定本柳田國男集　第十一卷（新装版）、筑摩書房、1969､4､20（1970.4.15.2刷）

　

(1)　　神樹篇

　

(3)　　　　　柱松考

　

　松美しき播磨の國、揖保《いほ》の清流の滸から、この吾輩の一小篇は發足する。姫路出身の和田千吉君?々人に語られし話に、舊揖東郡｜網干《あぼし》の近在に於て、たしか盆の頃の行事にヒアゲと云ふ風俗がある。同じ話を聞かれた山中共古翁の手録に依れば、播州揖保郡大谷村（勝原村大字）と云ふがその火揚げを行ふ村である。檜の丸太數本を高く立て、其上端に口徑一間ばかりの漏斗?《じやうごなり》の物を取附け、其中に藁屑を入れ置き、村の者多勢、手に／＼小石を結び附けたる繩に火を點じたるを持ち、之を廻はしながら下より投げ上げ、右の漏斗?の中なる藁に火燃え附くを見て其丸太を倒す。入費多く掛るが故に近年は之を行はずとある（共古日録十六）。吾輩の記憶を以てすれば、和田君は繩とは言はず藁松明と言はれた。柱の高さは三丈程、又必ず神前の火を以て松明に點ずると話されたかと思ふ。さて此風俗の名稱であるが、播州でも元は柱松《はしらまつ》と呼んで居たやうである。其證據は西讃府志卷五十三、今の播州揖保郡旭陽村大字津市場の稻荷社、七月十六日火祭神事の記事である。（此書は標題の示す如く元來讃州丸龜領の地誌であるが、其末の方に京極侯の飛地領分たる播磨近江等の事も書いてある。）之に依れば右七月十六日の火祭は、網干の北で揖保川の東岸、前の大谷村よりは一里程南、津市場の稻荷河原と云ふ處で之を行ふ（其地は多分稻荷社の御旅所《おたびしよ》であらう）。高さ六間に周《めぐり》四尺五寸の柱を立て、其上端に取附ける火祭籠《ほまつりかご》は、百二十本の青竹と八貫目の繩とを以て之を造り、其中へ六十束の麥藁を入れて置く。投松明《なげたいまつ》は麻稈と竹とを以て作つた一尺ばかりの物で、之を投げ揚げて火祭籠の藁を燃やす作法は、前掲和田君の談と同じく、只之に携はる若者共皆裸形とある。此神事は其名を火上《ほあげ》とも保天武《ほてむ》とも又柱松と(4)も謂つた。保天武の名稱に就ては後の機會に於て述べるであらう。今は先づ柱松と云ふ事の如何に弘く且つ久しく行はれて居たかを説かねばならぬ。西讃府志は今より百餘年前に出來た新風土記である。

　近世に於て盆の頃に柱松を盛に立てたのは山口縣地方である。周防風土記に依れば、今の熊毛郡｜三丘《みつを》村大字安田の條に、「七月七日夜より二十日過迄、河原其他にても、諸精靈追善の爲と申し、柱松と申す物を相調へ候、十五歳以下十歳位の子供、長さ三間乃至五間位の木の頭《かしら》へ、竹にて上戸《じやうご》の如く上を廣く編みたるを附け、其中へ藁などを入れ、其中へ小竹を立て、中柱に紙の總をこしらへ、其末に五色紙の旗と幣とを結びそれを直に立て、それに五色紙の細き切下げを附けたる繩を三方へ倒れざるやうに控へ繩に引き、薄暮より多く集まり、一尺四五寸位の松明へ繩を附けたるを下より投げ上げ、件の漏斗口《じやうごぐち》の中へ打込み燒くなり、之を柱松と謂ひ、當村に限らず隣村にても行ふ」とある。同じ郡岩田村などにも之と同じ風習があつて、所謂火祭籠の中央に立てる旗をば梵天幣《ぼんてんへい》と謂ひ、其旗には梵天聖靈御休息所などと書くと云ふ。長門にも之と同じ行事の多かつたことは、長門風土記を見ればすぐに發見し得る。其僅か二三の例を擧げるならば、同國大津郡｜三隅《みすみ》村に於ては、「七月七日より十四日まで、柱松とて少年の者相集まり、大竹へ藁にて酸漿《ほゝづき》の形を拵へ、下より苧稈《をがら》松明へ火をつけて投げ入れ、ホヽヅキを燒捨て戯れと仕候」。同郡｜深川《ふかは》村では此行事をホヽヅキとも謂つた。此戯れ無き年は、水中より片目と謂ふ者出でて牛多く死すと言傳へ、人家若し麥藁を惜んで與へざる時は、其家の牛必ず死ぬと云ふことで、大概其望に任せると云ひ、又同じ村大字｜眞木《まき》などでは柱松を一に牛燈とも稱し、牛の病難を除く祭なりと信じて居た。同書｜阿武《あぶ》郡｜三見《さんみ》村の如きも、「盆中牛馬安全の御祈?とて、柱松と唱へ竹を上戸の如くしつらへ、其中にすくづ〔三字傍点〕松明等を入れ置き」、之と同じ火祭をしたとある。

　さて此類の火祭が諸國に例多きものであることは、郷土研究の讀者も既に御承知の事であらうと思ふ。但し其時期及び目的等に於て若干の異同があり、殊には其名稱の區々である爲に、是迄人の注意を逸して居た場合が少なくは無かつた。吾輩は先づ最初に柱松と云ふ語が最も普通のものであつたことを明らかにして置きたい。長門本の平家物語(5)卷三、成親流罪の條に、柱松因縁事と題する一齣があつて、攝州柱松の驛の地名由來に就き、天竺震旦本朝に亙つて長々と辯じて居る。固より大虚誕であるから受賣をするのも大儀であるが、暫らく其大要を録すれば、昔天竺に唯圓上人と云ふ人入滅の後、弟子僧の唯智なる者之を思慕し、明くる年の七月十五日に、神應草（芭蕉）の枝に不死教草と云ふ草の枯葉を取掛けて火を附け、「此光に現在に去り給ひし影を現じたまへ、現身唱光明と唱へたまへば、故上人古の形を些しも違へず」現ぜられた。是を聞いて名殘惜しき父母親類におくれた人々、七月半の孟蘭盆の夕に、葬地に往いて火をとぼし、之を光明揚《くわうみやうあげ》と謂つた。我邦では崇神天皇の御宇、花萩大納言の子に少將と云ふ人、七月中の五日亡父の墓所に詣り、墓前に枯れたる木の一本あつたのに草の枯葉を結び掛けて火をとぼし、玉姿しのばゝ我に見せたまへ云々の歌を詠んだ。之を柱松と名づけたのは漢國の六宮明壽と云ふ君、命還山頂の松の名木を移して丸柱に磨き成した故事に因るとあつて、此點は殊に陳紛漢である。いつの世の盲法師の作略かは知らぬが、さても根氣の好い拵へ事である。吾輩は毫も盲人の言を證左とする意は無いが、七月長竿の頭に火を點して立てること、即ち近世に所謂盆の高燈籠と相似たる風習が、柱松と云ふ名を以て琵琶流行の足利時代にも既に行はれて居たことは、間接に是から推測し得らるゝと思ふのである。柱松と云ふ地名は獨り津の國の官道の上に存するばかりでは無かつた。例へば、

　　和泉泉北郡山瀧村大字内畑字宗峯小字柱松

　　同　泉南郡｜山直上《やまたへかみ》村大字｜積川《つかは》小字柱松

　　伊勢度會郡｜七保《なゝほ》村大字野原字東柱松

　　下總香取郡多古町大字喜多字柱松

　　下野上都賀郡日光町大字日光字御柱松

　　丹後加佐郡西大浦村大字赤野字柱松

(6)　　但馬美方郡温泉村大字春來字柱松

　　備中上房郡｜有漢《うかん》村字中山（ノ）端小字ハシラ松

　　出雲能義郡比田村大字梶福留字梶小字柱松

　　同　飯石郡一宮村大字高窪字西畑小字柱松

　　同　八束郡川津村大字西川津字大内谷小字柱松

　　同　同　　大野村大字魚（ノ）瀬字魚（ノ）瀬小字柱松

　　同　同　　持田村大字東持田字納藏小字燒柱

　　土佐幡多郡伊豆田村大字立石字燒柱

　　同　同　　橋上村大字野地字松柱

　　筑前鞍手郡笠松村大字芹田字柱松

等の如く、東西の諸州にわたつて此地名があるのは、此風習が少なくも或時代には全國一般のものであつたことを示す上に、更に進んで考へると、柱松を執行ふべき地點が一定して居たことも推測し得られるかと思ふ。若し然らずとすれば、地名と成つて後世に遺る筈も無いからである。

　平家物語の花萩大納言父子の話は、或は武家時代の册子類にでもあつたのでは無からうか。丸々の新作とは思はれぬ節がある。古くは橘逸勢女の哀れな話などを最初として、流人の子が親を慕ひ、其臨終に逢ふ能はずして、後に供養をしたと云ふ物語は、色々と形を換へて後代迄行はれて居たのである。前の成親父子と關係のある俊寛僧都の如きも、島に殘されて恨んで死んだと平家にはあつて、孝女忠僕の丁寧なる脚色を煩はして居るにも拘らず、實は死せずといふ一説が中々盛んに行はれ、四國にも北國にも其住地葬地が殘つて居る。所謂俊寛が娘尼となつて、父の菩提を弔うたと云ふ各地の口碑は、瀧夜叉姫や源三位の姫君などと、類を同じくする縁起譚でもあつたらうが、他の一方に(7)は又祭られる亡者の方にも、一定の型があつたことを忘れてはならぬ。即ち支那でならば屈原とか介子推とかの如く、如何にも氣の毒な死に方をした通俗史上の名士であつて、其季節又は地方と關係のある者には、必ず此類の話が附いて廻るのである。柱松の由來に引合ひに出された花萩中納言なども、事によると成親彼自身のことかも知れぬ。其子を少將と云ふのからが偶然では無ささうだ。

　此因みに述べたいのは、俊寛僧都の祭と稱する柱松の話である。薩南の硫黄島《いわうがしま》には固より俊寛の遺跡が多い。中にも御祈《おいのり》大明神の社と云ふのは、此僧を祭つた宮だと傳へて居る。例年七月十五日の夜は、俊寛への祭として島民竹を以て大小二箇の松明を造り、之を海濱に持出し砂を穿つて立てる。大きな方の松明は長さ九尋ばかり、下部の徑六尺ばかり上へ行くほど細くなる。小さい方は徑二尺ばかりのもの、是は子供仲間から造つて出す。人々肥松に火を附け之を下より投げ上げ、松明に火の附くを手柄として競ひ爭ふ。其夜は又莊屋の庭で踊があつた（三國名勝圖會廿八）。此行事のうちで、最も注目を要する點は松明の數が二箇であることかと吾輩は思ふ。元來盆の祭が死者の靈の爲であることは全國普通の俗信で聊かも怪しむに足らぬ。寧ろ防長二國に於て牛馬祈?の爲と稱し、或は播州揖保郡に在つて神社の夏祭に托する方が訝かしい。この硫黄島の例なども、形は諸國の盆燈籠や門火の魂送りと似て居りながら、却つて之を御祈大明神社の祭神に捧げて居たのが妙である。盆の火にも高い柱を用ゐた例は少なく無い。茲に其一を擧ぐれば、甲州では七月十六日の夜の孟蘭盆會の送り火を燒く所、菩提山・柏尾山・帝釋寺等數多あるが、東八代郡竹野原村大字奈良原、廣濟寺の門前なるカリ塚と稱する塚の上では、竿形に炬《たいまつ》を擧ぐるを以て舊式としたとある（甲斐國志四十一）。即ち此地方では斯る柱松も亦三界萬靈の供養だと信じて居たらしいのである。然るに近頃迄丹波北桑田郡｜知井《ちゐ》村大字｜蘆生《あしふ》に於て、七月十四日の夜施行せしものは、之を愛宕《あたごの》火祭と稱へた。竿は高さ十五間ほど、其上端に苧稈を傘のやうに束ね、松明に火を點じて下より之を投げ、傘が燃え終ると竿が倒れる。其倒れる方を見て年の豐凶を卜したと云ふことだ（風俗畫報四十八號）。即ち形式に於ては殆と周防などの柱松と異なる所が無いのみならず、其(8)本來の趣旨に於ても何か大きな共通點があるらしい。それを此から説明して見ようとするのである。

　右の丹波では傘と謂ひ長門では酸漿《ほゝづき》と謂ひ播磨では火祭籠と呼んだと云ふ竿の尖の籠は、何故に漏斗?《じやうごなり》であつたか。なんぼ不自由な昔でも火を附けて置いてから柱を立てる位な工夫はあつたらうに、何故に下から手に／＼手松明を投げたかと云ふと、是は前の硫黄島の例にも先づ火の附くを手柄として競ひ爭ふとある如く、後世に於ては小兒の競戯となつたが、以前にはそれが眞面目なる大人たちの運だめし方法であつたかと思ふ。南方氏の話に依れば、紀州田邊町又は那智村天滿邊で執行ふ柱松は之に與る者は主として漁民であるが、各自に俯《うつむ》いて股の間からかの松の火を投げ上げ、滿足に桿上の籃の中に入れた者は翌年漁利多しと信ずる由。馬鹿げた事と言へば言ふものゝ、普通に遣りにくいことを仕遂げた者が、まん〔二字傍点〕が良いと滿足した事情は愈々顯著である。現に今日でも鳥居の頂へ小石を揚げ、或は鍵掛《かんかけ》沓掛《くつかけ》などと稱して、木の枝や沓草鞋の類を投げ掛け、願ひ事の成る成らぬを卜知する風は殘つて居る。甲乙の部落が二つの組に立分れ、各々代表者を出して技を競はしむる場合には、成功の希望は愈々痛切になる。是も綱引に由つて米の値の高下を卜し、ペイロン（競渡）を以て漁獲の多寡を卜した例が甚だ多い。端午其他の日を以て執行はれた競馬《くらべうま》相撲《すまう》印地打《いんぢうち》の類も、只徒らに爭つたのでは無かつたらしく、更に進んでは紙鳶獨樂ハマコロなどの小兒の戯も、以前此目的を以て始まつたことは、未開民族の例を推して論證することが出來る。土民漸く年占の信用を輕んずるに至つて、複雜なる神事は省略に歸し、筒粥胡桃燒の如き費用の少ない手段のみが殘つたが、それでも猶例外として、二三の地方には火揚げの占法が保存せられて居た。丹波蘆生の傘は必ずしも唯一の例では無いのである。

　例へば信州戸隱山七月七日の柱祭の神事は、天明三年に之を見た人の記録がある。柱の數は三本、之を三柱の神に擬し、柱の上端に束ねた柴に火を投げ上げて疾く退き、先づ燃え附いた柱を見て其年の豐凶を占うた。其文に曰く、「速かに火の移り柴の燃え上るは何れの神の御柱ぞと見て、其年の田實《たのみ》の善惡の占をせり。此年は手力雄命の御柱に火早く掛りたれば此年のたなつものやよけむ云々」（眞澄遊覽記三）。山相隣する越後の妙高山に於ては、其麓なる關山(9)三社大權現六月十七日の祭に、之とよく似た火の行事があつて、其名も柱松と稱へて居る。此社の祭神は國常立尊《くにとこたちのみこと》に白山新羅の三座と申し奉るが、柱の數は二本である。社地の右左に此柱を立て、二人の假山伏各手に燧箱を持ち先達に手を曳かれて出で來り、玉橋の邊にて手を放たるゝや直に走り行いて各々一方の柱松にかけ上り、火を打つて之に附け、其燃え上る速さ遲さを以て勝負を決す（越後志略）。此勝負は何の爲に之を爭ふかゞ不明で、單に「是れ鎭火祭禮の古實なり」とばかりあるが、試みに之を出羽月山神社の松例祭と比較して見るならば、趣旨の年占に在ることは判明するかと思ふ。

　松例祭の松は柱松の松と同じく、火祭の燃料から來た語であるらしい。月山では之に携はる主たる修驗者を松聖とも謂うた。此祭の模樣は近年刊行の三山小誌と云ふ書に詳しく出て居るから、此には其要點のみを抄出する。他國の柱松と相異する第一の點は、此式が盆の十五日では無くて除夜の晩に行はるゝ事である。松聖は修驗上席の者二人を以て之に充て、九月二十日以後一百日の勤行を爲さしめる。其一人を位上《ゐじやう》と呼び他の一人を先途《せんど》と云ひ、手向町《たうげまち》の壯丁を二分して之を兩聖に屬せしめ勝負を爭ふ。十二月二十七日の夜より翌未明迄の間に拜殿にて二箇の大松明を作り、色々の儀式あつて後愈々當日の夜之を廣庭に引出して燒くのである。其燃燒の遲速等によつて翌年の豐凶を卜する。即ち先途の勝は陸産の豐饒を意味し、位上の勝は海産豐饒の兆としてある。位上先途の名目は未だ其本義を知ることが出來ぬが、一説には位上は伊豆國より上と云ふことで、日本を東西各々三十三國に分つたものとも云ふ（日本宗教風俗志）。此儀式に就て注意すべき傳説は、當初害蟲と惡疫の流行を攘はん爲に之を執行したと云ふことである。其爲か二十八日に作つた大松明をば恙《つゝが》と名づけ、晦日の朝より群衆來集して其筋骨に用ゐたる綱を切取り、火防《ひぶせ》用として家に携へ歸り、更に其日暮に松明を結び直すとある。次に他の地方で遣らぬことは、此式終りて後に火の打替式と稱して、燧檜及｜藺草《ゐくさ》で作つた火扇などを以て新火を鑽《き》り出すことである。此にも深い仔細のあることであらうが、既に火藥などを使用する迄今風に變化し居り、十分に因縁を明らかにすることが出來ぬ。何れにしても柱松を二本立てる(10)理由は説明し難くは無いやうだ。硫黄島の俊寛祭の風習も此例から推測し得る。一方の松明の小さいと云ふのは、單にそれが子供側の造つたものである爲かと思ふ。近世の柱祭には子供は?々重要なる位置を占めて居る。

　

(11)　　　　　柱祭と子供

　

　硫黄島七月十五日の柱祭に、大小二本の柱松明を立てゝ點火の遲速を爭ひ、且つ小さい方を以て子供仲間の所務とする風習は、然るべき仔細のあることだと思ふ。此種の競技が凡て部落又は團體間の、粗野なる年占の一方法であつたことは、前に其概略を述べ置いた外に、陸中黒石村の正月七日の蘇民曳《そうみんひ》きに於ても、新なる一例證を加へ得たのである。第二の小兒が此行事に干與する點を考へる爲には、次には進んで例のトンド燒きの風習に比較して見ねばならぬ。盆と正月と此二つの火祭は、今の人の想像するが如く關係の薄いものでは無かつたらしい。盆の中元に對して正月十五日は即ち上元である。（亥子《ゐのこ》と稱する十月亥日の祭は、下元即ち十月十五日の祭から變じたものでは無からうか。此にも亦子供が主たる役者である）。三元祭の本元たる支那南部に於て、上元中元共に、所謂燈戯の風習があつたことを考へると、此は偶然の一致では有るまい。折口氏の髯籠《ひげこ》の話は自分の心附かなんだ重要な點を指示せられた。又燒かぬ柱松との關係に就ても、自分は必しも同氏と異なつた説を抱いて居るわけでない。唯柱を立てゝ祭をする舊慣を、日本に特殊な信仰生活のみに基づいて解説せられるのはまだ合點が行かぬ。甲の民族が乙の民族から此風を學んだか否かは別問題として、祭の折に柱を立てることは我邦多くの地方で皆古くからやつて居る。其異同を明らかにすることは勿論短い歳月の能くする所で無いが、自分は折口氏と協力して成るたけ多く、我邦の事例を集めたいと思ふ。それには順序として柱松に最も近い正月の左義長から始めるのが便利である。

　正月禁中の左義長は十五日の夕と十八日の早旦と兩度であつた。左義長の構造などには別段の差異は無かつたと見(12)えるが、十五日は常任の仕丁《しちやう》が之を囃し、十八日のは唱門師《しよもじ》の頭が出て、笛鼓で舞を舞ひつゝ之をほこらかし〔五字傍点〕た。河内北部でも現今六日と十四日と二度のトンド（左義長）あり、前者は神トンドと謂つて小さいと、岡市氏は報告せられて居るが、二度ある理由は自分には説明が出來ぬ。十四日の暮又は十五日の朝此式を行ふ實例に至つては殆と算へきれぬ程多い。東京其他の今は絶えて居る地方でも、以前行はれた證據のあるものが亦尠なくない。唯其稱呼の區々であると共に樣式にも多少の相異があるが、仔細に比較すれば其間に共通したものがいくらもある。此日に限つて少年が主人公であるなども亦其一つの特色である。此火で身を暖めると丈夫になると云ひ、家畜などはわざ／＼其火の上を越えさせること、是などは歐洲諸國に行はれた夏至の火燒祭を思ひ合さしむるものである。其他此折の火又は餘燼を携へ歸つて火伏せ蟲除け惡魔除けとする所謂霹靂木の俗信の如きも、多くの左義長に伴うて存して居る。それよりも先づ肝要なのは柱である。左義長の柱は禁中を始として青竹を用ゐる者が多かつた。是も支那の爆竹を眞似たものでは無からうが、兎に角火に燃えて割れる音の花やかなのを愛でたことは一つである。オンベ即ち御幣を柱の尖に飾り、柱をも御幣竹《おんべだけ》と呼ぶ風習は、獨り熱海から沼津への一帶の地方のみで無く（郷土研究二卷十二號參照）、相應に廣い區域に及んで居るやうだ。齋藤山中二氏の報告せられたオンベ燒に於ては組々の間に、やはり一種の競爭があると云ふ。但し柱松の例とは反對に、先づ燒け落ちた方を負けとして居る。而して斯る勝負の今尚行はれて居る土地では、柱の竹も成るたけ高いのを擇ぶが、全然其類の年占法がすでに絶えたか又は單に立派なことを競ふだけになつた地方では、物が竹だけにいくらでも細く小さくなり易く、中には積上げた門松注連飾のつゝかひ棒の如くなつたのもあつて、終には燒くのが主になり、柱は蔭の物になつてしまつたものもあらう。しかし所謂｜心竹《しんだけ》の全く無いと云ふ例は、あるかも知らぬがまだ自分は知らない。

　次にオンベ燒即ち左義長と道祖神との關係も、亦中元の柱松に對して、此が上元の送り火であることを示して居る。伊豆などでもトンドの準備に、少年が米錢を集めてあるくことを、幸神《さいのかみ》の勸化と云ふ由齋藤氏は言はれたが、越後で(13)も同じ季節に此勸進をするのみならず、トンド其物をも幸神祭と云ふと北越雪譜にある。鹽尻卷五十四に記した信州松本の左義長などは、樣式が最も盆の柱に似て居つて、その名を幸神又は御柱《おんはしら》と云うた（諏訪其他の祭の柱をも、同じく御柱と云ふのは注意すべき點である）。而して道祖神は今でこそ和合福�ｺの神と祀られるが、本原は邪魔を防制する消極的任務を托する神で、更に一段と昔には神自らが飲食の贈り物を以て人民から退却を要求せらるべき荒神《あらぶるかみ》であつたらしく、其祭場が常に道の辻や村の境であつたのも其爲であるらしい。しかし他の一方に盆の精靈祭が、もとは祖先追慕の意味に出でずして、邑里に災する御靈を攘却するが主だつたとすれば、一月と七月との望《もち》の夜の前後に、相似た踊を踊り、相似た火祭を營んだのも自然のことゝいつてよいかと思ふ。此兩度の節日は正しく一年を平分して居る上に、七月は農民に取つて樂みと氣遣ひとの最も切なる時であると同じく、正月は其一年の運勢の改まる時である。農作に關する大多數の祈?呪術は皆この小正月と稱する十五日の前後に行はれた。筒粥弓射綱引其他、色々の年占の試みられるのも亦此時で、宿命に拘束せられた昔人の不安は、却つて實境に臨んだ時よりも切であつたかと思はれる。然るに念佛の宗教が村落を風靡した後に、七月の十五日の習俗をば都合よく其教義に融和してしまつて、他の正月の分にはとんと手を着けなかつた爲に、二つの行事が段々と疎隔して往つて、今では比較して見ても一寸は解らぬやうになつたが、子供をして神を祀らしむる上元の火祭の方が、佛教の影響を受けて居らぬだけに、恐らくは稍々多くの舊形を存留して居るのであらう。斯う考へて見ると子安地藏の信仰や道祖河原の傳説に變形した小兒と道の神との關係にも、一通りならぬ深い意義のあることが想像せられるのである。

　次には齋藤氏の言はれた子供宿及び子供小屋のことを考へて見よう。盆の柱松の折にも此類の小屋を、立てるか否か未だ明らかでないが、正月十五日の假屋は諸國に多くの類例がある。寒い季節に此樣な小屋住居は、何か仔細が無くてはならぬが、地方によつて餘程以前から其目的が不明になつて居たと見える。蛭田氏報告に、磐城石城郡で此日、村の者集まつて鳥の小屋を作り、正月の祭具などを中に入れて小屋共に燒棄てるとある。此風は南は常陸の多賀郡あ(14)たりへ掛けて弘く行はれ、自分の知る所では正月の始から子供等此小屋を作つて、十四日の夜迄其中に居て食事などをして遊ぶ（風俗畫報六三及六四）。之を鳥小屋と謂ふのは子供等が鳥追の歌を歌ふ所から、收穫時の番小屋に擬へたものらしい。同じ常陸でも、茨城｜行方《なめかた》鹿島等の諸郡に在つては、此小屋を鳥小屋とは言はず。十四日の夕方に小屋を燒く時、ワーホエ／＼と鳥追らしい詞を以て囃すが、其行事をも賽《さい》の神と呼んで居る（同上三八）。削掛けの棒を叩いて囃すと云ふことである。羽後の秋田で有名な鎌倉と云ふ火祭にも、火を振りつゝ囃す詞は亦ジャホイ／＼と云ふ（秋田風俗問?答三）。或は佐竹侯の故國から移し來つた風俗であるか、此時歌ふ唄に「鎌倉の鳥追は頭切つて鹽つけて、鹽俵へ打込んで、佐渡ヶ島へ追うてやれ、佐渡ヶ島が近くば、鬼ヶ島へ追うてやれ」と云ふのが、此日の神を鎌倉大明神などと稱して、後には事々しい演武の式のやうに言ふに至つた原因であるらしい。しかし要するにこの鎌倉の火と云ふのも、亦一箇の道祖神祭であつた。黒甜瑣語二編卷四に、祭神は鹽津老人（蘇民將來）と春幸姫《はるさいひめ》（頗梨采女）との男女雙神だと云つて、辻祭の類に屬するものなることを示して居り、閑田次筆卷一に、鎌倉の行事の翌日が道祖神の祭で、町系統毎に二人の少童を擇んで錦の衣赤の袴を着せ、公の家々を廻つて祝言を述べさせるなどとあるを見ても、此火祭の左義長であることが察せらるゝ上に、前者に於ては雪城《ゆきしろ》と記し、後者に於て竈と言うて居る雪小屋は、亦是れ一種の鳥小屋であること、四五日前より之を作つて夜も其中に入つて臥し、終夜木で作つた角器を吹鳴すとあるを見てもわかる。此日の爲に雪城を作る風は、又越後の小千谷《をぢや》邊にもあつた。高さ六七尺徑三間ばかりの雪を蹈み固めた壇であつて、其中央に杉の木の柱を樹てると云ふ（北越雜記十八）。此地方でもやはり此式を齋神《さいのかみ》祭と謂ひ、柱の飾をオンベと稱し、前後の手續は殆と伊豆のものと異なつた點が無いが、只その雪城が子供小屋の用を爲したか否かはまだ明らかでない。尤も此國にも此日小屋を作る風はあつた。例へば長岡領の土俗を記述した北越月令に、「今｜野田《のでん》にて湯茶を沸す料に竹木を三本寄せて※［ｘの真ん中に縦棒ある形］此の如くするをサンギチャウと呼ぶは左義長の訛ならんか。幸神の小屋の形容全く之に同じ」とある。信州北部の寒い地方でも、正月十五日のドンド又は道ロク神と稱する注連燒の時に、(15)雪小屋を作るは子供の事業だと、栗岩君の下水内《しもみのち》郡誌に見えて居る。雪中の小屋の義か、雪を固めて作つたといふことかは知らず、兎に角に此日は小屋を作ることが、地方到る處共通の風であつた。

　さて此小屋の本來の性質を知る爲には、先づ以て昔の禿倉《ほくら》（又は寶倉）の成立ちを考へねばならぬ。今日のホコラはたゞ社の極小なもので、小祠などと云ふ漢字を宛てゝも當るやうに認められて居るが、其實は一時的の、移動自由な神の坐所で、寧ろ我々の神輿と云ふ者に近かつたのでは無いかと思ふ。諏訪の御神の穗屋野の神事などを始めとして、祭の御旅所は多くは假屋であるが、殊に一定の神域を持ちたまはぬ神を、折々の必要に因つて祀る爲には、社殿を常設して置く手段も理由も無いから、祭事の終りを告ぐると共に、急いで祭場と祭具とを始末する爲に、清い流れに流すに非ざれば、則ち淨い火で燒棄てるのは自然である。後に祭の地が略々一定して耕作採取の徒が之を侵さぬやうになつても、祭はやはり一時の事で、平日は所謂障らぬ神として置く故に、ホコラは直に片付けてしまふのが本意であつた。東京の近村で初午の頃、古塚の上に作る御幣を覆ふだけの藁のホコラ、或は農家の屋敷神に一年に二度又は一度、祭に先だつて新たに拵へる萱や藁の屋代《やしろ》などは、必ずしも後で燒きも流しもせぬが、其時限りに捨て置いて朽廢に任せるのは、祭終つて神輿をしまふのも同じことで、佛教のやうに殿堂に重きを置かなかつた古い習慣である。道祖神祭の藁小屋も、此一例であつたかと思はれる。駿州沼津のオンベ燒に、道祖神の宮と云ふ四輪の車の附いた小さな祠を、此日ばかり曳出すことは山中翁の記録にある。同翁の話に依れば、甲州でも此通りで、此日だけは取出して所々を曳廻した上、子供の集合する家の前に置き、祭が終れば再び組々に於て之を藏つて置くと云ふ。外の地方にも往々ある例であらう。羽前田川郡では之を歳堂《としだう》と言うた。此は舞臺やうの物で、年々收藏し、正月十五日に取出して道祖神を祭る。道祖神の御神體は削掛けであると云ふ（風俗畫報六四）。この奇異なる御神體こそは、サイマダともホイタケ棒ともダイノコとも、古くは又卯杖などとも云つた物と同じであつて、その由つて來る所は既に知る人が多いが、少年が之を振廻して歌ひ囃し、乃至は婦人の尻を打つと云ふが如きは、猶新たに考へて見ねばならぬ點であ(16)る。それは兎に角として、出しては又藏つて置く道祖神の祠を、毎年新たに作るのが即ち前の鳥小屋雪小屋子供小屋である。舊藝州領の左義長などは、他に是と云ふ異なる點もなかつたが、柱には伊勢の御祓などを結ひ附けた者多く、其前に神棚を設け之を神明と名づけたさうだ（藝藩通志四）。鹽尻に記された信州松本の幸神に於では、市井の小童集つて藁を以て御柱の下を圍ひ、且つ童輩の中一人を別當と名づけ、水を浴せて柱の下で之を饗する式があつたと云ふ。是が恐らくは道祖を齋《いつ》いた小屋の中に、子供が留宿して飲食をする最初の趣意で、かの幸神の勸化に、陰相から轉化した削掛けを子供が持ちあるき、さては東都龜戸の道祖神祭に、少年が四尺ばかりの船の形を造り、此に五色の幣を立てゝ家々を勸進したことなど（江戸歳時記）、何れも彼等をして此神を代表せしめた昔の風が窺ひ知られるのである。延寶六年刊行の初春之祝と題する繪本には、さいの神祭の小兒が三寶に大黒天を載せて人の家に持來る圖がある（共古日録七）。秋田の此日の祭には特に擇んだ兩名の幼童に祝言を述べさせた。此例から推及して、此日に限り彼等に無理な物ねだりを許し、自由勝手な享樂をさせたのも、もとは童兒を以て街神《ちまたのかみ》の依坐とし、其機嫌を損ねまいと努めた遺風で、往古の道饗《みちあへ》祭の式典にも、記録はまだ見出さぬが、やはり此の如く年少の別當を設けて、神を代表せしめたかと察せられる。三代實録貞觀七年六月十四日の條にも、御靈會に諸人の私聚を禁じながら、但し小兒聚戯は制の限りに在らずとある。

　道祖神勸進の子供等が、何かと云ふと聞くに忍びぬ惡體を吐き、又は道行く女などに雜言をすることも、千葉笑ひ又は惡體祭の類例を考へるときは、さして突飛なことゝも言はれない。知見の狹い田舍者であれば、神を帶びても高尚な託言は出來ぬ筈で、況や信力漸く衰へて後、祭の日の自由を濫用して平生の鬱憤を散ずるとすれば、その言ひさうな事はきまつて居る。おまけに道祖神は和合雙體の神であつた。以前其神託を敬聽した時代ですらも、單純なる人の知らんと欲する事項は、食物のことか産育のことであつたらう。殊に男女の私事に至つては、今でも教育の無い者はわざと無邪氣な子供に言はせて笑ひ興ずる風がある。此祭の猥褻になり易い傾きは此の如く多いのである。それか(17)ら今一つ考へて見ねばならぬことは、トンドの行事と若連中制度との關係である。祭の前幾日の間少年を家庭から引離して、小屋又は一定の寢宿に集合居住せしむることは、單に祭に必要なる物忌と云ふ外に、まだ何かの事情が有つたのでは無からうか。殊に少年の團體を年齡によつて區分し、最近に元服せんとする十五歳、又は十四歳の者を中堅の役者とすることは、或は新たに道祖神の神秘を與り知らしむるの手段として、特に此機會を附與するので、即ち童男を此神の口寄せとする根本の理由を暗示するものだつたかも知れぬ。盆にも踊りの爲に、否寧ろ歌垣の趣意を以て、若い衆の小屋を作る地方がある。或は改良を經て今では青年會の本部になつて居る、もとは村々の寢宿と云ふものがあつた。前年土佐西部を旅行して田圃の中に此類の小屋を目撃したが、牀下が人の丈ほどもあつて、外形は南島の穀倉などと稍々似て居た。猶進んで攻究して見たならば、祖先の死靈を祭却して邑里の境を安ずる春秋の火祭と、部落の後繼者を男にする神秘の儀式との間に、柱及び道祖神の思想を中にして、然るべき因縁の存することを發見し得るかも知れぬ。

　最後にこの正月望の夜の祭の名に就いて一言すれば、ドンド又はトンドと云ふのが近世は最も弘く用ゐられて居る。火の燃える音を形容した囃しの詞から出たとも見られるが、事によると遠戸《とほど》即ち外側の境と云ふことかも知れない。外側とは即ち村に屬する山野の他村に接する所で、疫病神や蟲の神などは多くは此地點まで送られた。七種薺《なゝくさなづな》のトオドの鳥も亦是で、唐土は只の宛字らしい。此火をサイトと云ふ地方もある。柴燈などと字には書いて居るが、或は亦｜道祖土《さへと》かも知れぬ。左義長と云ふ語の由來に就いては隨分八釜しい説も提出せられたが、自分はやはり徒然草の、「サギチャウは正月に打ちたるキチャウを眞言院より神泉苑に出して燒き揚ぐる也云々」とある舊説を、舊いだけに信用したいと思ふ。キチャウは毬杖又鞠打等の字を古く用ゐ、小兒が毬を打つて遊ぶ木の槌である（骨董集）。後世に至る迄專ら春の初の遊戯であつたが、是が正月禁中の眞言院に於て執行はれたと云ふのは、やはり當時は年占に用ゐられて居た爲では無からうか。近い頃まで破魔弓羽子板と併べ稱せられ、初春飾弓の名になつてしまつたハマと云ふ遊戯(18)なども、地上の木の圓板を轉がして側から弓を以て射止め、ハマ即ち圓板の止まつた場所に立つて相手の方へ打返し、一進一退に由つて勝負を決するものであつて、弓矢を用ゐる代りに杖の如き物で打止める場合にもやはり之はハマ投げと呼んで居た。部落間の年占の爭ひには最も似つかはしいものであれば、毬杖は或は之とよく似た儀式であつたかも知れぬ。例へば三州豐橋の神明宮に於て、正月十四日執行ふ榎玉の爭と云ふ神事などは、正しく此類に屬する嚴重の年占である。社内の榎木を切つて周一尺五寸乃至二尺ほどの木球を作り、カン地方《ぢかた》、フク地方と稱する二人の男、榎の枝を以て作つた鉤を手にして神前に於て此玉を奪ひ合ふ。カン地勝てば雨多くしてカン地豐作なり、フク地勝てば之に準ずとあれば（三河吉田領風俗答書）、前者は山田畠方を代表し後者は濱添の低田を代表した者と見える。昔の眞言院内の毬打の式も、多分は此に似たもので朝家民を恤れむの政に、其年の豐凶を卜したまひて後、禍津日の靈を其用具に被《かづ》けて、例の如く神泉苑の岸へ送り棄てられた所から、此と趣旨を同じくする後代の柱の祭も、同じ名を以て呼ぶに至つたのであらう。只何故にサキチャウ又はサンキチャウの頭字を附したのかは、遺憾ながらまだ私には説明が出來ぬ。

　

(19)　　　　　龍燈松傳説

　

　盆の燈籠は、やはり柱松の行事と系統起原を同じくするものであらう。角な切籠《きりこ》が廢れて、圓い岐阜提灯が多く行はれると共に、今では軒に吊すのが盆燈籠の常の習のやうになつて居るが、昔は是も高い柱の上に掲げたものであつた。明月記寛喜二年七月十四日の條に、長竿の末に紙を張つて灯樓《とうろう》を附けて立つる風、次第に流行すると云ふ記事は、松屋筆記其他の隨筆類に引用せられて既に有名である。而も鬼貫の發句で世に知られた播州｜伊丹《いたみ》の高燈籠の類は、近世になつても決して珍しい例では無かつた。例へば百年前の秋田の風俗答書にも、七月には三丈四丈の伸良き丸太を立て、其尖に燈籠を揚げることを述べ、新佛ある家で三年目まで、其後は七年十三年と年囘毎に立てるもあれば、年々立てる家もある。七月は朔日に始つて晦日に至る。大抵一町内に三四箇所は必ず立つ故に、高い處より望めば星の林のやうだと言つて居る。柱の構造としては、尖端に近く横木を結ひ附けて、三角に繩を張り幣《しで》を切掛け、三角の角ごとに杉又は笹の葉を附け、燈籠は其横木に吊るすのだとあつて精密な挿畫があるが、山中笑翁が明治二十年の七月三十日に、相模平塚の附近を通行して、目撃せられたと云ふ農家の高燈籠の見取圖が、不思議なほどそれとよく似て居る（共古日録十九）。即ち此も亦繩と横木を以て三角形を作つて兩端に杉の葉を附け、燈籠は其下に吊したものである。而して以前江戸市中に於て立てたと云ふものも亦殆と同樣であつた。昔々物語に、「昔は御旗本衆死去し其年七月高燈籠と云ふ物を立る云々。大方七囘忌まで毎年立るもあり、七八間ばかりの杉丸太の上に三角に甍結ひ、杉の葉にて包みしで〔二字傍点〕を切りて附け、燈籠は辻番の行燈なりに、上へ開き下つぼませ、屋根は板にて拵らへ、玄關と臺所との(20)間の廣き所に立つ。七月朔日より晦日まで毎夜暮六つより明六つまでとぼす。一向宗にては見ず、他宗は皆々此の如し、見分哀に見ゆるなり云々」。今から略々二百年前の事を述べたもので後は絶えたやうに見えるが、必ずしもさうでなかつた證は十方菴の遊歴雜記初篇にある。即ち青山百人町に住する與力同心などの組屋敷では、それから尚百年の後まで七月中此柱を立てゝ燈籠を點《とぼ》し、之をば星燈籠と呼んで居た。家々柱の高きを競ふ故に遠くから見えて壯麗であつた。是は八代將軍目黒御成の歸途に此光景を賞せられ、一統の者に銀を下された。それより愈々古例となつて永く殘つたと云ふ。之を以て推測すると、少なくも市中に於て揚燈籠の風が衰へたのは、經費が次第に多くかゝつて、箇人の所作に適しなくなつた爲であるかと思ふ。

　盆の聖靈祭が家々別々の祭となつたのは、さして古い時代の事で無かつたらしい。所謂三界萬靈の中から、各自有縁の亡者を持分けて供養することになると、柱松の設備は成ほど些し大規模に過ぎるやうである。木材も人手も有餘る片田舍で無ければ、富豪大身の他は、其入費の負擔に堪へなかつた筈である。是に於てか或地方では、此點ばかりを永く部落の共同事業として、個人主義の新念佛道との不調和を來し、他の地方では之に代ふるに門火や軒提灯の略式を以てし、何れも次第に柱祭の古い思想から、遠ざかるに至つたものであらう。然るに茲に一つ、偶然にも都合のよかつたことは、所謂檀那寺の仲介と調和とである。御寺は個々の檀家の信仰上の代表者として、祖師檀の片脇などに、家々から多數の位牌を預つて置いて供養すると同じく、個人の獨力では實行し難いこの柱祭の任務を、一手に請負うて勤めたものらしい。是は單に盆の柱祭のみでは無かつた。葬式の跡始末でも、春秋の彼岸の施餓鬼でも、何れも個人が父祖を追慕するの情を傷ふことなしに、昔の�視S驅逐の術を完成し得た故に、常に村の爲に有用であつたのである。此號に阿波の遠藤君が報ぜられた眞言寺の招き旗なども、現に陸中遠野郷の村々では、今なほ新盆の家では家々に於て之を建てること、恰も他の地方の五月幟と同じやうである（遠野物語序）。西京では大和大路四條の東南の角に、眼疾地藏を以て有名な仲源寺の如き、毎歳盆には門前に揚燈籠を燃した。山州名跡志には其由來を説明して、(21)此邊は慶安の頃まで農村であつて、此寺が恰も村の總堂（墓所？）であつた爲に、此種の遺風が存するのだと云つて居るが、それだけでは寺が其任務を引受けた理由が充分明白で無い。必ず別に個人にも部落にも之を繼續し得なかつた事情のあるものと認めねばならぬ。尤も寺院の境内に高い柱を建てることが、新たに柱祭の委託を受けた時に始つたか、はた又朝鮮の刹柱などの如く寺には古くより柱を立てる風があつて、其爲に村の總代として此儀式を行ふに好都合であつたのかは、決して容易に決し得べき問題では無いが、兎に角次に言はんとする諸國の龍燈松の傳説、多分は其傳説が意味するらしい寺々の高燈籠は、御靈會即ち集合的聖靈送りの衰微、竝に之に伴つて盛になつた佛教の個人主義と、深い因縁のあるものに違ひない。

　柱松と高燈籠と、假令同じく中元の習俗であつたにしても、一方は騷々しい破壞的事業で他の一方は美觀を專とする靜かな行事であれば、或は二者を一括して論ずるのを不當と考へる人があるかも知れぬ。此は自分の説の出發點だから確かにして置くが、其非難は恐らくは?燭の普及せず燈蓋《とうがい》の工夫せられなんだ時代を想像したら、容易に消滅するだらうと思ふ。語を換へて申せば、二種の柱の火の相異は、單に篝火と軒行燈、又は松明と提灯との差別である。簡便に高い處で火を燃して置く方法が無いから、大袈裟な傘や酸漿《ほゝづき》を造つた迄である。其目的は生きた人間に對するものから類推しても知らるゝ如く、暗夜の道しるべに他ならぬので、此用途に向つて時代相應の人の智慧を働かせたのである。此説明は尚進んで柱と天然の樹木との關係にも適用し得られる。高燈籠の頂點に杉の葉を附ける風は、柱の材木が杉丸太であることゝ考へ合すべきものであらう。即ち柱は單に高い處へ燈火を達せしむる手段であつて、天然の喬木があれば之を用ゐたのが本意であらう。此點は折口君も既に言はれたから詳しくは論ぜぬが、我邦の神木崇敬を批評する人たちには、是非とも一顧を煩はすべき事柄である。

　諸國に數多くもてはやさるゝ龍燈松、又は龍燈の杉の傳説が、概ね大社舊寺の縁起と終始して居るのは注意すべきことゝ思ふ。全體縁起と名の附いた昔話には型に嵌《はま》つたものが多く、殊に漢文を以て書かれたものに至つては、殆と(22)一歩も元亨釋書の外へ蹈出さぬのが通例であるが、それにしても本尊の靈驗乃至は開祖の道力と、必ずしも適切な關係が無いのに此松此杉が無ければ寺門の格式を墮しでもするかの如く、競うて一本の名木を稱讃するのは、單純なる流行とは認めにくいやうである。蓋し龍燈と云ふ漢語はもと水邊の怪火を意味して居る。日本でならば筑紫の不知火河内の姥が火等に該當する。時あつて高く喬木の梢の邊を行くなどは、怪火としては固より怪しむに足らぬが、常に一定の松杉の上に懸ると云ふに至つては、則ち日本化したる龍燈である。察する所五山の學僧などが試に龍燈の字を捻し來つて此燈の名としたのが最初で、龍神が燈を獻じたと云ふ今日普通の口碑は、却つて其後に發生したものであらう。各地の山の名に燈籠塚山、又地名として燈籠木などと云ふのがあるが、龍燈松の昔の俗稱は多分それであらうと思ふ。

　此推測の果して當つて居るか否かを確かめる爲には、第一に龍燈出現の期日の有無を調べて見ねばならぬ。尤も人が龍燈と云ふ物の中にも、夏秋の交大小多數の火が螢などの如く水邊より出て四方を飛んであるくと云ふのがある。近刊の入間郡誌に八十歳の老人之を記憶すと云ふ同郡｜小畔川《をぐろがは》の龍燈、長久保赤水の東奧紀行等に記した磐城四倉《いはきよつくら》の龍燈、さては越後野志卷十四に龍燈天燈と題して各地に多くありと云ふものなどはそれである。佐渡の根本寺に於て或浪人が弓を以て射留めた龍燈は、實は大なる鷺であつた（松屋筆記七十八所引、佐渡奇談）。此等は龍燈と云ふ漢語の本の意味に合致するもので、不思議は不思議ながら要するに一種の天然現象である。之に反して毎年特定の一夜又は數夜、特定の木の上に來て懸ると云ふ龍燈に至つては、即ち人間界の不思議と言はねばならぬ。近い例から擧げると、江戸名所記には東郊｜木下《きね》川淨光寺の藥師、毎月八日と元三《ぐわんさん》の朝と、本尊の前に龍燈揚ると云ひ、別に木下川藥師縁起の一篇があつて、嘉暦二年といふ青龍出現の瑞相が重くるしく説立てゝある（柳菴隨筆九）。下總印旛沼附近の天竺山龍角寺の龍神社では、毎月朔日十五日二十八日の三度、燈火此沼の百丈穴より飛上つて社頭に懸つたと云ふは（相馬日記）あまりに律義な龍燈である。常陸筑波山の龍燈は五月の晦日の晩揚り、其月小なるときは二十九日に揚つた（一(23)話一言補遺）。此等は皆龍神の手元に其年の暦が無い限りは一寸守り難い約束であり、新暦の今日はどうなつたか聞きたい。此類の期日の中でかの柱松の行事を思合さしむるものは七月と十二月の龍燈である。阿波那賀郡｜見能林《みのはやし》村の津峯權現と、同郡加茂谷村舍身山大龍寺との兩所は、何れも除夜の晩に山の頂上へ龍燈が上つた（阿州奇事雜話一）。大龍寺には龍燈杉と云ふ山中第一の名木があつたのを、大佛殿建立の爲に豐太閤の時に伐つたと言へば、今では其龍燈も昔話であらう。能登｜鳳至《ふげし》郡｜穴水郷《あなみづがう》に鎭座する最勝森住吉神社は、一名を龍燈社とも呼ばれた。毎年十二月晦日の夜、龍燈の奇事があつた故に此名がある（能登國式内等舊社記）。龍燈の奇事とは奇現象か、はた奇習俗か、社傳にも之を詳かにせぬと見える。更に七月の例を言ふと、紀州で有名な紀三井寺では、爲光上人大般若書寫の功成らんとするとき龍女化現の奇異があつた。其時の約により毎年七月九日の夜、本堂の艮《うしとら》五町ばかり千手谷の松間に龍燈が現はれたと云ふ（續風土記十五）。此等の高燈籠は果して龍族の寄進するものと當初から信ぜられて居たのか、或は單に昔あの邊に燈籠が揚つたと云ふだけの言傳へに、斯る荒唐なる説明を附したものか。勿論此だけの材料では決し兼ねるが、特に一定の日を期して此事のあつたと云ふ話は、自分の如く解釋するのが、自然では無いかと思ふ。越後南魚沼郡八海山の頂上には八海明神の社がある。麓の里に住む人々は毎年七月晦日の夜は登山參拜して一宿する習であるが、此夜山から麓の方を下し臨めば、數十の火が燈の如く連り聯綿として山中に飛來るを見る。土人は之を八海明神を遙拜する山下諸邑の人の捧ぐる燈が自ら飛來るのだと信じ、因つて其夜は諸村の者も戸毎に燈燭を捧げて八海山を遙拜する。飛火に大小があるのは捧げる燈の大小に由ると云つて、各人燭の大なるを競うたと云ふことである（越後野志）。此話も亦寺々の龍燈と同じく、何れの點までが神秘で何れの點迄が實際生活であるかを區分し難いが、此夜が恰も神を送るの季節であつたことを考合せると、信仰ある者の夜目の迷ひにも若干の因由が無かつたとは言はれぬ。

　之を要するに自分の解する龍燈松は、天然の樹木を利用した柱松の故跡である。而も此が又柱松の本然の形式であつた。但し人が喬木の梢に燈火を掲げたと云ふ例證は不幸にしてまだ見出さぬが、略々其光景を伺はしむべき昔話も(24)亦殘つて居る。例へば美作久米郡稻岡北庄の※［木＋ﾗｲ］社山《とちこそさん》誕生寺は、法然上人誕生の舊地である。寺の東南五十町ばかりの地にある龍燈松は、一名を篝松《かゞりまつ》と謂ふ。弘治年間のことであるが、此松の邊に神燈?々現れた。住持玉興なる者夜々來つて經を誦し居ると、一夕恍然として故上人が此樹上に現ずるを見た。彌陀の名號を唱ふること十餘遍、玉興拜して之に和す。少時にして冉々として天に昇る。後人時々異光を見る者多かりしより、此木を龍燈松と名づけたと云ふ（作陽誌）。此話は前に掲げた平家物語の一説とすこぶる似て居る上に、篝松の名は其火の曾ては篝であつたことを思はせる。備後深安郡の深津と云ふ所に燈明松と稱する古木が今もある。福山侯入部の當時埋立新田を拓いて鹽崎明神を祀り、松は其時其社の傍に栽ゑた木である。世人此樹の下に燈明を點し八百萬の神を祀りしより、燈明松の名が出來たと云ふ（大日本老樹名木誌）。樹下と云ふことは果して誤聞で無いだらうか。尚彼地の人に訂したいと思ふ。瀬戸内海の埋立地には往々にして龍燈木の話がある。水に近いから龍神の縁が深いと見ればそれ迄であるが、何か別に此類の開作に住む者に、永く柱松風の祭典を營むべき特殊の事情があつたのでは無からうか。殊に八百萬を祀るとあつて、鹽崎明神を祭ると言はぬのは意味があるやうに思ふ。

　柱の天然の樹木との關係を説いたついでに、一つ最近の見聞を附記して置かう。此まで汽車で東海道線を通るたびに心附いて居たのであるが、美濃の西部大垣驛の前後に二三ヶ所、高い松の梢上に赤色の旗を立てた村がある。もとは天氣豫報の標幟であらうと思つて居たが、今度の旅で此地方出身の今西龍君に聞いて見ると、全く一種信仰上の物であるらしい。今西氏は曰く、自分は美濃でばかりすることゝは今まで心附かなんだ。日清戰爭の頃にふと何れかの村でやり始め、追々に之に倣ふ者が出來た。村の中でも最も高い木を擇び、非常な骨折を以て攀ぢ登り、あの赤い旗を頂邊の枝に結はへ附けて來るので、もとは戰捷祈念の意味を以てしたものらしいと。此習慣はどう考へても突如として起るべきもので無い。從前樹木に旗を立てゝ祈念する風があつたのか。或は又柱に旗を附けて立てる風のみあつて、高きを競ふ極、此の如き樹梢を利用することになつたのか。赤色は何を意味するか。何れも更に揖斐地方の人に(25)尋ねたいものである。柱の燈と柱の旗とは、至つて密接な關係を有して居るかと思ふ。夜の祭の柱松に對して、我々は尚晝の祭の旗鉾を、講究して見なければならぬのである。

　

(26)　　　　　旗鉾のこと

　

　武江年表寛延年間の記事に、「此時代より開帳場神佛によらず幟を立ること始れり」とある。北靜廬は之に頭註を加へて、「操外題年代記享保十六年五月國姓爺三度目、天滿の贔屓組より芝居の表に幟を立ると云へり、稍々古くより稀にはありしなり」と記して居るのは（國書刊行會本）、ちと疝氣《せんき》筋な訂正である。興行物の景氣に幟を立てたのは、或は近世以來の流行かも知れぬ（又さうで無いのかも知れぬ）。而も神佛の祭祀に幟を立てると云ふことは決して新しい思附きでは無かつたのである。ノボリと云ふ語義の穿鑿は他日の事として、幟は要するに旗の一種である。今日の幟は乳《ち》を附けることが始まつて後益々長くなつたが、其以外に何等特殊の起原を有するものとは思はれぬ。旗の乳は畠山政長に始まるとの説は（柳菴隨筆引、畠山譜）信用できぬけれども、何れは松岡行義も論じた如く（後松日記）、軍制の必要に基づいて大に行はれたものであらう。儀容を隆《さかん》にする爲又は色と形?とに由つて所在を知らしむる爲に用ゐられた間は、風にはた／＼と翻へるのも却つて妙であつたが、箇々の紋所又は文字を描いて遠く望ましめんとすれば、片方に乳を附け都合によつては下に鎭《しづ》を附けて、動かぬやうにせねばならぬ。而して今日尚盛に立てられる村々の祭禮の幟、乃至五月幟の類に至つては、既に一種の装飾の如くなつて、我も人も其本意を知らぬ程だから、亦かの雄麗なる軍陣の大旗に模倣したのは自然の事である。

　右の形?樣式の自然の變遷を外にしては、祭に旗を立てることは廣く且つ久しい民俗であつたかと思ふ。山城紀伊郡下鳥羽村中島の眞幡寸《まはたき》神社は、令義解に別雷神の纛《おほはた》の神なりとあるが、月清集には此神に雨を祈つたことが見え(27)て居る（和訓栞）。肥前風土記の此も基肄《きい》郡｜姫社郷《ひめこそのさと》の條には、筑前｜宗像《むなかた》郡の人｜可是胡《かしこ》なる者、幡を捧げて荒神を?り和めた記事がある。近世の事例としては和州三輪神社境内の旗建芝、毎年正月の十日五穀成就の旗七本此に立てられた（大和名所圖會四）。安藝佐伯郡栗谷村大字小栗林の宮原と云ふ地に、人觸るれば祟ありと云ふ石があつた。毎年九月紙の幣を立てゝ祭つたが、其以前は五彩の旗を立てゝ祭つたものと云ふ（藝藩通志五十四）。此等は何れも恐らくは乳を附けた幟では無かつたことゝ思ふ。又地方によつては村々の社の祭に、其幟の高く立派なるを競ふと反對に、小さい紙旗を數多く立てるのを專らとする社もある。鎌倉建長寺内の半僧坊權現なども、今でも盛に紙の小旗を立てゝ居ることゝ思ふ。自分は二十餘年前の春之を目撃したが、遙か手前から參詣路の兩側に眞白になる程立て續けてあつた。三四年前遠州御前崎の駒形大明神に參つて見たのも此通りであつた。此等は諸方から來る信心者の思ひ／＼の志である爲に、自然に右の如き勢力の分裂を來したやうにも見えるが、例へば稻荷の祭などに於ては、一つ屋敷の鎭守を祀るにも之と同樣多くの旗を立てることがある。駿州吉原町の初午には、子供等五色の紙幟を多く拵らへ稻荷のある地持の家々を廻り、之を一本づゝ納めて赤飯の紙包を貰つて行くと云ふ。此外に稻荷を祀つた家の方でも本式の幟を建てるので、初午の前になると幟竹の行商が來る由（吉居雜話）。

　神の祭に旗を立てる風は必ずしも或地方或神と限つたことで無い。中にも稻荷に就て殊に顯著であるのは何か仔細のあることであらう。東京でも初午二午の頃郊村を散歩すると、常は何でも無い塚の上に假初《かりそめ》の祠を新たにして、二尺三尺の木綿幟を幾つか立てゝ居るのをよく見掛ける。狐神を塚に祀ることは近世まで一般の風習であつたが、之と等しい旗立の祭が、他の種の神々に對しても營まれたらしいことは、諸國に現存する旗塚又は白旗塚の口碑から、之を推測することが出來る。此名の塚は殊に東國に多い。就中注意すべきは武藏｜比企《ひき》郡高阪村大字岩殿の旗塚などで、此は戰爭の時旗を立てた所と傳へて數十の塚が併立して居たと云ふ（新編風土記稿）。百年後の今日如何になつたかを知らぬが、此とよく似た同國入間郡高麗川村大字中鹿山のものは現存して居る。此旗塚は一名を經塚とも謂ひ、其周(28)圍五六間乃至十間、高さ三四尺乃至五六尺にして其數三十六、各々喰違ひに二列に竝んで居る。東の方は村落に連る丘の上に立つて南北遙かに原野を隔てゝ入間高麗の二川を望み得る地勢である（入間郡誌）。又東京の近くでは南足立郡｜伊興《いこう》村に白旗塚があつて、八幡太郎白旗を立てた處と言ふが（新編風土記稿）、常陸那珂郡前渡村大字足崎の白旗塚に在つては、同じ將軍が武器寶物を埋めたと傳へて居る（常陸國志）。旗と云へば直ちに軍陣と武將とを想像し、塚と云へば即ち埋藏を説くのは我邦近世の俚傳の常であるが、塚の名の本意はさうでは無いであらう。此類の傳説は、一方現實の旗祭が尚行はれて居る間にも、既に徐に?酵し得る餘地のあるものである。例へば因幡｜岩美《いはみ》郡元鹽見村大字｜箭溪《やたに》は、湯山池の西岸の村であるが、村に荒阪山王の社あるより、爰を昔の荒阪濱なりとする説が認められ、更に神功皇后の故事を傳へて居る。此地には波太《はた》と稱する二つの丘が砂漠の上に竝んで居て、五月端午の日は村民此丘の上に幟を立てゝ祭を行ふ風習があつた。而も尚此山の名の由來としては、皇后凱旋の御時御旗を建てさせられた舊跡で、因幡と云ふ國名も此から出たなどと言うて居たのである（因幡神社考）。ましてや此行事が既に廢絶に歸し、子孫僅かに其地を記憶するのみとなつては、各自が信仰相應の説明を案出するは尤も自然の事である。併し其等の口碑とても丸々架空のものは先づ無いと言つて宜しい。英主猛將が凱陣の旗を立てたと云ふ場合なども、多くは神�ｺの灼然《いやちこ》なるを仰いで居るか、然らざれば其英雄即ち神であつて永く記念の地を神聖視すべき因縁を説くのである。殊に所謂白旗傳説の類に於て、五月五日其他の特定の日に、峯の頂又は樹の梢に白い旗が現はれ、之を見た者は三年の内に死ぬと云ひ（日本傳説集）、又は非常の幸運を得ると云ひ、或は神が白い物を忌みたまふと云ふが如きは、旗の祭に伴うた齋忌の遺風とも見られる。或は所謂落幡傳説の類に於て、天より幡が翻へり降つたと傳ふるが如きは、即ち又古代の神祭に、高い柱の必要であつた所以を、窺ひ知らしむるやうにも考へられるのである。

　旗塚に神功皇后の凱旋を傳ふるものは他の地方にも多いであらうが、山城紀伊郡深草村藤杜神社境内の旗塚は、塚の上に一本の老樹がある。山州名跡志には此木を櫟の大樹と記し、本多博士の老樹名木誌には老?とある。即ち今日(29)も尚現存して居るのである。神后歸朝の後此塚に簇と兵器とを埋められたのは、末代迄も此地が神境として清淨なるべきを豫見せられた故であると云ふ。但し此樹さばかりの老木でありながら、塚の昔語に何等の役割をも持つて居らぬのは寧ろ不思議なことで、他の諸國の名木に就て旗の因縁を説く場合には、普通は之を其梢に掲げたと云ふことになつて居る。例へば東京小石川白山神社の旗櫻は八幡太郎の白旗櫻と稱し、昔此木の下に旗を立てられたと傳へて居る（江戸志）。我々の知つて居るのは勿論植繼の若木である。常陸稻敷郡鳩崎村大字佐倉池平の旗立松は、信太《しだ》小太郎が浮島城を攻めた時旗を此梢に立てたと云ふ。八幡太郎に關する同種の口碑は、亦此國｜行方《なめかた》郡｜大生原《おほのはら》村大字水原にも在つたらしい。義家｜浪逆浦《なさかのうら》に於て暴風に逢うて漂蕩した時に、軍旗が此岸の松にからまつて上陸することが出來たと傳へて居る。下總結城郡宗道村大字下栗、法光寺の境内に在る旌懸松は愈々出て愈々奇妙な話を持つて居る。昔豐田四郎なる者、多賀谷修理亮を攻めて利あらず、居城に退かんとして暫く此地に憩ひ、旗を此松にかけた。然るに多賀谷の追撃急なりし爲旗を取卸すに及ばずして遁げ、其旗今は此寺の什寶となつて殘つて居る。幅八寸長さ一丈五尺程の如何にも細長い品で、白の絹地に五色の絲を以て蟠龍を總?にした光彩燦爛たるものとあつて、甚だ以て軍旗らしくない（以上常山總水）。蓋し旗の用は掲ぐるに在る。之を土中に埋めたと云ふのは雁に事實があつたにしても、軍陣とは直接の關係が無いことである。察する所旗塚の名のみ存してよく／＼何の遺跡も無い場合に、話が其樣に轉じて行つたので、結局は何れも皆、曾て其地に旗を柱又は天然の樹の頂に立てる風習のあつたことを、傳ふるものであらうと思ふ。

　旗を柱竿の尖に立てたことは、旗立石と稱する一二の遺物を以て證し得るが、其前に先づハタホコと云ふ地名の意味を考へて見たいと思ふ。右は全國殊に東部日本に數多い地名であるが、既に久しく其本義を失して居ると見えて、畠福・幡福・畑鉾・甘木《はたふく》などの字を用ゐ、我々が正しいと信ずる旗鉾の字を宛てゝ居るものは半分も無い。越後刈羽郡北條村の小廣田に、旗引山と書いてハタフクサンと云ふ山がある。昔此山に城あつて旗を靡かせたと云ふ口碑を存(30)し、しかも靈妙なる示現をした白狐神の話を傳へて居る（趣味の傳説）。羽後南秋田郡旭川村大字濁川には幡福《はたふく》と云ふ一地がある。天正の亂に尼岡館の主此地に大旗を立てゝ四方の味方を集めたと傳へて居る。今は田であるが百餘年前に耕作の折から朽ちた?《わく》樣の物を掘出したことがある。菅江眞澄は此事實に依つて、此地方にいくらもある幡福又は畠福と云ふ地名は、元來旗?から轉じたもので無いかと言うて居る（眞澄遊覽記三十五）。

　旗鉾と云ふ語の近代の解釋は、旗を取附けた戈と云ふに在るらしい。實際又大小の儀式に用ゐらるゝ旗竿の尖には、鋭利な刃物が附いて居る。併しホコ又はムホコは果して我邦に於て、常に武器のみを意味して居たか否かは不定である。延喜式に左衛門大舍人などの取る卯杖の木をムホコと訓み（和訓栞）、或は鷹の架《とまりき》をホコ木などと云ふを見れば、或は廣く今日の棒と云ふ語に該當する古語であつたのを、いつしか漢字の矛又は戈に限られて、終に其製作の樣式をも變化させたのかもしれぬ。萬葉集十六に、

　　　波羅門《ばらもん》の作れる小田を食《は》む鴉まなぶたはれてはたはこに居り

　此歌は如何にも解しにくい。併し何故に鴉の眼瞼が腫れて居たかは別として、此鴉今日謂ふ所の旗鉾の上ならば、棲《とま》つては居られなかつた筈である。仍て思ふにハタホコは單に旗竿のことであつた。而もそれが旗の爲の竿であつたか、はた又竿にして旗を附したるものであつたかは、尚討究すべき肝要な點である。此も諸國の境の峠などに、鉾立場又は鉾（ノ）木などの地名多く、やはり亦武器の戟を立てたものとは思はれぬからさう考へる。是に於て自分が述べたいと思ふのは、旗立石の話と鉾立石の話と、極めてよく似た傳説の存することである。旗立石の一つは、紀州伊都郡友淵庄清川村の東に在る。織田氏高野攻の時莊司、林の兩家兵を出して此峯に陣し、旗を立てた石であると云ふ（續風土記高野山總分方）。備後｜蘆品《あしな》郡廣谷村大字本山に旗立山城があつて、山に旗立石がある。旗を立てた跡と稱して穴のあいた大石があると云ふ（福山志料引、六郡志）。鉾立石の方は、筑後浮羽郡｜姫治《ひめはる》村大字新川の山中栗木野と云ふ地にあるもの古來有名である。此は景行天皇の御遺跡と傳へ、二個ある石の大なるを御坐石と謂ひ、縱一丈八尺餘横一丈(31)餘厚さは一尺六寸餘で石面が平かだ。稍々小なる方は即ち鉾立石である。石面に鉾の?《いしつき》を立つべき穴が三つある。天皇巡狩の折此石の上に憩はせられ、鉾を此石穴に樹てられたと云ふ話である（校訂筑後志）。紀州伊都郡見好村大字三谷、榊山の南十町權兵衛阪と云ふ處に鉾岩がある。丹生津《にふつ》姫命天野へ御通ひの時の印石と云ひ、岩に鉾の跡がある（續風土記高野山總分方）。此等は八幡太郎旗立櫻などと同じく、或記念すべき一大事件の史蹟として説明せられて居るが、それが舊事を忘却した後の沙汰であることは、猶色々の方面から證明することが出來る。御坐石と云ふは影向石とも降臨石とも休石とも腰掛石とも云うて、今の御旅所御假屋と同じく、祭の時の神の御坐である。此を御坐石と云ふより天皇巡狩の説は起つた。丹生津姫命の印石と云ふのも同じ意であらう。美作｜苫田《とまた》郡西苫田村大字小原字市場に、鉾石又は碓石《うすいし》と云ふ石があつた。社家の説に依れば昔一宮中山神社に神鉾祭と云ふ深秘の神事があつた。世に叛臣あれば此祭を修する習で、嘉承二年源義親謀叛の時にも行はれた。其法は石基を四方中央に安じ、それ／”＼神鉾を其上に建てる、之を五座の鉾石と云ふ。現存する鉾石は、即ち中央の座のものである。石の面に鑿の穴があつて、此穴に溜つた水は疣にも眼病にも效驗があると云うた（作陽誌）。此國｜英田《あいだ》郡楢原村大字楢原上の山王宮には、夏秋二度の祭の初穗を取る藤内某と云ふ家がもと五家あつて、各家に矛殿と云ふ神を齋いて居た。此神即ち一宮の祭に立てる五本の鉾で、藤内氏はその祭式に參與したものであらうと云ふ（東作誌）。一箇の石に三つの穴ある筑後新川村の鉾立石も、此例を推して由來を知ることが出來る。日向東臼杵郡細島町の荒神社に於ては、左の如き言傳へがある。神武天皇東征の御時、此島に御船を寄せたまひ、三つの鉾を立てゝ土人をして祀らしめられた。それより此地を鉾島と呼んだのが、後に細島に轉訛し、三鉾神を誤つて三寶荒神と謂ふに至つた云々（日向案内記）。此説の當否はともかくも、竈の神の三寶荒神は昔三つの石を立てゝ竈を作つたのが起原に相違ない。

　之を要するに穴を鑿り凹めた大石の存在は儼然たる事實である。前述の口碑が夢だとすれば、別に何等かの説明が無くてはならぬ。豐前の宇佐でも小倉山の東の岩に、古來徑一尺二寸深さ七尺餘の穴があつた。是は八幡大神始て鎭(32)座のあつた時、宮柱を立てた穴だと云ふ（八幡宮本紀）。此とは似ても似附かぬ話であるが、熊野の南牟婁都西山村大字赤木、入鹿村との境｜田平子《たびらこ》と云ふ地にある穴は、獄門場の跡と稱し其穴を獄門柱の穴と云うて居る（續風土記八十七）。藤堂家の治世にも茲で罪人の首を梟《か》けたと云ふがどんなものだらうか。武藏都筑郡西谷村大字上星川の釜壇山《かまたんやま》は、頂上に一箇の石塚がある。其最上部の石には亦丸き穴が穿たれて居て、富士の狩の時に茶を立てた釜壇の石だと傳へて居た。此石の苔を採つて呑ましめると風邪や咳の病が治る。御禮には竹の筒に酒を入れて捧げると云ふ（新編風土記稿）。之に伴うて思ひ當るのは、上總君津郡關村大字關字姥石に存する奇石のことである。高さ約八尺、周圍二十八尺にして形八角、上面に穴がある。中古此地に關門あり、此は其礎の石で、もと路傍に二つあつた。其名を關の御場石と謂ふ。曾て道路改修に際して其一箇を取除けた處が祟があつた。仍て殘る一箇を南方の山上に安置して石凝姥命《いしこりどめのみこと》を祀り之を姥神と名づけた。此石百年の間に重量殆と十倍したと云ふことである（上總町村誌）。神を姥神と呼ぶのを見ても御場石の説は怪しいものだが、有名な關寺小町を始として、老女を邑境に祭る例は多い。其關の姥神から轉じて、咳の御婆さんなどと云ひ、咳の病を祈るは是亦普通のことである。或は又此類の遺物を留めた昔の世の柱祭が、概ね巫女に由つて管理せられたことを、推測せしむる材料であるかも知れぬ。播州姫路には今も斯な話が傳へられて居る。加藤清正此城の石垣を築くに、積めども／＼一夜の中に崩れてしまふ。然るに或夜名も知らぬ老婆來り、碓のやうな小さい石を其石垣の上に置いた。それより石垣が崩れぬやうになつた云々（故郷見聞録）。此城は刑部樣《をさかべさま》と云ふ女神を地主にして居る。碓は即ち作州小原の鉾石の類だつたのであらう。豐後大分郡の星嶽さては日向の霧島の類、鉾を立てゝ鎭座の祭をした例は隨分と多い。只問題は其鉾が當時は旗を附した旗鉾であつたか否かと云ふことである。自分は前掲の理由を以て旗立石及び白旗塚等の古俗を説明せんと試みた。其鉾と祇園其他の祭の鉾、若くは所謂踊戈との關係に至つては、章を重ねて猶詳しく説かねばならぬ。塚に柱を立てた古來の習俗は此だけではまだ盡したとは言はれぬのである。但し前にも言うた如く、柱の頂點に於て火を燃すことは、火の光を高く掲げる爲に柱を必(33)要としたのでは無く、柱の所在を夜來る神に知らしむる爲であつたことは、日中の柱に旗を附することを思合せるとほぼ疑が無い。陸中遠野では盆に今でも此やうな旗鉾を立てる（遠野物語序）。其旗は赤くして小さい。阿波にも之とよく似た招き旗があると云ふ。海上に於ける艦船の信號などは、今でも旗と燈とで晝夜を分つて居る。航空機が將來盛んになれば、必ず再び柱の大に用ゐられる時が來ることゝ思ふ。

　

(34)　　　　　大柱直

　

　明治四十一年出版大畑匡山著「日本奇風俗」と題する一書は、主として材料を雜誌風俗畫報から得たかと思はれるが、其中に磐城石城郡窪田村大字｜九面《こゝつら》の上元風習を記して、此國境の小村落に於ても當日に先だち、十四五歳以下の少年酉小屋を設けて之に集まることを詳述して居る。九面の鳥小屋は小屋と云うても單に山の麓に掘つた穴倉であるが、小兒等は別に長さ二間徑五寸程の松又は栗の角材と、周七八寸ほどの青竹とを小屋の傍に用意し置き、十四日の晩になると一同之を擔いで村中を一巡し、殊に前年新婚のあつた家々から金品を貰ひ集めて元の小屋へ還つて來る。其青竹は上端に葉を少し殘しそこへ幣束を結び附けたもので、是を盆傳《ぼんでん》と云ふとのことである。自分の見る所では、右の盆傳は文字はちがふが通例梵天と書くのと一つの物であつて、大きな御幣を附けた柱のことである。古くは「おほぬさのひく手あまた」などと言うた大麻《おほぬさ》も亦是で、即ち名實共に正月十五日に立てられるオンベ竹と、同じものであることを示して居る。今囘は些しく此方面から、考察を加へて見たいと思ふ。

　ボンデンと云ふ語の意味に就ては、折口君にも未だ定説が無かつた。大槻博士などは、梵天に奉る意と言はれたが（言海）、其説の如く修驗道の專用物であるか否かも疑はしいのみならず、又特に梵天にのみ捧げたと云ふ證據が無い。無造作に過ぎた解釋である。喜多村信節の説はボンは棒のことテンは手で即ち棒手であると云ふのであるが（嬉遊笑覽十一）、是亦當つて居るとも思はれぬ。しかし語義の解釋は機會次第のものである。いつかはゆくり無く明白になることがあらう。それよりも幸ひ各地に實物實用の存する間に、其性質をとくと比較研究して置くことが肝要である。(35)自分は一昨年、相州｜秦野《はたの》の西端に於て、一の梵天の祠と云ふを見た。小さな石の神で普通と異なる所も無かつたが、其四方に一間ばかりの間隔を以て四本の青竹を立て、それへ注連繩に紙の垂《しで》を掛けて張つてあつた。東京などでは梵天は神の名では無くして、大きな幣束のことである。近世主として之を用ゐた者は石尊參りと稱して相模の大山を信心する者であつたが、以前は必ずしも此社に限つたことで無かつたやうで、寛文五年十一月、町觸を以て、「町中にて山伏｜行人《ぎやうにん》のカンバン竝にボンデン、自今以後出し置き申すまじき事云々」と定められたにも拘らず、猶山伏共が法螺を吹いて之を持廻る者多く、それが白旗塚の傳説によく出る五月端午の行事であつたと云ふ（嬉遊笑覽十一）。尤も此時代のボンデンは單純な一つの大御幣では無かつた。棒の上端に藁苞を取附け、それへ澤山の幣を挿すこと、恰も農家で魚の串を多く挿込むベンケイと云ふ物の如く、家々に其幣を配つて軒に挿させ錢を貰つたとある。しかし勿論此差別あるに依つて、同名異物と見ることは出來ぬ。現に下總印東地方に於て、羽黒行人が築造する梵天塚の三本のボンデンも、亦右の辨慶形で、五色の紙で作つた御幣を之に挿し込んだ。多分は此地方でも小さい幣を關係者に頒つのが本の趣旨であつたらうと思ふ。もし然りとすれば後に言はんとする稻荷山の杉・伊豆山の梛の葉の如く、信者が神木の枝を折つて行く風習と、著しく類似する點があるのである。

　ボンデンが梵天帝釋尊と關係のある語で無いことは、まだ如何樣にも證明することが出來る。例の眞澄遊覽記の卷二十五にも、羽後南秋田郡｜富津内《ふつない》村大字下山内の金剛寺の境内、延命地藏堂の前に梵天が立てゝあつた、高い棹の上に幣が取附けてあつたとある。同じ人の筆に成つた此地方の地誌にはボンデンの記事が猶多い。例へば同國平鹿郡醍醐村大字下樋口の辨財天の池に於ては、三月十七日辨財天の神事を終つて、其翌十八日に沼祭をする。其日は初壻又は新たに家作りし人又は他處より此村に來て始めて住附いた人は、梵天と云ふ大幣《おほぬさ》を池の深みへ持つて往つて立てねばならなかつたと云ひ（雪之出羽路十一）、其圖を見ると水上にかのベンケイに似た藁苞を附けた棒が立てゝある。此地方では、一にこれを御指棒とも呼んで居た。同じ郡八澤木村大字八澤木字塚巣に梵天塚と云ふ塚があつた。保呂羽《ほろは》(36)山權現御遷幸の時に大幣の立つた處で、俗に大御幣を梵天と云ふ故に、此塚の名が出たのである。南秋田郡寺内村大字｜八橋《やばせ》（矢走）の日吉祭の大幣を、久保田（今の秋田市）邊の人は御指棒と云ふが、八澤木に於ては同じものを御正體《みしやうたい》と云ふ。しかしボンデンと云うても雙方共に通用する云々（雪之出羽路四及び五）。ボンデンを又御正體とも云ふことは、此物が種々の神の祭に用ゐられる事實と共に、自分の頗る重要と認むる點である。梵天塚と云ふ塚の名は各地に在る。而して前の保呂羽の梵天塚の話を以て、東上總の行人塚が羽黒のボンデンの爲に築かるゝと云ふ事實に考へ合すときは、塚は却つてボンデンを樹てる爲の盛土であつて、恰も旗立鉾立の爲に石に穴を穿《ほ》るのと擇ぶ所なく、偶々古墳にして同じ名を負ふ者の如きは、天然の巖石を利用した場合と等しく、之に據つて土工の勞を省いたのであらうと云ふことが想像し得られるのである。

　ボンデンの語義を解釋する一つの鍵は、播州揖保郡の柱松の柱を、一に又｜保天武《ほてむ》とも謂うた事である。和訓栞に曰く、「伊豫のあたりには手火松のことをホテといへり。火手の義なり」と。手火松は松明のことであらう。中元の柱松と上元の左義長と、火祭の由來が本來一つであつたとすれば、前に出した、磐城九面の盆傳は播州の保天武と共に、右のホテと云ふ語を以て一齊に説明し得るやうであるが、しかも和訓栞の火手の説には、猶牽強附會の疑ひがある。現に同書の次の條にも、「ホデ、藁にて造り魚などをさす物なり、帆手《ほで》の義なるべし、江戸にて辨慶と呼ぶ、かの七つ道具を負ふに似たる也」ともあつて、此類の説明は、谷川氏時代の學者が無責任に濫發したものである。たゞ梵天の一種たる御指棒と最もよく似た藁苞のベンケイを、或地方でホデとも呼んだのは恐らくは仔細のあることで、俚謠集に採録せられた陸前氣仙郡の虚子舞《ししまひ》と云ふ盆踊歌にも、「旦那樣、前に立つたる白ほで〔二字傍点〕は、立つた柱は白かねに、黄金たるきを引きそへて、しんの闇にも月とかゞやく」とある。此歌は鹿子舞に最も普通な家譽めの一種ではあるが、銀の柱の長者が富貴を聯想せしめた右の白ホデなる物は、或はボンデンの古い意味を示す語ではあるまいか。各地の事例を綜合して見ると、紙の御幣を突端に附することも又は其頂で火を燃すことも、必ずしもボンデンの要件では無く(37)して、共通なる一事は單に柱又は棒を立つる點である。故に若し柱を意味するホデと云ふ語がガンデンの起原であつたならば、此に取附けた紙の垂はやがては旗鉾の旗と同じく、夜の燒火《たきび》に對立する日中の徽章であつたとも解し得るのである。

　塚の上に柱を立てゝ其尖に炬火を擧げた風習は、既に甲州東八代郡奈良原のカリ塚に於ても其一例を見た。是は廣濟寺と云ふ寺の門前で、盆の聖靈送りの晩に執行ふ古式であつた。念佛塚の念佛供養に於ても、之とよく似た作法があつたかと思はれる。香取君の報告に依れば、下總印旛郡の梵天塚なども、昔は坊さんが來て念佛を誦へたと云ふが、今は神主が招かれて來て祭をするとある。念佛供養の際に念佛塚を築くことは、近世までも最も普通のことであつた。越後古志郡栃尾地方では、若者等寒行として三十日の間、深夜に鉦を打ち念佛して社地墓地火葬場等を廻り、其他村内の小路又は橋ある地に立止つて念佛をする。奇體なことには此際祈念する神を富士權現と云ひ、潔齋の制嚴にして犯せば酷罰がある。瀬垢離《せごり》と稱して川の兩岸へ大綱を引渡し、此綱を傳うて水に浸る勤行などもあつた。三年の行を終ると、僧徒に托して供養塚を築く。大概は父母及び自身の爲に合計九年の寒念佛を勤め、三つの塚を築くのが習であつたと云ふ（北越月令）。但し此場合は神佛兩間の修行が、甚だしく羽黒行人の梵天塚に似て居ると云ふのみで、未だ塚の上に御幣乃至は大松明を立てたか否かを知ることが出來ぬが、遠州磐田郡袋井町の西にある念佛山と云ふ塚などでは、毎年新盆の供養に三間ばかりもある大松明を持つて登つて其頂上に立て、音頭の者其側に在る鉦を打つと、他の人々は手に／＼小さな松明を持ち、其音頭に從つて念佛を唱へながら、其塚の周圍をぐる／＼と廻る。之を大念佛と云うたさうである（見付次第）。之に由つて考へて見ると、關東の諸國に數多い梵天塚の由來は、取りも直さず各地の白旗塚の實際的方面であつて、要するに柱を塚の上に立てる上古からの風習が、時代々々の信仰に由つて彩られて、今日に傳はつたものである。旗と云ひ御幣と云ひ乃至は火祭籠又は傘などと云ふも、言はゞ此柱を莊嚴する爲の部落々々の思附きであつたのを、深く文字に拘泥する所から、それ／”＼別樣の物の如く考へ、終に千差萬別の口碑を(38)發生するに至つたが、結局は鎭守の祭に幟を立てるのも、五月端午に鯉の吹流しを立てるのも、御幣竹もボンデンも、起原はすべて一に歸するものと思はれる。

　塚の祭に旗を用ゐたことは、日本書紀神代卷に紀州有馬村花窟に關する當時の傳説を採録して、鼓吹旛旗歌舞を以て年々の祭祀をしたとあるのが最も古いが、記事の體もあまりに唐樣で、歴史としての價値を定め難いのみならず、果して之を祭の場に樹てたか否かも明白で無い。併し同書推古天皇紀の大柱直《おほはしらのあたへ》の記事に至つては最早疑ひが無い。其文に曰く、「二十八年冬十月、砂礫《さゞれいし》を以て檜隈陵《ひのくまのみさゝぎ》の上に葺く。則ち域外に土を積みて山を成す。仍て氏毎に科して大柱を土山の上に建つ。時に倭漢阪上直《やまとのあやのさかのうへのあたへ》が樹つる柱、勝れて大に高し。故に時の人號けて大柱直と曰ふ」と。此柱が何の爲に立てられたかを勘考して見ると、自然に後世の柱の旗・柱の松明の意味が解るやうに思ふ。加之古代の山陵の周圍にある所謂陪塚の目的も、幾分か此で明らかになるらしいのである。猶此序に一歩を進めて考へて見たいのは、此も書紀以來の古い傳説たる箸塚の由來談である。ハシとハシラとの關係は單に語音の相近いだけで無いやうに自分は思ふ。箸塚と云ふ塚は今も往々にして各地に在り、之に對して又｜端神《はしがみ》或は始神《はしがみ》と云ふ詞、竝に地名も存することであれば、則ち單純に邑落の端に祭らるゝ神及び其祭場と解してもよいか知らぬが、自分は此名の塚に伴ふ一二の口碑と、箸に關する諸國現行の習俗とに注意した結果、此の如く速斷するのを躊躇する者である。崇神紀の箸墓は今の大和國磯城郡織田村大字箸中の路傍に在る一古墳を以て之に擬して居る。我々の感覺には如何にも粗野に聞える倭迹々百襲姫尊《やまととゝもゝそひめのみこと》の物語の如きも、一たび之を山城賀茂の玉依姫が丹塗矢、さては出雲｜佐陀《さだ》の支佐加比姫《きさかひひめ》の黄金の弓箭の神話などに比較して見ると、箸も亦神の占有を表示する一種の齋串《いぐし》であることを知ると共に、神に仕へて神孫を世に遺した巫女最秘の任務が、此の如く説明せられたことを會得する。其箸を築込めた塚であればこそ、「是墓や日《ひる》は人作り夜は神作る。故《かれ》大阪山の石を運びて作る云々」とある第二の傳説も存立し得たのである。近世の箸塚には大和のを始として、多くは長者の廚に用ゐた箸を捨てて埋めたと云ふ傳説がある。取離して考へると荒唐無稽のやうであ(39)るが、農家で箸を重要視すること今も昔の如く、毎年一定の日の神祭に新たなる茅の箸を作つて食物を取り、或は又神聖なる地に成長する茅や葭を以て古名士の箸を立てた遺跡とし二本杉二本樟などの境の木に、日本武尊八幡太郎などの箸を立てゝ根を生じた話を傳ふるが如き、何れもハシと云ふ日本語が昔は家庭の食器のみを意味して居なかつたことを示すものである。人も知る如く、言語は時代と共に追々に分化すべき必要があつた。ハシが食器に限られた名詞となるには、尚一つ重要な理由があつたかと思ふ。今も古風な家では儀式の日に、飯を高く椀に盛つて其上に箸を立てることがある。東京附近では一杯飯と云つて、死者の枕元に供へる飯に限るが、地方に由つて婚禮の日、新郎新婦に食はせる飯にも箸を立てる。伊勢では門神に奉る幣として、小さい木を一寸ほどの紙で包み、之をミツクラハシと云ふ。ハシと名づけたのはツボキと稱して、飯を盛つた器の邊に立てる爲に、之を箸と誤つたので、ミツクラは即ちミテクラであると云ふ（伊勢濱荻一）。備中川上郡の田植歌に、「三ばいもり木は何々、卯の花栗の木萱の箸」と云ふのがある。サンバイは田の神のことで、田植の時｜水口《みなくち》に此三種の植物を立てると云ふ（俚謠集）。此箸なども飯を以て祭つた處から斯く呼ばれたものであらう。飯盛と云ふ塚は、全國に數多く、飯（ノ）山又は飯盛山は舌代から聞えて居る。飯盛の神事に齋串を用ゐたのが、即ち今日の箸に關する種々なる俗信の起原であるかも知れぬ。もし然りとすれば此も亦塚に柱を立てた昔の風俗を傍證するものである。

　

(40)　　　　　諏訪の御柱

　

　旗鉾及び柱松明の祭に於て、旗と松明とは從たるもので、鉾又は柱が主であると云ふ證明に、最も自分が援用したいと思うて居たのは諏訪の御柱《おんばしら》の行事であつた。久しく評判になつて居る諸大家の諏訪研究は今以て現れて來ぬ。迷惑ながら乏少の資料に基づいて一應の見解を述べて置かねばならぬ。御柱の祭は古くから寅申の兩歳、七年日毎に行はれた。自分は未だ其祭の日に逢うたことが無い故、現行の典儀を説くことは能《でき》ぬが、上社下社共に柱の數は古くは八本で、採取の日も場所も一定して居つた（諏訪舊跡志）。柱の木は常に樅樹《もみのき》で、山出し里曳き等の作法は至つて莊嚴なものであつた（諏訪神社史料）。但し今日彼地の故老の信ずるが如く、此祭が桓武天皇の御世から制定せられたもので、本來式年御造營中の一行事であつたと云ふことは、必ずしも確定の説と見ることを要せぬ。此説は事によると柱と云ふ字に重きを置き過ぎた古人の推測に根ざして居るのかも知れぬ。上代信仰の研究者としては、古人と雖多くは我々と同じき後人である。舊跡志の著者飯塚氏の如きは、七年造營の昔の規模を眞實と見た結果、慶長十一年の神殿再建の美擧に對してすら不平を唱へ、「神は新しきを以て悦ばせたまふめれば、七年に當る年毎に新殿に改むべきを、此大神も出雲の如く民の煩ひをおもはして、當時の?《かた》ばかりを遺して、御柱四本四隅に令v建《たてしむる》御心にはありしか、故《かれ》其四本の御柱は、宮殿廣大に可v造形ばかりを表せりと知るべき也」と言うて居るが、是を熱誠なる氏子等の將來に對する希望を表するものとすれば格別、六年一度の新營に於て曾てそれ程の大建築が行はれたとは思はれぬから、五丈五尺の大柱を四隅に立てたのを「當時の?ばかりを遺す」ものと斷ずるのは誤りかと思ふ。

(41)　尤も右の説も由つて來る所が無いとは言はれぬ。守矢文書第五十九號天正六年の起請文には、「諏方上宮《すはかみのみや》七年一度之御修理、年來《としごろ》退轉に就て、舊規を露し仰付けられ候云々」とあり、各卷に延文元年の奧書があつたと云ふ諏訪大明神繪詞の縁起の卷にも、寅申の支千に當社造營あり、官道に新關を設けて經費を徴收し、氏人竝に國中の貴賤人屋の營作を爲さず、材料を他國へ出さず、數十本の御柱上下の大木、一本別一二千人の力にて採用すとある上に、多分は神事以外の失費を節する爲であつたらうが、此年に限つて元服婚嫁の禮を停止し、之に違犯すれば神罰ありとしたことが、今以て此地方の慣例となつて、御柱年に縁組をすると破縁になると信ぜられ、今から二つ前の寅年には甲府の商店までが閑散であつたと云ふが如き（甲斐落葉）、要するに御柱の年は同時に造營の年であつたとは言ひ得るのである。自分は諏訪縁起の傳寫本が如何なる程度に迄南北朝期の眞實を傳へて居るかを知らぬが、少なくも此文書の中には後世の所謂御柱の儀式を記述して居らぬことは確かで、從つて假に今と同じき高い柱が昔も立てられたとしても、それが最初は工作の一部を爲したものか、はた又此年執行はれた祭の式に過ぎなかつたかを、決すべき材料は無いのである。思ふに此間題は、伊勢宗廟の一神秘たる心御柱《しんのみはしら》の由來が、遠慮なく論究せられ得る時代が來たら、之に伴なうてずつと明瞭になることであらう。心の柱とは本來佛塔の中心の柱を意味したもので、漢字の擦《さつ》に當つべき語である（倭名鈔十三）。後世に至る迄も塔の柱を心柱と呼んで居た（百錬抄治承二年十二月條等）。然るに伊勢では之を以て神代紀等に所謂｜齋柱《いみばしら》又は忌柱と同じと見たのは至つて古くからのことで（大神宮儀式帳）、之に基づいて心御柱記、又は豐受天降本記等の氣遣はしき書物に、密教又は五行説を加味した餘分の註澤が續發した（鹽尻六十一）。其類の當否は既に容易く甄別し得る御時節となつたが、猶根原に遡つて我々の知りたいのは、所謂心柱の稱呼は單に用語だけの混亂であつたか、はた又夙くから思想上乃至は儀式上の錯誤をも、惹起しては居なかつたかと云ふことである。所謂齋柱が神殿又は宮殿の新築に先だつて立てらるべきものであつたことは疑が無いけれども、（書紀天磐戸開段）、而も此柱を以て近世の家作りに於ける大極柱《だいこくばしら》と同じ性質のものとする説（諸祭神略記）に至つては、猶幾分か心柱《なかごのはしら》の異稱に拘(42)泥して居るかの嫌ひがあるのである。例に引くのは不倫だと云ふ人があるか知らぬが、尋常民家の普請始めの式に於ても、先づ立てゝ神を祭る柱は式の爲に特に設けたものであつて、建築の一部となつて永く殘るべき大極柱では無いのである。

　そんなら古くから歌にも詠み今も人のよく言ふ「宮柱を立つる」と云ふことは果して何を意味したかと言ふと、自分は又立戻つて諏訪の御柱に關する僅かの古記を捜索して見るの他は無いのである。諏訪の八本の柱は、舊跡志が引用する上下社記に依れば、下社に在つては四月寅又は申の日の卯刻に、之を春宮の東西南北に立て、其より七日を經て他の四本の柱を、寅申の間の刻に秋宮の東西南北に建てたとある。上社の方は幾分明白を缺くが、此も同じく寅又は申の日に一本（二本？）を本社に立て二本を前宮《さきのみや》に立て、其翌日又他の四本を右兩社に建てるとある。地名辭書には多分神祇志料を引いて、拜殿の後なる石窟を神の御座所として、其四隅に大柱を立てゝ祭禮を行ふと記して居る。其實地の?況は祭に逢うた人に就て聞かなかつたのを殘念に思ふが、近代は柱の數が既に半減して、四本になつて居るのでは無からうか。又其柱の高さも元は揃うて五丈五尺であつた如く記されて居るけれども、千曲眞砂《ちくまのまさご》を見ると内一本だけが五丈五尺で、二の御柱長さは五丈、三と四とは四丈五尺に四丈であつて、高さに甲乙あること、恰も硫黄島の御所大明神の柱松明と同じである。同書又曰く、「上社傳説には青龍朱雀白虎玄武の四神を象《かたど》れり、東西南北四方の國固《くにがため》也」と。其説明の當否は兎も角も、少なくも此柱を以て、昔の神殿の規模を髣髴せしむる爲のものとするのは、憚りながら何か思違ひのやうである。

　御幣又は松明を伴なふ柱祭が年々定期であるに對して、或年數を隔てゝ御柱を立てる神社も段々有る。諏訪の近國にある者は勿論諏訪を勸請したと云ふ社が多い。例へば上伊那郡飯沼の諏訪明神は例祭六月十四日、七年に一度御柱祭がある。同郡宮木の諏訪明神は例祭七月二十三日、七年に一度御柱祭がある。天正三年武田勝頼の再營と云ひ、鍵取の職にある矢島の小松某、祭毎に船と笠鉾を獻ずるのが舊例である。朝日村大字｜平出《ひらいで》の諏訪明神も同樣七年目毎の(43)御柱祭あり、例祭は七月十八日、高�ｺ寺が之を掌つて居た。但し伊那富《いなとみ》村大字辰野の五條天神社なども、諏訪では無いがやはり七年一度の御柱祭があつたと云ふことである（以上伊那志略二）。更に松本平の方に越えて見ても、御柱は多くの村々に行はれた。例へば東筑摩郡里山邊村大字林の千鹿頭《ちかとう》大明神、元は府中六社の一つで「まつの宮大明神」と稱へたが、後代諏訪を勸請したとあつて、領主林六郎の妻の話を傳へて居る。此社も例祭は七月二十七日であるが、別に毎七年目の卯酉の年、四月卯酉の日に御柱の神事があつた（信府統記十九）。千鹿頭神は東國に數多き近戸神の一種の宛字で、遠戸神と對立する門神即ち境の神であると思つて居る。通例は千勝《ちかつ》神又は千方權現などと書いて居るが、信州には特に千鹿頭の文字を用ゐたものが多く、諏訪の大社が狩の神で、多くの鹿の頭を以て祀る因縁からでもあらうか、之を諏訪明神の別稱の如く解する地方も爰ばかりで無い。しかし御柱の祭が必ずしも後者に限られた儀式で無いことを考へると、此附會の據に乏しいことがわかる。同じ松本領の内でも、前に平瀬君の擧げられた島立村大字三（ノ）宮の三宮明神などは、式内砂田神社は是なりとの主張ありしにも拘らず、毎七年目の卯年酉年には、是亦御柱の神事があつた。平瀬君の報告中に、明神の御足跡と傳ふる場所を目當てにして柱を曳くとあるのは、實地を知らぬ自分等にはよく分らぬが、今から百三十餘年前の卯年即ち天明三年に見た人の記述に依れば、十月二十一日が即ち此祭の卯の日であつて、五丈七尺餘の大柱に四本の大小の綱を附け、之を高い木の梢に掛けて曳いたとあり、又其御柱の材は七年前より之を定め、「願ひがね」とて釘｜鎹《かすがひ》やうの物を打ち置き、此度伐りて引出す也ともある（眞澄遊覽記一）。此見聞録の挿畫を見ると、柱の數は四本で高さも一樣で無いらしい。「願ひがね」の性質に就ても多少の考があるが、枝葉に亙るから追考に讓らう。甲州中巨摩郡今諏訪村の諏訪神社は、村の名からして諏訪の勸請と知らるゝが、此近代の祭社も參考になるから序に掲げて置く。是は毎年七月の行事であつて、十九日には御柱社と云ふ社に假殿を作つて之を穗屋の祭と謂ひ、翌々二十一日には神輿は末社の十三藏社と云ふを經て右の御柱社の假殿に神幸あり、之を御射山祭《みさやままつり》と稱す。二十二日には春秋の兩社及び中島社等へ神幸があると云ふ（山梨縣市町村誌）。何もかも一度に取集め(44)たやうな混雜ではあるが、普通に御旅所と稱する神遊幸の地に、御柱社の名の遺つて居る事實は見遁すことが能ぬ。

　神社に柱を立てたと云ふ例は他の府縣にも僅かづゝはある。例へば參河國内神明名帳集説、額田郡岡崎村大字柱の正五位下柱津天神の條に曰く、碧海郡｜矢作《やはぎ》村に柱口大明神と云ふあり、祭禮八月十五日、矢作橋の古材木を社中に積み其杭を奉納す云々。是等は昔の神事の幾分か傳説化したものであらう。更に日向の北諸縣郡梅北益貫村　神柱神社の縁起の如きは、猶一段と茫漠たるものである。其大要を言へば、萬壽三年寅の歳の正月二十日、此地の領主平末基、大門を建てんと欲して大吉山より門柱を牽くに、柱一本を五百人で曳けども動かず、更に五百人を増して之を曳いた。其時六歳の幼女に神憑あつて、我は是れ伊勢の外宮なり、此地に在つて衆生を護らんと欲す、?かに此地に崇むべしとありければ、乃ち使を伊勢に遣はす。然るに同じ頃伊勢に於ても神人の兒七歳の童に神託あり、我を日向の庄内益貫に祀れとありしにより、亦使を此國へ向けて送つた處、兩使圖らず此國縣の府（延岡）に於て同じ宿に泊り合せ、雙方の物語符節を合する如くなるに驚歎し、中途より各々本國に引返す。「伊勢や日向の物語」と云ふ諺は此時より始まつた。之に由つて新たに神殿を造立して之を神柱と名づく。伊勢の内宮外宮は東西に分れて世を救ひたまふ。内宮は東三十三ヶ國を守つて出羽莊内に現じ、外宮は西三十三ヶ國を護つて日向庄内に現じたまふ。依つて日本二柱の神とは言ひ傳ふる也云々（三國神社傳記下）。出羽庄内とあるのは羽黒山の信仰を意味するのでは無いか。若し然りとすれば彼山の松祭に、二本の柱を位上先途《ゐじやうせんど》と名づけて、日本を東西各々三十三國に分つたと云ふ話と、何かの關係があるかも知れぬ。

　矢作の橋の柱と云ひ日向庄内の門の柱と云ふのも、柱を以て境を護り地を標《し》むる爲の徽章とすれば、其間に思想の共通を見出し得る。猶如何なる神々が柱を立てゝ祭られたかを考へると、羽後南秋田郡五城目町の市神祭は、正月三日に市中に六角の柱一本を立てゝ香花酒食を供へて祭つた。此神は別に社とては無かつた。祭を掌つたのは高性寺と云ふ修驗であつた（風俗問?答）。石見國では田神に柱を立てたらしい。俚謡集此國美濃郡の田植歌に「さんばい／＼(45)と祭る神なれば、赤い柱立てゝたもれなう、おさんばい」とある。サンバイは即ち實盛塚考に所謂サバヘと同じで、中國一帶に苗代時に祭る神である。東京附近では豐多摩郡高井戸村などで、正月十五日に高い柱を立てゝ道祖神を祭つて居たこと、百年程前の紀行に見えて居る（嘉陵紀行）。此柱は普通の左義長のやうに火を擧げるのでは無く、尖端には餅を三方に載せた圖を木板に切拔いたものを取附けてあつたと云へば、今の四月の天道花とよく似て居るのである。此等各地の柱は、單に柱が松明又は旗や御幣を高く掲げるだけの目的で無かつたことを示すのみならず、神々の性質から推測しても結界占地を表章して居たものであることを證し得るかと思ふ。既に尋常民家の建築に於ても、地鎭の爲には則ち柱を立てる。況や神の爲に清淨の地を取分たんとするには、此類の記號を明らかにするは尤も自然のことで、其結果として神が柱に憑ると考ふるに至つたか、但しは又神は喬木の頂に降りたまふと云ふ信仰から、其地に高いものを立てるに至つたかは、容易に決し兼ねるとしても、柱の起原が折口君の所謂｜標山《しめやま》に在ることは（郷土研究三卷二號）爭はれまいと思ふ。

　和訓栞と云ふ書物は折々出處の知れぬ珍しい記事を載せて居る。其中の「はしら」の項を見ると、但馬濱阪町に柱町あり、街頭に大柱を立つ、何れの世に始まるを知らず、古來此柱にて人の損傷するなしとある。柱町は或は柱松の誤聞かも知れぬが、何れは信仰に基づくものらしく、而も街頭とあるのは乃ち秋田郡の市神祭を思はせる。前掲眞澄の秋田紀行の中にも、由利郡から雄勝の西馬音内《にしもない》へ越えるタムロ澤と云ふ山村で、里の入口に高い柱が立てゝあつたことを記し、田畠の物を盗んだ者は此柱に縛り附けると書いてあつた。此地方は何れの里の入口にも此柱が立つて居たと云ふ（飽田の苅寢）。同國土崎港から雄鹿へ行く道の榎の辻と云ふ地でも、同じ旅人は上端に狐を彫刻した木の柱の立てるを見た。砂濱の砂に埋れて三尺ほどしか見えなかつたが、二十年前には一丈ばかり見えて居たと云ふ話を録し、挿畫の中には道祖神の木標や新しい地藏堂が、半ば砂に蔽はれた榎の梢に近く立つて居る（眞澄遊覽記二十四）。攝津三島郡｜三箇牧《さんがまき》村大字柱本は、既に台記の久安四年の條にも見え、地名辭書には平家物語の柱松の地も此ならんと云(46)うて居るが、淀川の右岸であつて、三河矢作の柱口の話も思ひ合される。此等の境の柱が起原を信仰に存することは大凡想像し得る所である。是も例の和訓栞の「おほぬさ」の條の一節であるが、此考證に取つて最も重要な記事がある。本文に誤植があるかと思ふが訂正する途が無い。曰く「不v藉2徒役1之農、末は戰地に隣《ちか》き邑里に群衆し、男女相共に神宮大麻を卓立して、彼我の軍人臨2覩大麻1則避去而旡v害は本朝之制也。相集る所を呼で社内或寺内といふ。其柵もがりをもて際限とす。敗卒亂兵來乞といへども屯内に入ず、此法を失ひ軍人をかくし戰夫に敵すれば、一屯の男女鏖糟する舊例也。慶長の役濃州青野原の近隣大野郡の郡民、宮田邑に寺内を構ふ。屯《たむろ》之内無頼之徒ありて誤て鳥銃《てつぱう》を發す。於v是藤堂高虎の前將玄蕃、男女數千人屠戮孑遺なし」と。此の如き戰時法が果して弘く行はれて居たか否かは疑はしいが、柵の中に高い御幣を立てゝ、之を社内又は寺内と稱したのは、必ず齋場の柱と關係のあることであらうと考へる。

　

(47)　　　　　勸請の木

　

　正月元旦の祝言として、「柳の下の御事は」・「されば其事めでたう候」と問答體に唱へる風習は、古く且つ弘く我邦に行はれて居るものらしい。禁中にては柚の木の下と稱し、地下《ぢげ》に於ては柳の下と言ふとの説には既に反證もあつた（郷土研究三卷八號）。起原の一つであるべきことは誰も疑ふ者が無いであらう。南方君などは右二種の樹の性質から由來が尋ね得らるゝやうに考へて居られるらしいが、自分は寧ろ何が故に特に柚木又は柳の下と言うたかと云ふ點に重きを置いて觀察して見たいと思ふ。たしか醒睡笑であつたか、縁喜を悦ぶ町家の主が歳越の晩に、家僕をして福の神と稱して門口から入らしめんとして失敗した話があつた。柳の下の祝言も、古くは人を樹下に立たせて、「めでたう候」を言はせたのではあるまいか。しか想像する仔細は、昔の神祭には、?々或樹木の下を擇んで之を行ふ者があり、且つ其場合に尸《よりまし》を其樹の下に坐せしめて、飲食を供し託言を聽いたかと思はれるからである。此風俗は即ち所謂神木信仰の一面の説明であつて、同時に我が柱松考の一部を爲すべきものである。右の假定が幸ひに追々證明せられ得るものとすれば、ゆの木〔三字傍点〕は齋木の意であつて唐樣なる柚子のことで無いとも言へるであらう。而して柳の木が靈木として擇ばれた例は隨分多いのである。自分の推量では、民間正月の「されば其事」も、小兒をして言はしめるのが通例かと思ふが、此は確かな出處の知れる迄、留保して置いて話を進めて見よう。

　最初に述べたいのは松本杉本等の地名の我邦に多いことである。僅かの田や畠の字《あざ》としては、事實そんな樹が近所に有つたから其名が出來たとも言へるが、時としてはさう簡單に解し得ないものがある。大和國では特に其例が著し(48)い。町村の名としても櫟之本《いちのもと》（添上）・柳本・葛本（磯城）・杉本（山邊）等がある。此を不思議にして注意して見ると、春日三院の十八所の若宮の名に何の本が殊に多い。榎本神社は長承の注進?に巨勢津姫神と稱し、榎の大木の下に其宮があつた。梅本・杉本・椿本、何れも同樣に古い末社である。其他山邊郡の石上市本神社・宇陀郡の椋本神社等（以上大和志料）、小さい里社に及んで尋ねたらまだ幾らもあることゝ思ふ。歌聖人丸の柿本も、家に柿の大樹があるより氏號となつたと云ふ姓氏録の柿下臣から出たのか知らぬが、少なくとも中世迄存して居た大和の柿本寺なるものは（地名辭書）、各地に今も存する人丸神の方に因縁のあるものらしい。紀州熊野の神人に古くから榎本氏があつて、其起原が榎の崇祀に在るらしいことは、南方君も曾て注意せられた。橘三喜の一宮巡詣記を見ると、諏訪上社の七木と稱して、櫻タヽイ木・檀《まゆみ》タヽイ木・ヒクサタヽイ木・橡《とち》の木タヽイ木・岑《みね》タヽイ木・柳タヽイ木及び神殿松タヽイ木を擧げて居る。此タヽイと云ふのは恐らくは諏訪大明神繪詞の神長本、三月酉の日以後の祭禮の條にある峯湛又は柳湛等の湛〔傍点〕に當るものであらう。同書の記事のみでは精確には分らぬが、此日は大祭で社殿の儀式畢つて後、内縣《うちあがた》大縣《おほあがた》小縣《ちひさがた》の三神使、御杖の尖に神寶を取附け、馬に乘つて三道に立別れ、三日又は五日の間郡内の各地を巡行した。是を廻神《めぐりかみ》と稱して村民之を拜禮したといふ事である。此折到る處の村々で神使を迎へて祭をするのを湛《たゝへ》とは名づけたらしいので、現に同書にも桑原大和馬場等に於て晝湛神事ありと記して居る。諏訪御符禮之古書と題する記録の端書《はしがき》には、御左口神書申次第とあつて、列名の中に眞弓湛神主・峯湛神主・干草湛神主・榛《とちのき》湛神主等が見えて居る。即ち一宮巡詣記中の檀タヽイ木・岑タヽイ木・ヒクサタヽイ木・橡木タヽイ木に該當するもので、此等の七木が各地の祭場の木であつたことを知るのである。御左口神の問題は此序に解決し得るが如き簡單なもので無いが、要するに關東東海の諸國で、村々に祀らるゝ社宮司と云ふ祠の神の一つで、諏訪に在つては年々の祭典に勤仕すべき神官を選定する一種の卜法を掌つた神らしい。シャクジは石神の轉訛かとの説もあつたが、少なくも諏訪のシャクジは木主《もくしゆ》であつた。是は別問題として他日を期するが、此際自分の言はんと欲する一事は、諏訪に於て樹下に神を請じ祀る風習があ(49)つて、之をタヽイと呼び、湛と書いてたことで、其タヽイの本の意味も、單に讃歎のタヽヘでは無く、依坐に就いて神意を知らんとした最も古い形式のタヽリに在る（山島民譚集參照）と思はるゝことである。

　第二に自分の心附いたのは、中部日本の村々の小字名に、カンジャウの木と云ふのが多いことである。其例を擧げて見れば、

　　近江野洲郡祇王村大字｜富波《とば》字勘定（ノ）木

　　同　犬上郡河瀬村大字金剛寺字勘定（ノ）木

　　同　阪田郡大原村大字村居田字勘定（ノ）木

　　若狹遠敷郡宮川村大字加茂字勘定（ノ）木

　　同　同　中名田村大字下田字勘定（ノ）本《もと》

　　美作久米郡｜大塀和《おほはが》村大字和田北字勸請（ノ）木小字｜神上《かんじやう》（ノ）木

　　備中淺口郡六條院村字｜生石《おんじ》小字勸請（ノ）木

等である。此外にもカンジャウガケ・カンジャウ下・カンジャウ塚或は單にカンジャウとのみ謂ふ地名も多く、之に宛てた漢字は加定《かぢやう》、觀常、觀淨、神繩、神祥等さま／”＼であるが、結局は寺方などで常に用ゐ來つた勸請がもとで、即ち神を招き降して之を祀るのに、天然の木を用ゐたことを言ひ表はすものであらうと思ふ。宛字撰擇の當否を吟味するのは頼り無いものだが、勸請と云ふ語が今日の如く、始めて或神の社を建てることのみを意味するやうになつて後、何か實情に適當した文字を使ひたいと、土地の人の苦心した痕跡は自ら窺ひ得られるのである。神木を勸請木と言うた證跡は、前述美作大塀和村の一宮にある。即ち同村大字大塀和西の一宮に於ては、拜殿の南一町ばかりに神木二株あつて之を勸請木と名づけたと云ふ（作陽誌）。參河國官社考集説に依れば、同碧海郡矢作村大字阪戸の式内酒人神社の條に、此社所在の地を三本木と呼ぶのは、松二株加條木一株有つた爲だと云うて居る。此等神木の本來の性質(50)は、固より現今行はるゝ勸請と云ふ語の意味から解説がしにくい。何となれば今の勸請は人爲の分靈である。社を設けて神を遷しまつることである。社頭の古木に注連繩を張つたものは今でもよく見るが、之を社の神の根元と結び附けることは次第に困難となつた。茲に於てか別當社僧の輩は?々｜影向木《やうがうのき》の縁起を案出して居る。影向とは縁あつて神が自ら〔三字傍点〕降らるゝことである。勸請よりは今一層有難いもので、此場合には多くは神木に依つて降られたとなつて居り、即ち影向の松乃至は降臨の杉等がある。併し何れにしても其奇跡を社創建の最初の唯一囘と解することは同じで、其木が久しい間、年々の祭祀と深い關係を持つて居たことは、全く忘れて居るやうである、自分の見る所では、此は日本神祇史上の最も著明なる一變遷であると思ふ。神に接近した佛徒等の頭腦に、春秋定期の降神と云ふ思想が無かつた爲か、はた又年に一度や二度、祭の時にのみ神が降りたまふと言うては、信者の歸依を繋いで、追々立派になる建築物を維持するに不便と考へた爲か。何かは知らず、神は不斷に社殿の奧に在すやうに説くやうになつた結果、現に馬場や御旅所の儀式は昔の儘でありながら、休塚腰掛石等に關する傳説は甚しく朧になつた。殊に影向松等に關する數多い口碑に至つては、其社建立の舊記と併立することの出來ぬものも比々としてあるが、是皆樹下に神を迎へて年々の供饌《くせん》をした本の趣意が没却せられて、古木はほんの御假屋の看板の如くになつた故である。阿波國式社略考に依れば、那賀郡木頭谷奈井瀬村の十二社權現の社地は、宇奈爲《うなゐ》神社の行在所で、そこに怪しい橿樹がある。神代からの古木で影向の橿と言ひ傳へて居るとある。行在所と云ふのは祭の折の御旅所即ち神幸地のことであらう。今日言ふが如き影向又は勸請ならば、本社の所在地に在つて然るべきだのに、往々にして右の如く假屋の方にあるのは、祭と神木の關係を示すものと言ひ得る。人丸の柿の本、さては菅原天神の梅の本に出現せられたと云ふ神話の如き、是れやがて昔の神木信仰の痕跡である。更に轉じて諏訪の三月の湛祭が、如何にしてそれ／”＼の木の下に執行はれたかを知ることが能《でき》たならば、恐らくは柱は火の爲又旗の爲に、立てらるゝもので無かつたと云ふ自分の説も容易に立證せられ、猶正月十五日の梵天柱の下に於て小兒を款待し、殊には童子の一人を別當と名づけて、柱の下で之を饗應したと(51)云ふ古風俗の意味も判つて、柱は即ち人作の神木であることが早く明らかになつて居たことゝ思ふ。

　柱が人作の神木か、神木が天然の柱か、何れにせよ二者の本意は一つであつたことは、更にボンデンと云ふ物の構造からも説明し得るやうである。ボンデンが田舍で魚の串を多く挿込む辨慶と云ふ物とよく似て、竿の尖に取附けた藁苞に、澤山の小さい御幣を挿し、之を拔いて家々に配る風習であつたことは前に述べて置いたが、天然の神木に於ても、祭の度毎に之と類似した小枝の分配があつた。其最も古い出處は、貞觀儀式卷三、大嘗祭の儀式中に、舞人八人、布の帶末額を着け、各々｜阿禮木《あれき》を執るとあるのがそれであらう。阿禮木は一にミアレ木とも云ふこと、同じ折の歌に「みあれ木にゆふしでかけて云々」とあるのでも明らかで（松屋筆記十二）、其ミアレは即ち祭を享けに、神の降りたまふことである。山城の賀茂で祭をミアレと云ふのは古いことで、漢字では御生とも御形とも書いて居る。賀茂の御生野《みあれの》に於ては、今日或は祖神誕生の古跡と云ふが如き口碑も發生して居るが、是は影向松、降臨石の新傳説と等しい舊事の忘却であつて、現に伊勢の齋宮を大神の御杖代《みつゑしろ》と謂ふと同じく、賀茂の齋院をアレヲトメと謂うたのを見ても、ミアレが神出現の意で又同時に童女に寄りたまふ習であつたことが知れる。又「みあれ引く」と云ふ古歌もあること（和訓栞）を推測すると、賀茂でも柱を用ゐて祭をしたのかも知れぬ。それはともあれアレの木を手に執ると云ふことは、神木分配の一例には相違ない。後世之に類する祭の行はれたのは、薩州加世田郷の野間權現である。正月十八日權現御迎として七十人以上、片浦の御假屋舞殿迄罷り越し、翌十九日は東明《しのゝめ》より野間の御嶽に罷り登り　舊式の舞神樂有り、直ちに御神木に移し守り奉る。但し神靈奉移木は杉木八尺ばかりに切り、樒葉《しきびのは》を葛蔓にて半分より下の方を卷くと云ふ（三國神社傳記上）。此に言ふ神靈奉移木は古代の日本語を以て表はせばどうしても御生木《みあれき》で無ければならぬ。山上の儀式は神秘であつたらうが、既に天より降る神を木の枝に迎へ取ると言へば、其道筋は想像が出來る。即ち其枝はもと一處に定立する神依木の一部であつたのを、移動の必要から取離したと見るのが最も自然である。之に由つて思ひ合せると上元の柱祭に、必ず小兒に由つて用ゐらるゝサイマダ・ダイノコ又はホイタケ棒などと稱する(52)もの、道祖神勸進が手に持つ棒、竝びに此等の物の本原であるらしき卯杖の如きも、凡て所謂神靈奉移木であつたのかも知れない。卯杖は正月卯日に用ゐらるゝ杖の義であつて（和訓栞等）、ウツ木で作ると云ふのは後世の附會である。江家次第には梭木・柊・ムホコ（椋か）・棗・桃・柏等を以て作ると見え、神宮に於ては椿の木を用ゐ、長さ五尺に伐り、本の方五寸ばかりを削つて紙を卷くと、建久の年中行事にも見え（大神宮儀式帳頭注）、或は日蔭蔓をも卷いたらしく、形式は頗る南端の野間權現のものに似て居る。（但し大學寮が此杖を獻じた理由は今以ていぶかしく思ふ）。參州吉田の神明宮の正月十四日榎玉の神事に、社内の榎を伐つて毬《たま》及び毬杖《きつちやう》を作つた例から推せば、所謂左義長の起原たる毬杖も、亦一種のミアレ木であつたとも見られる。此日年占に用ゐる粥杖又は戸口に立つるニウ木なども、此意味に於て神聖であつたのであらう。更に進んでは諏訪の御左口神《おさくじん》、山神祭の杓子、田神祭に手草に執つた?《えぶり》コキリコ等も、是亦神木から靈を分つたもので無いかと思ふが、此は證據材料を整へて、後日更に之を論ずるであらう。

　神木の一部分が更に神木として崇拜せらるゝことは、山中共古翁の初午考（郷土研究一卷四號）の中に、既に多くの例を擧げて居られる。但し同翁は稻荷山のしるしの杉の古歌に基づいて、之を初午の祭の特色と解せらるゝやうであるが、現に駿州龍爪山の祭の日に山の榊を折つて歸るのは三月の十七日、武州高雄山の參詣人が、杉の細い立木を伐つて荷ひ又は杖として持ち下ると云ふのも初午では無いらしい。紀州熊野の社で參詣の人々が榊をかざして還るのは初午か知らぬが、自分が昨年一月の二日に、那智の濱宮で目撃したのは、何れの社からの歸參の人々か確めなかつたが、手に手に神札に杉の小枝を折り添へたのを紙に包んで携へて居たから、同じ地方にも色々の日に、此風習が行はれて居たと見える。陸奧の岩木山神社の祭典は八月一日であつたが、此にも參詣の者松の小枝を折取つて山を下る風が行はれて居た（共古日録二十一）。之に由つて觀れば、稻荷（又は觀音）を初午の日に祀る迄は、馬の神の信仰に出たか知らぬが、山の木草を携へて還ることは、馬使役と關聯して居るものとは見られず、やはり起原を信仰に存するものとせねばならぬ。若狹遠敷郡瓜生村大字末野の西神社は、式内｜須倍《すへ》神社であると云ふが、今は蛭子《えびす》を祭神と稱して居る。(53)舊暦三月二十三日と九月二十八日と年に兩度の祭日に、土地の者は杉葉少許を束ねて之を參詣の人に賣る。相傳へて此杉葉を屋内又は檐下に挿して置けば、惡氣を攘ふと云うて居る（若狹國官社私考下）。近江蒲生郡八幡町の八幡宮には、社家の説に寛弘年間、字津呂《うつろ》村大字字津呂の地に影向せられたと傳へて、亦一箇の影向松があつた。其松は既に枯れて、跡に小社のあるのは祭場の故地であらうか、本社では毎春社家より松葉を氏子に配つて居たのは此因縁に基づくものだらうとのことである（近江國輿地誌略五十四）。諸國夜啼松の言ひ傳へとして、其小松に火を點して夜啼する兒を照し、或は松葉を持ち來つて蒲團の下に敷いて寢かすと夜啼が止むなどと云ふのを、今では理由不明の禁厭《まじなひ》の中に數へて居るが、神木の出張と解すれば信仰の起原が明らかになる。京都五條川東の愛宕念佛寺、一名を六道珍皇寺と云ふ寺には、小野篁の像を安置し、篁は閻魔王の化身とあつて、常に地獄に通うた道の口と云ふ場所が、此寺の庭に方二間ほどの芝を伏せて殘つて居り、此を六道の辻と稱す、毎年七月九日十日の兩日は、此所へ諸人聖靈を迎へに群集する。其時參詣の人々各々槇の枝を求めて還るのは、聖靈が槙の葉に乘つて來ると信ぜられて居たからである（京内まゐり）。平俗凡下の荒人神までが、尚且つ樹木に就いて此世には出現したので、神に在つては玉串と謂ひ、人に在つては手向の樒などと名は變つても、本の意の一つであつたことは測り知られるのである。

　巫女考の筆者が荷厄介にした一間題、巫女が笹の葉を手草《たぐさ》に執る由來は、自分は憚りながら、此の如く解明し得ようかと思ふ。即ち神木の本に於て、神に代つて祭を享くる一種のアレヲトメであるが故に、其手にミアレ木の一片を持つのである。即ち畏多い例ながら、神宮の最高巫女を御杖代《みつゑしろ》と云ひ、諏訪の縣等が祭の日に杖を執ると云ふ其杖は、固より歩行を扶ける用具では無く、言はゞ神人仲介者の權力を表示する適切なる記章であつた。各地に無數に存する杖立の傳説、即ち高僧靈姥が杖を樹てたら生育繁茂したと云ふ話は、此意味に於て神木の根原譚とするに足りたのである。逆さ竹や飛梅追松の如き有り得べからざる縁起談も、偶々以て昔人の信心の強烈だつたことを察せしめる。此ちなみに思ひ起すのは、鏡の裏に往々見える松喰ひ鶴の模樣のことである。大歳神を穗落しとこじつけて、鶴が稻の(54)穗を喰へて來たと云ふ話などは、多分此と關聯して居るであらう。京都粟田口神明の社傳にも、慶長十九年九月朔日、靈夢に由つて伊勢大神宮を移し奉る。其時社の方角を定め兼て居たるに、巽の方より烏二羽飛び來り、榊の枝をくはへ來つて後の松の木にとまり、其榊を地に落す。よつて其榊の落ちたる所に御社を營んだと云ふことである（京童跡追一）。此等の昔話は少しづゝ形を換へて多くの神社に存して居るが、此を單純なる不可思議として看過すまでに、日本の神道はえらい變遷を經たのである。神木の由緒が不明瞭になればなるほど、天と國との關係が疎くなつて行くやうに思はれて心細い。しかし幸ひに高い柱は樹てなくなつた地方にも、卯杖阿禮木の痕跡は、まだ色々の名を以て遺つて居る。其材料とした木の種類は、面白い將來の研究題目である。古い事實と空想との差別は、一々の樹を見れば自ら明らかだ。柳などは最も枝を分ち杖を運搬し易い植物である。所謂勸請柳の下に於て、新しい年の福�ｺを卜問ふ慣例が、尋常の民家に久しく行はれて居たのは不思議で無い。民家第一の必需品たる飲水の所在は、最初は柳に降る神が之を教へたらしいのである。

　

(55)　　　　　腰掛石

　

　柱松の考證は既に七篇を重ねたが、まだ説明の行屆かぬ隈が多く、殊に南方氏の龍燈説に對して、日本で龍燈と稱し居る迷信が、同じ習俗に基因して居ることを立證し得ぬのは殘念の至である。併し三卷もはや終に近づいたから、何やら顧みて他を言ふ嫌ひはあるが、あれは先づ次年度への借越しに願ひ、さしあたり申殘した點を陳ぺ終らうと思ふ。さて自分の主張の骨子とする所は、柱松と稱して上元又は中元に桿の尖端に火を焚く風習は、今も村々の祭の日に建てる幟と起原同一のもので、火と云ひ旗と云ふも結局は夜の柱、晝の柱の區別に過ぎず、即ち柱の所在を天降る神に知らしめる手段であつた。然らば其柱は何の用かと言ふに、つまりは一尺でも天に近くする爲で、即ち神靈用の梯子である。佛教と結合しては頗る朝鮮の舊寺に存すと云ふ刹柱に類似し、或は彼の輸入なるが如く速斷する人もあるか知らぬが、その所謂刹柱にも更に淵源があるのみならず、我邦にも之と獨立して神靈の爲に柱を樹つる慣行が久しくあつた以上は、其共通の起因は猶ずつと古い所へ持つて行かねばならぬ。即ち苟くも神又は精靈が高空に止住行走すと云ふ信仰の存する限、此は何れの民族に於ても自然に發生し得べき行事であつて、三韓に在つて蘇塗と云ひ、滿洲に於て木桿と呼ばれ、又漢土に於て華表若くは玉標などと云ふもの、必ずしも一は他を模倣したとも斷言が出來ぬのである。自分は此考から先づ我邦に於ける柱立の舊慣を成るべく弘く比較して見ようとした。而して尖端に燈も掲げず又旗をも翻へさゞる三四の柱を見出し、更に進んでは天然の喬木に就いて神を祭る形式の之とよく似て居ることに論及し、二者何れが前何れが後、はた又時を同じくして竝び行はれたか否かを決し兼ねて筆をさし置いた。所謂(56)影向木の實例はまだ何程でも擧げられる。老樹名木の中にも千年の歴史を覆ふものは稀だから、其根原に於て人工の柱より古いとは言ひ難い。或は最初神に由縁ある樹木を移植又は指定して其成長を期し、之に由つて年々柱を運搬するの勞費を省いたものかも知れぬ。而も他の一方から見れば、神木には植繼ぎと云ふことがあり、喬木は大昔にもあつた筈であるのみならず、枝を挿し蘖《ひこばえ》を分つて神靈を他所に移して行く風習の極めて自然なる發生を考へると、柱は却つて大樹の存在せぬ土地で神を祭る場合の便宜處置とも見られる。もし又地方に由つて彼此相用ゐたものとするならば、今尚盛なる神木の信仰が、如何に根強く且意味深きものであるかゞ察せらるゝのである。

　偖この影向木の起原を討尋するに當つて、どうしても見遁すことの出來ぬのは之に對して存する影向石の口碑である。伊吹舍《いぶきのや》系統の神道家の説に由つて混亂に歸し、果にはアストン其他の譯述者をして誤を海外に迄傳へしめた我邦固有の信仰の中で、最も忍び難き看過忘却を受けて居る部分は、右二種の天然物に對する農民等の心持であらう。假に萬一柱立の古俗と因縁が無かつたとしても、今に於て之を明らかにして置く必要は正に有る。殊に所謂影向石の由來譚には、往々にして既に忘れられたる影向木の性質を傍證するものが多い。神が空より來ると云ふ考が疎くなるにつれて、時あつて樹梢に神出現すと云ふ話が如何にも異樣に聞える場合にも、石の上とあれば容易に合點し得た爲でもあらうか。後世に至る迄神の御座《おまし》の用として常人を近づけない石が各地にあつた。例へば洛北八瀬の里には春日岩住吉岩の二靈石がある。矢背川の淵に臨み住吉岩は其傍に松があつた。一説には單に昔時春日明神住吉明神の出現したまひし所とあつて、普通影向木に就て言ふ所に近いが（名所都鳥其他）、少なくも住吉石の方は村民此石の上に於て毎月神を祭り、由つて其一名を祭石と云うた（山州名跡志五）。江州栗太郡｜下田上《しもたなかみ》村大字枝の不動寺に在る影向石は、天照大神影向の石とのみあつて、一度きりか例年かを傳へぬが（輿地誌略四十七）、同國三井寺の三尾明神鳥居の南の影向石は、時ありて三神會合したまふに、必ず此石上に坐したまふと、寺門傳記補録に見えて居る（同十三）。武州金澤の九覽亨の傍にある影向石は、三島明神飛來り玉ふとあつて或は飛石とも稱し（十方菴遊歴雜記初編上）、往古稀有の奇(57)瑞を傳ふるのみであるが、山城上醍醐清瀧社の龍神影向石の如きは、即ち祭神の御座として永く神殿の中に在りとあるのは（山州名跡志十四）、多分其石に就て社を建てたのだらう。信州諏訪社の風俗歌に、「大御神石の御座《みくら》に下りたまふいそ吹上げの風のまに／＼」と云ふのがあつた。此郡矢崎村に御座石大明神と云ふが有るとは云ふが（諏訪舊跡志）、大御神と云ふ以上は尚且《やはり》本社の主神を意味したので、柱を中心とした此社の祭にも、神を迎へまつる靈石の在つたことを、右の古曲が證して居る。此等の例から推して、神が最初に石の上に降られたと云ふ話も、多分は既に斷絶した昔の例祭の儀式を誤り傳へたものなることが察せられる。更に其二三の口碑を列記すれば、美作久米郡大井東村大字宮部上の矢藏神社は、昔備中水田庄の矢藏大明神、此村の草木原と云ふ地に降現あり、石上異光を放つこと秉炬《たいまつ》の如し。民其地に就いて祠を立て、石を明神石と名づけた。後故あつて今の地に移す云々（作陽誌）。矢藏の字を當てたヤグラと云ふ語は、關東の各地で岩窟をヤグラと云ふと同じく、もと岩倉の約であらうから、此神は諏訪の御座石神などの如く、本來石上に祭らるゝ神であつたかと思ふ。山城西梅津村の梅宮の境内に、影向石又は三石と名づけて、特に鳥居を立てゝ三の石を崇敬して居た。熊野三所權現の影向所で、熊野山より三の鳥來つて石に化したと傳へて居る（山城名跡巡行志四）。特に三箇の石を神と祀る信仰は例の多いことであるが、或地方では其三石を以て右の如く單に神の遺跡とのみ解して居るのである。延喜式神名帳の大和長谷山坐神社は、現時初瀬町大字初瀬字手力雄に在る村社が是であると云ふ。仁平二年成ると稱する長谷勘奏記裏書の文に、長谷寺東の山中に在る鵝形の石は、天照大神最初の御影向の石で、其左方の沓形石は天兒屋命、他の一方の掌石《たなぞこいし》は太玉命の坐したまひし石だとある（大和志料五）。鵝形云々は密家の日天像に由つて説くものであらう。掌石は不明であるが、少くも沓形石だけは、何れの時代にか本式の降神法の此地に行はれたことを示すものである。京都では東一條の花山院址にも、此類の石が曾て在つたらしい。聖�ｺ太子の御時巨勢河人法を修せしに、衆星降つて石上に現じ、諸神影向して石上に坐したまふ。後三十餘代を經て安倍晴明又法を修し、星宿の影向諸神の降臨前の通りであつた。仍て代々世人恐を成し石を動かすことなし。貞信公北(58)斗を拜する時、七星影向して或は棗木《なつめのき》に降り或は石上に降る。貞保親王此所に住み常に笛を吹きたまへば、北斗石上に影向す。其親王の御坐の石も別にあつて、人此石に坐せずと花山院家記にあると云ふ（山城名勝志三）。これなどは稀有の奇跡には相異ないが、時を異にし人を異にして幾度か同じ事があつたと云ふのは、即ち又昔の星祭が石の上に行はれしことを意味するやうである。古くは著聞集卷二、大和當麻寺の條に、役行者が祈願力に由つて、百濟國より四天王の像飛來つて金堂におはしますと云ひ、又堂前に一の靈石有つて、行者孔雀明王の法を修した時、一言主明神來つて此石の上に坐し給ふといふが如きも、亦神を石上に降しまつる手段があつて、中世既に斷えたことを云ふらしい。殊に其神が一言主であるからさう思はれる。

　影向木を一に勸請木と云ふが如く、影向石は又之を勸請石とも呼んで居たと見える。此も洛東淨土寺村の上の山、俗に勝軍地藏山と云ふのは本の名｜瓜生山《くわしやうさん》である。祇園の牛頭天王播州廣峯より始めて此山上に出現したまふと稱し（京羽二重織留二）、歌などには夙くよりウリフ山と訓むが、本來はクヮシャウ山で勸請山の義かと思はれる。粟田口智恩院の西門内にも一の瓜生石あり、祇園天王かの山より次いで此石の上に出現したまふと云ふ。石の名を瓜生と云ふのは瓜生山から更に移られた故かとの説もあるが（同上四）、別に又一夜に瓜が成長結實したと云ふ傳説もあり、久しく此石を同社の旅所にして、神輿を其上に奉安したと云ふ説が有つたやうである。天王と瓜との因縁は未だ明白で無いが、二所の神降臨地の名に瓜生の字を宛てたのは、此俗言に基づいたものであらうと思ふ。又同じ性質の石を降臨石と云ふこと、此は至つて普通である。之に就ては今は只二種類の口碑を擧げて置かうと思ふ。大隅肝屬郡佐多村の御崎山の海岸に、火尾《ほのを》權現社の南二町を隔てゝ降臨石がある。一名をアフゴの瀬とも呼び海中の石磯である。權現誕生の處と傳へて居る（三國名勝圖會四十六）。南九州の沿海には、暖國だけに?々神誕生の口碑を存し、それが多くは??草茸不合尊の遺跡に托せられ、甲乙相爭うて居る。意味深き神話のやうであるが、自分の説と必ずしも無關係とは言はれぬ。山城賀茂の神山にも一箇の降臨石あつて、注進略記には往古此神降臨の坐所とあり、河海抄には賀茂祭の(59)前日、此石上に神事あり之を御形《みあれ》と號す、ミアレは即ち御生なりとある（山城名勝志）。御阿禮木の事は前にも述べたが、つまり語の共通から神出現を神誕生と誤り信じたのである。第二の傳説に至つては頗る佛道の影響を受けたものである。此も城州葛野郡松尾村大字下山田最福寺の址に、松尾明神の降臨石がある。明神此石上に來現して延朗上人の説法を聽きたまふと云ふ（名所都鳥四）。此話の類例多きことは驚くべきものがある。現に同所西方寺の池の東にある影向石も、同じ明神出現して夢窓國師の法を聽きたまふと云ひ（同上）、鎌倉鶴岡八幡社頭の影向石の如きは、正應二年二月四日、一夜大風雨して忽如として涌出す。座｜不冷《さまさず》の行法聽聞の爲に龍神の來り坐すべき石であると、供僧圓頓坊なる者に夢の告があつたと傳ふ（新編鎌倉志一）。飛騨大野郡宮村の大幢寺に於ては、同種の石が坐禅石の名を以て傳へられて居る。開山和尚石上に坐禅して居る時、一宮明神老翁の形を現じて法を求め、單傳の正脈を付與せられたと云ひ、猶報謝の爲に宮川の流を伏せて修行の障碍を除いたとも云ふ（斐太後風土記四）。

　坐禅石の序を以て更に説かねばならぬのは各地の腰掛石の口碑である。此名の石にもやはり僧徒の遺跡の多いのは、恐らくは腰掛に行脚僧の疲勞を聯想したからであらう。東京でも下谷新寺町の大久寺に、日蓮上人の腰掛石があつた（江戸志）。洛北大原村來迎院の門前なる石橋の西にも、法然上人の腰掛石があつた。上人勝林院の本尊に參詣の時休息の所と云ふ（山州名跡志五）。尾州熱田の海藏門の外にも、古くより弘法大師の腰掛石と云ふがあつた。大師神宮に詣でんとするを、大内人守部清稻之を制止して容さず。大師怒つて其沓を投げたりとて側に又尺餘の沓石がある。其時空海の腰を掛けたのが此石と稱す。清稻強ひて入門を禁じければ之を大神に奏せしに御製の歌を賜ふ。「日本武《やまとたけ》代々の教を傳へ來てしゆくも〔四字傍点〕の神はひろのり（弘法）の人」と云ふわけの解らぬ歌であるが、清稻之に感じて社内に入るを許したと云うて居る（熱田宮舊記）。此まで來ると前に擧げた神と僧と對談の話に追々と近くなる。江州石山寺の龍神社の傍には、僧歴海の腰掛石と云ふがある。旱の歳に歴海勅を奉じて此石上に經を誦し雨を?るに忽ちに應驗あり。加之善女龍王其形を現じて與ふるに如意珠を以てしたが、之を受けずして只雨のことを約したが故に、今も祈れば必(60)ず驗があると云ふ（輿地誌略三十八）。遙か懸離れた沖繩本島の波上宮に於ても亦一の腰掛石があつて、神聖視せられて居た。内地から渡つた有名なる傳道僧日秀上人此地に居り、翌日は辨嶽《べんのだけ》の辨才天を拜みに往かんと支度せし處、來るには及ばずと辨才天、先づ來つて此石の上に立ちたまふ。上人も亦心通じて石上にて逢ひ奉る。仍て此石を俗に對面石とも呼ぶとある（琉球國舊記七）。凡そ諸國に此名を稱する石、古今大小の英雄の名を以て傳へらるゝ者も決して尠なくは無い。江州｜醒井《さめがゐ》の里に、其泉の中に立つと云ふ日本武尊腰掛石、同處南の溪中に存する一石三頭の大石も同じ尊の影向石と傳へられて居る（輿地誌略七十八）。山城乙訓郡大山崎村には菅公の腰掛石あり、もと關戸院に在つて菅神左遷の時憩はれた處と云ふ（山州名跡志十）。阿波美馬郡江原村の大日浦には腰掛石と云ふ岩三つあつて、崇�ｺ天皇讃岐より本郡穴吹山へ御通行の折に憩ひたまふと云ひ、他の二つは源爲義爲朝父子の腰掛石と云うて居た。前年此岩の下から多くの古錢を掘出したことがある（美馬郡郷土誌）。醍醐三寶院の庭前に在る藤戸石は、佐々木盛綱備前に於て高名の際、淺瀬を教へた下郎を斬つて後尻掛けし石と云ふ奇説がある（京童五）。東都西郊の大久保附近には、昔の奧州街道の跡あつて其路傍に武藏坊辨慶が腰掛塚なるもの、義經の袖摺松と竝び存し（共古日録十九）、此勇僧日々街道に出て旅人を捉へ鎌倉の樣子を訊ねた古跡と傳へ居り、更に甚だしきは京都西國院三條坊門の北には鵺の腰掛石と云ふのさへあつた（山城國式社考）。鵺夜な／＼禁中に來つて災を爲すに、途中此大石の上で休んだと云ふのは（出來齋京土産一）、化物にも似合はしからぬ話であつた。しかし結局は石を遺跡として人敢て近づかず、永く敬畏の情を失はぬのはつまり信仰の力であるらしい。日向國には神武天皇の御腰掛石と云ふものが至つて多い。例へば西諸縣郡高原村大字｜蒲牟田《かまむだ》、狹野神社の西北皇子川原に在る、紫色にして鯉に似たる天然石、兒湯郡美々津町の耳川川口の岸に在るものなど是である（日向案内記）。併し此等の石に第一世天皇の御名を繋けるのが、果して古來の傳説であつたか否かは疑はしい。現に同じ兒湯郡｜都農《つの》村に在る腰掛石は、形似に由つて一名を俵石とも云ひ、橘三喜の一宮巡詣記には都農明神御腰を掛けたまふ石とあり、其所在の地名を瓜生と云ふ（同上）。そこで自分は洛東粟田口の瓜生石が一説に(61)慈鎭和尚の坐禅石と傳へられ（京羽二重織留二）、飛騨の一宮神の影向石が禅寺だけに坐禅石の名を以て呼ばれ、又多くの名僧の腰掛石が神と對面したと云ふ古話を存する理由も推測に難からぬやうに思ふ。此も山城の廣澤池の北の山に、觀賢僧都の坐禅石がある。僧都此石上より登天せりと云ひ、後世に至る迄雨降る日など鈴の音が聞えると云うて居た（洛陽名所集十）。觀賢姓は秦氏で讃岐の人、理源大師の上足であつたと言へば即ち行者である。行者に坐禅もちと變なる上に、不思議なことには此坐禅石の下手なる小さな一石を兒石と稱し、僧都の侍僮が師に別れて此池に身を投げたと云ひ、更に妙なのは池の附近に其兒の祠がある。寺の喝食の死と法師との話は、相州江島の白菊淵の類よく聞く所である。是は他の地方に於て姥と幼童との話ともなり、又或は老女と若き美女との話とも變形して居る化石談又は投身談と同型のもので、つまり童男童女を尸として神を降した舊慣を語るものらしい。大阪の坐摩社は神功皇后を祀ると云ひもと八軒屋の邊にあつた。其地を石町とも稱し、皇后凱旋の折に休ませられたと云ふ大石があつた。此石の上で御饌《みけ》きこしめす時に賤女來つて醤《ひしほ》を奉つたと云ふことで、後世までも六月二十二日の祭には之を供へた（八幡宮本紀三）。美作英田郡｜河會《かはひ》村字横川にも小さい一の腰掛石あり、其地をヌタマチと云ふ。天石門別命《あまのいはとわけのみこと》を案内した獵師の腰を掛けた石と云ひ、村民之に腰かけると怪異ありと怖れて居た（東作誌）。獵師を信仰の案内者とする例は亦多い。坐摩神社の賤女と共に、その最初の奉仕者と解することが出來る。即ち兒ヶ淵傳説の法師又は姥に該當する者である。

　さて右の腰掛石の名の起りは、二樣に之を解説することが能る。一つは各地で祭の日の御旅所を休石・石休場・休塚又安塚などと呼ぶことで、休むと云ふから腰掛けの名も出たと考へ得る。休石等の語は今でも現實に此意味に用ゐらるゝ地方があるにも拘らず、一方には同種の傳説も夙くより出來て居る。例へば常陸東茨城郡岩船村大字北方字｜宮後《みやじり》の休塚《やすづか》神社は、田村麿凱旋の途次此地に休憩したと云ひ惡羅王の頭の形を神體とし（茨城名勝志）、猶此國には式甕槌《たけみかつち》命の息塚と云ふのも古くあつたと云ふ（碧山日録寛正四年七月二十九日條）。岩代大沼郡三谷村大字大谷から小野河原へ越える石神峠には、昔伊佐須美明神御神樂嶽より博士山へ遷座の時憩ひ玉ふとて、高八尺周圍四間の石あつて之を(62)石神と云ひ（新編會津風土記）、能登の本郷村の往來より少し山手に石休場と云ふ地あり、釋泰澄七村山粉川寺へ山上の時休んだと云ふ腰掛石があつた（名跡志）。大和宇陀郡榛原町大字雨師の丹生神社に、神武天皇の休石御神樂置石等あつたことは、既に永亨三年の社記に見えて居る（大和志料下）。此等を見ると神を祭る石を腰掛石と云ふに至つた路筋もほゞわかる。第二の説明は稍々牽強かも知らぬが、腰掛のコシは又神輿のことかとも思はれる。樹木の方にも腰掛松の類がある上に、たしか御輿を掛けたと云ふ口碑もあつたやうに思ふ。但し之にも前述の如き偉人遺跡談も往々存して居る。京の北野天神の南方に御輿岡と云ふ地がある。岡とは名のみの平坦なる一區であるが、茲にも影向松と云ふ名樹あり、菅神最もこれを愛で、日に三たび此處に來降し給ふと云ふ説あれば（扶桑京華志三）、他の一説には是れ嵯峨天皇御狩の折に暫く御輿を卸し休まれた舊地で、後に北野の御旅所となつたので、其松は足利家の將軍が栽ゑしめた驗の松であるとも云ふ（名所都鳥三）。作州英田郡江見村大字川北の天王の森の中に、二尺ばかりの立石あつて常に注連を引き廻はし、之を御輿駐《みこしとゞめ》と稱し、後醍醐帝の鳳輦を駐め玉ひし故跡と云うて居た（東作誌）。此傳説が天王の名に拘泥した後人の附會である事は先づ疑が無い。其證には同じ國苫田郡東苫田村大字大田にも一の御輿休と云ふ地あり。古は一宮の旅所で近世は村の東に在る十二社權現の神輿一同に此所へ神幸あるを例とした。同郡高田村大字下横野にも右の大田村及び一宮村と接して下芝《しもこうげ》と云ふ少しの松林あり、往古一宮の旅所と云ひ林の中にある立石を俗に猿の腰掛と云うて居た（同上）。猿は一宮神の使令であり、芝とは此地方で草原を意味する方言である。猶同郡｜田邑《たのむら》村大字下田邑の王子權現社の西南にも一の神輿休石、又西苫田村大字小田中にも圓芝《まるこうげ》一名輿休と云ふ地もあつた。後者は長十四間横十二間ほどの草地で、之を耕す者には祟がある。昔は九月九日の日に二宮神社の神輿を此處に奉安すると、一宮の神官之を迎へて清酒潔饌を薦め兩社賓主の如き禮あり、畢つて神輿還幸するが例であつたと云ふ（以上作陽誌）。似たる例は決して之に止らぬ。殊に諸國の輿塚と云ふ封土には、?々此類の言傳へが多少の誇張又は誤信を伴なうて存して居るが、長くなるから今は省略して置く。

