硝子などが、其影響を被つて大分破損したので、結局は翌年から、彼處の豫算にも祭禮入費といふ新費目が設けられたらしいと、町の人たちが噂するやうになつた。

　此際に土地で權力の有る一官吏は、親しい友人に向つて斯う云ふことを言つたさうである。どうも祭の日だけは警察の働きが常の通りでは行かぬと論じたといふ。勿論觀やうに由ては、是は半舊式の妥協である。不徹底乃至は非論理的である。しかも我々は一方に於て、古い物が何程殘存し、古い人が何處まで力を具へ、更に又今の世間で立てられねばならぬ階級に、どれだけの新し味がちやうど頃合であるのかを、考へて見た上で無ければ、この役人の言葉を批判することが出來ない。それで斯ういふ風がはりの感想録を、書いて見ようといふ氣にもなつたわけである。

　

(401)　　　　　　　　　　二

　

　日下部教授は否認せられたやうであるが、祭の神輿舁きの惡意と云ふことは、絶對に存在し得ぬものでも無い。しかもそれがこの新しい世間に於て、始めて起つたと云ふやうな、基礎の薄弱な風習では無くして、平和なる前代の社會生活から、引續いて相應に行はれて居たことは、自分等の容易く證明し得る所である。但し是と同時に考へねばならぬことは、此類の惡意が、果して宮城縣警察の所謂、私怨を霽さんとするの擧であつたか、或は又公怨の結果であつたかは、公を官、私を民と始めから決定して掛らぬ限り、さう簡單に判斷し得る問題で無いと云ふことである。

　自分はイプセンの「社會の敵」を讀んで、感じたことがある。成程斯うして見ると、孤立獨行の醫師ストックマンの態度は壯烈であるが、先生が多數俗物からいぢめられる事が、一つの芝居に成ると云ふのも、實は又世間の制裁即ち慣習の拘束が、少し弛んで來た文明國の現象である。日本などではつい近頃まで、所謂没常識ほど、劣等なる不道�ｺは他に無かつたので、僅にこの三四年も前から、最もだらしの無いある大都會に於て、或は町内の御附合ひは致しませぬ家があつたり、宅には時計があるを理由として、鐘つき餞を集めに來る上野の鐘撞きを追返すことなどが、出來るやうになつたのである。從つて今日遺つて居る此類の小さな社會悲劇は、常に必ず常識を武器として壓迫に成功した所の、多數側の記録が存するばかりで、小説でも世間話でも、村からハチブを食ふほどの人物は、憎ていな鳶鼻の猿眼の、中風にも肺病にも罹りつこの無い爺としてのみ之を傳へ、つひぞ立入つて其性格などを、問はうとせぬのが普通の文學であつた。

　語を換へて言へば、普通に反することをするやうな人間を、些しもいぢめずに置くと云ふことが、公人としても有るまじき事であつた時代としては、此徒に對する祭禮の日の惡意の如きは、假令少數の若衆頭の手で之を表示したとしても、やつぱり、公怨で無ければならなかつたのである。だから我々は、よく時代を攻究した上で無いと、うつか(402)り何事も言はれない。時代は攻究して置くべきものである。

　全體あの鹽竈樣と云ふ神樣は、昔から思想統一には最も熱心な、氏子の言動に對して、信賞必罰とも云ふべき態度を、持して御座つた神樣ではなかつたかと思ふ。重要なる大祭の日に當つて此の如き問題が起るやうでは、只今ではきつともう變化して居ることであらうが、新撰陸奧風土記などを見ると、少なくも此數十年前までは、かの御社には正月十五日の夜、俗にザットナと稱する嚴重なる神事があつたと云ふ。祭と直接の關係は無くても、もと神の御心に出たと云ふからは神事と謂つてよい。つまり信仰心理學である。

　殊に注意すべきは、此慣習に參與する者の、皆小兒であつたことである。此晩彼等は町内を巡り、「行跡の良からぬ事を、共者の脊戸門の邊に來り、同音に世間の見聞に與《あづか》る所を、齒に衣《きぬ》着《き》せず言ひ散らして、いづくとも無く別れ去るなり」とある。其發端に「ざつとな／＼、爰に話ありとな」と一人が言ひ、他の一人が「何とや」と受けると、それから罵倒を始めるので是をザットナと呼んだのである。

　汚名を世間に弘めるのは迷惑ながら、是れ全く神の御憎しみを被るものとして、却つて世の慎みとなる場合が多かつたといふことで、神輿の亂入が假に一部の想像の如く、近頃烈しくなつたとすれば、右のザットナに比べると遙かに平穩なる方法ではあるが、兎に角に此神の信徒に於ては、あまり感心せぬ心掛けの者を眼前に据ゑながら、「世の中も季になつた」などゝ、徒らに現代の道�ｺ先生の如く、弱い歎息をして居るやうなことを、氏神の思召に合はぬ事として居たのが、古い時代から共通の氣風であつたことを證して居る。

　

　　　　　　　　　　三

　

　此種の公けの罵倒式は、陸奧風土記の著者は、「諸國共に有ることなり、上代の遺風にして、人の所爲とは云ふべからず」と述べて居るが、少なくも自分に於ては未だ其例の多くを知らぬ。京の祇園社で十二月晦日の深夜、一切の(403)燈火を消した闇の中で、參詣人が互ひに他人の缺點を數へ立てる風のあつたことは、黒川道祐の日次記事の中に明記してあるが、京都のやうな大都市であつては、假に町名番地までを讀み上げたにしても、若干の名士を除く外は、之を聞く人に何の印象も無さゝうなもので、從つて噂の主が同席して居た處が、鹽竈の町ほどの效果はまあ有るまいと思はれる。

　祇園社では、此夜の明け方即ち元日の曉に、十二本の卯杖《うづゑ》と云ふ木を燒いて、煙の方角に由り、一年の豐凶を卜する風習があつた。煙が西へ靡けば丹波が不作、東へ向へば近江方面が不作として居たので、百姓たちは此晩は社殿に詰め掛け、互ひに氣勢を揚げて我方の都合の好いことを念じたさうである。是れ即ち年占の風習であつて、綱曳相撲火合戰石合戰の類、何れも同じ目的を以て始まつた儀式には、喧嘩は殆と附き物であるから、或はザットナなどよりは、今一段と無邪氣なる動機に出でた罵倒かも知れぬ。

　盆の掛け踊や火祭りなどにも、?々隣村の者を惡口するが、知つて言ふのでないから、多くは寧ろ馬鹿々々しい。近江の多賀神社でも、やはり昔は除夜の晩に、同じやうな惡態の交換があつたといふ。祇園の惡態祭も「をけら詣り」と稱して、正月の爲に神の火を貰ひに行く途すがら、見ず知らずの者が互ひに人を罵つたので、是などは明白に私怨に基いたものでは無い。

　ところが關東には一つ、有名なる千葉笑ひと云ふ罵倒の神事があつて、それもやはり十二月晦日の晩に行はれた。本朝俗諺志又は相馬日記などにも書いてあつて、現今病院兵營等に由つて、市に成つたほどの千葉の町に、つい近い頃まで行はれて居たと云ふのであるが、此分は正しく鹽竈同樣の變則裁判であつた。里人等は各々面を包み、地頭｜村長《むらをさ》の邪曲を始め、人の良からぬ振舞を遠慮無く批判したとある。此と同じ方法が、又江戸近くの南葛飾郡の千葉村にも行はれて居たことが、四神地名録か何かにあつたやうに思ふ。更に北郊の千住の二丁目でも、宴會の席上で人の非行を罵る風習があつた。それは奧州と同樣に、正月の十五日であつたことが、加藤雀庵のさへづり草に見えて居る。

(404)　千葉笑ひは千葉寺に於て行はれたと云ふ。其他の例も神社では無かつたが、一年中に日を限り場合を限つて之を行ひ、しかも其日が除夜とか小正月とかの夜であつたことは、此風俗が中世に何人かの發明に始まつたので無いことを示して居る。何となれば、此等の日は佛教とは縁が乏しく、平民の習俗とは切り難い関係に在るからである。

　紀州有田郡の山村に於ては、春の始め殊に多くは小正月の前後に、御田踊《みたをどり》と云ふ古風な踊がある。此時にも見物の者、踊り手に向つて惡口をなし、御田踊の時によくこなして置かぬと、秋のこなし（收穫）が十分で無いなど言ふさうである。但し是も既に形式に流れたと見えて、無實の事を言つても構はぬことになつて居ること、「をけら詣り」も同樣である。但し隨分口汚なくは言ふが、盗みをしたと云ふことだけは禁じてあると云ふ。それほど注意をするならば、寧ろ丸々止めてしまつたら可からうに、さうも出來ない所以のものは、記憶以前から仕來つて居る爲で、自分等の是を小さな問題と思はぬ理由も、やつぱり此點に在るのである。

　

　　　　　　　　　　四

　

　神輿問題と關係が有るから、尚少しく惡口公許の話を續けねばならぬ。さても鹽竈の町のザットナの風俗に於て、之に携はる者の必ず小兒であつたことは、頗る其信仰上の起原を、窺はしむるに足る者である。

　小兒は人の秘密に立ち入る力の最も劣つた者であるのに、是をしも神意宣傳の機關に利用することは、全く久しい昔からの習例であつたからである。七歳の童子忽然として庭上に走り出で、幽恠人の耳を驚かすの言を爲したと云ふ類の記録は、既に日本書紀の正文に始まつて居る。或は尸童《よりましわらは》と云ひ、兒別當《ちごべつたう》などゝ稱して、美衣扮飾させて之を神馬に乘せ、祭の行列主要部に加へる例は、託宣の風大いに衰微して後の時代にも、之を遵守する社が多かつた。

　殊に正月十五日の如きは、盆と亥子との二大節と共に、殆と子供デーと謂つても宜しい位の、子供を重ずる日であつて、多くの場合には道路に立ち塞がつて通行人に物をねだり、呉れぬ時は繩を引張つて通さず、又は雜言をする。(405)或は夜分人家の門を叩いて、餅や錢紙を貰ひまはり、甚だしきは花嫁の尻を打つが如き無作法を敢てし、しかも此日に限つて之を制する者も無いのが、近頃までの田舍の習ひであつて、僅に學枚の先生の盡力が、之を過去の物語と爲し得たのである。

　勿論無邪氣なる者の背後には良く無い使嗾者の有つたことも事實であらうが、段々と前へ溯つて、其兄分の又穉なかつた時を考へて行くと、結局は此日特に小兒の言を重んじなければならぬといふ考へが、此惰性の源を爲して居たことを認め得るのである。

　更に方面を換へて説くならば、昔とても腹ではいま／＼しく思ひ、碌でも無い風習だと考へた人は有つたであらうが、常ならば口の脇を抓《つね》り脊をどやすに足る位の行爲をも、此等の日だけは當然の事、又は叱つてはならぬ事として、何百年と無く過ぎ來つたる所以の者は、やはり是れ「人の所爲とは言ふべからず」の結果であつて、言はゞ私怨とか公憤とかの、差別境を超越して居たものである。

　前年早稻田の五十嵐教授の集められた「趣味の傳説」の中には、確か越後であつたかの山村に千年の白狐が村民の敬を承け、毎年一定の日には姿を見せずして、大きな聲を揚げ、心掛けの惡い者の私行を罵つたと云ふ話がある。狐であつては小兒よりも更に始末が惡いが、是なども實は狐と稱して、潜かに罷り出でた村民中の篤志者があつたのか、或は又南洋諸島の秘密團體の如く、成年の男子だけは、狐即ち人なることを夙に知つて居たのか、今日となつては何とも分らぬのである。

　琉球の風俗を書いた遺老説傳の卷一には、斯んな記事がある。上古は風俗質朴に人心誠?なり、若し人不善有れば、即ち神有りて出現し、逐一に其人の非を指して之を懲戒した。此時に當つてや刑罰といふもの無し。世道衰微し人心漸く變ずるに及んで、遂に神｜復《また》世に現はれず云々。三百餘年前の内地人の記録に依れば、此島の祭には神は從屬を引連れ、或は嶽より降り、或は海より上陸し、王家の庭に來つて大傘の下で終日舞つたとある。即ちやはり又信仰の秘(406)密に與り得た者が、神に扮して神の禮を享けたので、それが巫覡以外の者乃至は外國人等には、眞の神と信ぜられて居たのである。

　此等の神秘至極の祭の式は、其眞相を看破せらるゝ危險が萌してから、追々に傳説の領域へ退き去つたこと、越後の狐も同じであつたことゝ思ふ。此點から論ずるときは、警察と衝突した鹽竈樣の神輿の如きは、慣例を重ずる誠意は十分であつても、幾分か時勢に適應するの力が、鈍《にぶ》かつたとも評し得るものである。

　

　　　　　　　　　　五

　

　さて愈々本問題の分析に取掛るに當つて、必ず考へて見ねばならぬ點が、凡そ三つほど有る。第一には六つかしく言ふと、神輿の社會上の地位である。今の所謂有識階級なる者の氣樂なことは、つねに物の性質を訊ねて、中程に到つてぽつんと止める。果して神輿の不都合を公然と認めて、之を戒めんとするならば、何故に溯つて神輿何する物ぞと云ふ疑ひを起さぬのであるか。蓋し我々の當局は、神社に尊敬を認めて、崇拜祈念を認めぬのである。神は乃ち過去の大なる人格であつて、現前に意又は感を具へたまふ者では無いのである。自分等少數の學徒が、此方針に賛同すると否とは別問題として、然る上は祭は一種記念の儀式に止まると言はねばならぬ。神の要求に基かぬ限りは、人の考へを以て組立てた一種の作法と見ねばならぬ。良くない事をすれば人がするのである。早速に之を改めて宜しい。

　現に東京灣東岸の海に臨んだ村では、毎年の夏祭の濱下りの行列に、神輿を舁く若者等｜根氣《こんき》が弱く、神酒を戴く儀式だけに熱心する結果、還御の刻には居合さぬ者少からず、手不足の爲に神事に過ちが有つてはならぬと、老人の氣を揉む場合があると云ふ話である。又相州のある山村では山の麓に立派な神輿塚《みこしづか》があつて、爰に祭をしたと云ふ言傳へが存するに拘らず、今では各大字の鎭守に神輿が無い。神輿の維持には大金が掛るものである。察するに是などは既に維新前の凶年などから、倹約の爲に中止したものであらう。鹽竈でも何か行政の力を以て、こんな風に改良して(407)はどうか。

　祭禮の儀式の、世と共に増減した例は數多いことで、殊に信仰の内容の變化に伴なつて、徐々に形を失ひ去るものの如きは、如何に保守を重んずる時代と雖、之を免れることが難かつた。自分などが殆と日本の神道の主要部と認めて居る託宣の風習すらも、いつと無く其本旨を没却して巫女の地位は下る一方であつた。神輿が實社會の生活の嚴肅なる必要に鑑みて、不用又は無用に成つた地方が假にあつても、之を恠しまうとする者は無いであらう。

　但し突然の改革と、外部からの強制とに對しては、理由は無くても一旦は必ず反抗が有るべきである。況んや單純な惰性に基くものに非ずして、今尚民心の機微に、之を支持するに足るほどの信仰が存する時、些しも其由來と趨勢とを省察せずして、舶來粗製の批判を之に下さんとするは、如何にも無鐡砲な、且つ危險な話である。だから珍しい文句ではあるが、今の所謂有識階級は之を教育するを要するのである。

　我々の親たちの信仰に從へば、神輿の中には神樣が乘つて居られる。是は事實であつて、詩でも無く空想でも無い。又所謂｜御旅所《おたびしよ》なるものは、もと人間の設けた座敷では無くて、神が自ら選びたまひし祭場である。故に神の御幸を又降臨とも、影向《えうがう》とも謂つたのである。是へ御出ましになる道筋とても同じことで、之を擔ぐ者の身勝手などは、神靈の前には零であつたのみならず、更に一段と信心の強烈な世の中では、人が無くても神輿は行くべき處へ行くものと、認められて居たのである。それ迄のことは無いにしても、少なくとも舁き方の善惡について、若連中が人間の注文を容れ得るやうになつては、あの重い物を大汗かいて、やつさえつさと取賄ふべき理由は、先づ大いに薄くなるのである。

　諸君は武州栗橋の稻荷屋の、川魚料理を賞翫せられたことがあつても、あの町の住民が舊の六月一杯、鯉と泥龜とを食はなかつた由來は御存じあるまい。六月は此町の鎭守の天王樣の祭の月である。さうして其天王の神輿は、最初右二種の水中の動物が、之を栗橋の地へ送り屆けたからと云ふのである。其話をちよつと茲でして置かう。

　

(408)　　　　　　　　　　六

　

　時は慶長年間のことゝ、新篇武藏國風土記稿には見えて居る。利根川大水に付、栗橋宿の住民等多勢堤の上に登つて見て居ると、渺々たる水波の中に、鯉と泥龜とあまた取圍みて、神輿と覺しきもの流れ來る。引上げて見るに、對岸元栗橋村の天王の神輿であつた。斯る亂流の中に傾覆の患ひ無く、鯉魚泥龜の類之を圍んで當所に來たのは、是れ全く神靈の然らしむる所ならんと云ふことで、乃ち此地に勸請し奉つたとある。斯う云ふ奇拔なる功勞が有つた爲に、祭の月の六月中は、老人は元より小兒までも、此等の川魚を喰ふことを敢てしなかつたのである。

　右の如き言傳への眞僞については、自分は別に學者の鑑定を乞ひたいとも思はぬ。唯今日世に行はれて居る神輿觀の下には、到底此類の誤信の起り得る餘地がないと云ふことを、注意して置けば足るのである。

　明治神社誌料などに由つて、各社の歴史を見比べた人は感ぜらるゝであらう。當世の乃木神社等の如く、當初人間の智慧商量に基いて、選定設立したと云ふ御宮は、思ひの外に數の少ないものである。大多數は前の栗橋の牛頭天王のやうに、人から見れば偶然の出來事、神から言へば深い思召に因つて、祭らるべき地に祭られたと云ふことになつて居る。

　就中神體漂着の縁起は、最も普通の話である。我々は假に宮戸川式などゝ之を呼んで居るが、佛閣の方でも武州淺草の觀世音を始めとし、諸國頗る其例に富んで居る。唯少しく氣を附けて見ると、必ずしも神佛二教の差とは言はぬが、此間に自ら國産と輸入との、相異があるやうに思はれる。

　たとへば後者に於ては水底に沈み地下に埋もれ、信心又は福分ある者が、稀有に之を發見すると云ふ、個人本位の傾きをもつて居るに反して、他は即ち箱其他の器に乘つて、漂蕩して自ら來り、却つて凡眼の及ばざるを促すの概がある。しかも其到着の地は、即ち後の奉祀の地であつて難波堀江で拾ひ上げたものを、信濃の山中まで持つて來ると(409)云ふやうな事は無い。言はゞ土地本位である。

　殊に面白いのは、神漂着の話と併行して、別に又神飛來の物語があることだ。中世に信ぜられた熊野權現の由來などは、此系統中の古い分である。申す迄もなく此方が一層剴切で、何人も此奇瑞を以て、人間の力に由つた者とは解し得ぬから、乃ちよく／＼有難き御威�ｺと仰ぐことになるのである。

　しかも同時に他の一方に於ては、御神體の盗奪を以て起源とする社も、相應に多くあるのは不思議である。此點もやはり佛像感得に關する、三國傳來の靈驗記中には、其類を見ざる所で、此の如き亂暴人が若しあつたとすれば、必ず冥罰を免れて居らぬが、意外な事には社の神に於ては是が又有效なる信仰の根源を爲して居たのである。

　勿論今では多く小さな祠などの神に多いが、例へば道端の道禄神の如きは、盗んで來て祀つたので無いと、御利益が乏しいものと信じて居る地方もあり、盗まれた村でも、之を知りながら取返しには行かず、却つて第三の村へ盗みに行くと云ふやうな話が、つい近い頃まで隨分とあつた。

　それほど亂暴なことはせぬ迄も、よく聞く話は此村の鎭守は、もと某村に在つたのを持つて來たなどゝ、公然と語り傳へて居り、稍々遠慮したのでも、戰亂の時の分捕などに歸して居る。是は必ず底に神樣の御意向といふことを、含ませて聽くべき話であらう。もしさうだとすれば、曩日其神體の爲に、栗橋の鯉、泥龜と同じ役を勤め、えんやえんやと之を村の中へ擔ぎ込んだのは、そも如何なる心持の人々であつたらうか。どうか之を究めて後に、議論などはしてもらひたいものである。

　

　　　　　　　　　　七

　

　自分は幸ひにして、もと村童であつた爲に、祭の日に渡御を待ち侘びると云ふ、古風な心持に經驗がある。今年はどう云ふものか、神輿樣がひどく荒いなどゝ云ふ年がある。そんな場合には路の辻まで行列は來て居りながら、何時(410)になつても神輿が見えず、見えたと思つてからも、右へ左へ傾きかゝり、之を舁く若い衆の素足がYになり、Ｘになり、又Wの字に成り、「さす」と稱して?々手の擧がる限り、高く輿を突き揚げることがある。

　此樣な時には、憎まれても居らぬ家の茅屋根が損じ、或は電信柱が泥だらけに成つたりする。但し今に於て囘想して見ると、此の如き際にも、人の心は相應に働いて居た。先づ棒端を擔ぐ倔強なる青年等は微笑して居る。其他の男たちの眼の光にも、それ／”＼の言葉があつた。或は世話人の世話燒きが餘計であるとか、一部の若者の熱心が足らぬとか云ふ類の批評的表情までも、當時の子供には其眼の色から、讀むことが出來たやうに思ふ。

　祭日の鋭敏なる感覺は、やがて又其記憶をいつまでも愉快ならしむるものである。村の人の拙なる修辭では、單に之を「面白い」と云ふ語で表はさうとする。さうして「面白い」は天磐戸以來の古い言の葉である。神人和融と云ふのは、恐らくは此の如き境涯を意味した語であらう。實際如何に精確な學者でも、何れの點までが人の所爲と、分堺することは難かつたので、結局は人が暴れるのを、神輿が荒れるものと、見るの他は無かつたのである。

　斯う云ふ中にも、丸々常の年と異なつた珍事が現はれると、最早どうしても人間業とは、見ることが出來なかつたのである。珍事と云つた處が、宮の數の二十萬以上も有つた日本では、各村の年代記を集めて見たら、相應に頻繁なことであらうが、平和と神秘とを結び付けて考へた田舍人には、所謂｜神業《かみわざ》の領域が、固より非常に廣かつたのである。敬虔なる此等臨時の神人をして、常は爲すべからざる事を爲さしめたと云ふのが、即ち神の大御心なりと解することを得たのである。

　古い處では、豐前｜由須原《ゆすはる》の八幡の社傳などが有名である。是は氏神と領主との大きな爭ひで、一旦は領主が勝ち、さうして後終に敗れたる、文化史上の一大悲劇であつた。大友宗麟は人も知る如き新人物であつて、例へば羅馬の客神を奉じ還つた北歐の海賊王の樣な、苦惱と寂寞とを味はひ盡した孤將車であつた。天主の教法に兎も角も魂の置き處を求めて居た彼に取つては、世の思はくは何でも無かつたか知らぬが、しかも神社方の記録には、神威の未だ空し(411)からざりしことを之に據つて力説して居るのである。

　九州治亂記の記す所に依れば、天正十何年の八月十四日、八幡宮の放生祭とて、生石《いくし》の濱、??《かんたん》の湊へ、神幸を迎へ奉る道すがら、俄に御輿重くならせたまふこと大磐石の如く、忽ちにして土塵に落ちたまふ。貴賤膽を消し、供僧玉輿を揚げ奉らんとしけれども、敢て動きたまはず、如何にせんと呆《あき》れたる所に、老僧一人神輿の前に畏まり、三度首を傾け御鬮《みくじ》を取りて、御神輿を由須原へ還幸なし奉りしは、只事ならぬ有樣なりとある。

　宗麟由無き信仰の餘に、舊社大寺の破却を命じたことは、先づ既に神職氏子等の、大いに憤る所であつた。彼等が地頭への面當てに、行列の豫定を狂はせた事は、今ならば何人も推測し得る所であるにも拘らず、律儀一遍の昔の人は、凡て之を神の怒りに歸して訝《いぶか》らなかつた。唯一つ、更に異變の理由を確める方法として、老僧が出て御鬮を引いたと云ふだけは、何かまだ人智を插む餘地が有るやうであるが、是亦卜法の變遷につれて、夙に一種神意の裏書方法として行はれたもので、恐らくは此時代に在つては御鬮も亦、必ず人々の信ぜんと欲する所のものを、示現したに過ぎぬことゝ思ふ。

　

　　　　　　　　　　八

　

　神輿の重い輕いと云ふ事についても、まだ／＼日下部教授の檢討を超脱したものがあるかと思ふ。たしか物理學の方では、重さは秤で量つて決定し得るらしいが、尠なくも日本の信仰に於ては、人と場合とに應じて、重くも輕くも成る物がある。

　例へば越後南蒲原郡大崎村上保内、木戸某方に在る天降石、天明年中同村小布施神社境内の老樹を斫《き》りし折、天より數箇下りしものゝ一つ、量目常に一貫目、祈念に因て輕重自在なりと、温古之栞卷十九にあるもの是である。是は萬葉集に所謂｜石卜《いしうら》の一種類であつて、其事は後に今些し言はうと思ふが、つまり今日は普通の遊戯に屬してしまつた(412)力持ちの力石の如き、その由つて來る所茲に在るのである。

　神輿が本來重いものと云ふ日下部さんの説などは、必ず擧證に御骨が折れたに相違無い。神實《かみざね》として是に移し入れ奉る物は何ぞ。固より我等の窺ひ知るを畏《かしこ》しとするものが多いが、強ひて推測を下せば、幾重にも入れ子になつた大｜唐櫃《からびつ》も有らうし、至つて簡單な御幣などもあらう。或は凡俗の眼には全然空虚と見える場合もあらう。さうして工人が神の御乘物を營作するに當つて、一々の御正體を考へて材料の貫目を按排するとも思はれぬ。然らば概括して其重さを論斷することは難い上に、前に引いた柞原《ゆすはる》の八幡樣のやうに、時として極度まで重くなることも有り得たのである。この神輿の重さの變化などは、自分等の考へでは、大いに必要なる豫備調査の事項かと思ふが、鹽竈問題の解決には、果してそれが濟んで居たかどうか。

　神輿の不時に重くなるのは、必ずしも豐後の前例の如く惡い兆候でも無かつた。土の上へ落すやうでは甚だ困るが、さも無ければ神が其場處を好みたまふことにも取られた。現に村々の祭に於ても、由緒ある舊家の門先では、竝の民家の前を通る時よりも、著しく手間を取るのが普通で、稀には暫時の御小休の仕來りもある。新進の名望家之を羨み、世が末となつて、少々は人の心も作用し得と見た節は、隨分餘分の入費まで負擔して、何時かは同種の特典に與《あづか》らんとする者もある。

　斯んな場合には、勿論板塀の破損ぐらゐは結構であつて、些かも之を憤る念の無い事は、恰かも御神樂の獅子に頭痛の頭を?んでもらふやうなものである。開けた地方に於ては、或は之を「けしからぬ」などゝ、感ずるやうに成つて居るか知らぬが、兎に角に之を人間の惡意とのみ解するのは歴史的基礎を缺いた氣風と名づけてよろしい。

