定本柳田國男集　第十三卷（新装版）、筑摩書房、1969､6､20（1972.1.20.4刷）

　

(1)　　　年中行事覺書

　

(3)　　　　　著者の言葉

　

　日本の年中行事が、近頃再び内外人の注意をひくやうになつたことは事實だが、その興味の中心といふべきものが、これからどの方角へ向はうとして居るのか、久しくかういふ問題に携はつて居る者には、却つて見當をつけることがむつかしい。しかし少なくとも子供に言つて聽かせるやうに、これは昔からかうするものなのだと、説いただけでは話にもならぬし、又この頃のジャアナリズムの如く、正月が來れば門松の由來、三月が來れば雛祭の根原などゝ、きまり切つたことを毎年くりかへして居たのでは、觀光國の通辯にはなつても、考へる人の役には立たぬだらう。そこで私は一つの方針として、今まで私たちのまだ知らずに居たことが多いといふことゝ、誰もが氣をつけて見て置かうとせぬうちに、消えて無くならうとして居る年中行事が、幾らもあるといふことを説くのに力を入れた。今ならばまだ色々の事實は殘つて居て、成るほどさうだつたといふことも出來るし、又どういふわけでかうなのだらうと、疑つて見ることも出來る。共同の疑ひが有れば、それに答へようとする研究者も必ず生まれるだらう。自分がまだはつきりと答へられないからといつて、問題までをしまつて置くのはよくないことだと思ふ。

　歳時習俗語彙といふ書物は、將來問題になりさうな年中行事の事實を、手の屆く限り寄せ集めたもので、比較研究には都合のよい參考書だが、すでに絶版になつて古本でも容易には手に入らない。どうかして早く増補改訂を加へた第二版を出したいと、民俗學研究所の人々は苦慮して居る。繪で説明が付くと、話はたしかに面白く又わかりやすくなるのだが、それも季節があるために、よいものをたくさん集めて行くことはむつかしい。武田理學博士の農村年中行事には、解構な寫眞が澤山に出て居るが、ちやうどこの本とは反對に、主として正月中の慣(4)習に力が入れてあるので、こちらへは借りて來ることが出來なかつた。しかしあの本は精確な注意深い好い記述である。これも中々手に入りにくいことゝは思ふが、もし圖書館か何かで讀むことが出來たならば、諸君の年中行事に對する興味は、又一段と深まるであらう。

　

　　　　　　　　昭和三十年八月

　

(5)　　　　　年中行事

　

　　　　　　　民間の年中行事

　

　年中行事といふ言葉は、千年も前から日本には行はれて居るが、永い間には少しづゝ、その心持がかはり、又私たちの知りたいと思ふこともちがつて來た。この點に最初から注意をしてかゝると、話の面白みは一段と加はるのみならず、人とその生活を理解する力が、これによつて次第に養はれるであらう。史學が世間で騷ぐやうな、そんな面倒な學問でないといふことを實驗する爲にも、これはちやうど頃合ひな、又樂しい問題ではないかと思ふ。

　今日お互ひが知りたいといふ年中行事は、いつの頃から又どういふわけで、かうした色々の常とかはつた風俗が、毎年日を定めて日本には行はれて居るのであらうか、といふことが問題であるに反して、昔の年中行事の書いたものとなつて殘つて居るのは、大抵は一つの大きな家、又は神社とか寺とかに於て、必ずこれだけのことは守つて續けて行かなければならぬといふことを、たゞ忘れぬやうに書き留めて置いたものである。まさかその日までを忘れてしまふ者はあるまいが、人が多く又たび／＼かはるので、かうであつたあゝであつたといふことが、不確かになる場合がいくらも有り得る。折角の儀式がまちがへられては價値が無いので、それを一つ書きに繪なり文字なりにして、永く殘して置かうといふ人が前々からあつたのである。

(6)　近世の實例としては、遠州の高林といふ大農の家の年中行事が傳はつて居る。この研究所の近くでも、世田ヶ谷の大場といふ舊家の年中行事が、後に活版になつたのでよく讀まれて居る。かういふものを集めて見たら、まだ全國に何百といふほども有るだらうが、それは今日の年中行事の研究に、興味の深い參考品であるといふに止まり、直接に私たちの知らうとする答にはならない。さすが何百年の古い家だけあつて、珍しいしきたりが有るといふことは感じられるが、それが悉く多數普通の民家でも、かつて一度は皆さういふことをして居たのが、消えずにそこだけに殘つて居るものと、見ることは出來ぬからである。

　今の多くの家庭の年中行事は、本や帳面に書いて傳へて居るものなどは殆と無い。從つてまちがへたり忘れたり、わざと改めたり罷めたりしたものが多く、殊に都會ではこの大きな戰爭を機會に、あれほど澤山あつた春秋の樂しみが、半分以上は名前まで隱れてしまつたが、氣をつけて見て居ると、これはまだ決して問題の終りでは無かつた。人が何かの折に寄り集まつて、生まれ故郷の風物を談り、又は小さな頃の思ひ出を話し合ふ場合に、いつでも最も多く話題に上るのは、祭禮でなければ、この年中行事のどれかの日の出來事であつた。老若男女の分ち無く、誰でも少しづゝかういふ話には心を引かれ、又自分でも何か話をして見たいやうな、和やかな氣持になつて來るのも、理由のあることのやうに考へられる。普通とちがつたさま／”＼の經歴をもつ人も、この頃は多くなつて來たけれども、大體からいふと私たちの生活は單調で、昨日もけふもあすの日も、似よつた暮し方をくりかへして居る。それを後からふり返つて見て、あゝ生きて來たと思ひ知る爲には、樂しい目標が必要であり、それがたゞ一年づゝの境を立てるだけでは、まだ足りなかつたのではないかと思ふ。オボエルといふ言葉の正しい意味に於て、多數の日本人はまだ年中行事をおぼえて居る。それだから又わざ／＼繪や文字に書いて殘すに及ばなかつたのである。

　昔の記録になつた年中行事と區別するために、我々はこちらを民間の年中行事と呼ぶことにして居る。しかし長たらしく、又一方はもう働かなくなつたのだから、こゝでは簡單にたゞ年中行事と謂つて置くが、これは一つの土地、(7)一つの家だけに限られた特色で無く、汎く日本といふ國に住む者の共に知り、共に守らうとして居たものが、如何なる慣習であつたかを明らかにして見たいので、昔とくらべて目的は丸でちがつて來て居る。年中行事といふ名稱が、近世に入つてから少しづゝ、この方向に移り動いて來たのは、文化の學問の上からいふと、好ましい一つの進歩であつた。つまりは我々の人生を視る眼が廣くなり、比較の方法は歴史の研究にもなほ必要だといふことが、追々わかりかけて來た兆候なのである。國語の方面などでは、これがまだはつきりとせず、今でもたつた一つの變遷を正しい道と感じ、それに付いて行かねばならぬやうに、我と我身を苦しめて居る人がまだ多い。年中行事の方でも、暦は大きな統一の力であつて、その支配の及ぶ限りは、中央の標準に遵據せしめようとして居たが、それは正朔即ち月と日の算へ方を主として居て、これに伴なふ色々の行事に至つては、すべて土地毎の自然の發達にまかせてあつた。外からの感化も無かつたわけではあるまいが、これとても住民の合意がなければ、風俗としては成立しなかつた故に、僅かな距離を隔てゝも、もう目立つほどの差異があり、それを又當然の事のやうに、昔の旅人等は豫期しても居たのである。ところが實際はさほどの變化でも無く、同じ一つの國の人である以上は、どんなに離れて年久しく住んで居ようとも、やはり似通うたことをして居たのだつたと、やつとこの頃になつて少しづゝ、私たちは心づき始めた。人が自由に遠國に行き通ひ、ちがつた方角から來た人たちと軒を竝べ、膝をまじへて雜談をするやうになつたのは、さう古くからのことでなく、又近い頃急に盛んにもなつた。今まではとかく變つた點が目につきやすく、言葉や品物の僅かなちがひでも、理解を妨げて居たことが多かつたけれども、靜かに聽いて見れば心持は段々と汲み取られる。わざ／＼統一して見ようと努めなかつた區域に、却つて隱れたる自然の一致があつたといふことを、學び知る機會が多くなつて來て、こゝに始めて年中行事が、新しい學問上の意味を持つことになつたのも、つまりは時代の然らしむる所であつた。

　人が自らを知るといふことは、すでに容易な仕事ではないが、國民が自分の國を知るのは、それよりも又何層倍か(8)むつかしいことだつた。しかも方法はなほ幾らもある。第一にはめい／＼の無知に氣づくこと、今までわかつたつもりで居たものに、實は答へられないことが多いのは、私見たいな年よりには、一種の若返りの藥であつた。年中行事は小さな問題だけれども、殊にこの中から色々の新しい疑ひが生まれて、人の話を聽く樂しみが止めども無く成長する。子供とか外國の旅客とかは、今までの常識には囚はれないから、飛んでもない質問を出して、返答に困らせることが多い。たまにはかういふ人たちの立場に立つて、ま一度日本を見なほして見るのもよく、又少なくともさういふ無邪氣な疑ひを、どう説明するかを考へて置くのもよい勉強である。この小さな一册の本は、へただけれどもその一つの試みである。今に必ずもつと面白く、わかりやすく書いたものが、この本の讀者の中からも出て來るであらう。年中行事の研究には、まだ廣々とした未知數がある。これが段々と開けて行くにつれて、我々の古い歴史、周圍の民族との繋がりもわかつて來るかもしれない。最初どのやうな生活計畫を立てゝ、祖先はこの島に渡つて來たか、さういふことも明らかになるかもしれない。私はまだ答へることは出來ないが、遠い將來を考へると、この仕事は樂しみである。

　

　　　　　　　節と節會

　

　一年は三百六十五日、その三百日餘はたゞの日、又はフダンの日と謂つて、きまつた仕事をくり返し、忘れて過ぎて行くのをあたりまへのやうに思つて居る中に、特に定まつた或日のみは、子供が指を折つて早くから待ち暮し、親はその爲に身の疲れもいとはず、何くれと前からの用意をして、四隣郷黨一樣に、和やかにその一日を送らうとする。これが今日謂ふところの民間の年中行事であつた。正月や盆のやうに幾日かを續けたのもあるが、大體にこの行事の日は、一年の間によいあんばいに割りふられて居る。これは古くから自然にさうなつたか、たゞしは又近頃の祝祭日(9)のやうに、昔も評議をして人がきめたものであらうか。もしきめたとすれば發頭人は誰かといふことになるが、正月以外にはその心あたりは無いから、それは要するに社會の力、乃ち又一つの自然といふことになりさうである。

　それをいま少し詳しく考へて見る前に、一つ言ひたいことはこの行事のそれ／”＼の日を、もとは我邦では何と呼んで居たらうかで、それが今日は誰にきいても、もうはつきりとしなくなつて居るのである。千年以上も昔から朝廷に用ゐられ、又民間でも汎く行渡つては居るが、節といふ語はともかくも日本語ではない。節はフシであり長いものゝ區切りであり、ちやうど竹には必ず備はり、葱や韮には無いのが目につくといふものだから、これを生活の單調を破る爲に、自然に生まれて來た行事の日の、名にするだけならば別に不思議はない。唯わざ／＼漢語の音までを取入れて、セツと謂つたのには何か又理由が無ければならぬ。私などの想像するところでは、日本の年中行事は中央と地方と、もとは似通うたものであつたのを、いはゆる唐制模倣によつて一方の儀式を、特に莊重な形に改めて、むしろ差別の爲にかういふ呼び名を採用せられたのであつた。それが公けの言葉になると、いつと無く田舍の端々にまで擴がつて、結局は以前何と言つて居たかを、簡單には思ひ出せないやうになつてしまつた。無くてこの時まですまして居たのではあるまいと思ふ。

　九州の南部から沖繩の島々にかけて、折目《をりめ》と謂つて居るのが或はもとの言葉だつたかもしれない。節も折目も心持は近い上に、古くは「日折の日」といふ名も一つだけ伊勢物語に出て居る。近畿地方の多くの村々では、盆や正月祭禮までを引きくるめて、小さな休みの日までをトッキヨリといふ人が多い。折は機會といふ意味に廣く用ゐられては居るが、トキと組合せてかういぶ風に使ふと、たゞ年中行事に限られて他のことにはならないのは、古い慣用のなごりかと思はれる。トキは勿論今日の「時」と同じ言葉なのだが、本來は時間よりも時點、即ち節といふのに近かつたと見えて、節をトキと訓ませた人の名乘があり、又時節とつゞけた漢語が、日本では盛んに行はれて居る。現在は何だか佛法に縁が深く、佛事法事の飯だけをオトキと呼ぶ土地が多くなつて居るけれども、これも以前は一年の定まつ(10)た日、常と異なる日の一つ／＼を意味し、乃ち「節」といふ語が入つて來るまでの古語であつたかもしれない。東日本ではかはり物、何かふだんとちがふ食物をこしらへて食べる日を、トキドキと今でも謂つて居る土地がある。以前は人の心がおほやうで、相手に通じさへすれば、こんな廣い意味の言葉を使つてもすまされたのである。

　この以外にも、マツリとかイハヒとかヤスミとか、意味のはつきりとしない名が色々と出來て居て、その場の都合でそれも使つて居たやうだが、近頃は範圍や定義がやかましくなつて、説明をつけないともう通用しないものばかり多くなつた。或はその時の樣子次第で、あれもこれも取りまぜて使ひ、總稱といふものが無かつた時代もあつたかと思ふが、その事は後にもう少し詳しく説明するとして、とにかくに今ではセツといふのが、全國にわたつて最も普通の名になつて居る。これからさきも何とかしてこの語を活用するの他は無いだらう。

　節は紀元節天長節といふやうに、公けの最も重々しい儀式の日の、たゞ僅かなものに限るやうに、近頃ではなつて居たけれども、それは必ずしも本來の意味だつたとは言へない。現にさういふ重々しい節の日と併行して、民間にも數々のセチビが認められて居た。いはゆる五節供三節供には限らず、九月の秋祭、十月の亥《ゐ》の子《こ》、その他毎月の日待月待までを、鹿兒島縣などではみんな折目節目と呼んで居る。さういふ中でも全國を通じて、最もよく知られた節日は一年の境の日であつた。現在はオセチを除夜の夕食にたべてしまふのが不思議に思はれ、都會では又節季といふものがあつて、それは又全く別箇の事務となつて居るのだが、それもこれも一續きのセツの中であつたことは、正月の飯米用意をセチ搗きといひ、薪の支度をすることをセチ木伐り、その他セチゴ（節衣）だのセチ草履だのといふのも、すべてこの晴れのこしらへであつたのを見てもわかる。信州では嫁聟が實家へ遊びに行くことを、正月だけはセチニユクと謂つて居るが、埼玉縣まで來ると親戚故舊が、年始に集まつて、酒宴を催すのがすべてオセチであつた。即ち節は常民の飽滿し、又歡喜する日の名だつたのである。

　民間でこれをセチと謂つたのも普通の日本語で、別に正式の大きな節の呼び方に對する御遠慮では無かつた。その(11)證據には、昔の宮廷の女たちも皆セチといひ、殊に節會は男でも必ずセチエと謂つて居た。白馬節會はアヲウマノセチヱ、豐明節會はトヨノアカリノセチヱ、珍しい名だから多くの人々が記憶し、ちがつたよび方をすると今でも笑はれる。この節會は我邦の特色の一つだつた。本元の國でもさういつたのか知らぬが、こちらの樣には盛んに用ゐて居ない。節會は即ち節日の會食で、この日は集まつて大いに飲み且つ食べることは、古今都鄙を一貫した行事の中心であつた。これが時世によつて盛衰し、どちらかといふと段々と淋しくなつた。節といふ日の意義はこれと共に、少しづゝ衰へて來たやうな感じがある。

　

　　　　　　　節句は節供が正しい

　

　節句といふやうなをかしな當て字が、普通になつて來たのはさう古いことではない。江戸幕府の初期に、五節供といふものをきめて、この日は必ず上長の家に、祝賀に行くべきものと定めたといふ話だが、その頃を境として、以前は大抵皆節供と書いて居り、節句と書く者はそれから段々多くなつて來た。節供の供といふ字は供するもの、即ち食物といふことでもあつた。今では神供《じんく》とか佛供《ぶつく》とか、上に奉るものゝみに限るやうになつたが、もとの心持はこの漢字の構造が示すやうに、人が共々に同じ飲食を、同じ場に於てたまはることまでを含んで居た。目的は必ずしも腹一杯、食べて樂しむやうにといふことではなかつたが、同じ單位の飲食物、たとへば一つの甕に釀した酒、一つの甑《こしき》で蒸した強飯、一つの臼の餅や一畠の瓜大根を、分けて雙方の腹中に入れることは、そこに眼に見えぬ力の連鎖を作るといふ、古い信仰が根本にあつたのである。始めて縁組をした二つの家門の間で、又は初對面の、これから交際をして行かうといふ人たちが來ると、とかく一盃を交へるまでは打解けた氣分にならぬなども、今は弊害百出だが、基くところは皆この原理から出て居る。まして神々や先祖の靈に對しては、形が眼に見えぬだけに、それをくり返さない(12)と精神の聯絡が心もとなく、殊に人と人との新たなる交渉には、始終この目に見えぬものゝ參與を必要としたので、節日はその目的の爲に豫定せられた日だつたのである。ところが最近の祝祭日法とはちがつて、江戸時代の五節供の制定は嚴粛であつた。都合がつくなら出て來たらよからうといふのでなく、この祝賀に出ぬのはなまけ者、或は不義理なやつと刻印を打たれるかもしれない。そこで猫も杓子もカミシモを着てやつて來て、少なくとも玄關の帳面には名を付けなければならない。

　都會ではこの右往左往が、目ざましいものであつた。この連中の全部に對して、共同の飲食を分つことはとても出來ない。或は皮肉な想像かとも思ふが、何だ節供と言ひながら「供」は無いぢやないかと、批評をしさうな者が多くなつて、然らば節は一つの句切りだから、節句と書くことにしようといふことになつたものかとも考へられぬことはない。

　五節供といふ配置法は、少しばかり人爲的に、程よく間隔を取らうとした計畫が現はれて居る。地方で一般によく知られて居るのは、春は舊三月三日の雛の節供と、夏の五月の端午の日であつて、この二つだけにたゞセックと謂つても通用する程に、民間の言葉とよく一致して居る。九月の九日を節供といふ土地は、關西の方でも半分以内のもので、その他は九日《くんち》といつたり又別の名で呼ぶ處が多い。しかしこの三つなら先づ見當がつく。さて殘りの二つはといふことになると、今でも確實に覺えて居る人ばかりは無い。七月七日は成るほどゝいふ者もあらうが、それが何故に祝賀の日になるかは、多少の説明を必要とした。盆は不幸の無かつた家々では、以前もやはりおめでたうといふ日であり、普通にはこの日から十五日までの間に、親や目上の人の健在を祝する酒宴があつた。それを數字が揃ふので七月七日といふことにきめたものと思はれる。正月の七日に至つては、日の數を月と揃へる法則にも合はず、年越の一つに算へられては居るけれども、七草の粥と九州の鬼火以外には、さう大きな行事は無い。察するにこれは元日と十五日とには、一般に家々各自らの式が多いので、それに自由を與へようとした一種の讓歩であつて、まあこの程度に(13)は討究した政策の現はれなのである。

　この五節供の日を制定するに先だつて、幕府では各藩各領の實?を調べさせたところが、人日や七夕には地方毎の風習の差が甚だしく、とても民間と歩調を合せることが出來ないのを知つて、結局は理論に據つてこの五つの日を決したといふ話が傳はつて居る。うそかも知れないが外形は少なくともさうなつて居る。つまりよく考へて勝手にきめさへすれば、人民は付いて來るだらうと思つたのである。ところが必ずしも豫測の如くならず、民間には別に獨自の年中行事があつて、衰へたり又盛んになつたりしながらも、なほ今日までは續いて居る。これがこのさきどうなつて行くかといふことは、政府や國會だけの力ではまだきめられない。

　五節供の制定には、現實生活の要求を十分に參酌しなかつた嫌ひがある。それから今一つは年久しい慣行よりも、新たに入つて來た外國の理論に、根據を先づ求めようとしたことが、終に民風を新たにし得なかつた原因かと思はれる。もちろん私たちの行事とても、決して古代のまゝを傳へようとして居たのではなかつた。中世以來の社會事情に動かされ、又はたゞ單なる流行によつても、よそでさうするならこゝでもと、氣輕に改めた部分も無いとは言へぬが、その保存にも改廢にも、ともかくも彼等の理由があつた。歴史の學問がまだこの方面には進まない爲に、今まではそれを考へて見る道が無かつたのである。やゝ泥繩のきらひはあるけれども、これからでも少しづゝ、注意を深めることにしてはどうかと思ふ。一つの例を擧げると、一年は十二ヶ月であるのに、五節供をこれに配當すると、どこかに空隙が出來ないわけには行かぬ。舊の十一月には十一日の節供などは無いが、こゝは何もせずに過ぎた月かといふと、決してさうでなかつた。家の外は霜月の寒い風が吹きまくるが、ちやうど田の仕事も一通り片づいて、薪と食物とが共にやゝ豐かに、家に集まつて親子夫婦の情を温めると共に、群の連續のこれからと今までとに、最も多くの思慮を費すべき、言はゞ精神生活の季節であつた。靜かな農民の感情は、色々の祭や行事となり、これに伴なふ幾つかの言ひ傳へに映し出されて居る。いくさや災害が度重なつて、人の移動が繁くなつた頃から、少しづゝこの月の樂しみが(14)消え薄れて、今では可なりの山村か、遠く中央から隔たつた土地を訪ねて、僅かに殘つたものを見つけるまでになつて居る。これが果して免れ難い世の中の推移であつたか、はた又この損失の補充はついて居るのかどうか。これを考へて見る者は今のところ、農民自らより他には、私たち少數の者が有るだけである。

　十月といふ月は神無月ともいつて、もとは神祭の殆と無い月だつた。ところが神社大觀などを開いて見ると、大小の社の祭典は、三分の二近くがこの月を以て擧行せられる。もちろんこれは新舊暦法の差で、現在十月といふのは舊九月の月送りであるが、その九月とても元來はさう祭の多い月ではなかつた。稻は大よそこの月の末までに刈揚げるが、それを掛け乾しニホに積んで、やがて到來すべき新嘗《にひなめ》の日を待つて居るのが、樂しいしかも至つて嚴肅な、心の準備の期間であつた。どうしてこの樣にまで永い日數を、必要としたかは我々にも説明し難いが、とにかくにこれはたしかな事實であり、又しぱ／＼よその民族の中でも聽くことであつて、そのかはりには祭が滯りなぐすんでしまつた後の歡喜といふものは、これ亦今日の想像を絶した、濃厚且つ強烈なものであつたらしい。ところが内外の事情の次々の變化の爲に、この一月餘りの物忌の期間を、靜かに謹供して待ち暮すことが出來なくなり、結局はやつと農事の一きりがついた舊九月に、多くの收穫後の行事を引上げてしまふことになつて、冬は又一段と淋しい退屈な、人生の空白の如く見られるに至つた。この古今の變遷といふものが、恐らくは日本の農民の氣質と生活ぶりとを、わかりにくいものにして居るのかと思ふ。

　

　　　　　　　餅と節供

　

　第一に私たちのまごつくのは、ちがつた土地に入つて行くと、故郷ではつひに聽いたこともないやうな、かはつた食べ物をこしらへる日があつて、それに基いてその日の呼び方や、言ひ傳へなどにも思ひがけないものが行はれて居(15)る。今までの學者の中には、そゝつかしい人ばかり多かつた。少し南の方だとすぐに南洋系の文化だの、北へ寄つて居るとアイヌから引繼いだ風習だのと、ちつとも證據の無いことを説き立てゝ居たが、日本人が彼等と交際しなくなつてからも久しいことである上に、内部でもこの通り、もとあつたものが變つて居るのであつた。さうしてじつと氣をつけて居れば、その痕跡が濃く淡く、他とは少しも話し合はずに、保存せられて居る場合が多い。比較の方法が研究の上に、これくらゐ有效に又興味深く、應用し得られる場合も少ない。それを試みもせずに、たゞ勝手なことを言つて居たのである。さういふ中でも冬の三月は、今までの祭祀組織が弛み、この間の行事は公定の五節供から除外せられて居たので、土地の人だけが思ひ／＼に、守り育てゝ來たものがその中に多く、そこで大きくなつた人たちは勿論、外から觀る者にも方々の話を聽いて、うれしくなるやうな場合が幾らでもあつたのである。

　七十年前には、自分なども村の子供であつた。古い話をし出すと止められなくなつて、うつかり紙數を費やす恐れがあるが、今でも覺えて居るのは舊十月の亥の日の晩に、亥の子と稱して新藁で太い苞《つと》を卷き立て、地面を打つてまはる遊びがあつた。九州の島々ではこれを亥の子節供とも呼んで居る。この日の晩には必ず新米の團子をつくり、それを重箱に入れて家々互ひに贈り合ふ。その御使ひをするのも子供であつた。霜にやゝ痛んだ赤白黄の菊の小枝が、重箱の蓋を開けるとぷんとにほふのも、なつかしい風情であつた。それよりも大きな樂しみだつたのは、家々ではこの藁ボテの地を打つ音を悦んで、子供を勵ましてめい／＼の門庭を打ちまはらせ、その慰勞には必ず餅をくれた。それで私などはヰノコ餅を、この日の行事の名かと思ひ、又あの藁ボテの名かとも思つて居た。瀬戸内海も少し西の方へ行くと、藁では無くて圓い石に多くの環を付けたものを、亥の子石と稱して子供が使つて居り、形式は一段と地搗き地固めと近い。九州各地のムグラ打ちは、藁を竹のさきに卷き付けたものだが、これで地面を叩く日が正月の十四日になつて居る。目的は何れも土地の力を強くする呪法であつて、それには一年の特にめでたい日を選べばよく、是非ともこの日に限るといふことはなかつたのだが、子供の管理となつてより愈々遊戯の分子が加はり、終に亥の子の(16)晩を忘れ難くしたのである。

　今でも恐らくはまだ續けて居る土地が、關西方面には少なくはあるまい。ところが近畿關東になると、亥の子といふ名は一般には知られて居ない。京都には古くから亥の子の日に餅を搗いて、農村から持つて來る舊例のみはあつて、その他の行事は何も無いけれども、まだ名前だけはほゞ記憶せられて居るが、それから東では十月亥の日などは普通の日に過ぎない。さうしてその代りに十月の十日夜《とをかんや》と名づけ、ちやうど中國地方のヰノコヅキと同じに、藁の束をもつて地面を叩きまはる子供遊びがあつたのである。

　この所謂トヲカンヤの藁鐵砲が、行はれて居た區域はさう廣くはない。どこが境かはつきりとはしないが、私の知つて居る限りでは埼玉縣の北部から、群馬長野の二縣の隣接した數郡などで、栃木縣の東部でボウヂボウチ、茨城縣北部でムジナバタキといふものが、名はちがつて居るがすることは同じく、

　　　三角畠の蕎麥あたれ

などゝいふ囃し詞が似て居り、日も同じく十月十日の晩だから、もとは一續きの風俗であつた。それがその中間ではいつの間にか消えて居るのである。これと關西地方の亥の子の關係は説明しにくいが、ともかくもたゞ偶然の類似でないことは、この二つの日を比較して見てもわかる。トヲカンヤといふ名で呼ばれて居る區域はあまり廣くはないが、舊十月十日は日本の東半分に於て今でも可なり大切な日である。即ち田の神がこの一年の任務を終つて、再び山に歸つて山の神となりたまふ日、といふことになつて居るのである。信州の人たちはよく知つて居ると思ふが、あの地方ではこの日をカガシアゲ、もしくはソメの年取りと謂つて、ソメ即ち山田の案山子《かゞし》を田から迎へて來て、屋敷の片隅の靜かな場所で、又は内庭に臼をすゑて、燒餅を供へ御祭をする風習が、つい近い頃まではあつた。神は眼に見ることが出來ないから、この蓑笠を着て永い間、田の番をしてくれたものを、その代表者のつもりで歡待をするのであらう。かういふ話を聽くと他の地方の人は珍しがるであらうが、この日を田の神の田から引揚げたまふ日と考へて、餅(17)を搗いて供へ又自分たちも食べるといふ村ならば、全國を通じて數多く、神はその餅を蛙に背負はせて、山の方へ歸つて行かれると言つたり、あんまり飛ぶなよ、粉ンこが落ちるにと言はれるさうだといふやうな、子供が笑ふ話までがそちこちに殘つて居る。さうしてその十日といふ日取りだけが、土地によつて少しづゝかはり、西日本の方は一帶に、現在は同じ月の亥の日を用ゐ、農業保護の神の御名まで、亥の神樣といふことになつて居るのである。子丑寅卯の十二支を十二ヶ月に割り當てると、正月が寅だから舊十月は亥の月であつた。十日とはつきりきめてしまふよりも月に三囘か二囘かある亥の日を祭の日にした方が、農作の實際には都合がよかつたので、いつの頃からかかうきまつたものらしく、ヰノコヅキなどの子供行事の全く無い九州の南の端まで行つても、やはり十月の初め又は中の亥の日が、一つの民間の節供であつた。乃ちみんなが仕事を休んで、樂しく暮す日である故に、この亥の子搗きといふやうな遊戯が段々と盛んになつて來たので、これも元來はこの一年の大きな吉日に、昔の人が行つて居た數多くのまじなひの一つであつたのが、たま／＼子供に好まれて、これ一つ永く保存せられることになつたのかと私は思ふ。

　

　　　　　　　霜月粥

　

　田の神が春は山から降りて田を守り、冬に入つてから、再び山に登つて山の神になるといふことは、もう本當にさうだと思はない人までが、全國にわたつて今でも皆記憶して居る。町に住む者は、毎日いつでもほしい時に、珍しい食物が得られるので、節日といふものゝ印象はうすいのだが、農村ではこれが一つの好い記念であつた。その日にならなければ決して作らないといふ餅や團子、それに伴なつた色々の行事の、他の日にはついぞ見られぬものが色々有る。ことに新米は香りが高く、味がおいしく珍しいのに、わざと以前はこの折目の日まで、食事につかふことをさしひかへて居たのであつた。その上に今いつた亥の子餅のやりとりといふやうな、心をときめかす所作が幾つもあつた。(18)子供で無くとも久しい後まで、忘れることの出來ないのはあたりまへである。數限りも無い世の中の激變につれて、さういふ古い作法は片端から消えて行き、殊に冬のうちの年中行事などは、もう覺えて居らぬ人が多くなつて來たらしい。誰かゞ一ぺんは話をして世に傳へて置くべき事柄は、三つや五つではないのである。

　十月は神無月で祭の無い月だつたといふのに、どうしてこれだけ重要な節供が、出來て居たかといふことが先づ問題になるであらう。これはもと／＼一月以上の愼しみが永きに過ぎて、段々待ちきれなくなつたといふこともあらうが、又一つには實際の刈入れの日が、齋忌《ものいみ》の初めとして、別に何か行事のある日であつたのを、後に追々と力を此方に傾けて、これを中心と感ずるやうになつたといふことも考へられる。さういふ類例は正月にもあつて、七日と十五日と節分と除夜の行事が、互ひに似通うて居るものも少なくは無い。亥の子と十日夜が別の日ではなかつたやうに、その十日といふ日も必ずしも固定しては居ない。一ばん多いのが二月十日を田の神降り、これに對して田の神昇りの日を、十月十日として居るものといふだけで、それよりも遲く雙方とも十二日、又は十七日とした例もあれば、寒い雪國などでは早稻を作つて、舊九月のうちにもう田の神を上げてしまふものがある。これがもし形ばかりの外からきめた制度であつたならば、決してこの樣に各地まち／＼にはならなかつたらう。節が實際生活の必要によつて生まれたことは、かういふ點からも證明せられるのである。

　しかも一方に於ては、その古い頃の霜月祭も、まだ全くは忘れては居なかつた。舊十一月になつて田の神の終りの祭を營む例は、九州北部一帶に丑の日樣又はオウシ樣といつて初の丑の日、それから西南の島々にかけても、同じ日に山の神の祭をするものがある。中部地方でも岐阜縣は一般に、霜月七日か又は寅の日を以て、山の神の出入りの日とし、愼しみ深い祭をして居る。この日を山の講といふので、ちよつと見ると農事に關係が無いやうに取れるが、これに參與する者は主として農民であつた。能登の半島の引込んだ村々で、アエノコトといふのも同じ祭で、これも最近まで舊十一月の五日又は四日、或は新暦十二月の月送りのその日であつた。田から上つて來られた田の神を迎へて、(19)ちやうど人間の貴い賓客に接するやうに、家々の主人がカミシモを着て、自ら歡待の任に當つたと言はれる。今日は或は罷めて居るかもしれぬが、私たちの採訪して來た記録には豐かに殘つて居り、昔なつかしい事實がその中には多い。たとへばその晩は風呂を立てゝ、神をまづそれへ案内するのだが、固より御姿は見えないから、たゞ遠くに坐つて居て湯の御加減はいかゞと謂つたり、又は主人自らがカミシモ衣服を脱いで、湯に入つてそれを神の御入浴と解するものもある。田の神は久しく田の中に居られて、御目が見えなくなつて居られるといつて、座敷では一々御膳の食物を名を謂つてすゝめたといふやうな話もある。それが皆わざをぎの所作では無くて、神の實在を信じたあるじ振りであつたことは、ちやうど我々の盆の魂祭の後先ともよく似て居る。

　刈入れ直後の祝の日に、すでに田の神の御歸りを送つた地方でも、なほもう一度この霜月の祭の日を、何もしないでは過すことが出來なかつた。九州の各地には二月の初午に對して、十一月の初午にも家の稻荷の祭をして居るが、これもその一つの現はれかもしれない。年に何度か行はれる二十三夜待の中で、特に霜月三夜を大切にする風が中國地方その他に有る。これなどは殊に新嘗の祭に近いのだが、これは他でも説き立てたことがあるからもうこゝでは詳しく述べない。それよりも更に廣く殘つて居るのは、大師講といふ珍しい名をもつた節日で、東北は三大師と稱して月のうちに三度、四のつく日を以てこれに宛てゝ居るが、それはやはり農作業の現實と調和させようとした新しい試みかと思はれる。他の多くの地方、たとへば關東の北半から中部一帶、北陸から遠く山陰の沿海まで、同じ習俗口碑を存する村々は、何れも主として二十三日の晩から二十四日の終日をその日として居る。大師といふ名稱にはもちろん寺々が參加し、佛法の信徒が流布させたと思はれるが、土地によつて解説は區々であり、又兩立しにくいものが多い。たとへばオダイシには、二十三人とかの子があり、それを養ふのに骨が折れるので、長い箸を三本添へて、團子を突刺して食べさせるやうにするとか、又はオダイシは寡婦であり、子育ての苦しいにつけても、亡くなつた主人の有難さが思ひ出され、それを頭の上に戴くやうにして居るのがあの御姿だと、この日に掛けて拜む角大師《つのだいし》の姿を、そ(20)んな風に説明したりして居る。かういふのは多分古來の節供の趣意が不明になり、どうしてかうなのだらうといふ推測の中から、奇拔なをかしいものが却つてもてはやされたのでもあらうが、なほ行事の特色といふべき點が、これからでも窺ひたしかめられ、それが又やゝ廣い一致を示すのであつた。暦本の頒布もまだ十分でなかつた時代から、掛軸や壁に貼るやうな繪像だけは、需要があつたと見えて遠い田舍までも配られて居た。版畫の大量生産者などは、信用すべき解説者でなかつたのは無論だが、それが賣りひろめた御姿といふものは、年�ｺ神でも惠比須大黒でも、又はオシラといふ養蠶の神でも、妙に力強く人心を支配して居た。井手の蛙のひぼし哉とも評せられた、いはゆる角大師の像なども、中央では元三大師、良源といふ名僧の肖像の如く言はれたが、奧羽の北端と北九州の一部とでは、これが霜月三夜の神であるが如く、思つて居た者が多かつたのである。或は又｜布袋《ほてい》和尚が多くの子供をつれて、旅をして居る圖なども、オダイシ樣だと言つて賣られたことがあるらしい。その樣な繪像をじつと見つめて居た人々が、さういふ想像を出したものとすれば、一通りは説明がつくかもしれないが、なほ遡つてこの樣な繪を、めい／＼の拜むべき神として悦んで買ひ求めたといふ點に、考へて見なければならぬものが殘つて居る。さうしてその理由はまだ今日、はつきりとして居らぬのである。

　或は數多くの子を持つた神といふやうな話が、特に小さな人たちの印象を深めたのかもしれない。今でも現實に長短のある三本の箸を、この晩の神の膳に付ける風が、ずつと廣い地域にわたつて行はれ、それと關聯して又一つの珍しい言ひ傳へが殘つて居る。それからなほ一つ、この晩はきまつて風雪があつて、それにもかはつた昔話が付いて居るのは、これを何でも無いたゞ普通の現象と、村の人々には思ふことが出來なかつたからであらう。その話といふのは、オダイシ樣はたくさん有る子供に粥をこしらへて食べさせようとしたが、貧乏な爲に鹽が買へなかつた。又は鹽を買ひに出て吹雪に遭つて斃れたとさへ謂つて、この二十三日の晩に煮る粥には、今でも鹽を入れてはならぬといふ家が少なくない。かういふ話もやはり正しい古傳と言はれないことは同じだが、少なくとも言ひ傳へには基礎となる(21)べき事實はあり、新しい版繪などに面して始めて胸に浮んだ空想では無かつた。簡單に言つてしまふならば、粥は最初からこの節供の日の食物であつて、それを中絶せずに、今なほ農村では守つて居るのである。正月十五日の小豆粥を始めとし、正式の粥には鹽を使はなかつた。その點だけが後々解しにくゝなつて、この樣な説明が考へ出されたのであつた。

　

　　　　　　　神の去來と風雨

　

　この舊十一月二十三日の晩に、必ず雪が降るといふ俗信は、大師講といふ名の知られて居るよりも、もつと廣い區域に行なはれて居る。それが大體に日本海側、水のあちらへ流れて居る地帶に、現在は限られて居るらしいのは、天然の證據が擧げやすかつた爲かと思ふ。但しその由來の説明としては、越後から南西には又別の話が傳はり、奧羽六縣などは却つてこの點にあまり力を入れて居ない。その理由も私にはやゝ判つたやうな氣がする。東北ではオダイシは常の日は何處に居られるかを言はぬに對して、こちらでは毎年この一夜に限り、村々家々を經めぐつて、人の心を見てあるかれると語り傳へて居た。さうして更に珍しいことには、この貴い旅人の足が不具なので、足跡によつて通り筋のわかつてしまふことをいとひ、必ず雪を降らせてその跡を隱される。それで跡隱し雪といふ名が出來たと言つて居る。これは越後の魚沼川溪谷などの話であつて、僅か形をかへて鳥取縣のあたりまで行はれて居るのだが、いくら話だとしてもお大師樣の足がデンボであつたといふのはひどいと思つたものであらうか、他の多くの土地にあるものは、又一趣向を添へて愈々昔話と近いものにして居る。昔々至つて貧しい老女の家に、この晩大師が來て一泊を求められた。何一つまゐらせる物の無いのを悲しんで、夜ふけにそつと出て隣の稻の一把を盗み、又は一本の大根を畠から拔いて來た。ところがこの婆は足が片輪で、指が一本も無いので足跡ですぐ發覺する。それがふびんと雪を降ら(22)せたのがお大師樣であつた。その因縁に基いて、今もこの晩はきつと雪が降り、それをスリコギ隱しとも、デンボ隱しの雪とも土地の人は名づけて居るといふ。この形の話の採集せられて居る土地は多く又廣く、一つの教訓譚としては首尾整つても居るが、私などから見ると、これも一種の合理化であつて、つまりは古い頃の俗信の一部が、もう稀薄になつた結果としか考へられない。大師と名のつく名僧に、そんな足をした人は勿論あるまいが、雪を自在に降らせるやうな大師も、居たらうとは思はれない。實際は霜月三夜の晩に、村をまはつてあるくと信じられて居た神又は尊靈を、大師と呼んだわけが判らなくなつたからと、見るより他は無いのである。信州の犀川流域などは一般に、物の高低長短があることを山の神といひ、その根本には山の神が片足神であるといふ俗信がまだ殘つて居るらしい。現在は片足神が既にちんばとなり、それ故に又この日の膳に長短の箸を上げ、更に長いものをもう一本、杖として添へるのだなどゝ謂つて居る處も方々に有るやうだが、最初はたゞ我々の山の神が一本足で山を降り昇りせられるものと、單純に信じ得た時代もあつたのだが、追々とそんな事は信じにくゝ、古い話を少しづゝ改造しなければならぬやうになつたのではあるまいか。私などの聽いて居るだけでも、今でも山中にさうした形をした靈物が住むといふ話が怪談のやうになつて各地に保存せられて居る。たとへば紀州の山奧で一本ダタラ又は雪入道などゝいふものは、雪の上に大きな距離を置いて、圓い筒のやうな足跡を留めたのを見るといひ、土佐の寺川郷で昔或人が目撃したといふ山爺なども、たゞ一本の足でぴよん／＼と跳ねあるいて來たなどゝ、眼の迷ひかは知らぬがとにかくにかういふ隔絶した一致がある。朝鮮でも中國でも、又北歐の前代神話でも、神を獨脚に想像して居た記録が多い、といふだけは少なくとも事實であつた。

　詳しく説いて行くと可なり面白い話になるのだが、これは何分にも年中行事の解説には縁が遠い。こゝで私たちが注意してよいと思ふのは、風と節供の日との關係であつて、それは必ずしも舊暦十一月下弦の頃の、所謂ダイシコ吹キだけの例ではないことである。雨でも雪でもしと／＼と靜かに降るので無く、普通に強い風を伴なつて、海の邊り(23)ならば海が荒れる。單に北海に面した地方だから、冬分はさういふ日が多く、偶然にちやうどさうなるのか、但しは又特にこれ等の節日の前後が強い風の出る頃なのであつたか。もし後の方ならば、この霜月祭の日の選定には、始めから自然の指導を受けて居たことになるので、我邦の氣象を研究する人たちと共に、もう少し進んで考へて見たい問題である。今日まだ説明のつかぬことが、これによつてはつきりとして來るかも知れない。冬の節供の中では、いはゆる大師講吹きの他に、問題になる日がなほ二度はあつて、何れも公定の暦法には認められず、民間では今でも相應に力を入れて居る日であり、又國内の大部分の一致もある。ちやうど舊十月の神無月の始め、九月晦日から翌朔日の朝にかけて、神の御立ちと稱して村々の社の祭があり、又一月後の十一月の朔日頃には、神迎へ又は神の御還りといつて、同じ樣な祭がある。神信心の篤い土地では、兩度とも神社に夜の宮籠りがあり、少なくとも住民の參拜がある。多くの土地の言ひ傳へでは、村々の氏神はこの一月の間、出雲國に出かけて會議をなされるといふ。又さういふ事が書物に載せられてあるのも、數百年以來のことであるが、私たちに少しも諒解し得ないのは、どうしてその樣なことを國中擧つて、信じ始めたらうかといふ點である。勿論最初からこの通りであつたからと、答へ得る人も多少は有るのだが、さう思つてしまふには、なほ聊か證據が足りない。さうすると以前この兩日に何か特別の行事があつて、それがいつの頃よりか神々の出雲行きといふ解釋に傾いて行つたと見るの他は無いのだが、久しく心がけて居るに拘らず、それにもまだ完全な民俗資料が、十分に備はつて居るとは言へないのである。九州の北部一帶、ことに海に接した地方では、神の出雲行きを一般に信じて居て、前後兩度の祭、といふうちにも殊に御還りの日の儀式が莊重であるやうだが、このあたりでは神渡し及び神戻しといふのが、二つの日の名でもあれば、同時に又その日の風の名でもあつた。即ちちやうど出雲の方角へ、次には又出雲の方角から、吹いて行き又吹いて來る大きな風であり、これによつて愈々父祖以來の言ひ傳への、確かであることを感じて居たかと思はれる。まだ實地に確かめては居ないのだが、この風は多分船路に便な、雨雪を伴はない晴れの風であつたらう。ところが鳥取縣の八頭郡などで、神返しといふのは(24)十月の二十五日で荒れ日であつた。美濃の揖斐《いび》郡の山村では、十一月の三日が、氏神の出雲から還りたまふ日であつて、御神樂荒れと稱して天氣がよく荒れる。風の方角は必ずしも問はなかつたらうが、風雨を冬の祭の兆候としたことは、或は神々の遠くへ旅をなさるといふ信仰を固め、從つて又或一つの地方のさういふ信仰が、宣教者以上の感化を四近の地に、與へたといふことも無いとは言はれまい。

　

　　　　　　　神送りの起原

　

　村々の社の神が、遠い出雲の國へ旅をなさるといふ言ひ傳へは、いつの頃どういふ風にして始まつたらうか。これは學問の上からも大切な又興味の深い問題である。何となれば中古數百年間の常の人の精神生活、即ち書いたものに少しでも現はれて居ないことが、この方面から追々に、わかつて來る望みがあるからである。それを窺ひ知る手掛りも全く無いといふわけでは無い。たゞ今までこんな事に氣をとめぬ人が多かつただけである。私などのいま心づいて居るのは、第一には神の御立ちと御還りの日に、きまつて高い大きな風が吹くといふこと、これがいはゆる神無月の始めと終りとに限らず、霜月二十三夜の大師講吹きがあることは、前に述べた通りであり、更に舊十二月に入つても八日吹きがある。北は秋田縣の横手附近から、日本海岸はずつと南の方まで、佐渡の島にも飛騨の白川村あたりにも、海邊も山奧も一樣に、これを來年の作柄のよい知らせのやうに、思つて居る處は少なくない。一つの珍しい話は、針千本といふ一種の小さい河豚が、この日の風に吹かれて數多く濱に上つて來る。それが目立つた自然の現象である爲か、これを拾つて來て魔よけにしたり、又色々とその由來を説く昔話を語り傳へたりして居る。さうしてこの八日の節日を針千本、又は針歳暮とさへ謂つて居る人がある。それで無くても全國を通して、この日は仕事をせずに休む日だつたのだが、さういふ中でも殊に針を使ふことを忌みきらひ、針供養と稱して針を豆腐とかこんにやくとかいふ軟(25)いものに插して一日休ませ、又は折れた針はためて置いてこの日川に流し、縫ひ物をする女の子の集まる所などでは、燒いた餅を供へて小さな祭をして居た。針河豚が八日吹きの風に吹かれて、濱に漂着することを知つて居る土地だけにこの風習が有るのなら別に不思議はないけれども、現在は針供養の名と行事が、ほゞ全國といつてもよい位に行渡り、更にこの十二月の八日に對立した舊二月の八日に、これとよく似た針供養をする處が、關東東北と九州の南の端とにあるといふことは説明を要する。島根縣の一部には十二月の八日以外に、二月の八日をも八日吹きといひ、針箱にお燒きの餅を供へる例もあるといふが、この日も風が吹き針千本が寄るといふことは無いらしい。年にたゞ一ぺんづゝ、絶えずくりかへされて居る年中行事には、或は特別によその土地の感化を受け、何か新たな社會事情の變り目に、少しづゝ今までの仕來りを改める傾きが大きかつたのではないかと思ふ。

　舊二月と十二月との八日の節供は、東京附近ではコトハジメ・コトヲサメなどゝ謂つて、可なり大切な祝祭日の一つだつたことは、三百年來の記録にも現はれて居り、今日もまだ多くの府縣に同じやうな風習がある。これは神々の御立ち御還りの日とはちがつて、正式の食物のこしらへ方にきまりが有り、又兩度の行事が互ひによく似て居た。この日してはならぬといつた物忌の範圍は弘く、決して女の子の縫ひ仕事だけではなかつた。たゞ現在地方的にちがつて來て居る點は、關西は一般に十二月の八日の方を重んじ、二月の方はもう守つて居らぬのが普通なのに反して、奧羽の方に行くと特に二月に力を入れ、又九州も南端の一小部分には、二月の方の行事がなほ認められて居る。その中間に於て、關東地方とこれに隣接するやゝ廣い區域が、兩度の八日節供を相對立するものとして、均しく休み又祝つて居るのであつた。かういふ地方々々のちがひ方からも、生活樣式の推移段階が、段々にわかつて來るものゝやうに、民俗學の人々は考へて居るのである。

　村々家々の神が、一年の或期間だけ御留守になるので、その後先に御祝ひをするといふ考へが前にあつて、その行くさきを出雲の國へと思ふやうになつたのが、その次の變化ではなかつたかと私は見て居る。竝べるならば例はまだ(26)幾つかあるが、たとへば越後の米山の神なども、現在は藥師樣として祭られて居るが、たしか十二月の八日に立つて出雲へ藥の調合に行き、四月八日にはお歸りになるといつて、その日が參拜の日であつた。宮城縣内のそちこちの村で聽いて居るのは、神の御立ちが十二月の八日、御歸りは二月八日となつて居て、これもやはり出雲へ往復なされるやうに今は思つて居る。九州その他の神無月を中心とした神の旅でも、土地により又神によつて、出發と歸還の日が全く同じではない。三日五日の差ならば遲刻早引の類とも見られようが、こんなに時日を異にしては、先づ集會といふ説明は成立たぬのである。乃ち或期間の神々の不在は、別に土地毎の理由に基くものゝあることが考へられるのである。

　もつと多くの類似が出て來るとよいのだが、愛知縣の東部、三河の南設樂《みなみしだら》郡のうちには、九月晦日の神送りの宵を、田の神送りと呼んで居る村がある。それから東に來て靜岡市のまはりでも、やはり同じ日を田の神送りと名づけて、もとは家毎に餅を搗き、或は小豆飯を炊いて祝ひごとをして居た。この二つの中間地帶、殊に天龍川の流域などは、田の神とは言はぬがこの日の神送りが近い頃まで盛んで、或はこれをコトの神送りとも呼んで居た。出雲への旅行をいふ他の地方の神送りとちがふのは、こゝでは一ヶ月過ぎての神迎への祭といふものが全く無いことゝ、その神送りの式がよそでする蟲送りや、病ひ神送りの行事とあまりにも近いことであつた。ところが同じ天龍川も上流に溯つて、信州の部内まで入つて行くと、コトの神送りの行列その他は同じであつて、日だけが十二月の八日と二月の八日になつて居るのである。私の解したところでは、一年の祭の終りを神送りといつたのは古い名で、それは至つて鄭重な行事であつた故に、元は舊十月朔日の前後から、この十二月八日まで續いて居た。然るに一方には遠くから入つて來た恐るべき害をする神々を、祭つてなだめて送り返す式が始まり、それが都風の極めて花やかなものだつた爲に、こちらは推されて段々と送るとは言はなくなり、たま／＼殘つたものは、その花々しい惡神祭却の式を眞似する樣になつてしまつた。だから神無月の終りの日、もしくは十一月の始めの日を、神迎へといふには理由が無く、又現にさう謂(27)つて居る者は少ないので、そこはたゞ一つの區切りであり、大祭の準備の一段と進行する時であつた故に、何かかはつた式が昔からあつたのを、後世祭の日を早めてしまつてからも、いつまでも忘れずに居たのかと思ふ。神迎へといふ語が、もしも送りに對して用ゐられるとすれば、それは次の年の二月八日とする方が古い考へ方であらう。佐渡の農村などは一帶に、二月上旬の一日を祭始め、十二月八日ではないが、その前後の式日を祭じまひとして、それに先だつ幾日かゞ物忌であつた。暦の本が田舍に行渡るまでは、昔の人たちは月の姿によつて日を算へて居たので、少しづゝの日のちがひは出來たが、大體に初冬の十月十日又は亥の子の日に對して、二月は月始めの十日前後が、新しい稻作の支度にかゝる日であり、同時に又祖先以來の神の力を思ふ日でもあつた。今でも弘く知られて居る二月二日の灸すゑ日なども、これを考へると私たちには意味が深い。東北では二月のコト八日の次の日をヤサラと稱して、八つの皿に濁り酒をついで祝ひ事をする風がある。この日を作始めといふ例は信濃にも石見にもある。丹後や因幡で春亥の子といふのも、この二月始めの亥の日であつて、共に田畠に出て耕作のまねをした。乃ちこれもまた民間の祈念祭で、この日こそ本當に、古來の神をお迎へ申す日だつたのである。

　

　　　　　　　百姓惠比須講

　

　今でも國民の多數がたゞ何と無く續けて、しかも自分でも意味が無いと思つて居る折目の日が、冬の季節に入つて特に多いのは、恐らく五節供の影響であらう。意味が無いときまつたら罷める方が正しいが、有るのを知らずに居たのでは、それを決することも出來ないであらう。年中行事の話などは、たゞ珍しい話をきくといふのが目的ではないが、ともかくも別に珍しくも無いことを、話して見たところで始まらない。本當はどういふわけでと質問するやうな人に、その特に知りたがることを答へるのがよいので、その支度を私たちはして居るのである。

(28)　冬の民間節日には、話して見たいものがまだ幾つかあるが、話が長くなるのでどうも全部は盡せさうに無い。さういふ中でも十月は神無月、神の祭の無い月といふのに、何故に祭をするかと不審に思はれさうなのは、土地によつて竈の神、いはゆる三寶荒神の祭もあるが、それよりも弘く行はれて居るのは惠比須講で、商業地區では正月にその祭をするのに、わざ／＼農村では十月の二十日を講の日として居る。講といふのは多くの家族が合同して神を祭ること、ちやうど村社の祭も同じやうに、めい／＼單獨に家で營む場合よりも一段と信仰の強いもので、假に他の節供を祭の外に置く者でも、惠比須の祭だけはさうするわけに行かなかつた。實際又床の正面に繪像を掛け、堂々たる供物を上げ、又時々は庚申講などのやうに唱へごともあり祭の詞もある。いつからかういふふうに、特に十月を以て祭るといふ信仰が始まつたものか。私の想像では、正月二十日の商人惠比須講の方が早く、それを農村の方に移すとすると、やはり十月の二十日が農民の考へ方に、よく調和したのではないかと思ふ。古いことでは無いらしいが、惠比須さまのやうに雜然たる色々の言ひ傳へをもつた神も少なく、それを綜合して見てもまとまつたことは何もわからない。たとへば惠比須は脚がお惡いから、又聾だから出雲の集會には出られず、それで留守番をなされるなどゝいふ。脚の方は神代記の蛭子をこの神としての推測らしいが、その事がすでに根據は無い。つんぼといふ一説も確かでないことは同じだが、社殿の後にまはつて戸を敲いたり、又は大きな聲を揚げて願を掛けたりするのを見ると、何か今までの神よりももつと積極的に、進んで求めなければならぬ神、といふやうな考へが下にあつたのかもしれない。惠比須を農作の神、ことに田の神と信ずるやうになつた原因は、この方面から少しづゝわかつて來る。この信仰はやゝ飛び／＼ながら東西の諸國に行はれ、土地によつてはそれが大黒ともなり、海と陸との生産擁護をこの二つの神が分擔し、又は二神揃つて農民の家に祭られたまふを見れば、これが中世の福神思想に基くといふまでは先づ疑ひがあるまい。信州北部などの實例を見て行くと、これも在來の神を排除して、新たにかうした新神を迎へて來たのではなく、たゞ幾分か田の神の機能を、惠比須風に解釋し始めたといふに過ぎぬらしく、家を接し部落を隣して、同じ一つの神を田の(29)神とも又惠比須ともいふ者が入りまじり、祭り方も大よそ元の通りで、大よそ東北などでいふ宇賀の神に近く、表の神棚よりもむしろ勝手の方に祭場を設けて居る。

　一つの目に立つ變化は、惠比須は田の神と同じやうに、春出て秋の末に還られるといふ説の他に、別になほ十月の二十日に空の財布を持つて稼ぎに出かけ、正月二十日にはそれを一杯にして還つてござらつしやるなどゝ、戯れながらも語り傳へる者のあることで、さういふ農閑期の副業などの、もとは無かつたらうことを考へると、これはむしろ雪國の冬場稼ぎの、わびしい内情を反映したもので、本來はやはり田の神の田から山に、還つて行かれるといふ信仰を受繼いだものであつた。しかし商業交易の保護神として、既に福神の或程度の信仰が流傳して居なかつたら、突如としてこの樣な俗傳が、村に入つて來なかつたことも先づたしかであり、これが都會の地を經て入つたものにも、やはり一通りの順序が有つたことがわかる。もつと證據を揃へぬと斷定は出來ぬが、どんな漢字を宛てようとも、エビスといふ語は外の人、よそから入つて來たものといふ意味より他に、考へて見やうが無い。最初海から上つて漁業に携はる者の拜む神だつたといふ通例の解釋が、事實に合するものと私には見られる。漁民と農民との生産計畫を比較すると、一方は土地を擁して安全である代りに、何等の意外な收益を豫期することが出來なかつた。これに反して他の一方は、危險と徒勞とに曝されては居るけれども、時あつて莫大な利得を擧げ得たことは、昔は今よりも更に著しい體驗であつた。以前は全く想像もし得なかつた福徳の神を、假に國外から學ばずとしても、自然と考へ出さずには居られなくなつたといふのは、一言でいふならば海の産業の進歩であつた。釣がすでに麥飯で鯛といふ諺をさへ生んで居るのに、網にはそれ以上の運不運をひかへて居た。商賣も一歩近隣の交換から外に出ると、もう損得の別れは大きく、市には追々に見知らぬ人が寄つて來る如く、遠くを心ざせばおのづから利益が多く、それには又危險も加はつて來る。さうして島國の交通は半分は船に由つて居たところから、漁民と似たやうな希望と不安とを抱いて、特に禮拜する者だけを富ましめるといふやうな、エビスの信仰を共にすることが出來たとも考へられる。百姓はこの兩者と(30)はちがつて、豫測を超えた豐産は望み得なかつたらうけれども、人が増し開發が擴張すると共に、危害の種類は多く、又その力が強くなつて來て、後々は所の神の昔からの約束だけに頼つて居ることが出來ず、やはり少しづゝ福神の愛顧を受けて、仲間を追拔くやうな農作の成功を得ようといふ、いはゆる個別祈願の流儀にかぶれたものらしい。たゞその風潮が新しいだけに、これをめい／＼の家の田の神と全く別の神とまでは考へず、稻の收穫直後の感謝の祭を、大よそ同じ時期に營んで居たのだが、その祭の式ばかりは、いつと無く商家の惠比須講に近くなつて來た。それを農民の商業化と、見る人があつても致し方はないのであつた。

　

　　　　　　　朔日と十五日

　

　もとは一續きの大きな祭であつたものを、こまかく幾度にも切離して、それ／”＼にちがつた心持、又は目的を以て節供をするといふ傾きは、田植の頃にも現はれて居たが、ことに冬の期間には著しかつた。それは世の中がせはしくなつて、永い日數の愼しみが守りきれなくなつた爲もあるが、又一つには人間の心がゝり、願ひと氣づかはしさが段々に種類を増して來たからであつた。今まではよけいな取越し苦勞をしなかつたといふだけで無く、實際に又弊害も次第に多くなつて來た。火事などは眼の前にその大きな不幸を見た者が、大抵は秋葉｜愛宕《あたご》を信心し始め、又は村限りの火事の年忌を設けたりして居る。舊十一月の十五日を油祝ひといふのも、この月油をこぼすと火に祟るといふ俗信があるのを見ると、やはり火災を免れようとする特別の祭になつて居たのだらう。關西では寒の入りに油ものを食べぬと凍えるといふだけだが、東北は一般にこの日を油しめといつて、始めて種油を搾らせ、それを使つて色々の食物をこしらへる。必ず神に供へ、又そのことを女たちの神事といふのを見ると、元來はもつと大きな目的のある日だつたらしい。

(31)　舊十二月の朔日は六月の朔日と相對して、今でも水と關係ある一日であつた。土地によつて差はあるが、色々意味の深さうな作法と言ひ傳へが殘つて居る。水の惠みは稻作國にとつて、忘れ難いものであり、以前は專らこれを田の神の神�ｺとして禮讃したのであらうが、今ではこの兩日とも水の災ひ、ことに川童の害をよけるといふやうな方へ、傾いて居るのは變遷である。六月は水のついたち鬼の朔日、又は衣《きぬ》脱ぎ朔日とか剥《むけ》節供とかいふ類の、由來を考へて見ると面白い名稱も多いのだが、結局は昔から定まつた食物を調へて、靜かに話でもして休む日であつた。十二月もこれと同樣に、必ず餅を搗いて神に供へ、又自分たちも食べることにして居る。九州の一部でネバリモノの朔日、その他流れ餅だの川飛び餅だのといふさま／”＼の異名はあるが、何れもこれを食べぬうちに川を渡ると、水の靈に取られるといふ俗信を伴なひ、或は腹一ぱい食つてから後に、わざ／＼流れに尻を浸しに行くといふ處もある。中國地方などは數縣に亙つて、膝ぬり餅といふ名が今もあつて、この餅を膝にぬつてさへ置けば、川を越してもあやまちは無いと言つて居る。いくら悠長な時代でも、これたゞ一つの爲に一つの年中行事を設定した氣づかひは先づ無いのだから、何かもつと強い理由が別に有つたと思ふ。

　私たちの心づくのは、この二度の朔日には、共に前からの準備があつた。殊に十二月の方は數日にわたつて、普通で無い日が前にあり、土地によつてはそれを忌とも謂つて居た。さうして他の一方には兩月とも、更に大切な節日がその後に又來るので、六月は七日と十五日、十二月は八日と十三日とが、今なほよく知られた行事の日であつた。月の盈ち缺けを目標とした太陰暦の時代には、朔日くらゐ目に立たぬものは無かつたらう。よほどそのつもりで氣をつけて居らぬと、今日から月がかはるといふことを知らずに居る。そんな月を目あてにして、節折目を設けるといふことはしない筈である。乃ち前月の末の近く、未明に起き出して眉のやうな細い月が、まだ東の山に殘つて居る頃から、氣をつけてかぞへて居なければならぬ日であつた。暦が小さな本又は一枚刷になつて、端々の村にまで配給せられ、そこに幾人かのそれを讀んでわかる者が出來てから、年中行事の統一は急に進んだのだが、さうなつたのもあまり古(32)いことではない。私などの小學校に居る頃までは、年始状には必ず千里同風といふ言葉を使はせられた。國の四方の端々まで、ちやうどこの同じ時刻に、人が互ひにおめでたうと言つて居るだらうと思ふことが、一段と正月の元日をめでたくした。さうして又今まではまだ心づかずに、そこでもこゝでも同じ日に、同じやうな事をして居たのだつたと知ることが、更に一段と私たちを樂しくしたのであつた。それを近頃になつては又再び忘れようとして居る。

　正月といふ言葉の人望は、大したものであつた。中世には恐らく丸で無かつたことだらうが、正月は年の始めの一月の名ではなくて、近頃はすべてこの月中の特にめでたい一日を、片端から正月と呼んでよいことになつて居る。例は擧げきれないが、少しかはつたものだけでも、立春の日を神の正月、正月十六日の御齋日《おさいにち》を佛の正月、女の正月といふのは正月十五日、又は同二十日をさういふ地方も多い。

　小正月といふのは家々の正月、即ち以前の正月といふ意味らしく、奧羽から越後などは一般に十五日をさう謂つて居る。この日を花正月といふのは關東の各地、對馬でこれを又モドリ正月カヘリ正月ともいふのは、立返つてもう一度の正月といふことであらう。實際又この日を元日よりも大事にして、色々の忘れ難い行事を、今でも滿月の頃に集注して居る村は決して稀でない。

　正月十一日を、田打正月と呼んで居る地方は廣いが、これは私には新しい流行かと思へる。それよりも異名の多いのは二十日正月で、その名の由來についても、土地ではともかくも説明があり、それを比べて見ると、内容の互ひに似通うて居ることがわかる。つまりこの日を祝はずに居られぬ氣持は一貫して居て、力の入れどころが少しづゝちがつて居るのである。さういふ中でも中國地方でこの日を松栽ゑの節供、關東の周圍で網打ち節供、又は東北の端の三縣で、メダシの祝ひなどゝいふのはまじめで古風だが、他の多くの何々正月といふ類は、どれもこれも皆少しづゝふざけて居る。話の種に三つ四つの例を擧げると、關西方面で廣くいふのは骨正月かしら正月、これは二十日になるともう正月の肴も盡きて、殘つた骨を食べる月といふ意味ださうである。中部地方で乞食正月又はヤッコ正月といふの(33)も同じ意味らしく、或は糟の飯などゝいつて、この日正月の食物の殘りを皆集めて、食べてしまふことにして居る土地もある。正月の四日に福入雜煮といふ名で、同じやうなものをこしらへる風が、東京などにもあつたのを見ると、二十日は多分十五日正月の方に對するものだつたらう。その他トロロ正月だの麥飯正月だのと、どんなまづい物でもこの日は腹一ばい食べて置かぬと、一年中ひもじい思ひをしなければならぬといふなども、起りは一つだつたかもしれない。つまりは食べることが儀式の中心でありながら、それがさう大した御馳走でないといふ所に、こんな名を付けるもとが有つたことは皆似よつて居る。

　それからなほ進んで、正月の終りの日をミソカ正月、又は末正月といふ名がある。その翌日の二月朔日は殊に名が多く、竝べ正月、重ね正月、二正月ともヒシテ正月とも、又ひと日正月ともいふ處があつて、この一日だけが多くは休みであつた。太平洋に面した奧州一帶には、これを蔦の年越とか、小松正月とかいふ名が殘つて居るが、その意味はまだはつきりしない。私などの想像では、もとは二月の八日といふ日の節供のために、もう前月の末から準備を始めたことが、この日の儀式の目的だつたかと思ふのであるが、後々二つの日を引離して、特に朔日の方を重んずるやうになつたらしい。二月一日を太郎のついたちといふのは、やゝ古い頃からのことであつて、これは暦のまだ行渡らぬ前に正月十五日の滿月の晩を、年の境にして居たことを考へると、即ち一年の最初の朔日といふわけで、少しも不思議の無い話なのだが、後にはわからぬ人が多くなつたか、東京近くの縣では次郎の朔日といふ人が多く、或は太郎次郎の日とさへ呼んで居り、これに對して十二月一日を、オトゴの朔日といふ名も方々に出來、この日は特別に末の子の爲に、餅を搗いて祝ふ日だと、いふ樣な言ひ傳へまでが新たに生まれて居る。

　小さな末の子たちがこの話を聽いて、うれしく又忘れ難く、思つたらうことは疑ひが無いが、前に膝ぬり餅のところでも述べたやうに、舊十二月の朔日は今一段と大事な日で、これも二月と同じに、やはり八日の節供に對する心構への日ではなかつたかと思ふ。關西方面に比べると、東北は一般にこの日には冷淡なのだが、それでも仙臺市の周圍(34)などでは、この日を水こぼしの朔日、又は水こぼし正月ともいひ、子供の無い家でも餅を搗いて祝つた他に、爐の四隅に串に生豆腐を插し立て、それへ水を掛けて火防のまじなひとする風習は、まだ廣く行はれて居る。十二月の或日を正月といふなどは、字を識つた人にはをかしいだらうが、それも節供といふ日が限定せられて、ちよつと代りになるよい言葉がなかつたからであつた。春は櫻の咲きそろつた頃に、家中村中が誘ひあつて、見晴しのよい岡の上などで、べんたう持ちで一日遊んで來ることを花見正月といひ、又は田植に待ち焦れた雨の降つた次の日を、シメリ正月などゝ謂つて居たのは、まだ正月よりも樂しいからと、いふやうな意味もあつたらうが、千葉縣南部などのミアリ正月は舊十月、亥の子の日のことであつた。十二月は前にいふ水こぼし正月の他に、更に第一の巳《み》の日を巳正月、又は巳午正月といふ例もある。主として四國の四つの縣に行はれて居るが、これはその一年のうちに亡くなつた人々のために、墓場の前に集まつてする祭であつた。この日も定まつた食物を調じ、人が共々に食事をすることは同じだが、一名を死人の正月、新佛の正月ともいふ位で、ちつともめでたくはない正月であつた。多分は世間と共々に、普通の正月をすることが出來ないので、日をくり上げて自分たちだけの年越をしようといふわけだらうが、さうしてまでもなほ一年の或日を、空しく過すことはしなかつたといふ點に、遠い昔からの節日節供の、根本の氣持は窺はれるのであつた。

　

　　　　　　　餅と祝ひ

　

　盆の七月の七夕といふ日に、二つの星が銀河を渡つて相會するなどゝいふ話は、書物を讀んだ人が知つて居るだけで、數からいふと十分の一にも足らぬ人がさう言つたのである。多くの村々の年中行事は、實は近頃までそれとは無關係に行はれて居た。大體からいふと、墓薙ぎ盆道作りなど、十五日の先祖の訪問の待受けに力を傾けて居たが、同(35)じ序を以て井戸替へ蟲拂ひ、この日の水で洗ふと汚れがよく落ちるといつて、女たちは必ず髪を洗つた。七夕送りと稱して色々の好ましからぬものを送り出し、盆を清らかな日にしようとしたことは、正月前の煤拂ひともよく似て居る。その中でも眠流し又はネブタ流しといふのが、これからそろ／＼始まる夜仕事に、坐睡りの出ぬまじなひだつたことは、前に信州隨筆といふ本に詳しく書いて置いた。さういふ中でも子供に樂しみだつたことは、この日は一日中に七度水を浴び、七へん飯を食ふものだといつて、それを守らうとする子供は勿論多く、今でもこの言ひ傳へは殆と全國に行渡つて居る。野蠻な話だなどゝインテリさんは笑ふであらう。又は食べることにしか樂しみが無かつたのは哀れだと、同情する人もあるだらうが、實はこの日は他にまだすることが幾らでもあつた。それを忘れないで毎年正しく、くり返す爲に、この變つた食事のしかたが目標としてよく覺えられ、偶然にそこに古い事が多く殘つただけである。餅でも粢《しとぎ》でも又豆腐でも、珍しいからうまくおいしく、又成るべくうまくしようと親たちは努力することにもなつたらうが、それはいはゆる口腹の欲を充さうが爲に、企てられたものでないことを考へて見なければならぬ。私たちの食物の好みは、すでに今日は著しく變つて居る。甘く柔く温く、又おつゆの多いものが段々と増加して居るが、節の日の食物にはさういふものがごく少ない。正月には殊に齒で咬み碎いて、米嚼みのくたびれるやうなものが多かつたが、それ等は悉く不人望になり、しかも人間の齒はあべこべに、もとよりも惡くなつて居る。

　節供はたゞ單に、遊んでうまい物を食べる日ではなかつたことをいふ爲に、こゝで私は色々の餅や團子の名と、それをこしらへる日との關係を、列記して見ようと思つて居たのだが、その片端は前に出しても居るし、讀者自らも指を折つて、かぞへてみることが出來ようからもう省略する。たゞ何とかして一ぺんは考へて見てもらひたいことは、これ等の食物の多くは手が掛り、又相應の支度のかゝるものだつたことである。米しか作れない新田場は別として、以前の村方では米はさう食はなかつた。主食とは謂つてもよいが、常食では無かつた。正月や祭の日に米の飯を食べる爲には、籾から米にするまでの仕事が女の役だつた。それを粉にはたき又は蒸し上げて、餅や強飯を調製するのに(36)は、男が參與するやうになつてからでも、なほ中々の時間の費えがあつた。よほどの便法が採用せられぬ限りは、これをふだんの勞働の日に、もつて來ることは到底望めなかつた。儉約といふことを強ひられるやうな時代で無くとも、やはり農家では種々なる食料を取合せて、ふだんの簡單な食事に宛てゝ居たのである。それ故に節日時折は昂奮であり、又大きな期待であつた。これを古風だなどゝ嘲ることは出來るか知らないが、今ある農法と勞働組織を改めてしまはぬ限り、この?態はなほ續くであらうし、又それが田園の生活を、外で思つたほど單調のものたらしめなかつた、隱れたる理由でもあると思ふ。新しい祝祭日法は、かういふことまで氣がついて居たのかどうか確かでないが、ともかくも日本の農民は、今までは外からばかり描かれて、自分で自ら知るといふことが少なかつた爲に、批判の力の不足が、かういふ時代になると顯はれるのである。毎年々々きまつたことをして居て、變化の無い生活だと人には言はれるが、それは遠い昔の話で、現在は如何に變へまいとしても、世の中がもうそれを許さない。天然も環境も次々に刺戟を與へて、むしろ生活の安全を妨げようとして居るのである。さうして又この變化に對處するだけの平生の覺悟が、まだ新たに養はれる機會が無いのに惱んで居るのである。これに對して一方に個々の各一年内の生産作業は、單調どころかこれくらゐ日に變り、又幾つもの節日行事を以て、鮮明に區切られ色どられた生活も稀なのである。工場の日々こそは單調であつて、そこに入つた者は皆囘顧して、若い日の變化の多かつた一年をなつかしがつて居る。たゞ中心を食事の共同に置いたこれまでの節日の考へ方が古びて、一方地を異にし業を異にする人々との提携が得にくい故に、何か新たに時代に適應した改正がほしくなつて居るのである。果して今度の休日制定が、十分にこの要求に答へたかどうか。それを判斷すべき者が、あまりにも今はまだ心付かぬことが多い。

　それを私などは理論で無く、何か簡單な小さな事實から、如何にもさうだつたと思はせるやうにして見たいのである。餅と團子とはどこがちがふかといふことなども一つの問題になる。雙方ともに節の日の食物として作られるが、一方は粉をこね、他の一方は粒を搗いてつぶすものに、限るかといふと必ずしもさうでない。杵が今のやうに大きく(37)なるまでは、餅も粉にしてから搗くのが普通であり、粉も挽臼の普及するまでは、やはり水に浸してから臼に入れて搗いて居た。一方は佛事に、一方は神事にといふ風に考へて居る人もあるが、これなども必ずしも事實と一致しない。誰でも知つて居る一つ一のちがひは、餅には鏡とかオソナヘとかいつて、大きな圓い一重ねを作るに反して、團子は一粒二粒といつて數多く、めい／＼がほしいほど取つて食べる。これが古くからの餅の用途であり、團子は新しくて、もうその傳統をもつて居ないといふ點かと思ふ。節の日の食物としては、一人もその分配に洩れないのは勿論だが、さういふ中にもおのづから目ざす人、又は中心といふものがあつて、これだけは是非ともこゝへと、最初からきめて置くことが、團子には見られない特色のやうである。神におそなへの大きいのを上げる外に、もとは正月には身祝ひと稱して、一人々々にもやゝ小ぶりな鏡餅をすゑ、それで又オスワリといふ名もあつた。近頃はそれを省略して、一家共同の大鏡を一重ね、床の間に飾つて見て居るやうにもなつたが、それでも關西では雜煮の餅は圓く、餅は圓いものといふ概念はまだ消えては居ない。たゞその小餅が愈々小さく、數でこなすといふ點が團子と近くなつて、後には切餅に作る風が一般化して來たのだが、今でも東北地方に行くと馬の餅・臼の餅・鉈の餅などゝ、家畜にも家具にも人竝みに、それ／”＼の圓い餅を供して居る。つまりはかういふ氣持のいゝ配給の出來ることが、モチといふものゝ夙くから、めでたいものと見られた理由だつたのである。

　これは或は私の考へ過ぎかもしれないが、この鏡餅の分配が省略せられ、もしくは大小が目に立ち中心が出來るやうになつて、イハフといふ日本語の意味が、段々と今風に變つて來たのではないかと思はれる。古い書物を見ても又字引を引いても、イハフといふ語には人の爲に喜ぶといふやうな意味は無い。むしろ彼も我も共同して、神を祭るといふやうな或一つの嚴肅なる機會に臨む心構へがイハフであり、今の言葉で言へば精進とか、潔齋とかいふのがそれに近かつた。然るにいつの頃よりか、それはイマフとかイモフとか言ひ分けて、こちらは唯他人の喜悦に共鳴するやうな場合に使ふことになつたのは、可なり大きな變化と言はなければならぬ。餅を今でもイハヒといふ處が多いのは、(38)イハヒの食物といふ略でもあらうが、事によると特に或人の前にすゑられたのが大きかつたので、イハヒはその人の爲に言ひ現はすべき感情だと、解するやうになつたのかもしれない。誕生とか初節供とか、又は老人の年祝とか、餅が或一人の爲に特に大きかつた場合は多い。もとはさういふ日も一同のイハヒだつたのが、後にはその空氣の外から遣つて來て、やたらにオメデタウといふ者が多く、結局は祝祭日などゝ言つても、何が祝ひなのやら、判らなくなつてしまつたのである。

　メデタイといふ言葉も濫用せられて居る。本來は好ましい又は結構な、人が共同してイハヒをして居る靜かな和やかな?態を、互ひに評し合ふ形容詞だつたのが、社交に用ゐられて甚だ空々しくなつた。一休和尚以來、おれにはちつともめでたくないなどゝ、つむじ曲りなことをいふ者が多くなつては來たが、ともかくも正月はめでたいものと、きまつて居た所に年中行事の意義はある。よその國々でも大體に同じだつたと思ふが、この統一した「めでたさ」を作り出す爲には、單にめい／＼の心の持ち方だけでは無く、別に古くから定まつた法則によつて、自分の行動を制限する必要があつた。土地によつてその愼しみの箇條はちがふが、大體に毎日の常の業務から遠ざかり、何もしないで遊んで居ればよかつたので、結果に於ては休息と同じ場合が多く、この義務は守るに難くなかつた。しかし世が進み生活の事情が變つて、節日でも働きたい、働かずには居られぬといふ人が多くなると、問題は又別なものになつて來るのである。遊んでたゞ餅を食ふだけでは節供で無く、勿論イハヒとはいふことも出來なかつた。それと同じ樣に、節供を常の日の如く働きつゝ、餅だけは食はうとする者も、以前は許さなかつたが、今日はもうどうすることも出來ない。祝ひと休みとは起りは全然別なものだつたけれども、その日仕事をしないといふ末端だけが似て居る故に、近頃では境目がはつきりとしなくなつたのである。沖繩の島などでは、オマツイ（御祭）の日に働く者は、ハブに?まれるといふ俗信が近い頃まであつた。曾てはこちらでも、それは堂々と非難してよい行爲だつたのだが、その戒は次第に弛んで、たゞ惰け者の節供働きといふ類の、ひやかしの諺ばかりが殘つて居る。今日となつては、祝祭日といふ(39)言葉ぐらゐが、幽かな古い痕跡の保存であつた。日曜といふものゝ歴史がこれに近いことは、宗旨の人でなくともまだ知つて居る者があるが、祝ひの感じは私たちの間でも、もうめつたに考へて見ようといふ人は無くなつて居る。

　

　　　　　　　祭と季節

　

　終りにもう一つだけ、祝祭日の「祭」といふ語のいはれを考へて見よう。祭の範圍は今日はやゝ狹く、神社で行はれるものに限るやうにも見えるが、もとはめい／＼の家に於て、又は村や部落の共同の下に、社地以外の場所で營む祭が、數に於ては却つて神社の祭よりは多かつた。單に言葉が雙方同じといふだけで無く、よく視ると樣式にも共通のはつきりとしたものがあつた。それを二つは別々の樣に、取扱ふことになつたのにも事情はあるのだが、とにかくに祭日といふ言葉の意味が、これに由つて忽ち不明になつてしまつた。

　我々の祭の日の中で、一ばん全國的なものは盆の魂祭であらう。これは夙くから佛寺の管掌に屬し、從つて佛教によつて解釋せられ、國の祭日からは除外せられて居たが、それはたゞ一部の變化に止まり、事實はこれも亦めでたい節供であり、人が集つてイハフ日であつたことは、可なりはつきりと私は證明することが出來る。日本の東半分では、今でも盆の魂祭に對して、暮にもう一度ミタマ祭といふのがあり、この方は全く佛教との交渉が無く、清らかな米の飯を調じて、祖靈に供し又自分たちもこれに參與する。たゞ荒御靈と稱して新たに世を去つた靈魂の爲に、特別の作法がある點だけが、盆祭とよく似て居る。つまりは盆の行事は、この方に力を傾け過ぎて居たのである。

　盆と正月との以外にも、大よそ祭の無い節供といふものは考へられなかつた。家々の表の間には神棚といつて、常設の祭壇が備はり、節日にはその前に集まつて祝ふことになつて居るが、以前は多分その日毎に、臨時に清い座を設ける習はしであつたかと思ふ。神棚は又信心棚とも呼ばれ、そこに新たに勸請した神々も多くなり、それにつれて今(40)まで祭り來つた節日の神樣にも名が出來た。正月に祭るのを年神又は正月樣、盆には盆さまといひ、又盆神とさへいふ者がある。その他春の農事の取掛りには、オコトと稱してコトの神を祭り、秋の刈入れがかたづくと、十月亥の日には亥の神を祭るなどゝ、日により場所についてそれ／”＼ちがへて神の御名を呼んで居る。その樣にまで色々の神があつた筈は無く、すべてが家の神、恐らくは又先祖の神だつたらうと、私などは思つて居たのだが、人はあまりにも一般の慣行にたより切つて、この徐々たる推移には氣づかずに居た。さうして一方には神社の祭る神の名を、是非とも歴史の書によつて確定しようとする、新しい神道が起つた爲に、こゝに二つのマツリは二通り全く別なものであるかの如く思ふ人を多くしてしまひ、祝祭日といふものゝ根原が、又一段と尋ねにくゝなつたのである。

　大きな神社の祭日は、近年神職たちの手で改定したものが多いけれども、氣をつけて見てゆくと、最初は殆と皆民間の年中行事の日であつた。その日は家々でも祝ひ又休み、必ず定まつた食物をこしらへることは、これも祭の日が改まつて後までも變らない。つまりは祭禮も重要な節供の日といふことが出來るのである。節供は五つと公けに限られてからは、これと祭禮と對立するものゝやうになつたが、それでも舊九月の九日前後を、祭日とした神社が數に於て最も多い。さうして色々の變つた催し物の無い社は澤山あつても、この日新穀の餅強飯を調じて、さゝげ且ついただくのを、祭の樂しみの中心とせぬものは一つだつて無い。マツリといふ語のもとの意味が、もし私などの考へて居るやうに、マツラフと同じであり、侍坐とか勤仕とかいふ點に在るとすれば、それは却つて家々の節供、又は村々の小さな社の祭に於て、今も嚴肅に守られて居るのであつた。

　まだ氣づいて居ない人は多いやうだが、節供の食物の條件は、原料の精選と製法の念入りとの他に、これを分配する樣式の特殊な點にもあつた。今でも子供の間にはその感覺が傳はつて居るが、食物を家から外に持出して、廣い處で集まつて食べる樂しみなどは、もとはかういふ晴れの日の行事であつた故に、印象が深かつたのである。さういふ中でも三月の節供は、關西は一圓に、又關東の方でも飛び／＼に、海邊や岡の上に豐富なる食物を運んで行つて、終(41)日遊び暮す風習は現在もなほ續いて居る。それも一つの祭であつたことは、磯祭又は瀬祭などの名が、各地にあるのを見てもわかる。盆にも盆竈辻飯等の名を以て、この屋外の食事が全國に行はれて居る。成人はもう手を引いてしまつたが、それでもこれをたゞ子供の遊びとは見ないで、外から世話もすれば、又この食物の精神的效果をも認めて居る。正月は寒くて外に出にくい季節なるに拘らず、雪國の方では却つて雪の小屋などを造り、その中に集まつて食事をする風習が多い。盆にも勿論盆小屋を作る土地があるが、正月小屋の方がそれよりももつと盛んで、この多摩川兩岸の村々でいふサイト小屋なども、前年私の見たものは三坪もあり、子供はその中で神を祭り、食事をし、又一晩はこゝにあかした。即ち成人のオコモリと同じである。もとは神社の方でも常設の社殿の無いものが多く、祭の度毎に假屋をかけて、かうして忌籠る例が幾らもある。たゞ小屋を掛ける場所だけを、靈地として保存して居た故に、ヤシロといふ語が殘つて居るのである。子供らしくはなつたかも知れぬが、古來の祭の心持は、むしろ年中行事の方に大切に守られて居た。それを飛んでもない所で區劃して、他の一方を無視したから、今は一段と根原が不明になつたので、祭はもう一度、改めてこの側面から、見なほす必要があると、私などの考へて居る理由はこゝに在る。

　我々の年中行事が、國の固有信仰の進んで來た跡を、保留して居るのは當り前の話である。さうでなかつた民族は恐らくはどこにも有るまい。それを根こそげ拔き棄てようといふのならば、又一つの議論として成立つだらうが、これほど明々白々な民間の事實にも氣が付かず、たゞ今日いふ所の何々サイといふ類の催しを以て、國民を統一し得られると思ふやうだつたら、祝祭日といふ名稱の如きは、むしろ無い方が害が少なからう。これは正直なところ、明治以來の祝祭日とても同じ憾みがあつた。折角公けの力を以て制定して渡しても、それはまだ國民多數の感覺と一致しない故に、知らん顔をして彼等は働いて居た。一ばん困つたことは暦のくひちがひで、節供に最も重要だつた季節の感は消え、月の形を見てきめた古い約束も無視せられて、或は中暦といふ一月送り、又はなほ内々に舊暦を用ゐて、古い仕來りをつゞけて居た人が多く、七十何年は亂雜の間に過ぎて來た。今度もし新たに風習を作り出さうといふの(42)ならば、少なくとも私たちの生産を制約した天然の條件を考慮に入れて、せめては月と盆踊、五月節供の柏餅と、柏の葉の伸び方の關係ぐらゐは、喰ひちがはぬやうにしたいものである。正月元日といふたつた一つの例を除けば、都會で設け出した年中行事などは日本には無い。さうして都會で始まつた生活を眞似するのが、即ち文化だと思ふやうな考へ方は、もう大抵これからは無くなつて行くだらう。人を指導しようといふ賢い人は、やつぱり本當に賢くなくてはだめだと思ふ。

　

(43)　　　　　歳時小記

　

　　　　　　　はしがき

　

　これまでの歳時記に載せず、從つて多分まだ句にはなつて居ない生活の俳諧を、心がけて自分は少しばかり集めて居る。全國同好の士の參加を求むぺく、こゝに若干の見本を竝べて置かうと思ふ。正月はもう過ぎたから、その十六日から始めて一まはり、四季の順を追うて書いて行くことにする。

　

　　　　　　　にほ積み（正月十六日）

　

　正月十六日を「にほ積み」といふのは、羽後の雄物川流域などの風である。ニホは即ち稻村のこと、中央部でスズミともスズシとも謂ふものと同じであつて、この日新たにこれを積んで見るのは、秋の豐饒を祝する意と思はれるが、今はもうさういふ手數をする家も少なく、たゞ朝から一日ゆつくりと休んで、炬燵にでも入つて寢轉んで居るだけださうである。同じ秋田縣でも北隅の鹿角郡あたりでは、所謂ニヨチミは同じ日に、子供が相撲をとつて遊ぶことのやうにも解せられて居る。即ち大きい者が彼等を抱へて、ごろりと横に寢かすのをニヨーチンダといふのださうだが、(44)これならば成るほど稻村に稻束を積み上げるのとちとばかり似ても居る。江戸大阪の昔の正月言葉で、稻積むといふのが寢ることであつた意味は、これに比べて見てほゞ明らかになる。年の夜は夜籠りをして寢ないのが古來の習はしであつた。それ故に寢るといふ語を避けて言はず、それを又睡眠のイネに掛けたのも言葉の綾であつた。しかも亦現實に貯への稻束を出して、庭の上に飾る風がもと無かつたら、かういふ思ひ付きの輕妙な隱語も、さう安々とは生まれて來なかつたのである。岡山縣の小田郡などでは、舊正月の三ヶ日、朝祝をすませてから後、戸をしめて寢ることをイナグロを積むと謂つて居る。イナグロもやはり稻積みのことを意味するあの邊の方言である。同じ縣でも美作の西部では、正月朝寢をすることを大グロを積むと謂ふさうである。やはり春早々の自由な無作法を、めでたく言ひ直さうといふ趣意から出て居る語かと思ふ。

　

　　　　　　　鉦起し（正月十六日）

　

　正月松の内は佛いぢりはせぬ樣にして居る。それを新たに始めるので、十六日は意味があつたやうに思はれる。中國四國の可なり廣い區域では、この日を佛の正月と謂ひ、或は又「念佛の口あけ」とも謂つて居る。これに對する「念佛の口止め」は、多くの地方では暮の二十五日頃であつた。九州の島々には、正月十六日を鉦起しといふ例がある。この鉦も亦念佛の爲に叩くもので、日は少しづゝちがつても、近畿地方にも正月第一囘の念佛講を、鉦はじめと謂ふのは通例である。淡路の島では十六日を「眞言始め」といひ、鉦はこの日までは鳴らしてはならぬことになつて居た。越後の東蒲原の山村にも同じ日を後生始めといひ、前年十一月からこの前日まで、鉦を叩かぬ習はしがある。沖繩の農村でも同じ日をミイグショウ、即ちまた新後生の日と謂つて、新ぼとけの爲に燈籠を上げた。東京でこの日をオサイニチと呼び、或は餓鬼の首だの地獄の釜の蓋などゝいふ名が各地にあるのも、正月佛事を抑制して居た名殘に他な(45)らぬと思ふ。

　

　　　　　　　だまり正月（正月二十日）

　

　正月の二十日には、土地によつて色々の名がある。骨正月といふ語は近畿地方から、九州にかけて最も廣く行はれて居るが、これは正月用意の懸けの魚ももう終りになり、この日は愈々その骨を卸して食べてしまふからの名と解せられて居る。實際骨叩き・骨おろし・骨くづしなどゝ名づけて、殘りの魚を入れて雜炊を作つたり、大根などゝ共に煮て食ふ風も處々にある。北陸一帶から飛騨にかけては、この日を乞食の正月・ヤッコの正月、又はこれと近い色々の名で呼んで居るが、その意味はまだはつきりとしない。或はこの日ひもじい思ひをすると、一年中食に飢ゑるといふ處も四國などにあるのを見ると、むしろ粗末なものでも思ひ切つて、飽食すべき日では無かつたかと思ふ。「正月二十日の棚さがし」といふ諺は、隨分廣い區域に亙つて聞くことだが、これは必ずしも食へるものを掻集めるといふだけで無く、この日正月神の年棚の飾りものを、一切取卸して始末することらしい。たとへば粟穗稗穗の餅を食つてしまふことを粟刈り、繭玉の餅を食ふのを繭掻きもしくは繭ねりといふの類である。しかし尚その以外に、麥飯正月と名づけて麥飯をうんと食ひ、或は出雲の大原郡のやうに、麥畠の上に蓑をしいてその上に轉がり、

　　　やれ腹ふとや、背ごわれや

といふ唱へ言をするのを見ると、乞食にまで正月をさせるほどの、食物の豐かなるべき日であつたことが察せられる。信州の上田附近で、正月二十日をダマリ正月と謂ひ、この日は一日黙つて居るがよいといふ理由はまだ判らぬが、或はこの飽食の風と關係があつたのではないかと思つて居る。この邊では惠比須講がやつぱりこの二十日で、志比須樣はこの日を濟ませて、再び旅へ稼ぎに行かれると言ひ傳へて居る。

　

(46)　　　　　　　蜂の養生（正月二十日）

　

　まだ／＼多くの名稱が正月二十日にはある。奧羽は一帶に古くから、この日をメダシの祝と謂つて女の遊ぶ日になつて居るが、その趣意はまだ私には明らかでない。陸中の遠野ではこの日を麻の祝と名づけ、早朝に背の低い女の來ることをいやがり、來ると松の葉でいぶして祓ひをした。その松の葉をヤイトヤキ、又はヨガイブシと謂つて居たのは、めい／＼がこれを手に持つて村中をあるき、

　　　よが蚊に負けな、蛇百足にまけな

と唱へつゝ、自由にどこの家にも入つて、自在鉤のあたりまでも燻しまはつたからで、ヨガとは日中のカ即ち蚋に對して、夜の蚊をさういふのである。このまじなひは他では大抵節分の晩に行ふが、かうして二十日を用ゐる例も稀ではなかつた。たとへば阿波の鷲敷で、「香の口やき」と稱し、この日長蟲の入らぬ呪ひとして、灰を家の周圍に撒いて居たなども、他の地方で節分の日に行ふ蚊の口燒きといふ行事とやゝ似て居る。佐賀縣東松浦郡の山村に於て、同じ二十日を蜂の養生と謂ふのも、蜂の爲にはちつとも養生では無くて、却つて一年中蜂に螫されても負けない樣にといふまじなひかと思はれる。ヌストシバ（盗人柴）と稱する山の木を伐つて來て、やはり家の周りに立てまはすことをさういふのである。或はこれを又盗人防ぎともいふのを見ると、この佳節を期して豫防の效果を擧げようとして居たのである。

　

(47)　　　　　　　二十五日樣（正月二十四日）

　

　伊豆の七島で正月二十四日を大切な祭の日、又物忌の日として居ることは、既に多くの人が書いて居るから、さう詳しく受賣りするには及ばぬ。たゞこゝで注意したいことは二つ。もとはこの日に來臨したまふ神が、非常に尊く又力ある神であつた故に、物音もさせず煙も立てず、戸を開けてはならぬ、海を見てはならぬと言つて謹愼し、たま／＼戒めを犯した者が罰を受けたといふ類の話があつた所から、後には却つてこれを魔神惡靈の如く、解する者が少しづゝ出來たといふことが一つである。しかしこれは島々の言ひ傳へを比べ、老いて敬虔なる人々のいふことを粗末にしなかつたら、今ある代官殺しだの海難坊だのといふ傳説が、新たに來て引付いたものなることは自然に察せられる。忌《き》の日・日忌み樣・二十五日樣等の名も一つの證據であるが、カイナンバウなどゝいふ珍しい言葉までが、行く／＼は又一つの手掛りになるだらう。第二には正月二十四日を中心にした信仰行事は、島ばかりで無く内地にもあるといふことで、この兩者の比較はもつと進んで行けさうである。今日知られて居る内地の習俗は、多くは愛宕さまの信仰に結び付いて居る。毎月の二十四日に酒を愼しめば、火事の災難を免れるといふ言ひ傳へなどは、或は別途の發生と考へて居る人もあらうが、火の神は愛宕の祀られる前からあつた筈だから、兩者根本の共通は必ずしも無かつたとは言へない。少なくともかういふ習俗は他にも分布して居て、島に發生したものでないことだけは確かである。

　

　　　　　　　初三十日（正月晦日）

　

　正月終りの日もハツミソカなどゝ謂つて、普通の日とは考へられて居ない。厄年の男女が特に警戒する以外に、信(48)州では鬼の目團子、もしくは鬼の眼玉と稱して、三つの團子を串に刺し、戸口に插んで置く風もある。その説明としては二月八日の大眼《だいまなこ》も同樣に、この晩は鬼が覗きに來る。さうして門口の團子を見て、おや人間は眼が三つあるのかと、怖れをなして歸つて行くやうにといふのもあれば、或は節分に豆を打つて潰した鬼の目を、こしらへてやるのだとも謂つて居て、何れにしても話はよほど剽輕になり、子供ももう格別こはがつては居ないが、以前はこれよりも、もつと現實に近い不安であつたらしく、婆さんがこの晩團子を丸めるのを忘れて居て、鬼に腕を拔かれたなどゝいふ話が、幽かに傳はつて居る土地も同じ縣にはある。

　

　　　　　　　犬の子正月（二月朔日）

　

　舊暦二月一日にも亦色々の異名がある。太郎の朔日又は次郎の朔日、中國地方でヒトヒ正月と稱して、この日一日だけ正月の式を繰返し、或は送り正月と謂つて半日年神を送るなどゝいふのは、厄年の男女がもう一度年を取り重ねる習俗と、關係がありさうである。越後の中部ではこの日の行事に、米の粉を練つて小狗の形をこしらへて戸の棧に飾り、又は十二支の形を作り鴨居長押に引掛ける習はしがあり、犬の子正月の名はこれに基いて居る。その團子の作り物は、二月の十五日までそつとして置いて、御釋迦樣の供をさせるといふ處もあり、或は猫と鼠が喧嘩をして、涅槃の席に間に合はなかつた故に、この二種の動物の形だけは作らぬと謂つて居る土地もある。

　

　　　　　　　大まなこ（二月八日）

　

　二月八日も、やはり危險な日として警戒せられて居た。關東地方では一帶に、この晩人里を窺ふ怪物を一ツ目小僧(49)樣、即ち眼一つの怖しい姿をした者と言ひ傳へて、しかも樣の字を添へて呼んで居る。下駄や草履を忘れて外に出して置くと、一つ目樣に燒印を押されて、その主が病氣になるともいふのを見ると、これは疫病神と想像して居たので、現に奧羽や越後では、「疫神よけ」と稱してこの日色々の行事がある。信州でも北半分は、唐辛子とか皀莢《さいかち》の莢とか、茱萸《ぐみ》とか茄子の木とかの、かはつた植物を門口に焚き、南の方へ行くと藁人形を作り又は御幣を立てゝ、コトの神を村境まで送り出す。コトと謂ふのはこの日の式のことである。目?を高い竿のさきに括り付けて、表に立てゝ置くのは弘い風習で、西の方ではその竹籠に八日の餅を入れて上げるやうだが、東京近くのは大抵空つぽで、目籠の目の數の多いのに驚いて、一つ目が敗北して行くなどゝいふ者もある。栃木縣の東部では、一つ目を又大眼とも謂ひ、目籠の竿以外に八日塔と稱して、熊笹で祭壇を組んでその上に蕎麥を供へる。卯月八日の天道花も同樣に、祭の形だけは古くからの定めに從ひ、その説明が追々に變化して來たのである。

　

　　　　　　　衿懸け餅（二月八日）

　

　この日必ず何等かの變つた食物をこしらへることは、全國の田舍の風と謂つてもよいが、蕎麥は一部に限られ他の多くは餅である。かけ初めと稱して子供が七歳になる迄、毎年この日には年の數よりも一つ多い餅を蔓にとほし、襟に掛けさせる習ひが常陸にはあつた。或は長男の初の八日だけに、特に丁寧な祝ひをする例もあつた。一つ眼の言ひ傳へが子供らしいのみで無く、何か最初から子供とは縁のある行事だつたらしいのである。信州では辻の道祖神の祭をこの日行ふ例も多い。藁苞の馬に藁苞の餅を背負はせて、道祖神の前まで牽いて行つて置いて來る。それを子供がほしがると自分のは棄てゝ、人の上げた分を持つて還るのを、彼等は「組んで來る」と謂つて、馬の交易のやうに思つて居る。

　

(50)　　　　　　　おかた逐出し（二月九日）

　

　これは陸中下｜閉伊《しもへい》地方で謂ふことで、他にはまだ類例を知らない。二月九日は嫁が親里へ還つて、一日ゆつくりと遊んで來る日で、家ではおまけに御馳走をして出して遣るのだが、土地ではこの日をオカタボンダシと呼んで居る。オカタは御方即ち嫁のことで、それを追出す日といつの頃よりか謂ふのである。昔は女房をこの日で無いと離縁し得なかつた。この日追出された者は、どんなに詫び言をしても許されなかつた。だから御方がほしければ二月九日の晩、四つ辻へ行けば幾らでも見つかつたさうだなどゝいふのは、後々言ひ始めた戯れの説明にちがひない。十二月の九日を大黒樣の嫁迎へと稱して、二股大根などを供へて祭をすることゝ、根原に何か關係のあることではないかと思ふ。二月九日は東北ではヤサラと稱して、八つの皿に濁酒などを注いで神を祭る日であり、或は又この日を女の惡日といふ處もある。所謂おかたが問題になる日は、正月十五日の尻はり尻つみ以外にも、五月四日の女の夜などがある。京都民俗志には棚おろしと謂つて、暮の大晦日の夜一年中の小言を、ためて置いて言ふ風習があつたことを記して居る。同じ下閉伊地方でも、正月十六日の早朝、嫁が寢て居るうちに蒲團を剥いで、丸裸にして尻を打つたといふ。それも單なる話らしいが、この日をイロハギと謂ふのは意味がありさうである。イロは婚禮と葬式の日に、女が着て出る晴着のことで、蒲團や寢間着のやうな尋常のものでない。

　

　　　　　　　伏せ馬（二月初午）

　

　二月初午が早く來る年は警戒する。火事が多いとか蟲が付くとかいふらしいが、それは一定して居ない。伏せ馬と(51)いふのは指を折つて日を算へて、指のまだ伏せであるうち、即ち五日までに午の日がある年のことである。これは十一月の寢犬起き犬なども同じ樣に、單に記憶を助ける諺のやうな言葉であるが、特に午の日に重きを置く理由は、馬の神の信仰に在つたかと思ふ。稻荷の社を初午に祭るのも、起りは京の稻荷山の山登りで、その日山中の杉の枝を折つて來たといふことが、古い文學にも?々見えて居るが、それとよく似た風俗は今も諸國にあつて、何れも皆馬の祈?に馬を牽いて登ることになつて居る。蠶の當りを願掛けする信仰も、多分はこれから一轉したものであらう。實はどういふわけでか馬と關係が深い。蠶の神樣はいつも馬に乘つて居られる。

　

　　　　　　　やせ馬（二月十五日）

　

　二月十五日の涅槃の日に作る食物に、釋迦の頭だの、おしやか樣の鼻くそだのといふのが有るのも解しかねるが、それよりも更に縁が無ささうに思はれるのは、信州などに行はれるヤセウマといふ團子である。その名の起りは片手で握つた形が、骨張つた馬の背なかに似て居るからだらうが、それを佛陀の示寂と結び付ける理由は尚不明である。或は元はたゞ二月の祭の日に作る團子で、寧ろ馬の神の信仰の方に關係があつたのではあるまいか。所謂痩馬の名は弘く知られ、これをこしらへる日が區々であることから、私などはさう想像して居る。田植終りのさのぼりといふ祝ひの日に、小麥の粉でこれとよく似た形の團子を作る土地がある。私などの在所では、それを「馬のせなか」と呼んで居た。

　

(52)　　　　　　　日の御伴（春の彼岸）

　

　彼岸に日天樣のおともなどゝ謂つて、一日外に出て日を拜んであるく風習が、やゝ弘く行はれて居る。土地によつて方式は少しづゝちがふが、午前は日迎へと稱して東に向つて歩み、午後は日送りといつて西の方へあるいて行く處もあれば、早天に家から東に當る靈場に行つて日の出を拜み、それから南をあるいて日の入りは西の方で拜むといふ例もある。日天願などゝいふ名もあつて、或は佛法に教へられたものかも知らぬが、多くの年寄りたちはかうすると身體が丈夫になると謂つて、まじなひのやうに考へて居る。丈夫になることは確かだと思ふ。

　

　　　　　　　山磯遊び（三月三日）

　

　三月三日の節供の日に、終日外に出て樂しく飲み食ひしで遊ぶ風は、殆と全國の隅々にまで行渡つて居る。東京の汐干狩などもその一つの變化といふに過ぎない。前年私は對馬の西北海岸づたひに、この盛んな磯遊びを見てあるいたが、女や子供が幾十組ともなく、手に／＼重箱を下げてよい場所を見つけてあるく光景は、なごやかなものであつた。それから尋ねて見ると九州一帶から瀬戸内海あたりも同樣で、磯が遠ければ海の見える丘の上、又は川の流れの邊りでも同じ遊びをする。奄美大島ではこれを濱下りと謂ひ、遠く離れて陸前の金華山近くでは磯祭、關東では單に子供の花見ともいふが、何れも日は三月の三日である。伊豆半島の或村では、女の兒が雛壇の前に集まつて、まゝごとをするのを磯遊びと呼んで居る。それから考へて行くと、雛の宵の可愛いゝ飲食なども、本來は亦野外の樂しみを移したものらしく、しかも天龍川や相模川の川沿ひで、この際に古雛を送り流し、又正月に墓所に立てゝ置くタッシ(53)ャ木といふ木ぎれを集めて、煮炊きの燃料としたといふのを見れば、これは一つの定まつた方式であつて、單なる遊戯とは言はれぬものであつた。全體にこの日を氣味の惡い、用心をしなければならぬ日の樣に、考へる風はまだ殘つて居る。家の中にじつとして居らぬ方がよいので、外へ出て日を暮すといふのが元ではなかつたかと思ふ。

　

　　　　　　　梅若忌（三月十五日）

　

　舊暦三月十五日を、梅若樣の日として休み又神祭をすることは、東京附近の例だけを見ると、かの謠曲隅田川の影響のやうにも解せられるか知らぬが、全體農民がさういふ文藝に親しみ、これを記念する風習を一般化するといふことが、既に信じにくいだけで無く、こゝとは全然かけ離れた東北の田舍まで、同じ行事の行き渡つて居る事實は、到底説明することが出來ぬと思ふ。仙臺の「梅岩のこと」といふ日はやはり同じ日で、四百四病を送れ／＼と書いた紙を笹の枝につけて、草餅を添へて家の側に立てる風が昔あつたと、眞山青果君の仙臺方言考に出て居るが、これなどまだ江戸風を眞似たものとも想像し得られる。しかし栗原郡誌を見ると、三月十五日の梅若さまは、今でもあの郡の村々には守られて居るとある。所謂信夫の惣太の淨瑠璃などよりはずつと前から、この日を梅若の供養といふ習はしが既にあつて、芝居はむしろ主人公の名前に、土地でよく知られた佳名を採用したものと考へられる。梅王子といふ神樣は關東諸國にもあつて、今では大抵菅原天神と結び付けられて居る。さういふ名の起りは恐らくは春の末、即ち梅の若枝の伸び立つ盛りに、これを手に執つて舞ふことから出て居るのであらうが、これが亦同じ季節の送り祭の一つになつて居たとすれば、こゝに美しい童兒の死を主題とした、悲劇の結構せられる餘地は十分にあつたのである。

　

(54)　　　　　　　卯月八日（四月八日）

　

　近畿諸府縣を始めとして、北でも南でもこの日山に登る風習は弘く行はれて居て、それだけは少なくとも佛誕生會とは無關係である。山を背後にした麓の里の春祭で、四月八日を定日とし、今は月送りの五月八日を用ゐるものが、數へきれぬほどもあるのはその名殘と見てよからう。天道花《てんたうばな》又は高花などゝ稱して、竹竿の頂に色とり／”＼の花を結はへて立てるなども、勿論佛者は我信仰によつて理由を説かうとするが、私たちはこれを佛教以前からの古い仕來りと思つて居るのである。それを確める方法としては、各地の言ひ傳へを多く集めて、細かに比べて見るのが尋常の順序であるが、寺方では夏花《げばな》は盆のかゝりまで、一夏中を通して立てゝ置くといふに反して、多くの民家では八日を過ぎれば卸して川へ流し、又は乾かし貯へて雷鳴の日に焚いたり、牛が遁げた時のまじなひに盥に伏せたりする。花に草鞋をくゝり付けて、共に立てるなども山の神と縁があり、これを日天樣に上げるといふ處も例は多い。東北地方の烏祭は、正月初めの山入りの日に行ふのが普通だが、九州の南部に行くと、四月八日に同じやうな祭を營み、やはりこれをミサキ祭と謂つて居る。即ち粢を藁苞に包んで、高い木の梢に引掛けて置き、烏が來て持つて行くことを念ずるのである。この日の名稱にも亦色々の變化がある。薩摩の甑島《こしきじま》では「あめがた節供」と謂ひ、この日は必ず飴を食ふ習はしがある。越後も中頸城の漁村には「鰯の年取り日」といふ珍しい名があるが、それからやゝ北へ行くと一般に、もとは「藤の花立て」と謂つて、晴着をして山に行き藤の花を採つて來て、佛壇に立てる風があつた。それを米山の藥師如來に上げると言つて居たのも、同じく亦山から農作の神を迎へ申す意味であつたらうかと思ふ。

　

(55)　　　　　　　豆妙り朔日（五月朔日）

　

　五月はおも月又は神祭月と謂つて、特に重要視せられる月なるにも拘らず、その朔日を記念する行事が少ない。これは多分午の日の節供をくり上げて、月の初めの五日ときめた結果、三月も同樣に、それと朔旦の祝日とが併合したものであらう。南河内でこの一日をワタシといふのは、綿の植付けに取掛る日だからとも説明せられて居るが、四月の二十八日を天氣渡しと稱して、この日の晴雨を以て一年中の天候を卜する風も岡山地方には有るから、或は別に何か意味があつたかも知らぬ。鳥取附近の農村では、五月一日を豆炒り朔日と呼び、豆を炒つて神に供へるさうだが、その趣旨もまだ明瞭でない。壹岐で舊五月の三日をコザツケと謂ふのは、日吉山王でもいふ小五月《こさつき》であらうと思ふ。それにも拘らず、島では小座頭が流れて死んだからこの日は雨が降るといひ、もし降らなければマガが天上するなどと言ひ傳へて居る。さうしてそのマガといふのは何物か、もう我々には不明になつて居る。節供は好い日だから一層惡い靈を警戒する必要があつたのだが、後にこの事情は混亂してしまつて、何か怖ろしいものゝ來る日の如く、想像するやうになつたらしいのである。

　

　　　　　　　耳くぢり（五月五日）

　

　五月端午の日の神と人との食物として、茅笹蒲茨等さま／”＼の葉で卷いた卷餅をこしらへる風は全國的であるが、別に或土地限りでこの日にする事が幾つかある。その中で可なり珍しい一つは、定まつた或種の植物を以て、耳を掻きつゝ唱へごとをする東北の風習である。山形秋田から津輕へかけての日本海側は、牛尾菜《しほで》といふ草を必ず用ゐる。(56)これと山の芋、又はホドの根か野老の根かを以て、耳の穴をさらへる眞似をして、莊内地方では、

　　　惡いこと聞かないやうに

　　　よいことを聞くやうに

と唱へる。平鹿郡に行くとこれを耳にあてゝ、えいこと聞かせてたんせと何遍もくり返すさうで、それ故にこの行事をエイコトキクとも呼んで居る。同じ習はしは秋田全縣にわたつて、もう百五十年も前からこの通り行はれて居たことは、眞澄翁の多くの日記にも見えて居る。宮城縣石卷などでも、元は長芋を三寶に載せて神に供へた後、その芋を耳にあてゝ「えゝこと聞け／＼」といふ式があり、その爲に今でも長芋を耳くぢり芋と謂つて居るが、その日は五月の節供ではなくで、次に言はうと思ふ六月の朔日であつたさうである。前に竝べた若干の例にもあるやうに、同じ一つの行事を土地によつて、異なる日に行ふことは珍しくない。たとへば豆まきを大晦日の晩に、農作の占ひを小正月の夜分に、綱曳は盆にも八月の十五夜にもする處がある。一年に一度は必ず行ふといふだけが慣習であつて、期日は外部の事情に應じて、いつの世よりか改めつゝあつたのである。即ち暦法よりも年中行事の方が更に古かつたといふことが出來ると思ふ。

　

(57)　　　　　春おこなひ

　

　近江の農村の信仰生活には、不思議に多くの古風が遺つてゐるらしいことは、過日彦根の講演でも述べて來たのであるが、今度長濱の會員三田村耕治君が調べて見ようとして居るオコナヒの風習も、その一例として可なり興味の深いものである。滋賀一縣の爲にも又總國の文化史の爲にも、この行事の如きは既に單なる注意の時期はすぎて、精細なる討査考察の階段に入つて居るのである。やがて公表せられる結果を待つ間に、今まで判つて居るだけを、聲援の意味に於て書列ねて見よう。

　始めて私たちが近江のオコナヒの存在を知つたのは、雜誌「民族と歴史」八卷三號（大正十一年九月）に、近藤謙吉氏の小報告が出たときであつた。湖北某村とあるのみだが、春秋の二度、村社に於て行はるゝ家内安全五穀豐饒を祈る神事で、春は一月から二月の間に行はれ、この村の實例は二月十二日だとある。當日は米かしとて鏡餅搗きで一切女を寄せ付けず、男だけで餅を供へ又大いに食ふ。翌十三日は鏡番と稱して色々の餘興があり、翌々日も宮參り、終つて一年の總勘定をする。鬮で頭屋《とうや》をきめ、酒食を中心とした村の集會であることは、關東のビシャとも似て居る。甲賀郡誌を見ると、こゝでは現にブシャオコナヒと謂つて居る村もあるさうで、或は又宮オコナヒ、寺オコナヒといふ村もあり、柏木村では總オコナヒとも謂つて正月八日、その他も多くは年頭三箇日すぎて、山の口明けと同じ日だといふのが湖北とは變つて居る。祭の周旋人は前年のうちに結婚した者で、未婚元服前の者はこの式から除外せられるといふのは珍しい。滋賀縣方言集には坂田東淺井の二郡で春祭禮をオコナヒ、伊香ではオコナヒ又はオトウといふの(58)が神事のことゝあるのみで、期日も行事も記してないが、栗太郡勝部神社のオコナヒは火祭で、大松明の柴に用ゐる榛の木が乏しくなつたので、今はハゲシバリを代用して居ると京都民俗志にはあるから、名は一つでも式は村毎にやゝちがつて居ると見える。

　オコナヒがもと行法の義で、寺家から生まれた語であることはほゞ想像し得られる。紀州有田民俗誌によれば、この地方のオコナヒも正月早々だが、御寺に於て祈?が行はれる。住民は各戸蕎麥大豆の若干量を紙袋に入れて持參し、歸りには牛王福杖などを貰つて來て耕地の端に刺す。たゞその日その後で御狩を行ふと、有田郡年中行事にあるのが、少しばかりかはつて居る。和歌山から程近い紀三井寺のオコナヒも、正月三ヶ日と十八日とに行はれる。こゝでは村の青少年が白衣を着て、ゴロ（木洞）の靈佛を奉じて本堂の外縁廻廊を練行すると、社會史研究九卷一號に出て居る。伊勢の津の觀音堂の二月十七八日の法會は、たしか修二會と謂つて古い本にも多く出て居るが、土地では津のオコナヒと謂ふことが、澤田君の五倍子雜筆に見えて居る。鬼を床下から引出して杓子で押へる式ださうである。村の郷社の行事でも、曾ては法師が參與したものが多かつたので、雙方を通じてこの名で呼んだのであらうが、その實質は決して佛教によつて導入せられたものでないと思ふ。

　奈良縣では吉野郡野迫川村北今西の不動さんで、これも舊正月にオコナヒが行はれたが、これは村人が源平に分れて綱曳の勝負をする式であつた。大阪府では泉南西葛城村が近江甲賀と同じく、正月八日の山の神祭をオコナヒと謂つて居るが、その日山から伐つて來る木を、やはり寺風に牛王杖と呼んで居る。京都府でも小鹽山十輪寺の正月十四日のオコナヘといふのが、他の地方にもよくある道祖神社の祭であつた。京都民俗志によれば、もとは村民中三人の長男十六歳以上の者、麻上下を着て寺に參り、この社に出て式を行つたといふ。

　オコナヒといふのは古語であるが、これを普通名詞に今でも用ゐて居る處は少ない。私の知る限りでは、壹岐島の續方言集に祈り呪ふことをオコナヒ、信州の南端遠山地方では、修驗者などの手で印を結ぶことがオコナヒだといふ。(59)靜岡縣方言辭典を見ると、遠江磐田郡で、オゴナイといふのは猿樂のことだとある。これなどは少し變化が甚だしく、或は別の語からとも考へられるが、やはり春の始めに行はれる祭の式に、天狗の面などを被つて踊る演伎があつたからで、その爲に同じ郡では天狗をオコナヒ神といひ、天龍川對岸の三州富山村の熊野社でも、火のう水のうの二つの面を、オコナヒ樣又はオクナヒ樣といふさうである。以前遠野物語に出て有名になつた陸中のオクナイ棟は、家々の神ながらオシラ神とは別のやうにも説かれて居るが、羽前莊内地方のオコナヒ樣は、ほゞ精確にオシラ神に該當して居る。これは秋の末に子供たちの手に持つて村内をあるく神で、この祭が又一種のオコナヒであつた。それを土地の學者だけが、藩公酒井宮内大輔の遺�ｺを記念したもので、即ち御宮内樣が正しいなどゝ謂つて居るのである。

　

(60)　　　　　三月節供

　

　一　農村の式日の中でも、殊に三月三日の慣習には古今の變化が甚しかつたのでは無いかと思ふ。さう思ふ理由は、土地によつて行事に著しい相異があり、しかもその一つ／＼が、意外に遠方に於て類似を示して居る。例へば日本海岸に近い加賀の或部分で、この日を戰の祝ひと稱して弓箭を弄ぶのは、何か雛祭と調和せぬやうであるにも拘らず、太平洋に面した陸中の釜石に陣場遊びがあり、その南隣の氣仙では、やはり亦小兒的射の遊戯が殘つて居る外に、更に伊豫の西海岸の如き、前の二地方と關係の無ささうな方面にも、コイヤバと名づけて山の上の眺望の好い處に、男の兒が多く集まつて飲食し、それからゲンジと名づけて源氏平氏の用ゐたやうな旗に、三月三日千度戰萬度勝也と書いたものを、右のコヤバに立てるといふことが、郷土研究（四ノ六二六頁）に報告せられて居る。或は又この日必ず蜊を食べるといふ習ひが、上總あたりの産地に近い村里のみならず、海無き美濃の國、又は信州の境に接した山村までに及んで居ることは、それが交通盛んな平野地方に於ても認められぬ處がある爲に、却つて遠い傳來のあることを考へしめる。

　二　しかもこの節の都の手振は、驚くべき勢ひで模倣せられて居るから、我々の共同の手帳が用を爲さなかつたならば、恐らくはこれ等多くの意味深き痕跡が、顧みられずして永遠に消え去ることであらう。蒐集と記録との事業の甚だ輕んずべからざる所以である。三都の讀書子などは、三月の節供と謂へば直ぐに雛人形を聯想し、外國人の著述にはこれを珍しい日本の古風俗の隨一に算へて居るが、これが存外近い頃からの流行であり、雛の製作にも年代及び(61)地方の著しい變化のあつたことだけは、もう知つて居る者が多いやうである。たゞそれ以上に歩を進めて如何なる必要から最初人形を祭つたかと云ふ點になると、雛の細工が餘りに精巧を盡した結果、却つて不明に歸した嫌ひがある。それは全くこの比較調査の不可能であつた爲で、これを思ふと林魁一君の地方で、たゞ一箇の燒物雛でも、新しいものを水の流れに送つたといふことは、學問の爲に價値ある記録と言はねはならぬ。

　三　古雛に靈が有ることは屡々耳にする所でありながら、實は今まではその理由が分らなかつた。東京から西の郊外へ出て見ると、手が取れたり顔の胡粉の剥げたりした雛人形が、路の辻の小祠の附近に出してあるものをよく見かける。それが相模と甲斐境の山村に入れば愈々數多く、その場處も村はづれの石地藏の傍などに、一定した送り先があつたのである。それが悉く不用になつた品を、粗末にしてはならぬからかうして置くやうに人は考へるが、例の目無し達磨の目を入れたのなども、同じやうに始末するのみならず、棄てた以上は隨分粗末にして居るから、元はやはり藁人形などゝ同じに、神の形代として送り出したものである。雛を水に流すことは鹽尻二九にも注意して居る。嬉遊笑覽六上に相州厚木邊で、古雛を川に流すとて棧俵などに載せ、兒女白酒の銚子を携へて河原に出で、別を惜しみて一同に悲しみ泣くとあるが、これを他の色々の實例と合せ考へると、三月三日の川遊びも山遊びも、始めの趣意は神送りであつて、藁の人馬の腹のところを苞形にこしらへ、その中に數々の食物を入れて野山へ棄てに行くのと、一つ儀式の變化であつたことが想像せられる。美しい張子押繪の人形の珍重せられる以前、雛にもやはり草を結ひ、又は瓜に目鼻を描いたやうな、年々掛け流して差支への無いものが、國々の田舍にはあつたのである。

　四　上總の「花見やれ海見やれ」は、如何にもなつかしい昔風であるが、相模川の邊の別宴の悲しみと共に、これも亦道饗祭の樣式の一つであつて、それと殺伐たる陣場弓箭の沙汰とは、如何にも別々な行事らしく見えるが、本當は剛柔二樣の使ひ分けで、雙方共に目に見えぬ精靈を、一日も早く退去させようとする目的は同じであつたかと思ふ。尚五月と七月との人形送りの風習などゝ、追々比較を進めて見たら、心付くことが多いであらう。

　

(62)　　　　　卯月八日

　