(63)　最後に讀者の注意を乞ひたいのは、右の影向石又は腰掛石と影向木との關係である。眞榊《まさかさ》の下に御座を設くる現今普通の降神法より類推すれば、所謂樹下石上の二つの要素は兩々相待つべきもので、就中青空に近接する喬木の方が順序として先づ構へらるべきものゝやうにあるが、果してそれが最初からの?態であつたか否か、多少の疑なきを得ぬ。樹木は人の意思で柱の如く早急にも又は天然木の如く漸々にも之を高くすることが出來、且つ其高さに於ては飛拔けたものも求められるが、其代りには茂林に蔽はれた上代の新土着地に於ては、敢て特別に人の目を惹くと云ふ樹も無かつたであらう。之に反して岩石の孤高なるものが若し有つたら、昔も今の如く何か靈ある如く感ぜられたであらう。即ち石柱に由つて神を降す風は事によると木柱よりも尚古く、古代人は單に天然の立石ある地を擇んで年々の祭神を饗したのみでなく、若し技工が許すならば神地に石の柱を建てゝ之を高天原からの梯子にしたかも知れぬ。今存する降臨石が多くは横に平たい石であることは此推測を否定するが、それは神事を社殿から輿に乘つて往來せらるゝやうに考へ出した自然の結果であつて、以前は少しでも丈の高い空に近い立石を擇んだのかも知れぬ。さすれば之に伴ふ老樹は即ち之に從たる驗の木であつたこと、恰も塚を築けば上に榎木などを植ゑたのと同じかつたであらう。自分の此推測を助けるものは、飯盛山又は飯山《いひのやま》など云ふ孤山の崇められたことである。高山の頂に奇拔な岩石あるものが?々信仰の當體となつたことである。天狗岩など云ふ大岩の今でも怖畏を以て仰がるゝことである。戸神又は立神などと稱して、海角山巓にある高い天然の石柱が神視せられ、堺の守護を託せられたことである。天梯立の神話が天に通ふ梯の倒れたと傳ふることである。人作の石柱が往々にして今も各地に存し、其由來に關し神怪なる口碑を存することである。高卒都婆と云ふ名を以て傳へらるゝ各地の柱が、稀には木を以て製作し時々之を新たにするものもあるが、多くは天然の岩石の空に聳ゆるものを呼んで居ることである。少なくも石多き日本では、夙くから石の柱の木の柱又は神木のやうに、神を迎へ祭る爲に用ゐられて居たとは言ひ得るだらう。而して今それ等の例證は、もう此處に列擧するだけの餘白が無い。

　

(64)　　　　　左義長問題

　

　山吹日記といふ天明六年の紀行に、武藏比企郡鎌形村（今菅谷村の大字）の農萬右衛門の家で、五十何年か前の夏の牛後、下女一人留守をして夕飯の支度にかゝつて居ると、木の枕などのやうな物が背戸口から轉がつて來て、閾居を越えて家に入つた。怖ろしと思ふ内に再び轉がつて出て行くので、些し心を落ち付けて見て居ると、庭に在る榎木の上へ騰つて空洞のある中に入つてしまつた。人々歸つて後此話をし、若い者等空洞の中を捜したが何物も無かつたので、此木只物ならずと怖れ合うた。後に故あつて此木を少し伐りかけたが、血走り出づるに由つて驚いて止め、老木で今も存すと記してある。

　此噂の實否を論究せねばならぬ時代は勿論疾うに過去つて居る。しかし話の馬鹿々々しさの程度如何を測定する前には、是非とも今一度三河豐橋神明宮の、正月十四日の榎玉神事の來歴を考へて見ねばならぬ。古い榎木が化けると云ふことは、隨分昔から言ふことであるが、井上圓了博士などは、既に例の「何でも無い」と云ふ目録の中に入れて居られる。例へばつい近年京都相國寺の境内で、手掌ほどの光を放つ數箇の眼玉ある怪物が居ると騷いだのを、或教員が調査して見ると、多年土中に埋れて居た榎の古株の掘出されたものであつたと云ふ（　　　おばけの正體）。但し我々は世間多數の俗人と共に、是だけは「あゝさうですか」と言ひたく無い。又何故に榎の古木が光るかと云ふ文明的な理由を訊ねる前に、此一箇の事實と永い間の榎崇敬とが、如何に關係して居るかを知りたいやうな氣がする。しかも古榎の怪を爲すと云ふ例は色々あつて、必しも眼玉のやうに光るのみでなかつたことは、右の武州比企郡の昔話の示す(65)通りである。つまり問題は怪あるに由つて榎を崇めたか、崇められるに由つて怪を現じたかで、之を決するのは將來の郷土研究者である。

　豐橋の榎玉神事は、雜誌風俗畫報三十七號にも報告があるから、近く迄行はれて居たのである。正月十四日の鬼祭の日、周一尺ばかりの榎木を前日山に入つて伐り來り、鋸は用ゐず鉈を以て小判形に削つてその榎玉を作り、所謂｜旱地方《かんぢかた》・福地方《ふくちがた》の二人雙方に立分れ、榊の枝で拵へた鉤を以て三度まで引掛け合ふので、之を榎玉の勝負と稱し、勝つた方其年豐作なりとする一種の卜法だとある。是と同種の神事は自分はまだ一つより外は知らぬ。其は筑前筥崎八幡の正月三日玉取りの祭である。續風土記十八に「これは八幡宮の市姫とて、夷社の所より木球の徑尺餘なるを箱崎馬出兩村の土民ども寄集りて取出し、油を塗りてそれより本社拜殿まで行く道すがら爭ひ取ることあり、是を取り得たる年は其村の田穀のなりはひ豐饒なりと、兩村の者ども爭ひぬるさまいとをかし、此祭今に至つて絶えず」とあり、又筑陽記には球は一抱餘の木丸で、神后異國退治の御時の干球滿球に象り、昔は二つあつたのが一つは退轉した。筥松の根から出たものと言傳へるとある（古事類苑神祇部九十一）。此方では既に豐橋神明宮の如く鉤を以て引掛けることはせず、素手で爭奪する形が備前西大寺の會陽《ゑやう》、又は陸中の蘇民引き（郷土研究三卷二號）などに近くなつて居るが、兎に角之を前に出た濱弓のハマなどに比べると、儀式上打つとか投げるとか云ふ行爲よりも、的その物の一段と重要であつたことだけは窺ひ知られるのである。

　毬打と稱する春の初の遊が、もとは亦年占の趣旨に出でたことは推測に難くない。骨董集は何に由つたとも言はずに、其打ち樣を如何にも詳しく述べて居る。小兒等雙方に立別れて間を隔つること十間或は十二三間、其中程地上に一線を劃して限とし、一方から玉を投げ他方では槌を以て之を受留め、線を越させるを受方の負とし越させざるを勝とする。近世は槌を用ゐず竹杖又は竹箒の類で打留めるやうになつた（同上）と謂ふを見れば、其槌を用ゐた一點を除く外、所謂ハマ投げの方法と少しも異なる所が無いのである。之に反して榎玉神事の類に至つては、同じく年占であ(66)るにしても同列には説明し難いやうに見える。ハマ若くは毬打の玉が近代のは多く圓盤であつて、玉取祭の木丸と違ふのは、或は後々の變化とも解し得る理由があるが、一方では成るたけ遠くへ玉を飛ばすのを競ふに反して、此は我方へ引掛けんと力めると云ふのは、遣ると取ると大きな相違のやうである。併し自分をして言はしむるならば、是は寧ろ球の競技が我民族に固有のもので、唐土の打毬戯が朝廷貴紳の間に持囃さるゝに至つた前、日本にも之と稍々似た行事が存在したことを示すものかと思ふ。山東氏等が意見では、後世の毬打は通例五月｜騎射《うまゆみ》の式の後に奏せらるゝ打毬樂と云ふ舞から起つたものだ。直接に支那の打毬を模倣したのでは無く、其を寫した舞樂を眞似たのだと云ふので（骨董集）、如何にも有り得べからざる推定である。其と言ふのが彼邦の遊戯に在つては毬は革の鞠なるに反し、日本の所謂毬打の玉が古くから木丸であつた爲で、此人は名稱の變遷と云ふ事に些しも注意を拂はなかつたのである。殊に毬杖〔二字傍点〕と言つては單に毬を打つ杖のことになり、遊戯其物の名とはしにくい爲に、中古以來毬打と云ふが如き無理な漢字を宛て始めて、愈々本の意味が不明に歸したのであらう。古代社會の事物が痕を今日に遺すのは、多くは書物に由つてゞある。文字に親しんだ少數の階級が、時代の好尚に風靡せられて新名稱を用ゐた例は幾らもある。毬杖はもと打毬の曲杖のことであつたのを（倭名鈔雜藝具）、在來の新春玉取りの行事のツヱにも轉用し、さまで特殊でも無く又雅馴でも無かつた原の名が、少なくとも京都上流の間に於ては、不使用に由つて廢絶したのかも知れぬ。既に實質に於ても相異あり、又田舍にも行渡つて居る昔風の競技を、單に漢名を帶ぶるが故に支那から移したとするのは速斷に失するかと思ふ。

　毬杖と關聯して更に一の解し難い問題は、「ぶり／＼」と云ふ物の性質如何である。嬉遊笑覽には、滑稽雜談に「今謂ふ玉振々は即ち昔よりの毬打なり」とあるを引いて、「ぶり／＼」は柄を挿して玉を打つ槌にする爲に作つたもので、二者もとは一つであると説いて居り、骨董集は之に反して、「ぶり／＼」を以て地均《ぢなら》しに使つた一種の農具を模したものとなし、之を毬打類似の遊戯に供するのは轉用に過ぎぬと言ふ。なる程何れの風俗畫を見ても、「ぶり／＼」には常(67)に紐を通して牽いて居り、柄を挿して槌としたものは未だ見當らぬが、さりとて近世の小兒玩具にあるやうな二箇のハマを取附けた車形を以て「ぶり／＼」の原の形とすることは甚だ覺束なく、結局この「木を八角に削り兩端を細く中ふくらに」作つた振々といふ物の最初の用途はよく分らぬのである。之に付いて思合はさるゝことは、同じ嬉遊笑覽六下の中に、「毬杖ぶり／＼は卯槌より出でたるもの」とある一新説である。卯槌卯杖の古製式に關しては、是迄多くの學者の解もあつたが、春の初に朝家でも此物を持囃されたと云ふことを知るのみで、實は是も何の目的に供せられたものか明瞭で無い。而して通例卯槌の圖として世に傳へらるゝは、木を削つて作つた槌の子の如き物に五彩の組絲を貫いたものであるから（國史大辭典）、或は又毬杖は卯杖に當り、「ぶり／＼」は卯槌に相應するものゝ如く解する人があるかも知れぬが、自分の見る所では、卯杖と卯槌と二者別々の物であつたとするのはまだ大いに疑はしい。枕草子に正月桃の枝を卯槌木に伐らしむと云ひ、卯槌を卯杖のさまに頭包むと云ひ、或は源氏浮舟卷に、「またぶり」に山橘を貫いて卯槌と稱して人に贈つたと云ふ如く（嬉遊笑覽所引）、寧ろ同一の装飾した木片を、杖とも槌とも呼んで居たのでは無いかと思ふ。果して然らば後世の振々、若しくは之とよく似た古圖中に在つて卯槌と看做されて居るものは何であるか。自分は之を以て古い時代に二股の杖で引掛け合ふこと、かの豐橋の榎玉の事と同じであつた、其木球の名殘であらうと想像して居るのである。

　木の鉤を以て引合ひをすることは綱曳の年占にも例がある。又鍵掛けと稱して椏《また》になつた樹枝を鳥居或は神木の梢に投上げ、留まると否とで神意を判じ、或は鍵引きと稱して神木の枝に掛けて曳くのを山神を迎へる儀式とする地方もある。前に引いた源氏物語の卯槌なども、亦一の「またぶり」であつた。花鳥餘情に之を註釋して、樹枝に卯槌を貫いたのだと説いて居るのは據の無い推測である。何故に木の鉤をも槌と云うたかは自分も十分説明が出來ぬが、普通は轉がりまはる玉を打ち留めて取つたので、槌と稱へたのでは無からうか。兎に角に打つといふから遠くへ飛ばす方を詮とするやうに解するのは後の世の思想で、元の起りは杖を以て押へても、矢を以て射ても、等しく其玉を取り(68)留めるのが競技の目的であつて、從つて蚩尤《しいう》の眼玉だの守屋の首だのと名づけた毬打の玉は、初春の縁喜として年占を試みた人々の爭うて獲んと努めた物と云ふことに歸着する。ハマと云ふ語の意義は今以て不明だが、「ぶり／＼」は此玉の飛ぶ時の音から出たかと思ふ。之を要するに自分の推定する所は、毬打の遊戯とほゞ同じき競技を、大昔は卯杖を以て眞面目な神事として行うた。「ぶり／＼」は其卯杖を以て引合つた木の球の變化したものかと云ふのである。此説の當否は大小各社の卯杖神事の比較によつて今に決するであらう。

　正月卯杖の神事を執行ふ古い社は、京都では賀茂と祇園、奈良の春日社の如きも其例である。津國の住吉に於ては四月初卯日の神事であるが、神輿渡御の刻、神主禰宜たち手に／＼卯杖を持ち其前後に供奉するが例で、此杖を一に忘草と稱したとも云ふのは（日次記事）大いに注意すべき點である。現今に至る迄多くの神事で正月に卯杖卯槌を參詣者に授與する慣習があるのは、此物が單純なる遊戯具では無いことを示すと同時に、又信仰上に何か特殊の關係を持つて居たことを意味して居る。卯杖には第一此が材料とする木が定まつて居り、日陰蔓其他の植物を以て之を飾り、後には又色絲で結ひ白紙で包んだなど、頗る此物の前に述べた「みあれ木」や神靈奉安木に近いことが感ぜられる。從つて此が各部落に對する神意の厚薄を豫知せんが爲に、年の始毎に行はれた玉の取合ひに用ゐられたとしても、些しも不思議なことは無い。只時代と地方とに由つて名稱が異なつた上に、其方法規則が區々になり、他の多くの神事も同樣に、之に參與する人々の態度も亦變化した故に、今に於ては本意を辿ることが斯くも困難になつたのであるが、初戎其他の正月の神祭に、「きつちやう」と稱て參詣人に賣る一種の年木の如きも、右の自分の假定説に由るの外、其由來を解することはできなからうと思ふ。

　毬杖の遊戯の根本を假に右の如く解した後、更に逢着せねばならぬ第二の難問題は、所謂左義長の顯著なる慣習とこの玉取競技との關係である。「さぎてう」と云ふ語の最も古く存するのは、辨内侍日記の建久三年正月十六日の條であると云ふ。徒然草下に、正月に打ちたる「きちやう」を眞言院より神泉苑へ出して燒上るのが「さぎちやう」だと(69)あるのは、恐らくは當時の物知りの記憶に由つた説で、文字に拘泥した後世の牽強附會とは、日を同じうして談ずべきもので無からうと思ふが、時世の變遷は是非も無いもので、所謂眞言院の毬杖式の記録もまだ見出されず、近世兒輩の弄ぶ毬打ぶり／＼では、わざ／＼之を燒く行事が必要とも思はれぬので、依然として「左の議長ず」だの、「山鬼打」だのと云ふ雜説の跳梁を制し得なかつた。毬打がもと祭具であつたとするならば、祭の節が畢つて之を燒いたとしても不思議は無い。現に祇園社元旦の削掛神事の如きも、十二本の卯杖を燒いて煙に由つて年占をしたのである。しかし我々のなほ解釋に苦しむ點は此だけでは無い。三毬打の家元とも言ふべき山科氏の記録を檢しても、少なくも足利時代以後の慣習では、毬打即ち年占用の忌杖を是で燒いたものと思はれる痕跡が無い。例へば「さぎちやう」は三の毬杖で、結び燈臺又は當世の狐狗狸さんなどの如く、三本の杖を組合せた故の名とより外は解せられて居らぬのに（國史大辭典）、京都の三毬打などは、常に四本の竹を寄せ立てたものである。毬杖の原料は榊とか椏のある木であるべきであるが、中部以西の國々では必ず竹を用ゐて火祭の柱とする。玉を打つ爲の杖ならば二三尺を出ない筈なのに、三毬打には心竹と稱して高きを競ひ、京都では七間｜問半《まなか》を例として居つた。此等の事實を考へ合せて見ると、上元の火祭に關する徒然草の説明は、單に何故に之を「さぎちやう」と謂ひ始めたかの問に答ふるに止り、如何にして此の如き儀式が起つたかと云ふことに迄は及ばぬのかも知れぬ。語を換へて言へば、正月十五日に高い柱を立てゝ、火を燃す行事は別に理由があつて存し、此火で毬杖をも燒捨てることが略すべからざる一條件であつたが爲に、終には其名を以て呼ばるゝに至つたこと、恰かも注連飾りや吉書の類を燒くだけならば、斯樣な大きな火を燒く必要は無いことをよく知りつゝ、しかも注連と吉書は必ず此火で處分せねばならぬが故に、土地に由つては此行事を注連燒き吉書燒きとばかり稱へるの類ではあるまいか。行事其物の内容が變化したと見るよりも、名稱が改まつたと推測する方が容易であるのみならず、現に同じ慣例が行はるゝ區域は殆と全國で、之を「さぎちやう」と呼ぶ區域は遙に其よりも狹いので自分はさう思ふ。果して此推定の如しとするならば、毬杖競技の性質のみを以てこの上元の火祭を説か(70)うと企てるは勿論不都合な事になるが、さりとて又この小さな杖の此式に對する關係を輕微なるものと看過すことは出來ぬ。何となれば自分等の推定する所に依れば、この神聖なる年占の式に用ゐられた忌杖は、言はゞ神の分身であつて、即ち神と相生の天然の柱から、年々新たに立てらるゝ所の人造の神木に向つて、靈の火を運搬する作用を爲すものと認められて居たらしいからである。

　

　　（追記）

　　　神の定まつた祭場を標示するために、柱を立てゝ其頂に火を掲げることゝ、正月と盆とに火を焚く祭を行ふに際して、其中心に柱を立てることゝは、本來は一つの信仰行事の裏表であつたらうかといふ推測を確かめるのは、其二つの祭に伴なふ卜占の方式を明らかにするのが、最も肝要なる方法であることは今も信じて居るが、それには是だけの説明ではまだ十分でなく、從つて晦澁を免れない。此一文は單に迷走の記録といふに止まるであらう。

　

(71)　　　　　杖の成長した話

　

　　　　　　　　　　一

　

　大正十三年の夏期講習に、甲州御嶽の宮本村に往つて居ると、折よくも金櫻神社の夏祭があつた。神事のあるのは七月十五日、即ち以前の六月望の月送りであつた。素より小祭で參詣の人數も少ない爲に、却つて自分たちの拜觀には都合がよかつた。儀式にも神樂にも珍しい古風が多かつたが、其中でも殊に心の留まつたのは、一つには神馬と神輿と、神行幸の御乘物が明らかに二通りになつて居ることゝ、次には神輿の前に行く白杖の形であつた。

　此御社の今の御旅所は、石の階段のすぐ下の御手洗の側であつて、自分の宿の眼の前であつた。還御の後に出て見ると、そこに其杖がたゞ棄てゝあつた。五尺餘りの細い篠竹に、幅四五分の白紙があらく斜に卷附けてある。小學校に來て其杖の話をすると、傍に居た村長の小田切石治翁が、あの竹は昔から自分の邸内に生じたものを切ることになつて居る。俗に日蓮上人の杖の竹と謂ふもの即ち是である。甲斐國志等にも既に見えて居るが、近年は久しく此式が廢れて居たのを、此方から申出して再興することにしたと言はれる。

　自分に取つては是は大きな啓示であつた。そこで神馬の作法は此次の研究に延ばして、先づ此問題から處理して見る決心をしたのである。小田切氏の家は御宮から奧へ十數町を隔てた高町と云ふ部落に古くからあつて、御杖を斫る竹林は僅か二坪くらゐのものである。貞享年間の書上に由つて由緒を申立て、それだけが除地に爲つて居る。秋夏大(72)小の御祭に、二本づゝ供進することに定まつて居て、之を迎へに行く役、又紙を卷く役の家もあつて、嚴重な恒例であつたが、今では此方から持參することになつたとある。

　日蓮上人の杖を立てたと云ふ話は、何とも不審なことだと言はれる。此村及び附近には、法華宗の信徒は元から無いのであるが、かの宗派にさう云ふ言傳へがあると稱して、身延山から使僧が來て、篁の近くに記念の石を立てた。それが何年ほど前のことかは、突止めて聞かなかつたが、勿論明治以後では無かつたらしい。さうして他の地方と一點の差異も無い逆さ竹の由來譚が、世上に流布するに至つたのである。前年甲府の商業學校の生徒たちが採集した「甲斐の口碑と傳説」の中にも、宮本の逆さ竹、日蓮行脚の砌、金櫻神社に參詣せんとして此地に滯留し、御嶽に日參祈請す。其時上人竹杖を地に挿して去る。日を經て其杖に枝葉を生じ今尚繁茂すとあつて未に、金溪子曰く、此竹今尚余が邸内に在り、又別に上人植うといふ一種の柿、ヨダレ柿若しくは日蓮柿と謂ふものもあると記して居る。余が邸内とあるからは、金溪子は小田切翁であらうが、此にも御社の祭の杖が、此竹を用ゐて居たことを書添へなかつたのは、多分は儀式の神秘を重んじた爲であつて、それが又諸國に數多い逆さ竹逆さ杉の類が、悉く其本來意味を不明にした一般の原因では無かつたかと思ふ。

　

　　　　　　　　　　二

　

　日蓮上人の杖成長すと云ふ例は、此より遠からざる甲斐信濃の國境にも、尚一箇所を傳へで居る。官道の往還に接した下蔦木の敬寛院境内の、古木の蔦がそれである（一）、上人佐渡よりの歸送、此地に留まつて二日三夜の説法をしたと稱し、高座石一名を轉げ石と名づけた大岩がある。蔦の古木は此岩に凭つて茂生し、村の名の蔦木も多分は之にもとづいたかと思ふが、同じやうに此口碑の起原は明白で無い。たゞ一つ自分の氣づく點は、釜無川の右岸に臨んで、此村と相對して居る甲州の教來石《けふらいし》と云ふ村の名が、何か右に謂ふ轉げ石と、共通した意味を持つて居るのでは無いか(73)と云ふことである。即ち古くから國境郷境を標榜する爲に、清らなる石又は木を齋いた習慣が爰にもあつて、其由來は先づ埋もれ、漠たる尊敬の念のみ永く傳はつて居た結果では無いかと思ふ（二）。但し此は尚多くの枚衝古傳が、境の神の信仰に伴うて居たことを、證明した上で無いと臆斷することは難い。

　前代幾多の名僧智識が、杖を地にさして法驗を卜したと云ふ話には、日蓮の信徒も相當に參加して居るが、竹のやうに次々に生えかはるものに就では、其例は寧ろ稀有である。攝州竹塚の竹は、日蓮杖をたてゝ妙法の榮を待つと云ふ説があるが（三）、それは今日の何村の地であるかを知らぬ。伊丹の町に近い大鹿の妙宣寺は、同じ宗旨に屬して杖から成長した竹の林を抱へて居るけれども、杖の主は開山の大覺僧正、近衛殿の末子と傳へられる人であつた。文和の頃此地に住し、辻説法を以て一郷を教化した時、携ふる所の紫竹の杖を挿して、我法末世に盛なるべくは、此竹乃ち活き生ぜよと、うけび事をしたとあつて、果して逆さ竹の繁茂を見た。今も中風の豫防に效があると信じて、此藪から杖を求める者が多い（四）。

　併し何と言つても國々の逆さ竹の中では、越後の親鸞上人のが一番に有名である。今も七不思議の一つとして、宗外の旅の者までがもてはやすのは、彌彦山の麓に近い鳥屋野《とやの》の里の紫竹林なるものであつた。東西二十五間、南北三十五間の藪であつて、碑を建てゝ故跡を表すと物には見えて居るが、今はどうあるかを知らぬ。枝葉すべて倒生し、如何に勢よく成長したものでも、容易に手を以て引拔くことの出來るのは、元來杖を挿した竹だからだと迄謂つて居る（五）。さうして此樣な試驗をした目的は、全然反對派の祖師と同樣であつた。殊に親鸞上人の方では、殆と癖と謂つてもよい程に、澤山の杖を諸國に挿しあるいて居るのである。但し又斯う云ふ説もある。鳥屋野の逆さ竹の如きは、之を親鸞に托するのは一向宗門の人ばかりで、實は弘法大師の事蹟であるとも謂ふさうである（六）。空海は行基空也性空一遍などの諸上人と共に、尤も斯う云ふ試みを爲し得た人であつた。現に紀州では高野に接した伊都郡の杖ヶ藪村、那賀都田中庄新田村の阿字堂の小竹林など、何れも大師の杖から成長したと傳へ、殊に前者の如きは挿したのでも無(74)く、清水を加持した時に、ふと投げ棄てた杖であつたと謂ふ（七）。上州｜世良田《せらだ》の長樂寺には、大師の杖が青葉を生じて、繁茂したと云ふ竹があるが、此大師は天海僧正のことらしいから、ずつと後世の奇瑞である。如何なる理由か此竹を送り竹と稱して居る（八）。越前の下味見《しもあぢみ》村折立には、稱名寺の開基光實上人の杖が芽を吹出したと傳ふる竹叢があるが、それは甲州御嶽の例と同じく、岸上某と云ふ普通の人家の傍に在る（九）。又最近はどう變化したか知らぬが、神戸の市の生田明神の社前には、梶原源太の箙の梅と相隣して、平の敦盛の杖竹が保存せられて居たことが、百餘年前の紀行には見えて居る（一〇）。此人などは杖を突いて出て來るのに、最も不適任かと思ふ青年武官であつたが、竹以外の杖立口碑には、斯う云ふ例が段々にあるのである。

　　（一）　「甲斐の口碑と傳説」、立石誠也報。信州の舊記類に此話を録したものがあるか否かを知らぬ。

　　（二）　教良木又は教良石といふ地名は、靈木靈石の所在を意味して居たことは、以前「郷土研究」で之を論じたことがあつた。諸國に例の多いコホロギ橋といふ橋の名も、やはり其袂に崇敬せられる木があつた爲の名かと思ふことは、例を擧げて近く之を説かうと考へて居る。

　　（三）　俗名所座知抄卷下。

　　（四）　近年刊行の川邊郡誌に依る。和漢三才圖會、本朝國語等にも此事を記して居る。

　　（五）　和漢三才圖會。及び越後名寄卷四。

　　（六）　越後名寄に依る。

　　（七）　紀伊續風土記卷三一、及び五一。

　　（八）　上野志卷下、又上毛國風土記。

　　（九）　大野都誌。

　　（一〇）　長久保赤水の長崎行役日記、明和四年十一月二十日。

　

　　　　　　　　　　三

　

　杖櫻の物語は、物語としては逆さ竹よりも遙かに美しい。中でも世に知られて居るのは、明石の人丸社前にある盲(75)杖櫻、昔筑紫より一人の座頭參詣して、

　　　ほの／”＼と誠あかしの神ならば

　　　我にも見せよ人丸の塚

と云ふ歌を詠じて祈請をしたところが、忽ち兩眼明らかになつた。力と頼んで居た杖も用無しと、之を廣庭に挿したまゝ還つて往つた。翌春其杖から芽を生じ花を開いたのが此木と謂ふ（一）。名歌と言ふでも無く信心の力とも言はれないが、やはり何等かの理由が神木の起源を、杖に托すべき必要を認めたのである。

　但し法師であり常習の旅人であつた點が、此の如き今風にも尚他の多くの例との共通を示して居る。信州更級郡の佐野の藥師堂には、西行法師杖突の櫻がある。西行行脚の途すがら、此に參拜して杖を池の畔にさしたと謂ひ、或は單に手植であつたとも謂ふ。元の老木は貞享元年の火に燒けて、今のは其根芽の成長したものださうだが（二）、假に燒けなくとも櫻は杉檜の如く、老齡を保つことが六つかしい。故に多くの杖櫻は植繼ぎであつた。

　紀州では熊野の野中王子に、秀衡將軍の繼櫻があつたが、是は最初からあたりの樹の枝であつた（三）。同國雜賀庄、梶取の總持寺の杖櫻は、遙か後代の寶�ｺ二年の杖で、しかももう今は遺跡ばかりになつて居る。當時開基の名僧明秀光雲上人、吾もし此地に縁あらば、此杖枝葉を生ぜよと誓ひて之せ立てたれば、數日ならずして芽を發し、後に美しき花を開くに至つたと謂ふのである（四）。此の如き奇瑞を現じた靈木でも、多くの歳月を重ねると自然に朽ち枯れる。故に今存する杖櫻が、大抵は最初の杖の成長したもので無いやうに、之を説明する傳説の方にも、中頃幾度かの植繼ぎがあつたことを、想像してもよいのである。

　其中でも杖の主を、寺の開祖の某上人とすることは、由つて來る所が有るかと思はれる。美濃國では稻葉郡西庄村立政寺の杖櫻は、開山上人の名が智通であつた以外に、殆と前の紀州總持寺の例と異なる點が無く、しかも古くから此地方に言ひ傳へられて居た（五）、同國｜郡上《ぐじやう》の上保村、專龍寺の泰澄櫻は泰澄大師の杖であつて、此地は即ち越の白山(76)の南の登り口、大師は人も知る如く白山信仰の創立者であつた。此等の尋常を絶した旅人が、年久しい旅路の終に、漸く有縁の地を見出して永く止住したと云ふことは、其以後用ゐられる折の無かつた杖と云ふものゝ行方を、清く氣高い境内の老木の姿の中に求めようとするのは自然に近い。岐阜の金神社の神木の櫻を、金樣《こがねさま》の御杖と呼ぶのも同じ例で（六）、此點に就ては既に宗旨宗派の差別は問はないのである。獨り怪むは親鸞日蓮と云ふ類の遊行の僧が、國々到る處に際限も無く、旅の杖ばかりを遺しては立去つて居た一事である。旅をして杖を殘したと謂ふよりも、見やうに由つては杖の爲に、行脚をしたかとも思はれる點である。殊に其樹が後人の仰いで賞美する櫻や梅椿の名木であるときにさう感ずる。

　三河では額田郡樫山の花園山櫻井寺に、弘法大師の杖櫻が、曾ては花園山と名づけたほどに咲き盛えた。此寺の名水は大師が其杖を以て探り得た清水である。凡庸の僧徒の到底負擔し得ない奇跡であつた故に、乃ち弘法を以て此寺の開基として居る（七）、此大師の名に繋けた靈泉は、海内に充ち滿ちて居る。爰から山嶺を南に越えて、寶飯郡大木村の鑓水山西漸寺にも同じ一例があつて、大師ある姥の親切をめで勞苦を憐んで、錫杖を以て地を穿つに、忽ち清水の湧き上ること鑓を突くが如くであつたと謂ふ。然るに偶然なことは此寺にも、やはり一もとの逆さ櫻があつた。弘法の去つてより數世紀の後に、法然上人が行脚をして、此寺に留ること四十八夜、亦一本の櫻の枝（杖？）を、逆さに刺して往つたと云ふのである（八）。

　江戸は太田道灌の時代までも、まだ茫々たる草の原であつたらしいのに、やはり多くの杖の木が記憶せられて居る。櫻は谷中の領玄寺と云ふ法華寺の、身延の日享上人の墓前に在るもの、京師櫻一名を會式櫻《ゑしきざくら》と稱して異品であつた。花は一重にして遲咲きの八朔櫻に似て更に形小さく、毎年舊十月の會式の頃に咲いた。日享在世の時、皮附きの櫻の杖をついて來て、爰にさして置いたものと謂ふ（九）。皮附きとは行屆いた説明であつて、なるほど削り上げた白杖では、如何にも成長して枝葉を生じようと思はれぬが、さりとて此が爲に話が信じ易くもならぬ。杖は本末が自然の木とは(77)逆だから、之を地にさせば梢に根を生じたわになる。古人はそれをすらも信じたばかりか、少しく枝の垂れた木を見ると、忽ち杖の昔を推測しようとさへしたのである。

　斯うして保存せられて居た名木が、單に巨大であつたのみならず、往々にして奇種逸品であつたことは注意に値する。下野國に佐藤庄司が泣いた處なるに因つて、村の名を泣村と呼ぶ地があると説く者がある。其地には源義經が杖を立てたのが成長した一本の逆さ櫻の老木があつた。根もと細く上が太くて、どこ迄も昔の由緒を示して居たと云ふのは眞實であらうか（一〇）、薩摩の坊津に近い野間の近衛櫻は、近衛關白信輔謫居して此國に在る頃、たま／＼爰に遊びて其杖を立て置いたのが成長した。此も今ある木は新しいもので、始の杖は遙か以前に枯れたが、幹は二叉に分れ、花は紅白の咲分けであつた（一一）。杖の頭のまたぶりと稱して、二つに分れたのは昔の杖の常の形であつたから（一二）、此が爲に一層此口碑が保存せられ易かつたことゝ思ふ。

　此等の珍種は前にも京師櫻の名があつたやうに、近傍の地には類の無い遠國の産であることが、一つの要件を爲して居たらしい。人が多くの山河を越えて來た如く、其杖も亦旅をして、遙々と見ぬ里の消息を運んだ。それが因縁を認め、從つて奇瑞を認める一の動機であつたと思ふ。是も熊野の山奧の請川《うけかは》と日足《ひたり》との村境、雲取越の往還にあつた高麗櫻を杖であつた。最もとくに枯れてしまつたが、最初請川の住民が、朝鮮征伐の時かの國に渡り、携へ還つた杖をさしたものと傳へられた（一三）。信州蔦木の蔦の例などを思ひ合せると、杖の木が往々にして大道の傍に在ることゝ、土地には見馴れぬ栽ゑた木であることゝは、勿論關係する所がある上に、それが國郡の堺なり、又は靈場の目標なりに立つて居ることは、偶然で無いと考へられる。果して人間の行爲に出でたとするならば、その本來の趣旨と、今存する共通の傳説とには、何等かの聯絡のあるものと、一應は假定して置いても大なる誤りは無からうと思ふ。

　杖櫻の序を以てごく簡單に、一二の梅椿の例を擧げて置かう。梅は安藝の宮島の求聞持《くもんぢ》堂の前に、瓶花栢と竝んで錫杖梅といふものが以前あつた。話の主は此な空海で、栢《かや》の方は單に花瓶の小枝が、根をさしたと云ふまでだが、梅(78)はやはり亦立てゝ置いた錫杖から成長して居る（一四）。美濃の鏡島の乙津寺にも、弘法大師の杖の梅がある。次に越後栃尾の常安寺の一夜梅、之に付ては稍々込入つた物語がある。此寺第一代の門察和尚在世の頃即ち永禄年間に、或夕一人の老翁來つて血脈を乞ひ、和尚諾して之を授けると、老翁は大に之を感謝し、境内を徘徊して居たが、やがて携ふるところの杖を以て庭前の山の足を穿つと、清水忽ち流れ出でて、それが今ある泉と爲つた。それから塀の傍にかの杖を挿して、次のやうな一首を詠じて去つた。

　　　植ゑ置きし梅のあるじを人問はゞ

　　　　　　　　みづからいます神とこたへよ

　みづからいます神は自在神、即ち菅原天神であつたのである。和尚翌朝出でて其杖を視るに、既に青葉を生じて居た。よつて一夜梅と名づけ、永く石に勒して此梅を當寺の神木としたと謂ふ（一五）。寺誌に記す所は此の如く、門察は開山であつたけれども、なほ此奇瑞を以て靈神の威�ｺに歸して居た。比叡山延暦寺の西塔の椿堂の由來は幾分か此話と似て居る。傳教大師がまだ此山に住せぬ遙か以前、聖�ｺ太子御登りなされて、御本尊救世觀音を安置せんが爲に、開きたまふ所の伽藍の地であるが、當時其側に立て置かるゝ椿の御杖、後代に至るまで枝葉繁茂し、俗に之を椿堂と稱へた（一六）。伊勢の山邊の逆さ椿と謂ふのは、頼朝の弟蒲冠者範頼の杖であつた。範頼平氏追討の折此地を過ぎ、今度の戰思ふまゝならば、此杖も必ず枝葉を着くべしと、如何にも冒險的な占方を試みた。しかも果して其言の如くであつたのは、如何なる神靈の�ｺであつたか。それは不明と爲つて近世には、たゞ名馬池月の産地と稱する口碑を存するのみである（一七）。範頼敦盛の如き若い武將には、なんぼ旅中でも杖は甚だ不似合であつた。そこで杖實は手木である、又は鞭であつたと云ふ異説が早くから有るが、其差別は必ずしも深く究むるを要せぬ。杖が決して老人の老を扶ける爲のみに、用ゐられたもので無いことは追々に分つて來る。

　　（一）　多くの書物にあるが、專ら大日本老樹名木誌に據つた。人丸神の信仰は、明石に祭られる迄は全然別樣であつたらしい。或は眼の病と特別の關係があつたかとも思ふ。

(79)　　（二）　同上書。更級郡幸原村字佐野。

　　（三）　紀南郷導記。西牟婁郡近野村大字野中。

　　（四）　紀伊續風土記卷七。今の海草郡野崎村大字｜梶取《かんどり》か。

　　（五）　鹽尻（帝國書院本）卷六一。稻葉郡市橋村大字西（ノ）庄。

　　（六）　以上三件とも稿本美濃志附録美濃名木表の中に見えて居る。

　　（七）　和漢三才圖會卷六九。又本朝國語にも。

　　（八）　三河志卷二七二寺院奇談を引いて、前半は又三河雀にも見えて居る。寶飯郡一（ノ）宮村大字の大木。法然上人は又故郷の作州久米郡岩間山本山寺にも、一本の杖櫻を殘して居る。それは鹽竈櫻であつた（作陽誌）。

　　（九）　十方菴遊歴雜記二篇下。

　　（一〇）　緘石録卷一に出て居る。他に同一の記事を見出さぬ。

　　（一一）　三國名勝圖會、川邊郡川邊村大字野間字下大久保。

　　（一二）　此問題に付ては郷土研究第二卷に「鉢叩きと其杖」と題して少し論じておいた。

　　（一三）　紀伊續風土記卷八五。東牟婁郡請川村大字請川。

　　（一四）　藝藩通志卷一六。

　　（一五）　温故之栞卷二三。

　　（一六）　山城名勝志卷一二上に、山門記を引いて。

　　（一七）　伊勢名勝誌に勢國見聞集を引いて、今の河藝郡河曲村大字山邊字曾戸。名馬池月の出身地が幾らでもあることは山島民譚集卷一に述べておいた。馬の保護神の信仰から起つた傳説である。言ひ落したが弘法大師の杖の椿が、伊豫宇摩郡川瀧村の常禰寺にもあつた。嘉永六年の火で燒けて、今の木は根芽である（大日本老樹名木誌）。

　

　　　　　　　　　　四

　

　尊者が杖に切つたと云ふ木の種類は無數であるが、中にも杉の樹は眞直で、すが／＼しい故に、杖に宜しく又神木として成長するに適して居た。此木ばかりは常に森の中に秀でて居て、必ずしも品種の珍を以て人の目を惹くことを(80)要しなかつたものか、單なる老木の老いたる姿を以て、昔を談る例が至つて多かつた。さうして又如何なる理由でか、檜の木の杖から成長したといふものは却つて少なく、杖松に至つては殆と稀有であつた。

　後の人の便宜の爲に、兼て集めてあつた各地の例を擧げて置かうと思ふが、勿論少なからぬ脱漏を豫期して居る。假に年代の順を追うて求めて見ると、最も古いものが日本武尊の御杖で、美濃の不破郡岩手村の杖立神社の、逆さ杉と謂ふのが即ち是である。當社の祭神伊吹山の大蛇を退治に、赴かせたまふ途次、暫く御休息をなされたのが此地であつた。突挿したまへる杖に枝葉を生じて、今の神杉と爲つたと申して居る（一）。杖立と云ふ神名は古いであらうが、それは境の峠や山の口に、?々聞く所の地名である（二）。次には役行者の杖と傳ふるものが、飛騨の大野郡大名田村、花里の一本杉白山社に在る。此社は高山町一部の産土神であるが、社頭の老杉を行者の杖を立てたのが生長したと謂ふのは（三）、即ち勸請が彼の時代に在つたことを意味するのであらう。

　土佐長岡郡西豐永村の藥師堂の逆さ杉は、行基菩薩登山の折に、携へ來たる杖を挿すと謂ふ。眼を病む者此木に祈れば靈驗ありと信ぜられて、今でも「め」の字を書いた紙片が、樹下に白く散つて居る。曾て一人の名僧が登つて來て、此木の枝で眼を突いて、明石の盲杖櫻とはちやうど反對に、こゝで盲目に爲つてしまつた。其亡魂が此杉樹に宿つて居る爲に、此の如き奇瑞があるのだとも傳へられる（四）。二つの傳説の間には、何ぞの關係がありさうに考へられる。弘法大師の遺跡は、四國には素より多い。阿波の左右内《さうち》村の杖杉菴の杖杉は、一名を衛門杉と稱し、四國巡拜者の開祖衛門三郎、此地に在つて入寂したのを、大師其跡を弔ひ墓の標に杖を立てたと傳へられる。但し元の木は享保年間に燒け、今あるものは元文三年の植繼である（五）。同じ國那賀郡豐田の月夜水菴の境内にも、大師杉一名逆さ杉がある。大師杖を以て地を穿ち泉を出すの口碑はあつて、しかも杉の古木は單に枝を折つて倒しまに挿したものと謂ふこと（六）前の三州西漸寺の逆さ櫻とよく似て居る。土佐では又豐永の藥師堂より上流に、有名な杉の大杉があつた。往還に近い爲によく知られて居る。樹の周四丈八尺、如法の大木であつて、村の名の之に基づくことは疑ひが無い。其由來と(81)して昔平家の殘黨が、祖谷山《いややま》に遁げ籠らうとする途中で此地に憩ひ、携へ來たる杖を挿したのが根附いたと謂つて、境の杖の一例であるが、一方には又延喜年中に、杉本太郎義家なる者が、大杉の下に今の牛頭天王を勸請したとも語つて居た（七）。何れにせよ八坂神社の勸請は、此老木と關係する所があるのである。而うして前代の神勸請に、杖の必要であつた例は幾らもある。美濃の郡上郡山田の熊野神社の御杖杉の如きも、此神を那智から御迎へ申した時に、彼地より携へて來た杖の成長であると謂ふ（八）。但し其年代の應和元年五月は、何から割出したものか考へることが出來ぬ。武州元八王子の八幡神社の境内にも、梶原杉と云ふがあつて由來は略々一つである。昔梶原景時が鎌倉八幡宮を此地に勸請した時に、携へ來つた杉の杖をさし、それから芽を吹いて今のやうな大木になつた（九）。此等は明白に杖の主の法力では無くて、祭り申す神々の神�ｺを表したものである。紀州高野の奧の院に、明遍杉とて古くあつたものも、明遍上人の杖ではあつたが、之を大木にしたのは大師遍照金剛の事業に屬する。明遍菩提の大願の成就すべきや否やを卜すべく、誓を立てゝ大師の加持力を試みた時に、うら正しくも其杖は繁茂した。杖杉の所在は御廟橋《みみようのはし》の袂であつた。後には此木が靈境の榜示と爲り、橋より内には透間も無く、諸佛の集會なさるゝが故に、足を容るべき處が無いと、明遍自らも常に此杉の本から遙拜して還ることにしたと傳へる（一〇）。それに比べると親鸞上人の杖杉の如きは、別に何の寄る所も無いやうに見えるが、是でもやはり中世東國の一向門徒には、尚一段と高い土地の神の信仰を、容れるだけの餘地があつた。常陸の稻田の西念寺は、上人十年止住の地であつて、爰にも枝葉の逆さに生ずる大木の杖杉が愛護せられた。此杖親鸞が越後から突いて來たものと、近世寺家に於ては説いて居たけれども（一一）、別になほ鹿島の御神が賜ふに靈井を以てし、清き水一夜にして湧出でたと云ふ舊話が之に伴なふこと、恰かも越後栃尾の一夜梅の口碑と似て居るのは（一二）、即ち北國より携へ來りしものが、杖一本だけで無かつたことを想像せしめる。けだし極端なる雜修排斥は、少なくも善鸞以下の末派の、敢てする所では無かつたのである。それから尚ずつと時を隔てゝ、信州南安曇郡の中萱村には、義民嘉助の枚立杉といふ一本の逆さ杉が、熊野神社の境内にある。嘉助は佐倉の宗吾郎のや(82)うに、地方民の利害を代表して官府に抗し、一族刑に遭うた名士であるが、其悲劇の演出せられたのは貞享年間の事とあつて（一三）、杖を神木と成長せしめるには少し年數が足りない。是も恐らくはもと熊野の神の所管であつて、之を此人に移したのは新しいことゝ思ふ。即ち村には一本しか無い杖立杉なるが故に、誰のとも名を冠せずに之を呼んで居るうちに、一流の人望家に自然と歸屬するに至つたので、元來固有名詞の甲乙が、さして村人の爲に重要でなかつた證據になり得るのである。檜木は加賀の白山の麓に、泰澄大師の金剛杖檜と云ふものが、尾添《をぞふ》より登つて行く山路の側に在つた。往々にして日神宮《ひのしんぐう》と解せられて居た祠は、實は檜（ノ）新宮であつて、大師の杖が此木であつた結果に他ならぬ。但し近年まであつたものは、天正中に朽株に生じた蘖であつた（一四）。美濃の武儀郡下之保村の日龍峰寺には、山中に千本檜と稱して枝葉箒の如く岐れた異木があつた。大昔兩面四臂の一異人、此山に入つて毒龍を征服した。行基が伽藍を開いて千手觀音を安置したのはそれよりも後の事で、千本檜は即ち異人携へ來る所の杖であつた（一五）、此寺傳には若干の誤謬があるかも知れぬ。兩面四手足の宿儺《すくな》と謂ふ怪賊が、飛騨を荒したことは舊記にもあつて（一六）、且つ又征服者としては似つかはしくない相貌である。行基を嚮導したと云ふ異人は、別に杖を持して現れさうな氣高い善神であつたことゝ思ふが、まだ古傳を訂正すべき材料を得ない（一七）。

　陸中稗貫郡八幡村にも、弘法大師の杖をさして、成長したと云ふ「逆さひば」がある。枝葉殆と地に着くばかりで、全く倒生のやうに見えると謂ふ（一八）。ヒバは此地でも羅漢柏《あすならう》のことゝ思ふ。さうすれば此木のたゞ一つの例である杖松に就ても自分はまだ一つしか知らぬ。紀州伊都郡皮張村には、丹生狩場明神御狩の折に、杖をさしたまふと稱して杖の松があつた。此村の珍しい名は皮張石から出て居る。弘法大師高野山を開くに先だつて、狩人の姿をして犬を連れて出現したまふ明神と行違ひ、その好意の約諾に由つて寺境を劃定したと傳へられる。此石も分堺の用に充てた靈石の一つであつたらしく、石の面には犬の足跡が附いて居た。即ち杖松も亦標木と考へられたものであらう。以前は社から二町西の田の中に在つたが、中頃枯れて後、別に社地の近くに一本を栽繼ぎ、之をも杖の松と呼ばしめた（一九）。(83)即ち意識して口碑を移轉した注意すべき一つの例である。

　　（一）　稿本美濃志。及び大日本老樹名木誌。

　　（二）　峠の名、國郡の境の名に、ツヱタテ又はツヱツキと謂ふ例は至つて多い。ツヱと云ふ語は本來は杖ばかりを意味して居たのでは無いらしい。

　　（三）　「飛騨の山川」といふ書に。

　　（四）　大日本老樹名木誌。神がある植物で目を突かれたと云ふ奇なる言傳へから、其植物を別拔ひにする（忌む）例は多い。下野では人丸明神に付ても之を説いて居る。

　　（五）　�ｺ島縣老樹名木誌。名西郡下分上山村大字左右内字地中。

　　（六）　同上書。那賀郡新野村大字豐田。

　　（七）　大日本老樹名木誌。長岡郡東本山村大字杉。杉本櫻本等は修驗者の坊號に多い。即ち此木の下に神を祭つた習はしから出た名である。此義家もやはり八幡太郎のつもりであつたものが信じにくいので杉本の名字を付與したと見える。

　　（八）　大日本老樹名木誌。郡上郡嵩田村大字山田。

　　（九）　同上書。南多摩郡元八王子村大字八王子。梶原氏が久しい以前から鎌倉宮に仕へた家であつたことは、權五郎景政に關する多くの言ひ傳へから推測せられる。

　　（一〇）　野山名靈集卷三。

　　（一一）　新篇常陸國誌其他。西茨城郡西山内村大字稻田。

　　（一二）　和漢三才圖會卷六六。又は廿四輩巡拜記にも、鹿島明神より御上げなされし井戸左の方に在りと見える。

　　（一三）　平瀬泣崖「松本と安曇」。

　　（一四）　白山遊覽圖記卷一。

　　（一五）　新撰美濃志。前の稿本美濃志とは全く別の古い本である。武儀都下之保村字殿。

　　（一六）　日本書紀仁�ｺ天皇六十五年の條。

　　（一七）　高僧が大伽藍を起す場合に、地主の神と契約し又援助を得た話は、次に擧げる高野山の狩場明神以外にも至つて例が多い。

　　（一八）　大日本老樹名木誌。

　　（一九）　紀伊國續風土記卷四七。及び同書高野山總分方卷一六。伊都郡見好村大字三谷。

　

(84)　　　　　　　　　　五

　

　次に問題と爲るのは銀杏即ち公孫樹《いてふ》である。此木は新村教授が言語の方の研究から、どうしても中世に外から入つたものと言はれるが、果して然りとすれば其分布、殊には此傳説との結合が興味の多い研究になつて來る。たしかに野生と認められる銀杏はなるほど少ない。そんなら凡そいつの時代から、此木を寺や社頭に栽ゑる風習が始まつたか。年輪などの調査を試みて後に、今一應杖の口碑を考へて見たいと思ふ。東京は劫火以前、珍しく古い銀杏の多い都であつた。それがこの海沿ひの丘陵が屋敷に割當てられた頃に、先づ銀杏の苗木を求めて栽ゑたものとすれば、流行の年代も略々推測せられるのであるが、それには尚神佛の靈場に、特に此木を選擇した動機も併せ考へねばならぬ。實際銀杏の苗木の市に販がるゝものを見るに、其形と大さとが如何にも杖らしい。即ち最初から傳説の木として、杖は成長すと云ふことを證明する用にも供し得たのだから、夙く太古以來の、神の御杖の奇瑞を聞知つた人々が、之を鶴ヶ岡の石段の傍などに、携へ來たとも想像し得ぬことは無い。併し麻布の善福寺の親鸞の杖銀杏の如きは、貞享元禄の以前から既に江戸の名木の一つであつた（一）、上人關東に下向の折、我宗旨若し弘通すべくば、其杖に枝葉あれと誓ひ言を立てゝ、地に挿して去つたと云ふことを、此頃もう語り傳へて居た。さうして乳の乏しい婦人が願を掛けたと謂ふからは、樹皮が垂れ下つてもう老木の姿を示して居たことゝ思はれる。此樹も逆さ木の故と説明せられて、枝が皆下に向いて居り、乃ちその風折れの枝を拾つて、銀杏の念珠を製して賣つて居た（二）。

　越後では三島郡野積の西生寺、有名な弘智堂の前に、親鸞此寺に一七日參籠の後、立てゝ去つたと云ふ御杖木が銀杏であつた。此にも産婦が乳を?つた爲に、一名を乳銀杏と呼ばれて居る（三）。此派の中興の蓮如上人にも、やはり一本の杖銀杏は配當せられた。美濃は羽島郡中屋村、阿野の西入坊の域内に在るもの即ち是である（四）。

　弘法大師の分は今知る限に於ては二處　東西に立ち別れて居る。其一つは尾張｜甚目寺《じもくじ》村、三社樣境内の弘法銀杏、(85)我法果して眞ならば、此杖芽を生ずべしと、呪して地に突立てたとあるが、今は二間ほど上から腐れ朽ちて居る（五）。他の一本は陸中和賀郡の晴山村に在る。空海巡錫の折に携へ來ると稱して、周二丈五尺の老銀杏である。何れの神の據る所であるか知らぬが、女性の乳を求むる?りを聽くと謂ふ他に、尚土地の農人は此木の落葉の遲速に由つて、來年の作物の豐凶を占ふ習ひがあつた（六）。

　下總印旛の松蟲寺の大銀杏は、行基と因縁のあるものらしいが、明らかに二代目の靈木だと斷つて居る。松蟲姫は聖武天皇第三の御娘、惡病を煩ひて東國に流落したまひ、此寺の藥師佛を信じて平癒なされたとあつて、御杖が爰に立てられてあるが（七）、諸國に最も流布したる中古の歌物語に過ぎぬ。しかも別に一方には行基が本願經を寫し埋めたと云ふ塚の上に、貝多羅《ばいたら》の奇木があつて、枯葉から生長繁茂したと謂ふのは、恐らくは根源の一つなることを意味する。

　以上に列記したものは、何れも世に知られた高僧の奇跡であつて、或はさう無くてはならぬと云ふ推理のやうなものが存し得たが、之に由つて必ずしも後年の構造を疑ふことは出來ぬ。伊豫の西南海岸の眞浦と云ふ部落に、能山樣の銀杏として人に知らるゝ大木は、大森城の主｜御莊《みしやう》左馬頭といふ武將の杖であつた。御莊殿此城を土佐の長曾我部に攻落され、久良と云ふ地に莟まんとする時に、携ふる所の杖を此地にさして去つた。それが枝葉を生じて此樣になつて居る（八）。土佐で名高い杉の大杉といふ村と同じく、多くの他の例が昇る旭を象徴して居たのに反して、負けて立退く者の跡に殘るのは不思議であるが、既に神代卷の伊弉諾尊の御別れに、杖を投げて境を限りたまふ昔語を知る者は、恐らくは之を怪むことを得なかつたであらう。

　　（一）　江戸惣鹿子名所大全卷一など。

　　（二）　十方菴遊歴雜記二編上、但し寫眞では枝は多く上向き。

　　（三）　新寺泊案内。

　　（四）　稿本美濃志。

(86)　　（五）　愛知縣山林會報三號、「口碑を有する古木」。

　　（六）　大日本老樹名木誌。和賀郡十二鏑村大字東晴山。

　　（七）　印旛郡誌。此郡六合村大字松蟲字堂前。

　　（八）　老樹名木誌。南宇和郡東外海村字眞浦。

　

　　　　　　　　　　六

　

　此以外に例の多いのは、榎と柳であるが、それは次々の話題の爲に殘して置いて、此には樹の種類の珍しいものを、今知つて居るだけ擧げて置かうと思ふ。

　樟は大隅の内（ノ）浦、小田《こだ》の下川原の森に今も在るもの、高さ八丈餘周三丈六尺、景行天皇が高屋の山陵に幸したまふ御途次、此地に一宿して御杖を樹てたまふと傳へて居る。但し今あるものは枯跡の彦ばえであると謂ふ（一）。下總臼井の八幡宮の神木は、同じく周三丈餘の樟であつて、御社創立の日に、城主臼井太郎興胤、携ふる所の杖を立てゝ、此木若し活きて枝葉を生ぜば、即ち神靈來格の證とせんと誓つた。興胤は南北朝の代の人で、足利尊氏の手に附いて筑前多々良の濱で奮戰して還つて來た。此木は即ち宇佐本宮の社の樹の枝であつたと謂へば（二）、最初から今謂ふ杖として、切つて來たもので無いことが想像せられる。

　欅は下野上都賀郡の東大芦村に、弘法大師が日光登山の折に、携へて來たと云ふものが、老木と爲つて存在する。枝葉を拾ふ者には祟あり、之を燃す家には病人が絶えぬと稱して、今も手に觸れる者すら無いと言ふのは（三）、恐らくは亦大師其人の、與かり知る所では無かつたであらう。

　七葉樹《とち》は信州上伊那の小出と云ふ部落に、周十抱へといふ巨木が以前あつた。杖の主は此地方に多くの口碑を有する工藤犬房丸である。もと杖である故に葉芽逆生すと謂ふが、實は必ずしも然らずと記した書物がある（四）。

　桂は古く比叡山の波止土濃《はしどの》にあつたといふものゝ他に、岐阜縣不破郡今須村、平井の若宮神社に在るもの、傍に聖(87)運寺と云ふ寺があつて、是も親鸞の杖と傳へて居る（五）。陸前の太平洋岸、歌津の仙人神社境内にも、やはり昔一人の名僧が、田束嶺《たばしね》龍華山から此杖を携へて下り來り、之を此地に突立てたとなつて居るが（六）、それが恐らくは此社の神のことであらう。三人の仙人と云ふことは、伊吹鳳來寺箱根其他の靈山の縁起にもあつて、今は殆と佛教に化して居るが、奧羽だけではまだ斯うして神に祭られて居る。

　槐《ゑんじゆ》は能登の羽咋郡、瀧谷の妙成寺にある一本が、法華宗である開山日乘上人、日頃愛用の槐の杖を挿したと稱し、其木は既に枯れて開山堂の後に、杖塚ばかりが長く殘つて居た（七）。或は石動《いするぎ》の行者と二人で來て、岩の上に此杖をさして瑞兆を試みたとも謂つて居る（八）。備後御調郡八幡村の八幡社には、クロガネモチの一本があつた。和氣清麿の姉法均尼、宇佐八幡を此地に勸請するとき、携ふる所の杖を立てたと謂つて居る（九）、熊野と八幡には、特に杖と神とを同時に奉持して來た例が多いかと思ふ。羽後の仙北郡下淀川の八幡宮にも、八幡太郎の杖と謂ふ逆さ木が御手洗井の上に在つたと云ふが（一〇）、何の木であるか不明である。今も尚存するならば、あの地方の人に調べてもらひたいものである。備後では又沼隈郡の山波《さんば》村に、吉備津彦命の杖から成長したと謂つて居たものは馬耳と云ふ木の老樹であつた。此地の舊跡は何か仔細があつて、全部この上代の將軍の事蹟に統一せられて居た（一一）。藤の杖の珍しい例は、美濃に又二箇所あつた。一本は郡上の嵩田村の熊野神社に、他の一つは揖斐郡の谷汲山に在つて、共に御杖の藤と呼ばれて居る（一二）、谷汲は三十三番の觀音を以て知られて居るが、しかも杖の藤は一名を大夫藤と謂ひ、大夫は本來神職のことであつた。だから蔦や藤のやうな、曲り撓む植物をも、どうしてツヱとして用ゐたかと云ふ理由は、元來は佛道の人たちに向つて、問ひたゞすべき問題で無かつた。

　　（一）　三國名所圖會等に。

　　（二）　印旛郡誌。この郷社の所在地は此郡臼井町字八幡基。

　　（三）　大日本老樹名木誌。東大芦村大字引田。

　　（四）　伊那志略卷八に依る。今の何村か知らぬが、晴近郷小出村とある。

(88)　　（五）　稿本美濃志。

　　（六）　老樹名木誌。本吉郡歌津村。

　　（七）　能登國名跡志。土田庄瀧谷村とある。上人の名を和漢三才圖會等に日像上人とある。

　　（八）　東洋口碑大全にある。

　　（九）　老樹名木誌。御調郡八幡村大字宮内。但し杖を立てた處は大字本庄の平田氏の邸ともあつて、判然とはわからぬ。

　　（一〇）　「月の出羽路」卷一。此書には木の葉の押形まで出して名の無いのは、珍しい木であつたのであらう。

　　（一一）　福山志料卷二二に、通證といふ自分のまだ知らぬ本を引用して。

　　（一二）　稿本美濃志。

　

　　　　　　　　　　七

　

　煩はしいやうであるが、斯うして細かに比較をして見ると、杉や槻の木のやうに只すらすらと、群を抽出て巨木と爲つて居るものと、附近に同類の尠砂ない奇品である故に珍重せられるのと、植物に二種あるが如く、傳説も二通りに區別し得るやうに思はれる。竹などは殊に次々に生ひかはつて、別に何等かの古い記憶の存せざる限りは、ふと此樣な由來を語り出すだけの、機會は有り得なかつた筈である。斯うして永く伐殘されて、名木となつてしまつて後は同じ樣に見えても、ずつと古代のまだ此等の樹の若かつた頃に溯つて考へると、二者の差別は可なり著しかつたらうと思ふ。

　果してさうならば年代の順序も、之に基づいて大よそ推測がつくのである。とにかくに交通が開けて、遠方の樹木が名を知られ種を運ばれ、人爲の分布が一層盛んになるにつれて、更に常人の空想は豐富と爲り、異國の客神の信仰をさへ包容することを得たけれども、杖の成長して木と爲るべき萌芽は、以前より此民族の中に既にあつたのである。即ち我々の固有の宗教に於て、神樹を如何に觀察して居たかを考へて見なければ、此傳説の久しい變遷を、知り盡す能はざる所以である。自分は前年瀬戸内海の島々に旅行して、安藝の生口《いくち》に於てあの島の松蟲寺を訪れた。下總印旛(89)郡に在るものとは既に分裂し、此方では淨土宗の所傳のまゝに、後鳥羽院の宮女の松蟲で現に其像があつた。さうして此境内に、法然上人の杖としてある靈木は、名も姿も唐めいたる白檀と云ふ樹であつた（一）。是などは明白に模倣の例であらうと思つて見たが、假に模倣としても近世の話では無い。何の心も無くこんな木を移植した筈も無く、又何の説明も無しに見て通る者も有り得ないからである。同じ樹は又備中の山奧、俗に玄賓谷と謂ふ地にもあつて、玄賓僧都の杖と傳へたさうである（二）。即ち法師たちの園の中に移されて後も、此物語は又大に成長したのである。古い例を記録の中に求めると、近江の百濟寺の僧源重僧都の許へ、八十餘の老翁｜鹿杖《かせづゑ》を突いて現れ來り、自ら小野一萬大菩薩なりと稱し、三十番神の中に加へられむことを乞うた。瑞相を示したまへと謂へば、其杖を地に挿して忽ち見えず、成長したのを見ると椋の木であつたと云ふことが、三國傳記卷七に記されて延文年間の事だと謂つて居る。此時代にしては稍々珍しい二種の信仰の歩み合ひである。椋が我邦固有の樹である如く、小野は近江國に由緒の深い地方神であつた（三）。�ｺ行無雙と謂はれた僧都源重が、特に瑞相に感じて曼陀羅の系統を變へたとすれば、其力は寧ろ佛法の外に在ることを認めたのである。但し右に擧げた諸國の上人の奇跡が、假に中央歐羅巴の聖徒譚と同じく、古來の民間信仰の利用であつたとしても、其起原は決して其樣に新しくは無い。有名なる一つの實例は既に南都の東大寺に在り、鯖の木又は白身木の由來として、多くの物語集に書殘されて居る。其大要を述べるならば、始めて此寺に華嚴會《けごんゑ》の執行はれた折、誰を讀師の役に請すべきかゞ治定しなかつたのに、天皇の御夢に此朝先づ寺の前に來た者は、僧俗貴賤を問はず之を讀師とせよとあつた。其御告げのまゝに、鯖を竹籠に入れて荷つて來た老翁を請じ上せると、鯖を高座の上に置いて式を勤め、供養終ると共に忽ち高座から姿を消した。其魚はよく見ると八十卷の華嚴經であり、之を荷うて來た杖は、堂の前の東方に突立てられたのが、其まゝに木に爲つたと云ふのである。以上は主として今昔物語の傳へであるが、宇治拾遺古事談等の諸書は、此と若干の相異あり、前者には此杖の木、成長もせず榮えもせず、常に枯れたる相であつたと謂ふに反して、他の記録類には、何れも伽藍の興廢に隨ひて榮枯し、もとは青々と茂つて(90)居たと傳へて居る。白身木は又｜白榛《しらはしばみ》とも記されて居る。平家の炎上の以前、既に久しく枯れて居たとあつて、實は何であつたかも判明せぬ（四）、しかも重源南無阿彌陀佛の再興に際しては、特に唐土の天台山に在つた天竺の種の菩提樹の蘖を、筑前の榮西上人より乞ひ受けて、其跡繼に栽ゑたと謂ひ（五）、又鯖の翁が高座に在つて、講説の間に梵語を囀つたとも傳へて居るのは、即ち早くから此異人を、異國の人と考へて居たらしい證據である。これ迄の歴史家の筆法に任せると、此等の典籍の方が時代が古く又性質が明白だから、他の邊土の行基弘法親鸞日蓮等の、杖杉杖の竹は、東大寺から次第に倶通したものと、推定せられてしまふ懸念もあつた。

　　（一）　廣島縣豐田郡南生口村大字｜御寺《みてら》。

　　（二）　備中巡禮略記。又上房郡誌にも見えて居るが、今の何村の中かを知らぬ。

　　（三）　椋は榎と分つべからざる關係を持つて居る。ムクの諸原はホコと同じかと思ふ。早くから注意すべき木の一つであつた。小野神のことは自分の「神を助けた話」の中に、簡單に説いてある。

　　（四）　芳賀博士校訂の今昔物語集の中卷二八一頁に、東大寺要録卷二、及び南都七大寺巡禮記の文が引いてあつて、後者には此木の事が詳しく述べられ、今は寶藏に納まつて、たやすく拜見が出來ないとある。ビヤクシンと云ふ木は越後寺泊の法福寺に、日蓮上人の時のものがあつた。武州金澤の瀬戸明神には、頼朝の時の木があると、越後名寄卷一二にある。これも杖かも知れぬ。

　　（五）　東大寺造立供養記等（史料四編の七）。

　

　　　　　　　　　　八

　

　實は自分は多量の論辯を費すこと無くして、自然に此問題を解決して見たいと云ふ野望がある。そこで此上にも尚適切な類例を、集めんと希ふのではあるが、今たゞ此だけの材料を一覽したばかりでも、人が必ず聯想せずには居られまいと信ずるのは、大和に傳はつた丹生《にふ》大明神の告門《のりと》である（一）。今ある寫しは應永五年のもので、殊に世々の祭儀に用ゐられて居たと見えるから、固より所謂弘仁以前の樣式を、完全に保存して居るとも期せられぬが、早く本意の(91)埋もれた丹生《にふ》（二）と云ふ語の、此に繰返して用ゐてあるのを見ても、後人の作爲が内容に迄は及ばなかつたことを推測せしめる。此文に據るときは、丹生津比賣大御神は諾册二尊の御女子であつて、最初紀州伊都郡の奄太村の石口《いはくち》に天降らせたまひ、それより紀和兩國の境に近い山地を巡歴して、處々の嶺及び谷に忌杖《いみづゑ》を御さしなされたと述べて居る。例へば「……下り坐して巨勢の丹生に忌杖刺し給ひ、宇知郡布々支の丹生に忌杖刺し給ひ、下り坐して伊都郡町梨の御門代の御田作り給ひて、下り坐して波多倍家多村字堪梨と云ひ、竝に天沼田と云ふ御田作り給ふ……」とある如く、常に新しい祭の庭と神田との選定の爲に、行く／＼御さしなされた御杖を、忌杖とは謂つて居たらしいのである。即ち大神の御移行の跡を、杖の處に由つて指示さうとしたもので、後代若し幸ひに此等十數所の地名が、考定せられ得たならば、天然と人の信仰との微妙な關係が、次第に理解せられることに爲るわけである。

　而うしてそれ等の御忌杖の何の木であつたかは、ゆかしい限りであるがもう知ることが難くなつた。垂仁紀の一書には天皇倭姫命を以て御杖代と爲したまひ、天照大神に貢ぎ奉りたまふとある。是を以て後に其姫命は、磯城嚴橿之本に、大神を鎭まりませまつり、御祭をなされたとあるを見れば、此場合には忌杖は橿の木では無かつたであらうか。御杖代と云ふ名は御先代の豐?入姫尊以來、久しい後の世までも用ゐられて居る。例へば八幡の放生會の式に、白杖と稱して白木の杖を突いた者が、還御の御列に先だつて進むことは、今日尚行はるゝ慣例であつて、或は之を以て非常を防ぐの用などと謂つたが（三）、それは論も無い誤であつて、最初より主たる女神主の仕へ奉る嚴重の役であつた（四）。御手代と云ふ名目も轉訛に非ずんば同義の語であつたらうと思ふ。手白木《てしろぎ》と云ふ語は、亦往々にして神木の意味に用ゐられた地方があるやうである。

　我々の固有信仰に於ては、杖の奇跡は必ずしも其持主の力では無かつた。名も傳はらぬ程の只人が突いても、やはり成長して大木となるだけの本性が、杖其物に具はつてあるものと、考へられて居たらしいのである。是れ佛徒の縁起には未だ曾て注意せられぬことであつて、神社廣前の老樹ばかりが、その杖の木の本の出處を説かるゝのみか、?(92)々神と相生《あひおひ》の物語をさへ傳へられて居るのは、決して偶然の差異では無かつた。親の親から既に神の木であつたものの枝を、更に神目ら之を伐らしめたまふと解して、乃ち我々は此傳説を信じ得たのであつた。古今集に探録せられた僧正遍昭の、

　　　千早ふる神やきりけんつくからに千とせの坂も越えぬへら也

と云ふ歌などは、顯昭の古註がもう此心持を汲みかねて居る。御伯母君の八十の賀に、貴き皇子より贈られたる銀の杖を見て、代作者の歌人が先づ感じ且つ思ひ合せたのは、即ち大昔の御杖代の故事であつたらうが、しかも諸國の神祭の行事に、尊靈が巫女の奉持する杖に依りたまふと信じた例は、當時はまだ幾らでもあつた筈で、單に神秘の説が輕々しく、世に語られなかつたのみであると思ふ。

　神自ら杖を御携へなされた例證としては、諸社の畏多い神像を比較して見る迄も無い。手近な書物の中からでも、例へば常陸鹿島の廣圓寺の、親鸞筆と稱する鹿島明神の御姿が、面赤き童子の杖を突きたる繪であつたと云ふ類が、少なくないことゝ信ずる（五）。伊豫の三島の大神は弘安四年の異國亂のとき、夢に祭官に現れたまひ、白杖西に向ひてはねさせ給ふと、永和四年の古像記には記して居る。又石清水の八幡若宮は、別當成清の病を氣遣ひたまふ餘りに、典藥頭重基なる者の夢に、「鴇毛《ときげ》の獅馬に駕して縁の際に打寄らせたまひ、持たせたまふ白杖を、堂の中へ差入れしめたまふやうにして、吾に契縁の者いとほしと思召すが云々」と仰せられた（六）。後世に至るまで、祭の日には神人が　　　恭々しく捧持して、御列に加はつた白杖も是であつた。只の作法に由り只の場處から、伐つて出すべき杖では無かつた。故に之を別異にする爲に、自然に尋常ならざる口碑が生じたのである。然らば我々の大昔に溯つて、御杖忌杖の當初の用は何であつたか。何が爲に到る處に、神が此物を携へたまふ必要があつたかと問ふと、是亦極めて簡單に其趣意を察することが出來る。阿波の高越寺《かうつじ》の山道にも御杖木があるが、神代に諸神此嶺に萱らんとして、各々、御杖を此處に御置き爲された、故に此の名稱があるので、今は此地に來那戸神《くなどのかみ》を祭つて居る（七）。山の登りの中途にして、(93)杖が不用になるべき理由は別にあつた。即ち既に占められたる靈境の中には、他所からの杖を突くことは憚りがあつた爲であつて、是が又神と人との間に於ては、一層嚴重なる禁忌であつた。筑後八女郡の御前嶽などは、麓の里から五十餘町に杖棄阪があつて、それから上は杖を突くことを許されぬ故に、棄てた杖が堆かく積まれてあつた（八）。越中立山の禅定路にも、九品《くぼん》と云ふ處があつて土地少しく暖味あり、行人は爲に杖草鞋を置いて、本社に參詣することにきまつて居た（九）。羽後の阿仁合《あにあひ》の松倉峠などでも、ある一處に多くの杖の、集めてさしてあるのを旅人は見た（一〇）。それ等は悉く凡人の杖を以て、神地を侵さじとする心遣ひで、ツヱの本來は榜示であり、忌杖が靈境を點定するものであつたことが、之に由つて略々分明し、進んでは尚上代に天津罪の一つとして、串刺を戒めた理由も、今の語で謂ふならば即ち占有權の防護であつたことが、推論し得るのである。國々に至つて數多い杖立又は枚突と云ふ峠や阪の名も、恐らくは亦境の木の所在であつて（一一）、外から來た者の杖を置く所は、即ち内に住する者の杖をさした地であつた。さうして人が其分界を神聖ならしむる爲に、特に境の神を請じて、御杖をさしたまはんことを求めたのも、最も自然なる信仰の應用と見ることが出來る。現今流行の登山の徒が、山の口に於て必ず新たなる杖を勸められ、同時に又富士金峰から降りて來る人々が、常に山で突きあるいた金剛杖を記念として、遠く携へ行かうとすることも、共に無意識のうちに父祖の慣習に從うて、神を敬ひ兼て神の力を普及する行爲を、繰返して居る結果となるので、即ち日本人に非ざれば語り得ず、又解し得ざる文明の神秘である。

　　（一）　大和志料下卷四三五章に此問題が述べてある。又犬鷄隨筆下卷にも、告門の文は出て居るが雙方若干の差異がある。又文意不明の點も多い。

　　（二）　ニフに關する新しい解釋は、折口信夫君が「郷土研究」の中で稻積の問題を説くときに少しく一端を示された。地方によつてはニホとも謂つて居る稻積が、神の祭と深い關係のあつたらしいことは、南方諸島の研究が始まつてから、いよ／＼深く感ぜられるやうになつた。

　　（三）　神道名目類聚抄卷二等。

(94)　　（四）　石清水文書。宮寺縁寺抄卷一〇、放生會起原の條。

　　（五）　二十四輩巡拜記。

　　（六）　古事談卷五。

　　（七）　阿波國徴古雜抄卷七に採録した高越寺舊記。及び東西川田村神社舊記。

　　（八）　太宰管内志に引用した筑後志。

　　（九）　和漢三才圖會等。

　　（一〇）　眞澄遊覽記卷二〇。

自分は古事記の倭建命の御杖を衝きて稍に歩みたまふ。故に其地を號して杖衝坂と謂ふとある類を熟知して居りながら、尚此説を爲すのである。美濃の根尾谷の能郷の白山神社を杖突明神と謂ふが、神社志料等には山路甚險なる故に此名ありと謂つて居る。此寿の説明傳説は今や甚だ多いが、古書と雖も傳説は傳説である。

　

　　　　　杖の木に就て

　

　一　美作英田郡西粟倉村の山奧に、聖杉といふ伐つてはならぬ老木がある。昔一人の聖坊主、この山中に踏み迷ひ、疲勞して自分のついて居た杖をさし、其傍に横はつて死んだ。其傍の成長したのが此杉の木であると謂ふ。（有元英夫）

　二　備前兒島郡の天城といふ苗字の舊家、舊藩時代には池田侯の御小休所であつたが、何代目かの殿樣がこゝに立寄り、手に持つ鞭を庭にさして忘れて往つたのが、生長して繁茂したので、舊名小川を今の鞭木に改めた。後に其木を伐倒した時に、株から碁盤が二面とれた。その一面は池田家に在り、他の一面は地方の某家に傳はつて居るといふ話。（同上）

　三　沖繩でも有名なオモロ詩人のアカインコが、方々を流浪して讀谷山に往つた時、もつて居たゴシャン（杖）を立(95)てゝ置いたら、それに芽が吹いて大木になつたといふ口碑がある。（伊波普猷）

　四　阿波那賀郡の大龍寺にも、弘法大師の杖の靈蹟がある。同寺執事島村泰雅師、此に就いて詳しく承知の筈。（前田正一）

　

(96)　　　　　楊枝を以て泉を卜する事

　

　　　　　　　　　　一

　

　日本靈異記の多くの物語には、末に斯亦奇異之事矣といふ一句が添へてある。古人の昔を傳へむとする用意は我々と一つで無かつた。傳説は固より事蹟では無い。杖は尋常の場合に決して成長して樹となるべきもので無かつたが、しかも由あつてそれが成長した故に、乃ち永く語り繼ぐべしとしたのである。或は一切の不可思議は、本來歴史として記念せられむが爲に、現出したと解してもよいかも知れぬ。從つて舊記の全部を、何とかして其儘に受け容れようとする國風は自然であると共に、時代の智識の開發に伴うて、始終之を信じ易い形に、引直して眺めようとする努力にも無理は無かつた。しかも一旦此事情を諒解すれば、我々は格別大なる辛勞を費すこと無くして、能く此間より眞實を見出すことを得るのである。傳説の根源には色々の誤信、若しくは過當なる類推があつたかも知れぬが、人間の欺瞞の入つて働くべき餘地は存外少なかつた。中世以降の各地の傳播には、或は夢の告げにより、乃至は最も是に近い巫女の言に由るものがあつた。縁起と稱して事々しい文彩を施し、法師神主等の説明を附加したものに至つては、素より其結構の不純を疑つてもよいのであるが、此とても當時其地方に、例へば杖は成長することあるべしと信じ得る民衆が、來つて居住して居たことを條件とするのみならず、元來其類の舊傳が影も形も無かつた場合に、彼等が新たに之を持込み得たと云ふことは、頗る想像に難いのである。江戸が新しい都府であり、其市民が最も歴史の粉飾に(97)急であつたことは事實である。從つて麻布善福寺の逆さ銀杏の如きは、之を史蹟記念物として保存せむとする者の、氣が知れぬと云ふ批評もあるか知らぬが、斯う云ふ場所柄でさへ傳説の移植は、遙かに銀杏の樹よりも古かつた。即ち亦前代の信仰の、明瞭なる遺跡たることを知るのである。此寺の境内には、或は柳の井とも呼ばれた古くからの名水があつて、其近くにはもと楊枝杉と謂ふ靈木があつた（一）。此にも楊枝を挿して成長したと云ふ傳へがあり、一時は其主をも親鸞上人にしてあつたが、やはり越後の逆さ竹同樣の論爭があつたものか、後には弘法大師といふ説に改められて居た（二）。又第三の見聞録は、筆者も門徒であつた故に、最初空海の加持力に因つて水が湧き、それが中比土に埋もれて居たものを、親鸞巡國の折に再び楊枝を以て水脈を開いたと、奇妙な妥協が試みてある（三）。さうして今日では其杉は既に無く、銀杏ばかりが殘つて榮えて居るのである。木の有無にもよらず又人の誰であるかを問はず、泉があればその傍に、楊枝の成長する話だけはいつ迄も傳はり得た。是が自分たちの心付いた日本の神木口碑の、又一つの特質であつたのである。

　　（一）　江戸惣鹿子名所大全卷一。

　　（二）　江戸志其他。

　　（三）　十方菴遊歴雜記第二編、著者は小日向本法寺、一向宗に屬した敬順といふ隱居僧。

　

　　　　　　　　　　二

　

　そこで今度は楊枝の成長して、大木と爲つたと云ふ話を考へて見る。この楊枝が佛法傳來の齒木のことであつたか、はた又單純に楊《かはやなぎ》の枝であつたかは、傳ふる土地に由つて區々であるが、全體に枝ならば挿して成長したと云ふことに、格別の不思議は無くなるので、口碑の幽怪を喜ぶ人々は、寧ろ力めて之を有り得べからざる方に、引付けようとした形さへあるのである。

(98)　東京周圍の田舍には、わけても此話が多かつたやうに思はれる。今でも口中一切の病の祈?と謂つて、澤山の新しい房楊枝を路傍の石佛の前、又は老樹の根もとなどに挿して置く風習も、是と本來何等かの關係が有つたのでは無からうか、注意して見たいものである。今では枯れてしまつたやうだが、市外吉祥寺村の井（ノ）頭辨天堂の境内にも、古木の柳があつて、三代將軍樣の御楊枝の挿し木と云ふ札が立てゝあつた（一）。しかも此池の靈水は天海僧正の加持力に由り、一時に七處より湧出したと傳へたもので、�ｺ川家の信仰は單に其結果であつたが、寺の方では又斯んな風にも説かうとするのである。白子の停車場から近い下新倉の妙典寺には、子安池の水の滸に亦一本の柳あり、日蓮上人の楊枝、芽を吹き成長すと稱せられた。墨田五郎時光なる者の妻女、産に臨み、日蓮楊枝を以て加持したれば、清き泉湧き出でた。それがこの子安の池である。乃ち之を掬みて口すゝぎ護符を飲ましめたと語り傳へる（二）。岩槻の大光寺の境内には、昔義經奧州下りの時に、辨慶が水鏡を見たと云ふ池があつた。其池の岸にも、同じく此法師が楊枝を挿み、後次第に成長したと云ふ柳があつたと云ふ（三）。此等三ヶ處の柳の木は、何れも恐らくは青々たるしだれ柳であつたらう。さうするとこの樣な木も、果して楊枝にして用ゐたらうかと云ふ不審が起るが、それは所謂楊枝杉と五十歩百歩で、或はその樹木以前から、傳説は既に此地方に成長しつゝあつたことを、暗示して居るだけの話かもしれぬ。それよりも更に注意を引くのは、この三本の柳の木の、共に由緒ある清水の邊に立つて居た點である。靈水の奇瑞は、楊枝の成長の偶然でなかつたことを裏書すると共に、柳は又その年經たる姿に由つて、名水の歴史を語らんとして居るわけである。諸國に例の多い楊枝水の由來なるものも、元は疑ひも無く之に似た形を具へて居たのが、木は枯れて次第に相生の友を失はねばならぬことになつたのであらう。豐後の姫島の七不思議の一つとして、姫神御使ひ棄ての楊枝が根を生じたと謂ふ逆さ柳なども、今では神泉の出現とは何の關係をも持たぬやうになつたが、現に御手洗の池の岸に茂つて居て（四）、かゝる海上の孤島にまで、尚此木の一枝を移植せねばならなかつた當初の理由が窺はれる。楊枝水の最も有名なる一つの例は、京の室町通り御池と姉小路との間に、古く洛中の名水の一つに算へられた西行水で(99)ある。西行此地に隱れ住むといふこと、果して證據があるか否かを知らぬが、兎に角に此泉は彼僧楊枝を以て掘出す所と傳へられた（五）。河内の野中寺には、更に行基僧正の楊枝を以て掘鑿したと云ふ楊枝井が、本堂の後の山、鎭守八幡宮の側に在つた（六）。兩處ともに最早昔の木の名殘は無く、單に楊枝のやうな弱々しい物で、土を穿つても水が湧いたと云ふ名僧の法力を、讃歎するばかりになつて居る。近江大津の千體佛の側にも楊枝水と云ふ清水があつた。安然和尚の獨鈷水《とつこすゐ》と謂つたのが、是であらうかと云ふことである。昔この山中に水が乏しかつたのを、安然獨鈷を以て岩石を突き穿ち、其功�ｺは永く流れて末の世を霑したと言ふので（七）、事の不思議は寧ろ楊枝柳以上である。

　　（一）　十方菴遊歴雜記初篇。

　　（二）　新篇武藏風土記稿。此書に依れば、此地方には又楊枝を奉納する水の神があつた。足立郡保木間村の水神社なども注意すべき一例である。

　　（三）　蝶の遊。山崎北華が元文三年の紀行。

　　（四）　郷土研究第三編五六五頁。大正四年九月十日の大阪時事新報を引いて。

　　（五）　山城名勝志四等に、和名集といふ本を引いて。

　　（六）　西國名所圖會卷五。今の南河内郡埴生村大字野々上、眞吉宗�ｺ蓮院。

　　（七）　伊勢參宮名所圖會附録。

　

　　　　　　　　　　三

　

　人が遠く溪川の流を離れて、生息の地を求めることになつてから、水の苦勞は一時甚だ大であつた。日本の如き雨の多い國でも、地下の泉を卜する技術は、必ずしも尋常でなかつた。乃ち之を神授と考へて、永く恩�ｺを仰いだ所以である。傳道を旅の目的とした名僧たちの博識には、素より教へ施すべきものが多かつたであらうが、今日其奇跡と稱して居る種々の事例は、直ちに之を以て彼等才能の致す所とは認められぬのである。獨鈷が巖を突き破つて寒泉を迸らしむるが如きは、もと技術と名づくべき境では無い。又人間の容易に企て得る業であつたならば、之を末代に語(100)り繼ぐべき必要は無かつたのである。河内の高貴寺には、弘法大師が三鈷を用ゐて掘つたと云ふ閼伽の井がある。乃ち之を善女龍王の池と名づけて、旱魃の時には雨を祈る靈場としてあつた。その近くには亦喜志の櫻井と謂ふ泉があつた。それは聖�ｺ太子が御馬の鞭を以て、掘らしめたまふ所と傳へられる（一）。鞭は馬より行く旅人の爲に、徒歩の僧徒の杖と同樣な任務をもつて居たことは、是亦敷多き類例のあることで、太子は即ち河内地方の民間信仰の中心であつた。しかも所謂甲斐の黒駒の多くの物語が、騎者の尊さと神々しさとを説明することは、全く佛法の教義を超越した我邦固有の思想であるにも拘らず、僅かな因縁が有れば次から次へ、新しい衣を着て移つて行くのが、傳説の一つの性質であつたらしい。越中井波の臼浪水、一名を馬見井と呼ぶものなどはその著しい例であつて、遙かに後世の明�ｺ二年に、本願寺の綽如上人の乘馬が、蹄を以て地を穿ち、其跡から此清水が涌出したとさへ謂ふのである（二）。人の名や年代に重きを置いて居ては、多くの口碑の意味を捕へることの出來ぬことを、最も痛切に感ぜしめる。神々御遊行の信仰が、中世以後追々に薄れて來た日本としては、杖立の古傳が一つ／＼、佛者の管轄に移つて行つたのも、是非に及ばぬ次第であつたが、尚注意して見て居ると、例へば念佛聖の騎馬といふ類の不調和の中から、以前の面影を窺ふことが出來る。男山八幡の石清水は、創立當初からの社の名であつたが、後には大和の大安寺の鎭守八幡に、行教大和尚が感得したど云ふ靈泉があつて、松の一村を其石清水の遺跡と傳へ、男山へは爰の名を移したのだとまで主張する者があつた（三）。併し其獨斷を承認し得ない者は、必しも男山本社の社人のみで無く、諸國の八幡神が?々此の如く、得難い清水の供給に由つて神威を宜傳せられたこと、別の言葉を以て説くならば、珍しい地下水露頭の地に就いて、御神を奉祀する舊慣のあつたことを知る者は、誰しも此説明を無用の辯と、考へない者は無いであらう。清き泉は單に人間への惠みであつたのみならず、祭の爲、神御自身の爲にも既に必要であつた。從つて清水の側に神を御迎へ申す習はしは、勿論八幡に限つたことで無かつたと思ふが、たま／＼此大神が武人の信望を御集めなされた結果として、圖らずも古い代の傳説の名殘を、稍々多量に保存することが出來たやうである。源氏と因縁の久しい河内の(101)壺井八幡では、義家の産井などと云ふ縁起を持ちながら、更に其社號の根元に關して、別箇の由來譚を附添へて居た。伊豫守頼義奧州征伐の時、旱天に遭うて士卒の渇に苦むを見て、伊勢の神宮に祈念したるに忽にして清水湧出す。凱旋の日此水を壺に入れて當社に携へ來り、井を掘つて壺を納めたと謂ふのである（四）。如何にして斯んな手數のかゝつた傳説を生じたかは、以前の信仰の忘却と云ふ外に説明のしやうも無い。しかもこの親子の武將は、古今名譽の弓取であつたと共に、必要ある度に弓の筈を以て岩石を突破り、泉を得て之を里人に施すこと、弘法大師などと同じであつたと傳へられ、又其奇瑞は半ば以上、守護神の力に屬して居た。常陸の助川に近い八幡清水などは其一例で、義家箭鏃を以て地を穿ち之を得たと傳へて居る（五）。木曾義仲は越中の般若野《はんにやの》の陣に於て、亦弓を地に立てゝ清水を得た。弓清水八幡社は其遺跡であり、今も灌漑の利は此神の信徒を助けて居る（六）。越前の赤谷と云ふ地には、平家方の矢の清水もある。是は絶壁の中程から滴り下る水で、曾て此山に隱れ住みし平家の殘黨が、此岩を的にして弓を習つて居たところが、偶然に矢を拔いた穴から清水が湧出した迄だと傳へて居る（七）。同じ縣の福井市の對岸にも、弓筈社《ゆみはずやしろ》と稱する水の神があつて、一箇の石清水口碑を存して居る。昔時九頭龍川の修築に際して、役夫ども渇に惱んだ時、弓の筈を以て巖を突き此清水を得たと謂ひ、土地の名も酌谷と呼ばれて居るが（八）今はもう何人の手柄であつたかを傳へて居らぬ。此類の物語は各地に尚多いことであらう。仔細に其樣式を比較したならば、必ず啓發する所があらうと思ふ。

　　（一）　和漢三才圖會卷七五。

　　（二）　礪波誌、東礪波郡井波町井波。

　　（三）　和州舊跡幽考卷四。

　　（四）　これも和漢三才圖會七五。

　　（五）　茨城名勝誌、多賀郡高鈴村大字助川字土佐。

　　（六）　礪波誌、東礪波郡般若野村大字常國字西島。

　　（七）　福井縣大野郡誌、大野郡下味見村大字赤谷。

　　（八）　越前名勝誌。

　

(102)　　　　　　　　　　四

　

　話は斯ういふ路筋を通つて、幾度か曖昧になり、又突如として精確になつたかと思ふ。杖の成長した話の幾つかの例が、土地に由緒のある靈泉の近くに見出されることは、即ち此傳説の一つの性質として、水の發見の奇瑞と伴うて居たことを推測せしめる。尾張の知多郡｜生路《いくぢ》村の生路井は常照菴と云ふ寺の下に在つて、多くの弘法水と同じく、大師の穿つ所と傳へて居るが、四百年前には、亦全然別箇の口碑があつた。萬里和尚の文集には常照菴藥樹詩序の一篇があつて、之に依れば日本武尊の御遺跡であつた。皇子東征に先だつて此地に獵したまひ、渇甚しくして弓?を取つて岩を刺したまふに、此泉忽ち湧くとある（一）。而うして藥樹と謂ふを見れば井の傍に、やはり一本の靈木が永く愛護せられて居たらしいのである。諸國の弘法大師の井戸の由來談には、今や動かすべからざる一定の型が出來て居て、所在の地名以外に之を列擧する必要も殆と無い。恐らくは八十八所の遍路巡拜が、全國の流行と爲つた結果であつて、他の行脚僧に關する稍々異なつた言ひ傳へが、同化に因つて埋没したものであらう。しかも我々の珍とするのは、水の發見には必ず信心深い一人の女性を伴なふこと、時としては花咲爺式に、更に一人の心ねぢけたる隣女を附添へて、善惡應報のけぢめを鮮明にしてあることである。是が常陸風土記の筑波の神、又は蘇民巨旦の武塔天神を遇した説話など、系統を一つにした古來の文學であることは、容易に認め得る所であるにも拘らず、再び特定の清水の傍に根を生じ、傳説としての成長を繰返したのは、別に相當なる理由が無くてはならぬ。此點は他日機會を見出して、細かに考へて見たいと思つて居るが、要するに泉を神與とする信仰がまだ活きて居て、之を扶け支へた杖の樹が亭々として茂つて居た爲に、遠い國土の話の種までが、來つて此に寄生することを得たのであらう。安房の白濱村青木の芋井戸には、芋によく似た水草が水中に生じ、四時緑の色を改めない。昔不良なる老婆が弘法大師なることを知らず、此芋は石芋だからと僞つて惜しんで與へなかつたら、後果して硬くして食はれぬ芋になつてしまつた。仍て之を戸外に投(103)げ棄てると、其側から此通りの清水が湧き出したと稱する（二）。誰が見ても此口碑に、曲解のあるべきことは察せられるが、しかも不思議の泉があればその近くに、何か植物の其由緒を語るものが有る筈と、考へて居た人の心持だけは知れるので、從つて多くの杖清水に杖の木は今枯れてしまつても、或は又鞭や弓や錫杖の如き、如何にも成長の六つかしいものを、突立てたと云ふことに傳へられる場合にも、兎に角に最初は立寄るべき大木の蔭があつて、之を仰いで始めて泉の尊さを感ずる習はしが、あつたものと言つても誤は無からう。尚他の一方から考へて、境の二本杉の由來を説く場合に、往々にして晝餉の箸を地に挿したら、それが成長したと謂ふものがあるのは、乃ち樹の存し泉の既に涸れてしまつた例であらう。野山で食事をする者の清水の傍を求めることは、今でも最も普通なる所作だから、若し水が流れて居なかつたら此話は、昔の人には信じにくかつたわけである。議論の中休みに尚少しばかり、傳説其ものゝ成長する實例を擧げて、自分などの小さな研究では、到底問題の全部を説き盡し能はぬことを述べたいと思ふ。同じ安房でも神餘《かなまり》村畑中の弘法水は、河の中から湧き出す鹽井であつた。金丸氏の臣杉浦吉之丞の後家美和なる者、仁愛にして施しを好む。大同三年の十一月廿四日、一人の旅僧來つて食を乞ふ。小豆粥を與ふるに鹽味がない。家貧しくて鹽を買ふ力も無い故と聽いて、其僧は流の?《ほとり》に下り、持つたる錫杖を河底に突立てゝ黙念暫くあつて之を拔くと、水ほとばしつて寡婦の額を過ぐ。之を嘗めて見ると眞鹽であり、旅僧は即ち弘法大師であつた（三）。此話の特殊性は第一に小豆粥である。東日本の多くの田舍では、此月二十三日を大師講の日などと稱し、此粥を煮て節日を祝ふ習ひである。しかも此日を期して國々をあるき、今も或は人知れず巡つて居て、心掛けのよい老女を助けると云ふ大師は、弘法でも無く慈覺大師でも無く、事によると太子樣かも知れぬと云ふ位で、勿論眞言の信者のみの崇拜では無かつた。佛教としては少し峻烈であつた信賞必罰の態度の如きも、多分は遠からず此慣習の比較研究によつて、明瞭に其理由がわかることゝ信ずる。鹽井は安房などの海に近い村はとにかく、山奧の人民には大なる恩澤であつた。是あるが故に僅かに存立する邑落もあつたので、其起原に關して何等の傳説も無かつたら、却つて不思議と謂つてもよい(104)程のものである。しかも至らざる所無き弘法大師は、いつの間にか横合から、迎へられてちやんと入込んで居るが、それが最初からの約束で無いことは、色々の點から推定せられる。上州利根川の川場の温泉なども、曾て行脚の空海が宿を求めて洗足の湯を得ず、乃ち主人の爲に杖を地に挿して、此湯坪を開いたと傳へて、今も側に小さな石像を安置してあるが（四）、しかも同じ郡内に此湯と竝び稱せられて、脚氣川場にかさ老神の諺もある位の、老神温泉の方には又別箇の由來談を存して居る。大昔日光大權現との神戰に、赤城大明神箭疵を負ひて敗北したまひ、此村の地まで落ちて來られた。老神まことには追神と書くべきである。其折弓矢を以て土を穿ちたまひ、妙湯忽ちにして湧き流る。其湯を以て箭の傷を洗ひ、即ち平癒なされたと云ふのが口碑であつて（五）、共に最初は發見者の自用であつたとする點が、他の多くの弘法水よりも古い形を示して居るが、年代の上からはえらい相異である。福島縣信夫郡の土湯では、土湯本來は突き湯であつたと謂ふ者がある。大昔の神代に大穴牟遲の命、此地に温泉あるを知つて鉾を以て撞き貫きたまひ、即ち湧き出したと傳へられる（六）。それを何人が見て居たかと、尋ねて見たいやうな話である。攝津の有馬温泉の清涼院門前の、上之湯一名願ひの湯と稱するものは、之と反對に年代がずつと新しい。天正十七年に秀吉が此地に遊んだ時、戯れに杖を以て地上をたゝき、爰にも若し湯が出たなら入つて樂まうにと言ふや否や、忽ち足元から湧き出た温泉であると謂ふ（七）、單に叩いたとのみ謂ふのは、杖の樹の最早存在せぬことを意味するものであらう。此人ならば其樣な氣持もあつたらうかと、思ふ者が既に多かつた上に、世上幾多の類例は木の特徴を必要とせずして、不思議の杖清水の流傳することを許して居たのである。

　　（一）　張州府志二七。

　　（二）　安房志。

　　（三）　同。

　　（四）　「郷土研究」第一編ノ八、生方敏郎君報。

　　（五）　上野志卷上。

(105)　　（六）　信達二郡村誌卷六。

　　（七）　攝陽群談卷八。

　

　　　　　　　　　　五

　

　そこで立戻つて、再び楊枝成長の話を考へて見る。越前の船橋から長崎道場に行く路傍の畑中に、世に聞えた親鸞の楊枝なるものは、老木のつげの樹であつた。上人越後に下る路のついでに、此里の後家長者が家に三日逗留す。其折菓子に添へられた楊枝を土に挿して、いつもの通りの誓ひごとをすると、一夜のうちに根と葉を生じたと云ふのが（一）、偶然にも斯んな木で製した楊枝であつた。つげは路の神の神木としては多く見るが、それを楊枝にしたのは珍し過ぎる。又攝津の鳥飼村には楊枝松の天神さへもあつた。但しこれは菅公左遷の時に、楊枝を地に植ゑて身の末を卜したと傳へられ、其木は柳であつて久しい後まで榮えて居たのだが、いつしか枯れ朽ちて今は殆と神社の名の、三本松の歴史に移つて行かうとして居る（二）。大田蜀山が百二十餘年前に、川舟の中から見たときには、所謂楊枝松の根もとに何か大木が寄せ掛けてあつたといへば（三）、其頃はまだ傳説の名殘があつたので、成長した楊枝は其松で無く、或は寧ろ本物の楊の小枝では無かつたかとも考へられる。齒木を意味する楊枝は、必ずしも楊の枝を以て製せられず、桃槐楮の類、或は柞の條、葛の蔓で作つてもよかつた。天竺には柳は少なく、佛の齒木は實は楊枝では無かつたが、古くから斯う書く習はしであつたと謂ふ（四）。從つて齒木若し成長し得べくんば、其樹の楊で無いのを怪むにも當らぬ道理であるが、實際今見るものは、水邊に在つては楊が多かつた。從つてそれが果して單純なる挿木の成長を意味して居たか否かを、辨別することが難いのである。薩摩の出水川の源頭は、日向西諸縣郡｜加久藤《かくとう》村、長江浦の字｜出水《いづみ》と云ふ處である。むかし性空上人行脚の時、此地の住民の水に乏しきを憐み、楊枝を加持して地に挿せしに、忽ち水湧きて此川と爲る。其楊枝活きて枝葉茂るもの、之を根無柳と稱して世に知られて居た（五）。信州御坂の古道には、路の(106)傍に楊枝屋舗の舊址があつて、兒が楊枝と名づくる一本の老木を、逆しまに枝の附いた木と説いて居た（六）。木曾路には近代に至るまで、本山押込等のあひの宿に、疣柳の楊枝を賣る小家が多かつた（七）。兒が楊枝の根原にも、恐らくは埋もれた物語があるので、強ひて之を逆さ木と解せずばならぬ何かの理由があつたかと偲ふ。根無柳の起りも之と同樣に、其楊枝が越後七不思議の逆さ竹の如く、本來成長すまじきものゝ成長したことを謂ひたい爲の名であらう。

　杖の成長したと云ふ柳は、小谷口碑集にも鬼澁右衛門の杖立柳がある。丹波の西南境に近い日置村の六本柳なども、もとは六本あつて大江山鬼征伐の一行六人が、各々其杖を爰に立て成長したと傳へ、今殘る一本の老柳は、空洞の中に公時を祀つて居る（八）。此等は後に言はうとする義經の笈入柳と、同じやうな來歴を持つものかと思ふが、未だ何故にかゝる山間の地に、携へられたかを確めることが出來ぬ。たゞ川楊が本來移植の必要も無い木であるに拘らず、往々にして懸け離れた野中山中に孤立して存するのを見ると、昔の人で無くとも其傳來に關して、不審を抱くのは自然の情であるから、松や他の雜木に比べては、格別の注意が、久しい間、此植物に對して、拂はれて居たことだけは考へられる。此點に於ては榎も銀杏も一致して居る。つまりは普通の經濟上の動機以外に、早くから此木の分布を促すべき或力が、現實に存在して居たことだけは疑ひが無いのである。植物を卜占の用に供した古來の風習に關しては、尚取集めて別に一章の研究を公にしたいと思ふが、其中でも最も肝要な一方法は、挿木の成育すると否とに由つて、神意を判斷しょうとした枝占であつた。山城の秦公氏の植樹と云ふのも、稻荷山の驗の杉の例から推測して枝を挿したものと考へられる。而うして神が清き泉の處を愛したまふと信じた人々には、水に親しい川楊の木を、殊に注意深く觀察して、正しい指導を受けんと心掛けたのも自然であつて、是が轉じては新たなる居住の便宜の爲に、乏しい水を求め出す手段にも利用せられるに至つたものと思ふ。即ち國々の柳の井、柳の清水の多き所以であつて、單に此木が水の岸に、成長し繁茂するを常とすといふだけならば、却つて之を名に呼ぶ理由にはならなかつた筈である。地下の水を汲み上げる色々の技工が、弘く田舍にまでも行きわたるに及んで、所謂御大師水の由來には、杖とか齒木とか(107)の物々しい道具立が、附け加へて説明せられるやうになつたけれども、質朴な人たちの心持には、たゞ柳の陰と謂ふだけで、もう其清水の尋常で無いことを感ずるに十分であつたことは、後代此の如き場所を以て、常に幽靈變化の定宿のやうに、考へて居たのを見ても察せられる（九）。これを聯想する近昔の一事實は、百四十年前の天明六年に、紀州で評判になつた弘法大師加持水の發見である（一〇）。那賀郡川崎村西安上谷の住民、四國巡禮の路次に傷寒を病み、駕籠で送られて還つて來て大熟で寢て居ると、或日の夢に一人の僧來り現れて、隣の原部落との境に奇瑞の水が有る。汲んで來させて飲むがよいとの教へであつた。家の者が之に由つて捜しに行つたが見付からず、熱の病人の謂ふことだからと其儘にして置くと、次の日も再び夢の告げがあつて、水は柳の木の下に在る、何故早く汲みにゆかぬと叱られたので、重ねて之を求むるに、なる程其通り小さな一本の柳の根から、水の涌いて居る處があつて、之を携へ還つて飲ませると、果して病は程無く平癒した。夢の僧は自ら名乘つた樣子も無いのに、弘法水の名は忽ちにして弘まり、遠近の里人の來り汲む者多く、夥しい賽錢を收得して其邊の田地を買入れ、參詣の爲に休息所を作るやうな騷ぎであつたが、三年ばかりを經て漸くに人氣衰へ、稀に尋ねて來る者がある位になつたと云ふ。不思議も此程度のものならば解説は六つかしくない。つまりは林間の楊の木を尊い泉の目標とする風が、久しい前から無意識に傳はつて居たのである。

　　（一）　二十四輩巡拜記。

　　（二）　明治神社誌料及び北野誌附録。三島都鳥飼村鳥飼西。

　　（三）　壬戌紀行上卷。

　　（四）　塵袋卷八など。

　　（五）　三國名勝圖會。

　　（六）　岐蘇古今沿革志。

　　（七）　木曾路道中記。

　　（八）　故郷見聞録、永井稜威報。池田中學校の生徒たちが各自の見聞を書集めたもの。

(108)　　（九）　妖怪が出るといふ樹木の種類は、きまつて居たやうである。榎又は椋なども其一つに算へ得る。

　　（一〇）　紀伊續風土記卷二八。天明前後の時代は殊に澤山の弘法水の出現を傳へた。東京附近にも幾つかの實例が殘つて居る。

　

　　　　　　　　　　六

　

　挿木は至つて粗暴なる植樹法であるが、同時に亦甚だ自然なる人間の心の働きである。恐らくは種子を播いて喬木を期待する經驗よりも以前から、或樹木の數を増加し又は場處を移さうとする者の、容易に案出し得たる手段であつた。阿蘇以南の九州山地に、今尚行はれて居る杉の穗の挿木は、自分の知る限に於ては七割以上の安全率であつて、殆と苗圃の必要を認めしめぬ。思ふにこの古い慣行は北へ進むにつれて、次第に温度土質等の爲に妨げられ、其效果の不確定になつたことが、即ち其行事を宗教化した一原因であらう。土佐の金峰山に於ては中（ノ）宮の境内に、參詣の者が寄進と稱して杉の枝を折つて挿す風習があつた。其内の十の七八までは根が附いて、今も年々の若木が多い上に、古木の大杉のやはり枝をさしたら成長したと云ふのもあつた（一）。併し地方によつては之を以て神受納の兆候とすることが、聊か心許なく感ぜられるので、次第に杉苗何十本奉納といふやうに、萬全を期する風習に移つて來たものと思ふ。此點にかけては川楊はよほど頼もしかつた。無心に打込んで置く杭や垣根の柱が、芽を吹き根を生ずることも珍しからぬ經驗であつた。蝦夷のイナオなどさへ稀には蘇生して、生れ兒を祝ふ親々をして、驚喜せしめるといふ話を傳へて居る（二）。羽後の平鹿郡の平柳といふ部落は、村の入口に一本の大木があつて、地名が示す如く、元は疫神の祭に立てた卒都婆であつた。百餘年前の旅人の日記には、其幹にはまだ文字の幽かに殘つて居たことを、記憶する老人もあつたとあるから（三）さして古い時代の話では無く、從つて丸々の空想とのみは考へられぬ。此と所謂楊枝成長の傳説と、其境目をはつきりと見出すことは六つかしいが、兎に角に此木の水邊に在つて、殊に復活し易い性質は、著しく昔物語の信用を強めて居る。肥後の湯船村には杓子田の柳といふがあつた。天正年中に横手の五郎といふ大力の者(109)來つて、力量を見せる爲に飯杓子を以て草を刈り、其杓子を立ゝて置いたのが、成長したと云ふ柳林であつた（四）。木曾の駒ヶ嶽西北の山中には山姥の池があつて岸に亦此木が多い。昔麓の大原と云ふ村の娘、嫁に行つて後突如として頭に内角を生じ、髪は逆しまに立つて人間に止まること能はず、柳の木を杖に突いて山野を放浪した末に、此池に身を投じて靈鬼と爲つた。柳は即ち棄てた杖から成長したものと博へられ、里人は神として仕へて雨を?り、時々は又髣髴として、水上に機を織る姿を見たと云ふ（五）。固より其杖其杓子を目撃した人は無かつたので、空な話には相違ないけれども、佛法の驗力も説かず又水を求める手段でも無くて、御靈や山神の信仰に楊の木の介在を必要とした點は、やはり羽後平柳の疫神祭の卒都婆と共通に、近代に入つてからの實驗に出たもので無いことを意味して居る。昔利根川にはネココと云ふ河伯（河童？）が住んで居た。其居所が年々にかはるのを、土地の者はいつでもちやんと知つて居た。即ちその居る場處には水が渦を卷き、又川筋の岸の柳の大水に流れたものが、其岸に漂着して根を生じて茂るからであつた（六）。必ずしも奇異を以て目すべからざる此等の現象でも、信ずる者には亦一箇の啓示であつた。それから考へると、人が神を奉じて祭るべき場處を決しかねた際に、此木を卜ひの用に供する風習は弘く行亙り、之を特に一二の社寺の爲に誤り傳へるには、却つて若干の餘分な神秘を、附加へねばならなかつたので、乃ち杖清水や楊枝水の傳説の成長を促したのである。伊賀の山田村の植木牛頭天王社は、文永二年四月八日の洪水に流れて、再建の時村民宮地を爭ひ決し得なかつたのを、中井橿山兩神職の意見に基づき、諸處に枯柳を挿し試みて神意を窺へば、今の地にさした一本だけ、一夜にして枝葉を生じ、それから此の如き神號を稱するに至つたとある（七）。江州湖東の筑摩神社でも、四月八日を以て大祭の日にして居るが、最初四町四面の柳の林の中に、長さ三十丈と謂ふ滅法に高い一本があつて、或日その梢に奇雲覆うて靈光を放つた。朝家之を奇なりと感じたまひ、乃ち其柳樹の下に筑摩三所神を御祭りなされたと傳へられる（八）。卯月八日を祭日とする社の、此他にも國々に多いのは、此日を山登りの日とする風習と關聯して、或は木の占ひの行事に始まつたのでは無いかと思ふ。

(110)　　（一）　土佐國群書類從卷一〇四、詣金峰山紀行。

　　（二）　故角田浩々の漫遊人國記に。

　　（三）　雪の出羽路卷六、菅江眞澄著。

　　（四）　肥後國志、合志郡湯船村の條。

　　（五）　吉蘇志略卷二、野婦池と記してある。

　　（六）　望海毎談、國書刊行會本、燕石十種の内。

　　（七）　明治神社誌料。

　　（八）　神社覈録卷二七に引用した筑摩縁起略に依る。

　

　　　　　　　　　　七

　

　陸前桃生郡の和淵神社は、北上川の岸、玉造栗原二川の落合に臨んで、流には明神渦《みやうじんまき》と謂ふ畏しい淵があつた。元文年間に田を拓いた迄は、廣大なる柳原であつて、昔義經が奧州に下る時、一本の柳の枝を笈に入れて來て、それを地に挿して志願を和淵の神に祈つたのが起原であると稱し、之に因つて笈入柳の名が有つた（一）、此人が遙々携へて來る程の枝ならば、必ず止むごと無き由緒あるものと考へたのである。親鸞上人の遺蹤としては、野州の高田に又此に似た柳がある。此地舊稱は大内庄柳島、嘉禄元年に上人此地に在りし時、天童出現して南方の水田を指さし、靈地なれば伽藍を作るべしと教へ、菩提子と柳の枝とを與へて之を栽ゑしむ。水田一夜にして高壤と變じた故に、改めて高田と呼び、其柳も終に成長して喬木と爲つたと謂ふ（二）。近江國では北部｜余吾《よご》湖の岸に羽衣の柳といふがあつた。天女羽衣を失つて切幡太夫の妻と爲り、後に夕顔と柳を栽ゑて再び天に還つた。其古柳永く靈木にして其葉を浸した水を飲めば諸病平癒した。其御禮には更に一本づゝの柳を奉納して、其傍に植ゑる習はしであつたと傳へるのは（三）、恐らくは亦各地方の柳林の、異常なる繁茂の眞の説明であつたらう。柳を手植した記録の最も古いものは、比叡山がまだ傳教によつて開かれなかつた時代に、藤原武智麻呂此山に登遊し、令後人知吾遊息之處焉と謂つて二株の柳を栽ゑた(111)ことが、夙く此人の傳記に見えて居る（四）。しかも其目的が單なる記念植樹で無かつたことは、懷風藻に麻田連陽春、藤江守即ち近江守仲麻呂の、叡山先考の舊禅處の柳樹を詠ずる作に和したと云ふ一篇の詩があるのを見ても明らかである。然らば其柳の若木は如何樣にして供給せられたかと言ふと、恐らくは曾て信州の下諏訪社で、正月元日に行うた楊柳之幣の神事の如く（五）、乃至は近世まで江戸淺草の三社權現に於て、節分の夜毎に牛王の御礼を柳の枝に挾んで施したと云ふ所謂柳の御影などと同じく（六）、從來信仰して居る御社の靈木から、次々に枝を賜はつて新しい地に挿し試みること、恰かも天野の姫神の忌杖刺しとよく似た慣行が、當時尚弘く存して居たものであらう。しかも一方には播磨風土記の、揖保郡｜粒丘《いひぼのをか》の條に、葦原志擧乎之命がまたぶり〔四字傍点〕を以て地にさし、其杖の處より寒泉涌き出づといふ類の言ひ傳へが、どし／＼と發生し且つ信ぜられんとして居たのは、神の不可思議に對する古人の態度が、常に十分に忠誠であつたことを意味すると共に、更に今日よりも遙かに有力に、神威が我々の用水を支配して居た結果であらうと思ふ。

　　（一）　封内風土記卷一一に名跡志を引いて。

　　（二）　村上專精師の眞宗全史に依る。

　　（三）　鹽尻帝國書院本卷三四。

　　（四）　瀬見乃小河卷四に引用した藤原武智麻呂傳。

　　（五）　下諏方社例記、諏訪神社誌料卷下に採録してある。

　　（六）　淺草寺誌。

　

(112)　　　　　爭ひの樹と榎樹

　

　　　　　　　　　　一

　

　東都近郊の名木の一つとして、百年以來最も人に知られて居たのに、田端の白髭社の御神木、爭ひの杉と云ふのがあつた。根の周り四五抱もあつて、高さは僅かに二丈四五尺、遠くより見れば枝ぶりは松の如く、又高野槇の葉のつまつたやうに見えて、樹の下に近づかぬと杉とは思はれなかつたので、此樣な名があつた（一）。明治になつてから、不幸にして鐵道の線路に當り、工事の爲に之を道灌山とかに移植し、後久しからずして枯死してしまつた。しかも太田道灌爭ひの杉の物語は尚殘つて居るので、何人の作り事に始まるかは知らず、或時一人の武士が道灌と此木の松か杉かを言ひ爭つて、負けて腹を切つたから爭ひの杉だと説く者もあるさうだ（二）、又一説には將軍頼朝奧州征伐の時に、多くの從臣たちは此木を見て皆杉の木と謂ふのに、獨り畠山重忠のみは松だと稱して爭つた。是は義經御退治は暫く「まつ」がよいと云ふ微意を寓したのだなどとも謂つて居た（三）。右は何れも此杉が凡そ四百年前の發芽であつたことを、考へて見なかつた者の言には相違ないが、尚重忠と云ひ太田道灌と云ふやうな、昔の智慧者を引合ひに出さねばならぬだけの、何か隱れたる理由があつたことを、暗示する者では無いか。即ち形?の常に異なる神木に向つて、始めて爭ひの杉といふ名を命じた、前代人の動機は何處に在つたであらうか。今度は此點を少しく考察して見ようと思ふ。

　古人の天然觀察は、如何なる場合にも我々よりは遙かに親切であつた。同時に又希有の例として或樹木が變性して(113)他の木に化すべき理由のあることは、人や禽獣の次々に形を改めるのと同じく、之を認めるに躊躇しなかつた。この誤れる判斷を助けたのは、主としてはホヨ又はホヤと稱する寄生植物の實驗であつたらうが、上空を畏敬し鳥を神使とし、自然を神意とした本來の思想は、往々にして過當の類推をさへ許したらしいのである。田端の岡の爭ひ杉は或は之を松杉と呼ぶ者があり（四）、同じ事情から代々木には榎松と稱する松があつた。以前榎の老木の中腹から、一本の松が生長して相生のやうであつたと謂ふのが、後には只の松ばかりになつても尚此名があつた（五）、筑前香椎宮の舊記には、社頭を去ること一町餘の處に、皇后の御棺を安置した椎の木、枝根さし榮えて永く在つたと記し、星霜積る故にや當時は變じて櫟の木と爲りたりとある（六）。奈良の東大寺の二月堂の下に在る開山の和尚が幼き時鷲に攫はれて來たと云ふ良辨杉なども、最初は杉では無く櫟の木であつたと謂ふ（七）。天永二年と云ふ年に自然に倒れ、其跡に此杉が生じたとは恐らくは亦同じ例であつて、大鳥が遠い國から尊い緑兒を運んだと云ふことゝ、本來必ず不可分なる物語であつたらうと思ふ。

　此類の種々なる奇瑞の中で、殊に後代に及ぶまで、永く民衆の讃歎を博して居たものは、泉州卷尾山などに在る檜椿の木であつた。椿か檜か何の木かを決しかねるので、又アヤツバキの一名もあつたが、實は通常の椿の、枝の間や葉の腋に、扁柏の葉に似た一種の植物の寄生したもので（八）、從つて挿木を以て他の地に移すことの六つかしかつたのを、更に又靈山と其開祖の名に結び附けて解釋しようとしたのである。江戸でも芝増上寺將軍御靈屋の庭に、移植せられたる二株があつたが（九）、主としては中部日本の由緒久しい森や林に於て自然の繁茂を見たので、例へば尾州木ヶ崎の長母寺又の名を椿寺、伊勢では鈴鹿郡の高宮即ち椿大神の御社の山が著名であり、又琵琶湖南の自髭明神の境内にもあつたと謂ふ。伊勢の椿神社は猿田彦命を祀ると傳へながら、土地の人々は弘法大師、檜を變じて椿と爲すと説明して居たと云ふことである（一〇）。しかも變形は椿のみでは無かつた。紀州では鶴の濱の檜椿、一重と八重と二種の花があつたことを、名所圖會後編には説いて居るが、伊都郡｜小原田《をはりだ》村の藥師山の如きは、フクラシバと榊と、二種の木に(114)も檜の葉を生じ、同じ大師が此山の藥師堂に法を修せし時に、檜葉を以て加持手水を使つた名殘だと説明して居る（一一）。加持手水は又柴手水とも稱して、山中水に乏しき場合に香氣ある樹の小枝を以て手を淨めた僧たちの作法であつた。前に申した卷尾山施福寺の縁起として、至つて古くから語り傳へられたのは、多分は此話の先型であらうが、今から見ると敍述が稍々具體的に失して居た。大師檜の葉を以て御手を摩り淨め、便宜にありける椿の上に投げかけて、我が宿願果して遂ぐべくんば、此柴彼木の上に生え附くべしと誓つたので、乃ちこの檜椿と爲つて今に在ると謂ひ（一二）、頗る枝を立てゝ成長した昔話と相類して居るが、しかも現在に於ては山中の諸木、必ずしも椿ならずして無數の檜葉を寄生せしめたものがあるのは（一三）、奈何ともし難い傳説の衰微であつた。

　　（一）　新編武藏風土記稿卷七。十方菴遊歴雜記四編ノ下。清水濱臣の杉田日記は文化四年の紀行であるが、既に此木の評判を詳しく述べ、且つ杉田路の側にも、之と似た一本の杉のあつたことを述べて居る。

　　（二）　郷土研究四ノ一、平野美廼留君。此木を移植したのが即ち道灌山の一本杉で、其下に碑石が在ると謂ふが、自分はまだ見て居らぬ。

　　（三）　北豐島郡誌二五三頁。重忠の話は「一書に曰く」で、最も不精確である。

　　（四）　江戸志、平塚白髭社の神木アラソヒ杉の條。

　　（五）　豐多摩郡誌七四三頁。榎松のあつたのは江戸志に、代々木の中程八幡の近所の畑中とある。

　　（六）　八幡愚童訓上。

　　（七）　大和周遊誌上。其他。

　　（八）　古名考二九。昨年再刊の白井博士植物妖異考にも之を詳説して居る。

　　（九）　十方菴遊歴雜記初編上、其昔談等。諸國採藥記には寛保年中に、伊勢高宮から此木二本を吹上苑に運んだとあるが、或は此木のことではあるまいか。

　　（一〇）　右の諸國採藥記、其他俗名所坐知抄下など。尚此社のことは天明七年の村田春海が椿詣記、神社覈録一三にも見えて居る。

　　（一一）　紀伊續風土記四五。小原田は今の橋本町の大字。

　　（一二）　塵添?嚢抄一六。柴手水のことは、又眞俗佛事篇一などにも詳しく説いてある。

(115)　　（一三）　西國名所圖會一五。

　

　　　　　　　　　　二

　

　爭ひは榎と槻との間にも有つた。この二種の樹は共に村里や路傍のものであるが、高さと枝ぶりで遠くからでも見分けられる。それにも拘らず尚榎を槻と呼ばんとする者があつたのである。例へば安藝豐田郡末光村に、世はかりの榎と稱して高さ三間、枝の蔭二十問四方を蔽ふほどの、傘の如き大木があつた。土地では此木の葉を出す遲速多少を見て、世はかり即ち年の豐凶を卜する風習があつたが、何故か之をツキの木と名づけ、樹下には槻木神社を祀つてあつた（一）。東京近くでは元狹山の二本木と云ふ村、此地方の例として元は二本の榎が村中に在り、或は二本榎と稱したと傳へられるのは、別の記録に槻の大木二株ありと書いてある（二）。又有名な板橋の縁切榎なども、實はいつの間にやら欅の大木であつた。今では火災に遭うて枯株のみ殘り、愈々本體が不明に歸したが、嫁入の此樹の前を通ることを忌んだ風習は古かつた。寛延二年の二月に五十宮將軍家へ御降嫁の際にも、其由來を述べて御路筋變更を進言した者がある。最初此地には榎と槻と各々一本があつて、「榎木槻木岩の阪」と唱へたのが、誤まつて「縁つきいやの阪」と爲つたと言つて居る（三）。但しその榎が早く枯れて、槻ばかり殘つたと云ふことには證據も無く、欅を縁切榎と呼んで居た期間は久しかつたのである。

　それを偶然の混同と見ることの出來ぬのは、もつと顯著なる類例が能登國にも在るからである。能登では諸橋の一本木と呼ばれた老樹が、前波の稻荷宮の向ひに在つた。八百歳の齡を經たと云ふ若狹の白比丘尼、來つて之を栽ゑたりと傳へて、樹は槻であるが榎實がなつた。「榎實千俵なつても木は槻」といふ諺は、此から出たものと土地の人は謂うて居た（四）。八百比丘尼の故跡なるものは、此地方にも處々に有つて、色々の手植の樹が保護せられて居た。輪島の河合町の比丘尼松、富木の海岸の椿原などの外に、珠洲郡北方村の光性寺の門前には、白比丘尼が晝飯の箸を挿して、(116)成長したと稱する大木の杉もあつた。關東の諸州にも同種の口碑を伴ふ名木は少なく無い。廻國の尼が之を栽ゑたと謂ふは事既に神異に屬し、殊に其一つが榎であり、又槻木たらんとする理由は簡單で無いらしいが、能登には少なくとも近い頃まで、之に類する謎の語が遺つて居た。例へば羽咋郡の田植唄には、

　　　あこやが谷の茶の木原

　　　茶の實がならでヤーノ榧の實がなつた

と云ふのがあり、又同地方の籾摺歌の中には、

　　　石動の紅屋の背戸の茶の木もり

　　　茶の實ならずにヨーナイ榧の實がなるヤー

といふ文句もあつた（五）。單に其樣な事があるものかと、笑つて興ずる歌であつたかも知らぬが、たゞ何の因縁も無しに考へ付いたものとは思はれぬ。

　榎と槻との俚諺に似たものが、古くは又京洛の地にも行はれて居た。人が剛情で何と證據を説いても承伏せぬ場合に、「榎の實はならばなれ木は椋の木」と謂ふのが常の習であつた。或は又「椋はなつても木は榎」とも謂ひ、何れもかたくなに知れきつたことを爭ふ者を嘲ける語で、例へば「這つても黒豆」と云ふ意味深い警句と類を同じくするものゝ如く解せられて居る（六）。但し果してそれが此俚諺の最初からの用途であつたか否かは、又別の問題であつて、現に槻と榎とのやうに異なつた木でも、時としては人を迷はしめたことがあるのである。況んや椋は榎の一種と見るべき程に相近いもので、精確な區別をする爲には學問が入用であり、普通の生活に於てはまだ?々爭ひ又は疑はれて居たのである。人の片意地の譬へとしては實は甚だ適切でなかつたのである。

　　（一）　藝藩通志九一。今の何村の内であるかを知らぬ。

　　（二）　入間郡誌三八一頁。引八王子日光街道舊蹟考。

(117)　　（三）　豐島郡誌一七一頁に、江戸會誌を引いて。

　　（四）　能登名跡志。鳳至郡諸橋村大字前波の條。

　　（五）　文部省編俚謠集三一四貢以下。

　　（六）　諺語大辭典に清水物語等を引いて記す。又中川喜雲の京童の自序にも、「椋の木の下にて榎實を拾ひしと、友だちといどみあひしこそおろかに拙けれ」とある。

　

　　　　　　　　　　三

　

　右に擧げた二通りの俚諺は、多分は原が一つで、能登で謂ふ方が古いと思ふ。何となれば槻の木に榎實がなればこそ物の不思議であるが、椋の實を榎の實と謂ふ迄は必ずしも誤りでは無く、椋は地方に由つて、之をムクエノキとも呼ぶからである。東京赤坂の榎坂町などは、つい近年まで岡の麓の廣路に、幾本と無く老木が連なつて居たが、それが皆我々の謂ふ椋であつた（一）。椋鳥と云ふ鳥の名は此實を食ふに由つて附けられたのであらうが、越後に於ては之をエノミクヒと呼んで居る（二）。「我門の榎實もりはむ」と云ふ古い歌も、果して今の榎であつたかは確かで無い。他木の梢に寓生することは、鳥が樹實を運ぶからであらうが、榎は絶對に無いといふ説は疑はしくとも、少なくも椋の方に其例が多い。榎にも實はなつて食はれぬことは無いが、椋の實とは比べ物にならぬ。ムクには早く椹の字などを宛てて、單に食用の小果を意味したやうであるから（三）、或はムクエノキは實を賞美するエノキであつたのかも知れぬ。

　新井白石先生はムクは一名にして二物と説いて居られるやうだが（四）、自分はまだ此以外のムクの木は知らぬ。ムクの葉を以て器物を磨くことは隨分古くからの風習だが（五）、それは正しく實の大きく且つ甘い榎坂町の樹、即ち普通に?葉樹と書く物であつた。ムクとエノキの大同小異なることは、一般に認められて居たので（六）、假に二つの物を取違へた人があつても、所謂菽麥を辨へざる者と同じく、大笑ひの種にする程のことは無い。即ち何か此諺の發生には、別に最初の理由があつたかも知れぬのである。

(118)　それから少しく氣を付けて見るに、關東の諸國を始として、京都に遠い地方には榎の老樹、榎に伴ふ昔話は有り餘るに反して、更に椋の木に就ては耳にする所が無い。一々の例に由つて檢することも六つかしいが、是は事によると多くの榎の中に包括せられてゐたので、近畿と其所産の文學にばかり、椋と云ふ木が別に説かれて居たのでは無いかと思ふ。さうすると椋は今日のムクエノキに非ず、他に尚一種の木があつたのかとも想像し得られるが、古書の椋の記述にはムクと一致せぬ點も無く、傳説には榎と共通のものが多く、其木が亦現に存在する。作州誕生寺の法然上人誕生椋（七）。紀州椋木村大師寺の椋の木（八）などは著しい例である。聖�ｺ太子が守屋を射落されたと云ふ河内の椋樹寺は今もあるが、塵袋卷二には之を「えの木城より射落さる」と記して居る（九）。後世の太子傳では、太子と秦川勝と二人、此椋の中に隱れて難を遁れたまふとあるのを、源平盛衰記には天武天皇の御事とし、「大なる榎二つに割れて天河に隱し奉る」と説いて居る（一〇）。故に問題は單に此等少數の場合に限り、何故特に椋なる漢字を選んで、此木に充てたかといふことに歸するが、素より植物は古く漢字は新しいのであるから、其間に誤つた推定があつても驚くには足らぬ。椋は古くから亦クラ若くはムホコと云ふ日本語にも用ゐられた。さうすると最初はたゞ木扁に京といふ字の形から、之を採用してクラ即ち神座の樹、ムホコ即ち神の杖を表示せしめようとしたもので、弘く樹實を意味するムクといふ日本語とは、後になつて混同したものかも知れぬのである。

　　（一）　老友田内憲晁君の注意に由つて多くの人が之を認めた。

　　（二）　越後名寄一三。

　　（三）　松屋筆記九。天武紀十年の條及び新撰字鏡などを引きて。

　　（四）　東雅三。椋及び朴の條。

　　（五）　異本拾玉集に、「これを見ん人は心ぞみがくべきおほ葉のむくのいにしへのあと」とあり、倭名鈔には膠漆類に椋葉を出して居る云々、これも松屋筆記。

　　（六）　西行上人談抄と題した書に連歌、「やみの夜を老むくの木の下ゆかし」、「えのきもあへぬことにぞ思ふ」。此話は多分附會ではあらうが、色々の怪談は椋の下にも榎の陰にもある。

(119)　　（七）　和漢三才圖會七八その他。

　　（八）　紀伊續風土記三八。

　　（九）　三國傳説記一にも、榎木の上の高倉とある。

　　（一〇）　參考源平盛衰記二一。

　

　　　　　　　　　　四

　

　漢字輸入の初の時代には、其選定に關して區々の意見があり、決して今日の如く全國的に一致して居なかつたことは、古書を讀む者の等しく知る所である。從つて漢語はたゞ之を用ゐ始めた人々の、考へ方を窺ふ便宜たるに過ぎぬ。我々の知りたいと思ふのは、その今一つ前の事である。エノキは通例又ヨノキとも呼ばれる。恐らくは嘉樹即ちめでたき木を意味したものと思ふ（一）。榎が萬木の中に於て、人間栽植の最も古い歴史を持つて居る故に、さう考へられるのである。會て官道を拓いて一里塚を築いた時に、塚には松を栽ゑ申すべきやと、將軍に言上したところが、よの木（他の樹）を植ゑさせよとの御意であつたのを、榎木のことゝ誤解したと云ふ説がある（二）。今日迄其儘に信じられて居るが、是は確かに作り話である。古い塚の大榎は、ずつと前から幾らでも例があり、又塚は無くても路傍には此木が多かつた。しかも二本榎であり榎竝である故に、輙ち天然の成長で無いことを知るのである。國境の榎峠を始として、邑里の境や橋の袂にも特に榎があつて、所謂榎戸は多くは路神の祭場であつた。道祖神の神木サヘノキを、左榎などと書いた地名も多い。

　人家の邸内に此木を栽ゑた例は、古くは姓氏録の榎室連の條にある。中部日本ではよほど廣い區域に亙つて、今でも此風習が行はれて居る。名古屋近傍では其場處は必ず屋敷の戌亥の隅であり、之を福榎と呼んで居たさうである（三）。四隅の神の中でも特に乾の大切であつたことは、古代の記録にも見えて居る（四）。そこに榎の栽ゑてあつた例は、今昔物語に冷泉院よりは南、東洞院より東の角に僧都殿とて極めて惡しき所あり、其殿の乾角に高き榎ありけりとあつて、(120)怪物が其木から來去した話を載せて居る。即ち後にも述ぶる如く、本來は之に由つて鎭めの神を祭つたものが（五）、終には榎を以て魔障の前進地の如く感ずるに至つたのである。

　或は古城舊館の入口に近く、此木の林を爲した例も多かつた。常陸風土記には今の玉造の驛の西にも、一處の榎林があつたことが見える。何故に斯くの如く、人里通路には遍く分布して、山野には却つて巨木を見ないかは、既に久しい間の不思議であつて、或は其若葉が食糧の助けになるので、籠城の用意の爲だらうと謂ひ、又は薪として火氣強く、軍陣の篝火に適する故などと、兵學者流の説明も世に行はれて居るが、固より奈良朝以前からの經驗とは思はれず、且つ永く之を伐殘して澤山の老樹を現存せしめた理由には十分で無い。榎が薪として珍重せられたのは事實であり（六）、其效用は單なる採温に止まらなかつたとさへ稱せられる（七）。他の地方にも同例があるだらうが、伯耆西部の村では、除夜節分の晩の圍爐裏の火に、必ず此木を燃すことになつて居る（八）。此と同時に越後の或村で、榎は小枝と雖之を火に焚かず、犯せば必ず怪異ありと信じて居た例もある（九）。其理由としては氏神の御神體が、此木を以て彫刻してあつた故と説いて居るが、果して有り得べきことであらうか。自分はまだ傍證を見出さぬのである。

　　（一）　日本釋名に「もえの木」の説あり、又鹽尻五五などに、枝多くして之を伐れば愈々繁茂する故に、枝の木であらうとの説もあるが、自分は之を信じ得ないのである。

　　（二）　雨窓閑話に三代將軍の時、土井大炊頭老いて耳疎く、斯ういふ聞誤りをしたとある。本朝世事談綺五に、織田信長の時として同じ話のあるのは、信長記に一里塚の話があり、且つ塚の榎のもつと古い爲に、前の説を改訂したものと認める。

　　（三）　名古屋市史地理篇五六〇頁、榎御多門の條。

　　（四）　例へば三代實録貞觀五・十・三に、左京職戌亥隅神、元慶元・四・十五に、東一條邸戌亥隅神、同三閏十・廿三日に、織部司戌亥隅神等、それ／”＼陞位の記事がある。

　　（五）　山科言繼卿記、大永八年正月二十六日の條にも、「正親町鎭守之榎木云々、切候由申候間皆々罷出候テ逐立候了」とある。

　　（六）　右同記天文二十三年十一月十九日條に、「自禁裏葉室に被仰、榎木之割木八束被進之」とある。八束はあまり少しだから、多分は年木用かと思ふ。

　　（七）　和漢三才圖會八三に、其材……不堪爲柱、伐可爲砧?、最宜薪、相傳云、其火氣益人身とあり、大和本草一二には、單(121)に燒きて煙少くよく燃ゆるとある。

　　（八）　日野郡旭村村是其他に、「除夜年取とて神を祭り、一同爐邊に集り樫榎シデの木等を焚くを例とす。蓋し仕出し貸出しの意を寓するなり。而して此儀式は節分にも行ふことあり」とある。

　　（九）　温故之栞一九、越後南蒲原郡大崎村上保内、式内小布施神社の條に。

　

　　　　　　　　　　五

　

　或は又東北の某地方で、神社の建築には必ず一本の榎の材を使用するといふ説もある（一）、それが果して現實の慣習なりや否やは尚諸氏の調査を煩はさねばならぬが、少なくとも此木の如く本來柱などには向かぬものを、使用したと云ふ話が傳はつて居る以上は、別に相當の事由が有る筈である。其一つとして最初に念頭に浮ぶのは、神社の境内に榎のある實例が多いこと、それが植栽に因るか、はた單なる保存であるかは不明としても、兎に角に社頭第一の老樹の榎であつたことである。江戸は三百年前の住民の生活が、皆目分らぬ程の新地であるが、近代の好事家が調べた所では、諸社の木には年經た榎木が多かつた。今では枯れてしまつて跡形も止めぬだらうが、本所若宮八幡太郎の鞭の榎を始として（二）、淺草では眞崎稻荷（三）、上野では忍岡稻荷（四）、小石川の金杉天神社（五）、戸塚の三島神社（六）等には、何れも神木と謂ふ榎があつた。王子稻荷の衣裳榎に就ては、後に詳しく説きたいと思ふが、此外にも湯島のシルシの榎、龜戸の太平榎の如き、幾つかの名木は何れも神の社に屬して居た（七）。特に江戸のみに限るべき理由は無いのだから、若し江戸人の如き綿密を以て尋ねたら、關東の近縣だけでも尚百を以て算する類例があらうと思ふ。

　神木と云ふ名稱の起原、及びその精確なる意味を究めることが、元來自分の志ではあるが、之を此序に説き盡すことは望み難い。只明白にして置くのは、今日人の目して神木とするものは、單に境内で最も古き樹なるが故に、之に由つて社殿創立の年代を證明せしむべく、珍重して居るに過ぎぬものもあるが、實際それだけの關係ならば神木の稱は當つて居らぬと云ふことである。或は又神壇のすぐ後もしくは鳥居の正面などに立ち、注連を延へて冒?を禁じて(122)居るものでも、宮の祭典氏子の信仰とは最早何等の交渉も無いものが多いが、神木と言ひ傳へるからには元は今一段と適切なる聯絡のあつたものが、社殿を重んずる氣風につれて以前の思想が變化したか、然らざれば後世に及んで名稱を濫用したか、必ず二者の一である。幸にして右の如く神社の榎は多く存し、又特殊なる口碑習俗の之に伴うて傳はつた爲に、他日此方面の研究に基づいて、次第に固有宗教の元の面影を見出し得る望があるのである。

　所謂神木の榎は古く且つ全國に行渡つて居た。例へば京都ではもと六條に在つた左女牛八幡社前の大木は、頼義が祈請を籠めたと云ふ縁起をさへ發生せしめて居る（八）。祇園の離宮と呼ばれた烏丸五條の大政所屋敷には、既に細川幽齋が狂句をしたと云ふほどの古榎があつて、今から百五十年前の大風で倒れた（九）。筑紫の太宰府の榎木頓宮は、七百年前の祭の記録に其名が見えて居る（一〇）。離宮も頓宮も今の所謂御旅所のことで、祭の日に神輿を迎へた地であるから、そこに榎の在つた理由は想像し得る。即ち單に靈地を標示するの他に、尚毎年晴の祭式も亦、此樹の本で行はれて居たに相違無いのである。

　さうすると多くの祠の神の榎本と云ふ名も、どうやら其意味が判明するやうである。榎本は紀州熊野の三名族の一つで、今日此苗字の全日本に分布して居るのは、明らかに熊野の傳道と伴うたたのであるが、それとは關係も無く、春日にも賀茂にも同じ名の攝社が以前からあつた（一一）。即ち榎の下で神を祭る風習は、本來必ずしも地方的のもので無く、假に或時代に何かの原因があつて、急に盛んになつたことがあるにしても、其爲に公認せられた大きな社の今迄の信仰と、調和を破るやうな心配は無かつたのである。但し今日の新しい神道に於ては、神社の祭神には必ず歴史的の御名があり、路の邊や塚の上の榎に至つては、只の樹の神、樹の精靈である故に、拜む者の心は一つでも、未だこの二つの習俗を一括して、共通の原因を尋ねて見る考が起らなかつた迄である。

　其結果は神木は或神社の境内に限られ、其以外の地に在るものは、之を怪樹と謂はねばならぬことになつた。殊に折々の祭の幣供物を濡さぬ爲に、かりそめに造つた雨覆ひホコラでもあると、早それを主神の座と看做して、老いた(123)る神木を從物の如く、考へる風が往々にしてあつた。樹は枯れて石の小宮などが殘り、尚之を榎本神社と呼んで居る類は、正にこの近世の信仰變遷を語るものである。併し稀には熱田などの如く、直ちに樹を拜して居る例も少なく無い。雲州松江市西茶町の須衛都久神社、舊稱熊野權現の境内社に、榎荒神社と云ふものは其一つで、祭神を速素盞嗚尊とするにも拘らず、社殿無之以榎神木とすと報ぜられて居る（一二）。昔は此種の榎が獨立して、祭り又?られて居たものが多く、今在る社の神は却つて後に樹の所在に就て、勸請せられた場合が幾らも有つたかと思ふ。さうして未だ定まつた神を迎へざる神木も亦殘つて居た。前に申した赤坂榎坂の椋なども、此木の根元に齒の願一切を掛けて驗あり、御禮には房楊枝を挿して拜すべしと、百年前の江戸神佛立願一覽に見えて居る（一三）。郊外の村々を廻れば此例はまだ多い。齒の病を祈願することに爲つたのは、寧ろ玉串の形が房楊枝と似て居るからの推測であつて、信仰は時代につれて色々に變化したものらしいが、さういふ中にも詳しく比較をして見ると、やはり境を守り災禍病疫等の外より入込む者を防ぐといふ點に、一致した點が殘つて居るかと思はれる（一四）。

　　（一）　郷土研究四ノ一八〇頁、内田邦彦君。

　　（二）　本所雨やどり。

　　（三）　淺草志三。

　　（四）　江戸砂子五。

　　（五）　江戸名所記七。

　　（六）　豐多摩郡誌六八八頁、引高田雲雀拾遺。

　　（七）　山中笑翁共古日録一七。

　　（八）　雍州府志二其他。

　　（九）　遠碧軒記上ノ一。翁草一二六。

　　（一〇）　百錬鈔承久元年十二月十日の條。太宰管内志には榎木頓宮は榎木寺即ち淨妙寺のことだと謂つて居る。此地方には今も榎を神木とする社が多いと、三浦直次郎君より聽く。

　　（一一）　尤も獨り榎本社のみならず、椿本柳本杉ノ本其他の小社が多いのである。羽黒や日光の社僧の坊號にも、櫻本坊杉本坊(124)のあるのは之と關係がありさうだ。

　　（一二）　明治神社誌料に依る。出雲には樹を以て神とし社殿の無いものが多い。殊に荒神には多い。

　　（一三）　共古日録一七より抄出す。

　　（一四）　新撰美濃志に濃陽徇行記を引いて、岐阜には三所の市が立ち、三所ともに市神榎といふ木があつた。北方の中川原の市神は天文年中の洪水で流れたとある。

　

　　　　　　　　　　六

　

　榎木に關しては又種々樣々の怪異談が、現實の記録として傳へられる。其半分は素より有り得ない事であるが、人は是あるが故に始めて或地の榎の神木なることを認め、後には又榎なるが爲に、一段と之を信じ易かつたのであらうから、前代の生活を理解する爲には之を閑却することを得ないのである。やはり東京附近の地から始めるならば、千住の竹（ノ）塚から少し北、道路の東側に在つた古榎は、是も齒痛の祈願に楊枝と繪馬とを捧げる者が多かつたが、以前は縊り榎と名づけ毎年此木で首を吊る者が何人もあつたので、之を神に齋うて白山權現と稱へたと謂ふ（一）。白山は恐らく齒の病を?るやうになつてからの名で、竹の塚の榎の靈の表現手段はそれとは全く關係の無い奇拔のものであつた。戸塚の三島明神に神木の榎があつたのは昔のことである。猿のやうな頭をした猿蛇といふ蛇が、暫く此木に住んで居て、後に天上する時榎も共に卷かれて失せたと謂ふのは（二）、即ち大暴風の記録であらう。之とは反對に巣鴨の辨才天社の榎は、近世になつてから白蛇が登つて常に居た。辨天の御所望なるべしと判斷して、氷川神社の後から、今の社は此樹の下へ移したのである（三）。

　神木の榎は伐れば祟があると謂つて、枯枝までも大切に保存した例が多い。越後では南蒲原郡中條村の大行《だいぎやう》と云ふ地に、大行榎と稱する老木の榎があつた。信濃川東岸に在つて流を妨げ堤防の筈をする故に、古來神木の言ひ傳へはあつたけれども、或年數十人の杣を雇ひ入れて之を伐らしめることにした處、僅かに二打三打斧を入れるや否や、其(125)場に居合せた者悉く心神惱亂し、四邊朦朧となつて人の顔が逆樣に見えたので、一同舌を卷いてしまひ、翌日往つて見ると斧を入れた痕はまるで無くなつて居た（四）。明治初年の出來事であつたと謂ふが、今ではどうなつたか聞いて見たい。奧州二本松の住民某、微禄して門前の古榎、齡五六百年と見ゆるものを伐倒さしめ、挽き割りて用に供せんとするに、其木片方は朽ち、片へらには生氣があつて内に人の立つた形が現れた。文理鮮明にして活きたる人の如く、髭髪手足の掌の筋まで具はつて居たので、主人も怖れて之を用ゐず其家に藏し納め往々之を人に示したとある（五）。武州比企郡鎌形村の農萬右衛門の家で、享保末頃の或夏の日の午後に、木の枕のやうな物が突然と背戸口から、閾居を越えて家の中に轉げ込んだ。夕飯の支度をして居た下女が之を見て、怖ろしいと思ふ中に再び外へ飛び出して、庭にある榎木の空洞の中に入つてしまつた。人々歸つて來て此話を聞き、空洞の中を探して見たが何物も無かつた。後に仔細あつて此木を伐倒さうとすると、血が流れて止まないので之を中止したと謂ふ（六）。是も亦何等の下染無くして、不意に發生すべき幻覺では無かつた。

　榎の朽株などが暗夜に光ることは、今でも經驗した人があつて珍しい話で無い。併しそれだけではまだ説明し得ぬ怪異が幾らもある。數百年の老樹に靈があつて、伐れば血を迸らせ聲を立て、或は斧の痕が夜痊えたと云ふ類は、勿論榎ばかりに限つて居らぬが、昔も「大椋の木の下ゆかし」と言つた如く、化物は兎角榎の陰を選んで出た形があるのは、果して路傍の老樹が、多く榎なる爲だけであらうか。筑後川の下流地方では、所謂砂播き狸は大抵榎の上に登つて砂を降らす。又馬の脚をぶら下げるなどとも云ふ（七）。王子稻荷の衣裳榎の本に、除夜の晩には關八州の狐が集まつて來て狐火を焚くと謂ふのは（八）、源氏物語の浮舟の君をかどはかして、明方に椋の木の下に棄てゝ去つたと云ふ話（九）と共に、狐が特に此木を選定した例であるが、前者に在つては目的は世の中の爲であつて、結局二三の例外は寧ろ畏怖に基づく誤解であり、大體に於ては人をして神木の靈感を承認せしむる迄の、作用に過ぎなかつたことを知るのである。大和高市郡の忌部の一本木などは、御所街道に接した田中の塚の大榎であつた。毎年正月元旦には黄金の(126)鳥が、此木に來て鳴くとさへ傳へて居た（一〇）。

　　　一本榎のめでたさは

　　　本はくろがね中黄金

　　　枝はしろがね／＼

　　　末には御錢がなりそうろ

　斯ういふ踊歌も同じ國の村々にはあつたと謂ふ（一一）。

　　（一）　四神地名録足立郡保木間村の條、又十方菴遊歴雜記初編中、後者は文化十年の記事。

　　（二）　高田雲雀拾遺。

　　（三）　江戸志。

　　（四）　温故之栞二二。

　　（五）　津村正恭の譚海卷二。

　　（六）　郷土研究四ノ五七七頁に、山吹日記といふ天明六年の紀行を引いて。

　　（七）　筑紫野民譚集に此例を多く記して居る。

　　（八）　東都歳時記五、此事は尚後に言ふ。

　　（九）　出來齋京土産七。

　　（一〇）　高市郡志料三三四頁、同郡金橋村大字忌部字一本木。

　　（一一）　栗田博士の古謠集に石上神宮所傳の踊歌として載せて居る。別所といふ村で之を用ゐるとある。又同書には伊豆賀茂郡山隨祠七月十一日の祭歌にも、「榎木に住むは玉蟲云々」といふ珍しい文句のあることを記してある。

　

　　　　　　　　　　七

　