　是を疑ふ人たちには證據を御眼に掛ける。始めて村の鎭守を一地に勸請する時、どうして其地點を擇ぶに至つたかは、是も亦神意であつた。或は清き泉流れ、又は古き松あり、人間の心には美しいと見えても、神之を好みたまはずば、祈念も詮無き事である。乃ち色々の占法に由つて之を確めんとしたが、夢の告げや箭の試しよりも更に端的なる(413)は、やはり神輿の自ら重くなりたまふことであつた。又はあつたと信ぜられた。

　羽前鶴岡天神町の天神樣は、莊内史料に依れば、もと西の御門脇の松原、即ち今の公園の西南に在つた。酒井伯家の入國の折、之を他に移さんとして、今の五日町の末まで來ると、御神體を納めた厨子重くなつてどうしても動かず、そんなら湯の花を上げよとひしめき騷ぐ中に、此處を社殿に定めよとの託宣があつて、仍て其處に社を建てたと云ふ。但し今の天神町へは後年町割立ての際、再び御遷し申したとあれば、追々は御辛抱を願ふやうな世の中にもなつたのである。

　

　　　　　　　　　　九

　

　世の中が窮屈になり、人の住居がちやんと割渡されてから後は、右の如く度々神輿に重くなられても困るが、それは先づ無いことにして居た。從つて創建當初の神變を傳へて、其後の奇瑞には之を説く者が少いのである。しかも昔の神祇の頗る地方的で、各自我處に祀る神を以て最も尊しとした結果は、一方に飛來漂着の古傳があると同じく、他方には又神の意に出でたる移轉を、いと輕々しく信ずるやうになつたのである。

　例へば江州堅田浦なる走湯權現は、叡山の僧法性房の阿闍梨、曾て修行して伊豆國に至りし時、權現飛んで彼が笈《おひ》に乘移りたまふ。僧は其笈を負うて近江に還り、今の地で休息するとて之を枯木にもたせ掛け置きたるに、立たうとすると其笈木より離れず、不思議に思つて神子を呼び神託を聽けば、此地の風景伊豆の故郷に似たり、是に鎭座せられんとの事であつた。それ故に今の社を建てたと堅田物語にはある。永禄年間の兵火に其笈も燒けたと云つて、餘程古い頃の話になつて居る。

　大隅國安樂温泉の熊野權現の由來も之に近く、大永三年の舊記に「昔」とある時代に、異人あり笈の中に熊野の神を奉じて此地に來り、岩の上に安んじて一宿す。明日之を擧げんとするに重きこと磐石の如し。時に神潜かに告げて(414)のたまはく、此地より温泉出づべし、安樂に居住し得ん云々と。乃ち其岩の側に祀つたが今の社で、異人と云ふのが神主奧村氏の先祖であつた。

　出雲の舊社｜鹽冶比古《えむやひこ》神社には、白木の弓を神實《かみざね》として、一座の八幡を合祀し、今では何れが主神であるか分らぬやうである。式社考に引用する一書に曰く、長元二年三月三日、里人等不思議の靈光を辿《たど》つて、村の邊に此弓を携へて行け、おのづから鎭座の地を知らしめんと言はれた。其教のまゝに弓を奉じてあるくうち、鹽冶比古神社の前で、其神體俄に重きこと百斤ばかり也。仍て同じ社地に又一社殿を建てたのが、後に合併することになつたのだと云ふ。斯んな類の話を竝べ始めたら、幾日かゝつても盡きることでは無い。

　但しこの後の方の話には、何か誤傳が有らうと言ふことである。延喜式の鹽冶の三社中には、最初から麻由彌神《まゆみがみ》と云ふのが有つた。右の社傳に所謂三月の三日には、近い頃まで毎年同所弓原の市に於て、四國中國に於て百手《もゝて》又は弓祈?と稱する歩射《ぶしや》の神事があつたことを考へると、御正體を弓と現じたまふは即ち此御神であつて、重さ輕さに由つて神意を人間に傳へたまふと云ふのは、恐らくは影向の當時ばかりの出來事では無く、祭の度毎に同じ靈感を以て、信徒の歸服を得たまひしことを意味するのであらう。伊勢神宮の荒祭宮《あらまつりのみや》二座の一、天手力男《あめのたちからをの》神靈なども、御形は弓に坐《ま》すと儀式帳に見えて居る。

　そこで自分の言はんと欲する所は、もしそれ陸前鹽竈神社の神輿にして、重いが爲に通例は行き向ふまじき人家の門の内などにも入つたのだとするならば、至つて容易にそれが人間の意有つての所業で無かつたことを證し得る。何となれば、神輿は本來重くもなり輕くもなる性質の物であるのみならず、今迄輕かつたものが俄に重くなると云ふのは、即ち眼に見えぬ奇《く》しき力の、新たに乘り加はることを意味すると解するのは、單に過去何千年の間の人の習癖であつたとも云はれぬほど、確乎とした論理學上の基礎ある事柄であるからである。別の語で言ふと、それは一つの信仰の結果では無くて、寧ろ其原因であつたからである。

　

(415)　　　　　　　　　　一〇

　

　此問題を是より深く論ずることは、當世の臨機應變の政治に害がある。故に自分は轉じて石占のことを言はうと思ふ。

　神輿が祭のたび毎に重くなる一例は、相模の海老名《えびな》地方の某社に在る。今日の何村であるか知らぬが、神名帳考證にカワサカ村の話として、載せて居るのは、毎年五月五日の祭の日、田圃の中央に塚があつて、其塚穴の口へ、大きさ七八寸の平たい丸石が一つ現はれる。之を神輿の中に奉安して氏子中を廻り、祭終れば再び輿を塚穴の前に据ゑると、石は自ら轉がつて穴の中へ還る。小さな石なれども、神輿の中へ移し入れてからは、甚だしく重いとある。

　此話の本末には、疑はるゝ節が無いとは言はれぬが、大體に於てよほど著しく、唯の石と比べて重かつたもので無ければ、此の如く一見不可解なる祭の式が始まり且續くわけがない。さうして神社の御正體に、天然の丸石を安置する例に至つては、固より數多く、殊に東京附近では甲州の各街道などに、今も往々見掛ける道祖神《さへのかみ》の、社は無くして唯小高い塚の上に、是といふ變つた點も無い石を置いてある如きは、何れも中世以來の石神であつて、我々の祖先の田舍武士をして一身一家の迷ふ所を決せしめ、公私につけて出處進退を誤らしめず、家を治め士節を完うせしめた功に於て、時としては尋常書册の教へよりも、遙かに立優つて居たものであるが、事實あまり單純で、且つ餘りにむき出しであつた結果、遂には婦人小兒の輩のみの友となり、本の心は忘れられて、石像石塔の類に取つて代らるゝやうになつたのである。

　さうで無くても、石其物を直ちに神とする思想は轉化して、別に之を管理する神あるが如く信ずるやうになつた。從つて諸君も多分は御承知の通り、往々にして「占ひ石」乃至は「伺ひ石」などゝ名づけて、由緒最も久しき不思議の石を、社地又は社殿の端に轉がして置くことになつたのであるが、何れも其發現の當初に於て、石自らに靈異があつ(416)たのでなければ、之を此種の目的の爲に採用する人も無かつた筈である。

　所謂神實と神體との分堺線は、今日の世の中でも之を立てることが隨分困難で、遂には神社局に備付の臺帳に由つて、決せねばならぬこともある。之に由つて觀れば、民間宗教と官吏との關係は、人の想像するより以上に重大であるのである。

　さて此類の社の石の中でも、阿波國は瀬戸の堂ノ浦、阿波井大明神の境内に在る伺ひ石などは殊に信仰の樣式が注意に値する。燈下録の記す所に依れば、石は經七八寸の餅の如く扁平なるもの二つで、社前に三尺ばかりの堂を作つて之を置いて居る。さて神意を伺ふに際しては、此石を擧げ試み、「例へば何の病にて候や、生靈死靈四足の怨み、神佛の御罰など、さま／”＼伺ひ申すとき、其事に至らざれば石擧がらず」と云ふ。更に珍しいのは、此事を掌る役として、當浦に一人の神嫗がある。「此嫗死すれば又後に勤むべきものを誰々の母、某の後家などゝ未だ死せざる前に、此石を擧げて伺ひみる也」とも書いてある。

　神嫗などゝ言つた處が、唯の此漁村の婆樣に相異ない。婆樣の輩は通例は鹽竈の若連中などよりは、遙かに心理の複雜なる者である。是をしも疑ふこと無くして、石を擧げて見て貰つたほど、昔の人は敬虔であつた。一方も亦其任務の神聖を意識して、邪念を去つて之に仕へたにきまつて居る。

　之を要するに、我々ほどの智能に於て、信仰も無くして神の制裁を施行し、或は施行せられるといふことは、奧州の有識階級はいざ知らず、茲許に於ては之を認めることが、到底出來ないのである。

　

　　　　　　　　　　一一

　

　武藏では岩神と稱して化石を拾ひ來り、之を念じて其輕重に由つて吉凶を卜すると、古い人類學雜誌に書いた人が有る。どの地方の事とも見えなかつたが、いづれ多摩川荒川等の上流の村々であらう。化石とはあるが、精確な意味(417)で言つたのではなく、何かある物の形に似た石と云ふ迄であらう。川に近く住む者で、常に珍しい石を捜して居る者が今でもある。しかもその珍しいといふのが、多くは形?又は色彩で、殊に水蝕した石灰石などには、人の眼を惹く品が多いやうである。

　前年秩父の横瀬川の水源でも、路人が溪から拾ひ上げて、路の側に置いたらしい二つ石を見たが、高さも同じ程で、如何にも仁王又は夷大黒とでも言ひさうであつた。しかし人の信心を誘ひ吉凶を之に問はしむる迄にするには、形似のみではまだ十分とは言はれぬ。根本に於て石に靈有りと言ふ思想が、今日よりも數倍旺盛である事を必要としたかと思ふ。次には又阿波井明神の神嫗のやうに、其石の神�ｺに就いて、初度の示現を媒介する者が、たやすく得られるやうな社會で無ければならぬ。此二條件は、共に今や頗る影が薄くなつた。是等の思想を基礎として起りながら、獨り神輿ばかりが世間に重きを爲さんとするのは、或は無理な注文であるかも知れぬ。

　東京西郊の池袋村は、近い頃まで池袋の神樣と云ふ山師など巣を食ひ、ラショナリズムの中本山たる府立師範學校と隣接しながら、兎に角に古くから俗神道と縁の深い土地であつた。今からちやうど百五十年ほど前にも、非常に流行した天神樣と云ふのがあつた。天神といつても別に確かな系統が有る譯で無く、御神體と云ふのは釘附けにした四角な筥であつて、助右衛門と云ふ百姓之を故郷の近江より持來り、住居の一部を造作して之を祀つて居るのであつたが、奇特は寧ろ試し石と稱して、此箱に附屬した一個の長い石に在つたのである。

　此石、初めは爐の上の火棚に置いて、雨乞種蒔植付苅入等に就いて、心に決着し難い時に、天神に誠請し後之を持上げ、重さ輕さを以て神意に合ふ合はぬを判じただけであつたが、追々に評判が市内にまで弘まり、門前市を爲す樣になつて、終には公共の神となつたのである。しかし凡ての流行神の行末は皆同じことで、それから四十年ほど後に、此地を見に行つた人の記録を見ると最早一人の參詣も無くして、折角改築した拜殿も軒傾き、さしもの靈石も庭先に轉がしてあつて、そこらの唯の石と區別する所がなかつたとあるから、勿論今ではどう成つたとも分らぬ。

(418)　當代の史蹟保存事業には、此類の石を捜し出すやうな努力ばかりが多い。假に見付かつた處が例の鰻になりきつた山芋の如きもので、石は黙して何物をも語らざること、他の無名の多くの石と變る所が無い。之に對して詠歎し又は想像を走らせるのも、多くはむだな遊戯である。遺物遺蹟の保存すべき價値は、それが何等か學問上の問題を提供する所に在る。而うして石は無くとも、問題は既に提供せられて居るのである。

　世の中が忙しくなつて、人の顧みぬ社寺境内の力石の類は、往々にして量目などを彫付け、僅に近所の青年の力競べの用に供せられて居るが、何故に其石が、神社佛闇の前に置いてあるかを問へば、其前身は分明する。以前眞摯なる儀式であつた行爲が、後に子供遊びの類になつて殘る者は、紙鳶でも獨樂でも綱曳でも皆それで、單に右の力石のみでは無い。力石は即ち石占《いしうら》の形式的遺物であつた。

　是とは反對に、諸國に數多い辨慶の力石、五十嵐小文治の投石の類、到底人力を以て動かし得ざる程の天然の大石を、勇士名僧其他の非凡なる人の名に託するは、こんな石をば輕く取扱ひ得たとはよく／＼の事で、信心の功か福分か、兎に角に超人間力に因るものと解した結果であつて言はゞ石占風習の實質的の遺蹟である。

　

　　　　　　　　　　一二

　

　神輿の問題にしたところが、現在各地に傳はつて居る風習を比較したのみでは、其勢力の由つて來る所を説明するに足らぬは勿論、古くからの記録の表に見えて居る話の全部を集めても、なほ我々平民の之に對する眞の心持を確め能はぬのである。何となれば書物は主として京江戸のもので、田舍の思想は永い間、文字以外の機關を以て流傳して居たからである。

　文字を讀むに字引や眼鏡の必要である如く、消えなんとして幽かに遺つて居る前代平民の物の考へ方は、我々の同情を透して始めて稍々窺ひ得られる。幼時の記憶や世に疎い老人の言ふこと、凡そ青表紙でも手にする人たちの、馬(419)鹿にしやすい材料の中に、今以て若干の舊日本が遺つて居るのである。少なくとも未來を開く一つの鍵が藏せられて居るのである。之を實用の學問としたいのが、我徒少數者の兼々の志望である。決して日下部教授の速斷を戒める爲ばかりに、此説を立てるのでは無い。

　そこで再び迂囘して、石占の問題から入つて行くが、神靈託する所の物の重量に由つて、人事の適否と善惡とを判定した民習は、更に又別個類似の傳説となつて、其昔の面影を彷彿せしめて居る。其代表的の一例として、是には相州大磯の虎子石《とらこいし》のことを言はう。

　虎御前は古今に珍しい貞烈の女性として、物語られて居るにも拘らず、其名を不朽にした大磯驛の虎ヶ石は、明暮往返の旅人に抱き上げられて、殊に好い男が擧ぐる時は輕く揚がり、惡い男には重いといふ評判が、古い頃から高かつた。江戸の風雅人は此種の話柄が至つて好きな爲に其他の言傳へは追々に蔭に隱れてしまつたが、是も一つの伺ひ石であつた證據には、後々までもある佛堂の前に置かれてあつたのである。

　さて此石何が故に虎ヶ石と呼ばるゝに至つたかに就いては、此場合省略に隨はねばならぬ程の、長々しい説があるが、之を要するに世人の靈石に對する尊敬の度に應じて、石も亦種々なる態度を示した例は、決して此許りでは無いので、前代の地方の神々は、今日よりも、遙かに感情的で、言はゞ我々が人を祀つたと云ふ神よりも、更に一段と人間味に富んで居られたことを意味するのである。

　俚謠集の中にも現に採録せられて居る奧州の古い田歌に、「鎌倉へ登る道に、女に似たる石あり、男立寄つて手を掛ければ、なよれかゝる云々」とあるのも、やはり亦一個の虎石であつて、徒らに奇を好まぬ昔の田舍にも、既に此種の石神の靈感と云ふものは、歌になるまで世に聞え渡つて居たのである。

　それよりも一段と顯著なる例は、吉野の奧のオイトシボ石である。金峯山の山口、洞川《どろがは》村の龍泉寺門前に在つた。今もあるといふ人もある。人が「おいとしぼ／＼」と言つて撫で摩つて後に持上げれば至つて輕く、打ち又は唾吐き(420)掛けなどすると重くなつて動かなかつた。オイトシボ即ち最愛坊で、可愛い者と云ふことである。此通り靈の有る石を粗末にする人もあるまいから、凡そ常に輕かつたことゝは思ふが、話として傳ふる所は亦頗る大磯に在つた虎子石に近い。

　甲州勝沼の附近にある「さすり地藏」と云ふ石佛などは、現に願ひ事の有る者之を擧げ試み、念願のかなふ場合には容易く持上がり、かなはぬ時は重いと信じて、今尚行はれて居る石卜《いしうら》である。しかも其名を「さすり地藏」と云ふのを見れば、占ひと同時に成るべく都合のよい答を得んことを望む者、先づ撫で摩つて神の意を迎へる風があつたのであらう。卜占と祈念とは昔は常に一續きの行爲であつた。

　

　　　　　　　　　　一三

　

　義太夫で有名な三十三間堂の柳の話は、正しく其筋を謠曲の「千引《ちびき》」から引いて居る。唯前者に於ては精靈の宿る所を樹木となし、人との關係を母子の愛情にした爲に、小説として面白いか知らぬが、自分が説かうと思ふ古代民間の信仰とは、縁の遠いものになつてしまつた。之に反して千引の物語に於ては、明らかにオイトシボの思想が現はれて居る。石の靈は人に化けて美しい女に通ひ、縁盡きて將に他處へ曳き去られんとするに及んで、唯の人は千人力を併せて之を牽けども些かも動かなかつたものが、此女が出て曳けば獨りでもよく動いた。女は其恩賞に由つて長者と成り、住む處を建石宿《たていししゆく》と稱すとあつて、即ち奧州七戸と野邊地の間に在る、千曳神社の縁起に基いて、脚色したものらしい説話である。

　千引の謠の石の精は例の學者臭く、「萬葉集にも入りぬれば世上に其隱れ無し云々」と言つて居るが、果して後の註釋家の説く如く、「我戀は干引の石を七ばかり首にかけんも神のもろふし」と云ふ古歌の意味が、此事に該當するか否かは疑はしい。しかし少なくとも「神のもろふし」とは巫女のことである。即ち後世の阿波井明神の神姥のやうに、(421)神の寵を獨占する者が有つて、後に始めて石をして言問ひ、又は好惡の情を表はさしむることを得たことは、昔も異なる所が無かつたかと考へる。

　甲州郡内廣里村の三島神社には、鬼面石と云ふ人の顔に似た石がある。もと岩殿山にて之を拾ひ此社に納めたのである。それで此石に手を掛けて岩殿へ行かうかと言つて擧げると、いと輕く持上がると云ふ話が傳はつて居た。神としては如何にも氣の弱い、又御自分の事ばかり考へて居らるゝやうではあるが、しかも人間の言語が通じ、小なりと雖も天然の力を左右し得と信ぜられたのは、神ならずして何であらうか。

　畢竟する所、昔の村落の平和を支配なされた神々は、何れも幾分か氣むつかしく、他所者や新參者と、生拔きの氏子との間に分け隔てがあるのみならず、斯うせよあゝせよとの御注文があつて、其理想は概して最も親近なる村民等の、豫期する所と同じであつたが故に、例へば此地に鎭座したまふべしとか、又は某地更に佳なりと云ふやうに御意向までが、極めて單純なる方法を以て徹底することを得たのである。

　村でよく聞く昔話の中に、或は領主の庭に運ばんとして、途中まで來て動かぬから置いて來たと云ふ如き例は、既に續日本紀にも大和の飯盛山《いひもりやま》の石の記事として録せられて居る。又は盗人之を盗まんとして果さずと云ひ、或は石屋が之を斫《き》りかけたら血が流れたといふの類、箇々に引離して見ればこそ恠談であるが、統一あるある信仰の片影と考へるならば、さうは無くてもさう有つたと推論して、宜しい事になるのである。

　神輿が神靈の宿りであることを認めざる人には、是は全然無用の論であるかも知れぬ。しかし我々は國民の九割以上が眞誠に神を崇み、古式に則つて年々の祭典を擧げて居ることを知つて居る。之を知りながら神輿を中に立てゝ、絶えず行はれて來た神と人との感應だけを、無視することは出來ぬ。重くもならぬ樣な神輿ならば、言はゞ擔ぐ甲斐も無いので、郷黨道�ｺの標的として又多數人心の反映として、鎭守の神輿の行動を、仰ぎ視ることも出來ぬやうな事ならば、年に一度の祭の日を待ちに待ち、神を頼りに苦の世界を渡つて行く人々には、是非とも何か他の新しい方法(422)を以て、其心ゆかしの途を授けてやらねばならぬ。之を要するに、新時代などゝ言ひながら、政治教育が不足だからこそ、斯んな石占系統の信仰が、今尚大いに行はれて居るのではあるまいか。

　

　　　　　　　　　　一四

　

　神輿問題の一要素、即ち如何な場合に此物が重いかと云ふことは、ざつと先づ述べたつもりである。再び約めて之を申せば、祭に仕へる氏子たちが、重くなつても不思議は無いと、思ふやうな時に重くもなり荒れもする。重く又は重さうに、するのでは決して無かつたのである。

　次に批評して見たいのは、神輿を舁く所の所謂多人數が、果して日下部博士の想像の如く、各人區々の心持を以て運動をするものかどうか。交番の事件に寄りたる群衆と同じく、本來不統一の意思を積算したものに過ぎぬかどうかと云ふことである。

　自分の知る限りに於ては、神輿を舁くべき者の選定には、二種の慣例がある。甲は神人と稱する特殊の部曲のみから其役を勤めるもの、今はどうか知らぬが男山の八幡樣は此類に屬し、京の祇園の犬神人、弓弦を製し賣るに由つて俗に又弦指とも弦女曾《つるめそ》とも呼ばれた者などは、猶一段と著名であつた。後には大阪の今宮に住んで、自ら駕輿丁《かよちやう》と稱し、此徒出でゝ仕へざれば神輿は動かぬと云ふのを以て、一黨の眉目として居た者がある。或は地方に由つては常は火も取遣りせぬ程に懸隔した組の者に、此日に限つて大事の神輿を任せた例もある。勿論一通りならぬ深い由緒のある話ではあらうが、當節となつては、只古い仕來り故に之を守ると云ふ迄である。

　乙は場合としては前者よりも遙かに多いもので、即ち一定の規則に從ひ、氏子の中から舁き手を出す例である。其中でも村が小さくて人數の乏少を患へねばならぬ土地では、普通の公役の如く軒別に一人の出勤を要求して、また他の資格を問はぬものも無いではないが、多勢の中から之を引拔くといふ場合には、必ず例の若い者、殊にはある年齡(423)を限つて、少なくも氏子の男子は一生の中に一度、此役に當ることを期して居るらしく見える。鹽竈神社の場合は恐らくはこの部類に屬するものであらう。自分などは村に於て、神輿役の年齡を詮議する場合に限り、單に老人よりは壯年の者を先にすると云ふのみで無く、例へば兵役の豫備後備と同じく、是非とも精確なる年齡階級に當嵌めて、それ／”＼の役割を決定せんとするの風習あるを見て、此方が餘計に古く且崩れない形式であらうと考へて居る。

　若い衆又は若連中の小別方法は、村々に若干の異同あることは申す迄も無いが、通例は其第一期を、算へ年の十五歳に置いて居る。即ち昔の所謂元服を以て始まつて居るのである。元服と言へば上品には聞えるが、實は散髪の今日となつては、犢鼻褌《たふさぎ》をかき始めた年と云ふ方が適切でよろしい。其前年頃から、親たちが苦勞にして年上の者に頼み、若い衆宿に出入して使ひ役などをして居るうちに、善かれ惡かれ村の風によく染まり、愈々一人前となつて祭には出るのである。或は猶一年間ぐらゐは新入生の待遇を受ける場合もある。

　それから本若い衆とも名づくべき時代が、三年乃至は五年ほど續くのである。神輿舁きの神聖なる任務は、全く此間の短い年限を先途とし、時としては最後の一年又は二年を兄若い衆又は、「年ばえ」などゝ名づけて、稍々大きな權限を與へ、例へば前後の棒端を擔いで方向を左右し、言語以外の眼付頗付を以て、仲間の年下を動かすものもあり、更に又其間の一箇年を中老などゝ謂つて、一層の威信を重くすることもあるが、要するに二十二又は三ともなれば、既に所謂世話方の格であつて、今日の青年會員などのやうに、孫の出來る迄もだら／＼と、一つ仲間にくつゝいて居るやうなことは以前は無かつたやうである。

　

　　　　　　　　　　一五

　

　幸か不幸かは茲に敢て之を問はず、兎に角に以前の村生活に於ては、斯んな若い衆が思想の中堅であつた。年寄ともある者が退嬰をこれ事とし、徒らに是等後進の氣勢を展びるだけ展ばしめたことは、大御所新大御所をもてはやす(424)今日の社會相に、居馴れた我々には不審の種であるが、考へて見れば是にも三つや五つの理由は無いことも無い。

　何れの民族に於ても、童兒の大人に成ると云ふことは、元は誕生よりも更に大なる宗教上の一事件であつた。人間の側から言へば防禦力の持續であつたが、神から見れば其信仰を永き代に傳へんが爲に、過ぎ去る老人の補缺として、常に少年の元服を必要となされたのである。さうして祭禮は乃ち其神秘の關の戸であつた。

　世の中の諸欲が未だ甚だしく靈の泉を濁さず、絆《きづな》は少なく夢は多く、戰爭に出れば容易く討死し、田に立てば競うて苅ると云ふ年頃の者を、神が殊に愛《め》でいつくしみ玉ふものと、思はずには居られなかつたのである。それ故に成るべく神に近い任務を、此等の質朴なる者に勤めさせる風は起つたのかと思ふ。

　次には昔の田舍には、教育の羨むべき統一があつた。肩上げのまゝで郷を出で、髭が生えて後に還つて來ると云ふやうな場合は絶對になかつた。いかな富人でも又どれ程の老翁でも、一度は必ず新しい晒布の褌を着け、樽を持つて若い衆の宿に、御辭儀に出なかつた者は無いのである。從つて青年の境遇に對する完全なる理解があり、又當然に對する忠實なる服從心があつた。當世の猿股黨の如き傍觀者の冷淡な批評は、聽く折が終に無いから昔の當然は中々に毀《こは》れる機會が無かつたのである。

　それから若い者が嫁を取り子を儲けるやうになると、直に寢る場處が變つてしまふ。何か改まつた寄合の日でも無ければ、村中の人々と意見を交換すべき折が無い。之に反して若連中の爲には所謂｜宿《やど》即ちクラブがあつた。後には一文菓子屋の店先などを以て、之に代用する土地も多くなつたが、自分の知つて居る若干の村に在つては、今尚夜だけはヤドで共同の生活を續けて居るのである。どうせ非常に高尚な談話ばかりもしては居るまいが、彼等の感じやすい若い頭に、何が善い何が惡いを明瞭に印象するのは、殆と此機會ばかりで、凡そ個々の青年を人竝又は世間竝にする手段としては、此ほど有效なものは無かつたのである。

　だから又年長者の信頼を得たのかも知れぬが、普通の概念には反して、單純なだけに此種の新人物は、皆保守的な(425)傾向をもつて居た。世の中が改まつて、何か些しく進歩的の氣運が起る頃には、早既に何村青年會などゝ其名を攻めて、校長や郡長に其思想の鍵を托してしまふから、若い衆にしてしかも自由主義者などゝ云ふ時期は、ちよつと想像がつかぬのである。