　折口氏の髭籠《ひげこ》の話の中に「卯月八日のてんたうばな〔六字傍点〕なども、釋尊誕生の法會とは交渉なく、日の物忌に天道を祀るものなるべく、千早ふる卯月八日は吉日よ、神さけ蟲を成敗ぞする、と申すまじなひ歌と相俟つて意味の深い行事である。但し竿頭のさつき〔三字傍点〕の花だけは花御堂にあやかつたものであつて、元はやはり髯籠系統のものであつたかと推察する。尚後の話の都合上この八日と云ふ日取りを御記憶ねがつて置く」とある。我々は無論今もこの興味ある新説を記憶はして居るが、折口氏はまだ中々その續きを發表せられない。只催促するのも失禮と存じ、そちらの方の材料を少々提出して置く。折口氏は所謂天道花の花と竿とを引離して、竿は日本の卯月八日の用に立て、花は天竺の佛誕會に返してやらうとせらるゝらしいが、それは少々むつかしい。この日花を神に捧げる風習は如何にも弘く行はれて居るが、必ずしも悉く竿の頭に付けて立てはせぬ。現に孝經樓漫筆に依れば「江戸四月八日に卯花を門戸に插む〔二字傍点〕云々」とある。少なくともその一部では竿を用ゐなかつたのである。木曾の村々でも家の戸口に山躑躅を打付けてあるのを自分は目撃した。伊那谷ではこれを後に苗代に立てると云ふ。熱田神宮四月八日の花の頭《とう》は剪綵花《つくりばな》を飾つたらしく、張州府志など迄が、これを灌佛會の一種の式と斷定して居るが、それらしい證據も無いのみならず、諏訪大明神畫詞の中に詳に見えて居る花會《はなのゑ》の式の如きも、七日八日の兩日に分つて右左の頭役これを勤仕し、社僧これに干與したにも拘らず、正しく神事であつたことが分る。即ち亦竿無しの花を用ゐた古い一例である。花の窟《いはや》の花祭はあまり物遠いとしても、日前國懸兩宮往古年中行事にも「四月八日供躑躅」と云ふ例はあるので、自分等は寧ろ何故に釋迦誕生(63)に花御堂を作り始めたかを考へて見たい位である。鹽尻四八には男山八幡、毎年六月の花の頭の式が、熟田四月八日の例とよく似て居ることを述べ、後者は灌佛會にして、前者は夏中の供花に起ると説いて居るが、單に期日が四月八日である爲に、この差別を認めたのならば誤である。しかし社僧等が名づけて供花と云つた風習とても、尚何れの點まで佛法の教に基いて居るかを考へる必要がある。後水尾院年中行事四月十六日の條に「けふより黒戸にて夏花を摘ませらるゝ云々」とあつて、伊勢と内侍所へは三葉づゝ、他の大社は二葉づゝ、諸佛七葉、御先祖七葉などゝ記されて居るが、その花摘の行はるゝ日も同じ月の八日であつた例が多い。日次記事に依れば、東寺などで花摘と云つたのはこの日花御堂を結構して、小釋迦の銅像を安置することで、この日又比叡山戒壇堂の佛生會に、女人等の常は登拜を許されざる者も參詣し、同じ序に東坂本栗坂の上なる花摘社に詣づるとある。併しその花摘社が佛誕生と關係があつたことは未だ確かでなく、近江輿地志略二十二の如きはこの社の祭神を傳教大師の母なりと言ひ、この日は女子此處まで登り拜し、それより七月八日まで一夏の間花を摘み佛に供するのが例であるとのみ記して居る。成るほどこの日が女に取つて最も名譽ある記念すべき日なる故に、この日を以て祀らるゝ結界の社に、花摘の名が起つたのだとも説明し得るか知らぬが、一たび他の地方の事例を比較して見ると、根原の必ずしもさう單純で無かつたことが窺ひ知らるゝのである。越後出雲崎の舊事を輯録した「出雲崎」と云ふ書に曰く、西越後の村々の婦女、毎年四月七日には精進潔齋し、八日は早天に晴れの衣を着て近き山々に行き、藤の花房ある手頃の一枝を採り還り家の佛壇に供ふ。米山の藥師へ捧ぐる意にて當日餅團子を作り、業を休むは古來の習なり。此風慶長頃特に盛んにして或は奢侈の傾あり、支配堀家より四月八日山入嚴禁の命あり、追々衰へたりしも、今も村田邊（三島郡島田村大字村田？）に此遺風あり、名づけて藤の花立と云ふと。この話の中で注意すべきことは、第一には釋迦と言はずして藥師と言つたことである。月の八日は藥師の賽日には相違ないが、この類の藥師は却つて八日と云ふ所から祭り始めたのでは無いかと思はるゝ仔細がある。陸中水澤に近い化粧坂《けはいざか》の藥師が、昔人柱に立つた京の小夜姫と云ふ女の護持佛と傳へ、亦この日を(64)以て祭られるなどはその著しい例である（郷土研究二卷六九一頁）。美作勝田郡豐國村大字｜上相《かみや》の間山《はしたやま》藥師で、毎年この日｜痩御前《やせごぜ》と稱する像を人が裸になつて背に負ひ、群衆手を叩いて「をかしやヤセゴゼ」と囃して大笑ひに笑ふ中を、「をかしうも候はず」と言つて些しも笑はずに、藥師堂を三周すれば福を授かると傳ふる式があるなど（東作誌）、細男《せいのう》と關係があるらしい古めかしい風習で、やがて又藥師の信仰が後に起つたかを思はせる。

　第二に注意すべきはこの日山に登ると云ふことである。卯月八日を山登りの日とする習慣は至つて弘く行はれて居るらしいが、その外にも山に齋かるゝ有名な社にこの日を祭日とする例は多い。近くは武州秩父の三峯神社、上州横室の赤城神社、駿河の愛鷹明神、越中の立山權現、大和では纏向《まきむく》の穴師坐兵主《あなしにますひやうず》神社、東北では羽後飽海郡の國幣中社大物忌神社、同雄勝郡大澤の荒羽波岐《あらはゞき》神社、北秋田の七座《なゝくら》神社森吉神社等、陸中石卷の白山神社、磐城倉石山の水分神社、九州では薩摩串木野の冠嶽（西）神社など、何れも舊來卯月八日を以て祭日として居るのである。

　更に第三の點は婦人が登ると云ふことであるが、これも仔細のあらうと思はるゝは、（イ）には、女神を祭る社の四月八日を祭日とすることである。例へば玉依姫を祭ると云ふ下總香取郡の東ノ大神、草奈井比賣と云ふ諏訪の蓼宮社、倭迹々日百襲姫《やまととゝひもゝそひめ》を祀ると傳へた讃岐の一ノ宮田村神社、或は倭姫命を祭つたのが始めと云ふ江州土山の田村神社などの類で、この外にも新暦に引直した社が猶多かりさうである。（ロ）には神蛇體なりと云ふ言傳への往々にして存することで、?々水の邊に於てこの日の祭を行ふことがこれと關聯するらしい。伊勢鈴鹿郡の鷄足山は卯月八日の登山を以て聞えたる靈地である。寺では千手觀音を本尊にして居るが、而も山上に鏡ヶ池と云ふがあつて、傍に善女龍王雨壺の三祠を齋き祈雨の神として仰がれて居た（三國地志二十六）。浮島を以て知られて居る羽前大沼の浮島稻荷神社も古くから例祭は四月八日で、祭神字迦之御魂と云ふも元は宇賀神即ち辨才天の信仰に始つたものらしい。鍋の祭で評判の江州筑摩神社の如きも、社殿大湖に臨んで竹生島に向ひ、今は主神を大御食津神《おほみけつのかみ》として居るが、以前は市杵島姫命《いちきしまひめのみこと》と傳へて居た（木曾路名所圖會）。祭は同じ四月の八日で八人の童女を玉串を以て定め一月の物忌させて神事に仕(65)へしめた。前に擧げた陸中化粧坂の藥師堂に美女を以て池の神の牲とした口碑を傳へるのも、その藥師の賽日と云ふ四月八日と關係あることは、同時に報告せられた武藏井ノ頭の辨天の申し兒なる長者の娘が、池に入つて蛇體となつたのも同じ日と云ふ話（郷土研究二卷六九二頁）と見合せても推測し得られる。更に又野州葛生の峯渡權現《ねわたりごんげん》に於ても、昔蛇體となつたと云ふ長者の妻の供養を、同じくこの日に行ふ例であつたと云ひ、四月六日を以て例祭とする近江伊香郡の大音神社にも、やはり弘法大師が池の主を濟度したと云ふ、かのせゝらぎ長者の妻虎御前の話（同上四卷三三九頁）と相似たる話を遺して居る。諸國に數多の跡を留めたトラと云ふ比丘尼は、立山及び白山に傳へて居るトウロの姥、さては大和の金峯山で古く説く所のトラン尼と、起原は皆一つであらうと云ふ迄は前に既に説いたが、自分は獨り窃かにこれを生島足島などのタル、及び大帶日子《おほたらしひこ》・大帶日女などのタラシとも同じ語で、社頭の靈泉をミタラシと呼ぶことも、これと關聯して居りはせぬかと思つて居る。豐後國東の海上に在る姫島にも大帶八幡の社がある。以前はこれを大虎八幡と呼んで居た。祭の日は四月八日と七月七日とで、その七月七日も水の神に縁のある日である。秋田市の古四王神社の附近には、もと船ヶ澤と云ふ地に虎ノ井と稱する清水があつた。四月八日の祭の日に木馬を灌ひ奉るより外の用には用ゐざる水であつたと云ふ（蕉雨雜筆）。祭の日に神輿を靈泉の上に迎へまつる例に就いても、前に一寸述べて置いたが、所謂神輿洗ひもしくは濱下りの例は、諸國にあまり多くあつてこの序に列擧することもむつかしい。唯その中で自分の珍しいと思つたのは、大祭の日の神事とは獨立してこの儀式のみを行ふもの、言はゞ濱下りの爲の濱下りを行ふ地方のあることである。たしか仙臺領にもこの例があつたかと記憶するが、自分が高木誠一氏から聞いた所では、磐城四倉濱にも村々から神輿を海岸へ舁いで出る風があつて、その日がやはり四月八日であつた。そこで立戻つてこの日を重要なりとするに至つた理由を考へて見る。熱田の花の頭などは、書物に由つては「花の堂」とも「花の橈」ともさま／”＼の字を宛てゝ居るが、これを諏訪の花會の古式に比べて見れば「花の頭」と書くことの正しいのが分る。頭とは頭人又は頭屋の頭で、年番の司祭者を意味する。熱田にも郷頭人輔頭人の二人があつて、毎年(66)四月晦日を以て選定せられ、翌年の五月六日まで神務を執つて次の頭人と交代した。その二人の頭人は四月晦日の夕方に鈴宮の海邊に出て解除（御祓）をしたので、この式をば頭人濱下りと名づけて居たさうである（張州府志五）。それから推測を下すと、四月八日は五月田植の季節の祭の爲にする齋忌の始めの日では無かつたかと思ふ。農民に取つて最も大切なる米作安全の祈?と豫言とが、五月の上旬所謂端午の節供を期として行はれたとすれば、四月の八日はほゞ散齋致齋の日數に合ふので、元は必ずしも八日では無かつたかも知れぬのは、上に列記した祭日の外に卯月上卯日と定めた社もあるので察せられる。

　婦女が田植の儀式に深い關係のあつたことは、今も早少女の晴がましい支度に跡を留めて居る。その中の一人を選定してオナリと謂ひ、ヒルマモチと稱し、特に神に仕へしめて居たらしいことも俚謠集の多くの田歌に由つて察せらるゝ。彼等がその準備として通常の生活と別れる際に、山に入つて花を摘み、海川に下つて身を潔め、少女としては容易ならぬ氣づかはしき謹愼を始める事は、花やかにして、同時に物哀れな光景であつたことゝ思ふ。佛教の干渉介助が始まつてこの作法のやゝ弛んだ頃に、即ちかの多くの水の神が妻を?《もと》める話は起つたのであらう。出雲大社などではこの日魚膾を設けて醴酒《あまざけ》の宴をする式があつた（大社志）。河内の譽田《こんだ》八幡でこの日の若宮祭禮に造花を飾つた壇輾《だんじり》を曳くのも、壹岐の住吉社でこの日｜軍越《くさこえ》の神事と稱し神馬を牽いて村々を巡るのも、他の諸社の祭典と共に、更に重大にして更に靜肅なる稼穡の祭の豫備の儀式から發達したものでは無いかと思ふ。假にこの推定の如しとするならば、八日の日に戸口に插す季節の花を物忌の徴と見るまでは異議がなく、折口君が天道花の天道と云ふ二字に重きを置かれた點だけは、如何なものかと云ふことに歸着するのである。

　

(67)　　　　　　　サンバイ降しの日

　

　終戰翌年の秋、香川縣大川郡の會員田中正夫君から、小さな葉書の報告を受取つて以來、私の田社考は急に興味を加へ、最初に先づこの近所の高等農林校の學生の爲に、病ひ田の話といふ長い講演をしたのが、その半月ほど後のことであつた。その手控へは保存してあるのだが、次々と付け加へたいことが多くなつて、もう簡單にはまとめられなくなつた。日本の田の神信仰は、どこの國からの借りものでも眞似でも無く、言はゞ我々の神の道のまつ只中であるにも拘らず、神社に仕へる人たちが、始終申し合せたやうにこれを研究の外に放置し、たま／＼かういふことに注意しようとする者があつても、それを民間信仰だの民俗學だのと名づけて、よその道樂のやうに看過して居た爲に、時代の變遷に會ふ毎に埋没は愈々甚だしく、結句めい／＼の迷ひを散じ蒙を啓く爲に、手近に見つかる知識をさへ無くしてしまふのである。私の仕事なども取掛りが遲かつた故に、間に合ふかどうかは甚だ心もとないが、一人で爲し遂げられぬなら手分けをしてなりとも、もう少し前の方へ推進めて置きたく、それには又時機もあり持場の適不適も有るかと思ふので、こゝに讃岐の同志の鹿島立ちの日を利用して、一つサンバイサンのことを説いて置かうと思ふ。年をとるととかく話がくどくなる。うまく一文のうちに言ひたいことを盡し得るや否や、それがやゝ心配である。

　田中君の葉書といふのはごく手短かで、もつと調べて下さいと言つてやつたのだが、まだその返事は來ない。その内容は、白鳥からの歸り途、三本松の驛の近くの田圃に、稻刈りの跡の土を少し盛り上げて、そこに一株の稻を刈り殘し、その前に青竹を立てゝ花をさして供へてあつたといふ、たつたこれだけの事實であつたけれども、二つの點に(68)於て私をびつくりさせたのである。その一つは、たとへ小さな土まんぢゆうにせよ、田の中の祭にわざ／＼祭壇を築くといふ風が、まだこの地方に傳はつて居たことである。その盛り土が小さく又臨時のものであることは、却つて東國農村の水口祭や、正月十一日の田打ち行事との聯絡を考へさせるのだが、この點は別に狐塚の話のつゞきとして、「民間傳承」の方へ書くつもりだからこゝでは省いて置く。第二のびつくりはサンバイサンとの關係で、この地方は一帶に田植期の終り、即ち全國で汎くサ）ボリといふ日に、もうサンバイサンは上げてしまつて、それで田の神の祭はすんで居るものと思つて居る形がある。然るに別に收穫期に臨んで、かういふ祭があるといふことは、私などには全く新しい知識であつた。縣下他の村々に於てもこれは普通の事なのかどうか。もしさうだとすると、この日に祭り申す稻の神は、サの月のサンバイサンとはどういふ關係に在り、又如何なる名を以て呼んで居るのであらうか。土地の人にはわかり切つたことかも知らぬが、我々には今まで心づかずに居たことなのである。どうかこれからはそれを日本國内の、共有の知識にして置きたい。

　

　　　　　　　　　　○

　

　分類農村語彙にも一通りは出て居ることだが、地方では却つてさうとは知らない人が多いかもしれない。田植時に祭る家々の御田の神を、オサバイ又はサンバイサマといふ地域は、四國四縣と、中國西半の四つの縣だけで、少しはその外にもあるのかと思ふが、私はまだ確かな例に出逢つて居ない。さうしてこの八つの縣は隅々まで、といふよりも寧ろ隅の方へ行くほど、鄭重に又樂しく、田植前後の二度のサンバイ祭を營み、從つて田の行事はこれだけですんだかの如き印象を人に與へて居る。弘く國内諸方の例を比べ合せて見ると、以前は少なくともさうで無かつたといふ證據が擧げやすい。つまりはこの信仰行事には中代の變遷が大きかつたのである。

　最初の問題の一つは、いつ頃からどうしてサンバイサンといふ樣な名が、この地域だけに流布したらうかといふこ(69)とだが、これは今だけの知識では私たちには答へにくい。石見の牛尾三千夫君なども夙くからこれに注意して居るから、同君と話し合ひをした上でないと、うかとした斷定も下しにくいが、かういふ上代には無かつたらしい名が新たに生まれるのは、或は民謠即ち田植唄の力であり、今はもう衰へて居ようとも、曾て花田植の花々しい儀式が、極度に人心を引付けて居た名殘でもあるかと想像せられる。ずつと前に目を通した防長二國の風土書上の記事では、一方にサンバイの祭が盛んに行はれて居ると共に、他の一方には村々の稻の蟲追ひを、サバエ送りと稱してこれも、大がかりな人を興奮させる行事であつた。それ故に何か二つの名稱の間には關係が有るかと、考へずには居られなかつたが、この方は現に害蟲をサバエといふ語があり、又五月蠅なす惡しき神などゝいふ古記の文句もあるので、田の神とは直接の繋がりは無ささうであり、強ひて關係を付けるならば、無意識なる外形の感染があつた位のものであらう。とにかくにこの名は珍しく又新しく、古い日本語の訛つて傳はつて居るものとはどうしても解しにくいのであつた。

　そこで又色々の飛んでもない推測説が起りやすい。或は私のもその一つといふまでに過ぎぬだらうが、倉田一郎君が採訪した伊豫の越智大島の例では、田畠の神をサンボウサンと呼んで居り、この言葉は又周防都濃郡の田植歌にも有る。讃州の方にももしや飛び／＼に、さういふ名は殘つて居らぬかどうか。たつた二つでは何分にも心もとないが、この方ならば少しばかりの心當りが東日本にもあるのである。すでに農村語彙にも出て居るから詳しくは説かない。千葉縣の太平洋地帶では三ボウソウリ又は三本立てといふのが田の植始めのことで、これには現實に三株づゝ三列の苗を、儀式的に植ゑてかゝるからさういふと謂つて居る。さうして田の神の祭には三把の苗を洗ひ清めて、それを中心に供物を上げる慣習は、全國に行渡つて非常に多いのであつた。勿論例外には二把一把、七把に取分けて祭るといふ話も聽くが、これだけはたしかに三つといふのが原則のやうに思はれ、近頃になつてもぽつ／＼と判つて來たことが多い。どういふ順序でさうなつたかゞ説明し得なければ物にならぬが、この三把の苗とサンバイサンの名と、脈絡がありさうだといふ推測ばかりは、空なものでないと私は思つて居る。

(70)　今まで私たちのさう深く考へなかつた事は、この三把の清い苗が田の神のよりまし、即ち祭の日の神座、御幣や後世の鏡などに該當するものだつたといふことで、家で田の神の祭をするやうになつてからは、たゞその三把の苗を洗つて持つて來て、それを供物と一しよに供へるのだといふ風に、當の農民までが段々に考へて居るやうになつたが、少し氣をつけて見ると、さうでない證據は得られる。「高志路」に報告せられた佐渡の二見や北鵜島の田植、「ひだびと」に?々説かれた車田といふ正式の植方などでも見られるやうに、特に三株の苗を鼎の足に插して、そこを最初にくる／＼と廻り植ゑする風は、東上總の海沿ひだけの奇習では無かつた。能登の鉈打村でもこの三本立てがあることは近頃わかつた。讃岐はこれ等の土地よりもずつと開けて居るだらうが、それでもまだどこかの隅の農家などには、何の心も無くこれをつゞけて居る昔者が居るかもしれない。それにつけても賢い人にばかり、物を尋ねて居た今までの採訪ぶりは改めなければならぬと思ふ。

　

　　　　　　　　　　○

　

　田の神の祭場は以前は、苗代の眞中であつたのが、後々水口から田の畔の一部に移り、更に家の中で臼を伏せ箕をあふのけ、又は床の間や神棚の上でも、祭をするやうになつたものと私は見て居る。「村」といふ雜誌に書いた「苗忌竹の話」は、不十分ながらそれを説かうとしたものであつた。島根廣島二縣の間に行はるゝ大田植には、サゲと稱する田人の頭取が、高い杖を携へて出場する。サゲはおそらくその杖の名で、サの木だからサギと謂つたものであらうが、現在はサンバイ降しの日になつてからこれを田の中に立てるから、苗忌竹との關係が不明になつた。佐渡の二見などの三把苗植でも、楢の一枝をその三把の苗の眞中に插して、こゝを植ゑるときに田の神節を歌ひ、又その楢の枝を田の神降臨の目標だと謂つたさうだが、これ又すでに植田の中のことであつて、苗代に於てはその苗が如何に取扱はれて居たかを知ることが出來ない。ところが信州などのタナン棒、又は田の神さまの腰掛ともとまり木ともいふ楊(71)の木は、もう苗代の代掻きの日から立てゝあつて、固い家では三把の苗を、その田神棒の根もとから採ることにして居る。關東の苗尺、石城地方の苗見竹、それより東北一帶にかけての家々の苗じるしは、何れも籾播き以前から苗代の眞中に立てられ、それを目當てに種を撒くために存在するものゝ如く言ひ傳へて居るが、しかもその苗じるしの根もとに近い苗が、特に大事な苗だと思つて居る人は、有るのかも知らぬが私はまだ聽いて居ない。何でも無い逸話のやうに笑つて語ることで、私ばかりが夙くから氣をつけて居ることは、大昔弘法大師が天竺から、稻の穗をそつと持つてござつた時に、後々稻荷に祭つてやるからといふ約束をして、狐にその種子を芦原の中に隱させた。その目じるしに立てられたのが苗じるしの起りだといふことである。この話は色々と形をかへて、今でも日本全國に分布して居るのだが、これを苗じるしと稻荷とに結び付けたものは少ないらしく、しかもこの點が可なり有力な一つの暗示であつた。簡單な言葉では説き現はせないが、信越一帶の弘い地域では、春播く籾種に限つてこれをスヂと呼んで居る。家に傳はる米の種にも系統があり、これを次の年の生産に引繼ぐにも、收穫期以後の幾つかの儀式はあつたやうで、祭は乃ち田植の始め終りの、短い日數を以て完成することが出來ないものだつた。その點が今や漸う忘れられようとして居るのである。讃岐大川郡のたつた一つの戰後の小見聞が、かくまで私を動かしたのには理由があつた。

　そこで改めて諸君に尋ねて見たいのは、故宇野博士のいはゆる稻米儀禮は、如何なる日取りを以て、香川縣では行はれて居るだらうかといふことである。私などの知つて居る限りでは、阿波の北部の村々では種下しの日、苗代の畦の内側に樹の枝を插し、燒米と雜魚とを供へてサンバイを祭つた例があり、伊豫大三島の北端の村には、正月二日に米一升を年神に供へて、これをサンバイオロシといふ習はしもあつたが、その他の弘い地域は一般に、この神を降し申すのは初田植、即ちこの邊でサイケ又はサイキ、他の土地ではサオリ・サビラキ・ワサウヱともいふ日に限つて居るかと思ふがどうであらうか。果してこの想像の如しとすれば、そこに又一つの不審が生まれて來る。即ちそのサンバイ降しより以前、及び田植終りのサンバイ上げより後に、田ではどういふ神を祭つたか。それとサンバイ樣との關(72)係はどうなつて居るものと、今日は考へ又は解せられて居るかといふことである。

　

　　　　　　　　　　○

　

　民俗學が一國總體の學問として存立する利益は、實は專らかういふ所から收められる。いくら一地方の事實には詳しくとも、比較をして見なければ今のやうになるまでの變遷はわからない。さしも重要なる我々の信仰生活ではあるが、一つ以前の?態は文獻にも傳はらず、從つて又最初からこの通りであつたやうに、信じ切つて居る者が多いのである。その樣なちつとも改まらぬ文化が、有つたとすれば寧ろ不思議であらう。弘く全國を見渡すと、田の神が始めて田に下りたまふといふ日は、大よそ三通りに分れて居て、田植始めの日をそれだとするものは、この八縣のサンバイ地域の他には無いやうに思はれる。誰にも氣がつくであらう一つの差異は、オロス・アゲルといふことを他の地方ではあんまり言はない。さうしてこちらの支度の有る無しに拘らず、かねて定まる日があつて、その日になると田神が降りてござるので、農家では急いでそれに間に合せようとするのである。關東の一端から東北一帶、越後から能登半島にかけて、中部地方では岐阜縣の大部分など、遠く離れては九州の外側に在る村々でも、田神農神又は作の神が、始めて田に降りたまふ日は大體に舊暦二月の中頃ときまつて居る。奧羽の北端には小部分、三月十六日としたところもあるが、それから南には二月の十六日といふのが多く、他はいづれもそれよりも少し早い。この日の早朝には、どの家でも餅を搗き、米が無ければ空臼でも鳴らせといつたり、又はそのから臼の音を聽いて、米がもう無くなつたらしいと、急いで降りて來られると言ふ村もある。社日といふのは舊二月の彼岸のうち、又は最もそれに近い戊《つちのえ》の日といふことになつて居るから、やはり亦この類に算へてよからうが、東京周邊から近國にかけて又は京阪の方面にも、社日に田の祭をする村々が多い。たゞさういふ中で山梨縣の山村のやうに舊の四月の或日を以て、作の神の降りたまふ日として居るのは、注意せずには居られない例外である。

　

(73)　　　　　　　　　　○

　

　話があまり長くなつて、この會の人々にも迷惑だらうから一旦切り上げるが、結びに一つだけ是非言ひたいことは、田の神が古來の約束に基き、自分から進んで田に降りてござるとすると、農民の方でも前以て、是非とも祭の場處をきめて置いて、行きちがひにならぬ用心をしなければならぬ。その方式は果して定まつて居たらうかといふ點である。家に豫め田の神の棚を設けて、一應はそれへ御迎へ申すのは、多分は後代の發明と思はれるが、その爲に祭の作法は改まつたのみか、神の解釋にも意外の變化が起つて、たとへば惠比須大黒を以て田の神年の神の本體の如く、思ふ者を多くしたことは一つの現象であつた。苗代を又親田とも稱して、當然にそれへ御降りになるものとしたのは、やゝ古くからの考へ方で、明治以來の勸農政策によつて干渉せられた東北地方の通し苗代の風習なども、これあるが爲に同情がもたれるのだが、なほそれだけでは安心して居られないで、前以てそこに木を立て齋串を插したのが、前に私の述べた苗忌竹、又は田の神さんの腰掛けの起りだつたらう。この風習は殆と無意識に、今でも田のほとりに樹枝を插す慣行として殘つて居るが、最初の目的は一般にもう忘れられて居る。フォクロアの役目がどこに在るかは、僅かな親切と興味とを以てすぐに心づかれるであらう。たとへば小井川潤次郎氏が綿密に調査した青森縣八戸地方の苗じるしは、大樣似た形で津輕にも傳はつて居るらしいが、これは家毎に苗代に立てる植物がちがひ、三本五本と立てる棒の數もちがひ、又その寸法や組合せ方も、苗代毎に異なつて居るのである。田の神がその特色を記憶したまひ、毎年決して降る田をまちがへられぬやうに、村の家々の數が多くなるほどづゝ、苦心を積み重ねて來たことは家紋や家じるしも同じで、つまりは田の神は即ち家の神といふ信仰が、近い世代までなほ消えずに居たのである。太初以來、個々の部曲家門に專屬した神が、段々と共同の神に化し、いはゆる分靈思想を發達せしめた傾向は、今にたゆみも無く續いて居る。さういふ中に在つて、なほこれほど顯著なる證跡を保存したといふことは、神社神道がいはゆる民間(74)の信仰を、度外視してくれた御蔭と感謝してもいゝ。たゞ我々素人までがそれに卷き込まれて、たつた一つの田の神が全國を飛びめぐり、何百萬戸とある農民の田を、保護して居られたものと我も解し、人にもさう思はせようとしたことは、腑甲斐ない話と言はねばならぬ。神を共同に持つといふことは、國の結合の爲には非常に大切なことであつた。新たにさういふ大きな力のある神々の、示現なされたのも自然の進みであらう。しかしさうして中心の信仰を築き上げるには、我々の祈願は十分に公けのものでなければならぬ。人を抑壓しなければ爲し遂げられる望みも無いやうな、私の欲念を抱きつゝ、我方へ神の惠みを引寄せようとすれば、いやしい爭奪に歸すべきことは政治も同じである。私はまだ／＼四國のサンバイオロシなどの如く、出來るだけ田歌の聲を高く美しく、娘たちの笑ひを花やかに、彼等の衣襷《きぬたすき》の色どりをさま／”＼にして、神を自然に此方へ靡き依りたまふやうに努めたことを、ほゝゑましい巧みだと認めて居るのだが、しかもそれが最初の家の神の信仰から見れば、一つの異端であることだけは皆同じである。如何に質素な又物靜かな祭の形であらうとも、以前の田の神は子孫の田より他に、降りてやすらふべき田をもつて居られなかつた。さうして活きて働く彼等と共に、その田の稔りを豐かにすることが、同時に又自分たちの永く血食する道でもあつた、といふ風に少なくとも活きた子孫の者はもとは皆信じて居た。從つて又死して行く處には迷はずに居られたのである。それが正しかつたか否かは、私たち歴史を究むる者の問ふところではない。たゞ今一段と曾てあつた事實を精確にしようと念ずるのみである。讃州の同志に望むところは、自分たちの地方文化の發達を忘れて、今あるまゝのものが最古の形だなどゝ速斷したがらぬことである。變化があつたとすれば、どう變化したかを知らうとせずには居られぬだらう。それにはもう一足、遠く外へ出て振りかへつて見るのがよい。近頃二三の學者が何かといふと、いや南洋型だのアイヌ式文化だのといふのを聽いて、私は今あきれかへつて居るところである。それではこの永い數千年の間、果して日本人は何をして暮して居たといふのであらうか。

　

(75)　　　　　　　六月朔日の雪

　

　八木某氏が昔は寒かつたと云ふ證據に「六月の雪」を引かれたに就いて、郷土研究記者が惡口を言はれたのは是非も無いことであつたが、これに關する同記者の御考を承はらぬのは物足らず思ふ。武州比企郡高坂村大字｜岩殿《いはどの》の岩殿觀音の寺傳に曰く、坂上將軍東征の時、この御堂の前に通夜し惡龍を射斃したことがある。頃しも六月の始め、金を蕩《とろか》す炎暑に忽ち指を落すばかりの寒氣起り、積雪尺に餘りしを以て、人夫｜燎《にはび》を燒いて雪中の寒氣を凌いだ。今この近郷六月朔日に燎火を燒くはその時の名殘である云々（新編武藏風土記稿百九十一）。上州碓氷郡豐岡村不動堂の縁起に曰く、八幡太郎この地の山窟に安倍の殘黨を退治せられた時、自分は火性で本年は水性なれば、寺僧をして増歳《ざうさい》の祭をなさしめた處、翌六月朔日不思議にも雪一重降つて川岸の松の葉が白かつた。依つてこの地を薄雪《うすゆき》郡｜土用寒《どようかん》ノ庄と謂うたのが、終に轉じて碓水郡豐岡村となつた云々（行脚隨筆中）。この雪は何か特に六月も朔日の日に降るべき仔細があつたのでは無いか。近世にも六月を正月に祝ひ直して凶年を避けた話があつたやうに思ふ。

　

(76)　　　　　眠流し考

　

　　　　　　　　　　一

　

　信州には舊暦七月七日の、オネンブリといふ行事がある。土地の人たちも現在はもうさして重要視せず、又其分布が弘く、傳來の可なり久しいものであることを、心づいて居らぬ人が多い。さうして是を説明しようとした記録が、此地方ではまだ見出されて居ないのは、多分は主として子供だけが之に携はることになつて居た爲であらう。近頃の採集によつて知られて來た簡單な事實を、出來るだけ數多く掲げて置いて、次の精確なる調査の報告せられるのを待たうと思ふ。

　先づ最初に小縣郡の豐里村では、此日早天に附近の川や池に水浴びに行くことを、オネンブリを流すと謂つて居る。七夕樣の笹は夕方になつて流すのだから、それとは別であるといふ。このオネンブリを早く流して置くほど、其一年中早起きになれるとも傳へて居る（郷土研究一卷四號）。同じ名稱は附近一帶にも行はれて居るかと思はれ、或は又此日は七くら水を浴びるといゝと謂ふ村もある（長村資料）。七月七日には七囘物を食ひ、七度水に入るものだといふことは、東北地方でも子供のよく口にすることだが、多分はもつと弘く行はれて居る習慣であらう。備中の阿哲郡にも、ナヌカベ（七日浴び）といふ語がある。即ち子供が七度水を浴びるのをさういふのである（備中北部方言集）。

　上田の市中でも、月送りの八月六日の夕七夕祭を行ふが、翌朝未明に其笹を流しに行つて、川で泳ぐことを眠流し(77)と呼んで居る。昭和五年には町の青年が川に溺れ、もう是で眠流しに人が死ぬことが三年續くといつて、恐ろしがつたといふ新聞の記事を見たことがある。長野の七夕祭も亦ネンブリ流しと呼ばれ、朝早く起きて水泳ぎをし、又硯なども洗ふといふ（郷土研究一卷一號）。此日家具佛具などの油にしみたものを出して洗ひ、又髪を洗ふとよく落ちるといふのも、是に關聯した行事かと思ふ。京でも江戸でも此日井戸を浚へ、又蟲拂ひをするのは普通の習ひであつた。

　松本市と其周圍でも、七夕の日は七度ホウトウを食べ、七度水泳ぎをすれば腹を病まぬと謂つて、子供は皆川へ出かけたさうだが（同上二卷二號）、眠流しの語があつたかどうかはまだ聽いて居ない。南安曇郡へ行くとネムリ洗ひと謂つて、七日の朝は四つ前に水浴びをし、或は又七囘浴びるとも謂つた。やはり道具類を洗ふと蟲がつかぬとも病まないとも謂ひ、又女の髪を洗ふ日でもあつた（同郡年中行事篇）。北安曇郡の方にはネンブリを流すといふ語があり、朝早く顔を洗ひ又七度の水浴もする。村によつては流し火と稱して、藁や麥稈などで作つた燈籠を流すが、是も灯が消えずに遠くまで流れて行くほど、夜分睡くならぬなどゝ言傳へて居る（同郡郷土誌稿卷三）。

　

　　　　　　　　　　二

　

　木會天龍の二つの川の流域にも、同じ行事があるか知らぬが、恐らく此名稱は無いのであらう。少なくも私はまだ耳にして居ない。ところが境を越えて北三河の段嶺《たみね》村に行くと七月七日には四つ時に川に行つて、髪を洗ふと油がよく落ちるといひ、翌八日の朝は早く七夕の飾り物を川に流しに行くことをネブチ流しと謂つて居る（田嶺炬燵話）。やはり其序に水を浴びたかと思はれる。ネブチとは謂つても念佛とは關係が無かつたやうである。

　關東の方では、埼玉縣の羽生町にネボケ流しがある。是も七日の午前三時頃から床を離れ、葛西用水堀に飛込んで、泳ぎ廻つたのは子供のみでなかつた（新聞）。同縣熊谷地方ではネム流し。やはり同刻限に青年男女川の邊に集まり、手に／＼合歡木と大豆との葉を持つて之を水に投込み、

(78)　　　ネムは流れよ、まめの葉はとまれ

と唱へる。それが終つて水を泳いで還るのが習はしであつた（風俗畫報一六八號）。栃木縣に入ると、足利では之をネブト流しと謂つて、工場に働く男も女も、七日の日の夜半に渡良瀬川に入つて水を浴びた（郷土研究二卷五號）。ネブトといふと腫物のやうに聞えるが、なほ目的は睡魔を攘ふに在つて、宇都宮の方では之をネムタ流しといひ、其際に紙で作つた人形を流す風習もあつた（同上）。場所は田川の押切橋のあたり、時刻は是も深夜から曉へかけてゞあつたらしく、老若男女舟を浮べ、花火などを揚げて賑はしいことだつたといふ（栃木縣誌）。鹿沼のネムツタ流しは七日の夜明方であつた。昧いうちから起きて子供らが水を浴びる。斯うすると病氣にかゝらぬと謂つて居る（山口貞夫君話）。それから更に進んで奧州路に入つても、今日はもう中絶したかも知らぬが、白河の町にネムツタ流しがあつた。同じく七日の未明に、男女家々の前を流るゝ小川の水に浴し、水を頭に灌ぎかけつゝ、

　　　ネムツタは流れろ、豆の葉はとまれ

と唱へることは熊谷の例とよく似て居た（白河風土記卷二上）。會津の耶麻郡でも、七月七日の七日竹を流す日は、川に藥が流れると謂つて必ず水浴をする。さうして是を亦ネムタ流しと稱へて居る（郡誌）。

　中部以西の各地にも七日の早朝に七夕祭の笹竹を海川に流し、又其序に水泳ぎをして來る風習は到る處に有るやうだが、通例はそれをタナバタ流しといふだけだから、果して信州のオネンブリなどゝ同じものかどうか。是ばかりではまだ何ともきめられない。現在知られて居る實例で疑ひの無いものはたつた二つ。其一つは對馬の久根村でネブノキ流しといふもの、是は合歡木の枝を折つて海に流し、年中睡くないやうにといふまじなひとするらしく婦人が專ら之に携はると謂ふが（島誌）、其期日は七夕の朝ではなくて、舊六月十五日になつて居る。次には熊本縣阿蘇神社の眠流祭。此方は明らかに昔から七月六日であるが、近頃の記録には音振流《ねぶりながし》とも字に書いて（阿蘇の面影）、行事の中心はもう水浴ではないやうである。此祭の行列には、前月二十六日の御田植神事の時と同じ歌をうたひ、此日を限りに翌(79)年正月の謠初めの日まで、其歌をうたはせぬことになつて居たといふのは（郡誌）、意味がありさうである。末社の霜宮には此日を始めにして、九月九日までの長期の祭典があつた。さうして其期間は一切の音曲を禁じて居た。即ち災害を避ける爲の祭事であつたことは察せられるが、さて何故に是に眠流しの名があるのか。此土地のみの言傳へでは、恐らく十分なる説明が得られぬことゝ思ふ。

　

　　　　　　　　　　三

　

　仍て眼を轉じて更に日本海側の、北寄りの地方を見て行くと、爰にはやゝ比較を可能ならしめるほどの相接近した事例がある。現在知られて居る南の端は、越中滑川のネムタ流し。是は人形をこしらへて海に流す行事で、その際に子供が水を浴び、又、

　　　ネブタ流され、朝起きやれ

といふ唱へごともあるといふのだが、其期日は今は七月三十一日である（方言彙報三號）。多分は月送りの舊六月晦で、即ち九州などで弘く行はれて居る夏秋祭の海ゆきと同じ日でもあり對馬のネムの木流しと共に、是も天王祭との關係が想像せられる。

　それから越後に入つて、柏崎の七夕流しといふのが、式は越中と近くて其翌朝の七月朔を以て始まつて居た。明治の世になつて一旦絶えたといふが、此節又復活して居ないかどうか。是は主として少年少女の行事で、竹に燈籠を結び付けて立て、船の形をしたものに男女の人形をこしらへて載せ、七月六日の夜まで町内に飾つて置いて、七日の朝海へ流したのである。此時に童兒等異口同音に、

　　　ことし流れて、來年又ござれ

と唱へたといふから、明らかに亦一つの神送りであつた。新潟の元住吉神社の湊祭、又夜七夕とも呼ばれた神事は、(80)期日も行事も全く柏崎と同じだが、是には兒童で無く屈強の男子が携はつて居た。ヨタナバタは又その海へ送る飾り物の名でもあつて、一に是をマトヒ燈籠とも謂つて居た。即ちマトヒと燈籠とを組合せたやうなもので、元は二十九番のねり物のうち、十番以下がすべて是であつた。其形?一ならず、竪に長きあり、横に廣きあり、大文字にて番を表はし、種々の人形船やかた草花など、思ひ／＼に彩色し、鉾吹流し繖傘小提灯などを附け、力強く且つ氣轉ある者に持たせ、他の人々は提灯をもち、曲太鼓の囃しにて是に附添ひ、湊口の番所の所まで、列を爲して行つたといふ（越後風俗問?答）。多分は他の北海の湊々と、張合つて居たものと思ふ。

　但しこの二つの例は、形が似て居るのみで、眠流しといふ名は殘つて居らぬが、山形縣から北のものはすべて名稱までが一つになつて居る。其中でも鶴岡市中のネブリ流しなどは、家々の棧敷と飾り物、そこへ出入をする老幼男女の飲食宴遊の樂しみが主になつて居るが（日本奇風俗）、それでも翌七日の朝早く、それ等の一切の祭具を流しに行く行事はちやんとあつたものと思はれる。東田川の村々でも、やはり屋ぐらを設け燈籠をつり、子供ら食物を携へて來て、夜遲く迄その上で遊ぶことは同じで、七日の朝は亦この飾り物を、川へ流しに行き且つ水泳ぎをする。さうして此日の朝に限つて、川に藥水が流れるといふことは（郡誌）、嶺を隔てた會津の耶麻郡も同じである。

　

　　　　　　　　　　四

　

　秋田縣に入ると、平鹿郡横手の町のネブリ流しが先づ有名である。是は舊暦七月六日の夜、藁で作つた二間ばかりの舟に、滿船?燭を點したのを各町から出し、それに此土地ではネブタの木と謂ふ合歡木か又は竹へ、短册形の色紙と燈籠とを附けたのを持つた青年が多く附添うて、旭川の川原まで持出し、花火を揚げたり色々と景氣をつけた後に、川へ流すのである。近郷近在より多數の見物人集まり來り、その賑かさ十六日の送盆に次ぐとある（横手郷土史）。即ちこの土地では盆の後先に、兩度の燈籠送りをして居るのである。

(81)　それから仙北郡には大曲の、ネムリ流しがある（月の出羽路九）。生保内《おぼない》村のネブタ流しは、入込んだ山寄りの村だけに、其行事がずつと質素で、竿燈などゝいふ飾り物は無い。日は一定せぬらしいがほゞ同じ頃と思はれる。ちやうど麻剥きの作業期に入つて、夜分睡たくなつて困るのを、何かネブタといふものが居て憑くやうに思つて居たので、それを流す爲に此行事があつた。今はたゞ簡單に酒食を携へて川の邊へ行き、飲み食ひ歌ひ樂しむだけになつて居るが、それでも其折に唱へる言葉は、

　　　ネブタなんがれろ、豆の葉とんまれ

といふのがあつた（郷土研究七卷七號）。以前は此際にイボタの木の葉を以て、頭から眼顔胴を擦り、それを川に流したといふ説もあるが（同上六卷二號）、是も必ず方言ネブタ、即ち合歡の木を用ゐたもので、イボタといふのは誤りだらうと思ふ。

　町と村落と、一つの行事の花々しさの度のちがふ理由は、誰にでも容易に推測し得ることである。假にこの習俗が起りの遠いものならば、湊や城下町で始まつた氣遣ひは無く、即ち今ある形は後々の發達でなくてはならぬのだが、妙に此點だけは御國自慢の人が取りちがへて居る。古いと言ひながら今の姿によつて、其由來を説明したがる者がまだ多いのである。秋田縣などは村々の眠流しが、町とは非常に變つて居てしかも久しく保存せられて居た。さうして秋田市の所謂竿燈などは、既に百數十年も前から、今のやうに盛んなものであつた。長い竹に數本の横木を渡し、是に大いなる燈籠四十五十をぶらさげる。多力の者を選んで一人で持たせ、三四人の手代りが附添うてあるいたといふから、或は新潟の夜七夕よりも壯大だつたかと思ふ。是が此城下の眠流しなのだが、流す以前は町々を練り廻つて、華美を競ふのを主として居たやうに見える。能代《のしろ》湊の眠流しは、殊に目ざましいものであつたといふ。高さは三丈四丈、横幅は二丈、屋形人形さま／”＼の巧みを盡し、?を引いた紙で五彩を色どり、年々新を爭うて入費を惜しまなかつた。しかも是と同時代に行はれて居た村々の眠流しの方は、たゞ單に麻稈をめい／＼の齡の數だけ折つて、草のか(82)づらでからげ、それを枕の下に敷いて寢て、七日の朝早く川へ流すだけの行事をさう呼んで居たのである（秋田風俗問?答）。

　こゝで我々の注意を引くのは、同じ仙北郡でも二つの土地で、ネムリ流しともネブタ流しとも謂つて居ることである。鹿角郡も南部の宮川村などはネムリ流しと謂ひ（民俗學二卷七號）、北の毛馬内ではネンブタと呼んで居る。雙方同じといふことは土地々々でも知つて居たらうが、どちらが前からあるかは一寸決しかねる。私の想像では、ネブタといふ語が名詞として用ゐられるには、單なる思ひ付きといふ以上に、そこに一つの心理過程が介在する。即ち人を苦しませるネブタと謂ふもの、睡魔とまでは言ひ得なくとも何か流して離れてしまへるものがあるやうに考へたのが元だつたらしく、合歡木をネブタといふ方言は、恐らくは先づ來て之を助けたのである。そのネブタの木といふ方言は區域がずつと廣く、此木の枝を流す風習も亦、ネブタ流しといふ土地よりも廣いから自分はさう思ふ。

　それから今一つ重要だと思ふことは、同じ南秋田のうちでも男鹿半島まで行くと、既にネブリ流しの期日が異なつて居ることである。たとへば八郎潟に寄つた脇元村などで、同じ名を以て呼んでゐるのは、盆の十六日の佛送りのことで、此夕は胡瓜と茄子の馬に、例の通り佛樣の荷物といふ食品を負はせ、それに寺から受けて來た札、即ち佛樣を結び付け、火を焚き太鼓を叩いて村内の一地まで送つて行く。それがこの土地のネブリ流しである。七日には七囘赤飯を食べ七度水を浴びるといふ習はしもあり、宵には又子供たちが燈籠を持つてあるくが、此方にはさういふ名が無いといふ（寒風山麓農民手記）。眠流しの最初の趣意が、魂送りや聖靈舟のそれと、本來同じであつた一つの證據では無いかと私は思つて居るが、是だけではまだ多くの人の同意は得難いであらう。

　

　　　　　　　　　　五

　

　青森縣各地のネブタ流しに就いては、ずつと以前に、自分も書いたことがあり（郷土研究二卷五號）、又それから以(83)後益々全國的に著名になつて來たから、もう詳しく之を記述する必要も無いが、ほんの二三の要點と思ふ所を揚げて置くと、先づ第一に現在の大きな町のネブタは、信州あたりの眠流しと比べて、どこに一つの似た所も無いほどちがつて居る。殊に電線が邪魔になる位な巨大な紙張りの人形を作り、それを日中から擔ぎまはるなどは秋田能代にも新潟にも宇都宮にも無いことである。しかも此行事は相應に古くからあつたといふのだから、以前も此通りの著しい異色を具へて居た如く、速斷する人が無いとは限らぬが、張子の人形だけは少なくともごく近世の發達のやうで、其前はやはり夜分を主とした大燈籠であつた。所謂人形ネブタの目ざましい發達は、今純三君が精細に其過程を説いて居るが（民俗藝術一卷一一號）、それに附加へて、晝間も人に見せようといふ念慮が無かつたら、斯くまでの工夫と金とは費さなかつたのである。而うして其結果は又之を海に流す七日目よりも、却つて其前の六日間を、重んずる傾向を強くしたのである。燈籠の製作は、紙の民間普及より早い氣づかひは無い。京都や奈良でこそ既に足利期の末頃から、珍しい形の盆燈籠の、貴人の間に賞翫せられたことが見えて居るが、それを地方に住む者が利用し得たのは、又大分後のことでなくてはならぬ。津輕年代記の元龜元年の條に、流火燒諸人見物とあるのは、單に此地方の流火行事が、もうあの頃から七月七日であつたといふ證になるだけで、其火は松の火でも藁炬火でもすむ。現に今日も尚それですませて居る地方は多いのである。それから愈々?燭が自由に求められるやうになつても、ネブタはまだ暫くの間はたゞの四角の燈籠であつた。たとへば寛政五年の外南部の大畑のネブタ流しは「牧の朝露」といふ紀行に「六七尺一丈ばかりの竿のさきに、彩畫かいたる方なる火ともしに七夕祭と記して、そが上に小笹芒などさし重ね云々」とある。是はまだ僻地だから眞似得られなかつたとも見られるが、是と大よそ同じ頃の奧民圖彙といふ見聞録の、弘前城下のネブタ祭記事にも「萬燈は四角、上に風流を附く、青森にて見たるものと稍々同じからず」とあるのみで、扇とか金魚とかいふ最も平凡なるものも、まだ出來て居た樣子が無く、まして大々的な人形の細工などは、全く其後數十年の間に、次第に新奇を好んで考案せられたものとしか見えぬのである。此程度の燈籠ならば、秋田にも又新潟にもあつ(84)た。其上に人形は亦別に此日を以て海に送り流す習俗があつたらしいのだから、是を燈籠の風流即ち飾り物に、技巧が許すならば利用しようとする。動機は初めから潜んで居たので、たゞ此地方の如く發展して來た事實だけが特異なのである。

　

　　　　　　　　　　六

　

　次に今まで青森縣の人が、知らずに居たらしい他の土地との一致は、たゞに名稱と七月七日の早曉に海へ流すといふ、二點だけでないことを述べなければならぬ。現在なほ行はれて居る群衆の唱へ詞、

　　　ネブタは流れろ、まめの葉はとゞまれ

といふなども又其一つで、是が各地の偶合といふことは有り得ぬは勿論、たつた是ばかりをよそから採用して、其他は獨創といふことも亦想像し難く、しかも寛政中頃の奧民圖彙時代、即ち弘前でまだ四角な萬燈を擔ぎまはつて居た頃から、既に全く同じ文句であつたのである。土地によつての僅かづゝの相異は前からもあつた。たとへば下北半島の大畑では、

　　　ネブタも流れろ、豆の葉もとゞまれ

　　　苧がら／＼

と唱へてゐたが、この終りの句の苧がら／＼は、或は南秋田などの、前夜枕の下に敷いて寢た麻殻を、翌朝川へ流す風習と關係があるので無いかと「牧の朝露」には言つて居る。近年の例としては北津輕の小泊邊に、

　　　ネブタ流れろ、蓮の葉も流れろ

といふのは（旅と傳説四卷八號）、注意すべき變化だと私は思ふ。それから又東津輕の野内などで、

　　　ネブタこながえろ、まづの葉とつばれ

(85)　　　ださばだせよ

と謂つて居るなども、つまりはネブタを合歡木のことだと、考へなくなつてからの空想が元らしく、其終りの囃しのダサバダセヨは、青森市中で流行つて居る「エッペ出せ／＼」のをかしな言葉と共に、是だけは近頃の改作のやうに思はれる。此部分は寛政の頃にはイヤイヤイヤヨとなつて居た。其イヤイヤだけが何の事かわからぬと言つた人もあるが、殘りの文句だつても、實はよく判つて居なかつたのである。

　それが今日は比較によつて、もう大よそは明白になつて來た。つまりネブタと豆は二つの稍々似た所のある植物であつて、しかも兩語ともそれ／”＼に別の意味をもち、一方は甚だ感心せず、他は好ましいことであつた故に、彼は流れてしまへ是は止まつて居れと言つた所に、水邊の行事としての言葉の綾が珍重せられたので、それにも亦最初何かの木の小枝を以て、身を撫でゝ流し棄てる習俗が裏打ちをして居るかと思ふ。然るに津輕地方だけには、早くからさういふ風も絶えて居たものか。このネブタの解釋には、思ひ切つて地方的なるものが輩出して居る。畢竟するにこの二つの植物の名の提唱が、今ではあまりにも突兀なものになつて居るからである。

　

　　　　　　　　　　七

　

　青森縣のネブタの研究者としては、棟方悌二氏が最も著名であつた。此人の意見は日本風俗志（上卷四八三頁以下）にも出て居て、十分に穩健なるものであつたが、なほ此一語の意味を明らかにし得なかつた爲に、今に至るまで地方の通説を、覆へすことに成功して居ない。最も人望の多い通説は、田村將軍がこのネブタを催して、山に隱れて居る蝦夷の賊を誘ひ出し、退治をしたのに始まるといふもの、次には同じ策略を以て引捉へた夷民を選別して兇猛なる者は對岸へ放流し、忠順なる者のみを止住せしめた。それが即ち「まめの葉は止まれ」だといふので、此解釋が早くから學者の間にも認められ、或は元禄年間の事蹟であつたと謂ふ人もあり、田村將軍と言出したのは却つて新しいさう(86)だが、兎に角にこの兩説は關聯して居る。一方が認められなければ、次の説も成立たない。つまりはネブタに侫武人だの侫侮多だのといふ無理な宛字を自分でして置いて、自分で其文字に繋がれて居たのである。ところが一方にネブタは蕃語ならんといふ説があつて、是が亦近頃まで續いて居た。それを又北里闌氏は否認して、ネは稻、ブタは札で稻札のことではないか。水神に捧げて當年の豐收を祈る意味であるまいかと言つて居る（むつ一卷四號）。是等の諸説の優劣を決するのは、少なくとも私の任務ではない。私はたゞ現在の所謂郷土研究が、もし我郷土を視て他を省みなかつたならば、結果は概ね此の如くなるであらうといふことを、例示するだけの小事業を以て、滿足しようとして居るのである。

　此序に一言だけ心付いたことをいふと、主君や領主に忠誠を盡す者をマメなりといふことは、馬琴などがよく用ゐた語だが、果して文學以外に其樣な用語が、津輕は元より他の田舍にもあるか否かは、問題にしてよいことである。自分等の知識では、マメは根氣のよいこと、それよりも寧ろ身體の丈夫なことをいふのが普通で、たとへば婦人の平産してもとのからだになつたことを、東北ではマメシクなつたと謂つて居る。唱へごとも最初は利用者が理解して居たであらうから、土地にも無い語の字引の意味に、引付けようとしたのが根本の無理かと思ふ。マメでもネブタでも、土地では何と何とを意味して居るか。それを明らかにしてかゝるのが先決問題で、もしどうしても意味の無い語だつたら、それは他所から口移しに、學んだ唱へごとだと推定するのが恐らく自然の順序である。

　

　　　　　　　　　　八

　

　他所では少なくともネブタは合歡木と睡魔とを意味し、マメは又豆と壯健とを意味して居た。其一方を憎んで海川に流さんとし、他の一方の止まつて土地に在ることを、念じ願つた心持はよくわかつて居る。それを早速にアイヌ語に持つて行かうとする、學問の不自然な態度には、結論を超越して私たちは苦情を唱へなければならぬ。

(87)　マメが邑里の生活に何よりも大事なことは異存が無い。たゞネブタを災厄として放ち棄てようといふのは如何と、カルモチン常用者輩は一齊に批難するかも知れない。此點が將に私の豫め答へんとする所である。睡くなればいつでも睡られる赤ん坊や閑人ならば、睡は惡で無いのみか、又快樂でさへあり得るのだが、以前はさういふ人が尠なく、又睡るべからざる場合が、今よりも遙かに多かつた。ネブタ其ものは災でなくして、起きて居るべき時に睡いのが不幸であつたのを、測らず混同するほど、よく働き又よく疲れて居たのである。對馬をあるいて居る時に始めて氣がついたのだが、夜分別れる折の常の辭令に、我々がオヤスミ又はオシヅカニといふ所を、彼島ではオイザトナといふ語がまだ使はれて居る。五島へ渡つて見ても一部の人々が、意味はもう忘れてオイザットとか、イザトバイとかいふ挨拶をして居る。イザトイは標準語でも、睡つて居て直ぐに目の覺めることである。即ちあまり熟睡をするなといふ意味としか思はれぬので、私は直ちに元寇刀伊の亂等の、昔の悲惨な記念かと空想して居たのである。ところが十時彌君の話を聽くと、筑後柳河でも上流の士分の家では、子供のオヤスミナサイが定まつてオイザトウであつたさうだ。捜せば西國にはまだ弘く殘つて居らうも知れぬ。即ち餘りにいぎたなく打つても目覺めぬ樣に寢込んでしまふことは、古風な人たちには幸福なことでなかつたのである。朝のオハヨウの方には是がまだ弘く殘つて居る。餘りよく寢て遲く起きることは、町の遊民にもなほ慶賀すべきことでなかつた。たゞ星を戴いて野に出る者ほど、この睡たさを苦にしなかつたといふだけである。

　次にさういふネブタを流し去り得るものだと、心得て居たのがをかしいと思ふ人たちも勿論今は多い。是は一年の間の生日足日《いくひたるひ》即ち方式の殊に效果多き日があつて、其日に念じた願ひは常よりも殊によく達せられるといふ考へ、及び災禍害惡には必ずエジエントがあつて、適切なる時と方法とを以て交渉すれば、豫め其結果が避けられるといふ信仰、この二つが昔はあり今は無く、もしくは昔は一般の常識であり、今は一部の迷信になつて居るからで、之を認めざる者には奇怪であり不條理である如く、認めて疑はぬ者にはおのづから其説明があつたことは、現在まだ少しも進(88)んで居ない民族心理學の課題である。七月七日に髪を洗へばよく落ち、七度水に泳げば身が健かになるといふなども、不完全ではあらうが兎に角に經驗であつた。さういふ中でも最後まで殘つたのは田の蟲追ひである。雨乞ひも會ては是と近い惡靈のわざと考へて居たやうで、よく似た樣式を以て旱魃の神を騷逐した。日を定めて行ふものには正月十五日を利用した例が最も多かつたが、他の月も滿月の宵は價値を認められ、是に次いで重んぜられたのは上弦と下弦、即ちこれを前後に距ること十七日の日が重要な期日と考へられて居た。私の方法は理論を立てゝ説明をそれから導かうとせず、專ら事實に據つて法則を見出さうとするのだから、資料の完備せぬ限りは斷定を下し得ないが、少なくとも今まで集められて居る例證から、七日殊に正月と七月との七日が、何か特別の意義のある日であつたらしいことだけは推測せられるのである。

　

　　　　　　　　　　九

　

　それを今少しく考へて見る前に、先づ斯ういふ一年の最も有效なる節日に、如何なる災厄が除去せられようとして居たかを説いて「睡た」を流すといふことの必ずしも歴史無き空想でなかつた例に引いて見よう。蟲追ひは今では害蟲の發生した時だけにするが、奧州には毎年六月朔日を期して、蚤を驅除する風習もある。ギシギシといふ草を方言にノミノフネと謂ひ、是を室内に撒いて後で集めて流すと、蚤はこれに乘つて海へ行くと信ぜられて居る。ジヤジヤ又は蚊の口燒き、蛭や蝮の口燒きといふ式などは、まるで其蟲の居らぬ節分の晩、もしくは小正月の宵に行ふので、爐の火に榧の葉などをくべて唱へごとをする。之に由つて或は此式をヘビムカジと謂ふ土地もある。弘く保存せられて居るのは鳥追ひと土鼠打ちで、是も正月の鳥獣の少ない時に豫行する爲に、次第に遊戯化して子供の役となり、江戸では非人の娘などが其歌をうたつて門附けをした。しかし本來はこの一年の最好の日に行へば、效果は四季に及んで、忙しい日の勞を省くと思つて居たのである。東北では此際又鹿追ひも狼追ひもし、或は烏の巣あぶりといふこと(89)もした。信州川中島の松葉いぶしは、貧乏神を追出すと今では謂つて居るが、或は是も獣害の防止だつたかも知れぬ。近畿中國には狐狩があつた。狩とは謂つても後には食物などを供して、機嫌を取るやうな土地もあつた。さうで無くとも大抵は威喝だけで、事實捕獲をしようと迄はしなかつた。若狹の佐分利村の唱へごとに、

　　　狐の鮓は七桶になから

　　　八桶に足らぬとて狐狩やんれい

といふのがある。つまりは威勢よく相手をへこませる文藝であつた。

　武藏の杉山神社の正月の田遊び祭に、唱へた言葉といふものが傳はつて居る。主として鳥追ひだが其序に追却しようとしたものに、田螺｜螻蛄《けら》から家々の口爭ひ、女房の小鍋食ひまで追拂へと謂つて居る。陸中紫波郡の小正月の豆蒔きには、

　　　がいき鼻だれ、やんまいやく病、びようやく病、ねこものはれもの

　　　貧乏神やふんではれ、福の神や内におんでやれ

といふのがある（郡誌）。ガイキは感冒、ネコモノは腫物も同じでフンデハレは踏み出はれだから、趣意はネブタ・マメノハとよく一致して居る。信州上水内の瀬戸川村には、正月十五日の早朝に鳥追ひの次に唱へる、オデキ追ひの言葉がある。

　　　向ふ通るアキョンド

　　　ねぶつはれもの

　　　買つてけしょつてけホウイホウイ

といふので（民族二卷二號）、村に入込んで來る行商人も、どうやら此機會を以て豫め追はれたらしいのである。斯ういふ色々の村の爲に好ましからぬものが、この一種の示威運動的方式を以て、毎年定まつた日に追却せられるといふ(90)ことが、郷土の氣風に暗々裡の影響を與へて居たことは想像し得られるが、さういふ中でも異なる日、又は岡の上とか水の邊とかいふ場所のちがひは、何か本原に溯つての考へ方に、特色があつたことを語るものではなかつたか。或はそれはたゞ偶然の地理的?況に基くものであるか。此點が次の問題としてなほ殘る。私の殊に興味を感ずる一例は、同じ信州でも南端の伊那遠山に、正月七日のサガ流しといふ行事があることである。是はたゞ單に門松を川に流すことゝあるのみで詳しい説明はまだ聽いて居ないが、サガは古くから善惡の文字などが宛てられて、よかれ惡しかれ物議の種、今で言へば問題になる事件とでもいふべきもので、此等を概括的に村の人が嫌つて、極度の無爲を願望したものと思はれる。それを特に正月の七日目に、水のほとりで又正月の飾り物を流すことによつて、なし遂げ得るものと信じたとしたら、其根據は果して何に在つたらうか。又全國に弘く分布する七月七日の眠流しと、どういふ關係をもつと見るべきであらうか。はつきりとは判らぬ迄も、私は追々に其問題の核心に近よつて見たい。

　

　　　　　　　　　　一〇

　

　現在知られて居る事實だけに依つて見ても、所謂七日盆の習俗には、織女牽牛の支那から來た傳説と、何等の交渉の無い部分が可なり大きく、又我々の民間の星合ひ祭にも、かの古今集の和歌に列記してあるやうな、優美なる詠歎以外の感覺が加味して居る。たとへば鳥取縣などの在方では、此日一粒でも雨が降れば、天の川に水が出て渡られぬからよいが、もしも雨無く川が渡られて二つの星が逢ふと、病の子が生まれるから怖ろしいとも謂つて、寧ろ此戀愛に反感を示して居る。今までは誰も氣づかなかつたが、此日の祭壇にも瓜茄子の牛馬、もしくは初物の野菜果實などを供へることが、可なり著しく盆棚と似て居る。さうして翌早朝は大急ぎで、笹竹飾り物を流しに行くのである。或は此日を危險な日として、道切り注連繩張りなどの防衛策を講ずる例も少なくない。是等は何れも愼重に境を淨め、あらゆる目に見えぬ障害を除却しようとした、久しい仕來りの反映に過ぎなかつたかも知れぬが、それにした所で何(91)か其前途に大きな不安が想像せられなければ、斯くまでの煩はしい手續きは盡さなかつた筈である。今日はもう既に?況は變つて居るけれども、私は是を初秋滿月の夜の祭を完全ならしめる爲の、一週間前の準備作業、即ち令に致齋と謂つて居る期間の、開始せられる方式では無かつたかと思つて居る。

　是を確かめる爲には我邦民間暦法の變遷、それと古信仰との關係を尋ねて見なければならぬのだが、幸ひにして其便宜は今でもまだ絶滅して居ない。たとへば初秋の七夕と、ちやうど對立して一年を切半して居る初春の人日、即ち六日から七日に渡つて行く境を、御湯殿上の日記等には、また一つの年越と認めて居るが、京都で著名なのはたゞ早朝の七種の粥の行事のみで、其他の慣行に就いては、もう田舍を求めなければならぬ樣になつて居る。信州では是を六日正月、或は又蟹年とも名づけて、蟹を捕つて來て門の戸に打ちつけ今では其代りに紙に畫を描き蟹の字を書いて貼つて置く習俗が、意味は判らぬなりにひどく目につく。山陰の舊家には椀籠負ひといふ祝言があり（民俗學四卷四號）、九州南部に行くと竈の前の田の神舞があり、或は又各地方の七軒もらひがあり、さうして又前にいふが如きサガ流しもあるのである。少なくともこの正月七日を重要視して居た動機は、七月七夕と共に外來のものでは無かつた。さうして盆と正月との二度の行事には、其根柢に於て幾つと無き方式の併行が見られるのである。

　以前佛教がまだ常民の風習に干渉せず、即ち所謂盆の月を以て全く新亡者の供養に委ねてしまはなかつた時代には、この春秋二回の第一の望《もち》の夜は、大體相似たる祭典が行はれて居たらしいのである。日本固有の齋忌制に於ても、勿論新たに喪のあつた家は分離せられる。だから正月にもアラミタマの家には別の行事がある。しかし三年七年十三年といふ樣に、いつ迄も記念を繰返し追慕を新たにし、七月を徹底的に線香くさくしたのは、恐らく外來教の信仰だつたらうと思ふ。我々の祖靈は早く清まはり、神の大きな一團に入つて活きた子孫と共に季節の悦びを味はつて居たやうである。一つの混同は外《ほか》聖靈、土地によつて無縁とも餓鬼とも呼ぶものが、數多く紛れ込んで村々の内輪の團欒を攪き亂すことであつた。それ故に古風な家々では、正月でも別に彼等の爲の食物を供與して、その嫉視と妨害とをな(92)だめようとして居る。それが盆の方では殊に怖れられ信ぜられて、?々家の先祖の靈との、分堺を見失うて居るのである。是は多分所謂新佛の立場と子孫の祀を受けずに迷つて居る三界萬靈の態度とが、共に生人に好意をもたぬ點で、幾分か相通ずるものがある樣に、考へられて居た結果であらう。この二種の亡魂を意味する語を正月はミタマと謂つてミタマの飯を供へ、盆にはシヤウリヤウと稱して聖靈棚をしつらへた。ミタマも聖靈も同じもので、只一方だけが佛徒によつて音讀せられたのである。京都四周の大きな御社や寺で、御靈會又は聖靈會と名づけていと花やかなる儀式の行はれで居たのも、要は共同に是等の亡魂を慰撫して、人生に向つて其幽憤を漏らさしめぬ爲であつたことは、記録が既に之を語り傳へて居る。其期日は若干の入れちがへがあるが、最初は何れも居民の畏怖不安の、最も忍び難い時が指定せられたのが、後次第に恆例となつたものと思はれる。七月七日の宵曉を中心としたネブタ流しを、一種の御靈會だと言ふ説は正しいと思ふ。風でも蟲でも多くの生物に對する障碍は、皆夏秋の交を以て出現したといふだけで無く、盆は又新古さま／”＼の聖靈の、わざ／＼招き寄せられる劔呑な季節にもなつて居たからである。

　

　　　　　　　　　　一一

　

　日本北半の七日日行事、殊に秋田津輕の眠流しの大祭が、東海近畿から彼方の各都會に今でも盛んに行はれて居る十六日の魂送りの式と、非常によく似て居る理由も是から説明し得られさうだ。即ち本來は盆を正月同樣の悦ばしい祝ひの日とする爲に、前以て無縁の氣味の惡い靈だけを、なだめ賺して立退かせてさへ置けば、後は心安く落付いて祭をすることが出來たのだけれども、餘り熱心に多くの死者を供養するやうになると、もう一度其日を過ぎてから、送りの式をせぬと氣が濟まぬやうに感じ、且つ次第にこの方へ重きを置いて、第一次の分を簡略にする結果を見たので、言ひかへると七日の眠流しの方が、一つ古い形であつたのだが、今日はもう其目的を局限して、主として睡たくなる不幸を、こゝでは追払はらはうとして居たのである。さうして睡たも亦或亡靈のわざであることを忘れかゝつて、(93)別にさういふ名の忌はしいものが、獨立してあるかの如く考へ出したのは、さして珍しくも無い信仰の分化であつた。

　是とよく似た變化は正月の方にもあつた。トンドといひ又｜三掬杖《さぎつちやう》ともいふ正月の火祭は京都と其周圍は十五日を定日とし、別に十八日にももう一度行ふのが、記録の存する限りの古い例である。東國でも是を行ふ土地は大抵は十五日を用ゐて居る。ところが九州の鬼の火といふものは、北から南まで大部分が七日の行事であり、たゞ僅かの區域だけで十五日にももう一度之を執行する。即ち正月と七月とは、南と北の端では此前後が逆になつて居て、しかも雙方共に一部づゝ、古い形を保存して居るやうに見える。正月十五日の火祭は、神送りとは普通認めて居らぬが、それでも福島縣などでは歳神が此煙に乘つて、還つて行かれる姿が西の空に見えると謂つて居る。七日の鬼火に至つては其名の示す如く、明白に祝賀の火でも無く、又飾り物の處理方法でも無かつた。以前モチの日即ち正月十五日が一年の境であつた時代に、其日を神聖ならしむべく、外部の障碍を除去する目的であつたことが、唱へごと其他の殘留からも察せられる。つまりは爰でも亦事前の火祭が、一つの段階としてなほ保存せられて居たことは、奧羽信越等の眠流しも同じであつた。十五日の第二の火祭も夙く始まつて居たかも知らぬが、是に少年青年の興味が集注するやうになつたのは、少なくとも後期のことのやうである。

　越中中新川郡のネブタ流しが、舊六月晦であつたことは前に述べたが、其東隣の下新川の沿岸には、正月十五日に之を行ふ村々かあるといふ。勿論寒い頃だから水泳ぎはせず、たゞ藁の束に火をつけて、海に投込むだけだとある（風俗畫報二二四號）。もつと他にも類例が出て來ないと、是たゞ一つでは安全でないが、今日は全然二つのものゝ如く、考へられて居る盆と正月との火祭の、起りは一つであつたといふ證據にはなりさうである。是と相對して、土佐の西部の海岸で、ヨシホ樣といふ正月十四日の夜の行事は、名は全くちがふが、内容は信州三河の眠流しとよく似て居る。是は村内各戸から竹一本づゝを出し、それに女たちが五色の短册をつけて、臺に載せて曳き廻はり、最後に濱に持出して注連飾りと共に燒き、それから其火に身を暖めつゝ、若者等は海に飛込んで潮を浴びるのださうである（櫻田勝�ｺ(94)君報）。この藁炬火と短册附きの笹と、二つのものは夜と晝とのちがひで、共に送らるゝものゝ標識であることは同じかつたかと思ふ。拂曉の行事としては照明の必要は無く、何か一つの目標になるものを持つて行つて流せばそれでよかつたので、合歡木の小枝をネブタといふ名の縁から、携へて行つた目的もそれかと思ふが、燈火の方が實は見た目には美しく、又前の宵から飾つて置いて祭を營むにも花々しかつたので、紙や繪具や?燭が手に入りやすく、又若者の手工が進むと共に追々に此方へ進んで行つたのである。九州の盆の精靈送りで、最も青森のネブタと近いものは、肥後の山鹿《やまが》の骨無し燈籠などであらう。是は足利期末の文禄年間に、炬火を燈籠に改めたといふ古い記録があつて、次第に發達して人物宮殿その他色々の意匠を爭ひ、所謂運行の方法までが、言合せたほどネブタとよく似て居る（土の鈴三號、旅と傳説三卷九號）。しかも他の地方の數多くの精靈舟の中には、人物を主とし食物に重きを置き、白晝全く火を用ゐぬものも決して稀でない。さうしてすべてに共通して居るのは、海に沿うた村では海へ、海なき邑里では川筋へ、送り流すといふ一事だけである。夏の御靈は海から上つて來て、初秋に送られて再び海へ還つて行くものと信ぜられて居たのである。さうして人間の常に働かうとする者を、睡たくするのも彼がわざと、考へられて居たのである。

　

(95)　　　　　　　犬飼七夕譚

　

　　　　　　　　　　一

　

　七月七日の朝、畠へ入つてはならぬといふ昔からの言傳へは、農村としてはさほど珍しい話でないかも知れぬ。他にも十月の十日、大根畠に入るべからずといふ類の、農作の制止は例が多いのみならず、それを犯せば蟲が附き雜草が茂り風が吹き、又は自身が病氣をするといふなどの制裁もよく似て居る。何れも皆大切な節日の愼みであつたと、想像してよいやうである。こゝで問題になるのはこの七夕の場合だけに限つて、是は條件が添ひ又特殊の解説が出來て居ることで、よそにも同じやうな話は殘つて居るだらうが、信州の例だけが現在は知られて居る。多分は斯ういふ物忌のもとの意味が、誰にもわからなくなつてから後の變化で、是も亦我々の通つて來た永い年月の精神生活を、囘顧する目標には役立つのである。

　信州では大抵どの郡でも、古い人たちの斯ういふことを知つて居る者が多いかと思ふ。私は南安曇郡の年中行事篇から、此事實を引用するのだが、こゝでも家によつて少しづゝ言ふことは違つて居る。たとへば此日は一日野菜畠へ入つてはならぬ。入ると蟲がつくといふもの。蔓ものゝ畠だけへは入らぬやうにするといふもの。夕顔畠には入るべからず、入ると身が溶けてしまふ。此日は七夕さまが夕顔畠へ入つて居られるからといふもの。及び七夕は七ツ時から、さゝげ畠へ下りて逢つて居られるから、其畠だけへは入つてはいけないといふもの等がある。隣の北安曇郡でも(96)ずつと北へ寄つて、同じ理由で大角豆《さゝげ》畠へ入らせぬ村があり、又夕顔棚の下へ行くと、七夕樣の天の川の御渡りなさる音が聽えるといふ村もある。小縣郡の方でも、此日みづら（さゝげ）の畠へは決して行かず、やはり其畠へ七夕の神が、降りて隱れてござる樣にいふ者があるといふことである。夕顔を畠に作るといふ土地は、栃木縣へでも行かぬとさう多くは見られない。さゝげも新しい作物のやうだから、其栽培面積もさう廣くはなかつたらう。禁忌を斯ういふ風に或作物だけに限局して置けば、農民の行動もよほど自由にはなるわけだが、單に其爲に發明せられたものとしては、今ある由來譚が少しばかり奇拔過ぎる。是は一應考へて見てもよい問題だと思ふ。

　

　　　　　　　　　　二

　

　私の心あたりは、以前は農村で人望のあつた七夕の昔話に、瓜や其他の蔓物を説くものゝ多いことである。信州でも何處かにまだきつと有ることゝ思つて居るが、今知つて居るのはたつた一つ、上伊那郡小野村の年中行事篇の中にそれが見えてゐる。

　昔一人の老翁があつた。瞿麥《なでしこ》の花を栽ゑると天人が降りるといふことを聞いて、庭に其種子を蒔いて見ると、果して天人が降りて來て水に浴して遊んだ。その一人の羽衣を取匿し、困つて居る天人をつれ歸つて、共に樂しく暮して居たが、馴れるに任せて羽衣を匿したことを打明けたところが天人は早速その羽衣を捜し出して、それを着て天へ還つてしまつた。其折に、もし私に會ひたいと思つたら、厩肥を千駄積んで其上に青竹を立て、それに傳はつて昇つて來いと言つたので、男は其通りにして後から天へ昇つて行つた。天では別に何の用も無いので、畠の瓜をもぐ手傳ひをして居た。さうして天人の戒めを破つて其瓜を二つ食つたところが、忽ち大水が出て別れ／＼になつてしまふ。是からはせめて月に一度だけ逢ふことにしようと言つたのを、傍からアマノジヤクが、なに一年に一度だぞと言つたので、今でも此日だけしか逢ふことが出來ない。又七夕の日に青竹を立てるのは斯ういふいはれだと此土地では謂つて(97)居る。

　是たゞ一つを聽いては合點のゆかぬことが、此昔話の中には幾つもある。第一には厩肥千駄の上に青竹を立てると、どうして天へ昇つて行くことが出來たのか。第二にはアマノジヤクの意地惡な差出口が、忽ち效果を生じて七夕の運命を變更したといふことは、どういふ處から出て來た話であらうか。第三には食べるなといふ瓜を食べたら、大水が出たといふ點、是もこの一例だけでは餘り突兀として居て、をかしい感じすらも起らない。斯ういふのが今後の採集と比較とによつて、段々にもとの心持が判つて來ようとして居るのである。簡單な言葉でいふと、是が我々の俳諧の、まだ十七字とか十四字とかいふ、定まつた型にはまらぬ以前の姿であつたらしい。文字に録せられて居る現在の俳諧でも、たつた二百年も過ぎれば實は半分はその言葉の意味を解する者が無い。しかも聯想の鍵と仲間の共鳴とが無くて、生まれた文藝は一つだつて有り得ない。同じ血を分けた子孫の我々として尋ねて其動機の捉へられぬといふ筈は無いと思ふ。今まではつまり其練習が試みられなかつただけである。

　

　　　　　　　　　　三

　

　青竹の昇天も、天探女《あまのさぐめ》の中言《なかごと》も、それ／”＼に斯うなつて來る順序はあつたのだが、それよりも瓜と蔓物の畠の事から始まつた話だから、其方を先づ一通り片づけて行くことにしよう。信州とは恐らく何の直接の關係も無しに、ずつと南の鹿兒島縣の喜界島には、七夕の由來として次のやうな昔話が傳はつて居る。

　此島では天人をアムリガー、即ち天降子と呼んで居る。昔々一人の若い牛飼があつた。姉妹の天降子が天から降りて、野中の泉の傍の木に美しい飛羽《とびはね》を掛け、水を浴びて居るのを見つけて、その飛羽の一つを匿した。姉の天降子は驚いて飛んで天へ還つたが、妹は何と頼んでも牛飼が飛羽を出してくれないので、困つてたうとう其牛飼の嫁になつた。それから幾年か仲よく暮して後、二人は天とうへ親見參《おやげんぞ》に行くことになつた。其時は以前の飛羽を出して着て、(98)夫を脇にかゝへて空を飛んで行つた。飛びながら其女房がいふには、いつ迄も私と離れたくないならば、天とうへ行つて親たちが縱に切れといふものを、必ず横に切りなさいと、固い約束を夫にさせた。天とうではちやうど胡瓜の季節で、二人の取持ちに畠から胡瓜を採つて來て出した。さうして男が庖丁を手に持つて居る時に、不意に親がナイキリー（縱に切れ）と謂つたので、うつかり女房の戒めを忘れて、其瓜を縱に切つてしまつた。さうすると忽ち眼の前に大きな川が出來て、天女と牛飼とは兩方の岸に分かれてしまつた。それが七月の七日で二人はそれ以來、一年に一度、此日でなくては逢へないやうになつてしまつた。

　沖繩の多くの島々には、羽衣を匿して天人を妻とした昔話がどこにもあるが、それが今でも年に一度逢ふ七夕であつたといふ語りは、是たゞ一つの他はまだ私は聽いて居ない。島の羽衣譚では、通例は夫婦の間に子供が二人又は三人生まれる。其兒がやゝ大きくなつて姉が弟を遊ばせる子守唄の中に、飛衣は六股の倉に、稻積の下に置いてあると歌ふのを母が聽いて、それを見つけて天へ還つて行くので、近頃日本青年館で演出せられた銘苅子《めかるしい》なども、亦其一つの文藝化であるが、是で話が終つてしまふのは如何にも寂しい爲に、色々の後日譚が其あとに附くことになつたやうである。

　

　　　　　　　　　　四

　

　最初に是を或すぐれて舊い家の血筋と、結び付けようとした試みがあつたのは自然である。沖繩では王家の外戚の特に有力なものが、傳説として久しく之を信じて居た例もあるが、是も多分は齋宮の職分が、王妃の手に移つた變遷と關係して居るのであらう。其他の場合には羽衣天女の後胤は、必ず女系を主とする巫女の家であつた。天人に男女の兒が生まれたといふ形も、元は此動機から強調せられたやうに思はれる。とにかく爰に一つの改定が行はれたにしても、其改定は十分に敬虔なものであつた。それがいつとも無く奇を競ひ變化を愛するやうになつて、終には今日の(99)如くたゞ大衆の笑を博することを、目途としたかと思ふ話ばかり多くなつたのである。是を歴史の次々の過程と見なかつたら、説話の解釋は行詰まるにきまつて居る。さうして又我等の親々が、激しい勞働のひま／＼にも、なほ心を空想の世界に遊ばせて居た、ゆかしい餘裕が不明に歸することであらう。

　しかし幸ひなことには我邦の羽衣説話は、まだその進化の各段階に於て保存せられて居る。同じ一つの喜界島にも、まだこの七夕由來と結合しなかつた、以前の形とも見るべきものが聽き出し得られる。たとへば百姓に飛羽を奪はれて、無理に伴なはれて行つて其家の妻となつた天降子が、二三人の兒を設けて後に、やはり沖繩の記録にもある樣に、上の兒の子守唄によつて飛羽の所在を知り、それを出して着て三人の兒を抱へて天に飛び還つた。ところが天上も既に昔とは變つて、自分の家屋敷さへ無くなつて居たので、再びその三兒を地に下して來た。それがトキとノロとユタと、三種の巫女の先祖になつたといふのは、浦島子を逆に行つた樣な話である。或は兄妹の二人が天から追ひ下されて、島の内をさまよふ内に、妹は或農民に嫁して三子を儲けた。稻麥の芒《のげ》を厭うて、毎年暮春の麥の赤らむ頃から、飛羽を着て天に昇り、夏の稻取入れが終つて後に、戻つて來るのを習ひとして居た。其夫がそれを欲せずして飛羽を匿すと、是も亦子守唄によつて在りかを知り、それを着て飛んで今度は戻つて來なかつた。それでも時々は白鳥の首に團子を掛けて、子供の處へ送つて來て居たのを、それさへ夫が嫌つて、或日弓を張つて其白鳥を射殺した、それを限りとして天と地との合圖は、永久に絶えてしまつたといふ樣な話もある。

　

　　　　　　　　　　五

　

　この天と地との交通といふことは、當初の羽衣説話の主要なる目標であつた。それを信ずることの出來ぬ者が多くなるにつれて、追々に話の誇張は烈しくなつて來たやうである。肥後の天草地方に數多く傳はつて居る七夕の由來譚なども、大抵は亦此類に屬し、且つ前に引用した信州上伊那の話とも聯絡をもつて居る。丸山學氏の採集した一例で(100)は、天女の着物を匿してそれを娶つた若者は、其家に一匹の犬を飼つて居た。さうして二人の間に兒があつたことは説かない。三年もしたからもうよからうと思つて、匿した着物を出してやると、天女はそれを着て早速昇天してしまつた。若者は戀ひ慕うて歎いて居ると、人が來て天に昇つて行く法を教へてくれた。それは一日の中に百足の草履を作つて、一本の糸瓜のまはりに埋めて置くと、瓜の蔓は一晩に天に屆くから、それに傳はつて行けといふので喜んで其通りにすると、九十九足しか出來ぬうちに日が暮れた。それでも相應に糸瓜は空高く伸びたので、それを攀ぢ登つて行くと犬も後から跟いて來たが、草履がたつた一足だけ足らぬばかりに、天までもう一歩といふ所で糸瓜は止まつて居る。さうすると犬は飛上がつて尻尾を垂らし若者はそれにつかまつて、やつとのことで天へ昇つて行くことが出來た。其若者が犬飼さん、天女は即ち七夕さんであるといふ。

　故濱田隆一君の天草島民俗誌にも、別に又四つほどの七夕の昔話を採録して居るが、其中の二つはやはり瓜に關するものであつた。或は近世の語りひがめもあつたかと思ふが、爰では七夕樣は一人娘、犬飼さんは養子であつたなどと謂つて居る。其犬飼さんが農業がへたくそで、おまけに耳がつんぼであつた。それで或時七夕が短氣を起して、機を織つて居られた梭《ひ》を投付けなされると、犬飼さんも腹を立てゝ、七夕の作つて居られる瓜畠の瓜を眞二つに切割つてしまはれる。それが天の川になつて二人の間を隔て、終に一年にたゞ一度しか、川を渡つて逢ふことが出來ぬやうになつたと謂ひ、或は又犬飼が母から西山の一町歩もある畠を耕すやうにいひつけられて、あまり暑くて咽が乾くので、妻の七夕の止めるのも聽かず、そこに生つて居る瓜を食べようと思つて、二つに竪に瓜を割つたら、それが忽ち天の川になつた。それ故に今でも瓜を七夕に上げると、それが天の川になつて流れるなどゝも謂つて居るさうである。

　

　　　　　　　　　　六

　

　以上三つの天草島の瓜話は、或ものは既に破片であり誤傳であるかとも思はれるが、共に喜界島の天上聟入、及び(101)信州小野村の瓜畠手傳の話と、各自獨立に發生したもので無いことだけは察せられる。それが又どうして此樣にも飛離れて、別々に保存せられて居たらうかは、今はまだ解説し難い問題であるが、大體に昔話が至つて數多く又變化に富み、明けても暮れても人の口に上り、もしくは思ひ出されて居た時代が、曾て我邦にもあつたらしいのである。さういふ中から何か因縁があつて、ほんの一部分だけが消え殘つた爲に、今のやうに珍しい分布?態を示すのかと私は思つて居る。所謂天人女房の昔話などは、元は神秘な大切な言傳へであつたらうと思はれるにも拘らず、その破綻と終局とを、如何にも不眞面目に笑話化する風が、もうよほど早くから始まつて居た。前に「竹取翁考」の中でも注意をしたことがあるが、奄美大島の最も外部と交通の少ない地域にも、をかしい位この天草の話とよく似た話があつた。むかし一人の翁が、クロといふ犬を飼つて居た。或夜山中の池のほとりに音樂の聲を聽いて、往つて見ると天女が水を浴びて居た。是も飛衣を取匿してその天女を妻とし、三人の兒を儲けて後に子守唄によつて飛衣の在りかゞ知られたといふ迄は他と同じく、天に還つて行く時に二番目の兒は頭に載せ、末の兒は手を引いて行かうとしたが、重いので此子だけは後に殘したと謂つて居る。父の翁は是を知つて愛慕の情に堪へず、急いで千足の草履をこしらへて、それを踏んで天に昇つて行かうとしたが、千足と思つた草履は九百九十九足で、たつた一足だけ足りない。さうすると飼犬の黒が進み出て、私が其草履の代りになりませうといふので、翁はその九百九十九足の草履と一匹の犬とに乘つて、天界に昇つて行つた。さうして其翁は一番の夜明け星となり、二番の夜明け星には飼犬の黒がなつたと謂ふ結末になつて居て、是はまだ織女牽牛の、年に一度の逢瀬といふことゝは、結び付けられて居ないのである。現在の不完全なる採集?態に於ては、まだどの樣な想像説でも成立ち得るが、しかも其當否の裁決せられる時はやがて來る。私はこの天に昇つて星になつた話が先づ生まれて、それから七夕の方へ伸びて行つたものかと思つて居るのだが、果してこの豫測は適中するであらうかどうか。

　

(102)　　　　　　　　　　七

　

　それにはもう少し瓜の空想の成長して來た順序を考へて見る必要がある。島原半島民話集に載せられて居る「天人女房」も、既に亦思ひ切つた笑話化であるが、是には尚七夕の由來譚を伴なうて居ない。むかし源五郎といふ男が山中の池のほとりで、天人の着物を匿して例の如く女房にする。子どもゝ生まれたので、もう大丈夫と思ひうつかり在りかを告げると、それを着てさつさと還つて往つた。其別れに臨んで天人がいふには、もし私に逢ひたうなつたら、あめ牛千疋を土に埋め、其上にブナ（南瓜）の種を播き、其蔓を傳うて昇つて來なさいといふ。それで逢ひたさの餘りに、諸方をあるいて黄牛を買ひ集め、九百九十九疋までは手に入つたが、殘り一疋はどうしても見つからない。一疋ばかりはよからうと庭に穴をはり、其牛を埋めて上に南瓜を播くと、果してぐん／＼と成長して、もう梢の方は見えなくなる。それを攀ぢ昇つて天竺まで行くと、或家の裏の垣根にやつと蔓の端が引掛かり、今にもはづれさうになつて居たけれども、折よく水汲みに出た女が前の女房であぶない所を手を執つて引上げてくれた。それから天竺では別に仕事も無いので、頼まれて雨降らせの手傳ひをする。桶の水を柴に浸して公平に日本國中に雨をまくのが役であつた。或日自分の村の上へ來て、今頃は雨乞でさぞ困つて居るだらうと思つて、思ひ切つて一桶の水をうちまけたところが、水の重みで雲が破れ、其穴から源五郎は落ちる。下が近江國で一圓の湖水となり、源五郎も大きな鮒になつて其中に住んで居るといふ。

　此後段は弘く西國に源五郎話として知られて居るもので、無論島原地方だけの特産では無い。本國の近江では却つてまだ聽いたことは無いが、京大阪にも以前はあつたらしく、關東東北では源五郎を主人公としたものゝ有無は知らぬが、九分まで内容の同じものを村々に持つて居る。是を分類して居ると又話が長くなるから略するが、其一部には越後の大豆《まめ》の木、もしくは奧州の茄子の木話のやうに、或植物の急激な成長に伴なうて、天に昇つて行く便宜を得、(103)乃至は天の雷神の娘を娶つたといふ類の話もあるのである。私が想像して居るやうに、是が天上聟入譚の一つの後世の變化といふことは、まだ心もとないにしても、少なくとも瓜が七夕話の專屬でなかつたことだけはわかる。

　

　　　　　　　　　　八

　

　話がやゝ西國の方に偏したから、今度は方面をかへて遠い類似を尋ねて見る。津輕ムガシコ集には「天さ伸びた豆の話」といふのがある。是も天の女子の飛ぶ着物を若者が隱して家へ連れて來て夫婦になり兒が生まれる。其兒がよく啼く兒でアダコ（子守）が幾らだましても啼き止まぬが、不思議に坪庭の松の木の下へ來るとぴたりと啼かなくなる。それを女房が子守から聽いて、そこを掘つて見ると飛ぶ着物がいけてある。悦んでそれを着ると急に身が輕く天へ還りたくなつた。そこで子守を呼び一粒の豆をくれて、此兒が大きくなつたら此豆を流しの下に植ゑて、それに傳はつて天さ來いと、言つたまゝ高い空に飛んで行つた。アダコは其言ひつけ通りに兒を育て、やがて豆粒を流しの下に蒔くと、豆は忽ち芽を吹いてぐん／＼と天さ伸びて行つた。二人は大喜びで豆の莖を傳はりながら、母の居る天へ昇つて行つたと謂つて居る。

　次は因伯昔話に採録せられて居る羽衣石山《うえしやま》の口碑、是は半分傳説のやうになつて居るが、話の筋には共通の點がなほ多い。農夫に羽衣を匿された天人が、天上の事を忘れてしまつて、其男の妻となつて二人の娘の母になる。娘は音曲がすきで又舞の上手であつた。或日其羽衣を携へて、母子三人で倉吉の神坂へ遊びに行き、姉妹は其羽衣を着て舞を舞つた。其あとで母が試みにそれを着て見ると、忽ち人界の心を失つて、天へ還つて行く氣になつた。さうして以前の夢に白い花の咲く蔓草の下で、子供に救はれて天へ還れると夢を思ひ出したが、果してそこには夢の告げの如く、夕顔の花が白く咲いて居たといふのである。

　斯ういふ一つ／＼の例を眺めて居ると、夕顔でも南瓜でも、何かそれ／”＼の深い意味があるやうに思はれるが、話(104)の他の部分は連繋して居て、此點ばかりが獨創であつた筈はない。元はたゞ單に成長の迅い植物、どこ迄伸びて行くか知れないものゝ興味が、偶然に空想の上に出現して、後久しく消え殘つて居たのである。さうして百足の草履とか千頭の黄牛とかの、餘りにも奇拔な條件すらも、信州の千駄の厩肥と比較することによつて、始めて其來由を明らかにすることが出來る。つまりはその天地に梯を架ける一本の蔓草の、非凡な發育を念じたものに過ぎなかつた。たゞ後者は其瓜と青竹とが、もう離れ／”＼のものにならうとして居ただけである。

　

　　　　　　　　　　九

　

　それからなほ一つ、庭に瞿麥を栽ゑると天人が降りて來るといふことを、人に教へられて試みたといふ發端も、信州だけにある珍しい例のやうに見えるが、捜せば是にやゝ近いものが他の土地にもある、羽衣の發見をたゞ偶然の幸運のやうに説くのは、却つて私は新しい形ではないかと思つて居る。安藝國昔話集にある佐伯郡の羽衣譚は、主人公は獵師で鹿の恩返しといふことになつて居る。鹿が白髪の翁に化けて來て、明日は天人が川に下りて水を浴びるから、松の樹にかけてある羽衣の一つを匿して、その天人を嫁にせよ。さうして二人の兒が生まれるまで、其羽衣を見せてはならぬといふのだが、此傳承には誤りがあると見えて、其戒めを守つたにも拘らず、やはり天人はその二人の兒を兩手にかゝへ羽衣を着てすうつと飛んで往つてしまふ。そこで獵師が泣いて居ると、同じ老人が再び現はれ、あすの朝はあの川へ天から金のタゴ（擔桶）が下つて來るだらう。それは天人が水を汲むのだから、其中へ入つて居れば引上げてくれると教へる。乃ち其通りにして親子四人樂しく天上に團欒するといふ話で、今まで列記した各地の例と比べて、又少しばかり變つて居り、或は新趣向かといふ樣な氣もする。

　ところが實際は飛んでもない地方に、是とよく似たものがやはり傳はつて居たのである。孫晋泰君の集めた朝鮮民譚集七四頁に、木樵が山中で追はれて來た鹿を救ふと、それは山神の鹿の姿をして居るのだつたといふ話がある。何(105)を御禮にしようかと聞かれて、私はまだ獨身だから嫁がほしいと言ふと、そんなら此奧の池に仙女が沐浴して居る。そこへ行つて羽衣の一つを隱してしまへ。但し子供が四人になる迄は、其羽衣を返してやつてはいけない。三人のうちは兩腋と足の間とに挾んで、一緒に飛んで還つてしまふからと教へられる。其戒めにも拘らず三人の兒が出來て、もうよからうと思つて羽衣を出して遣ると、果して其三人の子を挾んで飛び去つてしまつた。それを悲しみ歎いて獨り居る樵夫の家へ、又前年の鹿が來ていふには、もう一度あの山の池に往つて見よ。そこには天から水汲瓢が下つて來るだらう。仙女たちは一度羽衣を盗まれてから、懲りてもう降りては來ない代りに、瓢で水を汲んで天上で浴びて居る。だから其水を飜して自分が其中に入つて居れば、容易に天に昇つて妻子に逢へると、教へて貰つたことになつて居る。即ちかの黄金の擔桶も、やつぱり瓜のたぐひの瓢であつたのである。

　

　　　　　　　　　　一〇

　

　どこ迄行つても同じ話だから、もう此邊で列記を切上げる。終りに問題として殘るのは七月七日の朝、瓜大角豆の畠に入つてはならぬといふ信州の俗信に、隱れて影響を與へて居る七夕の由來が、いつから又如何なる因縁で、この世界的なる羽衣説話と、結合することになつたかである。是は私の一つの假想であるが、人と天上との交通を説くのに、瓜や豆の蔓の極度の成長と、是を梯子として往來したといふことが、可なり夙くから用ゐられた一つの趣向であつた。一方に野菜はちやうど此季節の初物であり、殊に瓜類は夏の神と縁が深く、之を七日の節供の缺くべからざる供物として居た爲に、自然に兩者の間に聯想の橋を架けたので無からうかと思ふ。

　今一つの繋がりには、犬飼といふことが算へられる。犬と羽衣との關係は前に擧げた鹿の助言も同樣に、最初はたゞ單なる動物の援助の一例だつたかも知れぬが、日本では既に近江の余吾湖の昔語りもあつて、犬が大切な役割をもつことになつて居る。さうして一方には支那で謂ふ牽牛星即ち彦星を、又犬飼里と呼ぶことは、少なくとも倭名鈔の(106)昔からである。是にも何か特別の説話があつたらしいが、それはもう埋もれてしまつて、たゞこの二つの言傳へを、混同せしめる因縁になつて居るのである。

　御伽草子の天稚彦物語は、羽衣とは反對に人間の美しい少女が、天上に嫁入する説話であるが、其結末にはやはり月に一度と男神の言ふのを、一年に一度と聽きちがへて、怒つて薦を投げたら化して天の川となつたといふ條がある。即ち信州の七夕昔話のアマノジヤクの中言も、起原は四五百年前に遡り得るのである。肥後の天草の犬飼さんが聾といふことも、やはり此趣向の系統に屬する。妻のたなばたひめが別れに臨んで、月に三度は逢ひませうと言つたのを、聞きそこなつて三年に三度とやと答へたので、それから七月七日にしか逢へなくなつたといふ點は、即ち亦天稚彦の草紙と同じであつた。或はこの犬飼が妻の逃げ去るのを妨げる爲に、其羽衣を畠の土の中に、埋めて置いたといふ話も天草にはある。それを七夕さまが畠打をして居て見つけ出し、すぐにそれを着て天の川の向ふ岸へ飛んで行かれたといふのは、まことに農民らしい空想であつた。信州の多くの田舍にも、以前は多分斯ういふ類の笑話が、出來て盛んに語られて居たものであらう。

　

(107)　　　　　　　精靈二種のこと其他

　

○果して又こればかりの採録の中からでも、尚幾つかの埋没して居た問題を、見つけ出すことだけは出來たのである。第一に盆の景物の中で最も花やかなもの、即ち高燈籠と燈籠流しとが、弘く全國に亙つた方式であつたことは、これが中世の都人士の思ひつきに始まつたもので無く、至つて古くからの必然的要素なりしことを感ぜしめる。東北諸縣のネブタなどに就いて、如何にも一地方的に説明の行はれて居るのは、やがて比較に由つて逐次に更訂せらるべきであらう。

　

○魂迎への夕の墓參りに、必ず燈をともして行くといふことも、單に精靈の路を照らす爲のみでは無かつたらしい。土地によつては今は殆と何の理由かも忘れてしまつて居るが、兒女が半ば戯れに近く、背中を出して負ふ眞似をしたり、或はもつと嚴重に必ず兩手を背後に組み、轉ばぬやうにして歸つて來る風、もしくは墓所近くの小石を一つ拾つて、懷にして來る信州東筑摩邊の風習、新佛は墓地を去ることがむつかしいからと謂つて、瓢を携へて往つて代りに墓處に置いて來る岩手縣の慣行の如き、共に幼い考へ方ではあるが、參る人が伴なうて還るといふ古い信仰を保存して居るかと思ふ。

　

○だからこの黄昏に、先づ石碑の前の燈籠を點じ、その火を提灯に移して家に持來り、家中の灯をこれに改めて、(108)盆の間だけ消さぬやうにするといふ仕來りには意味が深く、假にこの明りで御出やれ御歸りやれと言ふことに、今はなつて居ても、本來の火の光に對する我々の考へは別であつて、やがて、日を拜み又雷火を崇信した古い神道と、筋を引いて遠く火の發現の時代まで、溯つて行かれるものであるかも知れぬ。?燭や燈蓋の普及する以前には、一切の照明は松明で無ければならぬから、迎へ送りの門火の苧稈までが、必ず小松明であつたといふことは則ち亦精靈の火の運搬せられたことを語るものであらう。

　

○高燈籠の制作は、松明の時代には決して容易でなかつたことゝ思ふが、それでも投げ松明又は火揚げなどゝ稱して、今尚昔の樣式を傳へたものがある。久しい歳月の異信仰に反抗して、依然として、祖神が天がけり降り來るものと考へて居たのはなつかしい。我邦のみに數多い人玉の空を行く話、又は色々の遺念火の現象が、右の固有の思想に根ざして居たことは言ふ迄も無いのである。

　

○それよりも珍しいのは、初春の歳�ｺ棚でも既に認められたやうに、今でも一隅に一切精靈もしくは無縁佛の座を設けて、招かざる賓客に供物をして居ることである。盆正月の行事のこの部分には、多分は佛法の干渉も少なく、注意して見たらまだ色々の古風を遺留して居ることゝ思ふ。柿の葉をカシハに用ゐるなどはその一つであり、又この供物ばかりは散亂を愼んで、一纏めにしてこれを流すといふのにも意味があらう。

　

○踊が魂送りの日を盛りとして行はれ、鉦鼓喧噪してひたすらに幽靈の追却に力めて居るのは、これ亦佛教の圏外のものであるらしいことは、數年前にも既にこれを説いたが、今回の報告に由つて愈々その推測を裏書せられたやうに感ずる。

　

(109)○盆花の必ず野山に採られ、殊にその種類に制限があつたことは、考へて見なければならぬ事實である。桔梗といふ花の?々神祭に使用せられるのは、或はその形　　　状からでも若干の理由を推測し得ぬことは無いが、その他の植物に至つては、繁茂の地が荒野であつた點以外に、これを盆花とし始めた動機を知り難い。殊に所謂ミソハギの用途には、まだ澤山の窮められざる神秘がある。これを蓍萩《めどはぎ》と呼んだのにも仔細があるだらうが、日本の自然史はまだこれを説く迄に進んで居ないのを遺憾とする。

　

○上總の海近い村の舊慣の中には、盆供の古い形式が保存せられて居た。更に意外なことには遠州の飯尾家に、多量の傳承が主人自らの忠實なる記述を待つて居たことである。かういふ機會は今までは得易くなかつた。分析と省察とが學問の爲に用立つ時は、もう大抵は古いものゝ改まる際であつた。この三四十年來の同情無き理解が、手を觸れずに置いた昔といふものは、實際は甚だ少なかつたのである。

　

(110)　　　　　おくんちのこと

　

　オクンチは勿論「御九日」であるが、九州北部では一般に秋の祭をさう呼び、必ずしも九日で無いところから、これを供日宮日などゝ書く土地もあり、從つて意味が弘くなつて、八日の鞴祭をカヂヤグンチなどゝいふ方言さへ出來た。五節供の中でも所謂重陽だけは、殊に支那から學んだ式典と、日本民間の古習とが、十分な調和を遂げて居なかつたやうに思ふ。日本の方では單に九月中の或一日に、飲食を神に供へて直會する慣行はあつたのだが、それが必ず新米を用ゐなければならなかつた故に、九日に限ることは困難であつたのである。故に風土と稻の品種に從つて、關東の平原では十九日、又二十九日にも秋祭をする村が多かつた。それを一樣に九日といひ、又その日の神を九日樣と謂つて居たことは、群馬などの人はよく記憶するであらう。その九日の今一つの特徴は、それが一邑の戸外の祭といふよりも、家の中の歡喜であつたことで、これはたゞ食料の最も豐富な時だから、飲食を以て儀禮の主要部とした結果であつた。村に入つて見ると、祭なるが爲に却つて靜かで、只遠く高柱の徴しの幟が、定まつた場所に白く飜へるを望むのみである。頭屋の制度の猶嚴重な土地では、これをその年の頭にさゝれた群飲の家の前に樹てたが、大抵は道の辻や馬場の端に、既に柱場が定められて居るから、これによつてその年の祭の中心を見つけることは出來なかつた。次にこの秋祭は親族朋友の交際といふものに、利用せられたのが一つの特色であつた。この爲にも祭日を九日に一定することは難く、しかも地方一樣に同じ頃に熟する稻を作ると、次の九日まで十日を待つことも出來なかつた。そこで愈々九月の節供の日は區々ならざるを得なかつたのである。以前よく見かけたのは今日は甲の村へ乙丙等が祭(111)に呼ばれ、明日はすぐ又甲丙の人々を、乙村へ誘うて往つたので、無益なことのやうだがそれをしなかつたら、一村の仲間同士で長夜連日の宴を張つて沈醉したであらうから、この變化は寧ろ幸福なものであつた。家々に新穀を以て秋の酒を釀すことを制止せられて後、久しからずしてこの祭の日に干渉が下り、強制を以て比隣の祭の日を同じ日に變更させ、往來の餘裕なからしめたのが地方官の手柄であつた。その結果はどうかといふと、鎭守の祭は家々の農祝ひと分離し、又九月九日とも無關係のものになつた。併し各地方の神社にその祭神の歴史とは縁故も無く、九月の或日を以て大祭禮の日として居るのは、その起原の共同信仰よりも更に古いことを暗示するものであつた。即ちその日に口にする甘酒や鮓、外部から想像し得ない深い歡樂は、村として神を祀らぬ前から引繼がれたものであつた。故に何か特別の事由があつて、最初から二者の結合の十分でなかつた土地では、これが本誌に報告せられたやうな、色々の新時代風に移つて行かうとするのである。神無月の出雲の往來といふ類の、神祇官の記録と一致せぬ傳承などは、今一度この方面から仔細に考察して見る必要があるやうに思ふ。

　

(112)　　　　　十月十日の夜

　

　共古日録卷六に依れば、群馬縣北甘樂地方では、十月十日をトヲカンヤといひ、この夜は子供等藁にて太き繩をこしらへ、地面を打ちまはる。土龍除《むぐらもちよけ》の呪法だといふ。その歌の文句は、

　　　とをかんや、いゝもんだ、朝そばきりに晝だんご、夕飯食つてひつぱたけ

又、

　　　とをかんやの藁鐵砲、餅を食つてひつぱたけ

　武州大里吉見邊にも同じことをするといふ。播州などでは十夜と亥の子とは全く別であつて、亥の子は中の亥の日の夜所謂藁鐵砲の遊をする。霜に染まつた香の高い菊の小枝を折添へて、亥の子餅の重箱を配る。この夜子供のうたふ唄、

　　　亥の子餅くれんこ、くれん屋のかゝは、鬼産め蛇うめ、角のはえた子うめ

又十夜の晩にいふ言葉は、

　　　十夜の晩に、重箱ひろて（拾うて）、あけて見れば、ほこ／＼饅頭、にぎつて見れば、十兵衛さんのきんだま

　この事を書きながら、自分ははからずも近松の心中物の中に「外は十夜の人通り」と書いた大阪の町の風情を思ひ出したのである。

　

(113)　　　　　亥の子のこと

　

　こゝでも亦變化して居るか知らぬが、四十年前には確かに次のやうであつた。津の國で今ヰノコといふものを、我々はヰノコモチと呼んで居た。或はワラデッポウなどゝいふ者もあつたのは、それを以て大地を打つ音が、ぽん／＼と冴えて響くからであつた。繩で出來るだけ堅く藁を卷き、重みを付ける爲に何か餘分のものを入れて、末の方が可なり太くなつて居た。それを右の手でまはして、からさをの如くにして土を打つのである。五人十人が調子を揃へて打つと、子供には少なくとも面白いものであつた。歌はこれに合はせて歌ふので、ヰノコ餅くれんこ云々といふのが最も普通であつた。それでこの藁の棒をもさう呼ぶことになつたものと思ふ。別に新嫁の前に限らず、辻々を突きあるき又人家の前の廣場を利用した。雛とか七夕とかに物を貰ひにあるくことを、何とも思はぬ子供たちであつたが、亥の子には別に餅などをねだらなかつた。只歌の文句には、

　　　亥の子餅くれんこ、くれん屋のかゝは、鬼うめ蛇生め、角の生えた子を産め

などゝも謂つたから、元は必ず餅を貰つて居たのである。月夜の情景を聯想するから、舊暦十月も一の亥より第二の亥の日の方を用ゐるのが例であつたらう。攝津の能勢は所謂｜嚴重《げんちよう》（玄猪）の本場であつたから、製法その他にも色々の古例があつたことゝ思ふが、播州の方ではこの日の爲にたゞ餅をつき、特にイシイシと稱して粳米の粉を以て作つたものを、互に贈答することが東京の彼岸の餅以上に盛んであつただけである。菊の花のやゝうつろひ方になつた小枝を、必ず餅の重箱の中に入れて贈り來り、蓋を開くと高く薫つたのが、今でも忘れ難い鼻の記憶である。眼の記憶(114)として殘つて居るのは、翌朝學校に行かうとすると路の兩側處々に、夜深までヰノコモチをついた痕跡が、恰かも盆の踊の痕の如く土をてら／＼と光らせて居たことである。種村氏の報告にある重兵衛の金玉の歌は、私たちには亥の子の歌では無く、單に十夜の晩に重箱ひろて云々と、口ずさんでゐただけであつた。又ジフヤヂュウバコと重ねて居るのだからその方がもとに相違ない。この事は一度郷土研究の中にも説いたことがあるが、關西の十夜關東のトヲカンヤ（十日夜）は、即ち下元の節のことで、起原は正しく亥の子と一つである。從つて二の亥を百姓の亥の子などゝはいふが、これが最も古い期日であらうと思ふ。十月は亥の月だから亥の月の一亥の日を用ゐたのは、猶五月の午の月の午の日を節句の日にしたのと同じ趣旨で、寧ろ本來は日よりも月の方が重んぜられたものであらうと思ふ。

　

(115)　　　　　案山子祭

　

　これから研究して見たいと思つて居るだけで、私はまだ案山子の問題には一向手を着けて居らぬ。どうかよい雜誌が出來て澤山の新資料を供與してくれよかしと念ずるばかりである。誰でも知つて居ることかも知らぬが、今まで方々から報告せられて居る事實は色々ある。それを綜合して要點だけをその號に掲げて置くと、後々何かにつけて便利だらうと思ふ。私は播州で生まれたが、カガシといふ言葉は書物によつて始めて學んだ。山田のカガシといふ唄はまだ出來て居らず、土地では唯トリオドシと謂つて居たのである。鳥おどし又は鴉おどしの語は新しいものだらうが弘く行はれて居る。九州にはオドロカシといふ方言もあるから、その意味はよく通じて居る。ところが東京とその周圍の村々では、さう謂へばわかるといふのみで、この語を使ふ者は無いやうに思ふ。カガシは文學語でもあり又東京語でもあるのだから、それが標準語として認められたのも尤もである。

　東北六縣ではこれを何といふかまだ確かめて見ないが、どの方言集にもつひぞ見たことが無いから、多分標準語と同じで、それを書上げる必要を認めなかつたものと思ふ。カガシといふ語の起りには色々の説も有るらしいが先づ大よそはカグ（喚ぐ）といふ語の他動形を、名詞にしたものと解するのが正しいであらう。即ち惡い臭氣のするものを田畠のへりに立てゝ、動物の中でも主として獣類に不安を感じさせて追ひ退けることから、導かれた命名なのである。普通山村に入つてよく見かける實例は、今日では石油を襤褸に浸していぶすものであるが、以前は竹の串に髪の毛を少し綰ねて挾み、その片端を焦がしたもの、或は野猪の生皮を一寸角ばかりに切つて、これもちよつと燒いて竹のさ(116)きに挾んだものなどを立てる。猪は同類の皮の燒ける香だから、殊に氣味惡く感じて遁げ去るものと解して居たやうである。

　もしこの説のやうに、嗅がすものだからカガシといふ名が出來たとすると、所謂山田の案山子の蓑着て笠着てたゞつゝ立つて居るものを、カガシと呼ぶのは誤りといふことになるわけだが、それは誠に致し方が無い。前はかういふ一種の驅除法だけの名であつたものでも、好い名であり又人が元の意味を考へなくなると、弘く鳥獣害防止法の全體の名にもなり、又その中でも最も目につき易い人形の名ともなることは不思議でない。それでは當つて居らぬと氣にかけて、カガシは鹿逃がしの略語だなどゝ言つて見たところでやつぱり「鹿逃がし」で鴉を追ふのはどういふわけだといふことになる。言海にはカガシとは嚇すことだとあるが、果してさういふ日本語があつたかどうか。そんなむつかしい解はしないでよかりさうに思ふ。

　東京から西の方、東海道の諸國では節分の前の晩に、ヤイカガシ又はヤツカガシといふものをこしらへて戸口に插す。大抵は鰯の頭、髪の毛などを小さな串のさきに挾んで、ごくざつと灸つたもので、これを見ると鬼が辟易して入つて來ぬといふ。これも臭氣を嗅がしめるのが目的と見えて、たゞそれだけでも相應に臭いのに、更にその際の唱へごとゝして「隣の婆々が屁をひつた」といふ類の下品な言葉があり、又ふゝらのふんといふやうな鼻の音の聲色を囃しにして居る。かういふ文句の特に發達して居るのは、靜岡、愛知の二縣だけらしいが、同じ風習は遠くの地方にもある。淡路や備中ではこれをヤキザシ、出雲などはヤイクサシと呼んで居る。ヤツカガシといふ語の知られて居るのは信州から越後、關東、奧羽にも處々にこの風習と共に名前がある。盛岡などではこの節分の宵に插す串も、本物の案山子も共にヤツカガシといふさうだから、カガシの元の意味は先づ明らかになつたわけである。しかし中部地方の數縣のやうに、節分のヤツカガシの行事風習が盛んな地方では、山田の案山子と混同して困るためか、この地方はカガシとは謂はず普通ソメと稱して居る。

(117)　つまり日本に於ける案山子の方言は、カガシとオドロカシとこのソメと、大體三通りになつて居るので、その中では中部のソメが最も古くからあつた語らしく、しかもその意味が最もわかりにくいのである。これは自分だけの推定だが、ソメといふ語の起りは注連繩などのシメ即ち占有の占と元一つであつたらしい。

　九州南部の山村たとへば宮崎縣の椎葉村等では、山で燒畑を開いた際に、周圍の木を伐つて垣のやうに立てまはすのをキリカジメ、又はキリシメと謂ひ、萱を刈つて來て一尺置き位に畑の周りに立てるのをシデカジメ、或はシヲリカジメと謂ひ、共に野猪の害を防ぐ装置である。カジメが「刈しめ」であることは、別に「切しめ」の名があり、又「燒しめ」の方法も有るのを見てもわかる。この地方のヤキシメ又ヤイシメは私も前年見て居るが、前にカガシの元の形だらうと言つた關東などの例と同じやうに、やはり髪の毛を燒き焦がして、竹の皮に包んで竹に挾んで立てるので、この臭氣を猪が嗅いで、いやがつて寄付かぬのだと謂つてゐる。さうするとこの日向あたりのヤイジメは即ちカガシであり、シメは弘く色々の害獣騷除法を、總括した名であつたことが察せられる。三河や信州のソメも元は亦さうであつたのが、後には只案山子の人形ばかりを謂ふやうになつた土地も出來たものかと思ふ。山田山畑を荒らしに來るものゝ種類が變つて來るに伴なうて、これに對する防禦策も、追々に改まるのは當然である。近來は一般に鹿や猪のやうな大きな動物は少なくなり鳥類の害ばかり烈しくなつたやうだが、鳥には野獣のやうな嗅覺の鋭敏さは無いらしい。里近くになると多くは鳴子を引き、石油罐をたゝき、又この人形のカガシのみを立てゝ居る。だから今日の開けた土地ばかりの?況を以て、以前を推すことも出來ぬのである。

　自分は今から二十四五年前に、福井縣の西ノ谷から岐阜縣の根尾谷へ越えて見たことがあるが、その時山の中の僅かな畠地で、珍しく複雜な鳥獣豫防の設備を見たことがある。先づ畑のまはりには繩を引廻らして、これに紙のシデがそちこちに垂れであり、竹の棒も幾本か立てゝあつて、これにも布片を下げ、又かの燒きかがしを設けて居る。畑の中には處々に一尺ばかりの石を轉がし、それに石灰を水に溶いたものが流しかけてあるのは、兎を驚かす爲だと謂(118)ひ、杉の小枝の赤く枯れたのを斜めにぶらさげたのは、鼬の形に似せて鳥を追ふ爲だと謂つて居た。それから鳴子を繩の中程に掛けて、風で自然に鳴るやうにしてある他に、片隅には筧で山水を引いて來て、それが自然にブリキの罐を叩くやうにもしてある。精々二段か三段歩かの粟の畑に、新舊五種以上のオドロカシ方法が、利用してあるのに感心したことであつた。

　水の流れで自然に音を立てるやうにした仕掛けは、九州北部では兎鼓などゝ呼んで居る。ブリキの器は新工夫であるが、昔は桶のこはれとか瓢箪とかを應用したものであらう。これも一本調子に始終鳴つて居たのでは價値が無い。水が溜まつて來ると引くりかへつて、不意に大きな音をして物を敲くやうに、若干の意匠を加へなければならぬ。現在山間で麥搗き稗はたきに利用し、後には水車小屋とまで發達した水臼が、土地によつてはソウヅの名を以て知られ、古事記に出る山田の曾富騰《そほど》と結び付いて居るのも、私には理由の有ることゝ思へる。即ち遠くはあの書物の編述せられた時代にも既に近頃の人がカガシを以て蓑笠の人形のことゝ解するのと、同一の誤りが有つたらしいのである。それ程にもこの案山子は、古く且つ人に注意せられる農間の一風物であつた。

　農家の生産が大切となり、これに對する鳥獣の害が忍び難くなると、山村の人たちは番小屋をこしらへて、夜分もそこに往つて?々眼を醒まして獣を追うた。靜岡縣などではこの事をダオヒと謂つて居る。小鳥は日中だけだから比較的樂だが、それでも鳴子を時々の風にまかせてゐては居られない。始終その繩を手で曳いて、ホホラホウと追はなければならなかつた。謠曲の鳥追舟、又は説經節の安壽津志王などは、全くこの勞苦を戯曲の主材としたものであつた。しかしかういふ場合には我が案山子は、少しでも千與しなかつたのである。谷川のソウヅや日向山中の燒きじめも同じだが、これ等は皆作物の安全を人間以外の力に託して、それで濟まして居た時代の遺物である。この間には明らかに自力他力の二樣の差別があつたのである。

　さうしてこの害鳥獣の驅除手段が人智の進まぬ時代に却つて自動式であつたといふことは、何だか不思議なやうに(119)も思はれるが、我々の祖先には單なる動物の生態とか、水とか風とかの自然の法則以外に、別に深く信頼し得るものがあつたのである。九州地方の刈しめの場合でも、萱の二三本を一尺置きに畑のめぐりに立てたところで、それを倒して猪・鹿が、入り込むのは何でも無いことだ。しかも尚かうして置けば大丈夫と思つて、家へ戻つて樂々と寢て居たのは、シメといふものに敵を防ぐ實力が潜んで居ることを認めたからである。案山子の人形なども同じことで、半日も見て居ればこれが人間で無いことは鳥にもわかる。雀なども引板鳴子には驚くが案山子の頭には折々は來てとまるかも知れない。

　これでは困ると思つて色々とこの方法を改良し、近頃は笠の代りに鳥打帽を被せたり、古いタオルの頼冠りをさせたりすると、人間の香りが強いので幾分か餘計にこれを避け憚るやうに見える。それを實驗すると、これは當世の形にした方が、彼等には本物と見え易いのだと解して、段々に案山子の風俗もモダーンになるのだが、その解釋は果して正確を得て居るかどうか、まだ實はよく判らぬのである。

　むつかしい語を使ふことを許されるならば、私はこれを信仰の合理化又は呪法が伎藝となつて行く過程と認めて居るのである。

　始めて鳥獣の嚇しのこの人形を立てた人の心持は、これが自分達の姿のやうに見えて、相手を誤解させようといふのではなかつた。形はどうあらうともこれが靈であつて、寧ろ人間以上の力で夜晝の守護をするものと信じられて居たことは、日向のシヲリジメも注連繩も同じことであつた。さういふ古風な考へ方はもう抱いて居る者も無いかと思つて居ると、地方によつて存外に物堅く、今でも、この案山子に對して慰勞感謝の祭をして居る者もある。信州の南安曇郡などで、ソメの年取りといふのは舊十月十日の夜、俗にトヲカンヤといふ晩のことである。年取といふ語は正月で無くとも、一年に一度づゝ人間と同じやうに、正式食物を供して身祝ひをさせることをいふので、臼の年取り鼠の年取りも同じやうに、この晩は案山子に餅を供へ、又大根を供へる。トヲカンヤは十日夜であつて十月十日を意味(120)し、中國四國の亥の子のやうに、これを農終の祝ひ日として餅をつき、又藁鐵砲を以て地を打つて祝ふ風が東京からごく近い關東の田舍にもある。信州ではこれを案山子祭の日にして居たのである。同じ信州でも村によつては、これをカガシ揚げといふ處もある。松井氏の辭典にカガシアゲは十月十五日のことだとあるが、少なくともこの地方では皆十日を用ゐて居る。

　カガシはこの日までしか田の番をしてくれない。それでこの日に田から迎へて來てこれを正座にして田植以來の手傳人を招き、餅や色々の食物を饗するのは、この縣南北を通じての一樣の慣例なのである。