　此類の奇事異聞は何故に榎が斯くの如く、神怪の樹と認められるに至つたかの、最初の理由を説明するには足らぬ。植物生態の研究が今よりもずつと進んで、何か此木の特徴の、能く尋常無邪氣なる觀察者をして驚歎せしむるものが(127)あつたことを、發見してくれる日を待つの他は無い。今に於ては單なる推測に止まるのであるが、自分としては榎を信仰に結び附けた天然の不思議の一つは、やはりホヨ即ち宿木の現象であらうと思つて居る。ムクエノキの方には全く無いとも謂ふが、榎にはトビザサ・トビヅタなどの珍しい植物がよく寄生した（一）。所謂爭ひの木の問題は常に起り得たのである。其上に空を行く者の目に見えぬ力に因つて、榎木の種も亦?々意外の地に運ばれて成長した。代々木の榎松は寄寓の松が榎木に代つた例であるが、一方には又備前兒島の鞭柳の椋のやうに、後に來つて宿主の名聲を押領した場合もあつた。若し此類の變化が頻繁に行はれ、且つ幾分か榎の類に多かつたとすれば、古人は則ち之を畏敬せずには居られぬやうな、心理と傾向とを持つて居たのである。

　次に今一つ、是もまた植物家の説は聽かぬが、自分の久しく注意して居る特性がある。榎は其材が柱梁に適せぬ如く、柾が弱く内部が朽ち易いに反して、樹皮の至つて丈夫且つ活?なる木であるらしく、從つて幹が空洞になつて後も、永く生存し又繁栄する。殊に榎の空洞には、木の股から始まるものが多いかと思はれる（二）。外面はさりげ無く穴の口が窄くして内の廣々とあいて居るものは、常に尊いものゝ宿りであつた。人も匿れ又色々の蟲鳥獣の類も住むからは、神ばかりが宿りたまはぬ道理は無い。斯ういふ考へ方が樹精山靈の大昔以來、榎を他の樹木と差別せしめた一つの原因であると思ふ。之に附け加へて日本の如く、地下水露頭の數多き國で無いと、到底遭遇し能はざる奇現象であるが、榎木の根元から噴き上げて、樹高い空洞の穴に水を湛へることは、亦最も普通なる此木の奇瑞であつた。專門の學者ならばほんの僅かな勞力を以て、其理法を見出し得ることゝ思ふが、兎に角に竹の切口などの如く、單に雨水を溜めて居るだけではなく、幹を喞筒とし樹皮を井戸側として、地底の泉の湧き出した例が、楠欅其他の木にもあるけれども、特に榎には多くあつたのである。

　木のうつぼの水を、倭名鈔には半天河水に當てゝ居る。榎の半天河水は癲癇の藥に用ゐられ（三）、又鷹飼ひの家の秘傳としては、桑槐の木の水と共に、木壺の水と名づけて珍重せられた（四）。併し袖中抄の、

(128)　　　神さびて古榎にたまる雨水のみくさ居るまで妹を見ぬかな

と云ふ歌の條に、「雨などの降り入りて溜る水にこそ」とある如く、支那ではそれ以上を望むことを得ず、雨の多い季節だけに紙などに浸して採取して置くの他は無かつたが、日本では榎の空洞には往々にして涸れぬ泉があつた。ごく簡單に今知れて居る幾つかの例を述べると（五）、磐城伊具郡館矢間村大字木沼の行屋敷の榎は幹二つに分れて二股の處がうつろになり水を貯へて居た。木沼といふ村の名も是から出たと謂ふ（六）。越後蒲原の緒立八幡宮では、鳥居の前の大榎、地上四尺ばかりの大枝の間に、深さ三尺の穴があつて清水が湧いて居た。炎暑の頃にも増減無く渫へ出せば頃刻にして盈つとある。靈眼水と稱して眼を病む者が之を汲んで洗つた（七）。江戸で有名だつたのは高田の水稻荷、即ち下戸塚の寶泉寺の庭の榎で、俗に太田道灌つかみ挿しの榎、又は時鳥啼別れの榎などと、無暗に物々しい名木であつた。元禄十五年の四月神の御告があつて木のうろから水が出た（八）、水稻荷の名忽ち轟いて眼病を?る者が群を爲し如何なる旱魃にも涸れずと稱したにも拘らず、今は涸れて出でずとも、又滴り出づともあつて精確で無い。戸田川を北へ渡つて北足立郡戸田村の羽黒權現の境内にも、近代出現の榎の泉があつた。根から一丈五尺の處が二股になり、其間に水を湛へて居て、病人や乳の無い母親が、盛んに之を掬んで歸つた。實見者の手記に依れば、以前の木から出なくなると其次の木から湧き、是でもう三本目だとあり、屋根形を作つて覆うて居る圖があるから雨水では無かつたのである（九）。比企郡桃（ノ）木村の妙覺寺境内、藥師堂の傍なる椋の木にも冷水が湧いて眼病に驗があつた。地上より二尺、穴の口は僅かに徑二寸で（一〇）、やはり亦降り溜まつた水では無かつた。

　斯ういふ今の學者にすらまだ解説せられぬ不思議を見て、之を神靈の力に歸せしめなかつたら寧ろ不自然である。故に昔の人は樹に依つて神を迎へる場合に多くは榎を選び、又老たる榎を仰いでは乃ち神を思つたので、其推理には誤は無かつた。江州長濱在の西村神明宮には、寶暦五年の神靈通乳井碑があつて、當時の村長が最も精細に古き榎の歴史を記して居る。昔此社頭に周一丈餘の榎あり、地上八尺の所に幾つかの節穴があつて、空洞から清水が湧き出し(129)て居た。それが追々に枯れて穴の處から折れ、往來の人々は馬に乘つて靈水を飲むことを得た故に、之を馬上水と名づけた。年久しくして天然の井側は朽ち損じ、高さ二尺ばかりと爲つてから、其形?に由つて又神明の臼池と呼ばれた。それも愈々靡爛して井形幽かならんとするを以て、新たに切石を買ひ井筒を構へたと謂ひ、尚此泉が諸病に驗あつて、殊に乳乏しき女此水を以て粥を煮て食すれば、その粥を給べ終らぬうちに乳の出ること涌くが如しと述べてある（一一）。感應の力の特に産後の婦人に速かであつたことは、必ずしも奇異では無い。播州美嚢郡中吉川村大字｜貸潮《かしほ》に、潮潜堂とかいふ處も之とよく似た舊跡であつた。二百餘年前に榎は枯れ倒れ、四尺程殘つた根株の空洞に、常は小さな泉が涌いて居た。土地の者潮浴びをする必要のある時に、僅かばかりの白米を此泉に投ずると、暫くして潮水が涌き流れたと傳へられるが（一二）、現在はもう如何なつたか分らぬ。自分が少年の日を過した下總東葛飾郡布佐町では、今でも辰年の大水と稱して、文化五年の利根川の水害を記憶し、切れ所の堤の内側には、其時に出來た大きな沼が、今も楊と浮草とに飾られて靜かに湛へられて居る。元は傳右衛門と云ふ富人の屋敷であつた。大水の日、邸内の榎木の根から水の涌き出すのを、不思議に思つて見て居るうちに、次第に大穴になつて家も藏も崩れ込み、上下三十餘人の者、一時に命を失ひ其跡が一面の沼と爲つたのである（一三）。此等の現實を考へ合せると、永い年代の間に我々の祖先が、榎から受けた感化は小さいもので無かつた。

　　（一）　草木育種後編に、岩崎常正の説として。

　　（二）　空洞を作る最初の外傷が、若し宿り木の爲であつたら更に興妹がある。

　　（三）　頓醫抄。

　　（四）　貴鷹似鳩拙抄、荒井流鷹書其他。何れも續群書類從の中に在る。

　　（五）　郷土研究四ノ五二六貢以下にも此事が説いてある。

　　（六）　　宮城縣名木竝大木誌。但し此木の齡八十年とあるは誤りであらう。

　　（七）　越後野志一四、越後名寄二等。今の何郡であるかゞまだ分らぬ。

　　（八）　武江年表三、其他色々の本に出て居る

(130)　　（九）　新篇武藏風土記稿四七。及び十方菴遊歴雜記初編下。獨り嘉陵紀行三だけに、此木を神木のケヤキと書いて居るのは一奇である。此人も土地の者の話を聞いて書いたのである。

　　（一〇）　新篇武藏風土紀稿六三。比企郡明覺村大字桃木。

　　（一一）　淡海木間攫八。今の何村か、阪田郡誌を見たら知れると思ふ。

　　（一二）　播磨鑑。潮潜堂は潮垢離場の漠譯では無いか。

　　（一三）　其昔談。續燕石十種卷二に採録せらる。

　

　　　　　　　　　　八

　

　杖の成長も亦榎の奇瑞の一つであるが、此方は榎の泉のやうに植物學では解釋を期待し得ぬ。口碑の著名にして而も不可解なるものは、所謂あけろの山の山姥の杖である。安計呂の山は越中越後の堺川の上流などと至つて漠然たる地理智識の中に（一）、獨り杖が榎の大木と爲つたことばかり、弘く世間に知られて居るのは、此方がよつぽど不思議である。越後では官道外波の驛の南に當つて山姥の宮があり、乃ち其地を上路《あけろ》山と呼んで居る。宮の前に方九尺の穴があつて山姥の住んだ處と謂ひ、穴の傍なる古榎を彼女の携へた枚と傳へた（二）。山姥老女ならば杖に扶けられたとはさもありなん、問題は何が故に其杖が榎であつたかに存する。或はそれよりも山姥何者ぞが、先決を要するのかも知らぬが、爰で詳しく説いて居る餘裕が無い。手短かに申せば本來は「山に住む鬼女」であつた山姥も、山廻りの曲舞を遊女の舞に舞ふやうな時代になると、見た者は愈々少なく空想は益々附け加はつて、次第に仙女の分子を多く持つやうになつた。さうして又其頃の世の中には、山姥の如く氣六つかしく、又時あつて親切なる宗教的婦人の、諸國靈山を遍歴して行を修し術を施して居た者が多かつた爲に（三）、二つの話が雙方から段々相近づくことになつたらしい。

　日本には限らず、多くの民族の説話に於て、老女の勤める役割は大凡定まつて居た。榎の杖を突立てたと謂ふのも、山姥よりも寧ろ人界の老婆に似合はしい。彼等の有力なる者は往々にしてうけひ言をした。土佐の幡多郡鹽塚の城が(131)落ちて、城主｜舗地《しきち》民部少輔が生害をした時に、其母遺骸を棺に取納めて、こゝが形見ぞと榎の杖を地に立てた。それが成長して逆さ枝となり、注連を引き廻らして後世まで殘つて居た。或時一人の農夫その若枝を苗代草に伐るつもりで、榎に登つたところが身しびれて動かず、たゞ聲を擧げて泣いて居ると、社人岩太夫なる者是れ神罰なるべしとて、中臣祓を二段讀むうちに、漸く自由になり丸で夜が明けたやうだと言つた話（四）、是などは正しく有つたことである。然るに老女と杖との口碑は他の地方にあつても是とよく似て居た。杖が榎では無かつたけれども、根室の厚岸の逆さオンコの樹は、蝦夷史上の人傑ツキノエの婆が地に挿した杖であり、その婆は亦高名の巫女であつた（五）。奧州三戸郡安達ヶ原の逆さ栗は、是も一つ家の老女の杖が成長したものと稱せられるが、其物語は近代の作品で、八幡殿の臣下安達某の妻女、主人の病を治せんが爲に、旅人を宿して生肝を取る。朝になると見えぬから淺水村などと、頗る趣向を巡らして居るが（六）、終に一人ある娘を死なしめて、己も亦此杖を立てゝ死んだとある點は似通つて居る。何か話の種だけは昔からあつたのである。

　此場合に杖の木は、必ずしも榎たることを要しなかつたが、少なくとも榎ならば更に一段と信じ易かつた理由はあつた。即ち神佛と因縁深く、靈怪測るべからざるものがあつた上に、此木は亦往々にして遠い處から移つて來て、杖と謂ふに適して居たからである。土佐でも同じ幡多郡の九樹《くき》の榎船戸などは、延光寺の明俊僧正來つて路傍に杖を立つと傳へた（七）。さうして船戸と云ふのは道祖神のことであつた。肥後では菊池郡下陣内村の境に、亦一本の杖榎、これは阿蘇大神巡遊の御時に、親ら其杖を挿したまふと謂ふ（八）。江戸でも前に述べた本所若宮八幡の神木の榎、八幡太郎が鞭を挿したと稱して、逆さの杖が繁つて居た。鞭を榎で作るといふこと迄、さうでもあらうかと思ふ者があつたのには、疑ひも無くそれだけの原因があつた筈である。

　姥と榎との關係に至つては、此上にもまだあつたかと思ふ。東都の郊外の西七條村、正月十五日の田植行事に、頭屋の男が女装をして、頭上に盒子を戴いて舞ふと、これに鉦太鼓を合せて「榎木婆おやせ」と囃したと云ふことが、(132)多くの書物に見えて居る（九）。オヤセは男ならばヤセヲトコと謂ひ、一種の人長《にんぢやう》に相違ないが、それを榎婆と呼ぶわけが不明である。京の北部には姥ヶ榎木町といふ町名もあるから（一〇）、或は榎の若木を栽ゑてあるくだけで無く、永く其木の在る處に住んで居た女性があつたのでは無いか。名古屋の押切町の白山社にも、もと神木の大榎があつて、千年比丘なる者が栽ゑたとも傳へられた（一一）、能登の八百比丘尼の手植の木が、槻か榎かを爭はれたといふことも、結局は斯ういふ方面から、今少しく考へて見るべき問題である。

　　（一）　和漢三才圖會六八。本朝國語一。何れも謠曲の山姥を見てからの説である。

　　（二）　越後志略。

　　（三）　百魔山姥の百魔は、謠曲の他の一篇なる「百萬」と同じく、物狂式の舞であつて、しかも群衆念佛と關係があつたらしい。

　　（四）　大海集。土佐國群書類從五七に採録してある。

　　（五）　金田一京助君所藏の寫本に、此話を書いたものがあつた。

　　（六）　糠部五郡小史上。三戸都平良峰村大字相内から、舊國道の高山といふに行く道とある。

　　（七）　南路志、中筋村大字九樹。

　　（八）　肥後國志、菊池郡陣内村下陣内。

　　（九）　年中故事四、年中行事大成一などに。

　　（一〇）　京町鑑に依る。

　　（一一）　名古屋市史地理編七六三頁。徒然草の榎木僧正の話は、何かさう呼ばれては僧正の品格にかゝはることがあつたのではないか。如何に腹惡しき人でも、只では怒りさうに思はれぬ。

　

　　　　　　　　　　九

　

　榎を卜占の用に供した例は、京の左女牛《さめうし》八幡の縁起に、源頼義神前の大惠木に祈誓して、今囘の戰に勝利を得べくんば、此惠木の實地に落ちて忽ち蘖を生ぜよといふと、一夜の中にして其言の如くであつたとの説がある（一）、惠木即(133)ち榎であつて、後年本願寺の廚門の内に在つたのが其木である。此話は八幡太郎の家に山鳩一羽飛び來り、椋の實三つを口より吐いて死んだ。是れ凶事の御告と直に山に奉幣したと云ふ舊記（二）と共に、此大神の特に榎を神木としたまふ例の多いわけを説明する。併し他の場合は大抵最初に擧げた「世はかりの榎」の如く、占ひは公共の目的があつて、此樣に個人的では無かつた。其方法は區々であつたが、多くは遠方から望んで若葉紅葉の色により、又は繁る枝の方角などから、其一年の作物豐凶を判じ、之に基づいて農事の計畫を立つること、管粥《くだかゆ》胡桃燒《くるみやき》等の年占と同じであつたものと思ふ。併し今こそ各村で古傳に由つた解釋をして居るが、此占法には若干の談理が必要であつた。大豆や胡桃を十二箇燒く場合の如く、簡明には行かなかつた。最初何人かの介助が有つたかを推測せしむる所以である。

　又同じ榎の占ひでも、今一段と複雜なる傳承を存するものがある。彼の王子稻荷の衣裳榎の如き、除夜深更に關八州の狐たち樹下に集合して官位を定めると謂ひ、而も澤山の狐火の山邊川邊の通り路や、其火の斷續する樣子を見て、明年の豐凶を卜したのである。此事一夜に一度の年も、二度ある年もあつて時刻は一定せぬのに、別當の金輪寺だけでは、前方より刻限を知つて居たと謂ふ。それから尚一つ更に奇拔なる年占は、三河豐橋の神明宮、正月十四日の鬼祭の日に行ほれた榎玉といふ神事である。榎玉は毎年祭の前日に山に入つて周一尺ばかりの榎を伐り來り、鉈を以て小判形の玉を作る。當日は氏子二組に分れて、樹の枝の鉤を以て其玉を引掛けて取る。此競爭に勝つた方は其年豐作なりと信じ、組の名を旱地方《かんぢかた》・福地方と謂ふのは、雨を喜ぶ岡方と旱を欲する濱方とのことであつた（三）。競馬鷄合綱曳印地、ありとある限りの古來の勝負は、何れも右の如き利害の相反する部落が、神の恩�ｺを我方に厚からしめようとする努力であり、其結末に於ては亦無言の豫言であつたが、榎玉の年占では榎が其用に供せられた。鉤も近世のものは榊の枝になつたけれども、以前はやはり榎を用ゐて居たのである。

　此等は現在自分の知るだけの僅かな例で、尚續けて注意をして居たならば、更に色々珍しい占法のあつたことが分つて來て、神木の榎の本來の權威が、既に著しく衰へて居ることを證明するであらう。少なくとも伯耆の山村で除夜(134)の圍爐裏に必ず榎を焚き、武藏の或郡では正月の餅花の木を榎に限り、肥後の球磨郡などで同じ季節に、此木の人形を製する風習などが、偶然の發生で無かつたことは疑が無い。榎が薪として好ましいといふ話も、事によると禁中式例の御竈木《みかまぎ》と關係があつて、同じく年占の理由が元は有つたのかも知れぬ。即ち其奇瑞靈驗を説明すべき職業の者が、夙く其職を去つてしまつた爲に、習俗の精神が永く傳へられなかつたのかも知れぬ。要するに此木は我々の學問に取つても亦神怪の木であり、且つ謎の木であつた。

　榎の別名を高聖と云ふことは、東山往來拾遺に見えて居る。大昔行基菩薩が異産の兒であつて、此木の股に三日置かれたと云ふ話を以て、其名稱を説明しようとして居る。沙石集にも此物語を和讃にした次のやうな歌を載せて居る。

　　　藥師御前御誕生　心太にぞ似たりける

　　　すりこ鉢にさし入れて　榎木の本にぞ置きてける

　併しさういふ尋常の逸話では、弘い榎木の信仰は説明し得られない。民族固有の宗教の源泉を究めたいと思ふ者は、忍耐して此類些細の材料を集積し整理し、更に保存せられたる古文獻に照し合せて、文字の陰に潜むものを捉へて見るの外は無い。漢語が日本の社會に利用せられ始めた時代には、我々のエノキに充つるに木篇に鬼、即ち槐の字を以てせんとする者があつた（四）、それに先だつては木篇に卜、即ち朴の字を以てエノキと訓ませようとした試みもあつた（五）、それが後終に榎の字文椋の字に一定したのは、どういふ經路であつたらうか。自分にはまだ解し兼ねるが、千年を一貫して此木の國語がエノキであつたことは、恐らくは大切な痕跡であらう。別の語を以て言ふならば、若し此木の名が佳木で無く、平凡卑賤のものであつたなら、槻の木などと誤り爭ふ必要もなかつたので、老いたる靈木の奇瑞を説かんとする者は、寧ろ力めて色々な意味ありげな言辭を以て、問題を幽玄ならしめんとしたこと、恰かも下總神崎の社の樹を、「何ぢや、物ぢや」と名づけたやうなものであらう。江戸では昔南町奉行所の七不思議として、婆石・咲かずの藤・ヒョンの木などがあつた。此石に腰かけて菓子を旅人に賣つて居た老女、此地が御用地と爲つて活(135)路を失ひ、其藤で首を縊つて死んだ。ヒョンの木は即ち婆の杖であつた（六）、杉の木によく似て居たとあるから多分は杉の木であつたらう。靈になる程の老女の形見なるが故に、乃ち永くヒョンの木の名を存したのである。斯ういふ風に考へて來ると、郊外田端などの爭ひの杉も、やはり疑ひの杉であり、問ひの杉であり、結局は亦解答の杉であつたのであらう。それを今では東京の物知りたち、爭ふどころか之を顧みようとする者すらも無い。

　　（一）　雍州府志二。

　　（二）　古事談四、寛治五年八月十四日の事とあつて、是は實録である。

　　（三）　郷土研究三ノ一三九頁、四ノ五七八頁等參照。山神を樹の鍵で曳く例は多い。

　　（四）　鹽尻五七に類聚三代格を引いて。支那で塚の上に栽ゑたといふ槐も、今日のヱンジュであるか否かはたしかで無い。

　　（五）　日本書紀孝�ｺ紀にも、既に用例がある。塵袋二には此事を説き、壹岐島記の常世祠有一朴樹とある舊い文を引いて居る。

　　（六）　國學院雜誌二〇卷一一號、佚名生の澁史雜筆八。江戸時代の雜書に在りとのみで、本の名を擧げて居らぬ故に、此口碑の年代を知ることが出來ぬ。イスといふ木を「ヒョンの木」と呼ぶ地方もあるさうだが、少なくとも江戸人のヒョンの木では無かつた。

　

(136)　　　　　天狗松・神樣松

　

　　　　　　　　　　一

　

　杖の成長した話を熟視すると、それが直ちに全國の逆さ杉、若しくは逆さ銀杏等の名稱の、起源を説明するものとは思はれぬ。大昔の御杖代が、神の齋串《いぐし》を刺立てゝあるいた時代には、固より小枝を存し葉を存して生育に便ならしめ、力めて神意を人間の希望に、合致せしめようとしたであらうから、逆さにして突くことは出來なかつた。マタブリと稱して行脚の上人などの、携へて居た杖は多分其遺制で、近世の用法も亦木の扠に由つて、物を支へ、若しくは引懸けるに在つたから、枝を下にして立てる場合は無かつたわけである。それだのに如何なる理由でか、杖の木は同時に逆さ木なるもの多く、終に我々をして杖ならばさもあらうと、速斷せしめるやうになつた。つまりは二種の傳説が、癒着し合體するだけの原因は後に生じたもので、逆さの木は神の樹だと考へる風習は、別に今一つ存在したらしいのである。

　杖と關係の無い逆さ木は既に多い。但馬朝來郡粟鹿村、當勝神社境内の逆杉神社は、現在は朽株を祀つて居るが、以前は數仞の直立した喬木で、枝葉逆に生じて繁茂して居た。此地方の英雄譚の中心と仰がるゝ表米親王、異賊を征服して凱旋の時に戰艦の帆檣を此社に納め、誤つて逆しまに之を立てたもの、成長して此の如しと傳へられた（一）。誤つてと謂ふのは後の説明で、神誓約の靈驗を一段と顯著ならしめる爲には、寧ろ極端なる不可能事の實現することが、(137)此不世出の勇將軍に似つかはしと、考へた結果かと思はれる。杖の場合でも同じやうに、古い慣習が單なる傳説に移つて行く際には、往々にして此の如き變化があつた。さうして杖には殊に其便宜が多かつたらうと思ふのは、今では我々のステッキが、悉く本を執つて末を衝くやうになつたことで、元來はよく／＼思ひ切つた祈願で無ければ、其樣な無理な條件を以て、神の力を試みるやうな事はしなかつた代りに、さうしてすら尚反應があつたといふ物語は、當然に大なる感動を信徒には與へたのである。

　實際表米親王の兇賊退治は、それ程困難な事業であり、又神靈の擁護を承認すべき證蹟でもあつた。從つて此地方には親王の傳説は充滿し、越前の朝倉氏を始とし、其後裔眷屬と稱する舊家は多かつた。傳説は則ち彼等の家の力を支持するが爲に、最も大切に保存せられた財産であつて、單なる好奇心の所生では無かつた。從つて永い歳月の間に變つて行く傾向にも、各地共通なる自然の法則があり得るのである。前に榎の例に引用した、出雲の須惠都玖神社の荒神の如きも、主神の御名から推測して、同じくうけひ〔三字傍点〕に顯れたまふ神なることを知るので、神の忌杖の末を衝立てることは、殊に痛切なる占法であつたと解してよい。伊賀の國境三國嶽と笛吹山との中間には、千方《ちかた》の城址と稱する巖窟があつて、傍には彼の靈を祀つた若宮明神があり、麓には亦一株の逆さ柳が、鞭を逆しまに地に挿して、根を生じたと傳へられた（二）。千方は朝家に敵對して討伐せられたる兇徒であり、古くは又戰敗れて此木に縊れ死したといふ一説もある位で、此の如き靈異は無用のやうにもあるが、尚後世若宮として、土地の人から崇敬せられる根據は、やはり末衝く木の驗が、明白であつたとする信仰に在り、即ち又何人かゞ、永くこの神話を守つて居つた結果であつた。

　越後七不思議の親鸞の逆さ竹なども、特に逆しまに杖を立てたと説く者がある（三）。即ち杖の本末が何れに在るかに論無く、到底有り得べからざる樹木逆生は、もう既に信じられて居たのであつた。其例の多數の中で、比較的古いのは筑前宇美宮八幡の槐などであらう。此社が槐を神木とすることは、夙く水鏡にも記されてあるが、八幡愚童訓には神功皇后此地にて御平産の際、槐の枝を逆さに立てゝ取付きたまひしに、やがて生ひ付きて今に在り、當時の木は三(138)度まで生ひかはる木なれども、一枝は猶逆さなる枝あり。宇美宮の槐とて、國母仙院を初め奉り、御産平安の御衣木《みそぎ》には之を用ゐらると謂ひ、又八幡由來記にも同じ記事あつて、平産の幸ひある木なればとて、子安木と名づけたりと述べてある（四）。しかも此木の枝を安産の呪に供することは、多分は古く唐土の醫書から學んだらしいのに、日本でばかり之に附加へて、枝を逆さに執ることを説いたのであつた。

　此と同樣に樹枝を靈地に挿して神意を卜し、若くは其生育を見て幸運を祝することは、今も引續いて弘く行はるゝ習俗であるのに、特に靈驗を誇張する場合には、其枝逆さに栽ゑられたりと説かんとする。例へば日向の土々呂の逆さ松などは、昔異婦人來つてさうしたのが成長したと謂つて居た（五）。次には攝州畑村の山に在つた弘法大師の投げ松（六）の如く、遠くから投げた枝が其まゝに落ちて根を生じたと云ふのみならず、更に一歩を進めて飛梅追松の如く、樹木が自ら移動して繁茂したと傳へ、それが又逆さの枝であつたとさへ信じて居た例がある。越前今立郡岡本村、杉尾の大杉の如きは其一つで、昔此地から十餘町を隔てた、大瀧權現山の奧の院の老杉が、嵐に吹折られて飛んで此山腹に到り、逆さに突立つて生育したと謂つて、今以て枝葉悉く下向きである（七）。そんな事を言はなくても、古木の枝は多く垂れて居り、飛んだだけでも事は十分に奇であるのに、尚是非とも逆さと解したかつた點には、考へて見るべき事情があつた。

　　（一）　朝來志卷一〇。

　　（二）　三國地誌卷七六。

　　（三）　東遊記卷五。

　　（四）　明治神社誌料に係る。

　　（五）　太宰管内志、日向那珂郡の條。

　　（六）　攝陽群談卷一七。

　　（七）　今立郡誌。

　

(139)　　　　　　　　　　二

　

　越後古志郡高寺の高尾山は、毎年舊六月朔日の六所宮例祭に、珍しい行事があつた。目を患ふる人々は、此日の參詣に蓼と云ふ植物を持參し、兼て里人が築いて置く蓼壇に祈念して、逆さまに之を栽ゑた。眼病全治すべき者に限つて、其蓼の末より根芽を生じて、繁殖すべしと信じられて居たと謂ふ（一）。此習慣の起原には興味ある疑點がある。蓼の如き草なればこそ、斯うした奇瑞を以て根づくか知らぬが、松や杉の小枝であつたら、失望させられるにきまつて居る。從つて之を世に傳説する逆さ木の占法の、遺つた痕跡と認めることは六つかしい。然らば又如何にして此信仰が開始したかと謂ふと、恐らくは突如にそんな不思議を實驗し得たので無く、投げても飛んでも逆に穗先を挿しても、信心次第神次第では、植物は活きて着くものだといふことが、今よりも弘く知れ渡つて居た結果で、即ち古い言ひ傳へに對する態度が、丸々我々とは異なつて居たことを意味するのであらうが、單にそれのみでは、新たにかゝる方式を流行せしめたる理由にはなりさうもない。

　習俗の起因動機に付ては、一般にまだ考察が拂はれて居らぬが、是は世情の根本から改まつた社合では駄目であり、さりとて神秘の力が尚甚だ強烈で、批評も客觀も其餘地が無いやうな國柄では、之を學問の問題にする人が居ない。若し研究に頃合といふものが有るなら、日本の如きは正に其時期に到着して居る。其心持を以て我々は世界の智識に貢獻することを力めねばならぬ。日本では危篤な病人などのある場合に、醫者も祈?者も言ひ合せた樣に、是でも良くなつたら炒豆に花だなどと言ひながら、他の一方では其炒豆を土中に埋めて、瘧を落したり、蟲齒を防いだりする爲の、まじなひに利用して居る。即ちかのタンホイザーの杖が芽を吹く類の奇跡は、まだ或程度まで期待せられて居るのである。但し林魁一君の報告した美濃の重輕樣などは、占問ふ人の心々に任せて、重く感ずるのを好い方に解する場合もあるらしいが、難易の最も明際なものは、經驗の結果、今では成るべく凶の兆候を、出現しさうも無い方へ(140)押付けて居る。人がそれ程算勘に長じた位ならば、寧ろ全然之を信頼しなければよいのに、さうも思ひ切れない遺傳的の迷ひが、相場師如き連中にもなほ見られるのであつた。

　其上に今一つ、是は恐らく日本人固有の宗教觀を、暗示せしめる特色かと思ふが、是非ともこの偏頗なる占法を、利用せねはならぬ場合があつた。所謂九死一生の際に臨んで、思ひ切つてわざと逆に出て、通例起り得べからざる現象を豫期するのが即ちそれである。神と個人との特別の關係、もしくは身に具はつた神力といふものが、容易に承認せられた時代ならば、呪詛も亦普通の祈念と、擇ぶ所が無かつたのであらうが、人類が自然の前に平等になつて行くと、此樣な無理な占ひは、絶體絶命の時でなければ其應驗は顯れず、從つて社會も亦安心して、却つて此手段を逆用して、平凡なる害敵を防制しようとしたのである。今でも俗間に傳へられる逆さ柱の詛ひの話が、一方に左甚五郎飛騨の工などの、特に一本の柱を逆さにして、魔除けにしたといふ話と併存し、又家相や方角を説く者に、大凶は轉ずれば大吉だと云ふ類の、一見解すべからざる判斷があるのは、要するに太古以來の神の誓約に、順逆二段の啓示方法があつたことを、意味するものでは無いかと思ふ。

　果してこの推定に近しとするならば、越後高寺の蓼壇の蓼などは、元は病魔を斷念せしめる爲の、とこひ〔三字傍点〕の一種であつたものが、後に手段として必ずしも萬全で無いことが經驗せられ、次第に第二の解釋に便利なやうに、支度が變化して來たものであらう。諸國の逆さ木の口碑の如きも、今では其全部が怨敵退散の物語を、伴うても居ないことは勿論ながら、本來平和の村の神勸請ならば、故意に此樣な難澁の條件を付して、神�ｺを試みる必要は斷じて無いから、最初は何れも皆此民族の祖先の、異常な精神的奮戰の記念標の如きものであつたと、解して差支が無い樣に思ふ。

　所謂人文地理や歴史の學問と民俗學が交渉し得るのは、手近な處では先づ斯ういふ點である。即ち此等の逆さ木の所在が、單に神地であつたのみならず、同時に又個々の文化國の外界の接觸面であり、それが後年の國郡郷村の境界でもあり得たことは、記録の全く無い場合にも推定することが出來るとゝもに、現在尚樹に依つて區劃を標示して居(141)る例があるなら、自分の假説は稍々力強くなるのである。此因みに更に附加したい一事は、門に樹枝を挿む正月の風俗である。十三四年前に自分が伊勢の宇治山田市で見て居るのは、あの地では松で無く、榊か橿かと思ふ二尺足らずの小枝を、二三本合せて柱に結び附けて居る。其内の一本だけは必ず逆さにしてあつたと記憶するが、果して今もさうであるか。攝津西宮正月九日の居籠り神事は、近世には珍しい嚴重な物忌で、早天より戸を閉し出入を戒めて居たが、此日は必ず門松を逆さにして置いたさうである（二）。この二つの習俗が相關係して居るのは疑ひが無いが、自分は尚進んでそれが初春の家の境の防備であり、同時に又諸國の老松老杉に伴ふ逆さ枝の傳説の、本意を保存したものとさへ考へて居る。門松の宗教上の地位に關しては、解説を要するものが一二で無い。之を春初の呪法の爲に、利用した例も多いと思ふが、美作勝田郡下谷の逆さ松の如きは、珍しい一つの場合であつた。名木逆松など謂ひながら、實は高さ二間ほどの若木であると、百年前の東作誌には記して居る。寛政十二年の正月二日、村民梶兵衛の鍬初めに、小さな門松を持つて來て挿したのが、成長して此の如しと謂つて居る（三）。それが若し實際逆さに立てたので無かつたら、此名の生じた理由にも、隱れた永い歴史があつた筈である。

　　（一）　温故之栞卷一五。

　　（二）　年中故事卷三。

　　（三）　東作誌、勝田都南和氣村大字下谷。

　

　　　　　　　　　　三

　

　樹枝を逆さに挿して普通には不可能の證據とし、異常の場合には此にも尚靈驗を見出さうとした二樣の占法は、全體どうして案出せられたのかといふことを、此次には考へて見なければならぬ。自分の想像では樹木が年老いて、枝の垂れて行く傾向があるのを、昔の人が特段に注意したのかと思ふ。是も植物生態學の課題であるが、同じ一種の木(142)の中にも、境遇に因つて早期から、そんな癖を持つものがあるのを、特に神意に基づく如く、信じて居た者が多かつたらしい。曾て、早川君が「青年」の誌上談話會に報じたのは、加賀の小松地方の例であつたが、村の山に入つて採樵する者は、必ず此形?の木を伐殘し、成長するに從つて益々之を畏敬した。櫪其他の雜木にもあつたが、最も多くは松であつて、之を神樣松と稱して敢て侵さぬのみか、神隱し其他の不思議な出來事は、大抵は此木を中心として、發現するものゝやうに感じて居た。

　之に關聯して周防讃岐其他の地方からも、傘形にならうとする松の若木には、戒慎して斧を加へぬ舊習のあることが報ぜられ、多くは之を天狗松と謂ふとあつた。天狗と神樣と、今では普通には縁遠いものに考へられては居るが、單に右の如き樹の命名の動機からだけでも、以前の共通性の若干を推定せしめる。勿論まだ承知の出來ぬ人も多からうが、天狗は要するに山の神に、曾て我々が付與した呼稱である。其魔性の最も人に畏れられたのは、祟ることゝ憑くこと、それから人を迷はしめて、何れへか連れて行くことで、神隱しと謂つた出來事にも、天狗のわざと認められたものが多かつた。今後の日本の民族心理の研究に於て、一番大切な問題となるべき靈的現象は、此の如くにして?々奇形の樹木を中心として居たのである（一）。

　木の占の第二の方式に基づいた逆さ木の傳説が、この現實の信仰から、培はれ灌漑せられたことは明白であつた。古人の自然觀察は至つて親切であつて、同時に其判斷は簡單であつた。樹は上空に近いから神の宿り、枝の下へ垂れた木は地上に降る爲に、特に選定せられた梯と解するには、少しでも論辯の必要が無かつた。それもしだれ柳や絲櫻のやうに、本性右の如きものならば注意も引かれぬが、普通はすく／＼と天に向つて成長する木が、稀に込入つた理由の下に枝を垂れると、さてはと暗示を受けずには居られなかつたのである。實ならぬ木には神が宿るといふことは古くから謂つたが、信州三分峠の天狗の林の栗などは、毎秋枝垂れて地を掃くばかりに實のつたけれども、是れ天狗の栗なりとして打落す人も無かつたといふのは（二）、全く木の姿が只の栗のやうで無いからであつた。松には殊に形?(143)の變化が著しいらしい。山國で山に入つて正月の御松を迎へるのに、特に三階松などと謂つて、枝振りに條件があつたのは、是亦神樣松の思想の他の一面の表現に他ならぬ。

　そこで此序を以てほんの手短かに、庭作りの技藝の起原を考へて見る。泉や築山や石の數形や位置にも、必ず同樣の趣旨はあつたことゝ思ふが、松を最初に人家庭上の樹に選擇したのは、決して色や外形の美しさに催された、單なる觀賞からでは無かつた。めでたいといふ語が元は感嘆を意味した如く、我々の愛好にも一段と深い根源があつた。今謂ふ優雅の趣味を解しなかつた以前から、人は我住所に近く尊神の御座を設けんが爲に、形の整うた樹を移植したので、松は先づ宗教的に人の生活と親しくなつた。（藤などの蔓を纏ひ、其姿を清水に映したのも、言はゞ信仰上の條件であつた）。即ち初春の門の松が、時として根を挿し榮え茂つたと傳ふる所以であり、松が塚の木又社の樹として、杉よりも却つて重んぜられた場合をも説明する。

　寺や佛堂の傍にも、特に最初からこの在來の觀念と投合すべく、わざ／＼松を栽ゑる必要があつたかと思ふ。所謂勸請の木には松が多く、其他影向の松と謂ひ來迎の松と謂ひ、又星降り松などともいふ名木の多いのは、決して縁起の説く如く、偶然の奇瑞のみからでなかつた。下松と書いて「さがりまつ」と呼ぶものは多くの府縣に在る。それを只枝のしだれて居る形容だと考へようとしても、別に尚同じ字をクダリマツとも謂ふのがある以上は、それは許されぬ。即ち何か別に此樹に由つて、降り來る者があつたのである。

　　（一）　天狗と山の神との關係、及び神隱しの現象に付ては、「山の人生」といふ小さな書物を、近いうちに公刊する筈である。

　　（二）　千曲之眞砂附録。

　

　

　　　　　　　　　　四

　

　サガリマツと訓む下松は、奈良では春日の一の鳥居の近くにもあつた（一）。京都には少なくとも二つ、其一つは上京(144)の下り松天神で、委しい縁起があつた。社の本尊は神御自作の十一面觀世音と傳へた（二）。次には謠曲の生田敦盛で有名になつた鴨川東の下り松であつた。黒谷の法然上人、賀茂參詣の途にして、此木の下で一歳の緑兒を拾つたと傳へて居る。能の舞ではそれが平敦盛の遺孤であつて、成長の後亡父を思慕し、明神の御告に由つて生田の森を尋ね、幽靈と對面したことになつて居る（三）。即ち古くから傳はつた神の舞に、次第を脚色した足利期の文學であるが、神が人界の我子と再會する點は、多數の曲章に共通した骨子であつて、此には只樹下に見出されたといふだけがかはつて居た。

　巫覡をミコ又はカウノコと稱へた前代の習はし、即ち神に人間の女が生む御子があつて、其血の末のみが御祭に參與し得と解した古くからの信仰が、右の物語の基調だつたことは、改めて多數の類例を掲げて之を立證する積りである。差當つて注意して置きたいのは、神子の出現が此の如き下り松の下であり、乃ち亦後世の神隱しの、ともすれば神樣松の下に行つて立たうとした事實と、一脈の聯絡があるらしきことである。賀茂には夙くより別に松下神の社があつた（四）。其上に奇なる暗合は、松下氏といふ神人の家があつて、永く後鳥羽天皇の御落胤だといふことを主張して居たことである。それは誤傳であるにしても、尚意味が深い。熊野に榎本氏あり、吉野に櫻本坊ありし如く、日吉には又神人に樹下氏があつた。何れも少童を木の本に坐せしめて、神を迎へた昔の祭を想像せしめる。春日若宮の御祭には、現に今以て松の下の式がある（五）、一の鳥居内の御旅所への途次とあれば、其木が下り松であつたことはほゞ疑はれぬ。

　樹下童子の祭式が説話化したものは、勿論生田敦盛の謠だけで無かつた。北野の天神に關しては梅の木の下で詩を作りたまふ話から、更に進んでは實は權化の人で、梅の本に出現して是善公に養はれたまふと謂ふ程度まで成長して居る。近世諸國の元旦の呪言に、特に童兒をして柳の下、又はユの木の下の御事はと唱へしめた慣習も、此と比較して漸く起原を察知し得るのみならず、猶考へて見ると太平記の笠置山の條に、神童が御夢に顯はれて泣いて楠の木の(145)下を指さしたといふ物語も、やがて亦古來此山に傳はつた、口碑の變化であつたかも知れぬ。

　さう思ふ理由は各地方の名木の、枝低く垂れて地に臨むものには、往々にして笠木笠松と呼ぶものがあるからである。笠は固より凡下の使用を許されぬもので、殊に衣笠などと稱して、手を勞すること無くして陰を供するものに至つては、其下に立つ者の尊貴を表徴したと謂つてよかつた（六）。從つて此名稱は其地の曾て靈場であつたことを、昔の人に感ぜしめ得たのである。播州西部には和泉式部の遺跡といふものが多い。今も口碑として傳へられる中に、歌に由つて我子の小式部に再會したと云ふ話は、幾分か洛東下り松の敦盛父子と似通うて居るが、爰にも宿り木の栗と名づけて、枝垂れたる栗があり、曾て俄雨の際に和泉が此木の下に入ると、其枝傘の如く垂れて蔽うたなどと謂つて居る。即ち亦この笠木の下が神靈の座であり、從つて託巫の座であつたことを思はしめるのである（七）。

　之を要するに樹木を利用した我民族の卜占法には、更に又第三のものがあつた。即ち活きた木の枝の延び方を見て、神意を窺はうとしたものである。黄楊の木をツゲと謂ふのも、枝が遠く一方を指さすこと、恰も何事をか告げんとする形があつた爲だらうが、殊に松には其力が顯著であつた。世に知られたのは陸奧の東平王の墓の松（八）、伊豆熱海の都松（九）、丹後天橋立の都戀しの片枝の松（一〇）、紀州では日高北道の靡きの松原が、悉く熊野權現の方へ靡くといふが如き例（一一）を算へたらまだ多いことであらう。それを只の風の力などと考へなかつたが故に、神降臨の説も起り、又逆さ木の話も之に據つて進展したが、根本に於ては神は老樹に宿るといふ思想が働いて居たのである。柳の如き垂れるを性とするものでも、尚無意味には見過し得なかつた。だから幽靈は今でもあの木の下へ出るのであらうと思ふ。

　　（一）　今知る限では、滿濟准后日記の正長二年九月廿三日の條に既に見えて居る。尚ずつと古くからであらう。

　　（二）　遠碧軒記上卷ノ一等。

　　（三）　此問題に付ては、前年「赤子塚の話」といふ小著に少しく述べて置いた。他日尚補足したいと思ふことが多い。

　　（四）　大日本史料四編卷一三ノ九四八頁。道家公鞠日記建保四年四月二十五日の條にも松下明神御遷宮の記事がある。同編卷二ノ三二四頁、梁塵秘抄口傳集嘉應二年二月の條にも、賀茂へまゐりき、まつ下の社に詣りて見るに云々。是も同じ社(146)のことだらう。

　　（五）　大和年中行事一覽、最近高田十郎君の筆に成るもの。

　　（六）　此問題は Baring Gould：Strange Survivals に詳しく説いてあつた。日本でも後世瘡神などと零落した神々の中に、笠を用ゐたまひし例は多かつたやうだ。

　　（七）　赤穗郡誌に依る。和泉式部の話は、婦女新聞といふ週刊に引つゞいて書いて居る。遠からず一册の本にしたい所存である。

　　（八）　曾て史林に「流され王」と題して此松のことを書いたことがある。

　　（九）　廣益俗説辨正編卷一五、横井也有の熱海紀行等。

　　（一〇）　本朝國語。

　　（一一）　紀伊續風土記卷六八。

　

(147)　　　　　地藏木

　

　和蘭ライデン博物館のデ・フィッセル博士は日本の事物に深き趣味を有し、嘗て二三の好著あり。近頃は久しく地藏に關する我邦の信仰を調査しつゝありと聞けば、多分今年中には業績を公にせらるゝことならん。實際何れの方面より見ても地藏樣は好題目なり。殊に田舍の信仰生活とは縁深く且久し。只範圍のあまりに廣き爲、外國の老先生一人の力には過ぎたるべしと思ふ。過日助手の風戸君に電車の中にて逢ひし時、地藏を境に祭ることには既に手が屆きしやと尋ねしに、未だなりとの事なり。仍て此小篇を右デ・フィッセル先生に捧ぐ。

　本年の一月、安房東海岸の鴨川町より同名の川の岸を上りし折に、稍々風變りの石地藏を見たり。世の常の地藏は六體なるに此は八地藏なりき。四角なる碑石の四面に各々二體づゝの地藏を半浮彫にしたり。一對の地藏の位置は極めてよく、甲信などの道祖神又は九州にて石エビスと稱する者と類似す。因て思ふに八體四對の地藏は即ち四方神又は八面荒神の思想と共通にして、四及八は邑落の周邊の方位なり。而して一面二體の偶立も亦單に石の都合に基づくものに非ずして、女夫石二子塚道祖神などと等しく陰陽二神を境の守護とする信仰に胚胎するなるべし。元來境上に男女神を祭ることは悉く聖天の崇敬に歸因するや、將た又内外習俗の偶合なりやは一の疑問に屬す。只此論何れに決するも、其動機と目して差支なきは、元來一男と一女との相接近する時ほど、外部より他人の近づくを嫌忌すべき事は無し。而して若し其當事者にして強猛報復を好む神ならば、殊にその違犯者を罰すべき理なり。故に男女神の形?頗る狎昵なる者を祈念して外敵の侵入を防ぎしならん。

(148)　國境に地藏を祀ること其例決して少なからず。今其一二を擧ぐれば、武藏と相模との境堺は、低丘起伏の間に在りて極めて不明瞭なるに、一の路線毎に堺の地藏あり。

　　一　相模高座郡鶴間と、武藏南多摩郡雜色との間に、地藏堂あり。俗に此地を境木村と云へり。

　　二　相模鎌倉郡川上村大字平戸の地と、武藏橘樹郡保土ヶ谷町の地との境に國境の榜示杭あり。此地に小さき地藏堂あり。

　　三　武藏久良岐郡六浦莊村大字釜利谷と、鎌倉郡との境にも、街道の北に岩に切付けて堺の地藏あり。俗に之を鼻缺地藏と云ふ。

　以上は共に武藏演路卷四に見ゆ。之を新しき二萬分一地形圖に就きて檢するに其地名見えず。唯東海道（舊道）保土ヶ谷、戸塚の間なる國境に境木と云ふ地名あり。是れ右の第二の者に當れり。然らば此地藏の地にも、亦第一と同じ稱ありしことを知るべき也。

　山城の京より丹波へ越ゆる老《おい》の阪の頂上にも地藏堂ありしこと、天保七年の濱木綿日記等に見ゆ。オイ神も亦境の神らしきことは他日之を陳ぜん。長門風土記に曰く、阿武郡地福村の字通り堂と申す地は周防長門の國境なり。往古境目に地藏堂ありて此堂の内に往還を附けたりし故、今に此名ありと傳ふ云々。道路が地藏堂の中を通過すること今の仁王門の如くなりしとはちと通り難き説なり。恐らくは「通り」の字を説明する爲に製造せし説ならん。「通り」は卑見に依ればタヲリの轉なり。峠をタヲと云ひ又タヲリ山と云ふこと昨年五月頃の「太陽」に之を論じ置けり。同じ郡佐々竝町にも一の地藏｜峠《たを》あり。是も周防との國境に當れり。又

　　相模足柄上郡北足柄村大字矢倉澤字地藏堂

も國境なり。今の足柄峠の東北、矢倉澤往還の支路に堂あり。有名なる關の地藏も鈴鹿關の地に在れば、之を國境の地藏の一例と算するを至當とす。箱根の二子山の西麓、所謂賽の河原の地に、弘法大師の作と稱し、巖石に切付けた(149)る多くの佛體は是亦地藏なるべし。千體の地藏を安置すと云ふこと、足利時代の風にて丹後大和に例あり。二子山も相駿の國境を爲せしなり。

　國境ならざる地藏峠も亦村と村との境なるべし。峠は殆と常に莊郷の境堺なればなり。伯耆東伯郡山守、東志、古布莊三村の境には地藏峠あり。遠江榛原郡五和村｜神尾《かもを》の境に地藏峠あり。伊勢多氣郡萩原村には宮川の溪より内山川の谷へ越ゆる峠に地藏越あり。若狹郡縣志に依れば、遠敷郡口名田村大字谷田部と、同郡今宮村大字青井との境なる谷田部坂には阪頚に石地藏あり。之を兩村境堺の徴とすとあり。又同郡田名阪は其頂上が丹波との境なり。其他の一部は奧名田村大字阪本に屬す。村より頂上へ一里許。丹波へ出る路なり。其間に石地藏六?あり其地を六地藏と云ふ云々。

　以上の事實は地藏を境に祀る證として既に十分ならん。唯何が故に之を祀るか。及路傍又は四辻に地藏を祀ることは之と關係あるかと云ふ二間題を決する爲には多少の臆測假定を必要とす。自分の兼々信ずる所にては、辻地藏の祭場には往々にして邑居の中間なるもあれど、最初は何れも村を出外れたる郊野の路上に在りしなり。邪神を人の形なりと信ぜし時代には、此も亦普通の人間と同じく路上を往來すと思ふのみならず、眼に見えぬ神は常に人に伴ひて入來ると信ぜしこと、延喜式に蕃人入朝の都度障神の祭を行ひしにても明らかに、道祖神や地藏を道の辻に祀るは恰も道路便宜の地に關所を置く場合と同じかるべし。此故に今日にても此等の小祠多き處及疫病除の札を立て（即ち串刺）又は注連を張るは常に村の外なり。地域の境に非ざるも民居の境なり。道祖神のもと境の神にして行旅の神に非ざりしことは、之を塞神と書しクナドともサヘとも呼ぶにて明らかなり。サヘは亦遮斷妨害の義なり。白川風土記に依れば、須賀川町の道祖神社は有名なる笠島の社より勸請せしものなるが、其本地佛は地藏尊にして弘法大師作と傳ふる八寸の木像あり。地藏と道祖神との關係あるらしき點は獨此に止らず。例へば道祖神に小石を以て供物とすることは古今極めて多き風習なるに、地藏にも此事あり。筑前續風土記拾遺に依れば、今の筑紫郡三宅村大字鹽原字鹽煮塚に (150)ては、民居の西三町、往還の側なる高處に六地藏あり。諸人祈願の報賽として石を奉る。其石顆路傍に累々として堆を爲せりと見ゆ。

　道祖神即ちサへの神に石を手向くるは本來石體の信仰に基づき、大石の靈あるもの自然に數を増すと云ふ思想は、轉じて外部よりの増加をも嘉納すべしと云ふ推測となりしことは本年一月の「太陽」に之を詳述せり。而して賽の河原は即ち遠祖《さへ》の碩《かはら》にして、道祖神の祭處は右の鹽煮塚の例の如く、自然に石河原の觀を爲せしに因る者か。此を以て見れば賽の河原の地藏尊はもと子持石の思想に起りしものにして、一面には又此次に述べんとする子安神の信仰とも結合するに至りし也。賽の河原が地獄の入口に在りと云ふ説は幽明二界の境なれば境神の信仰のみを以てするも之を會得するに難からざれども、今一つ有力なる論據は地藏と泰山府君との關係なり。下學集には「地藏菩薩は天に在りては輔星と云ひ地に在りては泰山府君と云ふ」とあり。泰山府君は人も知る如く陰陽道の神にして生命を司り更に又幽界を支配す。佛家に在りては早くより又之を閻魔大王と同視せり。源平時代前後泰山府君祭の最も多く行はれし頃は同時に又地藏信仰の極めて旺盛なりし時代にして、地藏の地獄に縁故多きことは疑ふ者無きも、其由つて來る所境堺防護の意味に在ることは何人も未だ之を道破せざる也。而して自分が佛教史の研究者に問はんと欲するは實は此菩薩の根源に在り。地藏尊は夙くより特に圓頂の沙門にして其體樣著しく他の佛たちの團體の外に在るが如くなるは或は此菩薩は支那に入りて始めて現はれたるものにて、之を讃美せる多くの經典は比較的新たなる編纂に成り、獨り和製の延命地藏經をのみ責むる能はざるには非ざるか。集説詮眞と云ふ書は、耶蘇教師の手に成り殊に佛教に同情せざる書なれど、重増捜神記及明一統志の二書を引用して、「地藏は一に新羅國の僧なりと云ふ」と記し、別に又目蓮尊者死して地藏王と成るとも説けり。此説は未だ之を確信せざるも、兎に角此名稱が唐製の物らしく、地獄十王の名などに似たることは注意すべき也。

　地藏の石像を塚の上に安置する例あると共に、稀には又地藏塚と云ふ塚の名あり。愛知郡志に云ふ。尾張愛知郡呼(151)續町大字瑞穗字寺山に地藏塚あり。もと石の地藏ありし爲に此名あり。張州府志には地藏に非ず、石道祖なるべしと云へり。此塚はダイドウ法師を埋めたる所なりと傳ふ云々。此塚の所在地が舊一村の境上なりや否やは、是非とも土地の人に問合はせざるぺからず。

　地藏木と云ふ地名も所々に存す。例へば、

　　肥前東松浦郡北波多村大字岸山字地藏木

　　磐城相馬郡石橋村大字臼石字地藏木

　此等の地名は、今日木の下に地藏を安置するものゝ有無に關せず、前に云へる境木と同じく、又全國に數多き「才の木」又は「女夫木」などと同じく、境堺を守るの目的を以て禮拜を行ひし土地と解して誤り無かるべし。境木と云ふ峠の名は諸國に在り。又塚の上に木を栽ゑ或は塚の代りに木を栽うるは中古の常習なりしが如し。肥後國志には一里塚の代りに到る處里數木あり。一里木七里木又は十里木等の地名も東國には少からず。此木は多くは榎なりき。一里塚に榎を栽うるの風習に付ては、通説の信ずべからざること嘗て新聞に論じたることあれども他日之を補正せんと思へり。思ふに榎は最初里程の標木に非ずして是亦鎭境の義ありしならん。故に若し地方にして榎木地藏など云ふ石體又は地名あらば、則ち我系統の物なり。此頃朝鮮の忠清北道より歸りし小倉君の談に、彼地にても榎ありて信仰の目的物とす。樹下には大抵大なる石の陰相を置き、巫女の?み成せる米酒を掛くる故に白く見ゆと云へり。羽後苅和野町の道祖神の神體も、正月十五日の祭に之を白き米の粉にまみらすと云へり。

　

(152)　　　　　花とイナウ

　

　北地原住民の神を祭る日に立てる木、彼等の言葉でイナウ又はイナオといふものは、こちらにもよほど似よつた風習があつて、最も普通にはこれを花と呼んでゐる。關東北部では木花、信州の一部には花の木といふ名もあり、正月十三日をそのために花掻き日、同十四日の晩から十五日へかけての年越を花正月、また大正月の松の内に對して、小正月の幾日かの休みを、花の内といつてゐる例も東京の近くにはある。

　古い時代には、これを本ものゝ花と區別するために、削り花と呼んでゐたことが文獻の上に傳はり、それを後々は又ケヅリカケともいつたやうで、今も九州方面にはこの名が行はれてゐる。最初の心持は削つて掛けるといふのだつたらしいが、近頃少しづゝその技術が衰へて來て、何か未完成のやうな感じを伴ふやうになつた。しかしもしこのカケが作りかけなどのカケであつたならば、これを改つた信仰の儀式に、用意する筈はないのである。

　花とイナウと、雙方一つ一つの作品を比べ合せて見ると、あちらのは念入りで手が込んでをり、こちらのは簡略で無造作なものが多いので、たつたこれだけの近頃の事實によつて、或は一方を摸倣であり、眞似そこなひであるやうに、想像する人もないとは限らぬが、さういふ早合點が一番いけない。以前も今の通りであつたといふ根據は一つもないばかりか、寧ろ反對の推測を下すべき理由が幾つもある。つまりはかういふ目に立たぬ事物にも、まだわれわれの知らなかつた歴史があるのである。

　

(153)　考へて見れば誰にでも氣のつく事實の一つは、紙といふものゝ普及であつた。紙さへ手に入ればもつと眞白な、もつと精確なシデ即ち目じるしを、祭の木に取附けることは容易であつた。更にもう一つの事實は、この祭の木を準備する任務が、家々の家長からいはゆるその道の人の手に、追々と移つて來たことである。アイヌにはこの變遷が見られなかつたに反して、こちらでは家と村と、祭は大小の二手に分かれてしまつて、花掻きの技藝は先づ共同の神事から消え去つたのである。

　今と昔とのもつと大きなちがひは、祭に先だつ物忌の期間の長さ、長さよりもその物忌の充實した?態、即ち人が一心に祭の目的達成を念ずる念力の、近代は少しづゝ弱り衰へてゐたことで、それがおのづからイナウのやうな、一手も氣を弛めることのできない作品を無難に仕上げることを妨げる結果を見たものかと思ふ。ちやうど佛法でいへば經典の刻寫なども同じことだが、腕が達者でも、刀物が鋭利でも、一心を籠めなければ時々のしくじりを當てにするといふことが、却つて懈怠のもとになるのであつた。以前はこちらでも人間に時が多く、世上のわづらひがなく、雜念の起ることが少く、節供や正月を唯一の樂しみにする者が、小兒以外にも幾らでもあつた。特に花を削る手わざばかりが、はじめから北の隣の人に比べてこのやうに拙であつたと、思ふことは私たちにはできない。たゞさういふ時代の作品はもうとくに火に燒かれて、保存せられてはゐない故に、かゝるいろいろの想像説の、成り立つ餘地があるだけである。

　いま見る現實が古い世の姿の、そつくりそのままの保存でないことは、アイヌの中においても同じことであらう。刃物がこの人たちの間に行渡つた時代は、尋ねようと思へば尋ねられるほど、近い世のことであらうと思ふが、祭の木の一片を捧げる習俗が、もしもこれに伴なうて新たにはじまつたものでないとすれば、是非とも今日のイナウ以前に、少くとも一つの方式はあつた筈である。それが天然の樹の枝を折つて挿したものか、はたまた皮を剥いで白々としたものを用ゐたか、さうでなければその尊い木の所在を明らかにする爲に、如何なる種類のシデを掛け添へたであ(154)らうか。彼等の新しい文化は統一の力が強く、もはやその古いものゝ痕跡は、片隅にも殘つてゐないかどうか。この點がフオクロアといふわれわれの學問の、未だ究め能はざる一つの課題である。即ち民族により又はその構成如何によつて、古く有つたものを根こそげに、取替へ又は覆ひ盡くすやうな、次の生活樣式の傳播といふものはあり得るかどうか。これが來たるべき新興日本の進路の問題でもあれば、同時には花とイナウとの解説の鍵でもある。

　われわれの社會においては、少くとも削り花に先だつ一つの過程が、まだ明瞭に保存せられてゐる。それは大きな神社の祭の庭から、個々の家門の私の式典にまで、盛んに用ゐられる榊の枝であつて、如何に僻説を好む人でも、この方が後、木を削つて花にした棒の方が、それよりも古い形であつたとは言ひ得ないと同時に、二つはそれぞれに別の起原をもつて、はじまつたといふことも恐らくは主張せぬだらう。或は佛教の作法が牽制したからとも考へられるか知らぬが、とにかくに神の祭にも、天然の樹枝を立てる風はなほ傳はり、しかも佛法とは著しい方式の差がある。前に二度まで觸れたシデを附けることがそれであつて、これが尋常林木の一片と異なり、特に人間の切なる意志によつて、選び出しまた立て所を定めたものといふことを、明示するだけの徴章だと自分などは見てゐる。イナウの美しいあの削りかけも、目的は同じと見られる以上は、刃物のまだ無かつた彼等の祭木にも、何かそれに相當するものが附いてゐたと想像してよい。それが私等には限りもなくゆかしいのである。

　

　白紙を細く剪つたものをシデとする以前、こちらにも既にいろいろのシデがあつた。最も著名であつたのはユフシデである。このユフにも木綿といふ漢字をあてゝゐるが、今あるモメンとは全く別なもので、何か楮の類の木の皮の繊維、又はその織物の白く晒したのを、祭の木の端に結び垂れてゐたらうと思はれる。近世は麻の苧絲をもつてこれに代用し、紙の流行もまたこれに基づいたものらしいが、そのユフシデとても工藝品であるからには、やはり最初からの習はしとは視ることができないのである。

(155)　いま一段と古い頃のシデとしては、イトススキの葉などが想像せられる。これは原野の叢の中で、殊に目に立つ形をしてゐるばかりか、採取も容易であれば早くから用ゐられたらうと思ふが、今でも稀ならず各處に傳はつてゐる。たとへば大井、天龍の二川の流域などを、夏の祭の頃に汽車で通つて見れば、高い幟の竿の頂上にはきつと芒が結びつけてある。東北地方の盆の燈籠木には、三ところに杉の青葉をつけたものが多い。これなどもやはり枝の形が目につきやすいためで、單なる飾ではなかつたものらしく、或は三十三年目のウレツキタウバなどのやうに、もとは穗先の小枝のみを存して、殘りの木を削つて立てたのがはじめかも知れない。

　さう思つて見ると、似よつた例がなほ幾つかある。シデは古くから垂といふ漢字をもつて譯せられ、何か必ず垂れ下つたものに限るやうにも想像せられるが、さういふ方法は天然には備はつたものが少い。ことによるとこれもシデウツなどのシデと同じく、もと繁きを意味する言葉で、たゞ樣々の木立ち草立ちの中にあつて、特に祭の木をいちじるしくするのが、本來の目的だつたかとも考へられる。われわれのイナウが花であり、削り花であつたことも一つの暗示である。春は高根の櫻の花をはじめとし、椿、山吹、百合、桔梗の類に至るまで、季節の花々に對するわれわれの感動は異常であり、文藝もまた?々さういふ神祭の日の記念に件なうてゐる。散りかつうつろふ姿の、あまりにも人間の願ひのまゝならぬがために、次第に工作の物をもつてこれに代へようとしたけれども、曾てはもう一段と本式に、神を自然の花の枝によつて、御導き申した時代があつたことが、今でもいろいろの痕跡によつて、こちらだけではほゞ推定することができる。それが小刀のまだ普及せぬ頃の、アイヌの中ではどうであつたらうか。二つの種族における一つの習俗の、同源異源を説く前には何とかしてこの點を明らかにして置く必要があると思ふ。

　

　或はこの過程における一致が見られないために、たとへ削り掛けの形のみはよく似てゐても、兩者系統を異にするものだと、言はなければならぬ場合があるやうに思ふ。花を祭の木の目じるしとしたわれわれの特徴は、更に意外な(156)方面に展開してきた形跡があり、それがまた北方の民族の間には、少くとも明瞭には現れてをらぬからである。これは日本の神道の解きにくい問題の一つだが、こちらでは中世以來、シデとヌサとの區別がはつきりとしてゐない。ミテグラは明らかに手に執る祭の木の名であつたにも拘らず、幣帛といふ漢字の古訓として久しく用ゐられ、今でも俗間では齋串《いぐし》を御幣と呼んでゐる。幣は贈遺でありまた財物のことであつて、寧ろ今日の貨幣の用法が正しいのに、どういふわけがあつてわが邦でばかり、これを神々の依りたまふ木の名にしたか、といふことがまだ説明せられてゐないのである。私の所見とても、今は假定の域を脱しないであらうが、これは花をもつて祭の木のシデとした習はしから、次第に神靈の目を樂しめまつるべきものとなり、一方に工作の巧みを傾け盡くしたと同じく、また一方には種々の好ましき財貨を、この木に取付けて捧げ申すことになつたものと思はれる。上代の文獻に白妙の豐ミテグラ、又は大ミテグラとも珍《うづ》のミテグラともあるのは皆これで、單なる草の葉や緑の小枝をシデとしたものも、用途目的はもと一つであつたのだが、後にはそれはミテグラとは呼ばず、次第に別種のものと考へるやうになつて、一段と由來を覺りにくゝしたのであつた。バチェラー老師の辭彙を尋ねて見ると、ヌサといふ言葉はアイヌの中にもあつて、これだけは少くともこちらから採用したものと見られるが、それが果してイナウに獻物を取掛けて、神に進らせた名殘であるかどうか。或はもうわが邦でも起りが不明になつて、たとへば馬競べの合圖をする役の者を、ヌサ振りなどと呼ぶやうになつてから後に、いはゆる御幣の意味にこの名を用ゐたのを眞似たのかも知れない。

　

　花とイナウとの二つを比較するに當つて、もう一つ注意してみたいのは祭の木の樹種である。現在最も多く用ゐられるのは、雙方ともに楊の木で、この點は一見一致してゐるやうであるが、これは木の肌の白く美しく、殊に工作の施しやすいために、或は則りかけの風習がはじまつてから、だんだんにこの木を使ふ者を多くしたのかも知れない。少くとも内地の方では、さういふ推移が見られるのである。誰でも知つてゐるやうに、天然の生枝を祭の木とする場(157)合には、今でも最も多く用ゐられるのは、眞榊の木であつた。さうしてこの榊とても、現在の一種に固定したのは中古のことであり、今でも全國一樣にこの木に限ることのできぬわけは、中部以南の地でないと、この木の自然生は見られず、かつだんだんに減少しつゝあるからである。地方の實際について見ると、ヒサカキ（?）その他のやゝ榊に近い木をもつて、代用させてゐる例が多いのみならず、名はサカキと呼んで物はちがつてゐる場合が相應に多い。そこで自分たちはもう一度、この變化の跡を尋ねて見ようとしてゐるのである。

　先づ第一に問題になるのは、榊葉の香をかぐはしみ云々といふやうな、この木に香氣があるといふ古歌の多いことで、今ある眞榊は葉の艶が美しく形もけだかいけれども、これには少しも香がない。そこで或は昔の世の榊は、樒のことではなかつたかといふ説も夙く現れ、荒木田久老、本居大平、高田與清といふやうな學者、又は古名録の畔田翠山などが色々とこれを論議してゐる、樒も少しづゝ用ゐてゐる例は數個處に知られてゐるが、まだこれだけではすべての前代のサカキが、皆この樹であつたといふ證據には足らず、むしろ神を祭る者の選擇によつて、他の樹も用ゐられてゐたといふ推測を可能にするのみである。

　さうしてその選擇に如何なる動機が働いてゐたかといふことを考へるには、やはりまた榊葉の香を詠じた古歌が、一つの手掛りにはなるのである。即ちこれによつて中世の或時代、京都の周圍においても、葉に香氣のある一種の木を、榊として祭に立てゝゐたことがあつたらうと言ひ得るのである。今でもイナウとして北地住民の用ゐるものに、何かさういふ木が川楊以外にあるかどうか。たぶんはなからうと思ふが、私は一應突きとめて見たいのである。

　どうも話が長くなつて御迷惑だが、もう少しつゞけないと、この文を書く私の趣意が立たない。かいつまんで要點を先づ述べるならば、自分は今クロモジといふ爪楊枝にする木の、北海道にも在るか否かを教へてもらひたいのである。神の祭と關係のありさうな樟科の植物で、ほゞ本土の北端まで分布してゐるのは、たしかなところではこの一種(158)のみで、これがまた東北の六つの縣では、現在もなほ山中に神を祭る木として用ゐられてゐる。さうして狩の獲物の一部をこの木の串に挿して、山神に供へる習慣があるだけでなく、その名を鳥木また鳥子柴と呼んでをり、一方には京都周圍の山村において、この木に鳥を附けて人に贈り、また時としては神社の祭にも、捧げてゐた例があるのである。

　鳥木のクロモジの木が削られて、楊枝になつたまでの過程にも話はあるのだが、別に發表したものもあるからこゝではもう述べない。或は正月の餅花をこの木の枝にさし、よつて餅花の木とも福木ともいつてゐるのも、やはり祭木の一つの形と見られるが、それも詳しく説くことを今はさし控へる。たゞわれわれの注意したいと思ふことは、南へ下つて行くにつれて、かういふ木の種類が多くなることで、たとへば小野氏の本草啓蒙を見ても、北方も栃木縣まで來るとなほ一種の鳥木があり、差別のためにこのクロモジの方をクロトリギといつてゐる。一方はたぶんヤマカウバシ、こゝではシロトリギとでもいつてゐたらうか。京都の附近で鳥附け柴といつたのは、この二つを併せての名であつた。木の香はよく似てゐるが花の季節がちがふのみか、後者は葉が枯れていつまでも枝に附いてゐた。さうしてこの方は東北の山には生じなかつたやうである。この以外になほ一つ、トリクス（鳥樟）といふ木がある。人によつてはこれをクロモジのことゝいふ者もあるが、古い記録ではこれは喬木のやうであり、かつ暖地の産だから第三のものであらう。即ちわれわれは北に向つて移住すると共に、似よつた木をもつて代用させつゝも、なほこの一種の木の香を忘れずにゐたのである。

　

　タブ、タミ又はタモと呼ばれる木の類の、神の祭場との年久しい因縁は、折口信夫氏などが夙くから注意せられてゐる。この種の木は勿論南の方に多く、北に進むほどだんだん數が減ずるのであるが、それでもなはわれわれの精神生活との交渉は、人が一般に省みなくなつて來たといふのみで、今でもまだ到る處に跡づけ得られる。さうしてもし(159)もアイヌのフオクロアにおいて、それが何等の名殘をも留めてゐないときまれば、たとへ削りかけの形はどんなに似通うてをらうとも、それはただ中代の一つの遭遇にとどまり、系統は全く別のもの、少くとも亞細亞北東部の廣汎な民族内部での周密なる調査が、世界人類の文化史に先行すべき理由は、私はかういふ實驗の上に見出されるものと思つてゐる。

　北方風物の友なる人々に、指導を求めたいことは數々あるが、さういふ中にもかねて私の訝つてゐる一つの點は、タモと名の付く樹木の異同である。近畿地方のタモは伊豆諸島のタミ、四國、九州方面のタブも同じで、大體に分布の西南に偏した樟科の香木のことゝ思はれ、それがまた舊社靈地の神木としても傳はつてゐるのだが、海に臨んだ島や磯山では、よほど北の方にまでこの木が行渡つてゐる。たとへば酒田の海上に望まれる羽後飛島のタブなどは、寫眞を見るとたしかに同じ木のやうで、しかもそこからさして遠からぬ山形縣のタモは別の木であり、これに隣接した秋田、岩手の各地で、タモといつてゐるのもみな樟科のものではないのである。これがたゞ偶然に呼び聲の相似たる二つの木であるか、但しはまた何か理由があつて北ではその名稱のみをこれに移したかといふことが問題なのである。私はこの北方の木に、木扁に前といふやうな和製字をあて、また高?《たかたも》といふ類の村の地名ができてゐるのを見て、ちやうど一方の鳥附柴も同じやうに、また中央部において榊の木が夙く固定したやうに、何か代りの木をタモとする必要があつたのではないかと、たゞ漠然たる想像をしてゐるのである。アイヌの中にもこの第二種のタモはよく知られ、ヤチダモといふ木などは毎度しろうとたちの話題になるほども多いが、しかもこの木はまだイナウの材として使用せられてゐることを知らぬのである。素朴なる原住民のこの一つの木に對する感覺はどうであるか。これがもし名を知るのみで、何等の特別な縁故を感じてゐないとすると、或はたゞ單に存在を渡來の奧羽人から學んだだけで、信仰上の共通點はなかつたといふことになりはせぬかと思ふ。

　

(160)　エチモロジーといふ學問は、普通は閑人の悠長な仕事と見られて居るが、かういふ場合になると當てにしなければならぬ。イナウといふ單語は果してアイヌ語か、もしさうならばどうして成立ち、また最初は何を意味してゐたらうか。これがたゞ白い木の肌を削つて、總にすることを言ひ現さうとしてゐたか、但しはまた花とか香とか、さては神々への捧げものといふ氣持をもつてゐたか。それとも又一つ向ふの別の種族から、あの工藝と共に採用した語であつたか。結局はこの點を考へてかゝるのが順序といふことにならうも知れぬ。神靈を天然の樹木に依りますと信じ、從つてその片枝を取つて手に持ち又は土にさし立てる者が最も神に近づき、人々の仲立ちをなし得るといふまでの考へ方ならば、學び習はずして二以上の民族にも偶發し得る。さうしてこの一旦の偶合があるからには、次々の改良變化にはよその文化を手本として、これを採擇して行くことも不可能ではない。ヌサは明らかにわれわれの文化語であつて、それを貸與したものもさう古い頃ではなかつたことは、その内容の變化してゐるところからもわかる。さうして別になほ一つ、タクサといふ語もこちらからはいつてゐるのである。タクサは手草であつて、今は古典にしか傳はつてをらぬが、本來はやはり祭の木、即ちミテグラのことであつた。これが測らずもアイヌの中に存するのを見ると、彼我の交通の年久しく、かつ互に内部の生活まで、理解しあつてゐたことが想像せられ、たとへやうもないなつかしさを感ずるのであるが、なほ私たちはかういふ相似のために、一方の信仰が他の信仰の一部までも、置き換へたものとは解することができないのである。

　

(161)　　　　　信州の祭の木

　

　信州の月明同人に御尋ね申したいことの一つは、例のゴヘイ餅を燒く串には、特に此木に限る、又はこの木がよろしいといふ木が有るかどうかといふことである。何でもない小さな問題のやうだが、實は必ずしもさうで無いので、其わけをざつとこゝで述べて置きたい。

　隣の岐阜縣の西部、揖斐郡の�ｺ山村などでは、この御幣餅の串は、必ずクロモジの木を削つてこしらへると、前年あの方面を調査した人が教へてくれ、私はそれにはわけの有ることゝ思つて居る。餅の作り方燒き方、是を以て山の神を祭る場合などは、あの邊も大體南信各地と同じらしいことは、三十何年か前に自分が校訂して出した想山著聞奇集にも詳しく書いてあるが、それは主として木曾に接した惠那方面の例であつて、あの記事の中にはまた何の木を串にするかまでは言つて居ないのである。

　第二の質問は、このクロモジの木を、信州では普通何と呼んで居るかといふこと、無論クロモジと謂つても通ずるだらうが、山陰地方などは是を福木ともいひ、東北六縣の如きは一般に、之をトリキ、トリシバ、又はトリコシバとも呼んで居り、その鳥柴が又京都その他の土地の古い名でもあつた。向山雅重君の續山村小記に、信州も上伊那などでは是をタロモンジャ、もしくはモンジャの木といふともあつて、それが單なる片ことで無いのは、伊豆にも大和にも似たる例があり、中世の文獻にも、「文作」の字を以て之に宛てたものがあるのでわかる。つまりはクロモジはあの妻楊子の名では無くて、それには全く利用しない土地にもなほこの名があるのである。但しどうしてさういふのかは(162)まだ自分たちに解らぬ故に、それを改めて考へて見たいのである。鳥木又は鳥柴といふ理由はよくわかつて居るが、それはもう少しさきに行つてから説明して見よう。

　第三の御尋ねは、たとへゴヘイ餅の串には削らぬまでも、他にこの木をどういふ事に用ゐて居るかといふこと。現在我々の知つて居るのは、この細い若木はよく撓むので、信州ではシナノキと同樣に之をネッソに使ひ、又は丸く曲げて炭俵の口にも入れること、それは北陸も中國筋も同樣であるが、私の知りたいのは其以外に、何か特別の精神的作業にも、用ゐはしないかといふことである。ゴヘイ餅の場合とやゝ近いのは、但馬から因幡へかけての山の村では、この木に正月十五日の餅をさすこと、ちやうど信州のミヅキなどと同じく、それによつて此木を福木といひ、又モチバナの木とさへいふ處もある。全體にこの小正月の餅をならせる木は一定して居て、何の木でもよろしいといふことは無く、京・大阪ではシダレヤナギ、關東南部は椿の木、九州の南の方では榎などが大よその定めであるらしく、クロモジも其一つとし、山陰北陸の一部には認められて居るのである。

　越後から山形・秋田・青森の三縣にかけて、山で獵夫が熊又はアヲシシを捕つたあと、山の神の祭をするのにこのクロモジ即ち鳥柴の木を用ゐる例が多い。それにはこの木の串を作つてまん中を二つに割り、それへ内臓の定まつた一部を切つて挾み、ちよつと火で焙つて串のまゝ清き地上にさし、神を祭る言葉を唱へるのださうである。クロモジは樟科の木ながら、其分布は海峽を越えて北海道に及び、アイヌもこの木をよく知つて何か特殊の用に供して居るらしいが、狩の後の祭の式に獲物の一小部分を切取つて、木のさきに懸ける風はあつても、まだクロモジを其イナウに削るといふことは、私は聽いて居ない。

　尤も私がまだ聽いて居ないといふことは、大した證據にも何にもならない。現に近頃になつて新たに教へてもらつたことは幾らも有るのだから、今に又意外なことが判つて來るのかもしれない。たゞ何か少しく珍しいことが東北にあると、すぐにアイヌから受け繼いだものゝやうに、きめてしまふとするだけは、見合せた方がよいといふことは言(163)ひ得る。鳥木・鳥柴といふ木の名の起りなども、京都の人たちには却つてよく判つて居る。是は狩の獲物の鳥類を進上するのに、必ずこの木の枝に二つづゝ鳥を結びつけたからで、多くの故實の書などに書き記してあるのは、貴人に奉る場合だけであるが、神にも樹の枝に物を懸けて、上げるといふ例は色々あるから、同じ作法は雙方に通じてあつたものと思ふ。春は梅・櫻、秋は紅葉の枝、その他二三の木も用ゐることがあつたが、それは後々の好みであつて、少なくとも鳥木といふ名の由來はこの風習に基づき、それが現在東北の山村で、又大きな野獣の肝とか心臓とかを、切つて挾んで祭の供へ物とすることゝ、別系統のものでないことだけは是からでも窺はれる。或は氣を附けて居たら奧州にも信州にも、又はその他の山の中の村にも、鳥を斯うして供へて居た痕跡が、今からでもまだ見つかるのかも知れない。

　信州の諸君はもう御承知かと思ふが、鷹狩の名人はもと信州の所産であつた。少なくとも後世最も著名なる一流派は、禰津《ねつ》とか非持《ひぢ》とかいふ舊家に傳はつたもので、現在の鷹匠の口傳は多くは是から出てゐる。諏訪と關係のあつたらしい是等の家の跡は、もう地名以外には何も殘つて居らぬかも知らぬが、少なくとも是は此地方の特殊なる生産技術であつた。その名殘は無意識にでも、まだ何處かの隅に、留まつて居らぬとは限るまい。根氣よく是から注意して居たいと思ふ。私は可なり多くの信州人を知つては居るが、まだ獵人には一人も友だちが無い。獣や野鳥が段々少なくなるやうに、もうさういふことに深い關心をもつ人たちが、引込んでしまつたかどうか、山を愛する若いインテリに、是から少しづゝは氣を付けて居てもらひたいものである。

　祭の日に神の御心を樂しませ申す方法として、くさ／”＼の物を祭の木に附けて捧げることは、日本の固有信仰の紛れもない一特色であつた。我々は是をヌサ奉るといひ、後々は專ら絹麻布、又は純白の紙などを供することになつて、幣帛といふ語を以て總稱するに至つたが、もとは其以外に食物をも斯うして捧げたと思はれて、民間の行事にそれがなほ殘つて居るのは、決してゴヘイ餅や餅花だけではない。近畿地方では幣フグリなどと名づけて、白米を紙に包ん(164)で大きな幣束に結び下げ、又は幟の大きな布の端にも、さういふ包み物を括り付ける土地が有る。此木がたゞ祭の中心といふだけで無く、更に眼に見えぬ神靈の據りたまふ神座でもあつた故に、この木に取附けることを最も確實なる傳達の方式と考へたのが、恐らくこの作法の始めだらうと私は思つて居る。御幣が今見るやうな形に固定する以前、祭の木には大小さまざまの變化があつて、たゞ之に用ゐらるゝ木の品種と、それを採取する場所、手續のみが、土地毎に一定して居たのかと思つてゐる。

　そこで終りになほ一つ、尋ねて見たいのはクロモジに限らず、如何なる種類の木がもとは重んぜられて居たか。別な問ひ方をすれば信州に於で、古來サカキと謂つて居たのは、何と何とであつたかといふことである。植物學の上で榊といふのは、今日はたゞ一つしか無いのだから、是は愚かな質問のやうにも聞えようが、今のこの一種の所謂榊は、實は案外に分布が弘くなく、少し寒い土地には自然生は無いので、大抵は何か別の木を代用のつもりで使つて居るのである。東京の周圍を始めとし、全國の各地にはヒサカキ（?）といふのを用ゐるものが最も多く、其木もなほ少なくて、又別な木をサカキとしてゐる例も東北にはある。信州などにもたしかマユミや樫の枝を祭の木にしてゐる御社があつた。もしか其中にはクロモジの木、さうで無くても是に近い樟科の木を、サカキとする土地がありはしないか。さういふことを私は今知りたがつて居る。

　遠い大和の都の頃から傳はつて居る祭の歌に、榊葉の香をかぐはしみといふ有名な歌がある。今いふ榊には葉の香氣は無いので、或は樒のことではなかつたらうかといふやうな説を唱へた學者もあり、實際又この木を用ゐて居る土地も少しはあるのだが、是を佛教の法會に供したのも新しいことでは無く、既に上代のサカキが一種に限らなかつたとすると、必ず樒を用ゐたといふ證接にはならぬのである。香のかぐはしい木は他にも色々あり、ことに樟科に屬するものは皆香氣がある。たゞその分布は北に進むにつれて段々と限定せられ、寒い奧羽の山々にも野生するものは、殆とクロモジたゞ一つしか無いのである。それで私はクロモジが妻楊枝に用ゐられる以前、すでに我々の生活の上に、(165)重要な交渉をもつ木だつたのではないかと思ひ、今はしきりにその資料を集めたいと願つて居るのである。

　

(166)　　　　　祭の木

　

　　　　　　　　　　一

　

　正月が來るたびに、もとは門松とか鏡餅とかの話をするのが、文化人の趣味見たやうなものだつたが、そんな話までが、この頃はをかしいほど不精確になつて來た。忘れてしまふにしても、誰か一通りの記録を取つて置く人が、有つてよいのではないかと思ふ。山中共古さんといふ老學者は、昔の事をよくおぼえてゐた人で、江戸では大名屋敷の表門の門松に、それ／”＼の御國風を見せようといふのが一種の流行で、ひどくこの飾りに力を入れ、それを見物してあるくのが、新年の一つの樂しみだつたといふことを、何かに書いて居られる。それから後の移住者も、大半は田舍者だつたから、やはり故郷の正月がなつかしく、松だけは何としてゞも立てずにはゐなかつたが、是はもう軒竝に型がきまつてしまつて、地方の特徴といふやうなものは一つも見られなかつた。以前の作法などは此間にすつかり忘れてしまつたやうである。

　いはゆる御役所が昔の武家を眞似て大きな門飾りをしたのはばかげてゐたが、この方は太い青竹を斜めにそいで、竹槍の如く尖らせたもので、斯ういふのが今は全國の型のやうになつてゐる。もつと不愉快なのは市街地の葉附きの竹で、あんまり早く立てる故に暮のうちに枯れてしまひ、元朝からかさ／＼と風に吹かれてゐた。あゝいふのはもう復興もしまいし、又やめた方がよつぽどよい。

(167)　かうしてゐるうちに東京などでは、門松制限といふ運動がどこからか起つて來た。松は元來燃料だから伐るのもよいが、あの樣に成育ざかりの素性のよい若松ばかりを、取つて來るのは林業の損害だ。全廢することが出來なければ小枝にしようと、言ひ出したのは多分官廳だつたらう。この方は例の竹槍式の根もとに、門松とも言へないほどの小さな松の枝を、卷き付けるやうに添へて居たから、さういふことが言ひやすかつた。さうしてこの風習は町の仕事師の力で、追々と普通の家々にも擴まつて來たのだが、門竹なんかは實は日本の古い生活樣式でも何でもなかつたのである。舊弊などといつて笑ひながら、案外新しい人たちも、つまらぬ事を始めるものだと思つて、それから私たちは抽斷をしなくなつた。

　しかしさうはいふものゝ、十二月の半ば頃に大川の河岸を通つて見ると、千葉埼玉あたりから船で運んで來た緑の松の束が、向ふの岸が隱れるほど、連山の如く積み上げてある。それを端から町の中へ、色々の車が運び込んでゐるのであつた。成るほど考へて見ると關東の平野には、もう野生の松は少なくなつてゐる筈である。栽ゑて五年か七年か育てたところで、斯んなに伐つて來ては問題にもならう。うちではどうしたものかしらんと、とつくりと考へて見た。根據の乏しいことのやうだが、門に松を立てゝ置かぬと、春が來てくれないやうな感じが、まだ私たちの頭にもこびりついてゐる。一つには前年不幸のあつた家だけが、作法として松飾りはせぬ習ひだつたので、それと似てゐるのが何と無く忌はしかつたのである。

　さうかうするうちに戰爭が段々ひどくなつて、松なんか運んで居られない時代がやつて來た。ことしは門松はどうしませうと、いふやうな暮が二年も續いた。一方には誰が考へ出したとも知らず、一尺ばかりの細い紙に、青と墨とで松の繪を印刷したものを、家々に賣り付けてあるく人がまはつて來たので、始めて私は決心がつき、この門前に穴を掘らせ、松を立てるといふ舊慣と訣別したのだつた。どうせ型ばかり、しるしばかりと言ふならば、今少し自然に(168)近いものをといふ心持で、庭の片隅に生えて居た松の樹から、小さな枝を二本切つて來て、入口の左右の柱に釘で打付けるといふ新例が、私の家には開かれたのである。是から來らんとする百年に對して、豫測し得られる變化にも幾通りかあらうが、少なくともこの小さな松の枝に、主人自らの靈魂が宿るといふやうな空想だけは、もはや再びはくり返されることはあるまいと思ふ。つまらぬ感慨と笑ふ人もあらうが、歴史といふものはいつの世にも終末の記録であつて、それを正しく知ることは、同時に又その過去と手を分つことにもなるものであつた。さうしてたゞ僅かな親爺だけが、ちやうど渡し場の船頭などのやうに、この二つの岸邊を往來しつゝ、一生を活きてしまふのである。

　

　門松の話をたゞ一ぺんだけ、皆さんにして見ようといふ氣になつて、私は今どうしてあの松の小枝を、神棚か床の間、座敷の正面又は家の中央に立てようとせずして、たゞ入口の兩脇に打付けたらうかといふことを考へてゐる。古い言葉ではさういふ惰性みたやうなものを世俗と謂つてゐた。つまりは世間が皆さうするから、それに隨つて來たといふだけで、その世間といふものが元は至つて狹く、それから外にはちがつた型のあることを、丸つきり知らず、知つても又それに附くことが出來なかつた。ところが日本のやうに交通が急に開けて來ると、あはてゝ飛んでも無いものに心をとられ、見さかひも無く眞似をするものが多くなるのである。この混亂を早く切拔ける爲には、判斷の教育といふものが何よりも大切なのだが、へたに教へようとすると直ぐに喧嘩になる。門松のやうなおもひがけない問題をもつて、めい／＼に自分で練習をさせるのが一つの方法である。私たちは是を俳諧式方法と呼ばうとしてゐる。頓悟といふものと早合點とのちがひは、知識の確かさに歸着する。うそを教へられない用心をしいしい、古い事實を知つて置くといふのが必要であり、門松のことならばやゝたしかなことが、私たちの仲間だけにはわかつて居て、そのお話をして見ることが出來るのである。

　最初に言つて見たいことは、この門松のカドといふ語は誤解せられて居る。漢字に書けばこそモンのことだとも取(169)れるが、現在も正月が來る毎に、松を立てずに居られないやうな家々の大多數は、モンなどといふものは知りもせず持つてもゐない。カドは即ち表の廣場、家によつて廣いのも狹いのもあるが、ともかくも軒の正面、うちに居る者の眼の前に立てるのだから、春の神はこの木を傳うて、彼等をおとづれて來られるものと信じ得たのである。私たちの知る限りでは、この松は井戸や物置、厩舍、關所の口にも皆立てゝる。たゞ其中で母屋の出入口に立てる松を、特に大きくしたといふだけであつた。東北や北陸地方には、家の廣間の神棚の前、又は土間の中心に、この大きな心松を立てる例がある。或は籾俵を積み重ね又は臼を竝べて松の根を支へ、又は大こく柱に結はへ附けて置くものがあり、何れもこの松を中心にして、新年の儀式を行なふので、この松を拜み松といふ處も多い。決して單純なる門前の飾り物では無かつたので、從つて凶事や何かの爲にこの松を立てずにしまふのが、正月をしないといふことになつて、極端に淋しかつたのである。

　

　大都會の住民のもう忘れてゐることは、田舍では山に行き正月の松を伐つて來ることを、御松運へといふのが普通で、信州越後などの廣い地域には、今でも古風におまつ樣と、敬語で呼んで居る人も稀有では無い。もとは十二月の十三日に迎へに行つたといふが、後段々と遲くなつて、二十七八日頃に行くのが多くなつた。新しい荷繩を肩にかけ、洗米を紙に包んで持つて行き、家によつては餅やおみきまでも取添へて、伐らうといふ若松の前で簡單な祭をする。家では土藏の陰とか菜畠の雪の上とか、清淨な所に其松を横たへて、そこでも僅かな供へ物をする。それをおまつ樣の腰のばしとも、又はおまつ樣を休ませるともいひ、もう其時からたゞの燃料のやうな待遇はしてゐない。愈々その松を立てることになつて、鉈で根のところを白く削ることを、今でもおまつ樣の足を洗ふといふのがごく普通で、子供たちはたゞ面白がつて其言葉を覺えるのだが、さう言ひ始めた理由には、もう一度考へて見るべきものがあつた。

　河岸から大きな束にして、運んで來るやうになつては話にもなるまいが、村里には定まつた作法がまだ殘つて居て、(170)それを守らぬのは松迎へと言はれなかつた。第一には自分の屋敷より、必ず高いところの山からでないと、正月の松は迎へて來なかつた。暦の書を見るやうになつてからは、ゑはう又は明きの方といふものを見定め、是非ともその方角から迎へて來るものゝやうに、信じきつてゐた人も多かつた。即ちそのめでたい方向から、家々の春の神は松の木に依つて、降りて來られるものゝやうに、理窟は無しに親々に教へられてゐたのである。そんなとぼけたことがあるものかと、肩を聳かした若者は昔も多かつたらうが、何にもせよそれを守らぬと氣にかける人が周圍に居り、自分とても格別それを破つた爲に晴々ともせぬので、いゝ加減年をとるとそれを當然として、何だか知らないが昔から斯うしてゐるのでと、人と共々にそれに附いて行くことになるのである。境遇が變れば、殊に近隣の人が皆そんな事をせぬ樣になれば、たゞ何と無く續けなくなるばかりか、その考へ方まで世間竝になつてしまふのである。皆さんが自ら説明の出來ないことを、平氣でやつて居られる點は、新しい大都のまん中でもかはりが無い。

　

　　　　　　　　　　二

　

　ついこのあひだ神道宗教學會の集まりで、私は黒モジの木の話をして見たが、其折にもこの門松のことにちよつと觸れたことであつた。東京周邊の二三の田舍では、今でもこのカド松の中ほどに、新藁を編んでこしらへたお椀のやうなものを、くゝり付ける風習が見られる。意味がわからぬので追々に罷めて行くやうだが、百年前までは多摩川上流の村里にもあつたといひ、現在も伊豆の島々、伊勢灣の周邊、その他飛び／＼には遠い土地にもあつて、名前はワラザラともツボケともオダイゴキとも、すべて食器を意味する古い言葉である。信州の北部ではオヤス又はヤスノゴキ、イヤシツポなどといふ者が多く、起りはオヤシナヒ即ち神に食物を進ぜることで、正月には年男が節の食物を持つて行つて、この壺の中へ入れてまはるのである。それが嚴冬に凍み付いてたまつてゐるのを、貯へて置いて夏の頃に炒つて食べるのが、ヤスノミと稱して子供等の樂しみの一つであり、今ある氷餅の根源も是だつたかと思はれる。

(171)　今日の祭の式とは大分ちがつて來たが、以前は棚とか机とか膳とかいふものゝ考案が普及せず、其上にぢかに祭の木に食品を取附けることを、最も適切と考へる人が多かつたらしく、氣を付けて見ると、同じ作法の痕跡がまだ幾らも見られる。九州方面などは一般に之をオトビと名づけ、紙に白米の洗つたのを包んで、正月には爐の鉤や家内の諸道具に結び付けて、人と共々に年を取らせるといひ、一方にはこのオヒネリの包みを大小の神々に持つて詣るのみか、人にも是を改まつた贈り物とすることがある。清い食物が祭の中心であり、洗米が特殊に清い食物でもあつた。（今の人は生米を?まなくなつたので此心持がわからぬ）。それから今一つは幟といふ大きな柱も祭の木なのだが、その幟の下の柱にも、紙に食物を包んでぶら下げる習慣が傳はり、地方によつては是をフグリなどといふをかしな名でよび、後には括り猿のやうな形のものにも變化したが、最初は是も門松のオヤスと同樣に、供物を直接に祭の木に取りつけて上げることが、たしかに屆いた受取られたといふ、大きな安心のよりどころだつたものと見られる。

　

　さう思つて見て行くと、正月の餅花といつて木に餅をならせる習慣なども、後には寫實が進み、斯ういふ風に豐かに農作物が實を結ぶやうにといふ、一種のまじなひの如く解せられるに至つたが、本來はやはり春の神の祭の木に、御もてなしの品々を獻上する方法だつたらしい。餅花の木は都市でしだれ柳、又は川楊やミヅキを用ゐ、九州では榎の木を賞美し、茨城縣には椿の青々とした枝を使つたのも見られるが、何れも門松と同じに、是非とも其木でなくてはならぬ理由が土地毎にあつたので、人と天然との悠久なる交情が、今更の如く心づかれる。

　黒モジ一名鳥柴といふ木が、何か限りも無く古い歴史を、秘めて居るのでは無いかと思ひ始めたのも是からであつた。山陰一帶ではフクギといふ方言が行はれて、今以て正月餅花の木は是と定まつて居る。そこからやゝ離れて滋賀縣の甲賀の山村でも、黒モジが餅をならせる木であつたことが、百年前の記録に見え、更に湖北地方には、今でも其慣行を守つてゐる村がある。他はどうであるかと注意して居るが、中々簡單にそれを確かめる道が無い。岐阜縣の揖(172)斐川上流の山村に、この黒モジの木を串にして、いはゆる五平餅をそのさきに附けることを聽いて、私は大きな暗示を受けた。五平などといふと人の名の如くきこえるが、本來は御幣餅であつたことは、山で働く人が必ず之を製して山の神を祭り、其場合の他には慎しんで之を作らなかつたのを見てもわかる。土地によつて色々の別名があるが、少なくとも東日本には隅々まで行渡つて、山餅といへば通じるから、是を本名と解してもよい。さうして其山餅の名が御幣であつたのみならず、黒モジといふ木は山の中で、?々神を祭る木として用ゐられてもゐたのである。たとへば秋田縣の山間で、マタギといふ獵人の群が特にこの木を大事にし、神を祭るにはシカリといふ群の指導者が、必ずこの鳥柴の木、即ち黒モジの枝を手に執るといふ例があり、一般に獵の終つた後の感謝祭に、それを參加者が分けて食べる。鳥柴といふ古くからの名稱も、起りがこの祭の慣行に在ることは、ほゞ確實なる證據を、私たちは持つて居るのである。

　

　幣は幣帛といふ語も久しく行はれ、布絹木綿などの繊維品に限るやうに見られて居るが、少なくとも日本の常民の間では、食物が最も弘く行はれ、それも祭の木に直接に結び付けられて居たことが、是から次々に判明するだけで無く、更に一歩を進めて我々の榊、神の御目にも最も好ましく、悦ばしく見えた木の枝が、本來はこの黒モジといふ木ではなかつたかといふことも考へられる。古い祭の歌の一つに、榊葉の香をかぐほしみとあるのを繞つて、昔の學者の間でもこの點は議論があつた。今いふマサカキは美しい葉の色だけれども、香といふものが全く無く、殘念なことには其成育區域が限られ、この木の無い土地では今でも色々のものを代用して居る。上代の文獻にサカキといふのは、一種の植物に限られてゐなかつたといふことは、眞淵大人以來、多くの學者がもう認めてゐる。最初から土地毎に區々だつたにしても、その最も多く選ばれた木、即ち香をかぐはしみと言はれたのは、黒モジ又は其類のものだらうかと私は思ふ。同じ樟科の中でも、この木は特に弘く分布し、寒い國々にもよく育ち、北は津輕の海峽を越えて、蝦夷(173)が島の山々にも茂つて居る。我々日本人の鼻の記憶、即ちいつまでも忘れがたかつた木の香はこゝに留まり、且つ弘々と廣がつて行くことの出來たのも、結局は黒モジが樟科の中でも、最も寒い土地まで榮えて行く特色があつたからで、是がちやうど旭川や豐原で稻を栽培するやうな民族が、同じ南種の中でも日本人だけであつたことゝ、併行するものでは無かつたらうか。他にも色々の大切な用途をもつ木だけれども、それが發見せられたのも、本來は忘れ難い木の香があつた爲で、今日はたつた一寸五分ばかりのつま楊枝になつて、町に住む人たちの間に名を知られて居るのも、この古い古い傳統の最後の殘形であつたとも想像し得られる。歴史は決して復古すべきものではないけれども、それが少しづゝ判つて來る毎に、人の心は柔かくなり、又際限も無く物悲しくなる。小さな兒童のやうに無知であつて、愚かに威勢よく活きて行かうといふ人の多いといふことも、困つたことのやうだが時としては必要かも知れない。忘れられるといふ部分の加はつて行くのを、完全に防ぐことは私たちには出來ない。

　

(174)　　　　　鳥柴考要領

　

　　　　　　　　　　一

　

　終戰の少し前から數年にわたつて心掛けて居る一つの論考の大要を、出來るだけ簡單に短かい時間で、述べ立てる練習をして見たい。鳥柴といふのは本名クロモジ、即ち楊枝に削つて用ゐる木で、古來の楊枝とちがつて是だけは皮附きの、樟科の樹の香を珍重せられるのである。このクロモジを、東北一帶と越後で、トリキ、トリシバと呼び、小野蘭山の本草啓蒙によれば、同じ方言の分布は更に弘かつた。

　京都でも之は鳥柴といふ名稱が行はれて居た。さうして其名の起りも不明では無かつた。多くの鷹匠の家の傳書、又は上流武家の間では、鷹狩の獲物の鳥を人に贈るのに、必ず一定の樹の枝に結はへ付けて持つて行く作法があつたが、中でも四季を通じて最も普通に、用ゐられたのがこのクロモジの木であつた故に、それで鳥柴といふ名が生れたのであつた。文獻の證據は集め出したら際限もないが、國書刊行會本の古今要覽稿の中に、鷹狩の一卷があつて一通りはそれに出て居る。つまりは鳥を附ける柴だから鳥柴だつたのである。私はそれから一歩を進めて、以前は人ばかりか神樣に狩の獲物を奉る場合にも、やはりこの木を選擇したかといふことを考へて居る。奧羽北陸等の山間の村で、獵師が獵を終つて毛ぼかひ又は毛祭といふ祭を行ふ祭に、同じ鳥柴の小枝に、獲物の一小部分を切つて挾んで、山の神に供へる風習は今でもある。乃ち是が單なる一階級の生活趣味では無く、古くから又都市田舍を通じて、汎く行は(175)れて居た方式であつたらうと思ふ根據である。

　

　　　　　　　　　　二

　

　それから第二段に、この木の信仰上の用途は鷹の鳥、又は野獣の肉や血の場合に限られなかつたことが考へられる。たとへば新年に餅をあまた、樹の枝に挿して飾り立てる風習は全國的で、其木の種類は榎又はミヅキ、椿やしだれ柳なども用ゐて居るが、山陰一帶にはクロモジの木に限るとする者が多く、よつて又別名を福木といひ、餅花の木とさへ呼ぶ者もある。京都以東にも同じ例が捜すと出て來る。たとへば滋賀縣の甲賀地方などは、餅花に使ふのがクロモジの木だつた。

　但し正月の餅花などは、たゞ縁喜ものなどといふ人が多く、是を神々に供進したとまで、考へて居らぬのが普通である故に、今少しく中間の例を列ねて見る必要があるのである。山で働く人々は誰でも知つて居るが、山小屋生活の始めと終り、又は臨時に山神を祭るときに、必ずこしらへて神に進らせ、人も共食する一種の食物に、中部地方では御幣餅、關東東北では山餅バンダイ餅又はタンボ燒などと稱して、米の飯を木の尖きに握り固めて、燒いて味噌などを付けて食ふうまいものがある。その木は土にさして其まゝ神に上げるので、自分たちの食ふのに熱心なあまり、是をたゞ御初穗を上げると解して、祭の爲とも思はぬ者が多くなつたが、それでもこの餅の香は神を誘ふとか、天狗さまが集まつて來られるからと言ひ傳へ、たゞの民家では決して燒くものでないと謂つて居た處もある。信州三河等のゴヘイ餅には杉の枌《そぎ》板などを用ゐ、その他木の種類は何でもいゝやうになつて居るらしいが、西美濃の山村あたりに行つて見ると、今でも專らクロモジの木を用ゐる村があるといふことを聞いて居る。是だけはどうも偶然の一致では無いらしいのである。

　

(176)　　　　　　　　　　三

　

　樟科の植物としては、この木には二つの特性がある。一つには冬に入つて葉の落ちること、二つには分布がずつと北に延びて居ることで、津輕海峽が北の限界かと思つて居ると、後志の山地帶には幾らもあるといふのみで無く、知里君などに尋ねて見ると、十勝の奧にもたしかに存し、アイヌは之を知り、醫療呪禁の用にも供して居た。たゞ是をイナオの木として用ゐる風があつたかどうかゞまだ確められない。

　イナオの記述はバチェラー師の民俗誌を始め、すでに多くの文獻に現はれ、是と日本内地の祭の木との一致又は類似も、學者には注意せられて居るが、いはゆる削り掛けの點のみに力が入り過ぎて、今一つの點がやゝ御留守になつて居る。本來の用途は是を奧羽の鳥柴のやうに、獵の獲物をこの木の端に切掛けて、神を祭る習はしと結びついて居ることは、永田方正氏が曾て之を説かれたことがあり、大陸北方の二三の民族の中にも、同種の慣行があつたのみか、ナウ又はラウといふ名稱まで、是に近いものがあるとフレエザー教授の著述にも見えて居た。

　紙の利用が民間に普及せぬ以前、木の肌を白く削り垂れて、それをシデとして用ゐて居た頃の事を考へて見ると、日本の祭の木とイナオとの一致點は、今よりも更に著しかつた。たゞ其一致の理由がまだ色々と考へられ、是を偶合とも彼の模倣とも、こちらの採用とも何れとも説明し得られ、それを決定することが六つかしいだけである。

　日本單獨の問題として考へると、樹種の選擇と、木に食物を掛けて神に進らせることゝ、問題は二つに分けて見ることが出來る。この兩者は必然に隨伴すべきものとも言へない。今日謂ふところの本式の祭典と比べて、最もはつきりとした差異は、机とか臺とか、折敷や皿箱の類を全く使はず、其代りに樹の枝を用ゐることだが、是が召し上り物である故に、特に神樣のまぢかくに置かうとしたことが先づ考へられる。依りましの木にぢかに結はへ付けるなどは、粗野だけれども最も適切であり、又それによつて愈々其木を神の依りましと感じ易かつたものとも見られる。

(177)　似たる例を求めると其一つは、是も正月に立てる門の松、東北では今も拜み松などと稱して、中庭の臼の上に又は種籾俵の上に立て、又はいはゆる大黒柱にこの松を結はへ付ける。門前に竝べ立てるなどは寧ろ都會風で、カドといふのも家々の表の入口で、それも決して單なる装飾では無かつた。其證據には、もとは此木にも食物を供へた痕跡がなほ著しい。伊豆の島々や伊勢志摩の南端、東京の近くでは南多摩の村々まで、藁で編んだ簡單な食器が此木に結び付けられ、信州などは今でも三箇日六日十四日等の節の食物を、それへ上げてまはるのが年男の役であり、その器物の名もオヤス又はヤスノゴキと呼んで居る。オヤスは即ち御養ひ、神に食物をまゐらせる行爲を意味して居る。屋外の祭場には通例は臨時の棚を架し、それを板擧と書いた例も古史にはあるが、もつと簡單で又適切なのは、直接に木に取付けることで、それには枝の有る方が便利だつたと思はれ、子安にも庚申にも、さういふ二又の木を立てる例は多く、是に食物を包んで結はへ付けたものも、佐渡年中行事などには寫眞になつて出て居る。

　それからなほ一つ、近畿地方の村々の大祭に見られるのは、幣ふぐりといふ樣なをかしな名を以て、中央の大きな御幣の根もとに結び下げられる紙包み、この中には多分洗ひ米、又はそれに何等かの魚味を添へたものなどが入つて居るのだが、是は今日の供饌式とは餘りにも懸け離れては居るけれども、やはり又神にさゝげる食物とより他には取りやうが無い。是とやゝ類するものではやはり祭禮の日に、村の重要なる地點に立てる大幟の下の隅に、いはゆる幣ふぐりよりはずつと大ぶりな、布の包み物を下げる風が他の地方でもよく見られる。中には何が入つて居るか尋ねたことも無く、單なる飾のやうになつてしまつたのもあらうが、起りは是も祭の木に、食物を結はへ付けた例かと思ふ。斯ういふ古い仕來りは改めて趣旨を考へて見ようとする人も無いので、何と無く永く殘り傳はり、以前の世を尋ねて行く一つの手掛りとなることは、神道の研究者に取つての明るい希望である。

　

(178)　　　　　　　　　　四

　

　中世以降の庶民の生活にも、新たなる色々の改良が加はつたやうに、神にさし上げる食物にも次々の器物が考へ出され、少くとも公けのおもたゞしい祭に於ては、食物だけは先づヌサとは別に取扱はれた。劍や玉を取附けるといふことも今は見られなくなり、ヌサは主として絹布麻絲と紙とだけになつたのは、多分シデの影響かと私は思つて居る。シデは神の御依ましの木が、是ですといふ意味の標識であり、旗やのぼりや高燈籠とも目的は一つで、もとは芒の葉とか花の小枝なども用ゐられたやうだが、白紙が自由に得られる世になつて?況は一變したのである。ヌサの片端をシデに利用したもの、ユフシデが先づ起り、紙シデは之に嗣いだ。現在のいはゆる御幣のもとは、我々の考へてよい問題である。この形になつてしまつたのには、陰陽道の干渉もあらうが、一方には又斯うなつて來る國限りの原因又順序があつた筈と思ふ。一言でいふならば、紙のヌサは最もシデと紛れやすかつたのである。伊勢の氏人等の祭典の中には、純然たる紙のヌサが今でもあり、外宮の令式にもちやんと繪になつて出て居る。たとへば禰宜たちの山宮祭の幣物には、少しも端を剪らぬ佳い紙を丸のまゝ、串に挾んで祭場に立てる。それが夏は二枚、冬は四枚などと謂つたのも、紙が布や絹の用途に近かつた名殘と思ふ。それを粗末に切りこまざいて、さま／”＼の形に作つたことは、シデの目的には合致するかも知らぬが、ヌサとしては無意味のことだつた。或は幣を奉るのは、神の祭場を固定した上のことで、本來は置き座《くら》に限るべきものであつたのを、神を導き申す移動式の祭の木にまで、之を取付けるやうになつたのが、第一次の變化だつたかも知れない。ともかくも幣帛といふ言葉があまりにも多く用ゐられ、それにミテグラといふ古訓の伴なつて居ることは、幾ら古訓であつてもなほ之を訝つてよいと思ふ。古文註釋家の働く餘地もなほ殘つて居る。

　

(179)　　　　　　　　　　五

　

　終りになほ一つ、鳥柴考の目的は、榊といふ木の沿革を明らかにすることである。江戸時代の後半にも、是が多くの學者の論爭の種になつて居た。今あるマサカキがどういふ事情によつて確定したかといふことも問題だが、

　　　榊葉の香をかぐはしみとめくれば云々

といふ神遊びの古歌によつて、我々の推測しなければならぬ上代も、實はまだ十分に考へられて居なかつた。上代の賢木は一種に限られて居ないといふ點までは、賀茂翁以來之を説いた人は二三に止まらない。たゞそれを今いふ樒であらうといふ程度で、片付けて居た人の多いのは拙ないと思ふ。樒が土地によつて少しづゝ使用せられて居るといふのも、言はゞ折取つた時の樹の香といふものが、選擇の一つの要件であつたからとも見られる。さうして一方には正眞の榊といふものが、誰もが想像して居る以上に、分布の少ない木だつたのである。?《ひさかき》であれ何であれ、何か代用が無くではすまぬ土地が多く、現に東京なども野生は無いかと思はれ、毎年伊豆の島から澤山の量を輸入して居た。是から北東の各縣を當つて見ると祭の木として用ゐられて居るものは、驚くほども種類が多く、しかもクロモジの木は獵人の群にしか見られないといふのは、ちやうど神社の典禮に又一つの變化が起り、賢木は樹の香よりも冬の間の緑葉の色に、重きを置くやうになつて居た結果では無いかと思ふ。それよりもなほ一つ溯つて、祭の木の形?製作が複雜に分化して、その大小さま／”＼の方式を一貫した、古い感覺が薄れて居る爲では無いかとも思ふ。もしも榊葉の香をなつかしむといふ歌が、その古い感覺の痕跡であるとすると、北に向つて拓植が進んで行くに伴なひ鳥柴はしまひには唯一つのものになつたが、最初は恐らくはまだ色々の樟科の樹木が　神の依座として手折られて居た時代があり、乃ち日本人が南來の種族であつたことが、是からも段々と推測せられて來るのではないかと私は考へて居る。島々の生存には特殊の厄難が多く、めつたに興り榮える機會が無かつた爲に、近い親族も乏しく、適切なる文化の前例も殘(180)らぬものと解すれば、我々日本人はなほ大いに自重しなければならぬ。受賣の學問に、今まで心醉して居たことは、失敗であつたといふやうなことまで深く考へられる。

　

(181)　　祭日考

　

(183)　　　　　解説

　

　一　祭日考。氏神信仰の古今の變遷を、專ら祭の日といふ側面から尋ねて見ようとした、新たなる試みである。この方法と態度とで進むならば、まだく多くの發見があり得るといふ點を、證明することに力を入れて居る。

　

　二　耳の文學。曾て我邦に盛んであつた朗讀法の再興に由つて、この世代の文章を出來るだけ、口語と近づけようとした運動の一端である。事實の興味といふことを手段にしなければならぬと考へて、わざとやゝ奇異なる題目を選んだ。女性の讀者を豫想して居る。昭和十九年中の事業で、斷片である。

　

　三　祭のさまざま。是も同年の末に少國民文化協會の計畫に賛同して、疎開學童の讀物として書いたもの、空火の厄に遭うて實現しなかつた。五年生用のつもりであつたが、少し六つかしからうといふ評が有つた。

　

　四　窓の燈。書齋からの小さな消息である。出來る限り自傳風の部分を少なくし、變り行く世相と學問との交渉を、努めてこの窓に映し出さうとして居る。

　

　五　新國學談。筆者晩年の文集は、今後引續いてこの書名をもつて世に公けにする計畫である。自分だけは數十卷、百卷にも達する日を夢みて居るが、現實は多分二三卷を以て終るであらう。聊か雜誌の體裁を加味したが、以下次號といふものを出來るならばこしらへまいとして居る。故に讀者は一卷毎に、讀んでみるか否かをきめる(184)ことが出來る。乃ち解説の必要なる所以である。

　　　　　　昭和二十一年紀元節日

　

(185)　　　　　祭日考

　

　　　　　　　一　氏の神を祭る月

　

　日本で神道と謂ふべきは、もとは神社の祭たゞ一つであつた。それがいつと無く新しいものに名を取られ、更に輸入宗教とは又別な、かはつた色々の信仰が神社の外に生れた。どうしてさうなつたかといふことは、何より大きい問題であるが、一言でいふならば神道が變化したのである。是を詳かにするには最初のものが、大よそ何であつたかをきめるより他に方法は無い。それが容易にきめられるものでないことは判つてゐる。しかし必要である以上、幾たび失敗しようとも試みなければならぬ。方法はあまた有るだらうが、祭の日を目安にして尋ねて行くといふのは、是までまだ誰にも試みられてゐない。新しい知識が手付かずに殘つて居る。發見と名づけてもよい興味は、我々の勞苦をねぎらはうとして居る。それ故に私は敢てその任に當らうとするものである。

　古い確實な一つの史料が、幸ひにして保存せられて居た。それは寛平七年（西暦八九五）十二月三日の太政官符であつて、類聚三代格の末の方の卷に載せられ、人があまり注意をよせぬものである。政治史の上からも、氏族制の沿革としても、重要なる事實を傳へて居るのだが、自分は只必要の限度に於てのみ之を利用する。この官符の文は名文である。或は菅公のやうな人が筆を執られたのかも知れない。原則が一つ例外が四つ、目的は京都在住の貴族に、居(186)住の制限を加へたものである。出來る限り近代風にその要領を記述するならば、乃ち五つの箇條に分たなければならぬ。

　一　五位以上及び孫王（即ち貴族等）が、畿外に出てはならぬといふ制度は、先に憲章を建てられて從行せられて居る。然るに聞くが如くんば畿内（外の誤）（一）の百姓たちの愁歎極り無く、公事私業或は其勤めを失ふ者があるといふ。試みに使者を遣はしてほゞ部内に問はしむるに、申す所多しと雖その尤も甚だしきものは、權貴雜居してやゝもすれば煩苦を與へることである。是は何としても件の輩のたやすく出ることを禁止して、少しなりとも民意を慰めなければならぬ。

　二　但し高年にして老を送る者・痼疾ありて醫に就く者の地のみは、各々穩便を量つて處分あるべしといふことになつて居る。仍て七十歳以上の老人と、宿病?弱の者とだけは、或は療治の便を遂げ、もしくは終焉の謀を立てる爲に、其旨を申出で、國司は實に依つて解を修し、中央の指令を受けて其居住を許可する。もしも國司が事實を根據としなかつたならば、之を科責に處して決して寛宥はしない。

　三　次に山城の國内では東は會阪の關まで、南は山崎與渡（淀）泉河等の北の岸まで、西は攝津丹波との國堺まで、北は大兄山の南側までは制の限りに在らず（即ちなほ京幾の内と同視する）。

　四　大和國春日社の二月十一月の祭、興福寺の三つの國忌齋會、同寺十月の維摩會、藥師寺の三月最勝會等は、參るべき氏人及び散位、諸司の五位以上は、其人にも限りがあり、期に臨んで直ちに參るのだから是は宜しい。

　五　又諸人の氏神は多く畿内（外の誤）に在る（一）。毎年二月四月十一月の先組祭は罷めさせるわけには行かぬ（何廢先租之常祀）。故にもし申請する者あらば直ちに官宣を下すであらう。但し此の如き類は、往還に日程が有る。任意に留連し日を經て遊蕩することは許されない。違越する者があつたら名を録して言上させ、違勅の罪に處する。

　以上が寛平七年の太政官符のほゞ本文の順序の通りである。是だけ具體的に掲げられて居るのを見れば、少なくと(187)もこの施行の當初に於ては、この勅令は實行せられて居たものと推定してよからう。この適用を受くべき當事者が、すべて京都在住の、公の生活に携つてゐた者だから殊にさう思ふ。

　

　註一　二箇所の畿内といふ語は、畿外と無くては意味が通じない。けだしこの時代の畿内は文字通り、京畿即ち都城の内側だけのことであつた。後にその内容が擴大して、五畿又は五畿内といふ語が、大和以下の四國に及んだのもさう新しいことでなく、今では近畿地方などと畿の語を用ゐて居るが、少なくともこの格文に在つては、是は帝都の内と外とを區劃する名であつた。しかも畿外といふと九州奧羽までも入る感じがする故に、五畿内の語に馴れた人が、前後の文意をも辨へずに、ふと訂正してしまつた寫本だけが、世に傳はつて居るのである。貴族の雜居に迷惑する百姓が、畿内の住民ならば、畿外に出るなといふ禁令は發せられる必要が無いわけである。此居住制限は以前から存在したのだが、それが更に寛平三年九月の太政官符に依つて、六位以下の者にも擴張せられて居る。即ちすべての京戸の子弟の、外國に居住するを禁止せられたのである。この外國もやはり畿外のことで、殊に大和の京の舊地に近い處に、本貫を持つ者を對象にして居ると思ふ。新都の人口がかゝる強力の政策も手傳つて、急激の増加をしたことは想像せられる。さうしてそれが又御靈會系統の辻祭が盛行して、祭の月の舊い習はしを混亂せしめた主たる原因にもなつて居るのである。

　

　　　　　　　二　祖先を神と拜む風習

　

　この一千餘年前の太政官符、殊に其終りの一項によつて、明白になつたことが少なくとも二つは有る。一つは即ち此時代の氏の神の祭が、毎年の二月か四月又は十一月を以て、執行せられるのを通例として居たこと、第二にはその氏神の祭といふのが、先祖の常祀であつたといふ點で、この二つは二つとも神道の歴史の重要な事項であり、しかも又今日の實際と、一致しても居ないやうに見える點である。果して祭日に古今の差があるものとすれば、どうして變つたらうかを先づ我々は考へて見なければならぬ。

(188)　しかし其前に今一つ、是も小さいとは言へない問題を、解決し得ないまでも注意して置く必要がある。右の大切な太政官符が發せられてから十二年の後に、編纂を終つたといふ延喜式の、四時祭式の卷を開いて見ると、神祇官の直接干與した京畿内外の諸大社の例祭が、やはりその大部分は毎年の二月四月十一月を以つて行はれて居る。正月三月五月七月等、後世には祭の月のやうに言はれて居る月に祭が至つて少なく、六月と十二月は主として宮中と伊勢の神宮のみに祭があり、九月は又伊勢の大祭があるだけで、十月といふ月には一つも祭は無い。是はこの二つの大きな中心を除くの外、他の地方の主要なる大社が、本來氏神であるが故に斯くあるのか、或はさうではなくて一方の氏神祭を支配して居たのと同じ法則が、何か共通の理由が有つて、この全國的な大神の社の祭をも二月四月十一月にして居るのか。但しは全く偶然の偶合であつて、二者は互に關係が無かつたのか。三つの何れかであつて、どれでも無いといふことは有り得ない。さうしてそれが早晩は決定せられずには居ないだらう。私の考へは大よそきまつて居るのだが、それは論據に依つてのみ主張しようと思つて居る。

　それよりも早く明らかにして置きたいのは氏神の範圍、氏神とはどういふ神社をいふのかといふことである。是は一應は讀んで字の如く氏族の神、氏を同じくする者の共に拜む神と解せられ、又確かにさうであつた時代も有るのだが、現在はとにかく甚だ區々になつて居る。たとへば東京から五里八里の近い田舍では、普通の各農家の屋敷の隅に一つづゝ、至つて小さく祭つて居る氏神がある。個々の屋敷に氏神を祀る風習は、廣く東北地方にも及び、或は稻荷とか地の神とか呼ばれて居るものと、ちがふのは名だけであり又はどちらでも通用する。さうして是にも亦二月と十一月とに、祭をして居るのが少なくないのである。其次には是よりは僅か大きく、十戸十五戸の一門の家が共同して、本家で二李の祭を經營して居る一家《いつけ》氏神といふもの、是が何だか上代史上の氏神と最も近いやうに思はれるのだが、やはり石なり木なりの祠が出來たのは近頃のことで、もとは多くは毎年の新しい藁で、假屋をしつらへて其中で自祭をし、從つて今いふ神社の中には算へられて居なかつた。第三には大小の部落にほゞ一つ、多數の住民が共同に祭つ(189)て居る氏神、是は皆神社である。其數は現在十萬五千の神社の約三分の二、七萬位かと私は思つて居るが實際はどうであらうか。鎭守といふのは幾分か性質が違ふかも知れぬが、この他に産土社といひ又はたゞ明神さんといふのも、區別は殆と無いから同じものと思はれるが、是を加へると計數は又大きくなる。つまりは今日村社といひ無格社といふものゝ大部分がこの種顆であるのに、今日普通の神社觀なるものは、之を除いた殘りの少數の又一部分の千か千五百の大きな神社の特質のみを見渡して、中央に於て作り上げられたものなのである。今ある氏神なるものが、古來の氏神であるか否かは別として、是では神社の現實を語るものでないことだけは豫期しなければならぬ。我邦今日までの神道史の研究は、曾て斯ういふ小さくて又數多い、氏神社の祭といふのを考へて見ようとしたことが無い。知らねばならぬことがまだ澤山に殘つて居る。學問の前途はなほ遙かなりといふべきである。

　

　　　　　三　大小氏神の異同

　

　そこで自分などは、更に氏神といふものゝ今一つの種類、古來連綿として記録の上に、氏の神の名を持ち傳へて來た國の最も重要な大神の御社と、村々の他の無數の小さな氏神と、どの點が違ふのかを考へて見ようとするのである。最も爭はれない主要な差異は、官祭と稱して年に一度か二度の祭日に、官から使が立ち幣帛と供物のくさ／”＼を進められたことである。さういふ御社がもとは三千百幾つといふ相應な數であつたのが、程無く莊園の増加によつて地方廳は無力となり、各社も往反の勞苦に堪へかねてその特典を辭退し、後々は何處に其御社が在るのかも不明になつたものばかり多く、一方には都に近い官と縁故の深いごく少しの大社だけが、中央直接の支持を受けて居た。それも最初は敬神の表示に留まつたものが、いつとも無く祈願の連續になつて、新たに佛寺を興すのと比べられる程の、大規模な援助に進んだ。社地社殿の宏莊と祭禮の華麗とは、大きな特色だつたが是は寧ろその結果なのである。有力なる(190)武家領主はその中央の方針を承け繼いで、地方に各自の崇敬社を設けたが、其數は少なく選定も亦任意であつて、爰に新たに佛教の大きな割込が始まり、しかも其保護は到底中央のものに及ばなかつたのである。村々の多くの神社は結局は住民の自祭に依る他はなく、それが又環境の異同に基づいて、甚だしい大小の差を來たして、この方面のみには夙く中央集權の實が擧がつて居たのである。今からやつと三十六七年の前、政府は多數の地方神社を指定して、是にも延喜式時代のやうな官祭の榮譽を均霑せしめようとしたが、それはたゞ論理の徹底であり、祭儀の目的の公共なることを意識せしめるに留まり、以前の住民自祭の慣習を改めしむるまでには至らなかつた。さうして其以前は九百餘年の久しきに亙つて、神社は斯うして祭るのが當り前と思ひ、今もさう思はねばならぬ無格社又は村社等が、可なり數多く殘つて居るのである。是とたとへば奈良の春日の如き官幣の大社と、類は同じだと謂つても信ずるものが有るかどうか。春日が藤原氏の氏神であつたことは誰も知る。藤原氏は氏族が大きい爲か、河内の枚岡神社をも氏神とし、又常陸の鹿島神社をも加へて居た他に、山城の京になつてからは、大原野・吉田の兩社が共に氏神として創建せられ、大原野は特に皇室に入つた此氏の女性の信仰を受けて居た。もとは氏神は專ら男系の祖神を祀るのを例として居たが、延暦の天子は新たな御方針で、外戚の祖を祭り且つ御自身の後裔をして、こゝを氏神として奉仕せしめられた。今ある平野神社は即ち是で、後々氏人の中に別に幾つかの氏族を引入れ、幾分か氏神といふ言葉の、意味を茫漠たらしむる端緒ともなつた。その他梅宮社ももとは橘氏の氏神であるが、此家が衰へたのでその關係はやや淡くなつた。賀茂と松尾とには本來の氏人はあつたのだが、官祭と皇室祈願の尊嚴に押されて、彼等は自分から其氏人の地位を制限して、たゞ境内の小さい末社に、別にめい／＼の氏神を齋くことになつて居た。所謂二十二社の重要なる古社の中にも、まだ幾つかの氏人の手によつて創立せられたものは有るらしいが、其多くのものは早くから氏神を以て我神を呼ばなかつた。しかもその著名な舊社の大部分に共通したことは、一方片田舍の常は祠も無いやうな微小なる多數の氏神と同じく、今でもなほ、又は少くとも維新改暦の際まで、引續いて二月又は四月、及び十一月を以て祭を營(191)んで居たことである。氏神では無いけれども祭る月だけは同じだといふことは、どうやら言へないやうに私は思ふ。しかもこの豫期せざる祭月の一致は何に基づくかといふことを、今まで格別に考へようとした人の無いのは、他の中間の色々の社が、既に久しくこの祭の月を改めて居るばかりか、近年は更に暦法の變化によつて、新たに日を定めたものが多くなつたからである。

　

　　　　　四　春秋二度の祭

　

　二月四月十一月の氏神祭と謂つても、その祭が年に三囘あるといふ意味でなかつたことは、四時祭式の規定からでも判るのだが、それから以後の記録の示す所に依ると、是には大體三通りの種別があつた。その一つは二月と十一月、其二は四月と十一月、共に一年に二度づゝ、同じほどの祭が行はれるもので、是を季節に拘はらず、春秋の祭といふ人が中世には多かつた。それから今一つは年々一囘だけの大きな祭があるもの、是は四月といふのが多かつたやうで、その最もよく知られたのは四月第二の酉の日の賀茂祭、同じく二の申の日の日吉祭、又第二の卯の日を渡御の日とした稻荷祭などであり、二月もしくは十一月をただ一度といふものは、中世以前にはあまり知られて居ない。賀茂では夙く宇多天皇の御代の初めに、神の奇しき御示しに基づくと傳へて、十一月第二の酉の日の臨時祭が始まり、日吉は遙かに後れて建暦三年の十一月から、其月の第二の酉の日の臨時祭が行はれて、共に久しい年代に亙つて、臨時といひながらも定日の祭となつて居たのであるが、稻荷の御社だけにはさういふ追加が無く、年にただ一度の三月から四月にかけての大祭があるだけであつた。そこで一年にただ一度といふ方が古く、春秋兩度となつたのは後世の附加の如く、推定しようとする人も無いとは言へぬが、是は必ずしも簡單にさうきめてよい問題でない。新たに臨時祭の先例が定まつたのは、ただ朝廷の崇敬の始め、即ち勅使が立ち幣帛が供へられ、又は伎樂とか神馬十列とかゞ進獻せら(192)れることになつただけで、それ／”＼の神社に於ては既にその以前から、この十一月の祭は執行はれて居たのかも知れぬ。祇園の臨時祭が大祭のすぐ翌日、六月十五日にあつたのなどは、或は全くの追加とも見られ得るが、賀茂や日吉の場合にはその臨時といふ日が、年に二度づゝ祭の有る他の多くの社も同樣に、ちやうど十一月の、四月と向き合つた第二の酉又は申の日になつて居て、近頃の言葉で言ふならば私祭が官祭に、又は小祭が大祭になつたまでと、解することも出來るからである。現に臨時祭をもたぬ稻荷神社などでも、十一月八日には御火焚きの祭が今もあつて、是にも氏子の町々の者は皆參加し、行事はよほど他の社の火焚祭よりも重々しいものだつた。朝廷が諸社の祭祀に干與なされたことと、祭が一年に幾たび、何れの月に於て行はれたかといふこととは、二つ別々に考へて見なければならぬ問題で、實際又年々の祭の囘數は、もとは今よりも尠なかつたと思ふが、それをただ公けの記録ばかりから、證明することは六つかしいのである。

　延喜式の四時祭の條には、京都と其近國の數十所の舊社が、十一月の相嘗の祭に預かりたまふことを定めて居て、其中のただ僅か二三社だけに、別に二月又は四月の神祇官の祭があることを明示して居る。しかも其他の神社に於ても、それ／”＼に仲春初夏の祭があつたといふことは、單なる想像だけでは無しに、證據によつて知ることが出來るのである。ただ私などにまだはつきりと言へないことは、二月四月の祈年祭、十一月上の卯の日の相嘗祭の外に、それ／”＼の祭があつたか否かであるが、是は多分或ものは日を同じくし、他の多くのものは日を異にして、別にその御社限りの祈年新嘗の祭を奉仕して居たので、此點は現行の制度に於ても、地方によつてはまだ認められて居るのである。全國朝野大小の神社が一樣に、同じ日同じ刻限に同じ儀式を以て、二月と十一月の大祭を擧げることは、昔の交通では望まれなかつたらうのみならず、祭の方式にも異なる慣例がもとは著しかつた。さうしてこの兩度の祭以外に、別に例祭とも特殊神事ともいふべきものが、無かつた神社も少なくは無いのである。

　

(193)　　註　日吉の、祭の申の日は有名なものであるのに、十一月の臨時祭をその翌日の酉の日にしたのは不審なやうであるが、耀天記といふ書には霜月の中申日の祭を掲げて、卯月當日同之と記して居る。近世の日吉神社の四月大祭でも、最も花やかなのが申の日といふだけで、祭は其前後に亙つてなほ續いて居た。現に翌日は酉の日の神事があり、又船路の獻供式といふものもあつた。他の多くの御社の例を見ても、年に兩度の祭が四月と十一月と、日を同じくするのは普通といふのみで、さうで無かつたものが幾らもある。たとへば大原野は二月の上の卯と十一月の中の子、吉田は四月の中の子の日と十一月の下の申であつた。或は一方は十二支できめ、他の一方だけを日できめたものも稀で無い。

　

　　　　　五　日の晴と蔭祭

　

　日本古來の神社の中には、今でも祭がただ一日で終るといふものは少ない。式が前日の夕方から始まつて、次の日の午後まで續くといふだけならば、昔は日没を以て日の區切りとして居たのだから、是を一日中とも見ることが出來るが、なほ其以上に幾日も前から、幟を立て榊を刺し、單なる準備といふだけで無しに、人が祭の心になり切つて、次々の行事を重ねて行くものがある。次の幾日かも裏祭などと稱して、女の參拜する日となつて居たり、又はやゝ小さい式が行はれたりした場合もある。それにも拘はらず、祭日は大抵何月何日と、ただ一日きりの出來事のやうになつて居たのは、實は外部との關係からであつた。祭の當日といふ言葉がよく用ゐられ、土地によつては是を又、日の晴れと呼んで居たものも有る。神輿の渡御とか山鉾屋臺の囃しとか、大よそ屋内の所作が皆この一日に有つて、氏子で無い者の耳目を樂しませ、從つて永く記憶せられるのも亦この日であつたが、それよりも更に重大なことは幣帛の供進、即ち公けの人が正式に拜みに來ることで、數は僅かであるが國内の名ある大きな御社に於ては、それが朝廷の直接の御使であつた故に、當事者の方でも非常に之を重く見るやうになつて居たのである。記録の上に殘つて居る祭日は即ちその晴れの一日のことで、通例は日中の最も往來に便な時刻が選ばれて居たから、我々の祭の中心と認むる(194)ものと、一致しない場合も無しとしなかつた。祭の儀式には夜の眞夜中に、執り行はれるものも昔から相應に多かつたのである。

　二十二社註式を讀んで見ると、丹生と木船との二つの御社には無祭禮と書いてある。祭の無い神社といふものが有るわけはないから、是はただ例祭に奉幣使の參向しなかつたことを意味し、同時に外部の者が見物に來るやうな、花々しい晝間の行事も無かつたことをさう云つた迄であらう。近世の實例としては江戸の二大祭禮、山王と神田の祭は互ひちがひに一年置きであつた。さうして神輿と飾り物の出ない常の年を、その神社の氏子までが、蔭祭などと呼んで居たのだが、しかし神社内部の祭の式としては、毎年異なる所が無かつたやうである。中古以前の京都の大社でも、何か朝廷の方に障りが出來て、祭に御使の出ぬ場合が折々あつたが、其爲に例祭を休むといふことも無かつた。單なる幣帛の供進だけではなく、東遊や走馬、その他色々の晴の催しものは、何れも公の參拜に伴なふものだつたから、それの無い年の祭は淋しかつたにちがひないが、神樣との約束は其爲に變へられなかつた。しかし社に奉仕する人たちが之を殘念がつて、何とかしていただきたく思ふのは自然の情で、後々は祭の延引といふことが次第に多くなつて來た。通例は次の干支、十二日又は二十四日目の同じ日に、中には他の月の季節がちがつた時に、擧行するといふ例まで現はれてゐるが、それでは氣がすまぬといふ者も勿論有り、殊に延引が久しきに亙る場合などは、何の祭もせずに舊來の定めの日を、空しく過ぎるといふことは出來なかつたので、當日にも何か型ばかりの式は行はれて居たものと思ふ。

　官と民との祭は最初から二つのものであつた。朝廷の敬神はもとは信仰の承認であつて、その信仰の行事の永く嚴肅に、又一段と莊重に續行せられるやうに、幾つか有る毎年の祭の一つ又は二つを指定して、奉幣と參拜とを以て是に力強い聲援を與へられることであつた。素より神々の恩�ｺと靈異を信ずることが、その敬神の基礎であつたことは爭はれないが、しかも後年國又は皇室の祈願を、特に由緒の深い或少數の大社に掛けられるやうになつて、いはゆる(195)官祭は又一段の重要度を加へたのである。初期の臨時祭は國民と共に國の全般の福祉を冀求するに專らであつたが、それでもなほ判斷は中央のものであり、統一は一つの政治であつたとも言ひ得る。之に對して諸社の例幣といふのは、祭はすでに有るのだから、明らかに官の參加であり又承認であつた。即ちそれ／”＼の神祇の恒例の祭日は、官府の都合によつて變へようとはしなかつたので、ただ或期間の祭に就いて、その參加の日と時とを指定せられただけであつた（一）。それにも拘らず日本の古い神社の多くのものが、期せずして大體同じ季節に、久しい昔からの祭を營んで居たといふことは、假に小さな民間の氏神祭との一致を問題の外としても、なほ私たちに取つては考へて見ずには居られない事實である。

　

　　註一　松尾の祭は四月と十一月の、上の申の日と江家次第にはあるのに、中世以降は翌酉の日となつてゐる。亂世以來神事延引の故かと、公事根源に言つて居るのは信じられない。延引を毎年の例とする理由は無いからである。是と似たことは賀茂の兩社にもあつて、久しい以前から四月十一月の中の酉の日となつて居るが、なほその前日の中の日がみあれの日とも謂つて甚だ重要であり、或は是を國祭（山城一國の祭）と謂ひ、翌酉の日を勅祭と謂つた人もある。しかしこの區別は他の大社には通用しない。つまりはこの兩日とも祭の期間であつて、たま／＼酉の日を指定せられたのが、めでたい先例となつたものであらう。申の日を祭日とする例の全國的に多いことは、次々に明らかになつて來る。讀者はこれを一つの問題と見ずには居られぬであらう。

　

　　　　　六　靈山と二月の祭

　

　春秋の祭といふ言葉は或は中華民國から採用せられたかとも思ふが、我邦でも可なり古くから使つてゐる。四月は初夏であり十一月は中冬であるのに、なほこの言葉で通つてゐるのは、つまりは年二度といふことが常識であつたからで、たまたま二三の御社に年に一度といふのがあつても、それは只官祭の日の指定がさうなつてゐたのみで、最初(196)又は固有のものと見ないでもよからうと思ふ。さうするとさし當つて問題となるのは、四月十一月といふ祭日と二月十一月といふのと、何れが古くからのものであり、又どういふ事情で新しい方が起つたか。それとも始めから二通りの法則ともいふべきものが併存したのであるか。是を明瞭に言ひ切るまでには、まだ我々の史學は進んで居らぬが、兎も角も神道の沿革を尋ねようとするには、この筋路を離れて進んで行くわけにはゆかない。私は何とかしてその起りを發見したいと念じてゐる。

　そこで一應はまづ分布の實?を述べなければならぬが、私の現在知つてゐる限り、二月十一月といふ系列は所在もやゝ片より、且つ幾分か四月十一月の方よりも數が少ない。最も名高いのは前に擧げた春日神社、新暦では月送りの三月十三日ただ一囘となつて居るが、もとは二月と十一月との上の申の日であつた。藤原氏の祖神祭の是が特色だつたと見えて、枚岡神社でも同じ月が祭であり、又常陸の鹿島でも十一月の方は明らかでないが、二月には最も大きな祭があつた。京都の近くでも大原野の春日樣は二月十一月で、たゞ日だけが異なつて居た。ただし吉田神社も奈良と同じ神を祭つたのだが、是はどういふものか四月と十一月になつて居る。

　地方の實例として特に重要なる一つは、安藝の嚴島神社であらう。是も六月十七日の管絃講といふのが、宮寺一流の美しい莊嚴であり、且つ又夏の夜市の機會でもあつた故に、近傍の人々には最もよく知られて居るが、それにもまして深秘なる古式の祭が、別に二月と十一月の初申の日を以て營まれてゐたのである。この兩度の祭の傳來に就いては、更に考へて見なければならぬ點が幾つもあるのだが、それにはもう一度よい折が來る。とにかくに是は平家の崇敬によつて、新たに根柢に培はれたやうな姿があり、且つ幾分か藤原氏の氏神と拮抗しようとした形跡も見られるので、その春日祭との著しい共通點も、今まではやゝ輕く見られがちであつた。しかしさういふ因縁の全く無い地方にも、たとへば熱田神宮と其周圍といふやうに、二月を重んじて居る例は飛び／＼に有る。北陸方面では越後の彌彦神社、是などは式内神社案内を讀んで見ると、二月と四月と十一月と三度とも、三日を終りの日にしたほゞ同格の祭が(197)あり、兩者何れの系統に屬するともいへないやうだが、今でも二月には神幸の神事が行はれて、四月の方はただそれに續くものとも見られ、頗る嚴島の御山の口開けとか、又は甲州一宮の山宮祭などと、似通うた點のあることに心付くのである。能登の一宮｜氣多《けた》神社の平國祭といふものなどは、今でも可なり複雜な巡幸の祭であつて、七尾の所口の山王樣の社まで、遙かな山阪を越えて渡御があり、その往復數日の間、沿道の諸社に立寄つて合同の祭を享けられる。その日が以前には又二月の二の申の日を中心とし、之に對しては更に鵜祭と稱する珍しい祭典が、十一月を以つて行はれてゐたのである。

　一方には是と裏表の南海方面、紀州の西部にも二月十一月の祭をした神社が、數多く續風土記の中に掲げられ、それが又四月十一月の祭をする御社と入り交つてゐる。さういふ中でも高野山の北の麓、天野の丹生津比賣神社の二月祭などは、社僧の勢力の下に在つたにも拘らず、長い嚴肅な齋忌を伴なうて居た。古い儀式の改まつて行くのは是非も無いが、せめては其記録を尊重し、由來を考へて見ることだけは怠らせたくないと思ふ。我々の同胞の古い信仰生活は、之に由らなければ判らぬ部分が多いからである。今まで何人もまだ比較を試みなかつたやうだが、九州方面には別に又中央とは引離れて、二月十一月といふ祭日が行渡つて居る。さういふ中でも特に顯著なのは、鹿兒島宮崎の二縣であつて、その一端は遙か海上の島々とも、見落すことの出來ない連繋をもつて居る。參考資料として有益なのは、薩隅日地理纂考といふ大部の著で、是はちやうど明治四年、暦が太陽暦に改まるすぐ前の年に成り、しかも村々の神社と祭日を詳しく録して居る。是に依ると薩摩の加紫久利｜枚聞《ひらきく》の二つの式内神社、又は大隅の御崎神社の如く、遠い昔から在つたことの明らかなものを始めとし、村々の新しい社までが、二月と十一月の同じ日を祭日とし、又その以外の日を用ゐて居ないといふものも、列擧し得られない程の數である。さうして一方には四月を祭日とする社は、他と比べて目に立つて少ないのである。今日の神社の慣行では年に二囘の例祭といふのがもうあまり認められて居らぬかと思はれる。殊に改暦の際にはそれがどう改められたか、判ると興味が有るのだが、その資料は私たちにはちよ(198)つと得にくい。しかし少なくともこの特色は九州南端だけのもので無かつた。北九州の方でも宗像香椎の二大社に、古い祭日がなほ傳はつて居る以外に、志賀海神社や筑紫神社の如き、式内社であることのほゞ確實な數十社に、つい近頃まで二月と十一月を、祭日として居た例を拾ふことが出來る。ただそれが中世以來の村々の社にまで、波及して居たかどうかが知り難いだけである。しかし此傾向は少なくとも狹い區域のものではなかつた。阿蘇では一方の十一月が十月となつて居るが、二月の祭だけは今も續いて居る。宇佐の八幡にも二月と十一月の卯の日祭が永く行はれ、それが石清水を通り越して、遠い鎌倉の鶴岡八幡まで傳はつて居たのである。

　この序に今一つ言ひ添へたいことは、攝社末社の祭日にも、二月十一月の多いかと思ふ點である。宗像では本社の二月祭はもう幽かになつて居るが、太宰管内志に引用せられた正平の古い記録には、末社の若干のものにこの二つの月の祭があつたことを示して居る。下總香取の祭日は二月十一月で無かつたやうであるが、その管下に屬した一二の小社には近い頃までその祭をして居るものがあつた。熱田の攝末社の祭が大部分、二月十一月を祭日にして居たのは、或は本社に準じたのかも知れぬが、伊勢の大廟の周圍にある多數の小社などは、其御祭とは全く關係無しに、別に二月十一月の祭日をもとは守つて居た。それが改革の機會の少ない區域であるだけに、何かさうあるべき本來の理由が、爰にはまだ埋もれて居るのかとも推測せられる。京都では遷都以前から此地に鎭座されたといふ園韓神《そのからかみ》の社だけが、春日とは獨立して二月十一月を以つて祭られてゐた。奈良では率川《いさがは》社が三輪の攝社だつたと言はれてゐるが、それと春日山の鳴神社だけが二月十一月であつた。或は祭をこの二つの月に營むべき拘束の方が、一つ前からのものだつたといふ、一つの手がかりになるものではないか。勿論他の一方の四月の祭日をよく考へてからでないと、何の斷定も出來ぬのであるが、借にさうだつたとすれば祈年と新嘗、即ち稻穀の豐穣の爲に、皇室御自らも御祭りなされた式典の日と、田舍の最も小さな社の祭の方式とが、更に一段の接近を見ることになるのである。

　

(199)　　　　　七　二十二社の性質

　

　こゝでもう一度、四月と十一月を祭日とする多くの神社の名を列擧するのは、煩はしいことであり又印象も少ない。そんなことをせずとも方法は幾らでもある。一つの試みは京都とその近國の大社にして、久しく二十二社として朝廷の優遇を受けて居たものが、どれだけまでこの古來の氏神祭と一致した祭の月に依つて、その例祭を續けて居たかを尋ねて見ることである。所謂二十二社の性質はやゝ複雜であつた。何か特別の祈願がある毎にそこに奉幣の祭使が發せられ、應驗が最も著しと認められて、その臨時の祭が慣例となり又格式となつたもので、社の數は次々と追加せられ、二十二社の名の確定したのは、かの寛平七年の太政官符が出てから、約二百年の後のことであつた。それが明治の初め官國幣社の制度の成立つまで、さうして暦が今ある太陽暦に改まるまで、大體に當初の例祭の日を守つて居たのである。この二十二社の中には、既に前の節に私の説いて居る賀茂と稻荷と日吉、即ち四月の大祭がたゞ一度で、之に對する十一月はいはゆる蔭の祭になつて居る三つの大社も、當然に入つて居るのである。

　其次には松尾と平野、吉田梅宮の四つの大社の例祭が四月と十一月であつた。この四つの御社は共に皇居に近く、松尾は秦氏といふ大氏族の奉仕した社であつたが、其家は政治に關係しなくなつて夙く普通の神職となつた。之に反して他の三社は、神職以外に多數の公人を氏人として居たのである。二月と十一月を祭の月として居た春日と大原野も、氏の神であると同時に國家の神であつた點は、大小重要さのちがひは著しいにしても、伊勢の神宮と類を等しくするものゝ如く、昔の人たちは考へて居たやうで、それで二十二社の第一順位に、大廟を算へ申して居たのであつた。この考へ方には確かに誤解があると思ふが、ともかくも信仰は世と共に少しづゝ變つて來た。何か國家に大いなる憂患がある際に、神に祈るとすれば伊勢神宮を外にすることは出來ない。さうして民衆は又その後について、爰にも個(200)人の祈願を掛け申すことになつたので、それは明白に中世以前には許されないことであつた。