　一つの極端な例を擧げるならば、彼等は古くから、村の娘といふ信念を持つて居た。其結果として正式の婚姻でも、他村へ行く場合には大いに怒つた。同じ村内でも、是が一家に專屬すべき夜は、出て來て和談の酒などを飲んだ。此等は至つて悠久なる太古の遺風であつて、素朴且敬虔なる若連中の間に於てのみ、辛うじて其保存を期し得たものである。

　數百年來の村老は、必ずしも若い衆と同じ理路を辿ることなくして、しかも此の如き社會觀を訂正せんとせず、只夜陰に門外に石を投げ、又は、石地藏を持込まれざらんことをのみ是れ圖つた。之に加ふるに祭の日には、神輿を此連中に擔がせる習慣を認めて居たのである。有れば結構かも知れぬが、神輿舁きの心持の不統一などは到底望まれない。神輿舁きの心理は慥に統一して居つた。しかも力強い一つの動力、即ち至つて古く且頑固な、習慣といふものに由つて、統一せられて居たのである。

　

　　　　　　　　　　一六

　

　餘計な事を言ひさうだから、もう此くらゐで話を切上げよう。最後にたつた一つ、同情の少ない學者などの批評に對して、豫め辯護をして置きたいことがある。無用の心配であつたら却つて幸ひである。

　それは外でも無いが、柳田が説の如くんば、神輿の行動は如何なる場合にも、神意にして民意で無ければならぬ。然るに何ぞや、彼等は必ず醉つた元氣で暴れるでは無いか。そんな神意があるものかと、斯う言つて仲間同士、相顧みて笑ふ先生が無いとも言はれぬ。

(426)　しかし自分をして言はしむれば、是とても我々日本の士人を知ること、却つてアイヌやカナカを知るよりも少なきの致す所で、つまりは材料持たずの盲評である。そんな神意が果して有つたのである。祭の日の夕御饌《ゆふみけ》朝御饌《あさみけ》に、神に御酒を供へ奉り、又依坐《よりまし》をして其｜直會《なほらひ》に與らしめたのは、固より單純なる飲料としてゞは無かつた。當世の語で言へば、之を用ゐて意識の異常?態を發現せしめ、神と人との仲介、即ち後世の所謂御託宣に便ならしめたのである。だから我邦では神酒を造るのはミタラシの泉、之を掌るは何れも巫女であつた。

　酒を狂水《きちがひみづ》などゝ云ふ諺は、狂氣を惡い病と見るやうになつてから用法が變つたが、狂者は昔の社會に於ては決して憫まるべき者では無かつたので、只の人間のしたくても能ぬ事は皆狂人がした。此事は能の謠の物狂《ものぐるひ》の中には、まだ多く現はれて居る。乃ち謎の始め詩の始め、兼々又歌舞の始めは、悉く神に命ぜられて物狂が、之を世には留めたのである。神輿に仕へて古い道�ｺを宣傳する若者も、やはり神の酒をたうべて、醉はねばならぬ義務があつたのである。

　フレエザア教授などは、酒精をスピリットと呼ぶのも、飲んで滿身に熟の傳はるのを、靈ありて入り來ると感じた結果だと説いて居る。夫は兎に角に、酒の最初の用途は、全く人を靈媒にするに在つたのである。之を尋常家庭の宴樂に供するのが、既に第一囘の濫用であつた。濫用をすれば如何なる物でも必ず害がある。禹王《うわう》の堯舜よりも少しく偉くないと思はれる點は、その餘りに取越苦勞にして、當時まだ無邪氣なりし儀狄《ぎてき》の發明を憎んだことである。胸の狹い矯風會員達に、禹王以上を望むのは更に無理かも知れぬが、けしかるけしからぬを論ずる場合には、是非とも事の本來の趣旨を究め、且つ同時に凡そ有る限りの社會制度は、始めて此世に現はれた時に、人生を妨げ又は害すべかりしものは無かつたと云ふことを、明らかに承認してかゝつて貰ひたいものである。

　しかしながら、もしか東北其他の田舍で、僅かに遺つた形式を利用して、之に由つて唯の惡戯をするやうな若い衆があるならば、是れ暴民である。勿論罰しても宜しいが、恐らく其樣な者はあるまい。何となれば、既に民の福利を(427)本とする國家であつて、輿論が人の行動を左右し得る今日、是程煩雜にして且つ勿體無い虚僞を、敢てするにも及ばぬからである。自分はやはり彼等が今以て之を常道と信じて居るものと思ふ。さう信じさせて置いて善いか惡いかを決するのは、先輩の任だと思ふ。

　酒は前申す如く尊い藥水ではあるが、尚古派の自分等でも、夙に之を家庭に入れぬことにして居る。濫用の危險が無限に有つて、今の新しい生活と調和せぬ爲である。さうして代りにシトロンなどを飲んで居る。神輿に弊害ありとする有識者の如きも、徒らに「是れ弊害と云ふべきものに非ず」などゝ論ずることを努めずに、何かこのシトロン樣の物を工夫してはどうか。其代り又一方には、神社中心の地方統一などゝ云ふ策を、案出するの資格は無いといふことを、自覺してかゝらねばなるまい。嘗て神靈の存在を信ぜざる者の祭文沙汰くらゐ、苦々しいものは世中にたんと無いと思ふ。

　

(431)　　神道私見

　

　今日の所謂神道は、皆樣の御想像以上に國民生活と交渉の淺いものだと云ふことに就て、少しく意見を申述べたいと存じます。申す迄もなく私は六つかしい書物をちつとも讀んで居りませぬから、可笑しい申し方などを致すであらうと思ひます。然るべく後で御訂正を願ひます。

　私が近頃最も珍しく感じて居ります事の一つは、隣國の支那に於ては、此春まで孔子教を國教とするの可否に就て、國會で非常に激しい討論がございました。此五月に北京の清華大學にあつて見ますると、彼處の講堂には一旦造つた孔子教の旗の類をまだ十分片付けきらんで隅の方に押遣つて居りまして、頗る彼邦最近政治論の經過を語つて居ります。孔子教と申すが如き教訓の排列見たやうなものを一國の宗教と見ようと致したのは、冷淡なる眼から見ますれば、支那と云ふ國の歐羅巴かぶれ、乃至は理窟倒れと云ふ傾向をよく例示して居るやうに思ふのでございます。之に反して日本に於ては過去三四十年程の間、「神社の崇敬は宗教であるか否か」と云ふ大問題を態と未解決の儘に放つたらかして居るのであります。斯く申しますると内務省の人々は、決して未解決ではない、神社を拜むのは宗教でないと極つて居ると一應は答へるであらうと存じますが、然らば祈?を容れ守札を出し供物を享け、神官氏子の祝詞を聞き給ふ神樣は何であるか。何れの時代でも理窟ばかりで世中の事を解釋出來ぬ例は多いが是程顯著なる事實を無視すると云ふは餘りだと考へます。日露戰役の當時勝敗の豫測は未だつかず、多くの若者を戰場に送り出して村々では、其不安の念を散ずる道が他に無くして專ら氏神の方に向ひ、所謂敵國降伏の祈?と云ふものは多くの鎭守社頭に於て行は(432)れ、郡長其他勤勉なる官公吏は率先して此に臨席し、大いに人心を鼓舞しました。又一方には慈母貞婦の類は斷食し水垢離を取り、御百度を踏んだと云ふやうな例は非常に澤山ございまして、其信仰行爲は之を戰時の善行美跡の中に數へて居たのであります。斯の如くしても猶神社は單に祖先又は偉人に對する尊敬の表示に過ぎぬと云ふが如きは、餘りに根據に乏しい斷定であらうと思ひます。神社は必ず人を祭るとするらしい神社當局の解釋には、何程も反對の證據を擧げることが出來ます上に、普通人民も亦斯の如くは信じて居りませぬ。成程蛇を祭り狐を祭ると云ふやうな信仰は今は略々無くなりましたが、總ての神社の信仰を以てある時代に生存して居た人を祀つて居ると斷ずるのは、學問上至つて危險な論であると存じます。

　併し我々の見る所では、斯の如き?態もやはり東洋諸國共通の國教問題の一影響であつて、結果の積極と消極との差はありますが、隣國支那の現?と原因は同じかと思ひます。つまり日本では、民心の基礎となすべき宗廟大社の崇拜を以て佛教の寺や基督教の禮拜堂に於ける信仰行爲と同列同種のものとすることは、復古時代の大主義とは合はなかつた。さりとて又之を日本の國教としようと申せば、日本の事情に疎い歐羅巴諸國と對等の條約を結び難い懸念があつた故に、據なく神社を全然別のものと見んとするの手段に出たものであらうと考へます。此事は餘り新しい歴史でありまして、其關係者の中にも老いてなほ生きて居る人もあるので、只今は自由なる批評を致しにくい事情があります。唯此種政策の沿革を離れて考へて見ますると、村の住民が鎭守の社に對する態度から判斷して、現今普通の見解は如何にも條理がないと思ひます。隨つて所謂其筋の人たちも、成るだけ深く此問題には立入らぬやうにして居る形跡があります。ある程度までゝ議論を止めたがる傾きがあります。併し恐らくは永く斯の如き不徹底の?態を持續することは困難であらうと存じます。

　大正二年の六月、内務省は其神社局を自分の方に保留して宗教局だけを文部省に移管しました。宗教局に於ては佛教基督教と共に、今日の所謂神道各派の事務を管轄することになり、一方には無格社以上の一切の神社に關する事務(433)は神社局で監督することになりました。是も靜かに考へて見ると珍しい現象でございます。ある神社の神官が最も強い敬神の念を懷いて、其結果神の威光を増し廣く氏子以外の人民にも參詣を勸め得たと致します、其場合には彼等の平凡以上の行動だけは理論上文部大臣が所管しなければならぬことになります。而も是は決して空な想像ではないので、出雲大社にお出でになると分りますが、此神社を挾んで千家北島の兩男爵家が、一方は大社教會一方は出雲教會と云ふ名前で、あの狹い杵築の地に神道の二派を立てゝ居りまして一方の千家氏は兼て宮司を勤めて居られる。即ち宮司の身分を以て一の神道教會の頭をして居られるのであります。併し學問のある人ならば其區別を了解しませうが、日々參拜する地方人は、午前十一時までが神社の崇拜、十一時以後は神道の宗教行爲に入ると云ふやうに、果して辨別してあるくことが出來ませうか。又伏見の稻荷、讃岐の琴平、太宰府の天神、宇佐八幡、攝津の西宮等の大社では、數百年以來神官が他方に向つては信仰を宣傳して居たので、其任務を兩分することは六つかしいのであります。

　如何なる新しい神道でも、結局神を拜めと云ふことを説かぬものはないのです。さすれば天理教のやうな田圃の中に起つた老女の神道でも、後にはやはり社殿を造らなければならぬ。其禮拜の形式に至つても區別を立てさせることは出來ませぬ。此ほど深く關聯して居るものを、神社と神道と、神社局の事務と宗教局の事務とに區分するが如きは、如何にも不自然な所に堺線を引いたものと思ひます。昨年の秋頃かと記憶致します、千家家の御子息が出雲の杵築に於てシントイズムと云ふ片假名で書いた雜誌を出されました。此には私も少なからず驚かされたのでありますが、飜つて考へて見まするのに、シントイズムと云ふ語などは夙くより外國人の間には用ゐられて居ましたが、元より今の政府の立てたやうな區分を認めた上の名稱ではないのであります。外國人だけが現今日本の方針と違つた定義を立てゝ居りますのならば、今は忙しいから當方は放つたらかして置いても宜しうございますが、國内の學者に概括的の好著述がありませぬ爲に、僅かの努力で要領を得たいと云ふ内國の學生たちが、アストンやグリッフィスに依つて日本の神道を學ばうと試みぬとは限らない。困つたことであるが實際あるかも知れませぬ。斯う云ふ場合には果して如何(434)なる結果が起りませうか。

　宗教局の神道などゝ云ふのは、實は誤解の餘地もない程近世的のものであります。是はどう解釋せられても構はないとは思つて居りますが、是と同時に國民あつて以來其生活に最も重要なる關係を保ち來つた國々村々の神社の性質が、現に今日迄學問上久しく不明に屬し來つた上に今後又益々不明になり行かんとすることは、如何にも忍び難いことゝ存じます。何卒此點に就ては皆樣の御注意を仰ぎたい。宣教師などの持つて參つた宗教學の本には、或は日本のやうに神の數が八百萬もあるやうな宗教は一段下等な宗教と云ふことになつて居るかも知れませぬが、吾々は斯の如き評價方法を採用する前に、尚ほ澤山の問題に亙つて眞面目に考へて見なければならぬのであります。又日本の側でも、所謂神道ばかりを宗教局の所管にして置かうと云ふやうな人々の頭には、どうも神社の方には教義に系統と云ふものが無く、信條にも地方的の相異が多くて、一國としての統一が得られないから、此に缺けて居る所のものを一通り具へて居る所の神道の方だけを宗教扱ひにしても差支ないではないかと云ふやうな考が、現はれては居りませぬけれども、有るかも知れませぬ。若し有りと致しましたならば、私の之に對する考は斯うであります。信仰が教義化せられ、若しくは系統立つて來ると云ふのはどの宗教でもある時代を過ぎて後の事である。初めから系統整然と出現したと云ふ宗教は、日本には有るかも知れませぬが他の國にはない。是は先づ結集と云ふ事が起つてから後であります。所が基督教でも佛教でも、結集の際には偉い力を以て反對の見解を打破し去つたので、即ち統一の爲には多くの古いものを捨てたのであります。遠い古い外國の歴史ばかりでなく、日本の本願寺の沿革を見ましても、所謂異安心の征服が此寺の一番眞面目な事業でありました。私などの僅な知識で判じますると、異安心側の言ふことは悉く中途から作り上げた異端邪説で、今日の本山が採つて居るものは皆五六百年前からの純粹な信條であるかどうかは頗る疑はしい。即ち後の世の人間の知慧を以て、又宗教以外のある力を用ゐて漸くに得た統一であります。隨つて統一がそんなに忝けないものでも又そんなに價値のあるものでもないと言ふことになります。又神社の信仰の地方的の變化の如き(435)は少くとも是が神社は宗教であるか否かの問題に影響を及ぼすやうな性質のものでないと思ひますのみならず、又其異同と稱するものも、世中に想像せられて居る程甚だしいものではないのです。例へば今日現存して居ります神社の祭式神事などでも、如何に珍しいと稱せられて居るものでも、我々の知る限りに於てはユニックと云ふやうなものは一つもない。全國中此地にしか例はないと云ふやうなものは私は知りませぬ。必ず何處かに略々相似たる類例が有ります。さう致して見ますると、神社崇拜と云ふものを所謂宗教學の光に照して見て、宗教で無さゝうだと言はうとする人の企は、未だ實行せざる前から影の薄いものである。唯だ強ひて申せば、日本固有の宗教に缺けて居つたやうに見えるのは、ハイエラーキーの力であります。併し是とても御承知のやうに近世に於ては京都の吉田家、其以前に於ては神祇官と云ふものがあつてある程度まで全國に支配力を及ぼして居り、又畏多いことでありますが其背後に常に皇室がありまして、大昔から今日に至るまで神祭の範を全國に示されて居るのであります。此度の御大禮の際でも、若しくは皇室祭祀令の中に現はれて居ります平日の祭の御式を見ましても、之を祖先崇拜若しくは偉人崇拜だけには見られぬことが澤山あります。例へば年々新嘗の前に行はせられる鎭魂祭を見ましても、單に鎭魂の行事がありますばかりでなく、其前に神籬を立てゝ八柱一柱の神を天から御迎へする、齋田卜定の儀式に於きましても、此が爲に先づ庭上に神の御降りを乞ひ、式終つて又神に御上げ申すのであります。其他一々例を申すは諄《くど》うございますが、皇室の御祭は多くは全國の神祭の模範になつて居るのであります。最後に神樣の數の多いと云ふこと、是も亦研究すれば研究の餘地があるので、單に今日の外形から統一が無いらしく見えると云ふ理由は、古い國民の信仰を無視しようとする人々を聲援してはくれぬやうに思ひます。

　又他の一方から見まして、今日の所謂神道が神社崇拜の宗教的方面を總括して居ると見ることも大きな誤りであります。成程其説いて居る所は、何の派の神道でもある程度までの説の統一があります。併しながら其議論の内容を分析して見ますれば、材料は常に甚だしく不純粹なものでありまして、之を日本固有の思想に根ざして居るものと見る(436)ことは、先づ凝り固りの連中でなければ六つかしいのでございます。神道と云ふ言葉は勿論非常に古くからありました。併し其意味は何時の時代からか著しく變つて居るやうに思はれます。最初の此語の用法は、私共が斯くあらねばならぬと思ふ用法に近かつたのです。併し如何にも其表示法が幼稚であつたのは事實であります。是を幾分か順序的に且つ學問的に説明しようと試みましたのは、成程傳教とか空海とかに始まると申して居りますのは臆説としましても、先づ以て密教の曼陀羅思想に淵源して居ることは疑ひがないのであります。此派の佛教は何れの國にありましても、其地在來の信仰を包容同化する力が非常に強かつたもので、久しからずして日本の神を佛教の神にして了つたのです。佛教の人々から吾々の祖先が受けた恩惠は小さいとは申されませぬが、日本の神樣を佛教の天部扱ひにしたと云ふ點に至つては、今日に於ても如何にも吾々の不承知とする所であります。智力の劣つて居た我々の先祖も腑甲斐ないが、曼陀羅教理の包容力も恐しいもので、如何な神々も一朝にして佛法の眷屬のやうになつたのです。あなた方の前で澤山の例を擧げますのは可笑しうございますが、例へば若狹の若狹彦若狹姫二神の如きは、ある時重代の神官に向つて、どうか早く神道の苦しみを免れたいから法味を與へて貰ひたい、即ち佛教の有難味を受けたいと云ふ託宣があつたと類聚國史に出て居ります。よく法樂とか法味とか申しまして、祭の日に神前で經を讀むことがございました。而して佛教に對する神樣の地位は多くの場合には護法である。即ち佛法を保護する靈界の有力者として尊敬せられ、僧侶よりは偉いけれども佛樣よりは偉くない。僧と佛との中間の所に置かれたのであります。此の如く日本在來の神樣が、普通人の推測で、法味法樂を欲したまふ、又は神道の苦しみを免かれんとせられると云ふやうに見る傾向が人民の間に強くなりましたのは、やがて又僧侶をして神社を祭らしめた制度の起原であらうと思ひます。さうなつて參りますと、佛教の教理を以て神�ｺを説かうとする者が現はれて來るのは自然の結果でありまして、是れ即ち所謂本地垂迹の説の始めであります。

　此にはまだ色々の議論の餘地もあるやうでありますから、私は決して斷定は致しませぬが、今日の意味の神道と云(437)ふものでは山王一實神道が一番古く且つ有力であらうと存じます。併し是は北嶺日吉系統の神に限られて居りまして、之に對立して南都に於ては春日宮に關聯ある興福寺の坊さんの神道、高野では天野の明神を對象とする高野の坊さんの神道と云ふものが必ずあつたらうと思ひます。私は其を一つ／＼區別して申上げる暇がないのではありませぬ、申上げる力がないのであります。さて是等の佛教から始まつた神道に對し、伊勢は最初に之に反抗して起たねばならぬ地位にあつたのでありますが、時世の力と云ふものは據ないもので久しい間此一般的風潮に漂蕩せられて居りまして、伊勢でも神樣が寺を欲しいと仰しやつて建てたと云ふ寺なども近頃まで殘つて居つたのであります。後年度會延佳などの學者は窃かに之を憤慨して居たのでありますが、而も其學説を見ますると著しく佛教教理の影響を受けて居ります。山崎闇齋の一派などは、吾々の觀る所では、つまり一の反動であります。江戸時代の初めには種々な神道の派がありましたが、何れも眞言の筋を引いて居らぬとすれば、陰陽家の信仰に感染して居りました。そんなものゝ中に在つては、一闇齋派は幾分か議論が純粹だと云ふだけで、要するに佛教に説立てられて閉口した揚句の、一の反動に過ぎないと思ひます。吉田家の神道などもやはり非常に外部の影響を受けて居りまして、自分では宗源神道などゝ、是が日本固有のものである如く常に説いて居りましたが、其思想から樣式から、澤山に不純粹な部分を含んで居りました。我々は幸にして物好き道樂に學問をして居らぬのでありまして、斯う云ふ詰らぬ問題には、あまり費すべき力を有たなかつたのであります。

　さて斯の如く、神儒佛の調和と云ふやうな、誠に不徹底で形式的で、ある程度で止めたやうなコムプロミッスの議論に、世人の心持が殆と厭き果てたと思はれた時分に、始めて起つたのは、平田篤胤翁で完成した所謂四大人の努力であります。荷田翁以來追々と進んで居た機運が、平田翁の書物に於て初めて系統的主張となつて現はれたのであります。平田の神道は出來得る限り外國の分子を排除するばかりでなく、更に進んで此方から侵略的態度に出で、天竺の神も大己貴、少彦名であるとか、支那の大乙神も高皇産靈尊の御事であると云ふやうなことを言つて、空なる世界(438)統一論者に悦ばれました。此派の學者たちが延喜式以前の書物に現はれて居る古代の思想のみを以て、新たなる一神道を打立てようとした努力は非常に大きなもので、勿論今日彼徒が持つて居る聲望に値するものでありませうが、而も要するに是も亦闇齋以下の雜然たる江戸時代の神道説に對する第二の反動に過ぎないのであります。今一段進んで申しますれば、古書其他外部の材料を取つて現實の民間信仰を輕んじた點、村々に於ける神に對する現實の思想を十分に代表しなかつたと云ふ點に於ては、他の多くの神道と古今其弊を一にして居るのであります。此派のみが特に眞の神道だと云ふことは申惡くからうと存じます。此事實は著しく基督教のセオロジーと異なつて居る點ではないかと私は思ひます。闇齋一派は勿論のこと、江戸大阪の市中に住んで居た多くの神道家などは、常に普通の神官を罵倒しまして、又彼等からは敵として恨まれて居りました。尤も神官にして偶々神道家の門を叩いた者もありましたが、是は謂はゞ野心家であつて、非常に篤學な心掛の好い人の如く、其派からは賞讃せられて居りますけれども、是は眞宗の歴史で禮宗や天台宗から改宗した僧を特に聖�ｺの列に置くと同じやうな身勝手でありまして、後世になつて書物ばかりから昔を辿る場合には、學者と無學者との喧嘩は必ず無學者の敗北と見えるのは常の事でありまして一歩を退いて其時代々々の社會思想を推測致しますると、要するに神道の學者と云ふものは、不自然な新説を吐いて一世を煙に卷いた者であります。決して日本の神社の信仰を代表しようとしたものではありませぬ。其結果としてあれ程競ひ起つた種々の神道も、世が改まれば根絶して殆と跡を止めず、其書物は坊間に有り餘つても讀む人もありませぬ。而して獨り終局の勝利を得たのは、明治になつて神祇官が代表して居た平田派の神道、或は國學院派とも稱すべき神道でありますが、是とてもある時代が來たならば雲散霧消せぬものとは斷定は出來ず、又今日此派の立脚地が神官官選の制度に在るもので、言はゞ人爲的のものだと云ふことは爭はれないのであります。のみならず現在既に同じ神道と云ふ中にも、古い書物にも書いてないやうな神樣を拜して居る所の天理教とか、若しくは金神樣を以て唯一の本尊として居る金光教のやうなものが競爭者として出現し、到底其統御を甘じ受けず、其他にも色々な異信仰が四方から叛旗(439)を上げ、折角の覇業も既に鼎の輕重を問はれ始めたのであります。

　元來日本紀の神代卷や古事記舊事記などで民間の神樣を説明しようと云ふ風は、必ずしも所謂平田派の系統に始つた事業ではないのでありまして、古い所を見ますると、度會延佳の神名帳考證を讀みましても、若しくは尾張から出た神祇寶典を見ましても、又京都の吉田家の事務員が諸國に行つて、お前の所の神樣は何々命であると云ふ説明をしたのを見ましても、凡て祭神の名は古典の中に一箇處でも現はれて居ないものは言はぬといふ方針であつたやうに見えます。現に延喜式の神名帳の時代に既に祭神を知らなかつたればこそ、某處坐神と所在地のみを擧げて居りますのを、ごく微かに言語の類似でもあれば直に其祭神を何々命也、何々神の子と云ふやうに神系圖に入れる、是が神祀寶典以前からの常套手段でありまして、決して新しいことではありませぬ。併しながら古い時分の學者は無學の爲に附會が多かつた。ちやうどある日本語がある希臘語に似て居ると云ふので、日本人は波斯人の末であると云ふものと同じやうに、半分か四分の一ほど似通つた所があると、此神は神代卷の斯う云ふ御方であると云ふやうに、何でも古い歴史に出て居ないものは神樣でないとして居たのであります。之に比べては平田門下の人々には學者が多く、古書をよく讀んだ頭腦の良い人が多かつた爲、?々昔の考證の誤りを正し、人が鈍なことを言うた時に之を嗤ふことが上手であつたので、段々に其舊式の説明が完成して來たのであります。此點も亦一應は敬服しなければならぬ。考證の方法と材料との改良は兎に角それだけの功績はある。又それが學問上の眞理であつたかどうかは實際家の問ふ所では無かつたとすれば、日本の神樣は如何なる孤島の松の蔭、深山の岩の上に安置する神樣でも、悉く皆神代史中の大人格を景慕し崇敬したのだと云ふ説は、單に尚古派愛國者の耳に快かつたのみならず、維新事業の遂行に聲援したことは大で、第二義諦としては確かに成功と言ふことが出來るのです。