　天龍川上流の村のカガシアゲは、見には行かぬが、私はその寫眞を貰つて持つて居る。屋敷の一隅の靜かな處、たとへば土藏の蔭などに、田から迎へて來たソメを立てゝ、片手に熊手を、他の片手には箒を突かせて、その日の祝ひの食物を供へて叮寧な祭をする。さうして又これを山の神でもある樣に考へて居るらしい。それは不思議なやうであるが、私には尚理解が出來る。農家の信ずる山神は、どこでも狩人の信ずるのとは別である。春は山から降りて來て田の神となり、秋の刈入が終ると、送られて又山に歸つて行くことは、どこの府縣も大よそは同じである。その田の神が自身田の守護をせられるとすると、これほど慥かなことは無いわけであり、又しみ／”＼とその御禮をするのも、尤も千萬なことだと思ふ。

　それを人間の模型のやうに思ふ人が出來て來て、用の終つた案山子がいつ迄も、寒さうに冬田の中に立つことになつたかと思ふと、しかし一方にはこれと關係無しに、秋の終りの田の神迎へは、今でも嚴重にこれを營む村が多い。九州は寒さが遲いから霜月初の丑の日に、丑の日樣と稱してこれを田から迎へて、やはり信州同樣洗ひ淨めた農具類と共に、庭の仕事場の眞中で臼の上にこれを祭る處もあれば、阿蘇ではこれを大黒樣迎へと謂つて、その大黒は亦最後の稻株と共に、主人自らが迎へて來て祭ることになつて居る。四國でも伊豫にはこの祭があつて、僅か刈殘した稻と共に、主人が重さうにして家まで擔いで來る。能登の半島では田の神は盲目だと言ふ。これを迎へて來る舊十一(121)月の初の或日を、アエノコトともいふのは饗應の式の意であらう。以前は主人が袴をはき、風呂の蓋をとつて自ら湯殿へ案内し、又目が見えぬから食物の名を一々告げてすゝめたといふ。神の姿は誰の目にも見えないのに、それをかうして歡待するのは、珍しい想像力の發達である。普通は何か形式がないと頼りないので、田植には若苗の三つの束を、秋には刈稻を取り分けて置いて箕の上などにこれを祭るのである。信州のカガシ揚げに、熊手と箒とを手に持たせるといふことも、或は以前かういふものを以て山神田神の御しるしとして居たのでは無かつたか。とにかく我々の案山子の姿は最近五十年間にも段々に變つてゐる。しかもその名前や心持には、まだ色々の古いものが偶然ながらも傳はつて居たのである。箒や熊手に關する俗信や口碑にも、これを暗示する幾らかの殘留が有るやうであるが、それ迄述べて居ると餘り長くなる。この分は各地の同志者の第二次の觀察に委ねたいと思ふ。

　

(122)　　　　　ミカハリ考の試み

　

　祭日考以後、自分が頻りに問題にして居ることの一つは、今日日本の全版圖にわたつて、少しづゝの地方差は有りながらも、先づ一般に記憶せられて居る年中行事、舊の二月と十二月との八日の節供は、いつの時代から始まつたらうかといふこと、これと古くからあつた祈年新嘗の二つの祭とは、如何なる關係があるのか、又は全く別々のものなのだらうかといふことである。

　これについて出雲の神郡、それからその四近の村々などが、どうやら最も多くの參考資料を持ち傳へて居るらしい。それを芝居のだんまりの幕の如く、君はそちら、僕はこちらの隅を捜しまはるといふ、今日の實?はまことにおろかしい。地方に小さい團體の相嗣いで起るのは結構だが、それを一國の事業とするには、この孤立の弊を極力避けようとしなければならぬ。それを勸めることも、多分は中央に居る者の本務なのであらうが、慾を言へば地方の人たちも、これまでのやうな郷土研究ぶり、即ちよそはどうか知らぬが私の方ではといふ類の割據主義は棄てなければなるまい。さうして御世辭では無しに島根のこの會などが比較的多量の利他心を抱いて居られるやうに私には見える。それで試みに一つ、わが成城地方の産物を輸出して、果して貴地との取引が、有望であるかどうかを問合せて見ることにしたいのである。

　

(123)　　　　　　　　　　○

　

　さて自分が毎朝顔を洗ふ二階の窓から、富士山の方角即ち西々南に見える多摩川對岸の丘陵地帶は、この私の謂ふ八日節供の風習の、比較的濃厚に傳はつて居る區域なのであるが、昨年の秋の頃、よくこの邊をあるきまはる稻垣、石井などゝいふ青年の口から、ミカヘリバアサンの話といふのを私は聽いた。あの村々ではさういふ名の老女が、この所謂コト八日の日には來るといふので、そいつは面白さうだ、もつと詳しく尋ねて見たまへと謂つて置いたところ、若い人たちだからすぐに熱心になつて、やがて先月の民間傳承に載せてあるやうな報告文をこしらへて、その石井君が持つて來たのである。さうして私の豫感は果して當つて居たのである。

　その悦びのあまりに、私はこの連中を集めて一席、それから半月ほどを置いて女の人たちの會の爲に一度、このミカヘリバアサンの話をしたが、さういふうちにも話は段々成長して、もつと考へないと言ひ切れないことが多くなつて來た。今言つてしまふのは實は惜しいのだが、後にまとまらぬといけないからもう一ぺんだけ、遠くに居る人たちに話して置きたいと思ふ。雜誌に出て居る事だけは必要の無い限りくり返さないことにするが、ともかくもこれは皆この研究所の所在地から、二時間位で行ける土地ばかりに、分布して居た民間傳承なのである。事柄はしかも甚だ簡單である。それからどういふことまでが心づかれ、考へて行かれるかといふのが、私の一つの試みなのである。

　

　　　　　　　　　　○

　

　何にもせよすでに五十年はもう過ぎて居て、それを知つて居る人は大分年がよつて居る。聽き流してしまへばこれきりの話であるのは勿論、今でもごく確實なことは言へないが、七つの實例を綜合して見ると、ミカヘリバアサンといふのはこちらの聽き取りで、本來はミカハリ・ミカーリ・ミカリ・ミケエリなどの順序を踏んで、わかりやすい言(124)葉に改まつて來たものらしい。この詳しい報告を得るまでは、私も實はそれに氣付かなかつたのである。

　ともかくもかういふ氣味の惡い名の老婆が、この八日の晩には里をあるくといふのである。まちがひにもせよ、何か理由が無くてはこんな話が傳はるわけが無い。といふ點が私などの眼の付けどころであるが、その根本にはなほ一つ、この晩あるく者の名を、私に注意させる理由が他にもあつた。

　歳時習俗語彙を見た人は知つて居るだらう。この晩は又目一つ小僧もしくは一ツ目小僧といふ怪物が、やつてきて家々を覗くといふ晩でもあつた。この一ツ目小僧の領域は中々弘く、奧州でいふヒトツマナグなどは、きつと八日の夜ときまつて居るかどうか、まだ少々心もと無いが、栃木縣などはたしかにそれであり、十二月の八日に來るものをダイマナコ、他の一方のを、小マナコと分けていふ處もあれば、一部では又ヤツマナコと謂つて、眼の八つある怪物がやつて來るともいひ、とにかくにメカヒといふ眼の多い竹籠を、竿のさきに引掛けて軒に出して置くのを、今ではこの好ましからぬ訪問者の撃退策のやうにも説明して居るのである。

　箱根は江戸人などが化物の關所の如く謂つたにも拘らず、この峠のあちらにもこちらにも同じ話はあり、又伊豆の大島を始めとし、これを一ツ目小僧樣と樣付けにして呼んで居る地方も多い。馬入川即ち相模川の水域は、殊に本場であるやうに以前から傳へられて居るので、私などは例の早合點で、この手近の多摩川の兩岸なども、當然に一ツ目小僧さまの領分の如く心得て居たのであつた。ところが案に相違して、その間に一孤島の如く、小僧は來ずして婆樣の來る區域が、廣さはまだ精確にはわからぬが、ともかくもつい目の先に展開して居ることを知つたのである。びつくりしないわけには行かなかつたわけである。

　

　　　　　　　　　　○

　

　出雲のカラサデサンなどは、土地の人が率先してこれを馬鹿々々しがり、實際の言ひ傳へを我々に教へてくれない。(125)だから恐らくは研究が少しおくれ、又は判らずじまひになるだらうが、目的さへ確乎として居れば、寧ろかうした意想外なことが、新しい暗示となると私だけは信じて居る。それでこの樣なたわいも無いことから、入つて行かうとするのである。

　見返り婆さん實はミカリ又は、ミカハリバアサンだつたらしいことを知つて、私ははつとした。といふわけは東京の近く、入海を隔てゝ對岸の上總と安房とでは、今でも十一月下旬に始まる物忌の期間を、ミカリ又はミカハリと謂つて居るからである。通例この期間は十一月の二十六日から始まり、終りははつきりしないが少なくとも一週間以上はつゞいて居る。神社によつてはそれをまだやかましくいふものがあり、少なくとも物固い本家筋の舊家などでは、誰が何と言はうともこれを守つて居る。たゞその個條が主として不行爲即ち謹愼である故に、外から見て居ては目に立たぬだけである。

　この名稱の本意は不明となり、從つて色々の新たな解説、たとへば神樣が狩獵をなされる期日だから、これをミカリと呼び、靜かにして妨げにならぬやうにするのだなどゝもいひ、それと打合ふやうな行事も少しは生まれて居るが、神御自らの狩といふことは少しをかしく、又家々の愼しみの種類とも結び付かない。たとへば髪を結つてはならぬなどゝいふことは、少しも御獵の邪魔にはならないのである。

　ミカリよりもミカハリの方が前ではないかと思ふわけは、寧ろこの方が一層意味が不明だといふことが一つ、次にはこの方なら他にも例があるといふことが又一つである。捜せばなほ出て來るだらうが、今私の記憶して居るのは、たしか�ｺ島縣の劔山周邊にもあつて、これは祭の準備の間、奉仕者が忌み籠ることであつた。攝津の西宮のは正月では無かつたかと思ふが、こゝでも祭に伴なうてミカハリといふ名目があり、その意味はまだ合點の行くほどには説明せられて居ない。吉井良尚君などの記憶を尋ねて見たいと思つて居る。

　國内の同志が心を合せて、一つの問題を凝視してよい理由はかういふ處に在る。大した事でないと氣にも止めず、(126)まして人にも語らうとせぬ區域に、鍵はしば／＼潜み隱れて居るのである。たとへば地方的不可解の一つなるミノガレといふ言葉の起りなども、後には立派な證據として、通用する時が來るのかもしれない。現在の私の假定などは弱いものだが、今にそんな事が有るものかといふ時が來るかもしれぬと共に、成るほどさうだつたと言ひ得る日が來ぬとも限らぬ。自分はミカハリは物忌のことで、常日頃の肉體を、神を祭るに適するやうな身に改めること、即ち身變りではなかつたかと思つて居るのである。

　

　　　　　　　　　　○

　

　さう考へても許さるゝかと思ふ傍證の一つは、これも山陰地方でならば得られる資料で、出雲大社を始めとして、遠方の神々へ御詣りに行つた者が、居村に還つて來てから執り行ふ儀式に、ドウブルヒといふ名が今でも關西には弘く分布して居る。ドウブルヒのドウは身體を意味する古語らしく、地方にはまだ傳はつて居るが、これに宛てられたる胴といふ漢字が雅訓で無い爲か、室町初期の記録にはもう道振ひなどゝいふ當て字が普通となり、從つて其語義が不明に歸して居る。東日本の方には、この場合の儀式のみはなほ殘つて、名稱はハバキヌギもしくはスナバタキなどとなつて居るが、脛巾《はゞき》脱ぎは恐らく砂拂ひからの再轉で、人が神事から人事に移つて行く際にも、何かその境目をはつきりとさせる必要があることを意味したものらしい。現在は出羽の三山詣での場合のみに堅實に守られて居るだけだが、伊勢でも熊野でも、以前は發足に先だつて精進屋に入り、まず身を養つて行く食物から改めてかゝつた。それが再び平常の生活に復歸する爲に、何か特別の行法を必要としたことは、やがて齋忌の期間の清淨に過ぎて、そのまゝでは人と交際しにくいやうな?態であつたことを意味し、今日なほ我々の説明しかねて居る大きな不思議、同じ一つのイミといふ言葉が、吉凶二つの面を持つて居る理由にまで入つて行かれる山口の栞となるのかもしれない。うつかりこんな説を信じてしまふのも淺慮であらうが、これが確かにさうだ、さうでないと決するまで、こゝに立止まつ(127)て待つて居るといふことは、年をとつた者にはどうしても出來ない。それで私などはこれはこの程度にして置いて、なほその次に起り得る問題の幾つかを、出來る限り片づけて見ようとするのである。

　

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　誰でもさうたやすくは合點すまいと思ふ疑問は、假にミカハリが自ら進んで身を改めることだつたとしても、それが一轉して多摩丘陵地帶の、怖ろしい婆さんの名になつたのはどうしたわけか、といふことであらうと思ふが、この點は比較的私には答へやすい。單に一ツ目小僧の附近の類例が有るといふだけで無しに、忌を守らぬ者の心の不安は、いつでもかういふ形を以て表出せられて居るからである。妖怪變化の出現といふものが、大體にこの法則に支配せられて居た。人のよくいふ話は、オバケなど今時有るものかと、半分の勇氣を持つて行く者が、きまつてキャッと叫んで還つて來る。古い常識に留まつて居る者は、始めからおぢけて居るから冒險はしないのみか、寧ろさういふこはい話の流傳に參與するのである。しかもかういつた經驗の増加するのも、世の變り目の一つの現象である故に、後いつと無く退治譚がもてはやされて、人が笑つて聽くやうになつて來る。日本は言はゞその堺の線を去ること遠からぬ時代から、一足飛びに現今に移つて來て居るので、その爲に珍しい色々の言ひ傳へを拾ふことが出來るのである。

　例は幾らでもあるが、最も普通のものとしでは春と秋との山の神の日に、山に入つてはならぬのに入つた者の制裁がある。これには怪我をした病氣になつたといふものが一方には多いと共に、他の一方には山の神が木を算へて居られる處に行き合せて、算へ込まれてしまつて木になるといふ話が傳はり、勿論これにはまだ一つも實際の證據が無い。岐阜縣の東濃地方などは、山のコの日といふのが二月七日と十一月の初寅の日とで、よほどこゝにいふ事八日と近いのだが、こゝではその禁を犯すと山の神婆といふ老女に逢ふことがあると傳へて居る。その婆は必ずおれを見たことを誰にも言ふなと戒め、その戒を破つた者は死ぬといふ話になつて居るが、さういふ經驗をした人は恐らくは無く、(128)たゞ單に山に入つてはいけないといふ訓へだけではすまず、どうしていけないかと問ふ者のあつた時に、ちつとでも具體的に印象づけようとする用意であつたかと思はれる。多くの奇怪談が全國共通のもので、しかもやゝ昔話の色彩を帶びて居るのも、これで説明は付くだらう。つまりは聽手がほゞ昔話のすきな年頃の者だつたからである。

　相模川沿岸の目一つ小僧區域から、この小田急沿線のミカハリ婆地域にかけて、弘くこの八日の日の怪物を、ヤウカゾと呼んで居ることも私には注意せられる。このゾは助詞であつて、ぶつぞ、なぐるぞのゾも同じやうに、けふは八日なるぞといふことを、強める目的しかもつて居なかつたと思ふ。これとやゝ似た例は信州中部から越後の方にかけて、もとは正月晦日を重要視し、この日餅や團子をこしらへて食はぬと、ミソカバアサが來て腕を拔いて行くといふ話なども殘つて居るが、こゝでもやはりこの日山へ入ると、ミソカヨイといふものが出て來る。又はミソカヨイといふ大きな喚び聲を聽いて、びつくりして遁げて來たといふ類の言ひ傳へがある。これなどもたゞけふは三十日よといふまでの注意であつて、つまりはよくないことに相違ないが、さう大きな制裁を下すまでの必要も無いといふ場合には、この程度の畏嚇で先づよいとしたのであらうが、それには又若干の想像の付け加はる餘地があつたのである。

　

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　八日の日の畏さを守護しようとした靈物の名が、ミカハリからミカヘリに移り動いたといふことは、むしろほゝゑましい自然の變化とも私には受取られる。世の常の妖怪とてもトッテカモ、又はクフゾといふのは口ばかりで大抵はこちらが目をまはしてしまふだけであつた。怖ろしいのは主として眼であつて、それが顔の眞中に一つあるのも無論こはいだらうが、ふり返つてじろりと見るなども、氣味が惡いことは同じだつたらう。さうして實際はそれ以上に、別に何もして居ないのである。或は松明を手に持つて、家のまはりをぐる／＼とあるくなどゝいふ話もあつたらしく、愼しみの足りない家が、怪し火で燒けたといふやうな話もあつたかは知らぬが、さういふことはもうはつきりとして(129)居ない。これに對して一ツ目小僧さんの方では、下駄はき物を屋外に脱ぎすてゝ置くと、夜分に彼が來て目に見えぬ燒印を押して行き、さうせられると當人が病氣になるなどゝ謂つて居た。つまりは家に閉ぢ籠つて靜かに一夜を守つて居ればよいので、出てあるかなければこんな怖ろしい目にも遭はずにすむのだから、話がどうしても面白くなるわけである。以前さういふ不謹愼なことをする者がめつたになかつたらうことを考へると、これ等はたゞ家の中に集まつて、睡らずに居た人々の話柄であつて、ちやうど庚申の由來靈驗を説く話、又は大年の晩には大きな火を焚いて、知らぬ旅人にも親切を盡すべきものだといふ類の民間説話が、數多く殘つて居るのも原因は一つであつたらう。たゞさういふ中で一ツ目の方は行はれて居る區域が弘く、見返り婆の方は大分狹いらしいので、後者が後に起り且つ一方の暗示によつて、誘致せられたかと思はれるだけである。

　人はまだ十分には承認してくれないかもしれぬが、この一ツ目小僧についてはずつと以前に、私はほゞ氣がついて居ただけのことを書いて置いた。日本にはこの一つの想像が、殊に盛んに展開して居たといふだけで、これは決してこの民族の間のみに限られたもので無いことを、今でも私は信じて居る。たゞ何としても不思議でならぬことは、さういふ月も無い頃の夜の眞夜中に、里をあるいてまはる神の眼を、たつた一つとはどうして考へ出したかといふことである。古く溯つて行けば如何なる信仰でも、みんな説明が付かなくなることは同じであらうが、この點は特に注意してよい不可解であると思ふ。即ち今我々の抱いて居る信仰の系統よりも、も一つ以前からの持ち越しかも知れないからである。

　

(130)　　　　　臼の目切り

　

　ミカハリ考の著者として、自分が今大いに知りたがつて居ることは、舊十一月二十三日夜の國巡りに、大師さんが石臼の目を切つてあるかれるといふ傳説が、現在どの範圍にまだ殘り傳はつて居るかといふことである。何かの折に年寄りなどがふと言ひ出しはしないか。これからもどうか氣をつけて居てもらひたい。御承知の通り摺臼が一般農村に普及したのはさう古いことではない。石臼の目がつぶれると、目に見えて能率が低下するものだが、これには石屋の持つ特殊な道具が入用だから、手細工ではどうもならない。それを或一夜家人の知らぬ間に、そつと來て目を立てて使ひやすくして置いて下さる方があるといふのだから、小さいながらこれも信仰である。然るに江戸などでは、正�ｺの初め頃にこれがはやり、當時の色々の書に見えて居るのを、それから百年餘り後に流行した、石塔磨きといふ墓地の不思議と一つにして、妖怪あつかひをした學者もあつた（きゝのまに／＼、天保元年記事）。田舍の方でもこの霜月大師講の晩だけは、娘たちが内庭の石臼の側を、怖がつて馳けて通つたといふ話を、たしか越後の人に聽いたやうに思ふ。古い言ひ傳への受入れ方が、年と共に少しづゝ變つて行く例である。

　民間傳承では、四卷の三號に、青森縣の例が一つ出て居る。東津輕の駒込村などでいふことは、弘法大師は十二年に一度づゝ丑の年に村を巡つて擂鉢に目を打つて行かれる。青いきれいな衣を着て知らぬ間に通つてあるくから、丑年は擂鉢をきたなくしては置けないともいふさうである。擂鉢は石臼から考案せられた又一つの文化であらうが、これは燒きものだから目を切るといふことは考へにくい。それで只一の字や八の字を付けて行くといつたり、又は塗り(131)膳の上に圓い一錢銅貨ほどの跡をつけて行くともいつたりするが、とにかく大師の立寄つた家では身上がよくなると言つて、今でもひそかに心待ちにして居る人もあるといふ。但しその期日は二十三夜とは限らず、秋の末からとも、又は春から秋へかけて、廻つて居られるともいふさうである（以上）。これは一ぺん本誌に出たことだが、大分持つて居る人が少なくなつたからもう一度掲げて置く。私の目的は石臼擂鉢の空想は新しいにちがひないが、それはどういふ信仰?態の下に生まれ、どれだけの區域にまで流布するに至つたかゞ考へて見たいのである。なほ附記したいことは、明和八年の御蔭參りの後に出た「拔參夢物語」といふ書にも、人家の石臼が知らぬ間に目を切りかへてあるのを、弘法大師の所行とする説があつたと述べて居る。これはたしか上方の出版物であつた。石臼の目立てを業としてあるく者は、信州北部その他に少しづゝはあつたやうだが、それの全く巡つて來ない村も多く、石が軟かくて早く目の潰れた臼などは、まことに始末の惡いものだつた。

　

(132)　　　　　二十三夜塔

　

　　　　　　　古道と新道

　

　荷馬車やトラックが盛んに走り出してから、どこの村にも新道が通ることになつた。新道には今までの路を取り廣げたのもあるが、多くは眞直ぐに耕地原野を切りならして路にして居るので、兩側にはまだ人家が少なく、地面の形にも裁ち屑のやうなものが出來て居て、一目見ただけでも舊い道でないことが判る。舊道はこれに反して、田畠よりも前から開けて居たものが多く、さうで無くとも成るだけ地面を潰さぬやうに、川の岸や岡の根を通らうとし、又歩行が主であつたから、坂路の登り降りを避けて居ない。それで新道が出來ても舊道はまるで不用にはならず、細々ながら永く殘つて居るのである。村の生活に注意しようとする者は、最初にまづこの昔の路の上を、人が右左に行き通うて居た時代の姿といふものを、胸に描いて見なければならない。

　路をあるくといふことは、人の生活の主要なる半分であつた。散歩といふやうな何の當ても無い外出をする人は、もとは非常に少なかつた。それ故に世の中に入用な色々の設備は、神社でも佛寺でも、すべて皆道路の傍に立ち、又道路を以て繋がれて居る。どれが舊い世の道の跡であらうかゞ全く不明になる樣な時代は、恐らくは來ないだらうと思ふ。しかし村里の中に入つて行くと、後々便利の爲につけた小路が、そちこちで交叉して居て、土地の人たちに尋(133)ねても、どれが本道であつたかを簡單には答へてもらへぬ場合が稀で無い。それを一つ／＼聽いて見なくとも、何か大よそ判るやうな目標は無いものかと、旅行をするたびにいつも私などは考へて居た。大體に村を離れて出て行く處で、遠くへ通ずるものと近まはりの小路とは、可なりはつきりと外形がちがつて居る。だからその出口の二つ以上を、あまり曲らずに繋いだ筋が、古い本道だつたと見て置いてよいのである。道といふ言葉は日本でも中國でも、人が進んで行かねばならぬ心の道、すなはち精神の働きの意味にも用ゐられて居る。それで今私の言つたやうな考へ方は、事によると日本人の古來の信仰、神を拜み崇める者の心持の上にも、當てはまるものではないかと思ふ。さういふ考へ方を下に持つて、こゝで私は二十三夜樣の話をして見ようとするのである。

　

　　　　　　　辻の立石

　

　古風なやゝ大きな村里では、ほゞ中央に近いあたりに、辻といふ場處の有るものが多い。遠くから通ずる本通りが二つあれば、その二筋はそこで十文字に横ぎり合ひ、さうで無ければ村の産土の社に参る路が、そこから入り込んで居る。即ち祭禮の日に神の行列が、御降りなされる道路である。辻には御社の鳥居などの他に、色々の注意すべきものが見られる。旅人としては見のがせない道しるべの石もあれば、小さな御堂のやうなものもあり、繁昌の店屋もそこに在ると共に、土地で最も古いといふ家も、主が變つて居なければ大抵はこの近くに在る。小さい人たちが集まつて來て、毎日遊んで居るのも亦この邊である。

　さういふ中でも餘りに數が多く有りふれて居るので、却つて二度三度は氣がつかずに、過ぎてしまひさうなのは、私のこれから言はうと思ふ路傍の立石、道祖神とか二十三夜の石塔とかの類で、これは今まで立ち止まつて、どうしてこんなものがたくさん立つて居るのかを、考へようとした人がめつたに無かつた。それだから新たに私たちの知り(134)得ることが、まだこの中には隱れて居るのである。立石の種類は大よそ數がきまつて居る。地方によつて少しづゝちがひ、又存外に似て居ることもある。東京のまはりに多いのは馬頭觀音、これなどは西日本の方ではあまり見かけない。全國に亙つて最も普通なのは石の地藏尊、庚申さんといふ石の塔、それから道祖神が色々あるがこれも大抵の土地で知らぬ者が無い。文字を知る人が多くなつてからの石は、大きく立派に名を書いて彫り付けてあるが、古いものはたゞ浮彫り線彫りの像であり、又は何も無いたゞの石もあるので、ちよつと見ただけではまちがへやすく、土地ではこれを何と謂ふかを、聽いて知るの他は無いものも多い。かういふ小さな石の建造物が、幾つか同じ處に竝んで立つて居るのである。村を出離れようとする路の三つ股、野を横ぎつて行く路の曲り目、又は坂の口や峠の頂上などにも、時々はこれとよく似た石の集合があつて、さういふ地點を繋いで見ると、段々に古い頃の交通路が、はつきりとして來るやうに思はれる。年號と月日を刻み入れたのもこの頃は少なくない。郷土の歴史といふものがこれによつて、片端は判つて來るだけで無く、村から外へ出て行かうとしなかつた住民の大部分にとつては、實際これが又一種の心の里程表でもあつたのである。

　

　　　　　　　子供の祭る神

　

　村の子供たちと親しみの深かつたのは、何と言つても石地藏が一番であつた。地藏さんは顔形も子供と近く、いつも目を伏せて靜かに彼等のすることを視て居るやうなので、みんなその下へ來て常に遊んだ。秋の始めの二十四日などは、地藏盆と謂つて子供の爲の祭であつた。兒を愛する人たちもこれをよく記憶して居て、喜びにつけ悲しみにつけ、始終地藏さんの前に來て、色々の願ひごとをしては拜んで居た。それで地藏は子供の保護者であるやうに、我邦だけでは信じられるやうになつたのである。

(135)　しかしその役目は、もとは決して地藏さんには限られて居なかつた。道祖神は又サヘノカミとも謂つて居るが、これもその祭をいとなむとすれば、祭り手は多くは子供であつた。正月の十五日、又は二月十月の月半ばなどに、藁で作つた馬に餅團子の苞を背負はせて、それをこの神の石像の前へ子供に持つて行つて供へさせる。子供はそれをさし上げて置いてから、前に供へてあるものを食べて還つて來る村もある。家に丈夫な好い兒の生まれるやうに、願掛けをする信仰もまだ殘つて居る。又は生まれた兒を道祖神の辻へ連れて行つて、路を通る人に名を付けてもらつたり、形だけその人の子にしてもらつたりするやうな、珍しい風習も近頃まであつた。それで道祖神は地藏の假の名のやうに、思つて居る人も時々は有るのだが、その考へはあべこべで、實際は子供の好きな道祖神を、後に地藏さんと謂つて拜ませたのである。

　子安といふ神樣も、子供の安全を守りたまふと信じられた。しかしこの神を祭るのは子供で無く、專ら村内の若い母たち、又はこれから母にならうといふ女の仲間であつた。東京附近の田舍では、毎月十九日にさういふ人々が集まつて祭り、且つ何十年かに一度、大きな祭をして子安の石塔といふのを建てた。その石にはたゞ文字と年月日とを彫つたのもあるが、私などの知つて居るものには、髪を長く後に垂れた貴げな女の人の、赤兒を抱いて居る像などもあつた。もとは佛教のものでなかつたことはほゞ確かであるのに、これも近頃では子安地藏と謂つて、子を抱きかゝへて居る石の地藏が作られて居るのみか、なほその外にも子安觀音、子安の釋迦と名のる佛像さへ出來て居る。但しこの後の二つは、まだ路傍の立石の中には少ないやうである。

　

　　　　　　　道の神と馬の首

　

　その次にこれも中部地方から、東にばかり多いやうであるが、路の邊に立つ石の塔の中に、雷電神といふ文字を彫(136)刻したものがあつて、これだけは像になつたのが少ないので、どういふ神榛であるのかよくわからず、名前が何か怖ろしい故に、群馬栃木二縣の山近くでは、たゞ落雷を防ぐ爲に、立てゝ居るやうにいふ人もある。しかし本來はやはり亦惠みの神であつたことは、今でも雨の少ない夏、同じ名の神の社に?り、又は稀には天から非凡な強い兒を降し賜はつた、記念の地といふ雷電松の傳説もある。路の傍の雷電さまの石が、どうして立つたかはまだ明らかでないが、すでに子安や道祖神や石地藏の例がある以上は、或はこれももと少國民の幸福の爲に、始まつた風習ではないかと私は考へて居る。

　數多くの立石の中では、殊によく知られて居る庚申と馬頭觀音とが、少年少女とは何の關係も無いやうに見える。それを説明するならば、まづ馬頭觀音は新しく始まつたものかと思はれる。現在でもなほ次々と立てゝ居るやうであるが、これを立てる人は大抵は馬の飼主で、馬が途中で斃れるか、もしくは大きな怪我をしたとき、目に見えぬ馬の靈を慰め、又再び同じ災ひの無い樣に、その場處に近く石を立てるものが多いので、在り所が幾分か散らばつて居る。馬の頭を持つ道の神である故に、それを運送用馬の保護者の如く、考へ始めたのも無理はないが、この信仰の起りは別に在り、又もつと古かつたやうである。私は靜岡縣の古い道路をあるいて居て、或一つの坂の崖下に、四角な穴を掘り窪めて、本ものゝ馬の頭骨を安置したのを見たことがある。奧羽地方でも人の家の入口などに、杙を打つて同じやうな馬の首を、幾つか掛けて置く風があつたことが、今はどうか知らぬが、以前の紀行文には見えて居る。東京近くの村里の中にも、今ある庚申の石像をよく見ると、額の正面に馬の頭を付けたものが幾つか有り、一方には又馬頭觀音の像だといつて、石の表に彫刻してあるものには、非常に庚申の青面金剛像と、よく似たものが見られるのである。庚申の信仰は支那から來たものだと、學者だけは昔からさう言つて居るが、雙方の形は色々の點でちがつて居て、同じなのは名前ばかりと言つてもよいやうに思はれる。さうして又佛教とも思へない、こちらだけの特徴も有るのである。馬の頭を切つて祭をするなどゝいふことは、もちろん日本の神道の外であるが、北亞細亞の民族の中には、さ(137)ういふことをする者が有り、又我邦でも少しづゝそんな痕跡がある。いつか知らぬうちにそんな習はしが、我邦へも入つて來て居たのかも知れない。少なくとも馬頭神のもとの形と、庚申像との間には何等かの關係があり、さうして又二つとも、子供とは直接の因縁が無かつたやうである。

　

　　　　　　　話は庚申の晩

　

　僅か三十年か四十年の前まで、庚申の夜の集まりは大きな行事であつた。村でもおもだつた家々は皆參加して、二ヶ月に一度の會であつた上に、夜どほし睡らずに話をしたり、物を食べたりして明かすのだから、女や子供にも忘れられぬ印象があつた。しかしもう今日となつては、説明しなければ解らぬ人が多くなつて居るであらう。日本は國の初めから今日まで、十干十二支の組合せを以て日を算へる仕來りをもつて居るが、庚申はその中のカノエサルといふ日、すなはち六十一日目に一度づゝ、順まはりに親しい友の家に寄合つて、徹夜で祭をする永い間の慣習であつた。その團體の名を庚申講、仲間の一人々々を講中とも謂つて、お互ひに家代々の友であり、ちつとやそつとの事では退會もせず、又新たに講員を加へることも稀であつた。宿になる家を頭《とう》と呼び、家竝か又は帳面で順がきめてある。一年の始めか終りの一度だけは、やゝ大きな會をする。又十年とか五十囘目とかになると盛んな催しをして、石の庚申塔を建てることもあつたが、普通の講の晩は僅かな食料を持ち寄り、頭家《とうや》では神酒燈明供物を用意する他は、たゞその食べ物の世話をするだけである。一つ變つて居るのはその晩は風呂をたてゝ、集まつて來た仲間は皆入浴するといふのが通例であつた。かういふ事にも何か深い意味があるやうに、私などは考へて居るのである。

　夜あかしの祭とは言つても、さうこみ入つた儀式があるわけではなかつた。風呂から上つて來て全員が揃ふと、やがて定めの作法によつて唱へごとがあり、又は經文が讀まれるが、初夜即ち十時頃にはもう終つて、神酒を下げて少(138)しづゝ戴き、ゆるりと一同が食事をしてもまだ夜中にはならない。それから夜明けまではたゞ雜談に時を過して、睡つてしまひさへしなければよかつたのである。兼々相談したいと思ふ村の問題を、この晩まで溜めて置くことも有つたらうが、それも片づいてまだ殘る時間には、興味ある色々の世間話、又は何度も聽くやうな昔話もこの時に出て、忘れて居た者は思ひ出し、若い連中は新たに覺えるのであつた。以前は人がこの私の話のやうな、悠長なことを話すのを嘲つて、そんな話は庚申の晩に聽かうなどゝいふ言ひ草の有つたのを見ると、庚申の晩の話は、相應に悠長なものだつたのである。しかしかうした自由な時間の有つた御蔭に、人は物わかりのよい話好きになり、又眼の前に入用の無い事物や諺を覺え、一方には又人に耳を傾けさせる話術が進んで、國語の利用が國民の端々に行き渡つたのであるが、もちろんこれは庚申の信仰が、いさゝか衰へかけてからの副産物であつた。

　

　　　　　　　庚申と色々の動物

　

　關東平野の村々をあるいて見ると、過去三百年の間に立てられた庚申の石塔が實に無數であつて、文字ばかりをしるしたものは割合に少なく、色々の物の形を彫刻したものが多い。それを氣がついたたびに見比べて行くと、考へずには居られない珍しい事實を發見する。先づ第一は人が庚申樣といつて拜む神の御姿である。青面金剛とも謂つた、顔の怖ろしい、手の何本もある印度の武將のやうな形であるが、これはさう早くからの事ではないやうに思はれる。この像の上の方には、日輪月輪を右左に表はしたものが多い。それよりも皆さんが目を留めずには居られないのは、この像の足の下に踏まえて居るアマノジャクといふ醜い怪物と、それから又別に三つの坐つた猿、見ざる言はざる聞かざるとも謂つて、一つは兩手で眼を蔽ひ、一つは口をおさへ、一つは又耳に手を當てゝ居る。これは庚申が猿の日の祭である爲にちがひないのだが、猿が天台宗と縁の深い日吉《ひえ》神社、俗に山王さんといふ御宮の使者だからと、言つ(139)て聽かされて居る人が今日では多い。それからまだあるのは、この日月の御形の下に、一方には鶺鴒といふ小鳥、他の一方には鷄が彫り入れてあることで、説明が無いとこれだけはよく解らない。今までの學者の解釋によると、鶺鴒はよく馬屋の口へ遊びに來る鳥である故に、支那でも馬櫪神《ばれきじん》といふ馬の保護神の像の片端に、この小鳥を描くものがあつた。それを採用したものだらうといふことで、私もさうかも知れないと思つて居る。猿も日本を始めとし、東亞細亞の諸民族の間に於て、馬の災ひを防ぐ力のある動物と考へられ、初春には厩の前で猿を舞はし、又は厩の柱に猿を繋いで置く風習が廣く行はれて居た。即ち庚申はその猿の日だから、この日祭をする神は馬の安全を守りたまふべしと、考へ始めたのが元だつたかとも見られるのである。鷄は素より夜明けを報ずるめでたい鳥であつたけれども、これを庚申さんの傍に持つて來るのには、何か又特別のわけが無くてはならない。私の想像では、これは猿の日の翌日が鷄の曰だから、一方を重んずれば自然にこれも出て來る。つまりは祭がこの二つの動物の日を連ねて、徹夜に行はれることを意味するかと思ふ。アマノジャクといふ醜い怪物は、今では天邪鬼などゝ字に書いて居るが、九州の方へ行くとアマノシャグメと謂ふ人が多い。書紀や萬葉集のやうな古い書物に、天之探女《あまのさぐめ》と出て居るのも同じもので、これを意地惡で惡戯好きで、いつも人間のいやがる樣な事をする魔物であつたやうに、今でも古い人たちは言ひ傳へ、又は話の種にして居る。多分庚申の晩の夜明かしには、よくかういふ話が出たので、これを足の下に踏み付けて居る神さまといふのも、つまりはこの日の祭を愼しみ營むならば、その御蔭によつて村にいやな事が起らぬのだといふ意味を以て、信仰せられて居たものなのであらう。

　

　　　　　　　佛教の影響

　

　我々の祖先が庚申の晩に祭つて居た神樣は、結局はもう不明になつて居るといふより他は無い。中國にも庚申の夜(140)を守るといふ風習だけはあつたが、それはたゞ警戒の夜といふまでゝあつた。睡れば三｜尸《し》といふ蟲が人間の身から拔け出して、天に昇つて隱し事を密告するなどゝも謂つて居たが、我邦ではさういふ後暗いことは言はなかつた。我々の信仰は最も愼しみ深いもので、心と身を淨めて、穢れを去り惡念に遠ざかり、一夜を神の前に參籠することによつて、團體共同の幸福が得られると思つて居たことは、佛法の教へよりも、寧ろ國固有の神道の方に近かつた。それを村々の神職たちが指導しなかつたのは、一つにはこの晩床の間に掛けて拜む掛軸が、路傍の庚申塔の彫刻と同樣に、もう神道では説明し難いものになつて居たからである。全國到る處、どこでも庚申の日にこの祭をする風習が行き渡ると、神の繪像を木版に刷つて、?装《へうさう》までして賣る樣になつたのも自然なことで、これにも僅かづゝのちがひはあるやうだが、大體にこれを作らせた人は僧侶たちであつた。しかもその繪の中には前にも言ふやうに、佛教では説明することの出來ない色々の異分子が、半分以上も混同して居るのである。石塔を頼まれて彫刻する地方の石屋等は、手本をこの掛軸の繪に取つたので、信徒は又段々と、庚申樣はかういふ御姿の神だと思ふやうになつて來た。この祭に讀む經は何と何、又唱へごとはかういふのがよいといふやうな、小さな幾つもの指導書も法師の手に成つて居る。ちやうど今から七八十年の前まで、大小多くの我邦の神社を、僧侶がお祭りして居たのも同じことで、この方だけには終に改革が無かつたのである。これには奈良朝以來の永い／＼原因があつたことは、誰にでも考へられることであるが、その一つの大きな力は念佛の流行であつた。農民はむつかしい經文はわからぬので、かういふ夜の祭の集まりにも、たゞ南無阿彌陀佛を唱へて居た。それが念佛講と謂つて今の世にもなほ續き、又その記念の爲に多數の石塔を建てたり、多數の念佛塚といふ塚を路の傍に殘したのである。さういふ講はもと念佛の爲に結ばれたもので無く、たゞ講中の人々が念佛を教へられたといふまでゝあり、親しい友だちが月に一度又は二月に一度、集まつて夜籠りをする慣例の方が、もつと古かつたのではないかと私は思つて居る。さうしてその集會の日を、六十一日日毎の庚申《かのえさる》の晩としたのも、その一つの新しい方式に過ぎなかつたことは、これから話して見ようとする二十三夜講の實例から、大よ(141)そは明らかになつて來るのである。

　

　　　　　　　日待月待

　

　庚申さんが青面金剛などゝいふやうな、妙な外來の神でなかつたとすると、そんなら何といふ神かといふことが、當然に問題になつて來るが、これはたゞ庚申の日にお祭り申す神といふ以上に、詳しく名を知ることは誰にも出來ぬだらう。一體日本人は、輕々しく神の名を口にする民族ではなかつた。神道の歴史を説く者だけが、それを構はずに呼ぶやうになつて居るが、信ずる人々はなほ御本名と思ふものは諱み憚つて居る。殊に農民に至つては、村にたゞ一つある産土の神の御名さへ知らず、たゞ御宮といひ明神さんと謂つてすませ、その他の神々でも山で祭るから山の神、泉のほとりに祭ればカハの神又はオスズ樣、正月に祭る神を正月樣、盆に祭る神を盆さまなどゝ謂つて區別して居た。庚申さんはつまり庚申の日の晩に、御籠りをして祭る神といふことだつたので、それ故に越後や佐渡ではたゞオカノエ樣ともいひ、薩摩などではサツドン（猿殿）とさへ呼んで居るのである。京都内外の古い大きな神社でも、申の日酉の日又は卯の日等を以て、毎年の例祭を執り行ふものが、稀ではない。それは古い頃からの慣例には相違ないが、その日がたゞ十干十二支の六十の組合せの一つだからと言つて、この信仰までも隣國から、教へてもらつたやうに思つたのは誤りである。

　村にはこの庚申待や甲子待《きのえねまち》ばかりで無く、子安講・觀音講・地神講その他いろ／＼、庚申と似通うた寄合があつた。家代々の親しい人々が仲間になり、順まはりに宿をして共々に神を祭るといふ團體は多かつたのである。しかしさういふのは大抵晝間集まるだけで、食事でもすますと解散することに今はなつて居るが、別になほ幾つかは庚申と同じやうに、一夜を睡らずに語り明かす集會があつて、これを總稱してまちごとゝ謂つて居る。まち事の中では日待と月(142)待との二つが最も全國的である。日待は舊暦十月の十五日、又は正月中旬の或日、又は月々の農事の少し閑な日に、やはり仲間の家に寄合つて神を祭り、夜どほし起きて居て、翌朝の日の出を拜んでから別れるもので、土地によつては庚申も甲子も、共に日待の一つのやうに考へて居るものがある。マチは古くからの日本語であつて、その最初の意味は「おそばに居る」こと、即ち神と共に夜を明かすことであつたのだが、後々それを「待つ」ことだと思ふやうになつて、夕方の祭よりも、朝の方に重きを置く者が多くなつたのである。

　

　　　　　　　二十三夜に祭る神

　

　二十三夜の月待なども、それと同樣に月を待つ催しの如く解せられた。しかし二十三夜講の頭屋では、やはり庚申講と同じく、人が揃ふとすぐに、先づ宵のうちに祭を行ふのであつた。さうしてこの二十三夜と庚申と、二つの間には殊によく似通うた話が多い。たとへば十年に一度とか五十囘目百囘目とか、又は何か特別の祈願の有る時とかに、記念の大祭を擧行して、石の塔を一定の場處に建てるといふことも同じであつた。石に年號月日を刻したのは、三百年より古いものは稀なやうだが、これは一つには字の讀める人が少なかつたのと、又一つには石工が無く、石を斫り出す者が村に居らず、石塔の代りにたゞ土の塚を築いて居たからで、起りは決してその樣に新しいものではなかつたやうである。

　拜む人々が神の御名を口にしなかつた爲に、次第に祭神が不明になつて來たことも、庚申と二十三夜とはよく似て居る。さういふ中でも二十三夜の方は、佛教の人たちもあまり口を出さず、青面金剛のやうなかはつた掛軸も、作つて賣る者が無かつたから、この點が今でもはつきりとせず、石塔の表にも文字ばかりを彫つたものが多く、人はたゞ二十三夜樣といふ神樣があつて、この晩は村々を御巡囘なされ、信心の深い人々には�ｺを施し、惠みを垂れたまふも(143)のと思つて居るだけであつた。

　それが月天子《ぐわつてんし》である、又は月讀尊《つきよみのみこと》といふ神樣であるといふことは、誰しも考へやすく又物知りの言ひさうなことであつたが、夜毎に出ては照らす空の月が、この二十三日の祭の夜ばかり、さういふ神になりたまふといふことは、却つて單純な少年少女などには、受け難い話であつた。なぜ他の日には何もなされぬのかといふことが、先づ彼等の疑問になるからである。二十三夜のお月樣は、藥袋を背負つてお出やるさうななどゝ、言つて居る村は方々にあつたが、それはこの晩の祭をよく勤める者は無病健康で一生送れると、言ふやうな時に引くことわざのやうなもので、さうだらうかと思つて出て見る者などは子供にも無かつた。二十三夜の月だけは三體になつて山を離れるといふことを聽いて、まさかと思つたことは私にもあるが、これは今宵の月が彌陀の三尊の御姿を御示しなされると謂つて、信じて居る者が古くからあつた爲である。乃ちこの晩も亦祭の後、念佛を唱へて夜を明かす者があつたので、かういふ話も起つたのである。

　しかしそれも今はたゞ話ばかりになつて、やはり二十三夜の晩になると老人が思ひ出して居る。事實その通りと思ふ者は少なく、ださうなとか、といふ話だとかを付け添へて、古い言ひ傳へのまだくり返されて居るのは、これも夜籠りの一つの功�ｺであつた。私は久しい間、かういふ種類の話を方々で拾ひ集めて、二十三夜といふ不思議な風習の起原を、この方面から尋ねて見ようとして居る。二十三夜の文字までがあの通り單純な、どうかすると見過してしまひさうな、この小さな路傍の立石の背後にも、まだ／＼澤山の昔が隱れて居るといふことが、これから段々と判つて來さうなのである。

　

(144)　　　　　　　神の微行

　

　二十三夜樣の昔話といふのは、珍しく國の端々によく傳はつて居る。たとへば九州もずつと南、薩摩の甑島《こしきじま》といふ離れ島などにも、この夜の月が三體に分れて出たといふ口碑がある。甲賀三郎の物語などゝ近く、三人ある兄弟の末の弟が兄に憎まれて、地の底へ押し墮される。弟は土の下でもなほ二十三夜を拜み續けて居ると、三年目の九月二十三日の晩に、お月樣が三體になつて出現なされ、中央の一つは天に留まり、左右の二つは船と船子とになつて、その弟を載せて白濱といふ海邊に着いた。さうしておれは二十三夜の月だと言つて、天に還つて行かれたと語つて居る。月を船といふのは島である爲だけで無く、この夜の月は形も船に似て居るので、殊に漁民は救濟の惠みを信じて居たものかと思ふ。

　然し二十三夜樣を月だとは言はぬ土地にも、これにやゝ近い神の示現を説く話が多い。その中の最も珍しく、且つ庚申樣の方の話と似通うたものが、やはり鹿兒島縣南部の喜界島にも殘つて居た。昔ある處で二十三夜の集まりをして居る家へ、見すぼらしい破れ衣を着た一人の旅人が尋ねて來て、祭の仲間に入れてくれといふ。通例かういふ者は加へないのだが、主人は心のすなほな人なので快くそれを許した。祭が終つて明くる朝、歸つて行かうとする際にその人は、この次の二十三夜は私の家で宿をしたい。どうか來て下さいと住所を告げ、招待をして置いて行つてしまつた。あんな乞食のやうな男に何が出來るかと、仲間の者は信用しなかつたが、それでも約束だからと誘ひ合つて行つて見ると、今まで氣がつかずに居た立派な住居がそこに在る。亭主は前囘の破れ着物の人で、これはよく御出で下さつた、支度にかゝりますから暫らく御待ちをと言つて、臺所へ下つたまゝ中々出て來ない。そつと覗いて見ると、爼板の上に赤兒のやうなものを載せて、頻りに料理して居た。それは人魚といふ又と得難い魚だつたのだが、仲間の人(145)たちは氣味を惡がつて皆逃げて歸り、正直な前の頭星の主人だけが、殘つてその人魚の肉を御馳走になつた。それから愈々月が昇つてからの歸りがけに、おまへは誠に正直な善い人だ。かういふことを教へて上げるから途中でやつて見なさいと謂つて、刀を一本與へられた。それはシキといふ大きな火柱のやうなものを、この刀を以て斬り拂ふと、あまたの金銀がぐわら／＼と空から落ちて來るといふ話で、あまり長くなるからこゝには詳しく述べないが、これと三分の二以上も似よつた話が、遠く奧州の北上川流域にもあつたことが、吾妻昔物語といふ書物にも載せられて居る。さうして喜界島の方ではこの異人が二十三夜の神樣であつて、それを知らなかつたけれども前の祭宿の主人は、信心深く又正直であつた故に、神の惠みを受けて大へんな長者になつたのだと語り傳へて居るのである。

　

　　　　　　　人魚を食べた人

　

　皆さんはもう何かで讀んで居られるかも知らぬが、この人魚の肉といふのは、我邦では極めて有名な話であつた。今でも年をとつて容貌の少しも衰へない人を見て、人魚でも食べたのかと戯れに言ふ者が有るやうに、この肉を食べると長命で、且ついつまでも年を取らずに居られるといふのが、中世以來の言ひ傳へであつた。この人魚の料理を物蔭から覗いて居た人々が、疑ひの心を抱いて食べずに逃げて還り、たま／＼無邪氣にそれを食べた一人だけが、いつまでも老いず死なずに居たといふ話、これが又各地に弘く行はれて居る。その中でも多くの書物に載せられたのは、若狹の白比丘尼といふ女であつて、八百歳になるまで、美しさは娘のやうであつたと言はれで居る。これは父親がこの人魚の肉を一きれそつと持つて還つて、着物を着替へるときに疊の上に取落したのを、まだ這ひまはるほどの小さい兒であつて、何も知らずに食べてしまつたのであつた。さうしてこれが亦今まで見たことも無い人から、庚申の晩に招かれて行つて、貰つて來たものだつたといふ話になつて居るのである。

(146)　つまりは遙か南の喜界島に於ては、二十三夜講の晩の出來事として語り傳へて居る奇談が、内地では庚申の話となつて、諸處方々に分布して居るのであつて、島にはまだ庚申の日に夜籠りの祭をする風が始まつて居らぬらしいから、或はこの二つの講がもとは一つだつたかといふ想像も成り立つのである。人魚の肉といふ點は無いのもあるが、私が覺えて居るだけでも紀州の吉野川のほとり、岐阜縣では飛騨の益田川の岸の村、遠く北に離れて福島縣會津の或村などでも、何れも庚申の晩に見馴れぬ旅人が來て、強ひて仲間に入つて一夜を共に過したといふ話がある。歸りがけに次の庚申を自分の家へ招き、見たことの無い立派な家で御馳走をしたとか、その他いろ／＼の人間わざで無い不思議を現じて、さてはあの旅人は神であつたかと、心づいたことは皆同じである。たつた一つの二十三夜とのちがひは、一方ではこれをその日に祭る神とは言はずに、別の尊い神だつたと傳へて居ることであるが、それならば何も庚申の日の出來事として記憶するわけも無く、又この晩の話題となつて、永く傳はつて居る筈も無いのであつた。つまりこの日に祭られたまふ神が、不明になつてしまつたといふ以上に、青面金剛などゝいふ外來の神の名を以て置き換へられた結果、かういふ古くからの言ひ傳へが、次第に似合はしくないものになつて來たのであつて、その變遷の路筋が、

今はまだ幽かに二十三夜樣の方の話によつてわかるのである。

　

　　　　　　　霜月三夜

　

　二十三夜にお祭り申す神が、日を定めて遠い處から、降りて御出でになる神であつたことは、又全く別な方面からも考へて見ることが出來る。さうして私は庚申の夜に祭る神も、もとはやはりさうであつたらうと思つて居るのである。古い京都の記録を見ると、今からもう四百年近くも前に、宮中にもこの二つの御夜籠りがあつたが、二十三夜の方は毎月行はれた時があり、庚申は當然に二ヶ月に一度であつた。毎月一度といふことは信心の篤いうちはよいが、(147)あまり囘數が多いと却つて粗末になりやすく、時や費用の上からも大きな祭は出來ない。それで今でも二十三夜講は、村によつては毎月のところと、四ヶ月に一度のところと、春夏秋冬に一度づゝのと、年に一囘だけ重々しい祭をするものとが有るのである。さういふ中では、年に三度といふのが最も多い。通例は正月と五月と九月、この三つの月は一般に祭の月となつて居て、その爲には婚禮とか引越しとかいふやうな、日の自由にきめられる祝ひ事は、成るべくこの月を避けて居る。さうして二十三夜なども念を入れてこの月に行うたのであつた。その以外に年に一度といふ土地では、秋の初めの七月二十三夜といふのがあり、又は冬のなかばの舊暦十一月の二十三日、即ち霜月三夜といふのも古くからあつた。

　新暦では十一月はまだ農事の忙しい、人のくたびれて早く寢る頃だが、以前の太陰暦といふ暦では、もう寒くなつて雪が降り始め、夜分がしんとして淋しくなつて來る。兵庫縣但馬の村々などでは、この霜月三夜には山々の獣までが山から出て來て、この晩の祭をするといふ言ひ傳へがあり、子供は樂しいといふよりもむしろ氣味わるく、靜かに炬燵にあたつて木枯しの音を聽いて居た。尊い神樣が吹雪の風に乘つて、里を御巡りなされると謂つたのもこの晩の事である。中部地方から東の各縣、北陸一帶、又は山陰地方も但馬から西の方では、この晩だけは二十三夜とは言はずに、大師講と謂ひ又はその大師の昔話によつて、跡隱しとか擂木《すりこぎ》隱しとか、その他色々の珍しい名を以て呼んで居る。むかし或一人の貧しい老女の家へ、この寒い二十三夜の晩に、戸を敲いて大師が訪ねて來られる。何か食べ物をさし上げたいと思つても、ひどい貧乏なので家には何一つも無い。惡い事とは知りつゝも、そつと隣家の田に行つて、掛稻の穗を五六本盗んで來る。又は大根を畠から拔いて還る。大師はその志を憫れんで、雪を降らせてその老女の足跡を隱してやつた。その因縁によつて今でもこの夜はきつと雪が降るのだとも言ひ傳へて居る。暖かい雪の降らぬ土地の生まれで無い限り、この話は今でも聽いて覺えて居る人は多いことゝ思ふ。

　

(148)　　　　　　　跡隱しの雪

　

　或は又その貧しい家の婆が、足は擂木のやうに指の無い片輪であつた。これではこの女の所業といふことがすぐ露はれる故に、雪を降らせて足跡を隱して下されたのだといふ處も少なくない。ところが越後の魚沼地方などでは話が又少しばかりちがつて居て、この霜月二十三日の夜更に、村々を巡つてあるかれる大師といふ人の、足がデンボであつたともチンバであつたとも謂ひ、それで自らの足跡を人に見せぬやうに、雪を降らせたまふといふやうに傳へて居る。これはたしかに同じ話の二つに分れたものであるが、この方が古くからのものだらうと思ふわけは、跡隱しの傳説の全く無い土地にも、なほ霜月三夜の大師さまは、跛者であつたとも片足神だつたともいふ者が稀で無いのである。人は大師と聽くと先づ弘法大師のことゝ思ひ、それから弘法が破れ衣の旅僧の姿で、今でも全國をあるきまはつて居られるやうに言ふ者があり、高野山の方でも御影堂の大師の御姿が、毎年の御衣替へにはすつかり法衣の裾を切らせて居られるなどゝいふ話も出來て居るが、もしもかうしたさま／”＼の話を聽いたならば、この霜月三夜の旅の神だけは、弘法大師で無いと言はずには居られぬだらう。

　東北地方も端々の方へ行くと、この大師は女性だといふ人さへ有る。デイシコは夫が無く、二十三人の子供があつた。この日こしらへて上げる粥や團子の膳には、長い二本のちんば箸と、もう一本の杖といふのと、必ず三本添へることになつて居るのだが、これもあんまり兒の數が多いので、一々傍へ寄つて食べさせることが出來ず、それでこの樣な長い箸が入用なのだといふ説明が付いて居る。或は又大師は子供が多いので家が貧しく、二十三日の粥に入れる鹽が無く、それを買ひに出て途中で吹雪に遭つて倒れた。さういふ由來によつて今でもこの日の粥だけは鹽を入れないと謂ふ者も有る。大師講の日には何處でも粥を煮て供へ、それに鹽を入れないことは事實であるが、他の土地では(149)又貧家の女が、旅の弘法大師にこの粥をさし上げたときに、どうして鹽を入れないのかとわけを問はれて、鹽も買へぬやうな貧乏なのですといふと、それは困るだらうと杖のさきを以て地面を刺し、鹽水の湧き出す泉を授けられた。その記念の爲に粥に鹽を入れないのだと説明して居る者もあるのである。こんな珍しい幾つかの話が、そこにもこゝにもよく記憶せられて居るのを見れば、この十一月二十三日から二十四日にかけての一夜も、やはり人が睡らずに睡氣の醒めるやうな話を、頻りにする晩であつたことが想像せられ、いかにも田舍の冬の集りが、のんきなものだつたことが考へられるのである。

　

　　　　　　　枚立清水・大根川

　

　私たちがお大師水、又は弘法水と名づける諸國の傳説には、明らかに十一月二十三日の出來事だつたといふものは幾つも無いが、事柄は前に出した喜界島の二十三夜樣と大分似て居る。さうしてその起りは、たしかに又弘法大師の生まれた時よりも古いのである。日本全國には千以上、地方によつては村毎に、又泉毎にこの話があつて、何處のも大抵は同じことであつた。昔一人の女が窓の下で機を織つて居ると、きたない破れ衣の乞食みたやうな旅僧がやつて來て、水を一杯もらひたいと謂つた。昔の地機《ぢばた》は紐でからだを機に結はへたものだつたが、心のやさしい女なのでその煩はしさも厭はず、紐をほどき機から下りて、遠くへ水を汲みに行つて來て飲ませた。どうしてこの樣にひまがかかつたのかときかれて、こゝは水が惡く乏しく、何十町も行かぬとつめたい水が無い。それを汲んで來たから遲くなりましたと答へる。それは毎日骨折なことであらう。お前は心の善い女人だから、この門前に清水を一つ出してやらうと、杖で程よい處を刺すと忽ち美しい泉が湧いた。それが今もある名水で、一名を杖立清水と謂つて居るといふのも多い。或はその近所に不親切な女があつて、旅人が水を求めると、そこの洗濯盥の水でも飲めと謂つた。それでそ(150)の家の井戸は今でもきたない泥水だといふやうな、裏の話の付いて居るのもある。四國の一部では、その旅僧が最明寺時頼だつたといふ話になつて居るが、女が茶碗の縁を少し打ち缺いて、こゝは私が口を付けたところですから、他のところから飲んで下さいと言つたので、これもその謹しみ深い行ひが大いに賞せられた。沖繩の島などは、最明寺も弘法大師もまはつて行かぬ離れ島だが、やはりこれと全く同じ話があつて、これは神樣が姿をかへて、人の心を試みられたものゝやうに謂つて居る。

　僅か水を一杯といふやうな小さなもてなしでも、志の深い者は神の御惠みを受けるといふ教訓であつたらうと思ふが、これと同じ話はまだ色々ある。たとへば女が川に出て大根を洗つて居る處へ、やはり見すぼらしい旅僧が來て大根を一本くれよといふ。この川には水が無いのでまだ洗へませんとうそをつくと、さうかと謂つて去つてしまつたが、それから以來大根を洗ふ頃になれば、川にはきつと水が無くなると謂ふ大根川といふ流れが、九州などには十數箇處もある。大根はちやうど霜月頃が收穫の盛りであり、又二十三夜樣を祭れば大根がよく出來るといふ俗信が東京の近くにもある。甲子祭の日に大黒さんが來て、大根を洗ふ女に一本くれよと所望なされた。これは主人の物ですから上げられませんが、こゝだけは餘分ですからさし上げませうと、二股大根の片方を取つて上げた。それから甲子の日には二股の大根を供へて、大黒さんを祭るのだといふ話が東北にも有るから、この話などは多分霜月三夜の大師講と關係があり、從つてその晩の夜話にして居たものであつたらう。

　

　　　　　　　弘法機・寶手拭

　

　この以外にも石芋｜脂桃《やにもゝ》不喰梨《くはずなし》の類、この梨は硬くてとても喰はれませぬと欺いたら、それから後は喰ふことの出來ぬ梨になつたといふやうな話は、大抵皆大師の逸話となつて各地に分布して居るが、誰でも知つて居るほど數が多い(151)のだから、もう詳しくはこゝで述べない。次には弘法｜機《ばた》といつて、これは少し大師の方が無理かと思ふ話がある。これもやはり女が二人、隣どうしで機を織つて居るところへ、例の旅僧が來てその布を何尺とか、こゝから剪つてわしにくれと所望する。一方のかたましい女は勿論これをはねつけるが、その隣の女は僧を敬ひ、惜氣も無く鋏を入れて渡すと、それが實際は人の心の試驗だつたので、すぐ及第して大きな御褒美を頂戴する。それは何でも果無しに續くといふ不思議の力であつた。この女が布を機から卸して物差で測り出すと、何尺取つてもその跡がまだ殘つて居る。それで忽ち大金持になつてしまつた。惡い女はそれを見て羨ましくてたまらない。方々探しまはつてその旅僧を見つけ無理にひつぱつて來て、くれとも言はぬのに布を何尺か剪つて渡すと、御褒美はこれも同じ力であつた。やれ嬉しや、先づ水でも汲んで置いてから布をはかることにしようと、手桶を下げて井戸へ行き、水を持つて歸る途中、すべつて轉んでその水がこぼれ、それが又一旦始まつたらいつ迄も續いて、しまひにはこの女の家屋敷が沼になつた。その沼が何とか沼ださうなといふやうな人を笑はせる話も、やはり同じ言ひ傳へを親にして生まれたものである。

　それからもう一つ、これは今少し新しく出來たものらしいが、寶手拭といふ話がある。むかし心の美しい、顔容《かほかたち》の至つて見にくい娘があつて、長者の家に奉公をして居た。主人の妻女の物吝みが強いので、自分は流しの餘り物を食べ、我が食ふ分を殘して置いて旅僧に施して居た。或日ふらりと來たのが弘法大師であることを知らず、そつと後を追ひかけて用意の食物をさし上げると、お前は珍しい善人だからこれをやらうと、この方は向ふから三尺ばかりの布をくださつた。それを手拭にして顔を拭いて居たら、二三日もたゝぬうちに見ちがへるほど綺麗な女になつた。家の女房もびつくりして、どうした／＼とわけを尋ね、急いで自分も旅僧を見つけて來て、うんと御馳走をしたので又手拭を頂戴する。しかしさういふ身勝手な施しなので、美しくなつて行く筈も無く、毎日少しづゝ顔が長くなつて來て、しまひにはヒヒンと嘶《いなゝ》いて飛び出したなどゝ謂つて笑はせて居る。

　

(152)　　　　　　　猿と染星

　

　この話の基になつたかと思ふのが、東北にも弘く行はれて居り、又一方の國の端、沖繩の島にもまだはつきりと記憶せられて居る。それは食物を僧に施したといふ代りに、不思議の旅人に一夜の宿を貸したといふことになつて、やはり貧しい親切者と、強慾な金持との對照を示して居る。霜月二十三日の夜では無いが、普通は正月も近づいた年の暮にといふ話が多い。見馴れぬ旅の人が來てどうか泊めてくれといふのを、長者はすげ無く斷つて追ひ出すやうに門をしめる。その隣の貧乏人は、おとめ申したいのは山々だが、何分さし上げるやうな食べ物が無いのに困るといふと、いや／＼火の傍にさへ置いてくれるなら、飯はわしがこしらへるからと、大きな空鍋を出させ、袋の中から耳掻きに一ぱいほどの物を出して、水を入れて火の上にかけると、忽ちのうちに一鍋の眞白な米の飯が出來た。それを主人夫婦にも食べさせて、お前たちは誠に立派な人だ。今に隣の長者一族が猿になつて山に入つてしまふから、その跡に入つて住むことにしてやらうと言つた。その旅人は實は神樣だつたのである。長者は神を粗末にした罰で、果して猿になつてその家には居られなくなる。正直な貧乏人は代りにその屋敷を持つことになつたが、沖繩の話ではその猿が恨み悲しんで、毎日山から來て門の石に腰かけて啼いた。どうしたら好いでせうかと又神樣に窺ふと、そんならその石を熱く燒いて置いて見よとのことなのでさうすると、それを知らずに來て腰をおろし、尻を燒いて飛び上つて逃げて行つた。それから今でも猿の尻は赤く、猿の手は眞黒に汚れて居るのだとも、又もとは染物業だつたからとも謂つて居る。乃ちもう結果を子供が笑ふやうに、童話とかいふものゝ形にして居るのだが、もとは今一段と人が信じ得るやうな言ひ傳へであつたことは、古い書物との比較によつてわかつて來るのである。

　その古い話といふものゝ一つは、廣島縣備後の疫隅宮《えすみのみや》といふ神社の由來で、これは延長年間の風土記に出て居たと(153)いふが、それが事實であつても弘法大師よりはずつと新しい。むかしこの土地に巨旦將來《こたんしやうらい》・蘇民將來《そみんしやうらい》といふ兄弟の者が住んで居た。巨旦は無慈悲で神を敬はず、蘇民は正しい善人であつた。武塔天神といふ北方の神樣が、南海の美しい女神を娶らうとして、こゝに一夜の宿を御求めなされたときに、前の話と同樣に一方はこれを拒み、他の一方は快く御迎へ申して、栗の飯を進めたとも謂つて居る。武塔天神は今の京都の八坂神社、俗に祇園さんといふ疫病の大神であつたといふ。神が南の方から八人の御子を連れて歸りたまふ日に、御憤りによつて巨旦は忽ち打ち滅され、蘇民の末は永く神の御庇護を受けたといふことになつて居て、現に今でも國々の天王社又は祇園さんの御社から、授けられる疫病除けの守り札には、蘇民將來子孫也といふ文字を、書いたものが多いのである。この人名などには不審な點も有るが、少なくとも遠い處から御出でになる尊い神樣を、眞心を以て御宿する人々が、子孫末永く保護せられるといふ言ひ傳へだけは日本のもので、それをこの物語も受け繼いで居るのだと、いふことまではこれによつて認め得られる。

　

　　　　　　　天つ神の御宿

　

　さうして一方には又有名な、富士と筑波といふ古い話も有るのである。これは奈良朝時代に出來た常陸風土記といふ本の中に出て居るので、この事が文章になつたのは、確かに弘法大師の生まれた時よりも前であつて、これには微行して來られた旅人は、御祖神であつたと明らかに書いてある。大昔その大神が、富士山のところへ來て一泊を求められたのに、今宵は新嘗の晩だから、知らぬ人などは内に入れられないと嚴しく斷つた。これに對して筑波山の方は物わかりがよく、新嘗は愼しみの夜であるけれども、他ならぬ天つ神を御宿申さぬ法は無いと、早速御迎へ申して懇ろにおもてなしをした。その行ひによつて筑波は小さい山だが、夏冬を通して草木が榮え、御參りに來る人の數が多(154)く、富士はあの通り積雪が深くて、人の近づき寄る者の至つて少ないのは、天つ神に敬を盡さなかつた爲だと説明せられて居る。山が新嘗の祭を營むといふのは珍しいが、それは少なくともこの二つの峰が西東に見える地方では、どこの家でも皆古來の作法通りに、この一夜の祭をせぬ者が無かつたからさう思つたのであらう。さうしてこの話が幾分か筑波山の方をひいきして居るのは、二つの山の間とはいつても、やゝ東の方へ偏した村里に於て、語り始めたものだつたからであらうと、私は考へて居る。

　新嘗は我邦で殊に大きな重い祭であつた。詳しいことは私にも判らぬけれども、稻の收穫がすつかり終つて後に、家を清め身を清めてその穀物を調理し、夕御饌《ゆふみけ》と朝御饌と、兩度の御膳を神にさし上げる祭のやうに聽いて居る。現在は太陽暦で十一月の二十三日にその祭を行ふことに定められて居るが、以前はもつと遲く、冬もよつぽど寒くなつてからの祭であつて、多分は北半球では太陽が南の端まで下り、これから少しづゝ北へ還つて來るといふ、冬至の前後の事であつたかと思ふ。支那でも早くから冬至を大切な祭の日にして居るが、西洋でも今クリスマスと謂つて居る日が、基督教よりももつと古いものださうで、暦の數學がまださう精確で無かつた時代に、強ひて色々と理窟を付けて、これをキリストといふ神の子の生まれた日にしたといふ話である。花咲き鳥の鳴く春といふ嬉しい季節が、これから出發して歸つて來るといふ時である故に、それを力強い又惠み深い神の御子の、誕生の日のやうに想像したのは、子供らしい大昔の人としては自然なことであつた。強ひて或一人の賢い者が、教へて弘めたと見る必要は無いのである。天つ神といふだけでは、まだ我々にははつきりとせぬ樣であるが、日本でもこの若々しく伸びて行く春の陽氣を、新たに誕生なされた御子神と、考へることが出來たのかも知れない。二十三人も有る子の母が、吹雪の中に鹽を買ひに出て倒れたといふのも、無論空想だが、基くところは有つたらしく、耳でダイシと聽いて弘法大師、又は元三大師や角大師を想像して居たのも、起りはやはり尊い神の御子といふことであつたかも知れない。さう思ふわけは我邦では、もとは長男長女をオホイコといひ、漢字では常に大子と書いて居たからである。

　

(155)　　　　　　　新嘗の物忌

　

　この新嘗の祭といふ口言葉は、もうそのまゝでは農民の中には殘つて居ない。それでとくの昔に消えてしまつた樣に、本で歴史を讀む人は考へて居るのである。それが私たちの霜月三夜、ニジフソ（二十三）と謂ひ太子講といふ日と、同じものだつたら非常にうれしいのだが、確かな證據はさうたやすく見つかりさうも無い。たゞ一つ二つ今でも比べて見ることの出來るのは、昔の新嘗でも宵から曉まで、人が集まつて起きて居たことゝ、男と女とが場處を異にして、この一夜の物忌を守つたらしいことである。これも東國に傳はつて居た古い歌に、

　　　誰そこの屋の戸おそふるにふなみにわがせをやりていはふこの戸を

といふのがある。セといふのは男たち、自分の夫や男兄弟のことであつた。乃ち女は女どうし戸をしめて家に籠り、男は又どこか一處に集まつて、この晩の參籠をして居たので、それと同じ事を、今でも月々の二十三夜待にして居る村々は少なくないのみか、更に又庚申待の晩にも、女を別にして置く風習が、まだ弘く行はれて居るのである。庚申の徹夜が次の朝、旭日の山を出るのを拜して、すが／＼しい心持を以て終つたと同じく、二十三夜もまた夜明けの少し前に、山から出て來る月の光に正面して、これで祭はすんだと散り／”＼に別れて歸ることになつて居るが、これなどはマツといふ國語の意味が、知らぬ間に少しくすべつて來た爲で、農家ではもうそれから寢る人も無かつたらうから、共に夜すがらの祭であつたことに變りは無い。

　それから今一つは話の種が多く、又古いものが永く殘つて、しかも僅かづゝ面白くをかしく補修せられて居ることも、この信仰の變遷と併行して居るやうに思はれる。最初はたゞ新嘗の夜の愼しみが嚴重で、うつかり知らぬ人を入れて穢れを受けてはならぬといふ警戒であつて、それでも稀々には神樣が御自ら訪ねてござることが有るから氣をつ(156)けねばならぬといふ話だつたのが、後には人間の慈悲無慈悲、親切不親切をためして見るために、姿をかへ口實を作つて、家々を訪問なされるといふやうな話になつて、もう必ずしも一定の日であることを要せず、常に私たちの心の持ち方を、教へ戒める例に引き直されたのは、見方によつては社會道�ｺの進みといふことも出來る。弘法大師が死後千年以上、始終諸國を破れ衣であるきまはり、人の心の裏までも見て居られるといふ話は、時々は乞食坊主の便利にも供せられたか知らぬが、一方にはそれが私たちの身の行ひを、知らず識らずのうちにどの位、引き締めて居たか知れぬのである。二十三夜の夜話といふことが、近い頃まで村里に續いて居なかつたら、こんな話ももういゝ加減に無くなつたであらうが、實際にはなほこの二つのものゝ中間ともいふべき話、すなはち二十三夜や庚申講の仲間へ、見知らぬ他所の人を加へてやつたことが、大きなしあはせになつたといふ話なども殘つて居るのである。

　

　　　　　　　伊豆七島の日忌樣

　

　私の話も長くなつたが、こゝにもう一つ、どうして二十三日の晩が、かういふ祭をする時になつたのか、といふ問題がまだ殘つて居る。自分だけの考へでは、霜月三夜は農民にとつて、殊に重々しい日だつたけれども、これは主として稻の栽培に伴なふもので、他になは正五九月や七月などの同じ日も、やはり同じやうに祭をすべき日であつたと思ふ。それに就いても一つの昔話が、東北地方の端の方に行くと有る。二十三夜樣を、百姓は山の神だといひ正月に祭るものだと謂ひ、漁師たちはいや海の神だ、二月二十三日の祭が本當だと謂つて爭ひをして居た。そこへ見たことの無い人がふらりと來て、この次は私の處の二十三夜樣に來て下さいと招くので行つて見ると、そこでは自分たちの認めない日に、もつと立派な祭をして居たといひ、又は雙方が賭をして置いてから、そつと相手の村へ行つて見たら、自分の處にも劣らぬやうな祭があるので、雙方ともにこれは負けたなと思つたといふ話も有る。これにはどこか脱け(157)落ちた點が有るらしいが、ともかくも人は互ひに知らずに、ちがつた月に同じ神を祭つて居たのである。それが海の上でも山の中でも、均しく人を助けたまふ大きな神であるとわかつて、愈々有難さを加へたといふことを説いたものらしい。

　東北では二十三夜と大師講とを別々に見て居るから、これも正月と二月との爭ひになつて居るが、もと／＼土地によつて祭る月が同じでないのだから、かういつた話はどの月にも起り得る。さうして霜月三夜は殊に大切な日なので、太子講などゝいふちがつた名を以て、呼ぶ村が多いのであつた。正五九月の年三度といふ中では、正月に力を入れるものが多く、京都の附近なども、二十三夜は正月のものと思つて居る。さうして祭の仕方はほゞ同じなのである。正月は祝ひ月で、一般に人の心に餘裕がある。靜かに一夜の祭を營むに適して居たとも見られるが、なほそれ以上に一年に一度、この日を定めの日として遙々と訪れたまふ神が有ると、今も信じて居る處もあるのである。伊豆七島では大島から三宅島まで、即ち八丈を除いた六つの島で、その神を日忌《ひいみ》樣、その日を忌《き》の日といふのがそれであつて、今では二十五日を中心と見て居るらしいが、祭の謹愼の始まるのは、やはり二十四日の前の宵からである。島々村毎に由來談はちがふけれども、それを見比べるともとの傳へはまだ判る。この夜島々に近よる畏ろしいものが有る。昔惡い代官を殺した祟りだの、それを殺した七人の者の靈だの、又は海難法師といふ化物だのといふのは、餘りにこの祭の前の物忌が嚴しく、その戒めを犯した罰が怖ろしかつた爲で、或島では夜深く神が上陸して島を御通りなされ、それを神職だけが御迎へに行くといひ、普通の住民は皆日の中から戸を閉ぢて、ことりといふ音もさせぬ樣にして居た。或は又神の御舟は帆の色が赤く、それを見た者は忽ち死ぬと謂つて、三日の間は或方角を限つて、海を見ぬやうにして居る島もあつた。つまりこの島々は神を敬ふのあまり、祭典を或一家だけに任せてしまつて、他の者はたゞ日夜の忌籠りだけをして居たのであつた。月はちがふけれども鹿兒島縣の方の七島でも、舊十二月末のほゞ同じ頃に、何日か續いて海を見てはならぬ日が有る。さうしてこの間に祭があるのだが、こゝでも家の中に閉ぢ籠つて、御通りに行(158)逢ふことを不祥として居る。世襲の祭り人がきまつてしまふ迄は、もとはやはり順まはりに頭屋に集まつて、嚴肅に祭の夜を守つて居たのかと思ふ。内地の方でも正月の二十四日とその前後を、祭の日としたものが諸處にあるが、その大部分が現在は愛宕《あたご》樣の祭となつて居る。又月々この二十四日の一日を愛宕精進と謂つて、酒を愼しむ人が多かつた。さうすれば火事の災ひが無いと信じて居たのは、多分愛宕が火伏せの神であつたからであらう。

　

　　　　　　　七人の正月神

　

　しかしなほ氣を付けて見ると、かつてはこの正月二十四日にも、やはり伊豆七島と同じやうに、遠く訪れたまふ神があるといひ、それを又夜話の話題として居たかと思はれる形跡がある。これも笠地藏と謂つて路傍の立石と、關係の有る昔話だから、ついでにざつと話をして見るが、誰でも知つて居るのは、野中の六地藏が雪｜霙《みぞれ》に濡れてござるのを、心の善い老人が見てお氣の毒に思ひ、市へ賣りに出て賣れなかつた笠を、六體の石地藏に着せ申して還つて來る。さうするとその夜中に、家の外へ重い橇を曳いて來た音がして、何かどしんと戸の口へ卸して行く。出て見たところが山のやうな金銀米俵で、それを持つて來た六人の地藏の後姿が、雪あかりに見えたといふやうな話もあつた。土地によつては少しづゝのちがひが有るが、岩手縣の紫波郡《しはぐん》ではこれを七人地藏と謂つて話して居る。地藏の七人は少し變だと思ふが、他の部分は大抵同じことで、雙方共に大晦日の晩、明くれば元旦のめでたい出來事として語られるのであつた。奧州の方には、これと半分似通うた七人山伏といふ話もあつた。やはり路の傍で山伏が吹雪で難儀をして居るのを見て、うちへ連れて來たといふのもあり、又はさういふ晩に七人の山伏が戸を敲いて泊めてくれと謂つて來たともあつて、日は同じやうに除夜の晩であつた。貧乏で何一つ食べさせる物も無いが、せめて大火を焚いてあたらせると、七人は蓙《ござ》を頭から被つて爐のはたで睡つてしまひ、夜が明けて元日の朝日がさし込むのにまだ起きようとも(159)しなかつた。搖り起さうとしてよく見ると、それは山伏では無くて七つの黄金の大きなかたまりであつたので、忽ち爺婆は大金持になつたといふやうな、心地よい話になつて居て、これにも亦土地によつてちがひが有るのである。

　これ等の多くの昔話が、何れも正月元日の前夜の事となつて居るのは、何かわけのあることだらうと私は思つて居た。ところがずつと隔たつた�ｺ島縣の祖谷山《いややま》といふ奧まつた山村では、七人の正月神といふ話があつて、これは正月二十五日の出來事となつて居る。さうして話は前に擧げた笠地藏と、七人山伏とのちやうど眞中に立つやうなものであつた。その夜は雨が降つて爺婆が家に居ると、七人の正月神が來て笠を貸せと言はれる。笠は四つしか無くてあとは傘《からかさ》二本、自分の合羽などを出して快くさし上げたといふだけだが、この正月神樣はその年の十二月除夜の晩になつて又訪れて來られ、褒美に色々の寶を賜はつて、こゝでも爺婆は俄か長者になつたといふ話。これで少なくとも正月二十三夜の祭の、どうして始まつたかゞ考へられるのである。

　

　　　　　　　こよみと月讀

　

　正月の神樣が二十五日頃まで、まだ村の中に居られるといふことは、今考へると何だか長過ぎるやうだが、古い日本の正月が滿月の夜、すなはち舊暦の十五日を中心にして行はれたとすると、これはまだ注連《しめ》の内といふ祝ひの日のうちなのだからをかしくは無い。暦が字で書き印刷した本になり、どこの家庭でも見られるやうになつたのは至つて新しいことで、もとはその暦本の數も少なく、こしらへる處が遠くに在つて持つて來る方法も無く、それに第一讀める人が少なかつた。その爲に大抵の農村では昔の仕來りのまゝに、月の形を見て色々の祭や行事の日をきめたのであつた。年や月といふものゝ境も、この滿月の日だつたらうかと私は思ふが、その點は確かにさうだとまでは言へない。たゞ少なくとも多くの御社の祭が、今でも十五日の後先になつて居るのは、文字を知らない人々には月の形が、一ば(160)んわかりやすい暦だつたからである。祭には物忌と謂つてさま／”＼の心の準備があり、又祭のあとの愼しみといふものもあつた。神に仕へるのを大きな仕事として居た時代には、祝ひは一日や二日で切上げることが出來ず、それで今でも正月と盆とは何日もつゞき彼岸も七日間といふことになつて居るのである。祭の仕度が前七日からとなつて居たのは、ちやうど月の形が半分ほどになつた頃から氣をつけ始めることで、それに對して下弦の月、すなはち段々と遲く小さく、再び半分の大きさになる時までが、我々の祖先の神を思ふ日數であつたからで、この間には又幾つもの儀式が有つたのである。

　たとへば今から四百年近くも前の、奈良の大きな御寺などでは、月々の十七日から始めて、二十三夜まで七夜の間、毎夜の月を拜んでこれを七夜待《なゝよまち》といひ、その晴れ曇りと、月の御形の色々によつて、一年間の吉凶を卜したことが多聞院日記といふ本には書いてある。その月がいよ／＼遲く昇つて、曉に殘る二十三日の夜、もう一度重い祭をするといふのも有り得ることである。それが私は我邦に二十三夜樣といふ祭の、永く傳はつて居る理由だと思ふ。これが全國にわたつて盛んだつたから、佛法も陰陽道も手を出し世話を燒かうとしたのであつたけれども、その爲に變つた部分は至つて少なく、大昔の心持はなほ明らかに傳はつて居る。學問をする人がそれに注意をしようとせず、自分で祭をする農民漁民たちも、これを深く考へて見ようとはしなかつた爲に、忘れたやうになつて居るばかりで、どのやうに新しい文化は進み加はつて來ても、古いこの御國の神ながらの道といふものは、尋ねて行けばまだ必ず見つかるのである。

　

　　　　　　　祭の假屋

　

　毎月の十五日に神に詣で、又は先祖の御棚を拜むといふことは、村でならば今でもこれを續けて居る家が幾らも見(161)られる。信心の深い土地では、二十三夜にも月々順まはりに、まだ祭の集まりをして居るのだが、これには大事な月とさうでないのとが有るのだから、年に六回となり三囘となつても差支へは無いので、たゞ家々だけでの思ひ／＼の企てゞは無く、同じ土地に久しく住む人たちの、共同の祭といふことが肝要であつた。それから集まる日には風呂を立てゝ、必ず身を潔めるといふことも意味が有る。何か不幸のあつた家はそのあと三年間、たとへ順番がまはつて來ても祭の宿をさせなかつたこと、これも亦外國から來た宗教には無いことであつた。女と男とが祭を別にして、二十三夜や庚申の頭屋では、男が食事をこしらへ、女は皆他の家へ遣つてしまふ處も方々に有る。この祭の供物だけは、女に食べさせてはよくないといふ俗信もまだ殘つて居る。さうして女は又女だけで、その一夜前の二十二夜に、集まつて月待をして居たのであつた。かういふ信仰は女の方が強いので、現在は二十三夜よりも、二十二夜待の方が盛んな地方も有る。大病人が有るとこの日を期して七人待八人待をした。又多くの仲間で一しよに夜明かしをしてもらふと、願ひごとがかなふとも、手業が上手になるともいふ者がある。夜あかしには立待と稱して、夜更けて月の昇るまで坐らず腰かけず、又は瀬待といつて必ず流れ川の岸に立つて待ち、又は迎待と謂つて月の出る方角へ、月の出るまで歩行をつゞけるなど、苦行を信心のうちに算へて居たのは、以前の物忌が形を變へたものと思はれる。それで居てこの信心な女たちが、なほさま／”＼のおしやべりを止めなかつたのは、これも祭の夜に神の尊さを、話の種にして居た風習の引續きとも見られる。

　そこでおしまひに路傍の石の二十三夜塔と、この夜祭との關係を言ふならば、これも農村に文字の無かつた時代には、石屋は頼まずに村の人が寄合つて、土を運んで來て塚を築いて居たもので、多分はそこに簡略な藁の假小屋を作り、その中に集まつて祭の夜籠りをして居たのである。近頃では講の幾まはりかゞ滯り無くまはつた後、又は何かあらたかな御利益の有つた際に、記念の意味を以てこの石を立てる者もあるらしいが、もとは月待に人が集まるのがこの場處であつた。東京から遠くない或海岸の砂山に、私は小さな家をもつて居る。一度秋の末にそこへ行つて見ると、(162)庭の草原が何だか取散らかつて居るので、不審に思つて聞いて見たら、そこは私の家が出來るよりも前から、村のお婆さんたちが三夜樣を拜みに、集まつて來る場處だつたといふことが判つた。民家を一軒きれいに掃き清めて、祭の宿にする風習は後に始まつたもので、曾ては祭のたび毎にごく簡單な假屋を建てゝ、村の人がその中に集まり、一夜を靜かに守り明かし、又神の御供物御神酒を戴きつゝ、語り明かしたことがあるのであらう。もしさうだつたら今日の神社の祭と、ちがつて居たところは少くとも無かつたので、これを別ものゝやうに考へて居たのは、誤りであつたといふことが、今に判つて來るものと私は思つて居る。

　

(163)　　　　　歳時習俗語彙序

　

　村の年中行事の言葉を集めて見ると、盆と正月前後とに用ゐらるゝものばかりが、割合を越えて多いことがよくわかる。素よりこの二つの節日の大切であつたのは爭へないが、一つには外へ出て故郷を懷ひ、もしくは年取つて少年の日を囘顧する人たちに、特に印象の濃く鮮かなるものが、こゝに現はれて居たといふこともあるかと思ふ。その印象とは何かと考へて見ると、具體的には火の光、松のあかしが燈蓋となり、ランプとなり又は?燭となり、數多い提灯の火となつたことである。次には紙の美しさ、木を削つて花にした代りに、純白でたけの長いものを色々の形に剪つて、到る處に飾るやうになつたことである。それから今一つは餅のうまさ、及びその形と色艶のよいことで、これも亦横杵と大臼が使用せられる時になつて、始めて今までの水に浸した米の粉の粢に、代ることが出來たものである。他にもまだかういふ隱れた力は幾つか有らうと思ふ。單に春秋二季の初めの、自然の變り目が著しかつたといふ以上に、新しい文化の我々の感覺を動かすものが、偶然にも盆と正月との行事に集注して居たのである。人が一年中の祝ひ休みの日を節約して、成るべく多くの時間を生産に向けようとする傾きが始まると、祭禮の大きくなり且つ數少なくなると同樣に、この二季の儀式だけが盛んになつて、他の月々の節日は少しづゝ衰へて行かねばならなかつたのである。

　田園の風物を咏歎しようとする事業と、生活樣式の由來變遷を究めたいといふ學問とは、手を繋いで行くことが幾分かむつかしくなるかも知れない。我々も近世の御正月と盆とを樂しみつゝ、大きくなつて來た者ではあるけれども、(164)それを思ひ出し又なつかしがつて居ただけでは、何故にこれがこの樣に強く忘れ難く、日本人の心を捉へて居るのかを説明することは出來ない。獨り年中行事の問題のみと言はず、他の多くの所謂日本的なるものに就いても、當世がこれを好むと否とに拘はらず、今一つ背後の徐ろに消えて行かうとするもの、幸ひにして尚若干の痕跡を留めて居るものと合せて、一括してこれを考察するやうにしなければ、本當は文化の展開を談ずる資格が得られぬのである。さういふ中でも年中行事などは、これでもまだ以前の段階が、比較的明瞭に殘留して居る方である。手杵で餅を搗き、削り掛けを以てしでに垂れ、手火《たひ》を投げて火祭をする風習が、田舍の隅々にまで傳はつて居るのみならず、數多い月々の節の日なども、一部では全く忘れられ又一部ではたゞ痕跡を存し、又他の地方では嚴重に古い仕來りを守つて居るといふものが、たとへば私の郷里の十一月のニジフソのやうに、次々に明らかになつて來るのである。少なくともこの區域に於ては、獨斷は何等の威力も無く、たゞ事實に基いて歸納し得る者だけが、正しい知識に到達するといふことを經驗させてくれるのである。多くの珍しい見聞はこの書の中に集められて居るが、單なる好奇心に投ずるといふことは我々の目的ではない。他日これが練習の一つの機會となつて、同じ方法の弘く他の無形の疑問にも延長せらるゝことを念ずる爲に、先づこの簡明なる題目を整理して見たまでゝある。

　以前「旅と傳説」の誌上に、年中行事調査標目といふものを連載した時には、私はこれに據つて一つの採集手帖を作る計畫をもつて居た。この集はそれに比べると、語數は十倍以上となり、項目は却つて約三十を減じて居る。十月四月の滿月の夜を始めとし、會ては我民族の間に重く視られたかと思ふ五月二十八日、又は中世の印地打ちの日として、記録にも殘つて居る四月二十二日等、これから問題として注意して見たい日を加算すれば百は超えるのだが、それ等ほ採集の今少しく進むまで、暫らくこの列記の中から省いて置くことゝした。古人が年を生活の一つの單位と認めて、四季の行事を互ひに關聯させて考へて居たらしいことゝ、從つて今見る盆正月の特異なる行事にも、既に埋没に瀕した他の日の言ひ傳へを參酌して、解釋の手がゝりを導くべきものが多いことを考へると、この集は寧ろ一囘の(165)中間報告の、それもやゝ早期に失したものといふ批評を甘受しなければならぬであらう。今後の採集が愈々必要であり、且つ必ずしも興味の乏しい仕事でないことを例示し得たことを以て滿足すべきもので、勿論完成といふものからは大變な距離がある。日本の未知の知識はそれ程にも豐富且つ重要なのである。

　

(166)　　　　　年中行事採集百項

　

一　　節折目

　　　　一年を通じ又部落一樣に、古來守つて居る式の日には、何か總稱の名があるかどうか。セチといふ言葉は、現在はどんな意味をもつて居るか。

二　　大正月小正月

　　　　元旦の正月祝に對して、正月十四日の晩から十五日にかけての年越しを何と呼んで居るか。

三　　歳棚と歳の神

　　　　年越しに明けの方に向けて棚を飾る風があるか。その棚を何と謂ふか。正月御迎へ申す神樣を何樣と呼んで居るか。又何れより來ていつ何れへ還りたまふと傳へて居るか。

四　　年宿

　　　　年を迎へる家のしるしとして、棚と注連飾り松飾り以外にどういふ支度をするか。

五　　注連と松飾り

　　　　注連繩の種類名稱と飾り方。正月の松の一ばん大きいのはどこに立てるか。又その名稱。

六　　年木新木

　　　　門の松の根元などに、二つに割つて立てかける薪を何といふか。この木を用ゐて月々の農作天候を占なふ(167)風はあるか。

七　　幸木と懸の魚

　　　　正月用意の食物を木に掛けて置く習はしがあるかどうか。もし有るならばその飾り方と名前を知りたい。

八　　年男

　　　　正月神祭の役をする者は、主人以外にどういふ人がなるか。及びその名稱と役目。

九　　若水迎へ

　　　　元旦未明に春の初水を汲みに行く作法如何。水の餅とこれに伴なふ信仰。

一〇　御養ひ

　　　　門松又は家の内の拜み松に、年越しから三ヶ日にかけて、食物を供へる慣習があるか否か。この供物に用ゐる藁製の容器を何と謂つて居るか。

一一　身祝ひ

　　　　家々の正式食事に缺くべからざる食品は何々。馬牛諸道具の類に年を取らせるといふ風があるか。

一二　門開き門禮

　　　　元日初めて外部と交際する式作法如何。禮者に食物を勸める習はしはまだ殘つて居るか。

一三　年玉

　　　　特に子供たちの正月禮に物を與へる風があるか。その子供たちは何と言つて來るか。

一四　物始め

　　　　吉例として元日又は二日の日に行ふ仕事の種類。

一五　初山踏み

(168)　　　　正月四日又は二日、山に入つて木を伐つて乘る作法及びその木の名。

一六　三日正月

　　　　正月三日の日に何か定まつた行事があるか。

一七　松引き年降し

　　　　大正月の飾り松は何日に取片付けるか。

一八　六日年越し

　　　　正月六日の晩の儀式如何。又この日を何と呼んで居るか。

一九　七草正月

　　　　七日の日を何といふか。又この日の行事。

二〇　餅あはひ

　　　大正月と小正月との中間に、常の日の通り仕事をする日があるか。それに何等かの名は無いか。

二一　節分

　　　立春の前の宵に行ふ例になつて居る行事の種類。

二二　大鍬初め

　　　　正月十一日を何と謂ふか。又その日にする田畠の行事はどんなことか。

二三　若木迎へ

　　　　若年即ち十四日の晩の飾り物にする木はいつ伐つて來るか。又その作法。その木の種類如何。

二四　花掻き日

　　　　正月十四日を何と呼んで居るか。削り掛けを作る習はしがあるか否か。

(169)二五　御作立て

　　　　餅や團子を木の枝や葉などに飾りつけることを何と謂ふか。又どういふものを作るか。

二六　祝棒

　　　同じ日に作つて子供に與へる二尺足らずの棒を何と呼んで居るか。その棒のこしらへ方及び用ゐ方は如何。

二七　世の中ためし

　　　　この晩もしくは十五日の朝、作物の豐凶や人の運勢を占なふことがあるか。或は節分又は大晦日の夜それを行ふことがあるか。

二八　嫁祝ひと墨塗り

　　　　去年の正月以後に結婚した男女を、祝ふと言つて尻を打つなどのことは無いか。又未婚の若い人たちの間に、墨を塗つたり水を掛けたりする戯れは行はれて居らぬか。

二九　木まじなひ

　　　　十五日の早朝、果樹に向つて豐産を約束させるやうな儀式があるかどうか。又それを何と謂つて居るか。

三〇　やらくろずり

　　　　同じ日の朝、糠や蕎麥の皮などを家のまはりに撒き散らし、大きな聲で唱へごとをしてあるく風はないか。有るならばその唱へごとの文句を知りたい。

三一　鳥追ひ土鼠《もぐら》打ち

　　　　この日一年中の害鳥害獣を追ひ拂ふ所作ありや否。鴉土鼠以外に、この日驅逐せられるものは何々か。

三二　ほと／＼

　　　　十四日又は十五日の夜分、小兒又は青年が顔を隱して、訪ねて來て餅などを貰つて行く風があるか。その(170)名稱及びこれに就いての言ひ傳へ。

三三　正月火祭と小屋

　　　　左義長・とんど、又はさへの神・鬼火等の名を以て、大きな火を焚く日はいつになつて居るか。燃料の集め方、ことにこの火で燒くものゝ種類など。その火の側に小屋を作る風があるならその作法。

三四　粥節供と十八日粥

　　　　十五日の朝の粥の名と作法。その粥の一部分を十八日まで殘して置く風があればそのいはれ。

三五　骨正月

　　　　正月二十日の日にする行事。又この日を何と呼んで居るか。

三六　忌《き》の日

　　　　二十四日に關して何か特別の慣習は無いか。

三七　一日《ひとひ》正月

　　　　二月一日を何と呼ぶか。正月晦日の宵から翌朝にかけての行事如何。

三八　年取直し

　　　　年まはりの惡い人たちが、この日もう一度年を取直す風はあるか。その他厄年前厄の者が厄除けの爲に何かすることがあるか。

三九　二日灸

　　　　二月二日をヤイトゾメなどゝ稱して、初灸をすゑる習ひは殆と全國的だが、各地ではそれをどう説明して居るか。又これに伴なふ何かの行事があるか。

四〇　御事《おこと》八日

(171)　　　　二月八日に行はるゝ行事の大要を知りたい。この日と十二月の八日と共通又は關際して居る點があるか。

四一　八皿の日

　　　　ヤサラと稱して皿八つに食物を盛り、祝ふ風習があるか。二月九日にはどんな行事が行はれるか。

四二　初午

　　　　二月第一の午の日の行事如何。

四三　痩馬の日

　　　　二月十五日にはどんな食物を調へ、又どういふ祈願をするか。

四四　社日と春亥の子

　　　　舊二月中に土地の神、農作の神を祭る風はあるか。

四五　春彼岸

　　　　彼岸七日の間に行ふことになつて居る行事は如何。

四六　雛の節供

　　　　三月三日を何と謂ふか。この日の慣例と言ひ傳へ、雛送り流し雛といふことはあるか。

四七　花見と磯遊び

　　　三月節供の日又はその翌日に、山や川原海端へ遊びに出る風があるか。

四八　春事

　　　　舊三月に入つて、コトと謂つて休み又神を祭る日があるか。三月の家々の祭日を何と謂つて居るか。

四九　梅若忌

　　　　特に三月十五日の日に祭をする風があるか。梅若さまといふ日はいつか。又その由來は如何。

(172)五〇　卯月八日

　　　　四月八日山に登る風習、及び山の花を折つて來て立てる慣例。

五一　物忌月

　　　　舊暦五月を重んじ又は避ける習ひがあるか。特にこの月の始めに行はるゝ行事如何。

五二　端午

　　　五月五日又はその前夜の式もしくは「まじなひ」にはどんなものがあるか。又この日を何と呼んで居るか。

五三　五月二十八日

　　　　この日を休み或は何か祭をする風は無いか。

五四　むけの朔日

　　　　舊六月一日を何といふか。この月の食物及びまじなひ等。

五五　天王降し

　　　　天王樣を祭る日はいつからいつ迄か。子供がこれに關與する風習。

五六　川祭

　　　　六月中、海川井池のほとりに、水の神を祀るしきたりはあるか。

五七　新箸祝と愛宕火

　　　　六月二十三日の行事にはどういふことがあるか。

五八　夏越の節供

　　　　六月末日を以て行はるゝ式又は祭。

五九　釜蓋朔日《かまふたついたち》

(173)　　　　七月一日の行事又は食物。

六〇　高燈籠

　　　　燈籠の竿はいつから立て、又何日まで立てゝ置くか。

六一　七月節供

　　　　七月七日に就いての言ひ傳へ。又井戸替へ物洗ひ等、この日に限つてすること。

六二　七夕流し

　　　　星祭の竹を流す際にどういふ行事があるか。

六三　盆花迎へ

　　　　盆花といふのは何々。又それをいつ採りに行くか。盆市に關する慣例を知りたし。

六四　吉事盆

　　　　近く不幸の無かつた普通の家で、盆中にはどういふ行事があるか。いきみたま（生見玉）といふ語はどう解せられて居るか。

六五　ほかひ行事

　　　　盆中先祖の墓所に於て、如何なる式が行はれて居るか。

六六　新精靈

　　　　前年又は前々年に死者のあつた家の盆は、他とどういふ風に異なつて居るか。又その家を何と呼ぶか。

六七　盆棚

　　　　盆に臨時の祭壇をこしらへることは、新精靈の家に限られるか否か。盆棚の作り方及びその名稱。

六八　萬靈祭

(174)　　　　家の先祖以外に、誰とも知らぬ亡魂に供養する風があるか。

六九　水手向け

　　　　鉢に水を盛つて盆棚に供へる場合、その水鉢にはどんなものを入れるか。これに關する作法。

七〇　盆中の食物

　　　特に魂迎へ魂送りに用意せられる食物の名と製法。

七一　精霊送り

　　　　送る日、送る時刻、送る場所など。送る方式とその折に唱へる言葉。

七二　盆の火祭

　　　　迎へ火と送り火の他に、盆のうち大火《おほび》を焚き又は火を投げる風習があるか。

七三　盆小屋と辻飯

　　　　盆の終りに際して、少年が小屋をかけ、又は屋外で煮炊き食事をする風があるか。又綱曳きその他のこの頃に限る習はしがあるか。

七四　盆過ぎ行事

　　　　七月二十日同二十四日などの行事は如何。

七五　八朔

　　　　八月一日の名稱。次にこの日の仕來りにはどういふことがあるか。

七六　風日待と稻草祭

　　　　八月の初旬に、作物の爲に行はるゝ色々の祈願の名稱と方式とを知りたい。

七七　名月の夜

(175)　　　　月見以外にこの日を記念する行事、又は子供の所作など。七八　三九日

　　　　舊九月の三度の九の日のうち、家々で營まれて居る儀式、及びまじなひの類。

七九　小麥の月見

　　　　九月十三日には何か定まつた行事とか言ひ傳へとかゞあるか。

八〇　神渡し

　　　　九月十月の堺に、土地の神々が旅をなされるといふ口碑があるか。又その御送りの作法。

八一　刈上げ朔日

　　　　十月一日を期して行ふ行事があるか。

八二　亥の子の節供

　　　　十月亥の日の子供遊び、及びこれに伴なふ家々の仕來り如何。

八三　案山子祭

　　　　十月十日の日にはどういふ習俗があるか。

八四　神返し

　　　　この月の末、神々が旅行から御還りになると言つて、御參りをする風があるか。又その期日は何日となつて居るか。

八五　丑の日祭

　　　　舊十一月の初の丑の日を、田の神の祭とする習はしがあるか。

八六　油しめ

(176)　　　　十一月十五日、油に關しての何かの行事があるか。

八七　大師講

　　　　同じ月の二十三日の行事及び食物。御大師樣に就いての色々の言ひ傳へが知りたい。

八八　粒節供

　　　　同じく十一月の晦日の晩に、何か改まつた式なり食事なりがあるか。

八九　川渡りの朔日

　　　　十二月の一日を何と謂つて居るか。この日搗いて食ふ餅の趣意。

九〇　納め八日

　　　　同じ月八日の行事。又この日と二月八日との關係。

九一　大黒樣の嫁過へ

　　　　同じく師走の九日に大黒樣を祭る風習があるか。甲子祭はいつ行ふことになつて居るか。

九二　十三柴

　　　　十二月の十三日に、山に入つて木を伐つて來る習はしがあるか。この日を正月支度の始めとする慣例又は言ひ傳へがあるか。

九三　煤掃きと出代り

　　　　煤拂ひはいつするか、又その作法。暮の奉公人の出代りは何日か。及びその日の食物など。

九四　果の二十月

　　　　十二月の二十日、山に入らぬといふ習はしがあるか。又その理由。

九五　佛正月

(177)　　　　特に不幸のあつた家だけで、十二月中に行ふことになつて居る儀式があるか。

九六　暮の魂祭

　　　　年越しの日に、普通の家でもミタマの飯などゝ謂つて、別に食物を取り分けて供へる風があるか。

九七　年夜《としや》の行事

　　　　年取り膳の作法。又その際にいふ言葉。その他除夜の晩にして置くべき事は何々か。

九八　節榾《せちほだ》と年越しトンド

　　　　この夕大きな火を焚く風習があるか。除夜に用ゐる薪には別な用意があるかどうか。

九九　年籠り

　　　　除夜には睡らぬといふ仕來りがあるか。又宵のうちから神詣でをする風習があるか。

一〇〇　その他の節日

　　　　前各項に列擧した以外に、地方で一般に休み又は祝して居る定日があるならば、それをこの條に掲げられたい。中でも次の日は注意する必要がある。四月二十二日。六月七日。九月一日。十月十五日。十一月一日。夏至。冬至。

　

(179)　　　新たなる太陽

　

(181)　　　　　新たなる太陽

　イエス降誕の日は、第四世紀の半を過ぐるまで、まだ確定してはゐなかつた。地中海東部の諸國では、一月六日を用ゐた者も多かつたのを、後に教權の力を以てこの十二月の二十五日には統一したのである。ヂュシエーヌの基督教信仰起原考には、當初童貞受胎の日を、三月二十五日の春分の夜の出來ごとゝきめてゐたために、それから希獵風の計算法によつて、滿九箇月目の當日を以て、出産の日と推定したといふ説を採つてゐる。實際また神の子が十字架に登つた日から、溯つては人間の創造の日まで、大よそ天地間の重要なる事件は、すべて春分の日を以て行はれた如く、考へられてゐた時代もあつたらしいのである。

　十二月二十五日は、ジュリヤ暦の冬至の日であつた。過去千數百年の久しい間、羅馬の土の底に埋れてゐたミトラの信仰においても、この日を若き日輪の新たに蘇へる日として祝したことは、さま／”＼の金石文にその痕を留めてゐる。初期の基督教徒は乃ちこの古代の外形を踏襲したのであらうと、フレエザー教授は論じてゐる。雪深き北海の荒濱に在つても、この夜は森の樹を伐り來つて大火を焚き、能く人間の精誠を以て、いはゆる一陽の來復を促さうとしたのであつた。それが寒國の丸木小屋の窓の燈と、遠いベスレヘムの空の星と光をかはすに至つた根源であらうとも説いてゐる。

　この極東の曼陀羅式信仰の國においても、これとよく似た習合は幾つかあつた。その一つは釋尊誕生の日として記念せられてゐる四月八日の花の日である。この日は婦人が許されて靈山結界の地に入り花を摘んで諸佛に供養するの(182)日であり、又農民が高き峰に登つて、春の青空を仰ぐの日でもあつた。佛法では説明せられない色々の行事がまだ遺つてゐる。それは今日の季節とは關係のないことだが、やはりいはゆる彼岸の中日と共に、一つの固有暦法の名殘であることだけは言つておいてよい。

　第二に私たちの今問題にしてゐるのは、これも冬至の日と線を引いた、舊暦十一月二十四日の太子講である。佛教の人たちは、それを天台智者大師の忌日だからと解してゐるが、その宗派の寺々を除くのほか、今なほ農民の家ではこれを佛法の式とは思つてゐない。この日の食物は正月の若年の朝と同じやうに、最も普通には小豆の粥をたき、または團子を粥の中に入れ、これを節供として一同が晴れの膳につくのである。支那の高僧の忌日としては、似つかはしくない物語が多く傳はつてゐる。この夜は夜更けてから大師樣が、今でも村々を巡つてあるかれるといつて、粗末なもてなしをした者が罰せられ、眞心を盡して迎へた者が、惠みを受けたといふ話があることは、かの常陸風土記の天の祖神が、富士と筑波とを訪ねて來られたといふ古いいひ傳への通りである。或は高い山から杖をついて下りたまふといひ、またこの大師は一方の足が人竝でないために、その足跡を隱すやうに、この夜は必ず雪が降るといふ處もある。越後では茅を折つてこの日の新箸を造るのに、一本を長く一本を短くして、神聖なる訪問者を記念する慣習さへある。

　府縣に數限りも無く分布する大師巡杖の昔語りが、この霜月二十三夜の傳説に始まるらしいことは、可なり確かなる證跡があるが、それはもう發表して置いたからこゝには詳しくは述べない。高野山でも却つてこの民間の口碑にもとづいて、つとに弘法大師の行脚の御影などを出してゐるが、この大師に至つては殊に冬至の夜と關係が薄かつたのみならず、かの逸話と稱するものは到底一宗の祖師の、行實と認め難いものばかりである。例へば水が乏しくて遠く汲んで來て飲ませた女性には、杖を地に刺して清き泉を出して與へたといつて、弘法井戸、御大師水なるものが永く流れてをり、芋や梨を惜しんで欺いて與へざりし者には、石芋食はず梨の嚴罰を下してゐる如く、悉く皆一個の恩怨(183)によつて、その報復を二三にすることは、初期の部曲の神とその態度を同じくしてゐたのである。それで私は大師は大子《おほいこ》、即ち神の長子といふことであつたらうと考へてゐるのである。實際この霜月二十四日の前後を以て、大子の祭を營んでゐる地方もあるが、普通にはそれを聖�ｺ太子の御事の如く、信ぜんとしてゐた者が多かつた。この太子の事蹟が人も知る如く、薨後歳月を重ねるに比例して、段々に精彩を加へてゐるのは、これも明らかに一種の習合であつた。木によつて生を營む一部の工匠は、聖�ｺ法王を以てその家の祖神としてゐる。これと相對する商家の夷講なども、これを冬の祭とした根本は、やはり神の子がこの季節をもつて、毎年邑里に降りたまふといふ信仰に在るのかも知れない。

　何か偶然とはいへない原因があつたらうかと思ふのは、我々の太子講においても、不思議に人間の選ばれたる女性が一人、出でゝその神話に參與してゐた痕がある。欣然として太子に清き水を供し、もしくは勞を厭うてすげなく拒んで、後に賞罰を受けたといふ者は無論皆婦人であつた。ペロールが説話集の第一章とその類話、もしくは我々の古代史の殊に美しい一節、即ち海の宮の湯津桂の木の下に、若く貴き神の御姿を見たといふ物語などゝ、同じ系統に屬すべき泉の邊りの出來事であつた。その婦人がちやうど神の訪問の時に、機を織つてゐたといふのが日本の古傳の特徴であるが、これにも解説のさまで六つかしくない理由があつた。太子講の前後に、ある一人の善心なる老婆が、珍客にまゐらせたいといふ願ひの切なるあまり、人の畠に入つて竊に芋大根を拔いて來た。その老女の片足が不具であつて、足跡によつて發覺する恐れがあつた故に、太子これを憫んで雪を降らせたまふといふ話も弘く行はれてゐる。たとへ智者大師でも弘法大師でも、そんなことまでなし得たとは何人も思はなかつたらう。

　あるひはまたその女性を、緑兒を抱いた母として語り傳へてゐる土地もある。一人の見知らぬ行脚僧が、夜深く通つてゐると路の傍に、頻りに啼く兒をかゝへて當惑をして立つてゐる女がある。この松の木の小枝に火をともして、照らして見るならば啼止むであらうと教へ、または新たに清水をわき出さしめて、それを飲めば乳が豐かに出るとい(184)ふことを示して去つたともいひ傳へ、後にはたゞその泉、又は老いたる松の木が靈地として拜まれてゐる。もとよりこの種の傳説は、その傳承の間において變化したに相違ないが、少なくともこれが路傍のアヤカシとして、久しく信ぜられてゐた産女の怪、もしくは關東平原の一隅において、今も子を持つ母に祈られてゐる子安の神、即ち御姫樣が幼い兒を抱く行路頭の石像と、三者一つの根原をもつことだけは誰にでも認められると思ふ。さうして我邦においては山の神は母の神で、常にその産育の力を讃歎せられたのみならず、深山に子を産んだといふ不思議な色々の説話をもち、同時にまた仲冬を以てその祭の季節としてゐるのである。

　曾て私は白人のいはゆる「永古の都」に遊んだ時に、一日大類博士に伴なはれて、出でゝ人民門外のパパ・ジュリオの小博物館を訪れたことがある。こゝの館長の某さんの如く、能く無言の教訓を以て私たちを感ぜしめた人は、他にはまだ一人も知つてゐない。中央の一室の目につく棚の上に、近年エトルリヤの故跡から發掘せられた上古イタリーの子安神の、高さ一尺にも滿たない石像の五つ六つが竝べてある。それには餘計なくだ／＼しい考證が添へてなかつたか、もしくは有つても私には讀めなかつたのか、とにかくに腰かけた女神の膝の上に、小さな赤ん坊を立たせた形像と、その單なる排列の順序とに由つて、一見してこれが半島の紀元前から、近くは有名なチマブエの聖母圖まで、眞紅の緒を以て一線を繋いでゐたことが明白になつた。思ふにペトロ尊者を開基とした耶蘇教の一門派が、特に母子神の聖愛を以て信仰の中堅としたことは、由つて來るところ固より遠いのであらうが、それがローマに成長してこれまでの藝術化を見るに至つたのは、別にその底に潜んで深く培かふものがあつたからである。この大八洲の新たなる改宗者等が、雪はまだ早い霜月末のある夜中に、木萱を吹き過ぐる風の音を聞きつゝ、遠き大空から通ひ馴れたる神の子を懷うて、清き讃美の歌を合唱せんとするのも、かねて父祖代々の血を渡つて來た、幽かなるさゞ波の名殘でないとは何人が斷言しよう。たゞ我々には一個親切なるパパ・ジュリオの館長を缺いてゐるだけである。

　たゞ我々のマドンナが、自分の昔を忘れてゐるだけである。緑兒とその母とに無限の同情を運ぶ神を、大分縣など(185)では人聞菩薩といつて、宇佐の八幡の化身なりと信じてゐた。私がそれを人母菩薩の轉變でないかと思ふのは、宇佐の大神もまた大隅正八幡の古傳によれば、同じく告知に由つて受胎した一人の童貞の女であつたからである。それが話を愛する者の物好みに誘はれて、あるひは産女となり山姥となり、さては指の缺けた貧しい老女となつて居らうとも、末の世の零落のみを見て淺ましがるには及ばない。信仰が弛めば物は皆きたなくなる。我々がこの眞冬の寒い淋しさの中で、太陽を戀ひ慕ふ情には古今の差別はない。ある時はこれを波斯の神に求め、またある時はこれをイスラエルの古びたる教に尋ねて、それ／”＼の力をかりて、我々の世を温めまたは照らしたのである。日本は今ちやうど學問の冬至である。「若き何物にも敗られざる太陽」は漸くにしてその光を復活せんとしてゐるのである。この人心の奧底を支配した我民族の固有暦法の如きも、既に新城飯島の二博士によつて研究せられんとしてゐる。彼等が大陸の舊い記録から、やがて日本の農夫の生活に、辿りつくのも今少しの後であらう。春は徐ろに中空に立還らんとしてゐるのである。

　

(186)　　　　　年神考

　

　年神と田の神とを、一つの神なりと信じて居る土地は、今でもまだ稀ならずある。一方には又年神を家の神、殊に遠い先祖の神として迎へる例は相應に多い。私は更にその先祖の神が家々の田植種播き、もしくは代ごしらへの日に、定まつた田に降り祭られる田の神であつたらうといふことを、立證して見ようとして居るのである。上代素朴の世には、この三通りの神々を、一つに考へ且つ信ずることが出來たのではないかといふこと、これが田社考を企てゝ居る私の動機であり、又「先祖の話」以來の假定の目標でもあつた。それへ近よつて行く最も安全なる順路は、現在無數に分れて居る各地の傳承を、一つ／＼比べ合せ、その變化が後年に起つたものなることを説明して行くに在るのだが、獨りで成しとげることは些しおぼつかなくなつた。そこでやゝ目ぼしい着眼點の二三を、後の協同者に引繼ぐといふ意味で、春の初めのことぶきに、年神さんの話題を提出して置かうと思ふ。

　年神は古くは年の神といひ、單に年の始めに祭る神といふだけの意味しかもたなかつたらしいが、いつの頃よりか京都、江戸、及びその影響を受けた廣い地域では、これを歳�ｺと書いて、神をトシトクさん、祭壇をトシトク棚と呼ぶことになり、その爲に愈々一つの特殊の神と考へられるやうになつて居る。福だの�ｺだのといふ語の悦ばれた時代は、大體に室町後期以來と見てよからうが、それにしても何か端緒がなくては、古い神の名を改めてしまふまでには至らなかつたらう。手掛りと思はれるものは二つある。一つはトクといふ日本語の起りが、今いふ家督のトクも同じで、本來は田地に限られた名であり、從つて道�ｺの�ｺとは關係が無かつたのを、後々擴張して商業の區域に及び、得(187)意利得のトクともなれば、損してトク取れなどゝいふ諺をも作り出し、次第に福の神に對するトクの神を、人望あるものにしたのでは無いかといふことである。世襲の田地をトクと謂ひ始めたのも、もとは漢語の「得」であつたらうが、盛んに用ゐられると内容は少しづゝ變つて來る。家田即ち世襲の田地を守る神をトクの神といふ語が夙く出來て居たとすれば、それを正月の神と同じと思ふ者の間には、いはゆる歳�ｺ神の名の起るのも少しも不自然ではなかつたと思ふ。

　

　　　　　　　　　　○

　

　第二の推定は前のものと兩立せぬが、この名が田の祭に伴なふ慣習に基くと見る點までは同じである。毎度言ふ通り、新しい暦法の正月と、農事開始の日とが隔離して、二度の祭は次第に別のものとならうとして居るが、それでもまだ正月には田の神を迎へるといひ、五月には年の神を祀るものと、思つて居る地方は少なしとせぬ。ことに中國西部には色々の田唄が傳はり、年のうちに三度五度と祭るのが、名は變つて居ても同じ神だと思つて居る人が今でもあるが、その地域から外へ出て見ても、たとへば口丹波口碑集に、正月玄米一俵を俵のまゝ歳�ｺ神にそなへ、それを保存して置いて田植初めの日に、これを飯に炊いて歳�ｺ神に供へるといふなど、二神を同じとして居る例は見出すことが出來る。都府では田を作らず、新年の行事にのみ力を入れる爲に、一段と歳�ｺ神の名義が解しにくゝなつたのである。岡山縣の西北部から、廣島縣比婆郡の一隅にかけて、大田植の日の祭式に伴なふソートク舞といふものがあり、そのソートクも田の神の別名なりと報じて居る。この語の行はるゝ區域は、現在は狹くなつて居るが、遠く飛び離れて九州の東岸にも、田植始めの日をソウトクサマといふ例があり、愛知縣東部の山村の古い田唄にも、ソウトクとソウトメとが竝んで出て來るのがあるといふのを見ると、これは疑ひなくサの乙女に對するサの男といふ意味であつた。岡山縣阿哲郡などのソウトク舞では、田植の當日祝酒の後に、田主の外庭へ牛を牽いて來て、代掻くまねびを演じ、(188)苗下げ早乙女が加はつて滑稽に舞つたといふから、大よそはどういふ所作だつたかも察しがつく。最近までの各地の大田植では、サゲもサヲトメも歌をうたふだけが晴れであつたが、なほその田唄の言葉の中には、けはひよそほうたオナリドといふ女性が、飲食を頭に捧げて田の神に奉仕したことが述べてある。或はその今一つ前に、神に扮してこのわざをぎに參與したサヲトコといふ役があつたか、又はあつたといふ歌が傳はつて居て、それが田の神の名と解せられたのではないか。この名を正月の神に用ゐた例をまだ見出さぬので、歳�ｺ神の説明にはならぬやうだが、氣をつけて居たら今に出て來るかもしれない。佐渡の北端の海府地方では、年神をトウドウサンといふことが方言集に見えて居る。田人をタウドといふのは信越一帶の風であり、又古語である。佐渡では田人の方をトウロウサンと訛つて、二つのものを區別して居るけれども、これも作備地方のソウトクサンと同樣に、かつて農神を代表した一人の田人があつた痕跡とも考へられる。

　

　　　　　　　　　　○

　

　ともかくも正月の行事の中には、稻作田植に伴なふ信仰に據らないと、説明し難いものが幾つかある。手近な例としては初卯詣《はつうまうで》、これは俳諧の季題にも採られ、江戸では殊に風雅な遊びとして知られて居たが、歳時記の解釋などは、恐らくはその由來を明らかにするに足らぬであらう。思ふに、卯の日を以て新年の神の祭日とする信仰は、元三の儀禮と兩立し難い爲に、僅かにかういふ形を以てしか傳はることが出來なかつたのである。新井恆易氏の卯日祭考（民間傳承十二ノ三號）にも、既に注意せられてゐるが、正月樣は正月初の卯の日を以て御立ちなされるといふ俗信なども、やはり同じ原因に對する舊慣習の反應だつたやうに考へられる。人がその式日の早く來ることを悦ぶ結果、卯の日が十日過ぎになると食物の御殘しが少ないなどゝ謂つて、これを凶作の兆の如くいふ者さへ出來て居たが、相模の或村などは、三箇日の内に卯の日があると、特に第二の卯の日を以て御還りの日とし供物を上げて後に門松を撤したとい(189)ふから（民俗學五卷九〇〇頁）、やはりこれが昔の年の神の、最終の祭の日だつたのである。江戸の正月初卯などは、たゞ東の方面に向つて遊びに出て途中の御社を拜む位だつたらしいが、大阪ではこの日は必ず住吉詣でをしたと、守貞漫稿には記して居る。さうして正月ではないけれどもこの住吉の御社は、たしか二月の初卯の日に、例祭の行はれた御社の一つであつた。二月もしくは四月の卯の日を以て、春の大祭を營んだ神社の數は、諸國に亙つて相應に多い。他日よい折があつたら列擧して見ようと思ふが、それを連ねて考へるとやゝ例祭の性質がわかる。一方には又收穫完了を記念する霜月の相嘗大嘗の二つの祭に、やはり卯の日を用ゐたことは、これと關係があるはもとより、暦を寅の月の正月に引上げてから後も、やはり初卯を以て神事の日として居たのは、私には偶然の一致とは思へないのである。但し今わかつて居る限りでは、この年神が卯の日に歸りたまふといふ區域はさう廣くない。主として關東の平野地方と、越後と北信の二三の地點だけであるが、その他の村里は果してどうなつて居るか。つまりは昔の年神信仰のどの部分までが、現實の田植開始の季節から、新たに普及した暦の正月の方へ引移されたかといふことが、ちやうど近世の太陽暦採用の際のやうに、今一つ以前の陰暦施行の場合にも問題になるので、日本のやうな南北に伸びた國では、いつもかういふ風に中央の制度が民間暦の混亂を起させずには置かなかつたのである。

　

　　　　　　　　　　○

　