　伊勢の祭日には人も知る如く、二月と四月といふ御祭はあつて、十一月の祭は全く無く之に對して舊暦九月の神嘗祭があり、其上に月次と稱して六月と十二月の、宮中より他には無い二つの祭があつた。是と民間の小さい氏神社との間に、何か共通の點があるとすれば尊いことだが、其比較を試みるには又別の用意が必要だといふことを私は感じて居る。殊に月次と稱してたゞ六月と十二月との兩度のみに古くから行はれて居た祭に至つては、今日はまだ其來由が何人にもわかつて居ない（一）。是はどうしても二十二社の外に置いて、改めて深く考へて見るべき問題かと思ふ。

　さうすると他の近畿の二十一社のうちで、二つの二月十一月に對して、七つの四月十一月を以て例祭の月とするものがあることがわかつた。次には大和に在る他の六つの舊社のうち、大和神社では四月の祭は古く又有名だが、之に對する十一月の例祭はあつたのかどうか、私にはまだ究められない。大神（三輪）の社も四月が祭月であつたが、之に對する冬の祭は十二月となつて居て十一月で無い。是には何か深い理由のあることと思ふ。廣瀬龍田の兩社も四月四日の例祭が古くからであるが、第二囘の祭の方は十一月で無く、秋の初めの七月四日となつて居る。この理由は私にも大よそわかる。つまりはこの二つの神々は暴風の患を除きたまふ御力が有つて、七月は特に其害を氣づかふべき季節であつたからであらう。この四つの實例は、四月を祭の月とする點では一致するが、石上の神宮にはその四月さへも無かつたやうに思はれる。之に對して一方の十一月の祭に至つては、石上に古い鎭魂の祭が殘つて居るだけで、他の四つの社には寧ろ無かつたといふ方の想像が付くので、或は之を時代の變化、即ち山城の京に遷つてからの制度のやうに、見ようとする人が出ぬとも限らぬが、さういふことは輕々しく言へない。殊に十一月は相嘗と稱して、君民一致して稻穀の感謝の爲に、嘗といふ祭をする慣行があり、三つの御社は是に參加して居られる。以前は大和一國のもつと多くの神社が、同じ日を以て此祭を行ふことになつて居たのかも知れぬのである。廣瀬龍田の風祭に對して、雨の神と信じられた丹生大神は、古い頃の例祭の日が私にはまだはつきりして居ないが、是は洛北の貴船社と共に、(201)特に一つの願ひ事の爲に臨時に奉幣するのを主として居た山奧の御社だから、里の祭と同じ祭り月を、最初から持つて居られなかつたかも知れない。

　貴船は後代賀茂の攝社の如くなつてしまつてから、本社と同じ四月の酉の日に、葵の祭が行はれることになつて居たが、なほ其以外にも幾度かの祭があつた。吉野の丹生川上とはちがつて、是は追々と交通が開けて、參つて拜む人も多くなつて居たが、なほその神�ｺは水に屬し、直接に農耕とは關係が無かつたのではないかと思はれる。土地に定住する者が先づ祀つて居た神社と、祭の方式や期日のちがふことは、この篇の筆者にとつては意外では無いのである。

　攝津では二つの舊い御社が、二十二社のうちに編入せられて居るが、その一つの廣田神社が、二四十一月の祭を行うて居た證跡の得られぬことは、私には大きな不審である。是は一つには記録の外間に存するものが乏しいからでもあらう。戰亂の時代には、一時歴史のある大社の衰へて居たこともある。少なくとも社と縁故の深い家が退轉して、久しい例式を主張する者が無くなつた場合は毎度で有つた。文書の乏しい場合にはもう一つの方法、即ち今ある現實の行事の中から、たとへ幽かな暗示でも見遁さぬやうに、同時に又他では斯ういふ場合どうなつて居るかに、注意して行くことが必要である。さうした親切な努力が續けられる者は、神職社人と地元の世話人の他には無いのであるが、今までは幾分か新制の統一に急であつて、古風な考へ方や感じ方は、少部分しか容認せられなかつた。今後は却つて解釋が自由になつて、祭り人の信仰は甦へるであらう。祭祀の意味の社會から認められるのは、ただ外側の花やかな一面だけである。神社が大きくなり外から來る人が多くなると、自然に定義のやうなものが變つて來る。獨り嚴島社の御管絃祭だけでは無い。たとへば住吉神社の田植祭なども、綺麗なことは譬へやうも無いほどだつたらうが、是は本來年乞ひの神態の一であり、それが五月の二十八日になつたのには、何か又傳説の附加があつた。それを現在は此社の例祭にして居るのは賛成出來ない。ここには今一段と基礎的な缺けてはならぬ古い例祭があつた。住吉大神宮諸神事次第などには、月々の多くの行事の中にまじつて、四月と十一月の卯日祭といふのが相對して居る。現在はそれ(202)がどう取扱はれて居るかといふと、四月の祭は卯の葉の神事の名で、今も新暦五月の上の卯の日に行はれて居るといふが、之に對する十一月の祭はもう最近の調書の中には見えない。私などの注意したいと思つて居ることは二つ、一つは二月十一月の埴使《はにづかひ》といふ行事が、別に卯日祭の前にあつて、嚴しい潔齋の下に大和の畝火山に赴いて祭をした。近頃は汽車に乘つて行くさうだが、以前は騎馬行列で十日も前から出發した。是と四月十一月の本祭とは一續きで、もとは別々のものでは無かつたやうに感じられるが、その實驗を書き留めたものはまだ見ない。それから今一つは卯の日に祭をすること、是は中の日に次いで吉い日であつたと見えて、伏見の稻荷社以外にも之を用ゐる者がある。たとへば宇佐の八幡でも二月と十一月の卯の日を祭の日にして居られる。どうして卯の日を重んじたかは、將來考へて見なければならぬ問題であらう。

　

　　註一　六月十二月の十六日を以て行はれる神宮の月次祭は、その毎月の御祭の爲に一年二回だけの勅使が立つので、最初から毎月の例幣があつたものが、略して二度になつたのでは無いといふのが、伊勢の學者の説であつて私もそれを當つて居ると思ふ。たゞさうすると一方の神祇官の六月十二月の祭が、幾分か説明しにくくなるやうな感じはある。

　

　　　　　八　石清水と北野と祇園

　

　伊勢の神宮を別にした二十一社の中で、十五はともかくも二四十一月の系列に屬すべきもの、もしくは多分さうであらうと思ふものである。他の一つの廣田が私には不明、今二つの丹生と貴船もたしかでないが、まづ其外であつたらうと私の推測して居るものであつた。この合計が十八社殘りの最も有力なる三つの大社は、石清水が八月十五日、北野が同じ月の四日又は五日、祇園は誰でも知る通り舊六月の朔日から十四日までが祭日であつた。僅か三つの例外(203)と謂つてもよい數ながら、現在日本の十萬幾千といふ獨立神社のうち、粗い見積りをすれば約半分といふものが、この三つの御社の神を勸請し又は奉齋して、之を鎭守とし、産土神とし、更に又氏神とさへもして居るのである。必ずしも本社と同じ日に祭をして居るとは限らぬが、少なくとも寛平七年の官符に示された法則に、遵由しなかつた例は本社から示されて居る。是が我邦の祭日制度の變動に、強い影響を與へて居ることだけは否まれない。それで今度は一つ此點を問題にして考へて見なければならぬ。

　この三種の有力な神社を總括して、前に列擧した十五の社と對照する場合に、一方には備はつて他の一方には無いといふ特徴が、幾つか有るやうに私は思ふ。その一つは一言でいへば新しいこと、是は正史が示して居る如く、三つの社の創立は月日までが判つて居り、又その創立の事情も明らかに記録せられて居る。一方の十五社の方にも大原野吉田の如く、新たに立てられたものがあるが、是は分靈であつて傳統は既に存して居た。その他は先づ前々から在つた御社に、段々と朝廷の崇敬が加はつて來たといふに過ぎぬのである。第二の特徴は氏人といふものの無いことである。三社の方でも石清水が紀氏を重用し、武内宿禰を末社に祀り、北野が菅家の後裔を優遇せられたやうな傾向は見られるが、信仰は最初から汎く一般に及んで居たので、餘り強く此方針を推して行くことは出來なかつた。殊に石清水の如きは宗廟などといふ語を用ゐて、伊勢と拮抗して皇室をさへ引込まうとして居たのである。さういふ立場から考へて行くと、新たに氏人を確立するといふのも、御社としては望ましいことでなかつた。それで別當以下の社僧たちは、たゞ世襲の特權を以て滿足し、神との因縁をそれ以上に主張しなかつたし　さうして一方には又他の多くの舊社の氏人たちも之に倣ひ、神の恩�ｺを遠く一般に施すべく、自ら制限してほゞ是に近い地位に降ることになつて居たのである。最初氏人等の祀つて居た神だといふことが、不明になりかかつて居る御社は十五社の中にも有る。分けても日吉などは山法師に獨占せられ、彼等には又子孫も先祖も無いのだから、一應はすつかり面貌を改めてしまつたやうなものだが、それでもなほ我々は細々と傳はつて居る前代感覺、殊に祭の日が古來一般の慣例に同じいといふことか(204)ら類推して、爰にも曾つては小さな一群の居住者が、春毎に物忌して山の上の神を、迎へ祭つて居た時代のあつたことを推測し得る（一）。さういふ祭り人には中心が勿論あつた。それが零落したり移轉したりしてしまへば、神社の祭は絶える場合が多かつたらうが、大きな記憶や感激は殘んの住民の間に傳はつて、少しは變質しつゝもなほ維持せられるものが、往々にして有つたらしいのである。

　第三の特徴は宮寺思想の徹底、即ち日吉や後世の鎭守神より以上に、神を祭ることを唯一の目的とした寺を建てることで、神宮寺の御手本ではあるが、それよりもつと神樣と接近して居る。宮寺の意味は宮に屬する寺といふよりも、寧ろ宮と謂つてもよい寺といふことだつたらしい。つまりは佛式で神を祭らうといふのであつた。北野は石清水に倣つたか、夙くから自ら宮寺と名のつて居る。祇園に其名があつたことはまだ知らぬが、最初の感神院の如きは寺そのものであつた。こゝで僧侶に計畫せられた祭典が、もしも國固有のものと同じかつたら寧ろ妥協である。さうしてその妥協の跡も少しづゝ見られぬことは無い。

　第四の特徴は祭に風流の伴ふことで、その爲に渡御が花々しい見ものとなつてゐる。是は現在は汎く採用せられ、是の有り無しを以て大小の祭を區別し、又は神事に色々の催しものが添はぬと、祭でないかの如く思ふ人さへ多くなつたが、歴史に見えて居る最初の風流といふのは、何れも其用途が甚だしく限られ、或は之を以て荒ぶる神を和め、畏るべき靈の注意を他に轉換させるのが、目的であつたかとさへ見られる。神が祭の庭に御降りになるのは必然であつても、或は夜陰に人知れず、其際人民は家に閉ぢ籠つて覗いてもいけないといふ例もあり、又は御渡りには疾風高浪を伴なふものゝ如く、言ひ傳へて居る土地も少なくないのに、是等の新しい御社では、最初からこゝを外から來る人々の、見物の中心として居たのである。御輿の装飾の美しいといふ以上に、形も彩色も他の種々の設備と調和しないのは、たとへ今日は既に普通になつて居るにしても、なほ其根源が都市の成長、交通往來の頻繁化に伴なうて居たことを考へずには居られない。

(205)　最後に更に顯著なる第五の特徴は、是等の祭式の直接に農作と關係しなかつたこと、それよりも祭の總體の目的が、望ましいことを望むといふよりも、寧ろ厭はしいことを避けようとして居た點であらう。今の考へ方では、災害の全く無いといふのが生産の效果に向つて行く道であり、天下太平は即ち五穀成就の前提とも云へるか知らぬが、我々の祖先たちは、枉津日神《まがつひのかみ》の存在を信じて居た。一方尊い神の惠みによつて、折角安らかに進まうとする生活でも、?々横あひから全く意思を異にする神が現はれて、破壞し攪亂せられる場合が、有るものとして怖れて居たのである。それも大神の底ひ知られぬ思召しであるやうに、近世の神道史家は説かうとして居るが、さういふ解し方が昔も今も、果してあつたかどうかはまだ確めることが出來ない。ただ幸ひなことには力ある多くの神々の中には、特にさういふ荒い小さい神、或は諸靈と名づけてもよいものを、押へて働かせぬやうにする威�ｺがあり、人が懇願すれば其災害を、事後に又は豫め防止なされるといふ風に、いつの頃からとも無く我々は信じて居たのである。新しい言葉だが、私たちは之を統御神と呼ばうとして居る。我々の代々祭つて來た村の神一門の神も、その統御の御力は無論具へて居られるのだが、相手があまりに多いか又は餘りに猛烈であると、時々は御手がまはらぬこともあるものと、思はずには居られぬことが折々あつた。さうで無くとも斯んな場合には迷ひやすい。確かに統御神といふことが知られて來ると、我氏神を經由せずに、直ちに此神を祈る者が多くなるのも自然である。是が佛教の模倣以外に、參詣と稱する最も小規模な臨時祭が、民間に波及した一つの原因であつたが、しかも我々は群共同の力を經驗して居るので、一人一人の祈願よりも、同じ日同じ時刻の祭禮に參加しようとした。それが新たなる三つの御社の祭を著名にし、その御分れの社の數を多くし、更に祭は斯ういふものといふ概念を、普遍せしめたやうに私などは考へてゐる。統御神の信仰は無論實驗に基づいたものであらう。祇園と北野とは巫祝の口を通じて、自分が災ひの神の首領であることを言明せられた。憤り暴れるものは我が眷屬であるから、大抵は統御し得られるとも御告げなされた。それに對する不信者はもとは無かつたのである。石清水は之に反して、御力を是に傾けられたのでは無かつたけれども、兼て最も力強い勝利の(206)武神と仰がれ、且つその數多い配下の中には、短氣な又は惡戯な荒神も有ることが知られて居たので、特に御威力がこの方面に發揚したものであらう。ともかくもこの三つの大社の祭が、二四十一月の外であつたことゝ、是に奉仕する者の念願する所が、後世新たなる擴張はあつたけれども、本來は好い事の助長よりも、凶事の排除の方に片よつて居たといふことゝは關係がある。御靈や今宮のやうな二十二社以外の御社、又は廣瀬龍田の初秋の祭、丹生や貴船の祈雨の祭などと考へ合せても、それが災害の起りやすい月、もしくは生産業の不安が最も忍び難い季節に行はれたといふことゝは、偶然とは思へない關聯があるのである。

　

　　註一　伴信友翁の瀬見小河には、傳教以前に比叡山麓の神社が、祭られて居た日の事をやゝ詳しく想定して書いてある。賀茂と日吉とはもと一つの神の兩處の祭であつたといふ説で、それには幾つかの記録の支證があつた。たとへば日吉社の初期の神職は、祝部氏であつて賀茂氏と系譜を同じくして居る。以前の小比叡神の山上の祭場は、鴨の御蔭山の祭場と近い。この二つなどが有力なものと思ふが、自分もこの以外になほ若干の、さう考へてもよい論據を見つけて居る。

　

　　　　　九　稻の収穫と祭の日

　

　神社の信仰に昔今の變遷があつたことは誰でも言ふだらうが、それを簡單に具體的に説く爲には、若干の新たなる操作を必要とする。といふわけは、言葉のみ元のまゝで内容のよほどちがつて居るものが一方に有るかと思ふと、外形はすつかり改まつて居て、その心持には存外に古い世のものを留めて居る場合が少なくないからで、結局は國民の常識になるやうな概括した斷案を下すにしても、それには先づ出來るだけ隅々に行屆いた調査をして置かなければならぬ。今までの解説は少しばかり、一端を以て全體を推した嫌ひがあり、それを忠告する途が無いのに苦しんでゐたが、今度は偶然にも新たに第一歩から、踏みなほすやうな機會が來たのである。祭日の研究などは、ただ一つの方法(207)に過ぎぬとも云はれようが、最も普遍なる且つ省みられなかつた事實であるだけに、新たに問題を提供し、又幾らでも證據を精確にして行くことが出來る。私の知つて語り得ることは僅かでも、この方法は今後の役に立つであらう。何よりもさきに云ひたいことは、神道の書物は是ほどにも充滿して居るが、之に基づいて眞に我々の知らんと欲するものを、明らかにする望みは無いといふことである。事實の切れ／”＼なものは偶々傳つて居ても、之を數多く集め合せて調理しなければ必要なる知識にはならない。それには單なる理性の判別といふ以上に、今まで自分たちが文書の外に於て、積み重ねて居る經驗を以て、解釋を補充することが何よりも大切である。乃ち普通の史學者が到底見込無しとして斷念するところにも、民俗學のなほ働き得る區域は有るのである。その點をただの放言として聽き流されないやうに、私は以下の研究に於て實證して見ようと心がけてゐる。完成は恐らく次々の同志がしてくれるであらう。

　手近な一例は全國各神社の現在の祭日、是は何處かに統合した臺帳が備つてゐる筈であるが、それを拾ひ出してどのやうに辛苦な計數を取つて見ても、ただ散漫なる今の實?が看取せられるのみで、古來一定の法則のあつた國の祭日が、どう變つて斯くの如くになつたかを知ることが出來ない。しかも七十年前の新暦採用によつて、實際は九割九分以上が祭日を改めて居るのである。近頃世に出た神社大觀などといふ本は、國の大小神社の約一百に一つ位の割合で、ほゞ全國均等に主要なる諸社の現?を記載してゐるが、是にもいはゆる登録の例祭日を示すのみで、どうして斯く改まつたかを云はぬのは勿論、元は何日であつたかも、十分にはまだ示してはない。つまりは祭日又は祭の月が、どれ程その御社の信仰に取つて意義のあるものかといふことに、氣づかぬ人たちが編纂したのである。尤もこの單純なる排列の中からでも、何か共通の點又は少なくとも個々の地方の傾向といふものが、窺はれるやうな氣もするが、是とても改定の理由が區々である爲に、偶然に合致したものが稀ならず有るので、うつかり推測を下すとすぐに訂正される危險がある。

　祭日の變化に幾つ位の種類があつたかを、まづ知つてかゝる必要があるかと思ふ。再びかの歴史的なる二十二社の、(208)明治以來の祭日に注意して見ると、たつた是だけの間にすらも、わざと他とちがへたかと思ふほどの方向の差異が見られる。新暦は舊より一月あまり早いのだから、季節の點からすると一月送りが最も順當なのだが、それはお伊勢樣の十月十七日と、石清水の九月十五日と、賀茂の五月十五日と、春日の三月十三日との四つよりほかに無く、他の多くの社は數字の記憶を棄てるのが惜しかつたものか、松尾平野以外の十ほどの社は、事實日をくり上げて今の暦の四月を例祭として居り、しかも申とか酉とかいふ今までの十二支の日を廢して、毎年一定の日にきめてしまつたのは大きな變革であつた。二月もしくは四月と十一月と、一年に二度の祭をした御社で、すべて十一月の方を中小祭にしてゐるのも、やはり人出の多い花の四月に、何と無く引寄せられてゐるので、家が二代も代替りがすると、もはや祭の季節感のちがひを、氣にするものは無くなるかと思はれる。暦は朝廷の正月をさへ改めるのだから、新しい月日に依るのが至當だと、いふやうな理論も行はれてゐたかも知れぬが、事實元どほりの日を守つてゐるのは、廣瀬龍田の四月四日、北野の八月四日、その他には廣田や貴船が近世の祭日をつづけてゐるのみで、祇園などは昔の大祭の次の日、即ち六月十五日を以て表向きの例祭としてゐる。是は恐らく由緒ある臨時祭の記念といふ意味もあつたらうが、なほ一方には十五日といふ日が、何か祭の日にふさはしいといふ感覺も働いてゐるのではないかと思ふ。

　斯ういふ變更は、たゞ一つ一つの話の種にする限りは、學問としては價値が乏しいやうに思ふ人が有つても是非に及ばぬが、本たうは大きにさうでないのである。國々の十萬にあまる大小の神社でも、今は殆と皆新暦で祭の日を定めて居り、それが大よそ右に掲げて置いた四つか五つかの方針によつて、めい／＼に一社限りの、思ひ／＼な裁量をしたことは混亂のもとであつた。神社の沿革を明らかにしたい希望を抱く者には、是が月送りであれ、季節かまはずの日の保存であれ、どれか一つに偏してゐてくれたなら、臺帳の利用も出來たらうにと思はれるのだが、さうはなり切れぬ所に、實は土地毎のゆかしい傳統が潜んでゐるのである。一ばん困るのは、五月節供の柏餅の葉といふやうな、自然と約束をしたものが間に合はず、それで何だか本式の祭をしたやうな氣になれず、さりとて月を送つたのでは永(209)い昔からの法則を破り棄てた感じもするので、この二道の岐れには皆迷つた。草木の生長とか魚鳥の捕獲とか、もとは季節感を祭の前ぶれのやうに見て居たものゝ多かつたことが、土地と因縁の深い我邦固有信仰の特色であつた。暦はさういふことを顧慮せずに改められたのだから、是は祭り人たちに取つて、何よりも大きな動搖の種だつたと云へる。暦の全く見られなかつた古い世の生活に戻つて、自然を祭の日の目標にしたらよかつたのかも知れぬが、さうするのは又中間の色々の歴史が承知をせぬのである。是が將來に亙つて祭の日の決定を六つかしく、且つ複雜な問題にして居る元である。ところが爰に又一つ、もう多數の人の忘れかゝつてゐる要素ともいふべきものがあつて、それが偶然に幾分かこの問題を緩和しようとしてゐる。稻作と祭との關係が重要至極なものであることは、容易に何人も考へられることだが、その收穫の後に續くべき祭だけには、それこそ不思議にやゝ餘分な餘裕があつたのである。舊暦十一月は霜月の異名も有る位で、東北は素よりのこと、山の谷間も多くは雪に埋もれてゐる。農作に縁の少ない京都周圍の人たちでなくとも、どうして其樣に遲くなつてから、凍る寒夜に祭をしなければならぬのかと、訝る者は多くなつて來た。さうして太陽暦の輸入せられるよりもずつと早くから、その日を繰上げて九月の月中に、秋の祭を擧行してしまはうとする土地がどの方面にも多かつた。其傾向が神社大觀などの中にも、氣を付けて見ればやゝ顯はれてゐて、しかもそれは所謂除害祭の系統に所屬してはゐないのである。東日本でも山梨縣などは、近い頃までなほ多くの霜月祭が殘つてゐた。多分は地方性ともいふべきものであらうが、栃木縣、福島縣などには十一月の祭は殆と全く無く、北陸では加賀や能登半島などにも、絶無ではないが至つて少ない。近畿以西に於ても中國筋一帶、四國も多分その類かと思ふが、祭は大部分が九月のものとなつてゐた。それが新しい暦法に順應して、今では大部分十月の何日といふことになつたのである。十月は延喜の四時祭式以來、祭の無い月として世に知られ、それ故に神無月といふのだとの説もあり、少なくとも九月晦日から丸一ヶ月、神は御留守といふことになつてゐたのに、今や其反對に全國を通じて、最も祭日の多い月とならうとしてゐる。斯ういふ現象こそは新しい世の姿として、是非とも歴史に志有る者(210)が、疑ひ又尋ねて行くべき問題であつた。

　

　　　　　一〇　祭と精進との關係

　

　十月の祭は、伊勢の神宮で今日その最も重要なるものが行はれてゐる。即ち現在の公祭日の神嘗祭であつて、太陽暦以前はいつの頃よりとも知れぬほどの昔から、九月の十七日といふのが其日であつた。一方民間の十一月の新嘗祭日は月を更へてゐないのだから、是で約一月接近したことになるのだが、曾てはこの二つの中間に、二箇月に餘る日子があつたのである。諸國に分布する神明宮は、何れも伊勢の大神を勸請したものと傳へられ、東京附近を始め他の多くの地方にも、往々にして九月十六日を祭日としたのがあるが、是を私は必ずしも古くからのものとは思つてゐない。その理由は幾つもあるけれども、それは他の機會に於て説いて見たい。少なくとも九月を祭の日にした村々の神社の種類は多く、八幡にも天神にも又熊野社にも、稀には春日日吉等の勸請社にも、本社の祭日とは考へ合さずに、九月の或日を以て祭をしてゐて、今は新暦の十月に改めたものが多いので、それが伊勢の御祭の遵奉であつたとは云ひ難い。或はさう承はつてやゝ心強くなつたといふことはあらうが、ともかくも是は農民の最も祭を營みやすい月、又は最も祭りたがる月であつたからと説明するのが正しからうと私は思ふ。

　然らばその神祭りにふさはしい舊九月をさし置いて、何故に霜深き仲冬の日を待つてゐたかといふことが、必然に問題にならざるを得ぬだらうが、是はたゞ神宮と皇室と、又は神宮と民衆との生活の差異を考へて見れば、簡單に説明のつくことであつた。つまりは嘗と呼ばれた收穫後の祭には、永い物忌の期間が本來は必要だつたのである。伊勢には常勤の物忌の役があつたので、稻が苅取られて調製を終るならば、直ぐにも神樣の祭に取掛ることが出來た。之に反して農民は常の生活をしてゐる。それが此祭に奉仕するに適した精神?態となるには、昔は一月以上も嚴しい謹(211)慎を經なければならぬとしたのである。その戒律の一つには、男女の分離があつたといふことも古歌には見えてゐる。それは或は一般的のものでなかつたにしても、この祭の爲にさし控へなければならぬ行爲が、まだ幾つかあつたらしいのである。外部との交通の制限、雜音の禁止、結んだり曲げたり火に焚いたりしてはならぬ物の色々、乃至は或種の作業に手を着けぬこと等、今でも一部分が短い期間の潔齋には傳はつてゐる。佛者の素食とはちがふが、食物にも若干の拘束があつた。斯うして靜かに家の中の生活を續け、稻は稻村に積み上げたまゝ、祭の來るまでそつとして置いたので、ニホとニフナメのニフとは關係のある語だらうと、早く折口氏などは注意してゐる。此禁戒は勿論夙に弛み、そんなに迄せずともと思ふ人は内外にあつたらうが、それでも十一月の祭を引上げる爲には、更に新たなる忘却が必要であつて、單なる不便といふ理由だけでは、九月の祭といふものは創始せられなかつたらうと、私などは考へて居る。

　實際に我邦の神道の歴史には、始終一貫してこの齋忌の退縮といふことが附き纏うてゐた。新しい時世の進みと歩み合つて、是をどの段階に於て保存するかといふのが歴代の問題であつて、もと／＼理論では無いから人によつて好みがちがひ、一方にはみそぎを強制しようといふ程の熱信者が有るかと思へば、他の一方には神主に葬式を掌らしめようといふやうな、きたないことを望んでゐる者もあつた。祓へば何でも清まるといふ説でも、忌は守らずともよろしいといふ御符でも、すべてこの中間のとつおいつであつて、つまりはさういふ氣にかゝる條件のあることを、まだ全然無視し得ぬ?態に在るのである。此點から考へるとなんにも知らないで九月の祭を始めた人の方が素朴でよい。現代は到底一つの違犯も無しに、三月越しの齋忌を完成し得る世の中ではないからである。一家に一人の代精進をする者を設けたやうに、神職を專業にして是に物忌を委ねるのも方法であらうし、其他又新たに最も穩健な解決も考へられるであらうが、ともかくも現在まだ十一月の祭の有ることを知つてゐる者だけは、やはり一通りはこの寒い頃の祭が、本來どういふ理由で始まつたかを、理解して置く方がよいやうに思ふ。それは同時に又同胞の多數が、幾多の(212)憂愁と不安を打越えつゝ、けなげに活き續けて今日に達した道を、理解する機會でもあるからである。

　物忌と祭の日との關係は、後にも何遍か説かなければならぬ折があると思ふが、爰で云ひたいのはこの九月の祭といふのが、突如として外から學んだものでは無くて、やはり毎年の重要な秋冬の祭の用意を、開始する一つの式であつたのが、次第に獨立して是だけで完了するものと、考へるやうになつた結果ではないかといふことである。九月九日の重陽は、支那の古くからの節日の一つであり、我邦では宮廷には別に之に伴なふ大きな式は無かつたが、陰陽道の人たちは夙く之を説き立て、或は毎囘の吉日を選定する代りに、祭にこの日を推薦したかと思はれる外に、佛教の方でも大きな寺の鎭守神、殊に五所とか七所とかの神々を合せ祀つた惣社には、特に或一つの神の日に依ることが出來ぬので、この日を祭日と定めた例も數あるが、彼も是も共に九月が日本の祭にとつて、大切な月であることを認めての採用かと、私は考へてゐるのである。九日を重んじたといふだけは支那風かも知れぬが、苅入が既に終り稻鳰が積まれて後、愈々秋の物忌に入るといふ慣習だけは、佛陰二道よりもずつと以前から、もう農民の間に普及してゐたのでなかつたら、さう安々とは彼等から眞似取ることが出來さうも無い。だから三九日と稱して稻成熟の?況により、十九日にも又二十九日にも、この御九日を送ることもあつたのみか、ちやうど此月の滿月の頃を祭の日にした例も多く、更に下弦の九月二十三日を、特別の日としてゐるものも稀ならず有る。乃ち御手本は何處にも無くても、九月を秋の祭とする傾向は、前から我々の中にあつたらうと云へるのである。

　それからなほ一つ、三月を春の祭とする御社が、近世は段々と多くなつて來てゐる。二十二社の中には廣田より外には無かつたが、村の祭としては是は相應の數であつて、しかも花散る頃の鎭花祭ともちがひ、やはり所謂｜吉祓《よしのはらひ》の系統に屬する祭であつた。此祭の起源はまだ私には説明が出來ない。或は九月の祭が現はれてから後、ちやうど正月に對する盆のやうに、一年を二つに分けて相向はしめたものとも考へられるが、何かそれ以上に深い原因が有つて、今はまだ隱れてゐるのかも知れない。三月十八日が觀音の日といふ以上に、やゝ變つた日であることは、古くから自(213)分も注意してゐる。三月十五日も關東から東北にかけて、梅若忌などと謂つて特別の行事がある。さうしてこの二つの日は、神社の祭日にも?々なつてゐるのである。三月九月といふ組合せの春秋祭は、近世は地方によつてかなり多くなつてゐる。是が新暦時代には半分以上、四月の例祭となつて臺帳の上には現はれてゐるのである。まだ精確に算へては見ないが、神社大觀などの祭日には、四月は事によると十月より多いか、或は少くとも之に次ぐ數を示してゐる。此中には勿論二十二社中の四月十一月の如く、舊暦時代からの四月の祭が其まゝ持續せられて、この月送りの四月と入り交つてゐるのである。

　

　　　　　一一　式社考證の弱點

　

　祭日研究の第二種史料としては、栗田先生の神祇志料や、特選神名牒の類が擧げられる。前者には明治四年の自序があつて、ちやうど新暦施行の直前の事實であり、後者は明治七八年の交に、ほゞ出揃つた各地の報告を利用したもので、特に祭日の點に注意が拂つてある。さうしてこの當時はまだ日を改めずにゐたものと、既にいちはやく新暦にしたものとがまじつてゐるのみならず、此頃一度きめたものが實行しにくゝて、もう現在は又別の日になつてゐる御社の、その中間の?態さへ窺ふことが出來るのである。神祇志料の方には、全體に祭日の記事が乏しいといふ憾みはあるのだが、今ある活字本には後からの加筆があつて、たとへば大和の部には奈良縣神社取調書と云つたやうな、新しい事實を補足した地方もあり、この中には現在の祭の日を示したものが多い。故にこの二つの書は、何れも相應な注意を以て讀みさへすれば、之に關する過渡期の實況を理解する助けにはなる。全體に延喜式神名帳の註釋といふものは、場處はどこだといふことゝ、何といふ神を祀つてゐるかといふことゝだけに、力を入れ過ぎる癖が昔からあつて、それも人毎に意見がよほどちがつてゐた。勿論新しい説は改良せられ、斷定もよほど穩健に近くはなつてゐるが、(214)ともかくも起源を説く方にばかり熱心で、沿革を考へるといふことにおろそかであつた。明治以前のものでも、鈴鹿氏の神社覈録などは新しいだけによく諸説を綜合してゐるが、祭日の點は尋ねて書き込まうといふ志があつたばかりで、其欄は殆と空白のままで殘つてゐる。だから斯ういふ種類の書物だけをただ集めて見ても、古い限られた國中の諸社の、其後如何なる變遷を經たかすらも明らかにすることは六つかしく、まして是から全般の趨勢を測定するなどといふことは出來ない。神祇志料と特選神名牒とは、精細なことにかけては前著を凌駕するが、やはり同じ類のやゝ優れたものといふに過ぎなかつた。さうして近年の神道史研究者などといふ者は、是だけのものをすらも、よく讀んでみようとはしなかつたのである。

　いはゆる式内社の考證は、終始驚くべき割據的であつた。中央には全國を總攬して見ようとする學者が、二人や三人はいつの世にもゐたけれども、もと／＼文書に依る知識であつた故に、地方の實地を調査したといふ人の見解には、常に一目を置かざるを得なかつた。しかもその實地といふのが、我社とその周圍、即ち利害にやゝ囚はれた人々の、斯くあれかしといふ想定が多かつた。もしも東京附近の虎柏神社や青渭神社のやうに、同時に三方四方から異なる主張が起るやうな場合でなかつたら、どんな附會の説にでも一應は聽かなければならぬやうな、假定ばかりが幅をきかしてゐた。それにも拘らず、今日はその最終のものがほゞ確認せられて、式内社であると否とによつて、行政上の待遇が可なり著しくちがつてゐる。その弊害は色々有ると思ふが、第一是では神道の變遷を、祭日の側から見てゆくことが非常に困難になる。延喜式以來の一千年間を通して、信じ祭られた多くの御社の、尊さ有難さを知らうとする者にも、大きな妨げになるのであつた。

　日頃感じてゐることをこの際に述べるならば、三千一百餘の地方の舊社を官帳に登録した時にも、すでに情實が有つたらうと云はれてゐる。それまでは疑はれぬとしても、少なくとも地方廳毎に、査定の方針の差があつたことは認めなければならぬ。早く開けた近畿は別として、諸國の官知の社の數にはあまりなる異同がある。大和の二百八十六(215)座に對して、中國は安藝がただ三座、長門が五座、九州では兩肥日向が各々五座、薩摩は二座しか無いのに、壹岐對馬だけは二十敷座づゝある。東日本では、伊豆半島のみは獨り飛び拔けて、殆と陸奧全體に近い九十二座の社の數を持つてゐる。又郡毎の差異をいふならば、近江などは湖北のたゞ二つの郡が、他の周邊の九郡の社の總數よりもなほ多い。分配が均等でなかつたといふことは、公けに知られない神社のなほ多かつたらうことを推測せしめる。それは悉く絶えて跡も無く、一方式社のみは今も何處かに必ず存續するものゝ如く、きめてかゝつたといふことが論理の誤りである。神名の記法も土地毎に區々なやうだが、たとへば何某氏の祭る神は、其氏が移つてしまへば祭らなくなるのは當り前である。某地に坐す神の存續する爲には、民居がそこに在り住民が血筋であることを條件とするであらうが、今ある家の遠祖が三百年の昔から、そこに入つてゐたことを證明し得る者すら、近世はもう拾ひ上げる程も無いのである。それでも地名が變らずに有るならば、系圖はたとへ無くとも、まだ祭り人の後裔だと見られるかも知れない。僅か片端ばかりの音の近似ぐらゐで、爰がその社といふに至つては間違つてゐる。神の祭場には大よその地形の約束がある。後日再び同じ場所を見立てゝ、新たに異なる神を齋いたのも多からうに、今は何々の神と變つてゐるがと、云つてすませてゐるのはどうしたものであらう。是では到底現在の祭式祭日を以て、古代を推すことは私には出來ない。

　京都周圍の名ある大社の中には、記録に隙間なく痕を付けて、續いて來られたのも勿論多い。國々の遠い境にも、さういふ神社は捜せば相應の數になることであらう。假に若干の盛衰違亂はあつたとしても、それ等の御社の現?には、必ず何物かの傳はつてゐるものが有る。しかし實際には安全の限度があり、それも決して分堺の立てられぬものでは無いと思ふ。是とたゞ儘かな名稱の聯想ぐらゐで、式内社ときめてしまつたものとを一緒にするから、その價値ある資料が何等古代信仰の理解に役立たぬので、それでは先づ第一に由緒正しい御社に對してすまぬと思ふ。平たい言葉でいふならば、式社の認定といふことは、吉田家の懷柔策に過ぎない。それが因縁となつて、一時この研究の流(216)行したのは惡い事でもないが、それを實地に適用したことは行政の失敗といふべきである。我々はもつと明白に不明といふ事實を公認して、之を學者の問題に委ねてよかつたのである。それをしなかつた爲に不愉快なことが地方には起つてゐる。式社の取合ひもその一つだが、或郡では神名帳の社の數が、目ぼしい郡内の現在の神社よりも多かつたので、誰か小賢しい者を働かせて、よいぐあひに式社を是に配當してゐた。それでもう何處からも抗議を持出す者はなく、我も人も共々にそれを信じ切つてゐるのだが、よく見ると根據の有るものは半分もないのである。私の祭日研究が、二十二社などの最もありふれた實例に據つたほどに、特選神名牒の記載を尊重しないのは、必ずしも改暦期の無方針な改定を含むからと云ふだけではない。現在多數の認定式社には、以前も議論があり是からもなほ討査しなければならぬものがあるからである。たゞもしさうかも知れぬと思はれる程に、創立も久しく慣行も古いとすれば、關係者は無論一層の注意を拂はなければならない。延喜式時代よりも以前から、又その後も引き續いて、重要な澤山の神社が創始せられ、それにもやはり衰へて不明になつたものが多く、或は多少の變化を以て殘つて居るものが有り得る。それを全く學問の外に置いてゐたことは栗田先生等の不注意であると私は思ふ。

　

　　　　　一二　宮座と霜月新嘗

　

　式神名帳の注釋に比べると、第三種の史料は雜駁な代りに數が豐富なので、まだ若干の新しい暗示を供與する。明治以來の編輯に成る各郡誌が即ちそれで、是も例の式社認定の渦卷には卷き込まれてゐるが、神社の簡單な事實を列擧する場合には、祭神社格の他に祭日を載せたものが多いので、その變遷まではわからぬにしても、大體の傾向だけは氣づくことが出來る。實際に又攝社末社といふまでの關係はなくても、地方の大きな御社の祭の形態は、今でも或程度までその附近の人の、祭といふものに對する概念を支配してゐるやうである。勿論郡誌にも大小精粗の差は著し(217)く、自分はまたその一部分しか讀破してゐないのだから、何等總括した説を吐くことも出來ぬが、少なくとも之を數多く見て行くならば、古い氏神祭の頃の感覺が、今でもどれ程に殘り傳はつてゐるかを、大概は察し知る望みが有る。

　最も適切な例證とも云へまいが、自分の見てゐた中では岡山縣（美作）の久米郡誌などが有益であつた。此郡にはいはゆる式内社は一つもなく、又官國幣社に指定せられるほど大きな社もないのだが、縣社以下の各町村の神社は、今でも、大よそ同式の祭日をもつてゐる。最初に先づ舊暦九月、今は新十月に例祭と謂つて、大きな賑ひ祭を行ふことは中國一帶と同じであるが、別に其後先に四月と十一月と二度の祭がない社は少ないのである。この三つを大祭として登録してゐることは、或は祭祀令が出てからとも見られるが、その祈年祭は四月を通例とし、稀に二月があり、もつと稀に三月がある。即ち一方の十一月祭と共に、日は官廳の指定した日でないのである。十一月祭は一名を霜月祭とも云ふ。或は最初は學者に教へられたのかも知らぬが、之を新嘗祭と稱へたのも明治以前からの事であつた。その一つの偶然な證據は、栗里先生雜著にも援用せられた備前高月郷の頭屋行事であつて、日は毎年十一月の十五十六兩日、之をも古い頃から報賽新嘗祭と謂つてゐた。この備前の方の新嘗祭では、もう其頃から社殿では行はずに、頭屋と稱する舊家の主人夫妻が中心となつて、毎囘順まはりに頭に當つた家で行はれ、酒食以外にやゝ素朴に過ぎたる行事があつた。祭に先だつて十一月の朔日から、注連繩を引いて穢れを防ぎ、家内の男女悉く物忌をしたといふことである。即ち私の云ふ神無月の齋籠りが、もう霜月の新嘗からは切離されその又一つ以前の九月の祭の後に、豐の明りに該當するものを終つてしまふので、二つは別々の祭典の如く、看做される結果となつたのである。しかもその後の方の霜月祭は、備前では既に神社の行事の外になつてゐるのを、作州の方だけはまだ社務所が管理して居たのである。

　是が久米一郡だけの特色で無かつたことは、別に又證據がある。延喜式の神名帳を見ると、美作國十一座のうち、(218)大庭郡には式社が八つまであつた。それが悉く舊一村、即ち今日の眞庭郡湯原村大字社といふ一部落に、集まつて存するやうに作陽誌に載せてゐるのは、殆と信じられない程の變つたことだが、是には何か特殊なる事情があつたものと思はれ、今でも行つて見たらまだ其事情が判るかと私は樂しみにしてゐる。特選神名牒などは、是を聊か疑つてゐるやうに見えるけれども、とにかく他の古書にも之を認め、且つ三（ノ）宮から十（ノ）宮までの稱號もあり、そつ祭日も四（ノ）宮だけは四月十一月、他の七社は二月と十一月の、十二日か十三日かに皆其祭をしてゐた。さうして曾つてはこの社村全村が、八つの社の神領であつた時代もあつたといふのである。村に八つもの社を祭るだけの、力があり又必要があつたかは疑問であるが、察するにこの山村は、もと神職の群居する處だつたので、後々祭場を我が近くへ移したものであらうか。もしさうだつたとすれば、是は備前の頭屋祭に對して、ちやうど中間の一つの過程のやうにも見られる。ともかくも誰かゞ專心に、かかつて調べてもよい珍しい現象だと思ふ。

　備前の頭屋制に關しては、故島村知章君が詳しい報告を遺してゐる。必ずしも高月一郷の慣行といふだけで無く、此邊一帶に古い農家の間では是が行はれ、十年に一度といふやうな順番のまはつて來た年には、家の資力を傾けてこの十一月の祭を營み、親族姻戚は又米俵などを用意して之を援助した。或は最近の時勢では、廢罷に歸すべき舊習かも知れぬが、幸ひに記録は殘し留められてゐる。又續行しようと思へば幾らでも同志は獲られる。ただ我々はそれが何を意味するかを、知つてゐればよいのである。

　神社と宮座即ち頭屋の祭との關係は、土地によつて一樣でなく、或村では家に神職を招請して祝詞を讀んでもらひ、其あと一同で祝宴を開くを例とし、又或村では其反對に、拜殿を借用するが神職は之に臨まぬといふのもある。しかし何れにしても、團體は一つの神社の氏子に限られ、式の前後に一囘は必ず神に參拜することは皆同じである。最初の社の建物で擧げた式が、後に個人の家々へ持込まれたものと、解することは出來ぬやうである。以前の神社には拜殿の無いものが多く、幕を張り假屋を結んでも、雨や寒さに永く居ることは出來なかつたからである。家々の潔齋も(219)元は完全で、只の民家でも祭を行ふ爲に、十分清淨にすることが容易だつたからである。それよりも寧ろ九月の祭にのみ力を入れて、再び十一月の祭はくり返すには及ばぬと、思ふ者が多くなつた爲に、宮座が少數の信心者だけの特別團體の如くになつて來たのである。京都古習志を讀んで見ると、京都郊外の村々にも是に似た例がある。神社の例祭は夙く九月になつてゐて、別に舊家の氏子の間だけには、二月座十一月座などといふその月々の頭屋祭があつた。備前の方でも邑久郡の國幣中社安仁神社などは、頭屋の祭はたゞ本社の黙認した私の祭であるやうに謂つてゐる。即ち是が萬葉集よりも以前から、歴史に名高い霜月祭の繼續なることを、心づかぬ人が多くなつてゐるのである。

　

　　　　　一三　甲信山地帶の特色

　

　最後に第四種の史料として、今後も渉獵を續けたいと思ふのは、江戸期の下半期に於て次々と出て來た各藩の地誌である。是にも方法と態度の差異があつて、一樣に我々の知らうとするものを與へるとは限らぬが、何しろ非常な分量だから、其中にはきつと參考になることが多いだらうと期待せられる。是までに見たものの二三を紹介すれば、新編武藏風土記稿は、自分の家のまはりの事までが書いてあるので、日頃から親しんでゐるが、元來が村々役人の書上を基礎にしたもので、精確の評はあつても記事がやゝ事務的である。神社寺院なども由緒と格式、朱印黒印の類はよく調べて居りながら、土地にどの樣な信仰を植付けてゐるかといふ類のことは云はない。祭の日や式なども掲げぬ方が多い。之に對して仙臺領の封内風土記などは、編者が個人でよくあるいて見てゐるので、咏歎の情もよく顯はれてゐるが、この方は又土地にさう變つた注意するやうな事實が乏しいのである。參考の價値が大きいと思つたのは、前にもちょつと觸れた薩隅日地理纂考、是は最も新しい舊地誌といふ以上に、村々の小さい御社までも、祭日だけは殆と皆載せてゐる。さうして此地方が全國を通じて、最も延喜式の神名帳から、疎外せられてゐた區域なのである。次(220)にもう一つ、興味を以て讀まれたのは紀伊國續風土記、是も前三種と共に、近年の活字版が有つて比較的みつけやすい。この本の有難い點は、仁井田氏加納氏等の編修者が、何れも神社の歴史に深い興味を寄せてゐたことで、其爲に土地毎の記事が綿密である以上に、折々は是に全體を見て廻つた者の經驗によつて、平易なる解説を注記してゐるのが、住民にも又外部の讀者に對しても、又と無いよい手引である。自分も之に基づいて新たに心付いたことが幾つもあつた。

　それは自然に他の章に於て出て來ることゝ思ふが、爰でやゝ詳しく紹介して見たいのは甲斐國志である。此本も夙く甲府の人たちの手で覆刻せられてゐるのだが、其割には之を利用したかと思はれる言説が、少なくとも神道の方面には多くなかつた。しかもこの一著の最も大きな價値は、固有信仰に關する記事に在つたといふことは、將來必ず一般に認められると信ずる。甲州の特色は、たゞそれが他の地方と變つてゐるといふことでは無い。寧ろその反對に變らずにゐたこと、即ち中世以前に有つたものが、可なり多く其まゝに保存せられてあつたことである。接近した關係諸國とも是が異なる點であり、又信州でもたゞ山深い地方にのみ類似がある。其原因はやゝ想像に過ぎるかも知れぬが、久しい間の城代支配、奉行代官の行政が永く續いた爲と私は思つてゐる。良き大名に有りがちだつた單獨なる改革も無く、土地でも武田家以來の慣例を云ひ立てにして、出來るならば大きな變動を避けようとした。その二つのものが有期官吏の取扱と調和してゐたのである。もつと皮肉にいふと、吉見幸和乃至は平田氏一派のやうな、創意ある神道學者の出なかつた御蔭と云へるかも知れない。それが比較的早期に老實なる地方史家によつて記述せられてゐたといふ點に、我々の仕合せは保護せられてゐたのかと思ふ。

　何れにもせよ、甲斐一國のもつ祭の特色は、決して駿河と共通なる富士の信仰一つには限らなかつたので、それがどの程度に今も續いてゐるかといふ問題は、土地人にとつても又我々にも、甲斐國志あるによつて始めて成立ち得るのである。その特色を列記してゐたら話があまり長くなる。こゝに入用な二つ三つの點だけを擧げて、他は又別の機(221)會に讓るとしよう。先づ最初にいふべき一つは二四十一月、即ち最も古い中央部の諸大社に普通であつた年二度の祭日が、西南の鹿見島縣と共に、甲斐でもまだ久しく守られてゐたといふことである。現在は既に是が變化して、神社大觀などに掲げられた年一度の例祭は、四月が少しばかり、他の多くは九月になり十月にもなつてゐるのだが、甲斐國志の出た時代には、まだ算へ切れぬほど多く殘つてゐた。但し薩隅日が二月十一月に專らであつたに反して、この地方では四月十一月が最も多く、二月といふ方はずつと少ないのみならず、其以外になほ三月十一月といふ例が稀有とは云へない位もある。さうして何故にその中間のものが現はれたかといふ理由も、甲州でならば考へて見ることが出來さうである。三月十一月の組合せは、紀州の丹生高野明神社（貴志北村）などにもあつて、是も本社が山の上に在ること、又相隣した村の二つの社が、互ひに同じ日を以て祭に行き合つてゐることを特徴としてゐる。さうしてこの二處祭場と合同祭との二つは亦、次に述べようと思ふ甲斐一國の、珍しい慣行でもあつたのである。

　神を二つの異なる場所に於て祭る慣行は、信州諏訪の下社の春宮秋宮ばかりが、その代表的の例としてよく知られてゐるが、同じ祭の仕方はあの附近にも幾つか有るのみならず、甲州には殊にその系統のものが多く、且つ稀ではあるけれども遠く離れた土地にも有る。ちやうど一年を眞二つに分けて、六ヶ月目毎に移動の祭を行ふのが論理的に感じられるので、さうなつてゐる例も少しは擧げられるが、通例は一方の期間が他よりも短く、冬はやゝ遲くまで、春は又やゝ早めに、神を里近くへ御迎へ申す習はしになつてゐた。安藝の嚴島で十一月上の中の日の祭を山の口止め、二月の同じ日の祭を山の口開けと名づけ、其間だけは山へ薪を採りにも入れないことにしてゐたのもそれで、冬は乃ち靈山そのものが祭場と見られて居たのである。越後の伊夜日子でも、又江州の山王でも、後々の解釋は無論變つてゐるが、起りは是であつたものと私は考へてゐる。京都方面の舊い大社に於て、この第二の人間に近い方の祭場を御旅所と呼ぶやうになつたのは、それとはちやうど反對に、本の宮居に神のいます期間が永かつた爲であらうが、それは開けた都會地に在つて、冬の最中にも神に近づくことを得るやうになつてから後のことである。御旅所の期間は上(222)下御靈社では丸一月、稻荷でもほゞ其長さである。或は捜したらもう少し長く、假宮に御止め申す例もあるか知らぬが、本來はこの間の物忌が餘りにも嚴重な爲に、成るべく是を短いものにしようといふ傾向があり、殊に御靈の系統の神々は、寧ろ少しでも早く御送り申したいといふ念慮さへあつた。祭の催しものが美々しくなると、官廳奉幣の都合だけでは無しに、大祭を年一度とする計畫が段々と進んで、後にはたゞ一夜の夕朝の式典となり、もつと進んでは其日歸りの渡御祭までが多くなつたが、一家一門の代々の親しみある神には、そんなあつけ無い御別れは出來ない。それで追々と冬の御殿の方を、常の御住居として莊嚴するやうになつて來たのである。甲州のやうな山國に於ては、山宮は多くは老人や稚兒に參りにくい處に在つた。それが京近くでいふならば賀茂や日吉のやうに、麓の里宮を本社の如くに、奉仕するやうになつた元であるが、この一國だけではなほ兩方の御社に、ほゞ半分づゝの崇敬を分配する形を續けてゐたのである。話が長くなるから一つだけしか例を引かないが、東山梨郡の室伏村の山王さんなどは、四月の中の申の日に上神内川村の山王社へ神幸があつて、そこに十一月の中の申の日まで駐輦なされた。しかも此際には附近の他の二社の神々も、共々に渡御なされたので、乃ちこの場合の冬宮は三つ、夏宮はただ一つになつてゐたのである。

　神の合同祭といふことは、自分は新しい政策の結果ではないかとも思つてゐる。新しいと謂つても近世では無いのだが、ともかくも國司が國内の諸社を巡拜する慣例が衰へると共に、祭を大きくして世の中の愁ひを忘れるほど、樂しく面白いものにしようとしたことが、東京近くでいふならば府中の六所さまのやうに、幾つもの神社の御輿を迎へて、一緒に御祭り申した起原かと思はれる。それが全管内の神祇行政を統一する目的のやうに、總社或問などには書いてあつた樣だが、私はそれを信じない。總社とは謂つても、實は附近の古くからの社が集まるのみで、來られもしないからさう遠くからは來なかつた。寧ろ此言葉は大きな寺の鎭守に、さういふ祭をした方が元かと思ふ。この種の合同祭は全日本に亙つて多く、現に房州館山にもまだ大きなのが一つ殘つてゐるが、甲州一國には特に其數が多い。

(223)中に就いて尤も大規模なものは、國幣中社の淺間神社を含む三つの大社が、毎年四月と十一月の第二の亥の日に、合同の神事をなされたことで、その祭場は夏と冬と別々だが、もとは雙方ともにそこに三所明神の社があり、又その三つの神々をそれ／”＼に、一二三宮の名を以て呼んでゐた。しかも一方にはその一宮の淺間さまが、別にそれに先だつて山宮への神幸をなされたのであつた。外にも例が絶無ではないか知らぬが、この三つの祭場といふことは珍し過ぎる。思ふに以前の神幸の趣旨が幽かになつてから、新たに又一つの合同渡御の式を添へたものであらう。

　

　　　　　一四　祭日變化の五段階

　

　以上四通りの文獻資料の整理を出發點として、私は祭日變化の五つの段階といふものを考へて見ようとしてゐる。最初に先づその五つの名目を明らかにすると、

　甲　二月十一月、又は四月十一月を以て祭の日としてゐる神社。

　乙　二月十一月又は四月十一月の祭日の外に、更に一つもしくは二つの祭を加へてゐるもの。

　丙　兩度の祭日のうち、一つは二四月又は十一月であつて、他の一方の祭日が別の月になつてゐるもの。

　丁　春秋兩度とも又は年に一度、二四十一月でない月にのみ祭をしてゐるもの、新暦後の祭日は大部分が皆是である。

　戊　夏祭、但し中には夏の節を過ぎてゐるのもあるが、とにかくに神を迎へる日が、夏の初めより後に來るもの。

この五つで大體に我邦の神祭を盡してゐると私は信ずるのである。

　次にはこの五種類の祭日の、多さ少なさといふことを問題にするならば、甲の大いに少ないことは始めから判つてゐる。寛平七年の太政官符が出た時代には、國内で氏神といふものの祭は、原則として二四十一月の外には出なかつ(224)た。それが乙となり丙となつたのには、氏人の信仰乃至は社會の外側からの影響が働いてゐるわけだが、それが法則である以上は、いつかは悉く明白に解説せられ得るものと私は思つてゐる。祭の日は大體に不變のものであり、之を變へるには神々にも承認せられるほどの理由があつたらう。それが明らかにせられぬといふのは學問の無力であり、從つて人智が進めば皆問題ではなくなるべきで、たつた一つの困ることは、人がてんからそれを問題にしてくれぬことである。延喜式の公布せられたのは、かの寛平の官符から、たつた十二年の後のことである。その式中の神名帳に在るといふ御社が、もしも甲種の祭日をもつてゐないとすれば、何か特殊の理由が有つたか、又は始めから氏神で無かつたかの二つに一つである。氏神で無いとすれば誰が社を興し、もしくは年々の祭を奉仕したであらうか。この疑惑は神道の歴史にとつて大きなことである。それが今まで問題として提出せられなかつたのは、變なことだと私は思ふ。そこで最初に先づ式内だといふ御社の一つ／＼に就いて、どうして祭日が丙式丁式以下になつてゐるのかを問ふべきであるが、それをしてゐると再び我々の眼界は狹くなるであらう。故に一應は式内社を我々の研究の外に置いて、全體の結論が自然に之に答へるやうにするのがよいかと思ふ。延喜式より以後に出來たらしい御社の中にも、甲に屬すべきものはまだ若干ある。大隅薩摩の例はもう擧げぬことにするが、その場外にも各地に少しづゝそれが有るのは、私にはこの法則のなほ活きてゐた結果かと思ふ。關東方面では横須賀に接した武藏六浦の瀬戸明神、是は式内社で無いが四月十一月の中の酉の日が祭日と、新編風土記稿に見えてゐる。治承四年の四月八日に三島明神を勸請したものといひ、その伊豆三島社にも同じ日の祭があつたが、現在はその中間の八月十六日を大祭にしてゐる。若狹の賀茂村の高森明神、是も式社で無いが祭日は二月十一月の初午の日、伴信友翁の私考に杜本明神だらうとあるのは、たゞ森の字に據つた推測らしく、もしも河内國の杜本社ならば此方は四月十一月である。同じ甲類の中にも二月と四月と兩系が有るのは、私にはやゝ推測し得られる理由があるのだが、それは後で云ふつもり、さし當つて一つ問題になるのは、春夏と霜月の祭が同じ日で無く、一方は十二支、他の一方は日次できめたものが、段々と多くなつてゐることで、(225)是にも何か一つの暗示が有るものと私は想つてゐる。

　次に乙類と私のいふもの即ち二四十一月の中間に、一又は二以上の祭の日を挾んだもので、是は當然に數がずつと多いのみで無く、時としては前の伊豆三島社のやうに、後には是ばかりが大祭となつて、神の御幸の日を此方へ移したものが若干は有る。今日の官幣中社嚴島神社なども、六月十七日の法會の日を例祭としてゐる爲に、歴史に重要な春日社との一致は見られぬのみか、山宮の深秘も一段と會得しにくゝなつた。

　祭日の追加には、二つの道筋があるといふことを私は考へてゐる。其一つは二十二社などの臨時祭の後を追ふもので、地方の領主等が敬神の餘り、新たに一つの祭日を加へようとしたもので、通例は其爲に特に費用を出すべき土地財産を寄進し、又は當日の催しものの全部を調辨した。祭日の決定は、陰陽道の者に任せたらうが、やはり毎年の例となることを望む風があつて、自然に五節供の一つの日にきまつたらしい。さういふ中でも七月の節供だけは避けてゐるから、それで大よそいつの時代からといふことも察しられる。武家の臨時祭にも舞樂があり流鏑馬があつて、いはゆる雜人の群集は常であつたらうが、なほ風流の行列が沿道到る處、棧敷をかけ車を立て、樹に登り又は前に立ち塞がつて、見物をする者の雜踏したのには及ぶべくも無かつた。而うしてこの種の風流祭は、もと信徒側の一つの企であつて、上から指定した臨時祭では無かつたのである。御靈會が官行せられたことは成るほど正史にも見えてゐるが、是は初度で無く寧ろ時の風潮への卷込まれであつた。扶桑略記にも出てゐる岐神の辻祭などは、中心も尋ねられない程の隱れた計畫であつて、しかも後には幾つかの大きな神社の創立をさへ促してゐる。群が作つた祭の興奮は偉大なものであつたが、其爲に一方には祭を唯面白いものと解して、何か農村の娯樂を考へる場合には、いつも盆踊と共に祭禮の賑ひを思ひ起すやうになつたのは、信仰そのものから云へば衰頽の兆であつた。しかも近代に入つては、その感化が除害神の祭以外にも及び村の氏神社の春秋祭の中間に、納涼祭などといふ一つが加はつたものも多くなつてゐる。この納涼は無論神の御涼みである。夏は神樣も御暑いことだらうと、御心を涼しめ申す爲にちがひは無いが、(226)さういふ臨時祭は前には無かつたやうである。故に私などは是を一方の節供祭よりはおくれて、都會を御手本として流布したものと見てゐる。節供を祭の日に追加したかと思はれる神社は、九州の方では南北を通じて其數が多く、筑前志賀島の志賀海神社は式社だが、是などは七月七日を除いて、他の三度の節供と正月は十五日を祭の日としてゐる。さういふ中には此日をめでたい祝ひの日として休み、然らば神を拜まうといふことになつただけで、特に臨時祭とまでは言はれぬものもあらうと思ふ。東國でも次に擧げようとする鶴岡八幡の著しい例の外に、さういふ御社が伊豆の島々、常陸あたりにも幾つかある。朔日十五日と二十八日とを、御三日《おさんじつ》と稱して村の社に皆參り、社では其爲に燈明を上げ神供を備へてゐるといふなどは、東京附近の村々にもよく見られる。いつから始まつたか、さう古いことゝも思はれぬが、神を御迎へ申して一つの殿の内に祀るといふ心持が、祭の度數の増加に伴なつて少しづゝ變り、後には常の日も社内に駐りいますが如く、信ずる人たちの多くなつたことは事實である。それが正しいとか正しくないとかいふ問題とは離れて、是は少なくとも祖先の心持を、理解する上の一つの妨げとなり、更に又隣接諸民族のもつてゐる信仰と、比較をして見ることを幾分か困難にしたことは認めなければなるまい。以前に復るといふことは不可能であるとしても、以前を知るといふことは可能であり、さうして又必要でもあるのである。

　

　　　　　一五　神を山に送る

　

　次に丙類と私の呼んでゐるものゝ中にも、古來の作法の若干は含まれて、殘つて居るものと推測するまでは許されようと思ふが、是はうつかりと概括して、表や計數の上に出して見ようとしたら失敗する。近世の神社祭祀は、段々と其囘數を多くして來た。月の數はたつた十二しか無い。ほんの偶然に新たに二四十一月を、採用したものが無いとは云はれぬからである。さういふ中でも陰暦十一月は、嚴しい寒さの月で祭をすることは寧ろ不自然であり、もしく(227)は遙かに暖い土地での習はしが、持越されたものとも考へられ、從つてわざ／＼此月を選ぶ者も少なからうとも云へるが、四月に至つては舊新兩暦ともに、暑からず寒からず、今風の祭には最もふさはしい季節である。是のみで決して古い社だからときめられぬことは、獨りいはゆる東照宮の祭だけで無いのである。一つの鑑別の目標としては、例祭は大體に年一度になる傾向が著しいのに、之に對して別に年内にもう一つ、秋冬の間に祭があるもの、たとへば大和の三輪の大社の十二月のやうなのは、さうなつた理由は自分には解らぬが、昔の四月の名殘といふだけは考へられるだらう。九州の方では阿蘇神社の卯祭、今は三月だが舊暦では二月、二つの卯の日の間が祭で、年神の御輿を迎へて神婚の式があり、之に對して十一月半ばの紅葉祭はもとは十月であつた。紀州熊野の有馬の花窟の御社も、やはり二月に對して十一月で無く、十月の祭をしてゐたのである。一方には又十一月の祭日はまだ殘つて、之に對する春祭が三月となつてゐた例は甲州などに多く、もつと奇拔な組合せは六月十一月といふ二季の祭も、一つならず和歌山縣には傳はつてゐる。是も私にはほゞ説明することが出來て、やはり古い氏神祭の痕跡の一つのやうな氣がする（一）。しかし大體からいふと、十一月を神社の主祭とするものは、前にも岡山縣の新嘗祭に就いて述べたやうに、殊に近年は段々と少なくなつて行くらしい。例外と名づけてもよからうかと思ふのは、まづ山陰地方では但馬｜出石《いづし》神社の十一月の卯の日の卯日祭、出雲大社の十一月中の卯の曰の所謂龜太夫行事、同じく熊野神社の御狩祭、石見物部神社の十一月中の寅の日の鎭魂祭などがあり、之に對する二月か四月かの祭は全く無いわけでも有るまいが、今では至つて幽かなものになつてゐる。九州の北海岸地方には、幾つかの古社に十一月祭がまだ傳はり、中でも宗像神社の上の卯の日の祭は由緒の久しいもので、その多くの末社にも十一月十五日の望祭《もちまつり》といふのが、昔から多かつたことは既に述べた。此等などはまづ確かな保存又殘留といふことが出來るであらう。對馬では國幣中社の海神社にも、元は十一月初卯の祭があつたが、それよりも自分として興味が深いのは、この島南部の佐須村阿連、及び同村樫根の二部落に、社と村行事とのちやうど中間に在る十一月祭のあることが、初版の對馬島誌に詳しく出てゐる。樫根の方では是を天道祭と(228)いひ此島第一の神山たる天道山に向つて、潔齋した青年等が神を送つて行く式であり、阿連のも送り祭だが、神を頂上までは送つて行かず、たゞ社から五町ほど登つた森へ送つて行くばかりで、雙方とも婦人の參加をさせない爲に、後者では神を女性のやうに想像してゐる者さへある。實際に春は必ず再び御降りになることを、確信してゐた人々の祭であつた故に、是が御別れの祭だといふことを、氣づかぬ人が段々に多くなつてゐた。それをほゞ明瞭に對馬では意識してゐるのである。

　甲州の霜月祭が、里宮から山宮への引移りであつたことは、前にも片端を述べ、又非常に重要な點でもあるから、他日もう一度考へて見ようとしてゐるのだが、ともかくも是は東日本に於ける珍しい例外であつて、中部地方の最も交通不便な山間だけに、やゝ廣い區域に亙つて、この月の祭がなほ續いてゐるのは、偶然とは私には思はれぬのである。赤石から駒ヶ嶽への高い山脈を以て、甲州からは隔絶した天龍川水域の村々にも、聊か形を變へてこの月の祭が儼存する。以前遠山莊と呼ばれた信州下伊那郡の片隅に、和田を中心として六つの部落、六つの産土神の社があり、三つは八幡他の三つは諏訪を勸請したものであるに拘はらず、その例祭は古くから、何れも十一月の十五日に先だつて、二日にわたつて行はれてゐたことが、伊那郡神社佛閣誌に明記してある。近年この祭を敍述した「山の祭」といふ書物も出てゐるが、祭の中心は火焚きと神樂とであつた。天龍川を隔てた西側の多くの山村にも、同樣同季節の行事があり、信州新野では之を雪祭、三河に越えると花祭といふ名を以て呼んでゐる。近頃は一月の始め頃に行ふ者が多くなり、是を見物に登つて行く人が無數で、花祭の名は俄然として全國の問題になつたが、起りはこの祭日の歌舞と装飾とが、花と呼んでもよい程の信仰の絶頂を、表出してゐたことを意味するものと考へる。私は以前熊野人の移住が、この伎藝を山村に成長せしめた原因かと思つたこともあつたが、今に於て再考すると、それはたゞ二つの相似たる慣習の結合といふに止まり、土地にも此祭を花にする根株はあつたものと云はざるを得ない。單なる移植にしては其地所があまりに廣すぎて、なほこの四周の村里にも、併び存するものがまだ多いからである。

(229)　花祭雪祭の類には、堂があれば堂を使ひ、又は氏子の個人の家でも、清めて祭場にしてゐる例が多いが、それは霜月山村の夜の神態に、幕や假屋では寒さが堪へられぬ爲で、曾ては露地に大きな火を焚いて祭をした、剛健篤信の時代もあつたらしく、祭と御社との繋がりは、備前の頭屋祭よりも更に強靭であつた。さうしてわざ／＼この冬のさ中に、是だけの大きな式を擧げるのだから、たとへ一方の春の月の祭はもう全く絶えてゐても、なほ我々は之を二四十一月の殘形と見ることが出來よう。之に反して、一方の仲春又は初夏の片祭は、可なり著しい證據が無いと、是を二季の祭の存續と見ることが難いかも知れぬ。私の觀點は、之に對して現在は二つある。一つは對馬のやうに、神を送るのが十一月の祭ならば、一方は山から又は高い處から、神を迎へるのが二月又は四月の、祭の趣旨であつたと見てよいであらう。近畿中國の汎い區域には、卯月八日と稱してこの日山に登り、躑躅山吹石楠の花などを採つて來て、高い竿に附けて立てる天道花といふ村行事がある。東の方の諸國では之に對して、山に又は麓に在る神社が祭であり、之に參る者が至つて多いのである。その日は八日であり又は十五日であり、なほ滿月から七八日目の二十二日とした例も非常に數が多く、それが石城の海岸地帶のやうに、普通に神輿渡御の日でもあるのを見ると、たとへ一方の十一月の祭日は小さくなり、もしくは社を離れた民間の祝日に化してゐるにしても、なほ是を以て昔の定期祭の一片といふことが出來ようかと思ふ。加賀の白山などは平泉寺の口でも、又は美濃から登る長瀧寺の方でも、共に四月の八日前後が祭であつた。諸國の白山社も祭日は四月が多かつた。御山へ上るにしては四月は早過ぎる。即ち又山から大神の降りたまふ日であつたらしいのである。二月の祭の方は初午の日以外に、片祭になつてゐるものは數が少ないが、しかも東北六縣などはほゞ一般に、二月十六日を以て農神の日とし、神は此日の早天に空から御降りになるものと云ひ傳へてゐる。

　次に第二の觀點としては、十一月の神事は例祭の外に出てしまつて、民間の行事に近よつてゐるものが多い。誰でも氣の付くのはいはゆる七五三の宮參り、是は全國の約三分の一に、古いきまりの樣になつて行はれてゐる。參る人(230)々が限られてゐるだけで、事實神社の方ではこの十一月十五日を、小さな祭日の一つにしてゐる。村で家々の氏神屋敷神、地の神山の神を祭るのも、同じこの十一月十五日のものが多いのみならず、更に家々の中でニジフソ（二十三）とか太子講とかいふ名で、年々同じ神を迎へてゐる例も亦多く、それも此月の二十三日の夜であつた。此事は別に書いたことも有り、話すと又長くなるから、此たびは唯さういふ祭が、神社に十一月の祭の無い土地に行はれてゐるといふことを説くに止めたいと思ふ（二）。

　

　註一　尾張津島の天王樣は、舊六月の祭を以て東國に鳴り響いた大社であるが、こゝにも縣祭といふのが年に二度あつて、一方は十一月だが他の一方は正月になつてゐた。注意すべき慣行と思ふが、遺憾ながらまだ由來を考へることが出來ない。しかし此社の氏神的根源は今でも全く見つけられぬといふほどでは無い。

　註二　熊本縣の玉名と下益城と、南北二郡の郡誌を讀んで見たが、二郡とも村々の小さい社には十一月十五日の例祭が多い。その特徴は一村すべての社が皆同じ日であり、神の天神であり八幡であることゝは、何も關係が無いらしいことであつた。

　

　　　　　一六　農村の夏祭

　

　例祭が大きくなり年にたゞ一度となつて、愈々古代の二四十一月から、はづれて行くものゝ多くなるわけは、もう荒かた是で先づ説いてしまつた。御旅所が何であり御出が何を意味するかを考へようとしない氏子たちは、たゞ御輿をかつぐのに適した日として、幾つかある祭日の一つを選擇したのかも知れない。さうして段々に追加せられて來た臨時の祭が定例となつたものには、三五九月の節供のやうな時候の好い、附近に幾つも祭のある、且つ始めから力を入れてゐた祭日が有つたのである。だから丁類と私の呼んでゐる祭日には、一度乙又は丙を通つて來た、二段の變化があつたわけである。近世の神社の祭日には改暦以前からも是が恐らくは最も數が多く、又それに準據して最初から、(231)さういふ日をきめた新立の社もあつて、此中からは到底昔が復原し得られないやうにも見えるが、私は必ずしもさうまでは見切を付けてゐない。といふわけは記録があり又記憶があり、小さい祭として保存せられてゐるものもあり、更に九月や三月の祭日の如く、先づ一般的なる方向といふものも考へられるからである。春秋二つの祭日の組合せといふものが、意外になほ古い考へ方を殘してゐる。三月八月などといふ北陸地方に多い組合せは、私にはまだ見當が付かぬが、正月又は六月を一方にしたものは、やがて判つて來る時が來さうである。即ち兩者は共に祈年の祭の、繰上げ又はくり下げとも考へられぬことは無いからである。

　最後に戊類といふ夏祭系の祭日は、都會が普及の源であつたと推定して、大よそはまちがひが無いであらう。農村には大きな祭の企てられない月があり、又祭をしたいといふ月もあつて、現に八幡を十一月の十五日に、天神を十一月の二十五日に、祭つてゐる神社も西國にはあつたのに、江戸では山王社の大祭を六月十五日にし、六郷川口の海に近い八幡社も、やはり六月十五日を祭としてゐた（一）。是は最初の起りは天王社の祭日と關係のあるものらしい。他の夏祭の神々には地方に行つて、都合で日を改められることも毎度有るのに、天王ばかりは祇園でも津島でも、又村々の天王でも、きまつて六月の朔日から十五日までの間を祭にしてゐる。是は恐らく田の水の特に重要な時期で、川や堰ぜきの岸に以前から、水の神を祭る習はしのあつた所へ、後に牛頭天王のやうな行疫神の總帥が入つて來て、古來の年中行事を乘取られたものと私などは考へてゐる。胡瓜や川童の話が今もまだ天王に附屬してゐる上に、疫病神は都市の繁榮より後のもので、さう昔からの信仰で無い故にさう思ふのである。之に反して水の惠みと威力とを信ずることは、殆と稱作と同時に始まつたと見てもよい。程よく田を潤ほして溢れも崩しもせず、人と財寶を漂はさぬやうにといふ祈願は常に有つて、無論めい／＼の氏の神にも?つたのであらうが、何か其御力のみでは足らぬやうな、經驗をすることが屡々あつたのである。珍しすぎる言葉かも知れぬが、神�ｺの專門化といふことは是から始まつたやうに思ふ。日本に八十萬の神がましますと謂つても、一人でさう多くの神を信じたといふ意味でないことは誰も知つて(232)ゐる。つまりは氏毎に祭る神の數が、列拳も出來ぬほど有るといふまでのことで、桁は大分ちがふが國民を八十氏人といふのと、同じ心持の形容語であつた。それが自分たちの齋き祀る神以外に、自在によその神を信じ拜むことになつたのは、社會交通の自然の趨勢とはいひながらも、やはり斯ういつた最初の經驗に支持せられて、其信仰を分つたのが始めだと思ふ。國の敬神といふのは、本來は各人をして各々その信ずる所を信ぜしめるに在つた。それが期せずして全國ほぼ相一致してゐたといふことは、民族國家の最もうれしい點であつたのだが、歳を經る間に努力の差等を生じて、特によその氏人からも祈願を掛けられるやうな、大社を發生せしむるに至つたのである。その個人祈願の範を朝廷が示されたことは、佛法からの類推かと思ふが、今から顧みると不本意なことであつた。一つの氏族が幾つもの神々を信ずるやうになれば、その結合の弛むのも已むを得ない。さうして一方には專ら外からの信仰を引き付けようとして、氏人をたゞの巫祝にしてしまつた大社も多く、次には全く氏人を持たぬ、寺院と同じやうな神社さへ出て來たのである。以前も主神の御力に合はぬ事業として、他の小さな神々の助勢に委ねられた問題は少しづゝ有つた。しかしそれには最初からの統一があつて、いはゞ氏族の神の指導の下に、さういふ協力を求めたものだつたらしく、是が末社といふものゝ起原かと私は思つてゐる。次には一國に特に有力な神、或は氏神自らも生時には、共々に崇敬せられたかと思ふほどの大神の支援を求むること、是なども曾ては我神の同意又は發意によつて、行はれた時代が一度はあつて、今ある多くの勸請社、又は相殿といふことが始まつたやうに想像せられる。さうでなければ歴代の氏の神を、忽ち排除して省みなかつたといふことになり、さういふことはちよつと考へられぬからである。ともかくも人間の豫測警戒を超越するやうな大災害の出現があつて、其たびに祖神信仰の基礎が少しづゝ搖いたことが、日本の神道の變化の一原因であつて、疫癘の横行の如きは、今度の大きな不幸を除けば、恐らく最も新しく且つ最も堪へ難いものであつたらう。邑里に古くから有つた凶變としては、水の害が特に早く、是には二つの面があつて、水缺乏といふ方の苦しみが一段と廣汎であつた。雨を空から送りたまふ神が、別に在るかの如く考へられ出したのは古いことで(233)ある。雷電神も元は水の?の爲に拜んだやうだが、關東北部のやうな雷の多い地方では、是が又別種の新たなる災害に算へられてゐる。しかし雨と風とは我邦ではまだ地方的の現象と認められて、その統御を土地の神の管理に委ね、安心してゐられた農村も前には多かつたのだが、新田開發は大體に自然に逆行する事業だから、是が増加して來ると災難は過大になり、終に庇護者を氏族神の外に求めなければならなくなる。殊に怖ろしかつたのは害蟲の襲來で、是が豫想の付かぬ慘毒を流した結果は、新たに又氏神信仰の系統の外に、一種疫神とやゝ近い惡靈群の存在を信ぜしめるに至つた。是等の防止を目的とした祭の、二四十一月の系列に沿はぬものは當り前のことである。是には通例さういふ枉津日神の暴びの、最も起り易い季節を選定したことは、都會の御靈會なども同じであつた。ただ此方は風流の行列も無く、從つて又大きな群衆も無い爲に、全國一樣の型を作るには至らなかつたのである。火事が田舍の平和を脅かしたことも、或は近世に入つてからの特殊な社會相と思はれるが、ともかくも愛宕秋葉といふ類の新たな社は、氏神と獨立して數多く出現した。是には其神々の定まつた祭の日があつたのだが、土地によつては火事の年忌と稱して、大きな火事があつてから七年目十三年目等の當日を祭の日にしてゐる。その動機には、まだ省みられない宗教史上の問題が、潜んでゐるやうに私は考へてゐるのである。

　

　註一　東京の日枝神社が舊暦六月十五日を祭日にしたのは、八幡宮の六月十五日に準據したものらしい。關東では漁村の八幡宮は六月十五日だつたのが至つて多い。六月はつまり漁民の、祭をしたがる月だつたのである。さうして其一つ前の手本はやはり祇園の祭だつたかと思ふ。

　

(234)　　　　　一七　鶴岡八幡宮の祭日

　

　特に告白するまでも無く、自分の見解といふものには數多くの假定を含んでゐる。此まゝ是が受取られ記憶せられるといふことは、國の爲又學問の爲に少しも幸福なことでは無い。ただ私がやゝ成し遂げたと思つてゐることは、この問題が精神文化の大きな一項目で、いつかは何人かゞ明らかにせずにはゐられぬもの、出來るならば一國の常識として、その要領を後の世に傳へ置くべきものであること、次には大よそ自分の此方法でならば、次第に又恐らくは徐々に、問題に近よつて行けるといふことを明らかにした點である。從つて幾つかの假定の誤りを匡し、正しさを受合ふといふことは後の人の仕事である。都會で生れたごく少數の人を除いて、誰しも一つだけ自分の神社をもつてゐる。生れて三十日目の宮參りの日から、縁故があり知識がある神社があつて、自ら意識せぬまでも、大抵は之を足場にして神道の問題を考へようとしてゐる。その經驗は狹いかも知らぬが相應に確かなのである。それに照し合せて見て私の云ふことが、どこ迄當てはまりどの點が落付かぬか、つまりは信じてよいと思ふ部分がどの位あるか、それを決しつゝ讀んで行くといふことは、讀書の最も樂しい又昔なつかしい部分なのである。哲學や政治の學問には、丸呑みはしたくなくとも丸呑しか出來ぬものがある。其根柢となつてゐる事實の多くが、始めて知り又は理解するものだからである。我々の問題に至つては、事實が卑近であり、且つその一部分は檢査して見ることが出來る。ただ始めてなのはよその事實、多數の同胞も又ほぼ同樣の、しかも全然一つとは云へない生活をしてゐたといふことで、是は多くの場合には我々の興味を刺戟する。戰敗國民の沈みがちな意氣を、まとまつた知識と考へ方によつて、少しでも引立てて行かうとすること、是が日本民俗學に、新たに付與せられた一つの任務である。

　學問は結局概括を必要とする。その概括を出來るだけ簡明に、又意を安んじて記憶し得るやうにするには、今まで(235)少しも進まなかつた個々の事實の檢討の風を盛んにしなければならぬ。その御手本といふのもをこがましいが、私はこゝにほゞ知られてゐる三つ四つの大きな御社に就いて、祭日變化に關する自分の假定が、どれほど迄あてはまるかを試みようとするのである。

　一つは鎌倉の鶴岡八幡宮、この社の例祭日は現在は九月十五日、即ち舊暦の八月望、男山の本社とも一樣に行はれた、いはゆる放生會の日である。以前は四月三日を用ゐてゐた時代もあつたらしく、本來上宮下宮の二殿があつて、四月三日はその下宮の方の大祭となつてゐたが、事實は一年に兩度、同時に雙方の祭をしてゐたかと思はれる。他の各地の上宮下宮とは事かはり、爰では下の若宮の方が創立はずつと古かつた。康平六年（一〇六三）に源爲義が、奧州征伐の歸りに祀り始めたと傳へられる。今日の若宮學説では解し難いことだが、それから約一百二十年、頼朝が愈々鎌倉に入つて來るまで、この若宮だけが由比濱の海近くに立つてゐた。それを現在の地に御遷し申してから又十一年、建久二年になつて始めて上宮は勸請せられ、終には若宮が附屬のやうな形になつたのである。後鳥羽天皇の靈託があつて、後に又一つの今宮を建て添へたと同じく、本は東北戰爭の戰死者の遺靈を、八幡神の統御の下に置かうとしたのが若宮で、是にも最初から主神を併せ祀つたことゝ思ふが、上宮が新たに創建せられると、此方はたゞ御子たちのみを祀る社のやうになつてしまつた。さういふ?態で久しく續いてゐた筈は無いのである。放生會の起原も大隅の隼人の討伐の後に、非業の終りを取つた者の靈魂を慰めるのが趣意であつたやうに、宇佐の方では傳へてゐる。それを佛法を以て存分に解釋して、石清水のあの法會は國家の祭ともなつたのだが、それも宮寺の特殊の地位が之を可能にしたのである。鶴岡八幡の方でも、別當配下の社僧の力は強かつたが、なほ其以外に陰陽道の者に發言權があつて、若宮の四月三日の如きも、果して由比濱以來の祭日であつたかどうかはわからない。吾妻鏡の記事を見渡すと、爰では幾つかの臨時祭が、程なく定例の日になつてゐる。それが大部分は三五九月の節供の日で、それも八月の放生會が近すぎた爲か、九月九日は少なくて三月と五月の節供の方が特に多く、ただ其三月三日を四月の三月にしたものが、(236)前後に何囘か有るばかりである。四月三日は節供の日では無いが、何か尋常でない意義があつたものと見えて、今でも此日をシガミツカと呼び、禁慎をする風習が四國その他に有る。それ故に是を三月三日の延期のやうに見るのは早計であらうが、しかし寶治元年の五月三日の條には、「若宮神事、二箇月延引の分之を行ふ」とあり、翌々五日には更に例の如く、同宮神事があつたのである。つまりは三月上巳の節供の日が原則で、時々は之を四月にも延ばしてゐたものが、後に又一つの前例となつたものかと思はれる。

　吾妻鏡の記事には脱漏が多く、すべての祭の日を列記してあるとは思はれない。しかしさういふ中でもなほはつきりと判ることは、二月と十一月との第一の卯の日に、恒例の祭が夙くよりあつたことである。是は臨時でも無く若宮神事でも無く、鶴岡宮祭とあるから上宮の祭日であつた。奉幣の使の立つと否とに拘らず、此日には御神事が有つた。さうして引續いて足利成氏の年中行事といふ時代に及び、更に近世の新編風土記の頃までも行はれてゐたのである。この相對する年二度の卯日祭を、足利期以來は陪從の神事とも呼んでゐた。陪從の意味は專業の樂人以外に、公卿貴族の參加する奏樂といふことで、つまりは正式の御神樂を以て、此日の規模としてゐた祭典だつたのである。鎌倉附近の村々では、舞岡村の八幡宮、又淨妙寺村の小八幡などといふ社も、土地の習ひだつたか知らぬが十一月の十五日、又は十四日を例祭の日としてゐた。山城石清水の本社に在つても、放生會の式のみが全力を傾けて經營せられたが、それでもなほ二月霜月卯の日の神樂の神事は、幽かながらもなほ年中の恆例から削られてゐない。京都市内に之を勸請してゐる御所八幡社などは、現在の祭日がなほ二月初卯の日と八月の十五日とである。九州の宇佐の根本の八幡宮などは、是が又最も大切な祭であつたことは、太宰管内志にも明らかに記してあり、今でもこの二季の大祭は嚴重に續行せられて居る。之を致察などといふ奇異な名で呼ぶのは、多分齋忌の間が特別に長い爲で、祭は齋といふ語から轉じて來たものと思ふ。現在は三月十八日といふ、少しく氣になるやうな日を例祭にした、其理由は解し難いが、之は攝津と長門と二つの住吉神社、又は紀州｜伊太祁曾《いたきそ》の冬祭などと共に、何か隱れた理由のあるらしき第一卯の日を用(237)ゐてゐるので、後々中央に出てからやゝ變質して、若宮や御靈の統制を主とするやうになつてゐられるが（一）、こゝにはまだ當初の氏神的本質を、全く失ひ切つては居られなかつたのである。

　

　註一　八幡と若宮との關係はとにかく、八幡と御靈とは何の繋がりも無いものと思つてゐる人があるかも知れぬが、是は鎌倉の權五郎を諸處の八幡の相殿に祀り、又は九州南部の大きな八幡社で、大人彌五郎を説くのを見ればほゞわかる。此點については曾て「人を神に祀る風習」といふ小さな論文中でも説いたことがあり、其説はまだ改めてゐない。但し宇佐と石清水との間に、やゝ大きな信仰上の變化があることのみは、あの時分はまだ心付かずにゐた。

　

　　　　　一八　淺間神社群の祭日

　

　次には近頃たま／＼耳にする神社群の問題を考へるべく、富士淺間神社の例にちよつと觸れて見よう。此神の本宮といふのは、今の大宮の町の官幣大社がそれで、此社には神職も久しく傳はり文書もやゝ多く、殊に近年編輯せられた「淺間神社の歴史」は詳しいもので、是で大よそは祭日の沿革がわかる。現在の例祭は新暦十一月の四日で、乃ち丙類と私の謂つた上代の制度の一部の保存である。駿河志料の著者が夙く注意したやうに、昔時都良香の富士山記の中に、貞觀十七年（八七五）の十一月五日、吏民舊に依つて祭を致すとある、その五日といふのが初申の日であつた。それから明治六年までの一千年以上の間、四月と十一月の初申の日を、例祭とする慣行は續いたのである。然るにいつの時からとも知れず、この中間に三つの祭が追加せられ、中でも九月十五日は大祭であつた。但しこの九月の祭の、四月十一月のそれと異なる點は重要であつて、後者には其前日の山宮神幸の外に、前月の二の未の日の山宮神法といふ深秘な行事があるのに對して、九月の祭だけには是が缺けてゐた。さうして其代りには舞樂があり、もとは久能寺の僧が是に奉仕し、舞は府中の新宮から、廳分役といふ神職が來て勤めた。次に五月五日の流鏑馬は、有名な富士の(238)裾野の卷狩の折に、頼朝が奉納したのが始めとも傳へられ、それほど古くなくとも天正元年の武田氏討入の時は既にあつた。何れにしても武將の敬神に基づくことは疑ひがない。之に對して今一つの御田植祭の方は農民のものだが、之は又極端に遲い舊暦六月の二十八日であつた。或は登山期の六月を待つてゐたもので、廿八日といふ方に何か意味があつたのかも知れぬが、是では恐らく神の供饌にはならず、たゞ呪術的の效を狙つたのかとも思はれる。明治六年には暦とは關係無しに、四月十一月初申の官祭の日を存し、他のすべての祭日を罷めてしまつたが、すぐに翌七年には之を復活し、且つ十一月の例祭を四日ときめて大祭とし、他の一方の四月二日は小祭として、是のみをなほ初申祭と呼んでゐる。流鏑馬の五月五日は元のまゝ、田植は七月七日になつて、この二つは共に中祭であるが、九月十五日の祭だけは、どうなつたものか明らかでない。多分新暦十一月四日とは近いので、この二つを併せて大祭にしたのであらう。それからまだ一つ、申丑縁年祭と稱する中祭がある。丑では間隔が五年目七年目になるが、どうしてさうきめたかは私には解らぬ。申の方は昔から登山の特に多い年であり、中でも庚申の歳は重要と認められてゐたので祭も登山期の吉日を選むことにしてゐる。山王のお猿も同じやうに、富士でもお猿を以て山神の使令としてゐた。是と祭日の申の日と、關係のあつただけは推測せられるが、どうして千年以上もの昔から、申の日であつたかといふ點はまだ説明が出來ない。

　富士の淺間神は近國に幾つかの大社をもつてござる。その最も重要なる一つは、駿府即ち靜岡市の國幣小社で是は新宮といふから大宮から分れたものであらうが、今の祭日は三月の三日である。その理由だけは私にもほゞ説明し得られる。即ち爰には三月會といふ佛式の祭があり、又二十日會と稱して舊二月の彼岸の頃の祭があつて、それが華麗を以て近傍に鳴り響いてゐた。その二つといふよりも特に二十日の祭が引繼がれたもので、二月であつたといふ根源は、間接にも二四十一月とは縁が無いやうである。所謂式内社の考證は爰にも異常に盛んで、從つて以前の實?は覺りにくゝなつてゐるが、爰の神社組織は始めから複雜なものであつた。即ち三つもしくは四つの神社が一地に集合し(239)て、その一つを元は惣社と謂つてゐたのである。惣杜は駿河に限らず、國府の近くに在るものが多く、本來は管下の主要なる神を合せ祀るべき社であり、さうすれば當然に淺間はその筆頭に立つべきであつたが、多分は守護の今川家の富士崇敬が特殊に篤かつた爲であらう。いつの世からか宮居が別になつてゐた爲に、妙に對立の形を馴致して、社領も社職も二分れになり、更に其以上に山宮と奈吾屋社と、二つのやゝ不明な社が附いてゐた爲に、一種永遠の行逢祭ともいふべきものが成立つた。二十日會の大いに力を入れられた理由も、或はこの邊に在つたかもしれぬ。しかしそれにも拘らず、淺間新宮には別に大宮町の本宮と同じ日の、四月十一月の初申の日の祭があつて、其物忌は特に嚴重であつた。さうして他の一社の山宮も、是に參與してゐられたのである。私たちに特に注意せられるのは、この初申の日の祭に先だつて、社壇の石垣の上には僧尼不淨の輩入るべからずの神事札が立つた。さうして其他の多くの祭日、たとへば爰にもあつた五月五日の流鏑馬とか、九月十五日の大祭とかには社僧も公式に堂々と參列してゐたのである。是と同じ事は大宮の本社にもあつて、數多き神事の若干だけには、一二の和尚と稱する社僧たちが除外せられてゐた。それが何れも物忌の格別にやかましい式だつたのを見ると、忌が弛んだといふ原因の一つに、佛教の干與といふことが擧げられるかと思ふ。少なくとも祭日創定の時の段階といふものが、之を準據として明らかにし得られ、更に又社僧の權能にも、宮寺以下の幾つもの差異が有つたことがわかつて來さうである。

　富士山麓の周邊には、甲州の方に六七社以上、駿河の側にはもつと多くの同じ神社が分布してゐる。甲斐の諸社の中には少なくとも二つ、前に掲げた富士山記の頃に既に建つて居た非常に古い社があるわけだが、それが今日の國幣社一宮淺間神社と河口淺間神社とであるといふことは、まだごく確かだとは言へないやうである。しかしともかくも中世以前から有つたことだけは疑ひが無い。その一宮淺間の祭日は四月と十一月、中の亥の日と定まつてゐたのが、是は有名な三社合同神事の祭だから、日だけは事によると改められたのかもしれない。一方の河口淺間社では、他の今一つの縣社上吉田の、淺間社と共に、四月初申の大祭だけがあつて、之に對する十一月の祭は顯れて居らず、他の二(240)つの社の勝山と下吉田とは、共に九月の十九日が流鏑馬の大祭であつて、四月十一月の申祭は無かつたやうである。

　是とよく似た祭日の區分は、靜岡縣の方面によく殘つてゐる。或はそれよりも一層細かく分れてゐると謂つてもよく、たとへば大宮の本社に近い五所淺間、又は十六御子神などと謂つた小さい淺間社では、本宮の例祭に先だつて辰の日又は午未の日に、まづ祭を執り行はれるものが幾つもあつた。是は同じ神職の管掌といふ爲ばかりで無く、是等を一續きの祭と考へる風が古く存し、又從屬の神を祭つて後に、段々と主神に近づいて行くといふやうな信仰があつたからかとも考へられる（一）。さうして他の一方には須走や須山の淺間社は、山の彼方の勝山淺間などと共に、九月の半ばを以て例祭とし、又安倍川から以西、遠州の方の大きな淺間社も、何れも九月中旬を祭日にしてゐるのである。是を勸請の時代の差といふことは出來ぬまでも、少なくとも之に參與した神職と社僧の差によつて、斯ういふ祭日の變化が生じたものと思ふ。富士の行者が首唱となつて創立した關東平野の新富士なるものが、多くは六月朔日を祭の日としてゐたのも、亦この類と見ることが出來るであらう。

　

　註一　一方には本社の祭の次の日を祭日とするものもある。淺間新宮に對する由比の町屋原の淺間の酉の日祭などがそれであつて、しかも此社は今日謂ふ所の攝社では無い。祭日の順序よく續くといふことは、近江の日吉社の近傍の神社には殊に有名だつたが、此風は他の地方の大きな中心の無い諸社の間にも見られる。只の偶然ではないやうである。

　

　　　　　一九　熊野三山の祭日

　

　富士淺間の多くの神社の祭と比べると、熊野の三つの大社の現?などは、地方の祭日が九月になつてゐるといふたつた一つの點を除けば、その他はあらゆる事が丸で裏うへであつた。第一には文書が極端に乏しく、舊い言ひ傳へを(241)持つ家が留まつて居らず、又遠方の信徒といふものが著しく減少してゐる。祭の慣行は當然に衰頽せずにはゐなかつたのである。以前京都の貴人方を始めに、數多の道者先達が御參りに來た時代には、熊野三山と謂つて、たゞ一社だけを拜んで還る者は無かつた。それが今日ではもう三つの御社の連絡はほゞ絶えてゐるのである。尤も昔から伊勢の神宮も同じに、或はわざとかと思ふほどに、祭の季節をはづして參つて來る者が多かつた。その參詣者が有力者であれば、勿論臨時の祭が擧行せられるが、普通の道者ばかりが澤山になれば、奉幣は只の散錢におちぶれて、其爲に社の中の模樣は、鈴鰐口の音すらも變化しない。戻つて評判にするだけのものは一つも無かつたわけである。さういふ中でも本宮は最も奧深い目標であつたのだが、爰が又最も根本的に改まつてゐる。五十何年前の大水災よりも古く、何度かの劫火に見まはれた上に、社僧と神人とは闘諍した。修驗系の者は負けて手を引き、もしくは神職へ轉向した。續風土記の世に出た頃には、既に純粹神道によつて改組せられて居り、しかも之を導いた教理乃至は利害が詳かにせられてゐない。斯ういふ中に於て、四月十一月の法則のなほ痕を留めてゐるのは、僅かに四月八日の百日宮籠りの開始式と、同月十三日の宮渡りから、十五日の御田祭に續く大神事と、十一月六日の柚御供から始まつて、同十二日の新嘗祭御饌に續く神事とであつて、今日の例祭の四月十五日も、疑ひなく前者を承繼したものであるが、別に此以外に神嘗祭の名を以て、舊暦九月朔日の祭が行はれてゐた。さうして此等の祭の名目は少なくとも改正であつたらうから、どの點までが古來の制度かといふことは、外部の者には見究める途は無いのである。

　之に對して他の一方の、那智は佛寺の勢力の最も多く加はつた御社と思はれるにも拘らず、是にはまだ滅びてしまはない神道があつた。この宮の年中行事の百年前のものには、講とか會とかの名で呼ばるゝ佛式のものばかり竝んでゐる中に、四月八日と十一月八日とには烏祭といふものがあり、その冬の方の烏祭の夜を、新嘗會と稱してゐたことは、幽かながらも古い農耕祭の名殘であつて、飜つて本宮の春秋祭の、必ずしも新設のものでなかつたことも推測せられる。次に第三の新宮熊野社の方は、是は城下町で殿樣の敬神も之を庇護して居り、有名な神の島の御萱の祭串、(242)一つ物といふ馬上の人形、島廻りの風流なども古風なものだつたが、しかもその祭日は九月十五六の兩日で、神の御迎へ御送りを一囘に纏めてしまつて、現在の例祭新暦十月十五日も、恐らくは其月送りであつた。いつからさうなつたかといふことが判ると有益なのだが、私の力ではまだそれが出來ない。たゞ最初からでは無からうと想像するのは、近くは續風土記の出た頃にも、此社には十一月十五日の新嘗祭といふものがあつた。此日深夜になつて後に、神官の一隊は攝社飛鳥社に赴いて、耕作のまねびをしてゐた。それを田植神事と謂つたといふことである。冬の最中の御田植は珍し過ぎるが、私は是を冬と春と、二度あつた祭を合せたものかとも想像してゐる。ところが新宮の年中行事といふものには、この十一月の新嘗祭のことも、全く記載が無かつたといふことで、是が或は神人と社僧と、しまひまで歩調を一にし得なかつた點であり、又新たに九月十五日といふやうな祭日の、生れた原因とも想像し得られぬことはないが、それはまだ證據の無い話である。新宮の神職は十五の歳から一家に一人づゝ、終身別火して潔齋する掟があつたとも傳へられる。さうなれば又伊勢の神嘗祭も同樣に、十一月の物忌も省略してよかつたのかも知れぬが、一方には又那智と本宮とに正式の四月十一月の祭日があるのに、新宮だけに消えたのは不思議である。紀州一國のうちには、日高郡熊野村の熊野社などのやうに、ちやんと十一月初申酉の日の祭のある社も少なからず、ただ遠い東西の諸國に勸請せられた多敷の同社が、殆と八割か九割まで、九月又は新暦十月を以て、祭の日としてゐるだけである。多くの熊野社を流布せしめた元の力は修驗であつた。三山の式典が最初一つであつても無くても、ともかくも農民の自然の要求に、祭の日取りを適應させようとしたのは彼等だつたといふことは云へさうである。

　

　　　　　二〇　出雲の所謂神在祭

　

　くり返していふやうだが、祭の物忌は全體に短縮省略の一路を辿つてゐる。是がはつきりせぬと神道の古い心持は(243)わからぬのに、今は既に殘るものが僅かであり、又その痕跡であるべきものにも、もう異なる解説が與へられようとしてゐる。綜合と比較の方法が、この方面ほど大切な場合は他にはない。人は先づ自分の處の事さへ知れば、よぞはどうでもよいといふ考へを棄てゝかゝらねばならない。出雲は大社のある爲かどうか知らず、全國にすぐれてこの慣習が多く傳はつて居り、御忌といふ言葉は尋常の老人少年の間にまで徹底してゐる。是が上代の信仰の普通の姿であることが判つた方が、爰だけにしか無かつたといふよりも嬉しからうと思ふのに、とかく之を自分だけの特産にしたがる嫌ひがある。たとへば全國村々の神が、九月の晦日から出雲に集りたまふといふなどは、中古以來とは云ひながらも、誠にたわいの無い俗説であつて、論破するまでも無く之を信ずる者はゐないに拘らず、今に於てもなほ神在祭の名を守つて、それから出發したやうな無理な説明を、下さうとしてゐるのは困りものである。そんな事をするから神祭の全體が、新しい世には向かぬものゝ如く見られるのである。學問が完成するまでは致し方が無い。何故かは知らぬが昔から、斯ういふ慣例が傳はつてゐる。それを正直に守つてゐるのだと、宣明した方がどの位氣が晴々するか知れない。さうして置いて急いで其由來を尋討するがよい。自分も信ぜぬことを人に説くのは不道�ｺである。

　いはゆる神在祭は祭とは實は謂へないもので、強ひて云ふならば或一つの大切な祭の部分であつた。すべての祭には、どんな法師の考案した小さな一日きりの祭にも、それ／”＼の趣旨、今の言葉で云へば動機といふものがあり、又何等かの行爲があるのに、是はさういふものが指示し難いだけで無く、寧ろ不行爲ともいふべきものを目的にしてゐたのである。正�ｺ二年の出雲大社記を見ると、歌舞に樂器を張らず、宮庭は掃かず、第宅は營まず、稻を舂かず、それから今一つはよく判らぬが、とにかくに務めて靜密を事とすとある。是は御社の境内での制限で、其他に民間にも色々のしてはならぬ行爲があつた。他國の類似の例を引くまでも無く、是は次に來るべき十一月の嚴肅なる祭に、神に奉仕することの出來る身になれるやうに、極力戒慎して信仰を攪き亂されまじとする心づかひであつたことは、宮中の大新嘗などとも異なる所は無かつたのである。ところがこの大社の古式の新嘗祭なるものは、古式とはいふが近(244)世は少し遲くなつてゐる。是では折角の永い齋忌をむだにして、再び俗用に携はつて散々きたなくなつてから、この大祭にかゝることになつて少々變だが、原因は多分その中間にも幾つかの行事があつたのと、又一つには「からさで」を新嘗と全く別のものゝやうに解することになつてから、二つを引離さうとした結果の如く、私たちには思はれる。「からさで」といふ珍しい行事の名の起りは解らぬが、古く神たちといふ語が有るものを、別にカラなどと呼ぶ筈が無い。神等去出の文字は誰が考へ出したか知らぬが、無法な宛字であるのみか、其爲に神々を粗末にしてゐる。對馬の天道祭のやうな例は他にはまだ出て來ぬが、ともかくも神は是から清い山に還つて、靜かに休息せられると信じられてゐたことは、田の神が山の神になるといふ殆と日本全國に亙つた俗信からでもわかる。越後の彌彦山の神が二四十一月の三つの月の三日まで、祭を御受なされたと同じ樣に、もとは所謂｜止波神送《しはがみおくり》の日が、忌と諸共に今幾日か後になつたものと思ふ。御忌の期間はもう大分以前から、一般によほど短くなつてゐた上に、更に其まん中にナカネなどといふ息拔き休みがあつた。それが現在は更に後を切り前をちゞめ、目標の祭との聯絡もおぼづかなくなつたのである。佐渡の島でもどの祭の爲といふことも不定で、なは暮と春との二度の忌があつた。それも各々三日四日だが、其まん中に更に忌なかさひと謂ふ普通の日が挾まつた。伊豆の島々の忌の日は正月二十四日の爲だつたが、それも近頃は人によつて長く短く、二十二日から始まり、或は二十六日頃までも續けた島もあつた。幾つか斯ういふ例を私は集めてゐるのだが、列記を今は差控へる。二つだけ問題として後に殘して置きたいのは、祭の後にもなほ幾日かの齋忌が有つて、近頃まで續いてゐたらうといふこと、それは上總の南部から房州半島にかけての、普通にミカリ又はミカハリといふ物忌が、十一月もやゝ終りに近くから、次の月へ亙つてまで行はれ、其後に續く目ぼしい祭が無いからである。次に今一つは十一月の嘗の祭に對して、春の二月又は四月の祈年の祭の忌は、どうなつてゐたかといふことである。神を過へる日の慎みの方が、送る際よりは重くてよいわけだが、それはもう數がずつと少ない。多分は春の營みに忙しくて、先づ名を忘れてしまつて次に實質も消えたものと思ふ。出雲大社の四月の大祭には、御忌は伴はなかつたら(245)しい。佐太の御社の方だけはそれがまだあつて、もとは之を卯月神在祭、後には神在裏祭と謂つた。裏と付けた所で神在はやはりをかしい。何となれば氏神のいはゆる出雲行きは、四月には全くなかつたからである。

　

　　　　　二一　稻荷社の初午の祭

　

　御旅といふ期間が本來は物忌であつて、實際にそこに奉仕する者は潔齋してゐた。しかしそれが參詣の群衆までは拘束しなかつた故に、京都では御靈や稻荷のやうな、永い御旅所期間が可能だつたのである。鹿兒島藩などでは、もとは是を祀場中といひ、其長さは通例十七日間、二月にも行はれ又假宮の設けられぬ社にもこの祀場中があつたらしい。その物忌の眼目は、交通の禁止が一つで、それでは武士は殿の御使にも出られないので、君公の命あれば此限りに在らずといふ但書を、吉田家に頼んで江戸期の初め頃に附けてもらつたといふことが、三國神社傳記には見えてゐる。紀州の天野神社なども高野山の管掌であつた頃まで、二月も十一月と同じに十六日の大祭の日まで、朔日から既に嚴しい禁忌があつた。甲州では八月に或八幡社の放生會の前に、もう朔日から色々の戒律、たとへば垣を結び穴を掘りその他土をさはること、豆を炒ることまで禁止する風があつた。京の祇園も六月七日から十四日までの祭に、もう五月の始めには榊を刺し注連を渡してゐた。其忌にどの位の「忌なかさひ」が許されたかは知らぬが、ともかくもこの榊や竹は忌刺しであつた。それが立つてしまへばもう人の心は改まり、もとは新しい仕事などは始めなかつたものと思はれる。

　そこで最後に一つ殘して置いた問題、二月と四月と二つのちがつた春祭は、どういふ理由から二つに別れたか、又は何れが先へ始まつてゐたらうかといふことを考へて見る順序になつた。宮中でも伊勢でも、二月初旬が祈年祭の例日であつたから、此方がおも正しい制度といふことも出來ようが、二月四日は實は農事の開始からいふと早きに過ぎ(246)る。或は此方が感覺上の祭、即ち物忌の始まる日であつて、それを明らかにする爲の儀式ではなかつたかと思ふ。御旅所御出の當日にも神を拜み、式を擧げるのだから祭と謂つてよい筈であるが、本來一續きのものであることを示したい爲に、殊に又還幸の日の式を重くする爲に、稻荷神社などでは後の方のみを稻荷祭といひ、三月二の午の日の御出の日の方は、之を御輿迎と謂つて區別するやうになつてゐた。曾ては重きを二月の祭開始の方に置いて、其後はたゞ祭後の物忌のみが守られてゐた時代があり、それが追々に終りの日を記念する祭の方へ、中心を移した結果、二つ系統を異にするものゝやうに、分れ／＼になつたものと考へられねであらうか。きつとさうだと迄は言はないが、さういふ心持を以て私はなほ證據を集めて見ようとしてゐる。

　それに就いて一度は考へて見てよいことは、稻荷と二月の初午との關係である。伴信友先生の「驗の杉」などには、初午は詣でといひ參りと謂つて、祭とは誰も謂つたことが無いから、祭ではないと斷言せられる。しかし祭ではない參詣といふものが、あつたらうとは私には信じられぬのみならず、現に又東國一帶の無數の稻荷社は、二月初午の日を以て片端から祭日としてゐる。京の本社の初午詣での如きも、中世有名だつたといふのみで、その起りは決して明らかでない。和銅四年の二月七日此山に社を建てたのが午の日で、其記念だといふのは間違ひださうである。此山の頂上の三つの峯の平らな處に、社があつたといふのもいつの頃のことか知れず、今ある社殿がずつと上の方にあつただけは事實だが、それと三つの御山とは又大分離れてゐる。之に對して他の一方には、稻荷では無くとも二月の第一の午の日に、山へ信心に登る例は方々の田舍にある。三河や東美濃では之を馬の保護神と考へ、笹の葉を採つて來て馬に食はせたり、馬を牽いて行つたりするが、同時に之を又養蠶の祈願とする地もある。要するに初午は農業者の神を祭る機會であつた。それと奧州などで三月十六日以外に、二月十六日を作神樣の御降りといふことゝは、關聯が有りさうである。後世三月の第二の午の日を以て、旅所へ御降りになる稻荷の神も、元は今一月早く神の峯の上から御迎へ申すことになつてゐたのではないか。それを神社の外の人ばかりが、なほ永く記憶してゐたのではないかどうか。

(247)　一つの類例は甲州一宮の淺間神社に於て、四月第二の亥の日の合同祭に先だち、三月初午の日に山宮へ御出なされたことは前にも述べたが、その山宮神幸より更に前の二十五日間、即ち二月の初午又は二の午から以後が物忌であり、其物忌の終りに近くなつて、吉旦舞祭といふ祭があつたことが、甲斐國志に載せられてゐる。現今はもはや廢せられたであらうし、此書の當時とてももう詳しいことは傳はらなかつたのだが、とにかくに近世春祭の始めの日の如く認められてゐるものに、其又一つ前の行事がもとあつたことだけは是でわかる。素朴な我々の祖先たちは、神に扶けられるといふ安心を得るためには、大よそ是ほど迄の時日をかけ、又禁欲の苦しみを忍んでゐたのである。

　それからなほ一つ、今度は懸け離れた南の島々の話を引くと、昇曙夢君の加計呂麻島歳事記などに、以前この島には二月初の壬《みづのえ》の日の御迎祭と、四月壬の日から七日目の日の御送祭とがあつたことを報じてゐる。神はナルコテルコの國といふ遠い處から渡つて來て、村々の足揚げと稱する神の木屋に入られる。それを歡待するのは女たちのみの役目であつて、男子は其中に入つて行くことを許されなかつた（一）。今からはもう六七十年も前の事であつたらうか。ただ祖母たちの話に聽くのみとなつてゐるといふが、同じ言ひ傳へは又奄美大島の本島の方にもあつて、二月の第一日の壬の日をオンケ、第二の壬の日の祭をナヲレ（直會）と謂ひ、粢を作つて神に供へる夜の行事もあつた。祭全體の目的が、稻その他の農作物を祈るにあると謂つたのは、公けの祈年祭ともやゝ似てゐる。後世さま／”＼の附加した物を取除けて比べると、斯うした遠い島の信仰行事にも、大和島根と似通うたものが多いのが知れて來るが、たゞ此方では、今は春の始めに降りて來られた神が、留まつて、冬の半ばまで、農の繁榮を御守りなされると思つてゐることが、南の島々の場合とはちがつてゐるのである。一度は我々も神は祭の季節毎に、來ては又御還りになると信じて、それでも安心し又滿足して居られた段階があつたかも知れない（二）。さうかと思はるゝ節も色々あり、それだと又汎く近隣民族の固有信仰との、共通一致の點がずつと多くなつて來るのである。

　

(248)　註一　加計呂麻島の四月祭の一つの特徴は、御送りに際してわざと喧嘩をする。あまり仲がよいと却つて御別れがつらいからといつてゐた。祭に參與し得なかつた男子たちが暴れることかと思はれる。古い頃の東日本の新嘗祭でも、女性だけは別舍で物忌をしたらしい。今の二十三夜祭にも、女と男との別々に會をするものがある。

　註二　奄美大島と九州本陸との間に連なる七島の島々では、祖神は毎年十一月の末に訪れ來り、翌十二月の六日まで留まつて還ると信じられ、其爲に大切な祭があつた。是が世上で有名な七島正月であるが、我々の正月といふものにも、今もなほ神來訪の感覺が傳はつてゐる。

　

(249)　　　　　耳の文學（一）

　　　　　　　　――山姥の話――

　

　　　　　　　　　　一

　

　日本の傳説の中には、昔話よりも更に古いものが有るかと思ふ。昔話の古いことは、すでに世界的に知られて居る。たとへば挨及のパピロス殘片には、今昔物語にも載つて居る親子盗人の話が有り、印度の古文獻には幾つもの説話集が傳はつて、その内容の大半は我邦を始めとし、東西南北の諸民族に今も流布して居るものと、趣向に於て著しい共通が見られる。それで昔話は印度が本元と、いふ樣な學説さへ成立たうとして居るのだが、しかしそれ程古い昔話よりも、もう一かさ古い傳説といふものが有りさうだといふことまでは考へた人が無いやうに見える。多分は傳説の變化衰頽が、よその國々では日本よりずつとひどい爲に、今はまだ氣が付かずに居るのであらう。

　傳説と昔話と、二つのものゝ古さ比べをして見ようといふには、雙方同じ題目を取扱つた言ひ傳へを見つけ出さなければならぬが、さういふものは段々と少なくなり、どちらか一方に片よらうとして居るのであらう。ところが我邦だけには、何か隱れたる深い理由が有つたものか、今もこの傳説が非常に數多い。もちろん近世に入つて新たに附加はつたものもあるが、それも大體に古來の筋と形を追うて居るのみならず、それと前から有つたものとを、見分けることはさして困難でない。さうして其中には幾つでも、同じ一つの珍しい事柄を、雙方全く別な態度で、語り傳へようとして居るものがあるのである。すべての傳説が皆古いといふことは固より言はれないが、少なくとも我々の持つ(250)て居る傳説の中には、昔話といふものゝ考へ出されるよりも以前から、すでに久しく行はれて居たものがあるといふまでは認められると思ふ。どうして是だけの永い間、忘れもまちがへもせずに一つの民族が、昔の言ひ傳へを持ち續けて居られたかといふことは、寧ろ傳説の方での大きな問題なのであるが、同時に他の一方に於ても昔話の起原、即ち人は如何なる事情の下に、斯んな有りもせぬことを有つたこと以上に、面白がつて聽くやうになつたかといふ點、別の言葉でいふならば、傳説の昔話に移つて來た端緒といふものが、亦一つの新しい問題として、考へられずには居られないのである。食事や配偶や群組織などとはちがつて、文藝ばかりは人類の始めよりは大分遲い。いつからどの樣にして是が芽を吹いたかといふことは、文化史がとくにも答へねばならぬ役目を負うて居たのだが、文字の記録は中途から入つて來たものなるが故に、そればかりでは何も言ふことが出來なかつたのである。それ故に心を口承文藝の展開の上に傾ける是からの學徒が、思ひの外の大きな仕事をするかも知れないと私は思つて居る。

　

　　　　　　　　　　二

　

　傳説が昔話に先行するといふことは、たとへ確かであらうとも、なほそれは日本だけの特色であつて、世界一樣にどこでもさうだつたと言へないのではないかといふ疑ひは起り得る。いかにも我邦は特色の多い國であつて、殊に文字の使用が始まつてからは、わざとかと思ふほど民間のものを取上げて居ない。或は昔話などは後になつてぽつ／＼と入つて來たもので、勢ひ今まであつた色々の傳説の、下風に立たなければならなかつたとも考へられぬことは無い。勿論この點も念頭に置いて、今後の探究を續くべきであるが、私だけは日本の昔話も、相應に歴史は古からうと想像して居る。乏しい文獻の資料の中からでも、少しづゝ證據が見付かりさうに思つて居る。猿地藏の致富譚は無住の雜談集にあり、骸骨が物を言つたといふ話は、山城の京の初期に於て、すでに靈異記の中に載せられても居る。竹の子童子や鶯姫の現行の童話が、大昔の竹取と別系統の物語でないことは、よつぽど頑なゝ人以外には、もう大よそは承(251)認せられて居る。それよりも更に溯つて、人が信を執る神代の正事の間にすらも、たとへば手の俣から落ちこぼれたといふ小さな子、比良夫貝に挾まれて海の水を泡だゝせたといふ國津神、さては答へを怠つて口を切裂かれたといふ海鼠などのやうに、よもや眞實としては聽かされなかつたらうと思ふ昔話の分子が、入り交つて居るのである。つまりは一方にさういふをかしいことを、笑ひ興ずるだけの餘裕をもちながらも、なほ肝要と思ふ部分を、いつまでも保ち信じて居たといふところに、我同胞の特色はあつたので、それが文藝の成長を考へて行く上に、よその國では得られない好い手掛りになる。まづ斯ういふ風に今私は考へようとして居る。

　しかし、出來るだけ斷定をさし控へ、事實を多く述べ連ねて、問題をどうしても釋かずには置かれぬやうにすることが必要だと思つて居る。力が有るならば自分も參與するが、人に考へてもらはねはならぬことが、今はまだ甚だ多いからである。

　昔話と傳説とが、同じ一つの事柄を語り傳へて、その方式なり態度なり又效果なりに、兩者はつきりとした相異の認められるものは、算へ上げて見ると日本には中々多い。とても片端から竝べて行くことは出來ぬので、茲では有名な三つほどのものを例に引くが、捜したらもう少し適切な話があるのかも知れない。私の是から言つて見ようとするのは、第一には山姥の話、是が昔話になると、よほど傳説に説く所とちがつて居る。第二にはいはゆる弘法水、是は二つの傳承が可なりよく似て居て、たゞ結果の語り方と證據の有る無しが著しい差別であつた。第三にやゝ力を入れて説いて見たいのは、長者と其傳記の手のこんだ口碑で、同じく夢のやうな花やかさではあるが、世俗の利害がからまつて居る爲に、他の例とはちがつて昔話の方は痩せやつれ、之に對して傳説は再び太つて來て居る。即ち一旦小説に化したものが、もう一度傳説の養分になつて居る。此點が私で無い人にも、何かの參考になるのではないかと思ふ。ともかくも今まで誰にも注意せられなかつただけに、印象の新しさのみは期することが出來よう。

　

(252)　　　　　　　　　　三

　

　そこで順序として先づ山姥の話をする。傳説の山姥などは大よそ性質が昔話とは一致しない。何かわけがあつて異なる二つのものに、同じ名稱が與へられたかと思ふばかりだが、じつくり見て行くと脈絡は付いて居る。昔話に山姥の出て來るのは、よく知られたものが四つ、其中で最も弘く國内に流布して居るのは、「牛方山姥」と我々の呼んで居るものである。峠の頂上に旅の牛追ひを劫かして、積荷の鹽鯖とか大根とかを手始めに、牛まで取つて食つてから、更に牛方をも食つてしまはうとする。その飽くことを知らぬ貪慾といふか、段々と凄さ怖ろしさの加はつて行く所に力を入れた、所謂逃竄説話の最も單純な形のもので、それを幾分か複雜にする爲に、遁げる途中で萱苅りや舟矧ぎに出逢ひ、助けてもらはうとして果さなかつた話なども附けて居るが、大體に我邦の類話は皆結果を急いで、其日のうちに敵を退治してしまふことになつて居る。或は樹に登つて居る男の影が水に映るのを見誤つて、池に飛込んで溺れて死んだとか、又は家に還つて大釜の中に睡つて焚き殺されたとか、甘酒を飲まれたとか、餅を屋根裏から突刺して取られるのを、鼠のしわざかと思つてあきらめて寢てしまつたとか、大よそ今までの兇猛とは似もつかぬ樣な、愚かな惡者になつてしまつて讎を打たれるのは、ちやうどカチカチ山の狸とよく似て居る。さうして是にも亦「ボウボウ鳥が啼くさうな、もう夜も明ける」などと獨り言をいふ一條を添へて居るのは、恐らくは幼ない聽衆に勝利の痛快さを味はゝせんとした加工でもあらうが、ともかくも茲では山姥は只の借り物であつて、その本來のいはゆる性格を、詳しく知つて居て作り出した話で無く、何かその外にも淋しい山路へ現はれて、旅の商人を畏嚇する樣な妖怪があるならば、それとさし替へても差支への無いものだつたのである。

　だから僅かの例外ではあるが、この山姥を山男とし、又は鬼が出て來てと言つて居る話もある。しかしこの兩名では一方は物凄さが足らず、他の一方は場處がらに調和しない。殊に末段を一つ屋の中の退治とするには、どうしても(253)婆のやもめ暮しでないと、落ちつきが惡かつたのである。

　西洋の昔話に於て、Ogresといふのが是とやゝ似て居る。オーグルの語源は洪牙利人といふことを訛つたのださうで、ちやうどモクリコクリが蒙古の來襲に始まつたのと、同じやうに解して居る説もあるが確かとは言はれない。とにかくにかのオーグルにも家があり、又?々家庭がある。さうして人に對して無法な害をするが、どこか魯鈍な所があつて騙されやすく、從つて折々はやつつけられる。つまりは惡魔や鬼などよりも、一段と人に近いものと考へられて居たのである。人が斯ういふ害敵と爭闘したといふ昔話が、假に多くの民族を通じて夙くから行はれて居たとすると、我邦ではちやうど他には是に對應すべきものが無く、しかも或時代の山姥に就いての概念が、幾分か之に近かつたか、又はさうして置いても別に大きな差し障りが無かつたのかと思はれる。たゞ困つたことには西洋のオーグルは、昔話の中にしか現はれて來ぬのに反して、我邦には別にまだ傳説の山姥が居たのである。それをもう忘れてしまつた地方で無いと、牛方山姥のやうな昔話は成立たない。もしくは小兒ならば始末の付かぬ疑惑を抱き、成人は一段と傳説を荒唐無稽のものと速斷するやうになるであらう。誰でもこの二通りの山姥を比べて見れば判るやうに、半ば滑稽化して居る牛方山姥の昔話から、今ある多くの傳説は生れて來た氣づかびは無いのだが、それを考へて見ようとする者がもう無くなりかけて居る。單に資料の亡失を防ぐだけの目的でも、斯ういふ珍しい口碑は注意して置く必要があるのである。

　

　　　　　　　　　　四

　

　どうして此樣に昔話だけが、山姥を粗末に取扱ひ始めたらうかといふことは、問題にする價値がある。それは必ずしも話を女子供にして聽かせる人々の、氣輕な思ひ付きからといふばかりで無く、早く言へは山姥傳説の零落、山にさういふ怖ろしいものゝ住むことのみは聞き知つて、此世と如何なる交渉をもち、又は如何なる約束の下に行動する(254)かを詳かにしない人が、次第に多くなつて來た結果だつたかも知れない。氣心の知れなくなつたのは獨り山姥だけで無い。あらゆる妖怪變化の消えて行つた順路は皆是であつて、もとは一つ一つに各々の特徴のあつたものが、後にはたゞオバケの總稱を以て之を呼ぶ者ばかり多くなり、何故こはいかと問へば咬むからたべてしまふからと、まるで最初からそれが目あてに出て來るものゝ樣に考へられて居た。さういふ中では山姥などは、まだ是でも素性のやゝ判る方なので、幾分かたやすくこの待遇の變化が氣づかれるのである。

　段々話して行くうちには此間題の、さほどたわいの無いものでないことが氣づかれる事と思ふ。山姥の兇暴を語る昔話には今一つ、「喰はず女房」と我々の名づけてゐる型がある。飯を食はぬ女房なら欲しいと謂つて居る一人者の處へ、私はたべませんからと名のつて見ず知らずの女が押掛女房にやつて來る。悦んで同居して居ると、不思議に米や味噌が無くなるので、旅に出て行くふりをしてそつと天井から覗いて居たら、大釜で飯を炊き大鍋で汁を煮立てゝ、ぺろりと一ぺんに食つてしまつたといつて、その後にやはり怖ろしい逃竄説話が續くのである。この油斷のならぬ女房を、山姥であつたと明らかに語る話は實は少ない。或は口無し女房と謂つて始めから顔には口が無く、男の留守を見すまして髪の毛をばらりと解くと、頭のまん中に大きな口があり、それへ握飯を手玉にしてはふり込み、杓で味噌汁を何十杯も流し込んだなどといふ、驚くべき話し方もあつて、どうやら大蛇の化けたのを想像して居るやうにも見られるが、それもはつきりと大蛇だつたと言つたのが無い。男が路ばたの樹の枝につかまり、桶の中から飛び出して逃げて行くのを、やれ口惜しや、今夜は蜘妹になつて取返しに行くと言つたとあつて、それから夜の蜘妹は必ず殺せといふことになつたとも話して居るのが有るが、是とてもその怪物が只の女房に化けて來たと同樣に、さういふ小さな蟲にも姿をかへられたといふ迄のやうである。それよりも注意せられるのは、このオバケの宿元は深山の奧に在つて、おまけに家庭があり、少なくともそこに仲間が居た。縁切りの手じるしに一ばん大きな桶をくれと欺いて、不意に男を其中につかみ入れ、頭の上に載せてすた／＼と山路を歸つて行く。やがて自分の家が見え出すと大聲を擧げて、(255)おうい、無鹽《ぶえん》の肴のでつかいのを持つて來たぞうとわめくあたりは、幼ない聽手たちの息をつめる奇聞ではあるが、是にも他の魔ものには見られない一種の爐邊情景がある。更にもう一つの挿話として、蓬と菖蒲との茂つて居る草むらの中に、偶然に男が身を匿すと、その香が防禦になつて怪物は近づくことが出來ない。或は菖蒲の葉が彼等には劍に見えた。それ以來今でも五月の節供には、二つの草を以て屋を葺いて、彼等を攘ひ却けることになつたといふ箇條が、殆とすべての類話に附隨して居るなども、牛方山姥に比べるとやゝ具體化してゐる。つまりは山深く佳んでは居るが女であり、出て來て人間の女房にもなり得る者を昔話にしようとすれば、山姥山女をつれて來るより他は無かつたのである。もとから之を知つて居たからこそ斯ういふ話が出來たといふだけで無く、事によると前から有つた山姥の言ひ傳へを、斯ういふ形に變へることも出來たのかも知れない。五月の蓬菖蒲の由來は勿論だが、同じ化け女房の昔話でも、飯を食はぬを條件にするとか、桶に男をほり込んで戴いて行くとかいふやうな話し方は、日本以外ではまだ私は見つけて居ないのである。

　

　　　　　　　　　　五

　

　第三の昔話に出て來るのも、單に山中の姥といふのみで、山姥といふ言葉は稀にしか用ゐて居ないが、彼女にも家が有つたといふ「喰はず女房」を中に置いて考へると、先づ同じ系列のものといふことが出來る。この山中の姥は惡いことはしないのだが、話としては相當に物凄く、中ほどまで來るうちは後はどうなつて行くことかと、初めての聽手をこはがらせることは他と同じで、それで又安達ヶ原、淺草の石の枕、さては旅の産婦の遭難譚の趣向にも借用せられて居るのである。しかし純粹な昔話の部面では、結局は人の爲に善い事をするのが山姥で、たゞすべての昔話の靈物も同じやうに、賞罰のけぢめが甚だしく嚴峻なばかりに、親しい感情を以て近よることが出來ぬだけであつた。

　しかも昔話を愛し聽く人々にとつて、是ほど印象の深い、いつまでも胸に描かれる舞臺も少なかつた。それ故に是(256)が又色々の話に應用せられて、一種のきまつた型のやうにもなつて居るのだが、今あるものゝ中では「繼子の栗拾ひ」と呼ばるゝ昔話などが、元の形に近かつたかと思はれて、全國どこへ行つても是が拔き差しのならぬやうに附いて居る。例によつて忘れた人たちの爲に荒筋を説くと、二人の姉妹があつて妹だけは實の子であつた。母はその子の爲に新しい袋をこしらへ、姉には底の破れたのを渡して栗を拾ひに山へ遣る。後から附いて行つて袋の破れからこぼれるのも拾ふので、妹の袋はすぐ一杯になり一人でさつさと還つてしまふ。姉はなほ殘つて拾つて居ると、次第に日が暮れて山の中は眞暗になつた。遙か向うの方にたつた一つ、ぺかり／＼と灯がともつて居たと東北では謂ふ。漸うのことでそこに辿り付くと、小さな一軒家があつて婆樣が一人居る。茲は鬼の家だ、今に戻つて來るから早く去れといふのを、無理に頼んで泊めてもらつたといひ、鬼の兄弟が腹をへらして還つて來て、人くさい／＼と鼻をふゝめかすといふやうな、ひやりとする一條を挿んだものも多いが、どれでも結末は姉娘のすることが姥の氣に入つて、栗を一ぱい入れた袋の外に、錢だ着物だといふさま／＼の好い物を貰つて來る。其話を聽いて繼母はけなりがり、今度はすつかり逆なことをして妹を婆の一軒家に泊らせるのだが、もと／＼心掛けの惡い子なので、婆はあいそをつかしていやな物ばかりをくれる。重い葛籠がよいか輕いのが好いかといふ問答なども、此話に出て來る方が舌切雀よりも前だつたらうと思ふ。或は妹は匿れて居ながら、姥の戒めを破つて鬼を笑つたので、見付かつて食はれてしまつたといふやうな話し方もある。が他の多くの例では、鬼が還つて來る一條は全く無くて、姉妹二人とも姥に言ひ付けられて、色々の用事をすることになつて居る。そのうちで特に著しいのは、老女が白髪を解いて虱を取つてくれといふ一條で、茲に何人にも氣付かれずに、遠い上代の蛇室《へびむろ》の物語が傳はつて居る。姉はすなほに毛を分けて捜すと、蜈蚣《むかで》や蝎《さそり》の類がうぢや／＼と居た。それを一つ／＼丁寧に、火箸で挾んで棄てたと此頃では語つて居るが、以前は今少し自然な方法で處理したのだらう。姉は其從順をめでられて寶物を貰ふが、妹はそれをいやがつたので罰せられたことにもなつて居る。

(257)　或は山中の姥がこの樣な大した寶物を持つて居るといふことが、傳説の時のまゝにまだ殘つて居たのではないか。

　さうで無いならば如何に空想でも、是までは考へ付かなかつたらうと思ふ。とにかく山中の一つ家の姥は、どの昔話に結び付いても、いつも心掛けの好い女に寶物を與へようとして居るのである。幾つも例はあるが、其中でも最も縁の無さゝうに思はれるのは、我々の謂ふ蛇壻入の昔話で、是にも後段を是と繋いだものが各地に有る。大蛇は花嫁を連れて池の底に入らうとしたが、娘の用意した千の瓢を沈めることが出來ず、又は千本の針に鱗を刺されて、苦しんでそこに倒れてしまふ。それでもう話も終つてよいのに、やはり亦山中で日が暮れて、ずつと遠くの一つ星の燈火にたどり着くのである。この山には澤山の鬼が居る、そんなきれいな姉さんが一人で還るのはあぶないと、着れば忽ちきたない婆の姿になる姥皮といふものをくれる。それを娘の親に助けられた蛙の恩返しだつたと話す例も多く、途中で鬼が見つけて食はうかと相談すると、あいつは此谷の奧の古蟇だ、あんな小便くさいものが食はれるものかと謂つたといふ類の下品な滑稽を附け加へた話もあるが、こゝでもおしまひにならずに段々と里へ下り、長者の火焚き婆に住み込んで、結局は姥皮を脱いで、長者の和子《わこ》の嫁になるといふ、長々しい別の話を導いて居るのである。この第二の昔話は、人も知る如く、佛蘭西では驢馬の皮、獨逸では千枚皮と呼ばれるものと、同じ系統に屬する一つの型であつて、それへ一役を買つて出たのが、日本ではこの山姥なのであつた。「喰はず女房」や「牛方山姥」に現はれ來るものと、どう近づけようとしても同類にはならぬのである。乃ち昔話は自由なものだけに、その一つ／＼には時代色、殊にその背後の傳説の變化を、反映せずには居なかつたのである。

　

　　　　　　　　　　六

　

　この姥皮といふ昔話は、我々の紅皿缺皿《べにざらかけざら》、又は糠福米福などと呼ばるゝ繼子譚、即ち外國で、シンドレラ、灰姫といふ名を以て知られて居るものと、何か古くからの聯絡の有るらしいことは、もう久しい以前から注意して居る人があ(258)る。灰姫の話の一つの要點は、朝夕竈の前で灰にまみれて居る姉娘が、母にも妹にも知らせずに着飾つて踊りに出た。其衣裳や玉の靴が、どうして手に入つたといふことになつて居るかに在るのだが、それを生母の亡靈から、又は其墓の土の中からといふやうな例の外に、日本ではやはり山中の一つ屋の怖ろしい姥から得たといふものが多く、乃ち姉妹で栗椎を拾ひに行つた話の續きとして、長者殿へ神樂の舞を見に往つて、見染められて歸つて來るといふ一條が附いて居るのである。シンドレラが最初はたゞ、兄弟姉妹の中の優劣を主題とした話で、之を繼母の憎しみに歸するのは、家族制の進化に伴ふ改作だとすれば、實母の靈よりも或は山姥の恩惠の方が古く意外に遠い昔の生活が此點には保存せられて居るのかも知れぬが、それを一通り考へて見ようとすると、話が又大分長くなる。それで爰にはたゞ山奧の淋しい小屋に、たつた一人で住む姥があつて、そこへ訪ねて行つた少女の身の上に、際だつた變化があつたといふのが、日本では昔話の特に人望多き一場面であつたことを記憶してもらふだけに止めて置かうと思ふ。

　さうして次にはこの山姥の接客法に對して、彼女の訪問姿ともいふべきものを私は考へて見たいのである。傳説の山姥にこの例は至つて多く、寧ろ外から人間が逢ひに行つたといふのは、かの足柄山の金時の如き、こしらへ話しか傳はつて居ないのだが、一方の昔話に於てはちやうど反對に、向うから來るといふのは稀々にしか無くて、しかもやゝ奇妙な形で話されて居る。傳説と昔話と、兩者の比較を試みようとする人は、是を一つの目標にしてよいかと思ふ。山姥の出て來る第四の昔話といふのは、日本で最も美しく展開して居る奇瑞童女、即ちかぐや姫の系統に屬するものであるが、是はすでに「桃太郎の誕生」といふ本に書いたから、再び詳説することはさし控へる。たゞさういふ中でも瓜姫の一話のみは、奧羽と中部以南とには著しい差異の點が二つあつて、その不審が今もまだ霽れずに居るのである。二つのちがひの一つは結末のめでたくないこと、即ち東北の瓜子姫は殺されて骨が糠星の隅に殘つて居たといふことで終るのが、頗る男性の桃太郎とは對應せず、又一般の本格昔話の方針とも合致せぬのである。それから今一つは姫の敵、姫を欺き苦しめて其姿を贋せて居たものが、他の多くの土地ではアマノジャクとなつて居るのに對して奧(259)羽や越後などに於ては、是が皆山姥もしくは山母になつて居ることである。アマ）ジャクは多分古事記や萬葉集の天之探女《あまのさぐめ》のことであらうから、それをこの惡者の名にもつて來たのも當然とは言はれぬが、それでもまだ此方は姫を柿の木や梨の樹に縛り付けて置いたといふだけである。一方の山姥山母に至つては、若く清らかな姫を切り刻んで、小豆汁にして爺と婆とに食べさせたなどと謂ふのである。東北には一體に古風な形を傳へて居る昔話が多いのだが、是だけは後の改作としか思はれない。多分カチカチ山などの影響の下に敵役を思ふさま憎らしく、誅戮を加へて少しも惜しげの無いものにしようとした話のはづみで、もとは恐らく西南の類話も同樣に、一旦は厄難の極度に押詰められても、程無く救ひ出されて末めでたく榮えたといふことになつて居たのが、餘りに其點を誇張したばかりに、終に此樣な陰氣な結果を見ることに、なつたのだらうとまでは考へられる。しかしそれにしたところで、是だけの惡虐無道を、山姥の所爲に歸したことはなほ意外だ。別に何等かの誤解のもとが、有つてもよいわけだと思はずには居られなかつたのである。

　ところがそれから何年かの後に、羽後の生保内《をぼない》に流傳して居たといふ瓜子姫の別話が、藤原相之助翁によつて「昔話研究」に報告せられ、私はそれを見て自分までが救はれたやうな氣になつた。古い記憶だとあつて、幽かにしか内容は傳はらないが、瓜姫が窓に寄つて機を織つて居る處へ、山姥が遣つて來てからかつたり難題を吹掛けたりするまでは他と同じで、それから後だけがまるでちがつて居る。つまりは少女が最も從順に、何でも山姥のいふままになるので、しまひには我を折つて數々の寶物を惠み、家を富貴にしてくれたといふのが結末で、是ならばちやうど男性の鬼ヶ島征伐に對應して、まことに前代の女らしき、殊勝なる出世ぶりであつた。栗拾ひの昔話などでは、姉と妹と二人が裏表をなし、やゝ簡單に筋を運ぶことも出來たらうが、此方はたゞ一人だから、どうしてそれ程まで山姥の氣に入つたかを説く爲には、始めから幾分か誇張をして居たかも知れない。ともかくもそれが段々とあくどくなり、聽手の笑ふやうな空想が附け加はつて來た痕跡が殘つて居る。今なら眉をひそめる人があつても致し方は無いが、話のお(260)しまひには毎度出るもの、人の體から出る最もきたないもの、それを山姥が布の上に垂れちらして、洗つて來るやうに姫に言ひつける。姫が谷川の清い流れに降りて、滌いで居るうちに其布は錦と化し、水の中をきらめき漂うた。それから長者となつて錦長者と呼ばれたといふなどは、何とたとへやうも無い變化の妙であつて、是がたゞこの一點の爲に、次第に公けの社會から消えて行つて、代りに今ある如き無殘なものが生れたのだつたら、まことに惜しいものと言はなければならない。

　

　　　　　　　　　　七

　

　我邦ではこの僅か百年か七八十年の間に、消えて無くなつた昔話といふものゝ數が、相應に多いのでないかと思はれる。丸々痕を留めぬといふまででは無くとも、昔有つたと言ふ證據だけは慥かに認められて、それを傳へて居る人に廻り逢はぬものもあれば、我々の仲間が手分けをして採訪を始めてから、やつとまだ活きて居ることのわかつた、蟹の「ここうの次郎」のやうな話もあり、又はこの瓜子姫や糠福米福のやうに、どこでも自分の地方ばかりかと思つて居た話が、段々に全國數十箇所を比較し得ることになつた例もある。互ひに知らずにも居た位だから、それが最後の傳承者と死に別れ、もしくは記憶が完全で無くて、隣の話と結び付くといふ場面も起るのである。それが文字の文藝の流行とか、ラジオの聽衆の擴大とか、その他色々の統一する力に負けて、近年は殊に退却の足取りが速くなつたことは事實だが、もと／＼昔話は變化すべきものだつたのである。さうして其變化の比較に依るばかりが、たつた一つの眞相を知る道であつたことは、昔とても同じことであつた。最近自分たちの特に採集にあせる樣になつたのも、どうかしてその幽かな手掛りを、無くしてしまふまいと念ずるからで、又さうして居るうちに、心づくことも意外に多いのである。

　たとへば同じ東北のうちでも、山を隔てた舊南部領の一隅に、山梨のばけものといふかはつた怪談が有る。是も少(261)々きたない話だが、山から遣つて來た怖ろしい者が、擂鉢の中へ糞を垂れ込んで、強ひて小僧にそれを食へといふ。それが實際は梨の實の熟したもので、途方も無くうまかつたといふ話、斯んなことが一つの物語として、最初から考へ付かれようわけが無い。全くこの下品な笑ひが大きな印象となつて、その破片だけが幼童に記憶せられたので、曾つては他の色々のばけものも同じやうに、山姥はさういふ人間以上の力をもち、しかも我々がそれを認むるや否やを試みて、認めた者には恩賞を、認めぬ者には懲罰を與へるといふことが信じられ、其實例が數多く言ひ傳へられて居たのである。昔話は一つとして誇張ならぬは無く、寧ろ有り得べからざることを説くのを目的として居るとも見られるが、其間にはおのづから展開の順序が有つたことは、是と傳説とを對立させて見れば大よそは判る。即ち古い形ほど傳説の方に近く、新しくなるにつれて段々とそれから?離し、又抵觸が大きくなつて行くかと思はれるのである。勿論この二つのものゝ間には、さだかなる分堺線はあるのだが、日本にはまだ一種の中間地帶、人により土地によつて信じ又は信ぜず、甲は傳説として之を守り、乙はたゞ昔話の一種として面白がり珍重するものが、幾らとも無く傳はつて居るのである。狐狸の人をたぶらかすといふ話なども、話だと謂つたら怒る人がつい近頃までたくさん居た。しかもいつの間にか形式がほゞきまつてしまつて、全國を通じて十か十五かの種類しか、變化はもう無いやうになつて居る。「蛇壻入」と私たちの名づけて居る一話などは、我邦の殊に著名なる昔話であるが、是が或時代最も大切な傳説であつたといふ、記録の證據が備はるのみならず、今でも實事として之を受持する者が、まだ少々は殘つて居るのである。大體の傾向としては、傳説は新たに之を信じ始める者が少なく、今まで抱へて居た人も永く保ち續けることが出來なくなつて、一部は歴史と兩立するやうな解釋を許して、我々のいはゆる合理化をなしとげるが他の多くのどうでもよいものは、追々に碎け散つてたゞ小さな破片を留め、それも行く行くは消えて無くなることは、日本も恐らく他の國々と同じだつたのである。たゞ幸ひにしてそれが幾分か早めに、我々の心づく所となつて、茲に一種の民間文學の最も古い形、文字の發明流傳に先だつて、多分は今日の小説と謂ふものゝ前驅となり、しかも文野さまざま(262)の段階に在る諸民族と共通に、弘く地球の表層に行はれて居る、「昔話」と稱する一群の藝術の、發生過程を明らかにする手掛りとなつたといふことは、よそには全く見られない悦ばしい御國柄であつたと思ふ。大昔我々が神話といふものを持つて、それを此上も無く大事にして居たといふことは事實らしいが、それを現在の昔話に據つて、推定しようといふのは心もとない。之に反してたとへばわれ／＼でも傳説さへ殘つて居れば、まだその變化の方向が跡づけられる。だから粗末にしてはいけないといふことを、この山姥の例などが我々に考へさせるのである。

　

　　　　　　　　　　八

　

　もう少し詳しく此點を説くべきかも知れぬが、自分は談理が不得手であり、又事實を竝べて置くのがもと／＼の願ひでもあつた。それで昔話に對する讀者の興味が醒めてしまはぬうちに、どうして其樣に飛んでも無い變り方をするのかを考へて見よう。山姥の傳説は現在は地方的であつて、昔話のやうに全國ほゞ一樣といふわけには行かない。我々の調査のまだ屆かぬ區域もあらうが、近い頃まで是がやゝ濃厚に行はれて居たのは、四國と九州との内地の一部、大和の南から熊野へかけて、それから中部地方はやゝ廣く、北は北陸の片端を含み、南は東京から見えるほどの、相州の境の山にも及んで居る。大體に高山連嶺の麓や谷間に多いのは自然であらうが、さういふ中でも信州は本場で、古くは謠曲の山姥などもこゝと越中との境川、その上流の上路《あけろ》といふ地名を利用して居り、現に今でもまだ是から奧に續いた山村、殊に犀川の水域一帶にはこの言ひ傳へが多く、他の地方ではめつたに耳にせぬやうな話も其中にまじつて居る。私が夙くから注意して居るのは、南北安曇郡の平原には古い市場の跡が、町のまだ成立しなかつた昔の經濟生活を想像せしめるが、さういふ處では山姥は歳の暮の市日に、必ず出て來たものと言はれてゐる。山姥が市に來て還つて行くと、そのあとはしいんとしてそれで市が果てたなどとも謂つたさうである。正月年棚の飾りに山姥の松といふのがあるといふ話も聽いたが、其名の由來は尋ねてももうわからなくなつて居る。しかし山姥の出たといふこ(263)とは、姿は見なくとも色々の證據、たとへば賣上げの中に珍しい錢がまじつて居たといふ樣なことでわかつた。又或酒屋では五合�ｺ利を下げて、一斗の酒を買ひに來た老女がある。それを少しもあらがはずに、言ふまゝに計つて入れてやつたところが、それから其家は段々に富裕になつたとも言はれて居る。つまり人間に山姥の能力を信ぜぬものが、もう段々と多くなつて居ることを知つて、それを試みんとして來たらしいことは、錦長者の昔話だけではなかつたのである。昔話の中にはこの試みを出來るだけ奇拔なものにしようとして、色々の趣向がさし替へられて居る。長者の愛娘が壻取りの晩に、そつと夜中に起きだして土を掘り、血の附いた赤子の手を取出して來て食べる。それを隙見して居てきやつといつてどの男も遁げて行き、最後の逃げて行かなかつた一人の壻が、あなたこそは勇士だと褒め且つ愛せられる。實はあるへいとうを斯んな形にこしらへて、男の膽力を試みたのだつたといふ類の話は、探せば今でもまだそちこちに有らうが、由つて來たる所は山姥譚と一つだつたと思ふ。勿論古いものほど試みの方法は單純であるが、たとへば荒れた山寺の怪物が、永らく埋没して居る金銀財寶の精であつたといふ話でも、産女《うぶめ》の幽霊が途を行く人を喚びとめて、この兒をしばらく抱いて居て下さいと謂つた話でも、さては瀬多の長橋の上に横たはつて、田原藤太に踏み越えられたといふ大蛇の話でも、結末はどれも是れも皆同じで、今まで幾ばくの者を試みたけれども、君の如く頼もしい人にはまだ逢はなかつたと、始めて實情を明かして大きな機會を與へた、といふことに歸着せぬものは無いと言つてよい。山姥の五合�ｺ利なども他に例の無いことでなく、酒のはかり賣りの商慣習が、行はれてから以後の變化であらうが、なほその内容が素朴であり又著しく寫實である爲に、昔話とはなり切らずに半ば信ずる者の手に保存せられ、時としては無邪氣にさういふ場合が又有れかしと、下待ちして居る者もあつたからの傳説なのである。新たな信仰が前からあつたものを排除し、萬人が心を一にして奉仕することが罷むと、古い神靈は結局斯ういふ形式を以て、殘るより他は無かつたのかと思はれる。その零落の幾つかの段階は、現に妖怪變化に對する世人の態度、互ひに兩立し難い色々の世説の今も併び行はれて居るものが之を推定せしめる、或者はおばけは人を食ひ、又は血を吸(264)ふものと怖れてゐたやうだが、その實例などは無論甚しく稀有である。次には單なる威嚇を以て人の腰を拔かせ、青くなつて遁げて歸つて四五日寢込ませるとか、頑固に否認をして居た者に思ひ知らせるとか、さういふ相手の確認を以て能事了れりとするらしいおばけも有るが、更に其以上に今一つ、眞率に彼の威力に服從した者に、力や福分を授與したといふ言ひ傳へも、元は我邦には相應に多かつたのである。近代の劃一主義の教育を受けても、人は世に出てからそれ／”＼にちがつた信仰をもつのを常としてゐる。まして境遇の爲に古い慣行に殘り留まり、世間と共に移つて行けない者の、以前の田舍に多かつたのは不思議で無い。それを周圍の者がどうかなと思ひつゝも、決してそんな事は無いとまで斷定し切れない所に、中代以後の多くの傳説は貯藏せられたのである。古び蟲ばみ朽ち去つたものも無論あらうが、何と言つても人間には慾目があり、富貴の法則にはいつも討究の及ばぬ部分がある。全く當てにはならぬときまつてしまつてからでもなほ事柄の興味は想像を刺戟する。それが昔話のあの通りの誇張を重ねながら、なほ根柢に於て曾て傳説の種であつたものを、永く見失ふまいとして居る理由かと思ふ。