　併しながら此派の神道の社會上の功績を擧げる時には、同時に又學術上の罪過をも問はなければならぬ。吾々の見る所では、所謂平田派の神道と云ふものは、ごく危ない二つの假定を基礎として立つて居る。其假定と申しまするの(440)は、一つは延喜式時代までの千五百年間には日本の神道には何等の變遷が無かつたと云ふこと、第二にはその後の八九百年間には非常に激しい混亂があつたと云ふこと、此二つの假定を立脚地として居るのであります。神樣を建築物即ち今日の社の中で祭ると云ふ風習は奈良朝前後から段々盛んになつたものであることは、簡單な六國史の文面からでも之を推測することは困難でないのに拘らず、延喜式にある神の社は專ら神代卷中の神を祭るものと云ふやうに見てしまひ、延長五年の頃迄は、古事記日本紀に現はれた通りの思想を以て神に仕へて來たものと解し、又神話の中に一度以上見えた神でなければ其時代までは人が神樣と考へて居なかつたと云ふやうに斷定してかゝつたので、是と同時に一方では延喜式以後今日迄の八九百年間の氏子等は、讀めもせぬ佛書や儒書の影響を受けて、殆と本の意を忘れてしまひ、今行はれて居る儀式や信條は、大部分昔のそれに取つて代つた新輸入品のやうに考へて居たやうであります。私は實は實父が中年から改宗した神官でありまして、所謂古學の最も追隨者でありましたから、幼年の時分から所謂トツクニブリ（外國風）とノチノヨブリ（後世風）との必ず改むべきものであることを十二分に聞かされた者でありますが、近頃になつて次第に心付いて見ますると、外國風の感化が日本を席卷したことは成程事實でありますが、是は寧ろ延喜式よりも遙か以前、或は書紀の編纂よりも更に前の時代を以て絶頂と見なければならぬかも知れませぬ。京都の文明が赴任する地方官の手に依つて遠國にも運んで行かれたものとすれば、名ばかりの地方官が京都から外に出なかつた式以後の分權時代に於ては、比較的普及傳播が昔よりも遲く且つ狹かつたと見なければならぬ。從つて外國風の感化を延喜式以後の特長であるかの如くに見る假定には、先づ一つの疑ひを容れ得るのであります。第二の後世風と云ふ點に付ても、新派の神道は二つの爲すべき準備研究を缺いて居ります。其一つは、民間の因習なるものは果して前代の學問のやうに普及方法の不完全な知識に依つて左右せられ得るものであるや否やの研究、次には今日地方の口碑乃至は行事の中に殘留して居る所謂中世以後の思想には、上代の記録の中に其原形又は共通の形を見出することの出來るものが果して甚だ少ないか否かと云ふ研究であります。此準備研究を怠りながら、我々の近い祖先たち(441)が滔々として後世風の爲に浸染せられ了つたと斷定して來たのは如何にも不親切であると思ひます。然るにこの第一の問題は、幸に新しい時代となつて、必ずしも日本で根柢から究め盡さずとも何處の國でも一般的に研究する問題であります故に、移して之を他山の石とすることが出來ます。例へば應羅巴の前代信仰があれ程有力な基督教の支配の下に在つてすら、色々の假托的説明を以て、所謂異教時代の思想若しくは生活樣式を今に傳へて居ると云ふことなどは、既に十二分に證據立てられた事實でありまして、其結論として民間の習俗などはさう容易く消え失せるものでないと云ふことが、先づ一般的に認められたと言つても宜からうと思ひます。而も是は決してある一國の特有現象でも無く、又基督教應羅巴に限られたある原因が有つたのではないのです。さうすれば吾々も此論斷を、全部とは申しませぬ、ある程度まで採用して説明をしても差支なからうと思ひます。所が第二の問題即ち日本の近世思想の根源如何に關しては、不幸にして今日まで特に此が討究を企てた人が無いのであります。茲に於てか自分が衷心より景慕の情を表せざるを得ぬのは伴信友であります。伴翁は平田翁と同じ時分に世に出て、同じ樣な學風の中に浸つて居られながら、而も其研究の態度は別であつた。どうしても解釋のつかないことは斯う云ふ事實があるが理由は分らぬ。又は此點は斯うかも知れぬが確かには言へないと云ふ風で、斷定を避けて專ら材料の蒐集に心を用ゐられた。是は恐らく新信仰の傳播と云ふことをやらなかつたから、即ち今日の意味に於ける神道の人で無い故にさう云ふことが出來たのでありませう。闇齋以下の神道家の如く強い意思を以て、人にも自分の新説を信ぜしめようと云ふ者は、斯んな左顧右眄の態度で反對の材料をも大切に持つて歩いては功は擧がりませぬ。從つて當然の事でありますが、平田翁の筋から神道を學んだ人々は、稀には民間の傳承に深い注意を怫ふやうな人でも、些しでも其派の説と衝突することがあると直に中世佛者の造説であらう、雛人の聞き損じてあらうと斷定します。彼等が普通に遣ひます言葉は、「こは例のさかしらなることうつなし」斯う言つて弊履の如く捨てゝ居ります。慣習や傳説の類は右の如くにして盛んに葬られ去りましたけれども、それでも段々に、信友翁などの感化でありませう、それから黒川春村翁などの力もありませう、(442)後期神道家の記録の中に明治の初め迄に地方的に蒐集せられたものが相應に殘つて居ります。中には根柢から無くなり又は今日は大いに變化して居るものもありますが、僅かに保存せられた分だけでも、今日の信仰が後世風の惡結果では無くして、大昔からの原の形であることを主張する者に、好い證據材料を供して居る例が幾らもあるのです。例へば神樣に生米生魚生大根と云ふやうな、殆と吾々が受けても迷惑するやうなものを供へて居るのは、明らかに明治の初めから始まつた作法だと思ひますが、此とても五十年も經ちますと昔からの仕來りのやうに人が考へ、少なくとも色々な證據を持つて來て長い論辯をせねばならぬことになるかも知れませぬが、幸にまだ今日の處では實例も多くなし又前申すやうな記録もあつて、大昔からつい近頃迄、神には常に調味した食物をさし上げるのが固有の日本風だと云ふことが分るのであります。

　

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　私などは口ばかりで、決して學問と稱する程の根強い研究を致して居る者ではありませぬ。唯々ほんの小さい研究を致して來たのみでありますけれども、此數年の間に稍々明白になつた信仰上の問題が若干ありますから、それを申上げようと思つて參つたのであります。要するに今日尚ほ餘喘を保つて居る神社の信仰と云ふものゝ中には、古い古典を枕にして居たやうな新派神道家が、やはり看過して顧みなかつた多くの隱れた思想を見出し得ると云ふことをお話しようと思ふのであります。勿論皆樣の趣味にも合はぬことでありますから、管々しく申上げて御迷惑をかけようとは存じませぬ。又終夜御話したとて述べ盡すことは出來ませぬ。只比較的重要な二三點だけは、是非御聞き下さらねばなりませぬ。

　其一つは巫祝、即ち人民と神社との中間に立つ職掌であります。賀茂眞淵翁などはミコに巫の字を當てるのは正しくないと言つて居りまして、例へば令集解の巫と云ふ字の註釋に、通鬼神之道などゝ書いてあるのは支那から來た所(443)謂カラゴヽロである。日本で神子《みこ》と云ふものは鬼神の道に通ずるなんと云ふべきものでない、其證據には幼少な娘などが之を勤めて居る、要するに巫と云ふ漢字を當てた人が間違つて居ると云ふことでありまして、神社覈録の著者なども之に賛成を表して居ります。併しながら我邦でも巫祝と呼ばれて居た者が鬼神の道に通じて居ました實跡は國史を讀みますと澤山あります。例へば秦川勝の話として、常世の神と稱して蟲を祭つて居た巫があつたと云ふのは人のよく知る所であります。是は民間の淫祀邪神で例にはならぬと言ふならば、同じ頃蘇我入鹿が帝位を覬覦した際にも、國内の巫覡等爭うて神語微に入るの説を陳べ、其巫甚多くして具に聽くべからず云々ともあります。更に一時代下つては、八幡の神が九州から京都の方に向つて段々傳道して來られた時にも、全部其御行動は巫女の指定に決したので、即ち託宣京に向ふと云ふことが記録にあります。和氣清麿の一門なども、初めから八幡布教の巫祝であつたらしいのであります。時としては後の巫が前の巫の言は神命を矯めたものだと託宣したこともあります。是などは全く鬼神の道に通ぜざる者には出來ない仕事であります。成程十三や十四の女の子が鬼神の道に通ずると云ふのは可笑しいかも知れませぬが、それこそ眞の後世振りの考でありまして、古い時代には現にさう云ふ例が何程でもあつたのであります。臣が兒齡僅かに七歳なる者斯く／＼の事を申しました。是は何としても童兒の言とは思はれませぬ、即ち神の御宣言であらうと存じますから言上致しますと云ふ類の報告が?々官府の記文に見えて居ります。明らかに七歳の兒童でも鬼神の道に通じ得ることを示して居るのでございます。その巫女と云ふ者の神社及び信徒に對する地位、是は大變複雜にして且つ注意して論じねばならぬ題目でありますから、今夕はほんの上滑りをしますけれども、若し又證據が要るやうでありましたら、自分が最近まで編纂して居りました雜誌に匿名で掲げて居りました論文を何時でも逐一引用致します。

　巫女の最も普通の名稱の一つはイチコであります。又イツキとも謂ひますが、是は古い言葉でありまして、今では多くイチ又はイチコと謂つて居ります。又キネともカンナギとも申します。カンナギは神を和めると云ふ意と説かれ(444)て居りますが、キネはまだ分りませぬ。鹿島其他の大社では物忌とも申して居ります。伊勢でも古くから御子良兒《おこらご》を物忌とも申して居ります。是は齋戒して神に仕へること即ち物忌をする故にさう申すのでありませう。諏訪などでは神使と書いてコウノトノと云ふ。是は童男であります。神樣を代表して居ると云ふ意味で神の殿と謂つたらしいのであります。けれども是等の中で一番弘く且つ多く用ゐられて居りますのは、私が今遣はなければならぬやうに、ミコと云ふ語であります。是は至つて古い日本語で、漢字に直譯すれば御子、從前神子と書いて居たのも正しく、又別に神兒と書いてカウノコと訓ませたものと全然同じ意味に出たものと思ひます。尤もこのミコと云ふ語の本義に就ては、或はまだエティモロジーの議論があるかも知れませぬが、吾々を以て見ますると殆と疑を挾む餘地はないのであります。ミコ即ち神の子と云ふことである證據は、それこそ例の延喜式を出して見ましても、幾らもあります。諸國の神樣には往々にして別に御子神があります。例へば熱田には孫若御子神社外二社、出雲には杵築社神魂御子神社及び杵築社神大穴持御子神社があります。更に面白いと思ひますのは、對馬では和多都美神社と和多都美御子神社、島大國魂神社と島大國魂御子神社、胡禄神社と胡禄御子神社と云ふやうに、主神と御子神とが三對まで二つに列んで居ります。それから又延喜式にも見えて居りますが、奧州には鹿島の御子神、香取の御子神と云ふ社がありまして、明白に其神社の事を意味すと思はれる公文書が別に類聚國史にも三代實録にも出て居ります。其大要を申しますると、貞觀八年の正月、常陸鹿島の神官が朝廷に奏して言ふには、鹿島の神の苗裔神が奧州に、總計三十八箇所ある、其神々を御祭り申すには以前は鹿島から幣物を持つて行つて居つたが、其後それが中絶して國境の關所では鹿島の神官を入れない。どうか昔の通りに鹿島苗裔神は鹿島の神官が祭をするやうにしたいと云ふ訴で、是が許されたと云ふことを記して居ります。つまり鹿島の神官たちは神官としての利益を奧州の御子神からも收めようとしたのであります。其經濟上の關係は兎も角として、常陸鹿島の信仰はある時代に右の苗裔神の祭祀と云ふ方法を以て系統的に傳播したことが分ります。而して其布教方法に就ては、今何の形跡も遺つては居りませぬが、是はどうしてもやはり託宣を以て、(445)此次は何處で祭れ、其次は何處に行かう、と云ふやうに、次第々々に北方へ移つて行かれたものと見て宜しからうと思ひます。

　巫女は又ある地方ではワカとも謂つて居ります。巫女には神樣の憑かるゝ者と、死靈生靈鬼狐等の憑く者と、今では別種の如く見られて居りますが、其起原は必ず同一であらうと思ひます。是も枝葉になりますから申しませぬが、其第二の種類の巫女をワカと云つて居る地方が隨分多いのであります。此ワカなる稱呼は、恐らくは姫若宮若宮などの思想から分れたものと思ひます。必ずしも八幡宮ばかりではありませぬ。多くの舊社の攝社末社には若宮社がありまして、やはり主神の御子の神と考へられて居ります。王子と申上げる神々も亦同樣であります。是も至つて例の多いことで、歴史に有名なのは熊野の九十九王子、京都から熊野に參ります路に、和泉から始めて九十九箇所の王子社があつたと申します。其多數は不明に歸しましたが、今でも熊野の若一王子などゝ申し、王子權現は熊野からの勸請であります。而も其は熊野ばかりでは無かつた。祇園にも八王子、加賀の白山でも九州の高良でも王子と云ふ末社がありました。八幡樣でも一方には若宮を稱すると共に或は又若一王子の名を以て拜せられた末社もありました。右の若宮及び王子は等しく神の御子を意味した言葉で、神樣の眷族若しくは神樣の苗裔である故に、神と人との中間に立つて雙方の意思を仲介し得ると考へた思想の痕跡かと思ひます。昔の日本語は單純でありまして、神樣のことゝ皇室の御事とを言表はすのに同じ言葉を用ゐました。即ち神の御宿をミヤ、カリミヤと謂ひ、神樣の御出ましのことをミユキと謂ひ、配偶の姫神をキサキとさへ申しました。天皇と云ふ語さへも、畏れ多いことでありますけれどもやはり神々にも用ゐられましたので、大梵天王を大寶天皇と解して今文武帝を祀ると申す社があつたり、用明天智其他の天皇に片田舍に流寓せられたと云ふ傳説まであるのであります。其意味で神の御子をミコともワカミヤとも王子とも稱へたのは些しも意外では無いのであります。而して現在でも多くの社の神官の家は、神孫の末とも最初の從屬者の末とも申して居るのであります。

(446)　是までは先づ御承認を受け得るものとして、次に申したいのは若宮の誕生即ち神が子を御産みになると云ふ信仰であります。春日神の古い記録には、若宮の誕生を神主祐忠が見たと云ふことが書いてありまして、而も後世之を筆録した其子孫の者、既に之を信じにくい事のやうに申し添へて居ります。併し此傳へは決して大和春日のみでなく、古今著聞集の中にも上總の一宮宝前神社と云ふ神が、たしか後三條院の延久年中のことゝ思ひます、此神樣の託宣があつて、今聖皇の御代に當つて若宮を誕生すると仰せられた。翌日行つて見ますると、御神禮と同じ形の小石があつたと記してあります。即ち石の誕生であります。又日本靈異記の中には美濃國の女が父無くして子を孕んだが爲に、非常に不思議に思つて巫女に占はせて見ると、伊奈波神と云ふ此國で有名な神樣が託宣せられて、其は我子であるから大事にせよと云ふことであつた。そこで神籬を立てゝ、之を齋ふと、やがて二つの青い石を産んだとありまして、其石後に大いに成長したやうに記してあります。單に其のみでは無い。耶蘇教で申せばマリア女の大奇蹟と同じやうな、童貞受胎の物語、古書の語を假りて申せば旡父生兒と云ふ話は、日本にも其例が澤山あります。就中最も著名なものは山城賀茂の別雷神の舊傳であります。是は伴信友翁の瀬見小河にも詳しく出て居ります。大昔賀茂建角身の御子に玉依姫玉依彦の兄妹がありました。玉依姫がある時川に出ると丹塗りの矢が流れて來た（ある書物には白羽矢とも美しき箭とも書いてあります）。其を持歸つて來て床の脇に置いた處、其に感じて子が生まれた。建角身は其何人の子なるかを知らんと欲して、誓《うけ》び酒を釀して方々の神を招き集め、其子に酒杯を渡して、汝の父の所へ持つて行けと申しますと、素より天つ神の子でありますから屋根の上を破つて昇天したとありまして、それが賀茂の別雷神であります。下鴨の御祖神は其玉依姫、或は伯父の玉依彦を祭つたと云ふことになつて居ります。

　さて此玉依姫と云ふ神名に就て一番六つかしい點は、神武天皇の御母の名が亦玉依姫であることであります。其爲に八幡宮の三柱の神の中の玉依姫も、よほど夙くから神武天皇の御母君を祭ると云ふ説になつて居ります。其から段(447)々導いて故栗田博士の如きは、だから八幡神を應神天皇と云ふのは間違ひである、彦火々出見尊を祭つたのであると云ふやうな議論を發表して居られます。併し私の知る限りでは、玉依姫と云ふ名は他にもありまして、殊に唯今申しましたやうに賀茂には此樣な話があります。それから賀茂と同族の者が住んで居たらしい大和の葛城にも、三輪の神樣が活玉依姫と云ふ婦人の處へ、やはり丹塗矢に化して、川屋の水を流れ下りて姫の富登を突いて終に通ぜられたと云ふ話があります。是も至つて有名な話で、婦人の名が活玉依姫であります。又前に申した上總の一宮の神も御名は玉依姫であると云ふ傳へであります。薩摩の開聞嶽附近に於て此も彼地方の平田派の學者によつて彦火々出見尊の訛傳なるべしと信ぜられて居る天智天皇流寓の傳説があります。今でも諸處に祀つて居る天皇の社には、后神の名を玉依姫と謂ひ、此國から出た婦人であると云ふ話であります。又熊本縣にも玉依姫を祭ると云ふ神社がある。是は京都から下つて來られて上臈になつて居ります。要するに玉依姫と云ふ名はある一人の貴女に屬する歴史上の人名と解すべきものでなく、恐らくは神靈の憑りたまふ所、即ち神の靈を感じて若宮を受胎すべき最も貴い婦女と云ふ意味になるのであらうと私は考へて居ります。此推測の旁證としては殘存する五つの古風土記の中から其三つ迄を引くことが出來ます。第一には播磨の風土記の中に託賀郡の道主日女命と云ふ神が父無くして子供を産まれた。其父を知らうとして誓び酒を造つて多くの神を招き、やはり其子に杯を持たせて歩かせたら、天目一箇神の所に持つて行つたので、乃ち天目一箇神の子であると云ふことが分つたと云ふことがあります。常陸風土記の中にも、神樣の靈を孕んで出來た子供が、長く父の神を慕つて終に屋を破つて天に昇つたといふ話があります。それから出雲風土記の中には、出雲の伎佐加比媛命が神の靈を感じて生んだ若い男神が、父の何人なるかを知らうとして加賀の岩窟に行つて誓びをすると、窟の奧から黄金の矢が流れて出たので、自ら神の御胤であることを知つたと、云ふ話もあります。つまりこの矢と申しますのは、後世の俗談に人身御供の白羽矢などゝ變化して居りますものも皆同じで、平たい言葉で申すと、つまり神の占有の標徴であつたと思ひます。さうすると父なくして子を産むと云ふ傳説の起りは、神樣の子を産む人間(448)の母親があつたと云ふことで、即ち半分は人間半分は神樣、人間を母とし神を父として出來た其子供が、一番神樣の靈�ｺを人間に宣傳するに適して居ると考へた思想が、一方にはミコと云ふ名を作り、他の一方には今日到る處の神社の末社に、王子又は若宮と云ふ小社を遺し、神官の家々には神孫神に仕ふると云ふ舊傳を貴んだのでありませう。更に一歩を進めて申上げますと、八幡神が應神天皇であるとの言傳へは、非常に古くからあることでありまして、勿論所謂後世振りとは思ひませぬが、最初斯く申し始めましたのも巫祝輩の空な言葉からで無く、一方には御母皇后の英風と御誕生の奇瑞、他の一方には王子神或は王神、即ち御子神を意味する耳馴れぬ漢語が、新たに制定せられた應神と云ふ御謚號と、音相近かつた爲であるまいかとも思ひます。

　猶この古代信仰の樣式が徹底的に研究せらるべきものであつたならば、自分はある時代には諸社の祭禮の最も重要且つ神秘の部分であつた神婚の式のことを申して見たいのであります。神の誕生は必ず神の婚姻に伴ふべき道理でありますが、今日では片田舍の祭を見ても既に微かな痕跡しか遣つて居りませぬ。併し二つの社を男神女神と稱し、祭の日に境の橋の上などに行逢ふやうな儀式、其他所謂文明人には承知の出來ぬ歌や舞のあることなどは、只徒らに一種のバッカンテインとして看過することは出來ませぬ。近年九州の阿蘇男爵の令弟が編纂せられた阿蘇の面影と云ふ小册子の中に、阿蘇社の祭典に昔有つたと云ふ子安川原の儀式のことが少し出て居ります。少女を化粧させて此處まで送り出し、神婚の儀があつたと傳へる一の靈石が永く遺つて居たさうであります。この祭のすむ迄は村の男女は婚姻してはならぬ。其禁を犯せば五穀不登の災があつたと云ふので、即ち神の婚姻を以て作物の豐産を期する要件として居た昔の思想が窺はれ得る上に、子安と稱して幼兒を抱いた婦人の石像、或は耶蘇禁教の變装かなどゝも言はれ、而も古くから我邦に存在した證據のある子安神の信仰も之と關聯して居たことが分るのであります。後世の巫女は唯身を淨くして神に奉仕して居たのでありますが、最初は今一段と重要な任務があつたのであります。出雲杵築神社の大祝が、神の御用と稱し毎年百姓の少女を召し之と婚姻するのは宜しくない、今後は一人に定めるがよいと命ぜられ(449)た山城京初期の公文書が、今日遺つて居るなどは有力な材料でありまして、自分などはどうして今までの學者が之を説かなかつたかを奇恠に思ふほどであります。此類の研究はちと深入りに過ぎますが、今一つだけ手近の例をお話しますと、東京に近い武藏府中の大國魂神社、俗に六所樣と申す社の御祭は暗闇祭と申しまして、燈火を消して其夜中にお祭をする爲に、（殊に儀式が神秘となつて居り、隨つて記録にも載つて居りませぬが、百年程以前小石川水道町の落合某と云ふ者が、勿體無い話でありますが物陰から覗いて居つて見たと云ふ記事が、十方菴の遊歴雜記の中に聞書してあります。新たに造られた假宮の中には何か人が居て神に代つて祭を享けるらしく、之に色々の供物を進ずるが、其度毎に横山源左衛門が御膳を差上げますると云ふことを申し、それが九十九遍に及んだと書いてあります。右の横山源左衛門の家は至つての舊家で、始めて六所樣が此土地へ御出でになつた時御宿を申上げたと傳へ、其由緒で色々の特權をもつて居ました。此家には又次のやうな言傳へがあつたと申します。六所樣御出現の節はちやうど横山の家では女房が産をして居りまして、血の穢れがあつて恐れ多いと申上げると、それは苦しくない、裏の小屋があるから其處に入つて泊らうと仰せられた。仍て御命のまゝに家の後の中家に御宿をしたので、其縁故で横山源左衝門が他の神社で申せば鍵取りなどに當る重要な役を勤めるのみならず、其御祭典の行はるゝ同時刻に横山の女房は積重ねた蒲團に凭れ鉢卷をして分娩の形を眞似るのが慣例であるとあります。今日となつては單に有り得べからざる事として埋没するでありませうが、どう考へても中世以後の佛教教理や神道説では案出の出來ない話でありまして、神婚神産の舊信仰を辿らしむべき重要な手掛りであります。何故に神と人との仲介者をばミコ又はカウノコなどゝ謂ふかの説明には、必要上是まで溯つて考へねばなりませぬ。

　巫女の選定には龜卜などを用ゐた例もありますが、後世段々と清淨を重んじて參り、例へば童女成長して月事が始まると、それは神樣が御不用とあつて御返しになると云ひ、若しくは神樣に仕へて居る女は終生月事が無いとも傳へ、或は心の中に男女の事が思ひ浮ぶやうになると、大蛇が出て來て威すので社の中に居れなくなるとも申しました。此(450)は或は前の玉依姫系統の話と兩立せぬやうに御考への人があるか知りませぬが、さうでありませぬ。神の物と人の物とを明白に區別して混同せぬのは、外國學者の語で申せばタブーであります。日本でいへば齋忌であります。共で巫女をも物忌と申すので、又齋忌の標章物をも物忌と申しました。我々がシメと呼んで居る藁の繩、神は神に仕へる人の小忌衣の模樣、冠に插すカザシなどは、何れも此物又は此人神に屬す、平人犯すなかれと言ふことを意味して居ります。巫女を物忌と名づけた一例は最近まであつた鹿島の物忌であります。東氏と言ふ神官の家の娘で神卜に由つて卜食んだ者が之に任じます。如何なる力に依るか終生月事なく且つ非常に長命で九十百に達すると云ふことでありまして、その俗人と遠ざかつて、清淨なる生活をすることは、如何なる尼公と雖も企て及ばざるやうな嚴格なものであつたにも拘らず、關東地方の鹿島信仰者は右の物忌の館へ安産の御守を貰ひに行く習であつて、所謂子安の靈驗が著しかつたのであります。是を見ても巫女の昔の任務は略々想像せられます。

　皆樣には或は此迄の御興味は無くて御迷惑であつたかも知りませぬが、要するに私の申上げようと思ひます所は、今日では巫女なる者の地位が、鈴を振つて舞を舞ひ、白い着物に紅い袴を穿いて神前に立ち、ほんの祭典の爲の單なる色取りのやうに思はれて居りますが、其最初の任務は遙かに重要な、言はゞ信仰の中堅であつた。即ち神樣が此に御憑きになつて、神の心持を氏子に傳へると同時に、信徒から差上げる供物を神に代つて享け、彼等が述べ又は述べざる疑問を神に代つて答へる爲のメディアムであつたと思ふのであります。託宣は昔は多く定期で且つ一定の機關を通じて行はれて居たのが、人漸く之を危ぶむに至つて多く突發的となり巫女の勢力は幾分づゝ衰へたのであります。そこで神社を離れて勝手に其職業を行ふものが出來ました。之をアルキミコと申して居ります。即ち漂泊する巫女の義であります。或は此種の者を梓神子とも申しますのは、以前多くは梓の弓を手に持つて口寄せをした爲で、いつにまた大弓などゝも呼んだのであります。私は此弓をタグサ（手草）又は取り物の一種と考へて居ります。トリモノは古今集の神樂歌の處にも色々出て居りまして、つまりは之を取る人の神に屬する清淨なる者なることを標示するタブ(451)ーの徽章即ち丹塗矢の一變形であります。後世の神社の巫女は笹の枝を持ち或は一つ物と稱へて天然又は人作の花の枝などを插しました。巫女を笹ハタキなどゝ申したのも此笹を持つた爲であります。これから能や芝居の狂女などが手に持つ笹の枝も出たことゝ思ひますが、此は昔の社會が狂人と云ふものに對して如何なる考を持つて居たかと云ふ大きな問題、更に進んでは神酒と云ふものが如何にして神祭に缺くべからざるものになつたかと云ふ問題を明らかにしてからでなければ證明が出來ませぬから、今は主張致しませぬ。

　猶近世の神道が輕々に看過して居つた事柄の中で、やはり巫女選定の式と關係があるかと思ひますのは、多くの神社の祭に女の装身具の類を上げますことであります。此はミクシゲ（御櫛笥）と申して、男の神樣に違ひない社へ、櫛だの鏡臺だの鐵漿、白粉など、婦女に關する一式の品物を捧げて居るのです。熊野の新宮などに參りますると、現存の神寶と云ふのは全部女の装飾品ばかりであります。後世から申しますと、色々な説明もつきませう、或はしまひには女神樣であると云ふことになるかも知れませぬが、今の間に他の方面からも考へて見なければなりませぬ。