　それからなほ一つ、よその民族では經驗しなかつた障碍は、干支計算法があまりにもよく廣まつて居て、それより以前の生活方式を窺ひ知ることが困難になつて居る點である。これを具體的に田の神の信仰に宛てゝ見ると、どうして卯の日を大切な日とすることになつたかゞ、答へにくい問題になるのである。今まで無造作に私などの考へてゐたのは、一年十二月を十二支に配當して、それ／”＼の月を表はす日、たとへば、亥の月即ち十月の亥の日をヰノコの祭とし、午の月即ち五月の初の午を端午としたやうに、一々に就いて祭の日の吉凶を卜定するのを省略するのが目的だ(190)つたかといふことだつた。ところがさうで無い場合が餘りにも多く、上巳の三月は巳の月に非ず、四月は卯月といふけれども卯の月は二月である。さうして同じ十二獣の中でも、ヒツジやイヌの日は、六月九月の神事に用ゐられることは極めて稀である。これは我々の想像以上に、干支の理論が平易化して民間に入込み、しかも常人のこれに興味をもつ者が多かつた爲とは見られぬかどうか。山を背後にもつ大きな神社の祭日に、サルの日が多いことは前に考へて見た。兎は日本語ではウでは無いけれども、やはり亦これに該當すると考へられて、これが代表する日を重視したのでは無かつたらうか。田植にその兎の日を忌むといふ習慣が、全國に弘く行はれて居るのは、本來は吉事の忌、即ちあまりよすぎるといふ爲ではあらうが、それにしてもなほその根原がまだ私にははつきりとしない。これから更に進んで考へて見るべきことは、正月の初卯の由來だけでなく、弘く一年を通じて卯といふ日を、農家ではどう見て居たらうかといふことで、この點一つからでも、なほ年の神と田の神との同じ神だつたことは判つて來るかと思つて居る。

　

(191)　　　　　春と暦

　

　　　　　　　正月習俗の變遷

　

　毎年正月になると、どこかの村里の少し異樣なる慣例を語り、次には學者が考へ出した合點の行かぬ起原論を、正月だけに今更事新しく陳列するのが久しい間の風であつた。それに興味を抱く人がよしや歳々同じからずとも、もう大抵止めにしてもよい時代である。

　しかし世には無益といふものは滅多に無いもので、こんな平凡を通り越した仕事からでも、追々に新規の疑問が産み出され、それが端緒になつて少しづゝ日本の古い文化が、丸々別の側面から考察せられようとする傾向が見える。同じ手帖を持つて、珍しいことを聞きあるいて居た我々好事家に、案外心強い聲援と、張合ひのある前途が現はれて來た。今年は二度目の戊辰だから、學問革新のためにせめては問題の二三だけなりとも、ほんの受賣をして置きたいと思ふ。

　

(192)　　　　　　　正月の中心

　

　正月といふ漢語の採用せられる以前から、無論我々の初春の儀式はあつた。それなら本來の日本語では正月を何と呼んだか、これが最初に起る我々の疑問である。暦は授時と稱して、もと政府の農業奨勵の便宜のために出來たものだ。少くとも字の讀めぬ人民は、別の勘定の仕方をしてゐたわけである。四季が十二囘の月のまん圓をもつて、大略一巡することは經驗してゐても、一年の除夜の暗闇の中で、年の閾を跨ぐものといふことは教へて貫はぬと判らぬ。即ち元日といふものは制定せられた式正《しきしやう》であつて、自然に始まつた最初のもので無いのではあるまいか。さうすると我々が一概に古風といふものゝ中にも、やはり順序があり沿革があつたと推量してかゝつてもよいのでは無いか、これが第二段の問題である。

　都市と田舍とには昔から風習の相異があつた。調べられて居たのは主として前者である。武家も元は農家の分れだが、町に住んで段々に町の方にかぶれた。一番早く忘れ又は略したのは、豐年を祈る色々の行事であつた。村で今なほそれを大切に守つてゐるのは、前代以後の引續きと見ても多分間違ひはあるまい。正月中の多くの作法を見渡すと、粟穗稗穗から鳥追ひむぐら打ちはその意味において重要なものゝ大部分が、何れも三箇日よりずつと後、殊に滿月の夜の周圍にかたまつてゐる。これが暦にもとづいて正朔を知る以前、かつて月の姿を見て春の來ることを感じて居た名殘ではあるまいか。東京を始めとして、多くの地方で十二月八日と二月の八日をオコトと稱し、その二月の方を却つて事納めといつてゐたのは、コトが新年の儀式を意味した證據であつて、これから勘定すると中心は七草過ぎになるが、支度は跡始末よりも長いのが普通だから、これも昔の正月が今の十五日のころであつたといふ推測をやゝ確かめる。

　

(193)　　　　　　　歳棚に祭る神

　

　いはゆる三箇日の本當の正月に對して、十五日を小正月と呼ぶ地方は多い。或は一方の年越を大年といひ、小正月を特に若年といふ場處もある。さうして若木若餅の如くワカ〔二字傍点〕の名のつく行事が却つて多くはこの方に伴なふのである。また小正月にも三箇日五箇日を算へる例がある。十四日から二十日の骨正月までを、注連の内とした痕跡もある。十六日などは殊に大切な日であつた。だから現在の松の内を、後に定まつたもので無いかと思ふのである。

　盆と正月と、一年を二季に分けながら、片方は六箇月半、他は五箇月半で節季の來るのも變ではあるまいか。その癖盆と正月には今でも一對の儀式が色々ある。盆禮と稱して袴をはいて廻禮するのは、必ずしも佛樣を拜みに來るので無かつた。踊とか網引とかは現在は遊戯だが、それでもまだ方式が守られてゐる。それが盆に行ふ土地と正月の十五日にするものとが入交つてゐるのである。春と秋との最初の滿月といふことが、恐らくはこの共通を見る理由だらうと思ふ。さういふ中にも殊によく似てゐるのは盆の精靈棚と正月の年神棚との飾り方で、家の者がこれに仕へる手續きから、特定の植物を採つて來て結び付ける點まで一致してゐる。もちろん現在は一方を福の神の御座の如く、他を御先祖の陰氣な靈を迎へるものに解しては居るが、これは秋の祭だけを僧侶に指導させた結果であつて、盆といふ語が採用せられてから變つたのである。盆は佛教に説く所では寺に供物を送ることだ。ゆゑにもし盆の儀式がこの名前と共に始まつたとすれば、手本があるわけだが實は日本の自己流である。

　何か必ず隱れたる理由があることゝ思ふのは、盆でも正月でもその臨時の棚の一隅に、ミタマサマへの供物として別に三角に結んだ十二の飯を上げることである。

　ミタマは精霊のことでなければならぬのだが盆の方では既に主賓を家の佛樣としてゐるから、これを餓鬼だの三界(194)萬靈だのと名づけて、招かざる御相伴の食客の如くいふ地方が多い。それでは年神棚のミタマの方が一段と説明が付かなくなる。そこで全體一年に二度づゝ、昔から家々を訪ねて來た神樣は、たれかといふ問題が起つて來る。福の神かと思ふと夷大黒の祭は別にする。歳�ｺ神と名づけて辨天樣の如き、美しい女神を想像する者もあるが、古風な東北の田舍などで、正月樣と稱して迎へたのは、高砂の能に出るやうな老男と老女で、左義長の煙に乘つて還つて行く姿が見えるなどゝもいつた。暮の寒い風がぼう／＼と吹くころに、

　　　正月樣どこまで

　　　何とか山の下まで

などゝ待ち兼ねて子供たちが歌つてゐたのは、やはり家々の元祖の神靈であつて、それが無數のミタマサマを引率して、著しい季節のかはり目には我々の家庭に新たなる精力を運び込むものと、昔の人たちは考へてゐたらしいのである。

　

　　　　　　　年男

　

　だから春を迎へるといふ家々の準備には、一通りならぬ謹愼があつた。衣服も食物も共に皆晴れのものを用ゐ、言語擧勤までも清淨を專らとしたのは、決して縁喜といふ類の幼稚なる論理からでない。祭主は當然に家長の役であつたが、家にも一國と同じく祭政分離の必要があつて、優良なる若者の中から年男が選定せられることになつた。年男の權限は土地によつて廣狹がある。それを比較して見ると新年の事務の何であつたかゞわかる。東京などでは豆をまくのが年男のやうに思つてをり、堅い家風の家でも、新しい手桶に若水を汲むまでを年男の役にしてゐるだけだが、信州越後その他の村では、中々容易でない骨折である。注連の内を通じて、または少なくとも改まつた食事だけは、(195)女に調理させぬところがある。七草や十五日の小豆粥だけは、男がこしらへるに定まつてゐる家もある。それを神々と松飾りに供へるのは、いふまでも無く年男の任務で、そのために度々水を使つてこの寒いのに身を潔めなければならぬ。それから十五日を中心とした色々の儀式、例へば胡桃燒の年占でも、蛭の口燒、蚊の口燒、鳥追ムグラ打、なるかならぬかならうと申しますに至るまで、何人が行ふも隨意といふものは一つもなかつた。たゞその方式が如何にもまじめ過ぎる故、新しい青年は次第にこれをいやがりいつとなく年少の者に役目を讓るやうになつて、さうすると遊びの氣持が多くなり、最初の趣意が隱れたのである。豆まきの如きも追々に變化はしたが、二人づれで行ふ風がまだ方々に殘つてゐる。その一人は是非とも女であつて、杓子を持つて御もつとも御もつともと、はやしながらあとから付いて行く處もある。十五日の粥食はせなども一人が果樹の後の方に立つてゐて、ならうと申しますといふ例もあれば、なりますなりますと木に代つて答へるのもある。これらは何れも曾て年男の助手として、萬歳でいふならば才藏、あるひはまた年女とも名づくべきものゝ、必要な時代があつたことを思はしめるものであるまいか。

　

　　　　　　　御松迎へ

　

　年男の任務の特に重要なるものゝ一つは、山に入つて松の木を伐つて來ることである。その松は我々のいふ門松にも立てるのだが、これを選定するのに方角その他の條件があるのみならず普通にはこれをお松樣といつて、立てぬ前に約一晝夜、清い場所に安置して神酒などを供へる。門松を一種門前の装飾の如く考へるに至つたのは變化である。地方の家々では獨り門前に限らず、納屋、馬屋の入口と臺所、殊に年神の棚に結び付けるのを大切とし、時としては年棚を造らずして木を立てゝそれを祭壇とする地方もある。略式で無いものは必ず心木の三階松で、これにも節の食物は必ず供へるのを見ると御松樣を迎へるといつたのには意味があつた。即ち本來は正月の神樣が木によつて代表せ(196)られ、これを目に見えぬ靈の宿りと考へたものらしいのである。さうすると盆の魂棚に必ずキキャウ、女郎花等を立てること、これを盆花と稱して定まつた日に野に出て採つて來る習はしがあるのも、同じくまたこの日の神を迎へ申す方式であつたと見られる。

　門松を門神柱と呼んでゐる土地もある。また門松といひつゝ松で無い木を立てる例も多い。それから必ずしもその數は二木で無く、また偶數とも限つてゐない。だから妹背の門松といひ、緑の常磐にあやかるなどゝいふのも、有りやうは都近くの詩か空想かであつて、殘るところは春の神を歡迎する祭が、必ず恭謹して山の木を伐つて來ることであつたといふのみである。小正月の三日ほど前には、若木迎へと稱して今一度、山から特に伐つて來る地方もある。この場合には通例は松ではない。といふわけは、この木には餅を付けて、飾り立てねばならなかつたからである。ヤナギとかエノキとか色々の闊葉樹がこのためには用ゐられた。その樣式にも段々の異同があつて、詳しく比較をすると新たに色々の事が考へられるのだが、只今はまだ材料が揃はぬ。要するに金のなる木などの空想のもとで、米雜穀は無論のこと、繭でも綿でもこれ位取れるやうにと、春の始めに神樣と相談して、一通りの計畫を立てゝ置くのだから、その木もまた尋常のものとして、取扱はれてゐなかつたのは當然である。

　

　　　　　　　御竈木

　

　さうすると、祭がすみ神の御還りなされて後、その木はどうしたかの問題が次に來る。それが平日の雜用と混同することは、農民の殊に戒愼して敢てせざる所であつた。それ故に恐らくはトンドといふ火燒きの式があつたのである。春は人類に光と温度とを増給するために、神が降りたまふものと考へてゐた人々には、左義長の火の大なる悦びであつたことは怪しむを要せぬ。即ち神火なるが故に、神の木を以てこれを作るべしとしたのである。この火で背腹をあ(197)ぶると年中惰氣を生ぜず、餅を塊いて食へば腹の病無しといひ、子供若者ばかりか、馬までにこの火をはね越えさせた。それからまた燃え殘りの木を蟲除け雷除けとして、屋根にさし垣根に刺し、もしくは灰を持還つて宅地の周圍に撒布することもあつた。

　あるひはトンドの火の燃えさしを持つて來て、十五日の粥を煮る火種にする土地がある外になほ最初から松飾りの一部分を殘してゐて、田植の日の飯を炊く薪にする例もある。小正月の若木は第一囘の左義長に燒くには早過ぎる。十八日に第二囘の左義長を行つた風習は、この爲であつたらうと思ふが、現在は大抵十五日一度きりになつた故に、この木が主として特別の燃料に保存せられるのである。それで地方によつては若木迎へを山入初めなどゝいひその日薪を伐る序でをもつて、いはゆる餅の木を取つて來る位に、思つてゐる者もあるやうだが、實は普通の薪は既に年内にもう用意してあるので、この分には別に大切な目途があつた。大昔朝廷でミカマギ進獻と稱して百官相率ゐて薪を納めたといふのも、至尊の御食物を調理する火が、正月十五日の木を以て作つたものでなければならなかつたからである。これと同じ理由から百姓もまた田植の日の爲に、この方法を以て火の神聖を貯蓄しようとしたものと思ふ。

　

　　　　　　　十二月十三月

　

　若年の若木を削つて、箸を作ることも古くからの習はしかと考へられる。近頃は元日の雜煮から新しい福箸を使ふために、別に大年の年越しに、先だつて、これを製しまたは買ひ調へることになつたが、それでもまだ養蠶用のもの、ヤイト箸などは小正月の前に作つてゐる。昔の人の箸を重んじたことは、我々の想像以上であつて、もつともその材料を吟味したものであるが、これ以外にもなほ色々の家用品が、この日の木をもつて作られてゐたかと思ふ。實際このニヒ木、サイハヒ木の思想は、及ぶ所が驚くべく弘い。例へば今日諸國の神社で行ふ筒粥または管粥の年占なども(198)神の御示しといふよりもむしろ小正月の行事であつた故に、效驗ありと信ぜられたらしく、元は個々の農家においてもこの占ひをして居たことは、ある地方では接骨木《にはとこ》などの頭を四つに割つた小枝を十五日の粥の釜に入れて置いて、その割れ目に米粒の多く挾まつたのを見て悦び、又他の地ではわざ／＼切餅などを挾ませて立てゝ置く。何れもこの日に伐つた木を利用して、年の豐凶を占うた名殘である。占ふとはいつても、支那の易のやうに虚心無著なもので無く始めからかうしてもらひたいの注文がある。それ故に、なるたけよい成績が豫言せられるやうに、年神の好意の最も厚い一日を選んだことは鳥追ひ果樹祝ひも同樣であつた。さうしてその悦ばしい報告を證文の如く保存したのである。小正月の習俗の中で、一番人が解し難しとする一つ、即ち一尺あまりの木に十二月とかき、または十二本の横線を切込み、それを門外の松飾りの根もとなどに立てゝ置くことは、本來また粥の釜に入れて煮るために一本一本に月の名を記し、その月々の幸福を知らうとした痕跡で、それ故に閏年には十三月と書いたのであらう。即ち早く京都でも知られてゐた粥杖といふ棒が、この日女の尻を打つ戯れなどに用ゐられながら、どうしてまた粥杖と呼ばれてゐたかの、説明もこれから付くらしいのである。

　

　　　　　　　ほい竹はらみ棒

　

　杖といふから人は大きな長いものゝ如く考へるが、これを持つて廻る者は主として少年で、目的はまた土の上を突くためでなかつた。新婚者のあつた家へ夜分に出かけて行つて、少し下品な色々の祝言を述べ、頼まれて嫁御の尻をたゝき、大の子十三人などゝ唱へた棒もこれである。薩摩では孕み棒といひ、對馬ではコッパラといふ。越後で道祖神の勸進と稱して、幼い者に持たせて知人の家をあるかせる棒も同じ物、類例は他國にも多くして名前だけが一樣でない。あるひは家々の私事にふれて、過去一年の批評をする者、これと反對の未來の好望のみを述べる者も、共にし(199)ばしばこの棒を二本づゝ持つてあるいてゐる。何れも正月十五日の木である故に、さういふ權能が承認せられてゐたのである。もちろん今日ではたゞの遊戯の如く取扱はれ、もしくは、一種の縁喜として、それが來ぬと物足らず、來れば春らしいからなどゝいつてゐるが、土地によつてはなほ昔のまゝに深く面體を隱して誰であるかを知らせず、出來るだけ神秘な方式を以て餅、酒、錢を乞ひに來る風がある。少年少女は宵のうちに、夜がふけると、年を取つた者がやつて來る處もあれば、今一段とその役目を重く視て、特定の青年のみにその任務を託してゐる村々も東北にはある。それが悉く粥杖風の棒を持つわけでは無いが、小正月の晩だけに限つて、かうして廻つてあるく點は一つであつて、年男が各家々の祭官である如く、これはまた個々の部落の臨時の神主ともいふべきものであつた。

　

　　　　　　　めでたし、めでたし

　

　但しこの神主殿、通例は酒を飲みまたは餅を愛し、自分が先づ面白くなつてあるく故に、何をいふのかよく分らぬ。どの地方でも既に何百囘と繰返されてゐると見えて、形式化が甚だしくそれに信心といふほどの深い眞面目さが早くから無かつた故に、新しい遊戯によつてその興味を侵され易くなつてゐる。今のうちに注意して記録でもして置かぬと、五年三年のうちにもまたずつと變つてしまふだらう。謹賀新年などもつい近ごろまで、實に怖ろしいほどの流行であつたが、一休では無いが全體何を賀するのか、考へて見るほど解しにくい。おめでたうのメデタシは本は先方の幸福の承認でもなかつた。字引を見ればすぐ分ることだが、好いといふことの今一段上が「めでたし」であつた。至極結構といふやうな語で、つまり春の初めの平穩に明るい世界、昔通りに年の神が、東の方から悠々として、來降したまふに適したる?態といふことであつた。

　いはゆる御同慶であつて、出産や嫁取りの如く特に人の家へ賀しに行く理由は無いのであつた。それを支那風に解(200)したために近世の風俗は一變した。イハフ〔三字傍点〕といふなども忌むといふのと元は一つの言葉で、家と身と心とを潔めて年の神の祭に仕へることであつたが、後には酒などを大いに飲むやうになつて却つて放心と自由とを意味することになり、昔を忘却して考へようともせぬ者を、おめでたい男といふやうにもなつた。

　

(201)　　　　　年木・年棚・年男

　

　　　　　　　　　　一

　

　我々が物を覺えてからでも、正月の風俗は可なり著しく變化して居る。これは主として暦の改定といふことが原因であつたので、勢ひ政治行政の中心が先づ變り、地方はその中心から遠ざかるにつれて、いづれは變つて行くにしても變り方が段々と遲くなる。從うて全國の各部分に、變化の幾通りもの階段が出來るのである。その兩方の端と端とを比べて見ると、何だか最初から異なつて居り、または異なつて發達した樣に、考へられる場合も有るけれども、この太陽暦の近頃の實驗から推して、何れも恐らくは皆一定の變遷の、過程線上に在るものである。御存じの通り、昔も暦には何度かの根本的の改正があつた。江戸期に入つてからでも、小さな變更は折々行はれた。新しい政府では自身先づこれに依り、地方はその都度永い年數を費しつゝも、追々にこれについて來たのである。さうしてその追隨には段々の遲速があつて、その爲にたゞ古風といふものが、幾らづゝか後に殘留しただけである。私たちの仲間ではこの事實に基いて、各地現在の正月行事の異同を詳しく調べ、これを材料にして總國の正月風俗の歴史を、明らかにして見ようとして居る。これが單に昔の人たちが、正月は何をして來たかを、知るばかりならば事は小さいが、その背後には彼等の信仰があり、又社會觀が在り得るのである。さうしてこの方面から入つて行かぬと、窺ふことの出來ない前代の生活が、所謂フォクロアの學問の爲に、遺されて今まで有つたのである。

　

(202)　　　　　　　　　　二

　

　各地の正月の最も目に立つ特色は、一向構はぬ家や西洋化した家は別として、先づ大體にこれを二通りに分けて見ることが出來る。それは正月に年棚といふ棚を釣る處と、丸でその棚を用ゐて居ない處との二つである。年棚は土地によつて、年神樣の棚と謂ふ人もあり、東京などは元は歳�ｺ棚と謂つて居た。除夜の年越しの晩に屋根裏から二筋の繩を下げて、それに一枚の板を新たに張り渡し、その上で正月の神を祭つたのである。正月の神は即ち年神であるが、多くの土地では子供や老人が、今でもこれを正月樣と呼んで居る。暮の煤拂ひが始まる頃から、小さい人たちが外に出て、

　　　正月樣どこまで

　　　何とか山の下まで

　　　お土産は何々

と歌つて居た文句は、各地大同小異で八十も百も傳はつて居る。その正月樣がこの棚に祭られるのである。年棚を丸で用ゐない地方の諸君の爲に説明すると、この棚の一つの要件は、毎年板の向き方をちがへること、即ちその年の明きの方を向くやうに、正月樣が入つて來やすいやうに、棚の板をつることであつた。明きの方は又｜吉方《えはう》とも稱し、今日では專ら家の内の者が、出て行き仕事をするのに縁喜のよい方角と、考へられるやうになつて居るが、元は實は春の來る路であつた。これを知つて後に始めてその棚がつれるので、暮には何處の家でも暦の來るのを待つて居た。吉方明きの方が何れの方角であるかは、暦といふ書いたものに相談をするの他は無かつた。ところが伊勢や三島でその暦をこしらへたのは隨分古くからだが、それが何れの村にも行渡ることになつたのは新しく、又誰でもがその暦を解して、年の吉方を知るといふ程の學者では無かつた。

　

(203)　　　　　　　　　　三

　

　東北では今から百四五十年前に、珍しい方法で明きの方を知つて居たといふことが、「雪の膽澤邊」といふ菅江眞澄の日記に出て居る。即ちその前年の冬、最後の雷が最後に鳴り收まつた方角を、次の年の吉方と認めて居たといふのである。しかし冬分は一向に雷の鳴らぬといふ地方は廣いのだから、こればかりを當てにするわけに行かぬ。他にも何か方法が有つたかも知らぬが、それはもう記憶せられてゐない。暦の八將軍といふことも、どうやら始めは雷鳴に伴なふ信仰と關係があつたらしいが、後には星の運行を基にして、計算によつて割出すものと言はれて居た。とにかくに近世の暦では、專門家で無いと豫め明きの方を知るわけに行かず、しかもそれを知らぬ土地では、年棚を毎年つり替へる甲斐は無かつたのである。

　然るに一方には、以前この年棚を釣つて居たのが、この頃では又止めてしまつたといふ土地がある。たとへば江戸なども曾ては歳�ｺ棚は必ず釣つたものらしいが、今では可なり古風を守る家でもさういふことをしない。膝栗毛で有名な十返舍一九の狂歌に、

　　　正月ははや神田まで來にけらしすぢかひに釣る歳�ｺの棚

　これは同時に又「正月樣どこまで」の童詞が、江戸の小兒にも高く唱へられて居た證跡でもあるのだが、その棚すでに廢し、且つ神田川に筋違《すぢかひ》といふ見附が無くなつた今日では、よつぽど註釋を加へないと、我々は百年前の江戸人と共に、この狂歌に哄笑することは出來ぬのである。年棚永續の故障は、人家に天井板を張り、二階が出來てどこ迄も人が上つて行くやうになつたことであつた。岩手縣の或舊家で私が見たのは、建築に際して天井板の上から棒を通し、それに常設の年棚を取付けて、自由に吉方を向けるやうにした廻轉式神棚とも名づくべきものを、出居《でゐ》の間《ま》の中央に別に造つてあつたが、さういふ丁寧な機構はどこの家にもとは望まれない。それで又追々に床の間や在來の神棚(204)を用ゐることになつたのである。人はかういふ最近の改廢を見、又或家のみは親や祖父の代から、續いて歳棚をつるのを知つて居る爲に、これが古風であり他はすべて皆新式の變化の如く、考へて居る衆も多からうと思ふが、暦の農家に入つたのは新しく、吉方を知つて始めて年棚のすぢかひは意味を爲すのだとすると、どうもこの方が却つて暦本の普及と共に、後に流行して來た新式の正月行事であつたらしいのである。即ち近世我々の風俗が改まつた如く、中古以前にも亦折々の正月行事の變遷はあつたわけである。

　

　　　　　　　　　　四

　

　さうすると問題は進んで、假に年棚をつくらぬのが普通だつた時代が有つたとして、その頃には果して何を中心として正月の神樣を迎へ祭つて居たかといふことになる。これも昔から年棚を用ゐて居ない土地の人たちには、説明する必要は無いのだが、年棚が古式と考へて居る向きへは、話して見なければならぬ。即ちさういふ地方では年木と謂つて、一本又は二本對の生木を伐つて來て、それを立て且つ飾つて居るのである。或は年木といふ名稱も既に使つて居らず、何か別の語の出來て居る處も有らうと思ふが、とにかくその木を家の中心に飾り立て、その根もとを年神樣の祭壇として居ることだけは一樣である。家の中心といふのは通例は大黒柱、又はこれと對立する臼柱で、その柱にそへてこの木を立てるのだつたが、或は又土間に臼を伏せもしくは俵を積んで、その上に美しく飾るものもあつた。土間は即ち屋内の作業場である。その中央に立てたといふことは決して冷遇では無かつた。それからその内庭に對して、又外庭の一區劃を、平生から清淨なる場所として置いて、そこに立てる例も段々ある。今日全國的の風習となつた門松なるものゝ起りも、亦この年木の立て場所を、人家外庭の正面に選定した名殘で、單なる門口の装飾としてでは無く、これも年神の臨時の神木の一つであつたかと思はれる。

　年棚の風習が既に普及して居る地方でも、尚この年木の作法を無視しては居なかつたことは、ちやうど祭典に神輿(205)を渡す慣行を採用した神社でも、尚その行列の前か後に神馬を牽き、これに御幣を立て又は白粉を塗つた神童を乘せて行く風を、存して居るのと同じであつた。たとへば吉方に向けて釣る歳�ｺ棚の兩端に松の木を結はへるのは、新舊二つの行事が二重になつて竝び行はれて居るので、これを見ても、年木が年棚の前からあつたものであることが察せられる。それから今一つの名殘は、土地によつて餅花とも繭玉とも稻の花などゝも謂つて、小さく切つた餅を色々のめでたい物の形に作つて、一本の木を飾り立てる風習が、年棚を釣る家でもやはり盛んに行はれて居る。これなども亦年木といふものが、以前一般的に立てられて居たことを、想像せしめる一つの根據であつた。

　

　　　　　　　　　　五

　

　尤もこの餅花の方は年棚とは別の日で、年棚は大歳即ち十二月大晦日の晩につり、餅花の方は若歳即ち正月十四日の夜に飾るといふ風に、二者はつきりと二立てに分けてする地方も多いのであるが、これも亦正月が現代の太陽暦太陰暦と同樣に、以前にも古風な正月と新しい暦の正月と、即ち所謂小正月と大正月との二つが、併び行はれて居たから出來たことで、即ち亦變遷の一つの過程であつたと思ふ。ツイタチ即ち新月の始めて生まるゝ日を、一月の初の日として元旦と名づけることは、暦の學問のやゝ進んでから後のことで無ければならぬ。外國の書物が未だ村々に入らず、各人が自分たちの自然觀察を基にして、所謂一月の巡環を覺るには、曾ては盆と同樣に月代《つきしろ》のまん丸で、夜すがら大空を照り渡る晩を境として居たことゝ思ふ。盆と正月とは棚を作り植物を飾り立て、みたまに食物を供へるなどの行事が皆似て居り、正月も十五日であつたらちやうど一年を六月づゝに二分することになる。現在は一方だけが朔日を元旦とする爲に、下季は五月半、上季は六月半になつてしまつた。しかも朝廷制定の暦が示されると、國民は共にこれに遵依して、所謂正朔を奉ずるのは當然であつて、この爲に明治の新暦初期にもあつたやうに、在來の正月行事を二つに分けて、主として表向きの半分だけは元日の方に移し、殘りの内向きの半分は舊來の年越、即ち十四日の(206)晩の爲に殘して置くやうになつたのである。

　關西の方では、この小正月の行事を出來るだけ少なくし、それを節分即ち立春の前の晩に、持つて行つて居る地方の多いのは、恐らくは今日の月送り正月と、同じやうな心持であつたらうかと思ふ。大體に日本をほゞ中央で二分して、東日本の方では是非とも正月十五日の前の晩にすることになつて居る初春の行事、たとへば豆撒きや鳥追ひ、年占田神祭のやうなものを、西では節分の晩に營むことになつて居るやうである。これを人間の正月に對して神樣正月などゝ稱し、又年越といへば節分のことのやうに思つて居る向きもあるが、この節分といふものなどこそ、愈々以て暦法の書物を見ないと、大衆には判らぬ日であつた。大昔からこの通りに定まつて居た氣づかびは無いのである。

　

　　　　　　　　　　六

　

　次にこれに伴なうて考へられる事は、我々が年木に用ゐて居た樹木の種類の變化である。これも今日は松の木が常となつて、どうして宮城ばかりが正月に門松を御立てにならぬのかを不審に思ふまでになつて居るが、この統一も亦後々の一つの流行であつたやうである。尤もこれには原因もあることで、春は初子《はつね》の姫小松などゝ謂つて、野に出でて稚松を引いて來て家に移植する風も古く存し、そのもう一つ元の慣習かと思ふのは、松の葉を取つて來て雪の上に畦を作つて栽ゑ竝べ、正月に田植の眞似をする習はしで、最も遠い田舍にはそちこちに殘つて居る。松が年木として殊に好ましい木であるやうに、考へらるゝに至つた事情は想像に餘りがあるが、年木の種類は決して最初から、このたゞ一つに限つたので無かつた。今でも三箇日に家の表に立てる木が、名は門松と謂ひつゝも他の木を用ゐる例は多い。殊に十五日正月の方の年木に至つては、松は殆と見られない位で、もつと小枝の繁い落葉樹、たとへばミヅキとか川楊、削り白めて色々の祝ひ物を作る胡桃の木や勝の木（これを關東ではノデッポウなどゝ謂つて居る）、上方では餅花繭玉の風情を愛して、この頃は垂柳《しだれやなぎ》などもよく使ひ、又九州では榎が盛んに用ゐられるらしい。たゞこれに對して三(207)箇日五箇日といふ月初めの正月のみが、特に松飾りを重んじたのである。所謂松の内はこの元旦から十五日迄を包容することゝなり、それよりも早く門松を取去るのは、何だか粗略なやうな感じもするが、後の十五日の舊正月を大切にすれば、寧ろこの松は一旦早く片付けなければならなかつたのである。正月七日などは盆の七日も同樣に、前の方の元旦正月の終りでは無くて、實は古い十五日正月に屬する準備の日であつた。さうしてこの二通りの正月の中間には、只の日が何日か挾まつて居て、怠け者で無い農民は、この間にも仕事をしたのである。奧羽各地ではこの期間をモチアヒなどゝ謂つて居る。即ち大歳の三箇日の餅と、十五日の若歳に搗く若餅と、二度の餅食ひの中間の日があつたのである。東京の人たちは、正月に入つてから搗く餅を一樣に若餅と謂つて居るが、これはもと小正月を若歳と謂つて居て、その爲に再び餅をこしらへて祝ふ必要があつたことを意味するのである。

　

　　　　　　　　　　七

　

　それから正月四日の日の初山入、山に入つて初めて働く日を、土地によつては若木迎へとも謂つて居る。或はもう少しおくれても七日八日、又は正月十一日に若木迎へをする處が多い。若木迎へは即ち若歳の年木を迎へ申す意味で、昔の人の正月には最も大切な日であつた。即ち年神の宿りたまふ木を、新たに家に持込む日であつたからである。三箇日正月の松の年木を伐る爲にも、東京などはたゞ河岸へ船からはふり揚げてあるものを、買取つて來て立てるだけだが、やはり右の若木迎へに準じた嚴肅なる儀式があつた。甲斐信濃ではこれをたゞ松迎へとは言はずに、お松樣迎へなどゝいと鄭重に云ひ、又非常に大切に清淨な場所を選んで、休ませると稱して暫らくの間横たへて置き、いよ／＼年取の晩に至つて飾り立てたのである。他の地方でも餅やおひねりを携へて山に入り、一應その木のもとで祭をしてから伐る所がある。さうして門松も無論その中のものを立てるが、最も立派な三階松五階松等は家の中央正面、年棚があればその下に立て、なほその他にも井戸土藏厠などにも小さな松を立てた。さうして年男は三箇日その他の式(208)の日に、毎回その松の木に向つてオヤシナヒをする。稻藁を小さく編んだ皿樣のものが、門松にも何れの松にも一つづゝ下げてあつて、これをヤス又はヤスノゴキと謂ひ、その中へ洗米を挾み込むことが「御養ひ」であつた。即ち神に食物を供進するのである。今では當事者の感覺も既に代り、或は式を守つて趣意を解し得ぬ者も多いが、これがちやうど又十五日正月の年木の小枝に、餅を切つて飾るのと、元は同じ目的に出でたものと私などは考へて居る。何にしてもこれらの木は只の飾りではなく、祭る木であり食物を供へるほどの木であつた故に、これを伐るのにも日を選び人を選び、又は採取の場所を見立てゝかゝつたのである。明きの方が暦によつて判明してからは、年木は必ずその方角の山から伐つて來ることになつて居る。或は又どんな山家でも、是非自分の家より上の方の木を伐り、もしくは我家の屋根の見えない場處の木を伐ることになつて居た。何れも本來は深い意味のあつたことで、我々の神樣は節日毎に、空から山へ樹を梯にして降りたまふものと、曾ては信じて居た痕跡であるかも知れぬのである。

　

　　　　　　　　　　八

　

　年木が年棚よりも一つ前から有つたらうといふことだけは、私はほゞ安全にこれを斷定し得ると思ふ。しかしこれとても近世に入つて、門松や餅花にまで變化して居ると同樣に、以前にも幾度か改まつてかうなつたらしいので、これが日本の大昔のまゝの正月行事だと、認めてもよい證據はまだ一つも無い。尤も歳の暮に近づいてから、賤の男が山に入つて年木を伐るといふことは、中古の和歌にもよく詠まれて居り、捜したら他の記録にも必ず有ることゝ思ふが、その年木が果して現在のやうに、正月に家の中心に立てゝ飾つたものか否かは明らかで無く、現に擬古文人たちは、これを唯新春入用の燃料を、伐つて貯へるものゝやうに考へて居る。しかし普通の薪はもう少し早く、刈つて積重ねて乾かして置くので、何もこの樣に押詰まつてから、わざ／＼生木を伐る必要は無かつたのである。しかも若歳の若木の用途は、今日でも決して一通りでは無い。誰でも知つて居ることだが、先づ第一にはまじなひ用、即ち祝ひ(209)事の爲に色々の器具を作る。福箸と稱して雜煮を食ふまん中の太い箸も、以前は當然に手製であつた。今は皆買入れるが尚我々の家でも、三箇日七草十五日の粥の爲には、楊の木の白著を用ゐて居る。それから又色々の削り掛け、ことに果樹を敲いて千なれ萬なれと謂つたり、又は鳥追ひ土鼠追ひの唱へごとをしたり、或は昨年の花嫁の尻を打つて、大の子小の子十三人などゝ、その多産を祝した短い棒、土地によつてコバラミ、ハラメッソ、ダイノコなどゝ稱するものが、すべて皆同じ十四日の晩に、同じ年木の片枝を削つて作つたものである。そんなをかしなものはもう無用だと思つても、少年たちは毎年の面白さを記憶して居つて、これを作らぬと承知をせぬのである。それから又至つて簡單な男女一對の人形などを、やはりこの木でこしらへて供へ物をする處もあつて、時と材料とを共にするのみならず、その信仰にも互ひに相關聯する所があつた樣に見られて居る。

　第二の用途としては又占ひ用があつた。これも粥杖だの粥箸だのと謂つて居るが、その木にしるしを付けて大釜の粥の中に投げ入れ、割れ目に挾まる米粒の分量などによつて、一年各月の天候氣温、又は作物各種の豐凶を判斷した。竹だの葦だのゝ中のうつろな植物が、わざとその爲に用ゐられることもある。これを筒粥とも管粥とも稱して、今では神社の祭式ばかりに殘り、農家は、家族が少なくなり釜が小さくなつて、もうそれを行ふことが出來ぬやうになつたが、なほ型ばかりは粥かき棒の割れ目に粥を塗り付けたり、又は木の側面に十二月と書き、或は十二本の墨の筋を引いたりしたものを、吉兆として戸口に立て、又は五月まで保存して苗代田の水口に挿した。これなども亦年の日の年木を以て造るが故に、特に前兆を問ふのに有效であるとしたのであつた。

　

　　　　　　　　　　九

　

　最後にもう一つ、大切なる年木の用途として考へられるのは、家々の最も神聖なる火を作る燃料であつた。正月の木の一部分は保存して置いて、田植の日の田の神の神供と、田人早乙女の食物を煮る薪にしたが、その他の大部分は(210)日本の正月の最も美しい行事、我々の追憶の最も樂しく、しかも最も一般的なる十五日の早朝の、火祭の火を作る用に供したのである。

　奈良朝期の國史を開いて見ると、朝家でもこの正月の望《もち》の日に、文武百官をして各々御竈木を進獻せしめられた式例のあつたことが窺はれる。それが如何なる趣旨に出たものであるか、明瞭に解説した者はまだ無いやうだが、私は多分唐制採用の以前、年の初めがこの月の滿月の夜であつた時の名殘が、こゝに僅かばかり保存せられて居るものと思つて居る。新年の第一日は、今でもめでたい日と考へられるやうに、この日の行事は效果が最も顯著であつて、續く十二箇月の運勢を支配するものとしてあつた故に、只の日の常の家事用の燃料でも、この日に樵り積むのを吉瑞として居たのかも知れぬ。殊に顯神《あきつかみ》と貴まれたまふ御方の、食物の力となるべき御竈木であれば、これを年頭に用意せられるのもさることであらうが、なほ百官が袖を連ねて、手に／＼納め進らせたといふには重い理由が無くてはならぬ。現在民間に弘く傳はつて居る俗説にも、年越の夜は必ず大きな火を焚いて、家を暖かく又明るくして置くとよいといひ、かうした爲に圖らざる財寶を獲たといふ昔話の流布して居るのを見ても、記録に見えぬといふのみを以て、所謂左義長の起原の古さを疑ふことは出來ない。正月に火祭の聖火となつて燃え立つべき燃料は、ちやうど生牲になるものが尊かつたのと同樣に、焚かぬ前から超凡の力を具へて居たらしい。それ故にこれを色々の占方《うらかた》まじわざに、使用して效果が有つたのである。御竈木進獻の記事が次第に見えなくなると、これに代つて現はれるのが大學寮などの卯杖調製であつて、これも椿とか椎とかの特定の樹種があつたのは、恐らくは亦年木の例であらう。卯杖は後々は遊戯の具、又はたゞ装飾のやうに化し去つたけれども、最初はやはり亦年占の用に供せられ、その式の終つた後には火に燒いて居たかと思はれるから、變つたのは單に名稱だけであつて、乃ち私たちには御竈木の式の永續としか解せられない。すなはち年木は必ずしも近世の風習の如く、これを家々の中心に立て飾つて、年の神の祭壇とする爲のみに、以前から定まつて居たものでも無かつたので、日本の正月行事は我々の眼前に於て變化したと同樣に、千年千五(211)百年の大昔に在つても、やはり歳月と共に少しづゝ推移して居たのであつた。

　

　　　　　　　　　　一〇

　

　左義長は元來三毬杖と書いて居たのが正しく、春の始め年木を以て毬を打ち、一歳の吉凶を卜なつた後、その杖を三つ組合せて燒いたのが名の起りで、前にはこれも亦年の火などゝ呼んで居たらうと思ふが、その點は今詳しく説かない。中國以東ではその唱へ言によつてトンドと稱し、御幣を中に立てる故にオンベ燒きといふ地方も中部地方にはある。九州では鬼火又はホウケンギョウ、これもその際の唱へごとが元であつたやうだが、正月七日の日に執行ふ村も少なくは無い。人によつては單に松の内の注連繩松飾り等を始末する爲に、集めて焚くものゝやうに思つて居る者もあるが、それにしてはこの火の力が餘りに重んぜられ、又わざ／”＼桂を立て小屋を構へる等、念入りな準備が行はれて居た。全國どこにも共通なことは、この火で書初めを燒いてその灰の高く揚るを悦び、餅を炙つて持つて來て夏病をせぬまじなひに食べること、或は又この火にあたると丈夫になると謂つて、子供などは煙の中をくゞり拔け、或は壯年の者が馬に乘つて飛越える處もあつた。それからこの灰を持つて還つて、屋敷まはりに播けば長蟲を除け、燃えさしは軒に插して置いて雷を避けるまじなひになり、又は五月田植の日の食物を調理する薪にしたり、或はこれを燃料にまじへて味噌をたくと、良い味噌が出來ると信ずる人もあつた。とにかくに年木は最初から、燃やして十五日の樂しい火祭の火を作るといふ計畫の下にも伐られて居たのである。

　現在九州の北部などで年木と謂つて居るものは、今ある形だけを見ると、同じものとも思はれぬ位の變化がある。この方面では年木を横にして臺所などにつり下げ、それに十二本の繩を結んで、掛の魚その他の吉例の食物を引掛けて年中置き、これを新調するだけは年の境ときまつて居るが、古い分を燒く日はもう區々になつてしまひ、その名稱も改まつて幸木だの十二｜節《ふし》だのと呼ぶやうになつた。東國ではこれと年繩の注連とが合體して、一種特別の門飾りに(212)なつて居る。單に入口だけに木竹を横たへ、これに藁のシデや紙の幣、海老だの串柿だの橙だのをくゝり付ける家も多くなつた。これらは各地の所謂古い仕來たりを、細かく圖に表はして比較して見たならば、いと明白にその變遷が窺はれる筈である。村毎に又家毎に少しづゝ違つて居る正月の作法が、皆大昔からこの通りであつた氣遣ひは無いのである。

　

　　　　　　　　　　一一

　

　それから又左義長を燒く日なども、京都では既に正月十五日以後、もう一度十八日にも同じ事があつた。他の土地では七日八日、或は大和の奧などには大晦日の晩に燒く所さへある。恐らくは火祭が初春行事の一つの中心であつたことを意味するのであらう。奧州の各地には、正月樣はこのトンドの煙に乘つて御還りなされると稱して、十五日の日暮方に今でもこれを燒く所もある。所謂夕日のくだちにこの煙の行方をじつと見て居ると、高砂の尉と姥のやうな白髪の老人男女が、歸つて行く姿が見えるなどゝ、笑ひながらだが言ひ傳へて居る村もあつた。近年まで民間に頒布せられて居た柱暦の彩畫には、歳�ｺ神は恰も辨財天女のやうな美しい女性に、描かれるのを普通とした樣であるが、これがこの通り老いたる夫婦の神の如くにも想像せられて居た例はあるのである。福の神信仰の盛んになつた室町期から、年神をエビスサマと一つの樣に、又は夷神も年神の一座である樣に、諒解する者が多くなつて來て、その名殘は今でも方々に殘つて居るが、外形に現はれたる行事すらこの通り變つたのである。ましてや人々の幻に見る神の特徴が、世と共に移り動いたのは當然のことで、さう簡單に元の姿が知れるもので無い。これを田の神だとか山の神だとか、又は先祖の靈だとか斷定してしまふには、もちろんその根本の信仰が、永い年代を一貫して居ることを立證してから後で無ければならぬ。一番最初は何であつたかといふことは、是非とも別な側面からも、多くの資料を綜合して考へる必要がある。日本の學問は決してまだ、そんな事が言ひ切れる迄發達しでは居ない。

(213)　しかしとにかくに我々の初春には、いつの世からとも無く定まつて、御迎へ申す家々の神靈があつたことだけは一般であつた。さうすると年棚を吉方に向けて吊る以前、更に年木を家の中心もしくは正面に飾り立てゝ、これをその神の依坐《よりまし》とした以前にも、なほこれよりも古風なる神迎への方法が有つたらう。それはどういふ形式であつたかといふことが、可なり興味の深い又大切な問題になつて來るのである。私たちはこの新しい問題を解かんが爲に、各國各府縣の隅々に、今まで殘り傳はつて居る年男といふものゝ慣例を、出來るだけ綿密に尋ね比べようとして居る。年男の意味はこれも亦大いに變つた。東京などでは今は節分の宵に、福は内の豆を撒く者だけを年男と謂つて居る。それもこの節は家々では撒かずに、相撲取りなどを頼んで、花々しく成田山の不動へ撒きに出かけたりする。大變な新しさであるが、皆樣の郷土に於ては、多分はもつと複雜な且つ重要な役目を勤めさせて居る實例が、幾らも傳はつて居ることであらう。私はそれを十分精確に問合せ又記録して、後の研究者に引繼いで置きたいのである。

　

　　　　　　　　　　一二

　

　正月の年男には、當然家の主人が當るべきであつたらうと思ふが、現今はこれを年若なる相續人、もしくは元氣のよい奉公人に委任して居る場合が存外に多い。それから大抵の土地では婦人は全然この任務に手を出さず、元日早旦の神詣では勿論、年木伐りであれ、若水迎へであれ、さては七草十五日の粥であれ、共に男の手に一任してしまつて、女は納戸の裡に閉籠つて居る土地もあれば、元日最初の訪問者の女性であることを、非常に忌み嫌ふ土地も隨分ある。

　暮の煤拂ひ餅搗きなども、元は年男の管轄であつたらしく、その任期は少なくとも二十日の骨正月まで續いて居た。その間風呂には先づ入り食物は別火で炊いで、嚴重な潔齋をしたのみならず、以前は年棚の下もしくは年木の前に、筵を敷いて一人寢たこともあつたさうである。年男の役目の大切なものとしては、セチ即ち式の日の食事毎に、オヤ(214)シナヒといふ祭をしたことは前にも述べて置いた。小正月の前の宵の行事は、豆打以外にも色々あつたが、大體にその年一年間の災厄を攘ふことゝ、未定の吉凶禍福を豫定せんとする試みであつたが、そのまじわざ占方は共に皆、必ずこの年男を介して居たのである。

　たとへば土鼠打ちは九州方面では、今は既に果樹祝言と混同して居るものが多い。鳥追ひも東國では總稱として用ゐられ、單に田畑を荒らす烏雀を追却するだけで無く、畦を破る土鼠｜螻蛄《けら》蚯蚓、稻を食ふ蝗も人を苦しめる蛭も、蚊も蚤も共に征伐せられ、更にこれ以外に旱《ひでり》や雨風を起すもの、疫病の惡靈、瘡や腫物の如き農夫の敵から、甚だしきは彼等の惡�ｺに算へられる朝寢やおしやべり間喰ひ、質朴な村では外から來る行商人などさへも、すべてこの鳥追ひの機會に追拂はうとして居たことは、今殘つて居る唱へ言の中に見えて居る。實に年男としてはえらい大役と言はなければならぬ。

　だからこれには又助手の如き者が伴なうて居た。ちやうど萬歳の才藏、餅搗きのあえどりの如く、豆撒きの時などには女が杓子を持つて後に付き、一方が「福は内鬼は外」といふと、すぐ後から「御尤も御尤も」などゝ言つて居る家もあるが、多くの場合には少年を連れて出て、たとへば果樹祝びならば「なるかならぬか、ならねば伐るぞ」と嚇かすと、木の蔭の方からその木に代つて、「なります、なります」などゝ謂つて芝居をした。この儀式の興味を理解する者は少年であつた。乃ちこの機會を以て成人の眞面目さを學び、次の年男の素養を作つて、この慣例は久しきを經て絶えなかつたのである。

　年男といふ言葉は家々に屬するやうになつて居るが、村にもこれを總括した一種の年男があつた。家々の結合が弛んでその任務は限定せられたが、或はこの方が一つ古いのでは無いかと思ふ。秋田縣北部でナマハギと謂ひ、岩手縣東部でヒカタタクリ又はモウコなどゝ謂つて、異樣な變装した若者の訪問は、やはりまた古來重要なる正月望の夜の宵であつた。他の地方ではこれが笠取りだのホトホトだのトビトビだのとなつて、半ば以上少年の遊戯に化しては居(215)るが、なほ初春の祝福を各戸にもたらすといふ趣旨は一つであつた。さうしてこれが同時に又家々の年男の、明白なる職分でもあつたのである。信仰の薄れた者には一種の演劇としか見えぬが、これが神靈の好意を人間に傳ふるもの、即ち最も精確なる意義に於ての、年神の神主であつたことだけは、今知られて居る事實からでもこれを認めざるを得ない。つまり年男は正月樣の名代であつて、これを尊敬してさへ居れば年木も年棚も要らなかつた時代が、曾てはあつたことを察せしめるのである。これが簡略に歸して他の今一段と具體的なる事物、樹木とか棚とかゞ正月の祭の中心を爲すに至つたが、それでもこの年男といふものを丸々無くしてしまふことは出來なかつた。これが私たちの今ある幽かな痕跡に基いて、行く／＼最も鮮明に我々の前代生活を復原せしめて、視かつ感ずることが出來ると考へて居る理由である。しかもかういふ事柄はその土地その時代には餘りにも通例なことで、京江戸街道筋の筆豆の多い土地でも、たゞ偶然の物の序でも無ければ、これを書殘して置かうとする人はなかつた。書物さへ見て居れば學者になれるといふ迷信を棄てぬ限り、いつ迄經つても國の昔は解るもので無い。觀察と比較の學問の、改めて大いに興らなければならぬ所以である。

　

(216)　　　　　新年懷古

　

　　　　　　　蓬莱の縁起

　

　年の始めの改まつた節日には、今でもまだ遠い昔の生活が再現する。これに對する我々の感覺は、至つて幽かなものになりかけて居るが、なほ全く振り棄てゝしまふには忍びない情愛が殘つて居る。最近は出てもあるかぬから、もうどう變つたかを知らない。私などが年禮に廻つた頃までは、大抵の家の玄關には名刺受けとして高い三方の折敷を出し、中にはその上へ慰斗蚫《のしあはび》を、紙水引に包んで載せて置くうちが幾らもあつた。少なくともこれが東京の風習であると見られた。ノシといふものゝ起原を尋ねて見るやうになつて、これが訪問者と食物を共にする儀式の、名殘であつたといふことが判つた。

　小さな農家では、勿論三方などゝいふはでやかな文化は知らない。普通はたゞの盆、又は木の刳鉢《くりばち》などを用ゐて居るが、やはり元日からこれに色々の食物を載せて、上り端《はな》へ出して置くことは同じである。所謂熨斗蚫は容易に手に入らぬから使はない。その代りには搗栗《かちぐり》串柿、それに田作とか卷鯣《まきするめ》とかの簡單な「なまぐさ物」は必ず添へ、それも得られぬ場合は昆布を代品とする。さうしてその底には生の白米を敷いて置く例が多い。東北の各驛から始まつて、日本海の海岸は九州北部の島まで一帶にこれをテカケ盆、もしくはテカキ鉢などとも謂つてゐるのは手掛けである。(217)通例は主婦又は老女が應待に出て、先づその盆を取上げて客の前にさし出し、どうか御手を掛けて下されと挨拶する。客は右の掌を上向けてそつと盆の底にさはり、或は扇子を以て輕く木鉢の縁に觸れて辭儀をする。これでもう戴きましたといふ事になるのである。

　中にはその上へ年玉の品を置いて行く者もあるので、これを名刺や贈り物の臺かの如く、氣の早い解釋をして、略してたゞ小さな繪紙のノシを貼り付けて居る家も出來たが、元はこの食物の上へ、根松だの水引をかけた炭だのと、色々の美しい飾りをしたものである。

　信州の所謂アルプス地方では、古風な人たちはこの手掛鉢をツムノハチと謂つて居た。越後の秋山山村などはこれをツトノボンと謂ひ正月で無くともこれを用意して居て、珍しい來客があると先づそれを取出し、「物つましやれ」と謂つて進めたといふことが、百年前の紀行には出て居る。ツムは今日のツマム、即ち指で取ることであつた。春の始めの三方の上の飾りもの、上方では蓬莱とも謂つて居るものを、江戸でクヒツミと呼んだことは、俳諧の人はよく知つて居る。

　　　ほつほつと喰｜積《つみ》あらす夫婦かな

といふ句も有名で、正月にそれをこしらへる目的は明らかである。即ち三箇日の祝の膳に坐る者は、最初に主人から順次にこれを目の上に捧げて奉公人までにまはし、家によつては客が來るとそれを又表口へ持つて出て、二つは別々に設けないものが今でもある。土佐で朝山といひ越後で高倉といふなど、めでたい名を付ける風は各地に起つたが、固有の日本名は恐らくは年桶であらう。現在は見ごとな鏡餅、海老や橙が幅を利かして居るが、その下にはまだちやんと生米が敷いてある。

　以前はこれを?んで新年を祝し、更にすべての平和なる外來者と共に、同じ一つの器の物を食べて、目に見えぬ體内の連鎖を作らうとしたことは、全國一樣の風であつた。それが段々と齒が弱く且つ贅澤になつて、もうかういふも(218)のを食物と思はなくなつたのである。

　

　　　　　　　門松の話

　

　東都の正月は全國各地の風俗の共進會場のやうだつた。さういふ中でも門松は殊に道をあるく人の目につくものである故に、國々から出た武家ではやゝ誇張してまでも、これに故郷の特色を發揮しようとして居たといふ話である。山中笑翁が曾て幾つかの有名な例を、列擧せられたことを記憶するが、明治に入つてからでもなほ東京の門松はまち／＼で、地方から來た人を驚かすことが出來た。然るに役所とか會社とかの家風も何も無い者が、意味も無く軒竝みの行事に加はつた爲に、門松はたゞ大きいばかりのほんの飾りとなり、追々に仕事師まかせの妙な型に統一してしまつた。さうしてこれを立てる元からの心持は、もう考へて見る人が無くならうとしてゐる。新たに田舍から出て來た者だけでもせめて故郷と引比べて見るがよいのである。

　正月に松を山から迎へて立てるといふだけは、全國大部分の一致した風俗だけれども、その感覺は可なりちがつて居る。第一に松をお松樣と謂つて敬語を付けて呼ぶことは、東京などの人にはをかしからう。これを迎へに行くのは家の主、さうで無ければ年男の役で、新しい荷繩を持ち、餅や洗米を携へて行つて、伐る前に木を祭る處も多い。場所は必ず家よりも上手の山、さうして吉方明きの方から迎へて來るものときまつて居た。一夜松と謂つて前日に迎へることを嫌ひ、大抵は二十八日以前の好い日を選んで行く。松を立てる所は神棚佛壇の前、總ての入口から井戸便所、土藏や厩舍の前にも立てる。その中で一番大きな五階三階の松を立てる所も、必ずしも門口とは定まつて居ない。

　家の中の大黒柱、もしくは内庭の臼柱に添へて立てゝ、白紙削り花で飾る村もあり、これを年神松とも又正月樣とも謂つて居る。乃ち春の神がこの木に依つて、家々に降りたまふと信じて居たのである。だから最も大きな松を表入(219)口の正面に立てた場合にも、三十日・六日・十四日等の宵と翌朝には、やはり年男の役として、神棚に上げたと同樣の正式の食物をこれに供へる。

　その爲に伊豆の島々ではオダイゴキ、靜岡三重等の諸縣ではツボケサマ、四國の或土地ではワンゴ、信州飛騨等ではヤスノゴキ又はイヤシツボなどゝいふ藁製の椀形のものを、その松の木の中程に結び付け、これへ供物を上げてまはることを、御養ひと謂つて居る地方が多いのである。東京の附近でも、南多摩郡などにはまだ門松に皿結びを付ける村もあつた。但しこれにはもう名前が無く、又食物を供へるといふこともせぬやうである。關西の方へ行くと、この藁の養ひ壺は付けぬ代りに、紙に洗米を包んで結んで置く風は處々にあり、これをオヒネリとも又オトビとも呼んで居る。

　正月には家の主要な道具農具、爐の鉤にも水汲む桶にも、又は牛馬の小屋にもこのトビを付け、同時に神詣でにも年禮の訪問にも、すべて同じものを持つて行く處はまだそちこちに殘つて居る。さうしてこれが悉く一つの手桶の中から分け取つた米である。米を大切にしこれを正月の缺くべからざる食物として居ることは、如何なる畠作がちの山村でも、米を作らぬ漁村でも一樣であつた。門松はつまり正月に降りたまふ神々と、この貴い穀物を相饗する式作法だつたのである。松が青々として目に快い植物だといふのも、考へて見れば最初からの感覺ではなかつた。

　つまりはかういふめでたい日に、神を迎へた思ひ出が樂しかつたのが元で、そのもう一つ以前に溯ると、特に暖かな火と明るいあかりとを、冬の生活にもたらす木だつたといふことが、松を年神の依りたまふ木と考へ出した元かとも思ふ。古い日本語ではマツといふのは火のことでもあつた。

　

(220)　　　　　　　年籠りの話

　

　町が我々の年の夜の感覺を、荒涼たるものにしてしまつたことは、節季の掛取りといふ商慣習が始まつてから後の話である。近世の文學にはをかしいほどこの問題が多く取扱はれて居るが、勿論昔はそんなものは無く、年の終りは浮世の營みを中絶して、春を待つより他の心構へが無く、森閑として居た時代は久しく續き、今でもまだ捜せばさういふ土地が丸で無いわけでない。世間はたゞ一部の無理をする人たちに捲き込まれて、皆慌だしく走りまはるのである。

　以前の正月始めは十二月の十三日からで、上方には今でもこの名が殘つて居る。家々の奉公人はこの日出替り、それが出て行く前に新年の薪を一荷づゝ、採つて來るのが十三柴であつた。煤取節供とも謂つて、この日を煤拂ひの日にして居る土地も多かつた。それが段々に遲くなつて、數へ日になつてから色々の支度にかゝるのは、よくいへば經濟生活の發達であつた。除夜の眞夜中まで金の才覺に走りまはるなどゝいふことは、したくとも出來ない者が元は多かつた。しかも一箇所で勘定がすまぬと、次から次へと待つて居る者が多くなる。御蔭で我々の年越の儀式といふものは、眞中から中斷することになつたのである。誰でも不思議に思ふであらうことは、晦日の夕食をオセチと謂つて、一旦年越の正式の食事をすませて置きながら、再び煩はしい片付仕事をして、百八煩惱の鐘の音を聽いてしまふことで、少なくともこれは日本人の昔からの年の取り方では無かつたと思ふ。

　西洋の年の境は夜中の零時かも知れず、支那では朝日の登りを一日の始めと考へて居たかも知らぬが、我々の一年は日の暮と共に暮れたのである。それ故に夕日のくだちに神の祭を始め、その御前に打揃つた一家眷屬が、年取りの節の食事をしたのである。日本人の祭典には必ずオコモリといふことがある。神の來格を迎へて、謹愼して一夜を起(221)き明すことである。今日でも神社佛闇に籠りに行き、又は夜行の汽車で參宮する風は殘つて居るが、家屋の中ではもうこの習はしを廢して、床をとつて一度はぐう／＼と寢てしまふのである。

　僅かな昔の名殘としては、大晦日の晩に早く寢ると皺がよる。又は白髪になると謂つて起きて居ることを奨勵する。或はこの夜長く起きて居れば長生きするといひ、又主婦だけは水の恩を送る爲に、夜明しをするものだなどゝ佐渡でもいふ。一方では元旦の宮參りに、一の庭を踏むと稱して隣人と早きを競ひ、鷄も鳴かぬうちから家を出で、若水も通例暗い中に汲みに行くから、働く人たちは寢るひまは無いのである。しかし正月が信仰の外になると、用の無い者には起きて居ることが骨折りで、或は大火を焚くとか昔話をするとか、何かこの晩にふさはしいつゝましやかな遊びをする。村によつては子供を外に出して、早く寢た家を起しまはつて騷がせる風もある。大阪附近の例は多くは小正月、即ち十五日の前夜になつて居るやうだが、これをヨネンコウといふのは夜不寢事であつたのを、今は誤つて幼年講とも解して居る。

　主婦は少なくとも帶を解いて、休息することはいけないと考へられて居た。東北は一般に家の大田植の日に、雨が降ることを主婦の恥として居る。それは年取りの晩に打解けて寢た罰といはれ、遠慮の無い人は、おらも大晦日に寢るやうな樂なくらしになりたいなどゝ、あてこすりを謂つて若い女房を赤面させる。

　

(222)　　　　　　　これからの正月

　

　正月元日を、たゞ何でも無い常の一日のやうに、思つてしまふことは當分は出來ないであらう。さうとすればこれからさき、新年の行事はどうなつて行くか。又どういふ風に改まるのが、人間の爲に最もしあはせなのであらうか。その點をすこし考へて見よう。

　まづ第一に、風俗は昔からこの通り、日本全國どこへ行つても、同じ事をして居ると、思ふのが、まちがひであることを心づかねばならぬ。早い話が謹賀新年の年頭の葉書、あれが元日の早朝にどさりと一くゝり、配達せられて來て子どもらの心をときめかせ、雜煮をいはふ片手にいそがしく目を通して、思ひもかけなかつた遠國の知人のうはさをし出すなどゝいふことは、十年前までの最も普通な正月の情景であつたが、これがかうなつたのは新しい郵便制の、一つの改良に過ぎなかつた。その前は松の内も終りに近く、人が平常の業務に飛びまはつて居る頃まで、二枚三枚づゝだら／＼と入つて來て居たのを、誰かゞ考へついて暮の二十四五日から受付を開始し、すべて一月一日のスタンプで配達するといふことになつて、急にこの風習は活氣づき、同時に又形式化してしまつたのである。戰でこんな虚禮が中絶しなかつたら、今頃はどんなことになつて居たかわからない。自分などは或年の年末に、中央局の若い局員が過勞の爲に死んだといふ新聞を見てから、怖ろしくなつてやめてしまつたのだつたが、世間にはなほ何千といふ葉書を印刷させて、人を雇つて表書を書かせるといふやうな、むだな形ばかりの社交に乘り出す者が多かつた。今のべらぼうな郵便料金の値上りなども、言つて見ればそのバチだつたかも知れない。

(223)　人のすることなら自分もしてよろしい。又はもう一歩を進めて、せずに居ては惡いとまで思ふ者が、昔から我邦には多かつた。殊に正月は祭禮の日と同じに、氣が大きくなり後先を見ないから、弊害が防ぎきれないのである。酒と都市生活との二つが、新しい世に入つて大きなわざ〔二字傍点〕をして居る。たとへば元日だけは戸をしめ掃除もせず、家にこもつて親子夫婦ばかり、和やかに靜かに一日を送るのが、古風な正月の幸福であつたと思はれるのに、人が群がつて住むやうになると、先づ早天から飛び出してやたらに訪問をする。それも始めは一門の長者、主筋とか神主とかに限られたのが、後は段々に範圍が廣くなり、飲まう飲ませようの下心は果しも無く、女房は朝からてんてこまひで、むしろこちらも留守になつてもらひたがる。家が淋しいから子供は晴着を着て、表へ出て遊ばうとする。その爲に町は一段と花々しく、いはゆる正月の氣分は誰の目にも、見過せなくなつたのである。

　　　なま醉ひの禮者を見れば大道を横すぢかひに春は來にけり

　これはたしか蜀山人の作、すなはちもう百五十年も前からの、江戸市中の光景であつた。しかしかういふことは酒小賣が始まつてから後で、家の手作りではそんな貯へも無く、田舍は殊に酒が惡いから、少しはめをはづせばすぐに醉ひつぶれてしまひ、中々ふら／＼と千鳥足で、外をあるきまはることなどは出來ない。雪のある寒い國はなほ更のことであつた。

　今ある風俗のどれ一つを取つて見ても、近代の流行から盛んになつたと、言へないものはほとんど無い。門松なんかもさうなのかと、驚いてきく人があるかしれぬが、事實はまさにその通りであつて少なくとも通りに面した二本ばかり、大々と飾り立てゝ門地を誇り、又は商賣の景氣を添へようとするなどは、市街でなければ無用なことだつた。昔から賤が門松などゝ歌にも詠んで、松を村の山から暮に伐つて來て、そちこちに立てゝ置かうとする習はしはあつたが、それは決して入口だけの飾りではなかつた。今も在所ではこれが信仰の行事で、春の神がその松の枝に付いて、山から家々に拜まれに來られるものと、思つて居る人が少なくは無い。その松を立てる場處は段々と多くなつたやう(224)だが、中でも主要なものは大黒柱や臼柱の前、又は歳棚や床の間の正面に、俵を積んでその上に立てたりして居る。カドといふのも實際は門のことでなく、おも屋の軒先に大きなのを立てゝ、ツボケもしくはオヤスといふ藁の皿を付けて、それへ節の日の食物を供へて居たのである。

　或は又松の木のかはりに、榊や椎の木などの枝をさし、柱に結はへ付けたりするのを吉例として居る土地も、全國にわたつて隨分と多い。それとこの町方の門飾りと、どちらが前からのものかは一目でも判るのだが、何でも都會風がよいと思ふ傾きが強くなつて、氣のきいた人から追々と眞似をしはじめ、さうしてかう若い松を伐つては植林に害があるなどゝ、やかましいことをいふ人が出て來たのである。民俗學の學徒から見れば、こんなのは決して舊來の陋習では無い。罷めたつて少しも惜しいことはないのである。

　正月だから理くつは言はぬことにして居るが、日本人の過失がもしあるとすれば、何も最近になつて突如として始まつたので無く、又大昔から付きまとつて離れなかつたのでも無い。言はゞ氣がついて騷ぐのが遲かつたといふまでである。これからだつてうつかりと流行に乘り、眞似をよいことゝし、都會を上品と認める癖を止めなかつたら、又再び苦しい行きづまりに打當らぬとも言へない。少し早めに世の中の移りかはりを、視たり考へたりする學問を心がけねばならぬのはその爲である。一年の境を改良再出發の期節として、古い行掛りを棄てゝ、新しい計畫に着手することは、それ自身めでたいことであり、又いはふべきことである。さういふ心持は昔の人も持つて居たのだが、たゞ判斷が足らずして、眞似さへして居ればよいと思つたのが惡かつた。それでも差支への無かつた時代は、もうとうに過ぎて居るのである。

　

(225)　　　　　吉日思想

　

　新年おめでたう、といふことを今晩の話題とする。どうして正月になると、誰でも「おめでたう」といふのであらうか。それを小さい人たちが無邪氣に尋ねた場合に、正しく答へることは必ずしも容易では無い。

　昔からみんながさう言つて居たからと、答へるのも本當ではない。うちの中では唯「おめでたう」ですませる者もあり、又古風な人々は「明けましておめでたう」といふのが今でも多い。そのもう一つ前には何と言つて居たらうか、それもまだ判つては居ないのである。「明けまして」は昨日とはちがふから、もう古年のまんまでは無いから、改めてこゝで「おめでたう」を交換しようといふわけで、新年といふのも、やはり「この際に於て」の意味であつたと思はれる。

　單にあなたの萬福を祈る。又は皆樣御無事で結構です。ハッピイニュウイヤァといふだけで無かつたことは、これに對して「ありがたう」と答へる者は無く、こちらも必ずヤァおめでたうと應ずるのを見てもわかる。つまりは「めでたい」のはこの日〔傍点〕であつて、自分ばかりがハッピイだから、悦びを言はれるのではない。新婚や誕生日とは、よほどめでたさがちがふのである。

　ちやうど訪問の言葉の「コンニチハ」などの如く、あんまりきまり文句になると、言ふ者自らが何の感じも持たない。それではいけないと思つて自分などは、「結構な正月でござります」と言つて見たり、又雨でも降ると、「靜かなよい新年です」と言つたりして居るが、さうなると今年あたりは、もうさう言つてもよいのか知らんと、ちよつと考(226)へられるやうな氣がして困るのである。

　しかし今までにも、地方限りではもつと惡い年が?々あつた。それにも拘らず、やはり正月がめでたい日であつたわけは、これが四ィ時循環の一つの境目、古年の愁ひ憤りを打切つて、新たなる希望と計畫に發足する日と、信じられて居たからである。さうでも無かつたといふ經驗は、可なり積み重ねて居りながらも、なほ且つ正月の春立ちかへる毎に、倦まず撓まず、くりかへし新たなる樂觀を立てゝ居た。つまり新年は願ひの日、又新しい注文の日であつて、古い勘定の清算の日でなかつた故に、何としてもこの日をめでたくしないでは居られなかつたのである。物をいつでも好い方からばかり、見たり考へたりしようとする人を、東京などでは「おめでたい人」と謂つて居た。これは一種の憎まれ口ではあるが、その意味だけは確かに傳へて居る。

　遠い昔の世から、正月は特にこの生活計畫の更新の爲に、取りのけて置く日であつた。着物や食べ物等の一切をふだんとはちがへ、出來る限り毎日の雜務には觸れずに、靜かに安らかに過すやうに、用意せられる日であつた。計畫とも言へないほど、もとはきまり切つた幸福であつたけれども、どこの家の願ひも一樣であり、又痛切であつた。たとへば子供たちに泣くな喧嘩をするな、正月に怒ると一年中、怒つてばかり居なければならぬぞと言つて聽かせたり、女たちも努めて機嫌よく、荒い聲を立てず、不吉な言葉を使はぬやうに、心がけたものであつた。いはゆる和氣藹々たる模範家庭が、この日はどこに行つても見られ、おまけに食物と薪とは、各自の力の限りに於て豐富だつたのだから、一見して人が幸福の理想を、どこに求めて居たかは判つたのである。

　今でも農村には全く消え去つては居らぬ年中行事に、正月にはサツキ又は田植と稱して、その年の農事の主要なるものを、豫行して置くといふ慣習がある。寒い國だと庭の雪に畝をこしらへて、松の葉を苗に見たてゝさし立てたり、圍爐裏のごみを綺麗に片づけて田の草取りと言つて見たり、子供が足を爐に入れると、やれ苗代を鴨が荒すといつて戒めたり、殊に小正月の晩などは、一晩中かういふ事にかゝり切つて、樂しく笑つて過す習はしがあつたことは、少(227)なくともまだ記憶に新たである。

　農村ばかりか大きな都會にも、この風俗の一部は入り傳はつて居る。正月の飾り物に繭玉稻の花、又は物作りナリハヒの木とも謂つて、餅や團子を賑やかに付けた枝を立てるなども、これを豐作のまじなひとした時代はとくに過ぎて、今はたゞかくあれかしといふ切なる願ひを、形に顯はして有效に表白して居るのである。

　鳥追ひが春の初めの美しい景物の一つであつたのは、東京でもつい近い頃までの話。それが又僅かづゝ形をかへて、ほゞ日本の全土に行渡つて居る。夏と秋との實りの盛りに、それが行はれるのなら不思議は無いが、我々は寧ろあらゆる一年の害惡を、この正月の吉日を期して、すべて追拂つて置かうとしたのである。横濱市内の舊社杉山神社の鳥追歌には、田を喰《は》み荒す雀や鷺以外に、大よそ村の生活にとつて好ましからぬもの、田螺やむぐらもちの列に加へて、女たちの蔭口やむだ食ひまでを、追つばらはうと歌つて居た。信州北部の或山村の鳥追ひでも、村から追ふべきいやなものゝ中に、おできや旅商人までを算へ立てゝ居るのがある。かうなると鳥追ひはもう一つ願望の文學であり、又は人心を統一する興味ある演藝であつた。

　春のよき日の心の改まつた日に、新たに立てられた計畫が特に有效であるといふことを、かつては我々は信じて居たのである。人が合同一致して、一心に願ひ望むといふことは力であり、それ故に又神に取上げられるといふことも、我々の祖先の考へ方であつた。それが正しかつたかどうかまでは、私どもの學問ではきめることが出來ない。たゞさういふことが段々と、今は輕んじられる時代であることゝ、しかも一方にはなほこれを信ぜんと欲し、又は少なくとも今一度、身自ら試みて見たいと思ふ者が、可なり數多くこの邦に住んで居ること、この二つは共に事實として、報告することが出來るかと思つて居る。

　三たび新たなる時代の新年を迎へて、我々日本人が心を清うして、共に先づ願望すべきものはそも何であらうか。恐らくは多數の一致するであらうことは、次の人生を荷なふ者の、すこやかに育つて行くことである。彼等が今より(228)もなほ一段と賢くなり、より精確に事物を知り、蔭に隱れて居る同胞の苦惱を理解し、互ひに相愛せずには居られないことである。道�ｺの頽廢は結果であつて、別にその源に溯つて、これを淨化する道があることを、少しでも速かに心づいてくれることである。教育の刷新はこの目標に向つて、何物にも代へ難い大切な我々の夢である。たとへ現實には折々の躓きがあり、又折々の失望があらうとも、それを氣づかつて今日の樂觀を損ひたくはない。たとへ「おめでたい人」といふ冷笑を受けようとも、なほ我々はあらゆる今日の兆候を、こと／”＼く善意に、好い方に解釋して、この新年の生日足日を樂しみたいと思ふ。

　以前は農漁山村の繁榮といふことが、國を擧げての悦びであり、又大いなる願ひでもあつた。何か民族の苦しい行詰りに出逢ふたびに、今まではいつも救援の力が、この方面に期待せられたからである。都府を今日の?態に作り上げた者も、日本では主として農民であつた。もしも彼等の力の正しい應用がなほ必要であるとすれば、單なる日々の警察記事以外に、もう少し考へる機會を與へなければならず、それには第一に國内の交通を自由にして彼等互ひに學ぶ所を豐かにしなければならぬ。それを妨げるやうな色々の施設などは、これを新たなる新年の鳥追ひ唄に列擧して、さらり／＼と西の海へ、追拂つてしまふべきだと私は思つて居る。

　

(229)　　　　　正月と子供

　

　　　　　　　　　　一

　

　もとは正月が近くなると、外で遊ぶ子供等は聲を揃へて、正月さま何處までといふ歌をうたつて居た。この頃のやうに早く來い／＼お正月などゝ、まるで狗の兒を喚ぶ見たいなことは言はなかつた。

　言葉は土地によつて皆少しづゝちがひ、をかしいのも有れば又まじめなのもあつた。さうして今でもそれを覺えて居る人が多い。

　　　正月樣、どうこまで

　　　くる／＼山の下まで

　　　おみやげは何だ

　　　榧《かや》や勝栗、まい玉振つてござつた

　或は弓持つて箭もつて、又は手毬をもつて突きつきござつたと謂つたり、又は杖のさきに味噌つけて、嘗めなめござつたと謂つたのもある。

　小さな子どもにはその正月樣を、白髪の、にこ／＼と笑つたおぢいさんのやうに、想像して居た者も多かつたらしい。九州の方の田舍や島々では、正月樣を又年どんとも呼んで居た。時にはもつと心安く、年ぢいさんと謂ふ子も有(230)つた。年殿は良い兒に年を持つて來てくれる。それは年玉といふもので、圓い白い餅であつた。元日に眼をさますと、ちやんと枕元にその年玉が置いてあつた。いふことを聽かぬ子には、年どんが年を持つて來てくれぬこともあるので、おとなしくしなければならなかつた。

　

　　　　　　　　　　二

　

　正月がうれしかつたのは、お餅や串柿や勝栗が食べられるからだけでは無い。第一に家の中が急に明るくきれいになる。神さま先祖さまの棚には御燈明がともり、注連繩も松の枝も青々として皆新しい。常には藏つてある黒い四つ椀が取出され、小さな子の前にもちやんと御膳がすゑられて、楊の木を白く削つた、腹太箸といふまん中の太いお箸が載せてある。それを持ちにくさうに横に握つたりする兒があると、まはりの人たちがにこ／＼としてそれを見て居る。

　第二には正月には家の人が皆ゆつたりとして、決して怒つたり大きな聲を出したりしない。仕事は暮のうちに、すつかり片付けて置くから、誰も忙しいといふ者が無い。隣や親類の人々が訪ねて來て、今年も何事無く樂しく暮したいといふやうな話をする。外がよく晴れて小鳥などが飛びあるくと、みんながそれに氣がついてよいお正月だといふ。めでたいといふのはかういふことだ、いはふといふのはかうして居ることだつたと、子供にも自然にわかつて來る。それが何よりも我々にはうれしかつたのである。

　

　　　　　　　　　　三

　

　それから今一つのうれしいことは、正月には子どもにも色々役目がある。父母にすゝめられ、又は年よりたちに頼まれて、言つたりしたりする事が隨分多い。私などの家では前の日から暗記をして、元日の朝起きるとすぐに、兄弟(231)二人でかういふ問答をした。

　　兄「ゆの木の下のおん事は

　　弟「さればその事、めでたうそろ

　しかしこの言葉はもう意味がわからなくなつたので、おぼえるのが少し六つかしい。それよりもをぢをば姉たちの家へ、ちやんとして新年おめでたうを言ひに行くことは、大きくなつたといふ氣がしてうれしいものであつた。越後などではこの事を栗柿年始と言つて居る。きつと串柿かち栗などをもらふことにきまつて居たからである。或は又まん中に穴のあいた以前の錢に松の葉をとほして、馬だと謂つて子供に與へる處もあつた。この日の訪問だけには今でも物申すといふので、これをモノモと呼んで居る土地も多い。

　或はもう少し改まつて、明きの方から春田打ちがまゐつたとか、春のはじめに棉取りは來ましたとか、色々めでたいことを言つて行くやうな風もあつた。西の方の各縣ではそれをホトホト又はコトコト、これは表の戸をたゝく音を口でまねたのである。それをオイハヒソといふ處もあるが、多分御祝ひなされたといふことであらう。東北地方と九州の西南の方とでは、それを又カセドリとも謂つて居る。もとは笠取り、即ち笠で顔を隱して來る人と、いふことではなかつたかと思ふ。何か信仰に基いた大人の儀式であつたのが、後には子どもを頼んで行ふことになつたものらしいのである。

　

　　　　　　　　　　四

　

　昔の人たちは一年の始めに、どうかかういふ事があればよいと思ふことを、一度は形にあらはしてやつて見るといふ風があつた。それがワザヲギ、即ち今日の農村劇などのもとであつた。節分といふ晩に炒つた大豆を撒いて、鬼を家から外に追ひ出すなどもその一つで、これは今でもまだ年とつた人がして居るが、多くの家々では子供をその助手(232)に任命して、福はうち鬼は外といつて豆を撒く跡から、ゴモットモ、ゴモットモと謂つてついてあるかせる。杓子すりこ木などをその子の手に持たせたりするのは、元來この役が神主のやうなものだつたことを想像せしめる。

　或は正月十五日の小豆粥を祝ふ朝に、木まじなひといふことをする家が今でもある。親が鉈だの手斧だのを手に持つて、柿や梨の木の幹を敲いて少し疵をつけ、

　　　なるかならぬか、ならなきや伐つてしまふぞ

と大きな聲でおどかすと、子供が傍からその果樹に代つて、

　　　なりますなります、もとからうらまでうんとなります

と答へる役などもうれしいものであつた。

　　　そんなら粥を進ぜましよ

と、お粥を少しばかり切口のところに食べさせて行くので、さういふ年には大抵はよく實るから、子供にはこの芝居が、大きくなるまで忘れられなかつた。

　

　　　　　　　　　　五

　

　小正月の前の晩には、色々の飾りの木を削つて立てたが、その折にも子どもは祝ひ棒といふものを作つて與へられた。これなども決して單なる玩具では無く、それで敲くと果樹はよくみのり、土藏は穀物で一ぱいになり、若い嫁さんはすこやかな赤ん坊を生み、土地は榮えるものと古くから言つて居たので、この日一日は祝ひ棒を振りまはして、何をたゝいても叱られなかつた。土地によつては鳥追ひにもむぐら打ちにも、この棒によつて一段の效果を擧げようとするものがあつたのである。

　おもちやといふものゝ起りを考へて見ると、最初はこの祝ひ棒のやうに、おとなも共々に興味をもつて居たものが(233)多く、從つて正月から始まる遊戯が色々とあつた。ハッドンといふ英國の老學者は、人の研究といふ本の中で、幾つかの子供遊びのことを詳しく説いて居るが、世界のまだ十分に開けない民族では、成人が遊戯に對して深い注意を拂ふのみならず、しば／＼おとな自らがこの遊びをして居る。タコでもコマでも又ハゴイタでも、世界中どこに行つても在り、どうして入つて來たかはまだ判らないが、日本で發明したもので無いことはその名稱からでも考へられる。そんならそれより前にはどんなものがあつたかといふと、やはりあの祝ひ棒や、これと目的のよく似たブリブリとかテッチラコ、それからハマコロといふ木の輪を轉がす競技などが、子どもばかりか親たちからも興味をもたれて居た。ハマは二組に分けて輪を遠くへ轉がし、相手はなるたけ早くそれを横倒しにして、押へてしまはうとする遊びであつた。その輪を留めるには長い棹を突出し、或は棒を投げ又は弓を以てこれを射止めたが、都會ではあぶないと謂つて二百年ほど前に禁止せられてしまつた。今でも男の子の初正月の祝ひ物に、はま弓といふ飾り物を贈る風習があるのはその名殘である。日本の正月の樂しみは、昔にくらべると少し單純になり過ぎて居る。何かかはりになるものを考へ出したいと思ふ。

　

(234)　　　　　小正月の晩

　

　又小正月の晩が來た。待つて居た子供等に一つづゝ年をくれて置いて、東京などの松の内はさつさと往つてしまふ。さうしてこんな寒い靜かな何とも無い晩がその名殘である。火箸の頭に手を載せて、もし聽く人が有るならば幾らでも話をして見たいやうな氣持がする。

　元は田舍では誠に用の多い日であつた。まづ家々の注連繩松飾りを、辻の廣場に集めて來て、トンドと謂つてこれを燒かねばならぬ。年中蟲氣夏負けの無いやうに、その火で身を温めたり、中には馬までも牽いて來て火を渡らせる土地も有る。書初めもこゝで燒き、翌日の小豆粥の餅まで、桝に入れて炙りに來る。不用に爲つた神々の御礼の類も送つて來る。

　正月樣はこのトンドの煙に乘つて、御還りなさると石城邊ではいふさうだ。飲食休みの樂しみも終りを告げて、一旦は春が淋しくなる處から、或はそんな風に考へはじめたかも知らぬが、近く迄京都に行はれた左義長の式を見てもわかるやうに、この火は單に江連飾を燒く爲に設けられたもので無かつた。千年以前の朝廷に於ては、正月十五日には百官をして、各若干の薪を獻ぜしめられたものであつた。さうして冬と春との境に大火を焚いて、人の力で陽氣を促進しようとした慣習は、決して亞細亞ばかりに限られた迷信では無い。恐らくは温帶以北に住む多くの民族が、暦も實驗も用を爲さなかつた大昔に、際限も知らぬ冬を倦み且つ厭うて、火を焚けば暖かくなるからといふ素朴な推理から、かういふ事を春を迎へる爲に、必要なる儀式と考へたのが始めであらう。

(235)　農作に由つて生活をするやうになると、氣候を氣遣ふの情が一層強くなつて來る。有りと有る草木が愈々芽を含まうとするに先立つて、改めて物作る人々の心の裡に、大なる不安が萌して來る。日本でも支那でも天子樣の大なる恩�ｺは、この際百姓の全部に代つて、種々な祈年《としごひ》の儀式を行はれることであつた。個々の村方でも勿論じつとしては居らぬ。管粥《くだかゆ》などゝ名づけて粥に由つてその年の作物の善惡を見たり、或は十二箇の豆や胡桃を燒いて、月々の風雨を占うて見る。これにも左義長の火を借りて來るのである。それのみで足らぬとする村々には、田遊び田樂又は田植芝居などゝ謂つて、種蒔きから稻刈り迄の一年中の農事の眞似ごとを、一通り遣つて見る慣例も有つた。東京近くの赤塚などでは、餅で鋤鍬を作り寺の座敷を田圃に見立て、太郎次（田主《たあるじ》）から早乙女牛馬までも役割があつて、植ゑて草取り刈入れる所作を一續きにしてしまひ、豐年萬作めでたいと祝つて飲んださうだ。東北ではまた積んだ雪の上に畝を作り、青い松葉を插して田植の眞似をした。この折唱へる文句の中には、烏や鷺や螻蛄や田螺《たつぶ》、凡そ稻を作るに有害な動物は、みんな何處かへ往つてしまふやうなことを、唱へるのが普通であつた。

　土鼠打ちといふのもつまり最も弘く行はれる儀式の一つである。居ても構はぬ春のまだ始めから、この小さな獣が極端な恫喝を以て逐はれる。鳥追ひと謂へば江戸では門付けの特殊なものゝ名であつたが、關東の田舍ではやはり小正月の夕方に、一度追つて置けば秋中樂をするやうに考へられ、ワアホイだのジャホイだのと面白い名をつけて、一番子供等の面白がる田遊びの一部であつた。米以外の作物では柿の木などが迷惑な注文を受けた。鉈を振上げて「ならぬと祈るぞ」などゝ嚇される。「いやなりますなります」と脇から言ふ者が有つて宥される。村に由つては少しばかり傷つけられ、それから詫言を人がしてくれて、些しの粥を切口へ喰はされる。草木が物を言つたと云ふ時代からの、古い仕來りとしか思はれぬ。

　人間の繁殖に就いても、同じ日の晩が最も重要なものと考へられて居たらしい。大體に於て小正月は子供の日と謂つてもよい。彼等は道祖神の神主として、御幣即ちトンドの管理者として、又鳥追小屋の主人として、常には持たぬ(236)自由を認められて居たのみならず、多勢集まつてその年の花婿に水を掛け、大事の花嫁の臀を打ちに來た。さうして貫はぬと實がならぬやうに考へられて居たことは果樹も同じである。その時の唱へ詞も自由なものであつた。この風習の後世に始まつたので無いことは證據がある。尻を打つにはほゞ一定した長さの棒があつた。その古い名が粥杖であつたことは、單なる遊戯で無いことを思はしめる。女のよく孕むやうな年で無いと、作物もよく無いと昔の人は考へた。當節のやうに食物と人口とが、敵同士になるやうなことは、まあ無かつたのである。

　だからこの晩の月明りに、村中を廻つてあるく少年たちは、或地方に於ては主として稻作の豐熟を祝ひ、他の地方では花嫁の丈夫で、子福者ならんことを豫言した。家々では兼て用意した餅やおひねりをこれに遣り、又笑つて無邪氣なる猥褻の語を聽いた。憎まれて居る家などでは、無茶な惡口を言はれることもある。それが何兵衛の小倅と判つて居ても、この晩に限つては彼等は支配者であつた。さうして如何にも神の使などのやうに、不思議な形式を以て訪問すること、これが亦小正月の大なる興味であつた。因幡伯耆などではこれをホトホトと呼んで居る。山を越えて備中の奧になるとコトコトと謂つて居る。今では口でさう言ふのだが、最初は戸を叩く音から出た名であらう。安藝の中部では、こゝに來るのは貧しい部落の者に限り、トロベイトロベイなどゝ謂つて來る。又トノベイなどゝ謂ふ村がある。周防長門から九州の各地にかけて、トビトビもしくはトベトベと謂ふのも同じことで、トビは即ち「給べ」の意味である。東上總などではタビタビと謂つて居る。何れも元服前の少年の所作で、今では祝言よりも作り聲で門口に立つ方に重きを置いて居る。

　土佐ではこれを粥釣りと謂ふさうである。地方により名前は色々だが、することは大體同じだ。會津ではカセドリ、越後は多く道祖神の勸進と名づけて居る。仙臺の近在ではチャセゴと謂ふ外に、又餅切りとも餅打ちとも謂ふさうだ。彼等の手にする木の棒は　　　愈々異形で、これを振り立てゝおんがれおんがれと謂ふなどは露骨の至りである。又トロヘントロヘンとか、トロメントロメンとか謂つて來る所もある。後にはいゝ年をした者も加はつて、惡ふざけの假装踊(237)になつてしまつたが、これを歡迎した最初の心持は、かうして貫はぬと生活の不安が休まらぬのだから、即ち嚴重な儀式であつた。

　佛法の教へでは勿論説明が付かぬ。増穗殘口《ますほざんこう》や筧教授の神道にも、無い筈の信仰ではあつたが昔から行はれて來た。工夫や發明ではこんなたわいも無いことは考へられぬから、とにかくに昔からに相違無い。處々に梅の咲く南日本は固より、北の雪もよいの薄月夜にも、もう春が來たと感ずると俄に忙しく、こんな事をして新しい年を迎へるのが正月であつた。それを西洋の暦は怖ろしいもので、理窟では罷められぬものをもうあらかた無くしてしまつた。月送りの節供といふのを未練なやうに笑ふ者もあるが、端午が來ても?《かしは》の葉がまだ出なかつたり、七夕になつても天河が見えぬと謂ふと、罷めない限りは月送りより他に仕方が無い。それよりもなほ閉口なのは三十日に月の出ることで、從つて盆踊の夜にも十夜亥子にも闇があり、村の若者等はその心までが手探りとなる。月が無い位ならホトホトもトビトビも有りやうが無い。だから正月は只寒いもので、蜜柑ばかり食べて子供は寢てしまふ。大人の間にはやるのは酒だ。人が利口になつて餘計な心配やまじなひ事をせぬやうになる迄は、やつぱり滿月を暦の代りにして、春が近く來さうなら胸が時めくやうな、嬉しければ踊るやうな、輕い心持の自在に現はれた、昔からの生活を思ひ出さずには居られぬ。これを馬鹿にして見ても、ねつからいゝ事は無かつた。

　

(238)　　　　　正月の火

　

　九州の各地で、鬼の火又は鬼の目燒きなどゝいふのは正月七日、中國以東の弘い區域に於て、トンド左義長サヘト燒き、その他いろ／＼の名を以て行はるゝ新年の火祭は、十五日の宵又は曉を普通とする。この二つの行事はよく似て居て、二つ別々のものとは考へられないが、果して何れが本、いづれが末であらうか。少なくとも兩者如何なる關係に立つて居るのであらうか、といふことが我々の會の問題になつた。

　これについて、現在私などの心づいて居ることはまだ僅かしか無い。それを試みに列記すると、

（イ）　九州の方でも南の方へ行くと稀々には鬼火を十五日に擧行して居た例がある。

（ロ）　京都の左義長（三毬杖）は中古から文獻に顯はれて居るが、これにはその後でもう一度、十八日にも同じ火を焚く風があつた。その理由は一段と不明だが、十八日粥と稱して、十五日の粥の一部を殘して置いて、この日食べることゝ何か關係が有るらしく、これならば今日も田舍には折々見られる。

（ハ）　この正月火祭の趣意目的と言ひ傳へるものが、土地によつてよほどちがひ、從つて行事の末端には、若干の差異が見られる。關東東北でサヘド燒きといふのは、道祖神處、即ち境の祭場の意かと思はれるが、こちらでは九州のやうな、兇神を燒き拂ふといふほどの強い心持は窺はれない。しかも中央部になると、その境といふ感覺すらも無く、たゞ初春の樂しい信仰行事の中心と、考へる者のみが多かつたやうである。

（ニ）　もつと大きな地方的變化は、この正月の火の燃料の上に現はれて居る。近畿中國の多くの村里では、現在はこ(239)れを門松注連繩、その他くさ／”＼の新年の飾り物、古い御札などの處理方法の如く思つて、別に餘分のものを用意せぬらしいが、もとは宮廷でも左義長の竹を、たくさんに獻上せしめられたことが、山科家の日記などには録せられて居る。地方には今でもこの火の爲に、多量の藁や竹ノ木の類を集めて來て、注連繩門飾りはたゞこのついでに燒くだけで、これを燃料のうちとも見て居らぬ例が多く、さういふ土地が又特にこの行事の盛んな處でもあつた。

（ホ）　二つの重要な點が、もう他の地方では忘れられようとして居り、盛んな土地だけにはそれが大抵はまだ殘つて居る。その一つは、火を焚く傍に小さな假小屋を造ることで、それもしまひには燒いてしまふのだが、その前には子供たちが中で遊び、又は宿泊することさへ有つた。今一つは特に一本の木又は竹の柱を、火のまん中に立てることで、土地によつてはこの芯木を持つて來るために、可なり大がかりな儀式がある。さうしてこの二つが、正月の火を火祭と謂つてもよい理由だと、我々は考へて居るのである。

（ヘ）　火燒きの行事は正月に限らず、他の幾つかの改まつた日にも、行はれて居る例が方々に有る。たゞその風習が正月のトンドのやうに、全國一樣のものと言へないだけである。一ばんよく知られて居るのは盆の火で、これにも小屋を造り柱を立てたといふ處も少なくはないが、近頃は門火と稱して家々の門の口に小さく焚くのが普通のやうになつた。春と秋との彼岸にも、山に登つて合同の火を焚く習はしが秋田縣などにはあつた。中部地方で山の講といふのは、冬になつてからこの火を山の神の社地で焚くもので、土地によつてはこれをサイトウとも呼んで居る。京都市中の古い神社で、今も續けて居る霜月の御火焚き、さては禁中の御神樂の篝火まで、すべて同じ系統のものと私たちは解して居るのだが、これと正月の火との關係は、殘念ながらまだ説明することが出來ない。

（ト）　これに對してなほ一つ、除夜の火といふのだけは、正月の火のうちに算へてよからうかと思ふ。現在殘つて居るのは、多くは家々の圍爐裡の中で、たゞ特別に大きな火を焚くだけになつて居るけれども、燃料のまだ豐かな邊鄙な村に入つて見ると、これも部落の全員が集まつて、氏神の社の廣前などで、合同の火を焚いて居るものがあるらし(240)い。自分の聽いて居るのは福島縣田村郡の或村、飛騨の益田郡の宇戸といふ村の二つだけだが、以前は少なくともさう稀有な例でも無かつたらうと思ふ。

（チ）　家々の大歳の火、即ち年越の晩には必ず大きな火を焚くべきものといふ風習は、昔話の最も日本的なる趣向となつて、今も全國に流布して居る。除夜には火を焚いて、いつまでも睡らずに居なければならなかつた故に、自然にかういふ昔話が、女子供の間にも傳はつたので、火焚きが夜籠りの慣行に伴なふものであつたことは、これたゞ一つの例からでも推定することが出來るかと思ふ。

　

　　　　　　　　　　○

　

　以上八つほどの、ほゞ確かな民俗學的知識に據つて、七日か十五日かといふ一つの問題は解くことが出來るだけで無く、我々は更にこの邦固有の信仰の、中古以來の變遷が判つて來るのではないかとさへ思つて居る。燃料が次第に乏しく、人がさう頑なに古風なしきたりを守らず、睡ければ還つて寢るといふやうになつて、正月の火は少しづゝ小さく、又焚いて居る時間が短くなつて來たのである。それでも丸つきり罷めてはしまはず、永い間にほんの僅かづゝ、目に立たぬ位にもとの形を縮めて行つたといふところに、因習の力があり、又各地の正月の火の、幾つとも知れない變化階段の由來があり、從つて又我々の比較研究の意義があるのかと思ふ。

　最初は我々の間に暦本が無く、又これを讀み解くだけの文字の力が無い時代があつた。朝廷の正朔が確立して後まで、なほ春の初月のまん圓な月の晩を、年の境とする考へ方は、久しく田舍には殘留して居たのである。太陽暦施行の歴史を見てもわかるやうに、統一はたゞ必要なる部分から、次第にその外側へ擴張して行つただけで、有つて差支への無いものは存外に大目に見られて居た。正月十五日などは以前の年越しであつて、これを大事にすることは、元旦の重要さを割引するわけだつたけれども、そのうちには人の解釋もやゝ變つて來て、これをさへ小正月だの女の正(241)月だのと名づけて、一年の節日のうちに算へ込み、幾つかの民間行事をその日に托して居たのである。トンド左義長の火祭の如きも、もとは年籠りの重要な祭だつたのだが、やはり多くのまじなひや占方と共に、この日で無ければならぬといふ感覺が大衆の中に在つて、それを公けでも承認なされたのである。

　これが公定暦の最初からの計畫でなかつたことは、七日を鬼火の日とする西國筋の風習などからでも證明し得るかと思ふ。今でも田舍では正月七日が重要で、この日を神樣の年越しと呼んで居る地方さへあるが、これは滿月の夜を以て行はるべき、大きな祭の準備期間、即ち物忌の開始の日と見るより他に、考へやうの無い日であり、又さういふ意味の行事も色々と傳はつて居る。それが九州には火祭の日として殘り、都の左義長にはもう全く省みられて居ないのは、つまりは十五日正月の意味が、既に忘れられてしまつてからの、採用であつたからと言つてよからう。これに對して九州の方の變遷は、古くからあつたものゝ退縮であつたことがほゞわかる。最初の夜籠りは恐らくは丸一週間、新たなる年を迎へる爲に精進して居たのが、後に省略せられてその祭の開始の日だけに、特に力を入れた名殘とも見られるからである。これと同じことは他の地方のトンドの火にも見られる。或村では夕方から子供が小屋に集まつて、一晩騷いでから夜の引明けに火をかける。それを日の暮れにもう焚く處もあれば、又は翌朝早く起き出して、日の登る頃に燒き立てるものもある。現在の正月火祭に、七日と十五日とのちがひの有るのも、全くこれと同じ事情、つまりは省略の片よりであつたと思ふ。但し十八日の左義長といふのだけは、まだはつきりとした説明が付かぬやうであるが、これも或は大祭の後につゞいた物忌の終りの日であつたかも知れない。正月を三箇日とし、三日を不成日などと謂つて、愼しむ日として居るのからもその想像が成立つ。祭後の齋忌は、常に祭前のそれよりも短かつたのである。

　正月の年の神祭りが、曾て一年の最も重々しい祭典であつたことは、若干の忍耐を以てすれば、追々に證出し得られさうである。その痕跡の明らかに殘つて居るものは、今はまだ三四の土地にしか無いけれども、幸ひにしてその衰退の段階が、至つて細かな足取りを以て、今も各處に保存せられ、比較をして見ることが可能だからである。火焚き(242)の印象が殊に強烈であり、小兒がいつ迄もその喜びを忘れなかつたことが、たとへ片端なりとも遠い世の面影を、今に取傳へてくれた大きな力であつた。さういふ中でも取分けて心強く思はれることは、前代の村里の祭が、必ずしも神職の指導をまたず、專ら村人の協力によつて、露地に假屋を建て神を迎へて、寒い深夜の祭を營んで居たことである。年の始めの新たなる希望をよみがへらしめる爲には、先づ必要なるものは信仰の火であつた。その火は幽かながら、幸ひにまだ消えずに居る。たゞその本原と次々の變化を、素朴に解説し得る者が少なかつただけである。諸君が民間生活の隱れた意味を、久しく顧みずに居たことは損失であつた。

　

(243)　　　　　歳�ｺ神のこと

　

　前年奄美大島を旅行して、西海岸の某村落に一泊したが、ちやうど舊暦の松の内であつて、村の一軒の雜貨商の店先には、子供の書初が五枚も六枚も貼り付けてある。二三字の簡單な大文字の下に氏名を書き、それから皆宛名がある。「歳�ｺ大明神樣」又は「歳�ｺ神殿《としとくじんどの》」などゝある。どう云ふわけか尋ねて見ても、主人は他縣から來た者でその心持を説明することが出來なかつた。この邊では新年の試筆は幾つもかうして書いて、相應な家へ子供が持つて行くと、何か僅かな品物を與へて返す習慣があつたのである。村の子供が一般に手習をするやうになつたのは、さう昔からのことで無い。多分書初の外にも、色々子供たちの拵へた物を、かうして燒いて居たのが、この習慣の始であらう。

　福島縣海岸地方などでは、正月十五日トンドを燒く煙に乘つて、正月樣が御還りになると謂ひ、何とかした時にはその御姿を拜むことがある。高砂の尉と姥のやうな神樣であるさうなとも謂ふ由。その正月樣が恐らく東京などで、今以て正月に祭つて居る所の歳�ｺ神のことであらうと思ふ。上方に於ても近年まで、所謂柱暦の繪に歳�ｺ神だと謂つて、辨天樣によく似た美しい女の神を描いたのを見た。或は又惠比須大黒二柱の神を畫いて、これを歳�ｺ神と呼んで居た例もあつた。その他は單に歳�ｺの棚と稱して、正月に限り惠方又は明きの方に向つて、新たに神棚を設ける位のもので、別に深くこの神に就いて考へる人は無いやうになつて居る。元來歳�ｺ神はその文字から見ても、古い時代からの日本語で無かつたことは確かであるが、然らばもとは一般に何と呼んで居たものか、歳神と謂つたものか、正月の神さまと謂つたか、或は更に別の名があつたか。田舍には今尚それを知つて居る人が有ることゝ思ふ、先日東京朝(244)日新聞の記者出題で、各地の新年風俗を募集したところ、數百通の報告が集まつて來て、新聞には只十二三より他出すことが出來なかつた。惜しいと思ふ話は折を見て、誌上談話會に提出したいものであるが、その中にも北は奧羽から南は暖かな中國の海邊にかけて、正月の子供唄に「正月樣はどこから」とか、「どこ迄ござつた」といふ類の歌が幾らもあることを發見した。即ち今でも多くの地方では、我々の歳�ｺ神といふ神が、正月元日の曉に、個々の民家に來訪せられ、十五日頃に還りたまふものと、まだ考へられて居るらしいのである。膝栗毛で有名な十返舍一九の狂歌として傳へられて居る逸話に、或年の大晦日に人の家に行くと、歳�ｺ神の棚が曲つて居たとて、主人御幣を擔ぎひどく家の者を叱つて居る。そこでその機嫌直しにこんな歌をよんだ。

　　　正月ははや神田まで來にけらしすぢかひに釣る歳�ｺの棚

　この「すぢかひ」は今日の萬世橋の附近に在つた見附門の名であつて、ちやうど神田の中程である。それと神棚の「すぢかひ」とを引掛けて、しやれの笑ひに紛らしたものであるが、多分あの頃迄は江戸の人も、歳�ｺ神は旅をして來るものと思つて居たから、殊にこの歌がをかしかつたのであらう。それから思ひ出すと、我々も小さい時、「早く正月が來るといゝなあ」と謂ふと、もうどこそこ迄來て居るよなどゝ、よく年上の者が戯れたものだが、それは皆昔「正月樣はどこから」といふ類の、歌があつて知つて居た爲で、即ち「正月」を人のやうに考へた爲でなく、正月になると必ず來る、人のやうな神樣があつたことを覺えて居た結果である。

　

(245)　　　　　年棚を中心として

　

一　編輯の期日が早かつたので、多くの新しい材料を附加へることが出來なかつたが、大正十五年度以後の觀察者の爲に、參考ともなるべきことを少し書留めて置きたい。正月風俗に關する記録は既に豐富であるが、今に及んで自分たちの氣づくのは、從來の蒐集の弱點は一つには中心が無く從つて統一が得られなかつたことゝ、二つには京江戸の習俗を正式と見る癖の止まなかつたことである。都會には概して混淆と變更と省略とが實は常に多かつたのである。

二　地方の正月行事の全國一樣で無いのは勿論、各村各戸の間にすらも著しい相違のあつたことは、愈々以て都市の通例と稱するものゝ心許ないことを感ぜしめる。殊に東京などは集まつて來た諸國の武家舊族が、寧ろやゝ頑強に自己流を保つて居たので、それが縁組等の爲に?々異分子と接觸し、互に訂正せられ又妥協し折衷した場合が多く、到底この間から古い純な形を見出すことは難かつたのである。

三　但し最初自分たちが、所謂歳�ｺ棚を釣るのは正月祭の古い形、棚の無いのは一種の退化又は省略の如く考へて居たのは、或は速斷であつたかも知れぬ。前に掲載した加賀の例の如く、又肥後人吉領の榎の枝のやうに、餅花の木を中心にして正月の神を祭つた場合もあつたので、供物燈明を陳列すべき祭壇の棚よりも、これに取付けられた心松の方が、却つて重要な地位を占むべきものだつたかも知れぬ。しかし農家で箕を用ゐ、武家で三寶を用ゐても、依然として豐富多樣なる食物、殊に餅を缺くべからざるものとして、一切の行事がこれを圍繞して居た姿を示すことは、即ち歳棚の起源の決して新しくない證據であり、殊に精細に注意して行くほど、これと盆の精靈棚との相似が著しく認(246)められることは、益々この點に關する遺風の、諸君の比較考察を必要にする。

四　歳�ｺ神と云ふ名稱の中世民間の暦書の影響であり陰陽家の怪しい輸入説が、單純な農民の考へ方を左右したことは爭ひ得ないが、さればとて惠方といひ明きの方といふ語のみに由つて、春の初に來り祭らるゝ神までを、この民族と縁の淺い外國の神と見ることは出來まい。もしさうすると始めて我々がかういふ祭を營んだ以前、正月には何をして居たらうかといふ問題が、丸で解けなくなつてしまふからである。

五　年神を多くの田舍では、正月樣とも呼んで居て、男女二柱の神であるやうに想像して居る。松を御松といひ、山に入つて松を伐つて來ることを御松迎へといひ、飛島圖誌などにはこれに伴なうて、特別の儀式あり供物あることを記して居るのは、現在單純に門の飾りのやうに看做されて居る門松なるものゝ、今よりも遙かに重要な神木であつたことを考へしめる。從つて同じ木を同時に家の中にも持運んで、或は大黒柱に副へ、或は神棚の前にたてゝ居るのが、今日何と説明せられて居ようとも、やはり最も注意すべき正月行事の中心であらうと思ふ。

六　正月を祝ふといふ語が、この頃では單に家族互ひの慶賀と解せられ、年神の祭とは何の因も無いやうになつて、年男の指定が意味の乏しいものになつてしまつた。併し年男の本來祭主であることは、少し考へて見ればわかる。女性に對する色々の制限、その他些細なる澤山の物忌は、住宅が定期に神の御宿となつて居る爲で無ければ、如何に古くからの仕來りでも、無意味に守られる道理が無い。古い信仰がはら／＼と碎けて、片端ばかりやゝ暫く殘つて居るものを、由來も尋ねずに排除してしまつては、學問上の大きな損害であると云ふことが、深く強く自分等には感ぜられる。

七　年棚の一隅にミタマサマの飯といふものを、月の數だけ又は月の數だけの箸を添へて別に供へることは、東日本には弘く行はるゝ風習であつて、甚だ幽玄なる意義を存するものらしい。徒然草には東國では年の暮にも魂祭をするさうだと書いてある。あの頃以前から引續いて、季節に諸神を迎へ祭れば、これに伴なうて一段と低い未完成の制靈(247)までが、家に入つて來るやうに考へて居たのであらうか。はた又祖靈の一部分が、或條件を具足して神の位に進むやうに古く信じられて居た名殘であらうか。とにかくに正月と七月と、元は必ずしも大きな差別無く、半歳に一度づゝの祭典として、神の迎送といふことの行はれて居たのを、圖らざる外國の感化を受けて中央から漸次田舍まで、一方は清く他方はやゝ忌はしく、一方は樂しく他方は秋の初で心細く悲しい祭に、段々に引分けることになつたのではないか。即ちどうしてこの樣な奇妙な慣習があるかと思ふものゝ中に、今日全く忘られた固有信仰の痕跡が、匿れ潜んで居るのでは無いだらうか。この間題の絲口が今後の研究に由つて引出されるので無ければ、多くの熱心な觀察も實は只の物ずきに過ぎぬのである。

八　神を國家で祀り地方廳で祭つた以前に、部曲の長又は一門の宗家が、各自特色ある儀式祭典を主裁して、信仰の力を以て小さき權勢を保たうとして居たことゝ、さういふ割據の中にも尚後日の大統一を可能ならしむるだけの、民族としての共通があつたことは、家の神の信仰の細かな?況を知り學ぶに因つて始めて解せられる。これほど根強く村々の季節行事の中に、傳へ殘されて居た昔の心持を、顧みようともせずに年を過したのは、全く世の神道研究者等の落度であつた。但しそれを論ずる前に我々の心掛くべき準備は多い。願はくは耳と目とを聽明にして、年に一度しか來ぬ春の祭の機會に、年棚松飾りの畫には寫せない込入つた手順と、これに伴なふ名稱用語とを實驗し、更に古風な老人ある家では、その人々の内に持傳へた感じを、なるべく多く掬み取つて貰ひたい。一月の祭も以前は盆月と同じく、中心は所謂小正月の、十四日の宵に在つたのでは無かつたか。それが暦法と支那風の考へ方から、月の立つ日の物忌の初期を、最も大切な三箇日と、取扱ふやうになつたものでは無いか。自分たちは今でもまだかういふ疑ひを持つて居るのである。

　

(248)　　　　　荒神松のこと

　

　東京の會員方に伺ひたいのは、今でも荒神松を荒神さまに上げる家をもしや御存じでは無いかといふことである。松は是眞などの畫で見て居るばかりだが、何でも松の葉のさきを二色の胡粉で粉飾したもので、毎月朔日に取かへて上げると聞いて居る。十年ほど前に佳計呂麻《かけろま》島の民家で、床の正月飾りに穀粉で白く彩つた松の枝を、瓶に插してあるのを見たことがあつた。この一月號の「ひだびと」を見ると、益田郡秋神の山村で、正月佛壇に飾る花に、松の葉を蕨の粉の糊でかためたものがあつて、これをスベキ松といふと見える。餅搗きの後で作るとある。三者の聯絡が尋ねて見たいのである。

　

(249)　　　　　スベキ松・荒神松

　

　奧州八戸の類例が一つ、「俚俗と民譚」の二號に出て居る。正月七日の夕、「蛇｜蜈蚣《むかで》する」と稱して、毒蟲に螫されぬ呪文を唱へて、神の餅を食べる風習があるが、その餅は年取りの晩に、家族の人數だけ丸めて神明棚に供へた粟の餅で、その餅の上には、松葉のさきを濁酒で濡らし、取粉を付けて白くしたものが載せてある。その松の小枝も神明棚から卸して、ヘビムカジを唱へる際に、これに火を點じて自分々々の身體を拂ひ、そのあとを火にくべて燒くといふことである。

　

(250)　　　　　トビトビ

　

　正月十五日の行事には、とにかくに小兒に關係あるものゝ多いことは、伊豆駿河の御幣《おんべ》燒といひ、磐城の鳥小屋といひその他多くの諸君の報告によつて、自分の説（郷土研究三卷三號）の空想で無かつたことを證し得たのは喜ばしい。その中でも安藤英方君の報ぜられた因幡のホトホトは（同上三卷四號）、なほこの上にも考へて見ねばならない深い意味のあるものゝやうに思ふ。この風習は大同小異を以て尤も廣く行はれて居るが、名稱に至つては極めて區々である。ホトホトは多分戸を叩いて訪れる態《さま》を口で眞似たものであらうが、土佐ではこれをカユヅリと云ふ由、たしか風俗畫報の初の方に畫を添へて記してあつた。カユヅリは十五日だけに粥釣と書くのが當つて居るのかも知れぬが、會津地方で稱するカセドリ、及び仙臺附近でいふチャセゴなどである。周防長門邊は一帶にこの事をトヘトヘと云ふと聞く。主として前年祝ひ事のあつた家を廻るが、又何でも無い金持ちの家をも洩さず、顔を隱し作り聲をして物陰から盆をさし出すなど因幡邊も同じであるが、この地ではホトホトの代りにトヘトヘトヘ・トヒトヒトヒトヒと云ふさうだ。この稱呼は尤も分布弘く、内田氏の「南總之俚俗」に依れば、上總長生郡の村々でも、兒童この日に米錢を乞ひあるくをタベタベと云ふとある。これを以て思ふに、トベも亦「たうべ」の約言で、單に「給へ」と云ふ語に過ぎぬらしい。この際上總の方では大根や附木などで大判小判俵の類の目出たい物を造つて持ちあるくとあるが、周防では藁で馬の形を作り、他の地方では今一段滑稽なる物を作つて來るのを見ても、やはり嫁祝ひの棒などゝ一樣で、偶々この行事に特に珍しい名稱の無い府縣の子供の勸化ももとは一つであつたことが想像せられる。越後では專らこれを幸神《さいのかみ》勸進(251)と言つたさうであるが（北越雪譜）、江戸でも大阪でも又甲府でも、道祖神の祭に際しては常にこの類の子供の我儘が行はれ、それが又この正月十五日を以てする例が多かつた。子供を祭の式に與らしむることは決して道祖神だけでは無いけれども、殊に春の始のこの祭に於て最も盛であるのは、何か然るべき理由のあることであらう。而してこの式が殊に猥褻な事の多いのは初春に作物の豐熟を祈ることゝ關係があるに相違ない。子供はこの際祭らるゝ境の神と殊に因縁が多い爲に、偶然この樣な今日から見れば不行儀な任務を負はせられたと云ふに止まるものと思ふ。

　

(252)　　　　　スネカの行事

　

　山本嘉次郎君の脚本「馬」に、小正月の晩のスネカを出して居るのは嬉しい。久しい前から我々はかういふ意味の深い前代文化の姿が、一度も全國の記録として承認せられること無しに、空しく滅びて行くのを歎いてゐたのであつた。

　たゞこれだけでも判るだらうか、といふことが少しばかり氣になる。大きな複雜なシナリオの一小脚色として、説明も比較も無く通り過ぎてしまつては、却つて土地の人でもなければ後先のつゞきが呑込めなくて、無視してしまはなければ邪魔もの扱ひにせられる懸念はあるまいか。こゝが文化映畫の今少し働かねばならぬ領域のやうに私は思ふ。

　スネカはちよつと聽くと外國語のやうだが、多分は「臑か膝か」又は「臑かつちやぎ」などの略語なのである。

　即ち年中爐にあたつてばかり居る怠け者の臑の火だこを、皮ごと剥いでやらうといふ嚇かしの言葉で、そのために小刀を木の筒に入れ、がら／＼鳴らして來る處も多い。岩手縣の海岸でもやゝ北の方へ行くと、「火かたたくり」或は「なごみたくり」といふのが普通で、そのナゴミ又はナモミは火斑、即ち東京でいふ火だこのことである。津輕秋田等ではナマメハギ、又はアマメハギといふ村が多く、これも同じく火斑の方言である。半ば戯れのやうなこの威嚇の詞が普通になつたが、もとは一歳の最も神聖なる深夜に、尊い神樣が家々を訪れて、訓戒を垂れたまふことを表示したわざをぎ〔四字傍点〕であつたのが、後には小兒しか畏れをのゝかない、一つの行事となつて殘つて居るのである。

　この由來を詳かにすることまでは映畫には出來まいが、せめては注意すべき東北一般の慣習であることゝ、それが(253)まだ幽かに昔の心持を傳へて居ることゝが、今ならば確め得られる、といふ意味の報告には役に立てたい。文化映畫には五十年百年後の觀客もあるといふことを念頭に置くべきである。

　

(254)　　　　　年占の二種

　

　中川泉三氏所報の江州中山芋競べの神事は、物が芋であるだけに殊に珍しく且つをかしく思はれるが、あれは自分も前に些しく述べて置いた年占の一種に相違ない。一村が東西の二部落に分れて芋の大小を競ふと云ふのは、即ち二區の經済條件が相容れなかつた結果かと思ふが、なほ地形上土質その他に就いて今少し調べて見たいものである。自分の知る限りに於てこれと最もよく似た行事は、山城｜愛宕《おたぎ》郡靜市野村大字市原の南方なる野中、連理芝《れんりのしば》といふ處に於て、以前は毎年四月の朔日に、上賀茂の社人等｜貴布禰《きぶね》の社參詣の歸さに、この野で虎杖《いたどり》を採つて互にその大小多少を爭うて戯としたと云ふ事である。同村大字野中の西方にも亦｜思芝《おもひのしば》と稱する芝地があつて同じ虎杖競べをしたと云ふ（北肉魚山行記）。連理芝と名づけた理由は、この芝が道を隔てゝ東西に有つたからださうで、何故にこの如き競爭をしたかは不明だと云ふが（名所都鳥四）、この祭の日に限つて神人がこれを行ふと云ふので元は只の遊戯で無かつたことが判り、東西に立別れて勝負を定めるとあるにより、後に云ふ多くの例と共にその年の地方豐凶を占問ふ爲であつたことが知れる。思ふにこの式に携はる人物は成るたけ私心の少ない責任の輕いもので無ければ、神意を映發するに足らなかつたことであらう。そこで單に社家氏人とあつてもさして高い地位の人たちで無かつたことが想像せられる。芋競べに比べて更に一段と奇拔なのは、京都五條坂の附近に住んで居た所謂祇園犬神人の背競べである。この式は毎年正月二日の夜愛宕念佛寺の修正會の後に、この寺の大坊に於て行うたもので、何故かは知らず俗にこれを天狗酒盛と呼んで居た。天狗酒盛は轉供《てんぐ》酒盛だとの説もあるが（雍州府志四）、それでもやはり名稱からその由來を知ることは(255)出來ぬ。昔は犬神人に兩座あり、東西に別れて著座し、酒一獻毎に各二人づゝを立たしめて背競べをさせた。後には公家武家の雜人奴僕の輩にして丈高き者、物好にこの宴座に列して身長を誇るやうになつた。その時には一番毎に萬歳樂萬歳樂と唱へた。これを天狗酒盛と謂ふのは彼徒が輕衫裁著《かるさんたちつけ》を下に着て、背丈を一層高く見せる爲に?々杖木を以て小袖を指擧げて戯れ興じた樣子が、繪に見る天狗のやうであつたからだとも云ふ（海録六）。近世に至つては單に酒宴の一興の如くなつて了つて、この意は久しく忘られて居たやうである。

　人も知る如く年占の最も盛に問はれるのは歳の首《はじめ》である。即ち凡人の經驗判斷だけでは豫測し難い程に生活問題の不確定が大きく氣遣はしい場合に、日頃信じて居る神佛の暗示を請求するものである。如何なる理由であるか、佛寺に在つてはこの式を行ふ機會を多く修正會と名づけ、概して小正月即ち正月十五日を以て終る一週間の中である。尤もその外にも例へば鈴木百平氏の擧げられた津の觀音堂の鬼押は二月朔日（郷土研究四卷二號）、鞍馬の竹切は六月二十日の夜である。鞍馬ではこの夜法事終つて後、二本の青竹を柱に縛りこれを近江方丹波方と稱し、白袴に山刀を差した法師二十人、十人づゝ雙方に分れ合圖の聲と共に走り掛つてその竹を切る。早く切つた方を勝とするとも云へば（日次記事）、或は三つに切つて後一の曲《まがり》の切石の下へ早く走り著いた方を勝とするとも云ひ（次嶺經五）、どちらが正しいか分らぬが、何れにしても近江丹波勝つた方がその年豐作と信じて居たのである。京の祇園社で正月元朝の未明に、前夜の祭から引續いて、十二本の削掛を左右各々六本づゝ建て掛けてこれを卯杖と稱し、後同時にこれを燎《や》く時、その煙西に靡けば丹波方の不作、東に向へば近江方の凶年を示すものとし、參詣の徒西東に立別れて高聲にて相手の方の國の名を唱へ、煙のその方へ行くやうに念じたのも（日次記事）全くこれと同趣旨で、つまり大きい京都を中に置いて西と東との田舍が、何かにつけて利害の相反して居た爲の爭であつた。前に擧げた羽黒山の松例祭も同じ除夜の曉の式で、二本の柱松を位上《ゐじやう》及び先途《せんと》と稱し、前者の早く燃えるを海の幸、後者を陸《くが》の幸の兆とも云ふさうであるが、やはり他の一説の日本を東西二分したと云ふ方が正しく、先途は即ち山道《せんどう》の轉靴であらう。又曾て高橋陸郎氏がその(256)一を報ぜられた陸中各處の蘇民曳きの如きも、曳き勝つた村方がその年豐作と悦ぶのは、即ち一種の年占であるからで、山内の藥師堂のは正月八目の曉の式であつた。これと同種類の競爭式は外にもまだ多いかと思ふ。即ち伊賀｜陽夫多《やぶた》神社のタダオシの神事の如き、又は羽後｜保呂羽《ほろは》山の押合ひなどはそれである。後者に於ては三郡の氏子數萬人素裸で押合ひ、勝つた郡は翌年豐年と云ふことで（伴氏神名帳考證）、その祭の日は明白で無いがやはり除夜の事らしい。江州日野の押合ひと稱して、村民夕方から裸で本堂に詰掛け、東西に立別れて相手を押し負かした方がその年の作柄良しとする風俗なども亦その一で、これは正しく正月十五日の行事である（日次記事）。