　前に例に引いた瓜子姫の昔話に於て、姫を苦しめ又殺しに來たとさへ語らるゝ害敵を、或土地に於ては山姥山母とし、他の多くの地域では天之探女と謂つて居るのも、彼女たちには迷惑な濡衣かも知れぬが、理由のあつたことらしく私には考へられる。この兩者はともに記録文字に現はれたときには、もう前代の信奉せられざる靈物になつて居た。さうして時と共に益々氣味の惡い、憎むべく怖るべきものとなつて行くことも相似て居る。中でもアマノジャクは一つ古いだけに、惡戯が烈しく意地が惡く、何か人間の願ひ望むところと、逆な事ばかりするやうにも言はれて居るが、しかも其の所行を見ると、常に人を相手とし、社會の關心を引付けようとするに專らなのは、やはり亦この世を追はれて去る者の未練の姿かと思ふ。大昔は稻麥その他の作物は、すべて根もとから穗先までに實がなつたのを、それではあんまり良すぎると謂つて、アマノジャクがしごき落してしまつた。ただ大豆だけは刺が立つて手を痛めたので、其まゝにして置いたから下の方にも稔るのだといふことなどは、さまで古くは無い作り話かと思はれるが、彼のさう(265)いふ數々の不成功談の間にも、なほ二枚目型の滑稽味が含まれて居るのは、注意すべきことのやうに思ふ。是を光暗兩神の對立と同視するのは考へ過ぎで、多分は亦一種のもどき役、即ち主神の功績を鮮明に反映する爲に、後々利用せられるやうになつたのであらう。しかし人間にとつてはなほ超越した力であつた故に、それを尋常の隣の爺のやうに笑つてしまふことも出來ず、永くその惡意ある揶揄に對して、若干の不安を感じて居たことが、多くの昔話の素地になつた點も、どうやら山姥と似通うて居る。山で人間の喚ぶ聲を口眞似するものを、こだまと謂ふのも樹の精の意らしいが、土地によつては今も山彦といひあまひこといふ者もあつた。自分などの郷里では少年は此聲をアマンジャクと稱し、又東の方では之を山姥といふ處もある。彼等が山深く潜んで稀にも姿を見せず、たゞ何か人間のすることを嘲りからかはうとする者のやうに、語り傳へて居た期間が可なり久しく、次第に美點は失はれ、あらぬ惡評が國を蔽ふやうになつて來たのかも知れない。さうして天之探女の傳説の方は、山姥よりも更に一段と捕捉し難くなつてゐるのである。

　

　　　　　　　　　　九

　

　山姥の傳説は切れ／”＼になつて居るが、まだこの以外にも何種か有る。其一つは山姥から物を貰つて、それで家が富み榮えたといふ例、是はそここゝで聽くことだが、中でも古風なのは山姥のヲツグネ（苧環）などと謂つて、布を織る絲のまろがせであつた。最も幸運な人が山に入つて之を感得するやうに傳へられる。いくら使つても盡きない寶で、其爲に次第に裕福になると謂つて居るにも拘らず、奇妙に其家も寶物ももう殘つてはゐない。是に對して家は格別の長者でも無いが、物がまだ保存せられて、少なくとも門地聲望の之によつて支持せられて居たのはある。九州の方では筑前の甘木《あまき》附近に、山姥の帷子といふものを持傳へた舊家があつた。是も信州と同じに師走の末の市の出來事で木棉綿を袋に入れて賣りに遣つた下男が、路傍に假睡して居たらいつの間にか、綿がこの帷子と代つて居たと傳へ(266)られる。それを山姥の交易ときめ込んで居るのは、何かさう解してもよいやうな信仰が、まだその當時までは有つたものらしい。薩摩川邊郡の寶�ｺ寺といふ山寺には、山姥の鉢といふものが什器として傳はつて居た。昔この寺の名僧に歸依した山姥が、戒法を授けられた謝禮として獻上したものといふことである。果してどうだらうかといふ疑ひは起りがちだが、昔はともかくも實物が有るからには、作り話では無いといふ推斷が下されて居たのである。中部地方では遠州の山村などに、山姥の置いて行つたといふ木の臼を持つ家が折々あつた。奧州の二戸郡にも、たしか山の人が?の實を擣いた臼といふものが殘つてゐる。形がやゝ變つて古び切つた臼があると、夢か口寄せの言葉によつて、新たにさういふことを知る場合も無しとせぬが、かねて斯ういふ物を持つて來るやうな山姥が、有るといふことを豫期しなかつたら、傳説は生れるわけが無かつたので、しかも現在ある限りの昔話の間からは、到底其樣な空想は浮び出なかつたらう。

　山姥が時あつて村人の家の近くによつて來たといふまでは、瓜子姫の昔話にも語られることであるが、その目的はいつも物すごいばかりであつた。物を搗くために臼を借りに來たとか、竈を借りて飯を炊いて行つたとか、又は家の女たちの助けを求めて、布の絲を綜《へ》たとか、機ごしらへをしたといふやうな平和な交通は、昔話の方では稀にも聽くことが無く、傳説としては折々之を説く者がある。どちらが後の變化かといふことは、詳しく論ずるまでも無くわかり切つてゐる。謠の「山姥」の最も美しい一節、

　　　さて人間に遊ぶこと

　　　ある時は山賤の樵路《せうろ》に通ふ花の陰

　　　やすむ重荷に肩を貸し

　　　月もろ共に山を出で

　　　里まで送る折もあり

(267)　　　又ある時は織姫の

　　　五百機《いほはた》立つる窓に入つて

　　　枝の鶯絲くり紡績の宿に身を置き

　　　人を助くるわざをのみ

　　　賤の目に見えぬ鬼とや人の言ふらん

といふなども、其内容が如何にも具體的であつて、一休和尚であれ誰であれ、是を新たに自己の空想の中から、綴り出したものとは思はれない。恐らくは今日遠州の山間の村々などで時折耳にするやうな數々の好意を表したといふ話が、既に四百年前の作者の耳に入つて居たのであつて、少なくとも山村の住民が能の曲から、さういふことを聞知つて信じたので無いだけは證據がある。

　昔話の中にはまだ一つも例の無いことで、傳説ではさして珍しいとも言へぬ特徴は幾つかあるが、それを列擧して居ると話が又長くなる。たつた一つだけ、自分などの久しく注意して居るのは子持ち山姥、山で何人もの子を育てて居るといふことで、是は足柄山の金太郎以外に、阿波の劍山山彙にも實話と傳ふるものがあれば、遠州の奧山の例は古く臥雲日件録にも出て居て、其子はそれ／”＼の靈山の主となつたとも言はれてゐる。日本の固有信仰の中では、是は可なり奧深い一つの問題の末端であるやうに私は思つて居るのである。既に義經記の中にもある荒血《あらち》山の物語を始めとし、美しい姫神が山中で御産をなされ、それを助け申した山人が末永く幸ひを得たといふことは、今もなほ九州と奧羽と兩端の土地の獵師の群によつて信受せられて居る。乃ち彼等にとつては傳説以上、寧ろ神話と謂つてよい大切な口傳であつた。ウバは本來權威ある女性の名で、齡や姿にはよらなかつたのを、いつの頃からか女扁に老、姥といふ漢字を是に宛てるやうになつて、繪や彫刻にけうとく描き出すものが次第に多く、結局は常の人の幻とは合致し難くなつたけれども曾つては山姥も山の女神の、親しみある一つの呼び方であつたかも知れぬのである。斯ういふ問(268)題は、強ひて論究するにも及ばず、又さうしようとすればきつとこじつけになるがともかくも昔話に於てはただ無暗に怖ろしく、傳説に於ては?々人に惠を與へようとし、しかも其中間にこはいけれども、從順なる者には福を授けるといふ、子供への話がなほ殘つてゐるのを見ると、どう考へても昔話の方が、後に誤解し又は誇張したものと言はずには居られぬのである。少なくとも山姥といふものがもつと古くから、日本に居たといふことが、昔話を今ある形にまで、發達させた原因といふことは出來ると思ふ。

　

(269)　　　　　祭のさまざま

　

　　　　　　　　　　一

　

　村に生れた者は、誰でも少年の頃の祭の嬉しさをよく覺えてゐる。たゞ正月や盆の日とはちがつて、故郷を出てしまふと他所の祭に出逢ふことが少なく、めつたに其話を人とする折がないだけである。都會にも神社の祭は有る。しかし實際は、さう多くの者がその祭を見ることが出來ない。それ故に人は皆大きな花やかな混雜する祭だけを、祭といふものだと思つてゐる。これが村と都會との大きな相異であつた。今度は皆さんは測らずも靜かな村里に日を送つて、春から夏へかけての、大小さま／”＼の祭を見て居ることになつた。是を本當によく知つて置くと、今まで町の人たちの知らなかつたものを、覺えたことになるのである。

　村々の祭は、大きいものからごく小さなものまで、多い處では一年に何十度といふほどもある。さうしてこの色々の祭を見くらべて行くことによつて、覺えることが少し又今までとはちがつて來る。

　日本全國どこに行つても、すべて祭は同じものだつたといふことも、是から段々とわかつて來るのである。私は今からもう五十年あまり、六十年近くも前の自分の生れた村の祭を知つてゐるが、その後はちやうど祭の日に、還つて見ることが出來なかつた。それで此頃は何かゞよほど改まつて居り、よその土地では又ちがつた事が多からうと思つてゐた。ところが實際の話を聽いて見ると、今でもびつくりする程、自分の小さい頃とよく似た祭をしてゐる村が方(270)々に有る。是がこの大御國の、有難いところであらうと私は思ふ。しかし斯ういふことは、人の話を聽いたばかりでは、まだ明らかにさうだといふ氣にはなれない。それで一通り自分の小さい頃の記憶を述べて、皆さんが是から見たり聽いたりすることと、どの位同じかちがふかを比べて見てもらはうと思ふ。近い處なら眞似るといふこともあらうが、私の故郷はこゝから大分遠い、あまり世間に知られない田舍だつたのである。

　

　　　　　　　　　　二

　

　私の生れた部落では、祭をいとなむ神社が二つあつた。その一つは鎭守さんと謂つて隣の部落に在り、八つか九つの大字が合同して年にたゞ一度、秋の収穫の終りに近い頃一ばん大きな祭が一つだけこゝで行はれる。それから今一つの方は氏神さん、又は明神さんとも村の者は謂ひ、他のすべての祭はこの方に有るのであつた。社格からいふと鎭守さんは郷社、こちらは村社であつて境内も狹いが、私たちがたゞ御宮といひ神さんといふときは必ずこの方のことであつた。

　鎭守と氏神とが一つの御社である場合もよそには多い。たとへば隣の部落では大字の内にこの鎭守さんが有る故に、別に氏神さんは無くて、年内の祭は皆この郷社で行はれる。斯ういふ部落を中部地方などでは、宮本とも謂つてゐるやうである。或は又一村限りで、同じ御社を鎭守とも氏神とも謂つてゐるやうな大きな村も少なくはない。それから又氏神は一つの家、もしくは同じ氏を名のる家々の神として別にあり、部落が集まつて共に祭る神を、うぶすな（産土）の社と謂つてゐる處も有る。名は色々に變るけれども、一つの大字に必ず一つ、祭を共にする神の御社の、無いといふ處は今でも先づ有るまい。さうしてその大字は以前の一村であつた。二つ以上の神社を持つ大字も今ではあるが、それは大抵部落が小さいので、合併して一つの大字を作つたものである。

　鎭守の祭の共同が始まつたのは、大祭を大きく、又出來るだけ花やかなものにしようが爲であつたと思はれる。通(271)例は秋の節供、即ち舊暦九月半ばの頃を祭日としたものが多い。秋は農家の最も心樂しい季節である。凶作でも無い限りは、早くから用意をして、家々では鯖の鮓をしこみ、甘酒の香が到る處にたゞよひ、子供は飽きるほど物を食べて、靜かに大幟の秋風にはためく音を聽いた。當日になると各部落から屋臺が出る。又だんじりといふ車を曳いて出る小村もあつた。神の御幸《みゆき》とも御出とも謂つて、神輿が里中を巡つて行かれる時刻には、老人でも家の中にゐる者は無かつた。小さい者などは一日中、太鼓の音に附いてまはつてゐた。

　

　　　　　　　　　　三

　

　大祭の日だけは、村中家中が皆祭であつた。嫁に行き奉公に出た者は還つて來る。親類の者は招かれる。醉うた人が出たり入つたりする。さういふ中にも祭の世話人の宿といふものがあつて、こゝにゐる人だけは神輿に附き、又鎭守の御社に往來する用が多かつたが女たちなどは家でする事があるので、參らぬ者が案外に少なくなかつた。それから又役の無い老人は、斯ういふ日にもなほ一方の氏神さんに參拜した。さうしてこゝにも燈明を上げ供物を備へてあつたのだが、子供だけは屋臺に氣を取られて、こちらへはめつたに來ぬから淋しいものであつた。

　鎭守の社の年一度の大祭と、氏神社に行はれるその他の祭とには、なほ一段と明らかな相異があつた。この點は二つを兼ねてゐる神社でも同じことで、大祭だけには神の御幸即ち金銀丹緑の色々の飾りをした、御輿といふものゝ巡遊がある。東京の大きな神社には、一まはり廻つて又もとの社殿へ戻つて來られる例も有るが、普通には御旅所又は御假屋と云つて、そこに御出を迎へて一日又は一夜、御止め申して祭をする、臨時の祭場が出來るのである。御旅所の所在は定まつてゐた。多くは本社から五町十町、稀にはそれよりもずつと遠い處にもあるが、一方には又境内の一區劃に假殿を設ける、大和の三輪の御社のやうな例もあつて、私の故郷の鎭守さんもそれであつた。

　神の御幸を九州の方では、今でも御降りとも御下りとも謂つてゐる。もとは神樣は祭のたび毎に、高い處から降り(272)て來られるものと考へてゐたのである。それが何時でも一つの社殿の中に、御鎭まりなされるものと思ふやうになつて、大祭と小祭と、祭の方法がちがふやうになつたが、祭を本社の中で營む場合でも、本來はやはり神が御降りなされたのであつた。

　神の降臨はたゞの人の眼には見えず、殊に眞夜中の暗闇のうちに、御出でになるといふ祭も少なくは無い。それを日中の照り輝く路を、渡御なされるやうにしたのは中古からの變化で、その爲に特に道中を花やかにするやうな、動く舞臺といふものが考へ出されたのだつた。

　

　　　　　　　　　　四

　

　祭に音樂を奏し又おもしろい舞を舞ふのは、大昔からの事であつた。その爲には臨時に莚を敷き幕を張りめぐらし、又は社殿の傍に常設の舞臺を建て、或は祭に奉仕する人の住宅を清めて使ふこともあるが、それは皆何處にその日の神を御迎へ申すかによつてきまることであつた。たゞその舞臺を人が舁き、又は車を附けて曳きあるくやうになつたのは、晝間の御幸の路を賑はしくしようとした爲で、是に氏子の者が出演するやうになつたのと共に、新しい出來事と云つてよい。つまりはぢつとして神を御迎へ申す、小さな祭の方が古いのである。

　斯ういふ花々しい祭の行列を、京都ではフリュウ（風流）と呼んでゐた。風流は京都の文化から生れたもので、地方はそれに倣うたのだから、美しさがどうしても少し劣つてゐる。それを何とかして都まさりにしようとして、地方の人たちは大祭に力を入れたが、その爲に他の幾つかの小さな祭も、決して粗末にはしなかつた。たゞこの方は村の内輪の事である故に、土地に生れた者だけがよく知つて、よそから來た人は氣が付かずにしまふことがあるのである。

　神の御乘物は至つて質素なものが古くからあつた。それは一本の御幣の串であることもあり、又清い神木の一枝であることもあつた。神靈がそれに依つて御降りなされると、思ふことが出來るのは信仰である。さうして今でも古風(273)な固い人たちは、その信仰を持ち續けてゐる。神樣がたゞ今この祭の庭へ御出でになつたと感ずるには、別に音響とか合圖とかの必要は無い。大切なことは祭の準備、即ち古來定まつた手續き規則が、少しもぬかり無く守られてゐたといふ自信さへあれば、神樣は必ず來て下さるものと安心してゐられたのである。皆さんにはちとむつかしい言葉かも知らぬが、昔の人はこの用意を、ものいみ（物忌）と謂つてゐた。後には佛教の方の精進といふ言葉を、おもあひに使つてもゐたが、祭の精進は身を清潔に保つことが主であつて、魚や鳥などは食べてもよかつた。たゞそれを煮る火を穢れさせぬことが大切であつたのみである。

　

　　　　　　　　　　五

　

　日本民族の神々ほど、清淨を愛し穢れを憎みたまふ神樣は、世界中どこを捜しても無いと云つてよい。火が穢れるといふことは外國人にはわかるまいが、單に自分が血の穢れ又は喪の穢れに觸れてはならぬのみで無く、それに觸れて來た人と同じ火を使ふと、もうそれだけでも神樣に近よれなくなるのであつた。それ故に祭の日の前になると、家々は皆外から來る人を斷つて、嚴重な物忌を守つたのであるが、人が多く集まるとどうしても故障が起りやすい。それで祭に是非働かねばならぬ人だけは、別に離れて住んで何日かの間、謹慎してゐたのであつた。其謹慎の場所を精進屋又は御籠り所とも謂つた。御籠り所は臨時に假屋を作ることもあれば、特に一軒の民家を清めて使ふこともあり、社務所や帳屋といふものを、その爲に建てゝ置く所もあるが、此頃ではお宮の拜殿に行つて籠る村が多くなつた。人の職業の爲に働く用がふえて來て、おこもりの時間は段々と短くなつてゐる。しかし青年たちが昔の通りに、祭の前夜又は前々夜から、蒲團を持つておこもりに行く村は今でも多い。それは皆祭の物忌を嚴重にせんが爲である。老人や女たちは、祭の當日の朝のうちから參つて來る。それを日籠りといふのは、御籠りがもとは夜のものだつたからである。御籠りの人々は皆食物をきれいにこしらへ、神酒を持つて來て、先づ初穗を神に上げて後に、それをめい／＼(274)がいたゞき、且つ隣の人々と交換して食べる。つまりは神と人との共同の食事であつて、それが何物にもたとへられない樂しみであり、又いつまでも忘れ難い思ひ出であつたことは、決して私たち少年少女ばかりでは無かつたのである。

　村の御社の小さい祭といふのは、もとはすべてこの御籠りの日であり、又お重詰めの開かれる日、大人のうれしさうに酒酌みかはす日でもあつた。しかし時候のよい春の末、山には藤鄭燭、畠には青麥菜種、紫雲英が咲き雲雀の高く揚がる頃が殊に樂しかつた。さうして農家では田植ごもりとも謂つて、田の仕事に取掛る前の小祭が、最も大切に考へられてゐた。その以外にも雨が程よく降れば雨籠り又はおしめり正月、蟲が附きさうなら蟲祭なども臨時にあつて、おこもりのし方は皆よく似てゐた。

　年籠りといふのは除夜の年取りの晩に、御社に行つて籠ることであつたが、是は寒い頃である爲か、今では夜明け前にたゞ御參りをする者が多くなつてゐる。しかしそれよりも少し前、冬至といふ日の後先に、御火焚きと稱して御社の廣庭に、大きな火を焚く祭が村々にはあつた。一日も早く春の陽氣が來るやうにといふ、さそひのやうな意味が有つたのかも知れない。この火が燃え上がると、村中の子供が皆集まつて來た。さうして裸になつて相撲を取り、勝つても負けても御褒美を貰つた。この以外にも節供の日、月々の朔日と十五日、是は定まつた祭の日ではなかつたかも知れぬが、村中の人たちの氣が改まつて、大抵同じ刻限に參つて來る。さうして御社にも燈明を上げ、御供へ物が供へられてゐる。關東の方では御三日《おさんじつ》といひ、一日十五日の外に二十八日にも參つて來る。近頃では毎月の八日といふにも、お宮の拜殿に人が集まつて、色々と御國の事を話し合ふ。それがおのづからの祈願となつて、神さまの御心にも屆くやうな感じが深い。

　村の住民のめい／＼の祭も無いとは云へないが、人が大病になると一家一門、親しい友だちが一しよになつて參る。たつた一人で御百度を踏むといふやうなことは田舍には無い。子供が村に生れると氏子入りと謂つて、産屋の穢れの(275)清まるや否や、人が抱いてお參りをさせる。大きな聲で赤兒の名を神に申し上げ、又は暫らく神前にねかせて置いて啼かせたりする。是だけは全く一家限りの祭のやうに見えるが、家からはお赤飯などをふかして持つて來て、椿の葉に載せて神に進め、殘りを少しづゝ村の子に分けて、是から友だちになつてもらふ。それがすぐ知れるので澤山の兒童が、この日も御社に集まつてゐるのである。父母兄弟と共に住む家を除いては、御宮の拜殿が子供には最も親しかつた。生れて三十日から世間に出て行く日まで、ひまさへあれば始終こゝに來て遊んでゐたからである。私の部落の明神さんには、三抱へも有るかと思ふ楊梅《やまもゝ》の老木があつた。私が去つてから六十年近く、今でも村の兒はこの樹の下に集まつて、まだろくに熟しもせぬうちから、あの楊梅の實を取つて食べてゐるさうである。小さい時には私などもさうしてゐた。村の子供と御宮との關係は、昔のまゝに續いてゐるやうである。

　

(276)　　　　　窓の燈

　

　　　　　　　一　新國學

　

　以前國學院大學の若い學徒の幾人かゞ、毎度この家へ訪ねて來てゐた頃、自分は何かの拍子にふと新國學といふ言葉を使つてみた。三大人在世の時代ならば、御國學びは萬葉と古事記、六國史も神代卷だけに力を注げばよかつたかも知れない。他にまだ專門の學者が草木ほども多く、漢文で歴史の書ける人も澤山に居た。彼等に對して異を立てゝ居れば、篤學の士と云はれたかも知れない。しかし今君たちにそんな事をされてはたまつたもので無い。時代はもうとくにそれよりも遙か汎いものを、諸君に豫期してゐるのだよと云はうとして、一種警句のつもりで斯んな言葉を使つたのであつた。ちやうどさういふ方向へ、彼等の心が動搖してゐた際であつたからだらうか、ひどくこの一語が印象にこびり付いて、忽ち私の携はつてゐる學問の異名が、新國學ででもあるかの如く、言ひふらす者さへ現はれた。實を云ふと、自分もいさゝかこの流行を奇貨としたことはある。たしか一ぺんか精々二度ほど、講演の中で是を用ゐて見たが、勿論云ひ方には氣を付けて、それがこちらの專賣だと云つたものと、取られない樣にはしてゐた。さうして心の中では、何も本家本元だといふのでないからよからう。新國學は是しか無いと、主張しさへしなければ失禮であるまいと思つても見た。最近餘力が乏しくなつて、海外のことには眼もくれず、私ほど專念に日本の事ばかりを知(277)りたがつてゐた者も仲間にはさう多くは無いのである。語路さへ惡くないならば新國學の一つ、又は一種の新國學とでも云はうかしらんと思ひつゝも、流石に氣が咎めて其後ふつゝりと此名を口にせぬやうにしてゐた。

　ところが今度といふ今度は、國が新たになつたといふ感じを、少なくとも若い人たちは皆抱かうとしてゐるのである。その新たな國情にふさはしい學問の、是から改めて我々の國土に、茂り榮えるものが、今に現はれようと想望してゐる者は、既に多いにちがひない。たゞ私などのいやでたまらぬのは受賣と飜譯、ちがつた國語でもう外國人の云つてしまつたことを、そつくり持つて來てへい是が學問と、云はうとする者の頭を出すことである。太平無事の世の中ですらも、是は決して良い修養とは云へない。まして今日は大小の疑問百出、是を學問で答へたものなどは、まだ何一つとして見當らないのである。成績は力次第のものだから、氣永に待つ外はなからうが、待つて得られる答へが必ず我々の問ひに對する答へ、殊に眼前の苦惱を釋くものでなければならぬことは、云ふまでもあるまい。尤も時たまは他國に在るものを、そつくり借りて來てよくあてはまるといふ場合も有り得ると、思つて居る人も今は多い。そんな相鍵見たいなものは史學の部面には無い筈であるが、萬が一にもさういふ事があれば、それは又手輕な仕合せな新國學といつてよからう。當てはめて見るといふことが又一つの小さいながらも學問的操作だからである。

　鍵の譬へを少し續けるならば、日本の古來の鍵はクエッションマークの形をしてゐた。或は錠前のまん中に眼のやうな穴があつて、全體の形は心といふ漢字に似てゐるとも云はれてゐた。大事な物の入つた或土藏の戸が、何としても開かなくなる。又は聞き切りになつて大事な物が入れて置けない。鍵はどうした、鍵は無いのかとどなつてゐる處へ、ハイとこたへてあの細長い銀色の、落雷の樅の木見たやうな、金庫の鍵か何かをさし出したらどうだらう。六つ七つの子供なら高笑ひをするにきまつてゐる。引掛け引離すといふ原理は一つかもしれぬが、それで開けられぬとすれば要するに問題にならない。鍵屋であれ倉の主であれ、大よそは錠前の構造を知つた者が、出來れば中へ入つて寸法を取り、錆や捻れが無いかどうかを檢め、更に昨日まではどうして開いてゐたかを考へた上で無ければ、到底次の(278)鍵は調達することが出來ないのである。古い鍵だけなら舊家には幾つも殘つてゐる。中には何處に使つたのか、誰もおぼえてゐないものもまじつてゐる。そんなものを捜したつて無論始まらない。それよりか新しいのを一つ、注文した方がよいとも云へぬわけは、目下開かないで困つてゐるのが、昔からの大事な倉だからである。少し手をかけたら今までの鍵の中に、すぐ役に立つものが有るかもしれない。それを見つけるのもなほ鍵屋さんの仕事である。

　斯ういふ事を云つてゐると、何か私たちの學問までが、もう新國學では無くなつたやうな氣がするが、それはもう致し方がないだらう。しかしともかくも今は國が新しくならうとしてゐる。この際に當つて、人に向つて學問の話をして見ようとするのだから、それで新國學談であるといふ方がよい。新しい國學だから斯ういふ研究を集めて、新國學の談と謂はうとするのだと、解してもらはぬ方が今は無事でよからう。

　

　　　　　　　二　方法と態度

　

　氏神研究に關する民俗資料は、十年近くも前から熱心に集められてゐる。地方の採訪にあるくほどの人は、之に就いて何も聽かずに還つて來るやうな者は無かつた。相馬の岩崎敏夫君などは、計畫を立てゝ是ばかりの調査に取りかかつてゐる。さうしてこの福島縣の沿海地帶の如きは、殆と各溪谷の傳承が僅かづゝながら、隣どうしやゝちがつてゐることが判つて來た。氣永に待つつもりならば、斯うして進んで行つても、やがては若干の成績が擧げられるかも知れない。たゞ今日はさうゆつくりとは待つて居られない時代なのである。氏神信仰の最も大きな變化は、大分古い時代に始まり、土地によつては既に完結したとも云ひ得る處がある。是からは忘れる一方といふやうな場合も無しとせず、その痕跡は大きい速力で消えようとしてゐる。都市の成長と新しい混亂は、侮り難い破壞力でもあつた。言葉も段々に正確さを失ひつゝある。外から入つて來た人は鎭守をも氏神と呼び、さう云つても村の昔からの住民によく(279)通ずる。しかも一方には彼等自らが氏神と謂つてゐるのは、一門限りの共同の祭をする神、又は家だけで屋敷の西北の隅に、幽かに祀つてゐる小さい神だけを意味するといふやうな、複雜な差異の心づかれる場合もあつて、その互ひの關係も亦一樣でないのである。是等を遺漏なく拾ひ集め、整理をするといふことは殆と望み難い。しかも一方には人の迷ひ、今日の新たな形勢に對して、どういふ準備を以て考へ進むのがよいかといふ疑問が、神道の方面には盛り上つて來たのである。濃霧が洋上に於て始めて霽れ、今まで舵を執つてゐた船員は皆くたびれてゐる。如何にして針路を見定めようかと願望してゐる。僅かに氣力を殘し持つ者ならば、何としても起つて働かねばならぬ。しかも我々の日本民俗學は、一度もまだ斯ういふ場合に試みられたことは無いのである。私は深く考へざるを得ない。

　是まで自分たちの態度はやゝ遠慮に過ぎ、強ひて文獻資料の備はつてゐる區域に入込んで、舊式史學者と繩張を爭ふ必要は無いと思つてゐた。書いたものゝちつとも傳はらない、國民がたゞ無意識に取傳へたものだけを利用してでも、幾らもよい問題が見つかり又解説し得られる。それだけで澤山だといふことを明言した覺えもある。しかし一たび今のやうな變局に當面して、問題の大きさと重要さを差等づけるとなると、公人の一人として、そんなことばかりは云つてゐられないのである。神道史の文獻の如きは、實は今必要以上に豐富で、之を片端から利用することは本職にすら至難であり、しかも他の一方には純乎たる民間傳承は、有るかも知れないが揃ふのを待つに時がかゝる。三十年ほど以前、まだ其抹訪が丸で始まらなかつた頃に、私はあまり大膽だつたが一應は書いたものだけから、民俗學の資料を見つけようとしたことがある。それは概ね失敗に終つたやうだつたが、今度はその時に比べると幾分か用意が出來た。それで必要に迫られて、再び又古い冒險をくり返さうとしてゐるのである。資材を文書記録の一部に求めようとはしてゐるけれども、私たちの方法は民俗學的といふことが云へよう。その要點を茲に改めて列記して置くと、一には知りたい明らかにしたいと思ふ問題を先づ掲げて、それに向つて進むことを主眼とし脇目を振らない。其問題といふのは、是からさき神道はどうなつて行くか、どうなるのが民族全體の爲に、最も幸福であらうか、それは微力(280)で直ちに決しられないとしても、少なくともそれを考へるのに、どれだけの豫備知識を持つて居なければならぬか、少なくともその最後の問題に、答へようとするのが自分の最近の仕事であつた。

　二つにはこの問題の答へを捜す爲に、私は最も自由に材料の取捨をした。澤山の神道學説などは始めから高を括つて、覗いて見て置かうともせず、まして其眞實と虚僞とを鑑別しようとはしなかつた。その爲に惜しい見落しを、稀にはするであらうことは覺悟してゐる。その代りには世の謂ふ神道史料の範圍をずつと擴張して、たとへば地方誌の神社の事實を傳へたものなどをも附け加へた。是も勿論えり食ひしか出來なかつたが、たゞの偶然の暗示以上に、ごく大よそでも見當の付くものに多くの注意を拂つた。即ち今までの言葉でいふならば雜學といふやり方である。

　第三には、史料は最もたしかなものを一つか二つといふ代りに、出來るだけ多くのものを寄せ集め、比べ合せて確實の基礎にした。うそつきは滅多に申し合せをして、法螺を吹くものでないことを知つてゐるからである。さういふ中でも特に遠隔なる一致又は類似に重きを置いたのは、久しい以前からの斯道の人の用意であつた。一つの民族が二千年以上、狹い地域に閉ぢ籠つて育つた場合に、その生活の痕が斯うして辿られるといふ點ばかりは、書傳口傳の間に別々の法則を立つるにも及ばぬかと思ふ。

　第四に所謂計畫資料の價値、是は殊に社寺記録の方面に於て低いものであることは、もう我々の經驗ずみの事實である。それ故に私たちは主張といふやうな部分を輕く視て、その代りには偶然記録、即ち不用意の問に思はず述べたやうなことを、原因無しには現はれぬものと解して、少なくとも入用な限りは聽き流しにしようとしなかつた。

　第五には現在の些々たる事實、是も種無しには發生せぬものと考へて、集まつたら一つの力になるといふことを私は認めてゐる。勿論是には或程度の頻數なるものを要件とする。一つや二つでは間違ひかも知れず、又は氣まぐれな思ひ付きかも知れぬからである。市に三虎といふ譬へもあるやうに、幾つほど出れば信ずるかと云はれても困るが、少なくとも是までの奇風異俗家のした如く、たつた一つの珍聞を種にして、大きな論斷を下すやうなことはしない。

(281)　最後にもう一つの大事なことは、私はこの方法の發達を期待してゐる。故に信じて疑はずといふやうなことは忘れても云はぬやうにしてゐる。斯うなら斯うとなぜもつとはつきり云はぬかと、齒痒がつてくれる人も大分あつたが、尋ねて突留めてゐない區域が一隅でもある以上、何が出て來るか知れぬからうつかり斷定は出來ない。やはり制限は現在の資料、及び自分の能力であつて、今に於ては斯うとしか解せられぬが、他日反對の資料の有力なものが出て來れば、自分が率先して説を改めるかも知れぬといふことを、豫告しないわけには行かぬのである。

　この六つの條件は、今までの史學者間ではやゝ忌み嫌はれてゐた。歴史が信仰に近くなつてゐた原因は、職として之に由るのである。史學は私は幾らでも現代化し得るものと思つてゐる。殊に只今のやうに問題の極度に痛切なる時代は尚更である。心ある者は舊い荊の垣根を撤して、向うの方からも此方法に近よつて來べきである。意見や方策は感情一つからでもちがつて來る。しかし事實といふものには二つは無い筈である。私は寧ろ世の編年史家とすらも提携して、先づまちがひの無い事實といふものを、共同に確立して置くのが急務かと思つてゐる。しかも同じ事實を共々に知れば、さう大きな解釋の岐れは無いのである。喧嘩は畢竟する所無知から來てゐるものが多い。

　

　　　　　　　三　氏神の研究

　

　新國學談を世に出す爲には、自分は文字通り寢食を忘れて居た。どうして又其樣にまで、急いで此本を書いて置かうとしたのか。心有る人ならばすぐにその下心を看破ることが出來るが、看破られるよりも自分で語つた方がよい。神社はどうなるだらうかといふことは、如何にも今日は萬人の疑問となつて居る。さうして稀には大膽にその疑問に、答へようとする人も無いとは限らぬが、正直にいふと誰にもそんな資格は無い。日本人の豫言力は既に試驗せられ、全部が落第といふことにもう決定したのである。是からは蝸牛の匐ふほどな速力を以て、まづ其豫言力を育てゝ行か(282)ねばならぬのだが、私などはたゞ學問より以外には、人を賢こくする途は無いと思つて居る。即ち到底急場の間には合はないのである。

　しかしさういふ遠い未來の事は別として、眼の前にもさしかゝつて是からどうしようかといふ問題が色々ある。氣の弱い人ならば右を見左を見て、誰かに考へてもらはうとするかも知れぬが、今までの前例でも判るやうに、斯ういふ事は指導の出來るものでも無く、又指導せらるべきものでも無い。やはり苦しくとも問題に直面した人々が、談り合つて自ら決する他は無いのである。しかしたゞ一つ、その大事な方針を考へる爲に、前以て知つて置かなければならぬ事實、それだけは知識として誰かから注意してもらひ、又は解説しでもらはなければならぬ。以前は郷黨の間に三人か五人、みんなの知つて居てよい事を自分等で持ち貯へ、愈々入用な時には出してくれる老人が居たが、さういふ人たちはこの大戰の間に、惜しいかな大半は世を去つてしまつた。さうして又書いたもので遺して置くといふ程の、まとまつた知識でも無い場合が多かつたのである。我々の生活常識は、神道といふやうな毎日の必要の無いものに於て、缺けやすく又損じやすかつた。しかもそれを取出して大いに參考としなければならぬ場合が、今や突如として現出し來つたのである。もつと大規模なる抱負を持たぬわけでも無いが、我々の仕事のすぐに此世に役立つのは、まづこの衰頽せる常識の補強といふことでは無いかと思つて居る。殊に近年わざと又は無意識に、この僅か殘つた常識を無視するといふことが、國の政治の行き方であつたことを考へると、是をけちくさい仕事とは言つて居られないのである。

　一つ／＼の郷土に持傳へた前代知識と、外から私たちの供給したいと思ふものとは、明らかに形や品柄のちがひが有る。土地に生れて一生をそこに送つた人の記憶は精確であり、又極端に忠實でさへもある。たとへば昔の或一人の思ひちがひ、もしくは信じられた作り事が、いつ迄も傳はり、まじつて居るといふことも有り得る代りに、證據以上の具體的な事實が、あらゆる疑惑を杜絶して、それはどうだかと思ふやうな不安は一つも無かつた。之に反して民俗學(283)の知識は條件附である。其場を知つて居るのでないから動かぬことは言へない。通例斯ういふのが日本には多いから、多分は例外ではあるまいといふ程度で、それも今日はまだ同じ道を進む者が少なく、いつも隅々にはどんな新しい事實が、是から後も現はれて來ぬとは限らぬと、用心をしつゝ話をして居るのである。之を利用せんとする者の態度は、當然に今までと異ならざるを得ない。果して自分等の場合がその通例の一つなのか、但しは又やゝ珍しい例外に屬するか、乃至は今までに豫想せられて居る例外よりも、更に稀有なる特例でさへあるのか。まづ第一着にそれを決しなければならぬ。即ち斯ういふ方面にも、人の智能の新たなる活躍は入用になつて來るのである。ひどい難事業を課せられたものと不平を言ふわけには行かない。心を平かにして取捨すれば、判定は決して六つかしいことでは無く、又その心の勞作をねぎらふだけの、知識の樂しみといふものがあつて、それは木を植ゑ菜を培つて、その成長を悦ぶ人々の經驗をすらも超越する。其上に單に當面の解決に資するといふ利益に止まらず、我々外側に立つ者からいふと、別にその第二の效果の厚く且つ濃かなるものが期待せられるのである。

　永い是からの文化史研究を重ねなければ、はつきりとは言ひ切れないことだらうが、日本は元來國土の構成から考へて、統一のさう容易な國だつたとは言へない。武力の強化にしても、國民外交の昂揚にしても、乃至は中央大都市の過重視にしても、すでに各々その弊害の極度を示して居るのであるが、しかも其爲に是が新國家の確立固成に、必要であつたといふ事實を否むことは出來ない。しひて過ぎ去つたことを歎くならば、それ等のものよりも更に確かな、自然の結合力ともいふべきものを、何故にもつと自然に且つ簡明に、利用し得なかつたかといふことであるが、今頃それを論じても始まらない。今やこの三つの畫策は共に瓦礫となり、人は其上に立つてたゞ我身のみを憐まうとして居る。町と田舍とは互ひに相侮どり、工人と農人とは憎み合つて居るが、是はまだもとの兄弟、仲間であつたからさうなのだとも言はれる。國の一方の端に住んで居る人々に至つては、誰も彼も他の一端の人を知らず、又は考へて見ようともせぬのである。もしも中央の綜合する力が、少しでも弛み又は衰へるとしたら、島々の利害はたゞ割據と自(284)衛とに便なるものばかりである。單一民族の邦を成すといふ意義は、斯ういふ場合にこそ心づかれなければならぬ。心づくといふ言葉さへも、或はもう不思議に聞えるかも知れない。我々は今まで考へて見ようともせず、又どうであるかを突留めようともしなかつたが、善いにつけ惡いにつけ、日本人で無ければといふ物の見方、感じ方といふものをまだ色々と持つて居る。家と靈魂との繋がりなども、その一つだが、言葉では現はせない幾つかの約束が、村の神樣と住民との間にも、昔ながらになほ傳はつて居て、それが年々の祭を指導して居るやうに思はれる。是を宗教といふ名で呼んでよいかどうかは、宗教史の學徒だけの問題で、少なくとも今まで我々はそんな名は知らなかつた。たゞいつからとも無くさう信じたといふ事實があるだけである。信仰も事實である以上は、やがては消えて無くなる日が來るかも知れない。無くしてしまはうといふ努力が加へられるかも知れない。以前の國家は敬神といふ政策を以て、それだけは防止しょうとして居た。ところが今囘はその防衛を撤し去つて、勝手に我々に自分の道を歩ましめようとして居るのである。それも一つの新しい試みであつて、その結果は寧ろ實驗の興味があるのだが、たゞ困つたことは今までの知識を、持傳へて居る者が段々少なくたま／＼殘つたと見えるものも、偏よつて居り又は歪められて居る。誰でも簡單な一通りのことは知つて居るやうに思つて、實は自分の場合を以て他を類推して居た。その今までは全く省みなかつた遠くの端々の土地の事實が、實際はどうなつて居るか。どういふ共同の感覺を古くから、互ひに全く知ること無しに持傳へて居たか。せめてはそれだけでも大よそは知つて後に、是からの進路をきめさせようといふのが、民俗學に携はる者の日頃の願ひである。今度新たに始まつた計畫では無いのだが、努力が足りなくて今までは效果を收めなかつた。ところが世の中の變化によつて、その需要がやゝ加はつて來たのである。不幸の中ではあるが、國人が互ひに知る機會の多くなつたといふことだけは、やはり悦ばしい事には相違ないのである。

　

(285)　　　　　四　民間傳承の會消息

　

　この會の歴史を、最もよく知つてゐる者の、私は一人である。昭和十年の七月末、自分の還暦記念を名目として、始めての民俗學大會を東京に開いた際に、遠い地方から來た數十名が私の家に集まり、主人が辨當の世話か何かでうろ／＼してゐるうちに、ちよつくら斯んな會を作ることを決議してしまつた。だめだよ續かないよと思ふさまけちを付けて見たのだが、さて成立したとなると手傳はぬわけには行かない。色々と世話を燒き氣をもみ、又時たまは小さな文章などを出してゐる。最初はタブレット型の物足りない會報だつたが、それでも携はつた人々の意氣込がよく現はれ、是がざつと六年續いたのは成功であつた。此形では街頭に進出し得られないといふ理由で、普通の雜誌の姿にかへた際にも、大正初年の「郷土研究」が再生したやうで嬉しかつたが、ともかくも私は前の時のやうな編輯者ではなく、云はゞ一種の名譽會員であつた。しかしさうかうするうちに紙の苦しみが始まり、それを何とかするには世話人の連名に、私の名が有るのを利用した方がよい場合が多くなり、最初からでない會員の中には、私が作つた會ででもあるかのやうに、思つてゐる人が段々出來て來た。一番心苦しく感じたことは、その雜誌の中に、私の七十歳を記念する講演會や特輯號、大きな記念論文集の計畫などが、花々しく公表せられたことである。結構な又學問の爲にも利用し得られる企てではあつたが、自分はわざと前以て知らされず、其計畫に口を出すことが出來なかつた。聽いて喜んでそいつは痛快といつては見たものゝ、實はその頃にももう此計畫は影が薄かつた。萬一やりそこなへば學問の一つの蹉跌といふ他に、背後で絲でも引いてゐたかと思はれる者の、きまり惡さはたまるまいなと思つた。その萬一があはれや到來したのである。善後策としてはこの三つの事業のうち、比較的緒に就いた論文集だけを、何とか物にして世に殘させたいと、今日は蔭ながら苦心してゐる。是はその御顔觸れによつておのづから、今まで範圍と限界が(286)はつきりせぬと評せられた一つの學問が、内と外とから區切られて線が濃くなつて來ると思つたからである。會が平常に復して、もとの形のものを取續けるやうになるのには、今の状勢では時間がかゝらう。其前の一つの活動として、斯ういふものを先づ少しづゝ、出して行つてはどうかといふことを私は進言してゐる。それを容れようとする意向はたしかに看取せられるが、その準備にも聊かの隘路はあるらしい。昭和二十年の歳暮に迫つて、今自分が此文を書いてゐる時の状勢は、どうやらこちらの方が御先になりさうである。さうすると民間傳承といふ會報は、號數に於ては二年前の夏から、事實に於ては一年前の春から、消息を絶つてゐることになるのである。活きてゐることだけは私から報知し得られるが、是を活躍させるのは私の一存では行かない。會員の中には雜誌が出なければ、もう仲間では無い人も若干ゐるだらうが、其以外に何とか共々の力を以て、再びこの會を大きくしたいといふ願ひを持つ人も、他の會に比べると多いのである。さういふ人たちに丸々休養ばかりはさせてしまはぬやうに、斯んな小さな窓の燈を以てでも、聯絡を取りたいと私は念じてゐる。

　以上の現状報告を書いたのは、昭和二十年の歳末であつた。さうしてこの文章が活字に化するまでに八箇月かゝり、其間に「民間傳承」は再興して居るのである。分量は大分小さくなつたが、第十一卷の一號といふのが八月初旬に出で、次いで第二號が今出かゝつて居る。此本が本になる頃には、少なくとも三號までは出て居ることゝ信ずる。それと同時に一方の記念文集も、僅かづゝの分册の形を以て世に送られようとして居り、それを記念する講座の計畫も、こゝ半月の内には實現しようとして居る。現状報告も書き直してよいのだが、なほ日記の意味で私は之を保存して置きたい。さうして此ついでに於て自分の望みを述べるならば、私は早く前會長になつてしまひたいのである。前にもいふ如く、自分はこの會の計畫者でも無かつた。今までまだ一度も編輯に參與したことも無く、たゞ若干の世話人を設けるとすれば、其中には名を連ねて置くもよいと思つただけで、それが出版許可や紙もらひの如き、外に對する事(287)務上の都合から、自然に代表者の如き地位に立つただけである。會の各員の考へ方を統一する氣は無いと共に、自分も亦この人たちから拘束せられようとは思つて居ない。そんな會長といふものは排除すべきであり、さうして以前の如く、働かうといふ人の若干を世話人とすることが、どの樣な氣持のいゝことだか知れないのである。

　愈々この會報を再興することにした時の思ひ出は、いつ迄も忘れ得ない愉快なものであつた。會貞組織である以上は會員の意向に基づくべきだといふ理由で、非常な難儀をして千數百通の相談状を出してもらつたところが、其中の三分の一餘は任所不明で戻り、殘りの大部分は返事が來たが、今暫らく時節を待つてはどうかといふのは十何通しか無く、他はすべて早く出すやうにといふ意見であつて、其中には可なり熱烈なる激勵の語を寄せて居る人もあつた。斯ういふ人たちの期待といふものが、この會の進路をきめるであらうといふことを、私たちは疑ふことが出來なかつた。從つてそれが自分などの希望する所とあまりに背馳せぬやうに、力の限り勸説する必要はたしかに有るが、會を其爲に利用することは遠慮すべきだと思つた。始めて此會をこしらへた時と、今日とは事情が大分變り、又民俗學の働くべき區域もずつと廣くなつて居る。さうして之に對する世間の要求、乃至は不滿不審といふやうなものも、現在は他に之を表示し得るやうな舞臺はまだ無いのである。この機關の役目は相應に重大である。我々世話人ももう指導者のやうな地位を抛棄して、各々一隅で働くやうな氣持をもたなければなるまい。それが又斯ういふ事業を永續せしめる爲の一つの公式であらうかと思ふ。ともかくも創業期は既に過ぎたのである。

　なほ記念論文集は別に其爲の委員會があつて、事實會長の全く知らぬ計畫であつたが、公平なる眼から見て、是は面白い思ひ付きであつた。最初の案とはやゝ變更せられて居るが、三つ又は四つの長編を集めて、分册刊行するといふのも讀みやすくてよい。私の意見をいふならば、今後無限に之を繼續して、隨時に出して行くことにしてはどうかと思ふ。幸ひにしてあと／＼確實なるものが發表せられるやうになれば、別に學會などといふ名ばかりのものを創立するにも及ばず、民間傳承の會が、自然に日本民俗學の中心となる時が來ることゝ思ふ。(288)「窓の燈」は是からも、斯ういふ自分一人の自由な考へを、日記のやうな積りで書きつゞけて見たい。昭和二十一年九月十日、今夜は陰暦の中秋の宵で、月が今ちやうど庭前の柿と楊桃の上に出て居る。憶ひ起すのは今から滿十九年前、昭和二年の中秋は九月九日であつた。この書齋が新たに成り、引越して來てから約半月、始めて十餘人の知友に來てもらつて、夜遲くなるまで此室で歡談した。當時の人たちは四散してしまつて、東京に留まつて居る者も僅かしかない。十九年の變遷は大きなものであつた。今は辛うじて古いこの机と、古い自分との殘つて居るのを、幸福と見なければならぬまでになつて居る。あの晩盛んに鳴いて居た松蟲も今夜は鳴かない。

　

(289)　　山宮考

　

(291)　　　　　解説

　

一　山宮考　山を靈魂の憩ひ處とする考へ方が、大昔以來、今もなほ日本の固有信仰の最も理解しにくい特徴となつて、傳はつて居るのではあるまいかといふことを、説いて見ようとした新しい試みの一つである。是には勿論古人がさう考へて居たといふ事實を明示し、且つ出來るならば其理由、たとへば葬法の古い樣式とか、それを導いて來た死後觀念とか、幽顯二つの世の繋がり方とかいふものを、不問に付することは出來ぬのみならず、更に一方に於ては中世以降の神道説が、假に誤りであるにもせよ、斯くまでに本來の筋路を遠ざかつてしまふやうになつた事情といふものも明らかにしなければならぬ。非常に大きな仕事だが、それをまとめ上げる責任も私には有る。果してそれまでの時間があるかどうか、聊か氣になるので機會を見つけ、少しづゝさういふ方面に説き及ぼさうとした。其爲に幾分論旨を多岐にして居る。讀者に念頭に置いてもらひたい一事は、我邦の沿海地帶が廣くなり、文化の中心が世と共に平野に移つて來たことである。山を背後に持たない都邑と生産場が多くなれば、古い信仰は元の解釋を保つことが六つかしい。しかもこの著しい地貌變化は、陸地の隆起であれ、海の遠淺の圍ひ込であれ、大體は皆近代の三四百年間に出現したものばかりであつて、その結果は山の麓の古い村々は却つて偏卑となり、且つ自分たちの生活振りを自分でも舊弊と思ふやうになつた。つまり古い世の姿は省みられなくなつて居るのである。民俗學の方法の特に役に立つのは、この固有信仰の方面かと思ふ。是より以外には今のところ、之を尋ねて行く途は無いからである。

　

二　おしら神と執り物　三十年も前から、人はこの間題に興味を寄せて居たけれども、まだオシラサマが祭られ(292)る神であるやら、はた單に神を祭り申す方式であるやら、二つ何れであるかをさへ決することが出來なかつた。私は今漸く是が御幣や玉串と同じものゝ、やゝ珍しい一つの變形であることを、斷言しようとして居るのである。そんなら之に由つて祭らるゝは何神かといふと、それは家の神即ち先祖のみたまであつて、最初は家々の主婦がその司祭であつたが、信仰がやゝ衰へて其職分が小兒に委ねられ、或は又イタコと稱するよその主婦に、一任しようとする家も多くなつたのである。イタコは盲女であつた故にその經驗が限られ、變つた方向へ家の神の信仰は展開しようとしで居るが、それも中途であるので今ならばまだ經過が判明する。もう十年も遲く注意をし始めたならば、をかしな雜説は根を張つて、甚だしく東北人の精神生活に關する、世上の信用を傷けたことであらうと思ふ。但し私にはそれを防衛しようといふ樣な意尚は無い。寧ろ斯ういふ遠くの珍かな事實を借りて來て、氏神信仰の古くあつた形、殊に其祭に大切とせられた執り物の來由を、明らかにして見たいのである。現在のミテグラが白紙を剪つてシデとして居るに對して、オシラ樣の串には色々の布きれを結びつける。さうして更に其一端には、目鼻口を描き又は彫つてあるものが多い。それを自分は中世の變化と解して居るのである。

　

三　信濃櫻の話　しだれの絲櫻を、京都では久しく信濃櫻と呼んで居た。この木の分布の根源を考へて見ると、たゞ單なる愛玩ではなかつたやうな氣がする。今では信州の方にも其痕跡は見出されぬが、或は斯ういふ枝の垂れた木に、高行く神靈が來り依り易いと考へて、それを祭場に栽ゑたのが始めではあるまいか。といふことを話の種にして見ようとするのである。この想像がもしも空なものでないとすれば、いつかはさういふ證據になる事實が出て來るかも知れない。私は一種のあて物のやうな興味を以て、先づ問題だけを後世に殘して置きたい。多くの必要なる書承口承の資料が、今はまだ見つからずに有るやうな氣がする。

　

(293)四　窓の燈　窓の燈は幾らでも話題はあるが、是だけは成るべく未來に關するものを拾つて行きたい。さうで無ければ遠くの土地に居て、今では往來も六つかしい人々の、互ひの信號のやうなものを掲げようと思ふ。但しうす暗い淋しいものはもう澤山、是からは努めて朗かな、樂しみになるものを捜し出さなければならぬ。

　

(295)　　　　　山宮考

　

　　　　　　　一　伊勢の氏神祭

　

　伊勢の神宮に奉仕した代々の神職の中には、近世になつてからまで、やゝ普通と異なつた方式を以て、その氏神の祭を續けて居た者が多く、之に關する中古以來の記録が、僅かながらかの土地には傳はつて居る。佛法の未だ干與しなかつた時代の我々の先祖祭、又はそれと氏神と稱する現在の神社の祭典との關係が、之に依つて幾分でも明らかになる望みは無いかどうか。さういふことを今度は問題にして見たい。

　この事實のはつきりと見えて居るものには、神宮雜例集の卷二、年中行事の部と、皇大神宮年中行事との二種の書が古い。後者には通例建久三年の文字を冠らせて居るが、傳寫の際に次々と書加へた形跡があつて、全部をこの年（一一九二）以前の事實とは認められず、前者も引用の文書には文治六年（一一九〇）より後のものは無いが、その年中行事の記事が最初から、此通りに書かれて居たといふ明證は無い。たゞごく大まかな推定で是をほゞ鎌倉期の終り、もしくは室町期の初めまでに成立したものと見て居るのだが、他日或はもう少し遲いものときまるかも知れない。この二つの書の記事を綜合すると、この氏神祭を營んで居る氏族が、少なくとも五つは有つた。その一つは大宮司を世襲した中臣氏、次には内宮の禰宜職を獨占してゐた荒木田氏、外宮禰宜家の度會氏、その他の諸職を分掌して居た宇(296)治氏と石部《いそべ》氏とであつて、その祭日は度會氏だけが、二月の中の申の日と十一月の中の酉の日であり、他の家々はすべて一樣に、四月と十一月との初申の日を以て祭日として居た。此中に於て、荒木田度會の二氏は、一族が繁延して、一門から四門までの四つの門統に分れて居たが、各々其二つだけは夙く跡が絶えて、荒木田は一門と二門、度會の方は二門と四門とのみが連綿として居た。乃ち五つの氏族とはいふけれども、實際には七つの氏神祭が行はれて居たわけである。

　この七つの氏神祭の中でも、昔の事の少しでも傳はつて居るのは、やはり内外宮禰宜の家筋だけであつた。石部氏はその主流がもう傳はらぬので記録が乏しく、宇治土公氏の家にも言ひ傳へがあるかどうかを知ることが出來ない。たゞ判つて居るのは宇治氏は上杜《うへもり》、即ち今日の興玉森《おきたまもり》に於て、石部氏は岩井田の山口に於て祭をしたといふことだけで、十一月初申の日に祭つたらうといふのも推定であり、皇大神宮年中行事に載せられたのは、實は四月の方の記事だけである。

　大宮司家の祭も、右の雜例集に掲げられたもの以外に、足利時代の簡單な記録が、その氏人の手によつて殘されて居て、可なり久しい間續いて行はれてゐたことを、窺ひ得る資料が有るのみだが、幸ひにして近世の記録は保存せられ、大神宮叢書の中でも覆刻せられて居る。之に依ると、其祭場は宮川の對岸、離宮院の故地であつて、そこに春日神社といふ新しい勸請社があるのを、式の官舍神社の地と認めてそこを使つて居る。或は一旦の中絶があつたのを後に復興したものかと認められる。中臣精長朝臣といふ寛文頃の大宮司が、斯ういふ方面の考證に力を用ゐて居たから、この復興も多分は同じ人の事蹟と思ふが、この氏神祭といふのはもう格別の特色は無く、たゞ其拜禮の後に引續いて、別に先祖祭と稱へる祭をして居た。是も佛式はなほ些Lも加味しなかつた代りに、幾分か中華風の感化の見られるのも、この時代の學問の風と見ることが出來る（一）。故に我々の目的からいふと、是も一つの參考資料といふに止まつて、さながら前代の形を保存するものと認めることは六つかしいのであるが、それにしても四月と十一月との初申の日を(297)以て、なほ祭日として居たことだけは、内外の神主家と共通であつた。

　

　註一　この中臣氏の先祖祭の記事は、河邊家年中行事と司廳月例とに、近い頃のものがやゝ詳しく出てゐる。注意すべき特徴は、神靈安鎭と名づけて、藁を束ねた太繩やうのものを正面に置いて、それへ二本の御幣を祭の間挿し立てる。場處は建物の無い露地であつたやうに見える。二本の幣束は男女の二座であり又食饌はすべて二具であつたことが、沖繩の御神棚の式と近い。祭文には先祖代々考妣と書いてトホツオヤヨヨノチチハハノミタマと唱へ、又其後に傍親の靈にもカタヘノオヤノミタマと唱へて拜んで居た。

　

　　　　　　　二　神と氏人との關係

　

　荒木田度會二氏の氏神祭は、之に比べると時々の改定があり、又一般に退縮の途を歩んで來たとは言ひながらも、氏が榮えただけに中斷のうき目は見ずにしまつた樣である。二氏の記録は互ひちがひに、成立の時を異にして居るにも拘らず、いつでも大きな一致があり、又各々若干の特色を保持して居る。さういふ中では内宮方の記事が幾分か乏しく、又變化もやゝ早かつたやうに思はれるが、其方の不明の點も、一部分は他の一方の事實から、類推によつて之を補充することが出來る。是が此方面の資料の不十分な割に、幾らか安全な支持を私の假定説にもたらす點でもある。

　但しその比較に進んで行くに先だつて、一應は考へて見て置くべきことは、是等の氏人たちと皇大神との關係である。伊勢では内人大内人といふ言葉の方が多く用ゐられて居るが、氏人といふ名も古いものであつた。荒木田根木度會の三系の神主姓の者を、大神宮の氏人と朝廷に於ても呼んで居られる（一）。しかしこの氏人は少しばかり、我々の概念の氏人と異なつて居る。普通の氏人は神を始祖とする氏族に生れた者、即ち神の後裔であり貴き御血筋を引くが故(298)に、其祭に奉仕する資格ありとせられる者のことであつた。伊勢の氏人のみは之に反して、最初から家筋は主神とは全く別であつた。彼等の家々の氏神に對してこそ氏人と言へようが、大神宮の氏人と召されるのは解し難いことである。我邦の神社に氏神とさうで無いものとの二種があり、後者は神の後裔でない者によつて祭られて居たことは誰でも知つて居る。さうして中世以後、この方が次第に多くなつて來たことも亦明らかな事實である。伊勢の神宮はその最も顯著なもの、且つ恐らくは最初のものであつたらうことが想像せられるにも拘らず、茲にしもなほ他姓の氏人をして、世襲してこの大切な役目を勤めしめられた理由はどこに在つたらうか。可なりむつかしい問題ではあるが、私はその解答に向つて、近よつて行く途はあると思つて居る。大體の見當を先づ掲げるならば、この神社の二種類の間には何かまだ隱れたる脈絡があつたのである。今日我々が想像してゐる以上に、兩者の行通ふ共同の道があつて、氏神社が總國の大社となるやうな機會は多かつただけで無く、大社が再び氏人の奉仕する御社に、復歸する場合も考へられ得たのである。出來るだけ空な推測で無しに、誰にも認められるやうな昔今の事實に基づいて、この點を明らかにして見たいといふのが私の望みである。

　日本全國に亙つて最も數多い村々の神社には、今でも村民自らが氏神樣と呼んでゐるもの、又は人からさう謂はれて、少しもまちがへずに理解するものを、合せ算へると七割八割、或はもつと多くにもなるかと思ふが、是等は現在殆とすべて、二つ以上の氏の者が合同してその祭に從事し、實際單一に或門黨一族ばかりで、さゝやかに神に仕へて居るものは大抵は此外に在つて、神社の取扱をすらも受けて居ない。しかもさうなつて來た歴史は、今ならばまだ全く埋没しきつてはゐないのである。つまりは祭禮が不必要に大きく、金のかゝるものとなり、一方には氏族が分裂して弱くなつて來た爲に、獨立して各自の氏神社を支持し難く、比較的有力な一つの祭に參加して來た結果で、その中心點の所在は、自他ともに之を記憶してゐるものがなほ多いと同時に、一方には世襲神職の家はすでに退轉してしまつても、言ひ傳へはまだ消えはてゝゐないものがある。さうして是には遠い血筋の末の者であるが故に、祭の主要な(299)る任務を掌らせてゐたといふのと、單に最も由緒の深い從者であり、神の信任の特殊に厚かつた家系に屬してゐたので、他から爭ふ者も無く其職を續けて來たといふのと（二）、二つ明瞭に異なる信仰上の根據があつて、この二つの種類以外には、もとは第三のものは考へ得られなかつたやうに思ふ。

　是と同樣の區分が、よほど古い昔からあつたのである。勿論發達の順序を考へて見れば、初期の功勞者であり忠實な隨伴者であり、乃至は神を背に負うて移住して來た者の末だから祭の役に當るといふ方が、後の擴張とも見られないことは無からうが、是は必ずしも一方が得られなくなつて、必要に迫られて始めて起つた新派とは言はれない。現に畏れ多い例ではあるが、伊勢の神宮の如きはあらゆる古傳が一致して、始めからこの第二式の神職由緒を支持してゐるのである。其後に段々と進出なされた中世の諸大社を見比べても、この區別ははつきりと認められる。石清水は紀氏の人々が特別に縁故が深かつたけれども、それは山城の京近くへ御遷りなされて後のことで、宇佐の方には又神を御顯はし申したといふ大神氏《おほみわうぢ》と、更にそれよりも古いかと思ふ宇佐氏とに特權があつた（三）。乃ち宇佐では武内宿禰社の代りに、別にその家々の氏神を祭つて居なければならなかつたわけであるが、現在の末社の中にそれがまだ有るかどうかを私は知らない。賀茂では心得ちがひにも中頃その祭神傳を改造した。さうして我から進んで神裔の主張を一擲し、小さな境内の氏神社を以て滿足してゐたやうだが、是は春日の如く内外に有力な多數の氏人をもつて、地位を支持することが到底出來ないといふことが判つたからではないかと思ふ。神社が大きくなつて汎く上下貴賤の崇敬を集めようとするには、欲すると否とには關係無く、どうしてもこの神孫獨占の思想を制限しなければならなかつたのかも知れぬ。大社從屬の多くの氏神社が、すべてこの讓歩に基するものとは勿論云へない。しかし大和の三輪の御社の如きは、あれほど濃厚に神の御末といふことが知られてゐたにも拘らず、なは奈良の率川《いさがは》神社を以て大神氏の氏の神なりとする説が行はれてゐた。伏見の稻荷には秦荷田二家の氏神があつたが、是は三つの御山の大神が天つ神であり、別に童貞受胎といふ類の神話も傳はつて居らぬから、此方は或は遠祖以來、たゞ神を顯祀したといふ縁故のみ(300)で、その職務を世襲してゐたものとも見られる。紀州の日前國懸宮《ひのくまくにかゝすのみや》なども、戰國亂前までは四月十一月上の申の日の氏神祭があり、其後も引續いて國造家の邸内に、二社の草宮を毎年造營して、先祖の祭をしてゐたといふが、是なども伊勢の二宮の氏人たちと同樣に、其系圖を最初の奉仕者の流れに繋ける以上は、當に斯くあつて然るべきものだつたらう。何となれば主神とおのれおのれの家との關係は、この歴代の祖靈を通して、始めて緊密に結び繋がるべきものだつたからである。伊勢に幸ひにして保存せられた中世の氏神祭式は、この意味に於て全國の多くの村社、殊に外間の信仰を惹く爲に自ら改造しなかつたものと、若干の一致を持つべきは自然の成行きで、或は之を一つの基準として、汎く一般の神社信仰の推移を、究めて見ることが不可能ではあるまいとまで、是に大きな希望を私は寄せてゐるのである。

　

　註一　三代實録元慶二年五月廿三日の條に、荒木田神主首麿以來、荒木田の三字を脱漏してゐたのを、彼の裔孫の請に依つて、再び加へられたといふ記事があり、是に始めて大神宮氏人の稱呼が見えてゐる。大内人の内と、氏人の氏とは、元は一つの語だつたらうと私は想像してゐる。

　註二　弘安參詣記の僧通海は、祭主大中臣氏の出と思はれるが、内宮の左右相殿二神を、天兒屋根命太玉命なりといひ、之によつて神宮の祈願を、氏の社の御?をも相兼て申さるればなどと言つてゐる。乃ちこの相殿祭神異説には、恕し難き陰の動機のあつたことが推測し得られるのである。

　註三　延喜の臨時祭式に、凡そ八幡神の宮司は大神宇佐二氏を以て補し、他氏を雜補することを得ずとあるのは、宇佐に就いての定めであつた。宇佐が宇佐氏の氏神からの發達であらうかといふことは考へ得られるが、之を立證するやうな事實は私はまだ見つけてゐない。

　

(301)　　　　　　　三　氏神祭場の移轉

　

　伊勢の氏神祭も近世は可なり衰へてゐた。小さな支族が後に榮えて、新たに普通の氏神の祠を設けたものなども有つて、それとの差別も段々に紛らはしくなつてゐた。殊に内宮方の荒木田氏の一門二門では、早い頃に氏神の祭場を更へて、宇治の近くへ持つて來てしまつた爲に、前の通りの祭式が行ひ難くなつたやうである。皇大神宮年中行事に、荒木田氏二門の氏神は田邊《たのへ》の本社にありて祭り、同一門は小社湯田野《をこそゆたの》社に參りて祭る也とあるのは、多分は室町期中頃までの事實であつたらう。氏人の多くが神宮の附近に常住するやうになると、是は相應な道のりである。宮川を舟で渡つて北やゝ西へなほ二里足らず、今の田丸の町の周邊にその遺跡といふ地がある。宇治からは三里以上もあつたらう。重だつた人たちは騎馬で行き、當番の禰宜も年老いると代官を出すことを後々は許されたが、それにしても餘り大儀なので、一つには兵亂の故障もあつたからだらう、たうとう爰を引上げて氏神祭場を宇治の方へ持つて來てしまつた。一門荒木田氏がまづ岩井田山に祭場を移して、二門はまだ田邊の本社の地で祭つてゐる頃の記録が偶然に殘つてゐる（一）。是を勸請などと書いたのは穩かでない言葉使ひだが、或は當時はもう普通の氏社の祭と、近い心持になつてゐたのかも知れない。二門荒木田氏の氏神祭場も、結局は移さなければならなかつたやうだが、それがいつの頃、何處へであつたかはまだはつきりと自分は知ることが出來ない。しかし最後には一二門兩方とも、宮中酒殿の東の地に於て其祭を行うてゐたといふことが、當時勤行次第私註には明記してある。つまり彼等の氏神祭は變化したのである。

　伊勢では神宮の境内のことを、夙くから宮中と呼んでゐた。即ち神殿のごく近い處で家の氏神祭を營んでゐたので、古來の慣行の特徴を注意してゐた者には出來ないことなのだが、もう此時代になると本意は既に失はれ、たゞ古來の(302)形だけを續けてゐたものと思はれる。さういふ中でも問題となつてゐた一つの點は、彼等の氏神祭が現代の神社祭祀の如く、建物の中で行はれたものであり、從つて是に必要なだけの社殿が、湯田と田邊の元の地にも有つたかどうかである。建久年中行事に出てゐる田邊本社、及び小社湯田野社なるものは、共に式神名帳以來の神宮所屬社の中のもので、氏神祭はただ其社の地を、祭場として使用したまでと解せられるのだが、伊勢の學者の中にはそれは只名稱の近似だけで、別に式社以外にさういふ名の氏神社が有つたやうに、思つてゐた人が少なくない。それには田邊・小社・湯田等の式社は爰に在る、其祭神は何々といふ神だといふことが、實は餘りに確定し過ぎてゐて、是を先祖を祀る社とは見られなくなつて居たことも、手傳つてゐるのである。それを丸呑に信ずるやうでは、もう昔のことは考へることが出來ない。田邊は今でもあるやゝ廣い區域の村の名で、土地の人は今では之をタヌイと發音してゐる。通例我々がタナベといふ代りに、元はタノヘと謂つたのが轉じたのである。さうして其田は亦古記に見えてゐる荒木田の田であつたと認められてゐる。荒木田の氏人等は力を合せて、ごく早い頃に此邊を拓いて田を作り、それによつて今の姓を賜はつたといふ傳説もある。少なくとも田邊は其あらき田に接した民居といふ意味であつたらしい。そこに齋き申した神であれば、氏と因みのあることもほゞ疑ひを容れぬと共に、後年永くそこを祭場に借るといふ由緒も存し得る。氏神祭は騎馬で往復した一日きりの行事であり、又雨の日には中止し又模樣替へをしたといふ記事も殘つてゐるのみか、その社といふものが、伊勢では殊に巖や樹木を神座として、社殿の無いものが多かつたのである。それが追々と建物のある社になつて來たのは、全國各地の諸社も同じである。一方の式社が今もまだ元の地に有るからとて、別に氏神の爲の社があつたものと推定する必要は無い。現に酒殿の東の地でも祭をしたやうに、幕や假屋を以て當日の設備をしたものとも見られるのである。河邊家即ち中臣氏の先祖祭なども、此點に於ては參考になる。是もわざ／＼昔の官舍神社の地を攷證して、そこへ行つて近世の祭は行ふことになつてゐたのだが、その式場の圖といふものを見ると、社殿は用ゐずに別に祭神の座を設けてゐる。一方には亦民間の各社に於ても、露地で神を祭ることは是まで(303)はごく普通であつた。現行の祭祀諸規則が豫期してゐるやうな作法が、安々と行ひ得られるほどの拜殿をもつ神社は、今でもさう多くは無いが、以前は寧ろ稀であつたのである。

　

　註一　一門荒木田氏が氏神祭場を移したといふ岩井田村は、其前から山神祭の行はれる土地であつた。其場所には今も荒木田氏一門氏神社といふのが立つてゐるさうである。次に二門荒木田氏の氏神祭場については、氏經神主の神事記、文明二年十二月四日、延引の氏神祭が行はれた日の條に、斯ういふ記事がある。そも／＼一門の氏神山宮、遠所の參勤大儀なるに依つて當所に勸請せらる。彼の例を以て二門の氏神山宮も勸請し奉るべきの由、風日祈宮の神事の祭の庭に於て、二の禰宜有俊神主申さるゝの刻、烏《からす》飛び來つて有俊の冠を□落す。神慮快からざる歟、仍て其儀を止めらる（以上）。即ち田邊本社に於ける氏神祭場は、是からなほ暫らくは元の地に置かれて居たのである。なほこの條に「氏神山宮」と續けてあるのは、私にとつては相應に大きな事實である。

　

　　　　　　　四　民神祭と觸穢

　

　そこで轉じて外宮の度會氏の方の氏神祭場を見て行くと、この一族は最初から宮川の内側の、やゝ狹い區域に集まつて住み、氏神山宮も共に行きやすい處に在つて、祭場を遠くへ移轉する必要を感じなかつた。少しは動いてゐないとも限らぬが、大體に今の宮崎文庫の在る小さな盆地の中に於て、昔からの行事を續けてゐた。是が多分は古い慣行の、比較的よく保たれてゐた原因の一つかと思ふ。

　度會氏の氏神祭場も、二門と四門と南北に二町ばかりを隔てゝ二處に在つた。南にある方が二門の祭るもので、爰を古くは宮崎氏神社、其近くに在る部落を氏神村とさへ呼んでゐたので、先づ記憶以前からの存在と見られる。祭神は全氏共同の遠祖｜天牟羅雲命《あめのむらくものみこと》なりと類聚神祇本源にもすでに記し、こゝに端なくも四門分立以前の氏神祭といふもの(304)が、考へて見る價値あることを心付かしめる。祠を常設したのはさう古いこととも思はれぬのに、其前に列なつてゐる六つの小祠は、もう誰と誰とを祀つたのかを知ることが出來ない。それ程にも前人の感覺は傳はりにくいものだつた。

　それから今一つの四門の氏神祭場、是は丸山とも車塚とも呼ばるゝ一つの盛土の地であつて、四門の第一世｜大神主小事《おほかみぬしをごと》と、其女宮子と親子の靈を、二つの小社に齋くものと傳へられるが、或はやゝ後年の認定かも知れない。外宮所攝の式社｜田上《たのへ》大水社二座が是だといふのは、たゞ反對をする人が無いといふのみで、延喜の時代からたゞこの二人だけを指定して、神に祀るといふ習はしが既にあつた證據にはならぬと思ふが、兎も角も田上は荒木田の田邊《たのへ》も同じく、大水は伊勢では灌漑の�ｺをたゝへた名であつたといふから、どこか此あたりに先祖の農作上の功業を記念する故蹟が、無ければならぬといふ心持で、やつと捜し當てた靈地であつたことだけは認めなければならぬ。實際に又山々を以て取圍まれて外の累ひが無く、神の御饌と度會一族の食料とを確保するには、誠に都合の好い土地柄でもあつた。斯ういふ地形の中に名田を持つた、諸國の名族は皆榮えてゐる。さうしてしまひにはその増加した人口のはけ口の爲に、何か世間に向つて仕事をしてゐる。度會氏はたまたまその場合の一であつたことを、私は今考へてゐるのである。

　一つのやゝ解し難い事實が、神境秘事談の中に録せられてゐる。この田上大水社は、式年の神遷しから年内兩度の神事まで、本來は四門權禰宜等の計らひであつたのを、享保十八年（一七三三）から大宮司家に委ねてしまつて、四門の人々はただ神拜に出るだけとなつてゐた。之を本意無いとして天明四年（一七八四）から、再び度會四門の管理に復した云々。是はたゞ祭に從屬した神領の權利が、讓渡か相續かによつて他姓のものになつたといふに過ぎぬのかも知れないが、次に述べようと思ふ法樂舍の例も有るので、何か氏神祭に關聯した信仰上の問題が、潜んでゐるのではないかと自分は注意してゐる。しかし現在はまだ是といふ見當も付かぬのだから、二つは別々の事件と見るの他は無い。

(305)　伊勢の氏神祭の見遁すべからざる特徴は、それと大宮の神聖なる職務との間に、はつきりとした堺目が有つて、他のさま／”＼の攝末社の神事とも、同一視せられなかつた點である。神社啓蒙には社家の者の説として、宮崎氏神社は社家の祖廟たるによつて、參宮の當日は之に詣づることを忌む、蓋し廟參の儀に準ずる也云々とある。爰にいふ廟參は墓參りのことらしいが、この氏神社の祭神に關しても、特に所祭神一座廟六座、禰宜相傳の習ひありと謂つてゐる。此本は正�ｺ四年（一七一四）の自序を持つてゐるが、此時代にもなほ先祖祭に伴なふ觸穢の感じが殘つてゐたのである。宮川日記の著者多田義俊は、色々神主たちの氣に入らぬことを言つた人だが、其中にも宮崎御文庫より見ゆる所の丸山に、禰宜の祖の墓も社もあり、是へ禰宜參ずれば、三日潔齋せざれば御饌に預らず、即ち大神に奉仕することが出來ぬといふ話を載せてゐる。生時純眞に神の御用のみを勤めた人たちが、世を去つて千年の後に至るまで、なほ穢れの種になるといふことは、決して我々の考へ方では無かつた。是は神宮が特殊の清淨を重んじたまふこと、或は塚處の名が忌はしかつたといふことを勘定に入れても、なほ我々には餘りなる拘束のやうに感じられるのだが、しかも外間の者の只の噂だけでは無く、伊勢人自らの間にも或程度まで、之を認めて居たことは奇なりと云はねばならぬ。事によると是は新しい佛教の感染であつて、盆の先祖の祭が、過去の靈魂のすべてを擧げて黒衣の徒に托し、活きてゐる者との時の距離を省みなかつた結果、一括して之を忌はしいものと見なければならなくなつたか、さうで無ければ法師等がまだ神の都に近よらなかつた昔、もつとはつきりといふならば、まだ前代の葬法が繼續してゐた時代に、組靈を現世に繋ぐ爲に必要だつた機關、即ち山宮と氏神社の祭についての作法が、なほ無意識に又形式化しつゝも、殘り傳はつてゐたものであらうも知れぬ。自分は勿論第二の推測に傾いてゐるのだが、之を確實にするにはもつと多くの證據を必要とする。しかし少なくともこの二つの理由の何れか一つより外に、もう第三のものは考へられぬやうな、目に立つ事實が、まだ幾つもあることだけは受合ひ得られる。

　

(306)　　　　　　　五　二種の精進

　

　我々が服忌と書く言葉に、伊勢ではもと服紀又は服氣の文字を用ゐてゐた。忌が最も重々しい意義を持つ神地としては其字の使用にまで、なほ自然の警戒をしてゐたのではないかと思ふ。しかもこの服紀を話題としなければならぬ機會は、毎日のやうに生じてゐた。殊に外宮の方では服紀路といふものの必要が大きかつたのである。山田の町に住む者が、かの宮崎の一郷に往來するには、所謂宮中の片端を横ぎつて行くべき場合が多かつた。さうした人たちの中の服忌ある者の爲に、主としてこの路は設けられてあつたやうである。他にもここを通つた人は勿論多かつたであらうが、毎年二度の氏神祭、次には年一囘の山宮神事に、氏人の勤めとして參列した度會姓の人々には、特に古來の路筋が定まつてゐた。さうして歸りには必ずこの服紀路を通つたのである（一）。内宮の方には設けられなかつたらしいが、是は服紀路の必要が無かつたのである。宮川向うの湯田田邊の氏神祭に參るのは、方角が全く反對であつた。それに又爰では夙くから、本宮奉仕の番に當つた禰宜だけは、氏神祭には參らぬことにして居り、後には又順をきめて同門の中から、禰宜はただ二人又は一人づゝ出ることゝなつてゐた。從つて其後三日の清まはりをしなければ、御殿に上れぬといふ規約を立てゝも、實行はさして困難ではなかつたのである。之に對して度會氏の氏神祭は、祭場が近かつた爲もあらうが、氏の全員の參列を原則としてゐた。從つて物忌潔齋の問題が、どうしても起らざるを得なかつたのである。故老口實傳は鎌倉時代の記録と認められるが、此中にも既に「氏神祭以後、番の禰宜沐俗の事」といふ一項が掲げられてゐる。言葉は短いが意味は長い。番の禰宜とはその當日に、本宮の神饌に奉仕すべき者のことである。さういふ人までが一度湯を浴びれば、もう御前に出てよろしいといふのは、慥かに服紀路を還つて來るといふ趣旨とは一致しないのである。しかし同じ口實傳でも、山宮祭に就いては今少し嚴重で、次のやうな一項が別に其前段にあ(307)る。

　　宮中番の禰宜參勤の事、思慮あるべきの由古人之を禁ず。件の祭精進の中、宮中の神事直會饗膳の時、魚鳥食用憚り無きもの也。祭年の人亦同じ。

　思慮あるべしとは、本當は差控へる方がよいのだといふ意味であらう。古人は之を許さなかつた時代も有るといふのは、世につれて規則がやゝ弛んで來たことを談つてゐる。祭の精進といふことは、最初からの事とも考へられぬが、ともかくももう此頃には守られてゐたと見える。ちやうど佛教徒の戒律も同じやうに、一切の動物質のものは食べぬといふ精進で、神道の方の食物制限とは一致してゐない。だから大宮の神事として、魚鳥を食べなければならぬ場合だけは、この山宮祭の精進は破つてよろしいといふので、珍しい一つの妥協であつた。荒木田氏の側にも是と似た掟があつたらうことは、内宮の年中行事の山宮祭の條に、「家子侍雜色所從、人數に隨つて饗膳酒に預る。皆楕進也。惣じて參向の人數、魚鳥を喰はずして參る也」とあつて、一方の氏神祭の方には、「但し今日は魚鳥珍物を調ふ云々」とあるのからも推測せられる。乃ち荒木田氏の方でも、山宮祭の爲に前日來の精進をしてゐた者が、時々は本務の神事の爲に、其精進を破らねばならぬ場合も有り得たのである（二）。

　山宮の神事といふことは、この一篇の主題だから、是からなほ次々と述べて行くつもりであるが、こゝでは先づ氏神祭との比較の爲に、さうして荒木田度會二氏の行事が、大よそ同じ方向に發展してゐることを知る爲に、もう少し食物の忌に就いて説いて置く必要がある。この山宮の神事に參列すべき人々が、食べてはいけない食物が別に二種あつた。その一つは蒜《ひる》、今一つは山鳥、この鳥は此邊にはゐないので、雉子も其中に入れてあり、蒜といふのは後にはニンニクのことであつた（三）。祭の日以前數十日内に、二つのものを食べたことのある者は、祭に出られぬといひ、又は出ても祝詞の終るまで、席を外してゐなければならぬとしてあつた。さうして一方の氏神祭に於ては、この禁忌は全く無かつたので、こゝに二つの祭の戒律の段階ともいふべきものが認められるのである。

(308)　次には故老口實傳の中にも出てゐる祭年の者の作法、是も山宮祭にだけあつて、氏神祭の方には無かつたことのやうである。祭年は或は災年とも書き、我々のいはゆる厄年を意味するらしいが、その算へ方がちがつてゐる。即ち氏人は二十七歳の年から始めて、中七年置いて八年目毎に、必ず此祭に參加すべき年があり、それを祭年と謂つたのである。祭年の者は清火を以て精進の提盒《さげぢゆう》を調へて携へ來り、それを座中へ持出し、一禰宜と相對して獻酬すると、外宮の年中行事今式には見えてゐる。荒木田氏の方には此慣行が有つたかどうか判らぬが、とにかくに祭場を宇治の近くへ移した以前は、出來るだけ參る人を制限してゐたのだから、或は何か便法を講じたかも知れず、又は此作法が中頃から、宮崎の山宮谷のみに、新たに始まつたものであつたのかも知れない。

　

　註一　外宮の服紀路は單に氏神祭の歸りだけで無く、始めから忌のある氏人が、この祭に參列する時にも使用せられた。子良館祭奠式の中に、禰宜權官物忌父等服紀たりと雖も參勤憚り無し、唯風宮後の路筋也とあるのは、忌のある者が氏神祭に參列するのに、この路を通つて行つたことをいふのである。

　註二　祭のすぐ後につゞく直會《なほらひ》といふものを、たゞ供物の御下りを頂戴することの如く、今の神職は考へて居るやうだが、是は儀式の一部であり、必ず奉仕者が義務としてたぺるものであり、同時に又氏人の祭をする神社の祭と、外から信心に參つて來る場合との、最も明らかな區別の點でもあつた。神宮の祭でも、神供の魚鳥は精進して居る者までが食べなければならなかつたのである。

　註三　建久の年中行事を見れば、荒木田の山宮祭の禁忌は蒜だけのやうであるが、内宮子良館諸格雜事記には、前の年の十二月一日から、三月十一日即ち山宮祭當日までの間に、山鳥にんにくを食した者は出られぬとあつて、やはり度會氏の方も同樣に、山鳥も食べなかつたのである。何故に土地にも居ない鳥を禁じたかといふことを考へると、根源は或は教理上のものであつたか。

　

(309)　　　　　　　六　特色ある饗膳の式

　

　地方の近代の多くの祭禮に比べて見ると、伊勢の氏神祭などは目で觀る部分が少なく、何處に中心點が在るのかも知り難いやうに思はれるが、中心點はやはり祭人たちの共同酒食即ち饗饌であると言つてよく、是には又最も顯著なる山宮祭との差異が認められるのである。二つの祭に共通な儀禮としては、みてぐらの制式が殊に重要なものだつたかと思はれる。それは單なる今日の御幣では無くして、紙を氏人たちが供進する作法であつて、係の祝《はふり》又は物忌父が是を請取り、祭場に於て幣串一を削り、一人々々の分を是に挿んで刺し立てる。四月には厚紙二枚、十一月には四枚とある。外宮の今式にはその幣の圖といふのが出て居るが、雙方ともに紙には鋏を入れず、全紙をひろげたまゝで串に挿んで居る。即ち是も亦一種の幣帛なることを知るのである。後世｜御初《おはつ》と稱して官首は三十疋、他の禰宜は各々二十疋づゝの錢を出したのは、紙だけではあまり輕少を感じてからの追加かと思はれる。外宮の方では他の宮廻の場合と同じに、爰でも所謂｜散供錢切《さんぐぜにきれ》を捧げることにして居たが、さういふものが昔から有つたらうとは思はれない。内宮方の氏神祭に於ては、當日重立つた氏人の乘馬に紙手《しで》を附けて、鳥居のまはりを三度牽き繞るといふ珍しい式があつた。外宮方では馬を用ゐないから同じ式は無いが、是などは暗示に富んだ古い行事の名殘のやうで、しかもまだ之を説明した人のあることを知らない。一方度會氏の側の祭式のうちで、我々の注意を惹くのは倭舞といふもの、是は各禰宜が順次に、祝詞を奏し八度の拜を畢つてから後に、再び起つて神前に獻ずるもので、舞とはいつても極度に簡單な手振であり、たゞ袖の端を一方の手で持つて、左右左と三べんだけ、身を飜すに止まつて居たといふが、曾ては是が祭典の完成を表示した重要缺くべからざる行事であつたかと思はれ、神宮の月次祭を始めとし、其他諸國大社の大祭の中にも、此舞が形ばかり殘り傳つて居る例が多い。舞の名だけは土地により色々と變つて居るが、舞はれる場合(310)は大よそは一致して居る。それを比べ合せて見たならば、或は少しでも當初の感覺が窺ひ知られるかも知れぬ。誰か是からの人に試みて見てもらひたいと思ふ。

　神饌と饗膳と、事實この二つが祭の關心の焦點になつて居たことは、前に自分の述べた通りであつて、其用途の爲に特別の料田も備はつて居たやうであるが、後々には次第に是だけでは足りなくなつて、祭の經營を少しづゝ困難にして居る。殊に内宮禰宜の方は遠方である故に、供給が一段と大儀だつたかと思はれる。氏經神主の日記などを見ても、氏神祭の順番に當つた禰宜が、前日に試みの膳といふのを官首に送るといふ先例だけは嚴守して居るが、饗膳の全部を祭場に持つて行く手續はもう省略せられ、直接に之を當日の列席者の宅へ、送り付けてしまふことになつて居たやうである。さうして祭場の方にはたゞ酒があり、小付《こづけ》と稱する簡單な食事だけが用意せられた。以前多數の從者を使役して、大規模なる野外饗宴が、終日行はれた頃の光景を、胸に描いて見ただけでも、信仰の變遷は理解せられる。度會氏の方は宮崎がさう遠方の地で無い爲に、運送はまだ或程度まで可能であり、人も比較的多く集まつて來て、手分けをしてこの饗膳の式を完成して居た。殊に山宮の祭場には、臨時に五つ又は四つの竈を築いたといふことが、江戸期半ばに出來た今式の中にも見えて居る。それも型ばかりで全部は使用しなかつたらうと思ふが、ともかく是が主要なる三家と、政所との竈であつた。精進ではあつたけれども酒肴は豐富であり、又強飯が全員に分配せられた。

　之について自分が最もかはつて居ると思ふことは、此振舞の食事がすべて祭の前の行事であることで、參列者一同は集まつて臨時の祭殿を構築し、それが出來上つたことを點檢してから後に、先づ座について共同の飲食をする。災年《さいねん》の者が特別の酒料理を持參して、一禰宜と獻酬するのも其間のことであつた。さうして其食がすつかり終つて、茶が出て菓子が進められて、それもすんでしまつて後、さて愈々谷川の水で口をすゝぎ手を洗つて、それから始めて當日の山宮祭に取掛るのであつた。直會といふ言葉を用ゐられて居るが、祭に供へられた飲饌の相饗は少しも無く、たゞ分配を受けて懷にして還つて來るだけである。但し以上はたゞ外宮方の今式の記事であつて、内宮の年中行事には(311)此區分は明らかに示されて居らず、却つて直會饗膳大饗也とあり、?神酒に預るともあつて、神と相饗の行はれたやうにも見えるが、なほ衆人の爲に別途の供給があり、又その饗膳が畢つてから手水神拜を行ひ、幣物の奏上があつたと記して居る。ともかくも是ほど通常と異なる饗膳の方式を、新たに外宮の人たちだけで姶めたとは見ることが出來ぬのである。しかも一方には氏神祭の式の方を見ると、斯ういふ食別れとも見るべき神人別途の饗膳といふものが現はれて居ない。斷定してしまふには勿論まだ早いけれども、少なくとも是は山宮祭といふものゝ本質を明らかにすべき、一つの觀點として氣を付けて置いてよいことである。

　

　　　　　　　七　山宮祭場は葬地か

　

　山宮と氏神との二つの祭が、二つ相對し又は相牽聯するものだといふことも、實はまだ明記した記録には出逢はぬ。或は只自分だけの解釋と見られるかも知らぬが、さう思つてもよいやうな理由を、小さいながらも數多く私は列擧することが出來るのである。たとへば荒木田度會の各氏族の、その氏人限りで行ひ續けて來た祭が、この二つより他に無いといふことが其一つである。二つの祭の相異なる點が、斯うして拾ひ上げられる三つ四つに止まり、他は共通のものが多いこと、其他は山宮祭の如しといふ文句が、屡々氏神祭の記事中に見えることである。次にはこの二つの祭に於て祭らるゝ神が、共に兩氏のそれ／”＼の祖神であり、時としては同じ人、又時としては世代を異にした別の先祖と謂つて居ること、それからもう一つの重要な點は、中世以前の二つの祭の、祭場所在地の地理的關係である。この以外にもなほ考へて行くうちに、心付くことは有るのだが、それは各條に於て注意することにする。しかし一方大宮司家の中臣氏、及び宇治氏｜石部《いそべ》氏には氏神祭のあつたことのみは傳はつて、山宮祭はあつたとも無かつたとも、まだ確かめる道を私は知らぬのである。他日反對の證據も出て來ぬとは限らぬから、讀者もさう全幅の信頼を寄せられな(312)い方がよいかも知れぬ。たゞ私は現在ほゞ信じて居る通りを言はうとするだけである。

　最初に明らかにしたいのは山宮祭の祭日で、是が二つの氏で完全にちがひ、その通則のやうなものを發見するのが六つかしいことである。荒木田氏の山宮祭は中世には三月中、日を選んで毎年之をきめたが、多くは下旬のうちであつた。或は三月卯の日だつたとの説もあるが確かでない。近世に入るに先だつて、それが三月十一日と一定した。一名を木目《きのめ》祭、木目時分也と年中行事にも記し、三つの樹木の芽を採つてあへ物にして上げたともいふが、それは十一日にしても少し遲きに失するから、事によると元は今少し早い季節に行はれた祭だつたかとも思ふ。一方度會氏の山宮祭は、十一月の下旬に日を選んできめることになつて居たが、此方にも少々の不審がある。といふわけは此氏の氏神祭が此月第二の酉の日で、下旬の二十四日にまで下り得る。さういふ場合には山宮祭日の方をもつと遲くしたかも知れぬが、それにしても少し接近し過ぎる。氏神祭の後でも前でも、何れでもよいといふことは無かつたらうと思ふ。私たちの爲に可なり大切な問題は、氏神山宮の二つの祭が、最初から別々に起つたかどうか。もし別々とするならば二つどちらが早く始まつたか。はた又本來は一續きのものであつたとすれば、どういふ事情が之を分立させ、今のやうなやゝ薄い關係に置くことになつたらうかであるが、之を少しでも明らかにするには、やはりどうして一方が三月であり、他の一方が十一月になつて居たかの理由を、先づ尋ねて見なければならぬ。自分のまだ目に觸れて居らぬ文獻資料は莫大である。さういふ中には解説がちやんとついて居るかも知れないが、今は先づあら方の見當を以て、三月といふのは四月の氏神祭に先だつもの、一方の十一月といふのは翌年の二月のそれに結び付くべきもので、何か今はまだ不明な事情があつて、一方はやゝ遲くなり、他の一方は少し早めに、くり上げられて居るのではないかといふ假想を立てゝ居る。是には勿論大宮の十二月月次祭、二月の祈年祭といふことも、一つの事情として考へ得られるのである。

　次には山宮祭場の地理であるが、この點は足行かずして或程度までの知識が得られる。荒木田氏の一門二門が山宮(313)祭をして居たのは、彼等の初めの氏神祭場より一里餘の水上、今の外城田《ときだ》村大字｜積良《つむら》から、又少し山に入つた津不良谷《つぶらたに》と、そこからさまで遠からぬ椎尾谷とであつた。今でも實地に就けば或は指示し得るかと思ふが、祭場は最初から一箇所でなかつた。椎尾谷の方にも二つ、津不良谷の方にも三つあつて、官首の替つた年には東の谷、其外は中と西との二つの谷を、打替へ／＼各年に祭つたといふから、或は年毎に少しづゝは場處を動かして居るかも知れぬ。ともかくも爰には社は無くして、たゞ地上に石を据ゑ置きて其上に祭る也とある。一門の椎尾谷の方にはそれだけの記録も無いやうだが、この方は二門の津不良谷よりももつと以前に、祭場を宇治の中村の小谷といふ處へ移してしまつた。内宮の神境とは岡を隔てた北向きの暗い谷で、古い塚が多い處だといふ。二門が獨り留つて津不良谷で祭をして居た期間はいつ迄だつたか、是も後終に此地を去つて、神宮宮中の風日祈宮《かざひのみのみや》から、やゝ奧まつた山中で祭ることにしたといふ人がある。どうして其樣な忌はしい事をしたものか、私には合點が行かない。ともかくも服紀に準じて當番をさへ遠慮するほどの祭を、いくら便利だからとて斯ういふ大宮の目近い處へ、移すといふことは信じ難い話で、つまりは當人たちももう本の意を知らぬやうになつて居たのである。神都名勝誌には右の積良谷の山宮祭場を、荒木田氏祖先の墳墓なりと明記して居る。書證に依つたものか、はた又考古學的の實査に基づくか、何れにもせよそれが確かなことならば、自分の意見はよほど立てやすくなる。しかしながら天見通命《あめのみとほしのみこと》の時代はさておき、今から千五百年前の墓制すら、實際はまだ我々に判つて居ないのである。オキツスタヘと謂ひオクツキと謂つたものが、どういふ方式で亡骸を隱したかといふことも、是から歸納法によつて徐々に尋ねて行かなければならぬ。それをもう斷定したのは、何か大膽に過ぎるやうな氣もする。

　

(314)　　　　　　　八　法樂舍の問題

　

　それで荒木田氏の方はまづこの位にして置いて、次に他の一方の度會氏の山宮祭場が、どんな?況に在つたかを尋ねて見ると、爰には近世たゞ一箇所にしか山宮谷は無くて、二門と四門と、氏神社は別にして居りながらも、この祭だけには同じ場所を共々に用ゐて居たらしい。外宮の年中行事今式は延寶の頃から編纂に着手し、數十年もかゝつて漸く纏まつたものださうだが、是に示された山宮祭式では、十員の禰宜が悉く同じ日同じ時刻に、同じ場所に集まつて協同の祭をすることになつて居る。二つの門流が對立して居た中世以後の、是が久しい慣例であつたらうとは思はれぬのである。ちやうど今式の記録の進行中、貞享四年（一六八七）に書かれたといふ黒瀬益弘の外宮子良館祭奠式には、次の樣な註記がある。

　　この神事（山宮神事）、故有つて延寶三年（一六七五）より其規式を改む。茲に因つて以往の行事置いて此に記さず、唯當時の勤むる所を記すのみ。

　即ちたゞ現?の記述では無くして、方式其ものが此際に改まつたといふのである。或は今式確定の甚だしくひまどつたのも、斯ういふ必要があつた爲かと思はれる。優れた當時の學者の一人として、必ず其議に與つた筈の益弘神主が、たゞ故有つてとのみで語らうとしなかつた事情はどういふものだつたらうか。聊か臆斷の嫌ひが有るか知らぬが、私にはほゞ判つて居るやうな氣がする。

　それを簡單にいふと、つまりはこの延寶の初めまで、山宮祭場は茲でももとは二つ有つたのである。さうして他の一方がひどく佛教にかぶれて居たのである。殘りの一つは岩戸山の東斜面、地域の名を瀧谷といふ處にあつた。建武二年といふ年（一三三五）に、繼橋郷前山といふあたりから、茲へ移したといふことが祝詞の文面に見えて居るさう(315)だが、是がもし祖先の葬送の地として居たならば、さう輕々しい引越は出來ぬ筈である。或は是も亦佛法に對する一つの反抗であつたかも知れない。ともかく大よそ其前後とおぼしき頃から、この山宮祭を北辰妙見の信仰と結び付けようとする、飛んでも無い運動があちらでは開始して居たのである。當時の今一人の有力な學者、檜垣常和神主などは、是を麗々と著述の中に掲げて居る。けだし久しい期間の此土地の通説でもあつた。今となつては馬鹿げきつた話だが、あまり色々の記録に出て居るから大要のみをこゝに擧げると、貞觀元年といふ遠い昔、度會氏の遠祖高主神主の一人娘、十五歳になる大物忌子《おほものいみのこ》がこゝの御贄川の流れに入つて亡くなつた。直ちに淵の底を探ると亡骸は見當らずして、この妙見の靈像を感得した。之を安置したのが岡崎宮、即ち最初の山宮祭場であつたといふのである。父の高主が家では次の年の十一月十五日から、毎年同じ月の同じ頃に、三年續けて男の雙子が生れた。其六人の男の子の六ばん目が、有名な春彦神主、即ち天神の末社の白大夫のことだといふ俗傳のある人で、この春彦が岡崎宮の靈託に基づいて、始めて清淨の山谷に日月諸星二十八宿五星を祭つたのが、山宮祭の起原だといふやうな縁起が成立して居た。檜垣氏の諸祭由緒記には、妙見といふのは習合の名目で、實は星の精靈を祭つたものだなどと、説明して居るが、ともかくも自分の先祖の祭を、外國信仰の教理で解釋して疑はなかつたことは同じであつて、洵に笑止なる時代の學問の貧しさであつた。一つの外部の原因としては、爰は前には靜寂なる山陰の靈地であつた處が、後に交通路の附替へによつて、頻りに旅人の往來する巷となり、次第に妙見の尊像を著名にしたことも考へて見なければならぬ。三組の雙子なども單純な奇跡では無くなつて、後には土地の住民までが、こゝへ詣でて安産の祈願を掛けるやうになつて、もはや何としても是を山宮の祭場として置くことが、度會氏人等の潜在意識と、兩存し難いものになつてしまつたのである。佛教史の側から見ても是は好箇の一課題である。他日もし幸ひに史料が得られたならば、いはゆる世義寺の初期の活躍の跡を尋ねて見たい。山宮信仰の次々の變化に、氏寺の干與したことだけは略々推測し得られる。しかし近世に近よつてからは、法樂舍（一）と稱する最も小規模な宮寺が、この岡崎宮の妙見の信仰に據つて居たらしい。さう(316)して他の一方の岩戸山麓の山宮祭にまで、手を出して居たことが毎事問などの中にも見えてゐる。延寶三年（一六七五）の十一月廿七日の神事を境として、愈々この法樂舍の法師どもを、山宮祭場から除外することになつたのだが、それでもなほ此祭の用途として徴収せられた御幸町の年貢の中から、五十文だけは法樂舍へ、布施として贈る慣行は續いたといふことである。

　

　註一　中世京都の記録に依ると、法樂舍は又法樂社とも書かれて居り（滿濟准后日記、應永卅二、九、十六）、こゝで將軍家の祈願が行はれた。或は又別に大神宮法樂寺と記したものもある（看聞御記永享五、六、十四）。法樂寺は宮川川外の棚橋といふ處に在つて、この法樂舍の本寺のやうなものだつたらしいが、後に衰へてこの關係は絶えて居る。梅田義彦氏の僧徒大神宮崇拜史に依ると、小島鉦作氏の通海事蹟考、及び山口起業氏の法樂舍考があるさうだが、二つとも私はまだ讀んで見ることが出來ない。

　

　　　　　　　九　山より降り乘る祖神

　

　度會氏の山宮祭が、二つあつた祭場を一つにし、且つ其儀式に著しい改訂を加へたことは事實であるが、主たる目的の在る點が佛法の排除、又は妙見信仰の分離であつたと判つて見ると、殘りは復古であるか、はた是までのものの持續かといふだけが問題であつて、新たに考案を加へて増し添へたものは少ないと見て、まづ過ちは無からうと思ふ。具體的に言ふならば、所謂災年の人たちの特別參加の如き、ちよつと珍しい申合せ、殊に氏人ばかりの饗膳を先づ終つてから、始めて神の祭に取掛るといふやうな、稍々尋常に反した方式などは、新たにさうしようと言ひ出しても採擇は望まれないのは言ふに及ばず、或は一旦絶えて居たといふ場合ですらも、今更復活することに一致するのは容易でなかつたらう。乃ち今式の大部分は、古い仕來りのなほ續いて居たものを、愈々確認して守つて行くことを約した(317)ものと、一應は私は見て進まうとするのである。

　幣とみてぐらとの對立といふことなども、私はこの祭の式の中から、立證し得るやうに思つて居るのだが、それを説かうとすると話が大分長くなるから、改めて別の折に細敍する。茲で見て置かねばならぬことは、臨時の祭場の設備、一年にたゞ一度と定まつて居る祭の爲には、人が如何なる支度をしたかといふ一つの例である。前に引用した祭奠式と今式とには、可なり詳しく其顛末が記してある。度會氏の山宮祭では椎萱と稱して居るが、椎と萱だけでは無く齒朶も有り藤蔓もある。此等の材料を豫め運ばせて置いて、當日一同が揃つて手水をすませてから、急いで假殿の構造に掛り、祭が終るとすぐに又それを取崩して、その材料を少しづゝ參列者に分配して持還らしめる。今式の附圖に出て居るのは、印刷本でははつきりとして居ないが、屋根は有つたにしても枝をさしかはす迄で、雨の防ぎにはなりさうも無く、又この祭殿に向つて作る七重の棚、及び酒桶の棚といふものなどは、何れも供物を置くだけのもので何の覆ひも無い。氏神祭の方は、雨儀には九丈殿を使つて別な式があつたけれども、山宮祭の方には全く記載が無い。時雨の降る日などは濡れながら奉仕したらうし、大雨が朝から降れば恐らくは見合せとなつたのであらう。荒木田氏の山宮祭に就いては、雨に妨げられて積良の村の社で、祭をしたといふ古い記録が一つある。是も山中には社殿は無く、石を据ゑて祭をしたといふことだから、構造は或は　　　稍々ちがつて居たかも知れぬが、やはり時に臨んで神の御假屋と、祭の棚とを造ることは同じだつたらうと思ふ。そこでどうしても考へずには居られぬのは、斯ういふ谷の奧のたゞかりそめの祭の庭を、何故に古くから山宮と言ひ習はして居るかといふことで、普通に我々の言つて居る宮と社との區別では、此點は到底説明することが出來ない。人は氣づかずに年を過して居たけれども、是は本來信仰上の言葉であつて、凡俗の眼には見えない祖靈の隱れ宮が、かねてこの山間の靈地にはあるものと信じ、時としては之を幻にも見たことは、たとへば富士の北麓の村人が、上代の噴火の後先に、五彩目も綾なる石造の宮殿が山頂に建つと思つたり、又は伊豆の島々の山燒けの頃に、新たなる多くの神の院が築かれたと奏上したりしたやうに、色々の不可能(318)事を可能として、言ひ傳へて居たのではあるまいか。それまで考へることは空想であるかも知れぬが、少なくともたゞ椎萱の簡單な設備を以て、神を迎へ神を祭ることが出來たといふのは、其又一つ向うに常の日の神のおましが有ることを、もとは信じて居た爲だらうといふだけは、この山宮といふ名が推測せしめるかと思ふ。北辰妙見の信仰がいつしか入つて來て、一時この由緒深き祭を占領したといふのも、多少の誘因が此方にもあつたので、單なる欺瞞の如く又盲從の如く、之を見ることは同情の足らぬ態度かも知れない。

　伊勢の山宮神事は起原が遠く、構成が複雜であり、且つ二氏の文證が偏在して居る爲に、力を綜合に注いで見たけれども、是以上簡明に事實を傳へることは私に出來なかつた。大事な諸點のまだ見落されて居るものが無いとは言へない。たゞ之に依つて窃かに企てゝ居ることは、一方には村々の舊い氏族が、昔から今の日まで祭り續けて居る氏神の信仰行事と、他の一方には現在我々が毎年の盆に、斯くまで大きな佛教の干渉が有つたにも拘らず、なほ歴代の祖靈を家に迎へて、共同飲食の歡びを交へようとして居る習俗と、今までは二つ別々の事の如く思はれて居たものゝ中間に、出來るだけ鞏固な橋を架けるべく、この山宮氏神二つの祭の事實を、材料として利用して見たいといふことである。さういふ下心を以て氣を付けて居れば、或はまだ多くの證據が出て來ると思ふが、もう是だけでも荒木田度會二氏の祭つて居る神が、遠い先祖の靈だつたことは判り、それが一定の期日を約して、山から降つて來られるといふこともほゞ確かになつた。さうしてその神々が曾ては後裔の生存の基礎であるものを安全ならしめんが爲に、稻の生育に主たる注意を傾けて、毎年必ず田の營みの始めと終りとに、故郷の土を見舞はれるものと、信じ切つて居た時代があるといふことも、行く／＼明らかになつて來る見込があるのである。小さな觀點としては祭の棚といふもの、是がこの煩累の多い凡人の世界に、任意に清淨な區劃を設けて神を迎へ申す手段であつたことは、外宮の神職の最近の祭式からでも大よそは窺はれ、他の一方には又盆の墓前のほかひ棚、家々の軒先の精靈棚、正月特に設ける年神の棚、更に進んでは常設の神棚みたま棚から、社に是非とも備へなければならぬものとなつて來た神殿といふものと、起原(319)が一つといふことを理解すべき、絲口にもならうかと私は念じて居るのである。

　

　　　　　　　一〇　淺間神社の山宮神事

　

　山宮の神事は、伊勢と幾らかづゝの態樣の相異を以て、なほ汎く國内の各地にも行はれて居た。近來はそれにも色々の變化を生じ、又何と無く廢れてしまつたものもあるので、記録文書の若干の援助を頼まないと、もう其類似を見出すことが六つかしくなつて居る。自分は出來るだけ、たつた一つや二つの事實に、重い證明責任を負はすこと無く、みんなで協同に昔あつた事實を語らせるやうにして見たい。最初に山宮といふ名前のまだ殘つて居る例を捜して見ると、やはり日本一の山、富士の周邊に殘つて居るものが多い。さういふ中でも駿州大宮の本宮、官幣大社淺間神社には、特に數々の重要なる山宮神事が附隨して居た。さうして今日はもう大部分が過去のものになつたが、幸ひなことには此社が自ら編纂した歴史が、周密に古來の文書を集め、何等の偏見を附加せずに、素材を我々に利用させようとして居る。伊勢と比べて明らかにちがつて居る一つは、この御社が既に一國の大社となつて年久しく、富士氏の氏神とは誰も思つて居ないことである。しかし一方には賀茂の氏神社のやうに、社職の祖先を祀つた末社もまだ出來て居ないやうである。次の一つの相異は、こゝの山宮行事は一囘に止まらず、一年を通じて其數が最も多かつた。どれが一ばん重要だつたかは、外部の者には言ふことが出來ないが、とにかく大祭の前に近づいて、幾つかの注意すべき式が行はれて居た。淺間本宮の大祭は元は三度、四月と十一月との初申の日の祭の中間に、もう一つ九月十五日の祭といふのがあつて、この三度の祭の前日には山宮祭が行はれた。但しさういふ中でも、四月と十一月の二度の未の日には、山宮への神の御幸が在つたに對して、九月十四日にはたゞ山宮の神事と、山宮新宮の神事があるだけであつた。この新宮といふのは本社の近くに建てられた別の社らしい。それからなほ一つ、四月十一月の例祭の日に先だつこと(320)十三日、即ち三月と十月との末の未の日に限つて、更に山宮御神法と稱する神事があつた。御神法は恐らく神秘であつたらうが、或は社僧等の干與があつたのではないかと思つて居る。

　この山宮の所在地は、本宮から北へ約二里、富士郡北山村大字山宮といふ小部落に屬し、ちやうど裾野の萱原が樹木帶と接觸するあたりの、至つて物靜かな谷陰のやうである。一度はどうかして參拜したいものと思つて居るが、其村には別に一つの小さい淺間神社はあるけれども、山宮には最初から建物は無かつた。たゞ其域内に二つの版位《はんゐ》の平石が有るのを、以前の社殿の礎石のやうに思ひ誤つた人が有るだけである。爰を最初の社地だらうといふ説は成立つかも知らぬが、少なくとも富士山記の貞觀十七年（八七五）の記事に見えて居るのは、現在の本社の宮處のことでなければならぬと、「淺間神社の歴史」には主張する。以前はこの山宮祭場の旁に假屋を構へて、四月十一月の祭の前夜と、正月八日から九日への一夜とを、大宮司が齋籠りすることになつて居た。山宮大夫といふ專屬の祝《はふり》の家があつて、假家の作事と疊筵、及び飯汁等の所役を負擔し、一方には又色々の下行《げぎやう》があつた。それ等は古い日記類が殘つて居て、細かく調べて見ることが出來る。

　淺間神社の山宮の神事は、この以外にも、殊に正月の前後に多くあつたが、注意せられることはそれ等の式典に、社僧別當の全く參加せぬものと、彼等と神職とが共同して事に當るものと、二種の別があつたことで、たとへば正月三日の山宮神事、天上御供《てんじやうごく》と稱するものは神職限りの祭であり、正月六日の式には雙方が出仕する。さうして後者は後になつて、附加せられたものゝやうな感じがする。天上御供といふ名も意味のあるものらしく、別に又正月元日の天上餅、五月三日の山宮祭の天上粽といふのもあり、曾ては伊勢の山宮のやうな饗膳もあつたのかと思はれるが、其式の詳しいことはもう傳はらず、後には大祭前日の山宮神事のみが、特に花々しい行道の觀物となつて居た。

　伊勢の山宮祭でも神宮の或地點から、列次を正して祭場へ進んで行く慣例になつて居たが、淺間神社の場合のやうに、道中に色々の式作法は見られなかつた。後者に於ては山宮大夫の奉仕の外に、木の行事といふ所役の者があつて、(321)御鉾を肩にして渡御の列に加はるのみか、なほ近年處々の休場に於て定まつた行事があつた。敷柴といふのは本宮と山宮と兩處の休石を榊の枝を以て覆ふことであり、三月下の未の日の祭の時にも、山宮の柴躑躅といつて、小枝を道々に刺し立てる行事があつた。つまりは祭の一般の傾向と同じく、定地の式はやゝ蔭に隱れて、之に代つて移動する式の方が、前面に現はれて來たのだから、是が其まゝに古い世の形と、見ることは出來ないのかも知れぬ。それよりも更に意外なことは、爰では神が本祭に先だつて、高い處から御降りなされるのでは無く、却つて里の方から山宮に向つて、登つて行かれるやうな形になつて居ることで（一）、是がもしたゞ一つしか無い例ならば、或は思ひちがひではないかとも言つてよいのだが、よく似た行事はまだ幾つもあるのである。強ひて解釋を試みても正鵠を期することは難いであらうが、自分だけは是を神樣が本社の神殿の中に、常に止まつてお出でになるやうに、人が信ずるに至つた結果であらうと思つて居る。この信仰の變遷は大きいことであつた。之を立證するにも相應の準備を要する。今は寧ろ斯ういふ一つの問題があるといふだけを、述べて置いて前へ進むの他はない。

　

　註一　下鴨の四月中の午の日の御蔭山祭でも、神は本社からそこへ即ち平地から山へ、臨幸があるやうに傳へられて居る。しかもその日に山上から榊を迎へ降る式はなほ殘つて居るのである。淺間の木の行事ももとは是かと私は想像して居る。

　

　　　　　　　一一　祭神推定の弊

　

　富士の靈峰を目のあたりに仰ぐ甲斐駿河の二國に、新古大小幾つかの淺間神社の齋かれいますことは當然であるが、之に伴なふ山宮の信仰は一樣で無い。其中でも南表の富士駿東二郡に在るものは、もと／＼本宮との連繋が密接だつた爲であらうか、前からある北山の山宮を共同の根據にして、そこから山宮大夫を迎へて來て祭をする社もあつた。(322)今では古式の重要性を解しかねて、省略に從つたものも多いかと思はれるが、なほ一つ／＼の社に就いて注意したならば、痕跡ぐらゐは見出し得られるであらう。それを何とかして此次には尋ねて見なければならぬ。

　一方には是に對して府中の淺間新宮、即ち今の靜岡市の東北に在る國幣社のやうに、現在もまだ其祭の一部に、山宮の行事を織り込んで、保存して居るものもあるのである。原因は多分この新宮の創立せられた時代が、特にこの信仰の強烈な際であり、それが又勸請の一つの動機となつて居たからであらう。林道春の本朝神社考に、府の洩間宮は山宮を本宮と爲す。大宮淺間より勸請するが故に新宮と號す、延喜年中也とあるのは、此社の縁起に依つた説であり、しかも其縁起はもう存在せぬやうである。延喜は或は遠過ぎるかも知れないが、鎌倉幕府の初期には既に造營の記事が吾妻鏡に見え、又炎上再建のことも同じ書に出て居る。乃ちこゝでは富士郡内の子社とはちがつて、別に獨立した山宮を持たうとしたことが、最初よりの計畫であつたらしいのである。古記に賤機《しづはた》山上の山宮境内とあるものは、或は今よりもずつと上方に離れてあつたのみならず、是も亦本宮の山宮と同じやうに、やはり社殿の無い一つの靈地であつたらうと、私などは想像して居るのだが、其證跡はまだ自分には見付からない。ともかくも今の此社の山宮社の在りどころは、少しく接近しすぎて居るやうな感じがある。是は勿論安永天明二度の大火の後のことで無く、今も保存せられる寛文の古繪圖を見ても、やはり甚だ窮屈な、昔のまゝでは無さゝうな建て方になつて居て、新宮と總社との御本社は東向き、山宮社のみは南向きで、別に此方角からの參道を折れ曲つて、石段の數が百四つ、しかも其社地はすぐに本社の後に、背中合せともいふやうに接續して居るのである。現在は恐らく一つの社地として登録せられ、從つて所謂境内末社のやうな觀を呈して居ることゝ思ふが、以前はたしかに併立した別の社で、現に駿河志料の著者新宮高景なども、淺間新宮の代々の神主であつて、特に山宮の神主を兼ねて居た。乃ちこの山宮が最初から、斯ういふ地位で無かつたことが考へられるのである。

　府中淺間社の山宮でも神事は年一度ではなかつた。正月十六日には山宮の奉謝《ぶしや》（歩射）、七月七日には山宮の花供《はなく》、(323)但し是は淺間花供の終りの日に行はれ、法會の系統に屬するものかと思ふが、この以外になほ七月廿四日にも山宮祭があつた。四月十一月初申の日の大祭に對しては、爰では本宮の前月未の日の小神法といふやうなものは無いけれども、前日の山宮神幸は盛大に行はれ、今も或程度續けられて居るらしい。たゞ少しばかり合點の行かなかつたことは、何時の頃からとも無く四月の祭禮を上祭《のぼりさい》、十一月のそれを下祭《おりさい》と呼んで居たことで、全國普通の慣例では四月又は二月に神は降りたまひ、冬の央ばの十一月になつて、山へ又は大空へ、昇りたまふものとして居るのに、淺間の新宮だけでは其あべこべになつて居るのである。解説を試みるならば、神を山宮から迎へ申す日の祭の式を、大宮その他でも山宮神幸と稱して、神が本社の方から御出でになるやうに見て居たのと、當るか否かは別問題として、ともかくも同じ考へ方の現はれであらうと思ふ（一）。それが此頃では又一轉して、四月と十一月の四日の例祭を降祭、其各々三日前の山宮祭を昇祭といふことにして居るのは、それこそどつち附かずの、歴史を考へない改定といはなければならぬ。

　さうして一方には役にも立たぬことに、力瘤を入れて居るのである。淺間の大神が木花開耶媛命を御祭り申すといふことは誰がきめたか。古くは物にも見えず、神の啓示に依つたといふことも聞えず、たゞ吉田家の人たちが勝手にそんなことを謂つたのが始めであらうのに、是だけは神社でも強く主張し、官府の方でもそれを公認し登録して居る。祭神を是非とも明らかにしなければならぬといふことは、誠にわけも無い不自然な制度であつた。御蔭で大昔以來諱んで神の御名を口にせず、たゞ自分たちの神樣として拜んで居た氏子たちが、つまらぬこしらへごとをする必要が多くなつて來た。それも年久しくさう信じて居た者が、多いといふだけなら事實だから致し方が無いが、新たにそれから推して行つて、思ひもかけぬ神の名を強ひたのは、惡いことであつたと思ふ。駿府の淺間新宮に於ても、曾てさういふ弊害があつたらしく、以前年久しく山宮と稱へて居た御社が、いつの間にか麓山《はやま》神社といふ名に改まり、その祭神は大山祇神と、御女の木花開耶媛命と相殿といふことになつて居る。社地を同じうする本社の主神を、再び境内の社に祭るといふのは有り得べからざることであるが、さう言はなければならなかつた理由もほゞ察せられる。新宮山(324)宮兩社の神主であつた新宮氏は、駿河志料に於て明らかに斯く記して居る。年々の山宮祭に進獻することになつて居た神の御衣は女性の御料である。それから考へると神は大山祇の御妻、即ち主神の御母神であらうと謂つて居る。しかし此説に賛成し得なかつた人々が、恐らくは斯ういふ第二の解釋を案じ出して、愈々古い信仰から遠くなつて來たので、神代卷を知らない常の人々は、たゞ單に淺間さまの親神さまと言つただけで、さういふ六つかしい御名は知らなかつたらう。それを何故に其まゝは傳へてくれなかつたか。斯んな餘計なことばかりして、段々と信仰の實地から遠ざかり、結局は累を國民の多數に及ぼしたことは、今更悔い歎いても追付かない、神道研究家の態度であつた。遲蒔きかも知れぬがやはり平明なる記述と、相互の比較とが我々には必要である。駿府の山宮は富士の北山の山宮と、少なくとも元は一つであつた。兩所の山宮大夫も一家が之を兼ね、もしくは雙方行き通うて居た。一方で少しも知らぬことを、他方でばかり信じ得た筈が無い。もしも一方に消えたものゝ殘留で無いとすれば、必ず新たなる造りごとであり、それが非常に古くからのものか、はた又甚だ新しいものかは、さう苦勞をせずとも見分けることが出來る筈である。多くの近代の學者は其勞をすらも惜しんで、斯うで無くではならぬといふ樣な説明ばかりして居た。容易に信じた者にも責はあらうが、彼等の口賢こかつたことが、殊に我々にはひどい害を與へて居る。

　

　註一　駿國雜志に引用した駿府明細記といふ書に、すでに四月初申日淺間御移り替り、姫神山宮へ御入也と見える。所謂昇り祭と降り祭との普通と反するのは早い頃からだつたかと思はれるが、是では大祭の日、神は本社にはましまさぬことになる。但し冬は低い方に御移りになるやうに、考へて居る社も他にあるから、誤りとまでは言へない。

　

　　　　　　　一二　二處の祭場

　

(325)　甲州の側には、山宮神事のなほ行はるゝ神社、又は曾て行はれた明らかな痕跡ある神社が特に多い。最初に先づ富士の信仰と因みの深いものから列擧すると、第一には東八代郡一宮村の國幣小社淺間神社、ここは貞觀七年（八六五）の神異に基づいて建立せられたと稱して、五十數代の神主家が連綿して居るが、創始はそれよりも亦千年も前からといひ、乃ちその古宮の址といふ地が有つた。しかも今ある山宮は是と同じからず、又靈嶽の麓の野でもなかつた。本社からは東へ二十町ばかり、方一里といふ程の廣大な神山《かうやま》、一に神領山と謂つた靈地があつて、そこには今も境外攝社山宮神社の社殿が建つて居る。山宮の神事は明治維新の際まで、引續き行はれて居たといふが、最近はどういふ形になつて傳はつて居るか、まだ私は尋ねて見ることが出來ない。四月と十一月との二つ目の亥の日に、國内三つの大社の合同の祭典が、遠く釜無川添ひの御旅所に行はれることは有名な話だが、その四月の大祭に先だつこと一箇月餘り、三月初午の日にはこの山宮への神事が行はれ、その又三日以前の夕方には、吉旦舞祭といふ式があり、小麻と稱して長さ六寸ほどの萱の莖に、小さく剪つた紙を挿んだものを、幾らとも無くその渡御の路に撒き散らしたといふ點は、頗る大宮淺間社の山宮神事と似通つて居る。里人畏敬して門外に出でず、又その前後に嚴重な物忌があつて、造家結繩種樹灸治等の禁戒があり、之を犯す者には子の日の災ひがあると言つたことが、甲斐國志には見えて居る。全體に是は齋忌の嚴しい御社であつて、十一月の大祭に對しても幾日かの謹慎があつたが、特に山宮に關係したものは、七月七日から十四日までの大宮籠りに先だち、同月朔日から七日にかけての山宮籠りであり、是も亦富士郡の本宮と一致する。たゞ是等の行事の起原又は設定の趣旨といふものが、恐らくはもう記憶にも留まつて居ないらしいので、それと民間の盆の先祖祭と、如何なる關係があつたらうかを、考へることが出來ぬのを憾むのみである。

　しかし一社の所傳は假に絶えて居ても、やゝ辛抱づよく多くの例を集め重ねて行くうちには、暗示が少しづゝ濃くなつて來る望みは有る。それだけを自分が今試みて置かうとするのである。甲州の淺間神社にはなほ一つ、河口湖北岸に在る縣社が古いと言はれて居る。是は湖水を隔てゝ正面に靈峯の姿を仰ぐ場處であるに拘らず、山宮は近く正殿(326)の後の山に在つて、俗に之を奧の院と謂ひ、やはり駿府の新宮と同じやうに、大山祇命を祀ると謂つて居たさうだから別に小さい社殿が有つたものと思はれる。四月初申の日の大祭の時には、水を渡つて南の岸に近く、大きな平石の上へ神輿を奉安して祭をした。其地を産屋崎、其水上の平石を局《つぼね》岩、祭を孫見祭と稱へたといふのを見ると、或は賀茂の御生山《みあれやま》の祭に伴なふやうな、童神示現の言ひ傳へがあつたかとも想像せられるが、しかも山宮とは反對の方角であつて、曾ては前日の神幸もあつたのかは知らぬが、ともかくももういはゆる奧の院との聯絡は絶えて居る。古い社家などの記憶又は記録を尋ねたら、或は何か心づくやうなことが有らうと思ふが、今はまだこの山宮の行事については知る所が無い（一）。

　書物は詳しいものでも存外に注意が偏して居る。實地の見聞が是からでもなほ期待せられる所以である。富士の北麓にはなほ幾つかの著名な淺間神社があり、中でも上吉田の縣社は有力なものであるが、こゝには山宮は無く、たゞ末社のうちに山王權現がある。天台宗の僧寺の支配に屬せざる山王が、どういふ神であつたかは考へて見なければならぬ。それからなほ一つ、この御社の後の瑞垣の外には、大塚といふ古い塚があつた。以前こゝにまだ社殿の無かつた頃に、富士遙拜の爲に築いたものといひ、後には其傍に小室淺間の神を勸請したと傳へて、別に富士權現の小社があつた。小室淺間は御山の二合目より上の方に在り、山中最初の淺間社と傳へられる。爰にも山宮といふ地は無いけれども、後世河口湖の南岸勝山村の氏神社、富士淺間明神を里宮とし、この山上の小室淺間を本社として居た。里宮の社地は二町に一町、本社の廣さは五町四方、奧宮の方が大きくて且つ古い。是も亦一つの山宮の例と見られる。それからもう一つ、西八代郡宮原村｜上門《うはと》の淺間明神といふのに山宮があつたが、こゝでは舊暦四月十三日の大祭に、神輿をその山宮へ遷し申して、祭をするのが古例であつた。是も一宮と同じに村内に別に山宮があつて、地形から推測すると富士山の見えぬ處であつた。社地の大きさは千五百坪足らず、本社と比べると少しく小さかつたが、土地の人たちは此方を二宮と呼び、却つて本社の方を三宮と呼んで居たさうである。

(327)　富士と關係の全く無い甲州の山宮は、この以外にもなほ五つ六つが算へられる。その一つは東八代郡二之宮の美和明神、即ち前に擧げた一宮村の淺間明神と共に、夏冬兩度の合同祭の行はれる神社であるが、是もその大祭の前の月、三月初申の日に尾山村の山宮へ渡御なされた。その山宮は山宮喜筑明神と呼ばれたまひ、やはり美和明神の古宮地と傳へられ、別に社殿があつて神主は兼帶であつた。美和は大和の三輪山の神と、同じ信仰の分れのやうに言はれて居るが、或はかの地にも斯ういふ祭があつたのではないか。さう思ふ心あたりは、幽かながらなほ存する。甲州一國としては今一つ、中巨摩郡大井村大字下宮地の三輪明神に山宮があつて（二）、爰では純然たる二所祭場の樣式を保存して居た。大祭の日は四月と十一月の初又は中の卯の日で、冬の遷幸の日から翌年四月のそれまで、神は山宮に御駐りなされて、其間にも幾つかの祭が爰で行はれた。しかも四月から十一月まで御出でになる三輪明神の方を本社として居たのである。四月卯の日の神事は三輪の御涼みといひ、日中賑やかな行列の見ものがあつたらしい。十一月の方の祭は夜の遷幸で無言無燭であつた。さうして其翌日にはなほ里宮の方に饗饌の式が行はれた。こゝの山宮には珍しい沿革があつたので、やゝ詳細な記述が殘つて居る。即ち此山宮は或特殊の事情の爲に、後に同じ村の八幡宮を借用して、冬春半歳の神のおましとしたのであるが、その一つ前には隣村上宮地の、傳嗣院といふ寺の在るあたりが山宮であつた。そこを一宮と同じに神山と謂ひ、又の名を三輪西とも又｜子神《こがみ》とも謂つて居た。下を御手洗川が流れ靜寂の地であつたらしいが、三輪の神主の一族今泉某なる者が、大きな禅宗の寺に入つて僧となり、後に不平があつて其寺を飛び出し、所領の因みがあつたか、この神山に來て小寺を建てゝ住んだ。それがしまひには滅罪の寺となつたので、穢はしくてこゝを山宮として置くことが出來なくなり、已むなく同じ村の八幡宮を、代用することにしたといふ話である。伊勢の度會氏の岡崎山宮と、半分は事情を異にするが、是も亦佛法が我々の祭祀に干渉して、氏神の起原を不明なものにした、一つの場合ではないかと私は考へて居る。

　

(328)　註一　河口の淺間神社には、正月十七日の山宮神事といふのがあつたと、大宮の方の歴史には見えて居る。それが現在はどうなつて居るか、折を得て明らかにしたいものである。

　註二　下宮地の三輪明神は、今は神部神社と改稱せられて居るらしい。

　

　　　　　　　一三　諸國に殘る山宮

　

　甲州ではまだこの以外に、西八代郡上野村の御崎明神に山宮があつた。本社から東へ三町餘、命歸山といふのが其地で、廣さは約二千坪あつた。こゝでは山宮との往來の式は無く御旅所は別に市川大門の町に在つて、十一月初又は中の申の日と、三月三日との大祭には、別當市川氏の家に神輿を迎へて祭をしたといふことから考へると、是は今有る本社の方が山宮であつて、單に昔の祭場から三町西に、今ある社殿の地を選定したものであつたかも知れぬ。小室淺間の場合でも判るやうに、二つの祭場の何れを本社にするかは、主として祭る人々の便宜によつたもので、祭の囘數は年と共に多くなつて來たから、通例里宮の方が先づ大きくなり、美しくなつたものかと思はれる。東八代郡の上黒駒の山中に、神座山《かみくらやま》權現といふ神社があつて、村から是がすでに一里餘の奧であつた。ところが山宮權現は其又東南方に、山上五十町を隔てゝ其地があり、山の名を嵯峨岳と呼ばれ、毎年の四月八日に、里人の登り拜する者がもとは多かつた。神の名を誕生佛とも謂つて居たのは、嵯峨をば釋迦と聽き取つたからだらうといひ、なほ又四月八日といふ日も、その方へ引付けられ易かつたらうが、自分はなほその一つ以前の、神示現の信仰が根を成して居るのではないかと思ふ。甲州の御嶽社なども、いゝ加減谷の奧ではあるが、それから更に五里五十町、金華山の頂上に祀るものが延喜式の金櫻神社であつて、今の本社の方は古くから立つて居たといふのみで、今もまだ里宮の名を以て呼ばれて居る。和州吉野の御本山も同じやうに、信心の人たりは皆頂上を目ざして參るので、黒平《くろべら》村の登り口には里宮から(329)の番所を置いて、金華山參錢を取立てることにして居た。山・里二宮の間の交通は必ず有つた筈であるが、この位遠くなるともう世の中に知れ渡るやうな、山宮神幸の式は存立しなかつた。恐らくは外界からは窺ふことの出來ぬ、今一段と深秘な神の渡御が、期待せられて居たものと思はれる。

　ともかくも是だけの事實によつて明らかにし得たことは、山宮の神事は淺間神社の特色の一つではあつたが、其間にもなほ小さな互ひの差は認められると共に、他の一方には又淺間でない若干の神社とも類似が有つた。乃ち富士の靈山の崇敬から導かれた、この地方限りの習俗でないことは先づ確かで、從つて又伊勢の二つの名家の最も古風な行事と、併せ考へてよいと思ふことは多く、單に名稱の一致だけが珍しいのでは無いと言ひ得る。そこで順序として次に知るべきは、この三箇處の山宮祭の中間に、なほ如何なる山宮が他にも有るかといふことであるが、是は心當りの無い捜しものであるから、氣永に見つかるのを待つより他は無い。今までに心づいたのは安房の豐房村東長田に山宮神社、もとは山宮大明神と稱へて獨立の一社であり、館山の濱邊の九月十五日の合同祭に、國中から集まつて來られる九つの社の一つだが、特にこの社を山宮とする別の社は無かつたやうに思はれる（一）。奈良縣山邊郡｜都介野村《つげのむら》友田の、式内｜都祁水分《つげのみくまり》神社だといふ社は、中古には下山宮と呼ばれて居たこともあつた。之に對して同村小山戸の式内都祁山口神社だといふ社を上山宮と謂つた。小山戸の北氏に傳はる應永十三年（一四〇六）の縁起に、この下山宮はもと上山宮の地に社があつたのを、後に今在る處へ下したと話し、それより後久しく毎年九月二十五日の祭に、神を上山宮に迎へ奉り、翌二十六日には元の下山宮へ、御遷し申す式が續けられて居た。即ち甲州の淺間三輪等の山宮神事と、よほどよく似寄つた祭り方であつたのだが、大和志料には其由緒は信じられない、何となれば二つの式内社は關係が無いからと言ひ下して居る。私たちより見れば、二つの舊社の間に前々から、祭の往來が保たれて居たといふことは、寧ろ是を別々の式内社と推定し難い理由としか思はれぬのだが、古い學者の論理は又格別である。それといふのが土地では一般に式内社と言はれることを喜び、わざ／＼反對するだけの必要はどこにも無かつた上に、他處で山宮の祭(330)が如何なる意味を持つて居るかを、考へて見る途も無かつたからである。たつた是ほどの僅かな知識でも、もし日頃から聽いて貯へて居たならば、又やゝちがつた考へ方もせずには居られなかつたらう。實地討査といふことの大切なのは無論であるが、土地の所謂郷土誌家の説を聽くにも、亦或程度の用意は缺くことが出來ぬのである。

　伊勢や富士淺間の實例に依ると、山宮には最初から、宮と名を呼ぶほどの建物の無かつたものが稀で無いのに、一方には各地の山宮といふものには、大抵は社なり小さい祠なりが有る。是はたゞ宮といふ言葉に誘はれたといふだけで無しに、別に近世の神祭の式に、一つの變化が起つた爲であらうと私は想像して居る。其變化はまだはつきりと把握することが出來ぬが、或は是も亦佛教の影響であつて、坐つて行はねばならぬ行法が段々と長く又重要になつて來た爲かもしれない。二つの祭場を維持することが、さうなるとやゝ六つかしくなつて、山宮か里宮か、何れか一つに力を入れて、それも普通には里宮の方へ傾きがちであつたかと考へられる。村々の氏神社の多くのものが、現在はもう御旅所も無く神渡御の式も無く、社殿の祭のみを專らにして居ても、たゞそればかりでは山宮を特殊の例だとは言へない。痕跡はなほ意外な邊に殘つて居るかも知れず、又現に高い處の祭場の方が、保存せられて居る場合も稀ならず有るからである。紀州はさういふ神社の殊に多い地方のやうに思ふが、しかも山宮といふ名を呼んで居るのは、私はまだ一つしか例を知らない。那賀郡西坂本の山宮大明神社と謂つたのがそれで、今はどう變つて居るか尋ねても見ないが、山に在る故に此名があると續風土記には話して居る。荒田今宮御船といふ三つの社が爰に合祀せられ、その三つの中でも後の二つの社は、別に村内の人家に接して里宮があり、神主の家もあつて氏神として祀られて居るが、他の一つの荒田社だけは、この山上の社があるのみで、法華宗の寺が是を管理して居た。即ち山宮の神事はなほ續けつゝも、各社めい／＼の祭場を備へることを略して、他社と合同して一つの祭場を使ふものが、もうこの時代には出來て居たのである。

　

(331)　注一　安房の山宮神社の例祭は正月の七日で、其名を山鎭祭と謂つたさうである。

　

　　　　　　　一四　靈山信仰の統一

　

　駿河國新風土記などを捜して見ると、富士の信仰とは關係が無いかと思ふ山宮が、この地方にも三つ以上はあつて、何れも部落限りで祭をする小さな社であつた。其中では沼津のすぐ東の我入道の山宮はやゝ大きく、伊豆では式内社の數が多すぎるので、この隣國の神社にまでも、其一つを配分しようとした人もあつた。駿河志料に載せて居る下｜香貫《かぬき》の山宮大明神といふのが、もしも同じ社のことであつたならば、是は國境に近い丘陵地帶に在り、且つ相應な古社と思はれるから、その推定は必ずしも無法では無い（一）。境の小山の頂上に山宮が建つて居て、それを南側の麓の村から、祭つて居る例は、全國に亙つて數が多いからである。遠い處にあつて且つ有名なのは、奧州の栗駒山、是は三つの縣から登路が付いて居て、羽後の方にも信心者が有つたが、宮城縣では栗原郡の沼倉村、岩手縣側は西磐井郡の五串村と、今一箇所に里宮があつて、今ある國幣小社の駒形神社は、それとは又別な新しい遙拜所であつた。山上の信仰には是といふ差異は無くて、たゞ先導をした村と家がちがつて居たのである。月山でも鳥海山でも皆同じと思はれるが、是は歴史があまりに複雜だから、この場合の例證には援用しない方がよい。さうして他の一方に於ては九州の西南端、薩摩の加紫久利《かしくり》神社、及び紫尾《しび》神社のやうな、上代以來の御社が亦それであつた。紫尾山は薩州隨一の高山で、其中の一峯を上宮嶽と呼び、そこに齋き祀つた御社を上宮と稱へて居た。この山上の上宮に對して、伊佐出水日置の三郡には幾つもの路があり、その山口毎に各々の里宮が今も有る。さうしてたつた一つの古い世の授位記録を、互ひに自分の社の由緒として主張して居るのである。關東の方でも、是に似た例は栃木縣の石裂山《おさくさん》、式内の加蘇《かその》神社といふのが幾つもあつて、古くから山頂の管轄を爭つて居た。今でも一村の内に同名の郷社があり、その言ひ傳へは(332)互ひに矛盾して居る。

　京都の近くでは賀茂と日吉との二大社が、やはり一つの靈山を兩方から祭つて居たものと思はれるが、是は後にやゝ詳しく説くので、爰では引用しないことにする。里と山中と、二つの祭場で祭をするといふだけの例ならば、鹿兒島縣などには算へきれぬほどもあり、さういふ中でも南支那の一商舶によつて、天妃の廟として崇敬せられた野間嶽の野間權現、大隅半島の突端に在つて、半歳は里に下つて祭をうけられたといふ御崎神社等、一つ一つとしても意味の深いものがあるが、今は皆省略しなければならぬ。自分が問題として見たいたつた一つの例といふのは、日向北諸縣郡山之口村にある障泥岳《あほりたけ》、是も遠近の住民の登り拜して居た靈山であつたが、峯に社殿があつたか否かは明らかでない。村を距ること約三里、飫肥の領分とのちやうど境であつた。深山幽谷を經て爰に至り、始めて青空を見、日向一圓の地が望み得られ、又東海洋上の船の標識ともなつて居る。山が急峻であつて人は皆喘ぎ登らざる者が無い故に、それでアホリといふ名が出來たといふのは、地方の人たちの後からの解釋に相違なく、同じ名の高山は沖繩の島にも幾つかあり、文字は天降と書き、奄美大島でアモリ又はアモレといふのも同じもので、起りは神が祭の日に先だつて、今なほ年々に降りたまふ地といふに在つたやうである。それが南の島だけの特殊な言ひ傳へでなかつたことは、この東京の二階の窓から、毎日眺めて居る相模の大山なども、古くからの山の名は阿布利山であつて、時には雨降と書き、雨を祈る神のやうに思ふ者もあつたが、山の姿が端的に其來由を談つて居る。さうして又二つ以上の山口に於て、麓宮の勢力の消長があつたことを傳へて居る。朝日夕雲に照りかげろふ、孤峯の秀でたものが近くにあれば、住民のあこがれは自然に集注し、信仰は次第に高く天驅けるであらうが、それを必ずしも最古のものと、まだ我々は認めては居ないのである。曾てこの國土が年經る喬木を以て蔽はれ、いはゆる青垣山の四方を取繞らして居た中へも、すでに我々の祖先は入り進んで、各々尺寸の地を拓いて居たのである。地形が信仰を約束することは言ふを須たないが、それが人間の感覺に働くにも、やはり時の力の參加を必要としたかと思ふ。日本のやうな火山國で、五十里三十里の遙(333)かな廣野から海から、美しい峯の姿を望まれる土地でも、なほ山を目標として家々の祖靈の行く方を懷ふ心が、大きな上空の神を迎へるよりは前では無かつたらうか。さうして兩者が共に山を倉梯として、高い處から降つて祭られるといふ點に於て一致して居たことは、我邦の信仰史に於ては大きな偶然であつたやうに私は考へて居る。

　しかしそれも是も土地の條件が物を言はずには居ない。議論をする代りに、一つの實例を爰には擧げて、斯うも考へられるといふだけの手掛りにして置かう。富士を鼻の先に見る駿東郡の新芝といふ村には（二）、猪鼻《ゐのはな》神社といふ社があつて、二十四の小社が山の嶺通りに竝んで居た。地圖から推定すると長尾峠からやゝ東北に當るらしく、嶺の彼方には相州の民家もあつて、共々に此社を拜み、二十四の小社は即ち家々の祠であつた。どこでも自分の里に向けて之を建てる故に、相模の方から祭るものだけは彼國に向つて居た（駿河志料卷六十八）。即ち爰ではまだ明白に、氏神は各自の家の神の集りだつたのである。

　

　註一　駿東郡下香貫の山宮大明神では、文政三年（一八二〇）に社邊の岡の地から、六つの陶甕を掘り出したことがある。その土器は何れも古鏡を蓋にしてあつて、中には檜扇その他の物品が入つて居たと、駿河志料卷六十四には記して居る。

　註二　新芝村、現在は駿東郡足柄村大字新柴。

　

　　　　　　　一五　山王の猿

　

　山宮といふ名の社又は祭の話は、是だけで先づ一通りすんだ。今度は山宮の事實があつて、名は山宮と言はぬものの一つ、山王の事を考へて見よう。例の通りなるだけ今までの人の考へなかつた側面から近づいてゆくと、山王のお猿さんと、祭が申《さる》の日を以て行はれたといふことゝ、二つは關係が有るか、又どちらが早いかといふことが問題にな(334)る。十二支の申を我々の中で、猿と解したのは最初からのことらしい。さうすれば其お猿の日を以て、祭の日とする氣になつた方が後と、一應は見てよからうか。猿を大事にする大社は少なくとも三つ、富士淺間と日吉と嚴島で、春日社なども、元は鹿ばかりを威張らせて居なかつたかと思はれる。又奧州の金華山も其一つのやうだが、是だけは祭が申の日だつたかどうかを知らない。日吉の猿だけが特にやかましいが、富士の大宮などでも猿は山の使で、それで又十二年に一度の申の年、殊に六十年目の庚申の年は、大きな祭があり、今でも登山者が倍にもなるやうに言はれて居る。御山を取圍んだ樹林帶には、素よりこの神獣の棲息するものが多いのだが、たゞ不思議なことには相應に氣を付けて居ても、猿の靈異に關する口碑が、日吉ほどは採録せられて居ない。どうして其樣に猿の年を重んずるのかと、他を知らない人たちに尋ねて見たいやうな氣がする。

　之に反して日吉の社僧神職の饒舌は又非凡である。それを受賣しても話は賑はふのだがそれはもう大したことではない。たゞ私たちの聽きすてられないのは、遙々叡山へ運び入れたといふ唐土天台山の神が、やはり?猴の衣を着た姿で、現はれたといふことは本當かどうかで、もしさうだつたら是は國際心理學だが、實は私などはまだ疑つて居るのである。二十一社記の日吉社の條には此記事があるけれども、一方には又山家要記などのやうに、北天竺岩藏の山王が猿だとか、釋尊前生には猿身を以て妙法を聽かれたことがあるからといふやうな説もある。何の事は無いたゞ一つであつたら、誰かゞ信じたかも知れない説を、後から／＼取替へては互ひにこはし合つて居るのである。山王といふ名の起りなども、集めて見たら一卷の書を成すほどもあらうが、しかも其一つを主張すれば、他の何れかは大抵は出たら目になるので、從つて其穿鑿は忙がしい者のすべきことで無いと思ふ。猿が一實神道の雜説よりも、ずつと早い頃からの存在であつたやうに、山王といふ名號はともかくも我立つ杣の最初からのものであつた。

　是を日吉神社とその山寺との、獨占のものにしたい望みはあつたのだが、其點は成功しなかつたやうである。關東の村々を尋ねて見ても、山王を氏神とし又寺々の鎭守にしたものは多く、前代に之を管理して居た社僧は天台宗だけ(335)でない（一）。禅寺なんかは無頓着にたゞ有るものを承け繼いだとも見られるが、眞言宗は競爭者だから、是が天台の教理を伴なふものだつたら御守りをする筈が無い。即ちこの山王は比叡の坂本からの勸請では無かつたのである。或はもろこし天台山の地主神だけが、山王であることを知らずに、もしくは他の大きな唐土の寺の山にも、山王と稱へる神があることを知つて、もつと弘い意味にこの神號を設けたのでは無いか。富士の淺間神社の山宮をもたぬもの、たとへば上下吉田の神社などの末社に、山王社の少なくないことは前にも述べて置いた。それよりももつと顯著なのは高野山の北麓、天野の丹生都比賣《にふつびめの》神社などは、あの山寺が管理して居た頃から、すでに山王堂があり又山王院といふ一院さへあつて、茲で十一月の大祭が行はれた。恐らく山王は一つの美名であつて山の大王、事によると山宮といふ名に替へて用ゐられるほどの、普通の言葉であつたかも知れぬのである（二）。

　さう思つて見るからだと言はれる虞れはあるが、嚴島神社の攝社の山王社は、よほど又淺間新宮などの山宮と似た所があるやうである。場處は本社に近い參りやすい所に在るが、それでも御山に登つて行かうとする東坂の口であつた。四月十一月の本社大祭の翌酉の日、こゝの祭が行はれ、神職等の饗膳の式もあつた。神供を獻じて後に求子舞《もとめごのまひ》又は榊舞といふのがあつた。此社の祭神を嚴島圖會に、日吉の山王を勸請したとあるのは、たゞ推し當ての説と思ふ。本社の社僧は眞言宗であつて、比叡とは全く關係が無いからである。さうして藝藩通志以下の書にもさうは書いて居ない。注意すべき一つの點は、この山王には平清盛と佐伯氏の祖神とを配祀したといふことで、日吉二十一社の集合よりも、よほど又神職氏神に近くなつても居る。平家が此御社の興隆に力を入れ出した時代はほゞ判るが、佐伯氏と神社との結合はそれよりもずつと古かつた。島内の末社の大元社、及び地方《ぢかた》の大野村の大頭神社は、共に此家の遠祖佐伯｜鞍職《くらもと》を祀ると傳へられて居る。幾つも氏神社の有るといふことは訝かしいが、島が純然たる神地であつて、神職の多くが本陸に居住して居た時代ならば、少なくとも二つの祭場が必要だつたことは認められる。大頭神社の方で有名であつた祭は二つ、一つは二月初申の本社大祭のすぐ後の鳥喰祭で、是が滯り無くすむと、それから島廻りといふ(336)巡拜船が始まる。今一つは九月二十八日、是は俗に四鳥の別れとも稱して、やはり社の傍の石に鳥喰の飯を供へると、神烏來り啄んで子を殘し親は去つて行くので、島過りの行はれるのは十一月の大祭までで、九月はまだ少し早いやうだが、是も相關聯するものだつたことは察せられる。さうして一方には島に在る山王社でも、九月二十三日を以て大祭の日として居たのである。