　又直接の關係はありませぬが、今日三四の神社に遺つて居る所謂一時上臈と云ふ慣行も考へて見たいと思ひます。氏子の内からある婦人を選定して一年づゝ交代に神の祭に奉仕させる。所に依つては男であつて一年神主とも言ふものもあります。其中には又夫婦一緒に出て仕へる、二親の揃つた男女のみが選に當つて祭に仕へると云ふものもあります。此外年々の祭にある一軒の氏子が順番に出て特別の勤務をするもの、是は今でも至つて多い。それをトウヤ（頭屋）と云つて居ります。年々順番に出てお祭をするので、又頭番とも謂ひ或は其人間を名づけて頭人とも言つて居ります。是は熱田の馬の頭花の頭、諏訪の花の頭の類は古い記録も段々殘つて居るに拘らず、今日は其慣例が段々影が薄くなつて、任命せられた神官のみが大いに働いて居ると云ふのはどう云ふ譯であるかと申すと、最近日本の神道は是だけのものと勝手にきめてしまつた人々がえらくて、田舍に在る此等の古い慣習を譯も無く看過したからであらうと思ひます。�ｺ島縣知事の三宅さんの話では、同君の郷里讃州鹽飽群島中の手島と云ふ島には今でも頭屋の祭をす(452)る舊例が儼然として傳はつて居る。番に當つた家では夫婦又は母と子と必ず男女一人づゝ出て、祭の數日前から社に詰め潔齋して祭事を勤めると申します。是は事によるとやはり婦人の方が主で、男子は其介添の格であつたのでは無いかと思ひますが、確かにさうとも申されませぬ。伊勢の神宮では巫女を子良とも物忌とも申しまして、此には必ず物忌の父と云ふのが隨伴して實際の俗務に當つて居りました。又同地では近世まで宇治橋などの新架橋の際の渡初めに女が出て儀式を勤め、それの介添に夫や父が出る習であつたと申します。其が段々變化して東京などの渡初めには夫婦が出る、或は三夫婦揃つて居るのを捜して渡らせると云ふやうになつて參りましたが、つまり女に男が介添して參るのが本意でありまして、神宮物忌の記録に明らかに殘つて居ります如く、女は主男は從の關係があつたのです。此想像の當不當は兎に角、一時上臈、一年神主又は頭屋頭人の舊慣なども少しも勘定に入れて居りませぬで、獨りで日本の神道を説かれるのは今日是等の慣習の消え行かんとする際甚だ惜しいことゝ思ひます。又府中の六所樣の横山源左衝門の家のやうに、鍵取りと云つて、只一家で神社の祭祀の首腦部を勤める例と、それから村中の者が順番に祭に與つて居る右の如き頭人頭屋の例と、全然相異なる二種の樣式のあることも今迄心づいた人はありませぬ。さうして丸々縁の無い神官が五年三年遠方から赴任して來て、統一々々と言つて故意に舊規を忘却します。日本の宗教史としては隨分今日の變化は激しいものと思ふのであります。

　それから是も直接に巫女とは關係が無いのでありますが、伊勢の御師などは何々大夫と云ふ名の多いことであります。奧羽其他でも神官をタイウサンと云ふ地方が多い上に、北野や西宮や大きな社の攝末に何大夫の小社のあるものが多いこと、若宮王子と同じであります。然るに一方には遊藝の徒にも何大夫多く、所謂博士陰陽師の徒、それから三河萬歳までも大夫と云ひ、種々な民間の信仰に關係ある者に大夫と云ふ者が至つて多いと同時に、地方に由つては大夫筋と云ふものがありまして、普通の百姓ではないと云ふやうな疎外した意味で此名をつけて居るのもある。奧羽などのは神主と修驗の間のやうな者が所謂タイウサンであります。あまり種類が澤山あつて可笑しい位であります。(453)女の大夫には江戸では鳥追などを女大夫と申しました。娼妓を太夫と云ふ原の起りは、白拍子が參内する爲に烏帽子を被つて、何とか何の守と云ふ男の名を稱へ、有位者の待遇を得たからそれで太夫と云ふのだと洞房語園か何かの雜書に出て居りますが、此徒輩の自ら主張する由緒ほど恠しいものはありませぬ。併し是等の共通がもし偶然で無いと致しますれば、そこに複雜なる理由が無ければなりませぬ。其中でも北野天神の社内に白大夫と云ふ宮があり、熱田宮の内に源大夫藤大夫と云ふ二つの末社があり、御靈の八所の内に藤大夫とか橘大夫とか云ふ大夫の名のついた神樣がある。こんな風に末社の名に大夫と云ふのがありますのは、多くの民間信仰に關係ある職業を執つて居る者が大夫と云ふのと、何か因縁のあるらしいことだけは稍々想像がつくと思ひます。所が今迄の説では太夫は公卿より卑しく士より一つ高い階級の官吏であるから、何かの場合に其樣な待遇を受けたのが始めであらうと云ふのでありましたが、大いに疑はしうございます。大夫は「太」の字を書いた太夫とは特に區別してあるやうに思はれます。私の考では太夫はやはり大夫で、書紀などに古くから大夫と書いてマウチギミと訓ませた其マウチギミの音讀に過ぎぬと思ひます。是は神裔にして託宣を職とする巫女とは別でありませうが、やはり侍者即ち神に侍し祭に仕へる意味で、「まつり」「まつ」「またす」などゝ云ふ語と語感を同じくし、神の大夫即ち執事、行事などゝ云ふ所から來た名と思ひます。之をある神社の末社に祭つて居るのは即ち今の舊神官が最初の扈從者の子孫と稱するのと相表裏するものであらうかと思ひます。其一つの傍證になりますのは、八幡の末社の中にマツドウ（松童）と云ふ神がある。是に就ては色々の説がありまして、或は八幡神の御牛飼であつたとか、或は高良の神であるとか、或は又氣の荒い神で眼が放されぬから廊下に祭つてあると云ふやうなことを申しました。それから菅原傳授手習鑑にも見えて居ります松王と云ふ人の名でありますが、松王と云ふ名は兵庫の和田岬を清盛が築いた時に、人柱に立つたと云ふ昔話の童子の名にもあります。此松王を祭つたと云ふ神社が、讃岐には二三箇所ある。伊豫にもあります。而もある一社では之を八幡宮の眷屬の如くして祭つて居ります。私の考では是は今では松と云ふ字を書いて居りますが、やはりマウチギミのマウチであつて(454)神樣に侍すると云ふ意味の名ではないかと思ひます。若狹近江などには松塚と云ふ塚、松神と云ふ神が多くあります。此松神松塚と云ふのは同じもので、全國數十箇所にある小町塚なども、男か女かあるマウチギミの祭をした場所かと思つて居ります。是までは或は行過ぎた想像でありませうが、少なくも大夫と云ふ名前の信仰的職業について廻つて居りますのは、古來のマウチギミを昔のまゝにタイフと云つた其名稱の系統を引いて居ることだけは明白で、之につけても民間今日の俗習を一概に後世振りとして排斥せられないと思ひます。

　終にもう一つだけ申上げたいと思ひますのは、高級の巫女のことを加茂ではアレヲトメ（阿禮乙女）と申したことであります。加茂には近世の地誌にも出て居りますが、ミアレノ（御生野）と云ふ場所があつて、主神御降誕の地とも傳へて居る。又此社の祭には昔から御阿禮木と申して木が立てられたと云ふことであります。この三つのものは別々になつて居りまして、御生野に就ても御阿禮木に就ても阿禮乙女に就ても、相調和しない議論が今日まで行はれて來て居つたのでありますが、私などは極めて簡單に解釋して居ります。ミアレは即ち神の出現のことで、御阿禮木と云ふことは神樣が之に依つて御降りになる木であります。其御祭の中心となるべき託女は重要なる職業であるから阿禮乙女である。さうして御阿禮祭の時に、毎年神樣が御出現なされた、即ち巫女に憑託せられた場所が御阿禮野であると思つて居ります。樹木を依坐にし岩石を神座として、神樣を迎へ祭ると云ふのは古い祭式であります。樹下石上と云ふ語は禅僧の新用語のやうに考へるの誤りであることは、少しく宮中などの古い祭式を洩れ傳へて居る者には、知れ切つたことであります。神祭には必ず大きな常緑の樹を立て其木の下には神を迎へるための御座が設けられます。質朴な社會で清い石を以て降臨の座としたのは寧ろ殊勝なことで、立てる所の木もやはり天然のものを用ゐて神の御階段としたのが、最も古い形式に相違ありませぬ。神木と云ふものは今では何のために注連繩を張つて置くかも不明になりましたが、是は神が一年中社殿の中におはしますと考へてから後の變化で、祭の日に天から御降臨なさるゝものとして祭つた時代には、今よりも遙かに重要な地位を占めて居たことゝ思ひます。その神が憑りたまふ特定の木か(455)ら枝を折取つて持つのが即ち神の依坐の標章で、次から次へと其枝を插木にしたのが神の勸請かと思ひます。天野の告門などでは之を杖と申しました。宮中の巫女などが舞の折に持つのをやはりミアレ木と申したやうであります。恰も後世の山伏が持つた大きな梵天と云ふ御幣から、小さな多くの御幣を家々に分つてあるいたのも、此思想の變形かと思ひます。神木崇拜については日本人でも研究した人が少ない爲に、或は之を簡単なるアニミズムの一現象と見る外人の説に容易く同意するかも知れませぬ。口惜しいばかりで無く固有思想の埋没は社會のために有害であらうと存じます。是と云ふのも本來神は祭の時に限つて天から御降りになると云ふ信仰であつたことを、それこそ外國振りの感染の爲に忘れた爲でありまして、昔も今も此ほど例證の多いアモリ（天降）と云ふ舊傳を捨て、神木と云ふ大事な記念物を粗末にするやうになつたのです。急ぎましたので十分に説明が出來ませぬでしたが、私は既に公刊した自分の論文を引用して全部の責任を負ひ得るのであります。

　神と天とを結び附けて祭の時に高い處から降らるゝものとする考、從つて御祭に木を樹て乃至は山の頂から迎へると云ふ儀式は、獨り東亞の諸國と言はず、世界の大部分に共通なる習俗であります。從つて朝鮮や滿洲に所謂アモリの信仰があつても、勿論我々の祖先が之を學んだのだとは申されませぬ。唯其等よりも更に數段のアフィニティのありますのは琉球の神道であります。チェンバレン翁などは殆と言語ばかりの比較から見て、日本と沖繩とは從兄弟の關係かと申されましたが、是とても果して南部日本の方言變化までを考へ合せての説で無い上に、古代信仰上の共通點などのまだ研究せられて居なかつた時代の斷定でありますから、自分は頗る之を疑つて居ります。琉球の文獻は成程日本よりも遙かに乏しく、今日の處まだ明白にならぬ點も多々ありますが、兎に角に神の定期の降臨、之に伴なふ託女の重要なる地位及び任務、竝に此信仰と民族始原の傳説との關係の如き、何れもある時代の日本の宗教をそつくり持つて往つたものと見得るのであります。沖繩神の降りたまふ靈山をタケ又はモリと謂ひ、村に於て之を祭る場所をヲガン即ち拜み林と申しましたことは、即ち内地の山宮里宮の同型であります。是も今日まで誰とて説明した人は(456)ありませぬが、祭の日に行幸と稱して神輿を御旅所に迎へ申し、重なる儀式が其御旅所で行はれたことは、人のよく知る所であります。御旅所などゝ云ふ文字は勿論中古以前の書物には見えませぬが、さればとて此慣習が後世に起つたものとする根據は一つも有りませぬ。然るに神樣が常に社殿の中に御住みになるかの如き考が卜部氏の神道あたりから起りまして、其結果は所謂御旅所の靈地である意味を甚だ稀薄なものにしましたが、神の毎年定期の降臨と云ふことを念頭に置かぬ限りは、假に説かうとしても永久に説き得ぬ現象であらうと思ひます。平田系の神道者には所謂毎朝神拜の教を守つて居る人がありますが、其が我邦固有の信仰樣式であることは多分立證し得られまいと考へて居ります。又それでは我々國民の熱烈なる春秋の祭禮の趣意が分らなくなると思ひます。斯樣に一世を風靡する學説だから論證は不必要だらうと云ふやうな心持で人のすることを只して居ては、終には世界のエンサイクロペヂヤに無責任なるシントイズムの説明が居据ることゝなり、且つは眞理を追求する學問の本旨にも反し、且つは國民性とか日本精神とか云ふ大議論が、徒らに空な音響に歸してしまふ虞があります。どうか基督教國民などの思はくには頓着せずに、又中期以後のドグマにも捕はれずに、我々の祖先我々の昔の同胞が實際に感じ實際に行ひ來つた事を明らかにして改めねばならぬ必要に出逢はぬ限りは、古人の志を遂げたいと思ひます。

　是は獨り神木や御旅所の問題のみでありませぬ。かの人を神に祭ると云ふ信仰に付ても、やはり野中の清水もとの心を問うて見ねばなりませぬ。是は恐らくは根本に於て神代卷を史實として見るかどうかと云ふ問題から出發しなければならぬ。若し記紀の神々をば悉くそれ／”＼ある時代に生存せられて居つた普通の人間であるとしますれば、而して神道家の説の如くに延喜式の諸社凡て其神を祭るとしますれば、勿論實例は多きに勝へぬ位であります。併しそれは後世に始まつた學説でありましてまだ確定しては居りませぬ。記録に根據のある限りに於ては、人を神に祭つたと云ふ最初の例は所謂八所の御靈であると思ひます。だから如何なる英傑でも年たけて自然の終を全うした御方は御祭り申した社が無かつたのであります。然らば家々に於て氏の祖神を神として齋いたのはどうかとの疑ひがありませう(457)が、是は其祖先が始めから神であつたからであります。即ち前に申したと同じ話の他の一面で、神の後裔なり血統なりである故に祭祀に任じて居たので、人を神に祭つた例にはなりませぬ。そこで御靈と稱して祟を恐れて祭つた神以外に、今日の意味に於て優れたる人格の人を神とするに至つたのは、或は天海僧正の神道とでも申しませうか、かの東照權現の宮などが最初では無からうかと思つて居ります。それが僅かな年月の間に全國の風となりましたのは時勢であります。明治以後にも此例が多數に増加しまして、之を以て日本今日の神祇道と云ふことは出來ますが、唯何としても承認し得ないのは我邦の神社は悉く偉人若しくは祖先たる實在の人間を崇拜したのに始まると云ふ説であります。是は故意と否とに拘らず、證據に基かぬ造説と云ふものでありまして、行く／＼は必ず史學者の審査に掛かるものとは思ひますが、私は潜かに社會道�ｺの進歩の爲に、其惡影響を患ひて居ります。若し普通人民には或る程度以上の眞實を閉鎖して置かうとか、自分も信じないがまアさうでも説くより外は仕方が無いと云ふやうな大達觀論であるならば、自分は其類の人物の何程迄の研究を盡して其樣な弱音を吐くのかを吟味せねばなりませぬ。日本固有の思想に人類文明の趨勢に戻るやうな部分があらうとは、少なくも私は信じないのであります。

　我々が皆神の御末であると云ふことは至つて古くから信ぜられ來つた所で、今も尚多くの人の氏神を祭る心の中に傳はつて居ります。即ち其が所謂天孫人種の宗教であります。御承知の通り多くの異傳を集録した書紀の神代卷を見ましても、數多き神々が常に日神を中心として血族關係を明らかにしようとして居られるのがよく分ります。是やがて日本の社會組織の由來を暗示するものでありまして、歸化人の後で無い限りは、皇別か神別か何れにもせよ始祖を神の御子とせぬ者は無く、其神が悉く中心の皇大神を圍繞補翼して居た如く、神々の御末は現世には正系の大御門の下に統一し、幽世には祖神を通して日神の御威�ｺに化せぬ者は無かつたことゝ思ひます。祖先崇拜と申すことも此意味でならば言ひ得られると思ひます。而してこの神と人との境が最も解し難い點であつた爲に童貞受胎の神話も起り、又後世人の信心を固める爲に、毎年の祭に久しく此ミステリィを繰返して居たのでありませう。伊豫の河野氏で、代(458)々通の字を名乘の一字としたのは、祖神三島の明神が人間の少女に御通ひなされて生まれた故と豫章記にもあります。人の感情の今よりも強健であつた時代には、此の如くにして半神半人の祖先を記憶し得ましたが、次第にさうまでは言ひたく無くなつて巫女の神道は衰へ、新神道が起つて來たのです。

　それで私の最も氣遣ひます點は、成程システムは立つて居る、論理は一貫して居りますけれども、要するに今日の所謂神道は一家言であります。諸家雜然として競ひ進んで居ります中に、勿論獨り一頭地を拔いたのは平田翁系の神道でありますが、是とても其基礎に於ては多く改まつて居らぬ。言はゞ國民の精神生活に對する觀察から出發した了解では無かつたのであります。之を有り得べからざることゝ信じて、單に論理一貫せる點のみを珍重し、終に日本の神道はかくの如しと解する者が多くなりましたならば、其結果は如何でありませうか。あなた方は又別の御考を持つて居られるかも知れませぬが、吾々の如き境遇に居ります者の考では、學問は何處までも國民が當體であります。其國民の生活に同情の無いやうな學問の仕方に對しては反對しなければなりませぬ。殊にモウ一段高い所から見ましても、目前の事實を輕んずるやうな學問の仕方には賛成することは出來ませぬ。假定と神代卷ばかりに基いた神道と云ふものには賛成することは出來ない。又古人をあなた方見た樣な哲學者だと見んとする如き神道にも賛成することは出來ませぬ。昔佛教が神代の佛教を説く時には?々嗤ふべき嘘をつきました。例へば伊勢の大神は惡魔が來て此國に佛教の入るを妨げんとするのを防がんが爲に御降臨になつたと云ふ説があります。それが三國傳記あたりの時代から長い間信じられて居りました。つまり何人も古代人の生活を研究しようとしなかつた結果であります。結論こそ異なれ久米博士などが古代史を説かれた時の態度も此でありました。いや出雲派と天孫派と政略上の結婚をしなければならぬやうになつたのは斯う云ふ事情であつたの何のと、今の外務省の役人でも企て及ばないやうなインテリジェンスを古代の人々が持つて居たやうに説いて、是は其時代の政治を其儘に書いては憚り多いから、歌のやうに模樣のやうにして廻り諄く話が傳はつて居るのである。眼光紙背に徹することを要すなどゝ言はれて居る。私共は不幸にして、(459)或は幸にして眼光紙背に徹することが出來ないのを喜んで居ります。要するに三千年も昔の社會生活に於て、どの位の智力どの位の道�ｺ心を持ち、どの位迄因果律を體得して居つたかと云ふことは研究せずして、唯徒らに今日の心持から、自分の持つて居るだけの智慧は昔の人も持つて居たやうに思つて、彼等を立派な外交家としたのが可笑しい如く、上期の日本人が五行陰陽の法則を咀嚼し、思索を是れ事として居たやうに豫斷しての神道説などは閉口で、私は便宜上神道とは呼びましたが、實は何よりも歴史ある此二字を使用せられることに抗議致したいのであります。要するに是は古人の心持が想像がつかぬ爲に、そんな粗つぽい研究方法を採られたのでありまして、此邊にうろ／＼して居る中はまだ／＼我國民性は斯の如しと云ふやうなことを世中に説くことは出來ないと思ひます。私は素人で研究上一旗幟を掲げて居る者ではありませぬが、どうか今後斯う云ふやうな方面の研究をずつと進めて、他日國家の未來を論議する場合の發足點にしたいと思つて居ります。

　御豫期に反したかも知れぬ題目を、長々と述べまして甚だ恐縮でありましたが、世には斯う云ふことを考へて居る者もあると云ふことをお聽きに入れたいと存じまして、幹事のお勸めに從つて出て參つたのであります。何かの御參考にもなれば仕合せでございます。

　

(460)　　神社のこと

　

　　　　　　　　　　一

　

　神社は日本に十萬以上も有る。その神社の性質及び目的を、僅か七八百ばかりの著名な御社だけの知識によつて、類推しようといふのは無理なことであるが、是までの學者は皆それをして居た。

　今でも個別の調査はまだ出來て居ないから、この七八百といふ數字は精確で無く、又近年になつて幾分か増加したかもしれぬが、假に實際は千を越え、又二千に近くなつて居らうとも、是を見本として他の多數のものが、すべて此通りだと思はせることの、許されないのは同じである。

　この少數の著名な神社は、單に殘りの全部を代表し難いといふだけで無く、むしろその他のものと相反する特徴を幾つも持つて居る。明白なものゝ三つか四つを擧げるならば、第一に著名の大社には、他處からの參詣《おまゐり》が有る。之に反して一方の多數の神社は、氏子即ち管内に生まれた者以外には信仰する者が無く、從つてその對社會的實力は皆弱い。第二には其結果として、住民の多く集まつた都會地でもない限りは、花やかな世問の評判になるやうな祭禮を營むことが出來ない。村と町方では祭の日の光景が丸でちがつて居るのみならず、社殿《おみや》其ものが、村に在るものは物靜かで、且つ聊か質素に過ぎて居る。もちろん是は信仰の不足を意味するもので無く、以前の祭の方式の今とは同じでなかつた痕跡が、まだ殘つて居るだけである。

(461)　第三には專門有給の神職が、小さい神社には置かれて居ないものが甚だ多い。強ひて一社に一人づゝの神職を置くといふ制度にはなつて居たけれども、實際は一人で數社を兼ねるものばかり多く、中には二十社近くも掛持ちをして、一年に一度か二度の大祭の日だけ、自轉車で飛びまはる神職さへあつた。小さな祭はこの外に幾つもあるのだが、それは大抵村の人々だけで祭つて居る。神職の給與は言へないほど少なく、彼等の外に向つて神社を擁護する力は微弱であつて、土地と御社との因縁などは、とても此人たちからは説明してもらふことが出來ない。

　第四には記録の乏しいこと、或は全く無いといふことが、この十萬の神社の又一つの特徴である。もちろんその神社の近い頃に始まつたもので無く、爰に古くから在つたといふだけは疑ひが無いが、それが久しい問どういふ風に信仰せられて居たかを、書き傳へた文書などは無い方が普通である。讀み書きの必要の少ない生活だつたといふ以上に、祭が祖先以來の古式を守るものであるからには、それを毎年くり返して居れば、もう其他の記録を殘すには及ばぬと、いふやうな考へ方もあつたかと思ふ。さうして一方には外部からの觀察記録も、めつたにこの部分には傳はつて居らず、それで居て永い歳月の間には、實際は少しづゝ解釋は變つて來て居るのである。文書を唯一の手段とした從來の歴史研究が、是に手を下し得なかつたのも誠に已むを得ない。

　

　　　　　　　　　　二

　

　一言でいふならば、是は必然にフオクロアの領分であつた。記録が無いならば現在の實?に據つて、その沿革を尋ねて行くより他は無い。さうして幸ひに各地の變遷過程は區々であり、比較によつて其幾つかの段階を順序立てることが出來るのみか、更にその間を一貫した神社の特質、それは必ずしも多數の小さい神社だけに限られず、一方の名高いよく知られた少數の大社にも、共通したあるものを見出すことが出來るかと思はれるのである。

　神社とは何であるか、といふ質問に對しては私の答は簡單である。人が祭をする處なりと答へて、大體に誤りが無(462)いと思つて居る。但しこのマツリといふ日本語に對して、現在の諸君の飜譯語が正しいか、誤解を導く恐れがないかどうかは私には言へない。カミといふ語がやはり同じことで、多分はもつと詳しく内容を知つた上で、諸君自ら之を決せらるべきものであらう。日本のマツリは、漢語では「祭」の字を用ゐて、千敷百年來之を言ひ現はして居るが、現代の中華民國の學者には之を訝かつて居る人も多い。といふわけは、「祭」はあちらでは祖先の祭、即ち我邦でいふホウジ（法事）又はクヤウ（供養）に當るものに限るからであつて、日本ではそれも祭といふがなほ其以外に大小の神社のマツリにも、必ず祭と書いて他の漢字は用ゐない。始めてこの文字を日本語に採用したときには、或はマツリといふ語に今とはやゝちがつた限定があつたのではないか。即ち古い頃に我々の祭つて居たカミは、專ら祖先の神靈のことだつたのではないかどうか。さういふことも亦問題になるのである。何れにもせよ學問としては、今少し細かに事實を調べてから後に、改めてもう一度、用語の當否をきめられる必要がある。我々としては、是が現實の名前なのだから、何と譯されようとも之を使つて行くより外に手はないのである。

　日本のマツリは、語源もほゞはつきりとして居て、神の大前に侍坐して、暫らく時を過すことを意味する。マツラフといふ動詞は一方に又服從することにも使はれ、ツカヘマツル、ツカマツルは何か勤務をすることにも解せられるが、別にマツ・マタスといふ類の同系語もあつて、根本は尊敬せられる者との對坐面會、後世の語でいへば拜謁などと近い語であつたかと思ふ。古來の習はしに從へば、斯ういふ場合には必ず酒饌があり、共同の飲食があつた。伊勢の神宮の饗饌の式を始めとし、それを中心とした祭の展開は、今でも大小の諸社を通じて見られる。ところが一方に供物といふ語の誤解が生じて、神には酒餅以外には、即座の受用の出來ぬやうな材料ばかりを獻上する祭式が制定せられて、この重要な相饗の法則が無視せられ、その神饌を下げて持ちのいて勝手に處分することを、直會《なほらひ》だと心得るやうになつた。今から三十年も前から、私は熱心に其誤りを説いたのだが、省みる者は一人も無かつた。さうして地方の隅々の古風を守る神社と、農民の家々の神祭とだけには、今もまだその昔の形が維持せられて居る。つまりこの(463)變遷は最近百年以内に現はれたものだけに、一つの記録は無くとも、その過程が何人にもわかるのである。

　

　　　　　　　　　　三

　

　日本では盆と稱して、毎年初秋の滿月の頃に、先祖の靈を迎へて行ふ祭が、佛教の管轄のやうに見なされて居るが、實は同じ系列に屬するものであつた。舊暦七月十三日の夕食から始まつてほゞ三晝夜、主婦は殆と休む暇もなく、次から次へと變つた食物を調へて、所謂ホトケサマに供へる。若い息子の一人は掛かり切りで、温かい飲物の絶えないやうに氣を配つた。たゞ神社の祭と異なる點は、この方には酒が無く、又親類が代る／＼拜禮に來るだけで、特に余興といふやうな催し物の無いことであつたが、それでも日が暮れると軒に提灯などをともして、祭の席を樂しくしたことは、ちやうど神社の庭先に篝火を焚くのも同じであつた。

　多數の小さな神社の祭の夜も、たゞ氏子たちが神前に集まつて、靜かな食事を共にするに止まるものが、決して珍しい例ではない。たゞその一部のものが古い慣例によつて、貴い賓客をもてなす色々の所作を、祭の式の中に織込んで居るだけである。正式の言葉では之を神態《かみわざ》と謂ふやうである。神態の種類は幾つもあるが、最も多く行はれて居るのは横笛と太鼓を用ゐる素朴なる音樂で、之に伴なうて大きな釜に湯を沸かし、竹の小枝を以てその熱湯を周圍に振り散らす行事があり、それを湯立《ゆだて》又は問湯《とひゆ》と呼んで居る。もとは特別に神の意を問ふ必要のある時だけに、この湯立をしたものかと思はれ、之を略してたゞ音樂のみを以て終る場合も稀でない。

　吾樂には?々單純な短い歌が附いて居る。それが四つか五つか有るのを、一座の人たちが何十回となくくり返すうちに、次第に外部の者には理解しにくいやうな精神?態に入つて行くものらしい。この演奏の中心に立つ者は、以前は主として女性であつたが、是にも氏子の中から選定せられるのと、職業として他處から招かれる者とがあつた。近頃はさういふ婦人を見つけることが容易でなく、いつとなく此部分のみを中止したものが多い。湯立を伴なふ場合に(464)は其釜の火の周圖をまはり、さうで無い場合にも音樂の中ほどから立つて舞を舞つた。