　上元の日に行はるゝ競技にしてこの種の年占の趣旨最も明白なるものは綱曳きである。京都の近くでは江州大津の住民と、三井寺門前の住民と、原野に於て左右に分列して互に大綱を爭ひ引いた。兩方とも太鼓を打つて互に競ひ進み、引き勝ちたる方その年福を得るというた。定めの日は正月十三日であつて翌十四日の朝を以て終るのだが（日次記事）、後には十五・十六日迄これを引合うた（享保二年刊諸國年中行事）。山城相樂郡｜祝園《ほうぞの》村の柞森《はゝそのもり》の春日社では、正月初申日から亥日迄嚴重なる祭禮があつて、その翌子日に亦この競技があつた。これは三本の青竹を揉《たわ》めて造つた徑五尺の輪であつて、全部藤蔓を以てこれを卷き、別に青竹を揉めて藤で卷いたものをその輪に取付け、村民東西に分れてこれを曳き合ひ、やはり引き勝つた方がその年萬事吉としてあつた（雍州府志三）。大阪では難波村八坂神社の氏子の若者等、例年正月十四日の午後、派手な姿をして左右に別れ、鳥居前の道路に於て綱引きをした。引き勝つた方は今年福があると稱し、終つて後その綱を多勢にて携へ社に納めた。但し今でも行はれて居るか否かを知らぬ（浪華百事談八）。紀州和歌山邊にも以前は正月の遊びに綱引合ひがあつた。十四十五の兩日鋼を拵へて濱に出で、南北に分れて勝負を決したものである。後に綱引合ひで家を引倒したことなどがあつて、この事終に止んだと云ふ（和歌山縣誌下引、續風土記）。美作では英田郡大野村大字川上の牛頭天王社でも、正月十五日に馬場で綱引と神事とがあつた（東作誌）。廣島地方でも初春の遊戯として亦この事があつたらしい。秋長夜話續々篇の中に、「廣島所々に綱引と云ふこと(257)をするは、唐土にて拔河戯と云ふ。清明の節に行ふ由五雜俎に見ゆ。琉球國もこの戯あり、六月有月の夜行ふとぞ、傳信録に見ゆ」とある。琉球に於ては今でも年占の趣旨が存留して居るか否か鈴木氏などの報告を期するばかりである。これ等の例の一二を見ると、今では單に休の日の慰みに止まるらしくもあるが、幼稚な民間の儀式が、末には小兒の專業に歸した例はどこの社會にも多いことを考へると、その本形を溯及することもさして難くは無い。越前敦賀の西町即ち今の敦賀幸町に於ては、近い頃まで漁民と農民とが東西に分れて、正月十五日に綱曳きをした。この日は雙方各々重立つた者の家で戎大黒を祭り、祭終つて後この競爭をした。漁夫が勝てばその年海産豐かに、農夫が勝てば田畠の收穫が多いとしてあつた（日本奇風俗）。若狹遠敷郡熊川村の白石神社に於ても、祭の日だけは十一月七日でこれと合はぬが、昔は亦同趣旨の綱引きがあつた。東西の各組を領主方｜下司《げす》方と名づけ、勝負に由つて各々その一年の吉凶を察したと云ふことである（日本宗教風俗志）。羽後仙北郡神宮寺町の八幡社に於ても、今は知らぬが以前は正月十五日にさい鳥綱引きと云ふ事が行はれた。「さい島」は舞の名で北の里離れの橋元でこの舞を舞ふ。この日家々より一束づゝの藁を出し、それで綱を造つて綱曳きをする。上になる綱を雄綱と謂ひ、下の綱を雌綱と謂ふ。一村の者出てこの綱を引合ひ、雄綱が切れるとその年米安く、雌綱が切れると米が高いと云うたとあるから（月之出羽路六引、六郡祭事記）、即ち勝負を問はずして綱の切れる迄引合つたのであらう。然りとすれば形は似て居てもこれは次に言ふ第二種に屬すべき年占である。眞澄の筆に成つた總畫を見ると、町役人正装して檢分に立合ひ、別に一人高い梵天（大幣）を擁して立ち、「綱引疲れぬれば大幣を振りて休息せしむ」と上に説明が加へてある。

　同じく小正月の前後には、今一段と殺伐なる年占法も行はれた。それは石打又は印地とも呼ばれた石合戰である。印地は或は因地とも隱陣とも讎とも書いて固より當字には相違無いが、さりとてイシウチの轉化だと云ふ説にも未だ安じて從ひ得ぬ。上州｜渡瀬《わたらせ》川の邊では近い頃まで毎年正月には兩岸の少壯輩出でゝこの戰をしたと言ひ（松屋筆記四）、三河信濃等にも久しくこの行事が殘つて居たと云ふが（年中行事大成五）、都市の近傍では危險なりとして夙くから行(258)政上これを禁止して居つた。尾州熱田の石打は正月十五日で、名古屋及び在郷の者と熱田の者と、二十五町橋を隔て南北に對陣して礫を投合つた（名古屋市史風俗編）。名所圖會などにこの日熱田神宮の的射《まとい》の神事終つて後、群集その的を引破り持歸らんとして爭ひ石の打合をするとあつて、さも偶發の事のやうに記してあるが、往々人を傷つくるに由つて元禄十二年に禁制となつたと云ふを見ても、年々豫期すべき競技であつたことが解る。上野尾張の二處には限らず、石打には川の流を隔てゝ行ふ例が至つて多かつた。これを見ても人に危險を與へ又は畏嚇するのが目的では無く、遠矢はま打又は毬打などゝ共に、石を成るべく遠く深く相手の地内へ打込む者が勝で、意趣を含む者が惡用せざる限りは、やはり平穩に神意を測る手段とするに足りたものと思ふ。磐城石城郡四倉濱などでは火打又は火喧嘩と稱して、流を隔てゝ石の代りに燃えさしの薪の投合ひをする。これに携はる者は敦賀の綱引きと同樣に一方は農民一方は漁民で、例年これが爲に必ず七八人の負傷者を出すにも拘らずこれをやり、火の數の多少と火勢の強弱とに由つてその年農漁の豐凶を定めると云ふ（日本奇風俗）。これなども恐らくは互に遠く迄投げることを競ふこと、恰も紀州田邊その他の柱松の投松明の、上下を前後に變じた迄だらうと思ふ。而して右の四倉の火打は上元で無くて盆即ち中元であることだけが、石打綱引きと差《ちが》つて居る。曾て郷土研究に報告せられた同じ石城郡の上遠野村近傍の火打は、その名をシブ投げと謂ひ三四月の交にこれを行ひ、關係者は漁夫のみで目的は海神を祀る爲とあつたが、雙方から投げ合ふのだからやはり勝負の爲と見ねばならぬ。即ち又趣意が埋没して形のみ根強く殘る一の例である。

　印地打の風習について最も我々の注意に値する一事は、甲の地方でこれを正月十五日に行ふに反して、乙の地方に在つては五月五日等を以てその期として居たことである。紀州和歌山でも印地は毎々怪我人が出來るので綱引きと共に禁止せられたが、濱に出てこれを行うたのは端午の日の事であつた（和歌山縣誌下）。江戸でも古くは隅田川を隔てて石を投合ふのは例年五月の初であつたこと慶長見聞集に見え、京都でも賀茂の競馬《くらへうま》と同じ日に、下の川原邊で印地の勝負が有つたこと醒睡笑に見えて居る（嬉遊笑覽四）。京都では右の荒神川原の外に、三條の川原でも五條の大佛殿(259)でも聚樂の郊外でも、各處に同じ遊戯があつた（雍州府志八）。洛北｜雲林院《うじゐ》邊では正月にしたと云ふが、紫野やすらひ花の祭の後とあるから正月は三月又は四月の誤謬かも知れぬ（扶桑記勝二、益軒全集本）。とにかく弊害を認めて禁止したのが寛永十六年、板倉重宗所司代の時であるから（同上）、既に年久しくして元の事情もよく知ることが能《でき》ぬ。併し必ずしもこの日に限らなかつた證據は、後愚昧記に一條大路の伊牟地で四五人の死者を出したとあるのが應永二年の四月二十一日（碩鼠漫筆二）、吾妻鏡に鎌倉比企谷で石打から闘諍が起つて官憲の力でこれを抑へたとあるのが文永三年の亦四月二十一日である（嬉遊笑覽四）。同書には「關東未だこの事あらず、京都の飛礫猶以て狼籍の基たり、固く禁遏を加ふべきの由、前武禅室執權の時沙汰有りて六波羅に被り畢ぬ、況や鎌倉中に於てをや、奇とすべし云々」とあつて、國法束縛を必要とする迄にこの時既に殺伐な性質を増加して居たことが解る。それはとにかくとして、右の兩度の四月二十一日は果して偶合であるか如何。尾州名古屋でも亦必ずしも正月十五日だけで無く、昔は三月三日にも大塚山と二子山との間で兒童二方に立別れて因地投をしたと古渡志《ふるとし》に記してあると云ふ（名古屋市史風俗編）。自分は未だ四月二十一日の意味を解説することは出來ぬが、三元又は五節句の何れかの一日に、年占の系統に屬する遊戯の行はれるのは、大昔の人民がこれらの日を生活上重要のものと視て居た名殘と考へる。即ち桃の節句の鷄合せも菖蒲の節句の根合せも、僅かに轉ずれば江州中山の芋競べとなり得たのである。但し中山の八月十日といふ日は、田芋の收穫期といふだけでは有るまいが、まだ自分には説明がつかぬ。

　同じ類の變化は亦朝鮮にもあつた。黒川翁の説では、朝鮮でも端午の目に市井無頼の徒街頭に群集し、左右隊を分つて瓦礫を打合ひ勝負を決し、後には棒木切の騷動にも及ぶこと全く日本と同樣であるやうに、東國通鑑に記してあるさうであるが（日次記事）、自分が見た東國歳時記では、それがそつくり正月中の行事である。多分は十五日のことであらう。あまりよく似て居るからこゝに全文を譯して置く。曰く、「三門外及び阿?の人、群を成し隊を分ち或は棒を持ち或は石を投じ、喊聲?逐して接戰の?を萬里?上に爲す。これを邊戰と謂ひ退走の邊を以て負と爲す。俗に(260)云ふ、三門外勝てば則ち畿内豐かに、阿?勝てば則ち諸路豐かなり云々」。即ち京都の年占の近江方丹波方に該當する。石戰の記事は他にもあるが、さのみは煩はしいから抄出せぬ。この序でに擧げて見たいのは同書の中に同じ季節の行事として「關東峽の俗、群童齊しく百鳥の名を唱へて驅逐の?を爲す。亦これ穀を祈るの意也」とある。即ち前に述べたことのある春の初の鳥追ひと同じである。又「春川の俗に車戰あり、獨輸車を以て各里隊を分ち前驅して相戰ひ、以て年事を占ふ。遂に北《に》ぐる者を凶と爲す。加手の俗亦然り」とある。即ち次號に自分が述べて見たいと思ふハマ廻しの類で、亦同種の年占である。又「嶺南の俗に葛戰あり、葛を以て索を作り大きさ四五十把ばかり、隊を分ちて相引き以て勝を決す。これを占豐と謂ふ」とある。即ち我邦の小正月の綱引である。又「湖西の俗に炬戰あり、又｜綯《な》ひたる索を以て隊を分ち把持して相牽引す。引かれざる者を勝となし以て豐を占ふ。即ち古の繋河戯なり、畿俗亦然り、緇徒《しと》に又この戯あり」ともある。炬戰は即ち石城地方でいふ火打又はシブ投げである。緇徒これに携はると云ふは愈々面白い。朝鮮の僧には依頼も無く報酬も無しにこの樣な遊戯をする氣樂な者は無かつた筈である。これについて思ひ合せるのは、年中行事大成五には何に據つたか知らぬが、石打の風習を説いて左の如く述べて居る。「右京師の兒童柳の木刀を腰に横たへ頭巾を著し山伏の體に擬《なぞら》へ、晩に及びて鴨川の邊に出で、各々左右に分れて隊を爲し礫を打合ふ。又地上に印を付け界を分ち、柳の木刀を以て打合ひ境を爭ひし也　寛永年中より一圓に制止せらるゝも云々」。これが據ありとすれば以前はやはり貴布禰の虎杖競べや鞍馬の竹切などゝ同じく下級神人をしてこれに與らしめたのが、石を打つ位な事は誰にも出來るので臨時に里の若者を採用し、而も相撲や競馬のやうに二人づゝ番はせる必要も無い處から、志願者頻りに出でゝ終に喧嘩同前の騷ぎになつたのであらう。尤もこの日の擬戰に童兒等が所謂菖蒲甲を結構したと云ふことは園太暦の文和四年五月五日の條に既に見え、又文明十八年成ると云ふ京花集七の菖蒲論にも、五月五日には菖蒲の冑を被り菖蒲刀を執り一日の中百戰百勝すなどゝ見えて居て（　　碩鼠漫筆三）、石打の行事が著しく演武の目的に轉用せられたのも古いことであるらしい。唯端午に菖蒲をもてはやした起原は多分は唐土(261)の模倣には相違無からうが、而も石打本來の趣旨はやはり地を印して境を爭うた點に存し、田舍では近い時代まで娯樂以上の必要を認めて居たことは確かである。

　年占の爲にする節日競技の種類は、到底短文の中に掲げ盡すことが出來ぬから、こゝには簡單に尚三つだけを擧げる。その一は長崎などで支那から移したやうに云ふベイロンである。琉球でも王國時代にはこれを國技のやうに看做して居た。端午の日には那覇の港で、久米村と泊村と三處の船が日本支那琉球の三國の装ひをして競渡の遊びをした。その年漁業の豐饒を祈る爲と云ふが、櫂を揮ひ打合ふこと恰も水軍の如く、三村中勝を得た者は祥事最も多しと云ふから、これも勝劣を以てその年の生活を卜したものに違ひ無い（　　琉球漫録）。相撲は朝廷では昔から七月七日を以てその節日としてあつた。紛々の説もあるが結局勝敗に由つて東西の豐歉を豫測せんとしたものであらう。現代の勸進相撲が尚且つ一月と五月とを季節とするのも、前の石打の例を以て推すと、由つて來る所無しと言はれぬ。競馬に至つては概して五月五日のものであつたが、それでも若干の例外はあつたのである。例へば紀州伊太祁曾《いたけそ》神社の例祭は八月十五日で、流鏑馬神事と稱して六十六騎の馬が出た。最初は日本六十六國から一騎づゝ出すことであつたと云ふのはやがて又地方地方の年柄を卜したことを意味するものであらう。この外に尚諸願成就の驅馬と云ふのがあつた。即ち人の騎《の》らぬ競馬であつて、有田郡などではほゞ同じ秋の季節に、村毎にこの神事があつたと云ふ（和歌山縣誌下）。尾張熱田の馬の塔と云ふのも、これとよく似た儀式であるが、その期日五月五日である。村々より馬を牽き來り唯譯も無く走らせたもので、或は日本武尊東征の日の態をまねぶとも云うたが附會の説で、誠は昔競馬の式があつたので、西門に馬場の名が殘つて居たと云ふ（鹽尻五）。近江では高島郡安曇村大字田中の鎭守牛頭天王社にも、五月一日の祭に競馬があつて、その地名を亦馬場と呼んだ（近江國輿地誌略九十二）。同國蒲生郡桐原村大字安養寺の牛頭天王でも、これ亦五月朔日の祭禮に競馬があり、更に翌々三日の日は御走と稱して神子二人、社頭より御旅所に急走したと云ふが（同上六十一）それも年占らしい。この類の神事は諸國にまだ數多いことであらうが、京都でも賀茂が唯一の例では(262)無く、例の八瀬里では四月初辰日に六番の競馬があつた。賀茂では五月五日の馬乘を以て朝臣の晴れの競技として居たが、實は今の競馬の始まつたのは堀河院の寛治七年のことで、その以前は久しい間この日五位以上をして走馬を進めしめられた習があり、延喜兵部式にもその規定が見えて居る。賀茂の競馬もその名殘であらうと云ふことである（堀河之水二）。即ち寧ろ却つて後世迄紀伊尾張にあつた馬驅馬の塔の方が舊例に近かつた。賀茂では五月朔日に足揃と稱して五日の日の準備のやうに見られて居た儀式がそれに該當して居る。この日は二十四疋の馬を十二組に番はせて馬場の中を走らせ、勝負木と稱する樗の木の下で遲速を審判した。十二組は恐らくは十二箇月であつて、これに比べると端午當日の所謂十列競馬《とつらのこまくらべ》は意味は無いが、それでも騎者の袍の色を赤黒の二つに分つたのは、即ち丹生明神に獻じたと云ふ神馬の色のやうに、元はやはり馬の毛色にもあつた區別で、多分は晴れと雨とを象徴して月々の天候を卜せんとしたのであらう。落馬をした騎士が社を拜することを得ず（堀河之水二）或は昔は三年が間山籠りをしたと云ふなども（洛陽名所集七）、この式の至つて神聖視せられた一の證である。武藏府中の大國魂神社の如きも五月五日が大祭で、三日の夜は馬場宿に於て夜暗に競馬があり、昔は十二騎を以てこれを行うたといふのはどれも十二箇月に象《かたど》つたらしい。後には十騎に減ぜられた。落馬者は青銅三貫三百三十六を出してその過《とが》を購ふ例であつた（武藏總社誌）。相模の總社では五月朔日の馬揃神事のみあつて競馬は無かつたかと思ふ。詳しい事は記憶せぬが、事によると十二月に配した晴雨の多少を毛色によつて判ずること賀茂の場合の如くであつたかも知れぬ。三河豐橋の神明宮で正月十四日に行うた榎玉の神事に、カン地方《ぢかた》とフク地方とに分れて、雨を悦ぶ者と晴れを欲する者とがその年の天候を卜知せんとしたのも（郷土研究三卷一三九頁）、物と方法とは丸で違ふけれども、兄が高田《あげた》を作る年には弟は?田《くぼた》を作れと教へられたといふ舊話にも合して、岡と濱とで神の恩を相爭うた時代の思想を窺ふに足るものである。

　さて以上列記する所の各種の節日競技は、自分が名づけて年占の第一種といふものであるが、この外に同じ期日に相似たる方法を以て行ふ第二種の年占もある。即ち鎭守の分内が廣くないか、又は地勢土質その他の天然の拘束が氏(263)子全般にほゞ一樣である爲、一方の困る年で無ければ他の一方が喜びを期することが出來ぬといふやうな矛盾の無い地方で、他村他領とは没交渉に自分だけの指導を求めんとする年占である。もとより末端に往けば二種の區別もさう明瞭でないか知らぬが、後者に在つては競爭といふ分子の無いことが著しい特色で、それから再轉して御鬮判斷の類の、家の神に問ふべき個人問題を里の神に圖るやうになつたので、所謂氏子思想の變遷史の上には看過すべからざる要點を含んで居る。この種の年占も亦三つ以上に細分することが出來る。（イ）は何と無くその年の良いか惡いか、百姓の暮しが樂なのか苦しいかを問ふもの。（ロ）は今些し細かく月々の天候などを聽いて生産計畫の參考にするもの。（ハ）は猶深く立入つて個々の作物の豐凶如何に付き結局の答を期する方法である。粥占神事と稱する類は主として後者である。或は筒粥管粥などゝ謂ひ蘆又は竹の管を切つて一々作物の名を記し、これを神供の飯の中に投じて管の中の飯に由つて作物の出來を判斷するものが最も多い。試みにその二三の例を言へば、一には河内中河内郡の官幣大社枚岡神社、今も一月十五日に神供所に於てこれを行ふ。粥は小豆の粥にして管は四五寸の竹である（日本宗教風俗志）。三河八名郡の石卷神社も亦管粥穀占を以て有名な社である。期日はやはり正月十四日夜の祭で、神前に竈をすゑて二升の白米を粥に煮、六七寸に切つた蘆を十八本、一本々々に印をして紙捻を以て結び合せ、これを粥の中に投じて夜の八つ時から夜明に至り、後にこれを取出して粥のつまり工合と色合とを以て、それ／”＼の作物の豐凶を占ふ。以前はその用途として城主より米六俵を出され、管には高蘆村に産する太い蘆を用ゐた（三河國官社考集説）。數ある作物の中に麻があつて木綿が無いのは古い起原の一證である（三河吉田頒風俗）。この外上野國の一宮及び同國碓水坂の熊野社にもこの式があつた（神名帳考證土代附考）。埼玉縣の村々には神社の拜殿に上野一宮の粥占報告を掲げてあるものが少なくない。駿州三保松原の三保神社にも正月十五日亦筒粥神事があつた（本朝俗諺志）。岩代河沼郡｜尾野本《をのもと》村字松尾にも正月十四日の夜管粥祭といふのがあつた。但しこれは阿彌陀を本尊とする眞福寺といふ古刺で、管には寺の北なる葭池《よしいけ》の蘆を切つて用ゐた（新編會津風土記）。越後では三島郡島崎村の出田《いづた》神社、式内古志郡小丹生神社はこ(264)れであるといふ。これも正月十四日の夜に、社頭に於て白粥を煮てその釜に蘆の筒を投じ、稻を始め萬の作物の名を書いた札を付けて置き、筒中の粥の充實と否とを以て耕作の吉凶を卜し大樣違はぬといふ。神供の粥に調へる米は別に神田を定め置き、畔の外から耕耘して足を入れず不淨の肥しを用ゐなかつたといふ（越後國式社神社案内）。同國西頸城郡｜青海《あふみ》村の青海神社にも、往古は毎年正月十五日に年穀占の事といふがあつた（温故之栞三十）。何れも筒の數は問題とする作物の數だけであつたらう。これに反して安房長尾村大字犬澤の小鷹神社で、正月十五日に行ふ筒粥の神事は、白茅で作つた筒の數が十二本づゝ二組で、即ち賀茂五月一日の足揃式の馬の數に同じく、粥といふも米の粉を以て作つた粢《しとぎ》であつた（安房志）。これは事によると月々の吉凶を知るが目的で方法も違つて居たかも知れぬ。飯《いひ》は昔の神祭に於ては今よりも遙かに重要なものであつたやうだ。殊に農村に於ては殆と信仰の中心といふも不可なく、從つて神意の映發する道程としてこれを擇んだのもある。だから筒の類を用ゐぬ場合にも飯を以てよく占卜を企てた。例へば信州松代領の兒玉石を以て有名なる磯竝三社大明神に於ても、正月七日の包換《つゝみかへ》の神事に、五穀の名を一々書いた清き紙に御供の赤飯を包み、瓶に入れ置いて翌年の當日に取出し、その?態に由つて夫々の作物の豐凶を判斷した。去年の赤飯は包毎に或は赤く、或は青く或はよく干いて道明寺のやうになつて居るもあれば、寒中羽蟲などの飛出すもある。これらによつてその年作るべき耕地の厚薄高濕等を擇んだ。例へば粟と書いてある分が吉なれば、これを「しづく粟」と稱してその年は雨多かるべしと判ずる類である。それも後には思慮煩雜にして却つて當らぬことが多くなつたといふ（つちくれ鑑）。同國上高井郡｜仁禮《にれ》峠に近い仙仁權現は、祭神諏訪明神と稱して居るが、やはり正月三日の神膳の模樣で年の豐凶洪旱を判ずるので、これは直接に飯汁の増減を以てその驗としたといふ（科野佐々禮石十四）。越後北蒲原郡田貝村の二王子山では、毎年九月十四日に新米を炊いで神膳を調へ、これを山上の神祠に供へて翌年の四月二日に取下し、その供飯の樣子に由つて年の豐凶を占つた（越後野志六）。この種の年占を田神の祭に行ふに至つては更に適切と言はねばならぬ。五月田植の頃の儀式を初春に行ふ慣例は至つて多い。中にも駿河の或地方では(265)正月二日の鍬初めの日に、今年の苗代田のあきの方に土を小高く三所に盛つて、これに四五尺の青枝を立て注連繩を張り、水口祭と同じ祭をした（郷土研究四卷四號參照）。その時供へる三所の餅を、右から早稻《わせ》中稻《なかて》晩稻《おくて》と見て、烏が來て先づ啄んだのを最豐作なるべしと判じたさうである（日本奇風俗）。

　又胡桃燒といふ年占も同じ頃に行はれた。陸中遠野郷では小正月の晩に、家々の圍爐裏の側で十二胡桃を燒いて列べ、これを月の順に數へて赤く燒けた月は晴れ、黒いのは雨、息を吹くのを風の日と判じて作物の工夫をした（遠野物語）。どの家の年占も大凡異はなかつたといふだけはちと疑はしい。信州飯山では同じ日に小豆燒をする。一旦トンドの火に當てゝ來た一握みの小豆の中から、二粒づゝ取出して炮碌に入れ、同じ火を以て燒付けた榾火《ほだぴ》に炒るとき、小豆が炮碌の中を三度廻れば豐作、二度なれば七八分作、黒焦となれば凶作としたといふ（下水内郡誌）。即ち作物毎に試みたのであらう。この外熱田神宮に今も行はるゝ舊正月七日の世樣《よだめし》神事といふは、前年の正月十二日神饌殿下の神甕に水を盛り、その減量を檢して世の豐凶を知るのである（名古屋市史社寺編）。尚今一段と簡單なる年占では、陸奧中津輕郡西目屋村大字田代の乳穗《ちぼ》ヶ瀧、嚴冬に氷結んでその形稻の乳穗の如く、その大小を以て年の豐凶を判ずるとて舊藩時代には正月に有司の臨檢さへもあつた（津輕のしるべ）。陸奧三戸郡大館村大字松館字歌書の古櫻は、村民花の色を見て年の豐凶を占ひ、赤きは旱白きは五穀不熟の兆とし（新撰陸奧風土記十）、常陸鹿島神宮で鎌足公の手植といふ藤花は、花房の下りやうで、年柄を示したといふなど（共古日録三）、何れも天然の季節があつて人間の暦に合すことは出來なかつたが、もし都合が付くものならば、三元五節句の何れかに依らしめたらうと思ふ。飛騨の七夕岩では七月七日を以て第二種（ハ）の年占をした（斐太後風土記二）。神宮風宮の柏流しの神事なども、やはり七月を以て行はれたのである（伊勢名勝志引、勢國見聞集）。

　

(266)　　　　　猿の祭

　

　津輕の旅から還つて來た和歌森君と、庚申講の起原について話をした。二人ともに同じ津輕地方の、やゝ變つた庚申習俗を聽き知つて、これは將來の研究を促すべき一つの好い暗示ではないかと思つて居るのである。庚申の祭の日に、路傍に梢の枝を殘した高い柱を立てることゝ、それを御山の方角に向け、又は御山の形を白紙に描いたものを、その柱の上方に貼り付けるといふこと、かういつた慣行は現在どの範圍になほ續けられて居るか。今日はすでに廢れかゝつて居ても、もとは普通であつたといふことが言へるかどうか。新たに興つたこの郷土の同志者たちの仕事として、かゝつてもう少し調査を進めることが出來ないものだらうか。我々は世態の激動期に遭遇して、もはや古くからの問題の跡を追うても居られず、しかも資料の蒐集と整理には、今まで無かつたやうな色々の障碍が加はつたことを感じて居る。安全なる證據の出揃ふまで、自分の樂しい意見を押包んで、靜かに待つて居るといふ風な、以前の態度は守りにくゝもなつた。多くの同學の協力を求むべく、問題の興味を一般に頒つために、豫め假定の結論を公表して置く方がよいといふ場合が有り得るのである。新たに發足せんとする津輕の研究團體などは、特に珍しい資料の多かるべき地方だけに、努めて一局部の知識に割據する傾きを避けて、先づ問題の幅と奧行とを、考へて見る習はしを付けるやうにしたい。ちやうどそれには似合はしい實例だから、今まで我々兩人の心づいて居た一つの題目が、こんなちつぽけな地方の報告からでも、どれほど著しい刺戟を受けるかといふことをあら／＼と書き竝べて、會報創刊の祝辭に代へることにしよう。これが思ひの外大切な發見であるといふ點だけは、和歌森君も同意なのだが、この解釋と(267)説明は自分一箇のものである。やがては同君の力によつて、補充又は改訂せられるものと豫期して居る。

　

　　　　　　　　　　○

　

　我邦の庚申信仰は、大陸から輸入せられたものでなく、むしろ外部の影響によつて變化したこの邦固有のものと見られる。この點はもう三四十年も前に、すでに注意した學者もあつたのだが、それは一向に省みられず、今にいたつてなほ三尸《さんし》が天に昇つて人間の罪過を報告するといふやうな、中世漢籍の記事によつて、由來を説明するのが普通になつて居る。これは學問の悲しむべき事大主義、何でもかでも本に書いて居ることなら皆聽くべしとするの類の、やゝ素朴に過ぎたる判斷權の放棄であつて、殊に民間の事物に就いては、盆でも七夕でも、そんな類例は剰るほど多いのだが、又一つにはこれを反證しようとする者の怠惰、どうしてその樣に古いものが埋もれてしまふのか。これが固有であつたと認むべき痕跡は、果してどういふ部分に殘つて居るかといふことを、充分に擧げ示さうとしなかつた結果とも見られる。民俗學のこれから働き得る區域が、この方面には可なり多いのである。

　文書記録の表層に出て居るものでは、都府上流の間に盛行した庚申の遊び、詩歌管絃から攤雙六等の戯れに興じて、この一夜を睡らずに過さうとした記事が最も古いが、これは外國の知識が生活を變形させやすい區域であり、しかも舊來の信仰の最も淡い人たちの群であつたといふことが出來る。それが全國の田舍の隅々に行渡つて、牢乎として拔くべからざる習俗を作り上げたといふことは、たゞ流行の二字を以て解釋するには、あまりにも不測の現象であるのだが、單に書物の上に出て來る順序が、これは遲く彼は早いといふだけの理由を以て、内容も比べて見ずに、たやすく一方を同じ文化の流れの末と、今までは決め切つて居たのである。睡らずに一夜を語り明すといふことは支那では庚申の晩に限ることだつたかも知れぬが、こちらでは祭は皆夜分の行事であつて、都市の住民の間でも、他に色々の日待の夜籠りがあつた。もし打解けて寢てしまふことに、惡い結果があるものとすれば、何も庚申の一夜に限ること(268)では無かつた筈である。男女が席を分ち、日を異にして祭をした例も、二十二夜三夜などがあり、古くは又農收穫祭の新嘗の物忌があつた。それをこの晩に出來た子供だけが、盗賊になるなどゝ言ひふらしたのは、雜説と言はうよりも雜談の一種、人を笑ひに導かうとする何者かの思ひ付きに過ぎず、ちやうどこの夜を遊宴の機會としたのも同じやうに、むしろ信仰の衰頽を窺はしめる末期兆候ともいふべきものだつた。こんな種類のものを手掛りに、庚申の起りを考へて見ようとしたら、結論の得られぬことは始めからわかつて居るのである。

　

　　　　　　　　　　○

　

　外國の影響を受けた中央の庚申行事と、弘く國内の端々にまで分布する庚申講の慣習との間には、ちよつと橋架けられさうにも無いほどの大きな開きがある。それを年久しい田園事物の輕視から、今までは問題にして居なかつたのである。一ばん大きなちがひと見てよいのは、講が公けの制度であつたこと、少なくとも多數の家々の共同の信仰に基いて、組織せられて居たことである。宮廷の庚申御遊なども參加者は多いが目的には一つの中心があり、少なくとも個人の安寧幸福のために催されたものであつたことは、それを裏付けて居る陰陽道家の所説を見てもわかる。これに反して村々の庚申祭は、たゞ頭屋の連合によつてのみ經營せられ、その趣旨とするところも亦パブリックであつた。青面金剛といふやうな見も馴れぬ影像を持込み、佛寺の交渉が始まつてから後でも、なほ庚申樣は作の神、これを信心する人々が農作の障害を免れるといふ信仰が行はれ、個々の身勝手な祈願を掛ける者などは少なかつた。次に今一つの著しい特徴は、庚申は常に道の辻に於て、拜み敬はるゝ神であつた。夜の集會には普通は屋内を使ふやうになつて居るが、今でも重要なる供養は外で行ひ、又さういふ場處には石塔を立てる。石を彫刻する技術の普及する以前は、庚申塚といふ盛り土がその代りであり、目的は共に尋常の用途から、一區劃の靈地を聖別するに在つたと思はれる。即ち現在は東屋に祭壇を設けては居るが、本來はかういふ野外の祭場に於て、祀りを營むのが定例であつた痕跡はな(269)ほ殘つて居るので、この點は明らかに我邦ぶりの一つの特徴であつた。

　次に祭の日に木を刺して、神を御迎へ申す祭場を標識することであるが、これは日本の祭典の常の方式と言つてもよい。津輕の話で聽くやうな、一丈も二丈もある枝付きの柱を、立てるといふのはやゝ珍しいけれども、塚や石塔の前に木を立てゝ、こゝが祭場、けふが御祭の日であることを、内外に向つて宣明するのは庚申の供養のみには限らず、又庚申だけに特別に變つたことも無い。たゞその立てる木の形や種類が、あまり廣範圍に變化して居るために、一應は詳しい比較を經なければならぬのである。石を柱にしてその表に文字を刻むなども、或は一つの場合であつたとも見られる。石城郡の山村には十二囘目に一度、御塚參りと稱して庚申塔の前に、講毎に用ゐた赤い塗箸を刺す習はしがあり、又は三十三囘目には股の木を立てる村もある（岩崎敏夫君）。股の木は私たちが犬ソトバと謂つたものと同じで、子安神の祭に立てる例が多いが、佐渡でも庚申塔の前に立てゝある寫眞が、佐渡年中行事の口繪にも出て居る。木を股にした目的は、やはりヌサ即ち神に捧ぐる物を、これへ引掛けようといふに在つたらしい。紀州の上山路の庚申祭でも、四年目に一度の閏月に、供養木と謂つて木の兩面を白く削り、寺の和尚に文句を書いてもらつて立てるのが（倉田一郎君）やゝ津輕と似て居る。その他布のノボリであり幣束であり、又はたゞの自然の小枝であつたり牛王杖であつたり、ちよつと見ると類を異にするかの如く思はれても、結局は皆一つの法則から導かれて居ることがやがては判つて來よう。それよりも目下のところ、私たちには珍しく意味がありさうに思はれて、しかもまだ他では心づいて居なかつたことは、祭場即ちこの木の立て處が、岩木山のやうな靈嶽と相對し、時としては特にその御山の姿を描いて、その柱の垣に取付けて居たことである。果してそれが古くからの仕來りであつたか。又はほんの近頃の新しい思ひ付きではないかどうか。今後の調査の焦點は、實はこの見當に置いてもらひたいのである。

　

(270)　　　　　　　　　　○

　

　そのわけを説明する爲に、最初に擧げなければならぬことは、この庚申を猿の日だといふことは、いつの世から日本人が知つて居たらうかの問題である。十干と十二支とを組合せた、六十を一區切りとした日の算へ方は、疑ふべくも無く大陸から學んだ知識であつて、もしもその中の申がオサルだといふことを、一般の者がまだ知らずに居るうちから、すでに庚申といふ民間の信仰行事が始まつたのだつたら、模倣と言はれてもこれは致し方が無いからである。十二支の中には寅だの辰だのヒツジだのと、輸入の繪畫でも見ない限り、考へて見やうも無い奇異な動物が雜居して居る。庚申が我邦固有の信仰の成長したものだと言はうとするには、先づこの繋ぎ目をはつきりとしなければならぬと思ふ。

　祭日考の中にも既に一端を述べて居るが、名ある我邦の神の社には、古來十二支の或一つを以て、祭の日を定められたものが多く、それにも可なり著しい片よりがあり、又偶然とは思はれない一致が認められる。たとへば日吉山王は初夏仲冬の申の日、賀茂は酉の日だがそれは勅祭で、むしろその前日即ち申の日の神事が古く又重要だつた。藤原氏の氏神としては、春日と枚岡が共に久しく申の日を祭日として居る。地方に例を捜せばなほ多からうが、その中でもよく知られて居るのは安藝の嚴島と、富士の大宮とが共に同じ申の日であつた。始めて干支によつて日を覺える方法を採用した當時に、直ちにその一つ／＼の語が何を意味するかを知つた上でなければ、かういふ選定の一致は期し難かつたのではないかと思ふのは、これらの御社の地域環境に或程度の類似が有るからである。それをもつと具體的にいふと、祭場が山の麓に在り、嶺より尊神を御迎へ申すといふ信仰がすでにあつた故に、乃ち猿に該當する日を、例祭の日と定めやすかつたのであらうと、私は今推測して居るのである。これまで何人もこんなことは問題にしなかつたけれども、それはたゞ答へが出來ないことを匿して居たに過ぎず、これが又答へられないやうでは、信仰成長の(271)段階は明らかにすることが出來ない。それでともかくも一つの假定説を設けて、少しでもこの目標に近づいて見ようとして居るのである。

　暦が確立し四時の循環が計算し得られるやうになるまで、我々の祭は無かつたと思ふ者などは日本には居ない。然らばその以前は、どうして祭の日時を決したかといふと、それは衆人の共に心づく、何か明瞭なる兆候でなければならなかつた。月の盈ち缺けや木草の花などの他に、殊に印象の深かつたのは動物の擧動では無かつたらうか。今でも大寒む小寒むといふ子供詞にもあるやうに、猿が山から啼いて來る季節が、ちやうど農收の漸く終つて、靜かに人間の神を懷ふべき時だつたのではないか。祭は本來は神樣との御約束だつた。人ばかり勝手に今のやうに祭の日をきめても、それでは安んじて神の降臨を信ずることは出來なかつたらう。それが私などは神の御使といふ思想の起りであり、同時に又後年猿を意味する日を以て、神の祭を奉仕するやうになつた理由であるかと思つて居る。

　

　　　　　　　　　　○

　

　この推定を力づける資料は、不十分ながらももう何程か集まつて居る。最初は話の種にそれを排列して置かうと思つたのだが、話がかう長くなつては會の方でも迷惑であらうと思つて、あとは民間傳承の方へでも出すことにする。この動物の擧動といふことは、實は自分の年來の關心事であつて、話し出すとどうも長くなつていけないが、その及ぶところは諸君の想像以上に汎く、獨り庚申講の由來のみで無く、全國の隅々に行渡つて、今も現實に有力なる稻荷信仰、又一方には狐持イヅナ持、犬神筋といふやうな、奇異なる社會病とも關係する所がある。上手に順序だてゝ語り得るか否かは問題であるが、私は時間の許す限り、話をさういふ方面まで、擴げて行かうといふ熱心はもつて居る。

　

(272)　　　　　　　　　　○

　

　津輕の庚申研究を促進する爲に、こゝでもう一つだけ附加して置くことはカノエサルといふ日は一年に六回、稀に七囘來ることもあるが、その中でも重きを置かれるのは正月から二月への初庚申と、年の暮に近よつてのつめの庚申だと、多くの土地では言はれて居る。その理由としては、春田打から刈入までは農家が忙しく、冬は收納が終つて食物飲物が豐かだから、自然にさうなるやうに思つて居るやうだが、なほそれ以上にこの季節には、作神が山より降り又は山に還つて行かれるので、特に祭を重々しく大がゝりにする必要があつたらしいのである。津輕地方の庚申祭にも、やはり冬季のものを大切にする傾きはないかどうか。それを一つ尋ねてもらひたい。

　猿祭といふ名の行はれて居るのは、新潟縣西頸城郡の西濱一帶で、その記事は「高志路」の第十號に出て居る。これは十一月二十日前後の秋祝ひの一日で、農家では農具をよく洗ひ、又は板でその形を造つて、床の間に安置して餅を供へる。さうしてその日は必ずしも申の日であることを要しないのである。九州の西海岸各地にも、同じ月に山神祭と稱して、農神を山に送り申す祭があるが、これも申の日でないものが少なくない。肥前五島の農村ではサツトルマ、即ち申酉待と稱して粢《しとぎ》を搗く日があるが（瀬川清子氏）、それは十一月の初の申の日といふだけで、やはり庚《かのえ》の申でなくてもよかつた。近世は全國殆と一樣に、カウシンと謂つて通用するが、もとはお猿待又はオサルドンなどゝいつて、むしろ十一月の或申の日たることを必要としたのみであつた。

　

　　　　　　　　　　○

　

　十干十二支と續けて考へることになつて居るが、十二支の方は動物なる故に兒童にまで親しみが多く、年をいふにも必ずこれを引用するに反し、十干の木火土金水はやゝ概念的であり、又呼び方が六つかしいので以前もあまり使は(273)れず、年寄でも半分はそれを覺えて居ない。つまりは學問ある階級が、後々持込んだ名であつたことがよくわかり、もし外國の感化とすれば、それはずつと後世になつて新たに加はつて居るのである。私は前年沖繩の諸島をあるいたときに、始めて遭遇して珍しく思つたのだが、あの島々だけは日を算へるのに、十二支をあまり使はずに、十干のエトを多く用ゐて居た。これはあの地方にトキと稱する一種の術者が出現して、さういふ日の算へ方を傳授して居た結果で、さして古い時代からでも無く、又一般の知識でも無かつたことゝ、私などは考へて居る。ところが九州以北の島々はこれに對して、十二支の知識は子供にまでも行渡り、甲乙丙丁といふ順序は、字の讀める人たちしか知つて居なかつた。サツドン講だの猿祭だのといふ信仰だけは普及して、まだ庚申さまといふ名は知らなかつた期間が、隨分久しく續いて居たことは、民俗學の方法によつて追々と判明することゝ思ふ。關東の村々から北陸佐渡の方にかけて、特に庚申をオカノエ樣と呼んで居た地域があり、カノエ塚といふ遺跡がそちこちに殘つて居るのは、恐らくはこの第二次の宣傳の結果であつて、それが特に現在のやうな六十日目に一度、隔月一囘の庚申講を普及させたものと見られる。

　二十三夜樣の信仰が、樣式に於てこの新しい庚申講と近く、一方の特に盛んな地方には、他の一方はあまり發達して居ないといふことは、それだけの理由のあることらしい。兩者は共にもと一年に一度又は二度、人が集まつて神を祭るべき期日であつて、その祭らるゝ神も本來は同じ神、即ち家々にとつて最も大切な親神であつた。それに中頃からさま／”＼の職業宗教家が參加して、各々一派の教理を成長せしめたことは、今日の各派神道ともやゝ似て居る。これも現實だから無視してはならぬが、申の日の祭がかう變化して來た情勢までは、この人々には説くことが出來ない。彼等の説くところを出發點として、この現象を理解しようとすれば、解り切つたことまでが判らなくなるであらう。要するに我々日本人の固有信仰は、永い年代の間に驚くべく變遷して居るのである。それだけはどんな事が有つても明らかにして置かなければならぬのであるが、それを説明するやうな本は今までは無かつた。津輕の民間傳承は、幽(274)かな暗示に過ぎないが、年久しく中央の文化から引離されて居た地方住民の生活を考へると、これを埋もれたる歴史の一環として、私たちは輕々に看過することは出來ない。ましてその土の力に生ひ育つて、世代の新たなる要求に目ざめたる諸君が、これを人間叡智の道に、利用しようとしなかつたら寧ろ不思議である。津輕の同志の學問に對する私たちの期待は大きい。

　

(275)　　　　　民間暦小考

　

　　　　　　　　　　一

　

　我々の數限りも無い民間傳承の中で、何故に先づ村々の年中行事を、採集して見る必要があるのか。これを一通り知つて置くことは、第一に各人の骨折を張合ひあらしめるのみならず、兼ては今まで出來て居る前代の年中行事集、例へば國書刊行會で出版した民間風俗年中行事、滑稽雜談その他の俳諧歳時記、或は明治三十六年文藝倶樂部臨時増刊の諸國年中行事、近年各府縣の郡誌類が載せて居る年中行事の記述等を、改めて文化史研究の用途に役立たせる爲の、手引にもなるであらうと思ふ。これらの材料は數ばかり多いけれども、調査としては何れも不完全である。從うでまだ我々はこれぞといふ實驗を有つて居ない。私の下に説かうとする所も、單なる期待であり抱負であつて、決して又實驗と名づくべきもので無い。今後の精確なる調査と比較とによつて、無論訂正せらるべき點が多いことであらう。又これを訂正する位の意氣込を以て、この新しい調査には着手すべきである。

　

　　　　　　　　　　二

　

　先づ最初には口碑傳説その他の今までの調査と、この年中行事の調査との關係を明らかにし、廣汎なる日本民間傳承の大耕地の中で、これが如何なる地位に在り、又凡て何町歩ほどの面積を持つかを知つて置く必要がある。年中行(276)事といふ題目の範圍は、實際はさう大して廣くは無い。しかも格別に形勝便宜の地を占め、又豐沃なる美田である。私たちは通例一國の民間傳承を三部に分け、主として同郷人の永年共住の感覺を通さなければ、採集し難いやうな心理上の諸事實を一部とし、不十分ながらこれを俗信などゝ名づけて居る。つぎの一部は言語諸事實、即ち土地の言語さへ確實に理解し得るならば、一期の滯在者にも採集し得られるもので、歌や昔話や謎や諺の類はこれに屬する。傳説は幾分兩方に跨がつて居るが、大體先づ口碑といふ名がこれを總括するに足るのである。殘りの一部は即ち形態ある諸事相、單に通りすがりの旅人にも、知識さへあれば一片づゝは採集の出來るもので、從うて甚だ切れ／”＼に、往々誤つたる速斷を伴なうて、多くの紀行類には記述せられて居る。風俗習慣などゝいふ名が、至つて漠然と今まではこれに宛てられてあつた。特に我々の比較と再檢討とが、目下痛切にその必要を感じられて居る部面である。この最後のものを、私は又二つに分けようとして居る。適當なる名目が無いので困るが、一方は衣食住、それから勞作と休養宴樂、人と人との交通闘諍の如き、毎日隨處に起つて居る平常現象、他の一方はこれに反して、誰でも氣分を改めずにはこれを迎へることの出來ぬやうな異常現象である。永い眼から見れば、これとても規則正しい繰返しに過ぎぬが、人は一生が短いから、その一生涯の間に算へるほどしか繰返さぬ行爲を、別にして考へずには居られなかつたのである。

　

　　　　　　　　　　三

　

　年中行事といふ言葉は、文字からいふとこの平常現象をさして居るやうに見えるが、實際これが生活上の問題となつたのは、人が特にその日を待迎へるからであり、又永く追憶するからであつた。過去と未來との二つの側面に向つて、「今で無いもの」を遠望する目標となつたからであつた。無論その時の間隔には長い短いの差等はあつても、生や死の如くに生涯にたゞ一度のものから、六十一日目に定まつて出現する庚申待や甲子祭まであるのだが、人がその日(277)を晴れとし、いつも心の片隅に現實以外の意識を、圍つて持つて居たことは同じであつた。異常現象といふことがもし大袈裟ならば、或はこれを晴れの行事といつてもよい。とにかくにその中には大きくて突發的なものと、頻々としてやがて來るものとの、又二つの小別があつたことは事實である。朝廷の所謂有職故實に於ては、夙にその分類を認めて、一を臨時、他の一を恒例とも又年中行事とも謂つて居て、後者は常に暦と關係のある現象だけであつた。小さな平民の家庭群に移して言へば、冠婚葬祭新築移轉、不時の吉凶は臨時であり、大よそその臨時の折柄と同じやうな衣を著て、同じやうな物をこしらへて食ふ日が、即ち亦恒例の晴れであつた。これを年中行事といふのは近年のことであるけれども、その名稱は不當ではないのである。

　

　　　　　　　　　　四

　

　この「年中行事」は、勿論古くからの日本語ではなかつた。以前にはこれに該當した總名は無かつたやうだが、強ひていふとすれば「節」といふのがこれに近かつた。節は現在では主要なる僅かな日に限られて居るが、それでも除夜の晩などの改まつた食物を、オセチといふ類の元の用法は殘つて居る。ちやうど竹に節が有るやうに、際立つた日だから節と謂ふとの説明は、支那から出たものだが日本にも當つて居る。節を純なる日本語では何と謂つたらうか。中央の我々はもう忘れてしまつたが、沖繩の島などではこれをヲリメ（折目）と謂つて居る。心持は全く同じである。暦は本來この大小の折目の日を、心付かせ見落させまいとするのがその唯一つの目的であつた。たゞの毎日の日の善惡を、知らしめようとしたのは第二の利用、又は暦書がある爲に始まつた新たなる癖と言つてもよからう。

　今の太陽暦の制定せられる以前、暦に何囘かの改正があつたことは、知らぬ人は無いであらうが、その變更の最も大いなる革命は、寧ろ遙かに古い時代にあつた。即ち「時を授くる」權能が中央に統一せられ、しかもそれが時候天象を異にした土地まで、都の文明圏の實驗に據らしめられた時から、國内の同胞は既に一方には政治上の正義に從ひ、(278)朝廷の正朔を遵奉しつゝ、他の一方には又各自我土地の生活の爲に、許さるゝ限りの民間暦を墨守しようとしたのである。舊暦を舊弊といふ一方からの非難ならば、未だちよん髷といふものすら無かつた大昔から、既に我々は受けて居たわけである。しかもこの民間暦は、とにかくに對立して今も殘壘を保つて居る。たゞそれが文字を以て著されず、且つ歴代の新暦との妥協によつて、錯綜混雜を極めて居る爲に、各地年中行事の細心なる比較を重ぬるに非ざれば、その本の形と末の發達とを、明らかにすることが出來ないだけである。

　

　　　　　　　　　　五

　

　私などは最初やはり年中行事といふ漢字の表面から、これを町村住人の一年中を通じて、行ふ事を述べたものと解して居た。それならば勞働の配置、生産力の時代々々の消長を尋ねるに都合がよい。即ち經濟史の大切なる資料だと思つて、專らその方面の注意を以て、多くの年中行事集を漁つて見たのであつた。ところが結果は當然に失望であつた。勤勞利用の問題は、寧ろ平常現象の方に望むべきものであることがわかつた。しかもこの民間暦の經濟生活上の意義は、決して絶無でないのみか、もつと深い根本的のものがあつたのである。簡單にそれを言ふと、民間暦の起りもやはり生存の必要からであつた。これに從ふのが安らかな豐かな生活を導く要件であることを、たとへ誤りにもせよ曾て實驗したものがあつて、やゝ不必要な時まで、子孫をして學び且つ守らせたのである。その前代生活が今や消え改まつたとすれば、それを尋ねる路は、この遺された痕跡を辿るの他は無いのである。人間が各自の智慮と勤勉とのみに、全幅の信任を置くことが出來なかつた時代には、何か隱れたる要件が外に在つて、それを具備する者のみが成功するのでは無いかといふ想像は、無論今よりも更に強かつたであらうが、今日の所謂十干十二支五行九星の類とても、また同じ暗中摸索に過ぎぬのである。我々の祖先の生計を指導した年中行事の法則も、自然の觀察を基礎としたことは、後世の制定暦とよく似て居たけれども、唯これほどは數理的ならず、又必然的に國の固有の信仰と、深い(279)關係を持つて居た。その上に更に異つて居たと思ふのは、所謂「時の運」を個人々々の身の上とは解せず、常に團體に屬する幸不幸と認めて居たらしきことである。これは暦といふものゝ當初の概念であり、同時に又風俗慣習の根本の拘束力でなければならぬのだが、今日の暦はもはやこれを忘れ、たゞ各人の相談相手の如く思つて居る爲に、忽ち矛盾を生じ化の皮が顯はれて、後にはこれに身の禍福を相談する者は無く、暦はたゞ國の祭日日曜と日月食との、案内役のやうになつてしまつたのである。

　

　　　　　　　　　　六

　

　僅かに遺されたる我々の民間暦が、改めて觀察を必要とする理由はこれから生まれて來る。今や農村では作物産物の種類が變り、從うて行事も亦改まり弛んで、何故に人が式日を守るかの説明も、夙く忘れられ又侮られて居るけれども、一方にはこれがなほ愉快なる記念であり、他の一方には、遊んで旨い物を食ふ權利のある日でもある故に、少なくとも元の形の半分だけは消えようとして消えて居ない。さうしてその古い名稱はこれが爲に生きて居る。老人は殊に古制の頽廢を悲しむ情からして、今ならばまだ熱心に過去の現在と異なる點を、力説せんとするものがあるのである。一旦この過渡期を通り越して、特に無關心であつた明治大正期の人たちが、土地の故老となつてしまふ時を考へると、我々の捜索事業は相應に慌だしい。何となれば日本の固有信仰は、一部中央の神祇官に公認せられたものが書物になつて傳はり、一部佛法の學者の註釋を加へたものが、その不足の穴を補填して居る以外は、すべてかういふ昔を大切にする凡人大衆の、半ば無意識なる踏襲だけを、殆とたつた一つの保存方法にして居たのだからである。民間傳承の他の部門にも、無論色々の見遁すべからざる痕跡が遺留して居る。たとへば禁忌と稱して普通人が愼しんで犯さゞる行爲にも、前代信仰の根強い抑制があり、歌や昔話や傳説の中にも、多分の誤解に包まれて、我々の遠祖の自然觀は傳はつて居る。しかしそれを寄せ集めすぐり出して、その中から洋風學者等の心伏を得るまでに、解り易い(280)事實を確定させようとするには、どの位澤山の精勵刻苦を要するかも知れたもので無い。これに比べると、年中行事は遙かに具體的で又順序が立ち、その上に全國に無數の例があつて、比較をして共通點を拾ひ上げることが遙かに容易である。今でもこれを常識と謂ひ、當り前の事だと思ふものが多い位に、多數の人々は一致して同じやうな考へ方をして居る。一言でいへば公共の現象である。これが私たちには大變に大きな事で、單に日本の昔の人たちの信仰を見付けるといふに止まらず、或はこれによつて宗教史の社會的説明、即ち宗教の起りを各個人の胸の中ばかりに求めようとしたのは誤りで、外に共同生活の經濟上の事情に、群の信仰の發生すべき原因があつたことを、證據立てる道が開けるかも知れない。たとへそれ迄の效果が我々の生きて居るうちには擧げられずとも、少なくとも物質の幸福と宗教の慰安とが、本來は二つの物で無かつたといふだけは、この民間暦といふ古人の遺産の中から、ほゞ確かにこれを覺ることが出來るだらうと思ふ。

　

　　　　　　　　　　七

　

　但しこれにはたつた一つだけ條件がある。一つの地方ばかりが如何に全努力を傾けても、如何に確實なる報告を作つても、そればかりでこれだけの斷定を下すことは許されない。さういふことをすれば昔風の學者も同じである。たゞ獨斷ならば今までの人だつてして居る。誰もが成程なあと言ふ爲には、どんなに少なくとも二十郡か三十郡、地を隔てゝ獨立して同じ調査を試み、互ひに結果を見せ合つて、しかも相手から暗示されない判斷を下すことが必要であるが、果してその樣な希望は無理な空想であらうか。今から十年前ならば私も恐らくは無理と思つたらう。今日はよほど變つて來て居る。人がするからといふだけで流行もしない代りに、大きな本さへ作れば事業だと思ふものも無くなつた。郷土誌には何かの收穫あるべきことが豫期せられて居る。然らば如何なる題目から先づ手を著けてよいか、といふ疑問は頻々と我々に向つて提出せられて居るのである。かういふ手頃の調査が、長くも一年かゝればほゞ精確(281)に報告し得られるといふことがわかれば、嗣いで起る者は必ず少なくは無いであらう。しかも私は假にその先驅者の勞苦が、なほ當分の間十分なる反響を以て酬いられなくても、その爲にこの事業を無意味だつたと解するものはあるまいと信じて居る。

　今日の社會科學は一般にやゝ成績を督促され過ぎる傾があるが、自然科學の方では、待つて居る方が普通になつて居る。個々の研究者の小さな分擔が、末には大きな綜合に歸著することさへ慥かならば、如何に念入りに細かな調査をして居ても、早く粗末でよいから汝の結論を示せなどゝ、要求せらるゝことは絶對に無いのである。一地方の調査の根本の價値は、或は五年十年の後でないと定まらぬかも知らぬが、少なくとも我々は或假定だけは掲げることが出來る。即ちこれがもし若干の遠く隔たつた土地にも、共通に存在する事實であるとすればといふ條件の下に、日本前代の社會の或信仰、又は物の考へ方を、推測することだけは差支へ無いのである。かういふ推測があたるであらうかどうかの未定は、學間の最も大きな樂しみである。殊に民間暦などは問題も簡明で、誰しも少しづゝの知識を貯へて居る故に、當りは大抵七八分である。その上に間接には今まで省みなかつたものが問題であつたことに心付き、平凡な眼前の事相も、近よつて視れば皆新知識を含んで居るといふ、一つの經驗にもなるのである。必ずしも弘く世の中の爲にと言はずとも、自己一身の心意の爲にも、ちやうど頃合の練習であつたのである。

　

　　　　　　　　　　八

　

　そこでこの次には調査の實際的方面、如何なる順序方法に由るならば、有效に早く成績が得られるかといふことを述べて見たいのであるが、それには自分の今までの讀書や、企てゝ成功しなかつた幾つかの實驗が、若干の參考にはなりさうに思はれる。私の内心の希望を告白するならば、古來中央から頒布せられた公定の暦本に、認められなかつたヲリメの日が、大よそどの位地方には殘つて居るかを知りたいのであるが、それにはやはり先づ記録公文書中の式(282)日を拔き出して見る必要があるのである。

　明治の新暦になつて又多くのものが消えたが、それ迄は案外に多くの昔からあつたものが收容せられ、又は新舊の調和を策すること、例へば彼岸の中日を皇靈祭日と指定せらるゝやうな場合が多かつた。併しさういふ中にも追々の推移はあり、新しい日が年と共に多く加はつた。それが民間の年中行事を、どれだけまで左右したかを考へて置かなければ、何が固有であり又は最も古いかを見極めることも出來ぬのだが、幸ひにそれには好都合の目標がある。たとへば前にもちよつと言つた庚申や甲子のやうに、十干と十二支とを組合せて、六十日づゝに切つて日を算へ又名づけることは、明白に外國から學んだものであるから、この日を用ゐて居る年中行事は、中古以後の附加へと一應は解してよい。初卯初午巳成金の辨天祭なども、その類に入れてよいやうに思はれる。ところが青面金剛とか大黒天とかは、成程佛教の派生かも知れないが、それが果して全然新たなる行事を開始させたか、はた又例の一つの習合であるかにはなほ疑問がある。ちやうど二月に一度づゝ、何か他の方法で日を定め、群飲會食談話するやうな慣行があつたのを、次第に庚申の日甲子の日にきめさせるだけの感化が、新たに村里へは入つて來たのかも知れない。といふわけはこれに近いものに日待月待等の、別の日を選んだものも少くは無いからである。現に下元といふ漢名を以て呼ばるゝ十月望の日の休が、十月はちやうど亥の月だからと謂つて、中の亥の日を用ゐるやうになつた例もあり、初午なども馬を牽いて山に登つた習ひから、そんなら午の日といふことになつたのだとの説もある。しかし何にしても新たなる憲法、又往々にして新たなる信仰が、この變化に干與して居たことだけは爭はれないのである。

　

　　　　　　　　　　九

　

　次に武家時代の主要なる式日の、五節供といふものにも異國味がある。正月だけは七日となつて居たが、その他は三月は三日、五月は五日といふやうに、それ／”＼月の順番と日の順番と揃へるなどゝいふことは、無論月の名を數字(283)で唱へるやうになつてから後である。しかも幾分か不必要に論理的である。元はこの通りで無かつたらうと迄は確かに言へる。しかしその各々の年中行事が、悉く支那の或因習の模倣であつたこと、あたかも今日のクリスマスの如くであつたらうかどうかは甚だ疑はしい。これも或はそれ／”＼の月、もしくはその季節が、以前から重要であつて、ちやうどその間に一日だけは、所謂節供の日を設けなければならなかつたのを、暦が漠土の例に準じて三日なり五日なりに統一したのかも知れぬ。現に七月の七日の如きはさうで無くても祭らるゝ日であつて、二星祭以外にも井戸がへとか蟲干しとか我邦限りの行事は多かつた。九月も祭の月であつて、必ずしも重陽の日には限らず、上中下の三度の九日を、共に節供の日に用ゐて居る地方が多い。北九州ではこれをクンチと呼んで居るが、語の感じはもう九日で無く、人によつては「供日」といふやうな字にも書き、祭禮は他の日でもやはりクンチと謂ふのである。

　

　　　　　　　　　　一〇

　

　第三には官の暦の月始めの日を、特に重要視する風も新しいかも知れない。暦が文字に記され人がこれを讀み得ればこそ、今日が朔日だといふことが直ぐ知れるが、教へてくれる人がもし傍に居なければ、前月の晦と今月の朔との境は、天然の觀察からでは實はわからなかつた。月の大小は陰暦時代の終りまで、毎年覺えて暗記をする必要さへあつた。國の全部が朔日を休日とするには、伊勢や三島の暦師が山の奧まで入込むことを前提とした。さういふ世の中が果して戰國以前からあつたらうかどうか。山中暦日無しとか、年號の改まつたのを知らずに居たといふ話は、一つ話としては今も殘つて居る。假にさうした土地が曾て一部分でもあつたとすれば、その不確かな朔日を用ゐた年中行事は、後のものであることが知れるのである。朔日は京江戸では何れの月も重んじられたが、田舍では特に八朔と六月一日の氷宝祝儀、それから乙子の朔日と名づけ、十二月の一日が節になつて居た。それよりも更に問題になるのは正月元旦であるが、これは政治が暦法の統一を強制する以上、何としてでも成立せしめる必要があつた。即ちこれと(284)兩立せぬやうな舊習は無視して、今よりは遙かに嚴重なる禮儀作法を、必ずこの算へ方に據つて元旦の日に要求した故に、可なり短期間にでも民間暦を一變した筈であるが、それでも眞澄の遊覽記にも記した如く、南部の私大《わたくしだい》と稱して、南部領だけには二日を元旦とする慣習が行はれて居たのである。

　

　　　　　　　　　　一一

　

　要するに暦にもし統一の要求が伴なふものとすれば、地方には又地方自身の統一が入用であつたので、それが民間暦の存外に永く保存せられ、事實官府も亦能ふ限りこれを黙認し、讓歩し妥協しなければならなかつた所以であらうと思ふ。日本は四時の運行の至つて鮮明な國である。時に一年の周期があるといふことは、恐らくはこの島居住の最初から、一人も漏れなく持つて居た經驗であつたらう。しかも一年の何の月何の日を境として、トシを算へるかは又別の問題であつて、この所謂建寅の朔を以て元旦とする風が、和漢偶然に一致したものと迄は考へにくい。果してこれも新たなる暦法と共に、輸入せられた方式の一つであつたとすれば、さてその以前はどこを境にして、トシの始めを祝ひ又記念して居たか。これが問題になつて來るのである。今までの學者がこの問に答ふべく、米の栽培といふことに著目したのは理由がある。稻の栽培は、如何にも古代の温帶國に於て、年に必ず一度の最も重要な行事であつた。從うてトシといふ語のこれと關係があつたといふ説も、承認しなければならぬであらう。しかしそれにした所で年の始はやつぱり不明である。稻作には播種から收穫までの永い期間があり、又前後に色々の準備と跡始末があつた。どこを境にその一歳を區劃したかは、なほ別々にこれを確かめる途が無くてはならぬのである。私はこの年中行事の調査が、多分行く／＼はその點を説明してくれると思つて居る。現在田舍の正月を氣を付けて見ると、オホトシと稱する晦日から元旦への年越しと、ワカトシといふ十四日から十五日への年越しと、儀式が二重になつて居ることは、恰も新舊正月のそれとよく似て居る。この若歳なるものが、或は元の民間の新年であつたのでは無いかどうか。

　

(285)　　　　　　　　　　一二

　

　ツイタチは即ち月の初現であつて、強ひて見ようとすれば新月の縷の如きものを、西の山の端に望み得ぬことはなかつたが、尚滿月のまん丸く、夜すがら空を行く著しさには如かなかつた。暦の推理には未だ習熟せず、主として天然の觀測に依つて、季節の移り變りを知つた人々には、二者何れが標準に採り易かつたかは、深く論ずる迄もないことゝ思ふ。その上に作法の色々の點で一致した盆の月、即ち秋の第一次の望の夜と、正月十五日の前夜ならば、ちやうど一歳を兩分することになるのであつた。曾ては小正月のみが村の正月であつた時代があつたといふことは、もう假定してもよささうである。但し稻作の作業を本位として考へて見ると、これではやゝ間が開きすぎるといふ感はある。現在では正月に田遊びと稱して、農事の形態を戯に演じて、豐作の祈願とする祭は諸國に多く、或は又特に若歳のオセチを以て、その年の早乙女を饗應したり、この日の飾り木を田植の薪の爲に保存したりする慣習も稀では無いが、これらは、皆正月を稻作の始の月とする爲に、幾分か不自然に取つて付けた形もあるので、實際は昔風と支那風との、一つの折合であつたとも見られぬことは無い。さうなると更に今一つ以前に、或は別の月の滿月の前の晩を、年越として居た時代もあつたかも知れない。この想像がもし當つて居たならば、然らば何れの月かといふことが、又一つの問題になつて來るのである。

　

　　　　　　　　　　一三

　

　今では殆とこれといふ痕跡も殘つて居らぬが、私は四月の十五日などが、殊に注目すべき日のやうに思つて居る。月の望の日を大切なる折目とすることは、獨り小正月と盆とだけでは無かつた。今日では隣國の名稱を踏襲して、正月の十五日を上元、七月の十五日を中元と謂ひ、これに對して十月の十五日の下元を認めて居るだけであるが、これ(286)では亦一年を均分し得ず、春夏秋冬の初の月の、夏だけが拔けて居ることになるのである。支那でも三元と謂つたのは三の數を珍重した結果で、事實は夏の元《はじめ》にも亦一つの節日があつたのかと思ふ。日本でも十月の所謂下元は、前にも謂つた如く亥の子や十夜などに變つて居る。さうして見ると水田の農事が、將に企てられんとする直ぐ前の四月の滿月が、たとへ新年と言はぬまでも、重い一つの境目であつたことが無かつたとも言はれぬのである。

　

　　　　　　　　　　一四

　

　この想像の今一つの根據は、卯月八日といふ日の今でも農村に於て、可なり大切に取扱はれて居ることである。それを釋迦如來の誕生だからと説明することは、ちやうど冬至の節を耶蘇降誕祭に取入れたのと、符節を合したやうな習合であつた。佛者の多智多辯を以て臨むならば、何でもかでも灌佛會を中心に、解釋してしまふのは容易な筈であるが、それでも蟲封じの「卯月八日は吉日よ」を始として、佛と縁の無ささうな行事は、まだ色々と殘つて居る。第一にはこの日を大祭の日とする神社の多いこと、それが半分以上は山を背後にした御社であること、及びこの日を山登りの日として居る靈山が多く、山に登つては花を摘んで來る習慣のあつたこと、これと天道花と稱して竿のさきに花を上げ、もしくは木曾などの如く戸口の柱に、蓮華躑躅の枝を插す風と、何か關係があるらしきこと等を考へ合せると、この日をハナと呼ぶのも必ずしも童子佛の花御堂から出た語とも言はれない。冬の初の月の八日にはそんな例は無いらしいが、正月の若歳に對しては正月七日が節供であり、七月の盆に對しても七月七日が亦節供であつた。これも織女牽牛の星祭に起るものゝ如く、京都の學問では解して居たかも知れぬが、田舍はその樣な説に斟酌無く、物を洗ふとよく汚れが落ちると謂つたり、井戸を渫へたり又は道切の注連を張つたりして居た。それから考へて行くと、暮の煤拂ひなども同じことだが、大きな節日の前にはその準備として、元は月四分の一だけの齋忌の期間があつて、專ら家の周圍の穢れを清め、祭の供物の支度にかゝつたので、暮の御松迎へも七月の盆花採りも、今では期日が遲く(287)なつたが、本來は卯月八日の山登りと同じ目的のものであつたかも知れない。諸國の古い社の祭典に、前七日の物忌といふことが多いのも、滿月を中に置いて見て始めてその理由が考へられる。八日は即ち月の圓さのちやうど半分になつた時で、夏の始の四月八日も、元はやはりこれを見て、やがて望の日の準備に著手したのが、後には獨立して山登りや花摘みや天道花の行事となつたものかと思ふのである。

　

　　　　　　　　　　一五

　

　八日は藥師如來の御縁日といふ以外に、これを小さい節日として用ゐて居る月はなほ多い。たとへば霜月の八日は吹革《ふいご》祭として金屋の徒が守つて居たのも、多分は御火燒きとの關係であらうと思ふ。即ちこの月は所謂極陰の陽を發すべき月である故に特に人間の火を以て少しでも早くこれを促さうとする慣習が、期せずして多くの民族の間に始まつたのであるが、これも亦希望を與へる滿月の夜の祭の、前導であつたとも見られるのである。それから十二月と二月の八日をオコトといふのも、コトは「行事」を意味する古語かと思はれるから、その起原は相應に古いのである。コトが丹波の柏原附近などで、四月十六日の休日を謂ふ名であつたなどは（民族三卷七六一頁）、幽かながら自分の四月新年説を支持してくれる。江戸の學者の早くから不審を抱いて居たのは、二月八日のオコトをば事納と謂ひ、却つて師走八日の方を事始めと呼んで居たことであつた。これも新年の大節をコトと稱して居たものとすれば、顛倒でも誤傳でも無いのであつて、この日も卯月八日の天道花と同じく、棹を高くたてゝその上に目籠などを掲げ、邪神の近よるを防ぐと謂つて居たのも、即ち亦門松や注連のやうに、この境最も清淨なりといふ小標識であつたらう。何にもせよ正月十五日を中心とし、月の上弦の七日の日が嚴重の物忌の始だつたとすると、それから更に溯つて十二月の八日までが、恰も散齋の三十日間になるのである。但し祭が過ぎてから後の方の日限は、物忌で無かつた爲か今の規定は何も無いが、それにも亦次の月の上弦の日まで、段々の附屬儀式が連續して居たのかも知れない。現在は普通に正(288)月二十日を骨正月、二月は朔日だけを重ね正月などゝ謂うて、休む土地もあるらしく、盆にはたゞ二十四日の所謂裏盆があるだけで、八月朔日の休などは、全く中元とは別のものに考へて居るが、これにももし正月同樣のコト納があつたとすれば、やはり亦月の半圓を以て一つの目標として居たかと思ふ。それ故に私は又舊暦の二十二三四日、殊に二十三夜待などゝいふ行事に注意し、それが果してどの月を以て最も重しとして居たかを、尋ねて見る必要があると思つて居るのである。

　

　　　　　　　　　　一六

　

　二十四日は地藏菩薩の御縁日といふことで、中世には地藏講の集會が盛んであつたが、尚それ以外にも、この日を折目とした痕跡かと思ふものがぽつ／＼ある。たとへば山海里といふ淨士僧の隨筆には、天狗に教へて貰つて毎月の二十四日だけ、飲酒を愼しむならば火災の難を免れるといふことを、守り信じて居た人の話があつた。氣を付けて居たらまだ色々の事實が現はれるであらうが、差當り最も顯著なる一例は、伊豆南海の島々の正月二十四日の前晩からの物忌である。大島の或村では、この日を海難坊といふ小惡黨の來る日とし、又は惡い代官を殺した祟りなどゝもいふさうだが、他の村ではこの日を日忌《ひいみ》と謂ひ、日忌樣といふ神の來訪することを信じて居た。三宅島では又同じ日を忌《き》の日と稱し、各家戸を閉ぢて音を立てず、或は首《かうべ》山の首神といふ神が來るとか、又は神々が島を飛巡りたまふとか謂つて、畏れて外出をする者が無かつたさうである。勿論今はまだその來由を説くには早いが、少なくとも或月の下弦の日が、特に大切な戒愼の日であつたといふ證據にはなるのである。それから一方には又十一月の御大師講の日、この事は既に日本傳説集の中にも書いて置いたが、これを天台智者大師の正忌日としただけでは、解釋しきれない樣々の習俗、又は口碑のあることは人がよく知つて居る。即ち又仲秋滿月の夜の後七日目に、さうした特別の日の指定せられて居たといふ、民間暦上の注意すべき一現象と見るべきであらう。

(289)　四月十五日が昔の年越しだらうかといふ私の想像は、勿論まだ決して安全に成立つて居ない。今後集積すべき各府縣の資料が、右とも左ともこれを判決してくれる筈である。しかもそれは餘りなる空想では無いかといふ人に、私は尚一二の辯疏を付添へて置くことが出來る。その一つは今ある卯月八日の花摘みの節と對立して、もとは同じ月の下弦の日が、やはり特殊の行事の日であつたらしきことである。たとへば中世以來の京都の町などでは、五月節供の日を以て行はれて居る少年の石合戰、俗に印地打と呼ばれた遊戯が、東國では四月二十二三日の頃を以て行はれて居たらしい。これは正月の濱弓毬杖、三月の鷄合せ五月の競馬、七月の相撲綱曳きなどゝ共に、何れも本來は二つの群が神の志の厚薄を卜せんとした年占の方法であつた故に、それが童戯と化して後も尚久しく支持せられて居たので、現に朝鮮はつい近頃まで、石戰は正月上元の一種の行事であつた。非常に危險な又弊害を生じ易い遊びなので、日本でも度々禁制せられて居るが、吾妻鏡を見ると文永三年の四月二十一日、鎌倉比企ヶ谷で石打合ひがあつて、これに關係した者が罰を受けて居る。關東には未だこの事あらずとあるが、それは鎌倉七郷のみを意味して居たと見えて、現に江戸でも隅田川を隔てゝこの事があつたと傳へられ、又上州にも常陸にも五月五日の印地はあつたといふ。さうしてこの四月二十一日が、たゞ偶然では無かつたらうと思ふのは、京都でもやはり應安二年の同じ日に、大きなインヂがあつて四五人の死者を出したといふことが、後愚昧記にも記されてあるのである。五月端午の節供がもし支那暦の感化に負ふ所ありとすれば、却つてこの類の日本獨特の遊戯がその日に結び付いて居ることを奇としなければならぬ。

　

　　　　　　　　　　一七

　

　そこで自分の考へるのは、所謂五節供は見たところ體裁は整つて居るが、その事實は實は區々であつて、これに對する常民の考へ方も一樣でなかつた。九月は單に秋祭の月といふだけで、特に九日には限らなかつたことは前にも言つた。正月七日の人日と盆の七日とは、殆と十五日の爲の準備といふに過ぎぬ。獨り他の三月と五月の二節供のみが、(290)田舍では最も節供らしく樂しみの日となつて居るのは、必ずしも野山の美しさの次第に増して行く季節だからといふばかりでは無かつたらう。即ちこれも初春の新年に對する事始め事納めと同じく、四月望の日の「新年」の前後の區切りとして、昔から重要視せられた折目の日であつたのを、後に三日五日に移して、新しい暦との折合を付けたのでは無かつたらうか。もし古代の我邦も精確に朔日をきめて、それから日を算へて何日目と謂つて居たものならば、さういふ妥協も或は困難であつたか知らぬが、單に月の面わを目分量で讀んで、大よそこの夜頃といふ日を用ゐて居た人たちには、土地によつて一日や二日の食ひちがひはあつたらう。それを學問上の由緒ある三日又は五日に統一することは、寧ろ多くの人の歡迎する所であつたかとも察せられる。何にもせよ民間暦法の衰微は、既に年久しいことであつた。伊勢の暦が地方に普及する速度と比例して、これを解説し判定する權能は、次第に文字ある少數の人に歸屬して行つたのである。村の物知りの記憶を唯一つの頼りとして居た者は、甘んじてその今までの指導を委棄するか、然らざれば受賣によつてその説を潤飾しなければならなかつたことは、恰も今日の故老の小學校に對すると同じであつた。さうして暦の國家教育だけは、一歩早く田舍を征服して居たのである。だから民間暦の研究に際しては、一應はあらゆる定理樣のものを切りほどき、すべてを裸なる個々の事實として採集しなければならぬ。もし説明を個々の行事の管理者に頼まうとしたら、我々はたゞ徒らに近世過渡期の混迷に引入れられてしまふであらう。しかも現前に眼で看耳で聽取る事實より外には、あてになる資料は一つも無いといふことが、この方面だけでは誰にでも直ぐ心付かれるので、今後世相を客觀すべき我々の學問の爲には、年中行事の調査などは、ちよつと類のない好練習である。私の物々しい一つの假定説なども、言はゞ手習草紙のやうなものである。幸ひに當つて居たところで小さな發見に過ぎない。問題はまだ色々殘つて居る。少なくともどうして始まつたかを説明し得ない行事はまだ多く、しかも人の始めたことで理由の無かつたものは無い筈だから、答は何處かに潜んで居るのである。八朔といふ日がどうして農村の大切な式となり、殊に贈答を主として居たかもその一つである。�ｺ川家の故郷で六月十六日が、早く重んじられて居(291)た原因もまだ解らない。五月二十八日が虎少將の涙雨などゝ謂つて居ながら、その實は曾我と關係の無い土地の式日であり、殊に本願寺の信仰と、因縁をもつ理由も亦不明である。

　それから最後に今一つ、土地の鎭守の祭の日の中には、どうしてその日になつたかの、尋ね難い例が幾つもある。大抵は始めてその御社を祀つた日を記念するといふが、最初勸請をその日にしたことが、やはり問題となつて殘るのであつて、全部では無いまでもこの中には、昔の節日が踏襲せられて居る場合が多さうである。それなどは殊に澤山の類例を集めて、比較をして見たら珍しいことが發見せられると思ふ。明治神社誌料といふ書には、全國の郷社以上の祭日が皆載せてあるが、その中にも各地偶然に一致し、しかも從來の社傳だけでは、その由來を知り難いものが幾つかある。さうして私の問題にして居る五月二十八日、もしくは卯月八日などが先づ最初に注意せられるのである。

　

　　　　　　　　　　一八

　

　これを要するに民間の年中行事は、日本でも相應に古い問題である。その文庫内の研究の如きは、今やほゞ終結に近づいて居ると言つてもよい。それにも拘らず實はまだ格別の所得も無かつた。公事根源世諺問答以來、雜説は寧ろ誤つたる臆斷を生まうとさへして居るのである。この上はたゞ現存の根本資料に就いて、もう一度事實を見直し、出來るだけ精確なる記録を作つて置くの他は無い。これに携はる諸君の努力と忍耐、殊に自ら我仕事をけちくさいと輕蔑してかゝらぬことが、今は何よりも大切なる要件であると思ふ。

　

(292)　　　　　島の年中行事

　

　久しく期待して居た佐渡の年中行事が、今度公刊されたのを讀んで、我々にとつて大切な發見は、節供年取り等の期日は島中一樣であつて、その日の慣例には村毎に又は部落毎に、可なり著しい變化があることである。今までたゞ一箇處の事實を聽き知つて、佐渡ではかうして居るなどゝ謂つて居た者に、これは誠に意外なことであるは勿論、島に年久しく共に住む人たちでも、かうして比べて見て始めて隣とのちがひに心付き、改めて土地の風習といふものゝ意義を考へる人が少なくはないであらう。この風習の異同には幾つもの原因が有り得る。たとへば他所に年月を送つて居た者が、感心して持つて還つて來た小改良もあらうし、又それとは正反對に、律義なる舊家の家風を固守する者があつて、一門配下を統制して居たといふこともあらう。相川などには越後を素通りした、江戸直輸入の文化もあつたと言はれて居る。新しい御手本ならば、色々と手近にも有つたわけである。しかも一邑一郷黨が、擧つて遵奉する方式となるには、相應に根強い力が無くではならぬ。流行と模倣とは變化の一つの理由ではあらうが、結局はやはり前々からかうして居たといふ人の意志、即ちこゝへ入つて來た家々の歴史が、今でもまだ痕跡を留めて居るのである。佐渡が男女　　　各々一人の漂着者の婚姻によつて、始まつたといふ傳説はもう信じなくともよいであらう。

　時代と條件とを異にした幾つかの移住層、それの相互ひの交渉と調和とは、島を郷土とする者の殊に關心を持たずには居られない歴史であるが、これまではまだそれを尋ねて見る手掛かりすらも無かつた。今囘はとにかく諸君の骨折によつて、疑問の種が提供せられたのである。この世に因縁といふものがもし有るならば、これに答へ得る人も行(293)く／＼は、諸君の中から出ることゝ私は思ふ。順序として先づ知らねばならぬことは、島では相互ひにこれほどちがつて居ることが、それ／”＼に遠く隔たつた土地に於て、何人も氣付かない一致を持つて居るといふことである。だからそちらの方から引越して來たと、速斷することは無論出來ない。偶然かも知れぬしこちらから行つたのかも知れぬし、又は古くは一般であつたものが、飛び／＼に消え殘つて居るのかも知れぬからである。しかしとにかくにさういふ他處の類似を、少しも考へないでは何の結論も下されない。さうして京都とは全くちがつて居て、遠い田舍どうしよく／＼似た行事を守つて居る場合も中々多いのである。京都の風俗は既に三百年も前に、黒川道祐の日次記事などが出て居るので、これを動かぬ標準のやうに見る氣風が、本を讀む人の間には生じて居るが、これも中世以後に田舍から、持つて登つたものが實は多いのであつた。歳時習俗の根源を農圃の間に求めたことは、少しでも不自然な所業でない。さういふ中でも後々の改作の少なかつたかと思はれる島地の生活などは我々には頼もしいのである。佐渡の郷土史がこれを貴重な資料としなければならぬと同時に、諸君は更に一歩を進めて、これを日本國内の他の有縁の土地の人々に、利用せしめるやうに心掛ける義務がある。

　この書が佐渡人の專有に屬してはならぬ理由を、小さな二三の實例で説明するならば、正月十五日の前の晩に、餅や團子の類を插して飾る木は、ほんの五六種しか無いが、地方によつてちがつて居る。信越關東から東北にかけて、最も多く用ゐられるのはミヅキ、又ミヅフサともカギの木ともいふもので、その間にまじつて稻藁に餅を小さく付けるものもある。關西の餅花は除夜の行事になつた處も多いが、これは美觀を愛したか又は稻穗から轉じたか、現在はしだれ柳の枝を垂れたものが多い。佐渡で榎木の枝をこれに使ふといふ例は、絶無でもあるまいが東日本によほど類が少なく、これに反して九州も南の三縣に行くと、所謂メダマの餅は今でも榎の枝に插すのが普通である。榎は小枝が美しく又繁く、その上に燃して火の色が花やかだといふ二つの特性をもつので、塚や祠や路傍の木として大木が存するのみか、春は若芽の色を見て農事の時を知り、年の豐凶を卜する風も多く、その名のエノキも吉木の義だらうと(294)私たちは想像して居る。奧羽の方面でも初山の日のぬさ掛けには、大抵は注連繩を屋敷まはりの榎の木の枝に引掛け、代りにその小枝を少し伐つて來て竈に燒くので、何處へ行つてもこの木だけは變つた形をして居る。これほど人生とは親しみの深い木が、現在は既に飾花の木として用ゐられない土地が多いのは、一應は習俗の改定と見て置いてよからうかと私は思つて居る。もしさうだつたら佐渡には古い形が、まだ片端には殘つて居るのである。

　この習俗の一般的なる改定といふことも、想像して見れば原因はあるのである。ミヅキは冬に入ると小枝の色が紅く美しくなるので、最初からこの木を餅花の木に好んだ者もあつたか知れぬが、他の一つの特徴はこの木の名、即ち水木といふ名が付けられた位に、早期から樹液をよく吸上げる木であつた故に、後追々とこれに火防せの力を感ずるやうになつたのかと思ふ。飛騨の山村ではミヅクサ三尺などゝ稱して、わざ／＼この木のそぎ板を屋根の一部に、葺くといふ習慣も私は目撃して居る。爐の鉤にする木は一々當つても見ぬが、今でも大抵はこの木を用ゐるらしい。素よりこの木の水が現實に火を消す力は無く、理由を尋ねて見れば枝裂けがせぬからなどゝ、説明する者も出來て居るだらうが、なほその動機には言葉の力、即ち水といふ語の價値が相當以上に重視せられたといふことが窺はれる。火災の經驗と不安は世と共に加はつて居る。單なる常識でもかういふ呪法は考へ出せなくも無いが、なほ一方には五行の教理に通じた人の、暗示指導といふことが想像せられるのである。

　所謂｜??《ほき》陰陽の歴史は、近世は殊に埋没しきつて居るが、これが田舍の精神生活に、多大の影響を與へて居ることだけは爭へない。博士と名のつく者は大抵は門付け物よしの類に墮落しても、その知識のきれ／”＼になつたものだけは、山伏も學び神主も學び、僧侶も一通りは心得て居る者が多かつた。年中行事はもとより、その他の生活上重要な作法で、明らかに彼等から教へられて、固有の仕來りを棄てゝ居るものは、決して小正月の餅の木だけでは無い。今日流行して居る都鄙の俗信は、言はゞ安倍晴明の足の垢のやうなものが多いのである。それが相應に古くから入つて居たことは、佐渡にも痕跡があるので、私はいつもこの外來の異分子が、容易に見分けられる形で殘つて居ることを(295)喜んで居る。一つの例を拾へば五月節供のチマキを食ふときに、こたん太夫の首取つたと唱へ、又は六月朔日の齒固めの餅を、こたん大王の骨を　　噛むといふ類は、他の多くの土地で鬼の首、もしくは鬼の骨といふ代りの名で、類例は有るかも知らぬがまだ記憶して居ない。コタンは明らかに蘇民將來に對する巨且將來のことで、既に釋日本記の中にも備後風土記なるものゝ逸文として傳へられ、尤も陰陽家の珍重する所の、武塔天神の由來譚であつた。弟の蘇民が貧にして恭謹なりLに對して、兄の巨旦は貪慾で神を禮せざりしによつて罰せられたことは、古い日本の神話とも合するが、たゞこの固有名詞だけがこの一派のものであつた。それをこの島の一隅に於ては鬼の名前として記憶して居たのである。節供の色々の行事の目的を、片端から惡靈の防衛であるやうに、解説することが既に新たなる學識であつた。白虎通とか風俗通とか、日本では見たこともないやうな本がいつも引用せられる。それを受賣する人が、もうこんな處にも來て居たのである。即ちこゝでも習俗はやはり變れるだけは變らうとして居る。

　或はかうした外來の異分子を一つ／＼取退けて見て、やつと國固有の純な姿が見出さるゝものとすれば、これは容易ならぬ大仕事であると、勇氣を挫く人も無いとは限らぬが、自分等はさういふ考へ方はして居ない。國民を理解する爲に大切なのは、根源よりも寧ろ經過である。中古に我々が異教の感化を受けて、年中行事の一部を改めたといふことも、それ自身かなり大きな歴史であり、それに置換へられた今一つの形が、有つたといふことが判るだけでも、それだけは祖先の生活が正確になるのである。その以前の形といふのがどんなもの、乃至はどうして始まつたかを詳かにすることは、今はまだ少し面倒のやうだが、これとても方法は既に備はつて居る。たゞ幾分か氣を長く、比較の結果を待つて居ればよいのである。大體に事物の名稱樣式、もしくは人の記憶や記録の證據によつて、新たな借り物といふことの判つて居るものを除き、殘りは一應は全部昔から持傳へて來たものと、見て掛かるのが安全かと私たちは思つて居る。さういふ中でも僅かに比較によつて、あれとこれとはどちらが前からであらうといふことの、ほゞ見當が付くものが幾らでも現はれて來る。かうして變遷の歴史を現實の基礎の上に組立てることが、實は根源に近づい(296)て行く、最も間違ひの少ない用途だつたのである。事は小さいけれどもやはりこの本から例を取る方が話がしやすい。佐渡の正月の羽子板遊びには、伊豆七島と同じに竹製の羽根を突く村が今でもある。これと木?子《もくげんじ》の黒い實に羽毛を付けて、戞々と好い音を立てるものとどちらが古く、どちらが改良であるかは大よそ明らかで、雙方竝び行はれたといふことも考へにくい。木?子が山野自生の木でも無く、又和名も知らぬやうな外來の品であること、京都の室町期の上流生活に於て、頻りに胡鬼子胡鬼板の贈遣が歳端に行はれて居たことなどを思ひ合せると、これが流行の經路はほゞ推測せられる。しかも全く木?子を知らぬ外國にも、この遊戯は相應に弘く行はれ、これを新年の信仰行事のやうに考へて居る處は、伊豆の島々にも有るらしいのである。彼地の方言はたしかハギイと謂つて居る。佐渡では現在何と謂ふか知らぬが、ハゴもコキノコも共に不可解な名である。或はこのハギイを中に置いて段々に由來がわかつて來るので無いかと思ふ。少なくとも將來懸離れた若干の土地に於て、同じ問題を尋ねて見る機會があるとしたら、或は改良以來の?態が存外にまだ殘つて居て、佐渡がその一つの例であつたことを、確認することが出來るかも知れない。

　島々の習俗の遠方の一致といふことは、恐らく世界中で日本のみが、實驗し得られる學問上の機會である。自分は前に方言の類似に就いて、一二の例を拾つて見たことがあるが、今度の佐渡年中行事の忌の日の問題は殊に新しい。忌は山城のイゴモリ、安房のミカリ等に於て、村の大祭の重要なる一部を爲すものが、若干は世に知られても居るが、その祭典の部分が既に變化して、家々の小規模な儀式となつた後まで、なほその忌だけが獨立して、嚴守せられて居る事實は島だけにしかまだ報告せられて居らぬ。佐渡の忌の日は正月と十一月の二十九日が最も多く、これに二月の三日とか十二月の卯の日とかいふものが附加せられて大體に忌の終期を推定せしめる。これにやゝ似た例は壹岐の島に有つて、こゝでは六月の二十九日、即ち夏越の祓の前の晩が忌である。隱岐や對馬も常民の信仰が、相應に強烈な處のやうに思ふが、そこではこの仕來りがどういふ形に變らうとして居るか、早くこのついでに尋ねて記録して置き(297)たい。沖繩群島にも我々のまだ理解し得ない幾つかの古い村祭がある。或はそれらの儀禮の背後にも忌の日と近い感覺が潜んで居て、島の人たちはまだこれを表示して居ないのではあるまいか。伊豆の七島でも日忌といひ、もしくはキの日といふ日があるが、これは共通して正月の二十四日の晩、もしくはその前後の數日を謂つて居る。島と島との往來が制限せられて居た爲に、この方面の傳承には近世の變化が多く、これを比べて見ることはこゝだけでも大きな興味であるが、なほ今まで全く相知らなかつた遠方の土地と、併せて觀察したならば發見が殊に多いことゝ思ふ。忌の形態の把握し難い所以は、それが不行爲であり内部の經驗であつて、外から來た者の耳や眼に、映ずるものが何も無いからである。これほど土地の學徒の實驗の集積と、また親切なる理解とが必要であり、さらに精確且つ鮮明なる記録の欲求せられて居るものは他には無いのであるが、果してそれほどまで大きな意義のあるものだといふことを、佐渡の諸君は知つて居るのかどうか。今はまだ少しく心もとない。

　これまで多くの地方で公表せられた年中行事は、何れも言ひ合せた樣に盆と正月との慣例に力を集注し、殘りの三百四十餘日に對しては、ほんの一割内外の面積しか與へて居ない。世間に出て住む人の故郷を懷ふ機會が、どうしてもこの二度の休みの日に多く、その他は追々と幼時少時の印象が薄くなるからであらうと思ふ。實際都會には日曜も無い人があり、節供も大抵は常の通りに働く日になつて居る。町でこしらへたその年中行事の概念に、地方の人々が引込まれがちなのである。私たちが今でもまだ不審に思つて居るのは朔日二十八日といふ二つの日を、昔は月毎に重く視て居たことである。或はこれも忌の日の研究によつて明らかになつて來るかも知らぬが、とにかく現在はまだ二十八日を、どうして大事にしたかを説いてくれる人が無いのである。さういふ中でも五月二十八日などは、伊勢でも住吉でも御田植の日であつて、曾我の仇討や或宗派の祖師の命日から、始まつたもので無いことは確かなのだが、多くの土地では既に休日の目録から除かれ、何もして居ない故に傳へられることも無い。佐渡ではまだ少しばかりの痕跡が洩つて居るやうに思ふ。これなどももう少し力を入れて、これから先の調査を續けることが必要であらう。小さ(298)い題目に就いてはまだ色々述べて見たいこともあるが、段々纏まりが惡くなるからもうこれで切上げる。たゞ終りに今一度くり返して置くのは、佐渡の習俗は島限りで、一つの孤立した複合體をなし、これを細かく見て行くと、大よそは島の開けて來た順序がわかるかと思ふことである。無論その爲には遠近の比較を遂げなければならぬが、それも語彙の整理によつて、手輕に出來る日がやがて來る筈である。佐渡が對岸の越後と似ない點の多いことは、早くから注意せられて居るやうだが、現在は向ふがまだ詳しくはわかつて居ないのだから、うつかりしたことは言へない。しかも岩船郡以北、莊内秋田へかけての弘い地域に行はれて居る行事と、かなり近いものが佐渡にもある。この中には稀には彼方から持つて來たといふものもあらう。たとへば河原田の七夕の晩に、?燭出せ出せ、出さぬとかつちやぐぞといふのなどは、北は北海道の旭川の附近まで、又日本海側には處々で流行つて居る。よほど子供には痛快な言葉のやうだが、カッチャグといふ動詞はこの島ではあまり聽かず、又?燭といふ商品よりも古くから、この風習があつた氣遣ひは無いから、多分は船頭か誰かに傳授してもらつたものである。次には近世に一度こゝを通つて、北に向つて進んだかと思ふものもある。彼岸の團子を作るのを怠つて、忙しく稻刈りをして居る傍を、二人の婆さんが話しながら通る。「あんまり腹が立つから出がけに子供を一人、爐の中へ蹴込んで來た」といふので、どきりとして歸つて見たら我兒が燒け死んで居たといふ話。この彩色には新しい染料が入つて居るが、これも東北と西南とに於て何箇處と無く採集せられて居る。しかしさういふ運搬の跡の顯著なものがあるに拘らず、私はなほ古くから、何處を原産地とも無く傳はつたものが、偶然にこゝと北南の一隅だけに消え殘つて居た場合の多いことを信じて居るのである。八朔や亥の子はこれとは反對に、東日本には一般に殆と名も知られず、近畿以西に在つては今でもこの二つの日は重く取扱はれて居る。佐渡だけは附近の例とちがつて、關西と同じに八朔を祝ひ、亥の子の日を休んで居るが、然らばこの風だけは西の方から、ぽつんと運んで來たかといふと、何人にも然りとは言へまい。要するに古い習俗には消えたり廢せられたりする機會が多く、それが大抵はとび／＼に、斑になつて改まるのである。さうして島には何等かの餘(299)裕があつて、その變化の起り方が鈍いのである。即ち古い慣例は保存せられやすいのである。

　一度何かの縁につれて入つて來たものは、前からあるものとうまく折合つて、共に止まり村々の細かな變化を呈し、又新舊の層を見せるのである。他の島々でも恐らくは大よそ同じだつたといふことが、遠からず一般に認められる日が來るのであらう。佐渡年中行事の功績は、島が大いに研究すべきものであることを、我々に心づかしめた點に在ると思ふ。單に一郷土の過去文化の爲に、好箇の記念塔を打立てたといふに止まらず、同時に總國の學問に向つて、これまで利用せられなかつた一つ進路を指示してくれたといふことは、たとへ無意識なる結果であるにしても、永く後代の感謝する所となるであらう。佐渡の舊友の一人として、何よりもそれが自分にはうれしい。

　

(301)　　　月曜通信

　

(303)　　　　　著者の言葉

　

　ちやうど世の中の變り目と言つてもよい時期に、最も移動のはげしかつた若い人たちの群のために、辛抱強く書きつゞけて來た。宛て名の無い手紙のやうな文章である故に、今となつて之を自然の消滅にまかせて置けぬといふ、責任をさへ自分は感じて居る。殊に手のひらをかへすやうな、時代の望み好みの大變動を突き拔けて、今も以前も同じ一つの目標を目ざしつゝ、同じ一つの道の上を歩み續けて來た者は、我々少數の同志者以外に、有るのかは知らぬがまだ知られては居ない。この人たちの苦節は傳へられねばならぬ。その機會を作るといふことも亦一つの此本の趣旨であつた。

　我々の學問の未完成は、もちろん色々の方面から立證せられて居る。さういふ中でもこの一つの世變を堺として、忽ち研究資料の著しい減少を來たしたことは、豫想を超えた打撃であつた。以前は戯れに考古學者の口眞似をして、地表採集などゝ言つて居たやうに、何れの方角へでも五里七里、都市から離れて村里に入つて行くと、僅か心得のある若い人たちならば、何か手帖につけて話の種にするやうな事實を、見たり聽いたりして來る樂しみがあつた。僅かな期間の交通杜絶のうちに、そんな悦びが殆と味はへなくなつた。いはゆる發掘の勞苦がめつきりと加重して來た。是には敷十年の蓄積が次々と整頓せられて、人に珍しがられぬまでになつたといふこともあらうが、實際には別にあの折に聽いて置けばよかつたにと、悔まねばならぬ場合が甚だ多いのである。老人の壽命が延びたといふ風説もある位で、彼等が死んで行く數が戰後にふえたわけでは決して無い。その分は老人が體驗を語ることゝ、其左右に在つて之を聽く者が、感じ又は銘記することが、めつきりと少なくなつたものと私は解して居る。明治は諸事御一新といふ標語が行はれたけれど、現實にはちよん髷が三十年以上も見られたと同(304)じく、古い慣行はなほ久しい間村方に持續して、さも通常の如く解せられて居たのである。それが結構かどうかは當面の問題では無い。若い感化期の青年男女、殊に娘たちを其社會から引離して、久しく外に置いたのは、戰時の後半が絶頂であつた。いづれは次々に消え薄れるものであつたらうが、是は又早手まはしの御手傳であつた。私たちが日本の時代變化の特色を外に吹聽して是だけはよそには有るまいなどゝ高言して居たのは、今から振りかへると不覺な話であり、それならそれで又、新たなる記録の方式を立て直さなければならなかつたのである。

　我々の團體が共同手帖、又は積極調査の方法を立案して、それを實地に試した時が、今から顧みると少し時おくれだつた。何でも珍しいと思ふものは皆手帖にして來るやうにと、丸で學童に胴籃や捕蟲網を與へる時のやうな、激勵をして居た時代は過ぎてしまつた。もう是から早く開けた外國と同じ方法で、しかも淺い表土の下に隱れた前代を、もつと敏活に見つけてかゝらなければならぬ。この時代の變化に適應する方法だけが、今や新たに加はつて居るといふことを、更に此機會に於て私は力説したかつたのである。

　　　　　　　昭和二十九年十二月三日

　

(305)　　　　　ウブスナのこと

　

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　八月九日

　水曜の散歩は、暑さやその他の理由で段々と出來なくなつて來た。昔話の分類案も手拭の沿革も、ぐづ／＼して居るうちに資料が多く集まつて、却つて括りをつけることが容易でない。この二つは共に繼續するつもりだが、無理をしないやうにといふ忠告をする人もあるので、それをよい事にして、今少し惰けて見ようと思つて居る。

　何でもごく樂な氣持で、自由に書きたいと思ふことを書いて行かうといふ氣になつた。主として遠方に居られる會員諸君に、東京の樣子を知らせようといふのが趣意で、宛名無しの手紙、問合せ無しの御返事とでも題すべき雜文である。新進氣鋭の人々には、斯ういふ流義は採用させたく無い。

　上手に質問を出すこと、思はず自分の知つて居ることだけは、答へずには居られぬやうにすること、是は我々の仲間の極意であるのだが、とかく語る者は解説したがり、又はつきりとしたことを述べたいばかりに、時々は確かでないことまで言つてしまふ。殊に年を取つた者は、人から知つて居るだらうといふ推測を受けやすい故に、それを失望させまいとするけちな名聞心も手傳つて、ついいゝ加減なことを受答へして、問ふ者の知識欲を押へる結果になることは、私等でもかはりは無い。それには斯ういふ目的の無い通信といふものが、問ふにも答へるにも折々は役に立つのである。

　「無知の相續」といふことを私などは唱へて居る。智惠も知識も必ず後の世に傳へなければならないが、それと同時(306)に現在はまだわかつて居らぬ點、是だけは何でも次の代の人の手で、明らかにしてもらはぬと困るといふ部分を、出來る限りはつきりと、又努力の甲斐があり勇氣が自然と起るやうに、區切りをして引繼ぐといふことも、學問の一つの任務なのである。非常に好い問題だが我々にはまだ答へることが出來ない。多分は斯ういふ方面を探つて行つたら、段々と判つて來るだらう。又は別に斯ういふ問題があつて二つはからみ合つて居り、一つがわかれば此方も明らかになつて來るだらうとか、此點さへ突留めることが出來たら、斯うも見ることが出來るのだがとか、とにかくに自分たちの無知無學であることを、もしくは少しくあやふやであることを白?するすなほさは常に必要である。月曜通信は我々の心の休息の爲に、又當世の學風の改革の爲に、つとめてさういふ大切な弱點を、諸君に訴へるといふ方へ向いて行きたいと思つて居る。

　實例は幸ひにして澤山有る。たとへば「民間傳承」でも取上げられて居るウブスナの問題、今頃是が答へられぬやうではをかしいに違ひないが、ウブが人の産まれることゝ關係が有るらしいといふ以上には、私には殆と何一つ答へられない。それが本來は我々の産まれた土地といふだけの言葉で、神をウブスナ樣といふのはそのウブスナの神の略語であるのやら、又は最初からウブスナとさへ言へば神であつたのやら、どちらか一つであらうがどちらともまだ私には言へない。明らかな證據によつて是からきめる必要が有る。現在は資料が整理せられて居ない爲に、どちらの證據でも引出して來られさうである。さういふ筈は決して無い筈だと思ふ。

　問題をもつと適切にする爲に、ウブスナ神と氏神と、二つは同じものか、はた又別々の神樣かといふことを考へて見る。是には同じだといふ答へと、ちがふといふ答へと出來ることは大よそ想像し得られる。即ちこの二つの單語の用法と内容が、土地によつて少しづゝずれて居るからである。このズレを見究めるといふことは、私は民俗學の管轄だと思つて居るのだが、會員がもつと多くなり又もつと虚心にならぬと、いはゆる初一念が邪魔をして人の考への方を誤りと見たがる癖が拔けない。大體に同じ一つのものは、最初から二つの言葉が出來て居つたといふことは無から(307)うと思ふのだが、是とても今はまだ決定し難い。しかし少なくとも現在二つの一方を探り、他の一方を用ゐて居らぬ土地は後まはしにして、二者の共に行はれて居る地域に於て、實際どれだけの氣持のちがひを以て、二つを言ひ分けて居るかを、先づ注意してかゝるのが順序ではないかと思ふ。

　斯ういふ風にして少しづゝ判つて來たのが、鎭守さまと氏神及びウブスナとの差であつた。是とても人によつてはまだ漠然と同義語のやうに解して居り、現に都會の地にはこの區別の立たぬものも少なくないが、是は幸ひにして一つの土地に、雙方併立して少しも混同して居ない例が多い。まちがつて居るかも知らぬが、鎭守には數部落數大字の協同奉仕がある。無論一つの村限りの鎭守も有るが、その多くのものはそれよりも弘い區域を總括して居て、それと住民との中間には今一つの小さい個々の氏神がある。之に反して氏神又ウブスナといふ社は、小さいながらに直接に住民との交渉があつて、もうその中問には立つものが無い。強ひて言ふならば、その下に家々の神又は一門限りの神が有るのだが、是はもうヤシロの名を以て呼ばれて居ない。たゞ行く／＼ウブスナと氏神とのちがひを考へて見る場合に、この存在を無視することが出來ぬといふのみである。

　今日の制度で郷社と村社、又は無格杜とさへ呼んで居る格式の差等は、不精確ながらも大體にこの鎭守とウブスナとの、規模のちがひを意識して居たものと見られる。それが混同して來るのは不審のやうであるが、たとへ隱れて居らうとも原因が無くてはならぬ。是から氣を付けて見るべきは宮元といふ部落の地位、どんな大きな有力なる鎭守でも、その傍に住む民には祖先以來の親しみがあり、彼等は他の同信の村々に遠慮をして、別に自分たちの小さな社を持つといふことは無かつたから、鎭守は彼等の爲には同時にウブスナであり、又氏神でもあるのが通例では無かつたか。もし然なりとすれば三者は混同して用ゐられる場合も多かつたわけである。

　鎭守といふやうな新出來の單語には耳で聽き覺えて狹くしか使はぬ人と、文字の表から解してやゝ弘く使はうとする者と、いつでも二通りの利用者が對立する。ところの神である以上はウブスナも氏神も、鎭め守りたまふことは變(308)りはない。だから鎭守と呼んで差支へ無しと思ひ、又この方が何か新しく聞えがよい樣にも感じられたことが、或は一層この方の擴張を促したのではなかつたか。此頃改めて我々の學問に向つて、氏神の範圍如何といふ問ひが掛けられるやうになつて、殊にこの點を先づ明らかにしなければならぬ必要が感じられる。斯うだらうといふ類の答へは私はしたくない。ひまがかゝるかも知れないが、やはり諸君の土地々々に就いて、實際どういふ風に用ゐられて居るかの例を、出來るだけ數多く集めて見た上で、少しでも確かなことが言つて見たい。

　假にもし私などの生まれ在所のやうに一つ／＼の村には氏神、その村々が合同して祭をする一郷の社が鎭守であつて、特に或一つの有力な氏神を指定して、總體の鎭守と崇めるのが通例だつたときまると、之に基いてなほ色々の事が考へられるやうになる。一方には其又鎭守の數多くの中から、或一つの由緒の最も久しいものを、一郡一國の合同の郷社にするといふ慣行も成立つであらうし、他の一方には又ウブスナと氏神と、今では殆と同義語の如く見られて居る稱へにも、曾ては是と同じやうな指定又は申し合せがあつて、元は氏神であつたけれども、是からはウブスナと謂つてもよいといふ時代が、或時新たに現はれたのではないかとも考へられる。氏神が現在必ずしも氏の神で無いこと、又氏の神ばかりを氏神といふ地方が、今でも意外に弘いのを見ると、この想像も全く無分別なものとは言へない。

　ウブスナの語源は好箇の題目に相違ないが、私などに言はせると其内容がはつきりしない限り、折角の考證もむだになる懸念が有る。だから最初に先づ何がその本來の要件であるか、たとへばたゞ氏神といひ乃至は鎭守といふのと、何處がちがつて居るかといふ點を突留めてかゝらねばなるまい。三つは全く同じものゝ別なよび方だと、思つてしまへば話は早いが、もしも其成立ちに何等かのちがひが有るとすると、假に現在は殆と同義語のやうに用ゐて居る土地でも、なほ若干の心持の差は殘つて居らぬとも限らぬ。まして全國の端々に行つて見れば、必ず一方の名だけを以て呼び、まるで他の一方の言葉を用ゐない郷社もあれば、或は二つ全く異なる神にそれ／”＼の名を宛てゝ、少しも混同して居らぬ例もまだ少なくは無いのである。

(309)　あまり簡單だと思つて問題にしない人が多いのであらうが、實は斯んなことがまだ精確には判つて居ないのである。諸君の故郷で又は居住地に於て、ウブスナといふ言葉を書物の上の知識では無しに、今でも實際に知つて使ふ人が有るかどうか。もし有るならば何がウブスナであるか。それと氏神といふ言葉とは同じかちがふか。もしちがふならばどんな點であるか。斯ういふ何でもない質問でも、多くの答へを集めたら、きつと意外な結果が見られると思ふ。出來るものならば私の手で、一つその比較を試みて見たい。さうして改めてもう一度、全國協同の學問の力の大きさを經驗したいものである。

　

(310)　　　　　宮參り

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　八月十六日

　ほんの僅かづゝでも、月曜日の朝は何か書くことにしたいと思つて居る。どうも長い間の癖でつい判つたやうなことを書くが、人が輕信しさうなので用心しなければならない。それには毎度話を中止して、諸君の土地ではどうなつて居るかを、尋ねて見るのが一つの制動機の作用をするかと思ふ。

　氏神さまといふ言葉を、今まで使つて居なかつたといふ土地が、思ひの外多いことに此頃氣がついた。しかしウヂガミは標準語だから聽けば誰にでもわかる。やがては全國が是に一致してしまふ時も來ようから、この問題は今のうちに追究して置かぬと、日増しに確かめにくゝなるのである。

　たとへば是まで氏神といふ言葉を用ゐて居なかつた村では、ちやうど實質のそれと同じい郷社を、何と稱へて居たかを尋ねて見たいのだが、その實質なるものが現在はもう大分かはつて居る。氏の神は即ち一つの同じ氏のみで共同して祀り申す神だといふことが、昔はたしかに認められて居り、今は必ずしもさうでない。是から更に一段とその範圍が廣くなるにきまつて居る。少なくとも其變遷の歴史、殊にその前後の事情を明らかにする爲に、比較が必要だとするならば、今のうちで無いとそれが出來ない。

　或は今では早、時おくれの憾みが有るのかも知れない。たとへば氏神と産土の社とが、二つはつきりと對立して、どの點が二者のちがひであるかを知ることの出來る土地は、今はよほど少なくなつて居るやうに思ふがどうであらう(311)か。勿論一つや二つの話だけを聽いてはきめられぬが、是がもし北陸と四國といふやうなずつと懸け離れた地方に、幾つかの一致が發見せられる時が來ると、或は安心してその元の姿といふものを説き、同時に是が混同せずには居られなかつた社會事情を、考へて見られるやうになるのかも知れない。全國に同志の學徒をもつ民間傳承の會などの、大いに働き得る問題はこの方面に在る。一つでも成功すればその次のものはずつと容易になる。努力して見なければならない。

　氏子といふ言葉がはつきりとして居て感じが好く、或はこの名を普及せしめた一つの力でもあつたかと考へられる。之に對してウブスナ樣にはウブ子といふ名を耳にし、それが相應に古い頃から、書いたものにも見えて居たといふ人も有るが、自分だけにはまだ何か珍しい語のやうに思はれる。もしも現在之を實地に使ふ人が有るとすれば、過去に根據があるか否かは別問題として、先づそれがどんな意味をもち氏子と如何にちがふかを尋ねて見たい。しかし是も亦氏神・ウブスナのやうに二つが併び用ゐられて居る例は至つて少ないのかも知れない。

　氏子には誰がなるか。是が案外わかり切つた問題で無い。自分たちは一體どこの御社の氏子なのであらうか。國内各地を轉任してあるく人が、十人に一人はあらうかといふ今日、是がもしきまつて居なかつたら混亂は免れぬわけだが、今まで話し合つて見たことが無いといふばかりで、人によつて確かに解釋はちがつて居る。さうして其原因の一つは、やはり氏神さまの意味がはつきりとして居らぬことに在るかと思はれる。二重氏子といふ言葉も此頃はよく耳にするやうになつたが、さういふことが言へるか否かをきめる前に、先づ以て何を氏子といふかゞ決して居なければならぬ。諸君の答へをうかゞふ手段として、私は一應自分の氏子觀とも名づくべきものを出して置きたい。

　私は自分の生まれ在所には十歳まで、それから三年ほどの間は二里ほど離れた處に居て折々還つたが、十三歳に國を出てからは、五六箇所も住居がかはり、前後を通じて十囘とは氏神に詣つて居ない。時の長さからいふと、今の成城學園前が一番久しく、丸十七年もじつと住んで居るが、それでもなほどこの氏子かと問ほれると、郷里のいとも小(312)さな氏神さまを以て答へる。その結論として五人の子供は、同じ東京のうちでも二つの御社の、ちがつた氏子といふことになるのである。代々同じ屋敷に引續いて住む者には、是は恐らく想像も出來ぬことであり、昔は又家族の一員が久しく外に居ても、兄弟有縁の多數は同じ氏子だから、迷ふ必要は無かつたのである。家がそつくりと他郷に轉住し、それも何度と無く居所をかへるやうな事態が普通になつて、昔の通りの解釋では居られぬ者が、段々と多くなつて來たことは認めずには居られぬのである。

　氏子は生まれて最初に御參りをした御宮によつて決するやうに、思つて居る人が今でも多いかと思ふがどうであらうか。村に最初からちつとも動かずに居る人ならば、是は問題でも何でも無いやうなものだが、それでも時々は母の里方で生まれて、暫らくは父の家へ還られぬ赤ん坊なども無いとは限らぬ。さういふのは一人だけ、他所の御社の氏子になつてしまふか、たゞしは宮參りをしばらく延期してゞも、是非とも我家の人々と同じ氏子にならうとしたか。或は又私たちとはちがつて、別に氏子入の條件といふものを認めて、生まれた土地の如何にはよらず、依然として父の屬する御社の氏子となつて居たか、多分は是も亦土地により家によつて、まち／＼になつて居ることゝ思ふが、この際數多くの例を比べ合せて見て、大體の傾向を明らかにしたいものである。

　この頃になつて知つたことだが、男の兒が七歳になつて、始めて一定の式を履んで氏子入をするといふ土地は方々に有る。勿論家代々の氏神の氏子となるにきまつて居て、勝手な選擇は許されて居らぬのであらう。又女の兒は祭の役が無い爲か氏子入の沙汰が無く、次男以下にもそれを必要とせぬ例もあるらしいが、さういふ村々では氏子といふ語の解釋はどうなつて居るのであらうか。斯ういふ點に氣をつけて行くと、氏子といふものゝ元の意味が、段々に判つて來ることゝ私は思ふ。

　兒が生まれると幾日かの後に、その日數は土地によつて非常にちがつて居るが、母以外の者が抱いて初宮參りをする習慣は、今日では普通と謂つてよからうが、是にも一向門徒とか新しい家庭とかの外に、以前からまるでそれをせ(313)ぬといふ土地がある。自分の家から近い多摩川對岸の農村の中でも、それと無く尋ねて見ると、赤子の宮參りといふものは知らぬといふのがあつた。近頃他處から入つて來た人々の家で、赤子を御社に連れて行くものが多いので、是は近頃の流行だなと思つたとさへ言ふ者があつた。一方東北などにもまだ宮參りをさせぬといふ地方が殘つて居るのを見ると、或はこの想像の如く近頃始まつたもので無いまでも、とにかくに後に始まつて大いに普及したものかも知れない。斯んな單純な又しをらしい慣習でも、うつかりと日本固有の昔の仕來りだと、斷定してしまふことはまだ出來ないと思つた。

　從つて又私などの如く、初めて宮參りをした御社の氏子と、解釋して居るのも一つの事實には相違ないが、斯うで無くてはならぬといふ主張をする根據は無いのである。明治維新の佛教抑壓時代に、何とかして今までの宗門帳統制を、神社の方へ移管させようといふ試みが中央にもあつたものか、少なくとも府縣によつては之を實行して居たらしい形跡が有る。家が神葬にかはつて寺と縁を切つてしまへば、人別をそれ／”＼の宗門に分けて、悉く寺院に登録せしめようとした前代の行政方針は續けられない。それで最初には先づこの宮參りに際して、一人々々の産まれ兒に氏子札を渡し、その控へを取つて置く制度が始められたらしいのである。しかしその爲には相當の機關を要し、又後々の異動を申告せしめなければ、是だけではとても人別帳の代りにはならない。それで程も無く完全な戸籍制が制定せられて、氏子札はやがて不用に歸したらしいが、しかもこの結果としては氏子といふ名稱の公認、之と宮參りとは因果關係の有るものといふ考へ方が、少なくとも國の中央部の人心を支配するやうになつたのではあるまいか。この點は當路の人たちばかりに聞いて見ても判らぬことで、やはり今一ぺん隅々の土地の、氏神氏子といふ言葉も口にせず、又は宮參りといふ習慣も知らずに居たやうな人々の、やゝちがつた實例をきゝ出して、とくに比較をして見る必要があるのである。斯うで無ければならぬといふ研究も、民心統一の上からはたしかに必要であらうが、それは民俗學からは外の仕事である。我々はたゞ今までどうして居たかを十分に確實にして、其知識を國を憂へる人々に、引渡すこ(314)とを任務とすべきである。

　まだ言ふことが殘つて居るのだが、すこしごた／＼して來たから一旦は打切り、筆を改めてもう一度書いて見ようと思ふ。

　

(315)　　　　　祖靈社

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　八月三十日

　古い言葉が殘つて居るといふことは必ずしも元の心持が傳はつて居る證據にはならない。古人が氏神といふ語によつて受取つて居た内容は、現に今日私らの解するものとは違ふらしい氣がする。少なくとも國の南北と中央とで、名は同じでも物は可なりに土地毎の變化があるらしいから、うつかりと是を一括りにして解することが出來ない。今までの私共の考へ方では、名が一つならば起りも一つで、現在互ひにちがつて居るならば、何か理由があつてそれ／”＼に改まつたのであり、事によるとそれが甲乙丙丁の順序で、次々に改まつて行く各段階を保存して居るのかも知れぬと思つて居たのだが、その以外になほ一つ、古い名だけをそつくりと持つて來て、異なるものに取付けたといふ場合も有り得たのである。勿論さういふのが有つたら何かの方法で確かめられる。たゞ漠然といつまでも、さういふ疑ひばかりを抱いて居なければならぬ必要は無いと思ふ。

　氏神を今日のやうに數多くの氏々で、合同して祀つてもよい御社としたのにも、原因は必ずしも一つきりでは無かつたかも知れない。村には有力な大きい氏と、それに依りかゝつて居た小さい氏とがあり、姻戚とか猶子とかいふものゝ親しさが、時としては一門一黨の端々以上であり、しかも同族限りの結合が昔ほど鞏固で無くなつたとすれば、一方の氏神祭に他の氏の者が參加し、又は少なくとも祭日祭場を一つにしても、どこからも故障は出なかつたといふ場合が有り得、現にさういふ實例も幾つか知られて居るのだが、是と併行して、又は之を普通と見た結果、本來は氏(316)神でなかつた御社を、いつと無く氏神さまと呼んで、我人ともに怪しまなくなつたものが、近世少しづゝ増加し、殊に明治の新政時代に入つて、著しく多くなつたのではないかと思ふ。

　たとへば最初から種々なる家々で合同して拜んで居た鎭守の社、又は定まつた一つの氏が率先して祀つたにしても、それは氏の神としてゞは無く、土地の神樣としてゞあつたうぶすな樣を、どこにもちがふ所が無いからと思つて氏神とも呼ぶことにしても、訂正しようとする者が無かつたのでは無いか。殊にうぶすな樣の方は起りがはつきりとせず、又大きさも近かつたので、混同しやすかつたのではあるまいか。此頃になつて私にも氣が付いたことは、兒が生まれて始めて宮參りをする御社を、きつと氏神さまのやうに思ひ込んで居たのも、或は氏子といふ新しい言葉の力であつたかも知れない。めい／＼の氏の神だとすると、もつと早くから知つて居られたかとも思はれ、お目見えが少しばかり遲過ぎるやうにも感じられる。土地を治めたまふ産土神でおはしませばこそ、産屋のいましめの許されるのを待つて、初出の行事として拜禮に行くといふことも一段と自然に近いやうである。産屋の中には産の催しの始まる前から、既に降臨を仰いで居た産神があつた。この方は箒の神、又は山の神ともいふ者があり、山に迎へに行く風習さへ殘つて居る爲に、却つて其由緒が不明になつてしまつたが、我々は?々神の屬性の一つ／＼によつて、別の名を以て唱へる傾きを持つて居る。それを考へると此方が寧ろ家々の神かも知れぬ。山から降つて來られるといふことは、盆の御先祖の精靈に就いても、今でもまだ信じて居る地方があるのである。

　産神《うぶかみ》と産土神《うぶすながみ》とは、名が近いので關係が有りはしないかと、考へて見た人が會員中にもあつたが、今は少なくともさう見てよい證據が無いばかりか、或は反對の推定さへ成り立ちかねない。即ち一方は臨時に必要が起れば進んでも降臨なされるに反して、他の一方はたゞ宮參りを待つて居られる。忌の穢れが有るうちは此方は近よることを許したまはぬに反して、産の神は忌屋の中ですら御祭り申して居る。それが氏々の神の一つの御姿だといふことは、中々容易にはきめられまいが、ともかくも宮參りをするのは又別の神といふことまでは言へさうである。從つて今日の私た(317)ちの樣に、宮參りをしたから氏子になつたと思ひ、氏子にして下さつたから氏神さまだと考へることは、果してこの言葉の本來の意味を、傳へて居るか否か。惡くするともううぶすなと氏の神と、昔からあつた二つのものを、一つに混同してしまつた結果かも知れぬのである。勿論是からは強ひて區別を立てぬことにしようと、いふことになつても是は反對するに及ばぬ。たゞ最初から此通りであつたと言ひ切る爲には、もつと現實の例をたしかめて見なければならない。私は寧ろ二つがもとは竝び立つもので、宮參りをするのは産土の神へであり、氏神の御神�ｺはもつと内輪の方だけに、強く伸びて居たものではなかつたかと考へかけて居るのだが、果してさういふ假定は成り立つものかどうか。