　それよりももつと我々に興味のあることは、猿が烏以上に嚴島の大祭に關係して居たことである。滑稽雜談（三）といふのは俳諧の參考書で、歳時記の種本ともいふべきものであるが、其中には猿の口明《くちあけ》と題して、次のやうな當時の俗説を掲げて居る。曰く

　　安藝の宮島にある祭也。毎年二月申の日を限つて、同國島の八幡の社司、七日の間は祓を行ひ、申の日に至つて此島に來り、猿の口明の神事を行ふ。此日より後、此島の?聲を發すといへり。又十一月上申の日、件の社司、祓神事を行ふこと二月の如し、是を猿の口止の神事といふ也。此後?猴聲を入るゝ也。

　この俗説には勿論誤聞が有る。島の八幡社司といふのは、恐らく國府上郷の田所氏のことをさすのであらうが、是は奉幣の役で祭典の主役ではない。猿の口明口止は二度の申の日の祭を境にして、二月には山の口が開き、十一月からは止められることをまちがへたので、冬は神樣が御山に御昇りになる故に、一般の採樵を禁じたのである。道芝記といふやうな古い紀行にも此事は出て居る。祭の物忌は前月終りの亥の日から始まり、潔齋の嚴重なことは二月も同じだつたが、霜月は殊に御燈消《おとうけ》しといふことがあつて、深夜の闇の中に神は山の方に御遷りなされる。さうして山中には後に僧たちの設けた諸堂以外に、別に神の御殿といふものは無く、山の全體が冬中の靈地となるのであつた。猿さへ此日から啼かなくなるといふのが、少なくとも島人の信仰を透して確認せられた事實であつたことは、ちやうど一つがひの神烏以外に、島に烏は居なくなるといふのと同樣に、乃ち否むことの出來ない不思議であつたらう。神と氏人との無始の世からの約束が、汎く一般の自然界に擴張して、今もなほ守られて居るのである。

　

(337)　註一　新篇武藏風土記稿を試みに檢すると、久良岐郡には山王の小社が數あるが、その大部分は古義眞言宗の寺の持であり、眞宗の寺が一つ、天台宗のものは一つも無かつた。

　註二　延喜十二年（九一二）五月の官符に、地主山王とあるのが公けに此語の用ゐられた始めであり、其前仁和三年三月の圓珍の上表には、山神といふ語が使はれ、又主神とも地主とも法王とも謂つて居るから、本表のは普通名詞の一つであつたらしい。最澄の撰文といふ相輸　　　ドウの銘に、始めて山王の語があるが、是も普通名詞のやうな用ゐ方をして居る（瀬見小河に依る）。山の神ならば山王と謂つてもさし支へは無かつたわけである。

　註三　滑稽雜談は、正�ｺ三年（一七一三）の序文がある。明治の世になつて、國書刊行會の手で活字にしたものが流布してゐる。ついでに書き添へたいことは、嚴島圖會には百數十年前の寫生畫が澤山載つて居るが、此中には今いふ千疊敷の堂内に、繋がれない小猿の遊んで居るのが又と無くなつかしい。この本も近年活字本になつて居る。

　

　　　　　　　一六　山から神を迎へる方式

　

　猿と山宮との素朴なる交渉は、氣を付けて居たら案外まだ痕跡を見出し得るかも知れない。日本の民間傳承に於ては、猿はまだ大きな役割をもち（一）、殊に猿舞し猿芝居といふやうな特別の技藝さへ殘つて居て、人の親しみはよその民族よりも深いからである。やゝ想像をめぐらすならば、山の祭場の靜かな明け暮れに現はれて、何か他の獣には出來ぬやうな變つた擧動を見せることが、時たま有るといふだけでも、之を神の使者かと思ふ心は動いたらう。シトドといふ鳥を巫の鳥と書き、鶺鴒をゴシン鳥とも呼んだ我々の祖先だから、さういふことも無かつたとは言へない。是は偶然に見當つた事實だが、能登の鹿島郡誌には、西湊村小島の唐崎神社へ、毎年四月の中の申の日に、七尾所口《なゝをところのくち》の山王の神輿が、渡御なされる祭がある。もとは海上から船であつたが、中古以來は陸路に改まつた。猿の面を被つた小兒が七人、御輿の前後に御使として供奉する。爰の祭禮が終れば社の後の山に登り、所持の紙の御幣を立てゝ退去(338)する。其山を猿山と呼んださうである。日光の東照宮の祭は、二荒山神の祭式の引繼ぎと思ふが、以前は本物の猿がその行列に加はり、今も或は型ばかりは續けて居るかも知れぬ。この爲にもと下野一國の猿牽に特典があり、栃木の町だつたかの猿屋の頭は、それを家の由緒にして居たといふ話もあつた。此國の名族小山の小山氏が、紀州に移住して猿牽を統御して居たのも、或は二荒山との關係だつたかと思はれ、ともかくも今なほ二巴を家の紋にして居る（二）。猿が大きな御幣を肩にして、暴れる馬を鎭める圖は、繪馬にもあり繪錢にもあるが、もとは猿屋の徒の配つてあるく御礼の繪であつた。猿は決して比叡の山王さんだけの專管では無かつたのである。

　しかし諸國の猿牽頭どもの由緒書に、三輪大明神を保護神としたものゝあることは、注意しなければならぬ。是は恐らく大和の本社では心當りの無いことで、從つて三輪文書といふ類の記録には見えぬことだが、この神社は意外に外側の者から利用せられて居る。さうしてその最も大きな利用者は比叡山であつた。如何なる動機に發し又どんな筋道を通つてかは私にも言へない。しかし折角古事記の中に、我山の神の名が載つて居るにも拘らず、伊勢の大神をならばまだ判るが、わざ／＼大和の方から三輪を御迎へ申して、社傳を作り上げるといふのはどうしたものであつたらうか。答へる人によつては其通りだからさう書いたのだ、少なくとも傳教大師の時には、しか信ずる者が多かつたから、それが傳はつて居るのだといふかも知れぬが、さう言つて見たところで事實でないことには變りは無い。つまりは如何にして其樣なことが考へられたらうかの問題である。私の解釋は少し簡單に失するが、多分は比叡山の神の信仰行事に、三輪の山の祭とよく似たものがあつたからかと思ふ。さうして其祭の形式が、三輪ではいつの間にか絶えて居るのである。三輪山の絶頂には、大神《おほみわ》神社の末社高峯神社、一に高宮又は上宮、又神峯社ともいふ社が今でもある。大和志料には私のまだ見たことの無い大神崇秘書といふものを引いて、高宮は亦上宮とも曰ふ。三輪山の峯青垣山に在り、神殿無し。神杉あり、奧の杉と稱するもの是なりとあることを述べて居る。即ちこの靈山の上方、名木の杉のある處が祭場だつたのである。之を式神名帳の日向神社に引當てたのは例の手でもあらうが、日向社は王子とい(339)ひ又大國主命をまつるといふから、高峯神社では無いといふ論法はちつとも透徹しない。是は全く我々が家をもつと同じく、常に神々も一處に定住したまふものと、きめてかゝる人の言ひ分である。二つ二段の祭場であつたと見れば何でも無い。つまりは一社毎に必ず祭る神をきめるといふ、吉田家式行政の餘弊である。神を平地の里宮で御祭り申す以前に、先づ山頂の清淨なる地に於て、御迎へする形は多くの社に傳はり、又民間の春秋の行事にも殘つて居る。正月には松迎へ、盆には盆花採り、いつでも高い處に行つて植物によつて神を迎へるのが常の習ひである。それを三輪の御社ではもう罷めて居るだけなのでは無いか。いゝや大昔以來何一つ、變へたり止めたりしたものは無いと、斷言しかねない人は數多いが、この御社ほどさう言へない神社も少ないと私は思つて居る。

　日吉神社の方でも、變へた改めたといふ記録は多いが、それでも神事の中心と見るべき、榊伐の行事のみはなほ連綿して居る。場處は山門山内の或地にてといふのみで、如何なる方式が執らるゝかは秘密のやうだが、とにかくに山上の一地點に生れ榮えて居た木を伐つて、飯室廣道の芝松といふ處まで出すのが三月二十八日、即ち大祭の日から十五日乃至二十六七日の前であり、同じ月晦日にはこの木に神酒を供へ垂《しで》を掛けて、之を坂本の大宮社の東の地まで持ち下して、四月の三日まで爰に休め申すことも、正月の松迎へとよく似て居る。それから二の申の日の大祭まで、常にこの大榊が觀望の中心であつたことは、見た人が多いから書いたものにも詳しい。たゞ私などの想像して居ることは、この榊を採る場處が移つたらうといふことで、伴信友翁などは、是が小比叡の神の昔の祭場、即ちずつと西の方に寄つて、鴨の御蔭の社と裏表になつたあたりと見て居られたらしい。傳教大師が始めて三光日輪を拜し、山王といふ文字の深い仔細を教へられたのも、小比叡の峯での出來事であつたやうに、語り傳へて居る記録もある。或は二宮小比叡の神を以て、吾國の地主となし吾山の山王とすとも謂つた人が有るのを見ると、最初の大榊は小比叡の方から伐り出したといふ想像は、必ずしも空なものでは無いやうである。

　外宮の山宮の椎萱分配を例に引くまでも無く、神を峯から迎へる方式としては、木草に依らせ申すことが自然であ(340)り、從つて又類例は幾らでも擧げられる。近い處では紀州の名草山、或は三井の神山とも謂つて、今の紀三井寺の上の山であるが、爰で日前國懸宮《ひのくまくにかゝすのみや》の神事の榊を取るのが古格であつた。

　　　名草山採るや榊の盡きもせず神わざしげき日のくまの宮

といふ國造俊文が歌に詠んだのも、すでに六百年の昔のことであつた。九州の方では前に擧げた薩州加世田郷の野間神社、もとは野間嶽の頂上に社があり、後には東南八分目の地に祭つて居た。正月十九日の大祭には登山して神を辺へ、こゝから六里もある加世田の地頭館に到着した。神輿は常と異なり、圍三尺ほどの杉を一間半ほどに切り、清く皮を剥いて是に三尺ほどの力柴（梛の木）の枝を、蔓を以て卷附ける（三）。途中色々の行事があつて、地頭の館に來て又祭があつた。日吉の四月中申の大祭の榊なども、つまりはたゞ多くの例の一つといふまでである。三輪の高宮の祭はどうであつたか知らぬが、名木の大杉がたゞ一もとあつたとすれば、恐らくは亦稻荷の初午と同じやうに、氏人が其枝を取つて驗として持降つたものであらう。それがある時代には甚だ有名であつて、しかも日吉の里宮の古來の行事と、心持のよく似通うた所があつたことが、こゝを三輪大明神の新たなる出現の如く、唱へしめた原因かと思ふがどうであらうか。さうで無かつたところでこゝに又一つ、山宮があつたといふことには障りは無い。

　

　註一　昔話の猿は「尻尾の釣」その他種々なる動物葛藤譚に出て來る外、殆と日本だけかと思ふ猿壻入といふのがある。「昔話研究」にも書いたが、今にもう少し簡明に述べて見ようと思ふ。

　註二　二荒山の神を助けて赤城山と戰つたといふその弓の名手は、顔の至つて見にくい猿丸といふ少年であつた。二荒山の神話として傳はつて居る（神を助けた話）。

　註三　美濃の稻葉郡誌に、那加村長塚の郷社手力雄神社で、神輿に納めたる神實は榊の丸木四方一寸角、長さ八尺に削つたもので、其面に眞幣明神と書してあるといふ。榊御輿といふ中には斯ういふ例もあつたのである。

　

(341)　　　　　　　一七　氏神と山宮行事

　

　さて自分がこの山宮考を書いて置かうとする始めからの下心は、もうあらかた看破した人もあらうが、主としてこの行事を伴なふのが、日本の氏神の常の習ひであることを明らかにするに在つた。今日は氏神を以て目せられない有名な大きな御社でも、この特徴が備はる以上は、なほ之を氏神から次第に成長したものと、見てもよいのではないかと言つて見たかつたのである。それには勿論二つの重要なことを、説き落してはならぬこともよく心得て居る。その一つは如何にして其樣なやゝ珍しい特徴が、氏神の祭には附いて居たかといふこと、他の一つはなぜそんなら山宮の神事をもたぬ神社が、たとへ僅かでも昔から有り、又追々と増加して來て居るかといふこと、この二つには私は答へる義務がある。前の方の疑問に對しては、一言で總括するならば上世の葬法、もしくは死後に赴くべき世界に就いての我々の觀念の然らしむるところと謂つてよいが、之を神々の祭のことゝ併せ説くのは何となく穢らはしく、又「先祖の話」といふ中でもやゝ詳しく述べて置いたから、爰にはたゞそれを最少限度に要約する。曾ては我々はこの現世の終りに、小闇く寂かなる谷の奧に送られて、そこであらゆる汚濁と別れ去り、冉々として高く昇つて行くものと考へられたらしいのである。我々の祖靈は既に清まはつて、青雲たなびく嶺の上に休らひ、遠く國原を眺め見おろして居るやうに、以前の人たちは想像して居た。それが氏神の祭に先だつて、まづ山宮の行事を營まうとした、最初の趣旨であつたやうに私には思はれるのである。思ひなしかは知らぬが、幾つと無き民間の傳承が、この推測を支持してくれるので、棄てる必要は無いのみか、なほもつと大きく確かなものに、育てゝ行く望みをさへ今は抱いて居る。それには異なる近隣の民族が、どうして居るかといふことを尋ねるのが、又一つの大切な條件であつた。

　第二の答へとしては、氏族の祖でない神を拜み?るべき場合が、次々多くなつて來たことが擧げられる。新たに顯(342)祀する神々には、祭り終つて後の送りの式、又は常の宮居に鎭めまゐらする祭の方に、力を傾ける場合が段々と多くなつて、山に御迎へに行くといふ古來の慣行が、何か特別に深秘な由緒に基づくものゝ如く考へられるに至つたが、實際はたゞ少しづゝ形や解説を變へて、まだ案外に汎く保存せられて居る。それを今までの神主氏人等は、曾て比べたり考へ合せたりしなかつたのである。たとへば今も山上に神を祀つて、里にはたゞ臨時の御旅所や遙拜所しか無い御社、現在はすでに上下の二社を建てゝ居ながらも、里宮が後に新たに作られたものなることをなほ記憶し、又は今でも奧の方の社を、本社と崇め拜んで居る嶽北の小室淺間の如き場合も稀ならずある。祭に現在の本社社地よりも下の方へ、たとへば海川泉の邊などに設けた假宮へ、渡御の神態《かみわざ》があるものは亦其例のうちであつて、すでに伏見の稻荷社のやうに、社殿は山の裾の低い處に建て替へられて居ても、それはなほ以前の山宮祭場を繼承したものと、見ることが出來さうなものもある。但し神幸が日中の晴の行事となり、是に山鉾管絃等のきらびやかな風流を伴なふものが出て來ると、それは亦一つの新たなる感動である故に、本意は既に忘れられつゝも、たゞ此點のみが採用せられ模倣せられて、之を氏神ならざる後々の社の祭の、缺くべからざる催し物としたことは有り得る。殊に風流は歴史の文にも明らかなやうに、山城の京初期以來の各處の御靈會、紫野の今宮祭、さては北野の神の御憤りを和め申す祭などが起りであつて、斯ういふ一年にたゞ一度の、御出を期して居た神々にも、御旅所の祭式は適用せられた爲に、終には何の理由を以ていはゆる二所の祭場が存するのかも説明し難く、又はたゞ行列の美觀を弘く氏人以外の者にも讃歎させることが、最初からの趣旨ででもあつたやうに、考へる人を多くしたのである。

　しかし實際には、知らぬ間に神の御降りになつて居る場合もあれば、又は夜陰に人知れず、僅かな奉仕者だけの手で、そつと御遷し申す場合も稀ならずあつた。和州祭禮記の類に見えて居る處々の頭屋祭では、門に榊が立ち又はオハケサンが飾られると、もう其時には家が神の御宿となつて居るものと信じられた。さういふ場合にもなほ雙方で其前後の祭を營むといふことは、必要なる要件であつたことを考へると、途次の風流といふものが、中世以來異常なる(343)發達をして、つひに祭の外貌を變へたといふ事實だけは認めなければならぬ。是が亦頗る我々の山宮信仰を、解しにくいものにして居るのである。

　近頃讀んで見た丹後の竹野郡誌に、竹野神社の久しい社家の家に行はれた鬼神塚神事といふものが出て居る。是が若干の變更を以て、最近もまだ行はれて居ることは又別の方面から知つた。名は怖ろしく口碑も奇怪であるが、實質はよほど外宮の山宮祭とも似て居る。時は舊十一月中の丑の日の前夜、村から大分入込んだ牧の谷といふ古墳散在地に於て、もとは社司の櫻井氏がたゞ一人で行ふ神事で、社に由緒のある三十六家の主人が、齋戒して之を送つて行くのであつたが、其行列を見た者は三年のうちに必ず死ぬといつて、今でも戸を閉ぢて外に出る者などは無いといふ。櫻井社司の元祖は本社祭神に隨從して、異賊を平定した功を傳へられ、今も境内に之を氏神社として祀つて居るのだが、この十一月中の丑の日の夜、牧の谷の行事が終つて還つて來ると、今度は本社に於て其續きの祭が行はれた。即ち社司はたゞ一人の從者をつれて社殿に詣り、米を洗ひ飯を炊かしめる。其飯の熟するに先だつてまづ從者を歸らせ、それから何をするか見た人も無く、社司も亦之を談らないが、外部の噂では其飯に砂を半分まぜて、うしろ手に供へて後を見ずに出て來る。さうすると背後で其飯を食ふ音が聞えるさうなといふ話で、私の想像では、是も亦度會氏の山宮神事の食ひ別れと、同じ系統に屬する思想から出たものかと思ふ。即ち氏神祭の方には神と人との相饗があるが、それより一段と前の行事には、幽明はまだ境を立てゝ、人は食べない物を神だけには進らせるものと、見たらしい推測の説なのである。

　

　　　　　　　一八　山の神は田の神

　

　山宮信仰の紛ふ方無き一要素は、この祭を氏神の祭月の二四十一月に先だつて行ふことで、荒木田氏の三月はその(344)四月の氏神祭と、度會氏の十一月下旬はその二月の祭と繋がつて居ることは、ちやうど富士淺間の三つの大社の山宮神事が、四月と十一月の大祭の前に於て、執行はれたのと同じではないかと私は考へて居る。丹後の竹野社ではこの鬼神塚神事のあと、別に冬の祭は末社の方にも無いやうだが、是は或は同じ一夜のうちに、二つの祭を續行してしまふことになつたのかも知れない。此御社の大祭は現在は十月十日、もとは九月の十日で其日は御旅所の渡御が別にあり、なほ二月の初午の日にも例祭があつたから、第二の想像説としては、この十一月の中の丑の日から、二月の初午までが山の奧に、神を鎭めまゐらする期間とも考へられる。さうすれば又嚴島の所謂鎭座祭と、類似の點が多くなつて來るのである。説明が今はまだ困難であるのは、この連綿たる社司櫻井氏の氏神社と、牧の谷の深泌な神祭との關係が、どうして斯う幽かになつて居るのかといふ點であるが、是は此後に説かうとする下上賀茂社の氏神社と同じく、本社の大きくなつて來るに伴なつて、社家が自ら制限した第二期の氏神であつて、どこか系圖の中程に區切りをつけて、それから以後はたゞいはゆる大神宮氏人と、同じやうな地位に甘んじて居たものとも解せられる。神裔が神を祀るといふ言ひ傳へと、神の從者の子孫が神主の家だといふ言ひ傳へとは、村々の氏神社に於ても入り交つて殘つて居り、後者は其社を擴大することに役立つて居るやうである。今まで知らずに居た竹野神社のやうな例が、後になほ出て來るならば、此點もいつかは決せられるであらう。

　誰でも耳に聽き馴れて却つて心を留めなかつた大祓の詞に、天津神と國津神との二つのけぢめは、最も明瞭に書き分けてある。

　　國津神は高山の末、短山の末に上りまして、高山の伊穗利、短山の伊穗理をかき別けて聞しめさむ云々

　山に我々が假に設けて居た祭場は、乃ち爰に謂ふ伊穗理《いほり》では無かつたかといふことが、祭の月の三月四月十一月と思ひ合せて、改めて私たちには考へられる。民間傳承の會の同志の中には、遠い田舍を尋ねまはつて、色々の珍しいことを見聞して來た人が多いのだが、それを持寄つて比べ合せて見る機會は、存外に少ないのでまだ氣のつかぬこと(345)も有る。さういふ中から飛び離れた例を一つ拾ひ擧げると、たとへば岩手縣九戸郡の或部落には、社は山の上に在つて常の日は空虚であり、神體は地頭の家に保管して、春の祭の日のみその山の上へ奉じて行き、そこに一日だけの賑はしい參詣のあるものがある。一方鹿兒島縣出水郡の或島の村では、十一月初の山の神祭に、祝《はふり》を頼んで山の上に登つて式を擧げてもらふが、其社と祭とを管理する家は山の麓の或舊家で、後で祭人たちは其家に集まつて饗膳があるといふ。この二つは、六百里以上の距離を越えて相似て居る。茨城縣の安寺持方《あでらもちかた》は音に聞えた山村だが、そこの村社は二十町も隔たつた山の頂に在つて、春秋二季の祭をする他には、常には參詣に行く者も稀である。一方には九州の南に連なる小島では、寶島でも諏訪（ノ）瀬でも、中央の山を根神嶽と呼んで居るが、その寶島の根神山などは、平生は人の登ることを絶對に禁じて居る。たゞ四年に一度づゝ、そこに入つて行つて用材を採り、之を以て本社一つ、下宮四つを改築する。改築とは言つてもたゞの假屋であつて、日は祭の宵神樂から七日前、それから六日のうちに社を作り上げて、其翌日は屋根を葺き仕上げをする。是等四つの村の村社などは、大祓の詞によれば恐らくは國津神であらう。即ち土地と縁故の深い永住者が、祖先の靈を祭るべき場處は、爰より他には有り得なかつたのである。若く尊い天津神を祖先にもつ家と、祭の方式はおのづから異ならざるを得なかつたわけである。ところが昔はさういふ國魂《くにたま》郡魂《こほりたま》の家に、時あつて清い美しい玉依姫が生れて、神靈に感じて天上の貴き胤を身ごもつたと傳へられた。さうして高山短山の頂上は、祖神の常住む伊穗利では無くなつて、或すぐれた天津神の雲を分けて昇り降りしたまふ倉梯《くらはし》であるかのやうに、想像せられるに至つたのである。賀茂氏が山城に來ては天神の末となり、大和の葛城ではまだ地祇であるといふことも、理由は無しとしないのである。今の人の論理からいふと、二つは相容れない信仰としか見えまいが、其割には押へ押へられるといふ爭ひが無く、却つて神社神道の一元化に役立つたやうにさへ見える。一つには山の峯の前後左右は天つ空であつたこと、又一つには次々の子や孫が、なほ同じ路を過ぎて高い處へ、昇つて行くものと見られて居たからであらう。大きな變遷は寧ろ中世の國内移民、川原や海べたの遠淺がすべて田に成り、都市や邑(346)里が境を接して、薪秣を刈りに行く山も無いやうな新田時代に入つて、始めて魂魄の行く先に迷ふやうになつたのかと思ふ。葬法の改革は必然的のものであつた。佛教の干與を待つまでも無く、我々の後生觀は搖がざるを得なかつた。さうして山宮信仰はたゞ山國の古風な住民の潜在意識の中に活き殘つて、あらゆる解説を許すことになつた。といふ風に自分は今考へて居るのだが、勿論是も亦勝手な解説の一つであるかも知れない。

　さうで無からんことを念ずるの餘り、色々として手掛り足掛りを私は捜し出さうとして居る。伊勢の學者の中でも、毎事問の著者喜早清在の如きは、山宮祭の起原を山の神の信仰に求めようとした。成程この地方一帶の山神祭の日も十一月で、山で生計を立てない都邑の住民までが、個々に又講を作つて此祭をして居る。定まつた供物としては小豆飯に海老（一）、白餅又はオカラコといふ粢を作つて上げるのも、中部地方の普通の習俗であつた。富士淺間の場合で無くとも、山といへば直ぐに大山祇命、又は其姫神のことゝ斷定したのは、些しでも根據の無いことで、たゞ古來之を爭ふ人が居なかつたといふのみである。同じ山の神といつても船人の沖から望み拜む神、又は狩人や杣人の拜む神と、町や農村の人のさういふのとは、同じ神だといふしるしは一つも無く、後者はたゞ冬の間のみ、山に入つて居られるといふだけなので、從つて喜早氏の如く山恩を謝するが爲とも見られぬことは、山宮も山神もかはりが無いのである。志摩や南伊勢地方では、十一月七日といふ山神祭のみが普及して、之に對する春の月の祭が目に立たぬが、他の多くの土地では、年に二度といふのが通例である。たとへば關東では赤城山周圍の十二祭が二月と十一月の十二日、常陸北部の山地で山追《やまおひ》といふのが二月十一月の五日、近江｜朽木谷《くつきだに》の山の講も二月十月十一月の九日、九州でも筑前志賀島の山譽祭《やまほめまつり》一名猪狩が二月十一月の十五日等、大抵は兩月同じ日を用ゐるのが特色で、かゝつて捜せば類例はまだ／＼増加する。それを自分は注意しなければならぬと思ふのである。

　其理由は、是もまだ我土地だけでの事と思つて居る人ばかり多いが、この二つの祭の日を限りにして、春は田に降つて田の神、冬は山に還つて山の神になるといふ言ひ傳へが、殆と全國といふ程にも弘く分布し、それが東北では又(347)二月を地神下り、或は農神の田に出る日などと稱して、期間から言つても又働きから言つても、耕種の營みを助けたまふのが主たる神�ｺで、山には寧ろ休息の爲に、冬期用の無い三四ヶ月だけを、御過しなされるやうに思はれて居るのである（二）。石川縣下の各郡殊に能登四郡の郡誌を見て行くと、村毎の信仰の少しづゝの變化がよくわかる。大體にこの方面では山と田の二つの神がすでに分立し、木樵木挽といふ類の山の稼ぎに携はる者が、山の神の日として二度の祭をする方が熱心であり、農家は日を異にし、且つ幾分か冷淡になつて居る村も多いやうだが、それでも半島北端の珠洲郡などに行くと、此信仰は今もまだ活きて居る。アエノコトといふのが舊霜月の初めに、田の神が田の勤めを終つて家に歸つて來られる日の祭で、文字では多分饗の事と書き、一種の直會《なほらひ》と見るべきものかと考へる。此日は色々の御馳走を用意して、座敷に膳を立てゝ眼に見えぬ神に供へる。田の神は久しく土の中に居て盲になつて居られるといひ、一々椀の蓋をとつて食物の名を謂つて勸める。或は其前に風呂に御入れ申すといつて、裃を着た主人が先に立つて案内し、自分が湯につかつて田の神を御入れ申したことゝし、又はたゞ外から風呂場を拜む等、舊家によつて作法は少しづゝちがふが、要するに田の神は山には入らずに、其まゝ家に御留りあるやうに信ずる者が多く、山の神の方には別に日をかへて出る日歸る日の祭をして居るのである。つまりは後々は家々で同じ神を祭ることになつて居るが、本來は家毎に又は一門毎に、一つ／＼の神があつたのだといふことが判つて來るのである。是が祖神であり氏の神であり、先祖が子孫の田業を庇護したまふものと信じて居た爲かといふ點は私の解説であつて、まだ簡單には人の同意は得られまいと思ふが、本據が山にあり、働きが專ら家の稻作の成功を期するに在るといふことは、先祖がなつた神で無いと、實は想像し得られないことであらう。

　

　註一　海老を山の神に上げることは私には興味が深い。筑後と肥後との境の村に行はれた龍宮童子の昔話に、毎日必ず生の海老を進らせよといつた挿話もある。さうして其童子は桃太郎の話と同樣に、山から流れて出る小川から出て來たといふのである。(348)なほこのついでにいふ。松阪の山神祭のことは本居先生の日記にも出て居て、先生の家でも行はれた。

　註二　信州などで惠比須樣が稼ぎに出られるといふのも同じ信仰らしい。こゝでは十月二十日の百姓惠比須講の日に家へ還り、正月二十日には又出て行かれるなどといふ。九州と四國の一部では田の神を大黒樣といひ、やはり十一月丑の日の晩に家へ田圃から戻つてござるやうにも謂つて居る。

　

　　　　　　　一九　祭月と山宮との關係

　

　神樣が冬の間、山中の最も靜かな處にお鎭まりなされるといふ考へ方が、昔は一般に行はれて居たといふことは、單に祭の月が霜月であり、又次の春の二月又は四月であつたといふだけからでも、推測し得られるかと思ふのだが、それに加へてなほ現實にさういふ記憶が、前に掲げた安藝の嚴島神社以外にも、幾處と無く保存せられて居たのである。わざと方面を變へて、今度は常陸國誌の中から其例を捜して見ると、此國の名ある舊社久慈郡の薩都《さつ》神社では、古風土記の賀昆禮《かびれ》之高峯が是だといふ入四間山一名尾岩山に、神は九月から四月まで御留りなされるといひ、そこには冬の焚火の爲といふ石の工作物があり、又石の酒壺といふものも有つた。九月は少しばかり早過ぎるやうに思ふが、こゝでは十一月の十日に祭があつて、神輿は東の山へ出遊なされたと謂ふから、或はもとは此日が御引移りの式であつたのかも知れぬ。次に茨城郡稻田村の姫之宮には、元禄頃かとおぼしき由緒聞書が殘つて居て、其以前には十一月中の酉の日に、爰から七町北の奧の宮へ神幸があつて、七日七夜にわたる大祭禮が行はれたとある。後には其宮も絶え山つゞきの地も開墾せられてしまつたが、それでも此日の祭だけは懈怠なく勤めて居たと謂ふ。それを今日の稻田神社ではどうして居るだらうか。

　もつと變つた例では京都東南の醍醐の清瀧權現、是は記禄も物々しく成立して居て、明らかにこの大寺の鎭守であり、神道の傳統を破つたものと思はれるのだが、しかも九月九日の新式の祭以外に、四月の十七日には御遷宮神事と(349)いふのが山上に行はれたことが、五百數十年前の滿濟准后日記には見えて居る。即ち此日を以て神を麓の本社へ迎へて來る習はしがあつたのである。それから秋の九月の大きな祭を終つて、十一月の吉日には再び山頂の社頭假殿たる准※［月＋※［氏／一］］堂に於て、御供奉備《ごくうほうび》の式があり又御神樂を獻じたといふから、是が神々の山の上へ御送り申す日であつたかと思ふ。大陸から運んだやうにも言はれる青龍の神ではあるが、是に伴なひたまふ長尾神社といふのが、なほ昔の世からこの土地の神であつた故に、古來の慣行に背いては祭れなかつたのであらう。

　近江蒲生郡の綿向《わたむき》大明神社といふのは、日野一郷の舊社と傳へられ、神輿の三つも出る盛大な祭が、四月第二の亥の日を以て行はれて居たが、明神初顯の地といふのが綿向山の頂上に在つて、社を村井村に創立してから後も、なほ年々の迎へ參りといふのが、四月の朔日に此峯に向つて續行せられて居た。山の下まで日野から二里、それから絶頂へは七十町、そこにも社殿があつて二十一年目には造營した。社人氏子等は潔齋して、打揃うてこの迎へ參りをしたと、近江輿地誌略には記して居る。この記事に接して私などの氣づくことは、毎年かうしてお迎へに登るからには、神は四月までは山の上に御鎭まりなされた筈であるが、そこへ何時の間に御還りなされるのかは、土地の人たちももう考へぬやうになつて居る。もとは必ず冬の月に其日の式があつたらうけれども、特に印象の濃いものが無かつたばかりに、戰とか飢饉とかの混亂時代を經て、自然に廢絶に歸したのではないか。もしさうだつたら今でも何かの痕跡があるかも知れない。對馬の天道山の霜月神送りが、春の御迎へ祭を忘れて居るのとはちやうど正反對に、この地方は總體に、神の御還りを記念する祭が淡々しくなつて居る。近畿と境をなす山の嶺では、近江の日吉神社でも、山の彼方に坐す山城賀茂の二大社でも、又その南方につゞく稻荷山でも、共に四月の祭禮のみは全國に鳴り響き、一方十一月の式はまるで無いのではなくとも、蔭の御社限りの型ばかりのものになつて居る。何れの地方も皆その通りと、いふわけでは決して無いのである。さうかと思ふと他の一方には、奈良の春日や越後の彌彦のやうに、いはゆる春秋の二度の祭はなほ嚴重に行はれ、しかも背後には神々しい神山を負ひつゝも、神を社殿の奧に常ましますやうに、信(350)ぜしむる教法の久しく續いたばかりに、峯はたゞ單なる風致の如くなつてしまつて、神の御幸の無いといふのを、一つの特徴として居る御社さへある。八幡も或はその例の中に算ふべきものだつたらうか。汽車で走つて通つて見ても、宇佐の後に連亙する山々の空線といふものは、ちよつと他では見られぬほど奇拔な形であつて、假に何等の古傳が記録せられて居なくとも、なほ我々をして是と信仰との交渉を想像せしめるに足ると思ふのに、こゝには既に菱形山の不思議な物語、大神比義《おほみわのひぎ》といふ巫女の祖が、神を顯はしまゐらせた事績を始めとし、數々の奇瑞がこの靈異なる山嶺と結び付いて居る（一）。それにも拘らず、こゝの春秋の卯の日祭などは、もう全く山宮の行事とは絶縁して居るかに思はれるのは、一つには氏社の夙い頃からの方針が、たゞ遠く弘く九州から外へ、出て行かうとするに在つたからであらう。石清水の八幡の如きも、その奉遷の初期に成つた貞觀十八年（八七六）の太政官符には、明らかに爰を山宮と呼んで居るので、もとは恐らく山崎の離宮八幡を以て、里宮とする計畫があつたことゝ推定せられる。それが後々は紀氏の一族の利害から、寧ろ好んで特殊なる祭神傳と、外には類の無い新しい祭式とに、立て籠ることになつたのである。地方に何萬を算へる新舊の勸請社が、神を應神天皇と御母后とにする以外に、必ずしも男山本社の祭り方に倣はうとはせず、?々御旅所渡御の世の常型に隨うて居るのは、自分には偶然ならぬ理由があるやうに思はれる。それをやゝ具體的にいふならば、もともと氏神の一つの改造である以上は、神が日を定めて降臨したまふといふ悦びから、全く離脱してしまふことが出來なかつたのである。

　

　註一　建武二年成るといふ宇佐八幡宮縁起には、御許山《おもとやま》の石體權現の事を載せ、八百歳の齡を重ねた大神比義の分身が案内して、山中に三柱の靈石と金色の鷹とを拜せしめたといふことを述べて居る。作りごとではあらうが、其後に載せてある靈石の圖といふのが、自分には可なり明瞭に、今見る此山嶺の形を聯想せしめる。曾てはこの信仰が他の地方にも運ばれたこともあるか。備後御調郡の或古い八幡宮の如きは、その附屬の社の中に御許神社といふのも出來て居た。

　

(351)　　　　　　　二〇　賀茂と日吉

　

　故に私などの見る所を以てすれば、日吉が中古の造意によつて、伊勢の大神三輪大明神などの來臨を説かうとせず、賀茂が瓊々杵尊や春日の神々を祭神とするやうな、新説を成立たせようと努めなかつたならば、千年の永きに亙つて殆と絶間も無く、同じ祭をつゞけて居たこの二つの大社の信仰が、斯くまで不明に歸するわけは無かつたのだと思ふ。學問の上から見ても是は小さくない損失であり、殊にあれほど巨大なる尊信と保護とを寄せたまひし朝家に對して、申しわけも無い怠りであつた。意外な俗説が現代に出現して、累を政治に及ぼしたのも其爲のやうに考へられ、今に於てなほ神道の移り替りを、外から正確に知り究めようとする勞作の、必要であることを感ぜざるを得ない。瀬見小河の著者も氣づいて居たやうに、この二つの社には、微かにして未だ顯はれざる前代といふものがあつた。石清水北野以下の新社とは事かはり、都のまだ平安に集められざる昔から、こゝに山下の住民の群落のみによつて、慎み祭られて居た時が、やゝ續いて居たことは先づ確かである。日吉の祝部氏が賀茂の一族の分れだといふことは、有り得べきことゝいふのみで、證據はたゞ一種の系譜だけであるが、少なくとも一つの靈峯を西と東の兩表から、共に崇めて居たといふまでは認めなければなるまい。或は何故に東の大嶽の大比叡神をさしおいて、二宮の小比叡神を山王として居たかには議論もあらうが、ともかくも以前四月の祭の榊を伐りに登つた峯といふのは、今よりもずつと西の方によつた小比叡の神山であつて、そこを西へ降ると下鴨でいふ御蔭山の社があり、是も最初の御阿禮木《みあれぎ》を採つた處は、もう少し上の方であつたらうと言はれて居る。つまり雙方は共に引離れて、二つ別々のものに成り切らうとした形勢が、よほど夙い頃から現はれて居るのであつた。

　この點はしかし單なる史的興味であつて、伴信友翁の想定が假にはづれて居らうとも、いはゆる山宮信仰の存立に(352)は些しの影響が無く、賀茂と日吉とが一種の里宮の、異常に發達したものであつたことには變りはない。遺憾な點があるとすれば、その里宮を又更に外の方から、尊みかしづく力が強くなつて、勢ひ一方の山と里との結び付きが、やゝ幽かなものになつて來たことであらう。その上に下上二つの賀茂の大社は、神は母と子の御仲らひであつたにも拘らず、氏人だけはどうも時々いさかひをして居たらしい形跡がある。我々から見れば一つとしか思へない神事を、一方でミアレと謂へば、此方では是非ともミカゲと呼ばうとして居る（一）。さうしてしまひには其祭場までが二處に引離れ、又その祭の日までがちがふやうに、解する人が多くなつて來たのである。下鴨の御蔭祭は勅祭の三日前、四月の午の日を以て今も行はれる。もとは榊を御迎へに行く行事であつたらうと思ふのだが、近世は誰でも之を本社の御神の神幸と謂つたことは、ちやうど富士淺間の三つの大社とも同じであつた。さうして上賀茂の方には斯ういふ神の渡御は無くて、たゞ同じ日に神山の上に於て、何か深秘の行事があつただけのやうである。上社で御阿禮の日といふのは、大祭前日の申の日のことなりとする河海抄などの説が弘く行はれて居るが、それはたゞ山から御迎へ申した神木を飾り立てゝ、もろ人の引くべき日であつたのみで、その祭といふのはやはり午の日であつたと思ふのだが（二）、それも是も肝腎の行事がもうかれ／”＼になつて之を確かめる道が無いのである。ミアレの祭場が上賀茂では後の山、あの神々しい神山の中腹に移されたのも、勿論新しいことでは無いと思ふが、一方の下鴨の御蔭社の所在地も、西に流るゝ川をミアレ川、南にある野をミアレ野といふ地名があつたといふ。それは今でもまだ殘つて居るかどうか。何れにしたところが御蔭は神の御姿を仰ぐこと、御生《みあれ》は即ち神の顯形といふことであらうから、その幻の永く傳はるか否かは別として、そこから毎年の祭の神依木を迎へて來ることが、祭の式の重點となつて居ただけは疑ふぺくも無い。或は別雷神誕生の神傳と、兩立し難いやうに思つた人もあるか知らぬが（三）、神は末永く祭にいそしむ人々の爲に、顯はれ來るべしと約束なされて居る。それが毎年の御生であり御蔭であるとして、自分だけには少しも不審は無いのである。

　たゞ一つまだどうしても解けない謎といふのは、兩所賀茂の氏人たちが、各々其氏神の社をもつて居りながら、そ(353)れを少しも伊勢二宮の氏人等のやうに、この大切な山中の神事と結び付けようとして居ないことである。上賀茂の方では四月大祭の十三日前、初申の日に於て氏神社の祭があり、その十一月の臨時祭にも、同じ間隔を置いて氏神の祭をして居る。この點は伊勢では全く無いことで、しかも山宮の行事のまだすまぬうちに、氏神を先づ祭るといふことも私には説明が出來ない。是を御本社がすでに總族の氏神である故に、その根源の祖神を迎へる式は是へ御委ね申して、自分等はたゞ中頃以後、神の隨從者として無二の由緒をもつといふことを、立證するを以て滿足して居たものと解することは、果して正しいかどうかまだ心もとないが、假にさうだつたとすると、やはり御手本は大神宮の氏人といふものに、在つたといふことが言へさうである。

　

　註一　年中行事秘抄の文といふ一節に、又走馬を飾り奧山の賢木を取つて阿禮を立て云々とあるのは、上賀茂下鴨雙方何れの社の事としても通ずるが、ともかくも兩社の午の日の神事はもと一つであり、上社の阿禮の木もやはり奧山から採つて居たことを推測せしめる。對馬の阿連といふ村で舊十一月の九日の祭の終りに、神を御送り申す式を行つて居ると對馬島誌にあるのも、そこが天道山の麓の宮であるだけに、もとは同系の祭に基づいた村の名であらうと私は想像して居る。四月に山に登る習俗の、日本の東半分に普及して居ることを詳しく説き得なかつた爲に、春の迎へと冬の送りとの、東西對立といふ問題が、考へられずに殘つた。

　註二　賀茂注進雜記の、年中御神事次第の中に、四月中の巳の日、御生所を圍ひ奉るの儀とあり、其翌日の午の日を御生所之儀として居る。是は勿論上の御社の北に近い林の中の祭場のことであらうが、神のミアレはこの二儀の中間に於てあつたものと思はれる。少なくとも申の日では無いのである。御蔭と御生との關係については伴翁は少し思ひちがひをして居られる。翁は延喜の臨時祭式に、住吉社の長門の神領の傍に、御蔭社があるといふ箇條に心づいて居りながら、なほ下鴨の御蔭社の意味がよく判らぬと言はれる。神の影向の地に設けられた御社と解すれば、是が雙方ともによく通ずると思ふ。阿禮が「示現」であり、飾りの阿禮布の名では無かつたことは、私は「稗田阿禮の話」の中にもう書いて置いた。

　註三　滑稽雜談七、御生祭の條に引用した野府記寛仁二年十一月廿五日の條に、皇御神初天降給小野郷大原御蔭山とあり、初めてといふ語の使はれて居るのは、この當時賀茂を皇御神、即ち天孫を祀つたとする説が公認せられかゝつて居たからである。

　

(354)　　　　　　　二一　田中社と田宮寺

　

　稻荷は色々の點に於て、深い關心の寄せられる神社であるが、その信仰の移り替りについては、多くの先輩の努力にも拘らず、今なほ明らかになつて居ないことが甚だ多い。さういふ中でも殊に知りたいと思ふことは、伏見の本社がいつの頃、又如何なる事情の下に、新しい意味の氏子を現在のやうに、汎い區域に持つことになつたかといふのが一つ、次には御旅所への御出といふことが、爰では大よそ何れの世に始まつたかが、明らかになつたら有益であらう。秦氏荷田氏が近い頃までの歴世の社家であり、彼等が自ら秦氏人等禰宜祝と名のつたのも古いことであるのに、それが片隅に退いてこの樣に多くの住民が、こゝを氏神と仰ぎ尊むに至つたことは、信仰組織としては大きな變遷であつて、人は或は之を同名異實の例に引かうとするかも知れない。しかも御社は久しく持續し、神の根本の靈異ばかりか、狐が御使はしめだといふやうな珍しい端々の言ひ傳へまで、まだ古い世の姿を留めて居るのである。時がすべてのものを新たにするといふえらい力を持つものとすれば、それはたゞ至つて徐々たる、殆と常人の意識を絶した、一種心理學的とも形容すべき働きでなければならぬ。果して其作用には何の統一も無く、定まつた傾向も無いものであつたかどうか。人は何かといふと社會の趨勢といふ語を用ゐたがり、自分たちも折々は人智の進みに因るやうに謂つては居たが、率直に物をいふならば、この方面には格別人が賢こくなつたといふやうな形跡が無い。何か其以外に別に一つの隱れたる原因の是に參加して、國の固有の信仰を強めたり弱めたり、又は向きを轉じたりして居たものがあるのでは無いか。外から來るものよりも内に前から備はつて、自ら變化の媒となるものが有るのでは無いか。さう思つて見て行くとき、先づ我々の氣が付くのは祭である。祭は此頃では注意する者がやゝ少なくなつたが、實はこの民族の信仰の主要なる表現であつた。是に携はる人の感覺は過敏となり、知らず／＼にも外の影響を受ける一方に、どんな(355)に守らうとしても今までの仕來りを、そつくり其儘にはくり返すことが出來ない。さうして僅かな時代を囘願しても、是が同じものかと驚くほども變つて居る。勿論どう働いて信仰の如何なる部分を左右したかといふことは、今はまだ總括して説くことも出來ぬが、二つの働くものは相牽聯して居ると、いふことまでは想像し得られる。さういふ意味に於て祭は又、神道の歴史を語る主役だつたと認めなければならぬのである。

　伊奈利は本來が三箇の峯の平らかなる處に、顯はれませりといふ神であつた。秦の伊呂具の餅の的が、鳥になつて飛び去つたといふ傳説にも、その鳥の止まつた處は此山の頂であつて、そこに神木の奇瑞が、罪を悔いる者に示されたといふのである。中世の社殿は今ある社地よりも遙か上方に建つて居たと思はれるが、信ずる者からいふならば是は一つの里宮であつた。或は別に一處の中宮ともいふべき宮居があつたやうにも傳へられるが、ともかくも秦氏一門の信仰生活は、この山中に於て完成したのである。稻を荷ふ老翁の物語は後作だとしても、とにかくにそれが東寺との新たな因縁を結んで、遠く南郊の平野に進出し、更に又一つの祭場を經營して、次第に信仰の領域を開いて來たといふことは、他の多くの社には見られない成長力ではなかつたらうか。尤も其爲には一方の山中の行事はやゝ衰へ、山の靈異を説く者は世と共に數を減じて居るけれども、是が同時に又一山を擧げて、一つの大規模なる山宮となつて、新たな御旅所の有力なる背景を作るに至つたことは、偶然ながらも面白い氏神社の展開ぶりであつた。御旅所が記録に見え始めたのは相應に古く、稻荷がその最初のものゝ一つでないことも確かだが、それをたゞ單なる模倣とか採用とかいふことは出來ない。もしそれが勝手に作り得るものならば、神社の配置はとても今日のやうな、小區域の割據には止まつて居られず、次第に京都の市中に見るやうな、大社の併呑といふことが行はれて居たであらう。

　それよりも今自分などの想像して居るのは、春は山の神が降つて田の神となるといふ全國的な信仰が爰にもあつて、それが何等かのやゝ變つた形で、祭の上に現はれて居たのかといふことである。たとへば秦氏の同系の者が繁衍して、賀茂桂の二つの山川の間に散在して住んで居た場合に、ちやうど關東東北で雷の落ちた稻田に、竹を立て注連を張る(356)のと同じやうな習慣が、爰にもあつたとしたらどうであらう。もしくは伊賀や南近江の鉤曳神事《かぎひきしんじ》のやうに、神を山から生産の場へ迎へるのに、花やかな歌と所作とがあつたらどうであらう。固よりどういふ形でとは斷定し得ないが、この御山に鎭まりたまふ神に、特に田の作業を顧念せられる神�ｺの有つたことだけは、田中といふ所屬の神社があることからでも考へ付くことである。京都坊目志の記す所によれば、稻荷の田中神は本社に合祀したものの他に、松明殿稻荷神社その他、なほ二三の田中社がもとは離れて方々に在つた。賀茂にも古い頃に田の中の祭があつたといひ、日吉にも日吉御田神社がもとは所屬して居たといふが、中でも稻荷の田中といふ杜が、夙く京人の間にはよく知られて居た。たゞ是が稻荷の信仰を汎く町田舍の隅々にまで、流傳せしめる力であつたことを、まだ自分のやうにはつきりと考へた人が無いだけである。

　此點は別に家の神と屋敷神の問題を考へ合せて、詳しく説き試みる必要があるのだが、それまで枝葉に出ることはこの場合には出來ない。爰でたゞ一言だけ觸れて置きたいのは、今日稻荷の神を是ほどにも數多く、全國各地で勸請するやうになつた元の起りは、それが私の謂ふ山宮信仰の一要素を、比較的よく保存して居たからであつて、必ずしも日本の狐の數が、赤い鳥居の數ほどに多かつた爲ではないだらうといふことである。山を我々が仰ぎなつかしむのは、そこに休らひたまふ古來の神々が、春毎に降り來つてめい／＼の田作りの勞を助けようとせられたからで、諸國の田植唄がしば／＼早朝に山を望む歌を用ゐて居たのも、其因縁だらうといふことは以前にも既に説いたことがある。それが祖靈であり氏神の根源であつたらうといふことだけが、今度始めて自分によつて唱へられるのである。それも決して只の當てずつぽうでない證據には、稻荷の田中神の他に、なほ伊勢の田宮寺の例が一つある。伊勢では荒木田氏二門氏人の山宮神事の日、歸りに氏寺なる田宮寺に參る慣習があつた。内宮の建久年中行事といふものに、多分は氏經神主の書入であらうといふ次の一節があつた。

　　歸途次を以て田宮寺に參り、又外宮神拜等は定儀に非ず、意に任す。

(357)　即ち是非とも參らねばならぬのではないが、參ることにして居るといふ程の意味であらう。この田宮寺は今は部落の名で、積良《つむら》の谷に往復する路筋であつたらしいが、維新の際まではそこに同名の寺があり、現に氏經神主の時代にも、牛王を送つて來るなどの交渉があつた。宮川夜話草の記す所によれば、此寺境内には御船殿といふ額を掲げた社頭があり、何れの頃よりか御遷宮の年毎に、内宮古殿の御船代といふ秘中のものを、此村に下げ渡される例があつたが、人家に納めて置くのは畏れ多しとあつて、それを此寺に預けたのが終には寺の由緒の如くなつて居た。寛延二年（一七四九）の御遷宮の時から此例を止められたとある。この二つの事實はどの程度まで關聯して居たか。或は社殿の額の文字によつて、若干の臆測を附加した者も無しとせぬが、ともかくも寺の名の起りとは全く別である。この珍しい寺の名の田宮が、山宮に對する語であつたことは想像してもよからう。一つの旁證としては、紀伊の日前國懸宮の舊社地にも田宮があり、爰も亦山宮神事の久しく殘つて居る社でもあつた。寺がさういふ名を冠するのは奇に失するが、宮寺といふ稱呼は男山にも北野にもあつて、つまりは佛者が或祭事に限り、干與して居たことを意味するものとも見られる。伊勢では氏神祭の祭場の地が、田邊であり、湯田（忌田）であり、又田上大水社の傍でもあつた。氏神の特に氏人に幸ひしたまふと信じられたことは、氏に不可分として所屬した田の豐熟、後世家督の名を以て家の安泰を代表させたものゝ保護であつた。田の神が山から降りて來て、香はしい色々の食物と、樂しい田唄の囃しとを以て祭られたまふ場處は、今でもまだ多くの農村に於て、本家の持傳へた最も大切な田の上であり、仍て又之を大田植とも呼んで居るのである。乃ち大神宮の氏人たちも、曾ては其名田の地に家居して、この日の氏神祭を神と共に樂しんで居たのが、中頃神宮の附近に移り住むに及んでも、なほ力の限り昔の記念を保存して居たと見られるのである。但し一つの靈獣が出て此饗宴に參加したといふことは伊勢ではまだ聽かないが、山王淺間の例もあることである。又多くの異民族に於ても、耕作と野獣の擧動とを、結び付けて考へようとする風は弘く行はれて居る。我邦の信太妻は、恨み葛の葉の別れの歌のみが特に著名だが、それよりも古い形かと思ふのは、能登の萬行《まんぎやう》の三郎兵衛の祖先のやうに、(358)狐が我兒の家の田を守つて、毎年の豐作を續けさせたといふ、樂しい結末をもつものであつて、是には又「穗が出えでつゝ孕め」といふ祝福の言葉を殘して行き、其爲に家が次第に長者となつたといふ、素朴な語りごとさへ多く傳はつて居る。北端では津輕地方の山唄に、次のやうな文句のあるのも、私は其一つの例かと思ふ。

　　　　　津輕路の山唄（ひなの一ふし）

　　　信太《しだ》のなべ子が田こ作る

　　　打たず掻かずにじき（肥）もせず

　　　からは七尺穗は五尺

　　　いかな駒でも八穗つけぬ

　　　八穗の米こは七斗五升

　　　しだの鍋子は有りがたや

　我々の學問も亦この稻のやうに、風雨にも傷はれず、雷電霹靂によつて却つて刺戟せられつゝ、他日再び此國の民生を豐かにすることが出來るならば、それを眺め見おろしつゝ、あの悠々たる白雲の彼方に在つて、欣喜する者は恐らく私たちであらう。

　

(359)　　　　　窓の燈

　

　　　　　　　一　小さな民俗學研究所

　

　この一卷の世に出て行く頃には我々の小さな研究所は、そろ／＼と仕事を始めて居ることであらう。出來るといふことだけはもう決定して、是に三人の最も熱心な同志が、働かうといふ約束をしたからである。但し今すこし大きな計畫が立つてから、堂々と始めることにどうしてしなかつたか、なぜさう急いだのかといふことが問題になりさうである故に、さうして其理由の一つは私の都合に在る故に、前以ていさゝか説明して置きたいやうな氣持がする。私の書齋の蒐集は、大戰なかばから全く進行を停止してしまひ、却つて少しづゝ散亂した嫌ひさへある。以前もさして多くは無かつたが、近頃は更にめつきりと利用者が少なくなつた。自分が不精になつた爲もあるが、主たる原因は整頓の任に當る者が無く、遠くへ長い間持ち出して行くより以外には、ちよいとした當座の用などは、足すことが出來なくなつて居たことである。使はずに置けばすぐに埃がたまり、在り所が不明になつて、自分でも毎日のやうに捜しものをして居る、資料のどれだけ迄の援助が此中から期待し得られるか、見當もつかなくなつた人がもう大分多くなつた。斯んな事をして本やノートを世に殘して置いても、末には古本商の話題になるばかりであらう。何とか方法を設けて今少し多くの人の役に立つやうにしたいものと、考へ出したのが最初の動機であつた。此爲には聊かなりとも費(360)用の工面をして、誰か掛り切りの人を見つけて、世話をしてもらふことにしようと、今頻りに委員の三君と相談して居る所である。研究所といふからには研究員が無くてはならず、又際限も無く多人數の世話をすることは出來ない。それでさしあたりは中央地方を通じて、大體まづ五十人くらゐを限度にして、その人たちの研究に許す限りの援助を與へるやうにしたいと思つて居る。大きな聲で援助とも言へないわけは、今のところではまだ生計の保障までもといふわけには行かないのだが、直ぐにも出來さうなことは、（一）には研究方法の相談、たとへばさういふ問題は既に手を着けた人があつて、もうこの點までは進んで居るとか、此部分はまだ一向に判つて居ないやうだから遣つて見るに張合ひがあるとか、大切な又面白い題目とは思ふが、斯ういふ困難があつて短い期間には埒が明くまいとか、その他是に類するやうな意見を述べ試みることである。（二）には同種又は類似の事項に興味をもつて、遠く離れて別々の調査をして居る人たちを引合せ、或は現地でならば簡單に知り得ることを、旅行の出來ぬ爲に調べられずに居る人たちを紹介して、互ひに助け合ふ機會を作ること、是は地方の學問をする者にとつて、誠に必要なことであつて、しかも久しく實現し難かつた。（三）には資料蒐集の援助、是は片端から手傳ふといふわけにも行くまいが、田舍に居て本の不自由をする人々には、此點だけどうしても確めにくいといふことが折々ある。それを代つて捜し出し、又は出來るだけさういふ便宜の爲に、豫め資料を用意して置くことである。（四）には今でも毎度相談を受けることだが、本を手に入れる手段と共に、果して斯ういふことを知る爲に、某々の書は役に立つだらうかといふやうな問合せに答へ、又能ふべくは購入借覽の世話もして見たいと思つてゐる。（五）には研究成績の公表方法、是は因より仕事の價値にもよることだが、保存の道は必ず立てなければならず、それにはたゞ記録として研究所に置くもの、雜誌に掲載し頒布するもの、又は一卷の書として世に公けにせずには居られぬもの等、幾つかの階段があることゝ思ふ。それを行く／＼は研究所自らの力で、自由に處理し得る所まで行きたいと思つて居る。最後になほ一つ、是はまだやゝ頼りない希望であるが、（六）には必要があり又それだけの價値のある研究に、物質上の援助を寄せることももう考へてゐる。人文(361)諸科學の研究に對して、補助を給與する計畫は公私共に既に始まつてゐる。最初には少なくとも其紹介と推薦とが我々には爲し得られ、行く／＼は或は寄附者の委託を受け、又は我々の自らの力によつて、進んでさういふ援助の爲し得らるゝ時が來ようと思ふ。それも是も研究が此社會の爲になるか否かといふ、一般の判斷が條件であつて、各自の信ずる通りにはならぬことであらうが、私たちは少なくも若い氣力のある又良心的な研究員を、集めて行くことに骨を折らうと思ふ。彼等の研究題目は登録せられ、又少なくとも年一囘の報告は要求せられてよい。さうして其報告の一年以上、出されずにあることを以て、當然に研究員の辭退と認めてよいと思つて居る。どうかこの計畫の少しの障碍も無く、實現せんことを祈りつゝ今この記事を書いて居るのだが、萬車幸運なる私の仕事にも、時々のあてはづれが有り、現にこの新國學談なども一年以上もおくれて出ようとしてゐるのだから、確かに實現といふのにはまだ少しばかり遠い。

　

　　　　　　　二　百問百答集

　

　是は昭和二十一年の秋から、すでに取掛つて居る事業であるが、成るべくは研究所の初期の成果に、編入したいものと私は念じて居る。民俗學教本は自分などの勸誘が效を奏し、今年はその幾つかゞ世に現はれさうになつて居るが、其中の一つには何とかして、讀者の要望に基づくやうな、組織を持つたものがあればよいと思ふ者は多い。それといふのが自分などはもう永い間に、少しづゝ色々の機會に説いて居るので、その燒直しのやうなものしか書けず、甚だ氣乘りがせぬからであつた。ところが最近は歴史教育の制限によつて、平民生活史の方へ眼を向ける人が多く、自然に日本民俗學といふものは、さういふ仕事にまで力を出すことが出來る學問なのかといふ、同情とも不信用ともつかぬ問題が、ぽつ／＼と素人衆の間に評定せられることになつた。戰後は實際に我々の新たな仕事が少なく、ちやうど(362)よい處だからその質問乃至は詰問を、出來るだけ多量に受けて見てはどうだらうといふ議が起つて來たのである。それで今色々の方法を設けて、さういふ外部の質疑を集めかけて居るところなのである。日本人は概して遠慮深いから、何といつても門外漢の不審はさうは得られまい。たゞ地方に孤立して居る民間傳承の會の會貝などで、はたから色々の批評を受けても十分な釋明が出來ず、日頃氣にして居るやうな人たちが、その記憶を蘇らせ、又はそれに自分の必要とするものを附け加へて、問題として出して來さうには思ふ。それと現實にこの學問に入つて來てから、物にふれ見聞に伴なつて、こいつは解らぬと思つたものとが、一しよになつて提出せられるかもしれない。

　私一箇としてもこの計畫は、かつて數年前にも試みたことがある。この時は主として婦人雜誌の讀者を相手とした爲だつたか、漠然とした質問ばかりが多く、始末に困つてへこたれてしまつたが、是は民俗學とは何を説く學問かといふことを、まだ考へて見もしない人が多かつた爲だから是非が無い。今度は時もかはり學問がいさゝか知られて來た。よもやさういふことはあるまいと思つて居る。とにかくに我々はさういふ總論乃至は方法に關する問ひを重要視して、よつぽど同情のない皮肉に近いものにも、答へるやうにしなければなるまいと思ふ。いはゆる各論の側に於ては、新聞記者などはたゞ傳説と年中行事の由來しか聽きに來ないが、地方からは隨分細密且つ具體的な、問ながらも我々に教へるものが、今までも多く切れ／”＼には出て來つゝあつた。それが何萬あるか何千あるかは知らぬが、樂しみにして片端から、我々は分類して行くことが出來ると思ふ。何と考へても民俗學の領分でないもの、たとへば是からさきはどうなるか、又は甲乙どちらが正しいかといふやうな、見當ちがひのものは是非無く除外する。其他は同種同樣のものは寄せ集めて一項とし、たとへば總論に三十、各論の方に七十といふほどの割合で、痛い質問、答へずにはすまされぬ質問、その他少しでも新味のあるものを、大體百くらゐづゝ、拔出して竝べて見るつもりである。この中には、我々ならばさう困らずに、簡單に答へられるものも若干は有るだらうが、其他にさう容易には言へないものだけは、今度はこの研究所の問題にして、多數の意見のほゞ一致したものを、誰かゞ引受けて答へることにしたらよ(363)いと思ふ。勿論宿題としていつまでも持越すべきものもあらうが、大體に我々はさう寡聞を恥ぢない。問題さへよければ、今は此程度にしかわからぬとか、今日の知識としては斯うであらうと思ふが、まだ確かなことは言へないとか、もしくは斯ういふ方面からもう少し比較資料を集めて來れば、やがてははつきりした答へが得られるかも知れぬといふやうなことを、さう體裁ぶらずに言ふことが出來る。百しかさういふ適切な囘答が無いといふことはあるまいから、斯うして手頃な讀みやすい百答集が、或は次々と世に送られることにならうもしれぬ。以前郷土研究の質問應答欄が盛んだつた頃は、答へを主として讀者の方に求めた爲に、無理な要望も多く、從つて又棄てつぽかしのものも多かつた。今度は事實に於て各人の常に抱く疑ひが多く、又實生活から出發して居るものが我々の心を動かすであらうから、結局は之によつて世の中からの期待、學問の社會と接觸すべき部面が、段々に明示せられることになると思ふ。今までの所謂人文諸科學は、高くとまつてそんな要求を省みようとしなかつたが、それは不親切といふ以上に、實は問はれても答へられないことを恐れた爲だつたとも見られる。この民俗學を御手本として、是から少しく進出して見てはどうかといふことを、先日私は時事新報に寄書して置いたが、此文の出るときまで、まだそれは掲載せられて居ない。

　

　　　　　　　三　民俗學教本

　

　府縣の師範學校の隨意科目に、日本民俗學を入れて見たいといふ意見は、外部の人たちの間にも終戰以前からすでに現はれて居た。機運はもうとくに到來して居て、たゞどういふ風に教へるかといふことがきまらなかつたのである。簡單な教科書のやうなものを出したいといふ希望は、さして先見の明も無い出版者の側からも、こゝ數年來くり返し表示せられて居る。結局は各人各樣の幾つかの方式が提案せられて、次第に其中の最も安らかな、最も效果の多いも(364)のが採用せられ、それを更に改良して行くことになるので、一たびこの學問に足を踏入れた若い學徒の、手柄を現はしやすい好機會だと思つて、蔭ながら私なども勸説し又激勵することを怠らず、是からもなほそれを續けようと思つて居る。

　人にすゝめる前に自分でも一つ、書けばよいのにと言はれさうな氣がするが、それを全く企てなかつたわけでも無いけれども、私にはいろ／＼と尻込をしなければならぬ理由があるのである。第一に是まで少し自分はしやべり過ぎて居る。新たにさういふ本を書くとなると、必ず一ぺん言つたことを言ふことが起るであらう。さうで無くとも又あれを言ひ出したと、蔭で笑はれさうな氣遣ひは多いのに、わざ／＼それをするのは氣が重いのみならず、又そんな事に費す時も惜しいのである。それから今一つは、自分の書くものが、きつと良からうといふ自信がもてない。ところが今日は彼が書いたから、彼は古いからといふ類の盲な選擇が、あまりにも流行して居る。それが眞に良いものゝ出て行くことを、妨げる危險もあるのである。教本の要件は着眼點の新しさ、説明の氣がきいて居ること、又順序がよくて自然に流れ込むやうに、乾いた部分から潤ほして行くやうにすることだが、それは寧ろ新しい印象、新たな判斷を出來るだけ生のまゝに、近い經驗として次へ送るやうに、した方が效果を收めやすい。惡くこじれてしまはないうちに、自分は斯うして學んだ、斯んな端緒を把へて學問への感激を深めることが出來たと、誰か親しい友にでも語るやうな心持で、本を書いて見る氣にお成りなさいと、人に説いたことも一度や二度では無かつた。だからやがてはさういふ書物も、世に出ることであらうと信じて居る。

　民俗學の知識は、成るほど少しばかり間口が廣過ぎる。それを何處でも明るく、何でも若干は知つて居るといふ樣になるのは容易なことでなからう。そんなことをして居ると一生が潰れ、又私の謂ふこじれた人になるのである。我々が分擔をきめ、又互ひに助け合つて、仲間と共々に前へ進むやうに努力すべき必要は、他の學問よりも格別に大きいので、現に今までの歴史學といふのが既にさうであつた。必ず淺く弘く全體を知つた人で無いと、この企てをして(365)はならぬとなると、いつになつたら教科書が出來るといふ見込も立たず、出來てもさぞ熱の無い退屈なものになるであらう。それでは困るので我々は、つとに中央の機關といふものを力説し、又之を實行に移して居たのである。この機關の最初からの任務は、土地が分れ研究題目の異なる人々を引合せ、扶けあふだけで無く互ひに信頼させて、少しでもむだな重複する仕事の爲に、大切な時間を費させぬことであつた。視察と觀測とその確實な記述とを、私たちは假に採集と呼ぶことにして居る。その報告をまとめて活字にして置くだけで無く、入用のある毎にすぐに又容易に知り得られるやうに、索引の事業といふものに多くの力を傾けて、出來るだけその公有の財産を豐かにし、そんな有りふれたものを元手にして、切れ／”＼の博識を衒ふ者を絶滅しようとして居たのである。不幸にしてまだ其奉仕は微力であつたが、世間が其念願を認めさへすれば、明日からでも之を擴張することが出來る。是と最良の教科書を新進の士に供與することは、直接の關係は無いことなのである。力を入れて説くべきことは此方面では無い。それよりも大切なことは人生の疑問、活きて行くうちには起らずには居らぬさま／”＼の不審に、まだ本當に解決してもらへないものが多いといふこと、平たくいふならば我々は無知なりと心づくことである。今から後に漸次に明らかになつて來べきものが、樂しみなほどにも莫大であつて、それには既に誰かの書いたものに出て居るのと、さうで無いものとが入り交り、半々といひたいが實はあとの方が何倍か多くて、しかも多くは原因が國のうちに、つい鼻の先の今まで心づかなかつた部分に有るらしいといふことである。その知識を新たに得るためには、方法は何でも構はぬわけだが、實際はやはり見當を立てゝ進む方が收穫が多く、それは今まで最も省みられなかつた部分、即ち人間が書いたもの以外に於て、殆と無意識に持傳へて居たものを、注意し綜合して考へて行かうとする、民俗學を信任するのがよいといふことなどである。こゝでたとへばと謂つてめい／＼の日頃の研究を、例に引くならば大抵の人は動くであらう。獨逸では今から二十年ほども前に、普通教育の教員の任用資格に、ナチ一流の民俗學を取入れたことなどがあつて、諸處の大學に講座が出來、數十種の教科書が刊行せられたことがあつた。自分等が見たのはたゞその中の二つ三つである(366)が、それ等は皆各論に詳し過ぎて、本が大部になり外國の者には消化しにくかつただけで無く、我々の企てゝ居るものとの大きなちがひは、結論が始めから固定して居たことである。今日の我邦のやうに人が幾ら考へても考へ足りるといふことが無く、此あと何ほどの新しい疑問が、相次いで簇出するか知れぬといふ時代には、少なくともこの方針は眞似することが出來ない。根本に我々が前人の謂つたことを、もう一度各自の現實に、あてはめて見ることを怠つたのが國の病ひであつた。新たなる國是といふものが立つといふことはうれしく、又待遠にさへ思はれるが、それへ行く爲にも我々は、なほ大いに學問の道を歩まなければならぬ。こゝにその大道の一筋が通つて居ることを信ずる者が、黙つてたゞ一人逍遥して居るべき時節では無い。しかし斯ういふ話をして居ると、何遍も謂つたことが又出て來る。是だから私には、教科書を書くことが出來ないのである。

　

　　　　　　　四　女の會

　

　「女の本」と題する一册の書が、自分の七十老齡を記念すべく、六人の女性同志によつて企劃せられ、ひどい遲刊の後、昨年の秋になつて漸く世に出た。初版はとくに賣り盡し、重版は中々望みにくゝ、もはや提灯持などをする必要は少しも無い本なのだが、この學問の一轉囘期を前にして、是は行く／＼永く回顧すべき事業となるだらうといふことまでは言つて置きたい。第一にちやうど此書物と前後して、別にその刺戟影響の爲といふわけでは無しに、一つの「女の會」とも名づくべき結合が急に大きくなつた。さうして之によつて一つの思ひがけ無い學問のし方が、新たに體驗せられようとして居る。其事が私には言はずにはすまされぬのである。まちがつて居るかも知れぬが私の見たところ、女は單に男に比べて、今までは一般に問題の負荷力ともいふべきもの、一つの疑惑をいつまでも持ちこたへて居る辛抱が弱かつたやうである。今日のやうな時代になると、この弱點は事が大きい。以前はあまりにも容易なやゝ(367)安心ならぬ解説でも、それを暗記してもうこゝには問題は無いといふことにせぬと、とかく其次へは出て行かれぬやうな傾きが見えた。男だつて大抵はさうだつた、といふ證據も擧げられるか知らぬが、何にもせよそんな態度では活きて行かれぬやうな、痛切でしかも難解なる疑惑の、たとへば渚の浪の如く、ひま無く押寄せる時代に現代はなつて居る。殊に學問の方面などには、今は解決したものなどは皆無といふ方が正しい。前に一應はきまつたとして居たものすら、改めても一度檢討し且つ確認しなければすまぬやうに、考へるのが普通になつたからである。今まで學校その他で行はれたやうな進級主義では、絶對にこゝは押切れない。だから出來るだけ神經を太くし、又はさういふ習慣を付けて、ちやうど母鷄が卵を温めるやうに、ある限りの智慧の卵を皆抱へ込んで、もつと有るなら持つて來いといふ態度を取らねばならぬ。男女の能力を比べようとするのは惡趣味だが、少なくとも男の中の、此世の爲に學問をしようとする者の中には、それだけの忍耐力をもつものが有るといふことのみは私が保障し得る。人間能力の將來の進展の爲に、是は非常に重要なことであり、又外國人の到達した一線まで辿り付くことを、學問のうちと心得るやうな今までの氣風を、ぶちこはす爲にも是は必要であり、もしか女なるが爲に又今までの世間竝である爲に、女性はこの程度でよいのだといふ考へがなほ殘るならば、私はそれを解放といふもので無いとまで信じて居るのである。女の會といふものはこの意味に於てもり立てなければならぬ。一人では心細くて永く不安定に耐へて居られぬといふ人たちでも、手分けをし又勵ましあへば辛抱がきつと出來る。さうして日本民俗學のやうな、是から尋ね究める問題ばかり無限に殘つて居て、まだはか／”＼しい解答者が無いといふ學問で、この練修をするまはり合せになつたことは、後になつて考へたらきつと幸福なことだらうと思ふ。三十年にも近い間、私は暇があつて常人の生活を見てあるいて居たけれども、未だ一度も自分の未解決、即ちどうしたわけか知らぬといふことによつて、觀察や印象を妨げられた覺えがない。寧ろ不審の興味は刺戟せられるだけで無く、常から思ひ煩つて居る問題に觸れたものは、微細な事實でも早く氣がついて、何とか手段をめぐらして根問ひせずには止まれぬ氣になつた。問題を持つて採集に行くといふことは、(368)よく我々の仲間で使ふ言葉だが、それが奧深いものになればなるほど、毎囘必ずそれに役立つやうな資料が手に入るとはきまらない。むしろ夙くから幾つもの疑問を抱きかゝへてあるく者が、たま／＼其網の目の一つに掛つて來るものを、喜んで拾ふやうな場合ばかりが多いのである。だから前のものを片付けて後で無いと、次のものには進まれぬといふ考へは棄てなければならない。民俗學の資料といふものは、早く分類の進んだ動植物學などとはちがひ、今は丸つきり氣が付かずにすてゝあるものが、どの位多いか知れないのである。それが女性の鋭敏な注意力によつて、もしくは心置きなく年よりや女たちと、語りかはし得る便宜によつて、この後數多く採集せられることが期待せられて居るのである。自らの又は共同の切なる疑惑を持ちつゞけて居ることが、鐡を引く磁力のやうなものであることを思はねばならぬ。すでに半分の解決がつき、又は假定のほゞ確立しかゝつて居るものに、更に若干の證據を附け加へることもむだと迄は言はれぬが、そんな場合には却つてたつた一つでも、反對の例になりさうなものを注意して、いゝ加減に見遁して置かぬ方が、もつと大切であることが多い。別に「女の本」に對する非難といふわけでもないが、我から自分の心の疑ひを小さくし、僅かしか進んで居ない古來の成績を、あまりに重く見ようとする態度だけは感心しない。早く定理を打立てようとする心もちは、時としては學問の進みを鈍らせやすい。殊に勇氣の缺乏に基づくものが、今までの經驗に照して私は怖ろしいのである。さうして團結は必ずその自主の勇氣を補強してくれるものと、自分などは大きな希望を是に寄せて居る。

　

　　　　　　　五　先祖の話

　

　この頃になつて始めて經驗をしたことは、年を取つた者の努力といふものは非常にムラが有つて、たゞ時たまに進み過ぎ、ふだんの用意はそれに伴なはないから、氣をつけなければならぬといふことであつた。「先祖の話」などもそ(369)のよい例で、私は一昨年の二月、是を書き終つた時にはもう十分だと思つた。是でも言ひ過ぎた位に言ひ譯して居るやうに思つた。しかし此本の出版が段々おくれ、殊に世の中が變つて、心が沈み切つた日になつて讀み返して見ると、自分は別として、是が人に對して意見を語つたことになるかどうかを危み始めたのである。當時恐らくは私の豫想して居た讀者といふものが、よほどこちらと近い、同情と早合點に富んだ人々であつたのであらうが、靜かに考へて見ると以前から、さういふ人は多くはあり得なかつた。もう少し氣むづかしい、容易にうんとは言はぬ人たちを、考へてかゝらねばならなかつたのである。文章の問題のやかましい今日、是は當然に非議せられてよい表現であらうと思ふ。一部を書き改めたらやゝ通用するであらうことも知つて居るが、時代が改まつたのだから全體の用意を變へる必要もあり、さうなると又新しい仕事である。やはりあの頃は斯ういふ論法もあつたといふ、過去の事實として保存するの他はあるまい。今となつて振りかへると、私の著述にはさうした悔を殘したものが多い。

　心殘りなことの一つは、乏しい證據によつて自分の假想を力づけようとして、餘計な辯證を費して居る部分に、後から幾つもの好い資料が見つかつて、そんなにするには及ばなかつたと思ふ場合である。たとへば私は折口氏などとちがつて、盆に來る精靈も正月の年神も、共に家々の祖神だらうと思つて居るのである。それを證する爲に二季の行事の一致、殊に年棚は盆の魂棚でなければならぬといふことを、大がかりに説き立てゝ居る。ところが先年自身で編集した羽後飛島圖誌中には、同じ一つの祭の棚を盆と正月とに出して使ふ例がちやんとあつて、それには早くから注意符を附して居たのである。是さへ忘れずに居たら私の言ふことは、どれほど簡單になり又わかり易かつたかしれぬのである。固より最初から是は一箇の見解で、他の反對説を押しつぶさうといふものでは無かつたが、たゞ一つの小さな見落しによつて、自分までがよほど心弱く、又くど／＼しく物を言つて居るのである。

　山に死者の靈魂が先づ入つて行き、次第に高く清らかなる處に登つては行くが、久しい約束があつて、春秋の初の滿月の夜頃に故郷の家に還つて來るものと、我々の祖先たちは考へ又は想像して居たといふことは、今日のところで(370)は一つの假定に止まり、今ある資料のみでは之を確認し得たとまでは私は思つて居ない。しかもその假定を或程度に強める事實は、前には見落され今はもうわかつて居るものが幾つかある。まちつと氣長く之を確かめてかゝつた方がよかつたのであるが、年をとるとどうも氣ぜはしくなっていけない。熊本縣南部の地方記録をあさつて居ると、村の持山の中には殆と一村毎に、年神山又は年山といふ地域があつて靈地である。山から新春の神が降り來り、祭終れば再びそこに復して安鎭せられるものといふ古い觀念を、推測せしむべき少なくとも一つの資料であつた。ところが一方にはいはゆる中部地方、大井天龍の二つの流域に亙つて、山にはトシ林又はトシ山と稱する、斧を入れることを禁ずといふ地域があつて、その語義はまだ明らかになつて居らず、或は閉鎖の意味に取つて、トヂ山と濁つて唱へるものもあるが、その一半は今日もなほ年山と同じ音に呼んで居る。是も地を隔てゝ九州と同じ例では無かつたかといふまでは、注意を促して置いてよかつたのである。近頃になつて話題に上つたのは、同じ靜岡縣下には病田《やみた》と稱して、作ると其家に災すといつて嫌はるゝ田があり、しかもいつ迄も田で續いて居るのは、實はやゝ累はしい方式を以て祭を營めば、之を栽培することも可能だつたので、現在は多くは不吉な出來事から、さういふ特殊の性質を帶びるに至つたものと解説せられることは、前にいふトシ林トシ畑なども同じだつたのである。我々の祭場にはもとは建築物が無く、何かの機會に於て古い方式が中絶すると人は却つて之を忌み避くる理由を、ちがつた方面に求めんとする傾きがあつたのである。今ではまだ十分に利用し得ないけれども、是はともかくも力強い暗示であつた。單に自在に常民の考へ方が變化したのでは無く、大よそ一つの定まつた方面へ、動き進むものであつたことが氣づかるれば、斯んな小さな村々の事實でも、やがては綜合して斯邦の固有信仰の、今ある形にまで進んで來た道筋を説明し得るかと思ふ。山宮考の一篇も年を隔てゝ讀みかへすと、筆者自らの先づ不滿を感ずべき點が、増して來るばかりであらうが、それでも是によつてもう間に合はなくなつた前著の訂正補充を爲し得る部分が、相應に含まれて居る。一つの仕事に存分の力を費さなかつたのは恥づべきことだが、實は自分は「先祖の話」を書き上げた頃には、まだ長命して第二第三の(371)書が、著はし得られるといふ自信をもたなかつたのである。

　

　　　　　　　六　全國昔話記録

　

　この大戰中の全く珍しい經驗を一つ、報告して置くべき義務を我々は感じて居る。それを一言でいふならば、全國昔話記録といふ各地の民間説話集の十敷篇が、面白いほど數多く頒布せられたことである。一つには勿論各地の採録者の熱意と、その編輯に當つた人々の努力、次には出版書肆が我々の希望を容れて、粗末な本とは言へ、思ひ切つて安い値段を附けた爲だつたらうと思ふが、それにしても當時斯ういふ氣樂な書物が、此樣にも足が早く、瞬く間に賣切れになつてしまふなどとは、自分たちの豫想し得ぬことであつた。何處へそれが飛び散つてしまつたらうか。燒けて灰になつたものが或は多いのかも知れぬが、私などは遠い戰闘の無い陣營地などに於て、淋しいちらつく夜の火の影で、集まつてそれを讀んで居る若い人たちを胸に描き、或は是が一つの説話交流の機縁になりはせぬだらうかとも空想して見たものである。

　後から讀んで見ると、整理には少々の意に滿たぬ點があり、又若干の誤謬も發見せられ、當時すでに改訂版の出る日を期して居たが、今日の?況では當分は或はそれが六つかしくなるであらう。一つの發明といつてもよいのは、どんな苛烈な戰爭のさなかにも、寧ろさうなれば却つて痛切に、斯ういふ極端に平和な讀物が、欲求せられるものらしいといふことで、それで我々は民衆文化の前途に對し、もう餘り大きな悲觀は抱かぬやうになつたのである。人の感情の振幅とも名づくべきものが、異常に大きくなつて居る時代にこそ、古い新しいさま／”＼の文藝が、芽を吹き枝さしかはす隙間があるのであつた。少なくとも昔話だけはまだ當分は滅びないと、思ふことが出來てうれしかつた。

　そこで過ぎ去つた苦心談などは見合はせ、主として是からの計畫に參考になることだけを言つて置くならば、私の(372)之によつて爲し遂げたことは實は少なく、しかも今は多少の模樣替へを、しなければならぬ?態に達して居るのである。最初磐城地方の昔話集を始め、地方で新たに企てた蒐集事業を聲援した因縁から、どうしても出さねば氣のすまぬのが三つ四つあつて、それを世に送るのが主たる目的であつたが、成るべくは一時に數册をかためて出さうといふ三省堂の希望もあり、それに世間の需要も多さうだといふ見込もついたので、其補助の意味で今までに既に公けになつて居るものを、多少整理を加へて再刊したもの、是が又相應の數であつた。出した順序でいふと佐渡島に島原半島、小笠原君の紫波郡昔話集は、夙く爐邊叢書の一册に紫波郡昔話となつて出て居るものを、採録者の志望を容れて一段と原形に近くしたもので、是などはまだ改良といふことが出來るが、他の多くのものには、たゞ珍本を手に入りやすくしたといふまでのものもあつた。佐々木君の上閉伊郡昔話集は、前に私が序文を書き、聽耳草紙といふ名で出たものだが、是は分量が多く定價が餘り高いので、僅かな部數しか賣れなかつた。それで其中から約三分の一の、他の郡から集めて來たものや純でないものを除いて、言はゞ一種の抄略本をこしらへたのである。御津郡昔話集といふのは本になつては居ないが、前に雜誌の「昔話研究」に出たものゝ編集で、僅かな附加は有るがそれは價値の低いものであつた。南蒲原郡の昔話集といふのも、以前加無波良夜譚といふ名で一度出版せられたものだつたが、此方は採集者の手元にまだ多くの材料が殘つて居たので、それを適度に組合せて出した爲に、我々の爲にも新しい印象ある本になつた。山口君の壹岐島昔話集、是などは同じ名で、郷土研究社の第二叢書の中に出て居る。若干の追加改訂は有るのだが、新しい方があんまり粗末な製本なので、やはり以前の版を我々は見棄てることが出來ない。

　つまりは十三編出た全國記録の中で、七つまでは燒直しと言はれても致し方の無いものであり、全く新たに活字になつたのは始めの磐城昔話集を加へて六つであつた。此中には鈴木清美君の直入郡昔話集、是も中等學校の生徒を使つた蒐集だつたが、非常に根氣をかけた勞作といふことが出來、武田明君の佐柳島志々島と阿波祖谷山との昔話集は、共に自分で直接に其土地に入込み、話者から聽取つた筆録だから價値がある。それからおしまひには喜界島の出身者、(373)岩倉市郎君の喜界島昔話集と、同じ人の甑島昔話集、この二つは土地が變つて居るだけに、是からの研究の爲には誠によい資料であつた。岩倉君は我々の眼から見ると、昔話の爲に生れて來たかと思ふやうな人で、故郷の傳承を忠實に引繼がうとした以上に、更にその學問上の理解を新たな土地に推し擴めて、二つ以上の好い集録を遺してくれたのだつたが、惜しいことには全部の公刊を見ずに、戰時半ばにして世を去つてしまつた。是からもまだ大いに働ける人々に對しては、どんな感謝の表はし樣もあらうが、岩倉君の仕事ばかりには、之を本にするといふ以上に、何も報いることが我々には出來なかつたのである。

　早く平和が立返つてくれたならば、すぐにも手を着けたいと我々の念じて居たことは、島々の採集であつた。隱岐と對馬との二つの島だけには、一部の採集を試みた者もあり、それも雜誌の上などに殘つて居るが、他の多くの島ではまだ片端すらも知られてない。さうしてそれが一つ／＼の離島である故に、地續きでは見られない變化が有るらしいのである。それを是からは順を逐うて、尋ねて行かうと思つて居た、その計畫だけは完全に覆へされてしまつたのである。しかし此事業をなほ細々と續けつゝ、徐かに時期を待つて居ることは、今とても決して不可能ではない。現在材料のほゞ整つて居るものを列記しても、山形縣には清野久雄君の東田川郡昔話集があり、瀬戸内海では宮本常一君の周防大島昔話集があり、又先年福岡縣の各郡教育會の手で集めた、福岡縣昔話集ともいふべき稿本も私の手元に在る。其他地域のやゝ近接せるものを避けなければ、鈴木氏の字佐郡昔話集もあり、又田中喜多美君の岩手郡昔話集もあり、なほ多少の勸説を試みたならば、發表しようかといふ人も二三はあり、更に磯貝勇君の安藝昔話集や、村岡淺夫君の藝備の昔話のやうに、もう絶版になつたものゝ再刊も企て得られる。さうして他の一方には故郷が近いとか、又はその他の因縁によつて、特にこの中の一册に愛着の情を抱く讀者も、まだ幾らでも得られさうなのである。單なる出版事業としてならば、是は相應に面白いものと、いふことが出來ると思つて居る。

　しかし自分が僅かに殘して居る時間を、この爲に費やしてよいかどうかとなると、それは又一つの新しい問題と言(374)はざるを得ない。私は最初昔話の採集手帖を編纂して、是に長々しい緒言を書き、次いで昔話覺書といふ文集を公けにして、主として發見の興味を以て昔話の採集を激勵しようとして居た。それが半分は效を奏して、今まで忘れられて居た海のほとり、又は山々の間に在る小村から、こゝにも同じやうな民間説話が、いつの世からとも無く傳はつて居るといふことを、追々知らせて來たことは有難かつたけれども、それは主として一致と類似との不思議だけであつて、まだ少しでも差異と變化との法則には觸れて居ない。珍しいと思ひ又は見つけたいと念じて居る型のものは中々現はれないで、笑話などの多數はもうはつきりと型に嵌つてしまひ、是なら同じものを又別の一卷に盛つて行くことは、何か二重の仕事のやうな感じがせぬでも無い。是からは寧ろ一つの型、一つの重要な説話の表出法が、時につれ土地によつてどういふ風に改まつて行くかといふことを、詳しく先づ國内で調べて見て、それから段々に異民族間の流傳の道を、辿つて行つてよい時期では無いかと思つて居る。自然に集まつて來るものが保存し得られるならば、それも結構なことと謂つてよいが、主たる努力はこの原始的な民間の文藝の、成長し又衰弱する原因を明らかにする方へ向けて行くべきであらうかと思つて居る。以前「昔話研究」といふ小さな雜誌を始めて、たつた一年で罷めなければならなかつた經驗はあるが、それはまだ資料の多く集まらず、又手に入りにくかつた時代のことである。あの時と比べると、第一に是に關心をもつ人が多くなり、少なくとも説明のしやすい相手が多くなつた。是からは寧ろ斯うしてやや貯へて來た資料に據つて、精密なる比較が如何に多くの新しい事實を教へるかを、試みる方に力を費すのがよいのではあるまいか。さうして又經營の方法さへよければ、その傍に全國昔話記録の繼續も、自然に今までよりも一段と容易になつて行くのではないかと思つて居る。少なくとも是を非常に大がゝりな、又特殊な運動のやうに、思つて居た時代はもう過ぎ去つて居るのである。

　

(375)　　　　　　　七　還らざる同志

　

　過去一年餘の戰災期間に於て消息の絶えてしまつた同志は可なり數が多い。さういふ中からも、幾つかの歎息すべき話を聽かなければならぬかと思つて居るが、斯うして新たに戰後の活躍を開始することになると、悦んでくれるだらうと思ふ人の顔が、次々と幻に浮んで來る。小林傳十君は手紙の上での友人で、親しく逢つて見る折は無くてしまつたが、出雲の仁多郡ではこの人がたゞ一人の働き手であつた。たしか聯合青年團の「青年」といふ雜誌の方から、次第に近よつて來た僅かな會員のうちで、杉浦君などは雪の頃の調査旅行に、色々と助けてもらつて居る。この人が最初に大陸に渡つて病死をしてしまつた。太田陸郎君は中支の或小さな守備部隊に長となつて、飽きるほど一つの土地に滯陣し、其間に實に熱心な觀察をして居る。この人のやうに細かに故郷の生活を知つた上で、更に向ふの農民の實情を、理解しようとした人も稀なのである。澤山の通信を私たちの處へも送つて來て居るが、たゞ雜誌に公表した一少部分のみが、遺稿となつて世に傳はることになつた。さうして自分は臺灣で空から墜ちて、終に本國に歸り着くことが出來なかつたのである。しかし太田君の事業は、まだ此外にも幾つか殘つて、我々の學問を益して居る。兵庫縣民俗資料といふ敷年間の雜誌などは、大部分がこの人の努力の痕であつた。之に比べると小島勝治君のやりかけて居た仕事の方は、どうも世話をしないと消えてしまひさうな懸念がある。戰になつてからもこの人は久しく大阪で働いて居た。さうして愈々召集せられて支那へ行つたと聽いてから、もう其次には死歿の報が傳はつたのである。小島君の特色は町家に人となつて、職人の生活に深い親しみをもち、自分の仕事はこの方面にしか無いやうに、深く思ひ込んで居たことである。さうして成るほど此人で無いと、斯うは言ひ表はせまいと思ふやうな文章を、分量は多くないが我々の間に公表して居る。京都には却つて見られなくて、大阪市中には昔からあつた、氣概ある民間學者の少數(376)の例の一つである。澤田博士などがこの人とは殊に親しくして居た。いつかは相談して殘つた草稿の中から、小さな本なりとも編輯して、その足跡を留めてやりたいものと思つて居る。

　

　　　　　　　八　民間傳承のこと

　

　此會報の十一卷三號は、小さいけれども各地の婚姻慣習の、新しい記事を以て充ちて居る。私は昨年七月の頃から思ひ立つて、同胞民族の婚姻方式の移り變りを明らかにしようとし、蕪雜ながらも五つ以上の文章を、方々の雜誌に公表して居る。それに是だけの仲間の集めた資料が、少しも參照し得なかつたことは殘念でたまらない。新國學談の卷一をまとめたときに、民間傳承の第三號も是と前後して出るだらうと私は書いて置いた。其豫想は當つたけれども、それは雙方とも三月以上、おくれて出た爲にちやうど當つただけである。雜誌の方は活字がすつかり組上つて、たゞ紙が來ぬばかりにどうすることも出來なかつた。紙の分配の機關が備はり、必要が認められて許可が出て切符が渡され、それでなほ現實に紙が手に入らぬといふことは、素人には考へることも出來ぬ變調であるが、それにも負けない幾つかの變調が、今は公々然と行はれて居るのである。まじめに斯ういふ時節に會報再興の計畫を立てたといふことが、今はとにかく素人らしい無分別、没常識として嘲られるのである。決して自分たちの事業の爲だけでは無しに、是は早く何とかせねばならぬと、私も毎日やきもきとして居る。民間傳承の會員は地方居住者で、斯うまでとは思はぬ人が多いのであらう。毎度この私に向つて苦情めいたことを持込んで來る。めゝしく責任を遁れようといふ心は無いが、私たちから見れば、會はこの人々が勝手に作つたものとしか見えない。思ふやうに行かなければ潰せばいゝぢやないか。能力も權限も無い會長などを、押立てたりすることが例の封建的ではないのか、新たな運動だけは、やはりもう少し條理あるものとしたいものと思ふ。しかし大體の見とほしでは、もうこの?態もさう長くは續きさうにな(377)い。今はたゞ一時の混亂によつて、學問の前途までを薄暗くせぬやうに、めい／＼の分野を守り通し、且つ少しの好機會をも看過さぬやうにすることが上策であらう。最近の消息では、「民間傳承」の四號以下も、引つゞいて出さうである。又久しく風評にばかり傳はつて居た論文集も出さうである。

　

(379)　　氏神と氏子

　

(381)　　　　　解説

　

　この一卷には、三つの講演筆記を保存して置くことにした。ちやうど大戰終局を中に挾んで、最も變化の激しかつた時代の、神道信仰を考察した小報告として、粗雜ながらも後世の參考資料にはなると思ふ。

　

一　氏神と氏子　是は昭和二十一年の七月、靖國神社に於て計畫せられた文化講座の第一次講座に公表したものである。聽衆は百五六十人、廣告にはたゞ民俗學の話としてあつた爲に、其三分の二以上が男女の青年學徒であり、特に神社に關心をもつ人は存外に少ないやうであつた。或は時期がまだ聊か早かつたのではないかと思はれた故に、是を文章にして殘して置く必要を感じたのである。

　

二　敬神と祈願　昭和十九年の十月十五日、神祇院の諸官の要望に應じて、自身出頭して陳述した談話の手控へである。聽衆は三十名ばかり、其あと若干の意見の交換はあつたが、問題があまりに痛切なので、却つて主要なる論點に觸れなかつた嫌ひがある。時勢のこの大きな變化が無いならば、勿論是は印刷に付すべきものでなかつたらう。思ふ所あつて自分は爰にそのほゞ全部を公表し、且つ責任の爲に最初の手稿を保管して居る。

　

三　祭と司祭者　昭和十八年の六月、是も神祇院の求めによつて、明治神宮社務所に於て、全國から集まつた神職講習會の人々の爲に話をしたもの、聽衆は六七十名であつたらうか。大部分は實際家であつて、興味を以てこの話に耳を傾けたのみならず、話後に多くの實例を以て、私の知識の缺乏を補給してくれた。地方に今もまだ多(382)くの同志が居るといふことを、想望せしめたのは此際の經驗であつた。

　敬神の歴史といふものは、祈願の歴史ほどにはまだ研究せられては居らぬ。是に非常に大きな變遷のあつたことだけは確かであるが、古今その影響の下に盛衰して居る神社の數は、實は指を折つて算へるほどしか無くて、他の大多數は常にその圏外に於て、汎く一般の感覺によつて支持せられて居る。この國中相互の理解又は同情は貴重なものだつたが、今までは久しい間、それが學問の領域には接收せられて居なかつた。地方に於ける我々の研究は、この方面に向つてまだどの位進んで行くかわからない。それを考へると、是からそろ／＼働かうといふ若い諸君が、羨ましくてしかたが無いのである。

　遲く仕事を始めた私などは、いつも不充分な材料に據つて意見を立て、しかも話が隅々に行屆かなくて、是だけの文章にもはや幾つかの重複があり、又あの話をするのかと言はれさうな氣苦勞が絶えない。言ひわけをするならば一つ／＼の講演には、觸れずには居られぬ要點が幾つかあり、それを説かうとすると同じ文句が出るのである。「日本の祭」以下の私の論文を精讀してくれられた人々は、もうこの筆記を味はつて見るにも及ばぬかも知れぬが、或は一方でまだ説き盡さなかつたことを、今度は明白に言ひ切つて居るといふ場合もあらうかも知れぬ。少なくとも自分の慾深く求めて居るのは、やゝ同情の足りない新しい讀者であり、又その人たちの率直なる批評である。

　

四　窓の燈　は段々に日記のやうになつて來た。數年前から計畫して居る文章で、中々物にならず、或は結局まとまらずにしまふのではないかと、思ふやうなものが多くあり、つい其話がして見たくなるのである。是も一つの刺戟劑にはなりさうだから、或は時折はそれもよいかも知れない。今度の一册には民俗語彙の現?報告と共に、他の小さなエチュドの如きものを、少し發表して見ようかと思つて居る。

　

(383)　　　　　氏神と氏子

　

　　　　　　　一　未來の史學

　

　氏神と氏子といふ話をするに先だち、ごく簡單に此話をせずには居られない趣旨を述べて置きたい。國を憂ふるといふことは、自分等壯年の頃までは、大よそ學問に志す男子の最も高尚なる道�ｺと考へられて居た。憂國の志士といふ言葉は、その憂ひが國の爲に役立つと否とを問はず、一般に尊敬し又信頼すべき人といふ意味をもつて居た。それが百數十年前の邊警時代から漸く盛んになり、國勢興隆の頃に來て少し下火になりつゝも、なほ最近の愛國運動期までは續いて居た。

　しかし憂園に少しでも社會的な價値の有るのは、何か是に伴なふ方策方針の考へられる場合だけであつて、いはゆる天下の憂ひに先だつて憂ふる者、即ち來るべき厄難に對して、斯くすれば避け得られるといふ一通りの意見があつてこそ、始めて大いなる感謝が寄せ得られるのである。たゞわい／＼と騷いで居た、又は陰ながら深く案じて居たといふだけでは何にもならない。まして今日の如きは滿目悉く足れ憂ひ、天下一人として悲歎せざる無しといふやうな?態に於て、之を談り合ふことは徒らに愚痴となり未練となり、?々又弱い者を歎きをのゝかしめる結果にもなる。故に私などは寧ろ憂ひを語るやうな機會を、避けようとさへして居るのである。

(384)　しかしさういふ中に於て、まだ憂ひて可なることが若干は有る。それは今から考へてもまだ間に合ふもの、殊に我々の志一つで、災を轉じて福と成し、國の進路をいち早く見つけ出して、第二の夜明けを朗かにする希望が、もしもこの憂ひの中に含まれて居るとすれば、諸君はなほ是に耳を傾けなければならぬ。歴史の學問が今日まだ大いに振はざることなども、私たちから見れば一つの有望なる兆候である。こゝにはまだ出拂ひ切つて居ない良識の貯へがありさうだからである。さういふ中でも國の固有信仰の展開に對する囘顧が、今までは甚だしく不完全であつたといふことなどは、斯ういふ際でもないと御互ひに心付かず、又是を補充して行かうといふ熱情が燃えない。全國の神社の數は十萬以上、今度の變革で目に見えた影響を受けるものは、二千とは無いであらう。民間の敬神はなほ持續し、たゞそれが大分以前から、少しづゝ動搖して居ただけである。故に將來に對しての不安がもしありとすれば、もつと早く感じられて然るべきであつた。新たなる衝動は此意味に於て、寧ろ好い機會と言つてもよい。斯くてこそ日本人は、大いに疑ひ且つ迷ひ、新たに正しい答へを求めようと、努力せずには居られぬからである。今まで久しい間、求めても中々得られなかつた史學興隆の形勢は、突如としてこゝに曙の光を見せたのである。私などは自分ではもう大きな仕事も出來ないが、少なくともこの前途の悦びを想望することによつて、眼前の一つの惱みを乘り越えることが出來る。ゼロかマイナスにまで墮ちて居た日本人の豫言力を、爰だけでは先づ少しばかり、取返すことが出來るやうに感じられて、世に謂ふ虚脱とやらに陷らずにすむからである。

　この靖國の御社に於ては、今日さま／”＼の困難な問題を抱へて居られるに拘らず、それよりも先に荒れたる都のまつたゞ中に於て、八月十五日の記念すべき一周年よりも前に、最初の文化講座を開催しようとせられることは、それ自身最もうれしい復興の一歩だと言つてよい。さういふ新しい事實が私をさへも奮發せしめる。皆さんも多分同じ心持ちで、茲に集まつて來られたものと思ふ。さうして氏子と氏神の問題が、急を要しない問題でなく、又決してもう判り切つた問題でもないことは、追々に認められるであらう。

　

(385)　　　　　　　二　神道學者の責任

　

　いはゆる固有信仰は、何れの民族に於ても常に言説の外に於て發育して居る、胸から胸への傳承といふものは、是を筆舌に表示しようとすると、必ず脱漏があり又偏頗を免れない。ましてや我邦では、狹い既定の目的をもつた人が初期の記述者であり、その方針は後永く受け繼がれて居た。事實の觀察は殆と試みられなかつた。是では外部の人に正しい認識を期待し難いのは勿論、自分が先づ?々誤つた判斷に陷らねばならぬ。學問の立て直しは、この方面に於ては特に急務であつた。

　かくの如き?勢に於て、前代文獻が豐富に過ぎるといふことは、また一つの警成せらるべき災難かと思はれる。非常に勉強する日本人が一生涯かゝつても讀み切れない分量の書物がありながら、是が又ひどく一局部に片よつて、全體の參考書としては過不及が最も甚だしい。是を社會の事業として、手分けして調査し、豫め解題と索引とを作つて置かなければ、御互ひの研究に利用し得ないのも當然で、從つて又僅かな片端しか人が利用しては居らず、利用をしないでたゞいゝ加減なことを言つて居る。さうして一方には至つて單純な、人の言葉を信じやすい人がその聽手だつたのである。どんな僻説を吐いても皆通用しただけで無く、しまひには説く人までが自分の言つたことに醉ひ又は縛られて、新たな學者の説を聽いても頭に入らず、自分とちがつた人の言ふことは皆異端であつた。即ち大よそ學問とは言ひ難い方法を以て、今までの神道講究は取續いて居たのである。

　是では行くまいと心付いた人は勿論あつた。今後もし別の一つの側面から觀て行くならばまだ／＼判明して來ることが多い筈だと、思つて居た人も決して無くはなかつた。たゞ彼等はさう急いで其方法を纏め上げようとしなかつたのである。無理をしないやうに、大きな論爭を捲き起さぬやうにといふ類の、些々たる用心ばかりが先に立つて、あ(368)んまり氣永に進んで居た爲にたうとう間に合はず、忽ちかやうな大變な時世に、行當つてしまつたのである。責むべき者がもし有るとすれば、頑固ないゝ氣になつた舊弊人よりも、志は抱きながら實行に臆病であり、又は目的達成に悠長すぎた者が、一番に責めらるべきであつた。彼等は世の常の戰犯の中には算へられないが、内心は可なりの苦惱を嘗めて居る。さうして白?をすれば自分なども其一人であつた。それを懺悔しても今は詮も無い。それよりも急いで罪滅ぼしをしなければならぬ。

　

　　　　　　　三　新たなる發見

　

　新しい方法と言つても、さして複雜なもので無い。最初に今までの學者がまだ心付かずに居る部分、從來の著述や講演の中で、少しも省みられて居なかつたと思ふ區域に、新しい事實を見つけ拾ひ集め、それを主たる資料として、もう一度改めて考へて見ようとすることで、是だけはどうしても官府學校の外に立つた、何等の行掛りを持つて居ない私のやうな者でないと出來ない。又さういふ人の話を聽くといふことは、諸君にもめつたに機會が無いのである。

　わかり切つた事であつて、まだ人々の考へずに居ることは、我邦の法令で神社と謂ひ、乃ち臺帳に登録せられたものは、大數にしてほゞ十一萬社ほどもあるが、國史の上では重要な地位を占めて居ても、官國幣社といふのは其中で二百幾つしか無い。府縣社となると其成立ちが既に區々であるが、その數は僅々千二百社以内である。突發的なる今囘の大變革は、是等大きな神社に取つても、誠に容易ならぬ事件であることは申すまでも無いが、其方は實は數が少ない。我々の茲に先づ問題としなければならぬのは、他の十萬社以上のもの、即ち郷社以下の地方々々の神社が、是からどうなつて行くだらうかといふことである。是が實際は次々に述べんとするやうに、其成立ち又は信仰の現?によつて、是非とも幾つかの種類に分けて、見なければならぬものだつたのだが、今までは不思議に其全體を同一視し(387)て、あまりにも簡單な概念を以て解釋せられようとして居たのである。

　神社に關する國民の常識が、是からさきなほ大いに深められ得る點は、實は此區域に在る。自分などの最も大きな感銘は、土地を相隣する二つ以上の神社の間に、斯くまで著しい性質の差があるにも拘らず、それが却つて遠く隔絶した、全國隅々の神社の間に、眞似もかぶれもしたのでは無い現?の類似が幾つとも無く見出されることである。たとへば、四國から北陸、又は奧羽から九州の各縣などへは、今とても人はめつたに旅行もせず、まして移住をしたり親類づき合ひをしたりする者は、少なくとも農民の間には多くない。然るに是等端々の土地の信仰習俗の一致し又は近似して居るものは、祭式とか祠職の選任方法とかの以外に、却つて官廳の干與せず、知つても居るまいと思ふやうな部分に於て、著しいものがあるのである。しかも住民なり奉仕者なりは、御互ひにさういふ一致があらうとさへ思つて見たことも無いのであつた。彼等の學び得るものは代々の神道家の著、もしくはたゞそれのみによつて教育せられた職業神職の解説だけで、それ以外にはたゞ土地との縁故、家々の神樣との關係を、前々から折々考へて見るだけで、遠い他地方の小さな神社はどんなであらうかなどといふことは、問題にして見たことも無かつたらう。だから今度の變革は不幸とは言ひながらも、國民の總體をして自ら知らしめる、願つても無い好機會であつたのである。自分はさういふ悦びの心を以て、微力ながらも敢てその日本人なるが故の一致、又は決して偶然でない遠方の類似といふものを説いて、一つの案内の役を勤め、行く／＼此問題を考へて見てくれられる人を、少しでも多くして置きたいと思ふのである。

　

　　　　　　　四　神社の二つの種類

　

　全國十一萬に近い神社は、その大小社格勢力の差、及び創立年代の古今の隔たりが、是ほどにも著しいに拘らず、(388)今でもほゞはつきりと、是を二つの類に分けることが出來る。其一つは、是から私の説かうとする氏神の社、即ち祭に御仕へ申す家々が定まつて居る御社で、その定まつた家々を、古くは氏人と謂ひ、近世になつては氏子と言ひ習はして居る。第二のはその氏人をもたぬ神社、即ち祭祀に參り合せる者の範圍の不定なもの、其人數は普通には多いのだが、出入増減が豫測しにくゝ、或時は熱心に歩みを運んで居ても、いつの間にか縁が切れたり、親は信心で月參りまでして居たのが、子はもう他の神佛を信じて居る、といふやうな場合の稀でない神社である。是を一方の氏子に對して、自分などは信徒と呼んで見たが、ひどく此語を嫌ふ人も有るので、公けには崇敬者といふ文字を用ゐて居る。が此方はよほど佛法の諸佛諸天への信心と近く、或は彼に手本を持つた信仰方式でないかとも私は考へて居る。

　右の第二のもの、即ち氏人を持たぬ方の神社は、年代から言つても比較的新しく、たとへば平安奠都の初期まで溯つて見ると、さういふ御社は或は石清水の八幡宮たゞ一つで他には無かつたといふ時期もあるのでは無いかと思ふ。さうしてこの御社もよく知られて居る通り、それよりさして遠からぬ以前に、新たに遠方から勸請せられた御社であつた。

　そこで自分たちは、この氏人をもたぬ御社のことを、第一の氏神社に對して、總括して勸請神社と呼ぶことにしてもよからうかと思つて居るのだが、是はなほ問題として大いに論究する必要があるだらう。現在は假に簡便の爲に其名稱を使つて見るが、まださう決定して居るわけでないことを御承知ありたい。

　三代實録の元慶三年（八八一）三月二十六日の制といふものが、一つの好い史料であつた。是には五畿七道の神社の祝部《はふりべ》と氏人に、三年に一囘づゝ必ず本系帳を録進するやう命令せられたもので、即ち全國の神社には、必ず又は通例、祝部と氏人とが有つたといふことを推測せしめる。乃ち氏人の無い神社といふものは、この當時はまだ稀なる例外だつたらしいのである。その例外が爾來年と共に増加し、後には氏神の社と對立して、第二類を以て目せられるに至つたのは大きな變遷である。さうして其變遷を見るに至つた原由は、今でもまだ説明が出來ると私は思ふ。

　

(389)　　　　　　　五　氏人の意味

　

　伊勢の神宮では、世襲神職の荒木田度會の二氏、是に今一つ、後に斷絶したらしい根木《ねぎ》氏といふのを加へて、この三つの門統の者を、大神宮氏人と御呼びなされたことが、是も平安朝初期の朝廷の公文書に見えて居る。氏人といふ語の本來の意味は、神と氏を同じうする人々、即ち神の御血筋の者といふことであつた。荒木田度會等は神宮と深い縁故をもつ家々ではあるが、大神は決して彼等の祖神では無いのみか、又決して氏神の名を以てたゝへ奉るべき神樣で無かつた。つまりは氏人といふ言葉の範圍が、この時代既にやゝ擴張せられて居たのである。注意すべきことにはこの二系の禰宜の家は、大神宮の氏人といふ名稱をもちつゝも、別に神域の周邊にめい／＼の氏神社を齋き、そこに春秋兩度の氏神祭を、古い頃から奉仕して居た。その祭日は他の一般の氏神も同樣に、一方は四月と十一月他の一方は二月と十一月であつた。是等の氏神社は各々此氏族の祖神であつて、是に對してこそ明らかに彼等は氏人であつたのだが、どうして大神宮の氏人と名乘つて居たものか、何か仔細が有るらしいが私にはまだ説明し難い。氏といふ日本語の語原は今も確かに知られないけれども、少なくとも皇室は常に八十氏人よりも上にましまし、氏は恐らく臣屬といふことを意味して居た。しかも實質に於ては、その氏々が小さな氏神の祭に奉仕するのと、皇室が伊勢の神宮を御祭りなされるのと、規模の大小の差以外には、別に何の變りも無かつた。名は異なりと雖、先祖を祭るといふ信仰は、上下を一貫して同じであつた。

　賀茂は上代以來の官幣の大社であつて、殊に都に近く朝廷の崇敬が最も厚かつた爲か、神の後裔たる賀茂氏の氏人は有りながら、却つて遠慮をして自ら右にいふ大神宮氏人と同じやうな地位に退き、本社の境内に別に小さき氏神社をもつて、そこで伊勢と近い氏神祭を營み、本社の大神をば神主たちの祖神とは言はぬのみか、或時代には祭神を瓊(390)瓊杵尊なりとするやうな新説を立てゝ、御社の爲に伊勢の神宮と近い地位を獲得せんと試みたことさへあつた。是は中世の社家たちの由無きたくらみであつて、現に今日は誰も其説を支持する者が無いが、さういふ風な傾向は夙くから見えて居た。たとへば大和に繁榮して居た多くの賀茂族は國津神であつたのに、山城の賀茂氏のみは天津神の御末といふことになつて居た。其理由は祭神の生立ちに關する神話でも明らかなやうに、御母こそは此家の出であつたが、父大神は天より御降りなされた故に、さう名のつてもよいとせられたのであらう。國初以來天神と地祇とを共に敬祭なされて、兩者の待遇に何の差別をも設けられぬ方針であつたが、地祇といふ方がやはり肩身が狹かつたものか、どうかして天神の列に加はらうとする努力が、古くからあつたのである。古い母系の相續法が、いつでも伯母から姪へと傳はつて行くものといふことが忘れられて、玉依彦の子孫は、我と祭神の後裔といふ主張を棄てようとしたのである。從つて氏人の奉仕する大社でありながら、賀茂は早くから賀茂一族の氏神社とは言はなかつた。氏人の氏神社は別に小さく立てられて、本社は夙くより氏人以外に、多くの有力なる崇敬者をもつ神社の一つになつて居た。

　

　　　　　　　六　氏神と氏の盛衰

　

　神社の大小は、もとは氏族の勢力の盛衰に伴なふもので、極端な場合を言へば、家が滅亡すれば社も無くなるのが當り前であつたと思はれるが、既に外部から、殊に朝廷の崇敬が始まると、その先例は必ず維持せられる故に、神社は大きくなつて氏人の力の之に伴なはぬものが、追々に出來て來るので、賀茂の御社などはその一つのよい例であると思ふ。

　是とちやうど反對の例は、藤原氏の氏神の春日神社などで、この一門の發展はあの通り強大を極めて居たに拘らず、久しい後の世まで永く氏神の本質を失はずに居たのは、神社がなほ大和の舊都に取殘されて居たからであらう。山城(391)の京の方では、最初に今ある大原野神社が建立せられ、是も藤氏の氏神社と言はれて居たが、此方は主として此家から出られた高貴の女性の參らるゝ社とし、他の一門の人々はなほ奈良に赴いて春日社の祭に參列した。それから暫くして吉田神社が出來、是も後々は藤原氏全體の氏神社のやうに考へられることになつたが、其起原は記録にもわかつて居る如く、本來は山蔭の中納言といふ人を始祖とする一流の祭つて居たものである。其以外にも河内の枚岡神社、遠くは常陸の鹿島神宮も、古くから藤原の氏神として知られて居た。どうして同じ一族にさう幾つもの氏神社が出來たものか、私にはまだ確かに説明をし得る力が無いが、多分は氏が榮えて行くにつれて、獨立して氏神祭の中心となる家が、數多くなつて來た結果であつて、後々神社の側から、それ／”＼皆一門全體の氏神であるやうに、主張し始めたものかと推定して居る。もしさうだとすれば、是も亦明らかに氏神思想の變遷の一つの場合であつた。

　やゝ時間さへかけるならば、現在二百餘りの官國幣社の由來だけは、斯ういふ風にして一つ／＼、ほゞ其由來を尋ねて見ることが出來ると思ふ。それを表にでもして行けば追々に判るであらうが、是等國の歴史と深い關係のあつた大きな神社にも、やはり十萬何千の郷社以下と同樣に、前に申した二つの種類の對立が認められさうである。即ち一方には賀茂や春日の如く、たしかに最初には氏人が我が氏の神を祭るが爲に創立したものと、他の一方には石清水や北野のやうな、始めから氏神の社としてで無く立てられたもの、即ち氏人といふものを持たなかつた神社とが有るのであつた。その二つが同じ列に、二種一樣の公けの待遇を受けるやうになつたといふ點に、いはゆる神社神道の、又一つの大いなる時代變遷の痕が見出されるのである。

　

　　　　　　　七　氏人無き大社

　

　斯ういふ中でも八阪神社、即ち古く祇園さまと呼ばれて居た京の大きな御社には、よほど又特別な歴史がある。是(392)は文獻の記述も備はつて居るが、最初には神社として創立せられたもので無く、祭も祇園會又は御靈會と稱して、よほど法會に近いものであつたのが、後に追々と今ある形に改まつて、所謂二十二社の系列に入つて來られたものだから、是だけは別途に詳しく考へて見なければならぬ。石清水と北野とは之に反して、始めから神社として今の地に齋き祭られたものであつたが、是がやはり私のいふ第二類で、氏人といふものをもたぬ御社であつた。北野の天神さま、即ち官幣中社北野神社は、祭神もよくわかつて居り、又特に祭神の後裔を以て神職に任じ、もしくは菅原氏の者を祭の使に差遣せられるといふ慣例にもなつて居たに拘らず、茲では氏人といふ言葉を、氣をつけて使はぬやうにして居たらしい。其理由は當初より氏人以外に、弘く一般の崇敬者、殊に朝家の崇敬を期待して居たからである。石清水の八幡宮も是と同じく、紀氏の一族が武内宿禰の末裔として、古今一貫して奉仕して居たにも拘らず、彼等は伊勢のやうに氏人といふ名を付與せられて居なかつたやうである。さうして祭神には應神天皇を御祭り申すといふ言ひ傳へを強く主張して、宗廟即ち皇室の御先祖を祀る社として、伊勢と出來るだけ近い地位を保持せんが爲に、わざと一つの氏との因縁を、小さなものとして置かうとした點は、春日とは遠く、賀茂とはよほど近いものであつた。

　八幡を源氏の氏神といひ始めたのは、まだ確かめては見ないが、私は鎌倉時代よりも古いことでは無いと思つて居る。八幡太郎が男山の社殿に於て元服の式を擧げたといふなども、後の人の作り話であらうが、それが假に事實であつたらうとも、之に因つて氏神氏人の關係は結ばれた筈が無い。いはゆる烏帽子親は烏帽子兒と親子ではあつても、それで先祖となり又子孫となるといふことは、聽いたことが無いのである。それにも拘らず、清和源氏でない他の多くの源氏の家までが、室町期に於ては石清水の八幡を、家の氏神と仰ぐやうになつて居た。つまりは氏神といふ言葉の意味が、もう此以前から少しづゝ廣くなつて居たので、それには何人も心付かずに、徐々としてさうなつて來たものと、又計畫を以てさうしたものとがあり、後の場合は記録にも證跡が殘つて居る。

　

(393)　　　　　　　八　延暦の新制

　

　伴信友翁の蕃神考などを讀んで見ると、この?勢の片端は窺ひ得られる。ちやうど平安京への都遷しの初期、殊に桓武天皇の御治世には、我邦の神社制度として、可なり重大な革新が行はれた。是は當時の政治家の計畫といふよりも、恐らく天皇御自らの御考へだつたらう。この陛下の御母方は歸化人の一族であつて、大和の京の附近に居住し、此頃はもう日本風にめい／＼の氏神を祀つて居た。それを遷都の後久しからずして、新しい京都の西の郊外に、朝廷の命を以てお祭り申すことになり、其社を新たに建てたもの、それが今日の官幣大社平野神社である。大和に故郷をもつ有力な氏族の爲に、山城の方に祭場を給はつたといふ例は、藤原氏の大原野以外に、伴氏に就いても其記録があるのだが、平野の場合のやゝ他と異なるのは、是を其一族だけの氏神社としてでは無く、又は其族出身の貴女たちの爲でも無く、後世この天皇の子孫たる者は、氏神として此御社に奉仕するやうにといふ思召しが示されて居たことである。即ち是までの氏神は、必ず家々の祖、主として男系の祖を祀るものであつたのが、此時代からして外戚の家の氏神、即ちよその家の祖神をも、脇から祭つてよいことに、又は祭らねばならぬことになつたのである。さうして此天皇を始めに、次々の御代には皇子の臣籍に降りたまふ例が多く、其中には平家や源氏のやうに、後に繁延して全國に分布した門流も少なくないのである。考へ樣によつてはかの諸王賜姓の新制度と、この平野社創建の計畫とは關係あるもので、春日によつて統一した大きな藤原一門の勢力と、均衡を保たしめようといふ御趣旨かとも推測し得られる。

　是と同じ先例の踏襲せられたのは、今の官幣中社梅宮神社で、是は仁明天皇の御母后の生家、橘氏の祖神を祀るものであつたが、この方は新しい創立といひながら、それでもまだ初期の氏人として、橘氏一族の者のみを指定なされたやうであるが、一方の平野神社では始めから祭神の氏に屬せざる者、即ち新たに家を起される皇族方を氏人として(394)居たのである。ところがその新立の家の數が餘りに多く、且つ隆替が甚だしいので、後々幾つかの事情の變化を重ねた末に、この社の氏人を藤原氏以外の、四つの有力なる氏族に限ることゝなり、更に又改まつて其數を八つに増加し、平野は八姓の祖神といふことを、言ひ傳へた人が多くなつて居る。勿論伴信友のやうに、詳しい沿革を究めてから、祭に取掛かる人ばかりは居ない。多くは神社側の解説に指導せられて、信仰の方向をきめたから斯うなつたのであらうが、それにしても氏神氏人が、必ず家の祖と其後裔との關係ときまつて居たら、新たに氏人の列に加へられて出て來る者も無かつた筈で、それが斯ういふ風にも改め得られたといふのは、つまりは中世の社會事情によつて、もう幾つかの新たな擬制が始まつて居たことを意味するのである。

　氏神は即ち氏の神、家々の先祖を祭る場所と、きめてしまへない理由として算へられて居たのは、古いところでは石上神宮の社傳で、是は物部氏の氏神でありながら、祭るのは神寶の武器であつた。鹿島神宮の祭神は古く明らかで、藤原氏の氏神だといふ根據は見出しにくいので、鎌足が常陸で生れたからなどといふ、俗説も夙く行はれて居たが、それは今日の如く出生地に祀られる神が、常に氏神だといふ考へ方が、普及してから後で無いと通用しない。中世にも京都などにはさういふ考へ方がもうあつたといふのみで、今でもさういふ風には考へずに居る人が、實は日本には少なくないのである。是は今から明らかにすべき不審といふだけで、氏神社を先祖の祭場でなかつたといふ證據にはならぬと思ふ。

　

　　　　　　　九　氏神の統一

　

　前にも述べて置いたが、同じ藤原氏の氏神といふ神社が、全國に幾つも有るといふ不審の如きも、氏又は一家一門の構造が、時代につれてやゝ變つて來て居るといふことを、念頭に置いて考へるならば、やがては説明の付く時が來(395)ると思ふ。一つの氏族が大きくなつて分裂し、大氏から小氏が分れ、又は一家一門に新たな第二第三の中心が出來るといふことは、もとは獨立した氏神社を持つことであり、乃ち又其系統の始祖の靈を、神に祭るといふことであつたかも知れない。さうして官に就き朝廷の公務に服するといふことは、最も普通なる氏族分裂の機會であつたらうと思ふ。それが後世になつて昆弟諸子、袂を連ねて朝貴に誇ることになれば、さう／＼は細かく氏を分けられぬと同時に、小さい家々は團結の必要から、追々と神を共同の遠祖まで、もつて行くことにもなつて、愈々神と人との間隔を大きく遠く、するやうになつたとも見られるのである。

　一方に於ては、氏人といふ言葉の意味も、時代と共に少しづゝ變つて來て居ることが心付かれる。もとは氏人は讀んで字の如く、氏の全員の事であつたと思はれ、それが又合同して氏神に奉仕して居り、たゞ其儀式の中心になる者を氏の上又は長者、或は之を代表する者に指定して居ただけである。春日神社の祭などには、其慣行が或程度までは保存せられて居た。然るに後々は其範圍が限られて、伊勢や賀茂などの例からも見られるやうに、たゞ少數の直接祭の役に任ずる者だけを、氏人だと思ふやうになつて來たのである。氏神の祭の日には必ず參つて來て　敬虔に祭の進行を拜み且つ樂しむ人々も、多くは皆同族の人であつたけれども、それまでは氏人の中には算へないやうになつた。見參といふ言葉を使つて居た御社も中世には有る。見參は即ち定まつた家筋の者だけに、特權として認めて居た正式參拜のことであつた。それが追々に普通の參詣人と區別せられず、又その中には、たゞの見物もまじつてしまつて、愈々當役の人々との境目が著しくなつて來た。地方によつてはさういふ役付きの家の主人だけを、モロト即ち諸人《もろびと》と謂ひ、又宮人とも神人とも謂ふものがあつて、氏人といふ語は範圍が狹くなつただけで無く、しまひには口言葉の中からは消え去り、之に代つて新たに今日の氏子といふ語が生れて來たのである。氏人が萬葉集以來の古語であり、又何れの時代にも續いて行はれて居たに對して、この氏子といふ語の方は、古く書いたものには見えない。さうして其意味又は語感も、よほど中古の氏人といふ語とはちがつて來て居る。

　

(396)　　　　　　　一〇　傳承史料の價値

　

　是は至つて大づかみな、たゞ概念ともいふべきものであるが、民俗學の立場から見て意義の多いことは、現在十萬數千を算する郷社以下の神社の中には、この千年以來の氏神變遷の、あらゆる段階を目の前に展示する實例が色々とある。單に前代記録の簡略な記事を實地によつて裏付けるのみで無く、更にその個々の段階の中間過程ともいふべきものを、細かく順序立てゝ見ることさへ出來る。人のよくいふ輸入宗教の感化とか、經濟組織の影響とかいふものゝ他に、まだ色々の因子の算へ上げられるものがあつて、それが如何なる組合せを以て働いて居たかといふことも、是等殘留の數多い實例に就いて、近々と視察することが可能なのである。僅かに殘り傳はつた文書史料も大切であらうが、一方に斯ういふ活きて居る史料、幾度でも點檢し確認し、又企てゝ觀測することさへ出來るものを、利用せずに置くといふ法は無い。一つや二つの珍しい例を見つけて、大きな推論を試みるのは不都合であらうが、僅か注意を續けて居れば全國の隅々から、大小くさ／”＼の一致と類似が見出されるものを、是まで御互ひが心付かず、又は比べて見ようともしなかつたのは、學問の不振で無くて何であらう。だから我々が志を起しさへすれば、まだ／＼意外な發見を爲し得る餘地は廣いので、それも傳授や奧義といふやうな面倒なもので無く、萬人が容易に認め得るやうな眼前の事實に由つて、獨り今日までの經過を明らかにするだけで無く、或程度までは將來への傾向を察知して、日本同胞の最も大いなる弱點として、すでに立證せられた豫言力の缺乏を、補強し且つ長養する手段とすることが出來る。といふのが私たちの新たなる希望である。たとへすぐには實現し得ないまでも、ともかくも先づ試みて見なければならない。

　

(397)　　　　　　　一一　現在の氏子制

　

　そこで自分の最初からの計畫に立返つて、現在の事實の出來るだけ正確な認識に着手するならば、古い氏人といふ言葉が、もはや書物以外では殆と聽かれなくなつたに反して、新しい氏子といふ名の方は、今や殆と全國に行渡つて居る。事實極めて淡い、とりとめの無い意味に、なり切つて居る地域も無いとは言はれぬが、大體には今でも是を信仰の一つの標語として居る者が多いのである。神社方面の人々の解する所では、何れかの神社の氏子でない日本人は一人も無いことは、ちやうど宗門制度の設けられた江戸の初期に、寺と宗旨をもたぬ日本人は無いとしたのとよく似て居る。維新直後に試みられた氏子札の發行なども、以前から少しはあつたかも知らぬが、この際は之を全國的の制度としようといふ計畫があつたらしい。しかし是は戸籍事務の全部を神社に委ねることを意味するもので、ちつとやそつとの經費では、到底その出入加除までを明確にすることが出來ないので久しからずして斷念しなければならなかつた。さうして一方には以前の世の中では考へることの出來なかつた二重氏子、三重氏子といふものさへが、認められるやうになつて居るのである。

　人の自由なる移住といふものが、さうさせずには居なかつたのである。二つの兩立しにくい解釋が、之に伴なうて起り得る。その一つはいはゆる御宮參りを以て氏子入りとする古い慣習に從つたもので、生れて三十日目、又は土地によつて七十五日目もしくは百日目に、初めて參詣して神に認められた、その御社が氏神であり、其子は一生涯そこの氏子だとする思想、是は中世からの考へ方で、理論は通つて居るけれども其代りには、同じ一家のうちに色々の神社の氏子が出來る。もとは女房だけは他社の氏子であつても、嫁に來た當座に夫の家の氏神に詰り、それからは此方の氏子になるとしたらしい。實際は祭だといふと里に還るから二重氏子なのだが、表向きは先づ是で統一して居た。(398)ところが此頃のやうに一代に何箇處と無く轉住してあるく家の多い世の中では、兄弟姉妹が皆ちがふ神社の氏子といふことも稀で無い。私などは東京の中で五十年以上暮らしたが、それでも引越しをして居るから、姉二人は市谷の龜岡八幡の氏子、三番目以下は山王さまの氏子になつて居る。斯ういふのがごく普通で、氏神がちがへば祭の日は當然に別々になる。それでは困るので現在は住む處の御社に、家族全部が屬するやうに、一應は認められることになつたのだが、この第三の考へ方はさう古いもので無い。しかも引越して來たからとて、別に見參の禮に罷り出るといふ式も無く、「爰のうぶすな樣は何處だらうか」と、何年も過ぎてから言ひ出すやうな者が、都會にはもう大分多くなつてゐる。都會だけは致し方が無いやうに皆思つて居るのだが、この?勢はもう農山漁村にも及びかけて居るので、氏子といふ單語のみはまだ忘れないが、其内容は變化したといふよりも、すでに稀薄になりかけて居るのである。

　それを我々は重要な新現象とも、今までは氣づかずに居た。ちやうど大政翼賛會などといふ團體が、是をどうしたらよからうかと言ひ出したばかりの處で、戰爭が終り事態が全く改まつてしまつたのは、まことに折が惡かつたと言はうか、或は時おくれだつたと歎くべきであらうか。とにかくに局に當る者の失敗であつた。具體的な場合をいふと、神社の祭は今日は費用の年々の分擔を必要とするのに、一方には私は氏子でありませんと謂つて之を拒む者が既にある。さういふ不愉快な押問答をしたくないので、公共團體が税で取り、代つて之を負擔するといふやうな方式もあつたが、もう今日ではそれは採用し得ないのみか、愈々以て氏子といふ語を無意味なものにする。是を信仰の結合體とすることは、今のまゝでは恐らくは望まれない。從つてこゝに又一つの實際問題の、民俗學の知識に向つて援助を要求するものが現はれたのである。別の言葉でいふと、氏子制が今のやうになつて來た過程をほゞ明らかにしないと、外間の人たちの眼には是が非常に不條理なものゝ樣に見え、たゞ罷めてしまへといふ如き荒つぽい意見ばかり起りやすく、ぢみちに善後策を講じて見る氣にはならぬのである。しかもその善後策は決して無きに非ず、又結局は罷めてしまふことも出來ぬものだとすれば、斯ういふ研究は早いほど好いのである。

　

(399)　　　　　　　一二　判斷と常識

　

　氏神の歴史は歴史ではあるけれども、現在未來の生活問題の解決に、最も必要なる實際知識である。殊に諸君のやうに年を取つてからでも、讀書し修養し反省し得らるゝ人ならば、或は他日ゆつくりと考へて見ようと言へるかも知れぬが、普通一とほりの教育を終れば、急いで世の中へ出てしまひ、もう只大勢に押廻されて、皆のする通りにして行かうといふだけの人々には、今のやうなあやふやな準備知識を與へただけで、人生へ送り出すといふことは不親切の極である。生れつきそんな事には頓着せぬといふ人ばかりが、この世の中に充ちて居るのだつたら、客觀的には氣の毒なものだが、まだそれでも始末がよいかも知れない。實際は心の奧底に、即ち所謂意識層の下に、古い日本人の感じ方を持傳へて居る者がまだ多く、それにも濃淡の差等があると共に、一方には又すべての古いものを疑ひ又は輕しめ、ひたすら是から離脱しようとする者があつて彼等と對立する。我邦の普通教育は初期以來、いつも宗教の外に立たうと努めて來た爲に、この次々と變遷するものに對して、正しい概念を捉へ得なかつた憾みがある。二代三代を重ねてなほ昔を守る者、時としては更に舊い形に復歸する者があつても、それを導いて新しい世情に、調和させるやうな力が何處にも無く、信仰は日を逐うて複雜を加へて來たかと思はれる。何れにしても二つの相對する感じ方又は考へ方の、有ることだけはいつの世にも免れ難く、しかもこの所謂反動・反反動の振幅は、單なる歴史の無知の爲ばかりに、不必要に非常に大きくなり、又その爭ひがとげ／＼しくなるのである。民族統一の未來の爲に、憂慮せずには居られない問題である。

　この氏神思想の變遷といふものは、決して政治の産物ではない。制度とは謂つても人民の中に、殆と自然に成長したものであつて、法令その他の政府の意思は、たゞ間接にしか是に干與して居ない。つまりは自然の成行きなどと、(400)昔から呼んで居たものと近い。しかも今よりふりかへつて見ると、この一筋の進路より以外に、歩むべき道が無かつたのでは無く、又是が必然の運命であつたとも見られない。たゞすべての經驗を綜合して見ようとする力が、今でも無いくらゐだから、昔はなほのこと現はれなかつたのである。是から以後とても同じことで、我々の行く手には幾筋もの途が有りながら、よかれ惡しかれたゞ其一つしか選擇せられないのである。利害の關係の少ないよその民族の立場から見れば、斯ういふ偶然なる因果律の現はれも、興味ある社會學の資料かも知れないが、我々は當の本人たちである故に、そんな氣樂なことは言つて居られない。果して國民總體の歩みが、望ましい方向を取るかどうかは期し難いにしても、出來る限りは之を正しく歩ましめるやうにしむけなければならない。それには氏神氏子といふ思想が、どうして斯ういふ風に推移しなければならなかつたかを、明らかにして置くのが手段であると思ふ。

　

　　　　　　　一三　村氏神

　

　氏人といふ語の中世の意味が、伊勢の兩宮又は賀茂の下上社でいふのと、春日や平野で用ゐられたのと、神社によつて色々と意味のちがひがあつたやうに、今日日本人の氏神と謂つて居るものにも、土地により場合により可なり著しい差異がある。大體に私は之を三つに分けて居るが、その一つは假に村氏神と謂つてよいもの、即ち或一定の地域内に住む者は全部、氏子として其祭に奉仕して居る氏神社である。氏神をたゞ此意味のみに解して居る地方は、現在はもうよほど廣い。中央の人々、殊に神祇行政に携はつて居た役人たちが、常にさういふ意味にしか此語を使はぬので、いつと無しに是が標準語のやうになり、たとへば土地では實際はさう言はぬ人たちでも、もう之を聽いて誤解するやうなことは無く、一般に村毎の神社、法令の上で村社と稱するものが、大體是に當ると心得て居た。實際に又現在四萬五千の村杜の約半分は氏神と呼ばれ、その又殘りの半分以上は、今の定義でならば氏神と謂つても差支ないも(401)のである。それから無格社と呼ばれる小さな神社が、別に六萬足らずも有るのだが、是は成立ちが甚だしく區々で、其中にも村共同の神の、たゞ何かの事情で村社になり得なかつたものがある。一方を氏神と謂ひ得べくんば、こちらもさう稱へて然るべきものが、自分は約四分の一はあらうかと思つて居るのだが、事實はもつと少ない數しか、今日は氏神と呼ばれて居ない。たゞさういふものが無格社の中にも若干あるといふだけは確かである。郷社といふ神社二千六百餘り、是にも起りの氏神であつたものが大部分で、是は追々と氏神と謂はぬものが多くなつて行くらしい。殊に府縣社以上の一千四百ほどの大社は、わざと氏神とは別なものゝ樣に、見ようとした傾向があると思ふが、記録に傳はる沿革に徴しても、もとは少なくとも氏神と見られ、今も定まつた地域の内に住む者が、氏子として奉仕して居る例は、數多く列擧し得られるのである。之を要するに神道の方の人たちが、現在「氏神」の語によつて解して居るものは、以前に比べるとやゝ範圍が狹く、先づ主として村社に限るやうになつて居るが、その定義は必ずしも精確なりとは言へない。たゞそれがもう標準語に化しかゝつて、土地ではさうは謂はぬ場合にも、人からさう謂はれて訂正をせず、又めい／＼は氏神と心得て居る場合にも、さうは謂はずに他の呼び方を受けるのを黙認して居るだけで、此語の内容は土地により人によつて、よほどちがつて居たのである。今後の研究の上には是は不便なことだから、特に區別の爲に私たちは、是を村氏神と呼ぶことにして居る。中央の人には意外かも知れぬが、村で我土地の村社を氏神といふことが、出來ない地方といふものは相應に弘い。別に氏神の名を以て呼ぶものが、さういふ村々には有つたからであり、それが又一段と前代の氏神に近かつたからである。氏神の歴史を明らかにしようとするには、是非ともこの村氏神に非ざる氏神に注意し、又之を對比して見る必要があると思ふ。

　

(402)　　　　　　　一四　ウブスナ樣の名

　

　次に第二の種類の氏神を、是も便宜の爲に私は屋敷氏神といふことにして居る。屋敷氏神は殆とその全部が、今日謂ふところの神社では無い。無格社としてすらも認められて居ない。屋敷即ち農民の住宅地の一隅に、齋き祀られて居る祠《ほこら》である。近頃では木の小さな宮形、又は石の祠もあつて、常設のものになつて居るが、もとは春秋の祭の日に先だち、新藁や柴の小枝を以て假屋を作り、もしくはたゞ露地に紙の幣串を立てゝ祭をしたもので、祭の場處だけが定まつて居て、建物の無いのが普通であつた。是は大きな差別のやうに今では考へられようが、百年前までは大きな神社の方にも、老樹や石や土壇を以て靈場を標幟し、社殿を設けないものが幾らもあり、現在でも三輪や上諏訪の如く、由緒のたしかなものだけはまだ殘つて居る。神社といふ以上は必ず「みや」が有るべきものゝやうに、考へられたのは明治以來の事である。さうして家々の屋敷氏神の方でも、段々に「みや」を常設する傾向に在るので、是は決して本來の差別とは言へない。

　屋敷氏神の祭場は通例は屋敷の一隅、殊に乾の隅に榎の木を栽ゑたものなどが多いが、土地によつては宅地内で無く、接續した一小區劃、もしくはやゝ離れた持地の山林などに祭つたものもある。近頃まで自分も心付かずに居たが、斯ういふ屋敷附屬の小さな祠だけを、氏神と謂つて居る地方は存外に廣い。先づ東日本では關東平野の半分以上、東京のごく近くの村々から始まつて、千葉茨城栃木の諸縣、東北はほゞ一帶にさうだと言つてもよく、九州でも少なくとも南半分には、其例が多いことを私は知つて居る。四國の太平洋岸などはまだ確かめて居ないが、大體に國の端々、中央から遠ざかつた地方に此例が多いかと思はれるのは、偶然の現象では無からう。斯ういふ家々の小さな祭場又は祠、法令では私社とも雜社とも謂つて「神社」の中に入れて居ないものを、氏神と呼んで居る地方では、勿論村の社(403)の方を同じ名で謂ふことが出來ない。それでたゞ「お宮」と呼び、又は「明神さん」とも呼ぶ處があるが、最も多くの場合はウブスナ樣、又は鎭守さんといふ語を使つて居る。鎭守は外來語であり、從つて起りが新しく、又少しばかり複雜だから、是は引離して別に考へて見た方がよい。今一つのウブスナといふ方も、從來の解説にはまだ少しく安心のならぬ點がある。ウブスナは古い國語だが、もとは是に對して産土といふ漢字を宛て以前には又本居の二字も用ゐられて居て、それは只故郷もしくは生れ在所の意味しか無く、是を神さまの御名に呼ぶ例は見當らない。私の推定では、ウブスナ樣は即ち本居の地に坐す神、産土に祭られたまふ神といふことで、神がウブスナであつたわけでは無いと思ふ、從つて一つの氏族が占據する土地では、産土神は即ち氏神であり、二つ何れの名を用ゐても誤りではなかつたのである。それを最初から異なるものと解して、一方を血縁神、こちらを地縁神などといふ人が有るのは賛成し難い。地縁と血縁と、二つの信仰共同が竝び存したかの如く見ることは誤りの基になる。氏毎に各々一つづゝ氏の神をもつて居た時代には、この本居の神も氏毎に別であつたかも知れぬ。各自の氏神以外に、別に氏々共通な産土神を、一緒に祭つて居たといふ證據はまだ無いのである。但し始めから氏人又は氏子をもたぬ大きな社が出來て、それを拜み又は信仰する者も大多數はその附近の住民、即ち本居を共にする者が多かつたらうが、それは其土地以外の人を排除する意味では無かつた。或は一つの村又は部落の者に限つて、何か特別の關係が結ばれて居たとすれば、それはやはり或一つの氏の人、氏を同じくする者といふことであつたので、是もいはゆる血縁神のうちであらうと思ふ。要するに一つの氏に一つの氏神といふ古い世の習はしが改まつて、多數の氏々が合同して、一つの氏神を戴くやうになつた時が、同時に本居の神の合同にもなつたので、それ等の氏神とは獨立して、別に共通の地縁神をもつ必要は、恐らくは無かつたらうと思ふ。それが後段々と水の神、又は疫癘その他の災害を防ぐ神などを、氏々協力して祭るやうに、なつて來たことは事實であるが、是は土地とは直接の關係は無かつた。後世斯ういふ特殊の神々を、ウブスナの神とあがめた例も多く、殊に鎭守の社は土地を劃して、それから中だけを鎭護なされるといふ信仰であつたから、是を地縁(404)神と名づけることは差支へ無からうが、それは氏神との對立では無く、時の順序としては後になつて起つたことである。

　

　　　　　　　一五　屋敷氏神の起り

　

　屋敷氏神は、第一の村氏神も同じやうに、共に古い時代には無かつたことである。いつの頃からさういふ祭り方、又は少なくともこの名稱が始まつて來たものか。土地によつて一樣ではあるまいが、斯うなつて來た原因は必ずしもさう區々たるものではなかつたらう。やゝ注意深い觀察を續けるならば、大よそは明らかになる見込があると私は思つて居る。中世以降の社會變化の中で、第一に氣づかれることは、氏族組織が變化して、もはや力強い大きな結合を必要としなくなつたこと、即ち戰國時代の軍隊編成法の改定によつて氏が戰闘作業の單位で無くなつたことである。弓の者とか鐵砲方とか、一藝ある者の多數を選拔して、其道に長じた隊長の下に、教練し指揮するやうになれば、もはや一門の結合を鞏固にして、族長の權勢を保持させる必要は無く、家は段々に自然の形に近いものに縮小しようとしたであらう。勿論傳統の力はなほ續き、本家の地位を重んじて、之を中心に古來の團結を守つて行かうとした者は有つたらうが、もと／＼直接の必要は無くなつたのだから、何かの機會がある毎に、分裂に向つたことは想像し得られる。殊に平和時代の産業では、さう大きな結集は用が無いのみか、往々にして不利なことさへあつたのである。村々の分家の新舊を比較して見ると、古いものほど小さく、新しく分れたものほど大きくて、しまひには新宅が本家を凌ぐもの、いはゆる尾大振はずの形勢を馴致して居る。土地が得にくゝなると次三男は移住する。氏神は奉戴して行つても、始めから其信仰は弱い。三百年來の村新立の言ひ傳へを聽くと、五軒百姓だの七軒大屋だのと稱して、幾つかの姓を異にする家々が合同して土着したものが多い。一門を以て村を拓いた隣の大陸國の例とは反對に、わざと違(405)つた家筋に屬した者が、數多く集まつて村を作つて居る。或は縁組の便宜の爲だつたらうかと、私は考へて居るのだが、我邦の古い慣習では、婚舍即ち若い夫婦の住む小屋は、通例は女の方の里方に附いて居て、もしも雙方の家があまり離れて居ると、男は或期間妻を得るために、家を出て行かなければならなかつたので、それを避けようとしたらしいのである。東北の奧地などではつい近年まで、年季壻などといふ慣習があつた。男は女の家に來て二年三年の間勞働し、其年季を無難に勤め終せると、嫁をつれて實家に還つて來るが、其間は我家の爲に働くことが出來ない。ところが村を同じくして居れば晝は自分の家の生産に從ひ、夜は女房の家に行つて休息するといふことが出來たわけである。しかし斯ういふ家々が一つの村に共に住むとなると、氏神の數は當然に多くなり、從つて又その一つ／＼の信仰共同は、力が弱くなることは免れない。さういふ中にも或一黨の氏神社だけが特に盛大で、他の家々の祭を吸收した場合もあつたらうが、普通には今一段と計畫的に、合祀統一をした場合が多かつたかと思ふ。

　

　　　　　　　一六　氏神の合同

　

　昔は氏毎に一つづゝ、氏神の社は有つた筈なのに、どうして此樣に多數の家々が、共同して一つの氏神を祭ることとなり、しかもなほ氏神といふ古い名を持ちつゞけて居るのかといふことは、神社神道の歴史として、最も意義のある疑問の一つであらう。勿論異姓の共住といふことが無かつたら、斯ういふ變遷は起らなかつたが、原因は是たゞ一つではないのである。私などの心づいて居ることは七つほどあるが、是等は少なくとも氏神の合同を可能にし、又は之を容易にして居る。強ひて理由として列擧するにも及ぶまいが、是を説くことは同時に神道の推移を知るたよりでもある故に、ざつと一通りは爰に述べて置きたい。

　一　氏神合同の企てやすかつた最大の原因は、祭の期日又は季節が、何れの氏人にも共通に、春は二月から四月、(406)秋は又九月から十一月のうちの定まつた日であつたこと。此點は祭日考といふ一文の中に別にやゝ詳しく述べて置いた、日本民族には一年に二度　稻の栽培の前と後とに於て、神を祭らずには居られぬやうな季節感が行渡つて居り、それが今もなほ神道以外の、民間年中行事にもよく保存せられて居る。乃ち祭の必要は各家一致して居たのである。

　二　次の原因としては、家々の祭場が相接して近く、しかも常設の建物の無かつたこと。山の峯から神の降臨を迎へるには山の口で、又は家々の最も大切な生産場の近くに、祭場を選定することがもとは一致して居たかと思ふ。しかも多くは青空の下の祭であつたが故に、互ひによその祭の我が一門と近いことを知つて居た。此點は今日の水口祭、穗掛け苅上げ、又は稻積場の式などに今もなほ續いて居る。