　この舞は素より踊とは別であり、ダンスといふ語を以て譯すべきものでは無い。寧ろ音樂の感動の高まるにつれて、思はず知らず動き出すといふ風なものであつた。歌の詞の附いて居らぬ場合にも、その動作には何か語り告げんとするものが有るらしいことは、踊よりもよほど演劇の方に近かつた。現在の歌詞は、其構成と用語とから考へて、四五世紀も前に新作せられたか、又は改定せられたものと思はれるのだが、是にも舞ふ者の動作を説明するところは少なく舞ふ者も始終無言であつて、是が如何なる事跡を談らんとするものであるかは、今ではたゞ土地の人たちの、至つて不精確なる解説に聽くより他は無い。しかし我邦にもし神話といふものがあつたとすれば、或は斯ういふ中から其破片の僅かに殘つたものを見出されるのではないかと私は思ふ。さう思ふわけは神が我々の中に現はれて、人に害ある鬼又は凶賊を退治なされたといふ類の語り傳へが、幽かながら斯ういふ舞の中に保存せられて居ると、言ひ得るやうな場合が折々あるからである。

　

　　　　　　　　　　四

　

　近世の日本の演劇は、多くは神事舞太夫の家から生まれて出たと言はれて居る。ことに江戸と其周圍の地方などは、神社の祭の日に招かれて、舞を舞ふ職業の者が、百年前まではなほ世襲して居た。後には是も亦技藝化したにちがひないが、最初の必要は信仰に基き、從つて非常に素朴なものであつたらうことは想像せられる。それが芝居とは別途に、やはり追々と變化して來て、終に今日都市の祭禮に於て見られるやうな、雜駁なる觀覽物となつてしまひ、或は白晝街頭の演技を以て、祭の中心であるかの如く思ふ者を生じたのであるが、是も地方には其中間の色々の段階がなほ現存する故に、今ならばまだこの變遷の順序を想定することが出來るのである。

　祭の日の所謂神態の中には、音樂歌舞以外にまだ幾つかの種類のものがある。大體に是を二つの組に分けて、その(465)一つは豫祝式ともいふべきもの、即ち神の惠みによつて斯うなつて行くのが望ましいといふことを、前以て一通り實演して置くものである。日本で芝居をワザヲギと謂つたのも、ワザは技能でありヲギは招くことだから、起りは多分斯ういふ處に在つたらう。其中には田祭と稱して、稻の栽培収穫を一日に演ずるものが最も多いが、海に面した村では魚を澤山に釣る大漁の祭といふのも行はれ、或は又鬼祭と謂つて、鬼を攻め伏せて人間の法則に從はしめるといふ類の、防衛的な目的をもつたのも多い。是なども皆この民族固有のもので、海外の影響はたゞ其解説と、形の一部を修飾したに過ぎぬと私は見て居る。

　それからもう一つは、年占《としうら》式と我々が呼んで居るもので、是は今日のいはゆるスポーツと最も近い。大抵は一年の始めの祭に、神の計畫又は關心が、今年はどの方向に傾いて居るかを伺ふべく、選手を出して其技能を試みしめるものである。是には氏子の群を、利害のやゝ對立する二つの區域に分けて、競爭させるものが段々と多くなつたが、もとは全體でたゞ一組の代表者を出し、其成功と否とによつて神意を卜するのが普通だつたと見えて、今でもさういふ方式はまだ諸處の神社に殘り、この方だけはひどく技術が退歩して居る。

　競技の中では射藝が一番多く用ゐられた。其次には力くらべ、相撲といふ勝負法も其中から發達した。大きな石に目方を彫りつけたのが、神社の境内に幾つも轉がしてあつて、それを擔ぎ揚げるだけの單純なる競技も、祭の日の行事の一つだつた例がある。單なる走りくらべといふのは少なかつたやうである。競馬も最初には馬自らが選手であつた。先づ進出する馬の毛色の赤黒によつて、栽培季節の晴雨を占なつた。後には乘尻《のりじり》と稱して騎士がその技術を競ふやうになつた。多くの神社の參道が長く幅廣く、又眞直ぐでそれを馬場と呼んで居るのは、かつて馬を走らせる祭の行事が、今よりも盛んであつた名殘と見てよからう。

　

(466)　　　　　　　　　　五

　

　神の宴會の時間を樂しいものとする是等色々の催し物の中では、大體に明るい日中に行はれるものゝ方が、音樂歌舞のやうな夜分に行はれるものよりも、遲く始まつた改良であつたらしい。といふわけはこの最も貴い賓客を招待する食事も、やはり人間と同樣に晩餐を以て開始するのを例として居たからである。從つて庭の篝火は最初から缺くべからざるもので、常の日には全く無い事であるだけに、いはゆる祭の氣分は其光りたゞ一つでも、かき立てることが出來た。實際又是以外には何の餘興も無い靜かな祭も田舍には多く、或はこの火を特別に美しく趣向する火祭といふものも各地にあつた。花火といふ技術の日本に發達した原因も、神社の祭に連るものと私たちは信じて居る。

　紙と竹とで造つた提灯が普及してから、祭の夜の燈火が數多く又花やかになつたことは事實だが、それと共に火の光は廣い區域に分散して、やゝ中心がはつきりしなくもなつた。以前大きな篝の火を燃やして居たのは、必ず祭の式の行はれる場處、即ち神社社殿の正面であつて、ちやうど神と奉仕者たちとの饗宴の座から、すぐに眼の前に見られる廣場であつた。そこを昔から大前《おほまへ》とも又廣庭とも謂ひ、又漢語に譯して社頭とも呼んで居た。神をもてなし樂しましめ申す色々の演奏は、この庭上に筵を敷き、もしくは假の舞臺を作つて其上で行はれ、祭の式に直接携はらぬ多數の氏子たちは、殆と全家總出で其周圍に集まつて、それが翌朝まで續く場合にも、夜明しをして見物した。一年の最も大きな祭は、稻の收穫の全部を終つた後、冬も半ばの霜月に行はれるものが多かつた。霜がまつ白に置いて居たといふ樣な話も珍しくはなかつた。

　日中の競技も無論この同じ廣庭に於て行はれる。若い選手の友や家族は言ふに及ばず、是に代表せられる各組の住民の、力の入れ方は大へんなもので、興味の點からいふと、祭の中心は次第に建物の外へ移つて來た姿がある。年に一度の晴の催しの爲に、技藝の練習は進み、社會の風潮も一般に之を支持したので、是が住民子弟の修養、殊に體育(467)の上に及ぼした效果は大きく、祭はむしろ其機會であるかの如く、見られる傾きも無しとしなかつたが、なほ根本には昔ながらの信仰、即ち神に認められた者が勝つといふ考へ方のみは消えずに居た故に、爰に出場するほどの青年たちは、何れも平生の品行を慎しみ、又喜んで精進潔齋と稱する祭に先だつ嚴重な準備條件に服從して居た。それが後々場處を變へて行ふ風が盛んになるにつれて、いつの間にか段々と弛んで來たのである。

　

　　　　　　　　　　六

　

　外から日本の神社を觀ようとする人に、一ばん不審に思はれるであらうことは、祭場が時々神社から遠く離れた處へ移され、それも年中の最も大きな祭の日に限つてさうなることである。我々もまだ十分明瞭に説明することは出來ないが、現在でも言ひ得ることは三つ、其第一には、祭場の建物をもたぬ神社は多く、又新たにこれを設けた神社も少なからず、殊に美々しい行列を以て、日中に神をその祭場へ御迎へ申す儀式が、最初からのもので無かつたといふことである。行く／＼新たなる史學が證明しようとして居るのは、いはゆる御旅所《おたびしよ》即ち臨時祭場の古くからあるものは、實際それが元來の神社の地であつて、今日の神社の方は却つて支度所のやうなものであつたのを、後々祭以外の日の用途が多くなつて、先づこの方の建築を立派にした爲に、是が本宅の如く思はれるに至つたといふことゝ、次には祭場への神の來臨が、以前は夜間にごく少數の人の手を以て實現せられたのを、後々きらびやかな行粧《いでたち》を以て賑々しく行はれるやうになつたのは、中世の都市興隆に基く新しい文化であつて、其本質からいふと、是も一種の神態であり、即ち神態の場所の移動するものだつたといふこと等で、この推測は多分當つて居ると思ふ。

　祭の行列の最も目に立つものは神輿《みこし》と樂車《だんじり》又は踊屋臺などゝいふものであるが、前者は明らかに中世文化の産物であり、後者は又祭場の設備にたゞ荷ひ棒や卓を添へて移動の出來るやうにしたまでのもので、つまりは祭の行事の一部分を、路上の人々に見せんが爲に、引離して運びあるくだけである。しかも是が祭に對し、從つて又神社に對する(468)我々の概念を非常に變化させつゝあることは爭へない。

　しかもさういふ祭は實數に於て今でも決して多いもので無く、もちろん十萬余の神社が皆是をして居るわけで無い。算へることは六つかしいが、多分五十に一つも無いであらう。大多數の神社の例祭は食祭《くひまつり》とも謂つて、神社にさし上げるのと同一の食物を調理して、家々でも腹一ぱい、又親戚や友人も招き寄せて、休業の日を樂しむことである。

　主人や子供たちは始めから神社に集まつて居る。其他の人たちも病氣や穢れで無い限り、一人として御參りをせぬ者は無いのだが、建物が大きくないのでさう永くは居ることが出來ず、神を拜してからすぐに還つて來る。つまりは丸一日、今の言葉でいふと前日の夕方から、當日の夕方まで、大よそ二十四時間は村全體が祭なのである。神社で今どういふ事が行はれて居るかは、家に居る者も皆知つて居り、さうして又皆そればかりを考へてゐる。

　

　　　　　　　　　　七

　

　神社の建築物は、最近の六七十年間に全體に大きくなり、又極めて由來のはつきりとしたもの以外は、神殿の無い神社といふものは認められて居ないが、以前の小さな神社には幾らもそれが有つた。建築の樣式も次第に統一して行く傾向は見られるが、それでもまだ地方によつての異同は著しい。大體に日本の東半分は形が小さく、又拜殿と稱するものゝ無い例が多い。氏子は祭の日に何處に集まつて居るかといふと、現在は帳屋《ちやうや》又は長床《ながとこ》といふ長い建物を、別に片脇の方に常設して居るが、元は祭の度毎に假小屋を作り、もしくは幕を張り蓆を敷いて座を設けて居た。雨の降る日は困つたらうと思ふが、ともかくも祭は青空の下で行はれるのを、當り前として居た者が多かつたのである。拜殿といふのは改良であり、又京都あたりの大社の樣式の模倣であつて、是ならば大よそ二十人三十人の長老たちが、坐つて祭の式に參列することが出來るが、もしも村全體の人を、其希望に應じて皆收容しようとなると、よつぽど大きく造つても入り切れない。直接祭に參加する者と、たゞ拜禮をして還つて行く者とを分けることになるので、以前(469)はそれが可能であり、今日はもう行はれにくゝなつた。茲に新しい一つの問題が有るのである。

　神社の信仰に特別に熱心な人々は、今でもどの社にも必ず有るが、他の氏子の大多數は一般に冷淡で、たゞ祭の日の食べ物と催し物とを樂しみ、それによつてこの日を記憶するやうな傾きは段々と強くなつた。縣社以上の大きな神社の眞似をして、しかも小規模な拜殿を建てたといふことが、氏子を二分する結果になつたことも確かだけれども、原因はもとよりそればかりでは無い。中でも私たちが心付かずに居られぬことは、物忌即ち祭の準備行爲の衰微であつてこの變遷も書籍に之を説いたものは無く、たゞ現存のフオクロアの比較によつてのみ、知ることが出來るのである。たとへば全國飛び／＼にごく僅かな神社では、祭の日に先だつ一週間又は三四日、管内の民家の全部が物忌に入り、祭に奉仕するにふさはしい身體を作り上げようとする。最も重要なことは死の穢れ又は血の穢れから遠ざかることで、其條件に合はない死者の家族や女たちは分離せられる。次には耕作その他の日常作業の中止、大きな音響を立てるやうな行動をせぬこと等、慎しむべき項目は幾つかあつたが、何れも消極的の不行爲である故に、外から見た者には眼に立たぬのである。以前はこの期間がもつと長く、一箇月もつゞいて居たかと思はれるが經濟生活の進みはそれを不可能にし、日數は切詰められ又條件も寛大になつて行くらしく、その色々の段階に在るものが各地に見られる。新しい便法の一つとしては、少數の代表者を指定して其人に嚴しい物忌を守らしめることで、是にはもちろん悦んで其任に當らうとする者があり、組を組んで順番にこの義務に服する制度もあつた。一家の中では老いたる主婦などが之に任ずるのが普通で、それを代精進《だいしやうじん》と謂つて居た。しかし物忌を守る者と守らぬ者とが同居するのでは、この制限は十分に徹底し難く、勢ひ簡略になり勝ちであつたことは爭はれぬ。神職といふ專業有給の人を作つて、全部を是に托するやうに、なつて行くことは自然の成行きだつたとも言へる。

　

(470)　　　　　　　　　　八

　

　次に今一つの大きな變遷は、この齋戒の期間が極度に短縮せられた結果、是と祭そのものゝ儀式とが密着して、不可分になつてしまつたことである。祭の奉仕者が身を清めて、神に近づく資格を調へる爲には、以前には村の境にしるしの木を刺して、外部からの交通を制限するだけで十分だつたのが、後に一定の人に限るやうになつてから、特に他の者と別居する必要を生じて、籠り屋又は精進屋といふものを設けることになつた。オコモリといふのは本來はその小屋の中に閉ぢ籠つて、祭の準備をすることに他ならなかつたのだが、今日では其言葉の意味が變り、社殿に入つて神の御前に侍坐することをも、オコモリといふことになつて居る。祭が昔から前日の夕御饌の進獻に始まり、次の朝御饌の時に及ぶので、其間神樣の前に謹しんで居る心持が、恐らくは祭に先だつ物忌と似通ふものがあつたからであらう。

　祭に是といふ日中の行事の無い神社では、祭そのものだけをオコモリといふものが既に多くなつて居る。その御籠りは當然に夜のもので無ければならぬのだが、是も土地によつては婦女小兒が多く集まつて、晝間の祭をする場合が稀で無く、それだけは特に晝籠りと呼ぶことにして居る。晝籠りは主として春秋の好季節に行はれ、家々めい／＼に食物を携へて來て、始めに必ず其初穗を神に供へることは怠らぬが、みんなが集まつて食事をする樂しみはピクニックと異なるところは無い。村の青年たちが義務として夜の御籠りをして居る土地でも、現在は家々から蒲團を持つて行き話をしながら睡つてしまふことを、少しも不謹慎なことゝ思つて居ない處がある。神社の拜殿といふものは、斯ういふ事情からも段々と必要になつて來た。寒い地方には其周圍を板や土壁でかこひ、中に火鉢を置いて住居のやうにしたものも見かけられる。つまりは村内の信仰上の設備が、今は追々と神社に統一せられつゝあるのである。

　之に對して、古い時代に於ける神社は、たゞ祭の日に集まつて神を祭る爲に、別置せられて居た靈場だつたかと思(471)はれる。さうして一年中の祭の日は、もとは數少なく、後に囘數が多くなつたのである。參詣と稱して隨時に個人が拜みに來る風習も古いものでない。神靈が神社に常在したまふといふ考へ方は、僅かに例外があつたのみで、一般には行はれて居なかつた。それに又、爰より他には神を迎へて祭り申す場處は無いといふ事が、我々にとつては非常に大切だつたのである。

　祭の方式にさま／”＼の加除修正があつた如く、神についての我々の解釋も、永い歳月には少しづゝ變つて居る。日本の祭に祈?の分子が少なく、感謝報賽の意味のみ強く顯はれて居ることも私にはほゞ説明が出來るのだが、詳しく説く時間がこゝには無い。たゞ一言だけ言ひ添へるならば、祭は一年に一度又は二度だけの機會であつて、我々の信仰は常の日は村の中に、又は家の中に、又はめい／＼の心の中に生きて居た。人を祭の日に奉仕せしめるだけの準備は、實は平生から神社の外に於て行はれて居たのである。社會が進み協同體が複雜化するにつれて、外には障碍が多く、各人の生活は季節的の一致が期待し難くなつた。それで段々と一切の信仰行爲を、限られたる神社の境内に集注することになり、同時に一方には山の上又は森林の奧に在つた祭場が里に近く、又は市街の中にまじつてしまふことになつたのである。佛教が大きな一つの感化力であり、神社は是に接して次第に同化作用を受けたことは、否認することが出來ぬやうである。

　

(472)　　人を神に祀る風習

　

　　　　　　　序

　

　學徒は、一般に先生の説をまるごと信じようとする癖がある。その癖を直すためには、斯ういふ論文を彼等に殘して置くことが一つの手段ではないかと思ふ。

　この論文を書いたのは大正の末年で、その時には、勿論全部を信じ、これで十分と思つて書いたのだけれど、時を置いて再び見ると、若干修正を加へないとこの儘世の中へ殘して置けないやうな氣がする。俗な言葉で言へば、これは日本の神道を新たに研究しようと思ふ者にとつての一つの稽古臺である。これがまるつきり誤つた結論を持つて居れば、よくない事だが、今日とても、自分はこの方向に進み、唯々前提に二三足りなかつた事を認めるばかりである。

　例へば、神に祀るといふ一つの單純な一句でも、若しくは、もつと進んで、神といふ一語でも、これが三百年、四百年前と今日と同じ意味で使はれてゐなければ、實はその歴史は正確とは言へない。最近の大戰時代までの日本の神道では、尊敬、若しくは追慕・同情といつたものを以つて神を作り上げることが出來た。さういふ心持でならば、凡庸なる肉親でも神にしていゝかも知れないが、少し遡つて古い時代になると、日本人は神にもう一段(473)と強い、烈しい大きな力を認めてゐたのだから、以前は人を神に祀る風習が限定せられ、近世はそれが範圍を廣くして居ても、實は不思議はない。

　ところが、筆者はある一つの行掛りから、この文章に書いてあるやうな感じを抱いて居た。その點を何かの方法で訂正しなければ、この一文を永久の價値あるものとする事は出來ない。唯々先輩の聲高く叫んだ事を容易に批判しようとしない人々にとつては、進んでさういふ機會を附與する事も一種の貢獻であらうと思ふ。その意味で熟讀する事ある人を祈願しつゝ、敢へてこの本を刊行するのである。

　

　　　　　　　　　　一

　

　曾て我々の間に住み、我々と共に喜怒哀樂した人たちを、其死後一定の期間を過ぎ、若しくは一定の條件の下に、大よそ從來の方式に遵うて一社の神に齋ひ、祭り拜み且つ?るといふことが、近い頃までの日本民族の常の習はしであつたことは、之を認めない者は無いであらう。如何なる事情又は考へ方が、特に我々の國にばかり、斯ういふ信仰を發達せしめたものであるか。それは早晩必ず説明せられねばならぬ大切な問題である。

　是まで學者の此問題に臨まんとした態度は、二通りあつたが二つとも誤つて居た。其一つは近鄰のある民族の中から類似の習俗を見出して、傳來を尋ね關係を問ふべしとする者、他の一つは朝廷最古の記録に據つて、必ず其意味を説明し得と、豫斷してかゝる學風である。此等の人々が見落した一大事は、國民の信仰が國民の中で成長するといふことゝ、我々が此島に籠つてから、もう二千年以上になるといふことゝである。其上に諸處の盆地に分れて住む者の、久しきに亙つた宗教生活の異同は、今も昔もまだ一度として通覽し比較せられたことは無かつたのである。事實の採(474)集に怠慢であつたことは、恰かもその性急の結論を裏切られんことを恐れて、故意に之を避けたかの如き感をさへ與へる。故に新しい學問は、未來の有益な發見の準備の爲、先づ資料の集積と整頓とを心掛けねばならぬのである。

　自分などの考へて見た所では、今日の「人を神にする風習」の根原は、最初に外から持込まれたと認むべき證據が無いと同じく、それが民族固有のものだとする理由も亦、積極的に明確とは言はれない。單に外から入つたもので無いならば、元から在つたと見るべきだと謂ふに過ぎぬので、その「元から」といふのがいつの事かと訊ねられると、第一に之に答へることが容易で無い。例へば近き百年二百年の間に於てすらも、我々の心持は古くからの仕來りを守つて居ると信じつゝ、知らず識らずに其要素とも名づくべき部分を變改し増減して居た。しかも前に基く所が無かつたなら、後に突如として出現する機會も無かつたので、是を一續きの日本の神道の、本の姿とも眺められぬことは無い。たゞ異國人等の觀察に映じた今日の實?も、又最も精確と認められる上代の公記録も、共にそれのみを以て我々の信仰の特色を代表するものと言はれぬことは同じであつて、結局する所は其中間の黙々たる推移が、一番多くを説明せねばならぬことに歸著する。それを顧みなかつた今までの論辯が、概ね無用の勞苦であつたのも致し方は無いのである。

　古史を以て直ちに現在の信仰を解説することの、通例甚だしく無理なのも此爲であつた。永い年月の間に極めて徐々として、所謂人格崇敬の思想は養はれて來たのであるが、如何に熱心なる捜索を盡したとても、千年以前はさて置き、近き豐國大明神又は東照大權現の時代にすらも、大正の今日と一貫した日本人氣質とも謂ふべきものを、見出すことは困難であらう。勿論其變遷は自然であり事實であつて、且つ其價値批判は我々の任務で無いが、少なくとも古今の差を明らかにした後で無いと、どうして斯うあるかの斷定は下すことを得ないのである。

　死者を神として祀る慣行は、確かに今よりも昔の方が盛んであつた。しかしそれと同時に、今ではもう顧みない一種の制限が、つい近い頃までは全國的に認められて居た。支那で祠堂と謂ひ我々が御靈屋と名づけた一家專屬の私廟(475)は別として、弘く公共の祭を享け、祈願を聽容した社の神々の、人を祀るものと信ぜられる場合には、以前は特に幾つかの條件があつた。即ち年老いて自然の終りを遂げた人は、先づ第一に之にあづからなかつた。遺念餘執といふものが、死後に於てもなほ想像せられ、從つて?々タタリと稱する方式を以て、怒や喜の強い情を表示し得た人が、このあらたかな神〔六字傍点〕として祀られることになるのであつた。この二つの點は、之を立證することが大して困難で無い。第三の點も是から追々に證明して見ようとするのであるが、右の如く人から進み化したといふ神々には、日本精神の系統組織に於ては、比較的低い地位が與へられ、普通には別に之を統御すべく、一段と高い神が其上に在つたやうに思ふ。もし此假定が當つて居たならば、斯くの如き道程を經て次第に今日に至つた原因には、政治文藝はた外國の影響等、尚色々の意義ある文化史學の問題が潜んで居るかも知れぬ。自分が研究の半途にして、やゝ公表を急いだ動機も實は爰に存する。

　ついでに一言を費して置きたいのは、この人神考の一篇と、八幡信仰史との關係である。人を神に祭る風習は、八幡に起因すと認め難きは勿論、後代其風習の中堅を爲したのが、八幡であつたとも自分は考へて居らぬ。しかも終始宇佐男山其他國々の同社を目標として、此研究を進めることになつたのは、一つには過去一千年を通じ、日本に於ては此神の宣傳が最も有力であつて、假に其記録の豐富は一部に偏して居るとしても、文字以外の資料は全國の隅々まで行き渡り、從つて比較の間に?々貴重なる昔の生活の名殘を見出し得るからであり、それが亦多くは學界の公有として、衆人の等しく觀測し得る?態に在るからであつて、固より此方面の信仰に特に指摘し又批評すべきものがあることを意味しない。申す迄も無く我々の學問の中には、世の所謂淫祠とか邪神とかいふ考へ方の、入つて來るやうな餘地は無いのである。

　

(476)　　　　　　　　　　二

　

　八幡宮の祭神の公けに認定せられたのは、少なくとも平安朝の初期以前であつた（一）。それから今日に至るまで、東西本社の教義は曾て動いたことも無いのであつたが、なほ遠近の諸國に於て、若宮八幡の惡源太義平を祀り、新田八幡の新田義興を齋くとする類の舊傳の、信ぜられた例は絶えなかつた。江戸で言へば三田の綱八幡の如く、特に願主勸請者の名を牢記するものが、八幡に限つて多いやうに思はれるのも、事によると一度はそれを祭神とする口碑の存したのを、後日改訂した痕跡であるかも知れぬ（二）。而して何かの理由が隱れてあつたとすれば、其理由は一般的のものでなければならぬ。地方にも時代にも、特に偏つたる此慣習の中心らしいものを、見出すことが出來ぬからである。

　實例の檢討は之を各地の同志者に委ねたいが、爰には僅かに今心づいた二三のものを擧げて、私の意見の速斷で無いことを證する。東京の近くでは北多摩郡箱根ヶ崎の八幡社、街道の西に接し其傍に塚があつた。武田氏の遺臣加藤丹後守の靈を祀るといふ。村の圓福寺の所傳には、天正十年四月十二日、一族と共に爰に來て自殺したとあつて、甲冑大刀なども遺つて居た（三）。野州安蘇郡｜飛駒《ひこま》村貝澤の八幡は、時代がそれよりも遙かに古く、田原又太郎忠綱の靈を祀ると傳へられた。建久五年といふ年に攻められて討死したといふのである。白犬が鳴いて隱れ家を敵に知らせ、又山鳥の羽を矧いだ箭を以て射られたと謂つて、氏子は今以て此二物を忌むさうである（四）。

　新田八幡の類型は伊豫にもあつて、頗る此風習發生の事情を窺ひ察せしめる。其一つは上浮穴郡田渡村成組の新田八幡神社、是は新田義宗を祀ると傳へて居る。天文十六年の棟札があるから、同三年の創建と謂ふのも誤りではあるまいが、さうすると神が東國を遁れて此地方に下つてから、百四十年後になつて漸く祀つたことを意味する。色々の奇瑞はそれから後に却つて繁く、昔の事情も之につれて明らかになつた。例へば義宗は侘住居に於て痢病を煩ひ、小川の邊に水を飲みに出て、俄かに差重つて倒れ死すと謂ひ、そこにも墓形があつて別に小社がある（五）。是などは疑無(477)くもと神憑り人の口から聽いたことゝ思ふ。東宇和郡上宇和村野田の新田神社は、八幡では無く祇園社であるらしいが、祭神は新田義貞と其子義興義宗、同じく童子及び楠正成、之に八坂須佐之男命を合祀すと傳へて居る。文安二年といふから是も義宗の時より五十余年の後に、地頭の楠某松山某の二人、五將の靈を楠ヶ森に祀つたと謂ふ。楠正成は何か土地との因縁があつたかも知れぬが、五將の一人が童子であつたことは、五人の珍しい配列と共に、別に意味のあることゝ考へる。