　民間傳承の前々の號にも、既に地方の氏神の實例が、相應に數多く報告せられて居るが、是が案外に各地まち／＼で、必ずしも私などの今までの解釋とは一致して居ない。たとへば關東の村々から東北の各地にかけては、家の屋敷のうちに祠を建てゝ、家限りで祀つて居るものを氏神といふ例が最も多い。それならば他の氏々とは全く關係が無いのだから、すべて其一門の先祖を神と崇めて居るかといふと、實際はそれと反對に、さうして又村の産土神、一郷の鎭守樣とは同じに、多くは國内の大きな御社の神を勸請したり、又は地神とか水神といふやうな弘く知られた神の名を以て拜んで居る。是と他の一方の南の端、たとへば鹿兒島宮崎などの縣に於て、一門合同して祭をするといふ氏神とは、この肝腎な一點が異なつて居るやうに思ふ。神の御本名ともいふべきものが全く知られず、たゞ何々氏の祭る神、又は何といふ土地に於て祭る神といふ風に傳へて居ることは、勿論それのみでは先祖の神だといふ證據にはなるまい。是は延喜式の神名が既に其通りであり、又現在の多くの村社でも、さういふ例は幾らもある。まことの御名を呼ぶことが古來の忌であつたことを考へると、祭神の明示は寧ろ新たになる制度であり、神道の學問の一つの進み方であつて、以前は神の名の不明なのが一般の習はしであつたかとも思はれるからである。しかし少なくとも斯樣な變遷をまだ經ないものゝ中に、我々の尋ねる氏神の古い思想が、含まれ包まれて居ることだけは想像してよろしい。そ(318)れで民俗學の是からの働きは、どうか此方向へ向けたいものと思つて居る。

　幾つも方法はあらうと思ふが、先づ第一に氏神に先祖を祭つて居る例が、今でもあるかどうかを注意して居ることが必要である。それが全く無いか、さうで無いまでも甚だ稀にしか聽かぬとすると、然らばどういふ神樣を祭るのかと、尋ねるのが順序のやうにあるけれども、それは私は暫らくさし控へて居りたい。といふわけは今日の傾向が、強ひても全國著名の神を祭るものゝ如く、考へて行かうとして居る際であり、又さういふ風に説き勸める人も多くなつて居るからである。折角殘り傳はつて居る前の代の氣持は、斯ういふ正面からの調査によつて、却つて隱れてしまふかも知れぬ處れのあることは、ちやうど此頃の庭の叢に鳴いて居る蟲を捕りに行く場合にも似て居ると思ふ。それよりも問ひ方は少し廻りくどいが、御先祖樣はどうして祭つて居るかといふ類の聽き方を、汎く村々の老いたる住民に向つて、して見たらどうであらうかと思つて居る。古い世の氏神の大多數は祖神だつたといふことを、前以て知らせて置いてから訊くので無いから、決して誘導訊問にはならぬと信ずる。それ程にも今日は古い事を知らぬ人が多くなつて居るが、しかも町へ分家した若い人たちでも無ければ、全く祭つて居りませぬと答へる者は、今はまだ恐らくは有るまいと私は想像して居る。

　分家の殊に新たな土地へ移つたものは、昔も此點には比較的大きな自由をもつて居た。それが現在の氏子思想の變遷に、大きな影響を與へたのではないかといふことを考へて見たいのだが、話が込入るからその點は後まはしにして置かう。本家の直系の誇りをもつ人々ならば、たとへ都會のまん中に移住し、格別信心の強くない者でも、うちには位牌がある、無論佛壇で祭つて居ると、答へるであらうことはほゞ確かであるが、それだけでは話が實はまだ濟まない。家々の記憶などは存外に限られたもので、著名な舊家と謂つても十代か精々十五代、それより前の祖先は俗名も傳へて居ない。よほど大事な人だけは百年忌も營むが、其次の年囘までは又大分の間があつて、祭る主も更迭し、忌辰も忘れてしまつて寺で調べてもらふやうなことになるのである。先祖代々といふ石塔や位牌は、斯ういふ疎隔を防(319)ぐ爲の、近頃の考案かと思はれるが、是と身近いまだ面影に浮ぶやうな人々との間には、今でもまだ一つには考へられぬ分堺のやうなものがある。さうして我々の問題にしようとするのは、その永い年月を過ぎて、名も命日も忘れてしまつたやうな遠い祖先を、實際にはどうして祭つて居るかといふ點なのである。

　伊豆で最近に私の經驗して來たことは、中部平地の村の氏神社境内には、祖靈社と稱する石の祠のあるものが折々ある。由來を尋ねて見ると新しいもので、明治の初年に國學が興隆し、寺と縁を絶つて佛壇を廢棄してしまつた人が、その代りとして斯んなものを設けたので、それも多くは不幸のあつた當座に、新たな亡靈を祭る場所が無い爲に、僅か半年か一年の間に、之を建てるのが普通であつたといふことで、死穢を憚らない忌はしい所業のやうに私には感じられた。しかしその蔭に今まで全く考へずに居た幾つかの點に、心付くことが出來たのは有難いともいへる。それで此あと其話をして見たいのだが、あまりに長さうだから次の週に書き繼ぐことゝし、こゝにはたゞ問題のみを掲げて置くと、一つには斯ういふ場合にもなほ祖靈社と言はうとする心持、それから二つには是を村の氏神社の境内に、持つて來て建てる氣になつた動機である。何か人をさうさせるやうな力が、隱れてまだ村人の中には殘つて居るのでは無いか。さういふことをもう一度考へて見たいと思ふ。

　

(320)　　　　　氏神さまのこと

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　九月二十七日

一、氏神さまのことは、當路者もこの際深く考へて見ようとして居るらしい。日本民俗學の學徒が今までに尋ねて知つて居ること、又は是から觀察を續けて行けば明らかになる見込のあることが、果してどの程度にまで實地の問題解決に、或は新たなる將來の計畫に、參考として役立ち得るであらうか。ちやうどよい機會だから御互ひに之を試みることにしたい。事實を精確に少しでも想像を附加せず、知つて居ることだけを上手に記述して置くことが大切であるが、それと共に我々も、自分の知つて居ることを報告しただけで手を休めず、同志の人々の仕事に注意して、よその事實とよく比較をして、ちがつて居る點があればどうしてちがふのかを、徹底的に考へて見たいと思ふ。もと／＼同じ民族だから始めは皆同じ事であつたものと、一應は推定して置いてよい。それが現在、土地により人によつて、少しづゝの考へ方の差が出來て居るとすれば、その理由はどこかに無ければならぬ。さうして其理由は今まだ説明し得る人が無いとすると、學問は新たにこの方面に於て、又一段の進歩をなし遂げる希望に充ちて居るのである。それで私も其希望の下に、こゝ暫らく筆を止めて、一月號の成績を待ち合せて、もう少し置いて見ることにする。

一、誕生に關する民俗は、是も健民運動の一つの出發點として、非常に重要な問題であると思はれるにも拘らず、今日の常識は存外に幼稚な?態に止まつて居る。目的はたゞに三つ兒五つ兒を慶祝するだけで無く、丈夫なよく働く國の爲になる、次代の日本人を確保することに在るのは勿論であるが、さて社會の之に對する考へ方は、今と昔とでは(321)何等の變りも無いかどうか。もしも變りが出來て居るならばどういふ點、どうして變つて來たかといふことゝ、どちらの方がよいかといふことは明らかにして置きたい。産と産屋に伴なふ儀式の中には、一つの土地だけの事實によつて、その趣旨を明らかにし得ないものが色々有る。今度は多分方々から集まつて來る材料によつて、報告者自身も始めて心づくやうな、大切な古い仕來りが見出されて來ることゝ思ふ。十數年來の私などの經驗でも、人が我郷土だけの珍奇な習慣のやうに思つて、さも事々しく述べ立てゝ居る事實の中に、全國隅々の一致の見られるものが特に産育の方面には多かつたやうである。たつた一つといふよりも、此方が寧ろ不思議は大きい。それを明瞭に解説するのは容易なことでないが、先づ疑問を具體化し、且つ我々の共有のものとして、將來多くの人の手で共々に、其答に向つて進むやうな材料を、集めて行くといふまでならば此會の力で出來ると思ふ。既に出て居る民俗語彙を熟讀して、無益な重複をせぬ樣にしたいといふことは、私も全く橋浦君と同感だが、何分あの本がとつくに絶版になつて、會にも無いのだから致し方が無い。是からは追々とそれを手近に備へて置いて、調査と討究の足場に供し、いつまでも同じ處にうろついて居るやうな、時の浪費を避けたいものと思ふが、それには全體にもう少し、人の書いたものを注意して見て置く習慣を付けなければなるまい。

一、生死觀の問題については、私たちばかりか世間でも非常に民俗學に期待して居る。死んでもう一度この愛する國土に、生まれて來ることが出來るといふことは、たしかに昔の人は牢く信じて居たことだが、果してその確信はまだ一部には傳はつて居るかどうか。遠い處に行つてしまふ、行つてしまふのが成功だといふやうな教へは、可なり久しく又力強く行はれ、それと矛盾をせぬ虚無の悟りの如きものも、多くの哲人の逸話として語り傳へられる。斯う觀ずるのがよい又は正しいといふ書物は、最近になつても煩はしいほど世に送り出された。しかし我々の知つて置きたいのはそれで無く、事實上國民の大多數が、たとへ言葉には表はさなくとも、心の底でどう觀じて居たのかである。昔もさういふことを改まつて書いた人は無い。たゞ人々の擧動や何と無き物いひの端々から、窺ひ知られるものが色々(322)と有るのだが、それと現代の常人の考へて居るものとの間に、どれだけの變化があり又はどれだけの保存があるかといふことが、何とかして明らかにして見たいのである。それには常の人の常の日の心がけといふものが、最も根強く平生の覺悟を支持して居ると思はれるから、一つ／＼の切迫した場合に、無意識に現はれて來るものよりも、寧ろその周圍の永く思つて居る人々の側から、彼等の素養になつたものを、詳かにして置く方がよいであらう。今度は痛切な澤山の實例の、自然に觀察し得られるよい機會ではあつたが、是が無かつたところで國家としては、是非とも一度は考へて置かなければならぬ問題である。單なる個人の救濟や慰安の爲でなく、國と信仰との間の大切な繋がり、未來の宗教についての確固たる認識の爲にも、民族特有の生死觀だけは、是非とも一通りは隱れ無くして置くべきである。或は問ひ方がまだ惡いので、今囘は十分な資料が集められぬかとも思ふが、少なくともこゝに大きな問題が埋もれて居るといふことを、心付かせる位な力はあるであらう。經驗は我々の志す方に向つて、積み重なつて行くにきまつて居るから、斯んな捉へにくい事柄でも、さういつ迄も今のまゝでは居るまい。

　

(323)　　　　　遊戯とマ・カゲン・ホドアヒ・オモヒキリ等

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　三月二十日

　六十何年か前、私たちが全心を打込んで居た遊戯の中には、どれ位の錬成力、即ち後々の生活に用立つたものが有つたらうかを考へて見よう。「彈き」は東京ではオハジキともいふ位で、專ら女の兒の遊びとなり、男がそれに加はることは親たちも餘り悦ばなかつたやうだが、それは幾分メンコとかパッタンとかの、やゝ荒々しい賭事が入つて來た結果で、さういふ遊び道具は小商人が賣らなければ手に入らない。だから私らの幼い頃には、まだ田舍では街道ばたでも、さういふ物を弄ぶ者は少なくて、しば／＼男女の子が入りまじつてハジキをして居るのを見たのである。いつの頃から始まり又は盛んになつたかゞわかると面白いのだが、それを確かめる方法は先づ無いであらう。たゞ冬から春先へかけて、日のよく當る農家の縁側が、この遊びをするのに最も都合のよい場處であり、農家に斯ういふ表の板敷が出來たのは、紙の明り障子が普及した後であらうから、大よその時代は判るので、その以前は土間の片端とか、爐のまはりの蓆の上とかで、家の者に邪魔にされながら、ただ臨時に小規模にさういふ慰みをして居たまでゝないかと思ふ。次に考へられるのは季節のことで、兒童の遊戯には妙に一年を巡環して、次から次へと移つて行く傾きがあつて、小石を手玉に取る所謂イシナゴの遊びでさへも、年中打續いては行はれて居なかつた。殊にハジキなどは材料の關係で、もとはいつでも出來るとは言へなかつたのである。私などの記憶では、一ばん都合のよかつたのほ椿の實の熟する時、割れてこぼれたあの種子を拾つて遊ぶのが、最も普通であつたやうに思ふ。炒豆をもらふとそれを使つ(324)て遊ぶこともあるが、大豆はあまり轉び過ぎていけない。生の蠶豆は形も大きさもちやうど好いのだが、なほ堅い家では穀物を玩具にすることを嫌つて居たから、さう一般的には許されなかつた。之に比べると椿の實は、郷里では油に搾ることも無く、全く無用に落ち散つて居て、しかも分量もさう多くはなかつたから、ちやうど兒童が財産にするには適して居た。それよりも第一に形に色々の變化があつて、ハジキの遊戯に我々の機轉を働かす餘地のあつたこと、又重さ大きさの頃合ひであつたことが、我々の興味を引付けたやうに思ふ。遊びの細かい點を知らぬ人の爲に説くならば、先づ參加するすべての者から、三つ又は五つの實を出させ、わざをする順序をじやん拳できめる。演技者はそれを集めて兩手に包んでがら／＼と振り、成るたけ小ぢんまりと場の上に撒きちらす。是に先づ若干の技倆が入用であつた。二つの球の間隔が一寸から二寸まで、あいて居るのが最も都合がよい。その一つを指で彈いて他の一つだけに打當てると、その當てられた球を引上げて所得にする。當らなかつた場合は勿論、すべつて他のものにさはつても失敗で、直ちに殘りの場に在るものを集めて、次の演技者に引繼がなければならぬ。ずるい兒になると乙を狙つて丙に當つても、始めから丙を狙つたやうな顔をすることが有る。それを制する爲に始めから明言させることもあるが、通例私たちは甲乙二つの中間に、先づ指先を以て竪に線を劃せしめたが、この事を何と謂つて居たかもう覺えて居らぬ。筋を引かせる目的は今一つ別にあつて、あまり接近して居る二つの球を、やみ／＼と樂に打つて取らせることを防いだのであつた。指がさういふ二つの球の中を通るときは、目を皿にして他の子供は見て居る。さうして少しでも雙方どちらかゞ觸れて動くと、それも亦失敗のうちであつた。但し始めから二つが接して、少しも隙の無いものは取つてのけることが許されて、番にあたつた兒は悦んでそれをのけた。是も私の國では何と謂つたか忘れたが、今日はクツツキといふ者が多く、北信ではグツ、埼玉ではメグシヤ、東京ではネブ又オネバ、下總ではボツカとも謂ふさうである。オネバがたくさんに出來るのは次の兒の樂しみだが、中には二つのごく接近して指の通らぬやうなのまで、邪魔になるからごまかして除けてしまはうとする者もある。クツツキだ、いやさうで無いといふ爭ひは毎度起り、や(325)かましいと叱られたり、又はその爲に競技が中止になることもある。子供どうしの氣質や癖が互ひにわかり、後々村共住者間の人望とか評判とかいふものにも、此日に萌して居ることが相應に多かつたやうである。

　彈きの遊戯が一時非常に盛んになつて居たことは、やがてその資材が商品になつたのを見ても想像し得られる。私の在所は海から五里しか無かつたが、こゝではキシヤゴの用ゐられて居るのを見たことは無かつた。ところが現在の方言を尋ねて見ると、西は中國西半の各縣から九州の一部にかけて、イサラ・ヤシヤクといふ名があつて、是は彈きに用ゐる小さな貝殻の名でもあつた。自身磯に下りて拾うて來ることの出來ぬ土地までがそれを使つて居るのだから、賣る店があつたのである。中部地方としては名古屋あたりのイラミ・ヨラミ、是と西國のヤサラとは同じ貝かどうか、まだ比べて見ないので確かなことは言へぬが、とにかく同じ名は三河の山村から信州、海は見たこともあるまい子供までがさう呼んで居り、飛騨の高山でも、イラミコ・ヨラミコと謂つて居る。或は物は元通り樹の實か何かを使ひながら、名だけは知らずに海近くのものに改めたのかも知らぬが、ともかくも後者の普及の影響は受けて居る。信州の松本附近では、スイガイといふのがお彈きのことだといふが、酢貝（郎君子）がそれほど自由に手に入つたとも思へぬから、是だけは多分名の適用の誤りであり、乃ち却つてヨラミ・イラミといふ貝の、實際に用ゐられて居たことを推測せしめる。東京などの實際は、キシヤゴといふ遊びの名は人が知つて居て、物は硝子製の釦の屑のやうなものが久しく見られた。是が東北へ行くと會津地方ではギヤマ、宮城縣刈田郡などではビンドロ、岩手縣紫波郡ではセトツブといふのがお彈きのことだといふのは、或はあの新しい商品と共に、始めてこの遊戯が行はれ出したことを意味するのではないか。もし古くから遊び方だけはあつたのだとすると、それを何と謂つて居たかゞ知りたいものだと思ふ。

　私などの幼少の頃には、キシヤゴは見ただけでハジキには使つた記憶が無く、硝子製のものなど無論まだ出て來なかつたが、其代りには至つて小さな土メンコが商品として現はれ、それが少しづゝ彈きの遊戯にも用ゐられて居た。メンコを私たちは普通メントクと謂つて居た。その理由はわからぬが、ともかくも鬼やおかめや七福神の、面型を摸(326)したものが多かつたからメンと呼んだことだけは判る。極端に廉價なものだつたが、それでも錢に代へるから財産といふ感じが強く、椿の實などに比べると蓄積の慾を刺戟しただけで無く、遊びにも季節感が無くなつて、是を正月の穴一などにも使つて居た。しかし根原は硝子の小さな釦形などゝ同じに、流行の彈き遊びに使はせようとしたのであつたことは、その最も普通の遊び方が、同じ數を仲間から出させて、それを兩手で振つてから撒きちらして居たのでもわかる。たゞ此方はもう技術を重んぜず、單に表面の出た方が勝で、裏になつた方を取つてしまふといふやうな、賭博に近いものになつて行つたのである。さうしてこの土メンコはまだ私の覺えて居るうちに段々と大きな形の精巧な、從つて價の高いものに變つて來て、もう彈きには用ゐ難くなり、終には以前の栗相撲式に、たゞ片端を押へて相手のものを引つくりかへして取るといふやうな、簡單な競技にしか使はれないことになり、それが又後から流行して來た鉛の天神や、丸いボール紙のパツタン遊びなどの方へ走つて、男の兒ばかりの土の上の遊戯になつてしまつたやうである。斯ういふ變遷に對しては、成人は昔から深い注意を拂はなかつたが、ハジキの遊びの衰微といふことは兒童の發育の爲には相應に大きなことだつたと思ふ。素より指先の器用といふことが主たる要件ではあつたらうが、是に伴なうて全面の計畫、どれからどれへ行くのがよいかの判斷、殊に斯ういふ事は自分に出來るか否かの前途の見切り等、大よそ人間が大きくなつてから入用な能力は、小規模ながらすべてこの毎日の遊びに熱中することによつて養はれて居たのである。以前も何か別途のものが、形をかへて利用せられて居たであらうし、それから以後の學校の教育にも、何かそれに代るものは必ずあつて、それで我々のやうな國民が出現したのであらうが、自分に關する限りでは、ハジキなどはたしかに良い體驗であつた。たとへば年上の兄が十分にわが技能に自信をもち、わざと手近の容易なものを後に殘して、周圍の遠いのから段々に狙つて取つて行くのを見ると、尊敬に近い念さへ抱かずには居られなかつた。又は二つの接近した椿の實の間を、細い小指を立てゝ筋を引く女の子などを見ると、それが非常に好ましい形にさへ見えたのであつた。六十年を隔てゝ後まで、まだその當時の感覺が私には殘つて居る。多分は暗々裡にそれ(327)から以後の事業に、この經驗は役に立つて居ると言つてもよいであらう。

　ハジキよりは今一段と起りが古からうと思ふ遊戯に、ツバナフリ（茅花振）といふのがあつて、是には母なども興味を失はずに居たやうであつた。この方は通例土の上の遊びで、先づ軒先や路端の一區劃を、口で吹き埃を拂ひのけて場處をこしらへる。競技はツバナの採集から始められなければならぬ。茅の花の穗の抽き出るのは暮春の十日半月の間だから、即ち又純然たる季節の遊びであつた。東北地方に行つて見ると、同じ遊戯を藤つき又はフヂ／＼などゝ呼んで、紫藤の葉柄を?り取つて是に用ゐて居る。子供が左手に澤山の藤の莖をつかんで、お宮の庭などに三人、五人、しやがんで此遊びをして居るのを見ると、今でも私は立止まつて覗かずに居られない。それほどなつかしい思ひ出が殘つて居るのである。最も肝要な技術は三本のツバナを右手に取り、それを三本の指で捻ぢて振ると、其三線の交錯によつて三角形が出來る。その三角の形がよく整ひ、且つ廣々として居るのが勝になる。數を算へて皆から出し合つたツバナを、出來るだけ多くその三角の穴に刺し立てゝ、入つただけを自分のものにしてよいのだが、こゝでも周圍の兒がよく注意をして居て、少しでも三邊のツバナが動いたら失敗になり、試みたツバナを皆返して、一本も自分のものにはならぬ定めであつた。それで用心深く僅かだけ、入れて取つてそれで滿足する兒と、やゝ大膽に成るべく大きな束を、三角を動かさぬやうに入れようとする兒とがある。何でも無いことのやうだがこの見積りが小兒には冒險で、次第に程合ひとか目分量とかいふことを學んで行つたのかと思ふ。ツバナは昔から拔くと謂つて居て、細いしつかりした根元に近い莖までを、附けて取ることが必要であつた。それをよく揃へ一まとめにして入れると、ちよつと見たよりは餘分のものが、三角の中にをさまるものであつた。しかし大きくなるとそんな事ぐらゐは直ぐにわかり、且つ三角の形なども、僅かな加減によつて廣くし得られるから、さういつまでもこの遊びを續ける子供は無かつたやうだ。東北の藤突きなどは殊に莖が太く又曲つて居るので、我々が試みたほどの巧者もきかない。それで今では五つ六つといふ位の、ごく幼い者だけが之に携はるやうだが、以前は或はもつと大きくなつた少年までが、寧ろ斯う(328)いふ遊びによつて、精確といふことを練習した時代があるのかも知れない。

　ねらひといふ事には誰でも知る如く、機械以前の勘だけを働かせた時代が、隨分と久しく續いて居た。いくら愛する親祖父でも、口の言葉を以て之を傳へることは出來ず、いはゞさういふ體驗の機會を成るべく多く作つて與へようとしたのであつた。是が又本來の遊戯の社會的意義であらう。一番大きな刺戟は、豫定の如く狙ひの當つたときの嬉しさであつて、それがめい／＼の技能を進ませる力だつたらうと思ふが、不思議に一村の中又は一つの群には、さういふ狙ひの精確な者が居て、それが少しづゝ周圍を感化しても居た。私は小さい時から筋力が弱く、石などを遠くへ投げることは斷念して居たが、それでもこの手加減とかコツとかいふものゝ、貴重なことだけはよく認めて居た。さうしてそれを試みるやうな機會は遁がさぬやうにして居た。水面に石を走らせる遊戯などはどうして始まつたのかを知らぬが、日本では全國にあつて色々の方言が出來て居り、又對岸の大陸にも有るといふ話である。私などの故郷では之を「水くはせる」と謂つて居た。投げる石にも選擇があり、又之を飛ばせる身構へにも條件が有るらしいが、とにかく普通の者は精々三つ、又は二度しか水に觸れないで沈んでしまふのに、子供によつては之を五つ以上、六つも七つも水食はす者があつたのである。何の目的でとも言ひ得ないものだけに、是のみは成人の模倣で無く、最初から兒童の間に起つた遊戯ではないかと思ひ、今でも自分は水の邊に立つ毎に、なつかしく昔を憶ひ起して居る。もう少し諸國の例をしらべたならば、或は是が存外に古い、又意義のあるものだつたことが判つて來るかも知れぬが、現在のところではまだ其手掛りは無く、名前も子供が付けたかと思ふものばかり多い。私たちの水くはせるは、信州北部などでは水汲ませる、同じく南端では水きり、美濃の東部では水はかり、遠く離れて壹岐の島では潮きらせるといふ。東京などでは以前「ちようまやる」といふのが此事であつた。チヨウマは鶫のことで、石の飛び方が此鳥と似て居るといふのであらう。紀州熊野にはホケキヨといふのも有る。それから志州の海岸ではデンデンクリ、四國は一帶にチチンコ・チチツコウ又はチチクリ、大隅ではピンピラコ、共に飛び方の形容であらう。周防大島でトウクネンボとい(329)ふのは、さういふ唱へ言に基くと宮本君が書いて居り、佐渡ヶ島の各地の例は曾て青柳君が「民間傳承」にも集めて載せて居る。其殘りの地方に於て今少し變つた例を捜し出して見たい。

　

(330)　　　　　犬そとばの件

　

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　七月二十八日

　此頃ぽつ／＼と集まつて來る地方の質問といふのを注意して見ると、是ぢや答へられまいなと思ふやうなのばかりが目につく。もしも困らせてやらうといふのが主たる動機で無いならば、是は久しく我々の同胞が、物を尋ねる技術を練習せず、問を一身の役に立てたいといふ志が少しくおろそかになつてゐる結果かとも考へられ、それも無理はないと私は同情する。學問といふ古い漢字を見てもわかるやうに、學はもと問によつて始まるべきものであつた。論語でも孟子でも、その大部分が、問に對する答であつた。それが學文などゝ書き改められた頃が、日本でも最も學の衰へた時代で、人は文字をまなぶを以て能事とし、その文字も隨分まなび難かつた爲に、やつとその意味がわかると、それを到達と心え、批判も無く内容に盲從してしまふおろか者が多く、その弊害は近頃になつて、殊に堪へ難くなつて居たのである。改めて我々が、人に心からの疑問を起させ、直接自分の生存に關係のある質疑といふものを、殊に上手に又有效に提出する習慣を、養はせたがつて居る理由である。

　相手を困らせる問ひ方といふものも、練習の爲には時々は必要かも知れぬが、是は身にならぬ故に正確な意味での問ではない。何度も失敗して次第に滿足なものに行きつくのだから、一概に之を排斥するにも及ばぬが、忙しい人ならばもう少し前以て考へて見なければなるまい。何でも無いことのやうだが、出來るだけ答の得られさうな方向に向つて、比較的答の得やすからうと思ふ問題から、出して行くのがむだを少なくする順序かと思ふ。ところが實際には、(331)自分は斯んな六つかしい疑問をもつて居るのだといふことを、人に示さうとする態度のものが多く、さうでなければつまらぬ問だといつて輕しめられることを恐れ、聞きたいことを控へて居るらしい樣子もある。二つともにまだ新しい學問の風になじまない爲としか考へられない。

　そこで其樣な惡口を言つてしまつてから、實例を出すのは自慢のやうで見苦しいが、實は私などは、郷土研究の時代から、續いてこの方式で人に問を發して居る。雜誌が利用し得られる限りは、誰と相手を定めずにも尋ねられるが、もしもこの雜誌が出せなくなれば、やはり大よそ答を持つて居さうな人を捜して、直接に問ふより他はない。さうして其疑問の數も、近頃は大分たまつてゐるのである。私の意見では、もし事情が許すならば、何故にわざ／＼其樣な事をきいて來るのかを、向ふも呑込み且つ同情して、共々に關心をもつてくれるやうに、簡單に知りたがるわけを説明する方がよいかと思ふ。通信費も高くなつたから、手輕にハガキですまし得る爲には、それをかいつまんで要領よく、知らせるやうな稽古も必要であらうが、現在は幸ひにまだ民間傳承も出て居るから、話題として第三者たちにも讀んでもらふやうに、幾分詳しく一つの疑問を説いて見ることにする。實際に又是は、全國の同志者が、關心をもたれてもよい問題なのである。

　さうして、最初は決して六つかしい問題でない。關東の東北部から福島宮城の二縣、この方面ならば答へ得る人が多からうと思ふ。問ひ方を三つにわけて、一には犬卒塔婆といふものを知つて居られるか、見られたことがあるか。見てゐる、知つてゐるといふ人に、第二以下の問は向けたいのだが、物は同じで名前だけのちがふ場合が有り得るから、他の土地の人たちには説明した方がよい。犬そとばといふのは、さきが二股に岐れた二尺ばかりの木の棒で、通例はその一側面を削り白めて、ソトバらしい供養の文句が書いてあり、今まで見たところでは、路の傍の土に突き插したものが多かつた。私の知りたい第二の點といふのは、何の爲に又どういふ場合に、誰が犬そとばを立てゝ行くのかといふことで、それが土地によつて少しづゝかはつても居るかと思ふ故に、出來るなら一時に數多の例を知つて、(332)比べ合せて見たいのである。

　斯ういふやゝ手數のかゝる工作と行事を、たゞ何と無くするといふことは有り得ない上に、木だから忘れてしまふほどは長く殘らず、從つて近所の人ならば、皆理由をまだ記憶して居るだらう。今までに私のきいて居るのは、犬が死んだので憫んで供養をしてやつたのだといひ、現に木の表面の文字には、如是畜生發菩提心と書いてあるのも見た。しかし不審に思はれることの一つは、家畜の中でも猫や飼鳥、又は牛馬の爲には立てるといふ話をまだ聽かない。何か犬だけに限つてさうしなければならぬわけがあるのか。是は六つかしいことだから、立てた人々も多分は説明が出來まいが、氣を付けて居たら考へられぬこともないと思ふ。或はどの犬でもといふわけで無く、難産で死んだ母犬の爲といふ話もあるが、是も合點の行かぬことは、犬は元來産の至つて輕いものといひ、岩田帶をするのに戌の日を擇んだり、初出の赤兒の額に犬の字を書いたりして居る。その犬の難産といふのはごく稀な筈だが、實際は犬そとばは可なりそちこちに立つて居り、又一箇所に何十本を立てゝある例も私は知つてゐる。

　そこで第三に確かめて見たいことは、果して之を立てるのが、愛情深き飼主、即ち一家單獨の思ひ立ちであつたらうかといふ點であるが、是はむしろ反對の例を擧げることが出來る。といふわけは假りに發起者は一人であつても、之を立てる日は多くの者が集り、それは專ら婦人であり、しかも壯年の主婦や嫁が多く、普通は子安講といふ信仰團體に屬して居る。つまりは自身の不安があり、又は少なくとも母犬に對する同情のある者だけが、力と費用とを出し合つて、是を實行して居るのである。他にはまだちがつた、又は反對の例があるかどうか。それを確かめる方法の一つとして、この犬そとばをどういふ日に立てるかといふことを、私は注意して見たい。たとへば難産で犬の死んだ日といふやうな、めつたに有りさうもない忌日には依らず、もしも其土地で子安講、又は子安樣の日といふのに、この犬そとばを立てる習はしが多いとすると、少なくとも是と安産信仰との關係が、輕視せられぬといふことになるので、從つてたつた一つ二つでも、是とちがつた實例は殊に大きな資料である。子安樣の日といふのは、關東では、月々の(333)十九日又は十七日、東北その他には、二十三日といふ例も少なくはない。前者は即ち子安觀音に、後者は子安地藏に、その信仰を融合させた結果かもしれず、前々から此通りだつたとは無論言はれぬが、ともかくもそれを此集會の日に行ふとすれば、行事は假に今は分れては居ても、本來は彼から出たものといふことを推定してもよい日が到來しようも知れぬ。

　前にも一度考古學雜誌に書いたことがあるが、關東東北部の子安樣は、地藏でも觀音でも無く純然たる日本の上臈姿をして、緑兒を抱かれて居る彫像が幾つも傳はり、其中には明治以後の建立にかゝる石の塔もある。佛法以前の子安神は、今は少なくなつて居るが、古い記録にも若干の徴證は有る。さうして又安全なる子産み子育てといふことが、祈願となり信心となり、又特別の祭神となることは、どれ程古くからの事であつても、些しの不自然さも無いのである。

　私が此間題をもつと／＼明らかにすることによつて、確かめて置きたいと念ずることは、中央の記録の上には、さう大きな痕を遺して居ない信仰でも、可なり遠い昔から連續して、今なほ民間に傳はるものが、有るといふこと、次には、その古來の神を祭る爲に、最も必要であつた祭の木が、名をかへ形をやゝ改めつゝも、今に婦人の手によつて保管せられて居たといふことで、更に是から推論して、今日佛者に專屬して、盛んに經典の文句を書き込み、地水火風の切り目などを入れられて居る人間の墓上のソトバも、かつてはこの祭の木の特殊の變化だつたらうと、やがては言ひ得る時が來ると思ふ。木の塔婆の頂點を尖らせたのが、人間のもの、それを矢筈にM形にしたものが、動物のものといふやうに、二つに分けたのは、新式のシムボリズムらしい。現に奧州北部のまたがり塔婆のやうに、祭の木のさきを二股にしたものも方々に在り、決して犬だけとは限つて居ない。さうして又其方がぬさを引掛けるには都合がよいので、つまりは天然の木の枝から、今見る紙の御幣の幣串にまで移つて行く一つの過程が、たま／＼婦人の手によつて、子安神の信仰だけに保存せられて居たといふことになるのかも知れない。たゞ結論を性急にするわけに行か(334)ぬのは、是を犬そとばと呼ぶに至つた理由、又は犬の靈魂の此信仰に關與して來たことで、是はやたらに他の人に問ふよりも、めい／＼でもつと深く注意して居た方がよいやうである。富士の山の祭神は、いつの頃からか知らぬが、木花咲耶媛神となつて居て、佛教化せぬ子安神の現在の祭神と同じい。さうしてこの御山の神話には、犬を飼ふ翁が出て來るのである。犬ばかりの特に産が輕いやうに傳へられるのも、何か隱れたる因縁を是と繋いでゐるのかも知れない。

　

(335)　　　　　折口信夫君とニホのこと

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　八月十八日

　大分毎日の暑さに弱つて居たが、けさは幽かに秋の氣が動き、汗はかゝずに斯ういふものを書くことが出來た。是からは少しづゝ、地方の諸君と消息を交すことを心がけることにしたい。

　日本の民俗學は、よその國々と比べて、殘つて居る資料が多く、從つて問題が數しげく、中にはあるがまゝを記述しただけでも、一つの發見のやうな感じを與へるものも無しとせぬ故に、何か一方のいはゆる民族學と、接近し過ぎて居るやうに言ふ人も折々あつたが、つい近頃も亦亞米利加から來て居る人の間に、さういふ批評をした者があつたといふ話を聽いた。この二つの學問の接近することは望ましく、末には一つのものになることさへ我々は夢みて居るのだが、中々外部の人が速斷するやうに、さう安々とは實現しさうも無い。其理由は幾つもあるが、先づ第一には事實の有り方が、こちらのは表面に顯はれて居らず、有るには相違なくとも證明しなければ人が承認せず、又時としては承認したがらぬものさへある。さうして數量的にも、もうよほど少なくなりかゝつて居るのである。皮相的にもせよ、七八十年このかた、努めて西洋と同じ活き方をしようとし、それの出來ない者を舊弊などゝ、笑ひ嘲つて居たのだから、是は無理もないことである。

　一つのよい例は、目下問題になつて居る結婚の自由意志、この制縛されて居たのは限られた僅かの家庭だけで、數の上からいふと日本人くらゐ、氣の合ふ相手方を上手に捜し出す國民は無かつたのだが、そんなのは下品だと大骨折(336)で、さうで無い形式を流行させた爲に、有つても今日は蔭に隱され、又現實にもそれが不可能になりかゝつて居るのである。群の婚約といふことは野蠻人見たいだといふ理由で、曾て有つたといふことをさへ否まうとする者が多い。事實に基いた社會制度の探究が、國を愛する者にすら、なほ許されまいとして居たのである。この?態はまだ暫らく續くかも知れない。何處に今までエトノグラフイーに見られるやうな、自なる同情の養はれる機會があらうか。二つの學問の本たうに手を握り合ふのは、よかれ惡しかれ我邦では前途まだ遙かなのである。

　但し一方には尋常外部の同情ある民族誌家が、成し遂げ得られないことも我々はして居る。少しも表面には顧はれない生活樣式のさま／”＼、或者は隱し包まうとし、乃至は輕々に看過し去つて、有りとも知らなかつた古來の習はしの、暗々裡になほ民族の歩みを指導して居たものが、全く消えさらずに色々と傳はつて居ることが、日本民俗學によつて是からも判つて來るのである。それがうれしいものか悲しいものかは知つてからでないと決することは出來ない。面倒くさがつて總括的に無視してしまはうといふ學風もそこいらには頭を擡げて居るが、それは勿論我々の仲間でも無く、又歴史を詳かにしようとする者の志でも無い。何かは知らず今日の實情を説明するのに、入用な資料だけは皆集めて見なければ、その斷定はたゞの推測になつてしまひ、後世の信用を期することが出來ない。しかも其資料はこの大きな世變を經て、今や著しく確認し難くなつて居るのである。力の及ぶ限り間口を廣く、出來るだけ多くの同志が手分けをして、外國のフオクロリスト等の省みようとしない區域にまで、あらゆる殘留の捜査を續けさせたいと思ふ趣旨はそこに在る。勿論その中にも今の時勢に適切な問題と、たゞ樂しみの新知識といふべきものと、種類は數多く、必要にも等差はあり、成るべくはすぐ役に立つものをといふべきところだが、多くの暗示又は解説の絲口は、しば／＼意外な處に潜んで居るのだから、切れ／”＼の事實もさう粗末にすることは出來ない。從つてあんな事に力瘤を入れてと、人から評せられる場合も有り得るのである。

　手分けをして行くといふこと、人が是まで手を著けなかつた方面を耕さうといふことは、斯ういふ國柄では殊に必(337)要であり、同志の全國にわたつて數を増すことが、其爲に一層望ましいのだが、民俗學に於ては今まではとかく傾向が有り過ぎた。誰かの事業に同情を持つといふことは、やがてはその流義にかぶれてしまふ結果になりやすいのは、少なくとも文化科學に於けるこの國民の一つの癖のやうなものであつた。私だけは永い間の數々の失敗に鑑みて、出來る限りそれを慎しんで居るつもりだが、やはりどうかすると人の長所をめでる餘りに、うつかり暫らくは其跡に付くやうなことがあつた。昔話なんかは確かにその一つで、是が病みつきになつて可なりの時間を、あの方に取られたことになつて居るが、あれなどは私が手を出さずとも、日本でならば盛んになつたにきまつて居る。もう少し傍から援け、又は靜かに進行を樂しんで見るやうな態度を、持つて居てもよかつたと思ふ。

　

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　八月二十五日

　折口信夫君といふ人は、我々の同志の中でも最もこの弊の少ない人であつた。眞似と受賣の天性きらひな、幾分か時流に逆らつて行くやうな、今日の學者としては珍しい資質を具へて居る。天性といふのは自分では意識せぬらしく、人がさうせぬのを必ずしも咎めようとはせぬところから、私が推定しただけであつて、或は若い頃からの決心であり、努力であつたのかも知れないが、ともかくもあれ程近代の學者の書いたものをよく讀んで居ながら、未だ曾て誰が斯う謂つたといふ類の引用をしたことが無い。私たちの意見にも共鳴したと言ひつゝ、それを敷衍することはさて置き、同じ一つの路を歩み進まうとはせずに、いつでも途中で行逢ふことが出來るやうな、もしくは他の一つの新道を拓き添へるやうな、思ひ設けぬ方角からばかり、毎度大きな協力を寄せられる。外國のことは知らぬから何とも言へぬが、少なくとも日本では斯ういふ例は稀有であり、御蔭で私などは樂しい刺戟を受け、又心強い籠城を續けることが出來た。今からでもよろしい、もつとこの流義がはやつて來ればよいがと思つて居る。

(338)　我々の民間傳承は何でもかでも震旦から來た天竺を學んだと、言はねばならぬやうな氣風が今でも少々はある。そんな事があるものかと言つて見たところで、書いたものからの反證などはさう／＼は無いのであつた。其上に古書を神道の經典のやうに見る人たちが多く、其解釋が聊か窮屈にもなつて居る。是は何でも今一きは新しい見方を考へ出して、雙方から寄り近づく道を求めなければならぬが、さて是は中々えらい仕事だと溜息をついて居ると、折口氏はいつの間にかあの精力を以て、私が八十歳までもかゝらねばならぬことを、もうあの年であらまし爲し遂げて居る。この人の古典の渉獵の仕方はたくましい。讀みも讀んだが更に又それに繼ぎ足して、斯うで無くてはならぬといふ所まで讀み透して居る。あの眞似はとても尋常の天分の者には出來ない。

　

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　九月十五日

　けふは風雨で外へも出られぬから、前の話の裏付けを少しして見よう。二十年近くも前に、金田一君が私にさゝやいたことがある。折口氏の斷定は、自分だけには確かな根據があるのですね。其時はびつくりしても、暫らくしてから成ほどゝ思ひ當ることが折々ありますと。私はそれを聽いて大いにうなづいたのだが、私の實弟にも一人、それをして折々しくじつて居る者があるから、さうもてはやさぬ方がよいと思つて口には出さなかつた。たゞ斯ういふ人が居なかつたら、私の仕事は一層苦しいだらうと思つて、自分は眞似をせぬ代りに竊かに當てにしては居た。さうして金田一氏の言の如く、最初から信用しきつて居た方がよかつたと、思ひ當ることが毎度あつた。

　長くならぬやうにして、その實例を一つ話して見よう。大正四五年頃に、稻ニホのことが郷土研究に出た際に、ニホはニフナメのニフだと折口君が斷言した。さうだつたら面白からうと思ひつゝも、何分年久しく新嘗と書いて居るので、證據が無くてはといふやうなことを私は言つて居た。この證據は得られさうにも無く、しかも私はつい近年に(339)入つて、どうしてもさうで無くてはならぬといふやうな氣になつて居る。智慧の開きの二十何年の差は情けないと思つた。最近に漸う若い人々にも話し出したことだが、沖繩のずつと南の島では、産屋のことをシラと謂ひ、同時に又あの稻穗積のこともシラと謂つて居る。之に對してヤマト島根の方では、産屋をニフといひ、又あの稻の穗積みをもニホといふのである。こゝに營む祭には人の命の根即ち最も尊い穀物の靈の、誕生を齋ふ趣旨があつたのかといふことが心付かれ、今改めて又越の白山、さては三河の奧の以前の霜月祭に、生まれ清まはりをしたといふシラ山の作り物を、上世の壬生部の掌りし行事と考へ合せて見る氣になつて居るのである。今日の農村では稻ニホは日に少なく、茅でも草でもこづむものは皆ニホと呼んで居るが、以前は是が祭の物忌の期間、收穫を田に置く方法であつただけで無く、是が同時に田の神の祭壇でもあれば、又いはゆる苅穗のイホの假屋を建て添へて、奉仕をする場處であつたかも知れぬのである。さう思つて見て行くと、少しづゝの心あたりは殖えて來る。「穗を拾つてミヨウにまゐらする」といふ俚諺は、安原氏の「片こと」にも出て居る。江戸期のかゝりまでは少なくとも、このミヨウが稻の穗其ものを神に祀る揚處だつたといふ記憶があつたのである。捜せば其信仰はもつと後までも傳はつて居らぬとは限らぬ。大子講と稱する東北の霜月三夜には、この稻を拔いて來て餅を貴い旅人にまゐらせたといふやうな話もある。ひとりニホの名を今でもまだはつきりと、ニフといつて居る土地が有るばかりでは無いのである。大きな問題だから輕々しくは言へないが、ともかくも私は折口君の早い暗示を、まともに受入れなかつた爲に大へんに仕事がおくれ、明日にこの解決を殘して行くことになつたのは、後悔の種である。人に色々の長所の有ることは、長い經驗で知つて居りながら、それを大きく組織して行かうとしなかつたことは、民俗學の成長の爲には可なり忍び難い損失であつた。

　

(340)　　　　　社會科のこと

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　十二月十五日

　どの程度にまづ民俗學が、社會科設定の爲に役立つであらうか。是は御問合せが無くても、もう久しい前から、我々の考へて居ることであります。もちろんめい／＼が目前の社會の要求に敏感になつて、出來る限りその方向へ、進んで行くやうに勉めることによつて、成績はまだ幾らも高められるもので、氣早に限度をきめることは雙方の損と思ひますが、少なくともこの學問に對する今くらゐな理解では、さう大きなお手助けは出來ないのが當り前であります。

　だから我々としては、條件といふものを考へて見る必要があります。具體的な一つの例を擧げるなら、社會科には教科書を使ふつもりかどうか。もし是非とも教科書がほしいといふのが輿論であるならば、もうそれだけでも我々の働きが鈍くなります。其わけは今まで通り、相手かまはずに言つて聽かせることが豫想されるだけで無く、久しい惰性によつて教員が、それに據りかゝり過ぎる結果になつて、活きた指導を怠りがちになるからであります。

　この經驗は、すでにいはゆる修身科の教授に於て、苦々しい程度にまで我々は味はつて居ります。字を教へるといふことが大きな仕事であつた國がらだけに、理解が目標になりやすく、躬行といふことがお留守になるのみか、判斷は少しでも列擧せられたる�ｺ目の外に及ばなかつたのであります。是が單なる第二讀本の任務しかもたず、道義教育の效果は收めて居なかつたことは、今日の世情、人が平氣で惡いことをする事實だけからでも立證し得られます。新たな社會科がもしも其轍をふむやうであつたら、民俗學徒の努力などは、大部分はむだになつてしまふかも知れま(341)せん。

　國語教育の方面ですらも、實は讀本の弊害はもう薄々感じられて居たのであります。字を教へるにもそれが現はす言葉、言葉よりもそれが支配する生活といふものに、重きを置いて考へなければならぬとなると、都府と村落と、寒い國と温い南の海邊などに、同じ教科書を與へるのは無理だといふ説が、既に認められて居て、たゞ改定が間に合はなかつただけであります。それにも拘らず一方には、讀みの徹底などゝ稱して、たゞ與へられたるものを理解するやうに導きさへすれば、國語は教育し得られるかの如く早合點をした者がたくさん居りました。さうして愈々話し方の科目が附加せられて、この南方の橋架けに困り切つて居たところであります。今でも私などはこの國語の讀本はうんと制限しなければ、自由な教育は出來ぬものだと信じて居ります。

　個々の子供が安らかに活きて行けるやうに、教へ導くのが教育の本旨だとすれば、社會科の讀本などは學校毎に、又時代毎にこしらへて置いてさへ、まだ融通がきかぬ場合は無いと言へません。それを全國どこに持つて行つても、とにかく間に合ふものにしようとしたら、いゝ加減なものになることは先づ受合であります。單なる教員たちの骨惜しみ、自分で考へ出す煩勞を免れようとする如き、義務心の無い動機からそれを望むのならば格別、萬一にも良心の底から其方がよいのだと思つて居る人が有るとすると、其理論はこゝで十二分に究明して置かないと、次代國民の不運はなほ續くかも知れません。

　以前親々が全身の力を籠めて、子供を人にしようとした計畫の大部分を、今は學校が引繼いで居るのであります。社會人生を彼等に學ばしめるとすると、それは必然に彼等と世界、彼等と文化といふことになるのであります。どこに居るかも知れない普通の子供、いはゆる代表的少年の教へられて居るのを横から見て何になりませう。要求の中心は必ず各學校の中に在り、それが幸ひにしてほゞ共通でありとすれば、それを見出し又確かめることも、亦先生の職責でなければな。ません。

(342)　土地を知るといふことが、教師の第一次の職分となつて居たのは昔からであります。近頃の郷土科の目的も此他では無かつたのですが、是には外部との聯絡がおろそかで、是だけ引離して綿密を誇らうとする、宥し難い缺點がありました。郷土が汎い人生と如何に結ばれ、又その中のどの點に位するかを問はなかつたのは勿論、一歩村の境を踏み出した處では、どうなつて居るかも省みずに、ひたすら我土地ばかりを見ようとして居たことが、郷土研究をむだな道樂にしたのであります。是では本當は知つたことにならず、又説明がちつとも出來ません。大戰以來の日本人の惱みは、新たに外部の知識を追加する途が絶えたのみならず、今まで持ち貯へて居た常識といつてよいものまでを減らしました。是が元にかへつて、なほ新たに自分たちに共通なものを、互ひに知り合ふやうにならぬと、和氣はこの敗戰國に生まれて來ないのであります。さうしてこの手段が、全然今までの郷土科には缺けて居りました。だから是からの社會科教育の目標は、定まつて居るといつてもよいのであります。

　個々の兒童の「我が疑ひ」彼等自らの生活から、自然に生まれて來なければならぬ知識欲に、國として又同時代人として、正しく應答すべき先輩は、さう澤山は居りません。その任務の主要なる部分を、託せられて居る者が教員なのであります。與へられたる讀本なんかを取次いで、それで役目がすむと思はれてはこまるのであります。たゞ久しい間すなほに物を訝かることを教へられず、黙つてぽかんとして聽いて居る習はしに馴らされた小さい人たちに、いつも適切な問を順序よく、出させようとするのは容易な仕事ではない。それ故に澤山のあどけない不審の中から、出來るだけわかりやすく、又多くの子供の共同の關心と思はれるものを拾ひ出し、時としてはまだ誰もが口に出さぬ要望を察知して、答へてやる必要もあるのですが、是は僅かな手數のうちにも、土地毎に大よそは見當が付くと思ひます。小鳥の雛が先づ飛ぶことゝ啄ばむことを學ばうとするやうに、彼等本然の知識の求めは、最初は決して複雜なものではないからであります。それで私たちは兒童の疑問の整理といふものを、この創業期の要務だと考へて居るのであります。斯うした土地毎の疑問に答へることが、社會科の機能の第一次のものであり、それを援助し又引受けるこ(343)とが出來るやうであつたら、始めて日本民俗學は役に立つ學問だつたと言へるのです。縱から横から十分にそれを試驗して見て、成るほど是は缺くべからざるものだつたと、認められる日の來ることを我々は期待して居りますが、たゞ名を聞いてそれを自分たちに都合のよい樣に、解しようとするやうな世評には警戒しなければなりません。

　他にも色々に述べなければならぬことはありますが、爰では教科書問題の結末だけを付けて置きます。私の一ばん氣づかふのは、本がきまつてしまつて何處の學校でも一つのものを教へ込めば、それでもう社會科は完成すると思はれることだけで、それを丸々無用とも、有つてはこまるともいふのでは無いのです。永い間の惰性によつて、書物を全く使はぬ授業のやりにくいことは判つて居ります。さう／＼先生ばかりを苦しめてもいけない。徐々に新しい方式に移つて行くまでの間、國なり地方なりで是を助ける爲に、使つて差支への無いといふ教科書を出すのもよいでせう。たゞ土地々々の選擇を妨げないやうに、成るべくは、其種類を豐富にし、又一卷の分量もぐつと多くして、與へられたものを片端から使はずにすむやうにしたいと思ひます。海のほとりに生まれた兒童には、餘計なことゝして馬鹿にせられるやうな知識でも、山家奧在所の子ども等が海を知る爲にはまだ足らぬことがあります。町や工場の近所の者が、田舍を知らないことも極端でした。さうまでして全國共通の讀本を以て、統一しなければならぬ必要は、小學校には無いのであります。

　所謂教師用の圖書は、幾ら詳しくても失禮にはなりません。其まゝ實行せよと強ひるのでない限り、彼等の素養としてならば、今よりも何倍か豐富にする必要さへ有ります。實は是まではその教師用が、あまり十分とは言へなかつたのです。索引の事業が進んで居ない爲に、年中本を見て居ても準備には追付かず、少し惰ける者は讀書の方向が片よりやすく、惡くすると早合點こじつけの危險にもさらされます。教育革新の最初の手段として、印刷事情の許す限り、少しでも早く有效なる參考書を多量に供給する必要があり、それには多過ぎるといふことは絶對に無いと思ひます。たゞ學童の一人々々に持たせる分としては、教員自らがこしらへて渡すもの以外、大抵はよそのおつき合ひの部(344)分がまじつて居ますから、其中から入用と思ふものを拾ひ出せるやうに、少なくとも倍以上の分量のものを與へるやうにしないと、いはゆる劃一主義の弊害は、一掃し得られまいと思ふだけであります。

　此たびの政體激變に際しても、歴史に思ひを潜める人々は、深く反省せずには居られますまい。我々の模倣心理は原始以來のもので、殆と本能的と言つてもよいかと思ひます。多數の人たちのする通りをして居れば、まちがひは無いといふ古い心持が、大小の社會の統一に利用せられて、今までは先づ今度のやうな恐ろしい破綻を見ずに過ぎて來られたのであります。利害觀點の異なるものゝ雜居に伴なうて、是からは多分何度も應用せられることゝ思ひます。巧妙な均衡を保つて行くには、國民はあまりに素朴であり、又は熱が有り過ぎました。個々の立場を自覺する能力を、今ほど急いで培養しなければならぬ時代は無く、それを訓練する場處は普通教育より他にはありません。川口市のやうな特殊な事情をもつた郷土の教育法に、御手本を得ようとするが如き人が、斯う澤山に有るやうでは、私たちの頼りとする次の代の國民の、幸福が危ぶまれます。個性の展開といふことは哲學の言葉ではありません。人が自分の足で立ち又歩くといふ、至つて有りふれたことを意味するのです。それが未來の大いなる合同に歸着すれば結構ですが、たとへ即座には望み得られなくとも、なほ私は彼等をして「自ら知らしむる」ことを、普通教育の目標としたいと思ひます。さうして民俗學をして其偉大なる事業に、奉仕せしめたいと念じて居ります。

　

(345)　　　　　土穗團子の問題

　

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　八月二十三日

　全國大小の島々が、共同して一の問題を考へるといふことは、それ自身はちつとも惡いことでないのみか、今日は最も望ましい時代であります。それに弊害があつたのは、僅かな人の言ふことに付いて行つて、その當否を判定しようとしなかつたこと、即ちむしろ考へなかつたのが惡いといふ方の證據になります。それ故に私は今後大きな重要な問題に直面するときの用意に、今のうちから同時にしかもめい／＼自由に、一つの物を考へる練習をして置きたいものと思つて居ります。ちやうど社會科教育の方法が、到る處で問題になつて居る今日です。それに關係のありさうな民俗學の資料を、この練習の用に供して見てはどうかと思つて、私はこのやゝ氣樂な、又子供でも興味をもちさうな話の種を、提出する氣になりました。

　それを今風の言葉でいふと、屑米の處理方法、どこの農家でも知つて居らずにはすまぬ事實を、目標とする問題であります。米穀調製の技術の進まなかつた時代には、この分量は今よりも多く、しかも養鷄の飼料に買ひ集めに來るといふやうなことは無く、鷄は個々の家々に二羽三羽、それも勝手に食べ物を拾つて居ましたから、穀物の屑などは彼等に與へず、人が何とでもして皆食べて居りました。それがどういふ風に利用せられて居たらうかゞ、こゝでの問題なのであります。

　一口に屑と謂つても色々の段階がありますが、我々の考へようとするのは其最後のものであります。小米は小米だ(346)けで立派な用途があり、落穗やかけらまたのやうな稻扱機にかゝらぬものでも、集めてもう一度摺剥ぎをしますが、よく／＼の粃のいはゆる箸にも棒にもかゝらぬもの、殊に落ちこぼれて一粒づゝ隅に散つて居るものは、作業場の最後の日に、掃き寄せるより他に道がありません。つまりはよく／＼の屑なのでありますが、昔の人たちはたんねんで、是をさへ活用しようとして居たのであります。

　しかもたゞどうにかして食べるといふので無く、かつては是を正式の食物の一つにして居たといふことがおもしろいのであります。現在はそれがどうなつて居るか。たゞ鷄に又は牛豚にくれてやるといふのでは話になりませんが、村によつては今もまだ以前の世のまゝに、何か是によつて毎年憶ひ起すやうな行事を續け、又はもうそれを中止しつゝも、なほ記憶して居るものが無いとは限りません。それを私たちは全國に亙つて尋ね、又考へて見たいのであります。

　

　　　　　　　　　　○

　

　皆さんにお尋ねをしようといふには、どうしてそんなことを明らかにして置きたいのか、どういふ點に學問上の意味があるのかを、一通りは述べて見ないと我儘になりやすく、又答へる人にも張合ひがないでせう。それで現在わかつただけを別記して、よそも斯うならば大よそ我々の想像が正しく、もし何か意外な實例が出て來れば、それに引き當てゝもなほ今までの解釋が、妨げられないかどうかといふことを、確めて見たいと思ひます。

　先づ第一に明らかにして見たいのは、この最終粗惡の屑米を、全國最も普通に何と呼んで居るかといふことですが、私は今のところ、土穗といふのが古くからの名であつたらうかと思つて居ります。農家によつてはさう細かな選別もしなかつたでせうが、ともかくもこのしまひの掃き集めまでを加へたものは、必ず幾らかの土がまじり、どんなに手を掛けても土臭さが拔けないと言はれて居ります。しかし發音が面倒だつた爲か、今はつきりとツチホと謂つて居る(347)處は少ないやうでありまして、たとへば東京のごく近く、東海道の川崎附近から、多摩川右岸に沿うてやゝ上流の村々までは、舊の二月と十二月の八日の日に、是でこしらへる團子をツヂヨウダンゴ、又はツツボ團子と謂つて居りました。關東北部から奧羽路にかけては、同じ八日の團子をツボダンゴ、又はツボモチといふ人が多いやうですが、岩手縣まで行くとツンヂヨウダンゴと謂ひ、之に就いては又地方的に、かはつた言ひ傳へなども出來て居りました。つまり土穗といふ語源が、もう不明になつて居るのであります。

　新潟縣も北境岩船郡あたりでは是をチヂヨと呼び、鷄のチヂヨなどゝいふ言葉もあるさうですが、大體にヨがユと紛れやすい傾きがあります故に、土地によつては是を地中粉と、文字に書く人が有つたといひます。昔はその地中粉を、寺小屋への歳暮禮に持つて行く者が多く、地中粉を運べといふ諺もあつたことが、三島郡誌などには見えて居るさうです。即ち手習ひに通はぬやうな者は、惡い生活に甘んじなければならぬといふことを、斯ういふ風に面白く表現したものだといふことであります。

　越後に接した群馬縣の利根郡にも、ツヂウ團子といふ語があつて、ツツボといふ村と入りまじつて居ります。長野縣でも諏訪湖の附近には、ヒヂウ又はヒヂヨウ餅といふ名があつて、秋じまひに庭のこぼれ籾を掃き集めることを、ヒヂウバキとも謂つて居りました。是もツヂウの又一訛りしたものとも見られますが、事によると是だけは土穗をヒヂホ、即ち土をヒヂと謂つて居た頃の名殘かもしれません。

　それから山を越えて東海岸の方へ出て見ますと、靜岡縣はほゞ各郡とも、庭に落ちこぼれた籾を集めて、こしらへたものをツブモチと謂つて居ります。文字には粒餅と書き、之を食べる日を粒節供、又は粒供養の日といふのでありますが、其日は東京の近くのやうに、二月と十二月の八日ではありません。さうして此點が特に私などの全國にわたつて、詳かにして置きたいと思つて居る、重要な古來の慣行なのであります。

　

(348)　　　　　　　　　　○

　

　關西方面の土穗の實例は、今はまだ僅かしか手に入らず、殊に四國などはまるで判つて居ませんが、幸ひに飛び／＼の話があるので、是をツツホと謂ふことゝ、次には之を飯に炊く風習のあつたことが窺はれます。一ばん西の端の例は天草島民俗誌に出て居るもの、是などはよほど關東奧州などゝ近く、たゞ其日が二月と十二月の所謂コト八日では無くして、舊十一月丑の日の山神祭、即ち田の神がすつかり稻田の御役目を終へて、山に還つて行かれる日の祭でありました。或村ではツヅホ（又はツヅヲ）の團子を苞に入れて山に持つて行き、半分を山の神の祭場に置き、半分は蕗の葉に包んで持つて還つた、といふのは家内一同で之を食べたのでありませう。又或村ではこのツヅヲを以つて、小豆の飯を炊いて供へます。山の神は慾がお深いからといふのは聽えない説明で、多分は氏子たちの儉約を御喜びなされるといふことであつたと思ひます。

　次に山陰地方では石州の富山村などに、ツツボ拾ひといふ行事があるといふことが、たしか門脇氏だつたかの報告にあります。是も色々の殘物を集めたものですが、前から鷄の餌や補食用だけに、限られて居たとも思はれません。牛尾三千夫氏の村などはどうなつて居たか。聽いて書き殘して置きたいものと思ひます。次にやゝ東へ來て、丹波氷上郡の或村で、正月狐狩の晩の唱へごとに、ツツボダンゴといふものが現はれで居ます。

　　　狐がゐる候

　　　わらよんべ何食うた

　　　ツツボ團子三つ食うた

　　　まだうちに二つ有る

　　　とゝやかゝのはんまいや／＼

(349)　狐狩又は狐がへりは、諸君すでに御存じの如く、中國東部一帶に正月十五日の夜、いろ／＼斯ういつた類の言葉をわめき散らしつゝ、村中を押しあるく若い人たちの行事で、普通には狐の害を防ぐまじなひのやうにも考へられて居ますが、其點はまだはつきりとしません。ともかくも之を狐に聽かせようとしたのは、それがその前晩の正式食物であつたことを意味するかと思はれ、しかも甚だ貧しい食品であつた故に、其名が笑ひの種にもなつたらしいのであります。

　それからなほ一つ、大和の古い文化地帶にも、ツツヲ飯の痕跡があることが、高田十郎氏の大和年中行事一覽に見えて居ります。

　　　長谷のぶつみよはぶつ／＼團子

　　　奈良のおん祭はツツヲめし

　初瀬寺の佛名會は舊十二月九日の行事、春日若宮の御祭は前月すでに終つて居りますが、この歌は佛名の前の頃に國中の村々で口にせられて居たといひますから、やはり多摩川沿岸などの、師走八日の土穗團子と關係があります。今日ではもう其團子も飯も、作つて食べる農家は無くなつて居るかも知れませんが、奈良の御祭のやうな花やかな祭禮の日にも、會ては土穗の飯を炊いで居たといふことは、この微々たる一種の食品にとつて、決して小さな歴史だとは言へません。古代の朝家の記録にも、祭の日に忌の御飯を調へたことは幾らでも見えて居りますが、それにも或は斯ういふ種類の、常では無いものが用ゐられた場合が、あつたのでは無いかといふことが考へられます。少なくとも民間の可なり廣い區域にわたつて、土穗を忌の日の食料として居た痕跡はなほ明らかなのであります。

　

　　　　　　　　　　○

　

　士穗の團子が可なり忍耐を要する食物であつたことは、前年奧利根の山村に於て、橋浦君なども十分に經驗して來(350)たと謂ひます。この地方でも稗や蕎麥粉を加へて量を増し味を和げようとして居ますが、それを猿頭大に圓めて爐の灰の中で燒いた朝茶の子は、何分にも土くさくて食へず、宿主の好意は認めつゝも、そつと前後を見まはして途中で棄てゝ來たといひます。土地によつては是だけは神樣には上げず、人ばかりで食べたといふ話もありましたが、それは例外であつて、大抵は供物にして居りました。越後の南魚沼の農村では、二月八日の神樣へのごちそうは、もう正月にすべてをし盡くして、他には何も上げるものが無いと言つて、床の間にこのチヂヨダンゴを供へるのだといふさうですが、二月の八日なればこそさういふことも言へます。十二月八日といふやうな收穫の最も豐かな日にも、やはりこの團子を調へて居るのですから、理由は別に發見しなければなりません。土地によつては年に二度といふうちにも、却つて十二月の八日の方に重きを置いて居るものがあります。山の神は慾が深いなどは十一月の丑の日だけに、この土穗團子を作つて居るのであります。

　この研究所の所在から最も近い多摩川向ふの或部落などでは、又斯ういふ説明をして居りますが、是も他ではまだ聽いたことがありません。昔都の方から、一人の貴いお方が遁げて來られて、この邊の農家に匿れておいでになつたのを、追手の者が捜しまはつて、疑はしい家には火を掛けました。それでこの團子を串にさして、家の隅々（又は三隅）に立てゝ置き、斯んなまづい食物をたべて居るやうな貧家なら、よもや貴人をかくまふやうなことはあるまいと、思はせる爲にさうしたのが、嘉例となつたやうに爰では言つて居ります。こしらへた話としか考へられませんが、是には串に團子をさして屋の隅に立てる習慣が一般にあつたのと、立てゝ置かないと火災にかゝる、又はミカハリ婆さんに火を付けられるといふやうな、漠とした言ひ傳へが擴がつて居た爲に、斯ういふローマンスが空想せられやすかつたものと思はれます。

　それで最初には、いはゆる窓塞ぎ、家の戸を立てゝ置いて、戸外に斯ういふ食物の串や、目籃の類を掲げて置く由來を、考へて見なければならぬのですが、是は片端が節分の鰯の頭にまで屆くほど幅の廣い問題で、一度には考へき(351)れませんから後まはしに致します。爰で大よその始末をつけて置きたいのは、忌の飯の根本的勤機、祭の日には必ず變つた物をこしらへて食べるといふ目的も、決して今のやうに休みだからおいしい物をといふのでは無しに、心が改まるには、先づ口に入れる物の改まることを必要とした、古風な經驗に基いたもので、それには却つて特別にまづい物の方が、一層有效だつたらうといふ點であります。祭の前と後とに伴なふ禁欲と自恣、この二つのものゝ距離が、以前は非常に大きく、後次第に接近して來たのであります。酒なども度々私が言ふ如く、もとは田舍の酒は決して口にうまいもので無く、それを飲むのは努力であり、難行苦行であつた痕跡がまだ殘つて居ります。土の香の高い土穗の團子なども、斯ういふ定まつた節日のみ、食べて置けばそれでよかつたといふ人々が、むしろ考へ出して之を一つの作法としたのではありますまいか。斯ういふ點が是からの諸君の協力によつて、追々と明らかになつて來る見込が有るのであります。

　

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　一見したところ是は小さな問題ですから、どうでもよからうと簡略に片づけようとする人もあり得ますが、そんな事をして居ては民俗學は成長しません。小さい大きいはめい／＼の考へ次第として、是は少なくとも我々の共同の思辨を、練磨するによい機會であります。皆樣からの報告をしてもらひたいことの一つは、この土穗の飯又は團子を作つて食べる日が、前に掲げた二月と十二月の八日節供、九州に一つある霜月丑の日の山神祭の外に、なほどれ位あるだらうかといふことであります。諏訪の所謂ヒヂヨウ餅は、コバシアゲ即ち稻扱作業の終つた日に之をこしらへてコバシ即ち扱箸の神に供へると言つて、よほど天草島の例と近くなつて居りますが、東日本の方では總體に、年に二囘の八日節供の方に片よつて居ります。關東はこの小田急沿線に見出された幾つかのツヂヨウ團子の他に、茨城方面にも其例が多いやうであり、奧羽六縣にも時々はこの八日の團子があります。さういふ中でも會津地方には、今から百(352)三十何年も前の、風俗帳といふ書上げが傳はつて居ますが、是にもやはり毎年二度の八日の晩、ツボ團子といふものを作つて食べるとあります。農民五穀を無沙汰（粗末）にする故、其供養の爲に食すとあつて、ともかくも一つの是非守るべき作法でありました。どうして特に二度の八日といふ日が、この團子を食ふべき日と定まつたかゞ、引續いての問題とならざるを得ませぬ。さうして私はこの土穗といふものゝ筋を追うて行くことによつて、一つの新しい事實に心づいたのであります。

　

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　今まではたゞうつかりと看過して居たことが、今井善一郎君等の注意によつて、少しづゝ明らかになつて來ました。同じ關東の中でも、群馬縣の西部即ち利根川の水域だけでは、所謂ツヂヨウ團子を食べる日は十二月の八日では無く、十一月の晦日又はその前夜であり、二月八日の分はどうなつて居るか不明であります。靜岡縣駿東、安倍、榛原等の各郡に於ても、やはり十一月晦日が粒餅の日であり、仍て又ミソカ團子とも謂ひますが、こゝでも二月八日の分に對しては報告が無く、多分無いのであらうと思はれます。ところが天龍川を越えて西進すると、濱名郡の或村だけでは一月晦日がそのミソ力餅の日であり、中部近くでは清水の湊にも、同じく正月末の日のツボ餅がありました。以前は年の始めと終りとに二度あつたのが、重きを一方のみに置くことになつたのではなからうか、といふことがまづ想像に浮びます。さうして是は二月と十二月との八日に就いても有ることで、大體からいふと西では十二月の方を、東北では二月の方に力を入れ、その中間に二つを共に守る地域が挾まることは、故山口貞夫君も既に説いて居ります。

　歳時習俗語彙に當つて見ますと、正月と十一月との晦日は共に小さな節日で、たゞ土地によつて何れか一方に力を多く入れるのであります。信州などは少なくとも佐久、小縣の千隈川流域だけ、隣の上州とは反對に一月のミソカを重んじます。團子は土穗で無く稗の粉で作りますが、是も黒いほどよいといふ村があり、それを三つ串に通して戸の(353)口に刺すことは、私の近所の八日の團子も同じであるばかりか、是を怠ると怖しい婆又は鬼が來て、ひどい目に遭はすといふ點までがやゝ似て居ります。日は一月の四分の一ほどちがふけれども、この晦日の鬼の目團子なるものは、一つ目小僧の日とも謂はるゝ二月十二月の八日節供と、丸々縁の無いものでないといふまでは、是からでも想像し得るのであります。

　

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　今までの郷土研究がして居たやうに、自分のよく知つた土地の事ばかりで判斷せず、弘く全國の同志と共々に物を考へるといふ意義は斯ういふ點に在ります。慣習は通例行爲ばかりで傳はり、むしろ稍々不確かになつて始めて解説が現はれます故に、それが孤立して居る限り混亂は免れません。將來我々の團體が感謝せられるであらう點は、各地思ひ／＼の採集が互ひに引合せて見られることであります。勿論より多くの知見が積み重なり、もつと容易な理解が今に來るでせうが、現在知られてゐるたつた一つの佐渡ヶ島の年中行事を見ただけでも、合點の行くことがまさに有るのであります。佐渡では關東などでいふコト八日と同じに、二月と十二月の上旬に大事な日がありまして、それに先だつ數日間を忌《いみ》と謂つて居ります。忌の始めは村々一致しませんが、多いのは前月の晦の日、又は二十八日からといふのがあり、忌の終りは二月は四日又は五日、十二月の方は第一の卯の日といふことになつて居るから、遲ければ十日以後にもなります。その最後の日を二月は祭りはじめ、十二月の方では祭りをさめと謂つて居りますのは、ちやうど他の地方で二度の八日を、コトハジメ、コトヲサメといふのも同じで、コトは即ち祭でありました。コトを正月の祝ひのことゝ解してから、江戸では合理的に二月の方を、却つてコトヲサメと呼ぶやうになりましたが、實際は正月の祝ひは、決して二月八日までは續いて居ませんでした。學術的な暦法の田舍に普及するにつれて、正月にも幾つかのコト又は祭が始まりましたが、最初我々が祭と謂つて居たのは、主として稻作りの爲の祭でありました。それが(354)陰暦の三月上旬に始まり、霜月の下旬を以て終つたのです。公けの言葉に依りますと、祈年と新嘗との二つがそれであつて、その間になほ幾つかの小さな拜みごとがありました故に、是を祭の始め終りとして通じたのかと思ひます。近世の所謂コトヲサメが、霜月下旬で無く師走の上旬に、下つて來た理由はまだ判りません。しかし少なくとも開拓が進み、居村の　　　状況が改まつて來ると共に、古來の祭の期日をさながらに、守つて居ることは出來なかつたのであります。さうして祭の前と後との、忌の期間は一般に短く縮められて來ました。もとは十月を神無月と謂つたのが、全部齋忌の期間だつたことを意味するかと思はれますのに、それをあと先から切りちゞめ、更にその短い忌の中間に、ナカネなどゝいふ中止の期間を設けまして、一段と一つ／＼の神事を孤立させることになりました。

　祭は或期間の嚴肅な戒律を守つた者でないと、奉仕してもむだであり、又惡い結果さへあるといふことを、考へない者が段々と多くなつて來ました。たとへ片端にもせよ、忌を怖れる感覺がまだ傳はつて居るのは、珍重すべき手掛りであります。佐渡でも忌の日に忌團子を作つて居りますが、土穗の團子や土穗飯は、その忌の食物の最も印象的なものでありました。是をわざ／＼こしらへて食べ、又はその一部を門の口にさし立てるやうな土地ならば、是に伴なうて必ず若干の常の日の行事を、相戒めて行はぬやうにして居ります。さうして始めて祭をすませたといふ、安らかな心境に到達し得たのであります。是が土穗團子のやうなまづいものを、食べずには居られなかつた者の、ひそやかな幸福であつたかと思ひます。

　

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　うか／＼と書いて居るうちに長くなり、しかも幾つかの入用なことを言ひ落しました。靜岡縣でも小笠郡の池新田村などでは、舊二月の八日をお釋迦さんの命日と謂つて、やはりチヂコ團子をこしらへて佛壇に上げるさうです。涅槃は二月十五日であることを誰でも知つて居るのに、それを八日に上げるといふのは、是も祭が一日きりの行事で無(355)く、或長さの期間であることを感じて居たからだらうと思ひます。多摩川水域の八日ゾウなども、此日を記憶して守つて居ても、團子の串や目籠などは、なほ二三日はそつとして置き、又は少し前から用意したらしい形跡があります。それよりも注意せられることの一つは、こゝの附近の村々には、十二月の二十五日又は二十三日を以て、同じ行事をして居るものがあります。是などは今いふ月送りで、もとは舊暦十一月の其日を、節日として居た名殘ではないかと思ひます。東日本では一般にお大師講ともいひまして、霜月二十三夜につゞく二三日は大事な日でありました。古來多くの土地の新嘗祭も、この日を以て行はれたものがあるやうです。コトヲサメを十二月の八日にくり下げてからも、この日を忌の始めとして、そこで一度の祭を營む習はしがあつたのかも知れません。さう思ふわけは、伊豆七島の忌の日は正月二十四日、又は二十一、二日から始まる數日間でありました。安房と上總の多くの神社で、ミカハリと謂つて居る物忌は、十一月の二十六日を以て始まるものが最も多く、その終りの日はやゝ區々ですが、十二月の五日までといふのも何箇處かあります。九州の南で有名な七島正月は、正月と言つても實は先祖の祭日で、是も十一月の二十六日を以て始まり、次の月の六日を以て完了することは房總地方と同じく、又海の方を見てはならぬといふやうな物忌が其間にありました。羽後の大物忌神社、安藝の嚴島神社その他の名ある御社の、昔今の例規を比べて見ましても、總體に民間の祭は少しづゝ、冬は遲く、春はやゝ早くならうとして居るのではないかと思ひます。農の作業の進化發達といふことを、考へ合せずに居られない珍しい異同であります。

　

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　島根民俗の活字號に、私は「みかはり考」といふ一文を書きました。この月曜通信はその後に續けるやうなつもりで、同じことを二度言はぬやうにしました。なほ橘樹、都筑二郡の八日ゾウ、又はミカハリ婆さんの舊い言ひ傳へについては、民間傳承五六月の、石井進君の採集を、もう一度讀んで見て下さい。

　

(356)　　　　　狐塚の話

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　九月二十七日

　狐の話は際限も無く多いものである。語る當人には胸がときめくばかり面白い話でも、大抵は型が有つて是は珍しいといふやうなのはめつたに無い。つまり年少の頃に、始めて聽いたものだけが印象が深く、殊に場處とか或家の老人とかに、結び付けて説かれる故に忘れ難いのである。それを精細に記述排列して、比較の結果を出して見ることも意味はあらうが、それまでの根氣をもつた人は少なく、?々飽きられては又間を置いて蒸し返される。乃ち問題の相應に重要なるに拘らず、是が民間傳承の極めて取扱ひにくい種類になつて居る理由と思はれる。斯ういふ題目こそは、何か一定の方法を設けて、少しづゝでも足場をこしらへて進み、又しても後戻り遣りなほしをせぬやうに、我々の知識を固定して行く工夫を講じなければならぬ。

　この會同人の最も樂しい友情は、土地を隔てゝの協力に、又研究心の集注の上によく現はれて居る。一つの村だけの事實では、どんなにしても説明の出來ない不審が、他處との比較によつて無造作にわかつた經驗を重ねて居るからでもあらうが、今までは問うて數々の答の得られなかつたためしは一度も無い。おかげで珍しい特輯號なども幾つか出來て居る。がしかし用心しないとこの方法は、問題を片よらせる懸念があり、又他の多くの會員の心からの疑問が、どこに在るのかを知らずに過す恐れもある。その疑問といふ中にも、すでに一通りはわかつて居るもの、又は民俗學の係りの外であつて、答手の無いものもまじつて居らうが、とにかくそれを出來る限り多く集めて見て、それによつ(357)て前線を擴げて行く必要が今は有るかと思ふ。斯く申す筆者も最近は仕事を縮め、ほんの小さな隅をつゝいて居る有樣だから、さう新鮮な質疑を提出し得ようとも思はぬが、少なくとも自身の無知無識を率直に表白し、他の地方の埋もれたる眞實に大きな期待をかける點では、一つの見本になり得ると思つて居る。是からの月曜通信には、諸君の自由な質疑を妨げぬ範圍に於て、ぼつ／＼と其見本なるものを擧げて行くことにする。ことわるにも及ばぬことだが、是はこの會報の頒布せらるゝ區域に於て、必ず答が得られるであらうと思ふ問題であり、又そんな事をきいて何の役に立つと、咎められるやうな心配の無い事柄ばかりである。單なるひま人のひまつぶしのやうに、今までは見られがちだつた狐の話なども、斯ういふ風に尋ねて見るときはなる程意味が有り、又我々を新しいさとりに導いて行く道であるといふことを、出來るものならば説明して、答をもつ人々の關心を高めて見たいのであるが、果してうまく行くかどうか。まだ少しばかり心もとない。

　

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　先づ實際の用途を述べる。私はもう三年近くも前から、田社といふ問題を考へて見ようとして、段々入つて行くうちに、稻荷さんの由來といふ點にはたと打當つてしまつた。伏見の御本社に田中といふ社が古くからあるのと、今も全國の隅々に稻荷を屋敷神とする風が弘く行渡つて居ることゝ、二つはどういふ風に關聯して居るのか、その小さな數十萬の稻荷社に於て、特に狐といふ獣を重要視し、時としては是を神實《かみざね》の如く信ずる者さへ多くなつて居るのは、どういふ事情に基くのであらうか。狐と稻作との關係を説く言ひ傳へは、有名なものだけでも二つはたしかに有るが、その二つは共に伏見とは關知して居ない。問題の骨子は諸國の狐神信仰が、伏見を起點としてしかも段々變化退化したか。はた又大小全く異なるものが、後々少しづゝ互ひの連絡を取るに至つたか、或は又古く共通の信仰の表現であつたものが、世を經て一方は特に大いなる成長を遂げ、他の多數のものは別箇の途を歩んだものか。三者必ずいづれ(358)かの一つでなければならぬのだが、それがまだ決し得られない。私はこの六つかしい問題を、すぐに民間傳承の會に向つて投げ掛けようとするのでは無い。之を決するには素より順序が有る。それに先だつて是非とも數多くの、論據となるべき事實を確かめて置かねばならぬのだが、それに諸賢の協同の力に由つて、明らかにし得ることが幾つもあるのである。

　その一つの場合として、狐塚といふことを考へて見てもらひたい。狐塚は京都の南部、鳥羽から少し東に在るものが最もよく知られ、そこで戰もあつて中世の記録には名が載つて居る。しかし私の詳かにしたいのは、そんなたゞ一つの有名なものではなく、それがどういふ風に全國に分布して居るかである。有るといふ事だけはもう疑ひではない。今から二十何年か前、地名の研究に熱中して居た時に、私は試みに各地の小字名の、狐塚といふものを拔き出して見たことがあつて、其ノートが偶然に保存せられて居る。もちろん全部では無い筈だが、其數がすでに二百以上、所在もはつきりとわかつて居て、南は九州の端から北は秋田縣まで、狐の居ないと言はるゝ佐渡ヶ島と四國とを除いて、其他は大抵皆あるといふことは、狐塚が單なる當て字でなく、そこに其名の塚があつて、地名となつたことを推測せしめる。今でもまだ其他に同じ名の塚があり、又は有つたといふ記憶があるか、さうして塚がどんな風に、稻田と關係して居るか、それを先づ私は教へてもらひたいのである。

　

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　自分もその一つ／＼の狐塚について、少しづゝは注意して居たからわかつて居る。さういふ中でも東京から遠くない農村には、塚の上に稻荷の小祠があるから狐塚だといひ、又はその祠の背後には狐の穴のあるのも幾つかある。古塚には狐はよく穴居するから、それから出た名とも考へられ、又現實に狐塚を發掘して、古墳遺物を得た例が二三は報告せられてあるが、それにしては餘りに數が多いのみか、會津地方などの地誌には、狐を稻荷に祀るために、近世(359)新たなる狐塚を築いたといふ記事も幾つか出て居る。多くの稻荷の社がそれであつたやうに、祭場に常設の建物を設けない社では、特に土を小高く盛つて平常の用を防いで居た。古墳はたま／＼其目的に利用せられたといふまでゝ、普通のものはもつと簡單な、後世の世の置土であつたらうと思ふのだが、果してその想像は當つて居るかどうか、大和あたりの實例について、一度は確かめて見たいものである。

　關東地方の狐塚には、現在もなほ信仰の目途に使はれて居るものがある。たとへば那須史話に出て居るあの地方の狐塚などは、祠は無くても毎年の塚の上の祭があつた。但し近年はたゞ野獣の害を防ぐ爲に、狼に供養をするのだと謂つて居たさうである。小字に狐塚の名が有るばかりで、爰が其塚だつたといふ場所の知れないものは致し方もないが、もし殘つて居るならば現在はそこでどういふ行事があり口碑があるか。其點を私は特に明らかにして見たい。

　それよりももつと知りたいのは、その狐塚の地形、假に塚の跡はもう不明になつて居ても、現在その名で呼ばるゝ小地域が、山か平野か田の中であるかは明らかにしたいものである。僅かな例だが私の知つて居るのは、周圍又は半面が稻田に接して、田植苅取の作業を目の前に見られるやうな、小高い所ときまつて居るやうに思ふ。是にもし著しい例外が無いやうだつたら、もうそれだけでも私の一つの假定は成り立つのである。あまり詳しくそれを説き立てることは、或は反對の資料を出しにくゝする虞れもあるが、實は自分などは狐塚を、もとは田の神の祭場だつたらうと思つて居る。從つて是がもし谷の陰や原の奧などの、ねつから田に縁の無い所に幾らも有るとわかると、忽ち此假定はひつくりかへるのである。あぶない試驗ではあるが、一度は通つて來なければならない。

　田の神の祭は半分家の中で、又は田の畔や水口の僅かな盛土の上で、近世は營まれるものが多くなつて居るが、それでも地方によつてはまだ今でも、田に接近した一定の地を劃して、常設の祭場として居るものがある。塚はさういふ中の一ばん古風に近いもので、それに狐塚といふ如き覺えやすい名を付與したことが、亦一つの重要なる變化過程であり、それが又稻荷の小社の、此の如く國内に充滿するに至つたことゝ不可分の關係に在るやうに、私は今考へて(360)居るのである。

　もちろん斯ういふまでにはたく山の證據提出が必要であり、それを檢討せぬうちから成程などゝ言はれても困るが、大體に田の神が冬は山に在り、春は田に降つて秋の收納の終りまで、稻作の守護に任じたまふといふ信仰は、今でもまだ全國の隅々に亙つて、稍々うすれながらも其痕跡を保存して居る。それがこの狐を田の神の使令と認めるやうな、ちよつと外國には類の無い習俗を、成長せしめた原因であつたといふだけは、先づまちがひが無いものと見てよからう。狐塚の所在、地形、之に伴なふ行事とか言ひ傳へとかに、私が無限の關心を寄せて居る事情は、詳しく御話をして行くにつれて、段々とわかつてもらへるわけである。

　

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　二つの近世の歴史的事實が、此問題の透視を少なからず妨げて居る。その一つは公定暦の普及によつて、田祭の日と現實の農作業との間にずれを作つて、一般に秋の苅入れ季節の儀式を簡略ならしめたこと、今一つは山から遠く離れた低地部の新田開發が進んで、田の神が山から去來するといふ古くからの考へ方が、事實の裏書を得にくゝなつたことである。狐が山から降りて稻田の邊に食物をあさり、又は仔狐を養はうとしたのは秋冬の交を主とし、又其姿を里人に見られるのも、木草の枯れ伏してから後であつた。狐の數ももとより多く且つ今ほど人を怖れなかつたらうが、とにかくにこの野獣の擧動を視、又は其聲を聽いた者には、之を山にいます神靈の前驅であり、もしくは使はしめであると、想像するやうな特徴は幾つも有つたらしい。鴉を春の始めの山神のミサキと認めたと同じく、狐を山ミサキの名を以て呼んで居た例は、東國にも山陽諸國にもある。さうして其ミサキは先鋒を意味し、後には更に神の統御に服した從屬の小さい靈をも意味したのである。我々の尊い神々には御姿は無かつた。少なくとも仲に立つ小さな獣を通してゞ無いと、神意を窺ふことが出來ぬものと考へられて居た。狐そのものを神に祀るといふのは、獨り外國人の(361)誤解だけでは無い。狐即ち稻荷神だといふ迷信は伏見以外の可なり多くの社にも及んで居る。いつからさうなつたといふことがまだ不明といふのみで、最初からこの通りといふ證據などは一つも無い。言はゞ神道衰頽の現象の例であつて、それを私などの狐塚研究が、追々明らかにし得る見込があるのである。

　

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　一昨日の土曜日にも、私は試みにこの附近の幾つかの稻荷社を見てあるいた。偶然かもしらぬがそれは皆水田のまん中に在つて、塚といふよりもやゝ廣いが、社地だけはずつと周圍よりも高く、土を盛り上げた跡らしく見られた。六十數年前の記憶が測らずも蘇つたのは、私の生まれた村でも、稻荷さんはやはり境で圍はれた一區の水田地の東北隅に在つた。もとは私の家の家督の田であつたのを、五代前に何か仔細があつて、讓つてしまつたと言はれて居た。さうすれば曾ては私の家で祭をして居たのであらうが、森は一面に古木の藤が匐ひからまつて、子供には怖ろしくて中へ入ることも出來なかつた。狐が住んで居るといふ言ひ傳へがあつたからではないかと思ふ。現在はもう其頃のまゝでは居らぬだらうが、そこにどういふ祭がいつの頃まで行はれて居たらうか。一度この機會を以て問ひ合せて見たいと思つて居る。

　

(362)　　　　　七島正月の問題

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　十一月八日

　古く聽いた話を、丸ごと忘れてしまつて居るのには困却する。たとへば此頃事新しく騷いで居るミカハリ婆さんの話なども、私もすでに今から三十年も前に、一ぺん聽いたことがあるのである。鹽積�ｺ君といふ人は、其頃勸業銀行に働いて居たが、民俗學に深い興味をもち、友人と共に多摩川對岸の村々をあるき、色々の話を聽いて來て其筆記を私に見せてくれた。其一節に、今は川崎市になつて居る橘樹郡旭村で、箕借りばあさんの來る日といふのがあり、それは十一月二十五日から十二月五日までゝあつた。オツパキ團子といふものを拵へて、それを戸の口に挿したとある。オツパキは即ち庭場の掃き寄せ籾のことで、他の村々でいふ土穗も同じことだと思ふが、其ミカリ婆の來るといふ日が、小田急沿線の村々と、ちがつて居るのが一應の不審である。しかもこの旭村の方でも、別に八日ゾウといふ一つ目小僧の來る日はあつて、其日は目の多い籾篩ひを屋外に出すといふのだから、爰では二つの俗信が融合せず、二つ竝び行はれて居るのである。どちらか一方が後から入つて居るものと解すべきであらう。

　そこでもう一度、前の石井君の報告を讀んで見ると、同じ川崎市の中でも、そのミカリ婆さんの團子を、今は十二月〔三字傍点〕の二十五日に作つて、桝に盛つて縁側の端に出して置くといふ村があり、乃ち其團子をツヂヨウ團子、又はミカリ團子といふとある。それは初山といふ部落であつて、同じ團子を八日の日にこしらへるといふ細山だの長澤だのゝ村々から、ごく近い處なのである。

(363)　こゝで十二月の廿五日といふのは、新暦の月送りであつて、前の旭村の十一月は、昔からの舊暦霜月、つまり雙方同じ習俗であつたことが想像せられる。こゝから少し離れた現横濱市の北隅、もと石川町保木といつた部落でも、やはり十二月の二十五日に、ツヂヨウ團子を作り篠竹にさして二つの入口に立てたといふ話がある。さうしてこの二箇處は一樣に八日ゾウの日には團子が無く、たゞ目籠を屋の上に揚げるだけである。初山の方ではこの八日の目籠は、あと先三日間ほど出して置くと謂つて居る。

　

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　もしも自分の想像する如く、二箇處の十二月〔三字傍点〕が新暦月送りで、もとは一樣に霜月の二十五日であつたとすると、是は相應に重要な事實である。といふわけは茲に我々の久しく考へて居る、いはゆる御大師講の問題が、結び付いて來ることになるからである。歳時習俗語彙の中にも、可なり多くの例を列擧してあるが、この仲冬の月の下弦の夜頃は、古來我邦では非常に重要な季節と認められ、靈力すぐれたる貴い旅人が、夜深く村々を巡りあるいて、人の心を試みたまふといふことを、言ひ傳へて居る者が稀ならず有る。東日本の各地では、オダイシ樣といふのが其尊重の名であつた。俗間では高野の弘法大師、もしくは天台智者大師のことだと稱し、或は元三大師に附會した説もあるけれども、そんなことは些しも當てにはならない。何しろ其晩は必ず雪が降つて、それを跡隱しの雪といふところから、ダイシは片足だとか指無しだつたとか、その他是に類するさま／”＼の奇跡が語り添へられ、之を次々と取傳へた千百年來の、冬の夜長の夜籠りの光景が、眼に泛ぶやうにも感じられる。關西の方では霜月三夜、又は二十三《にじふそ》などの名を以て知られ、大體に二十三日を祭の中心として居るやうだが、奧羽地方には二十四日を用ゐる者が多い。いはゆる箕借り婆さんの二十五日は、又一日遲くなつて居るけれども、月を暦として居た昔の人には、この日讀みの數字の差は、さしたる問題ではなかつたらしく、同時に是が又一陽來復の日、二十四候でいふ冬至の感覺と、やゝ漠然たる結び付きをも(364)つて居たことも、もう此頃は少しづゝ判つて來た。佐野一彦氏の書信によつて始めて知つたことは、美濃加茂郡などの一地域では、冬至弘法といふのが他の府縣の大師講のことであつた。眞言寺も無いのに部落毎に弘法堂があり、以前はそこに集まつて共同の禮拜があつた。家々の行事食物、又は此日に伴なふ口碑には同じものが多い。十何年も前、私は「新しい太陽」といふ一文を公表して居るが、もし我々の大師講が冬至ならば、今日舶來としてもてはやさるゝクリスマスも別の日では無い。さうして一致はむしろ耶蘇の誕生といふものと、此方の霜月祭との間にこそ多いのである。勿論今はまだ假定の域を出でないが、ダイシの名の起りは大子であり、嫡子を意味するオホイコに、此文字を宛てた例は上世の文書に幾らも見られる。乃ちこの日は若々しい神の御子が、親しく人界を訪れたまふ日だと、解して居た者がかつては多かつたのである。

　

　　　　　　　　　　○

　

　其樣にも貴くいつくしい神の若御子が、どうして老僧となり又は婆さんにも變化したらうか。是は或は民俗學が單獨に解説し得るやうな小さい問題では無いかもしれない。しかし少なくとも研究の資料の、今後に期待し得るものは此方には多く、それも今はまだ片端しか集められて居らぬのである。當面の仕事としては、何が是ほどまで我々の固有信仰を、變貌させたかといふ諸原因の探求、それよりも寧ろ古いものは次々と改まつて來て居るのだといふことを、はつきりと認めてかゝることであらう。今度ばかりが姶めての變革であり、以前はたゞ一枚の板でゝもあるやうに考へることは、親々の知能力量の無視であるが、それはまだ忍ぶことも出來る。是からなほくり返して行はるべき數々の變化を、もつと賢明に又安らかに、もつとへたくそで無く爲し遂げようとするには、今有る概括論の有害なことは、軍國時代ともさして異なる所が無い。さういふことを胸に置いて、私たちはもう一度、歴史の殊に省みられざる區域を明らかにして見ようとして居るのである。

(365)　至つて小さな事のやうだが、我々の神祭り稻作の始めと終り、二月の祈年と十一月の新嘗によつて、前と後とを區切るものとなつて居たのに、いつの間に又如何なる理由によつて、それが十二月八日にまで引下げられたのであらうか。二月の方は先づもとのまゝのやうに見えるが、是もよく見ると少しくり上げられ、其準備が正月の月にくひ込んで居る。つまりは二つの栽培期を隔離する空間が、前後合算して約一月ほど短縮せられたことになるのである。さうなつた原因として先づ想像に浮ぶのは、今日のいはゆる舊暦、即ち上代の新暦の普及である。唐の暦法の採用は朝廷としては古いが、最初は頒布の方法が無く、文字が讀めないから庶民は之を利用し得なかつた。月と草木の姿を目安にして、播き時苅りしほを知るといふ習はしは、一部分は今もなは調法がられて居る位だから、隨分久しい間二つの暦は併行して居たのである。しかも一方は公式のものであり、又統一を以て目的として居た故に、恐らくはやゝ上層の方から、徐々として新たなものが浸潤し、大きな不便が無い限り、古い民間の暦法は讓歩して來た。さういふ中でも今日の正月は、殊に無爲休養の期間であつた爲に、新しい行事を採用しやすく、又幾分か事を好んで強ひて昔からの仕來りの日を、此方へ移して來た形がある。たとへば正月十一日の田打ち初め、同十五日の田植式などは、土地によつては全く之を行はず、又それがある爲にもとの日を忘れてしまふことが出來ず、行事が二重になり、一方は甚だしく「わざをぎ」の形を帶びるやうにもなつた。しかしとにかくにこの初春の樂しみが活?になると、それが眼ざましとなつてもう再び冬眠の殘りを追ふこともならず、勢ひそれに續く春の營みを、早くする結果を見たのかと思ふ。

　

　　　　　　　　　　○

　

　一方十二月八日が節供になつた理由は、是だけではまだ十分に説明が出來ない。何か今後に發見せらるゝものが必ず有ると思ふが、さし當り自分などの心づくのは、前に掲げた日南至といふ天體の知識であつて、是は學説の習得と言はんよりも、やはりめい／＼の經驗の集積であつたらう。寒い眞冬を行く手に控へつゝも、日は僅かづゝ此頃から(366)永くなり、日ざしも變り始めて春の萌しが幽かながら現はれる。それがこの霜月下弦の頃の古い節日を、段々と齋忌の終極とは見ずに、何か其次に來るものゝ開始の日の如く感じ出したのがもとでは無いかと思ふ。日本の神道では最も明らかにし難い問題の一つ、後齋即ち祭の後につゞく物忌といふのが、恐らくはこの考へ方の變りに參加して居る。嚴肅なる大きな祭では、式が終つても直ちに常の生活には復られない。更に何日かの謹愼を必要としたことが、是を物忌の起算點の如く、誤解せしめる一原因となつたのかとも想像せられる。

　強ひて固執するわけで無いが、斯うでも考へないと今はまだ説明が出來ないのである。すでに心づいた人も有るかと思ふが、十二月にはなほ一つ、十三日といふのが節日であつた。もとは煤拂ひの日であり、多くの土地では又奉公人の出替る日でもあり、上方では是を正月始めとさへ呼ぶ名があつて、少し早過ぎるが歳末の禮に廻る者もあつた。是も本たうは起りが不明なのだが、ともかくも次の新年の行事に從屬するものゝやうに、一般には見られて居る。それとたつた五日しか隔てないコト八日の日も、やはり正月の準備の日なるが如く、推定せられたのは自然であつて、江戸人の書いた隨筆類などには、十二月の八日をコト納め、二月の八日をコト始めといふのは誤りだ、正月を中にした前後の八日だから、實は其反對に呼ぶのが正しいと説いて居り、それをまに受けたか市中には、さうとなへて居る人が多かつた。しかし幾らさう謂つたところで事實だけは變へられない。江戸の近郊を含めた全國の農村では、二月十二月の八日を祝ふ限り、すべて二月の方をコト始めと謂つて居り、他の一方が當然にコト納めである。コトは節日又は祝祭日を意味する古語であつたらしく、しかも正月だけはコトのうちでは無かつた。佐渡の島では二月の忌の終りの日を祭始め、十二月の忌の終りを祭納めとさへ謂つて居る。之を反對に十二月の方をコトハジメと呼ぶ者が、江戸の隨筆家以外に、出雲地方に少し有るのは、恐らくは偶然であるまい。冬の物忌のこの樣に遲く始まることを、彼地ではまだ知らない人が有るだらうからである。

　

(367)　　　　　　　　　　○

　

　或はこの十二月八日と、十一月の二十五日とは、どちらかゞ箕借婆の思ひちがへであつて、兩日はもと／＼無關係だつたのでないかといふ、一説も起りさうに思はれるが、それだけは自分は説き伏せることが出來る。先づ第一にこの二つの日の中間に、霜月から師走に越える境の日が節日で、その際に土穗團子をこしらへる例を、群馬縣の利根水域と駿遠各郡とに於て我々は確かめた。それと對照せられる二月の八日に對しても、嶺を隔てゝ信州の千曲水域、及び靜岡縣内の二三の土地に、やはり一月の三十日と二月一日との境に粒供養の日があつて、土穗で團子をこしらへて戸外に出し、又は此日巡つて來る怖い婆さんに言ひ開きをした。忌が長過ぎると完全には守りきれず、中途で中休みをして改めて自肅する風は出雲の方にもある。佐渡の年二囘の忌にも忌ナカサヒがあるが、前月即ち一月と十一月の二十八、九日を大切な日として居る。精確に二十三日から始まるといふ例にはならぬが、少なくとも祭り始めと祭り納めとの二つの日は、たゞの一日きりの節日で無かつたといふまでは是で證明せられる。

　それよりももつとはつきりして居るのは、對岸安房上總の村々のミカハリである。是は神社毎にといふ程もちがつて居るが、房總志料その他多くの郷土誌を綜合すると、一ばん普通なのは十一月の二十五、六日に始まり、次の月の五日、六日までといふもので、終りが少し早いが爰では中頃の休みが無い。遠く敷百里の波濤を隔てゝ、薩摩の南海に碁布する道の島の七島正月なるものも、やはり島々の聊かの差異はあるが、大體に房總の例と近く、十一月の二十六日から齋忌に入り、たゞ最終の十二月六日の定刻に、神は送られて海遠く還つて行かるゝと、いふ點のみがちがつて居る。七島の正月などゝいふ變つた名を付けられたばかりに、如何にも邊土の異風の如く噂されて居るけれども、現に此通り關東の御膝元近くにも、それと略々同じ式作法を、むしろやゝ間ちがへて今も取傳へて居る。或は是が祖靈の祭であつた故に、わざとめでたい本正月から引離さうとしたものかと、考へて見たことがあるけれども、それは(368)正月の今ある行事が、暦の普及と共に段々と寄せ集められたものだといふことを、心づかずに居た過ちであつた。遠く地を隔てゝ是だけの一致がある以上は、假に忌期間の改定があつたにしても、さう新しいことでは無かつた。少なくとも正月の行事の今のやうに定まるよりも、一段と古くからのものと見なければならぬと思ふ。

　

　　　　　　　　　　○

　

　終りに今一つ、十二月八日のミカハリはそれでよいとして、之に對する二月八日は、どうして起つたかといふ問題がなほ殘るが、是は收穫の後に來る感謝の祭が重んぜられて、之に比べると春の始めに降ります神が、幾分か簡略に祭られるやうになつた結果とも推測し得られる。或は民間暦の改廢が殊に年の始めに於て著しく、年の神が田の神であり又家の祖神であることが忘却せられ、正月はたゞ正月樣として祭りかしづくやうになつた爲に、以前の信仰が保持し難くなつたとも言ひ得るであらう。二月八日を以て終るべき物忌の始めの日としては、伊豆七島の忌の日といふのが、今のところでは殆と唯一の殘留のやうにも思はれる。忌の日は又｜日忌《ひいみ》樣、島によつては二十五日樣と謂つて居るが、是は島々の間に巡島の口碑がある爲で忌の始めは正月の二十四日、又は前夜からと考へられて居るから、ちやうど又霜月二十三夜の御大師講とも對立する。たゞ其忌の期間の終末が、記録の存する限りでは非常に早く、二十七日にはもう常の日となつて居ることが不審であり、しかも大島などでは別に二月八日の一つ目小僧の日に、やはり目籠などを掲げて戒愼して居るのである。是を一續きの忌期間の、中途で切れたものとはまだ私等には考へにくい。多分は前からあつた春の忌の末が切れてしまつた處へ、別に新たに他の地方の、頭のとれてしまつた八日の忌だけが、入つて來て併存して居るので、この混亂の原因となつたものは、やはり正月風俗の近代の普及かと思はれる。是ももう一度立證しなければなるまいが、私は田舍の正月の今のやうに盛んになつたのは、都市の影響であつて比較的新しいことだらうと考へて居るのである。

(369)　長野縣の北部などに殘つて居る正月晦日から翌朔日までの行事は、事によると松の内花の内の花やかな風俗よりも前からあつたものゝ破片だつたかもしれない。いつかは村々の故老の記憶を、もう一度集めて比べて見たいと念じて居るが、佐久南北の一二の村里では、他はいはゆる送り正月、即ち一月三十日の晩に、鬼の目團子をこしらへて戸口に刺すのに對して、是を伊豆の島々の忌の日、即ち正月の八日に、藁の馬に團子を負はせて、道祖神の辻へ持つて行く慣例もあるのである。多摩川對岸のミカリダンゴが村によつて日を異にして居るのと同じに、是も春の物忌の始中終を、意味して居るのではあるまいか。後に續く若い學徒の檢討を望むより他は無い。

　

(370)　　　　　田の神の祭り方

　

　　　　　　　　　　一

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　一月二十四日

　狐塚を、もと田の神の祭場だつたらうといふまでには、少しはさう思つてもよいやうな資料を、集めて置かなければならぬのは勿論である。それが完備するにはまだ時がかゝるが、斯んなことを言ひ放したまゝで時を過すのは、以前の學者も同じ無責任である。もし是だけでもなほ信用する人があるやうだつたら、それは民俗學の威望にも拘はることであると思ふ故に、私はやゝ急いで今知られて居るだけの事實を整理し、どうしてさう考へずには居られなかつたかの説明に供し、且つ諸君が今一段と熱心に、各地の狐塚の來由に、注意を拂はれることを促して見たいのである。

　田の神の信仰には、國の南北兩端を一貫した、著しい共通性が認められて居るにもかゝはらず、行事の端々には土地毎の異同が多いことは、近世幾度かの統一のあつた神社神道などの比では無い。從つてやゝ知られた一二の實例に基いて、概括の説を爲さんとした者は皆失敗して居る。斯ういふ中からでも、なほ精確なる觀察と比較とを以て、曾て行はれて居たものゝ次々の變遷を、跡づけられようといふ希望は幽かなものであつた。亡くなつた倉田一郎君の一通りならぬ勞苦によつて、今度増修改版せられた農村語彙は、新たなる一つの機會といふことが出來るであらう。私はその共同の悦びを記念すると共に、且つは是等の資料の利用せられること無くして、たゞ文庫の底に保存し終るべ(371)きものでないことを、實證して見ようとして居る。但しこの語彙の採録は、概ね昭和十六七年の分を以て打切りとし、それから後の見聞は少なからず、殊に或一つの問題に氣を付け始めてから、漸く判つて來たことも相應に多い。乃ち民俗學研究所の努力によつて、今後この分類語彙が更に三たび四たび、版を重ねて行かねばならぬことも、同時に明らかになつて來るであらうことを私は豫期して居る。

　

　　　　　　　　　　○

　

　稻の栽培が他の色々の作物に比べて、特に重々しい儀禮を伴なふものであつたことは、よその民族に於ては毎度注意せられ、日本だけでは今まで之を省みる者が少なかつた。しかも現實の關心は今とてもまだ全く衰へて居らぬのだから、やがて此中から耕作者自らでないと、感じもしくは意識して居ない多くの事實が發見せられて、外から觀る外國の學者をも、啓發し得るであらうことが希望し得られる。言はゞ頗る張合ひのある仕事なのである。

　最初に目標となるのは田の神の祭の時期である。それは前から囘數が多くて、後に力を入れる中心が移つたか、又は新たに付け加はつたものがあるかといふ點であるが、少なくとも支那の進んだ暦法が、田舍の隅々に行渡るまで稻の祭が無かつたとは見られぬ以上は、雪に野山の埋もれた山間の村々に、汎く行はれて居る正月半ばの行事などは、後からの追加であると見てよからう。冬暖かな南方の群島だけは、舊暦十二月を以て田植の季節として居るが、それと最も近い九州の南端でも、二月が田の神の降る月であつて、それはほゞ舊日本の全土に共通して居り、しかも正月の田祭は、却つて此方面にはあまり見られぬのである。

　いはゆる田打正月の行事は中國以東、殊に瀬戸内海の周邊が最も濃厚であつて、こゝでは農事の神を迎へ祭り、或は一家打連れて田を拜みに行くなどゝいふ慣例さへあるが、段々と東北に進むにつれて、此日はたゞ仕事始めの豫祝の日と解せられる場合が多く、是に引續いた望の正月には、數々の年占やわざをぎが行はれて、一年の最も樂しい時(372)ではあつたが、なほ直接には田の神の信仰とは結び付いて居ない。歳が現實の稻作作業に伴なうて終始するといふ古い考へ方がなほ殘つて、文化交流のもつと進んだ土地のやうに、完全に中央の正朔に遵依することがまだ出來なかつたものかと思はれる。

　之に對して舊暦二月の滿月以前の或一日を以て、田の神の高きより降りたまふとする信仰は、ほゞ一樣に全國に行渡つて居る。北の雪國では是とてもまだ早きに過ぎ、現に又一部にはそれを三月にくり延べた地方もあるのだが、以前は春になつてから株田を打ち起す習はしがあり、籾の種浸けにも日數を要した故に、漸う水の音の聽えて來るのをたよりに、まだ殘雪の間から勇ましく立ち上つて、長い骨折な米作りの勤勞に着手した。その爲には殊に田の神の恩惠に頼るべき必要が多かつたかと思ふ。

　朝廷の式典の古來著名なもの、即ち二月月始めの祈年祭と、十一月下弦の頃の新嘗祭とが、この田の神の祭日と、ほぼ一致したのは偶然とは言はれない。但しその收穫の終りに來る祭日が、今でも霜月となつて居るのは九州の大半、東日本では能登半島の一部だけで、其他の地方は主として十月のうちに、もう田の神は還つてしまはれるとしたことは、何かまだ隱れたる大きな理由があつたのである。大體に穗稻を久しく田に置くことが、困難になつて居たのであるが、さういふ中でも寒國の田は早く雪に覆はれ、急いで其前に稻を運び入れる必要があつて、所謂ニホの祭の式は、暖地に行はれたまゝを踏襲することが、出來なかつたかと思はれる。變化はこの方面に先づ起つた。さうして今日は一般に、收穫後の祭は淋しいものになり、年貢だ加徴だといふ世俗の事務が其後に續いた。見やうによつては正月の色々の模擬行事が、其代りに生まれたとも言はれぬことはないのである。

　

　　　　　　　　　　○

　

　二月に山の神が田に降つて田の神となり、秋が終つて十月又は十一月に、山に登つて山の神となりたまふといふ言(373)ひ傳へは、恐らくは日本の隅々、どこに往つても聽かれるほどの通説であるが、現在はそれを信仰とまでは言へないほど、中間の祭が間遠になり、又一部に集中して居る。さういふ中でも昔は重要であり、後世次第に簡略になつたかと思ふのは、舊暦八月のなかばに行はれた穗掛又は拔穗といふ行事であつた。稻は走り穗五十日といふ諺もあつて、本當の苅しほよりずつと前に、少しばかりの莖だけが穗を抽く傾きがもとは有つた。それを見出した悦びは大きく、殊に取入れ後の祭の日が遲かつたので、先づ是だけを以て神に捧げようとした慣行が始まつたものらしい。現在も傳はつて居るのは秋の社日、即ち秋分の日の前後に行はれるものが多い。或は八月朔日の風祭の時に、もう青苅をして?米《ひらいごめ》を燒く者もあつたが、是は素より風土の制約もあることで、八方へ移住が進んで行くにつれて、次第にさういふことも出來なくなつた上に、一方には收穫後の祭が早められた結果、いつと無く之を省いてしまふ農家を多くしたかと思はれる。今日なほ之を守つて居る例は西の方に多く、しかも飛び／＼である故に其作法は甚だ區々になり、或は其穗を持還つて神棚や門の口、又は部落の神社や墓所の前に引掛けたりするものもあるが、かつては田の端に竹を立てゝ三鎌に苅つた稻の穗をかけ、又は苗代田のまん中に十二の割竹をさし、それに少しの穗を插んで居たものも稀には殘つて居た。つまり祭るのは田の神さまであり、稻穗はその依代《よりしろ》であつて供物では無かつたらしいのだが、解説者が無口であつた爲に、段々と信仰が推し移つて、祭の場所までが變化してしまつたのである。

　それからなほ一つ、六月いよ／＼田を植終つてからの休日が、もとは大切な物忌の期間だつたらしいが、是は農法の進化に促されて、一段と早く變形してしまつて居る。水の缺乏や雜草と蟲の害は、耕地の擴張と共に愈々忍び難く、單なる謹愼を以て其不安を除却することが望まれず、此月には特に精靈をなだめる一種の呪法が盛んになつて、祭の方式は全く改まつてしまふことになつた。田の神の信仰としては、是は變化であり退縮にはちがひないが、それでもよく見るとなほ幾つかの古い姿が消えずに居る。たとへば東國の天王さまは、幾つかの村里では作の神であり、その祭の日は田に入ることを禁じて居る。六月一日は夏物だち、畠の作物を一切食べぬといふ處も多い。胡瓜を食つては(374)ならぬといふ俗信すらも、實は川童だけでは説明が出來ない。さうして一方には畠を田の神の祭場として、用ゐて居たらしい痕跡はなほ見つけ出すことが出來るのである。

　

　　　　　　　　　　○

　

　其話もついでにして置きたいのだが、あまり長くなるので是だけは次の通信に讓らねばならぬ。こゝで私の言ふべきことは、これ等祭日の移動増減によつて、どれだけまで祭の場處の變遷を來たしたであらうかといふことである。其中でも特にはつきりして居るのは、田植終りの日が今日のやうに、最も盛大な田の神祭の日だとなると、時刻は夕方であり、さうでなければ休みの日であつて、田にはもう留まつて居る用が無く、心ゆるやかに祭後の祝宴を樂しまうといふ爲にも、家を祭場に充てる傾向が、次第に強くなつて來ることである。この傾向はすでに大田植、花田植を祭の中心として居た頃から始まり、最初は先づ田の神を祭り申してからでないと、一切の植付に取掛らなかつたものが、後には先づそちこちの散田を、家の小人數の手で片づけて置いて、さて一日をこの大規模な集合作業に充てようとするに至つたのである。田神祭の式典は、全部が本家の廣間へ移つてもしまふまいが、少なくとも場處は二分せられ、もとの田の中の鋪設は少しづゝ簡略に流れ、從つてその尊い當體に對する考へ方が變化しつゝあることは爭はれぬだらう。思ひ出すのは四五年前讀んだ越後北蒲原邊の小學生の綴方に、寡婦が娘と二人で田植に降りる際に、苗を額に當てゝ祈念したといふ一條である。田の神の祭はもとは必ず田植より前に行はれた。それが今も其名を記憶して居るサビラキ・サヲリ、又はワサウヱといふものであつた。

　

　　　　　　　　　　○

　

　もちろん是等の祭日は皆古く、新たに設けたかと思ふものは田打正月くらゐのものであり、又氣を付けて見れば痕(375)だけはすべて殘つて居る。たゞ特に農人の力を入れる中心點が、世とともに動いて居り、それが又祭の場所や方式に、少しづゝ影響したらしいのである。季候風物二つながら、最も人の心をときめかせる苗採り始めの祭とても、決して始めから是が一ばん大きな式であつたとはきまらない。それ以前にも更に一月餘の嚴肅な苗忌があつて、種播き終り日のよりも、寧ろ苗代ごしらへの完成した日を、ナヘマジメと稱して重視して居る例は信州とその近國に多く、一方には又田神棒苗見竹の類を代田の中央に立てゝ、それに向つて籾を蒔くといふ風習も、至つて區域の廣いものであつて、是には明らかに祭の庭が、主として作業の場に在つたことを示して居る。中世の文藝に出て來る水口祭は、私の記する所では、主として卯月、卯の花の咲くの祭であつた。後々には或は田植の盛りにも、この水口の祭をして居たかもしれぬが、其祭場はすでに前月から定まつて居たのである。

　此點に關して、「ひだびと」四ノ四に載せられた村田祐作君の記述は有益であつた。田植前の仕事の一つとして、芝土の厚さ一寸ほどのものを、幅五寸長一尺位に切つて來て水口に積み重ねて之をアトシバといひ、其上に姫子松の枝を插すのをアトマツバと謂つた。一年くらゐは此芝が崩れずに居て、田の水の加減に利用することが出來たが、目的はそこで田の神の祭をするに在つたことは、このアト松葉の風習からでも想像し得られる。田の仕事が多くなつて、近頃はこの芝を採りに行く者が少なく、代りに古筵を一尺ほどに切つて、水口に置くのが普通になつた云々。關東から東北にかけて、クレといふのがこの切芝のことで、之を屋の棟押へや其他の用にも使ふが、上州の新田郡などでは苗代ごしらへの日、クレを四角に切つて水口に置き、其上に正月に用ゐた花掻き（削り掛け）を三本立てるといふ例があり、芝の代りに藁束や古筵を敷く風習ならば、まだ方々で見つけ出すことが出來るであらう。

　私たちが今まで氣づかなかつたのは、アトといふのは水口のことで、後水口即ち田水の出口の方をいふのではなかつたといふことである。語彙には誤つてさう解して居るが、田の神の祭の木の立てられるのは、いつの場合にも水のかゝる口であつて、落し口に祭る例が有れば珍しいのだが、それはまだ見出されて居ない。その水口をアトと謂ふの(376)は、京都府南部などでミトといひ、ミト祭をしたといふのと共に、まだ我々の知らない語原があるらしいことは、壹岐のミト田の例からでも考へられる。それが又この問題をやゝ細かに説いて見たいと思ふ私の動機でもあつた。

　

　　　　　　　　　　○

　

　今でも田植の前にこの水口のあたりを、何とかしないでは居られぬやうな氣持が、まだ農村の間にたゞよつて居ることは、この季節にあるいて見れば容易にわかる。たゞ現在はそれが惰性に近く、從つてほんの型ばかりの、僅かな田の土をかき上げて、何か樹の小枝や花を插したに過ぎぬので、程無く流れてしまつて外から見る人に、深い印象を與へることが出來ぬのである。もう十年も經つたら多分消え去るであらうが、今のうちならばまだこの痕跡を記述し、又研究の對象とすることが出來る。注意をして見る價値のある點は、そこに立てられる植物の種類の、村毎に家毎にとも言つてよいちがひ方、又はやゝ弘い區域の傾向の一致、それからそこに供へられる色々の食物、及びそれをどういふ風にして泥にまみれてしまはぬやうに上げるかといふことである。自分などのよく知つて居る土地の例では、粥掻き棒といふ短い太い木の端を十文字に割つたものをそこに刺して、其上に葉に包んだ食物を載せたり、又やゝ平たい石を棒の上に置いて、それを祭棚にしたりして居る。粥掻き棒は名が示すやうに、正月十五日の粥占につかふ棒で、もとは大釜の中に粥と共に煮て、割れ目に挾まつた米粒の多少によつて、其年の農作の豐凶を卜したものだつたが、後に家が小さく粥の釜も小さくなつた頃から、たゞ此棒を以て粥を掻きまはし、又はわざ／＼粥をたつぷりと割れ目のところに塗り付けて、めでたい初春の瑞相にしたばかりか、それを神棚の端などに保存して置いて、苗代時になつてこの水口の祭場に持つて來て立てることは、ちやうど上州東南部の花掻きの木も同じである。

　或はやゝ平ら目な石をこの上に載せて、それへ幾程かの食物を供へる處も中部地方には有るらしく、さういふ場合には殊に水口の土を盛り上げることもおろそかで、何か簡單な一種のまじなひでゝもあるかのやうに、思つて居る者(377)も無いとは限らぬが、是だけは全國の最も弘い區域に亙つて、一致した行事であるが故に多分古くからのものであらう。比較をして見なければならぬ各地の異同は、第一には期日、第二には田の選定で、二者は結び合つて色々の變化を示しては居るが、是も綜合によつて次第に早い頃の形を見定めることが可能である。私などの注意して居る點は二つ、一つはこの祭に刺し立てる植物の種類が、或は山吹躑躅であり花をつけた栗の枝であり、或は楊であり松の若枝等であつて、それが家毎に又は部落毎に、昔から一定し且つ他と異つて居ることで、是まで何と無く過ぎて居ただけに、新たに見つけ出さるゝ何物かゞ有りさうに思はれる。次に今一つは石を持つて來て置くこと、是はわざ／＼頂きの尖つたものを、選んで居た例も信州などにはあるから、單なる祭壇の構造の爲とも見られない。土佐の田の神は多くは圓い石のやうだが、常は家の内に收藏し、田植の季節に入ると之を持出して、えび葛を輪にした上に安置するといふから、少なくとも今日では是を神ざねと視て居るのである。九州南部の田の神は石像であつて、現在ある形は佐賀長崎等の諸縣で、惠比須とたゝへて居る路傍の神と近い。是はやはり同じ頃に田の畔に迎へて來て祭るのである。斯うなつたのには必ずまだ判つて居ない原因があり、もちろん始めから斯うだつたのではあるまいが、ともかくも單なる田の水の取入れ口では無しに、別に耕作地のごく近くには、田の神を迎へて來る場處が、有つたといふことだけは想像せられる。桂井和雄氏の書かれたものを見ても、土佐ではさういふ場處が定まつて居たらしく、誰でも勝手に踏みあるく畦路では無かつたやうに思はれる。それを何とかして確かめて見たいものである。

　

　　　　　　　　　　二

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　二月十四日

　圖らず話が長くなつてしまつたが、狐塚と田の神の祭場との關係を考へて見ようといふには、もう少し書かねばならぬ。近頃になつてやつと氣がついたことの一つは、以前の水田の形の今とは少しちがつて居たことである。今から(378)四十年以上も前に、天草下島をあるいて見て來たことだが、珍しく思つて今でもよく記憶して居る。それは此島北部の或區域の緩傾斜面に開かれた田が、ちやうど紺屋の藍壺を見るやうに、丸く小さく飛び／＼に數多く竝んで居たことである。或は水の手が十分だつたら、もつと接近して開いたらうかとも思つたが、なほ一つの理由は周邊の草を苅つて、いはゆる苅敷として田に入れる爲のやうであつた。近世の勸農政策が徹底するまでは、稻作には家肥を使はぬのがむしろ普通であつた。今でも祭の米を作る田だけは、緑肥以外のものは施さない習はしのやうだから、是が或は米作りの古來の農法だつたのかも知れない。さう思つて見て行くと、他の地方でも山間の水田には、タダカレ又はコクサ苅りといふ慣行が可なり嚴重に守られ、たとへば畔の草は下の田に屬するとか、又は鎌の手の屆く限りは苅取つてよいとかの村極めが多く、時としては別に周邊の林地に一種の地役權を存し、或は田地が荒れて野に復して後まで、地主を異にした帶のやうな草生地が殘つて居るといふ、大和の吉野地方の實例も田村吉永氏によつて報告せられて居る。高野山などの文書を見れば、中世には是がこの地方の普通の?態だつたらしく、多くの垣内《かいと》の田には荒地を伴なひ、又田のまはりには空地があつて、草ばかりか色々の樹木が生えて居たことがよくわかる。つまりはさういつた古い田の形?が、隅々の山地には近い頃までまだ殘つて居たのである。