　三　祭の感動、即ち尊さと有難さは、奉仕者の數が多ければ多いほど、割合以上に強く深くなるといふことの經驗。是は本家や親元を遠ざかつて、小さな人數で例祭を續ける者の、いつも物足らず思つて居た點であり、又大きな家々の祭の、よそ目にも好ましく見えた點であらう。合祀を思ひ立つた者は、必ずその小さな寂しい方の一族だつたかと思はれる。

　四　專業神職の進出。かつては一門の長老に指導せられて、老幼男女が共々に奉仕した祭が、産業の進展につれて物忌潔齋を困難にし、更に教理の解説が段々と物々しくなつた爲に、或は族中の或一人を專任し、或は氏人以外の適任者を招請するやうになつて、自身直接に祭に携はる場合よりも、又一段とこの共同が考へやすくなつた。

　五　それよりももつと大きな原因は、祭らるゝ神に對する考へ方の變化である。恐らくは佛教の影響であつたらうが、以前は人が世を去つて或期間を過ぎると、其靈を神に祀ることが出來たものが、後々は家の内に別にみたま棚を設けて、ちがつた方式でいつまでも供養をすることゝなり、氏子と氏神との間隔は段々と遠く、家との結び付きが少しづゝ弛んで來て、信仰の共通性ばかりが次第に認められるやうになり、更に又大神勸請の風習が普及して、氏神は祖神也といふ信仰が弱くなつて來て居た。この變遷が合祀に便であり、又合祀によつて一段と促進せられても居るの(407)である。

　六　祭の樂しみを人に頒ちたいといふ願ひは、自然に之を社交の上に利用する傾きを生じた。從つて或豐作の年などを機會に、祭は最も費用の多い事業となり、合同によつて其重複を避けようとする計畫が起り易かつた。他の一面から見れば、合同は祭の樂しみを濃厚にする手段でもあつた。

　七　最後になほ一つは村の統一、住民を仲よくさせる爲に、同じ日同じ處の祭を必要としたこと、其必要は世と共に痛切に感じられて來た。現に今知られて居る多くの村の歴史では、合同の主たる理由を皆この點に置いて居る。

　以上七つの外にもまだ考へられるであらうが、ともかくも村の氏神社が、現在は必ず相應な建築を持つて居ること、それと氏神社の祭神が大部分、全國有數の大きな神々と同じになつて居ることゝは、私だけは是を合同の原因とは見ず、寧ろその結果であつたと思つて居るのである。それと同樣に他の一方の屋敷氏神、即ち個々の家々に一つづゝ、別に氏神と名のつく小社を祀つて居るといふ現象も、或は亦このやゝ思ひ切つた改革の、副作用とも見られぬことはないのである。氏神は其文字が示す如く、本來氏毎に一つあるべき神の名であつた。村に共同の大きな神社を立てる場合に、それへこの名を引繼いでしまふことは、どうかと思つたのにも理由はある。それで一方をウブスナと呼び、別に各家の宅神の爲に、氏神といふ名を保留しただけで、二者は最初から別々のもので無かつたらうかと思はれる。九州の南部でも、又奧羽の北部でも、内神といふのが個々の家の神であり、それと氏神とは發音が共に至つて近い。氏神のウヂも元來は内の義だつたと言はれる。しかも年月の進みにつれて、二つの語の意味は互ひに隔絶して居たのであつた。それがゆくりなく再び接近して、今いふ内の神に古くからの氏の神の名をもつて來たといふことは、わざとさうしたのでは無いまでも、偶然に氏族の分裂して、個々の獨立した家となつて來た趨勢を語るものとして、我々には興味が深いのである。

　

(408)　　　　　　　一七　一門氏神社

　

　そこで立ちもどつて氏神の第三種のもの、即ち部落の結合を固める爲に、近世合同した村氏神でも無く、又個々の家のみが祭つて居る屋敷氏神でも無く、別にそれよりも以前から在つたと思はれる氏の氏神のことを考へて見なければならぬ。氏といふ言葉は今日はもう意味が變り、單に各人の家號苗字のことゝ取られて居るが、曾てはそれが多くの家々を連ねた一箇の結合體の名であつたことは、歴史を學ぶほどの者は皆知つて居る。今度の新民法を待つまでも無く、さういふものはずつと以前から、法令には認められなくなつてしまつた。それにも拘らず、なほ特定の家に屬する者ばかりが、合同して年々の祭祀を營むといふ、マキの氏神又は一門氏神といふものが、今も地方によつては殘つて居るのである。是が新たに企畫せられたもので無く、前に述べたやうなさま／”＼の變化を經ない以前の?態の、何か事情が有つて連續して居るものだといふことは、私には證明が出來ると思ふ。是を西洋のフオクロアに於て、殘留と稱するものゝ一種と見ることは許されるであらう。珍重し且つ十分に觀察して置かなければならぬ舊慣である。

　この第三種の一門氏神は、前の二つに比べるともう數がよほど少ない。さうして又新たなる變化の幾つかの段階に入つて居る。單にその現?を正確に記述するに止まらず、その互ひの差異と共通とを比較し分類して、推移の順序を考へて見る必要があるわけである。一つの目標として取上げらるべきは、毎李の祭を通じて、奉仕の中心となる家があるかどうかといふことで、近年は稀に例外も出來たやうだが、本來はその中心の有るといふことが一門氏神の一つの特徴であつた。之に對して第一種の村氏神、即ち數氏合同の氏神の祭には、頭屋頭人又は統前《とうまへ》といふ制度があつて、是に關する調査は最近よほど進んで來た。是は村内の主要なる若干の家が、毎囘順まはりに一年神主、即ち祭主の役を勤めるものであるが、之に對して一方に常頭屋、又は一軒頭屋といふものがあつて、この方は年々の祭主たる者が(409)きまつて居り、他の家々はたゞ從たる役目を以て滿足して居る。常頭屋の權能も次第に制限せられたのが多いやうだが、今でも宮元とか鍵取とかの名を以て、少なくとも痕跡を留めたものが各地に有る。たとへば佐渡の島で宮持と呼ばるゝ舊家の百姓などは、氏子には既に多くの他姓を參加せしめつゝも、なほ以前の氏の上の特權を失はずに居る。貧乏をしてしまへば名ばかりにもなつたらうが、ともかくも何太夫が出て來ぬと祭は始まらぬといつて、七度と半分の使を出すと稱し、八回目には途中で迎への者と行逢ふやうに出て來る慣例もあつて、古い由緒が記憶せられたのも少なしとせぬ。さうして是には一方の頭屋祭以上に、變化の色々の段階が有るやうである。近年は減少の一路をたどつて居るらしいが、その鍵取の家が世襲の神職となつて、今も御宮の隣地に居住する者だけでも、捜せばまだ相應な數であらう。さうして中古に村合同の希望によつて、他處から招聘した專門の祭官の家と、外形がよく似て居て、もう見分けにくゝなつてしまつたのもある。さうかと思ふと神職の家とは全く關係が無く、祭も表向きの日とは別に、或一まきに屬する家々だけで、集まつて年々の祭を行ふものがあり、それにも舊慣によつて村氏神の社殿を使用するものと、特に其一門だけの社があり、それへ集まつて來るものとがあつて、現代はこの第二の祭場の方にも大抵は社殿が出來て居る。外から見たところでも、又祭る人の心持にも、この二つの社殿には何の差異も無いのであるが、一方は神社であり四萬九千餘の村社の一つであるに對して、後の方は社殿も神社とは認められず、私社とか雜社とかの名を以て呼ばれ、臺帳にも計數にも顯はれて來ぬのが普通である。

　

　　　　　　　一八　神社と私社

　

　それ故に自分は、是が又一つの觀察の目標となるべきものと心得て居る。今までの神社制度、又それから引繼いだ今度の制度に於ては、神社とこゝに謂ふ所の私社雜社との境の線は、よつぽど妙な所に引かれて居る。もと／＼信仰(410)の種別ではなかつただけで無く、又必ずしも建築物の有無大小でも無いのである。長野縣町村誌などを讀んで見るとよく判るが、明治以前の神社には、各地思ひ／＼の名稱が附いて居た。さうして村々の小さなものは、大抵は社又はヤシロの名を以て呼ばれて居た。それが愈々臺帳に登録せられることになつて、村持のものはどんな無格社でも、すべて神社といふことになつたのだから大悦びであつた。熊本縣などでは出來るだけ斯ういふ神社の數を少なくする方針を執り、信仰の活きて居ると否とによらず、社殿をもたぬ社は皆臺帳には載せなかつたが、伊勢大廟の周邊などには、昔から社殿の無い社といふものが數多く祀られ、今も神社として公認せられても居る。新たなる一つの差別點は、神社ときまれば社地が無税地となる。是が大きな特典と認められ、地租を非常に重く見た百姓たちは、たゞ是一つの爲にも神社となる事に力を入れたので、此點さへ斷念すれば、私有の有税地内に神を祭ることは自由だつたのである。神社とは認められない氏神が、或方面に多く殘つて居るのは此爲であつた。山梨縣の西部から長野縣の中部以南、又北西部犀川の流域にかけては、斯ういふ私の社を氏神とは言はずに、イハヒジン又はイハヒデン、ウェーデンサマとも呼んで居るが、その中には規模構造に於て、神社の氏神と何のかはりも無いものが隨分多い。澁澤氏の研究所から出した上伊那郡川島村郷土誌、是などは夙く此社の信仰を記述したよい報告であり、東筑摩郡の方でも最近に我々の同人の手で調査を始めて居る。イハヒデンの社の名や祭神のまち／＼になつて居ることは、第一種の屋敷氏神も同樣であり、又祭の季節なども彼是よく似て居るが、たゞちがふ點は關東方面には、屋敷毎に氏神を持ち家限りで祭るものが多いに反して、イハヒデンの方は一門共同、即ち是を機會として同族の集會を催すことで、其範圍は可なり廣く、マキが大小の二段ある場合には、大マキの方の合同祭になつて居るものが少なくない。さうして其祭の中心はマキの總本家であつて之を爭ふ者が無く、又爭ひが起るやうだつたら、其結合がやがて崩れる時なのである。ともかくも現在の?況では、新たにさういふ協同を思ひ立つ機會は有り得ず、是が中絶するやうな原因は頻りに起るのだから、此まゝで進めばたゞ前代生活の遺産であり、再び生活に之を役立たせようといふ念慮が浮ばぬ限り、單に我々の祖先の(411)心持を推定する資料として存するものと、見るの外は無いのである。

　前代文化の價値を批判することは、非常に六つかしい仕事であり、又?々見落しのあるものであるが、ともかくも是は族長の實力のみによつて支持せられて來た組織ではない。個々の族人の側にも其要望があつて、今までは續いて來たのだといふことだけは認めなければならぬ。私は是を縱の連帶、即ち目に見えぬ過去の力の援護を信じたからかと思つて居るが、それは一人々々の心理を究めないと斷言は出來ない。たゞ客觀的な立場としては、さういふ必要がもはや無くなつて居るのか、はた又必要は勿論今も有るのだけれども、之に應ずべきものがなほ備はつて居るか否か、或は少なくとも備はると信ずる人があるのか否か、といふことまでは考へて見るべきであらう。たゞ昔から有つたから有るといふやうな、あやふやな見方だけはよく無いと思ふ。

　

　　　　　　　一九　氏神社の祭神

　

　私などに言はせると、日本の神社の成立ほど、單純で自然でわかりやすいものは無い。國内の最も大きな御社から、端々の無名の小社にまでも共通して、又一方には上世の記録にも表はれ、更に目の前の生活にも幾多の例のあることは、同じ血筋に繋がる者が集まつて、共々に同じ祖先の好意に信頼し、又是に感謝しようとするのが、社に於て神を祭り始めた唯一つの動機だつたといふことである。どうして此樣に明白なものを、わざとわかりにくゝ六つかしく解して行かうとしたものか。歴代の神道家の解説といふものには、寧ろこの單純なる事實を認めまいとするものが多く、しかも互ひに前者の説を覆へして來て、殆と彼等どうしの間の一致といふものが無い。實に珍しい學問上の現象と言はなければならぬ。

　或は單純といふことがそれ自身弱點であり、わかりよ過ぎるといふことが却つて民衆の知識欲に合しなかつたもの(412)か。私にはまださうまでは思はれないのだが、ともかくも神社の構造は、時代を重ねて段々と複雜なものになつて居るのだから、其經路を尋ねて行くには、やはり外部に現はれた複雜化の順序を、見て行くの他は無いかと思はれ、出來るならばその一つ／＼を、丹念にしらべて置きたいものと思ふ。

　歴史の上に跡つけた一ばん大きな事實は、何と言つても勸請神の増加、即ちどうして村々の氏神の社、又めい／＼の屋敷神、及び一門の共に祭る氏神の名が、いつの間にか他處の大きな神々たとへば稻荷であり八坂であり、北野や八幡であつたりするのかといふ點であらうが、是は時代によつて少しづゝ態樣がかはつて來て居る。それを新しい方から逆に時代順に竝べて見ることが、幾分か我々には呑込みやすいかと思ふから、其方法で話を進める。他處の大神を迎へ祀つた最近のものには、神職修驗又は巫女などの參與したものが多い。仍て假に之を（一）行者勸請と名づけて置く。勿論勞力經費を負擔したのは土地の人だつたらうが、その信仰を指導する者が無かつたら、容易にはかういふことは實現しない。從つて是は最初からやゝ廣範圍の影響を豫期した計畫だつたとも言へる。即ち當該氏子たちの爲ばかりだつたとは言へない。都府が大きくなるにつれて、次第にこの計畫は進み、中には今はまだ神社の形にまで進まず、年と共にその傾向を著しくするものが、近代はよほど數多くなつた。今後も恐らくは是が社會上の問題になることゝ思はれる。

　その一つ以前の樣式としては、（二）信者勸請とも名づくべきもの、是が今日地方の神社の中には相應に有る。蔭には是も行者の躍動があつたらうが、ともかくも信仰の中心を爲すものは個人であつて、從つて其影響は狹く所在地に限られ、又成功率といふのもをかしいが、それが、永久の神社となり得る歩合は小さかつた。しかし歳月を重ねるうちには其數は相應にたまり、各府縣の明細帳から算へ出して、何百何十といふ同名の神社が、驚くぺく併立して居る。斯ういふ表面の事實は誤解を導きやすいが、實は此中にも本社から御迎へ申したのでは無く、たゞ何と無くさう改稱したものも相應に多いことを、私などは認めて居る。一つ／＼の場合を説くことは煩はしいから控へるが、たとへば(413)尾張地名考には神社の名の由來として、もとは土地の名を呼んで、たゞ明神さんとか氏神さんとか謂つて居たものが多かつたのを、それでは由緒確かならずとして取潰されさうな虞れがあつたので、村役人などの作略として、名ある神の名を以て巡見使に答へた。殊に八幡は�ｺ川樣の氏神だから、大事にせられるだらうと思つて八幡宮ですと謂つたものが多かつたとある。それもたゞ若干の例といふまでだらうが、水戸領などでは近世の寄宮《よせみや》政策即ち神社合併の際には、むしろ八幡の數を少なくする結果になつたとも言はれて居る。即ち此名の社號が以前から、特に増加する傾きをもつて居たのである。さうして是等は皆新たなる社の創立では無くて、今まである神社に更に別の神を迎へ添へたといふものだつたらしい。

　

　　　　　　　二〇　勸請古傳の誤り

　

　斯うした神社の中のやゝ目ぼしいものには、いつの頃出來たものとも知らず、社傳又は縁起といふものが備はつて居る。それには延喜式の神名帳以前、或は神祇令の公布よりもずつと古く、地方に何の記録も無い大昔の御代に、神をこの地に勸請したとするものが、流行といつてもよいほどに例が多い。今の氏子がさういふことを言ひ出したので無く、前から言はれて居たとすれば、それを受繼がぬわけにも行かなかつたらうが、今となつては社關係の人たちでも、腹から之を信ずる者は少ないのである。延喜式の神名は全國に亙つて、三千一百餘座の重要な神社を列擧して居るのだが、その中には斯ういふ全國同名の神社といふものは、絶無ではないが至つて少ない。この時代とても、一つの氏族が分れて遠方に移住する際に、前から祭つて居た神を奉戴して行くことも有り得たのだけれども、それでも行く先々で社の名は別々になつて居た。だから折角上代に勸請したと社傳にはあつても、式内にも見えない位だから微々たるものだつたと言はれても致し方が無く、又少なくとも斯うして各地同じ名の社を立てるといふことは、あの時(414)代まではまだ普通でない風習であつた。

　延喜式は有名な、人のよく見る本だけれども、わざ／＼斯ういふ點まで考へて見ようとする閑人は少ない。そこで枝路にはなるがごく大體に、此書の示された神社名の表記法を通觀すると、それは地方毎によほどちがつて居る。多分は國司の録進が元であつたらうから、土地毎の神道知識にもう若干の差異があつた結果と見てもよからう。一例をいふと伊豆とか出雲の一部とかには、神の御名とおぼしきものを、直ちに社の名としたものが少しあるが、それも現存の神代史には出て居ない樣な、やゝ變つた御名ばかりである。神の御本名がもし有つたとしても、是を凡人が口にすることはタブーであつたらうから、外に現はれて居るのは御異名、又は新名假名と解すべきであらう。その他の大部分の場合には、二字づゝ繋がつた地名と思はるゝ固有名詞を冠して居る。是には中間に坐といふ文字が挿まれたのが幾つも有るから、多分は其名の土地に鎭まります神といふ意、即ち地名を直ぐに神の御名としたので、是に比古《ひこ》比�刀sひめ》の二神が有るのは、たゞ男女二柱ありと知るのみで、つまりは神の御名には祭場の地名を呼んで居たものと見られる。此等の地名は、今日も跡つけ得られるものは半分にも足りない。しかも一方にはそれと同名の家があつたことは姓氏録でもわかり、又一方には何々氏の祭る神の社と書いた例もあるのだから、曾ては神も、祭る人も、共々に其地名を以て稱へられて居たことが察せられる。即ち今日の何村の明神樣、どこそこの氏神と謂つたのと最も近いのである。いはゆる式内社は必ず殘つて居るもの、今有るどれかの神社が必ずそれであらうといふ前提から、近世二百年ほどの間、盛んに其場所の穿鑿と、それが此社のことだといふ考證とが行はれたものだが、僅かな大社を除くの他は、實はさうはつきりとしたものは有り得なかつたことは、延喜式公布の後二百年もたゝぬうちから、もう所在の不明な社が出來て居たのを見てもわかる。氏が大に衰へ又はさながら他へ移つてしまふと、氏の祭場は絶え社も無くなつてしまふのは、寧ろ社といふものゝ本來の性質であり、又この時代の實情であつたかとも思はれる。

　

(415)　　　　　　　二一　祭場の異動

　

　少し枝路に入り過ぎたがもう少し此話を續けると、延喜式は我邦の前代文化を尋ねる人たちに、今後も非常に役に立つ文獻と思ふが、名の高い割には今はまだ利用者が少なく、殊に神祇史の方面などは、妙に研究が偏よつて居た。國中三千以上もの神社の名が、すでに千年もの昔に於て、わかつて居たといふのは大きな事實であるのに、それをたゞ自分たちの社が是だと主張する方にばかり、地方の學者は力瘤を入れて援用して居たのである。神名帳考證といふ類の大きな書物が幾つも出來、又各郡の地誌類にも、其地方の記事は必ず出て居るが、其説にはこじつけが多く、證據力の不足を少しも氣にして居ない。東京の周圍でも、青渭神社又は虎柏神社などは、何箇所もそれは我社のことだといふものがあり、之を決定することが誰にも出來ない。さうかと思ふと伊豆などには式社が多すぎて、割當てにも困つて居り、能登の或郡では仲よく分配して、不平のものが無い故に、反對説が出て來ず、もう確定してしまつて居る。根本の誤りと言つてよいのは、一旦公けの帳簿に載録せられたほどの神社ならば、今も必ず何處かに存續する筈、現在の數ある神社のうち、何れかゞ必ずそれであらうといふ推定である。是は今日の如く掛り切りの神職があり、又常設の建築物などもあつてこそ、始めて考へられることである。氏を代表する家の長が中心となり、一族共々に氏の神を祭つて居た習慣などは、政治經濟その他の外部事情から、其氏族が退轉し衰微すれば、中絶してしまふのが寧ろ當り前であらう。つまりは祭を管理した家が絶えても、祭る人が居なくなつても、なほ以前の通りに繼續して祭ることが出來るやうになつたのが、延喜式以後の日本神道の變遷だつたのである。

　それから今一つは是とちやうど正反對に、式の神名帳の出來る以前から有つて、しかもあの中には列擧せられなかつた神社にも、なほ稀々には今日まで、取續いて居るものが有るかも知れぬ。といふわけは式の列記に出て居る神社(416)は、地方によつて驚くべき多少の差がある。たとへば陸奧國と謂つた現今の四つの縣には、通計一百しか官知の社は無かつたのに、伊豆はあの狹い半島に九十二の式社がある。西國の方でも壹岐對馬の二つの島には各々二十社以上もあるに反して、九州南部の國々には四社又は二社しか無い。同じ一箇國でも近江などは、湖南には僅かしか無くて湖北にばかり固まつて多い。つまりは延喜七年の頃に、地方に現存した神社の中から、平均に主要なる神社が拔き出されて居るとは思はれず、人口の疎密といふことはあつたにしても、それに比例した神社の數が、報告せられて居るものとは見えないのである。從つて稀に條件の最も好都合であつた土地には、官に知られざりし古い社が、そつくり保存せられて居るといふことも有り得たのである。

　しかし大體に中央部に近い田舍では、ひどい戰亂時代の荒廢があり、又は繁榮に伴ひやすい色々の災害があつて、住民が離散し次の者が入つて住み、完全に入れ替つた處も少なくないだらう。家々の榮枯盛衰は均等でなかつたらう。しかし記録に見えて居る所からいふと、大體に滅びて無くなつたのは有力な本家嫡流だけで、端々の支族はなほ踏止まり、もしくはやゝ離れた土地に立退いて、なほ取續いて居たものが多かりさうに思はれる。昔通りの形で以前のまゝの祭場に、年々の祭をくり返すことは出來なくとも、彼等も亦めい／＼の神社をもたなければならなかつた。どこかに信仰はなほ續いて居た筈である。故に式内の神社の跡はどこかといふことを尋ねまはるよりも、その一旦絶えたる氏人等の祭は、如何なる樣式によつて今も傳はつて居るかといふ方に、我々の注意は向けなければならなかつたのである。

　

　　　　　　　二二　神社の個性

　

　氏族の分裂といふことは、社會の一大變化には相違ないが、それが忽ちにして家々を昔の信仰から絶縁せしめ、新(417)たに他處の大神を迎へ申すことになつたといふのは、ちよつと想像しにくいことである。假に社傳の主張するが如く、古い頃の勸請にかゝるといふことに僞りは無いとしても、然らばその勸請の時までは、祭はどうして居たか、どういふ神を祭つて居たらうかといふことが、やはり問題とならざるを得ぬのである。住民はちやんと有つて、神の祭は無かつたといふ場合は考へられない。去年の冬まで祭りつゞけて來た神を押のけて、新たに有力な遠來の神々の方に、信仰をふり向けるといふことは改宗であるが、二箇所三箇所の特別の例ならば格別、全國一樣に是が行はれるといふことは有り得べからざる話で、それには何かまだ説明せられない永い期間の徐々たる推移が、あつたものゝ樣に自分などは見て居るのである。

　段々にその證據も現はれて來るものと、希望して居てよからうと思ふ。全國に至つて數の多い八幡社、もしくは天神社に就いて見て行つても、其信仰は決して統一したものでない。或ものは先づ祭の日と祭の式を異にし、それが甲乙相似て居た場合にも、なほ祭神に關する言ひ傳へがかはり、又神�ｺといふものにも個性がある。たとへば此土地の氏神のおきらひなもの、胡麻栽ゑず松植ゑずの類、鷄精進や卵を食はぬ戒め、馬を飼つても葦毛は飼はぬ。又は黒の馬だけは決して育てない。それは神さまの御召用の毛色だからといふやうな話が、多くの村にはあつて固い人はなほ守つて居る。國にたゞ一つある神の分身としては、合點の行かぬほど土地毎にいふことが區々である。或は又隣どうし、神さまは仲が惡く、曾て大きな喧嘩をなされたと謂つたり、又は特別に親しくて行逢祭、うはなり祭といふものさへ行はれる。つまりは同じ名の神であつても、祭場毎に別々の歴史が有るのである。日本では奇妙なことに、同じ考へ方が佛法の諸尊にまで及び、所在によつて奇瑞靈驗の驚くべき差等がある。ことに地藏や藥師などは、殆と一つ一つの御像が個性を具し、何處で拜むも同じといふわけには決して行かない。あの方面の人たちもとんと説明しようとしないが、是は文化史的に大きな意味のあることで、新しすぎる用語ながら、日本でならば氏神化、又は家神化と呼んでもよいのではないかと思ふ。別の言葉でいふと、外から新たに勸請した神々にも、始めて之を迎へた家又は個(418)人の、念願又は念力といふものが永く附き添うて居たらしいのである。今日もなほ認められる相殿思想といふもの、即ち本來は全く因みの無い二種以上の神々を、一社に祀つても少しも氣にならない人心なども或は基づく所が是だつたのではないか。表面に名は出なくても、氏神によその神を勸請するといふのは、元の氏神の思し召し又は許諾といふ以上に、神が氏人と心を合せて、新たに第二第三の神を、招待せられるといふ考へ方で、元の祭神の交代又は退隱を意味したもので無かつたやうに私には見える。是も新神宣教の感化とは言はれようが、それは折合ひの餘地の最初からあつた融合で、征服とか乘取りとかいふやうな變革で無かつた爲に、土地には是を大昔からの姿のまゝのやうに心得た者ばかり多かつたので、單なる行政廳の取締方針によつて、かゝる現象が生じたかの如く解するのは、あまりにも皮相の見であつたらう。一萬二萬といふほどの全國同名の今日の神社が、たゞ外部からの影響に由つて現はれたとは　恐らく何人も言ふことは出來まい。

　

　　　　　　　二三　中世の勸請

　

　そこで漸く本筋に立戻つて、神勸請のもう一つの古い形式には、（三）領主勸請といふべきものがあつたことを述べよう。日本の封建制の一つの特色には、氏族の分裂を必然とする遠方の加恩、即ち領地の増給があつた。殊に源平の興廢以後、功勞のあつた武家は皆遠國に新領地をもらひ、それを子弟の間に分配しなければならなかつた。或は餘りに強力な大名を作るまいとの心遣ひからであつたか、とにかくに彼等は是を管理人には委ねず、入部と稱して多くは始めての所領に來て住み、もとは大抵開發と新村創立を伴なうて居た。その新領主が自家の神社をもつ必要を感じたのである。多くの場合には本居本家の分靈を迎へようとし、たとへば藤原氏の者ならば春日神社を、祀つたといふのが多かつたと思はれるが、斯ういふのこそ元の神が無かつたのだから、單一なる勸請でよかつた。本來は新立の家に(419)はその新しい家の始祖を、祀るのが當然であつたのだが、それをせずして本家の祖神、さうで無ければ源氏に縁のある八幡神社などを、創建するのが例となつて來たかと思はれる。しかし新規に家の誇りになるやうな大社を立てるといふことは容易な業ではないので、後々は土地に今までの由緒ある大社を指定して其領内の守護神とし、兼て又我家の氏神のやうにも崇め祀つた。古い城下町には必ずさういふ大社があり、歴史は新しくとも今日はやはり之を府縣社として居る。さうして領主はこの一社以外にも、なほ神田を寄進したり幣帛を供進したり、その他色々の方式を以て他の幾つかの神社の祭禮に參加して居た。大體に平安京時代の神祇政策の踏襲ではあつたが、是にも自家の個人祈願が加はつて、公私の境を不明ならしめたことは、所謂二十二社に對しての朝廷の敬神とその經路はよく似て居る。

　鎭守といふ言葉の起りは、もとは佛教に在つたやうに思ふのだが、茲に至つてかやゝ内容が變化して來て、幾分か最近の社格制度に近くなつて來た。明治の初年には或は其方針を追はうとしたものか、後年とは少しちがつた神社行政組織を、採らうとして居た形跡が有る。即ち郷社をして其管内の村社を統括せしめようといふ企てゞある。是は行はれずにしまつたやうだが、とにかくに郡社と名づくべきものは終に出來ないで、其代りに郷社といふ一つの階級が加はつて、是にやゝ大きな地方的指導力をもたせようとしたのである。方法さへ當を得たならば、或は是で若干の統一が保たれ得たかも知れぬが、事實に於ては郷社と村社はたゞ對立のものとなり、名の相違は殆と意味の無いものに今はなつて居る。神職の兼務なども、それが出來るとよほど經費を省くのだが、祭の季節が同じな爲に思ふやうに行かない。しかしとにかくに今日の郷社の中には、舊藩時代にやゝ特別の待遇を受けた、いはゆる一郷の鎭守があることは事實であつて、それも領主自らの新勸請で無いものが多く、半分は古來のやゝ有力な邑里の氏神社を、鎭守と公認したものがあつた結果、地方によつては氏神をも鎭守さんと呼ぶやうになり、二者の區別がやゝ立ちにくゝなつて居る。根本に溯つて見れば、二つは全く別々の考へ方に出たのであつた。

　

(420)　　　　　　　二四　總社と集合祭祀

　

　次に勸請の今一つの古い形に、（四）國司勸請といふべきものがある。伴信友翁の神社私考附録の他に、武藏の大國魂神社の社家猿渡氏の著書、總社誌又總社或問などといふものがあつて、此事を細かに研究して居るが、全體に記録の證據の乏しいのは、多分中古の地方制度がやゝ頽敗してから、在廳とか目代とかいふものゝ手で、それが行はれたからだと思ふ。以前は國々の守が着任すると、先づ管内の大社を巡拜することが慣例であつた。それが非常に大がかりな行事であつた爲、惰けて勤めない者が次第に多く、いつと無く武藏府中といふやうな國府の所在地に、主要なる社の神々を御迎へ申して、坐ながら祭を奉仕する習はしが始まつたかと思はれ、又その祭場の地が別に一つの社となつて居る。大國魂神社といふ延喜式内の神は、武藏以外にも方々の國に在り、それは其地方の舊住民、取分け有力なる土豪の氏神であつたらうと私は解して居るのだが、その神社の舊地が果して爰であつたかどうかにはまだ問題が有る。土地での稱へ方は爰を六所樣といふ。同じ名前は武藏のみで無く、又相模の國府の附近にもある。即ち管内の最も大切な六つの社の神々を、年々是に御迎へ申して、國司が自ら祭を營んだ土地であり、それが今日獨立した一社となつて存するのを、又總社とも謂つたまでが一致して居る。

　この總社といふ社の名は、武相二國の外に、他の國々の國府所在地にも例は多く、もと集合祭場といふ意味であつたことはほゞ疑ひが無く、是が又國府の地を繁昌せしめる手段にも供せられたかと思ふが、ともかくも是は勸請であり、もとの御社の地とは別だから氏神では無く、又古い意味に於ける氏人も無かつた筈である。しかも管内住民の目から見れば、自分々々の本居の氏神よりは、又一段と重い、階級の高い社であるやうに感じられ（役人が祭るから）、村に止まつて少しも外へ出ぬ者は別として、出でて大きな社會に携はつた人々に取つては、或はめい／＼の氏の神以(421)上に、是にも崇敬を寄せなければならなかつたかと思はれる。他の言葉を使ふならば、彼等の信仰は之によつて二つに分れたのである。内外二通りの神を信ずる因習のもとは、斯ういふ所に胚胎したのかもしれない。但し此點は、京都の住民が地方よりもずつと早く經驗して居る。或は伊勢の神宮の周圍に住む人もさうであつたらう。即ち祭の行はるゝ日が同じでなければ、大抵の者はこの大きな國の御社の方にも參詣し、又何か切なる願ひ事があれば、我一門の祖神以外に、この大きな御社にも行つて?つたらう。それを又然るべき事なりとして勸説する者が、大きな神社の方には必ず附いて居り、一方各自の氏神の方には、わざ／＼外の信者を導くやうな、機關は備はつて居なかつたのである。日本人が元來他人の信仰に對して、非常に寛大なる國民であり、且つ一方には佛教の信仰も併行して妨げなかつたのだから、必ずしも之を大きな變革とまでは見られぬかもしれぬが、個々の地方の住民にとり、又日本人全體としては、各地にこの樣な有力な總社が出來、官民の主なる者が祭に奉仕して見せたといふことは、氏神信仰に對する小さくない動搖であつたと思はれる。

　

　　　　　　　二五　鎭守神の起り

　

　右の如く、總社と稱して多くの社の神を一處に祭るといふことは、神社神道に於ける大きな變革と思ふのだが、是は明らかに國府の宮が最初ではなかつた。これとほゞ同じ頃か、或は幾分か是よりも早く、新たに創立せられた京都の寺院には、必ず鎭守神を勸請し、それを又總社とも謂つて祭をして居た。法成寺の鎭守總社などは其中でも著名であるが、地方の若干の新立寺院にも同じことがあり、それが恐らくは又國府總社よりも前かと思ふ。さうすると爰に又（五）寺院勸請といふ一つの形を、考へて見なければならぬのである。

　佛教徒がその寺内に齋く神社は、全く新しい創設であり又選擇であつた。彼等の癖ともいふべきものが二つある。(422)一つは遠方の思ひも付かぬ神を迎へて來て祭ること、赤山明神や醍醐の清瀧權現などはその著しい例であるが、是も或はもつと古く、歸化人氏族などから出た僧たちの考へて居たことかもしれない。今一つの癖といふのは、著名なる處々方々の神を、新たなる思ひ付を以て結び合せることで、三所五所七所といふ類の社の名、甚だしきは十九所三十八所などといふのさへある。この數は多分彼等の教理、曼陀羅思想とでもいふべきものであらう。又その配當にも物々しい説明は必ず付いて居るだらうが、何にもせよ是は我邦固有の思想ではない。日吉の二十一社なども、山僧は何と言はうとも、神の名を見れば寄せ集めとしか見えない。さうして總社といふ名は寧ろこの方にふさはしいのである。國々の廳ではこの名を借用しただけでなく、もとは官舍の所在に鎭守の神を祀るといふことも、一括して法師より學んだのかも知れない。

　何れにもせよこの集合祭場の方式といふものは、著しく我々の神社神道を變化せしめて居る。ことに社を單なる祭の庭で無く、常住の設備のやうに考へるやうになつてからは、一方に多くの合同祭を華美な樂しい昂奮にしただけには止まらず、更に進んでは近代盛んに行はれたやうな、いはゆる神社合祀を可能にし、縁もゆかりもない色々の神々を、二十柱も三十柱も小さな社殿の中に、集めて齋くといふやうなことをして、少しも氣にかけないやうになつてしまつたのである。それも神毎に定まつた祭の日に、それ／”＼に御仕へ申すならばまだわかつて居る。日も一つにして御膳も別々には供へぬほどの神々を、たゞ御名前ばかり數多く竝べて置いてそれが何になるだらうか。社が本來は神を祭る場であつて、祭に仕ふる者が居なくなれば、自然に其跡が無くなつてしまふことを、何か非常に惡いことでもあるやうに、考へるやうになつたのが誤りではなかつたか。この點は今に實際問題として、諸君が答へなければならぬ時がやつて來ると思ふ。

　神を單一に引戻すといふことが、國の固有信仰を純化するに必要なる方法ではないかどうか。是も亦考へて見なければならない。或は氏神は祖神だつたとすれば、これも始めから多い數だつたらうにと詰問する人も有らうが、私は(423)他でも説明したやうに、氏神には融合一體の信仰が古くあつたと思つて居る。諸國の國魂神は延喜式では一座、又は比古比�涛�神としてのみ祭られて居る。沖繩の御神棚でも男女の二座、人は死後三十三年を限りとして個性が消え、その大きな靈體の中に融け込んでしまふといふ考へ方は、我々の間にもなほ傳はつて居るかと思はれる。それをいつ迄も別々に供養しなければならぬとなつて、新たに却つて無數の祀られざる靈が生れたのであつた。乃ち斯ういふ方面に於ける佛法の影響は、可なり大きくもあり、又煩はしいものだつたかと私には思はれる。

　

　　　　　　　二六　前代の統一政策

　

　しかし見やうによつては是は大きな綜合であり、同時に又國民の結合協力を進める途だつたと言へるかも知れない。もしも一つ／＼の氏族に於て、自分たちより他に祭る人の無い神々だけを祭ることに、全力を傾けて居たとすれば、それは割據であつて統一が得られない。故に何等かの一貫した解説、又は利害の共通點を求めなければすまなかつたと、言ふことまでは正しいので、それは確かに國として力を盡した所であり、又その方式も立つて居た。ただそれを後世の人々が、はつきりと認識しなかつたのだと自分などは觀て居る。我々の皇祖が始めてこの葦原の中つ國に御入りなされたときには、既に國土には或文化に到達した住民が居た。邑に君あり村に長ありといふのは有名な言葉で、彼等は　　　各々その傳統の祭を續けて居たと思はれる。それが幸ひなことには、互ひに相杆格するやうな信仰ではなかつたのである。天朝はそれを公認し又崇敬なされて、いはゆる天神と地祇との間に何の差等をも立てられなかつたこと、是が國の敬神の本義であり、國民も亦範をそこに求めて、互ひに他の氏々の神祭を尊重したことは、國初以來の一大方針であつたらうが、是にはおのづから内外自他のちがひがあり、内に在るものは信仰であつても、外に對するものは禮節といつてよいか、とにかくに信仰では無かつたものと思ふ。それが互ひに隣を爲し、知り親しむことの深きを(424)加ふると共に、少しづゝは外なる神々の力を認めるやうになりかけて居たといふことが、欽明天皇の十三年、新たに有力なる海外の一種の神を迎へ入れんとした機縁を爲したかと思はれる。我邦では秦の川勝の打ちきたましたといふ常世神の例が一つ、他には此前後の記録には見えぬやうだが、民族交通の或段階に於ては、斯ういふ變化の起りやすかつたことは、耶蘇教渡來前後の羅馬などがよい經驗である。神の靈異の種々なるちがひ、もつと露骨な言葉を使ふならば、神の功績の分業といふべきものが、いつとは無しに他氏の神をも信ずるやうになる素地は作つて居た。さうして更に今一歩を進めて、我神の御力及ばず、たま／＼或區域にはそれよりも更にすぐれた神があるらしいと、考へるやうになつたのは佛教の感化といつてよい。

　近世の神道學者は、斯ういふ風に考へることを非常に嫌ひ、神すらなほ佛の�ｺを認めたまふと説くことを以て、迷妄又は冒?であると論破しなければ止まなかつたが、その正しいか否かは別にして、それが中世久しきに亙つての、神に奉仕する者までの常の考へ方であつたことは事實であつて、神御自らもさういふことを説き示されたといふ記録が、無視し切れないほど澤山に殘つて居る。今日の感覺からいふと、反撥せずには居られぬことであり、自分なども少年の時から、?々昔の人たちの不甲斐なさを憤つたものであるが、さて考へて見れば、是は多神教の民族としては、寧ろ自然なる推理法で、さうで無かつたら神道の統一は付かなかつたらう。殊に人間の魂が靈と清まはつて乃ち神となると信じた我々が、その神々のすべてに、萬能の力を認めて居なかつたとても不思議は無い。古來の我々の氏の神には、全く豫想の出來なかつた新たな災厄、又新たなる不安が、社會機構の複雜化すると共に、次々と我々の生活を脅かし始めたのだから致し方が無い。其事だけは我方に祈るよりも、其々の神に往つて御願ひ申せといふ樣なことを、夢に又は託宣に、神の御言葉として承はつたといふのも、言はゞ民衆の心理の映發であつて、即ち彼等は自らもさういふ風に思ひ得たのである。新たな意外の神々の出現する機會は多かつた。勸請神は要するにその有力なる一つの現はれであつたと私は思ふ。

　

(425)　　　　　　　二七　水の神の信仰

　

　他神祈請の必要の最も早く、農民の間に現はれたのは、灌漑用水の補給であらう。自然の水流がいつも過不足無く、稻田の水を保障し得るやうな土地は限られて居た。ほんの僅かばかりでも、その比例以上に耕地を擴張し、又は川池の水路を大きくすると、すぐに旱魃又は洪水の危險が現はれる他に、又年々の季節によつて、調節の困難は加はつて來るのである。といふうちにも殊に水不足が氣遣はれた。數多い氏族の中には、稀には此點に於て有力な氏神を持つ者があつたことは、式内の神社の名からも想像せられ、今日の村氏神社の中にも、雨乞蟲追までの祈願を掛けるものが少なしとせぬが、大體からいふと是だけではなほ心もとなく感じたものか、別に雨の神や雷の神の爲に、祭場を設けた例が、東國方面には普通といふ程にも多い。今ある雨乞の方式なども、古くからのものと思はれるが、是には全國を通じて龍王雨をたまへと、高く唱へてあるくことになつて居るのは、多分は亦一つの信仰の變化であつたらう。龍王といふ言葉は勿論佛説に出たらうが、よく見ると内容は外國のものと少し變つて居り、漁師の祭るものは海の神、農民の雨を?るのは天上の神の如く感じられる。今のところまだ確かな證據とては無いが、自分は東日本の天王といふ神が、本來は水を掌り又雨を施し、この龍王と基づく所一つでは無かつたかと思つて居る。然るに近世はその多數の天王社が、大抵は祇園の牛頭天王と同化し、今は殆と皆八坂神社と呼ばれることになつて居るが、京の祇園の本社は素より、一時宣教の最も盛んであつた尾張の津島神社さへも、まだ入込まなかつた土地にもなほ天王社は多く、一方に神社とは關係の無い民間の天王祭が、年中行事としてなほ農村には行はれて居る。さうして雙方三方に共通なる點は、祭が六月の稻成育の季節に於て行はれることであつた。九州の方面ではこの六月中の祭を、專ら川祭の名を以て呼んで居るが、是には瓜と川童との俗信だけは結びついて、牛頭天王の信仰とは縁が無い。津島の天王も現在は祭(426)神を素尊とし、八坂とよく似た解説を展開せしめて居るが、その成立の言ひ傳へも、又祭の儀式に於ても、本來二つ別箇の系統だつたことが考へられる。或は是にも亦本來は、水の神としての信仰が重きをなして居たのかも知れない。

　然るに一方の牛頭天王に至つては、少なくとも記録の指示する限り、最初から防疫の神であつた。それも疫病を敵として討伐したまふのでは無しに、是を制御して其暴威を鎭めようとせられたのであつた。新しい都市の生活が、國の固有信仰に與へた影響は、ちやうど祇園會の創始時代に於て現はれ始めて居る。幸ひにして事實が正史に傳はつて居るので、少なくとも京都四近の事情だけはわかるが、第一には政治の大きな變革に基づく人心の動搖、外國交通の擴大、それから經濟の繁榮に伴なふ人口の密集、この三つの時代特徴が原因となつて、新たに災害の豫期せざる種類を加へた。さうして疫病はその主要なる一つだつたのである。枉津日神《まがつひのかみ》の思想は此時代を境として、著しい轉囘をしたものと私などは見て居る。一言でいふならば靈の荒びといふことで、之を慰撫する爲の祭式と共に、靈を統御する強力なる大神を、?るべしといふ信仰が起つたのである。いはゆる御靈會には二つの方式が始めからあつた。上下の御靈神社の起りなどはその一つで、是は八所の御靈といふやうな祟りを爲す惡靈を、直接になだめ申すもので、もし仲介者が有りとすればそれは佛教であつた。第二種のものは別に其上に有力なる統御神を認め、その神�ｺに依つて惡靈の害を遁れんとしたものであつた。祇園も少なくともその最盛期に於ては、主神を重視してこの第二の祈願に進んで居る。北野も始めは八所の御靈と同樣に、神自らの憤怒が災ひを爲すものと解せられて居たのが、後に度々の啓示があつて、神に乞うて其眷屬神の暴威を、抑制せんことを期したのは祇園と近い。前にも説いたことがあるから此點は略して置くが、ともかくも天王統一の主たる動機になつたのは、祭の月が六月であつたことで、それはたま／＼水の災害の殊に怖れられた季節が、農民の最も水を欲する時だつた爲のみで無く、何かこの行疫の神の祭を、特に早川の流れの岸に於て營むべき理由があつて、其日を從來の水の神の祭の日にきめたのかと思ふ。京都も初期に於ては美田の地であり、又當然に集約農法の行はるゝ農地區でもあつた。或は氾濫の災禍に伴なうて疫病の害が考へられ、後(427)次第に後の方に偏よつて來たのではあるまいか。少なくとも外部の人の目から見れば、御靈會は特に法會式な、珍しく又心を引かれる花やかな風流の祭であつた。

　

　　　　　　　二八　若宮と御靈

　

　聖靈會といふものゝ起原が、もしも御靈會と一つだつたとすると、是は北野にも石清水にも、又｜太秦《うづまさ》にも大阪の天王寺にもあつた。私はまだ佛教徒の説明がどれほどの史的根據を持つものかを究めては居ないが、少なくとも八幡宮は石清水鎭座の時から、すでに御靈信仰の第二種のもの、即ち部下に澤山のよく憤る神を支配し、衆人の願ひを容れてその鎭撫に力を傾けたまふものと、信じられた神であつたことはほゞ明らかである。勿論後世の解釋は大いに改まつて居るが、なほ若宮八幡の信仰に於てその古い痕跡を今も存して居る。例は幾つでも擧げ得られるのだが、つまりは此神社では神の眷屬は數多く、必ずしも神の御子では無くとも之を若宮と呼び、後には今まで少しも縁の無かつた人の御靈をも、その若宮の列次に加へるまでの方式が備はつて居たのである。たつた一つの例を引くと鎌倉の若宮八幡、是は鶴岡本宮よりもずつと早く、源頼義が奧州の安倍退治の歸途、由比の濱邊に始めて祭り始めたといふから、古くは大隅の隼人誅戮の直後、亡靈供養の爲に放生會を始めたといふのとほゞ同じやうな言ひ傳へが有つたらしいのである。しかもこの鎌倉では、後鳥羽院天皇の御靈を安めまつる爲に、更に今一つの今宮をさへ建てゝ居る。この事はずつと以前の「民族」といふ雜誌に、「人を神に祀る風習」と題して詳しく述べ、又鎌倉權五郎といふ祭神も、八幡に從屬した御靈であらうと説いたこともあり、其意見は今も格別かへては居ない。九州方面の神社には、正八幡にも權五郎景政を相殿とすといふものが少なからず、更に日向大隅の八幡社の中には、祭禮に大人彌五郎といふ人形が行列に加はるものが幾處かにあり、この大人は大昔、八幡神に治罰せられた隼人のことゝも言はれる。同じやうな例は中(428)國から東にも折々は聽くところで、現に彌五郎殿といふ從神を末社に祭るのも、決して尾張津島の天王だけには限らない。つまりは御靈の音讀から、是等の五郎といふ名は出たらしいのである。私の説明のし方が拙く、又證據も十分に集まつて居なかつた頃のこととて、其頃の學者たちの賛成は得られなかつたが、それは皆八幡が御靈統御の大任をもつて居られたことを、心付かずに居た人の多い結果に他ならぬ。つまりはこの御靈といふ言葉の意味が、ちやうど平安奠都の頃を境として、ただ怖るべき作害神だけの名となつてしまつて居たのである。

　石清水の八幡宮が、延喜式の神名の中に名を列ねて居られぬことを、非常に訝かしく思つた學者もあるが、是は固より單なる疎漏では無く、何か深い仔細のあつたものと思ふ。たゞ訝かるだけでは無く、是非どうか其理由を突留めてもらひたいものである。祇園も延喜式より百年餘も前から有つたに拘らず、やはり官知祭の帳の中から省かれて居て、その理由はたゞの所謂式外社と同一視することは出來ぬのである。恐らくはその最初の祭の式がはつきりと他の普通の神社とはちがひ、たとへば法師が内陣の儀に參加するとか、經を誦するとか、魚鳥を神供とせぬとかいふ類のことが、之を神の祭場とは思はせなかつたのであらう。祭日考の中にも注意してあるが、宇佐の本社に在つては二月十一月卯の日の大祭があつたのに、石清水のみは祭の中心を八月十五日の放生會に置いて居る。會《ゑ》といふのは例外なくすべて法會であつた。

　或は新しい意味に於ける御靈を祭るのが主であつた故に、之を神を祭る式と區別すべしと認めたのかもしれぬ。後々この區別がやゝ漠然となつた、といふよりも佛法の靈の供養式が、追々と神の領域まで浸潤して來たと見てよからうか。本來は人の靈も終には神として祭らるゝものと、古くから我々は考へて居たのだが、それには準備の期間があり又方式があり、子孫一門が自ら祭るといふことゝ、或年數の間別途の祭を重ねてから、それを次々と氏神の中に送り入れるのが條件であつたのが、穢れを好まぬ人心から、先づ此部分を佛徒の管掌に委ねたこと、それが此變遷の始めかと私は思つて居る。其上に動亂は世を累ねて、いはゆる不祀の鬼を増加し、人が新種の災害の多くを以て、寃癘(429)の所爲と解するやうな不安が、愈々この統御神の信仰を強烈にしたのでは無かつたか。氏族の結合の弛緩といふことは、意外なる信仰の變化を將來したと言つてよからう。迷へる靈魂といふ俗信は、今日の日本には非常に強いが、古い記録には少なくとも其痕跡が無いのである。

　

　　　　　　　二九　信仰の公共性

　

　長いばかりで一向にまとまらない話し方であつたが、もう此邊で切上げて、何か結論のやうなものを附けねばならぬ。全國十一萬の大小神社には、その成立に二千年に近い時の差が有る如く、之を祭り始めた動機にも、今となつては數多くの種類がある。それを一律に解説しようとした今までの試みに、やゝ不自然なる強辯のあつたことは爭はれず、今とてもそれをしようとすれば失敗するだらうが、國の爲に非常に幸ひなことには、この二種の神社の間には同化の力が大きかつた。たとへば一つの氏が協力して、最初から祭り始めた社では無く、明らかに或時代の熱信なる崇敬者が、獨力を以て勸請したやうな神社でも、其人の子孫後裔は言ふに及ばず、周圍の人々までが其信仰に感化せられて、今では之を各自の必ず祭るべき神、寧ろ先祖と聯絡する信仰行爲とまで感じて、奉仕して居る場合が少なくない。殊に多數の神社は、勸請の記録と稱するものがあり、公簿の上には他所から迎へて來たやうに、神の御名までが固定して居るにも拘らず、事實は氏神として今も祭り續け、明らかな各自の族祖であると主張するものと、何等の異なる點を見ないのである。今日の實例から見てもわかるやうに、神社は本來村の構成の一部であつて、部落は作つたが神社はまだ無いといふ場合は稀有である。既に神社が有る以上は、之を取潰して新たに他所の神を祭り始めるといふことも亦有り得ない。乃ち神の名の何とあるかを問はず、今の神社を以て最初からのもの、もしくはその一部の改造であると、一應は推定してもよいのである。さうして我々の最初の神社は氏神であつた。

(430)　但し一方には遠い昔から、誰の氏神でも無い大きな神社が、何百といふほども出來て居たこと、是も亦事實である。もとは明らかに氏神であつた御社が、中代にその氏人等をやゝ後に引込ませて、一般衆庶の崇敬を期して居たものも、其頃はやゝ増加して居たが、やはり指を折つて算へるほどしかない。是等の主要なる總國の神社と、村々の氏神社とは、今はまさしく二つの種類のものであつて、自分などは是を内と外との信仰と名づけて區別したいのであるが、一國の立場からいふと、その少數のものがとかく前に立つて、世人も亦之を全體の代表と見、又は雙方に一貫したやうな理論だけに、力を入れ過ぎる傾きがあつて、其爲に我々は覺り得られることまでが覺られなかつた。是からどう歩まうかは政策の問題であつて、民俗學の關與する所ではないが、ともかくも正しい結論に到達する爲には事實だけははつきりと確かめて置かなければならない。さうして氏神社の信仰樣式と、他の一種の御社のそれとの間には、誰にも心付かれる若干の差別があつたのである。

　氏子又は氏人といふ言葉が、先づ此差別を説明する。平たい表現をすると、氏神はいつも氏子を知つて居られる。彼等何事を願ひ、何を幸福とするかは氏神こそよく御承知と、昔の人だけで無く、今でもさう信じて居る人が決して少なくない。こんな言葉は私が使ふだけだが、つまり兩者の間には最初からの契約があつたのである。わざ／＼祈願の筋を申立てなくとも、定まつた保護だけはきつとして下さると思ひ、其爲に年に兩度の祭は、主として喜悦と讃歎と感謝との表白であつた。豫期せざる災害の攘却とか、又は新たなる願望の成就の爲にも、氏神より他には縋る所もない人は多かつたらうが、是には又他に何等かの途もあるやうに、どうしても人は考へがちになつて居たのである。

　それに伴なうて又一つの特徴は、氏神の惠みは氏子の全部に共通なもの、即ち公共に祈願せられるものに專らであつたことで、從つて住民の欲する所が、區々對立せざることを條件として居た。農村は都市に比べて、前代は又今の世にも増して、氏神の神�ｺを仰ぐことの深かつたのはその自然の結果である。何れの宗教でも、氣が揃ふといふことは大切な條件であるが、我々日本人ほど之を重んじた民族も少なかつた。佛法が民間に入つて來るまでは、我々の信(431)仰は一門一郷黨、衆と共にしか之を表白する途をもたなかつた。社會が大きくなつて、始めて我々は身の孤獨を感じ出した。さうして今日盛んになつた個人祈請などは、言はゞ拔驅けの功名であつた。

　外の信仰の世と共に力強くなつたのも、已むを得ない自然の結果かも知れぬが、是にはめい／＼の氏神社とはちがつて、神樣に對し先づ身元と國所とを名のり、更に願ひの筋をくど／＼と述べ立てなければならぬ。さうして?々信心の誠を、仲間どうしで競はなければならなかつた。是が可なりはつきりした兩者の相違である。しかしそれよりももつと大きなことで、今まで何人も氣がついて居なかつたことは、村々には我土地の氏神樣だけに信頼して、一生涯外の神社に御參りに行けなかつた者が、どんなに汽車や客引の進んだ世でも、いつも十人に七八人までは居るのである。暮しに餘裕があり足腰の達者な人のうち、いはゆる神いぢりの傾きのあるものだけが、癖のやうに毎年方々に參りあるくのである。需要といふ言葉も穩かでないが、他處の神々は少しも心にかけず、是非とも自分の氏神の祭のみに、仕へて生きて行くべき人の數は現在も非常に多いのである。それを考へでも見ずに、内外二つの信仰を同一視するのは、正しい民衆生活の觀方とは言へない。

　

　　　　　　　三〇　單純に自然に

　

　最後にたゞ僅か民俗學の學徒としてゞは無く、單に一個の公民として考へて見たいことは、どうすれば是から安々と、内に在る我々の祖先以來の信仰を、守り續けて行けようかといふ點である。信仰は固より自然の發生であつて、理論や政策が是を左右し得たためしは無いであらうが、人が知らずに居た事實を心づくことによつて、新たに各自の進み行く道を、見出すといふことは幾らでも有り得る。個々の村人が常に感じて居る所と、今までの教理の解説とが、喰ひ合はない部分は寧ろ多かつた。さういつた不審を自由に表白して答へを求むることを奨勵すると共に、一方には(432)正しく其問ひに應じ得るやうな、學問こそは盛んにしなければならぬ。それから今一つは遠く山川を隔てゝ、國内各地の住民の抱いて居るものが、信も疑ひも共々に、期せずして互ひに一致して居ることを、發見せしめるのも大いなる啓示であらうと思ふ。それを今日までは何人も扶け試みようとしなかつたのである。新たなる機運は、必ずこの久しく塞がつて居た道を開くに足るであらうと思ふ。私は些しでも前途を悲觀しては居ない。

　たゞ現在の實情に即して、何とかしなければならぬことが二つある。一つは神職の問題であり、今一つは社殿の問題である。神職の適任者を揃へることは以前とても六つかしかつた。是は主として指定の祭式が煩雜であり、殊に祝詞が誰にも讀めぬほど六つかしいからである。是からもそんな適任者を揃へられるかどうかを、私は頗る危んで居る。有るべきものが無いといふことは缺陷であつて、現在は正規の神職は多分五六萬人にも足らぬのであらう。もと／＼氏子たちが祭つて居たのだから、是からもさうすることを本則にした方がよいと思ふが、それには祭式の平易化といふことが、何よりも必要な條件かと思ふ。神輿を擔ぎまはることだけを祭と心得て、たゞ金さへ費へばよいとしたのは無論弊風だが、そんなことは永く續けられさうにもないから、正面から抑へ付ける必要も無いと思ふ。それよりも大切なことは祭の日は必ず休み、又は勞力でならば幾らでも奉仕しようといふ氣持の、なほ氏子の間に殘つて居ることである。どうかその役割を成るべく多くの人に分ちたいものと思ふ。

　神職養成の事業はまだ成功もして居ないのに、妙に專門の技能を高く評價する癖だけを養つて居た。是では費用の分擔法のみが、大きな問題になることは知れて居る。さういふ中に於て木造の社殿は、日に月に頽破して行くのである。大きな神社が寄附で立派なものを造營する爲に、それで無くても村の小社は見すぼらしく、是を信仰の測度計と見られてはたまらぬのに、今度は又更に戰爭によつて、荒廢の感を深くすることであらう。私などの意見では、祭を白足袋を摺つて勤めるものゝ如く、きめてしまつたのが大きなまちがひと思ふ。大昔の神籬《ひもろぎ》の例を引くまでも無く、社は屋代《やしろ》であつて祭の假屋を立てる豫定地である。その假屋もたゞ奉仕人の籠る場所で、以前は露地に神を祭る場合(433)が幾らもあつた。必ず常設の社殿の在るものでなければ、神社でない如く考へたのは明治以來といつてもよく、又少しも根據の無いことであつた。廣々とした社殿があるのに使はぬといふことはないが、少なくとも祭式には今一つ、清淨の地上に神を迎へ申す方式を附加へて、こはれた宮だけで無く、あまりに小さい社殿を持つ神社の前でも、之に依らしめるやうにしたいといふのが、夙くからの私の持説であつた。神域を清く保つ爲には、もう一度以前の靈地觀を復活しなければならぬ。それには何としても日本の神社の變遷を、誰にも呑込めるやうに記述して置く必要がある。知らない人たちがまちがつた考へを持つことを、咎める權利は御互ひにもつて居ないのである。

　

(434)　　　　　敬神と祈願

　

　　　　　　　一　我々の方法と態度

　

　日本民俗學は、今漸う盛んになりかけたばかりの學問であり、是に携はる我々も皆研究の中途である。さう言ひながら何故に、この重要なる實際問題に口を出さうとするのか。といふことが或は諸君の御不審であるかと思ふ。豫め一言、それの言ひ開きをして置きたい。手短かに申すならば、今まで斯道の人たちの説いて居られることゝ、我々の知り得たことゝが二三の點に於て一致して居ないからである。いづれどちらかの方法なり判斷なりに、どこかに誤りが有るからに相違ないが、それを他日ゆつくりと檢討して見ようとも言つて居られぬのは、目前の痛切なる案件が、その中に有るからである。御互ひに末々御國の爲になりたいといふ念願で、學問をして居らぬ者などは一人もあるまいが、さういふ中でも今はその應用の要求があまりにも急迫して居るので、暫らくもいゝ加減にして置けぬことのやうに感じられる。乃ち學徒も亦國を愛して居るといふことゝ、其上に私のやうに年を取ると、更に性急にもなるといふことを諒察せられて、やゝ寛大なる批判を下されんことを希望する次第である。

　如何なる一國の文物制度にも、よかれ惡しかれ昔のまゝに、そつくり其まゝ傳はつて居るものなどは一つも無いが、さういふ中でも神道は殊に、時世につれて大きな變遷をして居る。此事はもう明治以來の學者の研究によつて、一通(435)りは明らかになつて居り、たゞ素人の中にのみ、上代から斯うであつた如く思ふ者が有るだけである。何よりも尊いと思ふことは、さうした烈しい世の中の推移の中にも、なほ古今を一貫した何物かの、まだ確かに傳はつたものが有るといふことで、是は國民の精髄と謂つてもよく、それをはつきりと認識したいといふ希望の爲に、我も人も年久しく考へ拔いて居るのである。幸ひなことには、論爭の續くのは多くは末端の小さな點であり、根本骨子といふべき部分に於ては大きな異説は無く、たゞ是を腹一ぱいに説き立てる機會が少なかつただけである。

　民俗學の方法として、今までの神道史研究とかはつて居る一つの特色は、この何段とも知れない今までの變遷の各段階が、捜せば國内の何れかの部分に、やゝ切れ／”＼の　　　状態にではあるが、今もなほ殘り傳はつて居るだらうといふ假定を以て、是を尋ね出さうとして居ることで、それも假定とは言ひながらも、既に或程度までは確かめられて居るのであり、殊に信仰生活以外の部面では、もう證明せられたと謂つてもよいものも多い。例は澤山には引けないが、たとへば照明方法の問題、電燈以前の石油ランプやカンテラ、種油の行燈からその又一つ前の松燈蓋《まつとうがい》まで、是だけの變遷は六十前後の老人の、一代の間の經驗であるのみならず、今でも松アカシを以て暗闇を照らして居る家々は、首都からたつた五十里の半徑内にすら存在する。次の一つの例は婚姻の制度、是なども主要なる一つの點、即ちどこで同棲生活を開始するかといふ、所謂婚舍の問題を目標に取ると、女の親の家もしくは長屋、村内の共同の寢宿から、婚姻と同時に壻の家に入つて來るもの、又は嬬屋《つまや》とも呼ばれた其爲の獨立の小家まで、中央の歴史でいふと一千年以上の久しきに亙つた變遷段階が、今もなほ分れて各地に保存せられて居る。葬制なども亦一つの好い例であつて、その最も原始的な遺體處理法、或は風葬といひ、オキツスタヘと謂つたのは是かと思ふものまでが、絶海の孤島ばかりか、内陸の可なり開けた土地にもまだ現實に行はれて居る。是等の事實を次々に集め又比べ合せて行つたならば、單に甲から乙丙への移行の順序のみならず、どうして變遷せずには居なかつたかの理由を、説明し得るものが幾らも有ると考へられる。

　

(436)　　　　　　　二　沖繩神道の例

　

　國の固有信仰の成長ぶり、是が果して史書に傳ふる所の都府や中央部の事實と、同じ足取りで同じ方向へ、歩んで來たものであるかどうかといふことは、もう可なり永い間の我々の注意の焦點であつた。是には日本といふ國土の特殊な地形地勢が、よほどの制約を加へて居たことも考へられる。高い山嶺を以て隔離せられた小盆地の多いこと、それよりも著しいのは人の住む大小の島が四百以上、そこへは大陸の地續きの平地のやうに、新しい文化が平押しには浸潤して來ない。一の次に二が三が、まだ入りかねて居るうちに、四が來り五が起り、後にはすべての中間を飛越えて、最後の新しいものに移る場合もあれば、又反對になほ久しく、早い頃の段階に止まり、或は獨自の變化を遂げて居るものもある。一つの著明な例としては沖繩の神道がある。諸君の間にも實際問題として、取上げられて居るといふ噂を聽くが、多分もう調査せられた通り、彼の島々には靈地があつて宮は無く、祭を行ふ廳舍はあつても、神のまします建築物は無いのである。それから神を祭るのは常に一門の宗家であり、それに主として仕ふるは女性であつた。細かな議論になると容易に御同意の出來ぬ點もあらうが、少なくともかつて此島には男性の神職があつて、それが女のノロに改まり、又はかつて神殿が立つて居たのが、後にオタケとかオブといふやうな林地に、變じたものと見る者などは一人も無い。せい／”＼異を立てる人でも、あの島々の神の道は別系統で、たゞそれがたま／＼内地の上世に、似て居るのに過ぎぬといふ位のものである。しかし少なくとも此島の巫女祭儀は、記録が備はつてから以後でも、大體にこちらと同じ變遷を、たゞよほど時を遲くして實現して居る。つまりは傾向はほゞ同じくたゞ歩調がやゝ緩であつただけである。奄美大島の祭には、グジと稱する男の神職がやゝ力を得て、妻や妹などのノロを壓して居る。さうして其グジといふ名稱なども、どうやら九州内陸のデグジ、即ち大宮司といふ名の採用らしいのである。家を中心と(437)した祭の方式は、舊日本の方でも、佐渡や八丈などの離島のみに止まらず、陸つゞきでも偏卑な村々には、今も專門の神職の手には移らず、住民の間で之を奉仕して居る頭屋制もまだ多く、中には又定まつた本家筋の一家に、その權能を委ねたものがあり、別に儀式に參與する人は聘しても、神主は必ず氏子の仲間から、順番に出して居る例も方々に有る。要するに人がまだ氣付かず、從つて是を研究の資料に供する準備が整はぬだけで、この南北の一致は決して二三の偶然のもののみでは無いのである。

　

　　　　　　　三　政策と經驗

　

　以前の復古思想に於ては、是々の信仰樣式が今のものより一つ古いと決すれば、急いでそれへ戻つて行かねばならぬ、といふ風に考へる者が多かつたが、私はまだ一度もさういふことが出來るものと思つたことは無い。たとへば物忌精進の嚴重さとか、祭の準備期間の長さとかのやうに、國を通じて一樣にすでに弛んだものは、寧ろさう改訂せらるべき、新たなる社會的必要が起つたものとも見られる。たゞその中には何と無き不注意無頓着、もしくは思ひちがへや個人の我儘によつて、變へるに及ばぬものを變へて見ることもある。又は變へた結果が此樣に惡いことを、もしも前以て知ることが出來たならば、決して改めはしなかつたらうと思ふやうな、個人で言ふならば後悔に該當するものが、國にも大きな社會にも有り得るといふことを、深く感じ且つ主張するだけである。

　國の歴史は此意味に於て經驗である。政治の方面に於ては、夙くから是に重きを置き、前車の轍を履まぬといふ注意が可なりよく行屆いた。いはゆる殷鑑遠からず、この點東洋では殊に歴史がよく政治を扶導して居た。しかし信仰の方面になると、先覺者の注意が必ずしもさう大きな效を奏せず、あれあんな事をして居ると思ひつゝも、世の中の惡くなつて行くのを防ぎ得ない場合は多いのであるが、既に我々の神に仕ふる方式が、世と共に少しづゝ推移るもの(438)だつたことを認め、その變遷には必ずそれ／”＼の理由即ち社會的事情のあつたこと、及び其結果には好ましいものとうれしくないものとがあり、其中にも?々豫め避け得られるもの、又は梶の取り加減でやゝ害を少なくすることの可能な場合もあつたといふことに心付くのは、神社行政の衝に當る人々の大きな參考であり、兼て又神道史の研究がなほ此上にも、精且つ確なるを望むべき理由であると私は信ずる。それまで言ふことは或は差出がましいかも知れぬが、少なくとも同胞國民の間に、安全なる歴史の常識として遺すべき問題は幾つか有る。それで自分などもその數ある項目の中で、特に目前に利害を痛感するものを先にし、又出來る限りその一つ／＼の變遷を引起した事情を、明らかにしようとして居たのである。時勢が今日のやうに切迫して居ない際なら、成るべくは多數の當事者が關心をもち、どうして斯うなのかを知りたがつて居るやうな事から、又は自分たちの比較的よく知つて居る事から、手を着けて行くのが得策であるが、今はもうさういふことを言つて居られなくなつた。それで大分説きにくい事柄であることを知りつゝ、こゝに「敬神と祈願」といふやうな根本問題に觸れて、話をして見ようとするのである。私の意見が全部は尤もだとまで思はれずとも、成るほど其點は考ふべきことだつたと、言はば問題そのものに共鳴する人があつたら、「もうそれだけでも一歩の前進であらう。

　

　　　　　　　四　神社巡拜の風習

　

　爰に私が是非問題にして見たいと思ふ一つの變遷は、國民の神社に對する考へ方のちがひ、わが社と他處の社との對立といふものを、次第に感じなくなつて來たといふことである。自分の住む土地の神さまを差置いて、よそに齋き申した大小の御社へ參詣するのは、比較的新しい現象ではないかといふことである。我邦ではこの神社巡拜といふことが、外國人にも氣の付くほど顯著なる風俗に今はなつて居り、又當り前の事のやうに多くの人は見て居るが、是を(439)先づ可能にしたのは交通機關の發達だから、概括してさう古くからの社會相とは思へない。明治の初年まだ汽車も無く、たゞ藩の境が取れ關所が無くなり、驛遞が整頓し警察がほゞ有效になつた頃から、急激にいはゆる敬神講社の類が増加し、從つて宿屋業がまづ盛んになつて來て、色々として參詣者を引付けたことは、たしかに近年の鐵道客引の先型であつた。勿論是には前々からの流れがあり、たま／＼堰を切つて水筋を通したやうなものではあらうが、此爲に信仰の大きな動きが起り、中には之によつて新たに遠國の參拜者を引寄せた御社も幾つか出來、古くからあつた伊勢神宮その他の參拜も急に盛んになつた。いはゆる御蔭參りの記録は慶安以前からあり、寶永以後の四度は統計さへ出て居るが、一年分として見れば、其數といふものが、もう今日とは比べものにもならぬほど小さいのである。

　つまり以前には地域の制約があつて、地方毎に小さな中心は數多く、村によつては講中の數が、七種も十種もあつたが、大體に御礼や御祓ひのしるしを分配してもらふ者が多かつた。さういふ中では勿論伊勢講が早く起り、一つの信仰中心を爲したのは御國柄と云つてよい。講といふものも本來は地方的のもので、庚申講とか二十三夜講とか水神講とか、多くは近隣共信者の結合體であつた。それが後次第に伊勢にまで代參を出すものが、九州北部や越後といふやうな遠い處にも出來た。さうして一方にはその講は又、中産階級の一種の社交機關の任務をも果して居たのである。

　伊勢道者の歴史は、文書記録類に由つてよほどの古い所まで調べられる見込はある。しかし古いとは謂つても鎌倉時代の半ば以後で、本居先生の玉勝間にも出て居るやうな、承半年間の參宮人などは、今日謂ふ所の伊勢參宮ではない。今日の伊勢參りの方は多分は熊野參りの庶民化がもとであらうと私は思つて居る。伊勢上人の活躍した區域などは、存外に狹いものであつた。近世の擴張は專ら御師《おし》の力であり、同時に御師も亦之に據つて勢力を添へた。關東東北の方面には、御田屋參りといふ一種の風習が普及した。御田屋は伊勢御師の定宿のことで、こゝにかりそめに伊勢の大神を祭り申し、旅の出來ない人たちを爰へ參拜させるので、此出張所式のものは、足利期には京都にも幾處か設けられたが、田舍のは之に比べると更に略なものだつたらしい。それを田屋神明と呼び、そこに參ることを又｜居參宮《ゐさんぐう》(440)とも謂つて居た。つまり各人が自由に伊勢に參れるやうになつた時代はごく近いのである。

　之に次いで多かつたのは京都の大社歴拜である。是は京參りといふ言葉もあつた位で、大抵は宗旨の本山の禮拜をも兼ねて、同時に數多くの大社へ、祭の日でも無い日に巡拜するのが普通であり、信仰は寧ろ薄かつた。或は今一つ以前の都一覽又は京見物が、自然に神拜みに偏よつたものとも見られる。だから江戸の市民などは、多くはこの足ついでに琴平から宮島、出雲大社まで掛けるものもあり、又は行きか歸りには大和の古い御社にも參つた。よほど遊覽氣分の濃いものだつたが、それでも守札は戴いて歸り、又は頼まれて願掛け願果しなどもして居た。明治の世に入つてそれがやゝ一社を主とする傾きにはなつたやうだが、是とてもやはり最近は鐵道の旅行が十分便利で、何度でも改めて思ひ立つことが出來たからだと思ふ。

　

　　　　　　　五　神信心の變化

　

　數は少ないものだつたが、信心參りは或は以前の方が盛んだつたかも知れない。近頃は大體に旅の途すがら、又は多少の廻り路をして、參詣をして來るといふのみで、是ぞといふ心願も信心も無い者が、數を増し又時代の風をなすに至つたことは事實であつて、此點も亦僅か百年二百年前の、旅が勞苦であつた頃とは、可なり著しい差異である。以前は京大和の如き僅かな方面を除いては、遠くの神社に詣ることは、信心が無くては出來なかつた。それ故に橘三喜の一宮巡詣記の如く、諸國の名ある舊社を拜む目的を以て、大きな旅行を企つる者の數はいと少なく、他の大多數の信心者は、出來る限り近まはりの區域をあるいて、信仰上の目的を果して居た。近頃は交通の支障が多くなつた爲に、再びこの傾向が盛んになつたかと思はれる。私などは郊外居住の便を利用して、近來は主として三多摩地方の村里に、日返りの旅を試みて居るが、袴に白足袋といふ樣な悠長な服装であるいても、人は神信心だらうと思つて格別(441)怪しまない。さうして又在外者の家族親族などの、信心の目的を以てあるいて居る者もよく見かけるのである。千社參りなどと稱して多くの時日を費し、澤山の神社を歴拜する者も少なくない。江戸には近世千社札と稱して、自分の名を印刷した紙切れを、神社佛閣に貼つてまはる旅行があつた。是は道樂であつて信心は殆と無かつたのだが、さういふ流行が元になつたものか、今でも神社の數を多く拜みまはるのが效果が多いやうに、信じて居る人も若干は有るやうである。

　田舍に一ばん多い例は、八八幡といつて八社に參るもの、又は七鳥居參りと稱し、石の鳥居のある御社ばかりを七つ、御詣りして來ると信心になるといふ者もある。もとは大抵は危篤の病人のある場合などに、近隣縁者たちが加勢して之を行うた。或はせんごり・百度參り、又｜勢祈?《せいきたう》だの總の聲だのと稱して、多數者の力の集合が特に效果が多いといふ古風な考へ方に基づいたもので、それを神社の數にまで延長したのかと思はれる。この方は相應に古い頃、たとへば室町期の初め頃にも既にあつたやうで、殊に京都のやうな立派な御社が、接近して數ある土地に於ては、行はれやすい形であつたといへる。地方は乃ち安心して、その都の風習を模倣したものである。しかも是がもし私の信ずる如く、建國初期からの日本の神道で無かつたとするならば、假に始まりはもつと古いとしても、必ず何等かの原因の今までは無かつたものが、新たに生じて之を促したものと解しなければならぬ。

　

　　　　　　　六　内外信仰の接合

　

　その原因乃至は社會的事情如何といふことが、我々に取つては是非とも明らかにしたい問題である。誰しも先づ第一に考へ付くことは、外來宗教の感化であらう。神も佛法の諸天善神と同じく、日ましに分裂して行く個人の利害に應じて、各個のちがつた願ひ事を聽き容れたまふものゝ如く、我々の祖先が信じ始めたのも其影響であらうが、なほ(442)それ以上に働いて居た社會的條件の、幾つか有ることは否むことが出來ぬ。列擧することは不可能であらうが、その一つは縁組其他の協同によつて、各村各氏族の間の親しみが加はり、信仰上の自他の對立が、段々と薄れて來たことが考へられる。それでも隣接する部落どうし、氏神の仲が御惡いといふやうな言ひ傳へはなほ殘つて居るが、少なくとも村の内部のみは先づ親類になつて、氏神信仰の共通といふことが次第に行はれやすくなつた。

　次には大きな特に有力なる神々の出現といふことが考へられねばならぬ。さういふ中でも山城の京になつてから、創立せられた石清水北野、八坂今宮といふ類の御社は、最初から氏人ばかりの奉仕では無く、又時としては氏人は全く無くて、汎く一般の貴賤の中からの祈願を叶へ、小さな多數の荒ぶる神々を、統御したまふ力を示された。言はゞ伊勢の大廟とはちやうど反對に、萬民の私の幣帛を豫期なされた神々である。さうして更に第三の理由として、朝廷の是に對する崇敬が模範となつて、段々に「詣らぬ人はあらじとぞ思ふ」といふ古歌の通りになつて來たのである。今日の人にはやゝ解しにくい事であるが、神の尊さに等差のあること、即ち自分たちの氏神までが氏人と共々に、斯ういふ大きな神たちを仰ぎ敬はれるといふ風に、以前の日本人は考へて居たのではないかと思ふ。勿論是などは一つの假定であり、今後追々に確かめて見なければならぬが、村々の氏神がいつの間にか、他から勸請した大きな神々に改まつて居るわけは、是でなければ説明が出來ぬやうである。始めて天神祇園等を村の社に齋く時まで、氏神無しに居たとは考へられぬ以上、そこには前々からの神が相殿としてなほ祭られて居たので、たゞ祭の日に其神の御名を稱へる風習が無いばかりに、いつと無くそれがわからなくなつて居るものと、自分等は解して居るのである。

　

　　　　　　　七　敬神の解釋

　

　この他にもまだ幾つもの條件が組合はされて居るのであらうが、終りにもう一つだけ考へて見なければならぬのは、(443)本日の演題として掲げた敬神と祈願と、この二つのものが入り交つて、境目のはつきりとしなくなつたことである。文字に據つて解を下せば、今日各位の考へて居られるやうなのが正しい敬神であらう。たゞ昔の人たちは、否現代の國民も半ば以上は、古い習はしに遵うて、敬神といふことをさうは見なかつた。上世には或は敬祭といふ語もあつて、國家の敬神には少なくとも祭への參加があり、さうして祭は信仰の行爲であつた。それが世降ると共に益々この參加の程度を進め、貞永式目の有名なる一個條などには、神は人の敬によつて威を増し、人は神の�ｺによつて運を添ふとさへあつて、單に祭神の過去の業績を讃美し尊敬するのみに止まらず、更に現在又未來に對して、威と�ｺとの大いに發揚せられることを期して居たのである。神を敬せざる者の罰を蒙つた實例は算へ切れぬ程も有ると共に、神が日頃深く敬する者の願ひを叶へたまふは勿論、時としては隱れたるに視そなはし、乞はぬに助けたまふことさへ有るものといふ風に、その敬神の人々までが信じて居た故に、こゝに内外二つの信仰は次第に混同し、その堺線は不明になつて來たのである。

　我邦の政治史を囘顧して見るのに、この敬神の政策くらゐ、遠い大昔まで溯り得るものは他には無い。さうして其最初の國の方針といふものは、よほど又今日の神祇院のそれに近く、亦十分に論理的なものであつたと思ふ。神武天皇の東征に先だつて、少なくとも中央一帶の土地には、既に相應な數の先住民が居たことは、明らかに國史に記されて居る。彼等が其種族と來住の由緒とによつて、それ／”＼に祀つて居たのが天津神であり又國津神であつて、公けには天神地祇の語を以て之を表示して居る。そのさま／”＼の天神地祇を、如何にして統一しようかといふことは、その時からして既に大きな問題であつたのである。乃ち臨時の祭場を設けて、絶體の御祭を執り行はせられたといふことに、はつきりとした趣旨のあつたことが拜察せられる。其敬神が今もなほ續いて居るのである。

　延喜式に列記せられる國々の神社には、勿論是よりも後の創立にかゝるものが多いだらうが、住民の絶滅せざる限り、傳統の消え失せぬ限り、祭は毎年の行事だから繼續するのが當り前である。諸國の神社の名の國魂郡魂は是であ(444)り、又何々氏の祭る神、もしくは某々の地に坐《ま》せまつる神の起りも是であり、諱みて御名は口にせぬが故に傳はらぬが、必ずしも神名帳註釋家の斷定するが如き、記紀神代卷に現はれたる神々とは限らなかつたことは、多分は諸君も既に認めらるゝ所であらう。國は其神々の中の主要なる三千一百餘座に、祭の日には特に幣帛を供進するのが、延喜式よりも又三百年も前からの例規となつて居た。敬祭といふ語はやゝ珍しいが、多分は是と關係のある言葉であつて、國家の敬神が次第に個々の神社の祭に干與するやうになつたことを、意味するものかと自分は考へて居る。幣帛といふものゝ本來の性質、是と祭に立てる木の串との關係は、之に伴なうて非常に複雜なる變遷を重ねて居る。それを少しでも明らかにして行くことが、神道史研究の骨子だと思ふのだが、どういふわけでか今までは此方面に注意する人が少なかつた。將來民俗學の大いに働くべき區域が、取殘されて居ると言つてもよい。

　

　　　　　　　八　自他内外の差

　

　つまりは敬神と祈願と、二つは別のものであり、後には一續きに繋がつてしまつた、其橋架けを爲したのが幣帛であるといふことが、やがて立證せられるであらうといふ希望を、私たちは抱いて居るのである。延喜式公布の時代に、中央官廳に知られて居た神社が全國に亙つて三千一百三十二座、是に一々の祈願を籠めるといふことは、如何に進んだ交通の下にも不可能なことであり、又朝廷としては必要も無いことであつた。乃ち年久しい縁故に基づいて、神の威�ｺを信ずること最も厚き人々をして、誠實にその毎季の祭を奉仕せしめ、皇室はたゞ御自ら、最高唯一の祖廟と、特に御因みの深い神々とのみを御祭りなされて、大いなる手本を御示しなされたので、敬神は言はゞ國民それ／”＼の信仰の承認であつた。如何なる匹夫匹婦の祈願と雖も、各々その心からなる信仰に發する限り、之を輕んじ又は抑壓すること無く、完成せしめることを趣意とせられ、たゞ徐々たる指導と垂範とによつて、國家存立の大目的に合致せ(445)しめようとなされたものと我々は拜察して居る。

　確かなる證據とては擧げられないが、或は是が我民族獨自の�ｺ性であり、同時に又この國人の血液と感覺とが、始めから一つであつた結果、特に斯ういふ政策の實現を容易ならしめたのかとも思はれ、もしそれであつたら更に有難く又うれしいことだと思ふ。其點は假に未定なりとしても、少なくとも此方針は、獨り中央地方の官廳が下に對する態度だけには限られず、國民相互の間にも、多くの異民族に於て見られたやうな、我神と人の神との爭ひは稀であつて、如何なる偏土の隅々までも、この敬神の思想は行渡つて居た。國内同胞間の諍闘は、古來幾百度か戰はれ、神は勿論先づ我管下の住民を、助けたまふものと信じられたにも拘らず、未だ曾て敵の祀つた神なるが故に、その尊嚴を傷けてよろしいと言つた者は無いのである。憲法の所謂信教の自由、單なる政治上のトレランスなるものゝ中には、諸君自ら反省せられても判る如く、往々にして自家の一般的無關心、すべての宗教に對する概括した冷淡不重要視を意味するものがあつたが、日本の常民の場合は明らかにそれ以上で、自分たちの熱烈な信仰に引比べて、他人が彼等の神を大切にすることを、同情し支持せずには居られなかつたのである。個々の感覺の根柢に於て、何か最初からの共通點があつたものと、想像せずには居られない所以も茲に在り、もし又それがたゞ訓育の效果であつたとすれば、眞に偉大なる成功と言はなければならぬのである。さういふ實驗をすることの出來ない外國の學者たちが、宗教を分類して一神教多神教と對立せしめたにしても、それに條件も無く追隨するのは考へが足りない。我々平民の言葉でたゞ神樣と謂ひ、又はお宮といひ御社といふときは、意味する所は我村の、又は我家のといふことになるのは、父とか母とかの語も同じである。他人の孝行を是認し賞讃することは、決して多數の父母を持つことにはならぬのである。一時に八百萬、八十萬の神を信ずるが如きことは、今の世と雖も有り得べからざることであつた。

　

(446)　　　　　　　九　個人祈願の發生

　

　しかも參詣參拜といひ、個人の祈願といふことが、現在の如く盛んになつて來た原因も、やはりこの敬神主義に在つたといふだけは認めざるを得ない。初期の佛教徒が言葉を盡して説法したことは、神々の御力には限りがある、佛智の宏大圓滿なるに如かぬといふやうなことで、是は必ずしも修辭法の優越でなかつたから、自然に人の心を打つものがあつた。もと／＼固有信仰は經驗が基礎であつた。我々の祈願には世の進みと共に、時あつて行渡らぬ隈々が出來るのである。三千年の古へから引續いて、國民の最も安心して頼り切つて居たことは、先づ年々の作物の稔りである。次には一族一郷の繁榮と安樂と、大よそ想像し得る限りの害敵の驅逐、概括していふならば公共の治安であつた。祭の幟の布に書く文字なども、天下太平日月清明から始まつて、村内安全を以て終つて居る。群の各員の利害の差、たとへば甲は心竊かに切望し、乙丙等の必ずしも欲せざる私の願ひ事は勿論、同じ災害でも新たに起つたもの、大火延燒や疾疫流行の類、又はその厄難の常篇を絶するもの、たとへば全國の旱魃とか蝗の害とかになると、神は時として我力には及ばずと御告げなされることさへあつた。其上に一方には、官廳の尊敬如何によつて、土地々々の神の威�ｺに段階があり、又は少なくとも特長のあることが、次第に認められるやうになつたのである。祭を掌る者は土地毎に在來の奉仕者であつても、是に特別の奉幣があつて、たとへば廣瀬龍田に風除けの祭を營ましめ、貴船や丹生川上に雨を請ひ求めしめたまふ如き例が、世を經て益々多くなり、更に一方には人口が稠密になり外客の出入が多くなるにつれて、疫癘の災ひなどが眼に立つて烈しくなると、別に之を統御したまふ大きな神々の力を信ずる者があつて、單なる今までの敬神を以て視ることの出來ぬ神社が出現することになつたのは、是は人力の及ばざる一つの大きな變遷であつた。

(447)　諸國の一宮總社などの制度も、記録が十分に傳はつて居ないが、或はこの?勢に伴なつて起つたものかと思ふ。少なくとも國郡政治の初期から、斯くの如くあつたのではない。始めは國の守が着任の際に、管内の主要神社を巡拜する定めであつたのが、後はその代りに國府所在地に於て集合の祭をすることになつたと言はれる。さうすれば是には又別の祭主が出來て、一人々々の宗教思想を加味し、更に其祭場が常設の社となれば、是が又新たなる一つの信仰中心となり、おのづから時代の風をなしたことであらう。殊に領主といふものが大小の地を劃して、行政を專らにするやうな世になつては、彼等には又めい／＼の氏の神がある故に、領内總體の祭は?々各自の爲の祭を兼ね、名は敬神と稱しつゝも、同時に一家の祈願を籠める者が多くなり、二者の境は一段と混融して、分ち難くなつたのである。

　

　　　　　　　一〇　參詣はもと臨時祭

　

　此傾向は、明らかに近世各藩の神社行政に傳はつただけで無く、一方には又村々の富豪大地主等の信仰生活の上にも其痕跡を殘し、地方で有力と言はるゝ舊家ほど、數多くの神々に信心を寄せ、從つて中央の大社の宣教の媒となつて居る。たゞ一つの差異としては、此輩定住者には動かない自分の産土神が有るに反して、一方西へ東へ折々國替へをさせられた領主諸大名には、氏と深い縁故のある始めからの神社が無く、新たに行く先々に創立することが容易でないので、土地に今まである神社の幾つかを、鎭守の神と認めて特に崇敬し、その祭典に干與し、又參詣の歩を運んで、いよ／＼自他の區別を無くしてしまつた。中世以前にも全然無かつたこととは言へないが、自分たちより外には祭るべき者の無い神社の方をおろそかにして、名ある處々の大社にばかり詣りあるく者をも、神信心といふやうになつたのは、是から以後に於ける變化であり、今日は殊に其風が盛んになつたのである。

　參詣參拜といふことはそも／＼何であらうか。古代にはさういふことが殆と無く、中世以後に益々盛んになつたと(448)すれば、我邦の信仰史としては、是を問題にして考へて見る必要が十分にあると思ふ。私などの解する所では、如何に小さな者の假初の參詣でも、參詣はやはり祭である。一種の臨時祭であり、又昔の世の貴人武將たちの、個人の祭の類型と見るべきものである。乃ち神の御降りをその度毎に求めて、感謝を捧げ又新たなる祈願を申述べる式だつたと思ふのだが、それがいつと無く、單なる敬神と紛れてしまつたのである。中古以前の敬神は、神領神財の寄進や社殿の造營と、幣帛の供進と、二通りに分れて居た。前者は平時の祭の無い日にも行はれ、たゞ祭の準備をする人々と交渉をもつものも有り得たが、他の一方の幣帛供進の方は、定まつた祭の日のみに、其祭の齋串に添へて種々の財物を進獻するので、つまりは祭の效果の完全に收められることに、深い關心をもつて居るといふことを表示する方式であつた。故に是の行はれるのは例祭の日であり、たゞ特別の重大な事由のある時だけ、別に祭の司たちをして、今一度の祭典を擧げしめる臨時祭があつたのである。ところがこの參詣が路のついでなどに、輕々しく又數多く行はれるやうになつて、先づ祭の日といふものゝ意義がおろそかになつて來た。いつ突然に參拜しても、神は必ずその靈地に御出でになるやうに、考へる人が多くなつた。神は如在、いますが如しと謂つたのが、いつしか常在のやうに何人も思ふやうになり、從つて神殿の構造が變り、大三輪や諏訪上社、その他この系統に屬する多くの社地の意義が、ことの外に不明になつた。宮と社とは祭式の明らかなちがひであること、ヤシロのヤに敬語の附かぬのは、神の御屋《みや》で無いからだといふことを、考へて居る人は少なくなつたやうに思ふ。

　第二の影響としては、祭の式典の極端なる省略がある。殊に神供と直會との重要性が認められず、散供うちまきの粗相な作法をすらも、敬神と解する者が多くなつた。それよりも更に大きな、又免れ難かつた變遷は物忌の緩怠であつて、曾ては是が祭の勤仕の、たつた一つの條件ともいふべきものだつたのが、後には旅の行きずりに、何の用意も無く肉食や血の穢れのまゝで、鳥居をくゞる者が多く、社頭のみたらしは水涸れ、物々しい石の水盤を、たゞ横目に見て通るのが比々の例となつた。幸ひにして面たゞしい若干の舊社に於てはまだ潔齋が嚴守せられ、又此點を以て特(449)色とする二三の祭も殘つて居るのだが、之に由つて一般の風潮を堰き止めるには足らない。しかもこの略式がまだ至つて新しい近頃の現象である爲に、是では本式と言はれない、祭を正確に擧行したことにならないといふ感じは、古風な人たちの間には強いのである。祭を此樣な略式ですませて居るといふ不安な心持、現今の如き大切な御時節になると、是が一ばん誠心誠意の祈願の、大きな妨げとなつて居るかと私は歎いて居る。

　

　　　　　　　一一　氏神と氏人

　

　前にも申した如く、宗教の定義や信仰の解釋だけは、國々その歴史と不可分なものがあつて、よその國の學説には準據することが出來ない。殊に我邦には年久しい傳統の、外來宗教の中には見られぬものが多い。同じ祈願の方式にしても、佛法などの願文ならば、先づ名を名のり年と男女とを明らかにし、それから當面の希望を、努めて感動深く陳述するのが常であるが、年久しい我々の神は、それを改めて奏上するに及ばず、辭別をも要せず、おのれを何者と申出る必要も無い。産屋の忌の明けた日から、神の大前には既に名對面をして居り、年頃にもなれば生みの父母よりも、神は却つてよく心中の思ふ所を知つて居られるやうに信じられて居た。さうして通常人の通常の願ひは、いつの世からとも無くきまつて居た。つまりは改めて祈り申すことが至つて少なかつたのである。

　人によつては我邦の神祭が、歡喜と悦樂とを以て充され、祈?といふ分子が少しも目に立たぬのを見て、是はたゞ單に過去の恩澤に對する感謝であり、乃ち深い敬神の情の現はれに過ぎぬものゝ如く、思ふ者も無いとは言はれぬが、それは全く信仰行事の樣式、乃至は宗教心の構成の差なのである。神樣は祭をたゞ氏子たちの滿幅の信頼の表示として、昔から認め又受容れたまふものと、我々は解して居たのである。祭は春秋毎に、一年として缺くことの出來ぬものではあるが、其日の僞らぬ感情の内容は、私などの見た所ではまづ謝恩が半ば以上、次にはいはゆる神人和融が又(450)殘りの半分であつた。即ち同じ食物同じ飲物を相饗し、同じ飾り物催し物に共々に樂しみえらぐことで、だから我々の神事には、大昔から笑ひの分子が多かつたのである。さうして是からの一年も變つたことが無く、又來ん年の祭にも、同じ歡喜をくり返したいといふ願ひごとは、僅かにその殘りの部分に過ぎなかつた。今の言葉でいふならば暗黙の理解、?らずとても神や守らんといふ歌は露骨ながら、この眞相を語る故に共鳴者が多かつたのである。

　外から參加する敬神の人々には、是は容易に味はひ難い感覺であつたのみならず、土地の祭り人たちの中に於ても、毎年この體驗を新たにする爲には、やはり一定の條件が必要であつて、それは不文の教育として、昔から積極的に授けられて居た。即ち祭の方式の重要性も是から出て居る。定まれる供物、定まれる神態、ことに一般と特別の數々の齋忌、之を守つて居なければ、遠い祖先以來の神の約諾が、實現しなくても致し方が無いものと考へられ、田舍では今でも何か不祥な事が起ると、必ず先づ其方に原因を求める習はしがあつて、現に今年の下諏訪の御柱祭でも、町長の變死の理由を是だけで説明して居る。この氣風はどうしても氏子たちを保守的にせずには居ない。御蔭で遠い世の慣行が多く保存せられて、我々の學問を助けてくれるが、其代りには一方に前例を改革し、新しい統一を圖るには大いなる斟酌が必要になり、是非ともそれを實現しようとすると、官府の力が強くなり過ぎる。もとは此爲には湯立てとか鬮取りとか、やゝ廻りくどい方法が採られた。それをたゞ一扁の道理によつて押付けると、おとなしく服從した場合にすらも、間接の結果としていはゆる良くない事件が多くなり、一方には又そんな筈は無いといふ合理論が幅をきかすことになり、どのみち信心は目に見えて衰へ、非常時に於ける態度は搖ぎ、特に必要があつて人心を統一しようといふやうな際には、却つて其努力が空々しくも感じられる。しかも其苦悶は諸君よりも、久しく素朴な考へ方に馴らされた、古風な人たちの間に痛切なのである。同情し且ついたはつてやらなければならぬと思ふ。

　

(451)　　　　　　　一二　自然と人爲

　

　佛教も宗旨によつてひどく雜行雜修を制止するが、是にさへ色々の拔け路はあつた。古く入つて居る宗派では自由に日本の神々を拜ませ、又自らもその祭に參加しては居る。本來の國風が互ひに他人の信仰を認め、家々の異なる神々を敬ひ合ふといふ特徴を、いはゆる正法の樹立に利用したものかと思はれる。是は宗教史學の一課題として今後も我々の心を潜めて考究しなければならぬ事柄であるが、少なくともこの併存?態の起源は遠く、又決して或一つの民族に限られたる特色でも無い。日本では或は中古の曲解によつて變貌を來たし、又はやゝ不當に強制せられて居たかも知れぬが、結局するところ敬神は一つの道�ｺであつて、たゞ外部の形だけからでも律することが出來る。之に反して祈願は意思であり信仰は又受身の感覺であつて、全く形體の上に現はれぬものである。如何なる力を以てするも、信仰無き者に神を?らしめることは難く、殊に必ず御助け下さるであらうと、神の威�ｺに頼らしめることはなほ更出來ない。國の必要に應じて或時は祈願せしめ、又或時はかゞ敬神に止めて置かせるといふやうなことは出來ない話で、全く國民の心のおのづからなる動きに待つべきものである。日本が斯くまでの激しい世變を重ねつゝも、なほ其一半に昔ながらの信心を保ちつゞけて居たといふことは、我々に取つては譬へやうも無い感激であつて、尋常有識階級なる者の批判を超越した、よいとも惡いともいふことの出來ない儼然たる一箇の事實である。さうして又今日の如き熱烈なる祈願を必要とする時代に際して、何よりも心強い事實である。或は我々の望むと否とに拘らず、自然の趨勢によつて消長するものかも知れないが、ともかくも今は人間の作爲を以て、之を弱めたり衰へさせたりせぬやうにしようといふことだけは、心掛けねばならぬと思ふ。或はもう間に合はぬとか、まはりくどいとかいふ意見も出るかと思ふが、こゝで政府がなほ試みる途は有ると思ふ。私はそれを一つの定まつた型の中へ、はめ込まうといふ是までの方(452)針では無く、寧ろ其反對に信仰が自由に發露する餘地を、開き與へることに在るかと考へて居る。

　

　　　　　　　一三　神道は衰へたか

　

　そこで何とかしてこの際、諸君の問題としていたゞきたいと思ふことが一つある。それは文字によつて保存せられた記録史料と、私たちが集めかゝつて居る民間傳承の資料と、即ち古い方から降つて來る物の見方と、現在の事實から溯つて見て行かうとする方法と、この二つの方面の結論を突合せて見ると、往々にして看過すことの出來ない喰ひ違ひがある。是はどういふわけであらうかといふことである。斯んなものがまだ有るやうでは仕方が無い。どこかに見落しがあり、又はまだ見透しのきかぬ隱れた事實があるものか。それだけは何としても究めずには居られぬことだと思ふ。

　今日の話の支度として、私は改めて栗田寛先生の神祇沿革を一通り讀んで見た。是は先づ古史書に傳はる限りの、中央に知られたる事實のほゞ全部であらうが、是から得る所の感想は、一言でいへば神道の衰微である。原因の何に在つたかは問はず、すべて古い定めの崩れ弱り、消え失せて行く足取りを語らぬものは無い。極端な一例は三善清行の意見封事に、制度の最も完備したと思はれる延喜年代にも、すでに神祀官の頒ちたる、幣帛を懷に捻ぢ込み、神酒を飲み盡し、神馬を郁芳門外の市人に賣拂つて還つて行く祝部が多かつたといふ驚くべき事實を述べて居る。その他受取人の來ない幣帛の堆積、太宰府管内の國島で、神名帳を紛失して進むる能はず、神々の位記敍日の不明になつたもの少なからずといひ、又三千の官知社のうち、既に所在の知れぬものが有ると謂つたなども、すべて中古の戰亂などよりは前のことである。是ではたとへ佛教の壓迫などは少しも無くても、古い信仰は移り改まらざるを得ぬと、思はれるやうなことばかりが、右の沿革の中には書いてある。どうして斯うなつたかも勿論考へて見なければならぬが、(453)それを爰では説いて見ようとするのではない。それよりももつと快く、又樂しい不可思議の一つは、今我々の住んで居る目前の社會事實、即ち直接幾らでも見て知ることを得、もしくは現存の故老が明らかに記憶する近世の祭の式が、まだ嚴肅に過ぎるかと思ふほどにも嚴肅に行はれて居り、之を裏づける信仰の譬へやうも無く熱烈であつて、しかもそれが舊式なやゝ頑なな、到底後の世に入つて新たに出現したと思はれぬものばかりであり、又その端々には上代の所傳との一致が見られることである。是はそも／＼如何に説明すべきものであるか。記録の神道史は主として衰微を示し、我々の民間事實に明らかに反對の事例を保存して居る。こゝに何等かの新たなる智慧、一つの啓發が潜んで居るのではないかどうか。

　第一に考へられることは、式の三千餘の官知の神社以外に、今なら無格社と名づけてもよい小社が、どれほどは夙く存在し、どれほどは後々に生れて、それが古い代の神道と何等かの脈絡を引いて居るかといふことである。式内の神社は、國によつては百二百を越えるものもあるが、それとてもあの時代の神を祭る團體、即ち一門一族の數よりは遙かに少なかつた。然るにそれ等の未官知社が一方の官知社の衰微に拘らず、何かまだ見付からぬ理由によつて、永く國固有のものを失はずに居たのである。それは固有のものとは別なのでないかといふ説も起り得るが、それを爭ふ爲には煩はしくとも、個々の事實を見て行くの他は無い。富士山東麓の須走《すばしり》の淺間神社などは、縁があつて私は毎年行つて見たが、土地ではこの社の氏子に限り、戰に出ても死んだ者が無いと謂つて居た。さうして周圍の村々の信仰はこの社に集注し、大きな召集のあるたびに、群をなして御百度に參つて來て居た。是は昭和十六年までの事實で、それからどの位の例外が生じたか、尋ねに行かれず又その勇氣も無かつたが、平時に於ても我村は昔から、難産で死ぬ者が一人も無い。それは氏神さまの思召しと謂つて居る處などは地方毎に有つた。戰になつてからも鳩が一羽も居なくなつたとか、夜毎に社の扉を開く音がするとか、駒の蹄の音を聽いた者があるとか、古い奇瑞録にでもありさうなことを信じて語つて居る者は多く、諸君も恐らくは各自二つ三つの話を聞いて居られるであらう。田舍は固より都(454)府のまん中でも、出征兵士の出發に先だつて神を拜み、又事無く還つて來て御禮申しに、詣るといふのは産土の社が數に於て多く、歸れば何より先に報賽をしなければならぬといふやうな、經驗を抱いて居る人は非常に多いらしいのである。家に居る女や年よりなどの、理論にうとく、たゞ何と無く信心をせずに居られぬといふ者の、幾らでもあることは想像し得られる。是は今日の如き國難期に於て、何よりも重要な信仰であつて、たとへ是によつて災害の量を減ずることが出來ぬまでも、人に希望を持ち續けさせ、佛者のいはゆる無畏を施すことの出來る效果は大きいのである。多くの物質論者がチャンスと名づけて、たゞ數學上の現象としか考へぬものを、是からもまだ經驗として積んで行くのである。さうしてこの意義ある經驗の根據は、どう考へて見ても文獻史料の中からは得にくいやうに、私などは見て居るのであるが、諸君の判斷は如何であらうか。

　

　　　　　　　一四　統一政策の弊

　

　明治三十七八年の戰役には、諸君も知られる如く天佑といふ語が盛んに行はれた。始めて此語の用ゐられた趣旨は、確固たる國史の基礎の上に立つたのだつたに拘らず、流行の結果は濫用が甚だしく、たとへば危篤の病人が全快したのも天佑、もつとひどいのは負けさうな碁に勝つても天佑を謂ふ者が多くなつた。我々はその輕薄を憎んで、今度は寧ろ使ふまいとして居るが、それでもなほ神風ぞ吹かんといふやうな文句を、又何とかしてはやらせようとする者が有る。斯ういふ輕々しい傾向こそは警戒しなければならぬ。神風の歴史は誰にも明らかだが、是は決して無條件には吹起つては居ない。たゞ日本が神國であるが故に、乃ち神風が吹くであらうなどと思ふ者は、最も尊い敬神の歴史の跡を忘れた者である。

　神祇官の職掌權能については、御代々々の變遷があり、又それ／”＼の理由があつたことは私は疑つて居らぬが、た(455)とへ國家の政策を敬神の一途に限定せられる場合にも、なほその間接の效果がどこ迄及ぶべきかといふことだけは、注意の圏内に包容しなければならぬと痛感して居る。信仰と敬神と、二つは本來別のものであつたわけで無く、寧ろ前者の擁護と善導との爲に、他の一方のものが益々入用になるので、統一の如きはそれに比べると、第二義の重要さしかもたぬと私は思ふ。近世の行政は幾分か統一に偏し過ぎ、しかも各人の信仰に對する理解は足りなかつた。結果の擧がらぬのも止むを得ないのである。此點に關して、私は一つの體驗の忘れ難いものを持つて居る。諸君がそれをどう取らるゝかに關係無く、一度は之を語り殘して置きたいと思ふ。今から三十六七年も前、まだ自分が少壯官吏の一人であつた時に、神社合祀といふ政策が始まつて、地方によつては大分人心が動搖した。それはこの方針の善惡といふよりも、寧ろ奸譎の徒が之を惡用した場合に弊があつた。三重和歌山の二縣などは、神の森に樟や樅杉の巨木があつた爲に、大阪邊の商人が背後から合祀の運動をするなどといふ惡評さへあつた。私は直接關係しなかつたが、南方熊楠といふ植物學者などは、之に憤慨してあばれまはり、刑事問題までも引起した、其記録は今も保存せられて居る。神社の荒廢と司祭者の缺如は悲しむべきことに相違ないが、しかし是は地方の實情、一つ／＼の神社の具體的な?態によつて知るべきで、基本財産五千圓以上などといふ全國的目標を立てゝ、存否を決すべきものでないと私なども痛感した。それといふのが神社局が人民の信心といふことを少しも考へず、たゞ外觀によつて判斷するのが惡いと思つて、水野博士を始め其頃の當局には知友が多いので、折にふれて意見を述べて見た。しかし如何ともし難いことは、神社は宗教に非ずといふ見解が既に國是の如く固定して居て、一人や二人の考へでは變へられない。殊に其頃の隱れたる有力者が、同意する氣づかびは無いといふ話だつた。結局是は山縣老公なる者を動かすの外は無いといふ氣になつたのだが、それも失敗であつた。少年の頃から私を我子のやうに愛してくれた賀古といふ軍醫が山縣に親しいので、斯ういふ意見を説きに行くのだから紹介してくれといふと、それは無駄だから止めた方がいゝ。きつと老公は斯ういふからと、今まで何度か傍で聽いて居たと見えて、彼の口吻までを眞似して、私の希望をはね付けた。つまり(456)は國民一般の道�ｺとなつて居る伊勢大廟などへの敬神と、新たな内外の教會に出入する信仰とが、二つ取りの選擇問題になつては大變だといふ意味で、是が憲法の信教自由の條項の解釋とからみついて、最初から考へ拔いた問題であつて、今更討論の餘地は無いものゝやうに、少なくともこの人たちは考へて居るのであつた。

　

　　　　　　　一五　悲しむべき經驗

　

　今日からふり囘つて見ると夢のやうであるが、明治の前半期、いはゆる治外法權を撤去させて、歐米と對等の條約を結ばうといふことは、困難な事業と認められて、老輩は皆苦勞をしたのである。是には何よりも先づ基督教國人を安心させる爲に、信教自由の根本法則を掲げなければならぬのであるが、それでは年久しい國内の神々が、どうなつて行くだらうかといふことが、譬へやうも無い憂慮の種であつた故に、是非とも神社の解釋を斯うきめなければならなかつたので、動機はまさしく國を愛するの情から出て居たのである。

　しかも此經過を詳かにした記録などは、恐らくは何處にも無く、有つてもまた公表せられる折はなかつたらう。今泉定介翁などはよく知つて居たらうが、私はそれを聽き出すことも出來なかつた。たゞ現在でもなほ敢て批評し得ることは、過去の日本の敬神は必ず神の靈力と、その未來に向つての大きな威�ｺを認められた上のもので、歴朝の御敬神にも、祈願と切離されたものは、少なくとも中世以後には見られず、近世は殊にその論理的な推論の範圍を超えて居たのだつたといふことを、是等の老政治家たちは省みなかつたことである。解釋は各々其時代の要求から出發したもので、世が改まればそれも改まるのは當然だとしても、一方には現に各々の村の氏神社に、祈願し信頼する者が此の如く多いといふ事實を無視して居るのみか、更に我々の同胞が過去二千年を通じて、完全なる信教自由の下に、と言ふよりも寧ろ佛教に對する片びいきの政策下に於て、一貫して固有信仰の道を歩み續けて來たといふ、最も耀かし(457)い民族の特質をさへ認めないで、我から進んで自分の能力に不信用を抱くに至つたのは、恥づべきことだつたといふ點である。

　地方多數の農漁民等の信仰と、諸君の抱いて居られる敬神思想とは、兩々相對立するものだといふことを認めずして、この非常の時局に臨むことは、亦一つの弱點ではないかと氣づかはれる。信ずればこそ人は祈願をする。さうして其祈願の必ず容れらるべきことを信じ得る。しかも平生彼等が教へられて居るのは、敬神であつて信心では無い。現實に信じて居るのは産土の神、その以外の神々は詣る者がすでに少なく、それも多くは一身の願ひ事であつた。さういふ人たちの數を集め、今まで考へても見なかつた御社を拜ませても果して公共の祈願になつたであらうか。爰で諸君がどうしても考へらるべきことは、地方官は平生この新しい敬神の解釋に、最も徹底した人たちばかりである。神社の祭を事務としてしか視ることが出來ず、祭に缺くべからざる物忌の條件には疎く、從つて祈願の必ず成就するといふ確信を、最も持ちにくい人たちである。自身はともかくも、祭に奉仕する人々に、確かに神樣は我々の祈願を御認め下さつたといふ、大きな安堵の念を抱かせるまでの資格が無い。平たい言葉で言ふと、この祈願が效を奏するだらうといふ確信の、最も少ない人々が行政官吏なのである。さういふ人ばかりが寄つてたかつて、總國祈願を説くといふことが、あまりにも政治的ではないかといふことである。

　

　　　　　　　一六　必要なる措置

　

　しかもこの氣風は既にやゝ瀰漫し、官府以外にも及ばうとして居る。今はまだ少數であらうが、國民は信ずる者と信ぜざる者との二つに立分れて、其間の溝渠は日を追うて深くならうとして居る。民族統一の必要から割出しても、敬神といふ言葉の内容の變遷を詳かにし、殊に其濫用に注意しなければならぬ時代であると思ふ。この意味に於て、(458)三十餘年前の合祀政策などは、或は好ましからぬ影響を與へて居るのではなからうか。全國の神社の數は、土地によつては確かに多きに過ぎて居る。單なる個人の利害その他特殊の事情によつて創立せられ、その事由は既に去つて後まで、たゞ有るものを無くすのが氣が咎めるだけで、そつとしてあるといふ程度の敬神が多いのも事實である。即ちもし建物さへ無かつたら、もう夙くに無くなつて居たらうと思はれるもので、是は無くなる方が却つて住民の信仰は純一になる。それと祭のまだ活きて居る神社、即ち群の信仰の基礎の存するものと、見分けなかつたといふのは失敗である。部落の構成は地形に由るもので、五戸七戸より大きな村の、作れなかつた土地も我邦には多い。それに一つづゝ氏の社の有るのは、是は集合生活の要求だから致し方がない。しかもさういふものを無理に合せて置きながら、一大字一村社といふやうな劃一的原則を立てたことは誤つてゐる。御蔭で折角活きて居た祭は絶え、たゞ見物のつもりで出かける者、丸きり參列し得ぬ女や老人が多くなつたといふ事實もある。是などはひいきの引倒し、敬神政策が消極的に固有信仰に干渉した例である。しかし合祀の方はまだ是でも一時的の出來事で、或年數が經過すれば疵は癒え、たゞ瘢痕を殘すだけになるかもしれない。それではすまぬと氣遣はれることは、祭式の統一に過ぎた點、殊に祭官の數の十分で無いのに、住民の自祭を制限し、又は不可能にして居ることで、是などはどうやら常習的に又は慢性に、祈願せんとする者の心を荒しつゝあるやうに思はれる。祭の形式化する弊害が、或はこの敬神の劃一主義によつて助長せられ、全體は覆うて居るが何處も薄いといふ、結果になりはすまいかと自分などは憂へて居る。

　既に御聞及びの筈であるが、昨年の夏は神社信仰の振作の方策に關する委員會といふものが、翼賛會の中に設けられ、私も引出されて少々意見を述べて見た。何分係りの人がよく交代するので、まだまとまつた結論には達せずに居るかと思はれるが、大體に自分の考へて居るやうなことは、どうも共鳴者が少ないかと感じられた。勿倫是は民俗學の領域の外であるが、今日の事態に對處する政策としては、今少し信仰の自然の展開を期すべきであり、それには小さな端々の多數神社の實?が、無視せられ過ぎるといふことが言ひたかつたので、それで差當りは先づ次の二つの點(459)に、手を下して見てはどうだらうかと謂つたのである。

　その一つは祭の奉仕者を、現實に神を信じて居る者の中から選ばしめること、十社十五社兼攝といふ類の社司社掌しか得られぬやうな場合には、寧ろ氏子をして自ら祭らしめるやうな便法を供與することを主張したが、之に對しては、それでは官祭の趣旨が立たなくなるから、少なくとも町村に一人づゝの任命司祭者は置くべきだと、いつたやうな制限説が出た。

　第二には露地で祭を行ふ祭式を制定して、資力の乏しい最小の神社でも、信仰さへ強ければ祈願の續けられるやうな、新しい便宜を與へること、たゞ建築物を目安にして祭の式を定めたのは、古い思想にも反するのみか、土地の要望にも合はぬといふことを主張したのだが、是には賛成をした人は誰も無かつた。しかも私は今以て其必要を認め、且つその理由をも述べたいのだが、それでは長くもなり又言ひすぎにもなりさうなのでさし控へる。たゞ一言だけ附け添へたいことは、今日の如く他社參拜の盛んになつた世の中でも、一生涯にたゞの一度でも、それの出來るのは實際は十人に一人位なもので、他の大部分は村の社、村の祭に參るだけだといふこと、次には他郷から參つて來る人々の崇敬を目當てにして居られる神社は、是も亦全國十萬餘の神社のごく一小部分、算へても見ないが一千社あまり、二千社までは到底算へられず、その殘りの大多數の神社に至つては、たゞ氏子たちだけの信心によつてのみ存立して居るので、しかもその共通の立場又は要望を、國家に向つて表白し得る手段が今は殆と無いといふことである。此が實は自分などの今最も不安を抱いて各位に訴へたいと思つて居る一點である。

　色々と批判訂正を受くべき誤りもあらうが、それは後で是非承はることゝし、終りにもう一こと、言はずに居られぬことを開陳するならば、この千古に絶する一大國難に際會して、もしも神祇院の指導の下に、總國協同の祈願を捧げしめんとならば、その御社は必ず國民各自の氏神でなければならぬといふことである。府縣の一の宮は人之を敬はざる者は無いが、之を信ずる者の數は限られて居る。爰に參拜し得る者の數とても必ずしも多くない。その他の所謂(460)老弱男女には何の親しみも無く、家々の戸主の中にすらもまだ參拜したことの無い者がある。之に反して氏神は彼等の生れた時からの神、人が信ずるのみか神親らも進んで氏子の至願を達せしめんとせられると、信じて居る者は今もまだ決して少數でない。さうして其祭の方式も至つて簡易であつて、最も容易に國中の一致を見ることが出來る。故に?るとするならば必ず氏神といふことを明らかにするのは、やがては又國民信仰の自然にも合致し、且つ又年久しき國家敬神の本旨にも近いものである。地方の端々の現實を詳かにもせずに置いて、餘りなる劃一の行政を布かれんとせられたことが、栗田先生の神道沿革などに記述せられた中世の神道衰頽の原因であり、同時に又今日の病では無いかと、心竊かに私は憂ひて居る。

　

(461)　　　　　祭と司祭者

　

　　　　　　　一　綜合と比較から

　

　今度の講習會に私にも一つ、祭の話をして見てはどうかといふ勸誘を受けて、ついうか／＼と出て參つたが、是は誠に大膽な企てであつた。あなた方は皆實際家、年頃この大切な任務に携はつて居られる。私はいはゆる門外漢、何一つとして諸君より詳しく知つて居る氣づかひは無い。たゞ何とかして汎く大體のことを知りたいといふ念慮を抱き、又研究の方法としては、一どきに成るべく多くの實例を集め、之を比較して見ることによつて、新たに何ものをか捉へようと心掛けて居ること、是だけは僅かに一日の長があるので、それを此問題にあてはめて見て、自分のやうな素人くさい者でも、學ぶに其道を以てすれば、是くらゐの處まではどうにか考へ付くことが出來る。ましてや諸君の地位境遇に依られるならば、それこそ虎に翼のやうなもので、今までの不審もわかり、又新たなる疑問、即ち研究の目標とすべき點も明らかになり、更に進んではこの大御國の神ながらの道を、將來どんな風に展開させ又指導して行けば、この新たなる國運に相應することが出來るやうになるかの問題を、決定する手がゝりをも得られはしないか。言はゞ自分が一つの稽古臺になつて、改めて諸君に大いに考へてもらひたいのが目的である。假に私の思ひちがひ又は見落しが暴露しても、それさへも恐らくは好い參考になることであらう。故に十分なる批判力を以て、この一つの話(462)を聽かうとせられるのがよいのである。盲從過信の如きは、決して自分の希望する所では無い。

　

　　　　　　　二　統一方法の當否

　

　極めて率直に自分の今氣づかつて居る點を申すならば、最近敷十年間の我邦の神祇行政は、少しのたゆみも無く統一の方針を進んで來た。殊に祭祀には樣式が一定して、全國大小の諸社、すべてこの形に準據すべしとする趣旨は一貫して居る。是には大きな政治上の理由も有つたことであり、又結果の方から觀ても、國の隅々までも神を拜む心持は一樣になつて來て、社僧修驗等が奉仕した時代のやうな亂雜さは無くなり、神道はたしかに純一の方に近より進んで居る。其方法の最も有力であつたものは、神職養成の機關の統制であつたと思ふ。是あるが爲に神を祭る者の態度用意は、國の東西南北に亙つて、いづこも同じものにほゞなつてしまつた。ところが之に對して他の一方には、全國で祭り申して居る御社の數は、大小を合せて十萬以上もあり、それが各々の由緒と言ひ傳へ、殊に奉仕する人々の力の差等によつて、互ひに共通なる點を見つけ出すに苦しむほどの、著しい祭式の差異が元は有り、今もまだ若干はちがつたまゝで傳はつて居るのである。祭の主たる要件は古例に則ること、即ち祖父曾祖父よりももつと前から、確かに守り來つたと思ふ形の通りに行はうとすることで、それが諸君の手によつて突然と新儀に改められると、堅い人たちにはそれで祭をすませたといふ安心が付かぬのである。それほどにも祭は保守性の強いもので、何かを新たに附け加へるといふことは出來ても、今まであつたものを取除け又は取替へるといふことが出來にくいものなのであつた。それ故に改訂は少なくとも非常に徐々たるもので無ければならぬ。さうで無ければ近頃までがさうであつたやうに、人をこの變化に無關心ならしめなければならぬ。即ち信仰をやゝ冷却せしめる必要があつたのである。この新舊二つの差を如何に協調させるか。どこまでこの保守性を抑へて、國の必要とする統一に服從せしめるかといふことが、實(463)際の任に當る者の思ひ惑ふべき大問題だつたのである。

　

　　　　　　　三　大きな一つの弱點

　

　新しい神職たちは、大體に一つの場所で、一つの方針の下に養成せられたもので、過去七十年ほどの間、之を全國に割りふり、又時々は入れ替へられた人たちだから、式を新たにする力は可なり強かつたものと見られて居る。しかし縣社以上の著名なる御社だけは別として、それより以下の十萬餘の地方の御社の大部分では、今もまだ一社毎に專屬の一人の祠官を置くことの、出來ない事情が續いて居るのである。自分の知つた例だけで言つても、村々の氏神又はうぶすな〔四字傍点〕社の數は、先年の合祀によつてずつと減じて居るにも拘らず、なほ一人の社司をして數社十數社を掛持ちせしめて居るものが幾らでもある。祭の季節といふものは地方的に大よそ一致して居て、農村は秋の收穫後に行ふ處が最も多く、春の祭は其三分の一にも足らず、夏の祭といふものは殆と無い。即ちどこの御社も大抵は同じ頃で、たつた一年に一度の大祭に奉仕するだけにも、兼攝神職は飛び廻らなければならぬのである。しかも其以外にも雨乞ひ風祭蟲除け、更に月々の朔日十五日の小祭などは、勿論皆同時に行はれる。さうしてそれ／”＼の祭には前宵からの物忌があるのみか、中には五日十日の準備を要するものさへあるのである。是を一人の神職が掛持ちし得られるといふのは、必然に多くの手續きの省略を意味し、又手の屆かぬ隅々の多いことを意味する。元來が是を一人に兼務させて居ることが無理なので、つまりは今はまだ國家の統一方針は、事實に於て徹底して居ない區域が廣いのである。

　その上に氏子の神信心は、あまりの省略を好まず、又先規を大切に守るのをよい事として居る。それで一つ／＼の御社限りで、いつの世からとも無く續けて居る神事だけは、當局が率先して之を知り究め、且つ努めてそれを保存させて行かうとする方針、是も亦よほど久しい以前から政府には立つて居る。各府縣の所謂特殊神事調は、自分も既に(464)その幾つかを拜見して居るが、この特殊といふことは、實は頗る定義が六つかしい。ことに祭としては別に特殊でも無いが、その儀典の細部に、又は執行する者の心持に、今と昔と、老人と若い者との間に、可なりな差のあるものが稀ならずある。さうして古い仕來り習はしに違ふと氣にかけ、何か惡いことでもあると直ぐに其爲であつたやうに解釋しようとする者が、今も少々は居るのである。そんなことはあんまりやかましく謂はぬやうに、神を敬ふといふ根本の心構へさへあれば、信仰は寧ろ各人の心々に任せて置いて、いはゆる有識者は其上に超越して居てよいといふ時代が大分久しく續いて、自然にこの問題を稀薄にしようとして居たのであるが、今度は愈々さうしては居られない時節が到來したのである。このたびは遠く文永弘安の大國難の世の、貴いためしに由つて、朝廷親ら戰勝祈願の御祭を仰せ出された。國民の多數は是に力を得て、我子我夫を戰場に送り出したものは言ふに及ばず、少しでも國の前途に付て不安の念をもつ者は、それ／”＼に心の奧底から神の御力に縋らうとして居るのである。最も熱烈且つ眞劍なる神の祭を營むべき一大時期に、我々は直面して居るのである。如何にすれば國家の豫期に合し、且つ各個人の心願を貫徹するやうな、正しく又有效なる祭を行ひ得るかを、諸君の如き職分に忠實なる人々が、考へ拔かねばならぬ理由は茲に在る。

　

　　　　　　　四　事實と理論

　

　其理由はもう恐らくは明らかになつて居るのであらうし、又今度の講習會に於ても、更にそれを隅々の暗い所まで、隈無く透徹させて還つて行かれることゝ思ふが、それにも拘らず、なほ私が危ぶんで居るのは、事實が明らかになつて居るか否かである。事實を豫め確かめて置かないで、先づ理論ばかりを暗記してかゝると、この先何か意外な事實に行當る度毎に動かされる。果して自分の持つて居る今までの理論と、合するか否かを確かめる暇が無くて、腹の中(465)に若干の疑問を貯へ、又は隱して置かなければならぬ。もつと平たくいふならばごまかさなければならぬ。是は人の信仰心を指導すべき職分に在る人々に取つては大毒である。自分にも解けぬ謎をもちながら、他を教へることが出來る筈は無いからである。それで決して容易な仕事ではあるまいが、今日のあらゆる信仰の實情を知り、更に能ふべくんば古い形が變遷して現在に至つた理由を、一通りは見究める力を具へなければならぬ。それが將來の大いなる調和に到達すべき、たつた一つの路順のやうに私は思ふ。私の助言などは前にも申した如く、さう確かな又有力なものでは無いが、ともかくも立場がちがつて居るから、或は幾分かの新しい暗示にはなるであらう。他の先生方の言はれたことゝ突き合せ又は繋ぎ付けて、是から先の心の養ひになるやうに、諸君の腹で消化して下さるならば幸ひである。

　出來るだけ話を單純にして見たいと思ふ。その話を聽くと成るほど思ひ當ることが有るといふ風に、諸君の方でも類推又は敷衍せられんことを希望する。私は昨年の秋、「日本の祭」と題する本の中で、全國各階級の神社の祭の中に、何が一貫して共通して居るかといふ點を、特に力を入れて説いて見ようとした。その聽手は主として學生、即ち此方面の素人ばかりであつて、斯ういふ平等觀を必要とする人々だつたからである。今度は一つ全く立場をかへて、均しく祭の名を以て呼ばるゝ信仰行事にも、現在はもうどれだけの新舊の差が生じて居るか、さうして此差別は將來も兩立併存しなければならぬか、はた又改めて雙方からの歩み合ひによつて、全國軌を一にするところまで漕ぎ付ける必要があるか、或はどの程度に於て先づよろしいと言つて置くべきか。是を當事者たる諸君と共に、考へて見ようとするのである。

　

　　　　　　　五　祭の方式

　

　是は範圍の弘い問題であり、又こま／”＼と穿鑿したら切りが無いが、先づ其中のたつた一つ、大きな神社の大きな(466)祭だけに、現在行はれて居る神のみゆき、御旅とも渡ましとも謂つて居る行列の構成に就いて説いて見る。祭の行事の中では是が尤も力が入り、從つて又外部の人にも最もよく目に着いて、?々話題となつて居るからである。今までの實驗によると、老若男女如何なる境遇に在る人でも、多少は此話に興味をもたぬ者は無い。從つて諸君にとつても亦、是から事實を觀察し、比較をして見るのに都合がよい。外國人などには、途法も無く間ちがつたことを考へて、是が日本の神道の唯一の特徴ででもあるかの如く言つた者もあるが、この行列の花やかなる取合せの中にも、やはり芭蕉翁が俳諧について言はれたやうな、不易と流行とのけぢめは有る。即ち時代々々の文化の影響を、著しく受けて居るものゝ中にまじつて、古今を一貫して變らざるものが、傳はつて居るかと思はれる。その新舊二つのものを引きくるめて、すべて昔からの日本の姿だと見ると、その現在ある形を毀すのがたゞ怖ろしくて、正しい未來の計畫を立てることが出來なくなるのである。私などの學問の方針では、先づ斯ういふ中から、後に改まつたにちがひないものを抽き出して、その改革の動機ともいふべきものを考へて見る。祭の御旅の行列で言ふならば、囃しものと踊り屋臺、是に新縮緬の襦袢を着て、白の型染めの木綿の鉢卷などをした人が乘つて居る。紅で染めたほゝづき挑燈が下げてある。斯ういふものが「橿原の聖の御代ゆ」はさておき、平安朝の時代からのものですらも無いことは、誰にでも判り切つて居る。祭の名物としてこの飾り屋臺のよく發達して居るのは、九州では博多、中部では名古屋など、後者では伊勢門兵衛翁の「名古屋まつり」といふ、この事ばかりを描いた本が、四十何年も前に出て居る。その他飛騨の高山とか越中の高岡とかには、彩色刷りの繪葉書までが出て居て、土地の人々の自慢の種であるが、しかしそれ等の最も古風な飾りといふものでも、出來た年代は三百年内外で、京の祇園祭とても同じことだが、最も金目なゴブラン織とか何とかいふのが、すべて室町時代といふよりも、寧ろ安土桃山文化とでも名づけてよいもので、他の多くはたゞそれへ出來るだけ近くならうとしたのみで、實際は又それよりも遙かに降つて居る。つまりは何等かの人を驚かすやうな、金のかゝることをして見たかつただけで、さういふ尋常でない念願が、祭の渡御式に於てはやゝ古くからあつた(467)のである。中古の言葉では之をフリウと謂つて居た。文字に書けば風流れるだが、我々の風流とは意味が全く別で、今日でいふならば新趣向、目さき思ひつきの次々に變へられて行くことを意味する。是がどういふわけでか神々の御目を悦ばせ申し、同時に又祭の日に奉仕する人々の昂奮を強烈ならしめるものとして、寧ろ年毎のやうに之を新たにしようとして居たのである。古い記録では永萬元年の洛陽田樂記などが、このいはゆる風流の趣きを詳しく書いて居る。或は災害を攘ふといふ方の祭だけに、昔は特にこの風流を盛んにしたのが、後いつと無く一般の古い御社にまで、波及することになつたのではあるまいかと、自分などは今でも考へて居る。

　

　　　　　　　六　鉾と山

　

　この氣風が今もなほ續き、又は一段と盛んになつて居るのである。何か大きな年の記念の祭禮には、新たに揃ひの浴衣などをこしらへて、俗な言葉でいふと景氣を付けようとする。御祭さわぎといふ樣な變なたとへごとも是から起つた。斯んなものは世と共に變つて又變るのは當り前で、しかも其能力を具へたものは、主として都會の商業地帶であつた。都市が數多く又漸々と盛んになつたのは、全く近世に入つてからの現象である。之を日本の祭に固有のものと見ることは、許されるわけが無いのである。

　しかし他の一方に於て、この時代々々の變遷の土臺、接木でいふならば根株になつたものだけは、最初から具はつて居たらしいことが、色々の點から推測せられるのである。たとへば祇園の祭などで、人によく知られて居る山と鉾の二つでも、之を飾つた材料は皆近世のものだが、その名と根本の趣旨だけは古いものかと思はれる。鉾は柱を中心とした立て物の、移動し得る高い飾り物の總名であつたらしく、今も現實に旗鉾を行列の中に加へ、終りに祭場に立てる例は多い。神々の御降りを迎へ申すには、斯ういふ柱を立てることが夙くから必要だつたのである。山といふ飾(468)り物の最も古いのは、大嘗祭の日に作られたといふ標の山、その標といふのも神の御目じるしのことであつた。信州の多くの祭に青山さまと謂ふのも、人が舁き又は車に載せて、移動するのを普通とするが、なほその以外に置山と稱して、一定の土地に作り設けた例も少なくは無い。私などの郷里播州姫路の總社で、何十年目かに一度の一つ山二つ山といふ祭も是で、後々は美々しい衣裳類を集めて、其山を飾り立てる風にもなつたが、もとは緑の樹の枝を以て作るのが本意であつたらしい。何か非常に深秘な意味のあつたものと思ふが、言葉では傳へなかつた爲に、もう半ば以上忘れられて居る。三河の花祭なども祭の中心として、元はしら山といふ大きな圍ひを設け、人は其中を通つて生れ清まはりといふ儀式をしたことが、今はたゞ話となつて記憶せられて居る。シラは無くなつた古語の一つで、誕生又は分娩と關係のあるものと思はれる。沖繩縣でも南の端の島々だけに、産屋をシラといふ名がまだ殘つて居る。是が自分の想像の通りであるならば、賀茂のみあれ野の御神事なども、思ひ合すことの出來る古い信仰の名殘であつた。

　それから今一つ、關西の方では聽かぬ名だが、東國ではダシといふのが、この祭の行列の日の飾り物の名である。外へ引出すから「出し」だらうと、きめて居る人も多いけれども是も一つの目標といふ意味だつたことは、夙く折口君が「髯籠の話」といふ中で説いて居られる。即ち貴人の御車の出し衣なども同じダシで、爰に此上も無く清きものがあるといふことを、神にも又人にも表示する目的をもつて居たことは、聖なる串や柱のシデやホダレ、又後に梵天などと誤られたホデといふ物も同じだつたのである。斯ういふ外部にあらはれる飾り物に、出來る限り花々しい趣向を凝らすといふだけは、或は上古以來の特徴であつたかも知れぬが、奈何せん今では其中の變らぬ部分は全く埋もれてしまひ、次々取替へられる外部の飾りだけが人の注意を引付けて居るのである。そればかりで無く一方の鉾山の下に於て、曾て行はれて居た人の動作も改まつて居る。さうして今では流行の手踊などをする者が、どうしてそこで踊らなければならぬのかを忘れて踊つて居る。能の舞臺の正面の大きな松の繪なども、是をたゞ單なる背景の繪のきまりの如く見るものが多く本來はそこに松の木がある爲に、その樹下で舞ひつ歌ひつしなければならなかつたのだとい(469)ふことまでは考へる人が無い。爭ふべからざる時代の變牝である。

　

　　　　　　　七　神の渡御と降臨

　

　それから更に一歩を進めて、今日祭の中心とまで見られて居る神輿おみこし〔四字傍点〕といふもの、是も實際は新しい流行の産物なることは、あの工藝の一つ／＼に注意して見ても判る。或大きな中央の御社に在るものは稍々古く、地方にある多くのものは新しいのを見ても、是が模倣であつたことは疑はれない。現在も祭に神の御渡ましはあつて、神輿は用ゐて居らぬ土地は少なからず、又曾てあつたが今はもう無いといふのも有ると共に、一方には近年新たに御輿舁きが始まつたといふのも稀でない。物が中々金錢の多くかゝるものであつただけに、その地方限りの歴史は消えずに居るのである。それを一つづゝ當つてさへ見れば、ともかくも神輿を舁かずに神の御幸の行はれた時代が、有つたといふだけは認めずには居られぬのである。

　神輿が無くしてどうして神を御迎へ申して居たかといふこと、是は諸君が疑つて見られてもよい可なり大きな好い題目である。さうして是に答へるには全國を通じて、幾つとも無い變遷の各段階が、今も幸ひにまだ保存せられて居る。先づ第一には名は同じミコシであつても、大よそ我々のもつ概念とはちがつたものがある。たとへば能登の飯田などで榊みこしといふもの、是は白木造りの臺の上に、たゞ榊の枝を挿し立てたもので、之を神籬《ひもろぎ》だと神官は謂つて居る（珠洲郡誌）。諸君の奉仕せられる御社にも同じ例があるかも知れない。是が中古屡々京都を騷がせた日吉の神輿、又は春日の神木といふものと最も近いのである。前にも名を擧げた信州各地の青山さまも、臺の上に榊の枝を繁く立てゝ、下を車にして曳くやうにしたものもあり、或はその臺の形が舟になつて居るので、オフネサマといふ村も北佐久郡などにはある。同郡安原の英多神社の祭では、還りには其舟を空にして、御神體は神職が自ら捧持し、舟の中の(470)榊の枝は途々に投げ散らして人に拾はせるといふ（北佐久郡誌）。

　この御神體といふのは、爰では多分木の箱に收めたものと思はれるが、是を始めから人が捧持して行く例もあり、途が遠ければ人が背に負うて行く處さへある。島根縣でも石見の方には、祭の日にセナカウヂといふ餅を作つて神に供へる村が多く、是を文字では背神事などと書くさうだが、セナカウヂは實は東日本で謂ふシヨヒコのことである。稻藁や藤蔓で作つて、物を負ふ場合に背に當てるもので、この日の餅の形が多分長方形で是に似て居るのである。此地方の俗信では、山に木を伐りに入つたとき、この背負ひ子のセナカウヂを立てゝ、ニカヲ即ち荷繩を引いて神の名を呼ぶと、神は直ちに下つて來られるものだといふ。だから神返しののりと〔三字傍点〕を知らぬ者が、夢にもそんな事をしてはならぬと謂つて居る。是とやゝ似寄りの話は、是もやはり山の神さま迎へであるが、岩手縣を始め東北の多くの村々で、山の神を迎へて來ると難産の難をのがれるといふ信仰があり、少しく産がひま取るとすぐに山の神を迎へに行く。其方法は馬を飼ふ家ならば馬を引いて行き、馬が立ち止まると神が御乘りになつたものと信じて、そこから引返して來る。里はづれから返ることもあれば、時には山深く半日近くもあるきまはらねばならぬこともあつた。馬を持たぬ家ではどうするかといふと、馬の代りに新しい荷繩を持つて迎へに行く。是も素朴な人たちは神が我背に御乘りなされたことを感じて、そこから引返して來たものと思はれるが、確かな經驗といふものを直接にはまだ聽いて見たことは無い。がとにかくに神の御乘り物にも、もとは色々の種類のあつたことが是でわかる。或はそれは何でも無いたゞ一つの儀式だといふやうに、思つて居る人が諸君の中にも無いとは限らぬが、現實に神が降臨なされたといふことを信じ得なければ、眞劍に御祭り申すことは昔の人には出來ず、さうして又それを確かめる方法は、どこの土地でも先祖代々のものが傳はつて居たので、此點が又恐らくは今古不變のものであつた。

　

(471)　　　　　　　八　祭の木のさま／”＼

　

　中國西部から北九州一帶にかけて、祭の御輿をゴシンサマと謂ふ方言が行はれて居る。他の地方でミコシ花といふ草、即ち紫雲英《れんげさう》のことを、此地方では又ゴシンサア花と謂ふのである。このゴシンといふ語は、注意して見ると意味がもつと弘く、たとへば長州などでは御神體といふ心持につかひ、オムロの中にはゴシンが有るなどといふ。オムロは家で祀る神樣の木の御廚子のことである。或は船大工が船を造つた後に、船靈樣の御筒を取りとゝのへて、それへゴシンを入れるといふこともある。或は又ゴシンを拔くといふ語も、船人の間には行はれて居る。即ち船を修繕したり又はタデルと稱して船の外側を燒き焦がす場合にも、其間だけ暫らく船靈樣のゴシンを拔いて置くのである。或はゴシンの代りにウツツを入れる。又はオショウネを入れるといふ人もある。土佐の鵜來島などでは、ウブを入れると謂つて居る。全國通用の語としては、神入れ神移しといふのが最もよく知られて居るかと思ふが、名は何とあらうとも、とにかくにこのゴシンを入れてから後で無いと、拜むも意味が無く、祈るも其效が無かつたことは、全國一樣に認められて居る所であつた。博多の祭では、山笠即ち飾り山にも神入れをしてから、曳き出すことにして居る。もとは是も神輿と同じやうに、神靈の宿りたまふものと考へられて居たのである。

　神輿にゴシンを移し入れる方式なども、恐らく神社毎に深秘なる古來の定めがあつて、是はどのやうに神職講習所で教へようとも、さう容易には全國を統一することは出來ないものであつたらう。其理由は何よりも簡單で、それを改めると氏子は神の來臨を信じ得なくなり、拜み又?ることが出來ないので、祭が祭では無くなるからである。從つて又是が容易に改められる樣でも實は困るのである。他所はどうか知らぬが東京では、建築に先だつ地鎭祭にも神職は警蹕の聲を發し、式の次第書には降神昇神と書いてあるが、參列員はたゞポカンとして居るだけで、もう誰も是か(472)らが神の御臨場だと感ずる者などは無い。そんな事ではさあ神祭りはすんだといふ喜びは起らず、「いはひ來し神は祭りつあすよりは組の緒しでて遊べたちはき」といふやうな大きな安心が得られよう筈は無い。それこそ形ばかりの古風な儀式に止まつて、神道の一部だとも言へなくなるかも知れない。古來日本人の祭といひ信心と謂つて居たのは、憚りながらそんな空虚なものでは無かつた。神が一同のひれ伏す前に、實際御降りになつて居ることを、確かめる方法は備はつて居たのである。是が祭の最も肝要な部分であつたことは言ふまでも無い。さうして又國に固有なものゝ、最も久しく傳はつて居る部分でもあつた。たとへ輕々しく之を口にする者は無いまでも、我々の思ひを潜めて窺ひ尋ね、且つ考へて見るべき問題は是だつたのである。しかも實際のところは、あのきらびやかなおみこしの流行は、もう大分以前から少しづゝ神の御出入りに關する一般人の考へ方を變へさせて居たのであつた。

　神輿渡御の新たな方式が採用せられて後も、なほ前々からの降神の式を罷めてしまはずに、新舊二つ以上の形を併存して居る例は、既に「日本の祭」の中にも述べて置いたが、是は恐らくは新式の方があまりに風流などの催しものと近いので、古い慣行を是に取替へることが、幾分か心もとなかつた爲だらうと私は見て居る。以前の神迎へに於ては、神輿よりも單純素朴で、從つて又一段と適切なる方式によつて、神が御移りなされることを確認し得られたのかと思ふ。その最も主要なる方式は神依木、即ち神の依りたまふ木の枝又は串鉾の類を、物忌をした人が捧持して行くもの、是にも無數の樣式の差があるが、現在最も普通なのはみてぐら〔四字傍点〕即ち幣串で、是を神渡御の行列の中心とする考へは非常に弘く行渡つて居るが、神輿の出る場合には多く其前かすぐ後に續くので、時としてはたゞ單なる神の御持ちものゝ如くに見て居る人が有る。しかし曾ては榊御輿の榊も同じやうに、是をゴシン即ち神ざね〔三字傍点〕として居たのである。其中でも最も顯著な一例は、越後長岡の藏王權現を中心とした王神樣といふ巡り神で、是には故星山貢氏の詳細な著書も殘つて居る。王神樣はお宮のいらぬ神樣とも言はれて、年中氏子の家から家へとお巡りなされた。其家を頭人と謂つて是が四組に分れて居り、毎年十月八日に鬮で次の番をきめて交代した。其御神體は三つの桙であつて、男(473)神一體女神二體、各々其形によつて一方を鎌王神、二つの女神の方を桶王神とも柄杓王神とも、古くは又箱王神とも謂つた。是を迎へ申した頭人の家に喪があるとすぐに桙を川へ流し、新たに作つて之を次の家に渡し申した。即ち神はたゞ外を御巡りなされる時のみ此桙に御依りなされ、常には祭る家に御鎭まりなされるのであつた。是ほどはつきりとしては居ないが、是に近い例ならばまだ幾らも諸國に分布して居る。古くは大幣《おほぬさ》といひ今はオハケサンとも謂つて、其年の祭を奉仕する頭屋の家の前に、清淨の土壇を築いて是を立てゝ置く。或は其オハケ樣の代りに、榊の生木を立てるといふ例もあり、其木には必ず紙のシデを垂れて、他の尋常のものと聖別した。祭に幟を立てるといふのも、その神依木のシデが、一反二幅といふやうな長い白布となり、それに文字を書く風が次で起つただけのものと私は解して居る。神の御移動に際しては、此木も亦一種の御乘物となされて居たのである。さう解して見ると、何人がこの神依木を管理し、又は運搬して行くかゞ非常に重要な問題になつて來る。行列は當然にその木を捧持する人を中心としなければならず、又時としては其人が主で、執り物はたゞ其人が最も神聖なる?態に在ることを、表示する一種の徽章のやうにも見られる場合が出來て來る。是が即ち人を依坐《よりまし》とする神迎への第二の方式なので、以前神主と謂つたのは其人のことであつた。

　

　　　　　　　九　一つ物の意義

　

　この神主の問題に關聯して、是非とも始めに考へて見なければならぬのは、ひとつもの〔五字傍点〕と稱する祭の役のことであつた。一つ物といふわけはまだ明らかになつて居ないが、今日くらゐの淺い研究では、それがまだ判らぬのも不思議は無い。自分の一つの想像説では、或は是が祭の中心、最も大切なものといふ意味の、一種の忌言葉では無かつたらうかと思つて居るが、果して當つて居るかどうか。現在もなほ行はれて居る祭の一つ物は、我々の知つて居るだけで(474)も、全國に亙つて七八つの實例がある。それに共通なる大きな特徴は、一つ物は必ず馬に騎つて行列に加はること、さうして笠を深く被つて顔を見せぬことである。其笠の上に又は其腰に、山鳥の羽を挿んで出るといふのが多いが、或は又御幣を手に持つて行く例もある。熊野の新宮の祭の一つ物は、一本の蘆を腰に挿すことになつて居る。此蘆は紀州大島の北に在る小さな島の、平素は人の近よらぬ靈地から迎へて來るので今でも其蘆を苅りに行く嚴重な式がある。つまりは斯ういふ神聖なる徽章を、身に帶びた者が一つ物と呼ばれ、是が神幸の行列の中心をなして、祭場に向ふのである。

　次に各地の一つ物の一樣で無い點をいふと、或御社の祭では童兒に潔齋させて馬上に進ましめるに對して、他の幾つかの例では人形を馬に乘せて行くことである。是は多分童子に其役をする志願者が得にくゝなつた爲かと思はれる。京都の近くの宇治田原の栗栖神社などでは、御一つ物とは言はずに日の使と謂つて、近年までは頭屋の嫡子を馬に乘せて居たが、頗る身體にこたへる大役であるので、近年は是を勤めることをいやがるやうになつて來た。京の祇園會の鉾の町の稚兒なども、もとは十萬石の格式とも謂はれて、馬に乘つたまゝ神前近くまで出る晴の役であるが、是も近年は勤めようといふ者が少なくなつて、人形を以て替へることになつたさうである。人形にすればもう問題は無いが、以前は其兒には化粧をさせ、額と頬とに紅で星を描くのが例で、是を祇園では「御くらゐもらひ」と謂つて居た。土佐の高岡郡の或御社の例は、今なほ續いて居るかどうか知らぬが、明治年間の記録は存して居る。是も名は大行事と呼んださうだが、實質は一つ物と同じであつて、やはり神幸の行列に先だつて、白粉で化粧をした上にこの星を描くと、すぐに催眠?態に入り、神事完了の後それを洗ひ落すまでは正氣がつかなかつたと謂つて居る。つまりは人間を以て神の依りましとする昔からの方式であつた。祭の間だけは神と同じに崇め敬ふ爲に、斯うして尋常の姿から區別したのである。山城田原の祭では、朝から日の暮まで、つゞけて太陽の方角に向いて馬を立てゝ居なければならなかつた。それで日の使と謂ふと説明せられて居る。是とよく似た馬上の稚兒を、近江美濃三河播磨等の地方で、頼朝(475)と呼んで居る例が幾つもあるのは、多分ヨリマシといふ語の誤解であらう。或は又單に殿樣とも謂ひ、從つてこの行列のことを大名行列といふ處は信州諏訪社、駿河島田の帶祭等諸國に多いが、それもこの一つ物であつてたゞ其名だけが無くなつたものかと思つて居る。是等の行列の特徴とするのは、必ず馬上で渡り、騎り手に土を踏ませまいとすることで、途中休む家があれば必ず抱きかゝへておろす。さうして警固は武家時代を經て一段と本ものゝ大名行列に類似して來たやうである。たとへば行列の先頭に立つて行く者を奴振り、又は鑓持ちともいふ土地があつて、武具を事々しく振る作法も出來て居るが、この振りものは鑓や長刀には限らなかつた。采配振りもあれば花籠をまはして行くのもあり、又は幣串に長いシデを垂れたのを持つ例もあり、鹽や潮水、稀には米の粉などをふりかけて行くのさへある。振るといふ言葉の心持が變つて來たのである。珍しい慣習としては瀬戸内海の或島に於て、この行列の鑓持ちをウントコセと謂つて、必ず私生兒をして此役を勤めさせたといふのである。中部地方の某山村では、私生兒といふ中でも特に父親の全く知れない者を珍重して、是に神祭りの或役をさせることにして居たといふ話を聽く。是は何か深い意味の有ることのやうに我々は感じて居るが、まだ詳しくはこゝで説くことが出來ない。