　この中間年代の長さ短さといふことは、深き注意無しに看過することの出來ぬ點である。神靈矢口渡が、太平記の語るが如く、事件の直後に現はれた顯著なる不思議であつたら、何人もそれを義興の力と覺り得たであらうが、既に數十年を隔てゝ突如として祟を示したとすれば、別に夢の告げ又は物見る人の説明が無い以上は、之を畏れて祀ることも出來なかつたわけである。さうすると五人を組合せ又は童子の靈を加へ、乃至は神の名を新田とするに至つたのも、すべて其世の人の想像力に屬したことで、その基く所が當時の信仰又は經驗の何れかに在つたと見てよろしい。伊豫は大館氏の關係から、新田家を想ひ起す場合は多かつたでもあらうが、なほ今一つの動機としては新田といふ文字の響きも考の中に入れて見ねばならぬ。

　近年覆刻せられた球磨郡神社記を見ると、肥後の舊人吉領などは、殊に殺された人を八幡に祭つた例が多いが、それを新八幡と名づけたと見えて、西野久米多良木黒肥地等の諸村に各々此名の社がある。島津氏の領内に越えても同じ言ひ傳へは少なからず、其中では日置郡伊作村中原の大汝八幡社の如きは、屬社として別に新八幡の社あり、此地方で最も有名な近世の荒神、島津忠良の靈を祀つて居た（六）。肥前東松浦の佐志八幡なども、中央は宇佐宮左は鎌倉の御靈宮、右は新八幡宮と稱するが、單に佐志將監の建立といふのみで（七）來歴はまだ私には明らかでない。たゞ想像し得るのは祭る神が本宮とは別であつた故に、新といふ名稱が出來たといふことである。豐臣秀吉は死ぬ時に遺言して、我を新八幡と齋ふべしと命じたが、それは勅許なきに由つて、豐國大明神の祠號を稱したといふ説がある（八）。多分そ(478)れには何かの誤聞があつたので、人を新に祀つて之を八幡と謂ふことに、或は此時代頃から段々と、反對が多くなつて來たことを意味するのでは無からうかと思ふ。

　實際又八幡本社の威望の爲、是は不利なる慣習であつたに相違ないが、此頃から急に其不都合を感ずる者が出來て來たとすれば、以前には別に相當の解釋又は理由があつたのを、追々に忘却してしまつたものと見るの他は無い。何となれば元は所謂新八幡の實例が幾らでも諸國にあつて、それには殆と皆容易ならぬ由來談を伴うて居るからである。富士の裾野の厚原といふ村に、曾我の兄弟を崇祀した二社の八幡のあつたことは、後に詳しく説く積りである（九）。伊賀では依那具《いなぐ》の小泉八幡宮の如き、國守筒井定次小泉太郎左衛門なる者を殺して、彼が秘藏する名刀を奪つた處が、其靈祟を爲して怨ある者を取殺したのみか、途中で其亡魂に行逢ふ者は悉く病に罹つた。故に之を八幡に祀つたと傳へて居り、更に同國の愛田《えた》の八幡に至つては、江州飯道寺の岩本法印の弟子大藏といふ山伏、師匠に恨あつて祟を爲す故に神に祀ると謂ひ、社の祭日の十二月八日は、その大藏の死んだ日だと傳へて居た（一〇）。周防岩國の杉岡八幡といふのは、吉川氏の臣杉岡四郎左衛門の靈であつた。四郎左讒言に由つて戮せられ、亡靈生時の装をして處々を立廻り、行逢ふ男女を殺すこと數千に及んだと謂つて居る（一一）。信州下伊那の東南隅和田村の八幡樣は、昔遠山騷動といふ百姓一揆の時に、領主身内の者八人を殺し、其�詩ｰの怖れから、此神に祀ることになつたと謂ふのである（一二）。此等は大よそ時代も同じく、原因も　　　略々似て居るが、何れも單に八幡に祀るといふのみで、本來の大神との間に分界を立てゝ居らぬのは、恐らく本社の勢力圏内に於ては、恕し難きことであつたらう。其他の多くの場合には何か特別の名稱に由つて、是が新八幡なることを表示して差別を設けようとしたらしく、其方法の一番普通なるものは若宮八幡といふものであつた。

　　（一）　栗田博士の八幡神考には、應神天皇説の確認は、弘仁十四年の神功皇后配祀の時を期とすべしと謂ひ、國史大辭典なども之に從うて居る。

(479)　　（二）　江戸名所記五、田町八幡正保中三田より移す。渡邊綱を神にいはふといへり。宇治の離宮八幡も忠文を神にいはひける社なり。今もかやうのためしなるべし云々。頼朝勸請といふ八幡の多いのも、武相の間ならばさもと聞えるが、近江などにさへ其例が多い。誤解の原因は別にあるらしく私は考へて居る。

　　（三）　新篇武藏國風土記稿四〇。一説には初鹿野氏ともいふ。其子孫今上目黒に住すとある。

　　（四）　下野神社沿革誌二。神が目を射られたといふ話の一例である。

　　（五）　伊豫温故録、次の條も同じ。

　　（六）　薩隅日地理纂考一三。

　　（七）　松浦昔鑑。鎌倉の御靈宮も新八幡の一種であつたらしいこと、それが人神考の論點の一つである。

　　（八）　何に出て居るかを知らぬが、前出地理纂考の一一。坊津近衛屋敷の條に、谷川土清曰くとして引用してある。

　　（九）　温故隨筆などにも其記事がある。富士郡鷹岳村厚原字樋詰。

　　（一〇）　伊水温故に出づ。前者は今の多賀郡依那古村の大字、後者は阿山郡西拓植村の一部落である。現在の信仰　　　状態を尋ねて見たいと思ふ。

　　（一一）　陰�ｺ太平記かと思ふ。上の二件と共に東洋口碑大全の中に掲げてある。

　　（一二）　「傳説の下伊那」。

　

　　　　　　　　　　三

　

　人の靈を新八幡に祀つた例は、所謂戰國時代が最も盛んなやうであるが、其前後に於ても勇士は多く殺され、憤り祟を爲し後に亦神に祭られたことは一つであつた。それがもし八幡と呼ばなかつたとすれば、如何なる名を以て之に仕へたかといふことを、此次には考へて置かなければならぬ。古くして最も有名なるものは、特に此場合に自分が指摘することを要しないが、鎌倉大草紙には應永二十九年の十月三日、佐竹上總入道家督の事について御不審を蒙り、比企谷《ひきがやつ》に引籠つて居たのを、上杉淡路守憲直に仰せ付けられ、成敗の爲に發向す。佐竹も打つて出でゝ防戰し終に叶はずして法華堂に入つて自害して失せぬ。其靈祟を爲しける間、一社の神に祭りけるとある（一）。それは遺跡が既に不(480)明に歸して居るが、少なくとも八幡で無かつたことだけは、想像してよい理由がある。梶原平三景時の一門が、駿河の狐ヶ崎で殺されて後に、久しく怨恨の消散しなかつたことは、今尚土地の人の語り傳ふる所であるが、菴原郡｜大内《おふち》の龍泉寺境内には、梶原堂なるものがあつて彼等の靈を祀り、毘沙門天を安置してあつた。ある人は曰く、勇士の祟あるを毘沙門天に祀る例があると。黒川春村は此説に裏書して、頼朝の爲に殺された安田遠江守義定、後に祟を現じて之を毘沙門に祀つたことが、亦鎌倉大草紙に見えて居る。現に甲州山梨郡、藤木の放光寺に在る尊像が即ち是であると謂つて居る（二）。相州三浦郡の大矢部では、衣笠城を守つて討死した三浦大介義明の靈を祀ると謂ひ、現存の神像を運慶作と傳ふるのは、建暦二年和田義盛建立の説と共に、頗る信用し難い社傳ではあるが、兎に角に其社の名を古來御靈神社と稱へて居ただけは事實である（三）。

　或は又天神と名づけたものもあつた。例へば常陸多賀郡折笠の三郎天神は、今では天滿宮の一つに算へられて居るが、もと石河次郎家幹の三男、三郎秀幹を祀る故に此名があると謂つた。他の一説には山直の城主小野崎氏、代々此社社頭に於て元服し、通稱を三郎といふ故にとも解して居るやうだが（四）、それでは愈々最初の事情が想像しにくい。對馬では豐崎郷高崎濱の高崎大明神といふのが、宗能登守盛弘の靈を祭つて居た。宗氏の系圖を見ると盛弘は讃岐守義盛の子、永享七年の四月始に、父の命を受けて朝鮮に出陣し、最後に熊川城下の敗軍に於て戰死をした。時に齡三十一。同じ年の六月には其靈が早故郷の島に現はれたので、村民等此社を經營したと記して在る。即ち多くの古來の例と同じく、神顯祀の地名を以て社に名づけたものであつたので、此等の場合だけは信仰の變化に伴なうて、段々に傳説を改めて行くことが出來たわけである。

　近世に入つてからの最も著しい特色は、神號付與の沙汰と、靈神靈社といふ名稱であつた。初期の人神には先づ靈神の號を用ゐしめ、次々に高い格式に進めて行つたやうであるが、其慣例と以前の新八幡、乃至は若宮今宮などゝいふ考へ方との間に、何か隱れたる脈絡は無かつたのであらうか。關東の宗五靈神と對立して、西で一番に有名なる伊(481)豫の和靈さまなどは、創建以來實に頻繁なる改稱があつて、今では其來歴を尋ねることも容易の業では無くなつたが、最初はやはり簡單なる靈社であり、其類例ならば附近に幾らもあつた。要するに天壽を全うせず、化けてゞも出ようかといふ人は殆と皆祀られたので、それが遠近の信仰を集めて、他日大いに興隆すると否とは、又別の問題であつた。豐後玖珠郡八幡村太田に吾清靈社と稱へて居た社などは、至つて新しい記憶である。祭神は村上隼人四藤與三右衛門其他で、此二人の兄弟は久留島家の家臣であつた。寶暦六年の十月二十六日、讒言に基いて死を賜はり、爾後祟を爲すによつて此社を造營したのが、それから四十七年目の享和二年であつた。然るに奇瑞は此を以て終つたものか。其儘今日に及んで終に附近の天神社などゝ合祀されてしまつた（五）。

　此等に比べると伊豫の和靈神社の祭神の如きは、極めて花々しい死後の生活であつた。しかも其信仰を今日の?態まで、發達せしめた原因に至つては、山家《やんべ》清兵衛公頼の傳記と、之に關する伊達家の舊記類だけでは説明し難きものが多かつた（六）。例へば山家氏の母妻もしくは娘が、深山に隱れて山姥となつた、仙人になつて永く生きて居たといふ話などは、今日の本社の些しも顧みようとせぬ點ではあるが、それは此地方の御靈信仰の注意すべき一特色であり、同時に此神の民間流傳の隱れたる要件でもあつた。後々此點を今少し考へて見ないと、伊豫の一隅ばかりに類似の信仰の異常に盛んであつた理由を、見出すことが難からうと思ふ（七）。

　山家清兵衛は宇和島藩の附家老で、新封當時の動搖の際に、政敵の陷るゝ所となつて戮せられた人である。それが元和六年の六月三日、彼の歳は四十二であつた。それから京都の吉田家に請求して、御靈の神主等を喚び迎へ、山頼和靈神社の名を以て檜皮森に造營したのが、三十三年目の承應二年であつたといふが、其以前既に色々の不思議があつて、其靈を和める爲に城北森安荒神社の境内に祠を建て、兒玉明神と私稱して四方來り詣づる者が多かつたさうである（八）。不思議といふのは?々人に憑いたこと、及び反對派の多數が集まつて彼の亡魂の爲に法事頓寫を營んで居る際に、不意に客殿が倒れて死んだ者の少なくなかつたことなどで、或は之に先だつて四十位の男子が姿を現じ、僧た(482)ちを遁げ去らしめたなどゝも謂つて居る。地震雷鳴等の天變が頻りであつたといふ點も、天滿天神の場合とよく似て居る。たゞ一つの決しかねる問題は、伊達遠江守の子孫、數代引續いて早世したのは、悉く彼の祟といふ説と、清兵衛は在りし日の淺黄の上下姿で?々君公のまぼろしに現はれ、其忠魂は常に厄難を未然に告げたといふ説とが、よい程に調和して久しく併存して居たことであるが（九）、是とても北野の前例が語る如くに、必ずしも時過ぎて次第に畏怖が景慕の情に改まつて行つたので無く、實は最初から靈の力の積極的にも働くことを認めなかつたら、單に後悔と謝罪との祭では、一般の信者を引付けることは出來なかつたので、一見矛盾の感ある怨と好意、罰と恩惠との二つの作用も、神威の強烈を讃歎する者の前には、不可分であつたかと思はれる。尤もさういふ中にも新たなる神は荒く猛く、いよ／＼其力が認められると、次第々々に平和の�ｺを發揮して、後には富貴安樂子孫繁昌といふが如き、個人の祈願さへ掛けられるやうになるのだが、それは何れの社にも共通なる信仰進化の樣式の如きものであつた。即ち住民の崇敬が至り極まれば、神の憤怒の如きは昔話として僅かに傳ふるの外、又之を經驗する場合も無く、靜かにして且つ氣高く慈悲深い方面ばかりが日に／＼感ぜられて、終には若干の平凡化を免れず、從つて又何か第二の異常なる出來事が、新しい衝動をもたらすやうな形勢を養ふことにもなるのである。

　ところがこの和靈樣に限つて、如何なる事情に基いたものか、初期の若々しい信仰?態が珍しく永く續いた。山家氏死後の百二十年間に、社地を移すこと前後三度、承應二年の靈神の名を改め、元禄十三年には明神號が付與せられ、更に享保十三年には大明神となつた。其都度大祭が行はれ奇瑞は頻發して、新たに人心を刺戟したことも想像に難からず、指を全國に屈すべき現在の隆盛も、此に負ふ所多かつたかと思はれる。或は地方に取つては幸福でも無かつた大小の事變が、やゝ忘れようとする頃に繰返して記憶を喚起したのかも知れぬが、一つには土地の人々が他國に比べて此點に敏感であり、災害に對する不安を、御靈の祭に由つて脱却しようとする念慮が強かつたのでは無いか。もしさうだつたとすれば、僅かな期間を隔てゝ順次に神を新たにして行く宗教行事なども、或は亦古い慣習の偶然なる再(483)現であつたかも知れぬ。其想像の必ずしも空漠たるもので無い證據は、伊豫には古來の若宮靈社、即ち非業の死を遂げた人を、神に祀つた例が多い上に、和靈大明神以後にも、尚その附近に幾つかの同じ企てが行はれた。たとへば此郡立間尻浦の八魂神社は即ち其一である。吉田藩の中臣某々等八人、家老山田忠左衛門が奸を知つて居た爲に、山田に誣告せられて八人ながら腹を切り、死後祟を爲して此神に祭られた。是は年代はまだ知らぬが、山家清兵衛より後の事には相違ない。尚その吉田の町には繼明神社と稱して、家老安藤儀太夫繼明の靈を祀つた社もある。是は寛政年間の百姓一揆の時のことであつた。亂民が進んで宇和島の本藩に直訴せんとし、既に柿原滿間二川の出合まで押出したのを安藤一人で之を堤の上に遮り止め、彼等の面前で腹を切つて死んだ。一揆の徒は之を見て自然に退散したといふことで、其感動の非常であつたことは察せられる。しかも此社の建立は約八十年を隔てた明治五年の官許であると謂へば、果して單純古風なる民間の信仰に據つたものと、言ひ得るや否やはやゝ疑はしい。殊に今一つの例なる宇和島櫻町の萩森神社に至つては、明瞭に其動機は不純であり、全く和靈神社の繁盛を羨んで、幾分其利を分たんとした計略とも認められて居る。此社の祭神とする萩森蔀廣綱は、至つて何でも無い普通の士であつたが、ある夜先祖が其夢に現はれて、家老の稻井甚大左衛門を殺せば國の政治がよくなると教へたと謂つて、拔身の槍を揮つて其家に打入り、忽ち取押へられて三十六歳で切腹を命ぜられた。それは文化十年二月九日の事であつたが、六十六年を經過した明治十二年の四月に、所謂運動をして建社の許可を得たのである。ところが少しも參詣人が無く、やがて其社を借金のかたに入れて、流してしまつた結末になつた（一〇）。どうして其樣な無茶な計畫をしたかと、今から見れば滑稽にも感ぜられるが、實は其前々からこの萩森蔀の墓に、窃かに參詣して何事かの祈願をする者があつたからで、東京邊では鼠小僧の墓石をかきに行く者があるやうに、たゞ通例で無い死に方をしたといふだけの事實を、何か重々しく考へる氣風が、此場合にもやはり暗々裡に人の心を導いて居たのであつた。

　　（一）　後鑑一三四、此日の條に引用して居る。

(484)　　（二）　駿河志料四九に依る。大内村は今の庵原郡高部村の大字。

　　（三）　新篇相模國風土記稿一一三。大矢部は衣笠村の内で、古城址に近い。

　　（四）　北野誌首卷附録一三三頁。折笠は今の豊浦町の大字。山直城址も同じ町大字友部に在る。

　　（五）　同上六四三頁。

　　（六）近年門多重男君の書いた山家公頼傳は最も詳しいが、それは寧ろ古來の諸説の甚だ區々たることを示すだけのものであつた。殊に民間の雜説をあまりに警戒すると、いよ／＼事情が不可解に當るといふ懸念は、此書を見る者の第一の所感である。

　　（七）　鬼王團三郎の兄弟が仙人となつて伊豫の山中に住んで居るといふ話と、必ず關係があらうと自分は思つて居る。

　　（八）　伊豫温故録に依る。著者宮脇氏は宇和の一隅に生まれた人だが、久しく松山の附近に居て南の方の事は詳しくなかつた。其代りにはあまり穿鑿の説を試みず、主として當時の普通の俗説を採用して居るかと思ふ。

　　（九）　虎岩遺説の燈前新話の外に、觀惠交話上卷を參照した。前者には最初の神號を荒御魂大明神と記して居る。

　　（一〇）　以上三件とも伊豫温故録。

　

　　　　　　　　　　四

　

　人を祀ると傳ふる社の名を、若宮と稱する例は諸國に最も多いが、未だ其理由を考へて見た者は無かつた。伊豫でも北宇和郡岩松村町東の若宮神社は、津島彌三郎の臣土居勘助の靈をまつると傳へ、温泉郡久枝村安城寺の若宮靈社は、河野氏滅亡の時此地に戰死した大内通廣を祭神として居た。此慣例は果して古いものであらうか。若宮といふからには、別に何れかに本宮がなければならぬやうにも思はれるが、今では右の如く獨立をして、信仰の系統を知り難いものが頗る多い。次々に類似の例を比べて見るより他は無いのである。

　或は若宮といふ神の古くからの性質に由つて、單にたゝる神もしくは人に憑く神なるが故に、さう名づけたとも見られぬことは無い。もし此想像の如くんば、後代何れの社とも關係せずに、若宮の社が出來る場合もあつたかも知れぬ。備前邑久郡今城村大富の若宮神社などは、傍に高さ五尺の古い五輪塔があつて、之を大富太郎幸範の墓と傳へて(485)居る（一）。もし地名に依つて手輕にさう斷定したのでなければ、此人は建武年間に兒島範長と共に、播州で戰死をした人だから、爰を其墓所と知る爲には、やはり啓示が必要であつたわけである。肥後人吉の梅花町に在る若宮神社は、謀叛の企てが露顯して自殺した菊池某といふ者夫婦の靈を齋ふと謂ひ、社の前に古塚があつて、慶長の頃まで盆には此上に燈籠を點じた。今も祭の日は紅粉と金剛草履を供へるので（二）そこで夫婦の靈といふのかも知らぬが、斯ういふ特殊の祭典は、祭神の希望に從ふのが普通であるから、是亦曾て託言を聽いたのであらう。

　信州下伊那郡の下條村坂部には、稍々奇拔なる口碑を持つた若宮八王寺の社があつた。祭神は永享三年に此地に流寓して、山中の瀧に身を投げて死んだ、藏原豐若丸といふ人であつた。不思議の南京茶碗を持つて居た。之に水を盛るときは夏は氷となり冬は湯となつた。新野の村民と向方村の者とが、之を奪はんとして追ひ落したなどゝ傳へて居る。熊谷某といふ者遺骸を葬つて之を神に祀り、少し水ある地に其茶碗を埋めて祈願した處、忽ち結構なる泉となつたので、之を南京清水と名づくとある（三）。御神體は鯉を手に持つ像と謂ふのは珍しく、一人の神を八王子と稱したのも解し兼ねるが、後に諏訪大明神の社地に其若宮を移すと謂ひ、曾ては諏訪にも若宮の信仰は盛んであつたらしいから、是などは其系統に屬した水の神の神話とも考へられる。自分などの小さい頃には「無いもの呉れの孫八」といふ諺があつて、孫八は手にをへぬ無法者の名のやうに考へて居たが、阿波には其孫八を殺して若宮に祀つた話が傳はつて居る。それは鹿喰將監とも稱して、鹿の肉を食ふ穢を免す爲に箸を出すといふ家筋であつて、即ち亦諏訪の神人であつた。孫八は其將監の嫡子であるが、大力にして兇暴此上も無い故に、二僕に命じて海に誘ひ出して殺させた。其屍淡路の沼島浦に漂著して其地大いに荒れ、阿波へ引取ると阿波の海が又荒れた。そこで其靈を鎭守福島四所明神の地内に、若宮明神として祭つたといふのである（四）。此四所明神の諏訪であつたことは、恐らく鹿喰將監の由緒から證明し得ると思ふ。同じ慣習の最も盛んであつた九州南部で、永禄五年に大隅市成郷の舊領主、山田安藝忠豐父子の靈を祀つたといふ若宮神社が、諏訪原と稱する地に在つた（五）のもそれが決して八幡の信仰だけに、專屬しては居なかつ(486)たことを語るものであらうと思ふ。

　若宮八幡の神名が古くから、國々に行はれて居たことは疑無き事實である。たゞ我々が問題とするのは、いつ頃から又如何なる事情で、此が和靈の思想と結合するに至つたかといふことである。色々の方面から次々に考へて行かねはならぬが、その一つの點は全體八幡の信仰が特に他の神々に立優れて、斯く容易に都鄙を風靡し得た長處は、何れに在つたかといふことで、是には武門殊に源氏の繁榮を説くのが、今までの歴史家の常であつたことは知つて居るが、それだけでは男山鶴ヶ岡の大きくなつた理由にはなつても、山の奧海の果の村々にまで、競うて之を勸請した動機の説明として十分で無い。祭る以上は神職が無くてはならず、中央の大社に之を養成し供給する機關があつたことは、少なくとも記録の中からは更に見出されて居ない。即ち普及の結果のみは認められても、分布の道程はまだちつとも明らかになつて居らぬのである。故に何とかして人の要素を考察して見る必要があるわけだが、其仕事はまだ一向に進まぬ前に、神に仕へた家々は零落して、多くの舊傳を喪失した。

　そこで自分の想像して居る如く、八幡神社の今日の如く盛んな分布には、或は怨靈の統御といふ信仰が一大原因を爲したのでは無いか否か。それを確かむべく、諸國の切れ／”＼の資料までが、至つて大切なものになるのである。大和吉野郡宗檜村では、いつの頃の事かは知らず、小野八郎七郎の兄弟の郷士が、宗川檜川各半郷の旗頭として茄子原の村に住んで人民を虐げて居た。其患を遁れんとする人々謀を横へ、獵に事よせて之を山中に誘ひ殺し、且つ妻子を其宅に攻め殺したら、後に�詩ｰ郷民を驚かし煩はすこと止まず、仍て立川渡と云ふ地に兄弟の者を祀り、若宮八幡宮と號すといふ（六）。此事件の史實に合すると否とは、必ずしも自分が究めんと欲する所で無い。それよりも他日の比較の爲に留意するのは、殺されたといふのが八郎七郎の兄弟なることゝ、其家名が小野であつたことである（七）。

　紀州和歌山に近い平田莊北野村の産土神は若宮八幡宮であるが、祭日は九月二十三日で他の同社の例と反し、村の土井某の系圖には舊領主土井家の祖を祀るといひ、九月二十三日は其人の忌日だと記してある故に、續風土記の編者(487)は想像を進めて、多分最初は只若宮とのみ謂つたのを、後誤つて八幡の二字を添へて呼ぶやうになつたのだらうと説いて居る（八）。是非ともさう解するには及ばぬかと思ふが、少なくとも人を祀る社が若宮と名づけられ、若宮には八幡が多かつたことだけは認められる。即ち亦國々の所謂若宮が、往々にして八幡に歸屬すべき傾きを有したことを、推測せしめる根據にもなるので、其類例の全數を擧げて、單なる口拍子の轉訛と目することの、不可能なる所以でもある。

　土佐は近世に入つてから後も、誠に刃傷沙汰の多い國であつた。從つて怨靈を神に祀つた若宮は稀有で無い。其例の一つは阿波に境した甲ノ浦の河内部落に、郷士富永伊職安青年四十六歳、寛永十年の正月二十九日に、澤三之亟なる者を白濱橋の上に斬つて自殺したのを、後年神に崇めたといふ若宮神社が、鎭守八幡宮の境内社としてあつた（九）。境内社又は末社と謂ふ小祠の起源は考へて見なければならぬが、斯ういふ社が別に一地に獨立した場合、又は本社と社殿を同じくした場合に、共に之を若宮八幡と呼ぶことは自然である。要は何故に八幡社に限つて、斯うして次々に若宮を附祭する慣例が盛んであつたかを、問題として見るべきではなからうか。島津氏舊領の隅々などを捜して見ると、八幡は寧ろ若宮監督の必要から、之を勸請するに至つたかと思ふ例もある。中にも天草群島の南に連なる東長島の多くの部落で、今も熱心に祭つて居る所の島津常陸守忠兼の靈社の如きは、神の憤怒殊に甚だしく、祈願百方すれども靜まらず、惡疫?々行はれて島民怖畏の念最も切であつた故に、幾度か社地を換へ又神號を改めて見たやうである（一〇）。忠兼は出水の城主島津實久の弟、兵法に通じ武勇精忠の士であつたのを、兄の子なる義虎讒言を信じて欺き招いて之を殺した。既にして其祟甚だしく、殿も家老も途方に暮れた結果、島ばかりか野田の新城の内にも之を祀つて、乃ち若宮八幡と名づけ、例祭は其忌日の七月八日であつた（一一）。又伊佐郡牛山郷の若宮八幡神社なども、享禄二年の九月三日に、鷹狩に出て菱刈氏の爲に討たれたといふ島津明久、年僅かに十六歳の青年武將を祀つたものだが、最初はたゞ西原の八幡社に其父忠明と合祭して置いたのを、後に頻々たる靈異が現はれたので、五十六年も經つてから新(488)に戰死の地に別に此社を建てたと傳へて居る（一二）。さうして見れば少なくとも此地方などでは、所謂若宮は特に八幡の若宮とすることを、適切と考へるやうな信仰がまだ此頃までは有つたかも知れぬのである。

　　（一）　邑久郡誌第三編。

　　（二）　球磨郡神社記。

　　（三）　伊那郡神社佛閣記。

　　（四）　阿州奇事雜話三などに見ゆ。

　　（五）　薩隅日地理纂考一八。

　　（六）　吉野名勝誌に、吉野舊事記を引用し、小野兄弟の持ちし旗、平雄の�ｺ善寺に在り云々とも記して居る。但し舊事記には心元ない話が多い。單にさういふ説もあつたといふ迄の證據である。