　この點は又クロ（畔）とアゼ（畦）との二つの語の對立からも考へられる。今日はすでに混用せられるが、東日本には一帶にクロの方が行はれ、西ではアゼといふのが普通であつて、言葉の感覺も少しちがひ、後者は單なる田のしきり、地境といふに過ぎなかつたのに對し、クロは今少し廣い周邊の土地を、さして居たらしく思はれる。是は語原の上からでも、又他の一般の用法からでも説明し得ることだが、それまでを茲にいふのはくだ／＼しい。とにかくに關西方面のアゼは皆細いもので、おまけに大抵はアゼ豆を栽ゑ、田に入るにもまはり路をするやうなのが多いが、是は恐らく古い形のまゝではなかつたらう。廣々とした沖積地帶が新田に取入れられ、米の増産が一段と重要なものになり、一方には灌漑肥培の方法が新たに具はつてから、出來るだけ斯ういふ空隙を制限しようとする傾向が起り、それ(379)が舊來の栽培地域にも及んだことは、今でもまだ痕跡によつて推測することが出來る。昨年倉光設人君が列擧せられた三河各郡の農村小字名に、稻場といふ箇處が無數に多かつたのも、私はその一つ例かと思つて居る。是などは同君が今一歩進んで、僅か其中の七八つの地形を比較して見られたら、何の爲にさういふ字名がたく山に出來て居るかの理由がわかつて來ると思ふ。越後の蒲原平野のやうな低濕の地帶にも、稻場といふやゝ廣い田の畔の空地が處々に存し、今日は既に蔬菜の栽培場に化し、一部は又削られて水田に編入せられても居るやうだが、曾てはやゝ無理をしてでも、特に是だけの場所を田間に殘して置く必要があつたので、それは勿論緑肥の採取地としてゞはなかつた。稻場といふ語からも推測せられるのは、是が苅稻を積んで置く場所だつたことで、以前は或期間稻を家に持込むことを物忌とし、同時に又ニホの祭といふものがそこで行はれたのかと思はれる。近世の稻の管理法は一變し、それに先だつて秋收期の信仰行事も簡略になつて、斯ういふ土地を遊ばせて置くのは無益とも考へられたらうが、それでも汽車が此邊を走り過ぐるやうになつてから後まで、田植時には男女多くの人がこゝに集まつて、食事をして居る光景がなほ眺められた。稻場の最初の必要は恐らくは信仰に在り、それもニホ作りには限られて居なかつた。むしろ此名の存在によつて、田植種播きの日にも劣らない重要な祭が、古くは稻苅りの後にも行はれて居たのが、後次第に衰へたことを考へさせるので、單に管理の方法だけならば、わざ／＼是ほどの置場を作り設けはしなかつたであらう。

　

　　　　　　　　　　○

　

　農業史の學者の中には、米作の始めを沼澤の濕地に、直播したものゝやうに謂つた人もあるが、それは単なる常識の、しかも稍々不完全なものに基いた推測であつて、別に是といふ證據の無い話である。稻が此邦に自生した植物でないことは、古代の人も認め、又近代にもそれを言ひ傳へて居た。といふことは之を栽培する家筋と地域とが、もとは限られて居て段々と弘まつて來たことを意味するかと思ふ。少なくとも米の消費が日常普通となつて、さういふ足(380)入りの水腐地まで、耕作するやうになつたのは新しいことであり、今や衰へかゝつて居る田の神信仰の遺跡は、まだ一つでもそんな場處からは見付かつて居ない。登呂發掘の成績はどれ程擧がつて居るか知らぬが、是を見本として全國の實?を類推するが如きは、學問の方法としては舊式以下である。

　田の神の祭り方も無論少しづゝは變つて居る。家に祭壇を設けて祭をするやうになつた以前にも、田地の擴張に伴なうて祭の場所、殊に祭の田の選定法が改まつて來たやうであるが、それでもまだ沼の端や湫田《ふけた》のまん中を、それに宛てたといふ例を聽かぬのは、乃ち信仰の著しく衰へて後に、斯ういふ土地の利用が始まつた爲とも見られる。ともかくも自分などはよつぽど數多くの事實を比べて見た上でないと、濕地直播が米作の原形だなどゝ、考へて見る氣にはなれぬのである。現在の田神祭場は、家の中でもさうであるやうに、屋外のものにも大よその一致がある。最も通例なのは親田と稱して、數多い田の中から、家と特別に縁の深い一つを見立てゝ、そこを年々の式場ときめて居る。いはゆる花田植の花々しい行事が流行してから、わざと大きな田を使ふやうにもなつたやうだが、全國を通觀すると、苗代田をこの親田にして居るのが一ばん多い。苗代田は當然に春の營みが他の田よりも早いからといふこともあるが、なほ其以外に是によつて、命の種を守るといふやうな、信仰上の意味も加はつて居るかと思ふ。東北地方はつい近年まで、一般に通し苗代といつて、この田だけには插秧をしなかつた。さうで無くても別に色々の禁忌があつて、特殊の心遣ひをして居る例は多い。以前は原則として苗代を祭場としたのが、一部は他に移つたのは祭式の變化、ことに田の神祭の主要なる一日を、田植終りの慰勞の宴に、近づけようとした結果ではあるまいか。

　

　　　　　　　　　　○

　

　新たに開發せられた大面積の米作地帶が、もはや全然田の神の祭をしなくなつた今日まで、なほ到る處の村々に、舊い生活の型が殘り傳はつて居るといふことは、フオクロアの學問の深い樂しみの一つである。それを新しい知識の(381)獲得に用立てようとせず、たゞ徒らに珍奇を競ぺ合つて、それでもうおしまひといふのでは、すまぬ事であらうと私などは考へて居る。曾て牛尾君が民間傳承十二の三に報告せられたのは、伯耆日野郡の例であつたが、出雲の方にも恐らく折々はあるであらう。オサバイ樣の祭をする田は、成るべく苗代から近くに在る三角の田を選ぶといふことであつた。三角形をした田などゝいふのは、さう普通には有りさうにも思はれぬが、島根縣の田植唄には、

　　　三すまの窪のまん中へ……

などゝいふ文句も稀でなく、この地方では一般にさういふ田を重んじて居たらしい。是が三把の苗を鼎の足に栽ゑるといふ古風な方式とも關係があり、從つて又サンバイ・サンボウの名の起りが、三といふ數字に在るかといふことも考へて見てよいが、それにしたところで、現實に斯んな形をした田はどうして出來たらうか。わざ／＼そんな田を作るとしても、その切れ端はどうするだらうか。是からなほ氣をつけて居なければならぬが、一方には土地によつて三角の田を不吉として、作りたがらぬ風習もあつたやうに思はれる。秩父の浦山村のあたりで、佐々木君が採集して來たのは、是は田圃では無く畠だつたやうだが、同じ形の地處を位牌畠などゝ稱して、嫌つて持たぬやうにすることは、他の地方の病田、ボンデン田なども同じであつた。私一箇の想像としては、是は本來は谷あひの一ばん上の田が、高低線のちがひで、自然に上細りの形になる、それをいふのではないかと思ふ。

　佐渡の海府の稻作語彙を見ると、この地方では用水から水を引く最初の田を水口田又は農立て田といひ、この田で田植初めの儀式をする。三把苗を三つ構へて米か握飯かを是に供へ、次にその苗をちぎつて後向きに投げ、田主の家族の女性が植初めをした。その苗に供へた米は農立米といつて、呪力のあるものとして保存せられるといふ。用水とある爲に、何か廣々とした田面を想像せしめるが、此あたりの灌漑は大むね自然の流れにより、それを許す限り上流の方へ開いて行つたのだから、やはりいはゆる三角田の、出來るやうな地形であつた。さうして日本は又この樣な地形を利用して、各家分れ／＼に土着する者の、最も多い國柄でもあつたかと思はれる。きれいな山水と豐かな緑肥と、(382)日だまり風よけの便宜があつて、心閑かに田の神の祭が行はれたからといふだけでは無い。なほ根本に於ては、田を守る家々の神が、常は山に居り山から降りて來られるといふ信仰の、農民の行動を導くものがあつた故かと思はれる。

　古來の歌謠の農作を詠じたものに、山田・小山田といふ言葉の極めて多いのは、私には下にこの神秘の感動の、潜んで居たものとよりは解せられぬ。山を背景とした田中の森又は社といふものは、今も數多く諸國に現存するが、さういふ中でも特に注意してよいのは、信州の幾つかの村に、近い頃まで行はれて居た山田の神事といふものであらう。伊那地方に在るものは何れも式内の大山田神社の故地と稱し、佐久の山田神事は久しく諏訪の所屬であつたが、是はたま／＼大社の力によつて、更に莊嚴を加へたといふのみで、もとはそれ／”＼の土地の耕作者の群が、各自に其力を傾けて居た行事だつたればこそ、之を保存し又發達させることが出來たのであり、他の多くの土地では神が無名であり、又常設の社殿も無かつた爲に、いつと無く行事が省略せられ、又は祭の場を移すといふやうなことがあつて、次第に其跡が幽かになつたものかと思はれる。最近に世に出た遠州の「志留波の民俗」には、田のある谷《やつ》の高地に森があつて、山の神を祀つて居るとある。阿波の名西郡の村々では、苗代田の最も近くに山の神の祠があつて、種おろしの日の燒米は、先づ此神に供へてから子供に分ち與へた（郷土研究三ノ十二）。肥前の下五島の村々でも、山の神は田のはたに祀つたものが多く、村によつてはその場處に田を開いた際に、始めて崇祀したといふ記録もある（五島民俗圖誌）。もちろん是等の山の神は、何れも春毎に降つて田の神となりたまふ山の神で、杣や獵犬の爲の山神では無かつたのである。

　

　　　　　　　　　　○

　

　田の神と山の神とが一つだといふ言ひ傳へは、不思議なほど汎く全國に流布して居るにも拘らず、農村の信仰は今ではもう可なり紛亂し、殊に山神の解釋が複雜なものになつて居る。一つには新たな教説の外部から入つた爲であら(383)うが、又一つには田の神の祭り方も、昔の形のまゝを保ち難くなつたからで、それは主として社會の力、具體的に言ふならば水田の次々の擴張であつた。以前の小山田の三角な田を中心とした頃には、神が山から降つて來られるといふ考へ方は、疑つて見やうも無かつた。それが追々と山の据わを遠ざかつて、田居を經營するやうになると、次第に越後や會津の盆地、又は其以北の米産地帶の如く、神が空から農家の杵の音を聽きつけて、降り來たまふといふやうになつて、周圍の山の嶺を眺めながらも、山と田の神を一つに見ることが出來ず、從つて又降つてどの場處に御宿りなされるかも考へ難くなつた。家に田の神の祭壇を設くることになつたのも其結果の一つだが、それ以前の今一つの方式は、植物を以て神の降臨を意識する、東方民族に共通した一つの慣行に頼ることであつた。前年私は「苗忌竹の話」といふ一文を草して、ほゞ此問題を説いて居るが、それにも付加しなければならぬ二三の點がある。現在まだ詳しくは調査せられて居ないけれども、普通苗田の代ごしらへがすんで、愈々種おろしに取掛る前に、その田に插し立てる植物の種類には變化がある。いづれ季節のものだから、さう多くの數はあるまいが、それでもよく見ると枝の數や組合せ、立てる場處なり供へ物の位置なりに、遠い處の一致はあつて、近隣の間の差異は却つて著しい。つまり家々門黨のめい／＼の流義といふものが有るらしいのである。さういふ中でも東北は殊に植物の種類が少なく、楊かウツギか、地竹でなければ萱か、四つ五つのものに限られて居るらしいが、其代りには立てる數が多く、又組合せと場處とによつて、家毎の特徴を出して居る。八戸地方の實例を小井川君が列記せられたものなどは、三十幾通りかの變化を示して居る。田の神が今日普通に考へられて居るやうに、全國共同の唯一つの神だつたなら、是は必要も無いことだと思ふ。乃ち家々がこと／”＼く、めい／＼の田の神をもつて居た名殘で、ちやうど北方住民の家じるしや、南の島々の入れ墨も同じやうに、是が幽顯二界を繋ぎ合せる昔からの割符の如きものであつたのが、祭田が山から少しづゝ遠くなるにつれて、愈々重要の度を加へて來たものとも見られる。以前の親田は山の斜面に接し、又は田の畔に豐かな空地をもつて居た故に、そこに自然の生木の一つを指定し、時としては新たに植栽して、その成長を期すること(384)も出來たらうが、祭場が移ると其木を移すことは望まれず、新たに又一つの方式が設け出されたことは、是も神木と榊の小枝や玉串などの關係と、對照して考へることが出來るのである。

　人が三角田を作ることを忌む理由なども、私は格別解説に苦しまないつもりである。是は諸國のやまひ田も同じことで、こゝを耕すには特別の作法が入用だつた。それを普通の田とちがはない作り方をする故に、半ば無意識なる不安が制しきれなかつたので、古い言葉でいへばそれは忌々しき田であつた。一々に就いて確かめても見ないが、斯ういふ言ひ傳へのある田の傍には、何か目じるしの古木のあつた話が多い。或はあたりに石の祠があり、又は其田と縁の深い人を祀つて居るといふ類の言ひ傳へを伴なふのを見ると、この俗信の由來もほゞ察せられる。つまり祭の田は知らぬうちに移り又は廢せられて、手輕な普通の方法を以て耕作することになつて居るので、暗々裡に作る人たちを不安ならしめるのである。

　それからなほ一つ、もはや忘却の一歩手前に在る故跡に、イカヅチと名を呼ばれる田が、東北各縣には多い。何れもかつて落雷があつてから、其場處を區劃して鋤鍬を入れぬといふ田であつて、そこだけを荒らして置く故に草木が茂り、一目で外からもイカヅチの田はわかる。稻田に雷が落ちることは、季節としては珍しい現象ではない。關東から以西では、竹を立て注連を張るのは其一作の間に限り、次の年は元に復するから跡が無いが、奧羽の北境に行くと右の如く、永く其土地を保存する例が多く、それにも松とか楊とか、特定の木を栽ゑる習ひがもとは有つた。最初恐らくは雷火を以て、田の神の啓示と解する信仰が、この民族の間には行はれて居たのである。栃木茨城二縣の苗尺、福島縣南部の苗見竹などは、ちやうどこの二つの地方の中間に位するが、是等は雷が田に墮ちた際に、荒れて作物をそこなふこと無く、容易に再び天に昇るやうに、立てゝ置くのだといふ説明もあつて、毎年ほゞ定まつた場所に立てることにして居る。もしも苗じるしが私の想像の如く、田の神祭場の招代《をきしろ》であるならば、それは時あつて自然の指定によつて、他の田に移動する場合もあつたことが考へられるのである。（まだ少しばかり言ふことが殘つた。もう一(385)囘だけつゞけることを許されたい」

　

　　　　　　　　　　三

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　三月二十一日

　水口祭といふ言葉は、歌にも多く用ゐられてゐるので、其祭の式も大よそ今日普通に行はれて居るものと近いやうに、思つて居る人が多いやうだが、それでは説明のつかぬことが色々有る。事によると語音だけは元のまゝで、内容が少しづゝ、この數百年間に變つて居るのかもしれない。いはゆる物質文明の強い影響の下に、水田經營の慣行などは、殊に無意識の變化が多からうと思ふが、斯ういふ徐々たる推移は、他の方面にだつて無かつたとは決して言へない。しかも現實に曾て行はれた變化ならば、氣を付けて居れば其痕跡の無いといふことはあるまい。我々の研究方法の試みられるのは斯ういふ場合である。誰でも田の神の問題に興味をもつといふわけにはゆくまいが、是を一例としてなほ弘く、進んで行くことが出來ると信ずる。

　今日いふ所の水口の祭以外に、田のまん中に植物を立てゝ、それへ御田の神を招き過へようとする例は、少ないながらも全國に分布して居る。關東東隅の苗尺苗見竹、それより北方の諸縣に行渡つた苗じるしの風習などは、今日はやゝちがつた目的に説明せられて居るらしいが、中部地方殊に信州の各地などは、今でもこの木を田の神さんの腰掛け、又は田の神の御休み處といふ者が多い。越後では是をタカバシと呼ぶ村があり、田の神が空から降りたまふとき、先づ此枝の上に憩はれるなどゝ謂つて居る。植物の種類は楊やウツギ、又栗の木の二股になつた枝とか、土地によつて一定せず、越後の方ではシデを垂れた繩を張り、しば／＼其枝の股に食物の苞を結はへ付けるものもあるらしく、信州の方ではそれは見られないが、立てる木の數は三本も五本もあり、それを一列にも三角にも、家々思ひ／＼の立て方をして居ることは、頗る南部や津輕の苗じるしとも似通うて居る。

(386)　是が今日の他の地方の祭り方のやうに、水の取入口に芝を置き又は土を僅か盛り上げて、そこに季節の花を插し、餅や燒米を供へたりするものに移つて行つたのか、たゞしは單なる變則として併存したものかは、いつまでも水掛論を戰はし得るが、私の今推測して居る所では、二つは曾て共に行はれ、二つを合せて一つの祭の式を爲したものかと思ふ。ともかくもこの田の中央に木を立てるのは、苗代の籾播きに先だつて居たらしいから、後々苗田以外の親田をきめて、そこで田の神の祭をするやうになつてからは、次第に根本の趣旨が忘れられ、省略せられることになつたと見られる。島根廣島の二縣に、今も保存せられるサゲといふ五月の木は、それが祭人の手によつて移動した、やゝ珍しい一例と解してよいやうである。

　

　　　　　　　　　　○

　

　是からも多分諸方の報告が集まつて來て、斯ういふ比較を助けてもらへることゝ思ふが、たゞ今知られて居るのは、右の信越二國の數多くの例の外に、佐渡ヶ島に存するものは青木重孝君の車田考にすでに引用せられ、飛騨のは「ひだびと」の四卷に村田祐作君の書いたものが出て居り、遠く飛び離れて熊本縣下の例は、最近丸山學君から直接に教へられたが、共にその地方では必ずしも稀有で無く、捜せばもつと詳しいことが段々とわかつて來るものらしい。さういふ中でも私の始めて心づいたことは、肥後ではこの田の中に立てる植物を、一般にタカンボウと呼び、それが多くは竹であつたところから、何か竹の棒といふが如き印象を受けて居たと丸山氏は言はれる。信州の方でも松本附近は一樣に、この田の神の腰掛けをタナンボウ、又はネエボウ（苗棒）といふ者が多く、北は川中島附近、南は上伊那の天龍流域に入つて、始めてタガンボウといふ名を耳にし、且つ遠く九州西岸の類例を比照することによつて、漸くにして是が田の神の桙といふ意味だつたことが判るのである。

　同じ信州でも、小縣郡の一部ではタナベといふ。それも久しく名の起りを知らなかつたが、大きな幣束をオンベと(387)いふ語が東國にはあるから、或は田の神の幣といふことだつたかも知れない。いはゆる御幣の發生普及に關しては、自分にも些しの研究は有るのだが、こゝで説き立てようとすると、又枝路に入つて行かねばならぬ。一言だけ繋がりを付けるならば、御幣は我々が新しい土地を拓き、神を自分たちの望む場處に於て祭らうといふ時に入用なものだつた。最初は多分天然の老樹によつて、古來の約束を守つて居ればよかつた。移住植民が盛んになるにつれて、次々と其枝を折取つて持つて行くやうになつたのが、ミテグラといふものゝ一般の起原であり、是に伴なふ神意の推測が必要になつて、ミテグラを手に執る人の地位が、次第に高まつて來たものと考へられる。個々の農家では格別の變化は無かつたらうが、それでも是が許されて祭の田は移り動き、又は移動の必要が生じて、枝を田の中に插す風習は發達し、終には今日のやうに、今いふ水口の盛り土の上に、少しの木の花を刺し立てゝ、それを佛者の供花などゝ、同一視するやうにもなつて來たのである。

　

　　　　　　　　　　○

　

　所謂タカンボウが田の神の神座だつたとすると、是を田に插し立てる日は乃ち田の神降りの日でなければならぬが、其日は東北の方でももう喰ひちがつて居て、たとへば二月の十日とか十六日とかに、必ず立てるものとも定まつて居らぬらしい。熊本縣の方ではそれが苗代の代ごしらへよりも早く、あるいて田のまん中まで行ける頃にもう立てゝ居たことは、丸山君も知つて居られるが、それが精確に何れの日であり、又それに合せて如何なる行事があるかは、今一度尋ねて見る必要があると言はれた。内海沿岸の地祝ひさんなどから類推すると、是も或は正月十一日の田打行事の日なのかも知れない。もしさうだつたら中世の一つの改定で、どうせ儀式であり、現實の農事と併行するもので無いならば、都鄙一樣の正月のめでたい日に、行ふがよいといふやうになつたものかと思ふ。之に對して一方東日本のタナンボウや苗じるしは、通例苗代の種下し直前に立てるらしいから、よほど實地の感覺に近くなつては居るが、是(388)とても古來田の神が里に降りたまふと、傳へられる日よりは大分おくれて居る。やはり近世に入つて後の、變化があつたことは同じである。今ではまだ一つの推測に過ぎないが、以前は舊二月の初旬に、神を迎へて田の幣を立てる日があつて、それから愈々所定の田に、井手の水を引くまでの間、籾種は水に浸され、人は物忌に籠つたのであらうと思ふ。その心持の少しづゝ解しにくゝなつたことが、むしろ正月十一日の田打正月を、普及せしめた原因だつたとも見られる。

　現在は祭の式が簡單になつた爲に、一般に場處の選定に力を入れる者が少なく、或は家に接近した菜園の片端に鍬を入れて、それを以て正月の農始めとする土地もあれば、一方には持田の一つ／＼に、小さな串を立てゝあるくのを、田植始めの日の水口祭とする者も出來て居るが、それは恐らくは本來の田の神降しの作法で無く、年に數囘の祭の日は勿論、毎年くり返して昔から、同じ一つの田の同じ場處を用ゐて居て、それがこの田の神の棒といふものに、大きな意義を持たせることになつて居たのかと私は想像して居る。

　古い農家ならば、今でもまだ印象を持傳へて居るであらう。數ある田の中でも特に一ところ、家と因縁の深い大事な田があつて、それを何としても跡取りの手に渡さうとする。地方によつては是をトクと呼び、乃ち近頃まで行はれて居た家督といふ語の起りであるが、一般にはもつと平易に、親田といふ名を以て呼ぶことにして居る。一々に就いてまだ調べて見たのでは無いけれども、其親田が同時に又、田の神の定まつた祭場でもあつたやうである。人間には豫期せられぬ不幸が多く、家が潰れてさういふ大事な田まで、轉々と他人の手に渡つて行くことがある。そんなのが何と無く氣になる田、次の作主に不吉をもたらすといふ、ヤマヒ田、ノロヒ田といふものゝ、隱れたる起原だつたやうに、私は今心づき始めて居るのである。

　

(389)　　　　　　　　　　○

　

　親田が田の神の祭をする田であつたことはほゞ疑ひが無い。東北ではそれが普通に苗代に使はれる田だつたので、親田は即ち苗代のことゝ、解して居る人も多いらしいが、全國を通じていふと、祭り田は決して苗田とは限つて居ない。たゞ籾種から稻の草までに進んで行く中間の段階に、苗代が極めて重要な地位をもつて居ることを考へると、少なくとも最初の田の神の信仰は、爰を中心として起つたのかとも想像し得る。越後から北信へかけての所謂タナンボウ地域に、籾種をスヂといひ、苗代をナヘマといふ語がなほ傳はり、又籾種を正月の年神と共に、あがめ敬ふといふ習俗も、比較的うぶな形でこの方面には殘つて居る。

　新たな問題は次々とあとを引くが、それを追掛けて居ると又話が長くなる。こゝで一わたり片付けて置かねばならぬことは、田の神の祭場が、以前は今一段と固定して居たといふ點である。私が伊勢の近世の御田の行事と、延暦儀式帳の十五の田社《たやしろ》とは關係があり、御田は家田であり、又田社であつたらうと考へついたのも、結局はこの親田の信仰的基礎といふものが、少しづゝわかつて來たからであつた。壹岐の山口麻太郎君の記述は、有力な手掛りだつたが、それを紹介する前に順序として、二つ三つ似よりの例を擧げて置くと、信州の田神棒でも又東北の苗尺苗忌竹の類でも、一作の終りには大抵拔き棄てゝ、結末も明らかならず、果して毎年同じ場處に、立てゝ居たかどうかも不明になつて居るが、もとは少なくとも一つの田にきまつて居たことは、僅かながら他の土地の例がある。志州磯部の大御田の式は、郷土研究七ノ五に澤田博士が報告して居るが、こゝでは一尺二寸ほどの青竹が田の中に横にねかせてあつた。祭が終つて後に若者が七八十人、田の中に裸で飛込んで其竹の奪ひ合をし、竹は其爲に綿のやうに碎けてしまふのを、めい／＼分け取りして、持つて還つて船にまつるとある。是などは毎年新たにすることは苗忌竹も同じだが、横にして田に入れるといふので、何かの構造があつたことだけは知れる。今ある水口祭の多くの場合でもわかる樣に、植田(390)はひぢりこで祭の場を構へるに適して居ない。隱岐の島などには若苗の一部を積み上げて、其上に供物を重箱のまゝで、載せて置くやうな例もあつたといふが、それはもとより略式の一つであつたらう。熊野の山村には田の神祭を、タナ祭といふ名が有るといふことを最近に知つたが、棚が神を祭るのに必要なる装置であつたことを考へると、曾ては何か棚のやうなものを營作したことがあるのかもしれない。出雲石見の田唄の中には、稀には棚に田神を祭つたことが歌ひ出されて居る。今でも何處かにさういふ例が無いかどうか。氣をつけて居りたいものである。

　古い資料だが稻荷神社史料五ノ七二頁に一つ、備後御調郡｜杭庄《くひのしやう》は、中古以來の伏見稻荷社の社領であつて、そこにも一社の稻荷を祀つて居たことは、明應二年以後の古文書に明證がある。藝藩通志九八頁の此村の條を見ると、社の名を杭稻荷といひ、此莊八ヶ村が合同して祭をして居た。莊内下津村の杭田といふ田は、昔から田の中に杭があつて、そこが稻荷神社の舊跡であつたと傳へられる。田の中に杭などがあつては、今風な耕作には不都合だつたらうが、伏見の本社に屬した京都南部の幾つかの田中社なども、もとは斯ういふ杭を打ち、棚を架けて祭をして居たものかと私は想像して居る。

　

　　　　　　　　　　○

　

　十數年以前、櫻田君が見て來られた肥前の鷹島などにも、田のまん中に大きな石のある田があつて、それを神山と呼んで居た。この石の下に住吉さまの船が埋めてあるといひ、又は住吉さまが御憩ひなされる石とも謂つて、現在は其田の祭との關係は説かないが、勿論田植の日にはそこを祭らずには居なかつたらう。長門の海岸地方にも、是と近い例を一つ聽いたやうに思ふが、もう場處を記憶しない。ともかくも、東北地方のイカヅチ田も同じやうに、可なり不便を忍んで田の中に、さういふ靈地を保存してある例は、稀ながら有つたのである。

　山口君の報告は壹岐島民俗誌一八八頁と、旅と傳説三ノ一一に詳しく出て居て、すでに多くの人が注意して居るが、(391)珍しいと思ふのは、此島ではそれが普通で、もとは大概の村には數箇處づゝあり、それを田神さま又はミト樣と呼んで拜んで居た。近年追々と削り崩され、且つ共同の祭は無くなつたが、なほ形のまだ殘つて居る處では、田の持主がここで祭をする。場處は田のほとりの一定の空地もあつたが、或ものは田の中央に塚のやうになつて儼存し、松などの老木が其上に生えて居るものもあつた。家々の田神祭は苗代に於て行はれるが、こゝではそれとは別に年々少なくとも二度の祭がある。その一つは田植の日で、泥をきれいに塗り上げて笹の箒を立てるのが、他の地方の田神の桙に該當するものかと思はれる。他の一度は舊六月二十九日のイミの日で、是にはマサゴ包みといふ御禊のしるしかと思ふものを、小麥の平團子と共に供へるといふ。この夏越《なごし》の式といふのは、北九州農村の特色の一つで、東日本の方には是と對比すべきものがまだ見付からぬが、行く／＼なほ大きな隱れたる問題への、手掛りとなるべきものである。

　

　　　　　　　　　　○

　

　それよりも前に、我々の考へて見なければならぬ點が幾つかある。その一つは斯ういふ特別の祭場を伴なふ田を、神田又はミト田といひ、そこで祭らるゝ神をミト樣と呼んで居ることである。現在は一つ／＼の田の水を引く口をミトと謂つて、そこで祭をするのを便宜のやうに、思ふ者ばかり多くなつて居るが、もとは田と田の水は連なつて、それを最初に山から迎へ入れる田だけが、特に清き田、神を祭るにふさはしい田として、別にせられて居たのでは無かつたらうか。神に進らせる供御の田を御刀代、御戸代などゝ稱へたのは古く、それにはすでに水の口といふ感じは伴なはなくなつて居るが、この語の起りも實はまだ明らかだとは言へない。後々或はちがつた場處に移されて居ようとも、もしもミト田といふ名が神を祭る田の意味に、用ゐられる例が他にも出て來たならば、私の解釋は或は成立つかもしれない。それを今ねんごろに捜しまはつて居るのである。

　しかし三角田の話でもすでに觸れたやうに、田の神祭をする田は山の裾、又は一方に高地を控へた場處に多く、從(392)つて田のへりに神の目じるしとなる樣な、自然の植物をもつたものが少なからず、さうで無くでもわざ／＼異色ある樹を栽ゑて居たらしいことは、古く萬葉集にも又中世の證文等からも尋ね出すことが出來る。その上に少しく開發が進み、自分の持田が山から遠ざかつて來ると、任意か又は暗示を受けてかは知らず、ともかくも斯うして一區の地を、其爲に存置しようとする者が出て來るのである。壹岐とか佐渡とか四國とかいふ狐の全く住まぬ島を除いて、現在國中に充滿した狐塚といふ地名が、おほむね其來由を明らかにし得ないといふことは、もうそれだけでも中世の信仰の、移り動いた跡を暗示するかと私は思ふ。

　

　　　　　　　　　　○

　

　狐を農業と縁の深い動物とし、その中の特に靈ありと認めるものを、京の稻荷山の神と結び付けて、崇敬しようとするやうになつた原因は、さう深い所に求めようとするに及ばず、單に祭田の近くに又は田の間に、斯んな人爲の未開地があつたといふだけでも、十分のやうに私は思つて居る。強ひてそれ以上に付加へるとすれば、以前は狐が今よりもずつと多かつたこと、彼の擧動にはやゝ他獣と變つたところがあり、人に見られたと思ふとすぐに逃竄せず、却つて立止つて一ぺんは眼を見合せようとすること、それから又食性や子育ての關係から、季節によつて頻りに人里に去來することなどを列擧してもよい。我々の田の神は昔から姿が無く、又容易に想像に描かるゝものとも考へられて居なかつた。神の使令としての或動物の出現には素地があり、狼でも猿でも色々の鳥でも又蛙でも、何れも一ぺんはさういふ眼を以て見られた時代があつた。狐はたま／＼其支配期が永く續き、從つて若干の副産物が、開けた今日の世までなほ傳はつただけであらう。塚は古墳のやうに目的が限定せられて居ない。單に人間が通常の用に使はせまいとした、いはゆる聖別せられた土地の一區劃であつた。土を新たに盛り上げることは?々必要であり、人の採取を戒めると、日ならずしてそこだけが藪になつてしまふ。さういふ處に去來し安住し得る者は狐ぐらゐなものであつたら(393)う。何等の俗信の裏付けが無かつたとしても、そこを狐塚と呼ぶに至つたのは自然であつた。

　斯ういつた荒地を苅拂つて、そこに稻荷の小社を勸請したり、もしくはそれを我屋敷に移して、守護神としたりすることは、ちやうど色々の木の枝や萱葦竹の類を、年々刺し立て拔き棄てるやうになつたのと、同じ種類の農業の進みであつた。我々の田の神祭場が田から屋内に入つて來るに先だつて、斯ういふ信仰の改定がすでにあつたのである。それにしても家々の田の神祭がなほ續き、殊に植物の種類や數や組合せを以て、各自の神々との古い約束を守りつづけて居たことは珍しい農民氣質であつた。私は今から五十年前、柳田といふ家を相續することになつた時に先づ考へた。どうして日本には松だの竹だの櫻だの、田とは縁も無いやうな木の名を、田の上に結びつけた家名地名が此樣に多いのかと思つた。この疑ひは何度と無く人の前でも表白したが、よい答はまだ得られなかつた。今度は漸くのことでその起原が明らかになつたので、つまり私たちの先祖の作つて居た親田の傍には、いつの世からとも知れない木が立つて居たのである。其木の種類が相隣する家毎にちがつて居た故に、土地の名としても又家の名としても、區別には最も適して居たのである。但しさういふ中でも柳は少しく有りふれて居た。それ故に私はいつまでも、斯んな平凡なことしか考へられぬやうに、運命づけられて居るのかもしれない。

　

　（附記）　いはゆる田中の稻荷以外にも、神を稻田のほとりに祀つた例は多いかと思ふ。たとへば能登鹿島郡瀧尾村小竹の火ノ宮は、もと人里離れた土地に在つたのが、今から百年ほど前に、田歌の聲が聽きたいから、ハジカミといふ處へ移してくれといふ神の御告げがあつて、苗代の多い今の社地へ御遷し申したと、村の人故諏訪藤馬君から聞いた。靜岡縣傳説昔話集には、縣内の病田の例を幾つか載せて居るが其一つ、榛原郡荻間村字原平に在る萬法師といふ田は、昔萬法師といふ人があつて、我が田を見まはり眺めるのを樂しみにして居たが、死んでも田のよく見える處に居たいといふ遺言で、この田の西に接した岡の上に埋めたと傳へられ、現在はやはり作る家に病人が出(394)るので、迷信を笑ふやうな人の手を次から次へと展轉して居る。現在はそこに小さな祠が立ち、それを信心する人もあるといふ話である。

　是に類した言ひ傳へが、他の地方にもあることを、人に聞き又は書物で見て、思ひ出された方はどうか知らせて下さい。

　

(395)　　　　　小豆を食べる日

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　 　　　六月二十八日

　社會經濟史學の五月號に、關西大草の鑄方教授の本邦古代小豆考といふのが載つて居る。古く日本に小豆が耕作せられ、その消費も公私一般に行渡つて居たことが、十分に證明せられて居る。朝鮮半島にも同樣の痕跡はたしかにあつて、彼我流傳の順序のみは、まだ必ずしも明らかでないといふことである。私は是を讀んで、一國民俗學の獨立した任務、及び是と他の文化諸學との交渉面を、若い同學の人たちに説くのに、最もふさはしい機會を得たと思つた。ちやうど信州の齋藤君から、見ごとな小豆を土産に貰つて、悦んで居る日でもあるので、火曜日だけれども月曜通信の筆を執り、出來るだけ簡略に又親切に、日頃考へて居ることを敍述して見ようと思ふ。

　

　　　　　　　　　　○

　

　小豆は私の聽いて居ることが誤りなくば、日本にはもう三、四十年も前から大量を輸入して居る。國内の生産も相應に多いのだけれども、それを上廻るほど、近頃の消費が増加したので、それは主として今謂ふ餅菓子の流行だつたらしい。從つてこの輸入が絶えると、良い菓子ばかりか小豆そのものも、段々と得にくゝなるのである。小豆輸入の國々と數量は、調べたらすぐに判るであらう。私はビルマの國から可なり多量に入ると聽いて、珍しく感じた記憶がある。さういふ方面の小豆栽培も古いかどうか。又其用途なり是に伴なふ感覺なり約束なりに、日本とどの程度まで(396)の共通があるか。是は比較民族學の援助に待つべきものだが、それを利用し又要望するにも、先づ一通りは自國の特徴とすべきものを知つて置かなければならぬ。單に起原が久しいといふだけの文獻史學では、少なくとも私たちの知識欲は充たされないのである。

　

　　　　　　　　　　○

　

　小豆に對して私の關心は深く又久しい。三十年近くも昔、瑞西に行つて獨り住みをして居た頃、何度か練羊羹を取寄せて見たことがあるが、自分でも思つたほどおいしくないのみか、誰に食べさせて見ても皆變な顔をして、たゞ珍しがるばかりなので、この時始めて小豆の西洋には無いことに心付き、いはゆる文化の東西の差が、斯んな處にも見出し得られることを知つた。それから考へた一つの點は、同じ五穀の總稱に括られて居ても、小豆だけにしか無いといふ性質が幾つかあり、是が人間に利用せられる方式も、亦幾分か他のものとちがつて居る。この兩面の特色はどのくらゐ互ひに關聯して居るだらうかといふことは、一つの問題になる。色が赤いといふほど目に立つ特徴ではないが、たとへばこの豆が煮ればすぐ粉になつて、臼で搗き碎く必要の無いことゝ、是が砂糖と親しみやすく、乃ち近世のいはゆる生菓子の端を開いたことゝ、二つは單なる偶然の寄り合ひだつたかどうか。小豆を煮て潰して餅に付けて食べる風習は、もちろん砂糖以前から始まつて居る。といふよりも鹽餡は今でも田舍では、小豆餅の普通の食べ方なのである。たゞ砂糖は一段と小豆を人望多きものとし、町がかつた土地では、いつでも欲しいと思ふ時に買へるやうにしてしまつた。それだけが大きな時代の變りなのである。この點は酒などの消費ともよく似て居る。

　

　　　　　　　　　　○

　

　もとは食料に臨時と常用との、二つの種別があつたことが考へられる。酒でも小豆餅でも、一度の消費量は古人の(397)方が遙かに卓越して居るが、其折が或特殊の日に限られると、年分の需要は少なくてすむ。今のやうに毎日ちび／＼とやつて居ては、やがて國内生産量の不足に歸することにもなるのである。さういふ中でも米だけは可なり早くから一般化し、是が日常の所謂主食であつた如く、思つて居る者も多くなつたが、小豆の臨時用だつたことは、まだ記憶が新たである。戰爭中以來、實は私の家などは米の都合で、時々小豆を交へた飯を炊くやうになつたのが、始めのうちはうつかりと、けふは何かねと訊かずには居られぬやうであつた。強飯に至つては、今でも只の日にそれが出ると、理由を尋ねずには居られないやうな氣がする。しかも一方都市の生活になれて、汁粉や餅菓子はいつ食べてもいゝやうに思つて居る。斯ういふ過渡期はさう長くは續くまい。今がちやうど小豆の近代史を、文獻が備はらずば他の方法で、明らかにして置くべき時節であり、同時に又この方面の古代史家に向つて、古代はどうあつたかを尋ぬべき機會でもあると思ふ。小豆を稗粟麥のやうに、又近世の都會の米の飯のやうに毎日食ひ、又は乾菜や芋大根と同じにカテ飯のカテとし、腹のたそくにして居た時代は、日本ばかりか他民族の中でも、曾て無かつたやうに私には推測せられるが、それを反證する事實が無いかどうか。日本民俗學は斯ういつた疑問を、成るべくは他の隣接諸學と共通に持つて進みたいと思つて居る。

　

　　　　　　　　　　○

　

　小豆を常の日には食べないといふことも、現在の?態だけならば追々に確かめて行くことが出來るが、さうまでしなくとも是を食べる日の約束、又は特別に食べなければならぬ場合、之に伴なふ色々の言ひ慣はし等を比較することによつて、他の日は食べないのだといふことが自然に判り、更に又何故にさうだつたかを、理解することも出來るかと思ふ。

　小豆を食べる日の、年中行事として定まつて居るのは、思ひの外多く無い。それも地方によつて少しづゝのちがひ(398)が有る中に、現在も最も弘く行はれ、且つ最も古くから知られて居るのは、正月十五日朝の小豆粥であつた。私の家などでも、今なほ太陽暦の其日だけは之を缺かしたことが無く、その他には同じ食物をこしらへる日は無い。尤も今日の御飯といふのも、カタカユと謂つて粥の一種だつたから、昔の小豆粥には小豆飯も含んで居たかもしれない。さうだとすると子供の誕生日とか、小さな喜びの日には之を食べるが、私たちはそれと十五日の粥とははつきりと分けて考へて居る。東西の二京を始めとし、全國重要な都市から其周圍の農村にわたつて、正月十五日の小豆粥は普通の慣習のやうに見られて居るであらうが、なほ端々の實地に就いて見ると、注意すべき例外は幾らもある。たとへば九州の天草島なども、十五日は餅を入れた粥を煮るが小豆は無いといふことが、百年前の記録に見えて居り、東北六縣でも正月十五日は白粥ばかりと、いつて居る土地は方々にある。さういつた土地では、小豆は丸々用ゐないのか、どうかといふことが先づ問題になるのである。

　

　　　　　　　　　　○

　

　正月十五日を粥始めとも稱し、この日以前には粥はこしらへぬといふ土地があるかと思ふと、一方には七日を七草の粥とする慣例も、可なり廣い區域に認められて居る。それと同樣に、小豆も十五日より前には食べてはならぬといふ處が、東北ばかりか關東の農村にもあるのに、他には又元日二日、七日や十一日に、必ず小豆を食べることになつて居る例も相應に多いのは、何か雙方共通の理由からではないかと考へられる。

　其問題に近よつて行くのに、最初に氣がつくのは七種の粥の日で、もとは公けには正月十五日の行事だつたことは、延喜式にも公事根源にも明證があり、しかもその七種の品目は、二つの時代に於て大きな變化があるにも拘らず、小豆だけはなほ兩方に共に入つて居た。七くさを七つの草の意と解して、それを暗記する歌さへ出來て居るのは、民間傳承の必ずしも古意を保存し得ない適切な實例であるが、是と所謂人日の節供を重視して、七日を七草正月と呼び、(399)粥もこの日に作ることゝなつたのとは、時を同じうする變化ではなかつたらしい。竹内利美君の集めた東筑摩山村の七草粥の記事には、その七種の食料の中に、大豆もあれば小豆も入つて居る。つまりは朔旦正月制の普及につれて、以前の新年行事が追々と、十五日から七日、即ち元日の方へ近よつて行つた傾向の、是も一つの現はれだつたとも見られるのである。

　

　　　　　　　　　　○

　

　しかしそれだけではまだ説明しきれないのは、小豆を餅に付けて元日から、食べることにして居る風習であつた。雜煮といふ言葉はどう見ても正月らしくないが、是は或は新しい一つの食べ方が、始まつたことを意味するものかもしれない。中央から稍々遠く、又少し引込んだ村里などでは、今でも是と對立した又一つの餅の食べ方があつて、この方は專ら小豆を付けて居たやうである。注意すべきことは、この餅には身の上餅、又はめい／＼餅といふ類の名があつて、最初から之を各人に分配するのを例として居た。坐するをスワルといふ動詞の起りも是で、各人が神と同時に同質の食物を、めい／＼の前にスヱラルヽことを意味して居た。もとは斯ういふのが直會《なほらひ》の本體だつたと思ふのだが、後々一旦神に供へた物を、卸して戴くことばかりを念がけるやうになつて、餅のたべ方までが變つて來たらしきことは、前に「餅なほらひ」といふ題で一度書いたことがある。モチは即ちその個人私有の　　状態を、表示する語かとも思つて居るが、それまでを爰で主張するにも及ぶまい。とにかくに斯うして我が前に据ゑられた以上は、それこそ煮て食はうと燒いて食はうと、乃至はしまつて置かうと人に遣らうと自由であつたらうが、通例はやはり相饗の歡びを共にすべく、一ときにぺろりと食べてしまつたらう。さうして小豆が其機會に限つて用ゐられたのは、簡單に理由を見出し難いだけに、何かまだ隱れて居る根據があるものと見てよいのである。

　

(400)　　　　　　　　　　○

　

　小豆に二通りの用法が古くから、あつたといふだけは少なくとも判つて來た。即ち、其一つは飯粥に交へて粒のまゝ、今一つは粉につぶして餅の上に、塗つて食べた粉食用であるが、是がいま私などの想像して居る如く、本來は或長さの齋忌期間の、始めと終りとを標示する方式であつたらうことが確實に立證し得るものかどうか。自分も讀者と一緒になつて、きびしく之を審査して見たいと思ふ。小豆餅の食法は、我々の家ではぼた餅にあんころ餅、即ち餅を小さくちぎつて餡の中を轉がし、又は前後左右を餡で包んだもので、形も甘さも共に菓子屋の品と近いが、古風な農家の製は餅の部分がもつと大きく、小豆は言はゞ其色どりを美しくしただけとしか見えぬものが多かつた。萬葉集には小豆なくと味氣なくとを、同じ言葉に兩用して居るから、あづきの語原は味であらうと、思つて居る人もあるやうだが、あれはたゞ文字の戯れかもしれず、假に其風味をたゝへたにしても、是も習慣に養はれた嗜好であつて、砂糖のやうに新たに入つて來るだけの力はもたなかつたらう。それがどうして此樣に根強く、殊に改まつた式日に用ゐられるかは、やはり考へて見なければならぬのである。

　小豆餅の東北地方の食べ方には、椀に柔かな餅を入れ、餡の少しゆる目なのを掛けて出すものが有名である。東京では斯ういふのを特にゼンザイと呼び、それよりもずつと汁氣の多いのを汁粉と謂ふやうだが、近畿以西に行くともとは汁粉といふ名は無く、ゼンザイといふのがやはり小豆粉の汁で、あの東北式の小豆餅は無かつたやうに思ふ。もちろん是からも各地の事實を尋ねて見なければならぬが、餡粉を湯で薄める位は簡單であり、又自然にもさう變つて行きさうなことである。つまりは斯ういつた足取りを以て、古來の小豆餅の風習は改まり、且つ段々と信仰の生活から離脱して、常用不斷の食物となつたので、之を誘致したのは葉子屋の菓子も同じに、砂糖の力であつたことはほゞまちがひが無い。

　

(401)　　　　　　　　　　○

　

　小豆を食べる日を書いて見ようとする私の動機には、實は相變らずミカハリ考が潜んで居る。二月と十二月の八日の日は、是も小豆無しには過ぎられない節供の一つだつたが、その利用の仕方はよほど又、正月の粥や餅ともちがつて居た。それを類例を竝べて比較して見たら、或はもう少しこの日の性質が、判るのではないかと思つたのだが、そこ迄行かぬうちにもう日が暮れてしまつた。我ながらまだるつこい話である。已むことを得ず、茲で一應の切りを付けて置くと、小豆は今でもまだ毎日平常の食物だとは思つて居ない人が多い中に、なほその二通りの食べ方が對立し、粒で食べるものと粉にして食べる場合とが、少なくとも現在は日を異にして居るらしいことが心付かれる。ゼンザイといふ名は至つて新しく、是を出雲で神在月といふ月に、作つて神に供へるから神在餅と謂つたのを、語り傳へたのだといふ説も京都にはあつたさうだが、斯ういふ思ひ付きを取りはやすのも、決して古い頃の趣味では無い。現に京都の周邊でも、北山の中川郷などは、正月二日の朝の式に、このゼンザイ餅を食べる慣習があるといふことを、楳垣氏の調査に依つて最近に知つた。出雲の方でもこの所謂神在餅を作るのは、むしろ神々の御立ちの日、即ちカラサデの日の餅のことであるやうにも聽いて居る。もちろん是からもまだ事實を確かめて見なければならぬが、少なくとも十月神々の此國に在すうちに、之を調へて節々神を祭るとある嬉遊笑覽などの説は信じ難いのである。或は簡單に小豆餅の餡を、任意に湯を加へて稀薄にするからの自在餅であつて、それも砂糖といふものゝ普及が可能にしたものとも解し得られるが、語義の穿鑿などは此場合さう重要でない。それよりも是非明らかにして見たいのは、汁粉で餅を食べる日が、此前後どういふ風に配置せられて居るかといふことで、私などの知る限り、神無月の物忌と最も縁の深さうな霜月二十三夜は小豆の粥、十二月八日の八日節供は、關東の方では小豆を粒のまゝ、外の野菜と共に煮たオコト汁の日である。石原正明の年々隨筆卷六に、出雲の日御崎では、十二月十三日と二月の八日の兩度、小豆の入つ(402)た汁を食ふといふことを開書して居る。是は粒食のオコト汁の方で、所謂神在餅では無いやうに思ふが、果して實際はどうなのであらうか。小さいことのやうだが、問題の一つのポイントである。今のうちに島根の同志によつて、是非とも明らかにして置いてもらひたい。

　

(405)　　　苗忌竹の話

　

　内原に來て居る若い諸君などは、時々附近の村々をあるいて見ることが有るのかどうか。元來農民は他處を知らぬのが普通で、從つて?々全國が皆自分の土地と、同樣だといふ出發點から物を考へやすかつた。それではいけないと伊勢參り京見物、餘力の有る者だけにはせめて一生に一度世間を知る機會を與へたいといふのが、昔の人たちの志であつた。しかし短い旅行では印象がやゝ偏しやすい。それに立止まつて物を考へるやうな折がまことに少ない。青年が遠い處の學校に入つて、一年と半歳と寄宿して居るといふことは、以前は全く望めなかつた好條件である。耳以外又讀書以外、是非とも心の眼の注意深さを養ふべき、義務さへ有るものと私などは思つて居るのだが、さういふ用意は既に出來て居るかどうか。

　そこで手引の意味で自分などが若い頃、中部常陸の村々で受けて居る印象で、四十年來忘れずに居るものを一つ二つ、「村」といふ雜誌の爲に書いて見よう。今も氣を付けたらまだ見られるといふのだつたら話は面白いが、假にもう何處にも無いとしても、それも亦埋もれたる歴史だから語る甲斐がある。その一つとしてちやうど苗代の頃に、茨城新治あたりの農村に普通であつた苗忌竹《なへみだけ》、又はナヘジャクと謂つた竹の話をする。是は東京近くの水田地帶でも、汽車の窓からよく見られるものだつたが、下りて直接に其田の作り主から、理由を聽くことなどは出來ないので、いつも外部のいゝ加減な説明しか得られなかつた。苗代の苗の青くなつた頃から、この竹が眼について來る。細い四五尺の葉附きの竹を一本か二本、又は四本立て注連繩を張つたのもあつた。それが苗代の中程に立てゝあつて、地點には(406)格別のきまりが無いらしく見えた。あれは雷さまの落ちた處に立てるものださうですと謂つた人もある。確かなこととも思へなかつたが、それを聽いた時にも私は、イナヅマ即ち稻の妻といふ言葉を思ひ出して興味を感じた。さうして多くの友だちに其事を語つて居るうちに、山田淳一といふ人から手紙を受取つて、この茨城地方の苗尺のことを教へてもらつたのである。

　

　　　　　　　　　　○

　

　茨城方面のナヘジャクは大抵一本らしい。何の爲にこんな竹を立てるかといふ説明は、こゝに隣接した栃木縣の芳賀郡なども共通だが、やはり是が落雷に關係のあるやうなことを謂つて居た。最も信じにくい話は雷が苗代へ落ちて、すぐに再び天上してくれないと、あばれて苗代がめちやくになつてしまふ。それで、竹を立てゝ天へ昇りやすくするのだといふものだが、まじめな人たちはそれをやゝ合理的に解して、初夏の頃に起りやすい雷雨の日の嵐の害を、防ぐ爲のまじなひの樣にも思つて居た。實際に又關東北部の山地帶には、苗代時に烈しい雷が多く、それには毎度雷の害を伴なつて、田を患す憂ひが有るのだが、さういふ現象のあまり無い地方でも、やはりこの竹を立てる風は有るのだから、是は一般の説明にはならない。

　しかし是とても丸々の空想で無ささうなのは、速く離れた岩手青森二縣の低地部に、イカヅチと稱して落雷を記念する靈地が多く有り、それがしば／＼水田の間で、其爲にそこだけ作りをしないとかいふ話がある。今でも一部落に其イカヅチが、何箇所もあるといふ村も稀でないが、一方南秋田の山内《さんない》といふ地方にも、雷の落ちた土地には鋤鍬を入れず、葦などの茂るまゝにして置きそこに楊の木又は他の木を栽ゑて、田の神として祭つて居た塚が多く、それをイナウルイ塚と謂つたといふことが、百數十年前の「鄙の遊」といふ紀行の中にも見えて居る。イナウルイは古語で雷といふことである。稻を作る人々が今日より以上に、雷雨を重要視して居たといふことだけは是からでもわかるの(407)である。

　

　　　　　　　　　　○

　

　つまりはこの苗忌竹を立てる百姓の氣特が、今日はもう彼等自らにも不明になつた故に、斯ういふ信じ難い説明が生じたので、日本のうちだから、まだ眞の理由を記憶して居る者もあり又は多くの例を綜合して見れば、自然に少しづゝ心づくことがあるかも知れない、と思つてまだ私などは注意して居るのである。あまり多くの實例も集まつて居らぬが、それでも大よその見當だけは付いた。それを若い學者に引繼いで置く必要は有ると思ふ。茨城縣の北に接した石城地方などでは、雷の天上する話はまだ聞かないが、ナヘミ竹は今でも多分立てゝ居る。その合理的な説明は二つあつて、二つとも後から考へたらしい感がある。其一つはこの竹を目あてに、籾を田の畔から撒くと平らに播けるからといふもの、今一つは苗がどの位伸びたかを見るために、この竹を目じるしにするといふので、後の方は多分苗尺といふ語から考へ出したのであらうが、シャクといふのは本來大事な棒、英語でスタッフといふのに近い語であつたことは以前上級の官吏の手に持つた笏を、我邦だけではシャクと謂つて居たのを見ても知れる。苗尺又は苗忌竹は用がすんでからもなほ粗末にはしない。この點は常陸の方も同じことだが、村の若い人たちは、竹を折つて占ひをする。右の手に殘つた折れが長いと思ふことが叶ふとか、ちやうどまん中から折れると縁喜がいゝとか、始めからきめて置いて其結果を試みるのである。他の草木でもするか知らぬが、特にこの竹についてそれを喜ぶのは幽かながらも是に一種の靈性を認めて居るので、是からも注意して居てよいことだらうと思ふ。

　

　　　　　　　　　　○

　

　東北の各縣ならば、まだそちこちにこの苗尺の風習は殘つて居ると思ふが、私の氣の付いて居るのはさう多くは無(408)い。青森縣の三戸郡、即ち八戸市の周邊の村々のは特徴が多く、昨年世に出た「いたどり」といふ雜誌に、小井川さんといふ人が詳しく調べて、繪まで添へて載せて居る。この地方では普通に苗ジルシと謂ひ、數は一本きりといふのは殆と無く、家によつて四本五本、七本も立てるものが有るだけで無く、その立て方が又家毎にちがつて居て、頗る山仕事の木ジルシ又は家ジルシといふものに近い。竹の少ない地方だから楊やウツギの類、その他の植物も葉をこいで立てる。關東地方とちがふ點は、それを時々は斜めに刺すこともあつて、數と列との他に又組合せによつて特色を付け、同じ部落の人ならば一目見て是はどこの家の田といふことが判る。家々の先祖、の見えざる靈魂は、それを目標にして自分の家の田を、毎年訪れて來ることが出來るやうにといふ趣意であり、少なくとも農民が迎へ祭つて居る田の神は、家毎にそれ／”＼ちがつて居たといふことが、是で明らかになるものと私は思ふのだが、もつと詳しく言はぬと諸君にはまだ同感が得られまい。やゝ氣永に聽いて居てもらふの他は無いのである。家と先祖との繋がりは、今日我々の考へて居るよりも、何層倍か強いものだつたことは、前に書いたものにも私は之を説き、なほ是からも證明するつもりで居る。この奧州の苗ジルシなどは、ちよつと得難いほどの好い手掛りであつたのに、土地の人たちは却つてそれに心付かない。さうして茨城地方の雷さまの天上とやゝ近いやうな、珍しい説明をして居る者もある。即ち曾我の五郎といふ人が苗代の中をこぎまはつて、苗を踏み荒すのが氣づかはしい故に、苗ジルシを立てゝそれを防ぐのだといふ説で、是には何かまちがひの元があり、たゞ出たら目にそんなことを、考へ出したのではあるまいと私は思ふ。それから今一つ、大昔弘法大師といふ人が、唐から稻の種を持つて來ようとした時に、それを狐に頼んで葦の根に匿して置かせた。米を日本で作るやうになつたそれが始めで、狐が其功によつて稻荷樣に祀られ、今でも其記念に苗ジルシを立てるといつた樣な話もあるさうである。是も此まゝの事實が有つた氣づかひは無いのだが、勝手にこしらへたにしては話がやゝ込入つて居る。何か基くところが有つたものとして、なほ注意して考へて見なければなるまい。

　

(409)　　　　　　　　　　○

　

　最初に心づくことは、是が稻作の開始に當つて、田の神の祭をした行事の一部が、古い慣習として殘つて居るのでないかといふことである。田の神は全國にわたつて今でも固い農家には祭つて居るが、もしそれならば拜むとか物を供へるとか、何か祭らしいことが是にも行はれて居てよいのに、只水田のまん中の誰にも近よれないところに、竹や木の枝ばかりを立てるのはどうかと、訝る人も無いとは言へぬ。物を供へる方は、苗尺を立てるほどの農家ならば、必ずして居るにちがびないのだが、たゞ其場處が苗尺のすぐ下では無く、通例は苗代の水口に於て上げるので間に距離が出來て一方を神の座とは心付かず、二つ別々のものゝ如く考へるやうになつたのである。拜むといふこともまだ何處かには續けて居るかも知れないが、一人々々の心持だから確かめて見ることがちよつと六つかしく、しかも田の神とはどういふ神樣であるのやら、それを教へてくれる人も無いので、今は段々と信じない者が多く、從つて是をたゞ斯うするもの、親や祖父母の代以前から續けて居たものだ、止めることは出來ぬといふ程度の、儀式又は慣習となつて殘つて居るのである。

　若い世代の農民としては、だから是非とも自分たちも、さうしなければならぬといふ理由は無い。單に是にはもつと深い理由があり、又信仰があり、昔の人たちはそれを知つて居たといふことを、之に由つて認めればよいのである。さうして又、變遷をよく認めてからで無いと、實は農民の爲に未來を考へることも出來ないのである。ナヘミ竹といふものを知つて居る人は今も多いが、是はたゞ苗の成長を見るから苗見竹だらう位に思つて、それが本來は苗の忌竹、即ち田の神の御座を標示するしるしの竹であることを氣づかぬことゝ思ふが、忌竹といふ言葉は今でも、神社の祭にも又建築の地鎭祭などにも用ゐられる。即ちそこを目ざして神が降つて來られるものと、我々日本人は思つて居た時代があるのである。長野縣西部の農村などでも、苗代祭は水口に花を立て、米や餅などを供へて田の祭をするがやは(410)りその苗場の中ほどには、苗忌竹と同じ棒を立てる。但し竹ではなく通例は川楊の木の枝などで、やはりよく見ると家によつて立て方に流儀が有り、數も木の種類も少しづゝちがつて居る。それをあの地方ではタナンボとも、又「田の神樣の腰掛け」とも謂ふやうである、後の方の名は意味がよくわかる。タナンボの方は恐らくは田の棒、もしくは田の鉾（ホコ）といふことだらう。

　

　　　　　　　　　　○

　

　そこで一歩を進めて中部以西の田の神の祭り方、どういふ點が關東奧羽とちがふかを述べて見たいのだが、長くなり過ぎるからそれは又の機會に讓る。たゞ一言だけ爰に言ひ添へたいのは、田の神の祭場になる場所は、何處に行つても大よそ一定し澤山の田を持つた百姓でも家と最も縁の深い大事な田、それは多くは苗代に使ふ田だが又さうでないことも有る。九州西北端の壹岐の島などでは、その祭に使ふ田をミト田又はカミ田といひ、そこに祭る神をオイミサン、其祭の日もオイミといふ。即ち忌竹の忌と同じで祭の爲には忌と謂つた、特別の謹愼を守るのである。最も著しい東日本との差異は、こちらでは一囘毎に新たな竹又は木を立てるに反して、あちらでは水田の片端又は中央に土を盛り、そこを常設の祭場として居ることで、其上には必ず一本の木を栽ゑ、それが楊ばかりで無く松であつたり櫻であることもある。田の間に其樣な塚があつては、無論耕作には不便なので、意味が不明になればどし／＼と崩されてしまふが、それでもまだ殘つて居るのは島だけで無く、たしか山口縣の北海岸にも是が有つた。もとは相應に弘い區域に、さういふ田神祭場があつたものと思ふ。前年私は「地名の研究」を世に公けにしたとき、我々の苗字の柳田、松田、櫻田等はもとは地名であらうが、果してそんな名で呼ぶやうな田が有つたらうかと不審にして居た。しかし斯ういふ祭場を設けた田の持主ならば、斯ういふ地名なり家名なりを附けるのは當り前である。つまりは茨城地方の如く、田の毎年の苗忌竹を立てる代りに、生きた樹を栽ゑて田の神の目標とする風が、國の西半分にはあつたのである。

　

(411)　　　御刀代田考

　

　　　　　　　　　　一

　

　終戰の次年の秋、近處の農林專門學校の學生たちに病田の話といふ題で話をした。是はその手控へに、其後氣が付いた若干の資料を補充したまでのものだが、伊勢の山宮に對する田社といふものゝ成立ちを解説するのに、一つの傍證となると信ずるから之を保存する。讀者を若い人々の中に期待した爲に、言ふことが幾分か丁寧に過ぎて居る。

　年を取つた者の經驗で、諸君が聽いても參考になるといふ話は、今日はもうよほど少なくなつた。さういふ中でたつた一つだけ、是非とも一度は話して置きたいと思ふことは農業のやうな古い生産行爲、何千年の昔から引續いて、一つの國に行はれて來た生活樣式の中にすらも、まだ今日隅から隅まで、明らかになつたと言はれない問題が幾つもある。人に問はれても答へることの出來ぬ不審、從つて又是からの研究に由つて新たに我々の知識となるべき事實が、まだ數多く含まれて居る。うつかり高等の學校を優等の成績で出たからと言つて、一通りの事はわかつて居ると思ひ、又は人をさう思はせではいけない、といふことの一つの例證として、自分は今日「病田の話」といふのをして見ようと思ふ。ヤマヒ田又、ヤミ田ともいふのは、其田を作つて居る家で、とかく面白くないことが多いといふ田である。さういふことを一向氣にせぬやうな家でないと、始めからこの田は作らうとしないのだが、それで居てやはり病人などが、始終絶えないといふことが心付かれる。その結果としては他の田地とちがつて、病田は頻繁に持主作主を更へ(412)て居る。何かわけがあるにちがひないのだが、それがまだ明らかになつて居ない。是はどうしたことであらうか。先づざつと斯ういふ問題なのである。

　ちよつと聞くと如何にも悠長な、時代ばなれのした話のやうに思はれるかも知らぬが實際は必ずしもさうでない。迷信でもあらうが笑へない迷信である。しかも日本の農民の年久しく歩んで來た道で、今ちやうど通り過ぎようとして居る一つの社會組織とも關係がある。考へて見ずには居られない問題である。それを出來るだけ簡明に話して見ようといふのであるが、何分にも事柄が少しく込入つて居る。村に育つた人々の體驗と隣人愛とを、働かせて聽く必要が有るかと思ふ。

　

　　　　　　　　　　二

　

　大抵の人は、是をたゞ自分の郷里だけの、珍しい話だと思つて居たかもしれぬが、この病田に類する田は、名や説明をかへて日本の各地に在る。北は奧羽の一部にもヤメエ田の話はあり、關東平野でも古い農民は多く知つて居る。靜岡縣から來た學生ならば思ひ出すだらうが、駿河遠江には殊に例が多い。新しい人には是をツツガ蟲とかヂストマ菌とかの致す所と解して居る人もあらうが、實際は是は生理よりも心理の現象である。死は精神生理と謂つてもよい事實なのである。

　注意すべきことの一つは、その病田がいつも田であり、しかも相應に美田であることで、この缺點の爲に棄てゝ荒地にはなつてしまはず、氣にはかけながらも毎年作つて居るのが普通の例なること。次に今一つは、山林にもクセ山・バチ山・トシ畑などゝ謂つて、やはり利用者に不幸があるといふものゝ多いことで、この方は多くは伐採も開墾もして居ない。病田の方は前年靜岡縣の女子師範學校で、生徒に集めさせて出版した、靜岡縣傳説昔話集といふ本の中にも、村の名まで擧げで此話がたくさん出て居る。その病田の原因として、土地で信じられて居たものには妙に悲(413)劇が多い。たとへば若い嫁が働き過ぎて田の中で死んだといふやうな話、この方は別に嫁ヶ田などゝも謂つて、他の縣にも弘く分布して居るが、その話は前に「妹の力」といふ本の中に説いて置いたから爰ではくり返さない。又或はこの田の脇の溝に、人の生首が流れて來たからなどゝいふ、奇拔な話もあるが、さういふ大事件が一つづゝ有つたにしては、あまりにこの種類の田の數が多過ぎるのである。私はもう少しその個々の病田に就いて尋ねたら、もつと平凡な、且つ多くの田に共通する特色が、見つかりはしないかと思つて居る。

　右の靜岡縣の本に出て居る中でも、二つの注意していゝ事實がある。その一つは縣の東部、富士郡富士根村あたりの例で、こゝでは其ヤミ田が、一部落毎に必ず一つか二つかは有るといふ程に多いさうだが、誰が見てもわかることは、この田には石で造つた小さなホコラやうのものが必ず附いて居る。是から考へると之はこの田に限つて、耕作の間に何か祭をして居たのではないか。人が其祭を怠り又は粗末にし、之に伴なふ愼しみをしなかつたとき、殊に下肥を入れてはならぬのに入れたり、からだに障りのある女が田植をしたり、他の尋常の田と同じ作り方をするので、何と無くそれに氣が咎めひけめを感ずるので、いはゆる潜在意識の働きで惡い事があるのではなかつたらうか。もしさうだとすると古風な固い家で、其點をよく承知し、愼しみ深く今までの方式を守つてさへ居れば、作つても何等の障りも無い場合が、有り得たのではないかと思ふ。是ならば日本全國、何處に往つても今はまださういふ家は多く、それを構はぬのは近世の新田場だけといふことにもなるのである。

　

　　　　　　　　　　三

　

　それから今一つの事實は縣のやゝ西に寄つた部分、大井川右岸の榛原郡萩間村の或部落に、萬法師といふかはつた名を持つた一つのヤミ田がある。怖れを知らぬ新人がこの田を引受けても、やはり次から次へと病人を出して閉口して居る。是も其田のすぐ傍の高みに、以前の地主であつた萬法師といふ人を祀つた小さな祠があつて、近年は又參詣(414)する者が多くなつて居るが、土地の言ひ傳へでは、むかし萬法師は自分の持田を見廻り、又眺めて居るのを樂しみとした人であつた。死んでもこの田の耕作を見て居ることが出來るやうにと言つて遺言をして田の西側の岡の裾に埋めさせたといふ。それほど此田を愛するならば、人が熱心に田植稻刈をするのを見て悦びさうなものだが、やはり今では作る人の家に祟るのは、それがもう自分の子孫の田でも無く、又古來の方式に由つて祭つてくれる者が無いからであつたらうか。家の田植を眺めるのを樂しみにする老人は、今の世でも決して少なくない。それでこの傳説には一種の寫實味があるのだが、それだけではこの祟るといふことが解しにくい。察するに是は言はゞ一つの暗示であつて、なほその背後には一段と深い理由が潜まつて居るものらしい。それを少しでも明らかにする道があればよいと、私は念じて居るのである。

　是と思ひ合される一つの事實は、伊勢の神宮の奉仕者たちが、以前久しく執行して居た御田《おみた》といふ田植祭である。祭の行はるゝ田は定まつて居て、それを常供田とも又家田とも呼んで居た。内宮の方では其田の所在が中古以來變つたらしく、式も幾分か改造せられたかと思はれるのだが、外宮の方は昔から同じ場處で式には多少の變化はあらうが、とにかくに御田の祭が引續いて近世まで行はれて居た。是は神宮の祭といふよりも、神職度會氏の一族の行事であつたが、當日は十人の禰宜たち、行列を作つてこの御田の西の岡の少しの高みに登り、田の中の祭の行事を見る定めであり、之に關するこま／”＼とした儀式を、書き留めた書物も傳はつて居る。さうして其中には記してはないが、この岡の更に奧の高い處には、度會一統の先祖の神靈を祀る山宮といふ靈地があつて、どうやら其山宮からも見下される處に、この神田は位置して居たらしいといふことが考へられる。つまりは家々の或定まつた田だけには、田植の日に花々しい儀式があつて、それを族長以下の主要な人々が、小高い處へ出て見て居るといふことが要件だつたので、しまひになつて言ふつもりだが、是が日本の稻作儀禮の、注意すべき特徴と私は考へて居る。

　

(415)　　　　　　　　　　四

　

　病田は斯うして見ると寧ろ大切な田、そこで念入りな祭をすべき田、其祭には物忌といふ特別の謹愼をすべき田で、たま／＼その條件を守らぬ者だけに何か不安を與へる田ではなかつたか、といふことが想像せられる。近代の新開水田には、無論その樣な拘束は無い。故にさうした新田が近所に多くなると、勢ひそれに感化せられて、年と共に田の祭はなほざりにならざるを得まいが、それでもまだ物堅く、以前の仕來りを踏襲して居る處も、探せば全國に何十箇處と無く見出され、少なくともそれを記憶して居る人が可なり多いのである。

　つい最近にも、私は香川縣の志度といふ町に居る知人から葉書をもらつて、大きな印象を受けた。終戰第二年の十月の稻刈の日に、まだ四國の最もよく開けた地方には、この意味の田祭をして居る村がある。それは大川郡三本松の近く、縣道に接した路傍の田で、稻の刈取の後に一株だけを刈殘して、そこに土饅頭を築いて、青竹を立てゝ花を供へて居たといふのである。それがあの附近の村々の普通の風習かどうか、又土地では何と之を呼んで居るか、問合せて居るがまだ確かな知識を得ない。是をたゞ單に田の神祭と謂つて居るか、或は又斯ういふのもやはりサンバイアゲと謂ふか。それによつてよほど又我々の解釋がちがつて來るのである。

　サンバイアゲといふ名は四國四縣、對岸の廣島、山口二縣の大部分、さらに其背後の島根縣にかけて、共通して居る田の神の名であるが、一般には田植前後に祭る神で、植付が終ると氏神は歸つて行かれるので、其日の祭をサンバイアゲ、又はサノボリと謂つて居り、刈入稻場にも亦祭はあるが、それは又別のものと考へられて居る。サンバイオロシといふ祭は、通例初田植の日を以て行はれ、土地によつては是をワサウヱと呼ぶが、最も弘く用ゐる名はサビラキであり、又サイケといふ地方もある。それからもう一つは、關東では千葉縣の東海岸一帶、又遠く離れた沖繩縣の島々でも、サオリといふ語があつてやはりサビラキ即ち田植開始の日を意味する。サオリ、サノボリ等の名を比べ合(416)せて見ると、サといふのが本來は田の神のことであつて、田植の始めの日に降り來り、同じく終りの日に還り昇られるものとも考へられて居たので、從つて五月をサツキといひ、稻の苗をサナヘ、それを手に取る女性をサヲトメと謂つた、本の意が窺はれるのみならず、更に又一方のサンバイオロシとサンバイアゲとが、神を作業の場へ御迎へ申さうとした、祈念の祭であることが推測せられる。ところが茲で一つの問題となるのは、日本では現在國の隅々に亙つて、弘く隈無く行はれて居る言ひ傳へに、田の神は春の始めに、山から降りて來て田の神となり、秋の終りには又山に歸つて、山の神となりたまふといふのがある。是だと一年の四分の三以上、神は里中に駐りたまふことになつて、前のサノボリ、サンバイアゲの信仰と兩立し難いやうな感じがある。是はどういふ風に解してよいものであらうか。察するところ農民の靈界に對する考へ方が、永い歳月の間には少しづゝ變つて來て居るのである。さうしてそれが如何なる順序を履み、この一見兩立し難いものゝ、何れが先づ存し何れが後に興つたかは、是から我々の學問が明らかにすべきものなのであらう。多少の心當りはあるけれども、性急には中々きめられない。

　

　　　　　　　　　　五

　

　この二通りの信仰は、二つの別々の系統に屬するものではないらしく、其間にも幾つかの一致點がある。第一にはこの田植を中心としたサの月の祭にも、秋の取入の日の前後に行はれる祭にも、祭場は大よそ一定して居て、家毎田毎に祭るといふわけで無く、家にとつても由緒のある、最も大事な田のほとりで、式を擧げることにして居る。高知縣の西部高岡、幡多二郡の古い村々などのサンバイオロシには特徴がある。正月望の日の祝箸をしまつて置いて、是をミテグラとして苗代の水口に立てるまでは他も同じだが、なほ其以外に必ず美しい一つの石を、オノベカヅラ（えびづる？）を輪にした上に安置する。多分はこの爲に定まつた石があつて、それを毎年田植の季節に、田の端に迎へて來るものと思はれるが、最初には如何にして其石を選定し、又常にはどういふ場處に管理して居るか、この二つの(417)點が今日はまだ我々の知識になつて居ない。是とやゝ似寄りの例は、中部地方にも稀にはある。たとへば信州上伊那郡の美和村など、サンバイとも田の神ともいふ名は無いが、苗代種下しの日は其畦に平たい石を置いて、色々の花や柳の枝を上げる。又燒米を石の上に置くので、石が祭の壇のやうにも見られるが、同じく下伊那の伍和村などのは、石はやゝ尖つた細い石で、之を苗代の水口に立て田の神さまとして居る。神體とは言はれぬまでも、少なくとも神は此石に依りたまふものと信じて居たのである。

　九州の方へ行くと、サンバイサンといふ名はごく一小部分にしか行はれぬやうであるが、刈入どきに祭る神を丑の日樣と謂ひ、乃ち舊十一月の初丑の日に、其祭をするのが一般の習はしである。或は之を山神祭といふ土地もあるのは、田の神が此日を以て山に還りたまふものと、信じて居た名殘かも知れない。北九州のやゝ弘い區域に行はるゝ祭り方は、是も定まつた一つの田の稻を僅かばかり刈り殘し、最後に家の主人が自ら出て之を刈り、重い／＼と言つて擔ひかへり、臼の上に其稻を置いて祭るのである。四國の方でも愛媛縣の一部などには、やゝ是に近い祭がある。こゝでは丑の日樣とは言はず、大黒樣といふのが田の神樣のことゝなつて居るのだが、この最後の刈稻を朸の棒に引掛けて、主人が自ら大黒さんさあいにましよやなどゝ、聲をかけて擔つて來るといふのは、本來稻そのものを田の神の依りましとした名殘らしく、その考へ方の素朴さに於て、能登半島の奧の村に行はれる、アエノコトといふ田の神祭とも似通うて居る。

　

　　　　　　　　　　六

　

　田の神を大黒さま、又は惠比須さまといふやうになつたのは、勿論この二つの神を福神として拜む人が、多くなつてから後のことでなければならぬが、ふしぎに其風習は全國に廣まり、是を家々の神棚以外に、別にお祭り申して居る例が東日本の農村にも多い。農家では福といふものゝ目標が純一で、田畠の豐熟の他には何物も無かつたから、自(418)然に斯うなつたのかと私は見て居る。關西の方でも、島根縣の海岸地帶などは、エビスを海の幸、大黒を田の實りの神のやうに、分けて考へて居る人も有るといふ話だが、九州は全體にエビスの信心の方が盛んで、可なり海から遠く入込んだ田舍でも、村共同に毎秋のこの神の祭をして居る。殊に舊佐賀領の如きは、到る處に道の辻の石のエビスの神像を見かけることは、旅客にも注意せられて居た。後々は町の商人ばかりが、力を入れることになつて來たけれども、もとは惠比須講も農民の行事だつたことは、百姓惠比須講といふ言葉があり、又この神が俵を踏まへて、立つてござる御姿を見てもわかる。

　いつの頃から田の神を斯ういふ形に顯はし申すことになつたものか。それも氣を付けて居ればやがて判つて來るだらう。鹿兒島縣などをあるいて見ると、田の神の石像はどの村にも有つて、その御姿は北九州のエビス樣と、少なくとも正面から見ればよほどよく似て居るのだが、こゝではそれをたゞタノカンサァと謂ふのみで、エビスとは誰も呼んで居ない。さうして部落によつては是をたゞ路傍に安置するものも有るが、多くは畦や田の傍の高みに常設し、又は栽培の期間、そこに迎へて祭をして居る。石を神體として又は其前を祭場とする點だけは、土佐などのサンバイオロシとも一致するが、九州の方では田植のすんだ後のサビラキの式がはつきりせず、秋の刈入の終りになつて、最も賑やかな田の神祭をする。それも一般に丑の日を用ゐるものが多いが、たゞ其月が舊十月である點がちがつて居る。

　それからなほ一つ、大分縣南部の大野郡の村々にも、石で造つた田の神の像があつて、それを田植から刈入までの間、田の附近に運び移して祭をする例があると聽いたが、自分はまだ見たのでないから、其石體がエビス樣に近いかどうかも知らず、又常の日は誰がどうして管理して居るかも言ふことが出來ない。たゞそちこちの場合を比較して言ひ得ることは、現在はすでに里中の神として、農商漁民の協同に祭るものとなつて居らうとも、それは田神を惠比須樣といひ、又その御姿を石に刻んだより後のことで、最初はたゞ稻田の栽培收穫に際して、祭の場を標示する一つの方法であつたらうといふことである。古い祭には相違ないが、ともかくも田の神信仰の樣式は、世と共に改まつて來(419)て居るのである。

　

　　　　　　　　　　七

　

　其點がもつとはつきりとして居るのは、壹岐島民俗誌に記述せられた此島のミト田、又は神田といふものゝ祭り方である。是もどの家にもどの田にも有るといふわけで無く、しかも大概の村には一部落に二箇所、又三箇所づゝは必ずあつて、香川縣の秋の田祭が臨時の盛土をするらしきに反して、爰のは田のまん中に始めから塚があり、又は畦とか岸の上とかに祭場を常設して居り、從つていつでも祭をすることが出來る。神の供物の米を作る田と解せられて居る御刀代田《みとしろだ》といふ古語と、このミト田とは同じかとも見られ、又は田の水口をミトといふのと縁があるやうにも想像せられるが、それは今すこし多くの類例を、比べた上でないときめられない。ともかくも壹岐ではこの場所に於て祭り申す神をミト樣又は田の神さまと呼んで居る。ミト樣の祭はもとは年に三度、第一囘は田植初めの日で、それより前の苗代の祭だけは、別に家毎に之を營むことになつて居る。次には舊六月二十九日のイミの日と、同十一月十五日との二囘であるが、前後二つの祭は略することがあつても、六月二十九日だけは必ず祭をする。この日は九州一般にナゴシとも謂つて、乃ち夏から秋へ越す境の日の前後であつた。忌は他の地方に於ては通例は收穫後の祭が最も重く、次には春半ばの耕作の始めのものが重いとせられて居るのに、どうして九州ばかりは其中間の六月晦日を大事にして居るのだらうか。私はまだ其理を説明し得ないが、今に沖繩の諸島などゝの比較によつて、少しづゝ明らかになる時が來るだらうと思ふ。とにかく田植にはもう祭は無いと謂つて居る村でも、やはりこの常設の祭壇のまはりをきれいに土で塗り、そこに新しい笹の葉でこしらへた箒のやうなのを立てゝ居る。それが東の方の農村の田植時と共通した、田の神のミテグラであつたらしいのである。

　曾てはこの田の中の祭場は、非常に神聖視せられて、月役のある女はその田に入ることを許されず、きたない肥料(420)は使はせぬといふものが多かつた。それが近年は豐作熱心の餘り、少しづゝこのミト樣の塚を削り取り、後には無くしてしまつたものさへあるといふ。土地の利用の上からは無い方がよいにきまつて居るが、それでも今になほ保存せられて居るものも多いのは、やはり信仰の保守性であつた。

　斯ういふ慣例は壹岐の島だけでは無い。村の名は記憶して居らぬが、山口縣の日本海側にも、たしか一、二ヶ處はさういふ田があつて、塚の上には大きな樹が生えて居た。肥前の鷹島などにも田の中に大きな石があつて、そこを住吉樣の御休み處と、言ひ博へて居る例もあるが、壹岐の島のミト田には多くは木を栽ゑ、その木が一つ／＼ちがつて居たらしく、那賀村湯岳といふ部落の如きは、塚はミト田の中央に在つて、其上に古松が生えて居るので有名であつた。

　

　　　　　　　　　　八

　

　そこで話は少々枝葉にわたるが、十何年も前から私たちの不審にして居た一つの現象、どうして日本には此樣に、樹木と田とを結び合せた家の苗字、松田・櫻田・栗田・柳田などゝいふ風に、何田といふものばかり多いのかといふ疑問が、どうやら此方面から釋けさうに思はれる。中古の文書を氣を付けて見て居ると、梨とか胡桃とかいふ類の、自然生とは思はれぬ木を目標とし、又は周圍にさうした木のあることを表示した田の名が折々あるし以前は緑肥の採取地として、一般に田の畔は大きく取つても居たらうが、なほわざ／＼變つた木を立てゝ置いた趣旨は、神を特定の樹の下に祭り來つた家の傳統を守る爲に、その田が樹蔭になることをも厭はなかつたので、それが自然に作り主の記號とも、又土地の字名ともなつたものかと思はれる。現在は枝を折つて田の水口に插す木なども、家によつてちがつて居て、其種類は可なり數多いのは、この昔の仕來りの名殘かも知れない。乃ち私の家なども何百年か前に、柳の木の下で田の神を祭つて居たか、もしくはさういふ祭をする家から、分れて出た故に、柳田を名のるものらしい。勿論(421)一枚々々の田の脇にそんな大きな樹があつては、蔭になつて耕作の妨げであらうが、是は幾つもある田の中の親田、近頃の農民の言葉を借りていふならば、うちに取つて一番大事な田、家督としていつまでも手離さぬ田の一つに、斯うした特徴のある樹があつてそれが地名となり、やがては又そこを根據として住む家の、苗字ともなつたものと思ふ。越後の蒲原平野や、近世の多くの埋立新田で無くとも、古い村々でもさういふ木はもう追々に枯れたり伐られたりしたらうが、それでもまだ斯うして端々の事實を見て行くうちには、以前の生活の痕は少しづゝ見つけ出すことが出來る。だから私たちはもつと多くの不審を抱き、且つ到底不可解などゝ、あきらめてしまはぬ方がよいのである。

　

　　　　　　　　　　九

　

　問題はまだ幾つでもある。たとへば一家の耕作する澤山の田の中で、どういふ風にしてこの親田、即ち田の神祭をする田をきめるか。是もたゞ單なる先祖からの仕來りといふだけで別に其理由は傳はつては居らぬかどうか。家で大事な田といつて、分家をするにも分けて遣らず、貧乏をしても最後まで賣り殘すといふ田も色々ある。門田と稱して屋敷の正面に連なる田、是は地味も肥え世話もよく行屆き、從つて愛着も深いから、決して手放さうとしないが、田の神の祭田は、必ずしも其中に在るとはきまつて居ない。親田又大田ともいふ通り、大抵は形も大きく場處もよく、水掛りも申分が無くて、人からも其家と不可分のやうに見られて居る田が、村のまん中にあることも多く、大田植又は花田植といふ本式の田植は、又さういふ田の一つに於ても行はれる。通例は糯米その他、神と先祖へ供物として上げる米を、そこで作らうとする心構へがある。或は苗代をさういふ田で仕立てる慣例になつて居る地方があり、從つて田植始めの祭はその苗代田で行はれ、又その苗代跡の田を栽ゑる日を以て、一つの祝ひ日として居る家も少なくないが、東北では通し苗代と稱して、苗代には稻を作らずに一年中遊ばせて置く風習があつて、さういふ處では、自然に田の祭が二立てに分れることになつて居たらしい。つまりは持主の自由な選定によつて、最初の親田はきまつたも(422)のと見てよいのだが、それをきめるには、何かまだ我々の知つて居ない農民心理が、やはり下に働いて居たらしいのである。（灌漑用水との關係なることを後に心づいた。）

　さういふ中でも田の神自らの指示によつて、そこより以外の田は選ぶことの出來ぬといふ例が、かつて信仰の強烈だつた時代にはあつた。東北では南秋田郡の山内といふ村などで、雷の落ちた田の中の一地點を塚にして置いて、之をイナウルイの塚と呼び、そこで田の神の祭をしたといふ記事が、今から百四五十年前の「鄙の遊び」といふ紀行の中に見えて居る。そこだけは土を別にして葦を生やしてあつたが、或は楊を植ゑ又は他の樹を植ゑて、鋤鍬を立てぬ習はしであつたといふことは、西端壹岐島のミト田の祭場も同じで、そこに何田といふ地名が起り、それが又住民の家名となつて行く、自然の道筋も之に由つてほゞ窺はれる。

　是と同じ例は山脈を東へ隔てた青森縣の三戸郡あたりにも多かつた。田のまん中の僅かなモリ即ち木の生えた處、畠ならそこだけ荒らして置く處が、一部落中に何箇所もあつて、かつて落雷のあつた場所だといひ、何れもイカヅツの名を以て呼んで居る。秋田の方のイナウルイも雷の古語だが、是は果して土地でもさう謂つたか、或は筆者がさういふ名に譯したかゞまだ確かめ難い。之に反してイカヅツの語はこの邊の人が皆その意味を知つて居る。さうして又夏の頃に、折々は起り得る現象なのである。それを田の神が爰を靈地とせよ、爰に祭場を設けよと指示せられたものとする信仰がもしあつたとすれば、それだけが特に我々の注意に値するものである。

　

　　　　　　　　　　一〇

　

　誰でも氣が付かずに居られぬであらうことは、イナビカリ、イナヅマ又イナウルイといふ言葉が語源は判らぬながらも何か稲と關係がありさうだといふことである。是は青田の青々と生ひ茂つて行く頃の、最も印象深い光景といふに止まらず、今ある諸國の田植唄にも多くあるやうに、待ち焦るゝ夕立の前觸れでもあつて、或は農民と均しく又は(423)其以上に、稲の成育に關心をもつ神靈の高い處からの通信のやうに、推測せしめる種であつたかとも考へられる。稻の穗孕みとこの稻妻の音づれとを、結び合せようとする考へ方などは、古いものでは無いかもしれぬが、飛び／＼に全國に行渡つて居る。それが大きく一つの地點に跡づけたとすれば、何等かの特殊の解釋を、付けずには恐らく居られなかつたのである。

　さういふ實例もぼつ／＼集まつて居る。たとへば和歌山縣の海岸地帶など、田畠に落雷のあつた場合に、其周圍に繩張をしないと、その耕地全體の作物が枯れてしまふと謂つて急いでさうする。關東平野の東京からごく近い處でも、最近はもう罷めたかしらぬが、汽車で通つてみると植田のまん中に、笹竹を四本立てゝ注連を張つたものがそちこちに見られ、是がどうやら稻妻の、又はいはゆる雷樣の落ちた場所らしかつた。近よつて詳しく訊いては見なかつたが、何かその注連の中の行事があつたのでなければ、斯ういふ竹を立てる筈は無いのである。

　是と考へ合せて見てよいことは、田植時に樹の枝又は竹の竿を、田の中に立てゝ置く各地の風習である。式は今日あまりにも簡單なものになつて居るやうだが、本來は是が又田神祭場の標示であつたかと思ふ。この事は別に「苗忌竹の話」といふのを書いたからそれに讓つて爰にはざつと一通りの事しか述べない。關東北部は一帶に雷の多い地方で、此竹を田畠に立てゝ置かないと、雷樣が落ちて暴れまはつて困るといひ、此竹をさへ立てゝ置けばそれに傳はつて、速かに天に還つて行くから害が無いなどゝ謂つて居るのは、幾分か前に掲げた紀州の話と似て居る。たゞこちらはいはゆる後の祭では無く、落雷前からの用意だから立てる場所は任意なのだが、果して一樣にどの田にも立てるものかどうか。實地に就いて聽けばすぐわかるであらうが、恐らくは是も毎年の仕來りがあつて、立てなければならぬ場所が定まつて居ることゝ私は思つて居る。

　

(424)　　　　　　　一一

　

　田の神又はサンバイサンの祭の日に、色々の樹の枝を折つて田のほとりに刺すことゝ、この苗代の竹とはどういふ關係に在るか。是が亦一つの問題になると思ふ。或はこの祭をする田の中に塚を設け、それ／”＼異なつた木を栽ゑて置いて目標としたのも同じ系統に屬する風習であつたかもしれない。いはゆる病田の心理的起源を尋ねるにはどうしても此點を明らかにする必要があると思ふ。雷の害を避けると稱する苗代の竹は、關東では普通に苗尺と謂ひ、それから北隣の福島縣では苗見竹、竹とはいふけれども木の枝も?々用ゐて居る。ナヘミダケは疑ひなく苗忌竹のことであつて、その忌竹は古くから、祭場の所在を示す標の竹であつた。シャクといふ語もそれと同じ意味らしいのだが、いつと無く其感じが幽かになり、たゞ文字に依つて苗の成長を測る爲だの、之を見當に籾種を撒く爲だのといふ解釋に、隨ふ人ばかり多くなつたものと思ふ。

　關東北部の苗尺を立てる地方では、雷は山村では雹の害の伴なひやすいので、この竹はそれを豫防するまじなひであるといひ、又或は一種の避雷柱などゝいふ人もあるさうで、此方がなほ一段と信じにくい説のやうに聽えるが、是は他の地方の遠い類例を比べると、理由とは言へないまでも、由つて來る所はまだ考へて行かれる。雷火を高い處にいます神靈の音なひの如く信じたといふことも其一つであるが、或は又奧州の外南部地方で、苗じるしを立てゝ置かぬと曾我の五郎といふ大男が、苗代の中をこぎあるいて田を荒すから、それを防ぐ爲だといふなど、たゞ笑つてばかりは聽いて居られない。奧州のはてに曾我の五郎は荒唐無稽だが、五郎は多くの場合に御靈の誤りだから、或は是も亦先祖の靈が、家の田の生産期毎に、降つて守護せんとしたといふ信仰の名殘かもしれない。つまりは雙方ともに、祭に對して何等の設備の無い者を制裁する、隱れた力の存在を認めたまでは病田と似て居る。

　奧州の苗じるしは又萱じるしとも謂つて、是を苗代のまん中に立てゝ置くことは、關東北部の苗尺と、まづ同じも(425)のとして差支へ無いのだが、是には一方に見られない特徴が二つある。その一つは稻荷神についての言ひ傳へで、主として稻の種の傳來に因むものであつた。昔弘法大師が、又は或すぐれた人が、唐の國から稻の種をそつと持つて來ようとしたときに、後々神に祀つてやるといふ約束をして狐にその種籾を何處かに隱させて、目じるしに何か植物の枝を立てさせた。遠野などでは稻荷さまが自ら、天竺から稻種を取つて來て、それを茅原の中にそつと播いて置いた。其場所を忘れぬ爲にしるしを立てたのが、今の苗じるしの元であるとも謂つて居る。是をさながらに信ずる者は昔とても少なかつたらうが、ともかくも東北の狐神は特別に稻と關係が深く、しかも伏見の大社からの指導は受けずに、自由な交通の開かれる以前から、すでに邊土の隅々にまで分布して居た。京と田舍と本末二つの稻荷信仰の間に、果してどの程度の共通が前からあつたか。それを考へる爲にもこの口碑は無視することが出來ない。

　

　　　　　　　　　　一二

　

　東北の苗じるしの今一つの特徴は、之を苗代に立てる樣式に家々のちがひのあること、此點が私には殊に重要に考へられる。苗代や苗忌竹にも、二本の場合は珍しくないが、八戸市附近のものは三本四本、稀には七本まで立てるものさへあつて、寧ろたゞ一本といふのは少ないといふことである。小井川潤次郎氏の圖示したものに依ると、之を水面から普通は一尺五寸ほどの高さに、長いのは三尺以上も水から出たのもあり、又五寸足らずの短いのもある。それを竪に又は斜めに色々と組合はせる故に、立て方には數十種の變化があり、村うち隣どうし皆異なることは家じるしも同樣である。植物のこの用途に供せられるのも、奧州の方が種類に富み、且つ家々の嘉例があつたらしい。最も多いのは地竹の細いもの、又は蘆とか萱とかの莖を折つて刺すものだが、なほ是とは全く趣きを異にした柳やウツギの枝などを使ふ家もある。さういふ枝が田の中で緑の芽を吹き、水に映じて居るのを見ることも稀でないといふから、是を立てるのは苗代ごしらへの初期、籾を播くよりも前からであつて、稻妻の青田に通ふのをみて後に、立てに行く(426)べきものゝやうにいふ紀州などの例とは、此點も亦かはつて居るのである。

　田の神の祭の日が以前は早く、後次第に其中心を遲くしたらしいことが考へられる。四國、中國のサンバイ樣などは、愈々早苗の移植が始まるに際して、是を田に降し申すことになつて居るが、稻の耕作に在つては、むしろ其以前の一月二月が、農民の不安焦慮が大きく、從つて隱れたる力の擁護を、期待する必要が切であつた。其爲かと思はれるのは、同じ日本のうちでも北の方へ寄る程づゝ、苗代じめと稱する種卸しの日の祭が重くなつて居る。苗を丈夫に養ひ育てるといふことが、春の待遠な土地では殊に苦勞の種でもあつたのである。二毛作の農法が普及するに至つて、それの許されるやうな村方だけは、この季節の作業が無やみに忙しく又複雜にもなつた爲に、勢ひ苗代祭は簡略にし、たゞ植付の日の儀式に力を入れることになり、それの出來ない地方ばかりに、昔ながらの種おろしの祭が、殘り傳はることになつたものと思はれる。

　寒い國々の水田耕作の實?に依つて、始めて我々は年を區切りとした、農事發足の日の感動を味はふことが出來る。仙臺以北の農神下りは、大體に舊の三月十六日、會津から下越後にかけては、それより一月早い二月の十六日、又は九日十日などゝなつて居る。其頃はまだ山々に雪が白く、里はむら／＼と黒い土が顔を出したばかりなのに、もう急いで春田打の支度に取りかゝり、まづ古年の苅株を打起して、田の土に新たなる日の光を當て、溝川の水を導いて、十分に之を温めて置かうとしたのである。苗代のこしらへも日を算へて、やはり其間にすませてしまはなければならなかつた。是は年々の場所もきまつて居る故に、恐らくは植付と苗の育ちとを考へて、日取りを加減することも出來たらうが、さて愈々その用意が整うたとなると、爰で最初の田の中の祭を、營まずには居られなかつたことゝ思ふ。といふわけは田の神といふ貴い賓客はすぐ到着なされて、たゞ御座敷の出來るのを待つて居られるのだからである。

　

(427)　　　　　　　　　　一三

　

　雪氷に覆はれない南の方の農村とても、以前裏作の利用のまだ普及しなかつた時代には、田打はやはり春の作業に屬し、その開始に伴なうて、こゝでも第一次の田の祭が行はれて居たかと思はれる。其痕跡は正月四日の初山入、殊に十一日の大鍬初めの日は、今でも現實に之を田の神祭と呼ぶ地方さへあつて、全國を通じて必ず家の田に出でゝ祭をすることになつて居る。太陽暦が採用せられてから、この日は又一月以上も早くなり、愈々田植との間が遠く、何か別種の式のやうな感じを人に與へるが、かの東北地方の、三月又は二月の望の日の農神降りを考へ合せると、是はたゞ公けの暦法への歩み寄りであつたと見られる。つまりは田の神の祭場の定まるのを、年の始めとする感覺は固有のもので、苗じるし苗尺苗忌竹は、たま／＼その古い民間暦の痕跡を留めて居るのであつて、世の年の境がもとは四月であつた所から、この月をウヅキといふ名稱も傳はつたのではないかと思ふ。

　種を苗代に平らに播くといふことは、可なり練習を要する作業であつたらしい。苗じるしの目的は、それを見當に籾を撒き散らす爲だと、思つて居る人が有るのは少し理に合はぬが、ともかくもやたらに苗代に入つて行くことが許されなかつただけは是でわかる。苗田を幾つもの短册形に區劃して、其中間に通路を設け、薄蒔きにも蟲取りにも便利にしたのは、明治も中頃の勸業時代からのことであつた。今でも女たちには苗代に入ることを遠慮させ、鷺や鴨などの無心なものまでも、正月のうちから警戒して驅除しようとして居る。種を齋種《ゆだね》と謂つた、苗代に注連を張り廻らすことは、昔の和歌にも詠まれ、我々も其趣旨を理解する。さういふ大事な田のまん中に立てる竹や木の枝が、單なる目じるしの類でなかつたことは先づ確かであらう。

　ところが日本の西半分には、少なくとも外形の是に近いものは見られず、多くの田の神祭はたゞ水口に土を盛り、もしくは田の畦に石又は石像を迎へて、それに酒食を供へるのみか、色々の木の枝や幣束を立てゝ居るので、それが(428)古來のいはゆる稻米儀禮なるが如く、推定する人が少しあり、從つて東北地方の苗じるし等が、奇異なる習俗と見られがちなのであるが、是は一言でいふならば、田の神の祭り初めが遲くなり、すでに祭場が劃定せられて、足を踏入れられなくなつた後に行はれる祭だからさう變化したまでゝ、言はゞ一種の遙拜式とも見られる。本來の降臨地は田の中央であつたことは、是から氣を付けたらまだ幾らでも、積み重ねて行かれる證據があると思ふ。

　たとへば壹岐島民俗誌が記述したミト田の中のミト樣の塚、その塚の上の色々の樹木もその一つで、是は附近の島々にも、そんな例なら珍しくない、これが普通なのかと思つて居たと、いふやうな人が出て來るかもしれない。次には今一つの類例、私は信州各地の話を知つて居るだけだが、飛騨とか東美濃とかにも絶無だらうとは思つて居ない。それは畦や水口に色々の木を刺す以外に、別に苗代のまん中に一尺あまりの枝を立てゝ置くのが見られる。數は家によつてちがふらしく、又三箇所に立てるものもある。是を田の神樣の腰掛とも、田ナンボウとも呼ぶらしいが、自分が聽いて居るのは何れも楊の枝で、苗を取る頃には大抵は芽を吹いて居り、又それが芽を出さぬのを不吉の兆のやうに、川中島地方などはいふさうである。しかも苗代片付けの時には拔棄てゝしまふといふのは、夙く跡地を利用するまでの農事改良があつたからであらう。

　

　　　　　　　　　　一四

　

　木を立てゝ神を御迎へ申すといふ昔ながらの法則は、田の神祭の場合も例外でなかつた。たゞ社會經濟との打合の爲に、是に色々の制限と改定があつたばかりである。大抵の土地では苗代じめの日、又は大田植の日に神を畦のへり又は水口で祭り、そこにも一定の樹の枝を插す故に、もうそれで十分と思つたものか、親田の中心に神の依代の木を立てることが、いつとなく絶えて居るけれども、捜せば其形跡はまだ色々と殘つて居る。たとへば島根、廣島二縣のやゝ奧まつた村で、いはゆる大田植の本式の田植の日に、あまたの早乙女を指導して、田植唄の音頭を取るサゲとい(429)ふ男が、手に持つ長い杖をサゲ杖といひ、又サンバイ竹とも稱して、是を田の中に立てゝ田の神のたゝへごとをする行事がある。臼田甚五郎君が詳しく我々の雜誌に報告して居るが、其サゲといふ語の起りはまだ明らかになつて居ない。私の今の假定説では、サゲはサンバイ竹と同樣に恐らくは其杖の名、即ちサの木の意であつて、音頭の親爺の名は元はサギ持ち、もしくはサギの役と謂つたのかと思ふ。その傍證も、恐らくはやがては得られるであらう。

　それから今一つ、大和は一體に農家の田の神祭のさう花々しくない地方だが、當麻地方にはやゝかはつた一つの言ひ傳へのあつたことが、古い「土俗と傳説」の報告に出て居る。この邊では苗代には前日から苗を振つて置くことを嫌ふ。もしもそれをすると其田に御幣が下る、即ち神樣のものになつてしまふ。特選神名肢にも出て居る磐城村の長尾神社なども、苗を振つて置いた爲に御幣が下り、それを御祀り申したのがこの御社の始めであつたと處の人たちは言つて居る。振るといふのは苗束をよく揃へて、一把づゝ植田の中にまくばつて置くことにちがひないが、多くの農村では前日の苗取りは普通であり、それを豫め適當に分配するのも、好い手まはしの一つであつたのに、爰でばかり忌まれるといふのはわけがあらう。長尾神社の御田植が現在はどうあるかは私はまだ知らない。たゞこの地方には定まつた神の田の作法があつて、それは中央に御幣を插し立て、苗を其めぐりに前の日から振つて置く習はしだつた故に、尋常民間の田植には、避けてさういふ事をしなかつたかといふことが、之に由つて想像せられるのである。

　終りになほ一つ、是は稻荷の田中社の成立ちを考へてみる際に、援用しなければならぬ資料であるが、備後の御調郡、尾道市から數里の處に、江木村の稻荷神社といふ舊社があつて、附近の八箇村共同して年々の祭を奉祀し、杭《くひ》の稻荷の名を以て世に知られて居る。大體にこの區域が昔の杭庄であり、その杭庄は夙く伏見本社の社領であつたことは、勘仲記正應六年の條にも、明らかな記録があるといふ。ところが同じ庄内の下津といふ村には、杭田といふ田があつて、そこを杭稻荷の舊地と傳へて居るが、今でも其田には古い杭が其まゝあり、それが神社の名にも又莊園の名にもなつたのだと、藝藩通志に載せてあるのは、多分土地の人の記憶に依つたものであらう。行つて見ないと如何な(430)る杭であるかは判らぬが、ともかくも相應に大きな、又深く土中に打込まれたものであつたらしい。農作そのものゝ爲には壹岐のミト樣塚も同樣に、寧ろ妨げにもなつたものと思はれるから、目的が信仰に在つたことは是だけでも察し得られる。今でも諸處の神社の御田植祭に例がある如く、少なくとも曾てはこゝを祭場として、稻荷の祭典を執行なうたことがあるのである。さうなつて來ると更に又一つの問題、即ち家々の田の神と稻荷さまとは、どういふ關係に在つたかといふことが考へられるので、是には前に述べた奧州各地の苗じるしの由來談に、稻荷の引合ひに出される點が參考になると思ふ。

　

(431)　　　家の神の問題

　

　十月神々が出雲國に赴きたまふといふ言傳へが、どうして此樣に弘く流布して居るか。單に何かのまちがひであらうといふ迄ならば、書いたものからでも證明し得るかも知れぬ。現に今日の神祇道の教育を受けた者は、もう一般に之を否認して居るのである。しかし問題はこの程度に止めて置くわけには行かない。たとへ丸々根據の無いことにもせよ、是だけ弘く知られて居るのには力があり、又さう信じてもよい樣な?況が、曾てはあつたといふことは想像してよい。その力なり?況なりが、今はまだ全く説明せられて居らぬとすると、少なくとも是は未得の知識であり、又或は埋もれ果てたる過去文化の歴史かも知れない。人が段々にそんなことは言はなくなるのだから、もういゝぢや無いかといふことは我々には出來ない。この點が實際家と學問をする者との岐れ途であるかと思ふ。

　そこで私は問題を一歩進めて、是が舊暦九月の祭を終つてから、神を御送り申した儀式が、神の一年中一處に鎭座ましますといふ信仰の有力になつた後まで、なほ久しく傳はつて居た結果、やがて程無く御還りになる御不在のやうに、解釋する者があつたからでは無いかと考へて見たのである。神の御降り御昇りといふ信仰は、近世に入つて非常に稀薄となり、人は隨時に神のます所に參り向ひ、祈願し報賽することが出來ると思ふやうになつたことには、なほざりならぬ色々の原因が有つた。それにも拘らず少なくとも一月の期間、神は我々の間から御遠ざかりなされるものとして居たのは、何か折合ひを必要とする反對の考へ方が、前にはあつたものと見なければならぬからである。

　しかし斯ういふ解釋はどこまでも假のもので、勿論固執する必要は些しも無い。未來に今一段と剴切な説明が現は(432)れるまで、先づこの一つのものを問題として、幸ひに是が當つて居るか否かを、檢査して行けばよいのである。最初に疑はれるのは、九月晦日の御立ちはそれでよいとして、何故に一箇月を以て神御不在の期間としたかであらうが、是は滿月の初頭に又一つの祭があつた爲とも見られ、さうで無くとも月を暦の標準として居た時代には、是が最も自然なる一まはりの單位であつたからとも考へられる。しかしこの問題を詳しく説くには、私にはまだ用意が足らず、又思ひ當るやうな資料も集まつて居ない。是も今暫く問題として掲げて置くの他は無い。

　諸國に行はれて居る出雲の神集ひの言傳へは、要點に於ては皆一致して居るが、細部には數限りも無い異同がある。それを注意深く比べ合せて見るならば、又色々の小さな問題が生まれて來るであらうが、こゝには其中のたつた一つ、留守神のことを取上げて、是に關係した各地の事實をなほ多く集めて見たい。尾張の日間賀島で謂つて居ることは、九月の晦日には神さまが出雲に行かれるので、山の神がその留守番に來て居られて、十一月七日には還つて行かれる。それで此日は大風が吹き、この日山へ行くと怪我をするともいひ、この日を山の講の日と稱して、靜かに家に居て早く寢るといふ。十一月七日は尾參一帶に山の神を祭る日だが、山の神が其日まで里に留まつて留守番をなされるといふ話は、まだ他村では聽いて居らぬ。或は御立ちの日が一月以上もおくれるので、さういふ風に考へ始めたのではあるまいか。九州の海岸部では神渡しと謂つて、九月十月の境の神々出發の日にも、必ず大風が吹くと傳へて居る。敬虔なる人々は之を一つの信ずべき兆候としたのである。

　是とやゝ似た傳承は磐城の相馬地方にもあつた。こゝでは歳�ｺ神が留守番をせられるといふのだが、その期間は十二月の八日から翌年の二月八日までゝ、さうで無くとも氏神の、ちやんと來て居られる時季である。今一つ他の地方の言傳へとちがふのは、こゝでは十二月八日に家の神が出雲へ位もらひに行かれて、二月八日には還つて歳�ｺ神と交替なされるやうにいふことである（民間傳承六ノ四）。もう少し詳しく尋ねて見たいことは、神々が九月の晦日又は十月の朔日に立つて、出雲に行かれるといふ話がこの地方にも有るのか、又はたゞ家の神だけが二月以上もおくれて、(433)單獨にこの旅行をなされるのかといふことである。もしも前の方ならば日間賀島の山の神も同じやうに、むしろ家の神が第一期の留守神だつたといふことになるのである。

　實際又是から擧げようと思ふ二三の地方では、いはゆる神無月の留守神は家の神であつたらしい。留守といふことはちやうど里の神々の不在中に、家の神だけの祭が行はれて居たことを意味するのかと思ふ。もつと澤山の類例を見つけてもらふ目的の下に、今知つて居るだけを竝べて置くならば、房州半島の海沿ひの村々に、行はれて居るものが殊に顯著である。故山中共古翁はもう五十年近くも前に、あの方面に旅行して直接に聽いて來られ、たび／＼人にも話し、又たしか土俗談語にも書いて置かれた。この地方では、十月出雲へは行かれぬ神が三座あつて、何れも家の中に祭る神々であつた。乃ちこの月の五日には團子をこしらつてオカミサマを祭り、同七日にはお荒神樣に甘酒を供へて祭り、同十日には又えびす樣に魚類を上げて祭ると謂つて居た。オカミサマは又オーカミ樣といふ者もあり、竈の神だと云ひ荒神と同じだといふにも拘らず、別に日をかへておくわうじんの祭がある。兩者の間柄は甚だはつきりとしない。しかし山中翁の採集では、このオカミサマは女の神で、又奢りをきらふしをらしい神樣でもあつた。神々が出雲から還つて御座つて、どうだオカミ、おれたちの居らぬ間に、何かうまいものをこしらへて食べたかと尋ねられる。オカミ神は之に對して、みよせ團子をたゞ三粒と、答へられるさうななどゝ房州人は謂つて居るといふ。

　みよせ團子のことは、農村語彙の中にもちよつと書いて置いたが、秋の稻扱場を掃き集めた落ちこぼれで、それを粉に挽いて式の食物として食べる。東北から日本海岸づたひに山陰方面まで、弘く土穗團子だのツヂヨウダンゴだのと謂つて居るものと同じである。苅入直後の食料の最も豐富な際に、之を先づこしらへてめい／＼が食べるのみか、家の神にも供へることになつて居るのだから、何か深い謂はれの有つたものと見なければならぬ。さうして房州のオカミ樣は、特にこの團子を供へる神として著名なのであつた。

　はつきりとまだ理由は判らぬが、何か家の神だけには特殊の信仰があつて、それが祭の期日や供物の上に現はれて(434)居たやうな氣がする。それをもう少し氣をつけて居たいと思ふ。靜岡縣の引佐郡あたりでも、十月神々の出雲行きの時、留守神となつてえびす樣が御殘りなされる。それで神送りの日の供へ物は、旅立ちたまふ神々にはお苞、神棚とえびす樣とには只毛芋だけを供へたと謂つて居る（民間傳承四ノ八）。えびすは福の神だが中部地方一帶では郷社は無く、必ず家の中で祭ることになつて居るから、恐らくは中世以後の家の神の改稱であらう。信州などではえびす樣は十月二十日から稼ぎに出て、五月二十日には儲けを持つて還つてござるなどゝいふものがあり、それでその二つの期日に祭をすることは、磐城相馬の家の神とも少し似て居るが、斯ういふ例はどの範圍にまで普及して居るものであらうか。いはゆる百姓夷講の本來の意義は、單に福神信仰の發達だけでは説明が出來ない。無論一方にこの神の御礼などを配りあるく者が居なかつたら、斯ういふ神の名は新たに起るまいが、その根本には何か之を融合し得るものが、其前から有つたやうに考へられる。それで是からは氏神の祭の式、又は言ひ傳へを集めて見なければならぬ、と思つて居る。

　何れ始めのうちはわからぬ事ばかり多いが、問題さへはつきりと持つて居れば、永い間には心當りの有る事實も現はれて來よう。遠州引佐郡の留守神はえびす樣と家の神棚の神、安房ではえびすの他に、更にお荒神とオカミ樣とを數へるのだが、この後の二神は段々に一つになつて行く傾きが見える。瀬川氏の採集手帖に依ると、上總龜山村では出雲に行かない留守神は竈の神だと謂ひ、安房の宮崎でも御留守居團子をこしらへて、オカミ樣に供へる風はまだ傳はつて居るのだが、そのオカミ樣は竈神のことだと謂つて居る。少し離れて上州新田郡などでも、新暦十一月の三度の六の日に、おかま樣のルスインキョと稱して、各家荒神樣へ牡丹餅をこしらへて供へる（民俗學二ノ一一）。ルスインキョは隱居では無く、留守行即ち主人不在中の食事のことであらうが、爰でもやはり荒神樣に供へると謂つて居るから、もう竈の神と思つて居るのである。竈は毎日で無くとも祭る日が多いから、たとへ一箇月でも丸きり御不在では困る。それで氏神が出雲には行かれないことになつて居るのはよくわかるが、なほこの以外にも幾つかの留守神が(435)曾てはあつたといふことを、否認する論據にはならぬのである。

　房州のオカミサマはその一つの例であり、その竈神と混同して來た經路も、何と無く私にはわかるやうな氣がするが、たゞ想像を馳せて見ても、證據が出て來なければ無駄なことである。もう少し忍耐して各地の實例を待ち合せた方がよいと思ふ。本年の五月、西郊民俗談話會の諸君が、栃木縣赤津村で聽いて來られたオカマ樣の話などは、事によるとあの地方一帶の事實で、詳しく尋ねて行つたら房州のオカミ樣の成立ちを説明するものかも知れない。赤津の青木家などでは、竈の神以外に、別に臺所の屋根裏にオカマ樣といふ神を祀つて居る。此神の注連繩だけは毎正月に取替へること無く、上へ／＼と張つて行くので舊家ではそれがうづ高くなつて居るといふ（民間傳承九ノ二ノ五六頁）。信州小縣郡の農家にも、正月の杓子注連を取りのけずに、年中殘して置く神があつて、それを留守神樣と謂つて居る（ひだびと六ノ二）。同じく北安曇郡でも家のえびす樣の前には、藁で作つた苞つこといふものを、正月毎に卷き重ねて行つて、節分の二つある年で無いと取替へぬといふ風習がある（歳時習俗語彙）。是が年中家に祭られて、出雲などへは行かれない神のしるしではなかつたらうか。もしさうだつたら下都賀郡などにも、同じ留守番神の言傳へが殘つて居る筈である。何とかしてその有無を確かめて見たいと思ふ。

　

(436)　　　濱弓考

　

　全國各處に弘く分布する濱井場《はまゐば》と云ふ地名の由來に就いては、自分も久しく注意をして居つたことである。ハマと云ふ語がもと何を意味したかは未だ分明で無いが、それが今將に絶滅せんとする正月の破魔弓《はまゆみ》と關係のあることだけは先づ疑ひが無い。此度は些しく其問題を攷究して見たいと思ふ。

　我々の知る限りでは、破魔弓破魔矢は今は或地方で、男の兒の生まれた家へ正月の贈物にする吉例の品である。松竹梅鶴龜七寶の類を彩色した柱隱し樣の板に取附け、小兒の遊び道具としても實用にならぬこと、恰も同じ際に女の兒を儲けた家へ贈る装飾用の羽子板と一樣である。さて何故に之をハマ弓と稱し、且つ破魔の字を充つるに至つたかに就いては、必ずしも簡單ならざる事由が存するやうである。先づ第一に説明せねばならぬのは、射術と正月との關係である。武家で弓矢を重んずるのは當然の事とも言ひ得るが、世の常の農村漁村に在つても、春の初めばかりは特に此物を必要としたもの多く、而も其使用は主として神社の信仰に關聯して居つた。紀州｜御所《ごせ》村八幡宮の日出の的の式は、前に高瀬君が報告せられたが（郷土研究三卷一七四頁）、其は正月十六日の行事であつた。似たる例は限りも無く多いが、茲には手帖にある二三のものを擧げて見る。諸國年中行事には正月十三日住吉の御弓とある。又正月十六日大阪天王寺射場の弓始めとある。庚申堂の西なる松井馬場に於て、朝の卯刻より之を行うた。京都では同十六日上賀茂の射禮神事、翌十七日は貴布禰社の馬場でも同じ式がある（日次記事）。尾張では正月十五日に熱田神宮の的射神事（名古屋市史風俗編）、同十六日には津島牛頭天王社の祭で其式があり、之を奉射と名づけて居た（張州府志廿二）。此等(437)は何れも名ある大社のこと故、其式比の如く高尚であつたとも言はれるが、國々を?《もと》めたら片田舍の村社にも同種の故實を傳へて居るものが多いことゝ思ふ。甲州には古府の八幡宮に正月十五日、中郡の住吉大明神には同二十日、共に弓射の神事が執行なはれた（甲陽茗話）。近江では東淺井郡速水村大字小今の八相大明神社に、昔は正月の十一日弓の神事行なはれてあつて其的場今に殘り、犬上郡東甲良村大字池寺の産土神谷宮權現にも、正月十六日に同じ式が永く傳はつて居た（淡海木間攫）。猶遙かに隔絶した出羽の莊内地方に於ても、西田川郡福榮村の各大字、小國・關川・越澤・温海川《あつみがは》・木野俣等に、大同小異の一種の賭弓の式があつた。小國では式の日は正月十七日で之を大的祝儀と稱へた。弓術の家元と認めらるゝ百姓藤佐衛門の家に、他見を許さぬ一軸の傳書があつて、又八幡宮を祭つて居た。村民此爲に古より射法を習練し、此日は集會して其技を競ふのを一の神事として居たと云ふ（三郡雜記下）。

　上賀茂正月十六日の射禮に於ては、之に用ゐた的は式畢つて後礫を以て之を打破る慣例であつた。名づけて非射の的と謂ふと日次記事に見えて居る。備後御調郡山中村字｜加羅加波谷《からかはだに》に在る加羅加波神社でも、正月弓矢の式あつて之を飛射神事と呼び、村内に修理免《しゆりめん》油免《あぶらめん》飛射免などの地名があつた（藝藩通志九十八）。自分の推定では、非射飛射は共にビシャと訓むので、前に擧げた尾張津島社の奉射と共に、歩射と云ふ語の轉訛かと思ふ。熱田神宮正月十五日の弓射神事の如きも、古くは之を歩射的會と呼んで居た（市史社寺編引、尾陽歳事記）。同じ城下の那古野神社でも、日は違ふが今は四月の三日に、やはり歩射神事《かちゆみしんじ》と稱ふる式が行はれる（市史風俗編）。歩射は即ち騎射に對する名目であつて、武家に謂ふ所の流鏑馬、さては朝廷五月五日の御式などゝ異なり、射手が歩立ちで技を試みるを以て斯くは謂ふのであらう。朝家古來の弓矢の式でも、五月五日は騎射で弓勢と同時に馬の脚をも競べられたが、正月十七日を以て定日とした射禮の儀、及び其翌十八日に行はれた賭弓の如き、共に近世の田舍の神事と同樣に歩射であつた。此等の恆例行事の中には當初の趣旨の不明に歸した者は極めて多い。成程文武一途の王政時代から連綿したものではあるが、主上の親臨を仰いで王卿百官之に與ると云ふ程の重々しさを考へても、單に射藝奨勵の目的のみでは無かつたことが想(438)像せらるゝ上に、其日は一般國民の生活にも最も重要と認められて居た上元の季節を用ゐられたのは、殊に偶然では無かつたやうに思ふ。古代の皇室が具體的に全國農民の總御本家のやうな地位に立つて居られたことは、神嘗新嘗の大典と村々の秋祭の式とを比べて見ただけでも窺ひ知ることが出來る。左右に番《つがひ》を定めて弓矢の勝負を試みられた公けの式が、蒼生の休戚と穀作の豐歉とを氣づかはれし年占の一種で有つたか否かは、現代に傳はり存する田舍の神事の中に、其意味が含まれて居るか否かに由つて、大概は判斷することが出來る筈だと考へる。武家故實の學者が頻にもて囃す流鏑馬の儀式などは、議論の多かつた割にはまだ一向其性質と由來とが明らかになつて居らぬが、恐らくは是も亦其行はるゝ機會又は場處等を仔細に比較攷究して見たならば、結局同じ趣旨に起因した一變形であることが了解せられるに至るであらう。

　熱田の歩射神事は色々の點に於て賀茂の競馬と似て居るやうに思ふ。此競技は諏訪繪詞流鏑馬の條に三的《みつまと》の秘事ともある如く、的は三つであつたと見えて手合せが三番であつた。一番には神官の馬場氏と大喜氏、此兩人は毎年此役を勤める。二番は祝部《はふり》兩人、此は毎年順番である。三番には中臈二人、此は一代に唯一度の晴れの勝負であつた。何れも一手づゝ射るので、神官田島氏海藏門に坐して的の中りを注し、其作法總て古風であつた。中臈は若し射損ずる時は社輩《しやはい》を除かれる掟もあつたと云ふ（尾陽歳事記）。菅菊太郎君が前に報ぜられた伊豫大三島の弓祈?（郷土研究三卷二三五頁）に至つては、年占の趣旨は一段と明瞭である。弓祈?は即ち氏神社頭の歩射神事であつて、通例は正月十一日、村に由つては八日又は九日に行なふ處もある。射手の數は十二人、上條と下條と各々六人を選出し、其成績は直ちに射手所屬の部落々々の一年の吉凶を決するものである故に、家元に就いて日頃の稽古を勵む外、尚嚴重なる二十日ばかりの潔齋をすると云ふ。四國では他にも弓祈?と云ふ名稱を用ゐる地方があるやうに聞いたが、伊豫に接する讃州の三豐郡などは、單に之を百手と呼び或は又｜御門弓《おかどゆみ》とも稱へて居た。同郡高室村大字室本の如きは式日が正月七日で、白張を著たる射手氏神の社に集り二方に立分れ、七矢半とて左右互に一矢づゝ、合せて十五の矢を放つて的(439)を射たとある。同郡莊内村大字大濱浦、船越社の百手神事は二月朔日を以て式日としたが、其用意は前月の十一日に始まり、同二十二日には射場を定め卷藁を作るので、其卷藁の中には五穀を收めたと云へば（以上西讃府志三）、即ち亦何の爲に的に中ると中らぬとを試したかゞ推測せられる。其他の村々も大同小異であると云ふが、更に其小異を討査して見たいものである。關東では上總長生郡一松村の新年の祭に、現今も年占の弓射神事が行なはれて居る。弓も矢も至つて粗末な假の物であるが、的には十二の月の數を配して一年の天候を卜する方法である由（木村修三君談）。同じく東海岸の千町村大字松丸字向臺に於ても、八幡神社九月十五日の祭禮に流鏑馬あり、射的の中否を以て明年の豐凶を占ふを例とした（上總國誌稿）。尚調べて見たら此地方にも弘く行はれて居る占法であつたのかも知れぬ。