　

　　　　　　　一〇　上げ氏子

　

　神の御行きの御伴をする者は、近世に入つて著しく數が多くなつて來た。殊に神輿の新しいものは、わざと重くしてあつて之を舁くにも大變な人が要る。關西の方に行くと神輿を舁く者をモリニンと稱し、氏子以外の他處の人が心願で來て舁くのを願モリと謂ふ土地もある。即ち神社信仰の一つの擴張であつて、我村の氏神の神意に反することなくして、他處の御社に願掛けする者が出來たことを意味する。今日となつては是は普通の事かも知れぬが、田舍ではつい近頃までは殆と聽かぬことであつた。よその土地の神社に對しては、敬神といつて敬ひ拜することはあつても、(476)そこへ祈願を籠めるといふのはよく／＼の場合だけであつた。それが最初には有名な大きな御社に始まり、次々にはどこの村の氏神樣を信心しても、怪しむ者が無いまでになつてしまつたのである。是が始まつてから、我々の祭祀團の組織が複雜になり、行列の中心が何處に在るかゞ判りにくゝなつたのである。

　例は幾つでも擧げることが出來るが、其中でもアゲコ又は上げ氏子といふのは、ちやうどこの變遷の中間過程を示すものである。即ち祭の時だけに臨時に其神の氏子となつて、行列に附くのが上げ氏子である。熊野の神倉山の二月六日の御燈祭にも、あがり子と稱して可なり遠くの村々から、多くの童兒に松明を持たせて、この御式に參加せしむべく連れて來る。信州下高井郡の或御社の祭にも、美しく着飾らせた子供が松明を手に持つて澤山に出て來る。それをまつ子と謂つて居るが、そのマツも亦松の火のことかと思ふ。もとはたつた一人だけを、鉾又は山の前に立てゝ進行させたのが、後には我も／＼と之に倣ふ者が出來て來たのであらう。是も熊野の例だが、田邊の町に近い芳養王子《はやわうじ》の社の鬢上臈のことは、最近にも「肩車の話」として私は書いて居る。小さな男女の稚兒を花のやうに化粧させて、幾人とも無く行列に加はらしめるので、今ではビンジョウロは肩車の方言のやうになつて居るが、是はその盛粧した稚兒を、必ず肩車に載せて行くからの名であつて、土に觸れさせまいとした目的が、他の地方の大名行列とも一致して居る。乃ち是も亦一つ物から成長した新たなる慣習と見られるのである。

　尤も是にも今一つ前の形があつて、中間の橋渡しをして居るのかも知れない。一つ物は本來は行列の中心で、たつた一つのもので無ければならなかつたのが、追々と其趣意が明らかで無くなつて、一時に何人でも出してよいといふ例が、同じ氏子仲間だけの祭にも現はれて來て居る。やはり紀州のうちだが、日高郡｜上山路《かみさんぢ》の祭に、わたり兒と謂つて居たのなどは氏子に限り、臨時の外からの參加者では無かつた。其年生れた男女各々一人の幼兒が、親に抱かれて出て祭に奉仕した。今は行列の中には入らず、御宮の表口に蓆を敷いて御還りを待つといふが、渡り兒といふからにはもとは御渡りに加はつて居たのである。秋田縣湯澤の七月二十三日の愛宕祭では、大名行列のあと御輿の前に、赤(477)く化粧をした女の兒が花傘を立てた車に乘つて、何臺も何臺も行くのをねり兒と謂つて居る。ネルといふのも行列に入つて進むことで、それで又神幸をオネリといふ處も多いのである。熊本縣北部の多くの祭禮には、女の兒が美しく着飾つて行列に入つて行くのを、ネロミヤァと謂ふことは人がよく知つて居る。昔は娘を人身御供に上げて居たのが、賢い強い犬によつて助けられたといふ、全國的な傳説を伴なつたものもある。このネロミヤァは、練嫁と文字に書く人もあるが、本たうはねりおまへ〔五字傍点〕、オマヘといふのもやはり花嫁と同じで、つまりは若い女が紅白粉をつけて、尋常に絶した盛装をするのが、ヨメ即ち吉女といふ語の起りであり、それを又オマヘ即ち御前とも謂つて居たのである。上臈といふ名も是と同樣に、もとは貴女のことだつたかも知らぬが、後にはたゞ化粧した女のことになつた。神戸と大阪の中間の鳴尾の岡太神社、俗にをかし〔三字傍点〕の宮と謂つた社の祭に、一時上臈といふ者が出たことは夙くから有名であつた。攝陽落穗集の頃までは、まだ村民の頭屋に當つた者が、女装をして勤仕して居たのであつたが、今日は既に變化して、たゞ紅白の紙を剪つて作つた人形を下げて置くだけになつた。さうして是にも人身御供の話が傳はつて居るのである。

　是とよく似た例は大阪郊外の野里の一夜官女、現在は是も十二三の女の兒が七人出ることになつて居るが、それでも其中の一人だけをニエと稱して、別の座に坐らせて居る。曾ては頭屋の家から其一人は出したのであつたが、現在はたゞ籤取りできめて居る。祭に神を代表すべき重大な役が、段々と力弱く、又多くの同列者を作り立てることになつたのは、他にも信仰上の原因があるであらうが、一つには頭屋といふ神役の機能の退歩、殊に經濟上の止むを得ない理由からであつた。祭の式の變遷の背後には、頭屋の制度の崩壞が隱されて居る。だから此沿革をもつと明らかにした上でないと、御互ひはまだ日本の神道の將來を討究して見ることも出來ないのではないかと思ふ。

　

(478)　　　　　　　一一　頭屋制と講

　

　頭屋といふ名稱は今も多くの土地に傳はり、又近來は諸君の中にも、是に注意する人が漸く多くなつたやうだが、その慣例の今ある形、殊に是と御社の祭との關係は、全國一樣で無いと言はうよりも、各地殆と皆互ひに違つて居ることは、神渡御の式以上である。後者が徐々に端の方から變つて來て、なほ中堅に幾つかの共通點を殘して居るのとは反對に、頭屋の方は變れば直ぐに元あつたものが消え去つて、後にはたゞ其名目と、人が順番に事務の中心になるといふ法則だけが殘るのみで、終には祭祀とは少しも縁の無い連歌の頭や頼母子の頭、又は學校や役所の居殘り當番といふやうな、型ばかりのものとなつて居る處もある。此方が或はトウといふものゝ最初からの概念で、祭の頭屋はたゞ其一つの適用に他ならぬのかも知れぬが、それにも今日はまだ想像の手掛りとすべきものが多い。とにかくに自分の郷里だけの頭屋制を熟知して居て、それで昔からどこでも斯うだらうと速斷することの危險は、神の御行きの構成を考へる場合よりも遙かに大きいのである。

　數量の上からいふと、現在日本の國の端々にかけて、一ばん弘く行はれて居るのは日待の講であらう。東北にも九州南端にも、なほ盛んなのは二十三夜講、中央部に多いのは庚申講、是と組織を同じうする色々の信心講、遠い他處の神社に參拜する者の團體である。其中でも特に今日、伊勢講が重く見られて居るが、是と類するものには山上講羽黒講秋葉講の如く、諸國の靈場を中心とするものも數十種あり、或は又觀音講や念佛講のやうに、佛教の色彩の濃厚なものも多い。何れも皆講員が順番又は籤引きで、其會場に我家を提供し、飲食と談話とを餘興にして、一夜半夜を共々に起き明かす點は同じで、是が村落生活の爲に缺くべからざる一機關と認められて居る點も一致して居る。神社の奉仕に專念せられる人たちの目から見れば、是等は民間の小さな私の祭で、間接にも神職の職分とは交渉が無く、(479)又?々御社以外のよその神々を信心して、めい／＼の氏神をなほざりにする者をすら此間に見出すのだから、何か苦々しいことのやうに見て居られる向きが無いとも言へぬ。しかし自分は敢て豫言をするが、是等の團體をどの樣に指導し、又改革して行くべきかといふことが、今に我邦の神社政策の、大きな一つの問題となる時がきつと來る。今日國固有の神道が、制度として統一せられて居ると言へるのは、單に無格社以上の神社の祭だけであつて、人の信仰の現在の如く複雜し、又牴觸しやすい?態に在る國は、他ではまだ私は知る所が無い。斯んな混亂の?態の下に於て、國民の精神生活の統一を圖るといふことはよほど六つかしい。もしもそれが切迫した時勢の要求であつて、何としてでもそれを爲し遂げなければならぬとすると、時としては自分にもまだ十分には消化して居ないやうな理窟を捏ね上げるとか、それをわからぬなりにともかくも暗記して行かうとするとか、さうで無ければ以前の排佛毀釋見たやうな荒つぽい權力を行使するか、さうで無ければ信仰はたゞ人生の一小部分だと輕く視て、たゞ神棚は必ず設けよとか、公葬は神式に限るとすべしといふ類の、外形の點ばかりをやかましく言ふやうな人が、多くなつてしまはぬとも限らない。心から國民が諸君の解説に同化せられて、今まで餘りにもまち／＼であつた信仰の樣式を、自ら整理し得るやうにならなければ、假に社毎に專任の社司があり、又其待遇は今よりもずつとよくなつても、なほいつ迄も他の宗教の傳道者たちと、力くらべをして中々勝てない時代が續くであらう。早くさういふ現?を脱出しようといふのが、この非常時局に當つての、政府の方針であらうと私などは感じて居る。其方針に副ふ爲には、新たになほ深く考へて見るべき問題が幾つかある。何よりも先に必要なのは事實を明らかにすることである。如何に有るべきかを決する前に、如何にあるかを知ることが順序である。

　

(480)　　　　　　　一二　民間信仰の名

　

　民間信仰といふ言葉は私たちも折々に使つて居る。人によつて其受取り方が大分ちがふやうであるが、少なくとも是を一括して、すべて日本の神道の外のものと見切りを付け棄てゝ置くのは誤りである。最初海の外から運び込まれたことの明らかなものですらも、よく見て行くと其中には、古く國民の持傳へで居たものが織込まれて居る。ましてやいつ何處から入つたといふでも無く、獨りでに此國に發生して大きくなり、又弘まつて來たにちがひないものは、よかれ惡しかれそれは日本の信仰である。大昔は單一であり極めて明瞭であつた日本神道の、移り變つて來た一つの姿なのである。それを少しばかりの新分子、前には無かつたと思ふものが加味して居るか、又は異宗教の感化影響が見られると、すぐに神道の研究の外に追出して、それがどうなつて行くかを省みざらんとするのは、我と我使命を小さくするやうな不利益な話である。そんな理窟で押して行くならば、曾て國中に兩部神道が榮え、社僧神宮寺が宮々の祭を掌つて居た時代には、神道が無かつたといふ結論にもなるのだが、それは甚だ困ることでは無いか。

　しかしさういふ中にも今日の所謂黙殺政策、そつとして置いたらやがて消えるだらうと、高を括つて居ても差支へないものも無いとは言へない。たゞ神社の毎年の祭と、直接の交渉ある問題だけはさうは行かぬ。殊に一國の祀會組織に繋がり、永い歳月を一貫して神社を中心とした村の統合を支へて居た頭星の歴史の如きは、假に一旦壞れたら復活の望みは無く、何か之に代るべきものを見つけるの他は無いものときまつてしまつても、なほ其變遷の跡を究めて置かなければ、實は革新の目途も立たぬのである。勿論言はず語らずの間に、人はもう此問題に注意し始めては居ると思ふが、たゞ是までは比較方法がまだ應用せられなかつたばかりに、誤れる速斷の懸念も無しとせず、一方には又急激な世の進みと共に、事實が更に一段と湮滅して、捉へにくゝもなりかゝつて居るのである。不完全ながら今判つ(481)て居ることだけでも述べ立て、一應は諸君の聽きを驚かして置かなければならない。

　トウといふ言葉は、中古以前の文書にはまだ見當らぬ。或は日本語ではなからうといふ人も有るさうだが、然らば漢字ではどう書くかといふと、其答へもまだ十分に確かなものが無い。私たちの間では、頭といふ字が先づ當るかと思つて之を使つて居る。室町期の記録類にも此字が多く見えるから、それに依つて居るわけだが、この以外にも當屋・當人などと、當の字を書き習はして居る土地もある。番が當るといひ又當番ともいふから、是も棄てるわけに行かぬ。或は又統の字を使つて、統元《とうもと》・統前《とうまへ》などと書いて居る人たちもあれば、三重縣の南部や兵庫縣の中央部などでは、?屋と書いたのが私の謂ふトウヤのことである。是は恐らくは理づめの推測であつて、つまりはトウヤが?りの役であり、即ち其祈願力に對する信頼のまだあつた時代の發明と思はれる。熱田神宮の馬の塔、多賀神社の花の塔のやうに、塔の字を宛てた例も若干はあつて、今日の目からは珍しいが、塔といふのは柱のことで、頭屋の門前に榊を立て、又は芝を張り砂を盛つて所謂おぢば〔三字傍点〕をしつらへ、もしくはおはけ〔三字傍点〕を刺し立てるのは常の作法だから、それによつて塔と解したものとも見られる。ともかくも文字は後のもの、口言葉の方が先に行はれて居たのだから、素より是だけによつて本來の性質を説くことは出來ない。事實に據つて其本質を明らかにしようとすると、分類が必要になつて來る。誰でも考へつくことは神祭りに伴なふトウと、信仰以外の俗務に現はれるトウとを對立させることだが、しかしこの世俗のトウとても、起原に溯つて行くと祭と關係なしとしない。現在の頼母子無盡の講親などは、其爲に床の間に燈明を上げたりすることは無いやうだが、是にも信州北部農村の水神講のやうに、積金の貸付と取立とを祭の會合の日にする例もあり、近畿地方の伊勢講にも、年一度の算用講といふ大會では、同時に經濟上の協議もして居るから、もとは共同信仰の機會を利用して居たのかも知れない。和歌や連歌の順まはりの家の會にも、正座に人丸や天神の像を掛けて、燈明供物を上げたといふ記事は多い。たゞ集會の目的が別にあると、次第に注意が此祭の方へ向かなくなつたことは免れなかつたのである。九州の北部で生ひ立て〔四字傍点〕とか二日頭とかいふもの、又は信州の諏訪地方でや(482)どつこ〔四字傍点〕などといふ集會は、單なる飲食の共同のやうにも考へられて居るが、やはり其日は常よりも鄭重な神祭りがある。婚禮年祝ひのやうな祝宴でさへも、固い家々では必ず神棚に御光りを上げ御膳を供して居た。だから全然祭と縁の無い頭といふものが、昔から有つたといふことはまだ斷言が出來ず、從つて此點にはつきりとした堺の線は引かれないのである。

　

　　　　　　　一三　頭屋と神社との關係

　

　第二段の分類としては、同じく神祭りに伴なふトウであつても、村の最も主要なる祭の日に行はれるものと、さうで無いものとの區別が立てられる。後者は特に御頭祭と謂つて、一方の例祭の頭と、對立させて居る人も少なくない。岡山地方には是が多いかと思ふが、能登の輪島の重藏神社などでも、その御頭祭の外に、賑やかな本祭が別に有るのである。この所謂御頭祭の中には、氏神社以外の小さな社の神を祀るものがあり、又は正月十五日のさへのとう〔五字傍点〕のやうに、此日ばかり出て祭られたまふ頭の神も有るのだが、しかし多數のものはなほ村の氏神を中心にして居る。近い頃公けになつた官國幣社の特殊神事調の中にも、備前の安仁神社の頭屋祭などは、本社の例祭が終了してから後の或日、氏子が再び社殿に集まつて來て、例祭と同じ趣旨の私祭をするのが頭屋祭だと謂つて居る。其他にも神戸の近くの武庫郡保久良神社のおとうえ祭〔五字傍点〕、又は吉野の十津川の玉置川の宮座の如き何れも例祭とは別の日に、氏子のみが社殿に參集して執り行ふ第二の祭であつた。是は明らかに新しい時代に入つてからの變遷であるが、なほ將來の制度を確立する上に有力な參考にはなる。始めは多分頭屋にさゝれた住民の家を祭場に供して居たのが、潔齋その他の支度が容易で無くなつた爲に、費用と事務だけは元通り其頭屋に負擔させて、祭場を常から淨い拜殿に移したものと思はれる。京都古習志を見ると、あの地方には寺の本堂を借りて頭祭をする村が幾つか有つた。葬式の穢れに觸れる虞れ(483)がありさうだが、それには却つて本堂を使ふことが無かつたのであらう。岡山縣などの頭屋祭は、右に擧げた安仁神社のやうなのは例外で、普通は頭に、さゝれた家に於て行はれる。さうして近世は酒食の共同が益々盛んになり、親族から米俵の助勢を受ける位だと謂つて居る。是にも本社の神職を招請して、式を掌らしめるものとなつて居るのだが、中にはもつと下級な巫女や神樂師を呼んで歌ひ舞はせるものもあるので、勢ひ正常の神職が深く干與せず、やゝ冷眼視する傾向を生じて居るのである。しかし何と言つたところで祭る人たちの心持では、是も亦氏神樣の祭にはちがひ無く、さうして其期日も亦秋の收穫の後の、全國一般に例祭を營むに最も適はしい時でもあつた。現在は社の例祭と家々の祭と、二たてに分れてしまつて居らうとも、最初から此樣に秋の祭を二度くり返したものとは思はれない。さうなつて來ると家と社との二つの祭は、何れが元からあつたかといふことが、問題にならずにはすまぬのである。

　最近に自分は東北地方をあるいて、あの地方でいふ所の帳屋又は長床、表向きには社務所と認められて居るものゝ、二つ三つの構造を見て來たが、意外なことにはこの附屬建物の中には、別に正面に神壇を造り設けてあつた。即ち御社の拜殿には登らずとも、こゝで獨立に祭を營むことが出來るやうになつて居るのである。御承知のことかと思ふが、神社の建て方は、東國と中部以西とではよほど違つて居る。大體に西の方が御社は大きく、拜殿といふものが建築の主部のやうに外見にはなつて居るに對して、是から東へ向つて行くと、村社以上の由緒ある御社でも、拜殿は全く無いか、又は有つても至つて小さいものが多くなる。祭の宵宮から次の晩にかけて、氏子が御籠りをするといふ段になると、是だけでは席が足りない。現在は御籠りはあまりせず、單に拜禮をすませて還つて行くから問題も無いが、まゐるといふことは本來は參仕、即ち或時間神樣の御側に居ることであつた。是を昔に復するとなると、人口の増加した今日では、關西風の廣い拜殿が有つてもなほ狹いのである。然らば元はどうしたかといふと、多數は外に立ち又は露地に踞まり、たゞ正式に祭に參列する家の主人のみが、上つて坐つて居たから是でよかつたのである。日本の農村には、階級制は無かつたけれども、家筋といふものだけは非常に重んじられて居た。氏人・宮人その他色々の名が是(484)に附いて居る。滋賀縣などの村々では、この家筋をもろとう〔四字傍点〕と呼んで居る。即ち古文學上に現はれた神のもろ人、漢字に書けば庶民、百姓といふのも同じことで、別して物々しい名でも無かつたのだが、家門の制度がいつと無く改まつて、さうで無い家が段々に出來て來たのである。さうして此地方などはその昔からのもろ人〔三字傍点〕のみが所謂宮座を組織し、他の小前の者、新移住者や名子分家といふ類は加へずに、自分たちの間だけで順まはりに、今も頭屋の役を勤めて居ることは、肥後氏の「宮座の研究」にも報告せられて居る通りである。單に舊家と謂つても、本家筋又は之に準ずべきものと謂つてもよいのであるが、村の祭に關する限り、是を座衆といひもろと株〔四字傍点〕といひ、又は頭屋株はふり株〔四字傍点〕などとも稱へて、それを大事な失ふべからざる特權のやうに考へて居るのも國柄である。九州の北部などでは、ジガンとかジンクワといふのが、其頭屋株に該當するものらしいが、どうしてさう謂ひ出したのかは私にはまだ判らぬ。何れにしても現在の住民戸數に比べては、年増しに少數になつて行く舊家の主人だけ、又厄その家の主婦嫡子女までが、座席順をやかましく言つて、この祭場に居ならんで居たのである。それが時代の進みにつれて住民は激増する。又有力なる家が新たに出來る。後には村民である限り、誰でも出て來て列座してよいことになると、勿論どの樣な大きな拜殿を建てゝも狹いのである。それもたゞ坐つて居るだけなら、御順に膝送りといふことも出來たらうが、祭は式典の進行と共に、直會に入つて行かねばならぬ。給仕の進退にも作法があり、それが滯りなく行はれるか否かは、滿座の眼を以て見定めなければならぬ。多數を祭の奉仕者にしようとするには、祭場の擴張といふことが、祭の式よりも先に考へられなければならなかつたのである。

　民家の建築なども、元は本百姓ならば相應に大きなもので、出居の正座から臺所の廣敷まで、順に居流れたら可なり多くの人を收容することが出來たのであつた。それが改築の度毎に少しづゝ縮小して、寧ろ常の日の住み勝手を良くすることを念がけたので、段々と頭屋の祭を勤めるのには向かなくなつて來た。他にも色々の原因は考へられようが、村人が住居を祭場にすることを止めて、社殿や寺の本堂までを借用することになつた、一つの大きな理由は爰に(485)在るのである。神社の建築が地方的に變つて來たこと、及び頭屋といふものゝ慣行があまりにも區々になつて、簡單には概念の把へ難くなつたのも其爲と思はれるが、それよりも更に豫期せられざる結果が起つて居る。要約してそれを説くならば、人が祭をめい／＼の家の事件とは思へなくなつたことである。以前は頭屋に指された丸一ヶ年間といふものは、家は神の家、人は神の人であり、亭主ばかりか村によつては主婦も長男長女も、それ／”＼に神の役があり、之を果すが爲には色々の準備、殊に嚴重なる精進潔齋があつて、殆と常民としての生産行爲は中斷して居たのであつた。それが祭場として我家を用ゐなくなつたといふと、物心二つの方面に於て、先づさま／”＼の拘束を解くことになつた。是が何よりも顯著な近代の變遷かと自分などは考へて居る。

　獨り神祭の場合のみでは無いが、物忌と生産とは最初から兩立せぬものであつた。と言はうよりも、寧ろ常の日の生業から離れることが物忌であつた。その最も著しい例は喪屋の忌で、元は喪に籠つた者は食物までも他給を受けて居たらしく、其痕跡はまだ幽かに殘つて居る。しかし都會はいふに及ばず、農村でもそれ迄の拘束を受けて居ることが出來なくなつて、穢れの有るまゝで出て働くことが普通になつた。清い齋忌の方にも之に近いやうな社會事情が働いて、祭が有るからといつて經濟上の要求は免ぜられず、人も亦進んで忌の拘束を脱しようとしたのであつた。たゞ幸ひなことには其解放の過程にも無數の段階があつて、日本では珍しくそれが一部分づゝ各地方に保存せられて居るので、さういふ事實を細かく排列し又比較して見ると、今でも大よそは古くはどうして居たか、それが後々どういふ風に變化して來たかを知ることが出來、從つて昔から今の通りであつたものゝ如く、考へて居ることの誤りを覺らしめるのである。

　

(486)　　　　　　　一四　祭の永續の爲に

　

　話があまり長くなるのを恐れて、失禮ながら諸君を全くの素人と假定し、少しも頭屋のことを知らぬ人に説くやうな話し方をするが、腹を立てぬやうに願ひたい。頭屋制度の最も大きな要點は、祭の任務の連續に在る。即ち少しの切れ間も無しに、次から次へ、この貴い役目を引渡して行くことである。頭の任期は普通には一年、祭の翌日か又は一年の年頭に、次の頭人をきめて引繼ぐのだが、是にも先規によつて順番の定まつて居るものと、振り上げと稱して御幣の紙の端に、附いて上がる札の名によつて、神の指定を伺ふたのとあるが、雙方ともに何か特別の故障のある者を、取除いて置く必要が今ではやゝ多くなつて居る。今年は都合が惡いからといふ樣な理由で、宥恕を乞ふ者が出るやうになると、無論法則通りには行はれないが、大體に於て今も此式を續けるほどの土地では、悦んで此役を引受ける者が多い。この評定を頭ざし又は頭づもり、或は頭さばきとも謂つて、それと同じ日に又は新たに日を定めて、頭渡しといふ式が行はれる。是がどの村でも非常に大切なものに昔から見られて居た。その最も簡單なものでも、此際に新舊頭屋の盃の遣り取りがあり、又頭受け謠などと謂つて、定まつた謠曲の文句を諷ふものがある。さうして是に伴なうて新頭屋に手渡しする何物かゞある。それが頭屋帳といふ記録であつたり、又臼送り面送りと謂つて、祭にしか使はれない道具であつたりする外に、一つの御廚子もしくは一つの箱のこともある。奈良縣にはトサン箱と謂つて、木で作つた小型の農具を入れた箱を渡す例もあれば、ガトウと稱して何か判らぬ寶物を入れてあるといふ箱もある。それを新頭星は家に持ち還つて、清澤な場所に次の頭渡しの日まで安置するのである。

　この頭渡しを神渡しとも又御蔭受取りとも謂ふ處があるのを見ると、是によつて神を次の頭屋の家に、御移し申したといふことは明白である。變つた例として注意せられるのは、京都府の南境に近い錢司《です》といふ村などで、祭の當日(487)今までの頭星の主人は、新頭屋の家に赴いて湯立てを行ひ、其式がすむや否や直ちに草履をはいて外へ飛出す。是を「神さんがいなはる」と稱して、後から鍋墨をその前頭屋の白衣に打掛けるのは、ちやうど又一つ物の紅白粉を洗ひ落すのと同じ趣旨であらう。前頭屋はその鍋墨を掛けられたまゝで、急いで御社の中に走り込むと、之を以てこの日の神納めの式がすんだことになるのは（　　　京都古習志）、彼がこの一年の間、神主即ち神の依りましであつたことを示すものかと思ふ。

　しかし前頭屋の職分は、頭渡しを以て完了するものとは見て居ない土地も多い。次の年の祭の日にも前頭屋として立會ふといふ例は稀で無く、一方には更に一年後の頭屋を定めて置いて、是にも祭の一役をもたせ、都合三年度の頭屋の列座を必要とするものも有る。是は神祭りの職務の永續を期するといふ以上に、よほど又式作法の習熟といふ趣意も籠つて居たかと思はれる。何しろ常の日はたゞの農夫であり、且つ家筋に由るのだから智慧の差等も有り得る。さうして一生涯に先づは一度、再びとは廻つて來ぬのが普通である故に果して間違ひなくこの大事な御役が、勤めおほせるかどうかゞ氣遣はれたのである。それも周圍の人が大まかで、信仰の素朴だつたうちはまだよかつたが、とかく色々の事が氣にかゝるやうになつては、たつた一年だけの先輩に見習つたきりでは頼みにならず、次第に外部の學問があり、神の道に賢しい人々を迎へて來て、師匠とも介添ともする樣になつたのも自然である。だから頭屋の任務のまだ至つて重々しく、社の祭の主役とも認められ、神主｜督殿《かうどの》と尊敬せられて居るやうな土地でも、もう大分以前からさういふ專門の人たちを頼んで來て、事實その指導に從ふやうな有樣になつて居るので、新たに現代の祭の方式が定められるよりも早く、既に統一の傾向は現はれて居たのであつた。

　

(488)　　　　　　　一五　頭屋制の基礎條件

　

　神職專業の機運は、既に社僧神宮寺の制度以前に始まつて居る。是が郷社以下の村々の御社にまで波及したのも、亦決して近代の統一政策の結果のみとは言へない。一つにはこゝに謂ふ所の宮座の組織、頭屋廻り神主の慣行が、時世の進みに伴なうて、段々と持續し難くなつて來たことも考へて見なければならぬ。其事情の一二を具體的に述べて見ると、先づ最初には宮田頭田の消滅、頭に附屬した共同財産の減少によつて、毎年の頭屋の經濟上の負擔が重くなつたことが擧げられる。是に伴なうて祭の經費の分擔方法が一變して、租税に近いものになつて來たことも、是非とも將來の爲に考へて見たい問題である。次になほ一つの困難は、祭の物忌の守りにくゝなつて來たことである。昔は頭屋にさゝれて祭の榊が家の前に立つと同時に、全家擧つて家の清洗ひに取りかゝり、それから後は穢れのある者を内に入れなかつた。主人及び祭の役を勤むべき人々は、毎朝神に詣で、月の朔望には垢離《こり》を取り、大祭が近づくと共に其潔齋は愈々繁くなり、一間をしきつて火を別にし、必ず男炊きの飯を食ふといふ處もある。さうで無くとも喪を訪はず佛事に列ならず、をかしい話だが此一年の間に妻が孕むと、袴をはいて村中をあやまりあるいたなどといふ話さへある。到底信仰の淡い意思の力の弱い者には、爲し遂げられさうもない謹慎であつた。殊に農民にとつての大きな拘束は、今日となつては下肥に手を付けられぬことで、之を守つて居たら無論耕作には外の援助を要する。社交は到底相手の觸穢の無いことを、一々確めてかゝるといふやうなことを許さなくなつた。煙草が此通り普及すると、人が來れば先づ火を合せるから、家の火を清く保つといふことは六つかしく、それを警戒して居ては、今ある經濟生活を維持することが出來ない。そこで色々と便法を考へ出して、一人精進とか代精進とかいふやうなことも始まつたが、それも短い期間のことで、一年打通しの謹慎などといふことは、よほど周圍の者が共々に支援してくれぬと、もう實(489)行のしにくいことのやうに、思ふ者が多くなつて來て居るのである。

　但し現在は一般にこの物忌の戒律が寛大になつて居る。特に嚴重な古例のある御社を除いて、その他はたゞ前日の午後から潔齋に入るだけで、祭後の物忌などはもうとつくになくなつて居るのだが、此點にかけては常民は寧ろ保守的なもので、そんな簡單なる豫備手續で、祭が滯りなく行はれるものとまでは考へない。從つて再び自分たちだけで氏神の祭に奉仕した昔の?態に復ることが出來ず、掛持ち神職の不便不自由を忍んでも、すべて彼等に任せ切りにしようとして居るのである。結果から見て行くと、この變遷は好ましからぬことであつた。元來日本の祭は囘數も少なく、それも多くは定期勞働の合間／＼に挾まつた、休みの日と一つなので妨げが少なく、其以外に月に二度三度の小祭なども、是を早天に濟ませてそれから結構働きに出られた。他の職業では必ずしも障りが無いとも言へまいが、少なくとも農民だけは互ひに代り合ひさへすれば、さうして幾分か物忌の制約を簡單にさへすれば、今でもまだ自分たちの手で、神祭りの役を兼ねることが出來さうなのである。それをどうしてもう斷念してしまつたか。昔は少しも差支へが無かつたことが、今では實行しにくゝなつて居るといふ、新たなる理由はどこに在るのか、斯ういふ疑問も亦この頭屋制の今と昔を比べて見ることによつて、自然に起つて來ずには居ないであらう。

　

　　　　　　　一六　神道史の役目

　

　祭祀の方式の移り替りの跡を尋ねて見ることが、決して單なる舊知識では無くして、神道の未來の興隆の爲にも、大切であると思ふのはこの點である。今の通りで大昔から有つたものと、思つて居る人などはよもや無からうが、少なくとも斯うより外には變へやうがなかつたかの如く、きめて居る人は無いとは言へない。さういふ誤つた想像を正しただけでも、もう我々一同の希望は耀き、學問は非常に勇氣づけられるのである。改まつて行くとすれば良く改ま(490)らなければならない。最も良い道を歩まうとしなければならない。それには結果の既に現はれて居る今までの變り方がよい經驗なのである。一つの例で言ふと、祭の入費の著しく多くなつて居ること、是が神の御行きの色々の風流の爲に、急激に増加したのは都市が手本であり、田舍はたゞ後から之を眞似たのであつた。ちやうど村といふ公共團體が、何かといふと町になりたがり、市になりたがるのと傾向はよく似て居る。是が幸ひにもし以前の單純に還り得たら、祭は今のやうな消費事業では無くなるのである。以前の祭は深夜の渡御が多く、今は白晝又は大きな燈火の下に行はれるので、どうしても派手になり勝ちであるが、それさへも元は大部分は人の力で、しかも勞苦では無く樂しみであつた。行列の無い小さな祭ではそれもいらない。たゞこの場合に金を出して求めなければならぬのは、第一には白紙、是も近世の文化であつて、前にはホダレ即ち削り掛けが多く其代りをした。奉仕者の心がけによつて、紙のシデよりももつと立派なものが、たつた一梃の鋭利な刀物があれば作られたのである。此技術の近世ひどく衰へたのは、白紙を用ゐるのが珍しかつたといふだけで無く、更に一方に祭の爲に是非とも美しいシデを作らうといふ熱心と根氣とが減退して、簡易な白紙の剪り刻みに頼ることになつたからではないかと思ふ。

　其次に一つの大きな費目になるのはおみき〔三字傍点〕である。商品としての清酒は味も良いので、酒造税法の制限が無くても、一旦之を用ゐ出すと、手造りの一夜酒では物足らなくなるのだが、稀には今でも古例を守り通して、めい／＼の田の米を以て釀したものでないと、神樣に御薦め申すことが出來ぬやうに感じて居る人も無いではない。是と同じことは又他の色々の御供へ物に就いても言ひ得るやうで、如何なる土地の祭典にも、必ず海川の魚類を買ひ調へて、捧げまゐらすべきものとまではもとは考へられて居なかつた。水邊に近い里ならば日を定めて魚取りに行く、山の麓に住む者ならば御贄狩に出て、神饌に供へるといふことをしたらうが、さういふ便宜の無いたゞの農村では、專ら我が土地のたなつものを清く調理して神にまゐらせ、又諸人も樂しみつゝ相饗して居たので、必ず五種七種のものをどんなことをしても取揃へて、供へなければすまぬやうになつたのは祭式統一の結果であり、其爲に又祭は支出の多いものと(491)なつて居るが、是も亦一つの變遷である。本來の趣旨は氏子たちの自ら生産したもの、是は祭の料といふ心構へを以て、最初から用意して居たものが何よりの御もてなしであつた。此意味に於ては祭はもと消費事業で無く、寧ろ一つの生産行爲であつたとも言へるのである。祭の日の飲食ひが一般に豐富であつて、人が飽滿を以て主要な目的の如くして居たことは、今日の眼からはやゝ奇怪にも見えるか知らぬが、本來は是が計畫であつて、たゞ偶然の結果では無かつたのである。祭といふのは米を以て酒を釀し、又之を精白して飯に炊ぎ、神に御供へ申す日であつたと共に、米は又さういふ晴の日の晴の用途の爲に、特に栽培する穀物でもあつたのである。それを常人の常の日の食物とし、米が無くては活きても行けぬやうに考へる人を多くしたのは、一方には稻しか作ることの出來ない新田場の擴張と、他の一方には城下の町といふものゝ激増した結果であつて、二つは共に近世に入つてからの新現象であつた。さうして祭は大いに米を食ふ日なりとする古風な考へ方が、まだ田舍だけには傳はつて居るのである。

　

　　　　　　　一七　神職の地位

　

　祭を非常に金のかゝるものにしたことは、今になつて考へると損な話であつた。この國民の耐乏忍苦の時代が、なほ暫らくの間は續くべきものとすれば、幾ら大事の祭と謂つても、やはり消費だから儉約をしなければならぬ。神輿も舁くことを罷める。踊り屋臺も引出すことが出來ぬ。毎年新しく調へた色々の衣裳も見合せ、酒でも餅でもほんのしるしばかりといふことになつて、それでも氏子の信心を少しも衰へず、活き／＼と神の御力を讃へ且つ仰がしめようといふことは、現在のまゝでは或は六つかしいかも知れぬからである。さういふ色々な趣向は寧ろ後から付けた部分で、祭の要點といふものはもう一つ奧に在り、過去三千年を貫通して、古今變らずに居たものは此方だつたといふことを、出來るだけ多くの人々に理解させることは、今日に於て特にその必要を感ずる。申すまでも無く、政策は我(492)々の學問の管轄では無い。たゞ是に向つて最も適切な豫備知識を供與することは、一日も忘れてはならぬ學徒の任務なりと信ずる。

　信仰が本來個人的のもので無いことは誰も知つて居る。殊にいつの世からとも無く、國民の間に傳はつたいはゆる固有信仰に至つては、殆とたゞ一つの共同の力の上に、この永久の根基を置いて居ると謂つてよいのである。個々の信仰團の結合の、弛み又は散漫になることを、何物よりも怖るべきものとして防護しなければならない。以前は一族の中心、宗家の主人をして祭祀の任務に當らしめて、それで總員がその神聖なる行事に奉仕したのと、同じほどの安心の得られた時代もあつた。それが少しく心もとなくなり始めて、頭屋即ち廻り神主の組織は起つたものかと思はれる。家の分立が盛んになり又新たなる來住者が増加して、もろと〔三字傍点〕氏人の地位が一種の特權の如くなつて、祭は公共團體の生活と併行して進むことが六つかしくなつた。それ故に近年の神社合祀は、寧ろ中心の御社と、疎々しくなつた者の數を多くして居る。最も信頼し得べき專門の神道家を代表者として、神と衆人との中間に立たしめる必要は有つたのかも知らぬが、現在の實?はと言ふと、たつた一人の社司に十社十五社を兼務させて、年に一度の大祭だけにすらも、無理をしなければ廻りきれぬやうな困つた姿が、もう彼是六十年も續いて居る。主たる理由は經濟上のものと思はれるから、今のまんまにして置けば改良し得る望みは無い。茲に於てか昔はどうして居たかを、もう一度ふりかへつて見る必要があるのである。

　最近に東京からごく近くの村の歴代神主に逢つて話を聽いて來た。村の人々は信心深いけれども、今でもまだ神職に給料を拂ふべきものと、心得て居らぬ者が多い。神を祭るのは或一軒の舊家の役であつて、其爲に其家には高即ち田畠が附いて居る。といふことをよく記憶して居るのみで、昔は税が無く今は神職も税を拂ふやうになつたことは考へない。それ故に富人で無い限りは、職を子孫に嗣がしめんとする者が少ないのである。よそから新たに聘して來るとすれば、月に何度とは無い大小の祭の爲に、常勤の役人のやうな御禮は出來ない。この　　　状態は恐らくはまだ續くこ(493)とゝ思はれる。乃ち全國十萬の御社の恐らく九萬以上は、事實に於て住民が自ら祭つて居る日が多いのである。例外とか便法とかいふものにも、大よその限度が有る。もう是より外に方法は無いものときまれば、今の事實を認めて出來るだけ之を制度化しなければなるまい。頭屋の特權は元のまゝにして置くことは出來ぬだらうが、今ならば新たにその資格順位をきめやすい。海外に生死の間を出入して、しみ／”＼と氏神の恩�ｺを體驗して居る者も多いからである。彼等を扶助し又指導する爲だけには、學�ｺ共に備はつた現在の神職たちを、煩はすことにしてよからうと思ふ。たゞ素人たちの順まはりの奉仕なるが故に、祭の方式を幾分か平易にする必要があるのである。

　

　　　　　　　一八　心からの奉仕へ

　

　神社の合併といふことは、日本神道の上では可なり大きな出來事であつた。御互ひの中にもその渦卷の片端に觸れた者が有らうが、ともかくも今はもう四十年前の歴史となつて居る。出來る限り平心にその結果を省察して、未來の大事な問題の參考とすることを心がけなければならぬ。先づ第一に新たな公共團體の統一の爲に、信仰の割據を避けようとしたこと、是は不必要な懸念だつたと言へると思ふ。家々の神棚屋敷神の對立が、何等隣保の交情を妨げぬと同じく、むしろ祭祀團の數多く又小さいことが、今までは相互の理解と同情とを助けて居たので、社が大きく祭が花やかになると共に、却つて競爭の弊は生じ易かつた。しかも近年の神社合併には、神と親代々の氏子との因縁を認めなかつた爲に、若干のやゝ祭に冷淡なる住民の數を、増加したことだけは爭へないのである。それから第二段には神社財産の造成といふこと、是は信仰を一種の消費行爲とした嫌ひがあつて、しかも必ずしも當初の目的は達して居な

い。以前は五戸八戸の貧弱な部落でも、各々先規に則つて氏神の祭を營む爲に、力一ぱいのものを捧げて居た。祭の日は休みの日であり、祭も亦恐らくは休養であつた。少なくとも是を課役又は勞働とは思つて居なかつたのである。(494)それが經費を集めて一切の事務をまかなふとなると、景氣の好い年の盛大な催しのある場合はよいが、何か事情があつて節約を要するとなると、俗衆は之を信仰の衰微と、結び付けて考へやすい。さういふ外觀からの判斷は正しくないのは無論だが、もと／＼此樣な處に力を入れて居るのだから、是は何としても免れないのである。祭場即ち社殿の建築に於て、この弊は殊に現はれがちであつた。新たに結構な造營の成つた時は、誰の目にも神�ｺの耀きが感じられる代りに、僅かな頽破にも氏子たちは、ぢつとして居られぬやうな感じを持つ。神社合祀の主たる目的は、此點を顧慮したものであつたらしいが、今となつてはそれが却つて累ひを爲して居る。御宮の建築は古びやすく又痛みやすく、殊に近世の宮大工は仕事が念入りでない。一日も早く神祭りの歴史を明らかにし、さういふ外形に顯はれたもの以上に、神に御仕へ申す精神は別にあつて、それは住民の協力と心からの奉仕であつたといふことを、明瞭に覺らしめて置かぬと、今後或は困つた判斷をする者が出て來るかも知れない。惡口に聽えては本意に反するが、全體に少しく今日の標準が高すぎた嫌ひがあると私は思つて居る。全國に亙つて一千とまでは算へられない有名な大きな御社は、豐かなる資財もあり、又外からの崇敬者も多く、如何なる立派なことでもなされる筈であるが、他の多くの村々の社では、先祖以來のゆかりを持ち、赤兒の時から仕へて來た、氏子といふものだけが御力なのである。彼等の大多數は亦今囘の大事變に際して實驗せられたやうに、たゞ我處の神樣のみに縋つて居る。斯ういふ人たちの信心を空しくせぬやうにするには、如何なる祭り方をすればよいかといふことは、國としても決して輕々しい問題でない。諸君自身の問題は既に解決して居るならば、私は更にこの方面に向つて剰つた力を傾けられんことを切望せざるを得ない。方法はまだ幾らも有ると思ふ。悲觀する必要などは些しも無い。たゞもうちつと事實を詳かにして、祭のやうな大切なものにも沿革があり、その變遷の中にも感謝すべきものと、又一方にはあまり好ましくなかつたものゝあることを認め、たゞ去年の通りに祭を續けて行くことばかりを保守だと思ふやうな誤りに、陷らないやうに氣を付けて行くべきだと思ふ。

　

(495)　　　　　窓の燈

　

　　　　　　　一　民俗語彙事業

　

　　　　　　　　　　一

　

　最初は先づ二萬ばかりも言葉を聚めたら、大體眼鼻が附くであらうと私は樂觀して居た。それでほゞどれ位の時がかゝるだらうかと問はれるたびに、二人も助手があつたから、三年で初版は纏まるだらうと、公言したこともあつたが、自分がこの仕事ばかりに没頭して居たくない事情もあつて、さういふ日限の約束をしてしまはなかつたことが、結局はしあはせであつたと思はなければならぬ場合がすぐ現はれた。近年のやうな國情にならなくても、そんな約束は守れさうにも無かつたのである。

　一ばん大きな理由は、民俗資料の言葉が我々の豫測以上に多く、又は同じであつても土地毎に意味が少しづゝちがひ、一つを拾つて他を略するわけには行かぬといふことで、今日では殆と「きりが無い」といふ歎聲を發しても、決して誇張とは言へないほどに、後から／＼の發見が加はつて來て居るのである。勿論この採録には可なり嚴密な選定をして居る。第一には活きて居る言葉でないと採らない。以前老人などがさう謂つて居たといふだけのものは、何か解(496)説の參考になると思ふ場合の外は、別に控へて置くまでも此中には入れない。まして外國からの譯語や、學者だけの使ふ術語などは、類を異にするから民俗語彙としては取扱はない。民俗學語彙としてならば、別に集める必要が有るかも知らぬが、混合は誤解のもとだと思つて警戒した。たとへばムカシといひ又昔話といふのは活きて居る民間の言葉だが、説話とか童話とかいふのは、たとへ農民が稀に使つても、新語だから此仲間に加へない。山唄田植唄等の名は存するが、歌謠民謠は勿論のこと、小唄といふ名前すらも、怪しいから私は民俗語彙の中に入れようとしなかつた。

　第二には大槻氏松井氏などの最大の辭典に出て居る言葉は、意味がちがつて居るか又は誤つて居らぬ限り、もう一ぺん此方に載せようとはしなかつた。是は今日謂ふ所の方言も同じことだが、たとへ知らぬ人が稀ならず有らうとも、先づ世の中に知られて居るものとして、新たな知識としては列記しない方が、忠實でもあれば有效でもあらうと思つたのである。それから第三には形容詞や動詞副詞、殊に感動詞と呼ばれる短い語や文句には、可なり古來の精神生活を、確かに運搬して居るなと感ずるものがあつても、他にも是からも自在に使用せられるものだから、この民俗語彙の中に入れるのは不當だと思つて、別に是ばかりを蒐録しなければならぬと認めつゝも、解説以外の目的には是を竝べて置かうとしなかつた。是ほどにも先づ嚴選といふべき方針を執つて居たのだが、いつの間にか言葉の數量はよほど多くなり、もうとくの昔に最初の豫測を超過して、しかも有つてよい言葉のまだ我々のノートに登らぬものが、うんと有りさうな感じばかり強くなつて來て居る。つまりは古人のよく口にした安大事といふ諺が、私などの希望的豫言にあてはまるのである。いくら善い事でも、やはり無謀には企てまじきものであつた。

　

　　　　　　　　　　二

　

　しかし一方にはこの經驗によつて、いよ／＼民俗語彙の事業の働き甲斐があり、又樂しみの多いものであることは明らかになつた。古い行爲や考へ方の中で、今の人のもう問題にしようとせぬものが如何に多く、しかも一隅にはま(497)だ意識せられ又?々思慮を支配して居る記憶といふものが、どれほど殘り且つ活き／＼として居るかといふことが、之によつて心づかれるからである。心にごく僅かな餘裕のある者ならば、新たに之を知つて興味を起さずには居られまい。故障はたゞ一人の老いたる者の力で、それを何時でも役に立つ程度に、纏めて置くことが出來るかどうか、甚だおぼつかないといふ點にあるだけである。今日に及んでは、私のしなければならぬ事は、この完結よりも前に、まだ二つあることを認めぬわけに行かない。其一つは積極的なもので、誰かこの志を嗣ぐ人を見つけること、第二は聊か消極的だが、かつは新たに思ひ立つ人を助ける意味で、成るべくは無益な二重の時を費さぬやうに、何處まで私の仕事が進んで居るか、どの程度それを利用して勞を省くことが出來るかを明らかにして置くことである。後の方ならば悦んで自分が語ることが出來る。さうしてそれが又次の發奮を、刺戟する手段にもなりさうな氣がする。單なる自畫自賛の苦心談ではないつもりである。

　最初は自ら利用者の立場に立つて、一ばん重寶な索引をこしらへなければならぬと思ひ立つた。民俗學とは何だと問ふ人までには手が及ばぬが、假にも國民の生活を考へる爲に、斯ういふ一種の注意のし方、又は研究方法ともいふべきものが有ることを知つた人ならば、一時にさうごちや／＼と色々な題目に觸れて見ようとはせぬだらう。乃ち最も自然な又實用向きの分類によつて、一つ一つの事項だけが、明らかになるやうにして置けばよからうと考へて見た。私は是を自己流に、分類民俗語彙と呼ぶことにしたが、それはよつぽど迅い速力で、次々と出して行く見込が立たぬと、却つて人の興味を一端に片よらせて、全體の値うちを忘れさせる虞れがある。だから一方には之を綜合するものを、同時に企てないと意味をなさぬと、さう思つて其支度にも取掛かつたのであるが、中途で滯るといふことはみじめなもので、ちやうど自分の最も好まなかつた效果だけが、現在は稍々現はれて來て居るのである。しかし一方から考へて見ると、僅かな人數で廣い間口の仕事を始めたら、斯うなつて來るのも先づ勢ひといふもので、現に自分なども是ではならぬと思ひつゝも、最近まではつい題目の選り食ひをして居た。一つに熱中すると他の事がおるすになり、(498)又は得手と不得手といふやうなものが出來て居た。やはり若手の同志の協同でないと、斯ういふ纏まつた仕事は爲し遂げ難いものとも考へられる。此點が何よりも先に、是からの諸君に參考になるであらう。

　

　　　　　　　　　　三

　

　そこで記憶によつて、たゞ今までの經過だけを、ごく大まかに書き竝べて置く氣になつたのであるが、最初の思ひ付きは郷土研究、又は雜誌民族の各一卷の終りに、索引を附ける仕事を自身に引受けて居て、斯ういふたつた一卷づゝの見出しを作つて見ても、あんまり役に立たないと感じたのが始めである。元來私はノートを作ることは嫌ひで無く、それも旅行の時の外は手帖を用ゐずに、小さな紙切れに氣の付いたことを書いて、それを仕分けたり合せたりすることに樂しみを持つて居たのだが、この分類が段々と六つかしいものになつて、五十音順などでは思ひ出せなくなり、どうかしなければならぬといふ箭先だつたから、寧ろこの努力を始めから、知識の排列の方に向けて見ようといふ氣になつたのである。

　何が最初であつたか今はつきりとは覺えないが、昭和の始めあたりに、娘たちが段々大きくなる頃なので、本を讀んでも人の話を聽いても、婚姻の問題が最も深く注意を引いた。それで此事を話題にしたいと思つて居る處へ、ちやうど平泉澄君の世話をして居た大學の史學會から、何か話をしてくれと望まれたので、是れ幸ひと婚姻制の變遷を説いて、民俗學の方法で無ければ、斯ういふ歴史は明らかにすることが出來ないといふことを強調した。それが三宅米吉先生の記念集の中に、聟入考といふ名で載つて居るもので、一部の人には讀まれ又問題にもなつて居るが、白?をすると實はこの論文には、資料がまだ甚だしく貧弱であつた。たしかこの講演は昭和三年の春だつたやうに思ふが、是に氣が咎めて一時は最も熱心に、各地の民間傳承を蒐集し始めたので、そんな偶然の機縁から、「婚姻習俗語彙」といふ一冊が、先づ世の中に出て行くことになつたのである。後に新京の大學へ往つた大間知篤三君が、大きな興味を(499)是に寄せて、助けてくれたので早く纏まつたのだが、それより以前にも、人情地理といふ變つた雜誌が創刊せられ、それに連載する約束で二分の一ほど、自分で筆を執つて見たのであつた。その雜誌が三號で潰れたので計畫は頓挫して居た。それが昭和八年の春のことであつたかと思ふ。この分類語彙を公表した頃には、自分も大間知氏も共にもう是だけで、婚姻の問題は明らかになつた樣な氣がして、人にもさういふつもりで分配して居たのだつたが、少し氣を落付けて見ると脱落だらけで、殊に問題の解説し難いものが、拾ひきれないほど多かつた。さうしてそれから後に集まつた材料が、そつと此儘にはして置けないほど、澤山に溜まつて來たのである。

　

　　　　　　　　　　四

　

　民間傳承の會から出版した語彙は是が第一册であつたが、その前にすでに「産育習俗語彙」といふのが愛育會から出て居る。此方は特に是といふ動機は無かつたのだが、多分は一方の副産物として、ノートが大分に出來て居たので、愛育會の好意を受けて出してもらふことにしたのであらう。橋浦泰雄君が此方は原稿を作つてくれられた。分類排列は私の立案であり、準備したのも私であつたのだが、自分で書くつもりなのでメモが完全で無く、橋浦君は又大事を取つて、出來るだけ要點を掲げるやうにしたから、言葉の數の割には本が小さい。其上に愛育會では、夙くから地方の郷土研究家に依頼して、非常に綿密な習俗調査をしてもらひ、それが現在では九分通りまで集まつて居るのだから、一層この語彙の増補は容易であり、且つ又必要にもなつて居る。幾つかの府縣では、この愛育會への報告書を印刷して、我々の仲間へも分配して來て居る。其以外の資料から採つたものを合せると、自分の手元にある材料だけでも、もう優に第一版を三倍にすることが出來る。是だけなりとも自分の手で、もう一度書き直したいと思つて居るが、さて出版界の現在の　　　状態では、書いても出せるかどうかゞ甚だ心もとない。

　自分の分類法では、婚姻誕生に對立して今一つ、葬式法事といふものを一項目に立てゝ居るのだが、是は陰氣な課(500)題なので出さうといふ者が現はれない。一度宗教研究といふ雜誌に、始めの部分だけを寄稿して掲載してもらつたが、僧侶もやはり斯ういふものは珍重しないのか、一向續稿を求めて來ぬのでつい其まゝになつた。それで今度は奮發をして、「葬送習俗語彙」といふ一册を自分で書き上げ、之を民間傳承の會から千部だけ刊行してもらつた。この材料は比較的集めにくいものであつた。郡誌町村誌には必ず若干の記事があるが、大抵は机の上で記憶によつて書くので、どれも是も觀察の記録で無く、極めて有りふれたことだけしか述べて居ない。ちやうど幸ひなことには「旅と傳説」といふ雜誌が、各地の讀者に依頼して産と婚禮の風俗を報告してもらひ、各々特輯號を出して非常に評判がよかつた。斯ういふ場合で無いと出來ぬ事だと思つて、頼むやうにしてなほ一つ、葬禮號といふのを計畫してもらつた。是は無くしてしまふのは惜しいやうな好い材料であつて、御蔭で私の葬送語彙は、急に豐富になり又精確になつた。それを自分で整頓し排列するといふことは、決して器械的な勞働で無いといふことを始めて經驗した。集めて類別し又比較して見たことが、著しく自分の認識を鮮かにし、更に又、死後生活に關する日本人の考へ方を知らうとする上に、色々の有難い手引を與へて居る。「先祖の話」などといふ題目に手を着けて見る氣になつたのも、是と「歳時習俗語彙」との二つの本を、誰にも手傳つてもらはずに、自分が時を掛けて書き上げたことが、隱れて力になつて居るものと思つて居る。

　

　　　　　　　　　　五

　

　今までに出て居る十一册の分類語彙の中では、「歳時習俗語彙」といふのが一番大きい。言葉の數からいふと三千とすこし、葬制の倍までは無いのだが、問題が複雜で記事が多い爲に、紙數は一方の三倍にもなつて居る。時間はかゝつたけれども興味が有るので、骨が折れたといふ記憶は少しも殘つて居ない。しかしこの樣な大きなものが、再び出せようといふ望みも無いので、是だけは愈々本にしようと決心する前に、若干の手配をして居る。たとへば前に擧げ(501)た「旅と傳説」に、半歳もかゝつて「年中行事調査標目」といふものを連載し、自分の知らうとすることは是々、現在知つて居ることは是までであるが、それを補充し又は訂正するやうな新事實は無いかどうかを、日頃からよく協力する地方の讀者たちに、尋ね試みたのであつた。しかしこの反響だけは意外に小さかつた。いろ／＼その理由も考へて見たが、やはりもう一般に古い慣行が衰へて、盆と正月とだけは可なりよく昔の型を保存して居ても、其他の節日の殊に小さいものは、忘れて過す人が多くなつて居るのである。或は忘れたから小さくなつたとも言へるかも知れない。とにかくにさういふものゝまだ殘つて居るやうな土地には、雜誌を見たりそれに動かされて、知らせる氣になる人もあまり居ないらしいのである。通信原稿の弱點は斯う謂つた處にも在る。日本全國を尋ねたら、まだ決して無くなつては居ない風俗でも、言はゞ讀書人の階級からは消え去つて居るのである。しかも故郷を懷ひ幼時をなつかしむやうな多感な人たちは、多くは旅に在つてもう一度その存在を確かめるやうな機會をもたず、又あまり幽かな記憶だけでは、進んで人に語らうとせぬからである。

　それで自分の心づいたことは、待つて居て知らせを受けるといふ以上に、?々こちらからも尋ねに行つて、遠慮深い人たちにも語らせるやうに仕向けなければならぬといふことゝ、次には正月五節供といふやうな都市の住民も知つて居る著名の節日の生活よりも、寧ろその以外の省みられない日の慣行に、急いで記録して置くべきものも有れば、又やゝ深く來由を探るべきものがあるといふことゝだつたが、殘念なことには今でもまだ此方面の收穫が少ない。近頃地方の古い神社の、祭の月と祭の日のことなどを考へ出して、一層年中行事の語彙の重要さを感ずるやうになり、斯んな大きな一册を出して居りながら、まだ我々の採録が半分にも屆いて居ないことを認めて居る。或は正月だけを別に一册、盆の行事も亦一册に分けた方がよいのかも知れぬ。今でも増補しなければならぬ材料が、もう大きな一册分ほどにも溜まつて居るのである。

　

(502)　　　　　　　二　農村語彙増補版

　

　民俗語彙の分類案は十分に論理的とは言へず、隙間もあれば又重複も少しはあつた。後々檢索する人たちの便利を考へると、自然に斯うせずには居られなかつたので、必ずしも資材の集め方の、不手際ばかりからでは無いのである。民俗學の題目を三つの部面に分けることは、手本は他國にもあり、新しい思ひ付きといふことは出來ないが、我々は是を進學者のコースと調和させて、出來る限りむだの少ない順序を立てることに苦心した。始めて新しい郷土に入つて來た者の立場として、先づ目につくのは住居の姿、次には服装であり食物である故に、最初にはこの三つの文化の爲に、それ／”＼の語彙を集めて置くべきだと考へたが、この中では飲食が殊に知るべきことが多いので、却つて後まはしになつてまだ刊行せられずに居る。最近にその中の約四分の一、食制といふ部分だけを瀬川さんが纏めてくれられるが、それも出版の方法はまだ立つて居ない。

　以上住衣食の語彙が整理せられると、其次には是が取得の方法、即ち生産の部面を見て行くのが順序であるが、是は又一段と多岐に亙るので、私はそれを農漁獵樵等の、古來の勞働方式に依つて、分けて見るのがよいかと思つた。現在の生活必需品は、大部分は商人の手を經由し、又は專業の工人によつて供出せられるが、是にはほゞ普遍なる法制があり、時と共に一樣に進化して居るので、特に民俗學徒の捜索を要するものが少なく、又たま／＼古くから傳はり殘るものが有つても、それを觀察する機會が日本では甚だ得にくゝ、進んで調査に當る者が出て來ぬ限り、資料の集積が今の所では望まれない?態である。そこで我々は先づ比較的手を着けやすい農山漁村の三つに就いて、それ／”＼の語彙を備へて置くことを計畫し、至つて不完全なものではあつたが、既に大戰初期までのうちに、民間傳承の會から之を刊行して、或程度の利便を、學界に供與したことになつて居る。

(503)　我々の仲間の中で、この事業の爲に最もよく働いてくれたのは倉田一郎君であつた。その努力がまだ半途であり、豫期の收穫は末遠いことを考へると、殊にこの人の突如たる天折が悲しまれる。以前の郷土生活研究所の地方調査では、倉田氏は熱心なる調査者の一人であつた。今まで何人も足を入れて居ない山間海陬の村々を見つけて、苦しい旅をくり返したことも十箇處を超えて居る。さうしていつもこの民俗語彙の計畫を胸に持つて、それを豐富に又精確にしようといふことを、寸刻も忘れなかつたのも彼であり、從つて又初版の不完全を認めて、少しでも早く之を増補したいと願つて居たのも彼であつたが、時勢の障碍はあの通り不可抗なもので、終にその一部の改良をすらも、見るに及ばずして世を去つたのである。今いよ／＼其中のたゞ一つ、分類農村語彙の再版が出ようとするに臨んで、その經過の大要を書き留めて置かうとするのも、かつは學徒の世に盡す志が、空しく形骸と共に朽ち去るを欲しない爲に他ならぬ。

　大正初年以來、中央地方の同志の手によつて、蒐集せられて居た民間傳承の資料は、その殆と全部が自分の處に集まつて來て居た。終戰直前の空襲の最も烈しかつた頃まで、自分は始終その整頓と分類排列の手を休めずに居た。從つてそれよりも九年前、昭和十二年のまだ早い頃に世の中へ送り出した分類農村語彙が、貧しく又折々は誤つて居たことは已むを得ない。さうして倉田君はそれを一日も早く、改訂して置きたいと望んで居たのである。この初版は、最初信濃教育會の好意を以て、僅々千數百部を印刷したもので、頒布が必然に長野一縣内に偏して居た上に、自分は又近き再版を期して居た爲に、紙型を保存してもらふ必要を認めなかつた。それが追々に世間に知られるやうになり、是だけのものでも無きに勝ること萬々と、ほしがる人たちが多くなつて來て、いつの間にか筆者自らの手元にも無くなつて、よそから借りて來て用を足す始末であつた。古い版のまゝでも今一度、組んで刷つてはどうかといふ勸告も諸方から受けたが、現に増補すべき材料が集まつて居るのだから、さういふ氣には何としてもなれず、しかもそれだけの時間が私には得られなかつたのである。倉田君がその仕事を遣らせてくれと言ひ出したのは、たしか昭和十八年(504)の始め頃かと思ふ。その前に同君は私の資料と排列とにより、分類山村語彙と分類漁村語彙と、二つの大きな本を書き上げて、同じ民間傳承の會から出して居る。合著といふ名義になつて居るが、筆を執つたのは全部彼であり、しかも一部の資料は彼から出たもので、それをもう一度こゝで確認したことにもなつて居るのである。私たち二人の約束したことは、一つ／＼の言葉の解釋と説明は、一應は柳田の下したものに依り、十分なる意見の交換をした上でないと、倉田の一存では之を改めぬといふことで、其爲に幾度か議論をしたこともあるが、結局手を入れた個處は殆と無かつた。それ故に自分はどこ迄も責任を負ひ得るので、近くいよ／＼世に出る二版の農村語彙の方も、一々當つて見ることはしなかつたが、やはり同じ方針の下に書き上げられて居る筈である。

　この最後の語彙を書く爲には、大きな苦勞を倉田君はして居る。嚢に一ぱいの原稿をそちこちと背負ひまはり、家と藏書とノートは皆燒けたけれども、是だけは學校の地下室か何かで助かつた。それを五月末頃の入營の前夜、私の處へ持つて來て置いて往つたのが、漸く二年がかりで上卷を出すまでになつたのだが、もう其時には書いた人が居ない。是が學問の小さなたゞ一歩であることを思ふと、前途のあまりにも程遠いのに茫然としてしまふばかりである。

　幾つかの分類語彙の中でも、殊に農村語彙などが、將來なほ度々の増補版を豫想せしめる。今でも氣になつて居るのは、是がたゞ生産の一面のみを見て、その背後の機構の是と關聯するものを説かなかつたことである。たとへば家督といふものは、本來は家に屬した主要なる田のことであつて、こゝで田の神を祀るのが大田植であり、又は苅入時のニホの行事であつたかも知れぬのだが、それを考へて見るやうな資料は、まだ片端しか爰には採録せられて居ない。田植のユヒ組は婚姻の結合を基礎とするものが多いらしいのに、それが民族固有の年久しい習はしであつたか、はた又新たに何ものかに代つて起つたものであるか。今ある資料のみでは之を決定することが難い。從つて將來もし幸ひにして或事實が明らかになれば、それだけからでも又一囘の増補版を、出さずには居られぬであらう。人に私等の經て來たやうな、煩瑣な採訪をくり返さしめて、民俗學を入りにくい學問と思はせまいとする爲には、前驅をする者は(505)よほどよく働いて置かなければならぬ。それには第一に誤つて改むることを厭ふやうな、俗念を棄てゝかゝる必要がある。未知の區域の至つて多い文化史の學問に於て、人から權威などと言はれるほど恥なことは無い。それはもう勉強するには及ばぬと、言はれたのと同じことに歸するからである。

　漁村山村の二つの語彙も、初版が出來てからもう年數がたち、増補し改訂すべき個處が大分に多くなつて居る。倉田君はそれも自分の手で、是非とも遣りたいと言つて居たのだが、それはたうとう不可能なことになつた。誰か親切な援助者を見つけて、私が自分でするの他はあるまいと思ふが、今は何分にもその時間が無い。或は結局は研究所の諸君が、始末を付けることになるのかも知れない。研究所の新たな仕事としては、既に四つの語彙が計畫せられて居る。どうして印刷するかといふ見込はまだ立たぬが、ともかくも此年度の終りまでに、勞働資料と食制と、交通習俗と兒童生活との語彙が、編纂せられることまでは確定し、是に對する公機關からの補助も出ることになつて居る。産育習俗語彙の増訂も企てられて居る。今までに出版せられたものも多くは品切れで、自分の處にも餘分のものが殘らず、重ねて出すとすれば必ず増訂を要するのだから、さし當りの役には立たぬわけだが、出ただけはもう十一種出たことになつて居る。前に列記した農山漁村の分類語彙が三つ、居住と服装の二つの習俗語彙、産育婚姻葬送の三つの外に、歳時習俗語彙といふのが分量は最も大きく、是は私が獨力を以て書き上げ、今から六七年前に刊行し、それから後になほ二つ、族制語彙といふのを日本法理研究會から、禁忌語彙といふのを國學院大學の方言學會から、是も自分がまとめて出版してもらつて居る。其以外に目下印刷にかゝつて居るものには、この分類農村語彙の増補版の外に、昔話名彙と傳説名彙との二つの大册があつて、前者は丸山池田の二氏が主として整理に任じ、傳説の方は關君と石原氏とが引受けてくれられた。一旦出來上りに近くなつて居たのを、空襲に遭うて燒き失つてしまひ、改めて原稿を用意したものが、今又印刷難の難關にせき留められて居る。しかし爰まで來ればもう後戻りだけはしない。是だけが皆出ると言葉の數にして約三萬、ほゞ私の集めたものゝ六割は排列したことになるので、殘りの主要なものは私たちの(506)いふ第三部、即ち祭祀その他の固有信仰に關するもの、是が外廓をなす卜占兆候、しば／＼迷信の名を以て呼ばれるさま／”＼の精神的不安、之を處理しようとする各種の呪術、或は目に見えぬ力に關する古くからの考へ方の如く、可なり分類排列に骨の折れる資料が、ほゞ一萬語ばかりある。研究所の組織が確立した上で、是はもう一度整理をしなほして、何卷かに分けて世に送るべきものかと思つて居る。

　この以外に比較的簡單にまとまるものを列擧すれば、（イ）村即ち今いふ部落の構成に關するもの、是が出ないと農山漁村の語彙は完全とは言へぬ。（ロ）次にはこの古來の共同生活の動き方を跡づける遺物として、自分は諺といふものに重きを置き、その重要なる若干を集録して居る。諺は一面には我々の謂はゆる言語藝術であるが、その將來の用途は寧ろ庶民の人生觀の、徐々に變つて來た記録として價値が有ると思ふ。（ハ）それと同じ意味で形容詞、殊に中世以後に地方に發生し、現在は次第に廢棄せられようとして居るもの、是が又常識の史料であり、又觀察批判の記録である。其數を多く集めて見ることが一つの方法かと私は思つて居る。（ニ）同じことが又他の多くの方言單語、殊に物の名の付け方に就いても言はれる。單に前代日本人の生活樣式が、偶然に其中から窺ひ得られるといふだけで無く、是には文筆と縁の無かつた子供とか女とかゞ關與して、しかも暗々裡に有力なる影響を、現在の上にまでも及ぼして居ることは、資料の集積に伴なうて愈々明らかになつて來たのである。但し私たちの方言を集めようとする氣持は、よほど國語學者ともちがひ、又教育家とも別なものであるが、働く區域は別々であつても方法に雙方共通のものが多く、從つて其收穫にも民俗學のみの獨占し難い部分がある故に、是を民俗語彙の中に編入するのがよいか、はた又引離して一つの方言辭典として置く方が、自他の爲に便利では無いか、この點はまだ決しかねて居る。多分は行く／＼研究所の人たちの意見が、決定することになるのだらうと思ふ。

　純なる言語藝術の部面に於ても、（ホ）民謠名彙などは今でも一卷になるほど集まつて居るが、是は類書も既に世に出て居り、又自分もすでに幾つかの文章を書いて居る故に、分類語彙の必要は無く、今後綜合の大語彙を出すときに、(507)其中に編入することにしてよいであらう。たゞ是に伴なうて民間のかたりもの、及びとなへごとゝいふものゝ若干が採集せられて居るのだが、是は分量がまだ少ないので獨立した一册にはならぬ。童詞といふものは今までは民謠と共に採集せられて居るが、是は兒童語彙の中に入れるのが色々の點で都合がよい。（ヘ）次に謎といふものも久しく集めて居るが、是は文句が長いので語彙の中には入れにくい。やはり誰かに頼んで別の方法で整理してもらひ、語彙にはたゞ其中の特に意義のある少しばかりのものを、載せて置くことにしてよからうと思ふ。其點は諺の方も同じで、是も長たらしいのはよほど重要なもので無いと入れぬ方針である。

　以前久しい間、我々の採集は受け身であつた爲に、資料の存在は片よりがちで、無くてはならぬと思ふ項目にも、分類語彙の出來ないものは幾つかあるが、大體に言葉で集めることの出來る民間傳承は、是で先づ一わたりは目が屆いたとしてよからう。この以外には所屬をきめにくゝ、如何なる一門を設けてよいかに迷ふものがあるけれども、それは今のところ何百といふほどの數に過ぎない。他日この數が次第に増加して、新規な目標が立てられゝば幸ひだが、それが出來なければ其中の價値あるものだけを、たゞ綜合の語彙に入れて置くことにする。それから最後に、今まで既に出版せられて居る分類語彙の各卷に、追加し併合すべくしてまだそれの出來ないもの、是が存外多く五千近くもあるかと思ふ。もし近い未來に全部の増補版を出すことが出來なかつたならば、是は其まゝに總語彙に引繼がるゝことにならう。總語彙の方には是非とも分類索引を附けるから、其中には是が當然に現はれる筈である。

　

　　　　　　　三　警下抄の事

　

　昭和十九年の暮近く、身近に爆彈の惨害が傳はつて來るやうになつて、私は十數年の惰性の如くなつて居た語彙採録の仕事を中止してしまつた。さうして疎開不可能になつた身のまはりの雜書類を引出して、別れを惜しむやうな情(508)を以て、片端から讀んで見ようとした。細く小さく剪つた色々の紙が、是等の本には皆挾んである。いつかもう一度、爰だけは讀んで見るつもりで、七十になるまで棄てゝあつたのである。其中にはもう用が濟み、興味の薄れたものも若干はあつたが、他の多くのものは依然として問題の絲口で、それを見て行くとたゞいらだつばかりで、是では少しも修養にはならない。何か小さくても答が得られ、又は僅かづゝ解決の方へ、進んで行けるやうな路を見出さうと思つて、私が常から新村流と名づけて、殆と別の世界のやうに思つて居た方法を採用することにした。是は非常に敏活な記憶力を要し、又もつと豐富なる文庫の手近に在ることを條件とする。私などの家ではすぐに壁に打當るが、ともかくも今はよそへ借りに行くことは出來ない。何か我家に在る僅かな雜書群の中で、次から次へと辿つて行けるやうな頃合の問題に、打付かりたいものと祈念しつゝ、けふも明日もと古い本ばかりを引くりかへして居た。ひどい埃である。さうして又たまらなく寒い。

　しかたが無いので小さな炬燵をこしらへ、そこと本棚との間を何べんでも往復した。大抵の場合にはすぐに參考書が種切になつて、折角興味が動いてももう手を伸ばすことが出來ず、殘念ながらあきらめてしまふことが多かつた。もすこし貪つて聚めて置くとよかつたと、思ひ出すやうな本が色々とある。しかしそんな事は最初からわかり切つた話、目的は手元に今持つて居る資料だけから、何か少しでも新しい心付きを引出すことが、この永年の物言はぬ伴侶を、供養する道だつたと思ひかへし、勇氣を起しつゝぽつ／＼と、この小さな机の上で抄録を始めた。其ノートの紙が追々と袋にたまつて來たので、私はそれを自分たゞ一人で、警下抄と呼ぶことにした。毎日々々警戒警報の下に於て、抄録をつゞけたものといふ意味である。

　神道の未來といふことが、今のやうに痛切な國の問題とならぬうちから、警下抄の抄録は偶然によほど其方に傾きかゝつて居た。どこの國の民俗學でも、常に重きをなす民間の年中行事が、結局は固有信仰によつて解説せらるべきものであることを、日頃考へて居たことが原因の一つであり、第二には私の文庫に比較的多く集まつて居るのが、近(509)世以來の地方誌であつたことで、それを取りおろして改めて惜別の情を敍べようとすれば、おのづから注意は斯ういふ方面に引寄せられずには居らぬのであつた。神社の管理と宣傳とが、明治以來重要な問題となつて、無數の文筆が是に費されて居るにも拘らず、まだ一向に省みられなかつたのは祭の日の意義であり、國の統一政策は寧ろその由緒を忘れさせることに力を盡すかの觀さへあつた。新しい發見の此方面に多かるべきは自然であつて、私の祭日考などは、民俗學が少し進めば、誰でもいつの世でも、考へ付かずには居られない課題である。それが警下抄の中に入つて來たのは、言はゞ穴を掘ると水が溜まるやうな、至つて有りふれた現象であつた。たゞ私として特別の勵みになつたことは、是をぢつと見て行くうちに、神社の根源が祖神の祭祀に在り、氏族の結合が少しづゝ弛んで行くと共に、信仰は何としても改まらずにはすまなかつたこと、乃ち古典以外のものに據つて、解釋せらるべき社會現象であるといふことが、少しづゝ判つて來さうに見えたことである。

　我々の國史學は、全體に中世以後、殊に近世の觀察におろそかであつたことが、斯ういふ方面を見てゆくと、露骨なほど明らかになつて來る。歴史を公民の闕くべからざる修養とする爲には、先づ不完全極まる説明を以て、すぐに滿足してしまふ樣な、今までの教育方式を撤却し、どんな小さな現在の疑問でも、出せば答へられるだけの用意をととのへるのみで無く、同時に之に由つて身近なる未知世界を開拓して、新たな智慧を收穫しようとしなければならぬ。さういふ機縁は特に信仰生活の方面に多く、しかも問題は道義や經濟、その他あらゆる變遷とからみ合つて居るといふことが、僅かな注意の向け方によつて、いとも手輕にわかつて來る。人が近世史の無知を恥としなかつた氣風、是が或は敗戰の主因だつたかも知れない。それも十日の菊六日の菖蒲、もう後の祭だといふ歎きは深く、何もかも新規蒔きなほしといふ類の、思ひ切りのよい人が少々は有るけれども、それは到底全體に通用する考へ方では無い。現に今でも澤山の行きがかりを背負うて、苦しい路筋を我々はあるいて居る。棄てるにも替りがいり、改めるにも方法があつて、やはり一通りは知つて置く必要があるので、丸きり知らずに居ようとするやうな人たちとは、要するに何の(510)相談も出來ないのであつた。

　際どい空襲のさなかに在つて、私などは七十年もの間、知らずに過して居た事のあまりにも多かつたのに驚きつゞけて居た。もし幸ひにしてこの戰に活き殘つたら、遲蒔きながらも大いに説き立てねばならぬと、思ふやうなことが段々にたまつて居た。たゞ戰爭中は問題の選擇が實に煩はしく、大きなことを言ふときはいつも隣人の鼻息を窺ひ、小さい事でも必ず遠まはしに、いはゆる愚にもつかぬ話から始めねばならなかつた。都合のいゝことには私の流儀は、昔から子供らしさを以て知られて居た。子供の抱くやうな素朴な疑問を提出して、しまひには成程これは問題だと大人も考へ込むやうなことを考へて見ようとして居たので、大抵は危險思想に陷らずにすんだ。終戰の少し前から、尾州の田舍に「土の香」といふ謄寫版の雜誌が始まつて、何か書いて見ないかと勸めて來た際に、私はこの警下抄の中から、ごく小さな問題を拾ひ出して投書した。それが二年後の警後抄の時代までもなほ後を引いて、新國學談の第五卷に豫定する「鳥柴考」の一篇になるのだが、果してうまく纏まるかどうかまだ自信が無い。それでごく簡單に私の小さい文庫の、好意とも名づくべきものを紹介するのだが、それは要するにつま楊枝といふものゝ根源を説いただけの一文であつた。楊枝は本來は各人が自ら製作して、懷中してあるく日用品だつたのが、二百數十年前から京都では商品となつた。其店が京でも江戸大阪でも、猿屋と名乘つたのは意味があることらしいが、今はまだ明らかにする途が無い。私の注意し始めた點はたゞ一つ、その猿屋の楊枝が河内の玉串村、玉串明神社の有る村の出身者が、材料を郷里から取寄せて削つて賣つたのが始めであり、國の方でも河内志が世に出る頃まで、楊枝がこの地方の名産の一つだつたことである。玉串は日本の古來の信仰に於て、可なり特殊なる一つの現象であつて、是といはゆる御幣の幣束《へいそく》、又は眞榊の枝とは別のものとも見られ、或は根源一つのやうにも見られて、しかもどういふ風に分立したかゞ、まだ神道家によつて説明せられて居ない。もしも楊枝を産する河内の玉串といふ村の名が、偶然でなかつたとすれば、或はこの方面からでも、玉串といふ風習の變遷は窺はれるかも知れぬと思つて、今も幽かに殘る楊枝といふものゝ俗信(511)を、一つ／＼見て行かうとしたのだが、この方は收穫がまだあまり豐かでない。

　一方にはこの所謂楊枝を作る材料の木を注意すると、楊枝は外來だが我邦でもカハヤナギを削る例が多く、河内玉串村なども水濕の地で、多分は楊を用ゐたらしいが、なほこの以外にもカンボクといふ木があり、殊に黒モジといふ木が最も多く用ゐられて、是をつま楊枝の別名の如く、即ち削つてクロモジを作るからさう謂ふものゝ如く、思つて居る人が今は少なくないが、實はこの名は古くからのもので、しかも語の起りは明らかで無く、木肌に黒斑がある故に黒文字だと、牧野老などは謂つて居るが、別に白モジ青モジといふ種が有るのみか、モジは古くは文作とも書き、方言には今でも黒モンジャといふものがある。

　この黒モジの木を楊枝に削る風習は、もとは一地方のもので近代になつて普及したかと思はれるが、別に二つの特徴がこの木には附いて居る。一つは樟科の植物でありながら、是だけは寒い北地までも分布して居ることで、最初私は津輕海峽を以て堺線とするかと思つて居たが、今度北海道に旅をして尋ねて見ると、渡島半島までは確かに在るといふ人と、膽振日高の山々にも野生して居て、やはり舊住民の間にも、やゝ特殊なる取扱ひを受けて居るといふ人があつて、觀察の範圍が又少し廣くなつて來た。第二の特徴といつてよいのは、この木が今でも狩人の群によつて、神の祭の串として用ゐらるゝ慣行が、北は津輕から南は少なくとも越後の北蒲原の山村まで、弘い區域に亙り分布して居ることで、是は私にとつては可なり大切な啓示であつた。それを説き盡すことは爰では六つかしいが、一つの着眼點はこの黒モジの木の一名を、東北一帶は鳥木柴、又は鳥木とも鳥柴とも謂つて居ることで、是だけは近畿地方、殊に京都の上流生活に於て、鷹狩の獲物の小鳥を人に贈るのに、それを木の枝に結び付ける場合と全く一致する。黒モジを鳥木もしくは鳥柴と呼ぶ名の起りが、斯うした習俗に基づくことは先づ疑ひ無いのだが、たゞ京都の中世は主として人への贈り物であり、東北の山村のは專ら山の神への供へ物で、それも熊とか羚羊とかの、肉や内臓の一部に限られて居る點が異なつて居る。幣帛といふ漢語の我邦に於ける意義變化が、或はこの方面から明らかにし得られるか(512)と私は悦んで居る。幣は本來は財寶のことであり、人から人への正式の贈遺が、通例は皆幣と言はれて居る。それが日本だけではよほど夙くから、神に捧ぐる捧物のみを、其名で呼ぶやうになつでは居たのである。布や白紙を取掛けた祭の串を御幣と謂ひ、一方には又幣帛といふ文字を、ミテグラと譯すのが普通になつたのも、根源はたゞこの神聖なる祭の木に、神に奉る品物を直接に結び付け又は挾んで居た習はしの爲かと思はれる。古い學者も既に注意したやうに、以前は臺とか三方折敷とかいふものも無かつたからと、いふ樣な理由もあつたか知らぬが、私は更に積極的に、この木が神靈の依りたまふ座である故に、是を最も確かな傳達方法なりと、素朴な世の人たちの考へたのが元であつて、後々社交の上にも應用せられたのは、寧ろその宗教的な感覺の、やゝ平俗化せられた結果かとも考へて居る。玉串又は齋串といふものゝ歴史には、是から明らかにしなければならぬ數千年の沿革があり、それが地方の生活に保存せられて居る痕跡にも、今はまだ比較を絶して居るほどの、變化の大きな幅があつて、たゞ民俗學のみが之を推究し得る力であつたといふことを、偶然に私は信ずることが出來たのである。寒く薄暗かつた警下抄の期間を記念すべく、いつかはこの小さなつま楊枝の爲に、出來るだけ要領を得た解説の文を、もう一ぺん書き直して殘したいと私は念じて居る。

　

　　　　　　　四　新しい民俗誌

　

　十年近くもの間、戰さへ終つたら又もとの樣に、田舍の友だちや話ずきの年よりを訪ねて、新たな見聞を重ねることが出來ると、樂しみにして居たのは當てはづれであつた。汽車はあの通り地獄だし、米まで背負つて行かぬと宿屋にもとまれない。その間に人の心は荒び、口を開く者は過激なことを言ひたい人ばかり、大抵の凡人はたゞ黙つて愁ひて居る。假に以前のまゝの靜かな生活を續ける隅々があつても、そこへ問ひ寄ることは容易で無いのみか、それも(513)追々に崩れて行く氣づかひが多い。斯ういふ中から學問の資料を導き出さうとするには、改めて一段の工夫を積まなければならぬ。今はともかくも採訪の繼續に、大きな望みをかける時期で無いといふことを、昨年夏頃から私たちは考へて居た。幸ひなことは十年前の郷土生活研究所の共同調査以來、雜誌にも通信にも大量の報告がたまつて居て、それがまだ片端しか分類せられずに居る。この際は各自の書齋の中に於て、是を出來る限り利用しやすい形に、整理して置くのが急務ではないかといふことを、私も「民間傳承」の復刊號の中で説いて見た。

　しかしさういふ大切な資料も、どうやらもう大分散佚して居るらしい。少なくとも之を利用し得る人の手と、印刷したものゝ所在とは、離れ／”＼になつた場合が多いかと思はれ、以前計畫してそれ／”＼の需要の有りさうな向きへ頒布した分類語彙なども、現在はたゞ捜し求めて居る人が、無限に有るといふことを聞くのみで、しかも印刷界の實?は、極端にその重版を困難にして居る。新たに民俗學の研究に入り立たうとする人々だけには、何か別に簡易なる供給方法が講じられねばならぬ。さうして一方には前から是に携はる者にもたゞ今まで集めて居るものを精讀せよと勸めただけでは、實は新しい刺戟にはならぬかもしれない。乏しい中からでも少しづゝ、地方の通信を載せて行くやうな、民間傳承の會報は是非續ける必要があるが、それを有りふれた燒き直しに近いものに墮落せしめない爲には、やはり何等かの方法によつて、次から次へとやゝ意外なる問題を、新たに提供して行くの他は無いと思つて居る。

　民俗學研究所の事業が活?になれば、それも安々と出來ることに違ひないが、所謂すべり出しが實は少し六つかしい。そこで一つの試みとして、こゝ暫くの間は個々のモノグラフと併行して、ごく小さな村誌又は部落民俗誌ともいふべきものを、成るべく數多く連刊して見ることにしてはどうかと、此頃は又進言して居る。村誌は人も知る如く、郡誌ほどでは無いが相應に數多く今までにも出て居る。しかし大抵は何かの記念事業で、費用も人の手も十分に備はり、何かすることは無いかといふ樣な際に考案せられるもので、近年のは殊に堂々たる大册にするのが流行であつた。始めから賣るつもりでない故に、主として讀まぬ人に配布せられ、滅多に賣り飛ばさぬ人たちだから、古本を手に入(514)れることは困難であり、しかも折角手に入れて見ても、ぼつちりしか讀む所が無い。平たくいふならば五割までは前からわかつて居ること、四割以上は覺えて置く必要の無い、一部か二部清書をして、役場小學校に保管して置けばよいもので、我々はその殘りのごく僅かな知識から印象を受けんが爲に、いつも數百頁の重い本を飜へして居るのである。斯ういふ大がかりな又むだの多い仕事は、恐らくもう當分は企てられもすまいが、其爲に我々が國内互ひに知り合ふ機會を、全然無くしてしまふのも惜しいことだ。何とかして之に替るやうな新しい式の村誌を、小さいだけにもつと數多く、遺して置くやうな道は無いものだらうか、といふことを私は久しく考へて居るのであつた。

　研究所の會に集まつて來る同志の中には、よそと比較をして見るまでの用意が足らぬ爲に、まだ手帳を整理して置くだけの勇氣が出ず、折角の好い印象を薄くしつゝある人が幾らも有る。それを防がうとして一つか二つ、是はと思ふことを語つて見ても、それは他でも聽くことだといふ類の批評を受けて、しよげてしまふやうな場合も多く、勢ひ珍し過ぎるやうな題目に、力を入れるといふ惡い癖を生じやすい。一つ／＼の話としてならば、初耳といふほどの發見はもう無いのが當り前である。それが何々といふ土地に何年ほど前まで、斯く／＼の事實と組合はされて、確かに存在して居たといふことが資料なので、一座の人たちには假に珍しくなくとも、經驗の少ない是からの學徒には、正しくさへ書いて置けば、旅行や問合せの大きな勢力を省かせることになるのである。

　少なくとも一つの村又は部落の、細かな記憶を持つ者は我々の中には多く、又進んで學問的眼光を以て、視て置かうとした場所も、一つや二つは大抵の同志が持つて居る。むしろその知識を整理しない爲に、次第に價値の少ないものにするといふ、危險をさへ感じつゝあるのである。十年以前に自分の手に托せられた、全國數十ヶ村の採集手帖なども、或はその著しい例ではないかと私は恐れて居る。この中には後になほ一度、他の地の例と比較して報告書を作つた箇條も二三はあるが、殘りの部分に至つては新たにその手帖を讀んだ者ほどに、精確なる記憶は無い人が多いのではないかと思ふ。佐々木山口守隨倉田の諸君のやうに、もはや其手帖を讀み返して、それを學界に送り出すことが(515)出來なくなつた人も四人まで居る。脇の者が代つて之を利用しても、當の本人と同じ仕事は出來まいが、もし時間が許すならば私たち舊友の、二度も三度もこの手帖の中の話を聽いて居る者の間で、少しづゝ是を新しい小さな村誌に、作り直すことを試みてもよいと思つて居る。

　人が自らを知るといふことは、自分でない人をも知ることを含むやうに、我が住む村だけの現實に通曉したことが、決して日本の村を知つたことにはならない。どこに環境に伴なつた事情の差があるかを心得ると共に、その變化の間に一貫したものが、何であるかを知り得た人たちが、始めて之を政治の面に持出すことが出來るのである。村が新たな働く力を具へて來たと思はれる今日、個々の地方の知識の孤立、世間が悉く自分の郷土の通りと、速斷する危險は更に怖ろしい。今まで空な言葉だつた「日本を知る」といふことを、どうかして眞劍なものにしたいのが現代の大きな願ひなのだが、その方法の至つて簡易なものが、爰に少なくとも一つは有る。新しい村誌は出來るだけ數多く、國の最も知られない隅々に及んで、最も簡易な形を以て書き列ねられ、しかも今までの大きな村誌とはちがつて、遠い他府縣の讀書人にも、面白く讀まれるやうなものにして見たい。其方法がきまつたら、今一度具體的に之を報告するつもりである。

　

　　　　　　　五　子安神の話

　

　年を取つて非常に氣が重くなつたが、それでもよい仕事には出來るだけ勉強しようとして居る。六月二十八日午後の大學の宗教懇話會に、雨と滿員電車との難關を突破して、斯ういふ題目の話を私はして來た。聽衆は六十人ばかり、大部分が若い人で、女たちも少しまじつて居た。書けないと困るからこゝにその要旨だけを吹聽して置かう。

　神社の起源が氏の神、即ち祖先の靈を祭るに在つたことは、第一は祭日の特徴、第二には祭を營む場所の、冬は山(516)に春は里中に在つて、祖靈の去來する路と一致すること、第三には農作殊に稻田の經營が、この祭典の中心であつたらしきこと、其他次々に之を證明して行けるやうに思つて居るが、それと同時に一方にはその例外、今は例外とも言へぬほどに顯著なる、族より外の神々への信仰が、どうして始まつたかも説明する必要がある。平安朝初期から段々と進出して來られた、石清水北野祇園といふ三つの大神に就いては、すでに一通りは自分の考へを述べて見たが、第四にはやゝ方面をかへて、子安神の信仰の、どうして今日の如く普及したのかを説いて見たい。といふわけは是が土地の安全と田穀の豐熟とに次いで、最も普遍的な公共の祈願に屬し、今の形でこそ家々の信心競べのやうになつて居るが、もとは總括して氏の神の、神�ｺを仰ぐことの出來るものであつて、新たに中世から始まつたものとは認められぬと共に、その現在の如き獨立した一つの神と、崇められるに至つた過程が、民間の傳承に據つてまだ探究せられるやうに思はれるからである。

　子安は今日の日本語では新たに作りにくい言葉であるが、古い頃には斯ういふ風に形容語を後に附けて、一つの複合名詞を作ることも出來たものらしく、沖繩などには幾らも例がある。竹取物語の燕の子安貝などにも見られるやうに、存外に古い言葉だつた。神の名としては三代實録の貞觀何年かの授位記事に、美濃國兒安神があつて所謂式外古神である。岐阜縣は今でも獨立した子安神の多い地方で、從つて其所在に就いては異説が多いが、少なくとも古く斯ういふ名の神があつたといふ一方の論の例にはなる。どうして久しい昔から、さういふ名を以て知られたまふ神があつたかといふ問題だけは提出せられて居る。

　十年あまり前、愛育會といふ恩賜財團が、各府縣の學者に依嘱して調査してもらつた、全國の産育習俗の報告書といふものがある。之を讀んで見ると子安信仰の記事は多い。さういふ中でも美濃は殊にこの信仰が盛んだが、隣縣愛知三重なども略々同樣で、是と關東方面との間には、誰にも氣の付くほどの樣式の差異がある。それを大づかみに言つてしまふと、子安には多分中世以後、佛教と結合して居るものが半分以上あるが、西の方には子安觀音が多く從つて御堂があり、又は神佛分離の結果、今は神社となつて居るものでも、俗間には之を子安觀音と稱へて信心を運ぶものが多いに反して、東國の子安には子安地藏の方が觀音よりも多く、從つて堂の無い路傍の露佛の中に、赤兒を抱へたまふ殊勝な石地藏をよく見かける。この地方差は意味のあるものと私などは感じて居る。

　それからなほ一つの差は、西の方は神社又は御堂である故に、月々又は年に何度かの賽日があり、その日思ひ／＼の參詣があるに對して、東國地方には今も村々の講中があつて、合同して子安を信じて居る。講に屬するは必ず壯年の婦女だけであつて、千葉茨城栃木福島などの各縣の田舍では其講を子安講といひ、又は月々の十九日に集會をするので、十九夜講とも謂ふ村がある。集會は現在は頭屋制、即ち順まはりに講員の家を使ふが、祭の前か後には打連れて、拜みに行く子安樣といふ路傍の石塔があり、別に御堂の有る場合も絶無ではないが、通例はこの塔が信仰の中心となつて居る。庚申塔も同じ樣に、石を立てるのは供養といはれて、信仰が之に由つて起つたので無く、前からある信仰の一つの表白方式と見られて居る。之を建てる機會は百囘目の結願とか、十年に一度の大祭とか、何か奇瑞を感じた際とか、土地によつて一定せぬらしいが、明治以後にも立つたものが相應にあり、常の年にはたゞ其石塔を拜し、俗に犬卒都婆といふY字形をした祭の木だけを、其前に立てゝ來るといふ土地もある。現在は講員の家に於て集まつて祭を營むが、以前はこの石塔の所在地に蓆を敷き又は假屋を作つて、そこで祭をしたことは二十三夜講、その他色々の講も同樣だつたかと私は思つて居る。

　二十三夜塔は石にたゞ文字を刻しただけのものが多いが、子安樣の方には稀ならず尊像を刻したものがある。子安地藏もその一つの場合かと思ふが、茨城縣の中部山地帶などで私の見かけたものは、百人一首の女歌人の繪のやうな髪を垂れた日本風の女性で、それが幼兒を抱いて居られる姿は、昔なつかしいものであつた。この事はもう二十何年も前の考古學雜誌に報告し且つ研究もしてあるが、是があの地方の女たちの心に描いて居る神の姿だつたとすれば、この講は子を?り安産を念ずるめでたい神祭である故に、本來は佛名を唱へて居なかつたといふことを、語るもので(518)はないかと思ふ。

　しかし佛教との結合が起つたのも、さう新しいことではないのだから、如何なる動機からにもせよ、神を日本風なる姿に顯はし申す習はしが、まだ殘つて居たのは奇特と言はなければならぬ。十九夜講の名の起り、即ち此神を月の十九日に祭るもとは、私はそれが十八日の翌日といふことで、多分は女が男と日を一日ちがへて、祭をして居た名殘かと思つて居る。觀音の縁日も一般に十八日、殊に三月十八日は動かぬものゝやうに見られて居るが、是はまだ／＼安心して佛教固有のものと見ることが出來ない。この日を信仰上の重要な日として居る例は、日本では他にもまだ色々ある。たゞ子安講とよく似た村の婦人の信仰團體を、觀音講といふ例が西國方面に多いのを見ると、子安を觀音とする佛者の解説が、之に基づいて居たことだけはほゞ推定しなければなるまい。つまり、十八日又は十九日に祭をした爲に、觀音さまだと言ひ出したのである。

　但し村によつては男の觀音講、又産育に關せざる老女の觀音講もあつて、是もやはり月々の十八日に集まる所から、此名を得たかと思はれる。さうすると女が十九日に子安の神を祭つたのも、單に滿月の三日後といふのが、神の奉仕に適した日といふだけで、特に信仰の教理とは交渉する所が無かつたのかも知れぬ。是とよく似た例は二十三夜待であつて、この日も子安神の祭日とする土地と、男子が集まつて講の祭をする土地とがあり、やはり亦女だけは一日早く、二十二夜待と謂つて祭をする村々も少なくないのである。供養に石塔を立てるといふ風習なども、二十三夜講は關東の子安講と近い。さうしてこの方には神を月天子もしくは月讀尊、又は三體の彌陀などといふ解釋がまだ確立せず、信者はたゞ二十三夜樣と呼ばるゝあらたかな一柱の神があつて、この日は個々の祭場を巡つてあるかるゝものゝ如く言ひ傳へて居るのだが、それは正月に祭られたまふ神を正月樣、盆の尊靈を盆さまといふも同じことで、一年兩度の定まつた例祭の他に、特に設け添へた祭典の日によつて、さういふ神の名を稱へることになつたかも知れない。社を神の常の御在所とする考がまだ起らず、それをたゞ恒例の祭場と見て居た時代には、別に日を選み地を定めて、(519)特に關係の有る者に限り、集まつて或祭典を營むといふことが、講といふものゝ起源であつて、それが年久しく續いて居るうちに、いつしか異なる神であり又佛であるかの如く、想像せられるに至つたのかと私は考へて居る。是は子安の神�ｺだけに限つたことで無く、旱に雨を乞ひ霖雨に晴を願ふ行事なども、是を我が土地の昔からの神に?るものが、今でもよその社の神に信心するものよりは實際は多い。安産子育ての願ひ事なども同じことで、是を産土神の恩�ｺとして、信じて疑はなかつたものは幾らもある。たゞ其中に於て祭の方式を異にして居るものだけが、外部からも注意せられ、又折々の靈驗によつて、遠く外部からの信者を招き寄せ、次第に新たなる祭神の如く、見らるゝに至つたものかと思ふ。關東各地の子安講などは、今でも村の外からの參加などは無いのが普通だが、もしその祭場に石の標幟を建てる代りに、女神の姿を刻し又は地藏の石體を安置するやうになれば、講の人々とは何の交渉も無しに、路次に跪いて之を拜んで行く人が、追々に多くならうかもしれぬ。現に東京郊外の庚申塔などは、その講はすでに斷絶してしまつて、たゞ附近の人たちが思ひ／＼に、小繪馬を上げたり底を拔いた柄杓や椀を供へて、願掛けをして居るものが多いのである。一つには佛教の感化と言つてよいかも知れぬが、もつと大きな原因は後世の神職たちが、おのれの奉仕する社地以外に、祭場祭日祭式の有ることを知らなかつた爲に、所謂民間信仰は段々に神道の外に出てしまつたのである。

　

(523)　　氏子の特徴

　

　折口君の三郷卷談の中に、大阪平野町御靈神社の氏子、男の徴の尖が曲つて居る、其理由は不明云々。此は冗談で無く面白い話である。自分は今までに此例を二つ三つ聞いて居るのみならず、打明けた處が自身亦其特徴ある氏子の一人である。中國の某縣とだけで御免を蒙つて置かう。中央部を流れる一つの川の東に氏神の鎭座したまふ小山がある。昔此神は對岸の山崎と云ふ處の氏神と喧嘩をして礫の投合をせられた。相手の神はたしか石が眼に當つたとかで、今でも山崎の者に片目が多いと云つたと記憶する。此方の神には小石が妙な處に當つて、其物の尖を傷けた（神にも此物あるは注意すべきことだ）。故に我々の物の頭は必ず曲つて居る云々。此が自分の村の口碑である。

　神々の爭は夫自身が日本民族の特色とすべき傳説の一系統で、一朝一夕には説盡しがたい色々の話に變化して居る。（富士淺間、猿丸太夫、勢多の橋、タケクラベ等）小石大石の投合と云ふことにも尋ねたら深い仔細があらう。併し自分が折口信夫氏に報じたいのは其事では無い。自分は茲に匿名ながら誠實に言明する。少なくも氏子の一人たる自分には評判の特徴は無い。併し自分の近頃の發明では、男の徴は見やうに由つては皆曲つて居るとも言ひ得る。彼一物の一旦大きくなつたのが收縮する際には必ず左右に曲りつゝ小さくなるのである。此中途の?況を自ら目撃した者が、成程さうだと速斷したのではあるまいか。比較研究の困難なる社會現象にはよく此類の誤謬がある。又同じ物の近傍に在る袋の中の二つの球が、一方は高く一方は低いのなども、?々或村の住民の特色のやうに言ふが、此も天然普通の生理?態で、萬人の身の中に常に起り居ることであるのを、自分等ばかりと考へたものかと思ふ。唯土俗學上の問(524)題として永く我々に殘るのは、何故に神の石が斯な隱し處に中《あた》つたのか（イ）、氏神の傷が何故に末々の氏子にまで影響を與へたのか（ロ）、以上の二點である。折口さんのやうな注意深い人生の觀察者で無ければ、いつ迄も此疑を解き得る人はあるまいと思ふ。終に臨み一寸御參考に附け加へて置きたいことは、至つて野蠻な民族の中には、今でも小石を以て成年に入らんとする男兒の大事の物の頭を傷け血を出し、之れを部落の神の思召又は命令と信ずる者のあることである。此風習の痕跡が半開以上の人民の間にも殘つて居る例は、見ようと思へば外國人の書いた參考書がいくらもあります。

　

(525)　　田社考大要

　

　　　　　はしがき

　

　山宮考に引續いて、すぐにも纏まりさうに思つてゐた田社考が、枝葉ばかり徒らに繁つて、容易なことでは完成しさうにも無くなつた。少し豫報の早過ぎた點を後悔してゐる。全體どういふ事を説いて見たかつたのかと、訝る人も定めて多くなつてゐるであらう。それだけなりともせめて明らかにして置くべきではないかと思ふ。どうせ後々も同學諸君の協力を求めなければ、はつきりと把握することの出來ない大きな問題だときまれば、寧ろ今のうちに引繼ぐ方が、效果も樂しみも多いわけである。私の集めた資料は或程度まで整理してあつて、新たに捜索する人の勞苦を省くことだけは出來る。今はたゞ次々の補充と、この全部を活用し得るやうな鋭敏なる洞察とを必要とするのみである。最初は紙上談話會にでもぽつ／＼と提出して見ようかとも思つたのだが、長さの自由を留保する爲に、こんな論文のやうな形を採ることにした。勝手な言ひ草ではあるけれども、若い諸君にはこの眞似はさせたくない。

　

(526)　　　　　　　一　伊勢の田社

　

　皇大神宮儀式帳に、未官帳入田社事とあつて、内宮管下の十五の田社の名を列擧してゐる。この田社なるものはそも何であつたらうか、といふことが私の問題の出發點である。最初「山宮」の信仰の成立について、深い興味を抱いてゐた自分としては、先づこれと田社との對稱を想像して見たのであつたが、それはさう簡單に立證せられさうもないことだつた。第一に兩者の世に知られた時代がちがひ、數と分布の?態においても一致しない。山宮の存在は荒木田度會の二つの家門に限られてゐたに反して、一方は數が十五もあるに拘はらず、外宮の方には全く聽く所が無い。その上に山宮は駿河甲斐の二國を始めとして、稀々ながら今も各地に分散して、是と名を同じくするものが見出されるのに、田社に至つてはもうこの他には無いかと思はれて、僅かに類聚神祇本源の長�ｺ三年檢録なるものに、田社三十三前の名があつて、これには外宮の色々の小社を集めてゐるが、その中には延暦の止由氣宮儀式帳に、特に田社と謂はなかつたものゝ幾つかを含んでゐる。

　二つの儀式帳の史料價値に就いては、伊勢の學者方の討究も、未だ必ずしも徹底してゐたとは言はれないやうに思はれる。たつた一種の傳寫本が、敷百年の後に發見せられたとすれば、少なくとも加註書込みの本文化などは有り得ることで、假に僞作でないことは確かなりとしても、全部をさながらに延暦二十三年の録進と見ることは心もと無く、是非とも本文の各條において、果してそのやうなことが有り得たかどうかを、細思して然るべきことであつた。田社は或は小さな問題かもしれぬが、これを因縁として前代の伊勢の生活を、少しでも明らかにして見たいといふ願ひも起り、同時に又儀式帳といふ古文獻の、信憑度も定まつて來るのである。

　

(527)　　　　　　　二　田と社

　

　素朴にこの記録の全文を信受し得られない理由が、先づ田社の個條にも幾つかある。以上十五前の神社、倭比賣の御時に、祝併びに御刀代田宛て奉る也とあるが、その御刀代田が何を意味し、祝といふ職が如何にして定められたかが、今もまだ我々には明らかになつてゐないのだかち、非常に覺束ない記事である。それは或はこの時代の口傳へに止まるとしても、これに引續いて、未だ祝の?免されず、仍て田社と號けて供奉を爲す、定祝同（祝を定むるは同じ？）とあるのが、全く解しかねる。?は多分エダチと訓むのであらうが、祝にして別に課役を負ふ者が有つたといふのもをかしく、よつて田社と號するは更に奇異であつて、假にさういふ例が他の國にもあつたとしでも、容易には從ふことの出來ない解説であつた。

　それよりも大きな不審は、この十五の田社に、一つ一つ其々神社の名が有る以外に、別に祭神の諱と、更に多くは又其父神の名をさへ露顯してゐることで、これが延暦聖代の古風であつたとは、何としても考へることが出來ない。一度に數多くの諸國の神々を、公けの文書に列記するやうな場合には、區別の爲にそれ／”＼の御名を掲げる必要はあつたらうが、それは假稱とも世俗稱ともいふべきもので、大抵は祭場の所在、もしくは祭祀を管掌する氏又は職務の名を擧げてゐる。從つてたま／＼神々しい萬葉假字の神の名はあつても、それも表示の爲に造り設けられた第二第三のものかと思はれ、神典の記録とは合致しないのが普通だつた。これを必ず古記の何れかに見えてゐるものに限るやうに考へ出したのは吉田流、或は近世の神社臺帳式と謂つてもよく、その爲に氏子たちは、?々無用の苦勞をしてゐた。神社佛閣といふやうな文字の使ひ方は近年からでは無いが、これは總名であり個々の名では無かつた。日本の讀み方ならば何々神の社で、神は上にある言葉に附けて呼び、それが又世俗の口にすることを許された神名でもあつた(528)ことは、歴代の授位の記録を見てもよく判る。それを物々しく再び又、別の名を以て由緒づけようとしたことは、假に巫託の言を信じたにしても、さう古い世の事で無かつたことが推測せられる。

　それならば田社は一向の根無しごと、有りもせぬものを大昔以來、この地にあつたと主張するのが、目的であつたと見てもよいかといふと、私は決してさうは考へてゐない。うそならば通例それによつて、何か利益をする者が有る筈だが、物知りが人の全く知らぬことを、知つてゐたといふ名聲を博する以外に、新たにかういふものを無の中から構へ出すまでの動機は想像し得られぬからである。多分はいつの世からとも無く、田社といふものが内宮の周邊に在り、或はまだ祭祀の古例が殘り、これに携はる者も幽かにその職分を傳へ、しかもその由緒を談ることが出來なかつた爲に、かういふ記事がうみ出されたのかもしれぬ。斷つて置かねばならぬことは、これまで述べたことは日本民俗學の領域では無い。たゞ是が丸々の造言で無いときまると、僅かながらも自分たちの研究、即ち民間信仰の展開又は變遷の研究と、交渉を生ずることになるのである。今までの古典學者は、大體にデンシャと音讀して、田をたゞ鄙びた又は低級の意に取つてゐたかと思ふが、この點が或はこれからの小さな問題にならう。私はその前々からの呼び方を、タヤシロ又は田の社であつたと推察して田即ち稻作と關係のあつた社即ち祭場の意と見てゐるので、是と大御田の行事を始め、今も全國の端々まで、弘く行渡つてゐる田の神の祭と比較すべきものゝやうに説かうとするのである。ヤシロが必ずしも木造の建築物の名でないことは、伊勢の人ならば十分に知つて居られる筈である。現に儀式帳中の本文を見ても、十五の田社には社屋のあつたといふものは無く、多くは「形石に坐す」、或は形無とあるのも何社かある。形といふのも訝かしい語ではあるが、僅かに一個又は數個の石を以て、靈地を標識するのが普通であつた。既に先人の中にも道破した人があるやうに、ヤシロは屋代であり屋を設ける豫定地であり、其爲にそこを尋常の用地と差別したものである。屋の多くは假屋小屋又は花屋などと稱して、祭の日に先だつて新たに結構し、神のおましの常設のミヤに對立して、この方は敬語を添へぬのを見ると、この方は祭に仕へる人々の爲の屋であつた。それを悉く神社(529)の概念の外に置かうとしたのが、明治初年の神社政策であつた爲に、古來の數多い信仰行事を、神道の圏外に取殘すことになつたのである。國中無數の同胞が、何よりも心を籠めて年々の祭祀に奉仕した、田の神の信仰といふものが、先づ最初に説明せられぬものになつてしまつた。是だけは今のところ、民俗學以外他には考察しようといふ學問が無いのである。伊勢の兩宮と米作農業との關係を、改めてもう一度根柢から見なほす因縁が、この至つて覺束ない田社の記事によつて結ばれるとすると、あの延暦の儀式帳なるものは、いつの世になつても粗末にすることは出來ない。

　

　　　　　　　三　田社と御刀代田

　

　儀式帳のいはゆる十五の田社を、經雅神主はデンシャと訓むべしと説いてをられるが、このやうな日本語が、延暦二十三年の頃にあつたといふことは第一に疑はしい。これは神社をジンシャ又はジンジャと唱へて少しも怪しまず、公私に汎く用ゐさせた時代よりも後の考へ方で、その神社とても古くはカミガミノヤシロといひ、たゞ總括のために稀々にこの語を使つただけかと思ふ。社はそれ／”＼の神の祭地のことであり、特に神の字を冠する必要の無かつたことは、古くは出雲風土記を始めに、近い世までの實例の無數である一方に、神々には必ず神の字を下に副へて呼びまつりしことは、歴代授位の記録でも明らかであるから、式の神名などの今日普通の讀み方は誤つてをり、更にその神名に註記して、別に祭神を考證するなどは、吉田流とも名づくべき中世の新儀であつた。それをこの延暦の儀式帳が踏襲してゐる故に、竊かにその確實を危む者の出て來るのを、抑制することができないのである。

　田社の田をやゝ卑しむ意、田夫田舍の場合も同じく、一般官知の神社よりも少し低い地位に至ることを意味するかなどと解かれたのは、他にもつと好い考へが思ひ付かれなかつた結果としか見られない。從つて又わざ／＼このやうな解しにくい名稱を、新たに作り設ける筈は無く、少なくとも或時代に存在した言葉で、後漸くその物がはつきりと(530)しなくなつた頃に、この一節の文言が挿入せられたかといふ、推測も成立つのである。いはゆる十五前の田社の列記を見るのに、神名秘書以來何度もの考究を重ねて、なほ所在の判明せぬものが數社はある。これは田社を以て今いふ末社の至つて小さなものと、始めからきめてかゝり、更に一旦指定せられた以上は、奉仕者の家の盛衰に拘はらず、永久に動きも廢れもせぬものといふ豫斷に基づいた調査なるが故に、殊に遺跡の發見が困難なのであらうが、曾て現實に田社の信仰が伊勢に有つたものならば、たとへ數はちがひ名稱は變つてゐようとも、何處かにその痕が留まつてゐることであらう。我々は不斷の注意によつて、究極にはそれを見つけ出さねばならぬが、たゞ幽かな名稱の類似等によつて、所在がこの邊とほゞきまると、もうそれだけで安心してしまふやうな、今までの學者の態度には附いて行きたくない。神名帳の研究も多くはそれだつたが、この土地この社が古いものと確定したところで、信仰が跡づけ得られなければ何にもならない。儀式帳の十五の田社の中にも、津布良（積良）小社（ヲゴソ）加努彌（鹿海）といふやうに、古來の村の名を掲げたものが、三つまであるが、村に社が有り社に村の名の付くは常のことで、それが以前の田社であるといふ證據にならぬのは、假に社をたゞ微々たる神の社のことだとしても同じである。まして田社は田のヤシロ、即ち田の中又は傍において、神を祭る靈場の意であつたことは、大よそ誤り無く斷定し得られるやうに、私たちは今考へてゐるので、田社考の目的は言はゞその證據をわかりやすく排列して置くことであつた。

　すべての神の社には、必ず社殿が無くてはならぬやうに考へ始めたのは、明治の臺帳時代からと言つて誇張では無い。さういふ世になつて後も、なほ由緒によつて建物をもたぬものが、諸國の大社にも幾つかあり、中小社に至つては固よりその數が多い。それを二三の地方では絶對に認めようとしなかつたのが、近代の誤れる神祇政策であつた。伊勢だけは數多き古今の實例によつて、社殿無き社といふものゝ神々しさを認めてゐたのに、どうして又田社のみを、今風の神社でなければならぬと解してゐるのか。これこそは誠に解し難いことである。いはゆる神社の臺帳には載せられずにしまつたが、諸國には今でも算へ切れないほどの小さな祭揚があり、それも自分などは古來の社であつたら(531)うと思つてゐる。近年はこれに簡單な木造のホコラを設け、もしくは石の小宮を建てる風が普及したけれども、なほ春秋の祭の日に臨んで、一囘限りの藁の假屋を構へるものが、却つて東京近郊の屋敷神などに、今もまだ數多く見られる。社が屋代なることは故人も既に氣づいてゐる。宮をミヤといゝミヤヰといふに對して、ヤシロのヤには敬語の副はぬのは、この屋がもと祭る者の爲の精進屋であつたからであり、それを年々定まつた靈地に立てたことが、社といふものゝ起りであつたと見られる。宮と社との分堺の最も嚴重だつた伊勢の學者たちが、どうして田社をたゞの神社の小さなものと見てしまはれたらうか。これも恐らくは儀式帳の記述を、さながら延暦の代のものと信じられた結果であらう。

　祭の屋を構へる豫定地を聖別して、これを尋常の用途と混同させまじとする心遣ひは、塚や森の成立にも現はれてゐる。それをヤシロと呼ぶ語法にも類例は多い。網を置く漁場をアジロ、人が坐臥する席をムシロ、方言にはミシロといふ語もある。山間の平地を田代といふなども、曾ては片荒しの農法が行はれた爲と思はれる。さういふ中でも耕地にはシロといふ語の必要が多かつたかと思はれる。神に屬するものゝ例としては、史書に文學に數限りも無く殘つてゐる御刀代小田だが、不思議にこの一語の解説は今以て完成してゐない。やゝ大膽との謗りはあらうも知れぬが、これはミトといふものを設ける田と解すればよくわかり、さうしてそのミトはまた田の中の祭場のことだつたらしい。現在自分の集めた證據は少し乏しいけれども、主要なるものが一つ壹岐の島に在り、また讃岐にも大和にも小さな例はある。それが田を養ふ灌漑の水と關係するらしいことを考へるのが、田社考の目的の一つであるが、この序を以て言つてしまはれるほど、問題が簡單でない。田社といふ二つの漢字は、タヤシロと訓んでも意味は通ずるけれども、他にかういふ言葉の全く聽かれぬところから、事によると是も御戸代や御戸田地と共に、本來はミトシロダといふ日本語に、假に宛てられたる文字では無かつたかとも私は思つてゐる。

　

(532)　　　　　　　四　家田・親田・神樣田

　

　この所謂十五前の田社においては、倭比賣の御時に、祝竝に御刀代田を宛て奉るといふことが記されてあり、その祝はすなはち田を作る家のことを意味したものと考へられる。倭姫世紀の各條を見ても、新たに社を御定めなされた場合には、土地の有力者が出て來て、神田と神戸とを併せ進らせたといふ記事が多い。これは日本紀の持統天皇紀に、神戸田地と書いてミトシロダと訓ませたのも同じ趣意で、折角美田を神にさゝげても、これを耕すべき者が居なくては何にもならぬので、必ず若干の農家を副へる慣例があり、それを特に御戸代田等の文字を以て、表出することになつてゐたのではないかと思ふ。舊來の普通の土着者が、各自の祖神を祭る場合には、さういふ必要は全く無かつた筈である。彼等は始めから持地の一部を區劃して、そこに清淨なる供御の物を生産すべく、欣び樂しんでその最も良い勤勞を割くことが出來たからである。御刀代はたゞ單に神供を産する田、一定の式を以て栽ゑなければならぬ田といふ意味だつたかもしれぬが、その設定は神の新たなる出現、または崇敬の大いなる擴張に伴なふものであつた故に、歴史の重要なる出來事として、永く記録の上に傳はり、後々はこの種の信仰的開墾、もしくは宗教的移民とも名づくべきものに、限定せられることになつたらしいのである。

　伊勢の荒木田度會兩家の神主たちが、神の御末でも何でも無いのに、夙くから大神宮氏人の名を公認せられてゐたことは、山宮考以來の大きな不審であつたが、これは考へて見ると十分の理由があることで、つまりは彼等が氏人の役、すなはち大神の爲に供御の田を耕す任務を帶び、その所産の稻を以て春秋の祭を勤仕してゐたからであつた。禰宜は兩家の外に今一家、根木氏といふのがあつてこれも氏人だつた。もしも内人・大内人と稱する幾つかの舊家の、その内人も起原を同じとするならば、神の御爲に御刀代田を作る家々の數はもと相應に多く、謂ふところの十五の田(533)社は必ずしも空漠たる記憶で無かつたらうも知れぬ。たゞ後世の解説者たちが、餘りにも所在の詮議にのみ專心して、終に田社の何物なるかを考へて見ようとしなかつたことが、返す／”＼も惜しまれるのみである。

　痕跡は今からでも、なほ辿り尋ねて行く路があるかと思ふ。神に年々の供物を備進する方式は、海川の所産に就いても定まつてゐたやうだが、取分けて稻穀においては嚴重であり、その所定の田は今日まで、明確に殘り傳はつてゐる。伊勢の二宮では、近世公けには是を御常供田と稱へてゐたが、別に家田といふ名が、いつの頃よりとも無く知られてゐた。外宮の方でも同樣と思ふけれども、これはまだ文字の證據を見つけ出さぬ。これに反して内宮の側には幾つもの用例があり、現に最近に規模を擴大整頓せられた宇治郷楠部村尾崎の神饌田は、少なくともその主要なる一所であつた。後にはこのあたりの地名にもなつて、荒木田の族中にはこゝに住んで尾崎氏を名のる家の先代に、家田長官といふ人も出てゐるといふが、名の起りは明らかにこの御田であつた。内宮の御常供田が、宇治と田邊《たのへ》と兩所にあつたといふことは、建武年中行事の書入れにもあつて、室町期の中葉に、すでに宇治の方を重んじてゐたことも疑はれないが、それが延暦年間に成るといふ儀式帳の本文に、荒木田一町宇治田一町云々と出てゐるのは、聊か早過ぎる感がせぬでも無い。荒木田は前にいふ田邊の郷に至り、宮川を隔てゝ宇治の神域からは三四里の外であつて、しかも荒木田氏にとつては由緒の深い、非常に年久しい開發地であつた。もしも家田の名を呼ぶとすれば、この方こそ最も誇らしい家田であるべきなのに、近世は專ら宇治郷に在る方をさう呼び、一方はたゞ御神田の名を以て傳はつてゐた。中古以降の世に知られない變遷が、何かこの間に窺はれるのではあるまいか。多くの荒木田氏は夙く名字の地を離れて、漸を以て聖地の周邊に近づき住んでゐる。式典の日々に滋く、祭の奉仕の愈々ねんごろなるに伴なひ、人馬の勞費を省かしめたまふ趣旨もあつたかと思はれて、戰亂の煩ひの特に多かつた時代になつて、一門はその氏神社、山宮の祭場をさへ移し、二門はその行事の若干を節略して、由緒深き荒木田の生産は、却つて末々の小さな御祭の用途に、振向けられるやうになつた形跡がある。儀式帳の記事がもし依るべくは、倭姫内親王が宇治の家田の田上宮に坐して、(534)今の大宮處を御定めなされたときには、宇治土公等の遠祖大田命が御間ひに答へ、宇治大内人が出でて仕へ奉るとある。その宇治氏は衰へ亡びたのではあるまいが、姻戚連枝の因みなどによつて、これを荒木田氏の管理に引繼ぐといふこともなかつたとは言へない。少なくとも曾て神々の爲に耕作の職を世襲した家が、たつた二姓に限られたといふことは有り得ないとすると、ちやうど今日我々の田祭が崩れ失はれて行くやうに、十五の田社もまた消えて跡無くなつたのである。何でも殘つてゐると思ふのは誤りで、却つてその爲に信ずべきものを信じ得ない、不幸をさへ招く虞れがあるのである。

　家田はどう見ても家に附いた田、すなはち家の田とより他は考へやうも無い。それを大神の祭に供へる米を作る田の名とするのは訝かしいやうだが、これも恐らくは前にいふ大神宮氏人と同じ心持であらう。村々の舊家の持田の中にも、さういふ意味をもつ大事な田があつて、全國に亙つてこれを親田《おやだ》と呼ぶ者が多い。新たに開き添へまたは買ひ足した田を、親田と言つてゐないのは勿論、古く持ち傳へた田の中でも、特に一枚の田を定めて、そこで田植の後先の祭をするのが親田である。諸國の數多くの例を集め比べて見ると、段々にその特色が判つて來るのだが、新田開發が盛んになり、田祭をせぬ農家が多くなると、それにつれて今まで行つてゐたものを罷め、また著しく簡略にする風が行き渡り、急いで見てまはらぬと、もう永久に不明に歸し去る虞れがある。たとへば或地方では、親田とは苗代にする田のことだといふ人がある。なるほど苗を育てるから親田だなと、早合點をする者もありさうだが、實際はそこで田祭をする實例も、まだ幾らも殘つてゐるのである。東北では通し苗代と謂つて、苗代跡地には普通の田植をせぬ風が、つい近年まで村毎に見られた。或は苗代跡地には、糯苗は植ゑぬものだといふ俗信もあり、不可解なことに評判せられてゐるが、これは祭り田に糯を作らぬといふのも同じ理由で、糯米はもとより神供の餅を造る料で、植ゑて惡からう筈は無いのだが、人が必要なる祭の條件を守り得ない懸念が多い故に、寧ろ豫め良くない結果を懼れたのであることは、ちやうど病ひ田死人田などと呼ばれた不吉の田が、實は前代或家の家田または親田であつたことゝよく(535)似てゐる。

　親田が引續いて同じ一つの舊家に屬してゐる場合には、その田に行はれる毎年の田植は、必ず他のすべての田とは全く異なつた、重々しくかつ大がかりなものであることを例とし、これを親田植または大田植と謂つて、永く忘れ難い印象を遺してゐる。土地によつてはこれを花田植、または囃し田と呼ぶものも多く、伊勢の大御田《おんだ》の行事も同樣に、鼓吹を伴なひまた風流の歌と躍りがあつた。田樂といふ演技なども、最初の起りはこれであつたと言はれてゐる。或は牛かけなどと稱して、牛を飾り立てゝ數多く植田の中に牽き入れ、または田を掻く技術を競はせる村もあり、出雲石見の方面などには、是によつて色々の昔なつかしい作法が傳はつてゐる。その起りは勿論すべて田祭の餘興であり、いと鄙びた豐の明りだつたのだけれども、この日は、豐かなる酒食の日、若い男女の昂奮の日であつた故に、いつと無くこれが行事の中心であり、また目的でもあるかの如き感を養つたことは、今日のいはゆる祭禮も同じであつて、娯樂は期待せられたる副産物に過ぎず、別にその背後には嚴肅なる祭の式典があつて、それを守らなければ神の田の農事は完成せぬことが、主人主婦を始め老功なる人々によつてもとは一般に認められてゐたのであつた。五軒七軒の淋しい片田舍などは、始めからそんな花やかな催しものは企て得ないで、たゞ水口に土を盛り芝を伏せ、若松榊楊などの緑の枝を立て、神酒燒米に田作りの小魚などを供へて、たゞさゝやかなる祭を營むばかりであつたのを、後には雙方全く異なるやうに思ふ者が次第に多く各地の風俗の根源が一つであることを改めて我々が説かねばならぬやうになつたのは注意すべき時世の變化である。

　さういふ中において伊勢の家田、すなわち兩宮の朝夕御饌を供進した二所の御常供田が、つい近年の名勝圖會の時代まで、現實に大御田の行事を保存してゐたことは、日本の農民に取つては樂しい力草であつたと謂つてよい。それがよし近年は單なる演技わざをぎの境涯に落ちぶれてゐようとも、これを細視すれば、なほくさ／”＼の古い習はしを跡づけ得られる。第一にそこが最古の記録以來、ずつと變らない家々の親田であつた。そこで御祭り申す神は、よそ(536)の田舍では田の神と謂つて、別にその名の神がゐますやうに考へられ、これをオサバイ樣だのソウトク樣だのと、さま／”＼の言葉を以て考へるやうにもうなつてゐるのに、伊勢のみはこの沙汰が無く、たゞその場所は山宮氏神の祭地に接し、家々の祖神がその管理に任じてゐたやうに見えることが、更にまた、稻の靈の永續を考へさせる。盆に盆樣、正月には正月樣があるやうに、山に祭れば山の神、井に祭れば井の神といふ名を用ゐるのが、我が國語の古い習はしだつた。それを八十萬の神々の有り形のやうに見ることは、中世以後の註釋家の所業であつて、それは一般大衆の知つたことでは無い、といふことがこれからも考へて行かれるであらう。それはとにかくこの一節において、私の言つて置かうとするのは、儀式帳の田社は假に書込みだつたとしても、丸で跡形の無いことで無いといふのが一つ、田社はタヤシロ、又は事によるとミトシロであつて、社殿の建物は始めから無く、たゞ場處のみが定まつてゐたのが、家の盛衰移轉によつて後不明に歸したものが多く、僅かに殘つたものは宇治田荒木田と、外宮域外の多分度會田と謂つたものだけで、それも散々の世變を經てはゐるが、なほ全國の比較によつて、これからも判つて來る信仰の痕跡が有るだらうといふことである。

　

　　　　　　　五　大水神

　

　社が祭場のことであり、田社はすなはち田の中の祭場に他ならぬことを立證するには、これまでの神道研究では足らず、どうしても民俗學の方法を借りなければならぬといふことを説く爲に、私は今ちやうど消滅しようとしてゐる國々の田の祭の幾通りかの方法を比較し、これによつて年久しい變遷の足取りをたどつて見ようとしてゐる。大體の傾向としては、田のほとりから屋内へ、それも竈の前から次第に床の間神棚の方へと移り行くことが、祭の期日もしくはその中心點の動きに伴なひ、それも主として祭の慎しみよりも、寧ろ式後の豐の明りに、重きを置くやうになつ(537)た一般の傾向と、相關するものだつたらしいことは、別に一文を發表してゐるからこゝには述べない。とにかくに一國生産總額量の三分の二近くが、海から引上げた新田場の米であり、そこには田の神の名すら知らない人々が、群居してゐるやうな時世になつても、なほ一隅には過ぎ去つた昔の信仰行事の、あらゆる變遷段階が保存せられてをり、それを何度でも誰でも往つて見ることが出來るといふのは、我々の學問の一つの強みであつた。

　田社考の目的も、本來はこの點を例證するに在つて、これが今までの通説を非議することになるのは、たゞ避けられなかつた結果といふに過ぎぬ。文書記録の明確なるものに據らなければ、古い來歴は主張することが出來ぬやうに、人が考へ始めたのは中世以後にちがひないが、さうなるとどうしても一部の虚構假托があり、いはゆる僞書の沙汰は頻出せざるを得ない。後人の作爲などは、いつかは發覺するにきまつてゐるが、我々の愁ひ悲しまねばならぬことは、これに伴なうて忽ち全部の否認、總活的不信用を斷定する者の輩出することである。うそを書くのが商賣の文士ですらも寫生する。まして自分の容易に信じ得ることを、人にも信じさせたいといふのが趣旨であつた場合、たとへ口傳であれ幽かな記憶であれ、乃至は靈示直覺誤解妄信の類であらうとも、丸で根の無いことを竝べ立てるよりも、どのくらゐ自然に又安らかに文字に現はし得たか。それを考へるとこれもまた缺くべからざる史料の一種で、たつた一つの難物は、人の名や年月日を、あまりに動きの取れぬものにしたことであらうが、これとても在來の史學が、特にこの二點に重きを置き過ぎた病弊を、反省せしめるのに役に立つとも言へる。うそにも時の順序があり、空想にも知能の限界があつたことは、寧ろ僞作の書によつて體驗することが出來るのである。但し明らかにして置くべきことは、内外二宮の儀式帳を全部僞書とする證據は誰もまだ持つてゐない。その證據が具備せぬ限りは、一應は實物としてこれを承認すべきであり、一二末端の不審を以て、すぐに總體の價値を低く視ることは戒めてよいのだが、たゞかういつた列記式の長篇で、しかも數百年の一本傳寫を經て來たものには、中間の加筆改刪もまた想像し得られる。さうして我々の學問がもし進んだならば、行く／＼はこの各個條の意義をもつと精確に世に傳へ、もとの筆者も豫期しなか(538)つたほどの效果を擧げて、何でもかでもたゞ古いものにけちを付けようとするやうな、いやな今日の學風を克服することになるかも知れない。

　いはゆる十五前の田社に對する最初の不審は、すぐ隣の止由氣儀式帳を始めとし、どこにも田社といふやうな名をもつ社が他には無いことだつたが、その次には個々の田社の祭神の記述法、これは後世他にも折々例のあることだが、その爲に却つて氣になるのである。延喜式に列記せられた三千以上の諸國の社は、それ／”＼に祭り申す神の御名を掲げ、それ故に神名式又は神名帳とも呼んでゐるのである。それになほ一つ、別な祭神の名を註記してゐることは、あまりにも近年の神社臺帳式に近く、少なくとも延暦の時世とは隔絶してゐる。さうなると誰がこのやうな餘計なことをしたかゞ問題になるのだが、これにも一つの手掛りはあつて、さまで新しい時代の思ひ付きでないことが、自分には考へ付かれる。簡單に要點だけを言ふと、十五田社の祭神のうち、大水神の兒某々神を齋くといふものが三社、大水上の兒何々神とあるものが六社、更に水上御祖神を祭るといふ一社があり、その他にも大歳神の兒二社、國生神の兒一社がある。大水神も大水上も共にオホミヅカミと稱へてゐたらしく、合せて十の田社までの祭神を、同じ一つの神の一族としてゐたことは、中世の大社の末社組織とも似通ひ、やがては比較によつてかういふ卷屬神信仰の普及した年代もほゞ判つて來ようと思ふ。

　この大水神といふのは、伊勢では特に注意すべき神の名だつた。すでに延喜の神名式にも、度會郡小四十八座の中に、大水神社があり、津長大水神社があり、又田上大水神社があつた。その故地はほゞ公認せられ、殊に外宮所管の田上大水神の社は、度會氏の家田ともいふべき御常供田の、田の上の靈場が、それであらうといふことにほゞ決定し、しかも一方には度會四門の始祖、大神王小事を祭るとも傳へられてゐた。ところが内宮の儀式帳では、その所管の式内小社にも、やはり田社と同樣にそれ／”＼の別祭神を註記し、たとへば大水神社には大水罪乃御祖命、津長大水神社には大水上の兒、柄長比女命と稱すと書き添へた他に、なほ宇治山田神社等の六つの社に、それ／”＼大水神又は大水(539)上の兒、何々神の名を録してゐる。私の推定はまだ十分な所據は無いけれども、この雙方に亙つた顯著なる傾向を以て、稻の耕作に缺くべからざる水神の信仰の、或一つの段階を示すものゝ如く、追々と考へ進んでゐる。幸ひにその見當がはづれなかつたら、これもまた儀式帳にこのやうな不可解な個條を挿入した、年代を究める手掛りにはなるかと思ふ。

　今の普通の日本語では、大水は洪水即ち水害のことであるが、もとは単純に水の靈の類稱として、大土大歳などのやうに大の語を添へたものか。多くは無いが類例は他にもある。或は春になつて山々の雪氷が、次第に流れを高くすることを稻の栽植の爲に喜んだやうな時代もあつたか。伊勢では鍬山の伊賀利神事があり、又は外宮に伊賀利社があつて、それは山の裾の井の神であつたかと思はれ、一方には山川の水増しをイカリミヅといふ方言が多くの地方に在るのを見ると、大水は曾てはめでたい春の音づれの名だつたのかも知れない。古史に特筆大書した池塘工作の記事は、榮える大御代の新しい政治を語り傳へたもので、他の一方にもつと自然に近い古來の灌漑方式が、すでに或限界にまで發達してゐたことを示してゐる。それがこの邦米作の起りを意味せぬは勿論、?々この爲に舊來の御刀代田を、移す必要さへあつたかと思ふ。大和のいはゆる青垣山の傾斜面に、程よく分配せられた八所の水分神社なども、恐らくは今でも地形の比較によつて、以前のもつと單純な營田組織と、その中心を爲した用水分配の信仰を、想ひ浮かべることが出來るであらう。廣大な埋立開墾地の附加があるまでは、かういふ小規模な緩傾斜の谷あひが、個々の生産單位として緊密に結合して、水を豐かに分ち與へたまふ神を、年毎に祭り續けて行くことが、全國普通の例であつたとすると、伊勢の大廟周邊の米作ばかりが、ちがつた樣式を以つて行はれてゐたらうとも思はれない。乃ち大水神又は大水上の祭神の記憶は、それ／”＼の水系を統一した田の祭儀が、かつてこの地域にも實存した痕跡であつて、たま／＼氏族の分合盛衰が激しかつた爲に、久しくその多數のものは埋滅し、たゞ僅かに二派の神主家に屬した家田だけが、辛うじて古代の信仰の名殘を留めてゐた。それがあの大御田の神事と稱する、名物の「わざをぎ」ではなかつたらう(540)か、といふのが田社考の一つの假説である。

　

　　　　　　　六　水口祭

　

　たゞしこの假説が、たとへいつ迄も確立せず、又はや反對の論議を招いたとしても、同じ系列に總括せらるべき稻栽培の祭が、弘く日本の四方の隅々に亙つて、現在、なほ無數に殘り傳はつてゐるといふ大きな事實を没却することは出來ない。今日の神道研究者は、神社を尊崇する餘りとは言ひながら、我と窮屈な境の線を設けて、?々その繩張の外に在るものを粗末にする。いはゆる民間信仰は讀んで字の如く、中には借り物、こしらへものも有らうが、大部分は御互ひが日本人として、いつの世からとも無く信じ來つたものである。もしも神社の信仰とさし合ふものがあるとすれば、急いで究明すべきだが、さういふ例は至つて稀であり、却つて雙方に共通な信仰行事ばかり、幾らでも發見せられる。それを混亂の淺ましい?態に放置して、堺の線のこちらだけで信じにくいことを信じようと努める。こんな損な話は無いと思ふ。さういふ中でも民俗學の仲間が口を出し得られることは、家の永續を目的とした、田の祭のやうな物心兩面の結合點に多い。人がめい／＼一代限り、長生安泰であればそれでよろしい、といふやうな個人主義の時世に入つて來るまでは、もとは子孫の愛を以て、この世の幸福の主要部分としてゐた。それを想像によつて不可視の世界にまで引伸ばしたのが、我々日本人の舊式な人生觀であつた。だから後々の惡用は悲しまなければならぬが、家田の最も完全なるものを家督と指定して、そこに豫期せられる餘得を以て、代々の族員の幼時老時病時を保險し、一方には又家に屬する稻の種子をスヂと名づけて特にきれいな俵につめ込んで、その永遠の繼續を確保したことは、初期の耕作者の感歎すべき智慮であつた。年に兩度の家々の農祭が、一方はその籾種を家田に卸す時、他の一方はその種を家に迎へ還つて、短い期間の休息を與へる時と定まつてゐたことは、恐らくは人が家の爲に働くといふ意(541)識を、更新する機會でもあつたと想像せられる。もちろん敷千年の歳月の間には、この信仰行事の連續は色々の故障に出逢つて、或は複雜化し、或は又省略に過ぎたる部分も出來、殊にニホ又はシラと稱する稻積み場の祭などは、季節が寒く戒律が嚴重だつた爲に、近世に入つてから急激に崩れて行つたらしいが、それでもその痕跡はなほ傳承の間に探り得られる。春は苗間じめの水口祭に對して、正月には清く美しいすぢ俵の上に若松を立てゝ、年の神を迎へ申す農家などは、今でもまだ決して珍しい例外では無い。この二つの非神社式なる祭壇の上に、毎年時をたがへずに來り臨む神が、家々の祖神であつたらうといふ我々の想像には根據がある。人の靈魂がもしも死と共に消えてしまはぬものならば、必ず生きてゐた間の最も痛切な意思、即ち子孫後裔の安全の爲に、何か役に立たうといふ念慮ぐらゐは、いつ迄も持ち續けられるだらうと、昔は生きてゐるうちから、さう思つてゐた者が多かつたのである。我が邦固有の神の信仰には、かういふ推理の基礎があり、無言の約束への期待があり、これに對する無限の感謝があつて、各人思ひ思ひの祈願は無く、且つ又何でもかでも有るだけの欲望をすべて叶へて下さるものとも、始めから信じてはゐなかつた。近代の解釋は無論改定せられてゐたらうが、ともかくもこれは日本の常民の持ち傳へた信仰の特徴であり、同時に又大小諸種の客神の、外から次々と入つて來る餘地でもあつた。その中には島原天草の傳道師が説いたやうに、今まで拜んだものを悉く海に流さなければ、助けてはやらぬといふ神もあれば、一方には又徐々と押入つて、本の神の上に立たうとするものもあつた。田の神をエビス樣といひ、鯛を釣るやうな御姿を木石に刻んで、家に又は田の畔に祭るなどは後の方の例である。エビス神は多分古代の記録に、蕃神と書いたものゝ對譯であらうが、後追々と日本化なされ、今我々の家の神と、區別し難いまでになつてをられる。幸ひにしてその經路は、ほゞ一通りは明らかになつて來た。要約して言つて見れば、漁業航海、それから遠い處との交易のやうな、不安危險の甚だ多く、その代りに莫大な大當りもあるといふ新しい産業には、何か別種の力ある神に、わざ／＼祈願をかける必要があつたのである。その信仰が湊津市町を傳ひ、國土の廣い面積を周流するうちに、いつと無く古來の家の神の性質を引繼いで、稼ぎに(542)出て下さるだの、財布を一ぱいにして還られるなどとさも家々の專屬のやうに考へるやうになつてゐるが、その根本にはやはり竝み以上、人より勝つた福を得ようとする、信心競べのやうな心理が導いてゐるのかも知れず、これは少なくとも以前の田のほとりの祭には見られなかつたものである。

　この話は枝路になるから、後にもう一度やゝ細かに説いて見ることにし、さしあたりは神社と民間と、よく似通ふといふ以上に、まる／＼同じと言つてよい程の信仰行事が、殊に稻作の部面には多いのに、どうして今まではそれを別々にしか考へることが出來なかつたか。この點に、神職の人たちが、先づ思ひを致さなければならぬと思ふ。一つの問題は伊勢に近世まで傳はつてゐた、二立ての農耕神事、御鍬山と大御田との行事は、國々の著名なる御社にも、特殊神事として何百となく傳はつてゐるが、後者に在つては正月か田植時か、何れか一方に定まつてゐるに對して、伊勢のみは兩宮ともに初春と五月とに重複して行はれることになつてゐた。鍬山神事が比較的早く記録に出てゐる代りに、その儀式が全部演技化してゐるに反して、大御田の方は田の所在が確定し、又現實に苗田の泥に親しいから、これはたゞ自家の作田を保つ神人と、すでに耕地を離れてしまつた舊家との差のやうにも考へられぬことは無いが、それにしては一方民間の年中行事にも、東北北陸のやうな夏の短い土地では、特に初春雪中の豫祝のみに、大きく力を入れるものがあるのだから一概には言へない。暦の知識の普及、殊に暦本の頒布といふことが、少なからず自然の生産計劃に干與したことを考へると、今ほどでも古い慣行が國々の隅々に、言ひ合せずに一致して殘つてゐたことは奇特といふべきで、それをこゝだけは類を絶するかの如く、獨りで信じ續けてゐたことは病弊であつた。發見はなほ今後に期すべきであるが、たつた一つの田の水の力の信仰を取上げても、比較の類例は山ほども積み上げ得られる。即ち溜池工作の計劃よりも以前から、我々の抱いてゐた信仰はなほ到る處に痕を存するのである。水口祭《みなくちまつり》といふ言葉は古歌にあり、又現代の多くの稻田にもある。家でさのぼりの祝宴を催すやうな土地ですらも、大多數は今でも用水の取入口に、幽かな祭のしつらへを怠つてゐない。たゞそれが村によつては苗代に限られてそれを親田と呼び、或は(543)家で最も大切な大田にそれを行ひ、或はどの田にも簡略に、みんな水口に串を刺すものさへあるが、それは永い間の變遷であつて、民俗學の方法でならば、至つて容易にその段階が見究められる。單に畔塗りのついでを以て、たゞ一鍬の土をそこに掻き上げて置くものから、特に山から新しい芝を切つて來て、臨時の小さな塚を築くもの、又は若干の不便を忍んでも、そこを常設の祭場として、耕作の外に置くものなど、捜せば今でも色々な實例が出て來るばかりか、最初はその水の最も清く、始めて山から流れて出て、まだ何物の穢れにも觸れぬ水を、特に崇敬しようとした痕跡がなほ見出される。いはゆる御刀代小田のミトの語原もこれに發し、つまりは神靈が高い聖地から、さういふ形を以て御降りなされるといふ信仰が、齋田の名になつたのかもしれぬと思ふのだが、それを説明してゐると又話が長くなる。こゝでは終りにたゞ一つだけ、今心づいてゐる例を擧げて、それが前代の大水神の言ひ傳へと、全く縁の無いものでないことを述べて置きたい。

　佐渡は日本の一つの端だが、その又北端の外海府地方は中世の開發と思はれるにも拘らず、そこでは家々の最初に植ゑる田を農立て田、又は神樣田と稱して汚れを避け、かつ定まつた方式を以て植ゑてゐる。それが用水から水を引く姶めての田であつた。この田では田植の始めに、三把の苗を三つかなわ〔五字傍点〕に置き、それに米又は握飯を供へ、祭り終つてからその三把の苗を解いて後向きに投げ、それを田主の妻娘が植ゑ初めする。この供物の米には呪力があるといひ、農立て米と稱してこれを保存する。田の神をサンバイ樣ともいふのは、中國四國の風習だが、この三把の苗といふ方式と關係があると思はれる。但しさういふ植田の祭よりも、苗田の祭の方が重んぜられた時代が古いらしいから、伊勢の田社もこの形であつたとは無論言へないが、ともかくも水の最初の引入れ口を、祭場に選定した點だけは同じであつたらう。荒木田、度會の兩家が管理してゐた、宇治と山田との御常供田なども、少なくとも灌漑の下流では無かつた。

　

(544)第十一卷　内容細目

　

神樹篇〔1953年3月、實業之日本社〕

　柱松考（大正四年三月、郷土研究三卷一號）………………………………………三

　柱祭と子供（大正四年五月、郷土研究三卷三號）………………………………一一

　龍燈松傳説（大正四年六月、郷土研究三卷四號）………………………………一九

　旗鉾のこと（大正四年八月、郷土研究三卷六號）………………………………二六

　大柱直（大正四年九月、郷土研究三卷七號）……………………………………三四

　諏訪の御柱（大正四年十月、郷土研究三卷八號）……‥………………………四〇

　勸請の木（大正四年十一月、郷土研究三卷九號）………………………………四七

　腰掛石（大正五年三月、郷土研究三卷十二號）…………………………………五五

　左義長問題（大正六年一月、郷土研究四卷十號）………………………………六四

　杖の成長した話（大正十四年十一月、民族一卷一號）…………………………七一

　楊枝を以て泉を卜する事（大正十五年一月、民族一卷二號）…………………九六

　爭ひの樹と榎樹（大正十五年三月、民族一卷三號）…………………………一一二

　天狗松・神様松（大正十五年九月、民族一卷六號）…………………………一三六

　地蔵木（明治四十四年六月、考古學雑誌一卷十號）…………………………一四七

　花とイナウ（昭和二十二年一月、二月、北方風物二卷一號、二號）………一五二

(545)　信州の祭の木（昭和二十三年五月、月明十一卷三號）…………………一六一

　祭の木（昭和二十五年一月、女性改造五卷一號）……………………………一六六

　鳥柴考要領（昭和二十六年四月、神道宗教三號）……………………………一七四

　

祭日考〔1946年12月、小山書店〕

　解説

　祭日考………………………………………………………………………………一八五

　耳の文學（一）……………………………………………………………………二四九

　祭のさまざま

　窓の燈

　　一　新國學國……………………………………………………………………二七六

　　二　方法と態度…………………………………………………………………二七八

　　三　氏神の研究…………………………………………………………………二八一

　　四　民間傳承の會消息…………………………………………………………二八五

　

山宮考〔1947年6月、小山書店〕

　解説

　山宮考………………………………………………………………………………二九五

　窓の燈

　　一　小さな民俗學研究所………………………………………………………三五九

(546)　二　百問百答集………………………………………………………………三六一

　三　民俗學教本……………………………………………………………………三六三

　四　女の會…………………………………………………………………………三六六

　五　先祖の話………………………………………………………………………三六八

　六　全國昔話記録…………………………………………………………………三七一

　七　還らざる同志…………………………………………………………………三七五

　八　民間傳承のこと………………………………………………………………三七六

　

氏神と氏子〔1947年11月、小山書店〕

　解説

　氏神と氏子…………………………………………………………………………三八三

　敬神とと祈願………………………………………………………………………四三四

　祭と司祭者…………………………………………………………………………四六一

　窓の燈

　　一　民俗語彙事業………………………………………………………………四九五

　　二　農村語彙増補版……………………………………………………………五〇二

　　三　警下抄の事…………………………………………………………………五〇七

　　四　新しい民俗誌

　　五　子安神の話

　

氏子の特徴（大正三年十一月、郷土研究一卷十一號）…………………………五二三

　

(547)田社考大要（【昭和二十五年十一月、十二月、昭和二十六年二月、民間傳承十四卷十一號、十二號、十五卷二號】）………………………………………………………五二五