　　（七）　信仰の宣傳に、五つか六つかの特殊の移動家族が參與して居たかと思ふことは、久しい前からの自分のテーマである。就中小野といふ家が、此方面に於ては最も華かなる歴史を持つて居るらしいことは、大正八年刊行の小者「神を助けた話」に其一端を述べてある。人神考に於ても機會を見つけて稍々之を敷衍しようと企てゝ居る。阿波の祖谷山に殘つた小野姥の口碑の如きは、吉野山の場合と比較して見る爲に、殊に採録の必要があるかと思ふ。

　　（八）　紀伊國續風土記九。多分今の海草郡紀伊村大字北野。

　　（九）　明治神社誌料に南路志を引いて記してある。實事であつたらうと思ふ。

　　（一〇）　近年刊行の出水風土記に詳しく出て居る。祭禮の七月八日には盛んな踊がある。

　　（一一）　薩隅日地理纂考九。薩摩出水郡野田村大字上名の忠兼靈社の條。

　　（一二）　同上八。伊佐郡大口村大字目丸。

　

　　　　　　　　　　五

　

　右申す如き殺伐なる若宮八幡の信仰を、宇佐男山鶴ヶ岡等の大社が、果してどの程度にまで容認して居たかは、興味ある問題の一つである。近年に入つてからこそ石清水北野等に、全國の同社を糾合せんとする運動もやゝ始まつたが、以前は其方法は殆と具はらず、如何なる教義の不統一も、恐らく信徒の承伏不承伏以外に、之を匡正する途は無(489)かつたかと思ふが、それにしては區々相容れざる各社の社傳祭式を一貫して、遠近共通なる條項が案外に多かつたばかりか、中央の本社の是と一致した點も、亦少なくはなかつたのである。

　例へば若宮と名づくる境内社の幾つもあつたことは、獨り八幡のみに限つたことで無いが、殊に宇佐男山に於て古くから顯著であつた。勿論其由來に關しては別の説明があつたのだが、一半は所謂神秘に屬し、今日に至るまで曾て精確には知れて居なかつた。神道名目類聚抄卷四の「若宮」の條に、此號あまた心得あること也。或は本宮御子の神を祭りて若宮と稱す。例へば石清水八幡宮に若宮と稱するは仁�ｺ天皇、水若宮と稱するは宇治皇子なり。本宮應神天皇にてまします故なり。又勸請して其社號を若宮と稱することあり。若宮八幡宮の類是なり。新たに爰に祭るの名にして、本宮に對して新宮の義なり。又和州春日の若宮は、一社の深秘にして神主一人相承し、他人之を知ること無し。又三輪社若宮は大田田根子命、梅宮の若宮は橘諸兄公なり。此類心得あること也。其處に求めて識得すべしとある。是が今以て學界の通説と名づくべきものらしいのは（一）、少しく心元無い話と言はねばならぬ。

　一つの言葉に最初から、さう色々の丸で違つた意味がある道理は無い。必ず何れかゞ誤解を傳へたか、然らざれば結局は同じ事に歸すべき筈である。近世の社人たちは、或は八幡の若宮と若宮八幡とを別々に考へて居たらしく、後者に於てはなほ祭神を應神天皇とする故に、名目抄の如き説も起つたのであらうが、それは全くの思ひ違ひで、若宮を冠する以上はやはり御親神と共に、御子神を合せ祀つたのであつて（二）、それが又此神勸請の定まつた方式であり、其故に又若宮と謂へば新宮を意味することにもなつたことゝ思ふ。鎌倉鶴ヶ岡の八幡の如きも、建久二年十一月に男山から勸請する以前、既に久しい間同じ地に若宮八幡があつた。或は一方は源頼義の私祭なるが故に、別宮の義にて若宮と稱し、建久二年の勸請は勅許なれば、直ちに八幡宮と號したのだと説明する者もあつたといふが（三）、勅許といふのが信じ難い上に、其後も相變らず二社併存して居たのを見れば（四）、此若宮も八幡本宮とは別の神を祀るもの、即ち本社に於ける若宮と、同じであつたと見ても差支は無い。

(490)　しかも若宮といふ語は又王子をも意味するから、主神の御子とする解釋には根據がある。男山では現在本殿の右後の隅に、若宮と稱する攝社が三つ立つて居り、後のを若宮、右を水若宮、其中間を特に若宮殿と呼んで居る。若宮殿の祭神には諸説あり、所謂神秘の最も究め難きものである。石清水尋源抄には仁�ｺ天皇の荒魂和魂、一宮にして二宮とあり、男山考古録には神功皇后の和魂と謂ひ、明治に入つてからは又祭神は應神天皇女とも報告せられたが、是はもと今一社姫若宮の社があつて廢絶したのを混同したものらしいといふことである（五）。以前は此外にも尚若干の若宮があつたが、然らざれば今日の如く其祭神を歴史と合致せしめようとはしなかつた。例へば宮寺縁寺抄　　一末などに、荒若宮和若宮などゝ謂ひ、末社記に龍宮御腹御誕生の御童形、一宇の神殿に二所御座云々とあるのが、今仁�ｺ天皇を祭るといふ若宮のことらしく、別に若宮殿の祭神を若宮と御一腹の御妹と稱して、同じく一殿に二柱を祀ると傳へて居た。即ち古人が既に難物と認めた阿蘇縁起、乃至は八幡愚童訓等の所傳を消化して、「龍女の婚姻」が何を意味したかを知らなければ、到底明らかにし得ない昔の信仰である。

　諸社根元記の時代までは、或は八幡も祇園の天王と同じやうに、八王子の信仰を説く者がまだあつたらしく、大葉枝小葉枝の二皇子、隼總別皇子と雌皇女の御四人を編入して、強ひて其數に充てようとして居るが、他の半數はやはり我々の解釋に苦しむ所の、若宮若姫宇禮久禮の四柱であつた。即ち單に若宮が神の御子を意味して居たことを知るのみで、何故に當初之を卷屬神として附祭するに至つたかを説明することは出來ぬのである。たゞ今日に於て自分等が推測し得る所は、宇佐でも筥崎でも又恐らくは男山でも、よほど久しい前から若宮は四所であり、それが　　　各々二柱の男女神であつたのを、所謂龍宮御腹の餘りに荒唐なる舊傳が疎んぜられて、次第に今日の如く仁�ｺ天皇稚郎子皇子といふが如き、男宮のみを説くやうになつたものかと思ふ（六）。宇佐本社では上古神主の大神蘊麿が、御託宣に依つて造り顯はし奉るといふ五?の若宮御正體を傳へ、既に鎌倉初期に成る所の詳細なる記述が殘つて居る。但し五體の内の一つは大宮北辰とかの混入であり、御供は御四體に向つて四膳を上げるのみであつたが、其中の二つは正しく女性(491)であり、且つ御姿勢が昔の信仰の何物かを語るやうであつた（七）。即ち第一の御正體は唐裳唐衣青色帽子、装束は皆白色、左右の膝地に著きて坐し、兩手を胸に留めたまふ形、第四の御正體は打懸を著け、左の片膝を立てゝ兩手を以て其御膝を抱へたまふとある。他の三像は即ち男性であるが、第二は聖人の御體、第三は甲を著け毘沙門天の如き形像、第五は童子の御姿とあつて、何れが本來の若宮であつたかを知り難いが、兎に角に夫婦の御神では無かつた。

　現在の?態では、勿論まだ此方面から多くの證據を見付ることは望まれぬが、少なくとも神功皇后の御母子を、八幡の祭神とすることに一致した後までも、まだ仁�ｺ天皇菟道皇子を以て、若宮の神とは考へない時代が續いたので、さ程に容易なる歴史上の推理をさへ妨げたものは、或は古く傳はつた神話と、それに基いた祭式などで無かつたであらうか。例に引くには十分に適切でないが、差當り此他には似合はしいのを心付かぬから是非が無い。野州下都賀郡の野木宮は、奧州街道に臨み國堺に近く、最も往來の旅人に知られた社だが、現在の公記録に報告せられた祭神は、正殿が菟道稚郎子命、左が息長足姫命譽田別命、右が宗像三女神で、形式は正しく若宮八幡であつた。しかも正殿の王子を今の如く謂ふことは、恐らく明治以後で且つ村民等の與り知らぬことであつた。本社の西南八町ほどの處に一所の靈迹あつて之を臺手函と稱し、其王子を葬るの地と傳へて居た。其他にも兒子ヶ池馬見塚等の遺跡に、王子に關聯した口碑があり、祭禮は舊二月二十八日、御鉾巡遊の神事は頗る越後古志郡などの王神の祭とよく似て居た（八）。土地の故老に尋ねて見たいのは、此若宮の以前の御名が、和氣王子では無かつたかといふことである。和氣王子は取りも直さず若王子であつたことゝ思ふが、此地方には往々にして其口碑がある。例へば足利郡上羽田の八幡宮、天慶五年に秀郷の勸請すと傳ふるもの、社後に道場塚といふがあつて兵器を此に埋め、社は元其上に祭つてあつた。和氣王子といふ人が神子として宮仕へし、後に京師に還つたので佐野家が之を嗣いだと謂つて居る。關東諸國の八幡の一つの特色は、右の二つの例と同じく、塚があつて何か祟のあつたものを埋めたやうに傳説するものゝ多いことである。矢口の新田八幡よりもまだ東京に近く、八幡塚村の八幡社にも、向つて右手の林の中に八幡塚があつた。神三座の内(492)一座殊に荒神にて土人?々其祟を受けた故に、衆議の末神體を毀ち此土中に埋めたと謂つて居た（九）。祭日の八月十五日は後六月に改められ、注意すべき儀式があつた。隣部落の雜色との堺には、なほ装束塚といふものもあつた。是は右にいふ御神體を毀つた際に、其装束だけを埋めたと傳へて居る。それから同じ荏原郡新宿の八幡社にも、やはり社地に入つて右手に古塚あり、以前は四本の老松あつて注連を引いて居た。昔何物か神靈なるものを埋めたと稱して、葦毛の馬に乘つて塚の邊を通れば必ず落馬すると畏れて居た。北蒲田の榮林寺の言ひ傳へには、この新宿の八幡御神體三座の内、春日の像といふ一座のみを此村へ移して鎭守としたところが、神靈あらたかにしてまゝ土人の信仰なき者に祟つたので、恐れて亦此處に埋めたといふこと、大よそ八幡塚の話と同じであつた。

　八幡神と若宮との關係は、此類の懸離れた例の多くを比較して、次第に明らかにして行く見込はあると思ふが、餘り長くなつたから一旦は結末を付ける。終りに是非とも附け加へて置くべきことは、第一には獨り八幡に限らず、日本の重要なる神社には多く若宮の信仰を伴なひ、時としては主神に超ゆる程の祭があつたのに、其理由をすら考へて見ようとせずして、神社の來歴を説き得べしと信じた者の無謀さである。第二には是だけ顯著なる地方と時代との特色を忘れて、單一なる教理が全國を覆ふに足るとし、又は源泉を一つにした古風の變化發達を目して、それ／”＼別途の新現象の如く斷定することの、共に學問の爲甚だしく危險なことである。自分の見解を一通り述べ盡すまでは、特に實例を指摘して議論を多岐することを避けたいと思ふが、兎に角に此問題の今まで一派の獨斷に委ねてあつたことに對しては、總括して抗議して置く必要だけはあると認める。若宮の奉齋は世人の多くが想像する如く、本來信徒の考慮に基いたもので無く、却つて神樣の方から進んで出現なされたのである。春日に於ては古く之を若宮御出生と謂つて居た。神主一家の秘説と稱して、之を窺ひ知ることを許されぬが、或は朱雀院の承平五年、又は一條院の長保五年の三月三日の巳の刻に、本社二三の御殿の間に於て、始めて中臣是忠に顯はれたまふと傳へ、しかも之を別の社に移したのは、更にその百數十年の後の事であつた（一〇）。即ち最初より必ず本宮に伴なひたまふべき神ではなくして、(493)宇佐の若宮の起原も恐らくは同樣に、其出現はたゞ神威の發揚に、著しい機會を與へただけであつたかと思ふ。

　次には若宮が憑き又は語りたまふ神であつて、之を祀つたのは單に主神に對する恭敬の延長では無かつたことも證據がある。例へば大鏡卷五に、賀茂の若宮憑かせたまふとて、臥してのみ物申すかんなぎを、打臥の巫とぞ世人つけて侍りしとある。太政大臣兼家、御装束奉り御冠せさせ、膝に枕せさせてぞ物は問はせけるとも傳へて居る。石清水に於ても奇瑞は常に若宮の巫女に由つて顯はれた。鎌倉鶴ヶ岡でも本宮勸請の後までも、參籠は必ず若宮の社殿にしたことが、社務の記録からも窺はれる。若宮の出現の託宣を意味したことも、此から推測して差支へ無い。從つて必ずしも本社の計畫を須たずして、諸國に次々の新宮が起り、其信仰が時あつて一致を缺くとしても、之を制止すべき力は無かつたのである。佐米牛といふ珍しい名を持つた六條の若宮なども、利害は寧ろ男山と相反して居たやうだが、殊に山科藤尾寺の八幡新宮に至つては、それよりも遙か以前、まだ石清水の基礎が完全に固まつて居なかつた時代に、或は之と雄を爭はんとした企てをしたやうに考へられる。扶桑略記其他の書に顛末が詳しく見えて居るが、本宮から送つた牒?の中にも大小の事曾て禁抑する無しとあつて、新宮の宣傳が假に統一を害し男山の迷惑になるやうな場合にも、之を匡正するだけの力は無いのであつたが、流石に本社と同じ日に放生會を行はうとする計畫を聽いては、堪忍袋の緒を切つて、終に暴力團を以て新宮の尼を捕へ去り且つ其社殿を破却した。しかも是は目と鼻の間で斯んな侵略をしたからで、遠方の田舍で又は有力者の後援でもあつたら、奈何ともすることが出來なかつたことは確かである。

　之を要するに八幡の信仰には旺盛なる成長力があつた代りに、其根柢が臨時突發の託宣であつた爲に、行く先々の變化と不一致を避けることは、最初から六つかしかつたのである。之に加ふるに前に現はれた神のやゝ鎭まつて後に、次の神は乃ち現はれ、更に新たなる意外を語る故に、同じ若宮でも最後のものが最も活?であり、從つて人の心を引付けたことは、天平から貞觀までの一世紀餘りの間に、京の周圍に造營せられた幾つかの八幡宮の勢力代謝の迹を見ればよくわかる。今宮といふのは即ち今若宮のことであり、之を又乙若宮とも新若宮とも名づけて、應驗の最もあら(494)たかに、祭の殊に花々しかるべきを意味して居たかと思ふ。山城の京では紫野に鎭めまつりし神のみを、記録に明徴ある最終の例として、今宮と謂ふことになつて居るが、神東遷の當初の樣式に就いて比照すれば、八幡とても亦一箇の今宮に他ならず、所謂御靈の力を以て、未信の人民に新しい奇瑞を示さうとした點は、後世地方の若宮八幡と略々同じことであつたかと思はれる。それと言ふのが此神本來の信仰に、既に久しく神子傳道の思想があつて、たま／＼託宣の自在なる空想に導かれ、次第に此民族の生活に適應した宗教を形成することになつたからでは無かつたか。能ふべくんば弘く現存の資料を蒐集整頓して、尚少しく其事情を究めたいと思ふのである。

　　（一）　和訓栞にも之を認め、國史大辭典にも之を承繼して居る。

　　（二）　類聚名物考二〇に、八幡三所には御父母を配祀することなるに、若宮と申すときは仲哀天皇を除き奉り、仁�ｺ天皇を加へ奉る也とある。恐らくは是が探秘の古傳の一つであつたらうと思ふ。

　　（三）　新篇相模國風土記稿七〇及び七四。

　　（四）　例へば吾妻鏡一二此年十一月二十一日の條に、鶴岡八幡並若宮遷宮也とある。此若宮は三月四日に燒け、八月二十七日に上棟をした故に、同じ日に遷宮をしたのである。

　　（五）　山城綴喜郡誌に依る。尋源抄は谷村先信の著、考古録の著者は長濱尚次である。

　　（六）　遊曩?記一二に引用した豐國紀行には、宇佐の若宮には八幡大神の御子仁�ｺ天皇宇治皇子宇禮久禮を祭るとあつて、まだあの頃までは兩方の歩み合ひであつた。而うして宇禮久禮の二神の由來は、今に至るまで最も不可解である。

　　（七）　大日本史料第四編の一、文治二年閏七月一日、宇佐神殿實檢の條に引用した八幡宇佐宮託宣集卷二。

　　（八）　下野神社沿革誌。次の項も同書。

　　（九）　新篇武藏國風土記稿一三。次の二項も同じ。八幡塚は近頃までの荏原郡六郷村大字。新宿といふのは蒲田新宿のことゝ思ふ。

　　（一〇）　和州舊跡幽考に依る。春日社記其他古くからの記録にも斯うある。

　

(495)　　　　　　　　　　六

　

　最後に尚一つ方法論の問題として、從前の學者が容易に承認せぬだらうと思ふことを、主張して置く必要がある。自分等の引用する地方近世の口碑傳承には、説く者録する者の既に之を信じなかつたものが甚だ多い。書物を讀む人に推斷の力乏しく、文字の價値を過重して、矛盾撞著に鈍感なる者が世に充ちて居た間は、叨りに之を紹介しては危險を招く虞があつたかも知れぬ。假に各人を誤らしめぬ迄も、少なくとも混亂に陷らしめ得たからである。今や幸ひに其懸念は大いに薄れた上に、我々が新たに學び知らうとする方面には、所謂信じ得べき説は至つて少ない。今日普通の教育又は實驗、もしくは推理の方法に照して、必ず内容の疑ふべき無しとするものゝみを採つて、我々の資料と爲さんとしたならば、悠遠なる日本國民の信仰生活は、恐らく空白の一大塊を以て眼を遮らしむるの他は無いであらう。勿論之を忍ぶ能はずとして、強ひて信ぜしめようとする運動は今もあるが、奈何せん其論證は、概ね我々の名づけて史學と謂ふものでは無かつたのである。

　故に我々は進んで内容の一段と心許無いものに就くのである。古人が曾て信じ曾て欺かれたといふことも、同じく現象であり又過去の事實である。假に時を隔て名を僞り、爲にする所あつて虚構作爲したとしても、惡人の譎詐にも時代と環境との制限はあつた。足利期には足利期の誤謬起り、九州のうそは奧州人之を吐くことを得なかつた。況んや今日の判斷を以て信じ得ない出來事にも、三百年前の判斷では、何の餘念も無くまともに信じ得たものが多々であつた。説く人も聽く人も半點の私曲無くして、共に傳ふるに堪へたりとした事蹟が、主として傳はつて我々の世に及んで居るのである。例を列擧すれば幾らでも有るが、最も顯著なるは巫覡の言である。彼等の異常心理に在つて人の爲に敍説する所を、肩を聳かして疑ひ又嘲ける者を生じたのは、實は最近の新現象であつた。しかも語る者に詐り欺くの情ある際は、古人と雖容易に之を看破し得たので、その確信すべしとしたものは、必ず條件として若干の神秘感(496)動を伴なうて居り、能く之に由つて未來に對する不安を慰め得ると同樣に、隱れたる過去の不審、今我等が學問のみを以て、困苦して明らめようとする事を、端的に學び得たのである。それを子孫後世の未だ知らざる者に、教へ傳へんとするのは人間の情である。日記書簡系譜證文の類と錯綜して、それが今日に承繼されたのは怪むに足らぬ。然らば神靈の依託する所となつて、能く自ら知らざる事を語り得た異常心理者は、そも／＼何を語つたのであるか。一言を以て答ふれば、彼等は自己の時代以後の歴史は知らず、我社會の抱き得る以外の空想は持たなかつた。即ち無意識の裡にも時代の智能、今までに集積した宗教經驗に制限せられて、唯其範圍内に於て十分に自由奔放なる夢を見、幻を感じて居たのである。そんな雜然たる混淆よりも、勿論今少しく秩序立つた智識の記述に接したいのだが、それは到底望み難いとすれば、少なくとも傳説は個々の時代を表現する點に於ては、其邊にまだうろ／＼して居る今闇齋今殘口の講釋よりは有難い。

　近世の採録者の態度は惡くない。或は荒唐信じ難いが此樣な傳説もあると記し、或は半信半疑ながら、何か仔細のあることであらうと述べて居る。自分なども大凡其通りではあるが、只僅かに尚一歩を進めて、寧ろ其中の稍々信じ易きものを、危ぶみ且つ警戒しようとするのである。其適例は江戸時代に成つた社寺の縁起、殊に學者に頼んで書かせたといふ誌傳の類である。それは其時代の判斷に準じた刪除を想像し得るのみならず、往々にして親切に過ぎたる改訂補筆を見るからである。此點より見れば之と反對に、その時代としても餘りに無稽なりと思はれるものは、それこそ何か隱れたる仔細があるのかも知れぬ。例へば依然として古くからの傳承を認めなければ、承知の出來ぬ者が居たのかも知れぬ。或は單に熱心が無くなつて、父祖以來の口碑に手を加へなかつただけかも知れぬ。小説家の如き公認のうそつきですら、時代に相應せぬ出鱈目は滅多に言はなかつたのである。

　斯ういふ標準に基いて、八幡愚童訓の各異本、所謂阿蘇縁起のやうな始末にいけない物語でも何れの世に於てか人が信じ又信ぜしめた痕跡として、自分たちは之を重視し、從つて之に對立する貝原氏の新縁起の常識的取捨を遺憾と(497)する。宇佐と阿蘇との結合が最初からのもので無いことは、ほゞ疑ひの無いことであるのに、なほ中古に入つて斯んな説が現はれ、しかもそれは阿蘇の獨創でも無かつた（一）。之と比較して見てよいのは、三河の足助八幡宮の戰國以前からの縁起であるが、此方は全然熊野と混同して、しかも善證鬼といふ神、人の形になつて名を歸能士と謂ひ、下主神の女と婚して一女二男を生む。其一男好棊士なる者神に仕へ、後託宣を以て末社に祀らるゝ、若宮是なりとある（二）。熊野は信仰の盛時に於ては、參詣の路筋に九十九王子の社があつた。次々諸國に顯祀せられた場合にも、名だけは王子權現若王子と謂つて差異があるが、樣式は八幡の若宮とよく似て居た。例へば廣益俗説辨の中に、物々しく駁撃を試みてある三社の由來談などは、多分は古淨瑠璃の本地物の類で、旅の比丘尼たちの空想の所産であらうと思ふが、案外に弘くせに認められて居た。天竺摩伽陀國善財王の妃、五衰殿の善法女、衆殯の嫉みに由つて山中に命を隕し、其屍より男子誕生す。喜見上人拾ひ養ひ、後飛行の車に乘り日本に飛び來り、熊野に留まつて神と現ず、故に本宮は喜見上人、西宮は五衰殿、新宮は善財王と王子とを祀るといふ如き（三）、明らかに同系の信仰に出て居つて、假に之を宇佐の周圍の地に今も傳承する古神話の斷片（四）、人聞菩薩の物語の一變形だと主張する者があつても、それを説破することは容易で無い。即ち是ほど近似して居る上は二社の信仰の混同は自然であると謂つてよいが、同時に又其宣傳に參與した巫女や神人に、所屬系統の差が明らかに立つて居らず、彼是互ひに他の神を説いて居たことも、之に由つて推測せられるのである。

　人を神に祀つた中世以後の今宮にも、或は今宮八幡あり或は單に今宮とのみ稱する者があつたことは、前の若宮の場合と同じであるが、其例は再び爰に列擧せぬ。要するに御靈が八幡に屬する神人に憑つて顯はれると、其若宮も八幡に屬しただけで、しかも近世に入るまで引續いて、其場合が殊に多かつたものかと思ふ。後鳥羽院靈託記の事は他日改めて之を述べるが、天皇隱岐に於て崩御の後僅かに八年、寶治元年の春には、早くも靈託の事が京にも鎌倉にもあつて、鎌倉では同じ年四月に鶴ヶ岡乾の山麓に御社を建て、怨靈をなだめ奉らんとした。其社の名を新若宮又今宮(498)とも謂ふとあるのは（五）、同時兩名を存したので、場處が雪の下に在つたのも恐らく亦八幡の管轄する所であつた爲だらう。果して然りとすれば是などは古い例の一つである。少なくとも古今四百年、國の東西を一貫して、人が若宮として祀られ又之を祀る動機は定まつて居た。それが如何樣の信仰變化に因つて、豐太閤の如き幸福なる武將をして、死して新八幡にならうといふ希望などを抱かしむるに至つたか。甚だ解し難い問題である。日光山に於ても大猷院即ち三代家光の御靈屋を、今宮八幡と號すと謂ひ、或は若宮八幡宮と申すとの説もあつた（六）。而うして此地を管轄して居たかと思ふ八幡の本社は無かつたのである。世の中が段々新しくなつて、却つて不可解なる現象が加はつて來たわけである。

　　（一）　此種の問題に付て、面倒を厭はず細かに諸國の八幡の異傳を觀察したものは栗田氏の八幡神考である。栗里先生雜著に出て居る。但し其結論は少しく亂暴だと思ふ。

　　（二）　續群書類從採録本に依る。尚其中に此社には又今宮社あり、頼朝夫妻の影像を祀るとあるのは注意すべきことゝ思ふ。

　　（三）　廣益俗説辨正編の三。この所謂俗説の、文字に現はれたものでは、何が一番古いか考へて見たいと思ふが、延文四年に成つたらしい安居院の神道集には、もうちやんと此説を出して居る。

　　（四）　人聞菩薩譚は今尚土地の歌謠などの中に口傳せられて居る。私の解釋は折を見て發表したいと思ふが、要するに人聞《にんもん》の名の起りは人母又は神母であつて、玉依姫神話の名殘かと思ふのである。

　　（五）　吾妻鏡寶治元年四月二十五日の條。歴代皇紀同二十三日の條等。續史愚抄一九、正慶元年五月十七日の條には、今宮寶前の松故無くして倒れた。これ神靈去らしめたまふの兆と記して居る。

　　（六）　前説は貝原氏の日光名勝記、後説は津村正恭の譚海三。

　

(499)　　第十卷　内容細目

　

先祖の話（昭和二十一年四月、筑摩書房）…………………………………………一

　

日本の祭（昭和十七年十一月、弘文堂書房）

　　自序

　　學生生活と祭…………………………………………………………………一五九

　　祭から祭禮へ…………………………………………………………………一七六

　　祭場の標示……………………………………………………………………一九三

　　物忌と精進……………………………………………………………………二一六

　　神事と神態……………………………………………………………………二三七

　　供物と神主……………………………………………………………………二六一

　　參詣と參拜……………………………………………………………………二八五

　

神道と民俗學（昭和十八年四月、明世堂書店）………………………………三一五

　

祭禮と世間（大正八年、東京朝日新聞）………………………………………三九七

　

神道私見（大正七年一月・二月、丁酉倫理會倫理講演集一八五・一八六）…四三一

　

(500)神社のこと（昭和二十五年六月、民俗學研究第一輯）…………………四六〇

　

人を神に祀る風習（大正十五年十一月、民族二卷一號）……………………四七二