　弓矢を以てする年占の中にも、やはり前にも説述した對立と單獨との二種類があるやうである（郷土研究四卷二六九頁參照）。其第一種の中に算ふべきハマ弓の事に説き進む前、順序として一言を費したいのは的の問題である。紀州御所村の所謂日出的では、牛の頭の皮で作つた的を、近在の穢多某に毎年納めさせて用ゐるとあるのは（同上三卷一七五頁）、些しく意外の話であるが注意せねばならぬ。前に擧げた江州小今村の弓の神事は、既に年久しく中絶して居るが、今も其名殘として正月十一日には村民寄集り、餅を搗いて馬頭の形にこしらへ、之を肩に掛けてあるくと云ふ（淡海木間攫十）。同池寺村正月十六日の弓神事の的は、其枝郷の籠屋（多分特種民）に作らせた六日籠へ紙を張つてこしらへる。式終つて後は之を谷川に流す習ひであつた（同上三）。讃州大濱浦で五穀を包み入れたと云ふ卷藁なども、七日目の二十八日には之を海へ流し、一方には此日祭の頭人竿の尖に味噌漉を掛け、羽織袴で頭名の家々を廻つて歩いたと云ふことである（西讃府志三）。神官氏子の多くが最初の趣旨を忘れて了つて、單に武藝を奉納するやうな考になつた處では、的の詮議などは深く顧みることもあるまいが、それでも無意識の裡に何か古い思想の痕跡見たやうなものが右の如く遺つて居る。而して祭典終つて送つて棄てる目籠と云ひ牛馬の首と云ふものが、果して何を意味して居るかは、猶追々に陳列する材料と比べて見ての後で無ければ、自分は臆斷を下すのに躊躇せざるを得ぬのである。京都(440)では北山鹿苑寺南の天神社の弓射神事の的は、菅公の携ふる所と稱する古い品を年々出して用ゐて居た。貴布禰神社で用ゐた三尺の的も亦古物で、式終る毎に之を末社の牛市社に藏したと云ふ。此的には裏面に鬼と云ふ字が書いてあつた。多分は疫鬼を驅るの微意ならんとの説がある（以上日次記事）。備後加羅加波大王社の飛射神事の的にも、同じく鬼の字を上に描いて、之を梅の木で作つた弓を以て射たのである（藝藩通志九十八）。此慣例の中には或は中世陰陽道の思想が浸潤して居るかも知れぬ。例へば是も前に出した甲州中郡の住吉明神でも、梅の木の弓紙の矢を用ゐて大小二つの的を射たと云ひ（甲陽茗話）、熱田の歩射では三番の的射に先だつて、社役の極老、天地人の三災を攘ふとて、桑の木の弓を以て紙の矢をつがひ上中下を射たとある（尾陽歳事記）。此等は例の神荼鬱壘の信仰を以て、邪神撃退の一方術と説明することも出來るが、それにしても目に見ゆる的形をば如何にして鬼に准《なぞら》へるに至つたかは尚一段の説明を要とする。必ずしも適切なる參考とは言はれぬが、寶永元年に成つた揚弓秘傳啓蒙抄と云ふ書に、揚弓の的の由來を説いて左の如く述べて居る。曰く「的は蚩尤《しいう》が瞳を表し、墨にて輪を描くこと古來一二三の輪あり、揚弓には略して二の黒ばかりを描く。蚩尤が靈、疫神となつて人を惱ます。此故に四骸を象つて或は鞠《きく》とし或は玉とす。中にも、其眼を取つて的とし、之を射て其神を恐れしめしかば、疫神忽ちに去つて愁を遁れける云々」。又「弦は琵琶の三四の緒を用ゐること故實なり云々」ともある。即ち何れの遊戯にも附いて廻る我道の�ｺを喋々するものに他ならぬが、揚弓も實は近世の流行であつて、其起原を爲すものは童兒其他專門の武人で無い人々の手に馴された小弓であつたことを考へると、右の如き奇怪なる揚弓家の口傳も、自ら由つて來る所があつたのかも知れぬ。翻つて賀茂と熱田との的射神事に於て、式終つて後直ちに其的を打破り、殊に後者に在つては當日參詣の群衆之を爭奪し、引きちぎつて〔四字傍点〕持歸り家の守護とするの風習があつたこと、恰も羽黒山十二月晦日の火祭に、大松明の筋骨とした大綱を恙《つゝが》と名づけ、人々其小片を爭ひ取つて家の守にせんとする（郷土研究三卷一〇頁）とよく似て居り、更に進んでは正月左義長の燃えさしを携へ還り、或は祝ひの粥を煮、或は身を暖め、或は火伏盗人除け等の目的で家の四周に立てる風が各地に存する(441)ことを考へて見ると、兇神を屠つて其屍を分割したと云ふ所謂蚩尤傳説の如きも、必ずしも年占の弓矢と丸々附きの無い事では無いやうである。

　弓矢の神事の主として正月に行なはれた趣意が年占に在つたことは、此で略々説き終つた積りである。第二に所謂破魔弓の贈り物が何故に男の兒の祝ひに用ゐられたかと云ふ問題は、本篇の主眼たるハマの遊戯の事を詳かにすれば自然に答へられる。前の年占論の中にも言うた如く（郷土研究四卷二六一頁）、昔は嚴肅な意義を有して居た信仰上の儀式が、世の進むと共に少年輩の獨占に歸して大人は自ら手を下さず、終には興味を詮とする童戯とまで零落して行つた例は數多いことであるが、何故に先づ小童が之を主管するに至つたかに就いては、興味ある理由が尚潜んで居るかと思ふ。其一つは所謂若連中の制度、即ち子供が一人前の男女となる際には、一度は重々しい宗教上の儀式を經由せねばならなかつたことが、自から祭禮と少年との縁故を深くしたことである。我邦では上下を通じて男の元服は丸十四歳が通例であつたやうに思ふ。其二には祭の折に神の意向を問ひ知るには、私心邪氣の無い童子が最も適當だと考へられたことである。此事は人間の了簡が如何やうにも働き得る託宣の場合は勿論、的射の如く技藝に屬する行爲を以て吉凶を判定する場合にも、夙くから之を感ぜざるを得なかつた。前掲諸國の歩射神事の中でも、賀茂貴布禰熱田及び甲州に於ては之に携はる者は神官社人の徒であつた。備後のものは最初は祠官、次に里人が弓を射た。京の北山の天神近江紀伊讃岐伊豫及び羽前の者は、凡て村民の中から射手を出したやうである。是が自分の所謂第二種の年占ならば、中るとも否とも神次第と云ふ無我の境地にも立ち得るが、經濟事情の相容れざる二つ以上の部落間の利害を決するとなると、之を代表する射手の身には今日の語で謂ふ責任の感が痛切で、單に物忌と習禮だけでは決して安心して居らず、早くから日夜の稽古を以て技術の練習をする。さうなると人には腕力の等差もあれば技倆の巧拙もあつて、結局人間の工夫等で神明を蔽ふ虞れが起る。之を避けんが爲には頓著の少ない小兒を連れ出すと云ふことになるのである。大隅國分郷小濱村で、玉依姫を祭ると云ふ早鈴大明神の二月初酉日の祭禮に、社前に大的を建てゝ矢二筋(442)づゝを射さしめるのに、其役を勤める者は其年の坐前に當つた者の子供又は親類の者でも、十歳以下の童に限るのが古式であつた（三國神社傳記下）。嘗てネブタ流し考の中にも引證せられた讃州船越社で百手神事の先達を禰武利《ねむり》の衆と呼んだことなども（郷土研究二卷二七八頁）、是亦年占の任に當る射手が、私心を離れた無我の境に在ることを必要とした結果で、小兒では無くとも同じ趣旨から起つた名目らしく思はれる。

　嬉遊笑覽四上には所謂破魔弓のことを説いて、「はま弓今はたゞ祝儀の物たれども昔は射らるゝやうに造りて賣りし也」と云ひ、其證として寛文七年十一月朔日の町觸《まちぶれ》に「はま弓結構に致さず射られ候樣可仕候云々」とあるを引いて居る。同じ著者の瓦礫雜考の中にも、破魔弓は即ちハマの弓なるべきことを仔細に述べて居る。同じ説は尚俚言集覽にも見えて居るが、結局鹽尻九十六に「はま弓は濱弓なり、濱の輪をまはし廻る内に射る故に名づく、射家着流破魔弓と書きて附會の説あり」とあるを（帝國書院刊百卷本）創見と認めねばなるまい。寛文の頃には京都にまだ此遊戯が行なはれて居た。柳庵隨筆三に引用した同年刊京童跡迫の中の「はまを射る圖」と云ふのは、實は新御靈《にひごりやう》即ち鎌倉權五郎を祀ると云ふ社の、正月十七日的射の樣を描いたものであるが、少なくも初春小兒が小弓を射た例證には供し得る。貞享五年に成つた俳諧五節句には、「都にも昔は射たると也、大路の禮者の足元へ矢を射あつる故（マヽ）玉は木なり、棒竹箒乳切木ぶり／＼やうの物を持ち止むる也、當時破魔ありて玉を射ず云々」と云ひ、又東の方では其當時まだ小兒等左右に立分れ玉を射て當るを勝とする遊戯があつたと記して居る（柳菴隨筆三に依る）。大都會の往來などで矢を射るのは危險な爲に、追々と田舍の方へ追ひやられて跡を匿したのであらう。

　ハマとはもと此に用ゐらるゝ的の名であつた。ハマの形?大小材料は必ずしも一樣でなかつた。江戸の小兒が射て遊んだのは細繩をまろめて作つた玉で、京都などの如く木製のものでは無い。伊勢貞丈が大和吉野郡上市の人から聞いたと云ふ話に依れば、彼地方のハマも繩を卷いて輪とした一尺ばかりの的で、正月に小兒輩之を射て戯とした。其(443)方法はやはり左右二方に分れ、右のハマを地上に投げて轉がるのを、相手方が弓矢を以て其輪の中を射中て、又之を投げ返して他方に射させる。之を「ハマコロを射る」と云うた（春草上）。土佐幡多郡の山村に於て正月幼童の遊びとしたハマ弓も略々之に同じく、的は藁繩で作つて其形圓坐の如く、徑一尺ばかりにして中に徑二三寸の穴があつた。其的を亦ハマと呼び、雙方の稚き射手弓矢を持つて一列に立竝び、左右かはる／”＼ハマを轉ばせては相手に射させたとある（同上）。吉野地方では今日此風習が尚存するか否かを知らぬが、土佐では此から僅か數十年後の書物に、幡多郡にも最早ハマを射る遊戯は絶え、殊に高知の城下の如きは單に男の兒の初正月の贈物とするのみで翫ぶことはせぬとある。但し之と關係があるらしい一つの風習は、高知北郊の土佐郡秦村大字秦泉寺の樂水寺と云ふ眞言古義派の寺で、境内山の端に近き芝原に於て、春の頃藩公が若侍を召されてハマを射さする事があつた。其ハマは竹の輪を三つ四つ組違へて上に紙を貼つて用ゐた。射手は弓を持つて一列に立竝び、芝原の上の方からハマの轉び落ちる所を射るので、ハマの的には穴も無く星も無いから唯射當てるのが勝であつた（土佐海續編）。いつの時代に始まつたかは勿論、何故に之をハマと謂ふかも明白で無いが、同じ書の著者は高知の西の能茶山《のうさやま》の陶器師が陶器を居《す》ゑて燒く土製の器をハマと稱し、藁と土と材料は違ふが、圓形にして内に穴あること春草に説く所の吉野及び幡多のハマに同じいと記して居る（同上）。

　同じ風習は九州では肥後にあつた。正月元日から三日迄の間破魔弓を射、其的を亦ハマと稱したことを、兎園會に坦齋と云ふ人が報告し其圖を出して居る（弘賢隨筆三十五）。ハマ矢は楪葉《ゆづりは》を以て之を矧《は》いだと云ふことである。中國へ來ては長門風土記美禰郡共和村大字青景の條に、「初春の戯には男の子は破魔弓、女子は手毬の遊び。年内より翫ぶ。以前は正月の休日は折々は大人も交りて戯れ候事もありしが、近年は人氣陰鬱になりたるか、戯うすらぎ候やう見えたり云々」とある。是は今から八十年前の天保頃の記事であるが、ハマ弓を翫ぶとは如何なる事をしたものか詳しくは分らぬ。只同書大津郡｜深川《ふかは》村の條に、「正月兒童の戯にハマ弓とて小さき輪をとゝのへ地上を走らしめ之を射(444)る云々」とあるので、略々亦他の地方のハマと同じやうな競技であつたことだけが窺はれる。それから安藝へ來ては豐田郡｜沼田《ぬた》西村　　大字｜惣定《さうぢやう》などで、破魔弓が物産の一つであつたこと藝藩通志八十九に見えて居る。「其製古風を失はず」とあるが果して如何なる點をさして古風とは言うたか。此國では破魔弓は既に元旦男の兒ある家に掛けるだけの装飾品になつて居り、僅かに佐伯郡｜水内《みのち》村大字麥谷などにのみ、繩を圓坐の如く卷いて兒童之を守屋の膽を射ると稱して射て戯としたさうである（弘賢隨筆四）。守屋が近い頃まで佛敵と云ふ意味で支那の蚩尤《しいう》と同じ地位に置かれて居たことは説明の要があるまい。備後の福山領に於てはハマは藤蔓を卷いた五寸ほどの物であること、俚言集覽に見えて居る。併し其は沼隈郡山南村一郷のことで、蘆品郡宜山村大字向長谷又は網引村大字下安井などでは竹を輪にしたものを用ゐ、其他の村々のはやはり藁製圓坐形のハマであつたと云ふから（風俗問?答）、結局土地により一定しなかつたのである。山南邊で用ゐた破魔弓は手製であつた。女竹又は割竹の強いもので拵へ長さは三尺ばかり之に綿打弓の弦を懸けた。矢羽には雉子の羽などを只兩出に矧ぎ、矢根だけは村の鍛冶が作つて賣るのを求め、自ら紺の染苧を卷いて之を矢尻に取附けたと云ふ。次に同村に於けるハマ遊びの大要を言ふと、先づ童子等東西の二組に分れ、ハマを投げて互に之を射るので、上手な童子は其ハマの未だ地に墜ちぬ内に之を射中てる。東西には各々指圖役あつて之を亭主と稱へた。一度の負を一俵と言ひ、一俵毎に一人二人の子を相手に渡す、之を子取と謂うた。七俵まで負けると「あたまこすり」と稱してハマを以て其子の頭をこすり、十俵になれば野雪隱を拜ませる。負けて致し方が無くなると、亭主が遁げ廻りなどしたと記して居る（以上同書）。

　右の遊びの方法が曾て報告せられた薩州串木野村の金輪投げ（郷土研究三卷六二七頁）とよく似て居ることは尚後段に述べようと思ふ。只此場合に於て注意すべき點は負の數を算へるのにヒヤウと云ふ語を以てしたことである。自分の意見では此ヒヤウは榜示即ち境目に立てる印のことで、先年柳田君が解説せられたる峠の字をヒャウと訓む例と同じく（歴史地理二〇卷一四一頁）、標の字の字音で澪標《みをつくし》のツクシに當るものであらう。而して何が故にその標を以て勝負(445)の數取りにしたかは、更に他の國々のハマの方法を比較して見れば解るが、つまり相手の投げておこしたハマの落ち止まる地點に立つて再び之を相手に投返すべきが故に、射手が巧者でハマを中途に射留めるか、又は投手が上手で之を相手の後方までも遣ることが出來ない限りは、毎回段々に後の方へ退かねばならず、即ち下手な組では一負け毎に地を取られるから、陣地の印の線が移つて行くことを示すものと思ふ。所謂石合戰をインヂと謂ふのもやはり此意味で、如何に武を勵んだ時世でも最初から人を打つつもりの石投げではあるまいと思ふ。併し本式に此方法を以て地を取合ふとすると、ベースボールなどよりは單簡なだけに廣い面積の野原又は眞直な大道を必要とする故に、嚴肅な祭の儀式として短時間の手合せをする場合は格別、子供等が遊びとしては子取りの如き制裁を附加して、近い區域の間で早く勝負を附けさせるやうにしたことゝ思ふ。此推測に若干の根據を供するものは是も幾多の古い神社に言傳へらるゝ遠矢の行事で、或は箭の屆く限りを以て神領と定めた吉例に由ると云ひ、或は箭の落ちた土地に社殿を造營したと云ふ口碑となつて存する如き、何れも此高尚なる武器の威力に由つて神�ｺを測る場合には、先づ以て射る矢の遠く達することに重きを置いたことがわかる。即ち普通の的射の年占に第一種の二部落相競ふものと第二種の獨り判斷とある如く、同じ遠矢の占の中でもハマは利害の相反する對立者間の競技である故に、其面白味のみが永く殘つて、本の趣旨を忘却して後迄も、子供の間に持て囃されて居たらしいのである。

　近世の弓術では、的は靜止のものを常として居るが、昔はハマ弓のハマの如く的を飛ばして射る場合もあつたことは、山城の秦氏の長者が餅を的としたと云ふ話などが之を證明する。もし?《あづち》の土にくつ附いた的ならば、白鳥と化して飛んだと云ふことが變なものになる。事によると是なども初春ハマの競技の例であるかも知れぬ。二つの群が相對して弓勢を試す時に箭を射合ふのは無理だから、的の方を遠く飛ばして横手から之を射止めるやうにしただけのことで、之を第二種年占としての遠矢の儀式と解して差支へはあるまい。唯此斷定に先だち尚一應の考慮を要することは、同じくハマ廻しの遊戯と云ふ中にも、弓矢は用ゐず棒其他の物を以てハマを止める地方もあることである。前の西京(446)の例でも推測せらるゝ如く、弓を町中で射るのは物騷だから他の得物を以て之に代へたとすれば説明は付くが、弓矢の方が古くして他の器械の方が後に始まつたと云ふ證據は稍々薄弱である。結局ハマと云ふ語の本來の意義が明確にならぬ以上は、之を的だと云ふ説は動かぬものに成らぬかも知れぬ。

　東部日本の各地にもハマ弓でハマを射た例は二三ある。江戸にも昔此風のあつたことは、ハマ矢ハマ弓の名稱の普通であつたことが先づ之を示すのである。嬉遊笑覽六下｜毬打《ぎつちやう》の條に濱弓のハマは別物である如くも言つて居るのは所據の無い速斷であつた。岩手縣北部に於てハママシと謂ふ小兒の遊戯は、今では木の丸太を横に切つて轉ばして遊ぶのであるが、以前はハマと云ふのは輪であつて、之を射て互に勝敗を爭うたものだと云ふ（南部方言集）。此地方にもやはりハマ弓と名づくる一種の小弓があつたか否か、其を確めて後に此童戯の變遷を信ずべきである。一説には又ハママシとは輪廻はしのことだとも言うて居る（青森縣方言訛語南部之部）。之と類似の木のハマは今でも關東の田舍に所々に行なはれて居る。下總千葉などでは之を「玉をきる」とも云うて居た。欅などの堅木の丸さ宜しき程のものを小口より挽切りて用ゐた。但し其玉を止める道具は弓矢では無くて、尖の些し撞木形になつた杖であつた由（嬉遊笑覽六下）。江戸近在下總寄りの逆井などでハンマと呼んで居たのも、やはり竹木の類で之を打止めた。戸車のやうだとある（同書四上）から千葉邊と同じである。常陸の水戸笠間眞壁等で行はれたハマも之と相類し、江戸でクルマと云ふものだとある。徑一寸四五分から二寸と云ふは小に失して疑はしいが、中をくりあけてあつたとある。男の兒相對して之を轉ばし相手の方で受止める。誤つて各々が居る所を越えさせると、退いてハマの止つた所に居て又轉ばす。豫め退くべき限りをきめ置き究まれるを以て負としたと云ふ（常陸國誌洋装本下卷一〇四一頁）。上野國志には上野利根勢多山田等の諸郡に行はるゝハマ投げの方法を載せて居る。小兒左右の組を分ち東西に竝び、兩陣の間には地の上に筋を引いて東西の境とする。ハマには人家戸足に附ける木の車を用ゐた。一方から之を投げて其筋より内へ入らぬ内に、竹木を以て受留め得た者を勝とし、後者は更に相手へ其ハマを投げ返すのを、やはり筋を越えて入らぬやうに受留め(447)る。投手をハマヌシと稱して大將である。相手のハマを受留めた者をハマ主にする。筋を越えて敵陣に入つたハマをコシハマ、敵の陣の後まで轉び込んだのを親ハマと謂ふ云々（柳菴隨筆三に依る）。此記述は少しく了解に苦しむ點がある。地上に劃した境の筋が只一本であるならば、筋を越えぬ内に竹木でハマを受留めんとするには敵の陣地内に居らねばならず、さては親ハマとコシハマとの區別が不明になる。但し勝負の方法は其時々のきめ次第ともあるから、場所の狹い處などでは何かあまり移動せずともすむ規則を作つて居たのかも知れぬ。

　話があまり微細に入るが肝要な點だから略しにくい。關東で自分等の目撃したのはハマを受留める方法に二樣ある。其一は棒の如きものを投出して地上を轉び走るハマを消すのである。今一つは稍々細い竹の類を横合から突出してハマを貫いて留める方法で、勿論投げ方の如何にも由るが、ハマには材料の如何を問はず中央に穴の有ることを考へると、空中で受留めるもの即ち弓矢を用ゐたハマ遊びに近い方が本來の形式で無いかとも思ふ。但し危險なことは此方が遙に危險である。羽後の角館には春日雪消えて後ハンマの遊びがあつた。竹又は柳を以て輪に作り之を投げるのを、此方に居て杖で打つのである。「兒童の戯ながら怪我などありて今はせず」とある（風俗問?答）。一説には角館のハンマは年の始めであつたとも云ふ。其方法は隊を二つに分ち、一隊は竹杖を持ち他の隊はかの竹の輪を取り、之を虚空に鳴響かせて打つと、相手はかの細い竹杖で之を抑へる。抑へはづした者は多勢に尻を蹈まれる。隨分粗暴な遊戯で、下手な者の竹杖に觸れて顔や腕を傷けることも珍しく無かつたと云ふ（黒甜鎖語四編）。打つ又は抑へるとあつて竹杖を輪の中へ通したやうには見えず、又以前弓矢を以て射留めた名殘だとも言うて居らぬ。但し黒甜鎖語同じ條に、「如何なる戯か其故を知らず、雪中府中（秋田）のすべり子〔四字傍点〕等がおしかけハンマ〔七字傍点〕も此心にや」とあるから、更に此附近のハンマの方法をよく比較して見る必要があると思うて居る。

　ハンマとよく似た競技がアイヌ族の中にもあることは、既に百餘年前の三國通覽にも見えて、多くの學者が注意して居つた。其輪はハマとは謂はぬが、やはり羽後などの如く木を揉《たわ》めて作つたものであつた。但し前代の書物には之(448)を轉ばせて射を習うたとあるに反して、近い頃の報告には棒を以て受留めるとある。例へば人類學會雜誌百十五號にあるバットレンと云ふアイヌの談に依れば、輸遊びのことをカパシテと謂ふ。蔓又は折れにくき木を撓めて作つた輪を用ゐる。十人二十人組を爲し、棒を其輪の中へ入れて受留める云々。風俗畫報五十七號には此遊戯の圖が出て居る。新冠《ニイカツプ》の土人等は之をトコムマカリと謂ふさうである。葡萄の蔓を以て輪を作り、二つの組小川を隔てゝ一方より竹を以て其輪を投げると、他方の岸に立つ者亦竹を以て之を受留める。トコムマカリとは兩岸に神まし／＼輪受けをしたまふの義だとあるが、果して誤謬が無いか否かを確めることは出來ぬ。唯舊日本の殆と全土を通じて、北は南部から南は九州の果まで行渡つて居る此遊戯が、日高アイヌの郷土にまで夙くより存在したと云ふ事は、誠に注意すべき一現象であると思ふ。獨り其のみでは無い。久しく臺灣の蠻民を調査して居た森丑之助君の談に依れば、ブヌン族の間にも高い竹竿を立てゝ置いて下から木の枝を綰《わが》ねて作つた球を投上げ、同時に其竹竿を強く搖かして其球を突留める行事があると云ふ。至つて嚴重な古い儀式で、或時其球に人の首を用ゐんとすることで諍論が起り、其がアミ族と分離するに至つた原因であると傳へて居る。又ブヌンの分派たる某族の部落には、豫て子猿を養つて置いて後に槍を以て之を競ひ突く、アイヌの熊祭とよく似た儀式があつて、同じ慣習から變化したもので無からうかと言はれて居るさうである。處が偶合かも知れぬが肥後五箇庄の山村でも、同じく樹枝を撓めて作つた球形の物を、二つの組が雙方に分れて打揚げては竹槍で突く競技があると云ふ（野中完一君話）。之に携はる者は多くは壯年者で、猿を捕る練習の爲だと言ふさうである。而して之をばハマと謂ふかはた又何と呼んで居るかは知ることが出來なかつた。

　所謂破魔弓を男の兒の生まれた家へ初正月の贈物とすることは、球打ちなども同樣に、此物が小兒新年の遊戯品の主たるものであつた爲で、ハマ弓ハマ矢の名の起りは、右に述べたるハマの遊戯に此種の小さい弓矢を用ゐるのが普通であつた結果なることは、共に必ずしも自分の創見と誇ることは能ぬ。但し其から一歩を進めて諸國に例の多い濱井場と云ふ地名が、初春毎にハマを射る競技をした場所を意味するもので、此の如く地名となつて永く遺つて居るの(449)は、村々の初期に在つてはハママハシが單純なる童戯では無く、神意を忖度する手段としての一つの儀式であり、而も多くの場合に於ては二箇の經濟利害を異にした部落の間に、天惠の輕重を卜知せんとした年占であつたことは、自分が茲に新たに提出した假定説である。石打綱曳の類の傍例に就いては前章に之を述べて居る。若し更に各地の濱井場の地が共同の鎭守社の前面であるか、或は又二部落の中間に在る廣野河原或は岡の上等であるかするならば、假令此の如き言傳へは既に消えて居るにしても、幾分か自分の推測を援助することになるのである。終に猶一つ申添へたいのは、ハマと云ふ物の形?と材料である。薩州串木野の金輪投げ（郷土研究三卷六二七頁）は一異例であるが、石見邑智郡三原村大字南法木には、?射場と書いてハマイバと云ふ字もある。即ち金屬製の丸い物を表はさんとする和製字で、※［土＋丸］をグロと云ふと同日の談である（同四卷四四三頁參照）。高知で用ゐたと云ふハマは球形で肥後五箇庄のものに近い。之を猿を突く練習の爲と云ふ言傳へは、或は武雜記に「正月初めに八眼を打ち小弓にて射ること、蚩尤が八の眼の色々に變じ人間に讎《あだ》を爲すをハマと名づけて射るなり云々」とあるのと關係は無いであらうか。果して此推測の如しとすれば、二箇の部落が互に其「畏るべく憎しむべき物」を相手方の地内へ押付けようと競ふのも亦意味がある。猶餘論は左義長に關する次の一篇に於て盡すつもりである。

　

(450)　　　神送りと人形

　

　　　　　　　一　年中行事と臨時祭

　

　數多い日本の習俗の中で、事實に特徴があつて比較的よく記憶せられ、採集がやゝ容易で、同時に他民族の同種行事との、一致と相異とを攷へて見ることの出來さうなものは、近頃まで方々の田舍に傳はつて居た、

　カミオクリ　のそれであらう。神送りといふ言葉は、實は信州大河原の咳氣神送り（郷土研究四卷三號）、陸中江刺郡の疫病神送り（郡誌）等の、僅かな場合にしか行はれて居らず、他は何れもそれ／”＼の送られるものゝ名を謂つて居るのであるが、是を邑里の外に送り出さうとする趣旨は同じく、又その方法も略々似通うて居る以上は、是を斯ういふ名で總稱しても差支へは有るまい。

　現在判明して居る地方の事實は、無論まだ篤志家の調査した僅かの區域に限られて居る。是を今少し詳しく調べて見るにも、大體の目標を立てゝ置いた方が便利である。我々の明らかにしなければならぬ點は、第一には如何なる場合、即ち何の必要があつて神送りをするかであるが、是には其儀式の名稱が殊に大切なる參考になり、實際又この名を記憶する限りは、式の印象も誰かの腦裏には保存せられて居るのである。是に伴なうて第二には唱へごと、即ち何と謂ひつゝ其行列についてあるいたかで、それには存外古くからの文句を、少しは間違へながらでも保存して居て、(451)多數の實例を比べて行くうちには、次第に此習俗を重んじた人たちの心持が、明らかになつて來る見込が有るのである。第三には行事の最も具體的な部分として、誰にも注意せられる手續と行爲、殊に其爲に作られる色々の設備であるが、是も前二つのものゝ助けに依らないと、只珍しい形を喋々する玩具家のやうな態度に落ちてしまつて、いつ迄も人を無益に勞苦せしめるのである。我々は尋ね知らんとするものを、もう一段と奧の方に持たなければならない。

　第四に考へて見るべき點は、此行事の現はれて來る期日である。年中行事の方では、毎年二月の八日に、

　コトノカミオクリ　をする村が南信にはあり、其目的は風の神送りであつた。二月と六月と十二月との八日に、

　ヤウカオクリ　といふ名で人形を送る例が三河の山村にはあつて、其方式は不定期の神送りとよく似て居る。九月十月の境の神送りにも、神々出雲國に赴きたまふといふ土地以外に、やはり藁人形を作つて鐡砲を以て劫かし送る風が宮城縣にはある。その他岩手縣南部の二百十日の、

　ニンギャウマツリ　同じく三戸郡で盆の境に村の端に出て行ふ、

　ニンギャウヤキ　なども、比べて見ると全然別のものとは見えないのである。さうすると又三月節供の翌日の雛送り、七月七日の朝の七夕流しの如く、廣い區域に共通して居る行事も、日が一定して居るといふだけで、是を比較の外に置くわけに行かず、同時に一方には武藏上州の境の村の神社に、往々祭の式となつて居る六月晦日の、

　ママコマツリ　それから出雲の佐陀の御宮で、十月二十八日の式となつて居る、

　シハガミオクリ　その他是と類似をもつ九州南部の八幡諸社の、

　ヤゴラウオクリ　といふ人形祭の如きものまでも、たとへ其土地限りの由緒談は何とあらうとも、やはり一應は我々の神送り記事を參考として、考へて見る必要があるのである。年中行事調査標目の次に、さうして諸國の神社の祭式を研究するに先だつて、ちやうど中間の橋架けとして、神送りと人形の問題を掲げ、目下知られて居る限りを排列して見るのは私一箇の便宜ではあるまいと思ふ。

　

(452)　　　　　　　二　蟲送り

　

　村から最も頻繁に、又熱心に送られるものは害蟲であつた。今から考へると不思議なやうだが、是には僅々百年前までは他に一つの驅除法も無かつたのである。

　ムシオクリ　といふ語は方言とも言へないほど、全國に知れ渡つて居るが、其方式に就いては可なりの異同があり、期日の如きも遠州磐田郡では、毎年二月八日、即ち蟲のまだ出ない季節に行ふ土地もあれば（土の色三卷六號）、他の多くの土地では夏の土用の始め、もしくは田植終つて若干日の後を期して必ず行ひ、村によつては蟲が發生して氣遣はしい年だけに、危險を見かけてから執行ふ處もある。藁人形を作らない土地も東の方には多い。西では廣い區域に亙つてサネモリ送りといふ名があり、其人形を齋藤實盛だと謂つて居る。其點は自分も早く報告し（郷土研究二卷三號）、又此篇にも掲げるつもりであるが、是にも各地方の少しづゝの差異がある。たとへば同じ播磨のうちでも自分の生まれた中央部では、人形は一つしか作らぬのに、東の二郡では三つ作つて、馬に乘らぬ二つを家來だと謂つて居る（加東郡誌等）。さうかと思ふと美嚢郡の大野村などは、實盛人形はたゞ一騎だが、是には實物の害蟲を芋の葉に包んで、必ず其馬に括り付けて送るといふ（　　兵庫縣民俗資料十一號）。さうして鉦太鼓で送つて行く囃し詞は、

　　　實盛さんはゴショライ

　　　稻の蟲はおともせ

といふのださうだが、私たちの「稻の蟲」には、實盛さんは御上洛と謂つて居た。同じ中國でも備中あたりの蟲送りには馬には乘せずに人形を二つ筵製の舟にのせ、食物を副へて送つて川へ流すものもあつた。

　ムシマツリ　岩手縣遠野地方の例では、蟲祭といふのが蟲送りのことであつた。期日は舊七月中で、藁人形はたゞ(453)一體、其行列の唱へごとは、

　　　何ものを祭る

　　　當作蟲をまつる

といふので（人類學雜誌三四卷九號）、實盛といふ名は此邊では知らない。蟲祭といふ語は別に冬季の蟲供養をいふ處もあるが、信州などではウンカマツリ、又ムシマツリといふのが蟲追ひの火行事のことであつた（郷土研究一卷二號）。

　ムシオトシ　九州では天草地方などに、又蟲落しといふ名もあつた。高濱村では稻の花咲く頃、笹を立てゝ貝を吹きつゝ村の境まで送つて行くのをさう謂つて居る（天草島民俗誌）。笹だけを立てゝ人形はこしらへなかつたものと見えるが、さういふ例も他の種の神送りにはあるのである。

　ウンカオクリ　信州でウンカ祭の名が有るやうに、これに接する三河にも美濃にも、ウンカ送りといふ方が蟲送りよりもよく知られて居る。但し三河の方は松明と火を中心とし人形は用ゐぬらしき（三州横山話）に反して、美濃では三つの人形を作つて送るものがある（民族三卷四號）。さうして前者はまだ送りのすんで居らぬ隣村の境まで送つて行き、後者では、

　　　うんかの神送れ

と唱へつゝ、送つて行く方角は御鬮によつてきめるといふ例もある。

　アマコオヒ　岡山縣勝田郡では、アマコオヒといふのが蟲送りのことである。六月中に日を卜して、先づ神社に於て祈?を行ひ、多く紙の幣を作つて村人に頒ち、之を打振りつゝ太鼓を鳴らして田の間をめぐらせ、最後に村境に達して其幣を插して歸つて來る。日中だから炬火は無いのである。その行列の唱へごとは、

　　　アマコどのは京入り

　　　あとの日には榮えた

(454)といふとあつて（郡誌）、是も一種の實盛のやうに聞えるが、こゝでは人形はこしらへぬらしい。アマコ殿は恐らく蝗蟲を崇敬して謂ひはじめた語であらう。

　テンノコムシ　遠州の周智郡では、蟲送りをさう呼んで居る村もある。是も何か唱へごとの詞から出た名と思はれる。

　ウジキタウ　長門相ノ島では、粟にウジが附いて難澁の際ウジ祈?と稱して藁人形のサネモリサンを作り、鉦太鼓で畠中を巡つて後に、その人形を海に流す。祈?には天台宗の琵琶僧が參與するといふ（櫻田君）。このウジは、たゞ蟲の訛語で蛆では無いやうである。

　ハスベェムシ　福島縣石城郡なども、以前は田植あがりの休日に蟲送りをした。爰でも人形も松明も無かつたやうだが、次のやうな蟲送り歌がまだ記憶せられて居る（郷土研究四卷一一號）。

　　　稻さし蟲も送るよう

　　　ハスベェ蟲も送るよう

　　　青蟲も送るよう

　　　蟲だら何でも送るよう

　青蟲といふは稻尺蠖、イネサシ蟲は螟蟲、ハスベェは稻苞蟲即ち斜這ひであらうと思ふ。

　ヒオクリ　紀州の東牟婁郡では、蟲祭をウガ送りともいふが、又火送りといふ村もある。即ち爰では松明をつけて夜送るのである。那智村などでは蝗蟲を竹筒に入れて酒に浸したものを、松の葉で作つた小さな輿に載せて送るといふ（郡誌）。人形は全く用ゐて居ないやうである。

　オヒムカヘ　東三河の村々では、蟲が出ると遠州秋葉山に參詣して神火を請ひ受けて來る（昔日譚）。さうして此火を松明に移してウンカ送りをするのが例であつたらしい。

　

(455)　　　　　　　三　送らるゝものゝ色々

　

　オテンキマツリ　雨乞を御天氣祭といふ土地がある（相州内郷村話）。人形を造つて送る例はまだ出て來ぬが、炬火で行列をして村境まで行くことは、蟲追ひの儀式とよく似て居る。晴れを祈る祭に人形を造ることは、所謂照々坊主の場合だけでない。陸中上閉伊郡などの雨風送りは、又人形祭とも呼ばれ藁で作つた男女の人形を、村一同で境まで送つて行くことは或地の蟲送りと異なる所が無い。多分旱魃も雨鬼も共に惡い神で、斯ういふ方式で祭却し得るものと信じられて居たからであらう。

　カダチオヒ　夏の急雨は稻を乳養する力として、是をもたらす稻妻までが歡迎せられたのであるが、たま／＼山間部の雷の多い地方では、時々は是をも追はなければならなかつた。常陸北部の山村の如きは、苗代の生育中、雷鳴があると割竹を敲いて山中に入り、雷獣を逐ふと謂つた。カダチは古語の存留で雷のことである。斯うしないと雷獣が苗代に天降つて苗を荒すからと謂ひ、又苗代の中に處々小竹を立てゝ置くのを、雷獣が此竹に由つて天に登つて行くやうに立てるのだとも謂つた（郷土研究三卷九號）。但し此竹は東北一般に、少しも雷の過多に苦しまない處でも立てゝ居る。苗尺又は苗見竹と稱して、是には又他の由來があつたらしいのである。

　カゼオクリ　信州下伊那郡五和村など、新暦八月の二十日前後、蟲送りと同じ日に風送りを行うて居る。二百十日の厄難を避ける爲といふ。紙で大きな袋をこしらへ、之を竿のさきに附けて木登りの上手な者が、御神木のさきに縛り付ける。御神木は其森の一ばん大きな木である（同上一卷一號）。紙の大きな袋は風を包んで送る容器で、ちやうど蟲送りに竹筒や芋の葉に、害蟲を入れて送つて行くも同じであらう。

　カゼノカミオクリ　但し人間の病氣を送るカゼ送りも別にあつた。土佐の長岡郡田井村などでは節分の夜手足の爪(456)と着て居る着物の襟さきと、女なら鬢の毛と圍爐裏の四隅の灰と、この四種の物を紙に包み、社へ持參して神職の祈?を頼んだ。感冒に限らず、すべての病を此カゼの中に含ませるのだといふ（民俗學二卷六號）。千葉縣の銚子附近では、舊二月二日、即ち二日灸の日に、麥稈を以て裸の人形をこしらへ、夕方に笛太鼓を以て村の境まで送つて行く習ひがあつて、之をも風の神送りと謂ふさうである（民俗藝術二卷三號）。裸といふことに風の袋や蟲の筒とよく似た趣意が有つたのではないかと思ふ。

　ガイケノカミオクリ　加賀の能美郡でも、藁を以て爺婆の人形を作り、團子を供へて祭る慣習があつた（郡誌）。どういふ風に送つたのか知らぬが、ガイケは咳氣であつて風邪を意味する地方語である。尚此郡にはヤイコノババといふ送り人形があつて、行事は是とよく似て居た。其條參照のこと。

　ゲエキガミ　信州東南隅の大河原では、二月十五日又は初午の日に、神送り又は風の神送りといふ行事があつた。是は人形は無くてシマヤマといふ藁の臺に載せて神を川の岸へ送つて行く。其際鐵砲を放すこともあり、又次のやうな唱へごとがあつた（郷土研究四卷三號）。

　　　ゲエキ神おーくるよ

　此ゲエキ神も亦咳氣神である。

　オイヤレ　陸中江刺郡では六月晦日に、疫病の神を送る行事があつて、男女に象どつた藁人形を作り、行列に太鼓を叩きつゝ送つて行くことは蟲送りと同じく、是を普通に神送りと呼んで居た（郡誌）。伊勢の山田の市中で疫病が流行した際、やはり同じやうに送り事をして、それをオイヤレと謂つたことが參宮名所圖會に見えて居る。此オイヤレは追遣れで無くお行きやれであらう。京都でも大阪でも、以前は?々人形送りのあつたことは、月堂見聞集その他多く書物に見え、この人形が海上から漂着し、それを拾ひ上げて八丈島に始めて疱瘡があつたことは、其昔談に録せられて居る。

(457)　ショウカンバウオクリ　讃岐の高松の傷寒坊送りは、明治の中頃までも繰返されて居たといふ。傷寒即ちチフスの流行の兆があると、人の大きさの藁人形を作り、若い衆是を擔いで太鼓を叩きながら、傷寒坊送れといひつゝ町中を練りまはし、後で僧を頼み御經を讀んで貰つてから海に流した。斯うすればこの病が入つて來ぬといふ信仰からである（讃州高松叢誌）。阿波にも是と同じ行事に同じ名があつた。疫病の神は坊主神だと信じて居たさうである（土の鈴一〇號）。

　ボウオクリ　ボウ又はボウノ神といふのは疫病のことで、是を送る行事は宮城岩手の二縣に近い頃まであつた。仙臺でも古くから、疫病にかゝることをボウフル、急性のものを三日ボウといふ語もあつた（濱荻）。山形縣でもボウ送りとは疫病送りのことで、莊内には以前秋に入つてから行ふ例もあつた（秋田假寢）。ところが不思議なことに青森の附近では、是を農村田植後の蟲送祭のことだといひ、又その祭に擔ぐ藁製の蟲人形をもボノカミと謂つて居る（東奧日用語辭典）。油川などのボウノカミは少年騎馬の人形を中心とするといふが、是を今は豐年祝の行列だと解して居る（北方郷土、三卷二號）。

　ハウサウバヤシ　千葉縣印旛郡などの疱瘡ばやしは神送りであつた。明治の初頃までは、此病氣が流行するときは鎭守の社で祈?をしてから、萬燈を點し太鼓を打つて、夜陰に行列を立てゝ之を送つたといふが（郡誌）、如何なる形のものかは記してない。他の地方でも疱瘡ばやしといふ語を耳にする。通例家々の祭であつて村共同の送りでない。磐城相馬で疱瘡さまと謂つたのは、家の門口に一尺ほどの大草鞋へ幣束をさして吊すことであつた（民族四卷一號）。草鞋である以上は元は是も送つたのであらう。

　ケンロオクリ　伊勢の多氣郡津田村などでは、疱瘡に罹る者があると、其家では棚を飾つてケンロ樣といふ神を祭つた。疱瘡の神だといふ。七日目に餅を搗いて祝をする。近所の人々も祝ひに來て、此日の餅二切れを上りはなで北向きになつて食べる。十二日目に此神の棚を川へ流し又は燒棄てることをケンロ送りとは謂ふので、今でも種痘の場(458)合に尚此式を行ふ家が稀にはある（村林仁八氏我郷土）。

　モナガシ　福島縣石城郡でも疱瘡にかゝつた子の治り際に近隣の者が集まつて來て、千本杵で痘流《もなが》しの餅を搗いた。其時に歌ふ臼歌をモナガシ歌と謂つた（民族三卷五號）。是も其後で神を川に送つたものと思ふ。

　ハラノカミオクリ　この腹の神も流行病であつたらうと思ふが、信州上水内郡などでは二百十日の日に行ひ、紙人形を竹に附けたものを子供が家々から集めて、鉦太鼓を叩いて村境の山の神の處まで送る。陸中遠野の雨風祭と日は同じだがこゝでは、

　　　ハーラノカミを送ろ

と唱へて行き、歸りに後を見てはならぬといふことは、濱名湖岸の十二月の神送りとも似て居る。同じ信州でも北安曇郡などの腹神送りは七月二十七日、即ち諏訪の御射山《みさやま》さまの日に之を行うた。小旗に「奉送御腹の神」などゝ書いたものを立てゝ、子供たちが太鼓を打つて村の外又は川まで送つた。この人形は刀をさゝせ馬に乘せて、馬方を添へた（郡郷土誌稿卷三）。大町などでは是を二つ引兩の紋を附けた葛籠に入れて送つた。やはり後を振囘るものでないと謂ひ、轉ぶと腹を病むから下前の小褄をくはへるとよいといひ、又腹の神送りを濟ませば、山で青箸で物を食つても、腹を病まぬとも謂つた（同上卷四）。青箸は御射山祭の日の節供に必ず用ゐられるものである。

　ヤンメノオクリ　備前兒島郡の下津井などでは、棧俵に赤い御幣と五色の菓子を載せ、一厘錢を添へて之を四辻に棄てに行き、脂眼《やんめ》（病眼？）の神を送つたと謂つた（岡山文化資料二卷一號）。日は多分盆の十六日であつたと思ふ。

　

　　　　　　　四　ミサキ送り

　

　神送りは必ずしも村共同の災厄の際には限らず、石城のモナガシの樣に、或一家の爲にも之を營むこともある。斯(459)ういふ場合にも近隣や親族一門の者が參加するから、共同心の強かつた時代には、この二つは大した差別では無かつたのである。送らなければならぬ兇神の種類は、それまで入れると可なり多かつた。

　オッパラヒ　陸前石卷などでは、病氣の際にオッパレアといふ一種の厄拂ひをする。祈?の方法の一つと考へられて居た（石卷辯）。

　カンバナシ　肥前の上五島の日ノ島などでも、長い病氣が漸く治つた家では、卷藁で船をこしらへて、それに餅その他の食物を積んで海に流し、是を以て全快といふことにした（櫻田君）。即ち中央部では小兒の天然痘のみに限つて居たことを他の多くの病にも及ぼして居るのである。尤も下五島の玉ノ浦あたりでは、この神放しを疱瘡流行の際に行ふことになつて居た。こゝではトベラの葉と味噌とを共に燒いて、竹の皮に包んで海に流したといふ（同上）。

　イチヤハラヒ　土佐の檮原《いすはら》では犬神憑きや狸憑きを一夜に落す方法として鉦太鼓を敲き百萬遍を唱へて是を追攘つた。鐵砲まで打放すことがあるといふから（民俗學二卷七號）、やはり屋外で行列を作つて行つたのであらう。狐つき犬神つきといふものに、その病人を無理に追立てゝ、倒れる處まで跟いて行く風は中國などでも見られた。中にはクダ持ちオサキ持ちの家の前まで引立てゝ行く例さへ東國にはあつた。是等も亦一種の神送りであつたのである。

　オクリマツリ　佐渡島で送り祭と謂つたのは、人に憑いた狸を落すのに、ヨリ即ち口寄せにかゝつた狸と約定して、小豆飯を棧俵にのせ、之を其狸の住む處まで屆けてやることであつた。送り祭をするとその奇病は平癒するものと考へられて居た（郷土研究二卷九號）。

　キツネオクリ　遠江の西部で行はれた狐送りは、別に狐憑きが出來てからの祈?では無かつた。毎年日をきめて村が總出に山伏を先頭に立て、藁で作つた狐と人形とを竹のさきに附け、村の境の山の一本松の下などまで送つて行つて埋める。さういふ處には大抵狐の穴があり、平日も牡丹餅などを供へに行く人があつた（土の色七卷一號）。狐送りの唱へごとは、

(460)　　　ヨイトイ、　ヨイトイ

といふ囃しだけであつたが、方式はよほど中國の蟲送りと似て居る。今から三十年前までは行はれて居たといふ。中國東部の狐狩の式は、「年中行事」にも述べて置いたが、大部分正月十五日の前の晩ときまつて居る。これも起りは狐がその年中惡戯をしないやうにといふのであつたかと思ふ。京阪神戸などで今も行はれるといふ寒中の狐施行の如きも、食物を主とするを見れば送り祭であつたかも知れぬ。

　ネコオクリ　陸中の梁川などで、猫に祟られたといつて病氣になつた場合には、イタコに教へられてよく猫送りといふことをした。幅一尺長さ二尺位の板に、猫といふ文字を白くかいて、四辻へ持つて往つて立てる、人は是に近づくことを畏れて、遠まはりをしたものだといふ（民俗研究四號）。津輕地方のイタコたちも、よく病氣の元を生き物の恨み祟りと説明するが、其場合には繪馬屋に頼んで、必ずその動物を畫に描いて貰つて、自分の信心する神社佛閣に持つて行つて掛ける。神官僧侶は全く是に參與せず、寧ろ迷惑して居る場合が多いといふ（松野武雄君）。これは頗る東京あたりのとは性質のちがつた繪馬で、私は寧ろ送り物の人形、乃至は芋の葉に包んだ螟蟲などゝ、同じ系統のものかと想像して居る。

　ネズミオクリ　伊豆の北部などの村々では、鼠送りといふ行事が近年までも行はれて居た。野鼠の害がひどい場合に、その一疋を捕へて輿に乘せ、鉦太鼓で囃しつゝ送つて行つて神官の祈?の後に之を海に放す。さうすると今まで山野を荒して居た鼠群が、海を渡つて去つてしまふ。或は大島へ行くとも謂つて居た（郷土研究二卷八號）。

　ドロボウオクリ　栃木郡足利市附近では、明治中頃まで泥棒送りといふことが行はれて居た。是も盗賊の人形を藁で作り、村中總出で鉦太鼓を以て村境まで送り、祈?の後箭を放して之を射止める。出て此行列に加はらぬと盗人の疑ひを受け易いので皆出たといふ（郷土研究二卷一〇號）。人で無ければ出來ない惡事までを、神業と見るのはをかしい樣だが、是もやはり盗みなどゝいふ事をさせる邪力が、背後に潜むものゝ如く信じて居たものかも知れぬ。甲州中部(461)では七夕の人形を戸の口に吊り下げ、又は其日の五色色々の短册を紙に包んで、七夕樣と書いて門に釘附けし、之を盗人除けとする風が近頃迄あつた（甲斐の落葉）。さうしてこの七夕も必ず送らなければならぬ神であつたことは、「年中行事」の中に述べて置いた。七夕に人形を作る風は信州から越後にも及んで居る。

　ニンギャウツキ　山形縣の海岸近くの村では、山荒しの盗人などが見つからぬ場合に、藁で人形を作つて置いて、村の人が代る／＼竹鎗を以て之を突いた。さうすると當人身痛みて死し、又は怖れて自白したといふ（人類學雜誌八八號）。是は丑の時參りの詛ひの人形の方に似て居るが、前の泥棒送りの例と比べると、もとは村の外まで送つてさうしたのかも知れぬ。

　ミサキオクリ　三河の北設樂郡では、水死人などがあつた時には、日を定めてミサキ送りを行うた。ミサキは此地方では變死人の亡靈のみを謂ひ、それが迷うて村の内に殘るを怖れて之を送つたのである（民族二卷六號）。何をしるしにして送つたかは知らぬが、やはり行列を立てゝ村の境まで行き、時としては鐵砲を放すこともあつた（設樂昭和八年六月號）。ミサキといふ語は土地によつて色々の意味に用ゐて居るが、概していへば眼に見えぬ精靈で、觸るれば人を害すべきものであつた。靜岡の近くの杉尾の八人塚などは、昔の貴人の墓といふ説もあるが、住民は是をミサキと謂ひ、毎年十一月午の日の祭を、ミサキ狩りと呼んで居たさうである（駿河志料卷三三）。齋藤實盛の場合だけで無く、變死者の亡魂が諸種の災害のもとの力である樣に、考へる風は可なり弘く殘つて居る。薩摩の長島で蟲供養のことを、サキの祈?といふのも（櫻田君）、私はこのミサキではないかと思ふのである。

　

　　　　　　　五　水追ひ火追ひ

　

　しかし此俗信が固有のもの、最初からの考へ方だといふことは無論言へない。むしろ其反對の例證さへも多いので(462)ある。たとへば時疫疱瘡を流行せしめる神などは、時には白髪の翁だといふこともあるが、多くの土地で痩せこけた婆だと謂ひそれが立膝の上に手を置いて、枕元に居るのを見たなどゝいふ話が傳はつて居る。是だけは明らかに臨時に出現する幽靈では無かつた。狐つき狸つきも身元は判つて居る。さうして甲州などでは、狐をも亦ミサキと謂つた例が有るのである。つまり我々のミサキは、元は範圍が可なり廣かつたのが、一人の亡魂とさうで無いミサキとが區別せられ、後には前者のみが主として畏れられて、神送りといへば段々に、そればかりを意味するやうになつて來たらしいのである。化物が後に所謂ボウコンを意味するやうに、なつて來た事情は是と併行して居る。人以外の庶物に精靈の存在を認める風が、衰へた結果と言つてもよからうと思ふ。さうして我々の民間傳承のみが、尚無意識に古い考へ方の痕跡を留めて居たとすれば、注意して各地飛び／＼の例を比べて見る必要があるわけである。神送りの一つの形かと思ふものに、

　ミヅオヒ　といふのがある。是も信州の北安曇郡あたりで大水の際、部落總出でホウイ／＼と大聲を擧げて追ひ遣る風があり、それを水追ひと謂つて居た（同郡郷土誌稿卷四）。風追ひといふ例も關東地方には稀に有つたやうに記憶する。風切鎌と稱して屋根の上に鎌を立て、暴風の害を防ぐ呪としたなども其名殘らしく、又女が風の噂をすると、大風が吹戻つて來るなどゝいふ奇妙な俗信も東京に有つたが、是も原因は一つであつて、風にも靈があるといふ考へ方から出て居るやうである。

　ヒタマガヘシ　火事には女の肌のものを揮うて、火を追拂ふといふ呪法も、今尚日本の廣い區域に傳はつて居り、稀には之を試みる者が、今でも有るやうに聽いて居る。此信仰の尚一段と明らかに殘つて居るのは沖繩の諸島であつた。たとへば宜野灣の新城《あらぐすく》といふ部落では、毎年舊十月一日に火たま返しといふ祭を行ふ。それは火災神を村から追拂ふ意味だと謂つて居た。此日はナナカーノウビー即ち七處の泉の水を汲んで、之を以て家々の火の神と泉山｜御岳《おたけ》の神とを祭つた後、村の中央に藁小屋を立て、それに火を掛けてから銅鑼を叩いて辻々をめぐつた。住民は石垣の上か(463)ら之に（小屋に？）水を掛ける。それから又部落の内外に火事があつたときは、必ず三日の内に臨時の火たま返しの式を擧行したといふことである（シマの話）。

　ヒガヘシ　同じ縣の國頭《くにがみ》地方では、火靈《ひだま》は火事で燒死んだ者の靈、又は取出すことの出來なかつた先祖の位牌の化して成るものを謂ひ、老人などにその火靈を見る力を具へたといふ者もあり、又は之を囚へて瓶に閉込めたといふ話もある。火事があると三日目の日に、ヒゲエシといふ式を行ふことになつて居る。即ち小屋を建てゝ燒き且つ是に水を撒きちらし其火靈を追ふのである（山原の土俗）。

　ヒタマアソビ　奄美《あまみ》大島では二月に火玉遊びといふ式があつた。月のうちの吉日を選び、家々の茅を採り集めて海邊に家を作り、それに火を掛けて多くは燒いてしまふ。是と同時に各戸より白米五勺づゝを出して、能呂久米《のろくめ》に遣つて火災を防ぐ祈?をしてもらつたといふ（南島雜話）。

　ヒケシマツリ　同じ習俗は幾分か是よりも幽かに、北陸地方などには遺つて居る。たとへば加賀の大杉谷では、大火事のあつた年より、一年三年七年十三年等の年忌の日に火消祭といふのを行ひ、惡魔を拂ふと稱して獅子舞などがあつた。波佐谷といふ村では毎年四月十六日をその火消祭の日として居た（能美郡誌）。

　ヤケマツリ　能登の鳳至郡では、村に火災のあつた記念日が休みで、是を燒け祭と稱し、秋葉愛宕の火の神の祭をした。又火事が年忌を問ふといふ俗信もあり、黒島村などは毎年二月六日に燒け祭をした。此日を火の神祭とも、又火祭とも謂つて居る（郡誌）。

　ヒマツリ　加賀の河北郡でも、部落に火災が有ると、翌年から其日を部落の火祭の日と定め、終日神佛に御酒を供へ、赤飯を祝うて業を休む。次に火災が起ると火祭の日は新しい方の日に變るといふ。此以外になほ日本の火祭といふ日があつた。中暦即ち月送りの一月八日で、此日は特に火の早い日だと謂つて、やはり業を休み祭をする（風俗畫報二〇一號）。月送りの一月八日といへば元は舊十二月八日、即ち一つ目小僧樣の來るといふコトの日でもあれば、又(464)京江戸の吹革祭《ふいごまつり》の日でもあつた。京都の多くの神社の御火燒といふ祭も、日次記事によれば皆此日であつた。後世の説明は改まつたであらうが、以前は是も亦火玉遊びであつたかと思ふ。火事には限らず、災害には年忌があるやうに謂つて、不安を感ずる人は今でも居る。遠州などでは昨年の暴風降雹又は潮風といふやうな凶事のあつた命日には、無事であると其日も遊んだ（積志村民俗誌）といふことは謹慎して無事を念じたのであらう。山形縣の莊内地方でも、火事後三日の中に雨が降らぬと、又火事が有るといふ俗信があつた（東田川郡誌）。是も火靈の存在を信じて居たのでは無いかと思ふ。

　

　　　　　　　六　送り場

　

　神を送る場合が、以前は今よりも多かつたらしいことは、各地のかはつた例を集めて見ると略々推測し得られる。次にはその送りの方式の、共通點ともいふべきものに注意することが必要である。

　オクリバ　送り場又は神送り場といふ地名は、中國には最も多いが、他の地方でも隨分出くはすであらう。場處は一定して居て、先づ大抵は村はづれ又は持地の境であると思ふが、讀者は自分の知る例に就いて之を檢べることが出來る。野路の三ツ股になつた點などが、よく此地名を持ち又は現實に神送りの終點になつて居る。そこには石地藏や道祖神の石塔があり、庚申馬頭觀音もよく祀つである。村で共同の送り物をせぬやうになつてからも、家々の呪法にはやはり亦そこへ送つて行く。現在如何なる物がさういふ地點に於て見られるかといふことは、一應此事實を知つてからならば、何人にも興味があることゝ思ふ。

　カネオクリバ　三河の北設樂の山村などには、折々は鉦送り場といふ地名もある。是も蟲送りの際などに、鉦を鳴らしてそこ迄送つて行く仕來りから出て居る。

(465)　ムシオクリヅカ　神送りの路の終點には、塚をわざ／＼築いて置く例もあつたらしい。夜分の行列ならば炬火をそこに集めて燒き、日中ならば手に持つ小旗などを其上に樹てる。念佛塚といふ名の塚にも、此目的に設けられたものがあるかと思ふが、土佐などには蟲送り塚といふのもあつた。たとへば長岡郡｜介良《けら》の白水山の蟲送り塚、そこでは五月二十日に蟲送りの行事のあつたことが南路志に見えて居る。

　ムシノヤマ　八丈島では大賀郷から樫立の方へ行く往來の峠路に、少しのところ一面の磐石になり、其傍に僅かな椎の木山のある處を蟲の山と謂つた。平素も注連を張つて人の入ることを禁じて居た。爰では其注連繩に穗物を引掛けて置いて、年の豐凶を卜した外、田畠の惡蟲をこゝに封じ込めて置くのだといふ傳へがあつた（八丈實記卷三）。此島でも以前は蟲送りがあつて、送り先はこの村境の岩の所在であつたことゝ思はれる。會津地方にも、可なりの山奧に蟲の原といふ地名のある所があつた。わざ／＼それ迄行くやうな丁寧な送り方もあつたのでは無いかと思ふ。

　ウンカノモリ　周防風土記を見ると、村々の森の名にはウンカンモリといふのが少なくない。ウンカをそこ迄送る習はしがあつたものと思はれる。玖珂郡餘田村の同名の森は、一名を蟲祭森とも謂ひ、享保十七年の蟲害の際、こゝに蟲送りのあつた記事が、弘津史文君の報告にある（郷土研究二卷九號）。備前邑久郡では蟲送りの終點とする山林に、オンネモリといふ名が往々あり、其行列の囃し詞にも、

　　　オンネモリ、　サンネモリ

　　　あともさきも榮えた

といふ文句があつた（岡山文化資料一卷四號）。是には或は怨念《をんねん》といふ意味があつたのかとも考へられる。非業の死を遂げた昔の武士の亡靈も多からうのに、特に齋藤別當とのみ喋々するのは、何かこのモリといふ語の因縁では無かつたらうか。

　トコロガミ　北秋田の扇田附近では、ムシボヒ即ち此地方の蟲送りの際に、旗をトコロ神に埋めると報告せられて(466)居る（民俗學四卷二號）。この處神は鎭守のことでは無くして、地神又は山神のことかと思はれる。

　アイバ　南埼玉郡の村國地方では、六月十日の夏祈?の日社に集まつて百萬遍のやうなことをするのを、アイバと謂つて居る。以前は其大數珠を持つて村内の家々をまはつた。尚同じ日の夜は蟲追ひの行事もあり、松明をともしてホー／＼と喚びまはるさうである（郷土研究四卷五號）。アイバといふ地名は殊に埼玉縣に多く、何れも村と村との境である。現在はアイの田・アイの川などの名もあつて、間《あひだ》といふ意味に感じられて居るやうだが、本來は饗庭《あえば》即ち神を野外に饗する場處のことで、現に又其文字も多く用ゐられて居る。

　オンカミチ　尾張の東春日井郡味岡村などでは、蟲送りとオンカノカミとは別々の行事だと謂つて居る。後者は田植の約半月後に、村中總出で送つて行く。馬上の實盛人形の他に赤い布で作つた火をくはへた孔雀の鳥の形を麥藁でこしらへそれを村境まで送つて行く。其道筋が定まつて居て、之をばオンカ路とはいふのである。一度の送りで尚オンカが退散せぬと、第二囘は必ず火を焚いて之を擧行する。村によつては第一囘から盛んに松の火を焚く處もある（同上七卷六號）。

　カザアナフサギ　熊本縣では阿蘇の風祭が、亦一つの神送りであつたらしい。毎年四月と七月の兩度、平野の風の宮の近くに在る二箇の横穴、土地で風穴といふ處で祭を營み、大きな餅を造つて其穴の口に供へる。是を俗に風穴塞ぎといふ。斯うして惡風をこゝに追ひ納め、再び出ぬやうにするのだと謂つて居る（民俗學四卷七號）。

　イヘドウサマ　筑後星野の山村には、此名の神を祭る地があつて、村民はそこに瘡《かさ》の願掛けをして居る。昔瘡の出來た兒を爰へ棄てたのが、神になつたのだと傳へられる。だから參詣人は歸ると謂つてはならぬ。必ず黙つて來ることにして居る。もとが捨子の神だから、歸るといふと跡追ひをするのだといふ（櫻田君）。跡追ひを怖れるのは、他の地元の神送りに轉ぶを忌み振囘るを戒めるのと同じ趣意で、つまりは是も亦村の外で、祭らなければならぬ神であつた名殘と思はれる。

　

(467)　　　　　　　七　神座と食器

　

　神送りと謂つても、必ずしも行列を以て送るとは限つて居なかつた。家から遠く離れた地點で食物を供し、自分等は其間に還つて來ただけでも、目的はもう達して居るわけである。上代の道饗《みちあえ》又は堺祭の如きも、追ふといふよりは供物といふ方に重きを置いて居たが、その遺風は今でも見られぬことは無い。

　オクリモノ　東北で送り物といふ行事には、鉦太鼓や松明の入用の無いものが多い。たとへば氣仙《けせん》の廣田村などでは、傳染病の出來た時に、小豆の飯を炊き藁包みにして、路の十文字目に持つて行つて棄てるのが送り物である。斯うすれば其病に罹らぬとして居る（同村郷土資料）。陸中遠野では、既に其病氣になつた家でも送り物をした。氣仙とちがふのは、爰では藁の人形を作り、赤飯のむすび二箇と錢三文とを、俵バイシの上に載せ、草鞋一足を添へて村はづれの路傍又は四辻に棄てた。俵バイシは東京などでいふサンダハラ、即ち米俵の南端の葢のことだが、送り物の場合には之を逆に編む。其上に幣束を立てたのが、疫病の神の形代《かたしろ》であつた。始めに之を病室で祭つて、それから送り出したことは伊勢のケンロ送りも同じい。途を行く者之を見れば無言のまゝ又は唱へごとをして、後を振向かずに通り過ぎる習ひであつたといふ（人類學雜誌三四卷九號）。

　オクラヤ　山形縣の東田川郡などで、オクラヤと謂ふのは「送り屋」では無いかと思ふ。田植後に行ふ蟲送りの日に、蓬と菖蒲とを以て作つた飾り物である。是を竿の先に附けたのを持つて行列をしてあるく。終つて川に流し又は持還つて、何れかの田に立てる。蓬は蟲よけ、菖蒲は魔除けだと謂つて居た（郡誌）。五月節供にこの二種の植物を屋根に葺き、又は酒に入れ浴湯に入れることも、あの日だけの儀式では無かつたので、日本では却つて此方が元ではないかと思ふ。

(468)　サンダラオクリ　前に擧げた俵バイシは又タハラバシ、或はサンバイシといふ土地もあり、名は色々だが用法には共通が有る。是に草履を添へて疫病を送る例は陸中梁川にも有り（民俗研究四號）、又陸前石卷でも、此上に御幣を立て赤飯の握飯と小錢を載せて、三方辻などに持つて行くことは遠野と同じく、しかもそれをボウガミ送りと謂つて居る（石卷辯）。備前の海岸部では時疫の場合に限らず、弘く病を病人から離す意味で、この棧俵送りといふことをする。それには紙の幣束で無く、藁の柱を棧俵の中央に立て、其柱に青い木の枝を結び附けて米又は飯を供へ、病人に息を吹掛けさせてから、之を村の辻とか地藏樣の附近とか、俗に送り場と稱する一定の場所に送つて行く。之を持つて行つた人も其棧俵に、一息吹掛けて還つて來るのを例として居る（中國民俗研究一卷一號）。

　シマヤマ　信州大河原の山村に於て、二月十五日の神送りに作るものは、徑二尺ばかりの藁の輪であつて、是をどういふわけか島山と呼んで居る。その藁の輪には平生は十二本、閏年には十三本の五色の紙の幣束を立て、村民一同旗を立てゝ之を送つて行くのである。旗には馬｜申《さる》の文字、又は猿が馬に乘つた繪が描いてある。是を島山と共に川原から流してしまふといふ（郷土研究四卷三號）。

　オクリバシ　東京近在の送り物によく見かけたのは、簡略な木の枝の箸を幾つも繩に通して、簾の如く編んだものである。中國の田舍のコト祭の日にも、神にも人にも新しい箸を作るが、式後にはやはり二本の繩に插して、樹に引掛けたり屋根の上に揚げたりする。是を送り箸といふか否かは、實はまだ確かでないが、阿波の三好郡などの正月十五日の行事には此名がある。即ち他の地方で粥柱、又は粥かき棒ともいふものゝことで、此箸には粥を附けて柱などを叩きまはり（郡誌）、後では又一定の清い場處に納めて置くらしいから、簡單ながらも亦一つの祭具であつた。その送り箸の名は恐らく神送りの式から出て居る。

　ツグラ　豐前京都郡祓郷村等で、春は春祈?、秋は蟲祈祈?といふ二度の祭には、藁で小さなツグラといふものを作り、餅を是に盛つて水の神に供へる（郡誌）。ツグラは東國ではイヅメともエヅコとも謂つて、藁を圓くわがねて作る(469)器物の總稱である。普通は飯櫃を入れたり又小兒を入れたりする大きなものであるが、神に食物を供へる場合に限つて、小形の椀の樣なものにこしらへる。信州やその近隣の國々で、ヤスノゴキと稱して、正月に拜み松に取附けるのもそれだが、奧羽では又神送りの用に供して居るメクサレエヅコなどがある。眼を病む者がこの小さなツグラの中へ錢を入れて、路の傍に棄てるのである（橘正一君）。是と前に掲げた俵バヤシ等とは、製作の上からも至つて近いやうである。

　ナマイダブネ　肥前宇久島などで疫神を送るに、赤飯などを載せて海に流すナマイダ舟は、藁苞でこしらへたものだといふ（櫻田君）。ナマイダは即ち念佛のことであつて、普通は盆の十五日の夜の精靈舟のことをいふ地方が多いのだが、此島ばかりは疫病の場合の神送りである。送り盆と疫神送りの二つの儀式は、日が定まつて居るか否かの點を除いては、お互ひによく似て居る場合も少なくない。たゞ是に人形を載せるといふ段になると、盆の送り舟とは全く別になつて來るのである。

　サイハウマル　盆送りの精靈舟には、稻藁を以て舟形を作るものが少なく、西國では一般に麥稈を用ゐ、仍て又麥稈舟といふ異名がある（年中行事參照）。是はちやうど新麥の收穫の後であり、稻藁は舊年のものしか得られない爲に他ならぬ。土地によつては今日は板に紙を貼り、彩色をした舟などを作つて居るが、さういふものが昔から有り得た筈は無い。つまり神送りの方式は時と共に技巧を加へて居るのである。瀬戸内海の沿岸各地では、この舟の形に色々の新意匠が施され、西方丸などゝいふ船の名を附けたものさへあるといふ。即ち少しでも盆の精靈が愉快に旅立つやうに、即ち送り易いやうに改良をしようとしたので、藁苞を船の形にしたなども、やはり近世に入つてからの工夫又は流行であつたかも知れぬのである。

　カシマブネ　秋田縣の各地から津輕地方にかけて、鹿島舟といふものが神送りの式に用ゐられて居る。是などはもはや藁や麥稈の粗末な舟で無く、材料と製作に大分の錢をかけ、中には木で切組んで本物に近いものを作り、祭がす(470)むと引上げて家にしまひ込み、毎年出して使ふものさへある。斯ういふのは明らかに神送りの古くからの習はしに反し、既に一種の催し物と化して居るのである。以前は惡靈を追うた鐵砲が花火となり、盆送りの燈籠が町の装飾と化した如く、流燈も亦多くの湊町の遊樂となつて居る。しかも能代《のしろ》の町の鹿島船に、神力丸といふ舟しるしを揚げたなどは、尚西方丸同樣の一つの古い痕跡であつた。

　

　　　　　　　八　鹿島舟、鹿島人形

　

　カシマナガシ　秋田縣内の鹿島舟は、多くの土地ではもう年中行事となり、神送りの必要の有る無しを問はないやうである。大曲の町では五月二十七日（民族三卷四號）、秋田では近年舊五月十五日にこの鹿島祭を擧行したといふが（風俗畫報四五六號）、能代や津輕の深浦は共に四月八日、八郎湖畔では舊五月晦日に之を行ふ例もあつた。文化七年かの大地震以來殊に地震の無い常陸鹿島の御社を慕うて、この舟祭をする風が盛んになつたとも謂つて居る（軒の山吹）。しかし仙北郡の生保内《おぼない》などでは、今でも鹿島流しは年中行事では無い。たゞ旱の年に雨を祈る臨時の式として、等身の藁人形に紙の衣、紙の烏帽子を着せてたゞの舟に乘せ、太鼓打ち笛吹きが是に乘込んで、川を下りて送つて行く習ひであつた（郷土研究六卷二號）。

　カシマニンギャウ　但しこの多くの鹿島舟に共通な點は、舟に人形を載せて送ることで、他の府縣の送り舟でも、類例は有るのか知らぬが、私はまだ聽いて居ない。深浦の鹿島祭でも數多の人形を小舟にのせ、笛太鼓ではやしつゝ送つて出て海に流したといふが、舟と共にであつたかどうかは明らかでない。能代の神力丸も三つの人形を載せたとある（秋田風俗間?答）。是は恐らく舟と共に流したのであらう。大曲の鹿島祭では流すべき舟を柴で作り、是に鹿島さんといふ人形を載せ、又燒餅を其舟に積込んで川へ流すといふ（民族三卷四號）。しかも此人形は、本來必ずしも舟(471)に載せて、流すものとはきまつて居なかつたのである。同じ羽後國でも平鹿郡の或村などでは、盆を過ぎてから之を作つて村の境に立てゝ置いた。目的は疫病の防衛に在つたらしく、處によつては是を鹿島人形とは謂はず、草仁王とも又牛頭天王とも呼んで居た（雪之出羽路）。近年は北秋田の方では是を、

　ドジンサマ　とも謂ふらしい。即ち土人であつて、人類學者の教へた新語では無かつたかと思ふ。

　カシマノリ　茨城縣の北部に於ては、舊七月の十日、粟がらで人形をこしらへ其腹に團子をつめこみ、之を門の口に立てる。それを粟稈人形と謂ひ、又その行事を鹿島ノリといふ。鹿島?りであらうとの説もある（民俗學三卷一二號）。腹に團子を入れるといふことは、私たちには一つの暗示である。無論食物を饗應したことになるのであらうが、最初から人形であつたならば此考へは起るまい。即ち人形も亦ナマイダ舟などゝ同じく、元來は食器の藁苞から、次第に進化したものかと思はれるのである。

　ニンギャウオクリ　この鹿島人形を立てる日が、盆の前後であることも意味があらうと思ふ。同じ常陸國でも南部の稻敷郡の村々では、七月七日又は九日に、藁で二三尺の人形を作り、刀をさゝせ棒をかけさせ、團子を苞に入れて背に負はせる。夜に入つて之を燒棄てるといふ（民俗叢話）。霞浦東岸の村では之を人形送りと謂つて居る。日はやはり七月九日、人形は二體、眞菰を以て之を作る。其一つに小麥團子を詰めた藁苞を負はしめ、香取鹿島息栖と書いた旗を持たせる。子供たちは之を擔いで、

　　　かァとりかしま大明神

　　　戰に勝つたやァいやい

と囃しつゝ、部落の境のボサの蔭まで持つて行つて燒棄てる（民俗研究七號）。同じ湖水の對岸千葉縣香取郡新島村では、人形送りは夏の土用の行事であつた。此處でも眞菰でこしらへた人形が二つ、是に餅の苞を負はせる。旗には「鹿島香取戰に勝つた見いさいな／＼」と書くといふが（郷土研究二卷五號）、多分は亦子供の唱へごとであつたらう。(472)さうしてやはり村の境まで擔いで行つたらしく、此事は既に下總舊事考にも見えて居るから、少なくとも百年以來の習はしである。

　オスケニンギャウ　常陸の人形送りの七月九日は、其翌日が鹿島神宮の祭禮の日だつたからと、常陸國誌には説明して居る。村によつては此人形をオスケ人形と謂ふが、それは大神の御援助の意味だといふのは、さう容易には信じられない。何かまだ隱れた名の起りがあるかも知れぬと思ふ。

　ハラニンギャウ　久慈郡｜金砂《かなさ》村のオスケ人形は七月十日で各戸藁で作つた武者人形を一つづゝ、村の境に持出して集め竝べて祭をするといふが、別にこの附近では六月十五日の天王祭に、疫病除けと稱して藁人形を作り、之を村境まで送り出す風がある。其人形の腹の部分に、團子その他の御馳走を詰込んで送る故に、之を又腹人形とも謂つて居る（同上三卷一〇號）。人形は即ち送らるゝものであつて、村の護衛兵とは考へられて居なかつたのである。

　アハガラニンギャウ　香取地方の人形送りで、人形は二つ餅の苞は一つで、一方だけに負はせるといふ點も、私には意味が有る樣に思へる。即ち二つは始めから一組で、人數では無かつたやうである。稻敷郡西部の粟稈人形などにも、明らかに男女夫婦の形を表はしたものがあつた。それを村の端へ送り出して燒いたといふのは（民俗學三卷一二號）、即ち亦送られる神の形代であつたことを推測せしめる。我々の調査は一部分だが、此風習は今もまだ可なり廣い區域に生きて居る。刀を插させたり旗を持たせたりする作り方の、新しい意匠であつたことは、細かな比較によつて之を實證することも不可能では無からうと思ふ。

　

　　　　　　　九　實盛と彌五郎

　

　今までに列擧した各地の例だけを見ても、神送りの儀式が永い歳月の間に、僅かづゝだが變化して來たといふこと(473)は判る。さうして必ずしも複雜なものが、省略せられて簡單になつたとは限らぬのである。是は此行事が演戯的に面白かつたといふことが一つ、今一つの原因は何とかして效果多く、不安除却の成績を擧げたいといふ熱望の爲に、色々と新しい手段を附添へることが喜ばれたのだと思ふ。海川近くの村ならば舟の形を設け、平野の里ならば人形を馬に乘せて、送らうとしたのも其念慮の現はれかも知れぬ。さうして其人形とても、一方に幣束や樹の枝の抽象的な形代が有る以上は、後々今少しはつきりと送られ行くものゝ姿を眼に見ようと願つて、次々に藁の細工を巧むやうになつたものとも見られるのである。鹿島人形の名なども多くの土地學者の思つて居るやうに、もしも上古以來のものだつたら、是と實質を同じくする他の地方のものを説明することが出來ない。名稱は唱へごとや聯想などから、短い期間にも改まり得るものであつた。さうして其最も著しい例が、齋藤實盛であつたらうと思ふ。

　ノウガミマツリ　長門の海岸部では、藁人形を送つて終りに海に流す式を、農神祭と謂つて居る。しかも其人形の名は爰でも亦サネモリであつた。海に流す爲か馬には乘せず、又必ずしも害蟲驅除だけの目的でもなかつたらしい。此人形が海を流れて居る故に、漁が出來なくて海人が困つたといふ話もある（櫻田君）。此地方では又、

　サバエオクリ　とも謂つて居るやうである。

　サナブリサン　熊野の東牟婁郡などは、蟲送りの人形をサナブリサンといふ村もある。こゝでも麥わら舟に乘せて海に流すのであるが、之を送る時の唱へごとに、「サナブリの御通りぢや」といふ處と、「實盛殿は御通りぢや」といふ處とがある。二つの語は混同して居るのである。サナブリは人も知る如く、日本全國を通じて田植完了の共同祝日であつて、田植の始めをサ降りといふに對して、サ登《のぼ》りであつたことは略々確かである。サはサ月に村に降る神であつたかと思はれる。是が蟲送りの人形の名になつたといふことは、現在の事實だけでは解説が出來ぬが、少なくともサ苗取るわざが終つた後に、祭つて送られる神が有つたことは想像し得られるから、是と蟲送りと日が接近して居て、一方がやゝ輕く他の一方が重大になつた結果、名稱が混同したのかも知れぬのである。サバエを四國では田の神とし(474)て祭り、田植始めの式をサバエオロシと謂ふに對して、對岸殊に周防などの農村では、サバエは田植の後に祭る神、即ち敬して遠ざくべき神として居るなどは同種の例とも見られぬことは無い。同じ東牟婁郡の内でも那智村などのサナブリは、又サネモリサンともサンノモリとも謂ふが、全然人形を用ゐない神送りであつた。即ち各農家は個々の持田から、一本づゝの苗を集めて神棚に祭り、日を定めて是を神社へ持つて行くと、杉の葉で作つた屋臺樣のものに是を集め納めて、もう一度祭をしてから川へ流すことになつて居る（郡誌）。若苗を田の神に供へる各地の風、又は是を以て人形を作つて兒童に與へる習はしなどゝ比べて、もう一度考へて見るべき問題である。

　サネモリムシ　所謂實盛人形を蟲送りに限るといふことも果して早くからの習はしかどうか。簡單に決することは出來ない。攝津の豐能郡田尻村などの蟲送りは、やはり田植後六月中の行事だが、是には麥稈で實盛の人形と共に、家來の鼠の形を作つて行列で之を送り出すといふことが、號は忘れたが「旅と傳説」に見えて居る。其時の唱へごとに、

　　　稻の蟲送つた／＼

　　　實盛さんが御大將

　　　鼠どもがおともぢや

といふのは、以前又野鼠をも是で送つて居たことを意味するかと思ふ。野鼠も怨靈のしわざといふ俗信は、青ヶ島還住記の中にも録して置いた。近代はあらゆる農作の害敵のうち、蟲が殊に堪へ難いものになつたのであらう。福島縣でいふハスベエ蟲、即ちツマグアヨコバヒといふ蟲のことを、今ではサネモリ蟲と呼んで居る土地も多い。齋藤實盛は加賀で戰死したのだが、斯ういふことをいふのは京以西である。時は壽永二年の田植草取の頃かと思はれるのに、稻の株に躓づいて轉んで、打たれて死んだ遺恨で此蟲となつたといふことが、少しく日本外史を記憶する者の通説となつて居る。古い言ひ傳へのまゝだとは認め難いのである。

(475)　サネモリニンギャウ　九州の實盛人形は、之を説明する傳説と共に、殊によく發達して居るやうである。たとへば筑前の蘆屋あたりの蟲送りの唱へごとは、

　　　サネモリどんの陣立ち

　　　サァバイどんのおともぢや

　　　小ぬか蟲はひら立ち

といふので、幽かながらまだサノボリ送りの痕跡を存するに拘らず、其行列に持つて行く供養旗には、實盛ばかりか相手の手塚太郎の名まで書いてある。豐前北部の農村の蟲送り人形にも、鎧を着せ太刀を持たせた武者人形を二つ作つて、一方を手塚光盛と名づけ、齋藤別當と渡り合ふ所作までも、人が手を添へて演じさせるといふことである。人形をこしらへれば名前が附き所作が始まつて、追々に芝居化するのも自然である。斯ういふ原始的な呪法行事でも、民衆の知能と文藝との進みにつれて、滅んでしまはずに妥協して行くのである。社會の力を省みずに、裸の習俗だけを説くことは出來ぬかと思ふ。是と稍々近い又一つの類例には、

　ヤゴラウオクリ　といふのがある。尾張津島の天王の信仰區域、即ち實盛傳説の外郭に行はれて、しかも若干の共通性を具へて居る。たとへば美濃の山縣郡の各村では、舊六月中の疫神送りに、此神の社前から御幣と葉竹とを中に立てゝ、行列して村内を廻り、疫神を村外へ送り出すのを彌五郎送りと謂つて居る。昔津島神社の祠官堀田彌五郎といふ者、東美濃に來て土人に殺されてから、其祟によつて惡疫が大いに流行した。そこで是を津島に送り返す心で、此祭をするのだと説明せられて居る（郡誌）。津島の天王は早くから、疫神を制御する大神として、信仰せられて居たことは事實だから、是は全く根據の無い空想では無い。たゞ彌五郎殿といふ末社を堀田家の先祖のやうにいふことは、本社でも主張して居るが怪しいものである。九州各地の大人彌五郎を始め、此名は又方々の八幡社の從屬神としても知られ、祭典の日毎に人形になつて行列に加はり、大昔主神征服せられた古神傳を演じて居るのである（郷土研究四卷(476)一〇號、拙稿大人彌五郎參照）。美濃の山縣郡ではこの六月の彌五郎送りと同じ頃に、別にウンカ送りといふ式があつて、是は御幣葉竹で無く、藁人形を三つこしらへて、實盛夫妻と從者との像だと稱し、やはり村外へ送つて居るが、加茂可兒の二郡などへ行くと、やはり藁人形は三體で馬上のものが實盛、他の二つは奧方と彌五郎殿だといひ、之を村外に立てゝ蟲送りとして居る（民族三卷五號）。珍しいことにはこの彌五郎殿は、非常に大きな睾丸をぶら下げて居る。もとは食物か或は稻蟲を草の葉に包んだものであつたらう。越前大野郡の味見村などでは、正月十五日の火祭に人形を燒く式がある。是もあの地方ではヤンゴロと呼んで居る（郷土研究四卷一〇號）。名前の起りは津島に在つたにしても、彌五郎の五郎はやはり御靈《ごりやう》であり、人に災ひする亡靈の形代であつたのである。

　

　　　　　　　一〇　送り物の馬

　

　實盛を必ず馬上の像に作つたのは、又一つ別の動機があつたかと思ふ。或は馬を用ゐた故に、殊に齋藤別當といふ樣な武士を人形とする傳説が起り易かつたとも言へるかも知れない。しかし神送りに馬を牽くといふことは、我邦の信仰行事のいと普通なる型であつて、神馬十列も繪馬の獻納も、すべて神乘といふ信仰から出て居る、決して蟲の神だけに限らなかつたのである。それで此序を以て馬に就いての舊慣を集めて見るのがよいと思ふ。諸社の祭禮の行列に牽いてあるく馬を、御一つ馬といふことは早く知られて居るが、或地では是に神主や依坐《よりまし》の童を乘せ、或地では人形を載せ、又處によつては御幣のみ、もしくは空馬を牽いて其馬上に眼に見えぬ御姿を想像すると同じやうに、神送りの馬にも藁の人形を、必ず乘せて送るとはきまつて居なかつた。寧ろ何も乘せないで行くのが、私たちには古い形のやうに思へる。

　ワランマニンギャウ　筑前蘆屋では、前に掲げた蟲送りの實盛の他に、藁馬人形といふものを八朔の日に飾る。以(477)前は田の神送りであつたのが、近頃は子供の病を送る祭になつて居るといふ（民俗藝術五卷五號）。この藁馬には紙で作つた人形を載せて居る樣だが、此日は香川縣などでは馬節供ともいふ位で、馬の方が主になつて居る。初兒の生まれた家で米の粉細工の馬を作るといふのは（讃州高松叢誌）、或は藁馬に團子を負はせ、又は其腹に之を詰め込む風習から、進化したものかとも考へられる。兎に角に藁馬を送つて行く行事は各地に多く、之を八朔の日にするのは九州の一角に限られて居る。關東の田舍には七月七日の例が最も多いが、上總で私の目撃したのは六月の或日であつた。草で結んだ馬の背に餅を負はせそれを引張つて山の神に詣るのは、子供に取つては樂しみな儀式であつた。信州の諏訪郡では舊二月八目、藁馬をこしらへて道祖神の祭場に持つて行き（民俗藝術三卷三號）、伯耆の各郡では舊十二月十五日の未明、やはり藁の馬に團子を背負はせて道祖神に參り、神前の火で其團子を燒く（民俗學四卷五號）。何れも子供が參與したことゝ思はれるから、四國九州の八朔馬とも一面の共通はあるのである。

　タナバタンマ　陸前宮城郡の農村では、七月七夕の日に菰を以て二疋の馬を作り、その一つには人形を載せ、之を馬屋の棟に立てる。田の神が之に乘つて田畑を見廻つて下されるが、其御姿を見たものは死ぬといふ（旅と傳説三卷三號）。即ち人形が田の神であつたわけである。七夕に眞菰の馬を作る習はしは、東京の附近にもある。たゞ何の爲に之を作るかゞ今は既に不明になつて居るだけである。

　ガツギンマ　眞菰を秋田縣等ではガツギと謂つて居る。此馬を必ず二つ、盆にはこしらへて盆棚に飾る風習が角館などに有る。耳も菰の莖を斜にそいで插し、尻尾には若苗を乾して置いて附ける。送り盆の日に此馬に供物を載せて、墓場まで持つて行つて置いて來る（武藤銕城君）。他の地方の盆の送り馬は、通例は瓜と茄子の二つに、苧穀の脚をさして作ることになつて居る。是にも饂飩を荷繩と謂つて掛けたり、又送り團子を背負はせたりして、川に流し又は精靈舟に載せて送るやうである。茄子の方を牛と稱して唐辛子の角を附けたりするが、元は是も牡牝の二つの馬であつたのであらう。

(478)　エンマ　信州の大鹿村釜ヶ澤などでは、二月十五日の神送りの日、駒引猿を印刷した紙を十二枚づゝ笹に附けたものを三十本こしらへ、之を以て家の中を祓つてから、子供たちが鉦太鼓を鳴らし、サンヤレ／＼と囃しながら、之を送り澤といふ處まで持つて行つて棄てゝ來る（民族三卷二號）。エンマは即ち繪馬であらう。

　カヘリゴマ　駿河安倍郡の山村でも、五月四日と十一月某日と兩度、馬の版畫を持つて行つて氏神の社前に貼り附ける。十一月の馬の畫を歸り馬と謂ふ（仙梅日記）。五月の方は何といふか知らぬが、田植の前と稻苅の後との式と思はれるから是も亦田の神の來去を想像したものであらう。

　デゴマイリゴマ　陸中遠野の周圍の村でも、やはりこの兩度の式に馬の版畫を竹に插んで田に立てる。私の見た繪紙には其馬の口の所に、べた／＼と粢《しとぎ》が塗り付けてあつた。春と秋とでは馬の畫の向きがちがふ。入り駒は右を向き出駒は左を頭にして居る。是などは明らかに田の神に乘物を進ぜる意味であつたことがわかる。

　シロンマアカンマ　神送りに二つの馬を供する理由の方はまだ自分には解しかねる。肥前西彼杵郡の福田村などでは、蟲送りに白馬赤馬の二つを作つて送り、行列が二つに分れて馳けくらをすると見えて、赤馬が必ず負けることになつて居るといふ（原口健三君）。是などは或は旱送りの遺風で、赤馬は昔の神馬の卜の如く、晴天を代表して居たものではないかと思ふ。少なくとも神送りの目的が、元は害蟲驅除だけには限られて居なかつたのである。

　オカリ　馬以外の動物を送り物にした例もある。紀州有田郡の村々では、以前は正月四日の寺のオコナヒ（修法）の日のあとで、豆蕎麥などの袋を寺から四五袋乞受けて、是を以て野猪の形を作り、先づ山の神に供へて後、兩親の揃つたものが之を鐵砲で打ち、其餘勢を以て山中に入り、猪猿等の獣類を村中總出で追攘うた（有田郡年中行事）。

　イヌコマチ　羽後の湯澤あたりでは正月十二日頃から、小正月の支度の市が立つて、其中で餅でこしらへた犬を賣る店が出る。是を犬こ町と稱してどの家でも之を買つて行くことになつて居る（湯城二〇號）。小正月の晩に其餅犬を戸の棧などに置いて、年中盗に入られぬ呪ひとすることは、越後以北の地に廣く行はるゝ習俗であつた。以前は無論(479)家々で自ら作つたのである。

　ハナザル　熊本縣の球磨郡では、暮の餅搗きの日に合歡の木を削つて、シュンナメジョウといふ女の人形と共に、ハナザルといふ猿の形をこしらへ、之を俵の上に立てゝ正月飾りとする（民族一卷二號）。彈き猿といふ玩具も此日作る例になつて居た。其動機は他にまだ例が見付からぬ故に、之を推測する手掛りも無いが、彈き猿は伊勢の神都に近い何とかいふ佛堂の賽日にも、また正月の縁喜物としても以前から之を賣つて居る。

　

　　　　　　　一一　神二體

　

　今までに列擧した中にも、神送りの人形を二つ作つて居る例は相應に多いが、是を明らかに男女の形にして居るのが、又方々に有るのは注意すべき點である。陸中遠野の雨風祭の人形などもさうであつたが、田舍の人たちは思ひ切つて露骨に此法則を實現しようとして居る。同じ縣の稗貫郡などで、二月八日に門口に立てる藁人形の如きも、木の刀に大根を輪切りにした鍔を貫き、形は隣縣秋田の鹿島人形と同じだが、やはり男女の顔を描いた紙を貼りつけて、門の口の兩側に立たせ、是を、

　ハルマツリ　と稱して病魔を入れぬまじなひだと謂つて居る（湯本村誌）。加賀の能美郡で疫病神送り、又はガイケの神送りと稱して、荷車に乘せて部落中を牽きまはり、終りに川へ流す人形なども、其名を、

　ヤイコノババ　といふが、其實は老人夫婦の人形である。村によつては今でも舟に乘せて擔ぎまはるといふが（郡誌）、此方が多分前の型であつたらう。神社祭禮の飾り物にも、是と似た例が多い。たとへば秋田縣の鹿角地方で、

　サキリノヂババ　といふのは、普通高砂の尉と姥の人形であつた（内田武志君）。サキリは囃子のことだが多くの土地では祭屋臺を意味して居る。中國の方でも周防都濃郡の富田町と其近村とで、秋の祭の日に牽いてあるく、

(480)　ヂイバアヤマ　といふのは、藁人形に神寶の面を被せたもので、是を車に載せて行き、最後には轉がし落して、參詣の人々に爭ひ取らしめる（民俗藝術一卷九號）。備中倉敷の阿智神社の秋祭などは、人形の代りに人が爺婆の面を被つて、飛びまはるのださうである（同上一〇號）。東國では常陸行方郡藏川の御船神社などの、五月田植の後の大祭の飾り物は、どういふ意味か之を、

　ナハバナガシ　と呼んで居る。御社に屬する神田のまん中に、是は人形では無いが二本の太い竹を立て、各々｜角樽《つのだる》を下げ杉と榊の葉を以て飾つたものに、藁でこしらへた男女のしるしを附けるのは（民俗叢話）、やはり亦此竹を或神の形代と見るのであらう。人がさういふものを身に附けて行列をする奇拔な例は、尾張三河の間には幾つと無く算へられるのであつて、こゝでも神社の祭典と家々の年中行事との、所謂失はれたる鏈を遺留して居るのである。越中射水郡下村の加茂神社で、六月初卯の日の田植祭に、

　オホヲトコ　と稱する二個の人形をこしらへ、式後に庭へ投出して群衆に爭奪させることは、郡誌その他の報告が既に公けにされて居るが、是は村共同の知れ渡つた公けの式で、此日は家々でも別に小形の同じ人形二つ、其名をヲトコと謂ひ又は、

　アカモノカアハン　といふのをこしらへた。之を各自の神棚に祭り、又御社へ送つて來て納めるのが、古い仕來りであつたことが見落されようとして居る（日本農業雜誌二卷一三號等）。此人形は背に柳とシラカケの小枝を負うて、男女のけぢめは無いやうにも見えるが、之を男といひカアハンと謂つて居るのが、或は夫婦の神と見た痕跡かと思ふ。アカモといふのは其人形を作る材料の植物、ガマ即ち眞菰のことである。信州南山地方の六月行事に、男女二體の麥藁人形に、白い紙の衣を着せて送るのを、普通は、

　オカタオクリ　と謂ひ、又は關のオカタとも謂つて居る（郷土研究一卷一號）。オカタは人の妻のことで、此地方では東北とちがつて、是を敬稱に使つて居る。關のオカタは其名を關のオマンと謂ひ、是も系統の稍々明らかな傳説ら(481)しいが、熊谷氏傳記や關家傳記の話す所に從へば、和地野の城主關某の室であつた。城没落の際に七歳の和子と共に、奸臣の爲に路の傍で殺されたことになつて居る。其亡魂の災を成すを和めんが爲に、春の祭の日には人形を作つて、之を三河の方へ送るのだといふ（傳説の下伊那）。それにしては其人形の男女二體であることが、少しばかり説明に苦しむのである。注意すべきことには、山を隔てた三河の南北設樂郡でも、隣國の六月行事に對して、こゝでは二月の八日に、

　オカタニンギャウ　といふのを送つて行くことになつて居る。村内の各戸から錢を乞ひ、其家の疫神を此人形に移させて、定まつた場處に持つて行つて棄てるといふのだから、加賀のヤイコノババなどゝ可なり近いものになつて居るのである。此邊の村々にオカタ屋敷と呼ばるゝ舊家があることは、たしか早川君も以前報告した。自分は或は右のオカタ送りと關係のある屋號では無いかと思ふ。紀州の和歌山とその附近では、木彫りの人形の首だけのものを、特にオカタといふ方言がある。關東では之をアネサマと謂つて、是に色々の紙の衣裳を着せることが、今では子供の遊びの一つになつて居る。起りは或は送り物にあつたのでは無からうか。オカタもアネサマも語の感じは至つて近い。

　

　　　　　　　一二　女性の神とコト祭

　

　三河の山村のオカタ送りが、二月八日であつたことは一つの手掛りになる。此日はコトと稱して東國では廣く惡い神を追ひ又は送る日であつたからである。それで出來る限り多くの土地の類例を、今後も集めて見る必要があるのだが、其中でも私たちに、偶然で無いやうに思はれるのは、遠州の榛原地方に行はるゝ、

　ナリガミオクリ　のことである。ナリガミは又オナリ神といふものがあつて、久しく我々の間に問題になつて居る田植歌のオナリ、即ち漢字で書いて養女といふものと、別のもので無ささうだからである。沖繩では今尚オナリとい(482)へば姉妹のことで、其靈が兄や弟の守護となるといふ信仰のあることは、伊波君も夙く之を説いて居られるが、中央部の方ではたゞ食物を調製供與する人、即ち家刀自又は若嫁の意味にしか解せられて居ない。しかもそれが神送りの一つの形代の名になつて居たとすると、延いては信參山間のオカタ送り、又は北國のアカモノカアハンの行事を、南の島々に遺り傳はる家巫の信仰と、結び附けることも出來るわけである。遠州のナアリガミは笹竹を立てゝ送るのみで、川崎町などの例は其期日も舊正月の八日になつて居る。しかし其行列の唱へごとが、

　　　ナアリ神送りよ

　　　しん月八日を送りよ

と謂ふのであつたといへば、以前は他の月であつたのが變つたものとも見られる。とにかくに現在はこの正月八日の未明に、念佛の鉦を打ちつゝ其笹竹を中に立てゝ、海岸の砂の上まで送つて行つて燒くのである（民族二卷二號）。同じ榛原郡のうちでも村によつて、二月と四月の八日の朝、ナリ神を送つて行く處がある。其笹竹で寢坊の家の雨戸を打ちあるくことが今では興味の中心になつて居るらしいが、目的は今尚惡魔を拂ふ爲と認められて居る（内田君）。此郡以外ではナリ神といふ語の存在はまだ確められて居ない。駿河の安倍郡などは、單に之を、

　オクリガミ　と謂ふだけである。しかし爰では榛原などの笹竹の代りに、藁人形を藁の馬に載せて送り、其日は亦二月八日である（郡誌）。子供たちの唱へごとは、

　　　送り、送り、送り神を送れやい

といふので、河筋を下の方へ送つて行つて、しまひには流すといふ。遠州も濱名湖西の村々は、二月の八日と十二月二十日に送り神の式をするが、正月の爲の清めといふ意味で、歳末の方に重きを置いて居る。人形は二箇藁を以て作り、其中へ一年中の古い御幣や御礼を詰め込む。是を檜の葉と竹とで作つた舟の形のものに載せて、少年が擔いで村の外まで送り出して棄てゝ來るのである（郷土研究一卷一號）。三河でも東部の國境近くになると、やはり送り神とい(483)ふ名があつて其日は二月八日であつた。其日は先づ竈の上の煤を拂つて大道に持出し、次に藁人形を作るといふから此芥をつめ込んだのであらう。さうして之を竹竿のさきに立てゝ、遠州同樣に「送り神を送れ」といふ唱へごとをしつゝ、村の端や川べりなどへ送つたといふことである（吉田領風俗問?答）。煤を拂つたといふのを見ると、或は爰でも十二月のうちに、正月支度の送り神もしたのでは無かつたらうか。もう一度八名渥美の二郡を、白井君などに頼んで再調してもらひたいものである。

　遠江の送り神の十二月二十日も、或は一つの特例であつて普通には八日であつたかも知れないと、いふわけは年中行事の方で既に説いた如く、十二月八日と二月八日は、何れもコトの日と稱して、同一の儀式を行ふ土地が多いからである。コトもしくはオコトといふ語は、固有の日本語で儀式を意味して居たやうである。是を十二月と二月の八日節供の日としたのは、主として東海關東の農村だけであつて、近畿中國には三月のなかば、新暦四月に入つてコトをする處も多いのだが、そこでも送り箸を屋外の樹に掛けたり、又は食物を路の神に供へたりして、幽かながらも神送りの原の型を傳へで居る。私などの想像では、村に疫病が流行し、又は稻田に蟲が附いて、それから急に神送りを企てるといふ現在の流儀よりも、一段と古い形は毎年日を定め、まだ少しでも實害の眼に見えぬうちに、豫め或期間の不安を除去して置かうとする、コトの祭であつたやうに思ふ。是には勿論蟲とか疫病とかの特定の敵は無い。たゞ人間以上の力を具へた靈物が、餘り久しく我々と雜居して居ると、末にはどういふ怖ろしいことを引起すかわからない。それ故に必要の期間が過ぎれば、田の神も正月樣も又家々の祖神も、共に皆饗應して送りかへすことにしたのではあるまいか。さうで無ければ正月の重い節日に先だつて、十二月の八日に神送りをする理由は解つても、更に二月の八日といふそれからは別に何の行事も無い際に、コトの神送りをする動機がわからぬのである。盆の祭の魂迎へが家々の事務なるに反して、十五十六日の精靈送りだけが、大規模であり又村共同であつたなども、或は秋の收穫後の神無月の始めに、土地によつては同じやうな人形祭が行はれるのも共に以前の神送り思想の、今日とは異なつて居たこと(484)を認めなければ、その方式の一致を説明し難いのである。神の來去といふ信仰は、佛法が流布してから大分變化したらしい。村から出てもらふのは必ず惡い神であり、其他の神々は永住したまふものゝ如く思ふやうになつて、コトの行事は一段と不可解になつて來たやうに私には思はれる。

　

　　　　　　　一三　總括的な神送り

　

　神送りの方式には著しい全國的の一致があつて、しかも期日の一點では、土地毎の異同が目に立つことは、此次に我々の考へて見なければならぬことであるが、大體に一つの目的を以て迎へられた神々は、其任務が終ると毎囘送られて居たので、是には好ましい神と否との差別は無く、寧ろ無用に永く之を抑留することを、欲しなかつたのでは無いかと思ふ。例は數多く是からも集まることであらうが、私はこゝにその若干の共通點あるもの、即ち人形によつて送つて居るものに就いて、比較を試みて見ようと思ふ。是をコトと呼んで居る例は、信州下伊那郡根羽村などの、

　コトガミオクリ　がある。期日は七月の七日、即ち他の多くの地方で七夕流しをする際である。こゝでは馬に乘つた藁人形を青竹のさきに插して、立てゝ置いて禰宜樣に拜んで貰ひ、小麥を一握み包んで水引を掛けたものを其竹の枝に結びつけ、送つて境塚といふ處まで持つて行つて立てるのだといふ（蕗原四號）。七月七日をコトといふ例は他ではまだ聽かぬが、石見の邑智郡でも道祖神の祭をコトオヒマツリと謂つて居る（石田春昭君）。但し此祭には果して伯耆のやうに人形を送つて行くかどうかは確かでない。

　ナガシニンギャウ　是は大和の吉野郡などで、三月三日の節供に賣る小さな人形である。女の兒が之を買ひ求めて川に流し、淡島樣に上げるのだと謂つて居る（郷土研究二卷八號）。雛を流す習慣はまだ弘く行はれて居る。東美濃でも年々出して飾る雛人形の他に、特に土燒の粗末な雛を求めて、水の流などに送つて行く（林魁一君）。人形の製作が(485)近頃のやうに精巧になる迄は、三月の人形も亦草雛のやうに、毎囘送り流すものばかりであつたらう。東京の近郊などは、今でも雛人形が古び又は損じると、是を里はづれに持つて行つて棄てる。張子の目無し達磨なども此日送り出すものが多い。馬入川の岸の村では、毎年節供の翌日に雛を川原に持出して共に飲食し、悲しい歌を唄つて、これを流したといふことが嬉遊笑覽に見えて居る。

　クサメ　八丈島には草で髪をこしらへて紙の衣服を着せた人形がある。クサメは草女であらうかと藤木君は言つて居る。此島の樫立村では近い頃まで、三四月の交に神の船といふ神送り行事があつた。舟の形をこしらへて擔いで村をあるいたが、其時の唱へごとは、

　　　皆乘れ／＼

　　　よい神も乘れ、惡い神も乘れ

　　　乘りおくれなヨーイ

と謂つた。其折女の兒はこのクサメを作つて、此舟に乘せたのださうである（旅と傳説三卷三號）。

　カヅラニンギャウ　三河の佐久島では九月九日の節供に、女の兒のある家で此人形を飾つた（土の鈴四號）。是も多分祭り終つて流したものであらう。伊勢の富田地方でもカヅラサンといふ人形を、子供たちが草でこしらへた。漁家の秋といふ季節に（初夏であらうか）、次のやうな唱へごとを唱へつゝ、之を川へ流したといふことである（大野千枝君）。

　　　カヅラサン／＼

　　　又來年御出でな

　　　鯛こて（買うて）ゆわを（祝はう）

　　　ぼらこてゆわを

　三月の草雛も是に近い言葉を以て流した。靜岡地方のオカンジャケなども、元の目途は是であつたらうかと思ふ。

(486)　タナバタニンギャウ　信州松本邊の七夕人形のことは、天野氏の隨筆鹽尻にも既に之を記し、古い習俗である上に又廣く越後甲州にまで及んで居るのだが、是も雛人形と同樣に近頃になつて工作が進化した爲に、送るといふ一點がはつきりしなくなつた。現在は是に家の子供の衣服などを着せて吊り下げる風が多いが、多分は此祭に兒童が參與した名殘かと思はれる。

　カハゴシニンギャウ　此人形を北安曇郡などでは、川越し人形又は川渡りとも謂つて居る。七夕樣を負うて川を越すからとて、人形の着物を尻はさみにさせて下げる（同郡郷土誌稿卷三）。

　アマノカハ　七夕人形の風習は上越後の、直江津糸魚川邊に今も行はれて居る（續三千里上卷）。近頃のものは板やボール紙の平たいものが多いが、以前は此國では藁人形であつた。古志郡栃尾邊では七月朔日にこしらへて飾り、二十七日まで置いて流したといふ。しかも是を「天の川」と呼んで居るのは、七夕を中心の儀式であつたことを示す。人形の數は澤山で、駕籠槍挾箱などまで揃へて大名行列の如く、それを家の前の左右の木に繩を延べて吊つたといふ（北越月令）。是も既に高松の獅子駒などゝ同じく、人形の技術として鑑賞せられるやうになつて居たのである。

　ウスネブリ　八朔のシシコマ即ち米の粉人形の風習は、對岸中國にも及んで居ることは、年中行事の方にも述べて置いたが、其中でも備前牛窓邊の例は、最終に必ず臼舐りといふものを作つた。至つて不細工な背の低い女が二人、臼の兩側にサバッテ（取附いて）居る所で、是は女たちが作るものとなつて居た（岡山文化資料一卷四號）。見にくい娘を此地方でウスネブリと呼ぶのも是から出て居る。

　シュンナメジョウ　肥後の球磨郡では暮の餅搗きの日に之を作る。但し餅細工では無く合歡木を削つて作り、紙の衣裳を着せて、正月中は俵の上に飾つて置き、正月が濟むと荒神藪に持つて行つて立てる。是を作つて置くと田植の加勢が多いと謂つて成るたけ數多く作ることにして居る。高さは普通四寸ばかり、爰でも目の細いをかしな顔をした女を、シュンナメジョウみたやうなと謂ふさうだが（民族一卷二號）、其名の起りはまだ私には考へられない。

(487)　ワラヨメジョ　長門の厚狹郡小野村など、正月十四日のトヘイの晩に、子供が御祝ひの藁の馬などを持つて來る外、嫁を貰ひさうな家へは藁嫁じよといふものを持つて來る（防長史學三卷一號）。是も多分藁人形と思ふが、しまひにどう始末するかはまだ報告せられて居ない。

　ヰノコニンギャウ　播州加東郡の小野町附近では、舊十月亥子の晩、新藁を以て人形をこしらへ、子供が其人形を持ちまはつて、それで家々の門を叩く習慣がある（播磨二卷六號）。是は珍しい例で他にはまだ同じ話を聽かない。中國四國の村々の亥子では、ボテとか苞とか謂つて藁を束ねた太い棒を作り、それを以て家々の前の土を打つのである。音をよくする爲に繩で堅く卷き、今では苞とは謂へない形になつて居るのが普通だが、亥子がすむと此ボテを屋根の上などに上げて置いて、常用の物と差別する例は多く、中には又このボテに食物を入れる處もある。常陸地方の所謂腹人形の外、六月の藁馬や道祖神祭の馬にも、腹を苞にして中へ餅團子を入れる場合が少なくないから、此等を比べて行くと、人形のもとは藁製が多かつたと同時に、その人形も亦藁苞から、次第に進化した事が想像せられるのである。馬も舟も亦さう見られる。つまり苞は單なる食器では無く、その食物を饗せられる神靈の形代でもあつたのである。

　

　　　　　　　一四　起原論の効用

　

　世界さま／”＼の民族の中に、如何にして人形といふものが始まつたかといふことが、もしもそれ／”＼別の問題であり、一國限りの原因であるならば、此研究も至つて心輕い、或はどう解して置いてもよい位の事かも知れぬが、私は今ちやうど其反對に考へて居る。即ち一つの隅つこの眞實が、他では全くうそであるべき理由は有り得ないと思ふ故に、餘分の力瘡を入れて見たくなるのである。勿論一旦それが起つてから後は、國々獨自の環境に適應して、互ひに(488)異なる成長過程を歩むであらうが、それさへも時々驚くやうな遠方との類似が存し、是を偶合といふ非學問的な解釋の下に、珍重しようとする人が多いのである。日本は神國だといふ今までの通説がもし其信仰の二葉から、又は其種子からがよその種族とは別々で、一を以て他を推すことは出來ぬといふ程に徹底したものだつたら、獨り人形だけに斯ういふ研究態度を、取るわけに行かぬのは當然だが、私は自分の同胞を、さういふ人類離れのしたものとは認めることは出來ない。從うて比較の學問は、どうしても二つの部面に大別せられなければならぬと思つて居る。即ち第一段に於ては人の天然の性として、どこに居つても同じやうに展開せずには已まなかつた固有の文化と、それが後々の特殊なる歴史に動かされて、新たに面貌を改めて行つた第二次以降の文化とは、いつでも辨別して雙方を入れちがひに、比べるやうな事を愼しむべきだと思つて居る。今日の起原論者の多數が、國外には通用せぬ斷定に得々として居るのは、實は中間の成育過程の片端を以て、最初のものゝ如く誤解して居るのであつた。但し神道の方面に於て之を論破しようとすると、鐡の鎧の厚ぼつたいのを着て行かねばならぬが、人形の問題ならば事は稍々容易だらうと思ふ。

　人形の固有文化はえらい進歩をして居る。假にその最も變化した部分によつて、直ちに二千年以前の人形も亦ハリコの胡粉を塗つたものであり、背や腰のあたりに絲の緒や竹串を取附けて、人が自在にあやつり得るものだつたと推論するならば、誰でも急いで其誤謬を指摘してくれるだらう。そんな推論をする必要は少しも無いのである。今日一方で人形芝居の如き進んだ藝術のある時代ですら、尚一歩郊外の村に入つて見ると、茅の穗や麥稈を括り、又は木を削つて竿のさきに附けた、少しも動かない素朴の人形を、こしらへては毎年川に流して居るのである。それと是との中間も亦幾つかの階段があり、或は刀をさゝせ紙に顔を描いて藁束の球を包み、又は陰陽のしるしにのみ特に力を入れて、これで人の形だと安心しきつて居る者も多いのである。是を利用する人々の心持を見ても、たゞの娯樂もあれば熱烈なる神送りもあり、又その中途の親は笑ひ子は樂しみ、無學の姥たちは是を缺くべからざるものとして居るといふ場合もある。此等の變化を以てそれ／”＼の起原、別々の發明と解せざる限り、多くの事例の異同は必然に進歩改(489)良の道程を、明示せずには置かぬのみか終局にはどれが其中の古い形、即ち本當の起原に近いものかを、言ひあてさせずには居るまいと思ふ。日本は異常に其實例の豐富なる國であつた。よそで資料が乏しくてたつた一つ二つの殘留物から、誠に無理な想像説を生まうと努めて居るからとて、そんな氣の毒なものゝ眞似をするには及ばぬ國である。爰で判つたことが直ちに彼等の問題を説明し能はぬまでも、少なくとも大きな有力な參考にはせずに居られぬことゝ信ずる。二國以上の習俗の比較が、始めて一般の起原論に役立ち得た場合は彼等こそ?々經驗して居る。たゞ人形の起原などに於て、今まではまだ我々のやうな適當なる手傳人を得なかつただけである。

　個々の民族の特色ある研究が、世界國際の學問になる爲には、準備もまだ足らぬが第一に我々の抱負が出來て居ない。從うて左右郷黨人の讃歎を博するを以て、能事とするやうな物知りのみが横行するのである。採集は要するに世界を賢にするの事業で無ければならず、研究は唯さしあたり得られる資料だけの、限られたる試論に過ぎぬことを覺悟すべきである。今日の資料は地域的に狹隘であり、又觀察としても偏して居るが、それでもまだ此編に説及ぼさなかつた童戯や演藝としての人形、呪法として尚用ゐられて居る人形についての事實が、若干は既に集まつて居る。餘り長くなつたのでそれだけは次の折に陳列したいと思ふが、とにかくに人形の始めて出現した事情が、さう區々のもので無いだけは、私は略々之を認めようとして居るのである。信仰の熱烈であり、人の空想の多彩であつた時代には、人形などを作り立てる必要が無かつた。天然の樹の小枝の蔭、又は些々たる齋串の端にも、是が神だといへば各人はあり／＼と神の姿を幻覺し得たからである。もつと具體的な誰にでも疑へない驗しを掲げよといふ要求が起つて、始めて草を結び藁を束ねて、少しばかり人間の形に近いものを作ると、それだけでも亦俗衆の確信は蘇へり得たものと思ふ。さうして次々の改良完備には、寧ろ信仰の衰微と娯樂心の増進とに、促されたものが多かつたかに見える。是が神格思想の發達の略筋でもあれば、同時に又此國民の内部生活の歴史でもあつたやうに私は思つて居る。一たび人形によつて神を送つて居た者が、後に之を略して笹竹とし、又は島山の如き藁製の神座、もしくは馬や舟ばかりを以(490)て滿足し得た筈が無いとすれば、現在さういふ形を以て古來の神送りの式を行うて居るのは、一言でいふならば、人形以前である。我々の起原論の資料は、必ずしも記紀萬葉等の中に捜索するを要せず、又是等の書物は古く成つたといふだけで、大部分がやはり成長過程の記録である。それよりも年久しい事實を、常民こそは尚保管して居るのである。

　盆の精靈送りがもとは一種の神送りであつたことは、雙方の行事を比べて行くうちに、大きな論議をせずとも自然に我々には判る。獨り麥藁舟や茄子馬に、食物を積むといふ點だけで無く、今日所謂農村の娯樂なるものも、亦これ一つの靈を驅逐する足踏みであつた。始め道の辻に輪をこしらへて、靜々と歌つて居るうちはさうも見えないが、やがて時刻が來ると人が一列になつて、踊の調子を早めて村境まで出て行く例が稀で無い。信州｜且開《あさげ》村などでは新盆の家の切子燈籠をこゝに持つて來て、先達を頼んで太刀を拔いて斬碎いてもらひ、それに火を掛けるを以て踊の終とする。この際に鐵砲を放した土地も西國四國にはある。鐡砲は外來文化であるが、其時の村の人の心持は、ちやうど此技術を應用するに適して居たのである。盆に花火を揚げるのは又その一つの改良のやうに思はれる。盆の行事は寺や家の内で行はれた部分ばかりが、普通最も詳密に報ぜられて居るが、今後尚その結末に關しての我邦特殊の作法をも、土地毎に十分精確な觀察を遂げたいものである。盆行事の特輯號が七月に出るを豫期して、其前に私の目下の意見を掲げて置く。

　

(491)　　　第十三卷　内容細目

　

年中行事覺書〔1955年10月、修道社、1949年3月、日東出版社〕

　著者の言葉

　年中行事（昭和二十四年三月、遞信省教養の書シリーズ）

　歳時小記（昭和十二年二月、俳句研究四卷二號）……………………………………四三

　春おこなひ（昭和十二年八月、民間傳承二卷十二號）………………………………五七

　三月節供（大正十五年三月、民族一卷三號）（原題「三月の節供に就て」）………六〇

　卯月八日（大正六年二月、郷土研究四卷十一號）……………………………………六二

　サンバイ降しの曰（昭和二十四年五月、讃岐民俗三卷一號）………………………六七

　六月朔日の雪（大正四年七月、郷土研究三卷五號）…………………………………七五

　眠流し考……………………………………………………………………………………七六

　犬飼七夕譚（昭和十一年八月、俳句研究三卷八號）…………………………………九五

　精靈二種のこと其他（大正十五年七月、民族一卷五號）……………………………一〇七

　おくんちのこと（昭和二年十一月、民族三卷一號）…………………………………一一〇

　十月十日の夜（大正三年十月、郷土研究二卷八號）…………………………………一一二

　亥の子のこと（昭和二年十一月、民族三卷一號）（原題「亥子祭の例」）………一一三

　案山子祭（昭和十年三月、案山子考）…………………………………………………一一五

(492)　ミカハリ考の試み（昭和二十三年十月、島根民俗通信八）…………………一二二

　臼の目切り（昭和二十四年八月、民間傳承十三卷八號）……………………………一三〇

　二十三夜塔（昭和二十五年二月、本流一號）…………………………………………一三二

　歳時習俗語彙序（昭和十四年一月、民間傳承の會）…………………‥……………一六三

　年中行事採集百項（昭和十二年一月〜四月、民間傳承二卷五號〜八號）…………一六六

　

新たなる太陽〔1956年1月、修道社〕

　新たなる太陽（昭和四年十二月、週刊朝日十六卷二十六號）………………………一八一

　年神考（昭和二十五年一月、民間傳承十四卷一號）…………………………………一八六

　春と暦（昭和三年一月、週刊朝日十三卷一號）………………………………………一九一

　年木・年棚・年男（昭和七年三月、郷土研究六卷一號）……………………………二〇一

　新年懷古（昭和十五年一月一日〜三日、東京朝日新聞）……………………………二一六

　これからの正月……………………………………………………………………………二二二

　吉日思想（昭和二十三年一月一日、NHK放送）……………………………………二二五

　正月と子供…………………………………………………………………………………二二九

　小正月の晩（大正十一年一月十六日、東京朝日新聞）………………………‥……二三四

　正月の火（昭和二十三年一月五日、神社新報七七・七八號）………………………二三八

　歳�ｺ神のこと（大正十四年三月、青年十卷三號）……………………………………二四三

　年棚を中心として（大正十五年一月、民族一卷二號）………………………………二四五

　荒神松のこと（昭和十一年二月、民間傳承一卷六號）………………………………二四八

(493)　スベキ松・荒神松（昭和十一年四月、民間傳承一卷八號）…………………二四九

　トビトビ（大正六年三月、郷土研究四卷十二號）……………………………………二五〇

　スネカの行事（昭和十五年九月十九日、東京朝日新聞）……………………………二五二

　年占の二種（大正五年八月、郷土研究四卷五號）……………………………………二五四

　猿の祭（昭和二十四年三月、津輕民俗一號）…………………………………………二六六

　民間暦小考（昭和六年十二月、北安曇郡郷土誌年中行事編）………………………二七五

　島の年中行事（昭和十三年七月、佐渡年中行事）……………………………………二九二

　

月曜通信1954年12月、修道社〕

　著者の言葉

　ウブスナのこと（昭和十八年八月、民間傳承九卷四號）……………………………三〇五

　宮參り（昭和十八年九月、民間傳承九卷五號）………………………………………三一〇

　祖靈社（昭和十八年十一月、民間傳承九卷六・七號一………………………………三一五

　氏神さまのこと（昭和十八年十二月、民間傳承九卷八號）…………………………三二〇

　遊戯とマ・カゲン・ホドアヒ・オモヒキリ等（昭和十九年四月、民間傳承十卷四號）……………………………………………………………………………………………………三二三

　犬そとばの件（昭和二十二年八月、民間傳承十一卷六・七號）……………………三三〇

　折口信夫君とニホのこと（昭和二十二年十月、民間傳承十一卷十・十一號）……三三五

　社會科のこと（昭和二十三年一月、民間傳承十二卷一號）…………………………三四〇

　土穗團子の問題（昭和二十三年九月、民間傳承十二卷八・九號）…………………三四五

　狐塚の話（昭和二十三年十二月、民間傳承十二卷十一・十二號）…………………三五六

(494)　七島正月の問題（昭和二十四年一月、民間傳承十三卷一號）………………三六二

　田の神の祭り方（昭和二十四年三月〜五月、民間傳承十三卷三號〜五號）………三七〇

　小豆を食べる日（昭和二十四年九月、民間傳承十三卷九號）………………………三九五

　

苗忌竹の話（昭和二十二年五月、村二卷五號）…………………………………………四〇五

　

御刀代田考（昭和三十六年十二月、傳承文化二號）……………………………………四一一

　

家の神の問題（昭和十八年十一月、民間傳承九卷六・七號）…………………………四三一

　

濱弓考（大正五年十月、十一月、郷土研究四卷七號、八號）…………………………四三六

　

神送りと人形（昭和九年七月、旅と傳説七卷七號）……………………………………四五〇

　　　〔2014年4月6日（日）午後8時、入力終了〕